定本柳田國男集 第十八卷(新装版)、筑摩書房、1969、11、20(1971、5、20、第三刷)
(入力に当たって、@小見出しには字間があけられたものもあるが、全部つめた。A略、稍、愈、?、各、偶、旁、益の各字に二の字点がつくものは二の字点をに置き換えた。B表組みの所は字のポイントを下げた。C引用部分は全体に二字下げ、改行部分は三字下げになっている。D明瞭な誤植は訂正した。Eユニコードに無く外字注記するほどでもない旧字体は新字体にしておいた。例えば、隆、廻、慎、臈、祈などの一部が違うもの。)
 
(1) 蝸牛考
 
(3)  改訂版の序
 
 方言覺書を、一册の本にした機會に、暫らく絶版になつて居た蝸牛考を、今一度世に問うて見ようといふ氣になつた。説明が拙なかつたと思ふ個所に少しく手を入れ、又附表の地圖を罷めて、やゝ排列の形式を變へて見た。その爲に意外に時日がかゝつたが、もう是でよろしいとまでは言ふことが出來ない。或は幾分か前よりは判り易くなつて居ると思ふがどんなものであらうか。本の内容と共に、新たなる讀者の腹藏無き批判を受けて見たい。
 國語の改良は古今ともに、先づ文化の中心に於て起るのが普通である。故にそこでは既に變化し、又は次に生れて居る單語なり物の言ひ方なりが、遠い村里にはまだ波及せず、久しく元のまゝで居る場合は幾らでも有り得る。その同じ過程が何回と無く繰返されて行くうちには、自然に其周邊には距離に應じて、段々の輪のやうなものが出來るだらうといふことは、至つて尋常の推理であり、又眼の前の現實にも合して居て、發見などゝいふ程の物々しい法則でも何んでも無い。私は單に方言といふ顯著なる文化現象が、大體に是で説明し得られるといふことを、注意して見たに過ぎぬのである。この國語變化の傾向は、我邦に於ては最も單純で、之を攪き亂すやうな力は昔から少なかつたやうに思ふ。たとへば異民族の影響が特に一隅に強く働くとか、又は居住民の系統が別であつた爲に、同化を拒んだり妥協を要求したりするといふ、佛蘭西方言圖卷の上で説かれて居るやうな原因といふものは、探し出さうとして見ても、さう多くは見つからないのである。然るにも拘らず、或若干のもの、とり分けても蝸牛の單語の如きは、この附表に載せただけでも既に三百種、種類を分けて見ると六つ七つの異なるものがあり、地方によつてはそれが又入り交つて、時としては部落毎にといふ程もちがつて居る。一方には古事記や萬葉集の編纂よりも前から、今に至るまで一貫して同じ語を用ゐて居る例も澤山あるのに、是は又何とした(4)錯雜であらうか。考へて見ずには居られぬ問題であつた。單語や表出法の或特定のものだけに、他と比べて殊に急激に變化し、且つその流傳と模倣とを促す樣な性質が具はつて居たものであらうか。但しは又それを迅速ならしめるやうな外側の事情が、偶然に來つて之に附隨することになつたものであらうか。斯ういふ特別の事情に至つては、寧ろ茲に謂ふ所の周圏説ばかりでは、解説し能はざるものであつた。方言即ち一つの國語の地方差が、どうして發生したかを知つた上で無いと、國語の統一は企て難いものであるのみならず、假に一度は無理に統一して見ても、やがて又再び區々になることを、防止する望みも持つことが出來ない。さうして方言の成立ちを明かにしようといふには、斯んなやゝ珍らしきに過ぎた一つの實例でも、之をたゞ不思議がるばかりで打棄てゝ置くといふわけには行かぬのである。それ故に自分は、國語に影響したと思ふ數多の社會事情の中から、先づ兒童の今までの言葉を變へて行かうとする力と、國語に對する歌謠唱辭の要求と、この二つだけを抽き出して考へて見ようとしたのである。言葉は年數よりも使用度のはげしさによつて早く古び、その又新らしい方の言葉の好ましさといふものは、利用者の昂奮心理とも名づくべきものによつて、一段と強く鋭どくなるのでは無いかといふことを、問題にして見ようとしたのである。兒童と民間文藝と、この二つのものに對する概念が、我邦ではどうやら少しばかりまちがつて居た。それを考へ直してもらひたいといふ氣持もあつて、ちやうど斯ういふ頃合ひの話題が見つかつたのを幸ひに、私は力を入れてこの蝸牛の方言を説いて見ようとしただけである。いはゆる方言周圏説の爲に此書を出したものゝ如く謂つた人の有ることは聽いてゐるが、それは身を入れて蝸牛考を讀んでくれなかつた連中の早合點である。成るほど本文の中には周圏説といふものを引合ひに出しては居るが、今頃あの樣な有りふれた法則を、わざ/\證明しなければならぬ必要などがどこに有らうか。
 それよりも更に心得難いことは、この周圏説と對立して、別に一つの方言區域説なるものが有るかの如き想像の、いつまでも續いて居ることである。方言は其文字の示す通り、元來が使用區域の限られて居る言葉といふこ(5)となのである。區域を認めない方言研究者などは、一人だつて有らう筈が無い。たゞ其區域が數多くの言葉に共通だといふことが、一部の人によつて主張せられ、他の部分の者が信じて居ないだけである。今からざつと四十年前、まだ方言の實査の進んで居なかつた時代に、中部日本の或川筋を堺にして、東と西とでは概括的な方言のちがひが有ると、言ひ出した人たちが大分有つた。是がもし其通りなら大きなことで、或は方言以上、もとは相似たる二つの言語といふ樣な結論にもなり兼ねぬのであつたが、其推定を支持するやうな資料は、今になつても格別増加して居らぬのみか、寧ろ反對の證據ばかり現はれて居る。動詞打消しのユカヌ・イハヌを、イハナイ等の形容詞風に改めて見たり、命令形に添附するヨをロに變へたり、さては觀音喧嘩等をカンノン・ケンカと發音したりするのは、それ/”\に一つの好み又は癖であつて、從つて?一地方に偏しては居らうが、東にも元の形は併存して居るばかりか、西にもその變へ改めた形のものが、毎度のやうに拾ひ出されて居る。甲乙丙丁幾つかの言葉の、一つが變つて居ればその他も之に伴なうて、必然に改まつて來るといふことは、絶無とまではまだ言ひ切るだけの根據は無いが、さうなる原因もわからず他に類例も無い以上は、先づ當てにはならぬと見る方が當つて居る。とにかくにさうなつて來てもよい理由が、現在はまだちつとでも説明せられず、しかも又事實も其通りでは無いのである。どうしてこの樣な想像説が、いつ迄も消えずに有るのかすらも我々には不審なのである。是と方言周圏論とを相對立するものと見るといふやうな、大雜把な考へ方が行はれて居る限りは、方言の知識は「學」になる見込は無い。きつとさうだといふ事實も立證せられず、又さうなつて來た經過も追究せられて居ないのに、それでも一つの學説かと思ふなどといふことは、大よそ「學」といふものを粗末にした話であつた。今や國語の偉大なる變遷期に際會しつゝ、果して其變遷には法則が有るのか、もしくはたゞ行き當りばつたりに、亂れて崩れて斯うなつてしまつたのか、どちらであるかといふことさへ、まだ學界の問題になつて居ない。それが私などの考へて居るやうに、個々の小さな表現の生老病死、一つ/\の言葉の運命とも名づくべきものを、尋ね(6)究めて比較し綜合して見ることによつてのみ、辛うじて近より得る論點であるといふことを、學者に認めてもらふだけでも、又大分の年月がかゝることであらう。爭つて見たところでしかたの無いことはよく知つて居るが、さりとてたゞ茫然と時の來るのを待つて居るわけにも行かない。舊版の蝸牛考が久しく影を隱して、愈いゝ加減な風評ばかりが傳はつて居る折から、少しでも判りやすく文章のそちこちを書き直して、今度はもう一ぺん專門家以外の人の中から、新らしい讀者を得たいと念ずるやうになつたのも、言はゞ近年の味氣無い色々の經驗がさうさせたのである。しかも一方に於て、國語が國民の生活そのものであり、人に頼んで考へてもらつてよい樣な、氣樂な問題ではないといふことが、此頃のやうに痛切に感じられる時代も稀である。今まで我々が考へずに過ぎたのは、一つには刺戟が鈍かつた爲といふこともあらう。それには少なくとも蝸牛考などは、一つの新らしく又奇拔なる話題を提供して居るのである。最初から單なる物好きの書では無かつたのである。
 
(7)  初版序
 
 前年東條氏の試みられた靜岡縣各村の方言調べ、又は近頃岡山縣に於て、島村知章君佐藤清明君等の集めて居られる動植物名彙などを見ると、言葉が相隣する村と村との間にも、なほ著しい異同を示す例が、日本では決して珍らしくないといふことがわかる。府縣を一つの採集區域とした方言集が、よほど氣を付けぬと正確を保ち得ないのは勿論、親切なる各郡郡誌の記述でさへも、果して能く隅々の變化までを代表して居るかどうか、時としてはやゝ心もと無い場合がある。我邦が世界の何れの部分にも超えて、殊に言語の調査を綿密にする必要があり、又その大いなる價値があると思ふ理由は、獨り人口の夙に溢れたゞよひ、土着の順序が甚だしく入組んで居たといふだけでは無い。海には何百といふ小島が、古い新らしい色々の村を形づくり、一方には又小國五箇山中津川といふ類の奧在所が、嶺に取圍まれて幾つと無く、異なる里人を定住せしめて居るからである。岬の端々に孤立する多くの部落などは、今まで何人も心づかなかつたけれども、實際はこの島と山里と、二つの生活の特質を兼ね備へて居たのである。さういふ土地の方言報告は、遲れて到達するにきまつて居る。故に若し國語の調査を周到ならしめんとすれば、進んで我々の方から指定又調査しなければならぬ區域が、實は日本には非常に多かつたのである。
 それが少なくとも今日までは、まだ一つとして調査せられたものが無い。方言採録の事業は既に過去四十年に亙り、其編集も亦數百の多きを見たけれども、なほ我々の資料が貧弱の感を免れないのは、言はゞ未知の事實が餘りに豐富なる爲であつた。私は自身數年の實驗によつて、誰よりも痛切にこの不備を認めて居る。從つて言語誌叢刊の將來の収穫に向つて、最も大いなる期待を繋けて居る。故に現在のやうな乏しい知識を基にして、歸納(8)の方法を試みようとすることは、或は自己の危險を省みざる所業と評せられるであらう。しかし新たなる次の發見の爲に、覆へるかも知れぬのは粗忽なる私の假定だけであつて、私が處理し整頓して置いた事實の方は、たとへ追々に其重みを加へぬまでも、兎に角にそれ自身の意義を失ふことは無いと信ずる。此方法は今後の資料の累積と比例して、歩一歩完成の域に進むべき希望のあるものであるが、假に不幸にしてまだ當分の間、日本の採集事業が今の?態に放置されることにならうとも、少なくとも各地に散在する同志の人々を、糾合し又慰留するぐらゐの效果だけはある。我々は所謂方言の理論、方言が國語の眞實を闡明する爲に、如何に大切であるかを既に聽き知つて居る。それが一二の進んだ國に於て、最近どれ程の成績を擧げたかといふことも、頼めば講説してくれる人が必ず有るであらう。獨り欠けて居るかと思ふのは學問の興味、斯ういふ切れ/”\の小さな事實を集めて行くことが、末にはどういふ風に世の中の智慧となるか、それを眼の前の實例によつて説明することであつた。是にも方式があり又準備が無ければならぬが、私には徒然草の説教僧のやうに、乘馬の稽古の爲に費すべき若い日が無いので、其支度の調ふのを待ちきれずに、忍んでこの未熟の初物を摘み取つて、やがて大きな御馳走の出るまでの、話の種にしようとするのである。我々俗衆の學問に對する手前勝手な要求は、第一には之に由つて怡樂を得、又安息を得んとすることである。それには萬人の幼なき日の友であり、氣輕で物靜かで又澤山の歌を知つて居るデデムシなどが、ちやうど似合はしい題目では無いかと思ふ。
 私たちは田舍の生活に遠ざかつて居る爲に、既に久しい間この蟲が角を立てゝ、遊んであるく樣子を見たことが無い。其進歩の痕の幽かなる銀色をしたものが、眼に付くことも段々に稀である。都府の庭園が日照り耀いて、餘りに潤ひの足らぬといふことも、蝸牛の靜かなる逍遥を妨げて居るか知らぬが、一つには我々の心があわたゞしく、常に物陰の動きを省みようとしなかつた故に、是も多くの過ぎ行くものと同じく、知らぬ間に無くてもよいものになつてしまつて居るのである。我々はこの小さな自然の存在の爲に、もう一度以前の注意と愛情とを蘇(9)らせ、之に由つて新たなる繁榮の悦びを現實にして見たいと思ふ。所謂蝸牛角上の爭闘は、物知らぬ人たちの外部の空想である。彼等の角の先にあるものは眼であつた。角を出さなければ前途を見ることも出來ず、從つて亦進み榮えることが出來なかつたのである。昔我々が角出よ出よと囃して居たのは、即ちその祈念であり又待望でもあつた。角は出すべきものである。さうして學問が又是とよく似て居る。
   かたつむりやゝ其殻を立ち出でよあたらつの/\めづる子のため
 
(11)  言語の時代差と地方差
 
 國語の成長、即ち古代日本語が現代語にまで改まつて來た順序と、方言の變化即ち單語と語法との地方的異同と、この二つのものゝ間には元來どういふ關係があるのか。それを私はやゝ明かにして置きたい爲に、幾つかの最も有りふれたる實例を集めて見た。現在保存せられてある多量の記録文學は、其著述の時處が知られて居る限り、又其傳寫に誤謬改作が無かつたことが確かめられ得る限り、何れもそれ/”\に過去の言語現象の、前後相異なることを語るものではあるが、その飛び/\の事實の中間の推移に至つては、概ねなほ不安全なる臆測を借らねばならぬ上に、それが何故に甲から乙丙丁へ、進み動くべかりしかの原由は説明してくれない。ところが方言は我々の眼前の事實であり、今も一定の法則によつて繰返されて居る故に、いつでも其觀察者に向つて自分の性質を告げようとして居る。もし比較によつて幸ひに發生の順序を知り得べしとすれば、それが同時に亦我國語の歴史の爲、史料の年久しい缺乏を補ふことになりはしないか。我々の兄弟が旅を好み、田舍の物言ひのをかしさに耳を傾け心を留めたのも、千年以來のことであつた。殊に明治に入つてからは、之を調査する爲に大小種々の機關さへ設けられた。しかもこの大切なる總論に於ては、なほ將來の探險者に期待すべき區域が、斯樣に廣々と殘つて居たのである。
 私たち民間傳承の採集者は、實は殆と皆言語學の素人ばかりであつた。單に文籍以外の史料から、過去の同胞國民の生活痕跡を見出さうとするに當つて、あらゆる殘留の社會諸事相の中でも、特に言語の現象が豐富又確實なることを感じて、豫め之を分類整頓して、後々の利用に便ならしめんとして居たのである。さうして其方法が未だ明かで無(12)い爲に、源に溯つて幾分か自ら指導するの必要を見たのである。既に專門家の技能を學び得なかつた故に、この自己流は甚だしく迂遠であり、又勞多きものであつた。到底職業ある人々の再び試みるに堪へざるものであつた。從うて其中間の經過を報告することは、一方に同情ある批判者の忠言に由つて、自身今後の研究を有效ならしむると共に、更に他の一方には若干の利用するに足るものを集めて、次に來る人々の準備の煩を省くことになると信ずる。著者の結論もしくは現在力支せんとする假定は、一言に要約すれば次の如きものであつた。曰く、
 方言の地方差は、大體に古語退縮の過程を表示して居る。
 さうしてこの一篇の蝸牛考は即ち其例證の一つである。
 
(13)  四つの事實
 
 最初に方言の觀察者として、先づ少なくとも四つの事實が、我々の國語の上に現存することを認める必要がある。是が又自分の「蝸牛」を研究の題目として、わざ/\拾ひ上げた動機をも説明するのである。
 第一には方言量、斯ういふ言葉を新たに設けたいと思ふが、日本の方言は全國を通觀して、その目的とする物又は行爲毎に、非常に顯著なる分量の相異がある。たとへば松は昔からマツノキ、竹は昔からタケであつて、如何なる田舍に行つても日本人ならば呼び方を變へて居ない。動詞にも形容詞にも是と同じ事實はあるが、説明が煩はしいから主として物の名を擧げる。小さな動物で謂つて見ても、土龍は何れの土地でもムゲラモチか、ウゴロモチかイグラモチかであつて、其以外の別名は殆と聽かない。蜘蛛はクモでなければ、クボかグモかキボかケーボと轉音するのみであり、蟻はアイ・イヤリ・イラレ等に變つて居る他には、僅かにアリゴ・アリンボ・アリンド又スアリなどゝなるばかりで、異なつた名詞は一つも無いと言ひ得る。是に反して魚では丁斑魚、是にはメダカ・メンパチの如く眼に注意したものゝ他に、なほウルメ・ウキス其他の十數種の地方名があつて、それが又細かく分れて居り、蟷螂にはイボムシ・ハヒトリ・ヲガメ等の、全く系統のちがつた二十に近い方言が、いつの間にか出來て相應に弘まつて居るのである。蝸牛が又其中の驚くべき一例であることは、讀者は程無く飽きる位それを聽かされるであらう。此等の事實から推して、方言生成の主たる原因が、必ずしも國語の癖、又は歴史の偶然に在つたとは言はれないこと、即ち地方言語の差異變化を要求する力が、目的物そのものに在つたといふことが、直ちに心づかれるわけである。方言と訛語とを(14)混同した從來の誤り、それからやたらに數多く松や櫻の地方名までも集めようとした、前の調査者の無用なる物好きも、やがて悔いられる時が來ると思ふ。
 第二には方言領域、この術語も是から大いに用ゐられる必要がある。個々の事物に對する個々の單語は、やはり各自の支配力を持つて居て、たゞ同種の事物に於て對抗して居る。別な言ひ方をすると、蟷螂や丁斑魚の方言を共同にして居る土地でも、蝸牛なり土筆なり梟なり、其他の多くの語は別々のものを用ゐて居て、あらゆる方言を組合せて、甲乙異なる組といふものは無いといふことである。尤も大數の上から見て九州と奧羽、又は中央部と國の端とは、差異が多いといふことは有り得るが、それにも例外は甚だ多く、豫め命名法の一つの傾向の如きものを測定することは出來ぬ。個々の方言はそれ/”\の領分を、何れも自分の力を以て拓き又保持して居て、しかも單語毎に其地域には著しい大小がある。是も二三の實例を以ていと容易に立證し得られるが、それを重ね取り寫眞の如く積み重ねて見た上でないと、近年唱導せられる「方言區域」の説 即ち東國方言とか上方言葉とかの名目は、訛り即ち音韻の變化以外には、まだ安心して之を採用し得ないのである。
 第三には方言境堺、即ち二以上の方言領域の接觸面には、他では見られない特殊の現象が發生することも認められなければならぬ。その特殊相といふのは、(イ)には數語併存であり、(ロ)には即ち複合である。一つの土地の一つの物體には、一つしか方言は無いだらうといふ今までの想像は、之に由つて恐らくは覆へされるであらう。方言の蒐集者に取つては、この境堺線上の言語現象は、可なり印象の深いものである。將來の方言區域説は、專ら此方面からの考察によつて決定せらるべきであらうが、大體に同じ樣な錯綜の起り易い土地といふものがあるから、將來は獨り方言の分布を知る爲のみならず、なほ交通と移住との歴史を明かにする爲にも、もつと深い注意をこの方言の邊境現象に拂はなければならぬことになるかと思ふ。是も後に詳説するつもりであるが、たとへば加賀能登越中は特に蝸牛の方言に於て、最も敷多き小領主を簇立せしめて居る土地であつて、同時に又蟷螂と雀とに付ても、澤山の方言をもつ(15)て居る。他の一方關東の利根川下流と、其兩岸十數里の平地は、やはり雀と蝸牛との二種の方言に富んで居る區域である。雀の如き變化の少ない名詞が、特に此二地方に於て、蝸牛と同樣の境堺現象を示して居るといふことは、何か今までの方言區域説にも便利なやうであるが、斯ういふ一致はまだ他の動植物に付ては見出されて居ない。たゞ幾分か遠方の旅客の來往が繁かつたらしき地域に於て、殊にこの錯綜の傾向が著しいといふのみである。東國でいふと山梨縣、それから三河の碧海郡なども此例に引くことが出來る。一方に九州の方では大分縣が、少なくとも蝸牛だけに付ては、可なり紛亂した境堺線を持つて居る。自分一個の假定としては、此現象は方言の輸送、即ち人は移住せずとも新たに隣境の用語を採つて、我が持つ以前のものを廢止する事實が、度々あつたことを意味するかと思つて居る。もしさうだとすると、是は交通の問題であつて、方言區域の説を爲す人の心中の前提、即ち九州人だから九州方言を、北陸人なら北陸方言を、保留して居たと見る理由としては、頗る不十分なものになつて來るわけである。
 第四には方言複合の現象、是はあまり長たらしいから後に説くことになるが、前段に謂ふ所の數語の併存といふことは、やはり文化の交通と關係があるもので、人は或は之を採集地域の限定に基づくものとし、たとへば一縣の方言としてならば、富山石川の如く蝸牛に數十種の名稱があることになつても、之を郡又は村大字として見るならば、やはり一つの土地には一つしか方言は無いのだと思ふかも知らぬが、事實は必ずしもさうでは無い。即ち個々の話者を單位として、一人が知つて居る語も亦幾つかあるのである。是は結局定義の問題に歸着するかも知れぬが、耳の方言即ち人が言ふのを聽いて、即座に會得するものも亦其土地の語であるのみならず、それと純乎たる口の方言、即ち平生自然に口へ出る語との中間にも、實はまだ幾つかの階段があるので、常には使はぬが稀には使ふ、若くは少し聽耳を立てさせようと思ふときに、改めて使ふといふ方言もあるのである。もし方言の領域が非常に小さくなつて、たとへば茨城縣南部の蝸牛などのやうに、次の部落に行くともう別の名があるといふ迄になれば、それが縁組によつて更に交錯し、小兒は母の使ふ語に附くといふこともいと容易なので、後には家々で選擇を異にするといふ場合さへ現れ(16)て來るのである。しかも此樣な事實は、決して廣大なる一つの方言領域の、中央部に於ては起るべきものでなかつた。即ち距離と交通方法の便不便とが、私の言はんとする個々の方言量、及び其領域の大小と、深い關係を持つて居たことは、疑ふことが出來ないのである。しかしながら是ばかりでは説明し難いことは、如何にして最初同一の事物に付いて、二つ以上の單語が分立し、又割據するやうになつたかといふことである。幾つかある同種方言の中で、或者は曾て廣大なる領分をかゝへ、又他のものは狹い區域に引籠つて居た理由としては、其選擇なり流行なりの根本に、既に一種新語作成の技術、即ち前から名のあるものに、もう一つ好い名を付與しようとする企てと、それを批判し鑑賞し又採用する態度とがあつたこと、別の言ひ方をすれば、言語も亦廣い意味の文藝の所産なりしことを、想像せぬわけには行かぬのである。それが今日までの方言變化の上に、果してどの程度まで一貫して居るか。又所謂標準語の確認に向つて、どれだけの支援を與へて居るか。現在用ゐられて居る日本語の語數は、恐らく千年前に比して數倍の増加を見て居る。しかも只其一小部分のみが、新たなる文物と伴なうで、國の外から輸入せられたのである。さうすると其殘りの部分の増加は、何の力に由つて之を促したのであるか。誰か文化の上層を占めて居るといふ者で、意識して之を試みたものが一度でもあつたらうか。彼等が「匡正」に努力する方言の亂雜といふことが、假に無かつたとしたならば、果して同じ結果を得られたであらうかどうか。斯ういふ問題も一應は考へて置くべきものであつた。
 
(17)  方言出現の遲速
 
 右に列擧した四つの事實が、幸ひに是からの立證によつて愈確認せられるものとすれば、次には個々の言葉の年齡といふものを、考へて見るのが順序である。今までの學者には、兎角古い語と正しい語と雅なる語と、この三つを混同しようとする癖があつたやうだが、正しいといふ語は要するに聽く人に誤解をさせぬ語であらうから、土地と時代とによつて變つて居たのみならず、前にも述べたやうな邊境現象に於ては、同時同處にさへも幾つかの正しき語はあつた筈である。さういふ中から是が一番上品だと認めて、人も我も出來るだけ多く使はうとしたのが、本當は雅語といふべきもので、從うてそれにも追々の推移はあるべきであつたが、今までの學者の間に於ては、もう少し狹い意味に、即ち京都に於て歌を詠み文章を書く人の使はうとする言葉のみを、さういふ名に呼んで尊重して居たのであつた。文學は由來保守的なもので、又?異常の感動を復活させる爲に、わざと日用の語を避けて、傳統ある古語を專用しようとした傾きはあつたが、それすらもなほ我々の言語藝術として成立ち難かつたことは、かの三馬が浮世風呂に出て來る鴨子鳧子の歌の、馬鹿げて居るのを見てもよくわかる。ましてや自由の選擇が許さるゝ部面に於ては、たとへば大宮の内の言葉とても、やはり方言の普通の法則に從うて、移り改まらずには居なかつた。其選擇が大體に於て、古語をふり棄てゝ新語を迎へ入るゝに在つたことは、我々から見れば當然としか思はれないが、離れた土地に居て遠くから之を眺めた人々には、たま/\各自の選擇と同じで無かつた故に、是をさへ文學が古語を雅語とする例と等しなみに、重んじ又手本にしようとしたのである。都府と田舍とを問はず、言葉は一樣にもう昔のまゝでない。異(18)稱の發見にせよ、音韻の分化にせよ、新たなる生活の必要があればこそ、新語は世の中に現れて出たのである。人心のおのづから之に向ふのは、必ずしも無用の物ずきと評することが出來ない。私たちの想像では、個々の物いひにもやはり磨滅消耗があり、又一種の使用期限の如きものがあつた。古語は古いといふことそれ自身が、次第に役に立たなくなつて行く原因であつたかと思はれる。
 この第五の事實を確かめる爲にも、蝸牛の如き方言量の豐富なる語に就て、特に其邊境現象に注意して見る必要があるのである。都府は見樣によつては亦一個の方言境堺であつた。幾つか異なつたる方言を知る者が、來つて相隣して不斷の交通をして居る。從うて市民の方言は、實は數語併存の例であつた。勿論其中にも選擇の順位はあつて、東京の蝸牛は現在はマイマイツブロ、京都ではデンデンムシが標準語の如く見られて居るが、雙方の兒童は大抵は此二つを共に知るのみならず、其上に更にカタツムリといふ今一つの語が有ることをさへ承知して居るのである。是は近頃の小學校の本に、デンデンムシムシ・カタツムリといふ文字がある爲であつたと、考へて居る人も少なくないが、假にさうであつても、結果には變りは無い。自分は播磨國の中央部、瀬戸内海の岸から五里ほど入つた在所に、十二三の頃まで育つた者であるが、やはりいつ覺えたのか、確かにこの三つの語を三つとも知つて居た。五十年前の教科書の中にも、やはり蝸牛の一節はあつたが、是は教員がクヮギュウと讀ませて居た。カタツムリが古語であつて確かに倭名類聚鈔に出て居ようとも、そんなことは子供たちが知らう筈が無い。ましてや他の歌文にそれが用ゐられて居たかどうか。今だつてまだ捜して見なければよくはわからない。從うて是を記録の影響と見ることは困難で、つまりは他の二つは使用が頻繁で無く、選擇は主としてデンデンムシに在つたといふだけで、三つの方言は共に我々の中に傳はつて居たのである。
 さういふ地方は尋ねたらまだ他にもあつたことゝ思ふ。そこで問題は右に掲げた三つの名詞が、如何なる順序を追うて此世には現れたかといふことである。其中でもカタツムリだけは、既に記録の徴證もあることだから、それが一(19)番の兄であることは、もう疑ひが無いといふ人もあらうが、是とても京都だけの話である。他の二つが更にそれよりも前から、離れた地方に於て知られて居なかつたといふことは、今日は人が只さう思つて居るといふだけである。自分も勿論この三つの語が、相生であつたらうとは考へて居ない。しかしこの國を一體として、方言發生の先後を決する爲には、斯んな一部の文書史料などは、實は何の根據にもならぬのである。日本では近頃無暗に單語を外國語のそれと比定して、是によつて上代文化の觸接を説き、あはよくば種族の親近までを、推斷しようといふ道樂が流行して居るが、それにはまづ京都以外、二三の語集以前の日本語が、やはり其通りであつたことを、立證してかゝらねばならなかつたのである。從來行はれて居た普通の方法では、古い世の事は知れない方が本當である。是を確かめるには又別の手段を講じなければならなかつた。さうして私は其手段はあると信じて居るのである。
 一應の觀測は、現在主として用ゐられて居るものが、稀にしか用ゐられず、もしくは既に全く忘れられて居るものよりは、新らしいと考へさせることは前にも述べた。しかしそれは唯一地限りの現象であつて、現にデンデンムシとマイマイ又はマイマイツブロの如きも、關西に於ては前者が主として行はれ、東國はすべて後の者を用語にして居る上に、他には又其何れでも無いものゝみを、知り且つ用ゐて居る地方がある。だから最初に先づ分布の實?を考察して見る必要があるわけである。私たちは必ずしも人が新語に赴くといふ傾向を高調せずとも、單に客觀的なる地方事實の比較のみに由つて、個々の方言のいつ頃から、又は少なくとも一は他の一よりも後れて、此世に現れて出たことを見極め得るものと思つて居る。さういふ實驗を段々に積み重ねて行くことが、曾ては自然史の成立であつたと同じく、將來は又國語の歴史を明かにする道であらうと思つて居る。此判別の目安に供すべき尺度は、他にもまだ幾つかあるだらうが、さし當り自分の標準としたものは二つある。其一つは方言領域の集結と分散、他の一つは方言生成の理由が、今尚現存し又は比較的に明瞭であるか否かである。この第二の目安は、もつと科學的な言ひ方をすれば、或は方言自體の構造素質などゝ言ひ得るかも知れないが、さういふ表現の巧拙よりも、私は寧ろ事實を詳かにして置く(20)方に力を費さうとした。さうして之に據つて、ほゞデンデンムシのマイマイよりも後に生れたことを確かめ、且つカタツムリが更に其二つよりも前であつて、しかもまだその更に以前に、他の幾つかの「上代の新語」を、兄として戴いて居たらしきことを知つたのである。
 
(21)  デンデンムシの領域
 
 他の何れの方言の支配する地域よりも、デンデンムシの領分は廣くして又續いて居る。其分布の實?は附録の單語表に讓つたから茲には再説せぬが、大體に於て近畿五箇國の全部、大和十津川の一小區劃を除いては皆それであり、北は若狹三丹に續いて日本海岸に達し、東は伊勢の海の清き渚に出でゝ、一端は尾張三河の國境を堺とし、美濃には入り交つて亦一つの邊境現象を呈して居るが、近江は勿論また此領内に入つて居る。西と南とは、大よそ瀬戸内海の周圍はすべて此語に統一せられ、一方は紀州の西半分と阿波一國、九州も豐前豐後の海に臨んだ平野にまで及んで居る。この廣大なる接續地域以外に、飛び散つて居る例を拾つて見ても、多くは皆近代水運の跡の、辿つて行かれる土地であつた。例へば九州でいふと肥前北松浦の大島、對馬の豆酘、奧州では氣仙の一部及び釜石附近などがそれである。日本海側では能登と越中とにも若干の分布があり、稀には又關東の村落にも其痕跡を見るが、是は上總あたりの濱から、上陸したものとも想像せられる。勿論何れも複合の形を以て存在し、又多くは數語併存の例に入るべきものであつた。
 他の何れの蝸牛の稱呼にも、是だけ廣い領域の連續は見られぬのみならず、それが又國の中央の要地を占めて、未だ他の新たなる異名によつて、喰ひ破られて居ないといふ事實は、自分をして此方言が一ばん後に、マイマイに代つて流傳したことを推定せしめた一つの理由である。方言は決して記録文藝の如く、都を源頭として居たとばかりも言へないが、使用によつて物を古くする力は、いつの世に於ても都市は田舍よりは強かつた筈である。さうして假に近(22)畿の人多き地方を中心として見ると、マイマイは固よりのこと、曾て源順君によつて公認せられたカタツブリまでが、今では悉く出でゝこのデンデン領の外側に、分散し又孤立して居るのである。其他のなほ若干の方言が、更に又此二つのものよりも外に在ることは、後段に入つてから之を説く方が便利だと思ふが、たゞ一つだけ特に此際に於て記述しなければならぬのは、デンデンに最も近いデェロ又はダイロといふ方言領である。注意すべきことはこのデェロの領域が、越中南部の緩衝地帶を除くの外、殆と何れの一地點に於ても、前にいふデンデン領と接壤せず又混淆して居ないことである。しかも版圖の大きさに於ては、優にマイマイの支配地を凌ぐものがあつた。茲にその分布を略述すると越中の下新川郡、有名なる黒部川の下流は、デェロ領域の西南端である。それから北に進んで、越後は新發田《しばた》近傍の小地區を除いて約全部、それから信州は五分の四以上、僅かに天龍の川下のみが、南の方から來たかと思ふマイマイに侵蝕せられて居る。甲州は單に其東北の一隅に、北武藏又は上野からの影響とおぼしきものが認められる外、大體にデェロの領分で無いが、之に反して碓氷《うすひ》嶺東の地は、一圓に此系統の中に入つて來る。但しこれが信州方面からの傳播であるか、或は別に又東北より進み出でたものが、偶然に再びこゝに落ち合つたのかは問題であつて、自分は寧ろ後の場合であらうと思つて居る。其理由はやゝ簡單に失するけれども、奧羽地方は最上川水域のほゞ全部、阿武隈川水域の大部分、及び會津の盆地が共に純なるダイロウの形を保持し、又關東に入つても、是と地續きなる栃木縣北半だけは同樣であるのに、それが南して常陸に臨み、西して群馬縣の平野に降るに及んで、そこに最も顯著なる邊境現象、即ち變化と複合と數語併存との、色々の事例が見出されるからである。
 しかし此間題は今はまだ容易に論斷を下し得ない。それよりも以前に知らなければならぬことは、方言領域の擴張と退縮とが、如何なる力によつて行はれたかといふことゝ、其力は主としてどの方面から働きかけられて居たかといふこと、別の語でいふならば、言語も亦他の種々の文化と同じやうに、新たに流れて出る源頭の如きものがあつたか否かである。日本は此間題を調べて見る爲に、實は比較的都合のよい國であつた。他の大陸の接壤諸國に比べると、(23)外から入つて來た感化が尋ね易いのみならず、事實又其感化が甚だしく少なかつた。中世以後の新しい單語なども、其入口は何れの港であらうとも、一應は先づ京都人の選擇を經て居るのである。從うて蝸牛の次々の改稱の如きも、別に地方に獨立の中心は、無かつたものと見るべきであるが、偶然にもこのダイロウ又はデェロの一語のみは、全く中央と交渉無しに、流傳し侵略したかの如く見える。此點が自分の最初の疑惑であつた。ところが仔細に觀察をして見ると、茲にも一種の邊境現象、即ち大規模なる複合作用が、新たに採用せられる語辭の上に行はれて居たのであつた。それを此場合にあてはめて言へば、デンデンムシは東部の諸國に進出するにつれて、やがてダイロウとなるべき傾向を具へて居たのであつた。從うてこの東西二つの方言領域は、たとへば羅馬が二つの帝國となり、又は足利氏が京鎌倉に立ち分れたやうに、其全體の外に立つ者から見れば、依然として合同の一新勢力であつた。是が恐らくはこの二つの方言の間に、相互の交渉が殆と無かつたこと、及び其割れ目の中間に、以前の方言の二種三種が、永く存立し得た理由では無かつたかと思ふ。
 
(24)  童詞と新語發生
 
 デェロは西國のデェデェと同じく、元は確かに「出る」といふ動詞の、命令形であつたらうと思ふが、現在はそれを疑はしめるやうな若干の事實が既に生じて居る。第一には話主に其語の由來を知らぬ者が多くなり、從うて之を少しづゝ變へようとする試みが行はれて來た。越後信州の大部分では、デイロ・ダイロの二つが共に報告せられ、上州に於ても利根吾妻の二郡はデイロン、福島縣でも相馬郡、南會津の朝日村などはデーロであるが、他の多くの地方の方言集にはダイロ又はデァイロと報じて居る。一つには表音法の不完全もあらうが、大體に於てダイはデイよりも正しいと考へるダイコン(大根)一流の匡正主義が働いて居るので、人が特別に注意を拂はなかつたならば、末には追々に此方に統一せられたかも知らぬ。現在知られて居るデェロ領の飛地としては、但馬國には水路を運ばれたかと思ふダイロウがあり(但馬考)、遠くは海を隔てた對馬島の一隅にも、亦ダイリョウといふ語が發見せられる。此等は何れも既に「出ろ」の意味を、知らない人々によつて傳へられたもので、斯ういふ單なる模倣こそは、往々にして又訛語の原因にもなつて居る。方言其ものゝ成立ちを考へて見るには、是は寧ろ警戒しなければならぬ材料であつた。それとよく似た例ならば、デェデェの方にも幾つかある。たとへば雲州の松江附近のダイダイムシなども其一つで、恐らくは亦何故にデェデェといふかを忘れて居る人々が、たゞ一般の正しい音に附いて、是をもダイダイに言ひ改めようとした迄であつたらうと思ふ。デンデンムシといふ語なども、實はもう最初の形では無いのだが、之に比べると遙かに弘い區域を持つて居るわけは、今なほ其背後に一つの力、即ち其語を發生せしめたる元の理由の、記憶せられて(25)居るものがあるからであつた。單語の符號化といふことは、在來の使用者のみには何でも無い事のやうであるが、それを一の土地から他の土地に移さうとする場合には、可なり大きな障碍となつて現はれる。新語の動機のまだ明かに知られて居るものには、根を引いて植ゑかへるやうな味得があるに反して、此方はたゞ枝を折つて手に持つだけの模倣しか無いからであらうと思ふ。個々の事物によつて方言量に多少があり、個々の方言に領域の廣狹があるといふことは、恐らくはこの符號化の遲速、もしくは之を防止すべき外部の力の、有無強弱によるものであつて、言語を一種の祀會史料として利用せんとする者には、殊に此關係を明確にして置く必要があるのである。
 私の假定がもし當つて居るならば、現在一つの方言の活躍を支持し、殊に其流傳を容易ならしめて居る力は、同時に又其語の新生を促した力であつた。だから一方の原因が不明になる頃には、他の一方の效果も弱つて、後には只曾て是を育てた人の群に、符號と化して殘る以外には、至つて僅少なる模倣者を得るに止まり、何かの機會ある毎に、新らしいものに代らるゝ運命をもつのである。是を單語の生老病死と名づくることは、必ずしも不倫とは言ふことが出來ぬ。固より其間には壽命の長短があつて、古語にも往々にして今も活き、成長し又征服しつゝあるものもあることは事實だが、大體からいふと古いものは失せ易く、後に生れたものゝ迎へられるのは常の法則である故に、我々は若干の例外のあるべきことを心に置いて、ほゞ現在の方言の分野から、それ/”\の語の年齡長幼を推知することを許されるのである。
 或はこの新陳代謝の?態を以て、簡單に流行と言つてしまへばよいと思ふ人もあるか知らぬが、それには二つの理由があつて、自分たちは從ふことが出來ない。「流行」は社會學上の用語として今尚あまりにも不精確な内容しか有たぬこと是が一つ、二つには新語の採擇には單にそれが新らしいからといふ以上に、遙かに具體的なる理由が、幾つでも想像し得られるからである。たとへば語音が當節の若き人々に、特に愛好せられるものであり、もしくは鮮明なる聯想があつて、記憶通意に便であることなども一つの場合であるが、更に命名の動機に意匠があり、聽く者をして(26)容易に觀察の奇拔と、表現の技巧を承認せしめるものに至つては、其效果はちやうど他の複雜なる諸種の文藝の、世に行はるゝと異なるところが無い。一方には又其第一次の使用者等が、?試みてたゞ稀にしか成功しなかつた點も、頗る近世の詩歌俳諧秀句謎々などゝよく似て居て、今でも其作品から溯つて、それが人を動かし得た理由を察し得るのであるが、しかも唯一つの相異は其作者の個人で無く、最初から一つの群であつたことである。曾て民間文藝の成長した經路を考へて見た人ならば、此點は決して諒解に難くないであらう。獨り方言の發明のみと言はず、歌でも唱へ言でもはた諺でも、假令始めて口にする者は或一人であらうとも、其以前に既にさう言はなければならぬ氣運は、群の中に釀されて居たので、たゞ其中の最も鋭敏なる者が、衆意を代表して出口の役を勤めた迄であつた。それ故にいつも確かなる起りは不明であり、又出來るや否や兎に角に直ぐに一部の用語となるのであつた。隱語や綽名は常に斯くの如くして現れた。各地の新方言の取捨選擇も、恐らくは亦是と同樣なる支持者を持つて居たことであらう。この群衆の承認は積極的のものである。單に癖とか惰性とかいふやうな、見のがし聞きのがしとは一つで無い。それを自分が差別して、此方を新語の成長力などゝ名づけんとして居るのである。
 出來るものならば此?態が、決して近代に始まつたもので無いこと、否寧ろ以前の簡單な社會に於て、殊に盛んであつたことを私は立證して見たい。言葉を新たに作る群は、今でも氣を付けて見ると少しはある。一つの山小屋や遠洋漁船の中で、共に働いて居る者の中には仲間の語が出來る。碁打ちや將棋さし香具師や芝居者の職業團に發生したものなどは、素より外間に通用することを期せざるものであつたが、それすらも折がある毎に普通語に化して居る。此頃でいふならば醫者語・辯護土語、以前の世の中では説教僧の經典語なども、誰が學んだものか知らぬ間に俗語になり切つてゐる。ましてや境涯の全く相似たるものが、互ひに興ある隣の新語を、知れば用ゐようとするは自然の勢ひである。たゞ障碍は寧ろそれよりも根源に在つて、現在の人の集まりが雜駁で結合の力弱く、殊に興味の統一集注を求め難い爲に、一人の奇警なる言葉が、是を苗圃として甲拆することを得なかつただけである。
(27) 私は前にチギリコッコ考其他二三の論文に於て、小兒が新語の製作者であつた顯著なる事例を拳證して居る。考へて見ると是が特に目に立つに至つたのは、他には同一の條件を具足した者が次第に稀になつて來た結果であつて、必ずしも現代の日本語が、悉く恩を幼少なる者に負ふといふことを意味しなかつたのである。しかも我々が眼前の事實を基礎として、國語の是までの成長を考察しようといふことには、やはりこの手近の例を援用する他は無いのであつて、後にはたゞ是と同じき推定が、更に前期の年長者たちの群にも、擴張し得るか否かを檢すれば足るのである。少年青年は其作業の組織が、今も昔に比べて甚だしく變化して居ない。さうしてその共同の利害は單に地域によつて制限せられるのみで、部外にも同質の共鳴者を持つて居ることは、曾て個々の盆地を耕作して居た農夫群、もしくは長汀曲浦の一つ/\に村をなして、手結ひ網曳した漁夫群などゝよく似て居る。新語の發明又は選擇が、遞傳して行くべき軌道には、是に上越すものは無かつたわけである。蝸牛には限らず、自然の小さな産物の中には、全國の童兒が各地等しく其心を傾けて居たものは多かつた。蒲公英《たんぽぽ》の花を弄ぶ遊戯は、日本に大よそ四つあれば、その名稱も亦四つある。土筆《つくし》を手に取つていふ唱へ言が五つあれば、其地方名も大略之を五系統に分けられる。たゞ其章句があまりに單純で、今は忘れてしまつた土地が多い爲に、まだ此兩者の關係を明確にすることが出來ないだけである。ところが幸ひにして蝸牛の歌は殘つて居る。それと各地方の現在の名稱とは、誰が見ても縁が無いとは言へぬのである。しかも此歌の起りは年久しく、既にマルチネンゴ伯夫人が、其民謠論の序文に述べて居る樣に、「デデムシ出い/\」といふ童詞は世界の諸國、英蘭・蘇格蘭・獨逸・佛蘭西・トスカナ・羅馬尼亞・露西亞及び支那等の童兒によつて、一樣に高く唱へられて居たのであつた。
 
(28)  二種の蝸牛の唄
 
 京都のデデムシの人に知られて居たのは、延寶四年の序文ある日次記事よりは後で無かつた。同書四月の末の條に、
  自2此月1至2五月1、有霖雨則蝸牛多出、或登v床又黏v壁、……其在v貝也則蝟縮、兒童相聚、出出蟲蟲、不v出則打2破釜1云爾。此蟲貝、俗稱v釜。
とあるのは、デデムシの名の此童詞から出たことを知つて居たのである。しかも夫木和歌抄には土御門天皇の御製として、
   家を出でぬ心は同じかたつぶりたち舞ふぺくもあらぬ世なれど
といふ一首を載せて居るのを見ると、出よ/\といふ意味の童詞の方は前からあつて、或時代の面白かつた詞の形が、後にデェデェムシといふ新名詞を、發生せしめたことを想像し得られるのである。
 實際此童詞は土地によつて、今でもどし/\と其形を變へて行かうとして居る。各地幾つかの例を引き比べて見ても、もはや日次記事にある樣な「釜を割るぞ」といふ威迫語は用ゐられて居ない。「出ろ」といふ趣意だけは一つであつても、文句は如何樣にも取替へられるものであつた。しかも其文句が一般の人望を博すると、やがて蝸牛の又一つの方言が出來たことは、恐らくは亦黒川道祐時代の、デェデェムシムシをも説明するものであらう。近代は大體にデンデンムシといふ地方が多くなつて居るが、是はデデの命令形なることに心付かず、口拍子にデンデンと謂つた兒が多かつた結果かと思はれる。たとへば播州では印南郡などに、
(29)   でんでん蟲出やれ、出な尻にやいとすよ
といふ歌があり、紀州では田邊附近に、
   でんでん蟲蟲、出にや尻つめろ
といふ歌があつて、乃ち此兩地の蝸牛はデンデンムシであつた。備前では邑久郡朝日村に、
   でん/\でんの蟲、出んと尻うつきるぞ
といふ童詞があつて、此邊では又デンノムシとも呼んで居るらしい。伊勢は南北ともに今でも、
   でんでこない出やつせ
   太鼓のぶちと替へてやろ
などゝいふ章句が行はれて、乃ち亦デンデコナイ(三重郡)又はデコナ(一志郡雲出村)等の方言があつた。多分は或時代に「なぜ出て來ない」と唱へたこともあつた名殘であらう。其他大垣周圍のデンデラムシ、四國其他二三の地方のデノムシ或はデブシなども、ちやうど是に相應した歌の語が、やゝ久しく行はれて居た爲に、所謂誰言ふと無く其名になつたものと思ふ。
 實際は歌詞の採用と、名稱の選定とは別々の行爲であつた。前者の變化の方が遙かに頻繁であつて、名詞は必ずしも毎回是に追隨して居ない。あんまり小さい事で人は注意して居らぬかも知らぬが、童兒が蝸牛に向つていふ文句には、實は早くから二通りの別があつた。出るといふ一點は同じであつても、一つは其身を穀から出せといふもの、他の一つは即ち槍を出せ角を出せといふもので、あの珍らしい二つの棒を振りまはす點に興じたものであつた。子供としては此方が觀察が細かいのであつたが、どういふものか歌の數の多い割に、方言の上には影響が少ないのであつた。前に「尻つめろ」の例を擧げた紀州田邊でも、神子濱《みこはま》の方にはその「角出せ槍出せ」の歌があつて、名稱はやはりデンデン蟲蟲であり、備前でも兒島郡の方には、
(30)   でん/\でんの蟲
   角出せはやせ
   早島の土手で
   簑と笠と換へてやろ
といふ注意すべき文句があつて(郷土研究一卷十號)、しかも方言は尚デンノムシである。能登の鹿島郡には村によつて一樣ならず、
   でん/\がらぼ
   ちやつと出て見され
   わがうちや燒ける
と欺いて全身を出させようとするのと、
   つのらいもうらい
   角を出さねばかつつぶす
などゝ、單に角だけを要求するものとあつて(石川縣鹿島郡誌)、デンデンガラボもツノライモウライも、共にそれぞれの地の方言になつて居るらしいが、關東平野のマイマイツブロ領域などでは、殆と一樣に蝸牛の名稱とは關係無しに、この「角出せ」の歌の方を唱へて居るのである。
 是は或は詞章の有力なる外部感化以外に、別に方言發生の機會もしくは必要ともいふべきものがあつたこと、又或は言語が固定して早晩符號化する傾向をもつことを語るものかも知れぬが、それはまだ自分には決し難いから、茲にはたゞ事實のみを擧げて置くのである。ダイロウ又はデェロの領域に於ても、やはり今行はるゝ童詞は、大抵は角を出せの方であつた。例へば信州では下水内郡に、
(31)   だいろ/\角出せ、だいろ/\
といふ童詞があり、同小縣郡などでは、
   だいろ/\つのう出せ
   角う出さなけりや
   向山へもつていつて
   首ちよんぎる/\
といふのがある。甲州では東山梨郡の一隅に、蝸牛をダイロといふ地域があつて、
   だいろ/\角出せ
   角を出さぬと代官所に願ふぞ
といひ、越後でも中魚沼郡では、
   だいろう/\角を出せ
   にしが出せばおれも出す
などゝ謂つて居る。福島縣の岩瀬郡では何と唱へて居たか知らぬが、現在ダイロウといふ語を「拒絶する」といふ意味に使ふさうで、それは蝸牛の唄から出たと、郡誌にも解説して居るのである。「出る」といふ動詞の東國風の命令形が、後にダイロと化して元を忘れられるに至つたのも、一つの原因は是に在るのであらうが、歌に基づいて曾て出來た新語が、歌よりもおくれて後に殘る例は、固より是ばかりでは無かつたのである。
 私の推定がもし誤つて居らぬならば、今日最も弘く行はるゝ「角出せ」の童詞は、假に他の條件さへ具備すれば、又此次の蝸牛の方言となるべきものであつた。さうして實際又其兆候は處々に見られるので、たゞ今日の標準語全盛の下に、遠く境外の地を征略し得られぬだけである。一例をいふと青森縣の三戸郡誌には、あの地方の蝸牛の歌が幾(32)つか出て居る。たとへば八戸市及び斗川村では、
   つのだし/\
   角う出さながら
   んがいつこ(汝が家)ぶつこわす/\
といひ、或は又、
   つのだし/\
   角う出さながら
   大家どんさことわる/\
とも謂ひ、又は單に、
   角出し/\
   つの出せ、やり出せ
といふのもあつて、此地方の蝸牛の方言は乃ちツノダシである。ツノダシはほゞ此縣一圓に行はれ、五戸では又ツノダイシとも謂つて居る。津輕其他の土地には、別にツノベコといふ語も併存する。ツノベコは即ち角牛といふことで、是は飛び離れて福島縣東南の海岸から、茨城縣北境にかけて行はれて居る。茲では簡單にベコともいふのだが、之に伴なうてもし「角出せ」の歌が行はれるならば、此語の成立つことも至つて容易であつたのである。
 それから今一箇處は石川縣の中央部、加賀の石川郡などにもツノダシの領分がある。越中に入るとそれが複合して、
  ツノダシミョミョ          東礪波郡野尻村
  ツノツノミョミョ          同郡井ノ口村
  ミョミョツノダセ          同郡出町附近
(33)  カエカエツノダス          氷見郡宇波村
  ミョミョツノダシ          中新川郡上市町
などゝなつて居るが、何れも皆土地に行はれて居た童詞の第一句を、其まゝ呼びかけられる相手の名と、心得てしまつた結果のやうである。千葉縣の東葛飾郡などは、マイマイ領域のまん中であるが、やはりボーダシといふ一語が併存して居る。ツノといふだけの語を添へた例ならば、他にもまだ方々にあるらしい。美濃の東部などは、後に言はんと欲するツブラ領の飛地であるが、そこにも山縣郡ではツンツンといふ一語がある。是も亦「つのつの」の歌がなかつたならば、單なるツブラだけからは此異稱は導かれなかつたらう。
 最後に今一つ注意すべき例は、前にダイロ領域の一つの終端であらうと述べた上野と武藏北部との邊境現象である。
  ツンノデエロ            上野群馬郡
  ツンノンデエショ          同郡總社町
  ツノンダイロ            同國館林附近
  ツノンデェロ            武藏妻沼町
  ツノンデェロ            同 禮羽町
  ツノンダェショ           同大里郡八基村
  ツノンダイシロ、メェメェズ     同入間郡
 即ち此區域の北境はダイロ、南はマイマイの領地であつて、別にツノダシの語の行はれて居る地方では無いが、なほ「角出せ」の童詞の影響を受けて、純然たるダイロに服從することが出來なかつたのである。それ故に私は、もし今日の如き意識的統一の風が起らなかつたら、デンデンムシに嗣いで覇を唱ふべき方言は、或はこのツノダシでは無かつたらうかと思ふのである。
 
