定本柳田國男集　第十五卷（新装版）、筑摩書房、1969､8､19（1971.11.30.4刷）

　

(1)　　　婚姻の話

　

(3)　　　　　まへがき

　

　婚姻の話十篇のうち、しまひの聟入考といふのだけが一つ古い。今からちやうど二十年前、昭和三年春の史學會大會に、新たな意見として公表したものが是で、その原稿に僅かな増補をして、私は之を三宅米吉先生の古稀記念論文集の中に加へてもらつた。聟入考などといふ名が珍しかつた爲か、知友の間には注意した人が多く、一册の本にして出してはどうかと、折々勸められたのであるが、分量が少なく、又實はあの當時、知つて居ることが是きりなので少々心細く、ぐづ／＼して居るうちに時が經つてしまつた。

　しかし一方には是が因縁となつて、妙にこの方面の民間傳承に氣づくことが多くなり、資料は追々に集まつて來た。それを分類し又比較して、最初には常民婚姻史料といふものを或雜誌に連載し、次で大間知篤三君と二人で、婚姻習俗語彙といふ一卷をまとめて、世に公けにしたのも十何年か前のことであつた。部數が少なかつたので今ではちよつと手に入りにくいが、是はすでに倍にも近い増補版が準備せられて、出版界の情勢の正常に復する日を待つて居る。

　聟入考以外の九つの小篇は、つまりはこの分類語彙の整理中に、自然に心づき又は興味を抱くことになつた話題の、書いて見たいと思ひつゝも、つい延び／＼になつて居たものばかりである。今度は何としても書かずには居られぬやうな時世になつて、可なり努力をして一年ほどの間に、追々と書き溜めて來たのである。その動機のどういふ點に在つたかは、多分は本文の中から、讀者自らが之を見出されるであらう。著者として一應説明して置きたいことは、十分なる證據の無いことは言はぬつもりながら、それは遠からず世に出る語彙によつて明らかにし得られると思つて、爰にはくだ／＼しい排列を避け、寧ろ幾分か氣樂に手短かに、感じたところを述べて見(4)ようとしたことである。其爲に或は學問的でないといふ批評を受けるかも知らぬが、私には學者諸先生以上に、もつと大事な豫想の讀者が有る。決していゝ加減なことは言はぬといふ條件の下に、努めてその人たちを退屈せしめないやうにして居るのである。

　それから今一つ、この本の多くの話題は、どれも是も互ひに繋がつて居る。それを一つ／＼順に話して行かうとすると、毎度同じことを言ふ必要が起つて來る。成るべく一方に詳しく、他には略敍するやうにしては見たが、後で調べて見ると肝要な幾つかの點だけは、大抵は二度づゝ説いたことになつて居る。うるさい樣だが是も一つの方法では無いかと思ふ。二十年前の聟入考がやゝ不完全で、後から證據を補充し得る部分が多く、しかも立論の根本は誤つては居なかつたといふことが、殊にこの所謂老のくり言を繁くしたのは、私は却つて御愛嬌だらうと思つて居る。おかげであんまり肩がはらずに、讀んでしまふことが出來たといふ人が、有るかも知れないと私は樂觀して居る。

　この本の標題は付けにくゝて困つた。未婚者讀本とでもしたら新しくてよいが、それでは露骨に過ぎ、又少しばかり著者の本意とも合はない。是非とも讀んで考へてもらひたいのは未婚者だが、私はそれと同時に彼等の後の幸福を、切に顧念して居る年輩の人々にも、冷淡で居てもらひたくないのである。聽く人が一方に偏して居るときまれば、男女の問題などは幾らでも興味深く、もしくは深刻に話すことが出來るだらうが、私に於ては是を密室の書とするやうな意圖はさら／＼無く、寧ろそれとは正反對に、今こそ明朗々たる公堂の中の、白晝の問題としなければならぬ時だと思つて居る。親子姉弟が一つの光の下に、聲を揚げて共に讀み得る程度にまで、我々の率直さは制限せらるべきだと思つて居る。事を好む一部の讀書子は、それでは或は滿足しないかも知れないが、彼等の我儘な保守趣味などは、到底次の世代の婚姻問題を討究する力にはならない。それ故に今度はさういふ人たちを無視して居る。

(5)　當初の計畫では、この一册の中に加へたい題目がまだ他に幾つかあつた。嫁入の一つの方式たる足入れ箸取り閾跨ぎ、起原の殊に古いらしい聟隱し嫁まぎらかし、又は聟の食ひ遁げ膝立てなほしのやうな、全國弘い區域に分布する奇異なる慣習等、私の心をひかれて居る項目は色々殘つて居るが、是は原因をたしかに突き止めたとは言へぬので、一旦は別に置くことにした。民俗學上の研究事項としては興味も深く、又今後の啓發の重要な絲口であることも、決して爰に掲げたものに劣らぬのだが、實地の政策の參考としては、この程度の解釋ではまだ役に立たぬのである。嗣いで出て來る同學の人々は、恐らくはやがて此沃野を開拓して、新しい世の糧を收穫することであらう。學問には大いなる未來が有る。

　

(7)　　　　　家を持つといふこと

　

　自然と人生と、二つは向き／＼に進み、又時としては抗立相剋せんとするものゝ如く思ふ人が、此頃多くなつたやうに感じられる。如何なる世が來ても草木は依然として美しく、うたゝ國破れて山河在りの句が口ずさまるゝのみならず、或はほゝゑんでこの世上の惱みを、視て居るのでは無いかと思ふやうな折も有る爲に、人はたゞ何と無くそんな氣になるのかも知らぬが、又一つには近頃やゝ久しい間、人生を自然の現象の片端と觀ずる練修を、我々が怠つて居たといふことも氣づかれるのである。

　如何なる生活が自然のまゝ、おのづからなる在り方といふべきかについては、をかしい程さま／”＼な考へ樣が今まではあつて、それを一つに決するのが煩はしさに、寧ろ我々はこの問題を避けようともして居た。しかし靜かに見て來ると、自然そのものも亦成長して居る。時と内外の力のかねあひに由つて、變るべきものは變らずには居なかつた。強ひて其以前の?態に復らうとすることが、自然の道で無いことは是だけでもわかるのである。境涯經歴の全く異なるものゝ中に、手本の無いことも始めから知れて居る。何が我々のおのづからであつたかといふことは、やはり辛苦して是から捜し出すの外は無いやうである。

　日本人の豫言力は、今度試みられて零點がついてしまつた。今でも人は望ましいことを望まうとするが、それが空夢でないことを信ずるには骨が折れる。しかしさう言つても居られないわけは、問題の幾つかには、今すぐにも解決を必要とし、其一歩は次の全體を導き、一旦風を爲すと再びは又改めにくからうと思ふことがある。國の言葉を次の(8)代の人々に、どう教へるかもその一つであり、新たなる愛國心の泉、前代生活の味はひ方はどういふ風にと、いふなども確かに又一つと思ふが、別にそれ以外にもつと痛切であつて、しかもどうにか成るだらうと、打棄てゝ置かれがちな問題がもう一つある。二十年も前から、民俗學が手を下して居て、今なほはつきりとした結論に達し得ない、婚姻制の基礎といふのがそれであるが、是くらゐ社會の諸種の事情が絡みあつて、一見無造作にめい／＼できめ得られるやうに思はれ、殊に世の中の變り目に際して、大きな結果を殘すものも少ないのである。制度と言ひながらも法令だけでは左右しにくゝ、新たに各人の自ら知るべき事實が多くて、まだそれを知らずに居るといふことは、どうしても解決を遲延させる傾きを生じやすい。今はまだ誰もやかましく説き立てぬのを幸ひに、少しでも多く參考となるべき資料を集めて置くのがよいと思ふが、それにはこちらと縁の遠い戰勝國の前例などよりは、寧ろ身に近い自然界の古い型から、考へてかゝる方が安らかであり、それも亦斯ういふ堪へ難い季節を、靜かに活きて行く一つの道かと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　私の今住む家の岡の邊から、遙かに望まるゝ甲州相州の山々には、此頃は終日休みも無く、高い聲で鶯が到る處に啼いて居る。我々の庭へはほんの二三日、ちやうど梅の盛りに遊びに來るのが注意せられ、其前半月ばかりの笹鳴きの聲を、急に春の歌に改める故に、都邑に住む者は是を鶯の生活舞臺の如く解して、それから後の山間の聲を流鶯などと呼んで居るが、實際は彼等の一生の事業は、山に入つてから始まるのであつた。山を訪れる人々は誰でもよく知つて居るが、彼等の高く鳴くあたりには必ず鶯の巣がある。小鳥の中には雌雄協力して、卵を温め餌を運ぶ者があり、或は妻が家を守つて、夫が其爲に食物を捜しまはるものも有るのに、鶯その他の數種類のみは、母鳥の勞苦をよそにたゞ歌つて暮すやうに、想像して居る者も無いとは言へぬが、是とても亦一つの分業であつて、そんな氣樂な無責任(9)な所業でないことは、暫らくあの聲を聽いて居るとやがて感じられる。つまりこの谷蔭は我等の住みかといふことを、全力を擧げて中外に宣明して居るのである。

　鶯がその小さな領土を固守するが爲に、喰ひ合ひをして居るのは私などは見たことが無い。多分その樣なことをする迄も無く、少なくとも同類のものだけは、最初から友鶯の高く啼くやうな谷に、第二の巣を營むことは嫌つて居るのであらう。彼等の測定は必ずしも精確で無く、時々は同居を許すほどの餘地もある故に、たゞ無益な神經の昂ぶりのやうに、聽きなされる場合があつたらうが、もと／＼共通に隣を遠く、靜かな家庭がもちたいと念ずる願ひが、自然にあの鳴聲を以て、適度な間隔を保つ手段として居たことは爭へないのである。

　木曾でその昔自分の聽いて來た話では、駒鳥なども必ず一谷に一つがひしか棲んで居ない。といふことは此鳥の啼く谷へは、同類は入つて來て巣を作らうとはせぬのである。雲雀やセツカにも、隣どうしの巣といふものは見たことが無い。彼等は風に吹かれてどこの空にでも啼くやうに見えるが、やはり巣を中心に圏を描いて飛びまはつて居る。食物の好みや雛の數、又は成育期間の長さなどによつて、この所謂領土は廣大に又入り亂れ、中には親鳥の力量次第、隨分遠くから餌を運ぶものも出來て居るが、是は恐らくは歴史の變遷であつて、本來は食料の必ず在るといふ處に、子を養ふ場處を定めようとしたことは、毛蟲やしん食ひ蟲なども同じことだつたかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　大きな鳥の中でも鴨類とか、信天翁とか、群れて巣をくふものが合同の領土をもつに對して、雉子などは確かに亦割據して居る。春さき此鳥の高く鋭く鳴くのは、明らかに闘はんとする者の聲であるが、その領土の占據は家庭の計畫にやゝ先だち、爭奪の目的も亦モノガミストの鳥類よりは複雜なやうである。自分の僅かな觀測に誤りが無いとすれば、勇敢なる雄雉は冒險をする。即ち自ら進んで他の群の中に入り、その族長を驅逐しようと試みる。さういふ場(10)合にも侵入者が、先づあの高い叫び聲を發するのである。二箇處の雉子の聲はだん／＼に接近して、大抵は蹴合ひになり、且つ一方の逃竄を以て終るらしく、勝つたものが其分野を支配し、殘れる雌雉をして次々にあの粗雜な巣を營ましめるのである。

　この方式は女性に選擇の機會を認めず、又強力を基礎としたやうに見える故に、同じ鳥類の中でも一段と野蠻なものであり、從つて鳥類界にも文化の進歩に近いものがあつたかの如く、空想することも出來るが、さういふ時の順序や過渡期のやうなものを、實證することは甚だ容易で無い。獣の方でも鹿やオットセイの如く、家を構へるが爲に先づ闘ひ、多くの曠夫を作るのを省みないものもあるが、是とても生れて育つ子の數や適性、又は外部の障碍の排除などを考へ合せると、或は是が種の永續を期する上に、缺くことの出來ない條件であるか、もしくはその免れ難い惰性なのかも知れない。彼等の生活の要求なり、是に基づく感情の動き方なりに、まだ少しでも知らぬ部分が殘つて居る以上、たゞ人間の慣行に立脚して、たとへば郭公時島がよその巣に卵をくはへ込むことを、横着だ無責任だといふ類の批判は下すことが出來ないだらう。

　

　　　　　　　　　　○

　

　しかしさうはいふものゝ動物の家庭生活には、存外に人間と似通うた部分が多く、時々は現在我々の歩む道の來し方が、無限に遠いものであることを感ぜしめる。虎や狼の妻問ひは垣間見る折も稀である。犬猫牛馬の輩はあまりにも放縱であるやうに見えるが、是などはもう變化して居るのである。靜かに林間の自然の生活を續けて居る者に在つては、まださう慌たゞしく前々の風習を振棄てゝはしまはない。さうして戀愛期には幾分か放心に、人に見られて居ることを意としないやうになつて居る。私は曾て九州南端の長崎の鼻といふあたりで、初夏の霧雨の中にイソヒヨドリの雌雄が、樂しい家庭計畫をして居るのを見たことがある。此鳥は婚期に入ると、目立つて肌の色が紅になるやう(11)に、私は觀測して居るのだが、果してどうであらうか。ちやうど引汐の小さな岩の頂きに、一羽が兩翼を弛めて上を見て啼いて居る。始めは雛鳥が餌を求める姿かと思つたが、相手の一羽の飛びまはる擧動を見て、それが母鳥では無く妻問ひであることを知つたのである。捜したら巣なども其近くに在るのではないかと思はれた。前に談雀といふ一文の中にも書いて見たことがあるが、是とやゝ似た經驗を、私はこの郊外の小さな家の庭でもして居る。鳥が一生の特に切實な問題を決するのに、夜の引明けの天地の最も靜寂な時刻を選ぶのは、まことに自然なる習はしと言つてよからう。或時偶然にさういふ刻限に目が覺めて、宵からあけ放しであつた窓の外の梢に、うすうすと曙色の催すのを見て居ると、つい鼻先の枝の片端に、二つの鳥が來てとまつて居た。姿はまさしく普通の百舌なのだが、鳴聲も動作も共にいつもの樣でなかつた。一羽は同じ枝にたゞじつとして居るに對して、一方は何度でも下に飛びおり、灌木の中をくゞり、又は地面の上にまで降り立つて、やがて飛び戻つて來てはもとの枝に、近々と寄り添うては鳴くのである。其聲は至つて低く、又聽き取れる筈も無いのだが、前後の樣子と、くり返すしぐさとに由つて、たとへば外國人の物言ひも同じやうに、心持だけは自然に解つて來る氣がした。こゝにおまへと二人で巣を作らう、食ひ物はたしかに有ると、言つて居るものとしか考へられなかつた。さうしてその一方の鳥が羽をゆさぶる形は、やはり薩摩の海邊で見た磯鵯の擧動と、非常によく似て居たのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　雀は數も多く、又物怖ぢをせぬ鳥だから、少し心を留めて觀て居さへすれば、鶯や駒鳥では得られないやうな參考資料が、是からもきつと集められるだらう。今まで見た中でもわかつたことは、彼等はでたらめに、どんな場處にでも巣をかけるやうに見えながら、其實は相手の同心協力を求める爲に、やはり相應な苦勞をして居る。たとへば庭前の木高き唐松の幹に、私が架けて置いた一つの巣箱は、あまりに見通しがきいて不安であつたものか、久しい間入つ(12)て住まうとする鳥が無く、後果して又悲惨な災筈に見まはれたのであるが、季節も半ば過ぎて方々の屋根の下から、ぢい／＼と雛の聲の聞えはじめる頃になり、もう忍び難くなつたものか、頗る晩婚の雀が一羽、口に巣材の草の葉か何かを咬へて、この巣箱の入口にとまり、やゝ半日も友を喚んで鳴いて居た。多くの同類は其あたりを飛び過ぎて、耳を傾けて居たとも見えなかつたが、今度氣がついて見た頃には、もう一つがひになつて頻りにあの丸い穴を、出入りするやうになつて居た。それから幾日ほど經つてからだつたか、斯ういふ結果を見ようとも思はぬので覺えても置かなかつたが、或朝この巣箱の屋根の板がこじ放されて、だらりと垂れ下つて中は空になつて居た。梟か何かにみんな食はれてしまつたのである。

　巣箱をこの樣な危險の多い場處に、掛けたといふ責任は勿論雀以外の者に在るが、適當な家が無ければ今年は見合せると、いふだけの餘裕は雀の方にも無かつたので、此點が特に考慮しなければならぬことであつた。巣箱は人間の餘計な干渉ではあるが、其動機には平和があり、又繁榮へのねんごろな願ひがある。しかもたゞ僅かの巣箱知識を缺いたばかりに、或一筋の雀の血統を、絶滅するまでの惨禍を與へ得たのである。たとへば巣箱をあんな細い木に掛けて、四方八方から眼につくやうに、したことは失敗のもとであらう。自然の巣といふものは大抵は一方口で、この危險を四分の一に減らして居る。是だけの事すらまだ氣の付かぬ者が、巣箱を案出したといふのがそも／＼の不幸であつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　人の場合にあてはめて見ると、この經驗の殊に大切なことはよくわかる。源氏や竹取の古文學を探つても、男女が懸想をするに當つて思ひ惱むことが、この二つの根本問題に在つたことは些しも見出されない。それ故にそんな點はそもそも末だと、思ふやうな人ばかりが多くなつて居るが、今のこの亂後の生き苦しい世にあつては、是はもう一度(13)根本から考へなほす必要がある。記録に傳はつて居る前代の求婚では、巣箱の安全は法制によつて保障せられ、食物は亦無限に落ち散つて居た。少なくとも、さういふ最初の條件だけは、周圖に豫め之を討究する者が居たのである。其上に若い無心の日の遊び戯れと、一生の大事の決斷との境目が、文化の進みと共に却つてはつきりとしなくなつても居た。乃ち斯ういふ上流の花のやうな生活ぶりは、文學にはなつても手本にはならなかつたのである。

　一人で是から活きて行くべき若い人々が、ともかくももつと切實に物を考へなければすまなかつたことは、たゞ想像が出來るのみならず、又色々の證跡を殘しても居る。彼等は全力を擧げて愛し合はうとする前に、もう其結果といふものを十分に考へることが出來た。或は寧ろ子を持つ願ひがさきに立つて、人を慕はしめるといふ方が當つて居たかも知れない。何處で其子を産み、どこで又安らかに育てるかといふことを考へないで、妹背の契りを結ぶ者は有り得なかつた。それがカタラヒの最も大切な話題であつたことを、私などはどうしても疑ふことが出來ない。

　カタラヒは又しやれてダンゴといふ者もあつたらしい。ダンゴも談合であり、雙方が共に思ふことを談るので、鳥などはたゞ黙つて去就を決したかも知れぬが、ともかくも判斷は必ずして居たのである。然るにその判斷には稀ならず失敗があつた故に、次第に父母兄姉のやうな、世故にたけ又親切な長上に、之を委ねるのを安全の道と、解する若い者が多くなつた。それが人類の又一つの制度である。さうしてダンゴの兒を、たゞ失敗の記念の名とした爲に、いつと無くこの言葉の響きが、大へんに惡いものになつたのである。或は是を心よし子、又慾無し兒とさへ言ふ人もあつて、父は私だと名乘つて出る者の無いやうな子を産むことを、今でも女だけの大きな恥として居るのは、是も一種の巣箱の災ひと、いふべきものでないかと私は思ふ。つまりは徹底したカタラヒをする練習の機會を、久しく彼女たちから引揚げて居たのが惡いのである。

　

(14)　　　　　　　　　　○

　

　自然に生き榮える者の實例を見くらべただけでも、是が古來の現象で無かつたことは明らかであらう。今度はもう一度、個々の人から世を始めようといふに臨んで、是をもし考へて見なかつたら、或は鳥蟲よりも前に戻つてしまふことになるかも知れない。家として用意せられた地點も無く、又豫定の養分も備はらぬ場處に於て、雛をはぐくむ計畫を始めるといふことは、微々たる彼等とても敢てしなかつた。まして人類には身を分けて子が生れるといふ以上に、其子が又孫曾孫を、末遠く分けて進むことを、既に確實に知覺して居るのである。制度は時代毎の能力を限度とし、それ以上の完備は期せられぬとしても、會て今あるものを案出せずには居られなかつた必要の源だけは、囘顧して見なければならぬ。それが千古を貫通した我々の自然であつたかも知れぬからである。

　この天地がまだ曠漠の荒野であつた時代に、燕が軒に寄り、雀が瓦屋の下に潜むやうな、習性があつた筈は萬々無い。彼等はみな自己の切實な情願に出發して、談合を以て次の新しい巣造りを始めたのであつた。人も其如く清き餅や酒を以て、祭られつゝ永遠に活き續かんが爲に、少なくとも家の産として若干の稻を作る田を用意し、それを確かめてから始めて家庭の構成に取掛り、國は又その?態を支持することを以て、永く政治の骨子として居たのであつた。より安全なるものを以てするより外に、之を改めることは恐らくは不可能である。

　家督といふものは現在は複雜になり、從つて語義も殆と不明に歸して居るが、私は是を最初の獨立男女にとつて、缺くことの出來なかつた餘分の食物、弱く幼なく又永遠にやすらふ者に對して、分たずには居られぬ養分を産する土地といふ意味に、解してよからうと思つて居る。是には勿論種々なる試みが加はつて、機構は年と共に擴大して居るが、なほ我邦では古い世の名殘が見られる。たとへば家々の祖神は高山の末、短山《ひきやま》の末に廬して、麓に田作る者の朝夕の營みを、遙かに見おろして居るといふ思想もその一つであり、又は稻耕作の始めと終りに、春は山から下つて田(15)の神となり、秋は田から上つて山の神と祭られるといふなども、畢竟は家を作る者の關心が遠く及び、永い一生の區切りの外までも、なほ續いて居たことを語るものかと思ふ。若い當代の人々が之に依ると否とに拘はり無く、日本人のカタラヒがもとは至つて誠實であり、しかも極度にまで自然と近いものであつたといふことは、我々はたゞ疑つて居らぬだけで無く、行く／＼學問の力を以て、十分に之を證明し得ると思つて居る。

　

(16)　　　　　子無しと子澤山

　

　　　　　　　　　　一

　

　いよ／＼落付いて何か考へて見ようとなると、先づ以て念頭に浮ぶのは生活の永續といふ問題である。今度の豫期し難かりし大變革の後、事實果してどれだけまでのものがなほ永續するであらうか。又どれだけの部分が變らずに居ることを以て、國乃至は民族の永續と名づけ得るか。第三には我々の意思もしくは判斷の力を以て、永續させ又は中止させることの自由なる區域は、どこまで擴がつて居るであらうか。論議は是からさきも暫らく燃えるであらうが、もしも學問を解決に利用しようとするならば、順序としては是非ともこの入口から入つて行かなければならない。さうして是にも緩急難易の差が、若干は有るかと思ふ。出來る限り自然かつ平明にして、しかも萬人の關心をもつ話題を擇んで、新たにこのむつかしい公けの討究を、練習して行く必要があるのである。

　家が個人と一國とを結び繋ぐ中間の機關として、どの程度にまで日本では入用であるだらうかといふこと、是は戰前からの宿題であつたのみならず、今後は更に烈しく、輿論の對立を見るべき天王山であらうと思ふが、世間は是に就いて、不思議に或一つの最も平凡な事實を見落して居る。それは何かといふと、家は結婚を以て始まるもの、是から世に出ようといふ若い男女の、作るものだといふことを忘れて居る。さうして彼等をして此間題を考へさせようとせず、たゞ年とつた者ばかりで、其必要と不必要とを論じようとしてゐる。結論の何れに歸するを問はず、そんな事(17)をすれば公平な解決にはならないにきまつて居る。

　我々のきめたいのは將來の家である。制度はいつの世にも必ず批評せられ、其批評を參酌した改定は、いつも少しづゝ遲延して居る。現在家の要不要を論じてゐる者は、結婚後數年乃至十數年、家に幾分の退屈を感じ、その古臭さの鼻に附いた者が過半である。主としてさういふ人たちに此問題を考へさせて、片寄らない意見が得られよう筈がない。固より一方の未來を曙色に彩どる者だけに、勝手な夢を談らせても置けまいが、爰には前人の經驗の綜合が、まだ仕事をする餘地があるのである。自身この痛切なる利害の圏外に立つ者にも、もう少し物を言はせて見なければだめだと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　人を考へさせるには、やゝ意外な事實を共々に見て行くことも一策である。今年はDDTの粉末が空中に飛び散つた爲かとも言はれて、郊外は一帶に蜂虻の類が目に立つて尠なかつた。蟲の媒妁者の甚だ乏しい結果は、どこの家の圃場でも南瓜はむだ花ばかりで、朝の一時のけば／＼しい戀愛遊戯が、何か皮肉なる時世粧の諷刺のやうにも見えた。

　私の家の二階の窓の外に、一本の柘榴の木がある。十何年か前に遠くから移して來た當座は、枝もたわゝと形容するほどに實がなつた。或一人の來客が此木を見上げて、少しがめましたなと言つた一言が氣にかゝつて、素人植木屋に差圖して、うんと下肥を入れさせた後は、すつかり花柘榴になつてしまつて、鬼子母神に供へるだけの實も取れない。今でも正月十五日の前の晩に、どこの田舍にも行はれて居るナルカナラヌカ、ならなきや叩き伐るぞといふ類の威嚇法を、今年は斷行して見たのだがまだ效果が現はれない。

　南瓜や柘榴ならば、傍に人間といふ保護者が居る。是も出來たら食べようといふ身勝手な保護者であり、又時々は愚かな思ひちがひもするが、ともかくも種を絶やさぬだけの心配はしてくれる。之に反してそこいらの只の草木は、(18)何もかも自分で計畫しなければならぬ。外から期待し得るものは伐るとか刈るとか、掘るとか燒くとか踏みつけるとか、すべて身を滅すやうな力ばかりであるのに、それにも拘らずなほ永續してゐる。人が大きな法則の存在に心付かずには居られない、最も手近なる一つの場合である。勿論始めから無數量の種を用意して、僅かに殘るものの機會を當てにはしては居るが、さういふ大きな群の中の、どんな一つの幽かな個性でも、活きるに都合の好い境涯にさへ置かれゝば、その偶然の幸運を極度まで利用せずには居ない。それだけの能力は前以て賦與せられて居るのである。

　私たちの考へて見たいと思ふことは、人の制度といふものは園藝の術などに近い。素より天然の定めに背いて進まうとした者は無いが、その發明には時々の失敗があつて、豫期した效果の擧げられぬ場合が稀でない。或は四周の事情から制約せられて、斯うすればよいと知りつゝも、なほ思ひの外のものを支持しなければならぬ例も無しとせぬ。よその國々の經驗は、まだ間接にしか聽いて居ないが、我が愛する國日本の結婚史の如きも、さういふ歎いてもよいやうな惡い經驗を、幾つとも無く抱へて居るやうである。この歴史を尋ね究めることは、私は實際の學問の殊にこの時世に急切なる所以だと思ふ。しかしそれを證明するには若干の技術がいる。自分はどの點でも其役には向かないが、ともかくも歴代の制度を超越するもの、さうして非情の草木ですらも、無始の昔から共通して持ち傳へたものがあるといふことを、たゞ是から世に立たうといふ人たちとばかり、談り合つて見たいと思ふのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　日本の婚姻に於て、女性が法外に素直であり忍從であつたといふことは、一般の印象かと思はれるが誤解である。是は武人といふ一部の階級に、それも近世に入つてから、やゝ強調せられて居た慣行の名殘であつて、之を全國の生活を代表するものの如く、見たり考へたりしたことがそも／＼のまちがひだつた。武家ならばさういふ必要が曾ては有つた。それに基づいて一種の教育法が固定し、もはや必要の無い時代まで引續いて、是より以外の方式に依ること(19)を得ざらしめたのである。誰も氣付かぬことだがこの階級の特徴は、正しい意味に於ける性教育の缺如であつた。村には必ず備はつた娘組といふものが爰には認められず、又之に代るべきものも多くの家庭にはなかつた。女は臈たけてまで深窓の處女であつて、人情の機微には疎かつた爲に、其判斷の大部分を擧げて、之を長者に委ねずには居られなかつたのである。同じ傾向は亦男の子の方にもあつた。父と母とは我が子女の末の幸福を思ひ測つて、實は竝以上の苦心をする必要があつたのである。是を制度の餘弊とは言へるかも知らぬが、單なる道義律の強制とは見ることが出來ぬと思ふ。

　武家の必要は、恐らくは農地保有の制度から發して居る。今ならば既に無用なことだが、彼等は所領の精神的安全を期するが爲に、最初は神に據り、次には高貴なる婚姻に依らうとした。彼等の縁組には一定の方向があり、從つて選擇は始めから自由なものと言へなかつた。それが戰國の割據期に入つて、互に姻戚のちなみを以て結ばうとし、時としては人質と幾らもちがはぬやうな嫁迎へをさへして居たのだから、その當初の目的から、遠いものになつて居たとしても不思議は無い。問題はたゞそれが次々の世の習はしとなり、乃至は世上一樣に斯うあつて然るべきものの如く、又前から此通りだつたものと思つて、自他共に少しも怪しまなかつた點であらう。果して何等の破綻も無しに、久しくあんな?態に活き續け得たのか。但しは實際に對處すべく、もう相應な拔け路が開いて居たのか。文化史の研究は制度そのものの價値批判よりも、寧ろ現實の動きの方に、是からは眼を着けなければなるまい。

　

　　　　　　　　　　四

　

　是は制度といふ言葉の定義にもよることだが、もしも法令の文面や訴訟の記録、その他文字の上に傳はつて居るもののみが制度だとするならば、それは代表的とも言ひ難く、又各時代の實相を示しても居ない。慣習は世と共に徐々に推移して居るのみで無く、一方には古い草昧の生活から始まつたものが、なほ許されて今も行はれて居るのである。(20)殊に法律は此方面に於ては、單なる限定であつて指導では無かつた。一生一度も其一箇條の適用をも受けずに、活き續けたといふ者は自分たちばかりでない。假に大體今と同じ制度が、千年以上も續いたといふことは眞なりとしても、さういふ下に於て個々の婚姻する者の考へ方は、何遍と無く變り動いて居たのである。未來に深い關心をもつ人々が、今まで斯ういふ原始の動機とも名づくべきものに、注意を向けようとしなかつたのは損だつたと思ふ。

　たとへば花嫁の意思といふものが、かつては武家以外に於ても、十分に自由でなかつた時代が、有つたことは事實だけれども、其原因は彼と是と、もしくは二百年以前と今日と、まるで異なつて居ることに氣が付いた人は少ない。今日はたゞ單なる武家の家風の踏襲に近いのに反して、以前はさう勝手な選り好みをして居られない事情が、別に娘方にもあつたのである。其事情は蜜蜂の巣と、所謂女王蜂との關係からでも類推せられるが、昔は主婦の地位が事の外に少なく又得難いもので、誰しも競ひ求め誇り悦びとする所だつたから、いやだなどとはうつかり言へなかつたのである。現存の自然家庭は一家平均五人何分、夫婦と子二人に片親か兄弟が一人といふのが普通と言はれるが、是は平均であつて隅々までの事實ではない。少し山がかつた郡に行くと、其平均がもう七人八人となり、村には家内十五人二十人といふ家が、今とても稀有でない。戸數は多くなるのが納税課役に便であり、分家は大體に奨勵せられて居たに拘らず、まだこの樣な大家族が殘つて居る。以前孤立の心細さを遁れんが爲に、又は家本位の生産を保障すべく、人が家長の周圍に集合して居たことは、是も或時代の自然だつたと言へる。さうして其樣な大家族の場合でも、主婦はやつぱり一人しか無かつたのである。假に一家の族員が十倍だつたとすれば、九人までの娘はおかみさんになれない。下手に選擇などはして居られなかつたのは、主婦と其他の婦女と、兩者の境遇に著しい相異があつたからである。素より職蜂の如く中性にはなつて居ない故に、事實上の婚姻は必ずして居たが、是が次の代を作り立てる上に、大きな障碍であつたことは否むことが出來ない。家長になれなかつた丁男も此點は同じことで、見じめさは之に勝るものがあつたかも知れぬが、この方にはまだ色々の自由があつた。女はしみ／”＼と獨身の老後を考へる折が多いので、勢(21)ひ發奮して相手方の選擇に合格して、主婦にならうとしなければならなかつた。讀書算筆の方には力を傾けぬまでも、女の教育の目標は夙くきまつて居り、又その方法も備はつて居た。さういふ中でも村々の娘組は、その主婦學の教習所であり、同時に又主婦候補者の選擧所でもあつた。男が家長の地位を獲得することがよほど容易になつて後まで、主婦はさう自由の選擇をし得られるやうな、得やすい地位だとは考へられて居なかつた。さうして女たちは先づ自分が其選に當ることを期したのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　飛騨の白川の中切といふ村々などは、この第一期の?態のやゝ久しく存續して居た地方と見られてゐるが、他にも明治新政の開始より後まで、種ヲジ・種ヲバなどの名をもつて、方々に是が殘つて居た。しかし一般の傾向は彼等の内縁の關係を公認し、（始めから秘密では無かつたが）いつまでも女房をその親里に留めて置かず、こちらへ引取つて共棲せしめるのを、通例とするやうにもう改まつて來た。是を自分などは嫁入の第二期と謂はうとして居るのである。まだ十分な證據が集まらず、今は一つの推定といふに過ぎぬが、私はこの慣習の新たに起つたのが、所謂惣領嫁の早期入家と、多分同じ頃の現象だつたらうと思つて居る。以前の嫁入は婚姻そのものと、時期も目的も共に別々のものであつた。跡取息子の妻の引移りは、夫の相續と同じ時、即ち先代の家刀自が死ぬるか引込むか、ともかくも新たに主婦の入用になつた際で、それまでは幾人も子を持つても、なほ里方の家族としてそこに留まりそこの爲に働き、男はそれへ來て休息することになつて居たのである。この實例が現在もまだ島々などに殘つて居ることは、數多く既に報告せられてある。それをどうして此樣に早く、舅姑の傍へ引取ることになつたかといふと、家風に合ふやうにしこむ爲、しつけてもらふ爲などと言つては居るが、其實は武家や舊家が遠方の縁組を專らとし、懸想と訪問の樂しい期間を持てないので、嫁入を以て婚姻の開始として居た。それを上品と心得て模倣したのと、又一つにはいはゆる刀自(22)番の風習が、やゝ雙方に取つて煩はしくなつた爲で、いづれは渡すべき身柄だから、早く監督の責任を聟方へ、引繼ぎたいといふやうな考へも生じたものと思はれる。或は女の勞働が家々にとつて、さまで重要なもので無くなつたからとも見られるが、是はどの家へも嫁になつて來るので、互ひの事だからあながちさうとも言へない。

　ともかくも家に主婦でない女房が入つて來て、家族として共に働く段になれば、二組も三組もさう大きなちがひは無い。勿論未來の主婦はやゝ敬重せられ、呼び方も別になつては居たが、主婦としての命令分配の權限は全く無いのだから、其地位は決して輝かしいもので無く、しかも無難にこの時期を過ぎようとすれば、寡黙とか從順とかの、是非とも主婦教育の�ｺ目に新たに加ふべきものが幾つも發生して、それは大抵は未來の家刀自の威望を、制限するやうなものばかりであつた。

　

　　　　　　　　　　六

　

　作州の七子持屋、又は越前穴馬の下山の大屋のやうに、幾組もの夫婦が分家のことも考へずに、仲よく同居して居た話はつい此頃まであつた。それが一棟の屋根の下にどうして住み得たかは、私などの建築知識では想像しにくいが、奧羽もよほど北の方まで行くと、廣い臺所の周邊に板じきりをして、配偶者ある者だけを休ませて居る家は今でも見られる。それは何れも二三帖敷の小部屋であつて、とても生涯を終始し得べき場所では無かつた故に、子供のやゝ大きくなるまでには、何處か外に在る小屋へ出て住むやうな習はしになつて居るのかと思ふ。又さうでもしなければ大きな家族が、もとは一處に固まつて居ることが出來なかつたのである。

　今でも農村に入つて見ると氣が付くことは、人が一樣に分家別家、又はデイヘ・デンベなどと呼んで居るものの中に、可なりはつきりとした二種類のものが含まれて居る。一方は概して古いもので、本家のまはりに、大きさは是と比べものにならぬ小家が、幾軒も竝んで居るもの、この中には奉公人を取立てた名子別家《なごべつけ》といふやうなのも無論有る(23)が、他の多くは續き合ひもほゞ判り、同じ共同の先祖を持つことは確かなのにも拘らず、貧しいといふ以上に世帶がごく小さくて、始終本家の世話と干渉を、受けずには立つて行けないやうに出來て居る。今日はたとへ別戸に算へられて居らうとも、斯ういふのは恐らくもと大家族の一部分をなすものであつたと思ふ。

　之に對して今一種、家も財産もずつと大きく、言はゞもう一軒の大屋を作るつもりで、立ててもらつて居る分家がある。之を新屋だの新宅だのと謂つて、一方と區別しようとする土地もあるから、比較的新しく始まつたものと見てよからう。本家の經濟が之を許すほどに、繁榮して居る際で無いと出來ぬことだから、其數はずつと少なく、以前はわざとやゝ離れた土地に設けるのが普通で、從つて出入往來も前者ほどに頻繁でなかつた。それがつい近所に屋敷を竝べるやうになつて、親しみも加はつたが、いさかひも多くなつて居る。新宅のまづ半分くらゐは本家とは仲が惡い。富と勢力の本家を凌ぐといふ例も、今日となつては少しも珍しくない。つまりは家を分けるといふ心構へが、二つは最初から別であつたので、之を總括して同じ名で呼んだことが、幾分か家の制度の變遷を解しにくいものにして居るかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　斯ういふ新式の新屋へ貰はれて行く新嫁は、殊に多くの娘たちに羨まれた。親に仕へる氣苦勞だけならば、主人のまだ年若な本家といふものもあつて、所謂ノッケオカミサンに成ることも出來たが、この本家の主婦には先祖の祭、菩提所や親類への附け屆け、さては一門一家の者から惡く言はれぬやうにするといふこと等、色々の義務があつてそれが又一仕事であつた。新宅の主婦には先づ其煩累が少なく、是からの生活設計を立てることもよほど容易であつた。七部集の俳諧にある

　　　分（ン）にならるる娵のしあはせ

(24)といふ附句なども、この境涯を詩にしようとしたものであつて、斯うして新たに家を分けてもらふ花嫁などは、聟以外にもまだ多くの人から可愛がられ、中でも年をとつて氣の弱い親たちは、娘にさういふ處からの縁が有るやうに、内々は祈らぬ者が無かつたのである。

　ところが近世の經濟繁榮は、資本の集積を片寄らしめて、先づこの獨立分家の増加を可能にした。それに引續いて移住交通の範圍は擴大する。職業發見の機會は多くなる。何處にどうして住んでも家だ、といふやうな時代が到來して、都市は殊に次男三男等の自由なる活躍場となつたばかりか、もとは大切だつた舊家の跡取息子までが、平氣で其列に加はつて分家の生活を始めるやうになつた。日本の嫁入は、是でもう第三期に入つて來たと見るべきであらう。もとは重苦しい家の傳統に括り付けられ、それを背にも負ひ又行く手にも抱きかゝへて、たつた一筋の定まつた路を、踏み出すといふものだけが嫁入であつた。今は男子の數だけ主婦の數を増加することが出來る。家が婚姻から要求するものは一つも無くなつて、代りに婚姻は家の新たなる有り方を、選擇しなければならぬやうになつた。空しく現制度の適不適のみを、論究して居てよい時代ではない。問題解決の責任は、半ばは既に若い求婚者たちの肩に移つて居る。彼等をして考へしめるに及ばぬといふ部分は、今日はよほど少なくなつて居る。

　さうして一方にはこの悲しい敗戰の曉に臨んで、新たに年老いたる人々の考ふべき問題も亦加はつたのである。場處が婚姻の態樣を制限せず、寧ろ婚姻によつて自由に指定せられるやうになつたことは、或は草木式より禽鳥式に移行したものとも見られようが、この二つの生物の間には、自然に生殖永存の理法の相異なるものがあつて、彼等は無始以來本能的に、各々之に遵依して居たのである。人が半無意識に實現させた慣習の改定が、果してどの程度に今までのバランスを破壞し、又は新たな調和を以て、次の代の社會善に寄與し得るだらうかといふことが、問題にならざるを得ない。是を祖國の再建計畫にあてはめることが、最も重要な目途であることは言を須たないが、それを爲し遂げんが爲にもなほ我々は、切實に過去を振囘つて見なければならぬ。

　

(25)　　　　　　　　　　八

　

　たとへば日本總國の人口が、明治の初年には三千二三百萬、それより多かつた時代が、以前には無ささうなのに對して、僅か七十年の後にはそれがはや二倍を越えて居る。その原由はもう調査ずみと言へるかどうか。個々の人口學者の中には、大よそでも見當をつけて居る人が有るのだらうか。飢饉・疫病・兵亂流離等は、無論小さからぬ障碍であるが、それは一般の傾向と相對立するまでのものでなかつたことは、近年の統計が恐らくは之を説示し得るだらう。この方面の人々の方法に飽き足らぬことは、前の一家口數の場合にも見たやうに、平均數字を以て天下到る處、一樣の現象なりと解しがちな點である。さういふ推定は斷じて根據が無い。眼に立つ若干の實例を拔き檢査してもわかるが、同じ邑里の中でも或家或一門は死に絶え、又他の或ものは此頃になつてうんと増殖して居る。苗字の分布を見ても、信仰や技術の支持によつて、移住の容易だつた家のみが數を無限に多くして居る。主たる要件は榮養だつたかも知れぬが、其他にもなほ色々の故障と刺我との介在してゐるらしきことは、食糧取得のやゝ容易なる南方諸島の人口が、島毎又は部落毎に減じたり増したりして居るのを見てもわかる。さうして死ぬといふ方の原因のやゝ見つけやすいに反して、生れるといふ方にはまだ微妙なる幾多の法則の、埋もれて居るものが有るらしいのである。短く言ふならば婚姻樣式の異同、又は之に對する考へ方の差異が、何か隱れたる交渉をもつことだけは疑ひが無い。人はどうしても殖えて行かねばならぬものとすれば、孕む力を阻み、産む機會を少なくするやうな婚姻は、まだ不完全なものであつたといふことが考へられるのである。

　やゝ露骨に過ぎた極端な場合を援用するならば、たとへば遊女にはあんまり子供が無い。京江戸大阪のやうな大規模の花柳界ですらも、そんな事實があれば一つ話として評判した。ところが沖繩の辻といふ遊所などに往つて見ると、そんな事は例外でも何でも無く、所謂ズリングヮを家に引取つた家庭といふものは幾らもある。一方中世の名を知ら(26)れた家々の系圖をひろげて見ても、母は遊女と注記せられた者が隨分と多く、それも實例の全部では無かつたらしいのである。母となる用意の最も缺けて居た、斯んな職業の者ですらも、僅かな條件が附け加はれば、早速に子持になり得たといふことは、假に當人は意識しなくても、かねて根強いおのづからの計畫が、下に在つたといふことを推定せしめる。それにも拘らず世代の推移、又は個々の生活ぶりの甲乙によつて、見遁すことの出來ない繁殖率の差があつたのである。たゞの算術だけでは此勘定はすまされない。別に民族一個體としての、壽命といひ健康ともいふべきものに、この際特に着目する人が有つてよいのでは無からうか。

　

　　　　　　　　　　九

　

　今からもう三十何年の昔、ロバートソン・スコットといふ英國の評論家が、那須皓君と私との旅行にくつついて、會津の御藏入《おくらいり》のひどい山村を、幾日かあるきまはつたことがある。後で氣が付くと此人の知りたがつて居たのは、主として古風な村里のモラリテイの實況であつたらしい。色々と婉曲な又上品な表現で、村の人たちの話を引出さうとするのだが、無心な彼等の繕はぬ答への中からも、殆と何一つの手掛りを得ずにしまつた。それで通譯者の手加減をやゝ疑つたものか、しまひには我々に向つて斯んなことを言ひ出した。英國の田舍などでは、若い者が男女入りまじつて、町へ出かけて夜に入つて歸つて來るのを、親たちもやかましくいふことが出來ない。日本にも祭禮とか盆踊とか、それに近い樂しみの日は多からうのに、少しも其結果が事件となつて、現はれて居ないのは妙だと言つた。之に對して私たちは、民法の所謂私生子の認知、それよりもつと公けの入籍遲延、婚姻出生の二つの登録の、日附の近過ぎる實例の多いことなどを話して聽かせたが、さうは話しつゝも自分でも不審に堪へなかつたのは、若い者の交際の自由な割には、實際に子の始末のいさこさが、村は却つて町方よりは少な過ぎることであつた。川柳の狂句に所謂中條家などといふ方法は、評判はあつても存外に普及して居ない。サンガー夫人や菊池寛氏の學説は、無論まだ聽いた(27)者も無かつた。何か一つの防壁のやうなものが、隱れて此間に存するのかも知れぬ。是は知りたいものだと其時から念つて居た。

　曾ての農村の風儀は、決してさう清淨なものばかりではなかつた。氣の毒といつてもよいのは、食ふとか着るとか看るとかいふ樣な、何一つ若い者の樂しみが他に無いといふほどに、貧しい村もあつた。それ故に又テテナシ兒を持つたといふ沙汰も、稀だといふだけで絶無からはやゝ遠かつたのである。之に就いて、まだ多くの人の知らぬ二つの珍しい事案が、民俗學の側では記録せられて居る。その一つは斯ういふ父無き兒を天道兒などと名づけて、神に奉仕する特殊の任務を與へて居たことで、それは純然たる私生の子、即ち母一人しか親のわからない子であつた。是などは父と名乘つて出る者が有るのを當然とし、無いのを奇蹟としたなつかしい昔かたぎであつた。第二には相手を誰とも指せぬやうな、不覺なつきあひをした女だけが嚴しく非難せられ、男は脇からはちつとも穿鑿せられずに、澄まして居られるといふ風習であつて、此方は隨分と例が多い。それからもう一つは兩者の中間に在るもので、父の知れぬ子はやはり祭の行列には必ず或役を勤めさせられるが、母も當人も非常に是を恥として、何とかして免れようとするが許されなかつたといふ例も知られて居る。前に私の謂つた娘組の性教育は、殊にこの方面に力を入れ、又十分なる效果を奏して居たかと思ふ。正しい正しくない婚姻の分堺線は、よほど今日の制度とは、喰ひちがつて居たが、それを越えまいとする意思の錬磨、更に其背後に作用する心理の統制は、却つて今の新しい常識の力に遵ふ場合よりも、徹底して行はれて居た。さうして自分は是を以て、この慣習の極めて古いといふ、一つの證據だとも見て居るのである。別の表現を借りていふならば、男女の交際には大きな拘束は無く、たゞ何等の計畫も用意も無しに、子を持つ女だけが責められたといふ時代が、たしかに我邦には曾てあつたのである。

　

(28)　　　　　　　　　　一〇

　

　話が長くなつて自他の迷惑であるが、爰でなほ二つだけ、年を取つた者の經驗を語つて置かないと、私の話は纏まりが付かない。もう六七年も前の冬の或日、自分は伊豆の南岸を旅して居て、バスの女車掌と會話を試みたことがある。その行装《なり》では斯んな日は寒いだらうねと、膝までしか無いスカートに同情してやると、からだに惡いさうですね、子供が出來なくなるつていひますねと、若い娘にも似合はぬ返事をした。ほしいかねと少しこちらが眞顔になつたのを、からかはれるとでも思つたのか、忽ち頓狂に調子を揚げて、だつて天然自然ぢやありませんかアと言ひ放つた、その天然自然が私には高く響いた。この娘は村で言へば蓮葉であつて、既にくさ／”＼の戀の遊戯を知つて居るのであらうが、それでもまだ昔風に、最終の目的を胸に描き、少しでも用意がとゝのへば、自分を後の世に殘すべく、出來るだけ正しい選擇をしようとして居るのである。勿論智能は限られ行掛りは多く、二つの愛生活の區切りは付けにくいに極つて居るが、ともかくも村に其樣な前代常識、受けたるものを次へ渡すといふ鳥蟲草木とも共通した念願が、たゞ婚姻によつてのみ果されるといふ考へ方が遍蔓して居なかつたら、どんなに寒い風に吹かれても、この空想は娘には浮んで來なかつたらう。子が出來なければちやうどいゝぢやないかなどと、言ひさうな者が都會には追々多くなるが、田舍はまだ奇特に、ちがつた觀念を持つ者が居たのである。

　女性を獨立不覊ならしめる爲には、職業を與へよ財産を分けてやれといふのは、私にはどうもへつぽこな議論のやうに思へる。それで購はれるやうな選擇の自由などは、行かずに居るとか、出て來るとか、又はつまらぬ相手を養ふとか、どうせさう有難いもので無いことは、社會が今までにもう數多く經驗して居る。樂しい婚姻の爲の自由ならば、相手にも選擇することを豫期しなければならぬ。最も正しい選擇をする相手を、選擇しようとすれば方法は一つしかない。男女が合作しなければ出來ない事業は多からうが、主要なるものは次の代を明るくすること、人が生涯を傾け(29)てもなほ完成し得ざるものを、死後にたしかに完成してくれると思ふ人を殘すことである。誤謬は勿論訂正してもらはねばならぬが、それをも危ぶまずに任せられる者を、作り上げるといふことは大切な仕事である。國が總括して次の世代の國民を、育成する趣旨も全く同じだから、もつと大きな合同にそれを委ねたらよいと言へるか知らぬが、人間は決してさう粒揃ひでない。めい／＼の血に傳はる特徴をもり立てゝ、互ひに相補ふ必要は多いと共に、親といふものに與へられた自然の愛情を、利用しないといふことはうそである。多くの未完成を歎いて居る民族に於て、是が家族組織の新たに攻究せらるべき、一番重要な論點であらう。

　一部の人たちの憂苦するやうな、人口の充溢などは私は氣にかけて居ない。豫言がはづれたら申譯が無いが、今囘のDDTは、存外に所謂南瓜のむだ花を多くした。伊豆の女車掌の取越苦勞を嘲るやうな氣風は、よほど都市方面に瀰漫して居る。さうで無くとも家は乏しく材料は給せず、いやでも應でも不完全なる婚姻に、甘んじて行く者がめつきりと殖える。即ち再び第二期の方式に戻つて居るのである。だから將來の人口は、減つても行くまいが是からはあまり増すまいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　人を非情の草木に譬へたりすることは、うれしくないことのやうに思はれがちであるが、じつと觀て居ると存外の暗示がある。私の窓の外の柘榴の樹で見たやうに、あまり元氣がよくなると花ばかりで實がならない。柿なども打やつて置くと一年は休んで、産後の疲勞を癒さうとするので、體を丈夫にすることが結實の條件のやうに、私たち素人は速斷し、やたらに下肥などをくれたがるが、あれは實際は木が弱るから實を結ばうとするので、それで枝を折つたり根を抑へたり、彼を不安がらせて相續を急がしめ、毎年採つて食ふ算段を人間がするのである。うちの小庭の片隅の富有柿なども、木は立派になつたが、八年以上を過ぎてまだならなかつた。水野葉舟君がやつて來て、幹のまはり(30)を鋸で挽いて見よと教へた。少々切込み方が荒かつたか、果して次の年は澤山になつたが、今年は知らぬうちにもう枯れてしまつて居る。

　それよりも更に感銘を受けたのは、是も私の猫の額ほどの庭に、早くから栽ゑて置いた楓が一本、植木屋の奧州紅と謂つて居る新樹の紅葉するのがあつた。ひと年しん喰ひ蟲が無花果の木を根據として、そこいら中をあばれ廻つた際に、第一に此木が遣られて、幹に幾つもの穴が出來て白い粉をこぼした。枯れはしないかと案じて居ると、其秋はうんと實がなつて、俗にトンビカラスといふあの種子を撒きちらし、翌春はまはりを楓の苗圃のやうにしてしまつた。さうして案の通り親木は枯れたのである。松の木なども弱ると松毬が多く附くといふが、この種子は遠くへ行くものか、根もとにさう多くは芽が生えず、又本家も滅びてはしまはない。うちの奧州紅に至つては親の全力、即ち命と引替の計畫なのだから、よつぽど大事にしてやるべきだと思つた。しかし何分にもその若木の數が多いのでさうも成らず、一部を友だちに持つて行つてもらひ、一部を植木鉢に寄せ植ゑにし、殘りは大抵は拔いて棄てゝ、是だけはそつとして置かうと謂つたのが十教本、それが今ではもう親木の高さに近くなりかけて居る。始めて私などの知つたことは、此木の子どもには、親と同じいものは殆と一本も無い。奧州紅は偶然變種、改良と言へないまでも選拔によつて生れたものだから、是をそつくり傳へようとすれば、接木取木といふ類の植木屋式制度が必要になる。さうで無ければ何度でも鳶烏の機會をくり返し、千本の中から一本をさがし出すといふやうな、英雄崇拜主義を認めなければならぬ。自然に任せて置けば大抵は凡庸なる山紅葉の繁殖になつて、しかも其中に少しづゝの意味深い變り種が、現はれて來るのを樂しむばかりである。

　

(31)　　　　　　　　　　一二

　

　文化と民族性の交渉といふことは、成ほど六つかしい問題だなと私は感じた。越前｜石徹白《いしとしろ》の檜木峠は、近世は杉の老木を以て有名であつた。それがもう伐られて私が遊びに行つた頃には、頂上には直徑一丈以上もあるかと思ふ伐株だけが、二十ばかりも竝んで居た。今日はそれも亦掘り返されたか、もしくは朽ち去つて居るだらう。私は其伐株の一つの上に立つて、北西一帶の山腹を見おろすと、そこは一面の杉の林に覆はれ、それも悉く立派な大木であつた。穗先枝振りに些かの衰老の兆も無く、整然として末遠く列立する有樣は、人が計畫して植林をしても、中々斯うまではなるまいと思ふやうであつた。さうして此中には一本の變り種も無く、悉く頂上の老樹の兒孫であることは疑ひが無かつた。自然の絶大なる意圖にまかせ切つて、人間の作爲を塵ばかりも加へずとも、なほ斯くまでの壯觀を見ることを得た時代が曾ては有り、又現に其事業の蹟は、まざ／＼と保存せられて居たのである。能ふべくんば是を今一度、吾人の努力と誠實とによつて、再現して見たいと切望する者が有つても、それも亦少しも不自然なことでは無い。たゞ果して可能であるか否かが、又新たなる一つの問題であつて、文化進展の理法を明らかにする學問が、もう少しは成長しないと何とも斷言し難いが、悲しいかな最近百年足らずの我々の經驗は、とても出來ないだらうといふ推定の方に、人を導いて行かうとして居るのである。假にさうだときまつたとすれば、如何なる活き方又集り方が、一ばん多く同胞を樂しませ安んぜしめるであらうか。是を自分の事として考へ得る者は、少なくとも是からなほ永く活きて行く人たちであらうと私は思ふ。

　日本はシンボリズムの古く榮えた國であつたが、中たび異國の曼陀羅思想の干渉によつて混亂し、近世は又之を偏狹の輩の利用に委ねたが爲に、夢もさとりも悉く、その美しい氣高さを失つてしまつた。今頃再びさういふものを取出して、人を説く方便に供するなどは拙策である。たゞ奈何せん私たちは、現在まだ明確なる多くの社會事實を知ら(32)ない。それを綜合して新たなる構想の基底とすることの出來ぬことは已むを得ない。其上に又實はひどく立論に遠慮をして居るのである。國を斯ういふ悲しむべき混沌にもつて來て置きながら、なほ厚顔に既成文化の意義を説くだけの勇氣がちよつと私には起らぬのである。自然が我々の心變りせぬ友であり、微々として語り盡さざる其言葉の中には、なほかず／＼の暗示が有つたといふことを以て、せめて健氣に進み行く人々への餞別の辭としたいのは、こんな飛び／＼の印象でも、いつかは或一つの新しい考へ方を、芽吹くべき望みが私には有るからである。

　

(33)　　　　　女の身すぎ

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本民俗學の同志が、過去十數年の間にわたつて、人からはいらぬ物ずきのやうに見られつゝも、地方をあるきまはつて辛苦して探り求めて居たものが、漸く現實界の問題を解決する爲の、大切な參考となるべき時代が來た。如何なる世變が起らうとも、婚姻が社會生活の第一歩であることは動かぬであらうのに、今までは之に關する我々の思慮が足らず、現在行はるゝ慣行を以て、昔から此通りとおもひ、又是からさき／”＼も大體このまゝで、進んで行かなければならぬやうに、信じきつた人ばかり多かつた。過ぎ去つた事だけなら、何と考へてもよいかも知らぬが、將來に向つても其つもりで計畫したり又論爭したりせられてはたまらない。

　婚姻方式には限らず、何の問題でも、改める以上は又改めるときが來る。時代の必要が指示する限り、何度でも良いと思つた方へ移つて行くといふ、覺悟を持つてかゝらねば馬鹿である。事實又さういふ覺悟の有る無しに拘らず、生活樣式は次々と變つても居るのだが、それは考へ無しに眞似た場合が多い故に、毎度にが／＼しい失敗もして居るのである。學問は我々の良識を養はなければならない。それをやゝ不十分ながらも、同胞多數の未婚者たちに、紹介する機會の來たことは、獨り民俗學の同志者のみの悦びでは無いのである。

　「身すぎ」といふ言葉は辭典を引いて見ても、たゞ活計又は糊口、即ち口過ぎの意味にしか解して居ないが、それは(34)多分男について言つたことで、越後あたりでは女にも身すぎといひ、それは即ち結婚のことであつた。もとは多分一生の過ごし方といふ心持ちだつたのであらう。それで男女が二人で家を構へることを、世を持つとも、又ミスギモチとも謂つて居り、男が妻を義ふ力も無いことを、身すぎかねたといふ言葉もあつて、面白い謎歌が出來て居たことは、前に民謠覺書といふ本にも私は書いたことがある。他の地方でも、普通には身が定まるといひ、未婚の男女を出世前の者といふ言葉も行はれ、その身過ぎの途のまだ定まらぬ?態を、氣づかふ氣風は今よりも強かつたのである。家族制度の變遷を考へて見ようとする人は、斯ういふ昔は殊に強く、今とても決してあまり弱くなつても居ない多數民衆の感覺から、觀測を始めることにしなければならない。

　

　　　　　　　　　　二

　

　宮本常一氏の屋久島民俗誌には、この南の端に在る一つの離れ島の、以前の結婚風習をやゝ詳しく、年取つた人たちの記憶に基づいて書き留めてある。他の多くのいはゆる開けた土地では、實は斯ういふことはあまり率直には話したがらぬことで、殊に他所から來た者には隱すのが普通であつた。しかし今までに判つて居る限り、是は全國どの地方にも大抵は有つたことばかりで、たま／＼或弊害を伴なうて居たといふ以上に、少しでも恥づべき事がらでは無いのである。それをたゞ互ひに他處にもさういふ風があつたといふことを知らぬ爲に、何か自分の土地だけのひけめ〔三字傍点〕でもあるかの如く誤解して、一般にそれを包み匿さうとして居たので、それで又日本の婚姻史は、一段と明らかにしにくゝなつても居るのである。

　但しこの屋久島の一例によつて、始めて我々の心づくことが、二つ三つは有る。さういふ中でも殊に興味をもたされるのは、この島の或部落では、女は十七歳の齒黒めの時から、二十四歳になるまで、まだ嫁に行かない者は總稱して、之をウキミと呼ぶことにして居た。多分は娘たちの方でも、自分をさういふ名で謂ふことにして居たものと思ふ。(35)或はそれを身が定まらぬから、浮身と謂つたものゝやうに、解する者があつたかも知れねが、このウキミは雅語であつた。うしと見し世ぞなどのウシと、同じ形容詞から出た古語であつた。中古以來の歌や物語を捜せば、多過ぎるほどの用例があつて、何れも物を思ふ人、即ち戀する者といふ意味をもつて居る。かつて恐らくこの離れ島などでも、彼等自らをウキミと詠じたやうな民謠が、その語を平語と化するまでに、流行して居た結果だらうと思ふ。

　近世の文藝の中でも、必要がなほ續いて、此語はよく用ゐられて居る。今ふと念頭に浮んだのは作者を忘れたが、

　　　うき身世に無くてぞ戀はせまほしき忍べばしのぶ色ぞ見えける

といつたやうな和歌もあつた。俳諧の中にもこのウキミは使つて居ると思ふが、現に七部集の中でも、「冬の日」の、

　　　うきははたちを越ゆる三平《まるがほ》

「曠野」の中には、

　　　すががきならふ頃のうき戀

又は「猿蓑」の、

　　　うき人を枳殻垣よりくゞらせん

の如き、何れも同じ意味にウキといふ語を用ゐてある。つまりは此ウキは、程無くウレシキに變るべきウキであつて、我等現在の「ウキに堪へぬ」のとは、大分に心持がちがつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　然るに中央都府のいはゆる浮世草紙の類に於ては、いつと無く此ウキを專ら遊里の戀愛だけに限るやうになつて、うき世男だのうき世狂ひなどといふ言葉が生れ、

(36)　　　算用にうき世を立る京住居

といふ句さへ出來て、漢土で浮世は夢の如しなどといふ、その浮世の直譯の如く解する者も後にはあつた。さういふのは全く戀を知らぬ學究の、しかも國語の法則もわからぬ者のしわざである。もしかの浮世を輸入して來たのだつたら、是をウキヨといふ筈は無いのである。ところが斯んな言葉は流行するもので、是もやつぱりはやり唄などがもとであらうが、しまひには所謂クガイの女どもを、「浮川竹のつとめの身」などといふやうになり、或はうかれめのウカルルといふ動詞と、一つの語のやうに思ふ人さへ出來て來たが、さういふことは決して無い。色をひさぐ女にはもと二種あつて、一つはうかれあるく故に遊行女婦、他の一つは土地に住み着いて居る貞操の無い女であつたが、其話は爰に用が無いから略して置く。

　江戸時代の物ずきの中には、田舍の色々の賤業婦の地方名を、丹念に集めた者が何人も有つた。其中には北陸一帶、越後から越前方面にかけて、土娼をウキミ、又彼等の家をウキミヤドといふと報告した例もある。今ではもう殘つても居るまいが、是は何だか屋久島の良家の娘たちに對して、氣の毒のやうな類似であつた。一言の説明を加へるならば、以前のウキミの寄るべ無き者の中に、惡い境涯に落る者もあつたと見られ、又はさういふ境涯に落ちた女だけが、特に我身をウキ身なりと人に告げたので、つまりは是が又今の我が身の自由であることを、表明する語ともなつて居たのである。

　長門の豐浦郡の方言集を見ると、此地方でウキミと今言つて居るのは、配偶者を持たぬ身一つの者といふことださうである。さうすると是には二十四歳までといふ限定も無く、たとへは寡婦などのやゝ年たけた者も入ることになるので、是も中間に置いて考へ見れば、越後で或一種の女性のみを、さう呼ぶことになつた道程もわかるやうである。

　都と東西の國の端々と、是だけ内容の似通うた言葉が、四箇所までに傳はつて居るのだから、其他の土地にも分布して居たことが、注意して居たら見付かるであらう。さうして言葉の目的からいふと、尋常の家の娘たちの方には、(37)もうウキミなどといふ必要は無いやうに、新しい婚姻方式が出來て居たのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　しかもこの變遷は皆さんの想像する以上に、ごく最近のことであつた。國の隅々を捜したら、今でもまだ古い方式の行はれて居る地域が、少しぐらゐは殘つて居るかと思はれ、少なくともこのウキミ時代の慣行によつて父となり母となり、乃至は祖父母となつて居る人は、村なら何處へ行つても幾らでも有るのである。それが皆言ひ合せたやうに、其事を言ふまいとして居るのは、よく／＼新しい都會風を上品とし、それには又それだけの缺點も有ることまでは、まだ考へずに居るのである。

　町の近世の婚姻方式の物足りなさは、私より以上に痛感して居る人も多いのだから、それを事々しく竝べるのも俗に媚びることになるが、第一には知らぬ人と縁を結んで、それから始めて戀愛生活に入らうとする不自然さ、次には少しは相手を知つて居ても、果して胸が合ふかどうかの判斷までを、何の素養も無い若い者にさせようとすること、殊に相手が如何なる動機から、自分を選擇したかの知りやうが無いこと等、寧ろ世故にたけ慈愛に充ちた人たちの、代つてきめてくれるのを喜ばなければならぬやうな?況に、眞劍な若い者を置かねばならぬことは、どう考へて見ても永遠に續くべき方式とは認められない。もとから斯うであつたらうか、誰しも斯ういふ婚姻しかして居なかつたらうかといふことを、今まで考へて見た人の少ないのが寧ろ不思議な位である。

　それから今一つは自由を與へられるといふこと、是が果して各人に最も幸福なる選擇をなさしめ得られるか否かも、現在の?態では實はまだ甚だ確かで無い。男は武者修行の如く捜してもあるけるか知らぬが、それとても行き合ふ相手の種類は限られて居る。女子には見聞の範圍もすでに狹く、外へ出て見たところで近よつて來るのはいやな人ばかり、寧ろあまりに選擇が自由な爲に、迷つて盛りの日を過ぎてしまふ危險が多かりさうに思ふ。もちろん社會が助け(38)なければなるまいが、それはどういふ形の援助が一番有效であらうか。それをきめるにもまだ御手本は無いのである。以前はどうして居たものだらうか。それを考へて見ることの、今ほど必要な時代はちよつと無からうと思ふ。それで私はあの屋久の島の、ウキミの團體の話をして見る氣になつたのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　村の昔の人たちの感情は荒つぽいもので、それに支持せられた慣習は、其まゝ復活することも出來ないが、考へさせられる點は幾つか有る。先づ今日と最もちがつて居たのは、婚姻についての友だちの力であつて、是はたしかに選擇の失敗を少なくして居た。第二には部落を同じくする者の間に、配偶者を見つけることを原則として居たことで、村は最初からさういふ計畫の下に、異なる家族が相寄つて開發をしたかと思ふものが多く、從つて選擇の範圍は狹かつた代りに、判斷を誤ることだけは少なくてすんだ。第三の力は即ち慣習そのもので、娘は十六を過ぎると齒を染めて自ら結婚に適すといふことを表白し、且つ必ず一人の男の妻問ひに應じなければならなかつた。この三つの拘束は今の世には無く、有つたら恐らく堪へられなかつたらうが、通例を愛した昔の人たちには、三つは三つながら寧ろ有難いことで、拘束でも何でも無かつたのである。

　齒黒めの風習は、明治の代に入つて全く跡ををさめてしまふ以前、すでに幾段かの退縮の過程を經て居た。最も弘い區域では赤ん坊に母の白齒を見せてはならぬと謂つて、お産の前になつて附けることになつて居り、我々は是をやゝ年増しな婦人の化粧法と見て居た。其他に壹岐島などのやうに、嫁入をして來て三日目に、或は結納の取り替はしがすんだ日に、始めて之を附けるといふ例も少なくは無く、更に配偶者の有る無しによらず、二十五歳になると附けるといふ土地もあつた。しかし斯ういふ幾つかの場合は後のもので、もとは男子の元服も同じやうに、是を結婚期に入つた徴候としたものらしく、其理由はまだ明らかにし得ないが、可なり古くからの約束かと思はれる。岐阜縣西部(39)の山村では、十七祝といふのが成女式で、もとは此時に鐵漿を染め始め、盛装して親類をまはつた。是もやゝ遲く或土地は十八歳、又は十九の年は避けて、其前後につけたといふのもあり、又は十五歳以前といふのもあるが、やはり滿十六といふのが年頃で、屋久島では是を亦娘組加入の時期ともして居たのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　齒黒めの期日と娘組の入團式と、二つは他の地方では別々のものになつて居る場合が多い故に、後者の目的が今はやゝはつきりとしなくなつたが、適當なる配偶生活を確保する爲といふ以外に、特に斯うした組織の必要があつたらうとは考へられない。所謂ウキミの結合體に對立する青年團を、今も九州以南では汎くニセ組と謂つて居る。即ち中國以東に於て若連中、又は若者組といふのに該當するもので、ニセは通例二歳といふ漢字を充てゝ居るが、本義はニヒセ、新たにセと成つた者だといふことは、もう疑ふ人も無いのである。

　この男女二つの未婚者團體が、今ある家族制度の間に孕まれて、それから分立し對峙することになつたものであるか、但しは又それよりも更に以前から既にあつて、必要によつてなほ保存せられて居たのであるか、是は異なる多くの民族の發達の跡を比べて見ることによつて、やがては決定せらるべき問題であらうが、我々は其結論を待つて居ることも出來ない。たゞ現在の知識だけでも、少なくとも次のやうなことまでは言へる。即ち家を中心とした生活利害は、たま／＼はこの二つの未婚者團の意向と對立することがあるに反して、兩者相互の間には何の抵觸も無く、寧ろ家々とよりはもつと親しい關係があつたといふことである。單に一方が始終他の一方を問題にする。又は機會がある毎に往來し交通しようとするといふだけならば、是は年頃の若い未婚者だからさもあるべしと、ごく平凡にも説明し得られようが、それに附け加へて一方は監督し、他の一方は甘んじて其節度に服して居たのである。

　さういふ實例には面白いものも各地にあるが、それを列記して居ると話が長くなり過ぎる。屋久の島のたつた一つ(40)の場合を擧げて見ると、爰ではニセ組が村のウキミの團體を取締つて、風儀を亂さぬやうに注意したと言つて居る。さうして其風儀が惡いと言つて居たのは、をかしいことにはたゞ隣村他村の若者とねんごろになることを意味し、村内の男女が仲よく交通することまでは、その惡い風儀の中には含まなかつたのである。

　斯ういつた氣風は、氣を付けて見ると殆と全國的であつた。村の娘によその男が通うて來ると、今でも青年はおそろしく激昂する。正式に約定した嫁入であつても、村から出て行く女には色々の故障を入れ、是をなだめるのに骨の折れるといふ土地はまだ多い。しかも若者組の統制のやゝ弛んだ地方に於ては、部落内の戀愛遊戯は可なり放恣であつて、貞節はたゞ主婦となつてからの道�ｺであるかの如く、考へて居る者さへ稀にはあつたのである。是を以て曾て我邦にも集團婚姻の行はれた名殘と、推斷することまでは大膽であらうが、少なくとも是に集團婚約の名を付與することは、最も穩健な村々の若者組、娘組の實?に引當てゝも不當では無かつた。彼等が婚約の日は齒を染め晴着を装ひ、又親族と會宴して祝はれた。此點は寧ろ後々の嫁入とよく似て居た。たゞ個々の選擇といふことが、それから後になつて行はれて居ただけである。

　年久しい我邦の結婚制度史の上から見ると、是も亦一つの發達段階であつて、既に周圍の?況の變化した今日、もう一度それへ戻つて行くことは望まれぬが、ともかくも若い男女が近々と、互ひに觀察し品評する技能といふものは、此時期に於て大いに錬磨せられ、それがまだ傳はつて居る地方もあるので、其後の變遷は一般に之を抑制する方に傾いて居たのである。殊に女性が與へられたる自由を、どれほど活用し得るかにはまだ氣づかはしい點が多いのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　いはゆる性教育は新しい語である爲に、教育者の間にさへ誤解がある。あまりにそれを授けることが困難なやうならば、そつとして置いてもよいものと、考へて居るとしか思はれない人が少なくない。與へずともよいものなら教育(41)とは言はぬ筈である。名は何であれ、方法は如何に粗野であれ、必要である以上は何處かで與へられて居る。必ずしも性の生理のみと言はず、之に伴なふ心理や道�ｺには、知らずば身すぎの出來ないものが幾つでもあつて、しかも之を口にすることは、以前は日本でも親兄弟にはタブーだつたのである。娘仲間といふものは全體に多辯にすぎ、又?々年順に、粗暴な女が頭に立つこともあつて、年とつた人には好ましくない擧動も多かつたが、なほ彼等の口授でないと學び取れない知識が色々とあり、それが正しい判斷の基礎であることを知る故に、親は少なくとも我子の仕合せの爲に、頼み込んでも其群に加へてもらつて居たのである。

　しかし斯ういふ古くからの組織といふものは、一旦すたれかゝると辯護をする人が無い。弊害はます／＼目に立ち、改革は誰にも考へられない。關係者はさつさと過ぎてしまつて、次の代のことを思ふにはまだ間がある。殊に何でもかでも古いものは皆舊弊と、排除するやうな時代を通つて來たのである。たとへ文化の中心からやゝ遠ざかつた端々の土地にもせよ、今だけ殘り傳はつて居るといふことが既に不思議であつた。しかもよく見ると各地少しづゝのちがひがあつて、それが娘組慣行の退縮過程の、あらゆる段階を代表して居るかと思はれるのである。土地の人たちはかへつて知らずに居るが、民俗學の同志は斯ういふ事實を繋ぎ合せて、ほゞ一篇の未だ書かれざる常民婚姻史を讀み取らうとして居るのである。

　出來るだけ簡單に今までの事實を敍べるならば、村々の娘仲間には、宿といふものを持つのと持たぬのとがあつた。現在は勿論もたぬ方が多いが、この中にも親密さの差等があつて、たとへば鐵漿親筆親の風習の有る土地などでは、兄弟分のよしみが深く、又は同年の者だけはたゞの友だちより親しくするといふのもある。しかし大體に宿が無いと打解けることが少なく、且つ追々と參加せぬ者が多くなる。之に反して宿には殆と脱退といふことが無く、大抵は結婚によつて別れて行くのである。宿の方にも亦二つの種類があつた。その一つは寢宿又はとまり宿、是は女が成年に達すれば、村でも信望のあるやゝ大きな家を頼み、五人七人と組んで毎夜そこに行つて宿するもの、是は或はあんま(42)りだと思つたものか、後には遊び宿又は夜なべ宿と稱して、何か仕事を持ち寄つて共に働き、初更を過ぎると家に還つて來て寢る者が多くなつて居る。此方は秋冬の夜の長い季節に限られ、又缺席もやゝ自由であつたらうが、そこへ若者宿から若者が遊びに來て、仕事を手傳つたり、世間話をしたり、たまには飲食を共にして歌ひ笑ひ、樂しい交際をしたことは雙方かはることは無かつた。それで居てめつたにまちがひは起らなかつた。宿があつた時代の方が、男女のいさこさは少なかつたといふ人が多いのは、今日の眼から見ると寧ろ意外である。

　つまりは若い人々の感情が、此頃のやうには繊細でなかつたのである。もつと露骨にいふならば、子供の喧嘩などと同じく、戀愛の遊戯がやゝ興味をもたれ過ぎて居たので、しかも眞成の結婚生活との間には、そこに一つの境の濠があつて、ただ稀々にそれを越えて、女一生の身すぎを決定することにもなつたのである。現在は流石に其實例を聞かぬが、僅か三四十年の前までは、男女同宿の寢宿も方々にあつたと言はれて居る。さうで無くても一年の或期日に、宿を一つにして夜を過し、又は娘宿に入つて寢て來るやうな頓狂な若者も少なくなかつた。さうして次のやうなをかしな盆踊唄も、或海岸地方には行はれて居た。

　　　枕ならべて千よさ寢ても心無い子にや手はさゝぬ

　　　千夜かよてもシンテが無けりやわたしや下紐解きはせぬ

　シンテは恐らくは心底であつて、必ず妻にしようといふ決心のことだらうと思ふ。その自戒を破るやうな女たちを、斯ういふ土地ではザクロといふことになつて居た。柘榴は仇花の多い樹だからである。又他の或島などでは、父は自分だと名のる者の無い子を生んだ場合には、其女だけが非常に世間から笑はれ、相手は判つて居ても誰も何とも言はなかつた。私生兒といふのは斯ういふ子供だけで、是にも色々のいやな方言が出來て居た。意外なやうだがさういふ實例は、もとは至つて少なかつたのである。他の多くの場合には男女雙方の團體の制裁が、是を正式の結婚に導かずには置かなかつた爲かと思はれる。

　

　

(43)　　　　　よばひの零落

　

　　　　　　　　　　一

　

　村では遠い昔、男の未婚者の一群と、女の未婚者の一群との間に、西洋の學者のいふ集團婚姻といふたのが行はれて居たか。又は少なくとも集團婚約とも名づくべきものがやゝ近い頃まで、續いて行はれて居たのではないかといふことを、私は前の章に於て説き試みて居るが、其假定の根據となるものは、今わかつて居るだけでも三つはある。その一つは娘組は若者組によつて監督せられるといひ、或はもつと露骨に、娘と寡婦とは若い衆の支配だなどと謂つて居たこと、今は勿論一口話として殘り、そんな事を承認する者などは居ないのだが、まだ面白づくにその話をして笑ふ者が多い。第二には青年が村の娘の外に縁づくことをいやがり、又はさうは言はぬが惡戯をしたり酒をねだつたり、いはゆる渡りを付けぬのを不當のやうにいふ者が以前は多かつた。女が他處の青年と親しくした爲に、えらい制裁を受けたといふ話も殘つて居り、又は隱れて夜遊びに來る者をなぐつたといふ例も近頃まであつた。この二つの事實は關係して居るやうである。第三には娘と若者とには、もとは共に宿といふものがあつて、この二つの宿仲間は互ひに來往し、親兄弟も知らぬやうな話をした。さうして多くの夫婦はこの交際の間に成立つといふ習はしが、最近までも稀には殘り、一代前まではごく普通であつた。一家の兄弟姉妹は、宿をちがへて加入したといふ話も折々は聽く。宿には共同作業といふ目的もあつたが、しかもこの機關は男女の定情の爲には特に必要だつたのである。

(44)　以上の三つに附け加へて、もう語り傳へとして殘つて居るだけだが、一年に一度の改まつた節日、もしくは何かの大きな機會に、若い兩性の特に接近することを許された日があつて、それが又多くの婚姻の原因になつて居たといふ話がある。是も必ず一地域内の住民に限られることが先づ普通であつた。歌垣・かゞひなどの古い世の記録と照し合せて、是も或は亦一つの例證に算へ得られる時が來るのかも知れない。

　

　　　　　　　　　　二

　

　さしあたり考へて見たいことは、今日通例と目せられる日本の婚姻慣習と、古い村々のうちの縁組とは大きな相違であるが、どういふ機縁に導かれて一方が他に移つたのか、但しは又二つは二つながら、大昔以來の方式であつて、單に世の進みと共に、一方が漸減し、他の一方が次第に多くなり、末には是で無いものを野合と認むるまでになつたのかといふことである。異なる民族の歩み來つた路を詳しく比較して見ないと、起原までは溯ることが出來ぬかも知れないが、少なくとも所謂有史以來、即ち日本人が弘く此國土に定住してからの事蹟は、我々でなければ他に考へる者も有り得ない。殊に今日は新法の制定によつて、何かこの慣行の上に新たな變更が加へられるもののやうに、望まれ又は危ぶまれて居る際であつて、我々の研究は更に現實の必要さへ認められるのである。

　過去一世紀間の歴史として、最も大きなことは娘宿の衰微又は減少であつた。一方の若者宿はなほ久しく榮え、時としては新興の青年團と併立して存する土地さへあるのに、他の一方の娘宿は拾ひ出すほどの數しか殘らず、それも半分は共同宿泊を罷めて、たゞ夜業の爲に一所に集まるのみで、後には追々と祭日や休の日、又はたゞ時々の會合場となり、或は特別な友人關係となり、ごく僅かな端々の例外を除けば、大多數の年頃の娘には、宿などに行つて寢る者は無くなつて居る。明治以後の新たな原因としては、工場や學校の寄宿者もある、否それよりも都市生活の大きな擴張は、さういふことを不可能にしたとも言へるが、この衰微の傾向の始まつたのは、もつと前々からのことであつ(45)て、反對の事例は既に中世の記録にも有り、たとへば武家や地方の豪族の娘などには、少なくとも一人は深窓の奧にかしづかれ、村とは全く別途な樣式を以て、求婚せられて居る者があつた。三輪の神話の絲筋を引くといふ、いはゆる豐後花の本系の傳説昔話は、現在は何れと算へるほども、全國に分布して居る。乃ちもとは此樣な特殊な除外例であつたものが、後々いつと無く一般の風となつたのではあるまいか。是が私の一つの假定である。

　

　　　　　　　　　　三

　

　自分などの想像では、もとは一門一族毎に、めい／＼の神を祭つて居た。神の奉仕を任とする一人の處女のみは、當然に娘組の仲間に加入することが出來なかつたのである。常陸鹿島の物忌といふ選ばれたる女性などは、老いて働けなくなるまで其職を守つて居たが、丹後の或神社の巫女の如きは、この世心《よごころ》が内に萌すと、何か兆候が外に現はれて、畏れて山を降ることにして居たとも傳へられる。その年齡は不定であつたが、再び尋常の娘組の統制に、服することを得なかつたのは明らかである。中世の氏の神の奉仕者に至つては、すでに夫聟のある家刀自が、是に當ることになつて居た例が多い。いはゆる神のもろ臥しが處女でなければならぬといふ掟は弛んで、貴人の配偶者を以て之に代へた例は、沖繩などでも特に顯著であつた。この傾向は信仰の合理化とも見られ、又同時に衰微とも感じられるが、とにかくに世の中の進みに伴なひ、斯うならずには居られなかつたことは、幾つもの民族に共通なものではあつた。

　しかも我邦だけには久しい後まで、旅して遠くから來る聟がねは貴いといふ、感情が傳はつて居たらしい。村に生死を共にする住民には高下が無く、一樣に皆凡庸だと思はれて居た結果では無いかと思ふ。貞永式目の有名なる箇條に、月卿雲客を聟に取らうとしてはならぬといふ誡めがあり、曾我の語り物には伊豆相模の大きな地侍たちが、何れも土地を異にして互ひに姻戚の繋がりを持つて居たやうにいふのを見ても、是が或程度政治の上に、利用せられて居たことは爭ふべくも無く、現に江戸期になるまで、政府は諸大名の縁組を氣にして居たが、是も一方には宗家の主婦(46)となつて、祖神にかしづくべき女性のみは、普通の娘組の群から獨立することも出來るといふ、古風な考へ方が手傳つて居なかつたとは言へない。本家のかゝさ〔三字傍点〕だけは五里八里の遠くから、時々は海を渡り山阪を越えて、一度の聟入さへも容易でないやうな、仲人口と内聞きとを唯一のたよりにして、知らぬ者同士を女夫にするやうな、一種の婚姻が世の常になつたのも、起りには斯ういふ神秘な考へ方があり、それを又上品の手本として、誰でも學んでよいものと認めた結果では無かつたか。もし然りとすれば是も亦一つの世相であつて、作者は社會であり、法令はたゞ其跡に附いて來たに過ぎない。つまりは是でいゝものかどうかが言へるほどに、誰もまだこの變化の道筋を知つては居なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　今でも計數の上には必ず現はれて居るであらう如く、村内住民間の結婚は相應の割合を占めて居る。外から嫁を迎へることが全く無いといふ部落も、さう少ない數では無い。然るにたゞ一二の特殊家庭の不參加が原因となつて、娘組といふものは次々と解體し、又は少なくとも泊り宿は無くなつて、娘は皆家に歸つて寢ることになつてしまつたのは早くからのことであつた。其爲に折角相手の若者宿の方は殘つて居りながら、もう昔通りの機能を發揮することが出來なくなつた。平たく言ふならば公平な選擇といふものが、殊に女の側には行はれにくゝ、十分に男の心を見定めてから、一生の伴侶をきめるといふことが望み難くなつた。是が文書記録の上には少しも現はれない、社會史上の悲しむべき損失だつたのでは無いかと私は思ふ。

　たとへばヨバヒといふ言葉の内容が、甚だしく低下して、後には君父の前では公言しにくいやうな、醜惡な所行の如く、解せられることになつたのも一つの結果である。上代の史書や文學に幾らでも用例は求められるが、ヨバヒは聘禮であり、又?々婚姻といふ漢語を以て其對譯として居た。野邊の雉子や山川のかはづの鳴く聲を、ツマヨブと謂(47)つたのを見てもわかるやうに、本來はヨバフ即ち續けて喚ぶことを意味する語の名詞形で、もとは或は兩性互ひに相喚ぶことを謂つて居たのかも知れないが、後々は男子の遠くより、尋ね寄る場合にのみ多く用ゐられたのは、恐らくは喚とか呼とかいふ語の影響であつて、自然に近隣に住む者の間、殊に女子の場合には言はなくなつて居る。しかし今でも現に口言葉の方では、人を招請することをすべてヨブと謂つて居り、さうして又嫁聟を家に迎へ入れることもヨブであつて、たゞヨバヒだけが、極めて區々の意味、區々の場合に限定して用ゐられて居るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　斯の如き古今東西の用法のちがひといふものは、婚姻制度の沿革を明らかにする上に、非常に重要な觀點なるに拘らず、是までは誰も省みる人が無かつた。私は別に自分を適任とも思つて居ないが、先づ知つて居ることだけは次の代の人へ引繼がねばならぬ。愛媛縣南部の村落に於て、大間知篤三君が聽いて來た話などは、よほどヨバヒの範圍がはつきりとして居る。大體に女の家に行くことがヨバヒであることは、他の地方も同樣であるが、なほその以外に他村から來る場合だけは、娘宿を訪ねるのもヨバヒだつたさうである。是を反面からいふと、村を同じうする青年男女が、宿と宿との間で往來することは、爰では其中に入れて居らず、從つて曾て一般に娘の泊り宿があつた時代には、村にはヨバヒといふものが無かつたといふことになるのである。以前の八丈島などの例は是とちがひ、宿に入込む若者をヨバヒと稱したといふことが、八丈實記には見えて居る。二つどちらが古くからの言葉使ひであつたか、今はまだちよつと自分は決しかねるが、なほよく考へて見なければならぬ。

　しかしともかくも家居する女を訪問する場合だけを、ヨバヒと謂つた實例は近世には多い。たゞその中には二つの互ひに相容れない明らかな差別があるだけである。詳しく見くらべたらもつと細かく分けられるだらうが、大體に親たちの承認はさて置き、時としては相手の女性の同意も確かめずに、夜分に押掛けて行くといふやうな亂暴な訪問を、(48)ヨバヒと謂つて居る土地が多いのに對して、他の一方にはヨバヒは必ず親たちの承認を受けてから、後にするものとなつて居る土地も決して稀では無い。能登の西岸の海女部落などでは、娘はよく働き又その仲間の友誼は篤いが、泊り宿は無いかと思はれて、男女が相愛して同棲を企てることを道約束と謂つて居た。道的束は多く青年男女の任意に出で、各々その欲する配偶を求めて、暇あるときは晝夜の別無く、相會して談笑すと郡誌にも記してある。その道約束が雙方の親の承認を得ると、以後男は公然と女の所に通ふ。其入口をヨバヒグチと稱すると、瀬川清子氏も報告して居る。乃ち或は男女交際がすでに始まつても、まだヨバヒとは言へない期間が有り得たものと思はれる。

　

　　　　　　　　　　六

　

　飛騨の或山村の實例は、澤田四郎作君の採訪日誌に載せられて居る。爰ではヨバヒの範圍が大分廣いらしいが、男子が嫁をきめ樽入れがすんでから、結婚の式の日まで嫁の家へ通ふのもヨバヒであつた。外の男に取られぬやうに毎晩行くといひ、他の男もそれを知れば行かない。聟の親たちは風を引かぬやうに行つて來いと注意を與へ、或部落の如きは早天にヨバヒ還りの若者に出逢つても、ごくらうさんと挨拶するといふ話もある。妻をその父母の家に置く期間は元はよほど長く、事實雙方の親たちはよく知つて居ても、公然と樽を入れて承認を得るのは、もとはずつと後の事であつた。さうして其期間は、特にいはゆる刀自番の必要があつたのである。肥後の球磨郡の村々などでも、もう二代も三代も前の事であるが、今居る老人の好い若者であつた頃には、月にも闇夜にも一晩も缺かさず、わざと聲高く鼻歌をうたつて、三年ばかりも同じ路を、あの婆さんの所へ通つたものだつた、などといふ話がよく傳はつて居る。式は無くてたこの鼻歌が公式の宣言であつて、もし爭はうとする者があつたらいつでも闘つたのである。さういふ花やかなヨバヒの思ひ出を、その頃の青年は皆持つて居たのだが、是も實際には宿の生活が追々と衰へてしまつて、互ひの仲間の公認の下に、戀をするといふ機會が失はれた結果であつて、未婚男女の勞苦と憂愁は、寧ろ此爲に戀歌以(49)上に増加して居たのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　それから今一つ、やゝかはつた形のヨバヒをもつ地方があつた。たしかにどの村といふことを明示してないが、愛知縣の東部地方、又は和歌山縣の海岸の村々などでは、年頃の娘の有る家へ、夜分に若者たちの公然と來訪することをヨバヒと謂ふさうである。夏は門の口の涼み臺、冬は爐の端の夜なべの座へ、何の用事もこしらへずにぶらりと訪ねて來る。一人でもよいのだが大抵は二三人連立つて來た。家でも一同が歡迎し、目的はわかつて居るから何の用かなどとは言はない。成るたけ多勢が長く居てくれるやうに、親たちは皆苦心をしたといふことである。この風習は可なり強く行はれ、決して右にいふ二三の地方のみでないが、多くは是を夜話しと謂ひ、又夜遊びといふのも此事だと思つて居る土地もある。大戰以來はどう變つたか知らぬが、近年は國語教育の御蔭によつて、文通を以てこのきまりの惡い交際に代へようとする者が多くなつたといふ話も聽いて居る。それといふのが物言ひ擧動によつて、互ひの氣風や性癖を知るのには適するが、愈々思ひを打ちあけ、又それが相手にどう響くかを確かめるには、是では少しく參列者が多過ぎたのである。そこで路上の立ち話とか、又は樹蔭の休憩とかを利用するのだが、さういふ機會は宿以外には少ない。三輪や嫗嶽の神話や、さうで無ければ淨瑠璃姫の語り物にしか、元は聽かなかつたやうな單獨式の訪問が、頻りに擴張せられたのも必要の結果だつたか知らぬが、この種の膝詰め談判は、結局心の弱い者には甚だしく不利であつた。それにも拘らず田舍では大戸に錠を下さず、又若い女に自由なる寢間を與へて、若い者の訪問に便宜を供しないと、忽ち人望を害して色々の惡戯をされると、いふやうな話も多く傳はつて居るのである。村の風儀といふものにも幾つもの階段があつて、來るなら提灯を下げて表の戸をがらりと明けて入れ、さうで無ければ泥棒と認めるといふやうな處もあれば、又はそれよりも遙か寛大に、親たちがたゞ遠くから監視して居るものもある。是と同時に(50)女の思慮、用心深さにも色々の練修があつて、ともかくも全部が悉く、さういふ輕薄な試驗婚のやうな渦卷の中に、卷込まれて居たのでは決して無く、寧ろ一部少數の放縱な交通が、女の一生の幸福に及ぼした惡結果に鑑みて、各自幾分か餘分の警戒をして居た者の方が多いのである。妹の輿入れを以て開始する現行の婚姻生活などは、日本では少なくとも古いものでは無かつた。それが此樣にまで普通になつたことは、私は必ずしも家族制度の必然の壓迫とは見て居ない。

　

　　　　　　　　　　八

　

　もとはこの若い女性の護身術とも名づくべきものを、娘組の團體が家庭よりもより多く教へて居たのである。だから共同の宿泊所は無くなつた後も、この仲間はなほ暫らくは活躍して居たのである。愈々それさへも解體して、娘が全く家の子どもとなつてからは、母親は愛情のあまりに以前の常規を超えて、よほど立入つた指導までもしたらしいが、それにも限度があり奈何ともすべからざる項目があつた。乳母とか侍女とかの附けられる良家はそれでもよい。親切な近所のをばさんがあれば、遠まはしにそれにも頼むことが出來たらうが、是とても親がこの問題に心を潜めてから後のことで、世には人間の一生の展開を、成り次第のものと考へるやうな、いはゆる制度を意識せぬ者が隨分と多かつた。私は若い頃に、母の無い娘が婚期に近づいて、自殺した實例を二つまで知つて居る。それで今でも孤女といふ者の境涯が、現在の慣行の下には特に不幸であることを深く感じて居る。しかし二親がちやんと揃つて居る家でも、實は解決の方法がまだ必ずしも萬全とは言へなかつたのである。

　ごく開けない片田舍などと笑はれる土地は、それでもまだ何等かの方法が案出せられて居た。たとへば我娘が年頃をやゝ過ぎるまで、少しもそぶりにそは／＼とした樣子も無く、心の相手も有りさうに見えぬ場合には、親は我身の若い日を考へて却つて心配する。何かの機會を窺つて年かさの友だちに、それと無く聽いて見たりする。瓢輕な親仁(51)などはわざと酒氣を帶びて若者達に近より、おめえ等は元氣が無いなどと激勵したりする。さういふ心持は若者にはよく判るのであつた。息子でもおとなしく家にばかり居りたがるのがあると、父が氣をもんでどうだらううちの何吉は、どこかに約束した者が有る樣子かなどと、尋ねまはる者さへあつた。そんな下品なことはなんぼでも出來ないといふ家だけで、なるたけ早期に嫁入り先を捜し、はやく人子にして、戀愛の婚後に成長せんことを期するやうになつたのも、つまりは此問題によい答へが無いからであつた。嫁と姑との同居といふことが始まつたのも、村里に於てはさして古いことではない。一つには女の勞力が生家にとつて、重要で無くなつたことも考へられるが、又一つには選擇の自由を失つた受身の未婚者を、家でいつまでも番をして居ることが、不可能になつたからである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　家が婚姻の自由を制約する風は、以前も些しは有り、近世に入つて著しく増進したことは事實である。たゞ其動機には家の利害、殊に經濟上の必要があつたのみで、當人自身の好み、即ち配偶者決定の自由とは本來は別であり、村の生活では、この二つの自由はもとは兩立し得たのである。實例を以て話した方がわかりやすい。内海西部の或島では、父たゞ一人と同居する三十がらみの娘があつた。男が有り子が生れても、父は家事をする女が他に無いので、嫁に行くことには同意しない。それでは男の方も困るのでやがて來なくなると、又その次の男が出來て子が生れる。それを世間でも格別惡く言はず、どうも致し方の無いことと見て居たやうである。普通ならば養子聟を取る場合であらうが、それにはやゝ貧乏過ぎて居たのみならず、娘の選んだ男が偶然に、來られぬやうな身元の者ばかりであつたかと思はれる。或は又廣島縣の山の中の村で、模範青年で若い者の頭もして居る男が、年頃の妹とたゞ二人暮して居た。その妹は頻りに縁付きを望み、約束が出來たので、直ぐに行つてしまふと、あとには兄一人が男暮しをして、次第に年を取つて行く。この方は主婦の任務があまりに重く、常の日の勞働の烈しいこともわかつて居る上に、何か故障が(52)有ればすぐに負擔がかゝるので、新たに親戚にならうとする家が少なく、それを豫知することが出來る故に、好い若者だが約束をする娘も無かつたらしいのである。都市の婚姻でならば、斯ういふ嫁入口は最も歡迎せられたらう。といふわけは始から聟の身うちなどは宛てにせず、寧ろ煩累をさけて次三男の、分家し得るものばかりを物色して、それを我家の子のやうに世話しようといふ、親のみが多いからである。ところが農漁村では?勢が是と異なり、生産作業には協力の必要が多いので、普通には相互の應援の可能な家どうし、もつと手前勝手な者は相手の助勢ばかりを目的に、いはゆる政略結婚の小型なものを希望し、特に仲立人の策謀才略を、感謝しなければならぬ者も多くなつて居た。女が強ひられて心に無い嫁入に導かれ、又は何れか一方にさういふ下心が有りとも知らず、うつかり道約束をしてしまつて、後に悶着の種を蒔くやうになつて、家の干渉といふものは一段と嚴しく、親の知らない婚約は野合と看做さるゝに至つたが、是がもし野合ならば、中世以前の縁組は九割九分までがそれであつた。親は通例は婚姻の成立して三日後に、其告知を受けるものとなつて居たからである。是が?々意見の牴觸に歸するやうだつたら、そんな慣行は永く續くわけが無い。つまりは豫め一切の障碍が無いやうな、安全な判斷を下すだけの力が、少くとも村々では養はれて居たので、自分などはそれを娘宿、又は娘組の機能に歸して居るのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　若い女たちは一體に集まると口が多いものだが、殊に田舍では人の噂を好み、新嫁若い主婦の批評はもとより、心が置けなければ男の行動や人柄までも問題にしようとして居た。それを苦々しいことに思ふ者は多いやうだが、考へて見れば是が彼等にとつて、もとは社會觀察のたつた一つの機會であつた。しやべる當人ばかりははしたないと評してもよいが、實は其傍に幾人かの、黙つて聽き入つて居る者が常に有つたので、聽くのも有害であり、耳に入れずに置きたかつたと、思ふやうな話題はさう多くはなかつた。工場や寮の生活は各地からの寄り合ひで、負けぬ氣になる(53)からかぶれやすいが、それでさへ全部が全部すれからしになるともきまらない。まして郷黨では年の順位があつて、先輩竝みには口のきけぬ期間が長く、寧ろ多くの常識はこの傍聽時代に於て學び取り、それが突きつめた物の考へ方を制限するのであつた。自由であるが故に彼等は皆迷つた。さうして決心のあぶない切岸で踏み止まり得たのも、かねて末遂げぬ戀の悲しみを、くりかへし説き聽かされて居たからであつた。

　娘と若者との二つの仲間が、中の垣根も無く往來するといふことは、穩かでないことだつたに違ひないが、この交渉とても決して揶揄と諧謔に終始するものでは無かつた。群の力で無いと表示し得られない女性の輿論が、何かの葛藤に際して必ず現はれ、それが結局は男たちの判斷を支配して居る。たとへば若い男の去就の可なり不檢束な土地柄でも、なほ初子を欺くことは罪惡であり、強ひても約束を履行せしめずば止まなかつた。この種の法則はまだ幾つも有つたらしいが、私はまだ聽き集めても居らず、又是を委しく話することも出來ない。他日斯ういふことが將來の爲に、大切な又まじめな知識だといふことが明らかになつたら、少しづゝはまだ憶ひ出してくれる人が、此世にはあることであらう。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　女子に婚姻の自由を認めるといふことが、たゞ行きたくないといふ我意を通すだけのものならば、勿論容易なわざであり、又今までもほゞ認められて居た。之を進んで積極的に、思ふまゝの男の選擇をさせるといふ處まで持つて行かうとすると、誰が選ばれるかといふことがすぐに問題になる。夢はなんぼでも美しいものを描くことは出來るが、之を實現する分野は狹くるしい。やはりエニシといふが如き漠然たる宿命を信じて、たまさか遭遇するものが最上の夫であるべきことを、神や佛に祈願するより他は無いであらう。自由は之を活用するだけの施設を必要とする。さうして是はめい／＼の手には合はず、下手をすると媒婆とか仲介所とかいふものの、餌食になつてしまはぬとも限らぬ(54)のである。村を單位とした交際機關などは、最初は單なる孳殖の手段に過ぎなかつたかも知れぬが、後には段々に當事者の心掛けによつて、是を青春の樂しい花園にもして居たのであつた。それが今日は大いに荒廢して、再び以前の姿には復し難いのみで無く、村を圍ひとして居ることも、もう忍び難い拘束となつて居る。是非とも我々は之に代るべき、もつと清らかなる選擇機關を作らなければならない。それで無ければこの自由は價値が無いのである。

　曾て青年團の改革運動が企てられ、昔のニセ組の夜話夜遊びを禁絶しようとしたときに、西國の或一つの島では、先づ之に反抗した者は娘仲間だつたと傳へられる。わし等はどうなるか。嫁に行くことが出來なくなるがと大いに歎いたといふことである。此話を聽いて深く感じたことは、今まで年久しく、若い人たちの遊び戯れかと思つて居た宿の生活が、實は目的の有る生活事業であつて、それがたゞ時として計畫齟齬し、もしくは附纏ふ弊害を拂ひのけられなかつただけだといふことである。原因は主として是に携る人々の、考へが足りなかつた點に在ると思ふ。人を自由にする爲には、是非とも先づ彼等を聰明ならしめなければならぬと思ふ。

　

(55)　　　　　錦木と山遊び

　

　　　　　　　　　　一

　

　　　にしき木を作りて古き戀を見む　　　　　　　　　　芭蕉

　

　元禄二年奧の細道の旅行に、酒田の不玉亭で催された俳諧の一卷にこの句がある。前句に蠶種《こだね》が動いて羽箒を手に取るとあるのを、若い良家の女の所作と見たのである。或は單なる古典の興味であり、昔の東北の風雅に對する敬意だつたかも知れぬが、ちやうど今この問題を考へて見ようとしてゐる私には、何かこれによつて芭蕉翁の婚姻觀が、うかゞはれるやうな感じもする。養蠶は萬葉集に、母のかふこのまゆごもりといふ歌もあるやうに、親に守らるゝ娘たちの作業であつた。試みにかういふ女の家の門に、錦木を作つて立てゝ見たらどうであらうか。今はいかなる改良を以て、有名なこの古き戀の方式が、東北の村里には傳はつてゐるだらうか。それが奧ゆかしいといふ芭蕉翁の心持のみは、少なくとも自分たちと一致してゐる。單なる俳諧の思ひつきとは見ることが出來ぬのである。

　東北は記録にも明らかな如く、西部日本とくらべると柘植がよほど遲く始まつてゐる。土地の廣さに對して家の數が少なく、從つて村の構造が單純であつた。娘組と若者組の組織運用が、他の地方のやうに活?でないことも、或はその結果ではないかとまで自分などは考へてゐる。宿と呼ばるゝ常設の休息處は無くて、男女の群の交通がたゞ季節(56)的であつたことも、一つには中心に大きな家があつて、日頃その中で共々に暮してゐたためかとも思はれる。日本の求婚方式が、最初から二つあつたことは私も認めるのだが、その一方の單獨訪問制ともいふべきものはもとは數少なく、後に段々と擴張し、かつ複雜化したやうに推測して居た。或はこの奧地のいはゆる古き戀を見ることによつて、更に兩者のもう一つ以前の形、それがやゝ久しく東北には保存せられ、從つて幾分かちがつた展開ぶりを、示すことになつたことがわかつて來るのかも知れぬ。

　但し斯ういふことはたゞ老翁の興味であつて、若い今日の實際家たちの、關心を引くにたらぬことは爭はれない。それでこゝには簡單に問題のみをかゝげて、話はもう少し參考になりさうな方へ向けて行かうと思ふ。私の言つて置きたいことはたつた一つ、われわれ日本人は本來族内婚を嫌はぬ國民であつた。それ故に配偶者の選定法には族内のものと、族外即ち家を異にする男女どうしのものと、二通りの樣式が無くてはならなかつた。ところが世とともに民族は分裂しまた錯綜して、多くの婚姻は異族間のものになつた。それで一方の合同式のものは輕しめられ、又は不用になり、しかも他の一方の單獨式のものも、もとのまゝでは使へなくて、必要に應じて次々と變更した。現在はその中古以來の變更の當否が、問題になつてゐるのである。錦木の古風な風習が、最初恐らくは地方官や旅人の土産話によつて、京都の都雅の士に珍しがられたのは、今から九百年も前のことだつたが、もうその頃には社會の利害がすでに入り亂れてゐて、少なくとも文字を利用し得る人々の間には、これがたゞ珍奇なる民俗とよりは、理解しやうがなくなつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　しかも錦木の名が美しく、ことのさまが物あはれである故に、歌をよむほどの人は皆記憶してゐた。古い歌書には、

　　みちの奧のえびすの男、女を呼ばんとする時ふみを遣ることは無くて、一尺ばかりなる木をまだらに色どりて、(57)其女の家の門に立つるに、逢はんと思ふ男なれば、その錦木を程なく取入れつ、遲く取入るれば強ひてなほ立てゝ、千束を限りに立つれば、まことに心ざしありけりとて、其時に取入れて逢ふといへり。

とある。千束とあるによつて三年の間は、夜毎に通ひつめるのだと言つて見たり、または、

　　　錦木は千束になりぬ今こそは人に知られぬ閨のうち見め

といふやうな戀歌も贈られたり、更に一轉しては深草少將の百夜車、榻《しぢ》のはしがきといふ類の語り草も生れたが、それは好事の文飾といふものであつて、そんな計算なんか出來るものではない。問題はそれよりも誰が來て立てたかといふことで、それの明らかになる道がないとすれば、この話は作りごとと言つてもよかつたのである。

　そこで我々に心づかれるのは、家じるしといふものゝことである。これは今でもまだ東北の山村には盛んに行はれてゐる。山で木を伐つて人のと一しよに谷川を流すのに、鉈で簡單に木の端に切目を入れて置くと、それが目じるしになつて、誰の木かといふことがすぐにわかる。即ちお互ひが皆よその家印を知つてゐるのである。分家が多くなつて幾分か複雜になつたが、それでも三本か四本の線の組合せで、めい／＼の家を表示してゐた風習は、南は南端の與那國の島まで、到るところに痕跡を留めてゐる。奧州の錦木にもそれが恐らくは附いてゐたので、即ち戀人が自ら山に入つて、心を籠めて伐つて來た木、といふことが察せられるのである。まだらに色どつた一尺ばかりの木とはあるけれども、それはせい／”＼この家じるしを、何かの染料で描いたくらゐのところで、それで錦とよぶほどの美しい繪具は、この頃の田舍にはあつたらうとも思へない。つまりこの風説などは、大分京都にもつて來てから、彩色せられてゐるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　にしき木といふのは薪のことだとする一説が、私は當つてゐるかと思ふ。燃料採集は女の勞作の、最も苦しいもの(58)に今もかぞへられる。思ふ女の手の指を荒すまいとして、朝は暗いうちに一束のよい木を、そつとかどの外に置いて行くといふやうなことは、心を運ぶ男ならば、今でもまだどこかでしてゐるかも知れない。娘にも又その親にも、さういふ親切が身にしみてうれしかつたのである。或は心ざしの深さを試みるために、三日五日は取入れずに置くことがあるとしても、それが立ちながら朽ちてしまふまで、互ひに耐へ忍ぶといふやうなことは、文學でなければないことであつたらう。だから歌枕は歌人の手にかゝつて、頗る誇張せられてゐるものと私などは見てゐるのである。殊に一尺ばかりの木といふことなどは、都わたりの門構へから割出した考へ方であつた。カドは田舍ではたゞ屋外の空地を意味する。そんなちつぽけな玩具のやうなものが、目についたはずは無いのであつて、これも大よそ男の身のたけと、同じ長さに切つたといふ方が事實に近かつたと思ふ。戀歌が追々に才能と知識の誇りとなつて、誠の願ひからは遠ざかつた如く、錦木のいひ傳へもいつとなく、たゞの風流の語り草となつてしまつたが、いくらえびすの國でも一生の身のきまりを、さういふ遊びによつて決してはゐなかつたらう。今でも妹背のかたらひと戀の戯れとを、開けない土地ほどはつきりと區別してゐる。この二つのものゝ境目を不明にしたのは、寧ろ文藝の世界であつたのである。

　凡人世界の古き戀は、氣の毒といつてもよいほど、遊戯の分子が乏しく、又いはゆる薪水の勞と、關聯するところが多かつた。老いて迎へる後添ひを茶もらひといひ、寡婦の再び持つ夫を木拾ひといふ土地は方々にあるが、是などはまだ兒を生み育てる役目はないといふ、皮肉な意味を含んでゐるとも見られる。伊豆の島々の以前の生活は、花嫁はすでに一生の契りを結んで後、なほ暫らくは里方に留つて、聟の父母とは同居せぬのが普通であつたが、それでも朝と夕と一度づゝ、薪や水桶を頭にいたゞいて、未來の我家に通つて行くのを、定まつた勤めとしてゐたといふことである。これはもとより求婚の手段とは別であるが、最初單なる愛情の自然の發露であつたものが、後には次第に方式化して來て、必ずさうしなければすまぬやうになつたことは、錦木の場合なども恐らくは同じであつたらうと思ふ。

　

(59)　　　　　　　　　　四

　

　かつて氏族の結合が今よりもはるかに強く大きく、多數の未婚男女が群をなして、一つの土地を經營してゐた時代には、かういふ愛情の表白は何の障碍もなく、いたつて簡易に且つ自然に行はれ得たわけであるが、その種の土着樣式は東北の端々でも、さう普通には見られぬやうに、もう夙くからなつてゐたのである。家が小さく分立して、村は同じでも作業團を異にすることになれば、朝夕肩をならべてほゝゑみかはすことも出來ず、まして餘分に働いて思ふ人の勞を輕めるといふことは望めない。新たにさま／”＼の機會を彼等も求めたらうが、村を樂しい繁昌の土地とするためには、年とつた人たちも考へねばならなかつた。それで一方には錦木を門の口に立てるといふ類の個人的な進出にも、理解と心づかひを示したのみならず、また他の一方にはもう少し組織的な、平等の機會が與へられるやうな、集合方法を考へ出して、それをも熱心に支持しようとしたのである。

　この二つの求婚形式の起原が、もつと古いところに在ることは認めなければなるまい。しかし新たなる必要に應じて、これを各自の居村に持ちこんで來た事實と、他の一面から言ふならば、斯うした慣行を承認して、盛んにその機能を發揮せしめるのでないと、みんなが滿足するやうな配偶生活を、實現し得なかつたらうと思はれる社會事情とは、ともかくも日本では中古以來に、徐々として始まつて來たものだつた。それを私はたゞの推理ではなしに、幾つかの事實によつて、民俗學として證明し得る時が、やがて來るものと思つてゐる。たゞ今日まではこれをめい／＼の私事と見て、わが身一つの問題が片づいてしまふと、もう改めてこれを考へようとする者が少かつたために、歴代の痛切なる體驗は空に消え去つて、何の用意もなしに現在のやうな、大きな變革に當面する結果にもなつたのは、何と言つてもわれ／＼の怠慢であつた。或はもう間に合はぬのかも知れぬが、少しなりとも知つてゐることを言つて置かなければならない。

　

(60)　　　　　　　　　　五

　

　若い盛りの日の過ぎやすかつたことをかへり見ると、春を懷ふといふ言葉の決して輕薄なる文藝語でなかつたことが、つく／”＼と考へられる。殊に東北の雪深く冬が永く、働く期間の最もせはしない生活に於ては、千束の錦木を立てに通ふやうな、そんな悠長な戀を樂しむ者は實際は少なかつた。娘や若者たちの常設の宿はない場合が多かつたやうだが、かりに有つたにしても他の地方のやうに、十分には利用が出來ない。人が一生涯の思ひ出にするやうな機會は、勢ひちがつた方式によつて供與せられなければならなかつたのである。春の農作の取り掛り、または秋仕事のほゞ終つた際などに、カクセツとか秋忘れとか、その他いろ／＼の名を以つて、その日の來るのを待ちこがれるやうな集まりの日があることは、北陸山陰一帶の、冬の交通の容易でない地方の風と思はれるが、さういふ中でも、奧羽にはことにその例が多かつた。正月には鉈の餅・苧桶の餅、盆も「申し」といふ日も、皆若い人の遊びの日であつた外に、特に私たちの心をひかれるのは、春の雪解けの始めから、夏の初めにかけての山行きであつた。これはこの地方では青物探りと呼ばれて、專ら一年の副食料を集めに行くものといはれてゐるが、その日に歌はれた山唄といふものを聽いてみると、それはことごとく妻もとめの歌ばかりであつた。關東平野の草刈唄も同じやうに、これをほがらかに歌ひくらす日が、即ち歌主の一生の運を定むる日だつたのである。春の日に高きに登つて群れて遊ぶことは、全國一樣に今もある風習で、それは一種の忌籠りであつたやうに、折口氏などは考へてゐられるが、少なくとも東北の青物採りなどは作業であつて、まだその間から信仰の痕跡は見出されない。たゞその勞働が生涯の悦びを體驗させるやうな、特徴のあるものだつたことが感じられるのみである。

　この日の樂しみを理解してゐる人は、現在はもうよほど少なく、これを解放の日のやうに解する者はあつても、もう婚姻の一つの段階とは認めない者が多いと思ふが、これは證據の幾らもあることで、事實は婚姻自由の開始ではな(61)く、むしろその效果の生れる終局の日であつたのである。秋田縣北部の某村の例が一つ、民俗學といふ雜誌にのせられてゐる。こゝでは三月の十五日を山遊びと稱して、岡の上の八幡社の祭に集まつて來る。既婚者もまじつてゐるといふが、それは少なかつたのであらう。男女各々の群が集まつて、男は女の、女は男のことについて話をする。さうして未婚者はこゝで相手を選み、家に還つて相談をしてきめる。二百戸ほどの村で、このために毎春七八件の結婚式がある。從つてこゝは一般に早婚の方で、また他町村との縁組はせぬといふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　これとやゝ似た風習は、もつと暖い地方でも飛び／＼にはある。東海道は岡崎から二里東、山中といふ村の或一つの部落だけに、御山《おやま》といふ行事のあつたことが、郷土研究に報告せられてゐる。未婚の男女が盛装して、しかも草刈籠を背負うて山に入り、終日遊び暮しまた踊りもする。この日夫婦の約束をしてしまふのが普通で、出來ずに還つて來ると親たちが心配する。それで豫め下ごしらへをして置く家もあり、また養子を他村からもらふときも、一旦村の人として置いて、山に遣つて山で約束させる。今はどう變つたか知りたいと思ふが、もとは必ず村の男女に限り、またこの約束は父母も承認しなければならなかつた。

　遠州の方でも山に寄つた村々で、ヒヨドリといふ踊りにはこの目的のものがあつたらしく、遠州風土記傳といふ地誌には、

　　比與杼利《ひよどり》は即ち?歌《かゞひ》なり歌垣なり云々

と出てゐる。大井川上流の佐澤の藥師などにも、正月七日は終夜、このヒヨドリ踊が行はれた。近頃は女の參加が少なくなつたが、もとはこゝに來て約束をする者が多く、結婚の申込みを受けると娘の親たちは、ヒヨドリ踊で約束をしたのかと聽き返したものだと、これも郷土研究に出てゐるが、多分然りと答へたときは、親は斷りが言へなかつた(62)ものであらう。

　前の二つの山遊びとちがふ點は、この方は或る一つの村の者と限らなかつた。多分は後々の延長であらうが、なほ見ず知らずの人と契るといふやうなことは無かつたらうと思ふ。東京からあまり遠くない多摩郡の村里に、冬中に嫁市といふものゝ立つ例が何箇所もある。これなども最初は嫁を求める機會であつたやうだが、近年はたゞ花嫁の支度を見せる爲に、つれて詣る縁日になつてしまつた。愛知縣では葉栗郡前｜飛保《ひぼ》の曼陀羅寺に、飛保の媛見と稱して舊正月の二十五日、法然上人の忌日に同じやうな參詣があつたさうだ。これにももう嫁になつた娘が若干は出て來るが、なほ一方にはこれからやりたいといふ娘をつれて、見合ひのやうな意味であつて來る者もあるといふ。以前はやはり佐澤の藥師のやうに、こゝで約束する習はしが有つたものかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　これについて心づくことは、舊暦九月末の日の晩に、氏神が出雲へ御立ちなされるとて御社の祭があり、そこで氏子たちの縁を定めていたゞくといつて、若い男女が參拜した風習であるが、これは全國廣い區域にわたつて行はれ、現に自分なども子供の頃、神が拜殿の端まで御出になつて、あれとこれとめをとと指ざしをなされるから、なるべく前の方に出て二人ならんでゐなければならぬ、といふやうな話を耳にしたこともある。或はかつて一年の或日を定めて、一度に數多くの婚約の成立つ慣例が、もつと廣汎に行はれてゐた名殘かも知れぬ。一人々々の娘の立場から言ふと、出來ることならば今少しゆつくりと考へ、または他人の批判も聽いてからきめた方がよいのであらうが、さうもしてゐられぬ色々の理由が、外にも内にもあつたゆゑに、いつと無く縁とか前世の定めとか、または神靈の指示とかを信じて、突嗟に一生の大事を決心してしまふことになつたのは、考へて見るとさびしいことだつた。新たなる婚姻の自由を徹底しようとすると、何を置いても先づこの前代の經驗を見渡して、もう少しお互ひは思慮深く、戀になる(63)までを考へて見なければならない。

　

　　　　　　　　　　八

　

　いろ／＼まだならべて見たい實例もあるのだが、あまり長くなるから切上げて結論ばかりを言つて置くことにしよう。冠婚葬祭といふうちでも、婚姻の慣習だけは批評しやすい。すぐに效果が數字の上に現はれて、何人も考へずには居られぬからである。どんなもつともな理由が個々の場合にはあらうとも、離婚の多いといふことは計畫の失敗と見るの外はない。行かずもらはずに一生を送つてしまふ人をふやすことも、何と考へても人類の成功とは言へない。しかもこの二つは我々の婚姻自由の擴張のみによつて、制止し得べき性質のものではないらしいのである。生みの父母は言ふに及ばず、あらゆる周圍の親しい者が協力してすら、悔いなき選擇は期することがむつかしかつた。あきらめとか打算とかの俗情を加味してさへ、なほこの程度にまで婚姻の不幸を、暴露しなければならなかつたといふことは、つまりは求婚の方法がなつてゐないのである。外部社會の事情がすでに改まつてゐるのに、それに適應すべき改良手段が、彌縫姑息を極めてゐたためだと思ふ。

　わかりやすい例をとるならば、都市の成長の場合である。都市には莫大な數の未婚者が、集まつて來てゐることは事實であるが、選擇の上から見ると燒野原も同じことで、ちやうど似合の相手が目のさきに立つてゐようとも、めつたに問題にする者もまはりにはゐない。まして心を留めて觀察したり、比較したりするやうな機會は稀なので、いかなる理由があつても依然として出來合ひのめをと、出逢ひ頭の戀愛が實を結んで、遊戯と一生の身の落つきとの、差別が立たないのである。村は最初のうちは殆と婚姻のために出來たかと思ふほど、配偶者の決定に都合のよい組織をもつてゐたが、これも大きくなり外との境目がまぎれ、好み望みが家毎にちがつて來て、追々に村内輪の縁組を粗末に見るやうになつた。それでも世話やきが八方に飛びあるいて、いはゆる良縁を成立たせてゐた或期間はまだよかつ(64)たが、もうさういふ閑人もこれからは得にくゝ、次第に一方の註文ばかりに加擔して、策動するものが多くなつて安心はならぬ。古い慣行にはいろ／＼な曇りもあつたが、やつぱり將來は男女相互の朋輩が、もつと全體の立場から共同して、この間題を研究するやうにならなければなるまい。それでなければ第一に社會の制裁が弱くなつて、古來の婚姻道�ｺを支持しがたくなるだらう。

　一人々々の娘の立場からいふと、門に千束の錦木が立ち、または生田川の物語のやうに、二人以上のますらをが命を懸けて、爭つてくれるやうだつたらうれしいであらうが、そんな場合はぽつちりしかなく、又さうやたらにあつたら近所迷惑であらう。それを夢みてゐるうちは樂しい家はもつことが出來ない。文藝はしば／＼かういふ餘分の惱みを若い人に與へる。錦木と名づくる懸想の古い方式は、我々の尋常の戀をもう一度切實に考へしむる因縁として、たま／＼風雅の人の間に取傳へられてゐたのではなからうか。斯ういふことをもう少し強く説いてみたかつたのであるが、この一節はどうもまだ言葉が足りないらしい。

　

(65)　　　　　出をんな・出女房

　

　　　　　　　　　　一

　

　沖繩では遊女をズリと謂ひ、尾類といふ漢字を以てこれに宛てゝ居た。それも今すでに過去のものに成らうとして居るのだが、自分たちはこの二つの珍しい、しかし至つて小さな事實を手掛かりに、古い文化のある隱れたる片陰が、尋ねて行かれるかと思つて居る。

　ズリは内地のジョウロ又はジョロウといふ語の訛りのやうに、解して居る人が今までは多かつたけれども、それは別に根據もない推測に過ぎなかつた。女郎は紅おしろいで化粧をする女たちの、一種の敬稱のやうなもので、もとは上臈と書いた語の零落の姿で、これが娼妓だけの一般の呼び名となつたのは、ごく新しい世の現象であつた。ところが一方南の島々にズリといふ語の行はれたのは相應に古い。さうして又この樣な母音變化、殊にローがリとなりレとなるといふが如き例は、他にはまだ一つも無いのである。

　その上にズリは本來はヅリと書く方が正しかつた。宮良君の南島採訪語彙稿には、多くの島々で dzuri と聽き取つて來て居るのみならず、他の土地の言葉では又ドレ・ドゥリとも發音せられて居る。「出る」を意味する九州方言の、ヅルといふ音などが是に近いかと思ふ。尾類の宛て字の始まつたのもやゝ古いことのやうだが、もし其時代をほゞ明らかにし得たならば、よい參考になるであらう。

(66)　尾顆の尾は國音ヲ、これをブと發音して居る例も一二は有るが、南の島々ではヅと謂つて居るものの方が多い。首里や那覇なども其通りで、たとへば鶺鴒といふ鳥はシリクナギ、尻尾を上下に動かすのを特色として名を付けられて居るが、この地方ではそれをヅークナガー、又はヅーミタミタとも呼んで居る。即ちもとはヅリだから是に尾類の字を宛てたのである。我々の間には聽きなれぬ音韻變化ながら、是にも一つの法則はあつたのであらう。現に與那國ヨナクニといふ島の名を、八重山群島では大體にユノーンと發音し、その島自らではドゥノーンと謂つて居り、こゝには特にヤ行のダ行音化が多い。尾のヲがヅとなるのもその系列に屬するものかと思はれる。

　次にリの音に類を宛てることも珍しいが例は有る。たとへば東を意味するアガリを、「おもろ」の表記法では大抵はアガルイと書いて居る。或種のリの音は、ルイとした方が似つかはしい發音を、もとはして居たといふことが是で想像せられる。内地の方でも明るいのアカルイだけは、實際にはアカリーに近く謂つて居る者が今でも多いのである。沖繩の遊女がヅリイとリにやゝ力を入れて、發音する語であつたことは先づ確かである。さうしてそれは我邦で彼女等のみを女郎と呼ぶやうになるよりも早くかららしいのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　遊女を一定の地域に止住せしめ、自由にその廓外に出られぬやうにしたのは行政であつた。以前も交通の發達によつて、自然に彼女等の集まつて來る地點はあり、住所指定は必ずしも束縛では無かつたやうにも考へられるが、その面積の廣さと、移動の難易とに於て、最初から大きな差異があつただけで無く、いはゆる取締りは斯うしなければ行はれず、又その必要は新たに生じたものであつた。沖繩でも最近まであつた遊廓が新設せられたのは、今から二百七十年ばかり前、寛文十二年の事と傳へられるが、それは勿論遊女といふものゝ起原では無かつた。現にこの區域指定のすぐ次の年に、村方に傾城を抱へ置くことを嚴禁した法令が出て居り、一方には又それから九年前の册封使の記録(67)にも、「土妓甚だ多し、之を侏※［人偏＋璃の旁］と謂ふ」とあり、「外島且つ更に繼いで至らんとす」とあつて、那覇以外の島々にも同じ類の女が居り、大國から使の船が入つたと知つて、稼ぎにやつて來るだらうことを豫期して居たのである。場所を制限する必要が生じたのも、寧ろこの爲であつたことが推測せられる。

　日本の内地の方でも、廓はたゞ大きな少數の都市だけに存し、その他の港場などでは全體に自由であつたやうだが、南の群島の如きは那覇を除く外、どこにも色町といふべきものは出來ずにしまつた。乃ちさういふものゝ設けられない以前の?態を、尋ね知るべき事實は傳はつて居たのである。行政の監督は迷惑だつたには相違ないが、それは同時に又保護であり公認でもあつた。殊に遊び場が指定せられると、人の注意はたゞ此方に集まり、勢ひ他の一方は蔭のものになつて、少なくとも公けの記録には顔を出して來ない。文書を唯一の史料とする歴史學からは、省みられない事跡となつてしまふのである。さうして常にその重要さが無視せられることになるのである。

　いはゆる公娼私娼の問題は、人が騷いで居た割には、まだ少しでも解決せられては居ない。殊に我邦のやうに、是から新たに健全な婚姻慣習を作り出さねばならぬ社會に於て、この大切な永い間の經驗を、ちつとも理解せずに居てよいものであらうか。事實に眼をつぶつて居られるやうな時代では無いと私は思ふ。それでどうして斯んな忌はしい女の生活が、始まらずには居なかつたか。それを溯つて尋ね究める途があるかないか。海で小さく區切られて居る島々には、或はよその國では得られぬ樣な、調査の便宜が有るのではなからうか、といふやうなことを少しばかり、未婚の人たちと共に考へて見たいと思ふのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　誰にも最初に氣づかれるであらうことは、遊女見たやうなあさましい職業にも、なほ且つ永い間には變遷推移、幾つかの發達の段階があつたといふことで、それは片よつた記録文獻だけでは知ることが出來ず、たゞ數多の土地の少(68)しづゝちがつた實情を比べて見ることによつて、大よそどういふ風に變つて來たかゞ、わかるかも知れぬといふことである。民族學の方でもこの比較は怠つて居ないが、國が異なり文化の進度がちがひ、又今までの行き掛りがかはつて居ると、甲から乙に丙になつたといふことは立證しにくい。之に對して近い血を引き言葉を同じくする人々の、たゞ分れ／＼に住んで居るといふだけの間柄では、この異同には意味が有り、又互ひに知ることも容易であり、實例も澤山に積み重ねることが出來る。是がフオクロア又は民間傳承といふ學問の、日本では殊に役に立つ點である。

　一つの場合をいふならば「かゝへ」といふ制度は、最初よりのものとは誰も思つて居るまいが、それが行はれてから一段と、この商賣はいやなものになつて居る。幼ない何も知らぬ小娘の、幾らでも正しく活きられる者を、始めから遊女に養成するのである。江口神崎といふやうな中世の繁華の地には、長者といふ有力な傾城が居つて、何人かの娘分を引連れて居たらしいが、是は江戸時代の「君がてゝ」といふ如き、鵜使ひ見たやうな資本事業では無かつた。詳しいことは知らぬがその初期の遊女屋の亭主も、元は太夫に對して相應な尊敬を拂ひ、形だけにもせよ、太夫は若干の見習ひの女を指導する親方であつた。それがいつの間にかさういふ從屬者を無用とし、置屋は大金を出して成長した玉を、幾人でも買集めることにし、其結果の荒涼たるものであつたことは、通人の方がよく知つて居る。ところが同じく笑ひを鬻ぐ女でも、藝妓と呼ばるゝ者は一つ前の形で、背後には是とても資本家が附いて居たか知れないが、ともかくも組織は以前の職人制と近く、女が表向きは企業團の中心となり、よその子どもを小さなうちから引取つて養女にし、又は稀ならず我が生みの子を仕込んで、同じ商賣を繼がせようとして居た。是が一見不可思議と言つてもよい程に、沖繩のヅリの組織とよく似て居るのである。この兩者の間には、眞似した移したといふ形跡は全く認められず、しかも遊女記以來の記録の示すところ、もしくは瞽女とか歌比丘尼とかいふ者の生活の中にも、可なり著しい類似が見出される故に、自分などは之を此種の職業に携はる女どもの、一度は通過しなければならなかつた、段階であつたらうかと考へて居る。

　

(69)　　　　　　　　　　四

　

　文化史の興味としては、いはゆる賣笑者の職業化以前、少なくとも是が世襲持續を有利とするに至るまでの?態を、明らかにして見たいのであるが、その史料は一般に集め難いものとなつて居た。それが南の島々だけに於ては、土地が少しづゝ引離され、時をやゝ異にして原因が始まつて來る爲に、よほどこの變化の足取りが跡づけやすくなつて居るのである。たとへばヅリといふ言葉は、三十六島のそれ／”＼に既に分布して居るのだが、その語の内容は島毎に、と言つてもよい程にちがつて居る。小さな島々では、それはたゞ那覇の或區域に住む女、そこへ行かなければ見ることの出來ぬ女と解して、それと根源に於ては同じものが、現に自分たちの中にも居ることは考へて居ないらしいが、宮古八重山などのやゝ大きな邑落では、もうちやんとさういふ名で呼ばれる女が、住みついて商賣をして居た。但し業體は辻のヅリなどとは又別で、寧ろこちらでいふ茶屋女、サボシとかダルマとかいふものに近い。多分は人と一しよに、近年入つて來た名稱なのであらう。

　ところが一方奄美大島の方面では、是とは反對にドレ又はゾレといふ言葉が前々からあつて、この新式の抱へ女だけを、特にヤマトゾレと名づけて區別して居た。さうしてその舊來のドレは絶滅したけれども、それは最近の出來事であつた故に、まだ我々はその消え行く後姿を、しみ／”＼と見送ることが出來るのである。二十何年か前、島々の民俗調査が起りかけた頃、大島には殊に著名なドレの一人が、年老いてなほ活きながらへて居た。それが或獵師の妻となつて、鐵砲を肩にして山中をあるいて居るといふ消息を、私なども耳にしたことがある。それ以外にもまだ美しい流行歌の作者として、或はサカシともいふ名を記憶せられて居る女が何人かあつた。世の中の變り目に際會して、終に彼女等は後繼ぎを育成して置くことが出來なかつたのである。

　或一つの隣接した小島に於ては、又斯ういふ話も聽いたことがある。是はヤマトの方にも例の多いことだが、少年(70)が成長して一人前の男となる境目に、必ず履まねばならぬ儀式の一つとして、女の添臥しといふことが豫定せられて居た。靈山の麓や大きな神社の傍などに、遊び宿の有るのは其爲だつたと言はれて居るが、島は人口が限られて居るので、さう大きな機關の必要は無い。村にたゞ一人のドレがあつても十分だつた。それが爰では段々に年を取つて、もう新たに相續をする者も無く、最後の一人などはもう大へんなお婆さんであつた、といふやうな哀れな話もあつた。是が近代の尾類とは全く別なもの、もしくは彼よりも後になつて、斯ういふ發達を遂げたものと、見ることは到底許されぬ、それ故に又一つの歴史の目標となるのである。

　

　　　　　　　　　五

　

　奄美大島のドレの生活については、前にもやゝ詳しい報告が出て居り、今でも記憶を語り得る人は、相應な數であらうと思ふのだが、困つたことにはそれを大切な史料と思ふ者は少なく、寧ろ隱さうとする人ばかりが多いのである。是が未來の婚姻制を確立する爲に、缺くことの出來ない參考資料だといふことを、説き立てる必要は茲に在り、しかも世が改まつて、仕事は一段と困難にならうとして居るのである。

　現在の私たちの假定では、奄美群島のドレもしくはゾレといふものゝ、ついこの頃まで續けて居た生活は、那覇に色町が指定せられた寛文十二年以前の?態を、保存して居たものと見てよからうと思ふ。本島各地の古い言ひ傳へ、もしくは取締りの網を潜つた裏面史ともいふべきものが、少しでも判つて來れば確かめられることだが、それが假にもう得られなくとも、内地の方にも比較し得る資料は色々ある。たとへば大島の人たちの記憶では、ゾレにはマリゾレとヰリゾレとの二種があつた。前者は村々を渡りあるく者、文學の言葉でいふならば遊行女婦、又はウカレメの名によつて知られて居た女たち、之に對して一方には生れた土地に住み付いて、同じ樣な自由な戀愛をして居るもの、是には全國を通じての名は無かつたやうだが、ヰルンは定住することであるから、ヰリゾレと謂へば其意味はよくわ(71)かる。數と種類に於てもとは此方が遙かに多かつたのだけれども、他處から遣つて來る者には色々の特長があつて、後には漸く其下風に立ち、又は區別がはつきりとしなくなつて來た。しかも土地によつてはつい近頃まで、いはゆる土娼の性質を失はずに居た例が、幾らでも擧げ得られるのである。

　マリゾレ即ち遊行女婦の根原も、最初は或村のヰリゾレに他ならぬ筈であるが、それが日本は妙に夙くから神秘化せられ、何か別途の種族でもあるかの如き、印象を人に與へて居るのは、多分はこの徒が信仰を利用して居たからであらう。浮浪と稱して本貫の地を見棄てた民が、かつては全國に充滿したやうな時代もある。人が耕作以外に生計の途を開かねばならぬとなると、最初に取付くわざは大よそはきまつて居る。單なる容色と化粧の技術とを、頼みにしたのみではまだ足りない。之に加味するに歌舞の藝、人を醉ひ樂しましむる飲料を以てすることは、至つて自然なる發明であり、しかもこの二つは共に信仰との深い繋がりをもつて居た。殊に其酒がもとは必ずしもうま酒でなく、醉の效果が今よりも遙かに重要であつたことを考へると、是を勸める歌を聲好くうたひ得る者が、旅の行く先々にもてはやされて、次第に土着の者を壓迫し、又は之を同化させて居た情勢はほゞわかる。吉原遊廓の初期の記録にも、京や堺の自信ある傾城が、堂々として乘込んで來たことを話して居る。こゝに後世名を得た美女たちも、大部分は遠國の女であつて、その居住地は新たに限定せられたけれども、それは決して以前の所謂ヰリゾレの、發達したものでは無いのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　遊女遊廓などといふ遊の字の意味は、もとは遊行上人の遊行も同じ樣に、たゞ一處不住にうかれあるくことを意味したものと思はれるが、その再土着が日本の内地では、存外に早く完結したばかりに、後には是を管絃のアソビと解するやうになつたことは、前にも一ぺん説いて見たことがある。さうしてかの奄美大島のマリドレの實例は、ほゞそ(72)の以前の?態を、我々に想像せしめるのである。島の故老たちの記憶によれば、ドレは一年に何囘か、大よそ廻つて來る季節が定まつて居り、隣の村々の噂が先づ傳はるので、心待ちに待たれて居た。宿はどうしてきまるか明らかでないが、多分は行商などの場合も同樣に、毎年のトクイ、即ち縁故ある家が有つたのであらう。愈々到着したと聽くと、それへ村中の男たちが集まつて來て、酒と歌とのまどゐが始まるのであつた。誰が一夜の主となるかといふことは、古來の掟があつてさう大きな問題ではなかつたらしい。といふことは先づ酒を携へて出て來る者、或は多額の花を用意する者、殊に歌の掛合ひに竝以上の熱意を示す者などが、自然に其地位に定まつてしまふので、爰に或は女の方の選擇が、働いたものとも私は推測して居る。公平なる分配とも言はれぬやうであるが、もと／＼ドレの職分は廣汎であつて、枕席はたゞ一種の副業に過ぎなかつたことは、藝妓といふものゝ方に近かつたことであらう。

　沖繩本島の北部地方にも、是とやゝ似た風習が近年まであつたといふことを、一度誰かから聽いたやうに思ふが、それを確かめる方法はもう私には無くなつた。曾て臺灣の山地帶に、隘勇線といふものが設けられて居た頃、同じやうな目的を以て山又山を經廻つて居た女性が、有つたといふことも耳にして居るが、是などは或は新しい商賣であつたかも知れない。舊日本の各地に至つては、聽いて驚き珍しがる人が多い程度に、今ではもう有り得べからざる事になつて居るのだが、それでも氣をつけて見ると、まだ幽かな痕跡ぐらゐは有る。たとへば歌比丘尼は夙く大都市に入込んで、ほゞ定住の形を成した際に禁絶せられた。江戸ではそれが明和年間のことであつたと傳へられる。然るにそれから又五六十年、一九の膝栗毛の中ではまだ東海道をうろつきまはつて、到る處で旅人にからかはれて居た。色を賣るのが專業でなかつたかも知れぬが、ともかくも心もとない生活を續けて居た。

　それよりももつと新しく、まだ我々年輩の者に記憶せられるのは、毎年秋の終りに越後から出て來るといふ瞽女の群であつた。この連中はちつとも美しからず、年もやゝたけて居たので藝の方に力を入れ、言はゞ叨りがはしい調謔の相手をする迄であつたが、それでも行く先々に宿を取つて、多くの若者たちを集め、相應の身過ぎをして居たのみ(73)で無く、時には不用の小娘を貰つて連れあるき、又は手引きと稱して目のぱつちりとした女なども同伴して居た。公認せられたゴゼたちの團體から見れば、是はむぐりであり弊害であつたかも知れぬが、ともかくも遠い昔の世のウカレメの末の姿であり、同時に又奄美大島などの廻りドレの、意外な同類だつたと見ることは出來るのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　そこで私などの考へて見たい問題は、以前あの樣にもてはやされた他處からのうかれ女が、どうしてぱつたりと來なくなり、それで又少しも困らぬやうになつたかといふことであるが、少なくとも是を各社會の性道�ｺの進歩と見ようとすることは、早まつた樂觀であらうと思ふ。原因はもちろん單簡で無く、一つには水陸の交通路が固定して、到るところの湊や町場に、一通りの機關が備はつて、臨時の供給を待つに及ばず、言はゞ是でも間に合つて居たからとも言へようが、さう成つて來るのにもなほ必要なる條件があつた筈で、それは手短かにいふならば所謂ヰリゾレの増加、土地毎の自由な女どものやゝ勇敢に過ぎたる進出であつて、それにも亦それだけの理由があつたかと思はれ、從つて是を將來の人生計畫の爲に、詳かにして置くべき必要が認められるのである。

　ところが不幸なことに、今まで此間題はたゞ遊冶郎の口の端にかゝるのみで、めつたに公けの文書にも現はれず、まじめに考へるべき人は皆之を避けて居た爲に、眞相は少しも傳はらずに、幾多の變遷を重ねて、終に今日のふるあめりか時代に入つて來たのである。私には到底之を記述するだけの力も無いが、なほこの方面にも大いに民俗學の働くべき餘地が有ることを認めて居る故に、順序も無くたゞ現在知つただけを、竝べて置かずには居られない。今からもう三十年近くも前、自分は九州東海岸の、最も知られない船着場を巡歴して、こゝに一つの革新運動の起つて居るのを目撃した。この地方の賣女等は既に團結して、二三の抱へ女を置く程度まで進んで居たのを、村の青年たちが各戸に訪問して廢業を迫つて居た。ちやうど帆船の衰微時代にも向つて居たので、この勸告は忽ち效を奏し、結果はた(74)だ横道に走りかけて居た娘たちを、村に取戻したといふことになつたからよかつたが、他の方面にはそれだけの壓迫も無く、しかも新銀取りなどといふ名稱さへあつて、職業が經濟の機構に參加した土地では、愈々需要が無いときまると、又一段といやな方角へ、轉向しなければならなかつた。それが近世の最も不愉快な國際現象であつたことは、知り過ぎるほどもう我々はよく知つて居る。全體に九州周邊の島や船着場に於て、酒盛女などと呼ばれて居たものは、技藝には堪能とは言へなかつた。彼等の勤めとしたのは衣を洗ひ食事を調へ、長い風待ちの客の無聊を慰めて、言はば有期の女房役であつた。客の中には相應な金を出して、眉を剃らせ鐵漿を附けさせ、祝言をしたといふやうな船頭の話も稀では無かつた。若い一盛りを斯ういふ空氣の裡に送つて、再び尋常の生活に復つて行くといふことも、土地では格別の事件で無く、我も人も怪しまなかつた時代があつたのである。ところがさういふ女たちが家から外へ出てしまつて、是より以外の生計が立てられぬとなると、老後といふことが直ぐに問題になり、たつた一つの經驗を種にして、寧ろあべこべに他の女を苦しませるやうな商賣を始めることになるのである。資本主義などと言へばこそ物々しく、實際又弊害は新たに現はれたのだが、この傾向は夙に中世に萌して居る。つまる所は身のよすが、即ち尋常への復歸の難易であり、それが世と共に六つかしくなつて來たのである。南の島々で謂ふ所の居りドレと廻りドレは、此點が一つの區別だつたかと思ふのだが、この境目は今日はよほど亂れて居る。それを出來るだけ明らかに知らせて置くことが、一つの歴史の教育ではないかと私は考へる。

　

　　　　　　　　　　八

　

　曾て瀬戸内海の幾つかの島に於て、船に行く人といふのが此種の女たちの、最も上品な呼び方であることを聽いて、改めて自分は水運發達の影響を考へたことがある。陸の旅客の斷續して絶えなかつたに反して、海は一どきにどつと多數のうかれ男を送り込む。それが自由なる女の組織の上に、不幸な變化を與へなかつた筈は無いのである。そんな(75)機會の格別に少なく、事實は土地の者だけが利用して居た那覇のやうな町でも、色町指定の最初の理由は、やはり外來者の要求であつた如く言ひ傳へる。乃ち其爲には爰に今まで漂泊女性を引留めるのみか、別に一種の養成所の如き設備を認めて、且つは其湊場の魅力ともいふべきものを加へようとしたので、是がいはゆる公娼の制度化であり、同時に又一部の女性を、永く特殊のものにして害毒を流さしめた、大きな動機にもなつて居るのだが、しかもこの萌しは既に中世の江口神崎、川尻室の津といふあたりに始まつて居たのである。

　この新たなる賣笑の生活を、西國方面は一帶に、セジョウの名を以て呼んで居た。セジョウは疑ひも無く世上であつて、本來は男子のみに任せて居た外客者應接のことである。今の言葉でいふならば社交に該當し、語自身には少しもいやな意味は無く、たゞ婦人にそれを托するのが異常だつたから名になつたのである。東日本に於て是に該當するのはクガイといふ言葉である。クガイは一方には家と家との交際、ことに村や一門以外の廣いつきあひを意味し、文字には公界とあるのが正しいと思はれるにも拘らず、遊女の上のみにはいつからとも無く、苦の海といふやうな宛て字をして居た。つまりはさうでも解しなければ、もう彼等の存在理由が説明し難くなつたのだが、もとは斯うして見知らぬ男たちの間に立ちまじることが、常の女性には見られない生活ぶりだからの名であり、同時に此種の者を必要とするのが、新しい公界の特質であつたかと思ふ。

　私たちの今考へて見ようとして居るのは、たとへ交通關係の進展に伴なひ、何か斯ういふ氣の置けぬ機關が、有つたらよいといふことは明らかになつても、種が全く無かつたら道は開かないだらう。人が異郷の到る處に於て、淡い末遂げぬ戀心を味つて、唯かりそめの契りを結ばうといふには、そんな相手の有る無しはおいて、先づ以て是を認めるやうな社會が、すでに出來上つて居たかどうかゞ問題になる。南の島々でいふならば、ヅリといふ名の者が前からあつて、世上公界に進出するだけの素地が、如何にして用意せられて居たかといふ點が、訝かられずにはすまぬのである。

(76)　いはゆる土娼のさま／”＼の地方名からも、やゝ此間の消息は窺はれるが、遠く離れた土地にはまだ現實の例も殘つて居て、組織以前の?態がわかつて來る。たとへば奧羽の端には百年ほども前まで、村には?々一人づゝの、有名な歌ひ女が住んで居て、城下の若ざむらひ等が酒を携へて、遊びに來るので弊があつたといふやうなことが、其頃の記録には見えて居る。おたまといふのがそんな女性の通り名であつたやうで、

　　　酒はもろはく御酌はお玉

といふ類の酒宴歌も殘り、又は

　　　おッ玉家こはどッほだヤッサ

といふ踊りの囃しさへ傳はつて居る。彼等は容色の久しく衰へなかつただけで無く、一方にはすでに旅の遊女の技藝をさへ學んで、土地の人たちの歡興を助けて居たのである。ハスハ・ハッサイなどのやゝ親しまれる名を以て、存外に是が弘く分布して居たことは、前にも書いたからもうくり返さぬが、是が最初の徴用者、又は御手本でも指導員でもあつたらうことは想像し得られるのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　つまりは新たなる需要の起る以前、もう少數の此職業に向くやうな、言はゞパブリックな女のあつたことが哀れなのである。もとよりお玉たちにも生活の必要はあり、又若干の自信もあつて、滴足して暮らして居たかも知れないが、外から見たところでは不用な女、又はどうなつてもいゝ女であつた。さうして此樣な不用の者、生涯の計畫の立てにくい者を、たくさん作つたことは社會の責かと思はれる。折角人類の兩性の數がほゞ揃つて居るのに、今まで雙方に餘剰をこしらへて居たことは、本人たちの哲學はどうか知らず、ともかくも婚姻制度の成功では無かつた。

　從つて今後の國策としては、もつと複雜なる意味に於て、この不用の女性といふものを少なくする必要がある。以(77)前の用不用といふことは實は少しばかり單純に過ぎ、たゞ家々の主婦として身を終ることの出來ぬ者を、すべて粗末にして居た嫌ひがあつた。さうして大家族の世に於ては、その主婦の數が今よりも遙かに少なかつたのである。女�ｺを從順の一面に偏せしめた原因も、女の勤勞の重要さが減じた以上は、已むを得ない其結果とも見られる。殊に一旦獲得した主婦の地位を、失つた者の境遇は見じめであつた。得ようとして得られなかつたのも大きな蹉跌であつて、其爲に人生の企畫を變へる者が多かつた。勿論男を持たぬといふことゝは別であるが、古い世の中でも自由結婚は棄てられやすかつた。まして親族の保障が必要であつた時代には、家に入らぬ女の境涯はすでに浮草で、いつでも身のよすがを變へなければならなかつた。

