定本柳田國男集 第十七卷(新装版)、筑摩書房、1969、10、20(1970.12.10.2刷)
 
 
(1) 民謠覺書
 
(3)   自序
 
 鼻唄考の稿を起した頃には、筆者はちと大き過ぎる野望を抱いて居た。歌謠は他の一切の言語藝術も同じやうに、その一つ/\に本來の用途があつたといふこと。人が是といふ生活上の目的も無しに、單に節が面白いから又は歌の心が身にしむからといふだけの理由で、記憶して居て時とも無く其文句を口ずさむのは、鼻唄といふものより他には無かつたといふこと。さうして何に用ゐてよいのか定まらぬ歌などを、作つて置かうといふ人は元は無かつたのだから、つまり今日の所謂文藝の根源は鼻唄に在つたのだといふこと。この三つの事實がうまく行くと證明し得られるかも知れぬと思つて居たのである。
 不幸にして其計畫は頓挫してしまつた。それから又少しく支度を改めて、やゝ氣永に着手したのが民謠覺書であつたが、それもやつぱり二篇だけで後が續かなかつた。果して是ばかりの文章を以て、當初の趣旨が汲取られ得るかどうか。自分にも頗る心もとないのである。しかし少なくとも茲に省みられない一つの問題が、有るといふことまでは認めてもらへるであらう。文藝が文字の發明を待つて始めて人の世に現出したものでないことは、今日はもう若い人々の常識になつて居る。それで居てその新舊二種の交渉が、有るやら無いやらも考へて見ようとする者は無かつたのである。一つには訓釋の技術ばかりが、無上にもてはやされる結果であり、又一つにはあても無い蒐集癖が、我から亂雜な資料の底に身を投げて居たのである。一度は兩方の見えるやうな岡の上に、佇立して遠く眺めて見てはどうか、といふ風なことをこの本は慫慂する。
 古い大昔の數限りもない民謠が、どうなつてしまつたらうかといふことも好い問題である。言葉がやゝ古びて意味が取りにくゝなると、變へたり忘れたりすることを我々は意としなかつたが、それにも段階があつて子供な(4)どは、久しく口拍子によつて片ことのまゝを持傳へ、又は無心に辭句だけを暗記して居ることもある。手毬唄の研究は斯ういふ興味を以て私の着手したものであつた。是も一通り材料を整理したのみで、文章にして見る機會が來ず、そのうちに新しい時代の遊戯の中から排除せられて、直接の觀察は不可能になり、忽ちフオクロアの領分の外になつてしまつたのは惜しいことである。斯ういふ時おくれの失望は私たちの學問には多い。是がこの本のやうな未熟の果實を、急いで収穫しようとした又一つの辯疏にもなるのである。
 記録の側からでも推斷し得られるやうに、我々の國民音樂は近世に入つて、恐ろしい程の大きな變革を受けて居る。國固有のものを本位として言へば、零落と評しても必ずしも過言で無い。纔かに殘壘を保つて居るものが民謠であつたとすれば、その詞形が此の如く改まり、用語がどし/\と現代語化し又は方言化して、一つ前の姿を忘れてしまはうとして居るのは、心細いことだと言はなければならぬが、是は寧ろその背後にあるものが、意外に根強くしつかりとして居る故に、却つて是だけの自由を許したのかとも樂親し得られる。兼常有馬町田藤井等の諸君の、永い間の撓まざる努力は、今に必ず愉快な成績をもたらすことであらう。私は聲律の問題に無識であるだけに、特に果知らぬ大きな希望を是に繋けて居る。たとへ言葉は次々に變つて行かうとも、歌を求むる事情は續いて居る。之に動かされる感情も、たしかに近い頃までは遺傳して居た。氣樂によその口眞似の出來たのは鼻唄か、もしくはやゝ檢束の乏しい酒宴歌だけで、他の多くのまじめな作業に至つては、内に持傳へた生活の間拍子ともいふべきものがあつて、自然に古くからの制約を守らずには居られなかつたらうと思ふが、どんなものであらうか。少なくとも之を試み確かめる機會が、もう我々の眼近くまで來て居るのである。それと落合ひ話し合つて見る爲にも、とにかくに今までに知つたことだけを、私は公表しなければならない。
 前に「民謠の今と昔」といふ小さな本を出して、片端この感想を述べて見たことがある。近世の採集に數多く出て來る村の歌に、
 
(5)   わしも若い時や袖つま引かれ
   今は孫子に手を引かれ
 
といふ類の詞章がある。是が古今集の「今こそあれ我も昔は男山」といふ和歌と、同じ一筋の流れに浮んだ新しい言の葉であることは明らかだが、もしもこの民謠が最初から、たゞ老を歎き衰へを悲しむだけの歌であつたら、耳を傾ける若者も無く、又第一に自ら之を謠ひ上げるほどの、物ずきな老人も少なかつたらう。同じ心持が又一方に、
 
   おらも若いときや山さも寢たが
   こだす枕に澤なりに
 
といふ、至つてなまめかしい山唄になつて居るのを見てもわかる如く、曾てはもつと適切なる實際の用途があつたのである。人の若い時は夢の間に過ぎ去つて、再びもとの舊巣を訪れるといふことは無い。それだから力の及ぶ限りの活躍をして、空しく青春の日を費し盡さぬやうにといふ、餘韻を含んで居たればこそ聽く者の胸を打つたのである。その青春の日の事業としては、今は色々の大切なものが加はつて居る。單に配偶者を選び家をもつといふことだけを、若い時の計畫と認めて居た時代などは、遠い/\大昔のことになつてしまつた。しかも一つの民族の團結が續く限り、この老い行く者の心からの歎きが、新たに目ざめた人々の激勵となることは、學藝の上でも變りは無いのである。過ぎて返らぬ若い時を振囘つて、うまくしおほせた、完全であつたと、自得し得る者などは一人だつて無い。同じ緑の野の草を踏み、笑ひさゞめいて後から來る人々に、つまらぬ路草の爲に疲れてしまはぬやうに、早く正しく學び且つ覺えて行くことを勸めるにも、やはり斯ういつた自ら憐む歌を、高く唱へることが最も痛切な手段だつたのである。近世の民間文藝の中でも、この心持がなほ形をかへて保存せられて居る。たとへば江戸の笑ひ話の一つに、疱瘡をわづらつて居る姫君の御殿へ、窃かに招待せられたあばた男の話(6)がある。まうしおひい樣、あんまり御掻き遊ばすと、此人見たいな御顔になりますよ、といふのが其話の結末であつた。當世の若い人たちなどは、言はゞその疱瘡を病みたまふ美しい姫君である。もしも之に對して何かの參考になることが出來るならば、この一卷の研究がたとへ穴だらけであつても、さう耻かしがるには及ばぬのではないかとも思つて居る。
 
(7)     民謠覺書(一)
 
       一
 
 過去三十年ほどの民謠採集によつて、大よそ我々にわかつたと思ふことが若干ある。それを簡略に一わたり記述して置くのは、研究者の爲に渉獵の勞を省くだけで無く、更に今後の捜索に無益の重複を避けしめる利益がある。地方の人は全體に熱心の餘り、よその事實を顧みない弊があつた。其結果は折々鄰どうし、何度も同じ事を報告していよ/\記録を煩雜ならしめ、しかも一方には或る一つの發見を利用し得ないばかりに、餘計な辛苦をして居る場合も多いのである。現在までの調査成績は、既に相應に目ざましいやうであるが、實はまだ漸う國の約半分に、ざつと目が屆いたといふに過ぎない。問題と新事實は、今でも次々に現はれて來ようとして居る。是に臨む者の用意の有無は、大きな效果の差をもたらすであらうのみならず、外から此研究の成行きを見て居る人々に取つても、一應の中間報告を以て關心を新たにする必要があると思ふ。自分は比較的便宜の地位に在る故に、敢て進んで此任に當るので、個々の採集家の功を横取りしようとはしない。たゞ彼等の熱心の價値に、甲乙を付ける結果になるかも知れぬが、實際又さうしなければ學問は成長しないのである。
 
(8)       二
 
 最初に「民謠」の範圍をきめることに、我々はちよつと苦勞をした。當世の詞客が筆を捻して、作り出す麗篇にも亦同じ名を與へて居たからである。しかしそれも今は過去になつた。あれはたゞ民謠風の新體詩だと我々が言つたので、問題は片づいてしまうた。童謠といふ中にまだ僅か新作品がまじつて居るが、少なくとも誤つてそれを採集して來る者は一人も無い。もとは無法なことをしたもので、民謠と名づけつゝ黒う人《と》に節を付けさせたのであつたが、幸ひにして實地にはそれを民謠と謂つては通用せぬので、いつと無く小唄と名乘つてくれるやうになつて差別はよく付いた。そこで民謠は作者の無い歌、捜しても作者のわかる筈の無い歌と、定義を下して先づよろしいことになつた。實際は歌ふ人、即ち最初の歌ひ手が、事實上の作者であつたらうと思ふが、此點はまだ證明することが出來ない。
 それから童謠も童兒用民謠であるや否やが、又一つ問題になる。是は童謠といふ語の内容次第で、今のやうに子供の口から出る言葉は、何でもかでも童謠と言はうとする人があるとなると、寧ろ民謠とは別のものとして、別途に採集する方が安全に思はれる。童兒は母を喚ぶにすら大聲を揚げ、又少しばかり節をつける。歌をうたふつもりで無いことは明らかである。彼等の口癖になつて居る言葉、又人から聽き覺えて、群が集まつて昂奮すると唱へる言葉の中には、外形では大分民謠と近いものもあるが、よく見ると目的が少しちがひ、仲間にも聽かせることは承知の上だが、當の相手は人で無いもの、即ち花とか蟲とか小鳥とか、さては夕燒けの空などに向つて、言ひかけようとする點が「となへ言」の方に近よつて居る。鳥蟲草木神靈妖魔敵人などに向つて言ふ詞は、言ひ手が成人でも子供であつても、同じカテゴリイに入れるのが相當であらう。尤も民謠と唱へごとは、最初から非常に似たところが多く、古風な祭の歌は勿論、此頃起つた曲にもわざと聽き手を天然のもの、もしくは手に持つ器物などにしたやうな形を取つたものが少なくない。鄰どうしだとは言へるが、やはり分界を立てられるなら立てた方がよい。原始へ復つたら此區別は無い(9)のかも知らぬが、今でならば人だけを聽き手にしたのが民謠、主たる聽き手を仲間以外の者に、豫期したのが唱へごとゝ解してよからう。童言葉の先づ全部は、さうなると後者に入るのだが、子供だけにそれが少し明確を缺いて居るから、我々は寧ろ兩間に別に一つの目を立てようとするのである。勿論それだから採集に及ばぬといふのでは無い。たゞ民謠として一しよにしてしまはぬ方が便利だらうといふ迄で、細かくいふと同じ童兒の口ずさむ言葉でも、手毬唄とか御手玉唄とかのやうに、唄と名が附いて民謠に屬しなければならぬものさへあるのである。
 しかも其手毬唄などにも、可なり顯著なる相異が、普通の民謠と比べて認められる。一言でいふと意味の不明なことである。民謠はいつの世にも必ず現代語にうたひかへられ、少しでも意味が不明になれば改刪せられ又は廢棄せられる。たとへ誤解にもせよ歌ふ者はよくわかつた積りで居り、子供か子供に似た者で無いと、わかりもせぬのに口眞似だけはしない。是に反して一方は口眞似だらけである。故に日増しに暗記の間ちがひが多くなつて、今あるものは全部が全部、壞れて崩れて又縁の無いものと繋がつて居るのである。歌の文句の變化の歴史は心理學のダータとしては有意義であり、又我々の方でも比較の方法を盡せば、興味ある經過が跡づけ得られる。たゞ是だけ明らかなる異色のあるものを、民謠と一括して類推することが出來ぬといふのみである。此點にかけては類こそ全くちがふが、古い御社に傳はつて居る神歌もよく似て居る。是も見やうによつては唱へごとでは無く、民謠の一種だと言ふことは出來るが、意味が取れぬからとて直ぐに罷めてしまふことが許されぬ爲に、やはり少しづゝ暗記の失敗が累なつて行くのである。神樂獅子舞等の多くの古曲は、それ故に是も別に取扱ふ方が效果は大きい。此中には民謠に望めないやうな古い言葉が、多少の誤謬を伴なひながらも、今尚もとの姿を遺して居る。別にして置けば或は單なる記録以上に、時代鑑別の尺度として役立つかも知れぬ上に、一方には是を普通の民謠の中に加へると、比較を混亂させる氣遣ひがあるからである。
 
(10)       三
 
 斯うして民謠の範圍と堺目が明らかになると、次には分類といふことが必要になつて來る。採集者にとつて大切なものは、初めには先づ活きて居るか、死んで居るかの見分けである。現實に今でも群によつて歌はれて居る民謠は、同時に又成長しつゝある民謠とも言へる。去年の踊の夜にはあゝは言はなかつたといふ場合もあらうし、あすが日來て聽けばもう文句が少しちがふといふ場合もあり得る。從つて或る日或る場所での採集といふことが、それ/”\の意味をもつことになるのである。音樂との關係に至つては、活きた民謠でないと知ることが出來ない。日本の民謠音樂は、曩に兼常清佐氏の系統立つた調査があつて、それが火災に失はれて近頃漸く再興に着手せられる迄、十何年かの月日は殆とあだに過ぎた。幾ら萬國民間藝術研究團から熱心に尋ねて來られても、今はまだ要點とか代表的なものとかを指示することは出來ない。私の想像では、歌曲の自存力は歌詞よりもよほど強靭であつて、少なくとも部分的には、かなり古いものが殘つて居るだらうと思ふが、果して實査と比較とによつて、それが立證せられるものかどうか。兎も角も民謠成長の永い歴史は、音樂と手を組んで進んで居る間ならば、まだ幾分か容易にその足跡が辿つて行かれる。一つの詞章が単なる替へ歌であるやら、又は別系統の次に入つて來た歌であるやらは、聽いて見なければわからぬ場合が盆踊唄などにはよく有る。殊に何でもかでも七七七五の、よしこの式になつて後は尚更である。
 然るに近年の民謠集の多數は、量の豐富を誇りとする餘りに、毎度この大切な差別を無視して居る。ひどい或る一つの例では、後水尾院の御時に成つたとも傳ふる諸國盆踊歌の記録を、各地近頃の採集の中に突込んで居る。古い帳面がたま/\出て來たのを、何とも言はずに報告して居るものも確かにある。文部省の俚謠集は、大がゝりな集録で結構なものだが、是亦自分で聽いて來たもので無い爲に、かなりさういふ種類の過去の歌を編入してあるかと思はれる。方言集のやうなものだと此弊害はまだ我慢が出來る。たとへば吾山の物類稱呼は、今から百六十年ほど前に出來(11)た本だが、其中の方言の九割はまだ行はれて居る。それを轉載しても人を誤りに導く危險は少ない。是に反して民謠は古くなれば、廢止せられる方が寧ろ普通で、一人ばかりが十年前の流行曲を歌つたら、吹出す者はあつても附いて來る者はあるまい。それが又採集の興味、もしくは學的價値でもあるのだから、いやしくも是を文化史への貢獻としようといふには、轉載だけは是非見合はすか、強ひて出したいなら何に據つたか、大よそいつ頃のものかだけは明示しなければならぬ。それを構はぬのはつまり人眞似で、集めて何になるといふことをまだ考へて見ないからである。
 但し近頃の民謠衰微期に於ては、或は右の二大別だけでは、まだ片付けることのできない採集上の問題はある。たとへば私たちが幼年の時に、聽いて覺えて居る子守唄のやうに、文句は知つて居てどうしても歌へないものが大分ある。現在行はれて居らぬ以上は死んだ民謠と謂ふの他は無いが、別に記録は無くたゞ暗記の中にしか殘つて居らぬとすれば、、やはり採集して置くことが必要である。續いて觀察し又實驗することはもう不可能であらうとも、單なる一つの事實として其湮滅を防ぐだけはしなければならぬ。乃ち是を乙ノ二とでも名づけて、別にして他の地方の採集の參考に供すべきである。實際一方では既に記憶も幽かになり、他ではまだ活き/\と流布して居る場合は相應に多い。次には是と對立して甲ノ二とも謂ふべきもの、即ち老人などに頼めば歌つて聽かせてくれるが、普通にはどこにも用ゐられて居ないもの、活きて居ると言はゞ言はれるが、成長は既に止まり、衰亡は眼の前に近よつて居るもので、その散佚を恐るゝ者の關心は、寧ろより多く是に集注する。しかも採集の技能は特に此部面に於て大切で、傳承者の素質價値の吟味はその數の少なくなるにつれて、一層念を入れなければならぬことになる。一人しか節を知る者が無くなつても、勿論出たらめをいふとは限らぬ。却つて昔を慕うて極力是を傳へようとするたちの者は必ず居る。たゞそれを見つけることが容易で無いだけである。
 
(12)       四
 
 以上四通りの民謠の現存?態、その中の三つだけは採集しなければならぬが、各ちがつた用意を以て是に臨むがよいといふこと、是を假に採集前の分類と名づけて置かう。次には一應採集してからで無いと、仕分けることの六つかしい種別がある。それも簡單にいふと二通りで、一つは土地に生まれたもの、他の一つは他所から入つて來たもの、即ち地唄と流行唄との差であるが、土地と謂つても區域が實は廣い。村の名・人の名又事件などを歌に詠み込んで、明らかに爰でなければ有り得ないと思ふものでも、實は其部分だけを入れ換へて他にも行はれて居るのがあるから標準には取り難い。最初から各地一樣に生まれ出たといふ例も絶無とは言はぬが、多數は知らぬ間に種が飛び花粉が浮遊して、元は何處とも究め難いまでに、廣い版圖を占めて居るのである。だから必ずしも動かぬ目標では無いけれども、やはり植物のやうに起りの知れぬものを自然生とし、明らかに人間の意圖工作によつて、外から持つて來たものを移植といふの他は無い。但し普通に我々が流行唄と呼んで居るものは、是よりも又遙かに限られた一部分で、其性質が幾分か觀賞花卉もしくは鉢栽ゑなどゝ似て居る。最近の櫻音頭・東京音頭などがよい例だが、背後に多少とも流行を企つる者があり又細工がある。こちらには格別入用は無い場合にも、外の力によつてする/\と入つて來る。さういふものはもし見分けることが出來るならば、採集の外に置いてちつとも差支へがない。實際又民謠と謂ふべからざるものが、此中には幾らもまじつて居るのである。しかし年月を經て行くうちには、それが不明になつて土地の者にまでも、借り物だといふことが忘れられることがあり得る。故に一旦は採録して置いて、追々に別の尺度によつて整理する必要を生ずるのである。
 一つの實例をこゝに引くことを許してもらはう。小池安右衛門君の集めた諏訪の北山民謠集の中に、或る老女の覺えて居て歌つた(甲ノ二)、
 
(13)   越後高田の雪ふる里に
   あやめ咲くとはしをらしや
 
といふ一章がある。文句の表から發生地は知れるやうなものだが、既に久しく江戸で流行つて居た「潮來出島《いたこでじま》」がある以上は、それを越後へ運んで行つて、さて改作をしたといふことは疑へない。ところが北山村は蓼科山の南麓で、老女は此谿に老いた女だから、さういふ運搬に參與した筈が無い。たゞ是によつて想像し得られるのは、高田は中仙道との往來が多かつたらうから、單なる旅人の手でも、是を其宿場の和田なり長久保新町まで、持つて來ることはさう困難では無く、そこへは馬方が此村附近からも、毎度行通ひをして居たので、いつしか入つて來て酒宴用、もしくは單なる鼻唄用の、歌詞として採擇せらるゝことになつたのである。この一篇には幸ひにして手がゝりがあつたが、もしも丸々固有名詞を缺いて居たら、少なくとも此樣な迂遠な路順を取つたことは、知る人が無くてしまふだらう。それ故に民謠の發生を究めようとする者は、必ず其因子の一つとして、隱れたる流行唄の影響といふことを算へ、もしくは此種の交雜物を除いて行つて後に、始めて民謠の固有の性質を説くべきである。流行唄も古くは皆どこかの土地の民謠であつた。此に文藝作家の個人的才能が働くのは、ごく近頃の新現象に屬する。だから日本總國の民謠を研究するには、産地の遠い近いを問ふにも及ばぬやうなものだが、移動運搬の間には、たとへば三味線にかゝり又は花柳界の潤飾を受けるといふやうな、色々餘分の經歴が附け加へられ、手製と借り物との用途の差、效果の大小は免れぬのである。況んや是を各郷土の生活の過去を知る手段とし、是によつて祖先の文藝能力、智巧や趣味や人生觀の展開して來た經路を迹づけようとするには、此區別を無視しては正しい判斷の得られないことは明白である。
 
       五
 
 それ故に私たちの採つて居る方法では、先づ元歌といふものゝ發見を順序として居る。元歌といふ名は或は當らぬ(14)かも知らぬが、民謠が個々の目的の爲に歌はれて居るのを見ると、數ある歌詞の中には、全然その場合と交渉の無いことを敍べて居るものと、何等か其目的に觸れたことを歌ふものとがある。その後者の方が元から有つたらうと思ふ故に、假に是を元歌と呼んで置くのである。元歌も素よりたゞ一つとは限らず、其中にも新舊はあるべきだが、大體に歌を必要とする事務又は作業と關係が深く、正面から目的を表白した素朴な形のものを、一段と前のものと私などは見て居るのである。是も例を以て説明をする方が樂だが、たとへば俚謠集拾遺に出て居る三重縣の草取唄に、
 
   草は取りよいなぎおもだかは
   ねぶかぞろひは身をやつす
 
   夏の田の草ざんざと取られ
   居りてこの米食ふぢや無し
 
   すいてはまれば泥田の水も
   飲めば甘露の味がする
 
といふ三首のうち、終りのものは泥田の聯想があるのみで、男女の情を歌つたに過ぎず、第二のものも功程を念じては居るが、下の句には一身の私を敍して居るだけなのに比べて、初めの一つは草は取りよいに始まり、取るべき草の名を列ねたのを見ると、此方が早く出來たらうとも考へられる。しかも三つは三つながら、まだ田の草の因みはあるから、始から此作業の爲に出來たのかも知れぬに反して、他の多くの例では全く縁の無いおどけ歌があり戀歌がある。夏の炎天の烈しい勞苦を紛らすには、勿論斯ういふ唄も必要ではあつたらうが、是は少なくとも田草取の爲に出來た民謠では無く、何か他の目的に備はつて居たものを、此場合爰へ借りて來たのである。其證據には他の地方では、同(15)じ文句が盆踊その他の全くちがつた場合に歌はれて居る。自分はさういふものを轉用唄と名づけて、右の元唄と對立させようとして居るのである。
 元唄と轉用唄との差別を明らかにする爲には、個々の目的即ち用途によつて、民謠を細かく分ける必要がある。草取唄臼唄等々の名目は各土地にも前からあり、多くの採集記録にも踏襲して居るのだが、遺憾なことには是と民謠其物の名稱とを混同し、何節何口説といふやうな語と同列に置いて居る上に、更に雜謠などゝ題した所屬未定のものを多く殘して居る。私の見る所では、雜謠と稱すべき民謠は有り得ない。民謠は必ず是を用ゐるべき場合即ち目的があり、しかもそれは總括して作業と名づくべきものであつたと思つて居る。記録文藝には文藝の爲の文藝といふものが早く起つたが、口承文藝はつい近い頃まで、もつと具體的な用途が外側に必ずあつたのである。
 「作業」といふ語をもし人間の社會的行動、即ち人と共に又人に對して、爲さるゝしぐさの一切を意味するものとするならば、民謠にして作業唄に非ざるものは、一つも無かつたと言つてよろしい。今でも例外は殆と鼻唄だけであつて、是とてもよく見ると淋しい路を行く爲とか、よそながら誰かに我立場を知らしめる爲とか、何か明らかにし得ない目的が有るらしいのである。然るに外國の學者たちはどうしたわけか、民謠の起りは最初から多岐であつて、中には上流の文學も同樣に、何の用途も無くたゞ歌ふ爲に歌ふものがあるかの如く解する人も多い。果してさうであるか否か。是はさしあたり私たちの課題として手頃なものである。幸ひ大分集まつて來て居る日本の民謠に照して、個々の種類に一貫した發生變化の法則ともいふべきものが、有るか無いかを尋ねて見ようと思ふ。
 
       六
 
 西洋人の書いたものには、Work Songs は民謠の一部分だと謂つて居る。是は勿論勞働歌とでも譯すべき語であつて、私のいふ「作業」よりは範圍がずつと狹い。しかも向うでは既にその多くが零落して居るに反して、日本では今(16)もまだ種類が繁く、活きて殘つた歌の量も少なく無いのだが、此分は後へまはした方が説明に便である。War Songs といふものが民族によつては行はれて居るさうだが、我邦では民謠としては一向に發達して居ないらしく、以前あつたといふことも私は聞いて居ない。Religious Songs といふのが又一項目になつて居る。是は絶無であるまいが大抵は文筆作品であつた。民謠ではたゞ單なる信仰の表白で無く、雨乞ひ春祈 祷その他の特殊の行事の、遂行を容易にし又效果多からしめる爲に、目的を定めて用ゐる歌があり、無論その詞には宗教的感覺を托して居るが、是は他の種の民謠にもあることだし、用途が限つてあるのだから寧ろ察歌とか儀式歌とかいふ方が當つて居る。祭も儀式も我々から見れば作業である。それを履まなければ安泰なる生活が續けられぬと思つたのだから、その必要性は米を作るにも劣らないのである。
 次には Love Songs といふもの、是が日本の民謠の中に無いと謂つたら不思議がられるだらうが、是も宗教と同樣にもつと具體的なそれ/”\の用途があり、しかも單なる戀愛行爲だけに伴なふ唄といふものが此方には少なかつた。西洋の田舍では、日暮れて思ふ人の窓に訪ひよつて思ひのたけを打明けんとした Serenata や、別れに際して心の變らぬことを宣明した Alba 又 Aubade ともいふ後朝《きぬ/”\》の歌が起り、それが後々の音樂に艶と芳香とを供與したといふが(Krappe, The Science of Folk-lore.p.159)、我々の親たちは鼻唄で用をすまして居た。鼻唄といふのは別に本來の目的のある歌を、記憶して居て適切な場合に暗誦して見るのである。春の小鳥の嘲つて居る声を聽くと、最初は戀だけの爲にうたふ民謠が、日本にもあつたのだらうといふ想像は起るが、兎に角久しい間兩用ゐのものばかり多かつたのである。他の種の作業唄が異常に發達したか、又は戀をする機會が寒國のやうに乏しくない爲に、特に專用のものを設け置くに及ばなかつたか。恐らく原因はこの二つの何れもであらう。但し純なる戀歌でも私のいふ作業唄には入る。一つの民族としては宗教と併立して、戀ほど重要なる「作業」も少なかつたのである。我々は決して是を要しなかつたので無く、無くても濟むまでに勞働の歌がよく戀を詠じ、常から異性の心を試みしめたと共に、同時に是に(17)よつて勞作の苦と單調とを、忘れて活氣づかせたのは一石二鳥であつた。是も實例を引いてもう少し詳しく言ふと、貴人は短册に「君や來ん」といふ類の和歌を書いて、僅かに幽情を表白して居た間に、平民の家では夜なべに絲を引く者が、紡ぎ車の錘のぶんぶんといふ音に合せて、聲高く次のやうな民謠を唱へて居た。
 
   ねたや睡むたやねた夜はよかろ
   しめて寢た夜はなほよかろ
 
 それを門に立つて靜かに聽いて居た者があつたのである。誰が始めて歌つたかはわからぬが佳い歌である。作者は木綿絲車の製作より古い氣遣ひは無いのだが、無いも同然だから判る見込が無いのである。それから男女が年頃になつたといふ知らせ、是も普通には草刈歌を以て間に合はせて居た。草刈は至つて自由な勞働であつて、歌で手足の動作を統一する必要も無い位だから、或は第二の目的の方に力が入つて居たかもしれない。季節は雲雀嘲る春の半ば、物皆緑する廣野が舞臺であつた故に、清い多くの Rosa fresca は生まれて居る。東北の方では山唄といふのが、同じ役目を果して居たらしい。即ち春の雪消えに青物を採りに行く時の唄であつたが、酒宴の場合などにも轉用せられて居たのは、曲と詞の艶めかしかつた爲と思ふ。或は是を十五七節などゝも謂ふ。さういふ文句を以て始まつた歌が多かつたからで、是と山唄とは最初から別の民謠謡ではなかつた。
 
   十五七が澤をのぼりにうどの芽かいた
   うどの白芽をくひそめた (鄙の一ふし)
 
 
       七
 
 Dance Songs は日本では主として盆の季節のものであり、たゞ僅かばかりが雨乞ひ神祭りの行事に編入せられて居る。人の?説く所の盆踊と戀、即ち配偶選擇の機會を是に求める風習には、偶然で無い原因があるものと信じて居(18)るが、あまりに問題が幽玄であつて、今はまだ發見の手掛りすらも無い。私の言ひ得るのは此踊が年と共に複雜となり、古い方式はまだ一方に殘りつゝも、次々に新しいものを外から採用して、其悦樂は愈豐かに、元の目的の日を追うて不明に歸して來たことである。其結果として踊はたゞ面白い歌を聽く爲の催しでゝもあつたかの如く、解する人も無いとは言へぬが、現在各地の例を弘く比較して見れば、其想像の當らぬことは證明し得られる。即ち場處によつては手を休めて歌や口説を聽く位に、言葉の繁多なる盆踊もあると共に、他方には一句の歌も無くてさらり/\と只踊つて居る例もあるのである。つまり元歌が既にやゝ古びすたれて、新たに外から轉用し又は新設した民謠が、際限も無く多かつたといふだけである。踊が非常に歌を盛り易い器であつたと迄は言へるだらうが、其目的がたゞ歌ふことに在つたとは、決して見られないのである。盆踊唄の元歌として、今尚行はれて居るものは八つや十ではない。たとへば踊の輪の少し崩れかけた時に、急いで誰かゞうたふのはきまつて居る。
 
   そろた揃うたよ踊り子はそろた
   稻の出穗よりまだそろた
 
 斯う謂つて歌ふのは大いなる暗示である。「お月ちよいと出て山の端照らす云々」の歌なども、誰かゞ手拭の端を口にくはへて、踊の輪に入らうとして考へて居るときに歌はれる。中にはさう歌ひながら引張り込む者もあるのである。それから、
 
   盆の十六日踊らぬやつは
   猫か杓子か花嫁か
 
などゝいふのでも、或は又「死んだほとけも盆にや來る」と謂つたり、「あすは野山のしをれ草」と歌つたりするのも、すべて踊といふものが始めから、激勵せらるべき作業であつて、歌の面白さに踊りたくなるのでは無いことを、證明して十分なやうに思ふ。此問題は別に是を考へる人があつて、民謠研究の管轄する所ではないが、たゞ一言だけ現在(19)までに判つて居ることを述べるならば、踊はもと村總員の勇ましい足踏みによつて、目に見えぬ害敵を村外へ追出すべき重要なる信仰上の作業であつた。歌はたゞ作業の統一と持續とを助ける爲に、設けられたる補助手段に過ぎなかつたのである。それが非常に面白い又樂しみなものになつた理由は、別に歌以外の?況から捜し出さねばならぬのだが、結果に於て次々に新しい曲に惠まれて、踊は終に今日の所謂農村娯樂となつてしまつたのである。
 もう一度説く機會が多分有らうと思ふが、此序を以て片端述べて置きたいことは、踊への轉用唄は數が極めて多かつただけで無く、其中には又二通りの種類があつて、それが入つて來た原因が全くちがつて居るといふことである。普通にその一方を踊唄、他方をクドキと呼ぶことになつて居るが、單に名稱の相違と文句の長短だけでは、この區別は明らかに立てられない。雙方共に寧ろ反對側の方の性質を帶びたものがあるからである。要點は踊といふ一種の精神的作業を、支持し刺戟し又統一させる爲の作業唄以外に、別にその統一と昂奮との機會を利用して、特に聽かせようとする物語唄が、幾つとなく持込まれて居ることである。都市の鳶職の傳へた木遣唄、其他の勞働唄にも少しづゝはこのクドキが出來て居るが、盆踊のやうに弘い區域に亙つて、是に利用せられて居るものは他には無い。クドクといふ日本語の起りはまだはつきりとしないが、内容は何か大切な誰にも知らせて置きたい事實を、記憶し易く又語り易い形で、敍述することを意味したらしい。それが踊の感興が深まつて、多數の是に携はる者が一心になつた頃合を狙つて、特に物語られる習慣がいつの頃よりか始まつたのである。さう古くからのものとも私は思つて居ないが、兎に角に此場合だけは主客が顛倒して、クドキの爲に踊が有るといふ?態になるのである。この變則の現象を引きくるめて、民謠の本質を説かうとするから話は混亂する。私だけは斯ういふ風に考へて居る。クドキその他の敍事を目的とした律語は、假に形態が歌謠と同じであつても、普通の民謠とは引離して見るべきものだと思つて居る。引離すことがもし出來なければ、民謠の中には或る特殊のもの、即ち作業の手段もしくは補助者でない若干が混じて居り、それは專ら或る歴史的事實を語り博へるものだといふことを知つて居る必要がある。西洋の學者たちも、民謠は抒情的(20)なものだ(lyric in character)と説いて居る。さうして Ballads は 屡々踊に伴なうて行はれて居るが、是を踊歌の中には入れて居ないやうである。たゞ我々のクドキには文藝作品がまじり、たま/\其作者が此差別を辨へぬ爲に、踊をすゝめる踊歌の性質を持つた長篇が出來ることもあるだけである。是と同時に他の一方では、短い詩形を具へた敍事の歌が、普通の作業唄のやうに歌はれて居ることもある。是を民謠から別にして見るといふことは、普通の採集家には今はまだ出來ぬことであり、又さうする必要も無いかと思ふ。たゞ次のやうな踊歌が折々あつたとて、この私の總括論は誤つて居るとは言はれぬことを、承知して居てもらへばそれでよいのである。
 
   中津こいの丸米屋のお八重
   廣津小川に身をはむる (豐前)
 
   小槻清左衛門乞食より劣り
   こじきや夜も寢る樂もする (大和)
 
 
(21)     民謠覺書(二)
 
       一
 
 現在の採集量からいふと、もう民謠の問題などは、一通りは判つて居てもよいわけだ。日本の民謠の成長ぶりにどんな特徴があるかをよその國人に説明し、乃至は弘く民謠の通有する本來の性質を、見つけて報告する者があつてもよささうに、素人ならば考へて居るだらう。それがまだ些しも出來て居ないのは、全く混亂が甚だしい爲である。さうして其混亂に與かつたのは、流行唄と新作との不斷の採用、是に伴なふ目的の忘却であつて、踊歌もたしかに一つの水口に相異ないが、それよりも更に大がゝりに、本流を濁し且つ曲げたものは酒宴歌であつた。
 歌を要した酒宴といふものゝ意義が、今と昔とでは大分變つて來て居る。醉へば歌ひ出す者の多くなるといふ事實は、今でも一般によく知られて居るが、さて何が故にさうなるかといふと、たつたそれだけの事でももう明瞭に解説することは出來ない。ましてや本たうは歌の始まる方がもう少し前で、それを聽いて居るうちに追々と醉つぱらひが増して來るのだといふことなどは、心づいて居る者が既に少なく、之を問題にする樣な人はてんから無かつたのである。民謠の起原と變化とを學ばうとするには、さういふ直接には文藝と縁の無い社會心理の領域にも入込み、もしくは知らぬ間に推移した生活慣習の足取りを、跡づけて行く必要が毎度ある。もとより簡易な仕事ではなからうけれども、順序だから致し方はない。まあ今日わかつて居るだけの資料に據つて、一應は誰かゞ其説明を試みるの他はある(22)まいと思ふ。私の方法は最初に民謠を分類して、記録に痕跡を遺して居るだけのものと、活きて現在もなほ行はれて居るものとにしわけ、前者を參考とし後者を研究の當體とすることであつた。次にその活きた民謠の歌はれる場合によつて、それ/”\の用途を區分し、各その元歌ともいふべきものゝ發見を目ざして、進んで行かうといふのである。多くの他の作業歌に在つては、元歌もしくは是に近いものを、拾ひ出すことはさう困難でない。第一に歌の數が、田植を除くの外は皆僅かである上に、作業も簡單で且つ古今の變化が明らかだから、それと歌との關係を知ることが容易なのである。是に比べると踊唄などはずつと込入つて居るやうだが、是とても活きて居る限りはそれ/”\の用法が定まつて居て、後から入つて來たものは其踊の手拍子や足數からでも、之を古いものと見わけることが出來るだらう。獨り酒盛の席の歌ばかりは、根本に之を要求した動機が不明になつて居るばかりに、少しく時が立つと新舊が混同して、一層その歴史が尋ね難くなるのである。そこで第三段の用意としては、採集者が一通りの社交沿革、即ち酒を用ゐなければならぬ生活風習の、途法も無く變り改まつて居ることを承知の上で、有りさうな處を探して見るといふだけの、ほんの少しばかりの學究態度を期待するの他は無いのである。
 
       二
 
 實際民謠ばかりは草苅童が草を苅るやうな、そんな辨別の無い集め方をしたのでは、結局は秣以上の役には立たないのである。面倒なやうでも前以て知らんと欲するものゝ種類を限り、少なくともその所在の地に向つて、捜索の歩を進めるので無ければ、滿足な效果は擧げられぬにきまつて居る。酒宴歌の採集が現在はまだ決して十分と言へない理由は、やはりさういふものゝ活きて働いて居る場處に、近づく機會が少なくなつた爲で、言はゞ此間題に對する我々の興味が、やゝ見當ちがひの方に馳せて居たことを意味するのである。町では酒宴といふものはもう平凡なる行事の名に化して居る。如何なる夕方でも柳などの立つ巷を、三味線しるべにあるいて行けば、うるさい以上に醉人の騷(23)ぎを聽くことが出來るが、其代りにそこに行はれて居るのはたゞ新しい流行唄のみで、歌がどうして此樣にまで、人間の醉ふのに必要であつたかといふ、根本の疑問に答へる資料などは殘つて居ない。つまりは此方面には近代に入つてからの、酒宴といふ用語の大擴張があつたのである。といふよりも酒の趣がわかり過ぎ、酒を賣る方法が年増しに自由になつて、一種の模倣遊戯が原の姿を紛らすに至つたのである。是を斯邦古來の特色と誤解する者があつて、正しい史的批判を妨げられて居る者は、獨り近年の禁酒運動だけでは無い。民謠の方でも最初から此樣に猥雜なものと心得て、平氣で藝者の歌を代作するやうな、文人が現はれて來たのである。
 酒宴歌のほゞ元歌に近いものが、斯んな社會に傳はつて居ないのは當り前である。探すならばもう一段と律義で古風な土地、たとへば晩酌や寢酒などの癖もまだ生まれず、酒宴を生涯の重要事件として、企てもし樂しみもして居る村々を訪なはなければならなかつた。さうしてそんな土地は入込んで居るといふのみで、今でもまだ方々にあるのである。酒が罎詰でどこ迄も輸送せられる世の中になつても、それが上等に過ぎもしくは腹一ばい飲むほど買ひきれないで、罪を造らうとする部落さへ數多い。まして以前の交通不便な時代に、それを遠くから取寄せて集まつて飲むといふことが、さう簡單な事業で無かつたことは確かである。家で入用を見かけて手造りをした場合は、尚更のことであつたらうと思ふ。後宴《ごえん》即ち酒盛のあつた次の日を、甕底などゝ呼ぶ方言はそちこちに今も殘つて居る。甕に新たに釀した香の高いにひしぼり〔五字傍点〕を、たつた二日の間に飲み乾してしまふと、あとは又暫らくの酒無し日が續かなければならなかつたのである。大昔も、
 
   この御酒《みき》は我が御酒ならず酒《くし》の司《かみ》云々
 
と御歌ひなされたやうに、此一種の飲料だけが示し得た靈妙な生理作用は、恐らく我々の信仰行事の、最初の指導力の一つであつた。從うて其分配を掌つた人々の間には、單なる酒コの頌としてでも、なほ何等かの歌の産まれ出づべき十分な素地があつたかも知れない。しかも事實に於て日本の酒宴歌には、それよりも更に具體的な動機、之に由つ(24)て始めて遂行し得られた一段と重要なる社會的任務、即ち是非とも客人を醉はしめなければならぬといふ、珍しい一つの目的があつたらしいのである。さういふ意味に於て我々の勸酒の歌は、本來亦一種の作業歌であつたのである。
 
       三
 
 それを立證する資料は、幸ひになほ現存する村人たちの心持から、及び彼等の歌つて居る歌の章句から、少しづゝ採集して來ることが出來る。酒は今日でもまだ獨酌が異例で、相手無しには飲めないものゝ如く考へられて居る。人が二人以上集まつて飲むといふ中でも、酒宴は又幾つかの改まつた方式を伴なふものと解せられて居たことは、必ずしも古風な片田舍だけの事實で無い。宴といふ語がもし濫用せられて居るならば、サカモリといふのがその改まつた群飲を表示するに適するであらう。是にも二通りあつて其一つの神を正座に齋くもの、神人相饗の歡びを共にしようといふ場合は、制約もおのづから別であり、歌も尋常の酒宴歌は用ゐられぬから是だけは取除けて考へた方がよい。他の一方の酒盛といふもの、是は實際は算へる程しか無かつたのである。最も主要なる一つは婚姻の祝儀であつた。是は今まで他家他人であつた者が、新たに親類の誼を結ばうといふのだから、それを出來るだけ切實に意識させるのが目的で、改まつた多くの儀禮の必要なのはわかつて居る。是とやゝ似たものは見參と謂ひ又見知りなどゝ稱して、新しい縁者の端々、もしくは他の理由で是から大いに仲をよくしなければならぬ者も、一夜は酌みかはさぬと何としても氣が濟まなかつた。さうして其手續が半分もすまぬうちから、馬鹿に馴々しくなつてつまらぬ身の上話などをすることが、今でもまだ酒の功コのやうに、有難がられて居るのは惰性である。以前の往來の稀であつた時代にはよいが、是だけ交通の進んだ今の世ではたまらない。だから都會では形は簡略にしながら、殆と毎日のやうに他人と飲んで居るのである。酒盛習俗の頽廢は是に基くのである。
 それからもう一つは喧嘩の仲直り、一見他人同士よりまだひどく荒びた交際を、元に戻さうといふ點が近づきとよ(25)く似て居た。是も今日のやうに人が頻々と衝突して居ては、やはり人間を酒浸しにせずば止まぬが、もとは稀有だつたから其儀式も事々しかつたのである。此以外の場合で豫期せられて居たものは、人が世に生まれて一人前になる迄の幾つかの段階を、一族隣保に承認してもらふことであつて、中にはそれと同時に義父母義兄弟を契約して、一段の心強さを添へようとする者もあるが、是にも他から入つて來た旅人と同樣に、一つの甕の中のものを飲み、一つの鍋で煮たものを共に飲食して、目に見えぬ形體上の連鎖を繋がなければならなんだのである。それから今一つの更に思ひがけない酒盛は、永い旅から還つて來た者の祝ひごとで、殊に其中でも神詣でからの歸着を、重んじて居るのは意味のあることだと思ふ。東日本では普通に脛巾脱《はゞきぬ》ぎ、又は「砂はたき」などゝいふからよく判らぬが、西國で一般に「胴ぶるひ」と謂ふのには暗示がある。信心の旅では慎みが多く、飲食は孤立して居たから身の力が衰へて居る。それを改めて多數の連帶によつて、恢復しようとするのであらうと思ふ。四十二・三十三などの男女の厄年に、心配をしながらも大きな祝宴を張らうとするのは、積極消極の差はあるけれど、やはり是に似通うた心持であつたらしい。田舍はどういふわけで飲み食ひをあゝ強ひるだらうと、今では不審する者が段々多くなつたが、その解説は我々の感覺の中に、少しはまだ潜んで殘つて居ると思ふ。簡單に言ふと、是は親愛を表示する主要なる手段であつたと同時に、兼て又自分の爲に、心置きの無い臨時の身うちを、作り出す方法でもあつたのである。さあ飲んで下さい、あがつてたもれといふ言葉は、今でもよく耳にする。單なる相手の滿足を期待する以上に、主人側に取つてはその提供した酒食のもてあまされるといふことは、端的にその企劃の失敗を意味し、又一つの作業の未完成を意味したのである。此問題に就いては、モノモラヒの話にも書いたから重複を避ける。東北では今でも新しい縁者、又は仲のよい朋友をモラヒと喚び合つて居る。モラフは即ち飲食を共にすることであつた。
 
(26)       四
 
 さういふ中でも酒は食物よりも一層重んぜられ、飯を食はせる爲には格別の歌が無くて、盃を勸める唄のみが世と共に増加して來たのは、やはり後者の不可測なる效果が、永い信仰の暗示に導かれて、今も尚豫想の通りに現はれるからであらう。前置ばかりがくだ/\しくなつたから、もういゝ加減に實例を擧げるべきだが、民謠はいつでも意味が不明になると改まるから、もう古い代の形は其儘殘つて居ない。もしくはどうして斯ういふ歌をうたふのかをよく考へずに、たゞ先例だから用ゐて居る。誤解は酒ばかりか、歌の目的についても有つたやうである。東北殊に奧南部の村々に、今でも弘く行はれて居るゴイハイと謂ふ歌などは、明らかに勸酒の歌であつた。人は或は御祝といふ文字によつて、祝の趣旨だから作業とも言はれぬ樣に思ふかも知らぬが、是は多くの他の曲にもある如く最もよく用ゐられた歌の初句に、御祝ひ云々といふ言葉があつた爲の呼び名で、現に其歌の大部分は主人側、取持役の方から出ることになつて居る。仙臺の放送局から近頃公刊した「東北の民謠」の中にも、その幾つかの例が見られる。たとへば三戸郡に行はれて居る、
 
   ゆるりたんぶりと浮びて
   土佐から船はつくまで、つくまで
 
といふ一章の、土佐とあるのは津輕の十三湊のことである。十三《とさ》は中世の文化の最も奧ゆかしい一中心であつた。岩手郡の御祝歌に、
 
   ゆる/\とおひかへされ
   十三から船のつくまで
 
といふのを見てもわかる樣に、その十三の湊から、今に何か珍しいものを運んで來るかも知れぬ。それ迄は先づ落付(27)いてお飲みあれといふ戯れごとで、斯んな小さな冗談にも、御客は高笑ひをする義理もあり又趣味もあつたのである。上閉伊郡の方に行くと、ゴイハイといふ名稱も用ゐては居るが、別にこの種の元歌を含んだ一聯のうたひものを、ユリユリ節とも又ユル節とも呼んで居た。
 
   ゆる/\とおひかへ、一つあがれ歌ひませう
   しろかねの銚子に黄金の盃とや云々
 
 斯ういふ文句も別にあつて、目的がもと「ゆる/\とおひかへめされ」にあつたことがよくわかるのである。
 遠く離れた地方にも、捜したら此趣旨の歌はまだ傳はつて居ることゝ思ふ。備後の蘆品郡には最近はどうあるか知らぬが、阿字村を中心とした祝宴用の平句歌、又は阿字平句《あじひらく》といふものが行はれて居た(俚謠集)。其中にも、
 
   ゆる/\と受けてまゐれや
   中に辨財の福がまします
 
といふのや、他にも幾つかのよそと共通の詞章があつて、是も本來は勸酒の歌であつたことがよくわかる。私の問題にして見たいのは、今ならさあ/\早く飲めと、盃の催促ばかりしたがる所を、ゆる/\と控へよと謂つたのはどうしたわけか。是には近代の群飲慣習の著しい變化が説明をしてくれるのである。一座の人數の多い少ないに論無く、本式の酒宴では盃がたつた一組であつた。是を正面の客から順流れに、左右へ次々と巡らせて行くのが以前の作法であつた。後には登り盃と名づけて末座の者から始めたり、又は一巡のまだ終らぬうちに、次の盃を勸めたりしたこともあつたやうだが、それにしたところで一人が飲んでしまふ手元を、殘りの連衆のぢつと眺めて居る間が隨分と長かつた。所謂長夜の飲とても此盃の三度まはる筈なのが、五度か七度かに重なるといふ迄であつた。名代の呑助が遙か向うの座に待兼ねて居るのを見ると、誰しも盃のへりを銚子の口に突當てゝ、型ばかり飲み乾して次へ送らうといふ氣になるだらう。それをさせたのでは盃事が形式になつて、酒の偉功が眼前に表はれない。だから是非とも醉つて貰(28)はうといふ客には、先づ一應は受けた盃を控へさせて、急がずに飲むことを勸説するのである。
 第二に問題になるのは、他の色々の作業歌には、それ/”\揃へなければならぬ擧動の間拍子があつて、それが自然に音曲の形態を支配して居る。酒宴の場合には人が思ひ/\の振舞をしてしまつて、それを統一するといふ民謠の條件が、缺けるぢやないかと思ふ者があらうも知れぬ。今日の宴會は成程其通りであり、以前も亂酒といふ時刻になると、さういふ光景が見られたであらうが、最初からそれで始まつては合同事業の意味は無くなる。今でも心の置かれる長者の席などでは、僅かの間その樣子が認められるやうに、たとへ手足の動きまでは一致しなくとも、感覺は或る一つの目的に向つて集注して居たのである。即ち主人の計畫通りに、定まつた一人が十分に飲んで醉ふといふことは、滿座の擧つて關心する所であり、從つて酒宴歌の效果も亦全般に及ぶことを必要としたのである。單に盃を手に把る一人だけが、傾き聽く爲ならば他の文句もあつたらう。待つて居て是から飲まうといふ素面の末座の客までが、共に手を打ち扇を膝に當てゝ、樂し目出たしを合唱しなければならぬ所に、所謂うたげ〔三字傍点〕の歌の隱れたる任務はあつた。座興といふ語は今は變な意味にしか用ゐられて居らぬが、本來は斯ういふ席上の空氣の名であつた。我々の酒宴歌は他の民謠も同じやうに、當初この一つの作業群の空氣を、釀し出す爲に企てられたものであつたが、後にはやはり亦其空氣によつて、今日の如き意外な進路に導かれることにもなつたのである。
 
       五
 
 酒宴歌の題材は必ずしも豐富であつたとは言へない。幸ひに御客が欣々として、何でも悦ぱうといふ態度だからよいやうなものゝ、場處は家の中で周圍に見るものが少なく、下手に引合ひに出せば自慢に聽え、個人を問題にすれば褒めてもさし合ひが起り得る。一座が大きければ大きいほど、一層歌の種を見出すのが苦心であつたらうと思ふ。前代の酒盛歌には、やはり酒そのものゝ由來を説き功績をたゝへた、「この酒は」といふ類の詞が普通であつたらしく、(29)其痕跡もなほ少しは殘つて居るが、それが一わたり古くさくなつてしまふと、次に出て來るものから新しい興味を引出すといふことは、容易な技工では無かつたやうである。本來サカナといふ言葉は食物以外に、他の意味があつた筈は無いのだが、いつの頃からとも無く舞を肴と謂ひ、もしくは歌を肴に所望して、それが出るならば一つ飲まうといふ類の押問答が  屡々行はれた。さうして其結果は勿論歌を自由にした。必ずしも酒を勸める趣意を含まずとも、不吉な文句で無く、又好い聲の好い節まはしでさへあれば、その歌は肴になり、乃ち盃の數は重ねられたのである。今日傳はつて居る酒宴歌の中には、必ずしも流行や轉用で無くて、しかも直接に酒との因縁の見えて居らぬものが、幾らもあるのは右の理由からであつた。
 それと同時に他の一方には、本物の食べる肴の方にも色々の技工が施されて、客人の目を悦ばしめるだけで無く、歌にうたひ易いやうに趣向せられ、更に取持の席にでも出ようかといふ者は、常からさういふ肴を歌にする練習をして居たやうである。ちやうど其肴の座中に現はれるのが、歌をうたふべき刻限でもあつたからであらう。
 
   さかな挾まばかずの子はさめ
   親がにしんで子があまた (岩代)
 
   さけの肴にかず子よかろ
   親がにしんで子があまた (下總銚子)
 
 斯ういつた種類の至極手輕な輕口が、歌になつて弘く行はれてをり、もつと溯つてはなほ一段と素朴で、且つ類例の多い「いもの種」「蕎麥の種」などの祝儀歌と、ほゞ一續きの趣向を示して居るのは、つまり何をがな當座の座興に、目に觸れた事物を歌にしようとした、久しい習俗の表はれであつた。前に掲げた廣島縣の平句歌に、
 
   さかづきの臺のめぐりに菊栽ゑて
(30)   ひとつおあがれ奈良のきく酒
 
などゝ謂つて居るのは、盃臺の飾りを詠じたものであるが、大分熊本二縣の間に行はれる、是も酒宴用のヨイヤナ節の中にも、
 
   臺のまはりにから菊うゑて
   それに花咲き實のなるまでは
   たがひの心をかはすまい
 
といふのもあつて、是は食品の臺の物の風情によそへて、耳に快い歌言葉を連ねたものであつた。文字の表だけではどうして酒宴歌に斯ういふ物を歌つたかゞ判らず、多分は席上へ運ばれた酒の肴の、一同の目を注ぐものであつた故に、歌になつたのかと思はれる例はこの外にも色々あり、中には又鶴龜松竹などの島臺の飾り物のやうに、歌を豫期して拵へ上げた肴もある。さうして素人の料理人たちは、同時に接伴役の優なる者であつたのである。
 とにかくこの九州中部のヨイヤナ節などは、その内容から見て明らかに酒宴歌である。多分ヨイヤナといふ初の句又は囃し詞をもつた元歌があつて、それが又酒を勸める意を寓して居たのだらうが、其分はもう傳はらないで、たゞ新しい肴歌などの、遠くの地方と共通なるものをもつて居るだけである。羽前最上郡の大澤節、一名をアガラシャレともいふなどは、その「上らしやれ」の元歌がまだ保存せられて居る。
 
   あがらしやれねなや、お前さうげだや
   お前上らねば氣がすめぬ
 
 しかし假に其文句を忘れてしまつた後でも、節に記憶があり又替歌の詞さへ面白ければ、御客たちはすぐに古風な暗示を受けて、飲めと歌はずとも陶然と醉うてしまつたのである。
 
(31)       六
 
 それから尚一つ、料理の新趣向や臺の物の飾りよりも、更に強烈に酒の座の興味を刺戟したものがある。赤い塗り盃に金銀で蒔繪をしたものが、始めて用ゐられた時代は土地によつて區々であらうが、是が今までの土器や白木の合子と交替した、當座の印象は大きなもので、それを手にしただけでも相應に酒は進んだであらうに、更にその誘惑を割増しすべく、之に伴なうて幾つかの新曲が案ぜられたのであつた。ちやうど三味線といふ輕便樂器が試みられ、是と提携した二十六字の小唄が、えらい勢ひを以て流布したのと、相前後してこの新種の酒器を、採用した田舍は多かつたらうと思ふ。それが同時に又農漁民の消費經濟の眼覺めでもあれば、更に又彼等の文藝感覺の、若夏の衣更へでもあつたらしいのである。其頃の歌謠の中には、まだ今日まで記憶せられて居るものが多い。たとへば、
 
   さいた盃なか見てあがれ
   中は鶴龜五よのまつ
 
といふ一章などは佳調であつて、稍古くさいと評せられつゝも、なほ田舍の片隅では用ゐられて居る。この歌がもしも殘つて居らなかつたら、我々は或はとんだ誤りの推測に導かれて居たかも知れない。日本の祝賀行事の顯著なるマンネリズム、歌はもとより飾りにも模樣にも、必ず一定の動物植物を引合ひに出して、それで人間の溢るゝばかりの歡喜悦樂を、手短かに表現しようとする風習は固有のものでない。是が全民族の上下層に普遍した、集合飲酒の慣行に由るものと解し得なかつたら、歴史家は必ず別に有力なる法令の強制とか、又は或る種の天才の思ひ付きや、其周圍の旨目なる模倣といふが如き、大よそ現代的なる幾つかの社會事情を想定せずには居らぬであらう。塗り盃の工藝の進歩、その大量生産と一商品化などは、成程一つの中央からの影響かも知らぬが、それに松竹梅だの鶴龜だのを描いたのは偶然であつて、斯んな大きな結果までを、計畫したものでは無かつたと私は思ふ。多分は同じ圓い形だから、(32)鏡の裏などからこの意匠を採用したのであらう。梅が其トリオの中に加はつて居たり、支那ではやゝ陰鬱なものに考へられた龜が、鶴と對立提携して居ることなども、幾分かこの來由を暗示するやうに感じられる。是を瑞祥とした最初の動機とは關係無しに、別に我々の酒ほがひのめでたさといふものは、遠い昔の代から連綿としてあつたのである。只それを表示し得る言葉が、まだ豐富でなかつた際に、たま/\珍しい塗り盃が好み用ゐられることになつて、それを手に把つてつく/”\と中の繪模樣を見て居るうちに、次第に心の奧に在る感覺を之に托することになり、今でも人のよくうたふ、
 
   うれしめでたの若松さまよ
 
といふやうな美しい歌も生まれ、更に又、
 
   これのざしきはめでたい座敷
   鶴と龜とが舞ひあそぶ
 
といふ類の奔放なる空想までが、喝采せられることになつたのかと私は想像して居る。
 
       七
 
 尋常平靜なる文藝鑑賞の間から、選擇せられたとは思へない作品が、酒宴唄と踊唄との中にはまだ數多く殘つて居る。是には群の境涯と異常心理とを、計量に加へて其成立を考へて見なければならぬと思ふ。殊に醉人の半ば放心した繰返しの中から、永い歳月を重ねて生まれ出た歌謠を、筆紙文學の尺度に當てゝ理解しようといふことは無理である。私も此話をするのは素面だから、或は誤つて居ようも知れぬが、今でも全國的に有名な一つで、如何なる場合に出來たものか一寸想像のつかない歌、たとへば、
 
   咲いた櫻になぜ駒つなぐ
(33)   駒がいさめば花が散る
 
といふのなどは、言はゞさういふ醉中の即興作の、特殊に人の心を捕へ得た實例のやうな氣がする。第一に此歌には趣意が無く、又まとまつた繪樣が無い。假に斯ういふ奇拔な空想を歌に作り得る者があつても、それを承け繼いで流行らせることは普通にはとても出來ない。察する所是はもと「さいた盃云々」といふ類の、さいたといふ語を初句にした出鱈目の歌が、五十も八十もあつた中から、言はゞ怪我に出現した名吟であつた故に、一種神語に近い幽玄味が感じられて、終に批評を絶した古典のやうな待遇を受けて居るのであらう。近世の流行歌の中でも、「小石小川のざくざく石は」といふのや、「しんきしのまき云々」といふ歌などは、共に初の句のコイシやシンキといふ語の感じの爲に、他の句はどうくつゝけても面白がつて聽かれて居た例であつて、同じ勸酒の歌でも「飲めや歌へや」を以て始まるもの、もしくは相手の人がもう澤山だといふ趣意で、「醉うたよたよた云々」と歌ふものなどは、大抵の場合にあとの文句は出放題である。東北地方でおたち歌と稱して、御客が外に出てから追掛けて飲ませる時の歌にも、
 
   又も來るから身を大切に
   はやり風など引かぬよに
 
 是なども初の一句だけが入用で、殘りは口から出まかせだが、それでも永く通用して居るのである。醉人でなければ恐らくは許されぬことであらう。今でも酒の席では言葉がよく歌になり尻切れやまとまらずが却つて面白がられて居ることが多い。盃の取遣りが重要であつた頃には、さいた櫻といふやうな瓢逸な歌の、ふいと生まれたのも不思議では無いのである。木曾の奈良井で採集せられた民謠に、
 
   さした刀のさげ緒にすがり
   見すてゝくれるな末ながく
 
といふのがある。是なども自分は二句以下はどうでもよかつた酒宴歌であらうと思ふ。
 
(34)       八
 
 今少し實地に見聞をしてから、斯ういふ新しい例を以て説明した方がよかつたのだが、發表を急いだばかりに話が稍くだ/\しいものになつた。それで居てまだ述べて見たい點が幾つか殘つて居る。その一つは返し歌のことである。客が主人に向つて答禮として出すべき歌は、比較的工夫がし易かつた。第一に數が少ないから前以て用意をして來てもよし、又あゝ醉うたよた/\と謂つても、一通りの挨拶にはなる。其以外に譽め歌と名づけて婚禮には嫁をほめ、子祝には家の繁昌を述べたて、又は肴をほめ座敷の造りをたゝへても、相應な效果を擧げることが出來た。土地によつてはその譽め詞が獨立して、一つの藝術として傳はつて居る處もある。ところが他の地方では是が酒宴唄の中に混じて、主客の關係の明らかになつて居ないものがある。或は誰に向つていふのかわからぬものもある。つまりは主人側を助けて共々に、合同飲食の目的を完成しようとした爲に、盃數巡の後になると、追々と客同士の應酬が始まつて來るのである。是は勿論近世の傾向であつたらうが、此爲に歌の需要は更に多く、次第に祝宴とは關係の薄い中性の歌が採用せられて、一段と酒盛歌の歴史が明らかにしにくゝなつて來て居る。
 第二に考へなければならぬことは女性の參與である。正式の酒宴には袴をはいた男の給仕人が必ず出るものになつて居る土地もあるが、是は軍陣などの影響であつて、却つて後代の變化かと自分は思ふ。名だゝる酒豪には盃の數を重ねさせる爲に、アヒと稱して接伴者も飲む必要があり、是には男子を頼む他は無かつたらうが、さういふ場合にも女は尚酒を注ぐ一役を持つて居た。是は釀酒が古くから女の任務であり、其管理と分配が又彼女等の權能に屬して居た結果で、最初は當然に家刀自、もしくは是に代り得る者が、出て自ら酒を勸むるの歌をうたつたものかと思はれる。淺香山下の邑の貴賓ならずとも、歌の唱和が男女の間に行はれるとすると、其詞はおのづから花やかに艶めかしく、それと世の常の戀心との間に、明らかな堺を引くことは容易でなかつた。殊に今までは他人であり異邦人であつた者(35)に、心を許して打解けた盃を擧げしめようといふには、やはり「淺き心を我思はなくに」といふ位な、宣言は必要であつたのである。嚴格なる家庭で娘を奧の間に閉ぢ込め、主婦は退いて銚子の世話だけをして居るといふ風になつたのは、必ずしも聲よく歌ふ技能を彼女等が失つた爲ではなかつた。賓客の方でも今少しく馴々しい、心の置かれぬ酌人を欲するやうになつたのである。
 茶屋の出合ひの酒宴が始まつてから、始めて歌ひ女といふ職が現はれた如く思ふ人があつたらそれは誤つて居る。中世の遊女は旅人の假屋形、舟の中までも訪ひ寄つたのみならず、時あつては貴人の殿堂にも召されて居る。鎭西の島々では船頭たちの酒宴に招かれて、歌をうたふ者を酒盛女と謂つて居た。彼等の婚姻は容易であつた故に、或は其酒を妻まきの酒として掬む者もあつたといふのみで、因縁の無い者はやはりたゞその勸酒の歌によつて醉つたのである。西鶴の一代女などに、蓮葉女として出て居る一種の女性の如きも、現在各地方の方言のハッサイと謂ふ語と恐らくは同じもので、今は單に男の兒と括抗して、ひけを取らぬやうな氣の強い童女を意味して居る。湊宿場の年たけた蓮葉者の中には、勿論世に謂ふ淪落の女の、流れさすらへて來た者も多かつたらうが、別に普通の才はじけた娘どもの歌を愛し又酒を辭せぬ者が、元は少しづゝ村々には家居して居たのである。佐藤雨山君の淺瀬石川郷土誌には、さういふ女性のことが可なり詳しく記してある。東北の田舍には茶屋などはさう方々に無かつた。さうして斯ういふ境涯の者が住んで居たとすると、その需要の途は大よそ知れて居る。「鄙の一曲」に採録せられた膽澤郡の山村の祝歌に、
 
   酒はもろはくお酌はおたま
   御肴には西根の池の鯉鮒
   さしたきかたはあまたあり
   さしたき方はたゞ一人
 
といふのなども、今はもう歌はれて居るかどうかを知らぬが、お玉はさういふ女の通り名であつたと見えて、津輕の(36)盆踊歌にもお玉節と名づけて、
   やりございでやおゝ玉ヤッサ
とか、もしくは、
 
   おゝ玉家こはどうこだヤッサ
 
などゝいふ囃し詞の殘つて居るものがあつた。最上郡のアガラシャレ節に、
 
   雁も白鳥もめごい鳥がござねよ
   わたしやめごい烏お酌とり
 
といふのがある。西では阿蘇地方のヨイヤナ節の中にも、
 
   わしは大阪船頭が娘
   船も押します艪も押しまする
   お前さんにも押しまする
 
と謂つて、盃を強ひて受けさせようとする歌がある。その他「酒がいやなかお酌がいやか」と謂つて見たり、更にもう一歩を進めては、「お酒飲む人しんからかはい」と謂つたりするやうになると、もう亭主方の妻娘の能力を超越する。お蔭で酒の客は忽ち柔かくなつてしまつて、末には祝賀の意とは縁の遠い、男女諧謔の辭のみが横行することになつて行つたのである。
 
       九
 
 但し酒宴歌の必然的なる發達が、民譽の混濁を引起した主要なる原因の一つだといふことは、單に特殊の給仕人の進出だけに止まらぬのである。遠い地方に成長した別種の作業歌、乃至は町に住む文人等の口過ぎの作品などが、遙(37)々運ばれて來る入口は此外にも開いて居た。音曲を稼業にした瞽女座頭の輩は、目が見えないから御酌に客の前へ出ない。さういふ歌知りがたゞ座興の爲に聘せられたとすると、思ひ切つて新しい意外な歌を聽かせようとするのは當り前であり、さうで無くとも素人で聲のよい者、歌で名とりの男たちが、所望せられてよその文藝を持つて來ることは、寧ろ不自由な在郷に却つて多かつたらうと思ふ。今年夏のかゝりに放送局で集めた田植歌は、六つの二つまでが三味線入りの酒宴歌であつて、あんなもので田が植ゑられると東京の人は思つて居るのだらうかと、方々からひやかされて居た。けれどもそれがやはり田植唄と呼ばれて居るのだから仕方が無い。即ち農事の爲にも此曲は必要であらうが、宴會の方にもやはり入用はあつたのである。隱岐の島で評判のドッサリ節といふ歌などは、起りがやはり酒飲ませ唄であつたらしいが、聽いて見ると其中には各地のメロディーが取入れてあること、ちやうど海上交通の衝に當つたこの孤島の、文化構成の樣式とよく似て居る。今ある歌詞の中で自分等の面白いと思ふのは、
 
   お客望みならやり出いて見ましよ
   當世はやりのこだいじを
   歌に無調法なわしなれど
 
 又は斯んなのもある。
 
   しんぽこだいじに虎の皮きせて
   千里飛べとはそりや無理ぢや
 
 この「しんぽこだいじ」は通例新穗高臺寺とも書いて、佐渡とか越後とかから生まれたといふ説があるが、關東の平野ではそれが萬作踊の野良芝居にまで發達して居ると共に、西は中國から九州の一部まで入つて居る。中味は虎でも無からうが既に千里を飛んで居るのである。それから船人の梶取る手に伴なうたかと思はれるションガエナなど、いつの間にか南は與那國島の果まで、北は奧州に入つてサンサ時雨の相の手にもなつて居るが、故郷の上方では私たち(38)は是を少女の手毬唄に聽いて居た。是を運んだのは水上を行く者、陸揚したのは行く先々の津湊であつたことが察せられ、別離を悲しんだ清哀の音であるにも拘らず、北でも西海でも共に酒宴の歌の中に紛れこんで居る。近年の伊勢音頭は申すに及ばず、「琉球は石原小石原」といふ俗曲の如きも、小石の因みであらうか祝宴の終近く、?多數の手を拍つて合唱するのを耳にしたことがある。それから評判の追分や磯節、ごく此頃の草津よいとこやオハラハラに至るまで、旅する人があつたればこそ境を越えて、遠い國の端まで運ばれたと言へば言はるゝものゝ、其分布は地方唄の地の力には非ずして、一方に長夜の宴が無く、新曲をゆかしがる酒客の好奇心が痛切でなかつたら、兒女の模倣や鼻唄の口ずさぴだけでは、とても斯樣にまで一處に根を下すことは無かつたらうと思ふ。酒の歴史のまだ冷靜に討究せられたものが無いといふことが、今に及ぶまでなほ我々の民謠の知識を曇らせて居るのである。
 
(39)     鼻唄考
 
       一
 
 民謠雜筆なども何だか氣が利かぬから、斯ういふ少し頓狂な見出しを掲げて、皆さまの注意を民謠の衰微といふことに誘うて行きたいと思ふ。西洋でも古い小歌の遺つて居る國が多いと見えて、學者の間に民謠起原論がはやり、又我々の考へて居なかつたことを考へようとして居る。たとへば Krappe の民間傳承學に、歌の起りは妻まきの歌であつて、仕事唄はそれよりもやゝ時おくれて、人の世には始まつたものだらうとあるなどは、必ずしも此人獨創の意見では無かつたやうである。日本では昔から花に鳴く鶯、水に棲む蛙、何れか歌を詠まざりけるとあるのを、如何にも尤もなことだとは思つて居たが、まだ人間の歌までが之に倣うたものと認めては居なかつた。しかし此頃の毎夜の蟲の聲などを聽き入つて居ると、どうやら此説が自然であるやうな感じもする。讀者といふものには案外自分の豫期した所に近い空想を、喜んで迎へようとする癖が有るから、此種の學説は或は實價以上に、有力になつて居らぬとも限らぬのである。起原論といふ類の學問は、大抵は實際に何の詮も無いものだが、民謠では其變遷の跡を辿る爲に、是を一つの目標とすることはやゝ便利である。試みに一應あの人たちの言つて居ることを、我々の場合に當て嵌めて見ようと思ふ。
 
(40)       二
 
 戀歌か勞働歌かは、未來に對しても決して小さな問題では無い。さうして最初が其二つのどちらであつたかは、御互ひの觀照の上にも大きな影響を與へるのである。但し古いことはさう精確には判らぬと、彼等も言つて居る。今日知られて居るものでは、先づ Serenata といふのが一番に古いやうだとある。セレナタは即ち夕の歌、中古に思はれ人の窓の下に近よつて、小琵琶に合せて聲清く謠つたなども其名殘であつた。妻と夫が同じ一つの屋根の下に、住んで居なかつた家族制の頃より、既に始まつて居たものだから古いのだと言つて居る。併し西洋では古いかも知らぬが、さういふ婚姻法は日本では近頃まで普通であつた。固く言ひ交した二人が子の生まれる前まで、もしくは男の家が自分たちの代になるまで、親が認めて夜のみ行來をして居たのは、決して平安朝だけの文學では無かつた。後々此關係は稍しどろになつて、男は愈足繁く往いて守り、女は又思ひ入つて待たなければならなかつた。斯うした痛切なる境涯には、固より歌無きを得なかつたのである。今でも村々の昔語りとなつて殘つて居るのは、どこそこの親爺は昔は男らしいよい若い衆であつた。今のオカタの所へ通うて居た頃は、毎晩同じ時刻に向ふの畷路を、必ず椅麗な聲で唄を歌つて行つたものだつたなどゝいふ話であるが、さういふ場合にも是が爲に作られた戀歌などは無かつた。精々白分の心持にしつくりと合つた章句を擇んで口ずさむといふだけで、それは又仕事の場や酒宴の席、踊の折などに聽き覺えたものゝ中からであつた。所謂鼻唄はそれが更に零落して、よそ心になつたものである。女が燈の蔭で絲を引き綿を摘みながら、細々と歌つて居たのも其たぐひであつた。或は門に來て立つて居る者にも聽かせようとしたにしても、其爲に新しい歌を作り設けることは無かつた。要するに我々にもセレナタは確かに有つたけれども、特に古くから此折の用途のみに、備へて置かれたといふものは無かつたやうである。
 
(41)       三
 
 第二の戀歌として久しく知られて居たのは、Alba 又は Aubade といふ古謠であつた。アルバは朝の歌、即ちきぬぎぬの歌であるが、是には何れの國でも逢つた悦びと誇りとを説くものが少なく、別れを歎くの情を歌ふのが普通になつて居る。日本でも不思議なほど此文藝はよく發達し、末には花柳の巷に入つて、鴉だの鐘だのを恨むドドイツなどが、五十年前まではうるさい位に多く製作せられて居た。しかも最も痛切にこの情懷を味はつて居た人たちは、却つて黙々として袖を分つて居たのである。是が曾ては一切の戀する者が、歌はずには居られなかつた一つの場合だつたことは、僅かに一種の女どもの間に殘つて居る貧弱極まる文學と、普通の若者等が最もよく別れの歌の趣きを理解して、たとへば海の港の朝びらきの一節を、山に取卷かれて居る奧在所の盆踊にまで、採用して居た慣習とに由つて察せられるのである。
 
   見送りましよとて濱まで出たが
   泣けてさらばが言へなんだ
 
 斯ういう歌ならばどんな遠くの國へ運ばれても、乃至は少々の方言の相異があつても、之を聽く者は直ぐにその哀れを汲み取ることが出來たのである。實際に又水上の別離ほど、縹渺としてうら悲しいものも稀であつた。さうして日本は又船子たちが家を去つて、幾つとも無い離れ島を訪ひめぐる國であつた。だからアルバの歌は夙く其力を彼等に獨占せられて、朝分れて夕には逢ふ樣な尋常平凡の別離は、之に對して高く唱ふるに足らなかつたかも知れぬ。何にもせよ其古曲は既に絶えて、今はたゞ世上の流行唄の中から、さういふ情趣のものを特に好んで眞似ようとする點に、或は上代の痕跡を留めてゐるかと思はれるばかりである。土佐日記を讀んで見ると、船で働く少年が口ずさみに、「尚こそ國の方は見やらるれ、我父母ありとし思へば、歸らや」と歌つて居るのはアルバであつた。「尚こそ」とある(42)故に、他に袂を引く愛情の別にあつたことを考へしめる。それは勿論少年自らの心のうちでは無かつた。海の歌はもうあの頃から、既に流行唄となつて居たのである。
 
       四
 
 Pastourelle といふのは、第三種の戀の歌であつたらうと言はれて居る。是は靜かなる白日の下に於て、若き人が互ひに懸想する歌であつた。日本は廣い牧場の無い島國である故に、牛や羊の伸び/\と遊び戯れるのを見て、共に悦び且つ物を思はうとした樣な歌は少ないが、花咲く春の青草と水のせゝらぎ、蝶鳥の聲と姿とは、今でも色々の樂しい歌を催して居る。其中でも細く清らかで、且つ絶え/”\に遠く響く草刈唄は、やゝ汗ばむ初夏の野まで續いて居た。東北諸縣では山唄と謂つて、三月山の雪の漸く解けきつた頃から、折々間を置いて青物を採りに行く男女が、歌うて居た歌も亦それであつた。久しい間の冬籠りに倦じ果てた眼を擧げて、緑の空の光を仰ぐやうな心持が、殊に此日の歌を花やかにして居た。「鄙の一ふし」に採録した天明寛政頃の山唄にも、
 
   この山の
   ほなやしどけが物言はゞ
   をさ子居たかと問ふべもの
 
といふのがあるが、是に似た歌は今でもまだ行はれて居る。村の娘たちには斯ういふ歌を聽く春が、二度か三度か繰返されるとやがて子持になつてしまふのであつた。若い人生に取つては是が何よりも大切な戀歌であつた。數多い歌の中から一つの聲を聞き定め、一つの文句を深く記憶して還つて來ることが、單純なる彼等の婚約であつて、夕と後朝の唄は寧ろ其後に續くのであつた。だからパストゥレルを第三の順位に算へることは、少なくとも我々の前代社會とは合致しなかつた。日本の民謠の中にも、斯ういふ若草原の歌だけはまだ幾つか殘つて居る。
 
(43)   おれと行かぬかはてしの山へ
   しだれ櫻の枝折りに
 
 是なども元は草刈の日の唄であつた。即ち我々の戀歌は、初から仕事唄と手を組んで成長したので、その一方にのみ純なるものは、昔は上臈の文學にしか見られなかつたのである。
 
       五
 
 歌の用途は最初から、さう簡單なもので無かつたと私は思ふ。野の鳥や秋の蟲には、或は戀だけの爲の戀歌といふものがあるのかも知らぬが、少なくとも獣以上には、其習性が通例は既に絶えて居る。山に住むものゝ中では、鹿などが特に憐みの情を以て、その鳴く聲を人に聽かれて居たやうだが、それは彼等のみが純情に妻問ひの歌を吟じ得たからであつた。其他は人に保護せられる猫でも狗でも、やはりもう少し込入つた鳴き方を以て、遊牝期の情緒を表白しようとしで居る。
 人間がこの鹿に似たやうな抒情詩を、作る餘裕を持つことになつたのは、恐らく再興でありもしくは一種の進歩であつた。我々が最初から生存に色々の目的を持つて居て、若いたゞ暫らくの間だけでも、心を配偶者の選定に專らにすることを得なかつたといふことは、如何にも寂しい事實には相異無いが、又考へ樣によつては一つの誇らしい特長でもあつた。人はどの樣な聖人の教へに導かれようとも、世の中への出がけに先づこの問題に捉まつて、之を後生大事に解かうとせぬ者は一人も無い。しかも其問題一つをたゞ單獨には取扱はうとせずに、必ず他の幾つかの生活上の要件、たとへば食物とか群の平和とか、乃至は高きものに對する期待とかと結び合せて考へて見ようとしたことは、それこそ人類で無ければ保ち得ない大切な特權であつたと思ふ。
 猫が日月を指ざして誠を誓ふだけの雅量をもたなかつたやうに、文藝は畢竟人だけの戀の技術であつた。自然では(44)無かつたかも知らぬが梢の鳥見たやうに、春毎に同じ節ばかりを繰返しては居られなかつたのである。だから才藻の豐かな者は名歌を詠み、又は場合に適した古歌を選んで、そのすが/\しく高い聲の蔭には、個性が有ることを知らせようとしたのである。戀をする者は同時に働く者であつた。さうして健氣に面白さうに、よく働くことによつて愛されても居たのである。だから仕事唄が先づ起つて、其章句の中に戀の情を托することになつて居たとしても、それは些しでも我々の耻辱とは言はれぬのである。
 
       六
 
 西洋の牧歌の中では、所謂 Rosa fresca の活き/\とした調べがなつかしがられて居るが、それは又日本で最も烈しい勞働と認められる五月田植の唄にもよく現はれて居る。たとへば朝の出がけに野茨の白い花を、「ざく/\と咲いたいの」と歌つて居たのも、さては郭公の鳥が「天上啼いて通る」と歌つたなども、何れも若々しい男女が群をなして、共に立働く喜悦のそゞろきを敍したものであつた。飛騨の山國の或る社の初春の田祭に、
 
   君が田とわが田の竝ぶうれしさよ
   我田にかゝれ君が田の水
 
といふのが殘つて居る。是も以前には本當の田植の日に、苗を採る早乙女たちがそつと歌つて居た民謠の記憶であつた。どんなにきつく働いて居ながらでも、戀の歌はうたへぬことは無かつた。たゞ疲れてしまつて其歌の心持が、互ひに味はへなくなるのが惡かつたゞけである。
 臼挽きも以前は可なり苦しい作業であつた。それには唾液の飛ぶのを嫌つて、主人は成るべく歌はせまいとしたやうである。しかし若い人たちは結句歌はずには居なかつた。
 
(45)   臼の輕さよ相手のよさよ
   あひ手かはるなあすの夜も
 
   臼をひきやこそ御手にもさはれ
   あひにや見もせず見たばかり
 
 是が段々に夜が更けていやになると、後には臼や相手のわる口ばかりの、純然たる勞働歌になるのだが、それさへも尚機智を以て異性の笑ひを買ふやうな歌をさがして居た。
 
   臼をひく時やとろ/\まなこ
   だんご食ふときや猿まなこ
 
 斯ういふ歌も亦決して一通りの心理からは生まれて居ないやうである。
 
     結び
 
 あの後色々な目に逢つて、此問題を説いて見ようとした私の氣持は消えてしまつて居る。今はたゞ何が當初の趣意であつたかを述べて、殘りは他のよい折まで温めて置くことにしようと思ふ。私の是非とも言ふ積りであつたのは、もし歌謠の發生を仕事唄の中に求めんとするならば、則ち「仕事」といふものゝ昔今の相異を考へなければならぬといふことであつた。さうして戀歌をその昔の仕事唄の外に、置かうとしたのが誤りだといふことであつた。
 この二つのものゝ相異を知るには、單に我々の兒童の「仕事」をよく見たゞけでも十分であらう。色々六つかしい見方も有るだらうが、要するに一方は歌の伴なふ仕事であつた。さうして今日の勞働には、歌を伴なふことがもう不(46)可能になつてゐるのである。歌そのものを勞働として居る人は有るけれども。
 歌をうたふ氣になれない樣な仕事は、昔だつてそれは有つたらう。しかし羨ましいことには最も多くの仕事は其反對に、歌つて働かずに居られなかつた。さうして其樣な仕事のみが、國の歴史にも人の傳記にも、記憶せられ又感歎せられて居る。だから我々の過去は美しく見えるのである。狩や戰爭は無論仕事であつた。次には酒宴でも神祭でも、はた盆踊のやうなものでも、せずには居られないのだから即ち仕事であつた。獨り戀ばかりが其外で有つた筈は無い。是をしなかつたら人は寂しく、家は悉く草野の原となつたらう。
 歌の目的は仕事を心輕く、我々の合同を容易ならしめただけでは無い。飽きずに萬人が永く之をくり返して、所謂世の常を組み立てゝ行く效果も有つたのである。ところが社會は新たに其秩序を改定しつゝ、しかも一方には昔の仕事唄の面白さだけは忘れることが出來なかつた。仕事と歌とは袂を別つ時が來た。鼻唄は乃ち此間に於て生まれたのである。
 鼻唄といふのは日本だけの好い名詞で、必ずしも鼻で歌をうたふといふ意味では無かつた。時に入用も無くあたりに聽く者も無く、高く張り上げて唱へる必要が無い爲に、自分一人でその面白さを味はつて居るだけで、つまりは思ひ出し笑ひと同樣な半分の記憶であつた。近代の人生作業の中には、狩や田植のやうに歌の不用になつたものと、無暗にいつ迄も歌を要求する盆踊や酒宴のやうなものとがあつた。後者には追々に新たな歌も出來るが、普通は他で剰つて居る草刈や船人の戀の歌を借りて來て、それを記憶する者が顔見合はせて興じて居た。是も亦一種の鼻唄であつたのである。
 文學も通例は亦此部類に屬して居たやうである。最初そのものが發生しなければならなかつた場合と、同じ條件が現はれなくても、所謂才藻は働いて居る。契沖阿闍梨は戀歌には困つたさうであるが、然らばその以前の多くの歌僧たちは、何れも好色非如法の自家心境を、詠歎したのかといふと必ずしもさうばかりでは無かつた。彼等は前代の又(47)は他人の、物の哀れを理解し、もしくは其理解を永く記憶して居た。鼻唄は日本に於ては尚此上にも、進化し又複雜になつて行きさうである。
 私の散文は是とは反對に、いつ迄も古風な仕事唄の類であつた故に、親を亡くしたり境涯がちがつたりしてしまふと、もう働くことがいやになつて、昔の人のやうに飛び/\に同じ題目を説いては行けなくなつたのである。
 
(48)     歌と「うたげ」
 
       一
 
 これは自分で歌を詠まうとせずに、ひたすら古歌を讀んで樂しんで居る人にしか參考にならぬ話である。名歌を殘さうといふ者には、又別の用意が入用である。それには先づ以て時代を知り、如何なる種類の歌が行はれ、又讃歎せられて居るかを知らなければならぬ。私の話はちつともそれとは縁が無い。全く文學の過去に屬する話である。
 桂園派などの教育法では、最初には古今集をよく讀めと教へられる。それと後々の世の歌とどこが最も異なつて居るかを、めい/\に覺らしめるのが目的であつたやうに考へられる。さうして居るうちに自然に古今集が好きになる。いつと無く自分の下手が判るやうになつて中途で止める者と、心から人の歌を賞美し得る者とを、多くするのも景樹翁の計畫のうちでなかつたかと思ふ。少なくとも私たちは、御蔭で一生涯古今集を愛吟するの樂しみを與へられた。受用無限である。
 この古今集に對する景慕といふことは、東常縁・宗祇・玄旨などの筋を引いて居て、俗間に於ては少なくとも萬葉の研究などよりはずつと由緒が久しく、新たな發明とは素より言ふことが出來ない。たゞ一つ大いに變つて居ることは、連歌者流の古今集は單なる語學であつた。何かといふと源氏物語と二つ竝べて、二部の聖典のやうに之を視て居る。惡く言へば苟くも文藝の道に携はる者が、この二つの名著も知らないでと、評せられては困るからの教養とも考(49)へられる。古今と源氏とは、なるほど世に出た時代こそは一續きだが、歌にかけては殆と全くちがつたものなることは、誰が見ても一目で明らかである。手短かにいふならば源氏には名歌が無い。測らず人の口ずさみに上り、記憶に留まり得る歌さへも數へるほどしか無い。文學の目途が別なのだから是は當り前のことである。源氏の歌は男女の間に取交されたいはゞみそかごとで、公表せられて居るといふのが奇體な位のものである。夜明けに別れて來て朝御膳のあと先に、持たせて遣るやうな作ばかりで、普通の人のならばもうそれで用が濟むところ、咳ばらひや溜息に毛の生えたほどのもので、よくも是だけまで粒が揃つたと、感心しなければならぬ才女の筆の跡である。之に反して古今集は時の歌のしかも選り拔きで、衆人|稠坐《ちうざ》の中で高く讀み揚げられるのを期して、思案を凝らした上でいさざよく提出したものか、さうで無ければ所謂人口に膾炙して、久しく公有の姿を保つて居たものばかりである。食べ物でいふなら御總菜と本膳といふ差で、なんぼ時が同じでも別ものと見るのが當然であつた。さういふ二つのものを一しよくたに、金科玉條とする樣な古今集觀は、我々は幸ひにして承認もせず、又相續もして居ないのである。反動といふ點からいへば、寧ろ桂園派の方が一歩今日の人よりも先へ出て居る。
 鎌倉室町期の國文學者諸先生が、結局は見落して居た古今集の特殊性は、後撰拾遺等の續出した歌集と比べて見ても、なほ相應にはつきりと判るやうな氣がする。それは前者には歴代の言ひ傳へがうんと溜つて居て、選擇の範圍が廣く、合格律が嚴しかつた爲だけでなく、今一つには撰者殊に其時代の好尚が指導した歌謠味とも名づくべきものが、以後僅かな歳月の間に激減してしまつた點、別の語でいへば源氏風の即詠の多くなつたことが、先づ第一に目に着くのである。この傾向を養つた人も、同時に古歌の保存に努力した撰者の四人、その中でも達者で又異色に富んだ紀貫之などであつたらしいから、言はゞ此際を境に、歌といふものに對する考へ方が一變したのである。口と耳との文藝の歴史には、前後この時代ほどの太い線の區切りはなかつた。今聽く御歌會の放送を以て、野中の清水と見るのが誤りかは知らぬが、朗詠はまことにインパッシネェトなる、靜かな音樂になつてしまつた。書いた文字によつて古今集(50)を味ははうといふ氣持、是が古代と我々とを枳殻《からたち》の垣根の樣に遮斷して居る。しかしあの時代とても人と場合とによつて、歌を詠ずる型には幾つかの種類があつたらうし、又めい/\の自己流もあつて、寧ろ後々のやうに斯う歌はぬと相濟まぬといふ定めも無かつたらう。殊に大多數の歌によつて感動する人々は、終始口のうちで又は胸の中で、くりかへし且つ記憶して居たことであらうから、最初から節とかハカセとかいふものゝ支配には服して居ない。たゞ言葉は斯う繋がれ、斯う運ばれなければならぬといふ若干の約束を、言はず語らずに認めて居たゞけで、それが片端は曲りなりにも、つい近頃までは守られて居たのである。當らぬ名稱かは知らぬが桂園派では、それを「しらべ」と謂つて居た。其「しらべ」を法則に書き現はすことの出來るまでは、いやでも應でも古今集の實地に就いて、一々に體得するの他は無いと思つたのは、必ずしも漠然たる信仰のやうなものでは無く、斯ういふ歴史上の知識に基いて居たのである。
 是はどうして三十一音節もしくは十七音節の詩形が、今でも日本には行はれて居るのかといふ問題と一括して、早晩誰かゞ解説しなければならぬ懸案であるが、ウタが本來ウタハルルものであつたといふ記億は、我々の間では存外鮮明に保存せられて居る。たゞさし當つてまだ決定せずに居るのは、和歌だの短歌だのといふ新語を設けて、強ひて其中から區劃しようとした一部の詞章が、果していつの頃に國固有の朗詠法と、袂を別つことになつたかといふことである。次には言葉の好みや排列などが、この分離に伴なうてどれだけまで、古くからのものと變り、又どの程度に前々の仕來りを、無意識に踏襲して居るかといふことも見究めなければならぬのだが、是は國語の時代相といふものを、今少し氣を付けて味はふやうな學問が、興隆しなければとても望めないことである。字で書き眼で見ればこそ古語も歌になるので、耳で感ずるのを專らとして居る限り、註釋の入用な言葉などを使つて歌にしては居られない。さう考へて見ると大よそは見當が付く筈である。
 
(51)       二
 
 いはゆる髄脳ものがことの外感謝せられ、歌にも學者が出て來て其蘊蓄を傾けた時代が、すでに古今集に引續いて到來して居る。さうすれば爰がやつぱり一つの境だつたのである。常語は其以前とても全部までは利用せられず、歌には歌だけのふさはしい言葉といふものが、古くからあつたことは證明し得られるだらうが、その選擇の目的は丸で別で、一方は歌つて安らかにもしくは痛切に效果を収める爲であつたものが、後には古人がさうは用ゐて居ないからといふ樣な、たわいも無い拘束になつて我々を窮屈がらせて居る。從つてまあそんなものには手を出さずともといふ人を多くし、和歌は終に手習の出來る階級の、玩具となつて千年を經過したのである。その御別れの「うたげ」の歌といふやうなものを、遠音ながらも古今集の中から、我々は聽いて居たのである。何だか知らないが妙に昔なつかしく、又時々は寂しい感じさへしたのも、理由のあることのやうに此頃は考へて居る。時代を知らなければ文學などは判るものでないと、今までもよく先輩が講釋して下さつたが、その時代なるものが早速に知ることが出來ればこそ、取付くすべもあつて此教訓も有難いと言へる。斯んな大きな底の流の變り、ウタが短歌になつてしまつたやうな隱れたる革命でも、見過してどし/\と歴史は進んで行くのではないか。だから知つて居ると思ふのが何よりも大毒である。我々はもう一度立止まつて、落ちて居るものを拾はなければならない。
 斯んな纏まりの付かぬ談義を、するつもりでは最初は無かつた。萬葉の方はどう言つてよいのか知らぬが、古今集にはあの當時まで、口で歌はれて居た歌、歌つて發表しようとしたものと、其餘習のまだ著しく認められるものとが非常に多いといふことを、私は實例に由つて話して見たかつたのである。序説の不完全な點は又他の折に補充するとして、爰では少しばかり其歌の話をする。是まで誰にも格別注意せられて居ない歌で、
 
   ほとゝぎす我とは無しに卯の花の
(52)   うき世の中に鳴き渡るらん
 
といふなどは一つのよい例だと思ふ。一見したところ句が切れ/”\で、どう繋いでよいのか文法家をまごつかせる。たしか遠鏡にもわけのわからぬ口語譯がしてあつたが、歌つて見さへすればいと容易に、作者の感じて居たことだけは酌取られる。即ち世を渡ると鳴き渡ると、二度の「渡る」を一語ですませたのがあやで、心にも無い世渡りがなさけ無いからあの鳥も泣くのだらうといふだけのことだが、それを斯ういふ風に歌ふとあはれな歌になる。作者の躬恆といふ人は、貫之よりもずつと古風で、いつも吟詠の用意をもち、又昔の歌の感動を十分に體驗して居るやうに見える。二の句の我とは無しにの變り目にも意味があるらしいが、卯の花の平凡なる一句を枕詞のやうに、次に持つて來たのも巧妙な措辭法で、其爲に是がたけ高く優なる姿として、後々も御手本の一つになつたことは人が知つて居る。たつた三十一文字の五文字までを枕に使つたり、それを費《つひ》えなやうにも考へてか、前の句の掛言葉に兼用して、肉附きの枕などゝわる口を言はれたり、馴れて居るからさまで氣にも留めぬが、考へて見るとをかしい樣な色々の癖が我邦に生まれたのも、根本は斯ういふ類の歌つて居た時代の苦心が、何と無く人の趣味を感化したものだらうと、今でも吟じて見るたびに私などはさう感じて居る。
 それから江戸の戯作者もよく知つて居た歌だが、
 
   いのちだに心にかなふものならば
   何かわかれの悲しからまし
 
 是などは遊女の作であり、從つて又歌ひ上げた歌であつた故に、聽く者にはおもしろく又忘れ難かつたのであらうと思ふ。人の湯治に行く送別の宴に出て來て、横合ひから詠んだ歌としては、「命だに」はあまりにも女らしい誇張、今日ならばセンチメンタリズムといふ所であつた。さうして用語もたゞ音聲のみはなだらかであつて、語意は十分にかなつて居らぬやうな氣がする。六帖その他には末の句が「悲しかるべき」となつて居る。是がもし心からさう思つ(53)ての歌だつたら、或はこの方が文法上は正しいのかも知らぬが、實際は「うたげ」の一つの興だつたのだから、直したのが後のさかしらといふことになるのである。今でも斯ういふ社會の歌にはそれがある如く、いふことは強くても言葉使ひは大まかで、しかも感じのいゝ歌が遊女の作として中世にも幾つか殘つて居る。一般に歌を字に書くやうになつて後まで、彼等ばかりは口で詠じて居た證據かと私は思つて居る。
 
       三
 
 戀歌の中にも亦色々の痕跡が見出される。數多の「題知らず」は私には不審でたまらぬが、まさか古今集の頃から何に寄する戀と、いふやうな題が出たわけでも無からう。是も「よみ人知らず」とあるのと同樣に、どういふ場合に詠んだかといふことは、少し都合があつて明示することが出來ぬと、いふ位に解して置いてよいと思ふ。さうして其中には現實の生活經驗に據らず、何か別途の入用に應じて假作したものが既に多いやうに思はれる。是も私が若い頃から印象づけられて居た、
 
   君來ずはねやへも入らじこむらさき
   わが元ゆひに霜は置くとも
 
といふ歌なども、考へて見ると如何なる人が詠んだのかわからない。霜に抵抗しようといふのも威勢がよすぎるが、それよりも自分の頭のことをこむらさきなどゝ、澄まして言つて居られる女といふものはありさうもない。是は一つの感深き繪樣といふもので、寒い月夜に?《とぼそ》を押開いて、一人立つて居る手弱女《たをやめ》の姿ならば、寧ろ男の胸に描かるゝ幻であつたらうが、それを歌にした者は何れであつたともきめられぬ。
 
   君が名も我名も立てじ難波なる
   みつとも言ふなあひきとも言はじ
 
(54)「見つ」といふのが君の方だつたとすれば、この作者は女性でなければならぬが、女はさておき男でも、斯んな口合ひをいふやうではもう戀では無い。是なども笑ひや樂しみの用に、しば/\戀の歌が供せられた一例である。後世の才女のうちには是をまことの記録と心得て、人を遣り込めるやうな歌を作つた者も多く、或は作りごとかも知らぬが伏柴の加賀のやうに、名歌を公表する機會を捉へる爲に、一つの戀愛を犠牲にした話さへある。これ等は全く歌がうたひものであつたことを、僅かな年代の間に忘却した結果だと思ふ。坊主が戀歌を作ると言つて私たちも笑つたことがあつたが、其方がよつぽど元の心に近かつた。古今集の多くの歌を見渡してもわかるやうに、最初から男女のさし向ひで無く、滿堂の諸君に面白がらせようといふ戀の歌といふのもあつたのである。是がもしも現實の用途の爲だけであつたら、人間の生活には大體の共通がある。其結果は如何に單調な又平凡な、自分たちのみで大切に思つて、あたりは皆退屈するやうな文藝の行列を見たことか。否そんなものが今日まで、殘る氣づかひも無いのである。だから歌謠は恐らくは一つの救濟であつた。是によつて日常には需要の無い多くの美しい感覺が養はれ、飛びまはる我々の空想には一つ/\のとまり木が出來、人は寂しい時にも又不如意な時にも、なほ折々の安養の地を見出し、同時に又次の代の爲に、一段と精微なる情操を貯へて行くことが出來たのである。品行方正なる又は貞淑なる多數の現代歌人が、慎しんで自分の實歴以外を歌にしまいとする風は、私などから見ればこの尊い特權の抛棄であつた。
 それといふのが歌はうたはるゝものだつたといふ前代の記憶が、この人たちばかりには餘りにも幽かになつた爲で、所謂下々の者は今でもさうまでは歴史を忘れて居ない。物靜かな婦人が、歌となると思ひ切つたことを歌つたり、又はあて歌と稱して常ならば喧嘩になるほどの惡口を言つたりする。歌だけは別の世界だといふことを、自他ともに認めて居るのである。俚謠集には武藏入間郡の麥搗歌として、次の樣な歌を採録して居るが、是は歌といふよりも終に附いた囃しの文句である。
 
   引割り御膳に菜葉の汁では
(55)   ぢがらは踏めない、
   それでも御主人、地がらの囃しだ
   お氣には留めるな
 
 斯ういつて辯疏をするだけはもう實力が衰へて居るので、何のことわりも無しにひどいことを、歌で言つて居る實例も剰るほど有るのである。以前はこの自由が廣く都鄙に及び、たとへば政治に對して若干の不安のある場合でも、一言もたゞの言葉では非難を口にし得ない者が、平然としてそれを巷の辻にうたつて居たのである。大した社會的效果は無かつたかも知れないが、とにかくに正史にさへそれを録して居る。童謠は星が小兒をして歌はしめるのだといふ俗信すらあつた。それが今日はどうであらう。うちの鄰へ歌よみが來て住むといふことは、そこが麥畠であり松林である程にも、彼等の作品と私たちの生活とは交渉が無い。まことに好いお樂しみなのかも知れぬが、外から見れば隱遯《いんとん》としか見えない。さうして町には世のうさを忘れる爲の、ジャズばかり流れて居る。
 
       四
 
 いや斯んな話は爰ではちつとも用の無いことであつた。私は戀歌といふものゝ用途が、昔から非常に廣いものであつたことを説きかけて居たのである。和歌が鬼神武夫の心をも慰めるといふことは、古今の序にも説いて居て有名であるが、さて如何にしてさ樣な效果を擧げるかといふ方式は判明して居ない。私はそれが日本語の清い語音であり、又それを長めたる節まはしであつて、文字では無かつたらうといふのであるが、其上に我邦には神に向つても同性の間にも、わざと男女のみそかに言ひかはすのと同じ言葉を、使ふ習はしが古くからあつた樣に思はれるのである。是には「おみき」といふものゝ仲立ちがあつたことは申すまでも無い。多分は生理學の方からも行く/\は説明し得ることゝ思ふが、人が陶然たる醉境に於て、相對する者を親しみなつかしむ感じには、戀と共通した何物かゞあつたら(56)しいのである。今でも古風な醉つぱらひは、?手を執り肩を叩き、首玉に抱きついたりする故に私はさう想像する。それは或は餘りなる考へ過ぎであらうとも、少なくとも何等の計畫無き戀ごゝろが、古來の酒ほがひの歌には充ち滿ちて居た。安積《あさか》山影さへ見ゆるの一首などは、たゞ其中の特に有名なる例といふまでゝある。古今集卷十一以下の數百首に、誰が如何なる機會に詠んだらうかといふことの、何としても推定し得られぬ戀歌が數多あるのも、其類だとすれば不審はない。歌は決して大昔から、題詠によつて發逢して來たものでは無いのである。
 今まで作者の境涯には少しの理解も無くして、しかも吟じて見て感に堪へぬといふ歌が、古今集の中には殊に多いやうである。もしまちがつて居たら御免を蒙るより他は無いが、此頃私は或る會の席上に於て、
 
   わが庵は三輪の山もと戀しくは
   とぶらひ來ませ杉立てるかど
 
といふ一首を、やはり勸酒の歌であつたらうと謂つて、聽く人に不審の念を抱かせて居る。大和の御本社では勿論そんなことを承知しないが、山本とあるので神樣の御詠で無いことは明らかである。或は別種の傳書ではこの歌を、
 
   戀しくは來ても見よかしわが宿は
   三輪の山本杉立てるかど
 
とも記憶して居るやうだが、斯んな二つのやゝ氣もちの異なつた歌ひ方のあるのを見ても、その杉立つ門に力強い聯想をもつて居たことがわかる。杉は中世の「又六がかど」にも立ち、今でも東北は津輕の奧まで、毎年新しい杉の葉を圓く括つて軒に下げ、新酒の出來たことを報ずる風習が行渡つて居る。東京郊外の散歩にも、この看板を幾つでも見かける。吉野の山の杉が木の香を酒に移す爲に、珍重せられて居ることも現實である。ミワが杉立つ神の御山であり、同時に酒の名又酒器の名であることもよく知られて居る。しかも神と酒との縁は薄々は感じて居て、なほ最近まで少しも氣づかれなかつたことが一つあつた。かつて慶應大學の川上教授が故郷の越後で杉の木から酒の香のする液(57)體が、盛んに沸き出した事實を報告せられるまでは、稀にはさういふ話を聽いても、私たちはたゞ話だらうと思つて居た。更に近頃の宮崎高等農林學校の日野博士の實驗によつて、日本の杉の樹に附く微生物が、日本の酒の酵母と至つて近いものであることを見出されたことによつて、こゝに漸く杉と酒との關係が、夢や幻で無いことがわかつて來かけたのである。古人が言はなかつたことでも、氣が付いたら覺るやうにしなければ、我々は永遠にエニグマチックの國民として生息し、又いつ迄も本を讀む人たちから、煙に卷かれて暮さなければならぬであらう。感服も祖述も雷同附和などゝいふことも、やはりいゝ加減がいゝ樣である。
        〔入力者注、enigmatic、謎。不可解な。〕
 
(58)     山歌のことなど
 
       一
 
 大昔の歌垣の名殘かと言ほれて居るものはそちこちに有るが、さういふ中でも殊に著名なのは、三河|額田《ぬかだ》郡の或る山村の行事であつた。春の末の一日、村の未婚者が全部山に登つて、歌をうたつて終日遊ぶ。それには不思議に年長者が關與しない。私も二人三人から此話を聽いて居るのだから、つい近頃までも殘つて居た風習だらうと思ふが、土地ではこの山行きを單純にオヤマと呼んで居た。村の縁組はこの神山の際にきまり、却つて明叨《みだ》りがましいことは少しも無かつたさうである。此日の約束は父兄が認める慣例であつて、大抵はその年の秋、收穫が終つてから式を擧げさせることになつて居たといふ。
 若い男女の歌が、爰ではどういふ風につま定めに利用せられて居たか、外部の人には想像も付かぬけれども、とにかく其日までは他人であつた者が、御山に行つて約束をするのだから、婚姻とこの日の歌謠と、何かの關係があつたことだけは想像し得られる。同じ慣行が隣の部落には無いといふのは、恐らくは早く中止したので、飛び/\には遠く他の地方にも知られて居るのである。それを追々に詳しく調べて行つたら、もう少しはつきりとしたことが言へるやうにならうかと思ふ。
 中部以西の田舍では、春の山行きは躑躅や藤の花の盛りの頃を見かけて、日はきまらぬものも多いが處によると三(59)月の三日、もしくはその何日かの後に、花見とも花散らしとも謂つて、必ず酒食を携へて山へ遊びに行く風がある。九州一帶の海岸の村々でも、是を磯遊び又は磯行きとも謂つて、三月節供の日などに、海端へ出て遊び暮すことになつて居る。最初は自分は之を人形を送る儀式を主にしたものゝやうに考へて居たが、このオヤマの例などを念頭に置いて考へると、やはり男女の酒盛といふことが目的であつたらしいのである。勿論現在の多くの山行き磯遊びは、すでに配偶の有る者も、老人も子供も皆携はつて居るが、自分などの幼い頃の記憶では、歌と酒とがいつでも中心であつて、何かは知らずひどく心のときめく日であつたやうに感じて居る。又寒國では花が遲いから、日は必ずしも三月三日とは限つて居らぬが、氣を付けて見ると花見の二度ある處が多いやうである。この二度の花見といふのが、事によると一つは子供や年長者のたゞ遊びに出る爲のもので一種の記念日、他の一つが年頃の男女の、縁を定める爲の式の日では無かつたかとも思はれる。とにかくに非常に悠遠な昔の世からの、習はしであつたやうに私などは見て居るのである。
 
       二
 
 東北地方の民謠の中に、歌の言葉も又その調子も、特に我々の心を動かす山唄といふのがある。津輕や秋田では是を又十五七節とも呼んで居た。それは其歌の章句のはじめに、十五七といふ語がよく使はれるからで、その十五七は成年期の女子のことであつた。例は幾つもあるが其一つに、
 
   十五七がヤイ
   澤を登りに笛を吹く
   峰の小松が皆なびく
(60)   十五七と
   五月五日の粽《まき》の葉は
   年に一度はいはれ草
 
などゝいふのがある。山唄は即ち山に草採り茸採りに行く者の歌と、今では簡單に解せられて居るやうだが、私の想像では、是も一つのかゞひ歌であつたかと思ふ。蔬菜を今日の如く畠で栽培しなかつた時代には、春は雪の融ける日を待ちかねて、山へ青物を採りに行くのが習ひであつたが、この仕事ばかりには、きまつて何處の村でも若い男女を遣ることにして居た。ちやうど人の心も柔らぐ時であり、歌の最も豐かな季節ともなつて居たので、恐らく斯ういふ人々が雪の降り積る中から、待ち焦れて居た日であつたらうと思ふ。從うてそれがたとへ定まつた習慣でなかつたにしても、事實に於ては若い者が互ひの心を見、未婚者の身を固める好機會となつて居たことは先づ疑ひが無い。
 斯ういふ日と處の歌といふものは、勿論その多くは新しい制作でなかつた。恐らくめい/\の祖母曾祖母の歌つて居たのが、記憶せられて取出されることもあつたらうが、それにしたところで折を見場合を考へて、それにふさはしいものを歌ひ出す氣持は新しく、又一人々々の氣働きを、知つたり知られたりする機會ではあつた。單に歌の聲の好いとかやさしいとかいふだけで無く、ちやうど其日の感情を言ひ表はすやうな一首の選擇、又は僅かばかりの文句を改作したり、そこに來て居る人の名を詠み込むといふ類の、小さな巧者によつて相手聽き手の心を惹き、又は互ひの胸の奧にあるものを、問ひもし告げもすることが出來た。それが配偶者を選定する好箇の標準であつたことは、ちやうど中世の良家の女性が、千篇一律に近い三十一字の贈答の中から、心の深さ淺さを探り合はうとして居たのと、異なる所は無いのである。
 近頃の社會の婚姻には、もう是だけの下調べすら、せぬものが多くなつて居る。むやみにこの迂遠な方法を笑ふこ(61)とは出來ない。私などの想像では、所謂相聞の古い風俗は、田舍にはなほ久しく傳はつて居たのである。是を輕はずみな、何だかだらしの無いものゝ如く、町に集まり住む人が危ぶむやうになつて、却つて眼に立つて村の風儀が惡くなつたかと思つて居る。以前は妻問ふ者各自の意思が、今よりも一段と信用せられて居たのである。
 
       三
 
 前年私も一度訪れた日本の南の端、八重山の島にはこの歌垣の方式が、可なり零落した形でなほ傳はつて居た。岩崎卓爾翁の「ひるぎの一葉」に、この日の作法が詳しく書いてあるが、今はそれも亦昔語りになつて居る。島の上流の男子は甚だしく我儘で、酒宴の相手には平民の娘たちを喚んで來て酌をさせた。さういふ場合にはパナパナと稱して、男女の間に珍しい言葉戰ひがあつた。パナは島の言葉で花を意味する。この男女の應酬の秀句が、必ず花を題目とする定めである故に斯ういふ名稱も出來たので、其點のみは僅かに風流であつたが、目的は甚だしく放縱なものになつて居たと言はれて居る。以前は必ずしも此通りでなかつたのかも知れぬ。殊に首邑の少數の士族が、農民に對して威力を揮つた時代になつて、女の自由は制限せられて居たことにちがひないが、兎に角に形だけは此爭ひに言ひ負けた者が、勝つた相手の意に從ふことになつて居た。即ち古い世のカガヒの樣式が、幽かながらもまだ爰には傳はつて居たのである。
 それから少しづゝ氣を付けて居ると、他の多くの土地でもまだその名殘かと思はるゝものが見られる。特に婚姻の準備とまでは言へなくとも、心安い男女が席を同じくし、酒でも汲まうといふ日には大抵はこの言葉の闘爭がある。腹には是といふ宿意も無くて、何か氣の利いた受け返事をするといふ以上に、揚足を取つたり冷かして見たり、嫌味とか皮肉とか、へらず口とか謂つてよいものを、常は物靜かな娘たちまでが、いつの間にか用意して居て程よい時に出し、相手が意外に打たれてちよつとたじろくのを、一言も無いとか二の句が繼げぬとかいつて負けたしるしとする。(62)茶屋や酒場の練習した女の居る處へは、兼ねて兵備を整へて出掛ける若者も多く、中には歌もうたはずに惡口をきくのを樂しみに、「小傾城行きてなぶらん歳の暮」といふ類の愚かな趣味をもつて道樂をして居る者も居る。何れも十分には意識せぬ色欲によつて、はかない興味と昂奮を感じて居ることは、八重山のパナパナも異なる所が無いのである。
 古來幾千とも知れぬ日本の戀歌は、何れもこの目に見えぬ歌垣の中の活躍であつた。「かゞふ」は後世の語でいへば「挑む」に當り、カラカフといふ動詞も語源は多分一つであらう。西洋のトルバドールなどゝ異なる點は、彼に在つては女性を尊崇すると稱して、六尺ゆたかの大男がひれ伏し哀訴するを本式として居たに反して、是の文藝には?揶揄があり又威壓があつた。深草の少將などゝいふ例外も無しとはせぬが、多くは機智のきらめきを以て相手に度を失はせ、或は讃歎と景慕をさゝげしめんと期して居た。それにあまりにもたやすく感動してしまふことは、心の淺い者のやうに見落される懸念が十分にあつた。それ故に女も負けぬ氣になつて、或る時はつれなく返り事もせず、又或る時は相手の胸を刺すやうな、思ひがけない返歌を詠んだのである。源氏物語とその同時代の美人には、其才の殊に秀でゝ、折々はにくらしいとも思はれるばかりの揚足とりさへあつた。
 
   淺みこそ袖はひづらめなみだ川
   身さへ流ると聽かばたのまん
 
 斯ういふ類の歌は拾ひ切れぬほども多く殘つて居る。人の婚姻が文學よりも古かつたといふこと、是は格別の不思議でも無い。たゞ我邦ではこの人生の實際の必要が、文學の發達を促進して居るのである。男女が生涯の幸福を計畫する手段に、極度まで言語藝術を利用して居たのである。
 