(34)  方言轉訛の誘因
 
 地方語調査事業の學問上の價値が、今まで輕視せられて居た大いなる理由は、それが無識と誤解と模倣の失敗とのみによつて、亂脈に中央の正しい物言ひから離れて言つたかの如く、我も人も思ひ込んで居たことであつたが、それは到底立證することの出來ない甚だ不當なる臆斷であつた。小兒の片言のやうな生理學上の理由があるものでも、「匡正」の必要があるものは打棄てゝ置いても自分で匡正する。外國語を學ばうとする者は、今まで持ち合さぬ語音までも發しようと試みる。ましてや豫て自分たちに具はつた音韻を以て、自由に知つて居る語を選擇する場合に、眞似ようとして誤つた語に落ちて行く道理が無い。要するに是は眞似なかつたのである。さうして我が居る各自の群のうちに、通用することを目途としたのであつた。唯前代の群は概ね小さく、又相互の交通は完全でなかつた故に、暫らくの隔離の間に、時として意外な變化を出現せしめるやうな餘地が、今よりは遙かに多かつただけである。音韻の改定は文章音樂の盛んであつた地域に、寧ろ頻々として行はれて居た筈である。故にもし古きに復することが即ち正しきに歸する道であるならば、邊鄙の語音こそは却つて心を留め耳を傾くべきものであつたかも知れない。唯今日の實?に於ては、その地方差は既に複雜を極め、人は中央との往來によつて、次第に自ら法則の煩はしさに倦んで、進んで一つの簡明なるものによつて、統一せられんことを欲して居るのである。所謂標準語の運動の、單に便宜主義のものなることを思はねばならぬ。それと國語史の研究とは、全然無關係なる二つの事柄であり、而うして後者が更に重要なる根本の智慮を供給するものなることは、事新らしく論ずるまでも無いのである。
(35) 微々たる一個の蝸牛の名稱からでも、もし我々が觀察の勞を厭はなかつたならば、なほ國語の地方的變化の、由つて起るべかりし根柢を見つけ出すことが出來る。それを一言でいふならば古きを新たにせんとする心持、即ち國語の時代的變化を誘ふ力が、個々の小さな群や集落に於ても、割據して又働いて居たことである。或は若干の空想を加味すれば、言語も亦他の人間の器械什具と同じやうに、一定の使用囘數を過ぎると、次第に鈍り且つ不精確になるものであつたと言ふことが出來るかも知らぬ。さうして兒童の群は又花柳界などゝ同じく、殊に短期間の言語使用度が激しい群であつた。それ故に一旦彼等の管轄に委ねられた言語は、物々しい法廷教壇等の辭令に比して、一層迅速なる代謝を見たのかとも思はれる。實例の三四を順序立てゝ擧げて見ると、千葉縣では海上郡の一部分に、蝸牛の名をヲバヲバといふ方言があるが、それは疑ひも無く次の蝸牛童詞から出たものであつた(海上郡誌一二〇八頁)。
   をば/\
   をばらァ家が燒けるから
   棒もつて出て來い
   槍もつて出て來い
 ところがこの伯母の家の出火なるものは、往々蝸牛を誘ひ出さうとする策略として、他の府縣の小兒にも用ゐられて居る口實であつた。獨り蝸牛ばかりで無く、夕方空を通る烏なども、?この贋報告を以て欺かれんとして居たことは、以前人間が伯母の家を大切にし、何はさし置いても其災厄を救援しに往つた名殘とも考へられる。察するところ是も前には第一句に、マイマイツブロを呼びかける語があつたのを、後には伯母々々を先づ唱へた爲に、それが蝸牛の名である如くに、解する者を生じたのが元であらう。實際又此地方で、今日ヲバといふのは次女三女などの若い娘のことであつた。それ故に蝸牛をヲバヲバといふことが、殊にをかしく感じられたのである。
 次には山梨縣の北巨摩郡、古來|逸見《へんみ》筋と稱する一小區域に、蝸牛をヂットウと呼ぶ方言が行はれて居る。他には一(36)つも類例の無い語で、一見する所殆と其由來を知るに苦しむが、是も土地の人ならば簡單に説明し得ることゝ思はれる。即ち是を又ヂットウバットウとも謂ふ者のあるのを見れば、茲には蝸牛の童詞に「爺と婆と」といふ始めの句をもつものがあつて、それを直ちに此蟲の名にして居たことは確かである。爺婆の名を以て知らるゝ物で、最も有名なのは春蘭の花がある。それから土筆や菫などにも、或は此名があつたやうに思ふが、大抵は兩々相對するものに向つていふ戯れの言葉であつた。逸見筋の蝸牛の歌はまだ聞いては見ないが、多分あの二つの角を出したり引込めたりすることが、それに近い文句を唱へさせて居たものと思ふ。
 方言は大よそ此の如く、もとは少しも世間に構はずに、入用なる群ばかりで作り出して居たものであつた。それが面白ければ第二の土地に採擇せられ、次々に彼等の元からもつものを棄てさせたのであつたが、成功しなかつた例は勿論非常に多い。しかも其發生地に在つて當座の力をもつことは、堂々たる儀禮公事の語も異なる所はない。それを悉く本貫より携へ來り、乃至は中央から勸請したものゝ如く、考へてかゝるのは無理な推測であつた。是も千葉縣であるが海上郡などの一部に、蝸牛をタツボと謂つて居る土地がある。タツボは本來田螺のことであるから、是を樹上の貝類に付與することは、甚だしき無智又は錯誤とも評し得られる。しかし徐ろにさうなつて來た順序を考へて見ると、是は兒童がマイマイツブロの歌をいつの頃よりか「まいまいたつぼ」と歌ひ改めて居た結果であつて、其證據には現にさういふ文句もあの地方に行はれて居り、又山武郡では蝸牛をメェメェタツボと呼ぶ方言も採集せられて居る。さうして實際又蝸牛はマイマイのあるタツボに相違なかつたのである。それよりもなほ弘い地域に亙つての變化は、利根川水域の殊に左岸一帶に於て、蝸牛をメェボロと呼び習はす方言である。是も如何にして斯んな語が起つたかは、土地に行はれて居る歌言葉を、聽いたばかりでも直ぐに諒解し得る。常陸新治郡の蝸牛の唄には、
   まい/\つぼろ
   小田山燒けるから
(37)   角出して見せろ
といふのがあるさうだが(郷土研究二卷三卷)、是は小田山の附近に住む子供だけらしく、それから南の他の村々では、大抵は「伯母とこ燒けるから」と言つて居る。さうして其「まい/\つぶろ」を、しやれて又「めいぼろつぼろ」と唱へる子供も多かつたのである。自分は今から四十年ほど前に、久しくあの地方に住んで居た者だが、其頃の記憶でもこの歌の言葉を、「めいぼろつぼろ」と言つた兒童と、「めいめいつぼろ」と言つた者とが兩方あつて、殆と一人々々の考へ次第のやうなものであつた。從つてかの蟲をメェメェツボロと呼ぶ方言も無論通用したが、大勢は當時既にメェボロの方に傾いて居た。多分は此方ならば只四言で間に合つたといふことが、珍らしく又氣が利いて居たのであらう。茨城縣方言集覽・稻敷郡方言集、其他かの方面の採集書を比較して見ると、案外にこの變化の行はれた區域は弘く、しかもそれが一地毎に少しづゝ違つて居るのであつた。
  メメチャブロ            下總東葛飾郡
  メェボロツボロ、メェボロ等     同 北相馬郡、常陸稻敷郡
  マエボチツボロ、メェボロ等     常陸稻敷郡
  マイマイツボロ、マイボロ      同 久慈郡
  ネェボロ、ナイボロ等        同 眞壁郡、下總結城郡
  ナイボロ、ダイボロ         下總猿島郡
  ネァーボロツボロ          下野芳賀郡一部
  ダイボロ、デェボロ         同郡及河内郡一部
 この最後の二つの郡は、北と西との兩方面に於て、前に述べたるダイロの領域と接して居る故に、爰に始めてダイボロといふが如き、中間の形を發生せしめたのみならず、更に他の一方にはそれとマイボロ地方との觸接面に、ナイ(38)ボロ、ネェボロといふ變化をさへ引起して居るのである。俚謠集拾遺には又栃木縣の童詞として、
   えーぼろつぼろ
   角出して見せぬと
   臍くそぐつと
といふ一章を載せて居る。何れの村かは知らぬが、又エーボロといふ例もあつたのである。私が是を方言の邊境現象と名づけた、用語の當不當は別として、少なくとも個々の田舍の一つの方言を拔き出して、轉訛の問題を論ずることの出來ぬだけは、是でもはや明白になつたと思ふ。
 
(39)  マイマイ領域
 
 自分は今日の標準形のマイマイツブロが、所謂雅語正語のカタツブリも同樣に、古く二種の方言の接境地に於て、複合したものだといふことを説きたいのであるが、其以前に先づ此系統に屬する一單語が、曾てどれだけ弘い版圖を持つて居たものかを、考へて置く必要があるやうに思ふ。現在の所では、マイマイが一續きの領土を占めて居る區域は、デェロ・デェデェに比べると遙かに小さい。關東八州は前にも言ふ如く、既に著しい混淆雜揉がある上に、北の山地に屬する約四分の一は、もうダイロ其他の方言に支配せられて居る。相模にも一小部分の他領があるといふが、それはどの邊であるか、三浦郡以外はまだ確かめて居ない。箱根以西の東海道は、伊豆の一角を除き、先づ大體に愛知縣の中央、即ち尾張と三河との境までが、其區域であつたと言ひ得る。是から言ふと今日の標準語なるものは、言はゞ新しい帝都の榮ゆる土地が、偶然にこのマイマイ區域の内であつて、しかもその邊境現象の起るべき東部の一隅であつた結果、次第に其複合型たるマイマイツブロに、歸一することになつたのである。記録文籍を極端に崇敬した時代に、カタツブリが優越の地位を占めた事情も、或は亦是とよく似たものであつたかも知れぬ。
 但しマイマイといふ方言の領分が、以前も今の如く狹い小さなものであつたといふことは、推斷し難いといふよりも、寧ろ反對の證據がある。關東以北に於では、陸前の遠田郡にメンメン、もしくはメンメンダバゴロといふやうな注意すべき一つの異例がある外は 奧南部に幽かなる痕跡が殘つて居るだけであるが、其他の方面殊に京都以西の諸縣では、中間はデデムシ系統の方言によつて隔てられつゝ、飛地が斷續して九州の北半にまで及んで居る。其分布の(40)實?はまだ詳かにし得ないが、次に列記した土地と土地との間にも、なほ幾つかの「失はれたる鏈《くさり》」が、後には發見せられることだけは想像してよからう。
  マイマイカタッボ          伊勢相可
  マイマイ、デゴナ          同 宇治山田市
  マイマイグヅグヅ          同 慶會郡一部
  マイマイ              志摩磯部
  ママデ               紀州熊野阿多和村
  マイマイ              丹波船井郡和知
  マイマイ              美作苫田郡
  ツノミャアミャア          同 勝田郡北和氣村
  ミャアミャアキンゴ         同 眞庭郡當原村
  ミャアミャア            備中吉備郡日美村
  ミャアミヤアコ           同 小田郡金浦町
  マイマイ              備後沼隈郡
  マイマイコツブリ          筑前戸畑
  マイマイ              同 宗像郡
  マイマイ、ゼンマイ         同 博多邊
  メェメェツングラメ         肥前佐賀市
  マメツングリ            筑後三瀦郡 
(41)  マイマイ              筑後吉井邊(兒語)
  メェメェツブロ           豐後日田郡(下流)
 中國の西部、殊に山口縣内の言語現象は、今日まだ甚だしく不明であるが、此地方にも全然斯ういふ語の行はれる土地が無いものとは思はれない。又現に確かにあると言つた人もある。此等の實例は數に於て決して豐富では無いけれども、兎に角に四隣の全く異なつた方言の中に圍まれて、是だけ分散して居るといふことは、平凡なる事實では無いと思ふ。この説明は恐らく一つしか有り得まい。即ち曾て一樣にマイマイの語の行はれて居たところへ、後に今一層有力なる新語が入つて來て、その大部分を侵食したものと、見るより他は無いのである。
 しかも其マイマイが行はれて居た期間も、相應に久しいものであつたといふことが想像せられるのは、その當初の命名動機が全く忘れられて、語音は幾段にも轉訛して行かうとした形跡が見えるからである。獨り下總常陸のメェボロの如く、ほゞ明白に其歴史の辿らるゝものゝみでは無く、例へば山陰道の一側面に於ては、早くも次のやうな變化が出現して、單に各個の例によるときは、是をマイマイの同類と認めることが、果して正しいか否かを疑ふまでになつて居る。
  マァヨ               因幡各郡
  マァメ               伯耆東伯郡北谷
  メェダセ              同 境港附近
  モォロモロ、モンモロ        出雲の一部
  モォモリ              同 今市邊
  モイモイ、モォイ          石見銀山附近
 しかし此等の方言は何れも皆、現に「角出せ」式の童言葉から採用せられて居るのであつて、從うて成人ばかりの(42)切り口上の用語よりは、早く崩れたり替つたりしたのであつた。
 遙か懸離れた甲州北都留郡の山村にも、蝸牛をモモウズといふ方言があつた。勿論兩者の間に直接の連絡があるとは見られないが、マイマイの歌言葉は往々にして、斯うも變つて行く傾向はもつて居たのである。其例證として援用し得るのは、北陸道各地の音異同である。能登や越中には一方にはまだマイマイに近い語も殘つて居るに拘らず、村によつては早之をミョウに近い音に換へて居る。是も幼ない者の仕業であらうとは思ふが、虹のミョウジに就ても我々が心付いた如く、全體に此方面はヨーといふ音の豐かな地方であつた。
  マエマエ              越中氷見郡神代村
  メンミンガラモ           能登鹿島郡一部
  ミョミョツノ            同郡能登島
  メンメンカエブツ          越中高岡市邊
  メンメンカエボ           同 中新川郡大岩村
  ミョミョツノダセ          同 東礪波郡出町邊
  ミョウミョウ            加賀の一部
  ミョウゴ              同 能美郡
  オツシャビョウビョウ        越前の一部
  ニョウニョウ            越後新發田附近
 これ等も皆其周圍の地とは獨立して、今に此樣な異彩を放つて居るので、變化は寧ろ相互の提携が斷ち切られて、各自異種の間に孤存しなければならなかつた結果とも見るべきものである。
 
(43)  その種々なる複合形
 
 方言は乃ち右の如き場合に於て、單なる消滅以外にも、なほ色々の感化を受けなければならなかつたのであらう。前掲の諸表を見渡しても知れるやうに、曾て全國に亙つて案外に廣い領土を持つて居たらうと想像せられるのは、たゞ單純なるマイマイの形としてゞあつて、それが童兒の唱へごとに適した、七言又は五言の長い名となる頃には、必ず地方によつて思ひ/\の變化を見て居る。二三の例外のまだ解説し難いものはあるが、大體に於てマイマイツブロは、關東も主として東京灣の四周にのみ行はれて居る。其中でも殊に上總下總の間に、此種の複合の多く行はれて居るのを見ると、或は此方面の今一つの以前の語が、單なるツブロであつた爲かとも推測せられるのである。陸前の遠田郡などでメンメンダバゴロ、九州では筑後三瀦郡に於てマメツングリ、肥前の佐賀でメェメェツングラメといふことは、何よりも有力なる一箇の旁證である。なぜかといへば蝸牛の方言が、仙臺領に於てはタマクラ又はタンバクラであり、九州は又弘くツグラメである故に、それとマイマイとが結托すれば、當然に此語を作るべきだからである。私は最初コ川氏が東國移封に際して、多くの文物を其郷里から持込んだことより類推して、此マイマイツブロも亦一種の三河屋では無いかと思つて居た。しかし立戻つて其本國の實?を檢めて見ると、彼地には寧ろ是と近いものが無いのである。尾張の日間賀《ひまか》島に、越中とよく似たメイメイツノといふ語がある。又天龍川を登りに信州の下伊那郡に入つて行くと、爰ではダイロと結合してマンマイダイロ、もしくはママダイロといふ方言も發生して居るのである。
 それから今一つ、是は何れの側面からの刺戟でも無く、殆と獨立して出來たかと思ふメェメェコンジョ、もしくは(44)メェメェクンジョウといふ一語がある。それが東三河の寶飯《ほい》八名《やな》等の諸郡に行はれ、北して設樂《しだら》に入ると、早くもメメクジとつまつて、甚だしく蛞蝓の名と近くなつて居るのは、又一つの新らしい暗示である。我々は他日或は此事例の精細なる考察によつて、個々の單語の力の補充、即ち當初其語を作り出した動機が不明になつて後、更に別方面から新たなる支持者を見付け出さうとする、社會的傾向を立證し得るかも知れない。果してさういふ傾向があるものとすれば、是は國語史學の可なり大切なる問題であつて、效果は獨り所謂民間語原説の、由來を明かにするのみでは無いのである。蝸牛を右に近い語で呼ぶ例は、東京の近くにも亦偶然に一處あつた。武藏の山村から甲州にかけては、蝸牛の方言はマイマイツブロでは無かつた。入間郡の一部にはメェメェズ、北多摩郡大和村でもメェメェズ、西多摩郡氷川ではマイモズ、それが甲府の周圍に行くとメンメンジョウとなり、其中間には前に擧げた北都留郡のモモウズを生じ、やゝ飛び離れた下野の上都賀郡にも、マメジッコといふ語を殘して居るのであるが、丁度さういふ例ばかりで取圍まれた中に、孤立して又一つのメェメェコウジがある。村岡艮弼氏の下總方言一斑の中に、相模では蝸牛をメメクジと謂ふとあるのは、多分亦之を指したのであらうと思ふが、馬入川右岸の津久井の山村に於ては、今でも實際「めえめえこうじ、やあこうじ、角を出せ槍を出せ云々」といふ童詞が行はれて居るのである(相州内郷村話)。さうして是と同じ種類の章句は、又三河の寶飯郡にもあり、西は名古屋の市中に於ても、近年の流行かは知らぬが、やはり採集せられて居るのである(俚謠集拾遺)。
   めえめえこんじよ角う出せ
   粉糠三升やらあに
 此歌の文言を見れば、コウジもクンジョも共に小牛のつもりであつたことは、もう疑ひが無いのである。蝸牛は常陸の多賀郡でベコ、石城も津輕も共にツノベコといふ名を用ゐて居るのみならず、支那の蝸牛といふ語が亦既に渦紋ある牛の義であつた。二つの角を振りまはす貝蟲を、牛に譬へるといふことは小兒の自然で、少しも異とするに足ら(45)ぬやうなものだが、私はなほ一つ以前の誘因が無かつたならば、特に之を「小牛」と呼ぶやうな、地方的の變化は起らなかつたのでは無いかと思つて居る。然らばこの相州と三河と、二地に偶發した變化の共通の誘因は何であつたか。是は蝸牛をもナメタジと呼んだ、又一つの方言が曾てあつたといふことから、説明してかゝるより他は無いのである。
 
(46)  蛞蝓と蝸牛
 
 蝸牛の方言の新たに發達して居る土地の人には、是は或は意外な事實かも知らぬが、蛞蝓と蝸牛とが名を一つにして居ることは、決して珍らしい例でも何でも無いのである。先づ九州では肥前肥後筑後の各地、壹岐の島にも蝸牛のナメクジがあり、日向の島野浦では雙方ともナメクジである。しかし是では何れか一方のみを、特に珍重する者には不便である故に、やはり分化の法則に從うて、追々に其別を設けようとしたことは事實であつて、乃ち肥前の諫早に於ては、蝸牛をツウノアルナメクジと謂ひ、肥後の玉名郡では約してツウナメクジと謂つて居る。ツウは恐らくはツブラの變化だらうが、今は一般に甲良、もしくは「かさぶた」といふやうな意味にしか解せられて居ない。肥後でも熊本以南、宇土八代球磨の諸郡では、蝸牛のナメクジは其儘にして置いて、却つて蛞蝓の方をばハダカナメクジと謂ふことになつて居る。
 國の他の一端にも同樣の例がある。たとへば青森縣でも津輕を始めとして、蛞蝸二つながらナメクジリといふ名を持つ土地が弘い。さうして前に擧げたツノダシ、ツノベコの方言は、やはり亦蛞蝓にも適用して居るのである。それから縣境を越えて北秋田の比内《ひない》地方に入ると、僅かに區別の必要を認めて、今では蝸牛の方だけをナメクジリ、蛞蝓はナメクジと謂つて居る。岩手縣でも盛岡の附近は、二つともにナメクジラの語によつて知られて居るが、特に蝸牛のことのみをいふ場合には、やはり肥前の諫早などゝ同じく、長たらしくカエンコノアルナメクジラと謂ふさうである。同じ一致は又ちやうど、津輕と島原との中程にも見出される。たとへば飛騨の北部に於ては蝸牛蛞蝓共にマメク(47)ジリ、又はマメクジラであり、中國では安藝の安佐郡北部なども、二つともにナマイクジリである。伊豆七島の神津島などでは、蝸牛の方言はカイナメラ、さうして蛞蝓の名はナメランジであつて、後者がナメラムシから出たことは、相州の津久井又は煤《すす》ヶ|谷《や》の山村に於て、後者をナメラもしくはナメラクジといふのからも類推せられる。如何なる事由に基づくかは知らず、伊豆海島の方言は、伊豆とは同じからず、却つてやゝ相模の方に近いものが多い。是が行く/\又マイマイ小牛の名の起源の、曾て此地方にも獨立してあつたことを、心付かせる端緒にならうも知れぬのである。ナメラ・ナメラックジの蛞蝓方言は、今なほ横濱四周の海近くの村でも耳にすることがある。即ちマイマイツブロといふ蝸牛の名は、必ずしもさう古くから此土地にあつたものと、考へることも出來ないのである。
 此等最も顯著なる五箇處の例の外に、尚この二つの動物の名が、曾て同じであつたといふ痕跡を、留めて居る土地は幾らもある。たとへば福島縣の石城郡で、蝸牛をツノベコの外にカイナメクジといふのは、もと兩方ともにナメクジと呼ぶ習ひがあつた證據である。奧州南部領でも南端の遠野地方などは、蝸牛をヘビタマグリ又はタマクラといふ以外に、ナメクジラとも稱へて居て、しかも蛞蝓の方だけを差別して、ヤマヒルと謂ふ人が多いさうである。方言は一つの土地に必ず一つしか無いものゝやうに、速斷して居る人には解しにくいことだらうが、言語は決して法令の如く、今日から別のものに改めるといふ區切りなどは立つては居ない。寧ろ改まつて來たのは選擇があつたこと、即ち七分三分に併存したものゝ、二つ以上あつたといふことを推察せしめるのである。だからマイマイ領域の殆と中心とも目せられた天龍川水域の兩側などにも、マメクジといふ語は相應に認められて居り、それを主として蝸牛の方に用ゐて、蛞蝓には別に名を付與した例さへ多いのである。たとへば遠州の掛川附近でオヒメサマ又はオジョウロ、三河の長篠あたりでオンジョロサマ、是が何れも蛞蝓の名であつた。是も別種の童詞をもち、或はあの斑紋を伊達な衣裳、あの角を簪や笄に見立てたからでもあらうが、兎に角にさういふ名の入用になつた元はといふと、差別の必要、殊にマメクジといふ名を是非とも貝のある蝸牛の方に、持たせて置きたかつた希望からである。他に何等か今少し手輕な(48)方法があるなら、それによつて差別してもよかつたのである。三河の南設樂郡及び尾張東春日井郡の或村では、マメクジといへば蝸牛、蛞蝓は之をメメクジと謂ふと、各其郡誌には見えて居る。さうかと思ふと土地は忘れたが、ナメクジは蛞蝓のことであつて、マメクジは即ち蝸牛のことであると、教へてくれた人もあつた。しかしさういふ紛れ易く移り易い二つの名を以て、最初から二者を差別したのでは無かつたらうと思ふ。
 或は又肥前の島原半島でも、深江といふ村などは蝸牛はナメクジ、蛞蝓はミナクジといふと報ぜられて居る。今一度問ひたゞして見たいと思ふわけは、是が逆さまであつたら私などにはよくわかるので、一方は即ちミナナメクジ、蜷のあるナメクジと解せられるからである。それから尚一つ、伊豆の八丈島で蛞蝓をダイロメ、對馬の豐崎村でも蛞蝓をダイリョウといふのは、前に私の假定したダイロは貝から「出ろ」の意味だといふ説と、兩立せぬやうにも思はれるが、是もハダカダイロなどの元の意味を忘れ、たゞ其語の前半を省略したものと解すれば、格別の不思議は無いのである。蛞蝓を裸のダイロといふ例は、上州の邑樂《おうら》郡又武藏の秩父郡にもある。安房では蝸牛が單にメャメャであつて、蛞蝓の方はハダカメャメャと謂つて居る。常陸の蛞蝓は小野氏の本草啓蒙に依れば、ハダカマイボロと呼ばれた土地もあるらしいが、近年下野河内郡の富屋村で採集した例では、之をナイボロ又はネヤボロと謂つて、たゞ蝸牛のみをダイロと謂つて居るとある。即ち茲も一つの邊境であるが故に、一方は北から來た大勢に順應し、他方は乃ち南隣の形を移したのである。ナイボロ・ネヤボロは前にも述べた如く、本來マイマイツブロの轉訛に過ぎなかつた。是も頭にハダカといふ語を附けなければ、蛞蝓の名になる筈は無いのであつた。しかも人は二者混亂の處が無い限り、かゝる理由無き略稱にも從はうとしたのである。蛞蝓は又同じ下野でも芳賀郡などはエナシメ、常陸は西茨城郡其他でイナシと謂つて居る。話主は却つてもう忘れて居るか知らぬが、是は疑ひもなく「家無し蝸牛」の上略であつた。上總も西岸の舊望陀地方では、蝸牛はメェメッポで、蛞蝓はエーナシ又はイエナシである。或いは又エーナシゲゲボといふ例もあることは、上總國誌稿に見えて居るが、ゲゲボは即ち亦一つ前の蝸牛の方言で、是はマイマイボウにデ(49)デムシの影響のあつた例だと思ふ。「家無し」といふ限定詞は此の如く、多くの蛞蝓方言の上に附けられたのであつた。美濃の舊|方縣《かたかた》地方はデンデンムシ領であるが、茲でも蛞蝓はエナシと謂ひ、尾張の葉栗村はメェメェコウジの飛地であるが、茲でも亦其方をイエナシと謂つて居る。寛延年間の「尾張方言」にも、又蛞蝓をヤドナシといふ語が既に録せられて居る。
 ナメクジといふ語の初の半分が、あの粘液を意味して居たことは想像することが出來る。現に其異名を沖繩諸島ではアブラムシ・ヨダレムシ・ナメムシ等、近江の東部ではハナタレムシ、熊野の海岸ではヤネヒキ、大和の十津川ではヤネクヂラなどゝ謂つて居る。是がもし此蟲の第一の特徴であつたとすれば、蝸牛にもそれは共通のものであつた。だから鹿兒島縣の一地には、又ユダレクイミナ(涎くり蜷)の方言が行はれて居るのみならず、中部日本の蝸牛の童詞にも、火事があるから出て水をかけろだの、湯屋に喧嘩があるから棒を持つて出て來いだのといふ、をかしな文句が多いので、何れも其體がぬれ/\と滑かなるを見て、興を催した結果に他ならぬと思ふが、しかも其ナメクジの本意が少しでも不可解になると、やがては次に生れたるマイマイの名と複合して、いつと無くマイマイ小牛の歌を生ずるに至つたのである。けだしナメムシ・ナメラといふ語の今でも各地にあるのを見ると、クジといふ下半分は後から附いたに相違ないが、其意味はなほ一段と察し難い。倭名鈔や本草和名などの古訓は奈女久知であつて、少なくとも記録者は之を小牛や小蛆と認めなかつたのであるが、蛆をゴウジと謂ひ小牛をクウジといふ地方語も、相應に弘く分布して居たので、それを其積りで使用する風は、既にナメクジ共用の時代からあつたのかも知れない。角を面白がる小兒たちには、意味なき有り來りの音符號として、奈女久知のクチを取扱ふことが出來なかつたのは自然である。さうして之を小牛の音の如く解したのは、必ずしもマイマイといふ新語の出現に伴なふことを要しなかつたらうと思ふ。
 
(50)  語感の推移
 
 私をして説明せしめるならば、マイマイコウシも亦マイマイツブロと同樣に、方言の數多き邊境現象の一つであつて、殊にmnの音親近によつて、可なり有力なる支援を、隣のナメクジから得て居たものであつた。蛞蝓と蝸牛との名を共にする風が、もしも我々の想像する如く、曾て全國一般的のものであつたとすれば、この複合の各地に偶發したことも、決して意外では無いのである。
 二つの單語の複合といふことは、更に又デンデンムシの方にもあつた。たとへば現在知られて居るだけでも、
  デンデンガラモ           能登鹿島郡灘地方
  デンデンガラボ           同 石動山下
  デンデンダイロ           上野群馬郡
  デンデンツブロ           常陸眞壁郡
  デンデンベェコ           陸中釜石附近
  デンデンタツボ           伊勢飯南郡
  デンデンゴォナ           備中連島町附近
  デンデンケェボン          豐前築上郡
などがあつて、何れも其土地限りの蝸牛の一異名であるが、それが附近を征略して一つの獨立した方言領域を認めら(51)れるには、未だ流傳の一條件を具へなかつたのである。之に比べるとマイマイツブロの複合の方は、時期が早かつたか、使ふ子供が多かつたか、兎に角に既に若干の文書にも録せられ、人は却つて田舍に殘つて居るマイマイの方を、其省略であるかの如く思ふ樣にもなつた。しかし其推測の正しくないことは、童詞が主として七音節の語を必要としたことを、考へて見たゞけでもわかる上に、別にメェメェクウジやマンマンダイロ等の如く、其上半分を共通にしたものが、端々の地に分散して居るのを見れば、先づ疑ひの餘地は無いのである。さうすると次には如何にして此語が現出したかを知るために、是非とも是を元の單純なる形に復して、ツブロとマイマイとを別に考へる必要があることを、認めないわけには行くまいと思ふ。
 マイマイといふ語の元の起りは、以前一二の學者も既に推量して居る如く、本來は蝸牛の貝の形、即ちあの卷き方に基づいて附けた名なることは大よそ確かである。蝸牛以外の物の名に、同じマイマイの語を用ゐて居るものは、或は是も小兒の觀察かも知れぬが、第一には淵の水の渦卷がある。中國の田舍などでもさう謂つたかと思ふが、富山縣などでも渦はマイマイであり、又ギシギシもしくはギリギリであつた。三河碧海郡では之をギリと謂つて居る。ギリギリといふ語は弘い區域に亙つて、專ら頭の髪の旋毛をさして居るやうだが、その旋毛を土地によつてはマキマキ又はマイマイ、東京などでは多くはツムジと謂つて居る。ところが又一方にはツムジ風と稱して、渦を卷く風をツムジといふ例も普通であり、其ツムジ風を我々は又、子供の頃にはマイマイ風とも呼んで居た。さうするとマイマイが少くとも「卷く」といふ語に因みあることだけは明らかで、ツムジもギリギリと同じ樣に、如何なる理由があつたかは後の問題として、とにかくに曾てその一つの物の名であつた。それを知らずしてマイマイにツブロを複合させて見ようとする者も出來たが、その最初の意味に於ては、二語は全然同じであつたかと思はれる。何にしても蝸牛は其形が錘《つむ》に似て居るからツムリだといふ語原説は怪しいものであつて、錘が日本の繊維工藝に採用せられたらう頃には、既にかの空と水面とのツムジが有り、人の頭髪にはギリギリが存在し、又蝸牛は既にかのツブラなる貝を背負つてある(52)いて居たのである。其中でも旋毛は小兒までが髪を後に垂れて居た時代には、今ほどは眼にも立たなかつた筈である。水の渦卷よりも又旋風よりも、更に尚一段と有りふれたマイマイの實例は、恐らく各家の庭の木草を匍ひ渡る蝸牛であつて、それ故にまた女の束髪の妙な形が流行して來れば、忽ちまた之を此蟲にたとへてダイロ卷きと呼び、或は米澤地方で今も見る如く、淵の渦卷をもダイロウマキと謂ふことになつた。錘がもしツブロと同じ語ならば、是も亦今一つ前からあつた類似のものから移し讓られたものと見る方が當り前である。
 何にもせよ、マイマイといふ方言の始めて出來たのは、蝸牛の蝸といふ漢字が案出せられたのと、同じ事情であることだけは認められるのである。しかし一旦其語が出來て後は、人はいつ迄も當初の心持を以て、之を使つて居るものとも限らなかつた。何か今一段と適切なやうに感じられるものが見つかると、少しは發音の形を變へてゞも、寧ろ其方へ寄つて行かうとしたことが、往々にしてあつたやうに思はれる。その一つの例は靜岡縣の大井川附近の村で、蝸牛をマイマイドンと謂つたなどがそれである。殿や樣の語を人で無いものゝ名に添へることは、蠶をオコサマ・オボコサマ、又は爐の自在鍵をカギドノといふなど、幾らでも其類はあることだが、是は何れも其物を尊敬し、會ては拜みもしたらうと思ふ名殘であつて、蟲のマイマイの方にはまだ一向にさういふ話を聞かぬ。ところが他の一方には別にマイマイドンと名づけられて、大いにもて囃された職業の者が、諸國をあるいて居た時代があつたのである。越前丹生郡の幸若太夫なども其一流であつたが、なほ他の地方にも往々にして神社に從屬し、祭の日には出で神態の舞を舞ふ者が住んで居て、それをも皆「舞舞ひ」と稱へたのであつた。舞舞ひの居住地は今も地名となつて數多く殘つて居る。さうして安樂菴策傳の醒睡笑が出來た頃までは、彼等の技藝はまだ田舍の生活の最も面白い語り草であつた。それが年月を追うて大きくなり又眞面目になり、  愈々近代の歌舞伎にまで發達したことは、もう蝸牛考の筆者の領分では無いが、とにかくにマイマイといへば直ちに此等の職業藝術家を聯想せずには居られぬほど、弘い流行を見た時代があつたことのみは事實である。それがいつとも無しに、貝が渦卷だからマイマイと呼ぶといふ程度の、淡い興味(53)と解説とを乘取つてしまつたのは不思議で無い。
 其中でも歌謠は取分けて、斯うした誤解を引起さしめ易い機會であつた。といふわけは普通の會話であれば、意味を考へずに言葉を使用することも比較的少ないのだが、歌は口眞似口拍子で、また久しく多くの者が繰返して居るうちに、自然に本を省みる場合が少なくなつて來たのである。其結果が常陸南部のメェボロや、下總銚子邊でのヲバヲバなどの如く、丸で外形を一變させることもあれば、他の一方には内容の著しい推移に心づかず、最初からかの舞舞太夫の物々しい立居振舞によそへて、斯んな名を付與したものゝ如く解する者も出來て、それが更にまた次の變化を誘ふこともあつたのである。方言生成の事情が是まで絶望に近い不問に置かれたのは、この内外二通りの變化が、あまりにも錯綜して居たからであつた。近い頃の例でいふと、明治の中頃の流行歌の一つに、「赤腹でんでんむし云々」といふをかしな囃し詞を伴ふものがあつた。さうすると近江の湖水の南岸には、アカハラデンデンムシといふ蝸牛の異名が、早一つ増加して居る。信州諏訪の北山地方には、蝸牛をデェラボッチャといふ語も少し行はれて居るが、デェラボッチャは本來は大昔の巨人、たとへば一夜に富士の山の土を運んだといふ類の、傳説の大太法師のことであつた。それがデェロといふ方言の流布道程に、半ば不用になつて轉がつて居た爲に、測らずもそれへ卷込まれてしまつたものらしい。即ち一方にはまた此樣に、語があつて宿主を求めて居たやうな場合も折々はあつたのである。たゞ其方は選擇の動機が特殊であつた爲に、最初から廣い領域に延びて行く力を持たなかつた。從うてさういふ一地限りの奇異の例だけによつて、方言の性質を説かうとした各地の試みは、大抵は失敗に歸して居るのである。
 之に反してマイマイを舞舞ひのことだと解した早合點などは、假令誤りにもせよ弘くまた久しいものであつた。前に引用した土御門院の御製に、「立ち舞ふべくもあらぬ世なれど」と遊ばされたのは、本歌は源氏の紅葉賀《もみぢのが》であらうが、とにかくに既に舞舞ひの異名のあつたことを御承知あつての御詠であつたと思ふ。それから近世になつて、相模にも蝸牛をデンボウラクと謂ふ土地があり、豐前の字佐郡ではデェラクドン、豐後の國東半島でデェラドンとも謂つて居(54)るのは、前者は栃木地方のデェボロや甲州郡内のデンボロと縁を引き、後者は瀬戸内海沿岸のデェデェ系統に屬すべきものではあらうが、なほ其以前から此蟲の姿に對して、神事舞の太夫を想ひ起す習はしが無かつたら、恐らく此樣な「轉訛」は生じ得なかつたらうと考へられる。我々は幸ひにして舞舞ひといふ職業の流行した時代を、ほゞ記録によつて明らかにし得る御蔭に、このデンボウラク等の方言がそれよりも遲く、マイマイといふ地方語の方はずつと古くから、また今日は既に無くなつて居る土地にも、曾て存在したことを推測し得るのである。之を要するに方言なるものは、それ/”\の時期とそれ/”\の因縁とがあつて、段々に生れたり消えたり、移つたり變化したりしたことだけは大抵確かであつて、之を無差別に總括して、國語だから何れも民族と共に古いといふことも出來ず、文語京都語で無いから皆近世の新作だと、いふことは尚更出來ない。そんな無茶なことをすれば、いつの世になつても我々の言語學は完成しない。それを悲しいと思ふ者は、是非とも國語の歴史を斯ういふ風にして、尋ねて行かなければならぬのである。
 
(55)  命名は興味から
 
 三河と尾張との境、即ち又ちやうど二つの方言領の接觸する處に、蝸牛をネギロといふ小區域のあることも亦一つの特例ではあるが、是などはマイマイドンの説明から類推して、大よそは其起りがわかる樣な氣がする。人に譬へられた色々の小さな生物の中で、ネギドノといふものには「ばつた」がある。此蟲の所謂機を織る容子を、禰宜が起居して拜をする身ぶりに思ひ寄せたのである。信州の上伊那では蟷螂をネギサマ、是もあの蟲が臂を張り手を高く上げる姿を見て、多くの民族で「をがみ蟲」と名づける位だから、さもあるべきことゝ思はれるが、蝸牛の擧動に至つては實はそれほどの類似は無い。何か今一つ以前の下染が無かつたならば、さう容易には斯んな語は浮び出なかつたと思ふ。同じ地方には又キネキネともいふ語があるが、つまり其キネなりネギなりは、もと神の前に出て舞を舞ふ人の名であつた故に、戯れて蝸牛をさう呼ばうとする心持が、既にマイマイの語を知つて居る周圍の人から、存外容易に承認せられ得たのであつて、外形は變つて居ても是も亦マイマイ領域の、一つの邊境現象と見るべきものかと思ふ。
 此解釋が必ずしも強辯附會で無いことは、我々の祖先の物に名を付ける力が、殊に他民族に優れて活々として居たことを、考へて見るのが一つの證明法である。それには實例は幾らでも擧げられるが、議論の或は放漫に流れんことを憚つて、茲にはたゞ一つの最も蝸牛と關係の深いものを、やゝ詳細に説いて見ようと思ふ。關西の方面では隨分古くから、別に今一つマイマイと呼ばれる小さな蟲があつた。それは標準語でミヅスマシといふ蟲であつて、地方によつて次々の異名が案出せられ、又少しづゝは採擇もせられて居るのであるが、此語の行はるゝ區域では、何とかして(56)是と蝸牛のマイマイとに、差別を立てる必要があつた。是が蝸牛の方に色々の複合形が出來、又デェデェムシ其他の新しい方言が、夙に此語を押除けて、代つて勢力を布くに至つた隱れた原因の一つでもあつたらしい。ところが其「水澄まし」のマイマイの方を、津輕地方では又ミコと謂ひ、中國の山地の蝸牛をマイマイといふ村々ではミコノマヒなどゝも名づけて居たのは、やはり亦マイマイといふ元の名から、轉じて舞を舞ふ人の名を宛つるに至つた一例である。
 元來ミヅスマシといふ名稱は、我邦の北と南の半分づゝで、全然別々の二種の蟲に付與せられて居る。さうして其語音の上品である爲に、雙方とも之を標準語の如く、思つて居るが故に誤解がある。關西方面でミヅスマシと謂ふのは、本草の水黽であつて、東京では誤つてミヅグモと謂ひ、他の地方では又飴の香がする故にアメンボウだの、ギョウセンだのアメヤノオカタだのとも謂ふ足の長い蟲である。或は嘗めて見ると鹽辛い味がするといふことで、若狹其他でシホウリ、播磨出雲でシホカヒ、土佐でシホタキ、伊豫の大洲などでシホンシホ、又はショウタロウなどゝいふ異名も行はれて居る。是にも比較をして見れば面白い變化があるのだが、それ迄は茲には説かない。次に他の一種の關東でいふミヅスマシの方は、即ち本草に鼓蟲とあるものに宛てられて居る。これこそは自分等が少年の頃にマイマイ蟲と呼んで、その奇拔なる水上の遊戯を、飽かず觀賞して居た夏日田園の一景物であつたのである。
 この第二のマイマイ蟲も圓く渦を描いて、水面を遊びまはつて居る。京都近くの村にはウヅムシといふ異名があり、上總では又ミヅグルマとも謂つた。水澄ましといふ名前も是から出たのであつて、或は最初には是も亦蝸牛と同じく、渦卷きを意味するマイマイであつたのかとも思ふが、後には確かに舞を舞ふ者といふ意味に、解せられて居たといふ證據がある。それには恐らくは蝸牛とは似ても付かぬ此蟲の輕快なる動作が、特に命名者たちの空想を促したものと考へられるのである。そこで順序を立てゝ各地の方言、方言とまでは成長しなかつた個々獨立の異名を比べて見ると、第一には此蟲の活動期、殊に多くの子女によつて注目せられた時期の、田植の前後であつたことが其名に現はれて居(57)るのである。
  シロカキムシ            仙臺、四國でも
  タウヱムシ             越中
  サヲトメ              東京近郊、上州等
  ソウタメ              加賀越中など
  ヒョウタメ             越中
 ミヅスマシが此樣な異名を得た事情は、以前の村々の五月少女の歌清く、笑ひ花やかであつた光景を知る者ならば、容易に想像し得ることであらう。その田人たちが苗取り終つて家路に向ひ、やゝ田の水の靜かになる夕暮方などに、此蟲は出て來て水の上を遊んだのである。それ故に又此蟲の名は、おのづからにして「水澄まし」と呼ばれることになつた。
  スメスメ              土佐
  スミスミ              備後
  カスメ               奧州南部
  スメ                信州
  トメトット             奧州八戸
などゝいふ名稱に至つては、更に一歩を進めて命令形にさへなつて居るから、恐らくはまた子供たちの思ひ付きであつたらう。即ち濁つた器の水などを掻きまはして、その沈澱を待ち兼ねるやうな心持を、この小さな蟲の擧動の中に見出したなどは、到底年とつた者ばかりの談合では思ひ浮ばぬことであつた。或は之に伴なうて歌があり、又は童話などがあつたのかも知れないが、さうで無いまでも此空想には多分の餘裕があつた。
(58)  ジカキムシ             羽後、越中、壹岐
  ジーカキムシ            越後西蒲原郡など
  ジョウカキムシ           加賀
  イロハムシ             上總夷隅郡、遠江濱名郡
  ヱカキムシ             佐渡
  カイモチカキ            大阪、四國某地
 即ちカクといふ所から掻餅《かいもち》にまで、幼なき人々の想像は馳せたのである。實際またさうする親姉たちの手つきなどを、聯想せしむるに足るやうな此蟲の舞ひ方でもあつた。それから更に目に近い出來事にたとへたのは、
  ゴキアラヒムシ           水戸、周防、薩摩等
  ゴキアレァ             肥前北高來郡
  ゴキマハシ             上州
  ゴキマイリ             近江
  ワンアラヒ             肥後玉名郡
  ヲケアラヒ、ヨケアラヒ       同上
  ワンコアラヒ            羽後河邊郡
 ゴキといふのも木の椀の古名である。陶器の茶碗が一般になつてから後は、もう其樣に丁寧な洗ひ方はせぬのだが、それでもまだ蟲の名前だけは殘つて居る。即ち今日の不可解は、却つて前代生活の特徴を窺はしむべき便宜ともなる所以である。マイマイが後に神人のことに解せられるに至つたといふことも、蝸牛に就てはまだ之を疑ふ人があらうけれども、鼓蟲の方だけはもはや十分に明白で、その事實が無かつたならば、到底次のやうな異名は發生し得なかつ(59)た。
  ミコノマヒ             美作
  ミコマヒ              備前岡山
  ネコマヒ              同 西大寺
  ムコマヒ              播州龍野
  ミコ                奧州津輕
  スヰジンサマ            伊豫吉田町
  イタコムシ             四國某地
 イタコといふ女性も、今日では奧州より外の地には居ないが、是も亦歌舞を業とする一種類の巫女の名稱であつた。室町時代の職人盡の畫の中に、イタカとある者が是と同じであるらしきこと、及び沖繩の島に今でも居るユタといふ巫女も、起原は一つであるかと思ふことは、曾て私も少しく論じたことがある。そのイタコといふ語が蟲の名になつて、四國の何れかの地方に殘つて居たといふことは、本草啓蒙が之を録して居るので、即ち今は既に絶え果てたものの、至つて幽かなる痕跡であつたのである。
 是等各府縣のマイマイ蟲の異名が、たとへば小兒によつて又は小兒の愛護者によつて、案出せられたか否かは決し兼ねるにしても、少なくともそれが最初から唯一つの、持傳へて矢はなかつたものであるといふことを、明言し得る人は恐らくはあるまい。物の名は此通り幾つも出來、又幾つも消えて無くなつて、結局時代々々の人の心に、最も興あるものが力強く生きるのであつた。單に人間が語を選擇する能力を具へて居たといふ以上に、更に現在の古語なるものに、その又一つ前の異なる形のあつたこと、及び現在我々の話して居るものも、やがてはより適切なるものに改まるべきことも、之に由つて證明せられたわけで、從うて何が其推移の元の齒車であつたかといふ問題が、いと大切(60)になつて來るわけである。もしも私が童兒の力といふことに、餘りに重きを置きすぎる嫌ひがありとすれば、或は之を人間の子供らしさの力と言ひかへてもよいかも知れない。兎に角に言語を決定する處は學士院、その他氣六つかしい學者たちの寄合ひでは無かつた。彼等は唯文章に使はるべき言葉の好惡を言ふだけで、所謂俗語の活躍を抑制する力はもたなかつた。鼓蟲を單にマイマイと謂つたのは、京都を中心として大和近江、越前にも紀州にも見出される。耳の方言としての領域は、恐らくまだずつと廣いことゝ思ふ。私の生れた播州の中部でも、さう謂つて通じはするが普通にはゴマイムシと謂ひ、また附近の諸郡にはゴマメムシといふ者さへあつて、小兒は之に由つてまた新たに、胡麻の色形などを聯想して居たやうである。近江の湖東の村にはゴママイリと謂つた例もある。京都も賀茂あたり、又越前の一部ではマイマイコンゴウ、伊勢の南の方ではマイマイコンボとも謂ふ者があつた。此等も七音節だから、恐らくは亦童詞に基づくものであらう。さうして同時にまた幼年の者が、一人で旋轉して遊ぶこと、即ち東京でキリキリマヒなどゝいふ遊戯にも、半ばは意識して同じ語を流用して居たのは、恰かも春の野に摘む土筆といふものに、秋啼く蝉の名のツクツクホウシを流用したり、雉子の親鳥を詠じたケンケンバタバタといふ歌言葉を、其儘片足飛の遊戯の名として居たのと同じことで、以前に別の語が無かつたのでは無く、寧ろ其反對に有つて餘りに平凡になつた爲、斯うして新たなるものを歡迎したのであつたらうと思ふ。
 