　以前の田舍では、斯ういふ心細い又變りやすい地位に在る者を、すべて一括してゴケと謂つて居る。中央の標準語では數百年以來、寧ろ一家の支柱となつて遺兒を育てゝ行くやうな、男まさりな女性だけが後家であつたが、現實にはそれよりも弘い意味で、或は年をとつて後添ひに入る男女、或は返されて里に居る者、又は原因の何であるを問はず、孤居して寄るべ無き者をさう呼んで居る。日本海の北部海岸では、弘い區域に渡つて賣笑の女がゴケであり、越後の新潟には八百八後家といふ名さへあつた。尋ねたらやがて判ることゝ思ふが、何か是には隱れたる語源があるので、固より貞節を松柏と爭ふやうな人々を、輕しめていふ言葉では無かつた。沖繩の島でも笹森氏の南島探險に、女子は一度離別せらるゝときは再嫁する者殆と稀なりとある。又は再び正式の嫁入の出來ぬやうにいつた人もある。伊豆の大島でも明治二十九年頃の記録には、離婚して一旦歸れば決して再嫁すること無し、たゞ私婚する者は少なからざるが如しとある。女の輿入は内外の保障もあり、もとは知り盡した者が入つて來た故に、失敗は極めて少なく、從つて又大きなことであつた。さういふ人たちの再び迎へられることは望まれなかつたので、勢ひ轉落の途を歩む者が、特に此方面に多かつたのかと思ふ。

　

(78)　　　　　　　　　　一〇

　

　そこで結論といふまでの勇氣は無いが、最後に簡單にこの南の島々の、ヅリ又はドレ・ゾレなどの言葉が古語であつて、何か職業化以前の自由な女たちの生活を、暗示するものを傳へては居ないかどうかを考へて見よう。中華人の記録中には侏※［人偏＋璃の旁］などといふ語を宛てゝ居るけれども、多數の類例ではDとRの、二つの子音が共通して居る。さうして是と最も縁のありさうな動詞は、出を意味するデル・ヅル又はイヅルである。説明の手掛りはもしや此方面に有るのではないか。さういふことが私には心づかれるのである。

　さう思つて見るからでもあらうが、今でもいはゆる土妓の地方名には、女が出てあるくことを特徴と認めて付けたものが少なくない。彼等を草餅又は團子といふ區域などは相應に弘く、或はそれを販ぐに托して、男の群に近よつたからといふ説もあるが、とにかくに是は調製して外部に携へて行かれる食物であつた。東京北部の田舍は一帶に、又信州の伊那地方でも、サゲジュウといふのが女の方から、男の處へ行くことであつた。即ち出來た食物を手に持つて來る者といふことだつたらしい。木曾で或種の女を針箱と呼び、尾張では是を又シンミョウと謂つたなども、男女の會合には共同の飲食が方式であり、縫針が獨り在る男の最も要求する援助であつたことを考へると、もとはこの異名の可なり適切だつたことがわかる。

　京都を中心とした弘い區域にわたつて、いはゆる女のよばひの盛んであつたことは、大抵の男子が皆竊かに知つて居る。どこでもそれを我地方のみの奇習と心得て、上の句の半分だけは皆ちがひ、

　　　男ごくらく寢て待ちる

といふ下の句の方は同じ歌が、到る處に於て鉢合せをして居る。少なくとも是は普通の慣例とは異なるものゝやうに、世間からはまだ見られて居たのである。是が末々その家の主婦となるべきものゝ、準備行爲であつたことも絶無とま(79)では言はれぬが、多くの場合には淡く手を切つて、行路の人のやうになつてしまつたらしく、見遁がせない一つの特色は、女が何等かの給與を受けて居たことかと思ふが、其點はまだ自分などには確かめられない。しかも一方に是が職業者の常の活計であつたことは、幾つもの書證があるのである。たとへば鎌倉時代の一人の若い貴族の日記には、毎夜の如く或傾城の訪問を受けた記事を以て充ちて居り、又同じ頃の淀川下流の遊女たちは、舟に棹さして處々の御殿に伺候して居た。江戸期に入つてからでも、捜せば數々の面白い史料が傳はつて居て、それが江戸の町でも一つの風習であつた。たゞ其中の船に入つて宿する者だけが、いつまでも記憶せられて居るのである。女の與へられた自分の婚舍に於て、未來の夫聟を持つことが出來ぬ者、もしくは生涯聟入といふ式も無しに、短期の婚姻をくり返すやうな男は、以前も多かつたらうが後々も決して減少しなかつたので、遊女は寧ろさういふ機會を捉へて、段々に專門化の途を進んだものとも見られる。主たる兩者のちがひはたゞ、一方は同じ村里の間に限られ、他方は素性も知れぬ旅の女が多かつた爲に、愈々實を結ばぬ戀愛遊戯に、墮ちてしまふ危險が加はつただけであらう。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　伊勢で或種の女をデニョンボ（出女房）といひ、攝津の西宮あたりでデデヒメと謂つたことも、早くから注意せられて居る。それが商賣となれば客の前へ出るから、又は辻に出で沖や河岸に出るからとも説明せられようが、家に止まり室に居るといふことが常の習はしで無かつたら、是が命名の最初の動機にはなりさうも無い。家といふのは親族の支持であり、又は親々の暗黙もしくは公式の承認であつたと思ふ。さうしてそれの得られない女たちは、あはれや婚姻の爲に出てあるかなければならなかつたことは、以前の村の中の生活でも同じであつた。是にはたゞ多くの地方に於ては、いつの世からとも無く共同の婚舍といふものが設けられて居たので、それの備はらぬ土地だけにこの女のよばひは行はれたのである。

(80)　いはゆる野合をドレアヒといふ言葉は、ドレの本場ともいふべき奄美大島にも有るが、是は或は後になつて採用したのかも知れない。さう思ふわけは是が内地一般に、どこへ行つても通用するからである。さういふ中でも山梨靜岡の二縣などは、殊にはつきりと家に支持せられぬ婚姻だけをドラといひ、たとへば親の意に背いて二人飛び出すことを、ドラを打つなどと謂ふのである。ドラ打ちは多分之を樂器に擬した戯語であらうが、他の地方には之を男の遊蕩の意味だけに使ひ、道樂といふが如き珍妙な新語さへ生れて居るのに、爰ばかりは女を連れて驅落ちをすることがドラ打ちであり、さうして夫婦になることをドラヅレと謂つて居る。ツレはネヅレルだのスキヅレだのといふ語もあつて、もとは縁を結ぶといふだけの意味しか持つて居らず、是と周圍の承認とは全く別なものだつたが、今とはちがつて中代の經濟組織では、村と家とを離れた婚姻は永續しなかつた。それで、

　　　すきづれは泣きづれ

といふ類の諺も行はれ、結局は別れて雙方の家に復歸する者が多かつたのであるが、更にもう一つ以前の世に溯れば、つれて何處にでも新たな生活を開始することが出來たのかも知れない。イヅルもツルルも最初は一つの言葉で、それが面白くない感じを持つやうになつたのも、永い間の世相の變化だと、考へられぬことも無いのである。

　伊豆半島などのドラ打ちに相對して、房州の南端などのドラ打ちは少しちがつた意味をもつて居る。こゝでは居村の外の者とねんごろになるだけがドラ打ちであつたといふ。ドラが村のうちでは成立しなかつたといふことは、こゝにはまだ承認があり許容があつて、異常の結果を見ずに濟んだからではあるまいか。女が必ず一家の主婦になり、母として又祖母として身を終ることを期するやうになると、其望みは?々遂げ難く、苦しみ惱んで却つて身をはふらかす者も多くなつた筈であるが、曾てはさういふ切なる願ひも無く、あきらめて一生を送つてしまふ者が、男に多かつたやうに女にも少なくなかつたのであらう。それが後々二派に分れて、一方の何の計畫も野心も無く、たゞうか／＼と盛りの日を過ぎてしまふものを、欲無しだの心よしだのと呼ぶやうになつたことは、見やうによつては婚姻制の進(81)歩であるが、その爲に女の地位の又少し惡くなつたまでは否むことが出來ない。是に對して他の一方の自由な女、幾度もツレアヒをかへて活きて行く者は、近畿地方ではジダラクといひ、隱岐の島などではタマダレ者又はドウラク者とも言つて居たが、それもじつとはして居ないで、新たに基礎を作り又組織を設けようとしたのである。我々の如く舊い一方の世界に住む者には、其當否を批判する力も無いが、是が幾つかの面白くないことの原因になつて居ることだけは確かなやうである。だから改めて原因に溯つて、もう一度詳しく知る必要があるわけで、斯んな疑問にすら答へられぬやうだつたら、實は文化史などは尊敬するにも足らぬのである。

　

(82)　　　　　嫁盗み

　

　　　　　　　　　　一

　

　嫁盗みの史料は、思ひの外豐富なものである。さうして全國の隅々にわたり、少しづゝの形の差異を以て、話だけは今も傳はつて居る。たゞ近頃まで現實にそれが行はれて居たといふ地方は、目に立つほど片よつて西日本の方に多いのである。文藝の上で之を取扱つたものは、田中貢太郎氏の「旋風時代」が、かつて日々新聞に連載せられた小説として有名であつた。是は明治の初年に村の士族の娘を、農家の若者がかたげようとして失敗した話で、多分は假構であらうが、土佐はそれよりずつと後まで、嫁かたぎといふ風習のなほ行はれて居た地方の一つである。中村星湖君の奪掠といふ作品が、甲州のこの一事件を書いたものだといふが、私はまだ讀んで居ない。しかし後段にも説かうとおもふ如く、この地方のは僅かばかり樣式を異にし、いはゆる掠奪婚の條件を具へて居らぬものが多いやうに私は見て居る。

　久保より江さんの「嫁ぬすみ」と題する文集の中に、同じ名の美しい一小篇が出て居るが、是は小説では無くして實際あつたことの記述である。九州大學の一教授の家に、小間使ひとして來て居た博多生れのきれいな娘が、家に事情があつて本式の嫁入をすることがむつかしく、やがて盗まれて行くだらうといふことを承知して居りながら、博多名物の松囃子の群に加はつて、娘盛りの終りを樂しみ盡さうとする心持をよく寫し出して居る。さうして之に伴なう(83)て其前に居た又一人の女中が、不意に盗まれて拒絶して還つて來た話が、第二の場合として巧みに略敍せられて居る。つまりは歴史ある一つの大都市に、近く大正年間までもまだこの風習があつたといふ、興味深き眞實を是が談つて居るので、長崎市史の風俗篇などを讀んで見ると、博多は又決して唯一孤立の例でも無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　嫁ぬすみは一つの文化語、即ちわざと誇張した物のいひ方をして、少しでもこの語の陰影を取り去らうとした新案かと思ふのだが、其點は簡單に立證できぬだらう。本章の見出しとしては是がふさはしいと思つて私も用ゐて見たが、この語の行はれて居るのは主として九州の北の一隅に止まり、しかも同種の事例は汎くかの全島に及んで居るのである。

　長崎縣下の嫁盗み地帶は、小さな島々ではまだ僅かしか知られて居らず、今日觀察せられたのは島原彼杵の二半島のものが多い。殊に後者に於ては土の鈴第十四輯の、泉本季外君の「嫁ぬすみの話」といふのが、貴重なる記録である。文學の作品ではないが、季外君は俳人であり、文章に活氣があつて、只讀んでも感銘を受ける。私は同君に頼んでこの續きを書いてもらひ、甲寅叢書の一册に加へようとしたのであつたが、事行はれずして既に三十年を空過して居る。それ程にもこの問題は、我々に取つては古いのである。

　爰で一つの要點を擧げるならば、當人即ち盗まれる嫁自身の自由意志が、どの程度にまで無視せられたかといふこと、それが私たちの特に氣を付けて居た點であつた。もと／＼婚姻は同じ土地の住人の間に行はれ、男女豫め皆互ひに相知つて居り、よく未開人の生活誌に於て見るやうな、誰でもかまはず女なら連れて行くといふ場合とはちがつて居る。從つて大抵は女が承知の上、單に親二人の希望に反して、盗み去られるものであつて、娘にも不意打ちといふ場合は先づ無いものと思つて居た。ところが泉本氏の詳しく報告した西彼杵郡某村の實例などは、明らかに本人は前(84)知して居なかつたのである。私たちが心を動かされる一句は、女が山に入つて柴を採つて居るところへ、顔なじみの隣部落の青年が二三人でやつて來る。何に來たのかと尋ねると嫁ごに盗むのだと答へて、だしぬけに娘をかついでしまふ。あらもどしようかと言つたが、その時にはまだ誰の嫁になるのか知らなかつた。後に聟になる者が現はれて來たのを見て、女は斯ういふことを言つたと記されて居る。

　　そんならそがん、はよ言ふちくるれば、おとなしうしち來つとてえ。晝のひなか、かたげられたり泣いたりしち……。

　そんならさうと早く言つてくれたら、おとなしくして來たのに。ひる日中擔がれたり泣いたりして、人に見られても恥かしいことだつたと言つて怨むのである。いはゆる嫁盗みは、若者にとつても大事業であつた。その結果が?々不成績に歸するとわかれば、さういふ企ては面白づくでは始められない。つまりは斯うしても女が滿足し、仲のよい幸福な婚姻を成立させた先例が、いくらでもあつた故に之を思ひつき、又風習としても永く傳はつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　斯ういふ事件には、女の側の記録といふものは乏しいのが普通である。ところが泉本氏の報告だけは注意してさういふ方面の經驗も聽取つて置かうとして居る。或一人の老女の思出話に依ると、この地方の母親たちは、もとは其娘たちに、盗まれた場合の心得方を、こま／＼と言ひ聽かせて置くことにして居たらしい。その教訓の内容は明示してないが、老女の言葉の端々から綜合すると、先づ第一に泣いたり騷いだりせぬこと、次には盗ませた當の相手を見定め、何としても心に染まぬ男であつたら、出來る限りはつきりと不承諾の意を表し、ぐづ／＼に引張り込まれぬ用心をする。もし又日頃から長處を知り、是ならと思ふやうな人物であつたら、十分念を押してから、婚姻に同意を與へてよろしい、といふ樣なことでは無かつたかと思ふ。もちろん是は若い女性には、期待し難い毅然たる態度であつて、(85)さう思つて居てもつい心弱く、負けてしまつた場合が少なくはなかつたらう。一方のは又今日の普通の感覺からいふと、そんな強力を用ゐて女を取るやうな人に、好ましい夫などは有らうとも思はれぬやうであるが、斯うした求婚方式が頻々と行はれ、常からさういふ場合の心得を教へられるやうな土地又は時代では、之に對しての女の覺悟、又は注文といふやうなものも、よほど今日の新しい社會とは異なつて居た筈で、つまりは性教育の根本法則の差といつてもよく、結果から見ると此方はむしろ實際的であつたとも言へる。

　といふことは、誰か自分を盗むやうな人は無いか、もしくはもう今年ぐらゐは盗まれなくてはならぬと、考へるやうな娘も有り得たことを意味する。村では婚禮を見に行く風習がどこにもあつたが、或時はよその花嫁の美しく着飾つた姿を、うつとりと見とれて居たところを、不意に後から抱きかゝへられて、盗まれてしまつたといふ娘の話などもある。或は祭とか休みの日とかに、途で行逢つた若い男が、戯れに肩に手を掛けて盗むぞなどといふことがある。是は單なるからかひの一種であるが、それを聽いてはうす氣味が惡いといふよりも、何だか顔がほてり、胸がときめくものだつたと、いふやうな話をした婦人もある。無論後々は次第にすたれて來たらうけれども、かつては斯ういふ路筋を歩む女の一生といふものも、珍しくはなかつたことが想像せられるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　是をたゞ昔の世の雌伏心理、もしくは強い力に對する弱者の渇仰と解するは誤りで、別に幾つかのやゝ複雜な近代感覺が、竊かにこの陰には働いて居たらしい。簡單な言葉で之を説明すれば、要するにこの婚姻は安全だといふ豫測である。村の娘たちも數多くある中に、特に自分を目ざしてそれまでの計畫をしてくれたのかといふことが、男の心ざしの深さを知る好い機會であつた。そんなにしなくとも歌とかため息とか、又は時折のやさしい助勢とか、平和な求婚樣式は色々あつたらうが、それは多くは内證ごとであり、從つて虚僞がまじりやすかつた。いはゆる嫁盗みに至(86)つては惡びれない宣言であり、又小さくない努力であつて、おまけに冒險ですらもあつたのである。如何なる場合にも、この事業は一人では決行することが出來ない。少なくとも三人五人、稀には十名以上もの朋輩の援けを乞はぬと、目的を達し得ないことの判つて居るものさへあつた。

　各地の實例を見くらべて行くと、若者等は妙にこの企てには力瘤を入れ、冷淡な人の目から見ると、殆と勘定にも合はぬほどの勞費と知能とを傾注するもので、それは單なる同情や名譽心からで無く、或は一種の性的昂奮といふやうなものも、底に潜んで居なかつたとは言はれず、中には面白づくもしくはいたづら半分といふものも無いとは限らぬが、ともかくもそこには判斷と決意があり、しかも此協力に參加する者は未婚者ばかりではなかつた。最も正常と認められて居た方式では、本人又は親友の口から、豫め必ずこの企てを若者頭の耳に入れて居たらしい。多くの場合には聟側の親たち、大事な親類も皆參與して居た。それなら遣つて見よと最後の斷を下す者は、決して思慮の熟せぬ頭の無い連中では無かつたのである。

　鳥取縣の西の一隅、弓濱半島あたりに行はれて居た實例は、明治の終り頃の人類學雜誌廿八ノ六にも報告せられて居る。是も相手の女子のまだ知らずに居る場合だが、この地方では之を嫁もそひと稱し、嫁をモソハウとする者は必ず若連中に相談をする。若連中は之を聽いて、先づどんな事があつても見棄てぬといふ誓約をさせてから、愈々援助に乘出すのださうであるが、爰のは中々強行であつて、土藏の中などに女を隱し、若連中が番をして三度の食事を外から運び込み、ゆつくりと男にくどかせる。うんと言ふまでは親にも逢はせなかつたといふから、氣の弱い娘は或は負けたかもしれぬ。其代りには斯うして出來た夫婦は、必ず添ひ遂げるものときまつて居たさうである。是は少なくとも保證の制度が、今日のそれよりも有效であつた爲といつてよく、他でも一般に離縁といふものゝ無いのが、いはゆる擔げ女房の特色であつたやうに言はれて居る。

　

(87)　　　　　　　　　　五

　

　但し娘が丸つきり知らずに居るのを、藪から棒に連れて行かれるなどといふことは、昔はもとより少なく、今でもさう多からうとは私には思へない。盗んでまでも貰ひたい程の好い嫁女を、土地より外に於て發見することは、小説ででも無ければさう有りさうなことで無く、之に反して一つの村の中では、男女が互ひに知り且つ選び、心を通はし得る場合は有り過ぎるほど有つたからである。こゝで考へられる一つの事は、その選擇の自由が、家又は一族の方ではやゝ限られ、未婚者當人たちには幾分か廣すぎた、と謂つてもよい位に廣かつたことである。娘組の常識といふものは、殆と個々の部落毎に、又はその時毎にちがつて居た。すこし引込思案な苦勞性の娘が、二三人も姉分の地位に居ると、末遂げぬ戀を極度に警戒する。もしくは身内のごた／＼を押しても行はねばならぬやうな縁組の、さほど樂しいものでないことを強調する。之に對してたつた一人のお七やお染が現はれただけでも、彼等の輿論はずつと花やかになり、今の悦びの陶醉が深まるわけで、それには外からの刺衝が、可なり大きな變化を與へるのである。土地に嫁盗みといふ如き奇拔な慣行が、有るか無いかも亦一つの條件であつて、是が若い女性の生活計畫を、可なり左右して居たことも想像せられる。後々承知もせぬ者を擔いで行くやうになつたのは攪張で、以前の冒險は少しばかり、種類がちがつて居たと私は考へるのである。

　九州の西北海岸部などでは、相思をアヲモチ（粟餅）と呼び、又は華音に倣うてシャンス（相思）とも謂つて居る。その相思は盗んでもよいもの、或は一歩を進めて、盗まねばならぬものゝやうに認められて居た土地もある。是には勿論定まつた方式があつて、たゞの驅落や馴染み連れと異なる點は、必ずドシ又は若者組の干與があり、時としては男の親類、殊に婦人までが之を支援して居たことである。古い文學にも「親さくるつま」といふ語があり「親の許さぬ」といふことは淨瑠璃の悲劇の種の一つでもあつたが、是を儒教の教理を以て解説することは、少なくとも民間の(88)常の事實とは合はない。大體にこの二つの意向の競立は、結んで離れまいとする者の優越に歸着するのが自然であつて、それを妨げて居た主たる原因は、老いたる心臓を傷けまいとする娘心のやさしさと、無知に基づく危倶不安、殊には男に對する信頼の不足であつた。從つて斯ういふ大がかりな計畫を以て、自分を盗み出してくれるといふことが、一つの試驗にもなり又勇氣の源にもなつたわけである。賢さうなことを言ふ近頃の多くの女性指導者たちは、あはれやまだちつとも斯ういふ實際の事實を知らない。

　

　　　　　　　　　　六

　

　女が拒絶して嫁盗みの不成功に終るといふことも、近世は無論有り得たのであるが、斯かる場合に處する方法は、多くの土地に於てまだ一向に一致したものが出來て居ない。伯州弓濱の例の如く、二人を永い間外部から隔離して、殆と必勝を期すともいふべき強壓を加へたものも一方に有るかと思ふと、又片方には彼杵地方の報告のやうに、話が落着するまでは若連中の責任を以て娘を保護し、萬一にも話が調はずにしまふと、相應な辭令を述べて親元へ送り屆けることにして居たといふ例もある。勿論この後の方が遙かに進化した形で、是が確かに行はれたやうなら、弊害はさほど恐るゝに足らぬと言へるか知らぬが、それでは少しばかり暴擧に近かつた最初の所行と、調子が合はぬやうな感じがする。察するに嫁入を以て開始する婚姻方式が普及して後までも、何とかしてこの家長權を制限する一つの手續きを殘して置かうとした、是が新たなる試みであつたといふのみで、全國に亙つてはまだ確立するまでには至らぬ慣行なのであらう。

　つまりは女の心弱さといふものは、今でもまだ十分に擁護せられて居らぬ如く、以前はなほ一段と危險にさらされて居たのである。いやがる娘に寄つてたかつて、口移しにカネ（鐵漿）を吹込んで齒を染めさせたなどといふ話は、いくら有つても私は實事だと信じないが、それほど手荒でない他の色々の壓迫は、試みられたものと見なければなら(89)ぬ。古い世からの習はしとして、男女一つの食物を共にすれば、それでもう二つの身は繋がれたと認められた。それ故にうつかりと御馳走にも手が付けられない。食べると承知したことになるからである。泣いたり愚痴を言つたりするうちには、つい相手に付け込まれるやうなことをしやべるかも知れない。そんなら親たちさへ承知すれば、おまへはよいのかなどと問ひ詰められて、あいと言はねばならぬはめに、陷ることも無しとしない。その親たちとの交通は無論妨げられて居て、親の顔を見、眼色を察することは出來ぬのみか、しば／＼掛引を以て、まちがつた話を信ぜしめられる。或一人の娘などは警察官の助言もあつて、無事に言ひ遁れて四五日して還つて來た。ところが家の方では一方口を信じて、彼女が妥協して居ると思つて叱りつけて追出してしまつた。それでし方が無しにもう一度盗んで下さいと、傳言して來たので連れに行つた、といふやうな實例も泉本氏は記載して居る。とにかくに女を此樣な心細い?態に、置かねばならぬ樣な慣習は廢れて行くのが當り前である。さうして又實際に後世の嫁入制と、兩立することの六つかしいものでもあつた。女が内心悦び勇んでとついで行くといふ婚姻は、却つて親の家から送られて出て行く場合の方に多かつたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　然らば當初如何なる事情の下に、斯んな荒々しい嫁盗みなどといふことが考へつかれたらうか。今までの學者は極度に單純に、是を掠奪婚といふものゝ殘留だと謂つてすまして居たのだが、それは本當かも知れず又出たら目かも知れない。とにかくにそんな古代なものが、なほ續かなければならぬ必要又は理由が、今はまだちつとも指示せられて居ないのである。私たちの聽いて居る掠奪婚は、ちがつた氏族の間に行はれて居た。今の嫁盗みは大抵は同じ村、頼んでも來てくれさうな知つた中である。親はともあれ娘は前以て、承知して居るのがもとは普通であつた。さうして只親たちが娘の身柄を渡すことを、拒まうとした場合に是が起るのであつた。是と彼とを同じものとしてしまふには、(90)嫁盗み以上の荒つぽい勇氣がいるのではないかと思ふ。

　斯ういふ人たちを説得するには、どうして家々で娘を嫁に出すことを欲せぬかといふ、個々の理由を竝べて見せなければならぬだらうが、是にも明白に時代に伴なふ變遷があつた。全體に娘を持つ親たちは、今でもさう安々と二つ返事で應諾することを、見苦しいことのやうに考へる傾きがある。腹では良縁と思つて居ても、二度は少なくとも仲人をむだ足させることを、常法の如く心得た人が農村には多い。ことわる口實は、まだ少し早いから、支度がちつとも調はぬから、何も教へてないからとても先方の用には立つまいといふ類の、きまり切つた文句ばかりで、それは承知だそれでも結構だと言はせて置きたい下心とも取れるが、なは暗々裡には我家の勞力を、へらしたくないといふ前々からの願ひが働いて居たことは、嫁聟男女の別ち無く、熱意は殊に貰ひ方に在り、仲人も主として其爲に働いて居たのを見てもわかる。さうして其仲人の盛んに活躍したのも、田舍は最近百年ばかりの新現象であつたから、嫁などは中々容易にもらへないものと、始めから相場がきまつて居たやうなものである。

　さういふ中でも心から遣りたくない場合は、その斷りの言葉からでも察しられた。努めて相手を傷けないやうに、或は他にも話が有るから考へさせてくれとか、親類にも色々意見があるからとか、彼にはくれたくないと露骨にいふ者は少ないが、斯んな點にかけては村の人は敏感で、脈が無いといふことは早くわかるのである。財産の多少や格式の高下を、たゞの農民が口にし出したのは新しいことで、本人の人柄や技倆といふことも、いはゆる人竝み教育が徹底して居た社會では、さう大きな問題でなかつた。それよりも重きを置かれたのは、雙方の協同力の均衡といふことであつたかと思ふ。家と家との縁組は、當然に勞働の助け合ひを意味する。一方が手が少ないか作り高が多いか、又は今までの身内に頼りにならぬ人が有るとすると、そこへ娘を遣ることは苦勞をさせるやうなものであるのみか、何かの折にもこちらでは當てにならず、向ふの爲には力を割かねばならぬことが多い。新たにさういふ姻戚を作ることは、避けても決して不義理では無い。しかも相手の側から言へば、さういつた家の娘こそ、貰つて我家の生産力の支(91)柱を強固にする必要があつたので、仲人の外交手腕が足らぬとすれば、もう一つの取つて置きの方法、即ち嫁盗みの手段に出ることを、周圍の親しい者が考へつく機會だつたのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　婚姻を勞力補給の手段にすることが、正しいか正しくなかつたかは爰の問題ではない。ともかくもそれは一つの有つた事實である。地方によつては今もユヒ組を親族姻戚の間に限るもの、又は一定の農事季節に、援助を送ることを姻戚の義理とするものがあり、さうで無くとも婚約と生産協同とに、タノミとかユヒノモノとかいふ言葉を、共通に用ゐてゐる例は多い。配偶者の父母をシウトオヤといふなども、地方によつてはシゴト親とも謂つて居るから、言葉の起りは是に在つたと思はれ、或は姻戚が互にカテリともカテジョともいふのも、亦協力者の意味であつたやうである。ところが個々の農場の大さが一般に縮小し、又農法にも漸次の改良があつて、斯ういふ互ひの援助がさして必要で無くなつて、嫁聟の往來も多くは儀禮となり、是を目標に聟舅の關係を結ばうとする者も少なく、其爲に何處へでも遣つてよいといふ迄にはならなかつたが、嫁入先の選擇の標準は、爰で一變りしたかと思はれる。娘が家の爲に無くてはならぬ働き手といふ場合が、是と伴なうてよほど少なくなり、大體に本人の後の幸福といふことを目安にした判定が、行はれるやうになつて居るのだが、其割りには女性獨自の希望はまだ餘り容れられず、一方には今まであつた嫁盗みといふ一種の蠻風が、消えずに殘つて居たといふことは、考へて見なければならぬ奇現象であつた。或は選擇が幾分か自由になり過ぎた爲に、却つて親も子も迷つたりしくじつたりする場合が多く、それを警戒することがやゝ度を過ぎたのではないかとも思ふが、私にはまだ確かなことは言へない。たゞ婚姻の危險が近代に入つて、少しく増して來たことだけは事實のやうである。

　明治以來の新しい交通?態の下に、縁組の範圍の急に廣くなつたのは悦ばしいことだつたが、幾らとも無い失敗の(92)事例を見せられて、娘たちの決斷の勇氣は少し衰へたかと思はれ、一方にはその最も親切な相談相手であつた人たちにも自信が無くなり、一家親族にちがつた意見が起り易く、縁談は却つて纏まりにくゝなつた。をかしいことには嫁盗みのやうな粗暴な古くさい方式が、不用に歸するどころか、之を新しい情勢に處するために、利用せられる必要をさへ生じた。前に引用した久保夫人の家の、博多娘の場合などもそれで、昔は決して無かつた一つの形、親も當人もうす／＼は承知の上で、盗ませるといふことが始まつて來たのである。さうしなければならぬ事情は色々あつた。たとへば同時に二つも三つもの申込を受けて、選擇に迷うていつ迄も遷延して居る場合、殊に一方が親類その他の久しい義理の有る間柄で、進まぬながらも恥をかゝせるに忍びぬ場合などには、いつそ盗んでくれたら言ひわけが立つのにと、親さへ内心はさう思ふことが有り、氣の弱い母などはさういふ意向をさへ示した。或は一方が本人の望んで居る先だといふことがほゞわかり、又は既に意氣授合して居ることの親しい者だけに氣づかれて居る場合などは、秘密に内通して盗む機會を與へるものが無かつたとは言へない。それが又事態を圓滿に運ぶ唯一つの途で、田舍の人たちは特にさういふ處置を悦んで居た。貰ふ人の方でも競爭者の、どれ位有力であるかはよく知つて居て、この上は熱心くらべ、早く其熱心を表示した者が勝ちだと、かつは意氣地も手傳つてさういふ決行をした者もあるので、この場合にも盗まれる嫁の家で、寢耳に水であつたことも折々はあるが、それとても形勢によつてあら方は想像し得られた。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それからなほ一つ、是も頗るモダーンな嫁盗みは、家庭の内情で婚資の調達が六つかしいとき、さういふのは白　　状はさせなくても、口きゝたちは皆よく知つて居るのだが、中にはごく淡泊に今は支度が出來ぬとか、何分祝宴の金がかゝるのでそれのみが故障だとか、或はもつと率直に、盗んで行くならよろしいといふ親さへあつた。以前は斯うい(93)ふ日の飲食も、さう大きな入費で無かつたのだが、近世は何か別に原因があつて、むやみに是に張込むことが流行になり、體面を氣にした家々では、かゝるつまらぬ理由一つで、あたら佳期を空しく過ぎる娘が多かつた。盗まれるとなると、一切の表向きの儀式は無くなる。他に對しての言ひわけとしても、兩家は當分の間は往來をしない。孫でも出來てからそろ／＼と見に行くことになつても、さう晴がましい饗宴などは不用なのである。但し聟方に資力の豐かな場合には、自分の方の祝宴は擧げたであらうし、又は和睦を早くして正式の嫁入をさせようともしたことであらう。ともかくも盗み嫁の身のまはりの物だけは、どんな時にも男の方で調へることになつて居た。盗まれたのだから致し方は無いと言つては居るものゝ、世間では其内情は皆知つて居た。それでも氣がすんで居たといふところに、奇妙な私たちの社合の妥協性はあつたのである。

　斯ういふ方面から見ると、いはゆる嫁盗みは必ずしも惡い因習では無く、若い女性の身すぎを容易にする、新しい一つの便法であつた。盗む擔ぐといつても肩にかけて走るのでは無く、或はさよならの一つも言つてから出て行つたかも知れない。たゞそれでは困ることは、あまりに引渡しの式を簡略にした結果、女が單獨の決意を以て親の家を離れ、自由に男の家に走り込んでしまふのまでを、合法の婚姻と認めなければならぬことで、家の統一を支持して居た時代には、それは許し難いことであり、しかも家長の同意といふことは、爰では暗黙のものであつて其有無が確かめ難かつたのである。今から考へると理解しにくいことだが、以前はこの兩者の間の分堺線として、若者仲間の干與といふことを、一方の要件と認めて居たらしい。乃ち野合私通といふたのはいつの世にもいやしかつたので、是を公けのものとするのは登録でも無く、又今日の所謂ずる／＼べつたりでも無く、別に當の男女二人と公衆との中間に立つて、婚姻の成立を確認する人々が、必ず同齡階級の中に在つて、是が又或一つの事件を保證するだけで無く、永く未來に向つて契約の持續を監視して居たのである。この慣例は多分夙くから有つたものを、最近の嫁盗みにまで踏襲して居るので、時世の變化につれて幾分か影が薄くはなつて居るが、なほ今ある我々の資料の中からでも、本來の趣旨(94)を窺ふことが出來る。是などが或は今後の參考として、もつと綿密に時代の差を確かめて置く價値のあるものかもしれない。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　そこで各地のちがつた例を竝べて見るのだが、たとへば島根縣の一部には、娘が親の家から出て男の處へ遁げて行く時の式が有ると傳へられる。他の地方ではまだ聽かぬ話であり、ごく確かとは言へぬからなほ問合せる必要があるが、爰では之を「思ひ立ち」とも又拔け祝言とも謂つて居たさうである。女は家の外に片足、内に片足をかけながら、是から思ひ立ちをしますと宣言した。そんなことをすれば追ひかけられ、取つかまへられるにきまつて居るが、屋外にはちやんと打合せて居る人たちがあつて、さう言ふや否やすぐに引擔いで走り去るのである。

　但し娘自身の口から、この宣言をさせる例はもう此外には有ることを知らない。大抵の場合にはこの表意の役をつとめる者が、特に朋輩の中から選任せられる。可なりすばしこい若者でなければならぬのは、是が捉まるといぢめられ、少なくとも談判の期間、捕虜になつて居るから掛引には不利である。彼杵地方では此役をテンナイ人と謂ひ、阿蘇地方ではトウルイヅケと謂つて居る。盗類付けと書くのは當つて居るとも思はれぬが、テンナイは恐らく連れだつことであらう。名前は無くともいつの場合にも、必ずそれを言ひに行く役の者はある。その口上は至つて六つかしいものとせられ、豫め何度も口の内で練習して行くのだが、普通には戸口に片足を入れて、

　　こちらのお何さんを、誰それが盗みました。ちよつとお知らせ申します。

といふやうなことを早口に述べてさつさと還つて來る。家に待伏せなどの用意の無いうちに、成るだけ早目に告げるをよしとして居るが、別に後から改めて貰ひ受けの交渉に行く役もあるので、その二役を兼ねる場合には、すみ酒と稱する小さな酒樽を携へて行つて、そつと戸の口に置いて來るといふこともあつた。すみ酒は縁談のまとまつた即座(95)に、仲人が持つて來て嫁の親と、汲みかはす酒のことであつて、之を飲んでしまふともう變改は出來ぬことになつて居るので、仲人は少しでも早く之を出したがり、そつと携へて來て上り口に隱して置くなどといふことも毎度あつた。嫁盗みの手傳人までがそれを支度して居るといふことは、要するに彼等が亦一種の、やゝ粗暴な仲人であつたことを思はしめる。

　中央部から東の日本には、現在はもう實例がよほど少ないが、昔話のやうになつてまだ記憶せられて居る女取り、又は娘取りの話は處々にある。岩手縣の九戸郡などでも親が反對の場合、若者たちが娘の家に忍び込み、爐の鉤に尾頭付きの二尾の魚を結はへ附け、酒を添へて置いて來る。無事に娘を家まで連れて來れば解決、途中で見つかるとあきらめたといふのは、ほゝゑましい話である。農家の夜分はまつくらであり、晝中でも無人であつたから、斯ういふ思ひ立ちも往々にして成功したのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　仲人は媒的と女へんの文字を用ゐたやうに、もとは使に婆などを遣るのが普通だつた。それが今日の如く發逢して來るまでは、聟が正式に自ら貰ひに行く以外には、家から家へ嫁を迎へ取る方法は、或はまだ備はつて居なかつたのではなからうか。能の狂言の臺帳を見ると、何々聟と題した狂言は數多いが、その大部分は嫁はすでに同棲して居て、舅どのだけには是から對面するといふことになつて居る。その聟入を舅が待ち焦れて居るのを見れば、引越しは平和裡に行はれたにちがひないのだが、少なくとも此頃は京師の周邊に於ても、今日のやうに仲人に連れられ、駕籠や飾り馬で送らるゝ嫁入ばかり、行はれて居たのでは無いことがよくわかる。カツグ・カタゲルは穩かな言葉使ひとは言はれぬが、是はたゞ手輕に同行し去るといふまでで、必ずしも親や娘の希望を無視したものだつたと、推斷することは出來ぬかと思ふ。

(96)　私などの故郷、中國の東部地方でも、幼時しば／＼ボウタといふ婚姻のあることを、微笑を以て語られるのを耳にしたことがある。ボウタの意味は子供には不明で、或は丸太棒で運ぶことかとも想像して居たが、後に折口君の報告を郷土研究一ノ一二で見るに及んで、はつきりと其由來をさとることが出來た。ボウタは要するに「奪うた」であつた。親が承知をせぬのに其娘を斯うして連れて行くといふことを、公衆に向つて宣言する言葉だつたことは、長崎縣下の所謂テンナイ人等も大よそは似たもので、しかも實際は不承知どころか、熟慮懇談の結果、ボウタでならば遣つてもよろしいと、親がさういふから連れて行つたものも多かつた。それ故に又他日身上でもよくなると、あれはもとボウタで來やはつたんやなどと、蔭口もきかれるのである。南水漫遊や浪華百事談にも此話は出て居て、主として大阪南郊の村里にあつた例なのだが、それが近年まで續いて居たのみならず、區域はなほ右の如く、汎く中國地方にも及んで居たのである。

　私たちの興味を抱くのは、もとはこの方式が更に一段と普通であつたらしいことで、北は青森縣の津輕地方、西は九州のどこだつたかの農村、その他にまだ幾つかの土地に於て、嫁入の一行の先頭に立つ者が、嫁ごぞ／＼といふことを大聲でふれて行く。尾張の古知野《こちの》附近などでも、人力車夫に頼んで嫁だ／＼と、呼ばはりながら曳いて行かせた。自動車になつてからはどうしたか知らぬが、全體に嫁入に行列を作つたといふことからして、既に珍しい話である。是は結婚の事實そのものよりも、女の身柄を甲家から乙家へ、移すといふことを公認してもらひたい爲であつて、その必要は花やかな祝宴を催す場合よりも、寧ろ略式を以て引渡さるゝときに於て大きかつたとも考へられる。山陰地方の或一つの報告では、女が泣きながら連れられて行つても、それが嫁もそひと判れば通行人も干渉せず、家人も手を出さないといふのもある。是はあんまりだと思はれるが、或は葬送の泣女などと均しく、家を離るゝ際の是が一つの式だつたからかも知れない。現に沖繩の久高島などにも、聟に捉へられて泣くといふ風が曾てはあつた。

　

(97)　　　　　　　　　　一二

　

　嫁盗みの類例は中山太郎氏の日本婚姻史に多く見え、嗣いで大間知君等の集めた婚姻習俗語彙にも、各地の事實が並べてあるので、是が一地方のみの奇習でないことは既に明らかであり、今更似たやうな記事をくり返すにも及ぶまい。綜括して言ふならば今日知られて居る限り、女が豫想しなかつたものは既に甚だ少なく、拒絶して還つたといふ例は更に少ない。さうして一方には親が承認したものが、益々多くならうとして居る。ソビク・カタゲル又はオットルなどといふのも、要はたゞ普通の仲人式交渉を經由せず、もつと直接な手續きを以て、嫁を聟の家の人別にするといふに留まり、必ずしも不法の拘束を伴なふものゝ名では無かつた。それが最初から此通りの形を以て行はれて居たか、但しは今一段と荒つぽいものであつたか。是を明らかにきめるだけの證據資料はまだ出揃つて居ないが、少なくとも以前の若い女性が、婚姻を結んで後もなほ生家に留まり、主婦の入用が生じて後、始めて夫の家に迎へられて居た時代には、今日見るが如き仲人の往來も無ければ、又若者組の合力を求めるやうな、花々しい嫁かたぎも無かつたらうとは言へる。別の言ひ方をするならば、今の所謂嫁盗みは、中世以後から段々と普及した嫁入風習の副産物に他ならぬのである。

　或は遠い昔に、女は決して他の家族へは遣らないものといふ法則があつて、それが現在の男系相續制に移つて行く中間の過程に、奪ふとか盗むとかいふやうな語が生れ、今なほ續いて居るのかとも考へられぬことは無いが、さういふことはまだ民俗學の力ではきめられない。ともかくも言葉の今日の用法としては、嫁盗みといふのは一種の誇張であり、單に正常の方式とはやゝちがふ手順を以て、嫁をつれて來るといふだけの意味しかもたぬかと思ふ。日本風俗志の記載が正しいならば、筑前各郡などは嫁が來たと聽くと、盗みか正式かと尋ねるほども盗みの例が多く、それはたゞ正式に對立する名稱であつた。名がよくないのは簡略に過ぎるからでもあらうが、是とても一つの公認せられた(98)手續きには相違ない。さうすると他の一方の正式といふのは何かといふことが問題になるが、實はそれにもはきとしたきまりは無かつた。盗みの方にも宿親とか村の口きゝとか、交渉に任ずる一人の年長者、即ち仲人に該當する者が働くことが多い。たゞ強ひて二つの式のちがふ點を見出すならば、嫁方の別家や親類の相談にあづかつたり、又は祝言に參列したりすることだけが、正式には必ずあり、盗みには全く無い。是が一つの注意すべき目標ではないかと思ふ。

　大分縣の山間部の村でも、嫁を貰つても披露の宴を催さずに居ると、嫁を盗んで居ると言はれたといふことが、かつて雜誌民俗學一ノ六に出たことがあるが、是は聊か説明が足らぬやうに思はれる。男の側では最初から友だちが手傳ひ、大きな聲で娘を連れて行くことを宣言し、後では必ず慰勞の酒が出たらうから、披露が無かつたといふことは言へない。知らぬ顔をして居るのは寧ろ女の親元で、是にも全く知らぬのと、實は隨分よく知つて居るのとがあつたのである。それ故に盗むといふのは一つのしやれた言葉で、或は盗ませるといつた方が當つて居たかも知れない。ともかくも略式ながら式は有り、丸々不法なことでは無かつた。島根縣でも隱岐島の方では、前に記した思ひ立ちを、拔け祝言又は盗み祝言と呼んで居た。娘はかねて頼んで置いた家があつて、當夜は着替へを抱へてそこまで行く。それを宿を取るといひ、親は大抵引戻しには來ない。女はこゝで嫁入の支度をして、仲人につれられて行くので、其翌朝は聟の隣家の者が、女の家へ承諾を求めに行くと、多くは承諾するものだが、もししなければ一時は縁が切れ、やがて兒でも出來るといつと無く仲直りになつたといふ。私の想像では、この風習は元はもう少し弘く行はれて居たものらしい。今ある各地の中宿には嫁方の者も附いて來るが、遠い村外より迎へられる場合だけで無く、近所の嫁入にも之を必要として居る起原は、ちよつと他には考へやうがないからである。この中宿が使はれるといふ實例は、全國的といつてよい程に多い。さうして何れもたゞの休憩所ではなくて、何か儀式があり又嫁渡しがあり、いはゆる兩仲人の場合には爰で引繼が行はれる。乃ち仲人の責任の一つの起點であつて、中宿の主が之に任ずることもあれば、又(99)仲人が中宿を提供することもあるのは、單に名稱の差に過ぎない。さうして隱岐の拔け祝言のやうに、嫁がこの宿から出て行く場合もあつたので、北九州の一部、たとへば豐前の後藤寺附近などは、斯ういふのを皆嫁盗みと謂つて居た。或は仲人又は之に該當する者が、特に責任を負うて餘分に働く婚姻だと解して、大體に誤らないのかも知れない。いはゆる正式の縁組にも、勿論この役は缺くべからざるものだが、是は代表であり又使者に近い。然るに嫁盗みに於ては往々にして獨斷專行して居る。さうして公平なる第三者の立場といふよりも、寧ろ同棲したいといふ當人たちの希望を支持して居た。西國以外に於ても、能登の鹿島郡などでは、親戚にも知らせずに、着のみ着のまゝでつれて來るやうな嫁入を、盗んで來ると謂つて居た。それでは娘御を盗ませていたゞきますといふ類の挨拶を仲人がした例は、若狹地方にもあれば、又嫁もらひの特に重要な飛騨の白川山村にもあつた、つまりは家長の意向を抑制しなければならぬやうな必要が、もう久しい前からすでに現はれて居り、それが又仲人といふものゝ地位を、次第に重要にして來た理由かと私は思つて居る。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　ところが一方には、嫁かたぎによつて連れて來た妻を、土佐ではカタギ女房、鹿兒島縣下ではカレオメ即ちかるひ御前といひ、沖繩の島ではカタミニービチ、即ち擔ぎ嫁取と謂つて居て、共に媒約人の無い嫁のことだといふのは、少しく前の嫁盗みの説明とは兩立せぬやうに、思ふ人も有るか知れないが、私にはそれも不思議で無い。まだ仲人といふほどの中心人物が出來ないで、ドシ即ち若者仲間が合同して、臨時に役割をきめて之を決行しただけで、親の選擇自由を制限した點は雙方同じである。

　言はゞ仲人の大きな權能も、背後に未婚者群の輿論が支持した爲といふことを證明して居るのである。元氣はよいけれども若い衆は辭令に長じて居ない。愈々交渉に入り、破綻無く事を纏めようとすると、?々同情ある年長者の口(100)利きを煩はしたので、その代表制の殊によく發逢したのは、甲州から伊豆に連なる一帶の地方の、所謂ドラブチの慣行であつた。是は出女房の章にも一端を述べて居るから詳しくは説かないが、情交ある男女ももとは決して私奔はしなかつた。少なくとも親しい朋輩は、始めからその苦悶に參加して居たのであり、一方村の顔役ともある者は、假初にも決行には手を出さなかつた。たゞこの人をして親に説かしめると效果があり、或は擔いだり奪つたりする必要が無くとも、思ふ通りになることがあるといふ體驗をした故に、後には全權を彼に托し、夜半に愛する二人がしほ／＼として先づ其門を叩くといふ、場面をも現出するに至つたのである。九州某處の如く女の同意もたしかめないで、かたげ去るやうなことはしなかつたらしく、是とても成立の見込のある場合には、情の切なる者は之を試みたかもしれぬが、親分たちがそれまでも是認したやうな形跡は無い。最も多くの場合には若い男女が一緒に訪ねて來て、どうかあなたの御力で夫婦にして下さいと頼むのださうである。さうすると一應はうんと叱り付けて不心得を責め、次には他の地方の若者組も同じやうに、一生仲よく添ひとげる決心があるか否かを確かめて誓言させ、それから徐ろに頑固な又は優柔不斷な親どもの説得に取かゝる。その論法は色々あらうが、お前たちだつて若い頃、どうして女夫になつたかを思ひ出して見なさいといふのが、最も有效なものだつたらしい。それでも酢だこんにやくだと色々の故障を唱へ、中々そんならと言はぬ場合は、一度は少なくともきつとなつて、激しいことを言ふのがきまりであつた。あんまり氣づよいことは言はぬものだ。あつたら好い若い者が、もしか無分別を起して線路にでも、飛込んだらどうするなどと遣ると、横に聽いて居る母親は大抵は泣くのださうである。或は子とも親とも思はぬならそれも結構だ。棄てゝしまひなさいわしが拾はう。其代り後で文句は有るまいなときつとなると、いつかは仲なほりをしたいといふ下心が實は有るから、大抵はこのあたりから折れ始める。さうして親分は若い二人からは後で手を合せられる。それで追々に好い親分となり、選擧も心のまゝといふ類の顔役が、あの方面には多いといふ話だが、算へて見たのではないから私は請合はれない。ともかくも斯うした社會相が早くからのもので、關西のいはゆる嫁擔ぎ嫁盗み等と、二つ別々の(101)ものだつたらうといふことだけは、私は信じないのである。現にこの地方でも村によつて、今もなほ若連中がこの仕事の大部分を專管して居る例もあつて、ドラ打ちは決して男女單獨の驅落ちではない。伊豆方面に近くまであつたものは、雙方の若者組が中に立つて成功させた。外交技術としてはやゝ拙だつたが、若手組は理窟に折れて一旦は親の家へ娘を返しに行き、その瞬間に又別の誰ともしれぬ者が、引抱へて走つてしまふといふ類の方式まであつて、結局はやはり目的を達して居たさうである。世間の誤解の一ばん大きい點は、ドラは男子の放蕩無頼、即ち彼等の不法が主動力であつたと見ることで、其爲に女性の意志を無視するものが多かつたやうな推測も容易だつたらしいが、無理をしたところで幸福であらう筈はないから、それは話であらうと私は思つて居る。道樂などといふ語こそは後の思ひつきで、ドラは本來は出て行くこと、即ち女は家居して夫聟を迎ふべしといふ、古い原則を破つたことであつた。ドラ猫のドラなどがよく其感じを傳へて居る。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　私が今頃この樣な古くさい田舍の風習を、さも珍しさうに説き立てる眞意は、別に復活して見たいとも、棄てずに置きたいともいふので無いことは、誰にだつて大よそはわかるであらう。そんなら何の爲と問はれるならば、一言で答へると、考へて見てもらひたいからである。配偶者の選擇は最初は完全に自由であり、後には色々の制限も生れたとは言ひながら、大體に當人の自由を本則として居たことは、近頃までも變りは無かつた。それを全く無視したやうな婚姻を、上品とも穩當ともいふことになつたのは、實はよつぽど新しい風潮であつて、盲目なる武家道�ｺの追隨であり、又常識の衰頽だつたとも言へる。しかしともかくも嫁入を婚姻の開始とする考へ方が、すでに法律にまでなつて居る以上は、女性が自ら生家に縛り付けられて居るのだと感ずる自卑の念を、無理とまでは評することが出來ない。それを救出する一つの方法は、先づ結婚の目的といふことに心付かせ、家は新たに彼等の手によつて、作り且つ維持(102)するものなのだといふことを、知らしめることであらうと私は思ふ。

　婦人解放の機運は、この爲には是非とも善用しなければならぬ。自由は今度始めて與へられるものゝ如く思ふ者があつても、それは却つて彼等の元氣を鼓舞するであらうから、少しも爭ふ必要などは無い。たゞその自由は中々現實の幸福の爲に、思ふやうには有效に活用し得ないものだといふことを、今までの實例によつて注意させて置くだけは必要である。假に何等の制約が加へられないことがわかつても、選擇すべきものが備はらなければ何にもならず、又は有り過ぎて迷はされ誤られ、又は心殘りがあるやうでも困る。つまりは外側に是を正しく導くやうな施設が伴なはなくては、自由はその價値を發揮することが出來ぬのである。汎い意味での性教育は、この爲には缺くべからざるものであらう。さうして能ふべくんば是も女性の手で、供與して見たいのであるが、世の多くのえらいをばさんたちは、びつくりする程も物を知つて居ない。社會を今あるやうな?態に持つて來たのも、男では無くて實はをばさんである。

　そこで私たちは民俗學の方法に隨つて、先づ最も普通の村の女たちの、一人々々の經驗を、尋ねてごらんなさいと言ひたいのである。彼等の多くの者は我が住む村、もしくは常に行通ふ四近の部落以外に、選ぶ夫が居らうとは始めから豫期しなかつた。その上に前世の約束、かねて定まる天縁といふものが有ることを、うす／＼ならず信じて居た。從つて思ひ切りが早く、境遇に適應する爲に態度を變へることも容易であつて、この點は腑甲斐無いとも氣の毒とも言へる。しかし少なくとも彼等の婚姻には計畫があり希望があり、是には必ず一生の果の果までも見て居た。殆と練習ともいふべき若い日の戀愛遊戯と、つひのよすがとを混同するやうなことは無かつた。それには始終過去の先例の善惡さま／”＼のものを傍觀して、一喜一憂することが出來たからである。彼等のつま定めの目的は最もはつきりとして居た。いはゆる天下晴れて、愛すべきものを愛し得ること、是だけは少なくとも一貫して居て、かの鶯やほゝじろの愛の巣のやうに、程なく崩れてしまふものとはちがつて居た。自分たちの若さがやゝ萎れ、情熱の低温にならうとするに先だつて、次の愛すべきもの、命にかへても彼等の幸福を念じたいと思ふ者が、次々と進出して來る。さうし(103)て彼等の歡喜を透して、新しい世代の文化を味ひ得たのみならず、世の中があまり惡くならないうちは、まじめに働く者の必ず報いられることを、體驗することが出來たのである。一方には人間には免れ難い患難と病弱、或はそれよりも今一段と惡いものに接する場合にも、外で望むことの出來ない同情と援助とが、必ずこの中から期待し得られた。簡單に言ふならば安らかな一生は、以前は家庭でしか得られないものときまつて居たので、假に其保障の裏切られる時代が折々は來ようとも、斯ういふ計畫を以て家を持たうとしたことは、斷じて若い者の無思慮とは言へない。警察や新聞で痴情などといふのは、無論この計畫の無かつたもの、又は失敗したものだけをさすのである。

　それからなほ一つ、昔の日本人は死後を信じて居た。死んでも盆毎に家に還つて來て、眼にこそ見えないが子の子、孫の孫たちと、飲食休養を共にし得るといふことが、どれほどこの家の永續を切望させ、又大きな愛着を是に對して、抱かしめたか測り知れないのである。それはちつとも當てにならぬことだと、今の人は無論否認しようとするが、とにかくに實際は人も我も、共に之を信じて居た爲に、祭が眞劍であつただけで無く、死の床の不安は著しく輕め得られ、それが又人生の發足の時から、ちやんと計算の中に入つて居たことは、今なら我々は幾らでも證據が擧げられる。この古來の確信の少しづゝ搖ぎ出したことも、決してつい近年のことゝは言へない。何かその代りになるべきものを見付けようとして、まじめな人たちは大分苦勞して來たが、それには信仰も哲學も皆個人的な教化であつて、この小さな集團を永續させる力は無く、寧ろ無知なる人々の古風墨守を、羨んでよいやうな場合が多かつた。殊に悲しいことは一つの解決も無く悟りも無くて、忘れたり茶化したり、たゞ現在だけの爲に活きようとする者の多くなつたことである。斯ういふ人たちの生活計畫は失敗するといふよりも、むしろ最初から計畫が無いので、末々故障が無かつたら幸運といつてもよいので、斯くして向ふ見ずな戀の遊びが、婚姻生活と入り交つてしまふことになつてしまふのである。いくら自由といふ言葉のよく流行する世の中でも、痴情の結果までは擁護するわけには行くまい。さうして又擁護しても居ないのである。今日の嫁盗みの風習などは、やゝ無理なる改造であり、又農村劇に近い一種の演奏のや(104)うにも取れるが、ともかくも是が主調を爲すものは、結婚せんとする者を結婚させようとする努力であつた。社會の力が幸福なる一生の結合の爲に、働いて居たといふ點は、今ある「成るやうに成れ」といふだけの自由よりは、一歩進んで居たと思ふがどうであらうか。或はちがつた見方も無いとは限らぬので、なほこの上の研究を續けて行くことにしたいと思つて居る。

　

(105)　　　　　仲人及び世間

　

　　　　　　　　　　一

　

　誕生と死亡とに伴なふ我々の行事作法は、半ば無意識にもまだ古來の慣習を傳へた點が多いのに反して、婚禮の儀式ばかりは、殆と全部といつてもよい程の變化を受けて居る。さうして今日昔風と稱して珍しがられ又はなつかしがられて居るものも、各人が互ひに他處の例を知らぬだけで、實は土地毎に境遇の異なる毎に、驚くやうな幾つもの相違があつたのである。そのかはつた仕來りは一部分今も地方に殘り、もしくは現今の新しい式に影響して居る。國の最初から、この通り區々なるものが併存して居た氣づかひは無い。つまりは中古に必要があつて何度も改められ、その變遷のそれ／”＼の段階が、土地の?況によつてまだ保留せられて居るのである。故にもし注意深くこの各地のちがひを比較して見る人があるならば、或程度まではこの推移の跡を明らかにし得る筈で、乃ちこの方面に於ては、殊に民俗學が功を奏しやすいと、認められて居る理由である。現在の婚禮作法が今の通りで永く持續するか、はた或はどういふ風に變つて行くか、それを如何に改めて行くことが最も望ましいか等は、私たちの管轄する問題では無い。たゞさういふ大切な國民の懸案を決せんとすれば、先づ以て是までに變遷して來た經過と事情とを明らかにして置かねばならぬ。即ち廣い意味に於ける歴史の知識が、參考資料として特に必要なのである。近世の多くの所謂改良政策は、この準備を缺いた爲に永續せず、もしくはたび／＼無駄以上の損失をしたことは、我々の痛い經驗であつた。好んで(106)其樣な無謀な企畫をしたとも思はれぬから、恐らくは單に過去にも變化があつたことを知らず、又は知つても之を詳かにする道が有らうとは考へなかつたのである。先づこの二つの點を反證して、次にどうして其樣な改革が、昔も必要であつたかといふ疑ひを起さしめないと、改革はたゞ古いものを打潰すことだと思ひ、それには失敗も無く誤算も無く、常に無條件によいものだと速斷するやうな、輕率な氣風を除き去ることが出來ぬであらう。民俗學の世に盡すべき道は開けて居る。我々は成るたけ議論をせずに、たゞ婚姻の作法が社會事情の要求に應じて、徐々として改まらずには居なかつたことゝ、それにはもと統一ある計畫が無かつた爲に、折々は今見る如き折衷妥協、或は過度と不徹底との交錯があつて、一層始末のつかぬものになつたことゝを、事實によつて證明しなければならぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　今の婚禮と昔の式作法と、まるで變つて居る點は幾つもある。それを成るたけ多く列擧して見たいのであるが、先づ一ばんに人が氣付かずに居るのは仲人といふ者の新たに現はれて來たことである。中世以前の文獻にも、捜せばさういふ言葉は絶無でもあるまいが、それが今日の如き役割を演じ出したのは、上流の婚姻は言ふに及ばず、庶民の階級でもさう古いことでは無い。かつては此類の機關を必要としない縁組が、普通に行はれて居たことが推測せられ、又現に今もまだ仲人といふ名を、知らずに居る土地も相應に弘いのである。然らばそれ等の土地では何が其役の代りをして居たのであらうか。村を同じくして幼稚の頃から、顔も氣心も知り合つて居る間でも、男女が何等の仲に立つ人を經ずに、相近づくといふことはまづ出來ないことだ。相手の胸の中を測り知ることが難く、否と答へた場合の氣まづさが、親しい間柄だけに殊に怖ろしかつたのみならず、第一にさういふ自由な事をすれば、笑はれ蔑しまれ、又却つて未遂げぬ危險が多かつたのである。さうして是は一生の大事であるが故に、たとへ一方は勇敢に又無謀に進んで來ようとも、少なくとも女性の側に立つて、彼女のとつおいつの惱みを救ひ、正しい決心を扶けてやる樣なよい仲(107)立ちは、いつの世にも入用だつたのである。漢語で媒の字を女扁に書くやうに、我邦でも元は女を主とし、彼邦に於ては男からの謝禮を目あてに、誘惑を試みたといふ話が多くあるに反して、此方は女の利害を本位とした、親密な女友が常に得られたのでは無いかと思ふ。

　今の處女會の前身と見られる娘組、又青年團の元であつた若連中、この二つの古い組織のまだ續いて居る土地では、多少の弊害を伴なひつゝも、是が各員の縁定めに、大か小か必ず參與して居る。さうして家庭は一般にこの問題に就いては控へ目であつて、所謂性教育は、總括して之を廣い意味の同齡階級の手に委ねられて居る觀があつた。實際に又斯ういふ重要な役目が無かつたら、この明らかに家族制度と對立する團體、多分はそれよりも古くから有つたかと思ふ組織を、いつまでも存續させて置く理由は無かつたらうとさへ考へられる。それだから家を唯一の根據とした武家風の物の見方が、一代を風靡する世の中が來ると、新しい社會道�ｺは些しの見境ひも無しに、一樣にこの古風な婚姻樣式を非難し始めたのである。其結果としては、多數の改め得るものは、擧つて武家風の婚禮を採用したが、殘りのどうしても改め得ないものだけが、惡く言はれるまゝに段々と惡い方へ傾いたのである。村々の所謂若い衆の風儀は、近世目に立つて惡くなつて來たと言はれて居るが、さういふ中ですらもなほ制裁が強く、正しい選擇を指導し、公認せられた契約を支持する力を具へたものが少なくは無い。殊に一方に娘組のまだ活?に働いて居る土地ならば、彼等が知らずに居る婚姻は絶對に無いばかりか、彼等が是認し又奨勵してくれない婚姻は、殆と成立が望めないと言つてもよかつた。それほどにも女仲間の共同自衛の感覺と批判とは鋭敏なものであつた。其上に誰にも特別に心を許した仲よしの女友が、二人か三人かは必ず出來て居た。何といふ名を以て呼んだかは別として、事實上の仲人が其うちにあつたのは當り前のことで、同じ邑里の住民の間では、もう是以外に別段の介助者を必要としなかつたのは、少しも不思議なことでは無いのであつた。

　

(108)　　　　　　　　　　三

　

　ところが近代に入つて新たに要求せられた媒妁人といふのは、男も男、堂々たる村一流の顔役の、年齡も亦ずつと飛び拔けた、父の朋友といふやうな人ばかりで、それを頼まない婚禮は、一括して輕蔑せられることになつたのである。此方式には誰も心づくやうに、よい事もあれば不便な點もある。第一に世上の營みが繁くなれば、もうそんな事に手を下して居られぬ者ばかり多くて、現にこの習慣を維持する爲の、少々感心し難い色々の便法が案出せられて居る。大昔以來あつたものならば是非もないが、中頃始まつた習はしがどうして此樣に、根強く普及して居るのかといふ疑ひが先づ起らざるを得ない。最初に心付かれるのは私の謂ふ遠方婚姻、さう遠くで無い附近の村々からでも、とにかくに生活を共にしないよその部落に、配偶者を捜し出さうとする風の採用せられたことである。是には幼馴染の仲間などは口が出せず、一方には親や身内の關心は高まらざるを得ない。村が最初からちがつた家筋の幾組かを以て構成せられるのを通例とし、婚姻の便宜を以て共同生活の一つの目的として居たらしいことを考へると、是はまことに大きな變革であつた。小さな私領の統合と交通の發達がそれを容易にし、又一方には家格を高めようとする者が、嫁聟を配下から取るのを好まなくなつて、他の多數が追々にそれを眞似たといふことも考へられるが、もつと適切なる原因は人口の不均等、殊に土地多く勞力の足らぬ村が飛び／＼で、剰つた近隣からそれを補充しようといふ、願望に在つたかと思ふ。働く人々に取つては、この理由も亦痛切なものであつた。だから彼等の間では嫁迎へをテマを貰ふ、又はテマを入れるといふ例が、東北から越後飛騨、廣い區域に亙つて行はれ、中國地方の開けた土地にも、テマを構へるとかテマをやとふとかいふ動詞が、なほ無意識に用ゐられて居るのみか、縁組を一つの勞力交換の契約のやうに、解して居た痕跡は九州などにも多いのである。嫁入を以て開始する婚姻は、この結果として普通になり、さしも上代文藝の主要なる題材であつた妻問ひの期間が極端に短縮せられ、「よばひ」は人生の最も賤しむべき行爲と成り(109)下つたのは、永い歳月の力とは言ひながら、眞に驚くに堪へない激變であつた。斯ういふ事情の下に於て、村限りの輿論と制裁が、昔通りに行はれなかつたのは必然の事で、それが爲に世間に顔の廣い口利きとも言はれる男が、入用になつて來たのもさこそとは思はれるが、しかも其人々の側に立つて考へると、好んで其樣な事務に新たに携はり、この苦勞の多い餘計な任務に服する氣になつた動機は、まだ外部の要望だけでは説明することが出來ない。任侠は素より日本男子の天性でもあらうが、それが此方面に向つて特に展開した、原因はなほ究めて見なければならぬ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　少し變つた側面から、此間題に近よつて見たいのだが、右の堂々たる近世の媒妁人に對して、當事者雙方では勿論謝禮をする。多くの土地では嫁聟は一生の間親と同列の敬意を以て之に仕へ、盆正月節供の禮を始め、祝儀不幸の折には人よりも先に顔を出すなど、寧ろ親よりも以上に勤めるのが義理であつて、それで仲人親といふ言葉さへ方々の土地には出來て居る。しかし其以外に、別に貰ひ方から婚禮終了の直後、一定の酒食を贈るのが常の作法であつて、近來はそれに若干の金品を添へる者も多くなつて居るやうである。さういふ場合には仲人はたゞ受取つてはしまはず、必ず新夫婦其他の關係者を招いて披露を兼ねた酒宴を開くといふ風習の有る地方も稀でない。年長男子の媒妁制が新しいのだから、此風習だけが古からう筈はないのだが、是にも亦既に色々の妙な名が出來て居る。群馬縣などは利根郡でも又南端の多野郡でも、ハネガヘシもしくはトンビノハネといふのが、その仲人樣への贈り物の名でもあれば、又それを近隣知音へ分配することをもさう謂つて居る。確かなことは言へないが、私は是を一種の戯語だらうと思つて居る。ハネ又はハネガヘシは返禮のことで、商家の用語としては所謂釣錢をもさういふ土地がある。つまりは受取つた物に對して、こちらからも何か與へることがハネなので、從うて賣買のオツリや貰ひ物のウツリだけで無く、現に魚を釣る釣道具をも、ハネと謂つて居る例が稀でないのである。次に一方のトンビは又トビとも謂つて、是も正式(110)の贈り物のことであるが、今はその用法が少しづゝ制限せられて、或は食物に限つたり、又は儀式の日に限つたりして居るのである。言葉の正面の意味だけを取れば、貰つた正式の食物の一部を割いて、贈つた相手方に與へるといふだけのものであらうが、二つを結び合せてトンビノハネと謂ふと、どうやら鳶の羽とも聽えて笑はずには居られなかつたのである。始めて斯ういふ新語を考へ出した人もえらいが、それを面白いと思つて流行させてしまつた、地方人の氣持にも共鳴すべきものがある。即ち小さな驚きと小さな當惑、贈り手の好意は承認せずには居られぬが、さりとて始めから斯んな物は問題にして世話を始めたのではなかつたのだといふ複雜な心中を、たつた一言の鳶の羽といふ輕口によつて表白しようとして居るのである。

　實際又是くらゐ機智を藏した人が、男仲人としても成功して居たので、さういふ發明の例はさがせばまだ色々ある。たとへば甲州の谷村附近で、婚禮の酒宴が酣はになつた頃、花嫁が第二の晴着に着替へて、其席に出て來て賓客に茶を煎じて進める。それを此土地ではイネッチャといひ又はイケッチャと呼んで、一度は此の名を口にしてどつと笑はずには濟まさぬのである。説明をするとやたらに長くなるが、要するにイネッチャは此地方の方言で、「お歸りといへば」といふ程の力強い語になるのである。作者不明とは言ひながら、斯ういふしやれを謂つて、どつと笑はせて酒の席を切上げるといふ樣な手腕技倆も、仲人には必要だつたのである。その仲人が謝禮といふやうな言葉を使ふことを好まず、何か笑ひたくなる代りの語を、色々考へ出さうとした心理も自分などにはわかるのだが、もつと實例を集めぬと承知しにくい人も多からう。自分等の郷里では、仲人が謝禮を貰ふと是に若干のたし前をして、近隣知友を集めて飲んで貰ふことがあり、それを多くの郡村ではヘソヌクメと呼んでゐる。近畿地方でも其謝禮を仲人のヘソと謂ひ、その返禮に嫁聟の親たちを正客にして、酒宴を開くことをヘソ祝と謂つて居た。ヘソは臍繰などの名稱からも察せられるやうに、言はゞ内ぶところといふ語を稍々をかしくしたまでで、今ならば着腹とでもいふのがその臍温めに該當し、自分でさういふ語を使ふのは、無慾の證據とも見てよかつたので、實際又それを行爲でも證明して居た。大(111)和の生駒地方では、仲人へは雙方からの禮が來るが、それで簡單な酒宴を開いて、友人親類を招く例になつて居り、爰では又其集りをヘソヒヤシと呼んで居る。實際には仲人をする者には何ぞの下心が有つた者も多かつた筈だが、ともかくも直接には是によつて、決して臍を温めぬといふことが建て前になつて居たので、それが又我々には考へて見ずには居られない點である。

　

　　　　　　　　　　五

　

　この仲人の任務は、法外に勞の多いものであつた。中には悦んですら／＼と話のきまるのも有つたらうが、大抵の場合は貰はれる方で尻込をして見せる。二度や三度の申入れに應じて、手輕に承諾するのは心を見られる樣だと、律儀な家ほど家や當人の缺點を言ひ立てゝ、實は望んでゐる場合にも何遍も辭退する。或は相手が立派過ぎるだの、果して勤まるかどうかおぼつかないだのと、無性に遠慮をして先方の熱心さを試み、又は他日の保障を得て置かうとする樣な態度は、何だか中世の懸想時代の、女の傳統を引繼いで居るやうな感もあつた。仲人は斯うした辭令の片隅から、果して結局は纏まるものか否かを見究め、もし脈があると思へば挨拶の如何には拘らず、氣永に又力強く押して行くだけの腹が無ければならぬ。信越地方で謂ふ手締めの酒、或は固めとも定めの酒とも名は國々でちがふが、無い處は殆と無い。實は成立祝の酒なのだけれども、然らば持つて御座れといふ家などは一軒も無い。通例今日はきまると見据ゑが付けば、前から携へて行つて片脇に隱して置き、又は袂酒などとも稱してそつと下げて行き、大よそ承諾の口氣を洩した時に、間髪を容れず取出してすぐに汲みかはすので、是さへ呑んでしまへばもう大抵の事では變替へはせぬが、それへ持つて行くまでの忍耐が非常なものである。「仲立ちは逆立ち」などといふやうな輕妙な諺は何處にもある。肥前の五島などは海上だけに、仲人は七舟半《なゝふねなか》ら、即ち七度半の航海も覺悟をしなければならぬと謂つて居るが、多くの地方の實例を耳にすれば、是は誇張でも何でも無かつたのである。

(112)　そこで我々の考へて見なければならぬのは、如何に人の爲に盡してやらうといふ志は深くとも、これだけ多くの時間を掛けて奔走し得る人が、現代は申すに及ばず、僅か百年百五十年の以前に溯つても、さう澤山に有つたらうとは思はれない。田舍は悠長といふのはよそ目であつて、江戸期も初めのうちは大農の主人までが、田植稻刈の忙しい季節、開發や堰普請などの大きな仕事には、監督の爲に職場に出たと言はれて居る。家に相應な人の手があり、確かな作頭に任せて置いて、自身羽織でも着て出てあるかれる百姓は、村に二軒か三軒の大屋だけであつたらう。僅か三四町の田畠を人に貸して、小作料の收納で暮せるやうな家が輩出しなければ、年に百萬組にも近い新夫婦が、すべてこの一つの樣式によつて結ばれる道理は無かつた。さうして是は明治も中程以後の、ほんの短い期間の現象であつたのである。斯ういふ手數のかゝる仲人が、前にも少しは有つて上品なものゝやうに看做されて居たことは事實であらうとも、それが一般に普及して多くの縁組の標準ともなつたのは、至つて新しい趨勢と言つてよいのである。

　だから此頃のやうな多端な時代が來ると、それが再び改定を加へられなければならぬのである。今ある男仲人制が、先づ大衆にまで採用せられたのも都會地だが、是を模樣替へする必要のいち早く感じられたのも都會であつた。其理由は二つ、第一にはさういふ閑人が町内には非常に尠なくなつた。次には出來るだけ立派な、仲人親と立てゝも不足でない人に、媒妁をしてもらはうといふ希望が強くなつたことである。先頃亡くなられた石黒子爵などは、念入りな方だから失敗も無かつたらうが、それでも二百組にも近い縁組に立ち會はれたのでは、到底末始終を見屆けることまでは出來ず、孫分になる幼ない人々の名前すら覺えようとはせられなかつたらう。まして一切の膳立ては整うてしまつてから、招待?に名を連ね祝宴に出て挨拶をするだけのいはゆる正式仲人には、折々は新郎新婦の名を思ひ出せず、困つてしまふ樣なことがあつても致し方は無い。とにかくそれはもう實質上の變化であつて、所謂逆立ちをする仲立とは、日を同じうして説くべきものでなかつた。尤もこの都會のテェブル仲人に對して、田舍にも亦座敷仲人、或は盃仲人といふ者が夙くから有るには有つた。是も實際の橋渡しに任じた者が、家柄その他に比べて少しばかり輕過ぎ(113)る場合に、強ひて頼んで來て式だけに列してもらふ點は似て居たが、岐阜地方などの例では、是が亦義理の親子の縁結びとなつて、その仲人親と新夫婦との關係は、將來に永續すべきものだつたさうである。名士を仲人に頼む都會地の例でも、頼む方には或はさういふ念慮が無かつたとは言へぬが、其企ては必ずしも實現しては居ない。其理由は至つて簡單で、つまりはさういふ重々しい趣旨のあることを、多くの食卓仲人は考へて見ようともせぬのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　仲人制度の發達といふことは、日本の社會組織を詳らかにしようとする者に取つて、まことに大切な觀點であるが、それを説くに先だつて尚少しばかり、地方のちがつた事實を記述して置く必要がある。東北では我々の謂ふ所の仲人に異名が多く、たゞ標準語としてナカウドといふ語を、知つて居るだけの地方も稀では無い。その異名の中でも、サヘノカミなどはまた一つの戯語の類であつて、是は男女の和合を導く神だから、事實最初からの談合に參與して居たのかも知れないが、その他に福島縣の中部などでゴシナンサマ（御指南樣）と謂ひ、青森岩手の二縣等で、シキシャ又はキュウジニンと呼んで居るのは、主として婚禮の席の式作法を指圖するのが任務である。即ち是のみでは縁組が成り立つ筈も無いから、別に其背後に婚姻の成立に奔走努力する者があつたことを推測せしめる。その實際の下ごしらへをしたのは誰であつたらうか。多くの例に就いて調べて見なければならぬが、東北は大體に未婚男女の團體のあまり活躍せぬ地方だから、いよ／＼選擇の範圍が村の外に及ぶとなると、彼等は手を引いて親族故舊、殊に分家とか同族とかの夫婦者が、雙方から出て働いたのでは無いかと思ふ。山形縣の最上郡などでは、仲人の夫婦をヲナカド・メナカドといび、東京とはちがつて男女交互に式場の座席を設ける。この仲人には嫁聟どちらの側に近い人がなるのか知らぬが、一般に農村の婚姻には女の働く場合が多く、それも出來るだけ嫁の親しみのある婦人を見立てゝ、少しでもよそへ出る者の心細さを少なくしたやうに思はれる。

(114)　それから今一つ、まだ世間で思ひちがひをして居ることは、日本の花嫁は親にきめられて、どんな處へでも遣られたといふ言ひ傳へである。いつの時代にもせよ、さういふ事が果して出來たらうか。以前は大家族で從つて主婦の地位が數少なく、一生里住みに終る者も多かつた。思慮ある娘たちは、どうかしてまだ盛りを過ぎぬうちに、確かな家の刀自に迎へられて身を固めたいと願はぬ者はなかつたのである。縁などといふ言葉が早くから用ゐられて、自身から薦めることは出來ぬものとなつて居た結果、父母長上の親切な判斷に任せては居たものゝ、幾つかある求婚を選擇もせず、嫌ひな縁談を避けようともせぬ女は、稀なる例外でしか無かつたのである。親が取極めて行けと言はれるまで、知らずに居たといふやうな深窓の育ちはいくらあらう。大抵は七部集の連句に、

　　　次の小部屋で唾《つ》にむせる聲

とも有るやうに、いつしか聽き知つて成立を念ずる者が多く、又心に染まぬ場合には、前以て之を防ぐ機會もあつたのである。信州の或山村の女性が、日頃栗ばかり食べて居るのを心うく思ひ、どうかして栗を糧にしないやうな家に行きたくて、そつと縁談の來て居る向ふの家の樣子を見に出かけたところが、そこでも屋敷のまはりは皆栗林なので、がつかりして還つて來たといふ話もある。口には出さずとも心の内に、この程度の關心を持たずに行くやうな者は無かつたと思ふ。嫁入を以て始まる婚姻が普通となつて、妻問ひの期間はまことに短く、又幾分淡々しいものになつたのは事實だが、短いだけに一段と樂しく、それを一生の思ひ出として居る女性は多いので、それに入つて行くにはやはりめい／＼の決斷と覺悟とが、何よりも大きな力であつた。たゞさういふことを口にはせず、又はつきりと意識せぬものはあつたかも知れぬ。母や近親の婦人の勸誘が熱心であり、又は女友の意見が懇切であつた場合に、是に動かされて拒めなかつた樣に、考へたり言つたりする者があるかも知れぬが、是がもし屈從であつて自分の眞意ではなかつたら、その結果はどうなるであらうか。假に親里の方はそれでもよいと思つても、少なくとも貰ふ方の家としては、安心して之を將來の主婦に迎へ入れることは出來なかつた筈である。だから農村などの尋常の縁組に於ては、聽き合(115)せ又は内聞きと稱して、嫁の家の血筋家柄評判等を知る以外に、是非とも本人が喜んで來る氣になるやうな?況に、在るかどうかを突き留めさせた。其爲には何段かの女の手を介して、親も知らぬやうな事までも問ひ出さうとし、中には直接に當人の口から、親さへ承知ならば行つてもよいといふ程の心持を確かめて、それから始めて表向きに貰ひ掛けるといふ仕來りの處さへもある。それは近畿地方の古風な村方の事實だが、北は津輕の奧でも昔歌はれた山唄に、次のやうな一章があつたことが、「鄙の一ふし」といふ民謠集に見えて居る。

　　　石川の、橋のたもとに立つめらし

　　　嫁に取るべか、名を名のれ。

　　　おれに問ふより親に問へ

　　　親のゆるした夫ならば

　　　いくしましよてや、　おちやくどの

　このオチャク即ち御客は、仲人のことださうである。山唄は娘たちの最も自由な歌であるが、其中にもなほ時代の制約が窺はれる。即ち知らぬ他郷の代理者によつて求婚せられる場合は、心は欣然として是に傾いて居ても、なほ父母をして最後の確答を與へしめなければならなかつた。といふわけは、身柄の引渡しが家の問題であつて、本人の力の外だつたからである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　我々の縁組の區域が段々と擴大するにつれて、どうしても仲人は男でなくてはならないことは、以前の世の中とても同じであつたらうが、それが數に於て元は少なかつたのみならず、時代により又地方により、その媒妁人の機能も一樣では無かつた。つまり我々の氣付かぬ内容の推移があつたのである。今日の本式仲人、即ち下話から酒入れ結納、(116)嫁送り床盃までを全部引構へて、世話するやうな仲人夫婦といふ者が、さう／＼たやすくはいつの時代にも得られるもので無いとすれば、所謂座敷仲人食卓仲人の背後に、まめな御隱居や親切なをばさんがあり、乃至は專ら臍温めを以て目的とした高砂社などといふものゝ有ると同樣に、昔も何等かの補佐機關の、事實最も多く働くものが、必ず有つたことを推定してよろしい。豐かな大家では番頭や出入りの者、又は日頃恩誼のある子方とか別家の者が、今でも此時とばかり出てあるく樣だが、さうしたお歴々で無くとも必要の度に應じて、雙方身近い者が好い口を探しに出かけ、それが行く先々で交渉を開始して居る。淋しい村の生活では、是も朗かな話頭であり、又愉快な年中行事であつたと思はれるが、此　　状態が果していつ頃から始まつたか、その今一つ以前の樣式は有つたか無かつたか。それを一通りは少なくとも明らかにして置かぬと、折角新たに設けられた今度の結婚相談所の事業にも、又別種の無理不便が伴はぬとは限らぬのである。

　近世の男媒妁人の出現には、單に縁邊を他所に求めるといふ必要以外、なほ一つの沿革又は根柢のあつたことが考へられる。それは男女の結合に、本來深い關係を持つて居た若者組及び娘組の退化、殊に前者に於ける風儀の弛緩、大袈裟な文句を使ふならば婚姻道�ｺの零落であつて、其點が特に倫理學講座の參考になる。近頃の考へ方では、同齡團體の役目は神祭りや共同作業等、結婚問題の外にも數々の大きな目的が有つて、主として後者の必要の爲に存置を認められて居た制度とは、解することを許さぬであらうが、この何れの事務に關しても、?々家族制と對立して一方の權能を制限して居たこと、さういふ中でも男女間の私事は、今なほ肉親の者にとつて力強いタブーであることを考へると、元は簡單なる部落内の縁組でも、この團體無しには圓滑には成立たぬことが、一般に信じられて居たのである。男女各々身の程に適した選擇を誤らず、一旦契りを籠めた以上は一生涯背かぬといふことは、今でも全部の國民に共通した念願であるに拘らず、之を個々の判斷に委ね、我欲の自由にまかせて置くと、失敗する者は多かつたのである。是に對して正しい指導力と標準とを示すものは、土地を同じうして共に育ち、互ひに知り悉して居る青年處女、(117)自身も亦この問題に無限の關心を寄せて居る者の、群の輿論の他には無かつたのである。不幸にして其團體の道義律が、色々事情があつて少しづゝ崩れ始めたのである。明治以後からだといふ老人もあるが、そんな事はあるまい。とにかくに今では若連中はだらしの無いものゝ見本であり、田舍が輕しめられる大きな理由にもなつて居るが、まだ捜して居ると隅々の土地に、固い律儀な昔のまゝの慣行も殘つて居て、それから段々とあらゆる零落の階段が比較し得られる。是を一率に見て笑つてしまふのは、人情に反するばかりか、歴史に忠實なる態度でも無い。

　男女若者組の惡くなつて來た過程は、今でも大よそもう判つて居る。一ばん最初には男女互ひに氣質能力をよく知り合ひ十分なる選擇が出來るやうに、作業以外にも一所に集まる機會を得ようとした。祭や盆踊りは有名なものだが、是は前からあつた慣習が、此方に利用せられて盛んになつたのだから、又別の階段である。普通の村々の長老がどうかと思ひつゝも承認して居るのは、一定の青年行事の日に、全部の娘たちに食物を携へて、若い男の群を慰問させる仕來りで、是などは多分或時代の思ひ付きが先例となつて、爾後制度化したものと思はれる。又東北から北陸へかけての弘い地方では、田植稻刈などの激しい勞働が終つたあと、男ばかりか女たちも、年配で三つ位の組に分れて、他人まじへずの飲食の會を催すことがある。その中の特に娘ばかりの集りへ、若い衆が土産を携へて遊びに來て、遲くまで笑ひ騷ぐといふ土地も少なくない。斯ういふのもやはり最初はたゞ黙認であつたらうが、年を重ねるうちにもう改めることが出來なくなつて居た。それが最近の非常時代に思ひ切つて止めたのも多いらしいから、よくない事だと自分たちもうす／＼感じて居たのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　それよりももつと穩かでなかつたのは、沖で荒仕事をした漁村などに多かつた例で、船が大漁をして入つて來る際に、何か合圖があつて陸上では酒宴の支度をする。さうして其席へは村中の未婚女子ばかりが、一人も殘らず出て給(118)仕をすることになつて居たといふ話がある。拒んで娘を出すまいとした家は、皆の憎しみを受けてひどい目に遭はされたとも傳へられて居る。現在はもうよほど捜さぬとさういふ部落も殘つて居るまいから、話が誇張して語られて居るだらうことは無論である。それでもめつたに取返しの付かぬ樣な過失が無かつたといふが、それは感情の精粗によつて何れとも言へる。そんな亂難な昂奮の中に若い女を入れて、彼等の戀愛觀が濁らずに居らうとは、ちよつと想像の出來ないことであつた。

　若連中の風規の崩れやすかつたのは無理は無い。彼等の頭に立つ若者は、彼自身亦一個の未婚者であつた。結婚をすれば皆若者組を出てしまつたからである。さうして誰よりも早く配偶者を、きめなければならぬ年長者でもあつた。その年嵩の者の一擧一動を注意せられ、之に對する外部の批判は參考に供せられた。彼等の威望が盛んで、之を抑壓する者が少なければ少ないほど、後輩には模倣が多く、單なる御手本といふ以上に、それを自由の限度とも見て居たのである。さうして次の代の若者頭も、必ずこの追隨者の中から出たのだから、一旦惡い風に染まると、中々元へは戻ることが出來ないわけである。群を以て男女が交際したからとて、必ずプロミスキュイティが起るともきまらぬことは判つて居る。たゞ約婚期が幾分か放漫になり、偕老同穴の確信まではまたずして、輕々しく人と契る者が、少しく増加したことだけは爭へまい。

　それにも私などはまだ之に關して、個人の力で何とも制御することの出來なかつた事情があることを認めようとして居るのである。若い男女の全員が公然と相會する折が多くなれば、勢ひ優劣の比較選擇は尖鋭化せざるを得ない。人が賞讃したり心を寄せたりする相手は、自分も好ましく思ふのは當り前で、たま／＼其競望者が甲乙の無い者だつたら、そこには生田川のやうな惱みが、女にも起るのである。素よりさういふ不愉快な衝突を、未然に避ける方法はあつたのだが、彼等にはそれ迄の注意が往々にして缺けて居た。仲間の統一が之に由つて破られることを防がうとすると、結局は雙方に對してやゝ自由に過ぎた行動を、寛容するの他は無かつたのではないかと思ふ。

(119)　しかし是にも一方の娘組の組織が、まだ其指導性を具へて居た間ならば、或は結合の力を以て一方の輕慮に対抗し、女性本來の立場を防衛し得た筈であるが、不幸にして娘圃體の方は、夙くから崩壞の過程を辿つて居た。彼等の中には未婚の年長者が少なく、たま／＼あつたらそれは統率の能力も無いもので、僅かな例外を除けば他は悉く形ばかりの、たゞ集つて夜業をしたり人の噂をしたり、又は年に一度か二度の會食の機關のやうになつて居て、若連中の放悉なる進出に對して、屹然たる態度を示すことも出來ぬやうになつてしまつた。其爲に用心深い家庭では、段々と其仲間から脱退させるやうになつて來たのである。それでも彼等の間にはまだ若干の婚姻常識、時々の輿論ともいふべきものは認められるが、それも至つて消極的な且つ卑屈なもので、自分の知つて居る限りでも、たとへば女の愼み深からぬを非難しても、男子の無節操には寛大であつたり、甚だしきは多くの經驗を持つ男を禮讃して、それに騙され棄てられた女の智惠無しだけを、嘲つたりするやうな氣風さへ出來て居たのである。人が田舍の昔風の婚姻を、たゞ無差別に輕蔑して、絶えて其間に保存せられた大切な傳統を認めようとしないのも、是ではまだ反駁することが出來ない。だから斯ういふのは素質ではなくて、頽廢の結果であるといふことを、明白にして置く必要は大きいのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　私たちが説いて見たいのは、所謂男仲人の普及は、疑ひも無く村外縁組の流行した結果だけれども、その最初の起りだけは別にあつて、それは全く若者組娘組、即ち昔から婚姻制度の支持の爲に、存在を認められて居たかとさへ思はれる二つの團體が、健全な機能を續けられなくなつたからで、言はゞ其弱點を補ふべく、斯んな物々しい慣行が始まつたのだらうといふことである。

　この推測を裏付ける材料は、今でも必ずしも得難くは無い。全國各地方につい近頃まで殘つて居て、之を記憶する人々もまだ多い若者組及び娘組の實例を綜合して見ると、大體に其組織が二通りに區別し得られる。主たる相異點は(120)その統率者の年齡と言つてもよいが、此團體の最も大きな特色たる若者宿の宿頭に、一方では若者中の一人がなるのに、他の一方では其宿の主人、多くは相應な年配の男が監督に當り、之を宿親と謂つて居る。娘宿の方には、娘の宿頭といふ者が、有るか知らぬがまだ私は知らない。普通には宿親夫婦が世話をするが、その世話にも幾つかの段階があつて、單に夜分になると表の間を貸渡し、勝手に騷がせて置くやうな宿も有るのを見ると、是も元は或は自治を認めて居たのかも知れぬ。宿親が責任を負うて監督する場合とても、必ずしも始終出て來て目を光らせて居るわけでは無かつた。常は無口な、又は冗談ばかり言ふ親爺で、教訓じみたことなどは説かぬ者が、ほんの稀々に口を出して始末を付けるので、さういふ必要の起るのは、主としては男女の情事のもつれであつた。喧嘩や仲間割れになりさうな場合は勿論だが、只の仲裁役とちがふのは、もつと事情の切迫せぬ以前に、豫め空氣で感知して防止轉囘の策を講ずることで、それが又深く若い人達の推服する所以であつた。現在の青年團にも見られる傾向だが、出來るだけ斯ういふ宿老には世話を掛けずに、自分等ばかりで問題を處理したいといふ念慮は、昔も強かつたにちがひ無い。それが望めなくて一人の信頼する先輩を煩はすことになるのは、恐らく豫期しなかつた困難の新たに現はれた爲で、乃ちこの宿親中心の慣行の、第二次的な發生であることを意味するかと思ふ。娘を他所へ出し嫁聟を村外から迎へたいといふ家庭の計畫が始まると、村の幼馴染同士の夢は?々破られる。家と同齡階級との意向が衝突すると、それを收拾する能力はもう若い者には無く、こゝにも宿親といふ者の必要が、痛切に體驗せられることになるのであつた。

　仲人といふ名稱が弘く行はれるやうになつてから、其中にも我々の意外に思ふやうな者が、包含せられて居たことを毎度發見する。たとへば越中五箇山の或部落では、仲人は母方の祖父母がするものといひ、又或部落では必ず聟の姉妹の夫にさせるとも謂つて居る。信州更級の山村などでも、仲人は姉聟の役だといひ、その他口仲人だけは他人を頼むが、本仲人には親類の者がなると言つたり、又は聟の烏帽子親と伯父とでアヒニンをするのが普通だといふ土地もある。斯ういふのは何れも二つの輿論が相容れない場合に、斷乎として若者達中の干渉を排除し、身うち門黨ばか(121)りで獨立の利害を衛らうとしたもので、即ち古來の協同制の敗北とも見られるが、是に對してはまた他の一方に、なほ男の側の朋友仲間が活躍して、家の都合を抑制し、主として本人たちの志望を遂げさせようとする運動のまだ相應に烈しい土地もある。さうして彼等の謂ふ所の宿親さんは、大抵の場合にこの方の味方であつた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　六つかしい言葉を使ふなら、是は婚姻を支配する社會の力といふべきもので、今は勿論形を變へて居るが、それでも全然跡を收めては居ない。之を無視してしまへば、やはり成立は望めなかつたのである。但し地方に殘つて居たのは、その最も舊式なるものゝ名殘で、過渡期の注意が十分で無かつた爲に、かなり不愉快なる摩擦を免れなかつたのである。村の青年男女の輿論が一定すると、家では承認しなくとも結合はほゞ安全であつた。私の知つてゐる極端な例では、老いたる家長は頑固で、何と言つても娘をくれることを承知せぬが、それ以上の事は禁止し得ないで、そんな場合には後から／＼と、法律上の私生兒が生れるといふ島地もある。それでは困るので婚姻が村うちである限り、若い衆仲間の年嵩の者が氣をもむが、彼等は辭令に長ぜず、しかも五人三人連れ立つて行く癖がある爲に、談合が大業で破綻を招き易く、ともすれば嫁かつぎとか嫁盗みとか各地でいふやうな、暴擧に出てしまふ虞れがあつたのである。思慮ある宿親の尊重せられるのは此時である。或は前々から斯ういふ必要を見越して、新設した機關では無かつたかとさへ想像せられる。宿親の經驗には家々の内情、親の頑固さなどの一切が、早くからわかつて居る。是は結局成立つまいといふ見究めが付けば、手を出さないのみかさういふ婚約の進行をさへ制止して、出來るだけ圓滿なる配偶の出來上る方へ、奨勵はせぬまでも方針だけは向けさせた。娘の方の宿親とても同じことで、この兩方の親方の話し合ひをする場合は稀でなかつた。兩仲人又は相仲人などと稱して、さして大きくも無い縁組に二組の夫婦が立合ふ地方が多く、又は信州中部などで見るやうに、仲人以外に別にカネ親とかハネ親とかいふ者を頼んで、式場に坐つて(122)もらふ風のあるのも、恐らくは最初一方の希望ばかりが、強く代表せられることを避ける爲に、この宿親同士の話し合つたのが元であらうと思つて居る。仲人がまこと其名の如く中間の人であつたならば、斯んな煩はしい階段を設ける必要は無い筈である。

　ともかくも婚姻が主として部落内に行はれて居た時代には、宿親は最も頼もしい世話役であつた。今日中流の家庭の親たちが聞けば、きつと眉を顰めるにちがひないが、以前の宿仲間の慣習のまだ殘つて居る土地では、若い者は皆外へ出て寢る故に、親たちには一向樣子が知れない。子女の身が固まらずに年頃の過ぎて行くのを憂慮して、しば／＼朋輩に向つてうちの子供は、もう約束した者が有るか／＼と、尋ねたものださうである。是は餘りなる自由のやうだが、實際村の風儀が少しでも惡くなれば、斯ういふことを聞いても何にもならぬのだから、つまりは一夫一婦の誓約のまちがひなく守られることを信じた人たちだけが、それを聽いて安堵しようとして居たのである。其信用が少しばかり薄らぐと、次には男女の宿親の顔を見るたびに、何分よろしくと言はねばならぬやうな時代が來たことかと思ふ。事件としてはもつれた方のが大きいけれども、實際はこの人たちの手で、何の事もなく取纏めてしまつた多數のものゝ中に、國家を今日に至らしめた大きな原動力は培はれて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　この宿親の隱れた親切に對しては、生みの親も悦んだが、それよりももつと感謝する者があつた。乳親・名付親・烏帽子親・筆親から、末は職親・寄親・草鞋親の類に至るまで、大よそ我邦で親と呼ぶものゝ全體を見渡しても、何れも年齡の差が生みの親子と同じ程で、この關係は一方が年を取つて物淋しくなつた頃に、又は死の床に訪ひ寄つて慰めいたはつてくれるやうな時まで、持續することを期して居るのであつた。聟が舅親に愛せられ、又は養子相續の歡迎せられた風習とも一貫した、興味深い日本の社會の一特色であつて、この繋がりを鞏固ならしめる爲に、義理と(123)いふやうな唐土には無い言葉まで出來て居る。さういふ末永い心の樂しみを目當てにして、何等報いを求めない縁談の成立に力を盡すことは、外國人などには珍しがられる美しい情誼と言つてよい。たゞ世が改まり社會が新たになると、斯んな結構なものにも少しづゝの濁りが出來るのを免れない。たとへば政治の爲とか事業の便宜とかに、之を利用しようと思へばごく容易に出來る。土地で有力者と言はれる者の有力な原因を探つて見ると、此頃は又變つたであらうが、元は嫁聟の世話をよくしたからと、いふやうな例も決して稀でなく、それが又當然のやうに、多くの人からは見られて居たのである。

　東京からさして遠くない地方にも、特にさういふ話の多かつた處がある。この邊では既に同齡團の力が弱く、もう積極的には何も出來ぬやうになつて居て、しかも昔風な自由を追求する者が折々はあつた。親の承認せぬ婚約を結ぶ者をドラヲブツと謂ひ、其ドラブチが愈々せつぱつまつて、どうかして下さいと驅け込んで來ると、どうかしてくれる人が村々には居た。最初には勿論涙が出るほど叱り付ける。其次には出來たものなら致し方が無い。其代りに一生涯、互ひに見棄てるやうなことは有るまいなと念を押す。有りますと答へる者は先づ無いから、そんなら暫らくのうち爰に居れと言つて置いて、承知をせぬ方の親元へ話し込むのである。相手の立腹の程度に應じて、色々の交渉のし方があつたものらしい。或はあたら若い者が、もしも無分別なことをしたらどうすると言へば、大抵は女親の眼の色が動搖する。或はもう子とも思ひませぬといふ樣な氣強いことを言ふ親には、然らばわしが貰はうとか、棄てたと思つておれに預けろとか、何とか筋の通つたことを言つて納得させてしまふのである。遠くへ飛んで行くやうな若い者ならば頼みには來ない。多數は五年三年とどこかに小さくなつて居て、やがて戻つて來て元の土地の住民になるのである。斯ういふ經歴の者が親分に對して、一生頭の擧がらう筈は無い。誰に選拳をしてくれと運動などに行かずとも、今度は親分は誰を推して居るかと、向ふから探りに來る位のものである。家と若い者との婚姻計畫が、かなり喰ひちがつて居た時代は永かつた。さうで無くとも一方の家で強く望む縁談で、相手の方には氣が進まぬといふやうな例が、(124)近世になつてから急に増加して來た。自信ある多くの仲人には、わざとさういふ險難の途を選んで、成功の名譽を博せんとする傾が、ドラブチ以外の場合にもなほ著しかつた。是が以前の素朴にして自然に逆らはなかつた宿親と比べて、一つの進化であることは爭へないが、其代りに又「仲人口」といふやうな忌はしい諺を普及させ、商賣にしても引合ふやうな、恥かしい世相を導き來たつたのである。改革の志ある人々は、思ひを此點に致さねばならぬ。最初から弊害として世に現はれる慣習などは、いつの世の中にも一つも無いのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　人が所謂顔役仲人を、便利な缺くべからざるものとした理由は今一つある。土地の青年處女の群では、以前は戀愛を萌芽のうちから感じ知り、善惡さま／”＼の批評を以つて之を制限し、又いよ／＼似合はしいときまれば合同して承認し又支持した。たとへ進んで家々の決定を動かし、もしくは宿親の腰を押さぬまでも、その隱約の輿論は結局永遠の縁を繋ぐ力となるべきを信じて居た。ところが寢耳に水の娘を村の外へ遣る話、嫁聟が他所から來る話が、後には例外とも言へぬほど、數多く實現したのである。娘を一人取られたといふ類の抗議は成立たぬ世になつても、豫想が覆へつた者の不滿だけは鬱勃たらざるを得ない。少なくとも之を平和にするだけの努力は必要であつた。膽力機略のほゞ具はつた仲人でないと、この波瀾を乘切ることが六つかしかつたのである。さういふ中でも最も苦しむのは入聟であつた。私の在所などでは三年間、伊勢講の酒宴の爲に秋刀魚の骨を?り、又は筍の皮をむくのが養子聟の役だなどと言つて居た。東國の田舍では改めて若者入の酒を買ひ、十五六歳の新入りと共に、末座に坐るべきものとなつて居た。女には是ほど強い示威運動は無かつたが、それでも路に立つて花嫁の顔や衣裳を、聽えるやうな聲で品評し、村によつては戸障子を開け放して、庭先から嫁を見せ、又は舌で嘗めて障子紙に穴をあけた數が、多いほどめでたいのだと、痩せ我慢をいふ處もある。何れも我村の限りある主婦の地位が、又一つ横取りせられたといふ心わるさが、(125)幽かながらも一致して現はれたもので、だから子供までがこの大勢に順應して、村はづれの路上に火を焚き、或はませ棒を横たへて、菓子をくれぬと通さぬなどといふ惡戯をしたのである。

　しかも動機は必ずしもこの集合的嫉妬だけでは無かつた。我々が注意するのは九州方面の田舍などに、つい近頃まで行はれて居た嫁入唄の風習で、是は花嫁の女友が十數人も、歌をうたつて護衛して行く式で、もとは惜んで容易に渡さぬといふ意味であつたらしく、荷持の人足なども同じやうに、今でも迎への人數の近よるのを見ると昂奮する。是は全國にまだ痕跡を留めてゐる嫁隱し、又は嫁まぎらかしの風習に於て、同じ年頃の數人の女が同じやうな出立ちで列座するのと似た趣意で、どうせ娶つてしまはれるにしても、さう／＼容易には娶れまいぞといふ、最後の腹いせのやうなものであつたかと思ふ。村に一人の他村の娘が入ることは、若者仲間にとつては何の侵害でも無い筈だが、それでも婚姻組織の統制が、攪き亂されたといふ點に不安があつたのであらう。さういふ場合にも一ばんよぐ暴れるのは彼等であつた。泥打ち石打ち壁敲き地藏運び等の露骨なものから轉じて、「つん出し」樽入れ・笊轉がし等の名を以て、黙つて器物を持込んで、豐富なる飲食の供給を強ひる例も多く、今は其中には一枝の花を添へたり、へぼ歌を詠み添へたりして祝意を表するまでの風流さへ加はつて居る。野蠻だなんどと有識者は非難したが、斯うなつて來た事情を知らぬのは眞の有識者では無いのである。底に感覺の特殊なものが潜む限り、抑へれば又次の形でそれが發露するし、なだめる途を備へなければ、迷惑は却つて大きかつたかも知れぬ。仲人の發明したかと思ふ賢い放散策は、渡りを付けると稱して始めから物を贈り、又は頭立つ者を抱き込むことで、手輕な一つの案は接待係又は相伴役に、若者仲間の若干を頼むことだつたが、彼等は盛んに飲み又歌つて、座が亂れてしまふと御客との見境ひが付かぬこともあつた。婚禮の酒宴の段々と大きくなつた原因はこゝにも在る。前には式の席に連なる者は、指を折ればすぐ算へられた。新たに親類盃を汲みかはすべき人の範圍は、動かすべからざる限度があつた。次の日は女客といつて近隣の主婦、又次の日は俎板洗ひなどと謂ひ手傳ひの人を饗したが、其人數は大家でも知れたものであつた。それが段々に(126)擴張して、彼を喚ぶなら是もと、しまひには村中の行事の如くなり、財力の疲弊を懼れて再び極端な略式を採用する者をさへ生じたのは、實は此樣な行掛りからであつた。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　婚姻の成立には本來三つの要件があつたと思ふ。學者の中には内外の二つといふ人があるやうだが、少なくとも日本の歴史では、この三つは明らかに分たれ得る。其一つは當の二人の意氣投合にあることは勿論で、如何なる方式であれ又時期であれ、是を通つて行かなければ名ばかりの夫婦であるに過ぎぬ。次には婚姻があれば姻族の關係、即ち二代三代の間は少なくとも親類同等、今では殆と親族を凌駕するやうな關係が結ばれる。是も細かく分けると夫婦の盃の外に、嫁聟と相手の舅親との親子盃、次には兄弟近親との盃、更にその雙方の親類同士の、是から附合はなければならぬ間柄の盃があつた。是だけを盃事と謂ひ、以前は是非とも一つの甕の酒、一つの鉢の食物を共食しなければならなかつた。正式に其手續を履んで行くには時間もかゝるので、追々とその機會を併合し、殊に最近はをかしいほど其式を短縮したが、もとは全部を終るには小一年はかゝつたのである。

　次に第三の要件は社會の承認、今日の言葉でいふと披露であつて、是も絶對に缺くべからざるものではあつたが、何分相手が多い爲に其手續は簡便で、それは全く盃事の外であつた。最初は村内の縁組が主であつた故に、永い準備期間に人がもう熟知し、自然に故障の無いことが確かめられたからであらう。今でも嫁入と初聟入の日に、向ふの親が附いて近隣を廻り、表の間で挨拶をするのが固い方で、大抵は既に路傍で品評せられ、又は縁側の外から穴のあくほど見られて居るから、どこの人だといふ者などは無く、又異存のある者も出て來ぬのである。しかも是くらゐ手輕に濟んでも、手續きはやはり手續きであつて、是を通つて來なければ、住民とは考へられず、又言葉を掛けることも出來なかつた。村外からの縁組が普通になつた後は、行列といふものが多分式の中心になつたのであらう。即ち嫁が(127)家に入るには閾またぎの式がやかましかつた樣に、部落に入るにはこの晴がましい見物の眼と口とが關門で、一生に一度の紅白粉や晴衣裳も、寧ろその爲の用意であつたかとさへ想像せられる。

　この想像の丸つきり空でないことは、行列の順序構成に土地毎に定めがあり、殊に嫁子呼びといふ高い聲の宣言が、全國到る處にまだ行はれて居るのを見てもわかる。其實例は別に數多く集めて置いたが、奧羽の田舍では樽こ背負ひといふ少年が、行列の先頭をきつてヨメヨメ｜※［ヱの小字］と喚つて行くに對して、筑前大島などの嫁道中には、若者達が晝でも組の提燈を點し、締太鼓を打鳴らして、ヤア／＼嫁ヂャ／＼と呼びつゝ附いて行くといふ。自動車時代にはもう止めたかも知れぬが、少なくとも人力車に嫁を乘せて行つた頃までは、佐賀でも名古屋の附近でも又他の土地でも、車夫にこの嫁ゴゾウ、又は嫁サン／＼を連呼せしめたので、たしかに一奇觀ではあるが由來する所は遠かつた。親が承知をせず又は承知の出來ない事情があつて、知らぬ間に娘を盗まれてしまふ風は、坂崎出羽守よりももつと古くからのことかと思はれるが、五十年ほど前まではまだぽつ／＼とあつた。斯んな消え殘りの前代の蠻風にも、なほ律儀千萬なる同じ宣言があつて、或は一旦取戻されぬやうな場所に匿して置いてから、加勢の一人が立戻つて來て、こちらの娘御は誰それが擔いで行きましたと報告したり、又は自信のある連中ならば、連れて出がけにも取つたとか盗んだとか、揚言して行く者があつたさうである。大阪の附近でボウタと謂つて居たのも是で、ボウタは「奪うた」であつたかと思はれる。即ち第二の要件は省略してしまふやうな場合にも、なほこの最小限度の公表方式が、婚姻成立の爲に必要であつたことを語るものである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　西洋の社會では、二人で田舍の小さな教會に行つて、牧師に頼んで結婚して來たといふ話が小説などにあるが、日本では登録の制度がすでに備はり、戸主と保證人の印さへあればよいことになつて居ても、なほ出來るだけ多くの人(128)の前に、堂々と披露をしなければ氣が濟まぬやうに感ずる人ばかり多いのは、つまりはかの「嫁ぢや／＼」の傳統である。その花嫁子もこの日は大層な化粧をするので、ふだんの顔は覺えにくゝ、しかも確に見えもせぬ遠方の食卓で、御馳走になつてさつさと還り、あすの日途中で逢つても失禮してしまふやうな現在の　　　状態で、それで披露が出來たと思ふのも因習である。折角威望の高い座敷仲人を御頼み申し、他から一指もさゝれぬやうな用意は整つて居ても、いつの世にも之を援用する折は無く、やがてはこの仲人との親子仲は少しづゝ淡くなつて、たゞの知合ひの中に埋没してしまふのである。古い仕來りを守るといふことは奧ゆかしいが、少しはどうした事情で其樣な事が始まつたかを考へて置かぬと、未には骨拔きにも虚禮にもなる處れがある。但しそれを論ずることはもう民俗學の圏外だから差控へて置く方がよいと思ふ。

　我々で無ければ説けないことは、現代の婚禮は集合式とも名づくべきもので、是には色々の分子が便宜の爲に、繋ぎ付けられて居ることゝ、それも新世代に入つてからの思ひ付きではなく、早くからさういふ傾向のあつたのが、たゞ一段と烈しくなつたといふことゝである。人が相會して酒食を共にするといふのは、昔は相應に重々しい事であつた。同じ飲食物が御互ひの體内に入ることによつて、眼に見えぬ連鎖が出來ると、曾ては信じられて居たからである。敵といひ他人といふものが此世にある限り、この共通は制限するのが本當で、だから一般の社會に對する手續きは、所謂盃事の外に在つたわけである。假の親子や宿兄弟、又は同行とか村身内とかいふ類の、親類に準ずべきものが多くなつた上に、更に樂しみを只の里人にも分ちたい念が起つて、婚禮の祝宴などは馬鹿に賑かなものになつたが、それでもまだ日をちがへ別の席を設ける位の差別がもとはあつた。現在は忙しいからか、それがもう全く出來なくなつて居るのである。

　次に當事者の若い男女が、かための酒を飲む日は元はずつと早かつた。是を嫁入の式の最初に行ふものゝ他に、床盃などと稱して別室で之を汲み、もしくは高盛りとか鼻突き飯とか謂つて、二人だけに別途の食物を供するなども其(129)名殘かと思はれる。もつと珍しがられる例は、今でも嫁入の晩に聟が絶對に座敷へ出ず、ふだんの着物を着て臺所で酒の燗をしたり、又は馬鹿々々しいから何處かへ遊びに行つてしまふといふ土地もある。是などは嫁入がたゞ入家式、即ち聟の父母の子になり、主婦候補者になる日であつたことを推測せしめるもので、その親子盃が出來るといふのも、既に妹背の盃は交して居るからである。それをいつ取替したかは時代によつて作法が區々だつたらしく、今日その痕跡の存するものだけでも、或は朝聟入と謂つて嫁入の日の午前に、嫁の家に行くものもあれば、結納聟と稱して結納を持つて行く日に、仲人と同行して盃事をして來るのもある。結納は都市では婚約の成立の式のやうにも見られて居るが、それも一つの併合であつて、もとはそれより大分前に酒入れといふ式が別にあつて其際に確定し、結納は寧ろ引移りの日取り其他の打合せをする日であつた。だから又この日とは別に、酒入れ以後の或日を卜して、聟が單獨に訪問する場合も福島縣などにはあつたのである。見合ひといふ式なども今日は字義通りに、芝居とか公園とかでたゞ姿を見るだけと解せられて居るが、そんな必要が以前は無かつたことは、度々言つて置いた通りである。ちがつた村との縁組でも、大抵は話が纏まつて後に、娘の家に行つてその見合ひをするのだから、結果に於ては多くは初聟入であつた。男の心が之によつて定まると、其場に扇子其他の持物を殘してしるしとする。即座に盃をした例はまだ知らぬが、きまると直ぐに縁女の方から、三組の小盃を贈るならはしは奈良縣にもあつた。ミアヒは即ちメアハセられる日では無かつたかと、私などは想像して居る。とにかくに元は別の日にあつた夫婦盃を、嫁入の日に合併することは改革であつた。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　それよりも顯著な昔風とのちがひは、聟と嫁の父母兄弟との大切な盃事が、近年は極度に省略せられたことで、是は男子の協力の必要であつた時代には、嫁と聟の親との親子盃よりも何倍か重々しいものでなくてはならぬのに、近(130)年は普通三日目の里開きの日、聟が同行して見參の禮を執るやうになつて居る。それを待ち兼ねて婚禮の次の日に、嫁の父母がこちらから見に往つたり、もつと思ひ切つたのは嫁の行列に附いて、親までが一緒に行くものさへある。即ちもうお辭儀は濟んでしまつて居て、聟の初入りが一向に印象の無いものになつて居るのである。

　前にはさうで無かつたことは、なんぼでも證據を擧げられる。最も數多いのは右に謂ふ朝聟入で、一日にすますのは何かに便利ではあるが、其代りせはしないことは非常なものである。聟は舅と盃をしには行くけれども、もうその時にも夫婦の盃はすんで居る場合が元は多かつた。ちやうど嫁入の日の午前だから、迎へに來たものと思はれさうだが、それと是とは目的が全く別だといふことを示す爲か、少々奇拔なる風習が又一つ出來て居る。廣島縣の奧では「聟の牛戻り」、山陰松江のあたりで「聟の尻遁げ」、その他食ひにげとか食ひ立ちとか、似寄つた名を以て全國に分布して居るものがそれで、來たときはさも鹿爪らしく扇子などを持つて禮をして置きながら、中途で一人だけ斷りも無く還つてしまふのである。さうすることがどうして其意味になるのか、まだ明らかには説明し得られないが、或はごく古い頃にこの機會を以て、自分は此家の愛娘の思はれ人であることを、正式に告白した名殘では無いかと思ふ。是も丸きり當てずつぽうでないのは、島原半島などでは聟入の酒宴の終りに近く、聟は聟伏せといふ同行者と共に、そつと席を立つて外に出で、間も無く表戸口から改めて入つて來て、嫁の兩親に挨拶をする。それを俗に「膝立て直し」と謂つて居る。膝なほしといふ言葉は全國に知られて居るが、妙にその意味が土地によつてちがひ、甲では嫁の最初の里歸りをいふのに、乙では聟が舅の家へ禮に行くことが膝直しだと思つて居る。雙方同時に行ふことになつたから混同も無理はないが、聟には用向きが本來は二つあつて、それを一囘の訪問で果さうとするには、斯うして切りを付けて膝を直さなければならなかつたので、嫁の里歸りとは關係が無いものと思ふ。その用向きといふのは、一つには自分が前々からのけさう人だといふことを告げ、二つには其約束の娘を連れて行くことを許してくれと乞ふので、二つ全く別々の話であつたことは、中古の文學に現はれた婚姻の手續を見れば、誰にでもよく呑込めるであらう。とこ(131)ろが片方の嫁貰ひの方は、既に立派な仲人の交渉に任せてしまつた。それで中途に尻遁げをして引揚げて行くことになつたものではあるまいか。といふ風な推測をして居るのだが、果して正しいかどうかは、今の樣子なら遠からず決定し得る時が來るにちがひない。

　娘が家々にとつて大切な生産勞力であつた時代を考へると、嫁に遣るといふことは貰ひ受けるといふことよりも、一段と重要な事件だつたに相違ない。聟が可愛くてし方が無かつたといふ話も殘つては居るが、それよりも餘りへまな受け返事ばかりする爲に、娘を取戻されたといふ昔話の方が多い。能の狂言の何々聟や、花祭の翁の語りを見てもわかる如く、聟入ほど晴がましく又花やかな思ひ出は無かつたのである。それを延期して里開きの序を以て擧行したのも變遷だが、今日は更に御嫁入の祝宴の中にもみ込んでしまつて、それが有つたのかどうかも意識のうちに殘らぬやうになつて居る。大きな原因は嫁の支度ばかり大袈裟になつた爲、且つは經濟の組織が改まり、家を祝宴場にする設備が無くなり、雇人も出入の者も不足勝ちで、料理屋へ持出す他に策が無くなつたからである。さういふ事を二度三度も繰返すのが、費えであることはわかつて居る。斯うして一囘に纏めてするのもよい思案だとは思ふ。たゞ其爲に縁の薄い當世人ばかりが出しやばつて、大事な親類は隅の方に小さくなつて居り、何だか對社會の披露萬能の式のやうに變つてしまつたのが不本意である。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　私は日本の婚姻式典の、現在既に大いに變つて來たのを見、又是からも更に變らずに居らぬことを察しで、國民の一人として幾つかの希望又は注文を抱いて居る。たとへば仲介役は是非とも當人たちの親友にさせたいこと、親族の誼みが一囘の婚姻毎に、ぐら／＼と變化することを防ぎたいこと、公衆の承認と支持とは、もつと堅實な且つ廣汎な範圍に頼むことにし、御馳走を食べて直に忘れてしまふやうな酒食の宴を能めたいこと、その他色々の願ひを持つて(132)居る。勿論それは民俗學の結論では無いのだが、この學問に頼まなければ今までの事實が知れず、又事實と經驗に依らなければ、この提案の果して實現可能なるか、又當を得て居るかどうかを決することが出來ない。自分たちだけで或事實を知つて居たところで、他の多くの識者が之を無視すれば、やはり今までの如く西洋の眞似でもするの他は無い。それぢや困るから大いに民俗學の興隆に期待して居るのである。今から四五年前、我々は婚姻習俗語彙といふ本を編輯して、この文に説いたやうな多くの事實を、排列記述して置いた。それを援用することが出來るとよほど便利だつたのだが、幸か不幸か其本はもう賣切れてしまつて、古本屋にもあまり見當らない。そのうちにもう一度増補訂正して出したいと思つて居る。先づそれまでは此文中の事實を、大まかに信用していたゞくより他は無い。

　

(133)　　　　　婚禮の起原

　

　　　　　　　　　　一

　

　慣習には二つの種類、從つて二つの觀察のし方のあることが心づかれる。その一つは趣旨の當事者にはほゞわかつて居るもの、是も外から來た者には珍しいので注意せられ、後に説明を聽いて意味を知り、其知識を遠くかけ離れた土地の、やゝ理解しにくい事實の參考として役立たしむべく、段々に重ね貯へられる。土俗學もしくは民族學とも譯されたエスノグラフィーの學問が、今までは主として之を管轄して居た。次の一種は奇習珍俗とも呼ばれ、どうして斯ういふことをしなければならぬのか、關係の人たちにもよくは説明することが出來ず、從つて何かの機會があればぢきに罷めてしまはうとする古くからの仕來りであつて、分量に於ては無論前のものよりずつと少ないが、奇とか珍とかいふのは要するに立場の問題で、何も知らない異國人の眼から見れば、すべてが其中へ入れられるかも知らず、一方又少しばかり氣を付けて見れば、無類といふ程に數の少ないものでも無い。もと／＼慣習である以上はそれは當りまへのことであり、たゞちよつとは何人にも説明の付かぬ點だけが、他の一種の方とは異なるのである。人間のすることに、最初から無意味無目的のものが有らう筈は無い。わからぬといふことは即ち知識の埋もれて居ることであり、同時にまた學問の樂しみといふことにも歸着する。我々は斯ういふ事實を殘留と名づけ、又は無意識傳承とも呼ぶことにして居るが、其名が正しいか否かはさう簡單にはきめられない。とにかくに是を考へて見ることは民俗學、(134)外國でフオクロアとも謂つて居る學問より外に、現在はまだ其係りが無いのである。非常に思ひ遣りの深い人たちならば、よその民族のフオクロアにも入つて行くことが出來、又さうして貫はぬと困る世の中でもあるが、我々は自國同胞の問題を、荷にあまる程もかついで居る上に、心がこゝに在る故に、始終は内わの慣習に注意が向きやすい。さうしていつの間にか、今まで不可解として居た目の前の現象に、少しづゝ學問の光線がさして來るので、それを萬人の普通の知識として置く必要が、今日特に必要なのは婚姻の問題である。どうして誤りの無い判斷をしようかを、自ら覺らなければならぬ人たちが、差迫つて是ほど澤山に、待ち構へて居る場合といふものはさう他には無い。急いでこの人たちの常識は豐富にしなければならない。それが婚禮の慣習の考察を、最初に試みようとする私の動機である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　昨年私が序文を書いて、世の中へ送つた「女の本」といふ本の中に、新たに嫁入をした人の筆に成つた、「嫁に行くまで」といふ一文がある。自分の事ばかりを書いてない所に大きな價値があるが、その偶然の一節に青森縣の東部、五戸といふ町の嫁入の日、花嫁が到着して座敷に通り、舅姑や身うちの人々と盃事をして居る際に、聟どの一人だけは何の役も無く、たゞ臺所に居て酒のかんなどの手傳をして居るといふことが書いてある。大きな都會に住む者には、是は笑ひたくなるくらゐ奇妙なことであり、町はもちろん農村にも、今はそんなことをせぬ者が多く、五戸でも多分變な話だと思ひ、得意になつて世間に知らせようとせぬのだらうが、實は日本には是は相應に例の多いことであつた。私たちの驚くのは、この慣習の是ほどにも、他の色々の考へ方と調和しなくなるまで、消えもせずに殘つて居た底力である。東北はまださういふ中でも、土着開發が中世に始まり、其後の中央交通が十分でなかつた爲に、何かこの類の特殊な作法が、隣の民族からでも傳はつて居る如くにも推量せられ、村には殊にさういふ風が、弘く分布して居ても不思議は無いと、思つて居る人が有ることゝ思ふが、私たちの言つて見たいのは、是は決してそんな一地方的な慣(135)習、いはゆるところの風では無く、何か斯うあるべき一般の理由が有つたのである。しかも段々と見て行くうちには、すべての古い習はしがさうであるやうに、斯くあつて然るべき本來の事情がわかり、笑つて聽くたちの話でないことが考へられるのである。

　東北六縣の中には、今まで注意したけれども、存外まだ五戸と同じ例は多く集まつて來ない。是は恐らくあの地方の良い暮しをした家々の間に、是では笑はれようと心づいた者があつて、却つて改良が他よりも早く、行はれた結果なのであらう。つまりは慣習の力といふものが、爰では幾分か弱かつたのかと思はれる。是は社會層とも名づくべきものゝ構造と關係した問題だが、新たな來住者の地位がいくら保護せられて居ようとも、其感化は全面に及ぶほどに、大きなもので無かつたらうから古い形はまだ何處かに保存せられて居る筈で、それがたゞ土地を代表する方式として、外部には公示せられなかつただけかと思ふ。民間傳承の調査と觀測が、特に東北に於ては積極的に、又親切でなければならぬ理由は爰にもある。たつた一つの飛び離れた例でも、うくわつに看過すことの出來ぬのも其爲である。

　

　　　　　　　　　　三

　

　しかも全體に我々の資料蒐集はまだ進んで居ない。幸ひにしてその少しの實例が、弘く國の隅々にも及んで居るので、調査を促進する意味に於で、今は特に問題の所在を、多くの同志者に明示して置く必要を感ずるのだが、是とても利害關心を抱くべき人が少ないならば、斯くまで細密に説き立てることは許されなかつたらう。

　順序として先づ關東地方から始める。茨城縣北部某村の例は、前年我々の仲間の同時調査によつて始めて明らかになり、その結果は一部すでに公表せられて居る。此地方のいはゆる祝言は、聟方嫁方の二手に分たれ、無論一般の通念に從つて、貰ふ方の式に重きを置いて居る。この聟方祝言を、土地では引合せ又はお引合ひと呼んで居り、嫁と貰ひ方近親との盃を主とし、それが終つてから祝宴にうつる。聟の當人は引合せには列座するが、その後すぐに勝手元(136)に退いて雜用を手傳つて居る。乃ち酒の燗などが此日の役であつた。彼の爲の祝言でないといふ趣旨は徹底して居ると思ふが、それでもしまひには一旦座敷に顔を出して、禮だけは述べることになつて居るといふ。注意すべきことには、此土地でも嫁の高盛りと稱して、米の飯を椀に高く盛り上げて新婦に食べさせる式があるが、それはたゞ女仲人が世話をして、一箸だけ嫁に食べさせるのみで、其あとはどう始末をするものか、まだ報告せられては居ない。他の地方の慣習によると、この高盛飯は新夫婦兩人に對して、たゞ一膳だけ据ゑるのが特色で、それを衆人の見て居る前で、共同にたべるのが當日の話題であり、中には姑女が飯櫃を座敷へ持出して、手づから盛り上げねはならぬとして居る土地さへある。つまりは夫婦盃と全く同じ趣旨で、飲食の一單位を分け合ふことによつて、目に見えぬ二人の鏈鎖を作るのであつた。斯ういふ事までして置きながら、なほ祝宴の中心から外に、聟は置かるべきものとして居るのだから、たゞの省略では無かつたのである。

　第二にもう一つ、是は前のものより十數里の南、千葉縣の原野地帶、上總と下總との境に接した山武郡境村の例がある。是は其土地で生れた秋葉隆教授が、母御から聽き取つて公表せられて居るから確かである。嫁入の祝言のことを、此村では受取渡しの盃と謂ひ、花聟ばかりで無く、折角來て居るのに花嫁も是に列席しない。つまりは雙方の近親の者が、互ひに近づきになる禮式と認められて居たのである。ところが此場合にもなほ高盛飯の慣習だけはあつて、嫁には別室に於てこの膳をすゑ、それを又ちよつと借用して行つて、臺所に一人はにかんで居る聟殿にも、其一部を食べさせる。それをかさ分け飯と謂つて居たさうである。カサは小さな食器、たとへば椀のふたなどの名であつて、何れの土地でも高盛りは斯うして食ふのである。本來は男女の初夜の契りに伴なふ式であつたものが、何故に親類盃の祝宴に混じて居るのか。土地では却つてそれを説明することも出來まい。私などの想像では、是は印象の深い且つ模倣しやすい作法であつた爲に、後世多分は祝宴のはでになつた時代に、是だけ引離して江戸などから採用したものかと思ふ。

　

(137)　　　　　　　　　　四

　

　伊豆の島々の風俗は、若干の見聞録が世に傳はつて居るが、是は旅客の手に成つた故に不精確を免れず、又其後にどし／＼と變化したらしいので、十分な證據とはしにくいが、少なくとも古い痕跡だけは見られる。たとへば大島などは元は久しい間、妻になつた女が嫁入をしないのが常であつたが、近年はこゝでも婚姻が嫁入によつて開始する場合が多くなつて居る。明治三十九年の調査といふものが、人類學雜誌二四六に出て居るが、是に依ると此島の嫁入はやはり變つて居る。其夕方、嫁は不斷着の中の新しいものと着替へて、近親や世話人に連れられてあるいて來る。さうして雙方の關係者が多く集まつて、互ひに祝賀の辭令を取交し、又僅かの酒を酌むらしいのだが、其間は嫁は始終土間の片陰にしよんぼりと立つて居る。さうして送つて來た人々の歸り去るを待つて、始めて聟の親たち兄弟に引合はされる。聟もこの時は友人の家へ遊びに出かけて、席上には居らぬのを例とした。つまりはこの入家式が、當の男女の關係を決定するものでは無く、一言でいふならば嫁がたゞ夫の家の家族となる手續きで、しかも二三日の中には親夫婦が、隱居屋に移るのがきまりであつたといふから、同時に又主婦の地位を承繼する儀式でもあつたのである。小さな島の内の婚姻では、是が初對面などといふことはある筈も無く、寧ろ早くから二人は約束して居て、親たちの退隱の準備がとゝのふまで、外で待つて居たらうといふことは想像せられ、それも親々には決して秘密でなく、故障の無いといふこともすでに確かめられて、仲人世話人などといふ者の非常に樂な世界であつたことがわかるのである。現在は又四十年も經つて居るから、此風習も改まつて居るにちがひないが、ともかくも島は隱居の可なり盛んな處で、それをすまいとすれば男女は久しい間、宿泊所を家より外に設けなければならなかつた、嫁入は即ちオカタナリ、主婦の地位に就くことであつたことだけは、何かの形を以て國地とはやゝ異なるものを、保存して居ることゝ思ふ。

　以前はこの約婚の期間が、可なり思ひ出の深いものだつたやうに言はれて居る。七島の他の小島にはまだ傳はつて(138)も居るだらうと思ふが、未來の主婦ときまつた女は引越しては來ないが、他の色々の方法で、親子の親しみを加へようと努めて居た。近藤富藏は六十年以上の間、八丈島に活きて居た流人であるが、此人の書き殘した八丈實記卷十八には、この入家式は同棲數年の後に行はれるものであるから、その席上には新郎は列席しないとある。もとは必ず他行して、聟は其場に居ないのが古來の風俗であつた。今は知る者無しと或老人の話したのが、すでに百年近くも前のことであつた。寢宿の生活といふものが非常によく發達して居たのである。後には幕府時代の風俗警察が、弊害多しとして之を取締り、幾分か若い者が我家にはやく入りたがり、親の隱居を急がせる結果になつたらしいのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　嫁が不斷着のまゝで嫁入して來るといふことも、ちよつと我々には考へにくい話だが、同じ風習は遠く離れた對馬の海岸にも、又は瀬戸内海の一二の島でも見られた。そんなら良い衣装は全く不用かといふと、嫁の必ず盛装すべき日が、又別に有つたのである。伊豆の島々ではそれは夫の親々の葬送の日であつた。或は是が主婦の就任式の意味かとも見られる。何れの土地へ行つて見ても、葬と祭とは昔から晴の日で、是に携はる者は皆晴着を着た。さうして嫁入だけは嫁の爲に、必ずしも晴の日でなかつた時代又は土地が、昔は有つたらしいのである。

　話は少し枝路になるが、嫁の荷物といふことは大切な問題なのに、今でも其持込みと嫁入そのものとを、別々にして居る地方は少なしとせぬ。無論段々に早く送つてしまはうとする傾向は強くなつたが、それでもまだ日をちがへ、或はわざ／＼路をかへて、嫁の荷を運ばうとする者が�ｺ島縣等にはある。近畿周邊でも伊賀の一部、それに接續した奈良縣の東隅などには、一年以上も過ぎてから送り屆けるのを上品とし、同じ時に荷を運んで來る嫁入を、つり掛け嫁と謂つて賤しむ風がある。滋賀縣の湖北部などにも、嫁は落付いてからもなほ久しく、衣類を里方に置いて取りに行くのが普通で、先代の主婦が隱居し又は死去して、土藏の鍵を渡されるまでは、我が持物は親里に托し、やたらに(139)家の納戸や箪笥類に、手を掛けないのが作法となつて居る。つまりは一家に二人の主婦が併立し得ないといふことが常識となり、大きな家では其引繼ぎが重大な問題で、母は自分の若い頃の體驗から、頑としてその權能を守り通し、それが折々は寡婦になつて後まで續いたのである。嫁と姑とは同居しない國でも、又は同居しなかつた時代でも、さう／＼姑と嫁との互ひの同情が、豐富であつたらうとは言へまい。しかしわざ／＼この二者をかち合せて、餘分の複雜を種蒔くやうにしたのは、何としても幸福なる變革とは言はれぬが、それもどうやら武家といふ階級の、特殊の要求が元であつたやうに考へられる。此原由はまだ確かにはわからぬが、第一には私の謂ふ遠方婚姻、次には娘たちの生家に於ける重要さの減退、家の收入の單一から來る生計上の必要、儒教倫理のやゝ身勝手なる解釋、更に又青年男女の訓練が、次第に成年式前だけでは不十分になつて來たことゝか、家屋といふものゝ獲得が容易で無くなつたこととか、其他まだ幾つかのものが綜合して、ちつとでも早く娘を聟の家へ渡してしまはうとする念慮が強くなり、終には嫁入を以て婚姻の開始、もしくは戀愛の發芽期と見て少しも差支の無いやうな、一種特別の世相を作り出したものゝやうである。借家が得やすくなると都會では別居がはやり、家が燒かれてしまふと又窮屈を忍んで一家にかたまり、僅かな收入が見つかると親のいふことを聽かずに、自由に選擇してしまふ者が多いことなどを考へると、ともかくも以前の同居主義が、さう自然のもので無かつたことだけはわかる。單に是からはどうなるかの豫言に止まらず、どうして行くのが最も安全であり、又逞ましい次の代を育てるに適するであらうかを、合せて攷究して見ることが今は最も大切な時である。知らずに勝手なことを言つて居られる時では無いのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　さりながら斯ういふ講釋は、もつと色々なことがわかつた後でないと、耳を傾ける者の少ないのは確かである。それでなほ各地の實際に當つて見なければならぬのだが、伊豆の島々でも御藏島とか利島《としま》とかは、近世の推移がまだ私(140)たちに知られて居ない。伊豆半島の方でもやゝ古風な土地に、似よつた縁組方式が殘つて居ると有益なのだが、是は正直なところ現在調べが屆かぬといふだけで、絶無と言ひ切るにはまだ早いのである。伊豆と相對する一方の岬の端では、志州の或村に一つの例が、婚姻寶典といふ書の中に採録せられて居る。多分は風俗畫報の中から轉載したもので、この雜誌は旅人の誇張した見聞談が多いから心もとないが、とにかくに聟が婚禮の晩に家をあけて、式には列しないといふ報告なのである。伊勢では度會郡の外洋に面した區域、それに續いた熊野の四郡などはどうあるか。ここは此間題の爲に、かゝつて調査してもよい地方で、もしもそこから若干の類例が得られたならば、始めてこの志摩南端の資料が、貴重な信頼すべきものになるのである。

　この證據の累積といふことには、自分たちは相應に重きを置いて居る。たつた一つでは聽きそこなひかも知れず、もつと惡ければ虚言かも知れない。ところが是から擧げようとする二つの場合は、互ひに交渉は無くて大體に一致し、地域もほゞ一方面に纏まつて居る。その一つは北陸一帶、能登の半島から加賀越前にかけたもので是が四つ、もう一つは九州の南部、殊に鹿兒島縣に集まつて居る。其以外にも土佐の沖之島のやうに、まだ飛び離れた土地に分布したものが、次々現はれて來ることも私はもう期待して居るのだが、さういふ中でも土地の　　　状態や、距離や交通の關係等によつて、あの邊ならばと思ふ區域が、今までの資料からでも、大よそは類推し得られるのである。

　しかしさういふ方法や心づかひまでを説いて居ると、事實の興味が淡くなるから、是からは專ら記録の紹介に力を入れることにしよう。聟不在の實例の知られて居るものは、北陸方面では、能登の鳳至郡黒島村が一方の端である。こゝでは縁組は村民どうし、殊に嫁入は他村に行くことを好まない。この日の儀式は親子の間、即ち新夫の父母と嫁との盃を主とし、夫婦盃の方は行ふものもあり、又行はぬものもあると郡誌にはあるが、聟たる者は多く他に隱れて、家に在らざるを例とすともあるから、其盃はしないのが普通だつたので、恐らくは臺所に居て酒のかんなどをさせられるのがてれくさくて、何處かへ行つてしまふのであらう。但し養子聟の場合のみは、嫁は隙手元で立ち働き、宴酣(141)はなる頃に正装して座敷に入り、聟に挨拶するといふから、居てもやつぱり盃はしなかつたのである。同じ郡誌には又鵜川といふ村でも、嫁入祝宴の日、舅姑と新婦とは盃を交換するも、夫婦間の式三獻をする者殆と無しとあり、半島の皆月浦などでも、新夫婦の間には盃ごとは無く、姑と嫁との間にのみ、親子の盃をするだけだとある。姑とあるのは聟の二親を含むのかと思ふが、とにかくに嫁入を婚禮の中心として居りながら、こゝでも此日を以て夫婦の固めをする日とは見て居ないのは、今日の常識からは解しにくいことである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　こゝから十里餘りしか隔てない加賀の能美郡にも、よく似た風習があることは雜誌「民俗學」二ノ八に出て居る。何れの村でとは明示してないが、恐らく相應に例は多いかと思はれ、書いてあることが十分に寫實である。曰く嫁取の當日、聟には何の役も無く、一切の宴席には顔を出さず、從つて衣裳も改めない。納戸の隅や背戸口、又は臺所の人込の中に入つて、酒の世話などを手傳つて居る。其翌日も披露の宴があり、それがすんで第三日目の夜にならなければ、花嫁と顔を合すことも無く、又客人の席へも出ることが出來ない。まだ顔も知らぬ嫁などの場合には、到着と同時にすき見でもしたい氣がするが、それをすれば忽ち非難せられたとある。村内縁組の日頃知り合つた仲ならばともかく、綿帽子をかぶせて遠くから呼んだ花嫁御を、斯くまで隔離するのは惨忍に近い。それだから又初夜は惠比須樣にさし上げるといふやうな、正體も無い俗説が行はれたので、そんな戯れごとが笑ひ興ぜられるのも、もとは案外この奇拔な制約が、弘く認められて居た結果とも見られる。

　少なくとも隣の福井縣の海岸部までは、斯ういふ慣行が續いて居たことは證據がある。郷土研究といふ雜誌七ノ四に、越前丹生郡の城崎村の一部には、結婚式の日、新郎を外出せしめる仕來りがある。或年開かれた區長會議に、是は改めてはどうかと議長が提案したが、誰一人可否を論ずる者が無いので、其まゝ散會となつたと報ぜられる。私の(142)想像では、それを是非とも維持したいといふのでは無く、妙な習はしだとは思ひつゝも、理由も必要も無しに古來の習はしを、排除する氣にはなれなかつたので、つまりはもう由來が不明になつて居るのである。

　以前嫁入が夫婦生活の開始で無く、當の男女の婚姻は既に結ばれて居て、今さら盃をする必要の無かつた時代には、この珍しい除外は當然のことであつたらうが、それが近年仲人によつて遠い處から、まだ見ぬ花嫁を連れて來るやうになれば、何はさしおいても先づ當人たちの引合せをといふべき場合であるが、久しい昔からこの一つの方式に馴らされ、且つこの變化が徐々として入つて來た爲に、深くも考へて見ずに、まだ元のまゝを踏襲して居るのである。北陸とはちやうど裏表、端から端ともいふべき四國九州の邊土に、同じ慣行のまだ殘つて居たといふことは、それの決して新しい好みや流行で無かつたことを我々に示すのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　土佐沖之島の實例は、曾て我々の仲間の者が調べて來て居るが、それと大樣同一の記事が、昭和四年八月の大阪朝日にも載つて居り、この中には格別の誇張は無い。島は此國の西の海上、伊豫との境界爭ひの曾てあつた處だが、孤島である爲に他にも幾つかの古風が保存せられて居た。花嫁輿入れの晩は、聟を始め一切の若い男たちは外出し、其不在の間に雙方の親たちだけで式をすませる。宴果て嫁の附添人たちが引取つてしまつてから、花聟は他の男たちと共に家に還つて來る。是は嫁取の晩でも、仕事は休まないといふ精勵ぶりを表したものと、説明せられて居るさうだが、一面には當人たちの間には擧式以前の戀愛がある故に、もう祝言の必要も無く、單に親たちの間で取遣りの固めをすれば足るといふ意味であると、新聞の記事には附記して居る。

　櫻田勝�ｺ君が聽いて來た話では、此島などの嫁迎へは伊豆の島々とはちがつて、若い夫婦の分家又は部屋給與を意味し、親たちが直ちに隱居をすることにはならないといふ。さうすると單に息子の一生の伴侶が、決定したといふ承(143)認の式に過ぎぬのだが、それでもなほ此盃事には、新郎の列座を必要としなかつたのは、事實彼はもう新郎ではないから、即ち誰でも知つて居る夫婦だつたから、今さら兩人に盃をさせるには及ばぬものと、見て居たのにちがひないのである。しかも其相手を愈々家の者とし、本家分家の一體の生活を始めようとするには、やはり改まつた一つの儀禮が無くてはすまなかつた。さうして時々は男女すでに契りを結んでも、周圍が必ずしも之を支持しない場合も有り得たのである。さういふ不安定な?態を、もとは必ずしも強く氣にかけないやうな時代又は氣風が、田舍には有つたらしい形跡がある。それが少なくとも女性の側にとつて、よつぽど損なことだと心づく者、もしくは之によつて前途を誤つた先例が多くなつて、次第に豫め故障の無いことを確めようとする傾きに、なつて來たことは自然の結果であつて、私たちは是を配偶自由の制限とまでは考へて居ない。情の尤も切なる相愛者ならば、忍耐して時の經過を待つて居りさへすれば、いつかは所謂晴れて女夫と呼ばるゝ日が來るのである。たゞさういふ篤實なる戀を守る者が世と共に少なく、人が一般に移り氣になつたことが、この大きな制度の變化した原因でもあれば、又その結果でもあつたことが認められるだけである。

　たとへば前に擧げた東海の島々などでも、最初は婚姻が全く相續と關係が無く、親の一方が居なくなつて、新たな主人主婦の入用になつて來る時まで、のんきに婚姻の生活を營んで待つて居たものが、後には成るたけ早めに父母の合意を、確保する手續きを履んで置きたくなり、もしくは幾分か急いで彼等を隱居させるやうな、嫁入が考へられるやうになつて來たらしいのは、結局は婚舍即ち寢宿の問題、どこに若夫婦を宿泊させるのがよいかといふことが、段々と解決しにくゝなつた爲かと思ふ。最初は當然に女の生れた家が、初期の婚舍を供與したものゝ如く、自分なども推測して居たのであるが、是は事によると一部の望ましい婚姻だけに限られたことで、さうは出來ない者も他には多かつたやうに此頃は考へ始めて居る。なぜかといふと、是はもう一方の女の親たちの、明示又は暗黙の許諾を意味するからである。八丈島などでは行政が干渉したといふが、他にも長門の見島とか壹岐の島とかのやうに、生家とは全(144)然離れた若夫婦の寢宿といふものが、用意せられた島々は多かつたのである。さういふ寢宿は勿論狹くるしく、又甚だしく亂雜なものであつた。夜しか來て寢ぬやうな屋外の勞働に就く者、又は良い暮しといふものをまだ知らぬ男女でなければ、到底そんな處では辛抱は出來ない。その上に追々と子供も生れる。早く家に入りたいといふ念慮が、先づ彼等の間に強くなつて來たのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　但し私たちの新たに考へて見たいと思ふ點は、右に言ふやうな婚姻は既に取結ばれて、たゞ夫の家に迎へ取られる式だけが、今までおくれて居たといふやうな場合で無く、新たに知らぬ家から、全く初對面の嫁御をつれて來る場合にも、なほこの樣に花聟を粗末にするのは何故かといふことである。小さな問題のやうだが説明が出來なければ、やはり一つの發掘すべき知識であつた。或は是を以て因習だ、一種の惰性に過ぎぬと言つてしまふ人もあらうが、假にさうだとしても迷惑をして居る者が現に有るのに、不平も反抗も無しについ近頃まで、是が續いて行はれて居たといふことは、大きな力だと言はなければならぬ。慣習の確とした理由あるものは、さう容易な事では改められぬといふ、是が又一つの我々の經驗だとすると、よいにつけ惡いにつけ、もう少し御互ひは是に注意を拂はなければならぬわけである。

　九州南部の實例はこの一文が世に出たら、多分また幾つでも集まつて來るであらう。といふのは是が今でもまだ普通のことで、さして珍しい話として傳へられて居ないからである。自分が今知つて居るのは三箇處しかないが、それがちやうど好いぐあひに三方に分れて居る。その一つは薩摩の西の海上に列なる甑島列島の、それも北端の里村といふ士族部落で、爰は比較的よく開けた、中央文化と交渉の多い處なのに、やはり嫁入の晩は聟が居なくなる。その他の中下甑の村々なども、多分此通りであらうことが想像せられる。次にはこゝからずつと離れた大隅半島の東海岸、(145)内之浦一帶殊に岸良村などは古風が殘り、今でも三々九度の盃は無いと、高橋文太郎氏の見聞録には報じて居る。最近ごく新しい處だけが、この盃の式をするやうだが、もとは一般に之を行はなかつた。聟は嫁迎への夜は何處へか姿を隱し、祝宴が終り客が散じてから、やつと我家に歸つて來るといふのだから、夫婦盃をすることは出來ぬのである。

　それから今一箇處は霧島山彙の北側面、宮崎縣の西端｜眞幸《まさき》郷の例であつて、是は亡友楢木範行の遺著、「馬關田《まんがた》の傳承」といふ本にやゝ詳しく見えて居る。爰も武家農家の入交つて住む大村であるが、聟は嫁入の晩に隣家などに行つて遊んで居て不在、嫁だけが祝儀の席に列するといふことが、ほゞ一般の慣例であるやうに記述せられて居る。私が此書によつて始めて氣づいたことは、この奇妙なしきたりは實は一方の半分だけでなくて、別に之と相對する聟入の式に於ても、やはり聟だけが列席して嫁の父母、兄弟近親と盃を取かはし、嫁が全然その祝宴には顔を出さぬといふので、是も氣を付けて行くと、まだ全國に類例が多かつた。つまり現今は非常な略式になつて居るけれども、本來はこの聟入と嫁入との二つの式から、我々の婚禮は成立つて居たのだといふことが、はつきりと判つて來るのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　或は今一歩を進めて、二つの相對立する儀式のうち、かつては聟入の方が嫁入よりも、遙かに重要であつた社會があつたといふことも言へるかと思ふ。是はもとより母系相續制の名殘などといふ證據にはなるまいと思ふが、少なくとも一方は今まで居た一員を無くなすのであるから、現に目の前に當人が來て居る貰ひ方の場合よりも、一段と精神上の保障が必要な筈であり、且つ又親子のよしみを續けたい願ひがありとすれば、力を失ふ側に於て特に痛切でなければならぬ。ところが實際は誰でも知つて居るやうに、時代の進みと共に聟入の禮は益々輕く見られ、略式は次第に廢止の方に近づいて、今では嫁入が即ち婚姻の開始と、解するらしき人ばかり多くなつて居るのである。よほど大き(146)な理由が無くては、かゝる變遷は起らなかつたのであらうが、その理由とはそも何であらうか、それが明瞭に答へ得られるのを以て、私たちは文化史學の進歩の、一つの目標としてよいかとまで思つて居る。