       四
 
 此歴史をもつと詳しく説くことは、別に適當な人があるであらう。私の尋ねて見たいのは、文字と縁の無かつた村(63)里の生活に於て、同じ技術がどの程度にまで、我々の幸福を道案内したかといふことである。春も彌生の櫻山吹の咲く山に、心のどかに一日を遊び暮さしめて、靜かに生涯の伴侶を見つけさせようとする計畫は、古風といひながらも非常に意味が深い。やがて花散り山が緑になつてしまふと、もう農作は次第に忙しくなつて、それから稻の熟して取入れられるまでは、もうこの問題ばかりを落ち/\と考へて居る餘裕が無く、それから冬籠りの、群を爲して遊び難い日が續くからである。しかし斯ういふ御山の一日が、餘りに自由に過ぎると考へる年長者が多くなつて、この機會は延期せられて、田植の日を以て之に宛てるやうになつた。田植に歌の多いのは他にも理由があつたが、若い未婚者たちが此時ほど完全に、各自の生活力を展開し得る時は稀であつた。それが作業の出來ばえに顯はれ、歌の伸び/\とした住い聲にあらはれ、又時々の氣轉と受け答へにもあらはれ、しかもあらゆる階段の批評家が、共同して審査の任に當るのである。一つの故障は最も關心の深い二人が、直接に互ひの心を試みる時が足りない。それ故に又其必要の半ばを、農事の少しく閑になつた盆の季節の、休みと踊りの日に充たさうとして居たのである。盆は夜の風の涼しく蟲の聲の滋くなる季節で、亡き人を祭るといふ憂鬱な行事があり、踊も亦その精靈を送るのが目的であつた。是が最初から若さに溢るゝ歌垣の庭であつた氣遣ひは無い。年に一度はどうしても妻を定める日が必要であり、山行きや田植が色々の制約を受けてから、別に斯ういふ機會を利用することになつたものと思ふ。踊が夜分であり月の光の下であつたといふことが、幾らか餘分の勇氣を與へたかも知れない。山で一日靜かに歌ひ交して居るやうな、悠々とした悦樂は無いまでも、慌だしい田植草取などの日に、四邊の人の氣を兼ねて、まはりくどい歌をうたつて居るよりは效果が多かつた。それ故に盆は次第に樂しんで待つ日となり、それが新佛のある家の前に來て、踊るべき夜であつたといふことさへ考へぬ者が多くなつたのは、是も古いかは知らぬがやはり亦一つの變遷であつた。
 それがなほ十分に目的を達し得ず、又少しづゝの弊害が感じられて、今度は農作のすつかり片付いた頃に、又一つの小さな機會が與へられて居る。是は古くからあつた祝ひの日で、無論集まるのは若い人だけに限られても居なかつ(64)たが、土地によつては親爺も女房も、それ/”\別の日に別の處に寄り合つて、年頃の者ばかりで氣樂に丸一日、飲み食ひをすることを許した例が多い。是を秋忘れと謂つたのは好い名だが、或は又メオヒともヒカリ・ヒヤリとも、カクセツともジョウバアゲとも、色々の名を以て呼んで居る。山陰地方ではイツモノといふ處もある。即ち斯うして毎年次々に、村の家庭を新しくして行く日だつたのである。東北の方では又正月に入つてから、青年には鉈の餅、娘たちには苧桶《をぼけ》の餅の日などゝ謂つて、めい/\の餅を持寄つて一緒に食べる日があつたが、是も方式はよく似て居た。酒の少ない割には歌が多く、又笑ひ聲の豐かな日であつた。斯うして若い男女の本性や心行きが、互ひにしつかりと見据ゑられたのである。いくら一つの里に育つても、單なる行きずりには胸の中までは知ることが出來ない。家はよく判つて居ても、人の氣持までは察しやうが無い。村に高砂社といふやうないやな機關が無くてすんだのは、やはり名をかへ形をかへて、昔の歌垣が續いて居たからである。
 
       五
 
 歌が談話よりも自由な表白方法であつたことは、民謠の衰微によつて段々と忘れられようとして居る。殊に言葉に慎み深く、内にみなぎる感情を抱へて居た人たちが、他處の借り物の流行唄ばかりを口ずさむやうになると、めつたに自分の境涯を語る文句が無く、たゞ徒らに金切聲の高調子を以て、心のやる瀬なさを吐き出す位がせい/”\で、文藝の一つの重要な社會的用途は、段々と塞がつてしまはなければならぬのである。其樣な統一や發達は、有難いものでも何でも無い。もつと氣の利いた代りのものを考へてから、止めるなら止めたがよいと言ひたいやうなことが、歌と婚姻との關係にはまだ幾つか殘つて居る。私などの面白いと思ふのは、是ほど世の中が進み輕便が萬事を支配する時代が來ても、田舍にはなほ折々、文句無しには婚姻を濟ますことの出來なかつた古い/\慣習が、片端ばかりはまだ保存せられて居た。近代の花嫁はいかな口達者でも、輿入の日だけははにかんで黙々として居るのが常であるが、(65)其代りには周圍に居る人々が、曾て彼女等の歌はんと欲したものを代つて歌つて居る。其中でも殊に遠慮の無いのは長持唄、もしくは雲助唄とも謂つて、嫁の荷を運んで來る者が途々で歌ふ歌、分けても聟方の門に近づき、又は坂迎への受渡しの場に着いて、相手と立合つて酒を飲む際などに、特に力を入れてうたふ歌などゝいふものは、めでたいながらも色々の皮肉をまじへ、恩に着せたり向ふの實意を試みたり、奇拔な文句で返し歌を求めたり、下品な言葉づかひは已むを得ないが、とにかくに何等かの言ひ分を付けて、たゞおめ/\と引張つて行かれるのでないことを示さうとする。是は明らかに自由意思の宣言、即ち上代の「言問ひ歌」のおちぶれた最後の形であつた。それから愈盃の席に連なつて、仲人とか親類の人々とかゞ歌ひ出すのも、現代は高砂四海波、きまり切つた謠の一節より外へは出ないが、是は近頃の世話人の挨拶が、僅か二三十年の間に型にはまつてしまつたのも同じ例で、謠が村里に入つたのが古い頃だつた氣づかひは無く、又その高砂やが流行する以前、只だんまりで盃を交して居た氣づかひも無い。是にも耻かしがる當人たちを代表して、必ず大昔のアナニエヤ・アナニヤシに該當する、贈答唱和の代行があつたのである。その痕跡も捜して見れば見つかる。たとへば東北では現在もなほゴイハイなどゝ稱して、老人たちの記憶する婚禮用の多くの歌がある。祝言の爲ではあるが、是も亦明白に前代の戀の歌の崩れたものであつた。歌垣の古い作法が傳はらなかつたら、歌謠の歴史は今見る形の樣に展開しなかつたであらうと同時に、歌を酒宴の席上に濫用する今日の世の姿も見られなかつたらう。日本の所謂狹斜の巷が、多くの特色ある小唄を以て盈《みた》されて居たのも、基く所は初期の配偶者選定方式に在つた。遊蕩と文學とが我邦のやうに、仲よく手を組んで居る國も實は珍しい。制度はその本意の忘却によつて、忽ち頽廢するものだといふことを氣付かなかつた罰である。歴史はこの意味に於てもう一度、我々の常識を陶冶しなければならぬと思ふ。
 
(66)     酒田節
 
       一
 
   酒田こやのはま
   米ならよかろ
   西のべんざい衆に
   たゞ積ましよ
 
 この歌はずつと以前、一度たしかに耳で聽いたことがあるのだが、何處であつたかはもう思ひ出すことが出來ない。誰か年を取つた人などで記憶して居る者は無いだらうか。實は道樂で無しに少しばかり入用があるのである。
 是とよく似た歌の文句は可なり方々に殘つて居る。たとへば仙臺中央放送局で昨年も重刊した「東北の民謠」青森縣の部、十三の盆踊「とさの砂山」といふのもその一つである。
 
   十三の砂山ナーヤイ
   米ならよかろナー
   西の辨財衆にたゞ積ましよ
   たゞ積ましよ
 
(67) 西津輕北境の十三湊は古來著名なる船着場で、もとはその十三をトサと呼んで居たのである。御曹司島渡りの御伽草子を始め、こゝを泉として湧き流れた歌と物語は、汲めども盡きぬほどの豐かさであつたが、一朝交通系統の變化によつて、繁華は昨日の夢と消え去り、砂山ばかりは愈高く、今訪ねて行つて見ても、歌をうたつたやうな女はもう一人も居ない。盆踊の歌としても、或はこの歌などはもう使はれて居らぬのではないかと思はれた。
 
       二
 
 ところが此縣には今一つ、是とよく似た章句の歌ひものが酒田節として採録せられて居る。土地はどことも記されぬが、南部領の方らしい。八戸あたりの老人が覺えて居るかも知れぬ。頗る合の手が長いので其まゝ寫せば解らなくなるから、言葉だけを並べると、
 
   酒田|興屋《こうや》のはま
   米ならよかろ
   西の船頭衆に
   たゞ積ましよ
 
 酒田から運んで來た歌であることは明らかに認められる。興屋の濱は地名辭書には高野濱とあり、酒田でも今は小屋の濱などゝ書くさうだが、莊内地万から越後へかけて、コウヤといふのは新地のことである。さうしてこの荒漠の砂濱に接して、以前の絃歌の巷は立つて居たのである。十三と酒田と、二つの地は共に西國から、米を積出しに大きな帆前船の、通つて來る湊場であつたことは同じで、歌の趣向は雙方が全く一つである。起りはこちらだと、十三湊の人は言ひたいだらう。
 酒田では又さういふ歌は無いといふ人も有るさうだが、どうも私には「こやの濱」の方が前のやうな氣がする。少(68)なくとも歌の文句から判斷して、是が最初から盆踊の爲に、うたつた歌でないことだけは明らかだと思ふ。
 
       三
 
 船頭衆・べんざいしゆのシユは敬語で、陰でならば「船頭かはいや」といふ風に、呼びずてにも歌ふのである。濱の高砂の無限の堆積を、米に見たてたのはめでたい言葉のやうだが、是にもたつた千俵か二千俵を運ぶ爲に、海上辛苦をして懸命の取引をして居るのを、いたはり且つ憫れむやうな語氣をもつて居る。昔から男女の間の歌には、からかひと笑ひとを含むのは常の習ひだが、斯ういふ蓮葉な物の言ひ方は只の女性には出來ない。さう思つて見るとこの上下各一句の字餘りの文句は、如何にも人馴れた港の美人の、媚びて又飄輕な眼もと口もとを髣髴せしめ、海の荒くれ男の高笑ひまでが、其陰に思ひ浮べられるのである。
 
       四
 
 越後中頸城の海岸の村には、今でもこの唄が盆踊の一つに附いて行はれて居る。節の至つて緩やかな、合の手の多い歌だといふが、どういふ風に踊るものか一ぺんは見たいと思ふ。
 
   酒田こうやの濱
   米ならよかろ
   沖のべいだいしゆに
   たゞ積ましよ
 
 渡邊慶一君の話によれば、土地では既にこの「べいだいしゆ」の意味を忘れ、或は米大舟とでも書く一種の船の名の如く、思つて居る者が多いさうである。船頭のことをベンザイと呼んで居る西の國の帆船が、直江津あたりの湊に(69)寄らなくなつてから、彼是もう三十年にもなるであらう。たとへ一部をまちがへてゞも、今まで殘つて居たのは好い歌の奇特であつて、私たちは是によつて日本海上の交通、久しく文書の上からは疎外せられて居た北前船の生活と情緒とを、幽かながらも窺ひ知ることが出來たのを喜んで居る。
 このたつた一つの例でも明らかになつたのは、嘗て酒田が全盛であつた頃には、そこでも「西のべんざい衆」と歌つて居たものが、十三ではそのまゝ通じ、次の土地へ行くともう「船頭衆」と飜譯しなければ、歌の面白味が解しにくゝなつて居たことである。
 越後は恐らくは近年になる迄、この名稱をよく知つて居たので、元の形のまゝで歌はれて居た。否寧ろその辨財衆彼等自身が、この歌を携へて立寄つて居たのかと思ふ。それが盆踊の歌となり、又米大舟などゝ變つたのも歴史である。斯んなたゞ一章の俗謠の上にさへ、國の經濟の大きな推移が映じてゐる。
 
       五
 
 實は私たちはこのベンザイの問題に、深い興味を抱いて居るのである。ベンザイは今いふ船頭や船長などゝ比べて、可なり餘分の意味を本來はもつて居た。勿論後には小相撲を關取と呼んだやうに、どんな船乘りでもベンザイ衆だつたかも知れぬが、その名の起りは單なる貨物の輸送以上に、時の相場の聞合せから代金の仕切り、さては歸り荷の引合ひ積込み方までに、若干の權能を委ねられて居た者に限られ、多分は中世の辨濟使などから、持越された一語だつたと思ふ。
 九州中部の山村で、農家の主人をベザイと謂つて居るのを見てもわかるやうに、利益にも危險にも共に或る割前を持つた者で、たゞの勞役者の頭ではなかつたのである。
 多くの彼等には度胸があり腕があつて、港々で面白い酒を飲んだ。だから上乘りが添ひ電報が物をいふやうになれ(70)ば、たとへ船の出入は元のまゝでも、もはや「米ならよかろ」といふ類の歌は生まれ難いのである。
 
       六
 
 この船頭を辨濟衆と呼んで居た大船が、どこから出てどこ迄あるいて居たかを、私は今尋ねて見ようとして居るのである。九州もずつと南の端の種子島に、坂田節といふ名で同じ歌が運搬せられて居る。何だか三味線の手が多く附いて、今では普通の祝唄になつて居るらしいが、文句は越後の方も大體は同じで、文部省の俚謠集にそれが出て居る。
 
   坂田小夜の濱
   サーサー、ドーカイコーカイ
   米ならよーかーろ
   上の小ざいしよに
   たゞスコノ積ませましたよナー
 
 こゝと酒田との間は海上が六百里、一つの船では無論乘切れない。この中途の港町にも、探したら必ず上陸の跡があらう。それが追々とわかつて來た上で、もう一度私はこの問題を取上げて見るつもりである。
 
 (附記)
 酒田節の歌はれなくなつたのは、つい近頃の事であるのに、之を記憶して居るといふ人の話が、存外まだ僅かしか傳はつて居ない。さういふ人たちと我々との間が、如何にかけ離れて居るかゞ、是だけでもわかるやうに感ずる。隱岐の知夫《ちぶり》村の郡《こほり》港では、この歌を隱岐追分節と稱して、最近まで歌つて居たといふことを松浦靜磨氏が教へてくれられた。但し「西の辨濟衆」を、爰でももう船頭衆と言ひ替へて居る。同じ島前《たうぜん》の浦郷の町には、以前盆踊に「かも酒(71)田」といふ歌があつた。是が酒田節では無かつたかと思ふが、まだ確かめることが出來ない。
 越後は新潟の唄にも亦若干の改作を以て行はれて居た。
 
   にがた砂山米ならよかろ
   沖の船頭さんに積ませたい
 
 是は山本修之助君が、郷土博物館の小使から聽いたといつて報ぜられた。頸城地方に行つてもやはり土地の名だけを改めて、
 
   黒井砂山米ならよかろ
   沖のべいだいしゆにたゞ積ましよ
 
と、黒井の海岸では歌つて居るさうである。この二つを比べて見ても、無代でこの砂山の米を積ませてやらうといふ痛快なしやれが、通じて居る者もあれば通じて居らぬ者もあつたことが判る。相馬御風氏が能生《のふ》で採集せられた、
 
   沖のべいだいしよに白絲取らせ
   波におらして岩に着しよ
 
といふ歌は、夙く前田林外の民謠全集續篇にも載せてあるが、是などは二つの歌の混同であつて、もう改作ともいふことは出來ない。山陰から九州の北海岸にかけて、可なり弘い區域に行はれて居る古風な一章、
 
   沖のとなかにのゝばた(布機)立てゝ
   波に織らせてせに着せる
 
 是と何かの拍子にまぎれてしまつたもので、恐らく「沖のべんざいしゆ」の意味が、不明になつてから後の産であらう。盆踊用とは斷言し得ないまでも、少なくとも船方を聽手とした湊町の唄でないだけは確かである。之に對して一方の「沖のとなかに」は歴史が想像し得られる。男をセと呼ぶ語のまだ行はれて居た土地で、之を隱れ岩のセと通(72)はせ、ナミを女の名のやうにきかせて、その果しも無い折返しを白布の美しさに譬へたのは巧みである。是も毎日海を眺めて暮すやうな、寧ろ機などは織らぬ女たちの、ふとした思ひ付きが興ぜられたもので、それが記憶のやゝ不精確になるまで、丸々忘れられてもしまはなかつたといふのは、多分は節まはしの面白さ故であらうと私は思つて居る。
 渡海の大型和船をベンザイと呼ぶ語は、北海道の諸港には最近まで保存せられて居た。所謂發動船の普及に押されて、ベンザイが影を斂《をさ》めたのはつい此頃のことで、是を知つて居ると謂つて圖まで描いて見せられた人も何人か有る。最初は斯ういふ帆前船をベンザイ船と呼んだのであらうが、後には略してベンザイを其船の名とし、從つて乘組員をベンザイ衆といふのが普通になつた。一種港場限りの術語のやうなもので、素人には船頭衆といふ方がよく通じ、さう歌つたのも不思議は無いと同時に、酒田や十三だけではベンザイシュでなくてはならなかつたのであらう。
 津村正恭の譚海卷四に、次のやうな記事のあるのを此頃になつて心付いた。是は天明から寛政の間の見聞である。曰く、酒田に「こやの濱」といふ處の眞砂は、悉く小さき石の白きにて、沖より望めば白米を散じたるやうに見えて、うつくしきこと言はん方なし。されば其所の船歌に、
 
   酒田こやの濱米ならよかろ
   沖のべざいに只積ましよ
 
と歌ふ也。べざいは船の異名なり云々。是によつて此唄の百數十年前から著名であつたことゝ、西の辨濟衆を「沖の」とうたつたのも、越後の人たちの誤解でなかつたことが判るのである。但し是を船唄といふのには私はなほ疑ひをもつて居る。船から眺めただけでは斯ういふ心持は起るまいからで、やはり動機は沖通る舶をも招き寄せて、無代でこの米を持たせやらうものをといふ、湊繁昌の祈願を托した戯れ歌で、それを面白がり記憶した船方が、次々に之をよその港へ運送しただけかと思ふ。津輕の十三の濱の白砂は、私も二回まで踏んで遊んだが、特に米とまちがふほど白いとも思はなかつた。酒田興屋の濱はどうあるかまだ知らぬが、是とても一つの誇張であり空想であつて、それが却(73)つて又西の辨濟衆ををかしがらせたのであらう。
 なほ餘計な講釋かも知らぬが、新地を興屋と書くことは近世の宛て字で、本來は荒野と書くべき法曹語であつた。即ち開發を奨勵する爲に、既に拓かれて田宅となつて後まで、或る期間荒野と同樣に視て、無税の取扱をする地といふ意味であつた。然るに農民は荒の字を忌む故に、わざと之を興野と書き、又屋敷にすれば興屋とも書くことになつたのである。酒田の海端の荒野は、野でも無く又田畠でも無い爲に、興野では通じ難く、興屋と書いて居たが是も何だか落付かぬので、今は小屋の濱だの高野だのとして居るのである。コウヤは東北の發音では中部地方語の小屋と同じやうに聽える。
 
(74)     廣遠野譚
 
       一
 
 遠野物語が世に出てから、遠野の生活にも色々の變化があつた。佐々木君も故郷の家をあけて置いて、近頃では仙臺に出て住んで居る。さうして此夏は二十一まで育てた女の子を亡くしたのである。
 常から病身な又しをらしい、自分でも長くは生きられぬといふことを、思つてゐる樣子の哀れな娘であつたが、病が脳に來てうは言を言ふやうになつてからは、始終手を摩つて何か尊いまぼろしを見るらしかつた。いよ/\早致し方が無いといふ頃に、或る朝次の弟が斯んなことを母にさゝやいた。昨晩は姉さんがとてもモダンななりをして、あるいてゐる處を夢に見たと謂つた。乃ち解脱の日が近づいて居たのである。臨終の後先にも幾つかの不思議があつたといふが、強ひて其樣な前置きを積み重ねて、この話の背景を彩どるべき必要を私は認めない。
 私の記録して置きたいと思ふのは、此子の父が見たといふたつた三つの夢だけである。三十日の祭を營まうといふ前の夜には、巖石の聲え立つ山の中腹を、この少女が行き巡つて、路を覓《もと》めるらしき姿を見た。四十日祭の前夜には、青空が照りかゞやいて、何とも言へぬほど朗らかな中を、たゞ一人宙を踏んで行くのを見た。其時にどこからともなく追分節の、長々とした歌の聲が聞えて、其節に合せて歩みを運んで居たことを覺えてゐるといふ。それから暫くして五十日も近い頃には、もう一度同じやうな美しい青空の下に、長い橋の上で亡き娘に行逢うた夢を見たのださうで(75)ある。
 此時は聲をかけて、おまへは今何處にゐるのかと尋ねて見た。さうすると私は早地峰《はやちね》の山の上に居ますと、答へたと見て夢が醒めたといふ。遠野物語を讀んで下さつた人ならば、誰でも一度はこの山の姿を、胸に描いて居られることであらう。私は殊に昭和四年の七月に、北から空を飛んで來て此峰の眞上を通つて居る。根張りが廣い爲に山の姿は眼に立たぬが、五葉山と向き合つて陸中の東半分を、抱きすくめてゐるかと思ふ程の深山である。人の魂が身を離れて自由になつた場合、いつでも先づ訪はねばならぬやうな靈山である。從つて又歴代の空想が、土地では此峰を中心として常に成長してゐたのである。
 
       二
 
 しかし夢を見た人の心理は簡單であつた。此時は唯さういふことも有るかと考へただけで、それを悲しみ傷む親の心遣りに、記憶してゐたに過ぎなかつた。ところがそれから月を重ねて、秋の彼岸の頃に秋田縣に旅行して、偶然に此夢を考へ直さねばならぬやうな經驗を得たと、佐々木氏は言つてゐる。横手の町の近くとかいふことで、確かめようと思へば土地も人の名も皆判るが、彼處でイダコといふ旨の巫女の、神降しの歌を聽いてみると、それが前半分は丸で追分の通りの節であつた。今まで少しも知らなかつたことだが、羽後では必ずしも稀な例では無かつた。人に話したところが自分も聽いた、何村のイダコもさういふ風に歌ふ、といふ話が幾つでもあつたさうである。何でも巫女には此邊は二つの系統があつて、羽黒を本山と仰ぐ者は、總體に歌が追分節に近いといふことであつた。羽黒では精靈の此世の苦艱を脱ぎ棄てた者が、昇つてあの御山の頂上に行つて住むといふ信仰があつた。さうして因縁ある者の切なる望みに基いて、暫くの間之を故郷の村に迎へて來る爲に、この歌を高く唱へるのださうである。
 夢の不思議は言はゞ人獨りの私の力であつて、もう我々は久しく是に馴れて居る。しかしこの現實の知識の示現だ(76)けには、まのあたり偶合の奇に駭いた佐々木氏で無くとも、さすがに深い感動を抱かざるを得ない。冷靜なる批判者の立場から觀るならば、夢の一致はまだ何とでも合理的に説明することが出來る。巫女が追分に近い歌の節を以て、精靈を案内する風が出羽の方にあるならば、稀には山の此方の奧州にも無かつたとは言へぬ。曾て幼い頃にでも一度は之を聽いて、自分はたゞそれを忘れたと信じて居たのかも知れぬ。少なくともフロイドの學徒などは、さう斷じてしまはうとするであらう。しかも之に由つて解き得ない我々の謎は、どうして此歌の曲が神を降すを業とする者に、傳へて現代まで用ゐられてゐたかといふことゝ、それが何故に人間の一大事に際會して、新たに目を覺まして又一つの、ユマニテの綾紋樣を附け加へようとするかといふことである。所謂潜在意識の潜在は既に突留められたとしても、その起伏して絶えざる流れの水上には、來り掬む者がまだ一人も無かつたのである。
 
       三
 
 是は其折にふと心付いて、佐々木君とも話して見たことであるが、今でこそ追分は遙かなる海の曲となつて、夕の欄干《おばしま》に凭る者の歎きを聯想せしめてゐるけれども、最初は日本武尊が亡き妃をお慕ひなされたといふ傳説のある國境の嶺を、昇り降りする馬方の歌であつた。たゞに現在の地名がその事實を證するのみならず、幾つかの古い章句が、なほ麓の村里には行はれてゐる。
 
   碓氷峠のあの風車
   たれを待つやらくるくると
 
といふ一篇の如きは、今でも降りて來て山の深秘をほのめかさうとした者の、情緒を傳へてゐるやうな感がある。それから又「碓氷峠の權現さまは」と謂ひ、「西は追分東は關所」といふなども、元の形のまゝでは無いだらうが、兎に角に近頃唱へ始めた詞ではあるまいと私は思ふ。
(77) 戀歌と信仰の歌との、分れ目の定かで無いことは、我々が見ればこそ奇妙に感じられるが、是は神に仕へた者が上臈であり、同時に萬人に愛で慕はるゝ女性であつたことを考へるならば、決して有り得べからざることゝは言はれない。昔は田植の日に苗を取り、晝餉を運ぶ家々の早少女が、兼て又田神の臨時の巫女であつた。さうして紅粉を粧うて、身の縁の此折に定まるのを待つて居た。だから其歌が初夏の日影のやうに、つややかであつたのである。
 
   富士の裾野の一もとすゝき
   いつか穗に出て亂れあふ
 
 山國の若者達はあの神山の白い雲を仰ぎ望む毎に、いつの年になつてもこの幽玄なる神降しの歌を忘れることが出來なかつた。書寫山の性空上人は正身の普賢菩薩を拜まうとして、夢の教へに隨つて室の津の遊女に逢ひに行つた。さうすると美しい遊女の長は濱屋形の柱にもたれて、
 
   周防室積のみたらひに
   風吹かねどもさゞら浪だつ
 
といふ歌をうたつて居たと傳へられる。御手洗《みたらひ》は神の御前の清い泉のことであり、即ちこの一節は昔ながらの神の曲であつた。たゞうかれ女は其言葉のあやに依つて、自分たちの浪うつ胸の裡を敍べて居たのであるが、信心深い老法師はなほ之を聽いて、忽然として聖者の一大白象に騎りたまふ幻の御姿を見たのである。碓氷の西麓の世に聞えた戀の驛路《うまやぢ》を、鳴輪の音も爽やかに朝夕通り過ぎる馬方が、心まで歌になりきつて永くこの古調を記憶してゐたのも、それが又遊子の情を動かして、千里の海の果までこの歌を携へ還らしめたのも、私には到底偶然なる文化傳播とは考へることが出來ない。
 
(78)       四
 
 人が馬方風情を賤しいものゝやうに言ひ出したのは、實際は膝栗毛時代からの變化と言つてよい。街道の問屋に駄賃で傭はれる日が多く、助郷の農馬が毎日のやうに入り交つて嘶きかはすやうになると、先づ第一に彼等は旅人で無くなり、又勇敢なる隊商の群でも無くなつたが、以前は遠國に七日十日の旅を企てゝ、大いに儲けて歸つて來る者が馬方であつた。方言で廣場と呼んだ未知の世間を、見て來て語る者も彼等であつた。空想と英氣に富む若者のみが、好んで馬方の生活を營んで、人々にいとしがられたのである。菅江氏の「鄙の一曲」を讀んで見ても、嶺を越えて戻つて來る馬の鈴、里が見え出して又新たに歌ひ出す馬子唄の佳い聲が、ちやうど入江の白帆の紋を見つけた時のやうな、花やかな喜悦であつたことがよくわかる。零落した近代の宿場の馬子どもは、僅かに殘つた歌と昔話とによつて、在りし日の夢をはかなんでゐるに過ぎなかつた。
 三州の馬方辨天の話は、想山の著聞奇集にも出てゐる。昔優れて聲の美しい若い馬方が、獨り竝木の蔭を唱ひつゝ通つてゐて、有名なる某寺の辨財天女に戀せられた。天女の贈りものは取れども盡きぬ金財布であつた。誰にも謂ふなと固く戒められてゐたにも拘らず、醉うて人に誇つて即刻に命を失なうたと傳へられる。是と同じ話は相州の江の島にも、やゝ猥雜なる形で遺つて居り、古く遡れば日本靈異記に、奈良朝期にも同系の説話があつた跡は既に顯著である。但しその二つは神に愛せられた者が僧修驗であつたに反して、三河に於ては其地位を馬方が占めて居るのである。或は又酒泉譚と稱して、酒の涌く泉を汲みあてた者の傳説がある。美濃の養老瀧を始めとして、孝子が孝行のコによつて之を發見したものも多いが、何でも無い只の親爺が神より之を授かり、毎晩醉うて還るのを恠しんで跡をつけたといふ話もあり、「親はもろはく子は清水」の歌などが世に行はれてゐる。東京の近くでは目黒の千代ヶ崎といふ處に、以前酒造りの大長者が住んで居た。是などは馬方が醉うて毎日のやうに表を通るのを見てその行く處を尋ねる(79)と、この路傍の清水を掬んで醉ふのであつた。それなら酒を造る水にしてもよからうと、馬方に頼んで其泉を讓り受け、酒屋となつて財寶を積んだといふ口碑が、新篇武藏風土記稿に採録せられてゐる。恐らくは是も馬方であるが故に、神に愛せられて斯かる希有の發見をしたといふのであらう。
 
       五
 
 神が何故に特に馬を牽く者に、餘分の好意を御示しなされるものと信じられたかは、繪馬神馬の起りを考へて見ても思ひ半ばに過ぐるものがある。今でも行はれてゐる國々の舊社の祭に、次のやうな神樂歌のあるのも、亦同じ信仰の流れであつた。
 
   あづまより今ぞよります長濱や
   葦毛の駒に手綱ゆりかけ
 
 即ち神靈は目に見えぬ場合にも、又は因童《よりわらは》の形を假りて、御旅所に降りたまふ場合にも、多くは馬に騎つて御出でになるものと、今の人たちまでがまだ想像してゐるので、其駒の口を取る者が御氣に入らなかつたならば、寧ろ却つて意外と言はなければならないのである。
 佐々木君の故郷の地には、懷かしく古い習俗が遺つてゐる。山の神は昔から安産を守り、又赤兒の運を定めたまふ神樣であつた。村にお産があると箒の神と二人で、又は道祖神と相談をして其場に御出でになり、此神の來臨の無い限りは、産の紐は解けぬものと傳へられてゐた。だから家々では其催しがあると、早速家の馬を牽かせて山の神を迎へに行く。それはたゞ山の方に向つて馬の歩む通りに進んで行けばよいので、時としては二里三里谷の奧を巡つて、まだ還られぬこともあるが、中にはやつと里はづれまで出たばかりで、もう引かへして來る場合がある。大抵は馬が立ち止り、耳を振つたり色々の事をするので、其擧動によつて神の既に乘りたまふことを知り、歸つて來れば果して(80)程も無く生まれると謂つてゐる。
 二月初午の日に農馬を飾り立てゝ、高山に登つて行く慣習は全國に亙つて廣い。いつから狐ばかりが此日の祭を獨占することに、ある地方では改まつてゐるのか知らぬが、此日は春の耕作の爲に山々の神を招き請ずるの日であり、同時に又文字通り馬の日でもあつた。靈山の頂に宿る尊きものを、人の世に案内してゐた歌の曲が、馬を牽く者の口ずさびの追分節となるのには順序があつた。それが地を移しもてはやす人を替へて後まで、尚清袁なる詠歎の調を帶びてゐた理由は、圖らずも出羽の口寄巫女《くちよせみこ》の現實が、之を説明しようとしてゐるのである。島と民族とに屬した固有のメロディーは、存外に久しく續くものであることを、我々は經驗しかゝつてゐるのである。
 殘つてゐたものは獨り形態だけでは無かつた。私は若い頃に筑波山に登つて、尾根づたひに羽鳥《はとり》へ降らうとしたことがあつた。今でも覺えてゐるのは、雲ある初秋の午前で處々の叢にナンバンギセルの桃色の花が多く咲いてゐた。其折に宋之問《そうしもん》の嵩山《すうざん》を下れば所思多しといふ詩の句が、たゞ何でも無く念頭に浮んだのであるが、今でも其意味は本當には解らぬのに、それが際限も無く身に沁みて悲しかつた。日本人は知らぬ外國の文學を手にとつて、しば/\斯ういふ風な味はひ方をしてゐるやうである。今になつて考へてみると、是は羽化登仙を求めて成らず、空しく塵界に歸つて來る支那の詩人の歎息を理解したので無く、山が我々の後世前世であつた時代の、無學なる愛慕が無意識に遺傳してゐたのである。
 遠野物語が世に出てから、今年は既に廿三年目になる。あの時我々が發願した學問は、答としては幾らも成長せずに、問としては寧ろ大いに痩せてゐる。夢の理論の辨證が許さるゝ世であるならば、まぼろしの歴史を推究することも徒事であるまい。我々の文藝が環《たまき》の端無き如く、一つ處を行き廻つてゐなかつたのはうれしいが、さればとて虹の掛橋のやうに、片方は雲霧に蔽ひ隱され、末は荒海に消え行くといふ移り變りも心細い。まこと此國が自分のものを持たず、如何なる時々の流行にも醉ひ泣きするやうな大衆の巣であるのか。但しは又久しく求むるものゝ得難かつた(81)のにあきらめて、假に有合せによつて飢寒を免れようとしてゐるのであるか。今や日本の文學史は公家僧侶、たゞ少しづゝの群落にもてはやされたものを、總國を代表してゐたやうに説くだけが仕事で、未來は約束せぬのみか豫想させる材料をすらも與へない。あんな斷片的な追憶だけからならば、脱出して見ようとする人にも理由は有る。しかも實際はもつと大きな自由の爲に、永らく土の下に潜んで我々を縛り付けて居たものを、一應は掘り下げて見る必要は無いかどうか。是が私などの今以て覺り切れぬ疑惑である。
 
 (附記)
 必ず書き添へて置かねばならぬことが二つある。其一つは奈良縣の南部、たしか宇陀郡の伊賀境に近い山村に、追分と節の最も近い歌が殘つて居る。多分系統が一つで、此方が根源であらうといふことを、井野邊天籟氏が謂つて居られる。私が其説を聽いたのは、此文を草するより二年ほども前のことだつたが、當時信ずることが出來なかつた爲に深く意にも留めずに居た。しかも暗々裡に導かれて居たのだつたといふことを、後に大阪でこの人に再會した時に、ふと心付いて私は懺悔をした。輕々しく人の發見を危ぶむまじきものである。死者の靈が天に近い高山の峯に行くといふことが、もしも佛法以前の我民族の信仰であり、祭の日にそれを招き降す方式に歌があつたとすれば、其風が東北の端々に殘つて居ると同樣に、稀には早く開けた地方の山間にも、保存せられてあつたとして不思議は無い。寧ろ偶然とは認められぬ曲調の一致に基いて、逆にさういふ共通の理由の、隱れて存するものを確かめることが出來るかも知れぬのである。吉野の御嶽を始めとし、古く知られて居る靈山の信仰が大和には多い。曾ては爰にも立山や恐山のやうな、人の魂の宿があつたのでは無いか。此上は果してさういふ一致が今もなほ認められるかどうか。又四國九州などの高山の麓にも、もしや追分との類似を感ぜしめるやうなメロディーが、切れ/”\にでも傳はつて居りはせぬか。耳の確かな人に尋ねまはつてもらひたいものと思ふ。井野邊氏はほゞ最初の假定を信じつゝも、なほ念を入れて(82)國々の田舍の歌を聽いてあるいて居られた。其材料がもう相應に集まり、それを系統立てゝ見ると若干の具體的の證明が出來るやうにも謂つて居られたが、詳しくそれを聽く機會を得ないで別れてしまつた。誰か篤志の人があつて其事業を繼ぐことが出來たら、新たに其樣な調査の始まるのを待つよりも、成績は遙かに擧げやすいことゝ思ふ。
 それから今一つ、是は越後の高田に行つた時に、村松君といふ人から聽いた話である。此人の親類に、東頸城郡源村といふ、信州に接した山村に居住する舊家がある。始めて此土地に移つて來た時に、神の御告げによつて一頭の駒を先に立て、その止まる處に家を建て村を開いて住むことにした。其吉瑞を記念すべく、今なほ正月には手まきの人々が集まつて祝ひ酒を汲み、椀を兩手に持つて板敷を打ち、馬の蹄の音のやうな拍子を取つて歌をうたふ。其歌が追分の節に近いものであつたと、聽いたやうに思ふが是だけは確かでない。ともかくも昔この一族の通つて來たのが、千曲川を下りに南から北へ、ちやうど此民謠が碓水の麓から、越後の海端へ進出したのと、大よそ同じ經路であつたことはなつかしいと思ふ。其道の人たちは何と説いて居るか知らぬが、江差松前へは交易の伸張と伴なうて、逐次に南方から運ばれて行つたものと私などは想像して居る。さうして漂渺たる海波に養はれて次第にあの溜息のやうな長い節まはしは成長したのであらうが、もとはやはり馬の足音と鳴輪の響きとを合の手にした、もつと簡潔な進行曲であつたらうかと思ふ。漁村の舊家に傳はつて居る正月の歌は、或はこの中間の過程を跡づけさせるものではなかつたか。音樂の法則に明るい人に、判斷を頼みたいと思ふ。
 
(83)     絲と民謠
 
       一
 
 木綿栽培が近畿地方に行はれぬやうになつてから、もう彼是四十年になる。よほど物覺えのよい老人を捜し出さぬと、赫引車の時代の氣持を説明してもらふことは困難であらう。しかも二世紀にも足りないこの手織木綿の流行期が、我々の文化に及ぼした影響は、よかれ惡しかれ非常に大きなものであり、又あらゆる方面に今も其名殘を留めて居る。他日この問題を囘顧して見ようとする人の爲に、今のうちに事實を存録して置く必要があると思ふ。但し私は早く生地を去り、其後も機會が少なかつたから、只ほんの片端の小さなことしか考へて見ることが出來ぬが、實は是でも早忘れかけて居た人たちに、成ほどさうだつたと心付かせるだけの、效用はあらうと思つて居るのである。
 自分などの幼年の頃は、もうそろ/\と唐絲《たういと》の入つて來始めた時代であつたが、それでも農村には到る處梭の音を聽き、寄るとさはると婦女の話題になつて居た紡織用語の、記憶に殘つて居るものも少なくはない。其中でも殊に珍しく耳に響き、文字ではどう書くかを訝つて居た言葉に、ジンキとメンタイとの二つがあつた。メンタイは今日關東で小袖綿、もしくは中入れ綿とも呼んで居るものと同じで、綿をつばなかし〔五字傍点〕て綿入や蒲團に、すぐに入れられる形に調へたものである。此語の使用地域は廣かつたらうと思ふが、書物で見當つたのはたつた一つ、富山市近在方言集に「メンタエ、綿」とあり、百匁メンタエ何枚といふ風に使ふと記しただけである。文字には多分「綿帶」とでも書くの(84)で、日本語であらうと思つて居た。ところが其想像の誤つて居ることを、つい此頃になつて始めて知つたのである。長崎市の圖書館に藏せられる古文書に、たしか延寶頃に日本に渡つて來た、支那の綿打職人の免許?があり、是が此業體の始祖だといふのも本當らしいが、是に附屬してゐる綿屋の一商標の板木には、ちやんと「綿胎」といふ字が使はれて居る。胎はナカゴである。即ち本元からの舶來語を、其まゝ日本發音にして借用して居たので、中入れといふ語も言はゞ其直譯に過ぎなかつたことは、あまり記録文書を輕んじてはいかぬといふ、一つの戒めの樣にも私には受取られた。
 
       二
 
 しかしその同じ傳では、ジンキの方は推して行かれないやうである。是は知らない人がもつと多いことゝ思ふが、支那では綿筒といふ細い卷き綿のことで、絲を引出す料に篠竹に卷取つて撚つたものである。物類稱呼には京大阪にてヂンギと謂ふとあるから、既に百六十年以來の近畿語だつたといふことだけは確かだが、さて是をヂンキと書いたのがよいか、はた又自分のやうにジンキとする方が正しいか、起りがまだ知れないのでは決することも出來ない。そこで最初に先づ各地方の名の付け方を比較して見ることにする。
 物類稱呼には次の如く記して居る。曰く、綿筒はワタアメ、京大阪にてはヂンキ、西國にてケイマキ・シノマキ、土佐はヘチマ又はシノマキ、尾張にてアメ、越後にてシノ、武藏にてシノマキ、遠江及び安房上總常陸にてヨリコ又ネジコ、豐前豐後にてマルワタと謂ふ(以上)。是で見ると標準語はワタアメであるやうに見られるが、それは甚だおぼつかない。今日私の知つて居る限りで、ワタアメ又はアメといふ語は、尾張平野の外にはまだ報告せられたものが無い。しかも其地の方言集にも、ヨリコといふ語を以て對譯して居るのである。ヨリコは吾山の列記した以外に、信州松本附近でもさう謂つて居るから、語の領分はずつと廣いのだが、なほシノマキに比べると限地的である。物類稱(85)呼に西國といふのは漠然として居るが、九州の多くの土地に此語を聽く上に、壹岐島方言集にも、「シノマキ、綿を絲に紡ぐ爲に、小さき竹の棒に卷付けて、棒を引拔き管?となすもの」とある。武藏でシノマキといふとあれば、江戸も多分其通りかと思ふが、私は文獻の上の證據をもたない。シノは勿論其略語であつて、是は越後だけでは無く、ジンキの西隣に接して岡山でもシノと謂つて居る。斯樣に隔絶して東西に同じ例があるからは、少なくとも是も最も早く生まれ且つ流布した語と見てもよからうし、小竹に卷いて作つたものだからシノマキ綿、略して追々にシノマキ又シノとなつたといふことも想像せられる。しかしヨリコも小竹に卷いて板の上で、左手を以て撚るのが普通だつたから、雙方同時にもしくは相次で、ごく平易に生まれ且つ行はれた名稱と見ることが出來る。
 
       三
 
 之に反して他の幾つかの地方の異名には、明らかに命名者の思ひ付きが認められる。豐前豐後のマルワタなどは簡單だが、其代りにあまり適切な形容ともいへない。恐らく土地でもさう永くは用ゐられて居なかつたらう。尾張のワタアメは土佐のヘチマと共に、取合せが突兀として居て幾分の俳味がある。絲瓜は大小の相違が著しくて、シノマキを是にたとへたのが意外でをかしく、飴は食べ物であり甘い物であるだけに、聽けば聽衆もすぐに理解し、笑ひもすれば賛成もしたことであらう。實際以前の練飴は色も白く、形?もよくヨリコと似て居たので、假に此名が地續きの隣の方まで流布して行つて居たとしても、尚或る時或る一人の、氣の利いた思ひ付きに始まると看做して差支は無い。ヨリコ・シノマキの二つの語とちがつて、此方は一種の戯語であり新工夫である故に、到底二地以上で別々に案じ出したらうとは思はれぬのである。
 斯うして見て來ると、我地方のジンキ一つが、或は支那語の和讀では無いかと感じられる迄に、由來不明なのが如何にも妙であるが、何よりも先づ我々の考へなければならぬことは、平生最も多く此語を使用する人が、學者でもえ(86)らい人でもなかつたといふことである。ランプやコップの如く物と共に入つて來た名ならば、符徴のやうにして暗記もしようが、新たに設けもしくは前のものを改めようといふ際に、講釋を要する語を採用する筈はない。と言ふよりも丸きり紡織にも携はらぬよその人が、作つて渡すといふことが既に有り得ないのである。乃ち何か是には至つて卑近な、しかも今日はもう埋もれて居る動機があつたのである。私の一つの意見を試みに述べるならば、是は絲引唄の有力なる感化と、近世に非常によく流行したシンキといふ言葉の、思ひ切つた轉用であらうと思ふ。シンキがどういふわけでジンキになつたかといふ疑問は、他の多くの單語の分化の經路を見て行くとほゞ證明が付く。元は一つの語であることを意識した場合にでも、用途が二つに分れて混同を防がなければならぬ場合には、なほ一方を濁音にかへて差別をしようとする傾きがあつた。始めから同音異義だと思ふと、努めて其變化をはかつたことは、端を東京でハジと謂ふなどが一つの例である。さうしてシノマキのジンキが、曾てシンキといふ語から岐れたといふことは、兩語を知つて使つた人たちの間にも、もう久しく忘却せられて居たのである。
 
       四
 
 そこでシンキといふ近世語の盛んな流行と、其内容の僅かづゝの推移とを、記録文藝によつて例證するのが順序であるが、それは頗るシンキな事だから私は骨惜しみをする。ずつと飛離れた例を一つだけ擧げると、是が古い言葉でないことは形態からでも知られるに拘らず、沖繩の組踊の中の歌に既に此語が見える。但し韻文以外に用ゐられることは無いさうである。伊波君は「うち萎れてあきらめるやうな氣持」と註して居られるが、それだともう京阪地方のシンキとは大分ちがつて居る。「南島八重垣」には「はたとさし困るときの詞なり。心氣を宛つるも穩當ならず」とあるのは其通りで、漢學者などの書く心氣といふ文字に、あてはまる樣な用法は自分等も聽いたことがない。何れか別途の根原があるかと思はれるのである。奄美大島民謠大觀には、シノキといふ語を用ゐた近代の歌が幾つか出て居る(87)が、其意味は「せつなさ」又は「やるせなさ」に近いとあるから、多分シンキと一つであらう。
 
   かなが島わ島一つあれば
   のてにこのシノキわぬや取りゆり
    (譯、君が村と我村と一つならば
    などかこのシノキを我は取らん)
 
   シノキ取りてやに親やなちうかぬ
   うぬシノキ取りゆすなきもさらめ
    (譯、シノキ取れとては親は生み置かぬ
    そのシノキ取るこそ汝が心ならめ)
 
   きもちやげぬかなと縁は引きむすで
   染みつかぬにぬくがシノキ
    (譯、いとをしき君と縁を引結びて
    染みつかぬうちに退くがシノキ)
 
   庭ぬ絲柳風にさそはれて
   風にさそはれてなびくシノキ
 
 この用例は注意して置く價値がある。無論なほ幾つかの旁證を、重ねた上でないと確かなことは言へないが、或は(88)心氣などゝいふ字を借りる以前、もう一つ別の語があつて、忘れられて居るのかも知れぬからである。私などが物を覺えてからは、シンキは氣のつまる又は煩はしいといふ意味に、形容詞にして誰にでも用ゐられ、其文字も辛氣などと書く人が多くなつて居たけれども、もとは春愁だの閨怨だのといふ漢語のやうに、今少し含蓄の多い且つ艶めかしい、一種の女性語であり且つ歌言葉であつて、寧ろ其内容の稍はつきりとして居らぬ所に、聽く人の興味は繋がれて居たやうである。さうなると當然に使用の區域は擴張し、意義も幾通りかに分化して行つて、末にはシノマキのジンキのやうな經濟生活上の用語と、何としてでも差別を立てなければならぬことに、なつてしまつたのも不思議は無い。つまりはつい此頃まで記憶せられて居たジンキといふ一語が、却つて昔のシンキの心持を、傳へて居るといふことになるのかも知れぬのである。
 
       五
 
 古い民謠の節は既に傳はらず、章句が僅かに保存せられて、それも今人にはもう理解せられて居らぬものを、我々が集めて見ようとする動機は茲にも一つある。民謠史の研究は、それが音曲と袂を別つてしまつた後まで、なほ我民族の感受性、殊に言語の機能をよく會得して、それを十二分にまで利用した才分を、實證する手段には役立つのである。ちやうど好い期會を得たから、シンキシノマキといふ歌の起りを、今判つて居るだけ一通り説明して、更に今後の採集を促したいと思ふ。
 宮崎縣の椎葉の山村に、次のやうな唄がまだ行はれて居る。
 
   しんき小くだは通せばとほる
   わしが思ひはとほされぬ
 
 此地で「しんき小管」といふのは、篠竹の二三寸ほどの管で、其中へ絲を通して男女間に贈りあひ、戀情を通ずる(89)の具として居た。贈られた者ももし意があれば、絲を逆に通して返す習はしがあつたからと説明せられて居るが、私の見る所では、是は寧ろ歌の方が前であらうと思ふ。男女が心を通はす無言の方法は、是とよく似たものが此他にもまだ色々あつて、少しづゝは新しい意匠を加へ得た上に、此歌はそれを獨立しても意味が汲み取られ、又此一章だけではシンキといふ言葉の、起りがまだ明らかにならぬからである。多分は是も亦外から流行つて來たシンキ節の一つの文句であつて、是あるが爲に小管に絲を貫いて相贈るといふ、氣の利いた村の若い者の好みも始まつたのであらう。
 シンキ節はまだ他の地方にも殘つて居ることゝ思ふが、私は偶然に對馬の島の例を知つて居る。その元歌かと思はれるものは、やはりシンキシノマキの一句を以て始まつて居るもので、假に最近は酒宴の歌になつて居ようとも、生まれた起りは明らかに絲紡ぎの作業であつた。
 
   しんきしの卷き車にのせて
   日數まはさにやよりは來ぬ
 
   こひし小川でふみ取り落す
   流しや二人の名がすたる
 
   池にかはづの鳴くのも道理
   みずに逢はずに暮らさりよか
 
 斯ういふ三四四三といふ最も歌ひよく、又新作しやすい歌が、可なり數多く一つの土地に、行はれて居たといふことは意味があると思ふ。
 
(90)       六
 
 是等の小唄は皆よく三味線に乘り、乃至たゞの鼻唄としても簡單に取扱はれ得た故に、後に何の唄だつたかわからぬ位に、流傳の範圍も擴がつたであらうが、少なくとも其章句の内容から見て、シンキシノマキは絲を紡ぐ女性より他の者の問題でない。さうして是がこの一群の歌の總稱となつて居る以上は、起りはもう明白と言つてよからうと思ふ。歌に何々節といふ名のあるのは、大抵は同時に色々の歌の需要のある場合、即ち主として酒宴とか盆踊とかに歌ふたのであるが、それを遠方から又は他の作業から借りて來る理由は、一つには節調のおもしろさ、第二には辭句が美しくて、味はへば味はふほど感動が深いといふ點に在つて、以前はこの歌の言葉の賞翫が今よりも一層熱心であつたやうに思はれる。
 例を擧げるならば對馬のシンキ節の中にも一つある「戀し小川」の歌なども、手本は前にあつて、この初の句だけを踏襲したものが、弘く東西の府縣に殘つて居る。
 
   こひし小川のざく/\石は
   浪に押されて岸による(會津大沼郡)
 
   こひし小川の鵜の鳥を見やれ
   あいをくわへて瀬をのぼる(豐後鶴崎)
 
 阿波では第二句を「鵜の鳥さんは」とかへて、田植唄にまで用ゐて居たが、何れも至つて單純な小石小川の言葉の綾が、人の心を捕へたので、元はといへばたゞ三音の「戀し」といふ語を、さりげなく女が歌ひ揚げた點に、大いなる魅力があつたのかと思ふ。踊の歌によく聽く「おらも若いときや云々」の歌ひ出し、「こよひ一夜は」の初句をもつ(91)船歌など、捜せば幾つと無き新舊の類歌があつて、根源を意外に古い時代に溯らしめるのである。此點からいふとシンキ節なども、必ずしも獨創のものでないのかも知れぬ。形は既に有りふれた二十六音であつたのみならず、
 
   しんく島田にけさ結うた髪を……
 
などゝいふ歌が、篠卷きとは縁も無い都市の中にも生まれて居る。しかもその優雅なる戀の歌の調子を、絲引車に取附けたのは賤の女のわざであつた。全長崎縣歌謠集を見ると、
 
   しんくしのまきやもんめん車
   引けば我が爲さまの爲
 
といふのを、島原半島の綿引唄として載せて居る。兵庫縣民謠集にも、
 
   しんきしのまきおさへ竹へ竹
   わしに來いとの招き竹
 
といふ一首を録して居る。之を聲高く歌ふ者も聽く者も、共に今一つ前のシンキシノマキを知つて居て、先づ其聯想に陶醉して居たらしいのである。個々の替歌はまづければ流行らぬだけで、之を口ずさむ者の感興には別に由つて來たる所があつたのである。
 
       七
 
 小さい頃によく聽いた播州の子守唄の中にも、今でも思ひ出して微笑を催すものが少なくない。
 
   わたしや言はれたあの子の親に
   七つ木綿の絲のかず
 
といふなどは、其時にはまだはつきりと理解し得なかつたが、やはり木綿機普及の後に出來た歌であつた。その絲數(92)の長さの總計を、夜毎にぶん/\と引出す者の作業は、成程シンキクサイものであつたに相違ないが、そればかりでは斯ういふ優雅なる民謠は生まれない。夜もやゝ更けんとする頃に門の戸に立つて、耳を傾けて聽いて居る者が想像し得られるのである。さうで無くても其夜なべの相の手に、心に念うて居たことは大よそきまつて居る。それを女なればまづこんな風に表白したのである。木綿車が村々に入つてから、女の夜の勞働が態樣を改めたやうに、彼等の口ずさむ歌の形も、節も調子も一變したことはたしかである。さうして木綿着物の色と輪廓とが、著しく女の姿を美しくした樣に、其感情を表現する方法も、可なり亦新しくすぐれたものが、外部から學ばれたのである。古い絲引車の早緒の痕を見てもわかるやうに、代々の多くの村の娘たちは、是をまはして段々と婆になつて行つた。今でこそたつた二十六字のたわいも無いシンキ節であるが、是をうたふ者は一生に何百度、村で何十人の女が來る年も來る年も、絲の數だけ之を繰返して居たのである。だから私などは上方でも元はシノマキであつたものが、歌の口拍子でシンキシノマキを覺えてから、後には之をシンキと呼んでも通用するやうになつたものと想像して居る。さうしてそれが既に物類稱呼の以前から始まつて居たらしいのである。
 
(93)     民謠と越後
 
 民謠の壽命といふ問題を、考へて見るべき機會に逢着した。我々の景慕して止まざる菅江眞澄翁はその五十年に近い旅行生涯の初頭に、この越後の國を縱貫して、遠く北邊の地に向つたのだが、其足跡は今や  愈々埋もれんとして、僅かに數篇の民間詞章を以て、現代越後との聯絡を辿り探らしめて居る。私にとつてもはや古びたる感慨であるが、今一度改めて此郷土の人々と共に之を説かなければならない。
 眞澄は天明四年の七月三十日に、信州野尻の驛を朝立つて、一歩を越後の土に印してから、僅か四十日の間に頸城から岩船までを通り越して、同年九月の十日にはもう莊内の鼠ヶ關に到着し、村長の家に一泊を求めて居る。前後の日記はすべて傳はつて居るのに、この越後の分だけは自分も保存せず、又紀行があつたといふことも書いて居ない。或は彼が未來の東北第一の旅行家たるべきを卜知し得ずして、此地方の御取持が少しばかり、惡かつたのでは無いかとも想像せられる。
 勿論この時はまだ菅江眞澄とは名乘つて居なかつた。本名は白井英二秀雄、年は三十三歳で有髪であつた。見たところ柔和な美男だが、まだよほど覇氣があつたらうと思はれる。歌は非凡に達者で且つ記憶力が優れ、應對は流るゝが如くであつたから、容易に人の尊敬を得た筈であるが、何かまはり合せが惡くて、越後では好東道を見つけ得なかつたものと考へられる。何れにしても秋田縣などの、永く逗留して居た土地と比べて、あまりにも早くこの筆豆旅人を追立てたといふことは、越後の郷土研究の爲には大分の損失であつた。(94)それを今から言つて見ても益も無い話のやうだが、實は自分は是に關聯して、別に將來に對して一つの望みを抱いて居るのである。白井秀雄が旅に出た動機に就いては、是まで色々と手を盡して見たけれども、肝腎な點がどうしても判らない。第一に此人は身元を匿さうとして居る。故郷の三河であることだけは明らかで、生地の名も  屡々筆に記しては居るが、或は江文といび、乙見といひ、又は豐橋の附近ともあつて、時によつて一定して居ない。私はさういふ村里を一つ/\聞合せて見たが、困つたことには何處にも白井といふ舊家の一門があつて、しかも斯ういふ文人が家出をしたといふ言ひ傳へは殘つて居ない。何か隱れた理由があつて、わざとはつきりとしたことは告げなかつたのかと思はれる。奧羽に入つて行つてから後も、一生を旅の空で終るつもりとは言ふことが出來なかつたと見えて、いつでも一つの土地を去る時には國へ還ると謂つて暇乞ひをして居る。さうして次の土地では又落着いてしまつて、たうとう四十數年を東北で送つた。この眞相が或は壯年の頃の交遊の間から、偶然に判つて來ることが有らうかと思つて、それで越後の彼が旅の跡に、今もまだ若干の關心を絶ち得ないのである。
 信州の本洗馬といふ處では既に大きな發見があつた。是は眞澄が越後に入る前に、暫く寄宿して居た熊谷といふ舊家で、即ち今の新潟醫科大學の熊谷教授の生家だと謂つたら、諸君は多分其奇遇を珍しがられるであらう。こゝには三十三歳の白井秀雄が、書いて殘して行つた信州の旅行記が、そつくり元の形で保存せられて居た。是と筆者が老後まで携へあるいて居た同名の日記とを比べて見ると、いつの間にか文章が改刪せられ、歌までが少しづゝ手を入れられて居るのは興味がある。其以外にも雜記が一册、この中には東北には全く知られて居ない文稿が幾つか載つて居り、若干の手がゝりが是によつて得られた。それから短册が又方々の家から出て來る。此中にはちやんと紀行に出て居る歌もあつて、久しく此人の傳記を尋ねて居る自分には、言ひやうも無く懷かしかつた。越後にも是が一つも殘つて居らぬとは言へないのである。畫は若い頃からちよつと描けたらしく、文字も此頃のものゝ方が氣韻が高かつた。之を藏した家が衰へてしまはぬ限り、さう粗末に取扱はなかつたことゝ思はれるから、幾ら一月餘りの短い旅中でも、少(95)しは越後にも殘して去つたらうと思ふのである。
 勿論繪や短册が何ほどあつたところで、それは我々の求めて居る傳記の資料にはならぬのだが、少なくとも有力な暗示だけは是から得られる。即ちさういふものゝ前から有つた家に、眞澄は來て泊つたか、又は少なくともゆかりを持つて居たと言ひ得るのである。風流好學の旦那衆が昔から多かつた土地とは聞いて居るが、ちやうどこの天明四年の前後を盛りとして居た人で、歌道に若干の理解をもつて居たといふのが、さう澤山にあらうとも思へない。其上にもしも白井秀雄の通つてあるいた道筋が大よそわかるとしたら、或は氣の早い者ならそちらの御先代には、天明初年の頃に日記をつけて居た方が有りませんかとか、又は其頃の手紙などは保存してはありませんかと言つて、尋ねて行く家を考へ出すことが出來るかも知れぬ。さういふものゝ殘つて居た實例は、信州の熊谷家以外に、陸中の膽澤郡でも現に私が見つけて居る。さうして越後は又一般に、古く持傳へたものを大切にして居る國なのである。
 現在のところでは、この大計畫の遊歴文人が通つた筋は、たつた越後の兩端でしか判つて居ないが、是を推測する手段は少しづゝある。先づ日數が少ないから魚沼三郡、東蒲原まではさまよはなかつたものと見てよからう。しかし後々のあるき方を見てもほゞ判るが、此人は常に巡見使一行の通るやうな表路は通つて居ない。いつでも名だゝる舊社大寺へ參拜して、その往復の村々を訪はうとして居るから、こゝでも同樣に曲りくねつた路だつたらうし、彌彦神社にはまちがひ無く御參りして居ると思ふ。現にこの御山のことは越後第一日の日記にも書いて居る。その足ついでに國上の寺、野積寺泊から弘智法印などにも立寄つたことも想像せられる。それで思ひ出すのは良寛上人との關係だが、白井氏はちやうど越後に入る一月前に、松本の近くの湯の原の温泉で、良寛が師と頼んだ備中圓通寺の國仙和尚と出逢つて居る。自分の叔父に一人、同門の僧があつて、早くから名を聞いて居たと言つて非常になつかしがり、歌の話などをして別れて居る。普通の傳記には、此頃は良寛はまだ玉島から歸つて居なかつたとある。或は國仙和尚のあまたの侍者の中にまじつて、信州に來て居たのかも知れぬが、固より是ほど高名な人にならうとは、御互ひに想像(96)しやうも無かつたのだから、たとへ出逢つたにしてもすれちがつてしまつたことであらう。年は五つばかり眞澄の方が上だつたやうである。
 さて彌彦參詣は先づたしかにした。それからどちらへ足を向けたかゞ皆目わかつて居ない。加茂は目近で又大きな御社だから、參拜したらうかとも思はれ、新潟にも何かの便宜の爲に、一度は立寄つたことゝ想像するが、是にはそれ以上の根據は無い。たゞ茲に一つ、菅江眞澄が年をとつてから、整理して殘した自筆の諸國民謠集、「鄙の一曲」と題した一卷の書があつて、其中には四種數十章の越後の歌を載せて居るのである。他の多くの民謠も皆この人の巡歴した地方のものだから、是もやはり天明四年の採集を、湛念に保存して居たものと察せられる。この本は二種まで既に活字になつて居り、自分も若干の註釋を加へて置いたから、再びくだ/\しい紹介をすることをさし控へるが、是によつて見ると比較的永い間、眞澄が北蒲原地方に居たことが考へられるのである、地名をよみ込んだ民謠が此中には五つほどある。越後國立臼竝坐臼唄といふ題の下に、
 
   おもひ三條の橋にも寢たが
   笠を取られた川風に
 
 この歌は寧ろよそから來た者の歌と見られるが、少なくとも三條文化の圏外では生まれ得ないものであつた。
 
   新保《しんぼ》川風|内竹《ないたけ》あらし
   遣る(ろ?)か新潟のあら磯に
 
 これなどは恐らく阿賀川水運の産物と見てよからう。此時代は臼唄の非常に榮えた際と思はれて、船歌には限らず、踊歌酒宴歌なども此中へ採用せられて居る。
 
   太夫《だいふ》興野《こうや》のうら山みちの
   やぶにこがねとは夏(?)がことよ
 
(97) 誤寫かと思はれて意味が明らかでないが、今でももし是に近い唄が、土地に殘つて居るなら參照して見たい。
 
   熱海街道を夜明けて通れば
   種々の音を出す山鳩が
 
 この熱海は無論今日の湯温海《ゆあづみ》のことであらうが、是も入湯の農夫が持つて還つたものと認められる。長篇の口説唄といふものに、やはり北蒲原と温海とを結び付けたものがある。是は「桃太郎の誕生」中にも詳しく紹介してあるが、
 
   新發田御領内の戸頭組の
   名主助市の高田の中の云々
 
といふ歌ひ出しで、腰の曲つた小海老と目の見えぬ蚯蚓とが、面白をかしい問答をする一條で、座頭の自作かと想像せられる。それが温海に湯治して腰をのさうといふのは、つまりは新發田平野からも多くの浴客が、彼地へ通つて居て評判が高かつたことを意味するかと思ふ。
 大正三年に刊行せられた文部省の俚謠集、新潟縣の部をひろげて見ると、「鄙の一ふし」に出て居る歌のやゝ形を變へて、採録せられて居るものが二つ以上ある。尤も一方は役人仕事で、格別趣味の無い者が役場を通して取寄せたものだから、果して此當時まで口に歌はれて居たものやら、乃至は偶然に文句だけを暗記し、もしくは書留めた帳面だけがあつたのやら確かでないが、少なくとも眞澄翁が飄然として去つてから、まだ百年くらゐは活きて用ゐられて居た痕跡だとまでは言へる。或は今でもまだどこかの隅に、やゝ壞れた形で殘つて居るかも知れぬと思ふと、我々の好奇心は動くのである。俚謠集一〇四頁には、是を中蒲原郡の採集と誌して居るから、どうでも小林存君などの見遁がしては居れない問題である。その一つは盆踊唄とあつて、しかもまだ他の府縣では聽いたことの無いもの、
 
   桔梗の手のごえ土手から下りる
   かます頭巾があがの川のぼる
 
(98) 是が天明の採集の方には、
 
   かます頭巾が苫舟のぞく
   桔梗の手拭が土手走る
 
と出て居るのである。叺頭巾の方は斯ういふ船頭たちの被りものとして珍しくも無いが、是に配合した桔梗の手拭は恐らく木綿染で、此地方ではあこがれの新文化であり、從つて言葉の印象が、其色彩よりも更に鮮麗であつたのであらう。さうして今日ではもはや當時の魅力を失ひ、從つて戀歌の價値を零にして居ることゝ思ふ。
 次の一つも他ではまだ存否を知らぬが、趣向が面白いから或は記憶して居る人が無いとも言はれぬ。眞澄翁の集録では田植唄とあつて、
 
   沖のとなかの三本杉に
   鹿が寢伏したそりや解きやれ
 
   それを解くことは絲よりやすい
   みすぎしかねたそりや解いた
 
といふのだが、是だけでは一寸呑込めないから、却つて俚謠集の中蒲原郡口説歌に、出て居る方が元に近いものかと思はれる。最初は是も盲坊主などの三味線に合せた歌で、農夫にも意味が取れるやうな簡單な謎問答であつた。三本の杉だから「身過ぎ」、鹿が寢たから「しかねた」といふだけの口合ひに過ぎぬのだが、斯んな何でも無い淡々とした滑稽を、歴代笑ひ興じて覺えて居た、越後の農民は律儀だと言つてよい。しかも又是が田植の日にせよ又盆の踊の晩にせよ、時を定めて聲高く謠ひ出される文句で無かつたら、さう永く保存せられて居る筈も無く、從つて再びその祖先の歡びを、文字の中から引出して示さうとしても、共感する者は少なかつたことゝ思ふ。教養ある前代の文筆の士(99)が、心を傾けた題目は此方面には少なかつた。土地の故老が自ら記憶しなかつたら、消えて雲煙に歸するものは幾らでもあるのである。些々たる旅の聽書もおろそかには出來ぬと思ふ。
 色々書きたいこともあるが長くなるから見合せることにして、もう一つだけ北蒲原との關係を説いて、目に見えぬ故人の足跡を偲びたいのは、加治地方の梨のことである。それがもう天明の初年から名物として持てはやされて居たことも、「鄙の一ふし」からわかるのである。
 
   加治のこちかたの五十公嶺《いぢみね》のむかうの
   小松ならぴの長良《ながら》の土手で
   ならぬ梨子の木のむだ花咲いて
   人が問うたらなると言へ
 
 この歌には省略があるらしいが、今でも下越には梨子の實のなるのを、戀の成ることに托した民謠が行はれて居る例は、幾つかの採集の中に現はれて居る。
 
   わしは御免梨子親たちは案山子《かがし》
   とのさ烏でもぎに來やる
 
 御免梨子といふ名は今でも覺えて居る老人があるかどうか知らぬが、藩の保護があつて運上を免されて居たからの名と私は解して居る。我々の菅江眞澄翁は斯ういふ土地の言葉にも興味をひかれつゝ、遠く果知らぬ旅の空に向つたのである。出來ることならば越後今日の地方文化の研究と、此百五十年前の孤獨なる篤學との、幽かな接觸面を探つて見たい。秋田などでは私が此人の話をしてから、急に古短册の市價だけが昂騰した。これは誠に不本意なことであつたが、埋もれた跡を尋ねる路としては、已むを得ない順序と私はあきらめて居る。
 
(100)     民謠と都會
 
       一
 
 都府の成長繁榮といふ言葉の中にも、まだ色々の隱れた意味があつたといふことを、此頃又新しく考へ始めた。東京は取分け面白い町だ。三十餘年の町住居を續けながら、まだどうしても町風にはなり切れぬ、御互ひのやうな人が無數に居る。二三ヶ月前に爐邊叢書の中で出版せられた能美郡民謠集なども、よい一つの經驗であつた。今までの蒐集は永い年月、もしくは大袈裟な計畫を立てゝかゝるのが普通であつたのに、是は東京のまん中に居て、熱心と根氣の大なるものはあつたが、兎に角に僅か半月ばかりの間に、たゞ一人の五十餘りの女性の口から、其隣に住む者が聽取つて纏めてしまつたのである。歌の數は長短四百篇に近く、それが皆加賀の小松を中心にした二里四方ほどの平野の村々で、現に近頃まで農家の男女が歌つて居たものばかりであつた。
 この採録者は注意深く、既に出て居る幾つかの俚謠集の類を見比べて、同じ歌の他地方にも行はれて居るのは、惜しげも無くどんな佳いものでも省いてしまつた。其選定の結果は、村の名や人の名の入つたものが多くなつて、所謂地方色の濃やかな本になつた。かの地方から出て居る人々には、永くなつかしい語り草として殘るだらうと思ふ。
 それから又、印刷をして世に傳へるのは如何かと思ふやうな、素朴過ぎたる戀の歌の若干も割愛せられた。淨瑠璃などをよく味はつた人は、もう感じて居る筈であるが、昔の人には常の心持と、歌をうたふ間の心持とに、大きな差(101)別を立てゝ居た。常は至つてつゝましいしとやかな女性でも、歌の中では何でも言つた。酒が普通の飲物よりもきついと同じく、今の日常の言葉よりも一段と強烈な、一段と自然に近い感動が、何とも無しに現はれて出るのが歌であつた。岡山縣中部の或る山村などでも、土地で古くから小歌の名人と言はれる人々が、めい/\數十章の「おはこ」を持つて居て、若い一人の採集者が忠實に之を記録したが、歌ひ手は母とか叔母とかいふ目上の老人であつたにも拘らず、其大部分が所謂豆畠桑の林の曲であつて、之を書物として傳へることは不可能に思はれた。加賀の女性も至つて人柄な、女らしい女であつたやうだが、やはり其類のなまめかしい歌を、少しの斟酌も無く、節を附けて歌つてくれたさうである。我々は其勞をむだにする必要を認めつゝも、猶斯ういふ境に殘つて居た昔風を貴いと思つた。
 
       二
 
 田舍はもう久しい以前から、我々の想像したやうな傳統の寶庫では無くなつて居る。都會に比べると只少しばかりおくれて、どし/\新しい生活に入つて來ようとして居る。地方をあるきさへすれば、いつでも國の昔風に出逢はれると思ふことの誤りは、民謠蒐集などの場合にもよく分つた。歌を聽く人の趣味が少しでも、歌ふ人の心持とちがつて來ると、いつの間にか珍しい流行唄が入つて居る。其流行唄は遠い國から運ばれた民謠であることもあれば、そこいらの無名氏の新作であることもある。中にはわざ/\文人に依頼して、妙な文學的の所謂民謠を拵へてもらふ場合もあつて、兎に角土地のものは消えてしまふのである。
 ちやうど果實にも採取の頃合があると同じく、民謠などにも蒐集の時節といふものが有るらしい。極端な例はやはり東京や京都などだが、都に遠い島地などでも、誰か世話燒があつて新作の歌を持込むと、酒宴の時などが始まりで次第に昔風を追退けてしまふ。「これは民謠ではありますまい」、「いや現に濱の女が皆歌つて居ります」といふ類の、氣まづい押問答をするやうな場合も多かつた。文化の中央集權とでも謂ふべきものが、最近は一層盛んになつて來た。(102)我々都會からの旅人には聽かすまいとしたり、たまに耳に入ると脇に居て苦笑ひをしたりする人が、どの村にも多く居て主として外客に接して居る。自分の村の昔に對して敬虔に、若干の自負を持ち得るほどの人は、次第に少なくなつて行くやうである。
 考へて見ると、その尚古派の部類に屬する人が、特に大きな都府へ流れ込んで來るのでは無いかとさへ思はれる。古いといふことを一つの誇りにして居た家、並の人よりも一段と敏感で、近頃の世の中の推移を是認し能はざる人たちは、誰よりも先に郷里を出ようとし、又出て行つてもいゝやうな境遇に居る。さうして東京などは、此節殊に新しい居住者を引付けて居るのである。
 私の書齋は庭が小さくて往來に近く、夜分は車の通らぬ靜かな町だから、夏に入ると生垣を隔てゝ、そゞろあるきの人の聲をよく聽くが、それが著しく地方の語音を交へるやうになつて來た。女が二人づれで又は子供などをつれて通るものは、大抵は何か話をして行く。靜かに聽いて居ると今のは野州だ。あれは伊勢か美濃だらうなどゝ、大よそ想像のつく場合が多く、折々は旅をして居るやうな氣持になる。實に大變な移住者が此近所には居る。生まれからの江戸人はもう何處へ往つてしまつたかと思ふほどである。こんな人々が復習の折ももたず、新しい刺戟と交際との間に、歌や物語を忘れてしまはうとして居るのである。函館などに行つて見ると、秋田の俚諺や民謠が、すこし變化した秋田辯と共に行はれて居る。江戸も恐らくは最初は三河風が、基調を爲して居たのであらうが、もう是から先は此雜駁を、統一する力は現はれまいと思ふ。
 
       三
 
 それを當りまへの事だと考へて居る人と、あきらめ兼ねて嗟嘆する人とが、東京人の中にもあると同じやうに、地方から來た者の中にも、私たちの問ひにさそはれて、際限も無く郷里を語りたがり、又は偶然の聯想から古い記憶を(103)喚起して、獨りで感動して行く人が隨分ある。自分も外國に暫く居て經驗をしたが、時には誰か若干の因縁ある人が側に居るなら、是非とも話さなければならぬと思ふやうなことが胸に浮ぶ。是を旅に出て居れば郷愁などゝ人は名づけるのだが、生まれた村に一生を送つた場合にも、年齡や境遇などから、ひどく聽手のほしい氣持の起ることがあるものである。「又おばあさんが妙な話をし出した」などゝ、若い者に迷惑される家庭も多く、めつたにちやうど其話に興味を持ち、又之を學問に利用し得る人などには、出くはさぬものである。ましてや都府生活の人の波にもまれて居ては、其チャンスは勿論又非常に乏しくなるのである。
 我々の仲間では、此頃漸く斯うして消えて行くものゝ記録を思ひ立つたが、興味の新たに加はるのと反比例に、一年ましに採集のむつかしくなるのを感ずる。以前何心なく通つた或る土地を思ひ出して、二度目に往つて見ると跡形も無く古い物が消えて居て、見たと思つたのが誤りでは無かつたかと、自ら疑ふ場合すらも多い。老人に尋ねたら教へてくれるだらうと思ふと、老人と言つた所が明治初年の青年で、前代を因循姑息だなどゝ、最も烈しく輕蔑して居た人が多く、又その知つたかぶりにはでたらめもまじつて居る。此點を警戒して正しい材料をえり分けることは、決して容易の業では無い。昔のやうに夜話が冬の慣習の一つで、之を小學中學の教育に代用して居た時代にも、村の傳承者の適不適によつて、結果に大きな差等のあつたことは、現に一つの岡を圍み、一つの川に沿うて相隣する二村でも、一方は口碑が豐かに存し、他の一方は何もかも絶えてしまつた例の多いのを見てもよく分る。歌ずきだ話上手だなどといふ評判が高く、又うまく聽手の心を捕へて、思はず知らず耳を傾けさせる術を知る老翁でも、自分の實驗ばかり誇張したり、書物の受賣に力を入れたり、安價な教訓の押賣をする者もあつて、實際よき記憶力と前代に對する敬意と、之を精確に傳へたいといふ心掛とを、合せ備へて居る人に逢ふといふことは、めつたに得がたい機會であつたのである。
 
(104)       四
 
 能美郡から出て來た女性などは、その珍しい例の一つであつた。問ふに從つて色々の傳説なども語つたさうだが、書物を讀む人で無いのに、あの地方の事を書いた古い記銀、又は我々が他の方面の研究から、兼て期待して居る話を、其通りに話して一つも餘分のものも添へられて居らず、さうして又脱落も無かつたさうである。
 殊に我々をびつくりさせたことは、話者としての大なる感興であつた。歌なども四百近いものを、別に順序も無く分類も無く、次から次へ歌つて行つたのに、一つの重複もなかつたさうである。さうして採集者が後日手帖を整理する爲に、再び之を問ひたゞさうとすると、もうどうしても思ひ出せぬものが少なくなかつた。つまり文句として覺えて居たので無く、歌としてのみ記憶して居るのだから、今一ぺん順次に歌つて行かぬと、出て來ないのであらう。斯ういふ人々を早く老人にした時の力も恐ろしいが、狹隘な町屋の奧に入れてしまつて、もう又口ずさみの機會も無いやうに、我々の社會はしむけて居るのである。
 式亭三馬の浮世風呂に、十六七の娘が風呂の中で大きな聲で歌を歌ひ出すと、これ/\おまへは何としたものだ。はいそれでも男湯の人たちが歌はつしやるから。はゝあと大笑ひをして、今に頼んでも歌はぬやうにすぐなりませうといふ問答の一節があつたが、實際田舍に行つても、もう中々女の子の歌は頼んでもきかれなくなつた。アルプス山中の村などでは、遠くの旅人の眼を悦ばしめる爲にホテルで頼むのか、昔風の衣裳で娘たちの出て來ることがあるが、勞働に歌をうたふ風はもうとくの昔に絶えてしまつて、保存さへ困難になつて居る。之に反して日本はまだ野山に歌がある。春の末などの草刈には東京近くでも、遠くでいゝ聲の歌を聽く。田植は殊に歌ふ季節である。私は九州南部の山路をあるいて居て、非常に美しい歌の聲を聽いたことがある。どこで歌つて居るかとそこらを求めると、樹木を隔てた麓の田で、三十ばかりの女が只一人草を取つて居た。斯ういふ境遇の寂寞をまぎらすやうな歌が、消えてしま(105)ふ世の中はもう來て居る。我々の力は到底之に及ぶことが出來ぬのである。四五年前には奧州九戸の小子内《をこない》といふ村に、舊盆の月夜に泊つたことがある。此村では女ばかりが輪になつて踊り、男たちは周圍に立つて見物する。どうにかして歌の文句を知らうと思ひ、一時間餘も聽いて居たが、簡單なやうで居ていふことが分らぬ。若い者の一人一人に色々として尋ねても、皆笑つてのいてしまふ。採集者としての同情がまだ足らぬ故に、あとで笑ふ爲にきくのだらうとでも思つたのであらう。こんな失敗談は幾らでも私は持つて居る。
 今の民謠集の多くが實は編輯もので、古いのも新しいのも誤りもうそも、雜然としてまじつて居るのは此爲である。しかも短い投節や都々逸などは數も限りがあり、地方色も薄いものだが、中世以來の書籍以外の文學、普通の日本人の感情生活の痕跡は、尚多くの歌物語の中に豐富に保存せられて居るらしい。我々よりも今一段と村の生活に親しく、且つ靜かに觀察し鑑賞する力のある人たちが、久しく此點に冷淡であつたのは、學問の爲の大なる損失であつた。自分は機會があつたらもう少し詳しく此問題を説いて見たいと思つて居る。
 
(106)     採集の栞
 
      朝日グラフが諸國の民謠を募集したときに、その手引用に頼まれて、「民謠の國」といふ物々しい題の下に、斯ういふものを連載したことがある。今出して見ても此中には、私の面白いと思ふ歌が多い。民謠採集の興味を説くには、やはり斯ういふ形も保存して置く方がよいかと思ふ。
 
       一
 
 新たに各地から美しい民謠の集つて來る間、ぽつり/\と今までの話を、話しながら待つてゐることにしよう。
 小唄の中では男にも女にも、最も思ひ出の深いのは子守唄だ。大抵の人は一度はかつてその鑑賞家であつた。
 子守唄のやうに特色ある青春期の文學は他には無い。それがどういふものか從來はあまり顧みられなかつた。
 
   けさの寒さに親なら子なら
   行くな戻れと謂うて呉りよに
 
 子守の小娘には親を懷ふ歌が特に多い。それは始めて人中に出て、他人といふ感じが經驗せられるからであらう。
 
   他人おそろしやみ夜はこはい
   おやと月夜はいつも好い
 
 子守唄は何れも歌ひながら作つたものだから、自然に調子がよい。韻が踏んである。
 
(107)   こんなところへなぜ來た知らぬ
   親が行くなととめたのに
 
 土地の通用の言語をそのまゝに使つてをるのが、民謠の常の性質である。それで時代もわかり、また發生した地方も知れるのである。
 
   親がないとてあなどりなさる
   おやはありますごくらくに
 
 かういふ類の皮肉は、子守唄の特徴である。不幸なをかしい少女がゐたといふことを示すのみならず、また彼等の仲間にこの氣持が理解せられて居たことを意味してゐる。
 
   親はどこぢやと豆腐にきけば
   おやは畑にまめでゐる
 
 この程度の滑稽でも、決して別に作者があつたのでない。子守に歌を作つて與へるやうな篤志家は昔も今も有り得ないのである。
 
       二
 
 もう少し子守唄の話をして見ようと思ふ。子守の唄には赤ん坊を睡らせる他に、第二の目的があつた。即ち諷刺文學である。
 
   山でこはいは猿とりいばら
   里でこはいはもりの口
 
 村に生まれた者のよく記憶することは、子守娘はどんな事件、どんな問題でもすぐ唄にしてしまふ。但し通例は粗(108)未だから、永く殘つては居らぬのである。
 
   あの子憎らしわし見て笑ふ
   わしも見てやろわろてやろ
 
 至つて微細な表情にももう敏感になつて居て、しかもまだ今一つの奧の物には手が屆かない。そこで子守唄で無いと取扱はれない多くの題材があるのである。
 
   あの子えらそに白足袋はいて
   耳のうしろに垢ためて
 
 近畿地方の語法である。エラソニは「氣取つて」、または「すまして」といふこと。かういふ唄を聽くと、白い足袋をはいた一人の子守が悲しくなつた。
 
   きりやうで一番姿で二ばん
   髪の結ひやうで二十五番
 
 是なども人を嫉んだ唄である。如何なる小娘の群にも必ず行はれる批評であるが、之を代表する詩人は子守の中にしか居なかつた。
 
   意地の惡いやつは顔見りや分る
   口は三角目は四かく
 
 三馬の浮世風呂の二編の始めに出てゐるやうな、負けぬ氣の少女がいぢめられて還つて行く時に、退却の陣容を示す爲に歌ふ唄である。
 
   わたしやいはれたあの子の親に
   七つ木綿の絲のかず
 
(109) 「言はれた」は理窟を言はれたこと、親が出て來て一方の加勢をすると、黙つて遠ざかりながら必ず此類の歌を口吟した。
 
       三
 
 子守唄はつい近い頃まで、長短の二種が並び行はれて居た。長い方が古くから有つたものである。幼い者を睡たくするには、此方が遙かに有效であつたけれども、それでは歌ひ手は滿足することが出來なかつた。
 七七七五の短い子守唄は、近世水陸の交通が盛んになつてから、國中に弘く行はれた新形式であつて、それを子守たちが採用して、自分のものにしたのである。
 併し子供が睡つてくれぬとやはり困るので、節と文句で出來るだけ古いものと妥協した。「ねんねころろん」といふのが古い唄の基調であつた。ネンネといふ音が催眠の暗示であつた。
 
   ねんねねごろのうしろの山で
   年より來いとの鳩が啼く
 
 根來《ねごろ》は有名な寺の名で、紀州の者で無くともよく知つて居る。意味の無い唄であるが、是までに昔からの「ねんねんよおころりよ」を利用したのは、誠に無名詩人の天分の現はれであつた。
 
   ねんね寢た兒にかう箱七つ
   起きて泣く兒に石七つ
 
 香箱はこの時代のたつた一つの玩具であつたらしい。子供をすかして睡らせる歌では、是などがやさしく綺麗な方である。
 
   ねんねしなされ寢た兒は可愛い
(110)   起きて泣く兒はつらにくい
 
 これが最も普通の子守唄で、實は私なども何遍か聽かされた。
 
   この兒よう泣く雲雀かひよか
   ひよでごんせぬ子でごんす
 
 こんな類の唄も中々多い。泣く子を罵り母親の冷淡を批難したものも澤山ある。
 
   可愛がらんせ抱かんせ子ぢやに
   親の年忌を問ふ子ぢやに
 
 「年忌を問ふ」とは死後に相續した者が、親を祭ることを意味する。斯んな事まで考へ出して、母親にあてこすつたのである。
 
       ○
 
 (丹波福知山の子守唄)
 四十年ほど以前、私の子供の頃福知山で盛んに歌つた子守歌を、今日思ひ出してオルガンで歌つて子供に聽かせて居りますと、柳田さんに御送り申したらと主人がすゝめますので、寫して御目にかけます。
 
   ねんねころいち子は竹のいち
   竹にもたれて寢るわいな
 
   この子よい子ぢや何たべさしよう
   おぼろまんぢゆにさとせんべ
 
(111)   おぼろまんぢゆにさとせんつけて
   のどの奥さんにそなへたい
 
   ねたいねむたいねむたい道理
   今は菜たねの花ざかり
 
   ねんねしなされおやすみなされ
   朝はお早うに起きなされ
 
   ねんねする子に赤いべゝ着せて
   つれて詣ろやお伊勢さん
 
   ねんねする子は可愛いゝけれど
   起きて泣く子はつらにくい
 
   ねんねせん子は狼《おかめ》にかましよ
   おかめこはいわいな寢るわいな
 
   ねんねする子は好い子ぢやさかい
   たれもやかましいうてくれな
 
(112)   たれもやかまし言ひはせぬけれど
   守がやかまし言うて起す
 
 歌の節がまことによく出來て居ます。子供が自然に睡くなるやうです。それに歩調にもよく合ひますので、今でも子守が聲をそろへて歌つてあるくやうです(鈴木敬)。
 
       ○
 
 「今が菜種の花盛り」は私も子守の脊で聽いた。眞に睡くなる歌であつた。最初のうたは播州では「竹にもたれて寢た心」と歌つた。これも睡くなつて行く形容である。どうしてこんな詞が子守女の考に浮んだか。不思議なやうである。
 
       四
 
 木遣の歌なども元來は至つて野暮なものであつた。目的は單に多人數の調子が揃つて、一度に力を出せるやうにすればよかつた。歌はまづくとも新しいものが喜ばれたので、大抵は音頭取りが其場で作つたらしい。古い歌の殘つて居らぬ所以である。
 
   揃うたりや、揃うたりや
   揃うたら一度に頼むぞエ
   難所どころも越えて來た
   今は大道へ出た故に
(113)   これからずんずと行くわいの
   皆さま一同に頼むぞね
   肩首かひなにりき入れて
   そろ/\そこらが分るなら
   一同に頼むぞ
 
 是は一ばん平凡な直説法の歌である。
 
   この木の生まれはどこやいの
   白山したの女原や
   本願寺さまにもらはれて
   たんすや長持や附かねども
   大綱小綱が附いてゐる
   諸佛や菩薩に見こまれて
   極樂まゐり、よいやさ/\
 
 眞宗の盛んな地方では、これだけでももう面白く感じられた。
 
   この木の生まれは何處ぢやいの
   白山したの丸山の
   お宮に生えたけやきの木
   生まれが良うてきが良うて
   御本山へと見込まれて
(114)   けふは御本山へと嫁入りする
   たんすや長持やつかねども
   赤旗白旗しごがつく
   アラお若い衆
   かひなに力味を入れそへて
   えんや/\と遣つてくれ
   アーえんや/\(以上三、石川縣能美郡誌)
 
       五
 
 木遣は最初全く木を運ぶ爲の歌であつた。故に目前の木と道路の曲折とを、問題にしたのは當然である。それが追々に美聲を以て、酒の席でも口ずさむやうになると、戀や花紅葉までも歌ふやうになつた。是が民謠と流行唄との一つの差別である。
 前に出した加賀の木遣散よりも、今一つ原始的なものが、紀州日高郡の山村などには有る。其一例。
 
  (頭) そこな二間を
  (同) おーい
  (頭) 今のところへ
      ならべて曳こかい
  (同) おーさ、 そうそう
  (頭) 力をそろへて
(115)      聲を限りに
      拔き出せよー
      後をあなたに
      こちら向け姉さん
 
 最後の一句によつて、僅かに變化の興味を見出してゐる。姉さんは多分木材のことを意味するのであらう。又、
 
  (頭) そこな丈太を
      こすきに遣ろかい
      若い衆頼むよ
  (同) おーさそうそう
      一つはり鳶
      かしらを張つた
      さしを頼むぞ
      聲を限りに
      さいて來いよー
      うけ聲限りに
      さして來いよー(以上二、南紀土俗資料)
 
 文句の中には澤山の術語がある。大凡は意味がわかり、又目的は最も明白である。つまりは東京の花と言はれる鳶たちの歌も、この種無心の山中の聲が、成長したものに過ぎなかつたのである。
 
(116)       六
 
 臼挽歌は今ではもう不必要になつた。追々は分散して他の機會に轉用せられるのであるが、挽臼が無くなると共に、その興味も消えて行きさうである。
 
   うすは島臼相びきやとのさ
   臼の輕さよおもしろさ
 
 これも加賀で歌はれた。「島臼」は不明だが、輸入の優良品として珍重せられたものであらう。「とのさ」は愛する男のこと。女の歌である。
 
   臼の輕さよ相手のよさよ
   あひ手かはるないつまでも
 
   とろりとろりとまはるは淀の
   よどの川瀬の水ぐるま
 
 これも前の木遣のやうに、作業の律動に合せた調子である。次の歌もそれである。
 
   寢たやねむたや寢た夜はよかろ
   しめてねた夜はなほよかろ
 
 絲紡ぎの類にも用ゐられて居た。どちらが最初であつたか、實はよく分らぬ。
 
   今夜うすひき遊びにござれ
   うすが重いかというてござれ
 
(117) これも女の方が歌ふ唄。
 
   臼はまはさでしなばかつくる
   しなでまはろかこの臼が
 
 これは男の方の戯れ歌、九州の各地に行はれる。バカは「ばかり」の方言である。
 
   うすをひくときや坐睡り眼
   團子食ふときや猿まなこ
 
   朝のかゝりにこれはと思うた
   これでしまひかやれうれし
 
 かういふ歌も直接の當事者でないと、興味を感じもせず、また考へ出すことも出來ぬ。即ち作者は永遠の無名氏で、しかも多數の前代詩人の如く、最も深く聽衆を理解してゐた人であつた。
 
       七
 
 勞働の中から發生した民謠は、此他にもまだ幾らもある。其中で最も餘裕の多いのは船歌であつた。
 
   きのふ北風けふみなみ風
   あすはうき名のたつみ風
 
 胸に色々の美しい文藝を貯へてゐる者でないと、到底かういふ歌は歌ひ出せぬ。それを鼻唄に口ずさみ得るほどに、船方の生存は靜かであり、また徒然でもあつた。
 
   島にま一度渡らにやならぬ
(118)   栽ゑた木も有るさまもある
 
 「さま」はあの人といふこと。島は何れの島であつたか。後々これを歌ふ若者らには、深い空想の種であつた。
 
   鳥羽に三十日|安乘《あのり》に二十日
   おもふみなとにたゞ一夜
 
 「思ふ港」は伊豆の下田のことかも知れぬが、同じ志州の濱島でも的矢でも、さう歌つて居たのであらう。海上の朝夕はさびしい故に、彼等の歌はいつでも人を思つてゐた。
 
   なんぼ田島の新木の櫓でも
   あの子おもへば苦にやならぬ
 
 田島は尾張の知多半島のこと、米が澤山に出來るから此名があつたものらしい。伊勢灣の周圍の漁村から、押送りの早船を漕いで往來した者が、斯ういふ唄を歌つてゐた。
 
   いかり起いて帆を卷くときは
   しんから涙がほろと出た
 
 碇を起すのは出帆の用意である。追手の吹き立つた初夜か夜明け方に、水に映つた町屋の燈火を見ながら、靜かに漕ぎ出す時の情景は正にこの通りである。
 
   こよひ一夜はどんすの枕
   あすは出船の浪まくら
 
 この心持が港から港へ、流行歌となつて持運ばれたのである。
 
(119)       八
 
 當節大流行の松前追分の中では、古くないかは知らぬが次の一章が最も美しいと思ふ。
 
   小島大島のあひ通る船は
   江差がよひかなつかしや
 
 作者は正しく女、作つた場所は水に近い樓上であつたことが、隱れもなく文句の表に現はれてゐる。從つてこの歌が民謠であるか否かは問題で、少なくとも船歌としてはこれは借り物であつた。之に反して船方の若い男たちは、しばしば女に代つて自身の船歌を作り且つ歌つた。
 
   荒い風にも當てまいともや
   すいて夜船に乘りたがる
 
 トモヤは「と思へば」の方言、夜船は多分釣をする漁夫の船であらう。女がこんなことを言つてくれたなら、働きながらもさぞ嬉しからうといふ心持から、この歌は出來たのである。
 
   見送りましよとて濱まで出たが
   泣けてさらばが言へなんだ
 
 この二つは共に佐渡の島の民謠である。船が出てしまつた後で港の女が、一人で歌つてゐようわけがない。乃ち別れて行くさびしい男が、單にこれを想像して見て心を慰めたのである。同じ慣習は大昔からあつた。神を祭る人などが殊によくこれを試みた。
 
   あいが吹かぬか荷が無うて來ぬか
   たゞしや新潟《にがた》の川留めか
 
(120) この類の港に待つてゐる女の歌も多く歌はれた。アイは上りの船の追手の風、伏木や三國などに行く船であらう。
 
   富士は腰やみ伊豆地はくもり
   もはやあがりが見えさうな
 
 これは三浦三崎あたりに、よく入つて居た船の歌かと思はれる。
 
       九
 
 海の船歌に對して、木挽《こびき》歌は即ち山中の勞働歌である。船のやうに交通が自由で無いのに、やはり同じ歌が廣く國々に流布して居る。
 
   木挽やいとしや千丈の山で
   半疊むしろの小屋ずまひ
 
   何の因果で木挽を習うた
   花のさかりを山でする
 
   木びきや米の飯ぬかみそ添へて
   よきではつる樣なくそ垂れる(紀州熊野、廣岡九一君報)
 
 何れも他の地方にも行はれてゐる。熊野ではこの歌の文句のあとに、
 
   鼠と木びきは
   ひかねば食へない、ヤッシッシ
 
(121)と謂ふ「はやし」を副へるのが普通だが、それが又中部日本一帶の山地にも共通である。
 
   木びきや辛い奴とんぼかあぶか
   千里奧山の木にとまる
 
   木びきや辛いやつ二合半飯で
   食ふや食はずで引きしやくる
 
 この二つは土佐の歌として報告せられて居る。全體に船の者よりは歎息が露骨で、よく食物の問題を取扱うて居る。
 
   木びきするよりやへんろがましぢや
   麥の粉を食うてお茶を飲む
 
 遍路とは大師參りの巡禮道者のこと。是も土佐である。
 
   木びきや山中《さんちゆう》の山小屋に住めど
   いもやごもくの飯《まゝ》たべぬ
 
 これは伊勢の北部のもの。
 
   木びきや山家《やまが》の奧にも住むが
   樹の實草の實たべやせぬ
 
 水戸地方の歌。これ等は皆聽く人を笑はせる歌で、山奧でたゞ靜かに歌つて居たのでは無い。
 
       一〇
 
 木びき歌のはやしは、常陸の方では「ハアサラビン/\」といつた。大鋸《おが》の音調を採つたものである。伊勢の方で(122)は「アヽドシコメドシコメ」、又は「アヽサウトモサウトモ」などゝいふ。
 九州では「ヂートコバートコ」といふ。「爺とか婆とか」とも聽える。福岡佐賀等の山村で最も有名な歌は、
 
   木びきによんぼになるなや妹
   花のさかりも山小屋に
 
 ニョンボは女房である。花の盛りは女の若い時を意味するのだが、山小屋といふ爲に櫻山吹を想はしめる。
 千葉縣の安房などでは、同じ歌をこんな風にも唄ふ。
 
   木びきの女房にたがなるものか
   花のさかりを山の中
 
 是も叉木挽が自ら歌ふのである。山中で久しく練習した美聲を以て、里へ出て來て右の如き歌をうたへば、却つて人の同情をひくことになる。多分は明るい春の晝頃などに、ぢつと聽いて居る人のあることを知つた時に出す歌であらう。
 
   木びきによんぼになるなよ娘
   仲のよい樹ばひき分ける
 
 熊本縣天草の歌として傳へられるが、よく似た文句は他でも聽く。「樹ば」は「樹をば」の方言。是などは二つの歌を、歌ひ手の細工でつなぎ合せた例である。又同じ島の歌で、
 
   持ちかへ/\持ちかへ見たれど
   せんのかゝのよなかゝ居らぬ
 
 これも諸國でよく歌はれる。何の意味も無いやうだが、木挽が疲れて道具の手を持ちかへるときに、自然に歌ひ出す勞働の曲に他ならぬ。
 
(123)       一一
 
 木挽歌のことを今一度だけ言つて見る。
 
   山で泣く子は山仕《やまし》の子ぢやろ
   山仕や男で子はもたぬ
 
 これも天草の歌である。
 
   山で子が泣きや木挽の子ぢやろ
   木挽ややもめで子はもたぬ
 
 宮崎邊ではかう歌ふ。
 
   山で泣く子は木びきの子ぢやろ
   木びきや子は無いおがの子ぢや
 
 これは筑前である。オガは木挽の使ふ大きな鋸、その木のくづをコとしやれたのである。山で泣くといふ言葉に強い感動があるので、いつまでもこの種の歌は行はれた。つまり音樂の力であつて、筆を手に持つ歌人の知らぬ境である。
 
   鍋で餅つく廣島の木挽
   人がちよいと來りや鍋かくす
 
 面白い歌である。筑後の八女川の奧で採集せられたもので、木挽が遠い中國邊からも出稼することゝ、地方的の反感が有つたことゝが察せられる。實際彼等が炭燒同樣に、我村の山小屋以外に旅をせぬ者だつたら、多數の奇拔な歌は殘らなかつたのである。
 
(124)   木びきさんたちや山から山へ
   みやざ/\にや縁が無い
 
 宮座は村の人だけの團體である。これが實際の生活であつて、從つて湊の町の海の歌の如くに、風流味には乏しかつたのであらう。しかも田や庭で産出した農事の唄とはちがつて、さびしい人戀しさの中から、感動の多い文句の生まれた點は、寧ろ船頭の歌の方に似て居た。
 
   月が出た/\早う見て拜め
   つれて歸るぞ杉山へ
 
 杉の林の暗い仕事場へ還つて行く男が、月の光に浴しつゝこんな空想にふけつたのである。
 
       一二
 
 若干の臼挽唄が新たに集まつたから、もう一度この話をする。
 
   臼にさばると歌出せをなご
   しごと苦に持つをなごめが
 
   仕事苦にもつをなごぢや無いが
   臼が重けにや歌も出ん
 
 問答體になつてゐる。サバルは手をかける、即ち仕事に取かゝることらしい。
 
   臼をひけ/\團子して食はす
   うすを挽かねばまた御飯《おめし》
 
(125) 「また御飯」は無論かて飯のことである。翌朝團子汁をして食ふことが出來ぬと謂ふのである。
 
   臼をひく夜にや必ずおいで
   うすの手ごしよと言うて御出で
 
 「手ごしよ」は手傳ひをしようといふこと。之に似た歌は前にもあつた。
 
   歌をうたへばならしやとおしやる
   らくにやござらぬ苦のあまり
 
 「ならしや」は不明だが、氣樂なとでも言ふことであらうか。
 
   歌はよいものわが氣がいさむ
   人の氣までがなほいさむ
 
   歌の名人一人よりも
   へたなつれぶしやおもしろい
 
   歌ひませうやどなたも樣に
   こゑをそろへてつれぶしに
 
 以上は島根縣邑智郡某村の高等小學校で、女の生徒の一人が知つて居た歌、即ち最近まで現にあの邊に行はれて居たものである。この地方では通例男女三人で粉臼をひく。一晩の夜なべ仕事の中に、度々同じ歌を出すと笑はれるから、數を多く知つてゐる必要がある。節に合ふ限りは流行の都々逸も採用するが、古風な村の若い者は、やはり眼前の事を言はぬと氣が濟まなかつた。それ故に歌のコをたゝへた歌が多いのである。
 
(126)       一三
 
 近頃の臼挽唄は專ら粉をひく歌であつた。小米屑米を夜なべに挽いて置いて、朝は團子にして飯の代りにした。
 
   團子粉ひきはうれしてならぬ
   食はぬ米つきや腹が立つ
 
 播州東部では斯くうたはれた。白米の飯は常には雇人に與へなかつたものと見える。
 
   臼は重たし相手は睡る
   朝の汁には一つあて
 
 駿河の歌である。この樣にのろ/\と挽いては、一朝分の團子の粉もひけぬといふので、一方が居睡りをする時に、あてこすりに歌ふのである。
 
   うちのかみさんしまつな人で
   米の數ほど目がまはる
 
 熊野の歌である。若い者が退屈のあまり粉をなめる。それを主婦が監視するのをにくむのである。信州下水内郡の歌にも、
 
   石臼ひけども粉《こな》たまらない
   わか衆なめたか生こなを
 
 粉を挽く爲には重い臼をなるだけ緩やかにまはす。從つて歌の調子もたるい。睡くなるのは自然である。睡氣を防ぐべく奇拔な歌が多かつた。
 
(127)   石臼ひくには片手は邪魔だ
   をなご衆ちゝでも握らせろ
 
   こちのお三どんはひき物上手
   小麥三合で夜が明けた(伊勢一志郡)
 
   思うて來たれどお三どんな寢ごよ
   おさんおどろけ目をさませ
 
   臼よまへ/\きり/\しやんと
   思ふとのごがすりござる(以上二、筑後三井郡)
 
   ぬのこ買ふより臼買うておくれ
   臼はぬのこの代りする
 
 是も働く人たちの滑稽であつた。
 
       一四
 
 岐阜地方の臼挽歌に、
 
   臼をひきやこそ御手にもさはれ
   あひにや見もすりや思ふばかり
 
(128)といふのがある。優美なる戀の情である。この同じ心持を、以前甲州の西南部などで、
 
   臼ひけばこそ肩と肩
   あひにやまた
   見るばか御聲聞くばか
 
と歌つて居た。即ち節よりも調よりも、内容の方が更に古いものであつた。都々逸と同形の七七七五の歌が、田舍に廣く行はれたのは近頃のことで、その前にはこの歌の如き形が採用せられて居たのである。
 
   お石臼ひきに頼まれて
   ひくもいや
   ひかぬも義理の惡さや
 
   甲州ぢや小麥を三度ひく
   お江戸では
   七度ひいてふを取る
 
 この二つも同じ地方である。「曇らば曇れ箱根山」とか「お江戸日本橋」などゝよく似た形式であるが、その歌ひ方は明らかでない。同じ形は粉挽歌としても、關東一圓の地方に普及して居る。埼玉縣北足立郡でも、
 
   臼ひくたびに思ひだす
   おいとしゆや
   姉ごは江戸の粉屋《こなや》へ
 
(129)  粉屋がいやで出は出たが
   しあはせの
   惡さに又も粉屋へ
 
   粉屋の臼はなで重い
   おもいはず
   黄金のたがゝ七たが
 
 三浦鎌倉邊にも同じ歌がある。この二行目の短い句は、一同が合唱したものらしい。
 
       一五
 
 臼挽唄の二つの形式の中で、後に出した七五五七四の方が古いことは、色々の點から證據立てられる。第一には言ふことがいつでも古風である。前の粉屋のうたの三番目は實は祝の歌で、即ち臼譽めの言葉に他ならぬ。
 
   こなたの臼は重い臼
   重いはず
   黄金のたがゝ七たが
 
 橘樹郡などでは斯う歌つて居る。仕事に取かゝる際に、先づ臼を譽めて置くのが縁喜であつた。作業の終りにもまた定まつた形があつた。
 
   臼臺さらば臼さらば
   臼もとの
(130)   女中はなほさらば
 
 「臼もとの女中」は、餅つきの「あえどり」のやうに、臼の穴に穀物を加減しつゝ落して行く役である。粉ひきの時にも又籾すりの時にも大切な役で、歌の音頭も多くはこの女性が取つたのかと思ふ。
 
   もとびき樣やおあげあれ
   うらでもやりますぼら聲で
 
 これは相州三浦郡の籾すり歌である。「おあげあれ」は歌ひだしたまへといふこと。もとびき樣は右申す女中のことか、但しは男の仕事頭か。あの地方の人に尋ねて見たい。或は之を「えびす樣」といふのもある。
 
   えびす樣よ御擧げあれ
   わしもまた
   やり木のうらで付けませう
 
 「やり木」は臼に付けた長い棒である。から臼はその遣木を梁につるして、その仕事を樂にした。
 
   から臼まはれ米もかめ
   かまずとも
   早出る土のから臼
 
       一六
 
 (筑後八女郡の茶山唄)
 矢部川上流の茶山は、八十八夜の頃から始まる。平野の村々の若い男女が、雇はれて來て山に入つて茶を摘み、春にふさはしい茶山唄をうたふ。
 
(131)   ヤーレ縁が無いなら茶山にござれ
   茶山茶どころ縁どころ
   モマサレモマサレ
 
 實際にかう歌つて居るうちに、夫婦になる人も可なりあつたらしい。
 
   茶山旦那どんながら/\柿よ
   見かけよけれどしぶござる
 
 茶山の持主を批評した歌は多い。がら/\柿は澁を取る小さな澁柿で、眞赤に枝のたわむ程なつて見事である。
 
   茶山旦那どんな馬鹿さうに無かゞ
   あがりさがりの時知らず
 
 これも右と同じく、仕事の始めも終りも考へず、無茶苦茶に人を使ふと惡口したもの。
 
   わたしや茶山に始めてのぼる
   お茶の摘みみちわしや知らぬ
 
   お茶の摘みみち知らんならをしゆ
   ふる葉のこして新葉つむ
 
   上茶こ茶よりや星野の茶よりや
   さまがわかした白湯《さゆ》がよい
 
 星野は八女の山村の名、星野茶とはこの地方一帶に産する茶の名である。
 
(132)   茶山がへりは皆菅のかさ
   どれが姉やら妹やら(以上、高山重城君報)
 
 モマサレモマサレは都合により付けたり付けなかつたり、又種々に變化させることもある。モマサレといふはやし詞によつて、茶山歌の本來は茶もみ歌であつたことが想像せられる。茶摘は附近からも來るが、茶師だけは旅の者であつた。從つてこの歌には遠い國から、携へて來たものが少なくないであらう。「縁どころ」の一篇などは宇治でもうたつて居る。しかもその歌に含まれた情趣に至つては、眞似でも輸入でも無く天然のものであつた。
 「持ちかへ/\」の木びき歌が、また筑後の茶山においても歌はれて居る。
 
       一七
 
 「宇治は茶どころ」といふ茶摘歌は、新しい茶の製法と共に、國々を流布したやうである。三重縣南部の山村などでは、
 
   茶山茶どころ茶は縁どころ
   むすめ遣りたやお茶つみに
 
と歌つてゐる。もとは御茶師が言ひ姶めたのを、その娘たちが珍しく聽いたのであらう。
 
   どうした御縁か見もせぬ人と
   お手をそろへてお茶を摘む
 
   茶山三十日や夢のごと暮す
   肥前九十日や泣きくらす
 
(133) この二篇も筑後の歌であるが、やはりまた男の作かと思ふ。女にしては情が少し濃やか過ぎる。
 
   お茶の一番師は手首が痛い
   はやく二番師になりなされ
 
 これは宇治の歌である。
 
   お茶を摘んでも養ひますに
   あついほいろ師はやめなされ
 
 伊賀の茶摘歌として傳へられる。「ほいろ師」は即ち茶を製する男工である。この二つは共に女の言葉として述べてあるが、實は御茶師が半ば戯れに、自分の戀を歌つたものと認める。若い女をして愛情に興味を持たしめんとする歌である。
 
   御茶が終へるかお茶師は歸る
   ほいろながめて袖しぼる
 
 東京に近い狹山地方の歌。即ちほいろ師は歸つて行く人である。旅の詩人である。
 
   あなたほいろにこがれて居よと
   わたしや茶山でうはのそら
 
 これも伊賀で歌ふものだが、もう既に文藝作品の境に入つて居る。茶山だから「うはの空」と言ひ、冷淡なる女を挑むに自敍體を以てしてゐる。
 
   矢部のやつちよこ山お茶つみ女
   お茶はつまずにしらみ取る
 
 これも筑後の八女郡の唄である。午後の唄とでも言はうか。歌も澤山に出てもう少し飽きて來た時分、突如として(134)斯う歌つて娘たちを笑はすべく、手腕ある御茶師がしまつて置く歌である。
 
       一八
 
 次には「受け渡し」などゝ名づけた民謠の問答體について述べて見たい。
 前の福知山の子守歌の第二第三及び最後の二章などがその例である。内容は平凡でも、文句以外の氣轉の樣なものに、深い興味があつたのである。この樣式は隨分古い。
 
   そろた/\よ雲助さんがそろた
   衣装ぞろひの聲ぞろひ
 
   何のそろたかにはかの事よ
   あとの評列な頼みます
 
 佐賀縣の北山地方で、道中唄と稱するものゝ「受け渡し」である。雲助さんは至極よろしい。この邊の雲助は百姓衆で、また衣装好みであつたと見えた。二つの歌は必ず二人で歌つたものである。祭でも嫁入でも村の境などで、輿や荷物の引繼をするときが、もつとも晴れがましい民謠の歌はれる時であつた。
 
   歌に上手ぢや小うたに上手
   むかし西行のながれかや
 
   むかし西行の流れぢや無いが
   昔西行が宿をした
 
(135) 北伊勢の山村に行はれて居る。最初何用の歌であつたか記載は無いが、多分たゞの酒宴の歌であらう。この文句には雙方とも、少しづゝのひやかしが有つて、それが又聽く人の笑ひを催して居る。西行法師の子孫だらうといふと、いや私の家に來て泊つたことがあるだけといふ。つまりへらず口である。
 
   長尾北山但馬のかみは
   地獄谷かよ日がさゝぬ
 
   地獄谷でも日はさすけれど
   梅の木かげで日はさゝぬ
 
 播州の海近くでは草取歌などに之を用ゐて居る。心持はよく分らぬが、梅といふのは多分娘の名であつたらう。然らば何故に久しく傳はつて居るのかゞ不思議なる現象である。
 
       一九
 
 「米のなる木はまだ知らぬ」といふ樣な名高い小歌にも、往々にして答へ歌が出來て居る。
 
   腰の痛さやせまちの長さ
   四月五月の日の長さ
 
   四月五月はおろかの月よ
   あけの六月まだつらい
 
 これも第一の方は日本の西半分に普及した歌だが、宮崎縣のある郡では、第二の一章を伴なうて居る。田草取の歌(136)らしい。セマチは畝町、水田の區劃のことである。
 
   ここの仲間に歌はぬ人は
   胸にや如何ほど世話がある
 
   世話が有るばのわしが身の中にや
   腹にや三月の子がござる
 
 長崎縣の南部に行はれる。何か知らぬが仕事歌であつて、靜かなしをらしい一人の娘を、左右からひやかす時の文句らしい。セワとは心配の方言である。
 
   織手さんたち早あぜ附けて
   しもて行く氣は無いかいな
 
   しもて行く氣は山々あれど
   あぜが附かぬでしまはれぬ
 
 丹波地方の織屋の工女が歌つた近代の民謠。「あぜつける」は一反一匹の區切りに、色絲などを織込むことらしい。工女等は永の一日歌つて居る故に、幾らもこの樣な何でも無い歌を作つた。子守女もこれと同樣に、問答體の名人であつた。
 
   歌がお前さんに當られるなら
   天の星さん算《よ》んで見い
 
(137)   天の星さんよんで見しよなれば
   山の木のかず石の數
 
   山の木のかず石の數なれば
   おまへ目籠で水汲みやれ
 
 これも丹波の子守うた。「當てる」とは歌で戰をいどむこと。雙方言ひ募ると末には無茶になる。そこで、
 
   歌のかややしも二度まであるが
   三度かややせばくどくなる
 
 工女や子守までがかういふ第二第三の歌を、「返し」といつて居たのである。
 
       二〇
 
 いよ/\田植歌の話をする季節になつた。斯んな面白い澤山の歌が、滅びて行く事情は考へて見なければならぬ。
 暮春の農業の歌は種播き歌からはじまる。但しこれはたゞ祝宴の歌で、作業の手振りは考へないから、追々に流行唄を採用するやうになつた。
 
   めでたき苗代の種まきて
   箕の手にこがねの花が咲く
 
 この類の祈?歌が、元は幾らもあつたのであらうが、先づ最初に不必要になつた。苗取歌も目的は祝ひ言であつたかと思ふ。田植と同じ日の歌で、後には混同したやうである。田植の仕事は主として女なるが故に、苗取の男たちは歌と勞働とを以てこれに對抗した形がある。
 