(61)  上代人の誤謬
 
 デデムシ又はデェロとマイマイと、この二つの新らしい名詞の分布を究めて見ると、其次に自然に起つて來る問題は、倭名鈔以來の文籍に認められた加太豆布利といふ言葉は、末にはどうなつてしまつたかといふことである。自分の此間題に對する最初からの推測は、此語が方言となつて必ず更にマイマイ領域の外側に、分散して居るだらうといふに在つたが、附載の表によつて通觀し得る如く、大體に其想像は誤つて居なかつた。但し説明に入るに先だつて、茲にもう一度明かにして置きたいと思ふのは、記録と地方言語との關係である。所謂月卿雲客たちの口にすることが、鄙の言葉に對して一段の優越を認められてよかつたのは、法令の名目とか輸入の事物とかの如く、一旦權能ある公けの機關に由つて、統一し又整理せられたものに限るのであつて、四民日常の共用するところ、殊に主として女子や小人によつて口ずさまれる言葉などは、偶然それが學問ある人の筆に上つたからとて、少しでもいはゆる匡正の力を有つ道理は無かつた。果してどちらが片言であり聽きそこなひであるかは、容易に決し難い問題であるのみならず、雙方が諸共に誤つて居る場合さへも、幾らでも想像し得られるのである。誤りといふのも實は或時代或地方に比べて同じで無いといふだけのことで、それでも通用する以上は言語で無いとは言はれない。標準語はつまり前にもいふ如く、單に或期の現在の便宜と趣味とに基づいた選擇であつて、之を論據として國語の事實を、否認することまでは許されぬのである。國語の事實は此上も無く複雜なもので、我々はまだ其片端をすらも知り得たとは言はれない。之に對して文書の採録は、單なる偶然であり又部分的である。從うて現存最古の書物に筆記せられて居る言葉が正しく、また(62)最も古く且つ固有のものだときめてかゝることは、無法なる臆斷と言はなければならぬのである。
 此立場から考へて見ると、世の多くの語原論なるものは、誠に心もと無い砂上の樓閣であるのみならず、假にたま/\其本意を言ひ當てたりとしても、第一に其發見に大變な價値を付することは出來ない。深思熟慮の結果に成る言葉といふものも想像し難い上に、その傳承と採擇に際しては、なほ往々にしていゝ加減な妥協もあつたからである。それを一々に何とか解釋しなければならぬものゝ如く、自ら約束した學者こそは笑止である。私などに於ては倭名鈔の所謂加太豆不利が、果して山城の京を距ること何十里、源順君の世に先だつこと何十年間の、事實であつたらうかを危む者であるが、謹嚴なる和訓栞の著者の如きは、之を神代以降の正語なりと信ずるが故に、乃ち偏角振(かたつのふり)の義なるべレなどゝ説いて居るのである。もし片角振りならば片角振りと謂ひさうなものである。何人が何處で其樣なわからぬ省略を申し合せたとするか。實に思ひ遣りの無い濁りぎめであつたが、さういふ事も亦近頃までの流行であつて、一人の谷川氏のみを難ずることは出來ない。それよりも更に思ひ切つた一異説は、物類稱呼の著者が得たといふ實驗談であつた。蝸牛は雨の降る前になると、角だか貝だかを鳴らしてカタ/\といふ音をさせる。さうして其形は錘《つむ》と似て居るからカタツムリだといふなどは、語原論と言はうよりも、寧ろ落し話の方に近いと評してもよい。
 實際或はさうでも言はなければ、説明は六つかしかつたのであらうが、果して此京都語が出來た最初から、カタツブリであつたか否かにも疑ひがある。語原を考へる位ならば、何をさし置いてもその原の形といふものを確かめなければならぬのだが、現在はまだ其方法が立つて居ない。それで先づ試みに此語の領域、もしくは分布?態を尋ねて見なければならぬが、カタツブリは文章語以外、今の處では中央には殆と其跡を絶ち、主として京都から最も遠い土地ばかりに、單獨に又は他の語と併存して用ゐられて居るのである。次に列擧するものゝ中には、文學によつて「匡正」せられた例も交つて居ないとは斷じ難いが、まだ普通には今まであつた方言を、全部無くしてしまふだけの力は(63)無かつた筈であるのに、少なくとも秋田縣の各郡などは、是以外には全く別の名称を持つて居ないのである。
  カタツブレ、カサツブレ       羽後秋田市
  カタツンブレ            同 南秋田都
  カサツンブレ、カナツンブ      同 河邊郡
  カサツブリ             同 仙北郡
  カダツムリ             同 平鹿郡
  カダツンブリ            同 由利郡
  カサツブリ             同 飛島
斯ういふ中でもカサツブレは秋田の御城下の語である故に、どの郡に行つても通用し、又正しいと認められて居ることは、關東のマイマイツブロも同じであつた。尚この以外に他の地方の例を拾うて見ると、
  カタツムリ             青森縣南部領
  カサツブリ、カサツムリ       羽前東村山郡
  カタツンブリ            佐渡外海府
  カサツブリ             越後の一部
  カサツブ              會津大沼郡河沼郡
  カタツモリ、マメジッコ       下野鹿沼附近
  カンツンブリ            越中五箇山
  カエツブリ、カエツモリ       同 下新川郡
  カエカエツブリ、カエカエツモル   同 上新川郡針原
(64)  カエツブリ、カエカエツノダス    越中氷見郡宇波
  カタツブリ、マエマエツブリ     越前阪井郡金津
  カタツブリ             同 大野郡
  カタツンブリ、カタッター      大和十津川
 微細なる音韻の異同は、耳でも判別しにくゝ筆に現はすことはなほ困難であるが、大體に秋田縣などで私の聽いた所は、カサといふ場合のサは必ず澄み、カタといふ場合は必ず濁つて、幾分かカザに近いやうであつた。それで問題になるのはカタとカサと、何れが先づ生じて後に他方の「轉訛」を誘つたか。乃至はまた二つ本來は別々のものであつたのが、ナメクジとマイマイクウジの如く、後に互ひに近よつて來たのかといふ點である。自分等の最初に心づくのは、カサは近世の編笠が起る以前、一筋の縫絲を螺旋させて縫うたものと思はれるから、是ならば最も適切に蝸牛の貝の構成を形容し得たらうといふことである。現にマイマイでも次に言はうとするツブロでも、共に其特徴に據つて出來て居るから、笠に似た貝、笠を着た蟲といふ意味の、名前が生ずることに不思議は無い。しかし其反面から、直ちにカサを古しとし、カタを京都の人の聽きそこなひと、考へてしまふこともまだ出來ない。寧ろ是ほど尋常なる一つの名を、特にカタといふ音に聽き做すには、それだけの理由があつたものとも見られるのである。現在のところでは、カタにはまだ獨立した由來を見出すことが出來ぬから、假にカサ・カタを一種と見て置くが、事によると別に第四の方言の古く行はれたのがあつて、後に勢力を失うてカサツブリと合體したのかも知れない。カサツブリと近い方言が、主として日本の北半分に分布して居るに對して、南の半分には單純なるカタ系統の語が多い。それが雙方ともに國の端ともいふべき地方であつて、中央との關係が對稱的になつて居ることは、注意しなければならぬ點であらう。今日までに知られて居る例は、
  マイマイカタツボ          伊勢多氣郡
(65)  カタツボ              伊勢度會郡
  カタカタバイ            紀伊南牟婁郡飛鳥村
  カタジ               同 熊野串本浦
  カタカタ              同 下里村
  カタカタ、カタッター        大和十津川
  カッタナムリ            土佐高知附近
  カタカタ              同 幡多郡
  カタト               伊豫宇和島附近
  カタタン              同 喜多郡
  カタクジリ             肥後八代郡金剛村
  ガト                丹後加佐郡
ぐらゐのものであるが、此中間にも未だ採集を試みざる地域は弘い。但しマイマイとの著しい相異は、彼は中國山脈などの内陸に殘つて居るに反して、この方は專ら海沿ひの地の、しかも岬角と名づくべき地に分布して居て、此點がまた北部のカサツブレとも一致することである。伊豆の半島のカサッパチもしくはカァサンマイといふ蝸牛の方言なども、明らかに亦その類例であるが、それが駿州に入つて優勢なるマイマイと接觸し、到る處にカサノマイ、カサパチマイマイ等の複合現象を呈する外、北は富士山の東西裾野を過ぎて、甲州の約半分を風靡し、更に東は足柄を越えて、相模愛甲の山村までを、このカァサンメの領分に取込んで居る爲に、人は或は其發源の何れに在つたかを疑うて居る。しかし甲州は其武力に於ては、久しく或一家に統一せられて居たに拘らず、方言の關する限り殆と四分五裂であつた。周りの國々の言葉は峠を越え流れを傳ひ、何れも中央の平地に降つて對立し、一つとして此山國を通り拔け(66)て行つたものは無い。言はゞ一種の綬衝地帶であるが、此實?に眼を留めて見た者ならば、少なくとも此方が終端の行き止りであることを、信じないでは居られぬと思ふ。さうして一方には東海道は又マイマイといふ語の往還の路であつた。殘る所は伊豆半島の袋の底に、一つ以前の語が押込められて、偶然に忘却を免れて居たものと、解するの他は無いやうである。半島が古い文物の保存地となることは、既に多くの學者も説いて居るが、方言に於ても其實證は乏しとせぬ。例へば關東東北ではニホと謂ひ、中央部ではススキ・スズミ、西國ではホヅミなどゝいふ稻の堆積を、志摩と伊豆と安房との三つの半島國のみに於ては、一樣にイナブラと呼んで居る。それが舟人によつて舟より運ばれたもので無いことは、稻村は、彼等と縁の近い物體で無く、陸に居る者にのみ適切な問題であつたことを考へてもわかる。だから外には例も無いが、カサパチは多分古い形の一つであらう。ハチもツブロも本來は近い物であつた。それからカァサンメのメといふ語も、類例を求むるならばツグラメのメがある。恐らくはマイマイとは關係無しに、別に理由があつて早くから附いて居たものであらうと思ふ。
 
(67)  單純から複雜へ
 
 加太豆布利のもとカサツブラから轉訛したことが、假に辯護の餘地無しと決しても、兎に角にそれが久しい期間、京都の唯一つの用語であつたことは事實である。然るに今日となつては前に示した如く、僅かに記録と擬古文とに其痕跡を留むる外、全く邊隅に押遣られて、後に出現した二通りの新語の外側に散點して殘るに過ぎぬといふことは、頗る自分などの主張せんとする方言周圏説を、裏書するに足ると思ふ。而うして此等新舊二名稱の交渉が、必ずしも爭闘排他を以て終始しなかつたことは、既に澤山の實例があつたのである。即ち少なくとも領分の境堺近くだけでは、幾つかの異名はやゝ暫らくの間竝び行はれ、徐々に其中の一つが重きを爲す場合もあれば、或は又二つの語が程よく結び合されて、歌になつたり長たらしい語になつて殘らうとした。その目前の例は現今の子供唄の、デンデンムシムシカタツムリもそれであり、又標準語のマイマイツブロも、一つの顯著なる複稱であつたことは、單獨にマイマイとのみ呼ばれる土地が、相應に弘いのを見てもわかる。さうすれば茲にツブロといふ一語が、既に其以前に實在し、それが又倭名紗の加太豆不利よりも、今一段と古いものであつたらうことは、大よそ推定して差支へ無いわけである。カタツブリがマイマイ又はデェデェの新たなる波に押遣られて、外の波紋となつて遠く出たことが確かならば、其ツブロも亦同じ樣に、どこかの一隅に行つて殘つて居てよいのであるが、果してどの程度にまで我々は其形跡を認めることが出來るだらうか。
 現在の方言分布に於ても、蝸牛を單にツブロと呼んで居る地方は、捜して見るとまだ決して稀有では無い。宇都宮(68)附近の或村にツーボロカイボロといふ童唄があるのは、越中下新川郡の海近くに、ツドロガエドロといふ名前があると同じく、或は口拍子の無意識なる變化とも見られるが、岐阜縣では武儀郡|洲原《すはら》村附近にツンブリといふ語が今もあり、其隣の山縣郡などでツンツンと謂つて居るのも、或は「つの/\」の歌が之を誘ひ出したにしても、是と全く關係無しとは見られぬのである。丹波の福知山の如き京都に近い土地にも、やはりツンブリといふ蝸牛の異名がある。伊豫の吉田町はカタトの領域ではあるが、一種食用に供せられる蝸牛だけを、シマツブリと呼んで居たさうである。それから更に些少の變化を經た九州各地のツグラメ、及び是と同じであつたことが證明し得られる、奧州のタマグラなどを加算するならば、ツブラの領分はやゝ中央から遠いといふのみで、却つて其總面積に於て今日のマイマイを凌駕するかとも思はれるのである。
 しかし私は其詳細に入つて行く前に、今少しく蝸牛をツブロ又はツブリと謂ふことの、至つて自然であつたわけを述べて見たい。人が最初に此語によつて聯想するのは、圓といふ漢字を日本語のツブラに宛てたことで、なるほどあの蟲の貝も圓いからと、簡單に片付けてしまふ人も無いとは言はれぬが、二者の因縁は決してそれだけには止まらぬのであつた。紡績具の錘を北國の田舍などでツンボリと謂ふのは、或は圓いといふ形容詞からこしらへた語とも考へられようが、全體から言つて圓さといふ通念が、個々の圓い物よりも早くから名を持つて居た筈は無い。さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例があつて、何れも一定の約束をもつて居るのである。最も有りふれて居るのは人間の頭をオツムリといふこと、元はあんまり上品な語とも認められなかつたかも知れぬが、それでもさう新しい變化では無かつたと見えて、沖繩の群島でも北は大島に始まり、南は八重山の端の島に至るまで、ほとんど一樣に頭をツブリ・チブル又はツプルと呼んで居る。歐羅巴の諸國にも例のあることだといふが、日本でも是は瓢の名から出た一種の隱語もしくは異名の如きものであつたらしい。南の島々でも八重山と道の島の兩端では、夕顔をツブルと謂ひ、又時としてはマツブルとも謂ふから、知りつゝこの二つの物に同じ(69)名を付與して居た時代はあつたのである。
 瓢箪は又佐渡の島に於てもツブルであつた。昔の水を汲む器は主として是であつた。故に今日の所謂釣瓶のツルベを、ツブレと發音する者を嘲笑することは、恥をかくまいと思へばもう暫らくの間見合さなければならぬ。へといふ言葉は大抵は竈に屬して居る。ツルベに釣瓶の文字を宛てた知識こそ實はよほど怪しいので、事によると是も一つの「ツブラなる物」であつたかも知れぬ。ヒョウタンはとにかくに日本語では無かつた。奧州は今でも一般に之をツボケと謂つて居る。ケとカイとコとの區別異同は茲で論じないが、とにかくに三つながら物を容れる器の總名であつた。さうすると土でこしらへた器をツボ、及び土器の製作者を鹿兒島縣などでツボ屋といふのも、共にこの北日本のツボケといふ語と、何等かの聯路のあつたことが察せられるのである。
 蓋し轆轤といふものゝ使用をまだ知らなかつた時代の人が、土器をツブラにする術は渦卷より他には無かつた。即ちツブラといふのは單に蝸牛の貝の如く圓い物といふだけでは無く、同時に又粘土の太い緒をぐる/\と卷き上げること、恰かもかの蟲の貝の構造の如くにしなければならなかつたのである。ツボといふ語がもとツブラといふ語と一つであつたことは、現に地中から出て來る一片の壺のかけを、檢査して見ただけでもわかることであるが、この上代の製作技術の、今日まで其儘に保存せられて居るのがツグラであつた。ツグラは東北などではイヅメと謂ひ、又イヅコと謂つて居る。東京では單にオハチイレなどゝ稱して、今はたゞ冬の日の飯を冷さぬ爲に使用するのみであるが、甲信野越の國々を始めとして、ほとんど日本の田舍の半分以上に於ては、米の飯よりもなほ何層倍か大切なもの、即ち人間の幼兒を此中に入れて置いたのである。日本國民の最も強健朴直なるものは、いつの世からとも無く、皆此ツグラの中に於て成長したのであつた。それを作るの法は至つて簡單で、何れも轆轤以前の陶作りと同樣に、藁の太い繩を螺旋?に卷き上げて、中うつろなる圓筒形を作るのが即ちツグラであつた。續群書類從に採輯せられた師説自見集には、
(70)   山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば
       ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。五音歟
とも見えて居る。其ワラウダなるものゝ製法もほゞ同じで、是も亦昔の日本人の家居生活に、缺くべからざるものであつた。一たび斯ういふ工作の順序を熟視した者ならば、我々の祖先が蝸牛をマイマイと呼び、又はカサパチと名づけた以前に、之をツグラ又はツブラと名づけずに居られなかつた事情を、解するに苦しまぬことゝ思ふ。土器の工藝に大いなる進歩があつて、忽ち是等の語は相互の脈絡を絶ち、個々獨立の符號の如くなつてしまつたけれども、幸ひに其痕跡だけはまだ方々に殘つて居る。たとへば東京などでは、藁のツグラをもう忘れてしまつた人々が、「蛇がトグロを卷く」といふ言葉だけは常に使つて居る。蛇の蟠まつて丸くなつて居ることを、肥前の平戸あたりではツグラ、佐渡の島でもツグラカクと謂つて居た。尾張の戸崎ではワヅクナルといふ。ワダカマルといふ動詞もウヅクマルといふ動詞も、中間にツクネル・ツクナルなどゝいふ俗言を置いて考へて見ると、やはり此ツグラに關係があつたのである。蛇のトグロを私たちの故郷では、普通には蛇のコシキと謂つて居り、壹岐の島ではコーラキと謂つて居る。豐前の小倉ではサラを卷くと謂ひ、越中でも富山近在ではサラになると謂ふ外に、一方頭の髪の旋毛もサラであつた。他の地方では河童だけにしかサラといふ語は使はなくなつたが、サラも元はやはり毛の渦を卷いた部分のことであつた。皿も甑も共に其製法が元は圓座などゝ同一であつたことが、此等の名稱の共通なる原因と見るの外は無いのである。淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ち之をツブラと謂つて居るのである。
 それから尚一つ、衣服の重なり合つて膨らかになつた部分を、フトコロと謂つて居るのも關係があるかと思はれる。九州でも平戸などでは、蛇のツブラに對して此方をフツクラと謂ふが、それから南の方の肥前肥後の各地では、單にツクラと謂へばそれは懷中のことである。但し此ツクラのクは常に澄んで居るやうだが、是も衣類をツブラに卷く故(71)に、さういふ言葉が出來たものと見なければ、ツグラの起りは解説のしやうは有るまい。それとよく似た例は昔の男の坐り方、現在の標準語でアグラカクといふ語の地方的變化である。是は後に出て來るタマグラの條下に、もう一度説かねばならぬから簡單に述べて置くが、大體に相近き三つの言ひ方が用ゐられて居る。西京の附近では大和から紀州にかけて、ウタグラ又はオタグラカクなどゝいふのが多いから、或は歌座であらうと獨斷して居る者もあるらしいが、それは少しも理由の無い當て推量である。九州の北部では概してイタグラメ、近江の彦根邊ではイタビラカクと動詞に使ひ、關東ではやゝ弘くビタグラ或はビッタラなどゝもいふから、是は「坐」を意味するヰルといふ語の名詞形に、タグラの附加したものと解せられる。豐前小倉ではアビタラクムと謂つて居るのは、更に其上へ脚の語を附けたものであらう。實際また胡坐蹲踞は、足を以てツグラを作ることであつた。それ故に人が樂々と尻を据ゑて居ることを戯れに「トグロを卷いて居る」などゝいふ者もあるので、東京で「どうかおたひらに」などゝいふ辭令も、近畿地方のオタグラといふ語と比べて見て、始めて元の意味が察せられるわけである。伊豆の賀茂郡で之をアヅクラと謂ふなどは、明白に箕坐が足のツグラなることを示して居る。遠江は各郡ともに之をアヅクミ、信州でも上伊那郡までは同じ語がある。所謂飯櫃入れのイヂメ・イヅミ等は、或は「飯詰め」の義であり、イヅコは即ちその東北風の變化の如く思つて居る人があるかも知れぬが、是も亦確かならぬ想像であつて、現に近江の神崎郡などにも、藁で製した此類の畚をイヂコとも謂へば又ツンダメと謂ひ、信州の東筑摩郡などでは、同じ樣な藁製の容器でも、落葉などを入れる粗造のものをイヂッコと謂つて、嬰兒を入れる方のみをイヅミキと謂つて居る。即ち此方は餘程胡坐のアヅクミに近くなつて居るのである。
 
(72)  語音分化
 
 單語には此の如く、至つて僅かの語音の變化を以て、後々相互の差別を附けて行かうとする傾向のあつたことは、實例がほゞ明かに之を認めしめる。是は蝸牛などの如く次々に新名の案出せられた實例と比べて、どうやら兩立し難い事實のやうであるが、何れにしても人の物言ひ考へ方の精確になると共に、少しでも言葉の數を豐かにしたいといふ希望の現はれであつたことは一つである。コトといふ二語が餘りに包容する所廣汎なる爲に、之を「事」とし「如」とし「形」とし「異」としたなども、其例の中に私は算へて居るのだが、其分化の起つたのが甚だ早いので、ちよつと同意を得にくいかも知れぬ。それよりも卑近な一例はスクモといふ名詞で、これは本來火に焚ける限りの、あらゆる塵芥を意味したかと思ふが、多くの田舍では出來るならば之を籾殻だけに限らうとしで居る。だから常陸などではスクモは米の外皮、スクボは糠の燃えたもの又は塵芥、ゾクモは大豆稈のことであり、利根川兩岸では或は後者をゾッカラと謂つて居る。奧州と九州とではサクヅは粉糠であり、飛騨や遠州等ではスクベは藁の袴を意味する。奧州の外南部で籾糠のサグヅに對して、藁の屑をクサダといふのは別の語の樣に聞えるが、松の落葉や其他の枯葉をスクドといふ地域は弘く中央部にあつて、それを山口縣ではスクヅとも謂ひ、伊勢ではスクダとも謂ふ上に、遠州見附邊では絲などの結ばれることをスクドになるともいふから、是もナメクジをマメクジと區別する程度の語音分化の例に算へてよからうと思ふ。人が第二指を使用して此ツブラ、彼處に在るツブラといふ風に、聽き手の眼を引寄せて話をする習慣から、進んで夜中に爐の火の周圍などに於て、現在其場に無い物を想ひ浮べさせ、又は突如として胸に新奇なる(73)物の形を描かせよとする迄に進んで來れば、單語は當然に細かく配當せられねばならぬから、發音も亦之に伴なうて確實になり、時としては又異常に複雜にもなつたのである。しかしさういふ中にも我々は、存外にその同音の混亂を苦にせずして、久しく過ぎて來た國民であつたことは、今でも四聲の辨別も無くこの敷多き漢語を使ひこなし、又はどういふ字を書きますかなどゝ問ひ返して、何かといふと直ぐに眼の助勢を頼まうとするのを見てもわかる。それが斯邦の地方言語の上に、如何なる特徴を付與したかといへば、前に胡坐の例でも説いた如く、土地毎に思ひ/\の變化ばかり多くなつて、其間の聯絡を見つけ出すことが面倒でもあれば、又興味も多い結果を呈するに至つたのである。等しく人間の地上に居ることが、ヰタグラにもなればアヅクミにもなり又オタビラにもなるといふこと、又はたつた一つの「擽ぐる」といふ行爲が、コチガス(陸前登米郡)ともなればクツバカス(飛騨高山)ともなり、又形容詞としてモソポッタイ(遠江小笠)・ムグッテイ(上州利根)・クツバタイ(佐渡)・クツワイイ(安藝安佐)・チョコバイイ(日向折生迫)等々と、變つて行かねばならなかつたといふのも、言はゞそれ/\の移住地へ別れて行く前までは、まだ今日のやうな嚴格なる約束が無くとも、十分に用の足りた時代があつたからである。しかも其間には都鄙雅俗の説があり、相互の感化模倣はまた錯綜して居る。是が一個の島帝國の歴史であつて、世界人類の通則で無かつたことも想像し得られるので、もし民族の言語の成長が、どの程度までの可能性を有つものかといふことを、仔細に實例に據つて究めて見ようとする人があるならば、日本は寧ろ來り就て學ぶべき國である。だから其國の學者は、徒らに國外人の研究の成果を、山椒魚の如く口を開けて待つて居ることは出來ぬと、私などは思つて居るのである。
 話は少しばかり横路へそれたが、立戻つてツブラといふ一つの語が、ほんの僅かづゝの語音の變化をもつて、北の端の淵の渦卷から、南の果の胡坐の名詞までに、行亙つた理由の訛誤で無いことを考へて見たい。錘といふ器が新たに入つて來れば、是にツム又はツンブリと命名すべかりし人間の動機は、決して推究し難いものでは無いと思ふ。富山の附近では荷物を頭に戴く者が、其枕に使ふ圓形の臺をツンブリと呼んで居る。壹岐で松毬のことをツングラと謂(74)ふのは、疑ひも無くマツフグリの訛吾ではあるが、是とても前に圓い物をツグラといふ風が存在しなかつたら、そんな誤りは起り得なかつたのである。駿河の富士郡では、藁を積み貯へる所謂稻村のことをミョウツンブラと謂つて居る村がある。ミョウは即ちニホの變化であるから、此ツンブラも亦圓い形から出て居る。それから心付くと私たちの生れた村で、この藁塚のことをツボキと呼んで居たのも是であつた。伊豆はマイマイツブロをカサパチと謂ふ半島であるが、一方にこの稻のニホをばイナブラと謂つて居ることは前にも謂つた。それも稻村の訛音とも説明し得ぬことはあるまいが、その文學語の稻村とても、實はやゝ宛て字の嫌ひがある。是もツブラといふ語の複合によつて、保存せられて居る例かも知れぬのである。
 之を要するに土器の製法に大いなる進化があつてから、ツブラ・ツグラの意味が不明になり、殊に卷貝をツボと名づけたる理由を、見出すことが六つかしくなつたが、幸ひにしてまだ其痕跡が、今もなほ色々の方面から、我々の生活經驗を蘇へらせてくれるのである。是を海陸の二系統と目することは、或は速斷に失するであらうが、一方に蝸牛を蛞蝓と同じ名に呼んだ土地が、相應に弘くあつたに對して、他の一方には又すべての卷貝を、ツブラと呼んで居たかと思ふ事實は確かにある。獨り蝸牛がツブロであつたばかりで無く、三浦三崎などでは榮螺をツボッカヒと謂ひ、又ツボ燒きといふ複合形に至つては、現に我々の標準語でさへもあるのである。田螺をツボといふ地域は、大體に東海道のマイマイ領と同じく、其外側は伊勢の南端及び關東の海に近い各地も、すべてタツボ又はタツブと謂はなければ通じなかつたのは、要するに田に住まぬツボ・ツブがあつたからである。それから北に進んで東北六縣の大部分、越後の全部、信濃越中の半分ほどが、再びまたツブと謂つて居るが、是も海に近い處のみは特に田の字を付して、他の多くの蜷や螺と差別を立てゝ居る。タニシといふ名稱の支配して居るのは、瀬戸内海の水系と其近隣、即ち  略々デデムシの領分と一つであつて、それも周邊の地に行けば、夙くもタヌシ・タノシ・タノイシ・タネシなどゝ變化して居り、九州では更に其外側に、壹岐でも薩摩でも共にタミナの語がまだ行はれて居るのである。壹岐では田螺の名が(75)タミナであつて、別に奧州の八戸などゝ同じく、一種食用の海の蜷のみをツブと謂つて居る。漢語抄には海?を都比、字鏡には※[虫+丞]を海都比ともあつて、ツビと發音する例も古くからあつたやうだが、要するにツブもミナもニシも、皆對等の地方語であつた。特に其半分以内の地域に割據するタニシを正しとし、タツブ・タミナを方言として排除しなければならぬ規則には、是といふ文學の背景があつたわけでも無い。單に京都が偶然にニシの領内であり、人が京都の語を珍らしく思つて、少しづゝ眞似をしようとした結果であつた。物類稱呼を見ると、百七八十年前に既に隅田川左岸の田舍に、蝸牛をヤマタニシといふ新語があつた。越中にも一部分ヤブタニシといふ此蟲の異名があつた。常陸は新治郡に單に蝸牛をタヌシといふ土地もあつたが、是などは上總の山武郡で蝸牛をタツボといふと同じく、元は何とかいふ歌の詞があつたのが上の半分を略しても混同の虞は無かつた爲に、再び簡單になつたものと見てよからう。兎に角に昔の人たちの命名法は、餘りにも大まかであり又概括的であつた。それが食用となりもしくは遊戯の相手方に任命せられるに及びて、始めて差別の名を必要とするに至り、殊に後者に在つては面白い名、又耳に聽いて容易に思ひ出すのみで無く、いつでも口にし得るやうに一人で記憶し得る名を必要としたのである。即ち單なる符號だけでは足りなかつたのである。蝸牛の名の世を追うて複雜化したのも、言はゞ此國此社會の至つて自然なる言語の進化であつた。
 
(76)  訛語と方言と
 
 東北地方今日の言語現象が、殊に自分たちの解説し難いものを以て充ちて居るのは、恐らくは今なほ些しも研究せられて居らぬ此方面の中古土着の歴史と、隱れたる關係を有するものであらう。其中でも日本海に面した弘い區域のカサツブレが、直接に京洛の文化とほゞ確かなる脈絡を保つて居るに反して、一方嶺を東に越えた北上川下流の地、即ち夙に獨自の文化を發達せしめて居たと傳ふる部分には、別に一派の方言團の孤立して存するものがあるなどは、之を單なる偶然の事實として、輕々に看過することは出來ぬやうである。此點から考へると、近世府縣の教育者の間に流行せんとした、所謂方言匡正の事業には、實は危險なる不用意があつたわけである。幸ひに其企てが不自然にして、未だ十分なる成功を見るに至らず、寧ろ若干の記録を以て其亡失を防ぐの功績さへあつたが、土語を粗末にして未來の文藝の自由なる取捨に干渉し、更に實地の使用者をして、今一度固有の感覺を味はしめる機會を乏しくしたことは爭はれない。方言は決してさういふ同情無き態度を以て、一括して排除すべきものでは無かつたのである。普通の外來者が一驚を喫するやうな珍らしい單語が、無意味無法則に出現し、又流轉する道理は無い。殊に蝸牛の如く、其使用者が最も倦み易く且つ新奇を愛する兒童なる場合に於て、とにかくに大勢に反抗して能く是だけの殘量を固守して居たとすれば、それには恐らく田舍にも今日の標準語運動と同じやうな、一種の雅俗觀とも名づくべきものが働いて居たからで、實際また割據時代の日本の文化は、必ずしも花の都の求心力のみによつて、指導せられては居なかつたのである。
(77) だから舊仙臺領などでどは、最近に至るまでタマグラが蝸牛の本名であつて、之と異なるものが方言として笑はれ又は正されて居た。さうして此語の及ぶ所の領域が、大髄に於て御城下の勢力と終始して居たのである。しかも此事實が伊達氏の入部によつて始まつたもので無いことは、それが北隣の南部領の中へ、幾分か入込んで居たのを見ても察せられる。或は山村海隅に在つては多少の例外が見出されるかも知らぬが、自分の知る限りに於ては、其分布は大よそ次の如くであつた。
  タンマクラ             「東北方言集」、宮城
  タマグラ、タンマクラ        「仙臺方言考」
  タマグラ、タンマクラ        「登米郡史」
  タマクラ、メンメン         「遠田郡誌」
  タンバクラ             「玉造郡誌」
  タンマクラ             「栗原郡誌」
  カマグラ              「牡鹿郡誌」
  ヘビタマグリ、ベココ        陸中上閉伊郡
  ヘビタマグリ、デンデンベーコ    同郡釜石
  ヤマツブ              陸中平泉
  ヘビタマグリ            「御國通辭」、盛岡
  ヘビタマ              「秋田方言」、鹿角郡
 是が何れも蝸牛のことであつた。以上の諸例の中で、牡鹿半島のカマグラは明らかに訛語である。仙臺の市中に於ても、近頃は誤つてマタグラといふ者もあるさうだが、是は多數と反するといふのみで無く、土地の人たちもそれがを(78)かしな片言であることをまだ知つて居る。平泉のヤマツブは或は併存の例であるかも知らぬが、田螺は此邊で一般にツブだから、此語は新たにも發生し得、又ごく古くからあつたとしても一向に不思議は無い。其次には舊南部領内のヘビタマグリであるが、是も新らしい訛りでは無いやうに思はれる。仙臺の城下にも既に物類稱呼の頃から、ヘビノテマクラといふ語は行はれて居た。或は烏瓜を「烏の枕」と謂ひ、青みどろを「蛙の蒲團」と謂ひ、ひとでを「章魚の枕」といふ例もあるから、形と大きさとに基づいて戯れに名を賦したと考へられぬことも無いが、もし其方が前であつたならば、恐らくはタマクラとは言はなかつたであらう。タマクラは文語の手枕と近いけれども、東北では別に其名を持つものがあつて、それは我々のいふタマキ(環)のことであつた。例へば蚯蚓の頸にある色の薄い環がタマクラであつた。普通の農家に用ゐられるタマクラは、土製の圓い輪であつて、藁苞や割竹の類を一つに束ねる爲に、拔差しするやうに出來て居る器のことである。マイマイの螺旋とはちがつて、是は單なる循環であるけれども、物を輪にするといふ點は一つだから、言はゞ圓い物を皆ツブラと謂つたのと、同じ程度の不精確さである。蝸牛を斯く呼ぶことが他の土地では早く止み、更に差別の爲にタマキ又はタマクラを、環のみに限ることになつたものとすれば、是は蝸牛に取つては可なり前からの名詞であつた。是から南に向つて阿武隈川流域のダイロウ領を中に置いて、福島縣石城の海岸地方にも、マイマイは又ベーコの語と併存して、別に又蝸牛をツムグリといふ例があつたのである。ツムグリは一方にタマグラと近く、又他の一方には美濃などのツンブリとも近い。或は古事記にある都牟刈の太刀のツムガリなどゝも同じで、本來はツグラ・ツブラの第一音が、ツンと發音せらるべき傾向を具へて居たことを暗示するものかも知れない。
 蛇と蝸牛との關係には、何かまだ我々の心付かぬものがあるやうである。八重山の石垣島には眞乙姥《まいつば》の墓といふ石棺が露出した處があるが、土地では是を又ツダミバカ(蝸牛塚)とも謂つて、石の下には此貝の殻が一杯入つて居る。蛇が蝸牛をくはへて此中に出入するのを常に見るといふことであつた。自分はまだ實驗したのでは無いが、蛇が此蟲(79)を食物にして居るといふ話は、他の地方でもよく聽く所だから、或は之に關係した昔話なり、古い信仰なりがあつたのかも知れぬが、假にさうで無くとももし蛇のトグロをもタマクラといふ習はしがあつたら、斯ういふ異名は起り易かつたであらうと思ふ。ツグラとタマグラとの元一つの語であつたことは、決して自分の臆説では無いのである。ちやうど中央部で胡坐をアヅクラ、又はオタゲラなどゝいふと行きちがひに、九州の方ではその胡坐をヰタマグラと謂つて居る處もある。例へば、 
  イタマグレ             筑後吉井邊
  イタマグラニスワル         同 久留米
  イタグラミースル          肥前佐賀市
の類である。さうして他の一方には東北で蝸牛をタマグラ、九州では弘くツグラメと謂つて居るのを見れば、獨りタマクラがツグラの同系であるといふに止まらず、國の南北の南方に一つの語の行はれて居ることは、恰かもマイマイが東海道と中國とに、カサとカタカタが伊豫土佐熊野伊豆から、飛んで北國出羽の端々にあると同じく、又蛞蝓と蝸牛とを一つの語で呼ぶ風が、津輕秋田と島原半島とにある如く、頗る自分などの假定する方言周圏説を、有力に裏書することになるのである。
 
(80)  東北と西南と
 
 從來の方言區域論に於ては、單に日本の中央部に近く、やゝ著しい一つの堺線のあることばかり注意せられて、それが他の一方の側ではどういふ結末を示して居るかといふことまで、考へて見ないのが普通であつたやうだが、言語の地方的異同が曙染などの如く、漸次に國の片端から浸潤して來たであらうといふ想像には、實は是認し難い幾つかの論理の跳躍があつた。第一にはこの二千年に餘る國内移動の趨向は、いつでも中央部の人多き地域から、四方の邊土へ出て行かうとして居たことを忘れて居る。九州現在の大姓の過半が、何れも或時代の京人東人の末であつたことを無視して居る。第二には東北方面の言語の特質を、何によつて解説すべきかの用意が無く、時としては未だ確かめられざる異種族の作用を假りて、この變化の原因を究め得るかの如き、國語の統一と相容れざる豫想をさへ抱かしめて居る。九州の隅々には幾つかの古い言葉が、今も殘つて居ることは事實であるが、それが他の一方の端の方にも、殘つて居ないといふことはまだ證明せられて居ない。神武天皇の御一行が、後に留めて置かれた言葉だけならばこそ、南九州以外の地には無いといふ道理もあらうが、大倭の御代以來の物言ひであつて、南の一端にしか傳はらぬといふものが有らう筈は無いのであつた。要するに是は「古さ」といふ語の不精確に基し、同時に又我々の言語が、次々に分化し増殖したといふ事實を、十分に承認し得なかつた結果に他ならぬと思ふ。
 或は私の問題とする蝸牛といふ一小動物のみが、特に色々の新らしい語をさそひ出したゞけで、さういふ異例を以て國語全體の傾向を、測定しようとするのは惡いといふ人があるかも知れぬが、私は單にデンデン蟲の如く多數且つ(81)複雜なる變化をもつもので無いと、滿足に其推移の跡を辿ることが出來ぬから、試みに是を例にとつて北と南との遙かなる一致を説くのであるが、もし必要ならばまだ幾らでも、似たる場合を列擧することが出來るのである。方言は必ずしも中央との比較のみによつて、其意義乃至學問上の價値を、決定すべきもので無いことを論證することが出來るのである。但しこの説明は枝路である故に、今は及ぶ限り簡略にして置かうと思ふ。是がもし一つの機縁となつて、將來この細長い島の一方に住む人の間に、進んで他の片端の生活を考へて見ようとする學問が、榮えるならば幸ひのことである。最初に此問題に手を着け始めた人は、沖繩の學者|宜野灣《ぎのわん》朝保氏、次には其志を承繼した伊波普猷君の日琉同祖論であつたが、其後この事業は停頓し、且つ是も亦京都以東には及ばなかつた。自分の試みは只其一部の補充である。東北と西南と、言語のよく似て居ることに何人でも氣の付くのは、ツグラ・タマグラ以外に先づざつと次のやうなものがある。
 アケヅ 上代のアキツムシ、即ち蜻蛉のことである。沖繩の諸島と種子島と東北六縣とのみに此語の遣つて居るのが見出され、中央部はすべてトンボ又はドンブ等、九州にはヘンボ・エンブ等あつて、各地非常なる音變化を以て、東京などのヤンマに續いて居る。奧羽も北の一隅だけにダブリ・ダンブリといふ語が交へ用ゐられ、それが又鹿兒島縣下のボウリといふ語と接近して居る。ボウリも恐らくはツブリの變化であつた。トンボの音は後には確かに「飛ぶ」といふ語と聯想せられて居るが、最初はダンブリ又は是と近い音であつたことは證據がある。芝居や小兒の遊戯でする飜筋斗、東京ではトンボガヘリといふ行爲を、上方ではドンブリカヘリといひ又サカドンブリとも謂つて居る。即ち古音が複合の形にのみ保存せられて居る例である。能の狂言のドブカッチリには丼礑の漢字を宛てゝあるが、井の字の中に點のある字を、今は普通にドンブリの語に用ゐて居る。集韻には丼、都感の切、物を井中に投ぐる聲とあり、靈異記の訓釋には「井投彼釜」の井の字に、ツハトと訓を附してあるが、大和物語には「ツブリと落入りぬ」とあり、宇治拾遺にも「ツブリと打かへりぬ」と用ゐて居るから、(以上俚言集覽に依る)、トンボのダンブリも元はあの蟲の珍ら(82)しい擧動によつた名であつて、多分は童詞などの力によつて、弘く行はれたものであらう。ヘンボ・エンバがそれから出たか否かは別問題として、兎に角に此音の面白さが、次第にアキツを不用にして、國の外側へ押遣つたことだけは爭はれない。
 ウロコ 是は魚類の鱗のことでは無くて、フケ即ち人間の頭の垢をさういふのである。宮城縣の北部、殊に登米郡などではフケのことをウロコ又はオロコ、青森縣東側に於てもウロコと謂ふから、此分布は可なり廣からうと思ふ。沖繩の島では之をイリキ、倭名紗にも既に「俗に伊呂古と云ふ」とあつて、もし魚鱗のウロコを保存しようとすれば、是だけの音變化は必要であつたらうが、既に魚類のことをイロクヅとも謂つた例があるから、元は差別が無かつたのである。頭垢をウロコと呼ぶ奧南部などでは、鱗の方はコケと謂ひ、關東でも一般にコケを鱗と苔とに兩用して居るが、伊豫の南端や大分縣の一部では、コケといふのが頭の垢のことであつた。察するにかの伊呂古の「俗語」以前、更に今一層廣汎なるコケといふ語があつて、それを苔又は茸に專用する爲に、一轉して又フケといふ語も出來たのであらう。以上二つの方言は沖繩の學者が既に注意したもので、伊波君は尚この以外に、ツビ(尻)・ナイ(地震)・シシ(肉)・ホソ(臍)・ヨム(算へる)・マル(糞ひる)・ナス(産む)・コトヒ(犢)・サクリ(?噎)・ヱツリ(蘆?)・ユヒマハル(協力する)等の語を拾つて居られるが、此等の方言一致は決して奧羽の一地方には限られて居らぬ故に、茲にはもはや其説を敷衍する必要は無い。私は寧ろ此以外、即ち上代の記録に是といふ痕跡を留めず、雙方が知らずに自分の土地だけの方言と思つて居るものに、なほ色々の共通があるべきことを豫想して居るのである。其二三の著しいものをいへば、
 クラ 是は今日の雀のことで、沖繩本島が主として此語を用ゐ、普通此小鳥の啼聲から出たものと想像せられて居る。他の府縣の多くでは、ツバクラ・ツバクロの複合形に存するものゝ外、山がら四十がらなどの所謂「がらの字」に其聯絡を認めるのみであるが、スズメは本來小鳥の總名であつたらしく、特に今日の軒淵の雀を謂ふ場合には、ま(83)だ色々の附頭語が殘つて居る。其中で利根川下流にあるジャッチクラはクラの一例であり、又今日では「膨れる」と解し或は頬黒とも解せられるフクラスズメなども、他の一例では無いかと思ふ。それから是は奧羽では無いが、大和の十津川から紀州の熊野、阿波の祖谷山といふが如き非常な山奧だけに、雀をイタクラといふ方言が分布して居るのである。このイタクラのイタは、自分の想像では「語りごと」をすることで、他の南方の島々のヨムンドリと同じ意味かと思ふ。それから今一つ八重山の諸島に、パードリと謂ふ雀の方言があるが、是は羽鳥であつて此鳥が特に羽ばたきをよくするのを、觀察した者の命名かと思はれる。越中などでは雀をバンドリスズメといふ村がある。バンドリは一種の蓑のことで、人が蓑を着た形に似て居るからと説明して居るが、此説明は逆であらうと考へる。蓑をバンドリとしも名づけたる動機は、寧ろそれを着て田の邊に飛びまはる姿が、この羽鳥を聯想させるためであつたらうと思ふ。或は「むさゝび」の一名をバンドリといふから、蓑をさう謂ふことになつたかの如く思つて居る人もあるらしいが、似た點からいへば比べものにならず、又獣の方が遙かに物遠い。是は恐らく一方が單稱であり、雀は其バンドリにスズメを附けて呼ぶ故に、普通の習はしに準じて此方を後の語としたゞけで、むさゝぴも却つてもとはバンドリキネズミであつたかも知れぬのである。
 ミザ 是は地面を意味する古い日本語であつたかと思はれる。文章語の方では大地をもツチと謂つて居るが、別に地表に當るべき一つの言葉があつてよかつたのである。南の果に位する多良間《たらま》の島などでは、今も明瞭に地面をミザと謂つて居るが、沖繩本島ではンジャと變化して居る故に、我々は古くからの一致には心付かなくなつたのである。ミザといふ語の今でも遺つて居るのは、八丈の島と佐渡の島とで、其他にもあるとは思ふがまだ發見せられて居らぬ。他の府縣では通例「地」の漢音と複合して、ヂビタもしくはヂベタといふ語になつて行はれて居るが、是にヘタといふ意味の附くわけの無いことは、誰にでも考へられると思ふ。信州の上水内郡には、地面をツチミザといふ村がある。濕地を意味する所の九州のムダ、それと接續して居る日本海側のウダなどは、隨分古くからではあるが、是もミザの(84)分化と見てよからう。ニタ又はヌタといふ東國の方言なども、曾て自分はアイヌ語のニタッの繼承であらうと謂つたが、事によるとやはりミザの同系であつたかも知れぬ。但し東北では濕地はヤチであつてミザに該當する語はまだ見つかつて居ない。この南北二地の一致は、一方が單に沖繩の群島だけである故に、或はまだ之を信じ得ず、何か事を好む穿鑿の如く見る人もあらうが、是から下に掲げる單語の如きは、もう少し範圍が弘くなるのである。
 ムゾイムゾカ 是は今日の「可愛い」に當る言葉で、沖繩の島では歌にまで使用せられ、島人は現に自分の地方だけの方言だと思つて居る。ところが此語の行はれる區域は、九州は殆と一圓であり、中間に廣々とした不使用地を隔てゝ、奧羽の各縣でも亦まさしく此通りの語があつたのである。但し東北には今一つメゴイといふ語がまだ殘つて居る爲に、ムゾイは主として「ふびんな」の方に向けられようとして居るが、それでもまだミジョイとかメジョイとか、少し形を變へて愛らしいといふ意味に使ふ者はある。此風は越後にもあり、又武藏でも秩父郡には、ムジッコイと謂ふ「可愛らしい」がある。九州の方では既にメグシを有せぬ故に、明かに一箇のムゾイを、少しの變化を以て二通りに用ゐて居る。たとへば熊本縣でも南北の端だけはムゾカが「かわいゝ」であるが、熊本の城下と其周圍の郡に來ると、それが「かわいさう」の意味に用ゐられ、「かわいゝ」の爲には別にムゾラシがある。さうかと思ふと阿蘇郡はムゾケエ、其東隣の豐後日向ではムゾナキイ、又はムドナキイと謂ふのが「かわいさう」の意味に使はれる。奧羽の方でも是と同樣で、やはり少しでも定まつた形は無く、單にムゾといふ部分が共通して居るのみである。たとへば仙臺ではムゾイ又はムゾコイ、其附近の郡もモゾイ、南部領内ではムゾヤナもしくはモゾヤダ、羽後の横手あたりはムゾエ、羽前の瀬見温泉はメゾテエ、同じく莊内はミゾケネエが「かわいさう」に該當する。莊内方言考にはミジョケナイは「見ずに置けない」の意だと説いて居るが、さうかと思ふ者などは一人も無い。さうして會津の若松では、ムザウサイが又「惨い」の意味に用ゐられて居るのである。要するに此等は皆「可愛らしい」と「可愛さう」との差別の如きもので、言葉そのものにはそれ迄の内容の差は無く、たゞ使ふ人の心持の方が變つて來たので、歸する所はカ(85)ナシといふ語の意味の推移と同じく、愛と憐愍とがもと甚だ近い感覺であつたことを明かにするまでゝある。漢字で無惨などゝ書くムザンといふ日本語も、是から起つたことが想像せられるのみならず、更に一歩を進めると、ムゴイといふ語も亦元はメグシであつたかと思はれる。下總香取郡ではムゴイは「可愛い」であり、上總の長生郡では「可愛がる」をムゴガルと謂ふこと、全然奧羽地方のメンコイ・メゴガルと同じである。福島縣でも相馬郡のムゴイ・ムゴシイは「可愛い」に該當し、石城郡のムゴイは「可愛さうな」の方であり、阿武隈川流域にはメンゴエの「愛らしい」が盛んに用ゐられて、しかも一方にはモゴサイといふ語を「可愛さうな」の意味に使つて居る。信州などでも上伊那郡の如く、モゴイ・モゴチネエを憐憫の意に用ゐる處と、東筑摩郡の如く惨いといふことを、モゲエだのモオラシイなどゝいふ土地とがある。近畿以西の府縣にはメグシといふ語は既に消えて、只ムゴイといふ破片を留め、其代りに今現れて居るのは、漢語とも日本語ともきまりの付かぬやうな「可愛い」といふ新語だけである。それが大昔からの存在で無いことは、何人の眼にもわかるのであるが、然らば其一つ前は何と謂つたかといふと、ちよつとは答へられぬやうになつてしまつた。それこそ本當にムゲエコツである。
 タンペ 是は唾を意味する古語であつたと思はれて、やはり日本の南北兩端だけに殘つて居る。今日普通に使ふのはツワとツバキで、前者の元の形はツ又はツヅであつた。ツバキは全く是とは別系統で、本來はツバのキ、即ち唇の液體の意味であつたことは、唇を九州の北部でツバ、南部でスバと謂ふことゝ、關東以北で唾を別にクタキ即ち口の液と謂ひ、又はシタキ即ち舌の液といふのを見てもわかる。ツバは其ツバキとツワとの一種の混同に過ぎぬといふことは、以前別の論文に之を説いて居る。ところが東北では秋田市と其近郡でタンペ、盛岡と其下流の各地でタンパ・タンベ・タッペ、米澤と其周圍ではタッペ、福島縣北部でもタンペをシタキと併用して居る。それは痰である又は啖と書くべきだなどゝ、さも/\輸入の物の如く説く人もあるが、實際の話主はまだ唾と同じ意味に、タンペを使ふのだから致し方があるまい。或は我々のタンと名づくるものだけに、ネッペといふ語を用ゐる土地もあり、又は一方を(86)タンペ、他の方をタンパと言はうとする處もあるが、是は全く後世の差別であつて、多分はタンといふ語も斯くの如くして分化したものと思ふ。南の島に於ては首里那覇がチンペ、屋良がトンペ、名護と喜界島とがツンペである。九州に於て筑後三池地方のツルペ、同吉井附近のシンチャ、ずつと離れた紀州の有田郡にもチャンペがある。最初は多分唾を吐く音から出た語であつて、ツとは關係がありツバキ・シタキ等とは競爭者であつたのが、後に口から吐くものを二つに言ひ分けるやうになつた爲に、中部日本に於ては割據の?を呈し、タンはたゞ所謂痰だけに、立て籠るやうになつたものと思ふ。
 アクト 是は漢字の踵を以て宛てられる語で、東京と其四周の平原ではカカト、西京以西の普通語はキビスであるが、アクトといふ語の行はれて居る區域も中々廣い。先づ東北の六縣は全部、それから越後信州を通つて、美濃尾張の平野にまで及んで居るのであるが、其中間に少しばかりの變化がある。即ち甲州にはアコイ、伊豆にはアックイ、駿遠參にはアクツ・アゴトがあつて、再び美濃尾張のアクイ・アクイト等を生じ、近江ではそれがオゴシとなつて居る。カカトは少なくとも是と關係がある語らしいが、今はまだ明かに説くことが出來ない。南の島々では殆と全部がアド又はアドゥであつて、唯その兩端にのみ僅かばかりのアクトといふ地がある。九州では肥後の阿蘇|小國《をぐに》、筑後の久留米邊にもアドがあるから、捜したら尚幾つかの類例が見出されると思ふ。
 サスガラ 以下は沖繩諸島とは關係が無く、主として九州と奧羽との類似である。虎杖といふ植物には凡そ三通りの古語があつて、それが奇妙に入り交つて居ることは、是も以前に發表したことがあるが、其中でも青森秋田の二縣を支配して居るのは、サセドリ又はサシドロなどゝいふ一語であつた。サセドリは一方に又牛の鼻棒のことをもいふから、覺え易かつたのであらうが、ドリは同時にイタドリの下にも附き、更にサスガラともサシボコとも謂ふ土地があるから、サシといふだけが元の形であつたやうに思はれる。それが九州では阿蘇山脈の兩側、豐後も日向の臼杵郡も、肥後の山村も共に皆サドであり、又はサドガラとも謂つて居るのは、確かに兩端の一致である。但し此語は中央(87)部に於ても、伊勢や備中にサジナ・サジッポがある外に、瀬戸内海の島々と沿岸では、或は隣のタヂヒ系と交つて、サイジといふ形が出來たり、又はサイタツマの變化かと思ふサイタナになつたりして居るから、聯絡が全く絶えて居るとも言はれぬ。しかも兩端に於て特に顯著に、この類似が見られるといふのは、少なくとも南北の言語關係が、曾ては今のやうに隔絶したものでなかつたことを、立證するに足ると思ふ。
 トゼンナ 是は新語の流通が、存外に足の早いものであつたことを示す例である。トゼンといふ語は徒然の音といふより外に、別の起源を想像し得ないものだが、北九州ではやゝ弘い區域に亙つて、之を單に退屈といふだけで無く、淋しい又は腹がへつたといふ意味に用ゐて、トゼネエなどゝいふ形容詞が出來て居る。南秋田の海近くの地に於ても、自分は直接にその同じ語の同じ意味に使はれるのを耳にした。但し戸賀《とが》や北浦は舶着の港だから、或は船人によつて特に運ばれたとも考へられる。實際それは又彼等が「使ふによい」言葉でもあつた。
 デバ 是は全國に行渡つた語であるが、中央の弘い區域では又出刃庖丁とも謂つて、專ら魚を料理する一種の刃物に限つて居る。ところが肥前の五島などでは、デバは即ち小刀のことであり、伊豆の伊東でも、伊勢の度會郡でも、熊野の南輪内村でも、共に同じ意味に用ゐて居るのである。是も沖乘の船からとも言はれるが、此方が實は古くからの用法であつて、反齒の鍛冶が打ち始めたからなどゝいふ説は、後に其語を唯一種の刃物のみに、限らうとした者の造説かと思ふ。デバは恐らくは右片側に刃を付け、外へ向つて使ふやうにした刀のことで、内の方へ削り込む左に刃を付けた刃物、たとへば椀作りの用具などゝ、區別をする爲の出刃であつたらう。さういふ元の意味が飛離れた邊土だけに殘つて居ることは、單なる運搬とは考へることが出來ぬのである。
 ネバシ・ナラシ 最後にもう一つだけ、是も新たに作つたかと思ふ例を擧げる。ネバシは眞綿のことで、奧州の突端と秋田縣の一部とに行はれ、それから南に來れば全然別の語になつて居るのだが、それが九州では壹岐五島、平戸伊萬里から佐賀島原まで、及び鹿兒島縣の一部にも行はれ、豐後の日田では只ネバとも謂つて居る。ネバスの動詞は(88)今日では餘り聽かぬが、引伸ばすといふことであつたらしい。それを其まゝ物の名にしたのである。ナラシも西國のほゞ同じ區域に於て、掛竿衣紋竿衣架の類をさう謂つて居り、紀州の日高郡や阿波の祖谷山でも其通りであるが、是が東國に來れば東上總では稻を乾す竿、關東の他の地方ではヲダカケとも謂ひ、北國その他の廣い區域に於て、ハサ木ともハデともいふものゝ名になつて居る。下總常陸の方ではそれがノロシと變化し、衣架や手拭掛けには別にソゾ又はミソゾといふ名があるが、この東西兩端のナラシは、本來一つの言葉であつたことは疑ひが無い。ナラスは普通「平らにする」といふ意味で、又次第に其方に改まらうとして居るけれども、元は農村の作業に?用ゐられた語であつたことは、ナルが平地を意味し、ナルイが傾斜の緩なることを形容して居るのを見てもよくわかる。鮓がなれるといふのは低く平らになることであり、それを又ネマルともスヱルとも謂ふ所から考へると、人に「馴れる」といふ語が出來たのも是と關係があり、その漢語とは起原が別であつたやうである。兎に角に動詞の所謂連體形を以て、其目的であつた物の名とする風は、以前今よりも遙かに盛んであつた一時代があつたかと思はれるが、其名殘が亦國の兩端のみに留まつて居るので、此例はまだ幾つでも見出されるであらう。米を洗つた白水をニゴシといふなども、近畿では全く耳にせぬ語であり、又我々には耳遠くさへ聽えるが、是も九州の北部と關東信州との田舍には行はれて居る。斯ういふ明白な後の世の言葉までが、尚かけ離れた二地以上の類似を見るといふことは、假令一半は偶合の奇に驚くべきものだとしても、少なくとも國中の方言が常に獨立して、自由な誤謬に走つて居たものだとする空想を、破るには足るのである。單に一個のタンマグラ及びツグラメの問題では無かつたのである。
 