　そんなことを言ひながら、自分もまだよく判つて居ないのだから滑稽なやうなものだが、それでも見當だけは付けて居る。又始終注意して新しい方面からの資料を集めくらぺ、そゝつかしい斷定に陷るまいとして居る。たとへば沖繩では婚禮の晩、聟は大抵辻の遊廓に入り込んで、醉つて泊つてしまふのが近世の風だつた。それを女の嫉妬をたしなめる最初の教訓などと、馬鹿々々しい説明をした者もあつたが、言ふ當人もそんなことは信じて居ない。第一に辻といふ色町の設けられた以前は、何として居たかも考へることが出來ない。是には先づ九州南部との間に在る、いはゆる道の島々の慣行を調べて見なければならぬが、やはり一方と同じ趣旨、即ち親子盃が主であつたから、當日は聟を閑却して勝手なことをさせて居たものと、一應は見て置くことも出來る。しかもまだ北端青森縣の三戸郡などの場合と、一つに括つてしまへない特殊性も有るのである。沖繩縣の島々では、この嫁引移りの祝宴をニービチと謂つて居る。根引であらうといふことになつて居るが、或はNM子音の轉換で妻引《めびき》だつたかも知れない。よそとちがつて居るのは禮式には酒を用ゐず、水盛りと稱して水ばかりを汲みかはす習ひであつて、しかも新夫婦も亦この盃をして居たのである。二つの異なつた點は、此盃をすませてから、花嫁は直ちに生家へ歸つてしまつて、翌々日の晩に改めて來るのを本式としたことが一つ、今一つは式の晩に、聟の友人たちが好意づくに、色々の惡戯をして嫁聟をいぢめることで、是は内地にも無い例ではないが、沖繩のは特別に甚だしかつたらしい。さういふ中でも珍しいと思ふのは、聟を引張つて邸内の不潔な處ばかり連れあるくといふ風が、上流の婚儀にも必ずあつたと、人類學雜誌二二二號の中に報告せられ、八重山の主島でも嫁が入つて來る時刻に、聟をわざ／＼此島の最もきたない場所、即ち豚小屋兼便所の中に入らせるといふ作法があつた。是などはたゞの嫁惜みの式ではなく、起原は或は呪法だつたかも知れぬが、とにかくさういふ苦しみを少しでも輕める爲に、妓樓や別莊に出て飲みあかすといふやうな惡癖が始まつたとも見られ(147)る。乃ち必ずしも是を聟の列席せぬ他の地方の慣習と、一つのものとも斷定はしにくいのである。

　或は二つの隱れたる理由が結合して、あんな面白くもない習慣を作つたのかも知れない。さうして二つの中では式を親子の契りの爲のものとし、夫婦の縁を結ぶには、別に昔からの條件が具はるもの、といふ考へ方が先に立つて居たのかもしれない。中以下の家庭ではネビキの翌日に、男は遊里へ女は芝居へ、別々に行く風があつたといふ話もある。ともかくも是を彼等の爲の大事な日と、見ようとしなかつた心持は現はれて居るのである。聟入の儀式が嫁迎へに先だつて行はれて居たことは、沖繩でも普通であつて、其日は嫁の二親との水盛りの外に、更にこの家の火の神と祖靈とを拜するのが定めとなつて居たが、其場合には新婦となるべき者も、式に列したかどうか。それが一つの觀點であるが、まだ私にはそれを確かめて見る機會が無い。現在わかつて居る一つの例は、宮古八重山の中間の多良間といふ島で、聟入は祝言の日の朝の滿潮時に行ふが、其式には花嫁の列しないのが本式だといふことである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　聟入はかつて私も詳しく述べたやうに、今日多數の例では嫁入より後、普通は三日目の嫁の里歸りの日に、それと合併して行ふまで退化して、もう其以前に嫁のおもな身内は皆顔を合せ盃をまじへ、この日始めて近付きになるのは、遠い一家とか近所の人たちとか、第二段の關係の者ばかりなので重要で無くなり、どんな處へ貰はれて行つたのやら、知らずにしまふやうな人が、その中には幾らでも出來て來たが、家と家との對立が儼然として居た時代には、聟入は素より求むる側の方式であつた故に、特に大切なる交際の開始と認められて居たのである。さうして今でもまだ之を省略することの出來ない感覺をもつ者が、田舍の隅々には莫大に殘つて居る。斯ういふ土地ではたとへ同じ日の、僅かな時間の差でも嫁入に先だつて、是非とも聟入をすませてからでないと嫁は送り出さない。其爲に時々は聟自身で迎へに來たかの如き、形になつて居る例も無しとせぬが、大體に舅姑への禮儀と、嫁迎へとははつきりと區別し、又(148)その區切りを付ける爲に、聟の尻遁げといふ類の、珍しい風習さへ生れて居る。つまりは嫁の父母と、永く親子の縁を繋ぎたいのが聟入の唯一の趣旨で、嫁を我家へ迎へ取るのは、又一つの新たなる相談だといふことを、徹底的に明らかにしようとしたのである。從つて此日此席に於て嫁となるべき女性のどうして居るかといふことは、聟の場合より以上に、周圍からの注意の的となつて居たのである。自分の推測では、現在はもう紛亂してわかりにくゝ、又手狹な家では隱れても居れまいが、嫁が聟入式の親子盃に、列座しないことは常識であつて、從つて又取立てゝ報告もしないものが多いかと思ふ。しかも現在明らかに知られて居るものだけでも、前に掲げた多良間島のムクイリ、又は霧島山麓の聟入以外に、例は相應に全國に分布して居る。周防大島などでは、この際には嫁は臺所で働いて居るとある。聟すら酒の燗を手傳ふやうな場合である。殊に娘では遁げても居られぬのである。鳥取縣の米子地方でも、聟は嫁入の前日に來るのが通例だが、この席上へは嫁は顔を出さぬといふことが、三十何年前の新聞には見えて居る。東北地方でも陸中花卷邊の聟入は同日の夕方だが、こゝでも親たちとの盃の時には、嫁は其席へは出て來ない。關東地方では群馬縣の北甘樂郡史に、聟入の時刻には嫁はよその家に行つて居り、後から入つて來るといふのは挨拶だけはさせたのかも知れない。養子娘の場合だと信州の松本附近にも、娘を聟入の時刻他家へ遣つて置いて、後刻に家に入らしめる例はあるが、是は寧ろ嫁入に準じようとしたのかとも思ふ。上州の方のは今夜嫁ぐといふ者でも、やはり此時には隱れさせるのである。甲州上九一色などの聟入は、嫁迎へをかねて同行してかへるのだが、それでもなほ嫁の兩親との盃の式には、當の本人は席上に顔を見せない。よく／＼新夫婦の爲の式ではないといふことを、宣明する必要を認めて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　斯ういふ問題はさうたび／＼は取上げられないから、私は少しくだ／＼しく知る限りの資料を竝べて見た。同じ例(146)の追々加はるべきは豫想し得られるが、それはたゞ注意して居るに止め、たま／＼反對の事實の確認せられたときのみ、取上げて考へて見ることにしてよからうと思ふ。神前結婚などといふ新案が行はれるまで、女夫の盃は婚舍に於て、即ち是から共に暮すべき場所、今ならば聟の家に於て擧げるのが當然である。從つて聟入はやがて出て行くべき嫁の父母の家なる故に、そこで二人の結びの式が無いのは、怪しむに及ばぬことなのであるが、以前はさうでない場合が多く、久しく女房が親の里に留まつて働き、子供の二三人も生れて後、やつと夫の家へ引移つて、主婦の地位に就くことがあつたので、この盃がもうとうに濟んで居ることが　　屡々だつたのである。嫁入を以て開始する近代の結婚はさうは行かない。それでことさらに聟入には女夫盃は無いといふことを高く唱へたのみならず、わざ／＼其時刻、娘を外へ出し又はふだんの着物で勝手元に働かせると言つたりしたので、つまりは制度の變化に對する、意識した慣習の改訂があつたのである。

　一方聟方に於ても是に對して、必要なる儀式の追加をしなければならなかつた。始めて祝言の席で我妻の顔を見知るといふやうなことは、なんぼ新式でもさう眞似る者は無く、もとは少なくとも話の進行する中途に、二人を引合せる方法は備はつて居たので、今日我々の見合ひと謂つて居るものも、本來はその定情の日であつたらしく、ミアヒ即ちメアヒで無いかとさへ、私たちは想像して居る。そつとよそながら樣子を見せるだけは見合ひのうちで無く、話が爰まで來ておぢやんになることは、雙方の極力避ける所であり、又よく／＼の理由があるものゝやうに外からも推測する。それを一種の口頭試問の如く解するやうになつたのは、所謂文化人の文字への拘泥であつた。斯ういふ言葉の民間に行はれて居る區域はさう弘くない。さうして實質に於ては契約の確立した際に、結納聟などの名を以て、兩者の親昵を許す例が今も若干はあり、其日は又必ず盃の出る日でもあつたから、婚姻は實はもうこゝで成立して居たのである。破談はこゝまで來るともう殆と不可能になつて來るのだが、なほ用心深く餘地を有して置かうとする人たちが、よつてたかつて是を一種の段階の如くにしてしまひ、愈々輿入れの日を急ぐやうにしたのである。

(150)　嫁入當日の女夫盃といふものは、小笠原流の本などには麗々しく書き立てゝあるが、是はたゞさういふ階級が夙くから、少しは有つたといふだけと私などは解して居る。今とても斯ういふ法則の適用せられる婚禮は數へるほどしか無く、是を是非とも其日の日程に組込まうとするものでも、よく見ると其取扱ひやうは甚だしく區々である。嫁迎への家には小座といふ一室があり、又は屏風を圍つて臨時にそれをしつらへる。そこへ縁女を通して先づ夫婦の盃を、させるものが最も多かつたかも知れない。近頃我々の知つて居るのは雙方近親の見て居る前で、最初に結びの盃をすませ、それから堺目も無しに親類盃に移つて行くのだが、是は明らかに二種の祝儀の併合であり、又簡略化であつた。酒が此日の最大のアトラクシオンである故に、どうしても後の酒宴の方に重きを置かれる。是では本意ないと思つた爲か、早めに二人を退座させて、別に床盃などといふものを取かはさしめる例もあり、それと本盃と二度といふやうな、をかしな慣習も行はれて居るのである。なんぼ昔からの仕來りなどと謂つても、以前この樣なことの必要であつた場合は、考へることが出來ぬのである。

　近世の婚禮が法外な消費事業となり、勢ひ是をたゞ一つの機會に集中しようとしたことが、多くの省略や便宜主義を、考案せしめたことは事實である。人の一生のたつた一つと言つてよい思ひ出を、出來るだけ花やかなものにしようとした動機には同情し得られるが、實はこの變化のあまりに急劇だつた爲に、我々はまだ各地各家庭の新しい方式なるものが、是ほどにもまち／＼になつて居ることに氣づかず、ましてさうなつて來た事情をかへり見ることも出來ないだけは損失である。婚禮の晩に聟が勝手元でまご／＼して居るなどは、やゝ稀なる圖だけに人が注意するが、是などは寧ろこの慣習の、どうして存するかを考へさせやすい點に於て價値がある。短い言葉で結論をいふと、婚禮と今いふものは主婦の入家式、もしくは主婦試補の就任式であつて、目的は主として彼と四周の者との、一族一家となる點に在つた。當の本人兩者の結合は、もつと以前から始まつて居て、それをたゞ新たに承認するの必要が生じただけなのである。聟が自分の家に於て、この日何の役も無いのは當り前だつたのに、是を珍しがつたり注意したり、又(151)は怪しんだりする者が、却つて後々出て來たのである。斯ういふ事實のまだ殘つて居る土地は、或は配偶選定の自由が多く、又は妻の里方の愛護の殊に篤かつた地方とは言ふことが出來るだらうが、是を非常に古くからの、慣習を保存して居るものとまでは見られまい。何となれば以前は家が互ひに近く又親しくて、特に改まつての聟入嫁入、又は身内の盃などを取かはす必要は無かつたからである。婚禮は要するに遠く離れた家々の縁組によつて發達した。もとはたゞ相許した二人の間に、一つの飲み物一つの食べ物を、分けてたべるといふ、自然の情愛から起つたのであつたと思ふ。

　

(152)　　　　　聟入考

　

　　　　　　　　　　一

　

　過去三十年ばかりの間、自分は全然門外漢の立場から、日本の史學の成長を觀察して居た。さうして喜び或は憂ひて居たのである。自分の見た所では、史學は此國に於ては尤も重要視せられた學科の一つであり、從つて多數の秀才は爭うて斯道に入つて來たけれども、是くらゐ又統一が無く、各人思ひ／＼の研究を續けて居た學問も珍しいかと思ふ。其一つの大いなる原因は、編年史が外形に於て順序だち、如何にも整うたる一つの組織の如くに、假に人をして安心せしめたことでは無からうか。或は又日本といふ一つの國土が、最もよく纏まつた一個の共同生活體であるが故に、其境域内の歴史知識ならば、如何に切れ／”＼の發見でも、自然に結合して一つの學問を成し得るかの如く、誤解した者が多かつた爲では無からうか。或は又歴史讀本の完成を以て直ちに學問の統一と速斷するやうな氣風があつたからでは無かつたらうか。

　兎に角に例を自然科學の或部門に取つて見れば、忽ちにしてさういふ安心の、實は由無きものであつたことを覺ることが出來る。天文學に於ては星のすべて、植物學に於ては有りと有る微細の苔菌の、隅々にまで研究の眼が行渡り、しかも之を一貫する諸法則を見出し得なければ、一つの學問として形を具へたとは言はれぬのであるが、果して多くの史學者は、この共同の大作業に向つていそしみつゝあるかどうか。少なくとも現代の史學界は、今以て自由な題目(153)の選り食ひである。此樣に由緒あり古色ある學問であるに拘らず、棄てゝ何人も管理せざる空地が、廣漠として現に草蕪に委ねられて居るのである。今もし史學が歴史科の試驗の如く、課題を以て彼等に答案を求めたならばどうであらうか。又病人が醫者の門を叩き、道を失ふ者が方角を交番に問ふが如き態度を以て、彼等の教授を乞ふ者があつたらどうであらうか。自分等所謂普通人は、新たなる生活の進路に行惱んで、歴史に聽くより他は無い色々の疑問を有つて居る。世の史學者の想像する以上に、多大の希望をこの學問の成長に繋けて居る。故に又失望する所も多いわけである。

　歴史と史學との差別は、世間でも今は追々に解つて來た。僅かに傳はつた文書記録を整理保存する以外、一言で言ふならば無智を智にする手段が、かの濟々たる新進の史學者に期待せられて居るのである。殊に現代の如き世情の變り目に際しては、彼等の問題選擇はこの輿望に省みて、必ずしも自由自在であることを許されぬのでは無いかと思ふ。勿論それは昔風の博覽多識、所謂百科辭典家を禮讃する意味では無いが、少なくともこの學問に對する時代の要求に、緩急大小のあることだけは認めなければならぬ。職人でいふならば時々は御誂へ品を、製作するだけの用意は無ければならぬ。尤も所謂記事本末體の歴史は、明治時代に入つてから段々に心懸けられた。例へば田制篇租税史貨幣史大日本農史の類、水産鹽業の末々に至るまで、各行政廳に於て編輯せられ、一時風を爲すともいふべき光景であつたが、只此等の書物の共通の弱點は、本當の本末體で無いといふことであつた。殊に現代の解説に必要な、又我々の知りたがつて居る中世の五六百年を、溝でも跨ぐ樣にぴよいと飛び越えて居ることであつた。農史でいふならば御歴代の詔勅から令の文、格符宣の各箇條がいとも綿密に引用してあるかと思ふと、突如として降つて江戸時代に於てはと來るのである。斯んな事をすれば、今日なら第一に讀者が承知しない。從うて最早其形式はだめになつたが、さればとて別の説明方法が採用せられたわけでも無い、依然として問題は各自の拾ひ取り、もつと平たく言へば、答の方が先に出來て居る部分のみが、問題として公表せられて居るのである。假に世の中の人が今少しく不從順で、無邪氣に自分(154)の疑惑を持つて聽きに來たとしたら、果してそれは我店では賣らぬと言つて、隣の空き地を指すことを得るかどうか。しかも世の中は現に多くを知りたがつて居る。是くらゐの事は、もう夙くに歴史家に分つて居るのだらうとさへ信じて居る。自分の試みに提出したいと思ふ結婚制度の變遷と、其變遷を導いた原因なども、確かに亦さういふ問題の一つなのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　此問題に關しては、現在自分たちは法制と社會生活の實際とが打合はずして、曾ては見られなかつた内縁の妻、多くの戸籍上の私生兒等を以て、國が處理に惱まされて居る事實を知る。遺族扶助料は誰が取るか、死亡救助金は何人が貰ひ受け、遺産はどう歸屬するのが本主の意思に合ふかを考へて、出來る限り法理の推論を現實の必要と折合はしめんとする傾向が、年と共に加はつて來たことを知つて居る。事實は法制の力でも之を否認するわけには行かぬが、何故に斯る事實があるかには、いつ迄も疑惑がある。結局この内縁だの私生だのを始末する爲には、豫め先づ何が斯ういふものを作つたかを解説しなければならぬ。この問題は明白に歴史の問題である。誰か一人の史學の學徒によつて、答へられなければならぬ問題である。それを尚當分は答へずに置くかどうか。

　自分は今日の史學の先生の中に、國史といふものは優れたる人格の自ら意識して爲し遂げたる主要事績だけを、跡付けて居ればそれでよいと、言つた人のあることを知つて居る。さう考へて居られゝぱ樂でよからうが、然らばこの微々たる無名氏の、無意識に變化させた家族組織の根軸、婚姻といふ事實の昔今の差異は國史の外かどうか。如何なる學問が其研究を怠つて居たことを責められてよいのか。是が社會からの率直なる詰問である。殊に我々が當面して居る問題の、果して所謂「主要なる事績」で無いか否かは誰がきめるのか。少なくとも之を今日のやうな自由奔放なる問題選擇者に、決定させるわけには行かぬであらう。必ずや別に何を「主要」とすべきかの獨立した尺度が無くて(155)はならぬと思ふ。例へば日本人の生活を、今日の如き大いなる變化に導いた原因などは、常識から考へて隨分主要と言つてよいのだが、この御互ひの體質と氣風の上に、恐らく大きな影響を與へたらうと思ふ衣食の變化、麻から木綿モスリン人造絹への流行移動、飯の炊き方や温かい食物の嗜好、膾を棄てゝ刺身に向つた經過などは、優れたる人格の意識した行動で無いから、國史で無いと言つてしまへば格別、若しさう言はなかつたら、知つて居りたくても實は研究の仕樣が無かつたのである。精神生活の方面にも是と同樣に、舊來の方法のみを踏襲して居ては、どうしても説明することが出來ず、自然に避けて後に來る者に、押付けなければならぬ問題が多い。それでは到底現代の期待に副ふことが出來ぬといふことは、實際は誰でも下に感ぜずには居られないのであるが、人々の自尊心が幾分か進歩の足取を鈍らせて居たやうである。

　しかし兎に角に史料採集の範圍の擴張は、著しい近代の傾向であつた。今までは録して後世に傳へんと欲した者の言を、祖述し敷衍するのが是れ歴史であつたのを、我々は取捨し選擇し、或は未だ必ずしも語られざる事實を見付け出さうとするに至つた。江戸後期の隨筆家たち、中に就いても喜多村信節などは、可なり思ひ切つた新材料に手を擴げて、所謂偶然記録の中から意外な題目を見付け出す此頃の學風、例へば「傾城禁短氣に現れたる京都町人の倫理觀に就いて」といふ類の流行の先驅を爲して居るのである。同じく文書を唯一の資料とするといふ中にも、是は殆と革命とも名づくべき大飛躍であつた。即ち史學は舊來の拘束の下に於ては、完全に其本務を盡し得ないことを、徐々ながらも認めようとして居るので、斯うなれば勿論方法論の當然の改定が企てられざるを得ず、同時に所謂補助諸學科の參加に對して、一層謙抑の態度を持すべきことも、亦已むを得ざる必要となつて來るのである。尤も言語文藝の方面に於ては、史學は昔からやゝ過當の程度にまで、其「文字の力」を承認して居た。遣蹟遺物の學問に對しても同樣で、少なくとも上古の藐矣たる時代に就いては、其自由なる斷定に推讓することを意としなかつた結果、現在各郡の地方史の如きは、概ね古墳發掘者の手に由つて、其突端の一角を占領せられて居る姿である。自分はかの有史以前以後の(156)差別なるものが、果して能く國土の全面、國民の全般に亙つて、一筋の繩を張り得るか否かを疑ふ者である。百千の文籍が貴人偉人の起居を注する時代に入つても、多數百姓の生活は現に書契以前であり、しかも兩者の運勢は相交錯し、社會は混然として融合して居たのであつた。「考古學」の古風な譯字に囚はれざる限り、此方面の援助を仰ぐことが、前に必要ならば後にも亦更に適切でなければならぬと考へるのだが、それを今深く論じようとは欲しない。兎に角に文書が從來の史學を統御した所以は、それが或史實を表示する唯一つの手段と認められたからで、もし是と同等以上の精確さを以て、過去の事實を明らめる道があると決すれば、勿論之を無視すべきで無いといふことが、先づ此部分に認められたのは結構と言つてよい。たゞ結構ならざる一事は、折角の新方法の追加が、ともすれば漫然たる讓歩となり、進んで其資料の整理と採擇との爲に、嚴格なる鑑別法を適用すること能はず、もしくは單なる常識の指導によつて、雜駁なる偶然の見聞を加味し、我から其結論の不安を招いて置きながら、それを理由として成るべく補助學問の入用なる題目を避けて就かざらんとするが如き氣習である。近年漸く擡頭せんとする日本民俗學が、未だ史學の一部として其地位を安定することを得ないのは、半分は之に携はる人々の散漫なる態度に、他の半分は之を利用しなければならぬ史學者の臆病さに、其責任を歸屬せしめなければならぬ。歴史は要するに我々の忘れて居た事を、想ひ出す迄の仕事では無いか。それが多量の論議辯證を經て、僅かに口の達者な者の言ひ勝ちに決着しなければならぬといふことが、既に史料利用の技術の未進歩を意味して居る。ましてや比較整頓の不十分なる切れ／”＼の奇事珍聞の中から、人の知らず自分に都合の好い若干の種を拾ひ出して、どさくさ紛れに勝手な結論を作つて見せようとするなどは、多くの場合には却つて歴史知識の混亂を煽るものである。宜なり古風の史學者の之を危ぶむを名として、獨り嶮岨の城塞に立て籠り、いつ迄も其舊耕地を深耕し、殆と開拓の何物たるかを知らぬやうな顔すること。それ故に問題は今でも壘々として野に轉がつて居る。出でて當代の爲に適當に之を處理しようとすれば、恐らくは先づ此等の書外史料の價値、如何なる場合にはそれが省みるに足らず、如何なる條件を具備すれば、採つて在來の史學方法の缺を(157)補ふべきかを、評定する必要があるので、若し現在の如き亂雜無系統の?を以てして、直ちに民俗學の效能を認めしめようとすると、結局は考古學の太古史に於ける如く、いつ迄も史學は是と提携することを欲せず、徒らに學問の沃野を他の馬蹄に委ねて、却つて内側に垣根を結ぶことにならうも知れぬ。そこで自分は其救解の策として、試みに今日行はれて居る民俗學の一方法、普通に Folklore と呼ばれて居る研究順序が、如何なる程度にまで史學を補助し得るかを説くべく、之を時代が要求して居る婚姻といふ一つの問題に適用して、少しく其例示をして見ようとするのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　前代の社會生活、殊に家族組織の特質を尋ねて見ようとする者が、直ぐに起す疑問の一つは、日本の婚姻風俗は今と昔と丸で變つて居るが、それが何時から變つたか、又如何なる事由に基づいて變つたかといふことである。此樣な大切な、又何人も知らねばならぬ歴史問題は、夙くにも一言を以て答へられる樣になつて居るべきであるが、自分の知る限りに於てはまださうなつては居ない。源氏物語は誨淫の書だと喝破した學者が、江戸時代には何人もあつた。さうでもあらうが別の目的を以て讀ませると言ふ人は今でもまだ居るらしい。あの頃は京都貴族の風儀が亂れて居たと、書いてある歴史の本さへ澤山にある。「亂れる」と言ふからは正しいものがあつた筈、それが何處にあり又如何にあつたかと問へば、爰にと答へて近頃の風俗を指し示す。それは「變つた」のである。兎に角紫式部の寫生した一社會には限らず、前にも同時代にも書物記録に見ゆる限りは、上流の紳士が皆さうして居た。直接に相手の女性と文通して、ほゞ拒まずと見定むれば男の方から訪問する。それが婚姻の開始であつた。是と比べると我々の婚禮は嫁入とさへ呼ばれて、嫁を夫聟の家へ連れて來ることが、結婚の主たる手續であり、此際始めて夫婦が顔を知る場合も稀では無い。ちやうど以前の尤も普通としたものと逆になつて居る。斯ういふ樣式が果して中古以前にも曾て存在したか(158)といふと、誰だつて然りとは答へ得ないのである。さうすれば是は正しく時代の大變化と認めなければならぬ。是非得失の論は後の批評として、先づ其沿革の跡を詳かにするのが、歴史を講ずる者の任務であつたのである。

　自分などが書生の頃、有名なる「日本の花嫁」事件といふものが世間を騷がせた。田村直臣といふ耶蘇教の牧師が、米國に於て一書を著し、日本の娘たちは何れも親兄によつて聟へ引渡されると言つた。配偶者を選擇する自由が絶無であると述べた。之を知つて所謂有識階級の多數は、激怒し且つ詰責した。しかもそんな事は嘘だといふ者と、事實はさうであるが其を公表したのは國辱を省みざる者だといふのと相半ばしたのは、今考へて見ても珍しい事件ではあつた。果して田村氏なる者の見た所は正しかつたか。是を率直に暴露しただけが不當であつたか。若し然りとすれば何故に日本ばかり、其樣な變態が存立し得たか。もしさうで無ければ何が此樣な誤つたる觀察を促したか。是は興味の多い又至つて大切な問題で、假りにこの樣な突如たる刺戟が無くても、とくに誰かゞ考へて見るべき事柄であつた。

　常理から考へて、所謂「日本の花嫁」は有り得べからざることであつた。如何に微々たる小動物にも、尚配偶者の選擇はある。假令如何なる短期間なりとも、「妻問ひ」といふことは無いわけが無い。全然見ず知らずの婚姻といふことは、或は婚姻で無かつたか、又は別に背後に妻問ひに當るものがあつたかの二つに一つで、しかも特別の事由が無ければ、自然に出現することの出來なかつた變態である。少なくとも一つの民族に共通して、固有に具はつて居た習俗とは認められぬのである。實際近世の如く最も完全に此風になり切つたと思はれて居る時代でも、此原則に對する例外は、到底例外とは謂ひ得ない程、弘く又數多く行はれて居たので、事實は只其變化が何故に著しいかの理由、及び徐々として變化を承認するに至つた原因が、省察せられなかつたといふのみである。娘が年稚く少しも世間を知らず、親に信頼して親の命ずるまゝに何處へでも嫁ぐといふことは、實際所謂相應な身分の家にして、始めて行はれ得ることであつた。だから他の相應ならざる身分の大多數の者には、別に此以外の方法が行はれて居たので、それが前代の(159)樣式であつたか、はた又それから稍々崩れたものか、乃至は全然新しい不行儀であつたかといふ點を、不幸にして誰も考へて見ようとしなかつたのが惡いのである。

　主たる原因は窮屈なる在來の史學の方法であつた。文書記録に記載せられざる生活、文字と交渉の無かつた階級の風習は、假令それが國民の大部分を占めて居ようとも、歴史の外に逸し去らしめてよいといふ考へ方が、凡て此方面を不問に付したのである。それが幸ひに行政であり又戰爭である場合には、さういふ狹い一局部から見た記述でも、或は大勢を知るに妨げが無かつたかも知れぬが、事がいやしくも大小個々の家庭に、一樣に重要なるものである時は、そんな事をすれば忽ちにして過去を埋没せしめる結果になるのであつた。フオクロアはいつでも斯ういふ場合に出て働かうとする。即ち記録せられずに變遷してしまつた前代の標準文化を、その殘留するものを通して窺はうとするのである。都市の生活が始まつてからは、新しい文化は通例其中に發生し、それが漸を以て周圍に波及して、次々に一つ前のものを、比較的交通に疎い山奧や海の岬に押込める。さうして古いもの程記録と縁が薄いから、比較の機會が乏しくて、棄てゝ置くと皆孤立してしまふ。例へば婚禮などでも、書物で我々の知つて居るのは伊勢流とか小笠原流とかばかりである故に、それと一致せぬときは、直ぐに斯んな珍しい風習があると、自分でも思つて居る。いづくんぞ知らんそれは全國に共通し、古今に一貫し、稀には又異種民族の間にさへ、著しい類似を見出すものである。それがたゞ比較をして見ようとしなかつたばかりに、各自我地方だけの蠻風として、恥ぢ又は時としては隱し、能ふ限り早くそれを棄てゝ、中央の風に倣はうとする。是が文書の流傳が盛んになつてから、一層急激に都市の新標準に由つて、古くからの文化の改革せられた所以であつた。フオクロアも他の多くの研究と同樣に、最初は唯この慌だしく消えて行くものを惜むの情から出發したのであつたが、後次第に新しい文化を批判して、誤れる選擇の危險から免れる爲に、少なくとも其變遷の經路を知つて置くことの、一般的有用を認めらるゝに至つたのである。けだし史學は到底その世俗的用途を無視し得べき學問ではなかつた。從うて以前はさまで必要を見なかつた民俗の調査が、新たに補助(160)學としての功績を期待せらるゝことになつたのであるが、それには又大切なる一條件として、是非とも十分に精確であり又周到綿密でなければならなかつたのである。ところが近頃まで世間で土俗學者と言はれて居た人のすることが、單に珍事奇聞の若干の收集であり、もしくは至つて類の稀なる一又は二の材料の提供であつた故に、却つて其目的を誤解せられて居た。所謂奇習異俗は人の面白がる所ではあるが、それが果して習俗といふべきものならば、どこか必ず時代と地方とを異にして、他にも同じ類の現象がある筈である。然るに突如たる孤立の例を以て人を驚かすといふのは、他處のは未だ發見せられないか、然らざれば觀察者の誤りかも知れぬ。些しでも疑はしいものを論證の資料に供することは不當であり、未だ發見せられぬものがあるとすれば、先づ其發見を努めるのが民俗學者の義務である。しかし從來はこの資料蒐集が、可なりの難事業であつた故に、それだけでも學者から尊重せられた。又今日でも資料は大切に保管せられて居る。しかも是が學問上の價値は、集積と分類と比較とによつて始めて現はれるので、孤立珍奇の事實は、如何に珍奇であらうとも、單に或推論の暗示に役立つといふのみで、それ自身には史料の缺を補ふ力は無いのである。是が民俗誌と民俗學との最も肝要なる區別であつたが、從來は兎角混同せられた例ばかり多いのである。

　發見と採録とは、我々の學問に取つて、常に大切なる事業ではあるが、もし之を整頓し又解説する方法が具はらなければ、其努力は往々無益に費されなければならぬのみならず、或は新しい知識の活用を妨げられる危險もある。殊に近代の史學の如く、極度に嚴密なる實證主義を信奉するものに向つて、系統無き若干の博聞を押賣せんとするなどは、寧ろ彼等をして不安の貝?《かひのふた》を牢く鎖さしむる處なしとせぬ。是は明白に雙方の不利益である。民俗學も同じく囘顧反省の學問ではあるが、記録を單簡に、「事實の容れ物」とより以上には尊重せず、又努めて眼前の事實の、未だ文書化せざるものを把握しようとするが故に、さうで無くとも記傳家からは疎まれ易かつた。故にそれを新たに必要なる史學の補助學科に採用せしめるには、恐らくは所謂十二分の確實さを以て、先づ其安全を保障しなければならなか(161)つたのである。だから自分等は、いつも採集には最も敏捷に、論斷には特に遲鈍ならんことを心掛けて居るので、假に現存の習俗に據つて、歴史と共同の問題を解説するといふ場合でも、それには少なくとも四つ又は五つの條件の具はることを必要として居る。其一には信ずべき實例の數あること、殊に隔絶した土地どうしの一致である。其二には保存が無意識に行はれ、理由が不可解の如く認められて居ることである。人間の所行に趣旨の無かつたものは有り得ないのに、それが忘れられて居るとすれば、前代の殘留であることが一應は推測せられる。第三には資料の集積と比較との可能なことである。單に時代を同じくして諸國に同じ現象を見るといふに止まらず、國内に於ては過去の記述ともよく一致し、或は全然種族を異にする他の民族の間にも、往々にして類似の風を見出すといふことは、起原や分布の論からは獨立して、是も亦個々の資料の重要さを裏書するものである。第四には問題が昔風に言へば餘りに凡庸微細であつた爲に、文書記録の史料が偶然にすらもあまり遺つて居ないこと、從うて第五に實際は如何に大切な、又人の知らんと欲する歴史であつても、在來の手段のみでは之を明らかにすることが出來ぬか、もしくはさう見られても一言が無いほどに、久しく棄てゝ置かれて居たことである。昔はさも無かつた日本國民の婚姻慣習が、何故に一時所謂王昭君式と化せんとして、後再び自由結婚の論に劫かされて、解決を未來に保留することになつたかは、兎に角に大なる社會からの課題である。それが果してフオクロアの研究法を適用するに適して居ないか否か。自分は試みに一つ蘊蓄ある史學者の所見を問うて見たいのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　ケッコンといふ語が普通の用語となる以前、我邦には精密に之に該當する語、即ち「夫婦の仲らひの始め」を意味する語は無かつたやうである。たゞ近世中以上の家庭のほゞ全部に於て、新婦の引移りを以て婚姻生活の開始として居た故に、事實上結婚をヨメイリと謂つても、其人たちだけには些しも差支が無かつたのである。ところが他の一方に(162)は結婚より遙か後れて、嫁女を聟の家に送る風習が、今でも若干の地方には公けに認められ、それが前代に溯るほど一段と弘く行はれて居た。例の源氏物語の時世には、京都貴紳の家でも、最初から新婦を迎へ取るといふことはしなかつたのである。斯うなると嫁入は決して結婚では無く、單に結婚後の或一つの手續に過ぎぬのであつたが、當今の法制は其力を以て、寧ろ新たに前代と異なつたる風儀に統一して、一部殘留の慣習を蔭のものにしてしまつた。嫁の引移りに伴なふ儀式のみを擧式と名づけて、婚姻の始めと認めることにした。送籍は勿論其時より後に行はれる。其結果は長子が私生兒とならぬ迄も、月足らずで生れなければならぬ場合が頻々として起つたのである。我々の慣習は土地により、又は當事者の身分境遇によつて、近世は既に幾通りかの種類に分れて居た。それが最初からの系統の別では無くして、元一つのものゝ追々に進化して行く階段を、代表して居たのだといふことは證明し得られるが、現在正しい風儀として公けに認められた一種類は、偶然にも其中の最も進んだ形、即ち武家といふ階級が夙にその特殊の必要に基づいて多くの省略と改定とを加へたものなのであつた。武家も以前は悉く村人であつたが、其社交の範圍が何人よりも早く擴張して、遠方の家族と縁組をする必要が先づ生じ、次第に今迄の村の婚姻法を、其儘踏襲することが出來なくなつたのである。嫁迎への儀式のみが非常に重々しいものとなつたのは、多分はもと遠方婚姻が、數十囘の小さな往復を不可能ならしめた結果であらうと思ふが、後には隣を接する家々の間にも、所謂小笠原流を以て唯一の作法と爲すに至り、其風は漸次に村居住の舊家の、格式を城下の士に準ぜんとする者にも波及したのであつた。冠婚葬祭の四つの中でも特に婚姻に限つて、上下二通りの慣習が、同じ村内に竝び行はれて居る場合は多かつた。然るに法制は新たに其一つを普通とし、他の一つを例外とすらも認めようとしなかつた。さうしてこの風儀と實際慣習との折合は、未だ必ずしも落着しては居ないのである。勿論是は大いなる時代の變化であるが、實は其變牝は今もまだ完成したとは言はれぬのである。

　嫁入を以て開始する婚姻は、年を逐うて其割合を増加して居るのみならず、さうで無い婚姻に於ても、嫁入が次第(163)に其儀式の重要さを増加して來たことは爭ひ難き事實である。村の俗語を尋ねて見ても、單に引移りを意味したカカナリ・ムカサリ・オカタムカヘ・ゴゼムケなどが廢語となり、之に代つて弘くヨメドリ、ヨメイリといふ語が行はれんとして居る。ヨメは橘守部も早く注意した如く、本の意味は吉女、即ち盛粧した女性といふことであつた。今では婦人が紅粉を傅け、美衣を着るといふことは何でも無い行爲であるが、其根源に溯れば宗教的と言つてもよからうか、兎に角心までも改まる樣な晴の場合で、しかも一役を持つて參加する者で無ければ、晴の装ひはしなかつたのである。伊豆の大島や對馬の佐須奈などでは、此日不斷着のまゝで家に入り、晴衣は親の野邊送りの日に始めて着るといふ例もあり（民族二卷三號）、或は勝手元から上つて直ぐに働くといふ話も、二三の片田舍には聞くことであるが、大體に嫁入を女一生の晴の日とし、見たり賞めたり妨げたりからかつたりする附屬儀式までが、悉く彼女を中心として行はれることに、もう久しい前からなつて居たやうである。關東などは一般に此日の儀式のみを祝言と謂ひ、他の地方でも普通には是を婚禮と謂つて、所謂「取合ひめをと」の簡略に婚姻を開始した者も、改めて一度は此手續を履まねばならぬ樣に、感じて居るらしき者も多いのは、或は嫁入が外部社會に向つて對抗し得る方式として、相應に早くから其必要を認められて居たことを意味するものかも知れぬ。

　兎に角に婚姻に伴なふ他のすべての儀禮が、一樣に手輕になる傾向を示して居たに反して、獨りこの引移りの式のみは成長して、却つて最近迄は少しづゝ複雜にならうとして居た。後になほ詳しく述べて見ようと思ふが、元は別の機會に行はれた行事を、此日に集合させた例さへ稀では無かつた。少なくとも外部の者の眼には、式の重要さの差等は極めて顧著であり、從うで嫁入を結婚其ものと見る法律家の考へ方は、必ずしも自分たちの周圍の限られたる社會の新慣例に準據して、他の多數の知られざる實際を類推したものとも言はれない。別の言葉を以て言へば、以前婚姻の成立を意味した内部の儀式は、元々幽かなもので部落以外には對抗出來なかつたのが、更に省略せられて愈々其通用の力を弱めて居たのであつた。しかし注意して見れば、今でも其痕跡は遺つて居る。單なる娘妹の引渡しのみを以(164)て、婚禮の全部と見なかつたことは、所謂上流社會とても同じであつた。實際はいはゆる黄道吉日の到達以前に、もう變改の出來ない?態は生じて居たのを、寧ろやゝ物質的なる貞操觀の現出したばかりに、それを一種の豫約の如くに差別し始めたのであつた。嘗て贈られたる銀釵などを手に持つて、祝言の席へ暴れ込む者は、講談では大抵破落戸の所業となり、それは道ならぬ隱し事の場合に限られて居るやうだが、人が愼んで互ひに詰責を避けたといふのみで、さういふ背約は元は常人の生活にも有り得たのである。所謂結納は當事者の身に附く物を贈つた故に、或は聘財と混同せられたけれども、主として持つて行かれたのは酒であり肴であつた。本來は聟自身が之を携へて、新婦方の親族と共同飲食したことは、寧ろ中世貴族の「處現はし」、一名露顯の式と同じかつたのでは無いかと思ふ。だからそれが濟んでからの變改は、感情に於て「いひなづけ」の解除とは一つで無かつたのである。「見合ひ」と稱する手續にも別に當初の趣旨があつたらう。縁談も既に十分進行して、大よそ是ならば約束してもよしといふ迄になつてから、本人同士の對面をさせることが、選擇の準備であつた筈は無い。又何と今日の思想では説明されようとも、無意味に此樣な慣習の發生する筈も無い。嫁娶は親々の側からいへばこそメアハスであつたが、本人たちからいへばメアフである。ミアヒが元は婚姻の主要な式であつたことは、是だけからでも想像してよいのである。それが今日の嫁入本位時代に入つても、まだ何程かの精神的效果を保つて居ることは、恐らくこの殘留慣習の精細なる觀察に由つて、やがて、明らかになることであらうと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　見合ひと樽入れとの二つの仕來りよりも、更に顯著に昔の型を遺して居るのは聟入である。我々の知つて居る最も普通の例では、嫁が來てから三日目の里開きに、是と同行して正式に其實家を訪問することになつて居るが、それが後代の便宜主義から、二つの祝宴を合併したものであることは、色々の方面から證明し得るかと思ふ。現在此風の行(165)はれるのは中部地方から、日本海沿岸の弘い區域であるが、そこでも此日の式をイチゲン（一見）と謂ひ、ゲンザウ（見參）と謂ひ、又は初入・初手入などと名づけて、目的の主として聟舅の近づきに在ることを示して居る。聟入は要するに聟の初入のことであつた。相手方の身内と新たに姻戚の關係を結ぶ手續きを、さういふ名で呼んだことは嫁入も同じであつた。と言ふよりも嫁入といふ名稱こそ、聟入といふ語に準らへて後に出來たものであつた。聟の正式に舅と其一門の者に承認せられることは、家としては遙かに大切なことであつた故に、其儀式は古くから嚴重に行はれて居た。それを露顯と名づけたのは、當人たちの居馴染むまで、少なくとも表向きは、親兄弟が與り知らぬ體になつて居たからである。嫁入より後に聟入をして差支が無い時代になつても、尚この初對面をウチアケといふ地方があつた。ウチアケは宴會を意味するウタゲ即ちウチアゲであらうといひ、もしくは親族知友に對する披露のことであらうとも謂ふ人があつたが、今まで隱して居たことを告白する場合で無ければ、我々はウチアケルとは言はぬのだから、是も亦以前の慣習の偶然の痕跡であらうと思ふ。

　狂言記などを讀んで見ると、まだ聟入も濟まぬといふ聟が、既に嫁を引取つて近い里に住んで居る場合がある。こなたにおなといふ娘御がござらうが。うむ有る。身共は其聟でおりやるなどといふ對話もある。この時代には既に今風の嫁入があつたかと思はれ、又は親の承知には構はずに、女を誘うて行く所謂「嫁かたげ」も相應に弘く行はれたやうだが、大體に於て家族の勞力を他家に委付するには、家長の承認を必要としたであらうし、其承認は通例聟入の形を以て與へられて居たのだから、聟入は即ち嫁入に先だつて、行はれなければならぬ儀式であつた。勿論追々に省略せられてしまふことゝ思ふが、つい近頃まで其形を以て聟入をして居た地方は、尋ねて見ると非常に多かつたのである。實例の全部を擧げるわけにも行かぬが、それが孤立の「不可解なる異風」で無いことだけは、立證して置く必要があると信ずる。北の端から算へると、秋田縣では鹿角の草木村附近などで、聟が若者宿から仲間の者を案内として、酒を持つて姻家を訪問し、其家の爐傍を三周して祝言を敍する風があつた（東京人類學會雜誌四卷二七〇頁）。岩手(166)縣遠野地方の山村でも、嫁入の當日新郎自身が、仲人親戚の者などに伴はれて新婦の家に行き、嫁渡しの盃事をした。其式が終つて嫁を同行して來るので、宴會の間に度々聟方から催促をするのを禮儀として居た。三日目の里開きにも聟はやはり同行して來た。嫁方親類との盃は此時にしたものゝ樣である（東京人類學會雜誌二八卷五五五頁）。同縣紫波郡の飯岡村などでも、聟入は婚禮の當日午前中に行はれ、御祝儀と稱して高砂の謠をうたふ。嫁は盛装して其席に列するが、聟との盃事は此時には行はぬ。さうして夕方に聟の一行が引取ると、程なく嫁入の行列が出て行くことになるのである（旅と傳説二卷七號）。福島縣石川郡でも婚禮の當日、新郎は仲人と見參人（近親）とに連れられて、先づ新婦の家に行つて祝宴に列する（石川郡誌）。東京の近くでは千葉縣千葉郡も同樣で、聟が上座にすゑられて先づ嫁方親類との盃をすませ、それから酒宴に移る。嫁御は其晩成るべく遲く出かけることになつて居る（千葉郡誌）。同じく安房でも本人と兄弟一人、親戚若干名が仲人に伴なはれ、結納土産物を持つて嫁方を訪ひ、嫁の親たちとの盃事をする。之を親子名乘と謂つて、作法はほゞ當夜嫁入の時と同じである。式の酒だけでは足らぬと言つて、其後で村雨又は「盛上げ」と稱して、盛んに酒を強ひて一宴會あるのである（安房郡誌）。群馬縣の北甘樂郡でも、全然之と同樣に、當日前に聟入があつて新婦の家の饗應を受ける。それを一見《いちげん》と謂つて居る（北甘樂郡史）。靜岡縣志太郡などでは、之を輿迎へと謂つて居る。しかも新婦を同行して行く以前に、親戚列座の饗宴に臨むのみならず、尚其一人に導かれて嫁の家の近隣へ挨拶をして廻るのである。嫁入の路では新夫婦打揃うて、一應仲人の家に入つて休息し、貰ひ方の出迎へを待つのが此土地の一特色である（志太郡誌）。

　同じ慣行は更に和歌山縣有田郡にもあつて、こゝでは聟入とも舅入ともいふらしい。晴の挨拶が終ると先づ「霜消し」といつて一杯の酒をつぎ、それから聟舅の獻酬に移り、本膳が出て御馳走の腹鼓を打つとある。霜消しといふ語は聟の夜通うた頃の名殘の語であらう。此土地では花嫁は同行せず、夜に入つて別に出かけてほゞ同じ樣な盃事があるのである（有田民俗誌）。九州の方でも宇土郡誌や下益城郡誌を見ると、聟入はやはり同じ日に、嫁入に先だつて行(167)はれることになつて居る。嫁の親たちと聟との盃は此時に行はれるから、他の地方で見る如く嫁入に同行して親が行くことは無いやうである。四國でも伊豫の西海岸には、やはり花聟自身が紋付袴で、花嫁方へ來て出立の宴に列する風があつた。此には聟の親も仲人と共に同行する場合が多かつた（民族二卷三號）。土佐の安藝郡にも同樣の風があつたらしいが、是などは挨拶を濟ませて先づ還り、後刻聟の友人たちが打揃うて花嫁の迎には出たのである。其他今日ではもう改まつたかも知らぬが、廣島縣の呉附近も此通りであつたといふ。殊に念入りなのは爰では聟が袴と履物を脱ぎ棄てゝ、盃事もそこ／＼に急いで還つて行くと、それを始末して花嫁が持つて行くことになつて居た。尾張の名古屋も元は嫁入前の聟入があつて、貝の吸物で盃が出た。それには手を附けずに始終無言で早く還るのが、尋常の作法であつたといふ（以上三件結婚寶典）。織田信長の逸話にも見えるやうに、此日は聟殿の嘲弄せらるべきであつた。それで擧動を愼んで出來るだけ早く引上げようとしたのであつたが、中には聟入の盃にもうぐでん／＼になつて腰を下し、花嫁に向つて先へ行つて待つて居よと言つたといふやうな笑ひ話も色々殘つて居る。

　斯ういふ式作法の必要であつた時代は兎に角、型ばかり古風を守るといふだけになれば、話合ひの上でこれを里開きの日に合併しようといふ類の、變化を見るのも亦自然である。仲人が聟方を代表して、日のある中に迎へに來る土地は至つて多い。この仲人が昔の女へんの媒といふものと同じで無いことは、いつか尚述べたいと思つて居る。それから心得ある聟方の親族が、仲人と同行して嫁の迎へに來る例も、能登地方を始めとして數あることである。岩手縣の上閉伊でも、遠野郷と山一重を隔てた海岸地方では、普通には聟自身は行かぬことになつて居る。近親の若干名がサイノカミ即ち仲人と同行して、嫁迎へにやつて來て饗應を受ける。一行の人數は聟自身の加はる地方では、必ず奇數であるのに反して、爰では聟が居らぬから必ず偶數といふことになつて居る。當日の贈り物の樽と肴との他に、御持物と稱して男女一對の衣服と帶、それに草履を添へて柳行李に入れたものを持參する。衣類の疊み方には六つかしい作法があり、嫁方でも亦定まつた方式により、之を比翼疊みにして持たせて返すのださうで、前後の事情から元は(168)爰にも聟入のあつたことが察せられるのみならず、尚養子聟の場合だけは、今でも此一行の中に花嫁自身が加はつて聟を迎へに行く風が殘つて居る（民族二卷三號）。

　

　　　　　　　　　　六

　

　我々が若し問題の興味を認めるならば、此類の標本は更に數十百を重ね比べて見ることが出來る。フオクロアの主たる仕事は、之を排列して變化の過程を知ることであつた。然るに在來の所謂土俗家の中には、わざと此中の特に意外なる一つを拾つて、寧ろ誇張に由つてでも其珍無類を説かうとしたのである。目的の實は學問に在らざりしこと明白である。風俗は決してモダンガールの衣服の如く、土地と時刻によつて長襦袢から腰蓑まで、振袖から腕まくり迄往復し得るものでない。しかもあれ程氣まぐれな二重生活すら、なほ周圍の人のすることを眞似るのである。聟入嫁入の作法にもし其樣な二系統があるとすれば、それは或時代に異種の文化の、暫らく對立して居たことを意味すると言つてよからうが、自分などは少なくともまだ安全なる資料に由つて、婚姻の方式が二通り以上、始めから斯邦にあつたものとは認め得ないのである。それが變化の端と端とを見て或は人間の智慮が選擇を二三にし得たかの如く考へるのは、恐らくは今まで其中間の徐々の推移を、見て行く方便が得られなかつたからである。ところが其方便は本當は有るのであつた。是から私の尋ねようとする資料が、幸ひにして或程度の量と精確さとを得たならば、この婚姻習俗の古今の變化なるものは、實は父の家と夫の家との交渉協定、即ち婚姻其ものゝ本質と、今は直接關係の無い聟入といふ手續の上にのみ、主として働いて居たことが判るだらうと思ふ。而うして其聟入が、何故に今は輕んぜられ、何故に以前はさばかり重んぜられたかといふことは、根源に溯つて日本固有の社會構成の問題に歸し、同時に又中古數世紀間の不明なる經濟發達が、如何なる性質のものであつたかの問題にもなるのであるが、それは固より是唯一つの方面から、推斷し得られる樣な簡單な事柄でも無い。我々は單にその最終の解決の爲にも、殊に各自の持場を確實(169)にする必要があることを、認めて居りさへすればよいのである。

　聟入が後に嫁入過ぎての里開きと一括せられた如く、又仲人や親族友人によつて代つて行はるゝことになつた如く、前にも幾度か之を簡便にする試みが流行したらしきことは、是亦今殘つて居る例外風習の中から、追々に跡づけて行くことが出來る。第一に嫁入當日の午前中に、せはしなく聟入の盃事を濟ましてしまふことは、何時頃から始まつたかは知らぬが、少なくとも古い形ではなかつた。親族縁者の遠く離れて住む者が多くなるにつれて、度々の集合が不便になつたといふこともあらうし、又群飲の式が次第に華美になつて、力を幾つかの酒宴に割くことを好まなかつた理由もあらうが、それよりも根強い隱れた動機は、聟入終つて後の聟を宿す設備が、行屆かぬやうになつたことであらうと思ふ。そこで嫁引移りの當日も本人が迎へに來て、又一通りの盃事があつたのと、追々に合併する風が始まつたので、それ故にこそ同じく當日の聟入でも、嫁迎へとは謂はずに一旦は先へ引取り、後刻花嫁の乘込む例と、聟が待つて居て同行する例とが入交つて居るのである。今日はもう改まつたかとも思ふが、伯耆の米子邊では二十年ほど前まで、聟入は嫁入の前日に行はれるのが通例であつた。仲人の同行することは他の場合も同じく、なほ其他に「聟隱し」と名づけて、同年輩の男を必ず同行した。其男は嫁御が戸惑ひをせぬ樣に、又折角の縁談が厭にならぬ樣に、少々でも男振の聟より劣つた者を選定したといふのは、迷惑至極な話であつた。しかも此日は花嫁は宴に列せず、聟も亦酒宴の興酣にならぬ前に、「聟の尻遁げ」と言つて早々に御開きとしたさうである（人類學雜誌二八卷三六八頁）。醜い男を「聟脇顔」などといふ洒落は弘く行はれ、聟入に同年齡の友人二三を伴なふ例は多かつた。女の方にも昔話の「いづれあやめ」のやうに、幾人かの朋輩を座に列せしめることが、久しい仕來りであつて、やはり本の意味が忘れられて居たやうである。名は「待女郎」と謂ひながら輿入に附いて行く女性、是が其痕跡であることはほゞ推測し得られる。つまりは花の枝は數あれども、折りてかざすは君一人といふことを、口で言はずに形で表はしたのに他ならぬと思ふ。見合ひが婚姻開始の古い方式、或は聟入よりも尚一つ前に、男女の相會した名殘で無かつたかといふ想像は、(170)この「待女郎」の如く又「嫁迎へ」の如く、式が何度でも他のものと融合したことを思ひ合せると、必ずしも空なものとは言へなくなる。近世の形では、見合ひも亦一種の聟入であつた。故先輩山座圓次郎氏の逸話として、今でも愉快に記憶せられる奇行、未來の山座夫人の膝を枕にして、醉つて寢てしまつたといふ話なども、自分には意味深く考へられる。要するに聟入を嫁入より先に行はしめるのは本意であるが、兩者の期間を永く隔てて置くと、直ちに聟をどうして寢かせるかの問題を解決しなければならぬ。だから聟養子の場合には内祝言があるが、嫁取の場合には「足入れ」又は「閾跨ぎ」などと謂つて、先づ縁女の引渡しをする他は無かつた。それも餘りに略式に過ぎるとすれば、爰に最も氣ぜはしない、嫁入當日の聟入といふことが、案出せられずには居なかつたのである。

　福島縣の信夫郡の一部には、聟入は必ず月の十日を以て行はれるといふ報告もあるが、此資料はなほ確かめて見ないと證據にし難い（婚姻寶典）。是は頗る今日の見合ひと近いもので、男は猿袴脚絆がけで白い馬に乘り、仲人附添の上で初對面に行き、そこで約束が成立つと固めの品は後に送ると謂つて居る。兎に角に仲人が聟を伴うて來るからには單なる申込で無く、略々成立を豫期したものであるが、それから愈々嫁の引移が濟む迄には、まだ大分の日數がかかるのである。二つの期日が斯の如く間を隔つことになると、當然に婚姻は嫁入を以て開始するといふことの、言はれない事情が現はれて來る。所謂擧式が果して嫁入のことであるか、また聟入のことかを決するのが、さう手輕では無くなるのである。瀬戸内海の島々には、島毎に異なる生活事情があつて、婚姻慣習の色々の過程が今でも保存せられて居る。一般に聟入が濟んでから嫁入の行はれる日までが、國地や町方よりも長くなつて居る樣である。自分の直接知つて居る備中の北木島などでは、婚姻の作法の最も重々しい部分は「オミキを入れる」と稱して、他の地方の結納「樽入れ」に該當するものである。以前は恐らく是も聟自身の初入であつたらうが、今日は聟方の親友又は一家の者が、酒肴を携へて來て共同に飲食する。是を此土地では仲人と謂つて居る、此式が濟みさへすれば聟は公然と聟であつて、それから大抵は身重になるまで、二年も三年も引續いて、夜のみ嫁の家に來て休息することになつて居る。だから此(171)あたりの島々では、結婚と娘の勞力を聟の家へ委付することゝは、全く別々のものに考へられて居るのである。北木の北に竝ぶ幾つかの島、殊に最も大きな神（ノ）島の浦々では、是が婚姻の常の樣式であつた。?々此地を訪れる巡囘の官吏の話に、某氏の家では娘を縁付けたと謂つて居たのに、いつ行つて見ても其娘が家に居る。或は離別をしたのかと思つて遠慮をして聞いても見なかつたが、後になつて斯うして永く家に留めて置くのが、土地の習ひであることを知つたと謂つて居た。元は或は此聟と舅との間に、勞務の關係が新たに生じたのかも知れぬが、現在はまだ其推測を支へる程の證跡が無い。ただシウト・シウトメを地方によつて、シゴトヂーサ・シゴトバーサと謂ふことが、何等かのわけ有りげに思はれるが、是とても嫁が同居の夫の親たちをさう謂つたのみで、聟と里方の親との關係にも、此名が及んで居たかどうかは確かで無いのである。況んや夜の宿を取るといふだけで、常の衣食を別々にして居る者を、嫁の家族に編入せられたものゝ如く解して、忽ち女系支配の世の面影をそこに求めようとするなどは、危ふいといふよりも寧ろ無法なる資料の濫用である。

　

　　　　　　　　　　七

　

　それよりも以前に我々の考へて見なければならぬことは、新たに婚姻生活の開始せらるゝ場所に就いてゞある。家主が若くして妻を迎へる場合は別として、聟が家族の一員であるならば、何處かに「私の區劃」といふものが供與せられなければならぬ。それが瀬戸内海の多くの島では、古くから嫁方の住宅の一部分であつたのである。前に擧げた北木の島などでは、普通には物置の二階とか長屋の片端とかの、出入の自由な部分であつた。伊豫の下島七島の睦月といふ島でも、新郎が雙方の親の許諾を受けると、其以後は新婦の家に來て宿泊する。其寢處はヘヤと稱して、長屋門の續きに本屋とは中庭を隔て、渡り廊下で聯絡を取つて、どこの家にも前から具はつてある別棟の小屋であつた。此節は大抵三箇月も此生活をすれば、女はやがて夫の家へ引取られることになつて居るさうである（民族二卷一號）。(172)ヘヤはもと本屋に從屬した小房の名であつたが、後に一棟の内の區劃せられた部分をも、室と書してヘヤと謂ふことになつた爲に、特に是だけを差別してヒヤといふ土地もある。本來は別棟の小建物の爲であつたことは、味噌部屋・薪部屋などの用例を見てもわかる。成長したる男女の家族がヘヤズミと呼ばれたのは、つまりその一身上の行動に付いて、一部の自由が付與せられて居たことを意味する。新たに婚姻した者がそこを根城とするのは、十分なる理由のあることであつた。對馬壹岐五島などの弘い區域にかけて、未だ嫁入を濟まさぬ男女の間柄をヒヤヒヤと謂ひ、後には主として私通を意味することになつたのも、基づく所はやはり是に在るかと思ふ。しかも建築の技術は追々に進んで、人は全體に大きな家を好むやうになり、又風土の關係からも部屋を別棟とすることの出來ぬ場合があつて、實際は必ずしもヘヤにばかり住むといふわけには行かなかつたのである。

　村で分家といひ新屋といふものゝ數が、段々増加して來た原因にも、或はこの婚姻別房の風習が加擔して居るかと思ふが、それだけは又別に引離して考究してもよからう。自分が此序を以て是非問題にして置きたいと思ふのは、所謂「女のよばひ」と寢宿との二つの異例である。異例とは言つても二つ共に、可なり弘い區域に行はれて居ることで、例へば、

　　　丹波よいとこ女のよばひ

と云ふ類の俗謠の如きは、始の一句だけを入れ替へて、諸國に知られて居るのであるが、珍しいことは何れも隣接して、是とちがつた習はしが對立し、從うて?々周圍の話題になつて居るのである。後世の輕浮兒が笑つて歌ふやうに、もし假初のみそか事であつたならば、決して此樣に分布する道理が無い。男女が結婚して未だ正式の引移りを終らぬ以前、ヘヤを聟方の家に求めるといふことが、幾分か自然に反し、又古い上流の生活記録中に、類例を見出し得ぬことは事實であるが、是にも尋ねて見れば何か相應の理由が存するのであらう。或は「足入れ」とか「三日加勢」とか稱して、外部に對する披露の振舞をせぬうちから、時々新婦を聟の家に交通させて居る風習と、關係があるかとも考へ(173)られる。事によると働かせるといふことよりも、養ふといふことの方が問題であつて、從うて引渡す側よりも、引取る側の家長の承認が大切であつた結果かも知れぬ、是はそれ／”＼の地方の産業組織、殊に婦人の勞働　　状態を、詳しく調べて見ればわかる事であるが、少なくとも京や江戸などの如く女の仕事の多くない土地に、早くからこの「女のよばひ」のあつたらしきことは注意に値する。たとへば寶永二年京都刊行の輕口あられ酒卷五に、「さる處に廿四五になる息子あり、未だ女房も持たずヘヤ住居に、さる夜女一人さる方より呼びヘヤに置く。夜半ばかりに母御ヘヤに行き、不思議や無いこと、ヘヤに人の音がする。氣分にても惡く候や。心もと無きと申されたれば、息子きもを潰し、いや氣分もよく※［候の草書］が、今夜何と致したやら、蚤がせゝり※［候の草書］と申す。然らば氣遣ひも無し。憎い蚤かなとて、母御もオモヤへ歸られた。かの女夜明けぬ先にいなしけり。夜明けててゝ親仰せられ※［候の草書］は、いかに兄、かはいさうに、ゆふべの蚤にも朝飯を食はせと言はれた」とある。この所謂憎い蚤なるものは、或は俗にいふ一夜妻であつたかも知れず、實際又女に物を給する慣行もこれに伴なつて居たやうであるが、さりとて「女のよばひ」の場合に限つて交情の特に淡いといふことは無かつた。寧ろヘレオとレアンデルの戀に似た哀切なる多くの物語は、夜毎に女の通うて來たといふ地方にばかり、語り傳へられて居るのであつた。私の見る所では、誕生に産屋があり、葬送に喪屋があつたと同じく、婚姻に婚舍のあることのみが曾ては必要であつて、それを男女の何れの家に屬せしめるかは、最初から必ずしも一定して居なかつたやうである。從つて之を大昔の女系制の痕跡のやうに、速斷しようとすると、必ず無理を言はなければならぬことになるのである。

　更に婚舍の今一つの異例としては、現在は勿論少なくなつて行くだらうと思ふが、特に中間に泊り宿を設けて居たことがある。壹岐の志原村の久喜浦などでは、婚姻はしても家督相續の濟まぬ間は、若夫婦は毎夜他の家へ行つて宿し、決して兩親と起臥を共にして居なかつた（東京人類學會雜誌第三十六號）。娘が家刀自となる迄の輕過として、嫁と稱する苦しい試錬時代が、十年も十五年も續いたといふことは、日本では唯近世の文獻に於てのみ、その澤山の例を(174)見るのであるが、この嫁入の期日の早くなつたといふことは、主婦權の相續即ち所謂杓子讓りの期日の、次第に遲くなつたことを意味するものでは無かつたらうか。兎に角につい近頃まで農村に幾らもあつた娘宿若者宿は、後には單に婚姻の開始の爲だけに便宜を供して居たが、最初の目的は或はヘヤの集合體であつて、個々の家長の管掌せぬ性の事項の全部を、處理すべき場處であつた樣に思はれる。自分等の郷里に近い中國東部の各郡でも、嫁入の當日は普通中宿といふものがあつて、目と鼻ほどの間でも一旦行列がそこに入つて、着替をしたり挨拶を受けたりして居たが、尋ねて行くと此風習は全國的であつた。眞澄遊覽記の天明五年の見聞録に、出羽の雄勝郡でも小宿と稱して、一旦は聟の家の近くの人の家に、「もり木」に負うたまゝ花嫁を負ひ入れることが記してある。信州の北安曇郡では今でも之を「落付き宿」と名づけて、嫁入には必ず一應はそこに入る。其宿は新たに選定することもあるが、多くはハネ親と謂つて兼て親分と頼む人の家であるといふ。阿波の�ｺ島などでも中宿といふものが必ず設けられ、如何に近い處でも爰で暫く休息し、衣裳化粧を直すことにして居るらしい（婚姻寶典）。九州でも肥前川上郷などでは、嫁入は途中必ず親戚もしくは入懇の者の家に立寄り、直接に聟の家へは行かぬことになつて居り、之を「中宿から出る」と謂ふさうである（郷土研究四卷二號）。此等の慣習が、單に今あるだけの必要に基づいて、發生したもので無いことは推定してもよからう。さうして私は更に今日の仲人といふ制度が、亦この中宿と關係して居ることを認めんとする者である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　「なかだちはさかだち」といふ滑稽な諺が、九州などには弘く行はれて居る。村の社交に於て是くらゐ骨折な任務は無いとはいふが、同時に又これ程名譽ある、顔役らしい人の世話も少なかつた。しかもまだ何人にも心付かれて居ない樣だが、外國の婚姻習俗には勿論のこと、日本でも古くは斯ういふ働きをする仲人といふものは無かつたので、つまりは前々からの殆と無意識なる仕來りと、新たに普遍化しようとする嫁入の風儀とが、何處かで牴觸し又妥協しな(175)ければならぬ故に、其仲に立つ者が逆立ちの苦しみを嘗めさせられたのであつた。支那の媒姿などは文字こそたま／＼一つであるが、要するに營利の高砂社に過ぎぬ。即ち男女本人の心を取ればよいのであつた。之に反して村の仲人は?々親を説付ける必要があつた。彼等の所謂仲人口は、普通は貫ひ方の切なる希望を代表したが、稀には又「どうぞ添はせて下さい」といふ頼みを受けて、罷り間違へば二人が身の上を引受ける覺悟を以て、一談判するといふ者もあつた。此點に就いては里方親たちの不承知の場合に、聟を扶けて嫁擔ぎを斷行させた若者頭などと、非常によく似た所があつた。「嫁かたげ」「嫁もそひ」には當の花嫁も與り知らず、強ひて連れ出して食物を供し、女がそれを食するを見て應諾の表意と認めたり、甚だしきは鐵漿を口移しに吹込んで、拒む者を納得させたといふ例さへ聽くが、普通には家に内情があつて佳期を過し易く、擔いでくれる程の熱情ある男ならば、行きたいと思つて居る場合が多く、更に時としては下打合せのもう少し進んで居る者さへあつた。家の方でも嫁入の支度入費に難儀な爲に、擔いでなら連れて行けと言つた樣な例もあつて、それが警察でも干渉しない土地の風を爲したものも少ないとは言はれぬ。村の常識から判斷して、それが男子のすべきことであるか、はたすまじきことであるか、選擇と決心とが果して當を得て、他日近隣の非難を受ける處が無いか否かを明らかにする爲に、相談相手となる者は若者どうし、といふ内にも頭だつ年長者であつた。彼等は言はゞ婚姻の補導者である。だから聟入にも樽入れにも又見合ひにも、若者仲間が同伴する處もあれば、仲人の行く土地もあるので、兩者が婚姻の成立に于與した立場は、ほゞ同じと言つてよかつたのである。

　嫁の親の承諾は固より大切な條件に相違ないが、親は決して諾否の權利ばかりを、振りまはしても居られなかつた。當てにして居る働き娘の、忽ち居なくなることも迷惑ではあるけれども、さりとて花の盛りに言ひ寄る者も無く、年たけ末の寄邊の定まらぬのを、案じない親も無かつたのである。ところが良縁は、神に願掛けをするといふ以上に、女の側からは選定の機會方法が誠に得にくかつた。是が近世中流の家庭の二親の、人知れぬ煩悶でもあれば、都市に(176)は新たに又媒婆式營利業者が出現して、よからぬ智巧を施す原因でもあつた。農村に於ては右にいふが如き仲人制の十分に發達せず、若者仲間の結合が夙く弛んだ處では、多くは品行が亂れ不愉快なる試婚法が行はれ、時としては親が子女の淫奔を黙認し慫慂しなければならぬ土地さへある。若者宿娘宿の存在は、事情に盲目なる人によつて、往々嘲笑せられようとして居る現況であるが、實際は却つてこの宿といふものゝ力を以て、婚姻の亂雜を防止し得たのであつた。

　勿論斯うした古い慣習には、濫用の弊も確かにあり、又新時代の感覺に盾突くやうな惡趣味もあらう。從うて今更亡びたものを復活することは到底賛成し得ないが、少なくとも今日の農村配偶難に心付いた人は、以前の生活に比べて何が缺け、何が補充せられて居ないかを知る必要がある。記録の史學が今尚其問ひに答へ得ぬならば、乃ち轉じてフオクロアの史學に、相談をして見る他は無かつたのである。自分がヘヤの集合體であらうと謂つた娘宿、及び若者宿の婚姻に參與して居たことは、最早實例を擧げずとも誰でも認める所であらうが、不幸にして是まで十分に精確な、又眞面目なる報告を得難かつたのである。そこで改めて澤山の標本の中から、比較的着實な一二を擧げて見ると、偶然ながら出雲の大社に近く、簸川郡の西濱といふ漁村の例が爰にある。此村の特徴は婚姻が主として部落内で行はれ、他村縁組が至つて少ない爲に、其組織が毀れずに居たことである。男女兩方とも、宿の主人は信用ある相應の年輩の者に限るといふから、即ち家筋などは一定して居なかつたのである。親々が頼んで何れかの宿に仲間入をすると、毎晩用が濟み次第連れ立つてこれに集まり、娘宿の方では夜更まで手仕事をして居る。其收入だけは娘たちの小遣になり貯蓄になるのである。若者の方では別に夜業は無く、集まつて話し又は歌ふだけであるが、それが折々は此娘宿にも遊びに行く。男女相知る爲には盆踊り其他の機會もあるが、殊に娘宿の訪問は有效であつた。しかし單に親しくなり氣心がわかるといふだけで、決してふしだら〔四字傍点〕な事は無いさうである。思ふ女が定まれば必ず其娘宿の主人に希望を述べ、さうして奔走をして貰ふ。話が纏まるといふのは多分娘の親の内意をも探ることであらうが、それが確定する(177)と、其日をショヤ（初夜）と名づけて、赤飯を炊いて同宿の娘たちを饗應し、又男から何か固めの贈り物をする。それが濟むと其娘はゲンサイと謂ふことになり、ゲンサイは最早娘宿には來て泊らぬ。嫁入は兩方の家の都合のよい時に、ずつと後れてから執行ふことになつて居たが、それ迄は聟は嫁の家に來て宿するので、之をカヨフと謂つて居る。祝言の席上に嫁御が子を抱いて列することは、西濱では少しも珍しいことでは無いさうである（民族二卷三號）。越中經田村の漁業部落などでは、宿は男女に共同であつて、之をアソブヤドと謂ひ、毎夜十一時頃まで若い者が入交つて、雜談をして面白く遊ぶといふのはさもあらう。勿論此間には相愛して、婚姻する者は澤山にあるが、其以外の間違ひは餘り無いといふことである（同上二號）。「他の間違ひ」とは奇なる語であるが、一生連れ添ふ志の無い者と、誤つて假の契を結ぶことを意味して居る。家々の親たちの我身に代へての思ひ量りは、此危險を防衛する點に於て、勿論「遊ぶ宿」よりも遙かに周到であつた。其代りには進んで最も適した良縁を選擇する方法にかけては、實は彼等は無力であつた。目に見えぬ神の好意に頼らなければならぬほどに、不完全至極のものであつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　宿の主の青年男女に對する指導監督は、地方によつて以前から一樣で無かつたやうである。全體に小學校長を始め、村の有識階級が、此制度の不利な側ばかりに敏感であつた爲に、次第に實着なる者の之に關與する例が尠くなり、末には零落して街道傍の駄菓子店などの、殆と媒合容止以外の能事なき者が、實際の仲人役を兼業する迄になつて、後には潰れてしまつたものが非常に多い。しかし青年等がまだ熱心に慣行を守らうとした場合でも、宿の規則には寛嚴種々の階段があつた。必ずしも總てが前に擧げた出雲越中の漁村の如く、夜の十一時を以て遊びを切上げるものばかりで無かつた。壹岐では若い男女の夜遊びの宿を、現に方言で「泊り宿」と謂つて居る。新婚の夫婦が家を讓られる日まで、毎夜出て寢たといふ久喜浦の宿泊所も、多分亦この泊り宿であつたらう。安藝の倉橋島の尾立浦などにも、(178)今から十餘年前までは若衆宿娘宿があつた。婚姻が成立すれば雙方の宿親は、當然に嫁入の仲人となり、平生も宿子に對して相應の威信を有つて居るのだが、それで居て娘宿の戸には心張棒も錠前も無かつた。毎夜若者たちは方々の娘宿を歴訪して、何處へ行つてゞも自由に眠つた。行儀の惡いことは非常なものだが、しかも此浦の處女には、驚くべく強固なる一種の貞操觀念があつたのである。他處の人たちには信じにくい事であらうと、報告者自身も言つて居る。よく／＼の嫌はれ者で無い限り、普通の作法を守る青年ならば同宿は許されるが、この所謂一種の貞操のみは、死を以て固守せられて居たといふのである。ゲンサイ即ち既に他の男と相約した情人だけは、力と道理とを以て侵害者を防ぎ得たであらうが、未だ配偶を定めぬ孤立の女性が、斯かる無遠慮に對してどうして自ら衛ることを得たかは不思議のやうである。しかしそれには私生兒を生むといふ恥辱が、何よりも怖ろしい制裁として、彼等の心を引締めて居たのである。女に取つては甚だ不利なる一種の流行ではあつたが、此土地にも歐羅巴の或時代に流行したやうに、男は數多く相手を替へるほど、仲間からも異性からも景慕せられるといふ事實があつた。女も一人は男を持つて居る方が肩身が廣いといふものゝ、子供を生むと非常に爪彈きせられる。殊に子が出來てから棄てられて、其子がもし私生兒にでもならうものなら、全く世間から擯斥せられてしまふのであつた。それ故に此村では身ごもる赤子の生れるよりも以前に、確かに其父へ嫁入し得ることが明らかでなければ、娘は少なくとも私の婚姻を忌み避けなければならなかつたのである（民族二卷五號）。

　所謂「てゝ無し兒」の社會上の地位の、至つて特殊なものであつたことには、別に古くからの宗教的理由もあつたかと思ふ。現に右の尾立浦などでも、生土の祭禮の行列に私生兒をして勤めさせる役は、最も花々しい大切な役であつたけれども、それに出て行くのは我が素性を表白する結果になるから、出來るだけそれを避けようとする傾向があつた。我々の深い興味を感じて居るのは、何故にさういふ重要なる祭の任務を、身を恥ぢなければならぬ樣な若者に課することになつたかであるが、其問題は別に一つの方面から、尚精細に考察して見なければ、とても一朝に其神秘(179)を解くことは出來ぬと思つて居る。兎に角に漁村の樣な人の手の幾らでも入用な土地で、母が單獨に引受けなければならぬ子を迷惑がるのは、決して養育の難儀といふ近代式の理由ばかりからでは無かつたらう。一つには因習の然らしむる所、好し惡しは別として、其子が常人と異なる境遇に置かれるのがいやであつた。其爲に私生兒が生れるやうな交際を憎んだのである。現在まだ殘つて居る民間の禁忌の中には、是に稍々近いものが幾つでもある。例へば神樣に供へた物を若い男女が食べると、縁が遠くなると謂つて之を戒めて居る。祭の直會に參加するといふことは、最も高尚な職務であつたけれども、其爲には童貞の生活を守るべき條件があつた故に、尋常の家庭では乃ち之を忌んで、其外形をさへも避けたのである。其他爪髪を火にくべると物狂ひになるといひ、足袋のまゝ寢ると親の死目に逢はれぬといふが如きも、何れも求めてさういふ事をして神人の列に加はらうとした者が曾てあつた故に、他の多數は寧ろ其意に非ずして、同じ結果を招かんことを虞れたのであつた。故にもし是と略々似た動機が、人として父無し子を生むといふことを、戒め愼ましめたとすれば、實は偶然の好影響であつたと言つてもよい。第二の理由は單純に「女のたしなみ」とも名づくべきもので、前途に一つの豫定も無く輕々しく人に許し、末には棄てられて憂目を見ることを省みなかつたのは、誠に恥かしい心弱さであつて、笑はれ嘲られるのは當り前の事だといふ考へ方、是が今日迄も普通の女性の行?を支配して居たのである。日本の文學には、遊女の心理ばかりが花やかに描寫せられ、其影響は幾分かこの種の反撥力を弱めたかと思ふが、其代りに一方には經濟上の緊迫が加はつて、結局は私生兒を持つ怖ろしさが、いつでも彼等の警戒と檢束とを助けて居たのであつた。

　但し今日の戸籍制に在つて、ひとしなみに私生子として取扱つて居るものゝ中にも、元は明白に二つの種類のあつたことは認めなければならぬ。婚姻に親の許さざる婚姻が有り得たと同樣に、今いふ私生兒の中にも單に父の家に迎へられなかつた「てゝ有り兒」も確かにあつた。前に擧げた廣島縣の例では、是をも恥づべきものゝ中に算へる樣になつて居たらしいが、それは必ずしも一般の?態では無かつた。例へば其西隣の山口縣大津島などでは、泊り宿の發(180)達せざる他の多くの地方と同樣に、男は久しい間妻の家に通ひ、懷妊の兆の見える迄は女は普通聟の家へは引取られない。親は事實に於て其聟の誰なるかを知つて居る場合が多いといふのみで、愈々嫁入の必要になる迄は、女は彼等に向つて夫の名を正式には告げず、從つて親の同意不同意も此時に及んで始めて表示せられるのである。稀に氣強い親が嫁入を承知せぬと、其結果は私生兒を我家で養育することゝなり、是に對しては實父には負擔が無い。斯ういふことを繰返して、年取つてしまふ女も折々はあるといふことである（民族二卷五號）。これと反對に飛騨白川村の所謂大家族に於ては、聟の家の方で嫁引取の許可を與へない仕來りが、何時の頃よりか現れて居たのである。其場合にもやはり生れた子は母の家に屬して、今の法令から見れば私生子の名を忍ばなければならぬことは同じであつた。新しい風儀は、確かにこの二つの舊慣をも否認して、私生兒の名の下に一括して居るが、それは必ずしも私生子の生れる理由に、それ／”＼の差別があることを考へてからの判斷では無かつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　個々の小さな社會の舊來の道�ｺによつて、所謂後指をさゝれたのは此種類の私通では無かつた。私生兒の生れると否とには關係なく、淫奔は何時の世に於ても不品行な所業であり、稀にも試婚の稍々自由に過ぎる例があれば、それを「風儀の惡い村」として、寧ろ誇張を以て其惡評を取囃す位であつた。然るに久しく行はれて居た聟入方式をも一括して、苟くも嫁入を以て始まらぬ婚姻のすべてを、無差別に陰のものと見ようとした爲に、幾分か自暴自棄になつて、男女の仲らひの亂雜さが、却つて近代に入つて其度を加へた姿があるのは、考へて見なければならぬことである。大體から言ふと、村では「泊り宿」の機能が制限せられて、配偶者を各自のヘヤに迎へる樣になつた土地の方に、短期の離別が段々數多くなつて來たかと思はれる。かの平安朝期の上臈たちが、?々身を浮草の如く遙蕩せられて居たのは、結果は同じでも又別に原因の指摘し得るものがあるかも知れぬが、兎に角に團體生活の弛緩が、少しづゝ婚姻(181)の嚴肅味を殺いで居たらしき?勢は、其時代の記録からでも窺ひ知ることが出來る。殊に村落には都府の如き冷酷なる第三者の批評が少ない爲に、一たび事情に通ずる同齡團の相互の制裁と監視とが衰へると、直ぐにそれだけの自由を各自が競うて利用せんとすることは、恰も鎌入の規約を解けば、共有山が忽ち赤禿になるのと同じである。其上に女が家居すれば、男に接して互ひの氣性を見拔き、本心を確かめる機會は大部分すぐに失はれてしまふのであつた。勿論盆の踊とか祭とか、又は田植の日とかいふ類の、昔から婚姻の準備の如く看做されて居た集まりは元の儘で、聲や姿や働き振を知り合ふ便宜はあつたのみならず、土地によつては夜話夕涼みにかこつけて、多くの若い者の訪ひ寄るを怪しまず、寧ろ我子の縁定めを容易ならしむる方法として、歡んで之を迎へんとする風さへあつたが、男女が一生の末を懸けて、深く言ひ交すといふには、是だけでは實は滿足で無かつた。それ故に親の護りのまだ十分に行屆かなかつた時代から、早既に懸想は淡く又慌たゞしいものとなつて、從うで所謂「間違ひ」は益々多く、結局娘は水も漏らぬやうな嚴しい監視に一身を打任せなければ、良縁は得られぬことになつてしまつたのである。

　他にも幾つかの原因は算へ上げられるか知らぬが、自分はこの團體生活の弛緩と崩壞こそ、日本の婚姻制の外形を變化せしめた重要な力であつたらうと想像して居る。或は近い頃まで村に殘つて居た若者仲間（普通に今日の青年團の、改良以前の?態と考へられて居るもの）が、實は專らこの婚姻の古風な慣行を維持せんが爲に、いつ迄も存留したのかとも想像して居る。五人組農業組合其他の多くの團體は、何れも時代の新たなる事情に適應して、次々結成し又發育して來たに反して、若者たちの團體のみは、獨り行政の方法や作業の組織とも一致せず、又現在の家族制とも相容れない特殊の機能を認められて居たことは、それが今一つの昔の社會から、必要あつて取傳へられたものと解するより他に、其發生の理由を説明することが出來ぬのである。何にもせよこの結合體が世の中の變り目毎に、必ず少しづゝ其威力を制限せられ、殊に婚姻の方面に於ては、漸次家長の權力に讓歩して來たことは事實である。自分の假定がもし中つて居るならば、日本では婚姻方式の變遷は、前後たゞ一つの非常に長期なる整理改革であつた。年齡階(182)級制の下に既に發生して居た最古の舊慣を、次の家族制の社會に調和させようとする、今尚未完成の改定事業の一續きであつたと言つてよい。それだから現在も頻りに改まつて行く如く、前代にも亦徐々の變化があつたわけで、しかも其方向は常にほゞ一つであつた。從うて甲なる習俗が次第に乙丙丁に入れ替へられたものとして、強ひて其理由を見付けようとするのは無用の勞苦であると思ふ。

　但しこの古風を後の時勢と調和させようとする改定は、今ですら尚半ば以上無意識の運動である故に、其推移の中途、往々にして不愉快なる亂雜を免れなかつたのである。當初村々の小さな結婚團體が、先づ動搖を感じたのは他の部落との接近であつた。國が開けて平和なる交通が繁くなると、貴餞の旅人は遠くからやつて來て、必要のある度に聟入をする。彼等は直接に女の親たちの許しを得んとするのみならず、?々女の家の方から進み迎へる乞聟なるものもあつた。村を出て京に行き他國に行く者にも、異なる婚姻を經驗して還るものが多かつた。其間を又一種の女性がどこと無く遊行して居たのである。遊女がもと賣春を主業として居たといふことは、私にはまだ之を肯定し得る資料が無い。が、兎に角に彼等の婚姻觀は法外に淡かつた。程無き離別を豫期しつゝ、假の契を結ぶことは常であつた。さうして哀れなる浮世事を語り、又物はかなげなる歌を歌つたが故に、人は其輕佻を蔑しみつゝも、他面にはその繊細柔軟の情緒に感化せられる者の多かつたことは、村に行はるゝ近世の民謠に、一度は花柳の巷を經來つたものが、過半であるのを見ても察せられる。即ち遊ぶ宿組織の單調が漸く心づかれ、所謂逢縁奇縁の意外なる變化に、興味を抱くやうになつたのも其爲で、人情の葛藤は是よりして次第に繁からざるを得なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　「よばひ」を夜中に這ふことだと解するに至つた、滑稽千萬なる誤謬も、此間から起つて居る。ゲンサイといふ語が後には隱し女のみを意味し、更に轉じては北國の一部のやうに、色を商ひする氣の毒なる女性に限ることになつたの(183)も、同じ一つの過程を示すものであつた。如何に今日ではもう開け切つて居る田舍でも、僅かに百年前までの村の人の考へ方では、正式聟入より以前の男女關係も、婚姻には相違無かつたのである。末遠い或日の嫁入を豫期せずして、「逢ふ」といふことは無かつたのである。私生兒の母の嘲笑せられるのは、單にそれが深くも言ひ交さずに、人と馴々しくした心無しを、暴露するからであつたと思ふ。即ち婚姻に就いては女自らが判決し決意する習はしの、最も普通であつた名殘なのである。是が若し親の指導と裁量とが全部である場合ならば、笑はれる者は必ず其親で無ければならぬのだが、現在に於ても世間の攻撃はまだ當の本人に向はうとして居る。奇妙な過渡時代といふべきである。

　しかも親々の同意が絶對に必要となると、騙されて一生を誤まる者をそれで防ぎ盡すことは出來ないで、却つて末遂げぬ契りを多くしたことも事實であつた。親が私生孫の引受を覺悟して、單に娘の引渡しを拒んだ場合の如きは、男女は尚嫁入前の?態を續けて居られたわけであるが、大抵はこの明白なる故障によつて其縁も切れてしまひ、中には又さういふ故障を豫期するが故に、殆と何等の後の計畫も無しに、密かに相近づく者をさへ生じたのである。婚姻方式の嚴肅化が却つて澤山の違犯者を生じたことは、所有權思想の擴張が盗賊を増加するの比では無かつた。盗賊が其以前には全く想像し得なかつたものであるに反して、前者は昔ならば極めて普通であつたことで、それを辨へなく繼續するに過ぎなかつたからである。

　兎に角に「宿」の機能が限定せられて、一半は各家の監督に移されてから、一時は女の欺かるゝ危險が、却つて非常に増加したものと認められる。或時代には婚姻選擇の一つの方法として、家の大戸の樞《くるゝ》は卸すべからずといふ不文法のある村もあつた。如何なる深夜にも提灯をつけて、表口から入る者は盗人とは認めぬといふ村もあつた。此　　状態に在つて、眞面目なる若者の既に定まつた夜妻を守護するのは、言はん方も無き辛勞であつた。かの深草の少將などとは違つて、正しく得た者の爲になほ夏冬の夜毎を通つて、之を守らなければならなかつたのである。是が又農村に於て嫁移りの期日を早くすることになり、親子盛りの二夫婦が共に一家に住んで、家庭の小さないさかひを多くした(184)一つの原因では無かつたかと私は思ふ。但し女性の側に於ても、一旦夫を定めた者が、さう安々と誘惑せらるゝことは無いわけであるが、亂雜なる試婚の時期が永く續いて居ると、それと定婚との分界の往々にして立てにくいことがあつた。檢束無き婦人は其爲に嫁入の期を失し、年たけ又は子を産んで後に、誰にも同情せられぬ不幸に陷る者があつたのである。我々から見れば是も境遇であり、もしくは制度と慣行との不調和であつて、責を個人に歸することは出來ぬやうだが、地方には特に此種の女性を意味する名稱が色々あつて、互ひに相戒めて其名を以て呼ばれることを避けて居た。それ等の方言を比べて行くと、自然に何れの點までが公けに許容せられ、又如何なる擧動が不品行と認められたかを明らかにすることが出來る。例へば肥前の平戸でウロタエモンと謂ふなどは、恐らくは古い感覺から出た語であつた。尾張では多情の女をスソビンボ、越後の西蒲原郡などでヨクナシと謂つて居る。此方は則ち近世に入つて、婦人が勤勞のみを以て獨立し難く、又父無し兒の養育の簡易で無いことを實驗してから、かの花野の蝶の如く、身の秋の隱れ家をも考へず、固い約諾も取交さずに、心輕く人に許す者の愚かさを批判した語であつたが、何れにしても現在の社會に於て、等しく私通の語を以て呼ぶものゝ中にも、其歴史から考へ又結果から見て、明白に二つの種類の差別があることを、以前は意識して居た者が多かつたのは明らかである。今日の道�ｺ律が之に對して如何なる評價を下さうとも、史學は決してこの差別を無視することは出來ぬのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　方言のついでを以て今一つ、嫁入の儀式に關する可なり大切な問題が、全く意外な側面からで無いと、近よつて見ることが出來ぬ例を述べて見たい。遊女は今日の思想ではちやうど婚姻制の正面の敵、神聖なる古來の法則を破壞するが爲に、現はれて來たものゝ如く考へられて居るが、曾て彼等の間に認められた風儀なるものを見れば、古く溯れば溯るほどづゝ、愈々共通の點が著しくなつて、是も亦婚姻制の悲しむべき一種の退化であつたことが知れる。則ち(185)此間題の徒らに色道大鑑一流の穿鑿家に、委託し去るべからざる所以である。日本としてはやゝ豐富に失する近代の遊冶郎文獻を渉獵しなければ、問題の要領を説き盡すことも出來ぬが、最も平明なるたつた一つの名稱だけを比較して見ても、そこには早幾つかの暗示がある。娼女の方言には大體に命名の理由の把へ難きものが多い。例へばケイセイと訓む傾城若しくは契情の如きも、それが後代の宛て字に過ぎぬことは誰の目にも明らかである。土娼私娼といふべき古くからの地方的稱呼に至つては、其こじつけをさへ試みなかつたものが稀で無い。現在尚行はれて居る方言の中には、其區域が相應に弘く、單なる一時の隱語のもて囃されたものと、見ることの出來ぬ場合もあるかと思ふ。一例を擧げると東北地方のクサモチ、是は宮城福島の二縣は隅々まで、更に其隣境にも及んで居る。説明としては陣中其他の人寄場へ、器に食物を入れて賣りに來た女が始めの樣にいふ人もあつた。越後の或地方ではヨムギモチともいふさうである。それから西へ行つて鳥取縣ではダンゴ、是も少なくとも出雲迄は擴がつて居る。兩者を一つの起源と見ることには異議はあるまい。三重縣の北部四日市富田のあたりには、元は私娼をケーマンジといふ語があつた。即ち貝饅頭の訛つたのだといふ説もあるが、恐らくは海近くだからそんな聯想をしたゞけで、カイをケーとは此邊では訛らないのである。此ケーは笥であり容器のことであつて、即ち又出來合の食物を運んで居た女といふことであつた。他の多くの地方の米饅頭、或は船鰻頭も亦同類で、マンジウは單に語音のをかしさを興じた爲に、團子蓬餅から次第に改まつて來た迄であらうと思ふ。ところが埼玉縣の一角には、女が隱し男の處に通ふことを、サゲジュウといふ處がある（秩父郡誌）。と同時に密娼を同じ語を以て、呼んで居る地方もあるやうに記憶して居る。サゲジュウは即ち提げ重箱で、是も亦食物を器に入れて持つて行くことを表示する。當世の如く煮賣屋の行渡り、路次の飲食の何でも無くなつた時代には、餅團子の携帶も怪しむに足らぬであらうが、以前の食事は晴でも褻でも、必ず多數の人が集まつてすべきものであつた。江戸前期頃の女訓の書を見れば、部屋の内の「小鍋立て」は女の最も戒しむべき不品行の一つであり、今でも留守事と稱して主人不在中に、變つた料理を企てることを、不快とする感覺だけは、時として農民(186)の間に殘つて居る。しかも其趣味は年と共に發達して、殆と小鍋萬能ともいふべき風習になつた爲に、今や家族の統一が保ち難くなつたことは、恰かも簡便なる燈火火鉢の流行によつて、圍爐裏の側が淋しくなつたのと同じである。斯ういふ私の飲食が抑制せられた最初の理由は、多分はそれが情事と關聯して居たからであらうと思ふ。若き二人のたゞ差向ひで、共同の食事をするといふことが、最初は婚姻の、殊に成立の日を際立たしむべき、思ひ出多き儀式であつた。然るに世には調理した食物を器に容れて、何處へでも一人で賣りに行く女が居た。假に懸想はせぬ迄も此事實に興を催して、徒然なる旅の男などが、諧謔の資に供したことは想像し得られる。今昔物語には鮓を要る販女《ひさめ》が、酒に醉うて人が見て居るとも知らず、反吐を其器の中に突いて何食はぬ顔で立去つたといふ、至つて汚ない話が録せられて居る。是も販女が此種の女性に屬したことを知れば、一層人をして哄笑せしむるに足りたのである。

　或は又人の弄びとなる哀れなる土娼を、カンツともカンツボニギリともいふ地方が弘い。爛壺は即ち新しい酒器のことだから、今日酌婦といふのも同しだと、手輕に考へてしまふ人も多いだらうが、その酌婦といふ名も亦如何にして起つたか。女が男の前に進んで手づから酒を侑めるといふことは、即ち大昔の淺香山の采女では無かつたか。是も現在は小鍋の利用と同じく、殆と毎日の事務となつて、人は誰の酌ででも飲むが、酒が曾て儀式の爲に、特に釀されて居た時代のことを考へると、此役の又無く大切であつたことがわかつて來る。加賀の白山の菊酒由來を始めとして、旅の上臈が來つて行人に酒を販いだといふ話は、何れも彼等の遊女であつたことを意味するかと思ふ。今でも遊蕩輕薄の遊びには、如何なる下戸でも必然的に、飲酒といふことを伴ふべしとして居るのは、無意識ながらも力強い惰性であつた。島原のすみ屋などといふ古風な家に、今は形ばかり淋しく殘つて居るが、昔の廓の遊びの盃事などといふものは、何處に興味があるかも解し難いほど面倒なものであつた。しかも大の男が其所謂杯論の爲に、しば／＼生死の喧嘩をしたといふのは、つまりは假初ながらもそれが配偶者の選定と終始して居たからで、酒は決して單純なる昂奮手段では無かつたのである。「つけさし」といふ語は普通斯ういぶ席だけの用語となり、後には轉じて長煙管の問題(187)ともなつたが、元の起りは道祖神の男女の石像にも見られる如く、多分婚姻初夜の相饗の式だけに限られて居たものであつたらう。

　酒食と婚姻との關係は、一方現代の儀禮の中にも、まだ／＼明瞭に保存せられて居る。「盃をする」といふことを、夫婦親子の縁を結ぶ意味に、用ゐて居るものは普通である。たゞ今日の盃事は、全國最も多數の家に於て、取集めて之を嫁入の日に行ふを常とし、さうで無い迄も此折を特別に重しとして居る爲に、所謂「樽入れ」の樽の酒の如きは、或は後日の酒宴の料に、豫め贈遺せらるゝ財物の如き觀を爲して居るのである。しかしそれは飲む機會が一つ加はつたといふだけで、酒のより古い入用は寧ろ此誓約の日に在つた。宮古群島の伊良部といふ島で、最近に歌ひ出されたアヤゴの詞の中にも、聟が始めて女の親の許しを乞ひに、アライデ酒を携へて行くことが見えて居る。さうして其親が承知といふ代りに、然らば此酒を飲まうよと答へて居る（　　民族一卷一號）。東部では志州の海岸村落なども、此酒は聟が持參して共に飲むことになつて居る。仲人は其以前に往來して吉日を打合せ、此日は聟自身一升の酒を持込んで、先づ嫁の親、次に嫁女と相對して汲みかはす定めである。仲人は其翌日改めて嫁方へ悦びに來るのだが、其折は何も馳走をしないのが本儀とせられて居た。嫁の入家式はやゝ日を隔てゝ行はれるが、其目的は「親子成り」、即ち聟方の身内と盃をするのが主であつた。さうして里方に手が足りぬといふ口實で、再び生家へ戻つて來て子供の二三人も出來るまで、引續いて聟が夜だけ來て宿するのが通例であつたといふ（婚姻寶典）。是などは大よそ明瞭に、「堅めの酒」の、もと聟自身の事務だつたことを示して居る。聟入の酒宴を改めて後に重々しく、執行はねばならぬことになつてから、即ち出來るだけ之を嫁入の時刻に接近させる必要が生じてから、此日が仲人や代人の嫁の家へ行く今風の結納になつてしまつたのである。福島縣田村郡の一部には、結納品交換の前に立つて、「茶入れ」といふ式を行ふ處があるさうである。當日仲人は二袋の茶を嫁の家に持參し、一方の袋の茶を嫁方の茶と混合して、それを嫁及び兩親が入れて飲むのを見屆け、更に他の袋の茶に嫁方の茶を混ぜて、之を聟の家に持つて來て聟と親たちとに賞玩させる。それ(188)が濟むと親類一同も慶びに來り、乃ち婚約の成立したことになるらしいのである（婚姻寶典）。

　結納の意味に用ゐらるゝ地方語も亦數多い。常陸の一部では之をモタイと謂ふ。モタイは食器であらうから、餅とか饅頭とかも此場合に餉られて居たのである。此等の多くの名を比較するならば、結納が酒や定まつた食物を運ぶ式、或は尚一歩を進めて嫁方の親兄と、聟が共同飲食をする式と言ひ得る時が來るであらう。女の家長の承認が婚姻の成立に必要であつた時代には、是が即ち聟入の式になつたのだが、更に聟方の身内の同意を明らかにしなければ、完全で無いと考へらるゝに至つて、早期の聟入は不便を生じ易い爲に、之を代人に委ねて其式の主要なる部分を嫁入の日に移したのである。是と同時に露顯以前に、單に配偶者ばかりの許諾を以て婚姻は既に成立つものと認められた時代には、乃ち出雲の西濱などの樣に、初夜に娘宿に於て赤飯を炊いたのである。根本に於て共同飲食の式の最も重要であつたのは、一生の苦樂を共にすべき男女二人の間であつたことはいふ迄もない。餅も酒も亦赤飯も、何れも常用から差別した晴の膳であつた。それを最も容易に又心安く、いつでも男子と共に食ふことを辭せなかつたのは、年中ヨメの樣な装ひをした特殊の上臈だけであつた。彼等を其特徴によつて餅の分配者、もしくは酒の供與者と名づけたのも自然といふべきである。但し女が漂泊遊行を以て業とせず、土に根を卸した尋常の家庭に在つては、婚姻は獨り男女二人の結合なるに止らず、同時に一族門黨の結合であり、更に又?々二部落の結合でもあつた。方式に少なくとも前後三つの階段のあるは已むを得ないのである。昔の人たちは寧ろ此階段を以て、生活の變化を確め強めるの道として居たかも知れぬ。葬儀も二度、此世に生れて來る手續きにも二段あつた如く、婚姻もこの色々の方式を重ねて、強くなり又成長するものと信じて居たのかも知れぬ。しかしそれは社會を同じくする總ての人が、同じ方向に歩んで居る時のことである。親が自分の若い盛りに支配せられた法則で、我子我娘を指導することを欲しなくなると、二つの希望を統一して、何れか一つを優越ならしめるの道を設けなければならぬ。新しい文化樣式は特に家長の爲に有利であつた。滅び衰ふべきものはより古い、説明のしにくい婚姻團體の慣行であつた。そこで婚姻の中心を聟入から嫁入(189)へ、段々に押し下げて行くことになつたが、しかも見合ひとか「言ひ入れ」とかの、無害なるものゝ痕跡だけは殘した。さうして必ず履まなければならぬ肝要な方式の方は、次から次へと履行すべき場合を移して行つて、たとへば所謂床盃は「親子名乘」より後に、三日の餅は里開きの日に至つて、之を行ふを通例とするやうにもなつたのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　是は獨り婚姻の場合には限らず、他の多くの儀式も亦同じ順序を踏んだもので、それが時代と共に變化して來たといふことは、實はその或部分の最も重きを置かれたものが、轉じて他の部分に移つたといふ迄であつたやうである。元服が手輕になつて裳着袴着を幼年のうちに濟ませ、一方には初の節供に祖父母たちが力を入れるが如き、或は神社の祭典に供饌の式のみ物々しく、巫祝を通じて神語りを聽かうとした時間が、今は單なる餘興の如くなつてしまつたが如き、何れもまだ尋ね究められない理由の、之を促したものが有るといふことだけは察せられる。甲の慣習を有つ種族が退いて、乙の慣習を守れるものが進出したので無いことは勿論、新たに外から運ばれて來て、國民の行爲を引直した或力があつたのでも無いことは、常理を以てほゞ推定し得るにも拘らず、時を隔てた二期の記録を突合せて見ると、時代は恰も梅桃李の木が、それ／”＼の果實を稔らせた樣な形を示して居る。之を處理するの法果して奈何。第一には先づ文書の載せ傳ふる所は人と地域と年代との、至つて僅かな部分しか覆うて居らぬといふことを思はねばならぬ。次にはその古今の比較を試みるに當つて、始めから等類を絶した端と端とを竝べて、強ひて變化の奇に驚くやうなことは避けねばならぬ。婚姻は萬人の必ず一度以上計畫し又實行する所ではあるが、其樣式にはおのづから各自の標準とするものがあつて、必ずしも全國諸種の境涯に在る者と、歩調を一にすることを念としては居ない。例へば京都貴紳の執行ふ作法と、諸國に分散する武家土豪の禮式とは、何れの世にも一方が他を代表しては居ない。從つて同じ時代を比べて見ても、尚明白なる相違が見られたかも知れぬ。それを恰も時代の差の如く見ることの不當なるは(190)言ふ迄もない。武家は其成立ちからいへば寧ろ農民と近いものであつたが、後漸く異なる生活に導かれて、誰よりも先に新しい婚姻法を採用して、改定の範を示すことになつた。その流れを汲んだ者は都鄙に數多く、又學問の力に支援せられて、徐々として古風を征服したが、それでもその所謂標準文化の影響がまだ隅々までは行渡らぬうちに、世の中は既に我々の眼前まで展開し來つたのである。新舊兩端の對立と混亂とは、却つて田舍に於て甚だしく、從つて實際問題の殊に複雜なるものが、相次いで村に現はれて居るのである。農家青年の配偶者難と稱するものなどは其重大なる一つであつた。今後の史學は果して周到なるフオクロアの援助無しに、是が解釋を引受けられるであらうか。又果して今日の不用意なる民俗學なるものが、之に對して一票の發言權を持つと言ひ得るであらうか。是が自分などの抱いて居る正直なる疑惑である。

　少なくとも爰に一つの希望はある。我々の資料は探訪の時やゝ後れたりと雖、日を追うて尚其量と確實さを加へんとして居る。若し幸ひに其一致と類似と變化とを辿つて、相互の脈絡を見出すことが出來るならば、行く／＼或は現社會相の横斷面が、久しい前代の生活過程の投影であることを證明し得て、今のやうに不安な?繹論法の、御厄介にならずに濟む時代が來るかも知れない。さうして其演習の爲には、婚姻習俗の沿革などは、我々にはちやうど頃合であり、實社會にも亦決して迂遠で無いのである。我々に手の屆く資料だけからでも、最早斷定してよからうと思ふことは、第一は嫁入といふ儀式が時と共に成長し、且つ其威力を加へて來たことである。「よばひ」を戀の命とした京の昔の社會に於ても、引移りは婚姻生活の一つの要素であつたと見えて、女はいつの間にか家刀自となつて、夫の家に兒と共に住んで居るが、其行列や門を入る作法などは、つひぞ記傳家の筆には上らなかつた。武家では之に反して輿入を一つの眉目とし、之に關する綿密な典範が定められたが、しかも一方には尚今日の社會に於ても、極度に簡略な嫁入の慣習は弘く殘つて居るのである。例へば聟殿はわざと留守にして、其間に嫁が遣つて來て、舅姑との盃を專らにするもあれば、聟は家に居つても勝手の爐傍などに閑却せられ、始から終まで表の間の酒宴には列ならぬものもあ(191)る。所謂本式の婚禮に於ては、花嫁は堂々と正面の入口から乘り込み、これを一生に一度の晴として居るに反して、必ず花嫁は臺所の方から上つて來ることを方式として居る土地が、九州にも又東國にもあつた。或はもう一段と手輕なのは、不斷着のまゝで遣つて來て挨拶を濟ませ、直ぐに其日から働くといふ場合もあり、又は親の看護とか生れ子の祝とかの折に來て、其儘居附いてしまふやうな場合もあつた。行列を立て大きな酒盛をせぬといふのみで、是とても事實嫁入に相違なかつたことは、中世上流の嫁娶を考へて見てもわかる。しかも之を記録出現の順序によつて、一旦繁瑣を極めて居た武家時代式の嫁入が、貧苦其他の理由の爲に、再び此通りの省略に戻つてしまつたものと、推定することが出來るだらうか。

　自分等の觀る所では、是は嫁入の儀式が特に武家といふ一つの階級のみに於て、夙く異常の發達を遂げたことを意味する迄であると思ふ。さうして其影響が次第に町人百姓の由緒を説き家格を口にする者を通つて、弘く一般民衆の間に及び、終には是までの仕來りを海邊山間の片隅に押出したことは、今ならばまだ故老の記憶によつて、其經過を明らかにすることが出來るのである。儀式が他の日常の行爲と差別せられる要點は、第一には改まつた飲食の共同受用、次には服飾の變更即ち女が吉女となることであるが、偏卑な土地の嫁入には今尚それを認めないものがある。晴着は貧富に拘らず常衣とは同じで無いのだが、伊豆の大島や八丈島、西海では屋久島や對馬の一部分に、近い頃までは「着のみ着のまゝ」で引移りを濟ませる習はしがあつた。都市と其周圍の多くの家の婚姻には、時としてやゝ不相應の紋服櫛笄などを調達し、おまけに「色直し」と稱して何囘も式のなかばに衣装を取替へ、或は部屋見舞の名の下に其支度を見に來る者もあれば、又露骨に「嫁見せ」「衣裳見せ」とも謂つて見せなければならぬことになつて居る處もある。ところが一方には全然之と反して、荷物は里に置いて永い間にぽつ／＼と取寄せたり、又は能登の一隅でする樣に、嫁入終つて「初ちようはい」の後、生家に留まつて身のまはりの支度を始める例もある。嫁入の儀式が近世に入つて成長したと私のいふのは、斯ういふ事實を根據としたのである。嫁の荷物は最も行列を花やかならしめるも(192)ので、儀式の外部に對する效果は、殆と受渡しの長持唄を中心として居ると言つてもよい位だが、地方によつてはまだそれを此式に加へて居ない。伊賀の上野邊は嫁入過ぎて後一月以上、互ひの氣心が知れてから荷物が來る。披露の祝ひも此時を以て行はれる。阿波の名東郡では嫁の行列と荷物とは、必ず路を違へて行くことになつて居る。要するに是も最初から、嫁入と不可分なる手續きでは無かつたからである。

　嫁入といふ語は、もと聟入といふ語に準じて、後れて出來たものであることは前にも述べた。東部日本の田舍ではムカサリ又はオカタムカヘ、九州にはゴゼンケ（御前迎へ）といふ土地もあつた。或はたゞ單にオカタナリ、もしくはカカナリと謂つた者もあるのを見ると、婚姻と家に入ることとは以前全く別の事件であつたこと、恰かも男子の縁組と相續とが、今でも二つの事件であるのと同じであつて、もし何かの方式の之に伴なふものがありとすれば、それは縁女の新たに主婦となるの式であつたかも知れぬ。對州佐須奈や伊豆大島等に於て、嫁は入家の日には常衣のまゝで來り、親の葬送の日に始めて盛装するといふのと同じ例が、他にも尚色々の形で發見せられるならば、さういふ想像も末には成立つであらう。兎も角も嫁入は本來此樣に早く、又これ程手重に行はれる儀式では無かつた。婚姻者雙方の生活事情の變化が、婚舍を聟の家に置き同時に新婦を聟方の監督に委ぬるを便とするに至つて、始めて此手續のみが獨り重要となり、聟入其他の是に先だつて行はれる儀禮が、自然に萎縮して其型ばかり殘るか、さうで無ければ皆嫁入を中心に集合してしまつたのである。中でも全國に亙つて最も數多く、一種平凡なる奇習ともいふべき墨塗り水あびせ石打ち尻叩き、或は途中に關を据ゑて菓子をねだり、障子に穴をあけて惡口するの類、大よそ花嫁の難儀をする樣々の慣行の如きは、昔は其折も無く、又新たに發明せられたとて人が承知をする筈も無い。それが慣行の一語を以て、大抵の自由思想家も讓歩をして居たといふのは、要するに是も亦儀式の一部だつたからである。曾ては聟入の日の「聟いぢめ」の形を以て現はれたものが、嫁入本位の婚姻制が普通になると、鉾を轉じて此方に向つて來たといふのみである。古く聟入の慣習のまだ盛んでなかつた頃には、或は又別樣の方法に依つたかと思ふが、兎に角に各個人(193)の婚姻に付いて、一度は是非とも顯れなければならぬ群の意思、當世の新式に於ては「披露の宴」と名づくるものと根源は一つのものであつた。之を公認と謂つても又仲間の制裁と謂つても、共にほゞ當つて居る。父母伯叔が子の配偶者と他人であり得なかつたと同樣に、社會も亦此結合に參與すべき確かな歴史的根據を有つて居た。さうして儀式はちやうど其交渉の境の上に、出現し又成長すべきものであつたらしいのである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　もし世人が想像して居た樣に、親々の許否が絶對の權能であつたならば、却つて儀式といふものゝ成立つべき餘地は少なかつたのである。儀式に必要なるものは衆人の和合であつた。拒めば拒み得る強い力を抑制して、之を寛大なる容認に變形し、一方は又相手の爲す無きを豫期しつゝも、少しでもその發露せずして終つた勢威を無視しないといふ所に、儀式の最も意義ある嚴肅味はあつたかと思ふ。だからこの試みられざるものゝ承認が繰返されて居るうちに、實力はいつの間にか移り又は衰へて居ることも稀で無く、皮肉な見方をすれば、寧ろ實力のやゝ危ぶまれんとするに臨んで、却つて儀式の重要さが高く唱へられたかとさへ感じられる。古來多くの祭典の最も完備したのは、少しく信仰の傾きかけた際であつて、其目的は維持と復活とに在つた。婚姻の場合なども、或は同じやうな事情があつたのであらう。例へば家を異にする近親などは、最も熱心な儀式の參加者で、しかも滅多に故障を唱へる者で無いが、それを豫測してもし賛成を求めることを怠れば、大抵は不快を抱いて出席をしなかつた。村の青年等が惡戯は如何に質の惡いものでも、之に由つて婚姻の成立を妨げようとまでするものは決して無い。けれども彼等の所行の畏るゝに足らぬことを明示すれば、後では必ず恨を含まずには居なかつた。儀式は恐らくは彼等の既に衰へたる權力の、大切なる一種の記念碑では無いかと私は考へて居る。

　嫁入の式の如きも、それが女の聟方への入家を許諾する方式で無いことは確かだが、少なくとも曾てさういふ許諾(194)を必要とした時代の、名殘であると迄は言ひ得る。武家が特別に早期の嫁入、即ち嫁入を以て開始する婚姻法を必要とした理由は、坂東諸名門の系譜を一見したゞけでも直ぐに解る。多くの勇士の母は或場合には家の女房、又稀には遊女であつたこともあるが、其他は大抵隣國の大家の娘であつた。伊豆の河津の三郎祐泰が妻は、沼の平太の娘で安房の人とある。其夫が若死をすると今度は相州の曾我へ再縁した。もし斯ういふ場合に古風な聟入を先づ濟ませなければならぬとすると、結句聟殿は旅の空に、若き日を暮すことになつてしまふのである。又さうした旅の若人を迎へて、聟にまうけたといふ話も多く殘つて居る。貞永式目には月卿雲客を聟に取るべからずといふ規定もあるから、それがあの時代の父親の普通の弱點であつたかも知れぬが、京下りの官人なればこそ新たなる便宜もあり、また制止すべき弊害もあつたので、其他の場合には直ぐに所領分配の問題が生ずる。引留めて住ませて一門を盛んにすることが希望であつても、固より其力には限りがあつて、坐ながら山路の牛飼や牛若御曹子の、笛を吹いて訪ひ寄ることを、いつ迄も待つて居るわけには行かなかつたのである。日本獨特の養子聟制は、追々に男の相續者の無き場合に限るやうになつて來た。さうして後には一族門黨の結合の代りに、縁者即ち嫁入先の誼みを以て、互ひに勢力を支援しようとする傾向が現はれた。戰國の最中には聟の欺かれて舅に殺された者も多く、又人質やら嫁やら分らぬ樣な縁組もあつたが、大體に於てはそれが政治上の強みであつたことは、豫め幕府の允許を受けなければ縁談を調へてはならぬといふ禁令のあるのを見ても察せられる。婚姻が不許可で無效になる樣では、愈々以て嫁入前の私婚は不可能と言はねばならぬ。おまけに花嫁は法外に幼弱であり、又は年ばかり取つても世間知らずである爲に、到底親の監督せぬ交通を許し得なかつた。是が我邦の近世社會に、親の愛情を以て本人の智慮に代位するやうな、「家の結婚」の流行し始めた根源である。

　男の側には今一つ、深く室家の問題を顧念せぬやうな傾向もあつた。是は軍陣事滋きが爲に特に剛毅の氣風を激成したものか、或は更に複雜なる他の事情も助けたか、兎に角に青年の異性に對する愛情は、外目には著しく淡泊にな(195)つて居た。此點が歐洲中世の騎士風と、右左に違つて見える。例外は勿論あるが、配偶者の選定は親に一任して置くべきだといふ考へ方が、今でもまだ一部には傳はつて居る。是は決して固有の習ひではないのである。此結果嫁入が貰ひ方親たちの意思によつて左右せらるゝことになつたのは當然で、是が亦近世以後の新しい現象であつた。自分の知る限りでは、親の許すとか裂くとかいふ「親」は、常に女の父母だけを意味して居た。ところが後になると「女房を持たせる」とか貰つて遣るとか、家に入れるとかいふ色々の語が出現した。是を單純に孝道の發達、儒教の感化といふ風に解することは私は敢てしない。それよりももつと大きく、尋常の家庭を動かした經濟上の理由があるからである。一言でいふならば、家族の手が足らないで困る際には、渡す方の承知が得難く、餘つて困る樣になれば受ける方が躊躇をする。つまりは土地と人口との釣合の問題であることは、所謂人返し立退き百姓の處理方法が、最初は還送の義務であつて後次第に逐立ての權利となつたのと同じである。本人の立場からいふと、是を嫁の地位が大切なものになつたとたいへるし、或は又自分の働きが輕く見られるやうになつたとも言へる。だから働かずして養はるゝ中以上の家庭では、嫁の引移りが早くして又物々しかつたのである。

　是は露骨な言ひ方であるが、女の勤勞の高く評價せられる階級では、自然に嫁入は出來るだけ遲く、聟入は少しでも早く行はれざるを得なかつた。といふわけは聟入は女を乞ひに行く方式であつたからである。しかも其聟入にも亦儀式の漸く重要となり、且つ大いに成長する時代があつたことは、嫁入と異なる所がなかつたやうである。即ち女の親に色々の注文があつて、其條件に合はぬと頑として許諾を拒むことがあるとすると、露顯以前の私婚は不安であり又時としては危險である。乃ち聟入を以て婚姻開始の日とする必要のあることは、後の嫁入の場合も同樣であるが、實際に於ては親の愛情は夙に干渉して、かなし子の爲に萬全の策を講ずるに怠慢で無かつた。放縱を以て目せられる才女文學期の婚姻生活に於てすら、少なくとも母の與り知らぬ樣な私婚は稀にしか成立たなかつた。單に當時の風儀がまだ公けに男の名を訊くことを許さなかつたのみで、有る限の支度を整へて所謂「處顯はし」の夜を待兼ね、聟の鞋(196)を懷に抱きしめて、嬉しさに眠れなかつたといふ記録さへ存して居る。しかも狂言記などを讀んで見ると、此乞聟奔走聟の黄金時代は、隨分と長く續いて居たのであつた。是が農夫の平凡なる小家庭に、どれ程まで普及して居たかは問題であつたが、今でも遠近の島々に至つて數多く、親の許容の下に通うて來る聟の例を見る以上は、現在嫁入を以て本式として居る諸國の村里も、一度は此階段を經て進んで來たことを推測して置いて、大いなる過ちは無いと思ふ。但し此事實を以て外戚權力の優越と見ることは出來ない。前にもいふ如く是は唯長く家の娘の勤勞を利用して、末には安全に彼女を安樂なる家庭の主婦に、送り込む手段として選ばれたる方法であつたからである。

　今日の嫁入起點の婚姻と比較すると、聟入本位の方にはまだ其内容に若干の古風を存して居る。仲人といふ特定の一人が、逆立ちになる迄往來奔走しなかつたことも其一つであり、片方の親たちが餘り口を出さず、語を換へて言へば聟の判斷がより強く働いて居たことも亦一つであつた。それから女性の才能と心ばせとが、比較的精確に男の胸に映じたことも亦事實で、中には陰から附智惠をされたり、艶書の答へを代作して貰つたなどといふ話もあるが、兎に角に先づ自ら相手の心を捉へる必要はあつたのである。それから今一つの特徴は群の指導力の、尚潜んで大いに働いて居たことであつた。聟は他所から突入して來た場合に、劫かされ又いぢめられたばかりで無く、村で生れた者ならば色々と扶けられて居た。勿論最初の選定には干渉も批評もあつたらうが、愈々似合ひの夫婦と決すれば、其將來は期待せられたのである。少なくとも條理の無い離別をしようとする者は、土地を立退く決心を以てかゝらなければならなかつたのである。ヘヤの孤立は婚姻の永續の爲にも、如何にも心元無く外部からは見えるが、村に耳目があり口の制裁がある限りは、なほ或程度までは親の監督の不備を補充することが出來たのである。

　是等は何れも皆將に滅亡せんとして居る結婚圖體の餘威であつた。或はこの時代錯誤の機關が、幾つかの缺點を持ちながらも永い歳月と拮抗して辛うじて保存せられて來た理由とも言つてよからう。果して新時代の感覺に調和するものだけを、撰り分けて殘すことが出來るものならば、必ずしも舊物として一切を排除しないでよいが、それを實驗(197)する爲にはもう少し婚姻史が客觀せられなければならない。學校と家庭の性教育は成程不完全至極のものであらうが、以前其任務を引受けて居た同齡團は、又稍々不必要なる程度にまで、其實習を擴張して居たのである。たとへ許多の條件制限を付與してゞも之を復活せしめることは第一に青年會處女會自身が承知をしまい。又今日の嫁入中心の結婚法が、女性の小さく滿足し易い心持を利用して、單に將來の身の落付の爲に、あらゆる積極的利益を犠牲とし、あらゆる見合ひと聟入の方法を抑制したことは事實だが、果して農民に不適當なる今日の深窓淑女主義が、何等の危險に暴露すること無くして、新たなる選擇の自由を利用し得る見込はあるだらうか。配偶者銘々獨自の鑑識を以て、選定して悔いずと言ひ切る爲には、單に剛健なる農婦氣質を復活させたゞけでは十分で無い。己を知り又將來の可能性を理解して、迷ひ無く互ひに相匹敵する者を見立てようとすれば、世間の口即ち仲間の批評に十分に從順でなければならぬのであるが、其批評者は以前團體員の境遇心情がまだ大よそ同樣式であつた頃から、既に時々は誤つたる又無理な斷定を下し易かつたのである。ましてや今日は貧富教育の變化も烈しく、人は悉く思ひ揚がつて居る。たま／＼この古くからの結合體の力弛み、其制裁の必ずしも強壓的で無いことを、寧ろ悦ばなければならぬ實情に在るのである。それだから自分等はまだ澤山の援助を此方面に期待しない。が幸ひにして將來の風儀の改良が、先づ理解の乏しい長老等に代つて、若干の計畫無き亂婚を整理し、次には仲人の職業的なる、もしくは私の動機に基づく周旋を、少しづゝなりとも團體の中堅へ取上げることが出來たならば、もうそれだけでも此機關の今まで殘つて居た意義はあると思つて居る。村の勇氣と村の正義との禮讃には、其背後に黒き瞳と、長き睫のかゞやいて居たことを思はねばならぬ。青年をして相共に氣節を練磨せしめるには、是を戰國時代の若武者の如くに、わざと愛情から遠ざからしめる必要は些しも無い。女の甲斐々々しさと優しさも亦此通りで、妻とするに足るといふ一語こそ、何物よりも精密なる女�ｺのバロメートルであつたのである。ところが前代二段の婚姻式は、全く羮に懲りて膾を吹いて居た。しかもかの發達して止まざりし父權の力を以てするも、終に根こそぎに古くからあつた力を除き得ず、それが無意味に儀式化して、馬(198)鹿々々しい聟いぢめ嫁いぢめの慣習を遺すに至つたのである。私が聟入式の婚姻も亦嫁入と同樣に、或時大いに成長して後再び衰へたものであることを指摘して、更に今一つ以前の時代に相應した習俗があつたことを説かうとするのは、決して單純なる古代史家の趣味を追ふものでは無い。始あるものには必ず終がある。現に今日の嫁入式にも、種々なる考へ深い改訂が行はれようとして居る。其次に來るものは果して何であらうか。是が答へなければならぬ實際の社會問題であるからである。

　

(199)　　　家閑談

　

(201)　　　　　自序

　

　家の問題については、前は斯ういふ風な話し方しか私には出來なかつた。今の民法が制定せられてから、僅か四十年ばかりの間にも、實は日本人の家に對する考へ方が、よほど始めとは變つて來て居たのだが、それを言はれることを悦ばぬ者が多く、私たちの方にも亦之をはつきりと指摘するだけの、證據がまだ出揃つて居なかつたからである。

　ところが今度は又ちやうどそれと反對に、法令さへ新たにするならば、忽ち一國の慣習を變化させてしまふことが出來るかの如く、思つて居る人が澤山になつて來た。さういふ筈は決してないのだが、それを後になつてからあゝさうだつたかと、悟つただけでは何にもならない。考へて見るとすれば今がちやうどよい時なのである。小さな統一も無い文章ではあるが、人が現行法の枠の中に於て、どれだけまで自由な選擇をして來たかといふことを明らかにする爲には、多少の參考にはなると思つて、之を世の中に殘して置く氣になつた。

　今から三年ほど以前、族制語彙と題する一册の索引みたやうな本を私は出してゐる。現在日本の可なり弘い區域に亙つて、今でもまだ公認せられて居る通例といふものゝ中には、都市その他の開けた土地に住む者が、もう夙くに通り過ぎて來て、もとは斯うだつたと謂つてゐるやうな生活樣式が幾通りかあつて、その昔風といふものにもよく見ると段階があり、それが又どうやら歴史の順序とも一致するやうである。一方が變らずに居られなくて變つたと同じやうに、こちらは又そつとして置かなければならぬ理由が、少なくとも今まではあつたのである。その理由又は事情といふものを、出來れば一通りは知つて置かうといふのが、この語彙を集め始めた私の目的であつた。其必要は最近は一層大きくなつたと思ふので、なほ是からも其仕事をつゞけて、何べんでも増補改訂し(202)て行かうとして居る。家閑談に出て來る二三の文章は、この仕事のなかばに於て、ふと心づいて人に話して見たものゝ筆記であつて、まだ結論といふほどのものは無いに拘らず、なるほどそれは氣が付かずに居たと、仲間で協同の問題にして居るものが幾つか有る。

　史學に豫言の權能の無いことは、保守でも革新の場合でも同じことである。今有る僅かばかりの過去知識を楯に取つて、世人を指導し得るやうな顔をすることが、學者の信頼の憎むべき濫用であることは、今後といへども變る所は無い。しかし一方にはそんな指導に唯々として服して居た御互ひの間にも責は無しとしない。今まで私たちの全く知らずに居たことが、實は非常に多かつたといふことを、先づ心付くのが第一の急務ではないかと思ふ。次にはそれを知らうといふ志を抱きさへすれば、方法はまだ色々あつて、結局は次第に皆判つて來るだらうといふ希望を持つことが、國全體を賢くする特に有效なる手段でないかと思ふ。それをまだ學者に承認もさせずに置いて、豫め彼等を信用したのは、我々の方にも手落ちがあつた。

　同胞國民が今まで歩んで來た道は、いつの場合にも一つの選擇であつた。それが或る時は正しく、又或る時は誤つて居たといふことが、程經てもう間に合はなくなつた頃に、やつと判つて來るほど悲しいことは無い。斯ういふ悲しみを避けんが爲にこそ、國の歴史の教育は備はつて居たのでは無かつたか。然るに年久しく積み重ねられた、祖先の經驗を精確にしようとせず、物には必ず原因があることを覺らしめんともせずに、ひたすら彼等の常識を概念の世界へ導き去らうとした故に、今日のやうな?態は生れたのである。是からさき／”＼の選擇は更に六つかしく、其結果の心もとなさも一段と加はつて居て、しかも依然として判斷は國民のものなのである。いはゆる曲學阿世の怖ろしさは、今は却つて前代の倍にもなつて居る。幸ひなことには歴史を現代の科學とする爲に、尤もふさはしい一つの問題、誰一人としてめい／＼の疑惑を抱かずにはすまされない家構成の問題が、今ちやうど緒論の舞臺に登場したのである。是が果してどういふ風に、各自の現實と調和するか、法令は果してどの程度(203)にまで、我々の自由を制限し得るであらうか。よもや大昔の天之御柱の故事などを引いて、いゝ頃加減の答辯をして居られまいから、自然に我が近代文化史の空白といふことが、心付かれずに居ないことゝ思ふ。史學の振興は今が一つの潮時であると言つてよい。私の小さな又やゝ臆病な家閑談などは、直ちに目前の切實なる疑問に答へ得ぬであらうが、少なくとも是を常識の擴張には役立てようとして居る。其爲に讀者を一般人の中に豫期し、又立言の空虚なものでないことを、族制語彙等によつて證據立てゝ居る。

　

　　　　　昭和廿一年八月

　

(205)　　　　　社會と子ども

　

　　　　　　　一　出振舞

　

　如何なる態度を以て昔の日本人は、誕生といふものを迎へて居たかと云ふことを考へて見よう。出産の前の儀式として、今日普通に認められて居るのは、五月の岩田帶或は帶の祝とも謂ふたのだけで、時が進むと共に家の關心は次第に深くなつて行くわけだが、それを表現するやうな定まつた行事は、もう追々に見られなくならうとして居る。以前はさうで無かつたといふことは、今もまだ各地の殘留によつて推測し得られるのである。

　第一に帶と稱して、腹に何等かの布切れを捲付ける風習なども、今では産科醫が生理學上の説明をするであらうし、一方には又神佛の加護、もしくは熊の腹帶のやうに、呪法の力を説く者も多からうが、少なくともそれを五月目に限る樣にいふことだけは、近世の智慧であつたと思はれる。女が始めて母になる兆候を見せた時に、先づ騷ぐのは當然に里の母であつて、それをあべこべに聟の家へ、タノミニユクと稱して報告する義務のやうなものを負うて居る例が、飛騨にもあれば又北九州にもある。多分はこゝ暫らくは滿足な勞働も出來まいから、いたはつて遣つてくれといふ頼みであらう。此際には餅とか魚とかの正式食物を携へて行き、又は隣近所までも挨拶に廻り、もつと固い家では御茶と謂つて、簡單な飲食に招くことさへ有る。甲州では之をニウジャクイハヒと謂ふ村がある（中巨摩郡誌）。語の意味(206)は不明だが、或は出産をニフと謂つた古語と關係があるのかも知れない。この日の食物もやはり里方の贈遺を主として居る。伊勢の一志郡では中祝と謂つて、身ごもつて三月目に日を選んで之をする。是をも帶祝といふ人はあるが、腹帶はまだ此時にはしないらしいから、名の起りは別にあるやうに思はれる。

　所謂着帶式はオビナホシ、又はオビモラヒ等の色々の方言もあるが、其期日は七月目頃の、戌の日を選ぶといふ土地も少なからず、且つ他の重々しい外部に對する行事を伴なふものが多い。たとへば岐阜縣海津郡などの或村では、初子の場合に限つて、里から紅白の餅を贈つて來る風がある。其餅には必ず二粒の小豆を入れてあつて、餅を切るときに小豆粒が二つに切れると女の兒、切れずに其まゝ出ると男の兒の生れる知らせとしたといふのは、よつぽど男の方に歩のいゝ占法であつたが、其日をウブイハヒと謂つて、やはり又七月目の式であつた（近畿民俗一ノ二）。ウブはもと御産のことで、必ずしも初子に限らなかつたことは、産屋をウブヤ又はオビヤといふ例を見てもわかる。帶祝のオビも或はもと此方であつたのが、後々帶にばかり重きを置くやうになつて、名の解釋が變つたのかと思ふ。千葉縣の海岸地方には、その帶祝のことをオボダテと謂つて居る村がある。次の産立飯の條に説く樣に、オボダテ又はウブタテの式は、現今は産れてから後に行ふ例が多く、時としては生後數週間を過ぎて、産屋を取拂ふことをさういふ處さへあるが、もとは崖の神の祭り始めといふ意味であつたらしいから、愈々子が生れるときまつた時に此名の儀式があつたとしても不思議は無い。

　一方には五月の所謂帶祝もせず、もう分娩に近くなつてから、何か改まつた作法を必要とする所もあり、或は雙方を共に行ふ地方もある。臨月を加賀の大根布の販女等はワカヅキといひ、安房の宮崎ではオトシヅキ、山口縣などではデヅキと謂つて居るが、後者ではその出月に入つてから、出月祝と稱して近隣の婦人を招き、小宴を開くことにして居る土地もある。靜岡縣にはデブルマヒといふ語が行はれて居るが、或郡ではそれが出産後の祝であり、他の或郡ではやはり臨月になつて、媒妁人や親類から餅を贈り、又は招かれて食事を共にすることをさう呼んで居る（志太郡(207)誌）。或はこの出振舞を、デギョウ・デンギョウ又はデギョウブルマヒなどといふ郡もあるが（小笠郡誌・磐田郡誌）、とにかくに趣意は帶祝などと同じと見えて、今では何れも皆戌の日を用ゐることにして居る。

　デギョウは字に書けば出饗と書くといふが、其説はまだ少しばかり怪しい。しかし何れにしても出月の出、即ち人が此世に出るといふことゝ、關係のある語にはちがひない。興味のあることは、同じ靜岡縣の濱名湖岸から、愛知縣の東部にかけて、この臨月の祝をヤラヒギョウと謂つて居ることで、こゝでも里の家から赤飯餅などを重箱に入れて贈つて來る。或は姙婦が自ら歸つて、里の食物を食べて來る例もあるが、是は以前に出産は生家に還つてした風習と關聯するらしく、里の米を食べると力になるといひ、又は油揚豆腐を食へば産が輕いとも謂つて居る。ヤラヒといふ語は辭書を見ると、鬼をやらふとか儺をやらふとか、いやな者を追拂ふ意味に用ゐられた例ばかりで、從つて之を待ちに待つ生れ兒の場合に適用したのが解し難く、其爲に隣の三河渥美郡などでは、之をヤライギとも又ヤリアゲとも言ひかへて使つて居るが、ヤラフは遣るといふ行爲の持續する?態を言ひ現はす動詞と思はれるから、もとは好意をもつた場合にも用ゐてよかつたのである。現に土佐から伊豫の西南にかけて、小兒の養育をコヤラヒ、又孫ヤラヒといふ語も弘く殘つて居る。私は寧ろ前に立つて引張るので無く、後の方に居て驅り立てゝ進ませようとした態度を、面白くも又嬉しくも思ふのである。この遠江西部のヤラヒギョウと思ひ合されるのは、越後の東蒲原郡から其附近へかけての山村で、嫁入の日に嫁の家で、娘の仲間や親類の人たちを招いて、別れの酒宴を催すのをヤラヒギョウと謂つて居ることである。是などは明らかに生家から外へ出すのだから、一段とヤラフと呼ぶにふさはしい。赤兒を世に出すことをヤラフといふのは少しきつ過ぎるので、或は是を機會に子の母を、他家の家族にする意味かとも考へられぬことは無いが、別にデギョウといふ名も近くに在るのみならず、三重縣志摩の漁村などでは、臨月に姙婦を招いて食事をさせることをオヒダシゲ（追出し餉）と謂ひ、又は三河の中部地方で、此際に實家から豆の飯などを贈り屆けて來て、その孕み人に食べさせることを、ヨビダシとも謂つて居るのを見ると、やはり胎内の子に元氣を付け奮發さ(208)せて、此世の一歩を踏出させんとした、精神的聲援であつたことが推察せられる。斯ういふ意志表示が生れて出る者の爲に大きな力であり強味であつたことは、今の人たちはもう忘れて居るが、次々の例に於て可なり明瞭に著れて居る。若い聟嫁雙方の親は勿論、親類も近所隣の人も一同に、夙くから汝の生れて來るを待ち、生れたら仲間として共々に生きて行かうといふ用意があることを、この位丁寧に形に現はし示されたならば、胎兒の立場から見ても先づ安全といふことが出來る。現に二番目以下には此儀式がずつと粗略になり、從つて又その生存權も少しづゝ弱くなつて居る。貧乏な家には「いらぬ子」といふ者があつて、生れぬ前から危險が多かつたと共に、どんな日陰者の片親の生む兒でも、資力の許す限りはこの待受けの手續を履んで、いつかは世に出て行く支度をしたことは、近世の文藝の中にも數多く例が示されて、それを讀む人の心を動かして居る。一族一郷の意思の集合が、我々の生活力を支持するといふ考へ方は、今でも幽かにはまだ殘つて居るが、昔は食物が具體的に、分れて各自の身に入つて、鏈鎖の役をするものと信じて居た。それで食物の共同といふことが、常に儀式の中心をなして居たのである。

　

　　　　　　　二　産立飯

　

　いはゆる帶の祝が段々に單純化して、單に布を以て腹部を結はへて置くだけの、内輪の行事のやうになつてからも、世間はまだ可なり之を重要視し、悦びを述べたり物を贈つたりすることは、よほど西洋の國々とちがつて居るかと思ふが、なほ其以外にも子が生れるとすぐに、出來るだけ速かに之を公けの事實にしようとする努力が、今でも地方には可なり明瞭に見られる。瀬戸内海の沿岸から、九州北部にかけてウブメシ又は産の飯と謂ひ、關東の田舍や甲斐信濃越後の各地に亙り、産屋の飯もしくはウブタテの御飯などと呼んで居るものは、大部分はこの例であつて、出産の即時に米の飯を炊き、生れ兒と産婦に供する外に、産婆手傳人はいふに及ばず、成るべく多くの女たちに、集まつて(209)一しよに食べてもらふ。その人數が多ければ多いだけ、赤子が世に出てから大きな世帶をもつと謂ひ、又は一生繁昌するやうに、必ず一升以上の米を飯にして、食べ盡すがよいといふ處も東國には多い。

　但しこの最初の共食者には制限があつた。男は通例一七夜の過ぎるまで、觸穢の忌を怖れて産の家には近づかぬ樣にして居たので、當然にこの産の飯には參加しない。從つて彼等の公認は名付祝の時に始まるのであつた。或はこの忌の隔離が不便なので、特に産前の祝宴を必要としたのかとも思はれる。とにかくに元は一家の男たちまでが、産婦と火を交へることを避けたので、其爲に設けられた小屋假屋が、近頃まで處々に殘つて居た。今でも狩人や漁師には心から之を怖れ、狩漁の不成功の原因を、所謂白不淨の穢れに歸する者が多く、女も亦一家の幸福の爲に、甘んじて忌の制約を守つて居る。佐渡の加茂村などでは、産屋の飯は成るだけ大きな鍋で炊くといふが、其場に居合せた者が皆食べてしまつて、少しでも後に殘さぬやうにして居る。或は始めから其米を限定して、忌を怖れる者が食はずにすむやうにする例もある。對馬峯村などで謂ふウブノゴハンは、茶碗に一ぱい盛り切りの米を炊いて産婦だけに供するといふのは、死人の枕飯、又は婚禮に嫁聟二人きりで食べる高盛飯とも似て居る。産婦は非常に飢ゑて居るから、殘らず食べてしまふといふが、さうとばかりも定まつて居なかつたらう。やはり一家の姑が一箸とか、從兄弟の兒童に手傳つてもらふとか、他でも聞くやうに共食すべき人が元はあつたので、少なくとも産婆や介抱人だけは、其忌を避けなかつたものと思ふ。

　忌の最も大切な戎愼は、神樣の前に近よらぬことであつたが、その神々の中でもウブガミサマだけは、やはりこの産屋の飯を供へて御祭り申したのである。産神に對する我々の考へ方も、土地によつて少しづゝ變つて來て居るが、最も普通には産屋が立つ時から、又少なくとも御産のある時には、もう此神は來て守つてござるものと思はれて居た。たゞ會津檜枝岐の山村のやうに、産神樣は赤兒を啼かせるから、成るべく早く次の産屋へ行つてもらふやうに、このウブタテノマンマを早くするのだなどといふ者が、段々と多くなつて居るのである。ウブタテのタテを出發の義に解(210)するのは後の心であらう。雷をカンダチ・ユダチなどと謂ふと同じく、タチの本來の意味は出現であつて、それを供物の進獻によつて意識するから、ウブタテと他動詞に言ひ現はしたものと私などは考へて居る。赤城山南の村々では、此行事を又ウブコダテとも謂つて居る。産後直ちに女の人たちに食べてもらふ飯から、先づ一つの握飯を結んで、女の兒のときは釜の蓋を裏返した上に、男の子なら硯箱に載せて産神に供へる（上毛文化一ノ五）。是と共に小石を皿に置くこと、其飯に窪みの出來るのを喜ぶ風などは、弘く他の地方に行はれる産神の飯と同じだが、他ではもう是を生れ兒に初めて與へる食事のやうに、解して居る人も少なくないのである。

　是は日本人の最も古い信仰で、誰かゞ力を入れて考へて見るべき問題の一つなのだが、今まで全國に是だけ弘い一致のあることを知らず、どこでも自分の處だけの奇習ぐらゐに思つて居た爲に、省みられずして追々に消えかゝつて居るのである。私などの意見では、産神と産兒と膳が一つで、どちらに供へたものかはつきりとせぬ所が、却つて古い信仰の名殘で、以前は大人でも祭に仕へる本人は、斯うして神に代つて供物を食べたのかと思ふ。赤子は現實には食べることが出來ぬが、産神の飯は理論上、自分の身になる食物の最初のものであつた故に、之によつて後々の生活を代表せしめ得るとせられたのである。其飯を山盛りにして強く押付け、赤子の頸の骨が早くしつかりとするやうにと謂つたり、又は成長してから笑顔の好くなるまじなひと謂つて、飯の兩側に指の先をさし入れて、二つの窪みをこしらへたりする習はしは、奧羽地方だけはまだ聞かぬが、他の殆とすべての府縣に飛び飛びに分布し、壹岐ではその爲に之をヱクボメシとさへ呼んで居る（民俗誌）。斯ういふ解釋は中世以後かも知れぬが、基づく所はあつたかと思ふ。それを私たちは今一段と綿密に、考察して見ようとして居るのである。

　一つの要點として注意しなければならぬのは、その産飯の正式の膳の上に、一箇又は二三箇の小石を持つて來て載せることで、是も全國に亙つて、前の笑靨飯などよりも數多く報告せられて居るが、土地によつて名も異なり、解説も亦區々になつて居る。たとへば�ｺ島縣の南海岸の村などでは、此小石を力石と呼び、濱から拾つて來て産飯の膳の(211)上に載せ、子供が堅く育つやうにと謂つて居る。伊豫の宇和島地方に行くと之をウブイシと謂ひ、やはりウブママの膳に添へるもので、イシノオカズといふ者もあるが、是は堅い美しい小石を二つ、家の雨垂落ちから拾つて來てよく洗つて使ふので、用がすんだ後は臍の緒と一緒に保存して置き、嫁入のときにも持つて行くといふ。鳥取縣の各郡では此小石をアタマイシと呼んで居る。赤兒のあたまが早く固くなるやうにと謂つて、之を祝ひの膳に載せることは同じだが、其日は七日目の親類よびの日とする例が多い。伯耆の赤碕の町などは、三日目の産毛剃りの祝に之をする。さうして其小石は後に臍の緒うぶ毛と共に、紙に包んで往來のまん中を掘つて埋めるさうである（因伯民談一ノ三）。石の始末に就いても土地毎の慣習は少しづゝちがつて居るが、之を膳の上に置くといふ期日にも、此通り變化が生じて居るのである。自分たち兄弟の故郷では、百日の喰初めの日になつて始めて小石を膳に置き、齒が丈夫になる祝ひごとゝして居たのだが、信州などの話を聽いて見ると、例外も無く之を出産當日の、所謂ウブタテ飯の時の行事として居る。さうかと思ふと相州の江（ノ）島などは、滿一年の誕生日が喰初めで、此日カナイシと稱する石を膳の上に載せ、之を子に嘗めさせると齒が丈夫になると謂ひ、一方には又三河の老津福江等には、産前ずつと早く帶祝の時から、もうこの小石を祭つて居る例もあるのである。

　愛知縣は此問題に關する限り、全體に古い考へ方がよく殘つて居るやうで、小石をたゞ單なるまじなひや縁喜物とは見ずに、産神樣の御本尊だといふ者が多い。石は無疵の形のよい丸石の徑二寸までのもので、常は戎棚や戸棚の中に置き、産があると三日目に、小豆飯と豆腐汁を其小石に供へるといふ處があり（尾張萩原町）、又、無いときには新たに産土神の境内から借りて來るといふ處もある（同甚目寺）。三河の方に來ると石は眞黒なのが二つ、或は白い小石が二つといふ例もある。渥美半島の村々では、村中に前から傳はつて居る小石を迎へ、又は取上婆さんの家に在るのを持つて來る他に、其都度氏神の境内や屋敷の地の神の所から拾つて來るといふのもある。何れも帶祝の日からウブノカミサンとして祭り始め、祭るときは膳の上に載せ、すむと又戎棚に上げて置く。七日祝を過ぎて後に、借りて來(212)たのは返し、拾つて來たのは清い所へ埋め、又はもとの神地へ戻しに行くといふ（三州奧郡産育風俗圓繪）。

　鎭守・氏神・うぶすなの三つの名は、現在はしば／＼混同して用ゐられ、もう其區分を説明し難くなつて居るが、村には少なくとも産の穢れのある者が參詣することの出來ぬ神樣と、進んで向ふから産屋の忌の中に、入つて來て守護して下さる神樣とがあつたのである。我々の産神は神道の體系から離脱し、説話傳説の中に退隱して、既に色々の、誤解や誇張を以て包まれて居るが、しかも凡俗の苦惱の最も痛切なるときのみは、今なほ呼ばれ?られ又眞心に祭り拜まれて居るのだから、この信仰はまだ決して迷信では無い。日本には斯ういふ民間傳承が幾つかあるが、其中でも是は重要な、よい加減にして棄てゝ置けない問題である。我々の若い母たちが無用なる不安を免れ、産にはいち早く來て助けたまふべしと信じて居た神は、道祖だ子安だ山神だ箒神だと、土地さま／”＼の解釋が附いては居るが、少なくともその原の名はウブガミであつた。さうして其産神はウブスナサマのことだといふ者が、今でも山口縣の一角と、東北では福島縣の北部などには有るのである。東北には又ウチガミ（内神）とも呼ぶ神があつて、通例は本家の屋敷の隅に、石の厨子などになつて小さく祀られ、今は既に稻荷とか地の神とか、色々の名に同化されたものが多い。しかし一族末家が是を中心に集まつて居るのを見ると、起りは門黨の神で恐らくは共同の祖神かと思はれる。其神が觸穢の忌を超越して、子孫の人世出現に參加せられるといふ信仰が、もしも産土神の本來の特色であつたとすれば、それは當然に近代の鎭守の御社と區別せらるべき、今一段と古い形態と見られると同時に、之に伴なふ旅人相互間の生存權の承認といふことも、國の法制よりもつと遠い由緒を、もつて居るものと言ふことが出來るであらう。

　

　　　　　　　三　引揚着物と袖とほし

　

　生れ兒が徐々に人間の仲間に入つて來る段階のやうなものは、食物よりも寧ろ衣服の方によく表はれて居る。是は(213)用途がはつきりとして居る上に、食事には合火の忌が干渉した故に、それに讓歩して多少の變更、たとへば出産の直後の共同飲食を、産前にくり上げるといふやうなことをしたからであらう。ところが衣服の方面から見て行くと、生れたばかりの赤子にはまだ人竝の待遇を與へず、日を重ね順序を踏んで少しづゝ、自分たちと同じ生活につれ込まうとする趣旨が、かなり明確に察し得られるのである。

　たとへは今日の若い奧樣などは、嬉しさと待遠しさの餘りに、男女どちらともきまらぬ赤坊のきものを、早くから縫つて置く人も有るらしいが、腹ごもりの子の爲に衣服をこしらへることを、いやがる年寄はまだ東京にも少しは居る。さうして少なくとも最初に用意するのは、オクルミと稱して全く袖口の無い、小蒲團に襟を掛けたやうなものである。赤子は兩手を胸に屈めて居て、是で少しも困らぬからさうする樣に、思つて居る人もあらうが、たつた三日を過ぎると袖の明いたものに、必ず着せかへるのだから是は儀式である。佐渡の島の一部では早く着物を着せると、子供がサシガタ即ち怒り肩になるといひ、生れて二日の間は必ず斯うして布切れに卷いて置く。それをヒナマキともマキモンとも、又コシキマキとも謂ひ、それさへ餘り早く作つて置くことを忌み、「生れぬさきのこしき卷き」といふ諺も出來て居る。

　ヒナマキは古い言葉だと見えて、遠く離れて方々の土地に在り、さうしてもう意味がはつきりしない。三河の北設樂郡では是をヒイナ、因幡の八頭郡の山村ではヒヨヒヨギと謂つて居る。ヒヨヒヨは鷄のひよこのことだから雛といふのも同じで、赤子をそれにたとへたのかと思ふ。爰でもやはり兒の顔を見てから縫ふものだと謂ひ、又之を保存して置いて、子供が無理をいふと出して見せ、之を着て見よなどといふのださうである（神馬採集記）。東北では南秋田郡の農村などは、生れ兒は三日の間母の腰卷で、オヒナツツミにして置くと謂つて居る。三日目に産湯を候はせて、始めて着せるのがオボギ即ち産衣である。他の地方に於ては實際には此例が多く、ヒイナやヒヨヒヨは元は包み方の名であつて、別にさういふ特別の衣類が、あつたわけでは無かつたやうに思はれる。濱松地方では生れたときの着物(214)を、コロバカシといふ言葉がある。轉ばかしもおくるみも、共にまだ人竝の衣服を與へない?態をいふので、曾てはすべての日本人が貴賤の分ち無く、必ず通過しなければならぬ關門であつたやうに、私たちには想像せられる。