(138)   苗取上手が苗を取る、オーヤ
   元うらそろへて中ごりに
 
 常陸霞ヶ浦周圍の村々でうたふ。ソラヌケ/\とはやす。
 
   苗取上手の苗取るは
   もとへ手を入れて
   苗じりのかたいは
   太郎次の顔が見られて
 
 甲州の西山で歌ふ。後の方は早乙女のひやかしの詞、太郎次は爰では苗を供給する役である。
 
   この苗をもみあげて
   苗の小《こ》いなごの
   どこ/\に遣りやろにや
   苗の小いなご、丹後の島に
 
 これは石見の歌。また大和の十津川でも、
 
   この苗をおしあげて
   いなごどこへ住まうやら
 
と歌つて居る。備後の北部では、
 
   苗を取れや
   いなごはどこに追ひやる
   いなごは
(139)   しみせんの山におひやる
   登りて
   さかきの枝にとまつた
 
 イナゴは害蟲だが、まだ田植の頃は居ない。その居らぬ害蟲を追ふといふのは豫防であり、又まじなひの歌である。
 
       二一
 
 田植の日には、早天から歌をうたつて仕事を始めた。
 
   朝ほどに聲はならしやれ
   ならさぬ聲は寢聲なり
 
 中國の村々では、必ずこの第二の句を早乙女がくりかへした。
 
   そろた/\よ
   眞赤な姉さがそろたノー
   お山ねんぎよ(人形)のやうに
   よくそろた
 
 これは越後の西蒲原の歌だが、踊でも仕事でもこの文句で始めるものが多い。
 それから朝露の歌、また朝霧の歌があつた。田の神おろしといふことはせぬ樣になつても、植始めには豐作を念ずる歌が多かつた。
 
   小手にこまかに桝場に植ゑて
   秋はかべを刈るやうに
 
(140) カベとは束數の多いことだといふ。東日本に弘く行はれる語で、桝場は即ち正條植である。
 
   さがり細かに横ひろ/”\と
   お苗こまかにかべ刈るやうに
   サガレヤー/\
 
 關東平野では一般に、田植歌のはやしはウヱテシャレ/\といふ。シャレはシサレであつて後に下れといふこと。下總香取郡の歌にも、
 
   ヤレ植ろ、ソレ植ろ
   植てさがれホーイ/\
 
 廣島縣の所々の村でも、
 
   何とさうとめさんやこの大町を
   ぞろりとさらうや、ハーヤーハレ
   大まちをぞろりとさらうや
 
とあるのは、同じく植ゑて下ることであつた。故に後を見るといふ文句が多い。
 
   植てさりやれ
   この田にや大蛇が居るげな
   サリャレヤ
   この田には大蛇が住むげな
 
 これも早く植ゑよの意味であつた。
 
(141)       二二
 
   植ゑてさりやれや
   手に持つ苗はかざりか
   サリャレヤ手に持つ苗は飾りか
 
 田植歌にはかうして未熟な者を勵ましたものが多い。
 
   植ゑてさらいせヨー
   御手が立つならば
   植ゑてさらねば坪になる
 
 ツボとは列の中で一人がしさり得ないで、前の方にまだ殘つて出て居ることをいふ。備後の歌である。次に、
 
   オヤ、置かれたや坪に
   中のつぼに置かれた
   ホーイオヤ、つぼでは無いよ
   田なりでござる
 
 これは千葉縣でうたふ。田の形が始めから曲つて居るから殘つたのだと辯明をするのである。
 
   置かれたよ置かれた
   長みつぼに置かれた
   植ゑ出させたまへ
   御田の神さまよ
 
(142) これも上總の歌である。
 
   赤いたすきを掛けたはよいが
   つぼにはいるのをかしさよ
 
 遠州で今かう歌つて居る。
 
   朝つぼに入るな/\と
   夜中にとのごがさゝえた
 
 サヽエタは「私語した」、伊豫温泉郡の歌である。
 
   植田のなかへうゑこまれ
   親たち見るか笠のあひから
 
 甲州でうたふ歌。女の苦しむのが哀れであつたと見える。
 
   十七がつぼへはまりて
   そこなたもれ
   苗たもれ編笠のヨー殿
 
 伊賀の歌である。次は伊勢で、
 
   十八が棚へあげられて
   苗たもれ
   苗たもれさいはかの殿
 
 タナといふのもツボのこと、サイハカは仕事頭である。
 
   お上りなされよ高棚へ
(143)   お心安いは常のこと
 
 徳島縣ではかう歌つて居た。早乙女の列が一方の畔に著いて引返すときには、ツボに殘つた娘は見じめであつた。信州では又これを穴ともいふ。
 
   穴へはいつたもな(者は)
   曲り目のむざ/\
 
       二三
 
   植田の中を
   どんぎりまんぎりするは
   浮苗さしかどぢやう捕りか
 
 ツボに落ちてまごつく者をひやかす歌である。
 
   植田の中に立てるは
   田の草取か鳥おひか
 
 以上二つは岡山縣。この「鳥おひ」はカヾシのことであらう。腰の痛いは誰も同じなのに、一人だけ腰を伸して居るのが憎い故に皮肉をいふのである。
 
   けふの田植の田主どの
   目出たきおん田に植ゑなさる
   腰をのさずにはたらきやれ
 
 最上地方の古風な田植歌。後には初春の田遊びにも歌つたかと思はれる。それほど又田植は腰の痛いものだつた。
 
(144)   ヤレ腰痛や腰いたや
   はかまの腰でいた腰ぢや
 
 三重縣志摩地方で斯う歌ふ。笑ひに紛らしてやつと我慢をしたのである。
 
   苗持がいちごをもりよつて
   その苗無いと腰をのさう
 
 大和の吉野地方の歌である。苺をモルとは採つて食ふこと。苗持がそんな路草をして居る間に、苗の來ぬのを理由にして、暫くなりと腰を伸ばしたいといふのである。苗持は普通は少年であつた。
 
   小苗持の小野郎
   とんびはさらつた
   あらゝといふ間に腰休め
 
 越後西部の田植歌。こんなことを言つて早乙女から馬鹿にされたものだ。
 
   苗持は一の大役
   晩には竹の子の味そしる
 
 これも苗持の少年をひやかした歌だ。伊豫の大洲地方に行はれた田植唄である。
 
   苗ぶち野郎が
   ちんばだらよかんべエ
   びつこちやかたり來るときに
   おら等も腰を休めべエ
 
 苗ぶちは一名小苗打、やはり苗を運ぶ者のことで、是は下總海上郡の歌である。
 
(145)       二四
 
 田植歌の題目は限られて居た。午前中は風物の歌が多かつた。
 
   きいちごの花が
   ざく/\と咲いたいの
 
   はつこの鳥は
   天じやうないて通る
 
 「はつこの鳥」は郭公のこと。越後邊の歌だが、今はもうこんな昔風ははやるまい。
 
   蛙よ/\、目ん玉突かれなホイ
   蛙よ/\、お田を植ゑるぞホイ
 
 岡山邊のもの(井手貢夫君報)。朝の元氣が目に見える。
 
   田ぬしどのゝ前の田に
   咲くは何の花やら
   こゞめ花はでに(錢)花よ
   さいてとくの花やれ
 
 田主は又タンヌシ・タジウ、田アルジまた太郎次ともいつた。もつとも多く田植歌に出て來る。これは藝州の歌。山梨縣の富士川右岸などでも、
 
(146)   歌をうたうて田を植ゑて
   晩にや太郎次とねて行く
 
   太郎次さんは年より
   小太郎次さんとねてゆく
 
 それから正午に近くなると、晝飯を待つ歌と、それを運んで來る女を主題とした歌が非常に多かつた。
 
   晝持を待ちます路にあや張りて
   錦をのべてござと踏め
 
 此唄は神奈川縣に殘つて居る。晝持一名はオナリドといふ土地もある。もとは同時に田の神を祭る役でもあつたらしい。
 
   あぜばたの
   つく/\つんぼらはらんだ
   月星を殿御と定めて
   雨つゆたよりにはらんだ
 
 播州多可郡では斯う歌つた。つんぼらはチバナ即ち茅の花である。
 
   草津のしゆくで
   燒もちがはらんだよ
   小豆が知らないでたが知らう
 
 山城の宇治邊の歌だといふ。田植の時に身持ち子持ちの歌の多かつたわけがある。九州のある神社の御田祭のとき(147)にも、
 
   おかた身持ちげな
   顔すご/\と
   小《こ》いちやほしそに
 
 コイチャは赤ん坊のことをいふかと思はれる。
 
       二五
 
 昔の田歌は驚くほど全國が相似て居る。例へば大隅の種子島で、夕方になると、
 
   日暮の千鳥が笠のふちよ囘るよ
   何よ歌うてまはるか
   とむら(泊り)たうて囘るよ
 
 安藝の安佐郡でも、
 
   日暮し鳥や笠のはを囘る
   まはりたうてまはりやせの
   とまりたうてまはるよ
 
 また關東でも下總香取郡などでは、
 
   日暮し鳥が笠わをまはる
   お旦那樣よ、しまへとおしやれ
   一度で人を懲らさぬものよ
 
(148)と歌つて居た。
 
   あがれとおしやれ太郎次どの
   一度で人は懲らさぬものよ
 
 この歌は知らぬ地方がほとんど無い位である。また、
 
   あがれというてかはず子がなる
   太郎次の耳へははいらぬか
 
とも歌つた。暮れかゝつての蛙の聲は、田を植ゑた人には忘れられぬ記憶である。
 
   蛙がく/\
   あがれや田人
 
 信州の北部にはこんな單純な口ずさびの文句も殘つて居る。さうかと思ふと一方には早乙女に名殘を惜む歌もあつた。北海道室蘭附近の宮城縣の移民は、
 
   日暮れてなう、をし鳥
   西をさして飛んで往く
   けふの田のたらうずな
   おいとま申すたらうずな
 
と歌つた。又田の神樣に別を告げた例も多い。
 
   さらばおいとまお田の神
   御縁あるなら來年も
 
 東國では一般にかう歌つた。
 
(149)   しろくらまんぐはに
   兩手をかけて
   來年ござれよおたのかみ
 
 もつと古風なのは甲州で、
 
   お分れ申すよ田の神
   明年こそ參らうよ
 
 さうかと思ふと「おたの神」の意味をもう忘れて居るものもある。
 
   まかるぞや
   來年ござれ歌の神
   ヤーノ歌の神
 
       二六
 
 田の草取は苦しい作業であつた。たゞ樂しみは田植と異なつて、男と女とが一緒に働くことで、そこで聽いてもらふための新しい歌が行はれた。
 
   草を取らしたや官員さんに
   ひげをはやして横柄な
 
 土佐といふ民權國の草取歌である。しかしこのやうなのは例外で、今殘るのは古い昔の流行調が多い。
 
   ことし始めて田の草取れば
   手からこぼれるなぎの根が
 
(150) 但馬の例であるが、なぎの葉を歌つた「伊豆の御山」の節を知つた人の作に違ひない。
 
   取りも習はで田の草とれば
   あとに小草がちり/\と
 
 飛騨の山國の歌といふが、これも文人の臭ひがする。
 
   咲いてしをれて又咲く花は
   うどんげの花ぼけの花
 
 安藝竹原の歌。これも草の縁で思ひ出すのであらう。
 
   盆にや踊ろし正月には寢よし
   長の夏中は草取ろし
 
 京都附近で歌ふといふ。盆を待ち兼ねるやうな歌が多かつたことを思はしめる。奧州の奧には、またションガエ節の草取歌などがあつたが、今一つ前の曲も殘つてゐた。
 
   これから拜むぞ野の嶽を
   よい米取れるやうに拜みます
 
   これから拜むぞ野の嶽を
   好きつま御縁のあるやうに
 
 ノノダケは今は箆の嶽と書いて居る。この二首などは、やはり中央の五文字を繰返して歌つたのであらう。山を望むといふことは田植の歌にもあつた。かつて信仰から出た感じと思ふが、同時に又日の暑さを悲しみ、片蔭を待つ情からでもあつた。
 
(151)   木更津出れば日は七つ
   ぎをん川
   越えればお日がとろえる
 
 上總にはこんな歌もある。草とは縁が無いが、やはり暑いから思ひ出すのであらう。
 
   十七置いて長の旅
   うらさらと
   立てばうしろを見られる
 
 是も女と共に働いてゐる歌だ。
 
       二七
 
 麥つき歌は東部日本の特色である。裸麥を栽培する地方ではこの骨折と興味とを知らぬ。
 
   田では田の草畠でははぐさ
   よるは夜麥で身をやつす
 
 日中はあまりつらいので、初夜からこの仕事にかゝるのである。伊豆賀茂郡でさう歌つて居る。
 
   米のおやくでなでこの樣に
   麥は馬鹿だよからばかり
 
 上總市原郡の歌。オヤクは親類といふ意味、この麥も大麥である。
 
   思ふ念力岩でもとほす
   なんのそなたの一重がき
 
(152) 下の句は戀になつて居るが、やはり麥搗きの努力が、こんな文句を誘つたのである。鳥取縣の歌だといふ。
 
   麥のつんがへしと世帶のはじめ
   つらいものだよしうとどの
 
   麥はつき置く田は植ゑをへる
   よめを遣らんせ親里へ
 
 この二章は相州三浦郡に行はれる。二つ共に女の心持らしいが、現今の麥搗きはどんなことがあつても女には堪へられぬ。以前には別種の臼があつて、女もこの作業に加はつたのである。「つんがへし」は多分二度づきのことかと思はれる。
 
   麥も搗けたし寢ごろも來たし
   あとの親たち來ればよい
 
   麥はつき樣から臼立て樣から
   よめはしうとの習ひから
 
 仙臺附近にはこんな歌がある。爰でもやはり女が夜麥をついてゐたものと見える。
 
   をへた終へたよこの麥終へた
   糠はかぐらに舞ひあがる
 
 和歌山縣で歌はれる。但しこれは裸麥の方であらう。大麥のぬかは神樂を舞ふやうなことは無い。是はもう少しですむといふうれしさを歌つたものである。
 
(153)   五月來たらこそお前とわしと
   向ひ合して麥をつく
 
 是も紀州。タラコソは自然に麥つきの調子に合つてゐる。
 
       二八
 
 麥搗歌の面白い調子には、明らかに昔の杵の音が入つてゐる。
 
   つんつらつけたよこの麥は
   つけもしないが千六そくついた
   旦那の慾目にやまだつけぬ
 
 このツンツラも音に合せた言葉である。下總香取郡のもの。一束は一百のことだから、千六百囘ついたと誇張したものである。また佐渡の島でも、
 
   こんころこんとこづけ
   底に茶わんは伏せ置かぬ
 
   こんころこんとつきやれ
   そこに親子は無いわいな
 
などゝ歌つたさうである。但しこの音はどうも手杵の方らしい。東京附近の村はよほど早くから、大きな臼でどしんどしんと搗き、自分の知つて居るものは搗手も一人であつたが、歌だけには古代が殘つて居た。
 
   そろうたそろたばの
(154)   きねが三ちやうそろた
   秋の出穗よりまだそろた
 
 九州北部の麥搗歌にもこんなのがあつたといふ。三人が臼を圍んで一緒につく故に、こんころこんと節を合せる必要が殊に多かつたのである。
 
   鎌倉では女が無いとて
   猿に夜麥をつかせる
   猿が三びき小杵が三本
   どれもどんすの前掛で
 
 伊豆地方の歌として傳へられる。至つて古風な調である。無論今日は記憶する者すらあるまいが、右の小杵は疑ひも無く、月の中の兎が持つのと同じ手杵であつた。
 
   鎌倉の御所の座敷へ
   十三小女郎が酌に出て
   酒よりもさかなよりも
   十三小女郎が目につく
 
 これも同上。この形の歌は稀に手まり歌に殘つて居るが、やはり以前は勞働歌で、夜どほし苦しい骨折をする爲に、色々の珍しい文句が發明せられ、また改良せられたものだらう。目に「つく」とあるので臼歌なることが知れる。
 
       二九
 
 伊豆に殘つた古風の麥搗歌には、また次のやうなものもある。
 
(155)   おいとしやとんとんと
   落つるきねはおかたのきねか
   おいとしや
   娘ならかはるべきもの
   み山おろしのあらぎね
 
 歌の形の少しこはれてゐるのは、文句だけを覺えてもう歌はぬ時代が永かつたためだらう。オカタは記録には大方殿とも書き、つまり主婦のことであるが、爰では花オカタ即ち新嫁をさして居る。山から伐つて來たばかりの重い杵で、さぞ重からうと新嫁を憐んだ歌である。トントンは獨り嫁の杵のみが、おくれて行く音を形容したものと見える。
 
   奧山のけやきの臼で
   青麥を七日つけば
   お手に豆が九つ
   こゝのつの豆を見れば
   親の在所が戀しや
 
 これは甲州の東隅から採集せられたが、非常に弘く且つ古く行はれた歌であつた。近世普通の形は、
 
   麥ついて夜麥ついて
   御手にまめが九つ
   九つの豆を見れば
   おやの里がこひしや
 
 「つく」といふところから、これも今は手毬の歌になつて、無邪氣な幼兒にも歌はれ、後先に色々の文句が附いてゐ(156)る。
 
   あれ見ろよ筑波の山の横雲
   よこぐもの
   下こそおらが親里(下總香取郡)
 
 是は田植草取のときにも歌ふことがあるが、横雲は夜明けの雲で、即ちもと夜仕事の歌であつたから、即ち麥搗きの臼歌なるを知るのである。
 
       三〇
 
 麥搗歌には特に憤ほる文句が多い。それは全く勞働がつらいからであつた。
 
   何でもかでも嫁のとが
   朝雲の
   出たのも嫁のとがかい
 
 是も上總地方の麥搗歌であつた。夜麥を搗くのは涼しい時刻を選ぶ爲のみで無く、ついたものを早天から日に乾す必要があつたので、人は常に次の日の天氣を氣にした。
 
   つけたか在郷のおつかさん
   このから麥を手に取つて
   吹いて見たらばまだあらだらけ
 
 アラとは皮のまゝの穀物のことだが、是にも嫁の缺點を暗示して居るらしい。千葉附近の歌である。ずつと離れた岩手縣の膽澤郡も、
 
(157)   こらほどに
   ついてもつけぬ麥や無理だ
   つかずとも
   はだかになれやおむぎどの
 
と歌つた。笑ひの中にも若干の投遣り見たやうなものがある。
 麥搗歌には古くから一定のはやし詞があり、その方は殊に作業の律動と一致して居た。新しい歌には手を休め、はやしでは半ば無心に仕事をはかどらせる。これも九州の島原半島で、
 
   三度一度中つけ
   だんなどん加勢たん
   背中にや蚊の來る
   ぶん/\いふちよる
 
 小言をきいたあとの歌らしく思はれる。タンは加勢頼むであらう。
 
   ひき割御飯に菜つ葉の御汁ぢや
   地がらは踏めない
   それでも御主人
   地がらのはやしだ
   御氣には留めるな
 
 埼玉縣のはやしである。手杵が地唐臼となるまで、歌で不平を訴へる風習はつゞいて居た。
 
(158)       三一
 
 漸く骨折の麥搗歌がすむと、涼しい夜の風が盆踊のさゞめきを運んで來る。
 
   盆の十六日踊らぬやつは
   ねこかしやくしか花よめか
 
   盆の十六日かしの葉も踊る
   子持ち女も出てをどれ
 
   盆よ/\と待つのが盆だ
   盆が過ぎれば夢のやうだ
 
   盆ぢや/\もけふあすばかり
   あけりや野山で草刈りぢや
 
 至つて古風な心持ではあるが、これを文句にしたのは存外に近世のことらしい。拍子をそろへてしみ/”\と踊る者には、歌は少しでも入用でなかつたのである。
 
   なにやとやれ
   なにやとなされの
   なにやとやれ
 
(159) 青森縣の七戸地方では、今も斯う歌つて踊るさうである。「何でもせよ」といふ意味らしいが、全く要領を得て居る。これが我々の知つて居る最も簡單の踊歌であつた。
 
   盆ならこそ踊る
   秋の八月アたが踊る
 
   こはしたかこはせ
   踊や三人でも止めはせぬ
 
   皆さん頼む
   豆ばたきよしな
   どうぞお手々のそろふよに
 
 こんな短い文句も、最初手足をそろへる爲に入用なだけで、やがては黙々としてたゞ踊る間が續いたのである。しかし折には歌はずには居られぬやうな、感興の一致する場合があつた。
 
   こん夜の夜も夜中
   天《あま》の河原が西東
 
 夜の明けるのが惜しいといふ時に、聲のいゝ人が斯う歌ひ出してほめられるのである。
 
   死んだものは貧乏だ
   泣くもなげくも出場ばかり
 
 突然とこんなことを言ひ出すのも、一つには面白いからと、また一つには踊は元來死者の爲に催すものだからであ(160)つた。出場とは葬禮のことである。
 
       三二
 
 歌の數多く且つ盛んになつたのは、寧ろ盆踊の統一のやゝ亂れたことを意味して居る。見物が無ければ出なかつたらうと思ふ歌が、追々に發生して居る。しかも踊り手の興奮と無心とに乘じて、記憶すべき事件を語つて置く習慣は古くからあつたらしい。クドキといふのが即ちそれだつたと思ふ。長いクドキを例示することはむつかしいから、出來るだけ簡單なものを出して見る。
 
   達者の傳次は燒けた
   海豚《いるか》殺したその罰で
 
 佐渡の海村にはこんなのがある。達者は村の名である。斯うした事件が曾てあつたと見える。
 
   木山六之丞はなぜ色が黒いぞ
   笠がこまうて横目がさすぞよ
 
 伊豫越智郡の歌である。有名な伊達者であつたのであらう。
 
   伊賀の上野の新七さまは
   わらで髪結うて五千石
 
 この人も昔の名門の名士であつたが、もう盆踊より以外では人が説かなくなつた。
 
   與作丹波の馬追なれど
   今はお江戸で刀さし
 
 これは芝居にもなつて我々がよく知つて居る。
 
(161)   小槻清左衛門乞食より劣り
   こじきや夜も寢る樂もする
 
 大和にはこんな歌があつたといふ。
 
   大野の權六かゝ見たか
   赤いしよけんにまんぢよ笠
 
 是は越後の盆踊歌、但しショケンは手巾、即ちシュキンで短い飾り帶のこと。
 
   中津こいの丸米屋のお八重
   廣津小川に身をはむる
 
 大分縣のレソ踊の節に、お八重といふ女性は其名を殘して居る。
 
   三九酒に醉うて泥田へこけて
   あさぎじゆばんも泥まみれ
 
 これも奈良縣の地方史の一片であつた。
 
   酒田權兵衛のかアが
   鍋の弦《つる》まで飲んだとさエ
   それが足《た》んないどツて
   木割臺まで飲んだとさエ
 
 是は山形市近傍の踊歌。婦人の酒好きである故に評判になつたものと思ふ。
 
(162)       三三
 
   音頭とるならよひから夜中
   夜あけ音頭はたれも取る
 
 會津の盆踊歌である。黙つてたゞ踊る者を互ひに嘲けるやうになつて、追々に歌の天才が現はれて來る。
 
   天龍川原の吹上げのまなご
   しだれ柳の葉にとまる
 
 斯んな美しい歌でも、やはり最初はある若者の即興に成つた。さうして深い感動が永くこれを生存させ、また流行させたのである。マナゴは砂のこと、濱松近村の産物である。
 
   聟が來るそな榎の木の馬場へ
   馬で來るそな鈴が鳴る
 
 岡山縣中部の歌。踊にどうしてこの樣な面白い文句が浮んだかといふと、一つには踊る間ばかり凡人は詩人になる爲、又一つには誰かゞ「來る」といふことが、踊の群の共通な題目であつたからである。
 
   たむら若い衆よく來てくれた
   裾がぬれつら豆の葉で
 
 信州上伊那郡などでは斯う歌つて居る。「たむら」は他部落といふことであるらしい。
 
   ぼさん山路破れたころも
   行きし戻りがきにかゝる
 
 江戸でも古くから有名であつたのは、この口合が輕い故であるが、實はもと遠くから踊りに來た男女をからかつた(163)歌で、なまめかしい色々の意味が含まれてゐた。
 
   おまへ見たよな牡丹の花が
   咲いて居ました來る路に
 
 もし普通の會話では出來ぬ表現が文學ならば、盆踊りは殊にその必要がある。さうして實際にはこれよりも遙かに痛切なものが多かつたのである。
 
   ヨホーイ五智の森八幡の烏
   啼いて別れる夜明けには
 
 これは越後の糸魚川の歌だが、夜明を悲しむ歌は盆踊には幾らでもあつた。
 
   盆ぢや/\と樂しむけれど
   盆も早すむ夜もあける
 
 是は伊豫の今治の歌である。
 
       三四
 
 踊の群にも妻どひをせぬ者、またはをかしな戀をしようとする者がまじつて居て、折を見ては笑ひの歌を發した。昔の農民のユウモアは思ひの外上品であつた。
 
   橋のぎんぼしを五兵衛かとおもて
   すでに言葉をかきよとした
 
 仙臺地方に古くあつた歌。盆が月夜で無いとこんな出來事が歌にはならぬ。
 
(164)   盆が來たせいか蓮の葉が賣れる
   實れるはずだよ盆だもの
 
   盆のぼたもちやしんから米だ
   くるむきな粉が豆のこな
 
 埼玉縣の歌だ。二つとも當然の事を大聲で歌ふだけで、もう人を笑はせて居る。
 
   よされ茶屋のかゝ花染のたしこ
   肩にかゝらねで氣にかゝる
 
 これも「ぼさん山道」と同じで、聽く女にはうれしい歌だ。タシコは襷のこと、岩手縣で採集したといふが、よされ節の本場は津輕である。四國の宇和島の歌は今少し露骨で、
 
   たぬきの皮を
   脚布《きやふ》にしようとおしやる
   毛に毛がもぢれてあゆまれな
 
 踊の歌に品行方正を説くのは、春の鳥に鳴くなといふやうなものだ。輕くやさしいのを賞美してやるより他は無い。三田尻地方のヤトサ節の例を一つ擧げて置く。
 
   ヤトサア、 あんなねえまに
   ほれたがどしよかエネーマ
   それがどねなろヤレノ寢にござれ
   寢にも行きましよが
(165)   おねまはどこかよネーマ
   東まくらのヤレノ窓の下
   まどの下ならわしや寢にや行かぬよネーマ
   窓の明りでヤレノ人が見る
 
 この歌の特別の面白味は、踊の手びやうし足拍子が、目に見えるやうにあることである。しかも斯んな率直なのは却つて無邪氣に踊つてしまつて、しんみりとしたものよりは罪が淺かつたかと思はれる。
 
       三五
 
 盆踊歌以外に、別に盆歌といふものがある。昔はこの歌でもやはり踊つたものと思ふ。東京人には珍しく無いが、この種の中では兩國といふのなどが形がよく整つて居る。
 
   長い長い、兩國橋が長い
   お馬でやろか、おかごでやろか
   お馬もいやよ、おかごもいやよ
   十六七に手を引かれ、手を引かれ
 
 即ちまん中に幾つかの對句があり、終りの句をくり返すのが盆歌の特色だ。但しこの歌は後に出來たもので、その前からあつたものは、やはり盆の歡樂を詠じた歌であつたと思ふ。
 
   盆々とても、けふあすばかり
   あさつては山のしをれ草
   しをれた草を、やぐらにのせて
(166)   下から見れば、ぼたん花/\
   ぼたんの花は、咲いても散るが
   なさけの花は今ばかり/\
 
 これなどは確かに古い一つであつた。文句は色々と變化してゐる。江戸でも盆の夕方に小娘が手を組んで、この歌をうたひつゝ町をあるいた樣子が、三馬の浮世風呂などに見えて居るが、惜しいかな今はもう絶えた。
 さういふ情趣は地方にはまだ少し殘つて居る。例へば信州の松本には、この江戸の歌と風習とがそつくりと入つて止まつて居る。名古屋の「盆ならさん」は海道一帶の代表であつた。
 
   盆ならさんよ/\
   盆が來たに帶買うておくれ
   赤いがえゝか、白いがえゝか
   赤いもいやよ、白いもいやよ
   當世はやりのしゆすの帶/\
 
 昔はこれで踊つたことが、詞と節とからよく窺はれる。しかも踊は次々に新しいものを採用して、僅かに子供仲間だけが、古い盆々を保存して居たのである。
 
       三六
 
 酒宴歌も以前は皆民謠であつた。それが今日の騷ぎ歌となるまでに、短い歳月の間に色々の變化を經て居る。
 
   さした盃、中見てあがれ
   中はつる龜五葉の松
 
(167) この歌などの酒宴用に出來たことは明白である。しかも文句の面白いものは、追々に祭にも踊にも轉用せられて、初めの心持がわからなくなつた。
 
   うれし目出たの若松樣は
   枝もさかえりや葉もしげる
 
 これなどは正にその一例で、田植に使ふ地方さへあるが、本來の目途は酒宴、殊に元服婚姻などの祝賀用であつた。
 
   ゆる/\と受けておあがれこの酒を
   中にや辨財の福がまします
 
 備後で阿字村|平句《ひらく》などゝいふ歌の一つである。「この酒は」といふ歌ひ方は、十數世紀前から日本にはあつた。
 
   受けたりや/\
   渡りに舟なら引きや受けたり
 
 盃の遣り取りは昔から面倒なもので、そのたび毎に何か氣の利いた文句が必要で、つまりは酒を樂しむのであつた。舞の本や狂言に殘つて居る所の、
 
   うれしや水
   鳴るはたきの水
 
といふのも、實は酒をくむ形容から出た言葉であり、
 
   濱松の音はザヽンザア
 
なども、また何か酒を飲む折の物の音と、縁のある文句であつたらしい。それが殆と無意義になるまで、律儀な村の人々だけはこんな風をくりかへしてゐた。人が新しい刺戟を要求するに至つて、酒と祝言とが分離してしまひ、手酌でだまつてやけ酒などを飲む人が出來て來たのである。
 
(168)       三七
 
 酒コ禮讃はもと歡待の技術であり、客からいへば主人の好意が、もはや效を奏したことを示す手段であつたのが、後にはやゝ秀句の競爭のやうになつた。
 
   お酒飲む人花ならつぼみ
   けふもさけ/\あすもさけ
 
 斯ういふ類の馬鹿げたドヽイツも、實は突如として現はれたのではなかつた。どこでかそつと覺えて來て、まだ始めての人々にあつといはせる。つまり流行歌普及の一つの路筋である。
 
   飲みやれ歌やれさきの世は闇よ
   今はなかばの花ざかり
 
 或は「一寸先はやみ」といひ、「下戸の建てたる倉はない」などゝいつて居る。醉はぬものには同情もない興味だが、よく氣をつけて居ると、今なほ酒飲みはそんなことばかりいふのである。しかし「今はなかば」とは實は盃が十分まはつてから、もう止めようとする人に強ひつける言葉であつたのだ。
 
   これほどのお座のなかばに
   歌このまれて望まれて
   すきなれば歌ひ申すよ
   お笑ひあるなお座の衆
   酒盛は今がなかばよ
   をり島臺をお出しあれ
(169)   島臺のうは置などは
   物の上手が飾らいで
   鶴龜に松竹すゑそよ
   御壽命長く御繁昌
 
 上總ではこんな歌を初瀬《はつせ》といふ。又初聲とかく地方もあつて、關東一帶の村々に行はれて居る。
 
   がんもはくてう(白鳥)も
   めごい鳥が御座んねよ
   わたしやめごい鳥
   おしやくとり
 
 メゴイは可愛いといふこと、羽前最上郡などでは元はこんな歌をうたつて酒をすゝめた。即ち近代の淺香山の采女の歌であつた。
 
       三八
 
 それから亂酒に入つて、皆が逃げようとするのをつかまへて飲ませる。近世は拳《けん》といふものを用ゐ姶めたが、それにもやはり樂器を伴なうて居た。その一つ前には一種の歌と踊とがあつた。有名な大星由良介の「めくらおに」にある樣に、
 
   とらまへたら酒のまそ
 
といふ類の文句が幾らもあつた。目を隱して盃を持ちまはり、當てずつほうに飲ませたい人にさし付ける。
 
   こゝらか、まだ/\
(170)   こゝらか、そこ/\
 
と何遍でもくりかへした。至つて簡單なれどもこれも民謠であり、今の「こんぴら船々」の囃し詞はそれから變化したものである。或はコ島縣の南部で、
 
   紀州の殿さん
   みかんで茶々のむ
   薩摩のとのさん
   いも食うて茶々のむ
 
などゝ歌つて騷いだのも、要するに飲むといふ語が眼目で、飲ませて/\人を打倒れさせるのを目的としたことは、野蠻人の儀式もさう異なる所が無かつた。
 
   べろ/\の神樣は
   正直な神さまで
   おさゝの方へ面《おも》向《む》ける
   面むける
 
 通例は目を隱した人が、カギ形をした小枝を兩の手でまはして、この唱へごとをした。カギのさきに向いた人が飲まされるので、昔の祭のいはゆる枝占である。酒席ではコヨリを折り曲げても代用した。子供などは面白いもので、大人の中には流行しなくなつて後まで、今でもその眞似を止めず、隱し屁の主を發見する場合などに、これを利用して居るのである。
 
(171)       三九
 
 酒宴用の歌にも、多くの勞働歌と同樣に、序破急とも名づくべき順序があつた。客の側から最初に出るものを、ほめ詞と謂つて居た。即ち發達して今日の高砂やとなつた元である。
 
   しばらくしばらく
   ほめる作法は知らねども
   あの何之助樣を
   ちくとんばかり譽め申さう
   船づくしにて譽め申さう……
 
 これは婿入の祝宴用らしい。必ずしも實際にふれずとも、興ある文句であればよかつたので、我々のいふ「ほめる」とは意味が少しくちがふ。
 
   これのおうちは目出たいおうち
   父はれんげの花とさく
   母はしやくやく姉つゝじ
   妹八重菊、兄さんは
   五月野にさく百合の花
 
 多分は父親の法事の酒宴だらう。即ち花づくしであつて、婆が鬼見たいな顔をして居る家へ招かれても、平氣でこんな美辭を連ねて、當てこすりにはならなかつた。
 
   めでたいこなたのお座敷に
(172)   白いねずみが三つ出た
   また三つ出て、六つ連れて出た
   小判なくはへて金運ぶ
   これがこのやの福の神
 
 これも正しく作り事で、實はさうあれば好いといふ意味だつた。肥後南部の歌である。
 
   これのやかたに招かれて
   あがりてお座敷ながむれば
   松竹梅が三つさいて
   一つはこの世のたから花
   二つはしんしようあがり花
 
 是は埼玉縣で用ゐられて居る。中には歌とまでは名づけ難く、イヒタテとかセリフとかいつたものも多いが、特に前以て考へて置くのも手數なために、後には成るべく融通のきくものが行はれた。
 
       四〇
 
   めでたいものは芋の種
   葉もしげる
   畠でモツクラ/\子が出來る
   まづお目出度や
 
 平凡なやうだが多くの中から精選されて殘つたものと見えて、似た歌が弘く諸國に行はれてゐる。
 
(173)   芋種の/\
   もと二千餘の子を育て
   ふきたちのべて葉を開き
   黄金の露をうけそめて
   孫子さかえて末はんじよ
 
 斯んな文學的な作品も、また決して一人の天才の空想から出たものでは無かつた。
 
   目出たきものは芋の葉
   孫子さかえて芽を吹く
 
 上越後では斯うも歌つて居る。これなどが早い形であらうが、今一段と古いものが利根川下流の村の祝歌にある。
 
   めでたいものは大根だね
   花さいて
   實なりて俵かさねる
 
 又能登の石突唄にも、
 
   世の中にめでたいものは大根種
   花さく實がなる俵なる
 
 菜種の實の形を米俵と見て祝したところに、百姓の單純さが現はれてゐる。しかもこれだけの事でも、やはり學ぶ所があつたのだ。
 
   めでたいものはそばの花
   花さいて
(174)   實なりて三かどをさまる
 
 これは多分嫁取り聟入りの祝ひに、やがて子を生んで親子三人になれといふ縁喜でもあらうが、いはゞ眼前の風物を題にとつたもので、恐らくちやうど御馳走の末に、そば切りが出た時などに歌ひ出したものであらう。
 
   そばへ/\と留め置きまして
   ほめるやうこそ知らねども
   さつとあさぎにほめませう
   先づそばと申するは云々
 
といふ累の、興味本位のほめ詞といふ歌は、以前は方々の村里にあつた。酒のむ人たちは、ほめられるよりも先づ笑ひたかつたのである。
 
       四一
 
 民餘の文學化は、第一期においては盲目なる者の功勞であつた。醉つた人たちのほめ言葉は格別目出たくもないばかりか、大抵は面白くもなかつた。そこで專門家の座頭を喚んで、住い聲で歌はせて聽いた。即ち藝者の起源である。
 
   物語かたり候
   めでたいものは芋の種
   孫子澤山末廣く
   ぱつぱつと榮えたんの物語
 
 物語座頭ならば、新奇をもつて喝采を博すべきであるが、なほ相變らず畠の芋にばかり着目してゐた。傳統は要するに聯想である。
 
(175)   裏の段々島に
   しゝが芋ほる
   子じしが芋ほる
   しゝ芋ほる
   子じし芋ほる
   小子じし小芋ほる
   それをでんぐり返やせば
   芋がしゝほる
   小芋がしゝほる
   芋しゝほる
   小芋しゝほる
   小子芋子じしほる
 
 酒宴の席で無いと、あまり馬鹿げて笑はれもせぬやうな歌だが、もう樂器を伴なうて居た形跡がある。「なすとかぼちやの喧嘩」の如きも、次第にこの間から成長したものであらう。
 その座頭を人が喚ばなくなると、彼等は目出たさうな時をねらつて、自分の方から遣つて來てうるさかつた。目のあいた者もこれに參加し、色々と趣向をつけて歌を賣りに來た。
 
   これのおせどに
   胡麻まきそめて
   知行が増すかよごまん石
(176)   ありがたや五萬石
 
 この「これさま節」などゝいふ歌は、多くはこの連中の持つて來た歌を、覺えてゐて又使ふのであつた。
 
       四二
 
   はでに染めたよ馬喰《ばくろ》のひとへ
   肩に鹿毛駒すそ栗毛
 
 陸中上閉伊あたりで馬方節といふもの。旅の馬商人が自分の衣服の染のはげたのを、かう歌つてふざけたのである。
 
   さても珍しぱくろのゆかた
   肩に鹿毛駒すそ栗毛
   こん地栗毛にこまがすぎ(糟毛)
   前にうまぐつ手にたづな
   そろり/\と乘り出せや
   七里長濱歌つて通る
 
 三戸地方では斯んな長い歌になつて居るが、趣向は全く同じである。
 
   關東ばくろさんが二度來るならば
   枯木の牡丹に花がさく
 
 これも奧州の奧に殘つて居るので、馬喰が自分で斯う歌つた所に、一種の哀情と可笑味がある。馬方は多分その第一の理解者であつた。
 
   一夜五兩でも馬方いやぢや
(177)   馬のたづなで身をやつす
 
 こゝでいふ馬方も、やはり旅の馬商人のことであらう。さうでなければ馬方が、二句目を變更して歌つたのであらう。
 
   西は追分東は關所
   せきしよ越えればまゝならぬ
 
 これは恐らく馬を牽く運送人足の方の歌である。彼等の往來はどこまでも關所が限りであつた。然るに歌だけは關を越えて、遠い國まで出て往つたのである。
 
   笠を忘れた敦賀の茶屋に
   雨の降るたび思ひ出す
 
 日本の古歌と同じく、下の句が先づ出來てそれをぢつと考へてゐる中に、上の句が自然に附いたのだ。雨の日に思ひ出されるやうな人が、昔も街道の茶屋には居たのである。感動の深い歌である爲に、敦賀がどこに在るかを知らぬ國まで、この歌だけが旅行をして居た。
 
   南街道に山屋が無から
   何をたよりに行くものか
 
 これは奧州の牛方歌、山屋もまた茶屋のことらしい。牛方は日を重ねて旅あきなひをして居たのである。
 
       四三
 
 今一種馬喰唄といふものが傳はつて居る。長いから幾つも例を出すわけにゆかぬが、
 
   石州馬喰の牛見る目もと
(178)   はーつと追ひかけ引きかへし
   左の角にも耳をそへ
   右の角にも耳をそへ
   角のあひから首おさへ
   三枚あばらを撫でおろし
   うしろにまはりて尾を取りて
   ちんちくちんちくきんを引く
   この牛や良い牛
   ねだんは幾らでくだしやんす
   小判五十兩であげませう
   ハーノーエー追ひこめ/\
 
 廣島縣の山村に行はれてゐる。丹波福知山邊の博勞節といふのは、
 
   但馬ぱくろが出て來た見やれ
 
と歌ひ、京都附近では次のやうに歌ふ。彼等は旅をする故に、各地の歌が似てゐるのである。
 
   山城ばくろが國を立つ時は
   牛を見事に飾り立て
   あかねのおもがひ塗り鼻木
   もえぎの油單をふりかけて
   ぱくろの装束柳行李、背に負ひ
(179)   隣のをばさんをぢさんも
   私もかうして出るからは
   紙の戒名で戻るとも
   その時くやむなこりや女房
   何のそんなことあるものか
 
 末の句がふざけてゐる。また備中川上郡の追分節に、
 
   牛を買ひなされやまだら牛買はれ
   四足が白うて尾が白うて
   腹には太鼓のぶちまだら
   背には金箱おひまだら
   額にちよんぼり菊まだら
   角は高手でかなわづの
   伊勢でも土佐でも大津でも
   どこの市でも三百兩
 
 追掛節また追込め節といふのも同じものであつたらしい。道をあるきながら歌ふのでは無く、酒を飲んでからの餘興であつたらう。日本海岸の南北の端まで行はれて居る「まだら」といふ酒宴歌は、歌ひ手は船方であるが起りは是とよく似てをる。
 
(180)       四四
 
 何人が作つたとも無い民謠が、新たに次々に出來て來るのは不思議である。
 
   ピンピンピンや
   綿打や貧乏ぢや
   百目打ちや十三文
   一杯飲みやテッパラボウ
   ヤレ、ピンピンや
 
 今では綿打の弓の音を、聽くことも出來なくなつたが、木綿といふものが近世の輸入だから、この歌の始めも至つて近世のものである。
 
   ヤレ綿打や貧乏や
   しの卷きてんぼぢや
   ヤーレ、ビンボとテンボが
   ピンシヤン/\
 
 この歌の半分以上は、綿を打つ弓の音から成立つて居る。「しのまき」は俗にジンキとも謂つた。絲に紡ぎ得るやうに綿を細く卷くことで、女房の仕事であつた。
 
   ほかし屋さんのびんの毛は
   奧山の
   木花の咲いた如くよ
 
(181)   ペンヨ/\
 
 綿打は綿をほかす〔三字傍点〕から、ほかし屋さんともいふ。びんの毛云々もビンボ・テンボと同じく、弓の音の調子を眞似たものだ。
 
   オーヤレヤレナーヤレヤレナー
   ほかし屋さんのびんの毛は
   霜月の
   木花の咲いたごとーく
 
 この二つは甲州の歌である。歌の節が作業の律動に支配されて居る。
 
   ほかし屋しんしよ知れたもの
   弓一分
   かご二朱、つちが三百
   ペンヨペンヨ
 
 この「しんしよ」も弓の音を移した言葉である。思はず知らず口から出て來た歌と思はれる。
 
   ほかし屋さんの妻はいや
   朝起きて
   よりこを見るのつらさよ
 
 「よりこ」といふのも「しのまき」のことであつた。旅の職人の歌は、何かといふと女に嫌はれることを題材にして居る。こんな歌まで古くからの七五五七四の形式を追うて居るのは珍しい。
 
(182)       四五
 
 まだ澤山の子供の歌が殘つて居るが、それを説き盡さぬうちに年の暮になつてしまつた。最もあどけない正月樣の歌を以て、一旦この仕事を片付けようと思ふ。
 
   お正月がござつた
   どこまでござつた
   神田までござつた
   何に乘つてござつた
   ゆづり葉に乘つて
   ゆづり/\ござつた
 
   お正月はよいもんぢや
   油のやうな酒飲んで
   こつぱの樣な餅食つて
   雪のやうな飯食つて
   これでもとつさん正月か
 
 この二つは以前東京で歌つたものといふ。全國の正月歌も大抵右の二通りであつた。
 
   正月よいもんだ
   雪より白いまゝ食つて
(183)   下駄の齒のよな餅食つて
 
 名古屋邊では斯う歌つたさうだが、是も少し形が崩れて居る。
 
   おしようどこ/\迄いらしたア
   ころ/\山の下までいらしたア
   お土産はなアんぢや
   かやゝ勝栗
   みかんかうじたちばなや
   あまに釣つたくしがき
   犬のふんだとち餅
   猫のふんだかい餅
 
 加賀の金澤では斯うも歌つて居た。
 
   正月どこ迄ござつた
   ばばの山までござつた
   下駄の齒のよな餅食つて
   杖のさきに砂糖つけて
 
 岐阜縣には又この樣な形のものもある。次には、
 
   お正月どこまで
   關東山のみねまで
   早く來りや餅くれる
(184)   おそく來りや團子くれる
   雪のやうなまゝたべて
   ふしのやうなとゝたべて
   カツコン/\一本よ
 
 これは信州のもの。又青森縣の北端では、
 
   お正月どこさ來た
   一足二足山の陰さやつて來た
   ゆんづり葉の葉をとつて
 
 お正月樣とは年の神のことである。何處へ行つても子供のこの神の來たまふ日を、待つ心は一つであつた。
 
(185)     一つの分類案
 
       以前「民餘採集手帖」を作る計畫があつた時に、如何に排列するのがよいかといふ問題が起つて、次のやうな案を立てゝ見た。此中にはまだ多くの脱漏があることを感じて、同好の補正を待つて居たのだが、あいにくさういふ讀者の眼に觸れなかつたと見えて、何の注意も受けずに其儘になつて居る。一方には其後この案に依つて、採集を始めた人も少しづゝあるやうである。仍て自分で若干の訂正を加へて再録することにした。
 
       民謠種目
 
一 田歌  畠歌も此中に入れる。之を總括してカセギ歌といふ處もある(九戸郡誌)。
  田打唄
  田かき唄 代掻節又は代唄ともいふ。馬を使つて水田を掻かせる村では、是が女たちの田植唄と對立する(能登鹿島郡誌)。上總では又サンチョコ竹、歌の文句から出た名である。
  踏ませ唄 刈敷の緑肥を馬に田へ踏込ませる時の唄(下伊那郡など)。
  大足ふみの唄 大足とは深田に入るときにはく巨大な足駄、又田下駄などゝも謂ふ。繩を附けて兩手に持つもの(186)もある。是で緑肥を踏み込む作業にも歌があつた(東磐井郡誌)。 水かけ唄 水車などで田に水を汲み入れる地方に行はれる(東成郡誌)。
  田植唄 是には更にこま/”\とした分類がある。朝の歌・神おろし・大山歌・十七の歌等々(因伯民談二卷二號)。大山歌は又田の神唄ともいふ。正月十五日の前宵の式の田植にも、この田植唄をうたふ地方が多い。
  草取唄 又田草取唄といふ。田植唄を之に流用すると、稻が小さくなると謂つてきらふ地方もある(丹波北桑田郡)。
  田刈唄 又稻刈唄。稻刈には歌が無いといふ土地は多い。鎌を用ゐる作業には唄を歌つてはならぬといふ處もある(九戸郡)。
二 庭歌  庭即ち屋敷内の作業場での仕事に伴なふもの。
  稻扱唄 稻こきに唄のある處も稀にはある。
  穗打唄 のがぶち唄と稱して、芒のある稻も打つが、主としては麥の穗を打つ時の歌。麥打唄ともいふ。すべて連枷の作業である。又カラサガチともいふ。
  稗搗唄 日向椎葉などで採集せられて居る。是は臼と杵の作業。
  粟かち唄 越前五箇山などにある。六人拍子の元氣な歌。「いかな大名も立聽きする」といふ文句がある。
  麥搗唄 東國に多い。南大和で麥かち唄といふのも同じ臼唄である。手杵の時代からあつたもの。大きな横杵を使ふやうになつて麥押唄といふ處もある(比企郡)。
  麥ふみ節 この麥ふみは踏臼のことで、是にも又別の臼唄があつた(中河内郡)。
  臼摺唄 又籾摺唄、東北では「するすひき唄」ともいふ。
  米搗唄 昔話などにある米搗唄は、手杵の合の手である。近頃の大きな臼には、酒屋以外では米搗唄はあまり聞(187)かぬやうである。
  物つき囃し 手杵の唄。今は酒宴の祝歌などに使はれるらしい(五島)。
  粉挽唄 石臼をまはして粉を磨る時の唄。
  そまひき唄 二人づゝで蕎麥や麥の粉を挽く時の歌。女用(對馬)。
  味噌搗唄 冬の作業、もとは大臼で七人の作業である。是も大名が立止るなどゝ歌つて居た。
  藁叩唄
  繩綯唄 是も正月の祝歌になつた處がある。
  絲引唄 木綿絲の絲車の唄、是も絲取唄といふ者もある。
  特殊作業の唄 柿むき節・玉突音頭の類。前者は三河信濃の境などに盛んであり、後者は阿波の製藍地方に行はれた。
  地搗唄 石場かち・杭打音頭(越後)・棒突音頭などの名がある。建築地固めの歌である。便宜上庭唄の中に入れる。
三 山歌  山は耕地を含めて呼ぶことが多いが、爰では專ら山林原野に出て歌ふものだけをさす。
  山行唄 東北では春になつて山に青物を採りに行く時の歌、山唄とも十五七節などゝも謂ふ。今は多くは祝宴の歌となつて居る。近畿地方で山行節といふのは、すべての山仕事のかへりにうたふ歌をいふ(宇智郡誌)。
  草刈唄 全國にある。津輕の草刈節は山唄とよく似て居た。西薩摩では「かしきとり」、カシキは刈敷である。又萱刈唄・萩取唄などもある。
  山おろし 山行唄の一つだといふが、土地によつては草刈唄のみを山おろしといふ(南紀土俗資料)。尾張では祭禮の翌日、獅子舞が是に出た子供の家々を廻つて舞ふのを「山おろし」といひ、信州北安曇では酒屋唄の一つ(188)をさういふ。
  木おろし唄 九州南部の山村の燒畑作業に伴なふもの。立木の枝を伐り拂ふ仕事で色々の作法がある。
  木伐唄 伊豆御藏島で、今では男十五歳の若者入の日に歌ふものとなつて居る。
  杣唄 山小屋の生活に伴なふもの。
  川狩節 木流し唄。
  茶山節 九州にも近畿にもある。茶摘唄といふのも是から出て居るらしい。
  かな山唄 「やはらぎ」・「からめ簡」など、名は色々ある。
四 海歌  水上の生活に伴なふもの、又水産一般の作業唄。
  船卸唄 「きさらぎ山」その他。今はたゞの祝宴にも用ゐて居る。隱岐島では「船えんぎ」といふ。
  船唄 船漕唄・艪押節など色々の名がある。川湖に行はるゝものも此中に入れる。陸前牡鹿半島で「どや節」といふなども(郡誌)。
  潮替節 鹿兒島縣の鰹船で、餌樽の潮水を徹夜してかへる時、睡氣ざましに歌ふものといふ。
  網起し唄 青森縣野邊地などに行はるゝもの。
  地曳網唄 又網曳唄。
  鯨唄 長門肥前の捕鯨地で、主として酒宴歌にうたはれる。又骨切唄といふのがあつて、是は勞作に伴なふ歌であつた。
  濱唄 備前兒島郡などでは鹽濱に働く濱子の歌をいふが、和泉の濱節といふのは、地曳網を「くり卷き」で卷くときに歌つた唄といふ。
  鹽垂れ唄 越後直江津邊でいふ。同寺泊には鹽焚唄があつた(高志路五ノ六)。
(189)  海苔採節 安藝海岸などに(旅と傳説九ノ八)。
五 業歌  或る職業に携はる人だけの歌ふもの。
  大工唄 肥前五島で「屋移りおらび」などゝいつたのも大工唄であつた(五島民俗圖誌)。
  木挽唄 屋久島で「おがどん節」、又他の土地で「りんば節」などゝいふのも此中に入る。
  綿打唄 全國に分布する。「ほかしや節」などゝもいふ。
  茶師唄 茶もみ唄・茶より唄等。
  酒屋唄 酒造りの職人の歌ふもの、又杜氏節ともいふ。米磨唄・桶洗唄・?摺唄・櫂入唄その他種類が多い。
  油絞唄
  踏鞴踏唄「たゝら音頭」・「ばんこ節」など。
  其他 この類に加ふべきものはまだ多い。
六 道歌  旅唄・坂迎唄なども含めて。
  馬追唄 馬方節、馬子唄。
  牛方唄 牛唄、中國では追掛節とも。
  夜出唄 濱から魚を運ぶ者の夜道の歌ともいふ(越前丹生郡)。
  橇唄 東北に多く、越後のも北越雪譜に出て居る。
  木遣唄 木遣音頭、もと木石を運ぶ時の歌。別に川流しの木遣もある。川狩節と近いものと思ふ。又「だいもち曳き」などは祝唄ともなつて居る(伊豆新島)。
  道中唄 雲助唄、但し九州北部のは長持唄箪笥唄と同じく、專ら嫁入荷送りの日の歌である。
七 祝歌  祝宴の勸酒歌も是に入れる。
(190)  座敷唄 譽め詞・「これ樣節」、東北で「ごいはひ」といふものも入れる。
  嫁入唄 嫁入道中唄、主として嫁の荷を送る人々が歌ふ。中國で「しゆく入り」といふのも其一つ。
  酒盛唄 單に「さかもり」ともいふ(阿波祖谷山)。又酒場歌(飛騨秋神)、順の歌・肴節などゝいふ。非常に數が多く、歌の文句又は囃しにより色々の名がある。
  御立酒唄 オタチは辭去の際もう一度飲む酒。此時に別の唄がある。
  物吉唄 門に立つ者の祝唄、春駒蠶養唄など種類が多い。職業歌に近いが目的は家を祝ふに在る。
八 祭歌  神事歌の中には民謠といへぬものが交つて居る。意味の通じないものは除いてもよい。
  宮入唄 參詣の人々が道でうたふもの。
  神迎唄 曳山唄、伊賀の鈎曳音頭なども是に入れる。
  神送唄 肥後人吉の惠比須送唄など。越後北魚沼の天神囃しなどは、今は普通の送別に用ゐられる。
  竈唄 その他家々の小さな祭典に用ゐられるものを含む。この總稱は或は狹きに失するかも知れぬ。
九 遊歌  專ら民間の儀式に用ゐられるもの、祭歌との分堺の明らかでないものもある。
  田遊唄 初春の田植祭などに歌はれる種蒔唄の類。古い田歌が多くこゝに保存せられて居る。
  的射唄 
  鳥追唄  又「よん鳥唄」といふ處もある。是も正月の歌が多い。
  綱曳唄 正月にうたふ。又盆綱曳唄もある。
  正月樣 正月が近づいて小兒がうたふ。
  盆唄  同上、盆にうたはれる、現在は踊を伴なはぬ。
  踊唄  數と種類が多い。盆踊・雨乞踊・神送踊などに分けられる。文句が長いものが多いから、先づ名稱のみを(191)採集する。
十 重歌
  子守唄 是には二種あるが、こゝには其一種、「ねさせ唄」と謂つて嬰兒を睡らせる爲にうたふものを採る。
  遊ばせ唄 子守唄の第二種、幼兒の聽いて居るもの、寧ろ目覺まし唄といふべきもの。
  手毬唄
  御手玉唄 この二つは長いのが多い故に、我々は初句だけを集めて居る。無論全部が必要。特に文句の變化が多い。
  その》他 兒童のうたふものはまだ此他にも數種ある、名があつたら採集分類する方がよい。
 
 童言葉は附録として採集して置いてよいが、此中には民謠といふべからざるものが多いことを注意せねばならぬ。右の十類の中に入らぬものは別に列記して置くこと。但し大抵は何れかの中に入れ得る。新たに存在を知つたのは次々に追加して行つてよいが、多くの何々節といふ名を以て知られて居るものは、何れも囃しや文句の特徴によつて呼ばれるもので、用途目的からいへば大抵は前に列記したものゝ中に屬する。特に酒盛唄と踊唄とは多種のものを包容してゐる。
 
(192)     田植唄の話
 
       一
 
 田植唄は、最近の約三四十年が衰亡期であつた。もはや復活する見込も無く、又年寄の歌の文句や節を記憶する者も、次第に無くならうとして居る。近世の農事改良、殊に正條植の勵行が、田植に歌をうたふことを不可能にしたと説く人もあるが、それよりも更に大いなる原因は、勞働組織の變化であつたやうに思ふ。
 以前の田植は寄合仕事であつた。家庭を異にする人々の合同の作業であつた。是にもユヒといふ相互的な勞務交換と、テッタイ又はコウロクなどゝいふ一方だけの助勢とがあつたが、ともかくも多くの若い女たちは、新しい田植笠田植衣裳をして、至つて晴れがましい心持を以て、互ひに人の家の田を植ゑまはつたのである。隣の花嫁の甲斐性を見られる日、年頃の娘どもの立居振舞の注意せられる日でもあつて、村によつては此日を配偶者選擇の最も適當なる機會とさへ考へて居た。田植唄は乃ちその花やかなる興奮の中に、生まれ出でたる民間文藝であつて、通例之を歌ふ者が老功の人々であり、若い者はたゞ其音頭に導かれて、後を附けて居るに過ぎなかつたに拘らず、歌の文句に男女の情を詠じたものゝ多いのは其爲である。
 
   君が田と我田のならぶうれしさよ
   わが田にかゝれ君が田の水
 
(193) 斯んな歌が中部地方の或る舊社の、田遊びの曲に殘つて居る。即ち是も亦一度は實際の田植に用ゐられた時代があるので、同じ風俗の起りは遠かつたと察せられる。
 然るにユヒや合力の舊慣が追々と廢れて、一家の親子兄妹のみが、各自うち/\の田を植ゑる樣になると、たとへ正條植の勵行は無くても、もう歌を歌つて互ひに聽かせようといふ氣分にならぬのは當り前である。田植唄には限らず、木遣りでも地搗きでも、民謠は毎に自他の協力のある所にのみ行はれる。たゞ其中でも田植には早乙女が主役であつた故に、特にしをらしい歌が多かつたといふだけである。さうして是が我が日本で無くては聽くことの出來ない民謠、他に殆と類型の無い珍しい一つの言語藝術の、特に發達した理由でもあつた。それを何人もまだ綿密に考察して見ない前に、續々と消えて行くのは惜むべきことである。
 
       二
 
 ところが幸ひなことには、是が或る事情の爲に、まだ日本の一部分だけには其形を留めて居るのである。中國では島取岡山以西の五縣、四國で愛媛縣、九州で福岡縣などの、やゝ鐵道沿線から入込んだ靜かな村々だけには、幾分形式化しては居るが、多くの田植唄が今も尚歌はれて居る。土地によつて大田植と謂ひ、又は花田植とも囃し田などゝも名づけて、村でも舊家の最も大切な田、又は神社の由緒ある田などを植ゑるときに、世の中が平和でさへあれば、必ず大規模の合同田植があつて、こゝでは聲のいゝ音頭取りが遠方からも頼まれて來て、笛や太鼓の樂器まで入つて、朝から日の暮へかけて、歌をうたひながら田を植ゑることになつて居る。近年も廣島縣某村の囃し田の歌が、東京へ出て來て日本青年館の大講堂で演奏したことがある。大正三年に文部省から出した俚謠集の中には、この日の田植唄が數多く集められて居り、又東石見田唄集といふ一册の本も別に出て居る。關東北陸等の諸縣に於ても、是とよく似た歌の若干がまだ記憶せられて居るのを見ると、もとは西部の一地域には限らず、全國に亙つて斯ういふ風俗はあつ(194)たものかと思はれる。或は又古い御社の春の初めの祭式として、田遊び田植祭といふものがある。東京の近くでも板橋の町に接する赤塚村、又は都筑郡の杉山村のものなどが曾て有名であり、最近再び演伎として復活して居る。何れも季節は初春で實際よりも早いが、それは斯ういふ風にめでたく農作の爲し遂げられますやうにといふ祈願の趣意であつて、從つて是が昔の田植の日の實況であつたといふことは察せられる。それにも亦同じ心持の田唄が、色々と傳はつて居るのである。
 武家時代の初期に盛んに行はれた田樂といふ演伎も、本來は亦大田植の行事であつたことは、榮華物語その他の書に證據がある。田樂は漢語だが、その日本名は田遊び又は田つゞみであつた。即ち少なくとも或る場合の田植だけは、鼓を打ち歌をうたひつゝ之を執行する習はしが、久しい前からあつたのである。たゞ普通の田の田植までが、全部其樣な呑氣な植ゑ方をして居たので無く、特に一部分の由緒ある田だけに限られて居たことは、現代の囃し田も同じことで、つまりはその花田植の日の音樂があまり面白かつた爲に、通常各自の田を植ゑる者も、許さるゝ限りは其眞似をして、田に立つ辛勞を紛らさうとしたのであらうと思ふ。今から十七八年も前に、私は支那の大冶鐵山の近くを通つて居て、汽車の窓から偶然にあの地方の田植を見たことがある。あちらでは男ばかりであつたが、其うちの二人は畔に立つて、銅鑼見たやうなものを打つて何か歌つて居た。それがたゞ普通のごく淋しい田植であつたのである。日本にもさういふ時代が絶對に無かつたと言はれぬが、少なくとも近世に入つてからは、所謂大田植の他には樂器は用ゐなかつた。さうして歌だけが次々に増加し又變化して來たのである。
 
       三
 
 この後から生まれて來た新しい田植唄を、東京近郊の村里ではチラシと呼んで居る。チラシは即ちばらになつたといふ意味で、つまりいつ歌つてもよい唄である。是に對立するものは定式の唄で、名は何と謂つたか知らぬが、之を(195)歌ふ刻限があり又順序がある。たとへば島根縣などで「田の神おろし」といふのは朝の歌である。或はサンバイオロシとも稱して、土地によつては是を正式田植唄の總名とも解して居る。サンバイ樣といふのは田の神のことであつた。形から見ても内容から考へても、是が一番古いものといふことが出來る。歌の形は上下二部に分れ其音節は囃しの語を除いて算へると、五七五(上)五七五(下)となつて居る。一つの例を擧げるならば、
 
   天ぢくの、たかまが原に、神あれば
   神あれば、田の神樣の、ててご也
 
 下の句の始めの五文字は、多くの場合に上の句の終りの五文字をくり返すのだから、文句としては五七五(五)七五となつて居て、今日の三十一文字の和歌と大分近い。内容から言ふと、どの歌も主として田の神の由來を語り、又その神コをたゝへて居る。前に擧げた「天ぢくの高天原云々」の歌なども、こゝで謂ふのは天竺のことで無く、ただ天上といふことであつて、その天の大神を父とし、水の神を母として、其間に生まれたのが田の神だといふことになつて居る。或は日の光と水の濕ひとが、稻の成育のもとの力であることを、神話化して居るやうにも解せられるのである。
 次には又日中にも色々の定まつた歌があるが、其事は後に述べるとして、愈日が暮れ其日の田植が終る前になると、再び「田の神あげ」即ち田神を送る歌が歌はれたやうである。此歌は却つて大田植の本場には傳はつて居る數が少なく、關東その他の大田植の無い田舍に、寧ろ色々の例が見出される。たゞ此方は元の用途が既に不明になつた結果、形も大分に古風からは遠ざかつて居るだけである。たとへば相州鎌倉郡に行はれて居たといふものに、
 
   毎年ござる田の神さまよ
   ごえんが有るなら又來年も
 
 是などは七七七七の形であり、茨城縣の北部にあつたといふのは、
 
(196)   白くらまんがに兩手をかけて
   來年ござれよお田の神
 
であつて、既に完全に七七七五の都々逸同形のものに化して居るが、恐らくは古い田の神あげの歌の改造であらうと思ふ。是も神奈川縣の例だが、
 
   まかるぞや來年ござれ歌の神
 
といふやうな形のものもある。即ち「御田の神」といふ言葉の意味をもう忘れて、まちがへて歌の神と謂つて居るのは面白いと思ふ。田の神は實際又民謠の神でもあつたのである。
 
       四
 
 民謠はこの田の神の天降りたまふ日に、缺くべからざるものとなつて居た。だから農民は田植歌の文句の、本の心持がわからぬやうになると、それを自分たちの解るやうに作りかへて、依然として歌ひつゞけて居たのである。さういふ中で今一つ注意せられるのは、越後から東北にかけて折々殘つて居る晝頃の田植唄に、「晝間もちはなぜ遲い云々」といふ類の一章があることである。ヒルマは即ち晝飯のことで、後世は單に腹がへつた、早く休ませてくれといふ要求を、歌にしたものゝやうになつてしまつたが、他の地方の例を比べて見ると、この晝の食事を運んで來る者は、かつては至つて大切な一役であつた。若い女の最も美しく化粧したもの、多くは田主の娘だの若嫁だのが、選まれて其役を勤めることになつて居た。さうして同時に田の神の祭の御供の食事を上げる役だつたのだから、言はゞ一種の巫女又は女神主でもあつたわけである。
 多くの大田植の日の實例を見ると、太陽の中天に耀きたまふ時刻に、田に働く男女の一齊に歌つたものは、すべてこの晝間持ちの役の美しさを詠歎する歌ばかりであつた。廣島島根の二縣の田唄に於ては、この美しい女をオナリサ(197)マ、又はオナリドとも呼んで居る。オナリ樣の來る路には、綾や錦の幕を張れといふ類の、花やかな艶めかしい歌が幾らでもある。オナリは關西地方に弘く行はるゝ方言で、食物を調理する任務又は人を意味する。古い文獻には養女といふ字で書いて居る。たとへば山城賀茂の御社の七百年ほども前の記録にも、神田を植ゑる役として養女殖女の名が見えて居る。殖女はウヱメ、養女はカヒメと訓んだのであらう。或はもう其頃から、オナリメと謂つて居たかも知れぬ。單に田人たちに食を餉る爲に、若い女性を盛装させたのでなかつたことは、現存の各地のオナリドの歌が之を證據立てる。
 
   十七が綾なる襷を肩にかけ
   肩にかけ、今サンバエの米をとぐ
 
   十七が白木の杓子を手に持ちて
   手に持ちて、先づサンバエの飯を盛る
 
 斯ういふ類の田植唄は、擧げきれないほど澤山に世に傳はつて居る。このサンバエは即ち田の神樣のことで、土地によつては又タァライサマとも謂ひ、或は之を直接にオナリサマとも呼んで居る。十七とあるのが私のいふ養女《かひめ》、即ちオナリドの若い女性なることを意味するのである。それが花田植もいよ/\終りの時刻に、神を祭つて還つて行く情景を詠じた歌は、同時に又田の神の別れを惜む歌でもあつた。信仰と戀の情とは一章の歌の文句のうちに、宛かも紅白の組紐のやうに縒り合はされて居たのである。田植唄の殊に清婉に又優雅なるものは、主として此間に於て見出される。たとへ形式ばかりにもせよ、それが今尚國々の一隅に、現に歌はれつゝ殘つて居るといふことは、乃ち日本の民間文藝の未だ全く衰へ果てゝは居らぬといふ、嬉しい證跡だと言つてよろしい。
 
(198)       五
 
 以上朝夕晝間の定まつた式の歌以外にも、まだ/\色々の面白い田植唄は多い。たとへば早曉と薄暮とに、空を啼いて通る鳥や、路のほとりの白い花や露、もしくは高く見上げた山の姿、ことに地方々々で崇敬せられて居る靈山の巓に、かゝつては又消えて行く清々しい雲の形などを詠じたものは、その言葉こそもう今風に改まつては居るが、私はなほ遠い大昔の信仰生活の、幽かなる名殘かと思つて居る。其中でも、
 
   鶴の子のそだちはどこぞやはた山
   やはた山、藥師の森の若松の枝(山城)
 
   白鷺の舞はしやる年はわせもよい
   中手ももちもおくても穗に下がる(越後)
 
   田ぬしどのゝ前の田に
   咲くは何の花やら
   こゞめ花はぜに花よ
   咲いてとくの花ヤレ(石見)
 
といふ類の歌は、少しづゝ用語と句形とが變つて、數限りもなく全國に分布し、又或る一致を見せて居る。是は事によるとオナリサマよりも一つ前の形、即ち色々の鳥や花などの姿に、田の神信仰の象徴を認めて、是に托して現はしきれない大きな感動を表示して居た風俗の痕跡かとも思はれる。殊に神又は神の御使が、小さな動物の姿を假りて往(199)來するといふ思想は、蝗を詠じた田植唄によく現はれて居る。蝗は日本語ではイナゴ・イナンド又はナーゴ等で、今では害蟲の憎むべきものとなつて居るが、もとの名はたゞ「稻の人」であつた。若苗を守る役目のやうにも思はれた時代があるのである。三河地方の近世の田植唄に、
 
   苗は採らるゝ苗場のいなご
   どこに宿ろやなうとのご
 
といふのがある。是などは明らかに男女の戀情を托したものであるが、同じ系統の章句は遠く弘く全國に分布して居て、その最も古い形には次のやうなものもある。
 
   苗を採りや
   いなごは何處においやる
   しゆみせんの山においやる
   登りて
   榊の枝にとまりた
 
 このオイヤルは追遣ると解して居る人もあらうが、實は「おいでなされる」の敬語であつた。天の須彌山の榊の枝に還つて行くといふのだから、乃ち神の使と認めて居た證據である。さういふ歌なら自分の土地にもあつたといふ人が、方々から必ず出て來ることゝ思ふ。それを一つ綿密に比べて見たいものである。
 
       六
 
 それからもう一つ、古風を幽かに留めてゐるものに子持身持の歌といふのがある。是も東部日本でよく聽く田植唄に、
 
(200)   五月田植に泣く兒がほしや
   あぜに腰かけ乳のまそ
 
といふなどは多くの人が知つて居る。斯うなると明らかに「あてこすり」の歌で、子持女ばかりが乳呑兒を理由に、獨り樂をするのを憎らしがつた歌に相違ないが、元來は乳呑兒をわざと田の畔へつれて來て置くのも、稻が繁殖し又よく稔るやうにといふ一種のまじなひで、單なる農繁託兒所の代りではなかつたらうと思はれるのである。とにかくに全國を通じて、幼兒は皆々田のへりにつれて來るだけでなく、それを田植唄にした例も色々とある。
 
   おかた出て見やれ
   かのこ山のかの/\が
   子ども喚ぶ聲(羽後平鹿郡)
 
 身持女にわざと作物を植ゑさせる風は、日本ばかりで無くて、世界各地の原始民族の間にも見られる。多分呪法だらうといふのが通説である。日本でも諸國の神社の田植式の行列には、一人は腹に物を入れて、姙娠を装ふ者の出ることになつて居る例が多く、又田植唄にも是を詠じたものが多い。
 
   あぜばたの
   つく/\つんぼら孕んだ
   月星をとのごと定めて
   雨露たよりにはアらんだ(播磨北部)
 
此ツンボラは茅花のことである。田植の頃、子供がよく畔に出てそれを採つた。又、
 
   草津の宿で燒餅が孕だ
   小豆が知らいで誰が知ろ(山城宇治)
 
(201)といふやうなおどけ唄もあるが、一方にはもつとまじめに、
 
   おかた身もちげな顔そご/\と
   こいちや欲しそに(豐前)
 
   今三月
   知れたことはなけれど
   ヨー梅のほしさや
 
といふ樣な田植唄も殘つて居る。元は姙娠した女性が早乙女の群に加はることが、呪術的に重要であつた爲だらうと思ふが、後にはたゞの「ひやかし」又は「あてこすり」になつてしまつて、さう謂つて笑はれる一人を、つらがらせるに過ぎなかつたのである。根本に理由が無いならば、さう/\身持子持の歌が多く出來る筈はないと思ふ。
 
       七
 
 その古風な心持が忘れられ又は薄くなつて、代つて起つたものは勞働の苦しいといふだけの唄であつた。
 
   あがれとおしやれ田主どの
   人は一度で懲らさぬものよ
 
 この歌などは可なり早くからあつたと見えて、全國に亙つて弘く行はれて居る。
 
   腰の痛さよせまちの長さ
   四月五月の日の長さ
 
 これも隨分多くの土地で、自分の處だけのものゝやうに思つて人に話して聽かせる。それから又一方には早乙女た(202)ちの激しい勞働競爭が、田植唄の上に現はれて居る。其中でも「棚に上げる」だの「坪に落す」だのと謂つて、働きの鈍い女を跡に殘してぐん/\と植ゑ進み、くるりと後がへりをして一列の中に、一人だけ向きのちがつた者を目立たせて、しかもそれを歌でひやかして樂しむ風なども起つた。
 
   紅いたすきを掛けたはよいが
   棚にあがるのをかしさよ
 
といふ類の歌が幾らもある。來たばかりの花嫁さんなどは、斯うして皆に笑はれるのが死ぬより辛かつたので、えらい努力をして田植の競技をした。それで又ユヒ田モヤヒ田の仕事は捗どつたのである。その光景は多くの近代の田植唄の上に、目に覩るやうに描かれて居る。斯ういふ場合には必ず苗を插す手が早くなるので、その間拍子が歌の上にも現はれて居る。たとへば千葉縣東部の村々には、
 
   置かれたよ置かれた
   中み坪に置かれた
   植ゑ出させ玉へお田の神さま
 
といふ短句連續のもの、或は又、
 
   オヤ、置かれたよ坪に
   中の坪に置かれたよ
   オヤ、坪では無いよ
   田なりでござる
 
などゝいふ田唄もあつた。田なりとは田の形が爰だけ飛出して居ることで、手が遲くて坪に置かれたのでは無いといふ辯解であり、もしくは又外からの皮肉であつた。
(203) 斯ういふ競爭の起らぬ場合でも、老功な音頭取りはいつでも頃合を見て、段々と間拍子の早い田植歌をうたひ出した。午後の五時六時のまだ少し植殘つた田がある時などは、更にやゝ滑稽味を帶びた「せり歌」を、この所謂「せり調子」でうたつて、女たちを笑はせ又元氣づけて居た。熊野の海岸地方で、
 
   前見りや青田や
   後見りやねえさん
   あぜ著きやたばこぢや
 
などゝいふも其一例で、タバコとは休憩のことである。
 岡山市附近の田唄には又斯んなのも報告せられて居る。
 
   かへるよ蛙よ、目の玉突かれなホイ
   蛙よ蛙よ、大田を植ゑるぞホイ
 
 奈良朝期の神遊びの歌の文句にも、
 
   あかゞり踏むなしりなる子
   我も眼はありさきなる子
 
といふのがあるが、元は或は斯ういふ場合の歌だつたかも知れない。とにかくにこの蛙は古風である。前に掲げたイナゴの歌とも、どこか似通うた心持が窺はれる。
 
       八
 
 話はもう是で切上げて、至つて簡單な結論を下して置かう。
 今ある田植唄は、他の多くの民謠も同じやうに、異なる家庭に屬する男女、即ち事によつたら縁組をしてもよい人(204)々の間に、聽いたり聽かせたりする爲に發達した。その上に古風な家々では田の神を祭り、其信仰の支配の下に、純一なる感情を歌によつて發露して居たのである。言葉は理解の爲に世を追うて改定せられ、歌の形も色々の動機によつて變化したけれども、尚そのメロディーには遠い祖先の世の美しいものが、片端はまだ傳はつて居るであらう如く、歌の趣向の中にも歴代の生活經驗、ことに最も探りにくい農民の意圖と感覺とが、織込まれ疊み重ねられて居る。それを此方面から尋ね求めることは、今ならばまだ不可能では無い。たとへあの清い歌聲が永遠に緑の野から消え去つてしまはうとも、この我々の未來に必要なものだけは、何としてなりとも明白にして置きたいものである。私たちが田植唄を研究しようとする目的は、單なる大衆文藝の鑑賞だけではない。
 
(205)     手毬唄の話
 
       一 梅の折枝
一、地方民謠蒐集の興味は、今や一旦の頂上に達したかと思はれる。もし今の儘に集録を續けて行くならば、一つには共通重複の餘りに甚だしいのと、二つには歌の意味内容が餘りに不可解であるとの爲に、必ずうんざりして棄てゝしまふ人が多く、其停頓の間に色々の注意すべき特徴が、再び著しく薄れてしまふだらうと氣づかはれる。
二、其損失を防止しようとするには、右に擧げた二つの點が、實は日本の民謠の他の國のと異なつた、研究の價ある現象であることを説かねばならぬ。歌を運搬する人の往來が、近世に入つてからも至つて繁かつたことゝ、其水陸の路筋と、それから農民の趣味が、必ずしも幼稚でも割據的でもなかつたことが之によつてほゞ分り、又段々にまちがへて不分明になつてしまふ迄に、古いものを保存する必要がどうしてあつたかを想像することも出來るので、それが二つとも、決して何れの民族の歌謠にも、必然的に相伴なうて居る性質では無いのである。
三、手毬唄は他の多くの民謠に比べて、この二つの癖を併せ持つことが著しいやうである。從つて我々は、殊に將來の蒐集を此方面に續けて行く必要を感じ、且つ小學校の子供たちがあまりひどく忘れてしまはぬうちに、その學問上の價値を知つた人々の、之に注意を拂はれんことを希望して、試みに若干の觀察を記述し、後々の參考に供して置く(206)ことにした。
四、手毬唄の蒐集せられたものは多いが、やはり大和田建樹氏の日本歌謠類聚(明治三十一年)が、若干の誤謬不精確は有つても、一ばん弘く且つ元に近い。其次は前田林外氏の日本民謠全集續編(明治四十年)である。此時の採集以後に、變形し又は消滅したものは多いのであるが、他の集には此二書から轉載したものがまじつて居る故に、安心して之を將來の採集と比較して見ることが出來ぬ。故に主としてこの二つの本に出したものを元とし、洩れた分だけを他の集に求めて話をして見る。
五、近頃も市内で耳にしたやうに思ふが、東京と其西の郊外の村とで行はれた手毬唄に、「あれ見さい新河《しんかは》見さい」と云ふ句で始まつたものが三篇、類聚の中には見えて居る。三篇各若干の相違があり、何れも至つて混亂した繼合せであるが、其中程に三句又は四句、我々が名づけて「梅の折枝」と呼ばんとする、至つて美しく且つ意味有りげな古曲の破片が挾まつて居る。深い仔細は無いが分類の便宜上、是を最初の題目に立てゝ、その地方的變化を考へて見よう。
六、この歌の一番初めの形は、多分次のやうであつたものと思ふ。全然此通りのものは最早何れの地方にも無いのであるが、假に斯ういふ風に繼合せて見ると分るのである。或は推測が誤つて居て、後に訂正する必要が生ずるかも知れぬが、今は先づさうきめて置く。
 
   むかふ通るは
   伊勢の道者か
   熊野道者か
   肩に掛けたるかアたびら(帷子)
   肩と裾とは
(207)   梅の折り枝
   中は五條のそオり橋
   そり橋は
   どこで打たれた
   あづま街道で打たれた
   あづま街道の
   茶屋のむすめは
   日本手きゝときイこえた
   ………………
 
 此歌の下半分と至つて近いものが、土佐の或る地方に保存せられ、上半分の方は美作の西部で、近頃まで歌はれて居た通りである。他の府縣にも同じ歌が無いのでは無く、只少しづゝの相異があると云ふだけである。
七、此歌は一見しても分るやうに、假に是がある時代の整つた形であつたとしても、既に一種の編纂ものと謂つてよろしい。即ち一つの事を詳しく語り又は詠嘆するよりも、寧ろ次から次へ聯想に牽かれて、寫し繪を變へて行かうとすることが、俳諧の連歌などゝよく似て居る。從つて章句は是を以て終を告げず、猶進んで次々の新しい興味に、繋ぎ附けられて居たものかも知れぬのである。現に又各地に行はれて居るものには、普通此先に人のよく知る算へ歌が續いて居る。其異同までは論じないつもりだが、一つだけ例を擧げて見ると、
 
   ………………
   日本手きゝと聞えた。
   あまり手きゝで
(208)   御座りやせねども
   一つでは、乳を呑みそめ
   二つでは、乳首放して
   三つでは、水を汲みそめ
   四つでは、よい茶くみそめ
   五つでは、絲を取りそめ
   ………………
 
 斯ういふ風に列ねて行くのである。似た例の諸國に甚だ多いのを見ると、流布の際から附隨して居たものであらうが、此型が必ずしも梅の折枝の章に限られて居ないことゝ、餘りに繋ぎやうがあどけ無くして、歌ひ出しの十數行の尤もらしさとは似合はぬ故に、多分は出現の時代に大分の隔たりがあるものと想像する。
八、第二に起る問題は、果して此唄が最初から、右に擧げたやうに「向ふ通るは」を以て始まつて居たものかどうかであるが、此點は疑ひが無いと謂つてもよろしい。私が比較をして見た東西二十三ヶ國の四十四五篇の中で、六つか七つは眞の斷片であり、他の十幾つかは他の文句に續いて居るが、其文句は地方毎に異なつて居るに反して、他の過半數はすべて此句を以て始まつて居るのが證據である上に、全體に手毬唄には、「むかふ通るは」で始まるものが多く、又さうあるべき理由がある。
九、今でも臺神樂の後の狂言太夫などが、品玉師の伎藝をまぜ返さうとする時に、斯う云ふ文句を用ゐることがある。シテが揚げた毬を受け止めようとすれば、目を毬から放してはならぬのを、脇に居て色々と、遠くの物へ氣を散らせるやうに、珍しいことを謂ふのである。それが同時に又斯う迄しても、落さなかつたと云ふ誇りにもなるのであつて、手毬の遊びが女の童の遊戯となる以前、田樂法師などの賣る技術であつたことゝ、唄が其時代から既に存在して、萬(209)歳の才藏に該當する助手見たやうな「をかし」が、もとは之に參與して居たことゝが、此一點だけからでも想像し得られるのである。
一〇、お夏清十郎のあはれな戀の歌なども、やはり斯ういふ階級の間にうたはれたものが、最も世に行はれたといふことは、此の如き「向ふ通るは」の文句が傳はつて居るので推察し得られる。さうして現に亦清十郎の歌が、今でも無心の子の手毬唄の中に、保存せられて居るのである。それから又同じ事情の下に、
 
   あれ見やれむかふ見やれ
   六枚屏風にすごろく
 
といふ唄なども出來たが、此類も亦幾つかあつて、何れも元は揚げ手毬用の歌ひ物であつた。
一一、近代は手毬と謂へば、突くものときまつたやうになつて、しかも古くからある唄を棄てゝしまふに忍びず、往々其章句を此方へ轉用することもあつたか知らぬが、突く手毬には又之に似つかはしい唄が別にあつた。
 
   とん/\叩くは誰さんぢや
 
といふ系統のものがこれである。歌に合せる面白味は、多分突く手毬の方が多かつたかと思ふ。其わけは彈む毬はこちらの都合次第、早くも遲くもたゝかれるが、上から落ちて來る毬の手に屆く時點は一つしか無く、又二つの毬の空に在る時間を加減することは六つかしいから、唄の間《ま》がせはしなく單調になり易い。是が多分突く毬が流行してから、手毬唄が一層變化し又成長した理由であらうと思ふ。
一二、右の熊野道者の歌は、單に「向ふ通るは」の一句に由つて、揚げ手毬ばかりの頃から、既に存在したことを知り得るのみならず、更に又其章句の何れの國に往つても、散々にこはれて居るといふ事實が、その至つて古いものであることを實證する。誰かゞ作つたにしても、自然に歌ひ始めたにしても、最初から意味の不明であつた筈は無いからである。即ち熊野道者とは何かといふことを、人が知らなくなつた時代よりも、新しい氣遣ひは無いからである。
(210)一三、近世の所謂參宮の衆を、伊勢の道者と呼んで居たのは、多分は江戸期のごく始め迄のことゝ思ふ。如何なる事情からか、久しい間熊野の先達が、この伊勢道者をも管轄指導して居た。熊野比丘尼の伊勢に住む者が伊勢比丘尼であり、有名な伊勢の上人の根源は亦熊野であつた。それが後次第に分れて獨立し、從つて奧深い熊野は衰へたのである。一段と微細な想像を許すならば、向ふ通る道者の、伊勢か熊野かを見分けようとした時代に、此手?唄は發生したと見ることも出來る。其心持が不明となり、熊野道者だけを謂ふやうになつて、越前勝山で「お熊野道心」、肥後の熊本で「お駒のだいしゆ」などゝ、今は訛つてしまつて居るのに、陸中紫波郡で「熊野どん作」、又土佐高岡郡では「熊野道釋」などゝ歌ふのは、やはり「熊野道者か」といふ古くからの口拍子の、忘れきれない名殘であつた。
一四、それから愈梅の折枝の染模樣のことであるが、此樣にはでな帷子は、固より髯武者の山伏などに屬すべきものでなかつた。肩に掛けるといふ故に、或はイタリヤ人の外套などの如くたゝんで引掛けて行く趣にも見えるけれども、是は疑ひも無く女性の旅の姿であつた。艶麗なかつぎを笠の下にはおつて、遠き物詣りに行く人を、やはり道者と呼んで居たことが、曾てはあつたことを意味して居る。手?の囃し詞としては、さうした珍しい又ゆかしい見ものを、目に浮ぶやうに描き出して、技術者の注意を外へはぐらさうとするのが元の目的であつた。それが後には言葉の綾として記憶せられ、手?を弄ぶ度毎に思ひ出すやうになつたものと思ふ。
一五、?の歌の次から次へ、聯想に由つて移つて行く習ひを持つたのにも理由がある。一つには歌が盡きても?が消えず、興味が衰へずに進んで行く場合は、何等の著く所無き別の歌でも、繋いで歌ひ續けようとするのが常の情で、今でも少女たちは斯うして勝手次第に、多くの手毬唄を混合しつゝある。其接合の稍巧みなものが、型と爲つて土地に傳はつたことは、幾らでも例證がある。當初の手毬師の文藝も、同じ道を通つて成育したものかと思はれる。次には手毬は取り數の多きを貴ぶけれども、其結果は單調である。歌の方で追々に局面を改めて行く必要もあつたのである。從つて一つの敍事體の纏まつた歌が、此領分には保存せられぬのも不思議で無い。幾分か形の完備したものは、(211)却つて後代になつて採用せられたものと見てよいのである。
一六、しかも歌であり且つ珍しく面白かるべき必要があつた以上は、いつの時代にも時代の興味の中心に觸れようとしたことゝ思ふ。作者の責任を最も簡易に果す方法は、恐らくは既に流布する物語の新たな詠歎であつて、從つて手毬唄の如き氣まぐれの章句の中にも、往々にして今一つ以前の、話の種を保存して居ることが有り得るのである。例へば吾妻街道の茶屋の前で、反橋と謂ふ者が討たれたといふ話、それが特に此際に結構せられた小説であつたならば、僅か三句や五句の文字を以て、片づけてしまふ筈が無い。我々がまだ發見せず、もしくは、永遠に尋ぬべからざる舊資料の中に在つて、一時は相應に世に知られ、帷子の染模樣の五條の橋から、たやすく其ローマンスを聯想し得たものがあつたのかも知れぬ。折口君は曾て反橋といふ力士か何かゞ、敵役として出て來る近世の仇討譚を、讀んだことを記憶すると言はれた。その元の形と見るべき物語を、もし知つて居られる人があるなら教へを受けたい。
一七、但し此場合にも、自分は尚同じ毬唄の國々の變化を比較することに由つて、幾分の手懸りが得られるやうに考へて居る。例へば近江の八幡などの、
 
   うちの向ひの
   お千代松どんの
   肩に掛けたるかたびら
   肩と裾とは
   梅の折枝
   花の折枝
   こゝは五條の通り橋
   それ/\はやり紋付
(212)   こッけらこに打たれて
   どこで打たれた
   あづま街道の
   お茶屋の娘に打たれた
   茶屋の娘は………
 
と歌つて居る中に、「こッけらこに打たれて」の一句は、此地ばかりの附加へで無い。越前勝山等では、「こッきりこッきり小女房、どこで賣られた」又は「打たれた」云々と謂ひ、信州伊那では「ちよンきりこッきり、こんねむさま、どこで打たれた」と謂ひ、讃岐丸龜では「ちよッきりこの小坊主が、あづま街道の茶屋の娘を」云々と謂ひ、其他加賀金澤・越後刈羽郡・因幡鳥取・美作眞庭郡・土佐の一部や筑前遠賀郡等にも、よく似た文句が插まれてある。又北日本では青森市の手毬歌といふのに、
 
   ほきりこのお婆さま
   どこでうたれた
   濱の街道の
   茶屋の娘子に打たれた
 
の如き例も掲げられてある。此の如く廣い區域に亙つて、均しく入つて居るコキリコであつて見れば、今では文句の正しい續き樣は分らぬが、何か最初から反橋の物語と關係があつたのであらう。コキリコは多分「小切子」の義であつて、以前の世に神踊の人の手に持つた取物の一種であつた。旅の神樂師が之を携へて、毬の伎藝に使用するのは今でもよく見かける。たゞ手毬の小娘たちが之を學ばぬだけである。さう考へて來ると謠曲の「放下僧」が、本來はコキリコのわざをぎから出た舞でありながら、放下に身をやつして仇を討つことを趣向としてゐる點は、右の反橋の物(213)語と偶然の一致で無いやうに見える。事によるとそれは久しい年代の間、毬を弄ぶ職業の者か、流傳して居た歌ひ物の一つであつたかも知れぬのである。
一八、要するに自分の今のところ推測し得ることは、
 (イ) 手毬は最初から少女の遊戯の爲に發明せられたもので無く、以前專門の伎藝であつたのが、次第に彼等に模倣せられたものであること。
 (ロ) 手毬唄も亦其伎藝に添へて引繼がれたもので、本の作者は兒童の群では無かつたこと。
 (ハ) 兒童が主として保存の任務を引受けることになつてから、殊に切捨て繼合せが盛に行はれたけれども、彼等の自由には何の統一も無かつた故に、澤山の類例を比較して、古い形を復原して見ることは、必ずしも不可能で無いこと。
 (ニ) 此類の歌には格別深い用意は無かつた故に、大抵は今一つ前の、親歌ともいふやうなものを想像し得られること。
 (ホ) 揚げ手毬と突き手毬とは、もとは歌が別であり、後者はもめん綿などの彈力ある材料を要する關係から、よほど時おくれて流行したかと思はれること。
等であつて、反對の證據の出て來る迄は、大體此を基礎にして解説の歩を進めて見たいと思つて居る。勿論子供たちが傳來の歌に飽き、新しいものを求めようとしたことが、多くの第二次の歌を流布せしめたであらうけれども、其場合に於てもやはり此遊戯の爲に、特に設けられたものは稀で、主たる變化の原因は、兒童の智能にはまだ相應せぬ複雜なる物語の誤解と、次には彼等の無頓著さであつたらうと思ふ。尚諸君の御注意を受けて、段々に他の多くの?唄の成立を究めて見たいと思つて居るのである。
 
(214)       二 井筒屋お駒
 
一、梅の折枝の染帷子をかついで、熊野詣でをしたといふ古風な毬唄に引續いて、今度は近い頃の伊勢參宮の物語を詠じた、ごく新しい一篇を考へて見よう。是も女の旅姿ではあるが、拔け參りの悲劇の如きは、恐らくは寶永明和以降の世態であつて、事によると當代現實の新聞種であつたものを、多くの淨瑠璃の曲と同じく、歌詞として諸國に取傳へたのかも知れぬ。物語に筋がほゞ通つて、所謂|口説《くどき》の體裁をまだ失つて居らぬのを見ても、其想像の空なもので無いことは證せられるが、しかも手毬唄に轉用せられてから後にも、相應の流布をしたやうである。故に各地の異同を比べて見ることは、此一章に於ては殊に興味がある。例によつて最も意味の判り易い辭句を採つて復原して見ると、次のやうになるかと思ふ。題名も假に附けて置くだけである。
 
   京の室町井筒屋樣よ
   親はじんとの次郎吉樣よ
   一人娘におこまと謂うて
   日頃お伊勢に心をかけて
   ことし十六參らぬ年を
   親の言ふこと耳にもかけず
   親の金子を百兩ぬすみ
   襟や袂に皆くけ込んで
   紺の風呂敷蛇の目の脚絆
(215)   四月八日にちよろりと出たが
   橋のたもとで日は暮れかゝる
   こゝはどこだと旅衆にきけば
   こゝは日の出の大もり小森
   すこしさがればお茶屋がござる
   お茶屋二軒目に宿屋がござる
   宿屋縁側に腰うちかけて
   お茶を上げましよお煙草あがれ
   煙草あがれもかたじけないが
   お茶をあげるもかたじけないが
   こよひ一よさ宿貸しめされ
   おまへ一人か連衆は無いか
   家を出る時三人づれで
   道ではぐれてわしたゞ一人
   一人旅ではとめることならぬ
   月に三度のおふれがまはる
   そこでお駒はほろ/\涙
   さあさおこまさ御泊りなされ
   宿は貸します洗足めされ
(216)   夜の夜中にお風呂を立てゝ
   お駒一人をゆるりと入れて
   奧の座敷へ床取りねかす
   夜の九つ夜半の頃に
   襦袢一つで捻ぢ鉢卷で
   おこま/\と二聲三聲
   宿の亭主かやれ怖ろしや
   金の事なら明日まで御待ち
   明日は京都へ飛脚を遣つて
   馬に十だん車に四だん
   それも知らずに早さし殺し
   縁の下へと隱しておけば
   犬や狐は利口な者よ
   京の室町くはへて通る
   あれは井筒屋お駒ぢや無いか
   そこで一貫貸せ申した
 
二、右の文句の中には、二三不明の箇處もあり、又自分の推測を以て假名を漢字に改めた部分もあるから、次々の蒐集に由り訂正せられねばならぬのは勿論である。現在知られて居る限では、分布の區域がずつと熊野道者の歌よりも狹く、僅かに伊勢から信濃北境へかけての五六箇所に止まる故に、この不完全は致し方が無いのである。しかも此樣(217)に物が新しい御蔭に、歌が最初より手毬の爲に製作せられたものでなかつたことゝ、之を採用するに至つた動機とが、幾分か窺はれるやうな感じがする。
三、後段の尻切れ蜻蛉は、或は忘却であり採集者の不注意であるかも知れぬ。どこぞの田舍では今尚この先を保存して居ないとも限らぬが、考へて見ればこんな形になつたのも、若干の意味はある。しんみりと頤を手に支へて聽いて居ればこそ、所謂感極まるまでの興奮を味はふことも出來るが、毬を突く子は普通此邊に來る前に疲れて居る。細かな手わざの伴奏としては、此クドキは少し長過ぎた。だから中程で何とか省略して、早く一貫貸すやうにしたいと、試みた形跡が各地の唄に見える。それでは何分にも筋が運ばぬ故に、やつと茲に來て後段を棄てたものかも知れぬ。即ち此物語の流布が近世の煩雜な時代に始まつて、まだ之を略畫素描に取扱ふことの出來なかつた中に、既に手毬への轉用が試みられた結果と、認めることも出來るのである。
四、歌を文藝の主體とした時代の、あゝ面白いと感ずる標準は今とちがつて居た。後になつて囘顧すると、興味の中心は筋であり、又通例は有り得ない色々の出來事であつたから、時を隔てゝ之を文字に再現する場合は勿論、幽かな記憶の破片が傳説と爲つて、峠の岩や橋の袂の古木に附著する場合にも、たゞ趣向とか史實とか名づくべきものだけが殘るのだが、當初大なる勢ひを以て流傳した力は、必ずしも此部分には存しなかつた。節と言ふか言葉の綾と言ふか(二つの者は本來一つだが)、僅か一句を耳にしても情を搖かさずには居られぬ言ひ現はしが、食物で言へば鹽の作用をなして物語を保存し、從つて又之を遠くに運搬することを可能ならしめた。淨瑠璃でサハリと云ふ文句などは、今では不自然な技巧に過ぎぬが、人が何遍でも同じ暗誦に耳を傾け、筋としては大切な會話の錯綜を掻き分けて、待つて居ましたと此ばかりを感歎しようとするのは、即ち古い樣式の名殘である。飽きつぽい子供が毎晩のやうに婆をせがんで、同じ桃太郎の話をさせるのも、やはり又「一つ下され御伴しよう」の、あのあどけないサハリに觸れて見たい爲であつた。しかも時代につれて此類の自然の秀句の、變化し無用に歸せぬものは稀であつて、冷淡なる人々に(218)は何の意味かも不明になつて居るが、手毬唄ばかりは終始耳から口への傳承であつた故に、保存せられたと言はうよりも、生命があつた爲に生き殘つたのである。我々の管轄に屬しない別種の感動が、無意識に之を味はつて今に至つたのである。例へば井筒屋のお駒の「蛇の目の脚絆」などは、今ではもう趣味で無いから、老人しか記憶せぬ一句かも知れぬが、或る時代には梅の折枝以上に、やさしい繪姿を小さい胸に描かしめたかと思ふ。馬に十駄と車に四駄の財寶は、此ほどにしても美人の薄命を救ふを得なかつた處に、限りも無い人間の悲しみがあつた。自分が此から集めて比較したいと思ふ多くの手毬唄に、たるみも置かずに此類の章句ばかりを繋ぎ合せ、筋の一向に通らず、次から次へくる/\と移つて、何を言つて居るのか分らぬものがあるのも、斯ういふ見方をすれば寧ろ興味がある。文字に縁の無かつた世々の文藝は滅びて、之を聽いて胸をうち涙を流した人の心持だけが、偶然に相續せられて居たのである。勿論其中には記憶の失敗もあり、又誤謬に基く改造もあるが、それさへも働きつゝ歌ふ人の、心理を調べて見る好參考であり得る。手毬唄には限らず、古來の謠ひ物の多くは、本來皆之に類した原因から變化し發達して來たのかも知れず、歌ひ手の知識の範圍が狹かつただけに、手毬の歌ならば若干の注意に由つて、また其誤謬の道筋を辿つて見ることが出來るからである。
五、旅に御茶屋といふものゝ風情を説くこと、是が一つの時代の目標になる。御茶屋は恐らくは馬次ぎの設備の完成から後の事で、此が諸國の往還に行渡つたのは、熊野參りの最盛時などよりも、又ずつと後のことゝ思はれるのに、前の歌にも此一篇にも、共に七部集の俳諧などゝ同じく、旅といへば御茶屋のことを聯想して居る。但し此などは或は新しい附添であるにしても、旅と毬唄との關係は全體に至つて密接であつて、此樣に靜かな村の奧、親の住む家の中でくりかへされた歌としては、寧ろ不思議に思はれる位であるのは、即ち此物の弘い流布を説明するもので、多分は最初の搬入者が、旅を面白く續けて居た人々であつた結果が、末の末までに現はれて居るのであらう。
 
   鎌くらへまゐる路に
(219)   椿一本そだてゝ
 
といふ古い曲を始として、伊勢への往來を詠じたものが、其中でも殊に多かつた。さうすれば京の井筒屋お駒の拔け參りの如き、それが果して近代の悲劇であつたとしても、伊勢は手毬の子供たちにも、早くから親しみがあつた爲に、殊に愛唱せられることになつたのかと思ふ。それから尚想像を進めて、一人旅の美しい人が、惡黨の難に遭ふといふことも、吉田の花若丸の昔から、阿波の鳴門のお鶴に至るまで、數百年間を通じての物の哀れの一形式であつて、單に時々の新しい染衣を著かへて、出直して來た迄では無いかと考へて見ると、無理も無いことだが昔の凡人の空想は、必ずしも奔放自在のものでは無く、常に暗々裡に一定の格調に支配せられて居て、一たび其要契に觸れ得ることの出來た歌の曲は、いとも容易に大いなる印象を彼等に與へたこと、到底當世の人氣作者などの比で無かつたことが察せられ、又其作者たちの倦まざる努力にも拘らず、未だ曾て燒直しと切繼ぎとの外に出ることを得なかつた事情も、大よそは諒とすることを得るのである。
 
(220)     鹿角郡の童謠
 
 佐々木彦一郎君の故郷、秋田縣東隅の花輪の町などで、大正初年まではたしかに行はれて居た子供の歌詞三種、共に同君が記憶によつて手書したものである。爰では手毬の遊びとは關係無しに、男の兒も聲高く唱へて居たらしいが、關東以西では同じモチーフを、今では主として手毬だけに利用して居る。この共通は注意すべきものだと思ふ。
 
    (其一)
   からすアがアて勘三郎
   とんびア熊どの鐘たゝき
   鐘無いて血迷うて
   から竹三本見つけて
   ざつく/\と割つたれば
   白い木綿が十二ひろ
   赤い木綿が十二ひろ
   太郎坊に著せれば
   次郎坊が怨みる
(221)   次郎坊に著せれば
   太郎坊がうらみる
   むがえの嫁こさ著せで
   花帶させで
   花がさかぶせで
   どこ迄送つた
   仙臺まで送つた
   仙臺のわごは
   何はいで踊つた
   袴はいで踊つた
   袴の色は
   何色に染まつたア
   菊色に染まつたア
   きくアえでかア耻かしい
    (其二)
   むかひ婆さん上がら見れば
   月や牡丹のまはりの花よ
   ましておじよめかア
(222)   うしべり煙草
   かゞのお菊アなじかんいわの
   櫛は無いか油は無いか
   櫛も油も
   手前手箱にごんざるよ
   古座敷に子がござる
   その子は男ならば
   寺へ下してお經讀ませて
   寺のかぐぢの三本柳に
   すゞめア巣くつて
   落ぢて大鷹にさらはれだ
   大鷹の爪は怖ろしや
    (其三)
   友だちど/\(又は次郎太郎とも)
   花こ摘むにんがねアなア
   なんの花こつンむによ
   かんこ花こ摘むによ
   一本とつてア一かつぎ
(223)   二本とつてア一かつぎ
   三本目にア日ア暮れて
   堂の前さ宿とつて
   朝ま起ぎで見だれば
   天の樣なめらしこア
   足駄はいてじやはいで
   こがねの盃手に持つて
   ぢいなに酒三ばい
   うはなに酒三杯
   ぢいな何してめエらねど
   肴がねアくてめエらねエ
   をあどこのさがなかア
   高いどこのたげのこ
   低いどこのひぐのこ
   井戸ばたのかなすゞめア
   ちりんぱりんとちつ飛んだア
   何してちつ飛んだア
   腹へつてちつ飛んだア
   腹へつたら田作れ
(224)   田作ればでろ(泥)がつく
   でろが附いたら川さはエれ
   川さはエれば流れる
   流れたら葦の根さたもづがれ
   たもづがれば手が切れる
   手が切れだら麥の粉つけろ
   麥の粉つければ蠅がつく
   蠅、はい物語り語り侯
 
 この終りの「花折りに」の童謠の最後の一行に、「蠅、はい物語り語り候」とあるのは、今では説明を要する昔の滑稽で、以前ボサマと呼ばれた旨座頭の從者、三河萬歳ならば才藏に該當する小盲が、曲の終のあひの狂言として、
 
   そうれ早物語かたり候
 
と、おどけた文句を早口で一息に語つて居た形式である。さうして「花折りに」の一篇も、多分はもと彼等の結構になつたものかと考へられる。現在は多くの地方に於て、之を手毬唄として用ゐるのは轉用であらう。大和田氏の歌謠類聚下卷には、同系統の歌章を列擧すること實に十八篇、其内に東京のもの二、信州のもの六、伊豫が二、他は土佐・肥後天草・備後・河内・伊賀・越前・上野・津輕等各一篇である。前田氏の蒐集は一つも重複が無くて正續篇を通じて九篇、東京・盛岡・越後・能登・加賀・美濃・駿河と肥前伊萬里のもの、俚謠集拾遺にあるものも出雲松江・北海道日高などのものは又別の採集であつた。自分の附加へ得るものは森君の南紀土俗資料、及び槇本氏の吉備郡民謠集、小谷口碑集の如き書物になつた若干の外に、「郷土研究」中には會津とか大和五條とか讃州高松とかのものが出て居り、且つ筆寫で傳はつて居るものには武田勝藏君の對馬の手毬唄などもある。即ち九州の果から北は北海道の東濱までも(225)分布して居るもので、同種の歌謠の中では最大領主の一である。
 微細な問題とは言ひながら、歌謠分布の道筋を想定するに當つて、是は可なり有益な一つの參考資料である。佐々木君の報告の價値も、之を考へて見ることに由つて一層高められると思ふから、煩を忍んで僅かばかり説いて見たい。先づ第一に自分たちの興味を感ずるのは、中部日本では大體に於て、之を手毬の唄としてのみ傳へて居るのに、外側に出て行くと亦鹿角郡と同じやうに、之を普通の童謠、例へば「烏々勘三郎」の一列に入れて居ることである。是は毬の遊戯の後に始まつて、手毬唄は海綿の如く多くの民間歌詞を吸収して居る故に、特に研究の必要があるといふ、私の意見を支持してくれる。ところがこの二つの用途の中間に、之を子守唄として報告した例が又幾つかある。陸中遠野の松田龜太郎君の集めたものなども其一つだが、是は現代の所謂守子娘の、オボコを背に搖ぶりながら歌ふのと、名は同じでも類は全く別である。彼は背の兒が解すると否とを省みないが、「花折りに」は主たる聽手が抱いた兒であつた。前者は今や成人にならうといふ少女たちの感情教育の實習であり、後者は言語の一年生に向つて、物と音韻とを繋いで考へさせんとする、一種繪入りの教科書の如きものであつた。斯うして教へて置くから獨りで遊ぶやうになれば獨りで歌ひ、又は年上の兒の中に交つて、共に樂しむことを得たので、童謠があつたから模倣をしたのか、子守の親祖母が聽かせたから童謠が出來たのか、此前後は?と卵との關係の如く、古い爲に突留めることがむつかしいが、兎に角に津輕の弘前でも、土佐の高知でも之を子守唄と謂ひ、土佐では子供たちが手を引合うて歌ひあるくとあつて、實際に又章句も其事を語つて居るから、假に親の膝で聽いたにしても、聽く兒の想像は屋外の群と共に跳躍して居たのである。乃ち之を童謠又は童詞と名づけて、手毬は單にその一つの應用と見るのが邁當かと思ふ。
 次には最初の一句であるが、鹿角郡では「次郎・太郎」と既に專門の役者を設けて居るやうだが、是は弘前でも遠野でも、
 
   友だちな友だちな
(226)   花こ折りに行かねか
 
とあるのが古からうと思ふ。釜石でワラーシド/\(子供等よ/\)、又四國の高松で、
 
   三つになる子供衆
   花折りにいかんか
 
と言つて居るなどは、傳承が意味に在つて言葉にはなかつたよい證據である。殊に文句として最も小兒の興味を引いたのは、始めの部分では「一本折つては腰にさし云々」の、目に見えるやうな光景描寫であつた。それ故に早くそこに到着しようとして、始め數句を取去つたものもあれば、又他の歌の尻へ附きも無く續けてしまつたものもある。個々のたゞ一つの例を見ると、果して花折りにの誘引から始まつたか否かも疑はれるか知れぬが、そこは比較の御蔭で、澤山の例の飛び/\のものを集めてさへ見れば、今日陸羽に傳はる形のうぶであることだけは容易に合點せられる。
 第二には「何花採りに」といふ簡潔な反問の答、是は歌ひ手の空想の自由に働き得た部分として興味がある。「子買を子買を」の唄でもわかるやうに、是がもし意外で無く定まつた型があつたら、遊戯の面白さは半分になつたかも知れぬ。そこで土地にある好い名前の、折るといふ樂しみの考へられる植物、さうで無ければ名ばかり聽いて居て、有るなら見たいと思ふやうな花の種類を、器量相應の努力を以て捜したのであつた。鹿角のカンコ花は郭公の啼く頃に咲く花、多分は杜若又は花菖蒲のことであつたらう。美濃の子供等は牡丹芍藥ボケの花折りにと答へ、信州安曇郡でも加賀の能美郡でも、牡丹芍藥菊の花、陸中の海近くではコガネ花、土佐では花は何花つゝじ花と謂つて居た。一本二本の歌ひ樣にも變化はあるが、成るだけ目に見えるやうに歌ふのが上手であつたらう。能美郡誌に載せたものは、
 
   一本採つては腰にさし
   二本とつては笠にさし
   三本とる間に日が暮れた
 
(227)とあるが、此續きなどは殊に美しい。對馬の手毬唄では、
 
   一枝折つてはぱつと散り
   二枝折つてもぱつと散り
   三枝のさきから日が暮れて
 
と謂つて居るが、兎に角こゝで春の日が暮れることは、全國共通の要件であつた。
 それから宿を捜して泊ること、是にも亦色々の空想が働いて居て、どれを最も古い形と決することは到底出來ぬが、其間に於ても著しい一致は、歌が對句を以て進んで行くこと、例へば盆々唄の兩國橋に、「お籠で遣ろか、お馬でやろか、お籠もいやよ、お馬もいやよ」と續けてある通りである。是から想像するのは、元この唄が手毬のやうに、個々の動作の地唄では無くて、手を繋いだ小さな男女が文句につれて右へぞろ/\左へどや/\と動き靡いて居たらうといふことである。それが今一つ以前の神踊、乃至はそれを暗示する對句進行の文藝と、關係があつたとまでは斷定し得ないが、夜の宿は殆と食物又は花以上に、世間を知らぬ子供らの興味であつたことを思へば、泊らうか・いやいやといふ歌の背後には、必ず總群の運動のあつたことが想像せられる。此意味からいふと、鹿角の詞章には破損がある。尤もこゝのみでは無く東北のは多くは斯うであるが、北海道の一例ではお寺に泊らうか醫者の家に泊らうかと言つてゐる。美濃でも信州でも烏の宿にとまらうか、とんびの宿に泊らうかと歌つて居るのが面白いが、紀州の分は高岡好廉君の教示せられた那賀郡西貴志村の例、森彦太郎君蒐集の日高郡中山路の毬唄など、ほゞ一樣に次の如く進んで居る。
 
   をぢの家に泊らうか
   叔母の家にとまらうか
   叔母の家は虱の巣
(228)   叔父の家はのみの巣
   のみの巣に泊つて……
 
 自分などには是から先の變化が、まだ決しかねる問題であつた。幸ひにしてこの鹿角の一例に由つて  稍々心強くなつたが、兎も角第三段の空想は飲食饗應の問題に及んで居たのが、元の形と名づけてもよいものかと考へる。但し其中間に挾まつて、必ず早天に起きて空を見たといふ一節がある。肥後の川上郷の一例などは、多分他の詞章の混入と思ふが、「蒲團は短かし夜は長し」の一妙句があつて次に、
 
   向ふの納戸をあけたれば
   十七八のねえさんが
   びつちやんはつちやん
   機織りやい
 
と謂つて居るが、不思議にもこの若い美しい女性が、多數の「花折りに」の歌に一貫して居る。閉伊郡兩地の例は、「三つになる和子が、寺からおりた」となつて居り、鹿角郡は此通り「天のやうなメラシコ」である。遙か離れた四國の一角や、そことは交通も想像し得ない中部地方の山村などにも、互ひによく似た、特に此部分の發逢したものがある。是も煩はしいが信州松本の一例を擧げて見ると、
 
   あかつき起きて見たれば
   ちいごの樣な上臈衆が
   黄金の盃手に持つて
   黄金の雪駄をはきつめて
   一ぱい參れ百取らう
(229)   二はいまゐれ二百取ろ
   三杯目エには
   肴が無いとてあがらんか
   おウらがあたりの肴は……
 
とあつて、次に食物の名を並べて居る。それとこの鹿角の例とを比べて見れば、元は他人で無いことが認められる。即ち何か今日は不明になつた原因があつて、一般に此樣な聯想を誘うて居たらしいのである。
 東京の周圍につい近頃まで行はれて居た手毬唄などは、もう此邊からさきが落ちてしまつて、其代りに宿屋の詮議に時を費して居た。
 
   おぢゝの宿にとまらうか
   おぢゝの宿には蛇が居る
   おばゝの宿にとまらうか
   おばゝの宿には猫が居る
   蛇ぢや無いもの繩ぢやもの
   猫ぢや無いもの綿ぢやもの
 