(89)  都府生活と言語
 
 問題の幾分か複雜になり、從うて又諸種の異説と獨斷とを招き易かつた原因は、個々の昔の方言領域が、外部の競爭者の侵略を受けて、次第に退縮すべき傾向を持つて居ただけで無く、内にもまた往々にして新らしい異稱が起つて、それに押分けられて相互の脈絡が絶え、各自思ひ/\の進化の道を、歩まなければならなかつたことである。蝸牛には幸ひにして、カタツブリの如く、曾て京都を占領して今は邊隅に餘喘を保つ例があつたからよいが、もしタマグラとツグラメとの對立だけであつたら、中々斯う容易には比較を進めて見ることも出來なかつたであらう。ましてや新語發生の中心が一方に偏在して、所謂方言圏の他の周邊が、遠く無人の海又は沙漠に消え去るやうな場合には、事によると僅かに片端に殘つた舊語を以て、外から來て附いたものゝ如く、或は又古語が此方面のみに保存せられたといふが如き、裾模樣式浸潤觀を抱かせぬとも限らぬのである。此危險の殊に多かつたのは沖繩の列島であり、しかも最も早く其誤謬に心付かれたのも亦彼地であつた。單に遠近を地圖の上から見れば、勿論誰とても内地の影響が、より多く北境の大島群に及ぶべかりしことを想像するが、事實海上の交通の主として舵を向けたのは、島尻の一角即ち那覇から牧港《まきみなと》までの海岸であつた。それ故に今でも言語の敷波は、略この地點を中心として、南北に其波紋を擴げて居て、宮古は國頭の山村と相應じ、八重山は所謂道の島々と遙かなる類似の痕を持つて居たことが、追々に發見せられんとして居るのである。是と同種の傾向が、弘く日本全體の上にも現れて居なかつたといふことを、斷言し得る者は決して無い。たゞ今日はまだ調査が周到で無く、且つやゝ大なる島の陸續きに於ては、一段と相互の交渉が込入つ(90)て居る爲に、是を簡明なる法則に導くことが出來ぬのであるが、それにも又別に一個の觀察點の、我々の整理を助けんとするものがあるのである。
 是を言語の文藝的進化と名づけることは、少しく耳馴れぬ稱呼ではあるが、恐らくは實地に當つて居ると思ふ。古人が好い言葉又面白い言葉として、採つて在來の用語にさしかへるほどのものは、假令我々の鑑賞からは眉を顰めるやうなものであらうとも、必ず其音なり形容の機警なり又聯想の新奇なりに、當時の人心を動かすの力があつて、一囘の選擇は即ち又一囘の技巧であつた。中には世情の變遷によつて、輕しめ忘れられた場合も無いと言はれぬが、少なくとも精より粗に、複雜より單純に戻るといふことは無かつたわけで、さうすると國の端々に殘り留まるものゝ、如何なる過去を談ずるかを、大よそは豫想することが出來るといふ結論にもなるのである。そこで差當つての一つの問題は、奧州のタマグラと九州のツグラメとが、古いといふことはどの位古いのか。それがマイマイやカサと複合して、今の各地の方言を作つた事實は、假に此語が前からあつたことを示すとしても、果してそのもう一つ以前が、單なる無名であつたかどうかゞ、答へられなければならぬのである。それには前章にも試みられた如く、やはりそれ/”\の方言領の、邊境現象を見て行くのが一つの手段である。カサ・マイマイ其他の新語が、既に九州の周邊に入つて居ることは之を例示した。ところがツグラメの方はそれと反對に、今尚その中央山嶺の周圍に一團の版圖を有し、それが又南北に進出するにつれて、少しづゝの轉訛を見ようとして居るのである。附表にも載せてあるがもう一度爰に列擧して見ると、
  ツグラメ              肥後阿蘇郡
  ツグラメ、ツクラメ         豐後南北海部
  ツングラメ             日向東臼杵郡
  ツングラメ             豐前宇佐郡
(91)  マメツングリ            筑後三瀦郡
  ツンツングラメ           同上
  メェメェツングラメ         肥前佐賀附近
  ツングラメ             同上
  ツブラメ              壹岐島
  ツルマメ              肥前平戸
  ツッガメ              同 五島各地
  ツッガメジョ            同 三井樂
  ツグラメ              肥後葦北郡
  ツゲラメ              塵兒島
  ツグラメ              薩摩甑島
  ツンナメ              大隅種子島
  ツンナメ              七島寶島
 さうして此中間には蝸牛をナメクジといふ地域を包圍し、そこには又ツウナメクジ・ツウノアルナメクジ等の名を生じて居るのだから、貝の殻をツウといふ點までは、是も亦同じ配下に立つものと見られる。しかも此地方では、單なるツグラは「懷」のことであり、又は蛇のトグロのことであつた。蝸牛の方には悉くメの音が附添して居る。それを伊豆などのカサンマイと同樣に、後に現れ來りしマイマイの影響と見るか、但しは又今一つ以前のミナもしくはニナといふ名稱が、爰にも殘存して「ツブラ蜷」といふ、一種の複合を生じたものと見るか。はた單なる動物呼稱、たとへば栃木縣や八丈島の「蛇め」「牛め」の類と見るべきであるか。この判斷は頗る重要となるので、それには更に我々(92)の觀測を、もう少し外側に向つて伸展する必要があるのである。
 薩摩の一隅のツグラメが又一つの海を越えて、種子・寶の島々のツンナメとなつたことは前に見えて居る。それから南の方も系統は大よそ一つかと思はれて、
  チンナン              首里那覇及び周圖
  チンナミ、チンナンモォ       沖繩本島名護
  チンニャマァ            奄美大島北部
  チンダリ              同上大和村
  チンダリイ、チンニャマ       同上古仁屋
  チンダル              加計呂麻島各地
  チンタイ              沖永良部島
  ツンミャァウ            喜界島
などの例がある。ナ行とダ行との通用は、此比較によつても想像せられ、一方ダ行がラ行の代りをすることは、熊本鹿兒島兩縣下の普通であるから、ツングラメが一旦種子島その他のツンナンと爲り、更にチンナンを經てチンダルにまで、轉訛して行つたものとも想像せられぬことは無い。ところが其比較をなほ押進めて、南の方八重山群島の事實を尋ねて見ると、其想像の幾分か困難になることを感ぜざるを得ないのである。現在知られて居るだけの例では、蝸牛の方言は、
  チダミ、ツダミ           石垣島
  チンダミ              小濱島
  チッヅァン             西表島
(93)  シダミ               黒島
  シタミ               波照間島
  シダミ               與那國島
 けだし黒島|波照間《はてるま》島のサ行轉音は、顯著なる此島々の語音の癖であつて、決して此場合ばかりに限られたことでは無い。例へばキヌ(衣)を沖繩本島の南部ではチン、北部國頭の山村でキン又はキヌといふに對して、南端の二島では之をシヌと發音して居る。だから簡單に是ばかりの事例に據つて、別に蝸牛の名にシタダミの一系統があつたことを、推定することは短慮であるかも知れぬが、類型は遠く飛び離れた伊豆の八丈島にもあつて、彼處では現に蝸牛をヤマシタダミと謂つて居るのである。即ちもし曾て我邦の内に此語があつたとすれば、シダミ・チンナミは九州のツグラメよりも、遙かに此方に近いことを認めなければならぬ。それから今一つの可なり注意すべき事實は、この八重山の諸島の中で、たつた一つの新城の島だけが、古來土器を燒いて隣島と交易して居た。この現存して居る實物を見るのに、無數の細かに碎かれた貝の殻が、其土の中に交へ燒かれて居る。是は全島が珊瑚岩であつて、原料の粘土を得る途が無い故に、多くの蝸牛を共に搗き潰して、其粘液を以て赤土をこね上げ、大きな水甕までを作つて居たのである。是が原始工藝史の重要な一つの問題であること、稀に土器の使用を解する太平洋の小さな島々でも、或は同種の方法に由つたものがあるらしいことは、他日改めて之を説くとして、先づ差當つてはシタダミといふ語が、何か此習俗の間に其起原を持つのでは無いかといふ、想像説だけは提出して置く必要がある。即ちナメクジの「ぬめり」を以て認められたと同樣に、シタダミは即ち「したゞり」に基づいて、此名を負ふに至つたとも、考へられぬことは無いので、假に其推察の通りであつたとすれば、土器との因縁は又一段と古く、從うてツブラ・ツグラの語が其製法の特徴に出でたといふことも、殊に自然であつたと考へられるのである。
 沖繩本島の蝸午は現在はチンナンであり、絲滿人は是をジンナンとさへ謂つて居るが、前には寶島や種子島の如く、(94)ツンナンと謂つた者もあるらしく、小野蘭山氏の周到なる蒐集の中には、蝸牛、琉球に於てはツンナンと謂ふ。其形扁螺(シタダミ)の如くにして殻薄く碎け易く※[厭/田]無し。形扁なるものをヒラツンナンと謂ひ、殻厚なるものをバフツンナンと謂ひ、又殻厚くして尾尖り、斑文あり又圓※[厭/田]あるものをフタツンナンと謂ふとある。是は傳聞であつて必ずしも精確を信じ難く、殊に同じ條下に、一種尾高くして出毛無きものをユフガホと謂ひ、その特に高きものはマキアゲユフガホと稱すとあるのは、或は沖繩の事實で無いやうにも思はれる。しかも此島に於ては夕顔をツブルと謂ひ、現に伊波普猷君の談に依れば、一種山中に棲息する蝸牛にはツブルと名づくるものもあるといふことで、少なくとも沖繩人は、ツブルが蝸牛の方言の一つであることだけは知つて居たのである。是から推して考へて行くと、もしツンナンがツグラメの轉訛であり、チンダルが假にシタダミの系統に屬するものとすれば、二つの方言領の境は沖繩本島から逆に北へ戻つて、奄美大島と其屬島との間、及び同じ大島島内でも北端から約四分の一ほどの處に、一本の堺線が引かれることになる。之とは反對にツンナンも亦シタダミの方の影響だとすると、今度は又九州主島と種子島との間の海を、堺としなければならぬのであるが、何れにしてもそれは想像のしにくいことである。それで第三の私の意見では、當初全然別ものであつた二つの方言が、爰でも其接觸面に於て一種の複合現象を呈し、兩名相牽制して中間にこの特殊の形態を發生せしめたものと解するのである。他の地方の方言邊境にも、デェボロだのツノンダイシロだのゝ如き、音の複合を生じた例はあるが、多數はカサツブレやマイマイツブロと同じく、語形の一部を保存したものであつた。それが海南の島々に於て、專ら音の調和によつて次々に新たなる語形を生じて居るのは、之を果して訛語のうちに算へてよいかどうか。思ふに其原因の主たるものは、前代の單語が甚だしく簡單であつて、之を後世の童詞に利用せられたものに比べると、遙かに符號化することが容易であつた爲では無いか。或は又新語の出現する機會が乏しくして、いつ迄も意味不明なる古語を守つて居た結果、徐々の音變化に向つて比較的無關心であつたからでは無いか。別の語を以て言ふならば、癖とか誤謬とかいふ個人に屬する理由以外、他になほ必然に訛語を發生せしむべき(95)社會的?勢があつて、それがちやうど方言の次々に出來る理由と、表裏両端に相剋するものでは無かつたか。假にさういふ推測が成立つものとすれば、國語の成長を説かうとする人々は、今少しく細密に是と文藝生活との交渉を、省察して見なければならなかつたのである。
 そこで立戻つてもう一度、この九州諸島の弘い地域に、何故に單純古風なるツブラ・ツグラが今も殘り、更に其外側には尚一段と古いシタダミが、どうして又痕跡を留めることになつたかを考へて見る。私の説明は或はまだ概括に失して居るかも知らぬが、これは要するに國民の移動定住の樣式如何が、國語そのものゝ形態の上にも、亦無關係であり得なかつたことを意味するものと思ふ。人が都邑の生活を開始するに及んで始めて心付かれるのは、安逸の價値とも名づくべきものであつた。澤や磯ばたに別れ/\に住む者ならば、主たる休息方法は飽滿か睡眠かの他には無かつたらうが、別にそれ以上の色々なる閑暇の利用法があつたことは、經驗境遇の互ひに異なる人々が集まつて、それを比べて見ることによつて始めて學び得たのである。たとへば眼の樂しみよりは耳の愉快の方が、容易且つ小規模に之を求め得られるといふことなどは、それまでは殆と知る機會も無かつた。勢力ある階級の我儘なども、實はこの雜居後の發見によづて、始めて大にそゝのかされることになつたのである。上代から傳はつた荘嚴なる多くの唱へごと語りごとが、次第に年一度の宗教儀式から引離されて、平時にも之を試みんとする者を生じたのも、つまりは酒杯や歌舞の獨立と同樣に、或は又自ら生産せざるものゝ消費と同樣に、何れも都邑群住の花やかなる影響であつたと言ひ得る。それが恐らくは文學の濫觴であり、又話語がその信仰上の意義を失うて、凡人平常の退屈を慰めるに至つた原因かとも思ふ。言語を變化あり精彩ある耳の食物たらしめた事業の如きも、其以前には只少數專門の徒の管理する所であつた故に、勢ひ其效果の大を期し得なかつたのであるが、一旦異郷の者が相往來し、又互ひに自ら紹介しなければならぬことになると、其技藝は是が爲に解放せられ、且つ大に進化するの必要があつたのである。是が現代に持續した都府の魅力、所謂都會熱の隱れたる病原であつて、九州奧羽は乃ち稍その中心から遠かつたのである。獨り「京(96)わらんべ」のみが都では輕佻であつたのでは無い。新を喜び古きに倦む氣風、機智と練習とを以て物言ひの變化を促さうとする努力が、一般に繁華の土地にのみ尖鋭であつた爲に、其反面から偏鄙と名のつくやうな地方には、多くの古いものが保存せられることになつたのである。單に上世の民族遷移の道筋であつたが故に、袋から物のこぼれる樣に、ほろ/\と中途に落ち散つて居るものと解するのは誤りであらう。もしそれだけの原因からならば、鎭西に稀に皇祖東征の代の單語が、遺留して居た理由にはならうが、それが數十世紀を持ちこたへて居た説明としては不十分である。ましてや鎌倉室町乃至は江戸初期の新語が、分布して居る不可思議を釋くことは到底出來ない。しかも一方には東北の邊土の如く、まだ一度も我々の中央人が足を踏み入れなかつた地域にも、同じ樣な痕跡は見られるのである。是を解説する方法は恐らくは一つしかあるまい。一言で言ふならば、ツグラメ・タマクラでも差支無しと思ふ者ばかり多く住み、それを古臭いとか分らぬとか言つて、嘲り又は改めさせようとする者が、滅多に遣つても來ず、來ても新らしい語を採用させる途を知らなかつたのである。小兒は勿論大人よりも遙かに、外部の慫慂には敏感であつたらうが、彼等の活躍は通例模倣の外には出でなかつた。群の力がその周圍を押へて居れば、さまで頻繁なる新語の感化を受けずにも居られたものらしい。だから街道の交錯した中部日本の平地のみが、殊に方言の烈しい混亂を經驗し、千船百船の寄りつどふ海の港などは、案外に在來の統一を保ち得たのであつた。しかし是とても勿論程度の問題で、如何に律義にして氣働きの無い村の人たちでも、新たなる事物には新らしい言葉を求めた如く、それ相應に各自の生活の要不要に從つて、變へてよいものは徐々として變へて來た。たゞ其動機が遙かに他の一方のものよりも着實であつて、單に感覺によつて氣輕なる取捨をすることが出來なかつた。それが中央からの距離と比例して、外へ行くほどづゝ單語の壽命が長かつた理由であつて、さういふ邊土の言葉とても、亦決して單に古いから殘つたわけでは無いと思ふ。
 
(97)  物の名と知識
 
 この意見をもう少し詳しく説明する爲に、最後に尚一つの小さな問題を提出して置く必要がある。それは九州のツグラメの末の「メ」と、八重山諸島の語の元の形らしきシタダミの「ミ」と、果して關係があるか否かといふことであるが、私は現在はほゞ有るといふ方に傾いて居る。其理由は至つて簡單で、つまりはこの二つの單語以前に、更により古い一語があつたものと、考へて居る結果である。日本南端の平和無爲の島々に於ても、蝸牛の名は少なくとも一度は改まつて居る。さうして其痕跡が明瞭に今も殘つて居るのである。所謂三十六島の中に於ては、宮古のウムゥナ又はヴゥナのみが、外形はやゝ似て居るけれども純然たる別系統のものであつた。尤も此群島だけは、過去に種族の盛衰が殊に激しかつた爲に、今なほ獨立した幾つかの方言團があるさうで、自分はまだ其片端しか知つて居ないのであるが、少なくとも古來ミヤコの中心と目せられた平良《ひらら》五ヶ部落に於ては、蝸牛をンムゥナと謂ひ、之に對して蛞蝓をムナンギムシ、もしくはムナヅイムシと謂つて居る。即ち蜷拔蟲もしくは蜷取蟲の義であつた。宮艮當壯君の採訪語彙稿に、之を「蝸牛を拔いた蟲」と解説して居るのは、同じ意味であらうが甚だ明確を缺いて居る。即ち同君はムナァが卷貝の殻の總稱であることを、まだはつきりと認めて居ないのである。
 蝸牛をミナといふ例は、九州南部には殘つて居る。鹿兒島縣方言集を見ると、何れの土地でとも明示しては無いが、蝸牛には(一)ミナムシ、(二)ムナムシケ、(三)ヤミナ、(四)ユダイクイミナ、(五)カキミナ、(六)チヂミナ等の異名が行はれて居ることを示して居る。多分はツグラメと併存して居るか、さうで無ければ同類異種のものに、特に此(98)名を付與して居るのであらう。此中で(一)は僅かにムシの語を添へて海の蜷と區別し、(二)はそれに又貝の字を附加して居る。(三)のヤミナは人家近くに棲む故か、はた又出入をする殻を家と見たか。何れかは判然しない。(四)のユダイクイミナは蛞蝓のヨダレ蟲と同樣に、涎を垂らすからの名であることは疑ひ無く、(五)は垣蜷であり、(六)のチヂミナは頂蜷であつて、常に樹上に遊ぶことを特徴と認めたものと思ふが、或は尚シジムシといふ土地もあるといふから、別にシタダミ系からの變訛とも考へられぬことは無からう。薩摩川邊郡の知覽郷などでは、現在も蝸牛をヤマミナと謂ふさうである。小野氏の本草啓蒙には同國竹島に於て、尋常の蝸牛の殻厚きものを、ヤマミナと謂ふと誌して居る。山蜷はちやうど陸中平泉のヤマツブなどゝ對立すべきもので、之に據つて直ちにミナが卷貝の總稱であることを知るのであるが、一方には宮古島の如く、之を以て蝸牛ばかりの名とする例もあるのである。八重山群島の石垣島に於ては、ンナは即ち金字塔貝のことだと宮良君は報じて居る。金字塔貝とは多分高瀬貝であらうが、それならば鹿兒島ではタカシイビナと謂つて居るのである。
 單なる一種の淡水産の卷貝にミナ又はニナの名を付與した例は他の府縣にも多い。倭名鈔には河貝子を美奈とありミナ結びニナ結び孰れが正しきかの論は、既に徒然草にも見えて居るから、相應に夙くから其習はしはあつたのである。海に遠い飛騨の吉城郡では長螺をニラ、丹波の福知山邊ではニナイ、備前の一部ではニダ、佐渡では一般にビンナと謂ふやうだが、單に其土地々々で著名なる一種にミナの總稱を寄託した迄で、果して同種であるか否かは檢査の上で無いと決しかねる。しかし大體に食用に供せられる爲に、此通り著名になつたものと思はれるから、それが假に一致して居ても、別に不思議では無いわけで、其爲に此貝だけが固有のミナであつたとは言へない。會津の大沼郡の方言集には、ビナとは宮入貝のことだと謂つて居るが、是も亦同じ川蜷である。加賀以東の北國各地に於て、ビンロウジと謂ふのも亦ビンナの訛語であるらしい。後には更に一轉して、此貝の形に似た尻の尖つた燗コ利までを、ビウロウジと名づけて居る故に、元の意味が一層不明になつたのである。
(99) 或は又伊豫地方のやうに、特に右のミナ即ち河貝子をカハニナと謂ふ例もある。伊勢の度會郡では之をコナ、紀州南牟婁郡神川村などはゴニラ、豐後の日田郡でコウヒナと謂つて居る。ゴウナは肥後の玉名郡で細螺即ち東京のキシャゴのことであり、遠州濱名郡庄内でも、海に居る一種の蜷貝をゴウナイと謂つて居る。寄居貝即ちヤドカリの住む貝のみを、ゴウナと謂ふのは普通であるが、是とても一旦川蜷の名を經てから移つたものかも知れない。現に下總の利根上流では、ゴウナイは小川に棲むキセル貝のことであつた。下野河内郡では之をカハジラと謂ひ、嶺を越えて福島縣に入つて行くと、弘くこの同じ蜷をカンニョブ、又はガンニョウボウなどゝ謂ふのであるが、是も恐らくは亦カハビナの轉訛であらう。山形縣の最上地方では、之をミョウゴツブ又はミョウゴカエと呼んで居る。前のカンニョブと地域も接近し、外形も「川」の語を除けばよく似て居るが、果して類推が許されるかどうか。兎に角に此語は越後新發田のニョウニョウや、越中各地のミョウミョウを中に置いて、遠く加賀能美郡などの蝸牛の方言ミョウゴとの連絡が付くのであつて、此關係はちやうど又沖繩縣下の、チダミ・ツンナンのそれと似て居るのである。
 川蜷を又或はカハダニシと謂ふ處がある。海とは縁の無い奈良縣などがそれである。タニシは九州の全土に亙つて、田蜷といふ方が通則である。壹岐でも鹿兒島宮崎でも共にタミナ奄美大島ではタンマとなり、沖繩諸島は概してタァンナになつて居る。さうして日本の東半分がタツブ又はツブであることは前にも言つた。何れも皆田に棲む卷貝といふ趣旨は一樣であつて、特にタニシが他のタミナ又はツブよりも精確だといふことは無かつたと思ふのであるが、各地現在の用例に就て見ると、ミナの方は幾分か其範圍が廣くなつて居る。例へば奄美大島では法螺貝はハラァナ或はブラミナと呼ばれて居るが、貝は卷貝に限らず全體がすべてニャである。沖繩本島でも絲滿人などは鰒(アハビ)のことをカタゲンナと謂つて居る。即ち片貝蜷の意である。此人たちは貝殻のことをンナガラと謂ひ、八重山の石垣島では之をンナグルと謂つて居る。大島の古仁屋《こにや》では貝の柱をさへも、ミナハァラ(みな柱)と呼んで居るのである。それが果して後代の不當なる擴張であつたか。但しは又最初には何でもかでも、貝類は皆ミナであつたのが、追々に(100)外から狹められて、適用の範圍を「蜷」のみに限ることになつたものか。それを決して置いてからで無いと、語原の攷定などは不可能であるのみならず、マイマイとの關係もまた不明を免れぬのであるが、實際はまだ十分なる證據が雙方共に無い。只幾分か後の解釋に有利なのは、貝の總稱をミナ・ミナンなどゝいふ風は、北は道の島から南は終端の波照間島まで、今なほ廣大な地域を控へて居ることゝ、この日本語のカヒといふ言葉が、古く器物を意味したケといふ語と通用して行はれて居て、必ずしも貝を利用し始めてから後に、出來たものでは無いらしきことである。それがもし確かめられたならば、ミナの中でもカヒ即ち器物に應用することの出來る形のものだけをカヒと呼び、其殘りを元のまゝにミナと謂つて居るものとも解し得られる。但しその貝を意味するキウといふ語は、現に八重山の諸島にもあつて、それを後に入つて來たものとも斷定することが出來ぬのである。
 そこで再び前の問題に立戻つて、ツグラメ・シタダミが果してツグラミナ、又シタダリミナなどの、複合形では無いか否かを考へて見る。南方諸島の類例をあまり多く援用することは、馴れぬ人にはまだ不安の種であらうから之を略し、單に九州一帶のツグラメと、鹿兒島縣内の山蜷垣蜷等とを比べて見ると、前者が後れて發生したことだけは、深く論究する迄も無く明白である。即ち形さま/”\なる水陸のミナの中で、特に圓らなる一種を指定したツグラメの語のある以上は、今更ミナムシの名を設けて、是に色々の差別の語を附添するの必要は見ないからである。しかも目に觸れる物があつて、之を呼ぶ言葉が無かつたといふ時代は想像し得られぬから、既に何とかいふ蝸牛の名があつた處へ、新たに次の語は持込まれたのである。それが或年月の間併用せられて居たか、又は稍急劇なる新陳代謝が行はれたかは、場合毎に必ずしも一樣で無かつたらうが、假に著しい人望の差等はあつた迄も、耳で聽いてもわからなくなつてしまふには、少なくとも人の一代はかゝつた筈であつて、是が私の音複合乃至は語形複合の完了したらうと思ふ期間である。曾て存立して次のものに打倒された語が果して何であつたらうかは誠に定め難い。しかも話主の新語に對する態度は區々であつたものとすれば、新舊の方言領域は往々にして食ひちがつて居たと考へ得られる。即ち(101)最も多くの場合に於て、一つ以前の方言を其周邊の地に見出し得べしとする所以である。奧州のタマグラはより簡單なる隣の語を持たぬに反して、九州のツグラメには其外側にミナがあつた。蝸牛をミナとは謂はぬ土地にも田ミナがある。さうして他の一方には中部以東に、今尚ツブラといふ形が色々と傳へられて居るのを見ると、ツグラメは即ち一種の邊境現象では無かつたかと思はれるのである。シタダミの方には、まだ十分なる比較の資料が得られぬから、是にも同樣の過程があつたことを推測するに止まるのであるが、少なくともカサツブリとマイマイツブロだけは、事情が全く此通りであつて、たゞ其時期のみ異なつて居たことを見れば、私の推定は必ずしも粗暴でないと思ふ。
 是等の事例を綜合して見ると、前からあつた語は古臭いといふだけで無く、又單に意味が把へにくいといふに止まらず、概して其範圍が不精確であつた。物の名は符號だから意味などは構はぬやうなものだが、前代人の知識の修得には、今日の如き教科書も無く、文字も無く又繪も無かつた。現實に其物を手で押へて居る場合を除くの外、名を知ることが唯一つの物を支配する手段であつた。それ故に人は各自の實名を隱し又は諱んだのである。それ故に又甲乙人の交通に際しては、少しでも具體的に、又印象の深い名を知つた方が、常に有利な地位を占め得たのである。人に綽名が付くと忽ちにそれが流布したり、土地には誰がきめるとも無く、次々に細かな地名が付くと同じ樣に、人と物との關係が濃厚又密接になる程づゝ、いよ/\より適切なる名が求められることになつたのである。蝸牛は内地に於てはいつ迄も單に兒童の遊び相手に過ぎなかつた爲に、其名の變化も幾分か氣まぐれな方向を取つたが、同じ法則は更に農作物や農具、乃至は漁獵の目的たる魚鳥獣にも及んで、たとへば鍬ならば唐鍬備中鍬等、鯛ならば小鯛とか黒鯛とかいふ風に、段々に聽いて直ちに性能を知り得るやうな、複雜なる新名と代つて行かうとしたのであつて、小兒が蝸牛に對する場合も亦、大人は省みないがやはり言語の最も活き/\としたものを、常に選擇して行く念願はあつたのである。それを後世の長者の立場から、彼是批判することは到底出來ない。故に概括して之を「生活の要求」といふことは少しも差支が無く、過去も將來と同じやうに、世の中の事情が進展する以上は、言語は結局いつも變遷し(102)なければならなかつたわけである。
 
(103)  方言周圏論
 
 さて結論として改めて言ふべきことは無いが、餘りに複雜した私の論證であつた故に、今一應是までの假定を要約して、豫め後の批評家の親切に報いて置きたいと思ふ。
 蝸牛はこの日本の島に、多分は日本人が渡つて來るよりも前から、住んで居た動物であつた。其遭遇の最初の時から、既に何かは知らず名があつた。今日知られて居るものゝ中ではミナといふ語が一番古いらしいから、假に我々は前の故郷に於て、斯ういふ動物をミナと呼ぶ慣習を持つて居たと想像して置くが、此想像は事によれば破れるかも知れぬ。さうすると少なくも蝸牛だけに於ては、語音の親近を辿つて遠方の同族を探すことが出來ない。何となれば他は悉く此國に上陸してからの發生だからである。
 例へばナメクヂを以て二種の蟲を併せ呼ばうとする風なども古いかも知れぬ。一旦蝸牛に別の名があつた場合に、それを廢止して他の物の名を借用するといふことは、想像しにくいことだからである。しかも此風は全國に弘く行渡り、又現在も相應に強い根をさして居る。どちらが本の主であつたかは容易に決し難いが、とにかくに其中の一方しか知らなかつた土地から、遣つて來た人があるのかとも考へられる。但しさういふ場合が假にあつたとしても、それはたゞ同時に二通りの名を知る者が、相隣して住んで居たことを意味する迄で、ナメクヂ後改めてミナと爲すと、推斷することはどうしても出來ない。海に働き海の渚に住む人々は現に蝸牛以外の多くのミナを知つて居て、追々に之を差別しようとして居たのである。或は相參酌してミナナメクジ、若くはナメクジミナといふ名は作り得たかと思ふ(104)が、さういふ形はもう何處にも殘つて居らず、僅かにツブラの語が始まつてから後に、一二の是と複合したらしい痕跡を見るだけである。事によると是は異なる職業又は信仰を持つ者が、互ひに他方の用語を避けなければならなかつた結果かも知れぬが、さういふ事實を明らかにしようとするには、勿論なほ幾つもの同種の例を見付けてかゝる必要がある。差當つては只この奇異の事實を注意して置くより他は無いのである。
 ミナと名づけてよい貝は非常に多かつた。或はもと一切の貝類がミナであつた時代さへ想像せられるが、そのうちにカヒと呼ぼるゝものが先づ分れて、蜷即ち卷貝のみをミナといふ樣になつた。我々の生活交渉が特にその或一種に向つて深く進むと共に、次々に之を他の、ものと差別する必要が生じた。蝸牛は其中のシタダミといふ蜷の名に統括せられ、更に他の普通のシタダミと區分する爲に、山シタダミなどの名を付せられたこともあつた。其新名がどれだけの地域に及んだかは、素より現在の分布によつて推察するわけに行かず、又今後の採集が更に資料を附加へるかも知れぬのであるが、一方にミナの單名も猶行はれて居るのであるから、この方言は大體に於て弘く展開せず、結局は多分純然たる地方語として終始したことゝ思はれる。
 之に反して其次に起つたツブラの方は、一旦は全土を席卷したこともあつたかと思ふ。人が此物を話題とする場合が意外に多くなつて、先づ其形?について興味を感じた者が、是に付與するにツブラ又はツブラの名を以てした。此形容は土器の以前の製法に親しむ者に、殊に適切なりと認められ、又その語音の新らしさを愛づる者が多くなつて、程無く國中の大部分に亙つて、シタダミ其他の何蜷といふ名を不用にしたのであつた。
 このツブラの優勢なる名望が、一朝にして覆へし得べきもので無かつたことは、今日も尚幾多の證跡を指示し得られる。しかも世上には既に日用以上の言語を、貯へて置かうとする氣風が現れて來た。時と目的に應じて少しでも自由に、用語の選擇をしようといふ希望が強くなつて居た。方言といふ言葉がもし同時に二つ以上の單語の併存することを意味するならば、それが明確に國民によつて意識せられたのは、恐らくは此時から後のことであらう。しかも其(105)選擇には殆と以前と同じ樣に、實際は可なり強烈なる偏頗と模倣とが働いて居た爲に其一つ以外の語は久しからずして忘却せられ、結果に於ては頻々たる地方語の、榮枯盛衰を見ることになつたのである。此意味から言ふと、近世の俗語の大部分は、其成立ちが可なり以前のものと違つて居た。即ち最初は必ずしも舊語を改訂しようといふ迄の趣旨では無く、單に一異名として斯うも謂はれるといふ心持で、用ゐ始めたかも知れぬのであつた。しかも結局はその一つのみが大いに行はれ、次第に他の多くを死語老語に押遣つた事實は同じである。
 世には方言のあまりにも區々なる變化を見て、驚き怪まうとする人が多いけれども、一たび此事實を知れば此方は寧ろさもあるべしとも言へる。それよりもこの各地思ひ/\の、しかも豫定の計畫でも無かつた言葉遣ひが、、永く是だけの端々の一致を保つて居た理由こそ、説明せられなければならなかつたのである。たとへば小兒の物を愛するの情が成長し、天然を觀察する力が精細になつて、假に私などの想像して居るやうに、蝸牛の卷き目を笠縫ひの手業に思ひ寄せ、新たに又一つのあどけない名を付與する者があつたとしても、もし單なる各自の趣向であつたならば、到底斯くまでの偶合は見ることが出來ぬ筈であり、又一旦は之を採用するにしても、それが若干の轉訛を經て後まで、保存せられて居るわけは無かつたのである。だから發生の機縁はどんなつまらぬ事であつたにせよ、必ず或期間それがほゞ全國中の生眞面目なる人たちにも、一度は最も正しい日本語なりとして、公認せられて居た時代があつて、程無く又次に現れたものに、其地位を讓つたと解するの他は無いのである。近代の言語生活に於ては、小兒の發案などは通例は省みられず、殊に漢字が教育の唯一つの手段となつてからは、一種新式の「成年用語」の如きものが出來て、追々に彼等を疎隔することになつたが、此點にかけては前代人はより多くの「子供らしさ」を持つて居た。子供が大人となる境に、改めて採用しなければならぬ語は限られて居て、其他は在り來りのものを踏襲することを便としたのであつた。始めてツブラがツブリと化し、乃至はカタツブリと呼ばるゝを耳にして、許し難く感じた人々の感覺は、恐らく中一代を隔てゝ容易に忘れられたことゝ思ふ。正しい正しくないは要するに一時代限りのものであつた。假に(106)古今を一貫する正語なるものがありとしたら、ミナやツブラは消滅する筈も無く、加太豆不利とても亦今日の零落を見なかつたであらう。
 しかも新語の流傳に關しては、頗る著しい速度の差があつた。同じく日常の物の名の中にも、確かに生活の必要の上から、今一段の修正をしなければならぬもので、元のまゝに打棄てゝあるのもある。たとへば玉蜀黍は奧羽ではキビ、九州ではトウキビと謂ふ者がまだ多いが、それは中央部でいふ黍でも無く又唐黍でも無いのだから、全國交通の爲にはとくにも統一の必要があつたのを、今に雙方が知らずに居る有樣である。是とは反對にカタツブリやマイマイは、其前に既に共通のものがあつたと思はれるから、是は幾分か事を好んだ改訂であつた。然るにも拘らず、再び又國の端々にまで行き巡つたといふことは、全く單語の一つ一つが持つて生れた特別の力、運とも境遇とも名づくべきものであつて、言語の一般の法則のみを以て、説明することの出來ぬ現象であつたやうに思ふ。蝸牛に就ては我々は幸ひにデェデェ蟲の如き殊に適切なる例を知る故に、比較的容易に此推測を下し得るのであるが、他の多くの變化ある事物の名に於ても、恐らくは亦是と同樣に、今まで氣づかれなかつた個々の原因の、之を促したものがあるのであらう。後日機會が有つたら考へて見たいと思ふ丁斑魚《めだか》なども其一つで、是には確かに童歌の關係は無かつた。獨り動植物などの稱呼には限らず、動詞にも形容の詞にも、はたまた今少しく込入つた物の言ひ方にも、人が頻りに變へたがり、實際また何度と無く變つて居たものと、一方には出來るだけ改めずに濟まさうとしたかと思はれるものと、二通りの區別が有るやうであつて、それがもし自分だけの空想で無いと決するならば、今後の方言調査は豫めその間題を限ることが出來て、或は思つたよりも簡單な仕事になるかも知れぬ。
 少なくとも一切の地方用語を採録してしまつた上で無ければ、方言の學問は前進し得ないかの如き心配は、私のこのたつた一つの蝸牛考からでも、取除くことが出來ると信ずる。今ある諸國の蝸牛の歌によつて、我々は先づ童兒の唱へごとが、國語を新たにする一つの力であることを知つた。今まで無視せられて居た大切なる社會的因子であるこ(107)とを發見した。さうして其力が、止む時も無く展開して居たことに心づいたのである。子供がこの小さな蜷蟲を指に持つて、いつ迄も其擧動を熟視して居ようとしたのは古いことであつた。その最も簡單な興味が童詞となり、澤山の思辨を費すこと無くして、七つの音節をもつメェボロツボロ等となり、或はヲバヲバとなりヂットーバットーとさへなつて、しかも周圍に若干の同志を得たことは新らしい例であつた。デェデェやデェロが必ずしも其最初のもので無かつたことは、二語が地域の拘束を受けて居るのを見ても、容易に想像し得られることである。蝸牛を大小の隔絶した笠などの卷き目と比べることは、成人には實は出來ぬことであつた。四つある小さな角を棒とか槍とかに見立てることも、やはり子供で無くては六つかしい藝であるが、その二つのたとへを組合せて見ると、そこに面白い誰かのやうな姿が浮んで來る。殊に歌言葉となつて雨降る日毎にくり返されると、その適切なる印象が、青年壯年から老年の者までをも支配して、自然に前から有る語を疎んぜしむるに足りたであらう。乃ち今日は既に變化してしまつた樣なたわいも無い歌が、もう恐らくはカサツブリ以前からあつたので、古い語なるが故に必ず髯白き碩學たちが、衆議を以て決したものとも見るわけには行かぬのであつた。
 歌詞の影響が新語の語形の上に著しいことは、別に幾つかの例を擧げなければ、まだ一般の賛成を得難からうと思ふが、少なくともカサツブレなどの複合の早く起つたのは、外に之を促すものがあつたからだらうとまでは言へる。中世は歌の句に五言の今よりも遙かに多く要求せられた時代であつた。それが七言の句の増加につれて、マイマイには殊に無數の複合形を生じたのだとも、考へられぬことは無いのである。マイマイがカサのたとへより後に現れたといふことは、實は記録に見えないからといふ以上に、確かなる根據もまだ無いやうであるが、私に取つては此事實が一つの見所である上に、それが京都を中に置いて東西に分布し、しかもツブラに接し又カサよりは内側の層であるが故に、其支配の此等より次であつたことを推定するのである。其後更に「出え出え」の歌言葉に特に心を引かれるやうな事情が起つて、其マイマイも亦多くの土地に於ては、過去の一つの形になつて行かうとしたけれども、新興の都(108)市が偶然に其支柱の役を勤めてくれた爲に、なほ東方の一角に在つて、對立の勢ひを保つことが出來た。さうして其代償としてたゞ一個の複合形を以て、正統と認めなければならぬやうになつたらしいのである。興味ある一つの問題は、時勢が假に中央文化の優越を承認せず、各地に依然たる小標準語を擁して、割據する者があつたらどうなつたかである。最近の子供唄は、蝸牛に貝を出よなどゝいふ無理な注文をせず、或はあの角を太鼓の撥と換へてやらうと謂つたり、又は二つの貝を向ひ合せて、勝負を爭はせようとしたりするものが多くなつた。その爲に加賀と北武藏と奧州の北端に、ツノダシといふ名稱も既に起り、ペコとか小牛とかいふ類の語も、そちこちに出來かゝつて居る。もしも調子の面白いよい文句が唱へ出されて居たならば、それが又新たに覇業を成就したかも知れぬのであつたが、其折しも近頃の所謂匡正運動が漸く盛んになり、一方には又小學校の教科書に、デンデンムシムシカタツムリの歌などが、ほんの何心も無しに採入れられた爲に、端無く爰に三國鼎立の如き形勢が定まつて、其他の地方語は古きと新しきとを問はず、誠に肩身の狹いものとなつてしまつた。今後の文藝が更にこの用語の窮屈を突破つて、もう一度自由なる言葉作りの時代を現出する爲には、我々はやゝ長い間、考へ且つ待たなければならぬことになつた。是が最も要約せられたる日本の蝸牛の文化史である。
 自分がこの方言周圏論を奉じて居る態度は、他の今までの多くの信仰慣習に關する意見と同樣に、見る人によつては定めて心弱く又遠慮に過ぐとも評せられるかも知れぬ。しかし今尚斯ういふ法則の存在を認めない人々を強ひて説き伏せようとすることは、日本では誠にえらい事業である。私はもしそんな力が殘つて居るならば、寧ろ之を轉用して今少し弘く材料を集めて置く方がよいと思つて居る。實際あまり久しく此問題に携はつて居ると、日當りで働いて居た者が家の中に入つて來たやうに、果してもう此位で證據は十分なのか、又どの點に於て證明が足らぬのかゞ、自分でははつきりとわからない。だからどうしても一度はやゝ冷淡な人々の、批評を乞はなければ濟まぬのである。其上に我邦の方言採集は、今でもまだ國の三分の一以上には及んで居らず、國家又は地方團體が、自ら必要を認めて手(109)を下すのは是からである。故に今までの資料ばかりで十分であらうがはた無からうが、兎に角に今後なほ無數の採集と新事實とが、追加せられることだけは疑ひが無い。さうして私はその將束の自然の裁判が、必ず蝸牛考の著者に有利なるべきを期待する者である。たゞ最終に一つ、辯護して置く必要のあることは、國の一隅のみに孤立して、なほ幾つかの異例の存するものが、至つて古きものゝ破片であるか、又は甚だ新しいものゝ苗にして秀でざるものか、比較が不可能であつてまだ決し得なかつたといふ不幸である。是がこの兩端の想像の何れに屬するかによつて、私の假定もまた若干の變更を加へらるべきであつたが、現在の事情に於ては是を全く無かつたものと同一視して、一旦の意見を述べて置くの他は無かつたのである。弱點は或はこの側面から暴露するかも知れぬ。例へば日向の宮崎市附近のジュンゴロは、果して秋田縣北部のチンケもしくはツンケマゴシロ、或は加賀國の田舍に在るチチマタや、尾張知多郡のマシジロなどゝ、何等の脈絡が無かつたものかどうか。北陸道各地のカエツブレもしくはカエカエツモルの類は、羽後田澤湖畔にあるといふケエブロ、又は豐後竹田附近のイエカエルやイエカル(家負ひ)と、單に偶然に併發した新語であつたか。但しは又蝸牛をカヒといふ風が可なり古くからあつた名殘であるか。斯ういふ幾つかの特殊の例に對しては、わざとまだ自分の推測を掲げて置かうとしなかつた。さうして是をも將來の學問の、愉快なる目標の中に算へて居るのである。蝸牛の問題は甚だ小さいけれども、私はまだ/\今日の學問だけでは、完全に解決し得るもので無いと思つて居る。
 
  ちやうど今から三年前の人類學雜誌に、四ヶ月に亙つて連載した論文を、殆と全部に亙つて書き改めて見た。兩方の意見に差がある點は、即ち後の資料によつて改訂したものである。
 
(110)  蝸牛異名分布表
 
(はしがき) 初版には附録として蝸牛異稱分布圖を添へた。それが又一つの著述の樂しみでもあつたのだが、よく考へて見ると、是には少しばかり無理がある。單に印刷が容易でなく、誤謬を發見し難いからといふ以上に、何とか是を改訂しなければならぬ理由が、少なくとも二つはあつたのである。第一には蝸牛の日本名の最もよく知られて居るもの、デデムシとマイマイツブロとカタツムリと、この三つは古書にも?見え、今でも一人で三つとも知つて居る者も多いだけで無く、この三つのうちのどれか一つが、行はれて居る區域は中々廣く、大抵の方言集には普通として報告せられないから、現在はまだその全部の使用地を突き留めることが出來ない。それを一々地圖の上に書き込めない以上は、分布の彩色もやゝ頼り無いものとならざるを得ぬ。大體に一つの系統は連續して居るものと言へるが、まだ其幅と境とは知り難く、且つ存外中が切れ又は飛び離れて居るものがあるのである。
 第二に分布地圖は五通りの色分けを試みたが、まだこの外に二つ又は三つの類が認められる。その一つは此蟲をツブラの特色を以て呼び始めた以前から、既に在つたかと思はれるニナもしくはミナ系統の語、他の一つは是と反對の端に、デェデェよりも更に新たに、發明せられたかと思ふ幾つかの方言の群で、その中にも由來のほゞはつきりとして居るものと、今はまだその來歴を詳かにし難いものとがある。ニナ・ミナ系のものは數も乏しく、新たに加はる樣子も無いから痕跡と見てしまつてもよいが、後に生れた新語は、無視することの出來ない一つの(111)傾向である。たとへ蝸牛に於てはもう問題にせられないとしても、國の單語の變らねばならぬ原因としては、注意して置く必要があるわけである。
 それから今一つ、私が本篇の中で力説して居る邊境現象といふもの、即ち二つの別系統の方言が接觸する地域に、盛んに生れて來る複合形の新語、是をどちらの色に染めて置くかは問題になる。甚だ機械的にはなるが自分だけは、その複合形の頭部を作るものによつて、假に所屬をきめて見ようとして居る。この列擧がやゝ完全に近いものになつて來たら、いつかは總國の分布圖もこの一語に就ては出來るかと思ふが、現在としては先づ大體の趨勢とも名づくべきものを、例示することを以て滿足するのが、問題提出者の身の程に合ふかと考へるやうになつたのである。それで此表では假に七つの部類に分ち、各系統に屬する名詞を排列して、同じ例が少なからうと思ふものだけ、其下へ府縣郡市島名、又は方言集の名を略記する。是で大よそどの地方に多いかといふことだけは、讀者には判つてもらへると思ふのである。二三の説明の必要な點は、もう一度この表の末に書き添へるが、大體に下に點線のみを附した五つ六つの名だけが、地名を擧げきれぬほどに使用區域の廣いもので、しかも多くの場合には形の近い方言と相接して行はれ、從つて耳だけにはもつと弘く、是で通用して居るといふことを、明言してもよいやうである。
 
     一 デデムシ・デンデンムシ系
 
  デデムシ・デェデェムシ…………
  デェデエ                三重、松阪市附近
(112)  デェデ                 福井、大飯−
  デデェゴ                山口、玖珂−
  デテコナ                廣島、因ノ島
  デノムシ                兵庫、赤穂−
  デンノムシ               岡山、邑久−
  デブシ                 愛媛縣一部
  デンデコナ               同 伯方島
  デンデムシ               大阪、滋賀、阪田−
  デンデ                 和歌山、日高−
  デンデコナイ(デンデコナ)       三重、三重−
  デコナ                 同 一志−
  デンベノカヒ              同 鈴鹿−
  デンデラムシ              岐阜、大垣市附近
  デェラクドン・レエダドン        大分、宇佐−速見−
  デンボノコ               神奈川、三浦−
  デンボウラク              同縣一部
  デンポロ                山梨、北都留。千葉、海上
  デンデンムシ…………
  ヂンデンムシムシ            富山、東礪波−。栃木、河内−
(113)  デンデンデシ             和歌山、有田−
  デンデンマムシ             鳥取、東伯−
  アカハラデンデンムシ          滋賀、蒲生−
  デンデンコ               香川、丸龜市附近
  デデンゴウ               岡山、兒島−
  デンデンツブロ             茨城、眞壁−
  デンデンタツボ             三重、飯南−
  デンデンゴウナ             岡山、淺田−。香川縣一部
  デンデンゴナ              三重、津市
  デンデンコボシ             奈良縣一部
  デンデンケェボン            福岡、築上−
  デンデンガラムシ            富山、氷見−
  デンデンガラボ             石川、鹿島−
  デンデンガラモ             同郡灘地方−
  デンデンダイロ             群馬、群馬−。埼玉、川越市附近
  デンデンベェコ             岩手、上閉伊−
  レンレンムシ              長崎、北松浦−大島
  ゼンゼンムシ              大分、大分市及諸郡
  ゲンゲンムシ・ベンベンムシ       同縣一部 
(114)  ジュジュムシ             宮崎、兒湯−
  ジュンゴロ               同 宮崎−
  ジシムシ                鹿兒島、川邊−
  ダイダイムシ・ダェダェムシ       島根、松江市附近
  ダイダイマムシ             鳥取、西伯−
           ○
  デェロ・デェロウ…………
  デェロデェロ              福島、北會津−
  デェロン                群馬、利根−吾妻−
  ディロンジ               同 山田−一部
  デェラボッチャ             長野、諏訪−
  デェブロ・デェボロ           埼玉、北葛飾−
  デェブル・ネェブル           千葉、東葛飾−
  デェボロ。ダイボロ           栃木縣南部
  ダイロ・ダイロウ・ダエロ…………  
  ダイロ・デデモ             「但馬方言集」
  タイリョウ               長崎、對馬島一部
  ゲンダェロ・ダイロウ          新潟、西頸城−
(115)  ダエロダエロ             山形、米澤市附近。富山、下新川−
  デァイロ                福島、安積−安達−
  ダエロウカン              群馬、多野−
  エェボロツボロ             栃木縣一部
  ネェボロ・ナイボロ           茨城、結城−猿島−
  ネェボロツボロ             栃木、芳賀−
  ネャボロ                同 河内−芳賀−
  メェボロ・マイボロ           茨城縣南部諸郡
  メェボロツボロ             同 北相馬−
  マエボチツボロ・メェボチツボロ     同 新治−
  メェメェツボロ             同 稻敷−
  マイマイツボロ             同縣南部
  メンメンツンボロ            神奈川、川崎市一部
 