　次に三日湯といふ名稱も、もう忘れかゝつて居る土地がある。赤兒を洗ふことは三日より前にもあつて、たゞ特にこの三日目の湯を重要視したのか、或は最初は此日になるまで洗はずに置いたのか、何れともまだ私は明言することが出來ぬが、少なくとも近世は前の方が普通になつて居たやうである。三日湯といふ語は信州伊那地方にあるが、三河に越えると之を三日目湯と謂ひ、即ち初湯から三度目の浴みである。作手《つくで》村などではその三日目湯の日に、例の小石を三個、白米の中に入れて飯を炊き、之を供へて産神さまを祭ることにして居る。しかも此附近は一帶に、此日をイゾメともユゾメとも謂ふので、尾張の或村では産婆が來て湯をつかはせた後、赤兒に化粧をする風習もあるといふ。此地方は一般に、この湯初めの日を着初めとも呼んで居る。母の里方から手通しといふ着物を屆けて來て、始めて袖の有るものを着せる日だからである。

　テトホシといふ名稱は、弘く各地に行はれて居るが、異名も亦少なくは無い。たとへば奈良縣宇陀郡の山村などでは、この三日目の着物をカニコトリと謂ふ。カニコは人も知る如く胎便のことで、是が出てしまふ時の衣服といふことらしい。所謂ウブギよりも前に贈つて來るもので、産衣よりは粗末なものと謂つて居る。佐渡の島では之をウブケオトシ、やはり三ツ目の日に嫁の里から贈つて來る。麻布で仕立てるので又ウブカタビラとも謂ふ。現今は麻の袖無しが普通になつて居るが、元は肌につけるものだつたと見えて、是で生れ兒の澁皮を取るなどとも謂つて居る。此日は赤兒の産毛を剃り、それをも産毛落しといふのだから此名稱は新しく、産帷子即ち以前の産衣であつたかと思ふ。下總印旛沼の沿岸では、三日目に親里から贈つて來る産衣の外に、取上婆さんがイナギといふものをくれる。白絹又は白木綿に色絲の飾り縫ひをした袖無し又は襦袢樣の衣服で、之を産屋明きの宮參りの時に上に掛けて出るといふ。イナギのイナは胞衣《えな》の土地音らしく、生れ兒に屬するすべての事物によく附いて居る。安房の海岸でも同じものをイ(215)ナゴと謂ふ。やはり宮參りの日に赤子の着物の上からはおらせる。コといふのは盆ゴ・祭ゴなどと、弘く全國を通じて衣服を意味する語である。福島縣の南會津郡などでは、古くは又エナツケとも呼んで居た。やはり取上婆から贈つて來る麻か木綿のきれでこしらへたもので、色と制式とは報告せられて居ないが（旅と傳説一一ノ一一）、是も恐らく白であつたらうと思ふ。

　産兒の初めての衣服を取上婆から贈るといふことは、私には意味のあることに思はれるが、關西の方ではまだ其例を聞かず、大體に是も里方から屆けるといふものばかり多い。理由は恐らく産婆が夙に職業となつて、以前のやうな關係が無視せられたからであらう。この問題はなほ次の節に説くことにして、他の地方の風習をざつと竝べると、初めてこの着物を着せるのが三日目であり、それまでは只有合せのものにくるんで置くといふことは中部から九州までも大體同じで、只その作り方が土地によつて少しづゝ變化し、後には白で無く、其まゝ實用になる樣な、麻の葉や紅染などになつて行く傾向が見られる。手通しといふ語の行はれて居るのは三河から信州、後者では又三日衣裳の名もあつて、それを其前日に鐵漿親から贈つて來る。中國では備前東部、こゝの手通しは襟も無く後紐で袖半はば、四尺の切れで出來るといふから簡略なものである。石州の海岸地帶でも、手通しは産衣の一部、襦袢と上衣のことで、是だけはどんな貧しい里でも必ず贈ることにして居る。九州四國にもこの言葉はあるが、テヌキといふ方がよく知られて居る。里で産をする場合は聟の家から、やはり三日目に送つて來るものとなつて居る。手貫きもやはり手を通すといふ意味であらう。滋賀縣の各郡ではテツナギといふ。新潟縣は頸城でも蒲原でも、どういふわけでかテダマギモノと謂ひ、東京の近くでは川越地方などで、テカケギモノといふのも是であつて、着せるのは必ず三日目だが、帶祝の日にもう屆けて置くことにして居る家もある。

　飛騨の高山などでは埋葬に先だち、死人に着せてやる所謂經帷子を、手通しと呼んで居ることが注意せられる。誕生と死亡には前に掲げた高盛飯のやうに、一致した儀式が幾つかあるが、是はたゞ衽《おくび》も附けない至つて簡單な、二尺(216)ばかりの着物といふ點が似て居るだけであつて、寧ろ忌詞として葬式の方で借用して居るのかも知れない。三日衣裳におくびを附けぬのは殆と一般のことで、千葉縣のイナギ・イナゴなどを、袖無しと謂つて居るのも其爲らしく、紀州の熊野地方でソデサシといふのも、やはりおくびは無くて、七日の祝になつて始めて大首のある産衣を着せることになつて居る。とにかく是は埋葬の場合とはちがつて、次第に本式に入つて行く階段として、わざと不完全な又特別のものを給するのが趣意であつた。東京でも折々耳にするツマミギモノといふ言葉、又は上方でいふカイツカミなどは、共に製作の故意に粗略であつたことを意味し、しかも袖口だけはあけて手だけは必ず通させることにして居たのは、此日の祝をソデトホシと呼んで居る土地が有るのを見ても明らかである。手は人間の生活の要件といふ考へ方が、隱れて下にあつたのでは無いかと思ふ。私などの郷里播磨で、此日の衣服をヒキアゲギモンと謂つて居るのも、取上婆の取上げと共に、人として仲間に入れてやる意味のやうに考へられる。佐渡の外海府の古風な村では、この生れて最初の衣を、ニンジュギモンと今でも呼んで居る。ニンジュは人數又は人衆、即ち村の人といふことであつた。之を着てしまふともう村の人數に加へられたことになつたのである。

　

　　　　　　　四　取上親

　

　産婆を中國四國の廣い區域に亙つて、引上げ婆さんと呼んで居ることは、三日衣裳の引上げ着物といふ名とたしかに關係が有る。耳馴れて我々は何とも思はずに居るが、取上げ又は引揚げといふ言葉も、さう簡單に言ひ始めたとは見られない。棄てゝ省みずに居たならば、どうなつてしまつたかわからぬといふ意味は、まだ幽かながらも殘つて居るのである。過渡期の日本に成長した人たちは、或はこの感覺に印象づけられて居るかと思ふが、以前は村里の貧しい老女などが、しば／＼「私に禮を言ひなされ」などと、勿論じようだん半分にではあるが、自分が取上げたといふ(217)ことを誇らかに告げたものであつた。即ち生み落されたものを取上げるといふことは、元は一つの大なる援助と、認められて居た時代があつたのである。其點を一通り明らかにして置く必要がある。

　産婆が職業となつたのは必ずしも新しいことで無いが、一方には今でも是を業とする者が居ない土地は幾らもある。さうして臨時の篤志の助産者も、多くは婆であつてそれ／”＼に土地の名は有るのである。その方言を曾て私は比べて見たことがあるが、先づ全國の三分の一ほどは、ウマセとかボコマセとかコナサセとか、何れもすぐに解し得られる單純な名をもつて居る。次には九州のそちこちでヘソノババ又はヘソバアサン、南の島々ではフスアンマア、即ち臍の祖母又は母といふ例がある。臍の緒を切るといふことは熟練を要したのみならず、之に伴なふ作法や唱へごともあつたらしく、家に老女が居らぬと頼む必要が多かつた。だから又淡路島ではヲマキ即ち苧卷きと謂ひ、伊豆新島ではハガシバア即ち剥し婆といひ、隱岐の島ではコウシャサン又は巧者婆と謂つて、段々と專業化の端を開いたのである。この二つの種類の名稱を外にして、更に最も普通に行はれて居るのが、三都を含む大きな面積をもつ取上げ婆、中國一帶の引上げ婆、及び九州のコズヱババなのである。この最後のものは意味がもう不明に歸し、從つてコウゼンバだのコウジババだのと、色々に訛つて來て居るが、スヱルは元來「在らしめる」ことを意味し、必ずしも赤兒を坐らせるといふのでは無かつた。關東の方にはこの動詞は今でもある。たとへば子供が遊び仲間に入れてもらふことを、スヱテクレロといふ風に使つて居る。生れ子をスヱルといふのも、人の中に加へるといふ意味に解してよいやうである。茨城群馬福島等の諸縣で、コトリババといふ子取りなども、養子を取子といひ又聟取嫁取といふ例から推して、もとは收容の義だつたかとも思はれるが、京都では夙く之を奪ひ取るの意に解して、怖れ騷いだことが足利期の記録に出て居る。或はコヤスと謂つた例も岡山縣にはあり、又アラヒアゲバアといふ例が山口縣にはある。洗つたり臍緒を切つたりするのも、もとは三日目の行事であつて、産む介抱までは頼まなかつたのではないかと思ふ。

　この取上婆と生れ兒との關係は、以前は永く續いて居たらしい痕跡がある。後々多くの家へ出入する專門に近い者(218)になつて、給與を多くして縁を切ることにした樣だが、それでも五歳の髪置袴着まで、又は七歳の祝をするまで、堅い家では盆正月の附屆けを持續し、或は婚禮の宴に招くのを終りとし、中には婆の葬式に棺側に附くまでの義理を、認めて居る土地も希有ではない。つまりは取上げも亦一つのオヤコ關係だつたのである。面白いことには取上爺と稱して、その老女の夫をも親とする例がある。上總下總の境の村あたりで、取上親と呼ばれて居るのは、是とは又別であつて、分娩とは關係の無いものがあつた。他の地方で拾ひ親もしくは棄兒親といふのと同樣に、生みの父母との年廻りが惡いとか、生れても／＼育たぬとかいふ家で、かねて村内の福人と言はれる老夫婦を頼み、時刻場所を約してその子を棄て、すぐ後から拾ひ上げて子にしてもらふのである。斯ういふ場合には取上爺さんの方が役が重い。子供は再びつれて還るが、それからは親子又は祖孫の義理が出來、實の子に準じて吉凶に馳せ參じ、日頃は又相應な保護を受ける。この二種類の取上親は、今は全く關係が別であるが、以前には同じ言葉を以て呼んでもよい程に、よく似通うた因縁であつたかと私は思つて居る。即ち取上げるといふことが、活かす大きな力であつたらしいのである。

　生れて來る者の周圍には、生みの父母を始めとして、一族一村、すべて其生存を承認しようと待受ける者で滿ちて居たのだけれども、なほさういふ中に親が自分たち以外の、特に力を分つて助け合ふべき人を、見立てゝ頼まずには居られなかつたといふ點に、何か日本だけの特徴があつたかと私は思つて居る。是が生存の最大危機であり、親の不安の最も切なる時だからといふこともあらうが、實はこの親子成りの契約といふものは、壯年期に入つてからもなほ繰返されて居る。たゞ國民全體から見ると、古風な田舍ほど早目にこの關係を結んでしまひ、開けた土地ほどいつ迄も新しい親を求めて居るだけである。幼年期の取親として最も著名なものは乳親である。是には方式が二通りあつて、一つは合せ乳と謂つて他人の乳を、母乳に混じて飲ませるもの、今一つは最初の一囘だけ、乳付けと稱してよその母の乳を呑ませるもので、是をも乳合せといふものがあるやうだが、何れにしても之に由つて其女性が乳親となり、其子たちが乳兄弟となることは同じであつた。さうして引續いて他家に乳養を託する者は、別に里親とかチシロとか謂(219)つて、この乳親の中には入れなかつたやうに思はれる。中世の物語に現はれて來るメノトといふ乳母の夫、メノトゴといふ乳兄弟なども、果して今日謂ふ所のウバ（乳母）のやうに、母に代つて毎日乳を呑ませて居る關係に基づくものかどうか、もう一度考へて見る必要がある。少なくともたつた一囘の乳付け乳合せで、今でも澤山の乳親乳兄弟は結ばれて居るのである。

　それよりも間接な親子成りは、子守をする娘の父母との間にも實現して居る。沖繩縣下の遠い島で、モリアネといふのも其例かと思ふが、確かなことはまだ調べられて居ない。たゞ少なくともそれが町方の近頃の子守のやうに、給金で雇ひ入れた下女の小さいので無いだけは明らかである。この關係のもつとはつきりして居るのは、東京から近い伊豆の新島で、爰では女の子は貧富によらず、どこかの赤坊の守姉になつて、兄弟の縁を結ぶことになつて居るのみか、其兩親もモリトウ・モリカアと呼ばれて、其時から義理の親になり、實の親にも劣らぬ愛情を子に注ぐ代りに、一生親類になつて縁組にも相談を受け、又嫁入には母と姉とで附いて行くことになつて居る（民族二ノ四）。即ち乳は與へなくとも乳親乳兄弟と同じやうな義理が生ずるのである。

　弱い子供を棄てゝ拾つてもらふのも、大抵は皆赤兒のうちであり、そんな形式は履まずとも、子供の健康を進める爲に、幸福な人を親に取つてヤシナヒゴ、ヤシナヒオヤの縁を求める例は各地に在る。戸籍の表には現はれないでも、猶子といつてもよい養子はまだ行はれて居る。神佛の取子となり又は神官法師を親に取る風習などは、今ではまじなひの一種としか考へられて居るまいが、其名稱なり手續なりに、是といふ區別の無いのを見ると、恐らくは我邦最初の養子制には、斯ういふ精神的の要求が含まれて居たので、現在我々の心持を以て昔を推すことは出來ぬと思ふ。近世の親方取りは範圍ばかり廣くても、其關係は一般に稀薄になつて居る。仲人親であれ職親であれ、又は旅から入つた者の寄親でも草鞋親でも、盃を返すといふまでの義理固いこともせずに、さつさと別れて行き又疎遠にもなつて居る。しかも大の男までが多勢の中に、孤獨で居ることを心細がり、誰かを頼まずには居られぬやうな感覺だけはまだ(220)幽かに殘つて居る。是が昔は至つて濃厚で、特に小兒の爲に痛切に感じられて居たのである。

　

　　　　　　　五　名付親

　

　親が我子の爲に第二第三の親を見つけてやる習はしは、今と比べると昔の方が盛んであつたけれども、それも中世から段々と發達して來たもので、上古以來の固有の制度で無いらしいことは、名付親の例によつてほゞ明らかである。名は人間の生涯の開始であつて、是あるが爲に始めて一個の存在を認められるのだから、生れた即座のものが最も大切でなければならぬのだが、武家では實名を非常に重んずる故に、その確定を成年式の日まで延期し、多くは烏帽子親に頼んで名を付けて貰ひ、又は別に命名を主人其他の長上に頼んで居た。之に反して百姓の名付親は、赤子で無いまでも幼少の間に、頼むのが普通だつたやうで、特に何等かの必要を感じなければ生みの親、もしくは家の人々の相談の上で、もしくは先祖からのきまりによつて、付けてしまふ場合も多かつたのである。其必要といふのは子供が弱くて、最初の名前が惡かつたのではないかといふ不安のある場合、又はさういふ懸念が始めから有る場合で、即ち一方に拾ひ親又は養ひ親を頼まねばならぬ樣な際に、斯ういふ人たちに名付親を兼ねてもらひ、又は別にそれだけの親を頼んだのである。申し子といふのは小説などを見ると、祈願によつて孕む子のことだけのやうだが、現在地方で神申し子といふのは、大抵は生れてから後に丈夫に育つやうに、神の取子にしていたゞくことで、此場合にも神官に名付親になつてもらふ。それから今一つは土地によつて、後日成年になる際に親になつてもらひたい人に、早くから縁を繋いで置かうとして、名付けの親を頼む風もあるらしいが、是は一般のものとは言ひ難いやうに思ふ。とにかくに是等若干の場合を除けば、今でも子に名を與へることは家長の權能で、世間はたゞ其公表を受けて、之を承認し且つ記憶するのが禮儀であり、其爲に又一つの名聽き、もしくは名開きといふ共食の式があつたのである。

(221)　全體に親を外部に求めなければならぬ必要は、家族が小さくなり且つ本家との連鎖がやゝ弱くなるか、もしくは武士階級のやうに、家が幾らでも大きくなり得てから、後の出現と見てよからうと私は考へる。さうなる以前には中央に儼然たる大親があり、また族人中には幾人でも、父母に準ずべき者を見出し得たから、身内で無い人までを煩はすには及ばなかつたからである。とにかくに今日の名を披露する式の中には、ほゝゑましい色々の古風が殘つて居る。東京などの可なり新しい家庭でも、白紙に産れ兒の名を父が書いて、床の間や神棚の下に貼つて置くものをまだ見かける。村では之をする日が通例は七日目で、もはや産屋の忌を怖れるに及ばなくなつた男たちは、招かれて此下に來て飲食を共にするのである。岡山縣などの多くの郡では、例の丸い小石が此日も亦一役をつとめる。即ち生れ子の新しい名前を此石に書いて、之を其子の膳の上に置き、後で氏神の社に納め又は家に保存するのである。或は今一段と原始的に、口で聲高に兒の名を宣明する例もある。たとへば宮崎縣の西米良《にしめら》山村では、こゝは三日目だが新たに弓と矢を作つて、多分は父親か祖父が、片手に子を抱いて其矢を射て箕にあてる。それから後で近い親類の者と、「何といふ子だ」「太郎といふ」といふやうな問答をするのが式である。文字を書いて示すことの出來ない家は前代には幾らもあつた。口で斯ういふ風に披露することが、古い形であつたことは疑ひが無く、又最初はともかくも家で名を付け、よその親を頼まなかつたことも是から想像し得られる。

　産の忌の最も重いのは、通例は初めの一七夜であるが、其中でも三日産屋が殊に大事で、是だけ守れば狩や漁に出てもよいことになつて居た。從つて名付の式も、三日日までは繰上げて居る土地があるのである。或は女の兒は七日又は九日過ぎ、男の兒だけは三日にも五日目にもして居たのは、名を付けずに置く危險が、特に男の方に多かつた爲かと思ふ。青森縣の三戸郡などでは、假名と稱して假に先づ産婆が名を付ける。さうしないと子供が「ひびきらし」になるといふのは（館村誌）、寒い國だからひゞを小兒の一つの災難と見たものであらう。産婆が假名を付けるには、先づ赤子の膳を拜むといふ。即ち産神さまの許しを得て、付けるといふ考へ方であつたらしい。越後の西頸城地方な(222)どは、之を又オブナとも謂つて居る。産名假名は本式の名付祝までのもので、外に向つても通用せず、家でも使ふことは無い筈だが、それでも人間に名が無くて、たとへ暫らくの間でも置くといふことは、不用心なことゝして警戒したのである。今日の戸籍制とはちがつて、以前は名を替へることが無造作であつた。女は大抵一つで通したやうだが、男は農民でも少なくとも三度はとりかへ、業を轉じたり頭を剃つたりする場合は此以外であつた。必ずしも祈願とか厭勝とかの爲でなくとも、それが人生の一つの區切りであつて、從つて目に見えぬ危機が潜んで居ると感じ、新しい名によつてそれを防衛しようとしたのかと思はれる。所謂姓名哲學の根底は遠く且つ深いのである。

　名が人生の最も大切な觸角であることを考へると、是は些しでも意外では無いことだが、我々の新たな名前をもつ日は、いつでも同時に新たなる友だちの出來る機會であつた。成年式が元服と稱して頭の形までをとりかへ、今まで許されなかつた仲間に入つて行く支度に、古い童名を棄てさせたと同じく、否むしろそれよりは廣い範圍で、人に見知られ且つ記憶せられようとした七日目の名付祝が、略すべからざる大きな儀式であつたのは當り前である。忌の隔離の解けるのを待兼ねて、さし支への無い者から少しでも早く、招いて共同の飲食に飽滿せしめずには止まなかつたのも、やはり名前が交通の橋架けであつたと同じく、食物を以て體内の聯絡が取れると思つたからであらう。さういふ中でも我々のなつかしく思ふことは、この七日祝の前後に、親類知音の家の子供を客に招く風で、是は都會地にもまだ殘つて居るかも知らぬが、東北三戸郡などではその共食だけを、特にイトコナノリと呼んで居る。こゝではその日赤坊の爲にも一人前の膳を供へ、その上に例の小石と葱とを添へる。葱は其皮のやうに着物の多くなることを念ずる心だと説明せられて居る。イトコといふ名は、今日は祖父母を共にする者、又は曾祖父母以上を共にする者のみに限られて居るが、古い用ゐ方では親しい者、いはゆる親類の端くれまでを含んで居た。だからイトコを名のるといふよりも、名のつてイトコになるといふ考へ方が元だつたかも知れぬ。ナカマイリといふ語も今日はごく輕く、遊戯に加入することまでさう謂つて居るが、土地によつては仲間は一族門黨を意味する名にもなつて居る。大和の天川村な(223)どでは、仲聞入といふことは名付振舞、即ち垣内の人たちを招いて、子供が生れたことを公表する爲の宴會に限られて居る。

　

　　　　　　　六　初あるき

　

　産屋の忌の期間は母の爲には長く、子の爲には短くてよかつたのであるが、母子は行動を共にしなければならぬ故に、其日限には雙方からの歩み合ひがあり、從つて又土地毎に區々になつて居る。それは一つには村の御社の參拜を以て、小兒外出の主要なる目的とする習はしが始まつたからで、産屋には素より穢れを忌みたまはぬ産神があつて、安産を守つて下さるといふ信仰が、之に伴なうて少しづゝ背後にかくれて行つたのである。しかし一方には家から外へ出るといふことが、その産神の保護に遠ざかり、新たな色々の危難に露出することだといふ警戒が、まだ何かの形になつて殘り傳はつて居る。宮詣りを初あるきの最初の行く先としたのも、見やうによつてはこの防禦方法がもとであつたと云へるかも知れぬ。

　實際に外出の必要は此外にも幾つかあつたのである。第一に親類まはり、殊に産屋を嫁の里に立てると、名付祝以後の式は聟方でするから、近所なれば産れ兒はつれて來られる。聟方で産をした場合にも、里の親たち伯父叔母に、一度は顔出しをさせたいから抱いて行く。よほどひよわな氣遣はしい兒でもないと、産屋の明けるまで母と共に、じつと閉籠つて居るのは先づ無いのである。そこで出あるいても差支の無いやうに、最初にめでたい初あるきをして置くのである。中國九州では是を打立ち祝、又ウヒデともデソメともイダシハジメとも謂ふ地方があり、東北では之をオボミチと謂つて居る。必ず近親を訪ふ故にショウチリ即ち初手入りといひ、又ケライユキといふ處もある。昔も斯ういふ場合には嬰兒の額に、「あやつこ」と稱して斜十文字を鍋墨で描いた。奧羽地方でヤスコと謂つて居るのが其名(224)殘で、後には×を見誤つて大の字をかき、女は小の字にした者もあり、或は犬の字にしたのもあれば、又略して一本棒や點にした者もある。鍋墨もきたならしいので、紅でかき白粉でかく樣になつたが、本來は竈の煤といふ所に、火の神の守護を期する信仰が含まれて居たらしいのである。

　橋は昔の人には氣遣はしい處と考へられ、始めてそこを通るときには式があつた。或は一定の式を終つてからで無いと、橋を渡つてはならぬと戒めて居る者もあれば、又は最初に橋ありと稱して、わざ／＼橋を祭りに行き、それからはもう何處へ行つてもよいといふ者もあり、關東の田舍などは多くは後の方である。祭るといつても式は簡單で、白米を紙に包んで持つて行き、之を橋の左右の袂に播いてから渡るのである。橋の數は必ず三つとか、石の橋に限るとか、念入りにきめて居る例もある。つまり我々の通路のうちで、こゝが最も防禦し易い地點である故に、一方には又眼に見えぬ害敵も之に據つて居るだらうといふ推量から、そこに平和を確保して置かうとしたのである。橋參りをする日は關東では一般に早く、大抵はお七夜即ち名を付ける日に行ふが、なほそれよりも前に今一箇處、最も奇拔なところへ參つてから、次に橋越しをするといふ例も多いのである。

　栃木縣の東部には、この七日目の名付仲聞入の日に、赤子を抱いて井戸と便所、橋と漆の木等に參り、白米と神酒とを上げて來るといふ村がある（民間傳承四ノ八）。漆の木が入つて居るので巡禮の趣旨はほゞわかる。何れも小兒には怖るべき危險の潜む場所であつた。しかし其中でも便所だけは、何かもう少し複雜な動機があつたかと思はれる。便所に參る風習は、他の地方では珍しいであらうが、關東の北半分から甲州信州、越後にかけての相當に廣い地域に、ほゞ一樣に今も行はれて居る。一ばん上品な名としては、栃木縣安蘇郡などでいふオヘヤガミマヰリ、御部屋といふのが厠の忌詞であらうと私は心得て居る。爰では生後七日目の日に、子を抱いて雪隱に行き、麻がらの長さ三尺ほどの箸できたない物を挾み、ちよつと赤坊に食はせる眞似をする。その時にオンコクエ・オンコクエと唱へごとをする所も芳賀郡にはあつて、其オンコクエを直接に此式の名ともして居る。しかし大抵の土地では、雪隱參り又は便所ま(225)はりと率直に呼ぶのが常である。注意すべき點は此際に洗米を白紙に包み、又は是に鰹節の別つたのと錢十文とを添へて、便所の天井につるし、もしくは屋根裏に挿んで來る。それを厠神のオハツと謂ふ村もあるから、簡略ながら是が供膳であつたことがわかる。武藏入間郡などでは子の頭に飯櫃を被らせて行き、又は箸を天井に刺して來たりする。神酒を上げるといふ例も甲州にはある。

　どうして斯ういふことをするかは、土地で聽いて見てももうわからぬやうになつて居る。信州南佐久郡などでは、赤子の尻癖の良いやうにといふが、是も推測であつてそればかりの事で、斯んな大袈裟な式が始まらうとは思はれない。或は額にインノコを描くのと結び付けて、犬の子の如くに丈夫になるやうに、糞を食はせる眞似をするのだといふが（　　山田郡誌）、それもこじつけと認められる。或は又便所の神は美しい姫神であるといひ、それへつれて詣ると容貌がよくなるといふが、是は意外なだけに何か由來があるのかもしれない。他でも便所をよく掃除することを女のたしなみとし、さうすると女は下の病にかゝらず、又美しい子を産むと謂つて居る例は多いからである。とにかくに是が赤子の一生の幸福と、關係があるやうに考へられて居たゞけは爭はれぬ。越後の南魚沼などでは、臍の緒を繼ぐ（切る）時に、七本の葭の莖を斜めにそいだものを竝べ、是で一應は切る眞似をするのだが、その七本の葭をしまつて置いて雪隱參りの際に赤子の産毛と一しよに持參し、それを所謂分別繩に結はへつけて來る（高志路五ノ三）。群馬縣の館林邊では、此日白米等の紙包みと共に、唐黍の箸をこしらへて便所の天井につるして置く。其箸に蟲が附くことを、赤子の夭死する兆として畏れる（上毛文化一ノ五）。子を抱いて行く人はどこでも大抵産婆だが、越後では男の子なら鉈、女なら杓子を腰に挿して行くことにして居る。或は又赤坊に晴着を着せ、紙筆算盤などを携へて行く地方もある（川越地方郷土研究）。

　それよりも更に大切な點かと思ふのは、この雪隱參りを行ふ時と場合である。新潟附近には男は三十五日目、女は五十日目といふ例もあり（民間傳承四ノ八）、佐渡ではあまり早くすると次が早いともいふさうだが、一方群馬縣など(226)は七日よりも前、普通は三夜目に産婆を頼んで、つれて行つてもらふといふばかりか、必ず橋を渡らずに流れを越さずに、近所三軒の便所を拜んでまはると謂ひ、又秩父では單に三日目の日に、子供の額に鍋の墨を塗つて、近所三軒を廻禮することを、今でも雪隱參りと謂つて居る。即ち此式は橋の神の祭よりも、更に今一段と根本的な、外出の準備行爲だつたと見られるのである。近所三軒といふことは又信州の方でも謂つて居る。便所を借りられた家では其兒の身祝ひとして、麻絲を一把與へるといふ例もある。この麻絲といふことは全國の風で、關西では一般に産屋明きの日の宮參りの歸りに、おもな親類知音の家をまはるのであるが、其時に之をやることになつて居る。肥前の島々ではこの贈り物をイノチナガヲと謂ひ、今ではそれに錢包みを結び添へて、赤子の頸に掛けてやる家が多い（五島民俗圖誌）。東京でも氣を付けて居たら、まだ此風が見られると思ふが、それを何といふか私は知らない。名古屋の附近でシラガセンといふのは、其麻絲を長命の兆と見ての白髪錢であり、廣島あたりでスズカケといふのは、其掛け方によつて山伏の鈴懸にたとへたのであらう。祭禮の日に少年が肩に結ぶのは、トリダスキといふ土地が多く、是も麻絲に小さな玩具を結び下げて居る。どちらが元かは知らぬがこの二つは共通のもので、多分は神の目を掛けたまふ者といふ徽章であつたのを、後に是になほ人間同志の好意を、取添へるやうになつたものと考へる。伊豫の南端から土佐の島々へかけては、耳掛錢と稱して御祝儀を絲紐で耳にかけてくれる。近畿地方で紐の錢と謂つて居るのは、其紙包みを水引でぢかに産衣の紐に括りつける。即ち社交の作法は益々前面に現はれて、守神の御力が蔭になつて行くことは、所謂産立飯の場合も全く同じ傾向である。

　

　　　　　　　七　氏子入

　

　宮詣りの期日が土地によつて、可なり目に立つ相異のあるのは、私は氏神思想の變遷に伴なふものと思つて居るが、(227)爰には詳しく説く面積がないから、只事實のみを擧げて置く。東北では産の當座に家で産神の祭を營み、又は邸内のうち神樣を拜むだけで、忌明けの後の宮詣りはせぬ處が多いに反して、關西は一般に是を晴の行事とし、其代りに産の神の信仰の方は、既に説話の?態にまで零落し、小石を膳に載せる理由もわからなくなつて居る。都會の宮參りは三十日、時としては二十一日といふ例もあり、母の忌までが是に準じて短くなつて居るが、滋賀縣などは子の忌だけを早く切上げて、別の人が連れて參るのが普通のやうである。しかし忌ある母の乳に養はるゝ者が、一人だけ忌を清まはるといふことも安心ならぬ爲か、遠江の各郡ではトリヰマヰリと謂つて、鳥居より中へは入らぬことにして居り、三河の西加茂でも元は阪參りとて鳥居の外で拜んで歸り、正式の參拜は百十日にして居た。尾州日間賀島などは、今でもまだ百十日目が産土神參拜の日である。四國や紀州ではウブマヰリを七十五日目にする處が多いが、村によつては是をモモカマヰリとも謂ふから、元はやはり百日目だつたのかと思ふ。百日目は喰初めの日として今も重要視せられる。さうして又百十日目をモモカといふ土地もある。本來は是が母と子と共に清くなつて、御社に參られる日限だつたかと思ふ。

　讃岐の島々でも阿波の祖谷山でも、この宮參りの日をウヂミセといふ。或は神主の廻つて來る時に祭を頼み、それを氏見せといふ村もある。氏見せのすまぬうちに他村へ連れて出ると、氏神樣が取合ひをなさるといふさうだから、とにかくに村の神を拜んで氏子になることを、此地方では氏見せといふのである。近世風の言葉使ひだが、ミセといふのは生れた子を、御目にかけるといふ意味であるらしい。現に淡路の由良などでは、同じ宮參りをゲンゾマヰリと謂つて居る。ゲンゾは見參と字には書いて、舅親とか新しい主人とかに、正式に對面することをいふ中世以來の語である。是を簡單に氏子入といふ地方は至つて弘く、其際に神主から氏子札、又は一代守りといふ木の札を、渡すといふ慣例も多くの土地には出來て居る。それよりも更に奇拔で又手輕な方式は、赤兒を神前で泣かせることで、神は其啼聲を聽いて氏子に御加へになると謂ひ、又は附近の家々でも其聲を聽いて、氏子が出來さつしやつたわいなどとい(228)ふことである。長く拜殿に轉がして置いて、泣き出すまで待つて居るといふのはまだよい方で、村によつては搖ぶつて強ひて啼かせ、又は鼻をつまんだり尻をつねつたりしてなりとも、此日は啼聲を御聽かせ申すべきものとし、又は御參りに來て赤兒が自然に啼くのを、神樣がつねつて下すつたといふ村々さへ方々にあつた。是は九州の方では肥前東松浦郡、肥後の阿蘇、壹岐の島からも報告せられ、中國地方では備中阿哲郡、播磨の印南郡、その他紀州の熊野、伊豆半島、三河や信州などの氏子といふ語の無いところ、又は七十五日も百十日もしてから、宮參りをする所にも此風習は分布して居り、もつと珍しいのは鳥居の傍で、濱に向つて小便をさせて、それで氏子にしてもらつたと謂つて居る例もある（尾州日間賀島西ノ里）。信州の上伊那には此時神前に子を泣かせて、其聲によつて子の運勢を卜し、大きく強く啼くのを好いとする村もある。昔話として殘つて居る神々の運定め、即ち生れた瞬間に産の神さまたちが、子の行末を御きめになるといふ言ひ傳へとは兩立せぬが、とにかくに斯うして産屋の忌が明けてから後に、新たに氏神は認知せられるといふ信仰も、さう新しいものではなかつたのである。

　産土神が既に土地總體の神と考へられて居るやうに、氏神氏子といふ名も今は氏とは關係が無くなつて、そこで生れる色々の氏の赤兒を、總括する名のやうになつて居る。是は異姓の次々の來住者、もしくは舊家のやゝ衰へたものが、各自の氏神に仕へずに、或一つの有力なる氏の神に合同を求めた結果で、其爲に神の尊さは高まつたが、親しみはやゝ薄くなり、幾分重々しい條件を履まなければ、祭祀團への加入が出來なくなつたことを意味するかと私は思つて居る。

　淡路の一部では子の生れた次の冬、氏神に參詣して氏子入をすることをトウといふ（淡路方言研究）。京都とその周圍では之をイリトといふ。トウは頭屋と謂つて輪番に祭の主役になる者の資格である。是に入る日は生れると即日、又は宮參りの日、又は大祭の日を待つて相續人になる者だけ等、村と社とによつて規則はまち／＼であり、從つて年齡も一つから十七八歳まで、色々の例があつて其名稱は一樣に入頭《いりとう》である（京都民俗志）。氏子人といふ式も是と同樣(229)に、但馬の大杉村などは十五になつた年の節分に、酒を携へて氏神の御社に籠り、始めて氏神の子にしてもらふといふ。關東の方ではオシメイリ（御注連入）と謂つて、通例七歳になつた年に神に近づく儀式があるが、是はすべて男の子に限られて居た。都市に今でも行はれて居る袴着の祝といふものが、元は一つであつたらうことは想像し得られるが、女の髪置き紐落しが是と併行して、東京などの十一月十五日の宮參りは、寧ろ女の方が花やかなものになつて居るのは、近世の變化と見るべきであらう。村の男たちの祭の役は重く、從つてそれに早くからの準備が必要であつたことは明らかだが、他方尋常民家の女たちは、一般に久しく祭禮とは縁が薄く、從つて爰でもう一度、神の承認を受けて置くには及ばぬからである。村の公共の安全の爲だけに、神を祀つて居た以前の信仰が、個人各自の幸福を?る風に移つて來て、宮參りの趣旨はいつと無く變化したのである。以前はたゞ祭に仕へる資格ある村人となる爲に、神に見知られて居ることを求めたものと思ふ。

　

　　　　　　　八　成年式まで

　

　人が世に立ち一人前となるが爲に、かねて定まつた試驗を經なければならぬことは、昔は却つて今よりも數しげく、又例外の無いものだつたらしいが、それを窄き門などと歎く者の無かつたのは、是非通してやりたいといふ熱情が盈ち溢れ、從つて又通つて行く者の悦びであつたからである。西洋の學者は第二の誕生などと稱して、成年式だけをひどく重々しく見るやうだが、少なくとも我等の歴史に於ては、この段階は幾つもあつて、それが必ずしも呪法を主たる目的としたものでは無かつた。人間の生の營みを宗教倫理、政治經濟等々に分類して考へることは、それこそ現代人だけの智巧であつて、何千年とも知れない過去社會には、それがすべて融合して、渾然たる「此世」といふものを作つて居た。ちつとやそつとの考察によつて、境目を立て專門の領分をきめようとすることは、實に大膽に過ぎたる(230)企てゞあつたといふことを、民俗學の學徒は皆感じて居る。

　しかしさういふ議論をする前に、我々は今少し事實を明らかにしなければならぬ。成年式以前に自分たちが通つて來た關門は、どれも是も今は廢墟のやうに崩れ壞れて居る。人によつて何とでも、勝手な解釋が下されるほどに、幽かな型ばかりのものになつて居るが、それでもまだ後れ先だつたものを比較することによつて、前にも掲げた如く本意は窺はれる。氏神さまの前につれて來て大きな聲で啼かせ、はい産れましたと報告するのも一つの式なれば、百日に神を代表する小石を前に置いて、母乳以外のものも共に生きる用意があることを、承認してもらふのも試驗で無かつたとは言へない。たゞ何れも人間の今の力に相應した、誠にやさしい又親切な試驗であつたゞけである。殊にほゝゑましく我々の感ずるのは、ちやうど誕生一年の智慧づく頃になつて、鎌とか槌とか算盤とか筆とか、大よそ男の兒の後に持ちさうな物品を多く竝べて、その中の何れを先づ取るかをじつと見て居る風習が、私などの故郷にもあつたことである。無論周圍のものはやゝ干渉して、行く／＼持たせたい品を手近に置く位なことはしたであらう。或は箕をもつて小兒を扇いで後に、おまへは何になる、又はおまへは元何だつたなどと問ふ風習の如きは、形式態度までが少しく今日の少年考査と似て居る。全國殆と一般と言つてもよいのは、此日餅を搗いて親族に配ると共に、其一部分を苞にして滿一年の兒に負はせて見る。背負つてさつさと歩く子もあれば、重くて踞まつてしまふ子もあるが、大體に力一杯といふよりも少し多くを負はせて、へたばつてしまふのを結末として居るのは、何か深い意味のあることらしい。地方によつては單に其兒に新しい草履をはかせて、其餅を踏ましめて、仍て此日を餅踏みとも謂つて居る。斯ういふ少しづゝの相異のどれが古く、どれが改まつたものかを段々に考へて行き、しまひにその一つ／＼の理由動機を明らかにすることは、我々に課せられたる是からの試問である。

　髪置きは男女兒を通じて、以前は可なり重要なシムボリスムであつたらしいが、是だけは今日殆と全く廢れて居る。女は幾分か男の兒よりも早く、結髪の用意をした爲に、この變化が少なかつたけれども、男子は七歳にナナツボウズ(231)と謂つて、一ぺんこつきりと剃つてしまふ風が、近畿四國から、東は信州にも東京附近にも、もとは中々盛んであつた。是はどう解してよいか私にも答へられぬが、新たに始まつた成人の入道と、一つに見るべきものでは無いやうである。七つといふ年は男の兒にとつて、可なり顯著な境堺線であつたことは、色々な點から證明し得られる。殊に東國では前にもいふやうに、此時に幾つかの信仰上の準備をした。上總の東海岸では海につれて行つて水垢離まで取らせる。常陸の北部では御精進祝と名づけて、こゝでは五つの歳だが八朔の三日前、座敷に注連を張つて其中で祝ひ事をするが、女は一切其席へは入れず、之によつて今までの穢れを消すと謂つて居る（山村生活の研究）。或は此時から男女の區別を立てるので、又婚姻の準備とも考へられる。男になつたしるしの最も重要なものはタフサキで、是は通例十三から十五の歳の行事になつて居るのだが、西の方では備前でも豐前でも、八つ又は九つの年に、もうヘコトリやフンドシイハヒをする例がある。女の兒の前掛祝又はユモジイハヒは、七歳の年にする處が又是よりもずつと多い。さうして人を大人にする教育の此年を以つて始まつて居たことは、是も亦書物の中から證明を引くことが出來ると思ふ。

　人が一人前になるといふことの世俗的な意味は、第一には婚姻である。是は強ひてくり上げるなら此年までは、くり上げることが出來たやうで、稀に上流にはさういふ記録がある。元服の早期になつたことも、之に伴なうて説明が出來る。たゞ筋肉を働かして自活しなければならぬ階級では、之に伴なうて第二の要件、即ち働く力があるといふことが期待せられたので、どんなに早熟といつても十三より早くは出來なかつたのである。茨城縣の或區域では、舊家の孤兒などの幼少で相續させなければならぬ者に、便法があつたことが傳へられて居る。ユヒ田と稱して村の若者等を頼み、一日に一段の田を打起してもらひ、其後で慰勞の酒食を出した。ユヒは今日の言葉で相助のことだから、本來は村の一人前の男となるのに、一段歩の田を打つだけの腕節を必要とすることを意味し、たゞ普通の年齡の若者入には、わざ／＼そんな試驗をするに及ばなかつたのかと思はれる。もつと弘い區域に行はれる風習としては、力石又(232)はさし石といふことがある。目方の知られた大小の力石が、村の御社の境内などに置いてあつて、男は少年の頃から暇があると、それをさし擧げたり肩に載せたりして、互ひの力量を試みたので、それで又番持石といふ名もある。米の一俵は約十六貫目ある。その重さの石を人の手を借りずに、肩に載せられることが若者になる資格で、それを十二三歳からなし得る者もあれば、又その倍以上もある大石を自由にさし上げ得る評判の男も村には居た。成年式の前になつてわざ／＼試驗をするまでも無く、青年の力量は村中には知られて居た。固よりそれ以外の色々の美�ｺ長處も具はれば更に良いにちがひなく、實際又多くは併行して居たであらうが、とにかくに最少限度、米を一俵かつがれるといふことは條件であり、それの出來ない者は僧になり商人などを志願したと同時に、一方に此關門を通つた者は、神を祭る團體に入ることを許され、公けの課役には一人として算へられ、共同の生産物は丸一口の分配を受けた外に、配偶者を見つけて之と婚し得ることが、原則として認められたのである。着物に肩揚げ腰揚げがあつて、是を取去ることを成年の特徴としたのは、新たに始まつたことであらうが、少なくともタフサキ即ち褌といふものを身に着けることだけは、古くからの一つの徽章であつたらうと思ふ。是を給與する者は母方の祖父母、又名付親からといふ例も無いではないが、全國を通じて最も弘く行はれて居るのはヲバクレフンドシ、即ち伯母叔母が之を持つて來るもので、その伯叔母は今日はもう父方母方を問はず、又女の兒に對しても同じ事をする。珍しい事實だが、性教育の權能が生みの父母には無く、しかもその以外の最も親しいものに指導せられたいといふ趣意であつたかと思ふ。

　

　　　　　　　後書き

　

　以前尋常の日本人が、人の一生といふものに就いてどういふ風な見方、考へ方感じ方をして居たらうかといふ問題に、深い興味を抱く者は私たちだけではあるまい。所謂精神文化の研究を志す人々は、或はもつと切實に、之を詳か(233)にしたいといふ念に燃えて居られるのかも知れぬ。ところが是ばかりは案外に方法が乏しいのである。歴代先覺の筆の跡は、もと／＼群を拔くが故に殘し傳へられたものばかりであつた。斯くの如く考ふべしといふ教訓は素より多い。おのれは斯く感じたりといふ御手本は溜まつて居る。しかし他の多敷の普通の者が、同じ道を附いてあるいたといふ證據はまだ無いのみか、寧ろちがつた方角を向く者が多い爲に、斯ういふ記録の重要性が、特に大きかつたとも考へることを許されるのである。少なくとも類推は無理であり、別に方法の依るべきものが無くてはならぬのである。日本民俗學の方法はその一つの試みであるが、私は最初に人間生存の開始に關して、今でも國人の中に行はれつゞけて居るかと思ふ行爲の間から、少しづゝ其根柢に潜むものを探り出さうとする。其次には個々の人生の終末、即ち幽明境を隔つる日の感覺の、我々の行事に現はれて居るものを見、更に進んではその生死の中間に於て起るべき、神と人又は人と人との交渉の諸相を、觀察して行くのが順序かと思つて居る。本文の記述にも明らかな如く、是はまだ決して何等の結論でも無い。我々の調査はまだ國の版圖の三分の一にも及んで居ない。是からわかつて來る新たなる事實によつて、補正變改せらるべきものはきつと多いのであるが、少なくとも此方法を以て細心に眞實を究めんと努めるならば、末には我々は今よりもよほど賢こくなるだらうと期待することは出來る。何か物深い意味があるらしいといふだけの、暗示を提供する題目ならば、まだこの以外にも幾つかあるが、是はもう少し民俗學を理解する者に向つて、もつと澤山の勞苦を重ねた人が説くべきもので、私などは其任で無いと思つて居る。たゞこの小さな一文が縁となつて、今少しく自由に一國の現世相が考察し得られ、それが行く／＼まとまつて、大きな共同の悟りとなる日を夢想するばかりである。

　

(234)　　　　　オヤと勞働

　

　　　　　　　　　　一

　

　これまで經濟史の資料として、偶然にまだ利用せられて居らなかつた言語現象、及び我々が同時代人として、それから直接に受け得られる言語感覺に據つて、今一度前代の勞働組織、其他農村の生活を支配して居た國の特徴を考へ直して見よう、といふのがこの論文の小さな目的である。

　農村研究者の在來の資料蒐集法に關しては、私は久しく其徒勞に同情して居た。それと同時に近年の分類統計の精確さに向つても、なほ小さからぬ不安を感じて居るのである。其理由はやがて詳しく述べて見たいと思ふが、要するに現在の如く豐富に過ぎたる記録史料にも、書き洩らされて居る重要なる事實が、まだ幾らあるか測り難いと思ふからである。世間一般の最も有りふれたる常識、是がもし昔も今も同じものであるならば、書き殘さずとも我々はそれに基づいて、物を考へ又學問をするであらう。如何にせん今日の當り前と世間竝とは、既に二十年前のものと大に異なつて居るのみならず、近世と稱せらるる三四世紀間に於てすらも、それが目に立たずに何段と無く推移して居る。しかも一人としてこの地球の動きのやうなものを、敍述して置かうとする者はなかつたのである。從つて眼前に在つては極度に平凡なる事態が、一歩過去に踏み入れば忽然として神秘と化して、薄暗い忘却の陰から、多數の無意識の行動を左右して居るのである。歴史の史料として一番價値の多い同時代記録の中にも、偶然で無ければ此事態は誌さ(235)れてない。是と同時に我々の實驗から出發した問題の選擇に於ては、注意深い人々も往々にして觀察を逸するのである。

　ところが我々の實際の生活には、革命と名づけてよいやうな變化は曾て無かつた。大川を乘越えて是からこちらが現代といふやうな、區切りを持つて居る者は一人も無い。いつでも其瞬間の現在に於て、許されるだけの改良をして進んで來たので、從つて棄てることの出來ないもしくは棄てずに居りたい昔の條件を澤山に背負うて居り、又今でも殘つて居るほどのものは、殊に因縁の深く力の強いものだと言ふことも出來るのである。即ち歴史の最も現代生活に必要なる知識、もしくは實用ある過去とも名づくべきものは、却つて是までの學者の省みようとせず、又は念じても其手段を知らなかつた方面に、横たはつて居るかといふ懸念があるのである。

　私の方法は幾分か物ずきに近く、果して此順序を踏んで進めばよいか否か、自分すらもまだ確信は無いのだが、少なくとも未開拓の曠野を前に控へて居る。幸ひにして是から新たに豫期せられざる若干の事實が明らかになつて來るとすれば、學問の興味と希望とを新たにする點に於いて、或は百千の談理に勝るものがあるかも知れぬ。何となれば我々は言はず語らずの間に、まだ同胞農民に對する理解の缺乏を意識して居るからである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　それで先づ無遠慮に、自分の遣り方を述べて見ようと思ふのであるが、私はいつも小さな疑問を把へて、それを自然の入口にしようとする。諸君に取つても或は多少の興味があるかと思ふのは、村で「親類」といふことが本來は何を意味して居たかといふこと、もつと具體的にいふと、是と農作業との間にどんな關係があつたかといふことである。シンルヰといふ語は固有の日本語では無い。此語が輸入せられ採用せられる以前から、斯邦には今の「親類」に該當する事實は認められて居た。それを舊日本語で、果して何と呼んで居たであらうか。それを先づ私は一應尋ねて見よ(236)うとする。

　文獻の上からはウカラヤカラなどといふ古語が指示せられる。しかし是が一種の装飾語で無く、村の常用であつたといふことは心許ない。少なくとも中世以後に、口語として用ゐて居た證據は無いやうである。そんなら我々の農民は右にいふ「親類」の代りに、如何なる名詞を使用して居たのであるか。現在使はれる色々の方言の中で、どれが最も弘く又最も古かりさうに思はれるか。それを比べて見ることが一つの方法であるやうに私は思つた。事實は次の通りである。親類を意味する日本の地方語は、其主要なるものが七つほどあつて、シンルヰは夙に文書に顯はれ、又標準語に採用せられたといふのみで、其使用區域は實は狹かつた。恐らくは江戸の人などが、比較的早く之を實地に用ゐて居ただけであらうと思ふ。

　これに近い語でルヰケといふ語が富山縣などにあるが、是も「類家」であつて、多分は亦一つの雅語の人望を博したものと思はれる。「一類」といふ方言は存外に弘く行はれて居るやうである。私の見出し得た實例は、

　　イチルヰ　　　　　　　　　　　　　熊本縣人吉附近

　　イチリー　　　　　　　　　　　　　佐賀縣一部

　　イチルイ（イッケ）　　　　　　　　香川縣高松

　　エヂロエ　　　　　　　　　　　　　山形縣米澤

　斯んな風に分布して居るのである。それよりも更に普通であるのはイッケといふ語であつて、是も一家といふ漢字の音、即ち最初誰かゞ目から學んだ語であることは先づ疑が無いが、現今では日本の殆と半分に普及した日常語となつて居る。京都を含んだ近畿中國、四國も九州も大部分は是で通用する他に、北は石川縣から信州北部、東は愛知縣の東部にまで及んで居る。近江などには弘く親戚の全體に亙つて、互ひにイッケと謂つて居る村と、特に分家のみをイッケと謂ふ土地とがある。文字の穿鑿をすれば一家一類は先祖を共同にし、それから分れた家庭に限らなければな(237)らぬ樣だが、これを口にする人たちは、さう範圍を限らぬ方が普通であつて、從つて義は一家の如くである故にイッケといふのだと、解して居る者が多かつたやうである。

　又實際に於てもさういふ趣旨で、此樣な文字を使ひ始めたのかも知れぬが、兎に角に此等も亦「親類」と同樣に、もと外國の文字の借用であつたとすれば、別に以前の語があり、その意味がほゞ之に近かつた故に、誰かがさう謂ひ始めれば附いて來る人が多かつたのであらう。尤も同じ外來語の中でも、個々に就て人望の大小は著しいものがあつたらしく思はれる。「一家」といふ單語ばかりが、特に日本の約半分に亙つて採用せられることになつたのは、何か別に其音の口に適し耳に親しく、もしくは前に使つて居た語から、移つて行き易かつたといふ樣な事情があつたのでは無かつたらうか。其點も亦考へて見なければならぬと思つて居る。

　例へば親戚縁者をユヰショといふことは、茨城縣の北部では普通であり、常陸國誌にも既に其方言を掲げてある他に、信州松本でも親類をイッケ又はユーショ、山口縣の岩國なども親族をユーショと謂つて居る。「由緒」は中世の記録類にも見えて居る漢語で、本來の内容は必ずしも精確に是と一致せず、之を親戚に宛でたのは轉用に過ぎぬのであるが、特に此語の用ゐ易かつた事情は、他日述べたいと思ふユヒ（結）といふ勞働融通の關係が、專ら親戚相互間に行はれて居た點に在るのでは無いかと考へて居る。即ち田植其他の日に來て助け合ふ親類付合をユヒと謂ひ、其仲間をユヒの衆などと謂ふ風があつた爲に、特に由緒といふ漢語が尤もらしく聽えたか、又は偶々此文字を用ゐたのを、正しいとする樣になつたかも知れぬのである。さう想像してもよい一つの根據は、同じ茨城地方に近頃まで、親戚をイードーナカとも謂ふ人があつたことである。ドーナカは或は洞中とも書いて、やはり一門一族を意味して居た。多分武藏の七黨や私の黨、もしくは他の地方で一統などといふ統黨と同じで、ユヒといふ語を其上に冠して、結洞中とも謂つたのであらうと思ふ。斯ういふ類例から推して行くと、イッケといふ語が此樣に弘く普及したのも、何か以前の語の下染があつたからだといふことが出來る。もしさうだとしたら先づ思ひ當るのは、後に擧げようとするイトコ(238)といふ一語である。

　

　　　　　　　　　　三

　

　親類を意味する純然たる日本語で、一番簡單明瞭なるものはナカマである。此語の使用區域は餘り弘くないが、大よそ東京の周圍を取卷いて行はれて居るから、江戸でもシンルヰの前は是であつたらうと思ふ。私の知つて居る限りでは、千葉縣は海上香取の二郡、茨城縣では稻敷郡その他、群馬では邑樂郡、栃木縣で河内郡などが親類をナカマと謂つて居る。標準語に於いては寧ろ血縁以外の關係に限ることになつて居るが、今でも其感覺には仕事を共にするものといふ意味を保持して居る。從うて假に私が想像して居るやうに、親類が本來仕事を共にして居たのであつたら、此語が雙方に通じて用ゐられ、後に分化の必要が起つて、何れか一方に限ることになつたとしても不思議は無い。言葉の成立ちからいふと、仲とあるのは家の内のことであらうから、事實は寧ろ親類の方に適切であつた。

　此語と特に近いのは、遠く離れた�ｺ島縣の一部に、親類をウチマと謂つて居る一例である。茨城の方でも猿島郡などは、近い親族に限つてウチッコと呼んで居る。宮城縣では南部の諸郡、北でも登米郡では親族の方言がウチナカである。長野縣下水内郡はウチワ又ウツワ、石川縣でも能登の鹿島鳳至の二郡に於ては、イッケといふ語も知らぬことは無いが、口では普通にヤウチと謂つて居る。それが隣の福井縣に行くと、ヤウチは組合もしくは仲間のことだと若越方言集に誌してあり、富山縣では射水郡などに於て、友をおい君といふ代りにヤウツと喚びかけることは恰かも奧州南部領で、知人をケヤグ（契約）と喚ぶのと同じであるが、爰とは懸離れた長崎縣の方でも、親類をヤウチと謂ふ土地があり、五島の岐宿村ではそれを約めてヤウッと謂つて居るのを見ると、是などは恐らく古くからの日本語の一つであつた。しかも棟を別ち屋敷を異にして後まで、なほ同族の間柄をヤウチといつたのは、ヤといふのに關する農民の思想の、頗る今日の概念と同じからざりしことを想像せしめるのである。

(239)　或は熊本縣の玉名宇土等の諸郡の如く、特にイッケウチといふ語を以て親類を言ひ現はして居る地方も多いらしいが、是なども古くヤウチの語の行はれて居た名殘かも知れぬ。兎に角に前にヤウチといふ風な考へ方が無かつたら、一族一門とは謂つても「一家」といふ語が斯う普通にはなり得なかつた筈である。だから細かに考へて見たら、是はまだ兄弟叔姪がさう遠くへは出て行かず、同じ一つの住居區域に、固まつて住み得られた時代からの言葉で、後日開發の必要がやゝ彼等を分散せしめて後まで、出來る限りに於て固有の關係を失ふまいとした、痕跡とも言ふことが出來るかも知れぬが、私としてはそれ程の敷衍推論を必要としない。只單に親類といふ語には、今一つ前の時代の日本語があつて消えたこと、もしくは消えなんとしてなは殘つて居るものゝあることを、認めて貰ふだけを以て浦足しようとするのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　但し餘程澤山の類例が集積しないと、之を根據として一般の生活變化を、考察し得ないことは勿論である。地方には孤立してまだ色々の珍しい語が行はれて居る。例へば秋田縣の南の郡では親類をテマハリと謂つて居る。テは通例勞働の單位を意味するから、是も同族が作業を共にした證跡の一つかも知れぬが、他に是と似た命名法が見當らぬから、今はたゞ問題として注意して置くのみである。其他信州の北佐久で同族をクルワ、同北安曇の山村で近親一族をエージ、九州の阿蘇で親族をダラシと謂ふなども、只末には何等かの手掛りとなるかも知れぬと思ふのみである。其中でたゞ一つだけ述べて置きたいのは、多くの地方で親類の意味に使つて居るイチマキといふ語である。マキ又はマケは前に擧げたイードーナカのドーも同じで、單に筋又は系統を一にする者といふだけの語であつたかと思ふ。富山地方ではマツイといふ語が、親類のことのやうにも考へられて居るさうだが、加賀能登一帶では、マツイは只同類といふだけの意味しか持つて居ないやうである。しかしこの二つの語の起原がもし一つだとすれば、是も群又は結合か(240)ら出た名であつて、先づ人類の集團に於て發生したといふことが想像せられ、即ち亦別の方面から、血族の必ず統一すべきものであつたことを、證明する語であるとも見られるのである。

　所謂親類の交際が元は今のやうな吉凶存問以上に、更に一段の經濟的意義と規律とを有つて居たらしきことは、文書史料の側からも既に或程度までは立證し得られるのみならず、又言語現象の一つから見ても、この樣な薄弱なる材料に手數を掛けて、何等かの推測を導かうとする必要は無い位に、もつと安全なる材料が遺つて居る。それを出來るだけ簡略に述べることが、私の最初の目的であるが、前に列擧した幾つかの方言以外に、最も弘く行はれて人が特に奇異に感じて居る一語に、オヤコ又はオヤクといふのがある。親類をオヤコと謂ふ方言の領域は、何人が想像して居るよりも廣大なもので、大體に於て日本を二つに分けて、其東半分の田舍を掩有して居ると謂つて誇張で無い。自分で當つて見た地方を列記すると、先づ北海道だけは移住地だから除いて、青森縣は津輕南部共に、オヤゴ又はオヤグと謂つて謂る。オヤグといふ語は、秋田縣の平野から庄内地方にも及んで居るが、それがオヤコの發音變化に過ぎぬことは、其中間にもオヤコと謂つて居る人が有るのを見てもわかる。例へば大館附近の農民はオヤコナカといひ、莊内でも二百年前はオヤコであつたことが、濱荻といふ方言集に見えて居る。岩手以南の太平洋側はまだ確かめないが、多分オヤコとイトコとの兩方が共に行はれて居たのであらう。イトコは中央部の使用法と最も明らかに相異して居るので、早く訂正せられて新しい語に代つたらしいから、此方面はやゝ混亂して居るかと思はれる。

　日本海側では越後はまだ詳かにせぬが、加賀では河北江沼二郡の農村にオヤコの語があるのみならず、それが又越前の今立郡にも見出され、なほ繼續して遙か西南の方にも及んで居る。それから中部地方に入つて、長野縣では下水内郡諏訪郡などに、他のイッケとかウチワとかいふ語と入交つてオヤコが有る。それが一方には山梨縣の殆と全部、群馬縣の群馬多野佐波三郡に繋がり、千葉縣でも西境の東葛飾郡に於て、ナカマといふ方言と隣を接して居ると同時に、東海道は靜岡縣の各郡にも及んで居るのである。但し靜岡以西では特にオヤクと謂つて、親子といふ語と紛れる(241)のを避けて居るらしいが、伊豆の半島などはまだ明白にオヤコの音を用ゐ、「あの村には私のオヤコが有る」などといふさうである。常人の物言ひには親と子とを一括して指示しなければならぬ場合は多くない。だから斯ういふ風に謂つて居れば、間違ひはさう度々は起らなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　どこ迄このオヤコといふ方言が行渡つて居るかといふことは、私に取つては可なり大切なる事實であるが、今日わかつて居るのは愛知縣の岡崎附近、三重縣では度會郡、滋賀縣でも彦根と八幡との近くに此語があるのみならず、更に京都に迫つて滋賀郡の石山村、畑といふ部落でも親類をオヤコと謂つて居る。即ち殆と逢坂山以東は、すべてオヤコの領分であつたかとも考へられる上に、その京都府の管内に入つても、丹後の加佐與謝二郡には同じ方言があつて、南の方のイッケと對立して居るのである。それで今の處では此邊を大凡の境と見て居るのであるが、申す迄も無く此地方は交通の最も繁く、二つ以上の異種文化の、殊に對立併存し難い土地である。さうすれば名稱の異同には他の外側の原因があるだけで、それが直ちに制度慣行の相違を示すもので無いことも察せられ、中古イッケといふ新語が採用せられる以前、やはりオヤコか又は之と近い語があつたと見ることも、さう無理なる假定では無くなるのである。

　オヤコと一番近い語は何かといへばイトコである。京都の雅語に於ては、イトコは既に倭名紗の時代から、從兄弟姉妹の間柄のみに、限つて用ゐられるやうになつてをり、從うてイヤイトコ（再從兄弟）、マタイトコ（三從兄弟）の名さへ區別せられるに至つたが、古い文獻に溯れば其範圍は決してそれ程精密なもので無かつた。其語義の考證に至つては、自分の力及ばぬ境であるが、少なくとも是が大昔から、今いふ親類の意味にも用ゐられて居たことゝ、語の構成がオヤコも同じ樣に、コとイトとの組合せであつたことは證明し得られる。さうして同時に又此語の現在の分布?態が、使用の特に久しかつたことを暗示するのである。

(242)　親類を意味する九州地方の方言が大部分はイッケであることと、西北の一角に僅かのヤウチの例のあることは前に敍べた。此以外にはオヤコの同系として、博多邊の俗語にオヤゴシといふ例もあつて、此語の決して京以東に限られなかつたことを推察せしめるが、これは不幸にしてまだ傍證を見出さない。之に反してイトコといふ方言は、九州外側の各處に分散して、それが何れも親類總體を意味して居るのである。たとへば肥前の五島では、岐宿村のヤウッに對して、大濱崎山の二村ではイトコと謂つて居り、東岸は豐後の佐賀關でも親類をイトコ、それから熊本縣の宇土上益城などの郡では、別にイッケウチといふ語もあるが、普通には之をイトクジョと謂つて居る。

　是は我々の方言と稱するものが、決して悉く轉訛でなく、又誤解でも無いといふ鮮明なる一證であるが、そんな事を爰で説いても仕方が無い。それよりも大いなる我々の興味は、古語保存の功勞者が獨り九州の一海角に限られず、全然聯絡も無しと認められる地方にも散在して、それが多くは交通にやゝ疎き邊隅の民であつたといふことに存する。千葉縣の夷隅郡でも親族をイッケといふ他に、又イトコともイトネとも、イトとも謂ふと夷隅郡誌には記してある。岩手縣では北に寄つた沼宮内、秋田縣の鹿角の山村に於ても、同じくイトコの方言があることは、風俗畫報の中に報告せられて居た。此等の一つ／＼が運搬せられ、模倣せられたものと見ることは容易で無い。想像を許される原因はたゞ二つ、即ち以前はこの南北端の中間に、同じ語を使ふ人が幾らも居たか、又は最初から親類をイトコと謂つた者の子孫がそこに住んだか、何れか一つもしくは同時に雙方であらうと私は思つて居る。

　

　　　　　　　　　　六

　

　次に問題になるのは、オヤコとイトコとの二つの語は全然の同義語で、從つて其一つは省かれ又は代られる運命を有つて居たのか、但しは本來の差別があつて、併存してもよいものを混同したのかといふことである。是に就ても亦微妙なる氏族制度の推移が、追々に辿つて行かれるやうになることゝ思ふが、差當り自分の假定して置くのは、オヤ(243)コは縱の關係即ち族長族人の間柄、イトコは横の關係即ち族人どしの縁故を意味して居たことが、今の標準語のオヤコ・イトコも同じでは無かつたらうかといふことである。それを證明するにはイトといふ古語の、最初の心持を尋ねて見る必要があるのだが、信頼してよい解説はまだ出て居ない。しかし少なくともイトコが從兄弟姉妹に限られて行く傾向を持つたやうに、オヤコも亦次第に父母と其子女に限られることになつたのは事實で、記傳に散見する實例を見ればすぐにわかるが、元は是もまた可なり廣汎に、族内の長幼尊卑の階段に適用せられて居た名稱であつたのである。

　コといふ日本語が、殆と今日の個人といふ語と同じに用ゐられて居たことは、捜せば幾らでも例證が擧げられる。海に働くときはカコといひフナコといひアゴと謂ひ、山野に於てはセコ・アラシコ、其他タゴといびマゴ（馬子）といひ、隊伍に在つてはヨリコといひ、町の居住にはタナゴといふ類は、引續いて現代にも及んで居る。語原は假に小又は兒と一つであるにしても、之を勞働組織の一單位の名としたのは、決して其等の語の轉用だとは言はれない。赤兒も幼兒も最初からコであつたらうが、毛臑頬髯の荒男とても、後に攻めてさう呼ばるゝやうになつたと認むべき理由が無い。ヲノコはいつの世にも男性のコであつた。語彙の簡素な上代生活には、一音數用の例は幾らもあつて、その間には幽かに命名の趣旨が通うて居る。もし必要の大小が語を設けた順序だとしたら、或は却つて人數を意味するコの方が先であつたかも知れぬ。オモロと稱する沖繩の古神謠では、コロといふ語を以て人民を言ひ現し、その頭だつ者を大コロとさへ謂つて居る。大倭の古文學でも「いざ子ども」などと謂つたのは、戰士のことであり又伴侶の義であつた。さうして寧ろ穉き者のことを、單にコとのみは謂はなかつたやうである。やがて成長して一人前のコとなるべき者である故に、之を若子と呼び又小さ子と名づけて居たかとも思はれぬことは無いのである。

　

(244)　　　　　　　　　　七

　

　オヤを生みの親に限るやうになつたのも、勿論決して新しい時代のことで無い。古い文獻の中には祖の字をオヤと訓ませ、しかも母親ばかりを指して居た例もある。しかし是を以て母系制の名殘でもあるかの如くいふのは粗相な話で、それよりも前にオヤが果して始めから、今の英語の Parent の意味だけにしか用ゐられて居なかつたか否かを、確かめて置く必要があつたのである。オヤは通例は男親のことであり、オヤオヤと謂ふときは即ち親代々、家の祖先の總體のことであつた。彼等が父である故を以て家長となり、又指揮者の地位を占めるのが普通であつて、始めて父をオヤといふ樣になつたことは、ちやうど神祭や神態の如く、血縁ある年長女性を中心とする作業に於て、母のみをオヤと呼んだのと同じでは無かつたか。斯ういふことも是非考へて見なければならなかつたのである。

　日本人の如く、人をやたらにオヤにする慣習を持つて居た民族も稀である。立派に生みの二親を戴きながら、男には名付親・烏帽子親、女には銕漿親などと名づけて、努めて有力者を捜して其子方にならうとした。ハネオヤといふことは男にも謂ふから、別に何か意味があつたのかも知れぬ。三河國にはヘラ親といふ者ありと、異説區々といふ書には見えて居る。婚姻の中宿も媒人も、土地によつては一種のオヤであり、或は取揚婆をオヤとする地方もあれば、伊豆の新島などでは子守の親もオヤとして交際して居る。養子猶子の中にも婚姻を伴はぬ例は多かつた。自分の知つて居るだけでも、民法には想像して居らぬ養子をする村は少なくない。漁村の人手不足なるものには、幾らでも取り子をして働かせて居る家は段々あるが、會津の只見川の岸に在る宮下といふ農村でも、代々多くの子を貰つて居ることを誇りにする若者に出逢つた。あれもヲヂだこれもヲバだと謂つて、それが皆下人のやうに働いて居た。尻矢半島の猿ヶ森といふ部落では、多くの貧家の青年は皆或一人の金持の養子であつた。兵役から出て來て祝宴を開いて貰ふ頃を限りとして、自然に其關係は解けるやうになつて居るらしいが、それ迄は色々の世話援助を受ける代りに、人頭(245)に配分せらるゝ濱の寄り物の收入などは、一應はすべてその人造の親に歸することになつて居た。

　乃ち本來は何れも經濟の生活と、無關係のものでは無かつたのである。近世は主として職工の間に限られて居る親方の制度なども、之と比べてのみ其由來を辿ることが出來る。或は業體によつて頭といひ頭領といひ、山子や酒造りの間ではオヤヂとも謂つて居るが、基づく所は皆家長が農業を指揮したのと一つであつた。飛州志に依れば、飛騨では村里の名主庄屋をオヤスと呼んで居た。漢字に書くならば親衆とでも書くべきであらう。村の巨姓をオヤサマといふ土地は多い。或は小作に對して地親などともいふが、それは地面以外の關係では、オヤと呼ぶべき事由がもう無いからで、且つはオヤコの勞働組織の、夙に弛んでしまつたことを語るものである。宿場では舊本陣、温泉場では湯宿の類を、今でも舊習のまゝにオーヤといふのは、之を大家と書くべきだと考へる人が多くなつた爲で、町で店子が貧弱なる差配人をさへ、近い頃までオーヤサンと謂つたのを見ても解る通り、是非とも大きな家に住んで居なければ濟まぬわけでも無く、只通例大きい家であつた故に、大屋と謂つても間違ひとは氣付かれなかつたゞけである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　沖繩では村の長老を古くからウフヤーと謂つて、記録にはすべて大親と書いて居る。現在でも其名はなほ殘り、根所本所ともいふ一村の舊家を、ウフヤヌヤーと呼ぶのをも聞いたが、是もやはり追々は大屋の義に解して、其家を直ちにウフヤーといふ人が多くなつた。先づ是ほどまで一般的に、我々のオヤといふ語が限定せられようとして居るのであるが、本來は單に一つの身分、又は肩書ともいふべきものであつた痕跡は認められる。島の王朝の官吏の名に、最も數多くあつた親雲上なども、或はオヤクにモイ又はメーが附いたものの如く考へた人もあるが、別にノロ即ち祝女のことをノロクモイ又はノロクメといふ例もあるから、オヤにクモイといふ語を重ねたものに相違ない。即ち人が榮進によつて、若くてもオヤになり得た證據である。少なくともオヤといふ語には、生みの父又は母といふ内容は無(246)かつた。此島で大親より今一つ低い地位に、仁屋と書いてニヤといふ稱呼があつたことから考へると、オヤのオも大又は御であつて、元は長者を只「ヤ」とばかり謂つたのでは無いか。阿波の祖谷山などは祖の字をイヤと訓ませて居る。豐後の直入郡では叔父のことをイーヤ、紀州の日高郡では巡査をオイヤサンと謂つて居る。もし果して目上をイヤといふ語があつたとすれば、其はウヤマフとかイヤ（禮）するとかの語と共に、敬意の自然に發した音聲を寫したものとも見ることが出來る。

　兎に角にオヤが元決して父母に限つた語で無かつたことは、現在のオヤカタといふ語の用法を尋ねて見てもわかる。會津の大沼郡などでは、村の肝煎名主をオヤガッツァマと謂つて居る。秋田地方ではよくオヤカタシュといふ語を聽くが、それは他府縣でいふ旦那衆、即ち大地主の階級のことであつた。長野縣でも天龍川流域の村々には、古い地主の門閥家があつて、それをオヤカタと呼んで居る。字に書けば御屋形と書くものと思つて居る人があるかも知らぬが、歴々の大名でも全部には許されなかつた敬稱が、かゝる小名たちに認められた筈は無い。今の標準語でこそオヤカタは稍々下品の感を與へるが、元は應用の範圍がずつと廣かつた。曾我物語などを見ると、武家の頭領をもオヤカタと謂つて居る。商人の間でも親方持、親方の金を遣ひ込むといふ類の語は、つい近頃までも我々の耳にする所であつた。つまりは現在の所謂家庭を單位とせぬ一切の作業團には、必ずオヤカタを以て目すべき特定の中心を要したので、是が又今日甚だしく不精確に、舊式の雇傭關係を家族主義などと呼ばうとする無意識の理由でもある。

　松井氏の國語辭典には、オヤカタの語に宛つるに親形といふ漢字を以てして居る。其心は「親では無いが親に準ずべきもの」といふ意味で、此語が生じたと解して居るのであらうが、まことに心もとない想像であつた。オヤがもし最初から、父母ばかりを指す語であつたら、その準用にも凡そは際限がなければならぬ。ところが秋田縣などでは富豪を世間から親方衆といふのみならず、もつと小さな農家でも、下女下男は雇主をオヤカタと呼んで居る。つまりは他の地方でダンナといふ代りで、ダンナは亦到底固有の日本語で無いから、その一つ前の形にはオヤカタか、又は是(247)に近い語があつたわけである。東北の農村では今でも旦那といふ寺臭い稱呼を用ゐぬものが多い。さういふ土地で下人が何といふ語を以て主を呼掛けるか、之を調べて見ることが、我々には有益な資料を供すると思ふ。伊達の掛田などの一例を引くと、あの邊では職人の頭もオヤカタ、農家の主人もオヤカタであると共に、弟が兄を呼ぶ語も亦同じである。但し此兄は長兄に限られ、四男が次男三男に向つてはオヤカタとは謂はない。是が自分などの今少し此間題を考へて見なければならぬと思ふ要點である。

　

　　　　　　　　　　九

　

　農家で總領の息子を弟たちに、オヤカタと呼ばせて居る實例は案外に多い。それを今までは餘りに解し難い爲に、比較も試みずして自分の土地だけの、何か奇拔なる間違ひと心得て居たのである。前にオヤコとイトコに就いても敍べた如く、言語は我々の儼然たる生活事實で、十分なる由來無しにはこの社會に發現し得る道理が無い。それが互ひに偶發して、輕々しい模倣感染を想像し難い場合は尚更である。兄をオヤカタといふ方言の區域は、中央部の宏大な面積に隔てられて、日本の北と南にのみ擴がつて居る。東北に於いて私の知つて居るのは、青森縣では外南部一帶、岩手縣の江刺郡、宮城縣の栗原郡などだが、隣接郡村にも勿論及んで居ることゝ信ずる。但し旦那といふ意味のオヤカタと、僅かな發音の變化、たとへばガタと濁らせると否となどによつて、差別しようとして居るかも知れぬが、それは後々の必要に促された分化である。

　關東から中部地方にも、島や山村には同じ例があつてもよいのだが、まだ自分はその一つをも發見して居らぬ。之に反して四國と九州とは殆と一圓で、今爰にある地誌類から引證し得るものだけを列擧しても、�ｺ島縣は名西郡と祖谷山、高知縣の或部分、愛媛縣では新居郡などにオヤガタがある。百八十年前の物類稱呼には、土佐では兄をオヤガタチといふとあるが、是は異例であり、又恐らくは前に擧げた國語辭典風の學問が、此頃既に行はれて居た結果であ(248)らうと思ふ。四國の例は一樣にオヤガタと濁音符を附して報告せられて居るが、九州の分は何れも皆それが無いのは、偶然で無いやうである。九州も南の三縣だけはまだ確かめて居らぬが、大分縣は縣方言集にも之を録し、又豐前中津でも實例を聞いて居る。西海岸に越えて筑後三瀦郡及び柳河、肥前で北高來郡及び平戸、上五島の有川なども兄はオヤカタで、壹岐島でも確かに亦さう謂つて居る。

　元來家族稱呼といふものは、單語の中でも殊に使用囘數の多いもので、從つて異名の生じ易く、又新たなものに移り易い語である。兄を意味する方言の數は、現に全國に亙つて非常に多いが、大體其種類が三通りに分れて居る。其一つは子供言葉、即ち小さい者どしが互ひに呼んで居るのを、其儘成人が踏襲したもので、アニなども私は其一種だと思つて居る。第二には之に對して親言葉と名づけてもよからうか。或重要なる特徴を外から認めて、思慮に基づいて後に付けた稱呼で、從つて幼稚な弟どもは之を理解せず、滅多に二親や隣の人の言に倣うて、同じ語を使はうとはせぬのである。チョウナン・アトトリ・イセキ（一跡）などは其例であり、今一段と簡單なものにはオーゴ（大子）だのウーゴ（初子）だのもあるが、對稱即ち呼掛ける時の語としては、やはり家庭で最も頻繁に使はるゝものに從ひ、又は第三の仲間の用語を採用したのである。而うしてこの仲間の用語の生じたのは、特に團體の作業にさういふ名の必要があつた結果であらうから、其組織が改まり意味が不明になつて後は、さういつ迄も之を使ふことをしなかつたことゝ思ふ。別の方面からいへば、兄をオヤカタといふ方言の行はれて居るのは、彼を以て一家の仕事頭とする慣行が、近い頃まで存續して居た證據であり、同時に又諸弟が成長の後まで家に留まり、小さな作業團を作ることが以前は普通の形であつたことを推測せしめる。夫婦に子供といふ今日の單純家庭では、新たにオヤカタの語の發生する餘地が無いのである。前に引いた物類稱呼には、備前でも其頃は兄をオヤカタと謂つた。即ち變化多き其後の一世紀半に、どし／＼消えて行つたのは名前だけでは無かつたのである。

　

(249)　　　　　　　　　　一〇

　

　此間題が自分たちの流義に於て、必ずしも物好きの穿鑿とは思はれぬ理由は、既に或程度まで承認せられたであらう如く、是を以て日本農村に於ける長老制の、徐々の變遷を解説せしめ得と信ずるからである。オヤヂ又はオヤカタの經濟上の意義は、到底現今の標準語だけでは之を捉へることが出來ぬ。我々は生みの父母以外、一人の長者を親と頼んで、其統制指導に服した非常に久しい經驗を有つて居る。是が一轉してハネオヤ其他の色々の親分を求める氣風となり、其風は更に最新式の政黨組織の中にさへ及んで居ると同時に、他の一方に於ては兄をオヤカタとして、家の力をこれに集中せんとする、所謂長子家督の制度を發達させた。しかも最初から動産私有の觀念を其制度の外に置いて居た故に、金錢經濟の空前なる展開と共に、崩壞は内から起つて、農家は孤立する小農になつてしまつたのである。組合の新運動は果して此弱點を補ふに足るや否や。それは繋つて此國特有の、久しい傾向の理解如何に在るやうに私は思ふ。

　一つの發見は血縁の續き合ひ、及びそれを擴張して行く婚姻といふものが、前代には可なり大きな經濟的效果を有つて居たといふことである。さうして此融合した感情の間から、恐らく自然に發生した一つの秩序が、最も有利又安全なる生存方法であるといふことは、教義と言はうよりも寧ろ實驗であつた。實驗は事情の變化に堪へぬものであり、又固陋の弊を養ひがちのものだから、それに對峙せしむぺく、新たなる批判と辯證とを取入れることは結構である。が唯近年の個人主義の説法の如きは、幾分かこの永年の慣行に對して、考察が足りなかつたといふ嫌ひはあつたのである。歴史派は世間が想像するやうな保守派では無いのみならず、却つて時代々々の變遷の甚だしきことを知るに由つて、所謂復古の不能であり又無益なることを痛切に感ずる。或は國情の特殊を理由にして、強ひて一切の改革を危まんとする弱點はあるかも知らぬが、それも亦多くは認識の不精確から出たよまひ言である。知識は即ち健全なる勇(250)氣の基礎であるとすれば、經濟史の研究は更に方法を改めて、今後なほ大いに進まなければならぬと思ふ。

　但し斯ういふ理窟はいふものゝ、私の知識はまだ些しでも精確なもので無い。現在の資料整理の程度で、ほゞ安心して假定し得ることは、家が分裂する以前の我邦の農業力とも名づくべきものが、今よりも遙かに鞏固であつたことである。地方に分散する多數同族の小家庭が、曾て持つて居る或組織の微妙なる機能を利用し得なくなつたことが、彼等の衰微感を深からしめたらしきことである。もしさうだとすれば新たに計畫を立てゝ、その缺けたるものを補充する必要があるわけで、村もしくは組合の非血族團結が、代つて働くべき見當も大よそは付いたといふものである。たゞ其内で最も面倒な一點は、オヤ即ち勞働指揮權の所在であつた。今日僅かに殘つて居る飛騨白川の大家族、もしくは近年新たに始められたといふ會津の小林氏の開發事業などは、何れも當然に其地位に置かるゝ人があつて、能く團體作業の統一を期し得たけれども、智慮と計營の才と權力とが、一人に兼ね有せらるゝ場合は實は少なく、今日のやうな不平自由の世の中になつては、到底いつ迄も此古風を持續し難い。從うて何か之に代るべき圓滑なる方法を見付けねばならぬわけである。ユヒといふ制度の名は昔のまゝで、次第に其内容をかへて來たのも、恐らくは其試みの一つであつたらうが、それは不幸にしてまだ安定した形式を見出さぬうちに、世の大勢には抗し得ずして段々に衰へてしまつた。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　此間題に關して一つの愛敬ある逸話が殘つて居る。それを語つて一應この面倒なる問題を片付けようと思ふ。近頃活版になつた耳嚢といふ隨筆の中に、紀州の名君南龍公、或非物見に出て往來の人を眺めて居ると、藩士某といふ者がちやうど其下を通つた。彼は身上甚だしく不勝手な者で、家來を抱へる資力も無いところから、次男を若黨とし三男を鎗持、四男を挾箱持、懸り人の甥を草履持などにして、一家總出で行列を作つてあるいて居る。之を見て近臣の(251)者共が笑ふと、南龍公は之を戒めて、いや是こそは誠に頼もしい家來である。予は多勢を召連れて居るが、彼が家來に劣らざる草履取鎗持が、あるかどうかは覺束無いといはれたとある。我々に取つての此話のモーラルは、さういふ武人の次男三男等が殊勝に我オヤの召使となつて、附いて供をしたといふ點から見出される。是がちやうど�ｺ川の總本家に於ても、我儘次男坊の駿河大納言の始末に困つた時代であり、又農村に於ても二親の愛情が、次第に分家の勢力を助長しようとした變化の堺目である故に意味が深い。紀州の貧士の供揃ひの中に、獨り長男ばかりが脱けて居たことは、即ち亦近代のオヤカタ制の、一つの理由を暗示するものでもあつた。

　生みの親子で作つた簡單なる小家庭ならば、オヤの問題は實は起るべき餘地が無い。父は愛情の泉で力の優者で、同時に又世渡りの指導者であつた。彼とオヤの地位を爭ひ得る者は全く無い。之に反して成長した門黨の智能腕力の樣々なる大きな一群に於て、一人のオヤを定むるには法則が入用である。乃ち正統なる長兄を以てオヤカタとすることは、寧ろ上代の大家族の中に、殊に必要の痛切なるものがあつたのである。兄を意味する古い日本語はコノカミであつた。天智天皇紀には氏長といふ漢字を、何れもコノカミと訓ませて居る。コ即ち平等なる澤山の勞働者を統率する爲には、父よりも寧ろ兄の地位がいつ迄も役立つたのであつた。次男以下をヲヂと謂ひ、次女以下をヲバといふ關東東北の方言も、此意味に於て始めて其古意を理解することが出來るのである。兄をオヤといふ俗間の言ひ習はしは、決して形容の語では無かつた。しかも家を分つて次々の小弟を獨立させ、二親が自ら進んで兄の威力を制限しようとしたことも、亦決して不自然なる傾向とは言はれぬが、其爲にオヤカタの意義は時と共に稀薄になり、是と同時に親類をオヤコ又はイトコといふ方言が、終には不可解なる殘存物の如くなつてしまふ結果を見たのである。是には勿論なほ算へ上げらるゝ幾つかの原因が助けて居るが、兎に角に日本の農村生活の珍しい一つの特徴は消え失せて、今では次の樣な東國の麥搗歌も、註澤が無くては其をかしさを解し得ぬ人が多くなつたのである。

　　　米のオヤクでなぜこのやうに麥は馬鹿やら殻ばかり

　

(252)（附記）

　　この一文が出來てから十三四年、其間に集まつて來た地方の材料は、大體自分の假定説を支持する。例へば本書二三九頁のテマハリといふ語は越後の東頸城郡山村その他、中部地方にも行はれて、家に屬する勞働群である。エージは信州一體でよく耳にする言葉で、正しくはアヒヂ、合地とでも書くべきもの、以前一かたまりであつた耕地を、分割して耕作する間柄だから多くは親類である。本書二四七頁以下のオヤコ、オヤカタといふ方言も、此處に私の列記した地方以外になほ弘く殘つて居ることが發見せられた。さうして反對の證據になるやうな事實はまだ現はれて居ない。

　

(253)　　　　　厄介及び居候

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本前代の農業勞働組織が、今まで普通に考へられて居たよりも遙かに複雜な合同式のものであつて、それが最近の純なる家族主義、他人交へずの各戸生産に移つて行かうとしつゝも、現在はまだ十分に時代の感覺と調和するだけに、經營技術の改定を完了せぬのでは無いか。今日の所謂農村疲弊の惱みの聲の底には、もしやこの無意識なる不調和の弱點が横たはつて居るのでは無いだらうか。私は斯ういふ假憩の下に今一度、村の生活の原の形を觀察し直さうとして居る者である。その一つの手掛かりとして爰には農家家族の構成といふことを考へて見る。實際我々常民の平和時代の生活に就ては、信用してよい記録文書が餘りにも乏しい。もし何か書いたものを證據として古今變遷の跡を究めようとすると、事によると我邦の農民は災害に遭ひ一揆を起す以外に、一切無爲であつた人間の如く見えるかも知れぬ。村の文字は專らこの二種の大事件と、納税事務とのみに使はれるのを常としたからである。文字以外の歴史を知るには、是非とも他の種類の資料を集めて見なければならぬのだが、それには尚如何やうなる資料が傳はつて居るか。以前年久しく行はれて居た慣習は、果して痕形も無く消え失せて居るかどうか。それを言ひ現はして居た我々の言葉は、或は偶然にでもまだ其片端を殘留しては居ないか。それを突留めて見ようといふのが、私の新しい試みであつた。

(254)　此方法が多少なりとも役に立つとすれば、一番注意しなければならぬのはこの田植の季節である。田植の作業は日本の農家の殊に骨折な且つ餘裕の乏しいもの、從つて新たなる趣向の加味し難く、古い慣例の自然に多く遣つて居る部分である。何れの村方でも毎年に一度、此時ばかりは農民の意氣込が變り、天然の力と抗爭しようといふ心持になる。古い信仰は又蘇らざるを得ない。如何なる農事改良も、未だ此際の生産計畫を完全に新式に引直すことが出來ず、時としては祭禮以上に「昔」がよく現はれて居ることは、水の音と蛙の聲の多い頃に、田舍を旅行した者の誰でも感じて來る事實である。

　たとへば農繁托兒所はごく近年の新しい問題であるが、是に先だつて既に一つの解決はあつた。田の多い村では小學校の農事休暇制を設けて夏の休みを融通し、それを認めなければ缺席が非常に多くなる。田植には婦人が出て働くは勿論、家の大小の兒童を悉く植田のほとりに連れ出して、宛として一家庭を爰に移して來た觀がある場合も稀で無い。老いたる人々にもそれ／”＼の持場があるのみで無く、七つ八つの子までが子守の役に當り、それより小さな兒も手數を掛けぬやうに、田の畔の近くで遊んで居る。赤子を連れて來るまでは無用のやうだが、是さへも古くからの習はしであつたと見えて、田植歌の中には此事を詠じたものが多い。

　　　五月田植に泣く兒がほしや畔に腰かけ乳飲ましよ

　是などは寧ろ子を持たぬ後家や娘たちが、乳呑兒に托して若嫁の?々手を休めるのを、羨み又は嘲つた所謂あてこすり歌であつたが、是も最初は或は赤子を伴うて田植に出て來る呪術的必要が認められて居た爲かと私などは思つて居る。婦人を農耕の作業に參與せしめた理由の中には、作物を彼等の生殖力にあやからしめる意味があつたことは、多くの原始民族に於ても認められて居る。我邦でも神事の田植祭の行列には豐前彦山の松祭のやうに、孕み女に扮した者を加へて居た例もある。幼兒の出て來たのも、大きくなり實が入る爲のまじなひだつたかも知れぬ。つまり田植時の分業はこんな小さな兒童にまでも及んで居たらしいのである。

(255)　兎に角にこの田植の日ばかりは、如何なる老人少年にもそれ／”＼の任務が課せられて居た。激務は代掻きや早乙女の如き、若い盛りの男女に在つたが、輕い仕事といつても何れも皆缺くべからざる役割であり、且つ歴史上の根據があつたやうである。たとへば田人の晝飯を運んで來る女性などは、古くは殖女《うゑめ》養女《をなりめ》などと稱して、田植女と對立するほどの重要な地位であつた。通例は田主の長女や若い嫁、少なくとも若く美しい者を選定したのは、是が同時に田の神の祭の司であつた爲と想像せられる。苗の分配などにも曾ては宗教的の意味があつたかと思ふが、近世に入つては少なくとも是は一番つまらぬ役と看做されて居た。土地によつては之を苗持とも、又苗打とも謂つて居た。大苗打小苗打の二種に分たれ、前者は苗代からそれ／”＼の植田へ、入用と思ふほどの苗の量を配る役で、老功にして力衰へたる者の所役であつた。小苗打の方は一人々々の早乙女の手元に近く、無くなる場處を見圖らつて苗の束を投げてやる役、是は主として少年の任務になつて居た。

　

　　　　　　　　　　二

　

　この小苗打が氣が利かぬと、折々手が遊んだり戻つたりするので、興奮しきつて居る女たちに、子供は又叱り飛ばされる役でもあつた。全國の田植歌の中には、斯ういふ光景を詠じた笑ひ歌が幾つも傳はつて居る。たとへば千葉縣の海上郡で、

　　　アヽー首持小野郎が、ちんばだらよかんべヱ

　　　びつこちやかたら來るときに

　　　おら等も腰を休めべヱ

　或は愛媛縣の喜多郡で、

　　　苗持は一の大役

(256)　　　晩には竹の子の味噌汁

　是などは苗持のやうな下らない役をして居ても、晩に筍の味噌汁は誰よりもうんと食ふだらうといふので、斯ういふことを言はれると老人はとにかく、少年には非常につらかつたのである。だから又女なんかに笑はれまいと思つて、早く大きくなつて立派に働いて見せるやうに、彼等が作業の修得に苦心したことも察するに餘りがある。全體に年一囘の田植の日は、同時に若い男女の競技會でもあつた。婚期を前に控へたものゝ能力試驗、殊に娘たちの甲斐性の見られる日であつた。是では身うちか又は氣安い家に縁付けて、いたはつて使つて貰ふ他は無いとか、是ならどんなやかましいよく働く家に嫁に遣つても大丈夫とかいふことを、周圍の人々の鑑定する機會であつた。從つて勇敢に他人の中に嫁入つて來た新婦が、無言にいぢめられ、又はそれに反抗するのも此時であつた。花嫁などは少しでも仕事の手がたゆむと、直ぐに歌にしてひやかされる。

　　　赤いたすきを掛けたはよいが

　　　ツボに入るのをかしさよ

　ツボとは一列に進んでゆく植女が、向ふの畔に着いて引返して來る時に、まだ一人だけあべこべの方を向いて居ること、或は自分ばかり後に下つて居るうちに、兩方から前の方を栽ゑられてしまふことである。村の娘どうしは少しづゝ助け合ひ引立て合ふが、それが花嫁だと計畫して栽ゑ負かさうとする。それが恐らくは死ぬよりも辛かつたのである。無論わざ／＼では無かつたが、田植は至つて僅かな期日に、全村の田を植ゑ盡さなければならぬ爲に、自然にこの若い人々の競爭心を、極度まで利用することになつたのである。この種の共同作業には割ハカと稱して、最も完全なる分業が行はれて居た。働く者は互ひに他人の仕事を當てにし、又嚴密に批評する必要があつた。さうして其中でも最も多く責められたのは小苗打、即ち手元に苗の束を配つて來る者の機轉であつた。通例は一人前にも足らぬ者の所役が、田植全體の功程に可なり大きな影響を及ぼした故に、何かといふと口やかましく罵られ、然も斯うした無(257)力なる男性を嘲り笑ふことが、一種微妙なる女性の感情の統一にもなつて居たらしいのである。

　私はこのやゝ心理學的なる特殊の共同作業組織を分析する爲に、最初先づこの所謂苗打小野郎が、如何なる別名を以て呼ばれて居たかに注意して見た。岩手縣では初期の方言採集家に故田鎖直三氏がある。此人の手に成つた「氣仙方言」は、今僅かに自筆の稿本を存するのみであるが、其中には農村の言語事實が、可なり細かく注意せられて居る。氣仙郡は廣い奧州の中でも一區劃の別天地をなして、いろ／＼古めかしい習俗が殘留して居る。私が此集から發見した一語は、

　　カンナイド　　　　　苗代の苗を取る人、苗持

といふので、ふと見ると何の事であるかわからぬ故に、是には必ず隱れたる意味のあることゝ注意し始めたのである。このカンナイドと最も近い方言が、遠く離れて近畿諸府縣の田舍だけに分布して居る。たとへば京都府では久世郡方言調査に、

　　ケンナイド　　　　　　かゝり人

と出て居る。かゝり人は即ち食客で、是ならば田植の日に苗持の如き迷惑な卑役をさせられてもよいわけであるが、他の地方の解説は必ずしも是と一致して居ない。實際方言の對譯などは、どこでもさう大して適切なもので無い。滋賀縣では今から三十二三年前に、各郡小學校をして地方言語を採集せしめたことがあり、其記録は寫本のまゝで殘つて居る。是によると湖北の高島郡に於ては、

　　ケンナイヤツ　　　　　食客

とあるが、湖南の愛知郡に於ては、

　　ケナイド　　　　　不意の賓客

とあつて、カヽリウドといふ言葉は別に存する。即ち常住の寄食者以外に、別にケナイドを以て呼ぶべき者があつた(258)のである。次に福井縣の教育會から出した若越方言集にも、

　　ケンナイド　　　　　不時の泊り客

といふ語が見えて居るが、是は縣の西部の若狹地方に行はるゝものらしく、遠敷郡方言集にも、

　　ケンナイド　　　　　不意の來客

とあつて、近江愛知郡の事實と一致して居る。

　不意の來客などと譯してしまふと、或は珍客のやうに取られるか知らぬが、是は家々で計畫して招待した客で無く、從つて力を盡して款待しようとする訪問者で無いといふ意味で、遣つて來られた以上は飯を食はせ、又は午後ならば宿泊させなければならぬ點が「不意」であつたのである。關東の村々などでは最も露骨に、之を「めし食ひ客が來た」などといふ。以前の農民の按客法、殊に親族關係のそれに於いては、可なり動かし難い法則があつて、假令何人も歡び迎へない客であらうとも、訪ねて來た以上は飯を食はせ、宿泊させねばならぬといふ交際があつたのである。さうしてケンナイドは此等の地方に於ては、この種一期的の食客を意味して居たのである。水木要太郎翁の大和方言集には、

　　ケナイド・ケンナイド　　　　招かざるに來て食事などをする客

と出て居る。即ち此附近は弘く一樣に、之を全く有難からぬ會食者と見て居たのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　兎に角に近代の農村に於ては、このケナイドは普通は外から遣つて來る者であつたらしい。大阪府の北河内郡の俗信には、

　　燈火に丁子が結ぶとケナイドが來る

(259)といふ例があつた。さうしてケナイドとは何であるかを、もう大抵の人は明らかに知らぬやうである。行燈の燈心の尖が球になることを、「丁子が結ぶ」と言つて居る處は多いが、通例はそれを何かの好兆と見て居る。然らばケナイドの來るのも、曾ては歡ぶべきことであつたのかも知れぬが、現在は既に嬉しいことゝも思つて居らぬのである。斯ういふ内部の變遷ともいふべきものは色々ある。たとへば東京附近では、紙窓に鳥影がさすと來客があるなどとよく謂ふが、實際さういふ長閑な日は、ふいと出來心で訪ねて來る者もありさうなことである。淋しい村生活に於てはそれも好いことの一つに算へた時代もあつたらうが、今ではそんな前兆に心をときめかすのは老人か小兒のみで、自由に遊びたいと思ふ女房や亭主は、舌打ちをしたり微苦笑をするかも知れぬ。つまりはケンナイドなる者の社會上の地位も變つたのである。

　或は又子供などが箸で茶碗を叩くのを嫌つて、そんな事をするとケンナイドが來ると謂ふ、俗信も何處かに有つたやうに思ふ。口丹波口碑集に依れば、京都と山一重を隔てた丹波の山村でも、

　　箸で茶碗を叩くと飯を出さなくてもよい者が來て飯を食ふ

と言つて嫌ふさうだが、是も以前はケンナイドが來ると謂つて居たのであらう。全體に茶碗を叩くといふことは、何れの地方でも人の非常に嫌がることであるが、其理由と稱するものが少しづゝ異なつて居る。肥前肥後では餓鬼が集まるといひ、紀州でも飛騨でも餓鬼が來て覗くなどと謂ふ。周防の大島では貧乏神が來るといひ、關東にも是に近いことを信じて居た土地が多い。茶碗は二百年來の流行であるが、之を叩く音が特に耳に立つからさう謂つたまでで、一般に食器を叩いて音を發することは悦ばれなかつた。だから又飯櫃をたゝくと狐が來るだの、オサキが來るだのと謂つて制したのである。思ふに食器を叩くといふことは、食物の存在を知らせる常の手段である故に、古くは階級の低い靈魂を喚び招く方式として用ゐられて居たのであらう。現在も之によつて家禽などを喚ぶのみで無く、神隱しと稱して小兒が居なくなつた際に、桝を叩いて其名を呼びあるく習慣もあれば、或は當の本人が平生使つて居た茶碗を(260)持出して、叩きまはる地方さへあるのである。

　ケナイドを貧乏神やオサキ狐と同一視するのはひどい話のやうであるが、是も其名を持つ者の境涯が漸次に好ましくないものになつて來た過程である。家が夫婦親子だけの小さな家庭に分化して行くにつれて、次第に經濟の餘力が無くなり、又彼等の協力に期待すべき事務も少なくなつて、人は努めて此種の往來、即ち來れば飯を出し宿泊させねばならぬやうな交渉關係を、制限しようとした結果に過ぎぬのである。一言でいふならば家といふものゝ組織の變化である。

　しかも大家と稱せられる百姓の廣敷には、つい近頃になるまで斯ういふ「飯食ひ」が幾らでも來て居たのであつた。其内容は甚だしく複雜で、必ずしも年季の奉公人、又は一夜二夜の宿を求めるタビの者には限らず、今日の民法の扶養義務のやうに、範圍のはつきりとせぬ家族といふ者が居て、それが農耕の作業組織にも參與して居たのである。後には次第に其意味を限定したかと思はれるが、是が近畿地方のケナイドでもあれば、同時に又奧州でいふカンナイドでもあつたかと思はれる。

　家に多數のカンナイド、即ち標準語でいふ「かゝり人」の、出來なければならぬ原因は今でも存續する。その一つは勿論一族中の鰥寡孤獨である。折角新たに小さな家を持たせて遣つても、働く人の無くなる場合は幾らもある。死んだり驅落ちしたりする他に、東北でいふ「竈をかへす」場合がある。家を一戸として獨立させて行くことが出來なくなれば、頼り無い者の行く先はきまつて居る。少なくとも動かす能はざる順位がある。だから火たき婆などと言つて、火を焚く以上に能力の無い老人でも、結局はどこかの竈の前で生涯を終り、宿無しにはなつてしまはぬのであつた。殊に孤兒の成長する期間の如きは、假令家督の財産があつても、やはり又縁のある者のケナイドと爲らなければ、獨り生きて行くことは出來なかつた。それを大きくして一人前の農民とすることは、一般に村の親方の役であり、又親類一門の任務であつて、或は順位の爭ひはあつたらうが、少なくとも全體として是を引受ける必要はあつた。中には(261)月替りに家々を廻つて養はれて行くといふ悲惨なのもあり、或は便宜上甲の家に置いて、乙丙が食ひ扶持を分擔する例もあつたが、何れにもせよ此風はまだ今日といへども決して絶滅しては居ない。たゞ是が日増しに厭はしいものにならうとして居るのは、要するに經濟の新しい組織からはね出された爲であつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　このケナイドの終りのドは「人」であらう。さうしてケナイといふ語の意味も、比較によつて私には略々わかつた樣な氣がする。矢田求氏の佐渡方言集などを見ると、あの島には、

　　ケナイザケ　　　　　常の酒

　　ケナイゼン　　　　　ふだんの膳

などといふ用語があり、又只の日の粗末な食物を、ケナイ肴といふ例もあるさうである。ケナイといふのはつまりは晴でないこと、即ち改まつた酒肴等に對立する語で、事によると最初「ケなる酒」などであつたのを、形容詞の普通の形に直したのかも知れぬ。もしさうだとすれば古い正しい日本語であつた。文學記録中の雅人に公認せられた言葉にも、ケの衣は即ちハレの衣に對して居る。今日では之をフダンギとかヨソユキなどと謂ふが、此二つの語の新語である事は誰にもわかる。即ち其以前の日本語が必ずあつたのである。ハレといふのは式や物詣り、もしくは外部の人たちと應接する場合などを意味し、衣服だけには限られて居なかつた。畏れ多い例だが禁中の新年に、晴の御膳などといふのがそれであつた。民間に於てもハレギといふ語だけは今でもある。之に對するケといふ語も、單獨には使はぬといふだけで、複合形としては保存せられて居る。例へば一枚しか無い衣服を「けにも晴にも是つきり」などといふが、それを誤つて肥前の平戸ではケーモハレモ、加賀の金澤ではテニモハレニモといふ人がある。

　食物の方面でもケといふ言葉は、今なほ他の語と接續しては使用せられて居る。最も普通なのはケシネであるが、(262)シネは稻又は米を意味する古語であることが日本紀に見え、祝詞にはアラシネ（荒稻）ニギシネ（和稻）の語もある。ケシネは即ち常用の飯米のことであつた。之を容れる容器を東北では一般にケセネギツと謂つて居る。民家には必ず一つづゝ備へられてあるもので、兼て一定の割合を以て舂米に粟稗などを混じて置き、是に二合五勺の桝又は其大きさの椀を添へて、一杯一人一食の積りをするのが、オカタ即ち主婦の役であつた。キツ又はキッツは櫃のことである。だから安房上總の邊では之をケシネビツと謂つて居る。近畿紀州ではゲビツ、自分は播磨の生れだがゲオビツと謂つて居たやうに記憶する。今でも此ケシネといふ語の、少なくとも老年者の間に行はれて居るのは、奧羽六縣以外に新潟・千葉・茨城・栃木などの一部分であるが、別に是とは遠く懸離れた九州の中央部、たとへば大分縣の日田玖珠二郡、熊本縣の阿蘇山村、筑後三瀦の海岸などにあり、四國では伊豫郡でもケセネと謂ひ、又壹岐の島では飯米に限らず、一般に速製品又は當座用の食物が皆ケシネで、乃ちケシネ野菜、ケシネ醤油等の語あること、佐渡のケナイ膳も同じである。つまりは東京などのオソウザイ、不斷使ひのものといふ意味である。福島縣の岩瀬郡などでも、やはり元の意味は忘れてしまつて、惡い米をケシネ米だの、惡い芋をケシネ芋だのと謂つて居るが、少なくともこのケといふ言葉に、晴で無いといふ意味だけはまだ確かに保存して居るのである。

　都市上流の生活に於ては、この褻と晴との差別は主として衣服の上に現はるゝのみであつたが、農家に於いては特に食物が問題となるのであつた。然らば食物のハレは何かといふと、要するに節の食事である。一年の間の折目を爲す日に、特に念の入つた食事をするのが節供であつたが、意味が不明になつて文字を節句とも書くやうになつた。土地によつて此食物をトキドキともいひ、或は又カハリモノと謂ふ處もある。五月五日の粽や柏餅、十一月太子講の小豆粥の如く、それ／”＼定まつたる食物があつて、他の日には勝手に作らなかつた。ハレは即ちこの正式の食物を調製して、先づ神と祖靈に供へ、其下に集まつて一同が食ふことであつた。是にも繁閑はあつたらうが、古風な村では一年の間に斯ういふ日が三十度も四十度もあつた。村一樣の休日には限らず、個々の家にも所謂内祝ひがあつて、或は(263)白い飯に尾頭のある魚を副へて食ふ日、餅とか強飯とかを作つて祝ふ場合があり、又は凶事法事の時にも食事は必ず其儀式の一部を爲した。さうしてケナイといふことは、必ず其以外のものゝみを意味して居たのである。

　此點は勞力の側から謂つても亦同じことであつた。斯ういふ晴の日に限つて集まつて來る人々、是を普通には客と謂ひ、弘くは又ニンズとも謂つて居た。人數といふ漢字を知る以前にも、何か名稱はあつた筈であるが、それを何と呼んで居たらうかは私にはまだ見つけ出し得ない。兎に角にもとは可なり大切な差別であつた。即ち常に一家に集まり所謂ケシネを共に食つて居た人々は、是と對立してすべてケナイ人と稱してよかつた筈であるが、近代に於ては子とか妻とかの必然の家族は其總稱の中に入れず、主として右申す如く特別の理由を以て、家に居る者のみに、此名を付與することになつて居たのである。尤も大きな相異の點は恐らくは有期といふことであつたらうと思ふ。從つて其範圍も元は相應に弘く、各地の方言にヲヂヲバと謂ふ次三男次三女以下と其子孫、ムコ・トリコ・ヨリコなどと稱せられた寄寓者、譜代年季の奉公人なども含んで居たのであらうが、追々と其地位がそれ／”＼に特殊のものと爲つて、末には何でも無い唯の所謂厄介人だけが、殘つてもとの名を保有し、關西に於ては突如たる一飯の來客を、また東北に於ては苗打の小野郎などを、さう謂ふ樣になつたのでは無いかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　氣仙郡の農村のカンナイドは、單純なる音訛と見てよいやうである。ケシネといふ語なども其意味が不明になると、南部ではキシネ、津輕ではキシノ、或は米櫃をキシビツといふ處さへ出來た。家といふ漢字の知識を中に置いて考へて見ると、ケナイがカナイに化するなどは自然である。今日或土地では家族を總て家内、又或土地では自分の女房のみを家内と呼び、カナイは家の内と書く成程などと合點する人は多いが、實は是とても右のケナイから變化して來たのかも知れぬのである。會津地方などでは古くから、あの地方の一種の賤民をゲナイと呼んで居る。ゲナイは何か穢(264)れといふ語の關係でも有るやうに想像せられて居たが、それは格別の根據も無いことで、或は是も亦單にハレでは無い人々、即ち安つぽい者といふだけの意味であつたかと想像する。津輕と對馬の北端の村では、今でも家族をケナイと謂つて居り、一方鹿兒島縣の種子島に於ては、親類といふ意味にケナーといふ語を使つて居る。そして此島のナーは總て他地方のナイだから同じ語であつた。家僕をゲナンといふ言葉なども、申す迄も無く古語では無い。是も丁度下男と書いて、ゲナンとも讀めば讀まれる漢字が有合せたばかりに、却つて意味の方が追々に其符號の方に引きずられ、又發音の方もそれを正しいと思ふやうになつて行つたものとも考へられる。僕從を下男と書いた漢語は、少くとも元方の方には無かつたやうに私は思ふ。是と同樣にシモベとかヤツコといふ言葉にも、最初はそれ／”＼の日本的なる内容があつた。或種の飜譯業者が是に稍々近いと思ふ漢語を引宛て、それを踏襲して多くの人が使ふことになると、終には却つて風俗を異にした外國の書から、其解釋までを指導せられることになるのはをかしなわけである。

　それも對譯の當不當が考へられるものはまだ害も少なからうが、單に此方の語音を代表した言はゞ萬葉假字同然の漢字から、時としてはなほ若干の拘束を受けて居ることがある。其實例の殊に顯著なるものは、「厄介」といふ語などであつた。厄介は現在既に形容詞になつて、たとへば煩はしいこと又は人に迷惑をかけられることを「厄介な」といふやうにもなつたが、その最初の用法は單なる同居人、即ち前にいふケナイ人と近いものであつたことは、近世の公文書を見た者なら誰にでもよくわかる。例は幾らでもあるが手近な一つをいふと、松崎慊堂の日歴に、佐藤一齋が幕府に召出された際の屆書を載せて、「松平能登守家來新藏厄介、佐藤捨藏」と録して居る。佐藤新藏は一家の主人である故に、伯父の一齋先生は「厄介」と肩書せられるが、固より今日の意味に於ける厄介者では無かつたのである。全體江戸期の公文書などは、ちよつと見た目には漢文の如き外形を具へて居るが、其實はこの時代の口語體の文章であつた。乃ち所謂言文一致の先驅であつた。あらゆる俗用の日本語を其儘に録して居るのだが、唯單に國産の假字を使はず、悉く漢字のみを以て之を表現しようとして居たのである。しかも其宛字たるや、決して研究討議の末に決定した(265)ものでなく、言はゞ節用集以來の慣例に時々の思ひ付を加味したばかりで、從つて久しく見馴れて怪まなくなつたといふだけで、無法な使ひ方は多かつたのである。

　ヤッカイは本來主人で無い人々の表向の肩書といふに過ぎなかつた。配偶者と嫡子と先代とは含まなかつたらしいが、其他の家族はすべて誰某厄介何某と書くのが公文の式であつたのである。後には段々細かくそれを區分して、成るべく身分關係を明らかにしようとしたやうであるが、それでも主人の弟たち、叔父叔母の未だ縁に就き家を分たざる者はすべてヤッカイであつた。厄介などといふ熟語は支那の字書には決して無い。厄は厄難の厄、介は介抱の介、斯ういふ二つ字を繋げば大よそ此意味に當るかと、感じるやうな時代の人が案出し又は使用したので、うまく考へたと言へば言はれるか知らぬが、其御蔭で一つ前の心持が不明になつた。それこそ厄介千萬な話である。つまりは兼て同居人のことをヤッカイといふ日本語があり、一方公文には是非とも漢字を使はねばならぬ時代に、丁度大まかに是で現はせるやうな内容を持つて居たばかりに、斯んな漢字が先例になつたのである。然らば最初どうして此ヤッカイといふ日本語が出來たかといふと、古い書物には見えぬといふのみで、意味はよく解つて居る。ヤッカイのイは實はヰで「居ること」、ヤカは中納言家持などの家（ヤカ）、英語の Family と同じく家の無形名詞で、もとは多分屋處、即ち家屋の所在から出た語と思ふ。宅をヤケといふのも一つの言葉のやうである。滋賀縣の農村には、家族の手の多い家を大ヤケ、小人數の家を小ヤケといふ例もあり、他にも資産家又は本家をオホヤケといふ地方は稀ではない。ところがこの「厄介」だけが別の語感を有つやうになつて、新たに同居者同居人などの語が之に代つて用ゐられることになつた。つまりヤッカイは其語の構成から言つても、同居人のシノニムより以上の何物でも無く、又さういふ風にのみ公文には用ゐられて居たのである。今日でも我々の會話に於いて、「厄介になる」は暫くでも其家に居ることを意味し、たゞ遠くから援助を受け又は煩累を掛けることを、さうは言つて居ないやうである。それを「めんどくさい」と同じ樣に、厄介なやつだなどといふことになつたのは、つい近頃になつての變化なのである。厄介どころか彼等が多(266)く居た爲に、我々の農業は今まで樂々と行はれて居たのである。是を何の役にも立たぬ負擔のやうに考へるに至つたのは、農家の分裂よりも、先づ都市生活の特殊事情がもとであつたらしい。

　

　　　　　　　　　　六

　

　「居候」といふ言葉も、其起りが厄介とよく似て居る。私は是を武家と町家との、文字の用法の差では無かつたかと思つて居る。即ち是もやはり公文書の表に、何町何ノ某方に居候誰それと書く定めであつた故に、斯んな奇妙な語が同居人を意味する樣になつたので、その居候の「候」は、官廳に向つて上申する敬語であつたのである。だからどこそこに居候をして居るなどと謂つたのは、本來しやれた言葉で、それが川柳などの題目になつて、盛んに笑はれる時代を迎へた爲に、終に一種變則の生活の如く考へられたのである。落語家などの居候は道樂が過ぎた若旦那が、暫く出入の棟梁などに預けられて、狹い二階でごろ／＼して居る?態に限る樣に言ふが、なんぼ江戸大阪でもそんな者が普通名詞を作るほど澤山に出現しよう筈も無かつた。都會の生活が始まると、後を追うて郷里から出て來て、一時的に知人の家に寄寓させて貰ふ者は多くなる。そんな連中には家主の職業を助けず、狂句に所謂「居候角な座敷を圓く掃き」の如き、懶惰の日を送る者も出來たか知らぬが、元々原因無しに斯うした制度は發生しなかつた。蓋し親分はもと作業團の指揮者、即ち是等の所謂居候や厄介を使役する權能のある者であつた。たゞ都市の勞役が多種多樣で、是を割り振るには特殊の手腕を要したのである。そのうちに計畫も益々複雜となつて、たとへば鷄鳴狗盗といふが如き、滅多に入用の無い者も抱へて置いたり、又は全然その居候の助力協同を宛てにせずに、人を同居せしめるやうな機會が、都會住民の間には起つたのである。幡隨院長兵衛一流の任侠者が、本業は人入れ家業であつたことは、此間の消息を語つて居る。彼等は管轄が手廣く利益が十分になれば、さう嚴重に三人や五人の被保護者の、功程を問ふ必要を見なかつたゞけで、最初から天下の遊び人を幾らでも世話しようなどといふ親分が、存在し得る道理は無かつた(267)のである。ところが流行の末勢になると、何等大體の計畫も無くしてたゞ痩我慢に子分を養ひ、無理をして其費用を生み出す者も多くなつたが、もう其場合には生産の目的も無く、事業それ自身が一種の賭博の如きもので、到底常人は之を生活の範とすることが出來ない。結局勞力の需要が無くなれば、ヤッカイは所謂厄介者となり、居候は先づ家の女房から、忌み嫌はるゝものにならざるを得なかつたのである。

　是と同樣に農村の方でも、家に屬する耕地の廣さに比べて、人の手が足らぬか餘るかによつて、同居者の地位は動搖せざるを得ない。殊に所謂自給經濟の時代が去つて行くと、勞働の對價は當然にもつとはつきりと豫定せられる必要を生じた。小遣錢の入用な生活に於ては、到底今までのやうなケナイドを、澤山に抱へて居ることは出來なくなつた。食はせると着せるといふことだけが、生活の保障といふもので無くなつたからである。子孫妻娘といふやうな自然の愛情で繋がるゝものと、其他の家族との間に分け隔ての出來るのも已むを得なかつた。つまりは近代社會の經濟組織の變化が、所謂居候を不可能ならしむるに先だつて、まづ之を非常に不愉快なものにしたのである。九州南部の二三縣に於ては、今でもまだこの種の同居者のことをカカエドと謂つて居る。抱へるといふのは新たに奉公人を置くことをも謂へば、澤山の家族を持つて居ることをも意味したので、以前は是が富人（大やけ）の條件でもあつたが、一方には又農場其他の經營の規模が、その抱へて居るすべての勞力を、利用し得るだけの大きさであることを條件として居る。殊にそのカカエドの大部分が年季を切つた奉公人であり、又はそれ／”＼の身の片付きを求めて居る若者であると、他日の爲に相當の獨立手段を講じて遣る必要もあつた故に、其係累を苦慮すると、自然に豫め自ら事業を切詰めて、努めて同居者を少なくしようとする結果を見た。是が日本の小農國化した一つの大なる原因である。一方には又ヲヂヲバや譜第の下人に對しても、所謂ホマチの所得を段々に多く認めて遣る必要があつた。飛騨白川の大家族部落などでも、以前は衣料の爲に月に何日かの私日を家族に認めて居たが、今日では其條件では忍んで留りにくゝなつてしまつた。それが自然に「自由の付與」となり、又請負作の制度ともなり、又無數の小さな分家が、村に獨立し(268)て行く原因にもなつて居る。衣食以外の生活需要の増加と共に、一つの大きな竈を以て多數を養ふことは、日一日と六つかしくなつて來た。しかも所謂ケンナイドの範圍は、追々に片端から狹められて居るにも拘らず、なほ殘壘を保つて我々の解決を待つて居るものがある。今日厄介の文字を以て表示せられて居るヤカヰの問題が即ち是である。

　

　　　　　　　　　　七

　

　日本の朝家では夙に家人と奴婢との階段を認められたが、二者の差別はたゞ盡頭に使役し得ると否とであつた。然るに單にそれだけの相違によつて、數世紀の間には一方は忽ち堂々たる大名とまで經上り、或は相競ひ又は上を凌いで居る。近世の控へ百姓の主家に許されて、其附近にさゝやかなる獨立の生活を立てるやうになつたのも、本質に於ては是とよく似たものであつたらしいが、僅々數代の間に其行掛りは雙方から忘れられてしまつたのみならず、終には一國農業の外貌を殘る所無く一變させたのである。自分は未だ曾て復古を可能とし、もしくは先例踏襲を以て安全の手段と考へたことは無いが、さりとて眼前の變動を以て、たつた一つの正しい解放への進路とも思つて居らぬ。昔も色々の手前勝手と不當なる忍耐があつた如く、新しい改革にも幾つかの見落しがあり、且つ豫期しなかつた弱點の暴露がある。大體に其經過を明らかにしておくことが、獨りより良きものが次に在るといふ樂しみを抱かせるのみで無く、更に我々の考案を周到ならしめるのである。農業は確かに孤立になつてから、榮え難く又危險の多いものになつた。恐らくは統制と協力との望み難い結果、總體に於いて餘分なる勤勞がこの限りある生産に向けられ、しかも實際之に依つて養はるべきの者の若干は排除せられて居るのである。何よりも先づ前代の農村平和が、たゞ無知と壓抑のみによつて保持せられて居たので無いといふことを理解する必要があると思ふ。

　家人と家の子とは、始めから同じもので無かつたといふ説があるが、私には納得することが出來ない。それから又イヘノコとヤツコとも、言葉の上から言ふと差別する所は無いのである。ヤツコといふ日本語には、少しでも Slave(269)ery といふやうな意味は含んで居なかつた。それが家人と奴婢との嚴重なる分限を立てられるに至つたのは、單に或時代の成文法といふまでで、果して固有の經濟組織が、之に基づいてどれ程まで唐化して居たかは、まだ是から推究して見る餘地があるのである。少なくとも近代のヤツコは、年季又は譜代の奉公人以外に、他の色々のケンナイドをも包容して居た。さうして農家に於ては其地位も略々平等であつた。今日の人の眼から見れば、どこが長者なのかと訝る位に、家の者が皆ヤッカイと共に働いて居た。さうして食物は共同のケシネを食ひ、ケの衣も材料は略々同じであつた。オヤカタ一人だけは指揮の役があつた故に、直接に手を下さぬ場合も多かつたか知らぬが、其他の族員と下人との仕事は一つで、勞務に種類と階段とは無かつたやうである。私は明治の中頃に關東の農村に移つて來て、始めて下人と家の人々との間柄の、元來は對等のものであつたことに心付いた。開けた上方の村々では、百姓も門閥ある者は武家の格式を移して、上下の分際をやかましく言つたが、東の方では敬語が甚だ儉約せられ、一見したゞけではどれが主人の子や兄弟、どれが雇ひ人であるかを判別することが難かつた。從つてこの二つの中間に立つ者、たとへば貰ひ子とか取り子といふ者の性質が、雙方何れにも近かつたのは自然である。勿論主人と主婦だけには權力があり、又是に對する恩義もある故に、謹愼して命に服したらうが、是とても家に生れた者が之に對するのと、目に立つほどの差は無かつた。つまり「家の子」とか「やつこ」とかいふ名稱が、その古い言葉通りの意味に行はれて居たのである。此等の單語が漸く特定の内容を持つに至つて、代つて現はれた下人の稱呼なども、一つとしてこの境遇の近似性を語らぬものは無い。たとへば兄姉叔父叔母などをやゝ心安く粗末に呼びかける語が下人のことであつた。近畿中國ではヲトコシュ、ヲナゴシュと言ふのは僕婢のことであつたが、靜岡縣以東の多くの田舍では、之をまだ本來の心持に使ひ、女房が父や夫を、息子が妻や姉を皆其樣に呼んで居るのである。奴婢といふ文字に據つて彼等の性質を解釋し、所謂主從の道義をやゝ幅廣く唱導し始めたのは、明らかに江戸期の書籍教育であつた。主筋といふ言葉は前からも行はれて居たらうが、之を本家の主人の叔姪族縁にまで及ぼさうとしたのは、從者の承服しなかつた新しい論理で、そ(270)れを勵行した結果が、始めて部落内部の階級對立となつたのかと思ふ。

　しかし此問題を詳しく論ずるには、尚多くの他の方面の資料を求めなければならぬ。爰で私の述べて見たいと思つたのは、是ほど有力なる異種文化の影響があつたにも拘らず、所謂野の言葉の中にはまだ昔の生活の痕跡が遺り傳はつて居るといふことである。ヤツコは勿論古い昔から、呼ばれて嬉しい程の好い名では無かつたが、是が學者のいふドレイだけを意味する語ならば、恐らく使はれなかつたらうと思ふ場合にも使はれて居る。江戸でヤッコといふ者の或時代の尖端生活であつたことは、八十翁疇昔話から村上浪六の小説まで、之を説き立てゝ居るから繰返すにも及ぶまい。人が自分の生みの子をヤッコといふなども、謙遜としては稍々過ぎて居る。あのヤツ、このヤツも敬語では無いといふ迄で、今以て可なり廣汎に用ゐられて居る。但し北陸から兩羽にかけて、日本海側には一帶に乞食をヤッコといふ風が行はれて、流石に同じ言葉を他の者には適用し兼ねるやうだが、それでも越後の一部分ではヤコと短かく詰めて我子のことを指示して居る。莊内地方で奴僕をヤツベと謂ふのも、多分ホイトと同義のヤッコを避けたのであらうが、秋田から津輕の廣い區域にかけては、ヤツメは即ち次三男以下のことであり、從つて末子をヤツメカスなどと謂ふ語さへある。秋田の周圍の郡でヤガといふのも同居人のことらしい。それを動詞にしてヤガエナルといふのは、即ち厄介の文字に累されたヤカヰの殘留であつた。之と對立して奄美大島の南端に於ても、下人をヤンチュウ（家の衆）といふ語が行はれて居る。細かく尋ねたらまだ類例は積み重ねられるであらう。要するに是は唯家々に屬する働き手といふまでの語で、ヤツコといふ語がある以上は、日本の生産場は、最初から奴隷の組織を以て經營せられて居た如く、もしくは之に由らなければ未來の大農は成立たぬものゝ如く、速斷することは許されないのである。

　

(271)　　　　　大家族と小家族

　

　　　　　　　發端

　

　名をいへば誰でも御存じの女流教育家、頻りに人に向つて自分の學校は大家族主義です、それだから生徒がよく働いてくれます、といふやうなことを説かれる。私はそれを聽いて、ほんの少しばかり感觸を害した。ようござんすかそんなことを謂つて、大家族主義なんてちつとも良いものぢやありませんよと言つた。この議論は案外に展開しなかつたが、察するに一部の社會には、まだ安心してさう言へるやうな、一種の常識があるものと思はれる。そんな常識こそは批判して見なければいけない。それが文化史に携はる者の役目である。

　工場とか船舶とか大きな商店とかの、定まつた範圍内で勝手に人を使ひ、跡はどうであらうとも構はずに置いてよろしいといふ處で、病氣をすれば折々枕元に來て樣子を問ひ、あんまり不養生をすると心配して小言をいひ、又は夜分に欠伸でもして居れば甘い物などをくれる。斯ういふのは更に契約面には無いことで、從つて相手の意外な喜びである。まるで大家族のやうだといふことが、感心した者の褒め言葉にもなる。つまりは豫期せられたる?態が、一段と大家族よりも惡い筈だつたから悦ぶのである。人の大切な娘を親に頼まれて預つて置きながら、之を大家族竝みに取り扱はうといふのはどうしたことか。まさか自分が一族員にへり下り、相手を家長と立てようとするのでは無から(272)う。それだから私は失禮だといふのである。

　九州の或旅館の主婦に、途法も無く口の達者なのがあつた。客が來ると先づ床の間の前の坐蒲團に坐らせてから、どうぞ御自分のおうち〔三字傍点〕と思し召して下さいといふことにして居た。是は又餘りにも不たしなみな言葉で、もしもあの細君が今少し若くて色が白かつたら、人からどの樣な疑ひを掛けられるか知れないと私などは思つた。それとはちやうど反對に、東京あたりの下宿屋には、今でも家族的といふ廣告を出すものが多い。此方は客人を家族として迎へようといふのである。取るものは損をせぬ程度に取るだらうのに、我子弟と同一視するかと怒られさうな氣がするが、是は幸ひにまだ大家族的とまでは言つて居ない。だから小家族の親と同じ心持で、愛しませうといふ意味にも取れぬことは無い。九州の旅館の方でも、父や兄のつもりでかしづきますといふやうな誓を、して居るものと承知して滿足した客も多からう。たゞ大家族となると、何としてもさうは善意に解するわけに行かぬのである。

　

　　　　　　　家の自然の大きさ

　

　今ある家族の其まゝにふくれて大きいのが、大家族だと速斷した人が曾てあつて、まちがつた想像を導いて居るのではないかと思はれる。絶對にさういふことは有り得ないのである。モオゼのやうな長命した家長があつたとても、それから生れて出る孫彦やしは子〔四字傍点〕の數は知れたものである。斯ういふ増加のし方では、幼稚な又かよわい者ばかりが必然に多くなり、世話が大へんで其割に力は弱い。之を補ひ又維持して行く爲には、多くの子で無い者を子とし、もしくは子といふものゝ範圍をずつと擴張しなければならぬ。それから又共同の高祖はやがて死ぬ。それが原因となつて家が分裂しては困るとすれば、直ちに之に代るべきものが立つて、第二第三のオヤとなる必要がある。事實上の關係は最も近いのが兄弟、次に何段かの從兄弟姉妹が、子となつてその新しいオヤに從屬すべき?態が起らざるを得な(273)い。家督嫡流の問題が今日の想像以上にやかましかつたのもその爲で、我邦は幸ひにして之を決定するのにさう惱まなかつたけれども、とにかくにたゞ本能の愛情だけに、信頼して居るわけに行かないことは同じであつた。少なくとも肉親の親疎によつて差別を立てまいとすれば、理智の働きが非常に入用であつた。其上になほ血の續きの全く無い家族といふものが、幾らも參加する理由があつたのである。主婦が此等の族員を制御する道といふものが、容易に學習し得られぬ技術であつたことは、今でも家庭のたゞ少しく複雜な場合にも、彼女等の苦勞をするのを見れば大よそは想像が出來る。それよりももつと重い要件は戸主の權力であつた。是が完全に強ければ結合は鞏固であるが、其代りには折々一國の公權と牴觸する。それを又適度に和げて置かうとすれば、家は徐々として分解に向つて進むのである。日本の大家族の消滅には幾つもの原因があつたが、中でも最も早く又大きな一つは、手短かに言へばこの家長の強權が削り殺がれたことである。親方を再び大いに威張らせなければ、所謂大家族主義は到底成立たない。だから學校を大家族とすることが、出來ない相談で無いとすれば、よつぽど我儘な注文だと思ふのである。

　可なり古くから始まつたものかも知れぬが、大家族は決して人類最初からの制度でない。いつの時代にも時代の要求といふものがあつて、一度は是で無くては安泰に生きて行けなかつたのである。その必要が止めば制度も止み、少しまだあれば少しばかり片隅には殘る。是は當り前の話なのである。人が協力しなければ爲し遂げられぬ大仕事は、今日でぢ無論幾らも有る。又段々とそれが大きくもなつて居る。以前はたゞその多數のものが、突發であつて豫想がしにくいか、又は豫想が出來ても其爲に急に人の手を集める方法が無いので、日頃から之を家に備へ且つ訓練をして置くこと、それが大家族を維持すべき主要なる理由であつた。家の外からの勞力の供給、たとへば手傳合力ユヒとモヤヒ、近所の日雇や旅からの出稼が、必ず當てになり何時でも頼まれるときまれば、家族の數は自然に小さくなつたのである。昔あつて今は無くなつた大事業は外敵の防衛、この外敵の中には押込強盗等の目に見えるもの以外に、鬼とか魔とかいふ類の精神上の不安もあつて、是にも多勢の集合がそれを追ひ散らし、又は近よせない守備の力と信ぜ(274)られて居た。さういふ考へ方が正しいかどうかは私の問題でない。とにかくに人の家族の大いなる團結、もしくは其分解の停止には特別の理由があつた。それが無くなれば夫婦親子の小さなかたまりに、復つて行くのは自然である。零落でも何でも無いのである。

　

　　　　　　　大家と小屋

　

　家はその族員の數が多くなるといふこと、それ自身が亦分裂の原因であつた。ブルノ・タウトの感心した飛騨の白川村などは稀有の例で、普通一棟の屋根の下に、寢起きを共にし得る人數には限りがある。殊に番匠の技術が普及するまでは、農家の手作りではさう大きな家は出來ない。以前は却つて南の島々に見るやうな、同じ屋敷内の小さな幾棟かに、別れ／＼になつて分宿して居たかと思はれ、その痕跡は他の土地にも殘つて居る。寒い雪國などで家を廣く建てゝ、強ひて一かたまりに住まうとしたものでも、よく見るとなほ若干の無理が見られる。たとへは獨身の男の限りを、すべて厩の天井の狹い處に休ませたり、老母や少年を座敷の片隅に寢させたり、主人夫婦の他は定まつた室が無くて、客でもする日は居どころの無い家族が多い。是が最初からの設計だつたらうとは思はれぬのである。ヘヤは本來は別屋を意味して居た。現に今でも炭部屋だの木部屋だのと、附屬建物の名に呼ぶ例が多く、又一方には先代の隱居、次三男の分家をさへヘヤと謂ふ土地がある。それを追々に建築の進むと共に、本屋の一部に取入れるやうになつたが、紙が不自由だつたり明りが採れなかつたり、さう澤山の閉じきりを付けることが出來なかつたのである。夜は分れ分れにちがつた小屋の中で寢ても、それが合體して一つの大家族を爲して居た時代が曾つてはあつた。後に建物を異にすれば家も亦別であるやうに、考へる傾きが少しづゝ成長して、無理にも一本の棟木の下に、身内と呼び得る者だけは集合させようとした努力が、今ある農家の大建築を發達させたので、是も亦一つの過渡期の現象のやうに(275)思はれる。

　分家新宅といふ類の多くの名は漢語である。之を國内の普通人が用ゐ始めたのは、さう古い頃の事とは見られない。その以前からあつたらしいのは、先づ北陸から飛騨にかけてのアゼチ又はアジチがある。アゼチは疇内《あぜうち》であらうといふ古人の説は多分正しく、即ち或區劃内の田畠を分ち作る者の義である。東北の諸縣に於てはカマド又はエッコ、關東平野などではワカサレ又はワカレヤ、日本海側の可なり弘い地域でデイヘ・デエ又はデンベなどと謂ふのが、何れも中部以西のヘヤと同じに、所謂分家の一部又は全部を意味して居る。さういふ中でも「出いへ」と「別れや」とは、明らかに分立を意味して居るから、是は問題が無い。奧羽のエッコと四國九州などのヘヤとは、言葉としてはたゞ小さな家屋といふのみで、其中に起臥する者が、集まつて大家族を構造して居るのやら、但しはもう分れて別家族になつて居るのやら、是だけではまだ決しては居らぬ。さうして現實は寧ろ近頃まで、前の方の感覺を以て呼ばれて居たやうである。カマドは之と反對に、始から別の家族であつた。別家ばかりを竈といふのは妙に聽えるが、土地では「竈を分ける」又は「竈を立てる」といふ語が常に使はれるから、乃ち新しい竈の意であることは明らかで、昔も文書には煙の字を以て戸數を算へて居たやうに、食物調製の機關を別にすることが、家族の同じでないといふ目標になつて居たのである。ヘヤやエッコは幾つかに分れて居ても、同じ甑や鍋からの物を、共に食つて居る間は元は一家族であつた。附木や燐寸の作火法が始まるまで、家の火の獨立の容易でなかつたことも事實だが、其背後には又古い火の神の信仰があつて、さう簡單には族員に其管理の權能を附與しなかつたのである。竈は殊に式の日の食事に用ゐられて、家族の結合には大切なものと考へられて居たらしい。常には思ひ／＼の食物を片隅で食つて居る者も、節日とか祭の日とかには殘らず寄つて來て、揃うて一つの「へつひ」の火に成つた物をたまはつたので、それが案外に又近い頃まで、我々の一門一類を繋ぎ合す、大きな力にもなつて居たのである。奧州南部地方の分家のカマドなどは、名だけは昔のまゝでも、實はまだ完全に分立しては居なかつた。是が別々の家族のやうに考へられたのは、至つて新しい(276)變遷といふことが出來る。

　

　　　　　　　マキの解體

　

　家族といふ言葉は古い日本語では無い。從うて今の民法できめられた範圍が、昔の通りであつたとは無論言へない。戸とか家とかいふ漢字が我々のヘ又はイヘに宛てられ、雙方共に建築物の名と共用になつて居たことは、歴史を尋ねる人にとつて大きな不便、もしくは不幸であつたと言つてもよい。必ず一個の建物の中に住むものに限るとするならば、建築技工の進まなかつた時代の大家族は想像し得られぬのみならず、現在に於いてもなほ普通の考へ方又は多くの實例と牴觸するのである。大家族の必要は、決して上世のみの世相では無い。闘爭が久しく續いて治安が脅されやすく、もしくは大規模の生産を未開の地に企てなければならなかつた中近世の交にも、人は團結の爲に養子猶子等の、やゝ不自然なる擴張をさへ試みて居たのである。家が大きくなれば一つの母屋の内に寢られぬのは固より、時としては同じ屋敷の端々にも收容しきれずに、少し離れた場所に小屋長屋を作り設け、差支の無い者だけをそれへ移すといふことも有り得る。其爲に忽ち別の家族となつてしまはないことは、先代の隱居を離れに住まはせる場合も同じであつたらうと思ふ。それ等を包括してすべて今日の所謂分家の中に入れてしまつたのは、はつきりいつからとも言はれないが、ごく新しいことであり、言はゞ現行の法制が之を確認するまでは、まだ中間の幾分か弛んだ?態に、留まつて居たものが多かつたのである。

　地方の名稱には、今でもこの廣義の分家を、成立ちによつて區別して居るものが多い。其一つは即ち完全に竈を分つたもの、新たに獨立して一國の家族を作つた場合、他の一つは大家と小屋との間に、つゞいてまだ若干の飲食の共同と、之に伴なふ從屬の關係を存するものをいふのだが、この兩者の差異は知らぬうちに、追々と見分けにくゝなら(277)うとして居る。それには又已むを得ない原因が幾つもあるのだが、主たるものはやはり舊い歴史の忘却であつた。自分などは説明の便宜の爲に、前者即ち狹い意味の分家を、假に異處分家と呼ばうとして居る。元は一般に家の所在地を異にし、事實完全に竈を分たずには居られなかつた場合に限つて、この種の分家を立てたかと思はれるからである。中古の武家系圖を見ると、名字は必ず斯ういふ場合だけに別になつて居る。今の我々の心持とは反して、名は分家であつても事實新たなる一戸の大屋を作つたのであつた。ところが江戸時代も後半期に入つてから、同じ土地に居りながらこの第二の大屋になるやうな、本家の力を弱めるやうな、堂々たる分家が始まつて來たのである。是には人口の増加とか新墾地方の滿員とか、農以外の産業の勃興とか、次子末子に對する老いたる者の愛情とか、後添ひの母の歎願とか、算へ切れない色々の事情が累積して居ることゝ思ふが、とにかくに財産の分前は以前に比べるとうんと大きく、それによつて支持せられる格式も元のまゝで、門を竝べて住む大分家といふものが起つて、先づ古來の大家族主義を、保持し難くしたのである。斯ういふ場合にも思慮ある家長は、或程度までの資力の段階を立て、又幾つかの約束を設けて、本家中心の統一を講じたのであらうが、代が重なり智愚が入り交り、家運の隆替が目に立つてちがつて來ると、拮抗は自然の勢ひであり、疎隔は容易に舊に復せず、本家分家は仲たがひをするものと、きまつて居るやうな地方も少なくはない。是がその以前の小さなデンベ又はワカサレといふものに影響して、よく／＼微力な者でない以上、甘んじて大屋の節度に服するものが無いやうになつたのも、免れ難い結果といふべきであらう。名こそは大家族とは言はないが、マキといふものは昔の團結の名殘で、それが今日はまだ衰へて行く過程に在るのである。マキは下級の動物に就いて見れば、明らかに大家族と謂つてもよい集合體のことである。一方には又イッケ・ヤウチ・ウチワ・クルワ・オヤコ等の名稱が、今でも親類の意味に用ゐられて居る例は全國的であつて、それが大家族制の痕跡だと意識して居る者は殆と無くなり、一家同然だからだの、誼みは親子の如くあるべきものだからだのと、説明する者ばかりが多いのである。さういふ理論から名稱は發生するもので無い。一家といふからには家は一つ、屋内といふか(278)らには屋を共にするもの、親子といふからには元は親と子の關係だつたので、そのオヤを必ず生みの親、そのコを必ず生みの子に限るやうになつたのは、實は又國民の思想の變遷に過ぎぬのである。この變遷を促した事情も考へて見ないで、やたらに都合のよい部分ばかりを採用するのは、當世の惡い癖かと私は思ふ。

　江戸幕府時代の中頃に、三河から出て來た大久保氏といふ武士が三百戸以上あつた。その中には小田原の殿樣烏山の殿樣など、大名になつた大久保家も數家あつて、其本家はたつた二百石取りの、大久保新八郎とかいふ御家人であつたが、しかもこの一門は珍しく律儀で、始終交際して本家を敬つて居た。たとへば大名の大久保で代替りの跡目を立てるにも、必ず本家に申し出て承認を受けた上でないと、外部には披露しなかつたと傳へられる。無論形式ばかりのものだつたらうことは想像せられるが、とにかくに是が所謂一家の最少限度の義理であつた。現在もそれは決して絶滅しては居ない。寧ろ遙かにそれ以上のものが、マキによつては要求せられて居る。本家に取つては必ずしも物質的に利益なことばかりでは無いが、分家の相續婚姻の儀に參與するのはもとより吉凶禍福の一切に就いて、本家の知らずに過ぎるといふことは無く、それをいゝ加減にして置かれると、體面の上からでも怒られなければならぬ。贈答は相互といふよりも先づ本家の方の超過であつた。是に對して大田植とか普請とかに、別家が大擧して手傳に來ることが昔はあてにせられ、それは同時に又家の面目でもあつたが、是も近年は雇傭の契約が簡便になつて、斯ういふ合力は手數を省く爲に、辭退する傾きが見える。たゞ今でも棄て難いのは大先祖の法事、殊に氏の神の年々の祭典に、日頃はうと／＼しいマキのものまでが、必ず拜みに來なければならぬ義理を負ふ地方もあつて、是が最終の堡壘のやうにも見られるが、現在はその氏神も大半は村に引渡して、名だけは氏の神でも異姓も皆共に仕へ、もとの本家はたゞ拜殿の座の上席を認められて居る程度である。大家族は要するに或一部の人の想像するやうに、一朝にして分裂してしまつたのでは無く、小屋長屋の生活がたゞ少しづゝ發展して、次第に大屋の力を弱いものにして來たゞけである。

　

(279)　　　　　　　七子持屋

　

　そこで誰にでも問題になるであらう一點は、もしも小屋の分宿が大家族を解體させる楔子となつて居るならば、何故にその必要のまだ痛切だつた時代に、極力建築の技術を利用して、大きな家族のもつと多數の人を收容し得るものを、造らうとしなかつたらうかといふことである。是は實際に或程度までは試みて居る。現に飛騨の白川村の如く、平地が乏しく且つ分家の許されなかつた處では、どうして休んだか詳しいことは知らぬが、とにかくに五十人以上もの人が一棟の下に居た例もある。都府の大商人にも、地面が足らぬといふ共通の理由から、やはりさういふ窮屈な合宿をさせて居た者がある。大名の邸宅などは相應に廣かつたらうが、集めて置く人數も多いのだから、之を收容するには無理な構造をして居る。割長屋といふものは元は貧乏人に限らず、江戸へ出て住む各藩士の、忍耐の限度を示す居住法でもあつた。六波羅以來の番兵も夫役も、恐らく皆斯ういふ假屋を給せられて居たのであらう。是非とも必要とあれば山小屋などのやうに、押合つて寢られぬこともなかつたのである。

　だから問題は單なる技術上の能不能では無い。むしろ最初には其樣にしてまで、家屋を巨大にして置く必要は感じなかつたのである。明治の三十年頃に、三河の或海岸に一夏を過した時も氣が付いたが、此邊の漁家は皆小さくて家族が多い。老翁や少年は多く寢茣蓙を携へて、海端の舟の陰などに行つて寢る。それを濱寢と此土地では謂つて居た。月夜に出て見ると月の光の下に、僅かな物を掛けて顔を出して皆よく睡つて居る。青年は二軒の若宿があつてそれへ集まり、物置の二階のやうな所で騷ぎながら寢てしまふらしかつた。本宅は存外閑靜なものであつたらうと思はれる。家は共同の竈の飯を食べるのに必要なだけで、夜はどこに寢るかにはさう大きな攷究を費さなかつたのである。それといふのが終日働くのは濱か海の上で、夜は又疲れて自由な休息を求めた故に、病氣にでもならぬ限り、家屋の入用(280)といふものがずつと我々よりは少なかつたのである。

　所謂男女室に居る生活が始まつて、始めて居處の問題が大きなものになつて來る。もしも婚姻の樣式と女性の地位が、今日と同じものであつたならば、家屋はどういふ風に改築して見ても、到底或程度以上の大家族を支へることが出來なかつた。之に著しい時代の變化があつた故に、乃ち我々の家族は縮少して、再び自然の形態に復せざるを得なかつたのである。かりそめにも日本の大家族主義を説かうとする者ならば、之を可能ならしめて居た配偶法の、昔今の差異ぐらゐは承知して居なければならぬ。此歴史を一目でわかるやうに、記述した書物はなるほどまだ出て居ないが、知らうと思へば眼前に、變遷の各段階がまだ殘つて居る。それを竝べ比べて見たゞけでも、容易に斯うなつて來た路筋だけは考へられる。手短かな言葉で説明するならば、女房は元は悉くオカタでは無かつた。多數の女はそれ／”＼に人のメではあつたけれども、一家にはたつた一人しか家刀自は居なかつた。從つて以前の大家族の中に於ては、その一人と他の多數の者の妻とは、非常に異なつた結婚生活をしなければ、忽ちにして統一は亂れたのである。さうして近世は段々にこの差別を無くして來たのだから、家は何としても分解せずには濟まなかつたわけである。

　同じ一つの建物の中に、幾組もの夫婦者が共に棲むといふことは、昔とても至つて珍しく、寧ろ近い頃になつて稀々ながら現はれて來たのではないかと思ふ。岡山縣の北境の山間には、曾て七子持屋といふ評判の大屋があつたことが、地誌の書に出て居る。七人の子持が住居を一つにして居たといふことは、ちよつとどうして寢たらうかの想像も付かぬ話だが、是は峠の途中の一軒屋で、固まつて居ないと不安なやうな場處であつた。たしか越後の蒲萄峠などでも、昔自分は大家族の共に住む家を見たことがあつたが、同じ?況の下には無理を忍んでも、さういふ暮し方をする者があるといふだけで、一般の風習ではなかつたらうと思ふ。

　

(281)　　　　　　　最近の試み

　

　東北では今でもやゝ是に近い大家族の話が折々ある。たとへば氣仙の大島では、三夫婦で十七八人ほどの一家があつたことを、友人の一人が教へてくれた。長男が五十何歳で、其女房がヘラトリ即ち主婦になつて居る。男親が經濟的に無力になると、自然に女親が飯匙を子の嫁に渡すことになるのだといふ。この一家などは長命の筋で、多分は孫の結婚するまで、祖父母が達者で居るといふのであらうが、この形のものならば中部以西にもごく稀にはあつて、頼まれて新しい橋の渡り初めなどに出て來る。もつと舊式な例は、二戸郡の石神の部落で、最近に有賀といふ人が調査報告した齋藤某なる大屋などは、現在是も三夫婦だが、うち二組は召使であつた。臺所の片隅に小さなヒヤを支給せられ、夜は其中に休んでそれ／”＼に數多くの子を育てゝ居る。建築技術の上から見て、斯ういふ間じきりのある小室は幾つまで作れるか知らぬが、淋しい雪の深い土地などでは、一緒に居る必要が多いので、元は或はなほ幾組かを收容して居たこともあつたらう。とにかくに是ならば家族の結合を弛ませる心配は無い。主婦と他の妻との權力の差は段ちがひで、不滿も不便も忍ぶことが出來たからである。しかもこの?態ですらも主婦の役目又はその氣苦勞といふものは、ずつと今の普通の家庭よりは大きかつた。都會のマダムなどの全く想像も出來ぬだらうと思ふことは、斯う云ふ家にはあの地方でエンヅコといふもの、即ち藁で編み上げた小兒入れの籠が、五つも六つも板敷の片脇に竝んで居た。若い母たちが野山に出て働く間、留守を預かるのは主婦一人だけで、晝夕の食事仕度の片手わざに、生みの我兒も一樣に、この澤山の赤ん坊を世話するのが、委託せられたる彼女の任務であつた。多分は近くの小屋に住む名子たちも、もとは抱いて來て是へ預けて出たのであらう。今ある農村託兒所の始まるまでは、忙がしい田植時などには有りつたけの幼兒を連れて出て、田の畔などで遊ばせて居る光景が、西の方の田舍ではよく見られた。