 しかも斯う謂つて置いて其跡へ何の附きも無く、
 
   低いところにひき蛙
   高いところに竹の子
   海の中のこそざかな
   まづ/\一貫貸しました
 
(230)と續けて居た例のあるのは、やはり鹿角の場合と同樣に、こゝで「肴が無いとて」のお腹立ちがあり、それから空想の有りたけを盡して、人の笑ふやうな珍しい食物の對句を陳列したものであらう。能美郡の花折りの子守唄にも、子買を問答の如く、
 
   畑作れ田作れ
   手がよごれる候
   川へいつて洗へんせ
   足が流れる候
   すゝきにつかまらんせ
   手が切れる候
   膏藥貼れんせ
   灰がつく候
   片手で拂へんせ
   片手がだるいぞ
   だるい方ぶち切つて
   泥町ぼいやれ/\
 
といふあどけない戯れ詞はあるが、「高い處の竹の子」はそれとは別で、もとは所謂無いもの盡しの、山の峰のこざかな、海の底の竹の子、水で炙つて火でよなげるといふ類の、道化た文句が多かつたものと思ふ。今日は木遣とかサンヨウ節とかの大人の笑ひに移つて居るが、最初は是も小座頭の早物語、「そうれ物語りかたり候」の一部分を、子供たちの棄て難くして保存して居たものであることが、今度の報告から大要明らかになつたのである。
(231) 自分が前々から斷つて置いたやうに、手毬唄は古い歌詞の壞れたものであるが、どこを捜したら正しい元の形が、見つかるといふ見込はもう無いのである。たゞ斯ういふ面白い部分を拾ひ合せて、ほゞ一つの完全に近いものに、復して見ることは必ずしも不可能で無いが、それが物語といふものであらうと思つたら、やはり失望を感じなければならぬ。是は單に物語をよく知つて居た人の、そゞろごとゝ見るべきものであつた。別の言葉でいふならば、手毬唄を盛んに唱へて居た少女たちは、一方に多くの座頭物語、木遣や酒宴歌、さては旅の讀賣の徒のかたり物の、いとも熱心なる聽衆であつた故に、自然にさういふ歌のきれ/”\を、摘みためて我花籠を作つたのであつた。
 
(232)     宮古島のアヤゴ
 
一、宮古と八重山と、相隣する二島群の氣風の相異は、通りすがりの旅人にもよく目につくが、殊に我々の學問の爲に大切なことは、今傳はつて居る島の歴史が、後者は上代に於て甚だしく湮滅して居るに反して、宮古島は多くの精彩ある物語を以て充されて居ることである。是は勿論移住土着の遲速をも意味せず、又文明の先後をも意味しない。一つには境遇、就中政治上の立場もあるが、それよりも大いなる原因は、歌を以て事蹟を語り傳へる慣習の、異常なる發達であつたと思ふ。
二、宮古諸島に於ては、此歌をアヤゴと呼んで居る。アヤゴは多分文藝の文の字を意味し、現に又澤山の短い抒情詩をも其中に算へて居るが、島人は色々の記憶すべき物語を、悉く此形を以て保存したのである。效果と用法の之と同じいものは、沖繩は素より、大和の本島に於ても最早存在せぬ。けだし文書の流傳は乃ち之を必要とせぬに至つたからである。
三、アヤゴの傳承は本朝の?田氏と同じく、神に仕へた優良な女人の掌る所であつたらしいが自分はまだ之を確め得ないのみならず、現在は反對の例さへある。併し少なくとも元は尋常の島民は之に參與せず、ヨカルピト即ち貴族の家に、大切に保管せられて居たことは、ほゞ其證據があり、しかも貴族の妻娘は常に高級の巫女であつたから、其章句に宗教上の重味が添ひ、平日は輕々しく口ずさまれて居なかつたことが察せられる。
四、アヤゴの最初の採録は、自分の承知する限りに於ては、康煕四十四年即ち日本の寶永二年に成ると云ふ宮古島由(233)來記である。此書は幾つかの類本があつて、内容の繁簡も亦一樣で無いが、此に引照する所は由緒ある仲宗根玄純氏の家の本で、即ち宮古島舊史の序に所謂仲導氏の傳書である。八重山其他の島間切の由來記と同じく、是より八年の後に完成した琉球國諸事由來記の資料として、宮古の役人から録進したものゝ、底本なるべきこと疑ひ無きにも拘らず、此に詳かにして彼に刪定せられた點が多く、アヤゴの部分もすべて皆之を平板なる記事文に書改めてある。從つて此本が果して此儘で首里の王府に提出せられたか否かも、實は明白でないのである。
五、仲宗根本の島由來記に、掲載せられて居るアヤゴは、全體で九篇ある。便宜の爲に題目を列記すると、
 (一)兼久按司鬱憤のアヤゴ
 下地村浦島大立城主が幼少にして父の仇を討つた折に作つたと傳ふるもの。
 (二)唐人渡來のアヤゴ
 大浦村多志城主が福州より移住した人であることを述べたもの。
 (三)四島の親橋積みのアヤゴ
 四島の親と呼ばれた狩俣村の百佐盛が、潟路に石橋を架けた事蹟を述べたもの。
 (四)戸佐夫婦のアヤゴ
 とさと云ふ男が海に出て危難に遭ひ、命の救王に其妻を與へんと約した時に、妻が作つたと云ふもの。
 (五)弘治年間仲宗根豐見親島の主と成候に付アヤゴ
 仲宗根家の始祖八重山征討の勲功を述べたもの。
 (六)同人定納相調初て琉球へ差上せ候時のアヤゴ
 (七)同人八重山入の時のアヤゴ
 (八)同人八重山入の時嫡子仲屋金盛豐見親捕へ參り候女のアヤゴ
(234) (九)同人島の主に成り、神水に渚村へ罷通候砌、下地村の内かな濱と申す潟より、平良村の往還仕り、諸人難儀の體見及候に付、神水の後、かな濱橋積爲申由候、其時のアヤゴ
 此だけが早くから公けにせられて居た。
六、此目次を一見しても察せられる如く、是が二百餘年前の寶永二年に、現在したアヤゴの全部ではなかつた。然らば如何なる標準に基いて選擇をしたかと謂ふと、五篇は島の舊家の祖の勲功を傳ふるものであり、他の四篇は更に其以前の史實らしいが、何れも比較的小さい世俗の事件のみであつた。其以外のものゝ公表を欲しなかつた理由は簡單である。即ち多くは神聖なる御嶽の神の縁起であり、然らざれば既に家の祖神として祭つて居る代々の英傑の事蹟なるが故に、多分は式典の際にのみ之を唱へるので、之を常の日の語り草と混同することを憚つたものと思ふ。其以外には之を秘密にする必要は少しもなかつた。從つて島人は既に之を聞知つて居たのである。
七、仲宗根氏では、右の由來記が出來てから四十三年後の寛延元年頃に、當時島役人に任じて友利首里大屋子と呼ばれた此家の主人が、文才があつて此島の多くの物語を實録風に記述して置いた。外題を宮古島紀事仕次と謂ひ、後に宮古島舊史と改めて縣令の西村捨三氏が、明治十七年に之を出版させたものが是である。由來記と比べて見て我々の殊に面白く思ふことは、極めて一小部分を除くの外、互ひに重複した話の無いことで、しかも其話の殆と全數が、何れも筆者の家の祖先と若干の關係あるものばかりであるのを考へると、一旦官命を奉じて録進した由來記の記事以外に、なほ家々の舊傳の如何に豐富なものであつたかゞ分るのである。而うしてそれが悉く、アヤゴの力であつたやうに思はれる。
八、紀事仕次の録する所に依れば、島に於ける著者の家の顯榮は、すべて其起原を仲宗根豐見親の智謀武略に發し、彼が一代の成功は寧ろ異數を以て目すべきものであつたが、しかも尚爭ふべからざる血の傳統はあつた。前代に名を轟かした半神的英雄の目墨盛(メスミモリ)は彼に取つては四代の祖であり、勇武絶倫の飛鳥爺(トビトリヤ)眞コ金(235)は、また目墨盛の母方の從兄であり、此二人の外祖父に當る者が、即ち海南小記に於て私の説いた西銘の主嘉播(カマ)の親であつた。此以外にも宗教的人物としては、目墨盛の孫にして仲宗根豐見親の養祖父たる根間の伊加利があつた。龍宮界に赴いて鼓練《つゞみねり》の神踊を學んで來たと傳へられる。此等の著名なる事蹟は假に首里の王府に向つて、公に申立てる迄は無くとも、尤も家の光輝として永遠に誇り傳ふべきものであつたが故に、數百年の歳月を重ねて、尚鮮明に之を記憶して居たので、しかも筆册の此等の島人等に利用せられたのは、決して古い代からの事でなかつたのである。
九、後世の誇張と文飾が、加へられたかと思ふ節は至つて少ない。もし或る造意の下に變更を試みるとしたならば、斯うは語りかへなかつたらうと思ふ點が幾らも保存せられて居る。聲望隆々たりし仲宗根氏の歴史にも、滿つれば缺くる一面の哀話があつた。豐見親の死後長子中屋金盛なる者、武に奢つて功臣金志川を誄伐し、其罪に伏して自殺をした。一人ある娘を眞保那離(マボナリ)と謂ひ、妙齡の姿色雙ぶ者も無かつたが、籍没せられて宮婢(オヤケコ)と爲り、首里の宮廷に奉仕した。後に許されて故郷の島に歸らんとして、海荒れて多良間の孤島に漂着したのを、仲井のワカンなる者、來つて之を辱めたと傳へられる。又鹽川村のヤラブ立世の主と云ふ者は、之を哀れんで新しき衣を以て其屍を覆ひ、禮を厚くして二つ瀬と云ふ地に葬つた。後に靈驗あつて其墓所は之を御嶽として崇祀したが、ヤラブの家は其コに因つて永く榮え、ワカンの家には代々狂人が出て、雨中暗夜の分ちも無く、我と祖先の惡業を唱へて、路の辻々をさまよひあるいたと云ふことである。
一〇、紀事仕次の中には、右の如き物語までも録して居る。しかもそれが最初からの家傳では無くて、後年の採録であつたことは、單に此話の性質を考へて見ても分る上に、會て多良間へ漂着して此アヤゴの悲しい曲を聽き、こんな歌を詠んだ日本人があると云ふことも書添へてあるのである。
 
   いにしへの中屋まぼなりあやぐとや
(236)   聽くに涙のおつるふし/”\
 
 歌の體によつて判斷すれば、それ迄は恐らく事實であらう。さうしてその哀れなアヤゴなるものは何かと云ふと、同じ話を記載した由來記の文に依れば、即ちかの惡人の子孫と稱せられた者が、狂亂して唱へあるいた所謂先祖の惡業のことであつたのである。さうすると再び前に戻つて、古來のアヤゴの史實として受入れられた原因に、往々にして宗教上の影響があつたことが察せられ、島の昔の住民の文藝の觀念が、頗る我々の今抱いて居るものと、異なつて居たことを認めしめるのである。別の語で説くならば、島人はアヤゴである故に殊に感動し、且つ殊に之を信じようとした爲に、一方には又家の譽れや人の行ひの永く傳ふるに足るものは、單なる記憶方法以上に、之を律語の形にして置くの必要を感じたのである。但し今一歩を進めて研究をせねばならぬ問題は、アヤゴを發生せしめた異常心理が、どの程度にまで擴がつて居たものかである。即ち世に詩人とも云ふ狂亂者の、個人獨特の氣持だけで十分であつたのか。はた又最初の聽衆の主要な部分だけは、之に雷同し支持する必要があつたのかは、他の遠くの島々の實例と、丁寧に比較をした後に決しなければならぬ。
一一、由來記などには神アヤゴと云ふ語が用ゐられて居る。即ち祝女が村々の靈地もしくは宗家の祖神を祭る折に、祭に仕へる人々の敬意を統一すべく、唱へ出すを例とした古くからの神傳と、時に臨んでの新しい感動を敍べ傳へて居たものとを、分類して見ようとしたらしいのである。もし此が完全に差別し得られたならば、勿論文學の獨立であるけれども、そんな時代が早くから此島に到來して居たとは考へられない。第一には之に與かる人が、雙方久しく一緒であつたらうと思ふ。第二にはアヤゴで現はさうとする心持が、さう容易に永い傳統から解放せられるわけが無い。其爲に異變は神意と解せられ、英傑は神人を以て目せられ、榮える家族の歴史は天祐を以て充される。其上に詩人の語には餘韻が多く又咏歎が多いから、敍事詩とは言つても事實の全部を敍述するのではない。現存の章句からも明白に認められる如く、外部の人が只聽くならば、それとは解し得られぬ程の簡單な言語に、形無き共同の註脚を添へて(237)理解することは、恰かも「春秋」に傳のあるやうなものであつた。其註が時代につれて少しづゝ移つて行き、曲解又は誤解の餘地が追々と出來て來た。しかも終局の裁定權能は最も神に近い家に在つたが故に、歴史は終に政治の力に由つて、纏められる結果を見たのである。
一二、そこで我々の大きな興味は、アヤゴの採訪と云ふことに集注する。仲導氏の紀事仕次、及び之と比照して殊に價値の多い他の家の言傳へ、他の村他の島の神々の由緒を、概略編纂してある原本の由來記が、資料として援用した二百餘年前のアヤゴは、果して今も大切に且つ秘密に、口傳せられて居るものかどうか、何とかしてそれを確かめて見たいのである。宮古島の神道が最近甚だしく衰頽して居ることは事實である。部落によつては御嶽と以前からのツカサとが、既に絶縁してしまつたものもある。しかもそれが多くは行政の變化であつて、女性の信心は決して退轉したのでは無いから、神聖なる神アヤゴの幾つかは、まだ少なくとも人一代だけは、記憶に殘つて居ることゝ思ふ。史料としても特段の價値あるものを、むざ/\と消滅させてしまはぬやうに、學問を愛する此島の青年たちに向つて、希望せざるを得ぬのである。自分の推測では、島の神話の一つ/\は、各一篇のアヤゴであつて、それが今幸ひに殘つて居ても、語音には古代の解し難いものが多く用ゐられて居ることであらう。是を舊記類の今風の散文と比較して見ることが出來たなら、單に言語の研究から有益であるのみで無い。一方には又二百數十年來の島の人々が、どの程度に迄古意を咀嚼して居たかの、珍しい實驗さへも可能になるのである。
一三、併し仲宗根氏其他の舊い家のウヤンマたちが、今なほ舊傳に忠であり、且つ之を率直に我々に語り得るか否かは心元無いことである。もう大分久しい間、年々の神祭に用ゐられなかつた神アヤゴは多い。由來記作成の時代に既に「由來傳へ申さず候」と記した御嶽が少なくない。たゞ幸ひなことには此以外に、一般の興味の爲に弘く歌ひ傳へられたアヤゴの中に、古い代から傳はつたものが幾つかあるらしい。例へば三十何年前に田島利三郎氏の集録せられた二十餘篇の中にも、前に擧げた多良間の島の、仲屋まぼなりのアヤゴがある。狩俣の干潟に橋を積んだといふ四島(238)の主を、咏じたかと思ふ別の一篇がある。それから又ずつと後代に出來たものでも、敍事詩の元の形式を保存して居るものが少なくない。つまりは今日に至るまで、アヤゴは此島々の社會生活に於て、まだ敷百年來の用法を失つて居なかつたのである。
一四、大正十一年の夏、ニコライ・ネフスキー君が宮古から還つて、我々に示された十數篇のアヤゴは、何れも直接に歌ひ手の口から、採集せられたもののみであつたが、面白いと思つたのは其中の四島の主、禰間の主のアヤゴ、狩俣のいさめが、豆が花等の諸篇で、共に既に田島氏の蒐集中にも在るが、しかも其章句には著しい變化がある。即ち傳承者によつてまだ色々に歌ひかへられて居ることが分り、決して舊物の保存だけの爲に、記憶して居たので無いことを證明する。故にたとへば神社の祭式が改まつても、多くの優良な青年は外に出て働くやうになつても、アヤゴの生命はなほ暫くは續くであらうと思はれた。
一五、最近には又沖繩の裁判所で、次の樣な有力な實例も現はれた。宮古の屬島の伊良部島の或る部落で、青年團が一つのアヤゴを作つて、ある不品行な婦人に制裁を加へようとして、それが刑事事件になつた。其アヤゴの出來たのは大正十四年の一月で、自分の知る限りに於て、最も新しいものである故に、島の人が如何に之を活用して居るかを知る爲に、記録として後の研究者に遺して置かうと思ふ。譯文は之を報じてくれた人の手に成つたもので、十分精確であるか否かを決することはむつかしい。
 
        ○
 
  ヤサトヤノンマタ          近所の皆樣たち
  トナイヤノンマタ          隣の皆樣たち
  チムヤ  タメチ  カマチ     心を靜めて聞いて下さい
(239)  ンニヤ  タメチ  カマチ   胸を靜めて聞いて下さい
  サラハマノ  カタンド       佐良濱の方に
  ナカグミノ  カタンド       中組の方に
  ナラ  イザノ  アイソヤ     その父の方は
  ヤマ  イザノ  アイソヤ     屋眞(人名)の方は
  ナラ  ンマト  タキナリ     其母と一緒になり
  カーミ  ンマト  タキナリ    カーミ(人名)と一緒になり
  チム  ウチヤイ  ウチヤイド   心が合うて
  ンニ  ウチヤイ  ウチヤイド   胸が合うて
  ハランマキ  ヤラシバ       姙娠しつわりをしたので
  ソイノムノ  ヤラシバ       つわりをしたので
  ナラ  イザノ  アイソヤ     其夫が云うた事に
  ノー フシヤガ  サマイバ     何が食ひたいかと聞くと
  ナラ  ンマノ  アイソヤ     其妻が云ふには
  インノ  ムノドバヤ  フシヤル  海の物が食べたい
  イカヲ ドバヤ  フシヤル     烏賊が食べたい
  ウリヲ  チヤーン  ヒータラ   それを食べさせると
  ハランマキ  ヨクナリ       つわりはよくなつた
  九ノツキモテバド          九ヶ月に爲つたので
(240)  ミドンコワ  ウンマリヲリバ   女の子が生まれたので
  ヤサトヤノンマタ          隣近所の皆様は
  ノーコワガ  サマイバ       何の子かと聞くと
  ナン  ンマノ  アイソヤ     其母が云ふには
  ミドンコワヌ  ウンマリテン    女の兒が生まれました
  ヤラビナーユ  ユラビハ      童名を聞いたら
  ヤラビナーヤ  ヤマーテード    童名はヤマと謂ふ
  ムリアネユ  タノミバ       守り姉を頼んだら
  ムリゾーズアニ  ヤリバ      守り上手の姉で
  ムイノーシユド  ウワーテ     守り上げて成人した
 
  ナラ  タキノ  ウイタラ     それが大人に爲つたので
  ヤマ  タキノ  ウイタラ     ヤマが大人に爲つたので
  サラハマンミノ  デンガニ     佐良嶺のデン金(人名)は
  アテ  アパラギ ニサイヤリバ   餘り美しい青年なれば
  ナラ  ヤマガ  アイソヤ     ヤマが云ふことには
  バントヤ  ヲリテン デンガニ   私と夫婦になつてくれぬか、デンガニ
  デンガニガ  アイソヤ       デンガニが云ふには
  ウバ  タンデヤイテカー      あなたが其様に願ふなら
(241)  バンマイ ヲラデ ヤマ      私も夫婦になるのは賛成だ
  アライデザキ  ヨムイニイキバ   結納の酒をもつていつたら
  ナランマノアイソヤ         其母のいふことに
  ウバト タケヤ  アラン      貴様とは似合で無い
  ヤマガ  アイソヤ         ヤマが言ふには
  アンヤ イテガ バガンマ      さうであるが我母
  マースヤ  フアイマイ       鹽を食べても
  デンガニトド バヤ  ヲラデ    デンガニと一緒に私はなりたい
  ナラ  ンマノ  アイソヤ     其母の言うたことに
  アンヤ  イテガ  バガコワ    さうであるなら我子よ
  ノミヤ  ミーデ  デンガニ    結納の酒を飲まうよデンガニ
 
  ノミカラノ  ミツツ        結婚して三月の後
  ヒータイキンサノ  ミャーイバ   兵隊檢査が来たので
  ゾーカラダ  ウマリ  ヤリバ   立派な體である故に
  ヒータイド  トライヨウイ     兵隊に取られました
  イデヒカズノメーイバ        出發の日が來たので
  ピサランニヤ ナリヤトイ      平良の町に行つて居て
  デンガニガ  アイソヤ       デンガニが言ふには
(242)  ヤン  ナリバ  バガヤマ    家に歸つたら我ヤマよ
  ガンゾーシィ  マテヤラリ     すこやかに待つて居たまへ
  ナラ  ヤマガ  アイソヤ     ヤマが言うた事に
  ヤマトンニャ  デンガニ      内地に行つたらデンガニよ
  ガンヂュヤシチ  チトメヤメヤマテ 達者に務めに出て爲され
  フナウサギ  アソンニヤ      船送りしたときは
  ミナダマイ  ウサギ        涙までこぼして送り
  ヤーンニャ  ムドリバ       家に戻つて來れば
  ナラ  ヤマガ  アイソヤ     ヤマが言ふことには
  ヒータイウチノ  ナカンマイ    多くの兵隊の中でも
  アパラギニサイ  バガラト     美しかつたよ我夫は
  アンチャーイヂノ  ナヌカンド   さう言うて七日も立つうちに
  デンガニヌ  ヨセグイヤ      デンガニの言うたことは
  ムノソイド  バシリド       食事と共に食べて忘れて
  ナラ  フンダイヤ  アシビヤトイ 自分勝手に遊んで居た
 
  アンシー  フートイ        さうして居るうちに
  サーダント  アソーノ  イデリバ 佐和田に運動會があって
  アソー  ミーデテ イデリバ    運動會を見に行くと
(243)  フクバルガ  キナイニ      譜久原が家に
  ヤマガ  チンヌ  アイヲイバ   ヤマが着物があるので
  ナラドシヌ  アイソヤ       其友達の言ふには
  ヤマ  チンヌ  アリヲトイ    ヤマが着物があつたと
  シキンガ  ミナシバ        世間に言ひ廣めたので
  ナラ  ヤマー  チキー      ヤマはそれを聞いて
  ウトジヤー  ヨシヲトイ      親類を寄せ集め
  ミツキタイ  ヒトヲバ       見付けた人をば
  トウフカス  アタマ        豆腐滓あたま
  マミノカステド  ウドシバ     豆の滓と脅しました
  ンメカイノ  イツカ        叱られてから五日
  ウドサイノ  ムイカ        脅されてから六日
  フクバルガ  イデヲイバ      譜久原が来たので
  ナラ  ヤマガ  アイソヤ     ヤマが言うたことに
  ウバ  サニ  ヨーキヤヒール   貴方の種を植ゑて下さい
  フクバルガ  アイソヤ       譜久原の言ふには
  ウバ  タンデ  ヤイテカ     貴方が其様に願ふなら
  ウキヤヒーテ  前川        植ゑて上げよう前川よ
  チム  ウチヤイ ウチヤイバ    心が合うたので
(244)  ムニ  ウチヤイ ウチヤイバ   意思が合うたので
  ウイ  スマイ  バナン       同衾して居る時に
  アカサイヤ  ヲイバド       見付けられたので
  ウカサイヤ  ヲリバド       捕まへられたので
  ビキラタガ  アイソヤ       青年等が言ふのに
  カナシヤタガ  アイソヤ      皆が言ふには
  アヤグソテ  チャツチバ      歌を掛けてやると言ふので
  イチユニスデ  チャツチバ     笑つてやると言ふので
  デンガニノ  カタイノ       デンガニの兄弟が
  インヤシード  ヲイヤモノ     淫賣をして居るのだもの
  バガ  ウトジヤノ チンヌバ    我親類の着物を
  トイヤ  ハラデ  ヤマ      取つて行かうよヤマ
  ナラ  ヤマガ  アイソヤ     ヤマが言ふには
  ナマカラ  イラマン        今日からは
  フクバルトド  バヤ  ヲラデ   譜久原と夫婦になる
  アンニャテカー  ムテハラデ    さうであるなら持つて行かう
  ウリヤテカー  トイハラデ     さうならば取つて行かう
  ウノ  ムノイ  チキード     さう言ふ話を聞いて
  ビキラター  ヤラマン       青年たちでも
(245)  アヤグヤ  シーヤヲイ       歌を作つて居ます
  イツニヤ  シーヤヲイ       物笑をして居ます
  キユガ  ユーンニヤ  ウサギ   今晩はそれだけ
  アチャガ  ユーン カイドアツザテ 明晩又申しませう
 
一六、此アヤゴの中には、幾つかの常用の對句などがあつて、斯う云ふ新作の、今までも折々企てられて居たことが察せられる。多分は一旦紙の上に稿を起すといふことも無く、誰かゞ歌ひ始めると、自然に進んで行つてそれがきまつたのであらう。沖繩縣の諸島では、内法と稱して近隣の制裁がまだ大きな力である。近頃は大抵過料なぞを徴するのが常であるが、遠い離れ島の部落では、今尚千葉笑ひのやうな懲罰法が、隨時に執行せられて居て、それが最も大切なる神祭の舊傳を語る様式と、明白な脈路を保つて居るのである。而うして作者何人ぞやの問題に至つては、なほ我々に深い考察を要求する。前の由來記の中にある兼久按司の鬱憤のアヤゴ、又は戸佐の女房のアヤゴを始め、今殘つて居る多くの歌にも、其物語の主人公が一人で自ら作つたと傳へられる者が幾つかあるが、恐らくはそれが後世の聽衆にさうとしか解せられぬやうな文句に、作られて居た結果であつて、新時代の詩人とは反對に、昔のアヤゴの作者たちは、常にそれ位に無我な人間であつたのであらう。
一七、なほ此問題が引續いて、多くの研究者に因つて討議せらるべきを豫期しつゝ、先づ自分の僅かな知識を發表して置く。
 
(248)     民謠の今と昔
 
(249)     民謠の今と昔
 
       序説
 
 我々採集者は先づ最初に考へさせられる。一體民謠といふ名前と物とは、果して我々が雀をスヾメと呼び、松をマツノキと謂ひ馴れて居るほどに、ぴつたりと結び附いて離れないものかどうか。村には今でも澤山の歌を知り、折さへあれば歌はうとして居る人があるものだが、彼等は必ず我々の手帳を取出すのを見て、ミンヨウとは何だと眼を圓くするに相異無い。いつも君たちが住い聲で、歌つて居るのはあれは何だと尋ねたら、あれはウタだと答へるであらうと思ふ。併し歌にも色々の種類があり、普通は天智天皇秋の田のなどが、日本でウタと謂ふものであることを知る故に、若し強ひて問ふならば草刈唄、茶摘唄等の名を以て答へ、結局は民謠といふやうな面倒な語の、まだ入用で無かつたことを示すであらう。しかも多くの鑑賞家の前には、村人の中でも既に民謠といふ意味を解した人のみが、之を持運んで來るのである。この二通りの心持の間には、勿論少しの喰ひ違ひも無いといふことは望まれぬが、少なくとも名前の相異の爲に、我々の求め尋ぬべき本物を見失はぬことだけは、用心してかゝらねばならぬ。
 歌ふ人の多くは今でもまだ、歌ふからウタだと思つて居るらしい。實際のところ今日の歌はぬ歌は、其全部が曾て此中から分れて出たのである。文字が普通人の使用に供せられなかつたのは、さう古い昔のことで無いが、その時代(250)には聲より他の方法を以て、或る日の感動を保存することは出來なかつたので、此人たちに取つてはウタは我々の文學よりも、更に何倍か大切なものであつた。その大切なものが今や世の中の變遷には手向かふこと能はずして、毎年三つ二つと速い足取りで、消えて隱れて歌はれなくならうとして居る。我々の學問の遲く生まれて急に成長したのも、有りやうはこの過去を悼む人間の情が、常に泉の如く流れて其根を養つて居たからである。
 有名なる古今和歌集の序文には、花に啼く鶯、水に住むかはづの聲を以て、歌はんと欲する人の心の自然さを形容して居る。和歌は後世筆と懷紙との事業になつて、心持が大いに違つたけれども、是も亦本來は歌ふから歌であつた。いつ迄も姿形の昔通りといふものが、一つも無いことは歌と雖も同じである。例へば農民は閑もあり根氣もあり、保守を生活の貴い特色として居た。人の何か歌はうといふ念處は、歌よりも文句よりも更に以前からあつたことも確かだが、そんなら古代のものが幾らでも、傳はり貯へられて居るかといふと、今ある忘れ殘りは形から見ても言葉から考へても、百年もたつたらうと思ふのは算へる程も無いのである。記憶の永續に大毒なものは兵亂であるが、疫病凶作などで離散した場合にも、歌の數は忽ちにして十の九を減じて居る。そればかりならよいけれども、酒宴や踊の際には兎角新しいものが賞翫せられ易く、歌は昔話の樣に時を隔てゝ、戻つて來ることが稀であつて、暫く中絶すると直ぐに古臭いと謂つて斥けられる。つまりは澤山の人數が一つ心持で、守り育てゝ居るといふことが、近世次第に面倒になつて來たのである。
 ウタには古くから季節があり又地方があつた。僅かな丘陵を隔てゝ北と南と同じ草刈る野の聲が、急に淋しく又は賑やかになることは、旅をして居ても折々心づくことであつた。歌の名人が輩出したとか、暮し方がちがふとかいふ類の理由以上に、何か今一段と深い原因があつたらしいが、それはまだ考へて見た人が無い。新しい時代に入つてからは、何れの國でも歌ふ場合をへらす一方で、今ではもう黙つて働いて居るのが、町も村も普通の樣になつてしまつた。歌の採集し難いのは是非も無いが、以前世間から最も盛んな土地と目ざゝれた方面でも、實際に用ゐられて居た(251)歌の數は、思ひの外少ないものであつた。飯よりすきだなどゝ謂つたところが、朝から日の暮まで歌ひ續ける日は、一年の中でも三日か四日で、其他は時々の仕事の合の手に過ぎぬから、さう澤山の歌を持つて居る必要はなかつたのである。從つて新しい一章がどこからか入つて來れば、それに押されて古い一章が立退いた。殊に所謂流行唄の、海邊河筋を征略して行く勢ひには、又全然別樣の魅力があつた。流行唄も大部分はもと何れかの地方の民謠には相違ないが、それが遠くから不意に氣の利いた人によつて持込まれると、忽ち其價を高めて之を在來のものに代へ、往々にして其用途が歌と適應するか否かをさへ問はなかつた。水陸交通の便が加はつて、其傾向の愈著しくなつたことは詳しく説く迄も無い。それが新たに地方のウタといふものを混亂せしめ、その最初の目的と用法とを忘れさせ、終には又人を歌はぬ生類と變化せしめんとして居るのである。所謂民謠の研究が單なる鑑賞以上に、進んで其盛衰の跡を考へねばならぬ所以である。
 民謠などゝいふ堅い言葉は、使はずにすむものなら使ひたくは無いのである。奈何せん現在地方の歌ひものゝ中には、土に根をさして成長しなかつたものが、雜然として來り加はつて居る。それを選分けて祖先の心情を尋ねて見ようとする場合に、古くからあるもの、住民が自ら作つたものに、何か限られたる名前が無くてはならぬ。そこで外國の學者の之に充てゝゐる語を、假に民謠と譯して見た迄である。或は同じ文字を以て自作の詩に名づける人もあるやうだが、それは我々のどうしようも無いことである。若し此の全然別箇のものを、誰かが混同するやうな懸念があるなら、こちらは民歌とでも改めた方がよいかも知らぬ。兎に角に爰で我々の考へて居る民謠は、平民の自ら作り、自ら歌つて居る歌である。歌つたらよからうといふ歌でもなければ、歌はせたいものだといふ歌でも無い。後者を民謠といふ語に近い名を以て呼んで居る國は、日本の他には無いのである。
 
(252)       民謠發生の條件
 
 記録に殘つた前代の民謠には、單に今あるものゝ成長の路筋を示すといふのみで、土地の人たちとの因縁は既に絶えたものが多い。誰も歌はぬから民謠で無いといふ點は、山家鳥蟲歌も中古雜唱集も今日の民謠詩人の作も同じことである。併し古い歌は急速に消えて行くけれども、其流れを傳はつて現在の世の中まで、幽かながらも續いて來た一つの力、一つの機能といふやうなものは、尚之を認め得るのである。明治以後になつて新たに發生した民謠は、鑛山の穴の底或は大洋を走る船の上などにもあつたが、日常我々の耳に觸れる平地の歌としては、織屋紡績などの工場から出て來る聲、それよりも更に夥しい數は、村の小さな子守娘らの口すさびであつた。年頃といふよりも少し前の少女を雇ひ入れて、其背に子供をくゝり附けて外へ出す習慣は、決してさう古くからのもので無いらしいのだが、彼等は忽ち群を爲し群の空氣を作り、一朝にして百二百の守唄を作つてしまつた。何人も未だ子守唄の作者を以て任ずる者は無く、流行唄があつても其選擇應用はすべて彼等の自主であつたが、しかも號令無く又強制もなくしても、歌は悉く既に彼等の共有になつて居るのである。或は少年の多くの遊戯と同じく、之を無意識の模倣とも謂ひ得るが、大人の間には此風は  稍々久しく絶えて居たのである。人の性情の自然に此の如くなるべきものがあつたと解して、始めて民謠の根據を推察することが出來るのである。
 子守唄の他の優美なる文學作品と比べて、誰にも目につく色々の特色は、兼て亦古來の民謠の必ず具へて居た性質であつた。例を擧げないと滿足には説明し得ないが、少しでも郷里の歌を記憶する人ならば多分之を承認するだらう。第一には歌の言葉が其土地の俗語のまゝであること、他處の言葉はすべて方言に譯して歌つて居る。第二には眼前の情景以外のものを題材とせぬこと、即ち我と我身を憐れんで子守の勞苦を歎ずるか、さうで無ければ朋輩や家刀自の(253)批評、又は背の兒の問題であつて、兒が眠れば樂をする故に、頻りにねん/\ころゝを呪文のやうに唱へる。たまたま外の題目と言へば、周圍の天然か又は路上往來の人の上である。第三には歌に爭氣ともいふべきものがあること、「當てる」と稱して只の會話では謂ひ得ないことを、歌の文句で遠慮も無く謂つてのける。それが必ずしも惡意を含んだ口いさかひの場合で無くとも、  屡々氣の利いた言葉で相手に歌ひ勝たうと力め、一方は又負けまいと張り合ふところに、競技者のみの味ひ得る愉快な興奮があり、更に轉じて次の幸福なる感情を誘致し得た點は、古來の戀歌の贈答なども同じであつた。秀句頓作の最も重んぜられるといふ第四の特色は、謂はゞこの小さいトウナメントの必然の結果なりしのみならず、尚七七七五といふやうな有りふれた形式を後生大事に守つて、咄嗟の間に心持を其型へつめ込む爲に、語句の選擇は必ずしも常に注意深いといふわけには行かなかつた。從つて第五には駄作濫作が甚だ多く、澤山の其場限りの出鱈目の中から、幾分優良なる若干のみが、記憶せられて我々の處まで傳はつて來るのである。
 右の少なくとも五つの特色は、獨り近世に始まつた子守唄乃至は工女唄に限らず、凡そ記録に保存せられた古民謠の全部に一貫して、明瞭に之を認めることが出來ると同時に、現代文人諸君が筆を捻つて、世に公にする所の民謠なるものには、滅多に其一つをも見出すことを得ないものである。二種の民謠を共同の名を以て呼ばんとするのは、恰もかの滿洲の平野に於て、驢馬と黄牛とをして一つ車を曳かしめて居るやうなものだが、さりとて是に因つて驢馬を牛と間違へられるといふ懸念をする必要はあるまい。二者は初から種も生まれも別々であるからである。
 しかも我々の謂ふ所の民謠が、現在まだぽつ/\と工場や道の辻から、發生しつゝあることを知つた人たちには、新舊を以て之を區別するの望み無きことを感じて、或は作者の有名と無名と、若しくは存在と否とを標準にして、民謠二種の分界を立てようとする者が無いとも限らぬ。それが果して許さるべきものか否か、之を決する爲には次には作者といふ問題を考へて見ねばならぬ。けだし誠にしがない子守唄の類でも、其當座に手を盡して見たならば、作者と名づくべき者は必ず有る筈である。誰も知らぬ間に歌が出來て居たといふことは、有り得ない話であるからである。(254)それが次の日から、もう讀人不知となつてしまふのは、つまりは作者に作者意識が無く、聽衆にも之を問題とする必要が、聊かも存在しなかつた故である。天に口無し人をして言はしむなどゝ、昔の人はうまいことを謂つて居る。我々の民謠を發生せしめたのは、社會であり共通の空氣であり場合であつた。皆が一樣に抱いて居る感情を、誰かゞ言ひ現はすだらうと思つて居るうちに、乃ち誰かゞ言ひ現はしたのである。口はたま/\一つであつても、作り出す迄には多くの者が參與して居る。誰だそんなことを言ふ者はと、特に本人を物色せねばならぬほど、意外でも奇拔でも無いことを言つたのである。此點が可なり重要なる印刷文藝との差別であると思ふ。
 尤も誰でもと言うたところが、聲と調子に自信のある者、氣合ひに敏感で人よりも稍早く興奮する者が、先づ歌ひ出すにはきまつて居るが、それは代表者であり又暗黙の間に任命せられて居るのである。音頭と稱して自然に最初から定まつて居た場合もあつた。又踊や田植の際などに、必ず歌ふであらうと豫期せられて居る先輩の男女が、何か仔細があつてぐづ/\して居ると、それを催促する歌も古くから出來て居つた。但しそれは作者として、新作の創作を要求せられて居るのでは無く、單に團體附屬の歌ひ手として、面白く歌ひさへすればよかつたので、毎年きまつて居る例式の歌を歌はうとも、それを少しばかり才覺を以て改造しようとも、又全然人の知らぬ新文句を出さうとも、それが新作であらうと、他處で聽き覺えて來てそつと貯へて置いたものであらうと、ちやうど其折の心持に調和してさへ居れば、何人も其以上の穿鑿はしなかつたのである。歌ひ手にも色々氣質があつて、成るべく在來のものを活用しようとする者と、少しでも多く自分の空想を働かせて見たい人とはあつたらうが、大體に於て作つて出すことには危險があつた。仲間が氣乘りをせぬやうだつたら、よく田舍で謂ふ如く忽ち座が白けてしまふからである。殊に近世の統一しにくい群の中では、歌ひ手が身に沁みる迄其場の感興に浸るといふことが先づ容易で無い。そこで安全を謀つて、次第に人望ある流行唄の方に、眼を著ける者が多くなつたかと思ふ。
 
(255)       歌の日歌の時
 
 俗語俗想が今までの民謠の特色であつたと言つても、それはよろしくない一つ改良して遣らうといふわけにも行かなかつたのは、是に最初からの大きな目的があつたからである。人間のする事に目的の無いものがあらうか、下らぬことをいふと批難するのは物知らずで、普通の文學が相手を一人づゝ感心させて行かうとするのとは反對に、前代民間の藝術には、即時に總括的に一度に群を動かすだけの、作用を必要としたのである。それで無ければ我々の民謠ではなかつた。如何に今日の目からは物遠いやうな小歌でも、曾ては何かの共同生存の爲に役立つた故に、斯うして傳はつて居るのだといふ點が、學問として之を研究する値を生ずるのである。さうして今日の一切の文藝は、何れも一ぺんは其境を通つて來て、後追々に各自發達の途に就いたことが説明せられなかつたなら、國民と文藝との因縁は寧ろ薄いものと言はねばならぬ。
 故に民謠の自ら成長して行く力は、如何に幽かな又鄙しい形を以て表ほれて居ようとも、今となつては之に由つて以前の盛りを想像して見るの他は無いのである。例へば洲崎川口の新しい埋立てに、ひどい衣裳をして集まつて來る老婦人たちの、鼠色なる手拭の陰から洩れて響くエンヤコラの歌でも、重い地搗きの綱があの力でなければ一齊に擧がらぬとすれば、其目的に於ては大昔の、「討ちてしやまむ」と異なる所が無いのである。勿論彼等の滑稽は餘りにも卑近であつた。特に年とつた女性の感覺の粗野なる者を選定して、音頭を取らせようとする動機にも議すべきものはあらう。併し僅かにさうした方法を盡して、眼前の景物を即興する技能がまだ保存されて居たお陰に、我々の勞働には笑ひがあり元氣があり、機械もいやがる樣な厄介な仕事が、兎に角まだすら/\と進んで居るのである。門司の石炭仲仕の目まぐるしい作業なども、果していつ迄續くかを危ぶむ者が多い。況んや三千年の久しきに亙つて、泥と水(256)澁を友とした日本の穀作農が、歌の力を假ること無くして尚その同じ樣式を保ち得たらうといふことは、恐らくは、想像の外である。この歴史を考へて見たことも無い人が、喙を民謠の問題に容れようとするのは誤つて居る。
 但し歌を必要とした事情は、實際に於ては色々であつた。或は旅をして異郷に入つて來た者の、自分一人の寂寞を慰める爲に、若しくは早く知らぬ人を知る人にする爲に、歌ふといふ場合もあつたであらう。又は雨を求め蟲を追ひ惡い病を里に近づけまい爲に、主として目に見えぬものを聽き手として、歌はねばならぬこともあつた。信仰の根本は却つて夙く失はれて、面白さの記憶のみが後に留まつた場合には、一段とその趣旨が不明になる。踊や酒宴や門に立つ物乞ひの歌は其例であつて、從つて變化は時と共に自由になり、趣味とか空想とかいふものゝ働く餘地が多い故に、是ばかりは後代の文學とも提携し、妥協するかの如く考へて居る人もあるが、目的はやつぱり全然別であつた。只折々は此路を通つて、外部の民謠で無いものが紛れ込む結果として、幾分か我々の説明を複雜にするといふ迄である。簡單なる資料から採集してかゝらうとする者は、之を去つて先づ前に言つた地搗唄、木遣唄に木流し唄、それから搗物唄と名づくるいろ/\の臼唄の如く、勞力統一を主たる目的としたものに、目を著けねばならぬのである。
 此等の多くの勞働歌を比べて見て、誰しも最初に心づくのは、歌が決して軍隊の號令や、樂師長の指揮棒見たやうなもので無かつたことである。歌には單なる掛聲のみを以て、人に手足の拍子を揃へさせるだけの權力は無い。更に溯つて人の心を一心にし、大きな一つの群が働いて居るといふ感じに、一同を引纏める必要があつたのである。是が無始の大昔以來、人と僅かな動物とのみに、與へられた生存の悦樂であり又力であつて、いつの世よりかウタと名づけた所の一種特別の音聲は、即ち此?態を誘導する唯一手段であつたのである。人が働く爲に此統一を求めたのは後代のことで、最初は寧ろ統一の快樂を味ふべく、戰ひもすれば踊りもし、又働きもしたのである。骨折と遊びと、今日の經濟學ではプラスとマイナスの如く考へて居るものを、總括して我々の民謠が支配して居るのは、つまりは其差別のまだ立たなかつた時代から、もう此物の存在した證據である。日本の國情のよそと異なつて居たのは、一番大切(257)で且つ苦しかつた田植の勞働が、つい近い頃まで勞働だか祭だか、はつきりとは見極めのつかなかつたといふことである。村の少女は悉く新しい笠と襷とを用意して、さゞめいて田植の日の來るのを待兼ねた。其理由は一つしかなかつたのである。
 盆の三日を一年の最も嬉しい日としたのも、是を若い男女の「つまもとめ」の爲と解するは、間違ひきつた速斷である。それだけの機會なら他にまだ幾らもあつた。年寄りにもずつと小さい子供にも、此日はやはり面白くてたまらなかつた。骨休めなどゝ謂ひつゝ汗を垂らして疲れて居たのである。食物衣服情欲などの愉快は無論あつたが、それを殊に痛切ならしめる力が、今一つ根柢に横はつて居たのである。所謂群飲の制などは、之に比べると及ぶ所が遙かに狹く、成人に限られ且つ其效果は必ず一半の昏睡忘却を伴なうたが、盆や祭禮には漏れる者が無く、何人も鮮明なる意識を以て、靜かな陶醉の中に入つて行くことが出來た。それが大部分は歌に由つて指導統率せられて居たことは、村に住んだ人ならばよく今でもまだ知つて居るであらう。
 
   盆よ/\と待つのが盆だ盆が過ぎれば夢のよだ
   盆よ/\もけふあすばかり明けりや野山で草刈りだ
 
 斯んなウタを歌ひつゝ、やはり村の人は他念も無く踊つて居たのである。
 
       歌と物語と
 
 村のウタには本來流行唄其他の異分子を、多分に採用する餘地は無かつたのである。それが今日のやうに辨別に困難を感ずる迄の混亂を見ることになつたのには、中世以後の新たなる原因があるのである。それを説明しようとすると、第一には詩形の問題に觸れねばならぬが、爰には其だけの時間が無い。次には間拍子の移り變り、殊に之を促し(258)たかと思ふ小さい樂器の流行は、專門の人を煩はさぬと自分には話が六つかしい。たゞ第三の歌と信仰との徐々の絶縁に至つては、今知つて居る少しばかりでも説いて置かぬと、民謠零落の歴史を會得することが出來ぬのである。
 今日迄の採集事業には、勿論それだけの用意を以て企てられたものは無かつた。大抵は書物の文藝、殊に京都と江戸大阪の歌謠趣味に、ずぶりと浸つた人ばかりが之に携はつた爲に、珍しい面白いの標準が偏して居た。さうして過半は雜然たる轉載であつた故に、何度でも同じものばかりが次々の本に出て居るのである。其中で一番有益なのは、やはり大正の初年に文部省で編輯した俚謠集である。官府の命令だけに義務的で採集した者が多かつたか、有れば有るだけ皆集めようとした形があり、中に立つ者の選擇が加はつて居ないのは悦ばしい。但し類別法は惡く、民謠でないものが澤山にまじつて居るが、兎に角量が多く記載は稍確實と見えるから、今後は之を基礎にして臺帳を作り、脱漏を補充して行くことにしようと思ふ。
 田植唄の研究に就いては、別して右の俚謠集に感謝すべき理由がある。さうして色々の點から、田植唄の歴史と現?とが、日本民謠の全體を代表し得るのである。今先づ其點を列擧して見ると、第一には田唄は全國の隅から隅まで行渡り、且つ一度は非常に豐富であつた證據のあること。第二には唄が最も普遍的な生産業と伴なふ爲に、遠近の村々の間に著しい一致があり、其一致は流行唄の流行と、全然經路を異にして居たこと。第三には田植唄の衰微は地方によつて幾つかの階段があり、之を比べて見て略それが亡びて消えてしまふ迄の間に、如何なる順序を履むかを想定することが出來ること。第四には今は殆と影を隱さうとして居るが、日本農民の最も強烈なる一つの信仰、即ち歳の神又は田の神の崇敬が、つい近頃まで田唄の有力なる背景であつたこと。さうして其信仰の崩壞が、直接に民謠衰滅の端緒であつたことが、可なり明瞭に窺ひ知られることである。此以外にも言へば言はれる理由はあるが、もう是だけでも十分であらうかと思ふ。
 田植唄の最も完全に今も殘つて居るのは、中國西部の三つの縣と、愛媛縣の或る郡である。普通の田には既に普通(259)の農法を行ひ、所謂正條植の麻繩を引張つて、齷齪として仕事を片付ける場合にも、神の田其他の由緒ある一區を選定して、必ず本式の田植をせぬと、氣の濟まぬといふ村は多かつた。即ち田植は其村人の爲に經濟行爲にして兼て儀式であつたのだ。斯くの如くして植ゑぬと神の庇護を受くるに足らぬやうに、信じて居た結果である。九州や東北などの田舍にも、まだ俚謠集の採録に洩れた土地があるかも知れぬが、假に少しも他には見出されなくとも、尚切れ切れに今殘つて居る歌の比較を以て、さまで遠からぬ近昔まで、備後出雲の山の中の村と、同じ順序の田植の式が行はれたことだけはわかるのである。
 最近我々の手で出版した東石見田唄集を見ても、一つの村に傳はつた唄の數が非常なもので、到底一日や二日の田植に歌ひ盡すことの出來なかつたことは明らかである。篤志なる田人が文字の教育を受けて後に、勉強して之を筆録して置いてくれなかつたら、僅かの年數の間使用せぬばかりに、大部分は忘れて消えて居たことも疑が無い。然るにそれが幾つかの他の村にも、同じ樣に保存してあつたといふのは、決して偶然では無く、全く背後に農神の信仰がまだ活きて居たからであつたと思ふ。音頭を取る者を此地方ではサゲと呼んで居る。村によつてはダシと謂ふ處もあるらしい。ダシが一章の唄の上半分を歌ふと、下の句は早乙女が附けるので、それ故に之をツケと名づけて居る。記憶の任務は全くこのサゲに當る者に在つた。歌がるたなども同じことで、下の句の方は口拍手でゝも出て來る。少數の歌ひ手が忠實で無いか、又は興味を以て常から鼻歌式練習をして置かぬやうだつたなら、次の代に入るに先だつて、歌の數はうんと減るにきまつて居る。各地の我々の同志が、?故老にも尋ねて見たが、もう諳記して居る者が無かつたなどゝ報告して來ることは、必ずしも絶えて年久しいことを意味するものでないと信ずる。つまりは帳面を作つて書いて置きましよといふだけの熱心が無くなれば、歌ずき親爺の隱居してまだ生きて居るうちにも、消ゆべきものはどし/\と消えたであらう。蠶などでも絹を吐く時は定まつて居る。採集者が來たらいつ何時でも歌つて聽かせられるといふ迄に、多くの民謠は日常化しては居なかつた。五月薫風の柔かに苗を吹く朝、或は野茨の花のざく/\と(260)咲くを望み、又は郭公の鳥の天上啼いて通るを仰いで、始めて蘇るところの歌心が、即ち年毎の早乙女と共に、永く田唄の若々しさを樂ましめることを得た力である。
 田植唄に新作の殊に困難であつたのは、歌を二つに分けて半分づゝ歌つたことからも説明し得られる。前以て打合せたのでは、折角の趣向も何にもならず、さりとて自分ばかりをかしい文句を半分言つても、所謂二の句が繼げなくては、遣り直すより他は無かつたのである。然らば出雲石見などの何百といふ田植唄は、一番初手にはどうして出來たものであらうか。この興味ある作者問題は、恐らく我々の手で無いと解決することは難いであらう。或は歌を二つに分けず、男なり女なりが一人で皆歌つた時代があつて、其頃に出來たと見る人があるか知らぬが、實際は上の句と下の句が、大抵は問答體になつて居る。或は連歌のやうに短い二首を續けたものと謂つてもよい。それを一人で歌ふ場合は、よほど想像が六つかしいのである。例を擧げぬと話が却つて長くなる。例へば出雲の能義郡で、
 
  (サゲ)  田の神のヤレ産湯の水はどこ清水ヤレどこ清水ヤレ
  (早乙女) どこ清水ヤレ山城の國の岩清水
  (サゲ)  田の神のヤレ乳付けのうばは何人かヤレ何人かヤレ
  (早乙女) 何人かヤレりゆうごんかい(龍宮界)の乙の姫
 
などゝも歌つて居る如く、若し趣向といふ語を用ゐ得べくんば、趣向は寧ろ答へをする早乙女の方にあるのである。今日の目を以て見れば著想の奇、又は珍しい言葉遣ひなどの、尋常の農夫に期待し難きものは多くとも、之を或る一人の天分に歸することは、尚一段と不可能に近い。と言ふわけは此と同じ意味の問答が、山を隔てゝ何十里の、安藝備後の村々に於ても、稍ちがつた言葉を以て繰返されて居るからである。
 結局は眼前の景物が即座に共同の歌となり得た如く、今や既に我々の耳には遠い田の神の物語でも、曾て此地方の普通の知識なりし時代があつて、歌は至つて自然に其間から、生まれて出たものと見る他は無いのである。其始のい(261)つだつたかは定め難いが、斯うして毎年の田植の日に繰返されて居る限は、其物語も亦若苗の葉の如くに、老いることがなかつたのであらう。西洋の學者が大袈裟な比較研究の後、活きた神話と名づけたものは、正しく是に該當するのである。神話といふと誰でも一旦は希臘を思ふが、あれは生物の化石と同じく、曾てさう信じさう歌ふ者のあつたといふことを立證したまでだ。日本本土の西端に在つては、少なくとも人一生の限りより内に於て、農民は斯ういふ田の神を信じて祭り仕へたと同時に、更に特定の方式に遵うて歌を以て其神コを敍述し、之を同信の者に聽かせて居たのである。さうして其物語が記録所傳と一致せず、しかも一部分の聯絡を全國到る處の習俗行事との間に保持して居たことは、大なる學問上の興味であると思ふ。
 但し爰には細部に亙つて、此間題を論じて居る餘裕は無い。單に一二の要點を記して置くならば、前に擧げたやうな田の神に關する問答歌は、各地何れも十敷篇あつて、それを聽くと此地方の田の神の信仰は大體わかる。即ち此神は日天を父とし、大河の水の神を母とし、神々の遊び月に娠まれて、十月を經て生まれたまふ神であつたとして、あらゆる莊嚴を以て神誕生の光景を語り傳へて居る。田植の日に此神を降すには、或は白菅笠を手に持つてと謂ひ、又は紅の扇子と三把の苗を手に持つてとも謂つて、詳しく其儀式が述べてある。富士の山を中宿にして降りたまふともあれば、春の三月は歳コ神として拜まれたまふとも歌つて居るが、皐月の神を山より降りたまふと信じ、しかも正月望の日の前夜にも、色々の作法を以てこの農作の神に?ることは、今日まだ少しでも從來の信仰が遺つて居る田舍では、皆一樣に其通りである。
 要するに島根廣島等の田植唄は、今風の語で言へば田の神禮讃を以て其主要部として居た。それは未信の人に神コを示すのでは無くて、多くの古來の經典と同じく、其たゝへ言に由つて神意を迎へ得べしとして居た爲である。是から推して考へて行くと、田植唄の根本の目的には、単なる勞働の統一以上、更に大切なる祈願があつたらしい。他の府縣に現存する田唄は、數も少なく其趣旨も散漫ではあるが、それでも尚幾つかの共通點の、注意すべきものがある(262)のである。例へば早朝の歌には山を望む文句が多い(イ)。朝の始と日の暮とには、共に空を飛ぶ鳥の聲と姿とに注意を拂つて居る(ロ)。午前の歌には嬰兒の事、又は姙娠の事を述べたものが多い(ハ)。それから又成るべく姙み女や乳呑兒を田植の場につれ出して、豐産のまじなひとしたらしい痕跡がある。次には御田の神を詠じた歌が多く、村によつては誤まつて之を歌の神と呼んで居るが、何れも日の終りに「來年もござれ」と謂つて、別を惜むの情を述べて居るのは、即ち迎へて祭つた名殘である(ニ)。最後に今一つ最も重要なことは、晝飯を運ぶ一人の女性を、早乙女以上に重要視したことである(ホ)。中國の方では其女をオナリド、又はオナリ樣とも呼んで、之に關する無數の歌があるが、何れも遠くから雇うて來た美しい女に、盛粧をさせて晝の食事を運ばせるので、それが同時に田の神の奉仕者であつたことも、歌の言葉から察せられる。東部日本の方でも、ヒルマモチを待つといふ歌は方々に殘つて居る。食事が朝夕の二度だけであつた時代にも、田植の時だけは晝飯があり、之を掌どる婦人には、特別な地位が與へてあつたのである。
 田植に田の神の祭をせぬ村は、今でもまだ一つも無いと謂つてよいが、其方式は極端に簡略なのが普通である。しかも一方にまだ完全に近い例が存する爲に、右にいふ類の僅かな唄の破片から、曾ては是よりも遙かに重々しい式典が爰にも行はれ、且つ之を説明した神話が、歌として歌はれて居たことを推測せしめる。族長中心の大農組織が崩れると共に、家々の田の神は村共同の鎭守樣と代らざるを得なくなつた。鎭守には法師が干與し、或は特別の教育を受けた神官が出來た爲に、春秋の祭の日と式とが別に定まつて、五月水田の畔での祭は往々にして不必要になつた。信仰が緩めば覺えて居らずともよい歌が多くなる。しかも歌うたひの面白かつた記憶だけは傳はる故に、色々と工夫をして又新たなる種々の歌を補充したのだが、本來の作業の性質と、永く行はれて居た歌ひ方の特徴とが、當時町や港に幾らもあつた流行唄を、其儘採用することを許さなかつた。そこで以前からも有つたであらうが、腹がへつたの腰が痛いのといふ歌が多くなつた。ツボに落ちたる若嫁を笑ふもの、苗持ち小野郎を嘲弄したもの、さては田主の老翁(263)にまでからかつて、日暮に近くなると夜は誰と寢ようとか、又は人使ひがあらいとか言つて、
 
   上がれとおしやれ田ぬしどの一度に人は懲らさぬものよ
 
などと歌つた。田主は又タアルジと呼ぶ地方があつて、それを誤つては太郎次とも謂つて居た。其太郎次のむす子娘たちの美しくやさしいことを、誇張して賞美した歌も若干は殘つて居るが、それは田主の富を詠じた歌と共に恐らくは本來は皆田祭隆盛期の祝詞の名殘であらうと思つて居る。
 
       歌ふ人と歌はぬ人
 
 田植唄の末期が詞章の亂雜なる増加とはならずに、次々に歌の數の減少を以て、殊に其衰亡の哀れを深からしめて居るのは、必ずしも新式農法の壓迫の爲ばかりで無い。曾ては午前の田の神おろし、夕暮方の田の神送りの式に際して、長い時間歌はれた神の由來に關する物語は、其信仰の退却に伴なうて、夙く田人早乙女の感銘から消え去り、之に代つて入つて來るものが無かつたことも、亦重要なる原因の一つに算へねばなるまい。即ち田に働く若い人たちは、心を揃へて新しい物語に焦れては居たのだけれども、之を語るに足る歌ひ手も居らず、又新たに作つて歌ひ始める方法も立たなかつたのである。田植の唄に限つて長い章句の無いことは、恐らくはあの作業の性質から來て居るかと思ふ。是は自分の想像だが、折れかゞんで働く者には、少し歌つては休む必要があつたのでは無いか。さうすると短い文句の受渡しになる故に、クドキといふ樣な長い敍事詩が、次第に感興を高めて行く迄に、一人で歌ひ續けられなかつたのも尤もである。
 之とは反對に其裏面から、新たな物語の頻りに持てはやされて居る場合、例へば盆の踊歌とか酒宴の席上の唄とかの中に、明らかに近年になつてから採用せられて居るものには、假令必ず常に然りとは言はれなくとも、以前或は何(264)か別の物語があつて、其場處を占めて居たことを、想像してよい場合が多からうと思ふ。尤も其二つの中でも、踊の方は黙々として只手足を揃へて動かして居る例が、今でも折々は見られるのだから、必ずしも現在ある物語が、何も無かつた空隙を新たに盈たして居るものと見られぬことは無い。たゞ自分たちが幾度も考へたのは、夜更けてサラリサラリと足拍子の澄みきつて、歌の聲の暫らく途絶えて居る時などに、今爰で誰かゞ歌ふならば、どれ位印象が深いか知れぬと思つて居ると、果して好い聲でアヽーと長く歌ひ出す者がある。昔の物語を語る人も、必ず斯ういふ群衆心理の?態を利用することを忘れなかつたであらうといふことである。此類の統一は歌謠の伴なふ限り、如何なる共同動作にも現はれるものであらうが、踊は夜であり又方法が單純である爲に、殊に物語を聽くに適した時刻が、頻々として到來し得るのであつた。しかも現在行はれて居るクドキの多くは、あまりにも踊その物とは縁の無い世間話が多い。謂はゞ新しくて珍しいといふ以上に、踊の庭へ持出す價値の無いものばかりであつた。そんな物さへ耳を傾けて聽かうとするのは、元來踊には人の心の集注した際を利用して、何か長々とした物語をする慣習が、早くからあつた爲ではあるまいかとも思ふ。
 一體盆踊ほど土地によつて變化して居るものも少ないのだが、それを分類して系統を尋ねるどころか、比較をして見ようとした者も實はまだ無いので、めい/\自分の村の若い頃の實驗から類推して、他も大抵似たりよつたりだ位に考へて居る。然るに實際は大ちがひであつた。先づ城下の踊は以前武家衆が京江戸から又は舊領地から移して來たものが多く、それが近傍の或る村だけへは入つて、山一つ彼方の村では、もう別の踊を踊る例もあれば、眞似たと稱して實は澤山の自己流を加味して居ることもある。が普通には外部との交通が開けて、よそに新しい踊の行はれて居る評判を聞けば、古いのはそつとして置いて其踊も踊つて見ようといふのが人情であつたらしく、一通りの見物にはどれだけの相異があるのかと訝る樣な場合にも、踊る當人たちには氣持が丸で改まつたものゝやうに思はれる。足利氏の末近くから江戸幕府時代へかけて、幾度か至つて大規模の踊の流行があつたことは、記録の上にも現はれて居る。(265)それが一種の癖を爲して、少なくとも平野地方には、頻繁なる新踊の採用があつた。しかも役者の藝などゝはちがつて、型は容易に崩れ、却つて古い手振の復活を見るやうなこともあつたとは思ふが、歌の文句だけは段々に改まつて、古いものが次つぎに消え去つたのである。
 中部以東の田舍に多く現存する踊歌は、興味ある混同を示して居る。踊が是ほど古い日本の民衆娯樂であつたにも拘らず、形式と内容と二つながら、其歌は殆と皆近世のものであつた。さうして如何に毎夜の踊り續けに、?踊歌の缺乏を苦しんだかゞ窺はれる。やはり同じ文句ばかり繰返して居ることは、踊子たちにも面白くなかつたのである。私の見た所では盆踊歌には略三通りの供給があつた。其一種はどこの國へ行つても聽かれる流行唄、疑も無く踊り方と共に外から入つて來たものである。それにも若干の改訂を加へたのと、元のまゝを歌つて居るものとがある。其二は轉用で、前から田唄草刈唄麥搗唄などに使つて居たのを、僅かの模樣替を以て踊の爲に歌ひ始めたものである。是も少しく注意すれば、文句からでも其出處を看破ることが出來る。其三は即ち新作であつて、誰か近世の無名詩人が、特に此踊の爲に歌ひ始め、それが人望を博して永く遺つたものである。大抵は前に述べた民謠の法則に遵ひ、簡單で平凡で且つ粗野ではあるが、同時に又共同の利害に恐ろしく敏感で、且つ一分の輕妙を以て共通の境遇を表白して居る。其題目は主として踊其ものであり、稀には少し進んで隣村の惡口、もしくは仲間互ひの輕い戀情などを取扱つて居るのだが、爰に不思議なのは其中にまじつて、短いながらに純乎たる敍事の歌、記憶し難い固有名詞などを插んで、他地方の人には一向に興味も無い物語を、歌にして持つて居ることである。どうして又一生懸命の踊のさ中に、そんな歌を歌ひ始めることになつたものか。我々に取つては可なり興味の深い問題の一つである。
 是は恐らく音頭取りといふ者の地位の變化を意味して居る。以前の如く誰でも聲と元氣とのよい人が、代る/”\出ては歌つた時代には、群の力の方が個人よりも遙かに強いから、豫期せられざる歌の發生する機會は少ないのだが、度々踊が新しくなつて不案内の男女が多く、萬事よろしく願はねばならぬ世の中になつては、單に聲がよいだけでは(266)音頭は勤まらなかつた。少しは才覺もあり且つ世間師である年輩の男が、世話方若しくは指導役の地位をも兼攝する必要があるので、後漸く一種の職業化を見るに至つたのである。中國地方にはそんな人物が、五箇村七箇村に亙つて、たつた一人しか無いのを頼んで來て、次から次へ日割で踊つて居るやうな處もあつた。そんな村では踊の歌が年を追うて手の込んだものとなり、假令獨立した作者で無いまでも、少なくとも何郡何村にさる者ありと聞える迄に淨瑠璃の太夫などに近い地位を占めて居たのである。しかも此の如き音頭方が、古くからあつたと考へられないのに、時と共に此變化を見たのは、要するに本來群れて踊る人々の心に、氣が揃つた時は何か話を聽きたいといふ要求があるからで、根源に於ては演劇が神事舞に始まり、物語が祭の歌から發生したのと、同一法則の效果に他ならぬ。踊も今は只の娯樂だが、實はもと一種の祭典であつた。
 併し木遣地搗の如き、一見宗教とは縁の無い合同作業でも、音頭が專門の人の管掌に屬すれば、忽ちにして簡易素樸の詠歎が、長々しい物語歌に變つた。江戸は木遣の本場だけに、百年以前に既に十八卷の地方用文章といふ物語集が出來て居た。地方の町場でもつい今までサンヨーサンヨーを合唱して石を突いて居たかと思ふと、もうそれが西行法師の、をかしい旅行談に變化してしまつた。それと方面は稍異なるが、酒盛りといふことが信仰行爲と手を切つて、留めども無く民間に濫用せられるやうになると、つい近頃まで座客や主人が順番に、又は合唱を以て歌つて居た「飲めや歌へや」といふ類の素樸な民謠は影を收め、手を膝の上に載せて藝者の歌を聽くのを、行儀よしと考へる迄になつた。女が藝者と呼ばれ始めたのは二百年以内の事である。其以前は座頭が職業的に群の歌を代表して歌つたが、その今一つ前の酒宴に於いては、やはり田植や物搗と同じく、民謠が感興を統一したのであつた。聽くばかりなら庄屋殿のどら聲よりは座頭の坊、座頭よりは目が物いふ女藝者の方が面白かつた。但し彼等に歌を任せて置くと、末には何を歌ふかわからぬ。物ずきに歌を彼等の爲に作つてやる者などもあれば、三味さへ手に持てば「主とわたしは」といふ類のプライベートな歌ばかり歌ふに至つて、爰に歴史久しき酒と民謠との縁は切れてしまひ、オミキの信仰は(267)完全に冒?せられることになつたのである。此點から考へると所謂流行唄は正しく民謠の敵であつた。
 
       何が消え何が殘る
 
手短に言ふと、歌は多くなつて民謠は消えた。歌ふ場合は益増加して、歌ふ人は乃ち減少したのである。古いものに倦み、新しいものになづむといふ傾きは、昔の人とても決して免れ得たので無いが、謂はゞ今日ほど倦ましめる原因が多くなかつたのである。踊は前にも説く如く、始末にいけない程の歌食ひではあつたが、幸ひにして盆は一年に一度しか來なかつた。去年の歌を思ひ出して、却つてなつかしさを感ずるやうな人も以前は多かつた。其他の場合には此歌だけは是非うたふといふものが幾らもあつて、新作を迎へる餘地が乏しく、殊に田植などには朝は朝の歌、晝間は又「おなり」の歌と一々に定まつて、略し得ない部分が多かつた爲に、自然に流行唄を排斥した。さうして又之を學ぶ機會も稀であつたのだが、一たび伊勢踊神踊の類が天下を席捲するや、其章句の中には印象の深きもの少なからず、それから踊の變化を頻繁ならしめて、村には何程も他所の歌の、採用を待つものが遊んで居た爲に、いつと無くそれが古い歌を驅逐することになつたのである。酒宴唄に至つては殊に暴虐が甚だしく、其連日の感化は縁もゆかりも無い者が、場合にも人情にも一致せぬ歌を、村に還つて卒爾に歌ふ風を生じ、終に人をして民謠とは混用轉用のことでゝもある如く誤解せしめ、牛は牛屋でしか知らぬ男が、おれが牛追歌を作つてやらうなどゝ言ひ出す迄の、心得違ひを引起したのである。
 併しさういふ世の中の變化は無くとも、永い月日には古い歌は逐次に消えて居た。消えない迄も少なくとも新しい方言、新しい生活慣習又は今風の歌ひ方に合ふやうに、改造せられつゝあつたのである。丹念な人か氣まぐれな人が、偶然に筆録して置いてくれた以外、聲で傳はるだけの歌は、末終に皆空中に散つてしまつたのである。たしかに土地(268)に根をさした純なる民謠でも、今行はるゝものには百年と古いものは稀である。是によつて我々が學び得るのは、日本人は斯うして其ウタを作り、且つ歌つたといふ樣式問題のみで、其歌の内容から直に古い昔を窺ひ知ることは六つかしいのである。固苦しくいへば民謠の文化史的價値は存外に小さいのである。又地方にはそれ/”\其地方の氣風があり、それ/”\特殊の事情があつた。假に數世紀の昔に溯り得たにしても、それは單に其發生地の、發生時代の事情を語るに過ぎぬ。多くのものを比較し排列して後に、始めて日本人の以前の感覺又は世界觀を察し得るといふに止まるのである。我々はそれだけでも非常に大切なことゝ思つて居るのだが、さうは思ひ得ない人が、不當な總括論を是から導かうとするのは有害である。それは過分の御同情といふもので、忝けないかは知らぬが學問では無い。
 但し民謠の研究者の爲に是だけのことは言ふことが出來る。第一には遠方の流行唄が矢鱈に入つて來なかつた時代には、凡庸通俗なる民謠作者の眼界は限られ、其想像力は翼が小さかつた。必要があつて新たに作るといつても、材料採取の區域は弘くない。從つて形は新しくとも作りかへ歌ひかへが多く、形も亦許す限り前のものを追うて居た。故にその各地の類例を多く集めて見たら、段々に元の歌が大凡どんなものであつたかを、推測することは出來る。それが書物などに載せたものと一致すれば、假定が確かめられたことになるのである。其材料とした民謠集は參考の値がある。
 第二には實際に働く成人の棄てた民謠を、兒童が模倣して保存して居ることがある。彼等は最初から意味をよく知らず、知つても感動は別であつた故に、單に小さい者の機械的な記憶力を以て、之を諳記して居るだけであつた。それが存外に久しく續き得ることは、現存する無數の唱へごとに、子供が言ひ出したとは思はれずして、而かも近世の大人の言ひさうも無いものが、幾らもまじつて居るのを見ればわかる。歌は普通の會話よりも、少しは簡單で無邪氣なものである上に、子供が自分のものとした後は、大切に次の代の子供に引繼ぐ故に、斯うして忘れられずに居たのである。其代りに少し込入つた長いものになると、幾らでも語を間違へ、又二つ以上を混同する。村で昔の子守唄と(269)傳へるものゝ中には、「ねんねのおもり」よりは少し大きな兒童に、親なり祖父母なりが歌つて聽かせたものがある。それは特に其爲に新作したものではなささうだから、やはり亦古い歌の鹽漬砂糖漬のやうなものだ。何に使つた唄かは今は確かめにくいがは恐らくは或る時代の踊歌であつたらうと思ふ。やゝ成長した子女は諳記して自分も之を口ずさんで居る。遊戯の際などに歌ふから、最初から、遊戯唄として誰かゞ作つたやうに考へる人もあらうが、「青い鳥が三つ/\」などゝいふ唄も、必ず第一次の目的は小兒用でなかつたらうと思ふ。信州松本附近の盆唄などは、今では小兒が手を繋いで、町をうたつてあるくだけだが、調子から判斷してたしかに元は踊歌である。長い物語の歌の今日手毬唄になつて居るものは甚だ多い。非常な誤謬を重ねて多くは意味不明になつて居るけれども、比較によつて元の形に復し得る見込はある。大抵は歌が終つても手毬がまだはずんで居る場合に、切るのを惜んで木に竹を繼いだゞけである。是が自分たちの豫期の如く、やゝ意味の通ずる迄に復原し得られるなら、是より古い平民の歌は、他には無いといふことにもなるのである。此理由からして子供の歌は、特に丁寧に觀察し採録する必要がある。しかもそれを古い字義に從つて、一括して童謠と名づけて置きたいと思ふと、もう又差出がましい人々が、全然別のものに此名前を取つて附けて居るのである。學校などで謂ふ所の童謠なるものは爰に私の説く所の子供の歌ふウタとは別のものである。
 所謂作文童謠の最も大なる興味は、成長した鑑賞者の耳には全然意外なる感情を、無造作且つ奇拔に歌つて聽かせてくれることである。その點は我々が百年以來の農村漁村の自然の民謠を珍重するのと、似て居るといへば似て居るのだが、出來た目的と條件と世話人の立場とから言へば、到底日を同じくして談ることは不可能である。手短にいへば、小學校の童謠は、ほめる人がちがひ、待つて居る人がちがふ。それを無名の小作者たちは本能的によく知つて居て、又其先生に向くやうに作つて居るのである。民謠發生の際には絶對にそんなことが無かつた。今日我々の如き鑑賞者が現はれて來ることも知られなかつた。故に之を通じて昔の社會の有りのまゝの生活が窺ひ得られるのである。
 
(270)     流行唄と民謠と
 
       一
 
 我々の民謠が、今でもまだ十分に豐富であるかの如き樂觀は、凡そ三つほどの誤解から出て居るやうに思ふ。しかも其考が折角殘つたものを粗末にし、從つて新しい學問の發育を妨げる懸念が無いならば、私は何も好んで之を言ひ立てる氣は無かつたのである。まぼろしになりとも此國を、昔のまゝの歌の國と思つて居られた方が私たちにも嬉しいのである。
 たゞ奈何せん、歌はぬ人が、追々に多くなつて行くのである。殊に普通の人の久しく持つて居たものが、消えたら消えたまゝになつて、もう代りが出て來ようとせぬのである。我々がそれをうつかりとして見て居たのは、一つには「はやり唄」の魅力であつた。流行唄もその根源にさかのぼつて見れば、多くは何れかの地方の民謠であつて、作者と第一次の聽衆の群と、境目のはつきりとせぬのを常とはするが、その運搬の方法が單純な模倣で無かつたばかりに、今では寧ろ村々の歌の、油斷のならぬ競爭者となつてしまつた。
 流行唄は大抵は一度、柳などの多い市の辻を通つて來て居る。船に積まれて湊に入り、暫くは雁木石垣のあたりをさまようて後に、次第に里を訪ひ野山には分れ散つたのである。三線の樂器には更に新たなる力があつた。今まで考へても見なかつた一つの境遇、一つの情味だけが特に濃厚に、詠歎せられるやうな氣風を田舍へも入れた。歌の調が(271)之に誘はれて、程なく一變したのみならず歌に對する普通人の心持も改まつて、想像の天地は廣くなつた代りに、我聲でよその事を歌ふのを、當り前のやうに思ふ者が出來て來た。海を知らぬ村々の娘までが、「琉球と鹿兒島」や「佐渡は四十九里」を説くに至つてより、おのづから民謠の手織縞は、終に用も無い縞帳の中にばかり、以前の姿を保存することゝなつたのである。
 世の中が今のやうに明るくなれば、遁げても隱れ場處がもう無い爲に、古い物は何でも消えて行くが、殊に困ることは迅速なる交通機關に由つて、一つ二つの流行唄が遠く弘く運ばれ、大きな領土に君臨してしまふことである。前年のカチウシャなどは極端な例かも知れぬが、町で出來たり外國に始まつたやうな新曲の御陰に、幾つとも無い地方の唄が、押除けられた場合は多い。故に僅かな採録の中にも重複ばかりあつて、今では殆と骨折を償ふ程の發見も無い。「咲いた櫻に」といふ類の有名な數十章は、祭にも踊にも常住に用ゐられて、言はゞ借物で濟まして居る土地が、次第に多くなつて行くのである。それを昔通りの心持で、集めて見たら嘸澤山になることゝ、思つて居る者は必ず失望せぬばならぬ。
 
       二
 
 第二の誤解は大和田氏の類聚以來、既に何十卷といふ程の民謠の集が出たのを見て、日本は大變な歌の數だと、歡んでしまふことである。此中には前にも言ふ如く、百年此方の流行唄の傳播に因つて、各地重複するものゝ多い外に、更に氣になることには年代の混亂がある。私たちの通例採集と謂つて居るのは、耳から聽いて筆に寫すことであるが、誰しも收穫の乏しいのを嫌ふ故に、大抵の採集者は其條件を顧みなかつた。村で話好きの年寄などが、僅かに記憶する文句までを漁つて、節や佳い聲から引離して味はうとするのみか、時には久しい前に書物の記事と化したものを、素知らぬ顔をして今有るものゝ中に列ねて居る。麥搗唄でも盆唄でも、一つの曲が何かの事情で絶えた爲に、第二の(272)ものが採用せられたこともあれば、新しく入つて來たものに、逐はれて引退した例も幾つかあつて、いつの時代にも併び行はれたことの無い歌が、雜然として群を爲して居るのである。幸ひに形骸を止めた是等の古い詞章も、勿論大切に保存はしなければならぬが、所謂山家鳥蟲歌の頃からの文藝を一括して、無理に我々の民謠を賑やかにしようとしたのは、好事と言はんよりも寧ろ同情の無い所業であつた。
 
       三
 
 それと言ふのが章句さへあれば、即ち民謠は成立つものゝ如く、思はしめた人々の落度である。近年になつては尚此上に、民謠なら私が作つて上げようと謂ふ類の、自信の強い詩人が輩出した。斯ういふ先生方が自分の作る歌を、民謠であると主張するだけは、單に言語の用法の問題、名稱の當否の論であるから、爭つて見た處で水掛論に歸するかも知れぬが、若しや我々の解して居る如く民謠が「人民の歌謠」の略語であつたとしたら、其人民がちつとも歌つて呉れぬ以上、話にも何にもならないのである。然るに人民が今より從順であつた時代にも、外で作つて彼等に歌はせることは、殿樣にすらも至難であつた。西國筋の殿樣の中には、船路の徒然を紛らす爲などに、無暗に麗言美辭を排列せしめて、歌ひます樣にと仰せられたこともあつた。又謹んで之を拜寫した何郎左衛門と云ふやからがあつて、成程今日に傳はつては居る。偶には流行唄同然に民謠の中へ、まぐれ込んだものが少しは有らうが、今や私たちは最も丁寧に、之を敬して遠ざけつゝあるのである。
 野上とか青墓とか云ふ海道の古驛亭に、あそび傀儡の美しい君たちが、纏頭に由つて生活を營んで居た頃には、まだ三十一文字も扇の拍子などに合せて、歌へば歌はれぬことも無かつたのであるが、さればとて「うき身に副へる影なれや」の名吟を、民謠なりと言ひ得る者は一人も無い。斯ういふ藝を職業とする者の歌と、只の我々の口ずさむ民謠とが、言はゞ歌謠の二大類別であつたので、如何なる風流才子と雖、竹枝とか欸乃《あいだい》とか名を附けて、其口調を模擬(273)する以上に、堺を越えて押賣には來なかつたものである。それをうつかりして、頼めば幾らでも代りが出來るものゝ如く、古曲を粗末にした者も惡いが、單なる「民謠調の文學」を以て、所謂鄙人の詞藻を改良して遣らうとの計畫も、餘りに民謠發生の理法に不穿鑿であつた。其御陰で我々の前代研究に、不必要なる第三の混亂を生じてしまつたのである。
 今の童謠と稱する文學にも、實は私たちは内々閉口して居る。童兒が學校の先生方の考一つで、無數の新曲を歌はせらるべきものかどうかも問題であり、一茶の口眞似ともいふべき甘つたるい短句を、おだてゝ竝べさせてもよいかどうかも未定であり、その又口眞似を大人がするのはなほ變であるが、そんな事に口出しするのは、必ずしも私の本意で無い。只これも名前は御勝手で、早く占領した者が勝ちとは申しながら、日本には餘程久しい以前から、別に作つて外から供與したもので無く、童兒が自然に唱へて居る節のある章句に、ちやうど童謠といふ名を附けてよい一團があつたのだ。しかも我々は亦紛亂を避ける必要より、折角似合はしい語を知つて居ても、成るべく之を使用しない樣にして居る。本當に遠慮の無い人に出逢つてはかなひません。
 
       四
 
 民謠といふ名稱の方も、もう爭奪は止めにして、判別の爲に何か別の語を使つた方が、利益かも知れぬと考へて居るが、生憎と他に適切な名が見付からぬ。何にせよこの入込みの結果は、確かに本物の民謠の減少を早め、且つ其悲みを遲鈍ならしめて居る。最近の實驗では、田植唄なども殆と消えてしまはうとして居る。二十何年前に私なども參與した農事改良の一つであるが、正條植といふことが普及してからは、到底唄などを歌ふ餘裕が無く、昔盛んに歌つた人が居なくなるので、最早知る途《みち》が無くなつたと謂つて居る。併し水田の作業方法とても、上古以來一定不變であつたとは謂はれない。少しづゝの改良でも新たに行はれる度に、一時は必ず調子が合はなくなつて、歌の出なかつた(274)場合もあつたらうと思ふが、程なく又盛んになつたことは、近頃までの節と文句に、江戸期の香が強いのを見ても察せられる。責を正條植ばかりに負はせるわけには行くまい。つまりは歌はずとも仕事が出來ると謂はうか、歌どころでは無くなつたと謂ふか、兎に角にその必要が先づ認められなくなつたのである。民謠を説かうとすれば、溯つて其必要とは何であつたかを考へねばならぬのであつた。
 私は南歐羅巴の二三の國をあるいて、何度と無く靜かな村々に入つて見たが只の一度山の陰で、馬に乘つた娘の歌を聽いた外に、畠でも船でも、澤山の鶴嘴が一度に動く場合でも、勞作の歌といふものを耳にした記憶が無い。親爺などにはパイプを口にくはへたまゝ、働いて居る者すらあつた。つまり彼等はもう忘れてしまつて、
 
   歌はよいもの仕事が出來る、話や惡いもの手が留まる
 
といふやうな境涯を知らぬのであつた。私は斯ういふ光景に接する度毎に、すぐに必ず故郷の田植唄や麥搗唄を思ひ出して、日本だけはまだ斯んなでは無いと獨語して居たのであつたが、還つて來て見れば此方でももう書物からで無いと、やはり民謠を知ることが難くなつて居た。消えたら消えたまゝで代りが出來ず、折角の代作志願者は、手を空しうして仲間で褒め合つて居るのみである。それでも僅かに町に入込んだ勇猛なる土方の夫人たちが、粗末な新作を以て普請場を賑はして居るのを見て、せめて心丈夫に感ずる位のものであつた。
 
       五
 
 そこで私たちは考へて見た。新たに始まつた門司などの石炭運び、さては横濱の築港と云ふ如き、元は無人の蘆原であつた土地にも、男女が集まつて來て一所に働けば、自然に何とも知れぬ鄙俗な歌が發生する。然るに他の一方では右の如く千二千年も續いた民謠が、絶えれば其儘で淋しい田舍となつてしまふのは何故か。市外高田の學習院の丘が、まだ農夫の物であつた頃、或る日私は散歩して小さな草屋に入り、七つばかりの盲の女の兒が、栗の實を床に落(275)して手探りに捜すのに、クーリミツカサレと唱へ出したのを聽いた。五六年前の宮古島の旅では、貧しい川滿の村を馬に乘つて通ると、住い聲の臼挽唄が聽える。柴垣の上から覗いて見ると、此も盲目の四十ほどの男が、たつた一人で歌つて居るので、しかも其顔は笑つて居た。誰に聽かせようの考は無い者でも、歌はずには居られぬ内からの要求があるとすれば、古來の歌の文句ばかりで無く、之を缺くべからずとした心持までを忘れしめたのは、誠に驚くに餘りある流行唄の威力であつた。
 成程中昔以前にも民謠の普及は無かつたとは云はぬ。例へば一つの農家に働いて居た娘や作男が、後に分れて出て自分の宿を營むとき、土地が稍隔つたからとて、新たなる歌を用ゐ始めることはあるまい。京へ賦役に差されて上り下りの途の行きずりに、身にしみて覺えた歌の文句なども、巧者な者ならば還つて村人に教へたことであらう。だから流行は寧ろ民謠の一つの泉であつたと謂ふ考を以て、強ひて二者の差別を立てんとする私たちの説を、非難する人が有るかも知れぬ。併しそれはこの著しい古今の變化に、眼を留めなかつた誤りに基くもので、以前の民謠の個々の用法を、混亂せしめた七七七五の近代小唄、即ち萬朝報の所謂俚謠正調の、怖しい影響を考へぬ者の言であつた。
 近代の歌詞革命の背後には、疑ひも無く三味線が在る。三味線は都市樓臺の音樂を一變したと同じ樣に、否却つて一段の猛威を以て、民間の歌謠を侵略した。此樂器の連れて來た新曲には、印象の深い章句があつて、それは最初から、今の七七七五に落付くべきものであつたらしい。高野斑山氏の歌謠史などを見ても、明白に立證せられて居るやうに、三味線と二十六字の小唄とは起原も時を同じうし、元は相結んで離れなかつた。それが遊女や檢校の仲間に限らず、次第に耳に殘つて世の常の歌の口調と爲り、後には樂器を手にし得ない者の歌をさへ支配した。踊や旅の歌は勿論のこと、草苅唄でも草取唄でも、一つづゝ降伏して往つて、歌ひ得るものゝ限りは次々に、元の投げ節の歌を採用することに爲り、結局は今日の如く、各の用途に專屬した唄は甚だ少なく、民謠は必ずしも場合に相應し、現在の感じを表現せずともよいものゝやうに、解せられる端緒を開いたのである。しかも踊や手拍子の、自在に動作を改(276)め得るものはそれで濟むが、型の一定した勞働の中には、新しい歌とは調和せぬものがあつて、殊に田植などはその不便が甚しかつた爲に、疎外せられざるを得なかつたかと思はれる。
 俚謠集や東石見田唄集などに、保存せられて居る例を見れば分るが、田植ほど嚴重に朝と日中と夕方などの時刻に合せて、正確に歌ふべき唄の定まつて居たものは無かつた。如何に珍しく面白い文句がはやつて來ても、早乙女は之を歌ふべき折がなかつた。それ故に依然として古風な田唄を守つたので、しかも苗を插む作業の律動が許したならば、或は稀々には流行の小唄を取入れたかも知らぬが、亦それだけの折合ひが付かなかつたのである。
 之に反して一番に自由であつたのは、酒盛の折の歌であらうと思ふ。年の豐かなる秋の夜、又は放縱なる人たちが、永い時間を笑ひ興ずる場合には、少しは無理をしても變化を求める爲に、三味の小唄のしかもなるだけ實生活より遠いものを、歡び迎へんとしたかと思はれる。それが民謠の國に住む人自身の、之に對する態度と心持とを變へて、次第に現代の如き自由に失した名稱の適用を、是認せしめる迄の素地を作つたのであつた。
 
(277)     民謠雜記
 
       一
 
 民謠の自由と拘束といつたことを考へて見たい。即ち、民謠は極めて自由に作られて居るが、尚一點拘束せられて居るものがある。それが何であるかを考へて見たい。
 我々が名づけて民謠と言うて居るものにも、作者があることは云ふまでもない。此作者は極最近まであつた。實際は、現在もまだあるのだと思はれる。それは今日の所謂自稱民謠作者を指すのではない。譬へば織屋紡績工場の女工などの口から洩れ出るもので、自身の勞苦に對する歎き、外からからかひ〔四字傍点〕に來るものへの應酬、それが皆歌になるのである。これの一代古いものが子守唄である。
 子守といふものは、明治になつてからの作業の特徴で、古いと云つても、百年も五十年も前からあつたものではない。赤坊は、以前はいづこ(えじこ・つぐら〔九字傍点〕などゝも云ふ、藁で作つたもの)に入れたのが普通で、背に結ひつけることだつてさう古いことではないのだが、殊に少女を雇ふなどゝ云ふ風習が生じたのは極新しい。謂はゞ邑落生活としては、最近の特徴と見られるものなのである。然るに彼等は、此僅かの期間に非常に多くの歌を作つた。勿論その大部分はかけながしで、感動の少ないものであつたゞけに、自然消えることも早かつた。
 これらの作者は、いづれも無邪氣である。かれこれ二十年前と記憶するが、讀賣新聞で諸國の民謠を募集したとき、(278)二人の大層根氣のいゝ人があつて、攝津豐能郡多田附近のものと、伊勢のものとがかなり多く集つた。何でも百を以て數へるほどもあつたと覺えて居る。人が記憶する位だから、中には名吟もあつたらうに、それらの歌で作者のわかつて居るなどゝ云ふのは一つもなかつた。いづれも作者が、後世に傳はらうなどゝ考へて作つたものではないからである。即ち必要に應じて其時其場で作るのがこれまでの民謠であつた。工女とか子守とかの歌には、殊にさうした入用から出來たものが多い爲に、粗製濫造といつたものも目につくが、其他の民謠でも、すべて夫々の必要に應じて、いるだけ作つて行くといつた氣持が確かにあつたと思はれる。譬へば、何十日と續く大土木があると、すぐに木遣唄、地搗唄の數が殖えて行く。田植などでも、歌をうたひながら植ゑて行く習慣の殘つて居るところには、今でもまだ澤山の歌がある。恐らくは、一日の中に同じ歌を幾度も歌ひたくないといつた氣持が、民謠發生の背後には働いて居るのだと思はれる。
 今でも新しい文句と云ふことをいふが、新作の要求と云ふものは、一つの法則みたやうなものだと思はれる。從つて、何かと云ふと古いものが消えて行く。實際に古い民謠などゝいふものは滅多に殘つて居ない。記録に殘つて居て今はもう誰も歌はないといつたものもあるが、それすらも、用語形式などから見て、さう古いものでないことが判る。中古雜唱集や栗田氏の古謠集などを見ると、實際中古から續けて歌つて來たものが、神事にはあるらしいけれども、それらは目的がまるで違つてしまつて居て、恰も呪文のやうに、文句だけを覺えて居るといつたものである。
 民謠の中には、斯うした、まるで意味を知らないで歌はれて居るものがある。これは新作に於ても同じである。丁度野菜などゝ同じやうに、出來立てのものが新鮮として喜ばれるだけで、多少でも其意味に就いて理解すべく勞苦するなどゝ云ふことは、先づ殆とないと云つてよさゝうだ。其點から云ふと、民謠によつて昔の生活を知らうとすることは難事とさへ思はれる。通例人々が想像して居るやうに、昔ばなしや傳説などゝ同じやうに、民謠に於ても、あの中に昔の生活が考へられるなどゝ思つたら、必ず失望しなければならぬ場合が澤山あるに相違ない。而も我々が斯う(279)した蕪雜な今風の民謠の中から、とも角も千年以來の我が民間文藝の過程を調べて見ようと思ふのは、つまりはそれが變化して來た、變化そのものに興味が感ぜられるからであつて、殘つて居るものに對してゞはなく、變つて來たといふ事實に對して、何事かを考へて見ようとするのである。
 
       二
 
 先づ最初には、詩形と言ふか、それを作成して居る言葉の形から考へて見る。成程近代の小唄は、すべてが都々逸風の七七七五に出來て居る。三味線など少しも知らない子守唄、工女唄などまでが、やはり此二十六文字になつてしまつて居る。これらの唄は、全く彼等の自由に任してあるので、殊に工女唄では、それを支配して居るものが樂器でなく、關係あるのは機械のリズムなのであるのに、それでも彼等は此形以外のものを作らない。當分は、俚謠と云へば先づ此形以外のものを考へる人はないだらうと思はれる位である。
 此七七七五の形といふものは、既に隆達などにも少しづゝは交つて來て居たが、主としては元禄以降に確定したもので、決してそんなに古いものではない。若しこれが、假りに三味線の勢力に伴なつて出來たものだとしたなら、さうした樂器からは全然解放せられた、盆踊唄、草刈唄などゝいつたものは、どんな形になつてもいゝわけなのだが、それがいつの間にか、此自由極まる民間詩をさへも拘束して居る。これには如何なる理由があるのか。一體、樂器に制せられて歌の形が固定するといふ理由がわからない。しかしこれは、民謠といふものゝ成り立ちを考へて見ると、多少わかるやうな氣がする。即ち民謠は、本來が從たる性質を持つて居る。といふわけは、作業が主で、それに附隨した歌だからである。して見ると今日の樂器は、恰も其作業に相當することになる。然らば、斯ういふことは考へられないか。今の七七七五の詩形から三味線の勢力を推斷し得る如く、それ以前の詩形、歌の形から、これを要求した作業の種類を想像して見ることは出來ないだらうかと。勿論それには、社會的の力といふものも考量(280)に入れなければならない。突飛な例を引くやうだが、日本で唱へて居る「南無阿彌陀佛」の形といふものは、頗る日本的で、更に地方的には、これが「なむあみだ〔五字傍点〕」から「なもでや〔四字傍点〕」にまで變化して居る。つまりは許されるだけの自由な形に唱へ變へて居るので、此嚴肅な言葉をさへも支配して居る何ものかゞあるのだとしたら、それが何であるかはかなり考へて見なければならぬ問題だと思ふ。民謠が世ををさめるやうに考へた人もあるが、實際は民謠を要求する社會的の力の方が一層強いのである。そしてこれは、文學に對する一つの挑戰でもあつたと見られるものだ。現在は文學の價値が高まつたので、譬へば芝居にしても、いゝ劇作があるからやつて見たい、名脚本があるから演じて見たいといふ風に、作物の方が王になつて居るけれども、以前はこれらの名作を殘して行つたセクスピアでも大近松でもが、皆役者の爲に其要求によつて書いたのである。民謠に於てもそれと同じく、それを要求する力の方が、民謠自身の持つ力よりも更に強かつたのである。
 
       三
 
 子守唄の一代古い形は、今あるものよりももつと詞章の長いもので、子供が聞き手になつて居るものである。今の「ねんねんころろ」は、子供を眠りにつかせる爲に唱へるのであるが、以前には、それよりもう少し大きい、三つ四つの子供の爲に、言語教育の最初ともなつた、膝に抱いて耳に聽かせたものがあつた。まだそちこちに殘つて居る童詞がそれである。そして之は、例へば「正月さんどこまで」の歌のやうに、子守唄と言つても、歌ふ方でも子供になつて居るのである。此中有名なのは、「でんでん太鼓」、「太郎どんの犬」などだが、實は、感動が強かつた爲に最終まで殘つたと言ふだけで、以前にはまだ幾通りもさうした長篇のものがあつた。「からすからすかんざぶろ」などがやはり其一つだつたのである。わらはことば〔六字傍点〕は、都會のものほど短い。これは子供自身が歌ふやうになつたからだと思ふ。原の形は、歩きながら、手をひきながら、ゆつくりと歌つて聽かせたものなので、かなり長篇のものがあつたわけだ。(281)「うさぎうさぎ、なぜ耳ながい」などでも、今では、
 
   ねんねん小山の小兎は
   なあぜにお耳がなあがいの
 
と、童謠の手本のやうにさへなつて、赤坊を眠らす歌になつてしまつて居るが、あれなども、もう少し大きくなつた子供に歌つて聽かせたものに相違ない。幼稚な理窟があつて、子供の笑ふやうなところのあるのを考へると、どうしてもそれだけのことが判る年齡の子供が、對手だつたことが想像出來るのである。今子供唄になつて居るのでは、「椎の實萱の實たべたので」となつて居るが、これも廣島縣の田植歌に交つて居るものなどを見ると、
 
   兎どの、兎どの
   なーいて耳がながいか
   うーねんでー生まれて
   谷んで育つてー
   うねのさうをも聞きたし
   谷のさうをもきゝたし
   ながいよー、ながいよー
   それで耳がながいよー
 
と、かなり理智的なのがある。
 
   田螺殿《つぶどの》々々々
   お彼岸參りさつせぬか
   お彼岸參りしようと思つたら
(282)   烏といふ黒鳥が
   目を突《つゝ》つき
   足を突つき
   それでえう參らなんだよ
 
 此歌なども、赤坊ではない、もう少し大きい子供に歌つて聽かせたものだと思はれる。「お彼岸參り云々」とあるのが、此歌を歌つて聽かせた季節までを想像させるやうだ。丁度子供の外へ出たがる頃で、ぢい〔二字傍点〕さんばあ〔二字傍点〕さんが、孫の手を引きながら畦道を歌つて行く樣子がはつきり眼に浮かぶ。
 これらの子守唄の中には、それが手毬唄に變つて行つたのがある。
 
   つく/\ほうしは何故なくね
   親もないか子もないか
 
 これなども、最初はやはり子守唄だつたので、「なぜなくね」は、子供に向つて「なぜなくね」と言ふのと、兩方にかゝつて居たのであらう。
 
   親もごんす子もごんす
   たつた一人の娘の子
 
あたりまでは元の子守唄だつたのだらうが、それが手毬唄に轉用せられる樣になつて、だん/\外のものがくつゝいて行つた。此歌で見ると、
 
   鷹匠にとられて今日七日
   七日と思へば十五日
   十五の玉を手にすゑて
(283)   をぢごのところへ參つたら
   牛馬つないで寄せつけぬ
   をばごのところへ參つたら
   よう來た/\お茶參れ
 
などと、全く外のものがくつゝいて居るのである。
 童詞は、此意味でもう一度調べ直さなければならぬと思ふ。子供自身の發明以外に、斯うした親達の教育があつて、子供に最初の日本言語を印象づけて居ることを考へて見ねばならぬのである。
 此種類の子守唄の詩形と言ふものは、はつきりとは判らぬが、そこに日本特有の兒童生活といつたものがあつたことを、臆げながら暗示して居る樣に思はれる。即ち斯くの如く子供の爲に計畫せられた、一種の作業唄とも言ふべき歌ひものがあつたとすると、其調子は、必ず兒童の成長に必要な調子だつたに相違ない。私が覺えて居る頃まだあつたものだが、子供を抱いて、「なあ」と言つてはある足どりで歩いて居るのを見たことがある。斯ういふ調子を何度も云つて聽かせて居る中に、一種の唱へごとが出來、それが童謠となり民謠となつたものが、昔は澤山あつたのだと思はれる。此意味に於て日本の童謠は、人間初期の要求から發生したとするのが私達の童謠に對する考へであり、兼ねてそれが民謠の基礎にもなつたと考へるのである。此子守唄を、子供自身最初に轉用したのが、乃ち手毬唄である。
 
       四
 
 此毬の運動と言ふものは、彈力があつて、間《ま》をかへ易いと見えて、いろ/\なものを毬唄に採用して居る。全く外の目的で歌つたものを利用し轉用して居るのである。
 いつか話して見たいと思つて居たことだが、手毬唄には、つきもの、はたきもの〔九字傍点〕ゝ唄、即ち杵唄から採つたと思は(284)れるものがある。民謠の性質を判らなくするのは、此轉用のためである。而も一方にはまた、何でも戀歌にしなければならないといつた樣なことも行はれて居るのであるが、恐らくこれは、民謠はいつでも、現在の目的を歌はなくともよいと言つた自由さを持つて居たからであつたらう。毬唄につきもの〔四字傍点〕ゝ唄を採つたのも、つく〔二字傍点〕といふ聯想からであつたと思はれる。
 此毬唄で、知つて居るものゝ中、最も巧みな形は、
 
   あれ見やれ向ふ見やれ
   六枚屏風にすうごろく
 
といつた、五七七五、五七七五で進んで行く形のものである。詩形として餘程進んだ形だと思ふ。歌はつぎ合せであるから、
 
   すうごろくに五番まけて
   二度と行くまい鎌倉《かあまくら》
 
となり、此「かあまくら」にひつかけて
 
   鎌倉に參る道に
   椿一本そうだてゝ
   その椿だての椿
   お寺へもつてつてそうだてた
   日が照ればすゞみどころ
   雨がふればやめどころ
   その雨にふりこめられて
(285)   お茶もいや/\
   たばこもいや/\
    しようがいな
 
となつて居るが、形としては最も進んだものである。今はあげまり〔四字傍点〕に使はれてゐるが、之はたしかにつきもの〔四字傍点〕ゝ唄の形である。俚謠集に載録された甲州南巨摩郡の麥搗唄に、
 
   大麥ついてよー麥ついて
   お手にまみ(豆)よ、九つ
   九つのまみよ見れば
   おーやの在所、こーひしよ
 
と言ふのがあり、伊豆の田方郡にも、
 
   麥よ搗くはつーらいな
   あじよろーてーに
   まーめがこーこのつ
   こーこのつのまーめをみーれば
   おーやのだいしようが、こへしい
 
と言ふのがある。多少形は壞はれて居るが、やはり五七七五の調子である。これに似た形のものは、同じ俚謠集に載つたもので、關東のものに大分ある。其外、大和田建樹氏の歌謠類聚に出てゐる伊豆の麥搗唄は、
 
   鎌倉では女がないとて
   猿に夜麥搗かせる
(286)   猿が三疋、小杵が三本
   どれも緞子の前掛けで
 
と言ふのだが、やはり五七七五の調子を持つてゐる。
 現在の麥搗きは、横杵で一人が搗くのだが、手杵の時代は、大抵女が搗いたと思ふ。三人が巴形になつて替り番こに杵を落すのであるから、其處に面白い調子が出たのである。前の二つの麥搗唄からも想像出來るやうに、一句違ひのところで後の企みが現はれて居る。これまであつた民謠の中では、非常に面白い形なのであるから、若しこれが、手杵のやうなものに伴なつてゐなかつたら、或はもつと流行を支配したらうとも思はれる。私が三河の伊良湖岬で聞いた舟唄は、
 
   天の星樣かぞへて見れば
   しまん九つ、やつ一つ
 
と言ふのであつたが、山形縣酒田の遊摺部《ゆするべ》の酒宴の歌に、
 
   ゆするべの、ゆするべの沼だよ
   鴨は九つ鵜は七つ
 
と言ふのがある。とにかく、此種の歌は歌ひ方を忘れるとすぐに形を壞はして行くが、これの盛んに歌はれた頃には、五七七五と互ひ違ひに歌つて行く、そこに面白味があつて、其面白味が歌の上に大なる魅力を持つて居たのだと思はれる。而も此愉快な調子が、早く亡びねばならなかつたのには理由があつた。即ち手杵の樣なものに伴なつて居たからである。またこれが、僅かに手毬唄の中に殘つたといふのにも、由つて來たるところはあるのだ。手毬が向合ひに受渡しの形でつくのが、古い時代の麥搗きに相通じるものがあつたからだと思ふ。
 斯うして此つきも〔四字傍点〕のゝ歌が、一方には毬唄に轉用せられたが、一方では、これが臼挽唄にも歌はれて居る。挽くと(287)搗くとは大變な相違であるが、これも臼といふ聯想からの轉用と思はれる。だから挽く樣になつても、やはり歌詞は「はたいて粉にして」と、以前と同じ主旨で歌つて居る。勿論勞働の性質が違ふから、調子は變つて居るに相違ない。和歌山の麥打唄だつたと記憶するが、
 
   五月來たらこそ
   お前とわしと
   肩をならべて
   むぎをうつ
 
といふのがある。肩を竝べては、挽く方であるに相違ない。しかし、「五月來たらこそ」の「たら〔二字傍点〕」は、麥を打つときの音べつたらこ〔五字傍点〕が入つて來て居るのだと思はれる。しかし此搗唄が粉ひきに歌はれるやうになつたのは、さう古いことではないと思ふ。其前に或は籾摺に歌はれて居るかも知れない。「粉星々々」節は此粉挽から出來たと思はれるが、それの出來た年代から見ても此粉挽がさう古いものでないことが判る。大體粉挽きの石臼が出來たのは、江戸も半ば過ぎである。籾摺の方は木製土製で、勿論それより古いわけである。
 
       五
 
 五七七五の形は、互ひ違ひに歌つた、つきもの〔四字傍点〕ゝ歌から出たと見られるに對して、此外のものは、大抵七五、七五と並行式に進む形をとつて居る。此式のものでは、
 
   お前まち/\、蚊帳のそと
 
 或は、
 
   くもらばくもれ、箱根山
 
(288)など、斯うした形のものが最もよく知られて居ると思はれる。
 此形が、何から出て居るかは判然しないが、恐らく田植唄あたりが原《もと》であつたらうと思はれる。さうして、此七五は、更に古くは、七が四と三とに分れたのであつたかとも思はれる。「お前、まち/\、」或は「くもらば、くもれ」と言つた風に、四、三、或は三、四とに分れたやうでもある。
 しかし、此形のもので最も注意すべき點は、此七五七五或は五七五七と進んで行く問に、更に五文字が挾まれて居ることである。例へば、
 
   くもらぱくもれ、箱根山
 
の後へ、
 
   はれたとて、お江戸は見えはせぬ
 
と、「ほれたとて」の五文字が入る。「お前まち/\」の方でも、「蚊にくはれ」と、やはり五文字が入る。ところが此形は、田植唄に一番多いのである。
 俚謠集で見ると燒米搗唄や麥搗唄などにもこれがあるが、恐らくは其方が轉用だと思ふ。近頃のものでは、外にもあるかも知れぬが、相州鎌倉郡のものに
 
   五月になれば、思ひ出す
   わが殿は
   水かけ論で、討《うー》たれた
 
と、七五の中へ「わがとのは」の五文字が入つて居る。上總の東金節なども此形から出來た一例である。
 
   東金の、茂右衛門の嫁は
   江戸から
(289)   江戸も江戸
   本町二町目の、茶屋の小娘
   長持が七さを八さを
   八つゞらと
   八つゞらへ腰をかけ
   あひのお銚子
   お銚子の浦で、綱を引く
   網引かば、みごしにかゝれ
   このしろで。サンナー
 
 此形の變化して行つた順序は、よく判ると思ふ。やはり田植唄に最も多い形であるが、一つには上と下とを別の人が歌つたからで、即ち上の人の歌つた一部をとつて次を歌ふのである。だから、以前は同じ言葉を二度くり返したのだと思はれる。作業の種類によつては、離れて居て掛合で歌ふやうな場合もあるのだから、さうした時には間があく方が都合がいゝので、其間をもう一度歌つたとも見られる。石見出雲などの田植唄で見ると、
 
   大山の、ヤーハレ、
    お山へ登るかどいでに、ヤーハレ
 (下)かどいでに、ヤーハレ
    あざごり、とるよしやうじ川に
 
と言つた風に、上の句の下の一句をとつたのが幾らもある。これによつて見ると、前に引いた「五月になれば思ひ出す」なども、やはり「思ひ出す、思ひ出す」と、元は此終りの句をもう一度重ねて歌つたのではなかつたかとも考へ(290)られる。それがいつか、其重ねた方の五文字だけが他の文句に變つて行つたので、例へば香取神宮神田耕式の歌、
 
   あれみさい
   つくばの山のよーこぐも
   よこぐもの、下こそ
   わしらがおーや國ー
 
といつた調子に、「横雲の、横雲の」と重ねて歌つたのを、やがてそれが一人で歌はれるやうになると、もうそれだけの言葉も遊ばせては置かないで、即ち「蚊帳のそと、蚊にくはれ」と後の五文字を替へてしまふのである。斯うした例は、他に幾らもある。今は下總香取郡の田打唄になつて居るものに、
 
   仙臺船が、出て走る、荒磯の
   わかめが、ヨーよれてからまる
 
といふのがある。遊女が別れを惜しんでゐる氣持を歌つたのだから、「荒磯の、わかめ」と歌つたのだが、やはり元は「仙臺船が出て走る、出て走る」の繰返しであつたのだと思はれる。此重ねて歌ふところは、今聽くと囃子に近く聞かれるが、元はやはり二人によつて歌はれた、受渡しの箇所の文句であつたのだらう。
 此繰返しで大層面白いと思つたものは、越後北魚沼郡の田植唄である。
 
   山田小谷内《こち》で、田をいゑれば
   嫁の白いもゝ、蚊がさす
   蚊がさすや、蚊がさす
   嫁の白いもゝ、蚊がさす
 
と言ふのだが、如何にも面白い。「蚊にくはれ」も、或はこんなところに原形があるのかも知れない。
 
(291)       六
 
 此形が、田植唄から出たと見るのは、或は誤りであるかも知れない。しかし此七五五七五の、中の五文字が、最初は繰返しの言葉であつたと見ることだけは間違ひがないやうである。これは、此歌を生み出した、元の作業が判れば面白いと思ふが、恐らくは田植唄が最初だつたのだらう。今の處では、さうとより考へやうがないのである。
 七五、七五と十二字で一つの歌を作つて行く形は、大體中世の所謂今樣で始つてゐると思ふが、これに五文字を入れる前述の形は、それが文學的に作らうとした側の要求からであつたかどうか、どうもさうではなかつた樣である。勿論長い語りものには、さうした例もないことはないが、事實作業歌としても、短い七五の繰返しだけを歌つた時代が、確かにあつたらしく、さうした痕跡もあるのである。例へば下總印旛郡のぼつちやらぶち〔七字傍点〕の唄(穗藁、麥藁などを打つときの唄)に、
 
   むかひこやまの、ゆりのはな
   一枝さいても、ゆら/\と
 
   多胡のたかねの、猿曳きは
   日さへくれゝば、ひきたがる
 
などゝ言ふのがある。これで見ても、此短い七五を繰返して居る間に、一人が上の句を歌つたあとへ、次を歌ふものが繰返へしの五文字を入れて後を受けたといふ順序も、略想像が出來さうにさへ思はれるのである。ところが、此七五、七五で進めて行く最初に、更にもう五文字をつけて歌ふ形の歌が、中國の山村の田植唄に見えて居る。
 
  (さげ) 田の神は、此家へござる、正月に、正月に、
(292)  (五月女) 正月に、春三月は、田へござる
 
と言つた類のもので、これで見ると、五七五、五七五と言ふ形になつて居る。これは或は音律にも關係があるのではないかと思はれるが、音樂のわからない我々には、其方面から論ずることは出來ない。たゞ、實は我々が、長い間其起源に就いて思ひ煩つて居た和歌の三十一文字の起りを、これによつて想像して見ることが出來るやうな氣がするのである。即ち五七五七五で進んで行かうとして居たときに、其間に繰返しの五文字が挾まつて、そこで和歌の三十一文字と別れて行つたのではなからうか。此五七五七五で進んで行く形で見ると、和歌の三十一文字と違つてゐるところは一點しかない。また今樣と違つて居る點も一つしかない。更にまた、前に言つた「六枚屏風」式の七五五七、或は五七七五のものと違つて居るところも一點しかないのである。
 
       七
 
 民謠の古い形と和歌との間に於ける近より難い一點は、和歌の終りが七七になつて居ることである。しかしこれは、こゝまで考へて來るとどうやら次の形で説明が出來さうだ。説明とまでは言へないにしても、これだけのことは考へて見ることが出來る。これは同じ感情を追駈けて行つて力を強めるといふ風があつたのではないか、和歌の終りに七七を重ねるのは乃ちそれではなかつたかと考へて見ることである。さうは言つても、現在のところでは、いろ/\の點からたゞぼんやりとさうした事を想像して居るだけなのであるが、和歌が最後で七七を重ねるのに對して、都々逸は歌ひ出しの初めで七七を重ねて居る。しかしこれは、やはり力を籠めるところで重ねたのが原の形で、或は前の田植唄の例でも見られるやうに、一つの歌の中で、同じ句を二度つゞけて歌つたのが最初の形ではなかつたらうか。
 猶此七七を重ねて行く形は、踊歌にもあるが、此方は、それで足を左右に動かす律動が伴なつたのであらう。對句などがよく使はれて居る。歌ひ初めに七七を重ねるのはそれではないかとも考へて見る。しかし現在踊つて居る型と(293)いふものはさう古いものではない、かなり新しいものだと思ふ。踊といふものは常に變つて行くのが普通なので、土地によつては、三つも四つもの踊りをあれこれと踊つて居るが、同じ擧動を幾度も繰り返して居る中には、そこに一種の面白味が出來て、やがて一つに固つて行くのである。さうなると、同じ歌でももう元の心持では歌はなくなる。踊歌が常に變つて行くのは、踊そのものが常に新しく變つて行くからである。だから、今は歌だけ殘つて踊りを伴なつて居ないと言ふやうなものも澤山ある。適切な例は、盆唄として殘つて居るものゝ中に、一番多くそれが見られる。今はもうどこでも踊らなくなつてゐるが、昔はたしかに踊つたと想像の出來る歌が幾らもあるのである。
 
   むかひの山に、啼くうぐひすの
   ないてはさがり、ないてはあがり
   朝草刈の、目をさます
 
 これは北國巡杖記に出てゐる越中五箇山のコキリコ唄であるが、これを見ると、江戸で近年まで子供達が記憶してゐた盆唄、
 
   長い/\、兩國橋長い
   お馬でやろか、お駕籠でやろか
   お馬もいやよ、お駕籠もいやよ
   十六七に手を引かれ、手を引かれ
 
といふのと、殆と同じ形だと見られるが、これなどは確かに、間の七七、或は四三、四三で左右に踊つて、終りで七五にもどるといつた形のものであつたと思はれる。同じ形の歌は、他にもまだ澤山ある。俚謠集に出て居る名古屋の盆踊唄には、最もよくこれに似たのがある。
 