     二 マイマイツブロ系
 
  マイマイ・マエマエ…………
  マアマイ                愛知、渥美−和地
  マアヨ                 鳥取、氣高−
(116)  マアメ                鳥取、東伯−北谷
  モイモイ・モオイ            島根、邇摩・大森
  モオモリ                同 簸川−今市附近
  モンモロ・モオロモロ          同縣出雲一部
  モオリモオリ              兵庫、美方−
  ミャアミマア              岡山、吉備−小田−
  ミャアミャアコ             同 小田−金浦
  ミャアミャアキンゴ           同 眞庭−富原−
  ミョウミョウ              石川縣加賀一部。佐渡島
  ミョウゴ                石川、能美−
  ニョウニョウ              新潟、北蒲原−
  メイメイ                同 佐渡島外海府
  メャアメャア              廣島、蘆品、府中−
  メヤメャア               千葉、安房−
  メェメェ                愛知、幡豆−
  メンメンコ               同郡西尾−
  メェメ                 同 愛知−一部
  メェマイゴ               同 知多−半田
  メンメンダバゴロ            宮城、遠田−
(117)  メンメン               宮城、遠田郡涌谷
  マイマイドン              靜岡、榛原−
  メメド                 愛媛、北宇和−
  メメドカタド              同郡高市村
  メメンジョ・メンメンジョウ       山梨、甲府市附近
  マイマイコ               山口、山口市附近
  メェメッポ               千葉、市原・長生−
  メメップ                同 東葛飾−一部
  メェメェズ               東京、北多摩−
  マイモヅ                同 西多摩・氷川
  マイマイズ               埼玉、入間−
  メェアメェアズ             同郡名栗地方
  モモウズ                山梨、北都留−
  ヤモウズ                東京、伊豆大島
  マメジッコ               栃木、上都賀−
  メメンデェロ              長野、下伊那−
  マンマンダイロ             同郡龍丘
  ママダイロ               同 飯田市附近
  ママンジョ               愛知、知多−岡田 
(118)  ママデ                三重、南牟婁−
  メェダセ                鳥取、西伯・境港
  メェメェツノ              愛知、日間賀島
  ミョメョツノ              石川、能登島
  ミョミョツノダシ            富山、中新川−上市
  ミョミョツノダセ            同 東礪波−出町
  メェメェコウジ             神奈川、津久井−
  メェメェコンジョ・メェメェクンジョ   愛知、八名・寶飯−
  マイマイコンジョ            同 愛知−等
  マイマイクジ              同 葉栗−
  マイマイクジラ             福岡、糟屋−
  マイマイグヅグヅ            三重、度會−
  マイマイカタツボ            同 多氣−
  マイマイカタッポ            富山縣一部
  メェメェカンカ             千葉、夷隅−
  メンメンカエブツ            富山、高岡市
  メンメンカイポポ            同縣一部
  メンメンカエボ             同 中新川−大岩
  ノンメンカエボコ            同 射水・海老江 
(119)  メンミンガラモ            石川、鹿島−F目
  メェメェタツボ             千葉、山武−
  メメチャプロ              同 東葛飾−。埼玉、南埼玉−
  マイマイツブロ…………
  マイマイツブリ             福井、坂井−金津。宮崎縣一部
  マイマイツムリ             神奈川、横濱市
  メェツムリ               千葉、佐倉市
  メェメェツブロ             大分、日田−
  マイマイツンブリ            静岡、石田−
  マイマイツンボ             同郡浦川
  マイマイコツブリ            福岡、戸畑市
  メェメェツングリ・メメンツングリ    同 久留米市附近
  マメツングリ              同 三瀦一部
  メェメェツングラメ           佐賀、佐賀市附近 
 
     三 カタツムリ系
 
  カタツムリ…………
  カタツブリ               「易林本節用集」
(120)  カタツブレ・カタツブリ          廣島、佐伯−
  カタツンブリ              佐渡島。大和、十津川
  カダツブレ・カサツブレ         秋田、秋田市附近
  カサツンブレ・カナツブ         同 河邊郡
  カダツムリ・カサツブレ         同 平鹿郡
  カサツブリ               山形、最上−村山−
  カサツムリ               同 山形市
  カサツブレ               同 莊内地方
  (カサツブリ)             同 飛島
  (カサツブレ)             「越佐方言集」
  カサツンブリ              佐渡島海府地方
  カサツブ                福島、大沼−河沼−
  カタツモリ               栃木、上都賀−。大分、大分市
  カタツボ                三重、度會−
  カナツンブ・カナツブ          秋田、河邊−
  カンツブリ・カンツンブリ        富山、東礪波−五箇山
  カッタナムリ              高知、高知市
(121)          ○
  カァサンメ               神奈川、愛甲,足柄上−
  カサッパチ・カサンマエ         静岡、田方
  カサツパチマイマイ           同 駿東−
  カシャパチ・カサノパチ         同 富士−
  カタッパチ               同 志太−
  カサンマイ               同 静岡市
  カサノマイ・カサンマイ         山梨、南都留−南巨摩−
  カサンメェ               同 北巨摩−
  カタカタバイ              三重、南牟婁−
  カタカタ                和歌山、東牟婁−
  カタジ                 同 西牟婁−串本
  カタッタア・カタカタ          奈良、吉野・十津川
  (カタカタ)              高知、幡多・中村
  カタト                 愛媛、宇和島市
  カタタン・カタタ            同 喜多−伊豫郡
  カァタ                 同 大三島
  (カタツブリ・カタツムリ)       同 越智−周桑− 
(122)  カッタイコンゴ            コ島、海部−北川
  カタクジリ               熊本、八代−金剛村
  ガト                  京都、加佐−
 
     四 ツブラ・ツグラメ系
 
  ツグラメ・ツングラメ…………
  ツブラメ・ツンブラメ…………
  ツンツングラメ             佐賀、佐賀市附近
  ツンツンツングラメ           大分、南海部−
  ツンツクツングラメ           福岡、三瀦−一部
  ツッガメ・ツッガメジョ         長崎、五島
  ツルマメ                同 平戸島
  ツブロマメ・チュブラメ         鹿兒島、揖宿−
  ツンナメ                同 種子島・寶島
  チンニャマァ              同 奄美大島北部
  チンダル・チンダリ           同島南部
  テンダリキョ・チンニャマ        同島古仁屋
  ツンミョウ・トゥンニャーウー      同縣喜界島 
(123)  チンタイ               鹿兒島、沖永良部島
  チンナミ・チンナン           沖繩、島尻−
  シンナン                同郡絲滿
  チンナンモウ              同縣国頭−
  チンダミ                同 八重山−小濱島
  チダミ・ツダミ             同郡石垣島
  チンヅァン               同西表島
  シダミ                 同黒島
  シタミ                 同波照間島
  シダミ                 同與那國島
  ヤマシタダミ              東京、伊豆八丈島
 
           ○
 
  ツブサン                廣島、備後岩子島−向島
  ヤブツブ                愛媛、弓削島
  ヤマツブ                岩手、西磐井−平泉
  タツボ・デンボロ            千葉、海上−高神村
  ツンブリ                京都、天田−。愛知、愛知−等
  ツンツン                岐阜、山縣−
(124)  ツボロカイボロ            栃木、宇都宮市附近
  ツムクリ                福島、石城−
  ツブカサ                同 會津地方
 
         ○
 
  タマグラ・タンマグラ…………
  タンバクラ               宮城、玉造−
  カマグラ                同 牡鹿−石卷市
  マタグラ                同 仙臺市附近
  ヘビタマクラ              岩手縣一部
  ヘビタマグリ              同 岩手−等
  タマグラナメトウ            同 下閉伊−船越
  ヘビタマ                秋田、鹿角−
 
     五 蛞蝓同名系
 
  ナメクヂ・ナメクヂリ…………
  ナメクジラ               岩手、盛岡市附近
  ナメクズリ               青森、弘前市附近
(125)  ナメクグリ              茨城、稻敷−
  ナマイクジリ              廣島、安佐−北部
  マメックジ・マメックジロ        栃木、河内−一部
  マメクジ                富山縣一部。栃木、鹽谷−
  マメクジラ・マメクジリ         岐阜、高山市
  メメクジ                神奈川縣一部。愛知、南設楽−
  (マメクジ)              愛知、南設樂・岡崎市
  マメツジ                同 西加茂
  (マメクジ)              山口、阿武−
  ミナクジ                長崎、南高來−。宮崎、東諸縣−
  エェショヒムシ             長野、上伊那・遠山
  イヘカツギ               石川、石川−江沼郡
  イヘモチ                滋賀、東淺井−
  イヘカルヒ               大分縣各郡市
  イヽカエル・イヘカル          同 直入−
  ツウナメクヂ              熊本、玉名−
  ツウノアルナメクヂ           長崎、諫早附近
  カェンコノアルナメクヂラ        岩手、盛岡市一部
  カイカツギ               石川、河北−富山、婦負−
(126)  カイカイクジリ             富山縣一部
  カイナメクヂ              福島、石城−一部
  カイナメラ               伊豆神津島
 
         ○
 
  カイムシ・カイロウ           富山縣一部
  ガイガイムシ              三重、度會−一部
  キャガラムシ              佐賀、藤津−
  ケェブロ                秋田、仙北−田澤
  カエツグラ・カエボボ          富山、婦負−一部
  カエカエツブリ・カエカエツモル     同 上新川−二部
  カエツブリ               同 氷見−一部
  カエツモリ・カエツブリ         同 下新川−一部
  カイツブレ               石川、石川・江沼−一部
  カイカイカタツブレ           同 河北(兒語)
  カイツブラ               長野、西筑摩−開田
  カエツムリ               岩手.盛岡市一部
  カエカエツノダス            富山、氷見・宇波
 
(127)     六 蜷同名系
 
  ミナムシ                「鹿兒島方言集」
  ムナムシケ               同上
  ンムウナ・ヴウナ            沖繩、宮古島平良
  ユダイクイミナ             「鹿兒島縣方言集」
  チヂミナ・シジミナ           同上
  カキミナ                同上
  ヤミナ                 同上
  ヤマミナ                鹿兒島、川邊−知覽 
  ヤマニナ                愛媛、南宇和−西外海
  カッビナ                鹿兒島、鹿兒島−谷山
        
 
     七 新命名かと思はるゝもの
 
  ツノンデェロ              群馬、吾妻−山田−。埼玉縣北部
  ツノンデイロ              同 群馬−
  ツンノンデェショ            同郡總社
(128)  ツノンダェショ            埼玉、大里−
  ツノダシデイロ             群馬、山田−
  ツノダシダイロ             同郡一部
  ツノンデロ               栃木、足利市
  ツノダシ                石川、金澤市、松任
  ダシミョウミョウ            同 河北−
  ツノライモウライ            同 鹿島−一部
  ツノダシガヒ              富山、東礪波・五箇山
  ツノダシミョミョ            同郡井(ノ)口
  ツノツノミョミョ            同上
  ツノミャアミャア            岡山、勝田−北和氣
  (ツノダシ)              青森、津軽及び八戸市
  ツノダイシ               同 三戸−五戸
  チノダシ                岩手、九戸−
  チノダェアシ              同上
  ツンノウカンノウ            廣島、佐伯−一部
  ツノベコ                福島、石城−一部
  ベエコ                 茨城、久慈−多賀−
  ベココ                 岩手、上閉伊−(兒語)
(129)  ボウダシ               千葉、東葛飾−一部
  ボウリ                 同 海上−矢指
 
         ○
 
  ヲバヲバ                千葉、海上−一部
  ヂットウバットウ・ヂヅトウ       山梨、北巨摩−逸見
  オッシャビョウビョウ          福井、坂井−
  キネキネ・ネギロ            愛知、愛知−碧海−
  ゼンマイ                福岡、禰岡市博多
 
     八 系統明かならぬもの
 
  チンケ                 秋田、北秋田−笹館
  ツンケマゴシロ             同郡小阿仁
  チンケマゴシロ             同縣山本−藤琴
  ゴンゴ                 島根、八束−美保關
  ツメツメゴンゴ             石川、能美−
  ツロロ・ツロウ             富山、下新川−一部
  ツドロガエドロ             同郡
(130)  チチマタ               石川、能美−一部
  ゲゲボ                 千葉、君津−
  ガマヒメ                富山、五箇山一部
  カンニョブ               福島、安達−
  マシジロ                愛知、知多−
 
  (説明) 一つ一つの言葉の下に、出來るだけ縣郡市島の名を掲げて置くことにしたが、是は其區域以外の土地で、行はれて居らぬといふ意味では無く、寧ろ反對に隣接町村などには、聽けばわかるといふ人が幾らも有ることを推測し得るものである。が是と同時に其區域内でも、すべての住民が知り、誰でも此語を使ふわけでは無いことも、明記して置かなければならぬ。二つ以上の方言を保存する例も、見らるゝ如く中々多いのである。但し一方を用ゐる者に、他の一方が通用せぬわけでは決して無く、時々は何かの都合で甲乙取替へても使ひ、又一家の内でも老若男女、口癖を異にする者も有り得ることは、富山縣などに一部落二方言の例のあるのを見ても推察し得られる。
  一 排列は許されるだけ、接近した土地を竝べて置くことにした。二地の中間の空隙にも大よそ是に近い言葉のあるらしいことを窺はしめる爲である。しかし是と同時に一方には非常に隔たつた地方の例を、比較の爲にわざと竝べて見た場合もある。爰にしか無いときめてかゝる人の多いのが、現在の方言調査の通弊なので、それを改める必要を感ずるからである。
  一 孤立の例のやゝ心もとないのは、前囘に出したものでも若干は留保することにした。方言集の誤記誤植は存外に多いもので、警戒は常に必要である。その代りにはこの十二年間に新たに知つたものが少しばかり加へてあ(131)る。まだ此表の二分の一位は、採集せられぬ言葉が殘つて居るやうに私は感じて居る。
  一 このついでに、本文と多少の重複はあらうが、心づいた點を二つ三つ擧げて見ると、先づデンデンムシは「出よ/\」の子供歌に始まつて居るのだから、デェデェの方が前なのにきまつて居るが、デンデンの方が音が面白かつた爲か、遠くの土地へは此形を以て擴まつて居る。九州の方では鹿兒島縣の南の端、佐賀縣の西南部にも、子供語となつて知られて居り、關東の方では茨城縣の稻敷郡にも、ぽつんと一つ採集せられて居る。古い文獻では狂言の「蝸牛」に、このデンデンムシムシが既に見える。是とデェデェとのはつきりとした區別は、後者の領域に於ては蝸牛を手に取つて、出よ/\と唱へた童言葉が、つい近い頃までまだ流行して居たことであらう。さうして此區域はデンデンムシよりずつと狹く、中央部の四五の府縣の農村だけに限られて居る。
  一 デェデェの唱へごとでは、蝸牛に二本の棒を持つて、出て來いと誘ふ趣旨であつたものが、後にはたゞ其二本の角だけを、出せといふ歌に替つてしまつて居る。關東の方などは殊にその方が弘く流行して、新たにツノダシといふ類の名稱を設けたと同時に、デェロ又はダイロの意味を不明なものにして居るが、デェロがやはり「出る」の命令形であつたことは、斯うして各地の語を竝べて見ると、もう大抵は斷足し得るやうである。
  一 關東平野に於けるデェボロ系統の方言の變化は、特に私の興味を感じて居る點で、是は一方にマイマイツブロといふ語が遍く知られて居なかつたら、さうして又それが毎日の子供歌になつて居なかつたら、斯ういふ融合は決して現はれなかつたらうと言つてよい。即ちちやうどチンガラモンガラが江戸でチンチンモガモガとなつた如く、最初はこのマイマイツブロを以て始まつて居た文句に、今まで普及して居たデェロが割込んで來たのである。察するに此音配合が小兒には特に面白かつたので、單なるマイマイといふ名に、古くからのツブロを結び合せたのも、本來は同じ要求によるものと考へて差支は無い。ツブロは恐らく又カタツブリの複合形の企てられるよりも前から、日本に普及して居た蝸牛の日本語であつて、起りはツブラ蟲或はツブラ蜷であつたのであらう。
(132)  一 新渇縣は方言採集の夙くから盛んな地方であるに拘らず、蝸牛に關する限り、知られて居る資料の乏しいのは、多分はデェロ・ダイロで元はほゞ統一せられ、それが標準語へ一足飛びに變つて來たからであらう。このデェロといふ一語の領域は、言語文化の一ブロックとして、將來も注意せらるべきものである。どこが中心といふことはとてもきめられないが、東北は福島縣の大半がそれで、こゝに古さうな形が傳はつて居る。次には關東の北半分、是には珍らかな變化のあることは既に述べた。それから信州は約九割まで、甲州も是に接した一隅にはデェロが入つて居る。西の堺としては富山縣の下新川郡までだが、どういふわけでか飛んで但馬と對馬には採集せられて居る。この單語の一つの特色は、一度も大都市を占領したことの無い點で、即ち所謂方言の尤なる者であつたことであらう。
  一 諏訪のデエラボツチャは、たつた一つの異例だが興味がある。是はこの地方の傳説上の巨人、山に腰かけて湖水で足を洗つたといふやうな話のある怖ろしい者の名である、それを蝸牛の名にしたのは一方が有名であつた他に、もはやデェロの意味が埋もれて、たゞ語音ばかりの記憶になつたことを談るものであらう。是と似た例は九州各地で、片足飛びのスケケン又はステテンを、スッケンギョウと謂ふ者の多いことである。もとは正月七日の火祭をホッケンギョウと謂つて居たのが、何かの拍子に此童戯の名に移つたので、斯ういふ改造は子供でないと出來ない。土筆のツクツクシとホウシとを二つ合せて、ツクツクボウシといふ寒蝉の名と、一つのものにしてしまつたのも彼等のしわざと思はれる。
  一 マイマイはもと蝸牛の貝の線條が、所謂螺旋して居るところから出た名で、之をカサと名づけたのも一つの動機らしく、ツブラと結合してマイマイツブロと呼んだ以前、たゞマイマイだけで行はれた時期が、可成り久しく續いたらしいことは、この語の分布の弘いことからわかるのだが、七音節のマイマイツブロが盛んに流行した結果、今では其語の下半分を略したものゝ如く、解する人ばかり多くなつた。此語の發生地は京都か、又は少な(133)くともそれから西の方だらうと私は想像して居る。中國の山地には平野のデェデェムシと對立して、最も多くこのマイマイ單稱が殘つて居る。四國なども或は同じでないかと思ふが、この方はまだ調べて見た所が無い。
  一 この分類表の中で、最も不明な區域は四國、殊に大洋に面した二縣であつて、是が細かく調べられたら、又よほど方言の新たに生れて來る順序道筋といふものが、明かになつて來ることゝ思つて居る。九州の方でも熊本縣などは方言の少ない方だが、是はツグラメ又はツブラメの系統の語が、普及して居る結果と推定して誤りは無からう。ツグラメの末のメの音が、ミナ又はニナの名殘で、もとはツブラミナなどゝ、呼んで居たものだらうといふことは本篇にも説いた。ツブラも此蟲の貝が卷き/\になつて居る所から出た名なのだが、それとマイマイもしくはカサと結合すれば、歌に唱へやすいマイマイツブロ、又はカタツブリになるのは自然であつて、それが東日本の一部では、更にデェロやダイロとも一つのものになつて、あの珍らしい多くの地方稱呼を作るに至つたのである。富山縣西部などの、村毎にちがつた長い名の多くは、この過程の中間を示すものとも見られる。それとよく似た邊境現象が、東京から少し北寄りに、やゝ斜めに引かれた一線の上にも見られるので、即ち關東方言には山地と海沿ひと、南北二通りの文化系統があつたらうといふことを、私はこの方面からも立證し得られると思つて居る。
  一 東北地方の蝸牛名の主流を爲すタマグラといふ語が、やはりツブラと同一系統だといふことは、私の發見であるが、ちよつとは同意せぬ人が多からう。しかし此地方では蛇がトグロを卷くのもタマクラマクであり、頸に環のある蚯蚓もタマグラミミズであり、なほ鎌などの柄にはめる鐵の輪もタマグラと呼んで居る。内容の上からは一つの語であることは明かである。或は小倉博士の言はれたやうに、グラの濁音が必ず鼻音化を伴なふもので、以前タングラに近く發音して居たのが始めかも知れぬが、なほタマ又はタマキといふ重要な古語が、本來は圓のツブラと無關係のもので無かつたことを、想定せしめる手掛りにはなるのである。
(134)  一 九州のツグラメ・ツブラメが、ツングラメ・ツンブラメと發音せられ、次第に南の島々に渡つてチンナン・チンナミ系統の語に移つて行くのは、私は偶然で無いと考へて居る。この島々には夙に今日のシタダミに近い蝸牛の名があつて、是をも無視すまいとすれば、自然にこの樣な折合ひを見ずには居られなかつたのである。この傍證をなすものは八丈島のヤマシタダミで、此島には土をミザといひ、少女をミナラベといふなど、爲朝以外にも共通のものは多い。しかも海上のこの大きな距離を考へると、是は單なる運搬の問題ではないのである。ミナよりも又一つ以前に、もしくはミナと對立して、別に蝸牛をシタダミに近い語で、呼んで居た時代又は地域があつたかも知れぬのである。少なくとも記録に傳はつて居るカタツブリ、もしくはマイマイツブロなどのツブロを以て、最初の日本名ときめることは許されない。どんなに古くてもやはり言葉は人がこしらへたものなのである。
  一 蝸牛と蛞蝓とを一つの名を以て呼んで居た時代、即ち蝸牛に特別の名を與へて居なかつた時代の方が、又一つ古いといふことも想像し得られる。是には現在もなほ各地に思ひ/\の實例が殘つて居る爲に、其樣に古くからの風ではあるまいと、多くの人は感じて居るだらうが、大昔の風俗慣習は、悉く既に消えてしまつて居ると、斷定することは無論出來ぬことであり、又現に我々はさういふ久しく傳はるものを、探し出さうとして居るのである。ナメクヂ同系の方言の分布には、注意すべき特徴がある。即ち東北は青森縣の端から、遠くは隱岐とか壹岐とかの離れ島にも同じ例があり、其他の地方でも島のやうに、僅かづゝ飛び飛びに、多くの土地に是が見られる。さうして今なほ兩者一語を以てまかなはうとして居る處と、何とかして二つを區別しようとして居る處とがあり、その後者の場合にもこの表に示すやうに、蝸牛に特別の限定をして居るものと、別に蛞蝓の方に變つた名を示すものとがあつて、第二のものは表には顯はれて居らぬが、たとへば大分市の附近では蛞蝓をカラナシナメクヂ、愛知縣北部では之をイヘナシ、千葉縣西北隅ではハダカナイブル、群馬縣山田郡や信州の佐久地方ではハダカデェロなどゝ、是も飛び/\に遠く離れて、名を付ける心持のみは一致して居る。長崎縣の島原半島の如き(135)は、蝸牛をミナクチと呼ぶ村々と、蛞蝓の方をさう謂つて居る村とがある。ミナクチもナメクヂの音加工と見られるが、是は卷貝をミナといふ語と關係が有るらしいから、もとは蝸牛の爲に出來たものであらう。しかし差當りの目的は、何とか二つの者を區別し得ればそれで達するので、現にナメクヂに對する蝸牛のマメクヂなども、今は之を蛞蝓に讓つて、別に蝸牛の爲に新たな名を採用して居る土地も多い。マメクヂのマメは元はマイマイから出たものと見られ、現にマイマイコウジと謂つて、角によつて小牛と解して居る例も見られる。同じ島原半島でも、特に蛞蝓をハダカマメクヂといふ村もあるやうである。
  一 一方には又埼玉縣の或農村の如く、蛞蝓をナメンデェロといふ例もある。ナメはあのぬる/\とした粘液のことであるらしく、この特徴は二つの蟲に共通して居る。小さな島々の粘土を産出せぬ處では、土器を燒く土を固めるのに是が必要であつたらしく、現に八重山群島の新城の島などでは、之を利用して大きな皿甕類を製して居るが、是などはツダミ即ち貝のある方の蝸牛であつて、其爲に土器の表面に貝の破片の燒けたのが附いて居る。所謂ナメクヂに貝があると否とは、斯ういふ場合に問題とならざるを得なかつたのである。離れ島以外の多くの土地で、貝といふことに中心を置いた蝸牛の名の出來て居るのは、或は斯ういふ生産上の理由からではなかつたかも知れぬが、カイナメクヂだのカェンコノアルナメタヂラだのと、貝を特徴とした蝸牛名の多いのを見て、假に私は之を蛞蝓同名系の中に入れて置くことにした。九州でいふツウナメクヂの、ツウといふのもやはり貝のことである。或は龜や蟹の甲羅にも、卷貝類の蓋にも、又腫物のかさぶたにもツウと謂つて居る。カヒは本來は蛤などの殻に限られ、飯匙のカヒと同樣に器物に用ゐられてから後の名だつたらしいのである。
  一 斯ういつたこま/”\とした點は、今少し單語の發達といふことに、興味を抱く人が多くなつて後に、改めて説き立てる方が有效で、現在はまださういふ學者も無いのであるが、殘念ながら自分はこの一卷以上に、もはや蝸牛を説くやうな機會をもたない。それで出來るだけ順序を立てゝ、他日問題となるべきものに、豫め口を挾ん(136)で置くのである。私たちの利用した方言集には不滿足なものが多く、しかも調査地は甚だ限られて居る。是以上に全く想像しなかつた新らしい事實が現はれて來ぬとは言はれず、又援用の當を得ぬものが若干はありさうである。さういふ資料のやゝ完備した時代に、果して私の假定はどうなつて殘るであらうか。いかに訂正せられ又どれだけまで是認せられるか。それを考へて見ることが愈未來の文化に對する關心を深くする。
 
(137) 方言覺書
 
(139)  自序
 
 方言について私の書いたものは、まだこの以外にも大分散らばつて居る。よい折が有つたらそれも取纏めて、一册の本にしたい望みはあるのだが、其前に一言だけ、是非とも明かにして置かねばならぬことは、自分が此類の小さな資料整理を以て、すべて民俗學のしごとだと、思つて居るわけではないといふことである。二つの學問の間には堺が無ければならぬ。私は小さい頃に生國を離れて、耳に珍らしい他郷の言葉の中で育つたのみならず、學校や旅や又都府の社交に於て、さま/”\の人の物言ひを比較するやうな機會を、誰よりも多くもつて居た。單なる人生の切れ/”\の知識として、是が何かの役に立つといふことに氣づかぬ前から、方言は既に私の一つの興味であつた。古い語辭表現の今は亡び、もしくは始めから全く備はらなかつたものに、無數の現代の言の葉が生れて居ることを、讀書によつて追々と知るやうになつてからは、是には何か新らしい必要、もしくは理由が無ければならぬと思ひ始めた。又さういふ風に考へて行く學問に、少しづゝ私は親しんで居たのでもあつた。それから一方には永い間の一身の經驗、國語に對する期待の此樣に盛り上つて來た時代にも拘らず、言葉は良くなつたといふ人が至つて少なく、惡くなつて行くかと憂ふる聲さへ聽える。教育者が標準語といふ語を使ひ出してから、四十年はもうとつくに過ぎたのに、どうかして貰ひたいといふ請求が、改めて海外の在住者から頻りにやつて來る。是は一體何としたことであらう、といふ疑ひはひし/\と答へを迫るのである。假に私が井の中の蛙で、東京語と日本語のけぢめも判らぬ者だつたとしても、もう今頃は何か考へずには居られなくて居たであらう。まして私たち田舍者は、毎日この問題に苦しみ拔いて來たのである。或は無益であり、誤りであらうかと恐れつゝも、この不可思議の源には探り寄らずには居られなかつたのである。幸か不幸か耳を傾ける人が少なかつた爲に、此(140)樣な雜然たる文章が世に遣ることになつた。即ち少なくとも當代の文化は、まだ斯ういふものを無用にはしてくれなかつたのである。
 力の乏しい者の色々の智慮才覺が、時に應じて織り込まれて居る。私は根本に於て時代の變遷といふものが、原因無しには起り得ぬことを信じて居るが故に、或時はこの眼前の世相に基づいて、既に埋もれきつて居る父祖の生活を、想定することが出來るやうに考へて見たこともある。それを探り究める爲には、先づ國語が大よそどういふ法則に遭うて、移り又改まるものであるかを、わかるだけは知つてかゝらうとしたこともある。それには現在集まつて來て居る資料だけでは、十分で無いことを感じて居るので、交友を地方に結び、方言觀察の興味を説き立て、熱心なる同志の活躍をすら、なは齒痒しとして激勵したこともある。しかもその動機がすべて現實の疑惑に在つたことは、幸ひに漸く認められようとして居るのである。我々の國語が大いに進むべくして、今なほ未來に期待しなければならぬものゝ多いのは、原因は一種の無知、即ち何故に地方の言葉が、いつと無く此樣にちがひ、又それでも辛抱することが出來たかを、知り究めようとしなかつたからでは無いか。是がさし當つての大いなる不安であり、又どうしてもそれを忍ぶことが出來ぬやうに、既に世の中はなり切つて居るのである。
 斯ういふ心持をもつて書いたものが、終にこの一卷の覺書になつてしまつた。或は方言の知識の利用と、方言發生の理法に關する考察と、その實例資料の蒐集の問題と、三つに分けて見た方が堺目がついてよかつたかも知れぬ。それも少しく試みたのではあるが、もと/\一つの心持が根になつて居るのだから、それをはつきりとすることが出來なかつた。其上に是は一つの方法の應用であつて、たとへば民俗學を無視しようとする人たちでも、恐らくは是以外の方法に據つて、ちがつた結論に導くことは出來ぬことであらうし、一方其前提とした事實の誤りは、いつでも採集と解釋との進歩によつて、訂正することが出來るのである。三つのしごとは互ひに搦み合つて居る。さうして現在は國語統一の急務が、話し言葉研究の大飛躍を要望して居るのである。私は國を愛する一(141)國民として、主力をこの一點に集注して少しも悔いない。我々の母の言葉が清く且つ豐かに、誰でも一色で物を言ふことが出來るやうになれば、そればかりを以てもう十分に滿足する。日本民俗學の效用を説き、あはよくば其領分を廣めようとするなどは、決して此書の心ざすところでは無い。それよりも寧ろ方言の研究をこちらへ押付けて置いて、いつまでも國文の講讀に專らで居るやうな國語學者の、跡を絶たないことのみを怖れて居る。
 
(143)  故郷の言葉
 
 私は明治八年亥歳の夏、播磨の神東郡の辻川といふ村に生れ、十の歳の秋までそこで大きくなつた。幼ない頃から病身な爲に友だちが少なく、始終母のあとにばかり附いて居て、こちらで謂ふ腰巾着、九州人のいふ尻フウゾ、越中海岸の村でバイグソなどゝ笑はれるたちの兒であつた。圓い眼をして居るのでも有名だつたが、その眼でぢつとオホセの謂ふことを聽いて居たものらしい。今でも切れ/”\に、自分にして貰つたのでない話を覺えて居る。
 或時は母が斯ういふ話を父として居た。もう此村でも段々もとの言葉が少なうなります。よく口癖のやうにオタテイだのオトマシイだのと謂うた、何とか婆さんも死にますしと謂つて居た。この雇ひ婆の顔はまるで記憶に無いが、臺所へ入つて來て、座敷に多くの酒の客のそろ/\始めようとして居る笑ひ聲などを聽くと、首をすくめてよくオトマシと謂つたものださうである。私の親たちはこの二つの形容詞を使はぬ故に、是を言ひ出しては話の種にしたのであらうが、今でもこの附近の地方から、ウタテイもウトマシイも方言として、折々は採集せられて居る。さうして少しづゝは土地によつて心持が變つて居る。方言は斯ういふ風に殘留もし、又推移もするものと思はれる。なつかしいことである。
 母は二里ばかり離れた加西の北條の生れであつた。北條は小都會であり又天領であつた爲に、言葉が餘程私の村とはちがつて居た。今でも多分さうだらうと思ふ。たとへば見よ・行けといふ命令形を、村では見ナ・イキナといふに對して、北條は見イ・イキイと尻揚がりに謂ひ、我々がソウダスガナと、相手の知らぬのを輕く責めるやうな語氣で(144)いふ言葉を、あちらではソウダンガナと謂つて居た。この地方差が今日ならば方言であるが、それを總括して何といふものかを知らなかつただけで、私は其存在を既に四つ五つから認めて居たのである。母は雙方の語を共に知つて、自らはもうこちらのを使つて居た。それで里の親類の者が歸り去つたあとなどに、比較の評が始まると、母は常に少數側の辯護をした。或は私たちの心の中にも、町だからあちらが優つて居るといふ、偏見が栽ゑ付けられて居たのかも知れぬ。とにかくに間も無く其町へ家全部が移住することになつて、ひどく笑はれもせずに私たちは北條語に同化してしまつた。
 村へは折々姫路から人が來る。中には土着して村の人になり、近所に住んで交際をしたものもある。彼等の言葉は可なり村とちがひ、又一體に上品なやうにも聽えたが、どれだけ土地を風化したかは記憶が無い。私の家のみは私が生れる以前、十年餘り御城下に住んで居たので、今更彼等から學ぶものが無かつた上に、母は若い頃に藩の上流の家に奉公をして居たので、寧ろ彼等の下品な町ことばには、反抗の念を抱いて居たやうにも思ふ。村でも若干の家庭では、改まつた折の用途にもつと良い言葉のあることを知つてゐた。たゞ平日はそれを使はうとしなかつたばかりである。
 東京の言葉はよく話題に上り、自分も小耳に挿んで、イト・トウヤンをオジョウサンと謂ふことなどを知つてゐた。姫路には多くの江戸から還つて來た人が居た。又村の街道の立て場に行つて見ると、東京語らしい物言ひをする人が毎度來て憩うて居た。しかし眞似をしようとする者は無かつたやうである。其うちに自分の兄が一人、夏休みになつて東京から戻つて來た。さうしてもうをかしい程言葉が變つてゐる。それを面白がつて聽いて居るうちに、かぶれはしなかつたが親しみを感ずるやうにはなつた。今から考へると、是が接近の第一歩であつたらうと思ふ。
 大阪の言葉も毎度聽く機會があつた。町にはそれを眞似る風が在方よりも盛んで、私たちにその堺目が判らなかつたが、それでもシヤハルといふ敬語などはこちらには無かつた。ひどく珍らしいと思つて聽いた記憶が殘つてゐる。(145)北條で隣家の娘の大阪へ縁付いたのが、三つばかりの女の兒を連れて父を見まひに來たことがある。おぢいさんは何處にと尋ねると、そこへ來て居ながら大阪で言つて居た通りに、バアンシュニヰヤハルと謂ふのが、如何にもをかしくて何度も言はせて見たことがある。あの兒も今頃は、どこかでもうお婆さんになつて居ることであらう。
 斯うして遠方の言葉を少しづゝ覺えながら、村では尚いつ迄も近郡のなまりを笑つて居た。たとへば龍野《たつの》では猫までが訛つて鳴くなどゝ謂うて居た。それが何とも言へぬ位自分たちにも興味があつた。表を通つて行く色々の物賣り、伯州のカナゴキ屋とか、若狹から干鰈《ほしがれひ》若海布《わかめ》を聲りに來る女とかはいふに及ばず、冬のかゝりに皮の沓をはいて、山の物を擔いで出て來る奧在所の人たちまで、行つた後では必ずその言葉を口眞似して、さも我土地のが當り前で、向ふのが變なやうにいふ人が多かつた。實際はさう大きな差は無い故に、却つて違つて居る部分が非常に耳立つたのでは無いかと思ふ。
 さういふ中でも物の名や動詞の相異は、訛りとは又別な興味であつた。あんたの方では何と謂ひますと問ふ場合もあるが、よほど遠國で無いと同じだと答へられることが多いから、是は寧ろ旅人の方から、ちがつて居るものに氣付いて、話の種を提供するのが例であつたらしい。早い頃に自分などの學んだ方言の一つは虎杖であつた。村では年寄りはダイジ、子供はダンジ、又スカンポといふ語も併存して居たが、僅か離れた北條近在から來た青年は、わしの村ではエッタンドリと謂ふと言つて笑つた。成程イタドリだなと父が言つたことを覺えて居る。それから以後氣をつけて居ると、播州一國にも多くの異稱があり、内海を圍んだ廣い地域に亙つて、其變化は錯綜を極めて居る。是が佐藤清明君などの綿密な調査となり、方言區域論の新しい課題ともなつたことは、人の熟知する所であるが、私一個としては實は五十有餘年の繼續事業なのである。
 自慢にもならぬのは、今でもそれは只問題といふのみであつて、答はなほ次代の研究者に頼まねばならぬことである。しかし斯ういふ幽かな記憶でも、學問の縁にはなるのだから粗末に扱ふわけに行かぬ。播州も西の方へ行くと、(146)虎杖のダイジをサイジといふ村もあつた。私の母などはいつも良い言葉と惡い言葉のけぢめを認め、ドンボは惡い語だからトンボと謂へと教へ、ガニはをかしいからよその兒が謂つても眞似てはならぬなどゝ戒めて居たが、それでもダイジはよいと認めたものか、別にサイジといふ語は自分でも使はず、又イタドリと改めよとも言はなかつた。土地には選擇の任意な二つ以上の語のある場合と、二つは有るけれども一方の良いことが既に定まつて居る場合と、一つしか無くてどうしやうも無い場合とがあつたのである。言葉は改まるに先だつて、先づ或期間の併存と比較とを必要としたものかと考へられる。一つしか無ければ使はずには居られぬわけである。
 理窟は拔きにして、もう少し子供の頃の心覺えを記して見たい。今でも用ゐられて居るか知らぬが、正式の食膳に必ず附けられるカシワンといふ食器を、文字では菓子椀と書き、文字を知る者はクワシワンとも發音して居た。汁氣の少ない煮物を盛る椀で、東京ではオヒラと謂ひ、色の白いのつぺりとした男を、オヒラの長芋見たいなといふたとへごとも是から生れて居る。もとの名は平椀であつたらう。文政頃かと思ふが畑銀鷄の大阪見聞録、街の噂と題する一書にも既に菓子椀の名を奇として居る。菓子といふ語が既に小兒の關心事であつた上に、あの中には蓮根の大きく切つたの、ユバだの椎茸だのといふ、平生は御目にかゝらぬ食物が行儀よく竝んで居て、あの蓋を取る時の感動は、白?をすれば誰でも永く銘記して居る。しかも是が往昔の、膳をカシハと謂つた語の殘形であつたことは、此頃になつて漸う心づいたのである。
 斯ういふ單語の分布こそ、尋ねて見る必要もあり興味もある。關西のカシワンはどの邊まで及んで居るか知らぬが、是と對立してカサ又はオカサといふ名詞が、現在はかなり弘く知られて居る。是も菓子椀と同樣に、起りを忘れた人が多くなつた爲か、東京などにも之を御椀の蓋のことだと思つて居る者と、木皿のことゝ解する者と二通りある。前者は多分笠といふ感じに誘はれ、他の一方は重ねるといふ動詞を心に持つて居るのであらう。奧羽地方でも津輕の方言集には、カサコは木の盃だと出て居り、羽後の平鹿郡などは吸物椀の蓋だといひ(椀の蓋はよく盃に代用せられ(147)た)、盛岡附近ではカサは小さい椀のことだと謂つて居る。富山縣の幾つかの方言誌には香の物を入れる皿と註し、近江では手しほ又は椀の淺いもの、大和では木皿のことゝあつて、松井氏の辭典とも一致するが、其他の地方は備中備後にかけて、何れもカサは椀だとあるから、實質に於てもカシワンと近いのである。
 岩田準一君の鳥羽方言集を見ると、志州にはこの二つの名が共に行はれ、カシワンは絲底の大きな、吸物椀とは別な一種の椀だとあり、カサはたゞ單に粗製の汁椀と説明してある。紀州も和歌山市では椀もりを菓子椀、熊野にもカシヤンといふ語さへあるのだが、別に沿海の各郡から伊勢南部にかけて、椀をカサといふ語は普通に行はれてゐる。二度に入つて來て少しばかり物がちがつて居た爲に、元が一つであることに氣のつく人が無かつたのかと思はれるが、其點では植物のカシハも實は同じことであつた。
 五月節供の私たちのオカシハは、?の葉が得にくいので大抵は龜の甲ばらで包んであつた。それを子供がチマキと呼ぶことは、恐らく今でも同じであらう。茅で卷くからチマキ、?の葉でつゝむからカシハ餅、是はどちらでも無いのだと父に教へられたことがあるが、カシハ餅の方は必ずしも誤りでは無かつたのである。?はあべこべに食物を包むから、カシハの名を得たのであつた。今でも米澤邊では厚朴《ほほのき》の葉も?も、一樣に之をカシノハと謂つて居り、津輕では鬼ウツギをガザシバ又はガサ、越後でもたしかタニウツギのことを、ガシャッパと呼んで居る。沖繩縣ではカーサノハは主として芭蕉のことだが、其他の木の葉も食物を包めば皆カサの葉である。此語の起りは「炊ぐ」といふ動詞と關係があらう。飯を盛る器の名となる以前、或は私の故郷のチマキなどの樣に、包んで湯に投じ又は蒸して居た時代があるのかも知れぬ。幾段ともない風俗の變遷を重ねて後まで、なほ元の語が殘つてしかも隣同士に、互ひに知らず顔に竝んで活きて居たのは面白いと思ふ。
 それから今度は動詞の話になるが、東京へ來て覺えたオッコチルといふ一語の代りに、もとはオチルだのアダケルだのマクレルだのと、まだ色々の言葉を使ひ分けて居たやうな氣がする。其中でもアダケルはアダといふ便利な名詞(148)があつて、在るべき場所の外を意味してゐたから、多分それに基づいた新語だつたらうと思ふ。マクレルも「卷く」といふ語の發達のやうである。東京では、蒲團その他の覆ひ物を取るときだけがマクルで、それから更にメクルといふ、おどけた一語をさへ分化させて居るが、このマクレルに該當するものは無い。岡の草原などの傾斜を轉げ落ちる場合は、コロゲオチルでは何だか適切で無いやうな感じが今でもする。それから今一つ、雷が落ちるといふ時に限つて、播州ではアマルと謂つてゐた。是も氣がついて見ると天降るのアモルであつたらしいのである。
 豐後方言集を見ると、大分市でも各郡でも、共に落雷をアマラツシャルと謂つてゐる。此例は尚他の縣にも有るさうで、たとへばコ島・岐阜などでも同じことを謂ふと聞くが、自分ではまだ當つて見ない。をかしいことには子供の頃、いつでも棚から落ちた貧乏神の昔話を聯想してゐた。是はアマルといふ語を「居り餘る」の意に取つて居たからである。しかし斯ういふ風に敬語を添へていふ例を見ると、其想像は成立たない。沖繩では神が定期に天降りたまふといふ山の名を、相模の大山と同じやうに、阿夫利嶽と稱へて居たが、奄美大島の方にはアモレヲナグの傳説がある。昇曙夢氏の報告には、是を美女の姿をした一種の妖怪の如くに解して、島の人々が怖れてゐるといふ話があるけれども、一方には羽衣同系の天の女性が、假に人間に嫁いで子を儲けた口碑なども遺つてゐる。つまり私たちのアマルも、雷神の天より降りたまふことを意味して居たのである。
 私たちの村では、雷のことをヨダチ又はヨダッツァンと謂つて居た。さうして年寄はやはりヨダッツァンがアマラッシャルと、敬語を用ゐてゐたやうに思ふ。このヨダチが標準語にある夕立と同じいことは確かだが、さて其二つの用ゐ方の、何れが古風に近いかはちよつと手輕には判決し得られない。驟雨をユフダチと謂つた起りも不明だからである。古書には悉くユフとあるが、それを美濃尾張のやうにヨウダッサマ、もしくは我々のやうにヨダチと謂ふのを、誤りと言ひ切る迄には其語原が明かになつて居ない。タチは虹がたつ又は月たち、面影にたつなどゝいふ語もあつて、漢語の立の字よりも範圍がやゝ廣い。龍は不思議にも昔から和訓があつて、是もタツと謂つて居る。即ち常に隱れた(149)ものゝ出現がタツであつて、少なくとも雨ふるといふだけの意味では無ささうである。
 カミナリは元來神鳴りであり、鳴るものそれ自身の名では無い筈なのに、夙くから雷を意味する標準語になつて居る。しかし土地々々の國言葉はそれでは承知しない。東京はライサマ又レイサマ、是なども新らしいことだけは確かである。ゴロ/\サマだのドンドロケだのといふのは小兒語だらうが、成人も是しか用ゐない例は多い。丹波にはたしかハタガメの万言がある。ハタタ神の名殘であつて古いと思ふ。秋田の海濱地方で冬雷の鳴る頃に捕られる魚を、ハタ/\といふのも雷から出て居ると思はれるから、元は此語があつたのである。關東の片田舍から東北の大部分にかけては、今でも雷をカンダチ又はオカンダチ、オカダチサマなどゝ呼んで居り、陸中などでは雷の落ちることを、カンダチサマがオトケヤルと謂ふ。オトケヤルは敬語で、トケルは古語のカミトケのトケであつた。雷神信仰の尚殘つて居る土地に、大昔の語の保存せられて居るのは不思議でない。さうして私たちのヨダチサマもどうやらその一つの場合だつたらしい。
 
 (追 記)
 ウトマシは夙く狂言記の頃から、もうオトマシイに變つて居る。中部以西のかなり廣い區域にまだ行はれ、方言と呼ぶのも相すまぬ位であるが、何分にも年久しい割據の結果、その内容が區々に分化して、甲乙互ひの間の通用がむつかしくなつて居る。四國各地の用ゐ方が比較的に元に近いやうだが、それでも細かく聽き分けるともう少しちがつて居る。例へばコ島縣の美馬郡ではオトマシイは「厭はしい」、讃岐の高松附近では、小兒などが附纏うて「うるさい」ことをオトマシイと謂ふが、同時に又彼等の僧まれ口をきくのもオトマシイだから、對譯として「よくない」と説明して居る人もある。伊豫の新居郡で「憎むべき」、同周桑郡で「みにくい」又は「憎い」がオトマシイだと謂ふのも、多分は同じやうな感覺の成長であらう。
(150) 瀬戸内海のこちら側へ來ると、この心持は又幾分か輕くなり、さうはつきりとした厭はしさでは無く、東京でいふならば「有難くもない」といふのに近くなつて居る。私の生れ在所で曾て行はれて居たのもそれだつたらしいが、備前の和氣から岡山附近、備後の福山あたりの方言集にも、オトマシイを「面倒な」又は「うるさい」と譯して居る。それから西の例はまだ見當らぬが、ずつと飛び離れて對馬の比田勝などにも、是と同じ意味のオトマシイが用ゐられて居るから、もし中間にもあるとしたら、多分は是に近いであらう。
 ところが近畿から更に東の方へ進むと、是が又大いに變化して居るのである。たとへば奈良縣の中部では、身體のぐあひが惡くて物をするのがいやな氣持をオトマシイといふ、それ故に又「元氣の無い」ことだと謂つた人もある。ウイ・モノウイの古い用法を考へると、或はこの方が元に近いとも言はれるか知らぬが、とにかくに目途はよほど限定せられて居るのである。最初は共通の心理から出たものにしても、久しくその一部分の表現だけに使はれて居ると、それが習ひとなつて他には通用しにくゝなるものと思はれる。同じ三重縣のうちでも伊賀の方のオトマシイは「恥かしい」の意味があり、伊勢の方では「すみません」で、人に手數を掛け又は物を貰つた場合に此語を發するかと思はれ、それには又地域的の片寄りのやうなものが注意せられるのである。たとへば同じ滋賀縣のうちでも、京都に近い西境の村では、驚いたり困つたりした際にオトマシイと謂つて、まだ古い頃の用法を傳へて居るやうに思ふが、段々に東へ行くと三重縣も同樣に、やはり御氣の毒又は有難うの意味に之を使ひ、更に湖東の二郡などには、オトマシイは結構といふことだと報告した者がある。「結構」がオトマシかるべき筈は無いが、是も其樣にまで相手を累はしたかと思ふと、我と我身がうとましいといふ意味になるのだから、結局は又一つの分化であつた。
 しかもこの分化の決して是に止まらなかつたのを見ると、よく/\棄て難い好い言葉であつたといふことが考へられる。靜岡縣でも富士山麓の數郡にはこの語がなほ行はれ、こゝでは「汚ない」「うるさい」「しつこい」などの意味だといふから香川縣あたりとも近く、濱名湖周邊の村でも勞の多いことをウトマシイといふのは大和と似て居るが、そ(151)れが西隣の愛知縣に入ると、もう又一つ移つて主として「もつたいない」の意味に用ゐられる。極端な一例は三河の岡崎附近で、經典のやうな大切な書物を、「オトマシイ本」と謂つて居たといふことが、三田村玄龍氏の尾參方言箋には出て居る。是たゞ一つを見ると、或は別の語のやうに思ふ人もあらうが、本來はさういふものを輕々しく取扱ふことがオトマシイ行爲だつたのを、餘りに場合を限つた故に、しまひには經典それ自身のことかと思ふ者が出て來たので、現に今でもまだ神佛に敬を怠り、もしくは飲食物を粗末にすることを、オトマシイと評する例もあるのである。
 是と似たやうな例は尾張美濃、それから近江の湖東にかけて物を貰つた挨拶にオトマシイといふ處が多い。是もちよつと聽くと何がオトマシイかと思ふやうだが、他の地方のモッタイナイがよく示す如く、やはり私などには結構すぎます、むだな事をなされますといふ心持の卑下の辭であつた。東京などではオヨシナサレバヨイノニ、又は他の地方でオタバイナサレマセだのオダイジモナイだのと謂ふのも同じことで、今更さうですかと引込める人もあるまいが、先づ一應は先方の爲に忠告して見るので、しかもその本來の趣意は、口にする者ももう半ば意識しないやうになつて居るのである。福井・石川・富山三縣の方言集を見ると、殆と一樣にオトマシイは「惜しい」だと解して居る。しかしさう謂つただけではまだ精確でない。自分の物を惜むことは恐らくはオトマシイとは謂はず、やはり他人のむだ使ひを非難するのが主であつて、實際は是も物を贈られた場合の辭令であつたらうと思ふ。
 是と似よつた内容の變化は、又ウタテといふ言葉にも現れて居る。文學上のウタテも時代によつて、かなり色々にちがつて居るやうだが、現在でも東北では「いやだ」といふ意味にウタテを使ふ處が多く、或は其感を強めてダッテナといふ例もあり、九州では大分縣などに、「きたない」といふ代りにウタチイ、和歌山縣の海岸地帶では「うるさい」又は「大儀な」をウタトイ、北陸でもほゞ私などの故郷の如く、「困つたものだ」の意味にウタチヤを使ふ土地があるのに、獨り岐阜縣と滋賀縣の一部だけに、やはり感謝の意を表する語としてウタテイを用ゐる人が居る。この方は或は物を貰つてオショウシナと謂つたり、又はコマッテシマフワと謂つたりすると同じく、あまり思ひ掛けない好(152)意なので、心が混亂するといふことを表示したのかも知れぬが、とにかくに本來は憂愁又は歎息を意味した一語が轉じてこの包み兼ねたる嬉しさを敍するものとなつたといふ迄は同じである。
 斯ういふ種類の研究も、やがては盛んになる時が來ることゝ思ふが、とにかくに感謝の言葉は近世に入つて變化して居る。都府でアリガタイがカタジケナイに代つたのも、決して古いことでは無く、今でも地方にはまだ之を用ゐない者が多いのに、一方には既に古くさく、もしくはやゝ失禮なやうにも成りかけて居て、目上に對してはオソレイリマスだのスミマセンだのを使はうとし、それが更に念入りになると、アヒスミマセヌだのモウシワケガアリマセヌだのといふ、あきれ返つた改良さへ試みられて居る。多分は社交の複雜化の爲に、勤仕と給與との古い系統が壞れて、型にはまらない感覺が生れた結果であらうと、私などは想像して居る。ウタテやウトマシイが輕い驚き、思ひまうけなかつた困惑から、轉じて「有難う」の意に用ゐられることになつたとしても、この過渡期の我々だけには、さう不思議では無いのである。滋賀といふ一縣は地位地勢の關係から、斯うした問題に就ても好箇の實驗地のやうに思はれる。僅かな距離を隔てゝ西と東と、言葉の用ゐ方が少しづゝちがはうとして居る。ウイとウタテとウトマシイとの三つの語は、元は必ずしも全く同じで無かつた筈だが、現在はその何れか一つを、物を贈られた御禮の辭に用ゐる習はしが、殆と村毎に入り交つて居るやうである。岐阜縣の方でも飛騨の北部のやうに、感謝にウタテイの方を使つて居る土地では、まだオトマシイをもう一つ古い形で傳へて居る。たとへば荒垣氏の方言集には、「驚きあきれる感歎の語」とあつて、近江の大津附近などゝ近い。袖川村誌にもオトマシヤを「あきれる」と有る。あきれるといふだけでは好い場合か惡い場合かわからぬが、今一つの「飛騨の方言」にも、オトマシイを久闊と譯して居るのを見ると、恐らくは舊友などの來訪を受けた際に、思はず發せられるのが普通だつたので、乃ちこの形容詞の段々にうれしい方へ移つて來る道筋はわかるのである。
 信州の伊那谷では、オトマシイは甚だしい意味だと報告せられて居る。是は多分は副詞的の用法であつて、今日の(153)標準語のヒドイやバカニと同じく、もと/\さう痛切な感覺の直寫では無くなつて居た爲に、幾分かの可笑味を帶びた誇張の用に供して居たので、それが又追々と新らしい別の目途に、流用せられる因縁ともなつたのであらう。単語の親しみは内容の思ひ出以外に、斯ういふ外形の耳ざはりにもあつたといふことが、又しみ/”\と考へられるのである。
 