(282)　　　早乙女や啼く見の方へ植ゑてゆく

などといふ發句もあり、又は若嫁の人竝みに働けぬのをあてこすつて、

　　　五月六月啼く子がほしや

　　　あぜに腰かけ乳呑まそ

などといふ田植唄も出來て居るが、女が子育てに氣を取られて居たら、能率の擧がらぬのは當り前のことで、さうすればそれだけ又、餘分の人の手を用意しなければならぬ。勿論單純なる愛情からでは無かつたらうが、斯ういふ一視同仁の育兒法も、やはり大家族に於いては必要だつたのである。

　食物の分配は兒童だけでなく、腹をへらして還つて來る大人たちにも大問題であつた。それを程よく又出來るだけ味はひよく、誰にも滿足するやうに給與するといふことも、決して氣樂な役目では無かつた。殊に女は其道に長じてゐる爲に、何かといふと批評したがり手を出したがるが、それを許して居ると消費は度を超え、自給經濟の統制はすぐに亂れる。それ故に杓子飯匙を主婦權力の標識の如く認めて、些でも他の女性に手を觸れさせまいとする氣風が、つい此頃までも殘つて居たのである。是が下人であれば不幸は蔭口に止まり、自分の娘たちならば遠慮の無い口をきくから、共に衝突とまでは行かずにすむのだが、義理で繋がれ制度で服從する、兄弟嫁以下の續き合ひとなると、朝晩一家に居れば問題は起り易く、あらはに爭はぬまでも心では氣まづいことが、積り重なることは免かれなかつたらう。

　有名な近年の實例が一つ、會津の河沼地方の濕草原野に、越後から入つて來て開墾した小林といふ一家があつた。初代は明治年間の人で、多分その遺訓であつたらう、兄弟夫婦が共に住んで分家をせず、一時は子を育てゝ六十幾人までの大家内になつて居た。家長はたしか東洋大學を出た人のやうに聽いてゐる。耕地も廣かつたが勞力も相應以上に豐富で、この機械化時代になほ役畜の必要を見ないといふ話さへあつた。一度直接に經驗を尋ねて見たいと思つて(283)居るうちに、突如として解散してしまつたといふ新聞の報知に接したのである。

　其理由は今ならば究められるが、恐らくは兄弟の不和といふやうな、忌はしいものでは無く、たゞ是が從兄弟となり再從兄弟となつた曉、どうして繼續し得るかといふ見込が、立てられなかつた悲觀からだらうと思ふ。大家族の構成には血族の蔓延と、同居被護者の増加との二通りはあるが、何れにしたところで家長夫婦の、大きな權能が其支持の爲に入用である。それを新時代の法制では、もう少しも省みようとしないのである。

　

　　　　　　　白川村の婚姻

　

　子供を二親の手で育て上げること、妻は必ず夫の家に住むこと、この二つの原則を動かぬものとする限り、もう大家族の存立する餘地は無いと言つてもよい。會津の小林家は之を認めた故に分解し、飛騨の白川村は之に反抗して、やゝ久しく殘壘を守つて居たが、それもこの二十年ほどの間に、見るも痛ましいほどの變化を受けて居る。白川の大家族は養蠶業の勞力需要から、近世になつて急に成長したといふ説もあるが、それは子育てが多くなつたことを意味し、あの特殊の家族制までは、新しい發明でないと思ふ。この土地の婚姻法の特色は、妻は家長に連れ添ふ者以外一人も嫁入をせず、すべて生涯を通じて生れた家に留まつて居る。其夫はたゞ戀しい時ばかり、尋ねて來て逢ふのである。二人の間に生れた兒は、男女ともすべて母の家の人になる。今の民法ではこんな子も私生兒といふので、それを悲しがつて表向きは家長の子としたのもあるが、さういふことは到底全部には出來ない。しかも生みの父の愛情は別れて居ても深いので、大人になるまでは雙方の力がかち合ふのである。婚姻の信義にかけては、寧ろ尋常の家庭よりも固いのに、是を夫婦として登録せぬのがまちがひでは無いかとも思つたが、それでは又住宅共同の下に戸籍の一家といふものが別に出來て、今までの大家族がたゞの集會所になつてしまふのである。斯ういふ若い人々が旅をし世間(284)を知つて、いよ／＼我境遇を忍びにくゝなり、次々に外へ出て事實上の分家をしたのも、一面から言へばこの昔からの統一を、亂すまいといふ心遣ひとも見られる。明治四十年に私が訪れた頃は、まだ戸籍通りに四十何人、時には五十人も居た家が、今では何れも皆十何人しか止まつて居らぬといふ話である。

　白川で自分などの心づいて來たことは、ワタクシといふものゝ必要なことであつた。ワタクシは古語だが他の地方では、新開とも掘り田とも夜蒔きとも、又ホマチともヘソクリとも戯れ名づけられて、家の族員が貯へて居る私財を意味する。所謂小遣錢の入用は世と共に多くなつて、ねだつたりいたぶり取つたりするのは、生みの親子の間に限られて居る。家で給するのは毎日の食物、夏と冬とのかゝりの衣類だけであつたが、近頃は其以外の心づけも定まつて居たかも知れない。それにしたところで其高は知れたものである。東北では仕事の割りはか、又は一人役といふものをやかましくいふ處が多いが、是は早くそれだけを働き終つて、其あとで各自の私の所得を計らうといふ趣意が主であつた。飛騨の白川村でもその内々の慣行はあつたらうが、別に一月のうちに何日かのワタクシの日といふのがあつて、其日だけは男女二人が申し合せ、山に小豆を蒔いたり、溝の片脇に敷株の苗を挿して置いたり、夜や雨降りには手仕事でもして、子供に一枚の着物とか、赤い鼻緒の下駄とかを買ふ算段をして居た。學校などが始まれば無論外へ拂ふものが多くなる。夫婦の間のさゝやきも、段々と繁くなつて來る理居である。それを公々然と討議するやうな私室が、益々欲求せられるのも自然の勢であつて、しかも白川村の素朴な大建築には、主人主婦の帳臺より外に、どこにもそんなヘヤは一つだつて無かつたのである。家人が數多く若い衆は自由に外に寢る時代でも、なほ夫婦者だけには別の小屋の、小ぢんまりと隔絶したものを、給與して居たといふのが寧ろ當り前で、白川村は平地が不足な爲に、此點幾分か無理な我慢をさせて居たのかも知れない。

　斯ういふことをすべて下品な話のやうに感ずる人ばかりが、久しく學問を獨占して居たのは國の不幸であつた。たとへば食物と婚姻との二つは、原始以來切つても切れぬ關係にある。三日目に二人で餅を食ふといふことは源氏物語(285)にさへ出て居る。仲の好い證據に他人を交へずに、何かを食べて居るといふ光景は未開人にも見られる。多くもない珍物を我が愛する者だけに、殘して置いて食べさせるといふ話は、桃太郎の發端にもある。食物の共同といふことが嚴重な作法であり、竈とへつひを以て一家族を統御して居た社會にも、外で食ふ辨當だけは親しい者どうしが割據して居た。まして炭や焜爐や小さな土鍋が手に入り、燧石で火を打ち吹竹で吹き起して、自在に小規模な調理が出來るやうになつた以上、夫婦親子の愛情が之を利用せずに置く筈は無い。だから又カマドは分立せずには止まぬものであり、之を促す所のさま／”＼の原因のうちでも、文化の進みといふことが最も有力なものであつたと言ひ得る。日本の保守分子が、この遠ざかつて行くものゝ後影をなつかしがり、僅かに殘つた約束を持續させようと努めるのはよいことである。しかも名目ばかりの古い思想を見境ひも無く援用して、自分の事業の成功に役立たせようとするのは惡いことである。

　

　　　　　　　主婦の權威

　

　大家族制の新しい時代に容れられなかつた理由は、必ずしもそれが個人の活躍を拘束した爲だけでは無い。簡單な算術でもすぐに割出せる如く、今の十倍以上の人數で一家を作るとすれば、生涯戸主とならずに終る男、おかみさんといふ名を以て呼ばれずにしまふ女が、少なくとも今より十倍だけ多い結果になる。内ではどのやうに忠實に働いても、斯ういふ人たちは直接に外部と提携して、社會の役に立つことが出來ない。それを先づ第一に政治家が喜ばなかつたのである。だからいつの代の政府でも、分家には便宜を供し、戸數の増加を國繁榮の兆と目して、その各戸の口數は問題にしなかつたのである。民衆の指導は常に家長を目標とし、之に從屬して居る族員には及ばぬ懸念があつた。すべての壯丁が行く／＼は必ず家長となり、女は一人殘らず末には主婦となるといふ豫想の下に、今日の普通教育は(286)與へられて居るが、それは又大家族制に在つては絶對に望まれぬことであつた。或はやゝ性急に西洋を習ひ過ぎたのかも知れぬが、とにかくに以前の家組織はまだ完全には崩壞しきらず、若干の異處分家と之に準じた新分家とを除くの外、多數はまだ大家を中心としたマキの團結を續けて居るのを、すべて一樣に各個獨立の小家族と見てしまつたのは、目的は全くこの責任ある戸主の數を多くし、國家直接に是が指導と教育の任に當らうとするにあつたのである。其效果はたしかに現はれて來た。其代りには一方世界にも稀な細小農を多くこしらへ、彼等の地位を不安にし、浮動性を著しくしたのみか、さしもに年歴を誇つた村々の門閥を、甚だ衰亡しやすいものにしてしまつた。一利には一害を忍ぶのも已むを得ないが、もしも當事者たちに今少しく自分の境涯、又は今日に立至つた過去の事情を意識させることが出來たら、或はより幸福なる判斷なり計畫なりが、立てられたのではないかと私などは思つて居る。

　マキの團結が十分に鞏固なる土地では、以前の大家族は其まゝには殘らなくても、なほ或程度までは當初の目的は達成し得られた。たとへば外敵の侵害、殊には水害山火事の防禦の如き、不時に勞力の集合を要する場合にも、其度毎の召集勸誘をまたず、又その指揮者なども必然に定まつて居て、統一は容易に保つことが出來た。今まで村の治まりがよいなどといふ土地は、何れも隱れてこの不文律が働いて居たので、之を信頼するが故に平日の不安も除き得られ、實質に於いては殆と大家族の存續して居るのと、異なる所の無い例も最近までは稀で無かつた。たゞ違ふ點は大小の家毎に必ず主婦があつて獨立し、その相互の交通が少しづゝ制限せられて來たことだが、是もまだ昔の姿のまゝで傳はつて居る處も捜せばある。全體に本家の細君がやゝ遠慮深く、同時に人の事は構はぬ樣になつたのが、この疎隔を促したかと思はれるが、それにも誠に已むを得ない原因はあつた。或は大家族の中心勢力を維持する爲の、是も一つの手段だつたのかも知れぬが、村で一門の頭とも立てられる家だけは、成るべく隣村隣郡の同地位の家から、遙々と嫁を迎へ取る風が、もう大分前から始まつて居る。家柄格式と云ふものは之によつて高まり、何か危急の場合には助け合ふのにも都合がよいだらうが、そんな事をすれば主婦の權威は低くなるにきまつて居る。もしも私などが考(287)へて居るやうに、昔の縁組は村内に限つて居たとすれば、それとこの遠方婚姻とのちがひは非常なものである。第一に妻問ひといふものがいゝ加減になる。幼ない頃から共に育つた所謂筒井筒の親しみが無く、相信じ相愛してから徐ろに配偶の生活に入るといふ準備期間の不足、是はまだ常人には何とでも補ふ途がある。それよりも大切なことは、婚舍を妻の方の父母の近くに設けて、男の家にいよ／＼主婦の入用になるまで、靜かに入家の期を待つて居るといふ、古來の慣行を續けることが出來ない。約束がきまるや否や聟入さへ後まはしにして、直ぐに夫の處に送り込み、綿帽子を取つて始めて對面するといふ夫婦すら出來たのである。斯ういふ花嫁は無論家族となつて、娘と同樣の、しかも同情のやゝ乏しい監督を受ける。一方では又よい未來を持つて居る故に、羨まれ且つ批評を受ける。

　　　嫁が來るそな、榎の馬場へ

　　　馬で來るそな、鈴が鳴る

　樂しいうれしい一生の花咲く日は、即ち村中が目であり耳であり、又指である日だつたのである。さうしておづ／＼と入つて來た若い女性が、果して小規模なる平政子乃至は松下禅尼として、恩威竝び行はるゝ一門の内政を、綜攬し得られる修養が出來たであらうか。心理學的にも恐らくそれは大多數には望めないことである。大屋小屋の團結は先づ竈の方から弛み、節供の共食までが唯單なる顔出しの義理になつたのも其爲だつたと言へる。

　

　　　　　　　花嫁學校のこと

　

　婚姻制度の變革は最初には武家町家、殊に政略的縁組を必要とした階級に先づ始まり、次第に村々の舊家に採用せられたが、是には交通交際も大きな條件であつて、一般の農民は明治の世に入るまで、まだ完全には之に依ることの出來ない事情を持つて居た。一つの要件は女の勞働、是が生れた家の爲に缺くべからざるものであつた間は、親は結(288)婚は許してもなほ出來るだけ長く、娘を引渡さずに置かうとしたのである。主婦が男の家に入用になつた場合でも、約束の年限だけは嫁入を延ばし、もしくは其代償を拂はせてから向ふへ遣るといふ例も、海岸部の人手の足らぬ土地にはまだ殘つて居る。それを大急ぎでさあ／＼御引取り下さいと、渡してしまふのを大安心といふ樣になつたのは、要するにその娘の勞務が家に取つてはもう不用だつたからで、女性の爲には格別名譽なことでもなかつた。早く聟殿の家の家風に馴れ、實地に就て主婦の修行をするやうにといふ、親心からには相違なからうし、又住んで居る土地を異にすれば、男が通ふといふことも容易なことで無いから、早くその直接の保護に委ねてしまつて、預りものゝ責任を負ふまいとする動機もあつたか知らぬが、貰ひ方から見ればたゞ家族が一人ふえたのである。この新參者に課せられる新任務が、さう快適なものばかりでないことは知れて居る。それをじつと辛抱して居ても、待つて居るのだらうなどと疑はれる。

　　　つとめつらうても爰に居りや嫁だ

　　　うちは大名でも出りやをばだ

　ヲバといふのは未婚女子、といふよりも主婦になれない者のことで、是が以前の大家族には多かつたのである。斯ういふ種類の民謠なら腐るほどもある。御蔭で彼等の人生觀はかはり、女子の準備教育の方針は立て直され、女らしい女といふものゝ標準も改まつた。高等女學校が既に花嫁學校以外の何者でも無いのに、其上に更に今一階を設けて、すべて女性の適格を花嫁に律しようとして居る。

　枕の草子の有り難きものゝ條に、舅に譽めらるゝ聟、姑に思はるゝ嫁の君とある。聟は決して舅と同居しなかつた如く、あの時代の嫁の君とても、朝晩傍に居て觀察せられて居たのでは無かつた。それで居てもう兩者の間には若干の反感があつたのである。母と子の愛を妨げられるといふ、フロイド一派の説き立てるやうな心理もあつたらうが、なほ其以外にも一家の立場から、抱かずには居られない未來への不安が、女年寄にはあつたのである。年とつた主婦(289)の經驗では、一家の經營といふことは氣苦勢の絶えない、一通りならぬ難事業であつた。多くの男女を快く働かせて、しかも片隅に一固まりづゝ割據させず、常に共同の利害に忠實ならしめようといふには、折々は髭の有る者をも叱り付けねばならぬと共に、心に抱いて居る彼等の願ひや惱みが、眼顔でわかる位の同情も備へなければならぬ。育つて行く者のしつけは申すに及ばず、家の體面や世間への義理、何だのかだのと身が痩せるほどに、四方八方へ氣を配らなければ、一軒の世帶は持てるものでない。さうした經驗は爪の垢ほども無く、たゞ問題になるまいといふ消極主義、夫婦仲よく暮せばそれでよいと、思つて居るらしい若い妻が氣になるのである。それで何かの折には慨歎するのである。ところが一方から言はせると、そんな事はちやんと心得て居る。目下手腕を示し意見を提供しようとすれば、衝突は必至だから抑制して居るに過ぎない。ちつとも變化の無い時世ならばともかくも、今は追々もう昔では無くなつて居る。さうして若い嫁たちの生活修養は、實はこの新舊兩者の比較から出發して居たのである。一方を御手本にして學ぶといふ以上に、それを内々は批評するといふことが、元は普通の家庭の普通の教育法であつた。出來るだけ立派な又適當な主婦に今にならうといふこと、是が嫁だけでは無く、すべての若い娘たちの目標であつた。從つて彼等の觀察は明敏ならざるを得ない。それが夜も晝も同じ一つの棟木の下に、共に住まうとした近代の家族組織である。まだ／＼此程度にでも平和を保ち得たのは、寧ろ歎美すべき日本女性の忍耐力であつた。

　しかも是には何等かの對策が無くてはならぬことは、既に古人も感ぜずには居られなかつた。繁昌する土地では財産の分割、本家と幾らも劣らぬ大きな新宅の多く生れたのも其爲であれば、親夫婦がまだ若いのに次男以下を引連れて隱居するといふ風も是から始まり、或は當分のうち長男夫婦に、獨立して小さな竈を持たせて置くといふ慣習なども是から出來たが、さういふ便法の採用し難い家庭もなほ多いので、更に其以外に特に女を貞淑にし、あらゆる計畫や新意匠を斷念して、與へられたる境遇に適應させるといふ、近代の教育組織が考案せられたのである。斯うでもしたならば無事に嫁づとめの難關を通り拔けようかといふ、是もあはれなる親の心であり、又その御蔭に美しい數々の(290)�ｺ性も發揮し得られたのだが、たゞ此方針を以て押し切らうとすると、少なくとも昔の大家族の家刀自は養成し得ないのみか、僅かに殘り傳はつて居る一族門黨の結合を、支へ纏めて行く主役にもなれないのである。折角民族の新たなる天地が開けて、是まで豫測もしなかつた協同が必要になつて來ても、曾て我々の内に在つて鼓舞し激勵し、もしくは訓誡し慰撫して居た、中心の力はもう求め難くなつた。さうしてたゞ忍苦とあきらめとを以て、自分ばかりの逆境に對立しようといふやうな、花嫁ばかりが多くなつて行くのである。だから大家族の長處美點を、改めて大いに説き立てようとするまでは、女の學校としては確かに必要である。其代りには一人でいつまでも主婦の權力を、揮つて見せるばかりを實例としてはいけない。さうして又十分に舊式の弱點を批判させるやうにしなければならぬ。是が恐らくは新時代の一段と清く健やかなる大家族主義を、招き致すべき唯一の道であらう。歴史は利弊の兩面を明白にした上でなければ、やたらに採用すべきもので無いと私たちは信じて居る。

　

　　（附記）

　　本文に引用した會津金上新田の大家族解散の顛末は、高橋康文君の山村風物帖（　　三教書院）に詳細な記事が出て居る。私は遲く見たのでそれを利用することが出來なかつたが、之を讀んだ上でもこの結論はかはらない。

　

(291)　　　　　家名小考

　　　　　　　　　東筑摩郡家名一覽に題す

　

　　　　　　　　　　一

　

　近頃もう暫くの問、私は此間題に就いて考へて見ようとしたことが無いが、　　愈々東筑摩郡の家名調査の結果が公表せらるゝことになれば、今一度之を機縁として諸君と共に、研究を始めて見たいと思つて居る。誰しも少しづゝは興味を持つ問題だけれども、是まで世に知られて居ることは實は案外に僅かなものであつた。それといふのが今度のやうに精確な整理せられた資料が得にくかつた爲であつて、從つて新たに平民の歴史に向つて、諸君がこの一路の入口を開いたといふことが、單に一地方限りの小さな事業でなかつたことを、行く／＼證明することも困難ではないわけである。

　但しそれには先づ問題の興味を感じてかゝらねばならぬのだが、私の古い經驗は或はまだ諸君の道案内として滿足とは言はれぬかも知れない。私の知る限りに於ては、家名が現在のやうに家と結び付いて、切離すことの出來ぬものになつたのは、至つて新しい變化であつた。今日の戸籍制度の行はれるまでは、家名は何度でも家の主の好みによつて、取替へ引替へても差支の無いものであつた。桂小五郎後に木戸孝允といふやうな實例は、必ずしも世を忍ぶ假の名ならずとも、あの頃までは珍しくないことであつた。町に出て住む多くの浪人なぞは、醫者とか手習の師匠とか地(292)位職業の變る毎に、それ／”＼似つかはしい名字を付けて、それで世間にも通つて居たのである。村でも一族の間に確執などがあると、それを限りに何れかの一方は家名を改めた。其痕跡は此あたりにも少なくは無いやうである。然るにも拘らず、所謂舊家の誇りは專ら名字に存し、寧ろ其起原の稍々不明になつて、幾分か傳説化することさへ珍重するに至つたのは、何か隱れたる深い理由のあることで無ければならぬ。さうして其傾向は既に新しい名字の盛んに發生して居た時代から表はれて居たのである。明治の新制は、家名選定の點に於いては、明らかにこの古來の改稱自由の制限であつた。しかも何人も之に對してもはや不滿の感を抱かぬまでに、いつと無く我々の考へ方は變化して居たのである。さういふ事實が亦今囘の調査に基いて、段々に解つて來る見込が付いたとすれば、その史學上の功績は獨り一郡の舊史の上に認められるのみで無いと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　始めて家名の日本に發生した事情は、頗る今日の屋號又は通り名といふものに似て居る。農家の星號には代々の何左衛門何太夫を用ゐるものと、屋敷の所在に由つて西屋敷・梅垣内・杉の本の類を呼ぶものと、土地によつて二通りの差別はあるらしいが、何れも各個の家毎に一つ／＼の名を付與して居るのである。それと同じ樣に中世の武家系圖に於いても、家を分つたびに必ず新たなる名字を設け、同じ一つの家を相續する者で無ければ、兄弟叔姪でも悉く家名を異にして居たやうである。此風習の最近まで傳はつて居たものは、京都に住む貴族たちであつた。公家でも諸侍といふ階級には早同名の數家があつて、名乘ばかりで區別對立する例は多かつたが、堂上は少なくとも常に一名一家であつた。それが一條氏の土佐に行き、西園寺氏の伊豫に入り、姉小路氏の飛騨の山國に割據するに及んで、爰に始めて家を異にして、家名を同じくするものが出來たので、其外形ばかりから見ると、原因は主として遠國移住に在つたとも考へられるのである。

(293)　武家の方では是と同樣の現象が、ずつと以前から認められて居たやうである。平家が没落して盛んに所領の轉給が行はれると、鎌倉の家人の中には、もう所謂名字の地を離れて、遠い國に行つて住む者がそろ／＼と現れて來た。其後承久の一激變を經過して、諸家の榮枯は愈々甚だしく、南北對立の時代になつては、家名は最早一郷一莊園の開發地主のみの、獨占し得るものでは無くなつて居たのである。例へば武田はその甲州の本國に於いてこそ、誰爭ふ者もない唯一の本家ではあつたが、其支流の出で上總に居り若狹に居る者は、各々獨立して又別箇の武田氏であつた。小笠原は南信に入つて強大なる土豪となつて後まで、猶依然として舊土の在名を稱して居た。其他九州の千葉・伊東・宇都宮・兒玉・相良、さては奧州の熊谷・小野寺・佐々木の類、何れも他には斯ういふ家名を發生せしむべき理由が無い以上は、乃ち其家傳の主張する如く、遠く各自の本國から前の名字を携へて來たもので、是を初期の慣行と比べ合せると、確かに一つの變化といふべきであつた。

　察するに是は國内交通の新たなる展開につれて、諸家の勇名が弘く世に知らるゝことになつた結果、之をも一種の武器として所謂新恩の所領に臨まんとする風を生じたので、それには第一に遠く離れて居れば、總本家の威望を侵食する懸念が無いこと、第二には下野の足利氏などの如く、前の領主の家の名と紛れ易く、それを區別する必要があつたことも、此傾向を助けたのであらう。が、それよりも更に根本に於いては、武家の移動が段々と盛んになると共に、家といふものに對する彼等の考へ方が、自然に少しづゝ變つて來たのであつて、或はあの時代の幕府の統制策も、亦幾分か此結果を豫期し、之に由つて地方豪族の集合力を弱めようとして居たのかも知れぬ。

　兎に角に故郷の名字を遠國へ運んだ者は、最初には唯頭目の一家のみであつた。上總の武田が庶流は、鞠谷となり御宿《おんじゆく》となり、信州の小笠原は、伊那・伴野・大井の諸家を出し、肥後の宇都宮氏が内古閑《うちのこが》・城井《きゐ》などに分れて行つたやうに、何れも在來の方式に則つて、庶流は各々分地の名を以て新しい家の號として居たのである。それが時移つて終に今日の如く、子孫眷屬の端々までが、すべて本家の名字を呼ばるゝを當然とし、人は寧ろ所謂同苗の家の數の多(294)きを嘆美する樣な世相を見るに至つたことは、その間に必ず我々の解説を必要とする、何か重要なる族制の變遷が潜んで居るので、これが今囘の家名調査を目して、一つの大事業の小口であるかの如く、私などの考へてゐる理由である。

　

　　　　　　　　　三

　

　駿河志料には今川記といふ古書を引いて、今川家は將軍義教の時代に、其家數度の軍功を感じ思召され、總領一人一名といふ御免許の御書を範忠に下したまはつた。それ故に此免許?は當家重書の第一として、範忠以後は正統の外は、一門決して今川と名のる者が無かつたと言つてゐる。之を他の半面から見ると、他の普通の家には、應仁の亂の起るよりもずつと前から、既に兄弟叔姪の數家に分れて、數家各々本來の名字を保持し、時としては相對立することをも許されてゐたのであつた。ところが一方には右の如く、名字の獨占を本家の特權と解する風があり、又�ｺ川氏の如きは尚出來得る限り、この一家一名字の格式を守つて、所謂御三家御三卿にも新たなる家號を立て、しかも別に他の一方には多數共用の爲に、松平の舊名字を宛てることにして居たのである。二つの相容れざる要求は此の如くにして辛うじて協調せられて居た。即ち嫡庶の分際を明確にする爲には、名字を古制に遵うて總領の家だけに限る必要はあるのだが、同時に對社會の關係に於いては、又或方法を以て勢力連繋の實を示さなければならなかつたので、それが後漸く第二の必要の方に引寄せられようとして居た頃、忽ち世の中は改まつて維新となり、ほゞ目前の有り形に從うて、至極無造作に此問題を解決してしまつた。だから又今日の家名分布の?態が、偶然にこの千年この方の沿革の痕を、反映する結果にもなつたのである。

　實際今ならば何でも無い事の爲に、昔の人は餘計な苦勞をして居た。近江の佐々木氏は夙くから二家に分れて、互ひに獨立した大名であつた故に、その京中の邸宅の所在に從うて、一方を佐々木京極、他の一方を佐々木六角と稱し(295)て居た。家が別であれば家名も違はねばならぬのだが、雙方共にこの一門の頭領である以上は、容易に佐々木の舊名を棄て得なかつたのみならず、是が又此流の家風であつたと見えて、出雲に分家したものは佐々木古志、或は佐々木布志名判官などの名字を用ゐ、備前を領した家は又佐々木飽浦莊司などと稱してゐる。肥前の松浦黨でも南北朝期の文書を見ると、松浦相知孫太郎秀だの、松浦鮎河六郎次郎信だの、松浦武夫九郎兵衛尉授だのと、折角實名は簡單な一字を用ゐながら、通稱は此通り長たらしいものになつてゐるのである。近世は多分六角氏や京極氏の如く、後の半分だけを殘してゐることゝ思ふが、右の武末九郎授なども、もとは福島といふ家から分れたと見えて、或文書には松浦福島武末九郎授と記されて居り、其他にも松浦神田吉丸六郎とか、松浦愛知築地孫十郎正とか、殆と一人の名前とも思はれぬ樣な長い名を付けて居る。稍々不倫なる比較ではあらうが、東京の待合や藝者屋の看板に、往々にして此類を見かけるのも、趣旨に於ては全然一つであつたかと思ふ。是が現在のやうに家が幾ら別々であらうとも、家名は共通でよろしいことであつたら、此樣な煩雜なる新名字を案出するには及ばなかつた筈で、要するに我々の家名が家の組織の分化につれて、次第に現代の如くなつて來る迄の、是が一つの中間過程を示して居るものと言ふことが出來るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　姓氏録の新撰せられた奈良の大御門の終り頃には、是と同じ樣な變化がちやうど亦姓氏の上にも現はれて居たのである。即ち一方には朝命により、乃至は新立の家長の理想に基いて、隨分色々の氏の名が新たに設けられたらしいにも拘らず、他の一方には由緒ある本の稱號を保持しつゝ、上毛野阪本朝臣とか、平群文室朝臣とかいふ類の複合氏がどし／＼と出來た。さういふ長々しい氏姓はとくの昔に消え去り、餘程の奇特な人でも滅多に之を考へ出して、再び本名に用ゐようとする者がなく、從うて當初あれ程數多く立分れて居た家々が埋没して、僅かな源平藤橘の後裔に併(296)合せられてしまつたかの如き觀を呈するが、それが社會の生理學から考へて、果して有り得べきことか否かは六つかしい問題だとしても、少なくとも斯ういふ複合式家名を作つて、次々に家を分けて行かうとした慣行のみは、たゞさう早くは消えてしまはず、少しく形をかへて中世以後までも尚傳はつて居たのである。さうして是と同時に他の一方には、一つの家名を固定させて、出來るだけ多くの家に共用させようとする傾向も、亦既に源平藤原等の、比較的新しい姓氏が出來た時に始まつて居るのである。

　別の言ひ方をすれば、上代の氏の名と、中世或期間の名字といふものとは、寧ろ其性質に互ひに似た所が多かつた。それと同時に同じく姓といひ又は名字といふものでも、時代によりもしくは其慣行の壽命次第、可なり其間に著しい内容の變化があつたらしい。それを一概に姓氏又は名字といふ文字のみに由つて差別を立て、之を以て個々の門葉の盛衰を考へて見ようとすることは、或は不安なる研究法では無かつたらうか。例へば全國萬を以て算ふる家々に立別れて、互ひに有りとも知らず、何の連絡をも有たなかつた藤原朝臣、又は源平の朝臣の類は、恐らくは當初新撰姓氏録の編者の想像し得なかつた所である。初期の氏尸《うぢかばね》は公に認められ人に呼ばれ、所謂有名無名を別つべき家の名であつたが、後世になると系圖に據り又傳説を辿つて自ら主張しなければ、誰も源であり平であることを知らぬ場合が多い。前者は部曲が繁殖し家が分蘖すれば、おのづから變り改まるべきものであつたかも知れぬに反して、後者はさういふ機會ある毎に、際限も無く只其同家の數を増加して來てゐるのである。姓と今日の名字との大きな差別だけは、夙くから人が注意して居るが、姓の中でも古いものと新しいものとには、やはり是と同じほどの相違が出來て居たのである。

　簡單なる文句で説き盡すことは出來ないが、此變化の追々に現はれて來たのが、所謂武家勃興の時代であつたことは、私には偶然で無いと思はれる。武家は其職分即ち軍陣の必要から、幾らでも家を大きくすることを厭はなかつた。ところが或程度以上に家が大きくなれば、一つの棟木の下に息み、一つの竈の物を食つて居ることが出來ぬのは勿論、(297)往々にして又同じ地方に固まつて居住することも難い。從つて終には一族一家といふ語を無形化し、家人の範圍を遠方まで擴げ、事實に於いては獨立して活計を立てゝ居る家々を、家名で區別し姓で繋ぐといふやうな、結果を見ざるを得なかつたのであるかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　しかも現代の星號屋敷名が、多數の同家の一つ／＼を標識せんとして居る如く、上代の姓氏も亦曾て大よそ是と同じ經路を通つて、一家一姓の?態に進化して來たものと私は思ふが、今はそこ迄は論究する必要が無い。爰で言ひたいのはたゞ家々の名字が、やはり當初の一家一名字の原則から出發して、後には今日の如く多數の家庭に共有せらるゝやうになつた點が、驚くべく源平藤橘の運命と似て居ることである。然るに古く始まつた社會の慣習にも、やはり眼に見えぬ成長があり進化があるといふことを、深くも考へなかつた以前の學者には、この意外なる古今の相違に對して、二者別物だといふ解釋を下さうとした人が多かつた。例へば荻生狙徠の南留別志には曰く、苗字といふことは室町の比より起れり。鎌倉の代にはそれ／＼の住所に從ひて、和田とも三浦とも朝比奈とも名のりしを、太平記の比よりあらぬ國に住みながら、仁木細川佐々木など謂ひたり。是よりしておのづから姓は隱れ行きたる也と。即ち斯翁は足利時代の苗字が、事實に於て昔の姓氏に代つたことを認めては居るのだが、それが鎌倉以前から存在した名字といふものゝ、時世と共に變化した形であることを信じ得なかつたのである。

　此點に付いては伊勢貞丈も亦同じ意見であつた。安齋先生の著述には必ず苗氏といふ文字を使ひ、又明瞭にそれが昔の「名字」と同じもので無いことを述べて居る。有名な明治三年九月十九日の布告にも、やはり亦「自今平民苗氏差許され候事」とあつて、わざと名字といふ字を避けたことはほゞ確かである。しかし是はその當時、伊勢氏の學統がなほ傳つて居た結果とばかりも言へない。久しい以前から、ミヤウジに苗の字を宛てるのは普通のことであつた。節(298)用集以下の俗用の辭典には、或は又名氏苗氏などの漢字が宛てゝある。苗裔といふ熟語は日本ではよく用ゐられて居た。その苗の字を呉音で讀めばミャウかも知れぬが、そんな宛字が採用せらるゝことになつたのも、一つには名字では何分實際に該當せぬからであつた。即ち古く支那から輸入せられたミャウジが日本語になつて、原語と獨立してどし／＼と内容が變つたからであつた。近頃新渡の外來語の中にも、さういふ例は幾らでもある。殊に今日は其テンポが早いのである。

　常理から考へても、毎日用ゐた筈のミャウジといふ俗語が、出しぬけに新しい語と交代して消えてしまふわけがない。實際名字といふ語は早くから記録にも見えて居る。例へば吾妻鏡卷十八、元久二年閏七月二十九日の條に、伊豫國の御家人三十二人の名字を、下し文の端に載せらる云々とあつて、淺海太郎頼季、浮穴太夫高茂、高野小太夫兼恆以下の交名を列記して居る。此時代までは大體は支那で謂ふ名字と同じく、即ち淺海太郎が「字」であり、頼季が「名」であることを知つて居たのかも知れぬが、實名は通例同輩以下の間では呼ばぬ爲に、いつと無く「字」ばかりをミャウジと謂つても、怪む者が無いやうになつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　字《あざな》の根源は今日の綽名も同じことであらう。それが「字」の字を用ゐて現はされて居る例は、古いところでは日本靈異記中卷に、一囚人あり姓は文忌寸、字を上田三郎といふとあり、陸奧話記には永衡字は伊具十郎、貞徠字は志萬太郎などとある。上田も伊具志萬も居住地の地名であらうから、其用法に至つては後代の所謂苗字と、何の異なる所も無いわけで、相違はたゞ以前には個人を指し、後代には家を意味することであるが、個人といつたところで是は常に家の主であり、親も子孫も同じ居住地を以て字せられる限りは、それが同名に歸着するのは自然である。

　京都人の字には、職名又は前官の行止まりを以て呼ぶ者が多かつたから、親子は勿論、人一代の間にも變つて行く(299)べきであるが、それすらも後々は世襲する場合が多くなつた。今でも折々見る甲斐氏や伊豆氏、それからもう知れ過ぎて居る近藤・佐藤・進藤・齋藤の類も、家の名となるべき順序は一つであつた。つまりは子孫後裔が眉目とするものを採つて、假に外部の人が言ひ合せて呼んでくれたのが元で、今日の綽名の如く本人も甘心せず（支那人は黙つて綽名を呼ばれて居るが）、又註釋の手數を要するものが、弘く行はれなかつたのに不思議は無い。さうすると父祖の代から同じ岡の陰に住み、同じ野を耕して居るだけの田舍武士に、特徴といふべきものは地名の他には無い。其地名を付けることが日本人は非常に巧者であり、又幾分か好きでもあつた。我邦の地形は大陸の平蕪に比べると、變化が多くて記憶にも便である爲か、未だ耕作にも利用せざる山野でも、人は細かく命名して居るのが普通である。我々の家名が百中の九十五まで、どこかの地名と一致して居ることは、國柄として殆と當然の現象であつた。

　其上に更に一つの理由がある。工商諸道の輩がまだ旅の生活をしなければならなかつた時代にも、農民ばかりは既に我家を持つて居た。土地を耕すことは居住權であつた。其中でも最初の開拓に參與した條件として、納め物の割合が普通より輕く、從うて轉貸して利を收め得る者は、如何に小さくとも其土地では貴族であつた。所謂一所懸命の地を以て在名に呼ばれ、しかも其家名の古く傳はることを、自慢にして居たのは怪むに足らぬ。即ち最初はたゞ人に屬した「字」であつたにしても、久しからずしてそれが家相傳のものとなり、同時に又他の一方に於いては、努めて諸子昆弟の爲に新地を發見して、ゆく／＼彼等をして其地名を名字とした一家を獨立させようとしたばかりでなく、更に其名を高名のものにして、末永く聞き傳へ語り繼がしめようとするに至つた動機は、始めからちやんと具はつて居たのである。言ひかへるならば、名字に非ざる苗字といふものなどが、新たに發明せらるべき餘地は無かつたのである。

　

(300)　　　　　　　　　　七

　

　地方の歴史を調べて見ようとする人の爲に、家名分布の實?がどれだけ迄の參考になるかといふことは、斯ういふ風に考へて來て始めて大體の見當が付くのである。地方の歴史の第一の要項、即ち今住む人々と土地との關係は、大よそいつの頃如何なる樣式を以て結ばれたかは、たゞ此方面からばかり、少しづゝ尋ねて行くことが出來るので、又それが答へられぬやうならば、大きな郡誌も民衆には無意味である。しかも折角の材料が手に入つたからには、愈々料理の方法が講究せられねばならぬのだが、それには我々共の無益な辛勞もしくは頭を掻くやうな誤解や疑惑でも、なほ若干の參考にならぬとは限らぬ。自分は曾て東京周圍の村の成立を知る爲に、續群書類從に出て居る武藏七黨系圖の類を、陸地測量部の五萬分一圖と引合せて讀んだことがある。其中でも殊に注意を拂つたのは兒玉黨の歴史であつた。兒玉は人も知る如く日本の傭兵の元祖であつた。彼の仲間には傑出した英雄を有たず、從うて本國では勢力の中心を作り上げ得なかつた代りに、能く大小の群を結んで遠國へ稼ぎに出た。長州にも肥後にも薩摩にも血は遣り、子孫の或者は現に兒玉を稱し、又若干の傳説をも保持して居る。然るに其故郷ではどうして居るかといふと、新たに由緒を調べて舊名に復した少數を除けば、もはや何れの村にも其家號を持ち傳へて居る者が無いのである。是が果して或期の戰亂に際し、族を擧げ居村を空しくして、悉く遠國へ引移り去つたことを意味するかどうか。武家には勿論度々の所領替へがあつて、如何なる大名でも大抵は名字の地を離れて居る。獨り兒玉の一黨に限つたことは無いやうなものだが、數多い東國の武士の中でも、彼等の如く熱心に家を分け、澤山の新名字を發生せしめることに努力して居た者も珍しいのである。それが單に環境の恩惠もしくは政治の便宜によつて支持せられたか、或は又北武藏の地方色たる一揆式軍隊の編制法が、斯ういふ一種の組織を必要としたかは知らず、兎に角に今の本庄の地を中心に、上州の側では小幡・倉賀野・大類・島名等、武藏の高原に於ては秩父・越生・小見野・栗生田等、數十箇所の地名の現に(301)邑里として存在するものが、曾ては皆兒玉一族の名字であつたのである。然るにそれ等の家々は後々どうなつてしまつたか。その或者は稀に遠方の地に見出さるゝものもあるが、他の大部分は最早何れの家の家名でも無いのである。さうなつて來ると名字の永續、殊には同じ家名を持つ家の數の多少といふことが、直接に或一門の盛衰を表示するかの如く、是まで考へられて居たことが幾分か疑はしくならざるを得ない。少なくとも名字は消え失せて、血筋は尚どこかに傳はつて居る場合は有りさうである。一旦是だけまで一つの地方に蔓延した族人が、根絶やしに其郷里を明け渡して去つたといふことは、想像し難いからである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　それならば結局彼等はどうしたか。此間題は同時に又、今日の村が何故に多くの移住名字の組合せから、成立つて居るかといふ問題にもなるのではないかと思ふ。私の見る所ではつまりは新舊二つの法則が、入交つて共に働いて居たのである。古くからの名字は一家に專屬して、周圍には之を爭はうとする者が無かつた爲に、所領の分割轉替がある度に、寧ろ本居の地に於いては消滅し易く、却つて新たなる移住先に於いて、之を復活し又は保存する機會が多かつたらしいのである。江戸時代の浪人は有附きの爲に、遠い處に本國があり、所謂苗氏の相應に古いことを言ひ立てる必要があつたことは、今日の履歴書とよく似て居た。土地に對する農民の權利なども、ひどい山奧の隱し開きでも無い限りは、何れも根原は奉公を條件として、新しい領主から付與せられたものである故に、自然にさういふ由緒のある者だけが、招き寄せられて大家となることになつたので、前から殘つて居た土地の勞力などは、追々に其配下に編入せられて、末には丸々家名の入用も無いやうな、小さな百姓になつてしまつたのではなかつたか。

　明治三年の所謂在名の解禁には、今でも一つ話になつて居るやうな珍しい經驗が各地にあつた。政府が平民全般に名字の使用を許した際には、恐らくはどの平民にも必ず名字がある筈と思つて居たのであらうが、事實は決してさう(302)で無かつた。或土地では住民の全部に名字が無い。已むことを得ず役場總掛かりを以て、急に名字を造つて遣つたなどといふ話もある。同じ農民でも或ものは既に格式として之を公認せられて居り、或ものは表向には許されなくとも、人も知り又私には用ゐて居る名字があり、又或者は本家が明白であつて、容易にそれを書上げることの出來た者もあつたが、他の過半數は實は久しく家の名を忘れ、もしくは甚だ覺束ないものになつて居たのである。それが平生恩顧を受ける家に頼み込んで其家名を乞ひ受けたり、或は獨りぎめに地方としては恥かしくないものを取用ゐたり、或は親類中の物知りの意見に附いたりして、兎に角に今では一軒として名字を持たぬ家は無いことになつた。寺や役場で拵へて遣つたといふやうな、極端な場合こそは僅かでもあらうが、其他の數多い農家の名字とても、實は十分なる考證と確信とを以て、出自系統を表示したものばかりとは言へないのであつた。

　所謂一門に他姓の混入すべき原因は色々あつたが、中にも多かつたのは養子猶子の沙汰である。家の祭を繼ぐべき者以外に、言はゞ勢力を扶植する爲に、人を招いて新たに一棟の新屋を立てさせる例は今でも時々耳にする。それから寄子とか庭子とか謂つて、外から來て作業團に加入する者も、以前は本家との關係が頗る之と近かつた。斯ういふ人々の家名は、實は何れを名乘つた方が正しいのか、昔ならば確かに問題であつたのだが、幸か不幸か彼等には久しい間、公私ともに名字を呼ばれるやうな機會が無かつたのである。學校に行く程の小さな家族までも、名があれば必ず家名を伴なうたといふのは近い頃の事で、元は表に立つ一人以外の者はすべて何の某の悴と書き、或は又控へ百姓の某と呼んで居た。それが追々に小さく獨立して、内には密接の連絡あるものでも、各々別戸として算へられることになつたのは、正しく相續制の近代の變化であつた。而うして故意か無意識かは容易に決し難いが、行政は終始舊家の分裂に向つて便宜を供して居た。親類をイッケ（一家）といふ方言は今も弘く行はれて居りながら、軒を竝べた分家の者までが、對等に一つの名字を稱するやうになつた爲に、自然に古くからの縁故者も之に準ずるに至つたのである。或は家筋によつて昔から、人の生れて來る割合に差等があつた如く想像する者も無いとは言はれぬが、其樣に簡(303)單に此問題は考へてしまふことは出來ぬやうである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　今日の家名が私の言ふ如く、一部は急造の又不精確なものであるとしたら、それを寄せ集めて通觀して見たところで、結果はやはりあやふやなものではあるまいかと、心配してくれる人があるかも知らぬが、自分たちは必ずしもさうは思はない。假に個人が自由な選定をしたにしても、各名字の有つて居る現勢力、地方に於ける分野ともいふべきものは、おのづから是に反映せられて居る筈である。もつと具體的に言へば、人は奇拔なものを發明はせず、凡そ土地々々地で無理の最も少ない所、さもあるべしといふものに歸着することにならうから、結果は少なくとも或時代の家の、配置を表はして居ると思ふ。即ち權利として利用し得た地積が廣く、從うて多くの居民を養ひ得た家の名字が、どうしても多數に採用せられることになると共に、さういふ家々は土地を最も有利な條件を以て占有し又經營し得た時代、例へば兵亂の後とか、凶作時疫で人の力の大に缺乏した際とかに、ちやうど其地方に入込まうとして居たことがわかるのである。農民の課役は昔は一樣に苛斂であつたに相違ないが、それでも土着の時期と事情によつて、同じ勞苦といふ中にも著しい差等があつた。明治初年の土地丈量が濟む迄は、この損得は殆と相隣する持地毎に違つて居た。全體に古い本田を持つ者が分が惡いやうに言はれて居たのは、實は曾て條件のなほ有利であつた頃に、之を頼つて入つて來たものが多く、大凡土地の力が彼等を養ひ得る極度まで、外部の勞力を收容して、更に本主が負擔の肩を輕めようとしたからであつた。貧困は寧ろ斯ういふ中から起りがちであつた。一門を總括した本家の側から見れば、眷屬同苗の多いといふことは長者のしるしであつたかも知れぬが、其後追々の家の分化に因り、又は同族や抱へ百姓の抗爭に基いて、今では必ずしもさうは言へなくなつてゐる。

　東筑摩郡の家名調査の結果が、果してこの自分等の漫然たる大勢論を裏書するか否かは、確かに一つの學問上の興(304)味である。私の推測にしてもし誤らぬならば、名字の大部分が本家最初の居住地から出てゐるといふ好都合な事實に據つて、ゆく／＼少なくとも此地方の土地經營者たちの、移動の方向だけは明らかになることであらう。それには準備として或はもう少し多くの地理の知識を有たなければならぬかもしれぬが、單に地圖をひろげ又友人たちの話を聽いただけでも、幾つかの名字の何處から出た位はすぐに解る。大體に今では所謂名字の地に、續いて住んで居るものは殆と無い。鹿兒島藩などのやうにわざと本貫から引離さうとした例もあるが、そんな事をせずとも内に居ると覆へり易く、外へ出て行くと保存せられ易かつたのである。さうして一番に多いのは同じ郡、もしくは隣の郡から入つて來た名字である。委員諸君とも話し合つたことがあるが、諏訪の盆地や安曇の山間、さては嶺を越えて千隈川の水域と、縁を引いて居る家名地名が、如何樣に分布し又交錯して居るかを尋ねて見ることは、半ばは想像を以て史書の空隙を補填して行くことになつて、非常に意義の多い史學の訓練になると思ふ。それを今までは怠つて居た爲に、同胞相互の思ひ遣りが消えてしまつて、人は自分ばかりで生きられるやうな迷信が強くなつたのである。

　私は信州の一隅にこの新しい計畫が始まつて、未だ結果のどうなるかを知らなかつた頃、ちやうど瑞西の或湖岸に、暫らく寂しい旅の生活を續けて居たことがある。かの國では諸州の公の事業として、既に十數年來の家名調査が行はれて居り、年を隔てゝ折々大册の報告が刊行せられて居た。歐羅巴の家名は半以上は職業から出て居る。現在の上流知識階級といふ人にも、此中から出て居るものが多く、僅かに地方の門閥といふ家々に、若干の地名を稱號とする者があるのである。從つて系統を異にした偶然の同姓は殊に多く、それが異同を比べるは容易で無いのだが、幸ひにして各地同時に此事業が開始せられ、一部にはまた既に完成した調査もあつて、同じ種類の經驗と趣味とを持つ人が既に遠近に散在して居る爲に、追々にあの山國の常民の生活誌を明らかにする手段となり、それが又弘く全社會に認めらるゝことになつたのは、幾分か羨しいやうな感じがせぬでもなかつた。日本に於て新たに此計畫を立て、殊に傍觀者のやゝ冷淡なる批判を受けて居る諸君はこの多くの同志の永年の辛勞を無にせぬ以上に、更に他の地方の郷土誌家(305)に對する宣傳事業をも、兼ね行はねばならぬ必要があると私は思つた。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　最後にもう一つ、私としては實は持扱つて居る問題がある。今度のやうな誠に奇篤なる調査の起らぬ前、私は家名分布の全國的概觀を得ようとして、各種の名簿類を漁つた末に、たうとう政府の出してゐる職員録に手を着けて、當時の一萬二千餘の町村長と三等郵便局長、それから郡參事會員の名字をイロハ別にして見たことがある。斯ういふ人々は先づ十の八九まで、土地に古く住み且つ若干の同家を持つて居るものと信じたからである。ところが最初豫想して居た土地々々の特色とも認むべきものが、案外に稀薄であるのにはがつかりした。今から考へて見れば、其理由も略々わかる。日本人の家名は總數に於いて、まづ五萬から六萬までかと思ふが、其最大多數が地方に割據して居るに反して、他に僅かに七八十種の甚だしく全國に行きわたつて居る名字があつて、是が現在千數百萬の戸數の恐らく半分近くをも占めて居るらしいのである。原因は必ず別に有ることゝ思ふが、それを尋ねて見るぺく家々の傳説は餘りに錯綜して居る。名字の發生し又分配せられて行つた事情が、今一段と明らかになる迄は、之を各地方の共同の疑問として置くの他はない。二三の例を擧げると、中村は既に戰國の終りには大名にもなつてゐるが、其一家が盛んに移住して、能く是だけの分布を見たといふことは何人も信じ得ない。伊藤は藤原氏の支流の伊勢に住した者であることは保元物語に見え、小林は山名家の家の子として、夙に上州に名を起し、和田は楠氏の近親として、泉州の和田から出た者が顯著であるが、彼等が果して武州の兒玉の如く、全國只一地の領主の家から、繁殖したものと考へられぬのは、同じ地名が決して府縣に珍しくないからであつて、しかも何れの小林和田等も、悉く是ほどの流動性を具へて居たといふことはまだ説明し得られないのである。其他高橋・石川・田口といふ類の家名は、既に姓氏録の時代から、儼然として世に認められて居る以上は、其後千年の久しきに亙つて、諸國に分れ擴がるべき機會も相應に多かつたと(306)も言はれようが、何の力がこの數系統の家ばかりを、押出し又は引寄せたかといふことは、まだ發見せられて居ない。要するに此等の名字は、特に差別の爲に設けられたといふよりも、寧ろ同化の必要に基いて、後から來り加はる者が多かつたのでは無いかとも思はれるのである。

　此問題をもう少し細かく觀察する爲に、私は假りに家名の領域といふものを立てゝ見ようとした。家名には郡よりもまだ小さな地區を限つて傳はつて居る所謂珍しい名字の他に、例へば日向の肝付や肥後の甲斐、さては奧州の今《こん》や紺野のやうに、或一地方としてはよく知れ渡つて、我々も容易に其出自を推察し、之に由つて移動を跡づけ得るものもあるが、尚それ以上に殆と全國を領域として居るかと思はれる若干のものがあつたのである。それが後年各地方の普通となつて、久しく家名を忘れて居た人の採用する所となつたとしても、之を普通にした根本の原因は別にあつた筈で、それは恐らく農耕土着の動機以外のものであつたらうと思ふ。其想像を幾分でも強くする實例には鈴木氏がある。鈴木は榎本宇井と共に熊野の三家と稱せられ、爰より他には出處がないかと思はれるにも拘らず、全國何れの地方にも今では行亙らぬ隈も無く、しかもその東國に在る者の如きは、依然として熊野の御堂に奉仕して、權現の信仰と共に入つて來た由緒を説くのである。榎本氏が熊野を祀つて居る土地も、現に東京の近くで自分は其一二を知つて居る。勿論これが總ての全國的家名の根原を語るものでもあるまいが、更に此以外にも五十嵐長谷川などといふ、さう多くは偶發しさうにも無い名字が、越後を本居として四方に分散して居るのも、どうやら彌彦明神の傳道と關係があるらしく、緒方といふ家名が關東の田舍にも入つて來て、相變らず靈蛇の胤を留めた物語を傳へて居るのも、所謂豐後花の本の信仰の遠く運ばれて居た名殘とも見られぬことは無い。多くの農民の故土に纏綿して、營々として尺寸を耕し續けた間に、一部の冒險家の遠く生活の便宜を求めて、稍々心輕く水陸を周遊して居る者のあつたことだけは、大體に於いてもう疑ひが無いやうである。彼等必ずしも他に優れた繁殖力を持つて居たとは認められぬが、少なくとも諸種の機會を比較して貧苦を脱出する技能だけは進み、又異姓の旅人であつた故に、特に我名字を主張する必要は(307)早くからあつたと思ふ。それがどういふわけで伊藤や木村や高橋などとなつたかは、現在は殘念ながらまだ之を知る方法が無いが、將來此郡の如く家名調査の興味を解する者が、追々に他の地方にも現はれて來るにつれて、歴史は更にその意外なる新頁を、繰りひろげて見せることになると私は信じて居る。

　

(308)　　　　　主婦に就ての雜話

　

　人は存外何でもないやうな事を知らない。たとへば、主婦をどうしてオカミサンといふのかと問はれると、簡單には誰にも答へられない。こじつけるにしても手數が掛かる。斯んなことでは主婦の職分の認識も何もあつたものではない。反省の學問はこの方面にも入用かと思ふ。

　オクサンといふ名稱はやゝ明らかだが、其代りには元は常人は使つて居なかつた。今でも村に行くと御寺の夫人だけが奧樣だと、思つてゐる所は幾らもある。それが此頃は駐在だの教員だの、社宅の人などが互にさう呼び合ふことになつて來たのである。

　つまりはこの二千六百年の間に、妻の呼び方は何度でも變つてゐるのである。假にオカミサンだけは非常に古くからの日本語だつたとしても、その本來の趣意を知る爲には、やはり他の多くの變つた例を比べて見なければならぬ。この樣な大事な言葉を改めるのは、何かよく／＼の理由が無くてはならず、又その理由の中にこそ、何か今昔を一貫したものがある筈だからである。

　私などの子供の頃は、上方では人が私たちの母をオエハンと呼んで居た。少し丁寧にいふとオイエハン、今でも多分は半分以上その通りであらう。私の妙に思つて居たのは、このオイエハンのオイエを、同時に牀の上、疊の上のことにも謂つて居たことである。家なら建物全體のことでなければならぬのに、爰では、たゞ土間に對する上段をさし、よく「鷄がオイエにあがつた」などと謂つて居て、其心持は御上《おうへ》のやうに感じられたのである、オカミサンのオカミ(309)も、もとは或はこの同じ「御上」では無かつたらうか。と思つて私は注意して居る。

　家々の表の間、入口に最も近く爐があつて客を迎へ、家の者もよく使ふ一區劃をオエェといふ例は信州北部から、越後にかけても多い。この方面では主婦の事はさう云はないが、本家といふ意味に其オエェを用ゐて居る。今の言葉でいふと應接間、もつと大げさに言へば家の正廳が、本來は本家だけに備はつたもので、族人は何か事があれば是に集まり是を使つたから、それで本家をオエェと謂ふのかと私は解して居る。オカミも事によるとこの表の間のことであつたかも知れない。

　同じ信越地方では、この舊式應接間を又オメェともオマヘとも謂ひ、從つて本家のことをも、同時にオメェ・オマヘと謂つて居るが、是もやはり其オマヘの在る家といふ心と見られる。女房をオマヘと呼ぶのは、標準語では主人ばかりで、他人がオマヘサンと謂つても細君を意味しないが、さういふ例も絶無ではない。九州の南部數縣で、妻をオミャー、又オメともいふのは是で、それが決して御妻《おんめ》の古訓で無いことは、一方に御前を音讀して、ゴンゼンといふ語の多いのを見てもわかる。

　肥前筑後の方面の人ならば、恐らく此語を耳にして昔なつかしく思はれるであらう。是が又あの地方の家の主要な一室、喜ぶにも悲しむにも、常に多くの人の集まつて來る中心點だつたからである。本家を其ゴゼンの名で呼ぶ風が有るかどうかは私はまだ知らない。しかし袈裟御前・巴御前以來、尊敬すべき女性を御前と謂つたことは古い。それを省略して婦人をゴ、若いのをゴコといひ、主婦をゴッサンといふ習はしは今も中國の西半から、九州四國の一部にも及んで居るのである。

　この頃我々の心づいて居ることは、九州では豐後の中部、中國では廣島縣の北端、東は三河信州の境の山村等、大よそ古風なといふ村里に於て、土地で最も古い家々をオカタと呼んで居る。現在は其オカタのタの音を濁り、從つて岡田屋敷などの字を宛てゝ居るものが多いやうだが、氣を留めて見ると是も本家、又は草分けの家を意味するかと思(310)はれ、しかも一方では主婦をオカタといふ語も、殆と全國的と言ひ得るまでに、南北に分布して居る。中世の記録に傳はって居るのは、大抵名門の家刀自に限られるが、單語はオクサンのやうに段々に下へ擴がり、末には粗末になつて來るものと見えて、今では自分の妻を卑下して「おらオカタが」などと呼び、又は目下の女房をオカタといふ者ばかり多くなって居る。以前は上品な名であったことは、この語を幼兒が口眞似したカカといふ語の用法からも察せられる。芝居では政岡を千松がカカサマといふが、今ではカカだのオッカァだのと謂ふのは裏店の兒で、よい家では何とかして又一段と是を元の語から遠くしようとして居る。先頃問題になったママの流行なども、このオカタ系統の語を賤しんだ爲かとも想像せられる。

　そこで問題にしてよいのは、何故にオカミ・オウヘ・オマヘ・オカタ等、家の表の間を意味し又は本家宗家を意味する語を、亭主家長に付與せずして其配偶者の女性に持たせたかといふことである。是は昔の世の男の仕事が、職人や小賣商の如く家屋の内に行はれるものが少なく、農漁樵はもとより、獵でも戰でも亦祭でも、すべて屋外の活躍を主として居た事實が説明する。即ち屋内の殊に牀の上の事務を掌る者は、本來は主婦であったことを意味するらしいのである。是は勿論管理者といふまでで、主であり支配者であったといふのではあるまいが、それでも東北地方に行くと、今でも主婦のことをエヌシといふ處が少なくない。或はエヌシカガともいふから家主の嚊を略したものと、解して居る人があるか知らぬが、別に長男の嫁をエヌシヨメ、或はアトトリエヌシといふ例もあるから、やはりカカ即ち家のヌシだったのである。イノシもしくはオエヌシといふ名は、又越後にも北信にも有る。京都では古くはユワラジ（家主）、その一つ前にはイヘトウジと謂つた。刀自は刀禰と對立した語で、語源がわからぬが、兎に角に頭のことだった。女は弱い者といふ教訓があったけれども、一方主婦だけは家の内で、ヌシと呼ばれてもよい地位を確保し、男の家族をも指圖することが出来たのである。家が小さくなって其權能も働かず、亭主が爐端にがんばる様な時代が來て、泣きごとと溜息とがオカミサンの主業のやうになつたのは變遷で、名稱はたま／＼昔の名殘を留めて居るので(311)ある。

　私たちから見ると、今日の家政科などは、この奧様學の初歩に過ぎない。昔に還れとまでは言へまいが、少なくも先づ斯ういふ點から入門して、將來の主婦道を講習すべきである。

　

(312)　　　　　女の家

　

　　　　　　　　　　一

　

　近頃の木曜會に出て來た話題の一つ、岩手縣北部の岩泉町に近い、大川といふ村の年中行事の中に、舊二月の九日をオカタボンダシといふかはつた名がある。ボンダシは追出し、オカタは東北地方一帶に通用する「家女房」の半敬語である。どうして此樣な名稱が二月九日に附いたかは、誰も説明してくれなかつたさうだが、或は一名を入籍離籍などとも謂ふさうだから、言葉の心持だけは大よそわかる。今から十一年前の郷土研究六ノ二にも、野崎君子といふ岩泉の人が此事を報告して、次のやうに述べて居る。

　　昔はオカタを離縁したくとも、二月九日が來なければ、ぼん出すことが出來なかつた。だからそんな家では此日の來るのを待つて居てオカタを追ひ出した。この日出された者は、いか程詫びをしても許されなかつたといふことだ。それ故にもしオカタが欲しければ、この晩十文字目さ（四辻へ）行つて居れば、幾らでも見つかつたものださうだ。今はさういふ事は無いが、この日は嫁が里方へ還つて遊んで來る風習は有る。さうして家を出すときには御馳走をすることになつて居る。

　この言ひ傳へをもつと詳しく、尋ねて聽き出すことは容易であるまい。といふわけは、是を半信半疑で聽いたやうな少女少年ばかりが、今日は漸く生き殘つて居て、曾て此話の可笑味を感じ、戯れに語り合つたやうな人たちは、も(313)うあの世へ旅立つて年久しいからである。田舍出來だけあつて、このしやれ〔三字傍点〕は相應に重くるしい。同じ東北地方でも、さう弘くへは流布して居らぬであらうし、從つて又言葉を目標にして、類似の例を捜して見ても多分むだであらう。全くちがつた方面から、心當りを尋ねて行くの外は無いと思ふのだが、ともかくも是は大きな問題の片端のやうである。それをやゝ近よつて窺はうといふのだから、私の言ふことは少し心もとないかも知れぬが、焦點は少なくとも二つある。その一つは二月九日といふ日の重要性、その二は家に於ける主婦の地位の變遷であつて、第二のものが現在は殊に埋没して居る。其爲に又是が明らかになつた場合の欣びは大きいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　是も近い頃、阪口一雄君が採集した伊豆大島の年中行事の中に、思ひ當ることが一つだけあつた。この島でも古い風習は消えかゝつてゐるので、たゞ僅かな人の記憶だけに殘つたことが多いが、此島の岡田村では五月四日の宵節供の晩に、主人が茅を束ねた棒で主婦の尻を叩きつゝ、

　　　五日のシャウブひとしやうぶ

といふ唱へごとをする式があつたことを語り傳へて居る者が有つた。是も奧州のオカタ追出しと同じに、現實にさういふ事をして居たといふ見聞ではなく、話になつて傳はつて居た期間は長かつたものと思はれるが、たゞ其日が五月五日である故に、私たちが是によつて心付くことが幾分か容易なのである。

　五月五日を女の家といふことは、江戸期の文藝にも?々見えて居て、京大阪の人たちも常に之を口にして居た。是も後々は別に變つた行事も無く、寧ろ幾分か誇張してこの一日を、家が女の支配に歸する如く謂つただけであつたらしいが、それを面白半分に記憶して居たことは、北奧の「おかた追出し」ともよく似て居る。歳時習俗語彙に掲げて置いたのは、神奈川縣津久井の山村、四國では特島縣名西郡などであるが、この話だけならば他の地方でも毎度聽く(314)ことであり、言へば微笑する老人はまだ殘つて居るだらうと思ふ。瀬川氏の採集して來られた讃岐五郷村にも同じ女の屋根の言ひ傳へがある。やはり蓬や菖蒲を以て軒を葺くことを、この風習と結び付けて説き、今夜はをなご衆の家ぢやけに威張るとか、こいさら肩ひろげて足伸ばして寢られるとか、をかしいことを女が謂つて居たのは、主として聽く人を笑はせる爲ながら、なほ底には忘れ難い昔があつたことを思はしめる。

　書物で國の民俗を考へようとする人々も、此點だけは夙くから認めて居る。殊に五月は田を營む月であり、田の神の奉仕者として女性は重い役をもつて居たから、この月の始めの節日に、女の支配する一日があつたといふことも不思議で無く、それが又常の日の男の機嫌を惡くする種になつては困るので、出來るだけ自ら權能を制限し、結局は亭主關白の位を動かぬものにすることに協力したことも考へられる。腹も立たぬのに女房の尻を打つ亭主が、あつたかどうかは疑問だが、先づはさういふ事が有つてもよい位に、女權といふものが制限を受けたといふので、それを儀式として宣明するのには、端午の祭の際が最も適切なる機會だつたかも知れぬ。さういふ風な心持を以て、我々はこの伊豆大島の古い記憶といふものを、興味深くながめて居たのであつた。

　

　　　　　　　　　　三

　

　しかし是が二月九日のおかた追出しとなると、話は又全く別なものになつて來る。以前は女の夜といふのが一年に何度もあり、それが追々に省略せられて、最後まで保存せられて居たのが、或土地では五月の節供以外、別の月の祭の日にもあつたといふことを認めた上で無いと、是をも同じ系統のものとは決し難く、しかも其點が今はまだ少しでも判つたとは言へないのである。私の注意して居ることは色々とある。多分は斯ういふものが段々とたまつて來て、しまひには何かやゝ新しいことが言へるやうになるのであらう。資料はその種類によつてはたゞ裸のまゝで無く、問題を添へて引繼いで置かぬと、役に立たぬものが有るやうに思ふ。

(315)　井上頼壽氏の京都民俗志二六八頁に、タナオロシといふ名で十二月晦日の晩、亭主が必ず女房の缺點を算へ立てゝ、小言を言はねばならぬといふ風習が、山科の村には有るといふことを記して居る。行事は朗讀風の形式的なものだが、聽いて居ないと夫の機嫌が惡いといふのは面白い。多分は或舊家だけの慣例であつたらうし、今も續けて居るとも思はれぬが、一年間も氣永に貯へて置かれる小言なら、よほど微弱なものだつたに相違ない。それを形式的にもせよ聽かせずには濟まされなかつたといふ點に、言はゞ儀式の生命はあつたのである。是なども或は五月五日に限らず、家のうちの祭事には男の口の出せぬ部分があつて、指圖を受けずに主婦がどし／＼と斷行して居たのを、寧ろこの一囘の總勘定によつて、昔のまゝに承認しようとしたものとも解せられる。勿論是はたゞ信仰の部面だけで無く、俗界の事務に於いても、日頃は女房の專斷を許して置きながら、たゞ時々思ひ出したやうに打つたり叱り飛ばしたりする制御法が、以前は職人などの中には珍しく無かつた。しかしさういふうちにも節日の式作法だけは、事が重々しいのみで無く、確固たる傳統の有るものであつた爲に、是には何か改まつた男權承認の方式を必要としたのでは無いかと私は想像する。斯ういふ例に引くのは穩かでないから差控へるが、沖繩でも又中つ國の宮社でも、最高巫女の權限の縮少は、大體に是と似た經路を通つて實現して居る。五月五日を女の屋根の下と稱する言ひ傳へも、或はたゞ其一つの過程であつて、曾ては今一段と廣汎なる適用があつたのが、土地の條件によつて、この最後の殘壘とも名づくべきものを、區々にして居るのでは無いかと思ふ。但し斷るまでも無く是は神祭りの任務に限つたことで、是から遡つて一般の女權制、乃至は女系制の存在を推測することは出來ない。信仰が個々の家々にとつて、どれほどまで大きな要素を爲して居たかといふことを決した上でないと、家と女性との最古の關係はまだ考へて見ることが出來ぬのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　現在知られて居るだけの事實によつて、少なくとも斯ういふことまでは考へ得られる。女が男の制壓を受けない日、(316)あべこべに男を指圖し得る日が、中古を過ぎ、恐らくは近世に入つて後までも、まだ一年に一晝夜だけは有つた。それは家々の大切な祭の日で、中央部では五月田植に先だつ節供、是が女の家の言ひ傳へのもとかと思はれる。しかし生産その他の?況によつて、此日は土地ごとに一定しなかつたものらしい。さうして男の支配といふ法則を確立するが爲に、妻も協力して一つの儀式を考へ出し、是を守ることに依つてその昔からの習はしを繼續しようとした。それが京都山科の除夜の棚卸しであり、伊豆大島の尻敲きであり、陸中岩泉のおかた追出しであつたらうことは、ゆく／＼やゝ形を異にした各地の殘留風俗の累積によつて、確かめられる見込はある。たゞこの樣にも苦心して、永く傳へようとした女の自由も、家の神信仰の一般の衰頽によつて、もう必要の無いものとなり、たゞ印象の深かつた珍しい儀式だけが、なほ暫らくの間記憶せられて居たが、それさへ新たな常識と合はなくなつて、次第に滑稽化し且つ説話化して行かうとして居る。その變遷の各段階の痕跡が、今後數多く集まつて來たら、或は今少しく具體的に、家に於ける女の地位が、今は昔の通りでないことを知り得るであらう。

　實際又地方には、案外に多くの痕跡が殘つて居るのである。たゞそれに氣が付く機會といふものが、近來は殊に制限せられて居る。旅の一夜半日の邂逅に於いて、ちやうどこの方面のよい傳承者に行當るといふことが甚だ望み難い。斯ういふ記憶を失はぬものは主として女性であり、逢つて先づ談るのは世馴れたる男性のみだからである。兼て都合のよい答へ易い問ひ方を工夫して持つて行くか、さうで無ければ眼から鼻へ拔けるほど鋭敏な旅人でなければならない。是も最近のことだが、宮本常一君の屋久島民俗誌が出たので、我々は又一つの大切な調査項目の、今ならばまだあの島に殘つて居ることに氣が付いた。爰と岩手縣の岩泉地方とは、先づ舊日本の端と他の端と言つてもよい。その二つの土地の二つの幽かな事實が、考へるとどうやら脈絡が有るらしいのである、是を思ふと斯んなむだ話のやうなものでも、やつぱり折を見てして置く方がよいと思ふ。

　

(317)　　　　　　　　　　五

　

　屋久島では北海岸の、比較的よく開けた小瀬田といふ部落に此話がある。或は他の部落にも、又は隣島の種子島にも、之に似通うた事實が見出されるのではないかどうか。是から氣をつけて居ることにしたい。この村に於いては娘組を何故かウキミと謂つて居る。十七歳の鐵漿附けから二十四歳までの、未婚者が之に加入して居る。女の風紀はニセ即ち青年によつて監督せられる（風紀を紊すといふのは他部落の者と縁を結ぶことだと謂つて居る）。ところが一年にたゞ一日、正月の十四日の晩、ウキミの娘たちは若者の監督を離れて、自由に集まつて遊ぶ日があり、之をヨメジョバナシ又はヨメジョサガシとも呼んで居た。どういふ處へ隱れるものか、ニセたちは捜しまはるのだが見付かつたためしが無く、又發見せられるのは不吉だとも言はれて居た。どこか山の中の隱れるに都合のよい場處に、食物を用意して一同で寄り集まつて、一晩中そこで遊んで來るらしく、寒い季節なのに、見付かるのを恐れて大きな火も焚かず、又還つて來ても決してその處を人に語らない。十五日の朝、庄家が法螺貝を吹くと歸つて來る。雨が降るとどこかの家の中に隱れて遊んだといふ。

　たつた一箇所の是だけの事實でも、勿論我々の興味を惹き、又原因を尋ね求めしめずには止まぬほど、有力なる資料ではあるが、なほ多くの類例の出現を見ぬ限り、どうして是が小正月の晩であり、又ヨメジョバナシと呼ばれて居るかゞ考へられない。鹿兒島縣の内陸には、ヨメジョバナシの風習はそちこちに有るやうである。櫻田勝�ｺ君は肝屬郡百引村の例を報告して居るが、こゝのもやはり正月十五日の青年行事で、しかも問題の女性は未婚者で無く、新たに嫁入つて來た若いオカタである。さういふ家々へ若者が押掛けて來て、大いに飲食することは四國の粥釣りや、東國の道祖神祭の新しい形とも似て居るが、是は段々と此機會を利用することになつただけらしく、嫁女バナシのハナシが解放の意であつたことは、匿れて捜させたといふことは無い代りに、そつと食物に灰を入れて置くといふ類の色(318)々の惡戯を、若い花嫁に公許して居るのを見ても判る。さうして正月の十五日は全國一般に、女が惡戯をしてもよい日だつたのである。尤もこの風習も少しづゝは變り、始めに少年の方から墨を塗つたり尻を打つたりするので、其仕返しの如くに思つて居る者もあるが、既に枕の草紙でも御承知の通り、元は女性の積極の自由であつた。是から考へると、トヘトヘやホトホトの子供に冷水を掛けたのも多分は女であり、又は奧州白石噺の悲劇の種、路を行くおさむらひに泥苗を投付けたなども、寧ろ宮城野信夫の仲間が發頭人だつたらしく、單なる晴の日の昂奮といふ以上に、更にさうしてもよい根據が、其日に伴なうて古くから有つたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　それから一方の未婚の娘たちが、男の力の及ばぬ處に隱れるといふことが、本來は結婚と直接に關係があつて、それでヨメジョバナシと謂つて居たことも考へられる。是は海南小記の中に、やゝ詳しく傳聞を録して置いたが、沖繩縣の久高といふ小島では、刀自もとめと謂つて新婦は必ず隱れた。靈地の中などの男子の入られぬ處を利用して、少しでも永く捉へられぬことを名譽として居た。さうして男の手につかまると大いに泣きわめき、男は髪などを取つて打擲することになつて居たさうである。是を掠奪婚姻の名殘りなどといふ考へ方も有るらしいが、同じ島人の知り合つた仲で、さう／＼嫌ふ縁組ばかり有つたらうとは思はれない。みんなが一樣に是非隱れなければならぬのは、是も亦儀式であつたからだと思ふ。結局は從はねばならぬことはきまつて居ても、一度は反抗し又得難くするといふ所に、古い慣習の微弱なる擁護が志されて居たものとも考へられる。文藝に傳はつて居る婦女の心ばえ、輕々しくは人に許さうとせず、寧ろ若干の揶揄嘲弄をさへ含んで居る戀歌の刺戟を、優にやさしいものゝ如くもてはやした習はしなども、或は一種の嫁女放しと見られぬことは無いのである。

　久高の刀自もとめが、一生に一度の大がかりな儀式だつた代りに、奧州岩泉の御方追出しは年賦返濟のやうな形で、(319)もとは現實に行はれて居た時代があるのかも知れない。是が女房の遁げて出る日だつたのか、又は勝手な事をして後で折檻の眞似事をせられる日だつたのか、いづれ男たちの附けた名だらうから名だけではきめられず、或は雙方の混同だつたかも知れぬが、とにかくに最初何の事も無かつたのなら、斯ういふ變つた名前は生れなかつたらうと思ふ。さうしてその前日の二月八日が、暮の十二月の八日と共に、東日本では一年の特に大切な日だつたことを考へると、私は是が或は女房の最も多く活躍する日であつた爲に、其後で一家の主權の男子に在ることを確認せしめる必要が特に多く、何だおかたなんか追出してしまへ、といふ樣なわざをぎ〔四字傍点〕が行はれて居たので無からうかと思つて居る。東北一帶にまだ殘つて居る大黒樣のおかた迎への日から、二月八日までのちやうど二ヶ月は、農家に取つては殊に行事の多い期間であつて、元は此始めと終りが嚴重な物忌であつた。主婦が今日とはちがつてもし家の祭事を掌握して居たとすると、男は少々ばかり心細くなつて、是は何とかしなければならぬと、考へるやうになつたかも知れない。從つてこの二月九日に形式的に、おかたをぼん出す風が發明せられたとすれば、是はちやうど其まん中の七日正月、即ち一年の最初の上弦の晩を、年越として居た時代からといふことになりさうだが、それまでを爰に説き盡すことは私にはまだ出來ない。さし當りの目的は同志の人々の間に、何かさう言はれて見ると思ひ當ることがあるといふやうな、新たなる事實を知らせてくれられることが、一つでも二つでも無いかどうかを試みたい爲である。いづれこの問題は大いに成長する。卵が雛になるまでは私がまあ一人で温めて居て見ようと思ふ。

　

(320)　　　　　家と文學

　

　　　　　　　　　　一

　

　戀愛と文學と言つてもよいのだが、それでは月竝であり、又少々は誤解の虞れもある。自分の説いて見たいのは、文學が個人の怡樂となつたのは後の事で、本來は家の爲、血筋を清く耀かしく、又末永く榮えしめんが爲に、生れ出でたるものではなかつたかといふことである。その古い痕跡はなほ遺り、是が後代の隱れたる拘束となつては居なかつたか。文學の用途は勿論世と共に増加した。しかもその所謂新たなる使命を果さうとするには、一たびは振りかへつて古今の變遷を、意識する必要が有るのではないか。それから今一つは、家の生活を中心とした文學は、今でもまだ相應に要求せられてゐるのではないか。斯んなことが私には考へて見たいのである。

　文學には限らず、社會のあらゆる制度文物を、公事根源風に考へて見ようとする癖が、まだ我邦には消えずに居る。最初如何して歌といひ物語といふものが、この人世には出現したかといふことを、昔の人たちはいとせめて知りたがつて居た。いはれ〔三字傍点〕を承はつて見ればなるほど結構なものだ、さやうに遠い昔から有つたといふことを知つて、大切にしなければならぬことがよく判りました、と言つて喜んで居た素朴な人の心持はなつかしい。しかし現今はもう少し疑問が痛切になつて居る。如何にして現在見るが如き國文學といふものが、この大御國には出來上り、他には行き方も無いものゝ如く、久しい間我々を考へさせて居たのだらうか。斯ういふ不審を抱く者は私たちばかりではあるまい(321)が、是に答へるにはやはり沿革と來歴とを説かなければならぬ。ごく最近のことはもう知つて居るとすれば、そのすぐ前に繋がるものをまづ明らかにする必要があるのである。我邦の文藝を今日あらしめたものは、發生ではなくして經過である。種子と芽生えではなくて、太い幹株とそれから枝さした葉と花と實である。沿革を根源の中に打込んでしまふわけには行かない。

　人は文學の成長はもう知つて居るやうに感じて居る。もしくは最初に世に現はれたものと、今の姿との間には、さう大きなちがひは無いとも思つて居る。八雲立つ出雲八重垣の御歌も三十一文字、にひはり筑波も連歌、形體の上から見ると成るほどそんな氣もするが、之を理解し又感動する人の心持は次々に新たになつて、前には誰にでもわかり切つて居たことが、わざ／＼見つけ出して説明しなければならぬまでに、遙か背後に置き忘れられるのである。少なくとも我々の歌や連歌に對する態度は、いつの間にか大いに變つて、始めて世に生れた時のまゝには之を利用して居らず、その癖古くからの行掛りには、をかしい程まだ囚はれて居るのである。我々の生活は出來るだけ新しいものでなければならぬのに、この目にも見えぬ前代の約束だけが、今以て行く手を指導して居る。史學を反省の學問だといふ理由は茲に在る。このさき我々は如何に活くべきかを決するには、まづ以て如何に活き來つたかを明らかにする必要が有ることは、獨り政治法制の上だけに限つたことではない。文學の歴史に就いても大切な點は、やはり國民全體との間の、長期間に亙つた交渉感應の跡である。

　單に形態の側だけから、文學の沿革を尋ねたのでは此點を明らかにし難い。歴史には別に今一つの見方があるのである。それを内容主義と謂つては當らぬか知らぬが、とにかくに詩歌物語が何の爲に生れ、何を咏じ何を語らうとして居たかを、考へて見る方法が起つてもよいのである。大體にそれはよその國々でも、民俗學の管轄に屬して居る。といふわけは或時代より前に溯れば、それが何れも皆文字を雇はざる、耳から口への文藝になつてしまふからである。今までに出た例では舊約全書のフオクロア、又は西歐の文學に運ばれて居る東方古傳、誰がどうして持つて行つたか(322)は知らぬが、やゝ似た生活環境にはいつも同じやうな夢幻が再現して居て、それが偶然の所産で無いことを感ぜしめる。近よつて之を熟視する途は開けて居るのだが、文學を或天才の獨創のものと認め、又は民族毎に特別のものと考へる人には、この方法は不必要であり、或は又不可能でもある。

　

　　　　　　　　　　二

　

　文學の宗教的起原といふことは、日本でももう數人ならず之を説いた者が有る。しかしその人々の中には或は信仰は單に一つの機會であり、もしくは外形と方式をきめただけで、その器に盛つたものは悉く、後の人のあらたに調理した御馳走といふ風に、思つて居る人も無いとは言へない。もちろん民族の固有信仰が衰へると共に、その管理の手が弛んだと同じく、文藝の目標又は題材も少しづゝもとの圍ひから出て行かうとしたことは事實だが、忘れてはならぬのは是は皆相手の有る仕事であつた。如何に奔放なる空想家が出現しても、聽手讀者が承知しなければ文學にはならない。だから實際又文學は蟲の這ふやうに、砂時計の漏るやうに、長い月日をかけて、ほんの少しづゝしか變化して居ないのである。

　たとへば爰に近頃問題の、源氏物語を取上げて見ても、或一人の最たけだかく、最も麗はしい貴公子があつて、到る處に御妻を覓めたまふといふ語りごとに、趣向としてどれだけの新味があつたらうか。變化はたゞ個々の細部の敍述であつて、是は私たちのいふ文藝の自由區域、空想の遊歩場に過ぎない。其間に能ふ限りの描寫が試みられて、ふみ讀む人々にやゝ新鮮な印象を與へたのだが、是とてもずつと大昔の語り部もしたことで、古事記に現はれたる日本武尊の御旅、もつと溯るならば八千矛神の冒險談まで、きまつた一つの型だつたといふことが出來るのである。

　しかも一方にはこの趣向は、江戸文學の最後のもの、否進んで明治以降の政治小説、慘風悲雨世路日記だの、佳人の奇遇だのといふ戀物語まで、どれも是も漢語でいふ月下氷縁を説かざるものは無かつたのである。外國の學者は是(323)を殘留と名づけて珍重して居るが、この殘留のみはあまりにも現代及び過去記録の類例が豐富な爲に、殆と證明の必要が無い程度に、その起原がよくわかつて居る。即ち一言でいふならば特殊婚姻譚、又は聖なる選擇とも名づくべきもので、もとはその婚姻の一方だけがたゞの人間であり、數多くの中から一人だけ拔き出されて、世にも類ひなき縁組をして居たのである。此中にも男が我々の仲間の者で、配偶者が別の世界の存在であつたといふもの、たつた一つの約束を守り得なかつたが爲に、天縁忽ち盡きて妻は遠く蒼溟の彼方へ還り去るといふ話、是には日本では子を産んで殘して行くといふのが特に多い。神代にも例はあるがそれは別として、中世には小野頼風、安倍保名、肥前の雲仙岳の爆發は寛政年間の出來事だが、是にからんでも蛇女房の奇瑞が傳はつて居る。天の羽衣も民間に語られるものは、みんな二人か三人の兒を留めて居る。

　しかし是よりも數に於いてずつと多いのは、他の一方の神父人母即ち人間界の處女の最も清く美しく又慧しい者が、世に稀なる聟君を迎へる。さうして其間に生れた兒が永く故地に留つて、長者の家を興すといふ物語で、女は家に居る者と昔はきまつて居たので、この方が一段と自然に聽かれたのである。之をいつまでも記憶して居た者が何人であつたかは、物語の内容からでも察し得られる。それは舊家の本家である以上に、神に仕へる家又は所謂神のもろふし〔四字傍点〕を出す家であつた。神に嫁ぐといふ奇跡は一度しか起らなくとも、それを貴い前例として、終に人間の男にはまみえず、叔母から姪へと相續して行く家だつたかと思はれる。この珍しい最後の物語が、多くの名門の娘たちの心をけだかくし、行ひを愼ましめた例は世界的といひ得る。加特力の國へ行くと、幼ない基督の花嫁になつて、指に黄金の指環をはめてもらつて居る畫は澤山に見られる。戀と信仰とには、もとは感動の非常に近いものがあつたらしいことは、謠曲の物狂ひの舞などにも現はれて居る。我邦の特色としては清い食物と衣服とを調へて、澄みきつた水のほとりに機を織つて居ることが、其準備であつたかと思はれる。深夜に梭の音を聽くといふ機織淵の傳説は、文藝と言はうよりももとは信仰であつた。

　

(324)　　　　　　　　　　三

　

　この言ひ傳へは後に二つの流れに分れる。その一つは大師井戸の話となり、心のやさしい女が地機の紐をほどいて、遠く清水を汲んで來て旅僧に飲ましめる。それが弘法大師であつたので忽ち善行を賞して、門前に清列の泉を湧かしめ、もしくは取れども盡きぬ寶を與へられる。相手が弘法樣では婚姻の沙汰の無いのも已むを得ぬが、機を織つてゐるといふことは本來は嫁ぐべきものの表示であつた。單なる物語の一つの形といふ以上に、宮古島などでは近世になるまで、在番の役人にかしづく女は、最初は皆表口で機を織つて居たといふ話だから、是が又現實の風習であり、いはゆる月卿雲客を聟に取らうとする者の、一つの求婚の作法だつたかも知れぬのである。物語に出て來る長者のまな娘は、機も織らずに月前に琴をかなでて居る。そこへ牛若丸は笛を吹いて訪れて來るのである。斯ういふ世にも稀なる戀愛の歡喜といふものは、如何に花やかな言葉を以て説いても説き盡すことは出來ない。小野のお通が作といふ十二段の草子などは、その空想のエタスターズであつたが、中古の物語の多くのものはそこを狙つて居る。

　それから今一つの方はいはゆる異類婚姻譚、Bête et la Belle などと、西洋では二つのB文字を以て呼ばうとして居たもの、日本では大和の箸塚の古傳から、多分は大三輪氏の移住に伴なはれで、豐後の大太童の生ひ立ちまで繋がつて居るもの、是には中世の著しい變化があつたことは、前にも私は説いて見たことがある。即ち最初は單なる神變型、神がたま／＼御妻の願ひを容れて、小さな錦色の蛇と現じて、櫛笥の中に睡つて居られたといふのが、後には山中の洞や淵に住む大蛇が、假に若者の姿になつて逢ひに來ることになつて居る。是では嬉しいと思ふ者よりも、いやだ氣味が惡いと怖れる方が自然であつて、從つて人は必ずしも斯ういふ聟君を悦ばず、遁げて還つて來たとかもう再び訪れぬやうにしたとか、いふ樣な話の方が段々と多くなり、更に進んでは猿の聟入といふ類のおどけた狂歌話さへ生れて來て、もう之を家に附いた傳説として記憶する者が無くなりかけて居るのだが、是は要するに一部の零落の姿(325)あつて、まだその以外にもすぐれて貴い聟君の、暫らく形を變へて通ひ住みたまふといふ物語は多く榮えて居る。起りは宇佐八幡の神話では無かつたかと思ふ炭燒小五郎、更にその娘の絶世の美女を中心とした、山路の草刈る夜の笛の物語などはもう事古りて居る。近世の淨瑠璃の中にも、諏訪の狐火に出て來る百姓蓑作とか、さては賀茂の下り松の故事から筋を引いたらしき、扇屋熊谷の扇折り小萩とか、いはゆる世を忍ぶ假の名といふ趣向は非常に多い。さうしていつでも之を發見する者は、清く純なる人間の少女の、兼ねてその配偶者たるべく定められて居た者であつて、結局は島臺に松竹鶴龜、末めでたい婚禮の盃に歸着することは、必ずしも近代小説だけの常套手段では無かつた。昔話の本式なものが一切が皆是であつて、その爲に「一期さかえた」とか、「孫子しげつた」とかいふ結びの言葉が皆附いて居る。

　家を大きくし且貴くする力が女に在るといふ考へ方は年久しいものであつた。氏無くて玉の輿などといふと下品にも聽えるが、是が我々の民族の、大昔以來の婚姻制度でもあつたかと思はれる。階級の限定といふことは、我々の縁組には現はれて居ない。外國でも昔話の中だけには、貧しい家の子が王者の聟になる話が普通であつて、異等婚姻を排除しては居ないが、我邦の特色としては賤種は概ね女であつた。それ故に又「嫁は木尻から」といふ諺が、今も民間に行はれて居る。國民總員のけなげなる願ひは、いつも貴種を永續し又補強することに役立つて居る。中世の諸家の系圖を見ても、母は家の女房といふ例が多く、武人の勇名の最も高い者の中にも、母は遊女と明示したものさへ折々はあるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　この千百年を一貫した戀愛文學あるが爲に、我々凡人の婚姻には夙く一つの理想が出來た。必ず究極の目標に達せずば已まじとはせぬまでも、少なくとも進むべき一つの方向は見定めて居た。殊に文學に親しんだ女性が、凡々たる(326)縁組をきらふやうな傾きを生じ、其爲に餘分の苦惱を味はふことにもなつた。近代の多くの寫實小説なるものが、名ばかりは世相を描くと稱しつゝも、なほ常に偶然の最も奇なるものに、題材を捜さうとしたのも其爲だつたかも知れぬ。さうでなければくだらない自分の身の上を、さも大事件のやうに説き立てようとしたのも、やはり第一等の佳人才子でないと、小説に登場する資格が無いかの如き、古い因習を守つて居た爲とも考へられる。二葉亭四迷の浮雲が世に出たときは、世間はほんたうにびつくりしたのであつた。斯んな何でもないたゞの娘や小役人の戀が、果して文藝になるのかといふやうなことを口にした。その意味は平凡人の尋常一樣の婚姻などは、もとは芝居でも物語でも無いと思つて居たのである。あれから勿論筆とる者の態度は改まつて居る。しかし隱れたる前提とか、運命の威力とかいふものを拔きにして、人が自分の能力だけで活きて行けるものにすると、文藝は今でもその感動の五六割を割引せられるのである。昔は物語が常に稀有を捜して居たのは、家を耀かしくする要求があつたからだと思ふ。さういふ必要の丸で無くなつた者までが、是で無くては文藝とは言へぬやうに心得て、何でも書ける人の手を、少しでも一方へ引張り付けて居たとすれば、それは因習と言つてよからうと思ふ。

　しかしさう言つて居るうちにも、少しづゝの變調は萌し始めて居なかつたとは言へない。女はめでられるもの、言問はるゝもの、さうして其爲に苦しみ惱み、泣きつゝ時を待つべきものといふのが古い型であつたに對して、芝居の女だけは妙に進取的なものが多く、是が最上の縁と鑑定がつくと、どし／＼自分の方から働きかけて居た。あれを見るといやになるといふ者もあり、あれは男の見物だけを悦ばせる爲に、作つたものにちがひないと言つた女もある。實際やゝ其氣味も無かつたとは言へない。男は自惚の爲には高い對價を昔から拂ひつけて居る。さうして一方には、神靈貴人の知遇を忝なうしたといふ物語を、色々と修飾して持ち歩いて居た婦人の、第二の職業は遊女であつた。伎樂を背景とする遊里の文藝がある時代を代表し、是が一部のますらをのみの慰安となつたのはまだよいとしても、その御蔭を以て多數尋常の婚姻は、いよ／＼平凡なものになつてしまひ、それに滿足し得ない僅かな女性の修養を、い

(327)つまでも漁民物語一類の特殊文藝の中に閉ぢ込めて、更に彼等の境涯を孤高ならしめたのは、世の中にとつては損なことだつたかも知れぬ。しかし是とても考へやうによつては、亦一つの進化の過程とも見られぬことは無い。かつて蓮葉と謂はれた輩の勇敢なる進出は、單なる慰撫と激勵と以上に、實は男子の反省の爲に働いて居る。以前も心の底の批判は鋭かつたのかも知らぬが、之を表示する方式は女には甚だ限られて居た。それを率直なる形を以て言ひあらはす風習が始つて、黙つて傍聽をする娘たちまでが、いつの間にか斯ういふことによく氣の附く者になつた。男の價値が鑑別せられるものとなつては、彼等の身だしなみは改良せられざるを得ない。たとへ美點や長處だけを譽めたゝへるにしても、誰だつて直ぐに其反面を考へることが出來る。是が品行道�ｺの改良に役立つたことは、江戸期の洒落本のやうな、たわいもない記録の中からでも想像し得られる。男女の選擇が雙務的になつたと言はうよりも、寧ろ男の方が一層苛酷に、等級づけられる傾向が顯はれたのは、原因は主として旅をする女どもの、やゝ自由に過ぎたる歌言葉に在つたやうに思ふ。尤もこの文藝の成長にも、是から説いて見ようとするやうに早くからの苗床が有つた。以前は至つて僅かな上流の、才覺ある女性のみに限られて居たものが、後追々に弘く民間のものとなつたことが變化なのである。この古今二つのものゝ間には隱れたる系統があるのか、たゞしは單なる傚倣移種であるかは問題であるが、ともかくも文藝は我々の社會生活を動かして居る。日本の女は弱い。是といふ確かな武器がないと、デコブラなんかは言つたさうだが、明らかにそれは見そこなひであつた。批評は彼女等の可なり鋭利なる武器だつたのである。それが近世の戀愛を無用に複雜なものとし、人生の是に向つて割かれる部分を、聊か過大にしたことも爭へないが、もつと確かな效果としては、配偶の問題について我々を注意深くしてゐる。それから今一つは日本の文學を、至極念入りな敍述の物語と、やゝ含蓄の多過ぎた短篇詩の歌俳諧と、左右兩端に引分けてしまつた。是もやつぱり國柄と謂つてよいと思ふ。

　

(328)　　　　　　　　　　五

　

　森?外さんのまだ三十三四の頃に、私は學生で毎度話を聽きに行つた。兄の友だちといふ以上に、特に熱烈なる崇敬を捧げても居たからである。ちやうど戀愛文學の氾濫といふことが、老いたる識者に非難せられて居る時代であつた。あんな愚な話は無いと、例の通り先生は冷笑して居られた。色をしない人間はこの世にはあるまい、その人間の生活を寫すのが小説だもの、戀愛文學になるのは當り前さといふやうなことを、もつと詳しく言つて聽かされた。私は還つて來てからも時々之を憶ひ出し、後には少しづゝ首をかしげはじめたのである。人間がむきになつて身を打入れる題目は、他にもまだ幾つかゞ算へられる。たとへば食物などは佛蘭西人が少し之を取扱つて居るが、それでもまだ主題とまではなつて居ない。事業や學問の大きな夢、天然を味方につけようとするたくらみ、乃至は二つの民族の死ぬか活きるかの戰爭の如き、たしかに個人の求婚以上の重要事項であつて、古くは又之を主とし、戀愛をたゞ挿話とした文學もあつたのだが、現在はもうさういふものも無くなり、この一つ事のみがくり返し説き立てられて居る。其理由はしかく簡單で無いものが、何かまだ隱れてあるらしいと私は思つた。

　それから今一つは、その戀愛文學の成立にも、古今を一貫した定型の如きものがあつて、どんな種類の經驗でも、すべて之を傳へようとして居たのではない。即ち誰がきめたとも無く今でも文藝となるべき戀愛は限られて居て、しかもよく見ると其中には兩立し難いものゝ竝存がある。二つの方向の違つたものが、調和もなく配合せられて居る。たとへば中世以來の數多い戀物語を讀んで見ると、思ひあがりたる美人の神靈を聟に儲ける場合でも、又は聽明なる賤の女が見出されて貴族にとつぐ場合でも、いはゆる宿縁の兼ねて定まるものがあり、是こそ他に掛替への無い婚姻といふことが分つてゐるにも拘らず、歌を詠ませて見ると男女共皆遠慮がちで、最も普通に出て來るのは、忘れられるかも知れぬといふ憂ひ、人の心の變りやすいといふ歎息、それから締約以前であれば、いや數ならぬ身を侘ぶとか、(329)成らぬ願ひに身を焦がすとかいふ、美の文句ばかりを贈答してゐるのは、誠に似合はしくない話であつた。斯んなことを言ひながらすべての物語の主人公は結婚してしまひ、結婚すると皆相鷹にやかましい亭主ともなれば、又氣の強い女房ともなるらしいのは、物の順序としてはどうも合點が行かない。均しく男女の配偶を主題とした文學とは云ひながらも、二つ是ほどまでに行き方のちがふものを組合はせて、多くの戀物語の作られて居た理由や如何。是も亦單なる概括論ではまだ説明が出來ぬと思ふ。

　文學に社會の要求を考へるといふことが、大層いやがられて居た時代もあるけれども、少なくとも我邦の前代に在つては、是が無かつたならばこの二種のちがつた戀愛文學は生れず、それを又繋ぎ合せる樣な、中世以降の物語は起らなかつたらう。私の解釋は或はまだ容れられないかも知れぬが、この二つのものは共に家の生存の爲に缺くべからざるものであつたが、その目的が二つ別であつたやうに、始めて要求せられた時期も大分ちがつてゐて、それが後に一方の更に發達すべかりしものへ、他の一方を攝取したのかと思つて居る。御伽草子でいふならば物臭太郎、昔話の中では猿聟入の猿の辭世の歌などが、この二つのものの境目をよく示してゐる。眼の前に轉がつた團子を、殿樣に拾つてもらふほどの無精者が、京へ登つて姫君を見初めると急に歌を詠みだす。又は欺かれて大きな水甕を背に負ひ、墮ちて流れて此世の縁が切れようとするときに、「かはいや御猿後家」といふやうな、手筒な歌を殘したことになつて居るのは、共に誇張せられない最初の物語には、歌が無かつた證據だと見てよからう。或は宗教性の有無と云つたら判り易いかも知らぬが、とにかくに一方は遠い昔の記憶で、誰が一人見て居たといふ者も殘つて居らぬ話であつた。しかも出來るだけ多數の人に承認させて、家の榮譽と特權とを支持しなければならぬ必要から、其敍述は詳細を極めたのみか、更に次々の潤飾を積み重ねて、いつまでも興味のつきぬやうにしてあつた。之に反して他の一方は、同じく家々の繁昌の爲とは言ひながらも、目的は一國毎に完了する。一人の愛する娘にしあはせな結婚をさせてしまふと、それで用がすむやうな簡單な文學であつた。だから久しからずして樣式化し又平凡化し、たま／＼忘れられずに居れ(330)ばたゞ傚倣の御手本となり、終には一方の傳奇文學の、挿話の種にまで落ちぶれて行かうとしてゐるのである。之を獨立した永古の文化財とする事は、相應に骨折な仕事であつた。

　

　　　　　　　　　　六

　

　歌によつて男女の仲らひを柔らぐといふことは、決して或一つの民族の特徴では無い。人の孳殖を願ふものは、あたかも春の光が花を開かしめる如く、常に歌謠の昂奮を以て若い人々を孤獨から解放しようとして居る。冬長く春の短き氷の大陸は言ふに及ばず、熱い緑の島々でも若い日は早く過ぎやすいから、何れもやゝ事々しい方式を以て、人間の配偶行動を促進しようとして居る。たゞ我邦に在つてはその歌垣の制度が早く個人化して、やゝ珍しい一種の文藝を成長せしめた點がちがふのである。乃ちこゝでは古い年々の歌をくり返す代りに、妻問ひする者が夙く各自の歌を詠ずることになつて居た。從つて單に歌の聲が美しいといふ以上に、巧みに又は鋭く、おのが心の隈を表示することを得た者が認められた。戀をしようとする者は先づ試驗せられたのである。この風習は今もまだ幽かに、田園の間には殘つて居るが、大體に於いて或時代の文藝記録が、特に顯著にその形跡を傳へてゐるやうで、わざ／＼穿鑿をしようとしなくても、讀んで居れば自然に感じ知られる。たゞ案外にそれが久しく續いて居ないのは、是も又家といふものゝ組織が改まつて來たからかと思ふ。

　戀歌の法則は至つて簡單であつた。實際的に言ふと「場合」を理解すること、異性の批評に對する敏感、もしくは輕侮に對する防衛、いづれも主として消極的なものではあつたが、ともかくも是を唯一の手段として、自分の存在を相手に知らせることに力を入れ、思つてゐますといふ肝要な點を、何だか第二段にしたやうな感がある。三十一文字の詩なるものが長さと句形、即ち感情の音波ともいふべきものに於いて、戀する人たちの息づかひに適應してゐるのではなかつたか。古今ともに是が最も多く使用せられ、柳車種彦は田舍源氏に於いて試みたけれども、いはゆる俳句で(331)はどうも調子が取れなかつた。是は必ずしも聯想のみでは無いやうである。

　和歌には何かもつと重大な根本の必要があつて先づ生れ、戀歌はたゞその新たなる一つの應用であらうといふことも無論考へられる。それは何で有つたらうかといふことは好個の課題であるが、現在は少なくとも是だといふものが示されて居ない。森さんの言ひ草では無いが皆戀を含んで居る。一番著しいことは問答體、と言はうよりも即席の返歌を要件として居ることで、斯ういふ技能は他の人生事務には必要が無かつた筈である。歌を掛けられて返歌の出來ないのを恥とするやうな氣風は、後には連歌ともなり又數々の難題ともなつて居るが、たとへば神々の祭とか、祈願とかの爲に入用なものだつたならば、物忌や御籠りの期間も有することだから、ゆつくりと考へ込んでもよかつたらうと思ふのに、實際は我邦では神樣までが打てば響くやうな返歌をなされて居る。さうしていつも相手の言葉を踏まへて、敏捷なる答へを詮とせられた點が、何と無く人間の歌垣と似通うて居る。歌を贈答と全く無縁なものとしたのは、至つて近い頃からの改革のやうに、まだ私には感じられる。少なくとも子女を幸福なる婚姻に誘ふといふ必要が無かつたら、和歌は今までのやうな途を通つて、進歩し又は普及することが出來なかつたらう。といふことまでは言へさうな氣がする。この洋々たる國民文學の水源が、曾ては家々の文藝の盃を泛べるばかりの小流れであつたといふことは、我々に取つては寧ろなつかしい思ひ出ではあるまいか。

　

　　　　　　　　　　七

　

　但しこの文藝の後の代に傳はつたのは、ほんの一小部分の、寧ろやゝ尋常を超えたものだけであつたことは認めなければならぬ。假に同じ風習が汎く中以下の家庭にまでは及んで居なかつたにしても、なほ此以外に何首何千といふほどの男女が、毎年同じやうな歌を取り替しつゝ次々と新しい生活に入つて居たことは爭へない。それが世上の口の端にもかゝらず、いはゆる家々の聞書にも留められず、從つて撰集の沙汰にも上らずにしまつたのは、大體にさう巧(332)みなもので無かつたからと想像してもよいか知らぬが、それが平凡であつたゞけに、戀歌としては此方が實は目的を果して居るのである。相手がおしやべりで輕々しく人に洩らすか、さうで無ければ伏柴の加賀の逸話にも有るやうに、戀よりも先づ我が作品に陶醉してしまつて、わざとさういふ場合を待つて居たといふ類の、言はゞやゝ不滿足な縁組の記録ばかりが、測らずもこの婚姻文學を代表することになつたわけで、まだ此以外にも若干の至つてしをらしい名歌が、永く幸福なる埋没を甘んじて居なかつたとは限らぬのである。

　文學とそんな平俗なる實用品と、二つの境目がはつきりと立つて居るとよいのだが、どこの國でも實際はそれは難かしいことであつた。日本はまだ是でも、題詠といふ風習が盛んになつて、堅い坊さんも深窓の處女も、平氣で人戀ふる歌を詠んで居られたからよかつたが、それも練習の必要が認められなくなると、徒らに言葉をあやにする戯れと化して、何でさういふことをするのかを訝かる者ばかり多く、終には今日の短歌界見たいに、戰であれ、勞働であれ、あらゆる人事は皆歌に詠むが、戀の歌だけは少しも無いといふ、大よそ森さんなどの豫定を裏切つた、歴史離れのした文學になつてしまふのである。折角歌といふものゝ地位を高尚にしてもらつても、正直なことをいふと是ではやゝ淋しい。どうせ若い人たちは何等かの方法を以て、胸に一ぱい有るものを歌ひ出さずには居ないから、よからうではないかとも言つて居られぬのは、それが溜息ほども自分とは縁の無い、よその流行唄の口眞似となつたり、もしくは動機の捉へにくいやうな、無やみに感傷的な咏歎となつたり、ともかくも和歌の一つの特長と認められた率直さといふものを失ひかけて居る感があるからである。もう一度昔の混用時代に引戻すことは、それは不自然であらうし、又望むべきことでもあるまいが、いやしくも國に文學の歴史を尋ねる學問があるならば、せめては斯うなつて來たかの路筋を明らかにして、其光を以て是から歩んで行く先を、照さうとするだけの用意があつてよい。この三四十年の變遷などは、異なる民族に示すのも恥かしいやうな、餘りなる右往左往だつたと思ふ。

　

(333)　　　　　　　　　　八

　

　私などの解釋は勉強が足りないから、とてもまだ間違つて居ないとは保障し得られぬが、この文學には家の制度、とりわけて婚姻の樣式の變遷が、大きな影響を與へてゐるやうである。男女が身を定めると直ちに一つ屋根の下に、晝も夜も共に暮すやうになれば、戀歌の需要は半分は減少する。待つとか忘られるとか久しく來ぬとかいふのは、何の事かと思ふやうな人ばかりが多くなる。昔は恐らくは生涯の思ひ出であつた後朝の情緒なども、いつと無く遊里の獨占のやうになり、をかしいことには鴉庭鳥明けの鐘などが、近い頃はたゞ都々逸の中だけに殘つて居た。去るとかのくとか謂つて、もとは男には來なくなる自由があり、それを繋ぎ留め又引き寄せる爲に、あはれなる歌をよむ必要が女には多かつたのである。

　　　いきてよもあすまで人はつらからじ

　　　　　　　この夕ぐれを訪はゞとへかし

　是は勿論大變な誇張だつたらうが、斯ういふことまでも考へる女性が、深くめでられて居たのであつた。しかしそれよりも今一段と大切なのは、いよ／＼契約を固めるまでの言問ひ、中世の言葉で懸想と謂つた期間の文藝であつた。古い幾つかの物語にも殘り、又村里では現實にもさうであつた樣に、日本はこの期間の珍しく長い國であつた。さうして文學のまだ十分に利用し得られなかつた時代から、歌が主としてこの交通の役をして居たのである。家と家との關係が以前よりも複雜になつて、親が最初から選擇に干與し始めると、歌にも添削があり又時としては代作も行はれて、互ひの心情を語りかはすとは限らなかつたが、それでも古風な上流の家庭では、必ずこの手續きを履んでから、約諾をすることにきまつて居たのである。それが色々の外部の必要によつて、形だけにもせよ、親たちの心一つで、娘を人にくれてやる事が出來るものになつて、戀歌は一旦は完全に實用品では無くなつた。それでいゝのだといふ人(334)があつても、もう私などは少しも構はないが、さうすると中古以前の、我々が寶のやうにして居る數々の名歌が、みんな判らないものになつてしまふ虞れだけはある。如何に嚴格な親にしつけられ、如何にすなほに與へられたる境涯に適應しようとする娘でも、やはり相手がどういふ人であらうかを、考へて見るだけの餘裕は、短いながらにちやんと有る。まして其判斷を本人たちに委ねて、親が後になつて承認することにしても、少しも惡い結果の無かつた時代があつたのである。歌で互ひの人柄を試みるといふことほど、平和で又美しい方法は他にあり得ない。それを只いたづら者のけしからぬ企ての如く、内々は解して居りながら、なほ古人の戀歌に感心しようとしたのは、實は歎かはしい結婚道�ｺの溷濁であつた。事情の變遷といふものを勘定に入れないで、古文學を説かうとすることの弊害は既に現はれて居る。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それには在五中將とか、平仲とか女でいふならば和泉式部のやうな、歌の才の人に秀でたものがありながら、一方戀愛についてはやゝ氣まぐれな考へをもつて居た僅かな人たちの存在も、遠い一つの原因で無かつたとは言へない。斯ういふ人々は文學の樂しさに誘はれて、或は時々無益の戀を試みて居た。後世の眼から見れば、是とても興味ある逸話かもしれぬが、當時の未婚者にとつては、是くらゐ無用心な相手方は無かつたのである。うつかりさういふ連中のあや言葉に恍惚とすると、それこそ一生をはふらかしてしまはねばならぬ。女には殊に其悲しみが大きかつたので、この風潮の次第に瀰漫すると共に、女性の結婚文學は、又一段の曲折を見なければならなかつたのである。單なる警戒ならば避け隱れて居てもすむ。しかしこちらにも望む所はあつて、もしも誓ひごとが空しからず、末永く共に住まうといふのが心の底からの願ひであるならば、それをすら棄てゝ省みないほどの情無き者でないといふことを、斯ういふ機會に於いて表示する必要をも認めて居たのである。勿論是だけの心構へは、極めて尋常なる村里の女でも持つ(335)て居たらうが、たつた三十一文字だけのことを、しかも優雅に言ひ盡さうとすると、特別な技能が無くではならなかつたのである。うまく言ひおほせると女でも得意にならぬとは限らぬ。それで自然に世に洩れ傳はつて、歴代の歌の集にも拾はれることになるので、是ばかりを見て中代の戀がしどけなく、女はたゞ揶揄と揚足取りとを以て、能事として居たやうに推測することは、是も亦同情の足らぬ話なのである。

　　　さりともと思ふ心にひかされて

　　　　　　今まで世にもふる我身かな

　　　（返し）頼むるに命の延ぶるものならば

　　　　　　　　　　千とせもかくてあらんとや思ふ（後拾遺）

　

　　　あなこひしはつかに人を水の泡の

　　　　　　消えかへるとも知らせてしがな

　　　（返し）長からじと思ふ心は水の泡に

　　　　　　　　　　よそふる人のたのまれぬ哉（拾遺）

　

　　　夕やみは道も見えねどふる里は

　　　　　　もと來し駒にまかせてぞ來る

　　　（返し）駒にこそまかせたりけれあやなくも

　　　　　　　　　　こころの來ると思ひける哉（後撰）

　

(336)　　　包めども袖にたまらぬ白玉は

　　　　　　人を見ぬ目の涙なりけり

　　　（返し）おろかなる涙ぞ袖に玉はなす

　　　　　　　　　　我はせきあへず瀧つ瀬なれば（古今）

　斯ういつた種類の贈答が八代集の中にはまだ何程も有る。さうして大抵が皆女の返歌なのである。今日出しぬけに斯んなことを言ふ人があつたら、相手は怒つて來なくなるにほゞきまつて居る。それが申し合せでも八百長でも無くて、男子を傾倒させ敬慕の念を深うせしめたのは、乃ち又傳統の力であつた。昔も微妙なるあや言葉の中から、すぐに人の言はうとする所を覺つて、それに打合ふやうな巧みな受答へを、歌でなし得た女がめでられずに居た筈が無い。たゞ後々之に加ふるに一分の警戒と、さう安々と賺し誘はれるやうな、輕々しい心は持たぬと云ふ、一種の宣言を以てした爲に、いさゝか言ふことが皮肉にもなつたけれども、なほ如何なる返事をするだらうかといふ好奇心は、是によつて少しも薄れることが無いのみか、寧ろ新たなる刺戟を添へて、正しい婚姻へのあこがれを、いよ／＼痛切ならしめた效果さへあつたかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　歌が文學では無いと假にきまつて居ても、是はなほ若い男女の幸福を確保する爲に、學ばせて置きたい大事な技術であつた。まして世に傳はつた當初から既にもてはやされ、後世その眞相がもう不明に歸してからも、なほ作者を是たゞ一つによつて、歌人と認めしめるほどの立派な名歌が、御手本として殘されて居るのである。親が最も氣づかつた選擇の失敗、つまらぬ誘惑に對する防禦力が、之に由つて補強せられたのみならず、更に積極的には女の奧ゆかしさを深めて、良縁を導くよすがともなつて居たことは、決して昔話の世界だけでない。民間には是を一種の護符の如(337)くにも考へて、たゞ形と文字の數の揃ふのを詮とし、必ずしも中味のどうなつて居るかを問はうとせぬものも有つたやうだが、是とても人が尊奉して、永く弘く持ち傳へた結果なのだから、やはり文學のやゝ零落した姿と、見て置いても先づ差支へは無からう。

　話はまだ大分殘つたが、あんまり長たらしいから此邊で一應結びを付けて見る。家がその遠祖の極度に靈異なる誕生、人と神々との婚姻によつて、この世に出現したといふ事實を記憶して、それを繁榮の基礎と頼み、同時に一門の結合を鞏固にし、他族と對抗する力にもして居たことは、古今幾多の民族に共通な習はしとも言へるかも知れぬが、それも我邦だけには色々の特色があつたのである。第一には神父人母、即ち母を靈界の出なりとする豐玉姫式ともいふべき古傳には反して、是は專ら人間の清い乙女が、高くすぐれた聟がねを迎へたことになつて居て、ちやうど中心の古く貴い言ひ傳へと、向ひ合ふ形を備へたものが多いことである。第二には是ほど國弘く分れ榮えて居る八十氏人の末の末までが、聽けば互ひに感動を共にすることの出來るやうな、よく似た物語をめい／＼に持ち傳へて居たことで、少なくとも此方面からならば、今でもまだ文化の純一性を、説くことが出來さうに思はれる。第三の特徴といふのも或は是から出たものであらうか。最初恐らくは神の御告げによつて、人は一人も殘らず之を實として居たにしても、さういふ時代は過ぎ去つて既に久しく、之を精神上の統一手段として、保存しなければならぬ必要は全く無くなつた後まで、なほその語りごとの美しさ耀かしさに對して、人は殆と昔のまゝの渇仰と豫想とを持ち續けて居た。さうして次々の文學の、あまりにも其軌道の外に逸することを喜ばなかつたのは、是も亦國柄といふべきものであつたらう。日本で文藝の趣向と謂つたのは、箇々の小さな挿話のさし替への名であつた。結局は御寶物の發見と惡人の誅罰と、美女の再會と本領安堵とが手を繋いで來なければ、讀者又見物がどうあつても承知をしないといふ時代はつい近頃までも續いたのである。新たに外國から若干の作例が入つて來て、それに準據したものだけが純文藝などと謂はれたのも、大きな反動なのだから是は已むを得ない。しかも愈々そんなのはいけぬとなると、それならば何を書かう(338)かが改めて又非常な問題になつて來るのである。文學が今までどういふ風に歩んで來たかを知ることが、是ほど大きな參考になる場合は先づ無からうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　第二種の家の文學に於いては、是から考へて見なければならぬことが、又一段と多いやうである。當事者は寧ろそつとして置かうとするらしいが、我々には是が國民文學となつて來た經路、それよりも今後もなほ引續いて、今の通りの國民文學としてその普及と隆昌を期してよいか否かを、問題としないわけには行かぬ。といふわけは凡庸平俗の實用性を公認するか、乃至は未來の人丸赤人に向つて、この數十萬の歌人を競走せしめるかの、是が一つの岐れ道になりさうだからである。歌は幾分か新たに始まつたものだけに、その當初の行き掛りが一層強く働いて居る。殊に中世以降の文學化傾向とも名づくべきものが、二三の煩累を我々の間にまで遺して居る。もしも私などの希望して居るやうに、是だけはせめて國民全部の樂しみに、又は心の隅々の表白の爲に、今後も永い間斯うして置かうといふことに決するならば、それには歴史を知つて、もう少し前者の轍を踏まぬやうにしなければならぬ。指折り算へるばかりの少數者を除いて、歌ほど意氣地も無く人眞似ばかりして居た文學は、日本はさて置きよその國にもあまり無いのである。

　歌は一方の物語文學に比べて、宗教と縁が薄いと前に述べて居るが、あれは取消さねばならぬ時が來るかも知れない。女が稀々に奇蹟的な婚姻をして、家を永遠の聲望の上に置くことを經驗した人々は、當然に女性の才色に十分の尊敬を寄せ、その慧しい言葉に耳を傾けようとした筈である。日本の歌垣は其爲に殊に多事であり、この日を晴として人の心を搖蕩するやうな、一生の思ひ出の歌垣の歌を詠まうと修養した者も、昔から多かつたであらう。さうで無かつたならば突如として、世々の撰集に跡を留むるやうな、すぐれた女の戀歌は出ようとも思はれない。たゞ今日に(339)なつて囘顧して見ると、或時代の選擇は少しく好尚が偏して居た。さうしてそればかりしか後世に傳はらなかつた。貞淑なる多數の婦人に、之を御手本として返歌を詠ませようとしたのは無理であり、又必ずしも相手方の、いつ迄も期待し又喝采する所でも無かつた。しかもあの頃はまだ流行の初期とおぼしくて、袖とか涙とか露とか水の泡とか、道具に使つた單語が餘りにも僅かしかない。之を組合せて居ただけではさういつ迄も好い歌は詠めない。おまけに其中から約八割ほどの辛辣味を拔き去らうといふのである。是では單調になつて誰が詠んでも同じものに歸するか、さうで無ければ縁語掛け言葉、何か一ふしの聊か新しいものを加味すればよいといふことになつて、大よそ世に出でて新たなる人生を築き上げようとする者の情緒と、懸け離れたものになるのは已むを得なかつたのである。私などのやうに年を取つて、桐の火桶でも摩らうかといふ者が、歌に口を出したのも惡いことだつたかも知れぬ。その爲に人間最大の感情以外のものに、その所謂一ふしが轉用せられて、歌の前面は廣くなつた代りに、春の深山に百鳥の聲を聽くやうな、優に艶かしい文學は前代のものになつた。それでもよろしいなどと力む人たちは、私等から見れば文學史を愛しない人と言はなければならない。

　歌を昔のやうに若い男女の獨占とし、戀の歌ばかりを幾らでも詠めと、言はうとするのでは決して無い。今日は殊にそんなことが言へる時節で無い。たゞさういふことも出來るやうに、又どんな境涯に在つても歌が詠めるやうに、しなければ國民文學にはならぬ、といふことだけは認むべきである。それには又何よりも歌に使ふ言葉を、誰でも手の内に持つて居るものにしなければ嘘だらうと思ふが、其事は他でも言つたからもうくり返さぬつもりである。たゞ歌が詠みたいばかりに萬葉語辭典を、讀破し又暗記しなければならぬやうな義務を重課したことは、是を將來の國民文學にしたいといふ願望とは、可なり撞着するものだといふ迄は附け加へて置いてよからう。

　

(343)　　　農村家族制度と慣習

　

　　　　　第一節　家族制度と勞働組織

　

　　　　　　　　　　一　序論

　

　農業にはもと賃銀の要らない勞働組織があつた。その組織の下で働いて居たものは、少なくとも今日の小作人のやうな、生活不安におぴやかされては居なかつた。今日、都市の勞働爭議の大部分は賃銀の問題である。小作爭議の大部分は小作人の生活不安から釀されて居る。斯かる時代に、賃銀の要らない勞働組織があつたとか、その組織の下にあつたものゝ生活が安定して居たといふことを言つたら、ほんとには思はれないかも知れない。然し歴史は明らかに此事實を物語つて居る。

　然らば其事實とはどんなことか。それを語る前に、先づ歴史を取り扱ふ精神について、言ひ換へると歴史の取り扱ひ方について、一言申し述べておく必要がある。諸君は歴史と言へば、すぐ學校で教はつた御歴代の御事蹟や英雄豪傑の物語を思ひ出すかも知れぬ。然しそれはいま我々が此處で歴史を取り扱ふ扱ひ方とは別の扱ひ方である。我々はそんな表向きの、はでな、にぎやかな歴史の下にかくれて、黙々として世を動かす力の源泉となつて居た地方農民の、(344)じみな、靜かな生活を、長い時間の流れにさかのぼつて見たい。そして今日と違つた生活方法がもしもあつたなら、それはどうして起つたか、またどうして亡んだか、その原因結果を調べて見たい。斯くして行くことに依つて自然に、今日及び將來の我々の生活の上に大きな教訓や暗示も生れて來るであらう。これが我々の歴史を取扱ふ精神である。單に昔なつかしい懷古趣味や、今の時代をいとうて、一にも二にも昔の世がよかつたやうに思ふ、保守的な復古主義などとはわけが違ふ。今日の時世にもいとはしい事があれば、昔の時世にも同樣にいとはしい事はあつた。同時にまた昔の時世にもよい事があつたと同樣に、今日の時世にもよいことは澤山にある。そのよい事を昔の人が間違つて捨てはしなかつたらうか。そのいとはしい事をも、誤つて今日まで大切に傳へて來て居はしないだらうか。此等の事實を探索して、正當な評價を與へることが我々の歴史を取り扱ふ精神である。此講義に於ても無論この精神で、農村家族制度と慣習の問題を取扱ふのであるが、然しこんな短い講義で、完全を期し得ないことは豫め御承知を願つておきたい。たゞ出來るだけ枝葉の點はぬきにして、重要な肝心な事柄の洩れないやうには、十分努力するつもりである。

　

　　　　　　　　　　二　賃銀のない勞働組織

　

　貸銀のない勞働組織とはどんなことをさすのか、と言へば、勞力を提供する雇傭者に對して、勞銀を支拂はなかつたのである。このことは金錢が今日のやうに地方農民の生活に、浸潤して居なかつたことも一原因であらうが、然しもつと根本的には、組織がさうなつて居たからである。つまり雇傭者の勞力に對して、直接に物件を以て報酬を支拂ふことはしないが、雇傭者は平素絶えず種々の恩惠を被つて居り、後には獨立させてもらへるのであつた。だから雇傭者は勞銀のない勞力を提供しながらその生活は今日の勞働者や小作人よりも、むしろ安定して居たのである。このことは、だん／＼話を進めて行きさへすれば、もつと明らかになつて來る。

　元來農業は存外人手のいるものである。そしてその多くの人手も、これを統率しなければ、うまく仕事をはこんで(345)行くことは出來ない。だから昔から農業では、勞力蒐集と勞力組織とに、非常な苦心がはらはれて來た。家族制度の變遷も、此方面から研究して見ると、その意義がはつきりして來る。

　現在では日本の人口は一戸平均五人二分位になつて居る。つまり戸といふものゝ最少分子まで人口が減じて來てゐるのである。だから勞力のたくさんかゝる農業を營むには、現在の農村の一戸は、純然たる孤立を守つて行くには、勞力が足りない?態にある。從つて日やとひ（賃銀）制度を行はねばならなくなつて居る。然し日やとひを入れて、貸銀を支拂つて農業を營んでは仲々ひきあふものではない。岐阜縣や愛知縣の地主の中には、小作から田地を取り上げて、北伊勢などから呼寄せた田人《たうど》を使つて、農業を經營しようとしたものがあつたが、それは至つて採算困難な事業であつた。他の地方に於ても事情はほゞ同樣である。これはつまり農業に於ては勞力の需用に非常なむらがあるために、工場などと違つて、一定數の勞働者に賃銀を拂つて、絶えず用意しておくといふことが出來ないからである。

　五人の家族と見て、其内ほんとに働けるものは、先づ二人であらう。從つて今日地方を旅行して居る間には、廣い田をたつた一人で植ゑて居る悲しい實?を見ることが度々ある。昔はさういふ事はさがしても恐らく見ることは出來なかつた。今日では勞力の不足を補ふために、田植前後の忙しい時には一番鳥から起きて、夜も炬火をともして夜なべする事もめづらしくない。既に八十年ばかり以前にさへ、兵庫附近で家の近くの田は夜なべ仕事に働いたといふ話がある。然しさういふ苦しいやり方では何時までも續くものではない。何とか變化が來なければならぬであらう。

　ところで一家族の人口は、昔から今日の樣な平均五人何分位のものであつたかと云ふに、決してさうではない。現在でも長野縣を實例にとつて見れば、縣全體としては一戸平均が矢張り五人内外であるが、一郡或は一村について見れば種々差異がある、一戸七八人平均のところも少くない。南安曇郡誌など見ればその?態がよくわかる。そして一戸の人口數が多いのは町ではなく、山寄りの村、山の中の村などである。九頭龍川沿岸には一戸十七八人の家族があり、東北二三の地方には一戸四十餘人の家族があるかと思へば、飛騨の白川には一戸五十人以上の家族が居て、マタ(346)イトコまで一緒に暮して居るところもある。今日奈良の正倉院に殘つて居る古文書を調べて見ると、一戸が七八十人の人口になつて居たことがわかる。この事實は決してうつかり見逃がすべき事柄ではない。昔とか過去とか言ふ言葉の示す長い時の流れの間に、色々の變化があつて決して一樣單調なものでなかつたことを示して居るのである。正倉院の古文書はその當時の一戸の人口を我々に示すが、その他現在まで殘つて居る大家族は、或時代々々の常態であつたものを、何等かの事情で都合よく見本的に我々の時代まで殘して來たものと見るべきである。つまり古い時代には一戸は七八十人以上の大家族であつたのが、段々と今日の一戸五人幾分の小家族まで、うつり變つて來たのである。一戸の戸といふ字は實は家の建物をさすのではない。「ヘ」とか「ヘッツイ」とかの事で、云ひかへると「カマド」一つといふ意味である。一つカマドで食事を取る家族が七八十人もあれば、勞力の多く要る農業を營むにも、決して心配はない。その古い七八十人の大家族が今日の五人内外の小家族になるまでの間には、農業の勞働組織の上にも、種々の變遷のあつたことは申すまでもない。

　

　　　　　　　　　　三　大家族主義の實例

　

　飛騨の白川の大家族は、一家のうちに五十人以上の多人數が住むので、家屋の構造もそれに從つて大きい。屋根の左右がのぴて低く地につき、前後があいて出入が出來る樣になつて居る。そして、五階になつて居るが、主人夫婦がナンドと稱して別に寢室を持つて居るだけで、あとのものは二階三階に一同枕を竝べて寢る。それだけの大家族だから、便所の如きも、八疊の間位の大きな穴を掘つて、それに梯子のやうなものをかけ渡して、一度に二十人以上のものが用を便ずることが出來るやうになつて居る。

　白川は、宗教は一向眞宗の方で、毎朝必ず珠數を手にかけて、靈前に禮拜するのであるが、その珠數が家の中の一定の場所に、ずらりとかけ竝べてあつた。多分そのかける順序にも、家族の席順といふやうなものが現はれて居るだ(347)らうと思ふが、それは聞かずに過ぎてしまつた。

　白川ではまた娘は決して嫁に行かない。男の方からやつて來る。娘を嫁にやらない風習は、他の地方にもあるが、その原因は主として、勞力を減ずることをいやがるところから來たものである。一般に農村で嫁をもらふことは、一つには必要な勞力の移植である。

　白川ではまた食物は家の主人が支給するが、着物は各自の親がこしらへてやらなければならぬことになつて居る。そのために月のうちに一日二日位の私の日がある。此私の日に、親達は金に換へやすい作物を作つたり、その他の方法でヘソクリを作る。ヘソクリ即ち「私」のことをフリタ、ホマチシンガイ、マツボリ等いろ／＼地方によつて言葉は違ふが、何れもその使用が各自の任意に出來るもので、直接家の主人に屬しない個人私有の財物である。白川では外から男が通つて來て、娘が子を産んだ場合には、そのまゝ家に住まはせて、食事は與へてやるが、衣服だけはその子の親たる娘が心配しなければならぬことになつて居る。

　白川の風習で最も注意すべきことは、食と住とが共同であつて、其責任が家の主人にあり、衣だけが個人の責任になつて居ることである。食と住とは何と言つても最も共同的なもので、衣は最も個人的なものである。最も共同的なものが一家の代表者たる主人の責任になつて居て、最も個人的なものが最初に個人の私となつて居るといふことは、後にだん／＼變化が起つて來ることを豫想せしめる制度である。即ち外部からの種々の刺激や、内部からの色々の事情によつて、各人が私のために勞力を費す時日が多くなつて行けば、大家族制度は自然に變化を受けなければならなくなつて來る。

　會津の只見川あたりには、かなり大きな家族が殘つて居る。土地の人と一緒に道を歩いて居ると、その人のヲヂ、ヲバといふ人に澤山行きあふ。君の親類ですかときけば、いえ自分の家の人だといふ。よく調べて見ると、直接血の通つたヲヂ、ヲバではなく、外から養子にもらつたヲデ、ヲバである。今でも狹斜の巷などでは養女藝者といふもの(348)があるが、只見川のヲヂ、ヲバもつまり勞力増加のためにもらひ受けた體のよい下女下男である。然し體のよい下女下男だというたからとて、彼等の家族内に占める地位が低いと云ふ意味では決してない。むかしは下僕でさへも、その社會的地位は、今日よりもはるかに高かつた。そしてその名もヲヂとかヲンツァとか言つたのは、その家族内に於ける地位を表はして居る言葉であつた。血縁の有る無しに拘はらず、一つの屋根の下に雨露をしのぎ、一つカマドの食を分け、同じ田畠に汗水を流して、苦樂を共にするものは、すべて一樣の家族としてそれ／”＼の地位を占めて居たわけである。だから養子にもらはれたヲヂ、ヲバ等も決して次男坊や三男坊よりも低い地位に小さくなつて居たわけではない。

　子をもらふ慣習は、むかしは廣く行はれたもので、農村でも決して子の多きをいとはなかつた。漁村では今でも古風を存して居るところが多い。さう言ふ土地では一家族の勞力の増減が重大な問題であつて、羽後の八森の如く聟に行くものがなかつたり、靜岡の燒津の如く嫁に行くものがなかつたりする。嫁をもらつたり、聟をとつたりすることは、最も從順な勞働者として、一生その勞働力を忠實にその家のために提供してくれることになるので、やる方ではそれだけ力をそがれることになるし、もらふ方ではそれだけ力を増すことになる。だから一家としても、一村としても辛抱の出來るだけは、村から外へ出さぬことにした。村の青年團に渡りをつけ、又は酒を買ひ馬手馬錢などを出したり、或は後には形式的にはなつたが種々の妨害を與へようとした慣習は、矢張りその動機の底に、此勞働力をそがれることをいみきらふ感情がひそんで居たことは爭へない事實である。

　

　　　　　　　　　　四　年季奉公と名子制度

　

　養子の外に勞力を増加する方法として、年季の下男下女があつた。年季奉公は�ｺ川の初期の頃から起つた慣習である。其思想は多分土地賣買から學んだのであらうが、恰も當時の農業の實?が、一般に之を歡迎した爲である。年季(349)奉公といへば、現在では僅かに古風な商店などに殘つてゐるので、農家にあつては却つて既に絶えて居るが、かつては之が唯一の小農養成機關であつたことは事實である。

　奉公人の地位は前にも述べた通り、決して外國の奴隷賣買の話などから想像する樣な悲觀的なものではなかつた。只勞力の指揮權を其内の主人がもつてゐるといふだけであつて、自分の生れた家で家長たる父や兄の命令に服して働かねばならぬ事と大した差違はなかつた。だから何かの事情で家計が困難におち入つた者は、いとも無造作に子女を賣つたものである。或は、少ない實例ではあるが、借財のために自ら他人の下男に身賣りをした者などもあつた。つまり身賣りといふことは、我が國に於ては久しい間、勞力融通の平穩なる一組織になつて居たのである。江戸時代の初期に永代身賣禁止の令が出て、次第に新しい年季奉公の制度が出來たことは、前にも述べた通りである。多くの場合、奉公人の名を呼びすてにすることが普通であり、奉公人が主人の家族に敬稱の如きものを使うた土地があつたにしても、それを以て奉公人の地位が甚だしく卑下なものであつたといふことは出來ない。關東の田舍などでは、つい近頃まで、下男が主人の子を呼び棄てにして居ることもあつた。

　年季のあけた作男には、通例同一境遇の女を配偶者にしてやり、小規模の家屋敷を給與して、一家として獨立を許してやつた。それをナゴ（名子）と言つた。大分縣の海部郡では今以て下女下男を總括してナゴと謂ふさうだが、物類稱呼には越後でも下僕のことをナゴといふとある。會津ではナゴとは譜代の男女が家を別けてもらつて世渡りする者をいふと新編會津風土記に見え、莊内では人の地に家作して住み、又は人の見世に棚を借りて住む者がナゴだと、莊内方言考には説いてある。九州南部の山村に行くと、小作人のことを普通に名子というて居る。舊南部領（即ち岩手縣の北部八郡と青森縣の東部三郡と秋田縣の一郡）には、本名子、新名子、山名子等の制が殘つて居る。つまりナゴとは、或時代に於ては下人の名であつたのが、だん／＼變化して、主人の家をはなれて別に一戸をかまへた者にまで、其稱呼をもつてよんだのである。言ひ換へると、ナゴといふ言葉は農法が時代と共に變化して來たあとを記念(350)する言葉である。木村修三氏の舊南部領に於ける莊園類似の制度の研究に依れば、名子の由來には色々あつて、（イ）奉公人が三十七八、四十迄も勤めた時には、家屋敷と若干の田畑、山、馬一頭、若干の食糧等をわけでやつて分家させた者、（ロ）血族の分家したもの、（ハ）借金で土地をとられて名子になつたもの、（ニ）田畑を質入したものはその質入期間だけ名子になり、（ホ）或は他から移住して來て名子になる者、（ヘ）舊來からの圭從關係で名子になつて居るもの等があつて、一般に名子の特徴とするところは、主人筋の家のために一定の日數だけ勞力の賦役をつとめる事である。

　近來は名子でも金納の制度も出來てゐるが、最初は賦役をとるために名子を獨立の一家にしたてたのであつた。つまり下人や二三男が何時迄も長く一家のうちに住んで居ると、平常は勞力があまる事になる。田植とか刈入れなどの最も多忙な時期には、いくら人手があつても足りない位だが、ふだんはそんなに人手が入るものではない。從つて最大を標準にした勞力をふだんに常備しておくことは、輕濟的にやりきれない。そこで年季のあけた奉公人や、成長した次三男に配偶者を與へてやつて、獨立して一家をもたせ、忙しい時だけ其勞力を召集するといふ新しい方法が産れて來たのであつた。從つて一家を建てさせてやる時に、不足不自由のない樣に、充分に田畑をあてがつてやると都合が惡いので、名子には最初から或程度の不足を感ずる樣にしてあつた。だから名子は獨立しても、何時迄も本家又は名親との縁を切る事の出來ない樣になつて居たのである。

　嫡子は家のあとゝりであつて、一般に父としての力ではなく、兄としての力で一家の勞働指揮權をもつて居た。親方の名は此勞働指揮者の意味であつて、又總領とも言つた。總領とは軍の指揮者の意味であつて、ふだんは勞働の指揮者であつた。昔は農民と武士との區別はなかつた。農民自身が武器をたづさへて自家の防衛をするばかりでなく、若い元氣なものが集つて、他の地方に財物をかすめ取りに押し廻つたりした。其際、攻める時にも守るときにも、指揮をするものが即ち總領であつて、平和な時にはおだやかな勞働の指揮者であつた。所謂兵農不可分の時代とは此事(351)で、サムラヒといふのは本來斯の如き境遇にある大地主のことであつた。日向の山村、椎葉村などでは、今でも長百姓の家々をサムラヒと稱へ、其以外の小百姓をカマサシと呼んで居た。カマサシは鎌指しで、刀を指す資格の無い農民を意味したものである。百姓といふ語は永い年代の間に著しい意味の變遷があつた。最初は百姓は良民又は公民の總稱で、武士も亦悉く其中から出たものであるが、兵と農とを相兼ぬることが出來なくなつた結果、百姓は武士よりも低い身分のものとなつたのである。かの戰國時代は兵農の分離が大規模に、全國的に行はれた時代であつた。只の小農民の子弟でも才智があつたり、糞力があつたりしたものは、自ら進んでサムラヒの仲間入りする好機會を捕らへたものも少なくはなかつた。斯くして同じ百姓の中から分離派生したものであるからこそ、明治維新の際に士族の歸農といふ言葉が出來たのである。刀槍を鋤鍬に持ちかへて昔にかへる意味であつた。

　庶子といふ言葉は、今日では妾腹の子と云ふ意味に用ゐられてゐるが、元來は單に總領に對する言葉であつて、分家した次三男の事を言つたのである。次三男は分家はしても總領にひきゐられた。手子といふ言葉は其意味を持つて居る。

　本家はオホヤ（大家）とも言ひ、名子や手子の面倒を見てやるのは、其義務であつた。だからふだん割のいゝ代りに、困難な時にもそれを逃がれる事は出來なかつた。親方の内には必ず手をつけない倉庫があつて、饑饉とか不作とかの場合に、名子や手子を餓死させないだけの準備は、絶えずしてあつた。そればかりではなく、親方の家にはまた餘分の着物、膳、椀、カンザシの類に至る迄も、特に用意してあつて、名子の家の冠婚葬祭といふ樣な必要な場合には、何時でも貸してやる事になつて居た。つまり今日の地主小作の關係や、工場主勞働者の關係とは、頗る趣を異にしたものであつた。

　取り上げる權利ばかり考へて居て、困る時にその面倒を見てやる義務を負はうとしない今の地主や資本家が、冷たい目でにらまれる樣になるのは、あながち無理なことゝは言へない。要するに名親と名子との間は、切つても切れぬ(352)助け合ひの精神が、強い絆となつて兩方をしつかりと結びつけて居たのである。だから、名子は、先づ何をおいても本家大家の仕事を先にして、其後で自分の仕事をやるのであつた。岩手縣九戸郡大野村の晴山氏は明治末年頃まで田畑約十五町を自作して居た。平素の農作奉公人は十人乃至十二人に過ぎなかつたが、其地方として最も忙しい豆蒔きの時には約百五十人も働きに來た。宮城縣本吉郡の大島などで見る十五町二十町の大自作農も、此等と同樣な古い慣習の目を以て見なければ、單に現代の現金取引の日雇ひ制度では解釋のつかないものである。

　それでは名子は名親に對して幾干の賦役を納めたかと言ふに、之は土地の一般的事情と、名子に給與又は貸與してある家、屋敷、田畑、山林、放牧地の廣狹によつて賦役負擔に輕重があつた。（イ）家、屋敷、畑一町二反乃至一町五反、之に相當する秣場、薪山、放牧地の使用を許してもらふ代りに、舊四月から舊十月までの七ヶ月間に、百二十人乃至百三十人の賦役を納めたところもあり、（ロ）宅地約百五十坪、畑約五反、山約三町位に對して、五六十人位の賦役を取つたところもあり、種々の差異があつたことは當然である。

　地頭が名子から賦役をとつて何に用ゐたかも、土地の事情、地頭の家の個々の事情によつて、種々の相違があつた。田植ゑ、草取り、刈入れ等は勿論、家事用にも使へば、薪取り乾草刈り等にも使つた。所によつては女は主に農事に男は主に漁業に使つた。名子の本家に對する賦役は必ず男が行かなければならぬといふことはなく、女も一人前として働きに行つた。そして男と女の働きに行く日數も略々半々位の所があつた。多くの名子の中には、大工、鍛冶、屋根葺、木挽等の職人も居て平常は世間相手の仕事をして居て、本家の必要な場合には必ず行つて働くといふ、特殊なものもあつた。

　名子が働きに來たときには、その時々の仕事の難易に依つて、或は晝だけ、或は晝と夜、或は朝晝夜といふやうにそれ／”＼賄を出した。その食べ物の種類も、場合々々によつて異つて居た。

　名子の家で聟取り嫁入り等がある場合には、豫め本家に話しておくことが一般の慣習であつた。これは前に述べた(353)通り、そんな際に必要な器具類を貸してもらふためばかりでなく、金錢の融通もしてもらうたことは無論であつて、本家からも金錢物品で適當な援助を與へるのであつた。

　名子の制度は地頭即ち大家の家の勞力蒐集法であるが、名子自身の勞力融通法としては、結《ゆひ》と言ふ手間替の組織があつた。ユヒはつまり組合勞作であつて、小前のものにとつては甚だ重寶な勞力組織であつた。此組織は、單に田植ゑとか刈入れとかの場合だけに限らず、家普請の時にも此方法によつたものであつて、越後あたりでは此事をゴチャウ（牛腸）と言つて居る。

　此樣に農村には、古來慣習的に巧妙な便利な勞力組織が出來て居て、共同して生活を營んで來たものであるが、近世になつて色々の原因から、此共同が破れることになつて來た。その最も大きな原因の一は、親方だけが先に進んで、他のものを後に取り殘したことである。

　元來大家族時代は申すまでもなく、名子制度が發達してまでも、名親即ち本家の主人も直接鋤鍬を手に取り、若しくは勞働指揮者として自ら田畑の間に奔走したものであつて、地主の手が白くなつて働かなくなつたのは、極めて近世のことである。從つて地主だからとて、贅澤な生活をして居るものでは、決して無かつた。食ふものも、着る物も部下の小農と大した差異のない、極めて質素なものであつた。つまり地主がそのやうな質素な生活に堪へて居たのは、彼等自身農業者だと云ふ考へが根底をなして、日常生活の一切が動いて居たから出來たのである。名子も名親も生活の難易の差異はあるが、もと／＼同じ百姓だと考へて居るものにとつては、同じ樣な生活をして居ても決して苦痛ではなかつた。

　農民の着る物は主に麻で作られて居た。木綿が日本にはいつて來たのは、近世のことである。ヤワラカモノと言へば、今では一般に絹物をさして言ふが、東北の一地方では木綿物のことを、かなり近頃までヤワラカモノとして居た。自作のを絲にして、自家で織つた布を染めて、それを着物にこしらへて着た。木綿がはいつて來てからも、手作手製(354)の事情は同樣であつた。すべて着物は、質素と丈夫とが標準になつて居た。名親はいくらか新しい物を着ては居たらう。着更も幾枚か多く持つては居たらう。然しその地質においては、名子や下人の着物と全く同一であつたのである。ぞろりとしたオカイコぐるみの地主と堅い木綿の仕事衣の小作とが相對して居る圖は、さういふ時代の質素と共同との名親名子達には、夢にも見ることの出來ない圖である。

　農家では大きな鍋に物を煮て、それを皆で分けて食べた。數十人の家族を指揮する家の主人も、その家に使はれてゐる下人も、一つ鍋のものを喰べて平氣で居た。それが當然のことになつて居て、誰一人あやしまうともしなかつた。此風習が、主人と使用人との間に、共同觀念を植ゑ付けることは當然である。それ故、農家ではコナベダテ（小鍋立）といふことを甚だしくいましめたものである。小鍋立とは、小さい鍋でこつそりうまい物をこしらへて食ふ、つまり共同食以外に特別に料理して食ふことである。從つて小鍋立は多數の共同觀念を破るものであるから、あの女主人は小鍋立てするさうだと云ふことは、輕蔑に値した不�ｺを意味するのであつた。小鍋立てする樣では、一家のをさまりがうまくつかぬ筈である。娘を嫁入らせる時などにも、母親は身だしなみの一つとして、娘に小鍋立を堅くいましめてやることを忘れなかつた位である。

　ところが近世になつて、地主が都會に往き來したりする事が多くなつて、だん／＼その贅澤な便利な生活を眞似る樣になつてくると、どうしても大鍋の共同食では滿足しなくなつて、自然小鍋立の風が起つて來た。小前の者よりも生活に餘裕があるだけに、さういふ生活をはじめると、次第にまづい物は食べたくない、惡いものは着たく無くなるのが人情である。從つて小前の者から取り立てるものもきびしくなつて行く。餘裕のある範圍ですまして居ればまだよいが、段々と無理をして行く。さうなると下の者がやり切れなくなつて行くのは當然である。其間には古い共同の美しい慣習が、自然に破れて來る。なるたけ餘計に取り上げようとする、なるたけ少く出さうとする。その間に爭が起らずにはすまない。

(355)　つまり親方衆が先に文明の風に吹かれて、前へ前へと進んだ爲に、一緒に歩調をそろへて進むことの出來なかつた者が後に取り殘されて、其間に大きな溝が出來てしまつたのである。農村に於ける政治的な活動は、此親方衆が多くたづさはつたのは止むを得なかつた事であるとしても、地方政治を以て自分達のふところを肥やす方法にしてしまつてゐるのは、大鍋の共同食を食べずに小鍋立のものを好むに至つた當然の結果であらう。

　古い共同の慣習が破れ、地主と小作の對立が著しくなつて來た。一家の人口は極度に小さくなつて、孤立農業を營むには勞力が足りない。都市の工場に於ける樣に勞働賃銀を拂つて營むには、農業の利益はあまりに少ない。然し何といつても此まゝではすまぬ。何とか變化しなければならぬが、さてどう變化して行くべきか。それに就いて思ふことを申し述べる前に、私はもつと過去の時代を語つて見たいと思ふ。

　

　　　　　第二節　家族制度と信仰

　

　　　　　　　　　　一　祖先崇拜

　

　我國民の生業は古くから農業を以て主として居た。そして春種子を蒔いて秋收穫を待つ農業は、其自身定住したものであり靜止したものである。農業は一面また勞働力の結束を必要とする生業である。つまり我國民は古くから、一定の結束した人數が各々共同して、即ち一家族をなして定住して居たのである。從つて一家が相親しむ樣にもなれば、又祖先が艱難辛苦して開いた美田良圃はそのまゝ子孫に相傳へで、天地の惠に浴せしめることにもなつて居たのである。