   盆ならさんよ、盆ならさんよ、
(294)   ぼうんが來たに、帶買つておくれ、
   赤いがえーか、白いがえーか
   赤いもいやよ、白いもいやよ
   當世はやりの、ぬひのおび/\
 
 斯うした調子の歌は、外にまだ/\澤山ある。
 
   こゝらの子供はをちやくい子供、
   石ぶつけたり、砂ぶつけたり、
   あひまにわらぢを、ぶつけたり、/\
 
などもやはり其一つである。
 元來盆踊唄といふものは、子守唄が二度變つたと同じやうな變り方を、幾度も繰り返してゐる。長い口説になつたり、短い唄になつたりもして居るが、文句の方でも、對句にしたり、同じ文句を二度重ねたりしたのが、いつか全く變つた文句に更められたと言つたやうなことも確かにあつたと思はれる。前の歌が相州では、次のやうに變り、また外のものに結びついて居る。
 
   こけらの野郎どま、意地のきたない野郎どま
   西瓜の皮拾つて、
   あつちよ向いちやかじり、こつちよ向いちやかじり、
   かじり殘りを袂へ入れて、
   一の坂越して、二の坂越して、
   三の坂めには、井戸掘りながら、
(295)   井戸はまき井戸、吊瓶は黄金、
   黄金の竿へ蜻蛉がとまつて、
   やれ飛べとんぼ、それとべとんぼ、
   飛ばぬといふと、羽きりするぞ
 
 斯うした變化は、前の田植唄に於て五字を重ねたと同じやうに、初めは單に同じ文句を重ねるだけであつたのが、いつかそれを對句にして歌ひ、また全然變つた文句で言ふやうになつた。前の歌の例でいふと、
 
   向ひの山の
   なくうぐひすの
 
   なくうぐひすの
と言つたのを、
 
   なくうぐひすの
   ないてはさがり
   ないてはあがり
   朝草刈の目をさます
 
と言ふやうになつた。要するにそれは、踊りの進行中に變つて行つたと見られるものである。そしてそれと同じものが、和歌、都々逸の七七になつて行つたのではないかと考へて見るのである。
 とにかく世の中の變遷につれて歌の形なども變つて行つた。昔は流行唄の勢力が、現在ほどではなかつたであらうが、それでも七七七五のものが歌はれるやうになると、子守工女までがそれを歌ふやうになつて行つたといふことはあつたのである。だから我々は、僅かでも猶古いものが殘つて居るとしたら、それが踊歌であつたか、搗歌であつた(296)かといふ其最初と、それの轉用された道筋とを調べて見たい。それが判つてくれば、今日我々が辿らうとして居るところの大凡は見當がつくのである。從つて前代人の働いて居た氣持なども判つて來ようと思ふ。民謠を調べて見ようとして居るものにとつての興味はそこにある。單に言葉だけではない、これの持つ面白味がそこに感じられるのである。豫ねて斯ういふ場合に歌はうと用意して居たものよりも即興のものは、言葉はまづくとも意味深いといふわけがそこにあるのである。
 
       八
 
 同じやうな氣持で、我々は囃子の起りを考へて見ることが出來ると思ふ。民謠が現在の流行唄になる以前には、囃子にもそれ/”\の任務があつた。即ち作業の要求から生まれたものだと思ふ。今日では、單に耳に快い響きを與へる音としてだけしか考へられて居ないが、これの起つた始めは、歌としての言葉よりも、更に一段と適切に内の要求の現はれであつたと思ふ。
 外國の民謠にもさういふものがあるかどうかは知らないが、日本のものには、大體目的が二三あるやうだ。第一は、此さきがどうなるか判らないといふ不定の場合に、疑問として殘して居るものを言葉にしたもの、それをたしかめるもの、更にもう一つは感嘆の言葉である。例へば踊歌で言へば、次の踊がどんな手が出るか判らぬ時が囃子になるのである。しかし踊歌には、殊に囃子が多い。恐らくこれは、相手が目に見えぬ精靈であつたことに原因があるのだと思ふ。いまは「どつこい/\」になつて居るが、これは「どこへ」のことであらう。「なんだそれ」即ち疑問から出てゐる言葉である。これに對して「こらしよ」「きたさ」はたしかめの意を持つた言葉で、即ち肯定の場合である。「はれ」は「あはれ」、「やれ」は「向ふへやれ」である。「はりはいさのさ」は、對手に對する批評といふか感嘆といふか、さうした氣分の多分にあるものである。そしてこれらの囃子は、民謠としての意味ある文句と同じやうに歌はれて居た。(297)勿論後には、歌そのものが囃子的にうたはれて居たのでもある。
 次に木遣唄だが、地方の木遣唄は殆と掛聲即ち囃子言葉の連續のやうなものである。これは大きな作業を短い言葉で言はねばならぬ必要があつたからだと思ふ。外國のものはあまり聞いて居ないからわからないけれども、向ふのもので繰返し言葉のつかはれるものは、極簡單な感動詞のやうなものばかりであつたと思ふ。中には日本の囃子をもこれと同視して居るものがあるが、日本の方はなか/\囃子の種類が多く、時には此囃子が、歌の部分になつて居ることさへもあるのである。例へば俚謠集に出てゐる佐渡の盆踊唄を見ると、他地方のものに比して殆と初めの一句だけしかないものが多い。恐らくこれは同じ言葉の繰返しである爲に略したのだと思はれるが、こんな例は必ずしも佐渡ばかりではないと思ふ。即ち其部分だけが囃子言葉として同じものが繰返されて居たのであらう。元來盆踊は、躰の擧動に力が入ると見えて、歌は概して簡單だつたのである。ほんの一句か二句のものさへもあつた。これが長い口説など複雜なものになつたのは、音頭を頼むやうになつてからである。
 囃子といふものは、恰度口と手の間のやうな氣持を持つて居るものである。だから實際問題としては、面白いものでさへあれば何でもよかつたので、新作でもよく、また其必要のないものでもあつた。殆と内容のないこんなものが存在したのは、かなり奇異に思はれるが、實は踊るものにとつては、乃至作業の上に於ては、囃子と歌とは全く同じものだつたのである。
 
       九
 
 話が多少區々になつたが、作業の強さ弱さ乃至は緩急の速度などが、此囃子の上に現はれて居るものがある。近世の例で言ふと、綿打唄などは、手を動かす機敏さが必要だつた爲であらう、歌の方がまけて歌の中へ仕事の律動が入つて來て居る。「わたうちびんばう〔四字傍点〕」などいふ文句があるのは、どうしたつてびん/\〔四字傍点〕と叩く弦の音が歌の中へ入つて(298)來たのだと思はれる。甲州の綿打唄では、これが、
 
   ほかしやさんのびん〔二字傍点〕の毛は、
   奧山の、木の花の
   さいたごとくよ。ペンヨ/\
 
と、「びんの毛」などゝいふ言葉になつて入つて來てゐる。更にこれが甲府の綿打唄では、
 
   はかしや|しんしよ《(身上)》、しれたもの
   弓一分、籠二朱、つちが三百
 
とある。此「ほかしやしんしょ」のしんしよ〔四字傍点〕なども、やはり此弦の音から來た言葉だと思はれる。前に引いた麥搗唄「五月來たらこそ」のたら〔二字傍点〕が、麥を搗く音ぺつたら〔四字傍点〕から來て居るのも其一例と言へる。
 此種のもので古くからあつたのは、木挽の歌に見出される幾つかである。一體木挽といふ職業は、苦しい勞役であつたからだらう、其勞作が歌の上に現はれて文句を支配してゐる。
 
   曳けどしやくれどこの木は挽けぬ
   どこのどなかの松ぢややら(三重縣三重郡)
 
といつた勞作を歌つたものに對して、また、
 
   木挽やよいもの板さい割けば
   刻煙草に米の飯(宮崎縣宮崎郡)
 
といつた慰安のものもある。
 斯うした心持を歌つた歌は、子守唄工女唄などに幾らも見られる。
 
   ねんねしなされおやすみなされ
(299)   寢れば子も樂守も樂
 
だの、
 
   守といふもの淺ましものよ
   道や街道で日を暮す
 
だのと、我と我身を歌つたものが幾らもある。要するに、歌ひ手が單純な心の持主であるだけに、彼等は容易に仕事に支配されるのである。
 囃子が作業につれて出來たと見られる側のものでは、地搗唄、どう搗唄の「さんよ/\」などがやはりそれだと思ふ。
 
   お家の始めは龍柱
   皆さんお聲を揃へて頼みます
    アーヨイヤヨーイトナー
    サヨナで三つ四つ頼みます
   二番おこして牛柱
   御家にまします御堅め
   皆さんお聲を揃へて
    アーヨーイヨイヤーヨイトーナー
    サンヨナ/\
 
 これは俚謠集に出てゐる山梨縣南都留郡の地搗唄だが、思ふに「さ」は囃子で、「よう」は「あげよう」の意であらう。ところが此「さんよ」が、いつか「西行法師」といふ人物の名に變へて歌はれるやうになつた。
 
(300)   さつても、さつても
   さつても西行のぼんさんが
   はじめてあづまにくだられて
 
とか、
 
   昔西行のぼんさんが
   はじめて都に上るとき
   水ない川を渡つたら
 
とかいつた文句に變つてしまつたのである。
 斯うした例で、もう一つ著名なものは、絲紬唄の「しんきしのまき」である。
 
   しんきしのまき
   くるまにのせて
   日數まはさにや
   よりはこぬ
 
 これなどが元歌であつたらう。「しんきしのまき」はしの〔二字傍点〕を卷く時の音から出たものに相違ないが、それが遂に「しのまき節」といふ一類をなすほどにさへなつたのである。
 
       一〇
 
 これらの歌の文句や囃子言葉は、普通即興的と言はれて居るが、然らば即興とは何か、奇想天外的のものか、或は天才的の發生か、いづくんぞ知らんや、それは歌ひ手の意を知らずには、到底説明の出來ないものである。たゞ多く(301)の歌を比較して見て居る中には、多少なりともそれが判つて來るやうな氣がする。さうして斯うしたものが歌ひ始められ、歌ひ續けられて來たのは、彼等が日本人であつたが爲に歌はせられて來たのであつて、決して個人的の力ではなかつたと言ふこともわかつて來るのである。これは文學の格調などを調べるに於てもやはり同樣だと考へられる。よく日本文學の特徴などゝいふことが言はれるが、これは日本人にして初めて言ひ得ることで、外國の者などに判る筈のものではない。
 やはりさうしたものゝ一つだと思ふが、自分が此頃になつて――一昨年あちらからの旅行から歸つて後のことであるが――ふと氣のついたことがある。日本の文學には老を嘆く特殊な氣持が流れて居る。我々が「男山式」と言つて居るもので、古今集の歌、
 
   いまこそあれ我もむかしは男山
   さかゆくときもありこしものを
 
の一首が代表して居る、此氣持の流れて居ることであるが、日本の文學に、かうした歌が割合に多いのは、歌よみならば、一生に一度はさうした歌を詠むといつた、最初からそんな思ひ上つた氣持があつてかどうかを、疑ひ出したのである。
 現在もまだ歌はれて居ると思ふが、かうした歌は、文學としての和歌にあるばかりではなく、俗謠民謠にもそれがある。兎園小説に書き止められた一節が先づ我々に教へてくれる。江戸時代に、最初は芝居から流行り出したらしいのだが、文化四年の冬から巷間で歌はれた小唄に、
 
   わしがわかいときや
   おかめというたがのんころ
   今は庄屋どのゝ子守りする
(302)    ねん/\ころ/\ねんころり
 
といふのがあつて、これが流行風邪の凶兆となり、翌年の八九月頃から猛烈な流行性感冒が猖獗を極めたとある。
 此小唄が、一般に歌はれるやうになつたのは、子守唄になつたのだと思ふが、しかし斯うした歌の流行したのは、此時が始めてゞはない。其以前に幾度も歌はれて居たのだ。明治になつてからもそれがある。また、民謠としても幾つかのものが殘つて居る。越後の三がい節に、
 
   おらが若いときや
   印籠巾着さげたが
   今ぢや年より皺より
   お寺の過去帳につくばかり
 
といふのがある。三がい節は盆踊唄である。下總にも、やはり踊歌らしいのだが、
 
   わしが若いときや
   そでつまひかれ
   今は孫子に手をひかれ
 
といふのがある。何れもこれが述懷でなく、踊りの歌であることが大變に面白い。俚謠集を見ると、岡山縣都窪郡では茣蓙織歌となつてこれが殘つて居る。
 
   うちがーわかいときやー
   あーさんどーなれやー
   おひなかみゆうて、だんだらかけもの
   絲ぶさかんざし、黄八の著物に
(303)   ほんねる下著に、しゆちんの帶して
   一樂《いちらく》羽織で、しら足袋はいて
   いちやのせきどで、さしたけかたいで
   ドツコイドコシヨデ、ござおりなさーれ
   それに迷ーはぬ人はーなしー
 
 しかし、恐らくこれも原は踊歌であつたに相違ない。隱岐の知夫里の盆踊歌にこれと似たのがある。
 
   わしの若い時や
   あちらからも、こちらからも
   嫁にとらとらと、ヤートセー
   あちもいやいや、ヨーホエーナー
   あとでかたはの男を持つた
   あたまさえかち、かみやしよろのひげ
   まえげ八の字、目はさるまなこ
   鼻は獅子鼻、口や鰐口で
   胸は鳩胸、出腹で出尻
   あゆむすがたはあひるのすがた
   あんなものでも
   とのと定めれや、かはゆてならの
 
 岩手の奴唄には此種の歌がかなり多い。
 
(304)   我等も若い時には栗の毬さへ食ん呑んだ
   今は年寄天と髭とに倒された
    イヤスススノス辨慶ダンベーカヤイ
 
   我等も若い時粉糠奴子もふつてみた
   今は年寄、年寄天と倒された
    イヤスツスノス辨慶ダンベー
 
 これは踊歌としてよりも、酒宴の席で歌うたものらしく、かなり古いものと思はれる。
 
       一一
 
 どうしてこんな歌が、酒の席や踊歌として歌はれて來たのであらう。單に老を嘆くといふだけであつたら、寧ろ人が嫌がる筈であるのに、何故それが樂しかるべき酒の席や踊の歌として歌ひ續けられて來たか。此理由は、單純には説明が出來ないと思ふが、嘗つて秋田から岩手へ山越をする折に、其山間の湯瀬《ゆぜ》で採集した歌にもこれがあつた。
 
   おらも若いとき
   山さもねたけ
   かぬか《(草原)》錦に芝まくら
 
 同じやうな歌を南秋田でも耳にした。
 
   おらも若いとき
   山さもねたが
(305)   こだすまくらに
   さはなりに
 
 雪國の青年男女にとつては、雪解の後、青草の萌え出る頃ほど、愉快な時期はないのである。彼等は此頃になると、籠を背負つて山に出かける。此歌はさうした時にも歌はれるので、これで見ると、此歌が、決して單なる老いの嘆きでも、また「青年老い易し」系統のものでもないと言ふことが感じられる。そこで或はと考へて見ることは、さうした青年男女の爲の、結婚媒介の意味から此歌が歌はれたのではないかと言ふことである。前に引いた男山の歌も、單に昔榮えたことがあると言ふ述懷、乃至は現在の老を嘆くだけのものではなかつたのではないか。古今集の序に「をみなへしの一ときをくねるにも」とある。日本にはをみなへし塚などゝいふわからぬ傳説があるが、「一ときをくねる」とあるによつて見ると、どうも昔そんな歌があつたのだと思はれる。それが或は民謠式のものであつたかも知れない。いつかこれが文學になつて、「我も昔は男山」風の詠歌になつたのであらう。だから文學として研究する方の側からは、何故こんな歌が詠まれるやうになつたかはもう判らなくなつてしまつたのであるが、民謠の方では、無意味にそれを傳へて來た。恐らく昔は、男女を媒介する爲に老人がこんな歌をうたつたのであらう。痘痕《あばた》の老人を連れて來て種痘をさせるといつたポンチがあるが、かうしたものにも、長い傳統的な基礎があるので、昔は男女を媒介するとき、さうした老人をつれて來てこんな歌をうたはせたのではなかつたゞらうか。老人を尊敬する思想の少なかつた時代に、老人をそんなことに利用したのではないかと考へられるのである。今日では、そんな意味はもう疾くに忘れられてしまつたけれども、歌だけは猶歌はれて居る。そして遂には子守が歌ふ時代にまでなつたが、子守がこんな歌を歌ひ出すわけはない。やはり古くからあつて歌はれて來たのだと見なければならぬのである。
 
(306)       一二
 
 自分は嘗つてシュクロブスキーの「北東サイベリア」といふ書物を讀んだことがある。今ふと其一節を思ひ出した。北東サイベリアといふのは、北緯七十度よりも更に北で、チュクチ人種などの住んで居るところであるが、此處の春といふものは全く野が一變する。北極に近づくほど動植物の盛りが極めて短いので、春というても殆と瞬間なのであるが、月が朧ろに照る五六月の候になると此地方にふさはしい年中行事として、若い男女が其野中に集つて食物などを食べ、歌をうたひ舞踏をする。其時、殆と骨と皮とになつた旨目の婆さんが出て來て、これらの若い男女の歌を聽きながら、やがて自分も歌ひ出す。
 
   老いたる骨に
   日の光りのうれしさよ。
   おみ達と踊ることの
   如何に樂しかるべきぞ。
   さあれ、おみ達と踊るのも
   私には今年が終りであらう。
   再びかうした日がめぐり來ようとは思はれぬ。
   やがて此骨には土が覆ふであらう。
   塚の上には青草が生えるばかりである。
   踊れ、若者達よ。
   抱かれよ、若者達。
(307)   來る年には、
   私の骨の上に生えた青草を踏んで、
   また踊れ。
   踊れ、踊れ、若者達よ。
 
といつた意味の歌をうたふのだといふ。著者にも十分わかつて居ないやうであつたが、要するに此踊り此集りの目的は、彼等の短い人生に、其野に咲くと同じ花を咲かす爲のものであつた。即ち、種族の繁殖の爲の行事だつたのであらう。樂しい踊の集りの中へ、こんな盲目の婆さんが出て來て歌を歌ふといふのは、とりも直さず自分の老骨を見本にして、若者達に其行爲を急がせることにあつたのだと考へられる。必ず起りは非常に古いことであつたに相違ない。
 
       一三
 
 斯やうに、文學の方では疾くに其原意が忘れられて單なる述懷か乃至は道義の教訓にさへなつてしまひ、實生活の上では年寄の出しやばり扱ひにされて居る斯うした老人の氣持、殊にそれを酒宴の席や踊の場所に持ち出したがるといふのにも、由つて來たるところはあるのだ。
 前に引いた「北東サイベリア」の野遊びには、婆さんが出て來て歌をうたつたとあつたが、これは遊女がうたふのが普通のやうである。殊に彼等は、年をとれば、歌より外には鬻《ひさ》ぐものがないのである。
 歌は踊にばかり附隨したのではない。酒宴にも亦歌はつきものであつた。酒宴の歌は、現在では最早全く意味のないものになつてしまつたが、或る時代までは、人に酒を強ひねばならなかつた爲に、酒席には必ず、これらの人に食はせたり飲ませたり、もう一ぱいとすゝめるものが居つて、歌をうたつた。今でも酒の席では、「飲めや歌へや」式の歌が多く出る。今うたつて居るものは、たゞ飲めや歌へやだけで、とりもち〔四字傍点〕の意味などはもうなくなつてしまつて居(308)るが、昔はとりもち〔四字傍点〕の意味で此種の歌が多く歌はれた。何故こんな、酒屋のまはしもの見たやうな歌が多く歌はれたかと言ふと、酒は飲まねばならぬと嚴格に考へられて居た時代には、誰かさうしてすゝめるものがなければならなかつたので、其役は女がつとめるのが普通となつてゐた。これが遊君遊女の濫觴でもある。後に狂言記などを見ると、肴をしてくれといふと立つて舞ふのがある。踊の方は擧動がさきになるのだが、舞の方は、歌つて居る中に自然と舞ふやうになるのである。此場合には、酒をすゝめる歌をうたつて居る中に、やがて立つて舞ふことになつたのである。
 全體に昔の酒宴は、時間が短かつたやうである。短い時間に早く昏々たる?態になつたやうだ。これが長い時間を要するやうになつたのは、此酒宴が儀式祭事を離れて快樂の爲のものになつたからである。追々に大酒家なども輩出し、長夜の宴をはつて、いつまでも飲んで居るといふ風が生じたのである。
 酒宴の面白くなつて行つたのは、此酒をすゝめる歌の變化からだと思ふ。其點で、歌の大切がられたのは、踊の場合に於けるよりも、寧ろ酒宴の方にあつたやうだ。踊も酒宴も、いづれの場合にも歌が興をつないで行つたのではあるが、踊の方には、さう澤山の歌は必要でなかつた。また一寸位は興を切らしてもよかつたのだが、酒宴の席で歌が切れては、酒だけで座をはづま〔三字傍点〕せるといふことは困難であつた。殊に長夜の宴をはるやうになつてからは、無限にこれが必要となつた。此必要から酒宴が歌を集めるやうになつたのだと考へられる。勿論貴人達の間には、專門の歌うたひがあつて、長い歌ひものが創作せられるやうにもなつたが、さうした專門家を持たなかつた田舍では、どうしても採集によつてそれを補はねばならなかつた。此意味に於て、歌の轉用を眞先に行つたものは、子守唄でなく、此酒宴であつたと思はれる。恐らくは、踊歌よりも作業歌よりも、何よりも先であつたらう。勿論新作の必要も認められたではあらうが、到底それでは間に合ふ筈がなく、あらゆる種類の歌を順次採用して行つた。踊の歌もうたつたであらうし、田植唄苗取唄までも歌つたところだつて、なかつたとは言へない。これが日本の民謠の目途を混亂せしめた、最も大なるものであつたといへる。
(309) 酒宴が、あらゆる種類の歌を集めたといつても、それは慰みの酒席でのことであつて、儀式としての晴の盃には、歌にもおのづから順序があつた。儀式祭事の酒宴に、無闇に雜謠を入れなかつたことは、田植の歌に朝晝夕の歌の區別があつたと同じで、酒席にも二獻の歌三獻の歌と、それ/”\に違つた歌があつたのだ。それが歌はれなければ酒宴が終らないやうな氣がしたことだけは、長く後々までも習慣として人々の心に殘つて居たやうである。
 先頃對馬の方言集を見せてくれた人があつたが、同地では、「さかもり」と言ふ言葉に特殊な意味があつて、酒を飲んでも其席に婦人が交つて居ないと、さかもり〔四字傍点〕とは言はないのである。
 日本では、古くから酒の監理者は婦人であつた。單に釀す場合だけでなく、汲んで來るのも酌をするのも女であつた。たゞ婦人を伴なはない軍隊では、小姓が其役をつとめた。此婦人が、優しい感情を表はした歌で酒をすゝめたので、それが婦人の公の役目のやうになつて居たのである。
 猶此酒は、一方婚姻と關係を持つて居る。固めの盃などゝ言つて盃を交はす風は今も殘つて居るが、此風は、一夜づま〔四字傍点〕との關係を結ぶに於てさへも守られた。地方によつては現在もまださうであるが、一般に極最近までは、男女の關係は酒で固めなければならぬと考へられて居たのである。
 全く可笑しな話だと思ふが、此忙しい世の中になつても、まだ多くの人は、酒と女と歌とが揃はなければ、何か缺けて居るものがある樣に考へる。彼等は、意識もせずに此三つがあつて當然と考へてゐるのであるが、其由つて來たるところは斯くの如く久しい。一種の因習の餘弊から覺める爲にも、これだけの事實を知らねばならぬと考へる。
 ワイン、ソング、エンドウーマンの關係、酒を飲めば情慾の起る理由など、斯うしたことは、もう外國では全く判らなくなつてしまつて居るが、日本では、今の中に調べて置けば、多少は見當がつく。我々が民謠の起源變化轉用の跡を整理して行かうとして居る理由がそこにあるのである。
 
(311)  俳諧評釋
 
(313)     はしがき
 
 最初は江戸の市井學者が試みたやうに、近代生活誌の切れ/”\の資料を、俳諧の中から見つけ出さうといふのが、私などの簡單な動機であつた。それも樂しい仕事ではあつたけれども、是だけではいつ迄も不明な點が多く、第一に連句といふものに親しみをもつことが出來なかつた。近頃になつてのうれしい經驗は、作者の境涯や氣持に少しづゝ注意するやうになつてから、今までわからなかつた附句の心持が、ふいと心付かれる場合が段々とふえて來たことである。評釋などゝいふことは、旨蛇な話だが、斯うして一句々々を見て行かうとして居るうちには、不思議に骨を折らずに、あらかた全卷が暗記せられるやうになつた。是だけは私の方法が惡くなかつた證據のやうにも思はれ、できることならばそれを實地の例によつて、遺して置いて見ようといふ氣になつたのである。
 俳諧が第二藝術であるかどうかといふことは、すこぶる面白い問題のやうに考へられるが、是を作者自身に問ひたゞして見ても、藝術といふ語さへ無かつた時代の人なのだから、答へが得られないことは先づ確かである。たゞあの人たちはちやんと心得て居て、今の人に忘れられさうになつて居ることは、俳諧は作者に最も樂しいもの、讀者はせい/”\それと同じ樂しさを味はふのが先途で、それも人が變り世の中が推し移れば、次第にわからぬことの多くなるものだといふことである。それから考へると俳諧の活きて居るといふことは、是からもどしどしと作られることであつて、たゞ古い文獻が版になることだけではなかつた。さうして勿論さうあるべきものと、前人も豫期して居たのである。へたでもいゝぢやないかといふことを、たつた一言いひ忘れたばかりに、みんな芭蕉翁を最高峯と仰いで、それからは降り坂となり、或はなまけて麓の草原に寢ころんでしまつたのである。發句にかけては憚りながらと、心窃かに自得した人たちが、發句だけを盛大にした。是が何よりも心強い前例では(314)あるが、寧ろそんな比較などは、始めからしない方がなほ好かつたのである。人に負けまいといふことは俳諧の一つの通弊であつて、それは續歌の敏活なる應答といふことから發して居るとも見られるが、それよりも手近かな社會的原因としては、めつた無性に餘分の人を引張り込み、それを激勵して風雅に遊ばせようとした、宗祇宗長以來の門戸癖ともいふべきものがあつた。都市に無數の點者といふ職業の徒を、跳梁せしめたまではまだ害も小さかつたが、後には世の中に通用もせぬ哲理を説き始めて、  愈々群小をしてむだな苦悶を抱かしめるやうにもなつたのである。曾て俳諧がかゝる人間苦からの解脱であり、濟度であつた時代も囘顧して見なければならぬが、それよりも更に必要なことは是が現世の憂鬱を吹き散らすやうな、樂しい和やかな春の風となつて、もう一度天が下に流傳することであつて、私の今解して居る所では、それも決して不可能なことゝは言はれない。
 昭和十九年の冬、燃料が極度に乏しくなつて、寒い書齋の會合を斷念して居た頃に、堀氏の小座敷の日當りのよい一間に、私を招いて話をさせようといふ、ごく小さな一群の若い人たちがあつた。何を話しゝても寂しいことばかりなので、水鳥種芋等の幾つかの歌仙を取出して、共々に鑑賞して見ようとしたのだつたが、奇特なことにはさういふ日に限つて、わざと警報のサイレンが遠慮をして鳴らぬかと、思はれるやうに靜かであつた。この時の談話は堀君が筆記してくれたのを、カバンに入れて置いて後に泥棒に持つて行かれた、といふのからして既に俳諧である。もうそれきりで消えてしまつても面白かつたのだが、この話を聞き傳へた知己友人が、頻りに本にして置くやうにと勸めるので、今年の一月二月、風を引いて寢室に籠つて居る間に、殘りの五六篇を同じやうな氣樂さを以て書き加へ、一册に是をまとめて見たのである。まだこの以外にも「冬の日」と「比佐古」との中から、有名な幾つかを家の會の餘興に講じたものもあるが、七部集は全體に註釋がもう多過ぎるほど出てゐる。強ひて異を立て先輩にもとる結果になつても惡いから之を省き、たゞ「炭俵」中の著名な二卷だけを、繼いで起つた新傾向との連鎖の意味に於て、殘して置くことにした。つまり私は俳諧の連歌の、なほ斯邦に活きて行くだら(315)うことを信じて居るのである。自分がもはや其樂しみに參與し得ないのは遺憾だが、早くさういふ明るい日の到來せんことは、今も心から祈念して居るのである。
   昭和二十二年春
 
(317)     水鳥の歌仙
 
   水鳥よ汝は誰を恐るゝぞ           兀峰
    白頭更に蘆靜也                翁
   中汲の醉も仄《ほのか》に棒提て        洒堂
    月の徑に沓拾ふらし              峰
   鳩吹ば榎の實こぼるゝさら/\と         翁
    板の埃に圓座かさぬる             堂
  一ウ
   簾戸に袖口赤き日の移り            里東
    君はみな/\撫子の時             翁
   泣出して土器ふるふ身のよはり          峰
    御念比にて鎌倉をたつ             東
   門々に明日の餝りをくばりをき          堂
    莚踏なとうつす鹽|鯔《いな》         峰
   山陰をまれに出たる牛の尿《ばり》        翁
(318)    梨地露けき兒のさげ鞘            堂
   名月に雲井の橋を一またげ            東
    今年の米を背負ふ嬉しさ            翁
   花に來て我名は佛コ右衛門            堂
    春はかはらぬ三輪の人宿            東
  二オ
   陽炎の庭に機へる株《くひ》打て         峰
    たゝむ衣に菖蒲折置              堂
   きんといふ娘は後のものおもひ          翁
    戀のあはれを見よや鳩胸            峰
   城|代《かへ》の國はしまらず田は餒《あせ》て  堂
    美濃は伊吹で寒き秋風             翁
   夕月に荷鞍をおろす鈴の音            峰
    聟なじまする質の出し入            堂
   麥飯にまじらぬ食をとりわけて          翁
    コ利引摺川船の舳               峰
   帷子に風も涼しき中小姓             堂
    明日御返事を黄昏の文            其角
  二ウ
   うつくしき聲の匂ひを似せて見る         峰
    人めにたつとひきなぐる數珠          堂
(319)   一息に地主權現の花盛             角
    膳に日のさす春ぞきらめく           峰
   鶯は此頃の間にいとひ啼             堂
    歳且帳を鼻紙の間               角
 
 備前の藩士櫻井丈右衛門、號は兀峰といふ。土地では相應に名を知られた俳人であつたらしい。元禄五年の三月から、一年勤番に江戸の藩邸に出て居た間に、多分は嵐雪を介して其角を知り、更に芭蕉翁に近づいて一席の俳譜を所望して居る。兀峰この時は齡三十二歳、風雅の道にかけても勇敢で、又いさゝか功名に急なる武士と見られるが、是に對する師翁の應待は、十二分に親切なものだつた。いはゆる他流試合の、殊に相手の力がやゝ低目な場合の作法として、注意して見るべき好い一例である。連句の會場は芭蕉庵、亭主方には洒堂が出て助け、初裏からは里東といふ人が參加し、名殘の折端になつて其角が翁に代つて居る。里東がどれ位の俳士であつたかは私はまだ知つて居ない。
 
           ○
                             冗峰
   水鳥よ汝は誰を恐るゝぞ
 是は當日の即興ではあるまいが、深川でならこの句が似つかはしからうといふ程度の、心構へはあつたものと思ふ。主として言葉の面白み、何でも無いことを禅僧めかして、汝はだれ恐るゝぞなどゝ言ふところに趣向を取つたので、作者が貞門の感化を受けた人だつたこともやゝ窺はれる。今日の俳句界には通用しさうも無い句である。ちやうどこの頃に、「同じ江に睡る?の心をも知らで千鳥のゐたち啼くらん」といふ和歌を、詠んだ人が岡山にはあつた。それを(320)兀峰が知つて居たかどうかゞ、興味ある一つの問題である。雙方ともに漁翁が閑々として、孤舟を波の上に漂はせて居る唐詩の趣を、胸にゑがいて居る點は似通うて居る。「汝は何を」と言つた方が、誰をよりも句は面白くなるのだが、さういふ點までは考へようとしない大まかな作者であつた。
    白頭更に蘆靜也                  翁
 こゝで漁翁といふ文字をわざと出さなかつたのは、宗匠の心しらべであらう。白頭にして山に對すれば山更に靜かなりといふやうな詩の句が、この一座の人々の共通の聯想で、それを水邊だけに蘆靜かなりにさし替へたことが、みんなも微笑する俳諧なのである。單なる風景の敍述としても、こゝで靜か也と謂つたので、次に動く句が附けやすくなつて居る。發句は冬の季だから脇句の蘆も冬、當然に枯蘆と見られるので、從つてイマージュも限定せられる。後世の俳諧師なら文句を付けさうな點である。
   中汲の醉も仄《ほのか》に棒提て           洒堂
 枯蘆に風無き堤の上の路を、一人あるいて行く老夫を點綴して居る。形も心も共に第三にふさはしい。中汲は薄濁りの二級酒で、勞働者の念がけて居る飲料である。甕に酒を釀して居た時代に、先づ上澄みの諸白を神と賓客の爲に取分けて置き、その次をひさげ〔三字傍点〕に汲んで、働く人たちをねぎらふのが主婦の役であつた。大抵はそのひさげからぢかに飲んでしまふので、今いふ片手桶も其爲に發明せられたと言つてよい。この句の白頭翁も何かの使に人の家へ遣られて、その中汲を一ぱい給與せられ、いゝ氣持になつて歸つて行く處で、それで擔ひ棒を手に提げて居るのである。棒の頭には荷繩が巧みに結はへ付けてあつた。山野に出る時には、それになほ鎌などを括り添へるが、こゝのはたゞ棒と新しい荷繩だけである。
    月の徑に沓拾ふらし               峰
 この沓は馬の古沓、拾ひ集めて塵塚の堆肥に加へようといふ、まことに幽かな農家の活計で、其樣な月下の營みも(321)あるといふ點に、わざ/\月の座を一句くり上げた理由を付けて居るのだが、全體にやゝ前の句に引張られ過ぎて居る。さうして棒さげての繪樣をよく味はつて居ない。尤も中古の農夫たちは、外へ出る時はいつも棒を持つて居て、手ぶらといふことは無かつたやうだから、格別大きな印象でなかつたのかも知れないが、ともかくも斯う前の句を狹く限定して行つては、次の句が段々附けにくゝなるといふことまでは考へて居ないのである。
   鳩吹ば榎の實こぼるゝさら/\と           翁
 沓を拾ふ小路の月は、まだ黄昏の薄明りと見られるのを、こゝではもう一刻引上げて、日の入る前の樹梢の五日月ぐらゐに見たものと思はれる。鳩吹くといふのは鳩を捕る爲に鳩笛を吹くことで、是は勿論鳥が寢に行く頃より早くなければならぬ。つまりは月の徑の句が附き過ぎて居るので、今度は思ひ切つて引離さうといふ趣向であつた。はと吹けば、と言つてもそれが原因だつたわけで無く、ちやうど榎の實の落ちるやうな秋風の日に、近くに鳩笛の音が聽えたといふか、又は吹く本人が其さら/\の音を聽いて居ると言ふまでゝ、斯ういふ語法は和歌以來であつた。鳩吹くは秋の李、前の句の月が秋だからで、こゝでは二句だけで雜に移つて居るのかと思つて居たが、後に氣がつくと次の句の圓座もまた秋の季であつた。季題といふものゝ最も器械的な場面である。
    板の埃に圓座かさぬる               堂
 屋外の句が五句も續いたから、もうそろ/\と内へ入り人事を説いてもよい頃合ひで、それを洒堂は待ち構へて居たやうにも見られる。榎の實が落ちて庇にあたり、鳩笛の遠く聽えて來るやうな時刻に、客が歸つて行つて藁の敷物を板の間の片隅に重ねると、ぱつと埃が立つのが見えたといふのは、言はずして夕日が軒にさし入る情景である。是だけでは獨立した詩境とも見られぬやうだが、斯ういふ生活は繪卷物の時代のもので、從つて歴史的な感興が添ふのである。次の句はそれをよく認めて居るが、その代りには是も幾分か附き過ぎになつて居る。
  一ウ
   簾戸に袖口赤き日の移り               里東
(322) すだれど〔四字傍点〕は有りさうも無い言葉である。開いた妻戸などの内に簾が掛かつて、透影に紅か茜の衣の色が日に映じて美しいといふのである。袖口とまではいふに及ばぬかと思ふが、是も前の句に對する一種の敬意で、やゝちがつた角度から、その想像上の繪卷を共にもてはやさうとしたのである。圓座重ぬるは我々の語法では、たゞ重ねてあるといふ場合にも用ゐられる。即ち埃の立つ板敷の日ざしが、赤い袖口よりこちらの方に眺められるのである。
    君はみな/\撫子の時               翁
 此句は實際に感銘が深い。前句の人物はたゞ一人とも見えるのを、こゝではほゞ明らかに幾人かの姉弟とし、更にその弟も男ながら、袖に赤いものを附けるほどの年頃にして居る。それからなほ一つは繪卷時代から引下げて戰國の軍書時代を現出させて居る。何かの物語に有りさうな文句でもある。父の殿御腹めされし頃は、まだいはけない幼兒でおはせし皆樣が、早斯うまで成人なされたよと、簾の外に來て老人が懷舊して居るのである。それを略敍した句の形が、如何にも此場によく調和して居る。滿座之を聽いてはつと思つた感じが、乃ち次の附句からも窺はれるのである。
   泣出して土器ふるふ身のよはり            峰
 是などは全く餘分の繪具であつて、少しでも前句の構圖の外へは出て居ない。おまけに身のよわりは、一句置いて前の「日のうつり」と同形で耳にさはる。たとへ規則には無くとも、大抵の人なら斯んなのは避けさせたい處である。だまつてこれを通したのは田舍からの御客だつたからであらう。
    御念比にて鎌倉をたつ               東
 是もまづい附けと思ふが、それでもまだ時をずらせて居るだけの手柄はある。もう再びは出ても來られまいとごねんごろ即ち色々の下され物や御言葉があつて、愈在所へ歸つて行かうとするのだが、流石にもう老人といふことは句の表に出て居ないので、幾分か次の附句が自由になつて居る。
(323)   門々に明日の餝りをくばりをき           堂
 前句まで雜が四句つゞいた。こゝで飾りといふは正月飾りのことゝ思ふが、明日の飾りといふので冬の季に入り、從つて一句で再び雜に移り得たものらしい。奉公人の出代りはもとは十二月十三日が多かつたが、是は下男で無く諸家に出入をする輕輩であつた。それで暮の押詰まつた日に飾りを門々に配つて置いて、さて鎌倉を立たうとして居るのであらう。いはゆる春のいそぎのやゝ俳諧的な一つの場面である。
    莚踏なとうつす鹽|鯔《いな》           峰
 附句はよくわからぬが、或は門々の語への挨拶かも知れない。席の上にひろげるのは荷造りの爲であらう。鹽鯔などゝいふものはまだ聽いたことも無いが、是を正月肴に買ふやうな片田舍もあつたものか。何しろ食べ物なのだから、足にさはらぬやうに氣をつけてくれと言つて居る處であらう。眼先のかはつた取合せながら、句自身には格別の趣が無い。
   山陰をまれに出たる牛の尿《ばり》          翁
 是もかなり引離した附け方である。「山陰を云々」も、遠くから牛の立止まつたのを見た景色で前句の場處との距離がおのづから畫をなすのであらうが、末五文字に力が入り過ぎて、何だか其牛の通つた跡を見るやうなきたない感じを與へる。下がゝつた言葉はたしかに沈滯を破る效はあるが、爰はさうまでする必要の無い所だから、先づ惡い趣味といつてよからう。
    梨地露けき兒のさげ鞘               堂
 「牛のばり」といふ如ききたない句に對しては、出來るだけきれいな句を以て應ずるは、作法のやうなものである。さげ鞘といふのは法師などの携へる飾りの多い小太刀ださうで、其鞘の梨子地がしつとりと濕つて來たといふのは、秋の山陰を行く寺の喝食の風情とも思はれる。牛を遣り過すべく尾花などの片陰に、立ち休らふ姿までが目に浮ぶや(324)うな氣がする。月を第九へこぼしたのは話合ひの上だらう。其代りにはこゝで十分な下地をこしらへて渡して居る。
   名月に雲井の橋を一またげ             東
 この橋の名は談林風のこしらへ物らしい。さういふ名所の有ることはまだ聽いて居ない。ともかくも一またげといふからにはさゝやかな橋で、禁裏の近くにもあつたやうに想像せられる。そこを月の夜に美しい少年が渡つて行く。梨子地のさげ鞘がきらりと光るといふやうなことだらうか。しかし何と無くたよりない句ではある。
    今年の米を背負ふ嬉しさ             翁
 ことし米は新米で秋の季である。こゝでは多分其米を搗き精げて、作り主自らが背に負うて御領主に納めに行くのであらう。狂言記などにも幾つかこの光景が出て來る。このうれしさは確かに上品な俳諧である。
   花に來て我名は佛コ右衛門             堂
 こゝは花の座であつていはゆる季移りの必要がある。漢詩で險韻などゝいふに同じく、くろうとの腕の見せ處である。新米は春になるともう去年の米だが、なほ農家では之をことしの米と言ひ習はして居た。それをこゝでは利用して、一足飛びに秋から春の季に移つたのである。花の座は通例次の句へこぼさぬことにして居た。それを知りつゝ十句目を秋の季にしたのは、宗匠の一種の試驗であつたが、洒堂はまづ及第して居る。我が作つた米を欣然として年貢にもつて行くやうな老農だから、佛コ右衛門とも人に呼ばれるのである。
    春はかはらぬ三輪の人宿             東
 人宿は只の旅籠屋で無く、恐らく人夫人足などの請負をする寄場であつたらう。但しさういふものが三輪に有つたといふことは私は知らぬが、春はかはらぬは又今年もの意味らしいから、是は此時代の現實であつたのかと思ふ。田打ち種播きの始まるまでの一時、十日半月を川普請や道造りなどに雇はれて行くことが、この地方ではもう毎年の行事になつて居たのではあるまいか。
(325)  二オ
   陽炎の庭に機へる株《くひ》打て          峰
 好い寫生の句であり又轉囘もおもしろい。株は短い木のくひで、それへ機《はた》の絲を引掛けて、娘か嫁が織ごしらへをして居る。其庭の土にかげろふが立つて長閑な春の日である。この機は木綿機と思はれる。三輪地方は一つの産地であつた。
    たゝむ衣に菖蒲折置               堂
 爰にも春から夏の季へ、又一囘の季移りがある。但し此方は春の陽炎を、たゞ無季の陽炎に取りなしたのみで大きな働きはない。附け味としては、外側の垣根の上からでも見入れたやうな情景を、今度は家の中から、座敷に居て見るとした、方角の變化ともいふべきもので、女も外庭と内と二人になつて居る。この一卷は前にちよつと美少年が姿を見せただけで、珍しくまだ色氣がすくない。斯ういふのは戀の座の鋪設、もしくは招待といふものであらう。菖蒲を折つて挾むのは防蟲用で、自然に端午の節供の晴着を、一人の女性が疊んで居るのだといふことが想像せられる。
   きんといふ娘は後のものおもひ           翁
 後のといふは無論逢ひ見ての後である。從うてこの衣は誰のだといふこともわかる。爰におきんといふ女の名を句にしたのは、芭蕉の近代式センスであつて、小説を書けば西鶴にも自笑にもなり得たらうといふ、我々の想像をやゝ支持する。但し「さん」となつた本もあるが、私はそれを誤寫と思ふ。
    戀のあはれを見よや鳩胸             峰
 さあ愈戀の句になつた。待つてましたといふ兀峰居士の氣持が躍動するやうな句であるが、是は餘りにも彩色が濃過ぎて、恐らく前句の主の本意でなかつたらう。是が伊賀衆のやうな子飼の弟子だつたら、叱り飛ばしても出し直させる所だらうが、備前の客人ではどうにもならない。一座微苦笑の體だつたことは、次の附句でも察しられる。或は鳩胸なども御持參の孕み句といふやつであつたかも知れない。
(326)   城|代《かへ》の國はしまらず田は餒《あせ》て   堂
 此句は精々前句から遠のかうとした心持のみは明らかで、全體が一向はつきりせぬ不出來な作品である。城替即ち領主の更代の際には、いはゆる動員が行屆かず、作柄は惡くなりがちだつたかも知れぬが、それを國始まらずといつても、又或は國は締らずでも正確で無く、田はあせてに餒の字も穩當でない。多分刈敷草取に力を入れなかつたので、作物の育ちのよくないといふことゝ思ふが、それと男に厭はるゝ鳩胸娘との繋がりはどうなのか。通例斯ういふのは遣句とは言はぬやうだが、一方のやうな事件のある土地が、他の一方の如き?態に在るといふだけで、まづ場所附けの一種とでもいふべきか。尤も句柄さへよければ是でも結構仕事にはなるのである。
    美濃は伊吹で寒き秋風              翁
 是は本たうの遣句で少しも時間が掛かつて居ないが、流石に句の構造は引締まつて居る。岐阜縣西境は俳人の少なかつた地方だが、蕉翁一門のしきりに來往した路筋だつた爲か、よく附句の材料に用ゐられて居る。伊吹山は北風をしまいて〔四字傍点〕、寒い山颪を八方へ配つて居たやうな地形である。
   夕月に荷鞍をおろす鈴の音             峰
 小宮本に「名月に」となつて居るのは誤植らしい。三つしか無い月の座に、二つまで同形の初句は使へまいからである。しかし前には牛の尿、この方は駄馬であらうが、二つ似よりの句を出して居るのも後の人の過失だと思ふ。式目はどんなに細かく定めても、それさへ守つて居ればよいといふわけに行かぬことは是でよくわかる。しかも他流交際では斯んなことまでは呑めかねて、折々はまづいことも有りがちだつたと思ふ。馬の鈴は路を行く時に歩調を取つて響くやうに出來て居る。こゝでは荷鞍をおろすにつれて、途拍子も無くそれが鳴るのだが、果してさういふ點にまでをかしみを見つけたものかどうか。或はたゞの不注意だつたのかも知れぬ。以上三句秋。
   聟なじまする質の出し入              堂
(327) 是は寫實味の多いあはれな人事句で、私などはこゝに正風の俳諧の本意を感じて居る。少し解説がいるかと思ふが、娘の二親の悦ぶやうな、良家の跡取息子が通つて來はじめた。何とぞしてそれを永續させたい念願から、無理な算段をしてまで食物をうまくしたり、調度を取揃へたり、人には言はれない氣苦勞をして居る。いはゆる自由戀愛の幕の背後に、斯ういふ泣き笑ひの人事が潜んで居ることは、滑稽には相違ないが考へると涙がこぼれる。さういふことも句にしなくてはと教へたのが芭蕉であつた。但し斯うした感覺だけならば新しいものでない。聟の草履をそつと取入れて、親二人が夜どほし抱へて寢ると、縁が切れないといふやうな俗信があり、其まじなひを實行したといふ話が、中世の記録の中にもある。全體に昔の婚姻では、聟はどうかするとすぐ來なくなるものだつた。それで馴染まする必要が大いにあつたのである。
   麥飯にまじらぬ食をとりわけて            翁
 是は又いさゝか前句の敷衍になり過ぎて居るが、それといふのも師匠が賞翫のあまりであつたと思ふ。中の句の食はメシと訓むの他は無いから、麥飯は恐らくバクハンと音讀して居たのであらう。今でも珍客には斯うする習ひであるが、娘がかはいさに、聟にもさうして居た親があつたのである。
    コ利引摺川船の舳                 峰
 舳は和訓ヘ又はヘサキ、この場合には何と訓ませるつもりだつたか明らかでない。或はトモ即ち艫と書くべきを誤つたのかも知れない。舳先では愈引きずるといふ言葉が當らなくなるからである。是は明らかに聟以外の客人の歡待に、酒を流れに冷して水上の遊びをして居るので、引きずるといふと泥の上のやうな氣がするから、言葉の選擇が惡いのである。コ利といふ物のまだ珍しかつた時代としては、事それ自身がたしかに興味であつた。こゝはまだ雜の句だけれども、次に夏の季を要求して居るのだから、私は斯ういふのを半季とでも呼ばうかと思つて居る。戀の句などには屡是があり、戀二句半と言はなければならぬ場合が多い。
(328)   帷子に風も涼しき中小姓              堂
 是は夏の李で一句で止まつて居る。中小姓は恐らく此時代の新語、若衆の元服したばかりの好い男振りを想像せしめる。舟遊びの一座の中に、さういふ心きいた若者が居て、酒宴の與を助けて居る。映畫ならば大寫しと言ふものであらう。
    明日御返事を黄昏の文             其角
 其角が出て來て、すぐにこの好男子を陸上に呼び上げた。日の暮方に涼しさうな帷子を着た一人が、表口に?箱を持つて來て、御返事は明日いたゞきに出ますと言つて去る。こゝに再び戀の座が出現しさうなけはひがして來た。
  二ウ
   うつくしき聲の句ひを似せて見る         峰
 前句の要素は聲であつたから、それを慥かに受取つた正直な附句である。其聲は匂ひ即ち餘韻のある、爽かな言葉づかひだつたので、それを物陰から聽いて居た女中たちの一人が、朋輩の心を取つて口眞似して共々に笑ふのである。役者に大騷ぎをした一つ前の世相が、この中に窺はれる。
    人めにたつとひきなぐる數珠          堂
 附合の技術は前が女だつたら今度は男にするので、是は青年たちが美人の噂をして居る處であらう。ひきなぐるは變な動詞だが、手荒に手に持つて居る數珠を取上げた樣子を敍したもので、其日は佛參などの慎むべき路すがら、あまり高笑ひをする連の者を制する代りに、數珠を隱させようとするのは自然に近い描寫だと思ふ。
   一息に地主權現の花盛               角
 清水の觀音の花などをさしたのかも知れぬが、地主は何處の寺の伽藍にも祀り、その堂は又高みにあつて花木の多いのも普通であつた。一息にといふのは盛りの男たちの花見を思はせ、省略がまことに適切である。花の座を二句引上げたのも其自信からかと思ふ。
(329)   膳に日のさす春ぞきらめく           峰
 寺の書院などでの大きな會合に於て、一部の境内の花を見あるいて居る者を、待ち合せて居るやうな場面を考へさせる。少しの人數だつたら膳に日のさすやうな端近の席は無かつたらう。さう思つて見ると印象的な句である。きらめくといふので、食具に若干の陶器がこの頃もう用ゐられて居たことを推測し得る。
   鶯は此頃の間にいとひ啼              堂
 此句は少し無細工だが、春初には軒先の梅にも來て啼いた鶯が、いつと無く木隱れに聲を洩すやうになつたことをいふので、ひと來/\といとひて鳴くなどゝ、古くからの俳諧歌にも詠んで、段々樹木の茂りの深くなることを、この鳥が人を避けて行くやうにも見て居た。それが前句のやうな大きな會合には似つかはしいのである。
    歳旦帳を鼻紙の間                 角
 こゝの間の字はアヒと訓ませる。正月以來、懷中物の中に挾んであつた誰かの歳旦の句の刷物を、たま/\取出して話柄にするといふ風にも取れぬことはないが、全體に揚句といふものはさう奇警なことが言へないので、其角のやうな人でも手こずるのである。外形からいふと、斯ういふのは同季中の後戻りで、私などは避けた方がよいと思つて居る。
 
  (參照)
  小宮氏 芭蕉連句集 二一〇貢
  勝峯氏 蕉門俳譜前集(桃の實) 四六八頁
 
(330)     種芋の歌仙
 
       午ノ年伊賀の山中春興
                         翁
   種芋や花のさかりに賣ありく 
    こたつふさげば風かはる也         半殘
   酒好のかしらも結ず春暮て          土芳
    ぬぎかへがたき革の衣手          良品
   有明の七つ起なる藥院に            殘
    ひさごの札を付わたしけり          翁
  一ウ
   秋風に槇の戸こじる膝入れて          品
    小僧のくせに口ごたへする          芳
   やす/\と矢洲《やす》の河原のかち渉り    翁
    多賀の杓子もいつのことぶき         殘
   手枕のおとこも持たで三つ輪組         芳
(331)    人にとりつく憂名くちをし         品
   萱草《くわんざう》の色もかはらぬ戀をして   殘
    秋たつ蝉の啼しにゝけり           翁
   月暮れて石屋根まくる風の音          品
    こぼれて青き藍瓶の露            芳
   蕣《あさがほ》の花の手際に咲そめて      翁
    細や鳴り來る水のかはりめ          殘
  二オ
   猫の目の六つ柿核に四つ圓く          芳
    あすのもよひの繊蘿蔔《せんろつぼ》きる   品
   からうすも病人あればかさぬ也         殘
    たゞさゝやいて出る髪ゆひ          翁
   とり/”\に紺屋の形を取散し         品
    冬至の縁に物おもひます           芳
   けはへどもよそへども君かへりみず       翁
    まだ元服のあどなかりける          殘
   朝夕にきらひの多き膳まはり          芳
    いとあはれなる野の宮の衆          品
   田鼠の稻はみあらす月澄て           殘
    風ひえそむる牛の子の旅           翁
(332)  二ウ
   露しぐれ越《こし》のさきおり袖もなし     品
    しなずは人の何になるべき          芳
   神風や吹起されてかい覺めぬ          翁
    筆をおとせば□□出す            殘
   しら/\とひとへの花に指《さし》むかひ    芳
    長閑き晝の太鼓うちけり           品
 
 水鳥の卷よりは二年前に成つたもので、翁が最も心置きなく交つて居る伊賀の三人の俳友を相手に、樂しく卷き上げたかと思はるゝ歌仙である。但しその三人の技能には、どうやら未熟な點も少しあつて、果して完成品と目してよいかどうかは疑問である。開板は師翁生前の元禄五年、版元も例の井筒屋ではあるが、偶然に此卷を見つけた大阪人の計畫に基いて居るので、公表の許しを得て居るかどうかゞ明らかでない。
 
          ○
 
       午ノ年伊賀の山中春興
 
                              翁
   種芋や花のさかりに賣ありく
 種芋は後世キヌカツギと謂つたもの、江戸でも花見の山の一景物となり、種子用以外この爲にも圍つて置くやうになつたが、最初はほんの使ひ殘りを、里人が持出して居たものと思はれる。發句の興味は種と花との對照、種芋とい(333)ひながら花の盛りに賣るのはどうぢやといふ風な、至つて淡々たるものであつて、今の人ならばとてもこの句で一卷を企てようといふ氣にはなれまい。ところが古人には發句ばかりで無く、表六句又は八句の中には、あんまりどぎつい腹一杯のことは言ふまいといふ用意があつた。その心がまへがわからなくなつて來てから、連歌などに對する我々の同情は、又一段と衰へて居る。本たうは、もう少し大きな協同構作の一部といふ氣持を以て、連句に利用せられなかつた個々の發句も、よく味はつて見るべきだつたと思ふ。
    こたつふさげば風かほる也            半殘
 此句は正面から發句のをかしさを受けずに、たゞ大まかに其季節の一端を敍して居る。何か物足らぬ感じではあるが、下手な相槌よりは却つてよいとして許されたのであらう。風かほるは多分西とか北とかになつて温度が下つたことで、炬燵を片づけた日の手持不沙汰の感じが、言葉の背後からやゝ窺はれる。半殘はこの日の俳席の亭主で、自分は家に居て花盛りの興味をよそにして居たといふことを言はうとして居るらしい。
   酒好のかしらも結ず春暮て             土芳
 其心持がこの第三の附けに認められて居る。いくら酒好きでも外へ出るのだつたら、髪も束ねなほして出たらうが、是はうちでちび/\飲んで居るのである。こたつの無くなつた淋しさも手侍つて、いよ/\酒に親しみ、動くのが面倒になつて居る樣子である。
    ぬぎかへがたき革の衣手             良品
 是は衣がへで夏の季、ごく順當な季移りである。「革の」の二字を除けば他は全部が平凡な歌の言葉なのを、斯く結び合せて僅かな俳諧を示して居る。貞門くさい手法であるが、殘念なことには寒いといふ感じが一句置いて前にもあつて、いはゆる輪廻《りんね》の句、一事再説に陷りさうである。しかし革羽織を暮春の頃まで着て居たといふことが、髪をぼう/\とさせた老翁と似つかはしい。
(334)   有明の七つ起なる藥院に             殘
 藥院は小さな藥草の植物苑で、大抵は醫家に管理させて居たらしい。此時代多くの藩に設けられ、又この地方にも一二箇所あつた。有明を以て月の座に應じた例は幾らもあるが、それは皆有明月即ち殘月のことだから、こゝのやうな舊四月初旬の更衣とは日が一致しない。從つて前句の脱ぎ替へ難きを、たゞの事實と見たものと解する他は無いが、さうするとこの有明の季節は不明になる。秋ならもう脱ぎ替へるがをかしくなるからである。雜の月ともいふべきものが連句の中にはあつて、それが?季移りの足場に利用せられて居た。この句もその一つの例だつたか。少なくとも秋の季では無い。
    ひさごの札を付わたしけり           翁
 斯ういふやゝこしい場合を處理するに、芭蕉翁は實に超凡の才能を持つて居られた。或る本草家の書生か何かゞ七つ起き即ち四時頃に起き出して、何をするかと思へば瓢箪の蔓一本毎に、是は何それは何と、一々名を書いた木札を括り付けて居る。まじめであるだけに、ユウモアは豐かである。瓢箪は花から實までが秋の季だから、前句の有明を秋の季に同化するに足り、且つ又今までの稍しどろな附け方を切上げてしまつた。鮮かな手際といつてよい。
  一ウ
   秋風に槇の戸こじる膝入れて           品
 然るに後に續く句が又何だかごちや/\して來たといふ中に、此句などは特に解りにくい。槇の板戸のことだらうが、膝を入れてそれをこじるといふことが考へにくゝ、又、どうして「秋風に」であるかも呑込めない。次の句の土芳は親しい間柄だから、この人の附け方から察するより他の途は無いが、それは、
    小僧のくせに口ごたへする           芳
といふ思ひ切つた炭俵風であつた。察するに槇の戸の内に居るのは法師で、秋風の吹く日、瓢箪に札でも付けようといふ時刻、誰か外から入つて來た者があるといふのを、それは昔話にもあるやうな小ざかしい小僧だつたと受けたも(335)のとも見えるが、何か誤寫でもあるかと思ふほど、前の句とのつなぎ方が無理である。是だけ遠慮の無い師弟の中で、果して斯ういふ句を此まゝ通されたらうかゞ不審である。
   やす/\と矢洲《やす》の河原のかち渉り     翁
 此句も何だか是ではいけないと、師匠がもう一遍乘り出されたものゝやうに感じられる。矢洲は近江の野洲川《やすかは》のこと、今でも汽車が川の底を通つて行くほど、常は水の無い砂川である。和尚と小僧が口いさかひをしつゝ、渡つて行く光景を見せるつもりか知らぬが、とにかく安らかな好い句であつて、今までの紛亂を一轉回させて、廣々とした湖南の平野に、新たなる舞臺を設けたのは、驚歎してもよい程の指導力である。
    多賀の杓子もいつのことぶき          殘
 斯ういふ珍かな戀の句の生まれ出たのも、私は前句の感動が深かつた爲と思つて居る。多賀神宮への參詣者は野洲川を渉る人の中に多い。杓子は何れも安産の守護の爲に、いたゞいて來るものときまつて居たが、それを見ていつになつたら是に祝福せられるやうにならうかと、心窃かに歎いて居る者が、その多くの人の中にはあつたのである。やゝ表現が幽かである爲に、是が戀の句だといふことを氣付かぬ人もあらうが、實はこの次の附句の方は、たゞ彩色を濃く塗つただけで、こゝでは戀が四句續くのである。
   手枕のおとこも持たで三つ輪組          芳
 前句は思ふ人に逢はれぬ悲しみを抱く女が、心淋しくお多賀樣へ詣つて來たことをいひ、この附句では同じやうな縁の遠い人が、家の神棚の端などに立てゝある杓子を見ての感じを敍したので、境涯だけは少しちがへて居る。ちよつと變つた附け方である。三つ輪組は檜垣女集などの「みつはぐむ」から出た語で、語義は不明だが、とにかくに年老いたる意味に使はれる。斯ういふ人も亦多賀の杓子に對して、同じやうなかこちごとをするといふのは、場面の轉囘を詮とする俳諧の連歌に於ては、たしかに問題とすべき一種の新例だつたが、それも是も伊賀の連衆が仲がよく個(336)性が無く、互ひに感動を共通にして居た結果では無いかと私は思つて居る。
    人にとりつく憂名くちをし           品
 うき名は事實で無い噂を立てられることだが、多くは事實だつたら嬉しからうといふことなのに、是は又思ひもかけぬ生靈になつて、人をなやませて居るなどゝいふ風説が有るのである。それを聽き知つた男持たぬ女性の感想は、たゞ口惜しでは表はし切れぬ複雜なものであらう。日本の名物の女性文學にも、まだ斯ういふ境遇までは觸れて居なかつた。それをうき名と名づけたのは好い俳諧であるが、是とてもなほ多賀の杓子からの枝分れであつた。
   萱草の色もかはらぬ戀をして           殘
 萱草は忘れ草、花の色の長く變らぬのもあはれである。一句の姿として新しい。しかし彼も是も相近い情痴世界で、この人たちの共感に任せて置くと、同じところをいつ迄も行戻りして、果しがつかぬやうにも見える。
    秋たつ蝉の啼しにゝけり            翁
 戀も早四句續いて居る。もう此あたりで切上げるがよいと、ずばりと言つてのけたのがこの一句であつた。後世の俳諧師のひどく有難がる名吟だといふが、私などには少し粗野なやうにも聽える。たゞ幸ひなことには次の附句がよかつた。
   月暮れて石屋根まくる風の音           品
 師翁の警策に、はつと我に返つたやうな趣きの見えるのはなつかしい。ちやうど月の座がくり下げられて、もう是より後へはやれぬやうになつて居るのに心付いて、それを力草に、蝉の聲の絶えた新秋寂寞の夕を思ひ浮べた。前句との調和もよいやうである。
    こぼれて青き藍瓶の露             芳
 この附句は更に好い。それこそ文字通り出藍である。石でおさへた板屋根のはためくやうな強い秋風に、紺屋の藍(337)瓶がたぶついて、青い水の珠が露に結んで居る。さういふ新しい風情を見出したのは詩人である。
   蕣の花の手際に咲そめて             翁
 是は遣句ではないが取合せがいさゝか物遠く、又朝顔の花の色が、何か藍瓶の露と近さうに思はれるのは氣になる。紅とか白とか言ひ得たらなほよかつたらう。又手ぎはに咲かせるならよいが、咲きそめてはちと言葉が窮屈である。しかしそれよりも大切なことが一つ、茲には花の座に秋の朝顔を出したことが、注意すべきよい先例であつた。古來花といへば正花《しやうはな》、必ず櫻であり春の季でなければならぬといひ、近世の宗匠も之を墨守して居るのを、芭蕉は平然として前例を破つたのである。是だけは是非とも援用しなければならない。月の座はすでに四季に通じて居るのに、花の座だけ春に限つたのは融通のきかぬことだつた。こゝに何の花でも詠じ得られるやうになつたら、連句はきつと今一きは面白くなると思ふ。
    細や鳴來る水のかはりめ            殘
 此句は不明として種々の誤寫説さへ出て居るが、私だけは是でよくわかると思ふ。朝顔の咲く垣根の近くに、谷から筧が引いてある。其筧の竹を取替へたのが水のかはり目であつた。初めは細々と、やがて段々音の高くなつて來るのを、細や鳴來ると謂つたものと思ふ。
  二オ
   猫の目の六つ柿核に四つ圓く
 こゝは名殘表の折端であるが、何かやゝ頓狂なことを言ふやうな習慣があつたのではあるまいか。猫の目の變化は、たしかそれを暗記する歌もあつたやうだが、この文句は記憶の誤りと思はれ、朝の光線の弱いうちはまだ圓く、日中に近づくほど柿の核《さね》のやうになるのである。それと筧の水の音の高低とを、時刻で結び付けて興じたものかと思ふ。即ちちやうど筧の音の高まる頃に、猫の目は段々細くなつて來たとでも言はうとするのであらう。
    あすのもよひの繊蘿蔔きる           品
(338) 六つかしい三字はセンロッポと讀む。大根を細く長く刻んだもの、今も千六本などゝ謂ふ人が多い。味噌汁の實にもするが、爰はなますの材料に切るのである。明日のもよひは支度のこと、モヨフはモヨホスの自動形であつた。猫の目の段々圓くなつて行く時刻に、その庖丁の音が聽える。鄰であつてもよいが、是は我家である。雜の三句目、なほまだ三句もつゞく。
   からうすも病人あればかさぬ也          殘
 此時代の唐臼は粉をひく石臼だが、持運びの出來ぬ重いものだつたらしく、借るといふのは來て使ふことだつた。病人があるからといふ理由で貸してくれぬのは、その大根を刻む家の近所の家である。
    たゞさゝやいて出る髪ゆひ           翁
 無論女髪結である。是が家々をまはる風習の、もう始まつて居たことを知る史料である。病人の容體が大分惡さうなので、小聲で會釋をして歸つて行く女のしをらしさを、新たなテエマに採つたのは働きである。是も炭俵風の芽ばえといつてよからう。
   とり/”\に紺屋の形を取散し          品
 一方は心配ごと、附けの方はめでたい取込みを描かうとして居る。まづ嫁入支度に叔母や姉たちが寄つて來て、あれこれと染物のがらを評定して居る所であらう。型染が始まつたのも此頃からのことで、是などは絹で無く麻でも無く、やはり紺染のよく映える木綿布であつたらうと思ふ。艶かしくも又新しい情景ながら、たゞ缺點は七句前に、同じ紺屋《かうや》の藍瓶が出て居ることで、それまでを差合ひとして咎めては、趣向が伸びないので見のがされたものと思ふ。
    冬至の嫁に物おもひます            芳
 戀の句は爰でも催促を受けて居るのだが、あまりに人情の句が續きすぎて居る。それで季節の冬至の縁側の日影をあしらつたのは、好い心づきであつて、恐らくは師翁の譽め言葉を得たらう。この物思ひを加へる人は若い娘、それ(339)も其縁端にでも腰掛けて居るかと思はれるのは、いはゆる問題の人であるか、或は家庭に重要で無いかゝり人でもあるか。冬至は一陽來復の日、やがて梅柳の春が來ようとするのに、自分はどうなることやらと、心の底に思ひつゞけて居るらしいので、後の方では無いかと思ふが、それではまた次の句が少し附き過ぎて説明になる。芭蕉はさういふことをしさうもないから、是はこの樣にまはりの人たちが、嫁入りのいそぎに身を入れてくれるのに、自分はなほ別に思ひ沈むことがあるといふ風に、この連句の座では解せられて居たのかもしれない。
   けはへどもよそへども君かへりみず        翁
 是は姿も新しく又感銘の深い句である。爰では紺屋の型の場面がすつかり隱れて、たゞ冬至の庭さきに娘が一人、うつ/\と物を考へて居る繪樣に應じたのである。斯ういふ女性は中世には多かつた。男は僧になり又は戰場で死ぬことを念頭に置いて、やさしい思慕の情を省みずに居ることも、以前は稀とは言へなかつたのである。
    まだ元服のあどなかりける           殘
 折角の光るやうな前句に、是は又何といふ淺々とした受け樣であらう。爰はどう考へても周圍の風物に、目を遣つてよい場處だつた。それをしなかつた爲に連句が細い横町見たやうな處へ入つて行つて、再び又舞臺を替へることが骨折になつた。
   朝夕にきらひの多き膳まはり           芳
 斯ういふ俗な句が附いたのも、責任は半分前句に在る。女には目もくれぬやうな無邪氣な若殿樣である故に、問題はつい食べることに傾くのである。
    いとあはれなる野の宮の衆           品
打ある故に、問題
 きらひを野の宮の女官たちの物忌と見たのは働きであるが、いとあはれなるは言葉が足らぬかと思ふ。しかし若い上流の婦人が多く集まつて居ながら、信仰上の束縛があまた有つて、淋しい朝夕を送つて居る樣子は、上手に描いた(340)ならば確かに俳諧であり、同時に次に來る月の座にも、古典の味ひを添へ得たのだから、折にかなつた思ひ付きとは言へる。
   田鼠の稻はみあらす月澄みて           殘
 附句はたゞ野の宮の文字を押へたといふまでのもので、場面はずつと遠い片田舍に飛んで居る。稻はみ荒らすは實地を見たわけでもあるまいが、人げの無い田園のさはやかな月夜に、野鼠の跳躍を思ひ寄つたのは俳諧である。
    風ひえそむる牛の子の旅            翁
 前句に反して是は寫實の句と思はれる。風ひえそむるは即ち月の夕であつて、遠くへ牽いて行く牛の子に夜道をさせるのである。ちやうど初秋の牛市で買ひ集めたのを繋ぎ合せて、日中は野中の草に放して自分たちも休息し、涼しくなつてから出發することにすると、先き/\一疋づゝ賣つて行くにも都合がよい。斯ういふ輸送を近い頃まで、東北地方ではして居たので、翁も多分それを見て來られたものと思ふ。
  二ウ
   露しぐれ越のさきおり袖も無し          品
 是は又想像の附けである。裂織はサツコリとも發音し、北陸一帶又佐渡の島まで此語がある。島では色々のさいでの切れを横に織るが、越前山村のは横も苧ぐそを使つて居る。今いふ袖無しとはちがつて、いはゆる半臂の筒袖の、袂は無いものが普通であつた。その袂をもとは袖と謂つて居た。袖に涙を拭ふといふのが古歌の常套語で秋も暮れ方の物悲しい旅路にも、此邊の人たちは泣かぬと見えて、袖の無い荒栲を着て居るといふ風雅式なしやれだらうが、季節が少しばかりくひちがつて居る。同じ秋の季でも前句は七月、此句は多分風ひえそむるを冬近しと解したのであらう。斯ういふ誤解さへ翁は訂正せずに置かれた。
    しなずば人の何になるべき           芳
 少し強すぎる附句であり、又類型があつたやうな氣もする。前に蝉が啼死ぬといふ句あり、此方は死なぬのだから(341)差支なしとも言へるか知らぬが、たつた三十六吟の中に二箇所まで、死の字を出すことは避くべきであつた。句の意味も不遇の老翁の言ひさうなことで、壯齡の人の口から聽くと、きつと空々しく響いたに相違ない。
   神風や吹起されてかい覺めぬ           翁
 それで次の此句はやゝ言ひ直さうとした形がある。こゝに描かれた人は巫女か神なぎらしく、死なずば斯ういふ人にもなれると言はうとしたものと見える。又それ以外には二句の繋がりは無さゝうなのである。しかし突兀として居て好い附けとは言へない。
    筆をおとせば□□出す             殘
 この短句は不明となつて居り、これを「追書出す」とも「烏鳴出す」とも讀んだ人があるが、どちらもなほ覺束ない。筆を落すは神靈の憑託が終つて、ふと我に返つた情景とも想像せられるが、日本では支那のやうに神憑きに筆を持たせることはあまりしない。
   しら/\とひとへの花に指むかひ         芳
 花の座である。特に一重の花と謂つて居るのは、或る一つの恍惚境から出て來た氣持を受けようとして居るのかも知れない。さうすると是もまだ前二句の間に生まれた感動に支配せられて居るのであつた。全體にこの四吟歌仙の連衆は、他流試合とは反對に、少し氣が合ひ過ぎるといふ嫌ひがあつて、其爲に連句がやゝ粘り、一つ/\の詩境を編み合せて行くといふ面白味が、十分に現はれて居ない。目的は練修に在り、師翁も此間に好い體驗をせられたことゝ信ずるが、之を完成した作品として、世に遺さうとまでは思はれなかつたのかも知れぬ。しかしこの中には幾つかの棄てられない佳句があつて、之を知つた人たちが珍重したのも亦自然である。殊に私などは何れの點から見ても、この一卷の世に遺つたのを有難いと思つて居る。
    長閑き晝の太鼓うちけり            品
(342) この句はたゞ世の常の花の座に應じたもので、大抵の歌仙に持つて行つても通用する。揚句といふのが元來はさういふものなのである。爰まで來てしまつては、奇拔な變化はもう斷念しなければならない。
 
 (參照)
 小宮氏 芭蕉連句集 一五三頁
 勝峯氏 芭蕉連句集成 二八九頁
 同上  蕉門俳諧前葉(己が光) 四二九頁
 
(343)     秣負ふの歌仙
 
       奈須余瀬翠桃亨を尋て
                           はせを
   秣負ふ人を枝折の夏野かな 
    青き覆金子をこぼす椎の葉           翠桃
   村雨に市の假屋を吹とりて            曾良
    町中を行く川音の月               翁
   はし鷹を手に据ゑながら夕涼み           桃
    秋草ゑがく帷子は誰ぞ              良
  一ウ
   もの言へば扇に顔を隱されて            翁
    寢亂れ髪のつらき乘合             翅輪
   尋ぬるに火を焚きつける家も無し          良
    盗人こはき二十六の里              桃
   松の根に笈を並べて年とらん            翁
(344)    雪かきわけて連歌はじめる           桃
   名所のをかしき小野の炭俵             輪
    碪《きぬた》うたるゝ尼達の家          桃
   あの月も戀ゆゑにこそ悲しけれ           輪
    露とも消えぬ胸の痛さよ             良
   錦?の時めく花の憎かりし             桃
    己が羽に乘る蝶の輦《てぐるま》         翁
  二オ
   日傘さす子供誘うて春の道             良
    ころもを捨てて輕き世の中            輪
   酒飲めば谷の朽木も佛なり             翁
    狩人歸る岨《そば》の松明            良
   落武者の明日の道問ふ草枕             桃
    森の透間に千木の片そぎ             輪
   日中の鐘撞く頃になりにけり           桃里
    一釜の茶をかすり終りぬ             良
   乞食とも知らで浮世の物語             輪
    洞の地藏に籠る有明               桃
   蔦の葉は猿の泪や染めつらん            翁
    流人柴刈る秋風の音               里
(345)  二ウ
   けふも亦朝日を拜む石の上             翁
    米磨ぎちらす瀧の白浪             二寸
   籏の手の雲かと見えて飜り             良
    奧の風雅を物に書きつゝ             輪
   めづらしき行脚を花に留め置きて         秋鴉
    彌生暮らせる春の晦日《つごもり》        里
 
 芭蕉は奧の細道に於て工夫を積み、新たな俳境を見つけて來られたと、去來抄などにも説いて居る。行脚はたしかに一つの修行であつた。それがどういふ風な經驗であつたゞらうかといふことは、俳諧の作品に就いて知るの他は無いのだが、珍しいことには自身の手で公表せられたかと思ふものは一卷しか無くて、他の多くは翁示寂の後、やゝ年處を經て出現したものばかりである。さうして二つ以上の傳本があれば、大抵は字句に異同があり、それも單なる誤寫とは見られぬものが多い。卯辰集中の馬借りての卷、さては續猿蓑の八九間空で雨降るの歌仙にも例があるやうに、よほど筆を加へないと其まゝは人に示されぬと思はれたことが、是を細道の紀行のうちに録せず、又時としては發句をすらも、書留められなかつた理由ではなからうか。其推測を確かめる爲には、秣負ふの卷などは一つの資料であつた。元禄十年に桃鄰が世に出した陸奧千鳥と、それから四十年後の元文二年に、始めて公けにせられたといふ曾良の雪まろげとに、同じ歌仙が載つて居るのだが、誰が見ても前に出た方が改良せられて居る。曾良の手に在つたものは恐らくは當座の筆記であり、桃鄰は却つてその夙く添刪したものをもつて居たのである。それが何人の加筆に成るかは斷定しにくいが、あまり其範圍が廣いので、或は合作であつたやうな氣がする。芭蕉たゞ一箇の意見だつたならば、動かすまいと思ふ所にも手を付けて居るからである。連句の公表といふことには、いつも斯ういふ問題が附纏つて居(346)たかと思ふ。殊に旅先で初對面の人たちと、一夜の風雅を樂しまうとするやうな場合に、悔い無き作品を永世に留めることは望み難い。そこで如何にすればこの二つの要求を調和させられようかといふことが、大小幾多の東北俳人と逢つて來てからの、我翁の最も力を傾けられた一つの工夫であり、それが又かの炭俵の輕みといふものゝ、新たに提唱せられた理由かとも思ふ。俳諧の歴史に於ては、是が未決の又興味ある問題である。それに近よつて行く爲に、爰ではわざと雪まろげの方の記録を中心にして、この一卷を考へて見ようと思ふ。
 
          ○
 
       奈須余瀬翠桃亭を尋て
                       はせを
   秣負ふ人を枝折の夏野かな
 陸奧千鳥の方は、この端書の詞がずつと長い。それに「深き野を分け入る程云々」とあるのは、奧の細道の文に依つたらしい。さてこの句、枝折はしをりの宛て字で、山路に木草を折つて後から來る者の爲に路しるべとすることであるが、爰ではその萩薄をうんと背負つて居る人間を、栞の代りにしてあるいて來たといふのが輕い俳諧である。亭主への會釋としてならば、御近邊には誠に思ひがけぬ好い栞が有つて、しあはせをしましたといふところだらう。
    青き覆盆子をこぼす椎の葉            翠桃
 是に對して片田舍のことゝて他には是といふもてなしも無いといふ挨拶、野いちごもまだ青いのがまじつて居る。こぼすは少し無理な語だが、多分、赤く色づいたのだけを勸める意とも取れる。椎の葉は旅中の假の食器のことで、自分も少しばかり古歌の心得もあることを見せたところであらうか。
(347)   村雨に市の假屋を吹とりて            曾良
 市の假屋は物賣店とも取れぬことは無いが、こゝでは恐らくは夏祭の御旅所のことであらう。この村雨は雜の句であるが、心には前二句の夏の季を追うて居る。吹とりては急雨に風を伴なひ、假屋の屋根の萱が飛ぶといふ位のことであらう。
    町中を行く川音の月               翁
 連歌以來の月と露とは、斯ういふたつた一字の表現でも風情を描き出し得る約束になつて居た。「飯の中なる芋をほる月」などゝ、もつと思ひ切つた用ゐ方もあるが、是も或る程度までは必要だつたと思ふ。町中を行くは押へ付けたやうな調子でいけない。一方の桃鄰本の「町の中行く」とある方が確かによろしい。たゞしあの句では周防の山口のやうな、やゝ傾斜の大きい小川が想像せられるが、是は野州黒羽の那珂川の即景らしいから、もつと大きな流れの川音が聽えて來るのである。
   はし鷹を手に据ゑながら夕涼み           桃
 以下三句は思ひ切つて改作せられて居る。夕涼みは夏の季であるが、發句と脇が既に夏なのに、僅か二句置いて又夏になるといふのは實際まづく、誰だつて後では變へたくなる。だから桃鄰本には「鷹の子を手にすゑながらきりぎりす」と、次の句と共に秋に置きかへたのは已むを得ぬが、なほ最良の改作かどうかは問題になる。鷹の子といふのは若鷹のことらしく、初めて巣から捕つたのは手に据ゑて、夜陰に町をあるきまはつて、物に驚かぬ練修をさせるのだから、前句の川音の月とはよく調和するが、たゞ下五文字のきり/”\すが少し突兀に過ぎ、又前句の川音とやゝ重複する。先づ斯ういふ程度で辛抱したまでゝあらう。
    秋草ゑがく帷子は誰ぞ              良
 帷子は夏の季だから、月以下が秋になれば是も變へなければならぬ。此句はもう夜分でない方がよく、又思ひ切つ(348)て眼に訴へるものを取扱ふ方がよいのだから、會良の初案は惡くはなかつた。たゞこれを秋の季に改める際に「萩の墨繪の縮緬《ちりめん》は誰」と、當時としては新しいちりめんの語を使つたのは、改良と認めてよい。鷹を手に据ゑて行くのは勿論女性でない。多分は寵愛の若衆にさういふ派出な振袖か何かを着せて、供に連れてあるくのが目に立つたのである。誰《た》ぞと此方にあるのを、たゞ「誰」とした理由は私には解らない。或は單なる不注意だつたかも知れぬ。句主の曾良はこの改作の場には居合さなかつたのである。
  一ウ
   もの言へば扇に顔を隱されて            翁
 扇も夏だから變へる方がよかつたので、次の改作はたしかに良くなつて居る。「物いへば小笠に顔を押入るゝ」とした爲に、やさしい女の姿がくつきりと現はれ、前句の美少年に對して一つの變化になつて居る(尤も扇の方も娘のつもりであつたらうが、またいづれとも取れる)。「もの言へば」は前句の誰ぞに繋がり、人から言葉を掛けられることである。小笠に顔を押入れるといふのは、もと/\目深に被つた笠を、首を垂れるから一層押入れるといふ形になるので、まことにうつくしい一幅の浮世繪であつた。
    寢亂れ髪のつらき乘合             翅輪
 これも桃鄰本に「亂れた髪の」と訂正した方がずつと佳い。寢亂れ髪では顔に振りかゝつたやうに見えて、扇子とも十分には折合はぬのだが、小笠となるといよ/\つらいといふのがわかりにくい。乘合船の中では女はしやがんで居る。それで頸筋の髪の毛のみだれて居るのが、人に見られてつらいのである。乘合船の中を思ひ寄せたのは働きだつたが、こゝで寢亂れ髪を言つたのはたしかにまづかつた。因みにこの句主の翅輪は、翠桃の身うちか詞友だつたらしい。元禄十年の四月、この歌仙が卷かれてから八年の後に、天野桃鄰が黒羽を訪れた時には、たゞこの一人だけが達者で居て、出て來て舊を話した。この加筆が芭蕉のものだつたら、大いに感謝したであらうが、或は彼自身が斯う直したいと思つて居たのかも知れない。
(349)   尋ぬるに火を焚きつける家も無し        良
 此句はもとのまゝ。夜分らしいから或は寢亂れ髪の方にふさはしかつたらう。村に入つて來たが、森閑としてどの家も火を焚いて居ないといふのであらう。いさゝか窮屈な表現のやうに思ふ。乘合といふ前句との附け味は考へて居る。落人か何かの夜に入つて知るべを尋ねて來た所である。
    盗人こはき二十六の里               桃
 二十六と文字に書いてトヾロキと呼ぶ村が何處かにあつた。それを覺えて居て爰に使つて見たのである。知らぬ物淋しい片田舍に入つて來た心細さを説くだけだが、是に斯ういふ村の名を應用したのが、相應に場數を踏んだ俳人なることを思はせる。この句にも改訂は無い。
   松の根に笈を並べて年とらん             翁
 二人の行脚人がゆくり無く出會つた場合を、考へ出したのは新しくてよい。つれのあるのを幸ひに、もう民家の戸を敲くのは斷念しようといふのである。松の下に笈を竝べた光景は、幾樣にも繪をこしらへて見ることが出來る。殊にそれが除夜の晩だといふのである。よくも是だけ複雜な出來事を、短い句の中に收めたものだと思ふ。
    雪かきわけて連歌はじめる             桃
 桃鄰本には「雪になるより」とあり、又「連歌はじむる」となつて居る。其方が無論よろしい。雪に坐しての連歌は事を好み過ぎ、又さうまで狹く附けると次の句を出しにくゝしてしまふ。爰はやゝ大まかに、動きの取れるやうにして置くのが先づ禮儀であつたらう。
   名所のをかしき小野の炭俵              輪
 露天の連歌では炭俵は附きが惡かつた。名所はナドコロと讀むのであらうが、始めは土地の名が偶然に小野なので、京の北山の炭の産地を思ひ出したといふ趣意だつたらしい。桃鄰本の方では前句を改めた御蔭に、これを京都の片ほ(350)とりの雪の日の連歌とも見られ、本場の小野からの炭俵もあり得るので、もう名所の二字は不用になつた。そこでこの初五文字を「麁相にて」と改めたのは、安らかで又自然であつた。その一句の意は小野の炭竈と歌にも詠まれて居るその炭俵が、そさうなこしらへであるのも却つて風流だと、興じて居るものと見られるやうになつて居る。改訂前後の句の心持には大分のちがひがある。
    碪《きぬた》うたるゝ尼達の家           桃
 このあたり二つの傳本では作者名が大分入れちがつて居り、從つて芭蕉翁の指導ぶりを窺ひ得ないのは殘念である。爰では「雪まろげ」の方に依つて置くが、果して誤りでないかどうかはきめられない。但し七句後の酒飲めばは翁の句で、それからさきは雙方一致して居る。この碪の句の俳諧は、「打たるゝ」に在ると私は思つて居る。即ち尼たちとは言つても家は小人數で、打盤は始終空いて居る故に、方々から借りに來られるのである。尼の住む家から衣を打つ音が聽える。あれは近所の者が借りて打つて居るのだといふことを、わざと物々しく打たるゝなどゝ謂つたものと思ふ。桃鄰本には此句曾良となつて居るが、曾良自身の集には翠桃となつて居る。
   あの月も戀ゆゑにこそ悲しけれ            輪
 砧の句に月をあしらふことは、連歌以來の常習とも言つてよい。この句などもあの月の「あの」だけが俳諧で、殘りは格別新しい感じでもないが、たゞ一方が尼といふ變つた經歴の人である爲に、何かそこには一種の情緒が思ひ浮べられる。ともかくもさう骨折つた附句ではない。
    露とも消えぬ胸の痛さよ              良
 一本「露とも消えね胸の痛きに」とある。これなどは改作で無く初めからの誤寫かと思はれ、此まゝではよく心持が汲取れないのである。露も平凡なる月の句への取合せで、たゞ何と無く遣句のやうに生まれたかとも思ふが、とにかくに爰ではもう尼の境涯とは離れ、月を悲しとながめる戀知り人の言葉として、せつない心を句にして居るのであ(351)る。   錦?の時めく花の憎かりし             桃
 一本は「錦?に」とある。是も「の」が二つ重なるのは、誤寫でなければ拙だつたと思ふ。恨んで世を背いた男の境涯かとも思ふが、言葉の物々しい割には意味がはつきりと取れない。全體に他流試合の連句にはこれが多く、たゞよい加減に解して當り障りの無い附け方をすることが普通であつたかと思はれる。京江戸伊賀熱田などで一門の人々が、骨身を殺ぐやうな修錬をした場合とは、よほど意氣込がちがつて居たことは、是から後につゞく東北行脚の各篇を見渡して、私たちの心付かずには居られぬことであつた。
    己が羽に乘る蚊の輦                翁
 一句としては面白い趣向と言へる。蝶が自分の左右の翼を動かすのを、手車に乘つて空を行くにたとへたのである。しかし錦?に時めく人に附けたのは、たゞ言葉のあやの樣なもので、二句の繋がりはやゝ遠い。但し次句を出しやすくする役目は果して居る。一本ではこの句主は翠桃である。
  二オ
   日傘さす子供誘うて春の道              良
 一本は春の庭となほつて居る。日傘をさしかけるやうな良家の稚子を遊ばせて居る光景で、蝶はあの椅麗な羽を車の輪にして、飛んで行くやうですね、と言つて居るところ。中世の乘物の車は、繪卷物でも見る如く、輪ばかりが目に立つて大きかつたのである。
    ころもを捨てて輕き世の中             輪
 是は和子の御守役を僧形の人と空想したのである。法衣を着て居ればこそ色々の作法や勤めもあるが、あれさへ脱いでしまへば世渡りは安いと、こんな卑賤な役目を結句樂しんで居る人物を出して來たのである。斯ういふ氣樂な遊び坊主ともいふべきものが、中世以來數を加へ、又さういふ人たちがやたらに頭をまろめて居た。俳諧師といふのも(352)實はその一種で、對社會の態度が當世の宗匠とは必然に異なつて居た。
   酒飲めば谷の朽木も佛なり              翁
 昔の法話類にはよく斯ういふことを謂つて居た。たゞそれに酒飲めばの五文字を冠したのが新しいだけである。何のなす事も無く、子の守までするやうな法師で居て、酒だけには執心があるのは哀れであるが、斯ういふ人間も以前は多く居た。さうして一方には酒を愛する歌は李白以來、日本でいふならば大伴旅人以來の流行であつた。
    狩人歸る岨の松明                 良
 谷の朽木を山の庵に住む醉僧と解して、是に岨《そば》の路を歸り來る人物を向ひ合せたのも唐繪の心である。心持の上からの關聯は別に無い。前期の連俳はわざと色々の附け方を取まじへて、或る時は言葉の口合ひ、又ある時は斯ういふ繪樣を以て應對して居る。芭蕉も年を取られてから、追々に匂ひ附けとも名づくべき句が多くなつて來たゞけで、もとは色々の附け方を試みて居られる。
   落武者の明日の道問ふ草枕              桃
 「あすの路」は複雜で面白い。相手を山賤と見て心を許し、詳しく五里七里のさきの道筋を尋ね問ひ、自分は今晩は此附近に露宿しようとするのである。靜かに後圖を策せんとする沈着さまでを、短い一句の中にほゞ敍述したのは働きだと思ふ。句の姿も惡くない。
    森の透間に千木の片そぎ              輪
 是も敍景の附句だが、或は少し俗な案じだつたかもしれぬ。明日の道をとくと聽き尋ねてから、行く手の社地に入つて一夜を明さうとするものとして、其場所を直接に繪にしたのだが、是は桃鄰本の方では全く作り替へて居る。それでこの改刪に翅輪が參與して居たことが想像せられる。「水こと/\と御手洗の音」といふのは、一句としては感じのよい句である。あたりに野宿をしてもよい神の森があつたといふまでは同じだが、斯うなると句がやゝ獨立して、(353)前句の註脚に墮せず、次の場面を新たにせしめるに便利である。たゞ水の音のこと/\はどうも神前の流れのやうな氣がしない。
   日中の鐘撞く頃になりにけり            桃里
 此句は前からあつて筆を加へられて居ない。それで氣が付くのは前句の水こと/\と、音響の句が二つ重なつてまづく、寧ろこちらの千木の片そぎの方とよく調和して居る。私は是を翅輪の御手洗の一句だけが、後で差替へられた痕跡ではないかと思ふ。日中の鐘つく頃は、單に午時になつたと見えて寺の鐘が鳴るといふ意味だが、轉囘の爲には手柄のある句であり、恐らく一座から譽められたらう。それが後から前句を水こと/\と替へられては、幾分かねうちを下げられ、損をして居る。
    一釜の茶をかすり終りぬ              良
 カスルは此時代の流行語で、せしめたとかやつつけたといふ類の下品な動詞らしい。朝から茶を飲み、たうとう釜一杯の湯を盡したといふ閑人の境涯である。桃鄰本の方では是に手が入つて「一釜かする美濃の莖長《くきなが》」といふ、やゝ解りにくい句になつて居る。莖長は多分菜漬のことで、それを茶受けにして、一釜の茶を飲んでしまつたといふのは、景物としては珍しいけれども、朝から茶に遊ぶ暢氣な境涯が語られず、たゞ何か莖長がうまかつたとか、鹽辛かつたといふ方に行つてしまふ。句主の曾良が知つたら或は首を振つたかも知らぬが、しかし美濃の莖長などいふ才覺は、黒羽人には浮ばなかつたらうから、事によると是は師翁の心づきだつたかも知れない。
   乞食とも知らで浮世の物語              輪
 侘びたる隱士の世事にうとい生活である。ふと來た旅の者に聲をかけて、うか/\と世間話に時を過して居たが、段々聽いて見ると乞食だつたといふので、どうやら茶なども汲んで飲ませて居た樣子である。乞食と茶の湯をしたといふ有名な逸話は、もう此頃から始まつて居たのかも知れない。さうで無くとも人望のありさうな滑稽である。
(354)    洞の地藏に籠る有明               桃
 この有明も月の座で、八句續いた雜の句を打切り、こゝから秋の季に入つて居る。乞食と浮世の物語をしたのも、洞の夜明前なら一段と尤もに聽える。
   蔦の葉は猿の泪や染めつらん             翁
 洞の地藏の出入に見た景色であらうが、「雁の涙や落ちつらん」といふ古い和歌は、翁の愛吟する所だつたと見えて、是を俳諧化した猿の涙といふ句は、他にまだ一箇所以上用ゐられて居る。斯ういふ點が趣味の新舊の堺目であつて、もしいつ迄も線より此方に?徊して居たならば、炭俵の大衆は結成せられずに終つたらう。奧の細道はいはゆる正風の俳諧に於て、一つの廻り舞臺のやうなものであつたことが考へられる。
    流人柴刈る秋風の音                里
 この句もまた後に「冬を鄰て流人柴刈る」と改作せられ、その方がずつと落付いて居る。冬近し又は冬鄰は秋の李であつて、しかも柴刈る人のわびしい境涯によくなじみ、秋風の音のやうに空々しくない。流人はこの時世の新しい詩材で、芭蕉も特に興味をもつて居たことは、此次に出る歌仙にも實例があるのである。
  二ウ
   けふも亦朝日を拜む石の上              翁
 石は洞の地藏と少し差合ひの感じがするが、勿論規則違犯といふまでゝは無い。さうして一句獨立の姿としては立派である。惡く推量すると持つて居られた句で、こゝは必ずしもよい場合ではなかつたのかも知れない。
    米磨ぎちらす瀧の白浪              二寸
 是から末五句は全部置き換へられて居て、趣向も移りかはりも悉く別だから、その分はたゞ附載して置かう。米磨ぎちらすは思ひ切つて低俗な聯想だが、たゞの山居の僧などの日常生活とすれば是もおもしろい。作者二寸はどんな人だつたか、この一句だけが此卷には容れられて居る。
(355)   籏の手の雲かと見えて飜り             良
 むつかしい言ひ方だが、早朝米を浙ぎに谷川へ降りて行かうとしてふと一方の空を望めば、旗のやうな白雲が靡いて居るといふだけであらう。打越の朝日を拜むと、やゝ突き合ふやうだから自分は賛成しない。
    奧の風雅を物に書きつゝ              輪
 「書きつゝ」は或は書きつくだつたかも知れない。前句と離れすぎて居るのはわざとであらう。即ち是もたゞ大まかに、旅する人の心境を寫すものと見たのである。こゝは那須野の片端で、奧州への入口なのだが、この句では奧の旅から戻つて來る者の場合を空想したのが働きである。
   めづらしき行脚を花に留め置きて          秋鴉
 この句主秋鴉も新顔で、たゞこの一吟しか入つて居ない。それも前句の跡を追うたゞけで、いさゝか花の座をもてあつかつた形である。
    彌生暮らせる春の晦日《つごもり》         里
 是も全くお座なりで少しばかりの新味も無い。何だか末すぼまりの、亭主はどこへ行つたかと思ふやうな不あしらひである。翠桃といふ人は相應な修行を積んだ俳士らしいが、或はもう根氣のつゞかない老人であつたのかも知れぬ。さう思つて見ると、桃鄰の陸奧千鳥に採録せられたものが、愈以て後の修繕工事であつたことがよくわかる。試みにその末五句を掲げて比較をして見ると、
   (けふも又朝日を拜む石の上            芭蕉)
     殿付けられて唯のする舟            翅輪
   奧筋も時は替らずほとゝぎす            曾良
    ?まずに呑メと投ル丸藥             翅輪
(356)   花の宿馳走をせぬが馳走也            桃里
    ふさぐというて火燵そのまゝ           翠桃
 
       ○
 
 連句は鏈のやうなものだから、中の一句のみをさしかへることは容易の細工でない。それでいつそのこと一かために改訂して見ようといふことになるのも自然である。句がらの好し惡しは別にして、桃鄰本の方の名殘の裏五句に於て、計畫せられたことが三つある。(イ)亭主翠桃の句を揚句に持つて來たことが一つ、(ロ)二寸・秋鴉といふ飛入の二人の句を取除いたことが一つ、(ハ)翅輪といふ人の句が二つになり、且つ舊句が引込められて居ることである。芭蕉歿後滿三年に、桃鄰は故師の足跡を辿り、那須の黒羽を訪れて土地の俳人と會合し、一夕の俳莚を開かしめた。其日の記録は陸奧千鳥卷三に、即ち秣負ふの一篇のすぐ後に載せられて居るが、是に參與した者は桃賀桃水白桃桃雫等、果して翠桃の子弟であるか、はた又桃鄰その人の教へを受けたものか、何れとも推し得られる者が幾人もある。さうして以前の連衆のこの度も名を列ねて居るのは、たゞ翅輪あるのみであつた。曾良の手記の中に見える籏の手の雲かと見えての一句は、この方では奧筋も時はかはらずほとゝぎすといふ句にさしかへられて居る。是をもし曾良が知つて居たならば、雪まろげにあるやうな句稿は恐らくは殘さなかつたらうし、又二寸・秋鴉といふやうな新たな作者を加入せしめなかつたらう。それで私などは是を桃鄰が行脚の際に、生き殘つた翅輪と相談をして、新たに刪定した方が舊稿よりも先に、世の中に出たものと解して居る。又この方が大體に於て良くなつても居るのである。
 
 (參照)
 小宮氏 芭蕉連句集 一二九頁
(357) 勝峯氏 芭蕉連句集成 二五八頁
 籾山氏 俳諧名著文庫七(陸奧千鳥)
 同   同     八(雪まろげ)
 
(358)     最上川の歌仙
 
                          芭蕉
   さみだれをあつめてすゞしもがみ川 
    岸にほたるを繋ぐ舟杭             一榮
   瓜ばたけいさよふ空に影まちて          曾良
    里をむかひに桑のほそみち           川水
   うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ       一榮
    水雲重しふところの吟             芭蕉
  一ウ
   侘笠をまくらに立てやまおろし          川水
    松むすぴおく國のさかひめ           曾良
   永樂の古き寺領を戴て              芭蕉
    夢とあはする大鷹のかみ            一榮
   たきものゝ名を曉とかこちたる          曾良
    つま紅粉うつる雙六のいし           川水
   卷あぐる簾にちごのはひ入て           一榮
(359)    煩ふひとに告るあきかぜ           芭蕉
   水替る井手の月こそ袁なれ            川水
    きぬたうちとてえらび出さる          曾良
   花の後花を織らする花莚             一榮
    ねはむいとなむ山かげの塔           川水
  二オ
   えた村はうきよの外の春富て           芭蕉
    かたながりする甲斐の一亂           曾良
   葎垣人も通らぬ關所               川水
    もの書たびに削るまつかぜ           一榮
   星祭る髪はしらがのかるゝまで          曾良
    集に遊女の名をとむる月            芭蕉
   鹿笛にもらふもをかし塗あしだ          一榮
    柴賣に出て家路わするゝ            川水
   ねぶた咲木陰を晝のかげろひに          芭蕉
    たえ/\ならす千日のかね           曾良
   古里の友かと跡をふりかへし           川水
    ことば論する舟の乘合             一榮
  二ウ
   雪みぞれ師走の市の名殘とて           曾良
    煤掃の日を草庵の客              芭蕉
(360)   無人を古き懷紙にかぞへられ          一榮
    やもめがらすのまよふ入逢           川水
   平包あすもこゆべき峰の花            芭蕉
    山田の種をいはふむらさめ           曾良
 
 「奥の細道」の出羽大石田の條に、「爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角一聲の心をやはらげ此道にさぐり足して、新古ふた道にふみまよふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一卷殘しぬ。此たびの風流爰に至れり」とあつて、末に發句の一章のみを書き留めてある。その「わりなき一卷」といふのがこの歌仙であつた。亭主の一榮が舊派の俳人の一人であり、しかも既に風蘿坊の新風を聽き傳へて、久しく景慕して居たこともこれでよくわかる。川水といふ同志の力量も凡庸で無い。師翁がこの地方の既成二作家に對して何を示したかといふことは興味ある問題であり、乃ち又自分等が是をたゞ一篇の旅のすさびとして、看過し得ない所以である。
 しかし斯ういふ歴史的の意義をもつ作品であつたにも拘らず、何かまだ作者たちの意に滿たぬ節があつたものか、彼等自身の手では久しい間、公表しようとはしなかつた。是が世に現はれたのは同行の曾良が手控へで、しかも其歿後二十八年目に親族の者の手によつて、板行に付せられたのである。俳諧特有の作後改修といふものが此中には大分有るらしい。それで年代としては又數年後のものだけれども、大島蓼太が東北を行脚して、發見して來たといふ「奧の細道拾遺」採録のものを、すくなくとも原作に近い寫しとして、之に據らうとして居た。ところが驚き入つたことには、是が又大石田の原本と、著しく違つて居たのである。昭和十五年に編纂公刊せられた大石田町誌に、寫眞版になつてそれが出て居ることを、齋藤茂吉氏から私は教へてもらひ、是と拾遺本とを比べ合せて見ると、連句の興行地を後者では山形に改めて居り、この點などは却つて「雪まろげ」所載のものゝ方が、原本の事實を傳へて居た。連句(361)を後代の鑑賞者の氣のすむやうに、少しづゝ引直して行くといふ風習は、中世の寫本文學などゝよく似て居り、それには又今一つ前の口承文學からの傳統があるらしいことは、非常に面白い問題ではあるが、この序を以て説き盡し得ない。爰にはたゞ幸ひに保存せられてあつた大石田の原本を基にして、それが作者たちの生前死後に亙り、どういふ風に變つて來たかといふだけを、注意して見て行くにとゞめようと思ふ。
 