(154)  煕譚日録
 
     一
 
 私が今住んで居る郊外の草原は、以前は喜多見の山野《さんや》と謂つた處である。キタミ又はクタミといふ地名は全國に數が多くて、まだ其意味がよく判つて居ない。此頃伊波氏の「日本文化の南漸」が出て讀んで見ると、南島では神を祭る神足擧《かみあしあげ》の正面の石、巫女が神馬に乘る時に踏臺にする石をクダミ石と謂ふさうで、黄金白銀を敲き平めて、クダミとするといふやうな文句が、古い神歌《おもろ》の中にも出て居るといふ。現在はたゞの民家の上の段の石、内地で沓脱ぎともジョウバ石ともいふものも、同じくクダミと呼んで居るけれども、本來は神聖なる降臨石のことであつたらしいのである。私の住むキタミももう痕跡が無いが、或は初期の武藏野の移住民が、神を迎へて祭つて居た場處が、此附近にあつたのではないか。さう思つて大いにうれしがつて居る。
 クタミを九州では來民、或は玖潭などの文字を宛てた例も舊い文書にはあつたが、私は爰へ移つて來てから、のんびりと話をして暮して居るので、之を煕譚とも又喜談とも書いて、自分の書屋の名にして居る。少しく目馴れないので國字論者から苦情を持込まれさうだが、ちやうど初冬の此頃のやうな日當りで、稀に來る舊友と話をして居る心持が、表現せられて居るやうな感じがある。そんなら一體どんな話をして居るのかと、問はれさうな氣もするので、その二つ三つをぽつ/\と書いて置かうかと思ふ。素より時事とは交渉の無い小さな話題だが、いつかは誰かゞ考へて(155)見なければならぬことばかりである。
 出來るだけ平凡な、しかも今まで氣をつけた人の無いやうな問題から、大切なことを見付けようとするのが我々の流義である。先づ欠伸といふ問題で話を始める。アクビとセノビとは二つの動作で、二つを同時にする者が欠伸といふ語を用ゐ始めたのであらうが、實際は今でも二つを別々にする人の方がずつと多い。たゞこの漢字を一つづゝ離して使ふと、その意味に取られないから繋いで置くのである。日本語としてはアクビの方が古くからあつたやうで、しかも言葉の由來は明かで無いのである。アク又はアキルといふ動詞と關係がありさうだが、それがどうすれば斯んな形になるのかも説明し難い。或は又全く別の起りだつたかも知れぬ。
 あけび(通草)といふ植物を、この附近の村々では一帶にアクビと謂つて居る。アケビは朱實であらうと説明した人もあるが出たら目で、この蔓になる果實は赤くも何とも無い。他の地方の語を聽けばすぐに判ることだが、むべ(郁子)を九州の南部地方で冬ムベと謂ふに對して、幾分か早く成熟する故に秋ムベなのである。又現に山陰地方隱岐島などではアキンベと呼んでも居る。それが口を一杯にあけた樣に割れるからアケビだらうかと思つたり、又音の抑揚は少しちがふやうだが、アクビと變へて謂ふことにもなつたのは、誠にほゝゑましい民間の語源解釋であつた。多分昔の人はあの樣な口をして、憚る所も無くアクビをしたものであらう。
 オクビといふ語は明かにアクビと同じ語だつたらうと思ふが、近世は意味が少しづゝ分化しかけて居る。辭書には※[口+愛]の字を宛てゝ、是は特に食物に滿腹した時に出る口氣に限るやうになつた。今はゲップなどゝいふ無趣味な新語が生れて、追々に之を廢語にしようとして居るが、それでもまた「そんな樣子はオクビにも出さぬ」といふ類の、複合句になつて實用せられて居る。オクビの方が何だか上品な樣に聽えるのは、或はもと共にオクビと謂つて居た爲ではないかと思ふ。
 壹岐島では其オクビをオコボリと謂つて居る。是だけでは合點が行かぬが、熊本縣の東の端、阿蘇郡の小峰村など(156)では、オコモリといふのが※[口+愛]即ちオクビのことである。同じ例は多分まだ九州には多からうと思ふ。オコモリといふ語には明かな古い意味があつた。即ち神樣を祭る夜、人が集まつて寢ずに明すのが御籠りで、是は日本の全部に亙つて同じである。氣が籠るとか、食物が停滯するとかいふことも關係があるか知らぬが、たゞそれだけだつたら上に敬語を添へる筈がない。だからもう一段と深い因縁が、この動作と御籠りとの間にはあつたかと想像せられるのである。
 斯ういふ方言現象を知つてから、私は更にアクビといふものに就ての日本人の、心理に注意するやうになつた。アクビは人に移るものだといふこと、是は東京でも今なほさういふ者が多い。よその民族では果してどうであらうか。人が退屈を感ずるやうな?況は何れ一つだから、一人がアクビをするやうな空氣ならば、他の者もするのは當り前だと謂つてもよいが、それにしても不思議なほど、すぐに他の者がするのである。或は又一緒にアクビをすると、三日間の親類だといふ諺もあつたらしい。今でもよく覺えて居るのは私の兄嫁が、總領の娘を生んだ當座に、赤ん坊を抱いて居て二人で共にアクビをした。さうして「三日の親類だね」と謂つたのは好いユウモアであつた。如何なる動機から此樣な俗信が起つたものか。是は單なる常識ではまだ説明がつかぬと思ふ。
 八丈の島などでは今もあることだが、他でも或はさういふ例があらう。女が新たに巫女になる時には、神の前で熱心に拜んで居るのが、頻りにアクビをし始めるのを、神に認められた一つの兆候として居る。或は中座とも中立ちとも謂つて、靈媒に物を聽く場合にも、本人の擧動を注意して居て、アクビをし出すのを神の懸つて來た知らせとして居る。即ち單なる生理現象とは、以前の人は見なかつたので、是が土地によつて參籠と同じ語を以て呼ばれて居たのも、或は隱れて昔からの理由があつたかも知れぬ。
 斯ういふ種類の話は、私の仲間にはまだ多い。機會があつたら今少し續けて見るつもりである。
 
(157)     二
 
 この一文を公表してから後、今年の五月に下總成田の近く、印旛郡遠山村の學校に遊びに行つて、測らずも一つの新らしい資料を得た。土地の教員寺本君の話に、この邊では欠伸をすることをスワクムと謂ふ人があるが、どういふ意味であらうかとのことであつた。是は全く耳新らしい方言であつた。他にもさういふ例があるかどうか。それから以後努めて色々の人に尋ねて見たが、まだ私の方でもといふ人には出逢はない。古い辭書などには無いかと注意して居る。もしも書いたものには傳はつて居ないときまれば、それこそ方言の本當のねうちが現はれるのである。
 大小二つの事實が、この一語によつて心づかれるやうに私は思ふ。其一つは我々の動詞のこしらへ方、即ちどうして始まつたかをまだ誰も知らない現代の幾つかの單語が、至つて平易な法則の下に、次々と生れて居たといふことである。人が口早に物いふことをシャベル、お醫者さんの所謂咳嗽するをシハブク、田舍では  屡々シャブクともサビクともいふもの、それから今一つは物を口にくはへて食ふことをシャブル、文語ではシハブルともスハブルとも書くもの、この三つの動詞が亦口の動きを表はし、かの下總の欠伸のスワクムと、共通のものを持つて居ることは明かで、現在西國の可なり廣い區域で唇をツバと謂ひ、ずつと南の縣で是をスバ又スパと發音して居るのと、何れも關係があることだけはたやすく推定し得られる。即ちヘル・フク・ヒル又はクムといふやうな單純な動詞を、唇を意味するスハの下に添へると、もうこの特別な人の動作が、はつきりと表出し得られたのである。スバが唇であることなんかは、鹿兒島沖繩二縣の人には、兒童以來の常識であつた。しかもそれだけの事實も知らぬ人ばかりが、日本の辭典を著して居る爲に、いや「繁吹く」の約かだの、「浪吹く」の訛かだのと、通用せぬ説を竝べるので、我々に取つては有難迷惑の至りである。
 今一つの小さなことは、久しく流行し來たつた音韻法則なるものゝあぶなさである。スハクミとアクビと、二つは(158)丸きり縁の無い言葉でないと思ふが、斯ういふ實例によつて、スといふ語頭の音節は脱落する傾きがあると想像したり、又はそれは有り得ないことだから、二つの語は別々だと斷定したりする風があつたらどうだらう。未來の計畫の參考に供すべく、我々が知らうと念ずる國語成長の法則は、いつまでも今のまゝに五里霧中に隱れてしまふかも知れない。それがいやならばもつと精を出して、地方の斯うした事實を集めて見るの他は無いのである。
 理由は勿論一人ではきめられないが、とにかくにスハクムならばよく解る言葉が、中央では夙くアクビとなつて、どうしてさうなつたかゞ不明に歸して居るのである。是を最初から斯うあつたものときめて、或は「倦む」に代つた「飽く」といふ語から、又は「開く」を意味する「あく」の語から、導かれたものゝ如く語原家は解したがるが、もし原因が外に在るならば、寧ろオクビといふ語の類推の方が力強かつたらう。それから今一つはスハクミのスの音を、後には「素」の意味に誤解して、取つても同じことだと思ふ者が多くなつたのではないか。たしか東京でも近頃まで、「スアクビばかり出てしかたが無い」などゝ言ふ者があつたやうに思ふ。いくら古語でも古い世に變つたものもあらうし、眼の前に在るからとて皆新らしいものともきまらぬ。しかもどちらが前のものかは比べて見れば大よそはわかる。必ずしも古い方を優れりといふにも及ぶまいが、出來ることならば音の清く、心持のよく通ずるものまでを、方言だと言つて棄てさせたくはない。少なくとも二つを共に知つて、時と場合に應じて自由に選ばせるやうにして置いたら、文藝の爲にはよほど調寶であらう。全く知らないのなら是はもう致し方も無いが、アクビスルといふ五文字は實は歌にならないので、よわつて居る人も有るのである。
 
(159)  唾を
 
 唾を東京では今ツバキ、京都大阪と其附近では、弘くツバ又はツワと謂つて居るが、二つのものは本來は孰れを正しとすべきか。文獻の上からいふと、倭名鈔にも新撰字鏡にも、共に、ツバキ(都波岐)と訓ませてあり、又功名手に唾してとか、其面に唾する云々といふ場合にも共にツバキしてと讀む習はしになつて居るが、關西の方の人たちは、尚ツワを單なる方言とは認めないと見えて、停車場備付の唾壺などにも、堂々とツワハキと書き、容易に所謂標準語に降伏せざる態度を示して居る。現に又大槻先生の言海にも、近く出ようとして居る新版には改訂せられて居るか知らぬが、現行版の中には麗々と「ツバキは唾吐きの義、單にツとも謂ふ」とあつて、どうやらツバの方が本格であることを認められて居るらしくもある。ツバキが果して「ツバ吐き」の訛であるならば、名詞に使ふ場合には、ツバと謂ふのが寧ろ簡にして要を得て居るわけだが、しかしそれに相違無いかどうか。もし國語の統一が、單なる首都方言への無條件盲從でも無く、又單なる一種古語の復活でも無いとすれば、この紛らはしい對立は如何に解決するのがよいか。或は何れか一方が誤りであるとして、其誤解は全體どうして起つたと見るべきであらうか。私は此頃偶然に、斯んな流行はづれの問題に打付かつて考へて居る。本誌(岡山文化資料)は私の知る限りに於て、最も方言の研究に熱心な雜誌である故に、或は若干の同好讀者を期待することが出來るかと思ひ、ほゞ最近までの調査の結果を集めて、報告して置く次第である。
 此問題を解決する手段として、私は先づ最初に他の地方に於ける、唾の方言を比較して見る。大槻氏も既に言はれ(160)た如く、唾を單にツと謂つたのも一つの古語であつた。例へば炭俵の連句の終の一章の中には、「次の小部屋でツに噎せる聲」といふ句もあるし、肩唾を呑むといふ言葉も小説などにはよく出て來る。九州の大部分に於て、唾をツヅと謂つて居るのも、恐らくは亦同じ語の發音變化であつた。但し形が似て居るとは言つても、そのツ又はツヅとツワ・ツバ又はツバキと、もと一つの語であつたといふ證據は無いので、私の見た所では、少なくともツバキといふ一語のみは、寧ろ全然別種の命名法に基づいて居るやうである。
 此事は各地方言の比較によつて、存外に容易に證明することが出來る。唾を意味する方言は、現在のところ主たるものが先づ六通りほどあつて、全國に割據して居る。その大體の領域を述べると、九州は一部分の例外を以て、右にいふツヅといふ語が行はれて居る。北は對馬壹岐五島、肥前肥後一圓、鹿兒島縣も全部、東海岸では豐後の臼杵にもツヅがあるのみならず、山口縣の一角にもそれが及んで居るとの報告もあつた。南に行くと七島の寶島ではツツォイ、それから奄美大島にはディディがあり、チドゥがあり、遙かに先島のチチに續いて居る。第二に四國はまだ一々當つて見ぬが、大體にツバもしくはツワの領分で、たゞ土佐の中村や阿波の某地にツバケといふ語が認められるのみである。中國は少しの例外を以て、  略々一帶にツバもしくはツワで、それが京大阪を越えて北は若狹まで、東は伊勢三河の一部、美濃と信州の南の方、駿河でも沼津などにツバといふ語があるのみならず、飛んで關東の北部の村や、福島縣の二本松などにも、ツワ又はチワといふ例がある。九州でも筑後の久留米吉井、肥前の島原の湊、日向の折生迫《をりふざこ》などにツバといふ語が行はれて居るといふが、それは事によると近年の輸入で無いかと思ふのは、是等の地方には別に唇を意味するツバといふ名詞があるからである。
 第三のツバキといふ語の領分は、大體に今日の所謂中部日本と一致し、東京は寧ろ其東の突端を爲して居る。西の方でツワもしくはツバと入り交つて居る地方では、伊勢でも近江でも又大和でも、一般にツバケと發音して居る。是などは多分は椿のツバキと混同することを避ける爲であつたらう。それが東に進むに從つて、音の抑揚を以て差を立(161)てることが出來て、二種のツバキ(唾と椿)を聽き誤る心配は無くなるのである。九州でも稀には五島の魚目村のやうに、ツバッといふ方言の殘つて居る例もある。五島の促音は最後音部の母音脱落を意味するから、爰にはツバキといふ語が分布して居ると言つてよいのであり、それが又自分には意外で無いのは、ツバキが元來唇の液のことであるらしいからで、さうすれば漿液をキと謂ひ、唇をツバと呼ぶ地方としては、寧ろ何故にその二つを組合せたツバキといふ語が認められず、又はもう消えかゝつて居るのかを訝つてもよい位だからである。
 ところが關東の方はこれに反して、唇をツバと謂つて居たらしい痕跡はまだ見付からぬにも拘らず、江戸だけは夙くより、西の方からのツバキといふ語を受入れて使用して居たのは、ことによると文學の影響であるかも知れぬ。江戸の周圍、といふ中にも殊に東の半面は、今以て「口の液體」を意味するかと思ふクタキといふ語を使用して居る。是が私のいふ第四の方言で、其地方的變化は次の如くである。
  クタゲ、キタゲ、シタケ         千葉縣印旛郡誌
  クタケ                 同  香取郡誌
  クタゲ、フタケ             同  海上郡誌
  キタケ、フタケ             茨城縣稻敷郡
  クダキ                 同  鹿島郡
  クダキ                 同  新治郡
  クダケ                 同  那珂都
  ヒタキ                 同  多賀郡
  ヒタゲ                 同  北相馬郡
  キタキ                 同  猿島郡
(162)  キタギ                 茨城縣結城郡
  キタキ、シタキ、ツバケ         栃木縣河内郡
 此中でも特に興味のあるのは、終りの下野の河内郡に、三種の語が入り交つて行はれて居ることで、斯ういふ接觸點に限つて、普通に雙方からの歩み合ひの如きものが行はれる。即ちクタキ系方言の領域の北には、更に第五種のシタキといふ語が迫つて來て居る爲に、その境の部分では感化を受けて、クタキはキタキになり、フタキはヒタキに移らうとして居るので、是はちやうどツバキといふ語が近くに在る爲に、ツワよりもツバの方が何だか正しい樣に感じられるに至つたのと、同じ作用では無かつたかと思はれる。
 シタキ領はクタキ領の北に接して、遙かに又後者よりも弘い。是は變化も少ないから列擧するにも及ばぬが、先づ福島縣の各郡は全部シタキ又はシタギ、仙臺から北の諸郡ではスタキ、スタギとも聽えるが、それは一般的の發音變化であつて、特に此語のみが變つて居るのでは無い。だから方言集には又シタギとも報告せられて居る。岩手縣でも南の方は確かにシタキ、山形でも村山各郡にはシタキ・シタゲがある。秋田縣は横手附近に、スタギといふ語が次に言はんとするタンペと併存して居る。自分は此語が以前は今少しく弘く、行はれて居たのでは無いかと想像して居る。東京に近い印旛郡にもシタケのあることは前表に示す如くであり、現に又其隣の千葉郡などは、普通にはシタケを使つて居る。それがクタケに代られた原因は、シタ(舌)といふ語が何故か東國では人望を失して、人が知つて居るといふのみで、餘り使はなくなつた結果であらうと思ふ。
 キといふ簡單な日本語の意味は、寧ろ餘りに簡單な爲に、元のまゝを保存し難かつたらしいが、それでも「口中にキ水がたまる」などゝいふ句になつて殘つて居る。最初は必ずしも體内から排泄される漿液のみを意味しなかつたことは、酒をミキといふ例からも推測せられ、一方には又チ(血)といふ語とも縁が無かつたとは言はれぬやうだが、そんな古代のことを論究するのは私の仕事で無い。たゞ爰に一言して見たいのは、漢字採用の初期の不注意と、その(163)意外なる結果であつて、本來瓦斯體を意味した「氣」といふ文字が、單に音の稍近いといふだけから、無造作に適用せられなかつたら、今少しく確實に、我々はキの液體であることを記憶して居たであらうと思ふのである。人體の要素又は生活の精とも名づくべきものを、呼吸に重きを置いて氣體と想像し始めた民族と、體温に重きを置いて火と考へて居たものと、更に液體の循環といふことに、特別の奇異を感じて居たものと、同じ原始風の生活者の中にも、夙くからこの三通りの差別があり、それが各種族の巫術祭式、延いては後代の宗教觀の發達にも、著しき特質を附與して居ることは確かで、原因は何れも主として居住地の天然?態に在つた。日本は雨露の繁き國であつて、人は海川に親しみ清水を愛し、又最も多くの液體を出し入れする體質を養はれて居た。獨り血と涙との文學的汁液のみならず、何れの島々にも珍らしい程大量の汗をかいて、それを放散させることを以て夏の涼味を味はつて居ることは、少しく他の諸民族と比較して見れば、容易に認められる事實である。唾をよく吐く習癖などは、支那伊太利等にも認められぬことは無いが、我國では恐らくは生理の必然から、その分量が既に甚だ多く、もし新たなる作法が其檢束を要求するとしたら、特に根本に遡つて問題を考へて見なければならなかつたのである。今日の學者が風土の差異をよくも考へず、生活改良の範を外國の外形から採らうとするのと、同じ樣な輕慮は千餘年前の支那學にも有つた。氣の毒・氣まぐれ・氣ちがひなどといふキの語に、空氣の氣の字を宛てゝ澄まして居る樣になつてから、我々のキに關する意識も空漠たるものになつてしまつたが、一切の精神的の名詞は何れの國語に於ても、決して哲學者たちの協議撰定になつたものでは無い。在來土民の用語の適切なものを採つて使つて居るうちに、次第にそれが形而上の、貴とい内容までを含むやうになつたので、それを名づけて國語の發達とは謂ふのである。ところが日本では昔も今も、植木などはよく育てゝゐるが、國の言語は雜草あつかひで、少しく珍らしいものと思へば舶來品を移植し、中には珍重の餘りにわざと人の解し得ぬものを眞似ようとする。これが普通教育の效乏しき根本の弱點だと、私などは信じて居る。
 脱線は先づこの程度に止めて、立戻つていふのはキとは體内より發する漿液のことである。「舌キ」の唾であるこ(164)とは聽いただけで誰にもわかる。さうしてクタキの「口の液」から來たかといふことも、自然に類推し得られるのである。ツバキが「唇のキ」であることは、唇をツバと謂ふ實例を列擧すれば十分であると思ふが、これは九州出身の人々には全然無用の業である。クチビルといふ語は既に倭名鈔にもあるから、これを原始以來の日本語と速斷する人もあらうが、その形から考へると、ツバの方が更に古さうである。九州では北部は一圓に唇はツバであつて、對馬の一島のみはクッツバと爲つて居る。東の海岸はどの邊が境か知らぬが、西岸は熊本縣の葦北郡までがツバで、薩摩は大體にスバであるらしい。それから川邊十島の寶島がスバ、奄美大島ではスバ又はクチスバ、宮艮當壯君の南島採訪語彙に依れば、海南諸島の變化はざつと次の如くである。
  徳(ノ)島               クチシバ
  與論島                 シバ
  首里・那覇               クチシバ
  宮古島                 スバ
  石垣島                 フチヌスバ
  小濱島                 フチヌスパ
  波照間島                シパ
  與那國島                ンバ
 即ち唇を動かす音から出た語であつたことは、是だけでも想像し得られるが、後に原意を意識するものが無くなつて、其音がツバの方に向つて移り動いたのには、別に又外部の影響があつたかも知れぬのである。
 それを解説する爲には、最後に殘された第六種の方言を考へて見る必要がある。それは今まで擧げた三通りの方言、即ちツバキ・クタキ・シタキとは對立して、全然にキといふことに關係が無いもの、多分は唾を吐く音から附與せら(165)れた名稱であつて、其領分がちやうど又、前三者の區域を取圍んで居るのである。所謂方言の領域も政治の領域と同じく、侵犯割讓併呑は常の事であつたらしいが、それでも壓迫せられるものは自然に遠くへのくから、變化の激しかるべき中央からの距離の大小は、ほゞ亦流行の古さ新しさを推察せしめるに足るのである。東北地方ではシタキ區域の外廓に、唾をタンベ又はタンバと謂ふ可なり弘い地方がある。例へば秋田市ではタンペ、之に隣接する南秋田河邊の二郡ではタンベ、盛岡市附近ではタンバ、北上川の上流の江刺栗原登米遠田の諸郡ではタンベ、タンペ等がシタキと併用せられて居る。嶺を隔てた山形縣の方にも、米澤と其周圍にはタッペがあり、福島縣でも北部の農村では、シタキとタンペが同じ意味に使はれる。今日では既に痰の訛音だなどゝ、小賢しき者は言つて居るであらうが、その痰といふ漢語が村里にまで入込んで來たのも、實は音の近い日本語が元から存在した爲で、支那の痰が果して我々のいふタンに該當するか否かも、亦決して確められては居ないのである。その上に東北のタンベは唾であつて、所謂タンツワでは無かつた。現に登米郡氣仙郡などは唾をタンペといふ外に、別に痰を意味するタンパがある。秋田縣でも平鹿郡の一部には、スタギ、タンペの外に又ネッペといふ語も併用せられる。ネッペは宮城縣の方に行はれ、或は唾のタンペに對して、痰の意味に使はれて居るかとも思ふが、今一應土地の用法を究めて見た上で無いと確かなことも言はれず、又今は差別が立つて居ても、始めからさうであつたとは斷言できない。
 右のタンベが唾の別種の方言だとすれば、之に比定すべき語は各地に散在して見出される。例へば
  紀州有田郡               チャンペ
  筑後三池地方              ツルベ
  同 吉井附近              シンチャ
  喜界鳥                 ツンベ
  沖繩名護                ツンペ
(166)  沖繩屋良               トンペ
  同 首里・那覇             チンペ
  同 絲滿                チンパイ
  八重山郡小濱島             チンチ
  同 石垣及新城島            チチ
  同 與那國鳥              ツバインチイ
  同 黒島・波照間島           シィン
 是も主として宮艮君の採訪誌に依つたものであるが、此資料の大きな效果は、一方に本土北端のタッペ・タンベの類が、決して一地偶發の訛語で無かつたことを知ると共に、我々の標準語の圏外に在るツヅ及びツワが、實は最初相互の聯路を有つて居たことを想像せしめるのである。人が口からキ即ち液體を發する?態は、之を匍ひまはる位の幼童に形容させても、ツといふか又はペといふかの外には、別に形容のし方も無かつたらう。歌にも詠まれず又心憎い辭令の中にも、用ゐられる場合のない唾などは、たゞ家庭用としては此兒童語を踏襲して居さへすればよかつたのである。ツバキが複合の語であり、理詰めの語であり、又唇をスバと謂つた本來の趣旨を忘れて後に、始めて成立つたかと思はれる點は、共に此語の第二次の發生であつたことを論斷せしめる。だからもし古いから標準語にしてよいといふ類の、迷信を抱く人があるならば、ツバキを排除してツバといふ方に依るがよいのである。がさうなると寧ろツンペと謂はなければならぬことになつてしまふ恐れはある。
 次にツバキが夙に文獻の上に現れたといふことは、おのづから商山の四皓となつて、此語の格式を高めたには相違ないが、京都でツバキと謂ひ東國でシタキと謂ひ始めたことは、ほんの偶然であつて趣味でも鑑別でも何でも無い。理窟をいへば唾は唇の液では無く寧ろ舌の液である。精確さから言つてもシタキ又はクタキの方が正しい。音の響き(167)から謂つても此方が一層耳に快い。都人はギウニクだのブタニクだのといふ俗な語音を、平氣で採用するほどの凡人である。一國の言語を美しくする爲には、いつも彼等の言ひなり放題にもなつて居られない。となつて來ると標準語の基礎はたゞ慣用、その慣用の履歴を作る者は我等である。自分の乳育時の語をたゞ方言と卑下するのも情け無いが、何でも我言葉が一番よいとも思つても居られない。つまり國語を育てるには清らかな感覺が入用であり、又言葉の性質を見わけるだけの學問が入用である。その二つを子弟に授けることを怠つたら、日本の言語は今よりももつと蕪雜にならなければ止むまいと思ふ。
 又無用の辯に流れたが、最後の結論をいふと、ツバとツバキはもと二つの由緒各別の語であつた。それを一度に知つて或は一元かと思つた人々が、雙方をこの類似まで引寄せて、止まつて爭つて居るのである。さういふうちにもツバの方は、唇をツバといふ語のあることをさへ知らずに、我から進んで斯ういふ紛らはしさに陷つたのであるから、或は退却した方が賢こいかも知らぬが、ツワといふ分は響きも面白いのみならず、文獻にも歴史にも相應な根據があり、又ツワルといふ動詞やツワブキといふ名詞などゝも縁を繋いで、ツバキでは勤まらない役目をも果して居るのだから、さう遠慮をせずに出て働いてもよろしいと思ふ。全體一つの事物に唯一つしか語が無いといふ?態を、結構なことだと思ふのからして誤まつて居る。我々は寧ろ成るべく色々な同意語又は近親語を共存させ、一日も早く其中から、下品な不精確な語辭と用法との、消えて無くなるだけの機會を供與しなければならぬのである。シタキもよし、クタケも誤まつては居ない。何れも出て來て共々に、國民好尚の前で競爭して見たらよからうと思ふ。
 
 (追記)
 もとは我邦には單音節の名詞が多く、それを聽き分けることもさして困難では無かつたのが、早口で物を言ふ風習が盛んになつて、色々と工夫をしてそれを長くした。其痕跡が幾つと無く、まだ國語の中に殘つて居るといふことを、(168)近年「語形と語音」といふ一文の中に説いて置いた。唾のツなどもその一つの好い例證である。上方の人たちが木をキー・葉をハー・田をターと引張つて、長母音化によつて存在を明かにしようとして居るやうに、紀州熊野の沿海などは、今でもツーといふのが唾で、しかも複合語だけは涎掛けをツアテといふ風に、短く發音して何の工作も加へてゐないのである。福島縣の相馬郡などは、唾をシタキといふ地方であるが、その以外になほツユといふ名も用ゐられて居る。東北にも曾ては唾をツといふ語があつた證跡かと思ふ。ツヅとはつきり二音節に修めた例が、九州一圓に存することは本文に述べたが、それが海峽を越えて山口縣のほゞ全部から、島根縣の各地にも及んで居り、たゞ其中間にツドといふやゝ珍らしい例が、石見の益田と豐後の東國東郡とから報ぜられて居る。ツワといふ形が中國四國の大部分から、もとは京阪までも風靡して居たことは、恐らくは年をとつた人などの記憶するところであらうが、現在はそれも追々とツバキの影響を受けて、ツバの方へ傾いて行かうとして居る。但しツワの方が古からうとまでは言ひ得るが、是がツワブキといふ草の名や、ツワルといふ動詞の、もとになつたとはまだ斷言できない。或はさういふ語が既に有つた爲に、ツを長めてツワとすることが心安かつたかとも見られるのである。クタキ(口漿)とシタキ(舌漿)とは境を連ねて併立して居るが、前者の構造には少し無理があるから、シタキが既に存した後で無いと、唐突には生れさうには思はれない。しかし少なくとも關東地方に於ては、ツバキは又そのクタキよりも更に後のもので、たゞ前々からキの漿液であることを知つて居た爲に、この西から來た語を受入れやすく、又守持しやすかつたのでは無いかと思ふ。何れにしたところが、この三つの複合語が、共に中世以後の新語であることは爭はれない。即ちその以前には簡單なるツがあり、又もう一つ前にはチンペ・タンペの類が弘く行はれ、それ等はすべて皆小兒かもしくは小兒見たやうな氣持の人々の、素朴なる造語の公認せられたものだつたらしいのである。本文が世に出た後に更に數十箇所の實例が現れたので、もう一度私は當つて見たのだが、別に最初の意見を改訂する必要は認めなかつた。
 
(169)  阿也都古考
 
     一
 
 先日靜岡の葵文庫の講演會で、私は始めて採集と蒐集との差別を説いて見た。蒐集はたとへば春さきに女子供が、籠を下げて蕨や虎杖を取りに行くやうなもので、澤山に取れたのを誇つてよい仕事だが、採集は是非とも植物家のドウランを下げて行く心持で無くてはならぬ。持つて還つて何にするといふことが異なつて居るべきのみで無く、其選擇についても最初から、若干の用意が入用だといふことを述べた。勿論食べたり盆栽にしたりしようといふ人にも選擇はあらうし、又物によつては誰だつても見付けたら皆取つて還らうといふものはある。たとへば民謠は香の高い花のやうなものであり、昔話は赤いきのこのやうなもので、滅多に無いとなると見た者は誰も殘して來ようとせぬであらうが、一方數多いたゞの雜草に至つては、蒐集者は通例全く之を顧みぬに反して、採集者は其中から熱心に有用のものを捜さうとする。雙方の差別は爰に於てか忽ち現れるのである。言語はあたかもその野邊の草の如きもので、日本では昔から言の葉草とも謂つて居た。方言即ち地方言語の採集などは、決して其分量を人と爭ふべきもので無い。即ち豫め少しく採集後の用途を知ること、即ち採集者としての準備が入用であると共に、至つて微々たるものをも輕んぜざる心を持たなければならぬのである。それには書物を讀んで置くことも大切であるが、今まで同じ道に苦勞をした者の經驗談も、氣を付けて聽いて居る必要があるといふことを説いたのである。さうして其後に一例として、斯(170)ういふ小さな、しかも考へれば考へるほど面倒で,又何か深い意味のありさうな、アヤツコといふ言葉の話をしたのである。
 
     二
 
 十年餘りも前から、家の子供がよく使ふので耳に留まつて居たのは、斜めにした十文字、即ち×、斯ういふ形の符號をバッテンといふことであつた。東京の小學生は皆さう謂つて居るが、恐らく教師が別に深い考へも無しに言ひ出したことであらう。西洋人は普通書いた物を消すときに之を用ゐ、又xといふ字の楷書にも近いので、答案の誤つて居るといふ符號にしたものと思ふ。バッテンは勿論罰點で、學校の子供だけにしか通用せぬものとのみ私は思つて居た。ところがつい此頃になつて、もう是が通常の日本語になり切つて居ることを發見したのである。私の近所に東京朝日の住宅展覽會があつて、繪圖を作つて來觀者に分けて居たが、買約濟のしるしに付けた×、是を記者の某君が、このバッテンの附いたのはもう賣れて居るのですと言つた。私は之を聽いて、言語の起りなどは存外無造作なものだと感じたのである。
 バッテンは言はゞ一種の飜譯語である。英語では多分正十字と同じく、是もクロスといふのであらうが、この斜めの十字には別の用途があつたのである。例へば探偵小説などによく出て來る黒手組の合圖の符號、フリイメエソンの徽章、新しいものでは勞農團の紋章、古いものではメメント・モリなどゝ謂つた決死隊の旗じるし等は皆是であつて、西洋ではシムボルとしての一種の歴史を持つて居るが、然らば日本は新たにそれを學んだのかといふと、決してさうでは無かつたので、用ゐ處はやゝ違つて居るけれども、我々の中にも久しい以前からあつた。是から氣を付けて見られたならば、あゝ斯んな處にも使つて居るといふ例が幾つか出て來ることゝ思ふが、東京などでは路傍の砂利置場、又は舶着場の石炭の山などに、白い石灰液か何かで大きな×を描いて居るのを今でもよく見かける。
(171) 何と無くさういふものを描くのかも知れぬが、是にも亦古來の習はしが隱れて居るらしいのである。例へば正月に歌がるたに負けた者、追羽子に負けた大きな男たちが、顔に描かれる負けのしるしも、往々にしてそれであつた。さうすると最初の問題は、それ以前の日本語では何と是を謂つたか。まさか昔からバッテンとは謂はなかつた筈であるが、そんなら何といふかと考へて見ると、それを手短かに謂ひ得る人は少ないのである。私は實はよほど前から、斯んな小さな言葉を捜しまはつて居る者であるが、今尚京都東京でそれを何といふかを知らぬので、恐らくは早く忘れてしまつたまゝになつて居るのだらうと思つて居る。九州四國又は島や山の中には、まだ殘つて居るかと思つて氣をつけて居るが、東北だけは確かに在來の日本語があつて、之をヤスコと謂つて居るのである。青森岩手の二縣の人ならば、誰でもまだ覺えて居るし、秋田にも其語を知つて居た人があり、會津でも使ふといふ話である。やはり主として正月の遊び事に負けた方への制裁として、恥を見せる意味で、半ば戯れにしか行はぬことになつて居るが、元は刑罰の入墨などの、顔に×を刻印する場合にも、ヤスコと謂つて居たのでは無いかと思ふ。といふわけは津輕あたりの一種の諺に、あれは評判の男ぢや無いかとか、又は既に定評ありとでもいふべき場合に、「あいつはもうヤスコ付けられて居る」などゝいふので、大抵はよく無い方の意味に使はれて居ることがわかるのである。
 しかも土地の人たちも、何故に之を「ヤスコ付ける」又は「ヤスコ掛ける」といふのかは説明することが出來ぬやうであつた。私は久しく其ヤスコといふ語の起りを考へて居た。或はアイヌ語ではないかと思つて見たり、又信州などで正月に神樣に物を供へる藁製の小さな容器を、ヤスコと謂ふのと、關係は無いかと考へて見たりした。東北は一般に名詞には末にコを添へるから、此語も元はヤスであつたかも知れぬと思つたのである。しかし此想像は當つて居なかつた。杜陵方言考といふ書物は、盛岡の方言の由來を説かうとした小本村司といふ老學者の著であるが、其中に此ヤスコの事が述べてある。それは獨り歌がるたの負けわざばかりで無く、著者の若い頃までは夜行の小兒、額にヤスコを描いて出すのが、常の習ひであつたさうで、小本翁は明治三十七年に大分年を取つてなくなつた人だから、少な(172)くとも今から八九十年前までは、盛岡市でもさういふ言葉が、或呪術上の意味を有つて居たのである。
 杜陵方言考の著者の發見では、ヤスコは中世京都の上流に於ても行はれた慣習で、その元の語は阿也都古《あやつこ》であつたといふので、其證據として安藤爲章の年山紀聞に引用した大府記の文を又引いて居る。安藤氏は有名な水戸の學者で、紫女七論などの著者であるが、右の文には只小兒の額に犬の字を描くことを、昔はアヤツコと謂つたらしいと述べただけで、奧州にヤスコの風習の今も殘つて居ることは知らなかつたのである。之を心付いたのは確かに小本翁の功績で、私は此説は多分當つて居ると思ふ。
 
     三
 
 今日傳はつて居る雲上人の日記は、色々斯ういふ大切な資料を含んで居るのだが、まだ索引のやうなものが出來て居ないので、何か一つの事を見つける爲には、片端から讀んで捜さなければならぬ。この阿也都古といふ語なども、他にもありさうなものだが、今はまだ類例が見當らぬのである。それでもう一度年山紀聞の文を掲げて見ると、堀河院の康和五年八月二十七日、春宮亮であつた藤原爲房の日記に、
  東宮高松の第に遷御、戌の四刻御出、宗通卿御額に犬の字を書き奉る、先日は女房奉仕せり。
とあり、其子の左少辨であつた顯隆といふ人の同じ日の日記には、
  戌の刻行啓、阿也都古を書き奉るべき人の事に依つて、予を以て御使として院に申さる。
とあつて、明らかに御額の犬の字のことを阿也都古と謂つて居る。だからヤスコといふ語がそれから出たらうといふ推定は、先づ大よそ根據があるのである。或はそれを疑はんとする人は、一方は犬の字、他の一方はたゞ斜め十文字で、物がちがふでは無いかと言ひさうだが、是は漢字の犬といふ字を人が學ぶまで、日本にこの習慣が無かつたものと想像しなければ起らない疑ひである。文字を知らぬ人には、幾ら簡單でも犬の字などは書けない。さうして田舍の(173)人が大部分字を知らなかつたのは、近頃までの事實であつた。犬は丈夫に育つものだから、もしくは犬は魔物を防ぐ力があるからといふ風に、專らこの漢字の内容に重きを置いて解説するのが、近頃までの學者の因習であつたが、さうすると多數の人のせずには居られなかつたまじなひの法が、學問ある少數の新らしい人から教へてもらつたものだといふことになる。そんな事では絶對に民俗は始まらないのである。新らしい學問は寧ろ斯ういふ舊習を止めさせようとして居たのだが、それでも止められなくて尚永く行はれるのである。京都の上流でさういふことを、特に新規に發明せられたにしたところが、それが國の端々にまで眞似られて行くといふことは有り得ないと思ふ。之に就てちやうどよく似た例は、私の家はもと河村氏で、家の紋は丸に大の字であつた。どうして斯んな紋を付けるのかと不審に思つて、先輩に尋ねて見ても解らず、又各地の河村氏の紋を注意して居たが、それも一向心當りを得なかつた。ところが先年遠州の相良に遊びに行つて、縣の有名な教育家河村多賀造氏に逢つたところ、此人は遠江金谷の河村家で、やはり私の家と同樣に、相州足柄の河村から立退いたといふ言ひ傳へを持つて居り、其家紋は丸の中に二つの圓周の斷片を打違へたもの、即ち曲線のヤスコであつた。世にいふ「輪ちがひ」の二つの結び目を、更に第三の輪で切り取ると此紋が出來るので、同家では之を「ちがひ橋」と謂つて居るさうである。如何にも橋の形をした二つの線を打ち違へたものに相違ないので、始めて自分の家の紋が大の字に化して來た順序が解つたやうな氣がした。それから氣を付けて見ると、家紋には此ヤスコ式のものが、他にもまだ幾つか見出される。其中でも最も世に知られて居るのは鷹の羽の打ちちがひを、左を上にしたり右を上にしたり、それ/”\の由緒を語り傳へて居るのがある。河村一族の意匠は其線を少し曲げることであつたのが、私の家にはやゝ早くから大の字を知つて居る者があつて、「大」は結構だから圓に大の字としようといふことになつたものと思はれた。
 
(174)     四
 
 それから今一つの疑問は、宮參りの赤ん坊などに額に犬の字を書くのは必ず紅《べに》であるが、奧州のヤスコなどは墨で書いて居る。此點が同じで無いと思ふ人もありさうだが、是とても同樣に紅の文化の輸入より、額に字を書く風習の方が後だときめてかゝらねば、言はれない疑ひである。紅を化粧に使ふことが始まる前、もし斯ういふことをしようとすれば、他の目に立つ色を使ふのは是非がない。尋常の農家に有合せの繪の具としては、墨も墨、鍋墨が先づ唯一のものであつた。紅が無かつた時代には、世の中一般に先づ是であつたらうと思ふ。
 鍋墨はしかも火の神の保護のしるしであつたらしいのである。東北にも同じ信仰があつたやうに記憶して居るが、九州の方には確かに其實例が幾らでもある。たとへば夏の日子供が川へ水浴びに行くとき、親は其兒の額に鍋の墨を塗つてやり、之をば「荒神樣を拜ませる」と謂つて居た。河童が出て來てしきりに相撲を取らうといふので、家に還つて荒神樣を拜んでから出て來てさあ取らうといふと、おまへはそんな墨を附けて來たから御免だよと言つて、往つてしまつたといふ類の話が、幾らでも傳はつて居るのである。獨り魔除けの防衛手段のみならず、元は更に幸運を招く爲の積極的なまじなひでもあつたと見えて、赤子には生れると直ぐに、此墨を額に附けたのであつた。昔話によくいふ山の神の話を立聽した話、夜中に假宿りをして居る祠の神さまの處へ、外から馬に乘つて來て聲をかける者がある。今から何村の御産の家に行つて、生れ兒の運をきめてやりませうといふと内から、今晩は客があつて私は行かれません、どうかよろしくと斷りをいふ聲がする。やがて歸つて來る馬の足音が又立ち止まつて、今しがたあの何村で男の子と女の子を生ませて來ました。男の子は乞食の運、女の子は長者の運と言はれたといふ類の話であるが、それを鹿兒島縣の奄美大島、又沖繩縣の宮古島などでは、女の兒は額に竈の墨を塗つて居るから富貴になる、男の兒の家ではそれを怠つたから貧乏をする、といふやうに話して居るので、是が又内地の方でも以前は竈神の神話であつた。(175)即ちヤスコを書く繪の具は、單に紅では無かつたといふのみで無く、なほ是非とも鍋墨の黒でなければならなかつたのである。
 それにはまだ一つ注意してよいことがある。黒子は今日の標準語ではホクロだが、尾張の周圍から弘く東日本の隅々にかけて、地方語はフスベ・ホソビ又はクスベであつた。芭蕉の「冬の日」の誹諧に、瘤をフスベとあるのは誤りであつた。それから一方には又鍋墨の方言をホソビ・ヘソビもしくはヘチョビと謂つて居る地方も弘いのである。この二つの語は元は一つでよかつたかと思ふ。それが縁が遠くなると共に、二つの語は音で少しづゝ分化して行つたけれども、尚ホクロの方に寧ろ「燻べる」といふ語に近いフスベ・クスベが殘つて居るのである。是も恐らくは曾てフスベを以て顔に描くのを常としたが故に、生れながらの黒子にも其フスベといふ語が殘つて居るのだと思ふ。勿論額にかくものゝ形は、必ずしも今日のヤスコ即ち斜め十文字とは限らず、單に指の尖でちよつとなすつたものも多かつたであらうが、人が確かに墨を附けたといふことを意識するには、自然に二度になり又十文字になるべきものであつたらうと思ふ。眉を畫くといふ化粧法は、支那には非常に古くからあつたから、是は輸入であるかも知れないが、それと所謂ぼうぼう眉とは元は關係がなかつたやうである。今でもわざ/”\眉は剃つて置きながら、それよりもずつと高い處に、殆と眉とは思はれぬやうな形を、墨で描いて居るおちご樣が多く、或は眉は其まゝにして置いて、別にさういふ高眉を作る例さへある。さうして是が神の御祭に仕へる少年の一つの徽章であつた。否、時としては徽章以上の大きな效果をさへ持つて居た。土佐の或古い社の祭には、大行事と名づけて幼童を馬に乘せ、行列の中心にして練りあるく式があつたが、其兒は顔に白粉を塗り、この高眉を畫くと直ぐに睡りに入り、御祭が終つて其化粧を拭ひ落すと、又直ぐに眼を覺ましたといふことである。果して其樣な心理現象が有り得るものかどうか。右とも左ともまだ今日は裁決することが出來ぬが、兎に角にさういふしるしを額の上につけて居る間は、神の子として尊敬せらるべきものだといふ信仰があつたことだけは事實であつて、其|黛《まゆずみ》も勿論墨であつたのである。
 
(176)     五
 
 生れ兒の初めて宮參りをする場合は固より、奧州九州で小さな子の外出する際にも、いつもアヤツコを描いたといふ慣習は、どうやら是で略わかつたやうに思はれるが、それでは却つて不可解になるのは、勝負に負けた者や罪のある者の顔に、同じヤスコを描いたといふ理由である。外國の學者には、是が久しい間の難問題であつた。歐羅巴では普通此事をタプ又はタブーと謂つて居るが、其語はもと太平洋の或島の人の用ゐて居る語であつた。餘程氣を付けて見ても白人の國には、現在はおろか過去にも之に似たことは少なかつたのであるが、東の方の別世界に來て見ると、その思想は殆と何れの島にも行き渡つてあつた。さうしてどこでも皆日本の通りに、すぐれてけだかいものと、ごく惡いものとの兩方に、同じやうなヤスコの待遇を與へようとして居たのである。どういふ理由でさうするかといふことは、實は我々にもまだ説明が出來ないのだが、何にもせよヤスコは普通の物から引分けて、別にして置くといふ徽章であつて、それを無視して強ひて手を觸れた場合の災ひは、雙方ともに同じことであつたのである。日本でも白人の口眞似をしてタブーなどゝ言ふ人があるが、國には昔からイミといふ立派な國語があつた。それを飜譯した漢語の忌といふ字からも、大よそは此心持を汲むことが出來る。たとへば女の血の忌、死者に近づいた者の穢れも忌であれば、神を拜まうとして精進潔齋して居る人の清さも忌である。其忘を侵した者は必ず身に罰を受けた。近頃では忌中などゝいふと、主として不吉のことだけに限るやうになつたので、人によつてはタブーの方を齋忌といひ、自分なども禁忌といふ字を使つて居るが、純なる日本語に戻せば雙方ともにイミといふ他は無い。中世の文學には物忌といふ語がよく見えて居る。人が特別に色々のイミを守らなければならぬ?態をいふのが其一つの例で、祭に奉仕する者が、すべての外から來るものを避けようとする場合に、竹を立て注連を張り、紙に其わけを書いて貼つて置くのを物忌の札と謂つた。次には常にさういふ任務に當る者を、又物忌といふこともあつた。伊勢で物忌の父又は物忌の母といふ(177)名稱のあつたのは、彼の娘が物忌の役を勤めて居たからであり、鹿島では内陣に奉仕する第一位の巫女を又物忌と謂つて居た。それから第三には又特別に清き物、即ち神の用にしか立てない物に、取付けて置く一種の徽章をも物忌といふことがあつた。大甞會の御式に參加する官人は、其禮服の上へ小忌衣又は大忌衣といふのを着たが、其衣の袖には山藍を以て或植物の形を摺つてあつた。或は又葵草とか桂の枝とか、其他作り花などを物忌に付ける例もあつたが、別に美しい絲を紐にして、結んで垂れて置くこともあつた。單なる装飾の藝術以上に、紐の結び樣にも色々なつかしい作法のあつたのは、日本の一つの國風であつて、今でも贈り物の水引だけには殘つてゐるが、つまりは是もヤスコの最も複雜になつた場合である。西洋の學者には、行爲のタブーとか言語のタブーとか、面倒な分類をする人もあるが、それも結局はすべてこの物忌に歸着する。人間をも含めた有形物は、すべて一定の條件の下に忌むことが出來たので、言葉や行爲の忌まれるのは寧ろ其結果であつた。日本の人は過去の自分の生活の中から、幾らでも其法則を知ることが出來たのに、やたらに他國の人の言ふことを聽く爲に、却つて話が面倒になつて來るのである。受賣をする前に先づ自國のアヤツコを考へて見なければならぬ。
 
     六
 
 阿也都古の斜め十文字は、恐らくは是ももとは草の葉を引結んだ形であつたらうと思ふ。兎に角にそれが占められ指定せられて居るといふことを、標示しようとした徽號であつたことだけは確かである。京都の北山の松蕈山などに行つて見ても、丁寧なのは周圍に繩を繞らしてあるが、中には林の入口の二本の木だけを、藁なり萱なりで縛つて置いて、無用の者入るべからずの意味を表したものもある。正月には家々は皆齋場となるが、神官の家でも無ければもう「しりくめ繩」は引渡さず、大抵は大戸の上に大根注連や輪注連を下げて置く。山で樹を伐つて流す人たちも、萱は結んで置いても却つて解けるから、大抵は鉈の刃を以て材木の片端に簡單な切り形を附けて置く風がある。それを(178)山じるしなどゝ謂つて、家の數が多くなると其符號も稍複雜になるが、元は何でも無い二本の棒の組合せであつた。後に文字を用ゐ燒印を代りとしたけれども、今でもカネだの山形だの入山形だのと謂つて、最初は×に近いものであつたことを示して居る。動産所有といふ法律思想の如きも、起りはすべて皆このヤスコである。
 つまりは是さへ附けて置けば、人も鬼も憚つて近よらぬ時代があつたのである。單なる徽章ながらも唯是によつて元の力を知る故に、終には徽章其ものに靈があるが如く、考へるやうになつたのである。此地方でも多分行はれて居ることゝ思ふが、九字と稱して縱横各九本の直線を書いた祈?札を門口の上などに貼つてあるのも、修驗道の人たちは臨兵闘者皆陳列在前などゝ、わからぬ説明をしたがるが、實は八八六十四箇のヤスコの結合であつた。東京近くの農村ではヤウカビと謂つて、十二月と二月の八日の前夜に、笊や味噌こしを家の入口に吊して置き、其晩は一つ目小僧樣といふ恐ろしい鬼が來るが、笊の目の數の多いのを見て負けて行くなどゝ言つて居る。是などは其九字よりも一層手のこんだヤスコである。伊豆の大島などで日忌といひ、又は海難坊などゝいふのは、舊正月二十四日のことで、是もよく似たまじなひをして惡魔を拂ふと云ふ。或は目かひ又は目籠といつて、竹を斜めに組合せて作つたものを竿の上に引掛け、惡い神が其目の組み方に氣を取られて、人を害する計畫が留守になるといひ、或は又其元だともいふ晴明判、即ち三角を上下にして組合せた〓こんなものを書いて戸口に貼り附け、非常な魔除けの力があるやうに考へるのも、基づく所はやはり是であつたらうと思ふ。
 獨り日本ばかりでなく、外國にも同じやうなシムボルはあつた。誰でも知つて居るのは基督教の十字、及び是と必ず關係があらうと言はれるスワスチカ即ち佛教の卍字なども、今ではどういふわけであの通り大切にせられて居るのか、諸説紛々といふ?態であるが、此方のアヤツコがもし詳しくわかつたら、事によると遠い上代に溯つて、意外な新らしい解説が付くかも知れない。しかもあちらの學者たちがもう久しくかゝつて調べて居ることだけを、飜譯して受賣して見たところで始まらない。そんな事をする時間があるなら、將に消えて行かうとして居る我々の同胞の、自(179)分たち固有の十文字に對して、大昔以來抱いて居た感覺を、片端なりとも採集して置く方がよいのである。
 私の希望は最初に先づアヤツコといふ言葉の今まで用ゐられて居た實例を、記録の中からなり、活きた方言の中からなり、もう少し集めて見ようといふことである。どうか諸君の注意と援助とを得たいものだと思ふ。アヤツコのアヤといふ語だけは、大よそもう意味がわかつて居る。危しとか過ちとかいふ場合のアヤも、多分は人力以上といふところから出て居るのであらう。靈怪をアヤカシといひ、それに觸れたる放心?態をアヤカリといひ、從つて今は馬鹿のことをアヤカリといふ土地もあるが、何れも神變不可思議がアヤであつた結果と見られる。古代を尋ねて見ると、今日の漢字萬能時代に、神聖とか崇高とかいふ文字で現はす感じ、もしくは俗語で只「ありがたい」などゝいふのと同じ意味に、アヤニカシコキといふ語を用ゐて居た。アヤは最も精巧なる織物の組織から出たかの如くいふ人のあるのは逆な話である。もしさうならば呉織《くれはとり》・漢織《あやはとり》の來朝せざりし以前、即ち綾羅無き前代にはそれを何と言つたか。文章の章も藝術の妙も、我々はたゞ眼もアヤなりと謂つて感じて居たが、それは以前から心にアヤといふある感じを解して居たからである。即ち心靈の動きの方が、文藝や技術よりは前であつた。さうしてその最も古い起りは、恐らくはアヤは驚歎する者の自然の聲を寫した音であつたらうと思ふ。
 