　此關係は子孫をして祖先の恩澤に感謝の念を生ぜしめ、人間自然の「本」をたづぬる情と相結んで、古くから祖先崇(356)拜の風を生じて來たのであつた。古代日本人の持つて居た祖先崇拜の風は、外來の種々の宗教の影響を受けながらも、なほ根本的にくつがへされることのなかつたのは、我國民の生活が農を主生業とした靜止定住の生活であつたためである。

　祖先に對して崇敬の念を有する者は、祖先と子孫との結び目にあたる一家の主人に對しても、尊敬の念を有するが當然である。一家の主人は家族全體を統率して、よく一家を治めて祖先の遺風をつぎ子孫のために美田を買ふの努力を怠らなかつた。政治（マツリゴト）が即ち祭事（マツリゴト）であつたこと、古代の日本に於ては「祭政一致」であつたことは、言ひ古された國史の常識に過ぎないが、此關係は小さく一家の上にもあてはまるものであつた。一家の主人は祖先の祭を絶さぬために、一家族をよく統率して子孫の繁昌をはからなければならぬと堅く信じて居た。だから家運を傾けるといふことは、「御先祖に對して申譯ない」ことゝして、身命を賭するほどの重い責任を感じて居たのである。佛教も儒教も此感情と結び付かなければ、あれだけの力にはなり得なかつた。

　

　　　　　　　　　　二　氏神、産土神

　

　我國の神社の數は村毎に一つ以上あつて、村の數よりも多いが、然し祭つてある神は彼是同じ神が多くて、大方は春日や八幡などを勸請したものであつた。後々には筋のない勸請もあつたが、古くは氏には祭るべき神が定まつて居て、其氏の者が別の地方に移住土着すれば必ず、其神を迎へて祀つたもので、氏神といふ語は此方面から起つたものと思はれる。從つて氏神は地主の神であると同時に、其村の草分の家の眞の氏神であつたのである。武士豪族などの落人が一族郎黨を率ゐて、何處かに落着き場所を定めて隱田を墾いて出來たやうな村の氏神は、言ふまでもなくその一族の眞の氏神であり、後に外部から何かの事情で入つて其村に永住するものゝ子孫も、またその村の氏神を産土神とするのは自然のことである。斯かる村では、殊に氏神と墓地とは村の精神的生活の中心として（多くは山中の村で(357)あるにも似合ず）、念入りに設計せられて居るから、氏神と墓地とを見れば村の成立ちまでが知れるほどである。

　然し我國の村の成立の歴史には種々あつて僅か二十戸三十戸の小村でも同じ一族ばかりで獨占して居るものは甚だ少い。苗字の分布に由つて判斷して見ても、各村々の住民は最初から單一の祖先を持たぬ、方々で成長した家々の合同であつたものが多い。然も此?態は中世以後に始まつたのではない。例へば正倉院文書にある奈良朝以前の戸籍の紙片などを見ても、一つの里に異なる姓の家が共棲して居る例が少からず、村落團は決して一族團ではなかつたことを示して居る。然しそれにも拘はらず昔から村には經濟の統一があつた。村が一體となつて働くべき場合が多かつた。殊に村開發の初期に於いてはさうであつた。此共同利害と協力の必要とが、共同の祭神を勸請する心理を村人の心に生ぜしめるので、氏姓の違つた寄合が、一の産土神を祭ることになり得るのであつた。かゝる際には、その共同者の中で最も有力なものゝ氏神を勸請することに、他の者が讓歩したこともあつたであらうし、或は春日とか八幡とか最も一般的な第三者の氏神を共同の氏神に勸請したこともあつたであらう。

　出作百姓又は田屋百姓などによつて開發された村は、世間との交通はすべて親村を經由し習慣も利害も親村に遵據し、屬國のやうな姿をして居るから、新たに氏神を勸請する場合には、無論親村と同一の神を祭ることになるのが普通であつた。

　昔は其地方に太古居住した人を「國神」として祭り、特に其地方の開發に功あつた人を國玉の社に祭つたのであるが、國神ならぬ社は凡て之を天神と稱したらしく、今日「天神樣」として祭られて居る中には、菅神（即ち菅原道眞公）でない古くからの天神が、後に起つた菅神の方の天神と混同してしまつたのも數あつた樣に思はれる。

　

　　　　　　　　　　三　祭の慣例と家の格式

　

　村に於ける氏神の祭には、長百姓又は本百姓の家の格式が明らかに形に現はれた。七軒衆とか十二軒百姓などと稱(358)して、祭の日に拜殿に上つて座し、其間にも互の席順がやかましかつた。之を羨んで後々新たに加はることを欲し、又は強ひて上席に進まうとする者を防ぐために、頭名《とうな》、頭文などといふ文書が神聖視せられ、宮座に名を録するほどの家は舊家として、假令今は貧乏であつても村内から敬せられ、其意見も尊重せられた。

　祭の慣例にも、古來幾度かの改訂が有つたやうである。大體から謂つて、祭祀に參加し得る格式の家が増加して行く傾であつた。そして一年一度の大祭の爲に、順番又は抽籤で頭屋に指定される家は、必ず本百姓の家であつて、小前の者にはその資格は無かつた。本百姓は村公共團體の中堅を爲す分子であるが、その意味は今謂ふ自作農とは全く同じで無い。直接公費負擔者とでも謂つたらよからうか、地租の外に家の課役即ち軒役を負擔する公民の全部がそれであつた。一軒役の本百姓の格式が最も明らかに形に現はれるのは、祭禮などの改まつた古風の儀式の際であつたことは前に述べた通りであつたが、それが負擔の關係から次第に權利を分割することになつた。香川縣の直島などの例では、半頭屋といふものがあつた。即ち普通ならば三十年目に一度、頭屋の役が當つて來る處を其二倍の六十年目で無いと、番が廻つて來ないのであつて、本來一戸の家の權利を半分づゝに分けた結果である。それでは幅が利かぬから、貧乏な家から他の半分を買取つて完全な一人前になることもあり、又は新たに一戸分の頭屋株を買ふ者もあつた。即ち前には小前で祭仲間の外に在つた者でも富を積んで次第に本百姓の地位を獲て、祭仲間に加はることが出來たのである。但し其中にも宮座上席などと謂ふ家があつた。今の語で言へは氏子總代であるが、選擧入札などを以て自由に交代せしむべく、あまりに重大なる格式であつた。村で草分けと稱し、若しくは切明け百姓などと名づけて貧乏をすればする程、此格式を大切にして容易に手離すことがなかつた。しかも元來門地などと云ふものは、家の至つて古いことを立證するより外に、多くの意味を持たぬものであるが、我國民の祀先崇拜の感情は、「何處の馬の骨か分らぬ」物持よりは、氏素性の歴とした貧乏人の方を重んずるのであつた。

　佛教が最初朝廷に仕ふる權臣達によつて信仰せられ、時代のうつると共に、或は中央權力により或は特志の行脚僧(359)によつて全國に傳通したことは、事あたらしく申すまでもない事であるが、諸宗諸派が起つて村内の誰彼が各々寺を異にしながらも、鎭守の祭だけは共にする事實は注意すべきことである。寺門の信仰は一人一家の私的なことゝして各自の心にまかせても、氏神の祭、鎭守樣のことゝなると公共の義務と感じて居たのである。然もそれは寧ろ義務などと云ふ冷たい理智的な言葉では現はすべくもない、ほんとの心からの喜びを以て、昔ながらのなつかしい感情を以て祭つたのである。子供が生れたら神樣には詣るがお寺には詣らぬ。共通の産土神を持つて生れ、別々の佛寺に依つて葬られて行く。寺門の信仰には暗い地獄の威嚇と恐怖があるが、神社の信仰には恐怖も威嚇もない。鎭守の祭にはたゞ明るい生成の歡喜と感謝とがある。遠く郷關を離れたものが、夢に鎭守の杜をさまよふのは、あながち幼時その拜殿に嬉戯した思ひ出をなつかしむからのみではなかつた。

　

　　　　　　　　　　四　宗門改、寺請

　

　中世に於て切支丹宗が傳へられ、其信仰も廣く傳播の勢を示したが、�ｺ川の邪宗門禁制によつて、信者の或者は轉び（佛教へ改宗）或者は信仰に殉ずることになつて、佛教の樣にひろく行はれるに至らなかつた。然しそれでも一旦燃え付いた信仰の火は、一時的の酷刑や禁制では止むべくもなく、幕府はその後ながく、毎年戸口を調査し宗門を改め、嫁入聟取りから下男下女の奉公人等を出す場合にも、寺請の制を設けなければならなかつた。全國農村は何の家でも必ずその檀那寺を持ち、必要な場合には何時にても信徒である證明をしてもらはなければならなかつたのである。

　斯うして村の住民はすべて各々何宗何派の檀那ではあつたが、然しその何宗何派の信仰以外には何も無かつたかと言へば、實は堂々たるそれらの宗派的信仰もなほ如何ともなし得ない所謂「民間信仰」が共通の心の生活を彩どつて居たのである。そして此民間信仰は現實の生活の上にも種々の姿に現はれて、人々を幸福にもすれば不幸にもした。

　

(360)　　　　　　　　　　五　民間信仰

　

　一口に民間信仰と云つても、その種類は色々あつて、此方面の學問は近時やうやく盛になつて來たもので、我等祖先の眞の心の歴史を知るには、今後も幾多の學者特志家の熱心な研究に待たなければならぬ。何故に今日まで此事が爲されなかつたか、宗教家が無智の俗信としてしりぞけたことも一原因であらうし、交通の不便な結果他地方に行はれる事を知らぬため、一小地方の特殊な迷信として學者の注意を惹くことが少なかつたことも其有力な一因であつたであらう。實に何でもない事柄だと見逃がされる樣なものでも、今日我々が骨折つて集めて見れば、廣く材料をならべて研究して行くうちに、その變化、類似、發生及衰微の原因等を知ることを得て、祖先の心の生活の一隅に觸れることの出來る場合が多々あるものである。

　宗教家は、殊に佛僧等は可なりに多くその地方々々に傳はつて居た話を、うまく自家の教義と結び付けたり、或は漠然たる話に或形をあたへたりしたことがあつた。諸種の縁起や昔物語の中には此等の假作又は改作が可なりにあるやうである。これは彼等とても一概に「俗信」を排斥し去ることが出來なかつたためであつて、最近まで遺されて來た民間信仰の中にも、その發生は意外に古い時代に遡るらしいものゝあるのを見ても、俗信の特殊の力を假初に見逃がすことの不可をさとらなければならぬと思ふ。

　自分の見る所を以てすれば、日本現在の村々の信仰には根源に新舊の二系統があつた。朝家の法制にも曾て天神地祇を分たれたが、後の宗像、加茂、八幡、熊野、春日、住吉、諏訪、白山、鹿島、香取の如く、有效なる組織を以て神人を諸國に派し、次々に新なる若宮、今宮を増設して行つたものゝ他に、別に土着年久しく住民心を共にして、固く將來の信仰を保持して居るものがあつた。莊園の創立は以前の郷里生活を一變し、領主は概ね都人士の血と趣味とを嗣いで居た爲に、佛教の側援ある中央の大社を勸請する方に傾いて居たらしく、次第に今まであるものを改造して、(361)例へは式内の古社が殆と其名を喪失したやうに、力めてこの統一の勢力に迎合したらしいが、之と同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも、自分の豫て持つものに引付けた場合が少なくは無かつたらしい。又右の二つの系統が時としては二つの層を爲し、必ずしも一郷の八幡宮、一村全體の熊野社の威望を傷つけることなくして、屋敷や一つの垣内だけで、尚古くからの土地の神に、精誠を致して居た場合も多かつた。頭屋の慣習と鍵取の制度、社家相續の方法等の中を尋ねると、今とても此差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、殊に永年に亙つて必ずしも官府の公認する所とならずとも家から家へ又は母から娘へ、靜かに流れて居た信仰には、別に中斷せられた證跡も無い以上は、古いものが多くは傳はると見てよろしい。それといふのが信仰の基礎は生活の自然の要求に在つて、強ひて日月星辰といふが如き壯麗にして物遠い所には心を寄せず、四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとして居た結果、夙に祭を申し謹み仕へたのは、主として山の神、荒野の神、又は海川の神を出でなかつたのである。導く人のやはり我仲間であつたことは、或は時代に相應せぬ鄙ぶりを匡し得ない結果になつたか知らぬが、其代りにはなつかしい我々の大昔が、大して小賢しい者の干渉を受けずに、略々「うぶな形」を以て今日までも續いて來た。だから所謂「俗信」として生物識のけなし捨てるものゝ中から、我々は祖先の實生活の面影を偲び得る場合が尠くないのである。

　

　　　　　　　　　　六　田植と信仰

　

　我が農業の最も主要なるものは言ふまでもなく米作であつた。それ故米作に關する慣習や信仰のことについて少し述べておきたい。然し秋の豐年祭は今もなほ盛に行はれて居て、敢て述ぶる必要もないから、今日では既に消えかけて居る田植に關する舊い信仰をたづねて見たい。

　日本の國情が他國と異つて居た一例として、我々が最も注意すべきは、一番大切で且つ苦しかつた田植の勞働が、(362)つい近い頃まで勞働だか祭だか、はつきり見極めのつかなかつたといふことである。村の少女は悉く新しい笠と襷とを用意して、さゞめいて田植の日の來るのを待兼ねた。其理由は一つしかない。それは聲はりあげて唄ふ田唄の魅力に外ならなかつた。

　田植唄の最も完全に今も殘つて居るのは、中國西部の三つの縣と、愛媛縣の或郡である。普通の田には既に普通の農法を行ひ、所謂正條植の麻繩を引張つて、齷齪として仕事を片付ける場合にも、神の田其他の由緒ある一區を選定して、必ず本式の田植をせぬと、氣の濟まぬといふ村は多かつた。即ち田植は其村人の爲に經濟行爲にして兼て儀式であつたのだ。斯くの如くして栽ゑぬと神の庇護を受くるに足らぬやうに信じて居た結果である。そして此本式の田植にうたつた唄は古くは全國の隅から隅まで行渡り、一度は非常に豐富であつた證據があるが、今尚切れ／”＼に殘つて居る歌の比較を以てしても、さまで遠からぬ近昔まで九州や東北などの田舍にも、備後出雲の山の中の村と、同じ順序の田植の式が行はれたことだけはわかる。全國の田植唄を研究して見ると、今は殆と影を隱さうとして居るが、日本農民の最も強烈なる一つの信仰、即ち歳の神又は田の神の崇敬が、つい近頃まで田唄の有力なる背景であつたことが明瞭に窺ひ知られるのである。

　東石見地方では田唄の音頭を取る者をサゲと呼んで居る。村によつてはダシと謂ふ處もあるらしい。ダシが一章の唄の上半分を歌ふと、下の句は早乙女が附けるので、それ故に之をツケと名づけて居る。唄の記憶の任務は全くこのサゲに當る者に在つた。歌がるたも同じことで下の句の方は口拍子ででも出て來る。斯うして唄はれる田唄は一日二日の田植では到底歌ひ盡せないほど豐富なものであるが、田の神に關する問答歌は、各地何れも十敷篇あつて、それを聽くと此地方の田の神の信仰は大體わかる。即ち此神は日天を父とし、大河の水の神を母とし、神々の遊び月に娠まれて、十月を經て生れたまふ神であつたとして、あらゆる莊嚴を以て神誕生の光景を語り傳へて居る。田植の日に此神を降すには、或は白菅笠を手に持つてと謂ひ、又は紅の扇子と三把の苗を手に持つてとも謂つて、詳しく其儀式(363)が述べてある。富士の山を中宿にして降りたまふともあれば、春の三月は歳�ｺ神として拜まれたまふとも歌つて居るが、皐月の神を山より降りたまふと信じ、しかも正月望の日の前夜にも色々の作法を以てこの農作の神に?ることは、今日まだ少しでも從來の信仰が遣つて居る田舍では、皆一樣に其通りである。

　島根廣島等の田植唄は、現代の語で言へは田の神禮讃を以て其主要部として居た。それは未信の人に神�ｺを示すのではなくて、多くの古來の經典と同じく、其たゝへ言に由つて神意を迎へ得べしとして居た爲である。是から推して考へて行くと、田植唄の根本の目的には單なる勞働の統一以上、更に大切なる祈願があつたらしく、他の府縣に現存する田唄は、數も少なく其趣旨も散漫ではあるが、それでも尚幾つかの共通點の注意すべきものがあるのである。例へば早朝の歌には山を望む文句が多い（イ）。朝の始と日の暮とには、共に空を飛ぶ鳥の聲と姿とに注意を拂つて居る（ロ）。午前の歌には嬰兒の事、又は姙娠の事を述べたものが多い（ハ）。それから又成るべく姙み女や乳呑兒を田植の場につれ出して、豐産のまじなひとしたらしい痕跡がある。次には御田の神を詠じた歌が多く、村によつては誤まつて之を歌の神と呼んで居るが、何れも日の終りに「來年もござれ」と謂つて、別を惜むの情を述べてゐるのは、即ち迎へて祭つた名殘である（ニ）。最後に今一つ最も重要なことは、晝飯を運ぶ一人の女性を、早乙女以上に重要視したことである（ホ）。中國の方では其女をオナリド、又はオナリ樣とも呼んで、之に關する無數の歌があるが、何れも遠くから雇うて來た美しき女に盛粧をさせて晝の食事を運ばせるので、それが同時に田の神の奉仕者であつたことが、歌の言葉から察せられる。東部日本の方でも、ヒルマモチを待つといふ歌は方々に殘つて居る。食事が朝夕の二度だけであつた時代にも、田植の時だけは晝飯があり、之を掌どる婦人には、特別な地位が與へてあつたのである。

　田植に田の神の祭をせぬ村は、今でもまだ一つも無いと謂つてよいが、其方式は極端に簡略なのが普通である。しかも一方にはまだ完全に近い例が存するために、僅かな歌の破片からでも、曾ては是より、遙かに重々しい式典が爰に行はれ、且つ之を説明した神話が歌として歌はれて居たことが推測し得られる。族長中心の大農組織が崩れると共(364)に、家々の田の神は村共同の鎭守樣と代らざるを得なくなつた。鎭守には法師が干與し、或は特別の教育を受けた神官が出來た爲に、春秋の祭の日と式とが別に定まつて、五月水田の畔での祭は往々にして不必要になつた。信仰が緩めば覺えて居らずともよい歌が多くなる。しかも歌うたひの面白かつた記憶だけは傳はる故に、色々と工夫をして又新たなる種々の歌を補充したのだが、本來の作業の性質と永く行はれて居た歌ひ方の特徴とが、町や港に幾らもあつた流行歌を其儘採用することを許さなかつた。そこで以前からも有つたであらうが、腹がへつたの腰が痛いのといふ歌が多くなつた。ツボに落ちたる若嫁を笑ふもの、苗持ち小野郎を嘲弄したもの、さては田主の老翁にまでからかつて、日暮に近くなると夜は誰と寢ようとか、又は人使ひがあらいとか言つて（上がれとおしやれ田ぬしどの一度に人は懲らさぬものよ）などと歌つた。田主は又タアルジと呼ぶ地方があつて、それを誤つては太郎次とも謂つて居た。其太郎次のむす子娘達の美しくやさしいことを、誇張して賞美した歌も若干は殘つて居るが、それは田主の富を詠じた歌と共に、恐らくは本來は皆田祭隆盛期の祝詞の名殘りであらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　七　特殊の家筋

　

　農村に殘る舊い民間信仰の中で注目すべきものは特殊の家筋に關する信仰であらう。宮城岩手青森秋田等に今日まで遺つて居るザシキワラシの話は、他の亞細亞民族の中にぽつ／＼殘つて居る子供を家屋等の守護者とする手段の、話をするさへ恐ろしい儀式などと、遠い昔に於て縁を繋いで居るのかも知れぬが、ザシキワラシは然し他の特殊信仰と違つて連綿として家筋をなすものではない。ザシキワラシは多く舊家などに永く住んで居るもので、それが居る間は家運が隆盛をつゞける縁起のよいものと信じられて居る。それ故ザシキワラシの住んで居るといはれる家に對する一般の態度も、關東から中國四國其他の地方にある特殊の家筋の他人から忌み嫌はれるのとは全然趣を異にして居る。ザシキワラシが住んで居るといふ信仰が家を明るくして、自然にはげみが出て家運(365)が興隆する程働くものがあれば、憑物筋《つきものすぢ》だと謂はれて世を狹ばめ暗い生涯を送る者との幸不幸の懸隔はどれほどであらう。その忌み嫌はれる憑物筋の家の中にさへも、時にはその祖先の誰かゞ、自ら爲にするところあつてわざと他人にさう見せかけたり、ほのめかしたりして、他人から敬遠されるのを黙認した結果後になつて子孫に暗い思ひをさせるものもあつたらしいことを考へて見れば、我々は如何にして斯種の信仰が起り、如何に變化して今日の形になつて來たかを研究する學問の愈々重要なるを感ぜざるを得ない。此事なくしてたゞ單に「俗信」「迷信」としてしりぞけようとしても、その效は少ない。然し今は紙面と時間の餘裕が無い。それ故憑物に關する信仰に就いて、ほんの一端を次に述べるだけに止めなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　八　クダ、オサキ

　

　信州伊那でタダ附と稱して、人の縁組を好まぬ家筋があると言ふのは、疑ひも無く遠江や駿河で、クダ屋と呼ぶものと同じである。クダ屋は相當の資産があつても、忌嫌つて此と嫁聟を遣取する者が無い。甚だしきは絶交を宣せられることがある。主人必ずしも慾の深い者で無くとも、其家に屬するクダは主家を思ふ餘りに、内の物を持つて還る人を追掛けて、大抵其家族の者に憑いてしまふ。憑かれた者はクダ狐其物の眞似を爲し、取止もない事を口走つて、狂態を演ずるので、多くは恥ぢて醫者の診察を受けず、或は刃物を以て嚇して見たり、或はおとら狐に憑かれた場合と同じく、靈山の御犬を拜借して來て之を逐退けるを例として居る。去るに臨んで必ず何處から來たかを言ふものださうである。木曾から松本平の片端へ掛けて、クダを飼つて居ると言はれる家はやはり多い。是も亦憑かれた人の口から、始めて世間には知れて來るのである。管狐の世襲のある縣では、之を飼ふ家は金持になると言つて居る。目に見えぬ小獣が、物を買へば秤の分銅にぶら下り、物を實る時は品物の上に乘つて、量目を重くするなどと言ふ。隨つて行者で無い只の農家でも之を養ふ氣になり得るのである。

(366)　同じ信州でも、東に寄つて千曲川の右岸になると、早やクダは居ないで其代りにオサキが居る。オサキも亦狐の一種である。その形?大小も所によつて話が違つて居る。決して一定して居ない。オサキは先づ上州の名物と謂つてよい。諺にも伊那のクダに對して南牧のオサキ持ちと謂ふ。南牧は妙義の西南に當る甘樂郡の山村で、信州にも甲州にも近い、此邊が中心地のやうに考へられて居たのである。處が上州の人の言ふのには元はオサキは武州の秩父一郡に、限られて居たものである。其が嫁聟に附いて他郡にも出て行つた。早く離別してしまへば難はないが、永くなつて子供が出來るともう還らぬ。狐の方でも盛に子を産む。四季の土用に子を産むとも謂ふ。オサキが來て子を持つた以上は、主人の方の縁組は解けても、狐だけは離れない。そこで最初から警戒して問合せを嚴にするので、オサキ持同士結婚をするの他は無いと謂ふ。少なくともオサキの弊を知つた頃には、既に秩父郡外にも擴つて居たのである。木曾で御嶽講がクダを征伐しつゝ、同時にクダの俗信を流布せしめた如く、秩父でも三峯山の御犬が却つて村々へオサキを驅入れたのでは無いかとも思ふが、其事は甚だ明瞭で無い。兎に角此郡には、人に嫌はれた三種の家筋が有つた。其一はネブチャウと謂つて、何か小さな蛇などのやうに噂されて居る。若しさうだとすれば之を飼ふ家である。此家筋の者の住んだ屋敷は、死絶えた後までも代つて入る者無く荒次第に荒らしてある。第二にはナマダゴ、此家筋では彼岸や月見の晩に、團子を作ると甑《こしき》の中に、必ず三個だけは生の儘の團子が有る。其故に生團子だとの説もあるが、共に何で婚姻を忌まれるのかは分らない。三番目は即ちオサキ狐である。一時は他處より財貨を運び込んで來て、福神のやうであるが、久しからずして家運傾き又何處かへ持去ると云ふ。

　

　　　　　　　　　　九　人狐

　

　島根地方で人に憑くといふ狐は、亦普通の狐ではない。やはり東日本のクダ又はオサキとよく似て居る。今日は普通之を人狐《にんこ》と呼んで居るが、以前は又ヒトギツネとも謂つた。此人狐持ちの家筋の忌嫌はれた悲惨な話がある。阿波(367)土佐の犬神に就いても同じ歴史が有つたが、近世に於ては雲州廣瀬の領内で、狐持の家の根絶を企てた。苟くも此世評のある家は、不意に外から圍つて、一時に之を燒盡したと傳へて居る。切支丹の徒の如く、自ら固い信仰を聲言する者ならば是非も無いが、此中には必ず身に聊かの覺えの無い者も、數多く居たことであらうと思ふ。假に世間に匿して狐を祀つて居たとしても、人に憑狂はせる事までは彼等の本意で無かつたとすれば、此害の故に罰せられたのはあはれなことであつた。

　處が今日の時世では、其狐を飼ふ家も實際は殆と無いらしく、稀に此噂を傳へられる家の話は、いつも有得べからざる事ばかりである。狐持の家々で、我等は狐持だと自覺して居ること、恰も舊《むかし》の鉢屋や茶筅が、我身元を知ると同じい者が、果して半分も六割もあらうか、其さへも家の親たちから之を聞くので無く、世上の蔭口が耳に入り、或は人の憎みが身に沁みて、何時となく之を合點し、さては今迄さう言はれて居たのかと、自分等にも豫々《かね／”＼》同じ迷信があるから、反證を擧げる勇氣よりも、匿して知らぬ顔しようとするのが先に立つて、自然と吾身で世の中を狹くするのである。殘忍なる刑戮も一般に狐憑の怖れが絶えぬ間は、此の如き家筋を種無しには爲し得なかつた。殊に迷惑な事には、是迄一向其噂の無かつた名家でも、病人が自ら何の某の家から來た人狐だと口走ると、元々間違ひだから、其だけは間違では無いかと問ふ者は無く、忽ち新たに社會から排斥せられねばならぬ家が又一戸増加するのである。

　狐持ちの家には金持が多いと謂ひ、やはり此獣が紙幣でも咬へて還るやうなことを言ふ。併し今日では財産ばかり有つても、碌な聟も見つからぬやうでは何にもならぬから、此爲に人狐を飼ひたくなる人はあるまいと思ふ。其他の理由としては更に二つを想像することが出來る。富む者は多數の同情を得て居らぬ。而も之程無造作に狐持ちと決定をするやうでは、疑を掛けて愈々憎がる機會は、幾らでも出て來る筈である。第二には斯んな評判の立つ家では世間で相手にせぬ爲に交際の入費が殘る。取引や勘定の場合にも怨まれると大變だから、少しでも倒さうとする者が無い。金でも出來たらちつとは人に立てられようかと、稼業に一生懸命になる。そこであの家があれだけ資産を殖したのは、(368)只ではあるまいと云ふ事になるのである。つまり人狐の所爲で稀には嫉《やき》半分に此風説を強持《こはもて》の武器にする者も無いとは言はれぬ。之を考へると、寧ろ使ひ手がなくなつて野狐同然になつた三州のおとら狐の方が、社會の爲にはずつと始末が良いのである。

　所謂ヒトギツネの憑方は、些ばかり他の地方の狐類と異つて居る。即ち我々なら熱とか惡寒とか謂つて感冒にでもして了ふのも、胃腸の痙攣、神經痛などにも、直に法印を頼むから法印は之を人狐にしたがる。同じ精神異常でも擧動に變な所があるのみで、自身では何にも口走らず、從つて人狐だとは名乘らぬ場合も多いやうである。其を如何にして狐持の怨からと解するかと云へば、結局行者の法力である。人狐地方の一特色は、病人以外に別にノリクラと云ふ者を立て、專ら此と問答をすることである。ノリクラと爲る男は行者も連れて來るが、行者に信用が乏しい場合には、近所の若者などを頼む。御幣を手に持せて何か唱言をして居るうちに段々顫へて來るので物に寄つたことを知るのである。最初は問澤山で、答は唯御幣の動靜を以つてするのみであるが、次第にノリクラが調子に乘り、爰に第二の狐憑が出來る。尤も答は色々で、憑物が人狐で無いことも多く、人狐であつても身元の分らぬこともある。方角其他から判斷して法印は何の誰の家の狐と明言すると、其家の主人覺えは無くても煙に捲かれ、御幣を背負ひ、目に見えぬ狐を引取つて還ることもあり、或は何としても承引せず、自分の方でも別に法印を頼んで來てノリクラを立てさせ、此から出たので無いことを言明させ、前の法印を遣込めて取消させることもある。何にしても空な話で、法印さへ斯く多く無かつたら、人狐の騷も流行はすまいと思はれ、而も祈?業者の中には、狐以上に人を欺く者も多かつたとは、陶山尚迪といふ人が既に天保時代にその著、人狐辨惑論の中で説いて居る。

　其他廣島地方の外道持、四國の犬神筋、周防長門其他の地方のトウビャウ使やトンボガミ持、又は飛騨高原地方のゴンボダネ筋等、取憑筋にもいろ／＼の名と種類とがあるが、何れは似たり寄つたりのもので、それ等に就いては、特志の諸君は爐邊叢書中の小著「おとら狐の話」を讀んでもらひたい。

(369)　然し此講座の最初に述べておいた通り、若し我々が祖先の遺した物の中で吟味して善いものは取らねばならぬと同時に、惡い遺物は取つて捨てなければならぬとすれば、先づさしあたり取捨つべきものは此等憑物信仰の類であらうけれども、今後の問題としては大して心配はなからうと思ふのは、今日では既に憑かれることの馬鹿さ加減を大抵の人が知つて居り、將來は「憑かせる者」を恐れるより「憑かれる者」を變態心理者、精神異常者として、世間が相手にしなくなるであらうと思はれるからである。さうだとすれば、行者と「憑かれる者」とだけを相手にして來た片手落の罪ほろばしにでも、世間は「憑かせる者」への偏見をはやく捨て改むべきであらう。

　

(370)　　　親方子方

　

　　　　　　　　　　第一

　

　親といふ漢字を以て代表させて居るけれども、日本のオヤは以前は今よりもずつと廣い内容をもち、之に對してコといふ語も、亦決して兒又は子だけに限られて居なかつた樣に思ふ。その證據は既に幾つか發見せられて居るのだが、詳しく其一つ／＼を解説する時間が無い。爰には只主要なる或問題を敍述する序を以て、一通り個々の要點に觸れて置くに止める。

　オヤとコとの内容が本來はもつと廣かつたらしい證據は文獻の上にも見られる。父母を特にウミノオヤと謂ひ、その所生の子女をウミノコと謂つた例は至つて多く、單にオヤといひ又コとのみいへば、其以外のものを含む場合が決して少なくないのである。萬葉集などの用ゐ方は人がよく知つて居る。或時には我思ふ女をコと呼び、又時としては兵士をもいざコドモと喚びかけて居る。沖繩の神歌にコロといふのも兵卒であつたり、人民のことであつたりする。決して家々の幼な兒には限らぬのである。文章以外の國語には、今でも特に小兒を意味するアカゴ・オボコの類が多く、一方には又個々の勞働者を、セコだのヤマコだの、アゴだのカコだのハマゴなどと、コと呼んで居る語が無數にある。さうして其頭に立つ者がオヤカタなのである。

(371)　第二の痕跡としては現在の日用語で、弘く親類をオヤコといふ土地が、ちよつと方言ともいへない程多いことである。シンルヰとかイッケとかいふ日本語は、何れも漢學以來の新語であつて、この名詞よりも制度そのものは必ず古い。しかも其以前、所謂親類を何と呼んで居たらうかと尋ねて見ると、オヤコといふ以外には是ぞといふ心當りもないのである。イトコは我國の南北兩端で、この意味に用ゐられて居る區域が若干あり、或はオヤコよりも一つ古いかと思はれるが、其他はミウチ・ヤウチ・クルワ等、何れも局地的で大きな勢力は無い。之に反してオヤコの行はれて居る面積は、今でも日本の約半分で、近松の淨瑠璃にもあるといふから、以前は京阪地方さへさう謂つて居たのである。

　

　　　　　　　　　　第二

　

　試みに現在方言として報告せられて居るものを列記すると、東北は青森以南の六縣とも、親類をイトコといふ僅かな區域の外は、大體に皆オヤコを用ゐて居る。或はウミノオヤコと區別する爲に、オヤグ又はオヤグマキと謂つて居る處もあるが、是は分化であつて、會津地方の如きは却つて實の親子の方をオヤグと發音し、石城地方では是だけをジシンノオヤコとも謂つて居る。それから越後でも中頸城の桑取谷、信州でも諏訪の湖畔、美濃でも西境の揖斐山村には少なくとも此語があり、甲州にはオヤコに二通りの意味があつて、音抑揚で之を差別して居るといふ。關東平野ではもう少なくなつたかも知らぬが、民謠の中にはたしかに殘つて居り、靜岡縣は全縣を通じて、今なほ親戚をオヤグ又はオヤコと謂ふ者が多い。是で先づ日本の東半分は、曾てオヤコが親類のことであつたと、推定することが出來るのである。

　それから外の地方では、只飛び／＼にしかまだ採集せられて居ないが、是とても決して少ない數でない。自分の書(372)留めて置いたゞけでも、列記が少しうるさい程ある。伊豆七島では三宅島が全部、尾張では知多半島の一部、三重縣では志州和具の漁村、日本海側を尋ねると、若狹の常神で嫁の里をオヤトコ、是は或は別系統とも考へられようが、丹後の與謝都誌にはオヤコは親類のことゝあり、伯耆の大山山麓の村でも、イッケといふよりもオヤコといふ方が通例だとある。出雲は各郡ともに親類をオヤコ、殊に八束郡などは本家分家の一團がオヤコで、或は是をオヤコマといふ村もある。隱岐島の訛言調査表には、生みの親子をオヤクといふとあるが、是も會津や伊豆と同樣に、別に親類を意味するオヤコがある爲かも知れない。

　瀬戸内海の沿岸では、周防の祝島に親類のオヤコがあつたのみで、他は未だ多く知られて居ない。九州でも南北の離島、即ち北には壹岐島に同じ語があり、其範圍は最も弘く、牛の預け主と預かり主との間柄をさへ、牛のオヤコと謂つて居る。南では大島都十島村の惡石島に、汎く親類縁者をオヤコといふ例を見るのみで、他の内陸の村々では今までは報告せられたものが無い。喜界島昔話に依ると、むかし或漁夫が河童とオヤコしたといふ話がある。是を「仲好しになつた」と解説して居るが、多分は同じ言葉で、そのオヤコの關係が、人爲に結ばれることを意味するものであらう。沖繩の島々にはオエカ又はウエカといふ語がある。親族だけでは無く、親類附合ひをする者が皆ウエカで、村々互ひに相手を定め、旅行の折などに宿をしてもらふ間柄をもさう呼んで居る。さうして此ウエカも亦オヤコの音韻變化であつた。

　

　　　　　　　　　　第三

　

　かゝる廣汎なる全國的一致は、私たちから見れば到底偶然には起り得ない。假に文獻の上には傍證が無くとも、何か親類をオヤコと謂はねばならぬ理由が、古く我々の社會にはあつて、それがもう不明に歸しかゝつて居るのである。(373)父なり母なりは無論重要なるオヤであることに變りはないが、それは只最も自然なる一種のオヤといふに止まり、別に其以外に色々のオヤと、是に對する色々の子の存することを、以前の思想に於ては少しも異としなかつたので、爰には單にそのオヤとコとを以て構成した一群の名が、今日我々の親族と名づけて居る或特定人の續き合ひと、どれだけ精密に符合して居るかゞ、問題となるばかりである。民法で新たにきめられた「親族」の範圍限界が、國民の久しく口にし又は心に念じて居る親類もしくはオヤコの實際と、同じかどうかといふことは毎度考へさせられる。古い親類と稱して村を共にし、苗字を同じうする一門の間には、殆と血の繋がりは判らなくなつてまで、力になり合つて居る者があると共に、一般に縁組によつて結ばれた家々の交際は、案外に早く絶えて行くやうである。人が一身の爲に求め設けた親子の契りは、假に其間に厚薄濃淡の差等はあるにしても、家總體を拘束する力としては、一段と弱いものなのでは無かつたか。もしもさうだつたとすると、オヤコを親類といふ語を以て置き換へた時代には、今日とは大分ちがつた親族觀の、行はれて居たことが想像せられると共に、一方には又其前後を通じて、我々のオヤコナリの習俗にも、目に見えぬ推移の常に行はれて居たことが考へられる。それで私たちは今までの制度史家のやうに、單に起原を究めて滿足して居ることは出來ないのである。

　もつと具體的にいふと、オヤの種類が數多くなり、言葉の一貫した意味を把へ難くなつたのは、その一つの最も古く且つ最も自然なるもの即ち生みの親が、追々と有力で無くなつて、何か其缺陷を補填する必要が生じた爲だらうと私は思つて居る。家が分れ／＼て小さなものになつてしまふと、以前の大親の具足して居た機能は、片端しか生みの親には傳はらない。子どもは勿論のこと、其親自身も亦世渡りの上に、色々の親を必要とする場合があつたので、是が或地方で地主を親方といひ又地親と謂ひ、村の名主や門閥の家を親樣といひ、町では借家の持主までをオホヤといふに至つた原因だつたやうである。ところがそれでもまだ足らぬので生活の變化に應じ、次々に算へきれないほどの幾つかの親が出來て居り、今でもまだ少しづゝは出來ようとして居る。斯んなものまでオヤかと驚くやうなものもあ(374)るが、もと／＼我々の大親は生みの親とは限らず、さうして又あらゆる役目と力を一身にもつて居たのである。多分は禮をイヤ、敬をウヤマフといふなどと同じ語で、眼下の者の之に對する應答の聲から、導かれた語であらうと私は想像する。祖をイヤといふ例は有名な阿波の祖谷山の地名にもある。豐後の方言では伯父をイヤ、紀州の日高郡などには巡査や林務の役人を、イヤサンといふ新語も出來て居る。つまりは中世以後の日本人は、父母以外に別にイヤする者の幾種類かを、もたねばならぬ生活事情に置かれて居たので、それがどういふ親であつたかを尋ねて見ることは、間接には時代の變化を明らかにする手段ともなるのである。

　

　　　　　　　　　　第四

　

　この問題を討究しようとする者が、文書記録の史料を目ざすといふことは、必ずしも絶對にむだな努苦ではない。物語や軍書の間に散見する切れ／”＼の記事を拾ひ集めても、いつ頃からこの風習が段々と盛んになつて來たかゞ判らうし、もつと手輕な手段としては、たとへば續群書顆從などに蒐録せられて居る諸家の系圖を見渡せば、如何に多くの生みの子で無い者が、猶子養子として或有力者の、子の列に加はつて居るかゞ、一目で承認せられるだらう。さうして斯ういふ武士といふ名家は、何れも他の一面では大きな田舍者なのだから、所謂オヤコナリの制度が、彼等ばかりの獨特の慣行でなかつたことも、ほゞ安全に推定し得られる。しかし困つたことにはこの種の史料は簡略で、その必要が親の側に在つたか、たゞしは子の方にそれを熱望すべき事情があつたかの、内部の動機までは示されて居ない。其上に戰國以後、家が小さくなり社會の環境が改まつてから、新たに又色々の種類の假の親子が、右に準じて増加して來たことは、よほど氣を附けて居ても本には書き留めて居るものが尠ないのである。それで結局は自分等が今試みて居る樣に、現在まだ殘つて居る土地々々の事實から、元に溯つて成立ちと沿革とを、考へて見る他は無いといふこ(375)とになるのである。現在の風習は新舊が入り交り、しかも其大部分は制度として公認せられても居ない。從つて一地域限りで幾らでも勝手に變化し得られ、是を國總體の古くからの事實として、引用することは危ない樣に、素人ならば考へるのも無理はないが、實地に當つて見ると驚くほど多くの共通點をもち、又大よそきまつた方向へしか變化しては居ない。是は取りも直さず日本人が一つの種族であり、國の生活約束が多岐複雜なもので無かつたといふ、うれしい又頼もしい定理の表はれだと私等は思つて居るのだが、それを明白にする爲にも、今日はまだ澤山の事實を排列して見せなければ、外國の學者が本で教へてくれることを、信ずる程度にも信じてはもらへないのである。一つの學問の創業期に生れ合せると、説く者も説かるゝ者も共に餘計な苦勞をしなければならぬ。今日の世相は甚だしく紛亂して居る。是を切り開き且つ整頓して、新しい時代の生き方を示す爲には、假に當面の入用と興味が無い場合にも、なほ練習として斯ういふ過去の見方を覺えなければならぬ。ましてやこの全集の讀者たちに取つては、是は歐米の書物の中からは學べない、國民性といふ奧床しい寶の庫を、開くべき鍵の入つて居る引出しであつたのである。

　

　　　　　　　　　　第五

　

　現在の日本の考へ方によると、オヤははつきりと二通りの種類に分けられる。その一つは無論生みの親、又實の親とも謂つて居るもので、殘りはまだ一括した好い名は無いが、通例は義理の親といふのが、一ばん故障少なく全體を包容し得るかと思ふ。但し是には義理とは何かといふ問題が附いて廻つて、解説がやゝ面倒になるから、最後まで採用を延期しなければならぬ。もつと簡單な別の稱呼としてはカリオヤがある。可なり廣い區域に亙つて行はれては居る樣だが、土地によつてその内容に少しづゝの喰ひちがひがあり、たとへば信州の上伊那で、男女婚禮の間際になつて親と頼み、式に列してもらふものだけをカリオヤと謂ふに對して、下野安蘇の山村や九州の二三の島では、特に幼(376)兒の育ちの惡い場合に、他人を頼んで親になつてもらふもの、普通に拾ひ親又は養ひ親などといふのをカリオヤと呼び、或は其親から名を借る故に、カリオヤだと解して居る土地さへある。さうして大體にこの第二のオヤの最も重要なもの、即ち配偶者の父母を意味するシウトオヤ、又はママオヤや民法の養父母などは、何處でもカリオヤといふ中には入れて居らぬやうである。是は恐らく此名稱の起りを、假の親子と解した近世の語感からであらうが、果してさういふ意味で出來た名であるか否かはまだ疑ひがある。現に斯うしたオヤコの關係が、死ぬまで續く例も稀でなく、又筑前の志賀島などには、親を借るといふ言葉もあつて、その場合には實の親の喪には服せず、借りた親の方の爲に別火をするのである。

　或は又契約親といふ名稱も、相應に弘く行はれて居る。オヤの發生を自然と人爲との二つに分けるならば、是なども紛れの無い適切な名のやうに思ふが、やはり繼親や舅親までは含まぬのを常として居る。土佐などの契約親は養ひ親・拾ひ親、又は神申し兒の場合までを包括していふさうだが、出雲石見の農村では一種の主從契約、即ち上越後で子分と謂ひ、又は他の地方で名子といふものになつた場合、その相手に限つて之を契約親といふ例もあり、結局現在のところでは　　屡々誤解があつて、まだ之を全體の名にすることが出來ぬのである。

　「子にする」といふ言葉は今でもよく使はれ、其子を取子といふ語もなほ方々に殘つて居るが、之に對する親の名は無いやうである。壹岐島方言集を見ると、あの島あたりではケーナリオヤといふのが、生みの親で無いオヤの全體をさす名になつて居る。方言ではあるが是はちよつと面白い言葉で、ケーナリのケーはカイナデだのカイツクラフのカイと同じく、九州では殊に盛んに行爲動詞の頭に添へて、其動詞の意味を強める用に供して居るから、是もわざ／＼若しくは心有つて、なつた親といふ意かと思ふ。私が前に使つたオヤコナリといふ言葉なども、現在はもう殆と耳にせぬやうだが、文獻の上には幾らも現はれ、且つ右の如き例があり、又南の島々にはオヤコスルといふ語もある以上は、之を人間が出生の後に、第二第三のオヤコ關係に立つ場合の全部を引きくるめた名稱として差支へなく、更に又(377)之に由つて生じた新たなる親と子をカイナリオヤ・カイナリゴ、或は少々變にひゞくがナリオヤ・ナリゴと、呼ぶことにしたならば手輕でよからうと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　第六

　

　このオヤコナリの機會は、以前は主要なるものが人生に二度あつた。それが追々に三度となり、四度五度となつたのは變遷である。二度といふのは生れた當座に一度、次には第二の誕生とも言はるゝ元服成人の際であつた。親の選擇は通例は子の側からだが、最近調査せられた對馬の村々には、親の方から望んで來る慣行も稀でなく、伊豆の新島のモリオヤなども、良い家の子の爲には親になりたがる者が多かつたさうである。線兒の場合は固よりのことだが、成年の親子なりでも本人の意思は多く働かず、背後に生みの親の判斷があつて、指導して居たことは確かであつた。それが後々は家と相談をせず、自由に單獨に親を求める者を生じたのである。ごく大まかな見方をすると、年齡の早期に結ばれる親子關係ほど、慣習としての發生も早かつたやうに思はれるが、その點は勿論容易には斷定が出來ない。爰にはたゞ假に子の年頃の順序によつて、現在知られて居る限りのオヤの種類を列擧して見ることが、覺えやすく又私の説明にも都合がよいのである。

　フスツギオヤ　奄美大島には此名のオヤがある。フスはホソと同じで臍の緒のこと、ツグとは切るの「めでた言葉」であつた。生れ兒の臍緒を切つてくれる人を親とするのである。其關係はどの位續くか知らぬが、産後七日目に庭に出して、始めて太陽と對面させる日の祝には、乳親とフスツギ親とを招いて赤飯を供することになつて居る。

　トリアゲオヤ　此名稱は關東以西、九州の南端まで飛び／＼に行はれて居る。産婆が或種の老女の職業になつてからも、なほ若千年の間は節供や歳暮の音物を缺かさぬのが通例だが、殊に素人を頼んで生れる世話をしてもらつた場(378)合は、之を親と呼びこちらを取上げ子といふのみで無く、實際にもその附合ひをして、死んだ時は叺入りの香奠を持參し（下總香取）、イロを着用し（信濃上伊那）又は湯灌に列席する（三河寶飯）。三河はさういふ中でも殊に此風習の懇ろな土地で、婆ばかりか其配偶者をも祖父のやうに尊敬し、向ふでも孫同然に愛してくれる。取上げは九州ではコズヱといふが、雙方共に産れ兒を人間として存在させてくれるといふ意味があるらしく、よく戯れ言に私が構つてやらなかつたら、おまへは育つて居なかつたのだなどと言ふさうである。備中小田郡では七日目の祝に、トラゲバアサンが赤兒を戸棚に入れて挨拶をすると、家の者が之を戸棚から出して、是でいよ／＼家族の一員になつたことになる。其行事をもトラゲ即ち取上げと謂つて居る。トリアゲヂイといふ名は、上總の山武郡などに行はれて居る。是は分娩の世話とは全く關係無く、赤兒の幸復の爲に前以て頼んで置いて、長命で繁昌する家の門に棄てる眞似をして、其老人に拾ひ上げてもらふので、即ち次に云ふ棄子親と同じである。この時取上げ爺は赤ん坊を粉篩に入れ、それをふるふやうにして此家の種にしたといひ、又「井戸一つ門一つ厩一つ」といふ唱へごとをしながら、家の圍爐裏の三隅に其赤兒の尻を附ける。斯うして拾つて貰つた子はトリアゲマゴといひ、末永く親子の縁が結ばれる。上州の南部山村でも、この拾ひ親を産婆と同じに、取上げ親と謂つて居る。

　チオヤ　生れた最初には母の乳は與へず、誰か健康で仕合せのよい人を頼んで、其乳を飲ませてもらふのは通例の習ひだが、壹岐島でも之を乳親又は乳付け親といひ、盆正月の附屆けは勿論、以前は一生の間親子の交際をさせた。奄美大島では現在では乳の無い場合だけに頼むさうだが、やはり之をチチオヤと呼び、七日の祝には喚んで居る。盛衰記に中三兼遠が義仲を育てたやうに、乳母の夫が若君を我子以上に愛護した例は軍書に多く、又乳兄弟の沙汰も現代まで續いて居る。里子里親に至つては、心の底からも親子である。三河の北設樂郡ではこの親をシトネオヤ、シトネルは育てるの方言である。仙臺の附近では其母をスダテコガカ、スダテコとは里子のことをいひ、福島山形秋田の三縣では、是を又チシロコとも謂つて居る。

　

(379)　　　　　　　　　　第七

　

　ナオヤ　名親或は名附け親ともいふ。日本人は以前二度以上、名を附ける習はしがあつて、二度目もやはり人に頼んで居た。記録には寧ろ其方が多く傳はつて居るかと思ふが、今まで無かつた緑兒に人としての名を與へる方が、常民には大切なことであつた。是などは生みの親が自ら當つてもよいのに、やはり親族故舊の尊敬すべき者を頼むことにして居る。信州遠山地方などは、古い大事な親族の血縁が薄くならうとする時、特に名親や仲人親に依頼して、結合を新たにしようとする風がある。嬰兒の名附けは通例は七日目で、この日の祝には名親からも弓や羽子板をこしらへて與へる。即ちこの交際は他の多くのオヤコも同じやうに、決して片務的のものではなかつたのである。名附け親といふ名は、成年式の改名の場合には用ゐない地方が多いが、島根縣などでは是をも契約親だのカナオヤだのとは言はずに、同じく名附け親といふ土地もあつたらしい。之に對してナゴといふ語があるといふが、是は勿論名主に對する名子とは別である。

　モチオヤ　肥前の平島では、厄年に生れた子には別に持ち親といふのを立てる。厄といふのは父が四十二、もしくは母が二十五、三十三などの年に生れる子で、親子の性が合はぬと育たぬものゝやうに恐れられて居たのである。奄美大島で是をセイオヤと謂ふのも、新しい言葉らしいが、やはり實の親との性が合はぬことが、占ひの面に現はれた際に之を頼むことになつて居る。或は之をオヤドリとも謂ふ土地があるから（伊豫西宇和）、モチオヤは即ち新たに持つ親といふ意で、別に其目途を表はした語でないと思ふ。

　ミチオヤ　といふ名が信州の南安曇郡にはある。是は厄年の男女が新たに親を持つことで、子供とは關係が無い。通例は正月の十四日、厄落しに氏神へ詣る道すがら、家から最も近い親戚を道親に頼み、そこへ立寄つて婚禮の時く(380)らゐの御馳走を受ける。是も一種の呪ひであらうが、親を力にすることは前のと同じい。

　シホトト　鹿兒島縣は薩隅及び諸島に、特に鹽賣りを幼兒の親に頼む風がある。是を鹽トト又鹽テチョ（父）と呼び、親になつた鹽父は鹽を器に盛つて祝つてくれる。さうすると其兒が丈夫に育つと信ぜられて居る。七島の口之島などは鹽の行商は無いから、たゞ性の合つた村民を親に頼むのだが、此際も酒や米鰹節に鹽を添へて送つて來る。さうして其子を鹽子といふさうである。鹽が小兒を健全にすると認められた爲であらう。沖永良部でも小兒の童名にマシホといふのが多く、壹岐では弱い兒を道に棄てる形をして、頼んで拾つて貰ふことをシホダラカブリと謂つて居る。以前は實際又鹽俵に入れて棄てたものだといふ。

　

　　　　　　　　　　第八

　

　ヤシナヒオヤ　養子に娘の聟でも無く、跡取でも無いものが多かつたことは、今も東北の田舍には其名殘がよく見られる。九州の各地にもヤシネゴといふものは多いが、是も子育ての思はしくない家で、その次の子を丈夫な老人などの子にするので、沖繩の漁民にも其風があるが、無病な子ならば養ひ親はたのまない。或は其期限の婚姻の時までといふ例もあるが、多くはオヤコの縁は一生續くものと考へられ、其親の葬式には子や甥と同じに、籾一俵の香奠を持參し（薩摩出水郡）、又は正月に膳をもつて行く（大隅肝屬郡）。壹岐では神樣の子にしてもらふ者も、是と同樣にヤシネエゴと謂つて居るほどで、此語の用ゐ方は可なり弘い。ヤシナフといふのは本來は物を食はせることであつた。だから信州の松代などでも、子供の百二十日目の喰ひ初めの祝に、以前は家來筋の者を養ひ親ときめて、子と竝んで本膳に坐らせた。さうして其親子の間に祝儀の贈答があつた（朝陽館漫筆一）。しかし今日では斯ういふ義ひ親だけを、民法の養父母と區別して特にヤシネゴオヤと、呼んで居る土地も九州の方にはある。

(381)　ヒロヒオヤ　拾ひ親といふ名は最も弘く、北は奧州から中部地方、近畿四國にまでも行はれて居り、從つて土地により若干の差はあるが、大體には厄年に生んだ子、もしくは弱くて成長の心もとない子を、豫で頼んで置いて、棄てて運のよい人に拾つてもらふのである。現實に棄てる形を今でもして居るのが普通で、或は少なくとも一晩は拾つた家に寢させて、次の日もう一度貰ひに行くといふのもある。全體に若干のユウモアを含んだ方式が履まれて居る。たとへば泉州の或村では、箒と箕を持つて道の辻に待受け、斯んな所にかはいらしい兒が落ちて居るなどと言ひながら、箕に掃き込む樣にして拾つて還る。それを改めてタノミを持つて貰ひに行くと、拾つた方でも赤飯を土産にして送つて來るなどといふのがある。信州の諏訪でも其子を盥に入れ、橋の下をくゞらせてから、拾つてもらはうとする家の雪隱の前に棄て、やはり箕と箒で取上げてもらふといふ。以前はこのオヤコの關係も一時的のものでなかつた。拾ひ子の祝の日には株内同樣の祝物を贈り、その子も亦盆正月の禮に來るといふ風は、今でも方々に殘つて居る。

　ステゴオヤ　山陰の二縣や長門の一部には、拾ひ親を棄兒親といひ、備前では又之を育て親とも謂つて居る。斯うして棄てられた子におすて・捨松・捨五郎などの、名を付けることも多い例で、或はその親の名の片方を分けてもらつて、永く名親として尊敬するといふ習はしもある。

　ユキアヒゴ　もつと思ひ切つた例は七日目の朝、寺參りの途で最初に行逢つた人を、男でも女でも親にする（薩摩甑島）。或は塞の神の祠の前で、向ふから來る三人目の人に、拾つて貰ふといふ例もある（隱岐島前）。伊豫の宇和島邊でもあて無しに道に棄てゝ、通りかゝつた最初の人に、拾ひ親になつてもらふといふ話で、以前は此風習が遙かに一般的であつたらしく、記録にも幾つかの大きな實例がある（赤子塚の話參照）。伊勢には子賣り岩又は名付け岩といふのがあつて、子を抱いて此岩の前に立ち、往來の人に名を附けてもらつたといふことが神都名勝誌等に出て居る。土佐では現在も辻賣りと稱して、病身な小兒をつれて道の辻に出で、最初に又は三番目に通りかゝつた人に買つてもらふことがある。其人は錢とか衣類とかを與へ、又新たに名を付けてくれ、さうして一生の間交際をつゞけるのださう(382)で、是をもあの土地では契約親と謂つて居る。

　

　　　　　　　　　　第九

　

　モリオヤ　幽かな痕跡は他の地方にもあるが、伊豆の新島ほど顯著な例は無い。島では女の子は貧富によらず、一度は十五歳までに何處かの兒の守女をしなければならぬ。それを頼むには親類の者を使に立てゝ、もりの家の承諾を求める。滿三歳の誕生日まで、夜は還つて日中だけ來てくれる。大きくなつてまで兄弟以上の親しさを續けるだけでなく、其守子の兩親までが、モリットウ・モリッカアと稱して生涯親類の附合ひをし、婚禮の日などは母子とも列席してくれるといふ。

　オビオヤ　小兒三歳の祝に帶をくれる親（肥前江ノ島）。大隅ではこの帶親には叔母を頼むことになつて居る。

　マハシオヤ　岡山縣西部などでいふ。マハシは褌のことで、故に又フンドシオヤともいふ。十歳から十五歳までの間に、大抵は之をきめ、親の方より男には犢鼻褌、女の子には腰卷などをくれ、婚禮の際にも袴帶鏡臺などを贈つて來る。その親の葬式には男の子は棺を舁ぎ、女も之に相應する役を持つ。肥前馬渡島では之をヘコオヤ、其子をヘコムスコなどと謂ひ、葬送には棺を贈るといふが是はまだ少し心もとない。しかしこの二つの語は北九州だけでなく、山口縣の一部にも行はれて居て、何れも一生涯の附合ひである。佐賀縣には又キヤフムスメといふ子方もある。女子成年の際に脚布即ち腰卷をもらつて、親子の縁を結んだ者であることは一つである。

　オヤカタドリ　男女が年頃になつて奉公に出ることも、以前は親方取りと謂つた例が文學には見えてゐるが、家に居て單に新たなる親を求める場合も、同じ名を以て呼ぶ地方がある。山陰一帶の村々がそれで、たとへば宮津附近は男十七歳になると、名望家を親方に頼み魚を持參して禮に行き、親方から羽織着物などをもらふ。女も聟取り娘に限(383)つて親方取りをする。鳥取縣でも男は十七、女は十三の年に親方取りをし、帶や袴を引出物に盃をもらふことになつて居る。それから以後の助け合ひは親身以上だといふ。隱岐の知夫島などはヨコヤ即ち神職を親方に取る者が多い。其關係は代々續くが、あまり幾人もの兄弟があると、又別の人をさがして親方に取ることもあつた。淡路島などでは以前は之を親取りと謂つて居た。親取りといふ名は生れたばかりの子にもあるが、親方取りといふと成年の際に限るやうで、是が一生のカリオヤとしては殊に大切なものであつたと見えて、別に目的を表示する名稱が無く、たゞ親方といひ親分といへば、此時きめた親に限るやうになつて居る土地も多い。

　ヱボシオヤ　烏帽子着といふ儀式はもう久しい間、平民の間には絶えて居るのであるが、この名稱だけは京都近江などに近頃までも殘つて居た（民事慣例類集）。跡取り息子に限つて次三男にはしなかつたといふから、可なり重々しき儀禮と認められて居たのである。親方取りをした息子をヱボシゴといふ名は甲州あたりでもきく。烏帽子を着せるなどは無論しないが、その親方がヱボシナと謂つて、新たに一つの名を與へて親子の關係を結ぶ習はしは、東北にも存する（陸前江ノ島）。

　カネツケオヤ　女は嫁入りの前に仲人親の外に、別に銕漿附け親といふのを頼む處がある（信州上伊那）。何か問題の起つた時に口をきいてもらふ爲で、今でも三年間は五節供の禮、其後も續いて正月の禮はする。是が此地方の親分なのであるが、甲州では丁寧な家で普通の親分以外に、別に今でも此親を頼む例がある。成女が齒黒めを要件としなくなつて、此役目は追々小さくなつたが、宮城縣の南部でも仲人をカネツケノオヤとする例があり、對馬でも伯叔母が無いと、他人を特にこの親に頼むことになつて居た。能登の半島ではカネツケゴ、又はハグロゴといふ名があつて、元は齒染め道具一切を贈つてくれる親を頼んだ。もう其風習は絶えたけれども、なほ男の烏帽子親に對して、親分のことを齒黒親などと呼んで居る（鳳至郡誌）。

　フデオヤ　筆親筆子は現在は手習ひの師匠弟子のみに解して居るやうだが、信州などでは女の親分、即ち婚姻にさ(384)しかゝつて後楯となつてくれる人を、さういふ土地があるのは鉄漿筆のことゝ思はれる。讃岐小豆島では十五の年にきめ、後に婚姻を世話をしてもらふ親を、男のヨボシオヤに對して女はフデオヤと謂ひ、同じ例は附近の島々にも多い。現在は勿論銕漿は附けぬが、さうして世話になる子をフデコ、又はフジムスメとも謂ひ、更に飜つて其親をムスメオヤとさへ謂つて居るが（伊吹島）、やはり成女式の日に親に取る村内の有力者のことで、從つて其社會的意義は小さくないといふ。

　ヤウジオヤ　中國の一部で成年の女のカリオヤのことをいふ。是も銕漿附け道具を貰ふ習ひだつたといふから、乃ち楊枝親であつて、第二種の筆親と區別しようとしたものであらう。

　

　　　　　　　第十

　

　カネオヤ　女の銕漿附け親を又カネオヤとも、カナオヤとも謂ふ例がある。日向の兒湯郡などでは初染の日に、夫婦揃つて繁昌する家の主婦を頼み、一つの銕漿わかしの器で齒を黒めるのがカネオヤであつて、對馬ともよく似た習俗だが、伯耆出雲などでさういふのは、大體は十三の年の暮に契約を結び、實際に齒黒めをする時よりもずつと早い故に、其名義がやゝ不明にならうとしで居る。併し本來はその十三が成女式、即ち女の銕漿を附ける時だつたのである。カナオヤといふ名も同じことで、嫁入りに臨んで之を頼み、或は手輕に仲人に兼ねてもらふ土地もあるのだが（長門阿武）、出雲の海岸部や隱岐島前のカナオヤの如く、必ず十三の年に頼んで置き、且つ近頃は嫁入りの際にも齒を染めぬ爲に、單なる女の親方取りと解し、又は名附け親のことだといふやうになつた。隱岐では赤子を塞の神の前に抱いて行き、通りかゝりの三人目に買つてもらふ場合にも、なほ其親をカナオヤと呼んで居る。備中の阿哲郡などには、男の子にもカナオヤがあり、信州のハネオヤ同樣に婚姻まぎはにもきめ、又二三歳の幼年期にもきめる。親の(385)方から所望する例も稀でないが、さういふ場合にも夫婦ともカナコにすることがある。出雲石見ではカナムスメといふ名が弘く行はれ、嶺を隔てた備後の山村には、是と共にカナムスコ、又カノムスコといふ語があつて、共に契約親に對する契約子のことだと謂つて居る。カナ親が單に齒黒めの道具を贈るだけでなく、定約の盃の際男女ともに、名を改めるのを普通とする土地では、是を假名親と謂つて名附け親と同じだとも解して居るが（石見那賀郡）、少しも名をかへない地域には、通用し難い説といつてよい。私の意見では、齒黒めは人生に重要な儀式で、是を管掌する親の力は大きく、カナ娘の配偶者にも波及したゝめに、後々は此名を獨立に男の子と親との關係にも、擴張することが可能であつたので、語原はやはり銕漿だつたらうと思ふ。

　ハネオヤ　信州では結婚の時に、初めて花嫁にかねを附けてもらふ親を、カネ親とも筆親とも謂つて居る例が多いが、村によつては是と似て權能の幾分か廣いものを、ハネ親といつて今でもまだ盛んに頼み合つて居る。言葉の起りは恐らくは是も銕漿であつたらうが、齒を染める風習は夙く止み、親を婚姻の際に頼む必要だけが永く殘つて、次第に別ものゝ如く考へられるに至つたのである。私の知つて居る範圍でも、男を子とするハネ親はたしかにあつた。是などは廣島縣のカナムスコも同じ樣に、新たなる擴張であらうと思ふ。契約親の入用は婚姻の時が最も痛切であり、それには女の銕漿親が、特に前々からよく働いて居たからと解せられる。このハネ親も嫁聟入りの式には必ず列席し、其以後續いて父母と呼ばれ、その實子と兄弟の交りをさせる。上伊那地方では、死んでもハネ親とは一緒に暮らせるが、生みの親とは障子一重を隔てなければならぬといふさうだが（蕗原一ノ五）、誰が言ひ始めたものか、考へて見ると中々意味が深い。

　カミオヤ　下野那須地方では、カネ親の外に更に髪親といふのを頼む。二組ともに必ず夫婦揃つた者でなければならぬ。上席はカネ親で次に髪親が列座して、花嫁に訓戒する。その席には花聟もともに列することになつて居た（郷土史話）。親と名のつくものを少しでも多く、こしらへて力にしようとした心持が窺はれる。

(386)　マユオヤ　肥前江（ノ）島には眉親といふのがある。近頃では婚後二三年もしてから剃るのだが、是にも仲人以外の親を頼むことが稀でなかつた。眉を剃らぬ者が多くなつて此親はもう亡びようとして居る。

　

　　　　　　　　　　第十一

　

　オヤガハリ　伯耆米子附近では、婚姻の日の後見をする役に頼む親を、女の方のみカナ親・カナ娘と謂ひ、男の側の親は名附け親、又は親方とも親代りとも謂ふさうである。其親代りも成年の頃に契約して置き、當日は聟入りに同行し、嫁を迎へに行つてくれる。能登の穴水では男の子の元服、女の子の齒黒めに親になる者をオヤダイと謂ひ、此祝にも贈り物をする。是も多分は聟入り嫁迎へに同行してくれるのであらう。生みの親が是非とも代りを頼まなければならなかつた理由は、私は性の禁忌だらうと解して居る。他の事務には何でも口を出せるが、親が我子の配偶選擇に干與することは因習が許さなかつたのである。現在は既にその反對の傾向が強くなつて居るが、事實なほ此問題に觸れることは、實の親子の間では可なり苦痛である。カリオヤの必要の此際に認められたのは、必ずしも未來の利害の打算からではなかつたと思はれる。

　ナカウドオヤ　仲人を親に準じて大切にする風習は、現代の大都市にも見られ、其爲に出來るだけえらい人を物色することも流行であるが、その仲人は常に本當の奔走者ではない。この方には禮をしたり早くいゝ加減に手を分つて、名義の仲人のみ親にするのは、よほど亦ハネ親の方と似て居る。村の小さな家ではさう何段もの橋かけが無く、世話も引受けも一手にする故に、是がオヤコの附合ひとなるので、中には死んだ時の見送りは勿論、里と同列に子祝などの贈遺をする例もある。

　ヤドオヤ　青年男女の宿は今では多く衰へ、たま／＼男子ばかりには殘つて居ても、もう婚姻の世話まではせぬ親(387)が多くなつたが、それでも若者は最もその宿親を尊信し、むつかしい問題は是へ持込むだけで無く、親が進んで一肩入れてやり、又裁決しなければならぬ紛紜は多く、その大半は女出入りにからんで居た。仲人といふ語のまだ無かつた頃から、宿親は當然の仲人親であり得たのである。或は既にこの組織は無くなつても、何か障碍のあるたびに、臨時にさういふ若者の相談相手になる人を見つけようとする。甲州などの村々の親分は、以前の任務の大半は、好いたどうしを夫婦にしてやることであつた。宿親が一生交際せられるやうに、この親分子分もそれからは永く續いた。或は宿親を立てない若者宿もあるが、その場合は年長の膽力ある者が、自然に仰がれて若者頭の地位をしめ、又仲人親に近い職分をつとめた。斯ういふ場合には宿子仲間、即ち兄弟分の多數の意向が、暗々裏に背後の力になつて居たから、判斷と處置とを誤ることが少なかつたかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　第十二

　

　ヨリオヤ　人が生れ在所の外に出ずにしまつた場合は、親はもう此以外に無くてもよかつたが、一たび世間に出て生計を新たにするとなると、今まであつた親は遠くしてたより難く、爰に第三期の親方取りは必要が生じて來る。近世種類を増加した親方が、多くは都市のものだつたことは此理由からである。桂庵や職業紹介所も親切であつたか知らぬが、是は就職以前の生活までは見ついでくれない。だから貧困の者はもう一段と有力な庇護者を必要とするやうになるのである。以前の勞働者の寄場には親があつた。大きな權能を以て意の如く人を働かせる代りに、特殊の用途のある者は可なり永くたゞ養つてくれた。人入れ稼業などといふ侠客の家に、無頼の命知らずが子分となつて寄食したのも其爲で、弊ばかり多くはなつたが他所の者の集まつて來る土地では、無くてはならぬ制度だつたといへる。是が複雜に變化して?鳴狗盗、今日の制御し難い幾つかの團體は生れたのである。

(388)　ワラヂオヤ　寄親といふオヤは田舍にもある。是と都府にある同名のものとを比べて見ると、大よそは其成長の經路がわかる。村の方の特徴は第一に外から來て住まんとする者の少ないこと、第二には勞務の種類が幾らもなくて、すぐにも仕事があり、さう大きな親方によつて庇護せられる必要の無いことである。信州には草鞋親といふ言葉がある。是だけでは不明だが日本の全領土に亙つて、他處から村に入つた者の先づ落着いた家を、草鞋脱ぎ場と謂ひ又濡れ草鞋と謂つて居るのを見ると、其意味は隱れた所が無い。濡れ草鞋は即ち漂浪者の生涯である。それを脱がせて村民竝みにしてくれようといふ引受人があれば、是を親と頼むのは自然の情でもあり、又必要なる順序でもあらう。

　ナゴオヤ　前の名附け親に對する名子とは、日本では一般に保護者を持つ農勞働者を名子と謂つて居た。その名子の起りは獨立農の零落、奴婢の後裔などと色々あらうが、親の無い子や凶年に養ひ兼ねた子供を、小さい時から家に養つて、働きぶりによつて家を持たせ土地を預けて、主從のやうな關係を新たに作ることもあつた。豐後の玖珠郡ではさういふ名子の親方を、特に名子親と謂つて居る。オヤコは只單なる相互扶助よりも、寧ろ斯ういふ勞働組織に伴なふものゝ方が、古いのでは無いかと私は思つて居る。

　タスケオヤ　斯ういふ名の親は、古くからも少しはあつたか知れぬが、現代は益々種類を増加しようとして居る。昔の助け親は孤兒が救はるゝとか、道に飢ゑ海に漂うて居たのが連れて來られるとか、事實命の親といふやうなのに限られて居たのが、近世になると喧嘩を仲裁してもらつたり、借金を片付けてもらつたり、乃至は失業の苦しみを濟うてもらふといふやうな、小さな助け親が幾らも出來る。恩を施してやがては報謝を求めようとするやうなけちな親方が、國の政治を蠹毒するのも、根本にはこの歴史的なるオヤコの義理を基礎にして居るのである。

　ショクオヤ　職親の歴史は比較的古いが、その中では土方とか坑夫とか、又は露店商などいふものに特別の組織が出來て居る。しかし其他の色々の職人でも、又は今少し高尚な藝術でも、其名が無いばかりで良いにつけ惡いにつけ、親子兄弟分の感覺で繋がれて居らぬものは無いといつてよい。社會の倫理の是によつて、公々然と制限を受けて居る(389)ことは、もしも認めない者があつたら到底この時世は説けないだらう。

　

　　　　　　　　　　結論

　

　親方が最初から吉凶歳時の往訪や、贈遺交換などを繁瑣にする爲だけに、設けられたもので無いことは此言葉の用法からでもわかる。我々のよく使ふ普通のオヤカタは、職人の頭のことだけれども、江戸期の文獻によれば一商家の主人も、手代丁稚等の親方であり、武家でも奉公人は失禮で無しに、抱へ主を親方と呼んで居る。東北では地主の大きいのも親方であると共に、農家の亭主を雇人がさういひ、更に全國に亙つて總領の兄を、親方と謂つて居る例は一ぱいである。嫡子が一家の農作業を、指揮する權能を付與せられて居た結果と考へられる。オヤコが一つの共同勞働團で無かつたら、親を認める必要はもと起らなかつたのである。一つの場合はカイナリオヤ、即ち人爲の親の最も自然に近いものにシウトオヤがある。此語の本來の意味はまだ誰も考へて居らぬ樣だが、洽ねく地方の語を調べて比較して見たら、恐らく是が勞働から出た名であることが判るであらう。現在は信濃の下水内郡などに、舅をシゴトヂッサ、姑をシゴトバアサと謂ふ例がある。即ち聟は其家から働く女をつれて行く代りに、此縁によつて妻の家の勞働の、一部分を負擔して居た名殘かも知れぬのである。近世は家々の生産が孤立し、オヤコの間にも協力の機會は少なくなつたが、それでも家作りとか山伐りとか、其他臨時の大作業だけには、出て行つて大きな手助けをして居る。個人の知能が今少し低かつた時代には、中心に一人の「敬ふべき者」の存在を、必要としたことは疑ひが無く、それが又武家としての軍隊編制の、日頃からの練習ともなつて居たかと思ふ。家の分裂といふことは少なくとも農業山村に取つては、至つて近代の變化に他ならなかつた。しかもさういふ再合同をせずとも、各自が自立して行かれる多くの條件が具はつて、人はたゞ經濟以外の目途の爲だけに、主として今までの團結感の、ある部分だけを保存しようとしたかと思は(390)れる。死んで墓場に行くときの伴の數、もしくは年に何度といふ身祝ひの日に、同じ飲みもの食ひものを共にする者が、多い少ないなどは何でもないことのやうだが、我々は只この無形の滿足の爲にも、自ら所望して色々の親方となり、澤山の子分契約子を集めるのに努力した。だから是がもし社會上の地位を築き、政治の力を養ふに便だとわかると、次に更に如何樣の種類の親方制度を發明するか知れたものでない。日本がまだ純乎たる個人主義の國に、なり切つて居ないといふことは是で明らかになつた。この上は弊害を警戒してそれが惡者によつて濫用せられるを防ぐべきである。前車の覆轍は既に眼前に横たはつて居る。博徒の子分は理非を辨へずに、ひたすらに親方の指揮に服從する。それがある故にこの古來の慣行を、けしからぬものだと斷定するは過ぎて居る。

　

(393)　　　小兒生存權の歴史

　

　兒童の生存權に就ては、私が云ふまでもなく民法の原則によつて世界中非常な變遷を經て今日の?態に至つてゐるが、その生存の權利それ自身がいつから始まつたかはつきりしてゐない。それがどう云ふ風な變遷を經て、又如何なる觀念によつて今日までに至つたか、それを一通り話して見たいと思ふ。

　人間が一人前になつたと云ふ一つの標準に成年式と云ふものがある。日本では兵役の關係があつたと思ふが、近年になつて民法制定の際にこれを大變高く引上げた。その式を擧げる平均年齡は十五で、この年に元服して始めて一人前の仲間入りが出來、生産にも分配にも男一人と勘定されるほか、一人前として結婚もし得るに到るのである。

　元服の諸條件には前髪を取り、肩上げを下し、褌をかゝせ、名前を變へるなど目立つてそれとはつきり判るものがあつたが、今日ではさうした外形的變化が微弱になつてしまつた。然し注意して見ると、それでも未だその痕跡が殘つてゐる。例へば石川縣の白山下邊りでは、十五の前後には必ず親戚知己を呼んで宴會をする。それは武士酒とか前髪酒とか云つて元服の名殘りを留めるものである。又現代では褌をかくと云ふことが段々廢つて來て、いつ元服したか少しも判らない樣な?態であるが、これは農村などへ行くと、今でも親の氣にする可成り重要なことで、女の方でも大人になつた時の徽候は重要に考へられてゐる。そしてその時の祝を褌祝ひとか、たぶさき祝とか、兵兒祝ひとか色々な名前があるが、不思議なことには關東でも關西でもその時には一樣に叔母が褌を呉れることになつてゐる。それがどう云ふわけで叔母がくれるのか、又呉れるのは父方母方いづれの叔母か私は未だはつきり突きとめてゐないが、(394)兎に角「叔母呉れ褌」と云ひ、信州の南部邊で聞くと、十五でそれを叔母が呉れる所と、十三で呉れる所とがあり、男でも女でも叔母が呉れることになつてゐる。この他に殘つてゐる慣習に烏帽子親と云ふのがある。この烏帽子親は假親の一人で、一生の間交際をして實の親より義理が強い。この親が即ち名付親で、これが通例兵兒親、褌親となり、假りに叔母さんがそれに頼まれると、女ならば母方から、男ならば父の方から選ばれて、褌の綺麗な新しいのに熨斗をつけて送る所もある。

　その結果として元服した者はあらゆる方面から家の附屬物としての待遇から拔け出し、親と子と同じやうになるのであるが、この他に元服前の人間が、一つの物の生命となつて行く一つの階段がある。

　子供が十になつた時を「十子」と云つて、そこを一つの境目として居た。もつと重要なのは、數へ年七つ、つまり小學校へ入る境目で、これが一つの階段になつてゐる。この階段を重要視した制度が全國的に廣く殘つてゐる。私の子供で實驗したが、東日本全體によく目に着くのは幟の例で、私の子供が七つになつた時、此月からはもう鯉幟は立てないと云ふことを祖父さん祖母さんから云はれて、私も子供と一緒に寂漠な感じのした記憶がある。これを通例たてをけ〔四字傍点〕と云ひ、これが無くなると子供ありと云ふ標識がなくなるのである。又奇拔なのは信州邊りに見かける習慣で、七ツ坊主と云つて七ツの時一遍だけそれまでは前髪のお河童にしてゐた髪を剃つてしまふのである。七ツまで坊主にしておく所もある。愛知縣殊に尾張へ行くとやつはづき〔五字傍点〕と云つて「やつ八月」とも云ふが、數へ年八ツになつた時は宮詣りをしてそれを境に「八ツ大人」と云つて、八ツから大人だからやんちやを言つてはいけないと云ふ言葉が殘つてゐる。然し私の知る小さな範圍では大體は七つが單位で、東京では七五三と云ふ形があり、茨城縣の霞ヶ浦の周圍の地方、鹿島郡、行方郡などでは「おしめえり」と云ふことがある。注連繩を持つて神樣に參ると云ふことだらうが、いゝ着物を着せて町の氏神樣に參ることを「おしめえり」をすると云ふのである。さうするとそれから個人として獨立して神樣の氏子として認められ、氏子の一人として祈願が出來ると云ふ意味ぢやないかと思ふ。大體に於て氏子に(395)なると云ふことは大分早い時期に於て是非一通りやらなければならないものである。

　七ツ以前に子供が人間として承認された時代も幾つかある。然しこれには七ツ子の時の樣な際立つた境目はない。よくこの子はみず〔二字傍点〕子だからと云つて葬式の場合簡單にする例がいくらもある。みず子と云ふのは生れて誕生前を云ふ。ごく小さい子の事を云ひ、坊さんを頼まないで葬式をやるのである。沖繩あたりでは未だにそれが見えてゐる。現代では七ツ八ツになつて墓場を與へられない子供はないが、然し早産で生れて二日位して死ぬ子の處理の仕方は大變違つて居る。又餘り愉快な話ではないが、子供が生れた時これを遺棄する習慣がある。大體日本の百姓家などでは床を剥がしてこれを棄てるのである。四十何年も前私の十三、四の頃の記憶であるが、子供を殺すのではない、育てないのであつて、子供にしないと云ふので埋めるのである。その子供を埋めるのは家の中で、大抵は父親がやることになつてゐた。東北のずつと北の僻村の私の知つてゐる舊家で、建築をし直すので家を取壞して見た所、恰度地殻臼が置いてある所から入れ物に二杯程子供の骨が出て來た。これはどうしたのかと云ふと、同じ場所に何時も埋めてゐたからである。兎に角昔から地殻臼のあつた所へ埋めてゐたやうである。所が泣聲を立てるとそれが出來ないで、泣聲を立てない中にそれを始末しなければならない。私が目撃した人間はせむし〔三字傍点〕になつた非常に見苦しい女であつたが、それは始末中に泣き出したので連れだしたと云ふ話を聞いた。これを隱語で白牡丹と云ふが、明治初年の地方長官はこれを禁止さすのに苦心したもので、それは善政の一つになり、私の知つてゐる千葉縣知事の柴原などと云ふ人はその禁止に最も意を注いだ人である。

　然しこの悲慘な習慣は、生活的な厄介な問題から來てゐる。關東地方を脅した天明の大飢饉は、食物の缺乏の爲農民に子供を多く生むまいとする習慣をつけてしまつた。それで子供を生かす、子供の生存を承認すると云ふことが、元服の少年を一人前にする時の社會的儀式よりどれ程重大であつたか知れない。今日我々が見かける子供が宮詣りをし親類廻りをする時かける掛衣裳と云ふもの、これは私は非常に意味があるやうに思ふ。即ちこの子は育てる子供で(396)ある、大きくなつて村人になる子供であると云ふことを、氏神樣にも、又近隣故舊の間にも承認して貰ふ儀式である。この承認の儀式が現在の誕生の習慣のいくつものポイントになつてゐる。たとへば七日目に名付け祝ひにする名訊きの習慣は、何と云ふ名をつけましたかと訊きに來る時一つの生存權の承認になるのであつて、どうしても育てる事の出來ない子供だつたらそんなことを人に告げる事はしないわけなのである。その他京都附近を始めかなり廣く行はれてゐる胞衣埋めの際に行ふ胞衣笑ひの「胞衣人」の習慣、青森縣八戸附近で七日目に行はれる「從兄弟の名乘り」の例など、いづれも親族が承認し合ふのである。又東京でも未だ殘つてゐるが、子供が生れると直ぐ飯を炊く。これを産飯或は産立などと云ひ、その飯の一膳を子供に與へたり子供を保護する神樣に供へたりする。その時の飯はちつとでも多く炊く方がいゝので、富豪の家とか大切な子供が生れた時は隨分多く炊く。九州、信州邊りでは農村疲弊とか何とか言ひ乍ら一斗五升も二斗も炊く。これはちつとでも多くの人に來て貰つて食べて貰ふと、他日その子供が大暮しをするからと云ふのであつて、以上の樣な色々の事柄が子供が一つの人間となつたと云ふことを承認するかなり大切な儀式であつたのである。

　次に取上婆が重要な意味を持つて登場する。これは所によるとかなり大きな權力を持ち、婚禮の時は親類の席に列し、盆暮には挨拶し、冗談だが「私が取上げなかつたら貴方は今ゐたかどうか判らないぢやないか」と力んで俺を大事にしろと云ふやうなことを云ふと聞くことがある。これは矢張り捨てるものを俺が拾ひ上げてやつたと云ふ言葉でこれは生存の承認の重要なものである。中國の石見、出雲備前邊りの一部では取上げることを拔上げると云ひ、九州では一般に「かうぜん婆」と云ふ。兎に角子供の生存と云ふことに關與して居つたのであるから、名前が親の片割となつても不思議はない。それと非常によく似てゐるのに取上親と云ふものがある。取上爺とも云ふ。これは四十二の二つ子とか、子供が生れても生れても死ぬ家などでは他人と約束して一度その子を捨てる。するとその家人が出て來て拾ふ、つまり拾ひ親でこれはかなり廣く行はれてゐる。そして拾つた方は、扇子をつけたり着物を着せたり、お金を(397)添へたりして返すのであるが、その代りその拾ひ親とは一生の間親の交際をし、假親、義父の一人とするのである。いづれも皆子供の生存を承認するのみならず結婚にまで參與するわけである。

　その他子供の生れる前からその生存に就いて關與する例がある。例へば九州の南邊りでは「はなみぐるま」と云ふのがあつて、生れる前に里方の者がやつて來て宴會をする。食物を送つてお祝ひをする。さうするともうその子供は殺すことは出來ない。これを山梨では「ゆうぢやく祝ひ」、靜岡縣では「でんぎよう祝ひ」などと云つて、この子供は本當に生存權を承認せられた子供と云ふことになるのである。

　以上は私の調べの一端であるが、斯う言ふ風な意味で行へば、子供の生存權がどんな風に扱はれてゐたかその變遷が判る。農村などでは子供を豫算みたいに生れてから調節する習慣があるが、それは實は經濟問題からである。そして、事實に於て經濟力を考へないで六ツ兒を生んだり、或は子供を十二人も十三人も育てたから祝ひをするなどと云ふ事は過去のものとなつてゐる。現在では生活苦の女が子を連れて自殺するのを世間で「あの女が自殺する位なら連れて行くのは尤だ」などと云つて一種のモーラル・ジャスティフィケーションを持つてゐる。若しそれが「自分が死にたくても子供迄連れて死ぬ奴があるか」と云ふ時代であれば、今日みたいに親子心中が盛に起るまいと思はれる。要するに親子心中を可能ならしめてゐる一つの原因は一種の流行もあるだらうし、又はヒステリーもあるだらうが、今一つの原因は社會が小兒の生存權を與へなさ過ぎる爲だらうと思ひ、そこに我々が考へなければならない背後の大きな問題があるのではなからうか。

　

(398)　　　童兒と神

　

　プエブロを家とする赤色土人の赤ん坊と、金字塔の底に眠る埃及のミイラとは、同じ人間でも端と端との相異であるが、その姿が不思議なほどよく似てゐる。しかも雙方ともに自身には考へがなくて、これを愛するものがかういふ格好に、その體を包んでやるのである。かくの如き共通は偶然か、はたまた隱れたる理由があるのか。それを研究して見ようとする勇敢な學者が、あるか否かも自分はまだ知らぬが、兎に角に小兒の世界にはまだ神秘が遺つてゐて、稀にちらりとその片端を見せることが、日本などにもあるやうに思ふ。そんなことを今自分は考へてゐるのである。

　去年ある友人が與那國の島から、携へて還つて來た寫眞の中に、母が白い麻のクミヤーと名づくる單衣で、小兒を脊に負ふ風俗を見せたものがあつた。五六尺ばかりの二布を、半分縫ひ合せて脊筋とし、前は離れ／”＼にして、これをたすきに掛けると、我々のおぶひ帶のやうに十文字に引締る。至つて重寶且つ便利なる品である。その製作は簡單で、頗る巫女などの用ゐるチハヤといふものに似てゐる。南の島々でも白色は神用であつて、常人は忌みてこれを使はず、またこの類の衣は祭に奉仕する女性以外に、着ることがないやうに思ふ。

　さうすると小兒ばかりが、かういふ待遇を受けることは、よつぽど不思議であるが、よく氣をつけて見ると我々の中にも、これと似た習ひがまだかすかに殘つてゐるのである。關東の方では子供を負ふはんてん〔四字傍点〕に、平袖の袖があるけれども、西の方では袖なしが普通であつて、綿入れではあるが形?は著しく、右申すクミヤーに近い上に、今度の旅行で豐後伊豫などで見たものは、春の季節であるのに白地のものが多かつた。遠くからでも眼につくのは、かすり(399)でも染模樣でも、子供を負うたもりばんてんの、白つぽい袖なしであつた。襟やおくみ〔三字傍点〕がついて別物のやうにはなつたが、なほ暗々裡に色の好みが、古い風習を傳へてゐるのではないかと、考へられたのである。

　それから次に考へ及ぶことは、中世の武人が戰場に着て出た、ホロといふものゝ起原である。母の衣と書くところから、昔唐土の或國になどと、事々しい由來談を軍學者たちは説いたが、ちつとも根據のないことであつた。古い畫にあるのと合致するから、遊就館などに出て居るものが、古くからの形かと思ふ。さうすれば疑ふところもなく、裳すなはち婦人の腰卷である。腰卷を魔除けとする思想の、今一つ前に溯つて、何か母の衣が子を保護するといふ信仰があつたのでは無いか。沖繩ではひだ〔二字傍点〕の多い女の裳を、カヽンと呼んでゐる。ハカマといふ語と、本が一つではないかといはれてゐる。今日の沖繩婦人はもうこれを使用せぬが、しかも生れ兒はそのカヽンを以て包むのみならず、祖母その他の老女が小兒に名をつける時には、儀式として頭からカヽンを被つて出ることになつてゐる。恐らくはこれに類似する風習が内地にもあつて、東國の勇士たちまでが、母の衣の力を軍陣の間に利用することになつたのであらう。

　小兒にケサといふ名を與へることは、日本全國に亙つて古くからの習であつた。文覺上人に殺されたけさ〔二字傍点〕御前から越後の盆歌のおけさ女郎に至るまで、女にもあれば男の兒にも今朝吉けさ太郎が隨分多い。それが九州の南などに行くと、田篇に衣と書き、若くは田の下に衣を附けて、それをケサと訓ませてゐる者があつて、その説明には物知りも弱つて御座る。これなども自分は母の衣の、一轉したものかと思つてゐるがどうであらうか。通例はかういふ名を子供に附けるのは、胞衣の紐を肩に掛けて、産れて來た者に限ると説明せられる。しかしそれは必ずしも説明にはならぬやうである。ケサといふ名を與へれば災害が避けられると考へるには、別に何か根據がなくてはならぬ。これもやはり最初は母の衣の力を以て、小兒を保護しようとしたものが、その外形の似たところから、これをけさ〔二字傍点〕と呼ぶことになり、後には又物はなくてもその名さへあれば、まじなひとして十分だと、考へるやうになつたのではなからう(400)か。

　貝塚の底に押曲げて人を埋めた時代から、小兒だけには特別の待遇があつた。成長して一人前になるまでの間は、祖先の靈から假に預かつてゐるものゝやうな考へが、大昔の人にはあつたらしい。それ故に多くの信仰行爲には、日本などではよく小兒を參與せしめてゐる。兒文珠の信仰なども、斯ういふ固有思想に根ざしてゐるやうである。

　

(401)　　　産婆を意味する方言

　

　又一つ新しい問題を提出して見たい。産婆を單にバアサンといひ、又はババ、ババサ若くはオンバといへば、此職業の婦人をさす處も少なくは無いが、それでは不便である故に、地方で工夫し出した色々の名前があるらしい。それが産婆といふ職業の發生、又その社會上の地位ともいふべきものを、推定せしめる手がかりになるのみならず、一歩を進めては常人の家庭に於て、誕生といふ事實をどう考へて居たかといふ、かなり大切な問題も答へ得しめるやうになるかと思ふから、今後讀者の注意を乞ひたいのである。

　現今は若い婦人に氣の毒とは思ひつゝも、サンバサンといふ語をそつと用ゐて居るのは、其他の名が更に今一層不適當な爲であらう。私などはトリアゲバアサンの手にかゝつた一人であるが、此名は餘程古くからの標準語と言つてもよからう。貞享版の節用集には、世話詞として「穩婆トリアゲババ」と出て居る。陰では男たちが皆さう呼んだのである。それが今日も實用に供せらるゝ區域は廣い。

　　トリアゲババ　　　　　　　　　　　　大和北葛城郡

　　トリアゲバアサン　　　　　　　　　　伊勢山田

　　トラゲババ　　　　　　　　　　　　　近江八幡

　　トリアゲババ　　　　　　　　　　　　美濃山縣郡

　　トヤゲババサ　　　　　　　　　　　　三河碧海郡

(402)　　トラゲバアサ　　　　　　　　　　　　備後沼隈郡

　取上げるといふ語は、今はたゞ抱き取るといふ位の感じに用ゐられて居るが、事によると最初今少しく込入つた意味があつたのかもしれぬ。さうで無いと關東奧州に今も行はるるコトリといふ語がわからないからである。

　　コトリババ　　　　　　　　　　　　　常陸上野等

　　コトリ　　　　　　　　　　　　　　　福島伊達郡

　此例は消えて行かうとして居るが、尋ねるとまだ弘いらしい。足利時代には京に子取尼といふ妖婆が居て、?々人の子を殺したので刑に遭うたといふ記録はあるが、是は今でいふなら貰ひ兒殺しの亞流で、「取る」といふ動詞には、鬼などの人を捕るやうな意味は無かつたものと思ふ。養子を取るといふのも古いことだから、トルは即ち採用、家族の一人に加へるといふだけの、例へば嫁どり聟とりの取りであらう。即ち恐らくは斯ういふ常任の役目が始まらぬ前から、子とりといふ行爲はあつたのを、後に或老女の名の上に附添へただけかと考へる。

　奧州の例を一瞥すると、意味のはつきりせぬのは津輕地方のテガクババ、之に對して外南部のテヤクババ、若くはテンニャクである。典藥かといふ説もあつたが、私は些しも成程といふ氣にならぬ。尤も是と大抵は併存して、コナサセといふ語も行はれて居た。

　　コナサセババ　　　　　　　　　　　　青森縣處々

　　コナサセ　　　　　　　　　　　　　　秋田縣處々

　　コナサセ　　　　　　　　　　　　　　岩手縣一般

　　コナサセガカ　　　　　　　　　　　　仙臺附近

　ナスとは産むこと、子をナサセる女だから意味はよく判つて居る。鳥取縣西部でウマラカシババなどといふのも、是と同樣に少し明瞭に失する位である。(403)其以外の一つの方言群は九州に在つて、是のみは東北との一致が無い。

　　コズリババ　　　　　　　　　　　　　博多

　　コーヂーババ　　　　　　　　　　　　筑後三瀦郡

　　コゼンボウ　　　　　　　　　　　　　佐賀地方

などの僅かの例を見ると、何とでも臆説は立てられるが比較をして見ると疑の餘地は少ない。即ち

　　コゼンボ、コゼンバ　　　　　　　　　肥前北高來都

　　コゼンバ　　　　　　　　　　　　　　同　平戸邊

　　コゼウバ、コゼバンバ　　　　　　　　同　五島魚目

　　コウゾエバンバ　　　　　　　　　　　同　三井樂

　　コゼババサン　　　　　　　　　　　　長崎

　　コゾイババ　　　　　　　　　　　　　肥後球磨郡

　　コズヱババ、コゼンボ　　　　　　　　鹿兒島縣

　　コズヱババ　　　　　　　　　　　　　宮崎縣

　　コズイ　　　　　　　　　　　　　　　豐後日田郡

の語例が示す如く、もとは子をスヱルといふ語の、色々に變化したものである。而うしてスヱルといふことは、「手に取りすゑる」即ち把持することで、粗末な語を使ふならば、「生存の承認」であつたらうかと思ふ。

　尚二三の異例を擧げて見ると、仙臺ではコナサセの他に、ウシロガカといふ名もある。後から抱いて介抱する役であつたのである。山梨縣では一に又アラチバーサンと謂つた。或はもと子おろしの方を主たる事務としたものかと、三田村玄龍氏は言つて居らるゝが、アラチは單に産穢のことだから、之に携はる婦女といふだけであらう。但しその(404)任務が若干宗教的であり、祈?まじなひと關係して居たといふことならば想像に難くない。只其はつきりした痕跡が見えぬのみである。淡路の島の方言にはヲマキといふ名があつたといふが、是はどういふ意味だらうか。此點に關しては殊に島々の慣習と名稱とを調べて見る必要がある。といふのは是を專門とする職業の餘地が無くて、久しく昔ながらの仕來りに從うて居たものが多かりさうだからである。

　

(405)　　　私生兒を意味する方言

　

　民法に所謂私生子、東京などで普通にテテナシゴといふものを、地方で何と呼んで居るかといふことを考へて見るのは、婚姻制度研究の一方法として價値がある。今までに知れて居る二三の實例を掲げて、出來ることならば此上の蒐集を勸めたいと思ふ。出處は一々に示さなかつたが、何れも其地の方言集又は郡誌の如き、近年の刊行物から拾ひ出したものである。もし反對の事實があるならば注意を願ひたい。

　　ホンマチゴ　　　　　　　　　　　　　羽後仙北郡

　　シンガイゴ　　　　　　　　　　　　　越中の一部

　　フリタゴ　　　　　　　　　　　　　　「出雲方言」

　ホンマチゴもシンガイも又フリタも略々同じ意味で、内證ごと若くは一個人の私事といふことである。通例はホマチといへば隱してする貯金であるが、必ずしも戸主に知らしめないといふ意味は無いと見えて、富山縣では又シンガイ田と謂つて下男の作る田もあつた。情夫をシンガイ男といふ例もある。出雲では又「ヤマゴメ」とも謂ふさうである。是はよく分つて居る。

　　ヨクナシゴ　　　　　　　　　　　　　越後西蒲原郡

　ヨクナシといふ語は北會津などにもあつて、婦人の色々の男と附合ふ者を意味して居る。但し何故にそれをヨクナシと謂ふかは、使つて居る人たちに問うて見ぬと判然せぬ。次にどうしても解し得ぬのは、

(406)　　ダゴノコ　　　　　　　　　　　　　能登珠洲鳳至

　　ネコダ　　　　　　　　　　　　　　　飛騨の一部

　　ツボッコ　　　　　　　　　　　　　　信州下伊那

　　ツボッコ　　　　　　　　　　　　　　遠江磐田郡

などである。ネコダは物を背負ふ場合に着る藁製のせなかあての名で、それと何かの關係があるらしい。ツボは事によると外庭のことであるかも知れぬ。陸中遠野附近で下女に生ませた子をマヤゴ即ち厩舍兒と呼んで居る。許されなければ家には入れぬからの名であらうと思ふ。

　　ヒロイッコ、ヒジョッコ　　　　　　　信州下水内郡

　　ミシケゴ、ヨベコ　　　　　　　　　　鹿兒島縣一部

　ミシケルとは九州廣い區域に於て、見付けるに該當する方言だから、即ち北信濃の拾ひ兒と同じである。勞力が父の家に必要である場合には、認知は之を發見と名づけてもよろしい。親子の名乘りといふことが、大昔以來の物語の愉快な一場面となつて居たのは、圖らずして一人の味方又は部下を増加するといふ幸福からであつたと思ふ。ヨベコといふのも喚び寄せることであり、ヒジョッコはヒロヒ子の轉訛であらう。最初に、

　　テンドコ　　　　　　　　　　　　　　鹿兒島縣内

は、天道兒即ち自然兒で、よく／＼父親を知り得ない場合をさしたものと思ふ。古風な山村には今でも天道兒の出來るやうな機會が、あるといふ話も傳はつて居る。

　沖繩本島の國頭で、ヤグサミグヮーと謂ふのは、前に擧げたヤマメ兒と同じである。

　斯んな話も消滅してしまはぬうちに、採録だけはして置く必要がある。それで互ひに通用した時代の、人の心持だけは分るからである。而して其時代は必ずしも遠いことでは無かつたやうである。

　

(407)　　　　　　　私生兒の方言

　

　前號以後に知り得たる二三の例。

　近江伊香郡でツキヨゴ、三十餘年前の縣の方言調査書に出て居る。私通をソキアヒといふ土地もあるが、此郡ではどうであらうか知らぬ。もし月夜兒であつたら面白いと思ふ。關東諸縣には山中の平地に、月夜野といふ地名が多い。或は夜中そこに集まつて、何か祭を營んだ故跡では無いかと思つて居る。それと關係があつたとしたら、注意して見なければならぬ。

　三河碧海郡誌には、シクジリコ、或はホッタゴ、テテナシゴともいふとある。ホッタゴは多分前の「出雲方言」のフリタゴと一つであらう。

　信濃西筑摩郡誌には、ヒジョッコ、又はピチョシコ、ビンコとも謂ふとある。同書に扶助兒ならんと説いて居るのは當てずつぽうで、是も同縣下水内郡のヒジョッコと同じく、ヒロイッコからの轉訛に相違ない。併し何が故に棄兒と名を同じくするかは、まだ我々にも解説し得ない。

　遠江周智郡誌にはイボッコ。但しこれは同國磐田郡の如くツボッコであるのを、誤植したのでは無いかとも疑はれる。土地の人に尋ねて見る必要がある。

　北秋田の大館附近では、同縣仙北郡と同じホンマチゴと謂つて居る。ホンマチは私貯財産のことである。

　美濃山縣郡誌にはマツボリゴ。マツボリもホンマチ、フリタ、シンガイと同じく私の財産のことであるから、此意(408)味は略々分つて居る。

　此序に、佐渡では連れ子のことをセナカウチゴと謂ふさうだ。恐らく義父の按摩でもさせる子といふ輕い名で、母親の負擔といふやうな、考へた意味は無いのであらう。

　

(409)　　　私生兒のこと

　

　ナイショウゴといふ語は、又筑前戸畑市邊でも用ゐられて居るさうである。テテナシゴは多分何處にも通ずるであらうが、秋田市でもやはりテデナシゴ、同縣横手町ではホッタワラス。ホッタ即ち私の貯財のことで、山陰各地のホリタ、フリタと同じく、新開田のホリ田から出て居り、シンガイも同じ意味で、大寶令以來の墾田私財の思想が、後終に家族の別働きの上にも及んだことを語るもので、それが更に又一轉したものと思はれる。尚栃木縣ではホマチゴ、ホマチも亦内密の貯金である。會津の河沼郡ではシラハゴ、是は白齒子であつて、前號に高木君の報ぜられた嫁が必ずお齒黒をつけた風習（郷土研究二卷一一二二頁）によつて説明せられる。可愛さうだよ白齒で身持ちといふ俗謠は人のよく知る所である。其他加賀でダゴノコ、日向でチョチョナンコといふ二つはまだ意味がよく分らぬ。前項堀井君所報の阿波のイキリダマと共に、注意すべき例である。因みにいふ。筑前博多では觀賞草木の自然生をテントウバナと謂つて居る。天道も自然も意味同じとすれば、鹿兒島地方の私生兒方言テントゴの起原も、さ迄深く臆測するに及ぶまい。

　

(413)　　　常民婚姻史料

　

　　　　　　　緒言

　

　日本の結婚風習は將來どう變つて行くだらうか。又どう變つて行くのが國總體の爲によいだらうかを考へて見ようとする人の參考に、今まで採集せられて居る現在の事實を、整理し且つ排列して見ることにする。我々の慣行は過去數十年の間、會て一度も手の裏を返すやうに、次の新しいものへ飛び移つたことは無いやうだ。さうすると誰もが心付かぬうちに、ぢり／＼と少しづゝ變化して、末には昔と今と、丸で面目を改めることになつたのである。次に此變化は各地方一時に、又一樣には起らなかつた。それ故に數多くの互ひに相知らざる實例を竝べて見ると、自然に其變化の足取りが考察せられるわけである。

　私たちの考察は、まだ多くの假定を含んで居る。現在の郷土研究に由つて明らかになつたのは、大略日本の三分の一ほどで、島や山村には一向學界に知られて居らぬ處が幾らでも有る。それが追々に調査せられ、新しい資料が到着したならば、意外な發見もあらうし、又心強い證據も擧がると共に、今日の假定を訂正すべき點も少なくはないであらう。それを促す爲にも大いに此問題の興味を説き立てる必要があるのである。

　私の蒐集の及ばなかつた部分も有るか知らぬが、大體に於て此表の中に掲げられて無い言葉が、未だ研究者には知(414)られざる事實である。それを心付いた諸君にして、もし出來るだけ正確に之を觀察し且つ記録して置かるゝならば、其勞苦に感謝する者は、決して我々少數の好事家だけに止まらぬであらう。今日の日本は全く此種の知識には飢ゑて居るからである。

　現在の標準家庭の標準慣習と目せられて居るものにも、尚且つ變化はあり又變遷もある。しかし是は概ね人の知聞に新たなることで、それを説き立てることは外國人にしか入用が無い。

　讀者はたゞ自分の通例と思ふものと、本篇記す所の「婚姻奇習」との差異に注意すればよろしい。それが私たちの謂ふ日本の埋もれた歴史であり、その各地方の少しづゝのちがひ目が、我々の是から調べて見ようとする國の制度の沿革の跡なのである。

　

　　　　　　　　　　一　嫁入の起り

　

1、デアヒ　出合ひといふ簡便な婚姻式が、近年都會の地で採用せられる迄は、嫁入は當日媛聟雙方の家に於て、兩度に行はるゝ祝ひの儀式であつた。出合ひは即ちこの二つの手續きを併合して、時間を省かうとする新たなる便法であつて、其名前も告別式などよりは遙かに感じがよい。

2、ヨメドリ　嫁入は單に嫁女の家の側から謂ふ語であつて、近畿中國では普通に之を嫁取りと謂つて居る。是は聟方の儀式の嫁方に比して、次第に重々しくならうとする傾向と伴なふものらしい。或は又ヨメムカヘと謂ふ土地もあつた。

3、コシムカヘ　江戸では古く輿迎へといふ語もあつたが、今日はもう使ふ人は少ないかと思はれる。輿は嫁の乘物のことだが、輿に乘つて嫁入することも、さう古い習慣では無かつた。嫁方では之に對して輿入れといふ言葉もあり、(415)或は其中間から見たヒキウツリといふ語も尚行はれて居る。

4、ムカサリ　又ムカサレ。「迎へられ」の方言である。嫁入は祝言又は婚禮と謂つても通ずるが、東北は一般に之をムカサリと呼んで居り、又縁づくことをムカーサルと謂ふ。此語の及ぶ所は信州から駿河伊豆、ずつと飛び離れて宮崎縣の南部でも、嫁入することをムカサルと謂つて居り、種子島ではムカーラッテユクとも謂ふ。

5、ゴゼムカヘ　その種子島では輿迎へをゴゼムカー、九州の南半は一般にゴゼムカヘと謂ひ、鹿兒島縣では又ゴゼンケ、或は誤つてゴジュンケといふ人もある。熊本縣では阿蘇神社初春の田作り神事に、神が姫神を迎へたまふ儀式があつて、俗に之を御前迎《ごぜんむか》へと呼んで居り、此式の終るまでは一般婦女の結婚を禁止した（　　　阿蘇面影）。ゴゼは亭主が女房をワゴゼとも謂つたやうに、元は妻を意味する敬稱であつたらしい。八丈の島でも情を通ずることを、カタルともゴゼニナルとも謂つて居た。

6、オカタムカヘ　茨城縣の北部には、今でも嫁入をオカタ迎へといふ地方がある。オカタはゴゼと同樣に人の女房の敬稱であつたのが、後には我妻だけに限つていふ處もあり、或はオカッサマだのオッカアだのと、至極粗末に使ふ者も多くなつた。以前は大方殿などといふ漢字を宛てゝ居たから、惡い語ではないのである。

7、ネビキ　沖繩では嫁引移りをニービチと謂つて居る。奄美大島ではネビキイハヒといふさうだから、是も根引きもしくは妻引《めび》きであつたらうと思ふ。但し大島には別にトジカメユン、又はトジトメユンといふ語があつてトジは即ち主婦のことだから、爰でも嫁入と婚姻とは二つのものであつた。

8、シュウヤウ　安藝の安藝郡で婚禮をさう謂ひ、備後の三原でもシュヨと謂つて居る。今では無論祝言や祝儀と、同じ意味の如く解せられて居るだらうが、事によると別に起原があつて、或は出雲の或漁村で、男女の契を結ぶことをショヤといふのと、關係のある語かも知れない。

　始めてヨメイリといふ語の日本の記録に見えて居るのは、源平時代よりも尚少し前のことであつた。しかし是だけ(416)では嫁入が今日の如く、結婚即ち夫婦生活の開始を意味して居たかどうかは確かめられぬ。といふよりも却つて外に住んで居る妻を、我親の家へ迎へ取る式であつたと想像せられるのである。玉葉（建久二年六月二日の條）には、迎婦之儀といふ語が用ゐてある。中古妻の家で婚姻するを普通とした時代でも、其夫人はいつの間にか夫の家へ入つて來て北の方となつて居る。事實嫁入は無くては濟まなかつたのである。たゞそれが年取つて後か、又は新婚早々かが問題となるだけである。嫁入といふ語には、嫁を夫の家へ連れて來るといふより以上の意味は含まれて居なかつた。

　又今日でも嫁入が結婚よりずつと後れて、行はれで居る例は諸處にある。たとへば簸川郡の西濱では、子供が生れてから其子を抱いて嫁入の式をするは珍しからず、長崎縣西彼杵の太田和《ただわ》村でも、嫁入と誕生祝とは同じ日に行ふを普通としてゐる。つまり女房は尚暫らくの間、親の里に留まつて居たのである。さういふ習慣はよく見ると都會でも折々見かける。

　

　　　　　　　　　　二　嫁の盛装する日

　

l、ヨメスマシ　山口縣の祝島では、婚禮をヨメスマシと謂つて居る。岡山縣の日生町でも花嫁をヨメズミと謂ふから、多分は同じ語で前者も嫁住ませであらう。ヨメを花嫁に限るのは關東の風であつて、西では年たけても夫聟ある者は即ちヨメサンである。所謂迎婦之儀の婦といふ漢字は、單なる配偶者で無くて宿の妻、もしくは家刀自を意味して居た。ヨメ入りは即ちその「婦」となるべく、入つて來る式であつたのである。

2、アネコムカサリ　岩手縣の和賀郡などでは、所謂ムカサリを又斯うも謂つて居る。さうしてアネコは此地方では嫁のことである。嫁をアネサマ、アネサと謂ふ土地は廣い。人も敬してさう喚ぶのみか、舅姑も彼女をアネと謂つて居る。越後の西蒲原郡などでは、特に嫡子の妻をのみアネ又はアネサマといふさうだ。里の家では末女であらうとも、(417)引移りをして來ればアネとなるのは、其地位の承認であつたらうと思ふ。是について心付くのは足利時代には既に今日のやうな嫁入、即ち之を婚姻の開始とする風習が始まつて居たらしいが、看聞御記などには何箇處も、ヨメイリに嫂入といふ字を宛てゝ居られる。嫂はアニヨメとも訓じ、若い女の中の主席だつた。乃ち嫁入は獨り聟の家の族員となるだけで無く又其家の尊敬せらるゝ者となることであつたやうに思はれる。

3、ヒメコ　東北では以前花嫁をヒメコといふ語があつたが、現今はどうあるか未だ確かめない。兎に角に可なり堂々として乘込んだものであることは、ゴゼやオカタなどの名稱からも想像し得られる。

4、ハナオカタ　山梨縣は大よそ全部、花嫁をハナオカタといふ語が行はれて居る。花は勿論若くて美しく、且つ大いに着飾つて居たことを意味するのであらう。九州でも長崎などにはハナオカッツァンといふ語があつた。信州の諏訪では只オッカサマと謂ふのが嫁のことであつた。尤も此等はすべて他人から謂ふ言葉である。

5、ハナジョウロウ　神奈川縣の高座郡では花嫁をハナジョウロウ、靜岡縣の東部でもハナジョウロ、伊豆ではたゞオジョウロと謂つて居る。女の子を上品にオジョウロノコといふ例は江戸にもあつたが、起りは上臈であつて、新婦が紅粉を以て粧ひ立てた姿は、普通でなかつたが故に殊にさうしか呼べなかつたのであらう。紀州の熊野では嫁をジョウ、今日良家の女をオジョウサンと謂ふのも、漢語の孃の字を當てたのは後からだらう。兎に角に女郎がもと敬稱であつたことは、佐渡に行はれた次の民謠からでも察せられる。

　　　旦那に添やジョロウだ

　　　みこの子に添や山伏だ

　こゝにいふ旦那は、村の大家の主人のことであつた。

6、オミャア　熊本縣の北の諸郡では、カカを又オミャアと謂ひ、妻帶することをオミャーモツとも謂つて居る。現在の感じは頓と尊敬した樣でもないが、是も亦ゴゼ即ち御前の一つ古い形である。此地方の神社の祭禮に、美しく化(418)粧した若い女を神に捧げる式があつて、それをネロミャーと謂つて居るのは練《ね》り御前《おまへ》、即ち行列の中心になる御前といふことで、人によつては之を練り嫁とも書くのである。此地方の方言誌にはネロミャーは人身御供のことだと報じたものもあるが、オマヘとヨメとは本來は至つて近い語であつたらしいのである。

　ヨメといふ語の日本の文獻に見えたのは、枕草紙などが古い方かと思ふ。同書には「有りがたきもの、舅にほめらるゝ聟、又しうとめに思はるゝヨメの君」などとある。即ちもう此頃から、嫁は姑と對抗すべき地位であつた。更級日記には「越前守のヨメにて下りしが、かき絶え音もせぬに云々」ともある。是に相當する語が以前にも有つた筈だが、トジがそれであつたか、もしくは只ミメと謂つたか、私はまだ斷言し得ない。兎に角に中世以後のヨメは盛装するのが特徴であつた。だから吉女であつたといふ説は正しいと思ふ。然るに現代の地方の實例、殊にかけ離れた島々の風俗には、事實は全く嫁入であつて、方式の是と正反對なものがある。たとへば對馬の北端佐須奈村に於ては、嫁の婚禮の日の着衣はテクリといふ筒袖の不斷着に、二尺幅の前掛をしめ、大風呂敷に着換へを包んで、仲人と共に新郎の家に行き酒事がある。調度品は皆實家の方に置いてあつて、必要に應じて取りに行くとある（民族二卷三號）。

　東京府下の伊豆大島でも、座敷では祝宴に列なる人々が盛装してひしめいて居るのに、當の嫁女のみは不斷着の筒袖のまゝで、臺所に來てもう皆と一緒に働いて居る。誰の爲の御祝ひかと思ふやうであるといふ。若い婦人の本當の晴着は、葬式の日に至つて始めて見られるといふのは、多分主として聟の親の葬式であらう。八丈の島でも此時になるまで、嫁は衣裳を持つて來ない。遠くは大隅の種子島などでも、嫁の衣裳はすべて尚里方に留めてあつて、いつと無くぽつ／＼と持つて來る。是と花々しい嫁の荷物送り、又は多くの地方で衣裳見せと稱して、一夜に何度も着換へただけではまだ濟まず、翌日はわざ／＼近隣知己の女を招いて見せるといふ習はしと、餘りにも類を異にするやうであるが、私の説明は至つて手輕である。是は單に祝宴の日をくり上げただけで、まだ本式の嫁入は行はれなかつたのである。本式の嫁入は此地方では、親を見送つて愈々自分が次の主婦に、就任するの日がそれであつて、此際には祝(419)宴が無かつただけである。

　

　　　　　　　　　　三　迎へ人

　

1、ヨメムカヘ　嫁迎又は輿迎は聟の家の事務の如く、小笠原流などでは考へられて居たが（八十翁疇昔話その他）、今でも地方には必ずしもさうは思つて居ない例が多い。普通嫁入は夜のものゝやうに言ふが、それは其以前、昼の間に嫁の家の方で行ふべき儀式が色々とあつたからである。其事を以下追々に敍述したいのであるが、爰には先づ一つ嫁方の行事を例に引いて置く。靜岡縣の安倍郡で輿迎と謂つて居るのは、嫁入の當日、仲人は新郎と其親戚とを伴なひ、聘物《へいもつ》をもたらして新婦の家に行くことである。其際は新郎が上座に坐つて、新婦の親々と盃の交換があり、それから近隣をまはつて披露の挨拶をなし、次に新婦をつれて我家へ還つて來るのだといふ（郡誌）。

2、クレワタシノサカヅキ　宮城縣では普通に此樣な無細工な名前を以て呼ばれて居る。たとへば松島の浦戸村では、婚禮の日、聟先づ媒人及び聟添ひと共に、新婦の家に行つて此盃事をするのである。之に對して聟の家で行はるゝ盃事を引渡しの盃と謂ふ（宮城郡誌）。式は雙方全く同じやうだが、幾分前者に重きを置くらしい形が見える。

3、クレシウギ　是も所謂呉れ方に於て、祝儀と名の付くものが行はれて居た證據である。群馬縣は多野郡などに、此言葉が行はれて居るが、詳しいことは書き留めて置かなかつた（多野郡誌四一七頁）。

4、フナモリ　安房ではこの嫁入當日の二つの祝儀に、雙方とも酒宴の酒肴の臺に船盛と謂つて、船の形をしたものを飾り立てる。その船盛の帆の張り方だけが、貰ひ方とくれ方とで入船出船のちがひを見せて居たといふ（安房郡誌）。乃ち此半島でも朝のうちの儀式は重々しかつたのである。

5、ムカヘト　岩手縣上閉伊郡の海岸地方で嫁入の日の午前に嫁方へ迎へに行く者をさう謂つて居る。仲人夫婦の他(420)に、聟の父方母方の親族各々一人、是に樽肴を持つ荷持が添ひ、普通には本人は行かぬのだが、娘に養子を迎へる場合には其娘即ち嫁女は必ず一行に加はり、又同じ郡でも土淵村の嫁迎に於ては、聟の兩親は其兄弟を以て代理とするが、聟の本人は迎への人の中に居る。此ムカヘトに對して嫁入には又オクリトといふ語もある。

6、ムカヒド　石川縣能美郡でも嫁迎の一行を斯うよんで居る。此地方では一帶に、聟も其親たちも皆代理を出すことになつて居る。勿論町村によつて多少の相違は有らうが、能登の輪島町では必ず女性が一人、聟の姉か妹中の最年長者で寡婦でない者と、其附添ひが一人の他に、亭主名代として最近親の男子一人が迎へに行くことになつて居る。同じ半島の黒島村でも、嫁迎は女のするものとなつて居る。さうして養子聟取には男を迎へにやるのである（鳳至郡誌）。

7、ムカヘニン　信州の上高井郡でも、輿入當日受方より迎へ人を出す風習がある。是も嫁の相手となるべき先輩の者を近親中より選ぶといふから、多分は亦聟の姉か叔母かであつたらう。是が嫁方から嫁の同列に加はつて來るのである（郡誌）。

　是は聟入の條になつてもう一度細かく説かねばならぬが、嫁迎は迎へといふ爲に次第に使者の如く考へられて來たけれども、本來は嫁方に行つて盃事をするのだから、重々しい近親が行くのは當然である。是も近頃は代理になつただけで、聟御當人が行くのが正式であつた。それを何とかして止めにしようとした努力は隨處に窺はれる。伊勢の射和《いさわ》の實例はちやうど中程で、當日は花聟禮服を着して寺詣りなどをすませ、嫁の行列に途中で逢ふやうにして居る。さうしてやはり嫁の車の後に附いて、我家へ入つて來ることにして居たのである。

8、モラヒゲンゾ　東北ではこの迎へ人の來訪をさう謂つて居る處が多い。鹿角郡でムゲア又はモレアデンジョと謂ふのもそれである。ゲンゾは見參即ち初對面を意味し、當然に盃事を伴なふべきであるが、既に略せられたものか、樽コショヒの作法のみがやかましい。即ち一行の携へて行く酒樽の酒を半分取つて、嫁の家の酒を半分其樽に注ぎ入(421)れるのである（内田武志君）。斯んな事をして居るから酒宴らしい酒宴は無かつたのだらうが、それでも貰ひ見參の一行には、聟の父母、兩方の叔父叔母、從兄弟分家の者など、仲人を合せて七人が普通であつた。此人數は閉伊などでは偶數に限ると言つて居る。爰でも樽持を加へると八人である。

9、ムカヘイチゲン　婚禮の日の朝、聟が仲人近親の者と共に、嫁の家へ禮儀に行くことを迎ヘイチゲン、又は朝イチゲン、男イチゲンなどと謂ふのは、上州の館林、武州の妻沼等である。此邊の郷土誌に迎謁見とも書いて居るのは、エチゲンと訛つて居る結果で、一見は即ち初對面、第一囘の見參であつた。是は嫁殿と同行して來るのではないが、迎へといふので本來の趣旨はわかる。之に對して嫁到着の刻限に門に迎へ火を焚くことを送りイチゲンと謂ふのは、やはり亦嫁方親族の入來を意味したのである。岩手縣のムカヘトと違つて、養子奪取の場合には家附娘は朝イチゲンには行かず、近親のみが迎へに行くことになつて居る。

10、オマチヅカヒ　宮城縣玉造郡では、右の嫁迎の一行と共に、荷擔ぎをして來る役を御待使と謂ふ（郡誌）。

11、オチウシ　其隣の栗原郡では之をオチウシと謂つて居る（郡誌）。御中使であらう。

12、タルコショヒ　前に掲げた秋田縣鹿角の樽こ背負ひは、聟の從弟で兩親揃うた者が之を勤める。樽は通例二升樽、是に藁でこしらへた蝶々の形を結び付ける。

13、タルヲトコ　樽男。西津輕の木造町附近の村では、嫁入の時に花嫁の前を、紋附きを着て角樽を擔いだ男が、高聲に「嫁御ぞ／＼」と呼はりながら案内して行く。其聲を聽き付けて人が出て見物するといふ（郷土研究三卷十一號）。案内といふからには是も聟方から派遣せられた迎へ人の内であらう。

14、タルモチ　長崎縣上五島の有川などにも嫁を貰ひに往くとき樽持と稱して、聟方親戚の兩親の揃つた子供、角樽を持ち仲人に附いて嫁方に行き、嫁入の列に同行して來る。

15、オチャモチ　同じく五島の日の島では、嫁迎に仲人夫婦の外、男女各一人の子供が同行する。男の方をオタルモ(422)チ、女の子をオチャモチと謂ふ。但し「嫁御ぞ」は言はぬものと思はれる。

16、サーレー　沖繩縣の宜野灣《ぎのわん》村などでは、聟方の者一人、嫁迎の日に妹方へ遣つて來て、

　　　サーレー、　サーレー

　　　ミユミノアンマノ、　チケーシヤービラ

　　　（いで／＼御嫁の御前の仕へし侍らん）

と高く唱へつゝ逃げて行かうとするのを、女の家では強ひて押捕へて、いやがる蕃椒酒《とうがらしざけ》を飲ませなどする（シマの話）。後にも澤山例は出て來るが、是は皆ヨメがもう聟方の者なることを宣明する方式であつたらしい。

17、ヨメムスビ　陸中海岸地方の嫁迎には、御持物と稱して男女の衣服をたゝんだものを柳行李に入れて來る風がある。其たゝみ方には定まつた作法があり、帶も男女のものを結び合せる。嫁方でも再び之を心得ある者がたゝみ直して持たせて遣る。帶も改めて嫁結び一名出世結びといふに結び直す。

　

　　　　　　　　　　四　嫁渡し

　

1、ヨメワタシ　是は岩手縣遠野の例であるが、他にも之と似寄つた風習は多い。嫁入の日新郎は仲人親戚等と共に、嫁の家に來て祝宴に列する。之を嫁渡しの盃事と謂つて居る。但し此際には嫁の親戚は未だ之に參與せず、宴終つて嫁を伴なうて行くのである。其酒宴中、新婦方から出發を催促するを禮儀とする（人類學雜誌六卷九號）。

2、ヤータチ　沖繩で嫁入を又ヤータチとも謂ふのは、親の家を立つて行くことを意味するのであらう。

3、サシタテ　肥前の北高來郡では、嫁入式の當日嫁方に於て、近親友人を招いて此宴を開く。人々嫁の盃をいたゞくとある（郡誌）。

(423)4、カドデイハヒ　門出祝、又身内祝とも謂ふ。嫁方でも親戚近所の人々を招いて此宴を開き、それから嫁の荷物を送り出す（岐阜縣益田郡誌）。

5、デタチ　播磨の多くの郡では、嫁入の日、調度荷物を送り出してから行ふ酒宴を出立といふ。凶事にも同じ語を使ふ地方があるが、此邊では是はデハと謂つて區別する。

6、アトニギハヒ　肥後の宇土郡で、嫁の出立ちたる後に、尚酒宴をするのを謂ふ（郡誌）。

7、アトニギヤカシ　同上益城郡では同じ酒宴を後賑かしと謂つて居る。酒宴といふよりも失うたものを慰めるやうな感じがある。嫁渡しと葬送の式とには幾つかの類似があるのも、偶然でなかつたと思はれる。

8、ヤリビ　越中の城端《じやうはな》では、嫁を送り出す時に門口で火を焚き、之を遣り火と謂ふ。新婦を駕籠に乘せて封を付けるといふのは新儀であらう。此際に我家の水を瓶子に入れて持つて行く。聟の家では門口に取り火を焚き、駕籠は座敷まで舁き入れて、新郎封を切つて新婦を出す。此時嫁の家から持つて來た水に聟の家の水を混じて飲み、その新しい茶碗を投げ碎く（人類學雜誌五七號）。火を焚く習慣はもと江戸にもあつた。八十翁疇昔話に曰く、近年は大方晝の婚禮なり。聟の方にて迎火焚くこと稀なりと。

　

　　　　　　　　　　五　嫁入行列

　

1、ヨメオクリ　嫁は多くの迎へ人と共に行くのだが、之を嫁送りと謂つて居る土地は多い。越後の南蒲原ではその嫁送りの行列が、途すがら嫁ぢや／＼と囃し立てつゝ、岡や峠を縫うて行つたものだといふ（加無波良夜譚一七〇頁）。

2、ヨメゴゾ　嫁の行列が「嫁御ぞ」と呼はつて通つたのは、青森縣の北の端だけでは無い。九州でも肥後の玉名郡の嫁送りには、やはりヨメゴゾーとわめきながら行き、佐賀市附近でも嫁を乘せた人力車夫をして、聲高く之を連呼(424)せしめた。福島縣の伊達信夫二郡でも、行列が門を出る際に雙方の持夫たち、嫁と媒人とを中に圍んで、一同「嫁御ホーイ／＼」と囃し立てる慣例であつた（信達民譚集一九四頁）。信州の上伊那郡でも、、輿に乘せた嫁を中にして、一ゲン衆大きな聲を揚げて、道々「嫁樣ヤーイ」と觸れながら提灯を振りまはした（民俗學四卷三號）。一ゲン衆といふのは聟方から迎へに來た人である。

3、ハナウマ　常民の花嫁は、近世は馬に乘せて送るのが田舍の風であつた。（百年前までは東北では、守木といふ木の背負子《せおこ》に載せて負うて行つた。江戸にも今少し前までは其習ひがあつた）。下野那須地方の嫁入行列は、花馬と稱して嫁を馬に乘せ、サキウマと稱して仲人の女房の乘つた馬が其前に行き、其他は迎へに來た聟も仲人も皆あるいた。同勢は普通七人であつたといふ（郷土史話）。

4、カゴウマ　福島縣相馬郡の一部に行はれた奇習といふのは、嫁送には村の十六七歳の女たち、數人顔に墨を塗り赤い手拭の鉢卷をして、「箱根八里」などを唱ひながら、勇ましく長持を舁いで同行する。嫁迎の方でも同じ年頃の娘たち、身に藁菰を卷き、馬の尾の如きものを尻に垂らし、顔を手拭で包み隱して馬の眞似をして四五人迎へに出るといふ（　　風俗畫報一一三號）。同年輩の娘たちが嫁と共に行くだけの慣例ならば他にもある。

5、ヨメイリウタ　熊本縣の有明灣沿岸の村には、嫁入の夜花嫁の友だち十數名、白手拭を被つて來て嫁の家へ來て出立を促し、嫁が家を出る其あとに附いて、手を敲きつゝ嫁入唄をうたつて行く風があるさうだ。行列が聟の家に近づくと、花聟の友だちが又數名待受けて居て一行をまもり、〆太鼓を鳴らして同じ唄を合唱するさうである。何といふ村の事であるか確かめて見たい。

6、オホドラ　又オホゾラ。長門大津郡の山間の村では、嫁入の行列が途中から聟の家まで、歌つて行く唄をさういひ、嫁の家を出る時に歌ふのをデタテと謂つた。此頃は段々すたれて歌を忘れた人が多いといふ。

7、ナガモチウタ　此日荷を舁ぐ人足が、歌をうたつて行く例は全國的に多い。岩手縣北上川流域などに行はれるの(425)は、節は普通の石かつぎ木かつぎの時と同じだが、章句には尚此日の爲に出來たものがある。たとへば江刺郡誌に載せてある一つに、

　　　蝶よ花よとそだてた娘

　　　あすは他人の手に渡る

8、クモスケウタ　九州でも肥前｜小城《をぎ》郡などは長持唄の名があり、途中でしば／＼ショモウ／＼と言はれて、立留つては佳い聲で歌つたといふが、佐世保附近に行くと之を雲助唄と呼んで居る。全長崎縣歌謠集にも、幾つか其例が見えて居る。

　　　所望だ所望だと路やはかどらぬ

　　　さきのお亭主は待ちうける

9、シクイリ　石見の那賀郡では、嫁入人足のうたふ唄をシクイリと謂ふ。シクは中宿、即ち嫁御が一旦休息をして着替へなどをする家のことである。

10、ダウグオクリ　嫁の荷物の運搬が、斯樣に花々しい式を以て行はれるやうになつたのは、勿論遠方の縁組が盛んになつてから後のことで、しかも現在でもまだ日を異にし、嫁入前日に送る土地もあれば、一箇月も過ぎてから送るものもあり、或は全くいつの間に送つたかわからぬといふ例もあり、阿波の名東郡などの如く、嫁入と荷送りとが、必ず路をちがへる風さへある。しかも一方に於ては以前嫁送の行列に伴なうて居た作法を、移して此方に持つて來たらしい場合もあるのである。たとへば越前の今立郡などでは、村外への嫁入には道具送は其前日であつて、人夫は雙方から出し中途にて受渡しの式をする。先づ嫁方持參の酒食を以て聟方の人足を饗し、次に聟方の酒食で嫁方の人足を饗することになつて居た（郡誌）。今日は恐らく一方の人夫で通し、祝儀酒食費は折半といふ便法が出來て居るだらう。

(426)11、ウケワタシ　嫁の受渡しにも以前には是と似た方式があつた。雙方の出逢つた地に二つの莚をしき、其上下を爭つて見たり、又はわざと其莚を斜にして置いて、色々の押問答を試みたりした。それをするにはよく飲む長持人足方が、元氣がよくてよかつたのであらう。珍しい例は陸前柴田郡の山村で、家の者が戸の口に立つて、荷物をかつぎ込む若者を防ぎ、暫く押合ひをする習ひであつた（齋藤忠君）。

12、サカムカヘ　甲州の北都留郡では、聟方の村の青年が酒を携へて途中に待受け、嫁入一行に挨拶し且つ饗應する風があり、之を坂迎と謂つて居る（郡誌）。坂迎は参宮其他の旅の還りを迎へる作法として、行はれて居る地方が多い。

13、チカムカヘ　秋田縣鹿角郡などで、聟方から二人の男を出して、途中で嫁の一行を迎へしめる。近迎即ち第二の迎へ人である。その二人は背に割薪二本づゝを負うて居る。是は松明の名殘であるといふが、今は別に提灯を手に持つて居る（内田武志君）。タイマツフリの條參照。

14、カサハヅシ　福島縣の石川郡で、嫁が到着の時に行ふ式。入船の謠を諷ふといふ（　　郡誌）。

15、オヘヤイリ　青森縣三戸郡などで行はるゝ婚禮の歌（三戸郡誌三編）。現在の歌ひものは其時期が遲くなり、次第に酒宴の興を助けるものに化してしまつた。ヘヤは嫁の迎へ入れらるべき別房、即ち婚舍である。婚舍に關しては後にもう一度述べる必要がある。

16、コワバナレ　加賀の能美郡で、嫁の荷物を運んで來た人足は、庭先で腰かけたまゝ酒を飲ませて還す。之をコワバナレといふ意味はまだ明らかでない。

　

　　　　　　　　　　六　入家式

　

1、ムカヘミヅ　信州の北佐久郡など、嫁入來の際は松明をともし、之に迎へ水を飲ましめる。それから上にあがる(427)と、その草履の鼻緒を切つて屋根に投げ上げる（郡誌）。再び入用が無いやうにといふ意味。聟入も亦ほゞ之に準ずといふのは、養子聟取の場合だけかどうか。

2、イツシャウミヅ　越前南條郡の例、嫁到着の時、婚家にては親類縁者集ひ居て之を迎へ、玄關にて嫁に一生水を飲ます。水を汲み入れた茶椀に、氏神社殿の雨垂石を一つ沈めたものを一升桝の中に入れて出すのである。

3、タイマツワリ　上總君津郡、嫁入の刻限には門口に篝火を焚く他、玄關の式臺に藁の松明が十文字に置かれてある。嫁がそれを跨がうとするとき、十二三歳の男の子と女の子が男は左から女は右から出て、其藁松明を取り上げて嫁の尻をうつ。其童男女は二親の揃つた者に限る。之を松明振りと謂ふ。式の後その松明を玄關の屋根の上へあげて置く。下野那須郡の嫁入では、男女二人の子供提灯を持つて入口に立つて居り、互ひに其提灯の遣り取をする（郷土史話）。淨めの意味だと謂ふが意味はもう少し深さうである。但し少しづゝ變つて行く爲に、追々と不可解になるのである。

4、シリタタキ　信州北部の風習は著しく上總のものに似て居る。例へば上高井郡都住村の或部落では、花嫁が聟の家の臺所から入ることになつて居るが、其入口の兩側には若者が一人づゝ、各々手に藁束を持つて立ち、嫁が敷居を越すと同時に、雙方から出て藁束を以て嫁の尻を打つ。其藁束は結び合せて屋根の上に投げ上げ、それが落ちて來るのを惡い兆として忌んだ。近來は此式を廢し、單に火のともつた?燭を交換して後、直ちに其火を消すといふのは（上高井郡誌）、又那須地方とも似て居る。

5、カサカブセ　下總北部の嫁入には、兩親ある十一二歳の男女各々一人、松明を手に持つて待ち受け、聟の家の門口に之を筋かひに地に伏せて、其上を嫁に跨がせる。其襟に菅笠を嫁にかぶせる式がある（風俗畫報三七號）。茨城縣にも嫁の尻を打ち又笠を被せる風があり、磐城でも花嫁は紙の笠をかぶるといふ（同四四二號）。信州でも上田附近に、花嫁に籠をかぶせる水籠の祝といふものがあつたが、今は絶えて居る（同一〇七號）。

(428)6、カマブタカブセ　肥前の各郡は一般に、此際花嫁の頭に被せるものは釜の蓋である。其役は一人、兩親の揃つた聟の友人であり、もしくは村の長老であり、又は世話人の中の一人で既婚者たることを要する。それは此時に唱へる祝言の文句が、出來るだけ奇拔で且つ滑稽なることを悦び、其任に當る者の機智才藻を必要とするからである。たとへば島原半島の或村では、

　　　ちよつと得たんせ花嫁ご

　　　鶴は千年龜は萬年云々

から始まつて、終には「床の下の鼠の糞から圍爐裡の灰まで嫁御の」などといふ文句がある。東松浦の呼子附近では、

　　　圍爐裡のヒヤー（灰）までこなたんもん

　　　出たりはいつたりさつしやるな

　　　千年ワクド（蟇蛙）にかな碇

とも謂ひ、互ひに似ては居るが、人によつて面白い文句を加へていつ迄も褒められる。是が各藩領によつて差別なく、又五百八十年添ひ遂げよなどといふ古風な言葉のあるのを見ても、近頃始まつた流行でないことはわかる。

7、ナベブタカブセ　佐賀縣でも小城郡などは是を鍋蓋かぶせと謂つて居る。各地共通の點は、必ず之に伴うてめでたい唱へごとのあることで、中には祝言だけで釜蓋鍋蓋は名のみとなり、又はたゞ一寸頭の上にかざすだけになつて居る土地もあるが、古くは蓋を被せて、其上を大飯匙で三度叩くのが作法であつたといふ（北高來郡誌）。又是を嫁に知らせると效目が無いとも謂つたのは、不意に物蔭から出て、斯んなをかしなことをするといふ點に、意味があつたのであらう。

8、ヨメノヒタキ　肥前も川上郷などでは、嫁入の際に聟の家の門口で火を焚くのが一つの慣行であつた。此火焚きには村の若者が頼まれて行き、したゝかに酒をふるまはれた。

(429)9、ヨメダキ　岩手縣上閉伊の海岸では、花嫁が聟の家の門の口まで來ると、突如屈強の若者現はれて、嫁を抱きかゝへ急いでヘヤへ擔ぎ込む。所謂女取りの古い土俗が、形式化して遺つたものかと謂ふ人がある（民族二卷三號）。但し此若者もやはり聟の近親で、且つ必ず二親の揃うた者であることを要件として居る。

　

　　　　　　　　　　七　中宿

　

1、ナカヤド　嫁入は途中豫定の家に立寄り休息し又支度をしてから聟の家に來る例が至つて多い。是が前に掲げた坂迎の宴と、關係の有るものか否かはまだ斷言し難いが、兎に角に其宿は聟の家の近くで同じ村であることと、此例が一地方に限られず、全國の端々に分布して居ることゝは注意に値する。九州では佐賀縣（佐賀郡誌）、四國では愛媛縣東部（新居郡誌）、中國では但馬及び長門（豐浦郡郷土教育資料）、中部では尾張（愛知郡誌）、東北では福島市の周圍など（信達民譚集）にも、たしかに行はれ、何れも之をナカヤドと呼んで居る。其仲宿でも普通は簡單な酒食がある。其家の主人は一方の身内であり、又は親分であり有力者であつて、婚後特別の交際をつゞけるのが普通である。

2、チュウヤド　群馬縣の一部では、嫁入には貰ひ方から迎へが出て、この仲宿といふのへ案内し、こゝにて式に臨む支度をとゝのへることになつて居る（多野郡誌その他）。

3、コヤド　甲州では嫁入の時に、途中花嫁の親分又は知人の家に立寄つて、そこで衣服を改めることにして居る村がある。之を小宿又は仲宿とも謂ふ（甲斐の落葉）。

4、マチヤド　信州の南佐久郡では、この仲宿のことをマチヤドといふ。こゝで白い衣服を着るのである（郡誌）。

5、ウマオリ　同上北佐久では是を又馬下りともいふ。嫁は白衣を着け綿帽子を被り、待女房の案内で聟の家の勝手口から、藁草履で入るといふから（郡誌）、近い處にあつたのである。

(430)6、オチツキ　長州ではこの仲宿のことをオチツキと謂ひ、主として近隣の家を借用するが、貰ひ方で用意してある別室に入ることをも亦さういふ（阿武郡誌）。熊本縣では又仲宿をオテツキと謂ふ（宇土郡誌）。

　

　　　　　　　　　　八　花嫁同行者

　

1、オヤシロ　加賀の河北郡では、大抵は母が附いて行くことになつて居るが、嫁と共々に先方の勝手口から入つて行く。その親代に對する聟方父母の挨拶は通例左の通り（風俗畫報二一二號）。

　　可愛いゝに、ようこそ、いくいてくだんした。

2、オカタヅキ　秋田縣では花嫁の後見役をさう謂ふ。此地方は妻女をオカタといふ語は知らぬといふが、心もとない。

3、テヒキババ　手引婆、豐前田川郡の一部で、嫁と同行する年輩の女をいふ。此日は片手に一升桝（衡器の分銅を入れたの）を持ち、片手に嫁の手を執つて、勝手から座敷へ出るといふ（同七五號）。

4、ツケシ　肥前の小川島などで、嫁に同行する同じ年頃の娘をいふ。附衆である。此人數は多いほど里方の自慢のよし（櫻田君）。

5、コジウヅケ　甲州では花嫁に附いて婚儀の席まで行く女性をいふ。扈從附の音かといふ（甲斐の落葉）。是をオキツケと呼ぶ土地もあるが、何處であつたかを忘れた。御着附け、即ち着衣の世話をする者の意である。

6、ツレガクサン　肥後の玉名郡で、花嫁に附添ひの老女をいふ（能田太郎君）。カクサンは人の夫人の敬稱であらう。

7、ツレニョウバウ　連れ女房、能登の町野村などで、花嫁の家から同伴する者、親代男女二人の外に、連女房一人、其他荷持人夫などで、皆同行して祝宴に列する（鳳至郡誌）。

(431)8、ツレヨメジョ　長門の豐浦郡などでは、嫁と同じ年格好の女友數人、同行して本事の酒宴に列する。是を又嫁マギラカシとも謂つて居る（櫻田君）。嫁と隨員に老壯二種の別があることは是を見てもわかる。前の嫁入唄の條參照。

9、ツレジョヲナゴ　筑前の大島では、前の連れ嫁女をさう謂つて居る。但し一人、同い年の娘に限る。嫁と共に行き、又嫁入の式に同座する（同上）。

10、ツレヲンナ　三河の北設樂郡では、連れ女は待女郎のことだと謂つて居る。

11、ソヒヨメ　福島縣會津地方でも、此添嫁は待女郎のことだと謂ふ。但し聟嫁雙方から出て、聟方の添嫁は嫁の世話をし、嫁方から行つた添嫁は聟を案内する（若松市郷土誌）。

12、チャモチ　肥前の平島では、嫁入に嫁に附いて行く嫁と同齡の娘を茶持と謂ふ。實際茶を包んで持つて行くのである（櫻田君）。

13、ヨメゲンゾ　秋田縣の鹿角郡で、待女郎即ち婚禮の日の介添人を、ヨメゲンジョといふ。嫁に附いて世話をし、聟の家では嫁を導いて寢所に入る。嫁の叔母、乳母又は女中が此役をつとめる（内田君）。ゲンゾは見參であることは前にも述べた。是も式の席には必ず列すべき一役であつたのである。

14、マテニョウバウ　陸前の岩出山町などでは、嫁よりも年若の娘で、兩親の揃つた者が同行する。ヨメゾヒとは別であつた、此方は草履はき物の世話をするが役だといふが（　　玉造郡誌）、本來はそんな端役でなかつたらうと思ふ。同國石（ノ）卷あたりでマヅニョボと謂ふのは嫁御に附添ふ少女、陸中上閉伊郡でも新婦に伴なひ、婚宴に列する二人の少女をマンニョボと謂つて居る（遠野方言誌）。福島地方の待女房は、或は文字通り聟方に待つて居るらしいが、やはり勝手口から花嫁の手を引いて流し元に上つて挨拶させ、更に祝宴の席では花嫁の次に坐る。又こゝでは待女房の夫といふ者にも一役があり、花嫁と共に門口まで出て嫁の一行を迎へるといふ（信達民譚集）。

15、マチジャウラウ　東京の近在には今も此語が行はれ、赤塚村などでは嫁入の日に聟方に來て、待つて居る親類の(432)女の總稱だと解して居るやうだが（郷土研究五卷五號）、是は全くマチといふ語の誤解からである。マチは古語では侍又は奉仕、即ち其式に參列しなければならぬ盛装の女がマチ上臈である。

16、マチツケ　熊本縣南部では、此待女房をマチツケとも謂つて居る。嫁の手を取つて房室へ案内する役であるといふ（上益城郡誌）。

17、マチノオボコ　鹿角郡では婚禮の酌をする男女の童子をさういふ。兩親の揃うた親類の子供が此役をつとめる（内田君）。オボコは幼童のこと、本義は「うぶ兒」であるが、　　稍々成長した者までを含むことになつて居る。

18、マギラカシ　熊本縣北部で、嫁聟と同樣の正装をして附いて來る者、上流の祝言には今でもある。聟に附く者を又ムコワキとも謂ふ（能田君）。

19、ヨメマギラカシ　筑前海上の島々でも、聟マギラカシと嫁マギラカシと共に選定せられるが、地かたの村々では後者を略する處も少なくない。島では嫁紛らかしは一人、やはり小學生位の小娘を頼んで濟ませて居る者もあるが、雙方共に必ず兩親の健在な者に限ることは同じである（櫻田君）。

20、マガヒヨメ　宮崎縣の南部では、嫁聟の外に今一人の、嫁なり聟なりが附いて行く風があり、之をマガヒ嫁、マガヒ聟と謂ふ。マガヒは本物より少し惡いのを選ぶ。引立たせ役だからと謂つて居る。兎に角に披露の席にも一緒に出ることは事實である（日向の言葉）。

21、トギ　八丈島では嫁入の附添人をトギといふ。親密な女友の中から一人選出せられる。單に嫁入の際に附いて行くだけでなく、嫁が里歸り以後親里に留まり、たゞ朝夕聟の家の水汲みに行くのに、やはり毎日同行するといふ。トギは元來は番人見張役を意味する日本語であつた。それが轉じて御伽噺などの伽となつたのである。人偏に加と書く和製字は、丁度この八丈島などのトギによく當つて居る。愛媛縣喜多郡あたりのヨメトギは、單なる「嫁まぎらかし」で、式の日しか參列しない。さうして當夜は必ず歸つて行くといふ。

　

(433)　　　　　　　　　　九　朝聟入

　

l、ハツイリ　聟が初めて嫁の二親と對面し義理の親子の契りの酒を酌みかはす時期は、現在では各地非常に區々になつて居る。其中には里の父母の方から出て行つて、始めて逢ふ例さへ若干はあるが、此方は勿論普通とは言へない。他の多數は聟の訪問であつて、是にも嫁入祝言の後と前と二通りあり、尚又其前後の期間にも、幾通りかの遲い早いがある。最初から此の如く色々であつた氣遣ひは無い。さうするとどれが古く、何れが「改良」した形であるかは、細かく觀て行くうちには今に判ることゝ思ふ。初入といふ語は熊本縣の南部で聞く語であつて、其意味は最も明らかである。其他ショテイリと謂ひ、初客又は新客と謂ひ、或は見參、一見《いちげん》などといふ名稱も名の起りは略々想像し得るが、單に此語だけでは聟入が如何なる時期、如何なる樣式で行はれて居るかを察し得ぬのである。

2、アサムコイリ　朝聟入といふ語は北九州の一部だけで稍々知られて居り、「朝聟に夕嫁」といふ諺も有るさうだが（宮武省三君）、さういふ名稱の無い地方にも、嫁入當日の日中に、聟が先づ新婦の家を訪ふ例は最も多い。前にも迎へ人の條に幾つかを擧げて置いたが是は重要な又興味ある點だから、出來るだけ澤山の證據を列ねて置きたいと思ふ。先づ九州と最も遠いところから始める。

　イ、埼玉縣の妻沼町附近では、嫁入の日其時刻より前に、聟が仲人及び近親の者と共に嫁の家へ行く。是をムカヘエチゲンと謂ふ。但し娘に聟を取る場合には、其娘はムカヘエチゲンには行かず、近親の者のみ行く（同町誌）。迎へ謁見と字は書いて居るが、迎へ一見の方が正しいと思ふ。一見は即ち初度の見參である。

　ロ、神奈川縣厚木町邊では、右と同じ訪問をムカヘジンキャクと謂ふ。迎へ新客である。聟は花嫁の家に暫らく休息の後、嫁方親類の者一人附添ひ、當村村長を始め主立つた家、及び嫁方親類などの家をまはり、結婚の披露を爲し、(434)且つ半紙扇子などを配つて挨拶をする（風俗畫報一一三號）。