       ○
                       芭蕉
   さみだれをあつめてすゞしもがみ川
 發句ばかりを載せて居る「奧の細道」には、この「すゞし」が「早し」に改まつて居る。外部の者の感じでは、梅雨の頃の最上川増水は、涼しといふにはまだ早いので、從つて句がやゝ不自然に聽えることを斟酌せられたものだらうが、現實この時には皆が涼しいと思つたと見える。寫生と構想との、是はいつまでも解決しない難問題である。句としてどちらがよいかと言へば、早しの方が印象は深いのだが、それではすくなくとも當日の記念ではなくなる。拾遺本も「早し」であるが是はたゞ翁の記録に忠誠だつたとも見られる。曾良本の方はまだ「涼し」となつて居る。
    岸にほたるを繋ぐ舟杭             一榮
 是も即目の景だつたか知らぬが、亭主の脇だから、無論珍客を引留め得てうれしいといふ感情を托して居る。さうすると蓼太の採集した本のやうに、「螢を岸に」とかへた方がなほよいやうにも思はれるが、是は芭蕉の加筆であつたといふ證據が無く、現に曾良本もなほ原本のまゝを傳へて居る。口調は「岸に螢を」の方が好いやうである。螢の舟の綱にとまつて居るのを、杭《くひ》に繋いだと謂つたのは、たゞ古風な言葉のあやであつた。
   瓜ばたけいさよふ空に影まちて         曾良
(362) 月の句である。月の座を第三まで引上げるのは、發句が秋の季である場合に限るやうに、後世の宗匠たちは説いて居るが、蕉門では少なくともさう窮屈には見なかつた。こゝは前二句が夏だからこの句も夏、さうして後に秋の句は續いて居ない。「いざよふ」は月に限つた言葉づかひで、從つて是があれば月の字は無用と認められ、或は無い方がよいとまで言はれて居たらしい。しかし「影まちて」は如何にも氣が利かず、やはり月待つといふ方が自然である。作者曾良が後になつて、之をさう改めて居るのは尤もだと思ふ。句の意味はたゞ瓜畑の上のあたりの山に、月が出かゝつて居るといふので、脇句の螢のとまつた風景を、やゝちがつた場面へ移したものである。
    里をむかひに桑のほそみち          川水
 雜の句ではあるが、前句の瓜畑を受けた以上はやはり其季節の、葉の茂つた桑の林であらう。その桑の葉を摘みに來て、蠶を飼ふらしい村里が彼方に隱見し、それへ通ふ小路がある。是も寫生であらうが二句を合せて、四條派のやうな一幅の畫を浮び上らせて居る。
   うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ      一榮
 田園の事物を三句まで重ねるのはどうかと思ふが、是はたゞ牛の仔を詠じたので無く、他には何の爲すことも無いといふやうな閑寂境を點出しようとして居る。平和といふ以外には何一つの目新しいものも無い日の暮方、それへひよつこり顔を出したのが、特に子牛だから微笑させられる。この作者はもう決してかけ出しではない。
   水雲重しふところの吟             芭蕉
 其角との附合にも、しば/\何々の?といふ末の句が出て來る。吟又は?は詩篇のことで、それを懷にしてあるく狂僧のやうなものがよく想像せられ、從つて爰も漢和風に、水雲《すゐうん》と音讀したものと私は思ふ。それを傳寫者はミヅクモは雅馴で無いとしたものか、拾遺本の方では雨雲と改めて居る。雨雲重しでは最初の心持は出さうにも無い。或は水上の雲の、低く垂れて居る光景を考へたのかも知れぬが、爰では寧ろ句の形を主とし、斯んな唐くさい表現でも、(363)折柄に合せては參差の趣を成すことが出來るといふ日頃の意見を、例示せられたものと見られる。亭主一榮も事によると、少しく談林に傾きかけて居た人かも知れぬのである。
  一ウ
   侘笠をまくらに立てやまおろし         川水
 わび笠といふ語は少し新し過ぎるが、侘人即ち貧しい漂泊者のかぶつてあるく古い笠のことで、それを山下風の吹く夜の旅宿に、枕屏風の代りに枕頭に立てかけたといふので、主人公の圓頂を言外に表示してほゝゑましい。山おろしは勿論前句の水雲を見て居る。斯ういふ旅中の句になると、いつでも作者自らの體驗でゝもあるやうに敍べるのは、西行以來の、年久しい因習であり、今となつては狹隘な趣味とも評し得る。
    松むすびおく國のさかひめ          曾良
 萬葉の岩代の結び松の故事であらうが、連歌以前から常識のやうになつて文人の間に通用して居た。爰では單に國の境目を通りかゝつて、記念の爲にさういふ事をしたといふ所に、僅かな新味を發揮したゞけで、前句の笠屏風のをかしみを、あまり輕く突き放して居るのは親切とは言へない。此ついでに言ふと、全體にこの一卷は附け方がどれも冷淡なやうで(例外はあるが)、其爲に感興の累積といふことが少ないやうに感じられる。一句々々には可なり力が入つて居りながら、少なくとも此あたり迄は、まだ一向に氣合ひが乘らず、少し堅くなつて居るやうである。
   永樂の古き寺領を戴て             芭蕉
 この永樂がもし單なる誤記でなかつたならば、此句の趣向はいさゝか複雜に過ぎる。しかし以前には、知りつゝ此樣な頓狂なことを言つて見る風も多かつたのだから、何とも言はれない。一句の心持は、ちやうど枝の長く垂れた大木の松のあるのが、物古りたる寺の門前か何かであつて、殊になつかしさを添へたといふことを、寺の什寶の文書の年號から説かうとしたので、この方法も亦いさゝか談林くさい。
    夢とあはする大鷹のかみ           一榮
(364) 大高檀紙といふのは、所領安堵の朱印黒印?に用ゐらるゝ紙である。夢と合はするは多分鷹の夢を大吉とする俗信を、思ひ合せた一つのしやれであらう。古い由緒が認められて、再び以前と同じ寺領を戴いたといふ風に取つたので、寺の再興に熱心な住持僧などが、その前兆に鷹の夢でも見たといふやうな空想では無かつたらうか。それより以外にはこの句の附味は考へられないからである。
   たきものゝ名を曉とかこちたる         曾良
 夢が前句に出たので、是を戀に取りなさうとしたたのらしい。たきもの即ち薫香も通例は大高の紙に包まれて居る。かこつは物につけて愁を新たにすることを謂つたので、その香の包の銘が曉と書かれて居るのも、何か夜もすがら空しく待ち明かすべき前兆のやうに感じられて、棄てられるかも知れぬと思ふ女が、一人心細く悲しんで居るさまを詠じたものと察せられる。但し蓼太本に、「香を曉と」と改めたのはさかしらであらう。
    つま紅粉うつる雙六のいし          川水
 前句は少なくとも此句の作者には今言つた意味に解せられて居たと見える。爪紅《つまべに》は近頃の女の如く指さきを紅で染めるのでは無く、たゞ爪を紅筆の代りにして、かりそめに我唇を塗ることで、毎日化粧をするやうな職業の女のしわざである。その爪の紅粉《ぺに》がよくも拭はれないで、物に附くなどは不たしなみな、ちとぢゝむさい話だがそれでも曉天になるまで人を待つ女とはほゞ調和して居る。上品上生とまでは言へないが、ともかくも戀の句としては十分通用する。但し雙六の馬を石と謂つたゞけは、此遊戯を知らぬ人の語らしいが、馬といふのも少し變だから、石としたのも先づよからう。
   卷あぐる簾にちごのはひ入て          一榮
 是はまことに佳い附句である。時刻は前々句のやうな夜更では無く、午後の靜かなひと時など、雙六の遊びをして居る一方の女は子持なのである。簾のあなたに寢かせてあつた緑兒が起きかへり、母の笑ひ聲を聽いて垂簾の下をく(365)ぐつて這つて來る。なごやかな光景が眼に浮ぶやうである。如何なる修業をして居たら、斯うした美しい聯想が即座に浮んで來るものだらうか。參考書などゝいふものゝ全く無い地方であるだけに、かつは作者一榮といふ人の境涯が奧ゆかしい。
    煩ふひとに告るあきかぜ           芭蕉
 是も至つて感銘の深い、從つて多くの人のよく記憶して居る一句であるが、この方などはまだ前句の珍らかな意匠に動かされて、自然にさういふ方へ考へ進んだもの、即ち俳諧の妙用といふことが言へるであらう。しかし秋風といふ言葉がよく利いて居て、人事から秋の季への鮮かなる轉囘であつた。前句の方の簾は裾がわざと少し卷き上げてあつたが、此句では秋風が下の端を吹き上げるのである。中にはその稚兒の母が病んで寢て居る。あゝ秋になつたと心付くのと、無心な幼い者が枕元に寄つて來るのと同じ時なので、淋しさの感じが一しほ複雜である。一生獨身の俳諧師として、いつの間に斯ういふ物のあはれにまで通じて居られたものか。驚歎すべきはたゞ言葉の技術だけでない。
   水替る井手の月こそ哀なれ           川水
 井手は今いふ水門、どこの井手でもよいが是は恐らく六玉川の一つ、山吹の名所の山城井出を考へたのであらう。月にも詠み合されたその有名な井手が、秋の田の用が無くなつて水の入れ替へをして居る。底の泥さへあらはなる上に、月が出たといふまでは殺風景かも知れぬが、とにかくそこらが取片付けられて、何やら樣子の變つた夕月夜だ、といふ位の俳諧はあつたらしい。そんなら前の句にはどう繋がるかといふと、煩つて居る農家の垣根の外を、堰普請を終つた村人たちが、けふの話をしながら戻つて來るのが、秋を告げるやうに感じられるのかと私は想像して居る。それ迄は考へて見なくても、二つの句を共に田舍の暮秋の風情としても、一通りは附けた人の氣もちを汲むことが出來る。
    きぬたうちとてえらび出さる         曾良
(366) 「雪まろげ」には碪打と漢字で書いて居るので、「きぬたうてとて」かと思つて居たところ、原本は明らかに「うち」である。手づゝなる言葉使ひと言つてよからうが、意味はとにかくに地頭などの風流を好む者が、砧の上手な者をすぐつて、井手の月夜に一つ打つて聽かせよと所望するといふに在るらしく、京近くの在郷では、たまには有りさうな事である。前の句とやゝ似通うたユウモアである。
   花の後花を織らする花莚            一榮
 この「後」の文字は、アトとよんだかノチとよんだか明らかでないが、私はノチの方が場合にかなふやうに思ふ。砧打ちに選び出される者が、この手わざにもすぐれて居たと、いふやうな空想も働いたものか。ともかくもこれはただ言葉の面白味を主とした句で、花の座の爰に在つて動かぬことを知りながら、すぐ其前まで秋の李を寄せて來た一種の挑戰に、半ば反撥した態度とも見られる。少しく無理な季移りではあるが、花の後といふからは秋であつてもよい。花を織らするは赤青色々の染藺を以て花茣蓙を編むことで、それを花莚といふと又花見用とも取られ、一句を引離して見れば當然に春の季に入つて來るのである。しかし花の座の季移りなどはまさに難題で、從つて又斯ういふ場數を踏んだ人が試みられるのである。單なる文藝遊戯としては勝ちかも知れぬが、私たちには樂しみが少ない。
    ねはむいとなむ山かげの塔          川水
 涅槃は舊二月十五日、暖い土地でも花盛りよりはすこし早い。それを前句の「花の後」に附けたのは精確でないが、一句としては姿がある。山陰の塔は寺の字の重出を避けたゞけで無く、寧ろこの方が胸の繪を鮮かにして働きがある。山の陰にある寺に涅槃會の營まれて居ることを知るのは、多分カンカンと聽える鉦の音であらう。斯ういふ長閑な日に屋うちをあけひろげて、花莚を織つて居る家がある。山が横靡いて塔のさきが林の上に見える。あゝあの寺だと旅の人が思ふと見てもよし、或はけふはこの仕事が殘つて、うちでは御詣りが出來ぬと言つて居るところと見てもよい。
  二オ
   えた村はうきよの外の春富て          芭蕉
(367) 春富みてといふのは椿や辛夷《こぶし》ぼけ山吹といふ類の世話のかゝらぬ花が、垣にも路ばたにも多いことをいふのだらうが、とにかくに貧しい村だけに、この言葉が同情を帶びて響く。浮世の外もよくわかつて居る。その後の岡には寺の塔の光、大和あたりにでも有りさうな景色である。
    かたながりする甲斐の一亂          曾良
 刀狩といふ語が後には解しにくゝなつたものか、力持などゝまちがへた本もある。是は民家から刀劍類を取上げることで、江戸初期までの警察行政であつた。春富みてといふ前句に對應させて居る。斯ういふ小家には殊に匿されて居ることが多かつたのである。一亂は一度の戰亂といふまでゝあつたらうが、軍書などには?暴動といふ意味に用ゐられて居り、甲州には現にさういふ實例もあつたやうに傳へられる。
   葎垣人も通らぬ關所              川水
 前句のやうなあまりにも具體的な記述の後は、局面轉囘が殊に容易でなく、素人ならば皆其説明を補充しようとして、愈細い袋小路に入つて出られなくなる。川水といふ作者は流石にそれを用心して居るが、時間が足りなかつたか、言ひまはしがよく行屆かない。關所を「せきどころ」といふのは耳馴れず、前句の一亂の語を承けて、草木の茂りが關をすゑたも同樣になつて居るといふつもりらしいが、さうすれば「人も通らぬ」は餘計なことであり、又|葎垣《むぐらがき》は打越の春富みてのくり返しにもなつて居る。まづい附句と評してもよからう。
    もの書たびに削るまつかぜ          一榮
 他の二本には松風が「松の木」と改まつて居る。その方が安らかに聽えることは無論だが、こゝを松風としたのは一趣向で、人がたび/\削つて字を書く松の木、その松の木が風に吹かれて音を立てゝ居るといふ點に、興味を寄せたものらしい。俳諧の句形は短いので、斯ういふ稍窮屈な表現も、もとは多く許されて居た。たとへば「冬の日」の、「布搗き唄に笑はれて」なども一つの類例である。それが次第に流行しなくなつて、松の木とした方がよいのに(368)と、思ふ者ばかり多くなつたのである。この一句は大體に、わざと前句から引離した附味と思はれるが、そんな兒島高コ式の利用法がさうたび/\行はれたとも思はれぬので、如何にも寫実味が乏しい。たゞ此あたりへ松の木でも一本、持つて來たらと心付いたゞけが、老手といつてよいのである。關所に近い松の木を削つて、文字を書いて置くといふ趣向は他にもあつた。それが遠いけれども第八句目の「松結び置く」と指し合ふことは否めない。どのみち後に再案しなければならぬ句であつた。
   星祭る髪はしらがのかるゝまで         曾良
 曾良の手控には「しらがに」となつて居るらしいが、原本の方が少しは解しやすい。これは年毎の七夕の祭を、老い朽ちてしまふまで續けて居るといふことを、前句の松風の音に向合せて、檜垣の嫗のやうな境涯を描き出さうとしたものであらう。少なくとも次の附句ではさういふ風に取つて居られる。
    集に遊女の名をとむる月           芭蕉
 秋の季で且つ戀の句である。心に愛情は無くとも、遊女といふと戀になるので、この次の句もその餘波を受けたか、戀の句ながらやゝ側面の情景を見せて居る。この轉囘は私たちには興味が深い。一句の意は何々といふ選集にも採られて居る月の名歌、それを詠んだ遊女はこゝの人だつた。今宵はからずも月の光の下に、そのゆかりの土地に來合せたことよといふので、誠に面白い思ひ付きといつてよいのだが、殘念なことには前の句とのかゝりがはつきりしない。他の例にもよく見ることで、是も一つの行詰まりを切開いて行く、翁一流の方法だつたのかも知れない。拾遺本に「名をとゞむ月」とかへて居るのは無學のわざであつて、改訂が必ずしも作者の手によるものに限らなかつた一證である。
   鹿笛にもらふもをかし塗あしだ         一榮
 徒然草で有名な故事、女のはき物で作つた笛の音には、妻戀ふ鹿がたやすく寄つて來るといふ言ひ傳へを踏まへた(369)句だが、それを游女として又塗り足駄としたので、十二分に俳諧になつて居る。作者一榮の力量は是でもわかるが、或は此頃すでに太夫高尾の伽羅の下駄といふ類の俗傳が、出羽まで流布して居たといふことを暗示するものかもしれない。
    柴賣に出て家路わするゝ           川水
 いへぢを忘れるとはつまり一杯飲んだといふことである。そんな古下駄を嬉しがつて貰ふやうな風狂人が、山里に住付いて居るといふので、是も一種の型といへば型、要するにやり句といふものゝ域を脱して居ない。
   ねぶた咲木陰を晝のかげろひに         芭蕉
 前句の柴は和歌道では冬季だが、俳諧では季題に入つて居ないやうで、即ち雜の句である。夏の季で之を受けるといふことも實際には合ふのである。ねぶたは合歡即ちネムの木で、方言ともいへない程、東西の廣い區域に行はれて居る。是は主として其花の美しさを説かうとしたので、夏の詩材としては最も清新である。但しかげろひといふ語は少しく當らぬが、とにかくに此木蔭は、たしかに晝寢をするに通して居た。
    たえ/\ならす千日のかね          曾良
 千日は千日念佛、以前田舍に流行した長日の勤行である。をかしいことに作者曾良の手控へには、この千日が萬日と改められて居る。萬日は多分千日の上を行くもので、もう元禄の俳諧には入つて居るが、是は寧ろ多勢の參加者の延べ計算で、澤山の浮浪人が寄り集まつた、雜踏の催しであつた。「絶え/\鳴らす」はこの鉦の音の低いのでは無く、聽き手がうつら/\と耳に入れて居るだけで、ちよつと氣の利いた表現であつたと共に、愈以て靜かな千日の方で無ければならぬと思ふのだが、わざ/\萬日とさしかへたのは、或は次の句との渡りを考へたものかも知れぬ。それから今一つ氣になることは、前に涅槃の寺でもたしかに鉦の音はしたらうと思ふのに、再びやゝ似たる風情を取出して來たことで、是などは俳諧の式目がどんなに細かくなつても、作者自らの感覺以外には、もう失敗を防止する(370)途は無い實例である。
   古里の友かと跡をふりかへし          川水
 前句の絶え/\といふ語は無視せられて、誰か人込みの中に故郷の訛りで物いふ者の有るのを聽き付けたといふのである。「何やら聽かん我國の聲」といふ句も「春の日」の中にはあつて、それも萬日の原への附けであつた。「ふりかへし」は原本にたしかにさうあるが、聞きつけない言葉である。よつて他の二本には共に「ふりかへり」と訂正せられて居る。
    ことば論する舟の乘合            一榮
 乘合は渡し舟、ことば論は今いふ口いさかひ、手までは振上げない喧嘩である。そのせき込んだ樣な言葉使ひの中にたしかに生まれ在所の方言がある。振返りは舟の中としてはをかしいやうだが、自分は先づ乘つて舳先に近く居たとすればよい。前句の言ひ得なかつた部分を補充して聽くのは、親切ながら、何かもう少ししつとりとした附け樣も有りさうなものであつた。よい句とはどうも言へない。
  二ウ
   雪みぞれ師走の市の名殘とて          曾良
 喧嘩を載せた渡舟には、せはしない暮の市歸りの人が押し合ひへしあひ、おまけに霙まで降つて居るのである。名殘といふ言葉はこゝでは當らぬが、通例いさかひとか戰とかいふ類の際立つた前句には、いそいで之を平靜の?に引戻さねばならぬといふ感じが昔から有つたので、それがこゝにも暗々裡に作用して居るかと思ふ。つまりは是も次の句を出しやすくする一種の禮節であつた。
   煤掃の日を草庵の客              芭蕉
 輕い俳諧である。隱者の居だけは暮の煤掃は無いので、よその氣樂人が逃げ出して訪問に來るのである。風雅にも打算が有るといふ、一種の皮肉が含まれて居たのかも知れない。さうで無いまでも師走の市の騷がしさを、庵の明り(371)障子の中の差し向ひで受けたのは、見かけによらぬ複雜な趣向であつた。
   無人を古き懷紙にかぞへられ          一榮
 此句は草庵でもやはり少しの片付けものをして居る場合を考へたものか。年の暮が閑靜だと、どうしても過ぎ去つた昔のことが憶ひ出される。懷紙といふのは曾ての連歌の會の記念で、それをひろげて見るに三人に二人はもう故人といふ樣なことが、隱居さんには多いのである。是などは句主自らの經驗とも見られる。
    やもめがらすのまよふ入逢          川水
 この附けは前句で不明であつた時刻を、入合ひ即ち日の入り方に持つて來ただけの趣旨で、迷ふも「やもめ鴉」も大きな意味は無く、むしろこのあとたゞ二句の働きを制約するばかりである。我翁の花の座がどういふ風に處理せられるかを、事によると試みんとする下心が有つたかも知れぬ。さうで無いならば、斯うごた/\とした道具立てはいらぬ筈である。
   平包あすもこゆべき峰の花           芭蕉
 まことに安らかな又風情の豐かな花の座だと思ふ。「ひらづゝみ」は今いふ風呂敷包みのことだが是は四隅を斜めに結び合さずに、たゞ平らに端を合せて笈の上に載せ細引を掛けて押へるのである。「あすも越ゆべき」は蓼太の採集本には「あすは越べき」とあり、其方がよい樣に私は思つて居たのだが、原本が「あすも」とあるのだから考へ直さざるを得ない。しばらく逗留して居た麓の里を、愈發足する前の夕方に山を見ると、ちやうど櫻も咲きかけて居るといふのは、如何にも樂しい春の旅らしいが、それではこゝの前句とは調和しない。やもめ鴉を受けようとすれば寂しい孤客を點出しなければならぬ。山又山の連日の行脚に、更に一つの峠にさしかゝつたところが、折もよく頂上に山櫻の咲いて居るのを望み得たのである。それを見定めた心持が、前の句の迷ふに應答して居る。たゞ獨立した一句として味はへば、「あすはこゆべき」の方がどの位伸び/\として居るかわからず、又平包の初五文字もよく働いて居(372)ることになるのである。
    山田の種をいはふむらさめ          曾良
   芭蕉九 一榮九 曾良九 用水九
     最上川のほとり一榮子宅において興行
                     芭蕉庵桃青書
         元禄二年仲夏末
 揚句としては、この「山田の種」などは上乘の部に屬する。即ち前句の花の座を活かしてしかも拘束せられず、又古來の作法であつた祝言の意も失つて居ない。苗代の種下しは、通例山の櫻の花候を見て日をきめる。ちやうど少しの小雨が、その水口祭をしたあとを降つて通る。さうして一人の風雅の客が、心樂しくこの麓の宿を立つて行くのも、明日の早天であるといふので、何か蕉門俳道の前途を祝福する句のやうにも聽える。奧の細道の旅行に於て、曾良の隨行はまことに好い計畫であつた。この一卷の歌仙にもよく顯はれて居るやうに、二人の師弟は後になり前になつて、附句の實作を以て多くの言説を省略して居る。曾良が居なかつたならば、どれほど煩はしい講釋をしなければならなかつたか判らない。それを考へるとこの人の事業も大きい。
 
       ○
 
 しかし全體にこの一卷は、「卷きあぐる簾に兒」の一つを除いては、むしろ型のある凡庸の句のみが多く、芭蕉翁の附けばかりが、ことさらに皆新しい色澤を光らせて居る。痕はもう幽かではあるが、是が最上川筋一帶の俳風に、大きな感化を與へたらうことは想像せられる。しかも是を完成した一個の作品と見ようとするには、この歌仙にはどう(373)もまだ氣になる節々があり、從つて師翁も自身では之を世に傳へんとはせられなかつた。後世の我々が鑑賞にも、よほど此點を考へてかゝらねばならない。然るに世の多くの註釋家は、是を全體として感歎しなければすまぬと思つてか、その言ふことが往々にしてひいきの引倒しになつて居る。さうして又俳諧を一段と晦澁の文學としてしまつたのである。時世が改まつて解らぬ事の多くなつたのも事實ではあるが、一つには又御互ひの味はひ方も、今までは決して自由とは言へなかつたのである。
 
 (參照)
 勝峯氏 芭蕉連句集成 二七三頁
 小宮氏 芭蕉連句集 一四一頁
 籾山氏 俳諧名著文庫卷八(雪まろげ)
 
(374)     あつみ山の歌仙
 
       江上の晩望
                         芭蕉
   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ 
    海松《みる》かる磯にたゝむ帆むしろ     不玉
   月出ば關屋をからん酒持て           曾良
    土もの竈のけぶる秋風             蕉
   しるしゝてほりに遣りたる色柏          玉
    あられの玉をふるふ簑の毛           良
  一ウ
   鳥屋作る鵜飼の宿に冬の來て           蕉
    火をたくかげに白髪たれつゝ          玉
   海道は道もなきまで切せばめ           良
    松笠おくる武隈の土産《つと》         蕉
   草枕をかしき戀もしならひて           玉
(375)    ちまたの神に申《まうす》かねごと      良
   お供《とも》して當なき我も忍ぶらん       蕉
    この世の末もみよし野に入る          玉
   朝づとめ妻帶寺のかねの聲            良
    けふもいのちと島の乞食            蕉
   かじけたる花し散《ちる》なと茱萸《ぐみ》折て  玉
    おぼろの鳩の寢どころの月           良
  ナオ
   物いへば木魂にひびく春の風           蕉
    すがたは瀧にきゆる山姫            玉
   剛力がけつまづきたる笹傳ひ           良
    棺ををさむる塚の荒芝             玉
   初霜はよしなき岩を粧ふらん           蕉
    ゑびすの衣を縫ひ/\ぞ泣く          良
   明日しめん雁を俵に生け置て           玉
    月さへすごき陣中の市             蕉
   御輿は眞葛が奧にかくし入れ           良
    小袖袴をおくる戒の師             玉
   我かほの母に似たるもゆかしくて         蕉
    貧にはめらぬ家はうれども           良
(376)  ナウ
   奈良の京持傳へたる古今集            玉
    はなに符をきる坊の酒藏            蕉
   鶯の巣を立初むる羽づかひ            良
    蠶種《こだね》うごきて箒手にとる       玉
   錦木を作りて古き戀を見ん            蕉
    ことなる色を好む宮達             良
 奧の細道の二旅客を迎へて、一夕の唱和に興じた那須の翠桃、須賀川の等躬、尾花澤の清風、大石田の一榮、羽黒の呂丸、鶴岡の重行等は、何れも名を知られた相應な俳人で、かねて斯ういふ行脚者の應待には手馴れて居たらしい。特に芭蕉の聲望に傾倒したといふことはあつたらうが、なほ且つ守持すべき自家の門地があつた。さういふ中でも酒田の伊東不玉は一方の雄であり、年齒も或は長じて居たかと思はれて、旗鼓堂々の間に相見ゆるの概がある。たゞ斯道の修行を積んだ人たちであるだけに、爭氣といふやうなものはどの隅にも見出されぬのである。斯ういふ會合の式作法は、私はまだ誰からも聽いて居らぬが、可なり氣づかひなものであつたらうと思ふ。たとへば一方の出した句がやゝ晦澁であつた場合にも、それはどういふ意味かと問ふことは失禮になり、それを又斯ういふ心持だらうと註解するのはなほぶしつけで、やはり遠くから當り障りの無い附方をするより他は無いので、自然に目のあらい布のやうな感じを與へずには居なかつたらう。さうはならぬやうに心掛けるとすれば、新鮮奇警といふ外に今一つ、表現の明晰といふことが必要になつて來る。是が俳諧の普及につれて、輕く淺くの炭俵風な句作りが、次第に盛んになつて來た原因ではないかと思はれる。さういふ苦しい體驗を經て、新しい工夫を積む機會が、もし我翁にあつたとすれば、元禄二年の東北行の時より他には考へられないのである。連歌以來の傳統のクラシシズムが、此時代にはまだ附纏うて(377)居た。さういふ時代に於て教養閲歴のほゞ相近い友を探りあてようとすれば、行脚は身の痩せ衰へるやうな難行であつたのも已むを得ない。此點は富裕な地頭たちに招請せられて、教へ導きつゝ未熟な人たちの相手をして居た、宗祇などの場合とはよほど違ふのである。今日の俳句界の群雄割據は無論芭蕉の頃よりも甚だしいが、統一しようとする者が無いから寧ろ氣樂である。芭蕉は自ら統一しようといふだけの野望は無かつたまでも、少なくとも統一せらるべきものとは思つたので、悩まなければならなかつた。さうしてこのあづみ山の一卷などには、その苦心がよく現はれて居るやうである。
 
       ○
 
     江上の晩望
 
                          芭蕉
   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
 紀行の文にはたゞ用船に乘り酒田の湊に下り、淵庵不玉といふ醫師の許を宿とすとあつてこの發句を載せ、「雪まろげ」の手記はこの歌仙に、出羽酒田湊伊藤不玉亨にてと題するのみである。この日袖の浦に舟を泛べてこの三吟を試み、雲龍寺に入つて一卷を成就したといふのは傳説であらう。一句の意は世にも稀なる壯快な夕涼みをしたとだけで盡きて居るのだが、あつみ山に就いては問題がある。吹浦はこの湊の北に續いた好風景の海の渚だが、こゝの濱から見える山々の中にあつみ山といふのは無いやうである。温海《あづみ》は温泉の地で僅かな丘陵を隔てゝ南に六七里、そこには此名で呼ばれる山はあるが、酒田の海濱から見えるかどうか。察するに芭蕉が思ひちがひをせられたので、是は鳥海山のことであらう。さうであつて此句の敍述には感がある。相手がこの誤りを見のがしたのは作法であり、或は又(378)さういふ古い名が有るのかも知れぬとも思つたのである。やかましい宗匠のさばきといふものも無く、又遠慮の無い執筆の忠言も無くて、斯うした持合ひで進行する連句といふものが、元は多かつたのである。芭蕉も此席ではたゞ風蘿坊芭蕉で通して居る。さうして記録は先づ酒田側に於て發表せられたのであつた。
    海松かる磯にたゝむ帆むしろ         不玉
 海松《みる》刈るは寫實で無く、和歌の語の踏襲であらうが、鄙びた濱の里といふ謙遜の意は含まれて居る。帆むしろも言葉の働きで、帆を疊んで假の憩ひの座を設けるといふに止まり、必ずしも此地方に蓆帆を用ゐる風習があつたわけではあるまい。帆むしろの意味を解しかねて、之を帆ばしらと改めて居る傳本もあるさうだが、柱をたゝむでは通用しない。
   月出ば關屋をからん酒持て           曾良
 是も月の出はなどゝ書き改めたものもあるが、「月いでば」と濁つて讀むので、和歌に夙くから許された語法である。月が出たら即ち月の上る頃を見はからつて、酒を下げて關屋へ遊びに行つて見よう。夜は通行も無く閑であらうから、酒でもあれば歡迎してくれるだらうといふのである。此關屋はどこの關でもよいが、吹浦のすぐ後が他領境で、有也無也《うやむや》の關の故跡といふことなども聽いて居たものと思ふ。
    士もの竈のけぶる秋風             蕉
 土ものは土器である。甕とか火消壺とかいふ類の粗相な土器を燒く竈が山の裾などにあつて、夕近く其煙が低く靡いて居る。それを簡單に秋風と謂つてしまつたので、前句の月から秋の季になつて居るのである。月の座を第三に引上げるのは、發句秋の季の場合に限らず、こゝでは又それが季移りの用にも供せられる。即ち前々句から見れば夏の月、四句目では之を秋に取りなして居る。いはゆる場所附けとしては新味の多い句である。
   しるしゝてほりに遣りたる色柏          玉
(379) 色柏《いろかしは》は多分新造の語だらう。東北ではよく見られる?の葉の赤く照つたのをいふので、即ち紅葉で秋の季である。來年見る爲に庭に移植しようといふので、一句に時の經過があるから、次の句の冬を要求して居る。單純な季移りでは無く、老巧の手法ともいふべきものであらう。「しるしにて」と一本に出て居るのは誤寫と認めてよい。
    あられの玉をふるふ簑の毛           良
 ?の木の紅葉が散り盡して後、しるしを目あてに掘りに行つて來た者の姿であらう。折から野中で霰に逢つて來て、簑を脱ぐとはら/\と霰の玉が庭にこぼれる。毛までは不用のやうだが、眼を留めて視た感じが出て居る。その玉といふ語も前句の色柏に向へて置いたので、初顔合せの心づかひが斯ういふ所にも出て居る。
  一ウ
   鳥屋作る鵜飼の宿に冬の來て           蕉
 鵜は冬中は用の無いもの、毎年放してしまふ土地が今もあるといふが、優良な鳥だけは鳥屋《とや》を作つて養つて置くのである。犬養といふ名などを思ひ合せると、鵜飼といふのは本來はさうして置くことであつたかも知れぬが後にはこの鳥に魚をくはへさせることが、鵜かひであるやうに考へられて來た。前句との繋がりはやゝ幽かで、新たに問題を提供しようとする形がある。即ちこの句に比べると前の句はやゝ平凡に見られるのである。冬二句つゞけて居る。
    火をたくかげに白髪たれつゝ          玉
 この句も幾分か古くさい思ひ付きのやうである。冬の來てとか火を焚くとかは、殊に有りふれた附けといつてよく、火を焚くのが老女であることに何の發見もない。歌仙の一卷は一個の作品なのに、其中の一句二句に點を掛けるやうな風習の始まつたのも、斯ういふやうな場合が多いのだから致し方が無い。但し全體の諧調の完備したものでないと、よい俳諧とは言へないやうに、芭蕉翁は思つて居られたにちがひないが、それでは實際に埋もれてしまふものが、あまりに多いのが惜しい。やはり辛抱をして疵のある卷々も、よく味はつて行かなければならぬ。
   海道は道もなきまで切せばめ           良
(380) 何か新たなる轉囘を求むべき場合ではあらうが、附句の前との繋がりは私には見出せないし、又「切せばめ」の意味もはつきりとして居ない。老女又は老翁の一人爐を守つて居る小家の外が、海道即ち往還である場合を想像したのかも知れぬ。次の句から逆に推測すると、竝木の松の枝を伐り下して、路上に散亂せしめて居たものとも取れるが、もしさうだつたら切せばめは無理である。ともかくもよい句では無いが、句主自身の手控へも此通りになつて居る。
    松笠おくる武隈の土産《つと》         蕉
 武隈の二本の松は古今集時代からの名木として知られて居る。是も長柄の橋のかんな屑のやうに、風雅の旅人がそのあたりの松毬を拾つて、笈の中へ入れて置くか、又は幸便に之を都の友へ送らうとするのである。送ると言ひ切つた心持はまだ私には呑込めないが、或は前句の切りせばめと、少し時をちがへて見ようとしたのかも知れない。
   草枕をかしき戀もしならひて           玉
 すばらしくよく働いた句である。前句は單なる旅の句であるのを、之によつて忽ち濃艶なる戀の情にしてしまひ、しかも一句の姿としても新しい。芭蕉も恐らくは敬服せられたことゝ思ふ。説明する必要は無いかも知らぬが、こゝではその松毬を贈つた者を、旅の路傍の女と見たのである。さうしてこの草枕の句の主人公は、それを贈られた旅人の方である。再び來たまふのを待つといふ意を托したとも考へられ、又この樣な無代で幾らも拾へる物を、如何にも勿體を附けて贈らうとする所に、勘定高い此種の女性の境涯も、ほのかに現はれて居るのが好俳諧であつた。それ等のすべてを斯ういつた方面から、寫し出すといふことは、淺い修行の者には出來ない。帽子を脱がざるを得ぬ好句である。
    ちまたの神に申《まうす》かねごと       良
 衢の神は今いふ道祖神である。かねごとは普通戀の誓言と解せられて居るが、語義からいふならたゞ心の中の願ひで、この場合にも當るのである。再び逢はせたまへの祈念などは、道祖神に願掛けするものではないのだが、是は路(381)の辻に竝び立ちたまふ神であり、又旅人の守護神とも傳へられる故に、半ば戯れの輕い心で、立止まつて拜をして行く。それが又をかしき戀の姿でもあつた。是も決して凡庸な技巧でないが、前句の力に押されて幾分か遣句のやうな感じを我々に與へる。
   お供して當なき我も忍ぶらん           蕉
 前句のかねごとを忍ぶらんを以て受けて居る。戀がこゝは三句續くのである。當てなきは少し下品な言葉だが主人が忍びありきをしたまふ爲に、其護衛の役に在るさむらひまでが、人目を避けてさまよひあるかなければならぬといふので、ちまたの神の石の蔭などに、立ちやすらうて居るやゝ年たけた男の、つまらなささうな姿も目に浮んで來る。自分の身の上に忍ぶらんは聊かそぐはないが、一體に「らん」は俳諧ではやゝ濫用せられて居る。
    この世の末もみよし野に入る          玉
 吉野は山城の京から遠く、殊に行法の嚴重な山である故に、世を棄てようとする者の昔から常に心に掛ける處となつて居た。戀三句の纏綿を斷ち切るにも、ちやうどふさはしい句の形であるが、やはり古くさいといふ評は免れない。しかし前句の「お供して」だけは確かに受けて、目に見えぬ情趣を言葉の外に添へようとしては居る。
   朝づとめ妻帶寺のかねの聲            良
 妻帶寺は驗者などの住む世襲住職の寺のことで、或は吉野の諸坊などもそれであつたかと思ふが確かなことはまだ知らない。妻の字はあつても是は戀の句で無かつたことは認めるが、何だか後がへりをするやうな感じがあつて、避けた方がよかつたと思ふ。さうして何故にこゝで特に妻帶僧の寺を出さなければならなかつたかも、私には不審である。餘地を殘し過ぎる、又は事を好みすぎるといふ嫌ひがあると思ふがどうか。
    けふもいのちと島の乞食            蕉
 其前句の弱味を補ふべく、芭蕉は卒然としてこゝに八丈ヶ島を持つて來られた。八丈の宗仙寺といふ淨土寺は、爲(382)朝の後商といふ説さへ後に起つた血脈相承の寺であつた。島の流人の孤獨な生を營む者が、朝日の光を浴びつゝ此寺の鐘の音を聽いて居るのである。けふも命は先づ一日は活き延びられたといふ心、こゝの流人は衣食の官給が無く、自分で生計を講じて居たので、老いて衰へるに到ればすべては皆乞食といつてよい境涯であつた。貞享元禄の交は、頻りにこの流刑地が利用せられて居た時代であり、從つて島の消息が在來の船によつてよく傳はつて居た。芭蕉は深川に住んで之を耳にする機會が多かつたと見えて、連句の題材にも毎度之を用ゐて居られる。それには勿論受ける相手にも共鳴が無ければならぬが、出羽の莊内でも果して解説無しに此句が理解せられたらうか。但しは又席上何等かの形で白句自註をせられたものか。小さいけれども興味のある問題だと思ふ。
   かじけたる花し散《ちる》なと茱萸《ぐみ》折て  玉
 是は又晦澁な句である。強ひて解するならば、佛に供へるために他には何の花も無いので、野生の茱萸の枝を折つたといふのではなからうか。さうだとすれば是も櫻でない花を、花の座にもつて來た例である。ぐみはじみな色の小花がぶら/\として居て落ちやすく見えるが、かじけたるといふ形容もちとをかしく、花し散るなも大げさに聽える。何かこの以外の解し方があるのかも知れない。内輪どしの會であつたら問題無しに通しさうも無い句である。
    おぼろの鳩の寢どころの月           良
 さういつた前句に對する當らず障らずの附け方を曾良もよく心得て居る。茱萸は季寄せには見えぬが花だから春の季でよく、大よそ斯ういふ場所と思はるゝ林のはづれへ持つて來て新たな風景をこしらへ、おまけに此折十二句の中に、落してはならぬ月の座の役目を果した。月は七八句が普通であつて、それよりも後にまはると、?月花一句にする習はしであつた。それを一向構はずにこんな六つかしい春の句を出したなどは、或は多少の揶揄でなかつたとは言へぬ。それをまあ無難に處理したのだから手柄といふべきであらう。春の林の薄暮に鳩の聲も朧だといふのは、月を添へる爲の都合でもあらうが物靜かな好い繪樣であつた。
(383)  ナオ
   物いへば木魂にひびく春の風           蕉
 いよ/\名殘の表に入つたので氣分を新たにする必要がある。そこで片山里の閑寂なたそがれ時を前句に認めて、わざとおぼろな鳩の聲に重複して、ずつと調子の高い山の反響をもつて來たのは趣向であつた。物言へばは何か向ひ合つての談話か何かのやうにも聽えるが、さういふ聲はこだまが答へようとしない。やはり働く人たちの家路に向はうとする際に、遠くに居る者に呼びかける聲であつたらう。春の風はちやうど其時刻にそよ/\と風が吹いて居たといふまでゝ、言はゞ春の季を明らかにする爲であつた。即ち「ひゞく」で切れるのである。
    すがたは瀧にきゆる山姫            玉
 是は又思ひ切つた轉囘である。長閑な丸山派のやうな小品が二つつゞいたあと、不意に大薩摩にでもかたられさうな、瀧と山姫の姿とが現はれて來た。俳諧で無くては出來ない藝である。笑ひでは無くとも斯ういふ前の句主等がちつとも豫測せぬ境涯へ、長短二つの句の鏈の環を引きつけて行くことが、この文藝の約束であり、又競技に近い興味でもあつた。但しさういふ場合には繋がりはいよ/\はつきりと附けなければならぬ。もしそれを怠つたら頓珍漢な、いはゆる天狗俳諧になつてしまふからである。前句のいはゆる木魂《こだま》は姿を見せぬ山の精、こゝの山姫は物言はずして美しい容を人に見せる。この對照は多分意識したものであらう。
   剛力がけつまづきたる笹傳ひ           良
 山中に山姫の後姿を見たのは修行者の主從二人であつた。法印は流石に動顛をしなかつたが、剛力は剛の者なれどもはつと驚いて、路のほとりに轉ばうとしたといふので、是も亦芝居がゝりである。笹傳ひは金峰や奧熊野あたりの險しい岨路をいふかと思はれるが聊かてづつである。さうしてやゝ前句に牽かれ過ぎて、次の句を出しにくゝして居る。曾良が自らのけつまづきを、語つて居るやうな形がある。
    棺ををさむる塚の荒芝             玉
(384) 此句は其けつまづきたるをたゞの出來事にしてしまつて、又一つの全く新しい情景を巧み出した。旅の路に同行の一人が病歿して、それを行く手の野に埋めて行くといふのは、落人か何かであらうか。或は大塔宮の十津川落ちなどに、斯んな事件でもあつたやうにいふのかも知れぬ。剛力に棺をもたせたらそれがつまづいたといふまではわかるが、塚の荒芝は少し言葉が足りない。埋めて塚を築いて荒芝を置いたので、前からある塚に埋めたといふのでは無からう。しかし此あたりの數句は興味が高潮して、いはゆる變幻出没の足取りが非常に迅い。
   初霜はよしなき岩を粧ふらん           蕉
 こゝではもう亡骸を葬つてから、時を隔てゝ訪れて來たといふ感じであり、塚の人も美しい女性のやうに思はれぬことも無い。塚の荒芝の上に其あたりの石を置いたか。又は自然の岩に近よせて塚を設けたか。その岩の上の霜が朝はまだ解けはじめず、眞白に岩を包んで居るのも悲しいといふのである。冬の季である故にこゝは一句で雜に進んでもよろしい。
    ゑびすの衣を縫ひ/\ぞ泣く          良
 王昭君などゝいふ程の上流の美女では無いが、心ならずも胡地に入り胡人の妻となつて居る者の歎きであらう。北地である故に初霜も雪のやうに深い。よしなきといふのが前句よりも爰ではよく響いて居る。粧ひをするの詮も無いことは、岩木も我身もかはることは無いと思つて泣くのである。この縫ふ衣はよその女の爲にではあるまい。胡人の男の爲か、さうで無ければ自分が着よそふべき胡服なのであらう。
   明日しめん雁を俵に生け置て           玉
 鳥を屠るのをしめるといふ言葉は、此頃からもうあつたのである。開けぬ國らしい風俗ではあるけれども、是はむしろ夷の衣を縫ふ女の境遇が、俵の中に羽がひじめにして入れられて居る雁と、似よつて居るところから附けたものであらう。雁がぐう/\と時々聲を立てるのではあるまいか。前句のなくといふのが爰で受けてあるやうに思はれる。(385)女が縫物をして居る傍ちかく、俵入りの雁があるといふやうな場面が、あまりにも想像しにくい故に、私は斯うも考へて見たのである。
    月さへすごき陣中の市             蕉
 珍しい聯想といつてよい。滯陣やゝ日數を重ね、諸方から物賣りが集まつて來る。それを引留めて夜分の市を開かしめて居るのは、出立の日が迫つて居るからであらう。其中に生きた雁を何羽か俵につめてもつて來て居る者があつて、其雁が聲を出すので明日しめん雁だとわかる。月が之を照らして荒涼の景を添へるといふので、前句よりも更に雁の印象が深いやうである。
   御輿は眞葛が奧にかくし入れ           良
 此句は附味も少し説明がしにくい。御輿《おんこし》といふからは貴人か女性の乘物であらうが、それを匿し入れるといふのでは、前句の陣中の市は敵方と見なければならぬ。心の利いた從者が雜人の中にまぎれて、一條の血路を開くすべありや否やを、見究めに出たところと解してよからうか。月さへすごきは寧ろ遠くから望んだけしきにふさはしい。一方の取合せが近ければ、こちらはわざと遠く、附けて行くのがごく普通の技術だから、これも篝などを焚いて人が多く集まつて居るのを、七八町も外から市立ちと見定めて、片脇をすり拔けて行かうとして居るものとしたのでもあらうか。
    小袖袴をおくる戒の師             玉
 何れにしても此邊は草子物語の排列のやうで、面白さも面白いがちとばかり騷々しい。よくも三人ながら同じやうな趣味と素養とを持つて居たものだと思ふ。此句では御輿の主は女性であつた。そつと其輿から降させ申して、心ざす寺へ案内する。寺僧はかねてより此上臈の歸依僧であつたので、早速喝食の衣裳を取出して、男装せしめようとする所である。小袖と袴は二つのもの、ばかまと濁つて讀んではいけないだらう。斯んな短い言葉でほゞ是だけの事が(386)考へられるのだから、此句などは成功の部である。
   我かほの母に似たるもゆかしくて         蕉
 前句の「戒の師」に、こちらを若い婦人としてはやゝ似つかはしくないので、爰では本式の受戒のことに取りなして居る。是は喝食の愈髪を剃る場合と見られるが、それには小袖袴がなほ俗體のやうに聽えるのが氣になる。何か得度に先だつての一つの式でもあつたのか。又は僧衣よりも其下に着るきものを、贈りたいといふ私情とも見られようか。とにかくに母に似たるは感の深い言葉であつた。是から木の端のやうな一生に入る者が、改めて鏡に向つて我顔の母に似るといふ言葉を思ひ出すといふのは、ゆかしいといふ以上にあはれである。物陰に立つて涙をこぼして居る者が、必ず有るらしい情景であつて、今更ながら我翁の文學技能には驚歎させられる。
    貧にはめらぬ家はうれども           良
 此句で母をゆかしがつて居る者は又女性である。元輔が後と言はれるやうな人の身の上であらう。家を賣つたといふ話も、中世の逸話集にはあつて記憶せられて居た。めらぬは音樂のメリハリのメリも同じ言葉、滅入るなどゝ宛て字をする近頃のメイルも一つのもので、こゝでは精神力の衰へることをいふらしい。貧乏を苦にせず家を賣つても平氣で、文學と學問に力を傾けて居る女が、一人居て母を懷ふ所である。
  ナウ
   奈良の京持傳へたる古今集            玉
 この句になるとその貧賤に安んずるのは男で、古寫本の古今集一つをたゞ大事に藏して居る。奈良の京としたのも中古の面影でよいが、全體にやゝ有りふれて居て遣句に近い。しかし此邊では遣句ももう必要である。
    はなに符をきる坊の酒藏            蕉
 灘伊丹などの造酒家が輩出する迄は、酒は寺方に釀造するものが珍重せられ、天野に次いでは奈良酒が著名であつた。田舍と呼ばれたものは多くは早く口を切り、正月中には飲んでしまつたに反して、坊の酒藏には花の頃になつて(387)始めて出して來るものがあつた。是がいはゆる古酒《ふるざけ》の香であつたらう。符といふ字は封と書く方が當るかと思ふが、普通はやはりフと短音に呼んで居たのである。前句の古今集との照應は幽かだけれども、花にふを切るの一句は、酒客にとつては戀以上の心のときめきであつた。こゝへそれを持つて來たのは好い轉囘で、句主も自信があつたものか、花の座を三句引上げて居る。
   鶯の巣を立初むる羽づかひ            良
 うぐひすの巣立は夏かと思ふが、それは季題に無いので、親鳥によつて春の季に用ゐて居る。花散り春も末方になつた頃と見てもよいのであらう。坊主のきゝ酒をして居る折柄に、庭の木に巣立の鶯が來たとしても風情がある。
    蠶種《こだね》うごきて箒手にとる       玉
 至つて古風な附け方であつて、不玉の俳統もわかるやうな氣がする。勿論季節は一致させてあるが、是は雛鶯の飛びあるく日に、ちやうど蠶兒の掃立をしたといふだけで無く、むしろ其所作に用ゐる羽箒《はゞうき》を以て前句の羽《はね》づかひに應接して居るのである。斯ういふ言葉の俳諧は、七部集でも曠野《あらの》の頃まではあつた。正風が漸次にそれを避けたのは努力である。
   錦木を作りて古き戀を見ん            蕉
 この句と前句の交渉は私にはまだよく呑込めない。蠶の手わざは女のものだから、こゝに家のうちにこもる年頃の娘のことも考へられぬことは無いが、それにしても思ひ付きが突兀である。或はこのあたりで一句、奧の手振りに對する會釋《ゑしやく》の言葉が、禮儀として入用だつたのではなからうか。錦木はもとは多分よい薪であつた。それを見事に飾つて、思ふ女の門の口に立てゝ置く。誰のしわざといふことは木じるしによつてすぐわかつたのであらう。それを取入れられるのが願ひの成ることを意味し、たゞ立ちながら朽ちてしまふのは、胸の合はぬといふ悲しい消息だつたと傳へられる。さういふ古風も久しく絶えて居るが、試みにさうして見たらどうするであらうかといふ、是も異郷人のを(388)かしき戀であつた。花の座を前へ移して置いて、其あとに雜の戀を入れるといふことは、梅が香の歌仙にも例はあるが、それでもやはり珍しい趣向である。句が同じ人だけに、或は始めからの計畫だつたかも知れない。
    ことなる色を好む宮達             良
 「秋の色宮も覗かせたまひけり」といふ句が比佐古には有る。至つて慎しみ深くであるが、これをも俳諧に取入れようといふのは、この派の兼ての志望だつたので、單に揚句をたゞ上品にしようといふ思ひ付きからではない。但しこゝでは何か前句の敷衍のやうにも見えて、獨り立ちの姿が無いのは殘念である。伊勢や源氏から始まつた趣向とも言へないのは、更に日本には其背後の神婚譚があつて、是が舊家の信仰と繋がつて居た。年經て俳諧の題材に、其一部分が流れ込むのも是非ないことだが、少なくとも之を咏歎の餘地の無い揚句の果などに持つて來ることは、私などには賛成が出來ない。
 
 (參照)
 小宮氏 芭蕉連句集 一四七頁
 勝峯氏 芭蕉連句集成 二七六頁
 籾山氏 俳諧名著文庫八(雪まろげ) 三三頁
 
(389)     年忘れの歌仙
 
       上御靈にて
                       芭蕉
   半日は神を友にやとし忘
    雪に土民の供物納る             示石
   水光る芦のふけはら鶴啼て           凡兆
    闇の夜わたる表楫《おもかぢ》の聲      去來
   なまらずに言《ものい》ふ月の都人       景桃
    秋に突|折《をる》虫喰の杖         乙州
  一ウ
   實入よき岡部の早田赤らみて          史邦
    里近くなる馬の足蹟《あしあと》       玄哉
   押わつて犬にくれけり灸《あぶり》もち      石
    奉加に出る僧の首途《かどいで》        蕉
   白川や關屋の土をふし拜《をがみ》        來
(390)    右も左も荊萩《うばら》咲けり        兆
   洗濯にやとはれありく賤が業《わざ》       州
    猫のいがみの聲もうらめし           桃
   上はかみしもは下とて物おもひ          蕉
    みな白張のふすま也けり            石
   高麗人に名所を見する月と花          好春
    春の海邊に鯛の濱燒              邦
  二オ
   晝|下《さが》り寢たらぬ空に歸る雁       兆
    雨ほろ/\と南吹なり  來
   米《こめ》篩《ふるふ》隣づからのものがたり   桃
    日をかぞへても駕は戻らず           蕉
   くだりはら短夜ながら九十度           哉
    おさへはづして蚤逃しける           來
   閑《しづか》成窓に繪筆を引ちらし        邦
    麓の里のおてゝ戀しき             兆
   首取かとらるべきかの烏《からす》鳴《なき》   石
    野中に捨る錢の有たけ             春
   月細く小雨にぬるゝ石地藏            邦
    世は成次第《なりしだい》いも燒て喰ふ     兆
(391)  二ウ
   萩を子に薄を妻に家建て             蕉
    あやの寢卷に匂ふ日の影            石
   泣/\も小《ちひさ》き草鞋求かね        來
    たばこの形の風にうごける           哉
   眞向に花表《とりゐ》を見こむ花盛        桃
    霞にあへる鷹の羽遣ひ             邦
 これも芭蕉翁の歿後、久しきを經て世に現はれた一卷である。四人の猿蓑作者が參加して居ながら、なほ其翌年出た撰集からは取殘されたといふのは、恐らくは全體として意に滿たぬふしが有つた爲であらう。さう思つて見ると、幾つかのうれしい附句のある傍に、何か今少しありさうなものと、打傾かれるやうな箇所が心付かれる。原因は多分一夜の急作であつたことゝ、連衆に一二の他流の人がまじつて居たことに在るかと思ふ。斯ういふ消極方面からでも、なほ我々は俳風の自然の推移を窺ひ得るかも知れない。其角の思ひ切つた逸脱ぶりに比べると、去來凡兆等の態度は幾分か私たちには解りやすい。たつた十年そこ/\の間に、冬の日が炭俵となつたのも大きな機運であつて、猿蓑は結局たゞ一つの過渡期に過ぎなかつたことを、うす/\は彼等も感じて居たのでは無からうか。几兆といふ俳名までが、無意識にではあらうが、何だか平凡化の兆候を暗示して居たやうな感じがする。
 
       ○
 
(392)       上御靈にて
 
                       芭蕉
   半日は神を友にやとし忘
 神を友といふ言葉が此時代としては大きな俳諧であつたらうが、年忘れはたゞ酒盃によつて老の加はる愁ひを紛らすといふ如き、けち臭い動機でなかつたやうに思ふ。神の前に靜かな半日を送るのは、乃ち心を世の塵から遠ざけて、神に近づく道であつて、たゞ馴々しく神を友にしようといふ如き意味で無かつたことは、是が社頭の吟であり、又相手が祠官であるのを見ても容易に察せられる。
    雪に土民の供物納る             示右
 脇句は通例は亭主、即ち此場合には別當の景桃であるのだが、それが其席を讓つて居るのだから、示石といふ人は恐らくは相應の先輩なのであらう。年忘れの冬の季に向つて雪を附け、神に向つて供物を言つて居る古風な凡帳面さは、更に其推測を強め、士民といふ語を以て俳諧の用に供して居るなども、心なしか作者の身元を暴露して居る。さうして是は少しでも發句の氣持を汲まず、たゞ規則通りの形だけの附けである。神祇釋教戀無常を表六句の中には出さぬといふ規則は、精確に言ふならば表五句で、發句には適用の無いものだつたらしい。さうして此場のやうに發句に神があれば、脇にも供物をいふことは違犯で無いのである。だから通例は發句にも當季の常の句を出すことにはなつて居るが、特に計畫をすれば最初から、戀を發句にして見るなども許されぬことでは無かつたのである。
   水光る芦のふけはら鶴啼て           凡兆
 この句は新しくて姿が佳いといふ以上に、脇句の餘りにも凡庸な附け方に對して、一種の反抗を試みたものとも見られぬことは無い。フケは濕地を意味する中央部の方言で、ふけ田といふ語も弘く行はれ、又京附近の地名にもなつ(393)て古く知られて居る。ふけ原といふのは始めてかもしれぬが、フケの蘆原のところ/”\に水溜りがあつて、それが遠くからよく見えるのである。光るのは夕方でも又月夜でもよい。次の句は特にそれを闇の夜としたのである。
    闇の夜わたる表楫《おもかぢ》の聲      去來
 是も安らかなよい句だと思ふ。おもかぢの音とした本も有るといふが、梶の音の押すか引くかは聽き分けられさうにも無い。やはり二人以上乘つたやゝ大きな船で、舳先に居る船頭がオモカーヂと命令して居る聲である。さうすると前句の鶴の聲と、二つ重なつて妙で無いやうだが、どちらも間を置いて聽えて來る聲なのだから、私は寧ろ二つが互ひちがひになるのを興味ありと解する。船の通つて行く水面と、光つて居る水溜りとは無論距離がある。殊に月夜でない故に、沖の方ははつきりと見えないのである。二句の附味にはさほど無理は無いと思ふ。
   なまらずに言《ものい》ふ月の都人       景桃
 五句目が月の座であることを知りながら、四句へ來て闇夜をいふことはひどい話だが、難題は連歌以來の常の競技法で、むしろ斯ういふ試みを重ねて、興味を昂めようとしたのであつた。この附句の主景桃丸は、三年後に出た曠野後集には十二歳とある。それはずつと前年の句かもしれぬが、ともかくまだ若者であつた。附句の作法はちやんと心得ては居ても、その受けやうは巧妙とまでは言へなかつた。月卿雲客などゝも謂ふなら、京都人を月の都人といふのはよいが、斯んなところで方言鑑別などをしたのは似つかはしくない。句の表では夜行く船の中に、きつすゐの都言葉の人が乘つて居るといふので、江口ですれちがつた別の舟からでも、耳を留めて居るやうな感じである。耳を働かせる句が三つまで重なるのもまづい。
    秋に突|折《をる》虫喰の杖         乙州
 一句の俳諧はよく現はれて居る。物腰都雅なる上流の流人又は戰國の疎開者ともいふべき人が、杖を力にして逍遥して居るのだからすでに老いて居る。秋に入つて心は重く身は疲れ、其杖に凭りかゝり過ぎたと見えてぽきんと折れ(394)た。氣がついて見れば蟲くひの木であつたといふので、をかしさの中に一脈のあはれがある。文人畫などの閑人の杖には、折々は蟲喰ひかと思ふやうな、ひねつた形のものがある。坊ノ津の近衛殿といふやうな史上人物も思ひ出される。
  一ウ
   實入よき岡部の早田赤らみて          史邦
 早田はワサダ、岡部は岡の邊であらう。是も前句に描かれた老人又は杖を力にするやうな病後の人などを考へて居るが、それは必ずしも流寓の人では無かつた。前の句とはよく合ひ又繪卷はやゝ展開して居るが、實入《みいり》よきまでは少し丁寧すぎ、又全體に敍述がやゝ有りふれて居る。斯ういふのもやはり連句をはかどらせる一種の遣句であらう。
    里近くなる馬の足蹟《あしあと》       玄哉
 足音とした本もあるさうだが、それは心無しのしわざと思はれる。それだと里に居て馬の近づいて來る音を聽くことになるのだが、前句との繋りが全く別樣になつて、しかも印象は甚だ薄い。此方はやゝ熟した稻田の間の路である。村に近よるほど方々からの馬が集まつて、足形の窪みが次第に多くなつて來るのである。もしくは馬の通つた跡が次第に加はつて行くので、野中の路もやゝ里近くなつたことを知ると見てもよい。平凡ながらも場面を新たにした效果だけは有る。
   押わつて犬にくれけり灸《あぶり》もち      石
 あぶり餅は燒餅も同じことで、晝餉の爲に行く先で燒いて食ふ樣に、穀粉を固めて持つて出る粢餅《しとぎもち》のことらしい。握飯を一般に燒飯と謂ふのと同じく、燒いて携へるのも燒かずに持つて行くのも、其日其時の都合によつたものと思はれる。犬にくれけりは前句の里近くと關聯して居る。未知の地に入るのに、先づ其村の犬と懇意にならうとする心持に俳諧がある。或はこの旅人の中食には餘るほどの、大きな燒餅であつたかといふことも想像せられる。前句の馬に對して犬を以て應じようとした、舊式な因習も手傳つて居るかもしれない。
(395)    奉加に出る僧の首途《かどいで》       蕉
 犬に燒餅を分配したのは、僧であるとしたゞけが新味だが、是は前句でもほゞ想像せられることであり、出るかどいではどう考へても言葉の洗錬が足りない。強ひて感心するならば、一方は里に近づかうとして犬に物を與へることだつたのに、是はいよ/\旅立つて行かうとするに際して、日頃なじみの犬に置土産をして行くといふ、情愛のちがひがあるのである。
   白川や關屋の土をふし拜《をがみ》        來
 奉加を勸めてあるく行脚僧は、もう遙々白川の關まで來て居る。それを首途といふのはふさはぬやうであるが、今まで久しいこと那須の雲巖寺あたりの、關のこなたの寺に滯留して居たものと見ればよい。今日は  愈々奧州の地に入り立ち、歴代の古コの修行の跡を偲んで、切なる信仰の心になつて居るのである。土を拜むといふ言葉は固より新しいが、是は日本人の上世以來の感情の發露とも考へられる。白川は境の神の靈場として、多くの旅人の手向して過ぐべき關所であつた。
    右も左も荊蕀《うばら》咲けり         兆
 遠い附け方で、たゞ其四邊の光景を見まはしたものとも見られるが、なほ二つの句の間には言葉に表はし得ない感覺の調和がある。一句の姿としても素朴ながら美しい。茨の茂り合つたやうな人少なの野路であるが、其茨は叢毎に皆白い花が咲いて居る。茨の花は夏の季、故に一句だけで又次の雜の句に移るのである。蕪村には花茨の發句が幾つもあるが、この凡兆の附句は既に同じ情趣を道破して居る。
   洗濯にやとはれありく賤が業《わざ》       州
 この賤は至つて頼る所の少ない貧女で、定まつた働き場も無く、あちこちの家へ二日三日洗濯などの用事に雇はれて行く者、それが今ちやうど茨の花多き野路などをあるいて居るのである。一方は白川の關屋あたりに常に在りさう(396)な風景、是は或る一日の豫期せざる出來事といふべきもので、俳諧は終始この二つのシチュエーションの入れちがへによつて、變化をこしらへて居る。一方は山水畫、こちらは浮世繪といつてもよい二種の技藝であらう。三十を幾つも越えぬ程のやもめ女が、一人とぼ/\と行く路に菜の花が咲いて居る。何を心に思つて居るやら、といふ意味に次の句は少なくとも把へて居る。
    猫のいがみの聲もうらめし           桃
 幽かだけれども是は戀の句のつもりであらう。恨めしと言つて當るかどうかは知らぬが、戀の爭ひをして居る猫の聲を、その一人あるく賤の女が聽いて居るのである。これがもし若い男と女の、今一段と込入つた言ひ合ひでゝもあつたならば、それにつけても色々の事が思はれるのだが、爰ではたゞ猫の小さな社會の葛藤に過ぎないのである。よく/\人生の交渉から遠ざかつた自分の毎日だつたといふことを、恨めしと言ひ現はさうとしたものかとも思ふが、それにもやはり言葉が足りない。五句前に馬と犬とが有るのに、又猫を出すのも聊か氣になる。
   上はかみしもは下とて物おもひ          蕉
 是は明らかに前句を戀と見て居るのである。意を汲んだ附け方とも言はれよう。深窓の奧に住む女性が、猫のいがみの聲に耳を留めて居るのである。下は下とては猫の事をいふのでもあるまいが、境涯のちがひは有つても、誰にも愁ひはあり恨みはあるといふことを、是につけても思はれるといふのであらう。それは生田川のやうな二人の壯夫に爭はれる場合もあらうし、或は又力強い追求を逃れられぬといふやうな悲しみもあらう。猫の聲によつて聯想するといふ點に、草子などには書いてない僅かのユウモアがある。
    みな白張のふすま也けり            石
 フスマといふ言葉が、こゝでは昔風に使はれて居るのかと思ふ。多くの文獻では、たゞ夜具の類ばかりをさして居るやうに見えるが、下々の者が是を外出にも着てあるいたこと、恰も近世のどてら丹前の如くであつたことは、襖の(397)字又は素襖《すあを》といふ語からも想像し得られる。白張は字音のまゝにハクチャウと讀むので、それを儀式の日に着る者を、白丁とも呼ぶことになつた。白張のふすまはやゝ耳馴れないが、一樣に白の上衣を着て居るといふことであらう。前句の物おもひを、この句では喪の悲しみに取つて、上下すべての者が愁ひに沈む日、働く人々の服装は白だつたといふのである。
   高麗人に名所を見する月と花          好春
 こゝは花の座なのに、前句は葬列の描寫であり、おまけに月もまだ出おくれて居る。大きな轉囘が要求せられて居る。そこへ白衣を無位の服装とする朝鮮人の來聘をもつて來たのは思ひ付きで、それを月花に組合せた働きは賞讃せられたことゝ思ふ。朝鮮來聘の路筋の、どこが月花の名所だつたかは知らぬが、多分は須磨とか明石とかいふ著名の土地に、折柄花も盛りに咲いて居たと見てよいのであらう。見するは嚮導役の地位から言つたと思はれ、次の附句もそれを受けて居る。
    春の海邊に鯛の濱燒              邦
 濱燒は鹽濱から出る鯛の燒物で、もとは鹽竈の鹽の上に乘せて共に燒くのだと謂つて居た。さういふことの出來るのは瀬戸内海沿岸ばかりだから、この想像上の名所も大よそどの邊かゞわかる。但し高麗人に鯛の濱燒を御馳走しようといふのは談林風である。
  二オ
   晝|下《さが》り寢たらぬ空に歸る雁       兆
 そこで前句を獨立した一句と見たときに、又全く新しい詩興が動くのである。斯ういふ思ひ切つた局面の展開を可能にする所に、この俳風の大切な長處があると私などは思つて居る。鯛の濱燒とこの句の寢たらぬ空との繋がりは、思ひの外簡單でない。或はその珍味はたゞ昨夜の酒宴の思ひ出であつて、けふも長閑な海ばたの春の午後に、ぼんやりと歸雁の聲を聽いて居るのかも知れぬ。それとは反對に寢たらぬ原因は別に有つて、是から晩酌に其濱燒が出て來(398)ようとして居る所とも解せられる。とにかくに魚もあり雁の歸る聲も聽えるといふ瞬間ならば、寢たらぬ空とまでは言へないやうに思ふ。しかし一句引離して味はつて見ると、暮春の淡々とした愁ひが感じられる。歸る雁も聲では無く、低く海を横ぎる姿が見送られるのかも知れない。几兆の作風の窺はれるよい句である。
    雨ほろ/\と南吹なり             來
 是は前句の趣を理解した人の、斯うは附けずに居られない一種の遣句である。兆來二人の俳士は仲が好かつたと見える。しかし斯ういふ風に前句に共鳴せられてしまふと、次の附句は後妻のやうで、仲々添ひにくゝなる。
   米《こめ》篩《ふるふ》隣づからのものがたり   桃
 以前の米搗きは籾のすり剥ぎで、玄米から白米に精げる作業では無かつた。それは大抵雨つゞきの閑な日にすることで、籾と米とを篩ひ分ける仕事も、もとは雜談まじりにやつてのけることが出來たのである。たゞ南風に雨のほろつく日などは、乾し物や何かの寧ろ氣ぜはしない日であるから、此附句は少なくとも寫實でない。隣づからの物がたりは、必ずしも雙方とも籾を篩うて居る處で無くともよい。なんぼ小家でも、さういふ仕事の片手に物言ひかはすことは出來ないだらう。是は一方の納屋の口に立つて、隣の親爺か何かゞ話をして居るのである。即ち茶飲み話といふやうな悠長な話では無く、どちらか一方が聽いてもらひたいことが有るのである。
    日をかぞへても駕は戻らず           蕉
 駕はノリモノ、こゝでは是をカゴと讀ませて居る。後に駕籠と書き出したのは當て字である。病人がやゝ危くなつて、娘か何かの處へ迎へを遣つたものと想像せられる。もう四日目になるのに戻つて來ない。もしや先方でも寢て居るのか。それとも外へ出てゞも居るかといふ心づかひで、今なら電報でも打つところを、こゝでは使の返事ばかりを待つて居る。炭俵の三人などが喜んで眞似する句を、もう師翁は元禄三年に作つてござる。しかもそれより以前にはあまり見かけない句ぶりでもある。
(399)   くだりはら短夜ながら九十度          哉
 病人があるといふことは前句でも隱れが無いのに、是は又飛んだ丁寧な註釋である。短夜といふ夏の季に結んだのは、この前が春だつたから氣ばたらきと言つてもよいが、九十|度《たび》などゝいふのは寫生で無いばかりか、それが眞に迫つたところで只きたないだけである。折角一卷の中に二三囘の機會しか與へられて居ないのに、斯んな句に使つてしまはうとした氣が知れない。是なども小兒と同じに、よい笑ひの種が無ければ斯んな事でも言つて笑はせたいと、いふだけの心理だつたかと思ふ。たゞ不思議なことは、此連句は始めから出がち〔三字傍点〕であつて、順番といふやうなものは無かつたらしいのに、どうして又斯ういふ句を安々と通されたものか。玄哉といふ作者の身元が判れば知れるだらうが、或は初顔合せの、氣の置ける人だつたのではないかと思ふ。
    おさへはづして蚤逃しける           來
 是が平凡を嫌つて居た去來の附句だといふことも注意に値する。前句との繋がりはやゝ疎いが、それにしては場面をかへて行かうといふ念慮が足りない。蚤も夏の季で、夏が二句つゞいて居る。
   閑《しづか》成窓に繪筆を引ちらし        邦
 引ちらしがよく利いて居る。繪筆は一時に何本も使ふので、それを一列に竝べて居る。蚤だといふので亂雜にそれをさし置いた體である。
    麓の里のおてゝ戀しき             兆
 山寺に物學ぶ喝食の中に、兆殿司のやうな繪の好きな稚兒が居たのである。又は徒然に堪へずして繪に心を寄せて居るのである。戀しきとは有るが是は戀の句では無く、恐らくは初裏の戀二句に、戀の字の出なかつたのに相對するものであらう。おてゝは上流では乳母夫《めのとおや》をも謂つたらしいが、爰ではいたいけな小兒の常の言葉を模したもので、是で最も明白に主人公の少人なることを示して居る。
(400)   首取かとらるべきかの烏鳴《からすなき》    石
 鳴はナキと振假名してあるが、烏鳴くと動詞にすべき處と思ふから誤寫であらう。前句の麓の里を城山の裾と見て、是は籠城の若武者にかへたものと思ふ。さうすると爰のおてゝは父で無く、幼い日からかしづいてくれた從臣の、今は年老いて働けなくなつた者とも見られ殊に哀れが深い。烏鳴くは假に烏なきであつたとしても、遠くの人を懷ふ折には似合はしい鳥の聲であつた。歌仙に一箇所づゝ戰陣の場を挾むことは、もう大分前から慣習のやうになつて居たが、爰は繪を愛する寺の兒から轉じて來ただけに、殊に印象が鮮かで新時代の俳諧にふさはしい。
    野中に捨る錢の有たけ             春
 附句は若大將といふやうな花やかな階級では無く、徒《かち》とか足輕とかいふ群の、命を何とも思はぬ古つはものかと思はれる。野中に捨てゝ行くといふ錢の有たけも、博打にでも勝つた金かといふ氣がする。前句が無かつたら浮ばぬ想かも知れねが、とにかく變へようとして是まで變へたのだから、手柄といふべきであらう。
   月細く小雨にぬるゝ石地藏            邦
 明日は戰場といふ打越の場がもう退いて居るのだから、爰ではどうして錢を野中に捨てるのかの別の?況が説かれなければならぬのだが、それまではこの附句は言はうとせず、たゞさういふ事のあつた時と場とをゑがいて居る。斯ういふのが連句の粘りすぎる原因に成りがちだから用心しなければならぬ。一句立ちとしてはよく判つて居る。たゞ少しく前句の手柄を、安く見た嫌ひはあるのである。
    世は成次第《なりしだい》いも燒て喰ふ     兆
 世は成り次第といふからはこの石地藏の傍に、ともかく庵を結んで止住して居るので、一夜の露宿であつたなら斯うは言へないだらう。いもは此頃には山の薯か、又は今謂ふ里芋しか無かつた。燒いてはめつたに食はぬ芋だから、この假住には火焚き場だけあつて、鍋ゆきひらの類がまだ備はらぬのである。斯んな世捨人の生活が元禄にもあつた(401)かどうか。恐らくは型にはまつた西行以來の空想のつゞきであらう。
  二ウ
   萩を子に薄を妻に家建て             蕉
 三句前からの野中がまだ離れきれないのは少し氣になる。家建つるはこゝで始めて出て來るが、前句の中にも幽かな草の庵は想像せられ、今度の家とてもさう大きな建築でない。つまり二句同境の嫌ひがやゝあるのである。尤も此句の方の力の入れ所は梅妻鶴子、孤居も淋しくないといふ風流を主にしたもので、萩と薄とが賑やかに、秋の三句目を粧うて居る。
    あやの寢卷に匂ふ日の影            石
 いさゝか小細工と評せられるかも知れぬ。是は萩薄を綾のねまきの染模樣にしたやうな、富裕な、家庭に一轉しようとして居る。それを可能ならしめたのは前句の家建てゞあつて、それが始めから隱者の獨り住みの草屋の如き感じを與へなかつたのである。にほふ日の影も其家建てと向ひ合せて居るのだが、ちやうど此あたりに出て來てもよい場面である。この一卷には時刻に關する句が幾つも有つたに拘らず、朝の日の出を言つたものはまだ一つも無かつた。
   泣/\も小《ちひさ》き草鞋求かね        來
 物語の中にでも出て來さうな御臺《みだい》若君の落人姿である。美しく秋草を染めた寢卷を着て、母と子の二人が長途を歩まうとして居る。小さな草鞋が買ひたいといふのは乳母か若黨か、それも涙をこぼして居る。勿論それをはかせ申す和子樣は、こゝまではまだ跣足であつた。
    たばこの形の風にうごける           哉
 この形の字はカタと讀ませるつもりであらう。厚紙を澁に染めて煙草の葉の形に擬したものが、もう此頃から路傍の小店の軒にぶら下げられて居たものらしい。戰の卷の荒涼たる光景を暗轉させて、是は宿場の町などの人通りを描き出して居る。前句の泣く/\がよくは移らぬやうだが、是は童兒が草鞋の小さいのを買つてくれと、せがんで居る(402)ものと私は想像して居る。
   眞向に花表《とりゐ》を見こむ花盛        桃
 或は發句の「神を友にや」と、向合せようといふ巧みもあるのでは無いか。句の表だけからいふと、馬場の兩側には櫻が栽ゑてあつて、風にもまだ散らぬ花盛りであり、眞向《まむか》ひ即ち正面に大きな鳥居が見える。街道の尤も賑はしい辻などから、さういふ參詣路の分れて居る例は今でも處々にある。
    霞にあへる鷹の羽遣ひ             邦
 「あへる」は調和するの意であらうか。少し無理な表現だが、霞む日の長閑さを感じたやうに、鷹がゆつたりと羽をひろげては又をさめたといふことかと思はれる。勿論人の手に据ゑられたのでは無く、鷹架《たかほこ》の上に靜かに居るものとしたのであらうが、その鷹架の所在は爰でははつきりしない。事によるとなほ一ひねりひねつて、鳥居といふ言葉の起り、乃至は鶴が華表の上にやすらうたといふ故事などに托して居るのかも知れぬが、そんな事をすれば後世の鑑賞家は素より、一座の人たちの間にすら、通用するかどうかも疑はしかつたのである。
 
        ○
 
 この一卷には一つ/\のすぐれた句よりも、渡りの面白くて捨て難い箇所が幾つかある。少しは後から手を入れてでも、永く保存したいと思つた人が、あつたとしても不思議は無いが、それは因縁づくであつて、いつでもさういふことが望み得られるとは限らない。だから久しい間御靈の神主の手箱か何かの中に埋もれて居たのである。蕉門の俳諧が、是ほど世に高く評價せられながら、今日殘つた作品が案外に少なく、たゞ發句の數ばかりが無暗に蓄積して、終に俳諧師とは發句を作る者なりといふことに歸着した理由も、此一卷などによつて大よそは明らかになり、かつは文學の進路といふものが、坦々たる長安の道で無かつたことを覺らしめる。
 
(403) (參照)
 勝峯氏 芭蕉連句集成 二三七貢
 小宮氏 芭蕉連句集 一六八頁
 
(404)     磨直す鏡の歌仙
 
       熱田の社御修覆ありければ
                      芭蕉
   磨《とぎ》直す鏡も消し雪の花
    石しく庭のさむきあかつき          桐葉
   時/\は松笠落る風やみて            同
    我鳩歸る山のかげろひ             蕉
   秋くれて月なき岡の一つ家            同
    杖にもらひし唐きびのから           葉
  一ウ
   肌寒く習はぬ錢を襟にかけ            同
    こぼるゝ鬢の黒き剛力《がうりき》       蕉
   明わたる鐘ぬすむ夜はしら/\と         葉
    破れし園の境守る庵              蕉
   古畑にひとり生《はえ》たる麥かりて       葉
(405)    物よぶ聲や野馬とるらん           蕉
   松明《たいまつ》に飯荷ひ行秋の風        葉
    宮もよし野の哀しる月             蕉
   就v中《なかんづく》峰のきぬたぞ聞ゆなる    葉
    温泉《いでゆ》はにえて人もすさめず      蕉
   此塚の女は花の名にたはれ            葉
    たが泣顔を咲《さけ》るつゝじぞ        蕉
  二オ
   朝鷹にくまれて侘る雉《きじ》の聲        同
    ゆう/\下る坂の乘かけ            葉
   水溜る一里の河原わづらひて           蕉
    あらしにしづむ軒の砂除            葉
   はつ霙《みぞれ》幾度こけて起直り        蕉
    勅衣をまとふ身こそ高けれ           葉
   鰐そうて經積船を送るかと            蕉
    汐こす岩のかくれあらはれ           葉
   打ゆがむ松にも似たる戀をして          蕉
    縣《あがた》の聟のしり目なる月        葉
   あき山の伏猪を告る聲/\に           蕉
    道一すぢを刈分る萱              葉
(406)  二ウ
   優婆塞《うばそく》が御廟つとむる文讀て     蕉
    落人起す夜は明にけり             同
   煎藥にぬれ柴いぶす雨の音            葉
    水桶のぼる蝸牛はかなき            同
   西行の辭《ことば》にならふ花さきて       蕉
    春の袂に鼓うつなり              葉
 
 芭蕉翁の事業は大きく又變化に富み、どこを中心として考へたらよいかに迷ふが、少なくとも江戸を其根據と見ることは、處びいきに過ぎるであらう。こゝに翁を尊信した俳人の最も多かつたのは事実だが、それは前々からの存在であり、この門下で育てられたといふ者はわりに少なく、しかも統一が取れなくて、久しからずして向き/\に分れてしまつた。七部集を目安に取ると、京江戸が各一部、尾張は三つまで持つて居るから、こゝが大きな勢力のやうだが、是とても荷兮野水等の少數が出しやばつたといふのみで、名古屋と熱田鳴海とは目と鼻との間柄なのにも拘らず、もう其間には聯絡は十分とれて居ない。いはゆる衣鉢を嗣ぐといふほどの心服者は、たゞ個人の中に飛び/\に見出さるゝのみで、それ等の系統は却つて永續しなかつたのは、恐らくは此文藝の性質に由るものであらう。芭蕉の主義思想ともいふべきものは、いさゝか一貫性を缺く程度に、とり/”\に書き傳へられて居るが、そんなものだけで、彼の今十年も生きながらへて居たならば成し遂げたであらう事業を、推測することは出來ぬと思ふ。やつぱり作者としてはまだ十分に甘心せず、特に世に傳へようとしなかつたやうな作品の中からでも、その目ざして居た所のものを見つけるの他は無いのである。
 其意味に於て、師匠の實地の指導ぶりの最もよく窺はれる、兩吟の歌仙を私は珍重して居る。是にも對手の能力と(407)か性癖とかゞ、やゝ出來ばえを左右したであらうが、ともかくも一通りの自信があり、又全心を以て歸依した弟子でないと、許されて斯ういふ一卷の協同には入らなかつたらう。熱田の桐葉は「冬の日」時代よりも前から翁に隨逐して居た、おとなしいよい門弟であつた。天分の豐かさはどうあつたらうか、ともかくも熱心な修行者ではあつた。爰に掲げる一卷は特に花やかな部分をもたぬが、師弟氣が合つてごく自由に、安らかに附け合つて居たことは、句の表からもほゞ察せられる。醫者か神官かたゞの農家か。どういふ境涯の出であつたか。少しでも桐葉といふ人の傳記が判るとよい參考なのだが、殘念ながら今は其力が私には無い。
 
       ○
 
     熱田の社御修覆ありければ
                    芭蕉
   磨《とぎ》直す鏡も清し雪の花
 神詣での日の句である故に句の姿に心を用ゐ、あまりひねつた言ひまはしにならぬやうに努めて居る。貞享四年十一月廿四日のことだと他の記事にはあるが、其日は初雪が降つて少し積り、其光に映じて新しい社殿が、殊にすがすがしく拜まれたといふだけであらう。神殿の奧の鏡が、雪の花をうつし出したとまでは考へずともよいのであらう。
    石しく庭のさむきあかつき          桐葉
 この脇はさう用意をした句で無いから、發句は參詣の際に示されたので無く、連句の座に就いてからの發表であつたらう。石しく庭は即ち社頭の石だゝみ、雪の朝だから寒いにきまつて居る。發句冬の季に今一句は冬を附けるといふ規則に遵つたまでゝ、僅かにあかつきといふ語を以て一句の風情を添へようとして居る。新しい味は足りない。
(408)   時/\は松笠落る風やみて           同
 雜の句である。第三はちがつた時刻、別の場處へ移した方がよいとせられたのであらうが、こゝはまだ何か神境の中のやうな感じがして、三句一組の如くにも取れる。風やみてはて留めの拘束で、たゞ風も無いのにの意味かも知れぬ。もし風の吹き止んだあと、靜かな中に於て松毬の落るを聽くといふのだつたら又別の趣になるが、それでは時々が少し打合はぬやうである。石しく庭は小石を敷いた、普通の民家などをこゝでは考へたものとも思はれる。
    我鳩歸る山のかげろひ             蕉
 場處も時間も、前句が考へて居たものから轉じて居る。さうして新たに一幅の繪を浮び出させた技倆は鮮かである。傳書鴿流行の今日なら平凡だが、こゝは自分の住む庭の木に、來て寢る山鳩を我鳩と謂つたのが面白いのである。山のかげろひは、近くの山の影が大きくなる日没前の光景で、ひぐらしの鳴くなるなべにといふ、あの古今集の歌なども思ひ合せられる。作者も多分それを心づいて居たのだらう。
   秋くれて月なき岡の一つ家            同
 兩吟では一二箇所は一人二句が必要であるが、此歌仙はどうしてか始めに三度までそれを重ねて居る。月の座の句。一句としては安らかなよい句だが、あまりにも前句の繪の中から脱出して居ない。やゝ註釋じみるほども近く附き過ぎて居る。手がらをいふならば、紛れも無く秋の末つかた、九月二十八九日頃の定まつた刻限の、しかも定まつた場處へ持つて來たことである。一つ家《いへ》はやゝてづつな言葉である。月の座の「月無き」は、斯うも扱つてよろしいといふ手本を見せられたものとも見られる。
    杖にもらひし唐きびのから           葉
 この唐黍は玉萄黍のことであらうが、此地方ではタウキビは別にあり、我々のいふタウモロコシはナンバンタウキビ又はタウトキビと謂つて居たやうである。此時代は栽培する人がまだ少なく、幾分か物珍しかつたので、俳諧にも(409)なつたのであらう。ちやうど此季節に農家の横手などに立て掛けてあるものを、笑つて一本無心したのである。前句の月無き及び岡といふ言葉に對し、年よりの足元の惡さなどを考へて附けたのかとも思ふ。
  一ウ
   肌寒く習はぬ錢を襟にかけ            同
 是まで三句秋。習はぬ錢といふのは、日頃は從者をつれて居る老人などが、けふばかり一人で途を行くのであらう。現今の生活では解しにくいが、錢に穴のあいて居たのは元は斯うして携へる爲であつた。財布とかジンキチとかいふ入れ物は商人ばかりの持つもの、その他は量が多ければ包んで懷にもしたらうが、大抵は緒に貫いて腰に下げた。子供や老人は頸に掛けてあるいたのが、恐らく曲玉以來の風習の續きだつたらう。斯うして有るだけを見せて居れば、却つて盗まれる患ひも無かつたのである。氣樂な隱居などがよその家で話し込み、供の者をさきに返して日の暮方に、黍殻を枚にもらび受けて、とぼ/\と歸つて行くところと想像せられる。無論俳諧でもやりさうなぢいさんである。七句目の折境は、もつと區切りを付けるのが普通だが、こゝは又ひどくぴたりと附いて居る。蕉翁の流義は斯ういふことも自由としたものであらう。
    こぼるゝ鬢の黒き剛力《がうりき》       蕉
 此句は出來るだけかはつた人物へ、襟掛錢の姿を移して見ようとせられたものであらう。こぼるゝといふのが何か手弱女の額つきのやうに取れるのは遺憾だが、えらい力わざをすると自然に髪の毛が亂れる。それを爰ではこぼるゝと謂はれたのである。「黒き」といふ形容詞は可なりよく利いて居る。即ち其強力はまだ二十代の若者で、色が白く又は紅を潮して居る。それが驚くほども重い大石か何かを背に負うて、襟には五文か八文かを通した紐を掛けて居るのである。俳諧はいつも斯ういふ處に目を留めるものとなつて居た。
   明わたる鐘ぬすむ夜はしら/\と         葉
 武藏坊辨慶なら鬢の黒髪のこぼれるといふことは無いが、ともかくもそれに近い或るローマンスを、こゝでは聯想(410)したのである。趣向は惡くなかつたが、句の形がそれに伴なはない。あとさきが餘りに尋常である爲に、鐘盗みが何か毎夜の行事でもあるやうに聽える。鐘は小さいのでも一人では背負つて行けない。乃ち是は闘諍や化物出現にも比すべき大事件なのだから、それを現はすにも相應に昂奮の語が必要だつた。然るにたゞしら/\と夜が明けたといふだけだつたから、その感じがうつらぬのである。斯んなのが後代の鑑賞者の、何とか手を入れて見たいと思はずに居られない、即興作品の弱點である。
    破れし國の境守る庵              蕉
 亂世には人が理不盡に隣の領から寺の鐘さへ盗んで來る。それをちやうど領分境に在る庵室の出家が、出て見るか又は中に居て足音を聽いて居るのである。境守るといふ言葉の誠に無意味なのが、この一句の俳諧である。行倒れでもあつたら助ける。怪しげな者が通ればそつと知らせる。それ位の役ならつとまるが、多人數が堂々と大きな佛具を奪つて行くのでは、老法師はたゞ長大息をして見て居る他は無いのである。
   古畑にひとり生《はえ》たる麥かりて       葉
 麥には野生といふものが無い。戰亂のさなかには住民が?離散して、後から假に入つて來た者が、誰の播いたとも知らぬ麥の成熟を幸ひと、刈り取つて露命を繋いで居るのである。いづれ痩せかじけた、乏しい收穫であつたことはわかつて居る。さういふ點がいつも連句の人望ある題材であつた。この一句は夏の季である。
    物よぶ聲や野馬とるらん            蕉
 庵のあたりの麥を刈る時しも、遠くに常ならぬ人聲のするのは、駒引き行事の始まりと心づいたのである。廣い野の端に住む農夫の、わびしい生活もかつは寫し出されて居る。いはゆる野馬追は夏から秋初にかけての行事と思はれるが、俳諧では季題の中に見えぬやうだ。乃ちこゝは雜の附けであつて、前の一句をいたはりつゝ、どうかして廣い新しい場面へ出て行かうとした努力が窺はれる。
(411)   松明《たいまつ》に飯荷ひ行秋の風       葉
 この松明は歸りの夜路の用意で、まだ火を點さぬ何本かを、食物の櫃と共にさし荷ひにして、二人又はその幾組かが通るのである。野中の人聲と對應させて、こちらは目に見える生活を繪にして居る。以前は途上に折々見られる光景で、人の心をときめかすものであつた。馬取の日には限らず、蕈採りでも秋草見物でも、良い衆は年に一度か二度、斯ういふ野外の集宴を催したのである。但し秋の風はあんまり適切でも無い。單に月の句を自分では出せない申しわけ、或は次の月の句の出迎へのやうなものである。實際又こゝの月の座はちよつと骨が折れたらしい。
    宮もよし野の哀《あはれ》しる月        蕉
 是は思ひ切つた大きな轉囘である。前句の秋風の中に食物松明を運ぶ情趣を、貴人の都落ちの場合へ持つて行つて、そこに新たなる物語の世界を開かうとしたのは大賛成である。和歌では言ひ古した吉野の奧の秋のあはれであるが、一方前句に實際生活の膳立てが備はつて居る爲に、寫實味が濃やかであり、又俳味も豐かになつた。凡手の及ばざる到達境である。
   就v中《なかんつく》峰のきぬたぞ聞ゆなる    葉
 吉野は到る處に高い山側の民家が有る。なかんづくと謂ふのはそちこちに衣を打つ音はするが、特にあんな高いところにも人が住み、砧の聽えるのが心を引かれるとの意味で、言葉はさうなつて居らぬが、感じだけは十分に掬み取られる。佳い句だと思ふが、是にはよほど前句の誘導が效を奏して居る。
    温泉《いでゆ》はにえて人もすさめず      蕉
 此附句も意外であり又新しい。熊野あたりには或は以前斯んな靜かな湯があつたか。ともかくも芭蕉の傳記の中には見出せないが、どこかの山の旅での經驗であつたと思ふ。「にえて」は熱い湯の湧きかへること、そこには一人も人が入つて居らず、遠い山の上の砧の音のみが聽えて來る。森閑とした山の谷の秋の夜である。明治時代の二三の小説(412)に、この句から暗示を得たかとおもふものが有る。げにも一度見たら忘れられぬ句だ。
   此塚の女は花の名にたはれ            葉
 前句の「人もすさめず」によつて、戀の句が附けたくなるのは自然である。ちやうど此通りに戀があつてもよいのだから、或は親切に絲口を與へられたとも見られる。しかもこゝは拔差しのならぬ花の座であつて、戀をもつて來るのは容易なわざでは無いのである。一句の意はやゝ晦澁ともいへるが、もし其「塚の名」を女郎花塚とすれば、心持だけは捉へられる。古くは僧正遍照の歌を始めに、女郎花の故事は歴代の抄物に有りふれて、連歌に携はるほどの者は皆知つて居た。それで爰にもさう謂つた名の塚があり、傳説の女性があだなる艶名を流して居ると言はうとしたものと想像せられる。はつきりとその名を出してしまふと秋の季になるので、わざとぼんやりと「女は花の」と謂つて見ました、これでもわかりませうかと、師匠の顔を見た樣子が目に浮ぶ。花は必ず正花《しやうはな》などゝ師匠は言つて居なかつたことは他にも證據がある。たゞ問題はさしむかひの二人以外の者に、是で通るであらうかどうかであつて、結果から見れば作者は成功して居ない。
    たが泣顔を咲《さけ》るつゝじぞ        蕉
 前句は花とある故に、春として芭蕉は之を受取つたのみで無く、其場の光景を描き添へて、その條件を補充して居る。詳しく説明すれば、野中に獨り立つて、うしろめたしとも言はれた女性の遺跡である爲か、そこに花咲く躑躅の色までが、泣きはらした賤の女の顔つきを思はせるといふのである。強く泣く女の顔つきが紅くなることは、是まで一向歌人たちが注意して居ない。それを句にして見たのも一つの寫實主義で、單なる前句のおもり役でなかつたことも、私は作者の用意かと思つて居る。
  二オ
   朝鷹にくまれて侘る雉《きじ》の聲        同
 是は又おもしろい程引離した附け方である。前句がこだわり過ぎたと思ふときは、いつでも翁は斯ういふ風に二三(413)歩外へ出て考へて居る。つゝじの花の咲く山などに、有つてもよさゝうな出來事には相違ないが、爰でさういふことを案じつくのは、餘裕を尊いものとした人の修行であらう。朝鷹といふ語も印象が深い。雉は斯ういふ折にどんな聲を出すか知らないけれども、必ず他の時とはちがつて居たらうから、鷹狩時代の人は皆覺えて居たのである。附句としては一つのよい題材であつた。穿つた想像だが、かねて斯ういふ場合の用に、貯へて居られたとも見られぬことは無い。
    ゆう/\下る坂の乘かけ            葉
 前句の教訓によるとも見られようか。此句も存分に大跨に歩んで、忽ち峠路から麓の廣みに出てしまつた。今殺されかけて居る哀れな聲だが、それは鳥の世界、狩人の常の道、こちらは馬に乘つて峠路を、ぽく/\と降りきらうとして居るのである。乘りかけは普通の騎馬とちがひ、荷物と一しよに馬に附けられて居るのだから、ちつとも走らない。この山には隨分雉が多いと見えるねなどゝ、氣樂なことを言ひながら、かの聲を聽いて居る。
   水溜る一里の河原わづらひて           蕉
 斯ういふ附け方もあるといふ好い御手本である。前の山路から少なくとも十分か二十分、時が此間に經過して、しかも馬上の旅だけは續いて居る。時を描いたと言はうよりも、寧ろ畫卷を一つ伸べたのである。わづらひては少し不精確だが、人馬が行きわづらうて居るので、それで又雨後のもしくは洪水あとの、麓の川の光景がやゝ胸に泛んで來る。しかし雉の聲の句などゝはちがつて、是には獨立した格別の詩情は無い。遣句といふものゝ中に算へなければならぬかと思ふ。遣句も無論連句には必要である。
    あらしにしづむ軒の砂除            葉
 この附けも大分遠のいて居る。恐らく同じ川原でも又ずつと下流であらう。岸に接した庵か小屋かに、茅か葭の垣を繞らしたものが、大風のあとよほど低くなつて居るので、今沈まうとして居るのでは無い。「軒の砂よけ」はをかし(414)いやうだが、庭が僅かしか無い爲に垣が軒に附いたやうに見えるのである。
   はつ霙《みぞれ》幾度こけて起直り        蕉
 みぞれは一本にあられとある方がよいのかも知れぬ。霰は風の中に不意に降つて人を驚かすが、それにしても幾度もこけるは大げさのやうである。多分は前句の嵐に沈むを現前の景色として、やゝ強く受けたのであらう。さうでなければ轉ぶつまづくが、それ自身古くからの俳諧であつたのか。ともかくもたゞ是だけのことで、他に寓意の無いことは確かだと思ふ。
    勅衣をまとふ身こそ高けれ           葉
 勅衣は官服又は制服といふこと、古い言葉では決してない。さういふものを着た人が風吹きにこけたら無論をかしいが、爰ではさうは露骨に附けないで、たゞ衣冠といふものは、け高く人を見せるものだといふだけに止めて居る。顔のをかしき生まれつき也といふ句に、「馬に乘る神主どのを羨みて」と附けたのと、趣きがよほど似て居る。
   鰐そうて經積船を送るかと            蕉
 此趣向は例が他に無いとも限らぬが、古典趣味の美しい附け方である。大陸から經典佛像などを運送した際に、海上にさま/”\の奇瑞があつたことは、古く色々の文獻にもあつて、しかも鰐が護送したといふ例は、神代の綿積宮の往復の段にしか無かつたやうである。勅衣といふ一語に引かれて、斯ういふ一句を案じ出された想像力は大きい。「送るかと」の結び方も俳諧である。俳諧には許多の省略が許されたのみか、それによつて色々の餘情を釀し出させて居る。
    汐こす岩のかくれあらはれ           葉
 海上の奇瑞を傳ふる話には、しば/\暴風巨濤が説かれて居る。從つて是は單なる敷衍とも見られるだらうが實は前句のやうな異常の記述を、速かに平常の生活に引戻さうとする心がけもあつたのである。この句だけの繪ならば毎(415)日の天然にも見られる。從つて次に來るべき詩境は尤も自由になるのであつた。是などは多分教へられ又覺えた技術だらう。
   打ゆがむ松にも似たる戀をして          蕉
 戀の立場を松に譬へた句は、どういふものか昔から多い。獨り淋しくたゞ遠くから人に見られて居るばかり、近づき親しむ者も無いといふ、孤高の意味でゝもあつたのか。初句の「打ゆがむ」があるので、爰では殊に男のやゝかたくなに、下の思ひを押隱して居る趣きが窺はれる。さういふ戀をする男は以前は多かつた。女が漸うにしてそれに心づくことが、亦是情海の一つの波瀾であつた。この戀の句は時を得て居ると思ふ。
    縣《あがた》の聟のしり目なる月        葉
 前句は男性だから附句では女に取りなして居る。あがたの聟は簡潔で意味が深い。即ち都のやさ男が田舍に來て、人の娘に通ひ始めて居るのである。女の弱みとひかへ目、表現の拙さを自ら知つて居ることなどが、その物思ひを一本の松にたとへしめるのである。聟は憎いほど取澄まして居る。「尻目なる月」は、月を尻目に見て居るのでは無く、二人竝んで月を見て居ながら、女に向つては、物も言ひかけようとしてくれない。いつ退《の》かれてしまふかも知れぬといふ心細さが、月の光を殊に物あはれにながめさせるのである。月といふ語には古來の聯想が積み重なり、たつた一字でも十分に秋の季になつて居る。是も好い句である。
   あき山の伏猪を告る聲/\に           蕉
 聟のよそ心は獵がすきな爲だつた、といふやうな附味では無いかと思ふ。とにかくに爰では二人で月を見て居る折から、野猪《ゐのしゝ》が居るといふ里人の聲が聽えて來る。それを聽いて月も女房も、忘れたやうな顔をする聟君なのである。但しこの蕉翁の句は寫實で無い。狼が出た人を咬んだとでもいふのなら格別、猪のカルモが見付かつたときに、聲々に騷いでどうなるものか。そつと耳打ちでもするのでないと、猪はすぐに三里も逃げて行つてしまふだらう。
(416)    道一すぢを刈分る萱              葉
 猪を捕る支度に萱原に道を切りあけるのでは無く、別に目的あつてさうして居る日に、偶然に伏猪の床が見つかつたゞけであらう。聲々といふ語がそれで活きる。草山の道作りは盆前の七日などに、山から精靈を迎へる爲にもする。或は秋の彼岸にもそれをしたかもしれない。萱刈は秋の季になつて居るので、斯ういふのも其中に入れたまでゝあらう。
  二ウ
   優婆塞《うばそく》が御廟つとむる文讀て     蕉
 御廟はミビヨウと訓む。祖師の堂を通例さういふので、高野山を思はしめるが、眞言宗だと「文を讀む」といふのがすこしをかしい。この優婆塞は山臥では無いのかもしれぬ。もしくは知りつゝさういふ境涯を空に設けられたか。とにかく里人が山の下刈る日、それにはかけ構ひなく大きな聲で、山中の御堂で御勤めをして居る行者があるといふのである。或は是に歸依する人々が、道を作つて居るといふのかも知れない。ともかくも是だけの句である。
    落人起す夜は明にけり             同
 自身の附句だが、こゝに至つて一つの物語を點出して居る。初裏第八句の「宮もよし野の」との、遠いさし合ひは少し氣になるが、この優婆塞の勤行の聲は、實は落人《おちうど》を匿まふ爲の謀りごとであつたといふつもりらしい。前二句とはちがつてこゝは眞夜中になつて居る。その夜も明け方に近くなつてから、一夜休養させてあつたその落人をゆり起し、出發の支度をさせるのである。短い句形の中でそれを敍べ盡されたのにも感心するが、更にその始末をごく普通の表現で處理したのは俳諧の妙である。前の鐘盗む夜の句なども、それを企てゝ居たことはわかる。成功しなかつただけである。但し此句は前の「明わたる」と重複して居る。
   煎藥にぬれ柴いぶす雨の音            葉
 此句は更に一段と空想を進めて、殆と黙阿彌あたりの脚本に近くなつて居る。落人を一夜とめていたはつた家には(417)病者がある。斯ういふ家だから殊に追手も氣を許すだらう。又僅かな殘んの命、お役に立てば本望といふ類の、せりふが有つたとも想像し得られる。それが東天の白むを待つて、起き出して藥を煎じ始める。雨が降つて居るといふまでが近世式の劇である。一句を離して見ると何の隱れたところも無くて、前句と結び合せるとさういふ情景が浮んで來るのも、私は作者の計畫だらうと思つて感心する。
    水桶のぼる蝸牛はかなき            同
 蝸牛を字音で使つた句は他にも有る。前々句の落人起すを切りすてゝしまふと、今度は又此樣な靜寂の境涯にも變つて來るのである。人は活きよう/\と藥を煎じて居るが、一方にはまた時の間の水桶の濕りに即いて、翌の日も知らぬ昇り降りを事として居る生物もある。言ひ古された話題かも知れぬが、久しく病む人には感動がうたゝ新たなのである。一人の作者が二句を續けたところが、この歌仙の中には五回もある。さうして何れも獨吟の場合以上に、自分の二句を固まらせまいと努力して居る。自分などは是を參考にして、後々二句連句又は三句連句といふやうな形が、工夫せられてもよいのではないかと思つて居る。
   西行の辭《ことば》にならふ花さきて       蕉
 西行の言葉といふのは、「花のもとにて春死なん」であらうが、茲では佛縁の殊に深い涅槃の日に、花が盛りに咲くやうにといふ風に取つたとも思はれる。しかも前句の感想を下には受繼いで居るのである。この花の座は可なり六つかしい。斯ういふ輕く又新しい言ひ方で片づけてしまはれたことは、恐らく弟子たちの最も隨喜した點だつたらう。
    春の袂に鼓うつなり              葉
 安らかなのんびりとした好い揚句である。「春の袂」もよい言葉だが、それが鼓である故に美しい繪樣を作り上げるのである。表面の趣向としては花の盛りの日、心樂しく人々が鼓を聽いて居るといふだけであるが、二句の形の調和といひ、一つ/\の言葉の響きといひ、たゞ蕉風を以て詩的情感の表白と解する者の、再思しなければならぬ點であ(418)る。言葉や句の形を粗末にしてもよいといふことなどは、少なくとも芭蕉は決して教へなかつた。たゞさういふ亂暴な者までが、強ひて自ら其流れを汲むと稱しただけである。
 
 (參照)
 勝峯氏 芭蕉連句集成 二三六頁
 
(419)     新麥の歌仙
 
       餞別
                     山店
   新麥はわざとすゝめぬ首途《かどで》かな 
    まだ相蚊屋の空はるか也          はせを
   馬時の過て淋しき牧の野に            同
    四五千石の松のたて山             店
   方々へ醫者を引ずる暮の月            同
    躍の作法たれもおぼえず            蕉
  一ウ
   盆過の頃から寺の普請して            同
    ほしがる者に菊をやらるゝ           店
   蓬生に戀をやめたる男ぶり            蕉
    濕《しつ》のふきでのかゆき南氣        店
   丹波から使もなくて啼烏             蕉
(420)    節季が來れど利あげさへせぬ          店
   雪に出て土器賣を追ちらし            蕉
    たゞ原中に月ぞさえける            店
   神鳴のひつかりとして沙汰も無き         蕉
    しやくりがやんで氣がかるうなる        店
   奧の院おづ/\花をさしのぞき          蕉
    けさからひとつ鶯のなく            店
  二オ
   春の日に産屋《うぶや》の伽《とぎ》のつゝくりと 同
    かはり/\や湯漬くふらん           蕉
   いそがしく皆股立を取竝び            店
    目つらもあかず霰ふるなり           蕉
   からびたる櫟《くぬぎ》林に日がくれて      店
    佛の木地をつゝむ糸だて            蕉
   ころ/\と臼挽き出せばほとゝぎす        店
    そゞろに草のはゆる竹椽            蕉
   羽二重の赤ばるまでに物おもひ          店
    わかい時から神せゝりする           蕉
   ?をまたぬすまれしけさの月      店
    畠はあれて山くずのはな            蕉
(421)  二ウ
   日光へたんがら下す秋のころ           店
    くれ/”\たのむ弟の事            蕉
   ゆふかぜに蒲生《がまふ》の家も敗れ行      同
    物にせばやとさする天目            店
   花のあるうちは野山をぶらつきて         同
    藤くれかゝる黒谷のみち            蕉
 この兩吟の一方の作者山店は、注意すべき人だがやはり傳記が知れない。石川北鯤生の弟といふことは、芭蕉が自ら芹の飯の句の端づくりに記して居る。それは天和二年のことだといふから、少くとも十三年間の隨從者であり、事によると手ほどきからの弟子かと思はれるが、其作の世に殘つたものは同三年の「みなし栗」、貞享三年の「蛙合せ」をはじめに、取集めて僅か三十句足らずである。七部集の中にはたしか只一句、江戸名古屋の選集には全く載せてないのは、單にこの人が一流でなかつたゞけでは無く、點者とか行脚とか、其他有名になるやうな交際をしなかつた爲とも思はれる。遠藤曰人の諸生全集なるものに、伊勢山本の人、板上氏、江戸に住すとあるのはおぼつかないが、兎に角に別に職業があつて、それも普通の町人では無かつたことだけは、其作品の半分以上が、旅の句であることからでも、又この歌仙の新麥の發句からでも想像がつく。
 江戸の蕉門の數多い俳士にも、幾つかの群と系統とがあつて、山店の屬して居たのはその最も小さな一つであつた。師翁歿後に世に送られた芭蕉庵小文庫には、この新麥の歌仙の他に、最も多くの山店の句を掲げて居るが、編者史邦の江戸に下つて來た時に、主として交遊したのは淺草の嵐竹と、この山店との二人であつたから、それは當然の結果とも見られる。嵐竹といふのは富人であつたらしく、是も二十何年の芭蕉の追隨者と自ら稱し、且つ山店の兄なる北(422)鯤とも唱和して居る。この嵐竹の事が明らかになれば、鯤店兄弟の境涯もやゝ察しが付くだらうが、是も恐らくはもう望みの無いことかも知れぬ。しかしともかくも點者として門戸を張らず、同じ師に就いて十餘年の修行をしたといふ素人に、どの程度までの到達が得られたかといふことを考へるには、是は一つのよい實例であり、同時に又芭蕉の歩んだ道、彼が世の中に與へた感化も、是によつてやゝ一端が窺はれる。このせつの俳人諸先生の説を聽いて居ると、俳諧は天分ある者のみに許される文學のやうでもあり、同時に又猫も杓子も入れば入つて來られる修養のやうにも取れる。芭蕉はこの二つのどちらを目標にして居られたか。さういふ點も判るなら私は明らかにして見たいのである。新麥の歌仙は元禄七年、翁の最後の旅立ちの際に成つたものゝやうに傳へられる。それは大よそ確かなことゝ思ふが、興行の場所が明らかで無いのみならず、江戸を風靡して居た炭俵の作風とも、是は可なりのちがひが有る。不易流行の師説を確かめようとするには、やはり少しは七部集の外にも出て見なければならぬやうに思ふ。
 
       ○
 
       餞別
 
   新麥はわざとすゝめぬ首途《かどで》かな    山店
 發句の心持は、新麥の飯をすゝめたいのだが、あれは風味の何と無く人を土地に引付けるものだから、わざとさし上げませんといふので、反面には旅人の心強い出立を、嗟歎するやうな意味もにほはせて居る。村に年經て住む者でないと、口にしさうな言葉でない故に、かた/”\此一卷の成立した場處が、江戸の市中で無かつたことを思はしめる。この頃の麥はたゞの大麥であつたらうから、或はゑました飯ではなく、いはゆる麥の粉の方であつたかもしれぬが、(423)それだと新麥といつたゞけでは通用しさうもない。とにかくに此一句は見かけによらず複雜である。おまけにこゝの亭主は客に附いて、是から幾日かの旅を共にしようといふのである。是が果して元禄七年の作ならば、どこか街道筋の或る田舍に作者が居り、芭蕉は途すがらそれへ立寄つて、別れを敍したやうにも想像せられる。
    まだ相蚊屋の空はるか也          はせを
 相蚊屋《あひがや》は一つ蚊帳に入つて寢ること、麥についての直接の受答へでないが、如何にもこの土地との名殘は惜しいけれども、それでもお互ひはまだ幾夜さか、話をして行かれるからといふので、空といふ一語が何か廣々とした野の行く手を思はせ、麥をたづきに住んで居る相州あたりの村里だつたやうにも思はれる。箱根を越えてしまふと、もうさういふ麥の名所はありさうにも無いからである。
   馬時の過て淋しき牧の野に            同
 同じ句主が又さういふつもりで第三を附けて居る。春は老幼の駒が群れ遊んで居た平原に、今はたゞ雲と日の光の、草の葉に移り動くを見るといふやうな光景であつて、まだ全く新しい旅の情を離れて居ない。芭蕉は元禄七年の初夏五月の十五日に、駿河の島田に一宿したことが、杉風あての手紙にあつて、それ迄の旅程は知られて居ない。或は馬牧のまだ殘つて居た矢倉澤往還を通つて、小田原の方へ出たか、又は是は全く別の年の旅であつたか。傳記の資料としてもこの歌仙は粗末に出來ない。
    四五千石の松のたて山             店
 「立て山」は今の言葉でいふと植林である。材積の四五千石では僅かなものだが、これは其物成を草高に結んで田地なら四五千石にも當るほどの、見通しもつかぬ廣々とした松林である。こゝはもう空想の世界にちがひないが、それでも今日のいはゆる東京都下ならば、まだ元禄の世にはそんな松山が見られたのである。牧の末につゞいた山の根の、青々と快いながめであつて、次の月の座の感興を催すにはよい下地であつた。それを山店自らは利用して居ない。
(424)   方々へ醫者を引ずる暮の月           同
 それで今度はその廣い松原の中へ入込んで、そこには縱横に幾つも小路がある。つまりはもう開墾によつて、そちこちに小さな部落が出來て居るのである。無論無醫村だから、たま/\先生が見えると、方々から是非一つと言つて迎へに來る。さう氣位の高い名醫で無いこともわかつて、おとなしく連れてあるかれる背なかつきがほゝゑましい。此あたりの附句には、打越し即ち一句置いて前の句に、引かれて行くまいとする努力が著しく、次々のタブローが目まぐろしいほども彩色をかへて居る。
    躍の作法たれもおぼえず            蕉
 片田舍だから今までは大した踊の催しもなかつた。作法といふのも大げさだが、どういふ風に隣村の若衆を案内すべきものか、揃ひの手拭はなんぼ程の雜用で染まるものか、そんなことを知るのに途方にくれて、方々に四五人の若い者が立つたりしやがんだりして居る。そんな間をヘイコンなどゝ言葉をかけつゝ、お醫者の一行が通り過ぎるのである。あゝあすこの婆さんが寢て居るのだつた。盆中何事も無ければいゝがと、後で噂をして居る。
  一ウ
   盆過の頃から寺の普請して            同
 前の句から時が少したつてゐる。寺の普請だから職人も他村の者も集まつて居るのである。爰の踊と來ては話にならぬ。あんな下手くそに音頭を取らせてとか、娘たちがはにかんでばかり居てとか、馬鹿にしたやうな批評をするものがあるのである。多分は寺の庭へも來て踊つたのであらう。
    ほしがる者に菊をやらるゝ           店
 やらるゝは敬語。この寺の方丈さんは折角丹精して作つて居た菊を、どうせ踏まれるからと、寧ろよい貰ひ手を捜して居られる。盆過ぎに菊を思ひ付いたのはよいが、何だか「菊貰はるゝ」といふ炭俵の名句を、知つて居たやうな感じがせぬでも無い。殊に次の附句によつてさう推量せられる。
(425)   蓬生に戀をやめたる男ぶり           蕉
 少々いや味な句、少なくともこの境には向かない。是は浮世草子などの人望ある主人公で、侍女を所望する者に縁付けてしまつて、草庵に自炊の生活を送つて居るといふのらしいが、それを蓬生《よもぎふ》といふのからがいゝ趣味ではない。しかし轉囘の法としては十分に成功して居る。少なくとも前の句の出切るまで、考へも付かなかつた題材なのである。
    濕《しつ》のふきでのかゆき南氣        店
 「南け」といふのは、南風の吹く日である。季はいつともしれぬといふよりは、實は春の末だけれども季としては取扱はぬのである。蓬生先生疥癬に悩んで居る。きたない句だけれども突拍子もないことを出したのが俳諧である。つまりは前の句がいさゝか取りつくろひ過ぎて居たから、斯樣な句も飛出して來たわけである。
   丹波から使もなくて啼烏             蕉
 是は安らかで新しい句だと思ふ。肌膚病で無柳の日を送つて居ると、さう大切で無いことも思ひ出すのだが、是は丹波からとわざ/\謂つて居るので、棄てゝ置いては惡いやうな問題だつたのを、やはり斯ういふ日に心づいたのである。鳴く鴉といふから或は病人、それも親とか祖父母とかいふやうな、氣づかはしい人の長わづらひで無かつたか。後世でならば皆川淇園、富士谷成章といふ類の人が、丹波から出て來て京住をして居る處ではないかと思ふ。
    節季が來れど利あげさへせぬ          店
 利上げは金利の引上げでは無く、利息のみを納めて一時元金の返濟を待つてもらふことである。山店がこの人事を解して居たのは不思議でないが、丹波からではそれも頓狂であり、又啼く鴉との調子も合はない。これも場面を改めて行くのに急で、前句の色々の構成分子から、特に都合のよい「使も無くて」だけを、重く取上げたといふ形である。他にも例の無いことでないが窮策かと思ふ。
   雪に出て土器賣を追ちらし            蕉
(426) 乃ち歳末の光景である。土器《かはらけ》は正月用の祭具、土で作つた價の安いものなので、貧しい女子供が臨時の行商に群がり出たものと思はれる。氣短かの差配の老人などが、暮の多用にいら/\として、彼等が日なたに固まつてしやべつて居るのを、うるさいとか何とか叱りつける所であらう。雪に出てはどうやら季を確かにする爲に取つて附けたらしく、たゞ光景を複雜にするだけで力が弱い。強ひて感心しようとすれば雪の殘つて居る空地と見てもよい。雪降りでは追散らすほども一處にはかたまつて居るまいから。
    たゞ原中に月ぞさえける            店
 是は遣句だが輕くてよい。さうして次の詩境を擴大した功もある。たゞ私たちの解し得ぬのは、こゝの月の座の處理方法で、前の二句は冬の季が重なつてあるのに、此月にも季移りが無く、冴えたる寒月として附けてしまつて居る。或は後に來る附句の問題かも知らぬが、後世だと此から始まつて、秋が何句かつゞくところである。斯ういふ附け方が、まだ外に二三ヶ處にも芭蕉にはあつた。
   神鳴のひつかりとして沙汰も無き         蕉
 俳諧では神鳴《かみなり》は明らかに夏の季である。強ひて解すれば「冴える」は冬の月の照り透ることだが、時々は他の季節にも強めていふことがあるから、前句を夏に取りなして季移りとしたのかも知れぬが、少し落付かぬやうな氣もする。一句としては此句はよく働いて居る。たゞ原中にとあるので、稻妻が光つたゞけで音もせず雲も動かず、あとが森閑としたところを言つたことがわかる。
    しやくりがやんで氣がかるうなる        店
 附句の骨法を得たものとして褒められたらうと思ふ一句である。趣向とすれば炭俵一派の人々に、幾らでも案出せられさうなことだが、前句の稻妻に對してすぐに是を持つて來るまでの、用意が彼等にあつたらうかは覺束ない。師翁の輕みと言はれたのも、實は深意は此あたりにあつたのだらうが、後世の江戸座などはそこまでは思ひ及ばなかつ(427)たのでは無からうか。野坡と孤屋ではもう修養がちがつて居たやうに私は思つて居る。
   奧の院おづ/\花をさしのぞき          蕉
 是は又隨分手の込んだ附味で、私にもはつきりと説明が出來ない。誰でも思ひ浮ぶのは日光東照宮などであらうが、さうで無くても信心の參詣者には、瑞垣物深い木立の花を見入れるとき、心の引きしまるやうな有難さを感ずる。乃ちしやくりの止んだのも、さし覗いた結果と見られたことは、「おづ/\」とある語からも察し得る。しかし反對に、幸ひしやくりが止んだからどれ花を覗きませうといふ風に解する人が有るかもしれない。時のずれがある場合には、後の句が原因になることは少ないからである。ともあれこの附けなどは天外の奇想であつた。さうして此あとの氣分が、殆と根本的に改まつて來るのである。
    けさからひとつ鶯のなく            店
 一つ鶯は一つの單語で、ひとつと副詞風にこゝで切るのであるまい。是も清新な佳句である。但し俳諧には常のことであるが、前句の花を覗き込んだ人と、附句の今朝から云々と思つて居る者とは別人で、たゞ場所が奧の院ともいふべき靜寂な林の中なることのみが一貫して居るのである。あれ鶯が啼いて居る。えゝけさからずつとですよなどゝ、番人と問答でもして居るやうにもとれる。
  二オ
   春の日に産屋《うぶや》の伽《とぎ》のつゝくりと 同
 上流の家の大きな庭園を想像せしめる。安産がすんで何人かのとのゐの者が詰めて居る。物靜かだから鶯が遁げて行かないのである。「つゝくり」は狂言記などにも見える京言葉で、私たちには耳馴れぬが此頃の「つくねんとして」と同じく、ツク即ち柱棒杭などの名詞から出た語である。御用は何一つ無いので、たゞ鶯の聲を聽くのを仕事にして居る。のどかな春の日のめでたさを詠じた句である。
    かはり/\や湯漬くふらん           蕉
(428) やがてお晝になり八つ七つにもなつて、一人づゝ次に立つては假の食事をして來る。是さへも凶事には見られぬ物靜かさである。しかし一句の目的は、やはり印象のあまりに濃い産屋の中から、何處か容子のまるで變つた場所へ、早く出て行かうといふに在るのだから、遣句といふものゝ中には入るのである。結構な遣句といつてよからう。
   いそがしく皆股立を取竝び             店
 さういふ氣持を呑込んで居ることは確かだが、是は趣向其ものまでが餘りにせか/\して居る。もゝ立ちを取るとは馳驅の姿勢を保つことで、無論門外又は玄關さきに出發の用意をして居ることである。さういふ中でも湯漬だけは食つて置かうとするのを見ると、是は遊覽とか旅立ちとかいふ類の、兼て刻限のきめてあるもので無く、多分は咎人召取や配流などの、有難くない方の御用の供であらう。
    目つらもあかず霰ふるなり           蕉
 そこへ霰が降つて來るといふのは、氣分はよく打合つて居てしかも意外な變化であつた。「目つらもあかず」は流行の表現と思はれ、近頃も折々は聽く言葉であつた。笠無しで霰に顔を打たれ、眼が明けて居られぬことをさう謂つたので、もとは行進の場合に用ゐたものなることは語形からでもわかる。それを此場の附けに供したことが、霰そのものと半々の意匠かと思ふ。
   からびたる櫟《くぬぎ》林に日がくれて       店
 枯葉の枝について居ることを「からびたる」は當らぬ語だが、全體の繪樣としては林の中の方が自然でよい。人數も茲では少なく、或はたつた一人のつもりかも知れない。
    佛の木地をつゝむ糸だて             蕉
 寒い日暮のくぬぎ林の中を、さういふ荷を背負つた者があるいて居る。又は路傍に休息して居るのである。絲だては藺を編んだ蓆のことだが、經《たて》を麻絲にした薄手のものである故に、包んだ物の形が外からもよく知れる。佛の木地(429)とはさて新しい荷物で、つまりは塗師《ぬし》の家に是から塗らせるべく、彫刻師の處から運んで行く途中なのである。
   ころ/\と臼挽き出せばほとゝぎす      店
 是も私は面白い附けと感心して居る。即ちさういふ絲竪茣蓙の包み物が、まだ包みのまゝそこに轉がしてあるので、臼も恐らくは塗料を細かくする爲に挽くのであらう。ちやうどそれが始まると時鳥が啼いたといふのは、  愈々世界が單純な一つの音に纏まつたから、時鳥の啼いて行くのも耳にとまるのである。
    そゞろに草のはゆる竹椽           蕉
 雜の句ではあるが梅雨の頃を思はせる。草が知らぬ間に竹の椽側《えんがは》を貫いて伸びて居る。それを「そゞろに」といふ語で現はされたものらしい。つまりは貧窮の家であり、從つて石臼のころ/\といふ音も、雲間の鳥と同樣に、この家の食べ物を調ずる料では無いのである。しかし取合せは誠にすなほで、從つて又哀れが深い。
   羽二重の赤ばるまでに物おもひ         店
 いはゆる愁人の生活である。古びた羽二重《はぶたへ》小袖をふだんに着て、しよんぼりとした男がこの雜草の茂る小家に獨り住んで、以前の花一時をうつら/\と考へて居るといふ、戀の句である。赤ばるは絹の下染の赤みが顔を出すといふことであらうが、何だか滑稽味が加はつて面白くない。それに初裏三句目の「戀をやめたる」の句境と、重疊する嫌ひが無いでもない。
    わかいときから神せゝりする          芭
 多分師翁もそれに心付かれたのであらう。それで戀を一句に切上げて、新しい方角へ出ようとして居られる。即ち前句の物おもひを、たゞ世の常の心配事と取なさうとして、この附句が附いたのかと思ふ。落ちぶれた舊家の主人などが、何か考へごとをして居る。この人は若い頃から、とかくさういふたちの御幣かつぎだつた。神せゝりは多數の農民のやうに、我が氏神だけに頼つては居られず、よその色々の神にやたらに願掛けをするやうな男をいふのである。
(430)   ?をまたぬすまれしけさの月          店
 この俳諧は輕くてよい。主人は惡氣の無い神信心に凝るやうな人だが、家のしめくゝりにおろそかなのである。朝早く起きて見たら、鳥屋の口がひずんで鷄が一羽居なくなつて居る。又は棲《とま》り木に梯子が掛け放しになつて居る。外へ出て見ると有明の月が、淡々と物の影を作つて居るのである。
    畠はあれて山くずのはな            蕉
 可なり前句を賞翫した附け方である。一句立ちとしても、秋風の曉を見るやうな佳い句である。炭俵式な味ひ方をすれば、鳥の番さへろくに出來ぬやうな悠長な百姓、まだ蒔き物も考へ付かぬうちに、葛は林からはひ出して來て、けさは花まで咲いて居るのである。しかし風流な、のんびりとした境涯でもある。月の座のあひしらひとしては體を得て居る。
  二ウ
   日光へたんがら下す秋のころ           店
 この「たんがら」が自分にはわからぬのだが、やはり「べんがら」同樣に一種の塗料で、下《くだ》すは江戸または上方から送つて來ることゝ一應は解して置く。それが前の葛の花畠と、どういふ結び付きになるのであらうか。多分は作者が曾てこの通りな場處を、見た經驗が有るのであらうが、獨り合點の嫌ひ無しとしない。次の句からふり返つて想像すると、さういふ瘠地のほとりの路を、荷物を運んで行く者がある。何だらうあれは、何々屋で注文した「たんがら」が來たのだ、といふやうな問答でもあつたものか。もしさうだと「秋の頃」が如何にも浮いてゐる。
    くれ/”\たのむ弟の事            蕉
 是だけで意味はわかつたやうなものだが、さて其問答を誰がどこでして居るのか考へにくい。覺束ない話だがまあ其たんがらを送り込んで來た男が、弟を殘して行くとするか。相手の亭主が旅に居る身うちを、氣づかつて居ると見るの他は無い。連衆以外の者には通用せぬ感興といふものは、どんなにしても連句にはまじり勝ちなのである。
(431)   ゆふかぜに蒲生《がまふ》の家も敗れ行     同
 此句なども一卷の粕である。蒲生の家の突兀さは、談林の遺習ともいはれよう。一句の意は名家が衰へ果てゝもう離散の境に臨んで居るのである。最後に踏み止まつた男一人が、まだ弟の立身に望みを繋いで、それをゆかりの人にかきくどくのが、風のほう/\と吹く或る日の暮方だつたといふのであらうか。俳諧に假作の物語を編み込むのは、表現が成功すると大へん面白いことだが、言葉がもと/\僅かなのだから、よほど條件が備はりにくい。是なども當時何かさういふ語り物が行はれて居たとすれば、必ずしも私たちの思ふほど、無理な趣向では無かつたのかもしれない。がともかくも師匠はもう少し疲れて居る。
    物にせばやとさする天目            店
 零落の家主のさもしい根性であらう。この客有コの仁らしと見て、昔からある天目茶碗を、ちつとでも好い値に買つてもらはうとして居る。さするといふ語が寫實である。無論都會の中でのことだが、一生の間には私たちでも、折々斯ういふ人に接することがあつた。
   花のあるうちは野山をぶらつきて         同
 ぶらつくといふ語がもう元禄の世にもあつたのはおもしろい。是は掘出し物をしようといふ側の心理描寫で、道具屋などのつぼ處を押へてまはるのでは無く、閑が多くてよい時候には遊山の旅でもしながら、しかも始終斯んな不時の利得を狙つて居るのである。猫のごきの南京皿、猿を繋いだ南蠻鐡の鎖、へいお蔭で猿がよく賣れますといふ類の落語の種は、もう斯ういふ處にも發芽して居たのである。しかし花の座の處理方法としては、是は中々新しい。この一句だけでは、少しもさういつた下品な臭味は無くて、前句と續けて見て思はぬ高笑ひになつて來るのは、貞コ宗鑑守武はさし置き、多分は曉月坊以來の斯道の本意であらう。
    藤くれかゝる黒谷のみち           蕉
 