 (追 記)
一、寛政二年の自序ある服部此右衛門の御國通辭は、やはり盛岡とその周圍の方言を解説したものだが、此中にも次の如き一條がある。
  ヤスコ  犬の子、ヰンノコ、黄昏に墨を小兒の額に點ず
 即ち小本氏の万言考よりも百年近く前に、ヤスコが中央部の「犬の子」の風習と同じであることを知つて居り、又墨で犬の字を書く風も行はれて居たのである。「方言と土俗」第五號に、九戸郡長田村などでは、赤子は生後二十日か(180)ら三十日までのうちに、オボミチ(初道)と稱して之を近親の家へつれて行くが、其時には額に×を描いてやる。さうすれば其子に魔がさゝぬといひ、之をヤツコと謂ふとある。現在も恐らくまだ此風は殘つて居ることゝ思ふが、それと一方の負けじるしのヤスコとは、或は二通りに分けて呼んで居るのでは無いか。あちらの人たちに注意していただきたいものである。ヤツコが阿也都古の訛りであることは是で明かだが、それをヤスコとも又ヤシコとも謂ふ者が多くなつたのは、多分は却つてヤツコの方を、訛りのやうに誤解した人が多かつた結果であらう。
一、阿也都古の語を用ゐた例は、前の大府記以外にはまだ發見し得ないが、初出の嬰兒の額に犬の字を描くといふだけは、中世の記録にまだ幾らも見出されることゝ思ふ。たとへば大日本史料五編七卷に引用した民經記、寛喜三年十一月十一日東宮始行啓の條にも、
  大殿犬の字を書き奉る………書き奉る人は御共に參らざること、長治三年の爲房卿の記に見ゆ
ともあつて、是は又前の爲房の日記とも別の日のことで、共に此時から百二十餘年前の先例が守られて居るのである。果して東北の方にもヤスコを書いた人が家に居殘るといふ慣習は無いかどうか、是も一度は尋ねて見たいものである。
一、愚か者をアヤカリ又はアヤといふ言葉は、方言とは言へないほど全國に分布して居るが、都會に色々の新らしい語が出來て居るばかりに、地方の人たちは遠慮をして罷めてしまはうとして居る。しかし一方には是が初めから、馬鹿だけをさう呼んだ語だつたかどうかは問題である、易林本節用集には、靈體といふ漢字をアヤカリに宛て、今でも濱名湖周圍の村のやうに、畸形兒をアヤカリと謂ふ處もあり、又群馬縣の北部の如く、慌てることをアヤケルといふ例もある。怪のアヤシム、危のアヤフシなどゝ、此方が一段と近く感じられる。
一、この頃まで氣が付かずに居たが、アヤツコが犬の字に化したのも新らしいことではなかつた。塵袋卷五に、「小兒の額に犬の一字を書きてアヤツカクといふ、犬の字の訓みか如何」といふ問に對して、「アヤツはあのやつなり。人ならぬものを斯くいふ習ひなれば、犬に准じて小兒のひたひに犬をかく。……犬の字アヤツと訓むには非ざるか、犬(181)を逐ふにもアヤツと謂へばその心か」と説いて居る。記録には明かに阿也都古とあるのだが、もう此書の出來た頃の京都には、是をアヤツといふ人が多かつたのかと思はれる。國史大辭典に、昔は犬の子をアヤツカウトと謂つたとあるのは誤りで、多分この塵袋の惡い寫本に依つたのであらう。その上に是を陰陽家の呪術だと言つて居るのは當てずつぽうの説である。
 
(182) 鍋墨と黛と入墨
 
     一
 
 誹諧「冬の日」の初雪の連句に、
    縁さまたげの恨み殘りし           翁
   口惜しと瘤をちぎる力無き           野水
とある「瘤」の字に、フスベと傍訓してあるのは誤りであらうと、前の阿也都古考の中に斷定したのは言ひ過ぎであつた。フスベは伊呂波字類抄にも「附贅 フスベ」、其手本にしたと思はれる倭名鈔にも、「附贅 俗云布須倍……懸疣 佐賀利布須倍云々」とあつて、近代の辭書類は共に皆之に據つて居る。所謂文語としてならば、コブをフスベと謂ふのも不當とまでは言へない。但し蕉門の誹諧は大體その作者たちの故郷、即ち京以東江濃勢尾あたりの俗言を用語として居ると思ふのだが、其方から見ると是は實際と合はぬ言葉使ひであつた。伊賀・伊勢・近江などには、或はフスベといふ方言は無いのかも知らぬが、美濃から東ではフスベは黒子《ほくろ》のことである、ちぎり棄てることの出來ぬものである。尾張の野水がどうして斯んな漢字を宛てたものか。誠に合點の行かぬことである。
 黒子を現在フスベと謂つて居る土地は、自分の知つて居るのは名古屋市を始めとし、西春日井・丹羽・知多の各郡、美濃では岐阜と稻葉都、及び山縣・武儀・加茂の諸郡など、方言誌にすべて明かに掲げられて居る。飛騨でも嶺南の(183)益田郡だけは、美濃と同樣にフスベであるが、高山以北殊に吉城郡の各村はスベと謂つて、頭のフ音が落ちて居る。信州に此例のなほ存するや否やは未だ確かめて居ないけれども、此語の使用はずつと東の方に延びて居る。同じ愛知縣でも三河國へ來ると、碧海郡も北設樂郡も、共に黒子をクスベと謂ひ、たゞ南設樂郡誌のみは、クスベは黒痣のことだと報じて居る。それから靜岡縣には黒子をフスンベといふ土地もあるといふが、それはどの邊であるか私は知らない。遠江小笠郡では之をクスンベ、又はクスンベー、其周圍の榛原・周智・磐田・濱名の諸郡の如きは、方言は何れもクスベである。フスベとクスベの本來一語であることは、之を推斷してもほゞ危險は有るまい。といふ理由は次に述ぶる如く、是から更に東に進んでも、同じ系統の語が分布して居る上に、フ音とク音とが、前には今よりも遙かに紛れ易いものであつたことは、各地の實例からも之を證明し得るからである。東京の近くでは千葉縣の市原郡以南に坂をサハ、池をイヘ、凧をタホといふ如く、一切のK音をH音に發音する顯著な例もあるが、それと同じ傾向は能登半島の端の方又は奄美諸島にも認められる他に、一つ/\の例ならば飛び/\に諸處に殘つて居る。たとへば鱗のコケと同じ語であつたらうと思はれる頭垢のフケなども、出雲と岡山縣の諸都と飛騨の北部に於て、共に之をクケと呼んで居るのである。それから今日は既に分化して、幾分異なる意味を持つに至つたが、竈のクドと爐の中央部のホドも、入り交つて全國に行はれて居るのみならず、現にフスベの起りに最も縁の深いフスベル(燻べる)といふ動詞なども、時としては同じ人が之をクスベルとも謂ふ位で、今でもまだ二つの語とまでは考へられて居ないのである。
 フスベは右に列擧する如く、僅かに唯一箇處の「黒痣」と報ずるのを除けば、現在はすべて黒子のことである。博く捜したら反對の例も出て來ぬとは限らぬが、少なくとも我々の知つた今日の日本語では、瘤をフスベといふ事實は無いやうである。しかも一方には荘子の所謂附贅懸疣を、布須倍に宛てた倭名鈔の記載がある。乃ち古書と之を採用した辭書類が正しくて、國民は到る處皆誤謬に陷つて居るのであるか、もしくは漢字輸入の當時、その一々の原義を捉へるに疎であつたか、但しは又始めフスベは瘤であつて、後に黒子に移るべき特別な理由でもあつたか。何れにも(184)せよこの撞着、書物と現實との矛盾は解説せられねばならぬ。さうして我々は自分で觀察した事實を、如何に處埋するかを學ばねばならぬ。問題は決して一つの小さなホクロの問題では無い。
 
     二
 
 曩に自分は阿也都古考の中に於て、小兒の額に紅《べに》で犬の字を描く慣習には、必ず紅以前「犬の字」以前があつたらうといふことを論じた。さうして鍋墨が黛の顔料であり、從うてフスベはもと人工の黒子であつた故に、是に瘤の字を宛てたる「冬の日」の一句は、誤りと見るの他は無いと述べて置いた。現在利用し得る我々の資料だけでは、其斷定は恐らくまだ早いといふ評があらうが、少なくとも是を支持するかと思ふ四つほどの事實は見つけて置いた。それを稍詳しく爰に列記して、偶然に殘留した日本のフオクロアが、どれ程まで我々の前代囘顧を助けてくれるかを一考して見たいのである。資料の一つは地方語の著しい一致である。東京と其周圍の可なり弘い區域では、痣をアザと謂ひ黒子をホクロと謂ふ點は、京都風にもう久しくなり切つて居るが、それは最初から其通りでは無かつたやうに思ふ。伊豆の八丈島では今も三河風にクスベと謂つて居るのも注意すべきだが、僅か東に行つて利根川の流域まで出ると、もうホソビといふ語が始まつて居る。自分の調べて見ただけでも、黒子をホソビといふ領分は中々大きい。先づ千葉縣では印旛香取の二郡は確かにさうであり、川を渡つて常陸の南部から、北は縣境の多賀郡にも此語がある。栃木縣も東に寄つた芳賀河内の二郡にはホソビがある。福島縣では北會津・耶麻・大沼の三郡共にホソビ、大沼郡では又ヘソビとも謂ふさうである。宮城縣では北部の玉造郡などに、黒子をクロボシといふ方言もあるが、そこでも他の各郡と共に、ホソビと謂つても通ずるのみならず、古くは享保五年に出來た「仙臺言葉」にも、亦ホソビといふ語が載せられて居る。他の奧羽の四縣の事實は、不幸にしてまだ尋ねられないが、秋田縣などにはホクロは無く、アザといふ語を以て雙方を包括して居るから、此區域には又別の語があるらしいのである。
(185) 黒子のホソビは中部地方のフスベと近い上に、他の側面に於ては又鍋墨を意味する方言とも、大よそ同じ程度に接近して居る。鍋墨は青森縣誌にはヘチョンベと出て居るが、それは多分青森市の事實で、其四周にはヘチョベ又はヘチョビといふ處もあり、北津輕郡ではヘチョグとさへ謂つて居る。「へそ灰の義か」などゝ謂つた人もあるが、そんな事を謂つて見たところで、やはりヘソが解らないのである。南部領は一般にヘソビといふらしいが、仙臺領以南は何といふか知らぬ。日本海側では南秋田・山本の二郡がヘソンベ、平鹿郡はヘソンビ、山形縣に入つて最上郡ではヘソビ、莊内地方もヘソビ、嶺を越えて會津の各郡も亦ヘソビだから、爰で大沼郡などの黒子をヘソビといふ語と合致するのである。會津方面の人に就て匡したいのは、鍋墨と黒子とのヘソビは全然の同語二義か、但しは抑揚等を以て差異を設けて居るかといふことであるが、何れにしたところで兩者の關係あることは想像してよい。それと同時に美濃・尾張のフスベなども、土地の使用者たちの感じて居るやうに、直接にフスベル又はクスベルの動詞から出た語では無くて、別にフスベといふ黒い物、もしくは顔を塗る物の名詞があつて、それに基づいたといふことも考へられるのである。但し近代は鍋のスミ釜のスミといふ語が普通になつて、之をフスベといふ語はもう見當らぬが、稀には靜岡縣の駿東郡のやうに、煤をヘスビといふやうな例も殘つて居る。ヘスビは東北地方の同系語よりも、幾分かフスベ・クスベの方に近くなつて居る。
 
     三
 
 第二の資料として私が採集したのは、別に標準語のホクロといふ言葉と、縁を引くらしい鍋墨の方言である。ホクロは「耳で聽く國語」としては可なり弘く行はれて居るが、之を口にする者は存外に多くない。少なくとも現代はフスベ・ホソビと謂ひ、或は痣と混同してアザと呼んで居る地方の方がずつと弘い。さうして其ホクロの起りも亦たしかでは無いのである。倭名鈔には黒子の日本語は波々久曾とあり、伊呂波字類抄には黒子・靨子・痣を列記し、共に(186)ハハクロ及びハハクソの二訓を付興して居る。だから或はハハクソが轉じて、ハハクロになつた如く考へた人もあるか知らぬが、さうとばかりも速斷し難い。ホクロは奈良縣ではフクロ又はフックリ、或はホックリといふ土地もある。駿河の富士郡では「そばかす」のことをハークロ、甲州の勝沼邊は之をハアクロと謂つた。即ちフスベ・ホソビの如く、尚地方に於ける語音變化、及び其内容の差異をよく比べて見る必要があるので、もし倭名鈔に黒子をハハクソとある故に、ホクロは即ち古い日本語だといふ者があるならば、それは幾分か耳を把つてはなをかむの謗りを免れぬと思ふ。ハハクロといふ語は既に愚管抄にも見えて居る。其形が倭名鈔の波々久曾に同化せられたといふことは想像し得るが、少なくともクロといふ語は獨立して意味がある。九州では東北のヘソビに對して、鍋釜の墨をヘグロといふ方言が行はれて居る。島原半島から五島・平戸にかけてはヘグラであるが、佐賀縣にはヘグラといふ人とヘグロといふ人とがある。壹岐島も山口君の方言集に依れば、鍋釜の墨をヘグロ又はヘグラと謂ひ、之を顔や足に附けたのを「ヘグロトッチョル」と謂ふさうである。熊本・大分等の例はまだ聞かぬが、「日向の言葉」には彼地方でも亦ヘグロといふとある。但し現在は會津地方のやうに、直接に之を黒子を意味する語として、使つて居る例はまだ聞かぬが、標準語のホクロ又はハハクロは、寧ろ波々久曾よりも此方と太く聯路の筋を引いて居るかと思ふ。
 
     四
 
 九州に於ける黒子の方言には、今まで誰も注意しなかつた重要な變化がある。同じく鍋墨をヘグラ又はヘグロといふ地方でも、肥前の佐賀や島原半島などでは、黒子はホヤケであり痣はアザであるが、それから南の方の諸縣に於ては、ホヤケは則ち痣を意味し、アザと謂ふ方が黒子のことになつて居る。たとへば姙婦が火事を見ながら身を撫でると、生れた兒の體の其部分に痣が出來るといふことは、殆と全國共通の俗信であるが、豐後の大野郡などでは是を「ホヤケが出來る」と謂つて居る。熊本縣でも宇土郡玉名郡共に、ホヤケは痣であり、アザは黒子のことである。筑(187)前の戸畑なども痣をホヤケと謂ひ、博多ではヨミアザといふ語があつて、「顔の小アザ」のことだと彼地の方言集には報じて居る。ヨミアザ又はヨメアザは玉名郡誌と宇土郡誌に、共に「そばかす」のことを謂ふとある。多分婦人が嫁となる年頃に、顔に出來るアザといふ意であらうか、此アザは確かに東京などのアザでは無く、小さなぽつ/\のことを謂つたのである。之に反してホヤケは鹿兒島縣に於ても、肌膚のしみのことだといふから、即ちアザとホヤケとは九州の南北に於て、ちやうど其用法を顛倒して居ることになるのである。
 此事實は自分等に取つては、同時に又フスベといふ語の内容の混亂を、解釋する暗示にもなるのである。黒子をアザといふ方言が秋田縣の或郡と、九州も南の方の熊本縣などゝ一致して居るといふことは、是だけからでも私の方言周圏説を裏書するが、それが更に南の方に延びて、奄美大島の加計呂麻島でも黒子をアダ、沖繩本島でもアザは黒子、南の果の八重山群島に行つても、石垣竹富鳩間の各島は皆アザである。但し此中にも痣に對して、別にホヤケといふ類の獨立した語のある場合と、黒子も痣も總括して共にアザといふ土地とが有るかと思ふが、まだ今日ではそれ迄の調査が出來て居ない。四國に於ては愛媛縣の周桑郡、南北宇和郡、高知縣の幡多郡は何れも黒子のことをアザといふ地方だが、其アザが兼て痣をも意味して居ることは、最後の土佐の例だけしか確かめられて居ない。察するに伊豫の方の人たちは、痣をアザと呼ぶは標準語の通りである故に、報告の要無しとして採録しなかつたのであらうが、此場合には實際は明示することが必要であつた。
 手短かにいふならばアザといふ日本語には、目下地方により三通りの内容がある。其一は羽後河邊郡や土佐の中村の如く、痣も黒子も共にアザといふもの、其二は九州の大半から沖繩の諸島のやうに、黒子だけに限つてアザといふもの、第三は即ち弘く舊日本の大區域に亙つて、痣即ちぽつ/\で無い肌膚の變色のみをアザと謂つて居るものである。所謂匡正派の方言研究者は、前の二者を田舍者の心得ちがひに基づくものゝ如く、今までは盲目的に考へて來たが、私に言はせると此以外にもう一つの考へ方がある。即ち以前は一つの語を以て痣黒子等似寄つた色々のものを言(188)ひ現はして濟んだのが、それでは不精確と感じて追々に差別の法を設ける場合に、わざ/\形容詞等を添へて長たらしくせずとも、丁度適切なものが見つかればそれを採つた。だから痣の方に新語が出來たり、又黒子の方に別名が出來たりしたといふことである。即ち大體に弘く國の兩端に及んで居る第一の場合が、古くからのものと推測することが出來るので、ホヤケやホクロやホソビなどの如く一局部に割據して居るものは、假に中央部に千何百年前から存在しようとも、尚是を平安朝期の新語、もしくは奈良時代の流行語と見ることも出來るので、我々にはさういふ大膽なる想像も、事情さへ明かになれば、決して無理なものとは言へなくなるだらうと思はれる。
 
     五
 
 フスベが瘤よりも黒子の方に當つて居るといふ論據の第三は、既に阿也都古考に擧げてある。即ちヘソビ又はヘグロといふ名のあつた鍋墨を以て、小兒の顔に人造の黒點、もしくは黒斑を付與する式が普通であつたならば、アザの或一種の新語として、之を用ゐたのも不思議は無いと思ふのである。昔話の一つに親が神樣の話を立聽きして、生れる兒の運命を知つたといふ話が、此習俗と關係を持つらしきことも前に述べた。其中では宮古島に古く傳はるもののみが、一方の家の嬰兒は額に鍋墨を附けた故に運がよく、他の一方は附けないから運が惡いといふことになつて居る。遺老説傳は漢文の書だから、單に之を「女兒額有點鍋※[火+台]、故日給七升之食」となつて居るが、「あやご」を直接に記載した宮古島舊史には次のやうに、鍋※[火+台]をフスコと謂つて居る。
  (他神)答て曰、女子は産家の業〔四字右○〕はやき故なり。男子は無左故なりと。
  此故に今に至て、子孫誕生の時は、早々生子の額に鍋ふす粉〔三字右○〕を付るとなり。
「産家の業」とあるのは、字は穩當で無いけれども、御慶のあつた家の儀式といふことゝ思はれ、現在も島では鍋墨をヒスコと謂つて居る(沖繩のフィング・八重山のピングは別の語らしい)。此昔話の分布は全國的であつて、是も(189)津輕の北境にまで及んで居るが、後には小兒の運は理由無しに神に定められるものとなつて、鍋墨の呪術は忘れられて居り、たとへば奄美大島などは此習俗は尚嚴守せらるゝにも拘らず、運勢立聽きの話とはもう關係が無くなつて居る。しかし私は同じ昔話の中世の記録、たとへば袋中の神道記に近江國由良里の話としたものが、此昔話を以て竈神の由來を説き、或は又是と系統を一にする大和物語の蘆刈の翁の話に、尚「竈の陰に隱れた」といふ痕跡を留めて居るのを見て、最初の要點が生れ兒の額に鍋墨を塗るといふ法則であつたことを想像して居るのである(海南小記、蘆苅と竈神參照)。河童に對する畏怖のなほ強い九州の田舍で、小兒が水浴びに行く前に竈樣を拜んでから行けと親が言ふことは、恐らくは今でもまだ記憶して居る者があるであらう。その「竈樣を拜む」といふのは如何なることかと言ふと、單に鍋の尻の黒いヘグロを、指に附けて額の上に塗るので、それでも水の靈が「お前は竈を拜んで來たからもう角力を取らぬ」と謂ふものと信じられて居た。簡單極まる作法であつたゞけに、是が厭勝の力には更に根ざす所があつたことを思はしめる。だから今後各地方の採訪の進むにつれて、私は必ずこのアヤツコの根原を、明かにする時が來るものと信じて居る。
 さういふ鍋の墨・釜の墨の日本語が、もしも夙くからヘソビ・ヘスビ等であつたら、黒子や痣の新語は自然にそれから導かれたらう。九州のヘグロはヘとクロとに分解し得る語で、それ自身比較的新らしい發生かと思はれるが、尚是と今日の標準語のホクロとの關係は想像し得られる。問題は先づこの二種の鍋※[火於台]を意味する單語が、果していつ頃からあるかといふ點に歸するが、私はかの南端孤島のヒスコといふ語が、北端寒地のヘソビといふ語と稍近いのを見て、是はいゝ加減古い語であらうと思つて居る。古記に見えぬといふことは反對の證據には足りない。文書に載せるだけの必要が稀であつたのかも知れず、又是からも記録が發見せられるかも知れぬからである。
 
(190)     六
 
 黒子をホクロといふ區域は段々に擴がつて來た。其中には以前フスベとかホソビとか、異なる語を使つて居た土地がある筈であるが、其痕はまだ存外に認められて居ない。爰に於てか自分は第四の資料に注意を拂ひ、且つ信州の學徒に向つて、豫め感謝の意を表すべき理由をもつて居る。私は此頃ヘソビ・フスベといふが如き稍特徴のある語が、瘤や黒子や鍋墨以外の、どういふ物體に向つて付與せられて居るかに注意し始めた。宇治山田市史などを見ると、あの地方では誹諧に所謂曼珠沙華、即ち我々がジュズバナ・ヒガンバナ・シビトバナなどゝ謂つて居る石蒜のことを、ヘソビと謂つて居たといふことである。是は餘りにも幽かな一資料ではあるが、私には若干の手掛かりの如く考へられる。小學校の諸君は既に知つて居られるだらうが、春の頃幼兒が野外に出てする遊戯に、「やいとをすゑる」と謂ふのがあつて、其方法は二種あつた。一つはヘクソカヅラの花をむしつて、花瓣を甞めて逆に腕の上などに伏せるもの、是は勿論艾の火を點ぜざる形を模したのである。他の一つは之と反對に、灸をすゑた後の形をうつしたもので、何か汁液の多い草の莖を切つて、先づ肌膚の上に輪を印し、其上を麥の黒穗を以て撫でゝ且つ吹くのである。さうすると沾れた圓い部分だけが黒く麥奴の粉を留める。それを幼ない者はヤイトだと興じて居たのである。私などの記憶では主として蒲公英(信州のクヂナ)の花莖を用ゐたやうだが、彼岸花の莖も或は使つたかも知れぬ。さうして又之をウヱボウソとも謂ふ者があつたのは、其頃の種痘は不完全で、多くは灸の跡と同樣に黒いかさぶたになつたからである。彼岸花をジュズバナと謂つたのも小兒の遊戯からで、あの花莖を短かく折つて一つ置きに中味を取り、珠數の形にして首に掛けたからであるが、つまりは此花にはまだタンポポやスモウトリバナのやうに、確定した名稱が近頃まで無かつたから、色々の名が附け易かつたのである。事によると顔にヘソビを附ける習俗が小兒によつて模擬せられ、之に用立つた植物にも其名を付與したのかも知れない。勿論一つや二つの例だけでは成立たぬ假定であるが、少なくと(191)も後々氣を附けて見る價値は有る。ところが信州に於ては、前年栗岩英治氏の書いた下水内郡誌に、麥の黒穗をフスベといふ地方語が録せられて居る。是は自分には可なり力強い傍證であつた。附近の村々にはそれに近い語又は説明があるか否か。諸君を煩はしてもう少し捜して見たいのである。この一地方の微々たる言語現象は、我々をして是だけのことを考へしめる。(イ)今では多分黒子はホクロであらうが、曾て北信にも之をフスベと謂つた時代があつたこと。(ロ)其フスベは生れながらにして存するもの以外、別に人工を以て隨意に好きな處へ附けて見ること、恰も有期の黥の如き風習があつたこと。(ハ)それがもと儀式であつて、しかも小兒が興味を以て記憶し又模倣するほど、印象深き行事であつたこと。此三點だけは少なくとも、我々が下水内郡の採集に負はなければならぬ知識であつた。小兒の遊戯法は今でこそ考案に成つたものが多いが、以前はどれ一つとして成人の行爲を見習はなかつたものは無いのである。鬼事まゝ事などは手本は既に絶えて、却つて小兒の所業から我々の元の生活を復原し得るのである。フスベの遊戯がもしも近年まで有つたとしたら、それは確かに「やいと遊び」よりも更に有力に、阿也都古考の筆者を支持すべきものであつた。
 
     七
 
 以上四通りの資料は、四つともまだ十分なものでは無いが、私は先づ之を出發點として、フスベが最初から瘤で無かつたことゝ、少なくとも現在の地方語が誤りでは無いことを、明かにして行く積りである。勿論反對の證據の此假定を打毀すものが、無いか否かも確かめなければならぬ。古い記録はそれ自身が證據で無いまでも、さういふ文字が傳はつて居るといふことが、亦儼然たる一つの事實であつて、たとへ間違ひであらうとも、其間違ひにも理由がある筈である。それを説明し得ぬ限りは、やたらにさういふものを無視するわけには行かない。しかも有力なる反對の根據は倭名鈔だと、人は言はうと欲するであらうが、瘤をフスベに宛て始めたことは、遙か後代の類聚名義抄や運歩色(192)葉抄のしわざであつて、實際は倭名鈔の知つたことではなかつた。倭名鈔の瘡類第四十一の中には、瘤は別にあつて和名之比禰と出て居る。たゞ其一つ置いて次に附贅を布須倍、懸疣を佐賀利布須倍といふ二項が有る爲に、前を見ずして此附贅を、今日のコブのことだらうと思ふ者が多かつただけである。
 全體に漢語字典の編纂者は、古今ともに幾分か其字數の豐富なるに醉ふやうな傾きがあつたが、一々の漢字にそれ/”\の國語を對立せしめることは、今とても出來ない相談である。まして千年前の俗間の用語が、さう細々とは分れて居たと思はれぬから、混同は寧ろ自然であつたと言つてよい。附贅が果して我々のコブであつたならば、瘤はそも/\何であつたらうか。布須倍がもし今日の「瘤」に該當したとすれば、和名之比禰とあるシヒネは何をさしたものか。もう一度内容によつて考へ直す必要が有るやうである。一つの參考は八重山群島の黒島に於て、今日のコブをシニと謂つて居ることで、是が最もよく倭名紗のシヒネに似て居る。其隣の石垣島では之をチヌといふ。南島語彙稿の採訪者は石垣の人で、チヌは角(ツノ)の意だと言つて居るが、それはたゞさういふ感じを以て今は使つて居る者もあるといふ迄で、斷定をしたのは如何かと思ふ。内地の方では上總國誌稿の中に、黒子をイシナゴといふ土地のあることを記して居る。是も事によつたらシヒネから出た語で、逆に瘤の方から黒子へ轉じて來た類似の例であるかも知れぬ。
 要するに痣と黒子と瘤と疣との四つは、今でもまだ地方によつては若干の混用が殘つて居る位に、日本語としては分堺のはつきりせぬ語であつた。その原因は前にアザとホヤケの關係に述べたと同じく、最初總括した一つの語があつて、後追々に新語が片端から之を崩して行つたことであらうと思ふ。さうして倭名鈔は其序文にも見る如く、殊にその新語の紛亂の煩はしい時代に生れたものであつた。上代の新語の順序を推定することは難事であるが、幸ひにこの問題だけに限つて、非常に便利なる奈良朝以來の資料が澤山に殘つて居る。大日本古文書の最初の各卷に載録せられた、正倉院の奴婢文書は即ちそれで、是には各人の身柄を明かにする爲に、名と年齡以外に必ず男子其他の顔手足(193)の特徴を附記して居る。つまり此等の語の目的ある使用の例である。この黒子といふ漢字を、當時の大和國で何と謂つて居たかゞ、先づ我々の問題となるのであるが、兎に角に非常に數が多い。一例を寶龜三年の東大寺奴婢籍帳に取つて見ると、二百二人の奴婢の列名に於て、百十一人までに「黒子」の注記があり、「婢鯛女 年廿四、右目後黒子。奴廣成 年卅八、頸右黒子」といふ風に、一つ/\綿密にその所在を録してある。それが髪際とか、目本とか、又は鼻左福良などに在つたのを見ても、又この數の多さから考へても、「黒子」の今日のホクロであつたことは先づ疑へない。しかも是がフスベと訓まされて居た證據は無いばかりか、却つて布須倍の黒子以外のものであつたらしい形跡さへある。私の見た所では唯一箇所であるが、天平勝寶二年の藥師院文書(大日本古文書三ノ四五九頁)、大宅朝臣賀是萬呂奴婢見來帳に、「婢持女。年九、左高頬黒子、婢多比女 年二、左目後小去黒子」などゝある隣に、其母なる婢眞枝足女 年二十八、左の鼻桁に黒子、左眉の後上に布須閇とあるから、布須閇は即ち黒子では無かつたと想像せられるのである。併し是と同時にその眞枝足女の生んだ奴安居萬呂 年六、右方の與保呂久保(膕凹、即ち脚のひつかゞみ)に志比禰ありともあるから、此フスベも亦倭名鈔の瘤即ちシヒネと別のものであつた。この天平勝寶二年と、前に引いた賣龜三年とは、其間既に二十二年を隔てゝ居るが、文書の體裁は全く一樣だから、漢字の用法にも變化は無かつたらうと思はれる。たゞ後の方の奴婢籍帳にはシヒネもフスベも出て來ないので、それが黒子以外の何物であつたかを、考へて見る便宜を得ぬのみである。事によると、前にはまだ適當なる漢字を知らず、後にはよい字が見付かつて、それを宛てゝ居るのかも知れぬ。それで私はもう一度その奴婢籍帳を捜して見たのである。
 ところがこの寶龜三年の籍帳中には何百名の黒子以外、奴婢の特徴として掲げられて居る語が三つしか無い。其一つは黶とあるものが四五箇所、是は倭名鈔には黒子のことだとあり、新撰字鏡にも「黶、黒子也、波々屎」とあるが、黒子と全く同じものならば書き分ける筈が無いから、恐らくは別のもので、從うて日本語も別であつたらう。是を何(194)と謂つたかゞ次に又問題となるのである。第二に用ゐられて居るのは疵といふ字、是も倭名鈔には阿佐とあるが、右中指だの左手食指だのに其疵があるのを見ると、多分今日と同じくキズアトを意味したものと思はれる。是が二百餘人の中に七八人見える。第三に最も注意するのは呰といふ字、「婢眞魚女 年卅三、右目於(上)呰」、「婢小鯛女 年十六、右手於赤呰」と、たゞ二箇所にだけ注せられて居る。さうして此以外の奴婢は幼童の親に連れられる者と、逃亡して詳かに人相書を作り得ぬ者とで、共に何等の印驗を載せてないのである。
 呰といふ字は今日は絶えて使用せられぬらしいが、唯一つ殘り傳はつて居る備中|上房《じやうばう》郡の村名呰部(アザベ)、又は三河豐前の舊郷名の呰見(アザミ)などに據つて、アザといふ語を表示するものであつたことが察せられ、特に赤呰の語あるが爲に、普通は青黒い色をした方を、アザと謂つて居たことも考へられる。さうするともう一度前に戻つて、黒子とも同じからず、又呰の字を宛てたアザでも無い黶といふものが、當時果して何と呼ばれて居たらうかゞ、又一つの問題になつて來るのである。
 
     八
 
 何にしても明瞭なる解答はまだ得られぬのだから、私は爰にはたゞ將來の討査の方向だけを述べて置かうとする。黒子が果して大和朝廷の御時から、既に倭名鈔と同じく波々久曾を以て知られて居たとすれば、其原由も亦尋ねて見る必要がある。新撰字鏡(天治本)卷一に依れば、※[火+櫛]といふ字があつて之を「燭餘也。保久曾又保須比」と解して居る。即ち黒子の波々久曾も、亦煤と關係のある語であつた。後世の蝋燭ばかりを見馴れた人は、燭といへば直ちにあの形を思ふであらうが、上代の照明は松脂にしても、又は松檜の根にしても、何れも非常によく燻るものであつた。燈器に煤垂れることは鍋の尻も異なる所がなかつた。而うしてこの一方の保須比が、今の奧羽地方のヘソビと、同じ語であつたことまでは誰にでも考へられる。黒子は漢土に於て後に黶子とも呼び、呉楚の俗之を「誌」と謂ふと倭名鈔に(195)も出て居て、痣と黶と黒子とは向ふでは別のものでも無かつたのを、日本でばかり夙くから、是にそれ/”\の稍異なる意味を持たせようとしたことは、前の奴婢籍帳の用法からでも推測することが出來る。アザは自分の想像では最も古い語で、始めは色々の容貌の異常なるものを總括した日本語であつたらしい。それは此語の用ゐられて居る範圍からも、やがて證明することが出來ることゝ思つて居る。ところが一方には漢語の刺戟、他の一方には實社會の入用があつて、之を細かく分けて謂ふ場合が多くなり、其爲に新たに幾つかの小名が起つた中に、煤を以て人の顔を點ずる習慣から、導かれて來た言葉も交つて居たものと私は想像して居る。此想像にしてもし當つて居るならば、所謂阿也都古の作法は少なくとも天平勝寶以前に、夙くも我々の祖先の間に盛んであつたといふ結果になるのであるが、それには是非とも黶が布須倍であり、又は保須比であつたといふ積極の證據を捜し出さねはならぬ。
 自分の深く愛して居る八重山諸島は、此問題に關して更に二つの資料を提供して居るが、其一つは私の假定を後に引戻し、他の一つは前に押進める。八重山ではフチベといふ語が石垣の島などにあつて、それは疣のことを意味して居る。竹富に於ては之をヒスベ、鳩間島では之をパツメとも謂つて居る。是が懸疣をサガリフスベに宛てた舊記を、支持する一つの力であることは確かだが、しかも倭名鈔には別に又肬もしくは疣といふ語があつて、是にはイヒボ又はイヲメといふ和訓があるのだから、疣に非ざる「懸疣」とは果して何かといふことがやはり疑問になるのである。是は結局は生理學の方面から、解決してもらはねばならぬことになると思ふが、私はなほ瘤なり疣なりの一種に、色に於て痣黒子と似通うたものがあつた爲に、此四つの者に名が通用せられ易く、後に限界を定むるに際して、各その何れかの一つに歸屬したことは、丁度九州のアザと同じで無かつたらうかと思つて居る。さうで無いならば中央で瘤であつたものが、邊島で疣になつて居ることも、依然として説明が付き兼ねるのである。
 最後に今一つの資料といふのは、かの南の島に入れ黒子の風習の今も傳はつて居ることである。沖繩諸島の黥の變化及び意義に付いては、目下私の同村人の小原君が熱心に研究しかかつて居るから、其結果を見るまで何も言はぬ積(196)りだが、爰でいふのはさういふ大規模なる阿也都古では無く、よく舞ふ百姓の美しい娘たちが、足の指などに黒い小さな星を入れて居ることである。それは十年以前に八重山の島で自分の眼で見たのだから、之を説いた人は無くとも確かである。日本人は全體に天然の黒子が多い。奴婢で無くとも二百人の中に百十人位は、綿密に調べたら生れつきのものが有るかも知れぬ。しかし私は寶龜三年の籍帳を見て、五六歳以下の男女兒の下に、フスベの所在を注したものが一つも無いのを見て、或はこの記號は人工を以て、作り設けたのもあるのでは無いかと考へて見た。さういふ習はしが假にあつたならば、其材料といひ目的といひ、愈以て今日のヤスコと近くなるのである。前には言はなかつたが、黒子の所在を掲げた古文書は、必ずしも奴婢に關するもののみで無かつた。たゞの百姓の計帳の中にも、正丁だけには特にこの事實を記載して居るものがあつた。兎に角に我々は輕々に看過して居たけれども、是は個人に取つては可なり重要な題目であつた。現に今日までも司法警察の捜査手段には、痣や黒子は指紋以上の役目を勤めて居る。アザを痣といふのも「誌者記也」とあつて、支那でも既に目印の意味であつた。犯人に入墨をして放す制度、乃至は入墨は先祖の國に赴いた時の手形だといふアイヌの俗信なども、共に皆個人を群から引離して見る手段、六つかしくいふならば個人主義の黎明と言ひ得るのである。菅江眞澄の天明五年秋の紀行に、陸奧岩手郡北部の田舍を通ると、村から出て來た人足の顔に、役人が墨を引いて區別を立てゝ居たといふことが見えて居る。奧州ではまだあの頃まで、ヤスコを行政の目的の爲にも利用して居たのである。
 私は最初に七部集の連句の、瘤のフスベから此論を立てた故に、終りにもう一度、それに近い事案を擧げて置かうと思ふ。蕉門の人々は要するに斯ういふ問題には無頓着であつた。フスべは倭名鈔には附贅といふ文字を宛てゝ居るのであるが、それをイボと訓ませた誹諧も亦殘つて居る。天和元年の二百五十句の餘興(古典全集本後篇四一頁)に、
   附贅一つ爰に置きけり曰く露      楊水
    無用の枝を立てし犬蘭        桃青
(197)この附贅の漢字には、「いぼ」といふ振りがなが添へてある。だから七部集の作者は唯無造作に三字の假字が入用だつた爲に、瘤をフスベと謂ふことにしたのかも知れない。
  (附記) 本稿草し終つた後、金田一京助君及び北山長雄君から聞いた。奧州南部領でも又津輕でも、共に秋田と同樣に黒子をアジャ又はアザコ、痣をも同じ語を以て呼ぶこと土佐西端の通りであるといふ。
 
(追記)
一、信州の松本などには、フスベとホクロと二つの語が共に有つて、フスベはホクロよりも小さいもの、又少しく色を帶びたものといふ。少なくともアザでは無く、且つイボともコブとも別のものである。さうするとソバカス又はヘエノクソ、東北でヂゴクボシ、九州でヨメアザなどゝ呼ぶもの、即ち漢字の雀斑を宛てたものゝ他には無いやうに思ふが、果して松本のフスベも其樣に數多く出るものなのであらうか。もう一度確かめて見たいと思つて居る。同じ信州でも、このフスベをホクロと同一視して居る村があると共に、又鍋墨のことを謂ふ處もあるかと思はれる。たとへば上伊那郡美和村の河童退治話に(郷土一卷一號)、惡戯をした河童を馬に乘せて還り、誤り證文を書かせ、今後はフスベのある人は決して取らぬといふ約束をさせたので、川へ行くには尻にフスベを附けて行くと謂つて居る。是などは九州で水浴びに行く兒童が、額にヘグロを附けるといふのと同日の談で、しかも一方には東北でいふムラサキゲツ、即ち生れながらにして臀に紫色の痣のある者は、特に河童に引かれやすいといふ俗信と、何等かの因縁のあることを感ぜしめる。入墨眉墨の如き人工の肌膚の特徴が、もとは自然に備はるべきものゝ補修を目的としたもので、之を奴婢や放免囚の管理に利用する以外に、古くは色々の目的があつたとしても不思議は無い。寧ろ東北のヤスコのやうに、用がすむと洗ひ消すことの出來るものゝ方が、自然に近いから早くからあつたらうとも考へられる。フスベ・クスベといふ語は現在は自然の黒子を意味する土地ばかり多くなつて居るが、私は幾つかの理由に據つて、最初はこの人作(198)のもののみを、指して居たらうと想像するのである。奈良朝期の公文書などを見れば、之を細かく區分して數多くの呼び名が設けられて居たかと思はれるが、地方のさういふ必要の無かつた處では、アザといふ總稱ばかりで久しく用が足りた。後々内容の分化するに及んで、或は甲の部分に新語が出來、或は乙の部分を特別に呼ぶ者があつて、その分界は甚だしく紛亂したのであらうといふのが、私の説かうとする所であつた。黒子をアザといふ方言が、國の南北兩端に在ることは、その一つの證據と見てもよからう。入墨を奧州北部ではツキアザ、沖繩諸島では皆ハリツキと謂つて、スミといふ語は用ゐて居ないが、中央部にさうした多くの語の出來て居るのも、起りは全く鍋の墨のヘグロ・ヘソビ等を以て、この人工黒子の名にしたのと同じであり、從うて生れながらのアザに、さういふ名を付けたのが正しくないとすれば、其誤は決してフスベだけでは無いのである。さうして其フスベも、かなり早くから始まつて居たかと思ふ。たとへば東大寺奴婢籍帳中の黶なども、一方の黒子をハハクソの語に宛てたものとすれば、この方は即ちフスベと訓ましめた漢字で、それは多分人工の斑點を意味したものかと察せられる。黒子を今日フスベと謂つて居る土地の廣いのは、或は石垣島の農民の少女のやうに、足の大ゆびの爪の附け根などに、小さな入れぼくろをする風習が、爰にもなほ久しい間、たゞの化粧として行はれて居たのではあるまいか。是が私の新らしい假定説である。
 
(199)  おかうばり
 
 うちにこの頃來て居る小さな孫が、牛乳を飲むたびに口のまはりを白くする。これを日本語で何といふだらうかゞ問題になつた。クワンクワンといふのは、餡こをくつつけた場合だけのことだらうといふ者もある。「和尚と小僧」の昔話がもとなのだから、さう考へるのは精確といつてよい。
 然らば粉や粥などの付いたのには名がなかつたか。もしくはクワンクワン以前には何といつて居たか。斯んなありふれた事柄にも、なほ我々は甚だ無識なのである。アナトール・フランスの「神々は渇く」を譯した水野君が遣つて來て、ちやうど子供のさういふ場面を「オカウバリをつけて」と譯して見たところが、その意味が校訂者にも通じなかつたので、始めて其語が郷里遠州の方言であることを知つたと言はれたのが、我々には一つのよい參考になつた。是も勿論さう古くからの語であるまいが、面白い佳い言葉だと思ふ。カウバリは即ち顔張り又は紙張りであつて、神官や巫女が神を祭る時に、供物に人間の息のかゝらぬやうに、絲で兩耳に引掛けて口鼻を蔽ふ菱形の白紙を、恐らく標準語でも、もとはオカウバリと呼んで居たので、後には小兒の口の端の白いのを、それにたとへて戯れたのかと思はれる。
 顔をカウといふ例は東北關東でも眉をカウノケ、沖繩の古典でも御顔はミカウである。さうして一方には又神祭りの口鼻蔽ひにも、何か必ず正式の古語が無ければならなかつたのである。忘れたことは思ひ出す方がよい。幸ひに斯ういふ方言が見付かつた。うちでは早速これからオカウバリといふことにしようと思ふ。
 
(200) (追記)
 この一文を公けにしたら、早速方々から反對の意見が出て來た。中には遠州の者だがと名のる人もあり、又は無名の嘲笑の手紙もあつた。反對の理由は一つも積極的なものは無く、多くはコハバルといふ動詞だらうといふ程度のもの、又は口脇のよごれた場合だけに限らず使ふといふ位の注意であつた。コハバリと解し始めたら、鼻をこすつて袖口の光るのにも使ふだらうが、それではやゝ滑稽味を帶びた御といふ敬語が無意味になると思ふ。つまり斯ういふ人たちは、たゞ斯んな小さな問題を、大げさに取扱ふことを嫌ふのである。新らしい假定説を出されることを憎むのである。近頃の老學者と似て居る。
 
(201)  福引と盆の窪
 
 中古に福引と謂つたのは、餅を引合ふ一種の競技であつたといふ。餅はフクとも又フクデとも呼んで居た故に、さういふ名の出來たのも理由がある。現在の福引は物が全く別であつて、江戸では相應に早くから此語を使つて居たが、是が地方に普及したのはつい此頃のことであり、こちらでも最初はやはり他の地方のやうに、フッピキと發音して居たのを、例の伊呂波字引家が、福引の字を考へ出して流行らせたものかと思ふ。最近は殆と商店の景品分配法に限られるやうになつたが、その一つ以前の形であつた正月の遊びは、今もまだ少しづゝは田舍で行はれ、何れも是と近い名を以て知られて居るのである。
 たとへば寶引(ホウビキ)といふ名は、京阪地方では普通の名であつたのみならず、江戸でも元はさういふ人があつた。それから遠江の濱名地方でもホウビキ、伊勢の白子邊はホンビキと謂ひ、共に正月中の女たちの遊びである。豐前の築上郡は是をフウビキ、東北でも秋田の男鹿半島の村々などはフビキで、方法は皆同じであつた。宮城縣の牡鹿の海岸を始めとし、是をドッピキと謂つて居る土地も多いが、ドウとは當り籤の事である。麻の緒とか元結とかの、何本かの端を揃へて手に持ち、他の一端には只一本だけに、隱して何物かのしるしを括り付ける。それが穴明き錢であつたり大根蕪の切つたのであつたり、又橙の實であつたりする。是を引き當てた者が僅かな賭錢を取るので、正月のうちだけは、女たちにも斯んな遊びが許されて居た。東上總の海岸などでは、春のヒヤリといふ女の集會日に、トホシと謂つて此遊びがあつた。是も一本だけの麻繩の端に、錢を通すからトホシである。籤といふのが常の日の名で(202)あつた。もとは街道の立て場の人力車夫などが、出番をきめるのにも此方法を用ゐた。それで茶店などの片隅には、藁繩でこしらへた此クジが、必ず引掛けてあつたものである。
 人が正月に此遊びをするのは、當り籤の利得よりも運だめし、即ち一年間の幸不幸を占なふ意味であつたことは、他の色々の遊びごとゝ竝べ比べて見るとよく判る。それを又此フクビキといふ語が證明して居るのである。福の漢字を日本に流行させた原因も同じか知れぬが、兎に角に我々の固有の語で、フは各人の身の仕合せを意味して居た。今でも原の形のまゝで國の隅々に行はれて居ることは、「運ぷ天ぷ」等といふ成句からも察し得るが、現在採集せられて居るのは瀬戸内海の西部諸島、廣島縣下の二三の地、石見と長門、九州では筑前と壹岐島、鹿兒島縣の各地及び沖繩などで、此等の土地ではフノヨカ・フガワルイなどゝ謂ひ、フとは運のことだと謂つて居る。或は是をマンともいひ、其マンと同じだと解した人もあるが、それはたま/\中央に適切な對譯が無いことを語るもので、マンは間《ま》から出て居るから一時的、フの方は常在のもので、二つは全然同じとは言へないやうである。長門の大島にはフダマといふ語もあつて、フが人間に附いてまはるものだといふ事を考へさせる。もしも此語が漢語の分又は賦の音から導かれて居るとすると、その今一つ以前の日本語の、是によつて押込められたものが有る筈であるが、その點は未だ必ずしも確かで無い。フは東北の田舍などでは、是とは稍ちがつた、ずつと具體的の意味にも用ゐられて居る。たとへば奧州の三戸郡で、姙婦が鳥の肉を食ふと、フの切れない兒を産むといふ。即ち水鳥の樣に指と指との間に膜があつて、分れて居ない事を「フの切れぬ」と謂ふ。秋田縣鹿角郡では、菌の裏面の細かな襞、即ち標準語でヲサといふものをフと謂つて居る。壹岐では菰の編目をフといふさうだが、上總の君津郡でも苗代に區劃を付ける作業をフキリと謂ふ。つまり運をフといふ語の無い土地でも、斯ういふ一つ/\といふ意味のフは存在するのである。
(203) 分といふ漢語の是が適用であつたとしても、是だけ弘く及んだのだから、決して新らしい現象では無い。文字の教育がやゝ進んで後に、是を偶然の一致と認め得なかつた人たちが、次第に漢語の内容を此方へ合せようとしたかも知れない。外形の方には少なくともそれがあつた。即ちブが好いブが惡いなどの、ブと濁つた形が出來て居る。讃岐の高松あたりでは、各人身に備はる福分をブニと謂ひ、聖天樣を祭ると子々孫々のブニを引上げて下さるなどゝ謂ふさうである(宮武省三君)。淡路でも又は天賦をブニといふ。盆をボニといひ錢をゼニと謂ふと同じく、是は確かにブン(分)といふ意識を持つた語である。信州の上田市附近でも、分け前又は自己の得分をブニと謂ひ、或は更に訛つてブンギといふ人も有るといふ。茨城縣の北相馬郡などで不運になることをブニマハルといふも同じ語と思はれ、又山形縣の最上郡などで、變人をブンといふのも(同縣方言集)其延長かと思はれる。最初の起りはどうあらうとも、後々是を「分」と解した者が、多くなつたことだけは否めないやうである。
 しかも今日日本語化して居る漢字の「分」には、身の運を意味するフッピキなどのフは含まれて居ない。それで尚外國語の採用だつたとすれば、當然に其時期は古かつたといふことになると思ふ。我々が語原を全く忘れた後頂のボンノクボの如きも、中間にこの「フ」の形を置いて考へると、始めて命名の動機が心付かれる。所謂盆の窪は土地によつてボンノクド・ボンノクソ、東北ではブンノクド、信州でブンノクダマ等色々の地方形がある。クボは合理的だが、クド即ち竈の方が古くは無いかと思ふ。小兒のこゝに生やして置く毛に變つた名が多く、火の神が火急の場合に、是を提げて命を救うて下されるといふ俗信の全國的なるを見れば、或は其形を竈に譬へたのに意味があつたのであらう。事は誠に小さく又至つて子供らしいけれども、私は此名稱の各地同異を、詳しく又正確に比べて見ることによつて、なほ前代日本人の人生觀の片端を窺ひ知ることが出來るやうに考へて居る。獨り福引といふ低劣な現代慣習の起原を、明かにするに止まらぬのである。
 ボンノクボが標準語であつて正しく、其他の是に該當する方言が匡正すべき理由は、私は之を知らない。たゞ私た(204)ちの心づいて居るのは、山形縣の莊内地方などで、頸をフノコボと謂つて居ることである。それから冨山縣の或部分で、人の運命をボンノクソといふことであるが、是は京阪地方でも戯れにさう謂つて居る者が、以前はあつたやうに私は記憶する。「福井の方言」を見ると、越前の何れかの村では、今でも運といふ意味にウナジ、もしくはオナジといふ語を使ふさうである。ウナジがフノコボの今一つ前の日本語であることは、書物で學問した人たちも知つて居るだらう。斯ういふよい古語がどういふわけですたり、盆の窪といふやうな長たらしい單語に代られたか。それは小兒の此部分の形を視て、未來を相しようとした慣習が之を説明するだけである。其慣習の既に絶えた土地では、もう一度改めて地方の生活を見直す必要がある。發見は未來に在る。私たちはたゞ其手掛りを殘したいと思つて居るだけである。
 