　ハ、千葉縣千葉市の周圍の村でも、嫁入當日の朝聟入がある。同行者は仲人と親戚總代、聟は上座に坐り嫁方の親類と盃があり後は酒宴。嫁は成るたけ遲く出發する。以前は乘掛けと稱して馬に乘つて行つた（千葉郡誌）。

　ニ、同縣海上郡でも右同前、聟上座に坐つて嫁方南親その他の親族と盃をする。始は冷酒、後は酒宴。さうして新婦及び嫁方仲人親戚たちを同伴して、共々聟の家に行くのが例のやうである（海上郡誌）。

　ホ、同縣長生郡でも、大よそ是と同じ手續きである（郡郷土史）。

　ヘ、安房でも嫁入當日、聟方仲人は、聟と其親戚の者を同行して、嫁方仲人の家に行き簡單な酒の後、兩方仲人共々に聟一行とつれ立ち、嫁の家へ迎へに行く（旅と傳説、婚姻號）。是を親子名乘りと謂ふのを見ると（安房郡誌）、嫁入と同伴して來るのは目的で無かつたかも知れぬ。

　ト、八丈島でも當日午後三時から五時迄に聟はムコトギと同行して嫁の家に行き嫁を同行して歸つて來る（婚姻號）。

　チ、常陸行方郡香澄村でも、嫁入の日先づ聟入があつて爰で披露の宴がある（行方郡郷土史）。

　リ、群馬縣北甘樂郡でも、當日聟が親族と共に、仲人に案内せられて嫁の家に行くのを一見と謂つて居る（郡誌）。

　ヌ、同縣多野郡で、一見と謂ふのも是と同じ。聟の一行は嫁の家で、互ひに親戚となつた近附きに鄭重な饗應を受けて歸つて行くと、後から支度をして嫁は親類に送られて行く。此同行者の行くことをも一見といふ（郡誌）。桐生でも聟が嫁迎へに行くことをイチゲンと謂ふ（桐生郷土誌）。

　ル、宇都宮附近でも花聟自ら仲人と共に花嫁の家を訪ひ、其兩親の設けたる宴に臨み、終つて花嫁を伴ひ還る。花嫁は聟の家の臺所から入る（民族と歴史四卷三號）。

　ヲ、福島縣石城郡でも聟と親戚の重立ちたる者數人、仲人に導かれて嫁方に來り饗應を受ける。此時｜賦物《くばりもの》として酒・餅・鯣・熨斗，延紙・白髪苧等を持つて行く。宴終つて後、前の一行は新婦と其父母親戚を伴なひ、受け方に至(435)つて式を擧げる（郡誌）。斯うあるのを見ると、嫁方に於ける酒宴は、もう式とは考へられぬやうになつて居るのである。

　ワ、同縣石川郡でも聟樣自身、嫁迎へに行く（郡誌）。

　カ、同縣信夫伊達二郡では、此日の聟入を聟入見參と謂ひ、酒宴を見參振舞と謂ふ。花聟は喜樽《よろこびだる》一對と熨斗折敷種とを持參して花嫁に贈る。但し此地方では獻酬數次の後、聟は仲人夫婦を後にのこして先づ還り、それから花嫁の支度がある。日中に銕漿親《かねおや》の家で親族近隣の祝宴があり、それが終つてからそろ／＼出立する（信達民譚集）。

　ヨ、宮城縣宮城郡などは、一般に聟入の方を嫁入の宴より重々しくする風が見える。婚禮當日は仲人夫婦、家主、新郎、聟添といふ若者一人、樽持一人、以上の一行で嫁方に來り、そこで所謂クレワタシの式がある。雌蝶雄蝶の銚子、三組の盃、紙で澤瀉《おもだか》を作つたものと島臺とが用意せられ、盃は嫁の親から仲人へ、それから順々にめぐる。夫婦盃だけはこゝでは無い。式終つて聟一行は引取り、其後から別に嫁入の行列は行き、聟方で引渡しの盃をするのである（郡誌）。

　タ、岩手縣花卷地方では、嫁入當日の夕方に聟入がある。同行者は仲人夫婦、酒肴を携へて行き、嫁の父母親類一同と酒盛りがある。嫁は其席には出ない。式終り聟が歸り着いた時刻を見はからひ、嫁は我家を出る。但し徒歩、荷物も嫁入と同列（民俗研究一五號）。同縣紫波郡にも同日聟入の例がある（旅と傳説二卷七號）。

　レ、秋田縣鹿角都草木村及び其附近では、嫁入當日、聟は先づ中宿で酒を酌み、それから若者たちと共に嫁の家に酒を携へて行き、爐の周りを三度廻つて、今晩はおめでたうと謂つたといふ（人類學雜誌三七號）。但し此例はそれから嫁入があつたのやら、はた又嫁の家に於て式を完了したのやらたしかでない。

　ソ、それから中部地方に戻つて、甲州の上九一色村では、當日式前に聟は仲人に連れられて、嫁の里に出かけて親子盃をする。但し仲人の妻は同行せず、又嫁も列席しない。宴半ばにして聟一人中座して「村まはり」をする。紙一(436)帖又は手拭一つに名刺を添へて挨拶をしてあるく。其うちに嫁の支度は整ふので聟は是と同行して我家に行く（旅と傳説、婚姻號）。

　ツ、信州の諏訪でも、又飯田附近でも、嫁入當日午前中に聟入がある。同行者は仲人及び聟近親の人々。諏訪では父も行くことがある。飯田では近親同行者をロウドウといふ。此際由緒書即ち近親氏名、及び贈り物目録と土産の覺書とを持參する。嫁入はこの聟一行が還つて、次に見立の膳が濟んでから始まる（同上）。

　ネ、同じく信州の南安曇郡でも、聟入と謂つて結婚當日に行く。其時の贈り物は五種と稱して柳樽、鯛、昆布、鯣、扇子、酒一駄、米一俵、鰤一尾、雉一羽など、其他土産物である。此時嫁の親及び近親とも盃をする。嫁の親は聟へ引出物と稱して縞一反を贈り、又相應の饗應をする（郡誌）。

　ナ、尚飯田からまだ南の下伊那郡遠山和田に於ても、祝言の日は聟が自ら嫁迎へに行つた。其時持參の品は柳樽に扇子、紙手拭などであるといふ（米澤美丸君）。

　ラ、靜岡縣安倍郡に於ても、新郎自ら仲人につれられて、供の者に聘物を持たせて新婦の家に行く。それをコシムカヘと謂つて居る。嫁の家では聟を上座として「親子の盃」があり饗宴がある。其間に聟は嫁方縁者の案内で近所へ披露の挨拶にまはり、終つて嫁を同行して來る。途中中宿は新郎方の仲人の家である（郡誌）。

　ム、同縣志太郡でも右の通り（郡誌）。

　ウ、同縣磐田郡の例もよく似て居るが、「親子の盃」後の酒宴が時としては深更に及び、その聟入の一行が引揚げてから、そろ／＼嫁入の行列は出かけるのである。夫婦盃の方は無論聟方で行はれるが、雙方の式は大よそ同じだとある（郡誌）。

　ヰ、愛知縣西加茂郡でも、嫁入當日正式聟入がある。同行は近親及び仲人、是も嫁と同行しては來ない（郡誌）。同縣西春日井郡でも、今日の嫁迎は仲人と聟方出入の者とだけだが、以前はこの輿入の當日に、「出入に行く」と稱して(437)聟自身も訪問したやうである（西春日井郡誌）。名古屋でも元は朝聟入が普通であつたちしい（結婚寶典）。今はもう行はれて居らぬことゝ思ふ。

　ノ、和歌山縣の有田郡にも同日聟入の例があつた。此地で珍しいのは聟來つて一通りの挨拶が濟むと、先づシモケシと稱して一杯の酒を注ぎ、それから親と聟との盃があることである（有田民俗誌）。シモケシは霜消しで聟の夜通うた時代の名殘だと思ふ。但しこゝでも尾張同樣に嫁を同行しては歸らず、聟入終つて後に更に嫁入の行列が始まるのであつた。

　オ、廣島縣の呉地方に、曾て次の樣な習があつたと報ぜられて居るが（結婚寶典）、是はもう一度確めて見たい。聟入は同日嫁入の出る前に行はれる。花聟は仲人と共に嫁の家に行き酒が出ても餘り飲まず、そこ／＼にして袴を脱ぎ下駄も穿かずに跣足で歸つて來る。長居をすると、聟樣の尻へ根が生えたと云つて笑はれる。嫁はその脱ぎ棄てられた袴をたゝみ、下駄も一しよに聟の家へ持つて來る。又式の翌朝は花聟は顔も洗はずに、もう一度嫁の家へ來るといふのは、もし事實なら可なり面白い。是は新婚が嫁の家に於て結ばれた名殘とも見られるからである。

　ク、隱岐島でも嫁入の當夜、聟が先づ正式仲人に伴はれて女の家を訪ふ習ひがある。對岸出雲の方には此風は無いと言つて居る（婚姻號）。

　ヤ、ところが同じ島根縣でも石見の海岸には、當夜聟入があつて聟舅の對面をすまし、聟は一應引揚げて行つて、其後から嫁の行列が出るといふ型がある（同上）。

　マ、山口縣の周防大島でも、以前は聟入の後嫁入までの期間が普通は半年もあつた。それが三月となり一月、十日又三日と短縮して今では一日の間に聟入と嫁入とを濟ますもあり、又全く聟入をせぬ例もある。聟入には親と親類とが同行し、途中一旦中宿に落着き、支度をする。嫁の家では床の正面に聟を坐せしめて、嫁の親との盃がある。嫁本人は却つて臺所などで働いて居る（同上）。聟入が既に純乎たる親子名のりになり切つて居るのである。

(438)　ケ、全體に海に近く住む村の方が改正が遲かつたことは、是だけでも想像し得られる。愛媛縣喜多郡でも沿海の村々は、當日花聟自身紋附袴で、仲人に伴はれて嫁の家まで迎へに來る。聟の父親も通例は共に行き、先づ出立前の酒宴がある（民族二卷三號）。

　フ、土佐では高知の市でも以前は當日の聟入があつた。是には聟の父母近親も同行し、仲人案内にて嫁の家に來て挨拶し、嫁方一統と盃を交換した。然るに近年は此式を略して、初日に嫁入あり次日に聟入があるやうになつた（土佐風俗と傳説）。しかし村落にはまだ古い式も存して居たかと思はれ、同縣安藝郡には輿入の前刻に、聟が花嫁の實家に訪れて一過の挨拶を述べて歸る例もあつた（結婚寶典）。

　コ、九州各地の例も尚二三附加へて置くならば、豐前の後藤寺では嫁入の日の「迎へ客」の中に、聟と「聟まぎらかし」も加はつて行つた。さうして此二人だけは一足さきへ歸つて來る。他の迎へ客は嫁入の一行と共に歸つて來る。迎へ客の家を出るのは大抵午後一時、聟たちの戻つて來るのが早くて夜の十時十一時、嫁入到着はそれよりもずつと遲くなる（旅と傳説、婚姻號）。

　エ、肥前の小川島でも嫁入當日の聟入があり、以前は此際に聟は水を祝はれた（櫻田君）。この當日は多分嫁入より前だと思ふが、稀には嫁入の祝言より後に聟入する例もある。

　テ、肥前青島でも聟は親戚の重立つた者と共に嫁の家に行つた。下五島の有川などもやはり當日嫁入前の聟入がある（同上）。

　ア、壹岐では嫁迎への一行をムカヘニンズと謂ひ、其中には聟當人も加はつて居る。但し聟だけは一足先きに、座を立つて單獨に歸つて來る（山口君）。

　サ、肥前の諌早地方では婚禮を輿入、聟入舅入と謂つて、嫁入とは謂はない。聟が聟ブセを連れて嫁の家へ行き、珍しい作法のあることは（北高來郡誌）、次の膝直しの條に於て述べる。

(439)　キ、熊本縣玉名郡でも、甚だしく遠方で無い限りは、嫁入當日晝間の中に聟入がある。形式一切嫁入と同じく、「聟脇」も添へば「おてつきの餅」も出る。たゞ盃事の行はれぬのみとあるのは（婚姻號）、夫婦盃を意味するのであらう。

　ユ、同縣下益城郡も聟入の時期は區々だが最も普通なのは當日午前、又は嫁入刻限前に聟本人は嫁の家に行き、親子盃をして夕刻に戻つて來る（郡誌）。宇土ではこの歸途に聟が水を浴せられることがある（宇土郡誌）。

　メ、沖繩でも朝聟入といふ語こそ無いが、ネビキの日の午過ぎ聟はムコソウイと謂ふ附添人と共に、嫁の家に行つて其家の火の神を拜む。此時は酒を強ひられるものとなつて居る。それを聟ソウイが代つて飲むのである。夕方には引揚げて來る。宮古群島の多良間島でも、其日の朝、滿潮の刻限を候して聟入がある。此席では嫁の二親との盃があつて、嫁は列席しないのを本式とする（婚姻號）。

　ミ、立戻つて以前は江戸の士人の間にも朝聟入の風が行はれて居た。例へば今から九十八年前の天保六年に、松崎慊堂先生の立會つた三つの婚姻は、共に嫁入の日の午時に新郎が里方に行き、仲人列席の上で親子の盃をした。先生は之を親迎也と書いて居られる（　　慊堂日歴）。それが棠軒公私略の文久二年には、もう又、「里開舅入同日也」といふ新しい儀禮を見るやうになつて居るのである（森?外著、伊澤蘭軒）。

3、シウトナノリ　以上に列記したものゝ外、まだ幾つかの類似の場合を附加へなければならぬ。三河の北設樂郡では、聟が嫁の里へ挨拶に行くことを舅名乘りと謂ふ（　　設樂、昭和七年四月號）。是も初めての見參と思はれるから、今は多分嫁入當日であらう。

4、シウトイリ　長門の角島では婚禮の日、先づ祝言に先だつて聟が嫁の家に行くことを舅入と謂つて居る（婚姻號）。もし言葉の用法の誤りで無いならば、曾ては聟の父が本人と共に、嫁の家に來た頃の名殘であらう。

5、ゲンザン　宮城縣の南部では花聟と其近親が、仲人と共に嫁方の祝の席に列し、花嫁を貰つて行くのをゲンザンと謂ひ、此時に舅姑との盃がある。次に嫁の輿入に附いて、里方近親が貰ひ方の祝宴に列するのも亦同じ名を以て呼(440)ぶ（刈田郡誌）。但し是に元參の字を宛てたのは誤りで、江刺郡誌にはちやんと「見參の式」と誌して居る。鹿角では古風に之をゲンゾと謂ふ。

6、ムコイチゲン　野州足利地方では是を聟一見と謂つて居る。時刻は嫁入の當日午前、酒食の饗を受けて歸る。其一行が自宅へ着いたと思ふ頃から、いよ／＼嫁は出發の支度に取掛るといふ（旅と傳説、婚姻號）。

7、ムコニ　信州諏訪地方でも、當日日中に聟入がある。仲人及び父兄など同行。目録に列記した贈り物を馬に附けて行く。之を聟荷と謂ふ。聟荷は美しく包んで持參したものであつたが、今は主として金圓になつた（同上）。他の地方の結納も起りは是と一つらしいが、多くは嫁入の日より若干日早く送り屆ける。それにも早いのと遲いのと色々あり、中にはほんの一兩日前に送るもある。又、その日に嫁入の期日を確定する例も多い。諏訪では右の聟荷に對して、嫁方の親から羽織や袴を與へた。是を引出物と謂つて居る。即ち他の地方の結納返しである。

8、ムコドノモチ　日向の眞幸《まさき》邊では結納の日に、吉例の品々の外に女の化粧用品と、重に入れた餅とを贈つた。其餅を聟殿餅といふ。是は翌朝嫁が近所へ挨拶に廻る時に配る爲に再び携へて嫁入するといふから（同上）、此地方の結納も嫁入當日に行はれたのである。さうして此聟殿餅を持つて行く時に聟入もあつたのである。尚此點に關しては、次の結納聟の條を參照せられたい。

　

　　　　　　　　　　一〇　聟遁がしと膝直し

　

1、ムカヘジャウラウ　以下大抵は皆嫁入と同じ日の晝間、聟入の行はれた場合である。長崎縣北松浦郡では、もとは聟入には迎へ女郎と謂つて、美しく着飾つた妙齡の婦人が、玄關に出迎へる風習があつたが、近頃はもう行はれない（婚姻號）。是も嫁伽又は嫁まぎらかしの變形で、多くある少女の中からたゞ一人を選ぶといふ趣意を示した古い風(441)習の痕跡かと思ふ。

2、ヨメムカヘ　愛媛縣の喜多郡藏川村などでは、嫁入當日の嫁入に同行して、聟方から出す女性のみを嫁迎へと謂ふ（婚姻號）。

3、ムコゾヒ　聟入の時に同じ年頃の男を同伴することは全國的なる風習である。陸前松島の浦戸村などでは、是を聟添ひと謂つて居る（宮城郡誌）。關東にはもう其風習は絶えて單に聟脇顔などといふ滑稽な諺ばかり殘つて居る。日本の南端の八重山の島々では、嫁入の日の午前十時頃、聟は形式的の男媒妁人と共に、花嫁の家に行く。其同行者をツリといふのは連れである。嫁方では一番座即ち上の間に、其ツリを上座として西に面して坐し、家父と相對して禮儀がある（婚姻號）。是も亦聟添ひであらうと思ふ。

4、ムコトギ　前に擧げた伊豫藏川村では、嫁迎への女の外に、聟伽といふ者も其聟入に同行する。常の出入口からは入らず、中の口の縁側から上るといふ。熊本縣の阿蘇郡の婚姻式にも、聟伽の役があつて嫁伽と共に聟入の式に列する。女夫盃の時にも雙方とも立合ひ、盃の仲次はすべて伽がする（同上）。

5、ムコカクシ　鳥取縣米子地方の聟入は嫁入の前の日に行はれたが、是にも仲人の外に聟隱しといふ者が附いて來る。聟と同年輩の少々でも男振りの劣つたのを頼むといふのはどうであつたらうか。土地では嫁さんが戸惑ひをせぬ樣に、即ち聟の瑕を隱すから聟隱しだと解して居る者もあつた（人類學雜誌二八卷六號）。

6、ムコマガヒ　宮崎縣南部の婚禮には、聟まがひ又嫁まがひ各一人が附添ふことになつて居る（日向の言葉卷一）。何れも當人と同じ年頃の友人である。聟まがひは聟入に同行し嫁の家で「重開き」即ち聟持參の酒肴が出ると、直ぐに聟と共に座を立つて歸つて來る習ひである（婚姻號）。

7、ムコマギラカシ　丹後中部でも聟が嫁の家へ初入りする時に、是と同行する者をさう謂つて居る（三重郷土誌）。九州北部では山村にも、島にも、此慣習と名稱とは知られて居る。但し嫁まぎらかし程は一般的で無い。長崎縣の崎(442)戸などでは、養子聟の場合にしか、「まぎらかし」は同行しないが、筑前糟屋郡の新宮邊では、茶聟入即ち結納聟入の際に同行して嫁の家の祝宴に列する。大抵は聟と同年齡の者で、其數も何人かある場合もある。聟は其聟まぎらかしの一番末席に坐るものとなつて居る。宗像の大島などは其數は一人、必ず未婚者たることを要する。嫁入の日の聟入には聟と同座するが、其膳の上に扇子を載せて置いて、直ぐに還つて來るのを禮儀として居る（以上櫻田君）。

8、ナタサグリ　北松浦の田平邊にも嫁入同日の聟入がある。其時の同行者は兩親及び媒人の外に、樽肴などを持つて行く男があり、俗に之を鉈さぐりと謂ふ。止まつて嫁入の行列に加はるといふから聟まぎらかしではなかつたらうが、兎に角に物騷な名前である。或は嫁に附く老女や女中頭などを、さう呼ぶ例もあるといふ（旅と傳説、婚姻號）。

9、ムコニガシ　前に擧げた筑前宗像の大島では、嫁入の式があつた後に本膳が出ると、聟は飯を食ひ殘したまゝ、聟まぎらかしに目くばせしてそつと座をはづして遁げる。此時ぐづ／＼して若者たちに見つかると、追掛けて來て水を掛けられる。素裸に毛布を被つて遁げたといふ話もあり、又灰汁を浴せられたといふ話もある（同上）。

10、ムコニゲ　阿蘇地方でも花嫁御の迎へに聟が來て嫁の家で式がある。其席上初肴と謂つて鯛の生造りの鉢物が出ると、聟は自席から立つて遁げ還らねばならぬ。是を聟遁げと謂つて居る（同上）。

11、ムコノクヒニゲ　信州諏訪郡の落合村などでも、嫁入當日の聟入があるが、聟は其酒席の中途、何人にも禮の挨拶をせずに、歸つて行くのを習ひとする。それを土地では聟の食ひ遁げと謂ふさうである（同上）。群馬縣の南部、吉井町の一部と入野村の一部では、この聟入の式の最中に、新郎を遁がして大騷ぎをして之を見付ける眞似をなし、終に見付からなかつたと稱して假の新郎を以て取結ぶといふ奇怪な風習が行はれ、今尚局外の人を苦笑させて居る（多野郡誌）。

12、ムコノシリニゲ　島根縣では松江市の附近の村など、聟入は嫁入と同日には無く、普通の如く嫁の里歸りと一緒に行はれるが、其場合にも聟は酒宴の半ばに、こつそりと嫁をつれて裏路から遁げて歸るのを例として居る。それで(443)人が挨拶無しに還つて行くことを、聟の尻遁げのやうだといふ諺もある（民族二卷三號）。

13、ムコブセ　長崎縣の北高來郡では、もとは嫁入と同じ日に聟入があつて、酒肴、白苧等を贈り物とした。是にも聟伏せといふ者を一人同行して來て、宴半ばに次に謂ふ膝立直しといふことをした。近頃の聟入は雙方の便宜によつて、當日行ふこともあれば又輿入より二三日後にすることもあるといふが（郡誌）、聟伏せを同行して膝立直しといふことをするだけは變らぬらしい。

14、ヒザタテナホシ　右の地方では聟入の酒宴終りに近く、聟は聟伏せと共に竊かに外に出て、間も無く表戸口から改めて入つて來て嫁の兩親に挨拶をする。是を俗に膝立直しと謂ふのである（同上）。

15、ヒザナホシ　熊本縣の宇土都などでは、嫁入の日の午前中に聟入があり、其次の日早朝に聟は再び又嫁の里に行つて饗應を受ける、それを此地方では膝直しと呼んで居る（郡誌）。周防の大島では今でも嫁入後三日目に、舅姑が新夫婦を連れて嫁の里を訪ひ、顔つなぎの酒宴あつて聟と親とは其夜還り、嫁だけは尚二三日滯在する。それを舅入り、里歸り又は膝直しと謂ふさうである（婚姻號）。私の想像では、是は右三つの儀式が合體したもので、もとは、それ／”＼に別の目的があつたものと思ふ。膝直しといふ語は今日弘く行はれて居り、時としては嫁の初里入のことゝも考へられる。たとへば宮城縣刈田郡では正月三十日の膝直しといふ名もあり（郡誌）、山口縣豐浦郡ではハツドマリを一名膝直しと謂つて居るが（同郡郷土教育資料）、それだけでは此語の起りが想像し得られない。察するに此「膝」は本來聟の膝であつて、彼がたゞ單なる近づきの酒席の間に、ふと居ずまひを正して自分が此家の娘の思はれ人であることを告白した一つの形式であり、即ち又中世の露顯即ち「ところあらはし」の作法と、一脈の繋がりを持つものであらう。從つて里歸りがもしも聟の入來を伴なはなかつたならば、之を膝直しと謂ふことは、間違ひといふことになるのである。福井縣の各郡にも膝直しといふ語はあるが、土地により嫁の里開きを意味し、又はその翌日の宴を意味する。さうしてウチアゲと二つ別々の如く考へられて居る（若越方言集等）。福岡縣博多の方言では單に結婚後の宴とあり、熊(444)本縣鹿本郡では嫁の初歩き即ち實家訪問の日に際して、兩家親類たちの互ひに出入り始めをすることだと謂つて居るが（郡誌）、同縣下益城郡では嫁入の翌日、聟がもう一度舅の家へ挨拶に行くのが膝直しだと、はつきりと記して居る（郡誌）。同玉名郡でも略式となつて嫁の里開きと一緒に行ふだけで、本來は式後數日のうちに、聟が仲人に伴はれて一寸した土産を持ち、嫁の家へ禮に行くのが膝直しであつた（旅と傳説、婚姻號）。豐前の後藤寺の例の如きは、殊に北高來郡の膝立直しと近い。即ち嫁迎の當日に聟入は既にあつたのだが、其時は聟まぎらかしと共に一足先きへ拔けて歸つたのであるから、もう一度嫁の里歸りに同行して改めて膝直しの禮に行くのだと謂つて居る（同上）。

　

　　　　　　　　　　一一　打明け

　

1、ムコヨビ　聟が婚禮の以前に嫁の父と、近づきになつて居ない例も古くからあつた。聟入があつても中途でそこ／＼に歸つて行く場合さへ多かつた。それで舅たちが一日も早く、聟を我身内にしようとする宴會は行はれたらしいのである。さうしてそれは必ずしも嫁の里歸りと、同じ機會のみを以て行はれては居ない。石川縣の能美郡などは、婚禮の後七日目に、ナカガヘリと名づけて嫁が里方へ戻つて來る。それから更に數日して、聟と其親類とを招いて饗應するのである。是をあの地方では聟よびと呼んで居る（郡誌）。中返りは一に又ナカイレとも謂ふ。聟方の父はミツンマイ、即ち式後三日目に嫁の里から贈つて來た餅の容器に、赤飯を入れて嫁を送つて行くが、此際には聟どのは行かない（民俗學二卷八號）。この聟よびを又聟取りとも謂ふのは、里方にとつても一人の男の子を増したことになるからであらう。福井縣の一部では、この聟よびの濟まぬうちは、聟が所用あつて訪ねて來ても、嫁の家で箸を取らぬのを作法として居る。それ故に里では嫁入後成るべく早く、聟よびを行ふ必要があるのである。御馳走は大體に嫁入の時と同じやうにする。この聟よぴの濟んだ翌日、又は別に日を期して聟竝に媒妁人等を招いて、打ちくつろいだ酒宴(445)を催すのを、此地方では膝直しと謂つて居る。前日來の勞を慰するから膝直しだと考へて居るらしい（今立郡誌）。

2、イチゲン　越後の蒲原地方では、新夫婦の里歸りに行くことをイチゲンと謂つて居る（加無波良夜譚）。一見は第一次の見參に相違ないから、即ち又聟を主とした名であつた。西蒲原ではエチゲンは初聟入祝宴のことだと謂つて居る（里言葉）。常陸の眞壁郡などで、嫁の里開きをゲンザンといふのもそれであると思ふ。この聟見參は三日目も待たずに、行はれて居る例が稀でない。肥前江（ノ）島でも嫁入翌日の頭直しは、もとは聟入の宴であり、今でも良い衆といふ家だけでは、婚禮の直ぐ後に宿兄弟同伴で聟入をして居る。同國平島でも嫁入の當夜、祝言のすぐ後に聟入があつた。信州の諏訪では嫁入翌日の酒宴に、嫁の親兄弟を招く爲に、聟は朝早く前日の御禮かた／”＼嫁の家を訪問するさうである（以上婚姻號）。長門の豐浦郡で舅入と謂ふのは、是も嫁入の式後嫁の里方に聟を招いて饗應することであつた（郷土教育資料）。

3、シンキャク　能登の輪島でも家によつては、嫁入の夜直ちに新郎を嫁の里へ招待して聟入の式を擧げる例があるといふ（鳳至郡誌）。里歸り同日の聟同行は、全く後々の便法であることが察しられる。備中上房郡ではこの三日目の里歸りを新客と謂ひ、其際聟も行くと記して居る（郡誌）。美濃でも同じ日を新客又は初通ひと名づけ、其他にもさう謂つて居る處は方々にあるが、新客はどうも聟が來る故にさう謂ふとしか思はれぬ。初通ひも或は聟の通つた習はしから出て居るのかも知れないが是は便宜上後に里歸りの條に一括する。

4、ウチアゲ　此言葉も今では新客や一見と同樣に、或は嫁の里開きの日のことだと思つて居る人があるか知らぬが、名前の起りはやはり別にあつた。熊本縣北部にはウチアゲはたゞ婚宴の經といふ意味に用ゐられ、直接關係者の慰勞のことだとも報ぜられて居るけれども（婚姻號）、多分は語の感じから出た誤解だらう。兎に角に近畿以東では、すべて是を聟よびとしか解して居ないのである。たとへば福井縣ではウチアゲは初聟入、即ち膝直しの翌日のことだと謂ひ（若越方言集）、加賀の河北郡でも始めて聟を饗する宴と謂ひ（石川縣方言彙集）、越中でも初聟入り即ち結婚後に妻の(446)生家へ行くことだといふ（太田榮太郎君）。能登の鹿島郡などは結納の帶代に對する返しとして袴代を贈るのも聟が始めて嫁の里に招かるゝ際だといひ、之をウチアゲと呼ぶらしいがはつきりしない（旅と傳説、婚姻號）。北部飛騨などは結納の後、或は嫁入式の當日、聟が先づ嫁の家を訪れて一つの式を擧げることをウチアゲに行くと謂つて居る。是から見ると打揚げの如くケの音を濁り始めたのが誤りで、本來は「打明け」即ち若き男女はカタラハンとして居ることを、娘の親に知らしめる方式の永く殘つて居たものであらう。同じ岐阜縣の武儀郡などは、輿入の當日嫁の出發前聟が仲人と共に嫁の里に行き、其親族と同席して饗應を受け、嫁の出發より少し早く歸つて來る風が可なり盛んに行はれ、之を打揚げと呼んで居るのだが、斯うして置けば、「新客」即ち嫁の里返りの日に同行するに及ばず却つて便利だから近頃になつて行はれたと、私等から見ればやゝ逆な説明をして居る（民族二卷三號）。以前のウチアゲは少なくとも斯うは解されなかつた。さうして嫁入の前後を問はなかつたやうである。早川氏の集めた三河山村の「花祭」の翁の文句に、翁が若い頃結婚をしたことを語るに對して、それなら「定めて打あげをしたであらう」と言ひ、それから聟入の日の光景を面白く語らせる所がある。

5、アヒアケ　滋賀縣の高島郡では、聟入のことをアヒアケと謂つて居る。東京、京都では普通之を相聟、即ち姉妹二人の聟どうしの關係と解して、しかも其理由を知るに苦しんだのであつたが、考へて見ると是も、「打明け」と聯絡の有る語であつた。兎に角にウチアゲの元は、親なり親類なりの承認を求むる式であつた。中世の露顯も實は形式ばかりで内々は父母が早くから承知し且つ希望し、たゞ公然と親子名のりをするだけに止まる場合が多かつた。吾妻鏡が記して居る皇族將軍の二度の露顯式などは、二度ともに御前の新殿に引移られてから後に行はれた。史料寛喜元年十一月十六日の條の御露顯なども、女御入内の後七日目であつた。

6、カガシムコ　嫁は木尻から聟は横座からといふ諺もあつて、兎角よい家へ娘を遣りたがる人が昔も多かつた。さうすると聟入の日の款待も一通りではなかつたので、以前は是を乞聟とも奔走聟とも謂つたが、今はさういふ語はも(447)う無くなつたやうである。之と反對に聟があんまり親の賞翫に値ひせぬと、聟入は雙方とも不熱心になり勝ちであつた。それといふのが此日は男の最も晴れがましい日であつて、一世一代の見えを張らなければならなかつたからである。狂言記などの中にも又おろか聟の昔話にも、此日の滑稽が幾つと無く描かれて居る。至つて尋常の聟には氣が進まなかつた筈である。信州の北安曇郡では、初聟は八月十五日の「月見よび」に招かれて行けなかつたら、九月十三夜には是非都合して行かなければならぬ。それにも行けないと十月十日の十日夜に行くのだが、是は案山子聟などと名づけられて非常に馬鹿にされた（同郡郷土誌稿三卷）。木曾では今日では聟入を受けると受けないとは、雙方の協議次第として居る（西筑摩郡誌）。行かずともよいのなら追々に行かなくなるだらう。

　

　　　　　　　　　　一二　結納聟

　

1、ユヒナフムコ　前節には專ら嫁入より後に行はれる聟入に就いて例を集めた。是からは嫁入の日より前かたに、聟入をすます風習に注意して見よう。結納聟即ち結納の日に聟入をする處はそちこちにあるが、斯ういふ語のあるのは越前の一部だけが、今知られて居る。この地方では結納の際に、聟に父兄や他の親族の者が同行して行くことがあつて、それをば結納聟と謂つて居る。斯うして置けば後に聟よびの饗宴を省略することが出來て便利だとも考へられて居る。此時は本膳の後に嫁候補者が出て來て、茶を立てゝ客に饗するのを常として居る（今立郡誌）。

2、ユヒナフイチゲン　越後の中頸城郡などは、結納は普通は親戚と仲人とで持つて行くことになつて居るが、時としては此日花聟が嫁の家に招かれて行く例もあつて、之を結納一見と謂ふ。其時は途中行列がある。先づ釣臺に祝儀物を載せ、其後へ仲人、聟の親、聟本人それから親類が行く。前の作法は是の略式と見なされて居る。嫁入の日取りは此日に取りきめることを習はしとして居る（婚姻號）。

(448)3、ムコイチゲン　群馬縣佐波郡の一部で、聟一元などと字に書いて居るのは、結納品を嫁の家に贈つた直ぐ後に、聟と其近親とが仲人を案内として、嫁女の家に行つて饗應を受けることである。嫁入當日の午前又は午後のこともあるが、又四五日前に聟入をすることもあつて、それからは往來をする。因みに此地では嫁入の翌日に、新婦の近親か亦仲人に伴なはれて、聟の家に行くのをたゞ一元と稱し、嫁入と同じ日に行つてしまふのを「送り一元」と謂つて居る（佐波郡東村誌）。一元を一見と書くべきことは既に述べた。

4、チャムコイリ　筑前の新宮邊では茶聟入といふ慣例がある。茶といふのも約束確立の日のことで、此日結納に茶色の帶などを持ち、やはり聟まぎらかしを同行して、聟が嫁の家を訪問するのである（櫻田君）。

5、ナイシウゲン　伊豆の下田あたりでは、結納を入れることを、内祝言と謂ふさうである。それから吉日を選んで愈々合?の式を擧げる。相識の間ならば斯んな迂遠な手續きを要せずと謂つて居るのは（旅と傳説、婚姻號）、所謂ドラヅレならば内祝言などは無いといふ意味と解する。遠江の志太郡でも結納を内祝言と謂つて居る（郡誌）。

6、ユヒナワ　是は新たに採集するに及ばぬ語のやうだが、言葉は同じでも内容は土地毎に多少ちがつて居る。注意して置きたいのは、此日聟入をする風習が時々ある以外に、

　イ、此日を以て嫁入の期日を取極める習慣の多いことである。

　ロ、結納を送るを以て婚約の成立と見、以後變更を許されなかつたことである。越後の刈羽郡では此日新婦に銕漿を附けさせ、駿河の安倍郡では此日以後嫁入前、聟の親が死亡すれば嫁として葬式の供をさせた（民事慣例類集）。土地によつては嫁引移りが翌年になる場合、暮には聟方から嫁の年取米を送つて來た。信州などでは堅い家は今でもさうする。

　ハ、結納の品物には、地方によつて輕重の差等が大きい。其うちで金錢の處は最も新しい「改良」と見なされて居る。其一つ前には衣類、他に尚化粧道具などの例もある。食物と酒とを持つて來るのは、多分古い形であらうと思ふ。

(449)　ニ、どういふわけでか茶の包を持つて來る地方もある。

　ホ、それよりも特に重要なことは、結納の以前にもう一度、婚約成立の酒を入れる土地の至つて多いことである。其事はずつと詳しく次の節で説かねばならぬ。

　ヘ、結納の式の無い土地がある。さういふ處では前の酒入れを結納と解して居るものがある。或は結納に送るべき衣類や金を、嫁入當日の聟入に持つて來る土地がある。結納の期日が嫁入の前の日である所もあれば、當日午前の結納もある。又結納返しだけは嫁入に携へて來る處もある。

　ト、結納の期日は其前の酒入れの日にきめて置く土地もある。之を要するに聟入と結納とは、もとは極めて近い式であつて、所謂結納聟は必ずしも二つの式の合併では無かつたらしい。

　チ、ユヒナフといふ語が實は妙なものであつた。壹岐島では嫁入の日の前刻に聟入が行はれ、鯛二枚と酒一荷と茶二包とを持參する。この酒と魚とには美しく結んだ飾り繩が掛けられる。從つてユイナフは即ち結繩のことだと解する人もあるやうである（婚姻號）。私の推測では、本來はユヒノモノ即ち家と家との新しく姻戚關係を結ぶ爲に、共同に飲食する酒と肴とを意味する語で、聟が之を携へて聟入するのが本式であつたのかと思ふ。尚觀察を重ぬべきである。

7、ナフヘイ　�ｺ島縣では一般に結納をノウヘイと呼んで居る（阿波の言葉）。或はたゞ單に熨斗とも謂ふのは、必ず熨斗鮑を附けて來たからで、其のしも亦正式の食物であつた。ナフヘイは勿論學問ある者の新語で、或は納幣かと言つた人もあるが、納聘といふ漢語の採用である。

8、ユイレ　奈良縣は普通結納をユイレ、富山縣でも富山高岡の兩市共にユエレと謂ふ。即ちユヒイレの約であつて、貞丈雜記には既に之を注意し、「言ひ入れ」の轉訛だと説いて居るが、是はユヒといふ慣習に心付かなかつた時代の人だから致し方が無い。信州はたしか南佐久郡で、結納をエイノモノと謂つて居た。ユヒは通例田植などの相互手傳の(450)場合に現はれ、それを土地によつてエイともヨイともイイとも謂つて居る。聟と舅の家の間には此時からユヒがあつたのである。

9、イイレ　土佐の幡多郡では結納をタノメ又はイレ、甲州の上九一色村でも之をイイレと呼んで居た。甲州のイイレは通例は花嫁の式服一揃ひを贈るが、上衣だけをさういふこともある。あの女はイイレを着て居るといふ言葉もきくといふ（旅と傳説、婚姻號）。

10、イハヒモノダテ　又、イハヒダテともいふ。岩手縣の北部などで、他の地方の結納送りをさう謂ふので、既に「口合せ酒」も濟んだ後、雙方から祝ひの品物を屆け合ふことださうである（民俗研究九卷）。

11、ホンシキチャ　熊本縣鹿本郡などに於て婚約成立の後、吉日を選んで嫁の方へ衣類其他の結納品を、可なり色々と贈つて來ることを本式茶と謂つて居る。其品目の中に萬引魚二枚があるのも珍しい。之に對して嫁方から聟方へ、熨斗に酒樽に萬引魚一枚、袴地等を送るのを戻茶《もどりちや》と謂ひ、嫁の家で此事を近隣や親類に報告するを、茶披露といふ（郡誌）。本式といふのは何に對してかわからぬが、多分婚約成立の酒入れを、もと茶と謂つた爲であらう。

12、モタヒ　常陸では結納を古くモタイと謂つて居た。後世の樽入れに該當する語が、たま／＼久しく殘つて居たのである。酒甕をモタヒといふ語は倭名鈔にも出て居る。

13、ザツシャウ　大隅の種子島で結納のことだといふ。雜餉は本來は今の重詰のやうなもので、一般に人に食物を送る方法であつたが他ではもう忘れて婚姻の場合だけに、斯んな古い言葉が遺つて居たのである。

14、タノメ　結納をタノメと謂ふ例は、土佐と伊豫の西の部分、その對岸の豐後の臼杵などにも見られる。是から東は中國も紀州も弘く一樣にタノミと謂つて居る。即ち契約成り互に信頼し得る徴で、今ならば保障ともいふべき語であらう。農業の相助制では舊八月朔日に、互ひに物を贈り合つて交誼の變らぬことを表したが、足利期以後は此風が武家公家にも入つて、依然として此日を憑むの節供と呼んで居た。併しユヒノモノが即ちタノメであつた理由は、農(451)作を中に置いて考へないと解し難い。

15、タンモリ　播州の揖保郡などでは、結納をタンモリと謂ふらしいが、是は今一度突留めて見る必要がある。タノメ・タノミの意味が解し難くなつて、或は「たまはれ」といふ語が生れたのかも知れぬ。

16、カタメ　是は通例は第一次の酒入れ、即ち結納よりも以前に先づ仲人と共に飲む酒の名になつて居るのだが、佐賀縣の佐賀小城二郡などでは、本式の結納の方を固めと謂ふらしい。少なくとも他の地方の結納の品々、茶とか帶とか麻とか扇子とか長熨斗とかを、酒と一緒に持込むことをさう謂つて居る。さうかと思ふと他の一方に、衣類帶料等の重々しい物を持つて來るより、前方に、酒だけ納める行事をばユヒナフ又はタノミと謂ふ土地がある。最初は此手續きが二度で無かつたといふことも考へられ、又酒肴以外の物は後の風だといふことも想像せられる。とにかくに二つの名稱は土地によつて混同して居て、是だけで慣習の相異を説くことは六つかしいのである。

17、ホンザケノシキ　本酒の式、加賀の小松町附近に此名がある。婚約成立の日即座に、酒二升と鯣とを贈るのが假りの式だと見えて此邊では之を祝酒と呼んで居る。本酒の式は別に日を協定して行ふのである（能美郡誌）。贈る品物も今日では酒肴だけに限らないことゝ思ふ。

18、タルイレ　樽入れは通例右にいふ祝酒のことだが、二度目の結納即ちタノミのことをさう謂つて居る地方も可なり弘い。例へば紀州の有田郡、上州の館林地方、武藏の妻沼、千葉縣も東上總の諸郡は樽入れである。海上郡の樽飲みも結納のことだとは言ふが、此日は金帛は贈らず只酒を飲むだけで、別に嫁入の日に米叺などを、柳樽鮮魚と共に持つて行く例があるさうである（郡誌）。宮城縣宮城郡などの樽入れは正しく納聘であつて、村によつては之を内酒日、又内祝儀と謂ふ家もあるさうである。單なる酒肴以外に、紋附料と稱して一封の金を贈る。此金は嫁方より離婚を申込むときには、返濟すべきものとなつて居る由（郡誌）。

19、タルヲサメ　能登で穴水の町などは之を樽納めと謂ひ（鳳至郡誌）、又酒納めだの樽立ちだのと謂つて居る。持つ(452)て來るのは仲人と親族とで、聟は來ずに代理を出すのが普通のやうだが、酒肴以外に必ず帶一筋を添へ、又は帶代と稱して一封の金員を贈る。村によつては其現金を帶代とは言はずに、酒代納めと謂つて居る（珠洲郡誌、直村の條）。さうして酒を納めたといふことは、婚約の完全に定まつたことを意味するのださうであるが、是を嫁迎の日に持つて行くものもあるのだから、つまりは結納は婚姻そのものゝ式であつた。

20、タルタテ　秋田縣鹿角郡の樽立ても、同じく亦嫁引移りの日取りをきめる機會であつた。持つて行くのは名の通り樽肴のみだが、是には聟の父親が自ら行き、且つ嫁衣裳の反物を携へて、之を嫁方の親類に見せた（内田君）。南北秋田郡でも樽立ては婚約成るの證と認められ、此樽を開いた以上は故なく契約を廢することを得なかつた。訴訟となつた節は、この樽立てを以て契約の效に立てたといふ（民事慣例類集）。

21、タルビラキ　縁談が纏まつたことを親族に告げ、祝賀の小宴を開くことを、宮崎縣でも樽開きと呼んで居る（日向の言葉）。つまり樽入れの酒を酌むのであらうが、此樽は最初の濟み樽のことやら、二度目の禮樽のことやらまだ明瞭としない。併し此地方での二度目の樽入れは、非常に嫁入の期日と接近して居る。だから吹聽は事實もう少し前にしなければならなかつたらう。

22、レイムコイリ　日向と接した熊本縣の山村では、縁談整うて後吉日を選び、聟及び其近親媒妁人等、禮樽肴といふのを携へて嫁の家に行き、婚約の成立に就て相應の挨拶をする。是を禮聟入と謂つて居る。人によつては是をも「樽入れ」といふのだが、其前に既に一度樽入れは濟んで居るのである。禮聟入の際には夫婦の盃も爲さしめて置いて、二人の男女の出入を便にする例も多い（阿蘇郡誌）。以前は花嫁が此日に始めて銕漿をつけた。今でも此晩に普通は荷物送りがある。聟方の若い衆が箪笥をかたげに來り、かね附け祝に集まつた村の娘たちは、是に墨を塗り又白粉をつけた（旅と傳説、婚姻號）。

23、チャノモノ　同じ縣でも海に沿うた宇土郡などでは、結納のことを茶の物と謂つて居る。即ち第一次の樽濟みの(453)後、吉日を定めて仲立ちが之を持つて行く。色々の贈品の外に必ず雌蝶雄蝶を附けた茶の包を添へる。之を親戚近隣に披露する宴を茶披露と謂ひ、嫁方からの返禮の品を戻り茶と謂ふ（宇土郡誌）。

24、チャギモノ　筑前の大島などは、以前は結納の式といふは無かつたらしい。近頃茶着物と名づけて、氣の利いたところで紋附と帶、普通は帶だけ嫁方に贈る。それも嫁入の當日持つて行くのである（婚姻號）。前に掲げた茶持ちといふ役がこれで大よそわかる。

25、オチャオビ　福岡縣久留米地方では、朝聟入即ち嫁入當日の聟入の際、聟の方から帶地を持つて來る。それを直ぐに仕立てゝ其夕の輿入れに着用することになつて居る。帶に茶を添へて持つて來る故に御茶帶といふ（民族と歴史五卷六號）。

26、オチヤギン　肥前鷹島の例だが、内陸にも弘く行はれて居る。結納であるが多くは金、今は二十圓ぐらゐが普通、嫁入の日に持參する。此際聟方の者嫁方に行き酒を飲む。本人が來なくとも之を聟入と謂つて居る。是が終つてから一同聟の家に行くのが嫁入で、此時に聟と嫁との盃はある（櫻田君）。

　肥後の玉名地方の結納は嫁入の當日では無いやうだが、とにかくよほど近づいてからである。贈り物は帶の外に米が三俵五俵、是に肴料といふのが附くので、それを茶銀とも謂つて居る。近年其高が次第に多くなり、百圓以上の場合も稀でないといふ（能田太郎君）。御茶が常民の飲み物となつたのは、九州とても決して古いことでは無かつたらう。さうすれば是を結納の料としたのも、中世以後の新制といふべく、それを帶地の名とし更に又金錢を以て代へたなどは、又一段と新しい變遷と見るべきである。

　我々の興味をもつ點は、何故に西國でばかり特に此風が起つたかといふことゝ、どうして酒肴の他に是を添へることになつたかであるが、是は或は女と酒との、古い關係を解説するたよりになるかも知れぬ。

27、スズノカネ　酒の代りに金錢を贈る例もある。伊豆大島の波浮港などは、結納のことを錫の金と謂つて居る（山(454)本靖民君）。スズは金屬製の酒�ｺ利のことだから是も亦樽代と同じ意味で、即ち此地方にも聘禮に金を贈る風習のあつたことを語るものである。

28、メシクヒ　福島縣の海岸地方には、結納を飯喰ひといふ名稱がある。贈品は十一種九種又は七種、是を目録に載せ、別に金圓を添へて來るのを縁起と謂ふとあるのは（石城郡誌）、是も亦縁金の靴であらう。縁金といふ語は他の地方でも折々聞く所で、所謂支度料の別名である。飯喰ひは如何にも殺風景な語ではあるが、やはり九州の方の茶の物等と同じく、此日聟來つて共同の飲食をしたことを意味する、古風な習慣の痕跡のやうに思ふ。

29、フンジサン　鹿兒島縣大島に於て結納の式に該當する語、字に書けば本持參である。即ち口納めが濟んで後、日柄を選んで仲人を以て贈る品々、普通餅二組と燒酎三沸し即ち三升、生魚と硯蓋即ち料理若干で、今日は是に尚現金を添へるものが多い。嫁方では此日祝宴を開くが返禮はしない。聟は此時から公然と夫婦となるが、嫁ソーリ即ち嫁入は其後に行はれる（岩切登君）。是を持つて來ることをジサンチキーと謂ふ。チキーは多分「つかひ」であらう。東北でも物を贈ることをしば／＼ツカフと謂つて居る。

30、ゴバンコり　沖繩縣の國頭では、許婚を親戚知友に披露する宴が嫁方で行はれ、其際に聟入がある。聟は近親者と共に酒肴を携へて嫁方に行き、近親の人々に挨拶をする。此時の宴に限つて盃の遣り取りは無く、何れも受けきりである。聟が歸つて行く時は嫁方の人々、又酒肴を携へて送つて行き、そこで又酒宴がある（旅と傳説、婚姻號）。ゴバンは御飯のことかと思はれる。此日の式が濟むともう公然と夫婦で、聟はトジバンと稱して毎夕嫁の家に行つて宿するやうである。

31、モドリチャ　聟方の茶の物に對して、嫁方の返禮の品を戻り茶といふことは、熊本縣では一般の風らしい。之を受けると聟方でも茶披露をした（上益城郡誌）。中部以東は之を結納返しと稱し、大抵同じ日に約半額ほどのものを返すといふ例が多いが、香川縣などでは其返しを嫁入の日に持參することになつて居る。甲州には聟引出といふ昔風の(455)語が殘つて居る。普通は羽織や袴などで、是亦イイレの返禮である。引出物とは謂つても聟入の際に與へるのでは無く、やはり後から聟の家へ送り屆ける（婚姻號）。

32、モラヒジャウ　貰ひ?。宮城縣には樽入の日に貰ひ?、呉れ?を交換する習ひが古くからある（宮城郡誌）。或は又縁組　　状とも稱し親類仲人立會の上之を授受し、是がすむと破談することは出來ない。近世は是に證券印紙を貼用するものさへあつた（民事慣例類集）。關東は一般にたゞ親類書を結納の品に添へるのみであつた。信州などはそれを由緒書と謂つて居る（南安曇郡誌）。

　

　　　　　　　　　　一三　手締めの酒

　

1、ハナシカケ　結納が嫁引渡しの日を定める式なるに對して、其以前に尚婚姻の承諾を求める式があつた。之を假結納といふ土地もあるが、婚約だけは之によつて成立つのだから、假といふ語は當つて居ない。信州の遠山和田などで、此式を酒入れとも話し掛けとも謂ふのは、何だか混線のやうにも聞えるが、多くの話しかけは即座に酒入れになつたのだから、此方は却つて實際に合つて居る。兎に角に話が纏まると、出來るだけ間を置かずに酒を持込んで共に飲んだので、多分は仲人は上り口に樽を置いて、自信のある縁談の口を切つたことゝ思ふ。

2、サケイレ　酒入れといふ語は信州から其隣接の諸縣にかけて、相應弘い區域に知られて居る。「酒がはいつた」といふことはもう特殊の事情の無い限り、破談は出來ない　　状態に在ることを意味する。しかも其分量といへば通例は一升入の樽であり、近頃はそれも酒屋の切手などになつて居る。結納とはよほど性質のちがつた贈り物である。

3、サケヲスル　佐渡でも婚約が内定すれば直ちに新婦の家へ酒を贈るのが一般の例である。之を定めの酒といつた事は後に述べる。富家では此際にも金圓衣類を贈ることはあつたが、名稱は「酒をした」と謂つて、此以後は違約の(456)出來ぬものとなつて居た（民事慣例類集）。

4、サケタテ　秋田縣の鹿角地方でも、之を酒立て又は樽立てと謂つて居る。持つて行くのは聟の父親で、樽に肴を添へて持參する。是が納められると縁談は調うたことになる（内田武志君）。

5、チャイレ　福島縣の石川郡などでは、是を茶入れとも謂つて居る。茶入れとは謂つても、持つて行くのは酒一升で、こゝでは此際に嫁入の日をきめてしまふ。或は樽入れといひ又飯食ひともいふのが（郡誌）、少しばかり隣の石城郡のメシクヒと違つて居る。

6、チャシウギ　茶はもと酒と共に携へて行つたものゝやうである。越後の魚沼地方などで茶祝儀といふのは、婚約調うて後十日以内に、聟の家から茶を一斤か二斤婦家へ贈つて來る。婚家ではそれを數個に包み分けて、名主組頭組合親類に配分する。是に酒を添へる家もあるが、兎に角に名前は茶と稱へて、假結納の意味で雙方契約の效とする。爾後故無く破談をしようとしても、媒介人は承諾せぬのが例である（民事慣例類集）。

7、キメヂャ　熊本縣玉名郡などでは、結納のことも茶といふが、其前の式をもキワメ又はキメ茶と謂つて居る。話が纏まると其日中遲くとも翌日、柳樽と魚二尾入一籠とを媒人が持參して挨拶する（能田太郎君）。

8、ダツタテ　同じ地方では又是をダツタテとも謂ふやうである。ダツは食物を入れて行く器物のことでは無いかと思ふがどうか。

9、ナゲイレ　香川縣の仲多度郡などは、婚約成立すると直ぐに、聟方より熨斗や鰹節を添へて柳多留を贈つて來る。是を投入と謂ふのは急いで持つて來るの意かと思ふ。タノミ即ち結納は更に日を定めて贈るのが古式であるが、今は略して直ぐに結納を贈る例もある（仲多度郡史）。

10、タノミ　多くの地方では第二次の結納のことをいふが、周防の大島では固めの酒のことである。仲人が一升の酒を下げて、下話をしてくれた女の人も同行する。稀には聟も一緒に行くことがあり、又時としては是が結婚式の代用(457)となり、其まゝ娘を聟の家に連れて來る場合もある（宮本常一君）。長門大津郡の山村では今でも聟が同行する。

11、オサヘ　播磨の各郡では是をオサヘと謂つて居る。結納は改めて日を定めて贈るのだが、其以前單に約束の驗として、扇子熨斗酒肴を贈り、若くは其料として金一封を持つて來るのもある（民族二卷三號、民族と歴史二卷二號）。オサヘは抑へであつて、もう外へは交渉を始めさせぬことを意味するのであらう。見合ひが濟んで直ぐに、之によつて約諾の意を表する例もあつた（加東郡誌）。見合ひも只單なる調査では無かつたのである。

12、オウサン　群馬縣では婚約成立を披露する酒盛りを、樽立てとも又オウサンとも謂つて居た（群馬郡誌）。是も「抑へ」の意味の不明になつてからの變化かも知れぬ。

13、シキリ　岡山縣作州各郡では、婚約成立の後近親を會して之を告げ、酒飯を饗することを仕切といふ（勝田郡誌、英田郡誌）。これ成約の誓なりとあるから、シキリといふ語には拘束の意味が有つたのである。

14、キメザケ　筑前の大島では、キメ茶の代りにキメ酒の名がある。又スミ酒とも謂ふ。仲人が酒三升と有り合せの尾鰭あるものを携へて嫁の家に行き、嫁の兩親兄弟その他重な親類と立會ひ手打ちをする。此時始めて仲人は上座に坐り、嫁は酌に出る。但し聟は同行しない（櫻田君）。

15、クチキメ　關東では栃木縣の都賀郡などで、之を口極めと謂つて居た。契約が成立つと仲人を介して、雙方から樽酒を贈答する。此手續がすめばもう容易に變改することが許されない（民事慣例類集）。

16、クチキハメ　群馬縣でも佐波郡などは、之を樽入れ又は口極めと謂つて、仲人は雙方に祝酒を供し、彼我ともに近隣親族の人々に立會を乞ひ、婚姻の成立を披露した。結納は輿入の日が定まつてから後に贈ることになつて居た（同郡東村誌）。

17、カタメノサケ　肥前五島の有川では、嫁方合意を、貰ひが濟んだと謂ひ、仲人はこゝで兩親達だけと祝ひの盃をする。此時には親族だけが招かれる。嫁入の日も是できめる。壹岐でカタメ酒といふのは承諾の返答があると仲人が(458)酒三升を携へで嫁方へ出かけ、口頭の契約をする事である（山口麻太郎君）。

18、カナメザケ　奧州の外南部で、カナメの酒といふのも固めの意である。國の兩端で同じ語を使ふのだから、此名稱は古いと見てよからう。

19、コブシカタメ　但馬の養父郡などでは、婚約成立の際に飲む酒を拳固めと謂つて居る（風俗畫報七五號）。

20、クチガタメノサケ　甲州の上九一色村などでは此際に仲人の持つて行く酒を祝酒、又は口固めの酒と謂ふ。其酒樽の角には、ごまめを二尾腹合せに結はへたもの、又は鯣一把か二把をくゝり付けて持參する。嫁方では身うちの者列席の上で其酒を開く。是を酒を入れた、又は酒を濟まいたと謂ふ。嫁入の日取は此席上できめ、もしくは後日にきめることもある（土橋里木君）。

21、クチムスビ　鹿兒島縣の大島で、話が成立つと仲人が持つて來る。燒酎が三合に生魚素麺など。是を口結びといひ、又三合酒とも謂ふ（岩切登君）。

22、クチアハセザケ　陸中上閉伊郡では、此酒を口合せ酒と謂ひ、媒妁人が携へて來た酒と、嫁方の酒とを混じて汲みかはすことを、樽の口を合せると謂ふ。持つて來るのは通例一升である（民俗研究九號）。

23、クチワリザケ　越後の蒲原地方では、此酒を口割酒といふ（民事慣例類集）。一に内契約ともいふ。式の説明は無いが、是も兩家の酒を混ずる故に、ワリと謂つたのであらう。

24、クチシュビ　福島縣の海岸部には此婚約成立の式を、口首尾ともヘンジともメシクヒともいふ村がある（双葉郡誌）。首尾といふのも返事のことで、つまり此酒を飲みながら口頭で快諾の旨を答へたからの名と思ふ。

25、サダメザケ　同じ縣でも會津の若松あたりでは、仲人は酒一升に干烏賊を添へて、先づ嫁方に行つて其酒の半分を其家内縁者に飲ませ、殘り半分を以て聟方に行き同じことをする。その式をサダメザケと謂ふ。但しこゝでは結納も同じ日に行ふ（若松市郷土誌）。といふことは是が結納以外の手續きであつたことを意味する。酒を兩家の者に二度(459)に飲ませることは、五里七里も離れて居ては不可能なことである。だから仲人が代つて飲んでしまふ例も多いのだが、前には聟自身が此酒を携へて、出かけて共に飲む慣習もあつたと思はれる。たとへば佐渡でいふ定めの酒の如きは、どうも聟殿が下げて行つたやうである。島の盆踊の人を笑はす踊唄の中に、

　　　縁が無いやらサダメの酒を

　　　道で鴉が蹴こぼした

といふのがある。是なども仲人の親爺が一人で持つて行つたのだつたら一向にをかしくない。

26、テジメノサケ　此言葉は越後信濃から其隣接の國々にも弘く行はれて居る。やはり結納とは別にそれよりもずつと早く、貰ひ方よりくれ方へ、婚約成立の證として贈つて來る酒で、是に鯣を添へ又扇子を添へたが、近頃是も料金にした土地がある（西筑摩郡誌、南安曇郡誌等）。手締めといふのは手を打つ事である。愛知縣額田郡などでも、當事者承諾の後、仲人の持參する一升の酒を�ｺ利酒又は手〆の酒といひ、是を贈つて承諾を謝し、且つ手〆の式を行ふ（郡誌）。とあるのはシャンシャンと手を打つことである。

27、シメザケ　越中の高岡邊でもこの約婚の時の酒を〆酒、信州佐久地方にも同じ名稱がある。此酒は里方に於て、必ず親族に披露することになつて居る（民事慣例類集）。披露といふのは飲ませながら其話をすることである。

28、テウチザケ　手打酒といふ語も奧羽越後等處々に行はれて居る。手うちも手じめも同じことだから、二つの名が竝び行はれて居ても不思議は無い。

29、テイレザケ　手入酒。山口縣長門角島などでいふ。一名カタメの酒、世話人が持參し嫁の親類も招いて、大根膾などの簡單な肴で飲む。結納は別に白米二升帶代若干、番茶の紙包を添へて是も仲人が持參する。但し実質上の嫁入は手入酒が濟むと直ぐに行はれる（旅と傳説、婚姻號）。

30、ネキリザケ　阿波の奧木頭の北川村で、内談まとまると直ちに酒を持參する。是を根切酒といふ。大抵は一斗ぐ(460)らゐ、是を貰ひ受ける男と媒妁人とが持つて、先方に行き酒盛を催す（人類學雜誌一九〇號）。即ち聟人である。根切は嫁の家からつれ出す意味であらう。

31、タモトザケ　祝酒といふ語は信州北部から越後高田、石川縣までは確かに行はれて居る。加賀では婚約成立の日に仲人が持つて行くので、普通には二升と鯣、別に本酒と謂つて結納の式を履む者もあるが、祝酒の方が一般的で、之を正錫ともいふ（能美郡誌）。信州の方では費用の出處はともかくも、祝酒は仲人の買ふ酒となつて居るらしい（上高井郡誌）。袂といふのも即席に之を調へる意味であるらしい。甲州にも此語のある事は前に述べた。

32、フクベザケ　同じ地方では、又此酒を瓢酒或は一升開きとも謂つて居る。是に對して愈々嫁入の前の日に、聟の父を連れて仲人の持つて來る酒をば聟酒といふのである（下高井郡誌）。

33、トックリザケ　�ｺ利酒といふ語は三河の西部（西加茂郡誌）、又越後の刈羽郡にも知られて居る（民事慣例類集）。後者では内談整へば即日之を贈り、後婚姻の期に近づいて、改めて結納を持つて行くのが例であつた。

34、イッパイザケ　常陸霞浦湖上の浮島では、約束成立の日仲人の入れる酒を一杯酒と謂ふ。こゝも一升ときまつて居る（旅と傳説、婚姻號）。

35、コダル　岩手縣の膽澤郡などでは小樽といふ。是も約成るの日に約定を表する酒で、結納には嫁入の日が定まつてから別に衣服を贈つた（民事慣例類集）。

36、シャウスズ　正錫は前掲加賀の能美郡の外に、伊豫の一部でも同じ語があつた。即ち結納の禮以前、話がまとまると直ぐに一種一荷を入れることをさう謂ふのは（新居郡誌）全く同じことである。スズは�ｺ利以前の酒器必ずしも錫で作つてなくともさう謂つたらしい。

37、タルスミ　熊本縣宇土郡などでは、婚約を結ぶ日、媒妁人自ら酒二升鮮魚一貫目位を携へて嫁の家へ行く。之を樽濟みと稱へ、受けた方で親戚故舊を招いて之を披露するを樽開きといふ（郡誌）。同縣下益城郡などはスミダルとい(461)ひ、兩方とも互ひによく通ずるが、土地によつては單に是を「禮」とも謂つて居る（阿蘇郡誌）。

38、スミザケ　九州では可なり弘く此語が行はれて居り、其内容にも格別の相異が無い。幾つか集まつた實例の中で、肥前鷹島のは島だけに少し振つて居る。仲人は通例二人、話しかけは必ず夜行くものと極つて居り、二人が各々一つ提灯を下げて行く。女の親は普通二度までは待つてくれと答へ、三度目に承諾をすることになつて居る。承諾があると仲人は聟の家に引返して來て、聟の親と内祝の盃をする。それを濟酒と謂ふのである（櫻田君）。其他の場合は肥前諌早でも筑前博多でも、豐前豐後の諸郡でも又日向でも、共に話がついてから嫁の家で、仲人が酌みかはす酒がすみ酒である。

39、クギザケ　筑後八女郡の星野村などは、この濟酒のことを釘酒と謂つて居る（同上）。是も話を固めるからの名であらう。

40、コンパ　羽後の飛島では、婚姻の約束のしるしに、嫁の親の家に贈る固めの酒をコンパと謂つて居る（飛島圖誌）。其意味はまだ考へ出せない。

41、ナイサケイハヒ　宮城縣で結納日を内祝儀といふ例があることは既に述べたが、是も土地によつては第一囘の酒入れのことであつた。たとへば松島の浦戸村などで、内祝儀もしくは内酒日といふのは、どうやら縁談のきまつた日の事であるらしい。たゞ此村などでは後にもう一度の結納の式が無い爲に、此日を亦結納日といふだけである。仲人は五合の酒を携へて來て、是を嫁の家の酒五合とまぜ合せる風がある。一しやう離れぬといふ意味だなどと謂つて居る（宮城郡誌）。同縣遠田郡の内酒祝などに至つては、明白に九州の濟酒濟樽に該當する。結納はもう一度日を定めて持つて來るからである（遠田郡誌）。

42、オミキヲイレル　瀬戸内海の島々、例へば備中の北木島などの慣習は、始に聟方の友人又は先輩が、酒を持つて娘の親の所へ挨拶に行く、それから交通が許されるので、此酒を「おみきを入れる」と謂ふ。娘の家にはこの夫婦生活(462)の爲に、特に用意せられた一室があつて、女は其室に宿し聟は自由に之を訪問する（民族二卷四號）。即ち此地方の酒入れは、單なる婚姻の豫約では無かつたのである。

43、サキムイ　轉じて南方の沖繩諸島はどうであるかと見ると、沖繩本島の宜野灣地方では此酒贈りをサキムイと稱し、結婚の豫約だと解して居る。酒と重箱につめた肴とを持つて、女の家に行つて約束をすることで、是が濟むともう其以後は、互ひに忙しい時には行つて助ける（シマの話）。誰が酒を持つて行くのか記してないが、多分親族と共に聟も行つたのであらう。サキムイは酒盛のことで、別に變つた意味はもたぬ語のやうである。

44、アライデザキ　此縣宮古群島の伊良部の島などでは、聟が女の親の承諾を求めに、携へて行く酒を、アライデ酒と謂つて居る（民族一卷一號）。同意が得られると直ぐに酌みかはす習であるらしい。だから是を結納の酒と譯したのは誤つて居る。嫁引渡しの爲にこそは豫約であらうが、夫婦の語らひは此酒を以て結ばれるのである。アライデは私の想像では家を出ることかと思ふが、尚島の語を解する人に問ひたゞして見たい。

45、ナカダチノサケ　沖繩最南端の波照間の島では、結婚を意味する特別の語は無い。たゞ結婚と結納とを合せたナカダチヌサキ、即ち仲立の酒といふ語があるだけだといふ（宮艮當壯君）。此意味は又此酒を酌む事によつて既に夫婦の契は結ばれるといふのであらう。

46、オヤノレイ　酒入れが曾ては今よりも遙かに大切な儀式であつたらうといふことは、單に仲人ばかりの行動によつて之を察することが出來ない。仲人の地位は近世重要となり追々に聟と其身内の役目を代行して、愈々以て此式を豫約らしくしたのである。それで最後には仲人以外の者が、此際何をしたかを考へて見よう。肥後の阿蘇地方で仲人が酒を持つて來る事を、禮と謂つて居る事は前にも述べたが、その仲立の禮に引續いて、男の親や親族が行くのを此地方では親の禮と謂つて居る。其時も贈品は亦飲食物で、樽酒三升と苞に入れた鯛、餅が二重で一重は嫁方仲人に贈ることになつて居る（旅と傳説、婚姻號）。

(463)47、ヨロコビ　長門の大島では右の親の禮をたゞ悦びと呼んで居る。濟酒の翌日又は日を擇んで、貰ひ方の近親の女性、例へば姉や伯母などが、嫁方の近親の家を廻つて、嫁を貰ひ受けた禮を述べてあるく。其家では相應の饗應をするといふ（櫻田君）。信州や越後の手締めの酒にも、聟の近親の女が附いて來る例があつて、土地によつては是をも女一見と謂ふらしい。沖繩のサキムイにも聟の母親、其他身内の女性が酒肴を携へて嫁の家に行き、其兩親と盃事をする場合もある（比嘉春潮君）。是も其日から既に姻族となつた結果としか見られない。豫約ならば親までの悦びには及ばぬからである。

48、ジウモチ　日向｜諸縣《もろかた》地方では、交渉が成立つて禮に行く者が、仲人夫婦の外に聟の父か母か一人、近親の者一人と重持ちをつれて行く。重持ちは重に入れた餅を二重持つて行く（婚姻號）。是も嫁の家で共同に飲食して新たなるよしみを繋ぐ爲であつた。

49、ゲンゾウ　同國兒湯宮崎の二郡では、此訪問をゲンゾウと謂つて居る。契約が定まれば、行く者は必ず聟の母、酒肴を携へて近親の婦人を伴なひ、嫁の家に至り婚儀の成るを表する。此手續がすめば再び違變することは出來ないのが例である（民事慣例類集）。ゲンゾウは現像と文字に書いて居るが、是も亦初對面を意味する見參であつたと思ふ。場合は僅かちがふが南北の兩端に於て、同じ中世語の使はれてゐるのは注意しなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　一四　見合ひ

　

1、オカタミ　聟は古風な縁組に於ては、もう此酒入れの時に聟入をして居る。家と家との婚約の成立に、是非とも酒食が必要であつたといふ事は、中途に仲人の獨占してしまふのが、後世の變化であつた事を思はしめる。聟が聟入を遲くしたがる理由、即ち仲人の代理を頼むやうになつた起りは、未だ相手の女をよく知らぬといふ場合が、近世次(464)第に多かつた爲かと考へられる。村内の婚姻ならば見合ひは常にして居る。親さへ承知すればといふ例が、稀で無かつた筈である。それ故に私は現在のミアヒといふ風習を、可なり意味ある殘存として注意するのである。紀州那賀郡などのオカタミといふ語は、單に見合ひのことだと解せられて居るが（郡誌下卷）、甲州の方言では之を婚禮の取持のことだといふ。オカタは前にもいふ如く、家の主婦を意味して居た。從うて見合ひは唯若い男女が、相手の姿を見て置くといふ以上に、既に一つの選定であつたかと思はれるのである。此點は前代の學者も注意して居る。たとへば尾崎雅嘉隨筆にはメアハスは目合はす也と謂ひ、西田直義の※［竹／收］舍漫筆には浦島子傳の合眼といふ文字に據つて、マグハヒといふ語も是だと迄論じて居る。

2、ミアヒ　見合ひは今でも嫁となり得る者の家に於て、行ふを以て通例とする土地が多い（群馬縣多野郡誌等）。是だけは聟入とは言はぬけれども、男は同じやうな心構へを以て行くのである。それから大抵は其日其場に於て、ほゞ雙方の内意を問ふ事になつて居る。野州足利の附近の例では、氣に入つたら娘の出した白湯を飲むことに、かねて世話人と打合せて置いたといふものもあつた（旅と傳説、婚姻號）。直ぐに其後で、どうでせうかと、尋ねる習はしがあつた爲かと思ふ。大和の高市郡でも承知の場合には、わざと扇子をあとに殘し、又はお茶菓子を持還つたりする。是を見て女側ではやゝ安堵する。それから愈々好結果と見ると、縁女の方から貰ひ手の方へ、仲人を通して土器三つ重の盃を送る。是をも盃の取りかはせといふさうである（同上）。無論結納の濟むまでは固まらぬものと解し、又は樽入れを以て確定したのであるが、近世に入つても、是も亦一つの重大な區切りであつた。東京でも今日知名の一友人は、見合ひに行つて歸りに今の細君の母親から、直接に如何ですといふ質問を受けた。まごつきながらも承知の色を示すと、そんなら何なりとも驗の物を置いて行つて下さいと、持つて居た古扇を取られたといふことである。單なる雙方の調査であつたならば、考慮の日數はあつてもよかつたのである。

3、オチャノミ　福島縣信夫郡の或村では、娘が嫁入の年頃になると、男が猿袴をはき白い馬などに乘つて、仲人に(465)連れられて見合ひに來る。それが月の十日の日ときまつて居たと、結婚寶典には見えて居るが、記事が粗相で前後の事情が判らぬ。しかし少なくとも見合ひに日をきめる例は絶無で無かつた。香川縣小豆郡の四海村では、一部落の見合ひを集合的に毎年日を定めて擧行すると謂はれて居る。當日は村長議員などの監督の下に、年頃の娘達は盛装して出て來て、村の若者と一日遊ぶ。其送り迎へを若者がする途すがら、多くの約束が成立つといふことである（婚姻號）。是も詳しい記述を見ぬと、證據として引くことも出來ぬが、此種の妻問ひ方法は昔も多く、今も山村などには折々例がある（此事は短歌民族一號に書いて置いた）。叨《みだ》りがましい弊さへ無ければ、斯うして豫め互ひに知つて置いてから、話の進むのは何人の希望にも合して居た筈である。

4、ナイショギキ　それから此序に是は見合ひでは無いが、女子の意向を無視しなかつた例を擧げると、肥後の阿蘇地方で内所聞きと謂つて居るのは、單なる内偵社一流の外側だけの調査では無くて、聟方の叔父とか友人とかゞ、嫁候補者の女友達を頼んで、竊かに本人の内意を聞いてもらふのださうである。それが否に非ずとわかつて、始めて酒一升と豆腐三丁をもつて仲立人を頼みに行くのだといふ（同上）。但し此内所聞きをするのは、嫁御見が終つた後だと謂つて居る。さうすると此地方の見合ひは、今尚仲人の同行無しに行はれて居るらしいのである。

　

　　　　　　　　　　一五　歸り聟

　

1、マウケタヒト　今少し聟の境涯を考へて見てから次の項に遷らう。播磨の東部などでは、親が我娘の夫を儲けた人と謂つて居る。古風な語であるが、今はやゝ下流の社會にのみ保存せられる（民族と歴史三卷七號）。女が良き男に選定せられるといふことは、受身であるだけに大變な仕合せなことであつた。それに後世の利得と同じ語を用ゐて居たとしても、些しでも不思議で無い。男が妻を持つ方は普通にはモツと謂つて、儲けると迄は言はなかつた樣に思ふが(466)同じ播州の俚諺で私たちも記憶して居るものに、「春日に燒けたらえつたもまうけぬ」といふのがあつて、春の日で黒くなつた顔はいつ迄も白くならぬといふことで、是を若い女たちの戒めのやうにして居たのは不思議である。

2、カヘリムコ　以前の所謂儲けた人は、久しい間嫁の親たちの機嫌を取つて居なければならなかつたらしい。聟入と嫁入との間が、驚くほど長かつた例は今でも折々聞く。つまり其女の勞働を、さう安々とは親が手離すことを欲しなかつたのである。筑前の大島などでは結婚が濟んでから、尚三年近くも嫁は奉公をして、其給金を里の方に入れるのを加勢と謂つた。島で無くても長門の古市あたりは夫婦の盃を濟ましてから尚半年も嫁が家に居る例がある（民俗學四卷九號）。内海の島々には親が嫁入をさせぬ爲に、籍を入れられない子を持つた女房も少なくないといふ。しかし是等は唯娘の勞力の引渡しを抑制するのみだが、稀には又聟の働きをも、里方の所得にしようとする土地がある。南部津輕の人の手の大切であつた地方で、還り聟といふのがそれであつた。をかしな名稱だが勞働婚といふのも當つて居る。鹿角郡では嫁に貰はうといふ女の家へ、しばらく入聟になつて働いて居るのをケアリムコと謂つて居る。やがて出られるやうになつて女を連れて來るといふのは（内田君）、やはり豫め年限をきめて行くのであらう。野邊地では、長女を別家させる場合などによく行はれる（中市謙三君）。是は中央部にも折々見る例であるが、それで無くともやがて娘をくれる條件に、暫らく里方の爲に働かせる慣習が有つたのであらう。何れ別家をするやうな「をぢ坊」でも無ければ、事實長男には此樣な入聟生活は出來なかつたらう。

3、サンネンムコ　三年聟、又年季聟とも謂つた。嫁の家の男子がまだ年若な場合などに三年五年の年數を限つて、養子聟同然に嫁の里で結婚生活をすること。今日もまだ行はれて居るらしいが、以前は下北半島には普通であつた（牧の冬枯）。

4、テマトリムコ　又出歸り聟ともいふ。岩手縣の田舍には、まだ僅かばかり此風習が殘つて居るさうである。「新岩手人」二卷八號といふ雜誌に、百三十年程前の年季聟手形が掲げられて居る。本文には聟養子御奉公に差置申すこ(467)と實也とあつて、しかも八貫文の身代を受取つて居る。三年の年季中此方より暇を取るならば、女房は離縁し身代錢は増錢して返すといひ、更に御禮奉公一年の後、女房申請可罷出候。切米は一年町米二駄、女房錢一貫文とあるから給料も貰つて居たのである。

5、ムコトリテンジャウナシ　聟取天井無しといふ諺が信州にはあつた。或は又聟は横座から嫁は下座から貰へといふ言ひ習はしもあつた。此聟も必ずしも養子聟とは限らず、出來るだけは尊敬し又優遇し得る樣な男に、娘は嫁げたいといふ古くからの氣風の表はれで、是が我邦の社會組織の上に、若干の特色を附與したらうことは疑へない。聟を働かせてさて娘を遣らうといふ慣習と、是は何だか矛盾するやうだが、望みは高くとも必ずしもよい聟のみを得られない。さうすれば何かそれに代るべき條件を以て、家の力の衰弱を防止する必要があつたのである。

6、ムコノゴキ　養子は近世になつては家の一跡を繼がせる爲に、男子の無いところへ唯一人を迎へるだけの、制度の如くにも考へられて來たが、以前の家族はもう少し複雜なもので、親の生業の支へ得る限り、殊にめあはすべき娘のある場合には、幾人でも聟を儲けて共に住んで居た。それも行く／＼は竈を分けたであらうが、同じ屋敷に居る間は諸子の列であつて、その養子聟の地位は頗る嫁引移り前の聟入と似て居た。尤も其相手の娘の方にも養女があつて、中には働き聟の數を多くする爲に貰ひ育てた女子もあつたらうが、親が大切に世話をした乞聟は、必ず生みの娘の聟であつたと思ふ。是が近頃でも或地方だけでは、何年かの間妻の親と共に住んで居た。日中は外で働くのだから問題にならぬが、夜だけは女房の里へ來て寢たのである。よく見ると是にも既に二つの區別があつた。即ち聟は宅で夕食を濟ましてから來るものと、食事も妻の家の人別に列するものとがあつた。八丈島の例は他でも述べた如く、嫁は一旦嫁入をして來て、里歸りの日から親里に歸つて居るのであるが、そこへ聟殿は夜毎に通ふのである。嫁の家には聟の御器と稱して、竝より大ぶりな飯椀があつた。是で夕飯と朝飯とは嫁の家で食ふことになつて居る（旅と傳説、婚姻號）。肥後の天草などはかの附近の例と同じく、聟は食事の後に遣つて來るらしいが、それでも公然と爐端に來て寢(468)轉んだりして居る。嫁が黙つて枕元を通つた時など、親の居る前でも構はずに叱りつける。其位で無ければ甲斐性のある聟で無く、又それだけの權力は家に居るうちから既に認められて居たのである。正式の聟入さへしてしまへば、嫁は嫁入せずとも既に妻であつた。

　

　　　　　　　　　　一六　仲人親

　

1、ヒキツケナカウド　媒妁人の地位も亦確かに變化した。さうして今見る樣な卓上演説者は、その最後のものであつた。是も各地の實例を比べ合せると、ごく大體の過程だけは判るやうである。引付仲人といふ語は、夙く福島縣の信夫郡などに行はれて居る。婚姻祝盃の式が終つた後は、事故が生じても關係しないといふ慣例であつた（民事慣例類集）。

2、アンドウキリ　山口縣玖珂郡などで、行燈切と謂つたのも是と近いものであつた。婚姻の取結び迄の世話をするだけで、其後の問題には干與しない。行燈の出る迄といふ意味かと思はれる（同上）。是が其仲人の煩累を少なくする爲であつたか、もしくは反對に謝禮で結末を早く付けたのかは明らかで無いが、周防の例などから察すると、寧ろ婚家に於て永く交際することを避けたものらしい。仲人を親と尊んだ或地方の習はしと比べて、可なり著しい相異と言はなければならぬ。

3、サカヅキナコド　讃岐の高松などに此語がある。最初から關與して居る下媒人をオナコドサンと呼び、それでは少しばかり輕過ぎる場合に、改めて此盃仲人を頼むのである（　　旅と傳説、婚姻號）。多分は、式に臨んでから任命することになるので、盃事だけの仲人といふ意味であらう。下媒人の品格は最初から上りも下りもしない。是はやはり必要上、二段の媒妁人の存在を豫期して居たのである。以前の婚姻にはこの下級の仲立人を働かせる場合が今よりも一(469)層多かつたので無いかと思ふ。土地によつては名は仲人と言はない女性の助手があつたり、身内の者が大いに働いたりして居る。兩仲人の少し重々し過ぎる風習も、是と關係のあることゝ思はれる。

4、ザシキナカウド　岐阜縣稻葉郡などでは婚約定まつて後に座敷仲人といふのを依頼した。勿論禮式に慣れたる者を選んだのであるが、同時に新夫婦の者は之を仲人親として一生の間尊敬し、その死去の際には子孫も同樣に葬ひの供をした。夫婦間の故障はこの仲人親が裁定したのみで無く、更に注意すべきは此任務を、其人の子が相續することであつた（民事慣例類集）。察するにこの親分子分關係は、婚禮の座敷の必要だけから生れたもので無かつた。當世の媒妁も幾分か是と似て居る。

5、ゴシナンサマ　福島縣の中部地方で、媒妁人のことをさう謂つて居る。少なくとも名稱だけは、典禮に習熟して儀式を指圖し得る人といふ意味であつたらう。

6、シキシャ　青森縣の野邊地町では、中流以上の婚禮には別に斯ういふ名の人を頼む。小笠原流らしい風は是から入り、漸く村方との差異を生ずるに至つた（中市君）。シキシャは指揮者であつて新しい語かと思ふが、是も單なる物識りだけでは、頼まれて來ることは出來なかつたらう。

7、キュウジニン　津輕地方では媒妁人をさう謂つて居る。給仕人であつては少しく名が惡いやうに思ふ。出雲で仲人をコウジニンと謂ふのと關係があるので無いか。是も麹人などと書いて居るが、名の起りは實は不明である。

8、オチャク　同じ津輕でも古くは仲人をさう謂つたことが、「津輕のつと」にも見え、又「鄙の一曲《ひとふし》」といふ民謠集にも見えて居る。

　　　石川の橋の袂に立つめらし

　　　嫁にとるべか名を名のれ

　　　あれに問ふより親にとへ

(470)　　　親のゆるした夫ならば

　　　いくしましよてやおちやくどの

　是では單に御客としか見えぬが、兎も角も媒人をも此土地では御客と謂つて居たのである。是と給仕人とは同じか別か、もう少し調べて見たらわかると思ふ。

9、サイノカミ　奧州南部領では媒妁人をサイノカミといふ。信州の南佐久郡でドウロクジンといふのも同じで、つまりはこの路傍の神の、男女和合を掌るといふ信仰から出た語であらうが、一方には酒席の取持をする幇間の徒までカミと謂つた花柳語もあるから、是も幾分の諧謔をまじへて居るのかも知れぬ。

10、トウニン　�ｺ島地方では仲人を當人といふとある（旅と傳説、婚姻號）。寧ろ頭人であつて事務に任ずるの意であらう。

11、シタヅクロヒ　肥前北松浦郡の田平村などでは、男の親戚朋友のうち一人又は二人が仲立ち又はナカウドといふ者になるが、別に平生懇意の者が下づくろひと稱して、交渉の任に當るといふ（同上）。備中の白石島なども結婚は媒妁人に委ねられることなく、本人どうしの約束に基づいて決定するといふ話だが（民俗學二卷三號）、是も私のたしかめた所では、やはり友人が仲に立つて奔走するので、たゞ之を媒妁人と呼ばないだけである。さういふ例ならばまだ他にも多からう。本人ばかりできめるといふことは實際は容易で無い。

12、ハシカケ　紀州の有田郡では仲人の交渉を橋掛けといふが（民俗誌）、信州の飯田などではオハシカケは最初に話をする人のことでそれが媒人になることもあれば、他に適當の人を選ぶこともある。後の場合には其人を御仲人樣といふ。固めの酒もオハシカケが持つて行くこともあり、又御仲人樣をきめてからすることもある。諏訪では下ごしらへは半職業の者にさせることがある。斯ういふ場合にのみ仲人を新たに見立てる（婚姻號）。周防大島では下媒《したなかうど》は多くは女たちがする。話が八分通り纏まつてから男が出て行つて話をつける（同上）。隱岐の島でも橋かけといふ言葉は(471)無いが、最初に男女二人の承諾を得て、次に當人たちの叔父叔母などの近親まで話をする役があつて、此方を仲人といふらしく、正式の交渉には別に相當名望ある人を頼む。此方には定まつた名が無いさうである。

13、クサムスビ　鳥取縣の東部では、右の橋掛けの役を草結びと呼んで居た（民事慣例類集）。藝州でも以前は下媒妁を草結びといひ、話が成立てば別に家格相應の仲人を依頼して事を取行つた（高田郡誌）。

14、タイコタタキ　三河の額田郡では、婚約には雙方の事情に通ずる者が、往來して斡旋の勞を執つた。是を俗にお太鼓又は橋かけといふ（郡誌）。同西加茂郡でも初度の世話人を太鼓叩き又は橋渡しと請つた（郡誌）。青樓の斡旋に任ずる者を太鼓持と謂つたのも、別の起原であつた氣づかびは無い。

15、イリワリ　茨城縣の北部では、やゝ古くから仲人をイリワリと謂つて居る（常陸國誌等）。入割は俗語だが、恐らく交渉談判勸説等の全部を意味した語であらう。

16、コシガカヘ　筑前大島に於ては、仲立人は大抵島の顔役であり、少し話が六つかしくなると、加勢腰がかへといふ後楯が多く出て色々手段を講ずるは何處も同じならんとあるが（婚姻號）、他では今は餘りそんなことはしない。モダーンの仲人は至つて意思が弱い。聟も亦さう熱心にはならない。

17、リョウナカウド　九州では阿蘇も豐前の後藤寺なども、東國では安房も下總の銚子も又常陸の浮島も、共に嫁聟雙方に一組づゝの仲人が出來る（同上）。事務がそれ程多いのでは無いから、何か斯うしなければならぬ沿革があるのである。一方は或は下仲人であつたらうか。どちらが上とも言へぬ樣だが承諾を澁る方に骨折る者が入用なわけで、多分は嫁の方に下拵へは必要であつたらうと思ふ。

18、ナカウドオヤ　仲人を仲人親といふ風は、前に擧げた美濃稻葉都の外に京都四近の村々にもあつた。遠州濱名郡、相州鎌倉郡にも亦同じ名があり、何れも盆暮の音物を贈り、正月には鏡餅を持つて來たりする。一生親同樣の禮儀を盡し葬式の供にも立たねば不義理になる。其代りには一方もよく世話をしてくれ、夫婦喧嘩の裁判所の如きものであ(472)つた。近江の坂田郡などは仲人を假親といひ、其關係は同じであつた（民事慣例類集）。

19、チュウニンオヤ　信州の飯田では斯う謂つて居る。オハシカケが輕過ぎて御仲人樣を頼む場合、盡力は少なくともやはり此方を親にすることは、美濃の座敷仲人も同じであつたらしい。

20、オヤブン　仲人と親分とは、地方によつては非常によく似た地位を持つて居るが、大體に仲人親の大切にせられる處は、假親制の少しばかり衰へかゝつた地方であつた。ずつと衰へてしまつて居れば、もう又仲人親といふ語も無いのである。親分が早くから出來て居て世話をしてくれる土地ならば、さまでの信頼を仲人に寄せる必要も無い。甲州の如きは、其例であつた。甲州では親が承知をせぬ言ひかはせをした者は、男女何れか一方の親分の處へ遁込んで匿してもらふ。一應は叱るが、出來ると見込がつけば翌朝は掛合ひをしてくれる。大抵は又纏まるさうである。斯ういふ地方では新たに仲人が親になる餘地は無い。只其時まで親分を見立てゝ置かなかつた者のみが、事實仲人の有難さを感ずることが多かつた。即ち何れか一つあればよかつたのである。ところが信州の上高井郡などでは、婚禮に臨んで親分又は鐵漿附親といふものを頼む風がある。尤も仲人が親分を兼ねることもあるが、兩方別々のときは二組の假親が共に新夫婦の後楯となつてくれるのださうである（郡誌）。

21、カネオヤ　鐵漿親は烏帽子親ヘコ親などと同じく、女子の成年期に先だつてきめられるものであつたが、初鐵漿の期日が少しづゝ遲くなつて來て、斯うして婚禮の間際に急いで頼むやうなことにもなつたのである。婚姻の成立には助力せぬらしいが、今日の如く白齒で盃をする時代でも、尚この式とは深い關係をもち、一種保證人のやうな資格ですべての盃に列したゞけで無く、式場萬端の世話がかり、東京で仲人の妻がする役を、すべて鐵漿親に頼む土地もある（信達民譚集）。然し是も追々に仲人と合體する傾向は見える。たとへば筑後の八女郡、長門の角島は共に仲立人が鐵漿親を兼ねて居る（櫻田君）。さうして恐らくは長く假親として尊敬せられるのであらう。仲人が事實媒妁の技能の無い名望家などに委ねられて、別に下拵へに奔走する者を要する今日の?態は、當分尚續かなければなるまいと思ふ。

(473)22、ハネオヤ　信州の南北安曇郡などでは、婚姻の式に列する假親を羽根親と謂ひ、是も近頃は嫁入に先だつて選定される（郡誌）。カネ親といふ語の變化であらうが、聟の方の親分をもやはりハネ親といふのである。鐵漿が歴史に化し去つた今日では、何と名を呼んでも親分といふことを意味しさへすればよかつたものらしい。

23、ナカウドメン　甲州の上九一色で仲人への御禮。祝言が濟んでから反物を一反贈る。之を仲人免と呼んで居る（土橋里木君）。

24、トンビノハネ　群馬縣の多野都では、金品を媒妁人に贈つて謝意を表する。之を鳶の羽といふ（郡誌）わけは、まだ何分にも考へ出すことが出來ない。

25、ヘソヌクメ　播州の美嚢加東二郡では、媒妁人が謝禮を受けた時は、近隣知音を集めて振舞をすることがある。それを臍温めと謂ふ（各郡誌）。其名も奇拔だが之をする動機も自分には見當が付かぬ。

26、セツクレイ　節供禮。他でも幾らも例のあることだらうが、秋田地方では毎年の五節供に、夫婦揃うて媒人の家を訪ふ風習がある（民事慣例類集）。

　

　　　　　　　　　　一七　嫁の食物

　

l、オチツキザフニ　三々九度は文藝によつて熟知せられて居るが、尚この以外にも嫁の食べなければならぬ食物に就いて、著しい全國の一致がある。その一つは落付雜煮、土地によつては落付の吸物、落付の餅ともいふものである。通例は圓餅を入れた澄まし汁で、是に添へる色々の野菜に、をかしな細工をするところもある。嫁が到來して座に着くや乃ち何よりも先に是を食べさせる。聟入にも之を出し、又祝宴の客にも供する地方があつて以前は始めでの會見には、一般に酒よりも前に之を供したのかとも思ふが、兎に角に今は婚禮の日の作法となつて、嫁が食ふことだけは(474)關東も九州も共通して居る。

2、ヲリノスヒモノ　福岡縣の一部には、この餅吸物の名をさう謂ふ村がある。ヲリは、「居り」であつて落付も同じことかも知れない。是と共に皿には黒豆と昆布、切鯣などを箸で取つて勸める。此際冷酒が出て、この吸物膳の前で盃事をするのだといふ（旅と傳説、婚姻號）。

3、ツッカケゼン　肥前の北松浦郡で、突掛膳といふのは飯まで出すのださうである。さうして其後に始めて酒が出る（同上）。或共同の食物によつて、雙方の身内を連絡させた上で無いと、心を許してこの人生の大事を記念することも出來なかつたのである。

4、ブッツケモチ　宮城の岩出山町あたりでは、婚禮の席上一同の先づ食ふ餅をぶつつけ餅と謂つて居る（玉造郡誌）。是からあとにも幾つか例のある如く、婚禮は正月と葬事と共に、最も餅の多く用ゐらるゝ人生の三大機會であつた。

5、ヨメノメシ　嫁には又是非とも米の飯を食はせなければならなかつた。是も全國的風習であるが、東京の周圍では是を上品に御高盛、又は單に嫁の飯と謂つた。他でも大同小異であるが、相州津久井地方では、親椀に高く盛り上げて嫁の前にすゑる。聟は手傳つてやつてもよいが、他の者には決して食はせない。大抵は其夜は床の間に飾つて置き、翌朝握飯にして新夫婦二人だけで食ふ（鈴木重光君）。是に嫁の飯の箸と稱して、大根で異形のものを拵へて添へる村もある。

6、タカモリメシ　高盛飯といふ語は弘く行はれて居る。たとへば尾張の西春日井郡では嫁は其飯を他の器に移して僅か食べ、殘りは後で花聟が食はなければならぬ（郡誌）。信州飯田の高盛の飯は、祝言の盃の際に聟嫁兩人に出す。是には鰯二尾を結んで添へる。是も翌朝は握飯として、新夫婦が食べるを常とする（岩崎清美君）。諏訪も其通りで、鰯も燒いて二人に食べさせる。嫁の食ひさしを聟が食ふ風は九州の方にも珍しくない。

7、オシツケメシ　飛騨などでは祝言の盃の後、酒宴の始まる前に此食事がある。此時舅姑が出て嫁の飯をうんと高(475)く盛る。之を俗に舅の押付飯といふ（益田郡誌）。日本人特有の言葉の滑稽で、押付を壓抑に引掛けたのである。祝宴には成るべく笑ふ種を豐かにして居る。是も今に其通り押付けるだらう位の輕いからかひであつた。

8、ハナツキメシ　四國では阿波の富岡附近でも（兵庫縣民俗資料二）、讃岐の仲多度都でも、此飯を鼻突飯と呼んで居る（郡誌）。前者では別室に引いてから之を供する。後者も式の盃の終つてから後である。筑前の大島などの報告などは、仲立人の妻がそつと加勢してやるといふから、其場で食つてしまふべきものであつたらしい。或家では嫁樣が鼻突飯を御代りしたなどといふ笑話がある。うそには違ひなくても之を聽いて哄笑せぬ者は無かつたほど、此飯は印象の深いものであつた。

9、フミツケメシ　丹後の與謝郡では、嫁の本膳の飯は盛ること山の如し。姑が食料を吝まぬ心といふ。嫁は其少量を喫し、殘飯を生ぜしめるのを作法とする（郡誌）。

10、フンヅケモリ　信州の南端遠山和田でも姑は來客一同の環視の下に、嫁の本膳の前に進み出て、嫁の飯を高々と盛る。少しでも盛り方が足らぬと、皆で「氣に入らぬのか」などとからかふ。多いほどめでたいと言つて悦ぶ。聟は其飯をもつて夷神に進ぜて後、一同で食べて是で固まつたといふ。「姑の強盛り」といふことは、下伊那郡一圓の風だが此土地の仕來りだけは少し變つて居る（米澤美丸君）。

11、カサワケ　常陸浮島の例は、花嫁の前に親椀に飯を盛りて供する。それを半分殘させて、後で花聟側の仲人が聟に食はせる（婚姻號）。しかも此土地の嫁入祝言には、聟は始から終まで全く席に列しないのに斯うするのである。カサは「かしは」食器のことである。

12、カジリワケ　羽後の生保内の祝言には、村の青年たちが祝物だと言つて、煮大根などの肴を持つて來る。一つの肴に二本の箸を刺し新婚の二人に共に食はしめる。それを多勢の人の見る前で、顔を竝べて食はなければならなかつた（同上）。是も相饗《あひにへ》の儀式の名殘であらうと思ふ。

　

(476)　　　　　　　　　　一八　水盛と酒盛

　

1、アヒサカヅキ　夫婦の盃の作法だけには、所謂小笠原流の統一が、可なり進んで居たやぅである。三々九度といふ名稱が最もらしく又記憶し易かつた爲かと思はれる。しかし此中からでもまだ少しづゝの殘形は指點し得られる。例へば東京から僅か離れた北多摩の村落ですらも、この共同飲酒の式をアヒサカヅキと謂つて居る所がある（高橋文太郎君）。相州の津久井でも同樣で、式は別室で無く酒宴の座の眞中で行ふ。式は色々有るやうだが、要點は聟の飲みかけを嫁が飲むこと、及び其酒が必ず冷酒であることだといふ（　　鈴木重光君）。アヒサカヅキは疑ひも無く逢盃で、今は遊里の文藝に保存せられて居るだけである故に、何と無く下品に聽えるが、古くから三々九度などと呼んで居た筈は無い。

2、ミヅモリ　奄美大島の夫婦の盃は、水を飲む故に水盛といふ。其次に祝宴の三獻に移るのである。嫁が親の家を出るときに、親兄弟との盃も水であつた（岩切君）。内地で水盃を不吉の時のものとしたのは後の事かと思ふ。沖繩の本島に於ても、夫婦の式は、「寄合の盆」と謂ふ折敷の上に、水と飯その他めでたいものを載せて二人の前にすゑ、先づ椀の水を指先で二人の額につけ、次に飯を一箸づゝ食べさせる。それから一枚の着物を持つて來て、片袖づゝ二人に手を通させるといふのは（比嘉春潮君）、もうよほどの形式化である。水も恐らくはもう盃に掬んで飲むまではしないのであらう。嫁が聟の家に到着する際、最初に水を飲ましめる風はまだ内地にも折々殘つて居る。

3、イロナホシ　此語も膝直しと同樣に、言葉は傳はつて實質はやゝ變化しようとして居るが、起りは夫婦の盃と親子兄弟等の盃との際に着衣を變へるといふことであらうと思ふ。現在でも越後の高田、信州の北佐久諏訪、播磨の揖保郡などでは此意味に用ゐて居るが、他の多くの土地では祝宴の半ば、何囘も起つて衣を更へることだと思つて居る(477)らしい。そんな殺風景なことは有り得べからざる話で、是は全く夫婦の盃と他の親類盃とが二つの異なる行事であることを、明らかに認めた所作であつたらうと思ふ。白衣をイロといふのは忌詞の反語である。イロは葬式の折にも用ゐられて居る。元來が忌の衣であつたのである。

4、フルマヒ　岩手縣の紫波郡などでは婚儀の酒宴のみをフルマヒと謂ふ。此方が恐らく古い用ゐ方で、すべての饗應をさういふのは擴張であつたと思ふ。フルマヒといふ語の本の意味は、作法又は儀式といふ以上の何物でも無かつた。

5、カンシ　周防大島では聟入嫁入の式をカンシと謂つて居る。カンシは燗酒であらうといふことだが（宮本常一君）、それだけでは少し説明が足りない。是は夫婦の盃事が、必ず冷酒を以て行はれた結果で、其他の親族關係者が酌みかはす酒の温かいことを、祝宴の名稱として印象が深かつたのである。此風習は弘く行はれて居る。どうして我々の酒が煖められることになつたかの歴史を考へて見る爲にも大切な史料である。

6、オモラヒサマ　宮城岩手の二縣を通じ、嫁入の日嫁聟雙方の二親を互ひにさう呼んで居る。貰ひ方即ち聟の親たちを、さういふだけなら先づ解つて居るが、寧ろ反對に嫁の父母をさういふ方が多いのである。遠野の方言誌に守屋の意かと謂ひ、栗原郡誌に蓋しもろ親の訛などとあるのは、共に少しでも根據は無い。又親たちのみをモラヒドノ、其他は御客といふとあるのも臆斷で、事實は此日の客人も送迎人も共に屡々モラヒと呼ばれて居るのみか、平日も親しい人々が互ひに誰それモラヒと謂ふ風があるのである。是は察するに此語の以前の心持が、婚禮などの式に伴なうて保存せられて居るので、その今日の限られたる用語には、別にはつきりした基礎は無いのである。縁者をモラヒといふ語がもとあつて、それが「與へらるゝ」の意味に轉じたものと見るの他は無い。

7、ヒキアヒ　福島縣の海岸地方では、夫婦の盃終つて後、受方の兩親が出て親子の盃をするのを引合と謂つて居る（石城郡誌）。其際に男方ならば謠をうたひ、女方ならば、「めでた」といふ祝言唄が歌はれる（双葉郡誌）。

(478)8、ヒキウケ　周防大島郡では、嫁入の日聟の家では男女二名、引受と稱して式に列する。聟入の時にも嫁方の近親男女二名、式に列するのを亦引受といふ（宮本君）。

9、イチゲンブルマヒ　飛騨で一見と謂つて居たのは、婚姻のあつた家で其一門の者を招いて祝宴を開くことであつた（飛州志）。嫁との初對面の盃あることは勿論だが、その新たなる姻戚とも同時に近づきになつたことゝ思ふ。諏訪で「一げんの席」と謂ふのは、嫁入祝言の後で、嫁の父母兄弟近親を主賓とする新客の宴のことである（旅と傳説、婚姻號）。

10、オクリイチゲン　群馬縣の佐波郡では、嫁入の次の日に嫁の身うちの者が、聟の家に招かれて來るのを一元と謂ひ、それを嫁入と同じ日にするのを送り一元と謂ふ（同郡東村誌）。一元は一見である。

11、ヲンナイチゲン　同じ縣の邑樂郡でも、婚姻後嫁の姉妹伯叔母などが、聟の家に招かれるのを女一見と謂つて居る（郡誌）。

12、ホンキャク　九州の各地で、祝言の際に列席する者を本客といふ。面白いと思ふのは、豐前の後藤寺などで、嫁の荷物を送つて來た人足も、すべて本客として式に列することである（婚姻號）。

13、ノボセサカヅキ　婚姻の祝宴は兩系統の一門が同席する爲に、酒盃の法令が最も煩瑣であつて、司會者は隨分苦心をし、隨うて色々の慣例が發明且つ模倣せられて居る。是を詳に知ることも一つの研究であるが、自分には力及ばない。一つの例を擧げると、飛騨の益田郡などには上せ盃と稱して、左右の下席から入れちがひに、上座の方に向つて、盃を上せて行く方式があつた。それが各々一巡して來ると、主人は納盃を行ひ此時に謠があつた（郡誌）。盃は上席から順に流れるものだから、是は無論略式である。多分は盃の來るのが待遠しいのと、時間があまりかゝるのでかゝる便法を案じ出したのだらう。

14、ズタウチ　岩手縣の上閉伊郡では、婚禮の式上で柳樽から酒を銚子にうつし、二つの銚子を結び合す作法があり、(479)是をズタウチと謂つた（民俗研究九號）。又オショウクンの儀といふもあつたといふが、共に不明である。銚子の口を合はせることは小笠原流にもあつた。地方によつて必ず少しづゝの特徴があることゝ思ふ。是も將來は觀察記述せねばならぬ。

15、ゴトサンビラキ　陸前栗原郡などでは、嫁入の日の祝宴半ばに、嫁方持參の酒肴を披露して坐客に饗する。之を御土産開きと謂つた（郡誌）。

16、ビンソモチ　又ビンシュ餅ともいふ。秋田縣鹿角郡で婚姻の當日、近い親類から大きな鏡餅二三十箇を、樽肴に添へて祝つて來る。それを祝宴の終に近く披露して、餅は來賓に分配する（人類學雜誌三七號）。近頃は糯米を贈る風に改まつた所もある。元は此餅に木綿一反酒二升と肴を附けて持つて來たものであつた（内田君）。

17、ムコノハツウタ　�ｺ島縣那賀郡の例、床盃の後聟再び祝宴の席に出ると、歌を所望される。之を聟の初唄と謂ふ。初唄終つて後一同、三國一の嫁取濟ましたと囃すといふ。

18、ヨメノタチジャク　是も秋田縣鹿角地方に於て、嫁は姑に手を取られて、祝宴の席へ顔見せに出る。此時は長柄の銚子を以て立つたまゝで酌をするといふ（内田君）。是は奇拔なやうだが昔から、家刀自の男たちに酒を頒つ作法の形であらうと思ふ。

19、ヨアケノモチ　羽後の大曲では婚禮の宴終る頃には夜が明けるが、其時餅を搗くのを夜明けの餅と謂ふ。此餅搗きの杵の音を聽かぬうちは、參列者は歸つてはならぬことになつて居る（田口松圃君）。

20、カドオクリ　播磨の美嚢郡では祝宴の夜が明けて客の歸途につく時、嫁は正装して之を見送る。是を門送りといふ。客一同は門口で又飲む。それを門酒又草鞋酒といふ（郡誌）。

21、ワラジザケ　越後の高田でも、客の歸る際に、門口で嫁と聟とが、大きな�ｺ利から注いで飲ませる酒を草鞋酒と謂つてゐる（婚姻號）。他の地方で酒を強ひるのをオタチといふのも是で、つまり既に出發の草鞋をはいてから、もう(480)一つだけ飲ませるといふ意味であるが、出雲石見では嫁入の日の送り人足の歸つて行くものに、大盃で飲ませる酒だけをさう謂つて居り、一盃毎に草鞋一足づゝを與へる。大酒飲みの自信ある男が、腰中を草鞋だらけにして還つて來るのを見えにして居る（人類學雜誌二八卷六號）。

22、ネビキザ　沖繩の祝宴は友だちを招き、近所の親戚の家を借りて饗應する。之をネビキ座といふ。近年は嫁方でも女友を招く風が盛んになつた（比嘉君）。ネビキが私の想像する如く、メビキ即ち新婦を誘引して來ることであるならば、此祝宴が男方にばかり有つたのは不思議でない。

23、アトフキ　信州の北佐久では、盃事色直し後、徹夜の宴を張るをアトフキと謂ふ（　　郡誌）。地方によつては嫁を出した里方の方の酒宴をいひ、又旅立ちした者の後の酒盛りをもさう謂つたやうである。

24、ヲトコヨバレ　石川縣能美郡など、婚禮の翌日に嫁の父又は兄と親戚が聟方の親類と席を同じくして祝宴を開く。之を男招ばれと謂ふ（郡誌）。

25、カッテイリ　會津地方では嫁入の日、嫁と家内の者又は出入の者などとの盃がある。之を勝手入といふ由（若松市郷土誌）。嫁が入家後なほ數年の間、單に一家の遠慮深い族員として働くべきものであつたならば、斯ういふ盃事は實は不用であつた。嫁といふ者の地位の變遷を暗示する舊慣である。

26、コガラエ　岩手縣中部で、婚姻の式の翌々日、手傳の人々に餅を食はせることをいふ（民俗研究九號）。コガは桶のこと、桶洗ひは祝宴の完了を意味する。

27、マナイタザケ　是も會津地方で、嫁入の日、嫁の到着する以前に、先づ手傳の者に酒を飲ませるのを俎酒と謂つて居る（若松市郷土誌）。

28、ヲンナザンシュ　嫁取の翌日關係者の男たちに酒を饗するを殘酒といひ、次いで女客のみを招いて開く宴を女殘酒といふ土地がある（石川縣鹿島郡誌）。

(481)29、マナイタタタキ　婚姻式後三日目又は五日目に、料理人給仕人などの爲に慰勞の宴を張ることを、熊本縣では俎叩きといふ處がある（下益城郡誌）。

30、マナイタアラヒ　播州の東部では、これを俎洗ひと謂つて居る。取合せの獻立で手傳の人たちを饗應し祝儀を出す（加東郡誌）。

31、ヤクツケブルマヒ　宮城縣の栗原郡では、もとは三日目に役付振舞と稱して酒宴を催すのが普通であつた（藤里村話）。祝の日に色々の役に就いた人を犒ふ宴であつたらう。

　

　　（附記）　略符説明

　　婚姻號＝「旅と傳説」六卷一號、婚姻習俗號

　

(482)　　　狐の嫁取といふこと

　

　狐火は今でも狐の嫁入りと伴なふものゝ如く、考へて居る土地は多いやうだが、大體に追々二つ別々の話とならうとして居る。是まで一向に人は注意しなかつたけれども、動物の中でも特に狐に限つて嫁取りの沙汰があるのは理由が無くてはならぬ。偶然に傳はつて居た右の二地の俗信は、少しばかり此問題に手がかりを與へるものと言つてよからう。自分等の假定では、女性の生活の一大激變たるべき婚姻と産育と二つの時が、最も狐神の信仰の發露し易い時ではなかつたかと思ふ。それが餘りにもけうとい信仰であつた故に、夙に離背せられて笑話の方へ移つたものと見るときは、僅か切れ／”＼に殘つて居る民間の昔話も、大切に蒐集して置く必要が極めて大である。何となればそれは單に古代人の幼稚な天然崇拜の?態を尋ねる手段であるに止らず、一方又我々の人事風習の最も肝要な一つが、如何なる經路を經て現在の制度方式に爲つたかを、明らめるの資料でもあるからである。狐の昔話にはよく婚禮の行列を騙して、野路をさまよはせ、若くは本物より先に乘込んで料理を食つたとか、石地藏を新しい閨に送り込んだといふ外に、更に狐の産の床へ醫師産婆を招いたといふ不思議譚も分布して居る。この二つは必ず關聯する所があるかと思ふ。以前の嫁迎へは聟入りよりもずつと後、多くは妊娠の徴候が現れてからであつたらしいから、婚禮と産との二大事件は、今よりも遙かに密接な關係を持つて居たのである。

　

(485)　　　耳たぶの穴

　

　瀬川清子さんの見島聞書を讀んで、人はどうだか私だけは非常に面白がつて居る一條は、「蛇を平氣でつかむ人を、フヂワラトウと謂ふ。その人の耳の後には小さい穴があいて居る」といふ記事（同書八三頁）である。十數年來心がけて居るのだが、まだ此問題は一向明らかになつて居ない。本誌を仲立ちにして一度山國の人たちにも尋ねて見たいと思ふ。

　曾て秋田縣の大館に一泊した晩に、館資次君といふ人が來て色々の話をせられた。此地方は淺利與一の舊領と傳へられる處で、眞澄の日記にもそれが詳しく説かれて居るが、館君は曰く、私の家は勇婦板額の後裔だといふことですが、この血筋を引く者は皆耳たぶに穴があると語つて居ます。御覽下さい此通りにと、向ふをむいて見せられたのを見ると、穴とは謂つても拔け通つて居るわけでは無かつた。たゞ耳たぶの表面に皺の溝が多く、それがまん中に集注して、それだけ著しく窪んで居るのであつた。以前耳環をはめて穿つた穴が、もしも固定して遺傳したならば、斯ういふ風になるのでは無いかとも思つて、非常に興味を動かされたのであるが、勿論是は數多くの例を知つてから、其家系の特徴を比べて見なければ假定を下すことも六つかしい問題だと思つて還つて來た。

　それからふと思ひ出したのは、自分の兄嫁の實家は下總の猿島郡、若林といふ村の舊家鈴木氏であるが、そこの若主人からも、私の家の者は皆耳に穴がある。耳に穴のあいた人はさう珍しくないものだといふ話を聽いたことがある。よく見ようと思つて居るうちに、此家の人たちは皆亡くなつてしまひ、手近に其血筋を引いて居る者と謂つては、其(486)兄嫁の子が三人と、七八人の孫があるばかりだが、たま／＼逢つても耳を談ずる折も無く、又すなほに耳を出して見せてくれさうにも思へない。最初は私は絲や針金の通るやうな穴が、ぽつんと明いて居るやうにも想像して居たが、是もやはり大館の館氏のやうに、耳たぶの表面に溝があつて、中央が窪んで居るのだつたかも知れぬ。さう思ふと何だか變つた耳たぶをして居たやうな氣がするが、是はもう極めて覺束ない。とにかくに鈴木といふ苗字の東國に多いのは、熊野の信仰と關係があるらしいので、私は特にこの家の耳の話を、聽き流しにすることが出來ぬのである。

　斯ういふ特徴は假に遺傳するものだとしても、次々母を通じて他の家にも入つて行くだらうから、是たゞ一つによつて原因を推すことは無論出來ない。それには幽ながらでも、之に伴なふ家々の言ひ傳へを、數多く採集して行くの他は無いのである。見島聞書のたつた一行の記事も、此意味では私たちには中々の値打ちがある。

　書物を注意して居ると又別方面の暗示があるかも知れない。東作誌といふ江戸期末の地誌に、今の岡山縣勝田郡北和氣村大字行信に、唐人といふ苗字の家が十數軒あることを記して、更に次のやうな記事がある。

　　豐公征韓のとき、山本與次右衛門兄弟、朝鮮人及び海人を隨供して還る。海人の子孫は倉見村に住し今亡し。朝鮮人の子孫は此村に住み唐人（カラヒトか）を姓とす。子孫必ず耳に穴ありといふ云々。

　即ち此地では人も我も、朝鮮人の子孫だからといふ風に、考へて居たらしいのである。此時の歸化者の明白に知られて居る者も、相應の數はあると思ふし、近頃は又莫大なる數になつて居る。果して朝鮮人なるが故に耳に穴があるといへるかどうか。之を立證反證することはさして困難であるまい。

　耳の穴を大昔の耳環の名殘と見ることも、勿論獨斷であるが、是は生理學上に想像し得べき其他の場合を少しでも掲げない限りは、先づ當分は假定説として存在を許すの他はあるまい。さうすると次の問題は、果して日本人自身は大昔から、耳環を丸ではめなかつたかどうかになるのであるが、是は赤木清さんなども知つて居られるだらう。古い埴輪の中には正に耳輪とおぼしきものを、附けて居る人形があるのではないか。普通では無かつたといふのみで、我(487)同族の中にも是を附ける風が、ある時代までは存したものと私は思つて居るがどうであらうか。

　右の長門見島の記事は、事によると日本の耳環階級の存在と、其條件とを暗示して居るのかも知れぬ。朝鮮に近いから朝鮮式と、此島だけでなら或は看做されるであらうが、それでは都合のよくない實例が、他の地方から幾らも出さうな氣がする。蛇を怖れず、蛇の方で却つて怖れるといふ特殊の能力をもつ人は、數は少ないけれども全國到る處にある。ニガテといふ語は今は轉用せられて居るが、本來はさういふ能力を持ち、舵取り蛇使ひなどを業とする者の手のことであつた。其手の筋肉の動き方が竝とちがふともいひ、邊傳家筋といふことはあまり説がなかつたか、私たちも小學校で細い手を出し合ひ、果してその惠まれたる手を持つか否かを試みた覺えもある。又まむし指と謂つて、指の上端の關節のみを、自在に屈伸し得る者が蝮蛇の毒を怖れず、押へることが出來るとも謂つて居た。白　　状すると自分もそれであつたが、實は怖ろしくて一遍も此天賦の技能を試みないうちに、今日はどうやら平凡になつてしまつた。或はこの蝮指は、癪を押へるとすぐによくなるとも、又指で物を指ざすと何とかの力があるとも、人は次々にいろんな神秘を説いて居たやうだが、もしも之を法術に利用しようとすれば、最初の開業試驗はやはり蛇取り位なものであつたらう。この素質者をカヂワラといふ處が、たしか九州のどこかにあつたやうに記憶する。見島の藤原黨は其誤りと見てもよいやうだが、何れにしたところで後に附けた名だから、耳の穴の由來を説明するたそくにはならぬ。

　此文を公表する私の趣旨は、現在抱いて居る一假定説乃至は空想、即ち我邦でも可なり近世になるまで、呪ひや祈?に從事する女子又は童兒のみは、耳たぶに何か金屬の環をはめて居たのでは無いか。さうして其職業が世襲であつた爲に、代々の耳たぶの形が普通とは變り、その後天的の特徴が固定してしまつて、久しく業を罷めてたゞの百姓になつて後まで、子孫に其形を遺傳するのでは無いか。斯ういふ考への夢が正しいか、何れであるかを決するやうな事實資料を少しづゝでも集めて行きたいのである。學理といふものからも此假定は批判することが出來るだらう。しかも是だけの僅かな事實でも、原因無しには起り得ないことを考へると、單にさういふことは有るべき理由が無いとい(488)ふ否定だけでは、自分は承伏せぬつもりである。現に學理は新たなる事實によつて、今でもどし／＼と成長しつゝあるからである。

　

(489)　　　にが手の話

　

　苦手といふ言葉の用ゐ方が、東京では此頃變つて來て居るやうである。たとへば酒好きが、牡丹餅は僕にはニガテだと謂つたり、又は我まゝ息子が伯父さんはニガテだなどと謂ふのは、單に「是ばかりは閉口」といふやうな意味で、大抵はどうしてニガテなのかを知らずに、たゞ人がさういふからといふだけで使つて居る。地方には全くこの單語の無いところ、又は新たに都會から學んで行つたところも有らうが、もしも古くから使はれる土地があるとすれば、きつとちがつた意味をもつて居ることゝ思ふ。試みに誰か年を取つた人に尋ねて見てもらひたいものである。

　別にわざ／＼古い用法に復歸する必要も無いが、言葉は知らぬうちに誠にたわいも無く、中味をかへてしまふものだといふことを、心づくことは何かの參考になる。さうして少なくともこの一語の關する限り、是から聽いたり讀んだりする時に、注意と興味とが多くなるであらう。私の記憶が誤らぬならば、ニガテはもと碁將棋球突きなどの勝負に就て、主として用ゐられて居た時代があつた。本當は自分も弱いのでは無いが、不思議にあの男だけにはよく負ける。どうも彼は私にはニガ手だ。斯ういふ風によく我々は使つて居たのである。外國でも同樣らしいが、勝負事の言葉はよく應用せられるもので、ダメとか岡目八目とかいふ言葉は、碁など打たない人までも今はよく使つて居る。ニガテも多分その一つであらうが、勿論そこが最初だつたら、斯んな言葉は生れないのである。

　他の多くの人には相應な勁敵である者が、奇妙に或一人だけには頭が揚がらず、いつでもきまつた樣に押へ付けられるといふ場合、その特別の優勢をもつ者をニガテと謂つたのは蝮捕りであつた。まむしは現實に手を以て押へるの(490)だから、恐らくは此方が今一つ前の用法であらう。蝮捕りのニガテは蝮を怖れず、手を出しても咬まれず、或は又是に逢ふと蝮は動けなくなつて、安々とつかまるとまで信ぜられて居る。どこまでが眞實か、まだ檢して見たことは無いが、斯ういふ能力を具へた人は何百人に一人といふほど少なく、何か其手には特徴が有るやうに言はれて居る。たとへば蝮指と謂つて、手の指の端の關節だけを曲げて、次の節を突き張ることが出來る。中指一本位なら誰でもするが、蝮指の人は五本揃へて熊手などのやうに、たやすく上だけを屈められる。或は又何腕とか謂つて、掌を下に突いたまゝで、腕を百八十度以上も廻轉することが出來るなどといふ。是なども荒仕事に強ばつてしまつた手で無ければ、誰にでも出來さうなことであり、現に白?すれば自分なども其一人だつたのだが、それだけではまだ蝮を試みるほどの自信も起らず、又そんな機會も無かつたのである。

　注意すべきことには、この苦手の能力はソンを引く、即ち遺傳するものと信ぜられて居た。それから又應用の範圍は可なり弘く、たとへば女の癪などを押へるにも、此手を用ゐると忽ち治するといふことであつた。現在その俗信はどの程度に傳はつて居るか、諸君の協力によつて調べて見たいのだが、或は事によると蝮捕りは看板であつて、めつたにさういふ技能を發揮する折は無く、寧ろその他のもつと安全な目途だけに、利用せられて居る方が、多いのではないかと想像して居る。

　それからなほ一つ、このニガテの能力を遺傳して居る家を、外部の者がよく知つて居る場合の多いことも注意せられる。たしか九州北部の實例だつたかと思ふが、このニガ手の特質を持つ家又は一まきを、カヂハラとかフヂハラとか謂つて居る地方があつた。どうして斯んな名が付いたかはまだ私には考へられないが、もう一つ變つたことには耳たぶに穴のある人といふのが折々あつて、中國の某地では、それをも亦カヂハラと呼んで居る。耳たぶの穴の問題は、大分以前から私も氣を付けて居るのだが、自分で少しも知らずに居る人までを入れ、且つその穴といふのにたゞ小さな耳たぶの窪みまでを算へると、其數は隨分多いものゝやうに思はれる。この二つの身體の特徴が、もしも頻々とし(491)て併存するものであつたならば、斯ういふたゞ漠然たる言ひ傳へにも、行く／＼は何か人種學上のかはつた事實が跡づけられる日が來るかも知れない。今はまだ一つの空想に止まるが、或は特殊の家筋の呪術を業とする者が、昔はあつたといふ痕跡とも、見られぬことは無いのである。

　或は全く意外な原因があるのを、私たちが知らずに居るといふこともあり得る。それだつたら更に一段と有難いので、とにかくに原因無しには、斯ういふ珍しい現象は起らぬ筈だから、考へて見なければならぬ。今までは單に注意を拂はうとしなかつた故に、年月と共に不明に歸したのである。是からは多分少しづゝ、色々のことが知れて來るであらう。最近目に觸れたものでは、田中梅治翁の遺著「粒々辛苦」といふ本に（アチックミューゼアム彙報四八）、島根縣邑智郡の事實として斯ういふ話が出て居る。此地方では、人の手に苦手と甘手とがあるといふ。苦手の手に掛かつた料理は何もかもうまくない。芋莖を煮ればえぐくて喉を掘り、クサギの葉を?でても苦味が多過ぎて食はれず、梅漬に紫蘇の葉を入れても梅が黒くなる。之に反して甘手の漬けた梅干は赤色がとても美しく、芋莖くさぎ葉その他も皆味がよい。苦手の女に添ふ男は一生のうちに大分の不しあはせだが、之を見分ける方法は無く、たゞ先づ梅を漬けさせて見るか、芋の莖を?でさせて見るより他は無いと謂つて居る。この苦手と、蝮捕り蜂捕りなどを得意とするニガテと、全然別のものか又は同じ人の隱れた反面なのか、さういふ女性の苦手にもやはりソンといふものがあるかどうか、尋ねたら幾らでも答へてくれられる田中翁であつたが、遺憾なことにはもう黄泉の旅に立つてしまはれた。しかも一つの土地だけから拾つた材料では、まださう確かなことは言へないのだから、寧ろ斯ういふ空隙の殘つて居るのを機縁に、もつと懸け離れた地方の偶然の傳承を、是から注意して集めて行くことにしてはどうかと思ふ。

　

(492)　　　にが手と耳たぶの穴

　

　この現象は今ちやうど消えかゝつて居る?勢と察せられるから、まだ年よりたちに話してもらへるうちに、もう少し資料を集めて置きたい。前囘に報告した島根縣邑智郡の例の他に、鹿足郡の方には又斯ういふ話もある。田植に苗を束ねた藁、即ちナヘデ・ナウバ等といふものを、非常に尊重して粗末な取扱ひをせぬのは、全國一般の風習と謂つてもよく、たとへば其束の輪になつたまゝのまん中へ植ゑた稻は、成長してから大きな災ひをするなどといふ言ひ傳へは、どこにでも有つた樣だが、この地方でも田植のとき、後退りをしつゝ誤つてこの苗束を泥の中へ踏み込んだときは、急いでニガテ・ニガテ・ニガテと三べん唱へた。斯うして置けば障りは無いが、もしも忘れて其まゝに過ぎると、必ず足痛を起すものと信じられて居た（郷土研究二卷八號）。多分は苦手の人ならば其害を受ける虞れが無いといふ説があつた爲だらうと思ふが、邑智郡の方ではもうさういふことを言はぬさうである。

　播州の赤穗郡などでは、苦手は呪力のある手で、腹痛を撫でると治り、又魚を捕るにも獲物が得やすいと謂つて居たさうだが（高田十郎氏記録）、一方に又石見のやうな、受身の方の力もあつたものかどうかはまだ知られて居ない。三河の豐川流域でいつて居るニガ手も特別の素質で、手の筋又は手の形でよくわかるといふ。是には種類があつて、蛇の苦手といふのは捕へると蛇がおとなしく、何の害をもすることが出來なくなる手だといふが（三州横山話）、其他にはまだどういふ特徴があつたものか、是ももう明らかで無い。恐らく蝮捕りのやうな冒險でもしないと、この能力があまり目に立たず、自然に是ばかりが有名になつたものであらう。信州松本地方のにが手などは、もう蛇取り以外に(493)は應用が無いやうなことを謂つて居る。さうして苦手の人を見ると、蛇が動けなくなり自由に捕られるといひ、その苦手の人といふのは、手の指が總まむし指だから誰にもわかるといふことは（郷土研究四卷八號）、東京附近でも聽くことであるが、多分元はたゞ普通の蛇がつかまるといふだけで無く、蝮を押へても蝮が咬まないとまで、信じられて居たものと思ふ。

　同じ縣の上伊那郡などでは、ナマスと謂つて、ちやうど蛇のにが手と同じく、地蜂に對して大きな呪力をもつて居る人がある。素手で蜂の巣をつかんで、ブンブンといふ蜂に構はずに掠奪して來る。斯ういふ人は蜂に螫されず、たま／＼さゝれてもちつとも腫れ上がらぬといふことである（蕗原二卷二號）。ナマスは生巣と書いて居るが、あてにならぬ宛て字であつて、或はその人の手又は他の部分の、特質を意味するものかとも思ふ。是も島根縣の温泉津町に、以前ハミヅメと稱して蝮を捕るに巧みなる老人が居た。常は日雇などで生計を立てゝ居たバク足即ち象皮病にかゝつた男であつたといふことで、ハミヅメは單に蝮を捕る力のある爪といふだけで、別に特殊の外形を具へて居たのでは無いかも知れぬ。之を考へるとまむし指と謂ふのを、指の第二口下の關節の直立することの如く解したのも、或は後からの附會であつたかも知れぬ。さういふことだけなら少し練熟すればどの子供にも出來たらう。それで皆が皆蝮に咬まれぬといふ、自信をもつたら大變なことであつた。

　だから私などは、この手の指の上の節だけが、曲げられるかどうかを注意するよりも前から、まむし指といふ言葉は既にあつたものと思つて居る。さうしてそれは蛇のにが手といふのも同じに、蝮を手づかまへにすることの出來る人といふことであつたらうと思ふ。同じ信州の北安曇郡などでは、蝮指の人は發明だと言ひ傳へて居る（郷土誌稿四卷）。女のまむし指の手で、腹痛をさすつてもらふと治るといふことは、京阪地方でも弘く謂ふことであるが、一々蝮を捕らせて見て資格をきめるのも大がかりな話だから、後には指を曲げるといふやうな簡略な試驗にさしかへたので、つまりは斯んな呪力に、さう大きな信用をもたぬやうになつた結果とも見られる。

(494)　最初はしかしもう少し明瞭な、特徴を認めて居たのかも知れない。ニガテといふ名稱は、まだ九州の方では聽いたことは無いが、蛇を怖れない素質の人があつて、それには耳たぶに窪みがあるといふことを、、方々で言ひ傳へて居る。前にも引用した「豐前」の九號にも、蛇を怖れぬたちの人をカヂハラドンと謂ひ、カヂハラドンは耳たぶの前に窪みがあり、又親指が丸いと謂つたと出て居るが、それとほゞ同じことを筑前の方でもいひ、又山口縣の厚狹郡にも例があつて、現にこの耳に穴のある人には、蛇が至つて從順だといふ者もある（兵庫縣民俗資料一號）。同じ縣の大津郡海岸などでは、耳に穴があるかどうかはまだ確かでないさうだが、蛇つかみの力ありと認められた者をフヂミミと謂つて居るといふのは（大藤君報）、恐らくは亦耳に特徴があると稱せられた爲であらうし、同時に又カヂハラを藤原といふ人の現はれた原因でもあらう。しかしそのカヂハラとても、行はれて居る區域こそは廣いが、やはりどうしてさういふかの理由が判つて居るわけでは無い。是は一つ我々の手で、いつかは其由來を考へ出したいものである。最近に刊行せられた河村只雄氏の遺稿、「續南方文化の探究」といふ紀行文にも、沖繩の屬島渡名喜の島に於て、ハブ捕りの名人と言はれた老人の、ハブ退治の呪文の秘傳といふのが出て居る。其一節に、

　　タチミチヌスク、ユクミチヌスク

　　カヂワラヌ

　　アシビドクマ、ヲドイドクマ云々

とある。その「カヂワラヌ」は意味不明だと謂つて居るが、とにかくに斯んな島にまで渡つて居るのである。或は渡つたのでは無くあちらが本元だとも今はまだ言へぬことは無いが、耳に穴があるといふ沙汰だけは、まだ南方の島々に於ては之を説く者が無い。

　この耳たぶの穴のことに就いても、私はもう久しい間注意して居るのだが、實際はまだ貫通して居るのを見たことは無い。しかしたゞ表面の窪んだものも其中に入れるとすると、是は種類も色々あり又相應に例が多いやうに思ふ。(495)現にこの春亡くなつた娘なども、私が其話をすると笑ひ出して、自分にも小さい窪みがあると言つた。それでは遺傳はどうだらうかと、その又子になる女兒を見ると、是にも燐寸のさきほどの淺い窪みがあるのであつた。さうして私の家の家系は大體明らかで、少なくとも十代ほどの間は、蝮取りなどをして居た者は無いのである。

　或は耳環の名殘では無いかと思つて居たのだが、今日の生物學では、後天の畸形は遺傳せぬものとなつて居るのださうである。しかし世間では專らさういふ解釋をして居た。前に岡山縣美作地方の例を一つ擧げて置いたが、�ｺ島縣に於ても船手の陳長森志摩守といふ人が、文禄の役に朝鮮から連れて來て家來にした者の子孫が、今でも勝浦郡の海岸地方に居住し、彼等には耳たぶに穴が有るといふことを、阿州奇事雜話の中には書いて居る。少なくとも斯ういふ特徴のある者を、韓人の後裔だからだといふ民間の説だけは、弘く流布して居たことが察しられるのである。それは根據の無い想像説だつたと、いふことは勿論可能であるが、それと或種の呪法又は呪力と、結び合せて考へて居た事實が、曾てあつたといふまでは爭ふことが出來ない。しかも其能力はいつの間にか衰へ、一方には耳たぶの特質のみは、段々と擴がり傳はつて居るのだから、今に其樣な事は有り得ないといふやうな消極的な斷定が、一世を風靡する時代になるかも知れない。たゞ今ならばまだ若干の手掛りだけはあるのである。たとへば姙婦が着物の衿に針を刺して置くと、耳ぺらに穴のあいた兒が生れるといふことを、和歌山縣の高野口の町附近でも謂へば、又遠く隔たつた秋田縣の山本郡でも謂つて居る（秋田縣の迷信俗信）。その中間の群馬縣の山田郡でも、姙婦とは無いだけで、やはりさう謂つて衿に針を刺す行爲を戒めて居る（郡誌）。即ち人が多くの日本人の中には耳たぶに穴のある者が存在することを知り、且つ之を喜んで居なかつたといふ證據にはなるのである。

　

(496)　　　耳たぶの穴の一例

　

　奈良縣吉野郡天川村坪（ノ）内の寺井といふ家名の一族の人々には、耳たぶに針で突いたほどの穴があるといふ。是は昔ガタロ（川童）と約束して、此家の子孫の者は決して取らぬといふので、其しるしに耳たぶに穴をあけて置くことにしたのだと謂つて居る。川童との約束は他の多くの例のやうに、馬に惡戯して曳かれたといふのでは無く、こゝの言ひ傳へは「水蜘蛛の怪」といふ話の系統に屬する。即ち釣を垂れて居ると蜘蛛が來ては絲をかけるので、それを警戒して逆に陸の上へ引張り上げて退治したといひ、他できかぬことは、是には柿の樹にしがみついたといふ話が附いて居る。宮本常一君の吉野西奧民俗探訪録は忠實な聞書きだが、此中では天川村の記事が精彩を帶び、殊に寺井氏一門を含んだ坪内の社家の生活が、殆と湮滅の瀬戸際に於て保存せられて居る。山間生活と古代信仰との結び付きに就ては、考へさせられる事蹟が甚だ多い。

　

(499)　　　葬制の沿革について

　

　　　　　　　　　　一

　

　會員としての我々の經驗から言ふと、學會が榮えるといふことは、必ずしも精透の研究を以て、後代の目標を打立てる迄の重要論文が、連續して出現することを意味しては居なかつたやうである。理想は固よりそこに在るべきであるが、それには時期もあり又外部の機會を伴なはなければならぬ。今少しく卑近なる要件は、會員が單なる讀者となり又は普通の豫約者となつてしまはぬことで、共同の興味が或一隅に傾注せず、寧ろ幾分か雜駁で且つやゝ移り氣に見える位に、毎月の題目が變化して行くやうな際が、實は次の進出を孕んだ最も活氣ある時代なのである。求めて此?態を招致することも、決して會報の墮落といふことは出來ない。現にこの會でも過去に幾度と無く、さういふ傾向を呈したことがあり、今から囘顧するとその頃の方が會員らしい會員が多かつた。人類學の前面が本來は弘いものであること、從つて偶然に又散漫に我々が抱いて居る個々の小さな疑問の中にも、まだ幾らでも學問上の疑問があり得るといふことを、出來るだけ意外な實例に由つて心付かせて貰ふことは、所謂追隨を許さぬといふ學者の深入した指導よりも、全體の效果は時として大きかつたのである。

　近年の日本の人類學が、非常に片寄つた發達をしたのには原因があつた。或一局面に優秀なる學徒が輩出したといふ以外に、此學問としては特に大切なる現存事象の集録が、其他の部分に於ては甚だ振はず、一方には探險發掘等の(500)事業の年と共に盛んなるに對して、この方では單なる好奇心の地表探訪すらも、段々に流行おくれとならうとして居るのである。人間生活の觀測とその直接の記録とより他には、何の手段も無い學問が、成長し得なかつたのは是非も無いことで、計畫ある公けの調査が今後に於ても尚望み難く、しかも各部各年代の考察が、互ひに相助けて進まなければ、末には折角の所謂史前學の孤立さへも、心細くなつて來るであらうことを考へると、時は稍々おくれて居るのかも知らぬが、今からでもまだ何とか方法を立てる必要があるやうに思ふ。自分なども從來は發見が餘りに少なく、又たま／＼あつても其發見が餘りに小さいのに恥ぢて、幾分か肩を諸先進と比べることを差控へる傾きがあつたが、是はよくない流行にかぶれて居たものだといふことに心付いた。今度の五百號の好記念の日を始にして、又僅かづゝの問題なりとも提出して、同志の會員諸君がどの程度に、又如何なる種類の題目に興味をもち、且つ新しい資料と判斷とを以て、應援してくれられるかを試みて見ようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　最初に私が葬制の沿革などを考へて見ようとするのは、通例何れの民族でも是が最も主要なる文化の一特徴と目せられて居るにも拘らず、日本にはまだ明らめられざる不審が幾つもあるからである。近年編述せられた郡誌類は數多いものであるが、一樣に住民の生活變遷を話すことが疎であるといふ中にも、殊に此項目には力を施して無いものが多い。その理由の重なるものは、、他の俗信や呪法の類とは正反對に、是にはたゞ一つの定まつた仕來りがあつて、全國何處に行つても略々同じものだらうといふ豫斷があることでは無いかと思ふが、實際は却つて前者にこそ新たなる採用模倣はあれ、儀式には寧ろ改正の機會が少なく、從つて土地々々の昔を保存し易かつたかと思はれる。其中でも凶事には計畫がなく、家の者は通例其指揮に任じ得ないから、勢ひ何人も責任を負うて、古い慣習を改めようとはしなかつたのである。即ち家の風、村の作法が最も忠實に守られ、甲乙の異同はいつ迄も保存せられて居たわけである(501)が、それを冷靜に觀察し比較をして見ようといふ樣な人が、祭や祝言の時の樣に常に多くは居合はさなかつたのである。

　斯ういふ住民の何とも思はずに過ぎて居る生活の中に、却つて古風の尋ぬべきものがあるのでは無いかと私などは思つて居る。第一に誰でも不審してよいことは、石器を使つて居た時代の人骨でも、探して居ると追々に出て來るのに、如何なる古い村にも中世以前の墓場といふものが無い。生れては死んだ人の數の莫大なのに比べて今存する埋葬所はほんの算へる程しかないのである。石に亡者の名を刻むやうになつたのは、文字が一通り普及して後だから、人が以前の跡を忘れてしまつたかとも考へられるが、まださういふ場處は偶然にも發見せられて居ない。火葬の方式は隨分と古くから、行はれたやうに記録には見えて居るが、勿論其區域は今でも限られて居り、且つ近世に入つて始めて採用せられたといふ實例も多い。それで居て是ほど迄に遺跡の乏しいのを見ると、今日我々が塚といひ古墳と呼ぶものに由つて、類推して居る所の土葬以外に、別に一種の遺骸處理法があつて、專ら常民の間に行はれて居たことは想像してよいのである。それが如何なる樣式のものであり、又どういふ順序を踏んで、次第に現在の風に移つて來たかといふことは、自分等の知る限りに於ては、記録には是といふ證跡が無いやうである。さうすると現在も尚行はれて居る各地方の葬儀慣習の中から、或はその一部の消息を窺ふことが出來ないものかどうか。即ち民俗學の今まで他の方面に於て試みて居た方法は、何かこの問題に對しても新しい光を掲げてくれぬであらうか。私はこの目的を以て將來の地方調査の爲に、特に一二の項目を提出して見たいと思ふのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　先づ第一に注意せられねばならぬのは、墓地には二つの種類があつて、それが村によつては二つとも、又村によつては甲乙何れかの一つしか無いといふことである。この地方的相異が多くの人の想像して居るやうに、果して單なる(502)偶然であつたか、但しは又それ相應の原因があつて、一方は他に移つて行く一つの過程であるのか。それを考へて置くことが準備として必要であるやうに思ふ。今日の語でいふ共同墓地、以前には三昧とも亂塔場とも呼ばれて居たものゝ主たる特徴は、土地が公用公有であつて、何人の管理にも屬しなかつたことである。大きな都府に於ては是では秩序を維持し難かつた故に、一般に之を分散させて各宗寺院の境内に附屬せしめる方針を採つたらしいが、其效果がまだ完全に現れぬうちに、再び又大規模の共同墓地を設定して、公共團體が自身管理しなければならぬ時代にはなつたのである。斯ういふ沿革がある爲に、同じ總墓地でも村と市街地とでは、外觀の上にも早著しい差別があつて、後者に於ては曾て寺院の附屬地であつた頃の慣行が、茲にも持運ばれて其儘に成長して居る。墓上に碑を建てゝ其地を永久に占有しようとする風なども、その著しい一つの例である。

　自分のよく知つて居る場合を標準に取つて、比較を進めて見るのが方法としては最も便利である。私の生れた中國東部の村などでは、三昧は遠く離れた原の端に大きなものが一つあつて、埋葬の儀式は勿論そこに行はれ、七七中陰の讀經までは、其新墓の前でしたやうに思ふ。それが何れの時を限りにしたものか、確實なる記憶は無いけれども、多分一周忌に石碑を建てることゝ關聯して居たのであらう。兎に角三年目の盆の墓參には、最早三昧の方へは行かなかつたのである。各部落には十戸二十戸分づゝ一群を爲して、極めて民家と接近した寺の裏手などに、我々の墓所といふ處があつて、そこには小さな石塔が狹苦しく竝列して居た。盆彼岸は元より後々の年忌にも、供養は常に此墓所の方でのみ營むことになつて居て、事實上の埋葬地は、何人も之を省みようとしなかつたやうである。

　今から考へて見ると、村民の墓に對する觀念は、確かに現代のそれと異なつて居た。三昧の中央に近く、路脇の小高い處に一本の老松があつた。いつの葬式の日にも必ず會衆の話頭に上るのは、誰それをいけた〔三字傍点〕のはどの邊であつたらうかといふことであつた。さうすると毎に此松の樹が引合ひに出て、是から南へ二十間位の處であつたとか、いや今少し西へふつて居たとか言つて、大よそあのあたりといふ以上に、精密に茲だと言ふ者は無かつた。最も古い私の(503)記憶では、十年ほど前に此野邊に送られた自分の祖母の、葬處はどれだと言つて親しい者に尋ねたことがある。其時にも松の樹のすぐ近くであつたといふのみで、確かには何人も教へてくれなかつた。つまり我々は三昧を墓だとは思つて居なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　併しちやうど其頃から、此共同墓地にも片脇に二つ三つの石塔が立ち始めて居た。それが追々と増加して遠くからも見えるやうになつて來た。移住者や新しい分家の墓地を持ち得ない者が、埋葬所を其儘墓所として拜むやうになつたのである。是と同時に部落に近い寺内や森蔭などにも、次第に人を?めることになつた。是は家數が増加し三昧の利用が餘りに繁くなつて、新墓の早く亂されることを厭ふからで、つまりは法制がこの二通りの墓地に、何等取扱上の差別を設けなかつた結果である。

　其後注意をして見ると、同じ中國の田舍でも、土地によつては早くから二種の墓地が連接して、一見區別の無いやうに見える處もあつた。併しそこには必ず中央に共同の葬儀場があり、其周圍には多くの新舊の盛り土、即ち碑石を建てずに自然の更改を豫期して居る墓場があつて、家々の墓として獨占して居るのは、單に便宜上それに隣する土地を選んだに過ぎなかつたことが想像せられる。村の共同墓地では、普通に念佛の道心などを番に置き、それに小さな庵室の如きものを附與し、彌陀地藏の像を安置する場合が多い。それが少しづゝ有力者の庇護を受けて、末には寺號などを持つことになると、寺が管理する私有の墓地と、外形に於ては甚だ近くなるが、是は現今の土地名寄帳などを調べても、起源の何れであるかは略々知れる筈であり、又宗派の關係を考へて見てもわかることである。要するに村の社會の最小限の必要は共同墓地で、碑石は境遇と資力次第建てたり建てなかつたりして居たのだから、後になつて此共同墓地の隣に來り加はつたものと、一應は想像して置いてよいやうである。

(504)　墓地を寺院に托するやうになつた起原は、純然たる歴史の問題として、記録の上からも略々之を尋ね究めることが出來るが、その一つ以前の?態が明らかにならぬ限りは、實はまだ風俗推移の動機を説くわけには行かぬ。それには現在の地方資料の、殆と無意識に保存せられて居たものを、改めて整理して見るより他は無いのである。屋敷と接近した控へ地の片隅などに、先祖代々の石塔を守護して居る例は、關東奧羽の村々に多いのみならず、是を全く隔絶した南九州の山村などにも、往々にして之を目撃したことがある。死穢を忌み怖れた古來の氣風から推すと、何か特別の事情なり原因なりがあつたと言はなければ、斯ういふ異例は解し難い樣であるが、實際は都邑の生活が始まつて以來、段々にこの慣行がすたれたといふのみで、現にその分布は全國であるから、之を以て曾て我々の問に、一種居地を埋葬地とする風習をもつ部族が、入交つて住んで居たといふ證據にすることは出來ない。或は又新たに人げの少ない原野を開發した家が、たま／＼野獣や外敵を防衛する必要から、忍んで此の如き特例を設けたかの如く、考へて居る人も無いとは言はれぬが、是も其墓場が今尚埋葬所として、使用せられて居らぬものが多いのを見れば、やはり亦成立たざる一つの想像であつた。由來の不明なものは一應は固有と假定するの他は無い。即ち我々は夙に佛法の教化に信頼して、亡魂の管理を之に委ねようとしたけれども、所謂安養の道は別に其前から具はつて居た。さうして今ある如き野邊送りの儀式即ち葬地を直ちに墓とする風は、必ずしも直接には之と關係が無かつたらしいのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　墓地には斯の如く、もと二つの種類があつて、假に區別の名を設けるとすれば一方を葬地、他の一方を祭地とでも謂はなければならなかつたことは、現在各地方の仕來りの中からでも、可なり明瞭に之を實證することが出來るやうに思ふ。自分の舊友の一人は福島縣の伊達郡の或村に行つて、公の文書には墓地とあつて、其實立派な山林である例を見たと謂つて居る。自分も二十年ばかり前に、越後北蒲原郡の海に近い縣道を通つて居て、路の片方の松林が、樹(505)齡の餘りに不揃ひであるのに心付いたことがある。よく見ると三年五年の若松の栽ゑてある下は、何れも人を埋めた土饅頭であつたので、始めて此邊の埋葬法が一種植樹の風を伴なうて居ることを知つたのである。其後又千葉縣長生郡のある淋しい海濱に於ても、松原の處々にカナメ・モチノキ等の闊葉樹が栽ゑてあるのを見た。是は偶然に其間に新墓があつて、例の犬除けの竹を傘の骨の形に刺し蔽うて居るので、いと容易に此邊にっも三昧を林とする風習があることを認めたのである。

　或は又樹の苗を挿す代りに、石を置いた例もあつたかと思ふ。今は陸軍の砲術練習地に化した三河の伊良湖岬の村などでも、三十年前に自分が滯在して居た頃は、寺の麓にまばらな松林があつて、常は兒童の遊び場になつて居たが、よく見ると砂地に澤山の海石が散亂して居て、其一つ／＼の在り處が葬地であつた。石碑は松林の片端にも少しあつたが、多くは岡の上の寺の庭に在つた。但し盆には雙方に於て祭をして居たやうに思ふ。大きさ一尺足らずの自然石の、形と色とによつて銘々の家の葬地を、見分けるのだと村の人は言つたが、果して其記憶はどの位續くものであつたらうか。事によると寧ろ適當なる期間の後に、忘れてしまふことを必要として居たのでは無いかと思ふ。相州小田原の町で或寺の墓地を偶然に訪れたことがあつたが、茲でも只の人の墓じるしは、多くは手頃のやゝ三角形の海石であつた。快活な話でも無いから人は滅多に斯ういふ事柄には觸れぬが、墓地の面積は何れの村でも制限せられて居る。永い年代に亙つて之を使用しようとすれば、到底今日の樣に一人々々の爲に、文字を刻した石塔を建て竝べて行くことは出來なかつた筈で、從うて現在の墓制のさう古くから持續したもので無かつたといふことは推測せられるのである。