(432) 薄暮に黒谷の路を戻るのは、野山をぶらつくといふ前句への照應である。しかしどういふわけか擧句には藤を詠んだものが多い。この心持は、或は擧句といふものゝ古來の性質を、明らかにする手引になるかもしれぬ。つまりはこゝでは新たに大きな趣向を、立てないといふことが本意だつたらしいのである。
 
       ○
 
 この歌仙は上乘の出來とは思はれぬが、兩吟師弟の間柄が窺はれて、なつかしさも世の常でない。芭蕉翁の傳記を詳かにしようとする人が、今まで發句ばかりをひねくりまはして居たのは、愈見當ちがひなことだつたと、心づくやうになるのもこの一卷などの暗示である。山店といふ人の身の上も、何とかして明らかにしたいとは思ふが、それが望みを達し得ずとも、なほ是だけでも一つの人生の好記念であつた。連句は劍道などの晴の勝負とはちがつて、しば/\稽古場の高窓の外から、師弟の情愛を覗かせてくれるやうな所の有るのがうれしい。
 
 (參照)
 勝峯氏 日本俳書大系三 (芭蕉奄小文庫)
 同   芭蕉連句集成 三七三頁
 小宮氏 芭蕉連句集 二四三頁
 
(433)     秋の空の歌仙
                     其角
   秋の空尾上の杉に離れたり
    おくれて一羽海わたる鷹          孤屋
   朝霧に日傭揃る貝吹て             同
    月の隱るゝ四扉の門            其角
   祖父が手の火桶も落すばかり也         同
    つたひ道には丸太ころばす         孤屋
  初ウ
   下京は宇治の糞船《こえぶね》さしつれて    同
    坊主の着たる簑はおかしき         其角
   足輕の子守して居る八ツ下り         孤屋
    息吹かへす霍亂《くわくらん》の針     其角
   田の畔に早苗|把《たばね》て捨て置     孤屋
    道者のはさむ編笠の節           其角
   行燈の引出さがすはした錢          孤屋
(434)    顔に物着てうたゝねの月         其角
   鈴繩に鮭のさはればひゞく也         孤屋
    雁の下《おり》たる筏ながるゝ       其角
   貫之の梅津桂の花もみぢ           孤屋
    むかしの子ありしのばせて置        其角
  名オ
   いざ心跡なき金のつかひ道           同
    宮の縮《ちぢみ》のあたらしき内      孤屋
   夏草のぶとにさゝれてやつれけり       其角
    あばたといへば小僧いやがる        孤屋
   年の豆蜜柑の核も落ちりて          其角
    帶ときながら居風呂《すゑふろ》をまつ   孤屋
   君來ねばこはれ次第の家となり        其角
    稗と塩との片荷つる籠           孤屋
   辛崎へ雀のこもる秋のくれ          其角
    北より冷る月の雲行キ           孤屋
   紙燭して尋て來たり酒の殘《ざん》      其角
    上塗なしに張てをく壁           孤屋
  名ウ
   小栗讀む片言ませて哀なり          其角
    けふもたらつく浮前のふね         孤屋
(435)    孤星旅立事出來て洛へのぼりけるゆへに
    今四句未滿にして吟終ぬ
     其角 孤屋 各十六句
 
 炭俵は實に自信に滿ちた編輯ぶりである。發起者三人の三吟百韻の他に、七卷の歌仙の三つは師翁を、三つは嵐雪其角桃鄰を中心にして各一卷、最後の一卷は杉風を始め、十數人の共同であつて、いつでも必ずこの三人の中から參加して居る。恐らく斯ういふ集を出す計畫が先づ成つて、それから着手した連句なのであらう。此點が他の色々の俳書とほど違つて居る。發句もこの集には二百句ばかりしか出ては居らず、選者自身のものは勿論、他の同門の人の句もほゞ似た標準で、其角でも荷兮のでも、誰にもよく解る句で無いと載録して居ない。實に用意のある新運動のやうに、私などには感じられる。そこで之に對しての芭蕉翁の態度は先づ明らかとして、次には古くからの相弟子たち、殊に其角が是をどう見て居たか、といふことが私には問題になる。其角は俳諧史の研究者にとつて、最も取扱ひにくいしろものであつて、或は炭俵風の正面からの反對者でもあるやうに、素人には想像せられるのだが、不思議といふべきことは其流れの末を汲む者が、後世はすつかり江戸座の輕みに合流してしまつて、ちよつと見境ひが付かなくなつて居る。さういふ本の種子とも名づくべきものが、最初から其角には備はつて居て、彼のみはたま/\其才機に據り、あんな難解の句ばかり吐いて居たのか。但しは又時非なりと見て次第に此方へ轉向したのか。問題は今すぐに決定することは出來まいが、少なくともその參考資料だけは、段々と集めて行つて見たいのである。
 
       ○
                     其角
   秋の空尾上の杉に離れたり
(436) この發句は有名であり又譽められて居る。夜の明け方の空の美しさであつて、杉の高い梢の輪廓が、次第にはつきりとして來ることを斯う謂つたのである。奇拔な表現であるが、杉に離れたりは有り得ない語法である。但し五元集には「杉を」となつて居る。
    おくれて一羽海わたる鷹          孤屋
 鷹といふと冬の季だが、鳥渡るは暮秋である。多くは早曉に渡るものとなつて居るので、それが一羽だけ明るい空を行くのを、おくれてと謂つて見たのである。この句の印象は杉よりもはつきりとして居り、句の姿も前句とよく調和する。炭俵の人たちは、風景にも決して鈍感ではなかつたのである。
   朝霧に日傭揃る貝吹て             同
 海上は晴れて里の方のみ霧がかゝつて居るといふ實際を知つて居たのであらうか。或は鷹の渡るのを見てからやゝ時間が立つて後としたのであらうか。とにかくに二句つゞけて同じ人の作だから、思ひちがひでは無い筈である。貝は通例は竹ぼらであるが、濱邊だけに本物のほらの貝だつたかも知れぬ。それを吹いて人足に出勤時刻を知らせる音が、霧の中から聽えて來るのである。日傭《ひよう》といふのは日當の出る人足のことだから、是は屋敷普請か何かであらう。目を見はるやうな珍かな光景から、最もありふれた日常の事件へ、いつでも此人たちの句はすぐ移つて行くのである。
    月の隱るゝ四扉の門            其角
 扉《とびら》が四つになつて居る門は私などは見たことが無いが、多分高貴の家の莊麗な門を想像したものであらう。霧のあなたに貝吹く音のする朝、殘月がその大きな高い門の、屋根の端に傾いて居るのを見たといふことを、斯ういふ風に言ひ表はしたのである。秋が四句にもなるので、月の座を一つ引上げたのだらう。
   祖父が手の火桶も落すばかり也         同
 月の入る頃まで起きて居る祖父《ぢい》といへば、門守の翁か何かであらう。寒さを言つては居らぬが、火桶も落すばかり(437)といへば容易にさう取られる。この文句は多分語りものか何かに擬したのであらう。火桶は冬の季、前句の月がこの季移りを可能にしたので、こちらから見れば冬の月とも見られる。
    つたひ道には丸太ころばす         孤屋
 飛石づたひなどのツタヒで、それを行けばどこそこへ行かれるといふ小路、即ち老爺の休息する小屋へ往來する路であらう。そこだけに丸太を轉がすのは、霜どけなどにぬかるむからか。それもはつきりと言つて居ない。丸太といふと長いものゝやうに思はれるが、こゝでは木のまゝを横に二尺ばかりに切つて、足がゝりに置いたものゝやうである。
  初ウ
   下京は宇治の糞船《こえぶね》さしつれて    同
 この句は珍しく談林くさい。宇治の柴船は昔から聽く歌の言葉だが、下京の高瀬にはその宇治から、肥取りの舟が登つて來る。一人は舟に乘つて棹を持つて居るのだが、それを雅語めかしてわざとさしつれてなどゝ言つて居る。
    坊主の着たる簑はおかしき         其角
 この人らしい新味ある滑稽でしかも言葉はよくわかる。農民も年を取ると法體になるが、それで居てなほ勞働をやめず、蓑を着て高瀬の舟を曳いて居るのである。蓑には笠を被るのが常だが、けふは偶然にその笠を脱いで背にして居た。それで圖らずも斯ういふ句になつたのである。僅かなちがひのやうだが一方は常にあることを捉へようとし、こちらはめつたに無いことを發見しようとする。其態度の差がこの句以外にもよく現はれて居る。
   足輕の子守して居る八ツ下り         孤屋
 これはもはや髪を剃つた老農で無く、普通の僧が蓑を着て通るのを見て居るのである。頭役の子供を足輕が遊ばせて居るなどゝいふことは、京や江戸では勿論見られさうも無い光景で、是はよほど鄙びた小さな城下町であらう。其子がもう六つ七つの、さういふ可笑味に心づく小兒であつたらうことも想像せられる。
(438)    息吹かへす霍亂《くわくらん》の針     其角
 路傍に行倒れがあつて、人が寄りたかつて騷動をして居る。そこへ幸ひに技倆のある醫師が來合せ、これは暑氣あたりだと謂つて鍼を一本立てる。さうすると直ぐに正氣づいて身を動かした。といふやうなやゝ長時間の經過を、小さな子を抱いて足輕も見て居るのである。其角もこゝでは少しばかり炭俵派にかぶれかけて居る。
   田の畔に早苗|把《たばね》て捨て置     孤屋
 前句の霍亂も夏の季だが、早苗は幾分か時が後戻りして居る。或は田植に働く人の中に急病人が出たことをいふのかも知れぬが、格別氣の利いた思ひ付きとも考へられない。
    道者のはさむ編笠の節           其角
 編笠の節が不明なので、前句との繋がりを考へることが出來ない。編笠節といふ門附けの小歌でないかといふ説もあるが、なほ挾むといふ語が説明しにくい。節は或は編笠の紐の結び目のことで、それへ捨てゝある苗を挾んで行くのかとも想像するが、それも確かとは言へぬ。句主がやゝ不精確に言葉を使ふ癖が祟つて居るらしく、折角の感興が共鳴し難いのは遺憾である。
   行燈の引出さがすはした餞          孤屋
 道者は熊野參りか又は富士行者か、信心を勸める意味で途々に喜捨を求めてあるく風が、此頃は普通であつたものか。行燈《あんどん》の臺にもうこの時代、引出しが附いて居たのは面白い。「蕗の芽取りに行燈ゆり消す」といふ句も猿蓑にはあつて、一方にはまだ是を手燭の代りにも用ゐて居たのである。この句の時刻は日の暮前の、行燈は出してあつて、まだ火はともさぬ頃と思はれる。
    顔に物着てうたゝねの月          其角
是もはつきりとせぬが、何と無くあたりの情景がおもしろさうだ。夕方に何の用も無い二人暮らしで、顔に物着て(439)うたゝねをして居るのは、女房ではないかと思ふ。男はめつたにさういふ事をせぬからである。はした錢を捜して居る方が亭主の方だとすると、月も出たから一杯ひつかけて來たくなつたのである。しかしそれでは末の方の酒の殘《ざん》といふ句がやゝ似過ぎるから、或は女房が何か入用があつて捜す傍に、主人はたゞ寢轉んで居るといふだけかも知れない。
   鈴繩に鮭のさはればひゞく也         孤屋
 斯ういふ鮭の漁法は近頃まで利根川などに行はれて居た。網の半分を引揚げ他の半分を垂らして、小舟を横にして水のまゝに流れ下るので、鮭が其網に觸れると鈴が鳴り、それを合圖に上げて居た部分を舟から降して魚を包んで捕るのである。朝から晩まで何べんでも、舟を上流へ棹さして行つては流し、三日もかゝつてやつと一尾といふやうな、如何にも悠長な計畫であつた。うたゝねの月に對する附句としては、至極おどけた面白い句である。是では大抵捕りそこなふにきまつて居る。
    雁の下《おり》たる筏ながるゝ       其角
 水上生活者ののんきな境涯を描いたことは二句同じだが、この方は揚子江上にでも行かぬと見られさうもない光景である。筏が五段にも七段にも屈折して長く、一方の端に水鳥が降りて休らひ、他の端には筏師が何の爲すこともなく、足でも投げ出して居るといふやうなところは、一度唐繪で見たことがあるといふ程度のものであらう。しかしともかくも飄逸な、ちよつと面白い空想にはちがひない。
   貫之の梅津桂の花もみぢ           孤屋
 梅津桂は大井川の南岸、春と秋との風流の地である。そこへ古代の歌人紀貫之をもつて來て、斯んな形の句を作つて見たゞけで、何か是には故事でも有るかの如く思ふのは誤りである。芭蕉以前の俳人は、よく斯ういふ戯れをして居た。それが其角との兩吟の際に、たま/\一度試みただけかと思ふ。しかし孤屋は炭俵の人であつた故に、筏の雁(440)といふやうな支那趣味をも、なほ日本の京都の西川より、遠くには持つて行くことが出來なかつたのである。句法としては、花もみぢといふ語を以て前の秋の季を受けて居る。即ち花の座を秋に扱つた一つの異例で、くろうとの感心する手竝であつたらう。是がもし春の季への季移りだつたら、一句で棄てることは出來なかつた筈である。
    むかしの子ありしのばせて置        其角
 古物語にでも有りさうな事實で、梅津桂の前句とよく調和する。流石に高手と言つてよからう。昔の子は忍んで通うて居る人と見てもよいが、こゝはやはり其人に生ませた幼兒のことで、仔細あつて斯ういふ里に隱してあるのであらう。さうであつてもこゝはやはり戀である。
  名オ
   いざ心跡なき金のつかひ道           同
 是は前句の物語よりもわざと時代をずつと降して居る。いざ心は淨瑠璃にでも出て來さうな文句で、往事茫として夢の如く、一代の豪奢もたゞ淡々たる茶の煙、といふやうな境涯に在る者の獨り言である。「跡なかりける金二萬兩」などゝいふ句も同じ人にはあつて、斯ういふ感動も俳語の波潤を高める用に供したのである。
    宮の縮《ちぢみ》のあたらしき内      孤屋
 木綿ちゞみは此時代の少し前からの流行かと思ふ。宮といふのは近江の高宮ではあるまいか。縮布は古くなると見すぼらしい。新しいうちといふのは寧ろ其反面に、今は何十囘も水をくゞつて、よれ/\になつたのを着て居るといふのが、前句との聯絡であつたらしい。ともかくも附け方が少し遠過ぎるやうである。
   夏草のぶとにさゝれてやつれけり       其角
 ちゞみの單衣は手や足が多くむき出しになるので、蟲に螫された句が附けやすくなつて居る。其角の心では、斯ういふ句にはさう/\まともに附けたのでは體を成さぬ。それで横あひから又一つの新しい話題を持つて來たので、夏草のといふ初五文字にもその心持は窺はれる。それを相手の孤屋も尤もと認めたものか。結局この一卷はしまひまで、(441)大よそ同じやうな附け心で續いて居る。
    あばたといへば小僧いやがる        孤屋
 この小僧は次の句から推すと、お寺の小僧では無かつたやうである。蚋にさゝれたのが少年で痘痕があつたといふことを、斯ういふやゝひねつた形で表現したものと思ふ。アバタは隱語に近いこの頃の流行語だつたらしい。それで少年はさう言はれるのが殊にいやだつたので、只イモノアトとか何とか言へば怒りもしなかつたのであらう。
   年の豆蜜柑の核も落ちりて          其角
 いさゝか三句前の縮布とさし合ふやうだが、是は何かの拍子に着物からこぼれ落ちる年の豆に、蜜柑の種がまじつて居たといふのが子供らしくてよい。年の豆は節分の夜に撒くもの、それを自分の年の數だけ拾つて持つのである。
    帶ときながら居風呂をまつ         孤屋
 前句の落ち散りてを受けて居るが、帶を解けば物の種が落ちるといふのだから、是はもう小僧では無く、小娘か婆さんか、とにかくに女性であるらしい。居風呂《すゑふろ》といふ桶が家々に設けられたのは、桶屋の職業の普及してから後である。どこへでも持つて行けるからスヱルと謂つたものと思ふが、こゝではもう家の中に、輕便な浴場が設けられるやうになつて居るのである。
   君來ねばこはれ次第の家となり        其角
 君來ねばは古典の戀の語、もう一度こゝに戀の場を開かうとしたものと思ふが、次の句主が之をそらしてしまつて、雜のやうに取扱つたのである。帶解きながらは年頃の婦人としてははしたない所作だが、男も退いて行き、家も貧しくなつて、見る人も無いので嗜みを棄てゝ居るといふ、あはれな句だから、もう一句戀で附けるのが穩當だつたかと思ふ。前のしのばせて置くがあまり近かつたので戀をこゝでは避けたのであらうが、それはやゝ同情が足りなかつた。
    稗と鹽との片荷つる籠           孤屋
(442) こはれ次第の家に住む人の生計であらう、稗も鹽も金目の物では無いのに、それを一荷づゝ運ぶことも出來ぬやうな、しがない暮しをして居るので、是も多分商品であらう。有りさうなことでちよつと心のとまることを、句にしようといふのが孤屋等の態度であつた。
   辛崎へ雀のこもる秋のくれ          其角
 しかし少くともこちらは俳諧の約束を守つて、前句のまだ考へて居ないことを言はねばならぬ。其角は特に其點に鋭敏であつた。彼の胸の繪では、その貧しい男は路をあるいて居る。ちやうど湖水のほとりの秋の日の夕である。雀が群をなして辛崎の松の方へ飛んで行くのを見やつた。たつたそれだけの事實であるが、當人が冬を目の前にひかへて、そんな僅かな物を運んで居る男だと思ふと考へさせられる。
    北より冷る月の雲行キ           孤屋
 つまりは寒い北風が吹いて居るのである。月の前に雲があつてそれも南へ動くといふのだが、是だけならば大して手柄でない。しかし時々は斯うした遣句もあつた方がよい。これまで三句秋。
   紙燭して尋て來たり酒の殘          其角
 殘《ざん》は此時代の俗語であらう。今でも祝宴翌日の慰勞會を殘酒と呼ぶ地方もある。夕方一人で淋しくうそ寒いので、臺所を捜して酒の殘りを見つけて來た。是はやゝよい家の、家人の留守の日と思はれる。紙燭《しそく》は古風で北條時頼の故事なども聯想せしめる。
    上塗なしに張てをく壁           孤屋
 質素な生活にはよくあつたことで、前句の人のやうな住居にもふさはしいことだが、此作者のいつもあまりに尋常の事ばかり考へつくのには、其角は恐らく少しあきたらなかつたらう。
  名ウ
   小栗讀む片言ませて哀なり          其角
(443) 小栗は説經祭文であらう。其文段をすつかり暗誦するのだが、舌がまだよくまはらぬので片言に聽える。七八つの少年と思はれる。まぜてと濁音符を附した本もあるのは、「ませて」と片言とが兩立しないやうに思つたからであらうが、祭文の言葉が大人の讀む通りで、殊に命をかけた戀の物語だから、ませてと謂つてもよいのである。あはれ也の意味は幾樣にも取れる。或は其少年は之を活計とする爲に練習して居ると見たのかも知れない。
    けふもたらつく浮前のふね         孤屋
 附け方が少し遠い爲に、色々の解釋が出てまだ一定せぬやうだが、舟がたらつくといふのはどういふことをさすのかを考へて見れば大よそは判ることだと思ふ。浮前《うきまへ》といふ言葉もやゝ耳馴れぬが、ウキといふのは足入りの地、即ち引汐に泥土のあらはれる遠淺で、其前面に棹を立てゝ繋いであるのが浮前の舟であらう。終日乘り出す人も無くて、緩やかな波にたゞよはされ、上下して居る音をタラツクと謂つたものと私は解して居る。小栗を讀む童子の家は、その湊の片端の、海に近い處に立つて居るのである。其家の中の樣子は既に打越の句に説いて居るので、附けはどうしても外部の景に向はねばならぬ。それ故に靜かな日の、舟を打つ波の音の間拍子を以て、少年のかたりものに對立せしめたもので、句のこしらへからいふと、此あと春の季が花まで三句はつゞき、揚句は雜の句になることを豫期して居たものと思ふ。
     孤屋旅立事出來て洛へのぼりけるゆへに
     今四句未滿にして吟終ぬ
       其角 孤屋 各十六句
 こゝで其角がもう一度、何か新生面を開かうとして苦吟するうちに、時が經つて一卷滿尾することが出來ず、又他日再び此日の興を繼ぐことも出來なくなつたものと思はれる。この一卷によつて知ることは、孤屋は必ずしも學問教養の足りないために、古典を句の中に引用することを避けたので無く、斯ういふ日常の人事ばかりを、主として句と(444)すべきものだといふ主義を持して居た人だつた。其角との交遊は虚栗集以來の可なり親しいもので、少なくともこの炭俵派の傾向を彼もよく理解し且つ許容して居た。さうして對吟を以て一卷の歌仙を仕上げるには、さう何處までも日頃の諧謔縱横の才を、揮ふことが出來ないのをよく知つて居たのである。要するに連句といふものは協同であつた。相手を大よそは知つて居なければ、共に一夕の唱和を企つることは出來なかつたらうが、さういふ中にもおのづから主客の地位の差はあつた。炭俵の三人の志望に向つては、師翁一人で無く、其角等も亦之を助成するの意圖があつたものと見てよい。
 
 (參照)
 勝峯氏 日本俳書大系二 五一〇頁
 同   其角全集 九九八頁(續五元集)
 
(445)     早苗舟の百韻
 
                     利牛
   子は裸父はてゝれで早苗舟
    岸のいばらの眞白に咲            野
   雨あがり數珠懸鳩の鳴出して         孤屋
    與力町よりむかふ西風            牛
   竿竹に茶色の紬《つむぎ》たぐり寄せ      坡
    馬が離れてわめく人聲            屋
   暮の月|干葉《ひば》の茄汁《ゆでしる》わるくさし 牛
    掃ば跡から檀《まゆみ》ちる也        坡
  
   ぢゞめきの中でより出するりほあか       屋
    坊主になれどやはり仁平次          牛
   松坂や矢川へはいるうら通り          坡
    吹るゝ胼《ひゞ》もつらき闇の夜       屋
   十二三辨の衣裳の打そろひ           牛
(446)    本堂はしる音はとろ/\          坡
   日のあたる方はあからむ竹の色         屋
    只奇麗さに口すゝぐ水            牛
   近江路のうらの詞を聞初て           坡
    天氣の相《さう》よ三日月の照        屋
   生《いき》ながら直に打込むひしこ漬      牛
    椋の實落る屋根くさる也           坡
   帶賣の戻り連立つ花ぐもり           屋
    御影供ごろの人のそはつく          牛
  二オ
   ほか/\と二日|灸《やいと》のいぼひ出    坡
    ほろ/\あへの膳にこぼるゝ         屋
   ない袖を振て見するも物おもひ         牛
    舞羽の糸も手につかず繰《くる》       坡
   段々に西國武士の荷のつどひ          屋
    尚きのふより今日は大旱《おほてり》     牛
   切|※[虫+差]《うじ》の喰倒したる植たばこ 坡
    くばり納豆を仕込む廣庭           屋
   瘧日《をこりび》をまざらかせども待こ     牛
    藤ですげたる下駄の重たき          坡
(447)   つれあひの名をいやしげに呼まはり      屋
    となりの裏の遠き井の本           牛
   くれの月横に負來る古柱            坡
    ずいきの長《たけ》のあまるこつてい     屋
  二ウ
   ひつそりと盆は過たる淨土寺          牛
    戸でからくみし居風呂《すゑふろ》の屋根   坡
   伐透す椴《もみ》と檜のすれ合ひて       屋
    赤い小宮はあたらしき内           牛
   濱迄は宿の男の荷をかゝへ           坡
    師走比丘尼の諷《うた》の寒さよ       屋
   餅搗の臼を年/”\買かへて          牛
    天滿の?を又忘れけり          坡
   廣袖をうへにひつぱる船の者          屋
    むく起にして參る觀音            牛
   燃しさる薪《まき》を尻手に指くべて      坡
    十四五兩のふりまはしする          屋
   月夜にかきあげ城の跡ばかり          牛
    弦打颪|海雲《もづく》とる桶        屋
  三オ
   機嫌|能《よく》かひこは庭に起かゝり     坡
(448)    小晝のころの空靜也             牛
   椽|端《はな》に腫《はれ》たる足をなげ出して 屋
    鍋の鑄かけを念入てみる           坡
   麥畑の替地に渡る榜示杭《ばうじぐひ》     牛
    賣手もしらず頼政の筆            屋
   物毎も子持になればだゞくさに         坡
    又|御局《おつぼね》の古着いたゞく     牛
   妓王寺のうへに上れば二尊院          屋
    けふはけんかく寂しかりけり         坡
   薄雪のこまかに初手《しよて》を降出し     牛
    一つくなりに鱈の雲腸《くもわた》      屋
   錢さしに菰引ちぎる朝の月           坡
    なめすゝきとる裏の塀《ひ》あはひ      牛
  三ウ
   めを縫て無理に鳴する鵙《もず》の聲      屋
    又だのみして美濃だよりきく         坡
   かゝさずに中の巳《み》の日をまつる也     牛
    入來る人に味噌豆を出す           屋
   すぢかひに木綿袷の龍田川           坡
    御茶屋のみゆる宿《しゆく》の取つき     牛
(449)    はや/\ととんどほこらす雲ちぎれ     屋
    水菜に鯨まじる惣汁             坡
   花の内引越て居る樫原《かたぎはら》      牛
    尻輕にする返事聞よく            屋
   おちかゝるうそ/\時の雨の音         坡
    入舟つゞく月の六月             牛
   拭立てお上《うへ》の敷居光らする       屋
    尚言つのる詞からかひ            坡
  名オ
   大水のあげくに畑の砂のけて          牛
    何年菩提しれぬ栃《とち》の木        屋
   敷金に弓同心のあとを繼            坡
    九九十日|濕《しつ》をわづらふ       牛
   投打もはら立まゝにめつた也          屋
    見なし碁盤よう借に來る           坡
   里離れ順禮引のぶらつきて           牛
    やはらかものを嫁の襟もと          屋
   氣にかゝる朔日《ついたち》しまの精進《いもひ》箸 坡
    うんぢ果たる八專の空            牛
   丁寧に仙毫俵の口かゞり            屋
(450)    訴訟が濟《すん》で土手になる筋       坡
   夕月に醫者の名字を聞はつり          牛
    包で戻る鮭のやきもの            屋
  名ウ
   定免《ぢやうめん》を今年の風に欲ぼりて    坡
    もはや仕事もならぬ衰へ           牛
   暑病の殊《ことに》土用をうるさがり      屋
    幾月ぶりでこゆる逢阪            坡
   減《へり》もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし    牛
    門《もん》建直す町の相談          屋
   彼岸過一重の花の咲立て            坡
    三人ながらおもしろき春          執筆
 
 七部集のうち、是がたつた一つの百韻なることは人のよく知る所、芭蕉翁は歌仙を連俳の常の形ときめられたやうで、貞享三年の初懷紙以後、たゞ四卷の五十韻に參加せられたのみであり、それも百韻の計畫の未完成に終つたものとも見られないのである。さういふ中に於て炭俵の三人の編者が、特に自分等だけで此一卷を作り上げ、之を世に問うたのは趣旨のあることだつた。此書の隅々に行渡つた用意を見ても明らかなやうに、是は新しい我等の流義が歌仙には向くが、百韻には到底手を伸ばすことが出來まいといふやうな、舊派の臆測を反證せんとしたものと見られる。この作品の公表に先だつては、師翁も恐らくは推敲に參與して居られる。句の表に翁の名が現はれぬために、今までやゝ之を粗略に見て居たのはまちがひであつた。炭俵の平明主義に、果して何の弱點も無いかどうか。それを檢する(451)には是こそは與へられたる資料である。私たちの率直な疑ひは、古い關西の門人が不滿を抱き、又後世の者の眼から見ても、何か退歩のやうに感じられる炭俵の低調ぶりが、どうして江戸派の特色となつてしまひ、終には全國を席卷するまでになつたかといふことであるが、是は恐らくは俳諧の普及、今いふ民主化の免れ難い運命だつたのであらう。手短かに言つて見るならば、相手の理解しない句を出して見ても、連句になる氣遣ひは無いからである。芭蕉はさうしてまでも、世の中と共に押移らうといふ氣はもたれなかつたらうが、翁を圍繞した人たちの顔觸れは、次々と變つて來て居り、彼等の境涯は又追々に新しかつた。問題は結局この新しい生活をする者に、俳諧を愛することを許すか否かに歸着したのであらう。野坡たち三人の態度は面白いほど自由であつた。我々も亦之に對して、少しも囚はれずに批判をしてよいのであらう。さうして何が足らなかつたかを氣づいて行くことも、亦一つの供養であらう。
 
       ○
 
     百韻
 
                       利牛
   子は裸父はてゝれで早苗舟
 テヽレは既に夕蚕棚の下涼みの歌にもあるが、最も簡略な肌着と見て置けばよい。早苗舟は苗を植田に運ぶ舟で、潮來《いたこ》出島のやうな水郷の、是は田植の日の朝なのである。どういふ機會にこの發句を得たものか、私には想像することが出來ない。他の二人はたゞ描寫のさつぱりとして居る所に興を感じたゞけであらう。
    岸のいばらの眞白に咲             野坡
 その田植の朝のさはやかな氣分が、茨の白い花を以て引繼がれて居る。是も實景であり、曾て何れの地かで見た記(452)憶が蘇つたのであらう。眞白がその裸の兒の言葉のやうにも思はれるのは、附け方がすなほである爲で、是は安らかなよい脇である。
   雨あがり數珠懸鳩の鳴出して           孤屋
 じゆずかけ鳩は白い頸の輪のあるやゝ小ぶりの山鳩ださうだが、特にこの鳩で無くてはならぬわけは無く、唯言葉が面白いから使つたまでゝあらう。前二句は夏の季だが是からは雜、勿論川ばたの菜の花を岡の方から眺めたので、前句が色を説くから此方は聲、といふ位の趣向はあつたらうが、茨は朝のうちが美しいといふまでは考へて居ない。「雨あがり」は十時過ぎ、又は日の入り少し前などかと思はれる。
    與力町よりむかふ西風              牛
 與力町は與力ばかり住んで居る町、江戸の與力とはちがつて質素な低い士族である。屋敷は樹木がちで、鳥なども多く遊びに來さうな地域である。向ふ西風はやゝ無理な言葉づかひだが、意味は誰にでもよく取れる。西東に通つた町筋で、西へ進むと向ひ風になることである。作者はあるいて居る。
   竿竹に茶色の紬《つむぎ》たぐり寄せ        坡
 この句ではもう其與力町に入つて居るのである。茶色の紬は可なり具體的だが、是が與力衆のよそ行きで、それも何度かもう水を通つたのを、物干しの竿から拔かうとして居る人がある。それが竹籬越しに路から見えるのである。斯ういふ風に主格は始終動いて居て、次には又其人の見聞となつて行くのである。
    馬が離れてわめく人聲              屋
 この聲は竿の乾しものを取込まうとして居る人が聽くのだが、そこはもう與力町で無くて、もつと在方の小家のかたまつた中らしい。從つて茶色の紬を竿にかけた家は庄家か本家か、少し大ぶりな屋敷の外庭と見られる。農村は無事な世界だから、斯ういふことも關心の種になる。
(453)   暮の月|干葉《ひば》の茄汁《ゆでしる》わるくさし
 此句は利牛で、以下野坡孤屋利牛といふ三吟の順序は、二の裏の折端の四十三句目まで變つて居ないから一々の句主の名は省いて置く。百韻は初表が八句で、この七句目が月の常座である。但し是が何の季になるのかは、次の檀《まゆみ》散るが季題の中に見えぬので何とも言へない。干葉は大根の葉の乾したので、是を食べるのは冬中青い物の無い時に限るのだから、或は冬の月で一句で棄てゝよいのかも知れぬ。馬に飼ふ爲に茄でゝ居るのだとしても、どうして斯ういふ句を表八句の中に賞翫したか、自分にはまだ合點が行かない。
    掃ば跡から檀《まゆみ》ちる也
 この檀が實《み》で無いことは、次に椋の實落るがあるのを見てもわかる。此木の頻りに落葉するのは、或は夏ではないかと思ふが、とにかくに爰では雜の句として見て置かう。まちがつて居るかも知れない。
  
   ぢゞめきの中でより出するりほあか
 「ぢゝめき」といふ語は七部集の中に今一箇所出て居て、他にはあまり知られて居ない。多分この時代の新造語のやがて消滅したものと思はれる。鷹の餌を運ぶ爲に用ゐられる竹籠の名だらうといふのも、たゞ此等の句からの想像であつて、まだ實物は畫でも見たことは無い。ルリもホアカも數の少ない小鳥で、それが雀と一しよに網にかゝり、ごちやごちやと活かして持つて來たのを、選り出すといふのは飼鳥にする爲であらう。ともかくも珍しいことを句にしたものである。まゆみの葉の散るのとは、場所だけの關係しか無いやうである。
    坊主になれどやはり仁平次
 仁平次は恐らくそのぢゞめきを擔いで行く親爺であらう。殺生の職業に携はりながら、此頃は頭を固めて居る。それでも別に僧名があるわけでなく、相變らず人は仁平次どんと呼んで居る。説明はしないが、全體が俳諧になつて居るのである。ヤハリといふ言葉がもうこの頃から行はれて居た。
(454)   松坂や矢川へはいるうら通り
 矢川は參宮舊街道の、もとは茶屋などもある繁昌の土地であつたといふ。そこへ坊主になつた仁平次がとぼ/\とあるいて行くといふだけらしい。松坂のやうな普通の市街地を、松坂やなどゝ物々しく言つたのは、無意識かも知らぬが俳諧に聽える。出來る限り句の形を整へて行かうとする念慮だけはあつたのである。
    吹るゝ胼《ひゞ》もつらき闇の夜
 前句はひるま、之を夜分にしたのが轉囘である。吹かるゝと謂つて風といふことを言はぬは變だが、連歌以來許されて居る。闇夜の爲では無くとも、他に心を紛らすものが無いので、胼のいたさが特に感じられるといふので、是は又孤獨の旅人の身の上であつた。
   十二三辨の衣裳の打そろひ
 初五文字は問題になつて居るが、私は少年たちといふことかと思ふ。辨は朝廷の儀式を掌る官吏であつたが、後にはさういふ臨時の役に當る者をもさう呼び、從つて十二三歳の辨も出來たのである。それが幾人か一樣の装束をして、しかも夜に入り風がつめたくなる。中には胼をつらがつて居る者も有つたらう。手もむき出しであり足袋もはいては居なかつた。
    本堂はしる音はとろ/\
 此句は前の十二三を受けたものと思ふ。装束をした辨ともあるものが、板敷を鳴らして飛びあるくのは少年だからである。前句は宮殿の中とも見られたが、こちらでは本堂走ると謂つて寺の法會にかへて居る。後世は寺方などでも此役を辨と呼んで居たのである。
   日のあたる方はあからむ竹の色
 この孤屋の句は感じがよい。竹の古葉の色やゝ淺くなるのは、夏の末に新芽が伸びきつてから後で、それに日がさ(455)すと、あからむと言つてもよい色に見える。つまりは夏の光線を詠じた珍しい句なのである。寺は本堂の横手か何かにさういふ竹の林が折々ある。但し前句のとろ/\と走る方は、爰では何の爲とも説明せられず、寧ろ其點だけが無視せられて居る。斯ういふ前の句の印象の深い部分を、そ知らぬ顔して通つてしまふことは、昔も例があつたか知らぬが、親切とは言へないやうである。
    只奇麗さに口すゝぐ水
 此句は前の竹林の光線と、實によく調和して居る。さういふ竹のある片陰に清水が湧いて居る。もしくは泉に近い小流れがあつて、水底のさゞれ石までが美しく見える。只といふのは別に咽が渇いても居ないのだが、あんまり氣もちがよいので口をすゝいで見たといふ意味で、古人が泉を愛した情をよく傳へて居る。
   近江路のうらの詞を聞初て
 近江には古い交通路が内側にもう一筋あつて、そこと中仙道の本通りとは、土語の聲調が可なりちがつて居る。それが少しづゝわかつて來たといふ意味であらう。それは有り得べきことであり、旅馴れた者ならば氣づくのも當り前である。ちやうど竹の下の泉に近よつて居た際などに、あたりの人と語をまじへて、始めて耳にとまつたとしてもよい。一説にこゝにも狂言の入間川のやうな、逆な物言ひがあつたから「うらの詞」だといふなどは取るに足らない。そんな事があるものかと、土地の人ならば言はずには居るまい。
    天氣の相《さう》よ三日月の照
 前句は少しばかり話が微細に亙るので、それを廣々とした場面へ引出した附けである。靜かな裏海道を空を見てあるいて居る。明日も天氣だと見えて、三日月の光が殊にはつきりして居るといふ夕方の景である。たつた三句前の日のあたる竹と、何かさし合ふやうに思ふがどうであらうか。しかし一句としては新鮮な感覺である。
   生《いき》ながら直に打込むひしこ漬
(456) ヒシコは小鰯の一種、濱の大漁の場に三日月をもつて行つたのである。急いで生きのいゝうちに塩漬を作つて居る。いかにも無造作な又威勢のいゝ生活ぶりで、月も漸く光り出す日の暮の海邊の、さはやかな氣分をよく寫し出して居る。但し古風な俳人のちよつと眉をひそめるやうな、がさつな物言ひではある。
    椋の實落る屋根くさる也
 だからあんまり近々と附けない方がよいと、この句主の野坡なども思つたのである。椋の大木などは漁村の片端にも見られぬことは無いが、それが盛んに實をこぼして、古ぼけた蠣殻の屋根の上に落ちて居るなどは、全く別な一つの?態で、ひしこの豐漁とは何の交渉も無い。ふいとさういふ二つを竝べて見たところに、爰では取合せの俳諧ともいふべきものを狙つたらしい。以前の連歌には考へられぬことであつたと思ふ。
   帶賣の戻り連立つ花ぐもり
 此句は海を去つてたゞの貧しい農村へ入つて來て居る。こゝでは椋の實の落ちるのは草屋根の側面などで、「くさる也」と謂つてもよいやうに、處々の窪みに落ちてたまつて居る。そこを帶賣が二人、この村では賣らうともせずにさつさと通つて行く。背の荷の形か何かで、帶屋さんだなといふことだけはわかるのであらう。一つの不審は椋の實のこぼれるのは夏の終りからで、季寄せに暮秋となつて居るのは秋に入つてよく熟するからであらうが、それがこの花の座の花ぐもりとは一致せぬのである。或は椋の大木の下にある草葺きの腐つて居るのを見て、この木の實が落ちるので腐るのだと謂つて通るのでもあらうか。もしさうだとすると、此句は秋から春への季移りになる。ひしこ漬は雜らしいが鰯引くは秋だから、三日月から始まつて三句が秋の季になるのであらう。但し此點はどうもはつきりとしない。
    御影供ごろの人のそはつく
 御影供は舊暦三月廿一日、花盛りよりは普通やゝ後の事であるが、散つてなほ暫らくのどんよりした天氣までを花(457)曇りと謂つて居たものか。そはつくは人が往つたり來たり、道路の上に多く出て居ることを言ふらしい。寺參りもあるが苗代に取りかゝる前に親類知友が互ひに訪問する。醉うたりしやべつたりする機會が、春はどうしても多いのである。さういふ中を帶賣がつれ立つて戻つて來るといふので、この御影供が京都南郊の、東寺のそれであつたことが想像せられる。
  二オ
   ほか/\と二日|灸《やいと》のいぼひ出
 いぼひ出はいぼひ出すと讀むのであらう。二日灸は二月と八月の二日、此日が灸によい日だと謂つて皆すゑるからさういふので、それが御影供ごろになつてから、いぼひ出すといふのは判らぬことである。或は此言葉の起りを野坡は知らず、たゞすゑてから二日目あたりに、お灸のまはりが腫れたのをさう謂つたものか。外は面白をかしく人が通つて行く春の日中に、自分ばかり家の中で、是といふ仕事も無しに遊んで居るつまらなさを、斯ういふ方面から寫し出さうとしたものゝやうである。
    ほろ/\あへの膳にこぼるゝ
 この百韻には食物の句が多いのも一つの趣味と思はれる。ほろ/\あへは私たちも使つたことのある言葉で、あへものゝ水氣を少なくして、豆などの一粒づゝ箸で挾めるやうにした料理、大抵は燒味噌を以てあへたので、寺方でいふ法論味吟《ほうろんみそ》などゝ、起りは一つ言葉らしい。別に灸の跡がいぼつて居る爲でもあるまいが、挾みそこなつてそれが膳の上に落ちたといふやうな小さな事件でも、斯うした用の無い閑居者には問題になるのである。しかしよく/\此連句には些々たる事ばかりを竝べて居る。
   ない袖を振て見するも物おもひ
 こゝが此百韻の殆と唯一の戀の場面である。他にも一二箇所やゝ色つぽい句はあるが、精確に戀とはいへないほどの淡さである。もちろん「無い袖は振られぬ」といふ諺を下に持つた附けで、こゝに描かれて居るのは若い女性の袂(458)の無い働き着物を着て食事をして居るのだが、膳にはからず食べ物をこぼして、きまりが惡さうに品をつくる。それを無い袖を振つて見すると謂つたものと思ふ。何かうつかりと考へ事をして居るからさうしたやうに、はたの者から見られ又はひやかされるのである。
    舞羽の糸も手につかず繰《くる》
 こゝは明瞭に女の手わざである。舞羽は機絲のかせを掛けて枠に取る器具、くる/\廻るから舞羽といふのであらうが、構造が近頃の物とはやゝ變つて居るらしいので、繪にして見ることは私たちには出來ない。思ひ内にある故に絲の切れるなども氣が付かずに繰つて居る。手につかぬといふ語は今でもまだ行はれて居るが、その始まりは斯ういふ機の絲の扱ひからであつたかも知れない。附句としては聊か附き過ぎ、たゞ新たに舞羽などゝいふ印象の深い名詞を、置いたゞけが手柄である。
   段々に西國武士の荷のつどひ
 是はもう戀から離れ、或る宿驛の問屋などゝいふ家の表口の混雜を、暖簾の内側から見たことにして居るのが面白い。亭主が不在かなどで雇人まかせの日に、世話女房が氣を揉んで居る樣子が目に浮ぶ。西國武士で無くともよいのだが、遠方への引越荷物が際限も無く到着して、そこで駄馬を替へようとして混雜して居る所である。
    尚きのふより今日は大旱《おほてり》
 斯ういふ附句はやはり修練を要するだらう。素人ならきつと正面からべたに附けるから、舞臺が狹くなつてさきが開けない。こゝで夏の季を出して見ようといふのも全く自由な選擇で、又考へて見るとちやうど頃合ひでもあつた。店で働く人たちが忙しいものだから、けふの暑さなどをつい言ひ出すのである。
   切|※[虫+差]《うじ》の喰倒したる植たばこ
 場所は又少し轉じて農村の午後、日のやゝ傾きかけた頃の事になつて居る。田の草もあらかたすんで、もう稻の穗(459)孕みを待つばかりといふ頃らしく、暑いとはいひながらも皆悦んで居るのである。植煙草はきゝ馴れぬ語だが、町の人にはさう謂はぬと感じが出ない。通例は屋敷畠の一隅などに、入用なほどを作つて居るものだが、それでもうつかりして居ると害蟲にやられる。大照りといふ語とは繋がりがあるらしい。折々見まはつて居てもつい一本根本から倒されてしまつた。煙草ずきの親爺が殘念がり、吸はない女房や娘が叱られる。煙草の花といふのは初秋の季寄せに出て居るが、この句が夏の季の二句目であるか、又はたゞの雜の夏であるかは私にはわからない。以前は季の題といふものが定まつて居り、それに無いものはみな雜だつたから、是なども多分其方であらう。
    くばり納豆を仕込む廣庭
 是は季題とは關係なく、たゞ季節の調和として問題になる。切※[虫+差]の害をするのは夏の盛りであり、納豆をしこむのは大抵は冬、少なくとも新大豆の収穫より後だからである。何處か特別に納豆を夏こしらへるやうな土地が無い限り、この附句の誤りは辯護が出來ない。納豆を配るのは近世は專ら寺方の正月であつて、是も煙草の害蟲の話をするやうな光景とは折合はぬやうである。三井の番頭だつたといふ三人は、或は在郷の出身でなかつたのではあるまいか。
   瘧日《をこりび》をまぎらかせども待こゝろ
 解しやすいよい句である。マラリヤは日をこりが段々二日三日置きになり、忘れてしまふのが全治であるが、どうも待つやうな氣持になりがちだといふので、まぎらかすはたゞ何か用事をして思ひ出さぬやうにしようといふまでゝ、ちやうど納豆の仕込などが、それに相當するといふのであらうか。
    藤ですげたる下駄の重たき
 藤はトウとよみ、實は竹の皮か何かを縒つたものであらう。瘧をわづらつた後、下駄が重たく思はれるといふのは、いさゝか打越の廣庭をくりかへすやうな嫌ひがある。
   つれあひの名をいやしげに呼まはり
(460) 下駄の重たきは、爰ではたゞ重さうにはいてあるくと取つてよからう。この女は身持ちにでもなつて身嗜みを忘れて居るといふのかも知れない。名をいやしげには多分何やんとか何さとか、朋輩の喚び方を眞似て居るのであらう。いづれ豐かでもない家庭の片影と見えるが、どこが面白くて斯ういふ句を案じ出したのかは私には言へない。たゞ寫生の興味、ことに是まで文藝に現はれなかつたものを始めて描くといふことが、自他の樂しみであつたものと考へられる。
    となりの裏の遠き井の本
 多くの小家の爲に一つしか井が無くてうちからはやゝ遠いのに、そこまで來てつれあひの名を喚んで居るのである。後々は至つて平凡になつた裏長屋の生活だが、恐らくまだ元禄年間には珍しかつたのであらう。
   くれの月横に負來る古柱
 山路などならばこの背負ひ方は今も折々見かけるが、もし町中ならばちよつと無いことである。或は身を横むきにして、木のなりに入つて來るものと想像したのではないか。次の句の附け方を見てさうも考へられる。暮の月はこの黄昏の光景にはよくあふが、前に初の表の月の座にも同じ語があるから賛成できない。見落しの一つに算ふべきであらう。
    ずいきの長《たけ》のあまるこつてい
 幾分か前の句よりも遠い距離から見たのであらう。こつていはコトヒ即ち牡牛、古柱を横に負うて來たかと見たのは、さに非ずして長い芋莖の束だつたといふ笑ひらしい。古柱といふものがやたらに背負ひあるくものでも無いからである。ずゐき即ち芋莖は秋の季題に屬する。月から始まつて次の附句まで、こゝでも秋が三句つゞいて居る。
  ニウ
   ひつそりと盆は過たる淨土寺
 此句は前句の薄暮の牛とよく合つて、簡單ながら感じのよい附けであつた。淨土宗の寺には殊に行事が多く、人の(461)出入があつて盆は花やかなのであらう。盆過ぎだから爰ではもう宵月ではなく、眞黒な萱葺屋根の輸廓などが想像せられる。
    戸でからくみし居風呂《すゑふろ》の屋根
 庫裏へまはつて見ると誰かゞ湯に入つて居る。戸でからくみしは雨戸か何かを以て假の雨覆ひにしたことで、常は屋外で天氣の日を見て風呂を立てるが、盆中は雨の日でも立てられるやうにしたので、その構造がまだ殘つて居る。それがちょつと珍しいので、是も先づよい思ひ付き、又は或る日の記憶と見られる。
   伐透す椴《もみ》と檜のすれ合ひて
 是はもう淨土寺の背戸では無い筈だが、椴や檜《ひのき》があるのでなほ其裏山でゝもあるやうな氣がする。伐り透すも手が掛かつて居ることを意味し、たゞの原野の木では無いのである。或は尋常民家の庭上の樹であり、從つて居風呂の樣子もやゝ變つて居るのかも知れぬ。とにかくに爰では其風呂の中から、外を見た景色である。枝の間から夜の空が見える。すれ合ふといふのだから少し風が吹いて居る。
    赤い小宮はあたらしき内
 小宮は木のほこら、大きな屋敷の隅でもよし、又は村端の僅かな森でもよい。背景に緑の濃い幾本かの木がある。「あたらしき内」はその問題の神が新造であつて、朱色の鮮かなのを賞讃した言葉であらう。前の「宮のちゞみ」のやうに斯う古くなつてはだめだといふのではなからう。
   濱迄は宿の男の荷をかゝへ
 船場へいそぐ道すがら、送つて來た旅館の若い者か何かに、この宮は何さまかねなどゝ言つて居る所だと思ふ。水邊の句もこの百韻の中には何べんか出て來る。能ふ限り?況を變化させようと苦心はして居るが、なほくる/\と同じあたりを廻つて居るやうな感じを免れないやうである。
(462)    師走比丘尼の諷《うた》の寒さよ
 歌比丘尼は戀かと思ふが、こゝでは只一句で棄てゝ居る。年中旅をして居る職業の女だが、師走《しはす》は誰でも急ぎ足で、立留つて歌を聽かうとする者も無いから一層あはれである。湊の船着場などの此時代の風俗を思はせるが、殘念なことには二句を中に置いて、又船の者の上陸が出て來る。
   餅搗の臼を年/”\買かへて
 同じく湊町の年の暮の情景である。賃餅搗きが景氣の爲に、いつの年も必ず新しい臼を擔いで來る。又は表通りを轉がして通る。年々といふので觀察者が住民であることがわかり、乃ち前々句の旅客と、師走比丘尼に對する氣持をちがはせて居る。
    天滿の?を又忘れけり
 大阪からことづかつて來た手紙を、誰がどう忘れたのか、是だけではまだはつきりしない。町へ戻つて來た人が、天滿で頼まれたものを取殘して來たのか。家までは持つて來て居ながら、それを携へずに外出したのか、この二つのうちかと思ふが、餅搗きとはちよつと交渉がありさうも無い。やはりたゞ師走の市街地の慌たゞしさを言はうとしたものかと思ふ。
   廣袖をうへにひつぱる船の者
 此句に至つて又忘れたといふ人の人品を明らかにして居る。廣袖は働かぬ日の着物、長衣裳などゝ稱して、ついたけの夜具にも兼用せられるものかと思ふ。斯ういふものを着て町をあるくのは此連中以外には無い。天滿の?は船の中に置いて來たのだが、のん氣な人たちだから取りにかへらうともしない。大阪と船便のある内海のどこかの湊らしい。以下さういふ舞臺が少しつゞき過ぎるやうである。
    むく起にして參る觀音
(463) 備後の鞆津は有名だが、船着場には觀音の堂が稀でない。むく起きは關西の方言、東國では今起きぬけといふが、もとはこちらにも此語は有つたのであらう。船でかしきが朝飯を用意する間、船頭は用が無いから御參りに上陸するので、何處にも有りさうな情景である。
   燃しさる薪《まき》を尻手に指くべて
 是はたゞ觀音の山の下などに住む家の所作と見られる。むく起きといふのとは少し合はぬが、近い處だから竈の下を焚きつけて置いて急いで參つて來ようとするのである。竈の構造の近頃までのものと同じであつたことは、「燃えしさる」の語でわかる。わり木はさきの方が早く燃えてしまつて火が口元へ來るから、それを折々奧の方へ押し入れるのが「さしくべる」である。尻手は出しなに急いでさうすることで、向ふを見ながらといふ位の意味である。擧動が何だか男のやうに見える。
    十四五兩のふりまはしする
 この時代としては大世帶、男女の七八人も使つて居るほどの暮しなのであらう。さういふ家の働き者の女房、女ながらも尻手で薪をさしくべるほど、次から次へてきぱきと用事や應對をして行くといふのだが、その説明には足らぬのみか、あまり細かになりすぎて一卷の伸展を妨げて居る。
   月花にかきあげ城の跡ばかり           利牛
 おまけに此折では月の座が無沙汰に過ぎて來た。どうしても茲は局面を打開すべく、大きな轉囘をすべき所である。多分相應に苦心をして出來た附句と思ふ。かきあげ城は戰に臨んで作る城、土をかき上げたといふ意味で、石垣を築かぬ城のことであらう。十四五兩のふりまはしをするやうな家が、さういふ故跡の傍に在る。花多く月のながめも佳いが、住む人はもはや昔のまゝで無く、ありし世の名殘はうづもれて居るといふので、句の姿はあるがいふことは型にはまつて居る。
(464)   弦打颪海雲とる桶               孤屋
 弦打山といふのはさういふ故跡の一つ、香川縣の海邊に近い山だといふ話である。海雲《もづく》とる桶が私には興味がある。桶はモヅクを採つて入れる器で、それがそちこち水面に泛び、人は其附近で海に潜つて居るのだがよく見えない。やゝ小高い陸の上から眺めて居る景色である。颪《おろし》といふので少し波があることがわかる。月花を受けて居るのだから、是も春の夕暮とおもはれる。なほ此句から以下は順序をかへ、孤屋が野坡より先になつて居る。斯うすると三人が皆互ひに交渉をもつことになるのである。
  三オ
   機嫌|能《よく》かひこは庭に起かゝり      野坡
 こゝまで三句が春季。さういふ海に近い在所で養蠶をして居る。もう上蔟も程近く、至極順調に進んで居るといふので、庭とは四眠のこと、元氣に桑を食つてくれることを、今でも蠶の機嫌が好いと謂つて居る處は多い。是なども多分この言葉の面白さに引かれた句であらう。
    小晝のころの空靜也
 以下終りまで句主の順序は同じだから記入を略して置く。小晝《こひる》は午後の茶時で三時から四時のころ、この方言の行はれて居るのは信越地方などである。何でも無いやうな遣句であるが、休息としてはちやうど時を得て居る。斯ういふ役割に當る人もあつてよいと思ふ。みんなが思ひ付きを競ふばかりが連句の能でも無いのである。
   椽|端《はな》に腫《はれ》たる足をなげ出して
 忙しい時に、脚氣か腎臓病かで働けずに居る人が一人居る。又は十分に仕事の出來ぬ者が多勢の中にまじつて居る。そのすまぬ樣な氣持を句にしてゐるのかと思ふ。但しこの一卷、前にはマラリヤがあり、後に又皮膚病と暑病とが出て來る。少し病氣の話が多すぎてうるさい。
    鍋の鑄かけを念入てみる
(465) 足の腫れた男、何もする事が無いので鑄掛屋の仕事をじつと見て居る。旅の職人だから世間話も多い筈だが、それに物を言ひかけるのもやゝ大儀なのである。念入れて見るといふのがすでに俳諧になつて居る。
   麥畑の替地に渡る榜示杭《ばうじぐひ》
 少し言葉が足らぬかと思ふ言ひ方。麥畑の方は川普請の敷地か何かに取られるので境の杭は其爲に打たれ、替地は何處か他で渡されるものと思ふ。鑄掛屋は話ずきだから、是はどういふわけの榜示かと尋ねて居るものと想像せられる。何代前の爺樣が開いたとか、おれの家とは因縁の深い畠だとか、いづれさういふ類の愚痴話を、さうか/\と聽いて居るのであらう。それで無いと前句とはよく繋がらない。
    賣手もしらず頼政の筆
 頼政はあまりに突拍子もないやうだが、門徒宗の舊い家には折々源三位の書き物の話が有る。私は多分本願寺坊官の下閏家との關係だらうと思つて居る。とにかくに賣手も知らずといふのは、頼政がどんな人かといふことを、知つて居る者が丸きり無いのである。さういう愚直な人ばかり住む村が、今ちやうど替地の沙汰によつて動搖しかけて居るのである。
   物毎も子持になればだゞくさに
 うちの年寄は何でも知つて居たにと、いふやうな場合である。子供に手がかゝるので、盛りの女房だが家の事についての注意が足りない。だゞくさは關東でゾンザイといふ語と近く、西の方では近頃まで用ゐて居た。頼政の筆なども、踏み倒して買はれさうであぶない。この人物、前に出て來た亭主の名を呼びあるく女と、やゝ似くさいのが氣になる。
    又|御局《おつぼね》の古着いたゞく
 この女房も元は大家のはした女であつた。御局といふのは高級の侍女のことで、曾てさういふ人に使はれて居たの(466)だから、子持になるまでは是でも身だしなみがよかつたが、もう此頃では只のかたましい古嬶になつてしまつた。それでも以前の主人をまだ御局さまと呼び、折々御機嫌をきゝに出ることは忘れない。其御局がどうやら引退して閑かに暮して居るらしい。短い言葉で可なり込入つた?況を描き出して居る。
   妓王寺のうへに上れば二尊院
 老いたる官女は嵯峨あたりに住んで居て、さうかと思はれるやうな人の出入りがあるのである。少し附け方が飛び離れて居るが、此句ではもう附近の名所を見あるく人の方へ注意を移して居る。二つの寺の地理は私たちにもよくわからぬが、目的は單に上品な風景の句を、こゝに置かうといふに在つたかと思ふ。
    けふはけんかく寂しかりけり
 この句もたゞ淺々と此場を出て行かうとして居る。ケンカクは今いふ格別と近い副詞で、それよりも一段と氣取つて居た語であらう。貞門の所謂言葉の俳諧の一種、もとはさも尤もらしく斯ういふ語をつかふ人が少しあつたのである。
   薄雪のこまかに初手《しよて》を降出し
 しつくりと前句に合ひ、しかも感じの新しいよい句である。説明の必要もあるまい。但し「初手を」は或は前のケンカクに對する挨拶かも知れない。ほか/\と二日灸の次に、ほろ/\あへを出したやうに。
    一つくなりに鱈の雲腸
 雲腸《くもわた》といふ名はこゝで始めてお目にかゝる。さういふ食物が知られて居たと見てよい。鱈は冬の季である。雪の降り出すやうな寒い日に、其雲腸が器の中でこち/\と固まつて居る。「一つくなりに」は一塊となつての意であらう。どういふ風にも附けられる前句へ、努めて意外のものを持つて來ようとした工夫は認められる。
   餞さしに菰引ちぎる朝の月
(467) 菰とはあるが藁を編んだ薦《こも》のことにちがひ無い。穴あき餞をやゝ多く受取つた者が、臨時に斯うして錢緡を作るのは常の習ひであつた。無論財布の用意の無いやうな人たちの所作で、朝の月とあるので、夜駕籠の者が増し賃をもらつた場合なども想像せられるが、前句と見合せると是は湊から町方へ、さういふ海産物を持込んで來た代償であり、こもといふのもその荷の包装であつたらう。
    なめすゝきとる裏の塀《ひ》あはひ
 この附け方は私には説明しにくいが、隱れてさう大きな意味があるのではなからう。ナメスヽキは榎木などに生ずる菌で、それをたゞ菰引ちぎる人が見つけたといふまでかと思ふ。ヒアハヒは二つの建物の間を通る狹い通路のことで、正しくは火あはひ、即ち忌ある火を表の口からは出さぬやうに、こゝを用ゐて居たからの名と思つて居る。ナメスヽキはさういふ物陰の木に生ずるので、思ひがけなく發見せられることがあつたのであらう。
  三ウ
   めを縫て無理に鳴する鵙《もず》の聲
 是もたゞ同じあたりの偶然の第二の事件であらう。百舌のおとりの眼を絲で縫ひ合せ、頭の毛を引いてキチキチと鳴かせ、他の同類を喚び寄せて黐で捕るといふ、やゝ惨酷な獵法は私も度々覺えがある。それでこの句が無上になつかしいのである。場所は火あはひのやうな狹い處ではいけない。故にそこから聲の聽える距離、もしくは蕈を取つて歸つて來る路で、さういふことが有つたと見るの他は無い。朝の月から三句、折端を越えて秋の季である。
    又だのみして美濃だよりきく
 百舌捕りは大抵少年の遊びだから、この句中の人物とは關係が無く、たゞ場所の近さだけの聯絡かと思ふ。此邊は妙に同じやうな附合が續いて居るのは好ましくない。又頼みといふのは美濃へ行く人にもし逢つたら、是々のことを尋ねて來るやうに頼んで見てくれないかと、別な人に頼むことで、乃ちさう大切な用向で無いことがわかる。今日はもうめつたにせぬことだが、それでも田舍路などでは、折々斯ういふ依頼をして居るのを見かける。昔の通信機關は(468)主として知人であつた。
   かかさずに中の巳《み》の日をまつる也
 前句との關係ははつきりしない。巳の日に祭りをするのは辨天さまで、富貴を折る商家などであらうか。さういふ家に來る人に、美濃の聞合せを又頼みするといふのは、名古屋かその附近での事とも見られる。
    入來る人に味噌豆を出す
 味噌たきには巳《み》の日がよいといふやうな俗信が、或る地方には行はれて居たのではあるまいか。さうで無いとあまりに二句の縁がうすい。味噌はしかし非常に大きな釜で煮るものとなつて居て、小さな世帶では何軒か合同し、大きな家ではそれが重要な年中行事であつた。この日は煮豆は喰ひ放題で、そこへ來合せた者は一つかみでも必ず食ふべきものゝやうに、言ひ傳へて居る諺もある。この句はそれを珍しがつて居るのだから、作者孤屋は生まれから町の人だつたかも知れない。
   すぢかびに木綿袷の龍田川
 木綿の染模樣を袷にも着るのが此頃の風であつた。其名殘は明治になつてからまで、伊豆の島々や飛騨の山村などではよく見られたのである。勿論夏の浴衣のやうな白地ではなかつたが、それでも龍田川を筋かひに染め拔くといふやうな、はでな型がはやつて居た。來客に味噌豆を出すほどの村の農家で、臺所に働く女たちにも、さういふ衣裳の者があつたといふのは、恐らく此日が晴の日の一つだつたからであらう。
    御茶屋のみゆる宿《しゆく》の取つき
 或は考へ過ぎかも知れぬが、斯ういふ宿場《しゆくば》に接した農村である故に、染木綿の袷を着る樣な娘たちもあつたと想像せられぬことは無い。但し御茶屋は敬語を添へて居るから、たゞの旅人相手の茶屋では無い。わざと町中から少し離れて、地頭その他の格式ある人たちの休泊所が用意せられて居たので、大體は近頃の別莊の、やゝ物々しい門構へを(469)もつものと見てよからう。此句が前の龍田川につゞくのは、そのお茶屋が流れに臨み、橋などの架かつて居たことを匂はせて居るからではあるまいか。
   ほや/\ととんどほこらす雲ちぎれ
 トンドはいはゆる左義長のこと、通例正月十五日朝の行事である。ほや/\は火の燃え立つ形容ではあらうが地方によつては其火を取卷く少年たちが、ホンヤラホンヤラなどゝ同音に囃して居た。ほこらすは焚くとか燒くといふ意味の正月言葉である。前句はそつくりと其正月の火を焚く場處の説明になつて居る。何れの村里でも左義長は村はづれで行はれる。
    水菜に鯨まじる惣汁
 正月十五日は祝ひ日である故に、晝又は夕飯が節供になり、神と先祖に供饌をする他、上から下まで一樣によい食事が出來た。惣汁は全員に給する汁、今いふお惣菜と同じ語である。鯨の肉を食べる風は、足利時代からすでに盛んになつて居た。此一卷には病氣ほどでは無いが、海産食物の記事の頻出も少し目ざはりである。
   花の内引越て居る樫原《かたぎはら》
 樫原は京の西山の最も引込んだ在所である。富人の隱居などの、常には御室《おむろ》とか嵯峨とかに住んで居る者が、花の咲く頃だけは醉客や俗人の來訪がうるさいので、一時斯ういふ處へ入つて、靜かな春を樂しんで居るものと、私は解するのだがどうであらうか。前句はさういふ食べ物を、祝ひ日ではないが下の者にも與へ、主人も其惣菜で滿足して居るのだとも見られる。
    尻輕にする返事聞よく
 平凡な附けだが樫原まで同行して居る雇人、又は此間だけ頼んで居る村の若い者などのまめ/\しさを謂つたので、その返事のすなほなのも一しほ閑居の氣分を落ちつかせるので、終戰後の世の中などではちよつと味はひ難い平和の(470)樂しみであらう。
   おちかゝるうそ/\時の雨の音
 此句が前の句の私の解釋を支持する。日も暮方に近く雨がぽつ/\と板屋根に當つて來た。殊に心がせか/\と、色々の事の氣になる時刻、多言を費させずに、次から次へとすべき事をしてくれる者が、身のまはりに居るのである。但し一句として獨立すれば、又よほどちがつた趣きが汲み取られる。旅人などには旅愁の催すやうな情景でもある。
    入舟つゞく月の六月
 是も亦繪よりも濃やかな一つの氣分を作り出して居る。海は暮れかゝり、水に雨の脚がまばらに波紋をひろげて居る時刻、後から/\船が入つて來て、目の前で帆を降し、梶を揚げ苫を葺き始める。沖にもまだ何ばいかの、此方へ向いて來る船がある。恐らくは港の燈火の急いで數を加へて行くのが、あちらからも望み見られて居るのである。月の六月といふ末の文句が、何だか新しい感じを與へる。
   拭立てお上《うへ》の敷居光らする
 是は港町の問屋宿屋などの、入船の多い日の?況であつたらう。電の字の附くやうな通信は來ぬが、日和山に遠見が登つて居り、さうで無くとも風や潮加減、又は早い入舟からも段々の豫想が出來る。さあ來たといふので急に家中の者の氣が勇むのである。御上《おうへ》は上方では又オイヘと發音する者も多く、すのこ即ち牀の上のことを意味する。上りかまちの方は普通は障子を立てないから、お上の敷居といへば座敷へ通る間じきりで、それにも雜巾をかけて光るほど拭き立てるのである。濱にはもうがや/\と人の聲がする。子供や年よりまでが心の時めく刻限であつた。
    尚言つのる詞からかひ
 此カラカフは今日の意味とやゝ異なり、やはり口論をすることかと思ふ。氣が立つて居るので物言ひが荒く、それで感情を害する者も出來て來る。女が男と爭ふやうなことも斯ういふ場合には有りがちで、ひやかすといふに近い(471)「からかひ」などは、この場合到底考へては居られぬのである。つまらぬ句のやうだが場面を轉囘させる爲には役に立つて居る。
  名オ
   大水のあげくに畑の砂のけて
 洪水跡の畑地整理に、つい身勝手な事をする者があつて口喧嘩が起るのである。大分隔たつては居るが、この前の替地の麥畑問題が、又戻つて來たやうな氣もするから、この附けは避けたかつた。「あげく」といふ語は連歌の揚句から出たものであらうが、此頃はもう少しちがつた意味、即ち結果といふ心持に使はれて居る。現在はそれが更に變つて、餘分の附け加へのやうにも解することになつた。
    何年菩提しれぬ栃《とち》の木
 畑に被つた川砂を取りのけながら、そこに在る大木の栃の話をして居るので、其木が水中に倒れ又は土中に埋もれて居るのではあるまい。何年菩提はたゞ何年といふ疑問を強める爲の助詞で、もとは多分誓ひの語から出て居るのである。どの位久しいか考へることさへ出來ぬといふやうな場合に、もとは武人などの使つて居た語法かと思ふ。
   敷金に弓同心のあとを繼
 弓同心は歩射隊士、數の多い低い武家である。幕府でも敷金養子即ち株の賣買を黙認して居たやうだが、爰は勿論ずつと小さい城下での事である。作者の構想では、とはうも無く古い栃の木のある舊家の次男か末の子が、分家の代りに持參金をもつて、輕いさむらひの家を繼ぐのである。さういふ家では先代は扶助を受けて隱居をするのだが、家庭親類の關係が、もと/\無理だからどうしても面倒になりやすい。世間に幾らも例があり常識となつて居る時代ならともかくも、後世にはちよつとわかりにくい人事の葛藤である。
    丸九十日|濕《しつ》をわづらふ
 シツは醫家の謂ふ疥癬で氣もちの惡い病氣である。仕事も手に附かぬのみか、どうせ暮しがよくないから起るもの(472)で、周圍の面白くないことも想像せられる。但し其濕を煩つて居るのは誰であらうか。前の句との繋がりが又一段とこゝでは複雜になつて居る。俳諧が以前の連歌の如き風雅の傳統を守るものだつたら、無論斯ういふことは題材にならない。炭俵期に入つて目的がやゝ廣くなつて來たことだけは認めなければならぬ。
   投打もはら立まゝにめつた也
 メツタといふ語は前には形容詞としてもよく用ゐられた。今では此分だけはメチヤと分化して居る。投打《なげうち》は癇癪を起してそこいらの物を取つてはふること。此表現法は今でも相應に行はれて居るが、ひぜん瘡をわづらふ人がさうするかどうかは、此句以外に私は經驗して居ない。
    足なし碁盤よう借に來る
 投打をして居る家へ又借りに來たのか、足無しに碁盤がなつて居るのはもと投打をして居た記念なのか、何だか後の方のやうな氣がするが、或はもう少し附け方が遠く、その碁盤をもつ家は隣か向ひなのかも知れない。ともかくも近所にこの粗末な一面の碁盤しか無くて、しかも碁のすきな人が住んで居るのである。市井の風景としては色々な事が考へられる。
   里離れ順禮引のぶらつきて
 この里離れはずつと前の「宿《しゆく》の取つき」と重複して居る。規則違反で無いまでも過失であらう。順禮は群を爲して來るから、木賃同然の宿屋でも、客引きを出す價値があつたらしい。それが退屈しては碁盤を借りに來ると見たものか。ぶらつくは必ずしもあるいて居なくとも、立つたり腰かけたり、欠伸をしたりして居てもよい。とにかくに一度さういふ處を見たことのある人の句で、聯想の心理を考へるにはよい資料である。
    やはらかものを妹の襟もと
 是も其場處から遠くない家の樣子を、用の無い客引どもが見て批評をして居るものと想像せられる。乃ち小商家の(473)店先きなどであらう。何屋の嫁さまは氣取るぢやないか。かのこの襟なんか掛けて生意氣だなどゝいふ風な、是は男方の噂であらう。嫁とはあるが是は戀の句ではあるまい。一句で棄てゝ居る。
   氣にかゝる朔日《ついたち》しまの精進《いもひ》箸
 前句とは反對に家の中での問題で、舅か姑かの腹の中らしい。常から絹の半襟などがあまり氣に入らぬのと見られる。朔日は神さまを祭る日で、求めてもなまぐさを食べる日なのに、精進用の箸が出て居る。以前は箸も俎も二通りに分けて居たのである。いもひの箸も古くなれば常用におろしたらうが、何も朔日早々からさうする必要は無い。シマは古語のシモといふ助詞から出たものだらうが、言葉を強める爲に近世はよく用ゐられ、今日は又忘れられて居る。
    うんぢ果たる八專の空
 八專《はつせん》は一年に六度あるといふが、主として初夏の八專が注意せられ、とかく天氣が片よつて雨がちになる季節である。ウンズは倦むといふ動詞から進化した語だから、ウンヂと書いたのは誤である。「照り入り八專降り八專」といふ諺もあつて、屋外に用の多い頃だから、降りつゞくのが殊に嫌はれる。朔日しまの精進箸を氣にかけるのも、この氣分と關係があるらしい。
   丁寧に仙臺俵の口かゞり
 俵を解いて米を出さうとして居るところである。仙臺の米は特に儀装が念入りだつたといふことはまだ聽かぬが、全體に俵の口かゞりには手を掛けて居たやうで、江戸では人を使ふ家などが、?之を問題にして居たのである。倦じはてたると、恐らくは關係を持たせようとして居る。
    訴訟が濟《すん》で土手になる筋
 是も替地の麦畑のくり返しになるやうな感じである。百句一卷で斯う民間の雜事ばかりを思ひ出して居ては、?(474)重複の結果になるのも避け難い。將來の爲に考へて見るべき點だと思ふ。俵の口かゞりは、爰では今掛けつゝある處にしたので、多分は此米の取れるのも今年限りといふやうな話をして居るのであらう。しかし「訴訟が濟んで」は、どうやら理が通つて先づよかつたといふ風にも聽えるから、或は米の産地とは關係が無く、たゞ遠くから其筋を望みつゝ、せつせと俵作りをして居るところかも知れない。作者は決して註解をしないから、其當時から既に人の受取り方はまち/\であつたとも考へられる。
   夕月に醫者の名字を聞はつり
 最終の月の座である。聞きはつるといふのは、路ですれちがつた人の話などからで、聽手もちやうど良い醫者を見つけたがつて居るのである。それで又次の附句が活きて來る。場處は何と無く土手の上の路のやうな氣がする。即ち土手になる筋は、もう土手になつて居るのであらう。斯ういふ時の經過は、俳諧ではしば/\許されて居た。
    包で戻る鮭のやきもの
 路を來る二三人が燒肴の苞に入れたのを下げて居る。祝宴の料理のみやげ物である。それが前句の醫者話をして居るのだとすると、いふ迄も無く親類の全快祝ひであつて、その名醫の名字が耳にとまるのも當然である。事によつたら後から喚び止めて、失禮ながらと問ひたゞしたかも知れないが、田舍の人にはまづそんな早速な事は出來ない。それで聞はつりがよく利くのである。やき物の包みが鮭だといふことは、馳走になつた方の人しか知つて居ない。連句の主人公は各句毎に移つて行くのである。月の座から始まつて、こゝも秋の句が三句つゞいて居る。
  名ウ
   定免《ぢやうめん》を今年の風に欲ぼりて
 定免は作の豐凶にかゝはらず、やゝ低い定額の租米を徴収することで、風害があつて安くしてもらふのは定免で無くたゞの免である。句主野坡も或は田のことには疎かつたのであらう。百姓の常の情として、何か理由があれば許さるゝ限り、税を少なくしてもらはうとした。殊に庄屋や宿者は其念慮が強く、欲ぼりも決して一身の爲だけでは無か(475)つた。鮭の苞などを下げて還る道すがら、其樣な談合をして居るのだとすれば、脇から見た者には少しばかり俳諧である。ことしの風といふのもさう大暴風でなかつたやうな感じである。
    もはや仕事もならぬ衰へ
 此句は路上を去つてもう農家の爐端などに移つて居る。物馴れた老人の家へ、村の二三人が減税運動の下相談に來て居るところと見たのである。もはや仕事もならぬほど衰へては居るが、口と頭だけはなほ達者といふことが窺はれる。又さういふ老い先きの短い者が、なほこの問題に關心をもつのもあはれである。
   暑病の殊《ことに》土用をうるさがり
 暑病《あつやみ》は暑氣あたり、夏負けよりは少し重く、是は老病ではないが茣蓙を敷いてごろりと寢て居るのである。早く土用でもあけたらとは、見舞に來る人々もよく謂ふ言葉である。病氣が百韻に四箇所も出るのが感心せぬことは前にも述べた。親しい同好の仲間でも、斯ういふ注意は互ひにしにくかつたものと見えた。
    幾月ぶりでこゆる逢阪
 是はもう其土用が過ぎて居るのである。以前は此國境の坂が今よりもずつと急であつた。久しぶりで京から出た者の心の悦びである。句の上には見えぬが涼風も吹いて居る。湖水の片端もちらりと行く手に見える。
   減《へり》もせぬ鍛冶屋のみせの店ざらし     利牛
 鍛冶は新土着者が多く、よく往還に面して仕事場を持ち、又店賣を兼ねて居た。誂へが主だから賣物も注文はづれが多い。前句の幾月ぶりがよく響いて居る。まだあの見覺えのある大鍬が賣れずにある。品物が一向變つて居ないなどゝ、町家の人だから當然の事を珍しがつて居るのである。
    門《もん》建直す町の相談           孤屋
 前の句のつい此頃まで、まだよく見かける光景だつたのに反して、附句の方はもう説明がいるやうになつて來た。(476)以前の都會は一町毎の境に木戸があつたので、門とそれを呼ぶのは大げさだが、後々は扉などの必要も無くなり、たゞ兩側の柱だけが永く保存せられ、それも餘り朽ちてしまふと、折を見て改造したらしい。町の役附きといふやうな人々が、其場に出て來て積りをして居るのを、相談と謂つたものかと思ふ。鍛冶屋などが店を借るのも、大抵は町はづれの斯ういふ處だつたのである。
   彼岸過一重の花の咲立て             野坡
 花の座だからたゞ斯う附けて見たのみで、この句はちつとも骨を折つて居ない。爰に一はたらき、何か新鮮味をもつ趣向があつたら、此一卷もずつと光つたであらうに、さういふことまでは考へようとしなかつたのが惜しい。
    三人ながらおもしろき春            執筆
 執筆は三人のうちであらうと思ふが、名を出さぬのが作法であつた。誠にこの句の通り當人たちは十分に面白がつて居る。それでよいのかどうかゞ、是から先の問題ではないだらうか。
 
       ○
 
 我々の眼から見ても、この三人が連歌以來の法則に忠實であつた以上に、句の形の變化を心がけ、且つ言葉の選擇に力を入れて、出來るだけ平生の表現から、遠ざかるまいとして居る努力はよく判る。さうして今まで何人にも手を附けられなかつた生活諸相を、文藝の中に導き入れようとした、根本の動機も共鳴し得られる。たゞどうかと思ふ點は、此時代の常民の常の態度に則つて、能ふ限り感情の波瀾を低く小さくしようとして居ることで、從つて花月の座が鮮麗ならず、戀の句があまりに少なく、人事の特に微細なるものに眼を着けようとして、幾分か單調の弊に墮して居る。この傾向で進めば後世の雜俳となり、穿ち皮肉を詮とする川柳の狂句といふものを盛んにするのも已むを得ず、終に蕉門一派の故郷たる田園の情味を疎外し去るやうになつて、この三人者の本心にも反することになるのである。(477)古典は文藝の民主化にとつて、煩はしい拘束であることは疑ひないが、是は最少限度敬遠ぐらゐの所に止むべきものであつた。野坡等三人は幾分か之を畏遠して居る。又時あつては侮遠さへもしようとして居る。俳道零落の端緒を開いた者も彼等である。
 
 (參照)
 勝峯氏 蕉門俳諧前集 四九七頁
 
(478)     紅梅に筧の歌仙
 
                       長水
   紅梅に青く横たふ筧かな
    朝寢もさせぬ櫻戸に誰             蓮之
   雀の子机のうへに口明きて            咫尺
    茶臼の癖を挽き直さばや            素丸
   ひか/\と月の出しほの釘隱            之
    風のうねりも萩二十間              尺
  
   夕露の尼が身にだに御扶持方            丸
    この剃刀のけふは不機嫌             水
   花樗木綿さらさに咲そめて             尺
    餞けたばこしめるほど泣ケ            之
   門立に痞《つかへ》の毒の雲が出る         水
    かたちの小野は盆に眉掃             丸
   金持のあそび殘して川靜              尺
(479)    乞食も起て至極よい月              水
   佛道の這入口には虫の聲              之
    野山の色もしらぬ木地挽             尺
   浪人のうち傾いて花鰹               丸
    仕舞物屋の雛の夕ぐれ              之
  ナオ
   春風の聖護院樣御通り               水
    みつちやな顔の戀にかしこき           丸
   紫蘇漬の箸迄染る才はぢけ             尺
    あるじも出ぬに兎かけ出る            水
   水瓶の大き過たる草の庵              之
    正月ちかき膳所の日當り             丸
   山歸來既軍をはじめけり              水
    後住の器量よく通る錐              尺
   人竝に膳へ居《すわ》りし物狂ひ          之
    疊床ふむ關の岩かど               丸
   夕月夜先づ煤掃も近祭               尺
    地帋漉井の影もなよ竹              水
  ナウ
   高き屋にのぼりて見れば生鰯            丸
    けふもちろりを提て出る妻            之
(480)   嶋原の張かへ長柄一からげ             水
    名代垢離は淺み/\と              丸
   舶頭の黒い背中へ花の雪              之
    參勤靱遠がすむ也                尺
 
 五色墨は芭蕉歿後三十七年、俳道復興の最初の運動と目せられて居る。果してどういふ部分に特に改革すべき流弊が現はれ始めて居たのかを知る爲にも、是非とも一度は味はつて見なければならぬ作品であるが、さて自分たちにはそれが容易なしごとで無い。第一に判らぬ句が多く、又どういふわけで喝采せられたのか、全く呑込めないやうなものが幾つもある。つまりは根本に俳諧といふ言葉の意味が、此頃はすでにやゝ變化し、且つ今日も同じやうに、群小が世に充ちて之を統合するだけの大きな力がどこにも無く、みんなが活き拔くためにたゞ亂關を事として居るのである。をかしいことには序文の共同宣言のやうなものゝ中に、「或は腹藁を以てし或は糟粕を甜り、點の勝負を爭うて以て當日の判者に媚び」といひ、或はまた「席に臨んで前句未だ吟じ了らざるに、競うて自己の句を唱へてその豫めする所を以てす」などゝするのは、明らかなる時代の病と思はれるのに、それがまだ御自身たちの五色墨のなかにも、ちら/\と殘つて居るのである。前句をよく理解し賞翫した上で、次の句の附け方を案ずるのは連歌の常道であつた。しかも尋ねて見るのも失禮かと、思ふ場合が多くなつて、次第にいゝ頃加減にあしらつて置く風が起つたので、それを芭蕉翁は苦心して改めようとして居られた。つまりはその縒りが此頃再び戻つたのである。それよりも始末の惡かつた第二の弊害は、その手ん手の我儘に調子を合せた點者といふものゝ出現であつた。一つ/\の句の優劣を比べるだけならば、發句を集めた方が氣が利いて居たらうに、なまじ古くからの連句を有難がつたばかりに、連ねた中から一人だけの句を拔き出さうとし、おかげで俳諧のもとの心、附け方取なしの態度が省みられなくなつたのみか、卷の(481)全體から一同が收めて居た、樂しい思ひ出は消え失せたのである。天明の中興も此意味から言ふと、先づ半分以下の成功としか私たちには見えない。俳諧を社會藝術の大きな調和に、導くことはまだ出來なくて、一方には更に今日見るやうな、所謂寸錦文學の機運を養ひ立てたからである。政治の方面でも同じことだが、大きな中心は成るだけ出來ないやうに、よく/\入用ならばそれを過ぎ去つた世から求めるやうに、小さく分れて牽制し、たゞ仲よく話し合つて進んで行かうといふのが、近代の新しい道であつた。此點にかけては五色墨なども一つの先驅といつてよい。よく見たら五宗匠一派毎の特色も氣づかれて、興味は段々深くなることゝ思ふが、殘念ながら今はそれまでの力を、是に割くことが私には出來ぬ。たゞ比較的わかりやすい始めの一卷だけを、出來る限り細かく見て行きたいと思ふ。
 
       ○
 
                       長水
   紅梅に青く横たふ筧かな
 寛の竹の青いのが快いといふのである。斯ういふ實景を見たものとすれば、すなほにそれを敍したのを可としなければならぬが、或はたゞ繪などの記憶かも知れない。
    朝寢もさせぬ櫻戸に誰             蓮之
 櫻戸は聽きつかぬ語、花ある庵のしをり戸をいふのであらう。紅梅と櫻との竝び咲く庭はよいとして、外から見入れた前句の風情に、すぐに亭主の氣持をつゞけたのは、やがて一方の自慢のやうに聞えて聞き苦しい。發句と脇を主客に分ける因習に囚はれたものと思ふ。下の句の省略なども格別氣が利いても居ない。
   雀の子机のうへに口明きて             咫尺
 毛も生えない巣の雛を飼つて居るのである。「朝寢もさせぬ」に思ひよせたか。是に餌をやる爲に早く起きなけれ(482)ばならぬといふものらしい。この雀の子まで、三句の季が春である。
    茶臼の癖を挽き直さばや             素丸
 いはゆる其場であつて、又別の人とも取れる。小さい石臼が少しゆがんだ。是から加減をして挽かぬと、段々ぐあひが惡くなると氣付いたところである。やはり雀の子を飼つて見るやうな、時のあまつた人の心境なのであらう。
   ひか/\と月の出しほの釘隱             之
 釘隱しはやゝ念入りの建築の装飾に、銅やからかねの金物が用ゐてある。月がまだ低くて其光が鴨居の上までさし込むのである。さういふ座敷に居て茶臼を自ら挽く隱居さんなどを描いたつもりであらう。一つ/\の題材がやゝ單語圖めいて、舞臺の移動を全部聽手の想像に押付けようとして居る。是が此時代の一般の流儀かと思はれるが、炭俵などからもうそろ/\と始まつて居る。月の座。
    風のうねりも萩二十間               尺
 今度は再び庭の方に向いて、二十間ばかりも栽ゑつらねた萩の花の枝に、夕風が吹いてうねりの美しさを見せたといふのである。表現に新し味を心がけては居るが、目のつけ所が俗に墮ちて居ると思ふ。
  
   夕霧の尼が身にだに御扶持方             丸
 侍女とか乳母とかの年とつて法體した者に、手當が給せられて斯んな庭を持つ家に住んで居る。それを御扶持方《おふちかた》と謂つたのである。夕露のは秋の季に合せたと共に、はかない古尼の老の生活を説き、斯ういふ女にもこの恩遇があるといふのであらうが、「だに」はちとをかしい。
    この剃刀のけふは不機嫌              水
 尼だから折々頭を剃るのである。けふはどうしてかよく剃れぬといふことを、剃刀《かみそり》の機嫌が惡いといふ俗語が行はれて居たものらしい。諺があまり古びてしまはぬうちに、使つて見るのが貞門以來の俳諧であつた。
(483)   花樗木綿さらさに咲そめて             尺
 この一句夏か。せんだんの花が木綿ざらさのやうだといふので、此時代の木綿更紗のがらに、さういふのがあつたことを思はせる。花樗《はなあふち》はたゞ樗の花といふまでゝ、別にその名の一種があつたのではないやうだ。
    餞けたばこしめるほど泣ケ             之
 雜で戀の句なのだが、どうすれば斯くまでいや味に出來上るかと思ふやうな句である。旅に出る男への餞別に刻煙草を贈る。この情愛を思ひ出して、泣いてぬらして煙草もしめるほどだつたらよからうなどゝ、もしも女が口で言つたら、どやし付けられさうな文句である。尤も旅さきではよく煙草をしめらせて困るものであつた。
   門立に痞の毒の雲が出る             水
 是も同樣いやな句である。門立は門出でのこと、男の出發に際して雷氣の雲が行く手に見える。あれが大きく廣がつて來たら、旦那の難澁が氣づかはしくて癪氣が起ることであらう。それを痞《つかへ》の毒などゝ謂ふのは、よつぽど川柳口調である。脇で幇間見たいな者が見て居たとしても、とても斯んなことは言へさうにもない。
    かたちの小野は盆に眉掃              丸
 わからぬ句であるが、かたちの小野は中古の歌名所、獨り留守する女の室を斯う形容して見たのかと思ふ。眉掃《まゆはけ》はたしなみのよい女の化粧道具で、それが片隅に取かたづけてあるといふのか。事によると作者もよく繪をしあげずに、只言葉を連ねて見るといふところであらう。但しまだ何か隱れた作意があつたのかもしれない。
   金持のあそび殘して川靜               尺
 前句との繋がりが甚だ考へにくい。強ひていふならば樓上の眺望とも見られよう。豪奢な船遊びの舟が漕去つたあと、柳は靡き水は清らかに流れて居る。もとの風景は少しも銷磨して居らぬことを、「遊び殘して」などゝも言つて見たものか。裏七句目は月のよく出る場處で、そこをたゞ過ぎる際には、少しく次の句の爲に心づかひをするのが連句(484)の作法であつたらしい。
    乞食も起て至極よい月               水
 起ては起きあがることでは無く、睡らずに月を見て居るのである。金持の通つたあとへは乞食をつれて來るのが通例だつた。しづかな流れのほとりの月夜である。句の形はやゝ輕みがあつてよい。
   佛道の這入口には虫の聲               之
 寺の山門か坂路を佛道のはひり口などゝしやれたので、斯んな處には乞食がよく來て寢る。草村には蟲の聲のしげき秋の夜である。底に無常とか解脱とかいふことを幽かににははせて居る。
    野山の色もしらぬ木地挽              尺
 表の第四句と挽といふ字が二度出るが、こんなのは只何句かを去るだけで、其他では嫌はなかつたらしい。「野山の色」も秋、秋の季が三句つゞくのである。木地屋は日頃山の木ばかりを扱ふ職業であるが、其爲に却つて自然の美しさに氣をひかれない。前句の佛道の入り口と反映せしめようとして居る。
   浪人のうち傾いて花鰹                丸
 今度は右の木地屋を市中の割長屋に住ましめて居るのである。是ならば勿論野山の色を知るまい。其隣には浪人の一人者が入つて住んで居る。古びた紋付か何かで餘念も無く鰹節を掻いて居る。前句との取合せよりも、むしろ斯ういふ人物を笑ひの種にしようとして居るのである。花鰹を以て花の座を始末つけたのが味噌で、鼻をうごめかしたかもしれず、又不承知の者があつたかもしれない。
    仕舞物屋の雛の夕ぐれ               之
 花鰹でもとにかく花だから、春の季をこゝから三句竝べる。是も同じ裏町のしがない暮しで、いさゝか打越しにさはるやうな氣もするが、この附けはやゝ働きがある。仕舞物屋《しまひものや》は、季節はづれの商品を安く引取る町の小商人、それ(485)が三月節供もとくに過ぎた日の夕に、大小幾つかの雛さまをつれて戻つて來るのであつて、茲に始めて我々の求むる、僅かなユウモアが見られる。
  ナオ
   春風の聖護院樣御通り                水
 判者はこの句に卷中第一の高い點をくれて居るのだから驚く。前句は多分奧まつた横小路、門跡さんの御通りと聽いて見に出るところが、「春風の」の響きなのであらう。貴人といふ以上に隨行の行列がいかめしく、さま/”\の装束をした山臥が加はつて居る。雛の小屋入りと對立させた意外な轉囘を認められたのだらうが、用語は平板で何の描寫の技術も無い。たゞ時代人の聯想にもたれて居たのだから、歳月が過ぎるとわからなくなつてしまふのである。
    みつちやな顔の戀にかしこき            丸
 ミッチャは今でも痘痕のことを謂ふが、形容詞に使つたのが私には珍しい。斯ういふたちの男は昔はよくあつて寫實といつてよいが、前句との附味ははつきりとしない。或は修驗たちの行列を見て立ちながら、近所の女たちへの物の言ひ方やしぐさが如才ないのであらうか。孕み句らしい嫌ひはある。
   紫蘇漬の箸迄染る才はぢけ              尺
 この方もあばたの娘である。木の菜箸《さいばし》を紅に染めて使ふ風習が此頃あつたものか。ちやうど紫蘇の汁を乾梅に加へる日に、この箸は赤くなつたから序に染めて置かうと考へ付くやうな機轉があるので、前句と繋がると是も淡いけれども戀の句であらう。
    あるじも出ぬに兎かけ出る             水
 やゝ頓狂な取合せで、果して前の句をよく味はつて附けたかどうかも疑はれる。家兎を飼ふ風習ももう此頃あつたか知らぬが、爰のは野兎である。草深い小家の山に據つた住居で、案内に應ずる聲も無いうちに兎が飛んで出た。荒涼たる一軒家の趣が目に浮ばぬでもない。
(486)   水瓶の大き過たる草の庵              之
 飲料水を貯へて置く瓶である。以前大家内で暮した家又は寺などの一旦荒れたあとへ、入つて住んで居るのである。文字通りの草の庵だつたことも想像し得られ、先づあらかた前句の兎を解説して居る。一卷の變化を大きくした功だけはある。
    正月ちかき膳所の日當り              丸
 草の庵では「正月」が打合はぬが、ともかくも是は其時を定めた附けである。背戸は陰がちなものだが、こゝは小家だから水瓶のあたりまで表の日がさして居るのである。膳所は二音だが、何と讀ませるつもりだつたらうか。こゝは膳ごしらへをする勝手元のことで、それをもし近江湖岸の地名のやうに、ゼゼと言つたのだつたら笑ふべきであらう。
   山歸來既軍をはじめけり               水
 この附け樣も私には解しにくい。山歸來は多分※[草がんむり/拔]※[草がんむり/契]、サルトリイバラのことだらうから、葉も花も正月とはかゝはりが無い。既はスデニと讀ませるものとすれば、もう戰を始めたといふことも、春のまうけとは繋ぎやうが無さゝうで、かた/”\どうして此句をこゝへ出したかゞ呑込めない。一句の意はこの植物の多い野外に、多人數の闘諍があると、いふより他には取り樣も無いと思ふがどうであらうか。
    後住の器量よく通る錐               尺
 後住は新しい住職のことだから、少なくも三句前の草の庵と、心も言葉も共にさし合ひである。器量は器用で、今度の方丈は磨ぎ物さへする。この錐《きり》のよく通ることよといふので、法會か何かに帳面をとぢて居る人の噂であり、是もやはり山歸來の野の戰とは折合はない。天狗俳諧でも強ひて想像を逞しくすれば附く。或はそんな讀者の空想をでも當てにして居るのでなかつたか。
(487)   人竝に膳へ居りし物狂ひ             之
 物狂ひは中古以來の舞のシテの役で、從つていつもロマンチックの題材となつて居るもの、それをこゝでは「人竝に膳に居《すわ》りし」などゝ、平凡に引下げたのが俳諧であらう。前句の寺の中とも丸きり附かぬわけでも無い。但し三句前の膳所の膳の字と、重複を避けなかつたのは不注意であらう。式目をさへ守ればそれでよいといふ心持のやうである。
    疊床ふむ關の岩かど                丸
 關の岩かどふみならしは、秋の駒迎の歌について有名な言葉、こゝでは知りつゝそれを使つて、狂人が普通でない處を飛んであるくことによそへたものか。疊床《たゝみどこ》はてづつな語であり、しかも言はうとすることがはつきりとは言ひ表はされて居らぬ。
   夕月夜先づ煤掃も近祭                尺
 以前は舊十二月の十三日が煤取日であつた。こゝは夕月夜だからその又何日か前に、もう煤掃の日も近いと謂つて居る所であらう。近祭は神社の祭にいふことなのだが、煤掃の後でも神を祭り祝ひ酒が出るので、小さな祭のやうに待つ者もあつたのだらう。前句との交渉は疊の床とある語から思ひ寄つたものか。二句の間に一つの景を描き出すことは六つかしいやうである。
    地帋漉井の影もなよ竹              水
 是もくねつた句である。扇の地紙《ぢがみ》は材料が別なので、是ばかりを漉く小工場もあり、そこには紙《かみ》漉用の井戸があつたものと思はれる。其井の上には竹の小さな叢がある。地紙によく書かれるなよ竹と似て居るといふのらしい。「影もなよ竹」は竹が井を覆ふやうに立つて居ることだらうか。前句とのかゝりが是も甚だ遠い。
  ナウ
   高き屋にのぼりて見れば生鰯             丸
(488) 東京のやうな大きな都會でも、つい近年までは臺所の魚のにほひだけは社會的であつた。同じ日の魚市魚行商は大抵一つの種類の魚を賣つたからである。午食に歸つて來る子が、もう晝のおかずを知つて居た。小さな邑里ならば高い處に居て其日の生鰯《なまいわし》を言ひあてるのも難事でなかつた。それを思ひ付いたのは働きだが、たゞ高き屋にの古歌を使つた滑稽は、好い趣味とは言へない。
    けふもちろりを提て出る妻             之
 チロリは酒の燗につかふ素燒の小コ利で、多分は中にあるものゝ音を愛した名であらう。それを手に提げて酒の小買ひに出るのは市中であり、又さう大きな暮しでは無い。新しい魚があると一ばい飲みたいと言ひ出すことをちやんと知つて居り、しかもさう澤山は飲ませたがらない人である。
   嶋原の張かへ長柄一からげ              水
 この長柄《ながえ》は長柄の傘、即ち太夫の後からさし掛けるあの大きな道中用である。それを五六本も繩でからげて、張替屋へ持つて行かうといふのである。それと昔は何かであつた小家の世話女房とが、町中ですれちがふなどは一つの俳諧であつた。炭俵にならば入選したであらう。
    名代垢離は淺み/\と               丸
 代垢離《だいごり》といふのが通例である。京江戸に多かつたのは富士精進、夏の半ば代參をすると稱して人の謝禮を受け代垢離即ち代つて潔齋のみそぎまでもするのである。勞を厭うて成るだけ淺みに浸るといふのはどうだらうか。ちやうど若い衆たちの水浴びをしたがる季節でもあつたので、江戸では大川で泳いで居た。
   船頭の黒い背中へ花の雪               之
 代垢離には富士參以外、春さきのものもあつたのであらう。こゝは花の座、さても月竝な智慧の無い案じであつた。黒いのは無論肌の色で、もう此頃はよく肌ぬぎになつて居る。「船頭殿の顔の色」の眞似ではござらぬといふ意味に、(489)せなかといふことを言ひ立てたのだらうが、花が散るのにあちら向いて居るといふ心持は加はつて居る。
    參勤靱遠がすむ也                 尺
 大名の行列に靱《うつぼ》を持たせる家も武鑑には出て居る。それがちやうど河岸の向ふを通るのである。遠がすむといふ接頭動詞は手製だらうが、俳諧にはこの程度の言葉造りは、是からも許されてよからう。
 
       ○
 
 五色墨は五人の宗匠の四人が、五卷の歌仙を卷き、一人が順ぐりに判者になる仕組であつた。判者といつても普通の點者も同樣に、たゞよい句を拔いて點を付けるだけで、席上では難陳があつたといふが、何を言つて居たかしれたもので無い。意見を交へるほどなら各句の間に於て、作者の意匠を明らかにすればよいのに、この方はよくも聽き取らずに、勝手放題に次を附けたかと思ふものばかり甚だ多い。早いのが一つの見えであり、又どこかへ附けようと思つて持つて來た句も少なくなかつたらしい。その點は町内の旦那衆も變るところは無く、こゝも亦一つの雜俳川柳の培養基であつた。この紅梅筧の歌仙は、判者白兎園宗瑞であつた。此宗匠の點式は七級制で、こゝでは第三級以下しか與へて居ないが、その配當は次のやうになつて居る。
          宗瑞判
       是五鳳樓手 二
     聖護院    膳所の日當り
       席上珍 四
     この剃刀    むしの聲
     紫蘇漬    ちろりを提て
(490)     朱  五
     ワキ     眉はき
     金持のあそび 物狂び
     夕月夜
       長八
       丸四
 即ち三十六句の中から、二十三句まで拔出して居て、それも私たちの感じとはよほどちがひ、又附味のわからぬものも採つて居る。點譜といふものが序文の後に附いて居るが、五文字の評語あるものは十點、三文字の席上珍が七點、朱は五點で長は三點、丸を附けたのは二點である。その句どもがどういふ意味で好いのかは、無論是だけではわからう筈も無い。斯んなことばかりして居て、どこが俳道の振興になるとしたものか。すくなくとも私は諒解することが出來ないのである。
 
 (參照)
 勝峯氏 中興俳諧名家集 三六頁
 
(491)     青鷺の歌仙
 
     歌仙行
                         蕪村
   夕凪や水青鷺の脛をうつ
    蒲二三反凄/\と生ふ              宰馬
   きるべしと思ふ節より※[竹/(工+卩)]をれて     大魯
    十日餘りもおなじやどかる            士朗
   一しきり雨吹はれて月の雲             几菫
    つらなる山にたゞ秋の聲             都貢
  
   かくばかり萩刈とりし人いづち           美角
    鎖あづかる貫之の門               曉臺
   星落る方に小細き水の音              丈芝
    馬勞れしと松につなぎて             嵐甲
   此邊り劍磨べき石ありや              都貢
(492)    怪しき童よくものをいふ            几菫
   月寒く折/\雲丹を焚そへる            宰馬
    笈の佛のこけてまします             蕪村
   いかにせん野渡に人なく船もみず          士朗
    世にある夫《つま》をたづね侘つゝ        大魯
   古き緒の調べたゆべく花の前            曉臺
    春の夜やすく明てくもりし            丈芝
  ナオ
   雉鳴て山もと近く成にけり             嵐甲
    小家ふえたる小栗街道              宰馬
   放ちやりし盗人恩を報い來て            蕪村
    吾歸依僧の兄なりといふ             士朗
   浪あらくけふも暮行船のうへ            大魯
    闇の小雨のちどりかなしき            美角
   彳《たゝず》ムはせちに戀する人やらん       几菫
    ほう堪がたのうすものゝ香ぞ           曉臺
   供御の水あらしき布に打透し            丈芝
    有明しらむ南の庭                都貢
   忍びつゝ菊折音の聞えける             美角
    みぢかき衣の裾寒き秋              嵐甲
(493)  ナウ
   象《きさ》の這ふ潟の汀の美しき          曉臺
    笘ほす暮のゆたかなりけり            大魯
   苦き酒よくもさばけて富し家            士朗
    しばし狐の官をあづかる             几菫
   櫻さく岡より望む峰の花               同
    日影のどけきむら雨の中             都貢
 
 蕪村の芭蕉と異なる點の一つは、京畿によい弟子を多くもつて居たに拘らず、たゞ一方の雄であつたことである。國を擧げての聲望は、或は暁臺その他のよく行脚する人たちに、一籌を輸して居たかと思はれることである。競爭心の少ない人だつたらしいが、それでも他流仕合には色々の心づかひをしなくてはならなかつた。さういふ意味に於て私は、尾張の士朗の手録に傳はつて居る、この歌仙の一卷に心を引かれる。どの方角から見ても是はよい出來では無く、從つて本式の集には保存せられてない樣だが、俳諧の歴史としては、斯ういふのこそ却つて注意すべき史料である。第一に問題となるのは、この圓山門阿彌の連句の會席に於て、誰が執筆の役をつとめたらうかである。主客の差があれば亭主方で用意もして置かうが、是は雙方からの出合ひである故に、席に臨んでから二人の宗匠の間に相談があつてきまつたもので、多分はこの歌仙の第六句と、擧句とを受持つた名古屋の都貢が、老巧の士として其選に當つたのであらう。執筆の役目は表面には現はれないが、個々の句主が口頭を以て提出するものを、懷紙にも書き取り又他の連中にも披露することが主であつて、其際には勿論式目に合ふか否かを吟味するのだが、是はまづまちがへて注意を受けるやうな者が、この座には一人も無かつたと見てよからう。たゞ我々の考へなければならぬことは、近頃の人たちはよく指導者といふことをいふが、そんな或る一人の大宗匠の捌きなんかは、少なくともこの歌仙には無かつ(494)たので、言はゞ執筆が口を插むほどの違犯が無い限り、如何なる句でも其まゝ通り、從つて腹では少しも甘心しない句、自分ならさうは言はぬといふ句が、次々と陳列せられることにもなつたかと思はれる。それはどういふ意味ですかと、いふまでは何かの方法で尋ねることが出來ても、なぜ其樣な句を附けるのかといふことは、失禮になつて聽くことがためらはれ、勢ひ御座なりの又はとぼけた受け方に流れたわけである。この點は芭蕉も東北の旅中などで、少しはやはり經驗して居られ、貞門がしきりに廣まると、破れかぶれのやうな談林風が頭を出して來る理由も、是で片端は説明し得られる。句の附け樣がやゝ遠くの方から、當らず障らずに取卷くやうな形になつて、匂ひと響きが幽かな禮問答式に近く、正直者は却つてまごつかねばならぬやうな、作品が生まれるのも已むを得ぬのである。さういふ中でもこの蕪曉二翁の一座などは、まだ無理なことをせぬ方である。しかしともかくも全體の調子が沈みがちで、仲間ばかりの催しに見られるやうな、感興の昂まりは望めない。何れの作者も家へ歸つてから、あんなものと言つて舌打ちをして居たかも知れない。連歌が盛んになると殆と同時に、忽ち退屈の見本のやうなものとなり、更に俳諧といふ形の輕文學の歡迎せられる時代を招いたのも、遠い原因は斯んな處に在つたのかと、私などは考へて居る。
 
       ○
 
       歌仙行
 
                        蕪村
   夕風や水青鷺の脛をうつ
 俳句としては今もよく知られて居るもので、多分は兼て評判になつて居た爲に、此日の發句に推薦せられたものであらう。青の字眼目などゝ講釋する人は言ふだらうが、形がやゝ唐風で珍しいといふのみで、格別好い句だとも我々(495)は思つて居ない。しかも新しいといふこと一つが、十分に一卷の發句となり得たのである。
    蒲二三反凄/\と生ふ              宰馬
 作者はこの日記を見ると曉臺門で、もう一人立ちをして居る俳諧師である。蒲《がま》は夏の季で、初句の涼味を受けて居る。二三|反《だん》は鷺の居る沼の片端の景だらうが、すご/\といふ語があんまり利いては居ない。連句を平凡にした責任は先づ負はねばならぬ脇である。
   きるべしと思ふ節より※[竹/(工+卩)]をれて           大魯
 ※[竹/(工+卩)]は杖である。ちやうど短くしようと思つて居た所から折れたといふのが、竹でも無さゝうで何の杖だかはつきりせず、乙州の「秋に突折る」に劣つて居る。ひとつの轉換にはならうがごくつい通りな平句で、表六句へ出すのはやゝ早過ぎる。心持は夕方に水の邊りに出て立つて居る閑人の、或る小さな出來事を描いたのみで、少し前二句に對する同情も足りない。大魯は大阪居住の僧、蕪村に近いが交際は廣かつたらしい。
    十日餘りもおなじやどかる            士朗
 旅の假宿で、杖なども有合せを突いて出あるいて居るのである。表六句には旅を出さぬなどゝいふ説もあるが、この人たちはそれに頓着して居ない。しかし是などもへぼな句である。
   一しきり雨吹はれて月の雲             凡董
 此句は處を得て居る。始めの三句は戸外のそゞろあるきであつたが、宿が出たのを幸ひに是を家の中の眺望にしたのである。即ち雨後の月を旅の窓又は縁端から見出したので、新味は無いが句の形は引しまつて居るので馬鹿にはされない。
    つらなる山にたゞ秋の聲             都貢
 どうして「山は」としなかつたか不審だが、これも佳句のうちである。月の座は月を見つめるから、周圍の風物が(496)附けやすい。遠く近く山々の風の音が聽えると言つただけで、樹立ち峰の姿などが、やゝ眼に泛ぶのは手柄であつた。
  