　日本には限らず、墓制は一般に舊國の大なる一つの惱みであつた。最初には富あり權勢ある者が、地を占めて萬全なる保存の方法を講じようとすると、家々も亦各自の能力の許す限り、次第に其風を傳へるのは自然であつて、末には著しく生人の利害を侵蝕するか、然らざれば稍々惨酷なる反動行爲を忍ばなければならぬのであるが、我邦は寧ろ(506)特殊なる事情の下に、今頃漸く他の諸外國が解決せんとして居る問題を、幾分か早目に解決したかの姿がある。寺院が俗界の人情から超越して、單なる無縁有縁を標準に、多くの墓所を整理し得たことは其一つである。古く溯つては火葬の採用せられたことも、無論重要なる一つの改革であつて、それが在來の歴史家の認めて居る如く、果して外國教法の感化に過ぎなかつたとすれば、其結果から見て殊に幸福なる偶然といふべきである。何となれば假に我々の感情が之を甘なはず、又信仰が誘導してくれなかつたとしても、墓地擴大の傾向は結局何等か之に近い方法を以て、整理する必要を免れ得なかつたからである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　然るに我々の祖先の死靈に對する畏怖戒愼は、今よりも遙かに甚だしいものがあつた。如何に賢こい智慮分別であらうとも、之に基づいて突如として亡骸の取扱方を變へることは、今人も尚敢てせぬ所である。それが大昔に於て既に火葬の式を承認したのみならず、更に時代と共に漸次民間に普及して來たといふのは、少くとも古人の死に對する觀念の中に、之を自然の推移と解し得るだけの、若干の素地があつたからでは無いかと思ふ。墓地が寺院の管理に屬するやうになつてからも、始終無造作に過ぎたる更新が行はれ、都府では殊に度々の區劃整理があつて、移し動かし又取潰すことを、何とも思はぬ者が多かつたといふことも、やはり亦以前久しい間の心理が所謂野邊送りを以て記念保存の事業とせず、寧ろ一種の忘却方法の如く、認めて居た餘波であつたかも知れぬ。斯ういふ想像は一見したところ、家の名を重んじ先祖の祭を大切にした日本人の氣風と、或は兩立せぬ樣にも考へられるか知らぬが、兎に角に昔の葬法の簡略であつたことは事實であつて、それが我々の抱いて居た組靈の信仰、家の固有の宗教と如何樣に調和して來たかといふことばかりが、今はまだ明瞭になつて居らぬのである。

　自分などの見た所では、古今葬制の變化を促すべかりし原因が、先づ三つ迄は算へられる。其一つは人の數の増加、(507)第二には人の感覺が追々に繊細となつて、所謂あだし野の光景を目に觸れるに堪へなくなつたことである。第三には即ち戸の分裂、若くは家族關係の平等化とも名づくべきものであつたが、是だけは便宜上末段に於て敍べる。當初人が少なく林叢のなほ豐かであつた時代には、オキツスタヘの葬法は自然であつた。又最も平和なる魂と骸との分解方法でもあり得たのである。邑里が繁衍し往來の漸く加はるにつれて、此舊習は實は持續し難くなつて居たのであるが、社會はまだ之を劃一的に改革するまでの力を持つて居なかつた。問題それ自身が人の手を着けることを忌んだからである。京都は中世の終に近くまで、尚其外郊に古風なる五三昧を控へて居た。さうして一般の利用は可なりに亂雜なものになつて居たらしい。歴代朝臣の記録に、觸穢と言つたのは大部分五體不具の忌であつた。狗が人の骨をくはへて來たとか、烏が赤兒の手を庭上に落したからといふ類の記事が、幾らとも無く其中には見出される。單なる薄葬といふよりも、常民はまだ今日謂ふが如き土葬なるものを行はなかつたのである。偶然に世に遺されたる物語や繪卷の中からでも、その頃の樣子は十分に窺ひ知ることが出來る。火葬の方式が此間に於て採用せられたのも、又念佛の法師が專ら此方面の事務を委ねられるやうになつたのも、何れも由つて來る所は茲にあつたので、現行の慣例の如きは何人かの新たなる設計に基くといふよりも、寧ろ勢ひ窮まつて斯くの如く轉囘せざるを得なかつた迄であり、從つて地方によつて其變化が區々であつたとしても、それは少しでも意外なことでは無いのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　ハカといふ日本語は本來漢字の「墓」には相當せず、寧ろ斯ういふ昔からの、葬處として特定せられた土地を意味して居たかと思ふが、確かなことはまだ自分には言へない。兎に角にそれは忌詞であつたと見えて、會話にはたゞノベと謂つて居た人が多い。鳥邊野鳥邊山も往々にして之を普通名詞の樣に用ゐて居たのを見ると、地名の起りにも既に墓地といふ意味があつたのかも知れぬ。現在西院川原の四字を宛てゝ居るサイノカハラなどは、諸國に幾らでも例(508)があるから、是は少なくとも京都の名を移したのでは無い。後には小兒ばかりの行く處のやうに考へられて居たけれども、語の元の意味は境のことで、即ち世を辭した人々の去り進む地であつた。蓮臺野といふ地名も京都のそれのみが著名であるが、全國に亙つて其數が非常に多い。中には只の林であり若くは拓かれて畠となつたのもあるが、斯ういふ特色ある地名は偶然には一致せぬ筈である。蓮臺は通例柩を運ぶ乘物の名と考へられ、又字面に據つて立てられた寺方の説もある。若しそれが後々のこじつけであつたとしたら、こんな一つの名稱からでも、尚或は古意を掬み得るやうな時が來るかも知れぬ。

　そこで自分は地方誌の調査者に向つて、先づ斯ういふ第一次の葬地を、俗言で何と謂つて居るかに注意せられんことを勤めたい。土地の言葉は僅かでも心持が變るたびに、努めて新語を使つて其變化を際立たせようとして居る傾きがある。だから或場合には用語の比較と時代別とに由つて、葬制其ものゝ沿革が辿られるのである。例へばボチといふ日本語らしい漢語は、有つてもよい語であるが近年までは頓と行はれなかつた。墓所といふ文章語が家々專屬の祭場の意味に用ゐらるゝに對して、所謂墓原には別にムショといふ語があつた。ムショも同じく墓所の古書の如くに説明せられては居るものゝ、其感じは全然別であつて、此方は通例共同墓地を指して居るやうである。古くは音聲の稍々之に近き、無常所といふ語がよく用ゐられて居た。奇異雜談集などを見ると、罷物所と書いてハモツショと訓ませた例もある。文字は勿論文筆の人の選定であらうが、語其ものに至つては常民の命名か、若くは少なくとも採用でなければならぬ。さうすれば是が以前の語と更代して、次に新しくなつて來た過程の中には、當然に我々の慣習の推移を含んで居るわけで、之を究める爲には今一度各地居住者の協力の下に地?と在來の稱呼とを比較して見るのも一方法かと思ふ。

　

(509)　　　　　　　　　　八

　

　自分などの想像では、京都の船岡や鳥邊野も、元は天然の林地であつたらうと思ふが、使用が激しくて、所謂北?山上の露はなる光景を呈したのも、新しい事では無かつた。處々の殯邊や川原の墓地には、最初から十分の目隱しも無く、たゞ人が努めて其近くを避けて通るやうにして居たゞけのものも相應にあり、又少なくも近世の人は、それに馴れて居た。從つて越後上總で私の見た如く、葬地に必ず樹を栽ゑるといふ慣行は、寧ろ後代に始まつた美風とも考へられるので、それが全國に弘く行はれて居なくても不思議は無い。一般の法則としては、居邑周圍の最も閑寂なる一地を劃定して、そこに死者を送つて徐ろに魂と形骸の分離を期するのみで、村や屋敷の樣式が區々になると共に、作業薪水採取の方法が變化して來たと同じく、葬地にも亦色々の種類が出來て、今日の土葬と火葬とは、其内の最も必要多き地方から、徐々に普及して行つたものでは無いかと思ふ。海邊と山中の村とには、比較的久しく二者の必要を感じなかつたといつてよいのであらう。諸國のサイノカハラの中には、今でも地形から見て、曾て葬送の地であつたことの推測せられるものが少なくない。折もあれば一つづゝ考へて見たいと思ふが、差當りは茲にたゞ二つだけを掲げて置く。佐渡の西北隅、内外海府の境にある願《ねげ》の塞の河原は其一つである。現在は洞門の左右に澤山の石地藏を安置し、島の巡禮の是非拜んで通る路筋になつて居るが、實際は稍々行きにくい岬の陰で、何れの民居よりも一番遠い荒磯端である。私は偶然に五人の漁夫と共にそこを過ぎたが、彼等は今でも可なり顯著なる怖畏を有つて居た。さうしてまだ地藏經の説くやうに、小兒だけの地藏とは考へて居らぬやうであつた。羽後飛島圖誌の記す所に依れば、此島でも紹壁で遮られた磯山のあなた面に海邊ながら塞の川原といふ地があつて、同じく石地藏を祭り石積みの神怪を説いて居るさうである。岡を越えてそこへ行く路の曲り角に在る家では、毎に夜深く此阪を登つて行く人の足音を聽いて、村に新佛の出來たことを知る習ひであつたといふ。それも僅かに三四十年前の話であつた。是と同じ話は陸(510)中遠野郷の或村にもあつたと佐々木喜善氏は報じて居る。こゝの墓地はサイノカハラとは謂はず、小高い丘陵の上に在つて、之をデンデエノ（蓮臺野）と呼んで居るが、そこへ登る路の角にある小庵の主は、いつも死人の來る前に此足音を聽いたさうであつて、茲も飛島も一樣に謂ふ話は、ばた／＼といふ藁草履の音と共に、大抵は何か獨り言をいひながら行く。中にはしく／＼と泣いて行く女もあれば、はアと一つ溜息をついて通つたのもある。さうかと思ふとさも氣樂さうに、何か鼻唄を歌ひつゝ登つて行つたのもあるといふ。何にもせよ佛法では説明のしにくさうな幻覺であつた。

　

　　　　　　　　　　九

　

　海邊にして塞の川原といふのは持つて來た名のやうだが、カハラは又磧の字を宛てゝ、實は小石原のことである。元はゴウラといふ語から分れたもので、流れの岸を意味するカハラとは別であつた。即ち若しこゝが葬地であつたとしたら、絶對に土葬は出來ぬ場處であつた。佐渡の海府の塞の磧には、餘り大きくない一つの岩窟があつて、今の通路は其片端を潜るやうになつて居る。浪打際からは　　稍々高くして海に面し、其奧には新舊の石佛が幾つと無く竝べてある。或は斯ういふ場處が特に以前の葬送の地に、適して居たのでは無いかと思ふ。

　それに就いて思ひ合せるのは、玉勝間卷十に載せられた出雲國黄泉の穴の記事である。場所は簸川郡奧岡村（西田村大字奥宇賀）ゾウガ谷、鰐淵山東側の山腹に在つて、海に面した天然の洞窟である。鰐淵寺の縁起には智證大師入定の穴とあるさうだが、土地の故老は之を冥途の穴と呼び、毒氣上り來つて之に中れば死すと謂つて居た。今は草に埋もれて里人も若き者は所在を知らずとあるのが、既に寛政六年三月の事であつた。是は本居先生が特に齋藤秀滿といふ人を遣つてわざ／＼調査させられた記事で、先生は之を以て出雲風土記に録する所の黄泉之穴に比定せんとせられるのであるが、出雲風土記考證の著者後藤藏四郎氏は其説に同意せず、別に海近くの猪目（ノ）濱といふ地に在る天然(511)の洞窟がそれだと謂ひ、右のゾウが谷の穴は天然のもので無いからちがふと論じて居る。それは何れでもよいと言ふよりも、此論が正しいとすれば實例が二つになるわけで、實際亦さういふ例は幾つもあつてよいと私は考へて居る。此序に出雲風土記の文を拔出して見ると、それには次の如く書いてある。

　　出雲郡宇賀郷、脳磯……………

　　自磯西方有窟戸。高廣各六尺許。窟内有穴、人不待入。不知淺深也。夢至此磯窟之邊者、必死。故俗人自古至今、號黄泉之阪、黄泉之穴也。

　私は訓詁の學に疎いから、此點から特に何の論斷をも導かうとはしないが、是と神代卷の泉津平阪の物語と、名を同じうして處を異にし、又其解説をも別にして居ることは、即ち山の側面を以てあの世に降つて行く路とし、乃至は窟戸を以て顯幽二境の關門とする考へ方の、必ずしも一地一時代に限られたもので無かつたことを意味するものと思つて居る。從うて假に此地方のみは一千年も前から、最早現存の慣行を以て黄泉之穴の地名を釋くことは出來なくなつて居ようとも、他には又ずつと後代まで、斯ういふ思想に基づいて、岩屋を葬處に宛てゝ居た例が、尚幾らもあつたかも知れぬのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　さうして其痕跡かと思ふ口碑の類は相應にある。即ち出雲風土記と同じく、特に深淺を知らずと傳へて居る岩屋は極めて多數であり、或は又富士の人穴の如く、強ひて入つて奇瑞を見たといふものもある。それから實驗をした者は一人も有り得ないのに、非常な遠方の墓地と下に通うて居ると説く例もある。注意すべき一つの傳説には、狗を入れて見たら還つて來なかつた。若くは白い狗のみが幾日かを經て還つて來たといふ類のものがある。是が何等か昔の葬式と關係があつたやうに思はれるので、私は他日其比較を試みたいと念じて居る。それから第二段には遺跡學の側か(512)らでも、今ならばまだ岩窟葬送の痕を見出し得るのでは無いかと思ふ。横穴の人骨は入口を完全に塞がぬ限は、勿論非常に早く朽ちてしまふだらうが、雨水に流されぬ限は成分は土に留まつて居る筈であり、さうで無くとも何等かの名殘は認められたわけである。埼玉縣吉見の百穴なども、我學會の久しい論題であつたが、持主があゝきれいに掃除をしてしまつてからでは、もう證據といふものがどちらの爲にも得られない。併し口の聞いた塚穴や天然の洞で、毀たれもせず又省みられもせぬといふものは、今でも尚國々に大分の數が殘つて居る。

　第三段の方法としては、我々は更に現在の慣習調査の力を借ることも出來る。近世數百年の永きに亙つて、社會を分立して居た南方の島々が、偶然に保留し又は別樣に成育させて居た一種の昔風なども、若し幸ひにして兩方の學徒が、偏見無く之を考察し比較し得たならば、假に直接の教訓とは行かぬ迄も、少なくとも有力なる暗示は得られる。而うして葬法の方面に於ては、殊に此頃になつて意外と謂つてもよい色々の事實が判つて來た。沖繩の諸島に於ては、横穴の使用と閑地送葬とは、土地の事情に應じて交互に行はれて居た樣で、現在住民が土葬を以て目して居る慣習の中にも、中部日本に比べると幾分か多量に、前代葬法の痕跡を遺して居るかと認められる。此地方には火葬は全く採用せられず、水葬も亦確かなる證跡は無いかと思ふが、免に角に從來我々が外國の學説に依り、所謂五大五種の葬法をそれ／”＼別系統のものゝ如く見ようとしたのは誤で、實は此間には甲乙自然の推移を許すだけの、聯絡があり又基礎があつたといふことが、始めて稍々明らかになつたのは近年の南島研究の收穫であつた。

　此問題に關しては、伊波普猷氏の「南島古代の葬儀」（民族二卷五號）が既に其要領を盡して居る故に、再び之を詳説することは無用である。自分はたゞ外部からの觀測者の爲に、一二末端の補足を試みるに過ぎないが、沖繩の墓制は首里那覇の中心地に於てすらも、之を外形に由つて支那式の採用と、速斷することは出來ぬといふことが其一條である。何よりも根本的なる二者の相異は、一方が個人の墓であるに反して、此方は家の墓であること、即ち沖繩ではかの宏壯なる土窖を、單なる墓の集合といふよりも、寧ろ閉鎖せられたる墓地と見て居ることである。一族門黨の間に(513)限られては居るが、穴の内の平場はいつ迄も共同の葬處として使用せられ、從うて頻々たる窖穴の出入があり、又必ず改葬の式があつた。さうして其第二の墓場も亦、同じく此横穴の一隅に設けられて居るのである。邑里が繁榮すると共に、何等かの制限が死者の用地に向つて加へられなければならぬとすれば、是などは最も整頓したる一方法であつて、或は後の時代の賢こい發明に出でたとも想像し得られぬことは無いが、實際は此の如く二段の葬地を一窖の中に併置するの風も古かつたと見えて、島の王家の初期以來の墓制も内面は略々同じであつて、單に近代のものが、其外部の構造に著しく支那の工作法を學んだといふのみであつた。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　ところが國頭郡の田舍をあるいて見ると、例へば羽地村の仲尾次の對岸の孤島の如く、天然の洞穴に些少の人工を加へて、葬地としたものも少なくは無い。それが木製の戸や格子を立てゝあるのを見ると、ごく近い頃まで使用して居たことは明らかであるが、果して洗骨後の安置所としてのみ用ゐられたか、但しは第一次の葬送に際して、柩をも此中に入れる風があつたのかは疑問である。土地の故老に尋ねたら容易に判明することゝ思ふが、自分は恐らくは穴が小さければたゞ遺骨を藏する處とし、内が廣ければ其一部を共同の葬處にも利用したのであらうと思つて居る。さうして實際は多くの天然の穴は小さかつたから、大抵の場合には其近傍の林叢などを、第一次の野邊送りに宛てゝ居たのが、後に自由に墓穴を設計工作するやうになつて、總べて柩を内部に入れて置くことになつて來たものと想像する。運天の港の後の山に在る有名なる百按司の穴なども一つの例であつた。是は相應に大きな洞ではあるが、内に藏する遺骨の量も莫大なもので、到底其間に柩を置くべき餘地は無い。そこで多數の戰死者を合葬したなどといふ傳説も生じたのであらうが、戰死にせよ病死にせよ、どこかに最初の屍を横たへた場處はあつたわけで、その遺跡は今日では悉く不明になつて居るのである。

(514)　伊波君は風葬といふ語を用ゐて居られるが、私は寧ろ空葬と呼ぶのが當つて居るかと思ふ。兎に角に近い頃まで、島によつては今日まで引續いて、土葬以外の方法がこの墓穴の外で行はれて居たのである。國頭の或山村には木柱を樹てゝ其上に小屋を構へ、中に亡骸を置いて洗骨の日を待つ風があつた。東海岸の一二の小島に於ては、島の背面の最も人げ無き一地を劃して、そこに柩を送つて置く風がある。八重山の諸島に於ても、單に荒野の一區域に假に遺骸を置く場處があつたと謂つて、其見取圖なども掲げられてあるが、自分の目撃したものなどは多くの珊瑚礁の石を積重ねて、おまけに泥を以て其隙間を目塗りしてあつた。此等はいづれも次の改葬を豫期するが爲に、本式の土葬を行はなかつたもので、斯ういふ薄葬が一躍して現在の壯大なる墓地となつたことを、伊波氏などは不思議にも感じて居られるやうだが、私の見る所ではそれは單に第一次の葬地を、外から遠望し得ぬやうに改造したといふだけの差であつたと思ふ。

　しかも何等かの方法があれば、成るべく見えぬやうにしようといふ試みは古くから既にあつた。初期には用の無い人は避けて其あたりには近づかなかつた。又努めて往來の稀なる土地に葬處を指定した。山野の使用が繁くなつて、岩窟や樹林の外觀を覆ふべきものが少なくなると、久志の山中に在つたといふ例のやうに、小屋を以て之を隱し棄て又雨露を防がうとしたのである。久高の島などの濱邊に送る柩が、蓋を屋根形に作つて居るのも同じ趣旨であらうと思ふ。沖之永良部などでは其小屋をモヤと名づけ、明治に入つて後諭告を以て、死者の親族が?々其モヤに去來することを制止したといふ話が、伊波氏の論文中にも引用せられて居る。モヤは疑も無く古史に見ゆる喪屋であつて、後年は期間が短くはなつたが、喪屋に籠るの風は内地にも殘つて居る。常民はたゞ通夜と稱して、家の内に集まるだけになつたが、元はその喪屋を構へた場處が、即ち第一次の葬地であつたことゝ思ふ。貴人の御喪に當つて鳥邊野の傍にタマ屋といふものを造つたといふことは、榮華物語の中にも見えて居て、是が近世の御靈屋と同じもので無いといふことは、本居先生も既に注意して居られる。私はこのモヤをタマヤとも謂つたといふことに、可なり大きな暗示を見出すのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　小さな島々の生活習慣が、環境によつて種々の變動を受けることは當然であるが、死の文化に關してはそれすらも常に自由で無かつたらしい形がある。新たなる世情に立脚して、人が各時代の葬法を決定し得るものならば、恐らくは存留させなかつたらうと思ふ昔風が、今でも尚そちこちに殘つて居るのは、民族固有の信仰の消極的威力とも名づくべき、もので、我々が宗教發達の經路を考察するに當つて、特に心を此方面に潜めなければならぬ所以である。内地の側でも色々の類例が擧げられるらしいが、海南の諸島でいふならば、今日の女性の感情には確かに重苦し過ぎると思ふ洗骨の任務が、依然として彼等に托せられて居るのも其一つである、墓地を確定してしまつた後までも、必ず改葬を以て葬式の一行事として居るなども、亦一つの注意すべき點である。奄美大島の如きも、通例死後一年を以て、必ず葬處を移すことになつて居るさうである。しかも其理由は單に前からの仕來りといふ以上に、現在ではもう説明し難くなつて居るので、行く／＼は他の地方の例を知るに及んで、徐々に資力の有る者から之を罷めて行くであらうことも想像に難くない。私が九年ほど前に此島を旅行した時の見聞では、斯ういふ新舊推移の痕が雜然として入交り、以前も幾度か沖繩本島に於て、岩窟から土窖に進んだと同じ類の、部分的變化があつたことを推測せしめた。島の西南隅に近い技手久といふ小島の外側に、誰とは知らず折々船で屍骸を運んで來て、置いて行く者があるといふ話は有名になつて居るが、注意して見るとそれは獨りこの小さな無人島のみでは無かつた。主島の海岸でも絶壁になつて居て地續きに近よることの出來ぬ場處には、往々にして同じ話があるのである。素より普通人の目に觸れぬ物陰を選んだといふだけで、誰とも知れぬと言つたところが、別に秘密といふわけでも無かつた。多分は茲からさまで遠くない佳計呂麻島、或は其南の請與路二小島の漁村の人たちであらうといふ者もあつた。然るに此等の島々の海岸にも、や(516)はり陸から通ひにくい部分には古くからの葬地があるらしく、それが平坦なる津堅や久高の島と異なる點は、島の居住者が自分ではそこを使用せず、互ひに海を隔てた他の島へ送らうとして居たことで、其爲に事柄が幾分か奇怪味を帶びて居たのである。現在のところではまだ證據を得にくいが、群島の生活には特に死人の島として、生人の島と差別せられたものが、殘してあつたので無いかと私は想像して居る。大島の西北に在る横當島なども、少しく遠いが朝夕に山の姿に面して、海を行く者の目標となつて居るに拘らず、今以て無人であり又種々の靈異が傳へられるのは、恐らくは本來死者のみの移住すべき島であつたからであらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　人が繁殖して元の平地が不足すると共に、寧ろ忍んでこの祖靈の移住の跡を追うて行つたのでは無いかと思ふ。大島でも屋喜内灣内などをあるいて見ると、村と村との堺の崖下が、今は通路となつて其側に以前の共同葬地の、將に使用を廢せられんとするものがある例は多い。佐渡の塞の磧なども同じことであるが、海岸の交通は元は殆と皆幾つかの小山を上下して居て、磯端には却つて人の行かぬ區域が多かつた。離れ島では無くとも、斯ういふ海角は孤立して居る。船で往來して之を葬送の場處に供したことは自然であつた。海の勞働者が追々に其近くまで、新しい居宅を開くやうになつて、始めてそこが捷路ともなれば、人の目にかゝる樣にもなつて來たのである。村の片端に家々の墓地を設けることになつたのは、土葬の風よりも、寧ろ斯ういふ天然の葬地が、得られなくなつた結果であらうかと思ふ。私の一泊した阿室といふ古い部落では、民家の後の岡の陰に、幾箇處かの墓地が散在して、それ／”＼村内の重立つた家に專屬して居たが、現在の戸數に比べるとまだ不足のやうであつたから、一部分は今でも從前の共同葬地を使用して居たのかも知れぬ。家々の墓地は碑石の形　　状文字等に依つてさう古くからのもので無いことは察せられたが、其特徴と見るべきは地域を上下の二區に劃したことで、下の段は葬地で、その新しいものには種々の葬器が陳列して(517)あつた（食器、笠、杖、履物などもあつた樣に記憶する。久高の葬地の寫眞と似て居た）。上段の一區畫は即ち私が祭地又は第二次墓地と呼ばんとするもので、石碑は此方にのみ立てゝある。村の人は餘り詳細に説明することを欲しなかつたが、兎に角に大島一般の風習の通り、葬後或期間を過ぎて遺骨を新墓から移し、常に下の段の方を空けて置かうとしたことは確かであつた。

　此點は沖繩本島の現在の葬制と、可なり著しき類似であると思つた。單なる外觀から言へば、一方は墓地の全區域を土窖の中に閉鎖し、必要ある時のみ小さな戸を開いて出入するに反して、此方はすべて露出して居るといふ相異はあるが、骨を隣へ遷してそれだけを永久に保存せんとする根本の方式は一致して居る。其上に二段の墓地を此の如く接近させるやうになつた原因も、亦雙方に共通なるものがあつたらしい。即ち在來の共用墓地が不便又不愉快になつた爲に、資力の許す家から追々に分立して、それを各自の墓所に附屬させることにしたものと思はれるのである。自分の見る所では、同じ傾向は東部日本の村々にも現れて居る。所謂菩提所を葬地とし、屋敷の端にある墓所に人を?めるやうになつたのが即ちそれで、更に又三昧の塚の上に碑を立てゝ、そこを永遠に獨占しようとするのも、本の趣旨は一つであつたのだが、唯其結果として改葬といふ必要が無くなり、二次の葬式の痕跡が幽かになつたばかりに、何か南の島々の習俗を甚だ物遠いものゝ如く感ずるに至つたのである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　二度の葬式といふ古來の慣行は、今日は却つて火葬に於て其遺風を認める。火葬が決して土葬に對立した別方式で無い證據には、何人も是のみを以て葬儀の完結とは見て居らぬ。火葬が終れば次には骨揚げがあり、その骨を處理し保存するが爲に又第二の手續きがある。九州の一地方には沖繩と同樣に、洗骨をする風があると折口君は言はれたが、我々はまだそれがどの位弘く行はれて居るかを究めて居らぬ。が兎に角に遺骨の移動は現在も尚?々企てられ、人が(518)改葬を手輕く考へて居ることは事實であり、又高野山の骨堂の如く、之を追福の目的に行ふ例もあるから、地方によつて改葬を正規と認めて居るものも、調べて見たらまだ相應にあるのかも知れぬ。

　九州南部の各地に於て、自分の目撃した墓地の中には、やはり大島の如く二段に分れて、下を葬地とし上を祭地として居るものがあつたと記憶するが、それが果して二度の葬式の慣習に伴ふものであつたか、但しは偶然に一方には碑石を立て得ない家の墓ばかりがあつたのか、當時注意がまだ及ばなかつたから、是非改めて尋ねて見たいと思つて居る。併し少なくとも他の一方から見て、碑石が常に埋葬地の上にばかり樹てられたものでなかつたことだけは、特に引證せずとも多くの人が認めるであらう。村の墓地などに入つて見るとすぐ眼に着くが、石塔には夫婦親子、時としては四人六人の戒名を連ねたものが多く、家によつては今尚一個の先祖代々の墓を以て各員の年忌を祭つて居るものがある。さうして新墓の訪はれるのは僅かの期間で、其以後は攪亂に因つて遺跡を知る能はず、又知る必要も無いものと考へられて居たのであるが、茲でも亦南方の三十六島と同じやうに、近代に入つてから追々にこの二通りの墓場が、一處に連接する傾向を示し、從つて又其意義に關して若干の混亂誤解を見るやうになつたのである。

　是は單に民俗學、若くは社會人類學などと呼ばるゝ一つの新しい學問の、耕すべき曠野が尚殘つて居るといふことを意味するに止らず、其中でも自分等が兼て唱導して居る一つの方法が、殊に日本に於て其能率を發揮し易いことを、立證し得る機會であると思ふ。都市の葬法が必要あつて改訂せられた以外に、個々の地方に於てもこれが世間竝、即ち日本一般の風なりと認めて居るものが、實は殆と縣毎に、又時としては村を隣して相異なつて居ると共に、一方には多くの山河を隔てゝ、相似たる特色を具ふる者もある。別に大業なる分析や推理を勞する迄も無く、たゞ其要點を有りのまゝに記述して互ひに比べて見ることが、興味ある疑問ともなれば又明瞭なる解釋とさへもなるのである。條件は單に或數量の事例を、一つの尺度の前に集合して見ることにあつた。それを自分たちが實驗に富みたる我が東京人類學會の會員に、期待しようといふのは無理難題でも無いと信ずる。

(519)　周到なる調査項目を設けるとなると、まだ此外にもマクラメシとかゼンノツナとかの、奧行深き問題が幾つもあるが、差當りの必要は單に墓場が村々の何れの部分に在り、俗に何と呼ばれ、又如何に使せられるかを見たゞけでも滿足させられる。それから家々の之に對する考へ方を知る爲に、盆の魂迎へ魂送りがどの地に向つて營まれるかを知つて置くだけでも非常に有效である。所謂亂塔場には祖先の屍が横たはつて居ることは事實であるが、其聖靈は多くの村に於て、石塔の立てゝある第二の墓所から、或は又海川の滸に向つて送られて居た。

　別の語でいふと、我々は古埃及人の如く、亡靈の平安の爲に其形骸の保存を必要と認める民族では無かつた。寧ろ身が痛み損じて活用に通しなくなると、少しでも早くその内に在るものを引離して、自由を得させようとして居たのであつた。魂の實在と力が少しづゝ信じ難くなつて、孝子の亡骸に取縋り又奧都城の前に悲泣する者を生じたのかと思ふ。兎に角に今日の土葬が久しい間發達せず、たま／＼人目を包み外敵を防ぐ爲に、石を積み土を蔽ふに過ぎなかつたことは、決して死者に對する敬意の、今は篤く昔は淡かつた證據にはならぬのである。記念の保存といふことが若し墓といふものゝ主たる目的であるならば、第二次の葬處こそ本當の我々の墓であつた。最初の共同墓地は昔も今も一貫して、常に或る短き期間の使用にのみ供せられて居たからである。

　そんなら古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形を以て古人の姿を保存して居るものも、第二次の葬處だといふかと質問する人があるであらうが、私は多分さうだらうと答へる積りである。少なくとも之を以て或る系統好きの學者のやうに、出雲天孫乃至は異種文化の對立を示すものとは考へて居ない。至つて少數の優れた人たちが常民普通の葬法よりも遙かに手重い取扱ひを受けて居たことは意外で無い。此點に付いても沖繩などの墓制は一つの參考であるが、彼地から遺骨を改葬するに當つて、特に一つの棚一つの土の壺を用意すべきものと、多數を同じ容器に集合して置かるものと、明らかなる差別が立てられてある。大體からいふと家の開祖、系圖に三つ屋を附けられる人のみが、其特別待遇を受けることになつて居たらしいが、後には中興の祖などと謂つて範圍が追々に弘くなり、終には(520)すべての主人夫婦の爲に、能ふ限り別の地位を供するやうになつて來たらしい。それから祝女祭女の神に近かつた人の骨も別にした。奄美大島でもノロクメの清き遺體のみは、常人と混ずるときは祟があると謂つて、別の石塚を設けて居る例を見た。しかも世と共に其數が加はつて來れば、是も追々類を以て併合して行くと見えて、ナバ石即ち珊瑚岩の組合せの隙間から、小さな幾つかの骨壺の光つて居るのが目についた。しかも此法則は結局は破れなければならぬものである。新人は生の間にも古人より有力であつたのみならず、死靈としての感度も亦古い靈よりは強かつた。おれもあの通りにして祭れといほれると、其遺命には隨はなければならなかつた。それが段々に彼等の愛する者にも及んで、新たなる家門のどし／＼と起る頃から、内地でも墓石の數は多くなる一方で、末には極貧の者でも無い限り、一人殘らずに何々院の戒名ある石塔の主に、ならなければ承知しなくなつてしまつたのである。

　併し一方には其爲に遺骨の保管が更に困難となり、改葬の儀式は省略せられることになつて、後世骨に依つて人類學を推進させようとする者に、少なからざる活動區域の狹隘を感ぜしめることになつたのも事實である。負惜みの如くに聽えるかも知らぬが、山作りの風が衰へて前代墳墓の地の次第に幽かになつたことも亦一つの大切なる消極的史料であつた。即ち我々は必ずしも此方法に由らずとも、尚恭敬を以て祖靈に奉仕するの途を有つて居た故に、火葬又は土葬といふが如き新たなる慣習に、移つて行くことが困難でなかつたのである。土佐國群書類從に採録せられた御子神の記事などを讀んで見ると、死して六年とかの後には人を神に祀ることが出來ると謂つて、其方式が載せてある。是が或は全國に亙つて、第二次の葬儀を必要とした元の動機であり、又家廟として石塔を立てることになつた根原では無いかと思ふ。即ち後々は祭祀の力を以て、亡魂の來つて石に憑ることを、信じ得るやうになつたけれども、最初は現實に骨を移し且つ之を管理しなければ、子孫は祖先と交通することが出來ず、從つて家の名を繼承する資格が無いものと考へて居たのではあるまいか。姓をカバネと謂ひ、カバネが骨といふ語と關係があるらしいから、私は假にさう想像する。但し此假定が今後集まつて來る新資料に照して、尚幾度と無く鑑査せらるべきは勿論である。

　

(521)　　　葬制沿革史料

　

　　　　　緒言

　

　前代日本人の後生觀念、乃至亡靈の去來に關する思想については、記録文獻の偏倚と乏少の爲に、從來可なり大雜把な、甲乙兩立し得ない推斷を許して居たが、是には未だ試みられざる一つの方法が殘つて居た。我々の現在なほ實行して居る慣習の中には、少なくとも一部は新たに制定し又は模倣したので無いものがまじつて居る筈であるが、それを仔細に考察し比較して、それ／”＼の由來を尋ねるだけの勞苦を、避けて就かうとする者が無かつたのである。自分は幾度かその弱點を指摘した責任上、終に自ら斯くの如き機械的の整理事務に、當らなければならぬはめになつた。それには近年の地方同志が、各々その地の事實を精細に報告して或程度までの綜合を可能ならしめた懇切なる援助に謝さなければならぬのである。是等の資料のうち、最も有力なるものは盆年越の魂祭行事であるが、この方は稍々目鼻が付きかけて居る。無論明瞭疑無き證據が擧がつたといふのでは無いが、とにかくに民間佛教の導師たちが、訓へ又説いて居る樣には、人はホトケサマなるものを考へて居らず、依然として祖靈は故郷の娑婆を訪問して居た所を見ると、國内普通の信仰に於ては後生は別に有つたといふこと迄は言へさうである。葬制の方面には複雜な儀式ばかり多く、その背後に在るものは幽かにしか顔を出して居らぬから、まだ／＼反對の説にも都合のよい事實が取上げられ(522)る樣に見えるが、それでも細かに注意をして居るうちには、僧侶の管轄し得ない問題の、弘く國中に共通して居ることだけは判つて來るであらう。結論は學者も戒愼して、さう早急に下さうとせぬ方がよいが、問題だけは囘避せぬやうにしなければならぬ。さうして自分はたゞその問題を算へ上げようとして居るのである。この以外にも更に痛切なるものが、續々として現はれて來るかも知れぬが、現在知られて居る一部分の事實からは、是だけのものが先づ注意せられるすべてゞある。大體のところ帝國の舊版圖の、面積二十分一ほどの土地の最近の實況が、ほゞ半分ばかり報告せられて居るものと見ればよからう。願はくは此問題の掲出によつて、それら殘りの地域の向學心を刺戟し、次々是と一致し又は背反する新事實が、今後の學徒の利用に供せられるやうに、この小さな勞苦を役立たせたいものである。私は是まで婚姻の風習、又は年中行事などにも同じ方法を以て、將來の調査の標目を列記して居る。趣旨は全く學問の山口を開けることに在る。是を以て直ちに全貌の發見の如く、誤解する人があつたらその人は不幸な學者である。しかも是だけの事實すらも知らないで、何か判つた樣な氣特をもつ者がもし有つたら、それはもう一段と氣の毒な人であることも亦確かである。

　

　　　　　　　　　　一　喪の始め

　

　死者の肉親が、いつから喪に入るかはまだ明らかになつて居ない。一旦呼吸が切れてもそれだけではまだ死んだとは解し得られないからである。醫者の宣告があつても、妻や兒はまだ名を呼ばずに居られない。實際壯年や少年には、氣が絶えて又吹返す例もあつた。しかし其試みとは別に、是非とも魂呼ばひをしたのは儀式である。支那で「哀を發する」といふなども、やはり亦全く事きれたと思つた後に、若干の期間があつたことを推測せしめる。恐らくは是とよく似た儀式を必要として居たのであらう。日本でも其時間が追々と短くなつたらしい形跡がある。

(523)　モトツケル　といふ語は語義はまだ不明だが、肥前島原あたりには行はれて居る（葬號一六六頁）。病人斷末魔に近づくとき、彼と一番近い者、親ならば子、夫であつたら妻が、大きな聲で其名を喚ぶ、それをモトツケルと謂ふさうである。

　マスウチ　會津地方では人が死にかゝつた時、其家の屋の棟に登つて一斗桝を伏せ、棒切れなどを以て敲く。是を桝打ちと名づけて魂の拔け去るのを抑へ、元へ戻す意味だと謂つて居るが、多くの場合は死の豫告である爲に、其音は哀れに聽えるといふ（郷土研究七卷三號）。

　桝の底を敲く呪は子供などが神隱しに遭つた場合、是を捜しまはる者が行ふ地方もある。是にもやはり近親の者が敲くを例とする。或は又當人の日頃用ゐて居た食器を、箸で叩いてあるく處もあるから、桝もやはり人間の魂を此世に繋ぐ食物の力から導かれて居るらしいのである。魂喚ばひの行はれる必要は、或はそれが一旦元の體から離れて、尚その近くにさまようて居る時刻の方が、一段と適切であつたらうとも思はれる。斯うして病室より外で桝を敲くなども、去り行く魂を喚び返す方法としか思はれぬのだが、後にはまだ片息のあるうちから是をする樣になつて、桝で抑へるといふ説明も生じたものらしい。自分などの生地播磨中部でも、末期に先だつて庭前の松樹の梢へ、提灯をともして登り、おうい／＼とわめく風があつたが、是を何と謂つたかは記憶して居ない。東京から酉に見える武相の山地では、定まつた岡の上に登つて魂を喚び、そこを呼はり山といふとの話も聽いたことがある。他の地方の類例は數多く集めて見なければならぬが、元は事きれときまつて後に、尚一應はこの式を踐んだのではないかと思ふ。因みに本居先生の玉勝間卷十に此問題が説いてあるのは參考すべきものである。野府記萬壽二年八月七日の條に、尚侍嬉子隱れたまひて後三日目に、陰陽師恆盛外一人がその屋上に昇つて魂呼をしたことを敍し、「近代不聞事也」と附記して居る。公家の日記類を注意したら、上流の古い慣行は此他にも尚見つかることゝ思ふ。

　

(524)　　　　　　　　　　二　葬式の總名

　

　人の凶事の始から終り迄を、一括した名前はまだ知られて居ない。古い日本語でもモといふ語以外に、何か有つたかどうか私には明らかでない。現在の用語も地方毎に區々であるが、大抵は其中の最も主要なる作法、即ち家から葬地までの行列の名を以て、全體を覆ふことにして居る。ジャンボンとかジンカンとか又ガンモモとか謂ふのは、殊に印象の深い樂器の音であつて、多分は小兒の語を隱語のやうに採用したものと思ふが土地によつては是より外の正常の名の無い處もある。平生忌む語なるが故に?々傳承が絶えたものかと思はれる。

　東京などのオトムラヒといふ語は、よく考へて見るとやはり一種の忌詞らしい。トムラフといふのは葬後の供養のことなのだが、今では是を行列とも、又葬式の全部とも解して居るのである。トリオキといふ語は處理もしくは後始末といふ意味だから、總稱として似つかはしい語であるが、近畿中國では之を法師の引導の意味に、四國の一部では所謂湯灌の意味に、却つて之を限定して使つて居る。或はわざと用語の精確を避けようとでもしたのではないかと考へる。東京のオトムラヒに近い名稱は、隣接地域にはあまり無くて、薩摩の下甑島の一隅に、

　トヒオクリ　といふ名がある。但し是も今は老人たちの間にのみ知られて居るといふ（　　葬號一九〇頁）。單にオクリといふ語を葬送の意味に用ゐると、もう其語は他には使へなくなる。其不便を避ける爲に限定辭を冠せたので、或はトムラヒの方も元はトムラヒ送りと謂つたのかも知れぬ。

　ノオクリ　單に送りと謂つて居る土地も無いわけでは無いが（小豆島方言など）、普通には野邊送り、又は野送りといふ語が弘く行はれ、又比較的古かつたやうである。葬地をノと謂つたのは理由のあることだが、それは後節に詳しく説かねばならぬ。

(525)　ミカクシ　身隱しはことによると以前の總名だつたかとも思ふが、現在は稍々限られたる場合にしか使はれて居ない。たとへば海で死んだ亡者が明るみに在ることを厭ひ、磯に投げ出されて人に氣づかれずに居る場合に、夢などに現はれて身隱しをしてくれと頼むことがあると、長門の島々では謂つて居る（櫻田勝�ｺ君）。又信州南端の或山村では、村の祭禮に臨んで死人があるとき、それを内密に葬つて置くことだけを身隱しと謂つて居る（山と民俗）。

　カゲカクシ　是から下流の遠州阿多古の山村でも、密葬もしくは假埋葬だけを影隱しと謂つて居る。爪とか頭髪とかを殘し留めて置いて、本葬の折には是を棺に入れて送るさうである（能田太郎君）。

　チリヤキ　駿河志太郡では野邊送りをチリヤキといふ名がある（内田武志君）。其語の起りは今は全く考へ出せない。他の類似の例の集まつて來るのを待つて居る他はない。

　タタキダシ　信州の埴科都（民俗學三卷一號）、又更級郡の一部には斯んな語も有る（方言集）。敲くと云ふのは葬列の樂器か、或は又特にこの樣な憎々しい名を用ゐる必要があつたのかも知れぬ。なほ此序に死者を意味する色々の隱語を、集めて見るのも參考にならうと思ふ。

　クニガヘ　といふ語は以前大阪の周圍などに行はれて居た（東成郡誌）。仙臺でも古く都參りといふのが葬禮のことであつた（方言以呂波寄）。伊豫の今治では「廣島へ煙草買ひに行つた」とか、又は大阪へ何とかしに行つたとかいふのが、死亡を意味する隱語であつた。

　オヒマク　紀州の東牟婁郡では、人の死んだことを笈卷くと謂つて居る（縣方言集）。笈は旅人の用具で之を卷くとは出立を意味する。熊野は夙くから、山伏の死ぬことを、金になるなどといふ忌詞のあつた土地である。

　

(526)　　　　　　　　　　三　訃報

　

　セッカクヅカヒ　人の終りが近づくこと、近親に是を知らせる習はしは弘く存するが、會津などでは其報知を折角使と謂つて居る（若松市郷土誌）。此使を受ける者の範圍は、死使よりも又遙かに狹い。つまり末期の水を取り、魂喚ばひに參與しなければならぬ人々である。

　シニヅカヒ　愈々喪に入つての最初の事務は、一定の親戚へ知らせの飛脚を立てることで、組合近隣の者が是に任ずる。遠州では之を死使と謂ふさうである。

　シニビンギ　三河西加茂郡などでは、是を又シニビンギと謂ふ。少しの支度も無しにすぐに立ち、日の中でも提灯を下げて行く。受けた家では時刻の如何によらず必ず其使に食事をさせる等の、色々の此時に限つた作法がある（民俗學二卷四號）。

　フタリヅカヒ　常陸の行方郡では、此使を特に二人使と呼んで居る。必ず草鞋ばきの二人連れで、途中どこにも寄り路をしない等の定めがある（風俗畫報四四八號）。この二人連れといふことは、殆と全國的と謂つてよい程に、一般的なる習俗であるが、其理由はまだ私は聽いたことが無い。能登の七尾地方では、産にトウナイの女房を頼みに行く場合にも、やはりきまつて二人づれで行くといふ（諏訪藤馬君）。

　キカセト　千葉縣は一帶にこの通知の役を聞かせ人と謂つて居るやうである（匝瑳郡誌）。

　ツゲヤク　信州では是を告げ人と謂ふ所もあり（北佐久郡誌）、又告げ役とも謂つて居る。庚申講の仲間などが此役を引受けることになつて居る（北安曇郡郷土誌稿卷三）。其使は通例亦二人一組である。上伊那でも是を告げに行くといひ、告げに來た者にはたとへ茶一杯でも、何か飲食させて返すことになつて居る（民俗學四卷三號）。

(527)　ヒツゲ　壹岐で此役をヒツゲと謂ふのは、忌を「ヒがかゝる」と謂つて居るからである。死者の血族は常人と食事の火を別にし、其火は穢れて居るものと考へられた。それ故に忌のことを火とも謂ふのであらう。血族は從兄弟までは此火告げを受ける。此使も講中の仕事で、必ず二人で行くことになつて居る（壹岐島民俗誌）。

　タヨリヅケ　九州の北部は肥前筑後肥後等、共に此使を便りづけと謂ひ、必ず二人連れである。或はタヨリとのみ謂ひ、此使を出すことをタヨリをつけると謂ふ土地もあるが、語のもとはやはり告げであらう。阿蘇では又押立て使とも呼んで居る（葬號一七〇頁）。

　オト　周防の柳井邊ではオトと謂ひ、オトを言つて來たなどといふさうだが（森田道雄君）、其オトもやはり音であらう。別に變つた語では無くとも、後には凶事專用になつてしまふのである。

　トムラヒビキャク　靜岡附近では東京同樣に知らせともいふが、又とむらひ飛脚とも謂つて居る（安倍郡誌）。三河の中部ではたゞ飛脚といつても此使のことである（額田郡誌）。

　アカシ　といふ名稱も亦駿河にはある（方言辭典稿）。

　トドケ　常陸新治郡では、死亡と葬式の時刻を告げに行く二人一組の使を屆けといふ（　　民俗學三卷六號）。東京の近く北多摩都にも同じ語はあるが、今では近親以外の會葬をトドケに行くといふやうになつて居る（高橋文太郎君）。元は一つで無いかと思ふ。陸前栗原郡などは、嫁聟の里方其他の縁續きの家の不幸に、親類打揃うて行くことを、トヅケに頼まれて行つたといふさうだが、是も報知を受けて會同するからの名であるらしい。葬儀の參加者は組中と親類だけであつたのが、追々その範圍の擴張を見ることになつたやうである。

　何故に必ず二人で行くかの理由は、まだ名稱の方からは之を窺ふことが出來ない。奧州の九戸郡では、一人で行くと死人が後からついて來る。故にもし一人で行かねばならぬ際には、腰に鎌を下げて行くといふ（方言と土俗一卷四號）。是は其まゝでは會得し兼ねるが使に行く者は本來「忌」に參加せぬ人であり、知らせる相手方は之に反して、當(528)然に忌のかゝる人であることを考へると、或は二人といふことは忌の力に對抗する趣意とも解せられる。上總の夷隅郡などでは聞かせ人に限らず、葬儀の準備事務はすべて二人づゝ一組になつてすると謂つて居る（郡誌）。

　

　　　　　　　　　　四　寺行き

　

　テラアカシ　右の推測をやゝ力づける事實は、次々に尚現はれて來る。其一つの場合として僧侶はどうなるといふことを考へて見る。所謂菩提寺へは親族への通知と同時に、やはり近隣の者が行くことになつて居る。それを寺行きと謂ふのが普通であるが、信州諏訪などでは又寺アカシとも稱し（葬號七〇頁）、是にも訃音を意味する特別の語を用ゐて居る。目的は期日の打合せ、墓地の下檢分の如き事務的のものゝ樣に解せられて居るが、さうとばかりは見られない食物運搬の方式があつた。

　オカツゴ　例へば能登の鹿島都では、死亡後直ちに夜なれば翌朝、親戚中の重立つた者が、白米二升を携へて檀那寺へ、死者の案内と葬儀の日取とを告げに行く。此際に持つて行く米をオカツゴと謂ふさうである（同上一九〇頁）。

　キツガケ　是等の言葉には、何かしらぬが此習俗の起りを含んで居るらしく感じられる。薩摩甑島の瀬々浦などでは、此米を又キツガケと謂つて居る。人が死ぬとそこに居合せた婦人が一人、早速二合五勺のキツガケの米を持つて、寺へ行くのださうである（同上一九〇頁）。但しこの米は同時に又親族の方へも持つて行くらしい。報告の文はごく明瞭では無いが、親族へは子供を走らせるとある。さうして其通知をしてあるく者が、只今誰それが死にましたと報告して、其印までに重箱に入れた米を置いて行くのがキツガケだと謂ふ。寺だけには限らなかつたらしい語氣である。此點はもう一度たしかめる必要がある。

　オハナゴメ　豐前築上郡でも米一升に十餞を包んで寺へ通知に出かけることになつて居る。其米をオハナ米と謂ふ(529)とある（葬號一六四頁）。御花米は祭典その他儀式用米の總稱で、葬事の場合に限られた名でも無いが、此地方として注意すべきは、同じ際に親類縁者から、若干の錢の包みと共に持つて來る一升の米を、やはりオハナ米の名を以て呼んで居ることである。即ち死者と共に食ふべき食料にも同じ名が有るわけである。講組の者からも同じく米一升を重箱に入れて持つて來るが、此方はオハナ米と謂はぬらしい。以前は其中の一つまみだけを、オッパン米として請取り、他は返したのだが、近頃は全部貰ひ受けることになつて居るといふ（同上）。このオッパン米の意味が明らかになつたら、三種の贈遺の異同を知ることが出來ると思ふ。

　オハチゴメ　肥後の阿蘇地方ではオハチ米の語がある。前者とよく似て居るが一方が誤植といふわけではあるまい。こゝでは會葬者持參の米一升をも御鉢米と謂つて居り、葬式翌日に導師への禮として、寺へ贈るのをも亦さう謂つて居る。是は米一俵香料一封の外に、特に御鉢米として米一升を添へるのだから（同上一七五頁）、或は通知の日に持參した習はしが、是へ移つて居るのかも知れない。

　コンブクロ　越後西蒲原郡では、寺又は葬家へ贈る米の袋を特にさう謂つて居る。色々の布切れを縫合せた美しい袋である（里言葉）。是もたゞ小袋の意で凶事に限られた名でも無いのだが、一見斯ういふ場合の用に供すると、自然に他では言はぬことになるのである。

　ヒヂ　九州南海の喜界島では、凶事の通知をヒヂと謂つて居る。血族關係の無い近隣の人の任務として、戸主の指圖を承けて親類へヒヂを持ちまはるからさう謂ふらしい（葬號一九九頁）。持ちまはるといふ所を見ると、爰でも甑島の樣に食物を携へて行つたらしいのである。忌火の條下に再説するが、鹿兒島縣には香奠をヒデといふ語がある。ヒヂも是と同じ語で、現在は取り遣りが逆になつて居るけれども、身内の人々だけに是から忌の飯を食はせようとする趣旨で、その共同の食料を通知と共に運んだものと思ふ。さうして他の地方ではその忌火料を、寺の和尚にまでも分配して居たのは、彼等のみは喪屋の穢れに混ぜしめる意味らしいが、この人々はそれに格別頓着せず、之を一種の收(530)入とし權利として、親類へは送らなくなつた後までも、是だけは止められなかつたものと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五　枕飯

　

　ザシキナホシ　外に對しては告知が喪の開始であつたと共に、内に於ても亦一つの改まつた作法が認められた。座敷直しといふ語も喜界島でしか採用せられて居らぬが、是に該當する氣持だけは全國的であつた。島では人が死ぬと其夜の明方近くに、病室から是を表座敷へ移し、屏風又は戸障子で其周りを圍ひ、其枕元には香と水と、白飯と汁などを供へる。家族を始め再從兄弟までが、其左右に侍するを悔み人と謂ひ、一二の代表者が屏風の外に居て、訪客に應答するのを挨拶人と謂ふ（葬號一九七頁）。

　マクラナホシ　此を枕直しと謂ふのは、或は今日の標準語かも知れぬ。普通は此時に特に北枕西向きに寢させる。阿蘇地方なども中國四國と同樣に枕直しといふ語もあるが、一部では又寢せ直しと謂つて居る（同上一五六頁）。薩摩の宮之城では之を枕はづしと謂ふさうである（同上一八五頁）。

　マクラガヘシ　能登半島では枕がへし、又オギョウギといふ名もある。死體の下肢を曲げて入棺に便ならしめる故に御行儀である。寢床の上には刃物を置き、逆さ屏風を立てまはし、所謂｜紙花《しか》などを用意して僧の來るのを待つのである（珠洲郡誌）。安藝の佐伯郡などでは、僧侶の枕經のことを枕返しと謂つて居る（葬號一三七頁）。肥前島原地方のマクラゲシは、近所の者が寺へ知らせに行くことであつた。息を引取ると同時に佛壇には香を焚き、米と若干の賽錢を持たせて、寺へ行つて貰ふので、此使者を枕ゲシ持ちと謂ふから或はその米錢が枕ゲシであつたのかも知れない。枕ゲシ持ちには死者の魂が附いて寺に行くといふので、相當に重要な役となつて居る。途中人に逢つても物を言はず、人もよく是を察するといふ（同上一六六頁）。

(531)　ハブッサジ　喜界島では多分座敷直より前に、先づツブシ即ち膝を曲げ括り、次に新しい手拭を以て面部を蔽ふのだが、其をハブッサジと謂つて居る（葬號一九九頁）。サジは即ち手拭のこと、ハブッは「はふり」かと思はれる。死水を取るといふことの無いのは注意に値する。

　カブリキモノ　阿蘇の宮地などでは枕直しの後に足を曲げさせ、其上に最上の美衣を逆さに掛ける。衣類を多く掛けるが、其中の一枚だけは必ず逆さにする。年をとつてからよい着物をこしらへると、被りギモンを作つたなどと蔭口せられるのは是から出た言葉である（同上一七七頁）。

　ハヤオゴク　豐前築上郡では、病人が息を引取るとすぐに北向きに寢させ、同時に家人は早オゴクと謂つて、白飯を炊いてその枕元に供へる（同上一六四頁）。ゴクは御供で食物を意味する敬語である。

　マクラメシ　是を枕飯と呼んで居る地域は廣いが、よく見ると此語にも少しづゝの意味の地方差がある。最も普通には右の早御供の如く、喪の開始と同時に供へるものをさう謂ふやうである。例へば長門の相島では人がすくばると直ぐに枕飯を炊いで丸い握飯となし、膳の上に茶碗を載せて其中に供へる。ホトケは死ぬとすぐに信濃の善光寺に行くので、その行つて戻つて來る迄の間に、枕飯は作つて置かねばならぬと謂ふ（櫻田君）。阿蘇の宮地では是をオテツキノオボクサマと謂ふが、やはり少量の米を飯に炊いて、少しでも殘らぬ樣に盛りつけて供へる。殘すと死人の爲に惡いと謂ひ又早く上げないと亡者の善光寺詣りが遲れるとも謂ふ（葬號一七七頁）。この善光寺は熊野では那智の妙法山に參るとも謂つて居る。亡靈は暫く故の家の附近に留まると謂ひつゝも、何處かへ一度は行つて來るやうな信仰があつたらしいのである。オボクは佛供とも解せられて居るが、やはり御供の轉訛のやうである。オテツキは落着きで、外から來た者に先づ供する食物を意味する。從うて是も善光寺へ出發する前といふのは誤解かも知れぬ。阿波の名東郡で枕の飯といふのは、湯灌の直ぐ前に供へると謂つて居る。しかし死者生前に使用した茶碗に高盛りにして、箸を添へて使者の枕頭に供へる點は（同上一四七頁）、他の地方も同じことである。

(532)　ゲダキノママ　筑前の大島などは、枕飯は戸外に石か瓦で簡單な竈を築き、是で炊いで佛前に供へる。其燃料は軒の藁を焚付とし、葬儀用具を作つた木ぎれを薪にする。是をゲダキノママと謂ふのを下炊の飯と記して居るが（葬號一六二頁）、或は外竈だから外炊きかも知れぬ。但し此枕飯は葬具などを作つてから後のものと思はれるが、果して其前には無かつたのであらうか。三河北部の山村でも、枕飯は屋外の厩舍の脇などで、梯子を立て掛けて繩を下げ、それに鍋を吊して炊ぐ習ひである。米をさきに鍋に入れ水を後から注いで洗ふ等、片端から常の日とは逆さなことをする。此飯を炊ぐのは穴掘り役の仕事となつて居る。飯が煮える間に穴掘りは一枚のから莚をしき、二人其上に居て一足づゝ草鞋を作る。この草鞋だけはヒキソ（縱繩？）をあやにしない。是が葬式の日の棺持ちのはく草鞋になるのである。この枕飯は飯茶碗に山盛りにして、箸を眞直に立てゝ供へることは他の場合も同じだが、穴掘り役が定まつてから炊かせるとすれば、枕直しのすぐ後では無かつたらう。それでもやはり此飯が早く出來るほど、極樂へ早く行けるなどとは傳へで居る（設樂昭和八年六月號）。

　オタカモリ　御高盛は人間の一生に三度は必ず供せられると謂はれる。成程誕生の日の産飯も、婚禮の日の夫婦相饗の飯も共に盛り切りで、信州諏訪などは三者名を異にせず、枕飯をもやはり御高盛りと謂つて居る。死者の嫁娘たちが手に／＼少しづゝ盛り添つて、しまひには大へんな高盛りになる。此椀には三角形の白紙が貼り付けられてある（葬號七二頁）。

　ヒトモリメシ　一盛り飯といふ名は、九州東松浦郡に行はれて居る。加部島では是に木の箸を立て、唐津では竹の箸である。此飯は最後に墓の中へ納めるのが此地方の習はしだといふ。盛り切り一杯飯は特別の食事、他の人々とは分配しない趣旨かと思はれる。常の生活に是が忌まれるのも、必ずしも凶事の聯想だけからとは言はれない。

　イッパイメシ　筑前相（ノ）島などの一杯飯は、湯灌がすみ死者を甕に納めてから、其前に供へることになつて居る。この盛り飯の上には木と竹との箸を添へるといふ（櫻田君）。是と枕飯とは別のものかどうか、何度も供へかへられる(533)か否かの點は、重要であるがまだ各地とも精確に調べられて居ない。思ふに以前は野送り前の期間が短かゝつた故に、普通は一度の供飯で濟んだのであらう。それを改めたとすると前のものはどう處分したかゞ問題になる。この方面から尋ねて行つたら、まだ／＼明らかになつて來ることが多からうと思ふ。

　ジキノメシ　大隅の肝屬郡では、一杯飯を又ジキの飯と謂ひ、墓まで持つて行つて供へる。三河北設樂などの枕飯と同じく、やはり家の外で炊くのである。米は三合、その米をさきに水を後から入れて磨ぎ、物干し竿を薪として焚き、まだおもれぬ〔四字傍点〕うちに椀に盛り、ソバ膳にして供へる。それを野邊まで持つて行き、埋葬と共に壙に入れるといふ（葬號一八八頁）。

　ミチメシ　肥前平島などでは、枕飯を死人の道飯と謂つて居る（櫻田君）。是は明らかに枕上に供へたものを、次の世界まで持つて行かせるので、その考へ方は盆の魂送りの土産團子とよく似て居る。

　ガキメシ　佐渡の河原田などの例では、死者に飯を供へる際にも盆の精靈棚と同樣に、別に小皿に少し取分けて置き、是を餓鬼飯と謂ふ。しかもホトケの飯も人間は決して食うてはならぬもので、餓鬼に遣るものだと謂つて居るさうである（葬號五五頁）。此間題は次の出立ちの飯、又は墓前の食物とも關聯して居る。三つの場合を併せて考へて見なければならぬ。

　ハヤダンゴ　青森縣の野邊地あたりは、枕飯の代りに枕團子をこしらへる。是を又早團子とも謂つて居る。粳米をさつと洗ひさつと搗いて丸めた團子で、すぐに之をうでて供へる。だから常の團子は搗いた日にうでることを嫌ひ、必ず二日に跨がらしめるのである（同上三七頁）。

　イッパイダンゴ　同じ外南部でも八戸市附近では、是を一杯團子と謂つて死者があれば先づ造る。一杯といふのは穀を量る器に一つのことで二合五勺である。此米を粉にして拇指ほどの大さに丸める。葬式の日にも是を携へて行き、墓づとめが終ると是を茶と米と共に水に混じ、半紙一枚をひろげて其上に注ぎかける。是をアラネコスルと謂ふのは、(534)この小さな團子を霰に見たてたからで、盆の墓參りのホカヒとも同じ作法である。此アラレを烏が啄み食うてくれぬと、後が續くと謂つて大きに氣にかける（葬號三二頁）。

　シトギ　粢といふのは米の粉をこねて作つた生の團子のことで、別に凶禮の食物と限るわけは無いのだが、備中の府中邊では人の死んだとき、糠の附いたまゝの米を粉に挽いて卵形の團子に丸め、蒸さずに供へるものゝみをシトギと謂つて居る（方言集）。秋田縣の仙北地方でも、シトギといへば枕團子のことに限るといふ話だが、果してさうであるか。東北でも他の地方はシトギは生粉の團子のことで、又煮シトギといふ語もあり、めでたい日にも拵へるやうである。

　マクラダンゴ　枕團子は枕飯と重複して、又は前後して共に作る土地も多いやうである。相州津久井邊では、死者の枕元に六つの團子を置き供へる。本來は内庭へ梯子を逆さに掛け、臼を左廻りにまはして白米の粉を挽いて拵へたものだが、近頃は大抵米の飯を丸めたものを以て代用する。之を食ふと度胸がよくなるといふ（葬號八三頁）。佐渡の河原田町の枕團子は、死人があつて寺行きの使を出す前に勝手元で之を作る。其數は四々の十六箇、老人の枕團子は其齡にあやかりたいといふ者があつてよく盗まれる。何度供へても一つも無くなることがある（同上五三頁）。

　オクリダンゴ　三河の北設樂郡などは、枕飯も送り團子も共にこしらへる。送り團子の方も早く出來るほど死人が早く極樂へ行かれるといふ（設樂昭和八年六月號）。南設樂の方は埋葬の際の供物として、稍々遲く送り團子をこしらへるらしい。さうして是が鴉などに取られて早く無くなると、亡者は極樂に行かれると謂つて居る（田嶺炬燵話）。

　タナツケダンゴ　筑前の大島でも、葬式の日になつて團子をこしらへて供へる。それを棚付け團子又はゴウノダンゴと謂ふ。幾人もかゝつて作るのを習ひとして居る（葬號一六三頁）。

　イッポンバナ　常の日に一本花を立てるのを忌むのは、やはり新亡者の枕元に立てるからであらうが、此方は一盛り飯や一杯茶を進めるのと、動機がよほど違ふやうに思ふ。新しい神道の葬式に於ても、喪主の捧げる玉串だけが別(535)に大きく、又各人もたゞ一本の小枝を持つと同じく、この花の枝は亡墓を依らしむる料であつたので、何本も立てゝは招く心持が無くなるのであつた。この花に何を立てるかは注意に値する。筑前大島では必ず椿の枝、近江高島郡でも椿又は柾木の花の無い枝を一本さした。この一本花は又葬列に加はつて墓まで持つて行つた。持つべき人の數が多いと、其花の種類を増加した。出雲の簸川郡では百合とか菊とかの造花、奧州八戸でも三つ花と稱して、菊椿芥子の三種の一本花を墓に立てた。何れも粗末な造花であるといふ（以上葬號各條）。

　イハイカクシ　佐渡ではこの一本花を、位牌隱しの花といふ名があつた（同上五五頁）。隱しもしようが其位牌と呼ばるゝものゝ出來るよりも前から、我民族の葬式には是が缺くべからざるものであつた。是が立てられなかつたら、身を離れた靈は依る處が無かつたのである。一杯飯を食へば坊主が死ぬ。一杯茶を飲めば坊主に逢ふといふ諺が、津輕には有るさうである（津輕口碑集）。逢ふ方は判るが死ぬと言ひ始めたわけは解しかねる。大體に凶事の作法は常の日にせぬことをし、從うて平生は出來る限り之を避けるのだが、單にそれは惡い時の作法だから忌むといふ以上に、特に「坊主が死ぬ」といふ類の結果を豫想して居るものは、別に何か信仰上の理由説があつたのかも知れぬ。一つや二つの氣まぐれな説明はあてにもならぬが、それが數多く偶發すれば何等かの暗示にはなる。比較の可能になるまで、注意してさういふ記憶を貯へて行くべきだと思ふ。

　

　　　　　　　　　　六　忌中の徽章

　

　ヒガハリ　喪のある家の火は惡くなると認められて居る。それで煙草を吸ひ、又は煮たり燒いたりしたものを食ふと、影響は其人にも及ぶものと、覺悟しなければならなかつた。不必要な他人を忌の中に卷き込まぬ爲には、主とし(536)てこの家の火の混同に警戒すればよかつたのである。忌を火と呼ぶに至つた事情は略々明白である。上總の君津郡の海岸には、東京などで謂ふ忌中を、火がはりといふ處があるといふ。或は「火が惡い」といふ形容詞の聽きそこなひかも知らぬが、別火といふ語もあるから、火變りと謂つても不思議は無い。

　ヒヲカブル　是は九州あたりで可なり弘く行はるゝ語である。標準語の忌がかゝると内容は同じだが、其定めは公式の服忌令とも一致せぬ例が多い。たとへば佐賀あたりの田舍は、父方目上二十日、母方目上十日、從兄弟三日、親々は四十九日といふのもある（民族と歴史五卷六號）。この四十九日は即ち中陰の七七日に當るのである。子分と稱して假の契約をした者は此外かと思ふが、中には自ら進んで餘分の火を被る者もあつたかと思はれる。

　ヒマケ　火負けは最も注意すべき俗信である。土佐の長岡郡で之を説いて居るが（　　葬號一五九頁）、捜せば他の地方にも有りさうに思はれる。喪の家に出入した者が病を獲れば之を火負けと謂ひ、之を治するの色々の呪法がある。棺の繩の一部を黒燒にして服するなども其一つで、豫め其需要の爲に、埋棺の際から繩の端を少し出して置くといふ。

　ヒアヒ　忌中の火には外部の人が近づくを避けたゞけで無く、内に居る者も努めてその常火と紛れることを戒めたらしい。出雲の舊神門郡などでは、元は忌中には主屋座敷を使用せず、家に下家《げや》建て出しを設けて其中に住み、その下家へもたゞ裏口からばかり出入した。是に依つて市中軒竝の地では、毎戸家の兩脇に三尺づゝの細路があけてあつて、此路を火相《ひあひ》と謂つた（民事慣例類集）。東京でヒアハヒといふのも同じ語であらう。奧羽でも一般にヒヤコと呼んで居る。現在は火災を防ぐアハヒ、即ち間地のやうに想像せられて居るが、其爲としては餘り狹すぎる。事によると何れも忌の火の通行の爲に設けられたものかも知れぬのである。

　モガリ　津輕地方に於ては、喪のある家の表口には二本の木を斜十文字に組んで立てゝ置く、是をモガリといふさうである（東奧日用語辭典）。普通の辭書には是をたゞ垣根の一種の如く説いて居るが、少なくともこの�]形にはシンボリックな意味があつたのみならず、是によつて始めて殯をモガリと訓ませた理由もわかるのである。同じ青森縣で(537)も野邊地などは、モガリは葬送前に棺を置く室のことで、出た跡をやはり二人で掃除し、あと札といふものを貼つて置く室のことだといふ（中市謙三君）。越中の新湊でも竹を斜めに十字に組んで、簾の外に縛つて置く風がある。主人の時は大きく小兒などならば小さい。但しモガリといふ名は無いといふ（大間知篤三君）。

　カセ　喪家の玄關に、竹を二つ割りにして斜十文字に結はへて置く風は、なほ諸處にあり、其名は一定して居ない。集めて置く必要があると思ふ。是をカセと謂ふ土地もたしかにあつたが、今その場所を忘れてしまつた。

　ヲリカケ　筑前の大島・地（ノ）島等では、割竹の頭を曲げて荒繩で結はへたものを二つ、喪のある家の門口に立てる。是を折掛と謂ふのである。出棺後は取立つて燒却してしまふといふ（葬號一六二、二一〇頁）。同じ名は又北九州で、水の神の祭具などにも用ゐられて居るが二者直接の關係は無いやうに思ふ。

　ミス　簾を入口に垂れ、忌中と書いた紙を斜めに貼る例は、東京の町家でも尚常に見かけるが、多分は人の出入の多い商業地區だけの風習であらう。是を垂れて置く期間は、生計の必要上次第に短かくなり、忌の制度の崩壞を促す原因の一つであつたことは、書證の方からも之を知ることが出來る。野邊地などでは親戚に喪を發表すると同時に、此ミスを掛けて忌中の札を貼るのみならず、尚近い親戚でも同樣にミスを掛けるさうである（中市君）。

　エンリョナハ　越後の中部、古志三島等の數郡では家に不幸が有つて正月年賀の禮を斷はる場合に、門口に藁繩を張つて置き之を遠慮繩と謂つた。同じく魚沼頸城の各郡は、門口に三尺ばかりの棒を立て、それを延引棒と名づけて居たさうである（越後風俗志）。

　ムヌヌキ　沖繩本島島尻地方などで自分が見たのは、喪家の方でする作法では無く、村に死者があると他の家々で、門口の地上に木を横たへ、又は繩を引き砂を撒いて、それをムヌヌキと謂つて居た。又内地の鬼瓦と同樣に、瓦屋の一端に漆喰を以て獅子形を作つたものをも、同じ名を以て呼んで居る。中古文學の「もののけ」とは別の語のやうである。喜界島でも名は何と謂ふか知らぬが、葬列の通路に面する家々では、バシ即ち喰はず芋の根引したものを三本、(538)そろへて門口に置いて萬の妖を避けた。バシは芋の一種だが、其汁が身に附けば大變痒いので、人や獣に忌まれる植物である（葬號一九九頁）。

　フジョウヨケ　筑前地（ノ）島では、葬式が通る御宮の前と、葬式のある家の門口とに、モガリ同樣のものを立て、之を不淨除けといふ。但しこゝでは青竹を二本組合せ、且つ其結び目から石をぶら下げたものである（同上二一〇頁）。

　ミカクシヅカ　墓に行く通路が神の社の前を過ぐる場合、正面に塚を築いて置く風習も元はあつた。下野野木宿に於ては之を見隱し塚と謂つて居る。葬列は郷社から見えぬやうに、其外側を迂曲したといふ（日本道中略記）。この見隱しも葬式のことで、社から見えぬやうに隱すといふ意味で無からう。

　ササヒキ　上州では家に死人が有るとき、神靈を?さんことを恐れ、他人に依頼して室内の神棚を、笹の葉を以て掩うてもらふ風があつた。之を笹引と謂ふ（群馬郡誌）。白紙を神棚の前に垂れるなどは、東京でもすることである。

　キチウダナ　農家で屋敷の入口の路に接した處に、棒を立てゝ小さな棚をしつらへる風は三河にもあり、之を忌中棚といふ（郷土研究五卷二號）。四十九日の間置くといふ。自分が羽後の男鹿半島の村で見たのは、至つて小さな木のホコラで、中に神社の札が入つて居た。忌ある間家の内では祭を營み得ない爲では無いかと思ふ。但し彼處では何と謂ふかを尋ねなかつたから、忌中棚とは別かも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　七　年たがへ

　

　忌を避ける風習は、近年著しく稀薄になつて來た。其原因が原理の否認もしくは改訂で無いことは、夙くから人が別火の理由を説明し得ず、たゞ感覺の上でのみ混同を嫌つて居たのを見れば判る。つまり此制限は可なり不便迷惑なものであつて、何かの機會があれば自他ともに是を脱却したかつたのである。最初の動機は經濟上のもの、即ち食物(539)の欲求であつて、甘んじて喪家の合火の膳にも就かうとした人には、既に久しい前から合火が火負けの元であるといふ知識は無かつたのである。さういふ中に於てたゞ一つ、忌に對する不安怖畏の、全國的ともいふべきものが殘つて居る。是を防衛する呪的手段が、やはり食物の攝取方法、即ち食ひ別れに在つたことは注意に値する。自分は一般忌火作法の痕跡を考察するに先だち、特にこの同齡拘束の不可解に近い俗信に、學徒の研究が向けられることを希望して、やゝ綿密に各地の例を集めて見た。

　トシタガヒマメ　是は甲府の附近に、近い頃まで行はれて居た慣習である（人類學雜誌一三五號）。近所におのれと同じ年の者が死ぬと、年違ひ豆と稱して豆を炒り、自分も食し又近隣の子供にも遣つて食べて貰ふ。さうすると死の厄を免れると謂つて居た（　　甲斐の落葉）。この近所といふのは勿論同部落を意味することゝ思ふ。子供は最も忌からは遠い者である故に、是と共同の食事をするのは、愈々喪家の食事から斷絶したことを確保するわけである。産婦が産屋の忌から出る場合にも、亦小兒を集めて是と共に食事をする風が遠江にはあつた。

　トシタガヒモチ　年違へ餅といふ名稱は、果してあつたかどうか確實で無いが、さう呼ばれて居たらうと思ふ。餅は各地にあつた。たとへば武藏の青梅邊では同年の人が死んだのを聽くと、早速煎餅や饅頭のやうなもので耳を塞ぎ、それを四辻へ棄てゝ來る。歸りには後を振囘つて見てはならぬと謂ひ（郷土研究四卷三號）、駿河の方でも同じ場合に、わざと自分の衣服を質に入れて金を借り、其金を以て御馳走するといふが（同上一號）、是なども本來は餅であつたらう。九州でも島原半島の田舍では、厄年に當つた者に限り、同年齡の人の死を聞知すれば、餅を搗いて祝をして居た（同上二號）。現在でもまだ記憶する者が有る位に新しいことである。

　ミミフサギモチ　是が一つの風習の分布であつて、偶發の奇習で無いことは、名も行事も互ひによく似て居るので判る。伊勢の神都でも知人同年の者死去の場合に、白餅を買求めて之を我耳に當てゝ後、屋根の上に投上げる風があつた（風俗畫報二三〇號）。是を耳塞ぎ餅と稱し、其凶報を我耳に入れまいといふ趣意だと謂つて居る（宇治山田市史下(540)卷）。三河の豐橋あたりでは、餅を單に耳に當てるだけだが、北設樂郡へ行くと、特に米の粉を練つて耳の形としたものを作り、是を耳にあてゝ、

　　ネヂカチ／＼／＼

と三度唱へる。この行事を耳塞ぎと謂つて居る（設樂昭和八年六月號）。ネヂカチは恐らく捻ぢ合つて勝つたといふことであらう。南設樂にも同樣の習俗があるが、自分の家から屋根の見える家で、同年の者が死んだ場合に限つて居る（葬號一〇〇頁）。越後中魚沼郡でも同齡者の死を聽いて、やはり耳塞ぎ餅を製して、よい事をきゝ惡い事は聽かぬ樣にと、遲まきながらも兩耳を塞いで其餅を食ふ（同上六二頁）。是は或は餅は耳に當てなかつたのかも知れぬが、會津地方でも二三十年前までは普通に、同村同年の者が死ぬと餅を搗き、一部は食ひ又一部は耳に押付けてから川に流した。後々は饅頭餅菓子を求めて代用した。多くは子供の時にするといふのは（郷土研究七卷三號）、彼等には特に興味ある行事であつたからである。山形縣莊内地方に於ても、同年の者の葬式の鉦の吾を聽くと、自分も誘はれるなどと稱して、耳塞ぎ餅をその葬式の日に食べ（東田川郡誌）、且つ遠くへ出かけた。尚此地方では別に舊十一月十五日に、サケの大助といふ鮭魚の頭目が、「大助こう助今登る」と唱へつゝ川を登つて來る。其聲を聽いた者は三日の中に死ぬといひ傳へがあつて、家々一統にやはり耳塞ぎ餅といふのを搗いて食べた（同上）。端午又は六月一日の耳くぢり芋の風習などを考へ合せると、以前はもつと弘い應用のある呪法であつたかと思ふ。

　ミミフタギ　耳に當てる食物も又餅には限らなかつたのである。常陸の新治郡などは炊き立ての飯で提飯をむすび、是を兩耳に當て、後から箕で頭を掩うてもらひながら、路の三叉まで行つて其提飯を棄てゝ來ることは青梅のに近かつた（郷土研究二卷一號）。野州足利邊でも、二個の饅頭を携へて石橋の上に行き、是を兩耳に當てゝ後、其橋の上に置いて後を見ずに歸つて來る。それを耳ふたげと謂つて居た（同四卷九號）。陸前登米郡の耳ふたぎ餅は、同じ年の者が死んだと聽くと之を搗き、死者が男なら女の人に、又女ならば男に、自分の耳を塞いで貰つた（同三卷八號）。

(541)　ミミダンゴ　大分縣賀來村は、耳が遠いので有名な善神王樣の社のある地だが、こゝでも死者と同年の友は、耳團子といふものを拵へて食べる（豐後傳説集）。阿蘇の宮地でも同年の友人が死ぬと、耳ふさぎ團子と稱して團子饅頭餅の類を、兩耳に一つづゝ當てゝ耳を塞いだ後に食べる（葬號一八三頁）。筑前志賀島でも二十年前までは、同年者が死ぬと耳塞ぎをした。茄子大根の類を輪切りにして、それに菓子などを添へて耳に當てるのである。此島では又耳が鳴ると同年の者の死ぬ前兆などといふ俗信もあるさうである（櫻田君）。同國大島の例は温い飯を紙に包み、それで耳を塞いでもらふのであつたが、同じく地（ノ）島にも是と近い習はしがあり、又長門にも類例がある。全體に此地方の海岸筋には、同齡者間に特別の親しみがあつて、色々の仕事を共同にして居る（同上）。死亡の場合なども無關心で居られなかつたものと思はれる。

　信州の北安曇郡各村では、屋根の見える家で同い年の人が死ぬと、一升桝の裏で年取をするものだと謂ひ、又はジョウベ石（踏段石）の上で年取をするとも、魚を食つて年取をするともいひ、下駄を流さなければならぬとも謂つて居る（郷土誌稿卷四）。年取りとは正式の食事といふことに過ぎない。阿波の伊島に於ては、柄杓に水を汲み、其杓の柄を下にしてそれを流れる水を飲むとも謂ふ（島一卷四號）。斯うして多くの場合を比べて見ると、耳を塞ぐといふ點は是ほど一般であるが、尚その以前の形の有つたことが察せられる。既に凶事を耳にしてから、塞いで見たところで何にもなるもので無い。同齡者は平生最も多く共同の食事をして居る。其心身には共通の成分が有り過ぎるから、一つの原因が作用し得る危險を感ぜずには居られない。故に急いで食物の隔絶を以て、別の　　状態を作り出す必要があると認められたものと思ふ。忌の根本の合火も一つの鍋にあつたことは、斷定し得ぬまでも略々推測し得られるのである。

　

(542)　　　　　　　　　　八　別火屋

　

　ノゴリト　「くやみ」といふ言葉の内容の變遷は、さう簡單に看過することが出來ない。クヤシといふ形容詞の本來の語義からいふと、寧ろ喜界島の樣に近親の喪に籠るべき人々を悔み人といふ方が當つて居ると思ふのに、現在は却つて外間の比較的冷淡なるべき者が來て、其くやみの辭を述べることになつて居る。是も手傳その他の服喪志願者の増加と、併行して現はれた新傾向だとすると、其過程を辿る爲には、今日の所謂慰問者を、他地方で何といひ、又どういふ辭令を交換しつゝあるかを、注意して見る必要がある。一二わかつて居る例をいふと、青森地方では是をノゴリトと謂つて居る。名殘人の轉訛かとの説がある。此地の挨拶では通例ノゴロイと謂ふのだが、是と關係のある名とだけは察せられる（國語教育一八卷三號）。中國地方でもノコリオイ、又は殘り多いだの殘り惜しいだのと謂ふ者は多い。今日の文法からは何れも少々解しにくいから是も亦前代の殘形であつて、何等かの古い氣持を暗示して居るのかも知れぬ。

　シンヒキ　肥前の千々岩では、シンヒキといふのが悔みのことだといふ（山本靖民君）。此語は尚一段と意味が取りにくいやうである。トムラヒといふ語もこの特殊の訪問のことの如く解して居る者もあるが、それでは又葬式全部を此名で呼ぶことが不明になる。尚後段のフギの條を參照して貰ひたい。

　ツナギ　親族以外の弔間者が、喪家に物を贈る慣例も少しづゝ變つて來て居る。比較的古い形としては、繋ぎといふのが最も弘い名であつた。例へば陸前の牡鹿郡などで、契約講の仲間が講の申合せに依り、一定の米錢を醵出して贈つて來るのがツナギであり（葬號五一頁）、普通は五合乃至一升の米を出すことになつて居る。他の一端の日向諸縣郡でも、葬式の日に郷中男女各一人の手傳の外に、米をゴ三ツ（七合五勺）づゝ係の者が纏めて持つて行くのをツナ(543)ゲと謂つて居る（葬號一八五頁）。ツナギは土地により又ツラヌキとも謂ひ、もと膳緡に穴錢を通すことであつて、目的は凶事の場合に限らなかつた。たとへば村の諸掛り飲食の入費などを、軒別に集めるのも繋ぎであつた。要點は各戸同額又一統といふことに在つたと思ふ。

　ムジョウコウヌキ　阿蘇では組内に不幸のあつた場合、各家米二合半づゝを頭番の者が集めて、其夜のうちに贈つて來た。是を無常講ぬきと謂つたといふ（同上一七五頁）。無常講は中國西部では死講とも謂ひ、本來は東北の契約講同樣に、一般的な互助團體であるらしいが、特に喪葬の場合によく働くから、斯ういふ名が出來たのである。ヌクといふのもやはりツナギと同じ意味で定額の醵出を意味するかと思ふ。

　ツルベセン　駿河の入江町あたりでは、この無常講の集めて贈る僅かの錢を、釣瓶錢と謂つた。貧窮の者も是で棺だけは買ふことが出來た（安倍郡誌）。

　ムラコウデン　甲州の南巨摩郡などは、村内に死亡があると、無縁の者でも一定の香奠をはら〔二字傍点〕なければならなかつた。之を村香奠と稱し、近頃は一戸五錢づゝ位であつた（石川緑泥君）。香奠といふ語も金錢の贈遺も共に古くから有つたものとは思はれぬ。專ら食料の米粟類を持つて來たとすれば、是を出すべき家は有縁の者に限られて居たのでは無からうか。組や講中は門統組織が弛み崩れて、村内に獨立した小家が多くなつて後に、追々に其機能を發揮した。是が外間の者の飲食の盛んになつて來た一つの誘因かと私は考へて居る。葬時の食制といふものが、曾ては今一段と嚴肅であつたことは、未開の種族の例と比較するとやゝ判つて來る。是を忌の外まで押し擴めた、仲介者は僧侶であつたかも知れぬ。彼等の信仰には忌は無く、もしくは穢れある食物をも食べようとしてゐたのだから、此想像は無根據では無い。

　ムジョウヤスミ　越後西蒲原地方には無常休みといふ名があつた。村に無常事があると、その葬式の日は休みになる。此日は山仕事即ち屋外の勞働はせず、家のうちの仕事だけはしてもよろしい。それから一家一人づゝ喪家へ來て(544)手傳ふのであつた（風俗畫報一九四號）。

　ナミクンデエ　喜界島の阿傳では、葬禮の日の贈物を、今は線香料と謂つて居るが、以前は部落各戸から酒三合づつ持つて行く義務があつた。デエは酒の音轉訛、ナミクは不明だといふ。小野津村では見舞の金をウワイ又はウワイムンと謂つて居る（岩倉市郎君）。酒は日本では葬式の日によく用ゐられるが、飯のやうに亡靈とは共同しない。同じ口腹に入るものでも、他の食物とは異なる取扱であつた。ナミクンは或は浪汲みであつて、清め酒の意味では無かつたらうか。次々の條に出て來る酒の用法と比較して見るべきである。

　ホネコブリ　豐前の字佐郡などでは、葬式の加勢に行くことを骨こぶりと謂つて居る（　　大分縣方言類集）。コブルは此地方で「かじる」を意味する方言らしく、此言葉には隱語的の可笑味があつた。富裕な家の凶禮には用の無い者までが集まつて、むやみに食ひ倒さうとする弊風は近頃でも見られる。

　ヒタカズ　近江高島郡の石庭あたりでは、一番丁寧な葬式は火焚かずと稱して、部落中の住民全部にトキを出した。牛馬を飼ふ家へはその牛馬の飼料として、飯を貰つて行く者さへあつたといふ（旅と傳説六卷一二號）。

　ケブリタヤシ　紀州の有田郡でも、村で一二流の家に葬式が有るときは、ムラドキ（村齋）もしくは煙絶やしといふことをした。前者は各戸一人又は二人づゝ會葬することを意味し、後者は葬式の當日だけは、村中の家々で飯を炊かず、すべて不幸の家で炊き出しをして各戸に之を配つた（有田郡年中行事）。

　ベツビヤ　喪家の食物を食ふといふことは、必ずしもその忌の火にまじることを意味しない。是には隔絶の方法がちやんと設けられてあつたのである。たとへば土佐長岡郡では、死の報傳はるや隣保先づ來り弔し乃ち別火家といふものを定める。死者の家は穢れあるによつて、其火を避ける爲に別に家を定め、そこに集會飲食せしめるのである。人々はこの別火家に集まつて部署準備をする。隣保の香奠は各戸等額で、之を別火家へ持來つて酒肴を調へ、埋葬事終つて直ちに飲食し喪家へはたゞ其目録を呈する（葬號一五六頁）。

(545)　ソトザ　壹岐では悔み客をハレエシと謂つて酒食を饗する。其座は外座と謂つて外庭に藁を敷いた上に疊をのべ、周圍には菰を立てゝそこで食事をさせる（壹岐島民俗誌）。調理も多分別の竈でするのであらう。ハレエシの意味は尋ねて見たいものである。

　オゼンノヤド　肥後の阿蘇では、葬儀萬端の炊事接待饗應の用意をする家を、御膳の宿と謂ふ。死亡の家では一切の煮炊きをしない。或は此宿をヒラカタといふ處もあるが、宮地の町ではヒラカタ又はオヒラツギは炊事係長のことである（葬號一七五頁）。

　ナカショウジ　伊豫喜多郡藏川あたりは、親類縁者は別にして、講仲間だけが集まつて來て働く家を中精進といひ、大抵は喪家の隣を借りる。組内一戸一人づゝ、白米一升と野菜とを携へて來て、全然火食を別にし外部の手傳をする。薪を探り米を搗くなども此人々の役だといふから（同上一五一頁）、持參の白米以外の米も消費したのである。

　ショウジンヤド　紀州有田郡でも葬式の日、會葬者に出す食物を調理する家を精進宿と謂つて居る（有田民俗誌）。其料理は精進であらうが、言葉の意味は穢れた火を避ける方に在つたと思ふ。この獨立經濟に、死者の家人が干渉することまで今は非常に嫌はれて居り、けちな家は却つて損失が大きかつた。米俵が生垣を飛越える日などとも謂はれ

て居り、浪費が殆と主要なる特色になつて居る。所謂更生時代に入つて、大いに改良せられ得る部分である。

　ショウジンガタメ　近江高島郡には精進固めといふ語がある。死亡の日の夜、通夜の人々に出す夜食のことで、酒も出し殘つた魚類は使つてしまひ、それから後は全部精進になる（葬號一〇四頁）。故に精進固めだといふのかも知らぬが、殘つた魚などがさう有るわけは無いから、是も一つの忌と常との堺目である。

　

(546)　　　　　　　　　　九　忌の飯

　

　モトビヲクフ　伊豫藏川村では、講仲間の中精進に對立して、親類縁者の亡者の家で飲食し、且つ内部の手傳をすることを元火を食ふといふ。此人々も白米一升を持つて來ることは組の人たちと同じだが、後者には此外に香奠は無く、身うちの方は香奠に添へてこの米を持つて來る（葬號一五一頁）。

　サンニンヅキ　枕飯に用ゐられる米を、筑前大島では三人搗米と謂ふ。必ず玄米を三人して搗くのである。臼の中から出すときトホシ（篩）を通さず、箕でさびて〔三字傍点〕箕の向ふから受取り、空釜の中へ米から先に入れ、水を後から入れて磨ぐことは他の地方も同じい。桝は此米には使用せず、手を以てつかむことにして居る（同上一六二頁）。肥前の川上郷でも死人あれば四斗臼に玄米を入れ、杵を以て必ず三人で搗く習はしであり、それ故に三人ナデと謂つて居る（社會史研究九卷二號）。ナデとは杵のことである。此習俗は古いもので無いやうである。といふわけは以前の手杵時代には、吉事にも常の日にもやはり三人で搗いて居たからで、或は横杵の出來てから後まで、尚喪の米だけは三人かゝつたか、或は是ばかりは古風の手杵を用ゐることにして居たのであらうと思ふ。

　ヨニンギネ　土佐長岡郡では、埋葬の日死者に供する飯米は、四人が杵をふるひ、相對して一日の米を精げた。今は精米所が出來てこの風習は絶えた。此際には特に北向きの竈を築き飯と菜とを調へた。故に平日は北向きの竈、及び四人向き合つて米を舂くことを嫌つたといふ（葬號一五九頁）。この禁忌は昔からあつたものとも考へられる。

　ヒノメシ　壹岐では死者の血族だけに別火の食事をさせる。是を火の飯と謂ひ、其料に各人が持つて來る白米一升をヒデエと謂ふ。ヒとは忌のことである。故に死亡の通知をも「ヒを告ぐる」といふ。其使は必ず二人（壹岐島方言集）。尚前項ヒヂの條を參照せられたい。このヒの飯は別火別室で食ふことになつて居る。

(547)　ヒデ　鹿兒島縣には、今でも香奠をヒデと謂ふ處がある（縣方言集）。この方言の分布は更に弘く九州の田舍に及び、互ひにそれを我土地だけの片言と思つて居るものが多からうと思ふ。其保存?態を調べて見たいものである。

　マクラゴメ　肥後下益城郡では、不幸のあつた家へ夜食を送る。舅姑の場合には一俵乃至三俵の米を贈ることもある。之を枕米と謂つて居るのは（郡誌）、やはり枕飯の料になるからであらう。丹後の海岸地方にも枕米といふ語がある。子や聟などは枕米一俵酒一樽、兄弟姉妹等それ／”＼の多寡がある（與謝郡誌）。

　ススメ　陸前遠田郡では悔みの日、近親の者がススメと稱して、順番に飯を炊いて集會者に馳走する（郡誌）。其材料も亦各々縁者の負擔であつたと思はれ、牡鹿郡では近親より贈つて來る米その他の物品をススメと謂つて居る。それから同じ人々が金錢を持つて來るのをクヤミ、葬式終つて後法要の際に、金を贈るのだけを香奠といふ。契約講の醵出する米錢はツナギであつて、是とは又別になつて居る（葬號五一頁）。

　ミツキ　大隅の高山では、右のクヤミの金品をミツキと謂つて居る（野村傳四君）。即ち貢ぎの意味であつて、ヒデは次に擧げる籾くぶきの方では無いかと思ふ。

　イッショウクヤミ　甑島の瀬々浦では、葬式翌日の「三日」と稱する法要の際に、白米を一升以上贈つて來る者がある。之を一升悔みと稱して、四十九日には招いて酒食を供する。クヤミが前にも述べた樣に、身うちの者に限られた語らしきことは、是からも稍々想像し得られる。但し九州は各地とも、弘く之に對して一俵香奠といふ語が行はれて居る。女聟や別家の子の如き特に死者に近いものが、入費を分擔する心持を兼ねて、斯うして餘分の忌の飯を負擔したので、それを又名聞の爲に棺前に飾り立てる風さへ生れて居る。其爲に一升悔みの親類は、自然に中間の一階級の如き觀を呈し是には無縁の村人までが追々と參加した傾向が、恰かも忌の稀薄なる延長と併行して現はれたのでは無いかと思ふ。

　シキマイ　筑後の八女郡では、右の一俵香奠を式米などと稱して、棺前に積重ねて贈人の名を短册に署すること、(548)都市の造花放鳥と近くなつて居る。式後に坊さんへの謝禮として、香奠と共に寺へ贈るといふ（旅と傳説七卷三號）。

　モンクブキ　大隅高山では親死亡の時、子より送る籾俵を籾くぶきと謂ふ（野村君）。クブキは叺のことで藁製の袋の口を括るからさういふらしい。

　カガリ　上總山武郡などでは、父母の死亡の場合、米俵に特殊な繩かゞりをして贈ることを、カガリを附けると謂ふ。此地方の習はしとして幼兒をめでたい老人に拾つて貰ふことがあるが、さういふ取上げ孫も取上げ爺婆の葬式に際しては、このカガリの米俵を一駄贈つて來る（秋葉隆君）。

　イロダイ　甲州東部では、香奠以外に特別に若干の金錢を出すのを色代と謂ふ（北都留郡誌）。相州津久井では死者に世話になつた人々などの、供に立つ者が出す香奠が色代で、多くは五錢十錢の少額だといふ（葬號八三頁）。佐渡では香奠に三通りあつて、イロを着る見送り人の出すものを色代香奠といふから（同上五六頁）、即ち一升悔みに當るものである。イロは後にも出て來るが忌の衣のことである。婚禮には嫁が着るし、死者の着る白衣をもイロといふ處がある。無色を意味する逆さ詞である。

　メサマシ　夜伽は喪屋の慣習の殘留かと思はれて、至つて重要なる觀察點であるが、まだ一項目を立てるだけに各地の資料が集まつて居らぬから、假にこゝに附載する。九州では廣く此語が行はれて、一般に其通夜の夜の食物を意味して居る。肥前島原では村の有志が米を一合位づゝ集めて持つて行き、是に參加することを目覺しにかたる〔三字傍点〕と謂ふ（葬號一六六頁）。肥後の南關でも講中ならゴ一つ又は二つ、親類ならば二升位、握飯にして目覺しに持參する（同上一六八頁）。日向の眞幸でも郷中の者が、米を集めて、握飯にして持つて行くのを目さまし、又その通夜のことをも目さましといふ。家族親族は此語を使はぬといふ（同上一八四頁）。伽はその和製文字が表示するやうに、多くの人が集まつて居ることを意味し、トキは目覺ましと同樣に起きて居ることから出た語と思はれる。これに參加して食事をすれば、合ひ火になることは確かなのだが、近世は忌のかゝらぬ者までが、至つて氣輕に通夜の席へ出ることになつた。(549)しかも是に携帶の食事を條件として居るのは、尚調理を別にしなければならぬ拘束が殘つて居るのかと思はれる。兎に角にメサマシは殆と常に、外でこしらへた食事であつた。阿蘇では無常講で集めて贈る米をも、目覺し米と謂つて居る（葬號一七一頁）。

　ソヒネ　長門の大島などでは、死者の傍で夜伽をすることを添寢と謂つて居る（島一卷三號）。事實女房や娘は死者の傍に寢たのであらう。さういふ實際の例が日本でも稀にはあつた樣に記憶するが、今たしかな出處を擧げられない。斯うした痛ましい光景の中であつたならば、目覺ましを食事と解する變遷も起るまいが、喪屋に籠るといふ習はしは、埋葬の方法の改革と共に存外に早く無くなつてしまつたのである。尚この點については、墓のタマヤの條でもう一度述べようと思ふ。

　シホナメ　忌の終りは現在は四十九日が通則になつて居るが、人によつて其期間に長短がある方が當り前である。其終りの日には改まつた大きな式が入用である爲に、家長の忌を以て全體の中陰としたのでは無いかと思ふ。鹿兒島縣の寶島では、人の死後、親子は百日、兄弟は四十五日、從兄弟は三日たつと、各々潮花を汲み竹の葉を以て之を身に濺ぎ、又之を飲む。親しい者ほど多く飲み、縁の遠い者は嘗める程度に止まる。さういふ關係を潮嘗めと謂つて居る（島一卷一號）。從兄弟ですら三日だから、それより疎い者ならばたとへ合食をしても、歸つて潮を嘗めて置けば、淨まはることが容易であつたわけである。富家の葬式の煙絶やしに村中先を爭つて集まつて來るのも、さう近頃からの現象では無かつたとも見られる。

　

　　（附記）　略符説明

　　葬號＝「旅と傳説」六卷七號、誕生と葬禮特輯號

　

(553)　　　魂の行くへ

　

　　　　　　　　　　一

　

　盆のお精靈を、山の嶺へ迎へに行くといふ風習が、大野郡下荒井の部落にあるといふ簡單な記事は、私たちにとつてはかなり貴重なものである。越前では今もまだ先祖の魂が、山の高い處に留まつて居て、盆にはそこから子孫の家を訪れて來るといふ信仰が、そちこちの山村に保存せられて居るのではあるまいか。何とかして誘導尋問の形でなしに、諸家の故老の言ふところを聽き集め、それを綜合して見たいものと思ふ。

　昭和二十年の秋、自分が世に送つた「先祖の話」といふ本には、古來日本人の死後觀は此の如く、千數百年の佛教の薫染にも拘らず、死ねば魂は山に登つて行くといふ感じ方が、今なほ意識の底に潜まつて居るらしいと説いておいた。是にはさう思はずには居られない數々の根據があり、決していゝ加減な空想ではなかつたのだが、何分にもその一つ／＼の證據力が弱く、日頃耳に馴れて居る天上地底の後生説《ごしやうせつ》を、打消してしまふには足りなかつた。是からさき我々がどちらを信じてよいかの問題とは關係なく、かつてこの國の住民の多數が、どう思ひ込んで居たかは事實なのだから、二つとも本當だといふことは無い筈である。それを決定しようとすれば、この越前の風習は粗末にならぬ資料である。

　現在の盆の魂迎へは、通例は廟所、即ち石塔の在る處へ行くことになつて居る。墓《つか》も動け我が泣く聲は秋の風など(554)といふ句さへあつて、故人の靈もまた土の中に休んで居るやうに、推測する者が段々と多くなつたやうに思はれる。しかし誰でも知つて居ることは、石碑を一人々々の死者のために、建てるやうになつたのは新しいことである。古いといつても元禄以前の石は甚だ少なく、日清戰後の頃から、急に個人のものが多くなつたが、それでもまだ共同の墓地に送られ、追々に其場處の知りにくゝなるものが相應にあり、しかも盆の魂祭りをせぬ家は、村方には少ないのである。どこへ精靈さまを迎へに行きますかといふ問ひは、民俗學の仲間には?々必要であつた。

　谷川の流れの岸へ、又は橋の袂へ、又は路の辻へ出て迎へるといふ答へが折々はあり、九州と奧州のごく端々の方では、盆の市に出て精靈を迎へ申すといふものもある。それよりももつと數多く方々で聞くことは、盆花採りと稱して野山に出て、桔梗や女郎花その他の定まつた野花を折り歸り、それを魂棚に飾ること、是は歳棚の爲のお松迎へと同じことで、この植物に付いて神靈が家に迎へ入れられるのだと、私たちは前々から解して居るのだが、一般には是を佛法の供花も同じに、たゞ缺くべからざるこの日の祭具といふやうにしか見て居らぬ人が多い。詳しく之に伴なふ作法や約束を比べて見たら、さうでないことはやがて列るのだけれども、それには又大分の辯證を費さなければならぬ。

　それよりもやゝ顯著なのは、盆草刈り又は盆路作りといつて、この精靈迎へに先だち、普通は七月七日の日に、草を刈り路をきれいに掃き淨める習はしで、山に接した村里ならば、今でも是をしないといふ方が珍しいかもしれぬ。この時には墓薙ぎなどといつて石塔場のまはり、又は村内の通路をもきれいにするが、特に注意すべきは一年にこの日だけ、山の頂上から麓の里まで、常はかまひつけない一筋の路を刈り拂うて、それを精靈樣のござる路と、謂つて居る人が今でも多い。墓地へ精靈を迎へに行く村々でも、まだこの盆路作りを續けて居るものが幾らも有る。墓は祭場であり、精靈を是へ迎へて來るのであつて、家の盆棚は新たに設けられた第二の祭場だつたらうといふことが考へられるのだが、それを立證するまでの資料が、今はまだ出揃はずに居るのである。

　

(555)　　　　　　　　　　二

　

　近いうちに世に出る信州上伊那郡の黒河内民俗誌には、越前のと同じ例が一つある。こゝはいはゆる南アルプス連峯の、ずつと北へ伸びたやゝ低い山々で、其麓に接した西側の村里では、もとは一般に山へ盆樣を迎へに登つたらしく、その習俗は近い頃まで殘り、其場處は僅かの草生地で、そこを六道原と呼んで居る。六道は佛教の言葉、人が現世の果報に引かれて、死ねば六つの道のどれかに分れて行くことを意味して居た。そこ迄行つてもなほ我々の祖靈は、迎へられて盆には戻つて來るものと思つたのである。この六道原が名のみ存して、今日はもう遙々と登つて行かうとはせず、魂迎へには村々の寺の庭に集まり、そこへ山から採つて來て置いてある樒《しきみ》の小枝を、めい／＼に家に持つて還るのを、魂迎へとして居る部落が段々多くなつたらしいが、この日六道原へ行く者が、近頃まで少しはあつたといふのは、習俗變遷の過程を示す例として意味がある。前に掲げた七月十一日の盆花採りなども、此頃ではさう遠くまで登つて行かぬ者が多いやうだが、それでもまだ方角や場處は大よそきまつて居て、どこから持つて來てもよいといふのではなさゝうに思ふ。

　それについて考へ合される一事は、是はお盆の迎へとは別だが、婦人が産室に入つた際に、馬を牽いて、又は負繩を肩にかけて、山へ山の神を御迎へに行く習はしが、東日本の諸處に於て注意せられて居る。事によると越前の山村にも、まだあらうも知れぬが、馬で行く場合には其馬が立ち止まり、いなゝき又は立髪を振り、その他何等かの異常な擧動をしたら、それを合圖にしてそこから引返して來るといふのが普通であつた。神の御姿はもとより眼に見えないから、昔の人たちはかういふ些細なる徴候を以て、神の實在を信ずるやうな、訓練を受けて居たと見るの他は無いのである。さうすると馬を持たぬやうな貧しい農夫が、たゞ負繩やショヒコを肩にして、御迎へをする場合にはどうしたかといふと、是にも自身に異常なる感覺が起ると、神が途中までもう出られて居ることを確信してさつさと引返(556)し、さうでなければ特定の場處まで到着して、願ひの言葉を以て素朴に背なかを向けたことゝ思ふが、その所作まではまだ談つてくれた人が無い。島根縣の西部などでは、藁を布切れで編んだ背負臺をセナカウヂと呼んで居るが、山でセナカウヂの繩をほどいて手に持ち、山の神を載せ申す唱へごとが、まだ記憶せられて居る。しかしそんな事をして、もしも返し申す時の言葉を忘れて居たら、大變なことになるからと謂つて、今では戒めてみだりに之を口にする者が無いといふことである。

　唱へごとは斯うして追々に忘れて行くものかと思はれる。盆のホトケ迎へなどでも、信州では墓所へ新しい荷繩を、肩にかけて行く者がもとは多かつた。現在は成人はもう言はなくなつたが、今でも少年だけは、墓石の前に來て背なかへ兩手をまはし、ぢい樣ばあ樣さあ行きましよと言ひ、又さう言はせようとする土地が方々にある樣子である。山の頂上のいはゆる六道原に行つても、かつては成人がさう言ふことをして居たのでは無かつたらうか。又、越前の下荒井などではどうだつたか、知りたいものと私は思ふ。

　それからなほ一つ、山に家々から登つて行く代りに、寺の庭に集まつて、そこから植物の枝を迎へて來るといふ例は、非常に有名なものが一つ京都にあつて、今でもまだ盛んに行はれて居る。是だけは色々の書物に出て居るから詳しく説く必要がない。日は盆の月の十三日、木の枝は最近は槇の葉となつて居るが、やはり其行事を六道參りと呼ぶのであつた。墓所へ行かずともこゝで槇の小枝を求めて來れば、それが精靈樣迎へになつて居るのである。誰かもう氣がついた人が有るかも知らぬが、この六波羅の寺には本名がちやんと有るに拘らず、昔から愛宕寺の名を以て知られ、その理由が十分に説明せられて居ない。一方には京都の西北に屹立して、町のどこからでもよく見える愛宕山は、今でも信心の者が登拜して、必ず樒の枝を折つて還る山であつた。こゝへ家々の祖靈を迎へに行く風習が曾てはあり、今では其信仰が改まつて、一部分だけ町中へ移つたのではないかどうか。愛宕山の樒が原も、本乘は一箇の六道原ではなかつたか。今日は勿論いつ參つても樒を賣つて居るが、こゝでも稻荷山の驗の杉のやうに、衆庶の競うて登る日(557)が定まつて居たのではないか。それが初秋の盆の日でなくとも、私はかまはぬと思ふ。といふわけは、七月魂迎への特に盛んになつたのは、中世以後のことだからである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　次には山の頂きに登つて火を燒くといふこと、是も越前の今立郡の村々に、幾つもの顯著なる事例があるといふのは、私にとつては新しい暗示であり、これによつて始めて山から盆の祖神が降つて來ることが、推定し得られるやうな氣がする。御承知かと思ふが、山に登つて篝を焚くといふ例ならば、「歳時習俗語彙」にも澤山に列擧せられ、稀なることでは決してない。信州は殊にそれが盛んで、諏訪を中心とした廣い農村では、今はスポーツに近く、子供の大きな樂しみの一つにもなつて居る。近江の湖東にも三河の海岸にもあるのみか、京の大文字などはそれが名物となつて、外國にまでも遠く知られて居る。火を焚く爲には必ず山に登るであらうが、それだけではまだそこへ精靈を迎へに行くものと、きめてしまふことは出來ないのである。いはゆる高燈籠の火は、以前江戸の町に盛んに行はれ、それから諸國に擴まつて今でも止めてしまふことの出來ぬ土地が多い。山で火を焚くといふ印象的な行事が前になかつたら、かういふ發明も起らなかつたかも知れぬが、それだけに又これは單なる道しるべで、夜空を遠く訪ひ寄るものに、こゝが故郷の家のあたりなることを、知らせる方便の如くにも解せられて、むしろ却つて山からも歩み降るといふやうな、以前の想像を覆へす效果があつた。私なども白?をすると、もとは之によつて、最初から祖靈は空を行くと信じられたかの如く、一度は想像して居たのである。

　實際、或はさういふ風に解する人が多いかもしれない。こゝで考へて見てよいことは、今日の人の居住地が、段々と山から離れて來たことである。水も薪も後の山からといふ村は、引續いて今も有るけれども、それは知らぬ間に少數分子となり、この國士を代表することが出來なくなつて居る。都市と工場地の大部分、即ち人口の最も多い區域は、(558)すべて近世の初頭に海から拾ひ上げた陸地で、そこにはもう入會山も斷念しなければならぬやうに、死んで行くべき嶺々も遙かで、?々霧霞に隔てられて居る。人が空中から祖靈の訪ひ寄ることを信じ得なかつたならば、忽ち我々の永遠は解しがたくなるのであつた。いはゆる高燈籠文化はこの點に於て意義がある。馬でも荷繩でも迎へに行けないやうな處に、我々の魂は行つて休んで居なければならぬまでに、幸か不幸か島の天然は擴大したのである。日本人の來世觀が、恥かしいほども紛亂して居る原因は、主として茲に在ると見てよいやうである。

　以前はどうであつたらうかといふ研究は、この方面に於て特に實用がある。あつた事實を知りもせず考へもせずに、勝手な理窟をつけようとするのは嗚滸《をこ》だからである。最初先祖の魂を迎へに、登つて行く處が山だつたときまれば、山で火を焚くのは烽火燈臺のためで無く、祭の行事の一部分だつたことが判つて來る。今でも盆には墓の前と門の口に、迎へと送りと再度の火を焚くことは、全國普通の習はしであるのみか、古來の祭は主として夕曉の間に行はれ、篝火から電燈まで、大よそ火を燃さない祭といふものはかつて無いのである。

　今立郡各村の山上の火祭は、他の府縣の類例にもまして、特に魂迎へとの因縁が濃やかであつた。その一つは正月の左義長とも同じに、篝火の片端に小屋を作つて、祭の夜籠りをした形跡のなほ遮つて居たことである。その二はこの火の燃え上るときに、お精靈を迎へ又は送るといふ言葉を、高く唱へたことで、それをヤイヤイボとかコンブク樣とか呼んだのは、永い歳月の言葉の轉訛であるらしいが、日本海に面した多くの平野の村では、墓や家のまはりで火を焚く時にも之を唱へ、大抵はヂイ樣バア樣、又はヂイナバアナと呼びかけて居ることは、既に「先祖の話」にも述べた通りである。家に達者な祖父母の居るときでも、さう言つたらしいのを見ると、是は代々のふる人を意味する、最も素朴なる小兒語だつたと解せられる。

　

(559)　　　　　　　　　　四

　

　それからなほ同じ折に注意して居るが、秋田縣北部の一地域では、村の少年等が岡の上に登つて、越前今立郡の村々とよく似た火祭を行ふのは、春の彼岸の中日の行事であつた。さうしてやはり此火の燃えるときに、ヂイ樣バア樣お出やれを高唱して居た。同じ國中一般の習俗ではあるが、期日は土地ごとに少しづゝの變化があるのは、私には意味が深いと思はれる。それをやゝ詳しく言ふならば、久しい間にめい／＼の解釋、又は他の外部の　　状況との折合ひが、いつと無く行はれたので、單なる模倣や感染でなく、むしろ日本人なるが故に、夙くから持つて居たものゝ、土地ごとに成長した痕かと思はれ、從つてその多數の例の綜合によつて、民族の自然の歩みが判つて來て、將來のよい參考になると思ふ。

　たとへば魂迎へから魂送りへの期間は、大體に短縮の傾向を示して居る。現在は迎へるのが十三日の夕刻を通例とし、送るのは十六日、それも午後であり、又は早朝であり、東京などではまだ十五日の深夜に、送つてしまふといふ家も多い。最初から斯うときまつて居たのではないとすれば、迎へ火を山で焚く日が、七日であり五日であつても怪しむに足らず、或はそれよりもずつと早い日に迎へて來て、主要なる生活行事を、その祖靈の眼の前に於て、實行したといふ時代も無かつたとまでは言へない。稻の栽培の開始から終局まで祭の謹愼を持續するなどは、今の人からは想像もできぬことだが、田の神は春の始めに山から降り、秋の終りに山に還つて、山の神となるといふ言ひ傳へだけは、全國に分布して居る。或はこの間にも物忌の波があり、祭を幾つもの儀式の重さ輕さに、分けて考へることが許されたのかもしれない。

　是も立證の大きな責任を、今後に負はなければならぬ問題だが、私などは實は家々の田の神を、やはり祖靈であつたらうと思つて居るのである。春の彼岸にヂイ樣バア樣が、火に迎へられて里に降つて來るといふことは、乃ち其目(560)的が田業を援護するにあつたのではなからうか。今度キティ颱風の惨害を受けた、赤城山東麓の農村などでは、舊四月八日に定まつて山に登つて行くが、それは過去一年の間に死者のあつた家に限られるといふ。しかし他の地方に廣く行はれる卯月八日は、めでたい家でもやはり山に登り、火祭こそは無いが、山から色々の木の花を折つて來て、天道花と稱して高く竿の先きに結はへて立てる。比叡山の花摘みも同じ日で、この日ばかりは女人禁制の山が開放せられた。之を佛法で解釋する説の、しどろもどろなのを見てもわかるやうに、こゝにも曾ては山に花を迎へる日が古くあつて、それが農業開始の卯月の祭だつたことも考へられる。假にさうだつたとすれば傳教大師の、我が立つ杣よりも古いことになるのである。

　盆を魂祭の日とし始めた原因も、佛法の介助以外に今一つ、暦の改定がトシの始めを、くり上げたことがそれだつたらしい。春の種播き苗取りと、秋の刈入れ稻積みとの中間に、水無月といふ舊六月が、耕作者にとつて氣遣ひな月であつて、こゝで色々のねんごろな祭の營まれたのは、恐らくは祇園以前からの事だつた。今では一般に六月の朔日から、十五日までに祭をすませるやうだが、不安はなほ多くその後にも殘される。八朔は今いふ二百十日に該當し、それを過ぎるとやつと心が休まるといふことは、大昔とてもほゞ同じかつたであらう。さうすると六月晦日のいはゆる夏越以後、この日に入るまでの中間に、一つの戒愼の日を置くことは必要で、それが偶然に朝廷の盂蘭盆會、寺々のいはゆる自恣の日と、合體することになつたのではないかどうか。とにかく記録文獻の上では、法師の干與した行事だけが早く現はれ、家々の魂祭が遙かに遲いばかりに、この風習までが外來のものゝやうに、久しく斷定せられて居たのだが、これほど大きな佛法の影響の下でも、なほ日本固有の考へ方は傳はつて居る。百年二百年の遠い先祖が、毎年この日になると元の家に還り、生きた子孫の者と交歡するといふことが、果してあの宗旨で説明し得られようか。山へ戻つて次の年の初秋に、迎へに來るのを待つて居るといふものが、實際に佛法のホトケなのであらうか。

　日本を圍繞したさま／”＼の民族でも、死ねば途方もなく遠い／＼處へ、旅立つてしまふといふ思想が、精粗幾通り(561)もの形を以て、大よそは行きわたつて居る。獨りかういふ中に於てこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ國土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁榮と勤勉とを顧念して居るものと考へ出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである。それが誤つたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかは是からの人がきめてよい。我々の證明したいのは過去の事實、許多の歳月にわたつて我々の祖先がしかく信じ、更に又次々に來る者に同じ信仰を持たせようとして居たといふことである。自分も其教のまゝに、さう思つて居られるかどうかは心もとないが、少なくとも死ねば忽ちコスモポリットになつて、住みよい土地なら一人きりで、何處へでも行つてしまはうとするやうな信仰を奇異に感じ、夫婦を二世の契りといひ、同じ蓮の臺に乘るといふ類の、中途半端な折衷説の、生れずに居られなかつたのは面白いと思ふ。魂になつてもなは生涯の地に留まるといふ想像は、自分も日本人である故か、私には至極樂しく感じられる。出來るものならば、いつまでも此國に居たい。さうして一つ文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄與するやうになることを、どこかさゝやかな丘の上からでも、見守つて居たいものだと思ふ。

　昭和二十四年の九月五日、この月曜日は、松岡約齋翁が亡くなられて、ちやうど五十三囘目の忌辰である。翁は佛教は信じられなかつたが、盆の魂祭は熱心に續けて居られた。

　

(562)　　　幽靈思想の變遷

　

　　　　　　　　　　一　土俗の荒廢と葬儀

　

　今年などは、自分の此官舍の前の大通りを、所謂赤毛布式の東京見物が少くとも二萬人は通つて居る。今日のやうに地方人の旅行が、殊に大都會との交通が盛んになつては、數百年間何の變化なしに保存せられて居た土俗の消えるのは、瞬くの間であらうと思はれる。

　實際又近年になつて、古い習慣の無くなつた實例は、無數にあるのである。中にも暦の改正に伴ふ正月の儀式、若連中が青年會となつた結果としての戀愛方法の變化などは著しいものであらうと思ふ。唯その中で變り方の少からうと思はれるものは一つある。それは葬式の前後に於ける各種の行事である。

　此理由は恐らくは、心理學者のたやすく説明し得るところであらうと思ふ。多くの場合の葬式には、事前の計畫と云ふものはない。死亡と云ふ大事件に伴ふ個人竝に一般の不安がある。それから死ぬ者は多數が老人で、暗々裡に舊物、舊制度に對する尊重を要求して居る。

　從つて他の生活行爲、例へば赤坊の宮詣り、娘の嫁入りなどには三越で仕度をしたり、元服の褌は在來の猿股で濟ませたりする家庭でも、年寄が死ねば家人が引込んで悲んで居るうちに、近所の者が來て前年他の家で實行した通り(563)の儀式を以て、野邊送りをしてしまふ。これが少くも一部の理由であらうと思ふ。

　併し無意識に古風を遵奉して居る葬送の手續のうちには、いくらも前代民の死と云ふものに對する思想の痕跡を見出す事が出來るものであつて、我々は東京の大都會を取り圍む村、甚しきは市中を歩いて居ても、心掛一つで今尚フォークロアの資料を集める事が出來る。これは最近の研究旅行に於て、一層深く自分の感じ得たところである。

　

　　　　　　　　　　二　内郷村の竹串

　

　例へば内郷村に我々が滞在して居た十日の間に、軍艦河内の殉難者の空葬《からさう》があつた。葬儀は常に、喪家の外庭に於て行はれる。色々の注意すべき變つた設備があつたが、就中珍しいと思つたのは、門の外に僅かの芝土を盛つて、墓標の如き一本の柱を立てる。柱の頭には小さな制札が打ち附けてあつたが、其意味は問ひ糺す事が出來なかつた。

　夕方に此家の前を通つて見ると、その標木の下の芝土へ、長さ七八寸の竹の串に白紙を挿し挾んだのが、いくらも挿してある。此竹串は、又他の部落のある家の門口にも挿してあつた。それは前月に葬式のあつた家である。或は又丁字路の辻に、十數本の此串の挿した處も見た。話を聞いて見ると孰れも同一の場合、即ち死者の近親が野邊送りの歸りに、そこに挿して行くものだと云ふ事であつた。

　寺の住職の話に據れば、此地方ではこれを金剛杖と云ふ。住職は名古屋附近の人であつたが、尾張で金剛杖と云ふのは、今少しく杖らしい長いものでそれを持つものは施主一人、恰も東京で白木の位牌を跡取りが持つて供するが如く、或は神式の葬儀で喪主がつくところの杖などと、性質の近さうなものを云ふさうである。

　此内郷村の儘かな竹串を、同じ名で呼ぶ事は勿論誤りであらうが、同時に又二物の關係を暗示するとも考へ得る。死者の近親の者は供に立つ時から、此白紙を挾んだ竹串を襟などに挿して行き、歸路には一樣に一定の場所に立てゝ(564)去るのである。

　串に挾む紙は、半紙の八つ切りで、これを兩隅に合せて三角に折つた形は、少しく死人の額に貼る一部の學者が紙烏帽子と稱して居るものに似て居る。此三角紙は江戸などでは、幽靈の標象の如く見做して、死人のみがこれを用ゐる事になつて居るが、地方によつては、矢張親族故舊の關係にあるものが、これを附けると云ふ話も聞いたやうに記憶する。

　

　　　　　　　　　　三　佛教の教理と俗信の妥協

　

　それと内郷の竹串との關係の有無は未定であるが、此竹串の方では、今ではお寺に頼んで、何か字を書いて貰ふ事になつて居る。眞言宗の寺ならば、數個の梵字を書く。禅寺では偈の一句などを書いて居る。これも同じ住職の話であるが、此紙に書くべき偈は一定して居る。本來は五言絶句の偈ではあるが、今では節約して唯一句を書くと云ふ事で、自分の見たのは悉く「大道透2長安1」と書いたものばかりであつた。宗旨によつて書くべき文字は區々でありながら、串を立てると云ふ儀式は各派一樣に承認して居る事は、我國の巫術（Magic）が今の宗教に對して、相持して下らざる實　状を語るものである。

　この大道透2長安1の透〔右○〕は、勿論通〔右○〕の誤りに違ひない。禅語としては、更に一層高尚なる哲理が含まれてあつた事とは思ふが、これを葬式の日の竹串の紙に書く場合には、又別樣の動機のあつたものと見ねばならぬ。即ち佛教の教理と平民の俗信との一種の妥協の例である。

　自分の此説明には、些かも牽強附會の必要がないと思つて居る。即ち串を立てる場所は道の辻である。若くは喪家の門口の道路に接するところである。此場合に大道透2長安1を説き聞かす相手方は、明白に亡靈である。汝の天地は(565)廣い、娑婆の因縁に執着するなと云ふのは、要するに亡靈を驅逐する事である。孰れの民族でも必要あつて魂を招く場合には、東西南北も塞がり、天も地も塞がれりと説いて、自然に唱へごとする人の附近に來ねばならぬやうに説くと同時に、亡靈の害を怖れてこれを追はんとする時は、かくの如く何れの道も廣い、何の道も開いて居ると云ふ風に説くのが普通であつて、日本でも例を探せば如何程も出て來る筈である。

　同じ村では、又葬式に新しい草履を穿いて出る事は他の地方と同樣であるが、歸り途に矢張り竹串を挿すと、同じ場所でその草履の片方を、鼻緒を切つて捨てる。近世ではこれを墓場の土を忌むやうに解するのが通例であるが、その推測の當らない事は、片方である事が反證を示して居る。枝葉に亙るを避ける爲めに此點は別に云ふが、恐らくは辻の古木に草輕を掛けたり、仁王門に草履をあげたりする所謂沓掛の慣習と關係あるものと考へられる。

　

　　　　　　　　　　四　玉串の由緒

　

　此竹串の起源は、今日東京の葬儀に使はれる玉串と、同一系統のものかと自分は思ふ。玉串は名は串であるが、實は榊の枝である。今では紙の幣《しで》を附けるもあれば、略するもある。喪主の玉串丈けを稍々大きくする風はあるが、會葬者一同殆と生前何の懇親もなかつた者迄が出しやばつて、これを柩前に捧げる事になつて居る。けれども而も單純なる供物でない事は、その物品の無價値な點からも推測し得る。

　今日の如く葬儀場に盛り上げて來る丈けでは、玉串本來の性質も分らぬが、要するにこれは樹枝に靈魂が依ると云ふ思想を以てするに非ざれは、無意味の事である。

　而してその意味は、玉串と云ふ言葉が既に或程度までこれを示して居る。タマは如何なる漢字を當てゝも、要するに靈である。串は奇（クシ又はクスシ）藥などと語源學上の關係あるか無いか知らぬが、必ずしも今日の魚串などの(566)如く、竹を削つて造つたものに限られなかつたのである。

　斯く云ふよりも、寧ろ生樹の枝を用ゐる方が以前であつたと想像される。一本の喬木が靈の依るところであるが故に、その小枝の運搬が分靈になると考へたのが初めかも知れぬ。

　熊野又は伊豆山に參詣した者が、竹柏《なぎ》の葉を採つて歸り、稻荷山に登つた者が、杉の小枝を翳して下ると云ふ風習は古くからの事であるが、神靈と人間の靈魂とは一つに論ずる事が出來ぬと云ふならば、今一つの著しい例は、京都の愛宕寺の槇の枝である。愛宕寺は小野篁が地獄に通つた道の入口などと云ふ俗傳もあつて、庭上の僅かな芝生を六道の辻などと稱へて來た。盆の十五日に京の町人は、近世に至る迄此寺に參詣して、槇の小枝を持つて歸るのを、亡靈を迎へて來るのだと考へて來た。即ち神の靈、死者の幽魂も、等しく木の枝に乘つて運ばれて居たのである。

　此思想と事實上の竹串、木の串との關係を説くに、自分は以前山伏の用ゐた梵天と云ふものを以て、適例に引いて居る。梵天は江戸でも、石尊の參詣などに際して、偉大なものを作つたが、專ら山伏の任務である。つまり御幣の極めて大なるものである。山伏は豫め此大幣に小さな紙の御幣をいくらも多數に取り附けて置いて、これを各家々を巡つて御幣を分配して歩く。荒神、稻荷等の屋敷の神、又は野の神山の神の小さな祠に、祭の度毎に新たに立てる御幣は、斯くの如くして信仰の中心たる大幣から分配されたる小幣である。その型が最もよく、木の枝の分配と似て居る。

　

　　　　　　　　　　五　死者に對する祖先の考へ

　

　支那で木主〔二字傍点〕と稱して、靈の依り所を家の廟に設けたのも、元は多分今日の位牌などの如き技巧を極めたものではなかつたまでで、矢張り同じ道程を經て發達して來た、靈の依託の標象であらうと思ふ。それらの慣習が徐々に日本の家庭に入り込むに及んで、吾々の宗教生活は寧ろ或意味に於いては、フェティシュ（Fetish）崇敬の古い形に逆戻り(567)したとも云ひ得るのである。木主と云ひ位牌と云ふが如き、永久保存の目的を以て用意せられたものは、次第に本尊の掛軸や御影に近くなつて、愈々後世の亡靈を歡迎する眞宗佛教の信仰を根強くしたが、吾々の祖先の死者に對する考へは、却つて單純なるかけながしの竹串などに、殘り止まつて居る樣である。

　内郷の村民などが作る竹串は、云はゞ一種の利用である。彼等は目に見えぬ亡靈の親族故舊の身に縋つて、再び元の家に戻る事を忌んだが故に、粗末なる竹串にタマを依らしめて、最も交通の自在なる道の巷に欺して置いて來た。言葉を換へて云へば、此竹串がなかつたならば、彼等は幽靈の竊かに家の内に歸つて居ぬと云ふ事を、確かめるべき安心の手段を殆と持たなかつたのである。

　村によつては壁を壞し窓を擴げて、棺の出る道を作る處もある。これ又通例の道を使へば、通例の方法で戻つて來ると云ふ懸念からである。或地方では竹籠、臼の類を以つて座敷中を轉がし廻るところもある。これも目に見えぬ魂が、忍んで居らぬ事を確かめる手段に外ならぬ。或は迂路を取つて、流れ川を渡つて歸るものもある。鹽を振り撒くなどは、最も普通のやり方である。孰れも死者との絶縁を目的としたもので、古くは伊弉諾尊が櫛を投げ、杖を立てゝ黄泉の國との境を作られたのと、同一の思想に出發して居るものである。

　後世の考へから云へば、臨終の際迄嘆き縋つて別れを惜んだ程の情愛のある者が、一朝にして斯の如き冷遇を受くべき道理がないと思はれるかも知れぬ。併し亡靈の人間に對する態度は、又格別のものであつた。既に「合邦が辻」の淨瑠璃には、「内縁の深いもの程猶恐ろしい」と云ふ有名な文句があつて、此思想の痕跡は眼前に迄及んで居るのである。

　

(568)　　　　　　　　　　六　魂迎へ聖靈送り

　

　そこで改めて魂迎へ、聖靈送りの問題が起る。以前は此行事は、盆ばかりではなかつたらしい。少くも東國には年の暮にもあつた事は、徒然草等に見えて居る。今日の盆は新しい人情を基礎にして迎へて祭るが主になつて居る。吾々は度々、少女少年が祖父祖母の墓に詣つて「さあおぶされ」と云つて背を向けたりなどする、優しい光景を目撃したものであるが、しかもこれは十萬億土に常住して居ると云ふ信仰の普及した後の事で、以前は捨てゝ置けば邑落に死者の影が充滿して、疫病を流行らせ害蟲を蕃殖さす所以であるから、危險な期節を選んで一齊にこれを驅逐するのが此月の主たる仕事であつた事と思つて居る。即ち西洋でも云ふ萬靈會（All Soils day）である。

　成程念佛宗の信者の家では、一族悉く淨土に安住するかも知れぬが、無縁の萬靈は機縁なしには佛果を得る事は難かしい。この連中は何時の世になつても、成る丈け安い費用で、一度に少なくも我村から追ひ出してしまはねばならぬ。その爲には松明を點し大きな聲を出し、佛教信仰の盛んな地方では念佛を唱へ、且つ踊り、又銅鏡や鉦を叩き、殆と煩累に堪へずして立ち退くやうに仕向けたのである。鐵砲が輸入されてからは、又鐵砲をも用ゐた。これらの風習が念佛宗の一世を風靡する時代から、更に進んではその信仰の稍々衰へんとする今日まで、尚色々の形を以て、中には殘つて居る。同情あり且つ注意深い學者が出て來なければ、吾々の國民性は、到底明白になる時がなからうと思ふ。

　

(569)　　　靈出現の地

　

　諏訪郡塚原部落の兩墓制現況（民間傳承五ノ五）は誠に親切な好い報告だが、その中で唯一箇所、祭り墓をタッショウと謂ひ助生と書いて居るのは、「塔所であることは説明する迄も無い」とある點だけが、少々不用意な斷定かと思ふ。現に私などは全くちがつた想像をして居るのである。もう一度是非とも問題にしてもらひたい。

　タッショウといふ名稱の分布は可なり弘く、殊に中部地方には多い。大體に古い墓場のやうにも考へられるが果して人を埋めてないか否かも、まだ確かめることが出來ない。下伊那北設樂の二郡二縣境の山村では、正月ニュウ木を削る際に、別に是と似た形の木片を數多くこしらへて、それを家々の墓に持つて行つて立てる。此木をタッシャ木と呼んで居ることは、曾て早川君が「民族」に報告した。其タッシャは墓場のことで、それも塚原のタッショウと同じ語らしいのは、遠州濱名郡で盆の十四日の墓の前の松焚きをタッショウダキ、同榛原郡で同じく十五日の親類の佛參りをオタヅショ參り又は唯オタッショともいふのから察せられる。同じ語は大井川以東の駿河志太郡にもあり、伊豆賀茂郡でも十三日の墓參りをタッチョウマイリと謂つて居る（内田君方言集）。榛原郡誌には家々の盆棚を拜みに行くことでは無く、十四日の墓參りがオタッショ參りだとあるが多分兩方ともさう謂ふことになつて居るのであらう。濱名郡の新居町などでは、墓地をタッチュウバといふさうである。

　しかしすべての墓地を一樣にさう謂ふのではなくて、其中の或特殊のものに限つたのかと思はれるふしがあるから、なほよく尋ねて見なければならない。小縣郡長村の郷土資料には、昔貴人の刀を埋めて塚としたといふ處に、枝四方(570)に垂れた老松があつて其名を笠松、一名刀の松ともオタッチョウの松とも謂ふとある。前に枝垂櫻の問題でも説いたやうに（信州隨筆）、枝の四方に垂れた樹があるといふことは、注意すべきだと私は思つて居る。少なくとも是には石塔は無いのである。

　甲州では中巨摩都誌に、村々に此名の地字が多かつたやうに記憶するが、本が手元に無いので引用することが出來ない。淡路では南端の野島村でも墓が兩所で、一方のいけ墓即ち埋葬地をステバカ、他方の引墓をタチヲといふと、たしか平山君が報告したが、是などは全く塚原と同じである。

　壹岐島の七タッチョに就ては、折口氏も「民俗學」二ノ二で詳しく見聞を録し、又山口君も方言集の中に掲げて居られる。七とはいふが部落毎に必ずといふほど一つづゝあつて、村では敬つてオタッチョウと謂つて居る。場所は小さな丘又は森で、石の祠が普通には立つて居る。館所又は塔頭だらうとの説もあるさうだが、注意しなければならぬことは、爰に盆と正月との念佛供養があり、又は祭禮の日に狂言手踊の奉納があつた。さうして村共同の拜所であつて、或家には專屬して居ないのである。對馬の島にもタッチョウモトといふ地名のある處がある（旅と傳説一一ノ四）。こゝにも古い石塔は多く、其中には應安七年のものさへあるといふ。石碑を個人の爲に建てるといふことは至つて新しい風習で、もとは塚と同じに靈地の標幟であつたかと思はれる。墓であつたにしても只の人のでは無かつたのである。豐後日田郡の法華院温泉の附近にメタッチュウ・ヲタッチュウと稱する二所の墓地があつて、現在は共に墓場となり、寶永頃からの石碑もある。一方は女ばかりの墓場、他は男のみの墓場だと説明する由、川口孫治郎氏の話で聽いたことがあるが、墓地に男女を別つといふ風習は疑はしい。多分は早くから二處のタッチュウバがあつて、それを墓地として使用することも、もう現在は止めて居るから、そんな事を謂ひ得るのであらう。三河の南設樂郡で、タッとチョと二人の女を葬つたといふなどと話はやゝ似て居る。

　大隅百引村の文政五年の書上に、平房の坊屋敷といふ處に、タキショと呼ぶ石塔が殘つて居る。現在は山林だが元(571)は寺領だつたと言ひ傳へて居るとある。このタキ所も恐らく元は諏訪などのタッショウであらう。是は櫻田君の寫し取つて來た文書だが、同じ人は又三重縣志摩の南端和具の海岸に、タッバといふ注意すべき場所のあることを見て來て報告して居る（民間傳承三ノ三）。和具のタッ場は此村の女の忌小屋、こゝでカリヤといふ建物からまつすぐに下つた濱邊で、女たちは是へ降りて潮を浴びたらしく、それが同時に又病ひ送りの藁船人形を流す場所として、及び盆の精靈迎への念佛供養所としても用ゐられ、向つて沖の中にはドウマン島といふ岩礁があつて人に畏れられて居る。是なども私だけは諸國のタッショと同じものかと思ふのである。

　無論是ぐらゐの資料だけでは斷定は出來ぬが、敢て意見を述べるとタッショのショはやはり處であり、タチは現はれることでは無からうか。今日の「立つ」といふ動詞には、もうさういふ意味までは合んでは居ないが、面影に立つといひ、夢枕に立つといひ、雷をカンダチ、朔日を月立ち、その他龍をタツと訓じ、水中の怪物をタツクチナハ（佐賀地方）といふ皐の、例を擧げるならばまだいくらも有る。死者の月忌をタチ日といふなども、今では供養をする日と解せられて居るだらうが、本來は魂髣髴として來り享けることを謂つたのかと思はれる。神靈が立てば必ず祭をする故に、祭をする處と變化したとても不思議は無い。タタリといふ言葉は我々は罰を與へる場合にしか使つて居らぬけれども、沖繩などのタアリは神が顯はれることであり、諏訪の御社でも巡幸の日に行く先々の大樹の下で、祭をすることを、曾てはタタヘ（湛へ）と謂つて居た。現在は祭り墓の所在地をさう呼ぶやうになつたが、以前は或は山や林の奧に「立ち所」といふ靈地があつて、それへ行つて祖先の靈を迎へ又は祭る風習があつたのではないかどうか。斯ういぶ重要な前代の史實が、判つて來るかも知れない大切な手掛りである。たつた一つの單語だが粗末に取扱はぬやうに、なほ大いに用例を累積して見なければならぬ。

　

(572)　　　廣島へ煙草買ひに

　

　ヨソといふ語が今もまだ漠然と用ゐられて居るのを見ても、我々の「異郷」に名を與へる必要の、新たに起つたものであることが察せられる。

　セケン（世間）は外來語であり、且つ又讀書語でもあるが、それでも必要があると我々は之を採用した。セケンシといふ語などは、前者を日常用に編入してから後に、我々の手で拵へた新語のやうに思ふ。

　セケンシは辭書には皆輕蔑の感を伴なふものゝやうに解して居るが、それは又一段の變遷であらうと思ふ。少なくとも私などは、やゝ羨みの感じを以てこの一語を習ひ取つた。村の人たちの知らぬことを知つて居る者、旅行が好きで異郷の見聞に富む人といふのが、その最初の意味であつたらしい。無論斯ういふ人は農作は不得手であり、先例因習には異を唱へやすいだらうから、一方に嫌ひさげすみ警戒するやうな者も無かつたとは言へない。其上に彼等があまりにも歡迎せられた結果、近代は寧ろセケンといふ語が平凡になつて、いつ迄も其知識を元手にしようとする世間師を、侮り輕しめる心持が添ふことにもなつたのである。

　ウゼケンといふ言葉が鹿兒島などにはある。世間が既に親しいものになつてしまふと、その外側に今一つ、大世間といふ層が想定せられる。さうしてやはり未知の世界、誰といふことも無く自分と對立するものを、意味するやうになつて來たのである。

　ウゼケンバラはこの茫漠たる大世間に向つて、あても無く腹をかくことである。今なら厭世などといふ文字が、半(573)分ほど是に當つて居る。憤ると否とにかゝはらず、既に斯ういふものを外界に認むれば、それだけ人生は複雜になつたので、乃ちその内側の今までの小世間が、一つの交際の社會と考へられて來る。言葉が我々の生活を導き、生活が又言葉の内容を分化させる、適切な例だと自分たちは考へて居る。

　ヒロバといふ語は關東東北では、都會の意味に今日も使はれて居る。町は實際は甚だ窮屈なのだが、その取留めの無い戻つて來にくい?態が、遠くから眺める者に、廣場といふ感じを抱かせたのである。

　アラミは北上川流域の低地部を、山沿ひの村々に住む者が呼んで居た語で、聽耳頭巾の鴉の話などにも見えて居る。意味はまだ明らかでないが、是もアラケだのアラトだのといふ語と共に、打開けた遠くまで見える土地のことでは無かつたらうか。

　ヒロミ又はヒロシと都市繁昌の地を謂つて居るのも、寧ろそこまで行く途中の、自由で且つたよりない主觀が元になつて居るらしいことは、九州南部のウゼケンなどと、同じであつたやうに私には思はれる。

　ヒロシマは會津檜枝岐などの狩詞で、人里のことであつた樣に、笹村君は報告して居る（旅と傳説九ノ六）。谷の山小屋から見れば何處だつて廣からうが、なほ靜かな落付いた小さな群の空氣と懸離れた境涯だから、さう謂つて差別を立てやすかつたのであらう。しかし山の中としては可なり珍しい語である。

　シマは狹いといふ形容詞と、無關係な語ではないらしい。乃ち本來は我が處、我が住む邑落に與へた名であつた。沖繩でも島はハナリで、シマといふと個々の村を意味し、葬送の時などにも途中立留まつてシマ見をする。東美濃の山村でも島内安全といふ石の文字が目につく。シマは即ちあの地方での垣内のことであつた。古風な言葉だから、今は儀式めいた時の他は使はぬのである。

　ヒロシマヘユクといふ言葉を、壹岐では死ぬの隱語に代用して居ることが、最近刊行せられた山口君の續方言集に見えて居る。隱語とは言つても、さう新たな工夫を費したものでなく、單に所謂世間を廣島といふ語が、前からこの(574)小さな島にはあつたのを使つた迄であらうが、斯うなつてしまふと、もう他の用途には向かなくなるか、又はよく／＼同情の無い戯れの語のやうに聽きなされる。それは恐らく本の意ではなからうと思ふ。

　ヒロシマといふ語に、もしも斯ういふ感覺が伴なふことを知つて居たら、藝州の殿樣も是を御城下の名にはしなかつたかも知れない。つまりは人が忘れるほどの古語でもあり、しかも會津の山間や壹岐の島では、僅かに覺えて居て何か特殊の用途に、充てたくなる樣ななつかしい言葉でもあつたのである。

　廣島へ煙草買ひに行くといふのは、伊豫の内海側では死ぬといふ代りに、折々使はれる氣の利いた忌詞になつて居る。是などは對岸に大きな都會が出來てから後の、偶然の發明だと見ることも出來る。或はそれを又大阪へ綿買ひにと謂ふ者もあるし、殊に又煙草といふのが近世式に聞えるが、私はなほ古い幽かな聯想が、暗々裏にこの文句の流布を支持して居るやうに感ずるのである。

　タバコは關西地方は殆と一般に、休息の同義語に用ゐられて居る。その煙草を廣島へ買ひに行くといふ文句が、たとへ戯れにもせよどの位安らかな、しかも悠々とした印象を聽き手に與へて居たかは、たゞこの二つの語の平俗的語感を、解する者のみに許される知識であらう。言語はこの人々に取つては藝術であり、學校の先生には輙ち暗記すべき符號に過ぎなかつた。

　イミヅガヘリといふ語の歴史が、少しばかり廣島の煙草と似て居る。是は蘇生をヨミガヘリといふ語の原形だが、越中と飛騨の一部の住民は、射水還りと心得て之を記憶して居たのである。冥途をヨミヂといふ古語がすたれて、之を色々といひちがへる人のあつたことは、既に貞室の「かたこと」にも注意して居る。幸ひに近くに心當りのある者だけは、それを足場にしてこの滅多に使はれぬ語を保管して居たのである。或は二上の峯の麓あたりから、引返して來たやうにも想像して居たのかも知れぬ。そんなら當の射水郡の村々では、蘇生を現在では何と謂つて居るであらうか。或はこゝだけではもうこの一つの「方言」が消えて居るのではないだらうか。

　

(575)　　　第十五卷　内容細目

婚姻の詰〔1948年8月、岩波書店刊行〕

　まへがき

　家を持つといふこと（昭和二十一年九月、世界九號）（原題、「流鶯隨筆」）……七

　子無しと子澤山（昭和二十一年十二月、法律新報七三四號）（原題、　「婚姻の話」）……………一六

　女の身すぎ（昭和二十二年一月、ホープ二卷一號）………………………………三三

　よばひの零落（昭和二十二年三月、思索五號）（原題、「妻問ひ妻よばひ」）…四三

　錦木と山遊び（昭和二十二年一月、婦人公論三十一卷一號）（原題、「むかしの戀」）…………………………………………………………………………………………………五五

　出をんな・出女房（昭和二十二年十二月、沖繩文化叢説）（原題、「尾類考」）…六五

　嫁盗み（昭和二十二年十一月、婦人の世紀四號）…………………………………八二

　仲人及び世間（昭和十六年十一月、岩波講座倫理學十二）（原題、「婚姻方式の變遷」）………………………………………………………………………………………………一〇五

　婚禮の起床（昭和二十二年七月、進路二卷七號）（原題、「婚禮考察」）………一三三

　聟入考（昭和四年十月、三宅博士古稀祝賀記念論文集）…………………………一五二

　

家閑談〔1946年11月、鎌倉書房刊行〕

　自序

　社會と子ども（昭和十六年七月、岩波講座倫理學七）（原題、「誕生と成年式」）………………………………………………………………………………………………………二〇五

　オヤと勞働（昭和四年六月、農業經濟研究五卷二號）（原題、「野の言葉」）……二三四

(576)　厄介及び居候（昭和六年七月、社會經濟史學一卷二號）……………………二五三

　大家族と小家族（昭和十五年五月、婦人公論二十五卷五號）……………………二七一

　家名小考（昭和四年十二月、「東筑摩郡家名一覽」）………………………………二九一

　主婦に就ての雜話（昭和十六年十月、オール讀物十六卷十號）…………………三〇八

　女の家（昭和十八年五月、高志路九卷五號）………………………………………三一二

　家と文學（昭和十九年七月、八雲三號）……………………………………………三二〇

　

農村家族制度と慣習（昭和二年九月、十二月、昭和三年五月、農政講座二、三、四）

　第一節　家族制度と勞働組織…………………………………………………………三四三

　第二節　家族制度と信仰………‥……………………………………………………三五五

　

親方子方（昭和十二年十二月、家族制度全集史論篇第三卷親子）…………………三七〇

　

小兒生存權の歴史（昭和十年九月、愛育一卷三號）…………………………………三九三

　

童兒と神（大正十四年五月十八日、大阪朝日新聞）…………………………………三九八

　

産婆を意味する方言（昭和二年二月、民族三卷一號）………………………………四〇一

　

私生兒を意味する方言（昭和二年五月、民族二卷四號）……………………………四〇五

　

(577)私生兒の方言（昭和二年七月、民族二卷五號）………………………………四〇七

　

私生兒のこと（昭和二年十一月、民族三卷一號）……………………………………四〇九

　

常民婚姻史料（昭和八年二月、三月、四月、五月、人情地理一卷二號、三號、四號、五號）………………………………………………………………………………………………四一三

　

狐の嫁取といふこと（昭和三年九月、民族三卷六號）………………………………四八二

　

耳たぶの穴（昭和十三年八月、ひだびと六卷八號）…………………………………四八五

　

にが手の話（昭和十七年九月、民間傳承八卷五號）…………………………………四八九

　

にが手と耳たぶの穴（昭和十七年十一月、民間傳承八卷七號）……………………四九二

　

耳たぶの穴の一例（昭和十七年十二月、民間傳承八卷八號）………………………四九六

　

葬制の沿革について（昭和四年六月、人類學雜誌四十四卷六號）…………………四九九

　

葬制沿革史料（昭和九年九月、宗教研究新十一卷五號）……………………………五二一

　

(578)魂の行くへ（昭和二十四年十二月、若越民俗五卷二號）……………………五五三

　

幽靈思想の變遷（大正六年十一月、變態心理二卷六號）……………………………五六二

　

靈出現の地（昭和十五年四月、民間傳承五卷七號）…………………………………五六九

　

廣島へ煙草買ひに（昭和十二年三月、民間傳承二卷七號）…………………………五七二

　

　　　　　　　　 〔2014年5月28日（水）夜7時、入力終了〕