   かくばかり萩刈とりし人いづち           美角
 この作者も曉臺方の京都人であつたことは日記の文中に見えて居る。こゝはもう家を離れて、初二句とは全く別な、麓の野をあるいて居る。花のある萩を惜しげも無く、うんと刈りこかしてある所に目をとめたのである。それはよいけれども、「かくばかり」や「いづち」がいや味である。
    鎖あづかる貫之の門               曉臺
 鎖はジョウと讀ませるので、トザシでは多分あるまい。たゞ「を」のテニハが落ちたものと思ふ。貫之の別莊又は昔の家だといつて、留守番が居るのである。風流の歌人に因みのある土地にしては、荒つぽいことをしたものだと思ふのか、又は是も面白いといふのであるか。私は後の方ならばやゝ賛成する。しかし結局は思ひがけぬ附け方をするのが主で、今までこらへて居た大家の附句としては、まことにたよりないやうである。
   星落る方に小細き水の音              丈芝
 丈芝は仙臺から來た遊歴俳人で曉臺の流れらしい。流星を見つけ、水の音に耳を傾けさせたのはよい。小細《こぼそ》きは新しい造語であらうが、ちつとも感心しない。何かもつとよい言葉があつたらうにと思ふ。しかし少なくとも急いで附けた句といふことはわかる。即ち持參の句ではない。
    馬勞れしと松につなぎて             嵐甲
 是は落人とも行軍の士とも考へられ、やゝ前の句の情景とも打合ふやうである。一卷のうちに一處は軍事を、戀と同じやうに插まうといふ趣味は、もう大分前から始まつて居た。嵐甲はどういふ人であつたか、まだ私は知らずに居る。
   此邊り劍磨べき石ありや              都貢
(497) 是は少しく始末の惡い附句である。勇士を一人出して見ようといふ注文があつて、斯んな外國くさい表現が思ひ付かれたのであらう。しかしこの爲に卷の上に仙氣が添はつたことは、次の附けからも想像せられる。漸く連衆の氣分が統一しかけて來た。「磨べき」はとぐべきである。
    怪しき童よくものをいふ             凡董
 怪童といふと金太郎を思はせるが、是は神佛の化現とも見るべきけだかい美しい稚兒なのである。趣向がさきに立つて言葉が調はなかつたと言はれようか。「物を言ふ」も不思議な告げといふ風には聽えない。
   月寒く折/\雲丹を焚そへる            宰馬
 雲丹《うに》は宛て字で、石炭の地方語である。今いふ亜炭泥炭の類であらう。それを爐に入れて旅僧か何かをもてなすのである。この月の座は寒月で冬の季、それ故にたゞ一句で、再び雜の句を附けて居る。
    笈の佛のこけてまします             蕪村
 行脚の徒の護持佛は小形のもので、それを笈の上段に立てゝ、開いて拜むやうにしつらへてある。爰でも寒夜に笈の扉を開いて看經を始めようとすると、その御本尊がもつたいなや横になつておはす。それを何ぞの御示しとまでは驚いたのであるまいが、俳諧では通例どう取られてもよい樣なつもりで、斯ういふことを附けるのである。ウニ焚く老女などが目を圓くした容子までが見える。働きのある句である。
   いかにせん野渡に人なく船もみず          士朗
 いかにせんは爰では言ひ過ぎと思ふが、渡し舟を待つ間があまりにも長いので、しばらく笈を卸してみ佛を拜まうとしたところである。「野渡《やと》人無く船おのづから横たはる」といふ詩の句を、人も知つて居ると思つて出して見たのである。才氣のある句風である。
    世にある夫《つま》をたづね侘つゝ        大魯
(498) 「世にあるつま」は短くてよく用を足して居る。能の狂女ものを始め、中世最も流行した物語の主人公、それが「隅田川」などのやうに、渡し場に來て舟を求めて居るので、前句の「いかにせん」は寧ろこちらだらうと、やゝ揶揄したやうな態度も窺はれる。朝顔日記などゝいふ淨瑠璃も、もう此頃から知られて居たかどうか。
   古き緒の調べたゆべく花の前            曉臺
 蕪村の漢詩張りに對し、この人は和歌の感覺を利用しようとする傾きが強い。此句なども由無き氣取りであつて、その爲に却つて述べ盡して居ない。古き緒は箏の琴であらうが、其調べが絶え/”\に聽えるといふのか、はた今はもう聽えないといふのか、二つ何れかによつて花下の情景はまるでちがつて來る。それを明らかにしてないのは思はせぶりが過ぎる。私の解釋は、物狂ひのさすらひの女だから、たゞ花の盛りに來合せて、昔の日の琴の調べを想ひ起すのみで、此場にはその音樂は無いものと見て居る。しかしさうすると愈たより無い表現である。
    春の夜やすく明てくもりし            丈芝
 輕い附け方が好もしい。この方は琴の遊びもあつた一夜が、明けてから曇つたといふので、宵には月があつた花の前の光景も、言外にほのめかされて居る。
  ナオ
   雉鳴て山もと近く成にけり             嵐甲
 拂曉に家を出た旅立ちの朝を考へたものだらう。曇り日の雉子の聲が聽えて、見上ぐればもう峠の口である。山もとは連歌道の由緒ある一語で、是だけからでも霞む春の山を胸に描かしめる。たゞ「成にけり」が爰では稍投げやりで、句の姿にばかり身を入れて居る者への、一つの皮肉のやうにも受取れる。
    小家ふえたる小栗街道              宰馬
 斯ういふ何でもない囑目の風景も、時にとつては面白いと思ふ。小栗街道はどこに在るか私は知らない。或はこしらへものかもしれぬ。この前通つた時よりは路傍の家が多くなつて居るといふだけである。
(499)   放ちやりし盗人恩を報い來て           蕪村
 前句があんまり平凡だから、爰で一波瀾をと思ひ立つたものか。斯ういふ物語は讀書子で無いと興を起さぬが、連句の彩りとしては折々は必要のやうである。以前助けて貰つた盗賊あがりの男が、どういふ風にして恩返しをしたかといふことは、例の通りはたの者の想像にまかせてあるが、幾つかの御伽や草紙類を見て居る者には、前句の峠の麓路の小家と見合せて、各自に面白いやうな奇談を調理することが出來るのである。斯ういふのが或はこの翁の一つの趣味だつたかも知れない。
    吾歸依僧の兄なりといふ             士朗
 この句は前の蕪村の落想に共鳴した附けであつた。同じ物語の第二卷目、段々話し合つて見ると其弟が某寺の上人で、日頃自分の信を寄せて居る御僧であつた。因縁淺からずなどゝ馬琴ならばいふ所で、十二分に相手の句を賞翫して居るが、その代りには舞臺が狹くなつて、後の人には多少の迷惑である。
   浪あらくけふも暮行船のうへ            大魯
 やゝ苦心した轉囘であつて、是だと又ずつと地平線が廣くなつて來る。しかも前の句に對しても丸々の無沙汰でない。「けふも」とあるので毎日の船中の徒然、貴僧は何れよりなどゝつい話しかけたのが元になつて、村の住持さんと肉縁の兄弟だつたことを知るのである。但し此方は僧で無くともよいが、たゞの俗人や女性だつたら、さういふ發見もしにくからうから、さう想つて見るのである。
    闇の小雨のちどりかなしき            美角
 船路に千鳥、小雨降る海上の闇夜、誰にも考へつくことで是は遣句である。しかし連句はこの爲にずつと自由になつて居る。次の句主もやゝ乘つて來たことゝ思ふ。
   彳ムはせちに戀する人やらん            凡董
(500) 海邊でも川の岸でも、少し雨が降り千鳥の聲がして居る。しよんぼりと立つ影は曲者とも見えぬ。切に戀する人でもあらうかと、やゝ冷淡に見やつたところである。彳《たゝず》ムといふ初句が拔差しのならぬよい言葉である。
    ほう堪がたのうすものゝ香ぞ           曉臺
 是は小さなエロチシズム、單衣のきぬの香は薫物ではない。門の傍に隱れて思ふ人の出入を念じて居るやうな切なる戀である。初句の「ほう」は新しい間投詞で、めつたに文學には出て來ぬから人を驚かすのである。皮肉をいふならば是だけが目的だつたかもしれない。
   供御の水あらしき布に打透し            丈芝
 「あらしき」は方言かと思ふが、地の荒い丈夫な麻布である。貴人にさし上げる山下清水は、せめてそれでも用ゐて木の葉の塵などを漉さうとする。その役に奉仕するのは見たことも無いやうな上臈で、里の男などが近々とその衣の香を嗅ぐのである。この程度の前後句の接觸が、私には頃合のやうに思はれる。
    有明しらむ南の庭                都貢
 前句に供御とあるだけなので、こゝでは常の日の御座所と見たものか。南《みんなみ》の庭に夜明まで月がさすといふので庭の廣さもわかり、且つはその泉の在りどころまでが想像せられる。繪としては鮮明といへぬが、言葉の運びはしかとして居る。
   忍びつゝ菊折音の聞えける             美角
 明けかゝる月下に菊を折るとは風流の話、誰であらうかとゆかしがるやうな趣も見える。次の附けに至つてはもう有明でないから、又別樣の風情が豫期せられるのである。
    みぢかき衣の裾寒き秋              嵐甲
 以上三句が秋、但しこの衣《きぬ》は四句前の「うすもの」とはさし合はぬものと見える。前栽の菊をそつと來て折るやう(501)な者は、どうせ裾短な衣を着て居るだらうが、こゝは或は少年のいたづら兒を考へて居るのでは無いか。さうだとすると裾寒き秋もあはれに聽える。
  ナウ
   象《きさ》の這ふ渇の汀の美しき          曉臺
 象は宛て字であつて實際は蚶、即ちキシヤゴといふ小さな卷貝のことゝ思ふが、あの貝が這ひあるくを見るといふことは覺束ない。つまりはたゞ出羽の名所の象潟《きさがた》を言はうとしたのであらう。こゝは文政の鳥海山噴火によつて埋もれるまで、美しい海渚であつて多くの俳人が訪れた。作者も多分行脚して知つて居るのであらう。附心は秋も短褐で働くやうな人々を、この美しい風景と結び合せたのである。
    笘ほす暮のゆたかなりけり            大魯
 是も有りふれた附け方だが、「ゆたかなり」に趣向があるか。笘《とま》乾すは長い漁から還つて來たのである。「象潟は怨むが如し」といふ批評の裏を行つて居る。
   苦き酒よくもさばけて富し家            士朗
 富し家は豐かなる浦に對したものであらう。「苦き酒」は誇張であつて、手作りとちがつた酒の辛味をいつたものか。大きな造り酒屋が一軒あるのである。「富し家」の句形は、今も折々出逢ふが、吟詠に適しないからいけない。
    しばし狐の官をあづかる             几董
 小さな俳諧人事である。富翁の家で折角稻荷の官位を申下したのに、何か仔細あつて當の狐が居なくなつた。それを人間が假に預つて居るといふので、空の稻荷の祠の新しいのが、屋敷の片隅に立つて居る光景である。このユウモアは私などには高く買へる。
   櫻さく岡より望む峰の花               同
 近きは櫻、遠く簇り咲くは花、わかりきつたことを二つに向はせたのはつまらぬ趣向である。但し此岡には狐神の(502)舊居があるといふつもりであらう。凡菫は才分があり應接自在であるが、こゝの附けなどはもつと有りさうな處である。くろうと風な考へとしては、爰は花の座を特に濃厚にして、釣合ひを取るべき場處とでもいふのか知らぬが、言葉の續きだけではそれはどうにもならない。
    日影のどけきむら雨の中             都貢
 一卷に三つまで雨をもち出すのは面白くないが、むらさめの中は雨中では無く、何度かばら/\と來るその雨間であつて、水分が多く日の光もどんよりとして居る。山も里も花の盛り、人の心もおちついて、長閑といふ語が安心して使はれる春の日であり、乃ち又擧句に期待せられる落ついた氣分でもあつた。
 
 (參照)
 勝峯氏 中興俳諧名家集 三二一頁(幣ふくろ)
 同   蕪村一代集 六四頁
 
(503)     夜半の鐘の歌仙
 
       於東武石街旅舍兩吟
 
                        蓼太
   此鐘に夜半おぼえよ霜の聲
    火桶わびあふ假の我宿              几菫
   白梅の青き眼に咲出て                同
    田畑春めくかすみ千町               太
   夕月の綱曳分てとよむらん              同
    兄より丈のたかき弟                董
  
   世をしばし博多通にかくれ住             同
    ひそかに來ては泣て數珠キル            太
   人妻の袖挑灯もなつかしき              董
    廓は闇きとしの松風                太
   片隅に古く成たる雪まろげ              董
(504)   鎗をこゝろむ老の手の裏              太
   追返す菊池が武士に酒くれて             菫
    帆に打はらむ曉の秋                太
   殘月の入かたなくて澄る哉              菫
    野守に問へば鶉さま/”\             太
   駒とめよ貧しき花のやどりせん            菫
    菜はくゝたちの甘き此ごろ             太
  ナオ
   山笑ふ今や利休を落し穴               同
    睡れる眉を焦すはしり火              菫
   嵐吹皇居もかりの名面謁               太
    狐が訴訟二夜かさなる               菫
   病む鳥を小袖に他阿のかいくるみ           太
    鎌も得入ぬ雨の麥秋                菫
   おもはくの橋隔てたる戀をして            太
    みちのく紙に筆も染うき              菫
   洩る月の通ひて氷る油皿               太
    軒の鼠の落る木がらし               菫
   帶とるきねが頭の古烏帽子              太
    ざれつゝ狂ふ里のうなゐら             菫
(505)  ナウ
   うきくさの瀬はさだまらぬたかの河          同
    みどりこぼるゝいかつちの後            太
   蒲燒のゆふ暮かけていささらば            同
    大脇差の語齋永閑                 菫
   元禄の御普請盛花さかり               太
    俳諧盛世盛の春                 執筆
 
 高井几菫は先師蕉村の歿後三年、天明五年といふ年に江戸に下つて、石町《こくちやう》の鐘つき堂のあたりに假寓を占め、三世夜半亭を襲名した。それを支援し斡旋したのは、當時聲名の最も高い大島蓼太であつた。この二人の唱和は續一夜松前集の卷頭に掲げてあるが、二十何箇所の俳諧に孤劍長往した、目ざましい働きぶりの中でも、この一卷には殊に力が傾けられて居る。つまりは雙方が相手の力量を認め合つたのみか、情誼の絆が強く結ばれて、互ひに引立役のやうな好意を抱いて居たのである。それにも拘らず、前に掲げた其角と孤屋との未完の兩吟ほどには、油の乘つて居ないのはどういふわけであつたらうか。私は是を單なる修養徑路の差、又は主客の立場のちがひとのみは見ることが出來ない。何かもう一かさ深い處に、肌合ひともいふやうな心理的の條件が潜んで居て、それがまだ全く充されずに居るのかとも思ふ。蓼太は田舍出ながら優秀な江戸人型で、曾ては蕉風の次々の變化を獨吟に寫し出して見たり、又は兩の手に桃と櫻の句を發句に、一つの歌仙を假作したりして、その呑込の早さと表現の鋭どさを見せた位だが、さういふ才子の常として、悠々と人と共に笑ふやうな餘裕が乏しい。凡菫も八面玲瓏の天成の俳諧師だと思ふが、やはりまだいはゆる烏滸滸《をこ》の修行だけが、少しばかり足りなかつた。さういつた二人が力瘤を入れたのだから、平たい言葉でいふと、やゝ鹽がきゝ過ぎて、俳諧の滋味を味はせてくれないのではあるまいか。何れの方面でも文學は自由で無けれ(506)ばならぬが、俳諧には殊にそれを缺くことが出來ない。つまりは斯ういふものを職業として衣食の料とさせたやうな、世の中がよくなかつたのである。さうして其爲に大きな損をしたのも世の中だと思ふ。
 
       ○
 
       於東武石街旅舍兩吟
 
                         蓼太
   此鐘に夜半おぼえよ霜の聲
 初世夜半亭巴人は、かつてこの石町の鐘の下に住んで居たので、蓼太が世話を燒いて其近くに凡菫を下宿させ、そこで第三世の相續を發表したのである。その趣旨をこゝには傳へようとして居るのだから、好い發句が出よう筈も無い。しかし霜の聲は、嚴肅な先師の遺教を忘れるなといふ意味を、托した言辭としては調和して居る。「この鐘」と言つた初句にも感じはある。「石町なれば無縁寺の鐘」などゝ、元禄時代から俳人には親しまれた鐘の聲であつた。
    火桶わびあふ假の我宿              几董
 是も會釋の句である。名ある老宗匠がわざ/\歩を運んで、この寓居で一夕の雅筵を開かしめたことは好意であつた。それを成るだけ世の常の詩境にもつて來ようとしたのだけれども、侘び合ふがいさゝか言ひ過ぎに聽える。實際はこの新借屋が可なり不自由だつたであらう。それを貴丈までが共々に辛抱して下さると、いふやうな心持も添へようとしたものか。
   白梅の青き眼に咲出て                同
 白眼青眼は漠土文人の故事、梅は白いけれどなほ青眼を以て自分を遇してくれるといふのが、もう幾分かペダンチ(507)ツクであつた。火桶から梅への季移りは新しくてよい。
    田畑春めくかすみ千町               太
 或は前途は洋々だといふことで、こゝまでもまだ挨拶の句かも知れない。とにかく白梅は垣根に、外は霞む田園が開けて居る。その伸び/\とした眺望を樂しましめんとしたのは心得たものである。
   夕月の綱曳分でとよむらん              同
 この月の座は春の季として處理して居る。梅から始めて三句が春である。綱曳きの遊びは通例は正月十五日、七月八月の例も他の地方にはあるが、こゝのは「春めく」の附句だから、早春と見定めたのである。田畑千町も控へた村里の正月行事で、賑やかな心の時めく夕方であつたらうことを、想像させようとして居る。
    兄より丈のたかき弟                董
 丈はタケと讀んだのであらう。綱曳きは大抵小兒を中ほどに入れ、仲よいどうし年順に竝んで居る。こゝは顔だちのよく似た子が二人、年下らしい少年の方が大きいといふので、輕いけれどもユウモアがある。
  
   世をしばし博多通にかくれ住             同
 この句はわざと遠くから附けようとした爲に、二句の繋がりがはつきりしない。多分は壯年獨身の男二人が博多あたり、即ち町に來て借家暮しをして居る。何か曰くのある立退き者らしいといふことが、近まはりの話題に上つて居るのである。背だけまでを比べて見るほどの關心は女らしく、從つて次に戀の句の出やすい鋪設にはなつて居る。
    ひそかに來ては泣て數珠キル             太
 「來ては」とある爲にさい/\來るやうにも聽えるが、數珠《じゆず》切るは、らくだ即ち還俗のことで、爰は女に墮ちて佛戒に離れるのであるから、さうくり返されることは無かつたらう。或はもう一つくねつた尼さんと見たのかとも思ふ。さうすれば兄弟の浪人の一人と宿縁が盡きなかつたので、尼なら或は二度三度も泣いたかも知れない。まぎれも無い(508)戀の句であつて、なほ二句まで後を引くのは、この句の趣向に動かされたあまりかと思はれる。
   人妻の袖挑灯もなつかしき              董
 裸?燭を袖でかこふことが袖挑灯である。其姿は至つてなまめかしいものだが、人妻といつたのは思はせぶりが過ぎる。即ち人妻の爲に泣いて數珠を切つたとも取られ、又はたゞの手引の女とも説明し得られる。斯ういふ二つ三つの繪を同時に作らせようとしたことが、中頃の俳諧の常套手段であつたやうだが、それは恐らく祖師の好まれないわざくれであつたと思ふ。
    廓は闇きとしの松風                太
 年の松は門松のこと、即ち吉原名物の門の松であつて冬の季である。暮近き闇の中に、見事な飾り松を風が吹いて、松風といつてもよいやうな幽かな吾を立てるといふ意味。蓼太の人氣は斯ういふ都會風から高まつたものであらう。人妻といふ言葉も、色町だから殊に印象が深い。あて込みながら句の姿はすつきりとして居る。
   片隅に古く成たる雪まろげ              董
 古くなりたるは寫生である。よく門松の片陰に、雪まろげの押遣られてごみを被つて居るのを見かける。是はしかし餅搗きの相手見たやうなもので、この句一つとしては何ほどの働きもない。あまり競爭心が足りなすぎると思ふ。
    鎗をこゝろむ老の手の裏             太
 それをやゝ非難したとでもいふのか、この附句は又思ひ切つて遠ざかつて居る。雪だるまの片隅に在るやうな表庭で見物は一兩人、鎗の手を使つて見せて居るのである。いはゆる其場といふ勝手な附けではあるが、是には前句の「古くなりたる」に對して「老」を利かせて居る。
   追返す菊池が武士に酒くれて             董
 どうして突兀として菊池を思ひ付いたかは判らぬ。或は寂阿入道のことでも聯想して、それを逆に用ゐたのかもし(509)れない。酒を飲ませて返すのだから闘諍ではないことは明らかである。老武士が壯心を示して、多人數の訪問者を威壓して返すのである。酒まで飲ませるのだから得意さもこそと思はれる。たゞ縁も無い菊池を引出したことだけが、幾らもある例だらうが感心できない。
    帆に打はらむ曉の秋                太
 この附合でも蓼太が先輩の貫禄を見せて居る。北九州とすれば船出も似つかはしい光景である。陸には酒を御馳走になつた腰拔け共が見守つて居る中を、滿帆の風を受けて安々と船が出て行くのである。わざと風の語を省いて、「曉の秋」と置いた餘裕は心にくいまでゝある。
   殘月の入かたなくて澄る哉              董
 入方の無いのは海上だからである。まだ殘月といふには少し早いだらうが、つまりは誰も月見をしない月である。それが晴れたる空になほ光を放つて居るところで、繪にはもとより、歌發句にもあまり取扱はれて居ない題材、又は言ひまはしである。さうして又次の轉囘を容易にして居る。親切でもあれば手腕でもある。
    野守に問へば鶉さま/”\             太
 以上三句が秋、こゝは噂で無く鶉が現に鳴いて居るので、多分野守が案内して曉に行くところであらう。鶉も色々の啼きがあるものでござります。出處《でどころ》によつてちがふものと見えます。成るほど久しく此野に住んで居りやるから、さういつた心付きもあらうなどゝ問答して居るさまを句にしたのである。
   駒とめよ貧しき花のやどりせん            董
 花の座のすぐ前まで、秋の季を持つて來て見たのは一つの試驗でもあつた。この句は流石に少しも慌てゝ居ない。季移りの常の技術は、前の句をさういふ話と取ればよいのである。馬上の人をつれ出して來たのは是も餘裕で、野路で知合ひになつて鶉の話などを聽きながらあるいて居るのである。前に鷹野に來たときは二十五羽捕つたなどゝいふ(510)やうな、思ひ出話をして居るのかもしれない。こゝにもそちこちと好い櫻があります。花見とあれば一夜は御とまりなされては如何と、貧乏な癖にのん氣なことを言つて居るのである。
    菜はくゝたちの甘き此ごろ             太
 くゝたち又はフクダチは莖《くき》立ちである。以前の栽培種には少したけてから、食べておいしい菜が多かつたやうである。今でも語義は考へずに、ククタチを蔬菜の別名として居る地方がある。客をもてなすといふ場合に、起りやすい聯想ではある。「美濃の莖長」といふ前の連句によると、是を今いふ茶受けにもして居たのである。甘きは「うまき」であらう。
  ナオ
   山笑ふ今や利休を落し穴               同
 是は趣向過ぎて心持がつかみにくいが、一つの推量では、春さきになると利休の樣な氣風の人は、旅をしたり山野に茶を樂しんだり、優遊自適をしようとするであらうから、どうしても公邊の首尾を惡くし、失脚のもとになりさうだといふらしくも見える。さう思つて見ると「山笑ふ」もやゝ作意があつたのである。前句の甘い菜漬とも附かなくは無い。しかしいやな句である。この山笑ふまで三句が春。
    睡れる眉を焦すはしり火              菫
 この走り火も家の中では無くて、野火の飛ぶのも知らずに睡つて居ることではないか。少なくともさう取られてもよろしいといふ句である。睡れる眉は山の姿などを暗示し、ひそかに「山笑ふ」に對應せしめて居る。
   嵐吹皇居もかりの名面謁               太
 「名だいめん」と讀ませるつもりなのでないならば、この名面謁の三字は何といふか、私は知らない。是は禁裡炎上の飛んでもない事件を取入れたもので、廷臣が眉を焦したといふ故事を、やゝ不完全に踏まえて居る。御座所も名對面の作法も共に假だと言つたものと思ふ。「嵐吹く」は無用のやうだが、いさゝか其場所の光景を描いて居る。
(511)    狐が訴訟二夜かさなる              董
 又一つの珍しい物語である。新たな假宮に普請か何かゞあつて、久しく其地に住む老狐が夢に現はれて愁訴したのである。その夢見が二夜も續くからは、正夢であらうかと人々が評定して居る。斯ういふ話は可なりよく廣まり、一端を聽いたゞけでよく理解せられる。といふよりも却つて印象が深いのである。意外な又新しい味のある附けだと思ふ。
   病む鳥を小袖に他阿のかいくるみ           太
 是も前句の上を行かうといふ覇氣に充ちたる附け樣であつた。他阿《たあ》上人は代々の遊行寺の長老で、憐憫の心から病鳥をいたはりはぐゝまうとして居る。狐は狙つて居た餌食をかくされて、憤り恨むとでも考へさせようとしたのであらう。斯ういふ次から次への空想の波瀾は、ちよつと凡手には企てられない。
    鎌も得入ぬ雨の麥秋                董
 前句のやうな出來事は、片田舍ではいつ迄も取囃される。即ち是には村の生活諸相が附けやすくなつて居るのである。麥秋に雨が降りつゞいて困り切ることは、今でも多くの農村にはよくある事實で、又前二句のやうな小説風の場面を、轉換するには似つかはしい題材でもある。「得入ぬ」はエイレヌと讀む。文語ながら以前はよく知られて居た。
   おもはくの橋隔てたる戀をして            太
 雨のしと/\と降る五月、川の向ふの人を思つて居るのである。村の戀が垣根つゞきに折ふしは顔を見あふに反して、橋一つでも隔つれば淋しいといふ心持はわかつて居るが、「思はくの」の初五文字が説明しにくい。橋といふので雨のけしきがよく現はれ、橋ばかり眺めて居る女の心持さへあはれに感じられる。
    みちのく紙に筆も染うき              董
 「うき」といふので是も戀の句と取れるが、陸奧紙は幾分か上品又古代である。橋も事によると泉水の上に架けた橋(512)かもしれない。けふも訪ふ能はずといふ消息だから、筆が進まぬのである。
   洩る月の通ひて氷る油皿               太
 此句などはまだ完全に戀を出離したとは言へない。斯ういふぼかし染のやうな立退き方も、一つの方法と認められたのかと思ふ。隙間の多い古家の中に、冴えかへる月の光のさし込むのをながめて居る。その寒さで燈蓋の油が氷りつくのを、月の光が通うて同化するのかと見たのである。通ふといふ語は無論わざとである。
    軒の鼠の落る木がらし               董
 二句まで冬の季である。實際あることかどうか知らぬが、強い風が吹いて鼠が軒から落ちた。又は飛びおりたのを吹落されたやうに聽いたのである。冬も漸く寒くなる頃の寂寞を敍せんとして居る。
   帶とるきねが頭の古烏帽子              太
 キネは神社の社掌である。まことに何でも無い附けであり、頭《かしら》の字も餘分な穴ふさぎのやうでをかしい。但し此歌仙にはまだ神祇は出なかつた。それに氣がついたといふ迄は認められる。
    ざれつゝ狂ふ里のうなゐら             董
 最も有りふれたをかしみの足らぬ半句である。古い手引の本にも、前句社頭ならば里の童を附くべしなどゝ、あつたにちがひないのである。
  ナウ
   うきくさの瀬はさだまらぬたかの河          同
 たかの川は高野山の川ではなく、京の賀茂兩社の外を流れる高野川であらう、いさゝか打越とさし合ふ嫌ひがある。しかし句の形はよくとゝのひ、殊に瀬のかはりやすい流れに水草を思ひついたのはよろしい。里のうなゐ等とも親しみはある。うき草は夏の季で、この次の「みどり」も夏である。
    みどりこぼるゝいかつちの後            太
(513) 雷雨の後《あと》、新緑したゝるが如しといふのを、緑こぼるゝも變なものであり、いかつちの後もをかしい。雨は七句前に強いのが出て居るから、避けたのは尤もであり、又このあたりに來て、新樹の緑がほしくなるのも是非無いが、たゞ子供などの口合戰見たやうに、段々言ひつのつて言葉が荒びて來るのは、うとましい感じがせぬでもない。
   蒲燒のゆふ暮かけていささらば            同
 鰻の蒲燒をいふにちがひない。江戸でこの食物の大流行を見たのは、天明五年よりはさう古くからでないらしいから、是も初物として句にもち込んだものと思ふ。どこか庭樹の多い鰻屋に來て飲んで居るところである。もう日暮に近いさあ歸らうといふだけか、又は旅立ちの別宴であつて、鮫洲の川崎屋あたりの小休みが長くなり、是から夕涼に川崎まで行つて泊るといふのかも知れぬ。俗極まる趣向である。
    大脇差の語齋永閑                 董
 語齋永閑は傳を尋ねるのも煩はしいし、或は丸々の烏有先生かも知れない。名から想像し得るのは京大阪の富家の隱居などの、隨分伊達をして江戸で遊んだ者の歸途にでも取なしたものか。その大脇差は似合はしく無いやうだが、道中はやゝ古風にいかめしく、金で自由に人を使はうといふ所存であらう。さういふ語齋永閑が、江戸期も中頃まではなほ各地にぽつ/\居たやうである。
   元禄の御普請盛花さかり               太
 果して附句では「元禄の」と受けて居る。太平の形象などゝ謂つて、春はそちこちに家普請《やぶしん》の手斧や槌の音が聽える。花も到る處の岡や森に咲きこぼれて居る。さういふ中を幾人かの取卷きをつれ、大脇差をさして旅をする者があるのである。それがもうこの時代になると美しいローマンスであり、又俳諧の花の座にも向いて居たのである。大島蓼太は特に斯ういふ市人のあこがれを、よく理解して居た宗匠のやうである。
    俳諧盛世盛の春                 執筆
(514) たゞ單なる口拍子で一つの句を附けるといふことも、昔から無かつた趣味では無い。たゞ氣の毒なのは此席の執筆で、是はもちろん兩吟の作者以外に、宵から來て書き役承はり役を勤めた者があつたのだが、いよ/\1擧句になつてこゝの執筆に一句と、古い作法によつて所望せられ、それが此樣なをかしな言葉しか、もう出せないはめになつて居たといふのは、其事自身が一種の俳諧であつた。几菫が京から伴なつて來た樣子も無いから、多分は雪中門下の、それも年功を積んだ高弟であつたらうが、名を出さぬ掟だから致し方は無い。京江戸に數限りも無い點者業が出來て居たのも、大抵はこの執筆で久しく敲き上げた者が、暖簾を分けてもらふ格で、後々獨立したものであつたらしい。從つて又旦那衆に馴染も多く、諸人の心意氣もよく呑込み、又少々はかねて恩誼をふりまいて置くことも出來たものかと思はれる。要するに執筆は何かにつけて問題の種であつた。今後はどういふ形を以て之を置換へたらよいか。我々が考へてやらなかつたら、實際家は却つて困るであらう。無くてもすむ場合は考へられぬことも無い。現に此次の成美一茶の兩吟などがそれであつた。たゞ其爲には五萬八萬の、全國町村の許六支考を、連句に參加させることが出來ない。やはりあの人たちは俳諧の發句といふものだけを、精出してもらふやうにする他は無いかもしれぬ。
 
 (參照)
 勝峯氏 中興俳諧名家集 三九〇頁(續一夜松前集 元)
 
(515)     花を折るの歌仙
 
       文化八年閏二月十三日
                        成美
   花を折る心いく度もかはりけり
    さく/\汁の春の夕暮               茶
   鳥打がかすみの布子ぬぎ替て             美
    あらうつくしの橋のかけ樣             茶
   箕であふつ粉糠の先の三ヶの月            美
    木槿かざして人の行くらん             茶
  
   赤染が露の印の石を見て               美
    あらくれ武士に身を任せつゝ            茶
   匂ひなき木地の小箱を打詠              美
    涼しき足しにならぬ柿の木             茶
   短夜の袴をぬらす地藏講               美
(516)    欠法度と書て張る也                茶
   笠程に湖見ゆる窓きりて               美
    鼓うち/\よばる旅人               茶
   山雀の袂をぬける月寒し               美
    うき世は花の胴ぶくら哉              茶
   舟にめす入道どのゝかげろひて            美
    長閑なりける乞食の舞               茶
  ナオ
   鐘聲あれが大和の西なるや              同
    明家へ這入る一期つたなし             美
   白梅の片開きなる年とりて              茶
    あばたの君と誰か名によぶ             美
   戀衣大行灯に打かぶせ                茶
    三輪の烏が耳につくなり              美
   秋風の賢者を流すはりま潟              茶
    藥王品の草に入る月                美
   桐一葉三葉四葉にかや葺て              茶
    雨の茶湯の人を待かね               美
   古沼に小桶を浮す夕げしき              茶
    財布おとしていふ事もなし             美
(517)  ナウ
   ほか/\と壁の穴から花の春             茶
    子日を老にくやむ針立               美
   東風吹ばほまち無蓋のはやる也            茶
    宵は更しか黒犬をふむ               美
   臼唄のわか松樣もねたましや             茶
    杉の葉程に髯は細りぬ               美
 
 一茶の參與した連句を、一つだけ味はつて見よう。一茶この時は年四十九、相手の夏目成美は六十三歳の年長者であつた。成美は家も豐かに又コ望が有り、俳諧の方でも一派を率ゐて居たやうだが、衣食を是に求めたので無いから、境涯は至つて自由であつた。多分は一茶の才能を愛して、心安く出入させて居たのであらう。他にも兩人の加はつた歌仙は多いが、この一卷は殊にわだかまりが無く、力一ぱいといふ所が見える。文化八年といふ頃の、時代を表示したものと認めてもよからうと思ふ。成美全集にも載録せられて居るが、此方は誤植が心もとない。やはり勝峯君の校訂せられた我春集の本文に依る方が安全のやうである。但し若干のいはゆる作後改訂のあることは、かねて覺悟しなければならぬ。
 
       ○
 
(518)       文化八年閏二月十三日
                             成美
   花を折る心いく度もかはりけり
 いく度の度はタビと讀ませるつもりであらう。折つて人に贈らうかと思つて見たり、又は獨りで寂しくながめて居よう、折るのは惜しいと考へて見たりすることを謂つたので、折る動機が色々變るのではあるまい。つまりは庭前の櫻の盛りに對する主人の情である。
    さく/\汁の春の夕暮              一茶
 さく/\は飯に汁を掛けて食ふ音で、もとは粥や雜炊のくちや/\に對した語。こゝはその新語のびゞきに由つて趣を成したもので、十分に發句の氣特を汲んだとも思へない。脇としてはやゝそつ方を向き過ぎて居る。強ひて繋がうとすれば、客はこの夕暮の花が見たさに、急いで汁掛飯を食べて出て來ましたといふ所である。
   鳥打がかすみの布子ぬぎ替て             美
 前句の動きにさそはれて、然らばと屋外へ詩境を移したのである。鳥打は鐵砲について言ふ言葉だから、此頃はまだ流行の始めともいへよう。「かすみの布子」も少しひねつた物言ひで、家ではまだ布子《ぬのこ》即ち冬の綿衣のまゝで居たが、外もどんよりと風の無い日だから、それを脱いで輕装して出かける。それも夕方のこととて足ごしらへまではせず、たゞ袷を一枚引かけたゞけで、短筒を手に下げ、ほんの里まはりをあるくのである。村の旦那衆とか小さな知行取りとかに、此時代さういふ生活があつたものかどうか。私はまだ考へて見たことが無い。
    あらうつくしの橋のかけ樣             茶
 附句は人を變へてやゝ遠方から、始めて土地へ入つて來たことにして居る。しかも布子を脱いだ日で、心が輕くな(519)つて居るのである。面白い形の橋だ、流れまでが美しく見えるといふのらしいが、「あらうつくし」は餘りに大げさに聽える。恐らく古い附合にもある文句なので、場合もかまはずに眞似て見たのであらう。古風な語に對する感覺は、此時代はよほど退歩して居た。成美集の方には「あらうつくしと橋かけよ水」とある。この方が元の趣向で、それを餘り頓狂だと思つて一茶が考へなほしたのであらうが、とぼけて居るだけに前の方が俳諧になつて居る。いゝ川ぢやないか、橋をかければよいのにの意である。
   箕であふつ粉糠の先の三ヶの月            美
 谷川に臨んだ岡の曲り目などは、風の角度が變るので箕《み》を使ふのによい場處であり、以前よく見られる光景でもあつた。白米と簸分《ひわ》けた粉糠が飛ぶ方角に、ちやうど三日月が出て居るといふのも氣の利いた繪の好みだが、粉糠は用途の多いものであつて、めつたにそんな事をして飛ばしてはしまはぬといふことに、心付かなかつたのは流石に藏前の旦那であつた。籾がら粟がらでは三日月と調和せぬと思つたか知らぬが、やはりさうしないと寫實ではないのである。我春集の本文には糠の一字を用ゐて居る。糠はヌカともスクモとも訓み、もとは捨てゝ塵芥にしてしまふ穀皮のことであつた。粉ぬかは一茶の故郷などでは、貧しい者は食べても居たのである。口には出さなからうが、心ではこの江戸衆の物知らずが一茶にはをかしかつたらうと思ふ。
    木槿かざして人の行くらん             茶
 其爲でも無かつたらうが、この附けは稍へどもどして居る。箕からの聯想に木槿《もくげ》かざすを得たのは、私は「冬の日」の「巾に木槿を」の句の記憶であらうと思ふ。秋の季の花には相違ないが、そんな物を頭に載せるなどゝいふことは、昔から有りさうも無いことだ。いはゆる讀書底の俳諧は、ひとり蕪村の一派のみを責められない。一茶のやうな平民詩人もやつて居るのである。
  
   赤染が露の印の石を見て               美
(520) この赤染は百人一首の女作者なのだが、或は其名に木槿の花の色を托して居るのかもしれない。さういふ細かな心づかひも時代の風であつた。印の石は墓碑又は石塔のこと、赤染衛門の葬處が近江その他から、村人の夢に現はれて詠んだ歌によつて、發見せられたといふ風説が、此頃はしきりに流布して居たのである。「露のしるし」は、強ひて秋の季にとりなさうとしたやうに見えるが、歌によつて亡き跡を知つたといふ心持が見えぬでも無い。木槿かざして行く者は、其墓所を尋ねて來た人といふのであらう。少なくとも前句を粗略にはして居ない。但し一本には「石を見て」が「ほの見えて」となつて居る。
    あらくれ武士に身を任せつゝ            茶
 さういふことは赤染衛門には無いが、都の上臈が世に有りわび、又は人に押取られて田舍に行くといふことは亂世以前からも毎度語らるゝことであつた。それを草深い遺跡の句によつて思ひ合せたので、是も連句が一章の和歌で無い一つの證據として、折々は試みられることであつた。物語のあはれな一節を連句の中に導き入れようとすることは、芭蕉翁が殊に得意であつた。その傳統のこゝにもあらはれて居るのはうれしい。なほこの一句は戀である。前後の句との各中間に半分づゝ、合せて二句分ほどの戀があるとも言へる。
   匂ひなき木地の小箱を打詠              美
 鄙の住居には塗師も蒔繪師も無く、手箱も白木のまゝであつて、其中に折々の文反古を收めてある。それをぢつと見て居る人は、本人であつてもよし、又ゆかりの男女であつてもよい。はつきりとし得ない不自由さを、寧ろ俳諧は利用するのである。作者の老巧はいろ/\の點によく窺はれる。
    涼しき足しにならぬ柿の木             茶
 是は又思ひ切つて離れた附け方である。料理はそちらでと材料だけを持込んだやうな形さへある。夏の土用の蟲乾しの日でも考へたものだらう。柿の木は栽ゑ處といひ葉のぼて/\として居る樣子といひ、風通しの邪魔にはなつて(521)も、樹陰が戀しいといふ風情は無い。是などは實地であつて、信州柏原での經驗とも考へられる。
   短夜の袴をぬらす地藏講               美
 地藏講は七月が普通だが、六月の二十四日にも催す處があつたと見える。袴をぬらすが趣向なのだらうけれども、我々にはどうもはつきりとしない。或は夏の夜の寄合に水使ひをしたので、それで濡らしたといふ偶然の事實を述べたのだらうか。いさゝか獨り合點のやうにも聽える。
    欠法度と書て張る也                茶
 欠法度はアクビハットと讀ませる。老人の講中も多いことだから少しは退屈な話も出るだらう、といふことを下に持つて考へると、一茶らしい附け方とも言へる。しかし田舍では、めつたにさういふ快活な張り紙をする者も無く、欠伸は遠慮しつゝ、腹では退屈して居た時代が長かつたのである。
   笠程に湖見ゆる窓きりて               美
 近所のひま人共のよく集つて來る庵なのである。壁にして置く方が暖かでよいのだが、息拔きの爲に小さな窓を明けることになつた。「笠ほど」とあるので少し高いところに、圓く切つた窓なることが察せられるのも面白い。但しあまりよく出來て居るから孕句かも知れない。
    鼓うち/\よばる旅人               茶
 鼓を打つのは旅人の方では無く、徒然に鳴らして居た鼓を一調子高く揚げて、ヤーホイなどゝ聲を掛けて見るのである。それに引かれて道寄りをするやうだつたら向ふも氣樂人、半日ぐらゐは茶を飲んで暮してもよいといふ所だらう。是も想像上の、隨分と古い型の人物であつた。
   山雀の袂をぬける月寒し               美
 山がらの藝を以て口すぎをする旅の門附けをいふのだらうが、それが鼓を打つて來ることは私は知らなかつた。袂(522)の中を右から左へ、山雀に拔けさせることは藝の一つであつた。月寒しの五文字は、ほんの月の座の義理としか見えない。或は素布子《すぬのこ》一つの腕をにゆつと擧げた形を思ひ合せたものか。ともかくも爰は前の七八句目から月がこぼれて來て居て、花月一句にでもしなければならぬ形勢だから、相談づくでそれを避け、寒月の冬の季で片づけようとしたものであらう。次の句の聯路が少し通例とちがふやうである。
    うき世は花の胴ぶくら哉              茶
 胴ぶくらといふ語はもう行はれないので、どんな氣持で使つたか私にはわからぬが、一つの想像は、是が山雀に藝をさせる時の、囃し歌の一句か、又はそれに近いものだつたかといふことである。さうで無いと月寒しからの季移りが無理である。胴ぶくらは帶から上をうんとたるませた衣類の着方、即ち山がら使ひの風俗かと思ふが花の胴ぶくらといふ場合には、その花の林のまつ只中の意味になり、浮世は斯うして遊び過すべきものといふ、醉中の言葉とも聽えるのである。此あたり作者二人の興味はよほど昂まつて居るらしく、それにはもう私たちは附いてあるけなくなつた。この歌仙は發句が花だけれども別に花の座を備へて居る。
   舟にめす入道どのゝかげろひて            美
 何處か兩岸に櫻のある川筋で舟で花見をして居る、正客は法體なのである。此かげろひは陰になることでは無く日の光にあたつてそのあたりに陽炎《かげろふ》が立つて居るのである。坊主のてら/\とした酒の顔も思ひ泛べられて、前句「浮世は花」の自分の解もやゝ落ち付く。淨海入道といふほどのえらい人で無くても、めすといふからには相應の身分の人を想像させ、それで次の乞食の句が、對照の附けになるのである。
    長閑なりける乞食の舞               茶
 是は又堤の上で、舟の通る前から袖乞ひが舞つて居るのである。誰に所望せられたとも無く、あれでも活計になるかと思ふやうに悠長に舞ひつゞけ、それを立ち止まり又はあるきながら、次々と多くの人が見て通る。さういふ光景(523)が是だけの句から描き出されるのも、或は私たちのやうな以前の花見を知つて居る者だけかも知れない。この長閑《のどか》まで三句が春の季である。
  ナオ
   鐘聲あれが大和の西なるや              同
 豐浦の寺の西なるやといふ昔の舞ひ歌の記憶であつて、一茶にはちよつと珍しく、亭主の趣味に迎合したともいふべき形である。勿論禮儀としても是はよい事であるが、少し前の句と引つき過ぎた嫌ひがある。この一卷は主客相互に一句をこゝまで續け、爰で二句重ねて上と下の句の分擔を取替へて居る。古い作法のやうだが少し片より過ぎる。中途でもう一度ぐらゐさうした方がよいかも知れぬ。なほ言ひ落したが、鐘聲はカネノコヱとよむべきで、是も「難波の寺の」といふ古い謠ひ物などにある。しかし大和の西といふのは少しく當らない。
    明家へ這入る一期つたなし             美
 是も花々しい物語繪のつもりだつたのだが、印象がやゝ淡かつたか、次の句があまり賞翫してくれなかつた。一|期《ご》は生涯の終り、即ち腹を切る場合によく用ゐる言葉なのである。敗軍の將が見かけた路傍の家に入つて最後を遂げようとしたのに、あいにくそれは空家であつて、念佛看經の調度すら無かつたといふ、笑へない滑稽を案じついたので、芭蕉翁だつたらきつとその氣持を汲んで、こゝへ又一つの哀れな句を附けられたらうと思ふ。友だちをよつぽど選まないと、連句も時折は興ざめのものになるのである。一茶の附句は惡いのでは無いが、人に分つべき同情は足りないたちだつた。
   白梅の片開きなる年とりて              茶
 これは或は「空家へはひる」を、たゞ引移つて來た人とでも取つたのかも知れない。現代の住宅難でも無い限り、人が空家で無い家へ入り込むことはめつたにあるまい。もしさうだとすれば頓珍漢な受け方である。ともかくもそこに老木の梅があつて、一方の枝ばかり花がついて居るといふのである。こゝに不審なことは、白梅は春の季であるべ(524)きに、たゞ一句で棄てられて居る。單なる見落しか、何かわけがあるか。或はまだ私の氣づかぬ解がつくのか。
    あばたの君と誰か名によぶ             美
 是は遠い附けながら心持はほゞわかる。名木の梅の手人も屆かぬ庭をもつ家に、由ある女性の富裕で無いのが住んで居られる。昔なら末つむ花とでもいふところを、人呼んであばたの君、是も亦胸の痛くなる滑稽であつた。この戀の句は處を得て居る。
   戀衣大行灯に打かぶせ                茶
 行灯はアンドウ、古い言葉では無いが殿中のさまである。斯ういふ場合の衣裳を「戀ごろも」は先づわかつて居るが、趣向はそれだけで無く、前の痘痕に應じてそれを隱すために、あたりを暗くするかと思はせたので、是はくすぐりと名づくべき笑はせ方であつた。
    三輪の烏が耳につくなり              美
 斯ういふのが又いはゆる半句の戀であらう。三輪は五句前の大和とさし合つて居るが、「戀しくばとぶらひ來ませ」の歌の本山である。烏も別れを催す鳥として言ひ古されて居る。しかも一方にはこれはどういふ人事にも續くべき一つのアンテナで、一卷をはかどらせる上には大きな功がある。自分も少しは仕事をしながら、斯ういふ遣句の役を兼ねることは、場數を踏んだ者でないと出來ないわざである。
   秋風の賢者を流すはりま潟              茶
 此句も或は成美ばりを狙つたのかもしれない。何でも無いやうだが秋風はよく利いて居る。烏は神の使でしば/\前兆を知らしめる。播磨の海とは縁の遠い大和の三輪ではあるが、「耳につく」といふ語はいつ迄も忘れられないことを意味するから、流人自らがさてはあの聲が前兆だつたかと、思ひつゝ居ることにも取れるのである。
    藥王品の草に入る月                美
(525) 是は特に姿に愛着を抱いたらしい句である。藥王品《やくわうぼん》の草といふのも出處はあらうが、其爲に一卷の經文を飜へして見るまでもあるまい。要するに船中靜かに此經を讀誦して、眞夜中過ぎにも及ぶのである。船は播州あたりのいづれかの浦に假泊して居るかと思はれる。月は今うしろの岡の草の中に沈まうとして居る。心の澄み切つた寂寞境であつて、且つは中世の物語の美しさを繪にしようとして居る。
   桐一葉三葉四葉にかや葺て              茶
 「三つは四つは」の意味はまだわからぬが、ともかくも富人の殿作りであつた。桐一葉の口拍子で、こゝに言ふのは無理だらうが、是も萱葺きながらさういふ賤しくない隱栖であつて、そこに經讀む聲が聽えるのである。草に入る月も海の旅よりはこちらが自然に近く、ともかくも鮮かな置換へとは言へよう。
    雨の茶湯の人を待かね               美
 有りふれた情景ながらも、雨を添へたのは働きであつた。新たに萱を葺いた後の、雨の音の物珍しさも想像せられる。但し斯ういふ附けばかりが續くと、炭俵の百韻よりはもつと始末の惡いものになつてしまふだらう。
   古沼に小桶を浮す夕げしき              茶
 菱とか蓴菜とかを採る爲の小桶であらうが、それを言はずに置くのは計畫だつたらしい。雨の茶の湯に人を招く者などが、わざとさういふことをした場合も無いとは言はれぬ。但し夕げしきの語はいやみである。日頃あんまり俗語の活用にのみ力を入れると、折々は斯んな陷穽にも落ちるのである。感覺の錬磨は俳諧には殊に必要であつた。
    財布おとしていふ事もなし             美
 どうして斯ういふ句を附けたか合點が行かぬ。やり句以上に何でも無いことで、しかも「相撲に負けていふ事も無し」の先例がある以上、半分は自力でも無いのである。老人だからもう少し疲れて居たと見るの他はない。
  ナウ
   ほか/\と壁の穴から花の春             茶
(526) 財布を落した男のその後の?態を考へたものか。外はもう春になつて居るのに、家に引込んで居て空も仰がうとしない。よくしたもので僅かな壁の穴、冬は風が入つてこまつたその隙間から、花咲く頃の日ざしと温氣とが傳はつて來る、といふのはうつら/\と寢てゞも居ることであらう。言葉はをかしいが格別の詩情も無い。
    子日を老にくやむ針立               美
 こゝでは花の春を花咲く春、たゞ春になつたといふ心持に取つて居る。子日《ねのひ》は正月のなかば迄の行事で、花よりはずつと早いのである。同じ季のうちならどう動いてもよいとなつて居るやうだが、斯うして逆に戻るのはやはり附け方にどこか無理が出來る。成るだけ避ける方がよいかと思ふ。一句の意は、若いうちはけふは必ず郊外に出て、松引く都人の中に交つて遊んだものだが、もう今では壁の穴を通して、春の光を感ずるやうになつたといふので、くやむは空しく壯年を過したことを悔むのであらうが、その主人公がどうして針立即ち鍼醫になつて居るのかは解し難い。たゞ偶然の思ひ付きでないとすれば、或はそれを盲人としたのかもしれない。さうすると又一つの曲折ある昔が想像に上つて來るからである。
   東風吹ばほまち無盡のはやる也            茶
 初句は「こち吹かば」で、菅家の歌をふまへたのかとも思ふが、もしさうだつたら厭味である。やはりすなはに東風《こち》吹けばと味はつて置くことにする。ほまちは女房たちの私財で、めい/\何かの心づもりがあつて、男のするやうな頼母子《たのもし》を發企するのである。前句との附けははつきりせぬが、この作者なら或は座頭の妻が、大分の内證金をためて居ることを、言はうとしたとも考へられる。句作りはをかしいが、さして好い趣向とも私には思へない。
    宵は更しか黒犬をふむ               美
 無盡は夜が更けるもので、歸りに寢て居る犬にぶつかるのである。黒犬を踏むは昔話を聯想したかと思ふ。此邊の數句は何かごちや/\と行戻りして、少々だれ氣味と言つてもよい。兩吟では三十六句でも一晩にまとめようとする(527)のは無理である。「宵は更《ふけ》しか」もどうやら實感のやうである。
   臼唄のわか松樣もねたましや             茶
 うれしめでたの若松さまよといふ酒宴歌を、どこやらで臼ひき唄にうたつて居る。昔は主として花嫁花聟を祝ふに用ゐられたものなので、それを聽くと妙にねたましい氣がする。戀に展開してもよい詩境であるが、黒犬の後でもあり、もう擧句も近い。つまり爰に出すのは當を得ないのである。この折で同じ作者は花を第一句へ引上げて居るのは、どういふ積りであつたかわからぬが、或はこゝの五句目で何か新しい試みをしようとしたのかも知らぬ。如何にも斯ういふ句を爰に置けば、擧句のこしらへにくいことはわかり切つて居る。
   杉の葉程に髯は細りぬ                美
 髯はあごひげのことだらう。前句はまだ盛りの、たゞ本式の婚禮をしなかつた男女の「ねたさ」だつたが、この方は老翁の髯の毛さへ細くなつた者が、この歌の文句を聽いて感慨して居る所である。松に對して杉の葉も趣向だが、事によると是は亭主の六十三翁の自畫像だつたかもしれぬ。つまりこの卷では名殘裏の花の座を四句引上げたやうに、擧句の祝言も一句前へくりかへて居るのである。
 
       ○
 
 この一卷の中には、幾つか腑に落ちぬ點もあるが、ともかくも二人が水入らずに樂しむのが主であつて、別に世間への披露を念としなかつたことが、私たちには誠によい參考である。成美は閑人といふ以上に心がけのよい學者であつて、元禄の俳風に親しんで居たことは、我々などの到底及ぶ所ではないが、さうして見たところでやはり此程度にしか附いて行けず、又獨立して我が時代の新色といふものを、高く掲げて見るといふことも出來なかつた。一茶は發句に於てこそユニックな持味を見せて居るが、附合となると、やはり手本なり物さしなりは外に在り、大よそ此頃の(528)人の行き付く處までしか往つて居ない。是から先々の俳諧はどうなつて行くか、又どうなるのが最もうれしいか。それを世の爲に弘く考へて見ようとする者にとつて、何やらまだ多くの發見せられぬものがあり、それは作品の一つ一つを、丹念に味はひ感じて行くより以上に、もう他の方法は無いやうに私たちには思へる。どうかさういふ仕事を心樂しく、もつと/\續けて行かれるやうな學風を、是からの日本に盛んにしたいものである。
 
 (參照)
 勝峯氏 一茶連句集成 五〇頁
 菜窓無角 俳家成美全集 二一一頁
 
(529)  俳諧評釋續篇
 
(531)     別座鋪の歌仙
 
 淺き砂川を見る如くといふ蕉風の新傾向は、この一卷などがよく代表して居ると思ふ。師翁は元禄七年の五月八日に、愈最後の旅の門出をするに先だち、子珊の家のいはゆる別座敷に招請せられて、四人の新しい同志と半日の閑談を共にし、その席上に改めて俳諧の新たなる進路、句形と附け心の輕みといふものを説明して人々を感動せしめた。さうして之が機縁となつて其夜のうちに、この一卷の歌仙をまとめたといふことが、子珊自らの序文のうちに見えて居る。炭俵の卷々の用意あり計畫あるものとちがつて、是は實習であり又作後の修正を經て居らぬ素朴の作品であつた。杉風は此時が年四十九、桃隣は師より長ずること五歳の五十六であつて、彼一人だけは既に社中門弟を抱へて居たらしいが、其他の三人はいはゆる遊俳の徒であつた。杉風は名も高く?旅行をして、遠國の交際があつたやうだが、子珊八桑の二名は齡もまだ老いず、教へを聽くことも久しくなかつたか、私の知つて居る限り、以前の選集に名を列ねたものは殆と無い(子珊の句は炭俵の中に出て居る)。多分は鯉屋の隱居の手引きによつて、次第に芭蕉に近づいて來た町の人だつたのであらう。八桑の身元は丸つきり私にはわからぬが、子珊は深川の相應な商人かと思はれ、後にこの連句を卷頭にした一册の本をこしらへて、之を伊賀に在る宗匠の許に送つたといふことが、是も其序の中に見えて居て、今日の言葉でいふ自費出版らしいから、さうしたことも出來るだけの旦那株であつたらう。師翁の懇切なる教訓を受けて、この人たちの最も隨喜したのはどういふ點、如何なる部分が特に深川集以前の江戸の俳諧とかはつて來て居るかといふことは、へたな私の説明では、長くばかりなつて要點が捉へられまい。結局は實作の一句一句(532)に就いて、今少し細かに句主の心持を、察して行くやうにするより他は無い。他日誤りを知つて訂正するかもしれぬが、今のところ三つの點を私は注意して居る。その一つは誰でも言ふことだが、以前の俳人等の必ず具へて居た教養、たとへば若干の古典とか佛道の知識とかを、準備せざる多數者の加入によつて、古い形の俳諧が續けにくゝなつたことである。第二はそれほど人が問題にしないが、やたらに初心の者を引張り込まうとした結果、連句の時間が段々と長くかゝるやうになつたことである。蕉門ではその爲に百韻の興行をさし控へ、三十六句を以て通例とするやうになつたけれども、それでも一晩に一卷を卷くことは六つかしく、從つて連歌以來の主要なる條件、煩はしい規則の難關をくゞつて、すばやい應答を重ねて行くといふ處に、興味の高調を求めにくゝなつて來た。第三に更に重要なことは、以前の作法では、相手の句の作意を問ひたゞすことを憚かり、大抵は解つたつもりか何かで、つかず離れずのいゝ加減な次の句を、附けて行くのが通例のやうになつて居た。それでは結局は談林調が幅をきかせ、或は多くの孕句を持つて來て、強ひて落ちを取らうといふ才子ばかりが跋扈して、いつまでも俳諧は文字の遊戯を脱することが出來ない。それを救濟する一つの方法としては、平明なる辭句と尋常なる眼前生活の聯想とによつて、容易にめいめいの心の奧を、次へ/\と引き繼ぎつゝ、しかも協同製作の樂しみを失はせまいといふ處に、改良の趣旨があつたのでは無からうか。もしそれでなかつたならば、たつた十何年前の江戸三吟や武藏曲が、忽ち他の極端の炭俵式にまで、豹變してしまふ道理が無い。つまりは芭蕉翁はたつた一人、他の何人よりも苦悩せられたのである。いはゆる流行不易の論も恐らくは是から出て居る。つまりは是よりも更にすぐれた案が、まだ有つたのかも知れない。芭蕉はあまりに夙く世を去られたけれども、其爲に發見せられなかつたものが、永遠に消えてしまつたとは考へられぬ。我々はそれを是から尋ねて見なければならぬ。
 
(533)       ○
 
 
   紫陽花《あぢさゐ》や藪を小庭の別座鋪    芭蕉
 今ならハナレといふところだが、別ざしきといふ口語もこの頃は行はれて居たのであらう。「藪を小庭」は氣の利いた表現で、簡單にその場處を目に浮ばしめる。たゞし竹の林に面した僅かな日あたりに、たゞ一株の紫陽花が咲きほこつて居る光景などは、我々の記憶に在るものは皆田舍で見たもので、江戸の元禄の深川あたりの商家の裏庭に、さういふ風情が見出されたのかと思ふと、この一卷のなつかしさも一しほである。發句はいふまでも無く當日眼前の、有りのまゝの即吟であつたらう。あれほど充ち溢れた談林以來のさま/”\の空想を切捨てゝ、連句をたゞ身に近い思ひ出の相互の理解、新たな生活の味ひ方に導かうとするには、是は最も安らかな出發點であつた。
    よき雨あひに作る茶俵               子珊
 連句の脇を亭主が附けるといふ習慣は、本來は所謂もてなしの趣旨で、古風な俳人なら、大抵は何か會釋《ゑしやく》の意を寓した句を出すところだが、もうさういふことも強ひて考へるに及ばぬとせられて居たらしい。「よき雨あひに」はちやうどこの一日、梅雨の間の好い天氣の日があつて、茶俵を作ることが出來たといふだけの取合せで、師翁來訪の喜びまでを、それに托しようとするつもりは無く、たゞ此時の感覺が、自然に斯ういふ語を擇ばせたものと私は見て居る。茶俵といふ語は他にも出て居るが、私はまだ實物を見たことが無く、何で作るのかを聞いたこともない。或は俵とは謂つてもやはり澁紙の袋で、それを張るのには晴れた日を必要としたのではなかつたか。この句も多分は嘱目の景である。茶商で無くとも自家用の茶だけは家で製し、貯藏して置く風習が近頃までもあつた。しかし斯ういふ言ひ方が正しいかどうかは疑問である。文字の上からは何だか澤山の製品を包装して居るやうにも取れて、それではどう(534)しても前句との繋がりが無い。言はゞ同席の連衆だけには是でも通じたといふ迄で、外部の讀者といふものを念頭に置かない爲、しぱ/\俳諧はこの樣な獨善主義に墮ちやすいのであつた。
   朔《ついたち》に鯛の子賣の聲聞て          杉風
 この第三はもはや假構であり、けふは朔日でも無く、又魚の振賣も通つては居なかつたのであらう。がその代りに前の句の氣分は十分に受け繼いで居る。鯛の子は一種の方言で小鯛のこと、それを此時代にはタイノコ/\と謂つて、賣りあるく濱の者があつたものと見える。月の初日は神棚を祭る日で、めでたい魚を賣りあるく聲もさはやかに聽える上に、雨もからりと霽れ、けふこそは茶袋を作つて培爐《ほいろ》の仕度にかゝれるといふ、ちよつと樂しい滿足を得たところなのである。杉風は斯道の古つはものだから、凡庸ながらももうこの境涯にまでは到達して居る。
    出駕籠の相手誘ふ起/\              桃隣
 前の日からの約束があつて、駕籠かきに雇はれて行くのがデカゴである。一方が寢坊で、肴屋が表を通る時刻までまだ出て來ない。それを他の一方が起しに行くといふ、小さな横丁などの實況で、一本に「揃ふ起き/\」となつて居るのは誤りであらう。その誘ひに行くといふ男も起き/\、即ち今起きたばかりだといふところに、幽かながら俳味がある。上方では今も盛んに起き/\といふ類の重ね言葉を使ふが、東京ではもうあまり用ゐる者は無いやうだ。江戸の文藝語が獨立したのは新しいことで、もとは隨分多くあちらから借りて居たのである。
   かん/\と有明寒き霜柱               八桑
 有明は殘月、明るくなつてまで仰ぎ見らるゝ月、もちろん是でも月の座の月の代りはつとめられるが、この句では初五の「かん/\と」が少しも落付かない。霜柱ならばザクザクでなければならず、寒さも月の光も共にカンカンとは形容できない(ケンケントと改めた一本もある)。手柄はたゞ打越しの鯛の子賣を忘れさせ、まるでちがつた地方の町の冬の朝の場面を持つて來た點に在る。薄着《うすぎ》の駕籠屋が一人でうろつく樣子などは、寧ろ淋しい霜柱の路の上の方(535)が似つかはしいやうである。
    榾掘かけてけふも又來る               蕉
 この句も字數の割には複雜なことを言はうとして居る。斯ういふのが洗錬の功といふものであらう。榾《ほだ》は爐に焚く太い薪のことなのだが、それには松などの古い伐株が最も持ちがよいので、閑の多い老人たちが、ひまにまかせてそれを掘りあるいて居た。東北ではネッコホリといふのが普通だが、或は斯ういふ根つこだけを、ボタと呼んで居る土地が今もある。老人のことだから一日では掘り起しかねて、寒い朝に首卷きか何かで、昨日の掘りかけの處へやつて來るのである。年寄りは朝が早いが、殘月の影を踏んでまでは出て來ないだらう。察するに前句は霜柱が主眼だから、特に其方に片よつて附けたもので、さうした附け方も折々は許されて居る。
  ウ
   住憂て住持こたへぬ破れ寺               珊
 あたりの貧乏寺に僧が一人、けふは居る筈なのに寢てでも居るか、聲を懸けても返事が無いといふので、二日がゝりでボタを掘りに來るやうな、よぼ/\爺さんとよい相棒である。寺に所得が乏しくて住持をするのも張合ひが無いといふことを、「住みうくて」と謂つたのはちと大げさだが、それを承知でわざとこんな雅語を使つたのだとすれば、それも亦輕いユウモアであつた。
    どう/\と鳴濱風の音                風
 とう/\と濁音符を附けない本もあるが、濱風とばかりでは何を吹いて居るのかも知れないから、どちらがよいとも決しられぬ。この句の狙ひは舞臺を海ばたへ移して來たことで、或は荒寺の寂寥に對して、最も大きな自然の物音を配する趣向だつたかもしれない。何にしてもあまり時間をかけない附合であつたことは、句のこしらへのぞんざいなのをみてもわかる。
   若黨に羽織ぬがせて假枕                隣
(536) ちよつと目新しい轉換と言つてよい。この主人は醉つて居るのである。一人の從者をつれた旅の路すがら、海邊の旅宿に在つて風の音を聽いて居る趣と取れる。今なら宿の枕を取りよせるところだが、この時代には家來が我が羽織をくる/\と丸めて、御主の枕にさせ申すといふやうな奉公振りもあつたのである。或は是が以前の寵童であり、特別に目をかけて伊達な地厚の羽織などを與へて着せ、時折はそれを脱がせて枕にするのを、見得とも心ゆかしともして居たのかもしれぬ。次の附句を見ると、同席の人たちは是を戀の句と解して居るらしい。假枕を同時に旅中の意味にも使つて氣が利いて居たのでもあらうが、やはり深川集の有名な附合、
   西衆の若黨つるゝ草まくら              洒堂
    むかし咄に野郎泣する             許六
   きぬ/\は宵の踊の箔を着て             芭蕉
といふ一聯の、影響下に在ることは疑はれない。考へて見れば少し智慧の無い話だと思ふ。
    ちいさき顔の身嗜よき                桑
 羽織を脱いでしよんぼりと坐つて居る若黨の顔を、寢轉んで下から見上げた氣持であらう。小さき顔はたしかに寫生で、この句の主には一つの記憶もあつたことゝ思はれるが、我邦にはさういふ一種の型の顔があることだけは、同席の人々の共同の知識であつた。身だしなみといふのは袴の折目とか、青鬚をきれいに剃つて居るとかで、それに何とも言へない不憫がかゝるのである。存外に情のこもつた句のやうに想像せられる。
   商もゆるりと内の納りて                蕉
 打越し即ち前々句は男性だつたから、この附けではそれを女性に取りなして居る。しかしもう戀の句では無く、轉囘にちよつと骨の折れた箇所といつてよからう。この女房はさかしいのである。亭主に浮世心を持たせずにあきなひをさせ、次第に身代を伸ばして行くだけの力倆がある。江戸の中期の是も一つの世相であつたらうが、勿論詩として(537)は調子が低い。一體に炭俵式の努力といふものは、さほど感謝すべきものでないことが是からでも考へられる。
    山のかぶさる下市の里                珊
 この下市《しもいち》は吉野のつもりらしいが、是はどうやら實地に行つて見た人の描寫ではない。しかしともかくも前句は江戸か浪華の町家の内儀であつたものを、急に山間の小さな宿場の、荒物店か何かに引いて來たのは、俳諧の約束に忠實だつたと言つてよく、「山のかぶさる」といふ七文字も、獨立して印象が深い。さうして次の句の出しやうを大へん樂にさせて居るのも親切である。
   草臥のつゐては旅の氣むつかし             風
 「くたびれの附く」といふのは、旅行者の體驗である。一晩よく寢ても中々元氣を快復せぬ位に疲れて來ると、たゞ到着の日取ばかり算へられて、見るもの聞くものが新しい興味をそゝらない。山のかぶさる町の旅宿などは、紅葉や新樹の季節にはおもしろいものだが、それさへ何だか押へられるやうな氣がして好ましくないのである。前句をよく味はつたといふ點はほめてよいが、二句前の假枕も旅なのだから、少し近すぎてそれこそ「かぶさる」感じである。
    四日の月もまだ細き影                隣
 月の座の利用としては巧みである。氣六つかしい旅客がともを連れて、夕月の光り出す時刻までまだあるいて居るので、その細い月がこちらの氣分とは丸で交渉もなく、一つの田野風景をなして居るのが俳境である。日本の文藝には昔から、斯ういふ豫め讀者の心持を代表するやうな描寫が多かつた。即ちいはゆる主觀でも客觀でも無いのである。
   秋來ても畠の士のひゞわれて              桑
 少しく舌足らずのやうな表現だが、言はうとする心持だけは掬み取られる。秋は通例一雨を境にして季候の移りかはりを知らせるものだが、こゝでは夏の日でりがまだ續いて、月ばかりはもう文月四日になつて居るのである。「ひびわれて」といふ語が恐らく適切でないのだらう。この一卷の連句が可なり急行であつたことは、斯ういふ句柄から(538)でも想像せられる。
    雲雀の羽のはえ揃ふ聲                蕉
 是は解説のしにくい句である。雲雀は何といつても春の季題である。それを秋から春への季移りに利用しようとしたのだから無理がある。初の裏の月の座は通例七句目なのに、是は八句目の短句へこぼされて、おまけに秋の季がそれから始まつて居る。秋を二句で切上げるにしても、もう此次には花の座が來て、それは動かせないものと先づなつて居る。其橋架けの第十句目は、ぽつりと雜の句をたゞ一つ插むのも氣が利かぬので、以前からよく色々の變化が考案せられた。畠といふのでふと雲雀を思ひ付いたものゝ、是を初秋と繋ぐことは一仕事であつた。三番子ぐらゐなら夏の末まで、まだ雛らしい樣子をして飛びあるくことも有り得るが、それにしても生えそろふ聲はちと苦しい。句になる雲雀の聲は、普通は中空に高く啼くのを謂つて居る。わかい雲雀はまださういふ囀鳴はせぬ筈だから、實はたゞ飛ぶのを見て居たといふに過ぎなかつたらうと思ふ。しかしさういふ穿鑿はあまり深くせぬといふことも、事によると淺き砂川主義の要領の一つだつたかもしれぬ。發句だけならともかくも、連句は到底寫生一本では押切れないものだといふことが是でわかる。
   べら/\と足のよだるき花盛              珊
 濁音の無い方の一本が正しい讀方であらう。しかしへら/\にしても、言葉の正しい選擇では無い。たゞ何處にでも腰かけ寢轉びたいやうな氣持を、現はさうとした意圖が窺はれるといふだけである。「よだるい」も恐らく上方語、江戸では芭蕉の頃でもなほ普通では無かつたかと思ふ。子珊といふ人の國元がわかるやうな氣がする。
    ひらたい山に霞立なり                風
 斯ういふ附け味こそは蕉門の獨得で、野坡孤屋以前から夙く存し、後期に及んで一段と光を放つたものと云へる。素より何でも無いことだが、之を思ひつくのが既に修練であり殊に前句の如き境地に取合せるといふことは技能であ(539)つた。惡く推量すると杉風翁、かねて斯ういふ句を考へついて折を待つて居たのかも知れない。この句有つて始めて胸に繪が出來る。
  
   正月の末より鍛冶の人雇                隣
 わかりにくい句だが、次の句と共に苗代時の農村を描かうとしたものである。越後あたりの人ならきつと心づくだらう。鍛冶の人やとひは工場の爲では無く、冬から作つて置いた鍬類を分配する爲で、もとは毎耕作期に之を百姓に貸付け、籾で使用料を取る慣習も普及して居た。從つて此句によつて眼に浮ぶのは、老人や子供の十分な勞働もならぬ者が、二挺三挺の鋤鍬を肩にして、町から村里へ分散して行く光景である。「正月の頃から」とはあるが、もうそちこちで水がちよろ/\、蛙も鳴き始めたといふ頃の午前なのである。
    濡たる俵《へう》をこがす分取          桑
 「こがす」と濁音で讀んだ人は、恐らく此句の心持がわかつて居ないので、是は勿論コカス、即ち横にすることで無ければならぬ。鍛冶屋だから濡れ俵を火の傍で乾かさうとして、それを焦がしたと見て居る人もあるか知らぬが、そんな事があつたら天變地異で、句になるやうな尋常の生活では無いのである。農家が俵を濡すのは種漬けの時より他には無い。乃ち籾播きの期日が迫つて、その種俵を種井《たなゐ》から引揚げ、小口を開いて一門の家々に分取りさせて居る處なのである。名詞留めの句を二つ竝べたのもまづいが、言ひやうが惡い爲にその鍛冶屋の人足が、俵の中のものを分取りして居るやうにも聽えるので、是は畫中の人物が右左、二群に分れて居ると見ればずつと面白くなるのである。表の第二句目に茶俵とあつて、こゝに又俵を出すのは目障りのやうだが、一方はタハラこちらはヘウだから、耳で聽いて居るとさほどにも無いのである。しかし私なら斯んなことも避けたいと思ふ。
   晝の酒寢てから醉のほかつきて             蕉
 種おろしの日には水口祭《みなくちまつり》もあつて、神酒《おみき》が一同の男に行渡るのである。或る一人は一向の下戸だつたと見えて、夜(540)に入るまでまだはあ/\と謂つて居るのである。爰の「寢てから」は無論晝寢では無く、けふは休みで早く横になつて居る。まことに何でも無いことに注意し又些かの同情をさへ示して居るのは、この新たな流行の最も殊勝な部分として、我々は敬意を寄せなければならぬ。
    五つがなれば歸る女房                珊
 淡いながらに一句戀ではないかと思ふ。戀を一句で捨てぬといふことは規則だが、その反對の實例も少なくない。さうして又さう見た方が句は充實して來る。五つは暮六つの頃、今の午後八時頃、それまで女たちは本家に殘つて後始末をして居たので、その歸りを待つて居るやうな心持が味はれる。それは作者の無意識にでは無かつたやうに思ふ。
   此際を利上げ計に云延し                風
 際《きは》といふのは歳末即ち節季のことで、是は又思ひ切つた新場面である。多分女房が掛けの催促にやられたのが、暮れてから戻つて來て利子だけしかくれなかつたと報告するところか、乃至はその借金の言ひわけに行つて來たのか、何れにでも取れるのは覺悟の前なのである。利上げは利分のみを勘定して、元金を又一季さきへ送ること。以前の商人は大體に鷹揚であつた。
    まんまと今朝は鞆《とも》を乘出す          隣
 この轉囘も私は賛成である。鞆は瀬戸内海の重要な商業港、そこにまだ拂はぬ借金があつて、押問答に日を重ねて居た。漸う利拂ひだけで次の船便まで待つてもらふことが出來、ほつとしたのが即ち「まんまと」である。折から空は晴れ海は青く、追手の風が十分に吹いて居る。一時ながらもやれ心安やと、煙草でもくゆらす人の樣子が眼に見える。
   結構な肴を汁に切入て                 桑
 こゝはその船出の船の中の光景である。備後の濱は海の漁の豐かな處、安いからとは言ひながら、鯛などをざくざ(541)くと切つて汁に打込んで食ふといふ、あらし子共の無造作な生活を、寧ろ興さめて見て居るのだから、是は町屋の堅實な暮しに馴れた人、即ち上乘り又は便乘の客である。「結構な」といふのは神に供へ、膾にも燒物にもして祝宴に出せるやうな魚といふことである。
    見せより奧に家はひつこむ              蕉
 斯ういつた家作りももとは江戸にはあつたものか。固よりやゝ富裕な商人であつて、軒竝だつたら世間の手前でも奢りは出來ぬのだが、家族の住居だけが中庭か何かを隔てゝ、やゝ武家などゝ近い構へなので、しようと思へば上等の肴を、汁に切入れるやうな暮しも出來るのである。ちやうど山の手や郊外に家を持つた者が、近頃までさういふ生活ぶりを承繼いで居た。芭蕉翁の觀察力は、たゞの常識といふものよりは一段と突入つて居たことは感服するが、それを句にしてよいか否かまでを、考へて居られなかつたのは惜しい。
   取分て今年は晴盆の月               珊
 これはごく平易なる附けで、突嗟の間にも出て來るから遣句といふものに近い。しかも畠の土のひゞわれと、一事兩出を咎められなかつたのは寛大に過ぎる。但し句の形は此方が安らかだから、後でなほすとすれば前の方が問題になつたらう。
    まだ花もなき蕎麥の遲蒔               風
 この「花」は花の座とは關係が無い。句の意味はよくわかる。是も前々句が町方の生活であつた故に、今度はわざ/\山近い在所に持つて來たので、その爲に又廣々とした地平線が開けた。隅に置けない技術といつてよい。
   柴栗の葉もうつすりと染なして             隣
 是まで三句が秋の季だが、いくら遲時でも少し前句からは時がずれて居るから面白くない。しかし桃隣としては珍しく垢拔けのした、しかも新鮮な感覺の句である。栗の葉の薄紅葉は東北の風物かと思はれる。關東のは葉が早く枯(542)れて、いつまでもきたなく枝について居る。
    國から來たる人に物いふ               桑
 この句の附け心は私にはわからない。或はわざと遠く間隔を置いて人に勝手に心持を繋がせようとした、投げ遣りな手段かとも思ふが、さういふことも時々は許されて居た。柴栗の紅葉を見るやうな寒い山家で、國から來た人といへばまづ寺の住職の所縁の者などだらうが、果してさういふことを考へて附けたか否かは疑はしい。
  
   閙《いそが》しう一臼搗て供支度            蕉
 氣持は後世の雜俳と近いが、是さへも我翁の句なのである。中以下の武家の一人家來でもあらうか。稀に故郷から尋ねてくれた者があるのに、米も精げねばならず、おともにも行かねばならず、今夜でも明日の晩でも、ま一度ゆつくりと話を聽きたいものだがと、思つて居るところと見られる。
    糞《こえ》汲にほひ隣さうなり            珊
 きたない思ひつきだが、小さな組屋敷などには有りがちな出來事で、何でも句にしてよいとなると、斯ういふのが落ちを取ることも有り得るのである。何かよつぽど沈滯したやうな場合に、氣付けとして用ゐる位にとゞめたいものだと思ふ。
   今の間にしるう成程降時雨               風
 是は前句の惡臭を打消す力のある句で、しかも時の經過が伴なうて、折からによく打合つて居り、この一日の徒然さと靜かさとを、一言も言はないでほゞ表現し得て居る。シルイといふ形容詞も上方産らしく、江戸では知つて居たかも知らぬがあまり使はない。
    日用の五器を籠に取込ム               桑
 日用は日雇のことである。ヒヨウと讀んでもなほこの表の始めの人雇《ひとやとひ》とさし合ふと思ふ。單なる不注意と解すべき(543)である。五器《ごき》は彼等の食器で、粗末なる塗り物、洗つても是は布巾では拭かず、棚に竝べ又は椀籠《わんかご》に入れて水を切るだけであつた。時雨が急に降つて來て棚に竝べた椀どもが又沾れた。それを椀籠に入れて持込まうとして居るので、午後五時過ぎの背戸の口の混雜である。
   扈從《こしよう》衆御茶屋の花にざわめきて       隣
 前句との繋がりは必ずしも明瞭とは言へないが、多分は一方の田舍家らしさに對して、是は大きな邸宅の表と裏とを描かうとしたものだらう。臺所の方では日雇たちの夕飯支度にごたついて居るのに、書院の庭には庭下駄の音などが高く聽え、あれ花が散るきれいなといふやうな人聲がする。このコショウシュは小姓と書かぬのを見ると、或は女客の腰元たちのことかも知れない。御茶屋は苑中の休息所で、そこへ上ると内外の櫻が見えたのであらうか。糞汲む鄰の句に復讎したやうな艶麗な情趣であつた。
    小船を廻す池の山吹                 筆
 この句は前句よりもいま一かさ大きな御殿ともいふべき家の庭園である。小船を廻《まは》すといふのが「ざわめきて」をよくあしらつて居る。若干の若い扈從の衆が、船に乘つて見て大げさに昂奮して居るのである。その池の岸には山吹が一面に咲き、花の白雲と相映じて居るのは太平の春のけしきであり、乃ち又揚句の作法にもかなつて居るのである。句主の「筆」とあるのは執筆者、別に其役の者が來て居たのでは無く、多分は亭主の子珊が自ら其任に當り、一句餘分の配給を受けたものであらう。
 
       ○
 
 炭俵の各卷を見ても氣づかれるやうに、戀を粗末に取扱ふのがこの新傾向の共通の弱點であつた。是くらゐ俳諧を日常生活に近づけようと努力すれば、それはふだん着に紅色が少ないやうなもので、斯うなつて來るのも自然であら(544)うが、後世の眼から見ると、是によつて蕉風の殊にうつくしいものが、次第に淡彩化して行く淋しさを、感じないでは居られない。是でも結構作者だけは樂しめるといふのが、この遊俳者流の言ひ前だつたらうが、それならばいつそのこと、本や雜誌にして世に殘すことまでも見合せるとよかつた。なまじ前後の作品が共に傳はつて居るが爲に、前に有つて後に失はれたものが、殊に我々には眼に着くのであり、中でも師翁が獨自の能力を棄てゝ、凡人大衆の用途に殉ぜられたことが、尊いながらも惜しまれてならぬのである。百萬の門弟子を世にばらまくといふことゝ、うつくしい文學を人生に留めることゝは、二つ別々の事業でなければならぬのに、不幸にも我邦では二者久しく混同して、今に其けぢめがはつきりと立つて居ない。簡易文學の積弊は國人の全部を盡く俳人にしてしまはぬ限り恐らくは止まぬだらう。芭蕉はこの點にかけては最もよく苦悶し、又よくてきぱきと變つて行く人であつたかと思はれる。僅か五十一ばかりで亡くなつてしまはずに、せめて桃隣杉風の年までも長生して居られたなら、必ず第四第五の流行を越えて、もつと樂しい不易に到達せられたらうに、それが許されなかつた爲に彼の豫言の通り、忽ち世の中は混亂して、今にその悩みから拔け出すことが出來ない。問題は必ずしも戀の句の衰微だけではないやうである。
 
 (參照)
 勝峯氏 蕉門俳諧前集 五二九頁「別座鋪」
 小宮氏 芭蕉連句集 二四〇頁
 正宗氏 芭蕉全集後編 二一三頁
 
(545)     子規一門の連句
 
 「目さまし草」のまきの七、即ち明治二十九年七月號に載せである。次の八月號にも碧梧桐との兩吟が出て居て、連句が此頃相應にはやつて居たことを思はせるが、今までは是に注意した人も無く、私ももうすつかり忘れて居た。たゞ斯ういふものが有るといふことを、紹介しただけでもよいのだけれども、ちやうどよい序だから之を讀んで、感じたり考へたりした二三の點を書き留めて置いて見よう。時代が新しいので判りにくいといふほどの句は無い。それでもさう取られては困るといふやうな所が無いとは限らぬ。一方の兩吟歌仙が作者二人とも故人であるに反して、この方の五吟は句主の中に、今も元氣で俳諧の道を進んで居られる人がある。何かの折には之を話題にして、當時の氣持をうかゞつて見る望みも有る。もちろん責任を負はすといふやうな俗な考へでは無く、自分の五十年前の話を人にさせて、靜かに聽いて居るのは面白いことだらうと、私などは想像するのである。實際また世の中も變つて居る。斯うでもしないと思ひ出せぬことが段々と多くなつて來た。
 
      草庵
                        子規
   門口に楢の下枝の茂りかな
 主人が發句を出して居るので、ふとした思ひ立ちであつたことがわかる。下枝はシヅエであらうが、門口はモングチと讀ませるつもりらしく、それは東京ではあまり使はぬ語である。その門のあたりの椿の木は記憶して居る人が少(546)ないかもしれぬが、即景で無くては斯ういふ句は出來まいと思ふ。茂りは當季の夏の句である。
    衣を更へて薪わる人                紅緑
 乃ちもう一句、夏の脇を附けたのであるが、薪を割るといふのがどうも初夏の感じに副はず、少なくとも是は寫生ではなかつた。もし急がなかつたら、何かもう少し樹陰にふさはしい動きが考へ付かれたらう。
   渺々と田の面の風のわたるらん             同
 田の面は無季、たゞ前句と向き合はせると、植付け前の水田とも取れて、蛙の聲なども聽えて來さうな、爽かさが胸に浮ぶ。しかし渺々は何だかこゝでは言ひ過ぎのやうで、むしろ獨立しては稻の穗波などの單調な平面を思はせる。是も後になるときつとかへたくなる言葉だつたらう。
    湖にのぞみし小城灯ともす             虚子
 近江の湖南地方などを想ひ起さしめる。田から水面へ遠くつゞいて居る片端に城があるので、立つて見て居る人の位置ははつきりせぬが、水上でないことは  略々明らかである。氣がついて見たら窓にあかりがついて居たといふ黄昏のさまを、火ともすと現在に言つたのもよく、たつた是だけの言葉で時代を附けたのも才氣の閃めきで、きつと一座から賞められたと思ふが、おかげで次の句が少し附けにくゝなつた。
   羽織着て名主へ參る夕月夜               規
 三句前に衣更へがあるのに、こゝで羽織はいさゝか附き過ぎるが、或は承知の上の無頓着かも知れない。前句の湖に對して二句後に「沼の中」も出て來る。名主へ參るは佛事か談義でもあるといふのであらう。少し心の改まつた訪問である。特にことわらなければ月は秋の季だから、此あと秋がなほ二句續いて居る。
    案山子の顔の何に驚く                緑
 名主の時代はどうだつたらうか。近頃の案山子には顔を白い布などでこしらへて、まん丸な眼を描いたのも折々は(547)見かける。それを何に驚くなどゝ大げさに言つて見たのは、夕月夜だから特に氣が利いて居る。羽織なんかであるいて行く農民が、その見開いたやうなかゞしの眼と、目を合せて居るのも興ある繪樣であらう。但し是も三句前の田の面と、突き合ふだけはやゝ氣になる。
   打たれたる雁は落ちけり沼の中           碧梧桐
 何に驚くの匂附ともいふべき句である。あれだけ大きなものが不意に水の上へ落ちたら、誰だつて驚くにきまつて居るが、果して雁はそんな風に、ばちやんと落ちるものであるかどうか。少なくとも所謂寫生の句ではないやうである。
    使者の役目のはてし草臥               規
 少し引離して附けたのは老巧で、兩句の作り做す繪樣は幾つでもあり得る。但し句主の本意は、くたびれて歸つて來る途中の出來事と見たのではあるまいか。さうだつたら是も三句の前の名主へ參るとやゝ似過ぎる。こ、の句は雜。
   冬ごもる天井に反古を張りつめて            緑
 一句としては働いて居るが、何か隱居さんの離れ座敷見たやうで、御使者番でも勤める輕い士の家といふ氣がしない。炭火で温める室でないと天井を板張りにしては置かれず、又斯ういふ家では反古もさう自由には使へなかつたらう。この句は冬季、次にもう一句冬をつゞけて居る。
    梵論寺も來れば炭賣も來る              桐
 冬籠りの日々を、斯ういふ形で敍したのは、時間があつておもしろい。梵論寺は虚無僧のつもりであらうが、是が冬中奉加にまはるといふのも、ごく確かな實驗とは思はれない。
   其中に祝言の日の近つきぬ               規
 そのうちには氣の利いた表現である。至つて淡いけれども以下二句は戀。さうして此方は初心な若息子であらう。(548)二人は既に一家の中に寢起きして、祝言の日を待つて居るやうにも取れる。
    髪かきあげて心ときめく               緑
 何だかそつけ無い物の言ひ方だが、是は鏡に對する人の、やがて來る日の晴がましさを考へて居る所なのであらう。素より髪かき上げることが心ときめく理由では無く、たゞさういふ折も有るといふ迄であると思ふ。何と言つても通用する場合で、やはり一種の遣句といつてよい。
   月は今枝折戸近く入りかゝり              桐
 親切に前句の心ときめくを取扱つて、而も戀からは脱出した面白い轉囘ぶりである。月が枝折戸のあたりに傾くといふのは芝居の書割り見たいだが、岡の上の小家などならば有りさうな景色であり、ちやうど又待つ人の來べき時刻でもあつた。
    菊古くさき萬葉の秋                 規
 どうして萬葉と言つたか心當りがない。事によると奈良の秋といひたいところを、それでは言葉が古くさくなるので避けたのかも知れない。枝折戸の傍に菊を栽ゑるのはなるほど古風な趣味でもあらうが、萬葉に菊の歌が無いといふのは有名な話だから、この取合せはむしろ珍しいといつてよい。
   燈籠を馬につけたる痩男                緑
 原文に疲男とあるのは誤植と認められる。馬の背に燈籠を幾つか載せて、ちやうど垣根の外を通つて行く者がある。わざ/\やせ男と形容したのは物ずきに過ぎるけれども、ちよつと意外な趣向で一句としては働いて居る。以上三句は秋季、但し九月から七月へ戻るのは如何か、又燈籠も萬葉時代らしくない。
    地藏の膝にもゆる吹?               肋骨
 吹?はスヒガラと讀むのであらう。馬方が石の地藏の前で一休みして居たのであらう。煙管をこん/\と膝の上で(549)はたいたと見えて、まだその煙りが消えずに居る。いさゝか殺風景な眼のつけどころである。
   花に行く道は左に海遠く                桐
 是は二三人づれの遊山の旅と思はれる。花見に行く先は左へ曲るので海が次第に遠くなるとも、又遠く左手に海を見ながら、花のある道をあるいて居るとも、二樣に解せられるが恐らく前者であらう。さつぱりとした花の座ながら、初五の語がやゝ正確でないのである。
    春の夕を鏡とぐなり                 子
 鏡磨ぎが路傍で仕事をして居るのである。さういふ衙道筋をあるいて行くところと思ふが、是から花見に行くのだとすれば、春の夕は少々氣ぜはしない。もし又花下を行くとすれば、何だか情景がこみ入り過ぎて居る。
   二人來てものを爭ふ蜆賣                規
 蜆も春の季である。一方で靜かに鏡を磨いで居ると、こちらでは二人の商人が口いさかひをして居る。小さな宿場の町などの一ときであらう。
    腰に草鞋をぶらさげて居る              緑
 その喧嘩をする蜆賣が、草鞋を腰にぶら/\下げて居たら可笑しいだらうが、さういふ場合はちよつと想像しにくい。換へわらぢを用意するのは、普通には祝ひ事の人足などに限られて居たかと思ふ。
   山本は隣つゞきに筧して                骨
 是も或は想像でこしらへた景かと思ふ。小家が接近して居れば中間に共同の水汲場が設けられるであらうし、三軒以上も竝んで居たら、とても一本の掛樋では間に合ふまい。さういふ場合には大抵は小流れを引くことになつて居る。何か臨時の人足小屋のやうで、連歌に由緒のある山本といふ語とは調和しないが、まあ斯んな場所もどこかに有つたと見て置くの他は無い。
(550)    此頃出來し屠牛場もあり              桐
 岡の根方の街道筋ならば、斯ういふ事實もあつたかもしれず、前句の豫期を裏切る徘徊の趣旨には合ふが、屠牛場は何分にも風雅でない。
   蒟蒻は蒟蒻玉の變化にて                子
 この「變化」はヘングエ、即ち化け物のことであらう。近頃は粉をこねて造るからをかしくないが、こんにやく玉は元來それ自身とぼけた石ころのやうなもので、碎いて煮て搗いて居ると段々とふくれてくにや/\になるのが化け物と評せられても是非に及ばぬ點であつた。前句とのかゝりは、始めて其仕事を見た者の言葉とも取れて、屠牛場でも新設せられるやうな町はづれの部落などにふさはしいのである。新しくてしかも正風の骨法を捉へて居る。
    とこしへにさびず竹光の太刀             規
 竹光は近世のしやれた新語、名刀の作者に何光の多いことを、知つて居る者は皆破顔する。竹光のたちなどゝいふのも、初句のとこしへと共に、皆誇張した笑ひであらう。前の句との交渉は淡いやうである。一方は變化で、こちらは拙を保つて居る。大刀を化け物に配したのもわざとであらう。
   古郷に歸れば娘恙なし                 緑
 浮世を茶にしたやうな飄遊の士も、一人ある娘だけには繋がれて居るのである。是まで六句は雜、それで次々と繪樣を改めて來たのは手柄であつた。娘は戀の句の誘ひであらうが、次の作者がそれに應じなかつた。
    佛壇の戸を開く短夜                 骨
 父が還つたといふので、多分は其娘が佛壇を開けて鉦を打つのである。一卷のうちに一度は斯ういふロマンスを綴り込むのは好い。たゞ佛壇の戸とまでは言はずともよかつたらう。
   夏蟲の灯を消ちたりと覺えける             桐
(551) 燈明がふと消えたのは蛾のしわざであつたらうが、折柄である故に何か凄愴の感に打たれる。覺えけるはさういふ氣持を以て附けたものと思ふ。夏を二句つゞけて居る。
    敵をねらふ近江商人                 子
 是も亦一つの物語。どうも斯うなりやすいものゝやうだが、二つの小説的光景が打重なつては少しくどい。前句の「灯」といふ字が二度目であるのを、さも際立たせるやうに又近江といふ語を使つたのは、故意ではあるまいが可なり皮肉にきこえる。附け味もさうさらりとはして居ないが、いはゆる句附なるものであらう。
   法螺吹いて群衆あつむる晝の月             規
 群衆といふ語はこゝには向かぬと思ふ。是は恠しい者が入つたらしいと氣づいて、居まはりの人々を喚び集めようとして居るのである。晝の月の空の片端に出て居るのを、ふと見つけた者があるといふのはよろしい。
    鷄頭倒れし背戸の細道                緑
 鶏頭はケイトと三音に讀ませる所存と見える。この路を通つて曲者は逃げたかなどゝ評定して居る所らしい。場面を廣くする爲には斯ういふ句も必要である。
   鰯賣る秋もつもりて五十年               骨
 或る漁村の僅かな畠を控へた小家の主が、もう六十を超えて居るといふことを、斯んな大袈裟な文句で敍述するのも、俳諧の常套手段であつた。こゝの鷄頭はたゞ偶然に倒れて居る。一方が何かわけが有るらしくいふのに對しては、こちらはそれを無視するのが普通の附け方である。鰯賣にはたとへ式目には禁じてなくとも、すでに蜆賣がある以上は避けた方がよい。
    瘤を切りたる顔の淋しき               桐
 前の蒟蒻よりもよく附いては居るが、幾分かこの方が有りふれて居る。コブなどゝいへば誰だつて笑ふだらうが、(552)それだけに何か新しい表現とは言ひにくいやうである。
   贈られし百壺の酒を飲盡し               子
 畫家とか詩人とかでないと、さう澤山の無代の酒にはありつけまい。この句は大體に唐土風の興趣を狙つたものと思はれるが、それを瘤取りの句の次へもつて來て附けたことが、頓狂で殊にをかしいのである。
    下手な詩つくる男爵の君               規
 斯ういふ男爵はあの時代まだ何人も生きて居た。乃ち寫生であつて、又日本にしたのも働きであるが、詩をつくるといふことはもう前句に豫想せられて居る。爰は何とかちがつたものを附けねばならぬところであつた。
   大内の花しら/\と明けわたり             緑
 一句としては佳句であることを失はぬが、大内も夜明け方の花だから、家でいばつて居る男爵とはちつとも附きが無い。
    貢の車つゞく春風                  骨
 貢の車は汽車のつもりかもしれない。さうでなければ大陸の歴史畫であらうが、それだと百壺の酒とやゝ差しあふ感がある。但し揚句としては體を具へて居るとはいへる。
 
 この一卷の歌仙を味はふことによつて、始めて私たちの知つたことは幾つもある。第一にこの連衆は、どうしてどうして中々の玄人であつて、古來の卷々も身を入れてよく讀んで居り、決して形ばかりの模倣ではなかつた。それに新しい仲とは言ひながらも互ひの氣持を十分に汲み取つて、其角一派のやうな當てづつぽうな附け方はして居ない。假に作物はどこにも傳はつて居なくとも、是が始めての試みだつたらうとは、どうも私には思はれないのである。さうすると子規子等の連句排撃も、今日の多くの俳人のやうな、單なる喰はず嫌ひではなくして、やつては見たけれど(553)も深入りすることが出來なかつた。又は全力を傾けるほどの魅力を見出すまでに至らなかつた。或は發句の方がもつと面白く、從つて張合ひがあると思つたといふまでゝあつたかも知れない。何の本に出て居たのか知らぬが、とにかくに自分のものでもない文學の定義なんか持つて來て、それに合はないから連句は文學で無いなどゝ揚言したのは、後からくつゝけた理由とより他は見られない。皮肉な解し方をするならば、いはゆる俳句を今の如き隆盛にもつて來るだけの、目算がすでに立つて居たからともとられる。それ位な野望があつたとしても、我々はびつくりしないのである。
 それから今一つの氣づくことは、この歌仙は明らかに一晩のうちに卷き上げて居る。五人の連衆の二人までが中途から加はつて、ずつと續けて居るのだから、二度三度に分けての催しではない。六月に出來たものがもう七月號に公表せられたのだから、所謂作後の改訂の無かつたことも略たしかである。この二つの點が、後世は次第に守り難く、俳諧衰亡の主たる原因も、實はそこに在つたかと思はれるのだが、若い元氣な五十餘年前の俳人たちは、ともかくもそれを昔通りに、やつてのけるだけの熱心さを持つて居た。といふことをもう我々は忘れかけて居るのである。だからこの一卷の歌仙の、史料としての價値は大きい。俳諧が此先どうなつて行くかを考へる爲にも、斯ういふ近代史は粗末にすべきものでは無いと思ふ。
 
(554)     芭蕉の戀の句
 
 女性と俳諧との交渉には、今一つの面があるといふことを、御考へになつたことがありますか。以前は女の俳諧といふものが、寥々たる曉の星であつたと同じやうに、女を俳諧の上に詠歎するといふ風習が極度に制限せられて居りました。それに新たな入口を開き、文藝に豐かなる可能性を付與したのは、是も亦芭蕉の大きな事業でありました。五人三人の女流俳人を世に送り出したことよりも、もちろん此方が遙かに目ざましい改革であつたのですが、不思議なことには後代の追隨者、殊に大正昭和の崇拜者たちは、一向にこの點には無感覺で、戀は俳句といふものゝ領域の外ででもあるやうに、思つたり言つたりする人が多いのであります。ジャンルといふ語をよく彼等は使ひますが、そんな狹苦しい文學の一つの種類といふものが、果してこの世の中に存在してよいのかどうか。是からでも考へてみて貰ひたいものと思ひます。
 議論が不調法で、又しても憎まれ口になりさうな懸念があります故、こゝでは專ら實作の例を列擧して、言ひたいことが有つたら其ついでにといふことに致しませう。連歌の昔から、戀は一卷の色どりとして、缺くことの出來ぬものとなつては居りましたが、もとは其題材の選び方が甚だしく限局せられて居りました。宗祇宗長の名に高い雄篇を見ても、どれもこれも戀の句は有りふれた、空々しいものばかりであります。其單調に倦みはてゝ、逸脱飛躍を試みたと言はれる俳諧の連歌までが、この方面ではまだ格別の新味を示して居りません。それが貞享の「冬の日」時代に入つて、俄然として取材は自由になり、盈ち溢れるまでの同情が盛られることになつたのであります。是は作風とか(555)技藝の改良とかいふやうな、小さな進歩とは見られないのであります。私がいま思ひ出せる十ばかりの附句などは、どれ一つとして以前に類型のあつたものは無く、しかもそれ/”\に後代の指標となつて居ります。さして永くも無い或る一つの文藝生涯の中途に於て、どうして又此樣に大きな轉囘が行はれたのか。今でも私は奇異の感を抱かずには居られないのですが、それを皆さんに考へていたゞくにも、やはり先づその出來上つたものを、一通りは共々に味はつて見ることが必要であります。
 
       ○
 
 芭蕉の俳諧の上に出て來る女性は、第一にその種類が多く、境涯が廣々と變化して居りまして此點が和歌は申すに及ばず、談林以前の俳諧とも、截然として境を劃して居ります。
   初月に外里《とさと》の娵《よめ》の新《にひ》通ひ   知足
    薄はまねく荊《うばら》袖引             芭蕉
 外里は隣村、村を異にした縁組で、この新通ひは花嫁が里に歸つて行く風情と思はれます。野原の草までがなつかしがるといふだけの言葉ですが、其陰には田舍によくある嫁惜み、好い娘を一人少なくした男女朋輩の心淋しさがちら/\として居つて、文字づかひも誠にこの牧歌情調によくかなつて居ります。
   夕顔の軒にとりつく久しさよ              越人
    布杭《ぬのぐひ》二本よるは淋しき          荷兮
   隙《ひま》くれし妹《いも》をあつかふ人も來ず     芭蕉
 前句の布杭二本も獨立して佳い句です。機《はた》は農村では多くは外庭で絲を綜《へ》ますので、その杭は立てたまゝにしてあります。さうして女房は親里へ還つてしまつたのであります。誰か仲裁の口をきいてくれさうなものと思つて居るの(556)に、一向にさうする人も無いのであります。夜は淋しきを是ほど適切に、又思ひ掛けない形で附けて居る句も珍しいと思ひます。その場には居ませんが、布杭を立てた人の顔つきまでが想像せられます。
   漏《もる》月を賤がはた織る窓に見て          又玄
    藍にしみつく指かくすらん              芭蕉
   神役《かみやく》にやとはれ來ぬる注連《しめ》の内   益光
 是も機織る賤女ですが、前とはちがつて此方は隱す戀、さうして又末遂げぬ戀かとも思はれます。機臺の立てゝあるのは通例は内庭の向ふ、東の窓の下でありますから、漏るといふのは其窓から月がさして居るのであります。かはつた處で月見をするなと思つて居ると、女は手の指の藍に染まつたのを、しきりに氣にして見せまいとするのであります。作者が斯うしたしをらしさまでに思ひ及んだのは、常からの同情の深さと見なければなりません。次の附句はこの附け心に感動した餘りで、幾分か附和して居ります。注連の内は祭禮の準備の日、常は働いて居る農家の婦女が、みこの役に頼まれて來て、汚れた指をそこいらの人たちに、見られまいとして居るのであります。
 
       ○
 
 若い頃からよく旅をした人だつたやうですが、斯ういふのは何としても實際の觀察であつたらうとは思はれません。本でなり世間の話でなり、とにかくに世には此樣な境涯も有り得ることを知つて居たに過ぎぬのであります。それを是だけ感銘の深い形に、表現することが出來たといふのが、乃ち文藝の尊い力であらうと、私などは推服して居るのですが、當代の宗匠の中には、寫生をいはゆる俳句の骨髄のやうに、教へて居られる方々がまだ少々あります。どうも合點の行かぬ御説だと存じます。
 現實に一度は自分の眼で、視たことでないと俳句にならぬとしますと、少なくとも女性のはたらく區域はせまくな(557)ります。一方には又頭を圓め、頭陀袋なんかを頸に下げて、あるきまはつて居た多くの俳諧師は、絶對に戀の句は作れないといふ結論にも歸着するでせう。それが芭蕉の道でなかつたことは、いとも簡單に私は證明することが出來るのです。
    黒木ふすべる谷かげの小屋              北鯤
   誰がよめと身をやまかせん物おもひ           芭蕉
    あら野の百合に涙かけつゝ              嵐蘭
 是などは俳諧の代表的な例でありまして、前句はたゞ一通りの山村の景なのを、一擧にしてそこに住む一人の淋しい娘の、心の奧底へ焦點を移して見たのであります。山の一つ屋で年頃になつた女などは、折々は斯ういふ寂しい晩方を持つたにちがひないのですが、それに心を留めた俳人は今までに無く、まして此樣な形を以て、この境涯を描かうとする試みなどは、後にも先にも是がたゞ一つです。だから其次を附けた嵐蘭などは動顛してしまつて、たゞ調子を合せるだけのやうな、荒野の百合の句を出して居るのであります。形はやゝ離れても、心持からいふと附き過ぎであります。
 
       ○
 
 戀は一句では捨てないといふ今までの式目は、斯うなると段々守りにくゝならざるを得ません。今までの法師の連歌のやうに、言葉ばかりの綾とりで繋いで行けばともかくも、印象の深い句を出されると、所謂二の句が繼げなくなるのは當り前であります。それも致し方がないと私などは考へて居るのですが、蕉翁はこゝでもしば/\非凡な技能を示して居られます。たとへば奧の細道に有名な須賀川の三吟歌仙に、
   筆とらぬ物ゆゑ戀の世に合はず             等躬
(558)    宮にめされし憂名恥かし              曾良
   手枕に細き肱《かひな》をさし入れて          芭蕉
    何やら事の足らぬ七夕 躬
 この前三句の戀は詩興が一句毎に上昇して居ります。註釋は不必要かと思ひますが、始めの句はやゝ教養のある娘が、文字も利用せぬやうな平凡な男女交通を、賤しめ遠ざかりつゝもなほ淋しがつて居る所であります。それに續けて「宮に召されしうき名」といふやうな、あまりに奇拔な趣向を立てたのですから、もうこのあとは轉囘の途も無いかと思はれるのに、それへ又この樣な新しい戀の句が附いたのであります。あとの二つの句でこしらへ上げた繪樣は、物語といふ以上に現代の小説に近く、何か一つの性格劇とも名づくべきものが、仕組まれさうにも思はれます。斯ういふ趣味はずつと後代の、蓼太・蕪村の頃までも續きましたが、芭蕉以前には絶對に類がありません。是がこの時代の大きな驚きであつたことは、それを受けた等躬の秋の句の、おづ/\とした立退きぶりを見てもよくわかります。
    鳴子おどろく片藪の窓                釣雪
   盗につれそふ妹が身を泣きて              芭蕉
    祈も盡ぬ關々の神                  曾良
 妻は夫が盗賊を稼業にすることを知つて、世間を狹く引隱れた生活をして居るのであります。それが時々の鳴子の音にも、びくりとするやうなわびしい秋の日を送つて居るといふので、前の句の裏附けとしては最も新鮮でありますが、それだけに次の戀の句が續きにくいやうであります。關の神に祈りを掛けるといふのも戀なのでせうが、盗人の語に對する故に、何だか雜の句のやうに聽えます。ともかくも必ず二句は續けるといぶ古い規則は、斯ういふ珍しい題材が現はれるたびに、段々と守りにくゝなりました。
 
(559)       ○
 
   此雪にまづあたれとや釜|揚《あげ》て         曾良
    ねまきながらのけはひうつくし            芭蕉
   遙けさは目を泣はらす筑紫船              呂丸
 この短句の附け方の如きは、殊に師翁の構想力のたくましかつたことを讃歎させます。釜を揚げるといふのは、爐の自在鈎を高くして、これから火を大きく焚かうといふだけで、言はゞ普通の旅情の句でありました。それへ新たに取添へたものが、深夜の夜寒であり、又化粧をした人の寢間着姿でありました。どんなローマンスでも生まれて出さうな、廣々とした空想世界であります。呂丸は羽黒の地方俳人ではありましたが、さすがに前句の意図をよく汲み取つて居ります。京の女が九州の人にかたらはれて、知らぬ船路をついて行くのであります。船中だから晴着にも改めないで居るのを、ねまきながらとしたのも先づ許されてよいでせう。
    隣をかりて車引こむ                 凡兆
   うき人を枳穀《きこく》垣よりくゞらせん        芭蕉
    いまや別の刀さし出す                去來
 是は猿簑の有名な鳶の羽の歌仙であります。うき人は物を思はしめる人、即ち愛人といふことであります。からたちの刺の多い生籬を、無理をして通路にしたといふところに、時代の不調和といふやうな俳諧があるのであります。門を通りかねて、隣から入つて來るといふやうな、古い傳統の源氏趣味ともいふべきものを、斯んな形で處理したのが猿簑風なのですが、後世の人の見方では、車引込むだけでは戀とも見られず、乃ちうき人の一句は孤立します。去來の附けは別れといふ語を使つて、まだ半句の戀を保留して居りますが、今ぞといふのでもう新しい境地へ足を踏み(560)入れてしまひました。
    物よくしやべるいわらしの顔             尚白
   蒜《ひる》の香の寄もつかれぬ戀をして         芭蕉
    暑氣《あつけ》によわる水無月《みなつき》の蚊屋    白
 いわらしは家刀自、即ち主婦のことであります。是一句を見るとたゞ市井の雜事のやうですが、顔とあるので聊かの戀情を覗かせて居ります。この顔をじつと見て居る男は、にんにくを食べて居たのであります。もちろん其爲ばかりとも言へますまいが、近々と寄つて物を言ふこともさし控へて居るのであります。次の句の暑氣によわるは、是はもう女になつて居ります。折角蚊屋の外まで男が來てくれたのに、くさい雜藥を食べて居るばかりに、打解けて話も出來ぬといふ心持のやうですが、文字の面からはもう是も戀の句では無く、やはり師翁の一句のみが、一句で置き去りになつて居る形であります。
 
       ○
 
    のた打|猪《しゝ》のかへる芋畑           曾良
   賤の子が待戀習ふ秋の風                芭蕉
    あかね染干す窓のおも影               路通
 是なども私が始終思ひ出す附合であります。窓の面影も戀の言葉ではありますが、前の句が力強い爲に、雜の句のやうにしか聽えません。よく似た情景は和歌などにも詠じられて居るやうですが、この方は賤の子であり又いはゆる客觀の句であります爲に、いぢらしさが身に沁みるやうに感じられます。句を連ねて趣を成す俳諧の特長が、斯ういふ場合にはことによく現はれ、私はもはや戀一句にて捨てずといふ類の古い約束には、囚はれる必要も無いやうに思(561)つて居ります。
   子規痩てや空に鳴つらん                路通
    我が物おもひ浮世一人                芭蕉
   此戀をいはんとすればどもりにて            前川
    打たれて歸る中の戸の御簾《みす》          曾良
 是も同じ一卷の歌仙の後段ですが、この方は興に乘じて四句までつゞけようとして居ります。路通の前句は多分古今集の、我とはなしにうの花のといふ名吟を、本歌取りにしたものと思ひますが、それには頓着無しに浮世一人といふやうな當世語を、女に使はせて居るのは花柳情調ともいふべきものでありました。あだな流行唄などの誇張かと思はれます。それを其次の附けでは男にさしかへ、又笑ひに導かうとして居るのであります。一種の窮策かとも思ひますが、芭蕉の門流には下品下生《げぼんげしよう》の戀を扱つて、強ひて笑ひに持つて行かうとしたものが幾つもあります。さすがに師翁の附句にはさういふのは至つて少なく、どれも是もその人物の身になつて、心の有り形を示さうとしたものばかりなのは、私は偶然のことでは無いと思つて居ります。
 
       ○
 
 例はまだ幾らも竝べられますが、それは皆さまの捜索に殘して置きます。女性を俳諧に取入れようとした芭蕉の態度が、どれ程に親切であつたかを知る爲には、もう是だけでも十分と言へませう。たゞそれが俳道改革の大きな事業に、どの程度寄與して居るかといふことは、結果に就いてゞないと判定は出來ませんが、必ずしも當初の豫想通りではなかつたやうであります。或は師翁にすらも見透し得なかつたやうな俳諧の命運ともいふべきものが、有つたのではないかとも思ひます。僅か百年とはたゝぬうちに、流派は細分し點者は輩出して、しかも連句は中世の連歌も同じ(562)やうに、睡い退屈な、外から見た者には一向につまらぬものになつて來ました。集まつて一卷の歌仙でも卷かうといふ根氣はもう無くなり、てんでに奇警なる生活描寫を試みて、一句の落ちを取らうとしたものが、雜俳となり川柳となりました。さうして一方には又發句ばかりを一生の樂しみとして作りつゞける人が、何千何萬とふえて行く一方であります。それも興味の深い時代の姿とは言ふことが出來ますが、是を俳諧の本流と見ることは、芭蕉が先づ最初に不承知であつたらうと、私は思つて居ります。
 
(563)第十七卷 内容細目
 
民謠覺書
 自序
 民謠覺書(一)(昭和十年四月、文學三ノ四)……………‥…………………………七
 民謠覺書(二)(同年十月、同誌三ノ十)……………………………………………二一
 鼻唄考(昭和六年十月、十一月、十二月、七年一月、二月、ごぎやう十ノ十、十一、十二、十一ノ一、二) ………………………………………………………………………三九
 歌と「うたげ」(昭和十三年六月、短歌研究七ノ六)………………………………四八
 山歌のことなど(昭和七年十一月、短歌民族一)……………………………………五八
 酒田節(昭和十三年五月十六、十七日、朝日新聞)…………………………………六六
 廣遠野譚(昭和七年一月、古東多萬二ノ一)…………………………………………七四
 絲と民謠(昭和十二年八月、近畿民俗一ノ四)………………………………………八三
 民謠と越後(昭和十四年六月、高志路五ノ六、原題「越佐偶記」)………………九三
 民謠と都會(大正十四年九月、婦人の友十九ノ九、原題「民謠の末期」)………一〇〇
 採集の栞(大正十五年一月〜十二月、朝日グラフ六ノ五〜七ノ二十五、原題「民謠の國」)………………………………………………………………………………………………一〇六
 一つの分類案(昭和十一年三月、四月、民間傳承七號、八號、原題「民謠分類案」)…………………………………………………………………………………………………一八五
 田植唄の話(昭和十年七月、現代農業一ノ七)……………………………………一九二
(564) 手毬唄の話
  一 梅の折枝(大正十五年一月、民族一ノ二、原題「手毬唄の蒐集と整理」)二〇五
  二 井筒屋お駒(同年七月、同誌一ノ五、原題「手毬唄の蒐集と整理」)……二一四
 鹿角郡の童謠(昭和三年三月、民族三ノ三、原題「花折りに」)…………………二二〇
 宮古島のアヤゴ(大正十四年十一月、民族一ノ一)…………………………………二三二
 
民謠の今と昔
 民謠の今と昔(昭和二年一月、日本文學講座三)
  序説………………………………………………………………………………………二四九
  民謠發生の條件…………………………………………………………………………二五二
  歌の日歌の時……………………………………………………………………………二五五
  歌と物語と………………………………………………………………………………二五七
  歌ふ人と歌はぬ人………………………………………………………………………二六三
  何が消え何が殘る………………………………………………………………………二六七
 流行唄と民謠と(大正十五年六月、詩歌時代一ノ二)………………………………二七〇
 民謠雜記……………………………………………………………………………………二七七
 
俳諧評釋
 はしがき
 水鳥の歌仙(昭和二十一年十一・十二月、鶴九ノ七、原題「芭蕉俳諧鑑賞(一)」)…………………………………………………………………………………………………三一七
 種芋の歌仙(同二十二年一月、鶴十ノ一、原題「芭蕉俳諧鑑賞(二)」)………三三〇
(565) 秣負ふの歌仙………………………………………………………………………三四三
 最上川の歌仙(昭和二十二年二月、展望十四)……………………………………三五八
 あつみ山の歌仙・ 三七四
 年忘れの歌仙(同年四月、四季四)…………………………………………………三八九
 磨直す鏡の歌仙(同年同月、苦樂二ノ四、原題「俳諧評釋」)……………………四〇四
 新麥の歌仙(昭和十七年七月、八月、俳句研究九ノ七號、八號)………………四一九
 秋の空の歌仙……………………………………………………………‥……………四三三
 早苗舟の百韻……………………………………………………………………………四四五
 紅梅に筧の歌仙…………………………………………………………………………四七八
 青鷺の歌仙………………………………………………………………………………四九一
 夜半の鐘の歌仙…………………………………………………………………………五〇三
 花を折るの歌仙…………………………………………………………………………五一五
 
俳諧評釋續篇
 別座鋪の歌仙……………………………………………………………………………五三一
 子規一門の連句(昭和二十三年八月、俳句研究五卷七號)………………………五四五
 芭蕉の戀の句(昭和二十三年十二月、風花十號)…………………………………五五四
 
       〔2013年8月13日(火)午後8時2分、入力終了〕