(205)  末子のことなど
 
 東京ではスヱッコ、又はバッシと謂つても通ずる。關東の田舍では、バッチといふのが寧ろ普通である。宮城縣の栗原都にもバッチといふ言葉がある。
 山形縣米澤ではバッチコ、しやれてババッチとも謂ふが、バッチコの末子兒なることは明かである。意外なのは仲本氏の沖繩語典に、かの島にもバッチーグといふ語のあるといふことであるが、未だこの群島の何れの部分に行はれて居るかを確め得ない。
 京都附近ではオトゴといふのが普通らしい。奈良縣の南葛城郡ではオトンボ、九州にも佐賀縣などにオトボウといふ例がある。靜岡縣では遠州の袋井其他に、オトッコ又はオトンボといふ語が報ぜられて居る。秋田市の周圍には、オンッコ、又はオンチャコといふと聞くが、果して末子に限られた名稱であらうか。
 オトは夙くより最終の意味に用ゐられて居るが、もとオトウトのオトと一つであつたことは疑ひが無い。故に土地によつては弟をオトリとも謂ひ、又一般に幼兒をオト、オドメなどゝ呼ぶ處もあるのである。
 滋賀縣の神崎郡ではシリコといひ、熊本縣の葦北郡などにはスッタレといふ者もある。信州下水内郡に於てはノコと謂ふ。其意味はまだ不明である。
 今一つ起原の知り難くしてしかも通用區域の廣いのは、奧羽一帶のヨデもしくはヨテコである。北は津輕外南部に始まり、秋田縣でも末子をヨデコ、陸中紫波郡でもヨデ、それから南して福島縣の海岸部にも及んで居る。
(206) 新編常陸國誌にも末子の方言ヨテコとある。但し關東の諸郡には今はバッチといふ者多く、現在の例として知られて居るのは、久慈郡のヨテッコだけである。
 或は之を眞間の手子奈などのテコナと結び付けて考へようとした人もあるが、此方はヨテとのみも呼ぶのだから、まだ容易には承認が出來ぬ。俚言集覽には上州で末女をテコといふ例を擧げ、ホテゴの上略かとも説いて居るが、それとヨテコと關係があるかどうかは、更に土地に就て考へて見なければならぬ。上州も何れの郡村でさういふのか、詳しく尋ねたいものである。
 幸田文時氏の「さとことば」には、越後西蒲原郡の同氏の居村に、末子をツルタグリといふ例があると報ぜられた。瓜などに譬へて、ウラナリなどゝ戯れに言ふ人は東京にもある。是もそんな考へ方から出來た言葉であらうが、尚今少しく具體的に、末子の家門に於て占めて居る地位を、言ひ表したやうな名稱が此外にもありさうである。
 最後にもう一つ、説明が無くては他郷の人にわかるまいと思ふのは、是も宮城縣の北に寄つた田舍で、末子をエンヅコバラヒと謂つて居ることである。エンヅコは幼兒を入れて育てる藁製の籠で、新らしい婦人には搖籃などゝ譯せられる器具である。此子を以てエンヅコの入用が終になつたといふ意味で、こんな名が出來たものである。
 此器具の使用せられる地方は思ひの外廣い。自分は數年前に飛騨で見たことがあるが、まだ/\西の方まで及んで居るかも知れず、從つて或は末子幼兒の名稱に、現はれて來ることが有り得るから、此序を以て其方言の變化を述べて置かう。
 津輕方言集には「イツコ、藁を市樂に編んだもの、子供を入れて置く」とある。青森縣方言訛語には外南部地方でエジコ、子供籠とある。遠野方言話にはエズコ、子供を入れる籠。仙臺方言達用抄にはイヂコ、子を入るゝフゴとあり、又一書にはイヂコ、江戸にていふオハチイレのこと、仙臺領の百姓家にては、赤子を其内に入れて育てると記してある。
(207) 米澤方言考にはツグラ、赤子を入るゝ具、藁にて作る。村落にては之をエヂコと謂ふとある。常陸國誌にもイヂコ、小兒を入れる籠、鹿島地方にては之をユサと稱すとある。ユサは又鞦韆をさういふ土地も有るから、此などは手を掛けて簡單にゆするやうに構へてあつたものらしい。
 秋田縣の方言を集めたものには、エズメ、子供を入るゝ圓き器とあり、又別の書にイジミ、蒲製のものは飯櫃入れ、木製のものには幼兒を入れるともあつた。若越方言集にはイヅメ、藁製の小兒を入れる籠ともあるから、此語は福井縣あたりにも行はれて居たのである。
 ツグラといふ名も同じく廣く知られて居る。例へば佐渡方言集にはツグラ、小兒を入れる藁籠、飛州志にはツグラ、子供を入れる藁籠とある。信州でも普通にはツグラの名を以て知られて居るが、別に尚イヅミキといふ名もあつたことは、南安曇郡誌などに、「ツグラ又イヅミキ、乳兒を入れて置くもの」とあるのを見てもわかる。
 イツメは主たる用法が飯櫃を入れて置くに在り、即ち飯詰の義でもあるかの如くに、考へて居る人があるらしいが、それではイヂコの方がわからなくなるから、やはり語原は未詳といふべきである。大體に於て日本海岸の方はイヅミであり、太平洋岸の方がイヂコであるらしい。加賀の河北郡では子供は入れないが、藁のミゴで編んだ器にイヅミといふものがあり、信州の伊那では畚の一種にイヂッコ、駿河の安倍郡・三河の寶飯郡碧海郡・尾張の知多郡などで、イヂコといふのは同じく一種のフゴである。
 滋賀縣の諸郡でも、莚をとぢ合せ又は藁で編んだ深い畚の、籾などを入れて置くものをイヂコと謂ひ、神崎郡では其一名をツンダメともいふさうである。以前は多分亦此中に小さな子を入れて置いて、家内中が外へ出て働くことなどもあつたのであらう。還つて見たら乳呑見が大きな蛇の首をつかんで、おもちやにして遊んで居たといふ話を、何かの書物で見たやうに思ふが、それはたしか此地方の話であつた。兎に角に子供の養育とは深い關係のあつた器具なるが故に、それが末子の名になつたのも、少しも不思議ではなかつたのである。
 
(208) (追記)
 末子をヨテコといふ方言は奧羽六縣以外、元は關東地方にも行はれて居たやうにいふ人もあるが、常陸の一隅を除いてはまだその確かな實例を見出して居らぬ。千葉縣の君津郡などでは、我々のいふ「いくぢなし」をヨテクヅと謂ふさうだが、是が或は一つの痕跡かも知れない。ヨテは青森縣の端に行くと「遠い昔」をヨテアムカシと謂つたり、いつ出來るかわからぬやうなさきの事をヨテナと謂つたりして、或は遠方を意味するヲチといふ語と一つかとも思はれ、さうでないまでも三つ栗のまん中の平栗をヨテグリ、田植の最終日をヨテダウヱと謂つたりして、本來は輕しめ賤しめる意味は無かつたのだが、後いつと無く弱い子どもをヨタコ(鹿角)、用に立たぬ者をヨタモノ(雄勝)などゝいふやうにもなり、終にはヨタを飛ばすといふまでの、可なり感心せぬ言葉となり下つたものらしい。其ヨタモノの東京に流行したのは新らしいやうだが、この語を古くから持つて居た土地は相應に弘い。或はさういふ處にも曾ては末子をヨテコといふ語があつて、今でも氣を付けて居たら老人たちの用語から、採集し得られるのではなからうかと思ふ。私の問題にして居るのは、何人がこのヨテ子といふ語を惡くしたらうかといふことだが、是はどうやら年とつた親たちに、愛情は餘りあつて保護の力が足らず、せめては不當な抑制によつて、周圍の同情を集めて置いてやらうとする心遣ひからのやうに思はれる。聽いて心無い者が笑ふやうなひどい異名が、あまりにも末子には多過ぎる。外から付けたものとはやゝ想像がしにくいのである。越後各郡の蔓たくりも其一例だが、他にもハチナデだのカマッパラヒだの又はフクロバタキだのと、最後の食物を以て養はるゝ者といふ意味を、をかしい言葉で言ひ表はしたものも少なくない。老いて子を持つたきまりのわるさを、笑ひに紛らさうとするやうな心持もまじつて居るのであらう。子供の最も育てにくい東北の或地方で、アグトハヅレなどゝ謂つて居るのは少し惡謔に過ぎるが、是も農村の貧しい女の口から出たかと思ふとあはれにきこえる。津輕あたりでは次男以下を、ヤツメと呼んで居るのは常のことで、是は(209)語源に溯ればヤツコもイヘノコも同じであるが、其中でも特に末子をヤツメカスといふ者が多く、秋田の方に來てもヲンヂカス・オンバカスといふ語があり、カスは言ふまでも無く不用のものゝ義であつた。九州の南に行くと、スッタレといふ語が弘く行はれて居るが、是もどうやら似たやうな意味をもつらしく、古い家族制に於ける末子の地位が、一般にうれしいもので無かつたことが推測せられるのである。野邊地方言集には末弟をシバキレヲヂ、シバは尻尾のことだからたゞ末端といふことだつたかも知れぬが、東京などにもネコノシッボといふ語があり、末子は可愛がられ又相應によく庇護せられる世の中になつてからでも、なほ時々は「有つても無くても猫の尻尾」などゝひやかされて居たものであつた。斯ういふ酷評は外の者には出來ない。やはり先々の事を氣にする親たちが、最初そんなことを謂つたのがもとで、後には親しい者が戯れに眞似たものと思ふ。瀬戸内海の沿岸各地では、末の子をチャトウゴといふ語がよく報告せられて居る。茶湯は盆や法事の日に、死者が供養せられる飲料に限られた名である。生きて食卓を共にする日は短かく、たゞ茶湯の給仕をしてくれるだけの者といふ意味で、是が恐らくは最もまじめな命名だつたらうが、是だけは流石に親以外の者には眞似られなかつたらしい。
 
(210)  ヅグリといふ獨樂
 
     一
 
 諸君の催された玩具座談會は、私も弘前に居たなら是非とも出席させて貰ひたかつた。殊に諸君が結論を急がず、寧ろ問題の奧行きを、掘り深めようとせらるゝ態度には推服する。傍で聽いて居たら、必ずもつと多くの感動が得られたことだらうと思ふ。それで百五十里もさきの方から、今頃になつて差出口も滑稽だが、ちやうど折があれば御尋ね申さうと思つて居た疑問だから、此ついでに一つヅグリの話をさせてもらはう。
 故齋藤吉彦君の説では、同じ津輕でも青森に於ては鐵製の獨樂だけはコマ、其他のものをヅグリといふに反して、弘前の方では獨樂は全部悉くヅグリと謂ふと聞いたが、今でも其通りで、齋藤君幼時と變化は無いかどうか。又二都市以外の町村ではどうなつて居るか。それが私は確かめて見たいのである。
 獨樂をヅグリといふ語の行はれて居る領域は存外に廣い。秋田縣なども各郡とも其通り、現に私が男鹿半島の戸賀で、採集した方言もヅグリであつた他に、河邊郡誌にもズングリとあり、又一昨年刊行の秋田方言にも「ズグリ、圓錐形の獨樂云々」と出て居る。南部領の方も多くの方言集にヅングリとあり、紫波郡にはズグリと報告したものもあつた。太平洋側は氣仙郡から、宮城縣の北部までしか判明して居ないが、日本海岸の方はもう少し南の方までに及んで居る。佐渡方言集には獨樂をズングリ、「寸切りの意か」などゝいふ一説さへ添へてある。越後では西蒲原郡吉田附(211)近の方言集「さと言葉」にヅングリ、又或人の採集にはツングンリともあつたが、此方は書損であるかも知れぬ。
 越中では五箇山山村の言葉にツングリがある。是が今知られて居る南の端であり、同時に又ツの音を澄んで居る唯一つの例である。信州でも越後に接した下水内郡の郡誌には、獨樂の一種をヅングリといふ方言を載せて居る。長野の善光寺の參詣の家苞に、以前は定まつて買求めたヅグリは、轆轤細工の木の心棒のあるもの、我々が普通ヒネリゴマと謂つたものゝことであつた。南信方面ではヅグリといふ言葉は、たゞ此一種の爲に殘つて居たらしいが、それも物が無くなると共に今はもう忘れられようとして居る。前に引用した越後の「さと言葉」にも、ヅングリは絲無くして廻はす獨樂だとあるから、同じく此ヒネリゴマだけに限つて居たのかも知れぬが、木地屋が其道具を利用して、斯ういふ小さな玩具の獨樂を作り出したのは、さう古いこととも思はれない。ヅグリといふ言葉の方はそれよりも前からあつて、追々不用になつて片隅の方へ押遣られて居たらしいのである。
 
     二
 
 獨樂をツムグリと謂ふことは、既に伊呂波字類抄に見えて居る。そのもう一つ前は倭名鈔雜藝類の古末都玖利(コマツクリ)であつた。狩谷掖齋は津輕と關係のある學者だが、其著倭名鈔箋註の中には、奧州南部領で獨樂を豆无具利(ヅングリ)と謂ふのを知つて居りながら、尚此コマツクリはコマツブリの誤りであると主張する。其理由は大鏡以下の幾つかの書物に、何れもコマツブリとあるからといふのであるが、是は兩方とも正しい場合もあり得る。我々のカ行は、以前は、非常にハ行と紛れ易い音であつた。だから頭垢をフケといふ土地と、クケといふ處とが有る樣な、通用の例は今でも多いのである。倭名鈔の下總本といふ天正年間の寫本には、獨樂の條下の記事が次のやうになつて居た。
  獨樂  辨色立成云獨樂 都无求里此間云〔七字傍点〕古末都玖利 有孔者也
(212)この右に點を打つた七文字だけが、他の數種の本からは脱落して居るのであつた。此註記の意味はよく解つて居る。即ち獨樂の和名はもとツムグリであつた。それをコマツクリといふ者もあるといふ意味である。ところがツムグリとコマツクリとは實際は同じで無く、「孔あるもの」だけをコマツグリと稱し、ツムグリといふのは別種の獨樂なることを知つた者が、訂正して此七字を削除したらしいのである。コマツグリが或時代の舶來品、即ち高麗のツムグリなることを知つた者ならば、貊ツムグリもツムグリの内だから、此文を訂正するには及ばなかつたのであるが、京都の地などではこの外國風のものばかり流行して、やがては又之を略してコマとも謂ひ、しかも何故にコマといふかゞ不明になつて、別に在來のツムグリの方に、何とかコマといふ類の名を與へるやうになつて居たらしいのである。下總本の餘計な七字は、誤つて附加せらるべき動機が想像し得られない。寧ろ此方がもとの形、即ち獨樂の總名がまだツムグリと呼ばれて居た時のまゝであつて、それを削つたのはかの昔風の一種だけを、ツグリもしくはツングリなどゝいふ樣になつてからの改訂かと思ふ。丸でツグリといふ語を知らぬ人だつたならば、却つて其樣な作爲は加へなかつた筈である。
 伊呂波字類抄は天養以後、次々に書加へたものだから何時から入つたとも知れぬが、その卷七のコの部には、獨樂の條下にコマツブリとツムブリと、ちやんと二通りの和名を竝記してある。然るに狩谷氏は其一方を援用してコマツブリの正しい證據とし、他の一方のツムグリを以て、下總本の誤りを承けたやうに解して居る。自分に都合の惡い證據を無視せんとするのである。そんなことをせずとも我々には此言葉の歴史はよく解る。日本では圓いものをツブラ、圓くしたものをツグラと謂つて居たことは、蝸牛考といふ書に多くの例證が掲げてある。獨樂の以前の名のツグリ・ツブリ等は、多分此語と關係のあるものであつた。是を或は又ツムグリと謂つたのは、恐らくグの音が鼻にかゝつた方のグであつたことを意味するのであらう。ところが平安朝の初めまでに、孔のある一種のこまが獨樂といふ文字を連れて入つて來た。それが珍重せられてコマツグリ、もしくはコマツブリといふ日本語が出來た。此語は長いから何(213)時と無く略してコマと謂ひ、其結果は今までのツブリも、ツブリ・ツングリなどゝは謂はなくなつて、ブチゴマだのバイゴマだのと呼ぶやうになつた。ところが偶然にも日本の北三分の一ほどでは、その舊い語が所謂一九三一年の今日まで遺つて居たのである。珍らしいことだと言はなければならぬ。
 
     三
 
 そこで今一應津輕地方のヅグリが、果して鐵の心棒を通した改良獨樂までも、一括して總稱するかどうかを確めて見たいのである。もしさうであつたならば、是は倭名鈔から伊呂波字類抄時代までの京都の?態が保存せられて居たのだといふことになるし、もし他の北信地方などのやうに一方をコマ、古風な分だけをヅグリと謂つて居るならば、倭名鈔の刪定が行はれたらしき鎌倉期以後の分化?態が、傳はつて居るのだと言へるかも知れぬのである。尤も何かもう考へられない特別の原因が起つて、再び昔のツグリといふ語が流行し始め、今まで言はなかつたもの迄もさういふやうになつたことも、絶對に無いとは言はれぬが、單語は普通には分裂して行くもので、今まで差別をして居たものが合體するといふことは無いやうである。そんなら越後や信州の善光寺で、軸のあるヒネリゴマなどをヅグリといふのはどうかといふと、是は獨樂全體をヅグリと謂つて居た名殘で、他のものにはそれ/”\新らしい名が附き、是だけが僅かに殘壘を保つて居たのである。
 京師でツムグリと呼んだ所の獨樂が、此ヒネリゴマで無かつたことは勿論である。倭名鈔の所謂「孔あるもの」は、どうした形であつたか明瞭にし得ないが、多分はHaddonの「人間研究」などに出て居るやうな、竹や木の空洞の唸り獨樂で、音の興味が小兒等を引付けたのであらうと思ふ。さうで無くとも新らしい筒形の獨樂には、心棒を作つてさし貫ぬく必要があり、後には其棒を金屬で作るやうになつて、愈家々で手製し得る今までの物とは、顯著なる差別を生じ、同じ一つのコマといぶ言葉で總稱することも、實はもう無理だつたのである。尤も古くから在つたらうと(214)思ふ獨樂の中でも、バイゴマと稱して螺の貝を以て作つたものなどは、鉛を流し込んで尻を重くしたり、赤青色々の蝋を詰めたりして、既に商品として金で買ふものとなつて居たが、それでもまだ安いものであり、又海邊の村ならば有合せの物を用ゐることも出來た。之に反して鐡の軸を通した獨樂は純然たる工藝品であつて、町へ行かなければ手に入れることも出來なかつたのである。自分などの少年の頃には、まだ此方はさう澤山には行はれて居なかつた。鐡で周圍を卷いて喧嘩をさせる獨樂が流行し始めたのは、村にも鍛冶屋が住むやうになつた後のことで、つまり人力や車力の鐡の輪の影響であつたやうである。兎に角に此遊戯が盛んになつて、始めて昔風の削つた獨樂は廢れたのだが、私はちやうど其過渡時代に成長して、まだ熱心にこの所謂ブチゴマを手製して居た。山に近い部落から來る同級生は、  屡々獨樂を作るによい木を持つて來てくれる。日曜に山へ遊びに行つて頃合ひの木を見ると、それを削つて獨樂にすることばかり考へて居た時代もあつた。今想ひ出しても面白いと思ふのは、枝の太さと樹の種類によつて、大小色彩好みの如き獨樂の作れることであつたが、櫻その他の二三種はよく用ゐられ、新たにそれを削り尖らす時の樹の香は、今でも樂しく記憶して居る。それから是も山に入つて、藤とか雁皮とかの皮を剥ぎ、それを割いて絲にして小枝のさきに結び、それをくる/\と其獨樂に卷付けて、力強く引きほどけば廻り出すことは、後々のコマとも同じだが、此方は廻る勢ひが弛むたびに、緒を以て打ち續けて永く保たせるのを以て勝負をした。それ故にブチゴマといふ名があつたので、自分等は「打ち」といふよりも寧ろ「鞭」といふ感じを以て此語を使つて居た。津輕でヅグリといふものゝ中にも此獨樂が必ずあり、其遊び方も多分是と略同じであらう。私は之を以て孔あるコマツブリの舶載以前の、我々固有のツグリ又はヅグリであつたらうと思ふのである。いつの世に於ても是は子供か親兄かの手作りであり、從つて形は甚だ不細工であつた。東京などには既に久しくヅグリといふ獨樂は無くなつて居るが、しかもまだ此語だけは轉用を以て傳はつて居るやうである。たとへば男子の頑丈な、背が低くてよく太つて居る者を、ヅングリとした人と謂つたり、又ヅングリムックリなどゝいふのは、確かに一旦この種の獨樂の名を、通つて來た後の形容語であらうと思ふ。
 
(215)     四
 
 其以外にも今一つ、此言葉から導かれたらしい名詞がある。ヅグリは宮城縣の北部まで來ると、音が少しく變つてドオグリとなつて居る。それから岩手縣南端に於ては、之をドングリといふ地方もあるのである。故田鎖直三氏の氣仙方言に依れば、ドングリは獨樂の一種、木を圓錐形に切つたものとある。圓錐形に切るといふのは中心に向つてさきを尖らし、それを軸にして廻すことで、即ち心棒を通さぬ我々の昔の獨樂である。それをはつきりとドングリと謂つて居るのを見て、私は始めて東京の小兒などが、?の實をドングリと呼んで居る原因がわかつたのである。團栗といふ宛字は面白いが、誰がそんな字を知つてから此物に名づけよう。誰が又其樣な小賢しい漢字の思ひ付に服從して、今まで使つて居た語を改める者があらう。つまりはドングリといふ語が有ればこそ、團栗といふ文字は發明せられたので、其中間には又本の意の忘却といふ條件が添うて居たのである。
 但しヅグリがもし最初から、圓くして廻るものを意味して居たならば、獨樂と?の實とは別々にさういふ名を帶びることになつたかも知れぬでは無いかと、難を打つ人があらうかと思ふが、是にも亦少しばかりの證據がある。?の實は蜷や螺《にし》などゝ同じやうに、木で削つた所謂ブチゴマの代りに、小兒に玩ばれて居たことがあるのである。その?の實のドングリには、前の名かと思はれる方言があつた。東京の近くでは千葉縣の東葛飾郡でシタッポ・ジンダンボ又はジンダルボ、茨城縣の稻敷郡ではジタッポもしくはジンタッポ、同多賀郡ではジンダングリ、信州下伊那郡ではスダミ、同南佐久郡ではジダンボ、同下水内郡ではキタンボ、越後でもヅタグリ又はシダミであつて、多分シダミが古い形であらうと思ふ。東北の方はまだ當つて見ないが、此系統の語が殘つて居る筈だから、調べて見てもらひたい。ところが嬉遊笑覽の卷六下に依れば、武藏の越ヶ谷から下野の日光あたり迄かけて、ヂダンボウといふ一種の獨樂が(216)行はれて居た。其形は尖りたる所いさゝか縊れて、木口に穴を掘らずとあるから、名は?の實と同じでも木を削つて作つたものである。紐を竹に付けることバイゴマと同じとある。此ヂダンボウの意味を、喜多村氏は地踏鞴房《ぢだんたばう》、即ちヂダンダヲフムなどゝいふ語から出て居るやうに説いて居るが、それは全くドングリがジダンボウであることを知らなかつた爲である。即ち此地方には以前?の實を獨樂に舞はすのが普通であつて、此名が行はれた後に木を以て製するものが始まり、大昔ツムグリの名を外國風の「唸りごま」にも付與したのと同一の結果を見たもので、しかも樹の實にも玩具にも、雙方まだ一つの語を用ゐて居たのだから、さう古くからの變化では無かつたらしいのである。
 西部日本の方を見渡しても、ヅグリに天然の?の實を利用した痕跡は尚保存せられて居るが、しかも二つの語は既に分化して、獨樂の方はすべてコマと謂ひ、?の實だけをドングリといふことになつて居る。是も澤山の例はまだ集めて居ないが、たとへば靜岡の富士山麓では?の實をドングルミ、愛知縣の西春日井郡ではデングリ、滋賀縣の阪田東淺井の二郡はドンゴロ、それから京畿と中國の東部はドングリとなつて居て、九州は筑後の三瀦郡がドングリもしくはヅウグリ、肥前の佐賀などもゾウグイである。即ち遠くへ行くほど、北部の津輕などの獨樂の方言と近くなり、雙方互ひに他の一方の語の無い區域に於て發達して居るのである。倭名鈔以下の都无求利又は都不利が、曾ては一般の日本語であり、今ある自家製の削り獨樂と共に、?の實も亦古くからの兒童玩具で、其用途は一つであつたといふ推定は、是に由つて裏書せられると私は解して居るが、諸君の判斷は果してどうであらうか。
 
     五
 
 木地屋が信越から奧羽の山の中まで、入つて行つた時代はいつ頃であつたかといふ問題は、私たちに取つては可なり解決の待遠に思はれる問題である。單に是が地方工藝の一劃期であつたといふだけで無く、現在民間信仰史研究の一つの目標となつて居るオシラサマが、どうして姫頭《ひめがしら》馬頭《うまがしら》等となり、從うて又蠶の神の如く解せられるに至つたか(217)といふことゝも、關係をもつ樣に考へて居るからである。コケシボコといふ方言の起りは、あの人形の頭の形が、芥子《けし》の實と似て居るからで、之を芥子人形と謂つたのも理由は一つであり、単に芥子粒見たやうに小さいからといふ説明だけが、誤つて居るのだと私は思つて居るが、それは何であらうとも、轆轤が無かつたら此人形を作ることの出來なかつただけは疑ひが無く、その轆轤は又木地屋より以外に、用法を知つた者は居なかつたことも確かである。だからオシラ神の頭が、コケシの影響を受けて居るだらうといふことは、言ひ換へるならば木地師が東北へ移住して來てから後に、この大きな變化を見たといふことにもなるので、私は其爲に轆轤の職人が全部近江の小椋郷を故郷にして居ることゝ、コケシとオシラ神の鉤占との間に、何かの關係が有るらしいことを證明しようとしたのである。鐡を心棒にした近世の木獨樂も、地方に轆轤の細工が始まらない限り、之を普通の家に見ることが出來ぬのは、コケシボコも同じことであつた。小兒は依然として昔ながらのヅグリを友とし、從うて之を新たなる名稱に改むべき主要なる動機には觸れなかつた筈である。微々たるたゞ一つの玩具の名ではあるが、それがヅグリ又はツングリであるといふことは、少なくとも或種の工藝の遲く其土地へ入つたことを語るのみならず、更にそれと牽聯して、過去の信仰生活の通つて來た道筋を、尋ねて行く栞ともなるのである。
 我々の地方言語の變化が、何等の社會的理由も無しに、たゞ亂雜になつて居るのでは無いといふこと、新たなる原因の來り促すものがなければ、人は寧ろ努めて今迄の物言ひを保ち守らうとして居たことも、この小さな事實が有力に之を示唆してくれるのである。東北各地の方言を説かうとする者は、前にも既に多く今後も嗣いで現はれて來る形勢はあるが、我々の齋藤吉彦君の如く、細心の注意を遠近の事例に拂つて、しかも靜かに問題の成長を待たうとした人も稀であつた。彼の業績は三十年五十年の後を期して、花咲き實なるやうな大規模のものであつた。それがどういふわけで忽然として中絶しなければならぬことになつたのであらうか。この人生の法則ばかりは、永久に私には會得する事が出來ない。
 
(218) (追記)
一、?楢類の樹の實をシダミといふ名詞は、仙臺と盛岡と其四周、それから秋田縣にも及んで居る。之をスタミだのヒンダミだのと謂ふ處は、何れも孤立した小さな區域だから、その轉訛であることが想像し得られる。他の東北の三縣を調べて見たら、多分この想像が今一段と確かめられると思ふ。關東各地では是がジダンボ・ジンダンボウ、又はジンダングリとなつて居るのだが、更に西に進んで信州木曾でもシダミ又はシランボ、靜岡縣の小笠郡などにも、再び所謂團栗をシダメといふ語が出て來るのだから、元はシダミであつたことは大よそ疑ひが無くなる。ジンダングリといふ方言は、茨城縣の南寄りにあるが、之を栗の一種のやうに見て斯ういふ呼び方をしたのが、或はツクリとの一つの交渉面では無かつたらうかと思ふ。東北では之をヅグリと濁音にかへた以上に、南へ來るに從つて更にヅングリが多くなり、仙臺などは既に百十數年前の方言集に、「たゝきこま」又は「べいごま」をドングリといふやうになつて居る。しかし一方に於てこのシダミの實を、其まゝ獨樂にして廻して遊ぶ習はしが無かつたら、此樣に容易に又廣く、ドングリを樹の實の名とする結果にはならなかつたらう。即ちツブリ又はツムグリとして玩ぶ樹の實である故に、之をドングリと呼ぶ風が行はれ易かつたのだと思ふ。現に佐渡越後から北信にかけて、ヅングリはまだ近い頃まで、一種の獨樂の名であつたのに、甲州は富士川の右岸の村々では、もう?類や橡の實などを、ヅングリノミと謂つて居る。コマといふのは耳に快い語であるから、小兒が其名を覺えて、之を店で買ふ方の玩具の名とし、それから更にすべて廻して遊ぶものゝ總名としたのは自然であり、從つてヅングリが樹の實專用の語になつたのも不思議は無い。名古屋ではもと?の實のドングリをデングルマと謂つて居た(尾張方言)。是は肩車をテングルマ即ち手車と呼んで居た語の影響かとも思はれる。九州でも北部の農村では、橡の實をヅウグイといふ語がなほ傳はり、爰にも曾てはツグリの名があつたらしい痕跡を見せて居る。古語は邊土に殘るといふことは、本居先生も既に唱へて居られるが、少なくとも(219)東北はその幾つかの例證を供與して居る。ヅグリが最も本の形に近いことは、文書が證明するから爭ふ人はあるまい。シダミの方はまだ旁證は無いけれど、是とても決して「方言」では無いと思ふ。
 
(220)  燐寸と馬鈴薯
 
     一
 
 國語が今日の地方的混亂を見るに至つた原因として、人は最も容易に單語と措辭法との衰頽、即ち意味の誤解や適用の過失、一部の忘却を補充せんとする拙劣なる思ひ付き等の數々を想像する。而うしてその殆と全部を擧げて、之を田舍に住む者の責に歸せしめんとするのが、永年の學界の癖であつた。如何にも音韻の先づ耳朶を打つ部面に於ては、諸縣各孤立して往々驚くべき變化があり、一種の優越感を以て之に臨む京人は、無邪氣に彼等を目して約束の違反者と爲し、總括的に嘲りもしくは非難したのみならず、一方には進んで學ばんとして未だ能はざりし地方人が、從順に訛謬の評を甘受したことも事實であるが、是とても果して古音が常に中央に保存せらるゝこと、たとへば度量衡の原器の如くであつたか、但しは又都市は生活の趣味便宜の爲に、次々に發音の改良を提案して、大衆は氣輕に之を承認しつゝあつたのでは無いかどうか。未だ曾て正式に審査せられる機會は無かつたので、單に今日の立場のみより考へても、豫め所謂都鄙の辯を信奉してかゝらぬ限り、全部一方の選擇のみを、不幸のものであつたと斷定することは出來ぬ。況んやそれから類推して單語語法の端々に至るまで、今見る各地の相異は、すべて遠く住む者の誤謬であり、且つ彼等の所爲であると推定することは無理な話だ。然るに最近四十年間の所謂方言匡正は、之を勸説した者の動機は未だ知らず、少なくとも調査の實際に參與した人たちの心持は、一も二も無くこの不當なる臆斷を是認して(221)居たのであつた。訛語は我々の解する所では、横なまり即ち發言の地方的異常であつて、之を方言と連稱することすら、或はどうであらうかと考へられる。しかも多くの人は二つの者の分堺を辨へず、方言即ち亦訛語なりとさへ見て居る。是は全く方言が何に因つて起るかの理法を、考へ且つ説かうとする人の無かつた結果であると思ふ。
 國人は言はず語らずの間に、言語に關しては一種の過去の黄金時代を假定して居る。それ故に方言の唯一もしくは最重要の原因として、衰頽を算へざるを得なかつたのである。突詰めて靜かに思慮して見たならば、其出發點の煙の如きものであつたことは、誰にでも容易に解つた筈である。この人間交通の怖ろしい程の繁雜錯綜、社會事物の種目の激増に伴なひ、あらゆる器仗機械は休む日も無く改良せられ、それが一つとして精又利を加へない物は無い世の中に、獨り言語ばかりが昔よりも力弱く目的に遠く、密より粗に進み、適切より散漫に向ふべき道理がない。乃ち人の謂ふ所のデカダンスなるものは、斷じて枯木が朽ちて行く類の退化では無くして、竹の葉が夏に入らうとして落ち散るが如き、積極的原由に基づいたものでなければならぬ。故に驅逐壓迫によつて或種の古語舊辭が消滅したことゝ、その又或ものが形を變じ意味を改めて、現に眼前に存することゝを以て、同一衰亡の途を歩むものゝ、後れ先だつ姿と見ることは、大抵の場合に於て誤まつて居る。亡びて行くものゝ一つ前には、其現出度數の漸減はあらうが、必要あつて、旅人の耳に留まるまで、頻々として用ゐられて居るものは、其生活力から考へても之を哀頽とは名づくべきでない。故に寧ろ之を或階級、即ち標準語の必要を感ずる人々の、趣味に副はざる成長と名づくべきである。
 しかも言語の全體としては、成長以外の何物をも想像し得ないに拘らず、其各部分には實に正しく衰頽があり、又滅亡さへもあつた。新らしい時代に入つて來ると、右にいふ如き都會風の選擇なども、又強勢なる一つの力であつて、單に徐々たる自然の衰頽と目すべきものを促すに止らず、進んで血氣盛んなものを打殺すことさへ多くなつた。純乎として純なる言語史の學者ならば、是をも人類文化の一過程として、例へば試驗管の酸アルカリの、多過ぎた少な過ぎたと同一視し得るであらう。我々の如き目的ある觀測者は之に反して、假令究竟地の生者必滅に抵抗しない迄も、(222)少なくとも是が記録の上に足痕を印せずして、突如として影を斂めることを悲しまざるを得ない。ましてや最近までも儼存した其生活理法を檢することも無く、新たに發生した統一の運動と、從前永く働いて居た各地無數の小法則と、大小古今の差別をも問はず、之を一望の跡白浪と眺めることは出來ない。もつと露骨に言ふと、考察無き匡正は、研究無き蒐集よりも尚つまらぬ仕事であつたと思ふ。が幸ひにして匡正は半分しか效を奏せぬ上に、兎に角に若干の蒐集を以て、我々の時やゝおくれたる調査を助けてくれるのである。
 
     二
 
 國語の轉變にはすべての有機體と同樣に、之を構成する個々の分子の、生老病死が參與して居ることは言ふに及ばぬが、學問として之を觀察するには、主として其成長に着眼しなければならぬ。それは此一つが專ら人間の社會と交渉ある側面で、他の三者は寧ろ之に附隨する免れ難き條件といふ迄だからであつて、蠶を養ひ薯を栽培する農夫ならば、教へられずして當然にさうしたであらう。然るに獨り言語の研究者のみが、世の中の進みを以て、曾て榮えたものゝ零落を意味する如く解したのは、全く古文崇拜の不當なる類推である。或は又前代の文化に多くの貴重なるものを含むといふ斷定の反面から、故に今の世に在る者は大抵はうとましいと、早合點をした結果とも見られる。常人の選擇に無智無分別の誤謬といふものが、今もあるならば昔はなほ有つた筈である。古語が正しい形と言ひ得べくんば、現代語も亦千年の未來に對して、正しく雅なるものでなければならぬのだが、一を認めて他を否むが如き口振りの、久しい間の癖を爲して居たのは、恐らくは古語成立に關する少しも證據なき我見からである。今日の國語を作つて居る單語と語法とが、一つ/\生れた年代を異にして居るのを見れば、昔はさうで無かつたといふことを、推測しようとするのは不當である。言辭がいつの時代にか、特に優秀なる人々によつて、制定せられたといふことは考へられぬ。文人は何れも自分の世の中の、最も上品な言葉のみを採擇しようとしたが、なほ現に時代毎に異なる文章を書殘して(223)居る。新らしい事物の新らしい名を要求する場合にも、通例彼等自らは命名者たることを得なかつた。殊に今まであつた言葉を排擠して、代つて意外なるものゝ出現を迎へる際などは、必ず不本意であつたらうと思ふにも拘らず、やはり亦外部の約束に服せざるを得なかつた。其理由は極めて簡單で、言はゞ多勢に無勢であつて、到底書册以外の利用者の、一般的意向には手向ふことが出來なかつたからである。但し我邦に於て幾分か彼等を支援したのは、古文辭愛玩の好尚であつたが、それは結局方言の成長を一段と複雜にしたといふだけで、つい最近の國家教育主義の成熟を見る迄は、批判は峻嚴であつたが抑制の力は具へて居なかつたのである。
 要するに方言の今日あるを致したのは、統一無き成長の結果であつた。都府の所謂文人墨客が、おのればかり擬古文の城砦に立て籠らず、責めては無住法師等の半分くらゐの親切を以て、周圍の市人に話し掛けようとしてくれたなら、斯ういふ小區域の勝手次第の變化は起らなかつたことゝ思ふ。僅かに興味の新らしさにほだされて、次々言葉を作つて古いものを棄てゝ行くことは、勿論町屋に群れ集ふ者の專有の技能、もしくは氣輕さであつたので、之を田舍人の考へ無しに歸することは誤りであるが、境遇の然らしむる所、日本では村でも追々に獨立して、氣の利いた新語を發明する術を覺え、殊に少年青年の如き經驗の狹い者が、仲間ばかりの小さな一致に基づいて、自在に物の名や文句を選擇して居た爲に、今に至るまで一方には古いものを匡正せられつゝも、傍らに新しい方言の成長して、更に分析し難い混雜を増加せざるを得なかつたのである。
 外國語流行の近年の感心し難い傾向を以て、末世浮薄の突發した惡癖の如く看做すことは出來ない。固より漢語だから又は英語だから、用ゐたいといふ人も少しはあつたらうが、主たる原因は他の多くの追隨者が、久しい以前から古語に倦み易く、奇拔なる新らしい音に忽ち馴れてしまふ鋭敏さがあつたのと、今一つには群には物に名を付ける力があるものと、解して居た經驗からであつた。即ち曾ては殆と完全に近い地方自主を、個々の小盆地に認めて居たのである。それにも拘らず、尚若干の聯絡と著しい傾向の共通とを失はなかつたのは、自分等は之を水陸來往の效果の(224)みに歸することを躊躇する。假に境域を交錯し、旅人の横ぎつて行く者が其敷更に多からうとも、民種が一つで無く文化が源を同じくしなかつたら、是までの著しい偶然は到底一致する筈がなかつた。それが又我々の方言比較を以て、學問の大きな興味とする所以でもある。
 
     三
 
 自分の方法に於ては、言語成長の過程を尋ねる爲に、出來るだけ簡明なるものから發足するを便とする。例へば内容の徐々の擴張、それに伴なふ適用の推移、時としては本原の忘却の如きも、すべて皆吾人の社會生活の要求に應じたもので、乃ち此より遡つてそれを促した事情を究めることも可能であらうが、其爲には先づ澤山の比較に由つて、此運動の積極的であつたこと、即ち間違へて斯うなつたのでないことを立證しなければならぬ。一つの言葉が老い又衰へて、之に代つて次のものが出たと言はれる場合などは、殊に新らしい語辭の必ずしも出來合ひ有合せでなかつたことを指摘すべく、過渡期の煩瑣なる歴史を辨證する必要がある。しかしそんな事をして居ると入口で手間を取る。單に近代の日本人が地方の隅々に及ぶまで、言語の栽培に就ては農業と同じ程度に、細心且つ巧智であつたといふことを知るだけならば、先づ最初に新しい事物に對して、如何なる態度を取つて居たかを考へてかゝるのが近路である。明治以來の外國交通が、今日の語彙に附加した數は、或は過去千年間の集積をさへも超過する。しかも其大部分が容易に發生し、又急速に消滅してしまつた事實は、或はそれが永久の生存に適しなかつたからといふ速斷を招くかも知らぬが、是は寧ろ地方的選擇の餘りに自由であつた結果で、もし十分なる支持者を得るならば、此等と比べて遙かに無理な適切でない言葉でも、根が生えて次第に成長すべきことは、多くの術語學語が最も手近なる證據である。
 單語養成の社會力とも名づくべきものを例證することは、我々にとつてはいと容易なる仕事である。その一つとして、何人も目的物の新渡を疑はぬものはマッチ、字では燐寸などゝいふ厄介な漢字を以て、統一しようとして居るし(225)ろ物である。是が五十年の間に色々の方言を地方に發生せしめ、辛うじて今尚標準語に抵抗して居ることは人の知る通りで、その最初のものは無造作ながら、兎に角に始めて聽く人の納得すべき名詞であつた。それを其者の生存中に、もう中止しようとする事は自然でなかつた故に、現在ならばまだ其變化が尋ねられるのである。
  トウツケギ             青森縣殊に津輕
  トツケギ、トツケゲ         秋田縣仙北平鹿など
  トウヅケン、ハヤヅケン       富山縣婦負郡など
  トウジンツケギ、スリツケギ     群馬縣緑野地方
  トウツケンギ            和歌山縣有田郡など
 この五つの地方には聯絡は無ささうだから、偶合と見てよからうと思ふ。唐附木は勿論外國産といふ迄で、どこから來たかを究めたわけでない。ツケギといふ語のまだ活き/\と働いて居た時世に、不意に出現した以上は斯うして總括し、又差別するの他は無かつたのである。しかし唐はトウキビ・トウガラシの昔から、あまりに有りふれた命名法であつた爲に、この物新らしい感じを表示するには足りなかつた。それ故であらうか又他の地方では、尚一段と限定した名を採つた。
  オランダツケギ           熊本縣葦北郡
  オランダツケギ           筑後柳河邊
  オランダ、スリツケギ        壹岐島
  ランポウツケギ           筑前博多
  ダンツケギ、ボス          宮崎縣一部
などの例もあり、一方の端では又、
(226)  アメリカツケギ           新潟縣西蒲原郡
  アメリカツケギ           岩手縣北部
  アメリカ              同 岩手郡
  アメラガ、アメラカツケギ      秋田市附近
といふ處もあつた。此等も事によると賣る人の作略であつたか知らぬが、更に一段と明瞭に效能を敍して居る新名詞としては、
  ハヤツケギ             秋田縣一部
  ハヤツケギ             新潟縣新發田など
  ハヤツケギ             千葉縣夷隅郡
  ハヤツケン             富山縣一部
  ハヤツケン、カラツケン       石川縣江沼郡
  ハヤズリ、スリゼンコ        丹波福知山邊
  ドウチウツケギ           鳥取縣西伯郡
などがある。道中附木は殊に適切で、今日ならば輕便何々とも名づくべきものに、往々にして此名があつた。其次には多分觀察者側の命名として、スリツケギといふ語があつた。一時標準として認められさうな勢ひがあつて、其影響であらうか、東は關東の平原から西は九州の海邊まで、飛び/\に知られて居る。しかし本家の附木が追々と無くなれば、もう無益に長たらしい言葉である。片言の模倣語だが、マッチとした方が便利であつた。全體ツケギといふ單語が、存外短い歴史しか持つて居らぬので、之に對する各地の方言を見渡すと、九州は殆と全部と四國の一角、北では秋田方面に於てはツケダケと謂つて居た。寒國に竹は似合はぬから、或は附け焚きであつたかも知れぬが、兎に角(227)に輕い燃え易い材料を?《おき》の火に押附けて、急場の火を焚くべく吹き立てたからの名前らしく、竹の削り屑などの得られぬ土地では、松の葉や小枝枯薄も用ゐたのであらう。能登ではさういふものをフキツケと謂ひ、我々は普通タキツケといふが、駿河や伯耆では之をモヤと謂ふ村もある。それが山野の灌木叢生をモヤともボヤとも謂ふ原因であつて、最初は斯ういふ輕い燃料の燃え上がる音を象どつたものかと思ふ。漢字で書いて引火奴といふ近年の附木が、發明だか輸入だかせられた際にも、ちやうど燐寸の場合と同じやうな、思ひ/\の命名があつたらしいが、一つの相違は忽ちに古い發火方式を絶滅した爲に、右のツケギ・ツケダケの舊名を相續させた土地が多かつたのである。自分等の國では引火奴をイヲンと謂つた。硫黄を木片の端に塗つて火附きを早くしたのが特徴だつたからで、或は一應は硫黄附木とでも呼んで居たのかも知れぬ。鳥取附近に行くとタテヲ又はタテヨー、古風な人はタチヨーと謂つて居る。タテヲは誤解であつて、元は「立て硫黄」であらうと思ふ。
 
     四
 
 そこで再びマッチの方言に戻るが、三重縣の北部などで此物をスリヨと謂ひ又カラヨと謂ふのは、附木をヨ又はイヨーと呼んで居たことを推定せしめる。誤りといへば誤りだけれども、此土地としては是以上に簡潔なる稱呼は想像し得られない。しかもそれと同時にスリビといふ語も知られて居た。是も手輕ではあるが、少々の推理が入用である。自分等はこのスリビは多分スリビウチ(摺燧)の省略だらうと思つて居る。成程マッチの用途は焚き附けよりも、燧の方に代るべきものであつた。故に此物出現して先づ滅びたのは後者である。
  スリビウチ、スリツケギ       壹岐島
  スリビーチ、スリビ         廣島縣沼隈郡
  スリ                今治市附近
(228)  スリビ              高松市附近
  スリビ               淡路島
  スルビ、スリビ           奈良縣北葛城郡
  スリビ               滋賀縣八幡
  スルビ               岡山縣久米郡
  スッダビ              長崎縣五島
  スリゼンコ、ハヤズリ        丹波一部
  スリゼンコ             若狹
 自分の郷里播磨中部なども、やはりスリビとスリゼンコとが行はれて居た。摺線香は如何にも不精確な命名法だが、線香に對する子供等の興味は、いと容易にマッチの細々とした軸木に對して、聯想を働かせることを得たのであつた。スッダビに至つては本意  稍々不明であるけれども、察するところツケダケといふ語との間に、若干の因縁を持たせたい心持が、スルビの發音に影響したものであらう。なほ此等の他に信州松本附近で、ドンドロといふ名の行はれたのは、もとは多分は小兒語で、發火の怖ろしさを形容したものであらう。ドンドロは諸國に於て雷のことを意味して居る、日向の一部分でボスといふのは、疑ひも無くフォスフォルのこわれである。斯んな不穿鑿な片言を言ふと、輕蔑してもよいやうなものだが、マチ又はマッチといふ標準語なども、實はさう大きな顔の出來ないわけがある。
 
     五
 
 燐寸に次いで一寸考へて見たいのは、是も同じ頃に入つて來た馬鈴薯の新名である。ジャガタラは素より傳來の歴史を談るものに非ず、所謂蘭法附木の類を出でぬばかりで無く、之を尻切つてジャガイモ・オジャガと謂ふに至つて(229)は、殆と標準語の威信にも關するものであるが、獨り地の利を得なかつただけで、他の多くの適切なる名稱は見棄てられて居る。是はマッチに比べると更に複雜なる交錯があるが、假に大別して簡畢に發生の動機を考へて見ると、單に異域の珍として人の好奇心に訴へんとしたものは寧ろ多くなかつた。
  トウイモ、ジョロイモ        千葉縣夷隅郡
  カライモ、ゴショイモ        陸前登米郡
  オランダイモ            滋賀縣伊香郡
  カライモ、キシイモ         米澤市附近
  キウシウイモ、ゴショウイモ     福島市附近
  ヒウガイモ、テウセンイモ等     奈良縣
  シコクイモ、ハチコクイモ等     「越佐方言集」
 シコクは多産を意味する四石かも知れぬ。九州も或はたゞ遠い處からといふ迄であらう。
  コウシュウイモ           長野縣伊那郡
  コウシウイモ            遠州浦川村
は出處を説くやうに見えるが、是とても思ひ違ひであつたかと思はれる。通例此品の弘く勸説せられたのは、其豐産多收の點からであつて、五升薯は即ち坪に五升も取れるといふ誇張で、それがコウシュウと誤つたものらしい。
  ゴショウイモ            北海道小樽其他
  ゴショイモ             仙臺市附近
  ゴショイモ             富山縣
  ハッショウイモ           丹後中郡與謝郡
(230)  ハッショウイモ          但馬
  ゴトイモ、バカイモ         茨城縣稻敷郡
  ゴドエモ、ゴシエモ等        秋田縣河邊郡
 次には春秋二度の収穫があると稱して、最も弘く行はれたのは二度薯の名であつた。秋田縣の處々と南部地方から、南は奈良縣の一部にさへ及んで居る。夏季糧米の  稍々乏しき頃に産するを便なりとして、越中には六月イモの名があり、能登の各郡では專らナツイモを以て知られて居たが、それから轉じて又ナシイモとも謂つて居る。それを又切干しにして貯赦し得るのが特長とあつて、次のやうな  稍々おどけたる名前も行はれて居るらしい。
  カンプライモ、アップライモ     茨城縣多賀郡
  カンプラ              福島縣郡山市邊
  カンブライモ            同 安達郡
  アフライモ、アプラ         宮城縣牡鹿郡
  アフラ               秋田縣河邊郡
  アンプラ              同 男鹿半島
  カンポイモ、タンポイモ       新潟縣一部
  テンコロイモ            富山縣一部
 是は自分ばかりの推測であるが、薩摩芋の切乾しをカンコロと謂つて居る土地は多いから、此方も音などから作つた名だらうと考へるのである。信州西北部のゴロイモは、或は是も全く關係が無いのであらうが、それから成長してゴロタイモ、ゴロザイモ又はゴロサクイモなどゝ、如何にも之を作り始めた人の名でもあるらしく稱へる者もある。佐渡と甲州北巨摩のセエダイモ、若狹と因幡東隅のコウボイモ、東上總のジョロイモなども、恐らく何かの誤解から、(231)この記憶し易い名が出來たのであらう。
 
     六
 
 それから又此薯の效能をたゝへてサントクイモ(群馬縣多野郡)、如何なる土質にも生育する故にスナイモ(會津大沼郡)、又はヤタライモ(三重縣三重郡)などの名もあるが、或は又斯ういふうまくも無いものが、際限もなく取れるのに愛憎をつかした樣子もあつて、
  バカイモ              茨城縣稻敷郡
  バカイモ              長野縣下水内郡
  キンカイモ             岡山縣英田郡
  キンタマイモ            滋賀縣湖東
などゝ、馬鹿にしたやうな名も諸方面に存在する。キンカは禿頭のことである。中國以西の暖かい土地では、別に甘藷がある故に此薯は多く作つて居ない。さうなると所謂ジャガイモの領域としては、殆と都會の消費者以外には幾らも殘つては居ないのだが、それでも尚全國を統一すべく、之を標準としたのは理由の乏しいことであつた。獵人の鳥獣、漁夫の魚、農夫の年々に作る植物の如きは、此樣な單なる符號では、親しみを感ずることが出來ない。從つて新たに自ら命名するとすれば批評的、さうで無ければ昔からの、何か耳馴れたものに引付けてでも、心から呼びよくする必要があつたので、意味なきジャガイモなども恐らくは其理由から、わざとかと思ふ變更を加へて居る。
  ジャガライモ            加賀河北郡能美郡
  ジャバライモ            信州北部
  ジャンガライモ、ジャガラエモ    越中一部
(232)  チャンガライモ、チャガラ     越後魚沼地方
  ジャイモ              越中・能登
 ジャンガラは盆の踊の鉦の音であり、又馬の鈴の音の形容でもあつた。是から推して考へると、東京の四近に於て特にジャガといふ省略を愛したのも、元は斯うした方がまだ幾分か親しかつた爲で、即ち上品なる食用者の庖厨の用語では無く、是も近郊農村の住民の趣味に出でたのかも知れぬ。さうすれば  愈々以て都鄙雅俗の差は、偶然の專斷といふことになるのである。
 此以外に自分の書留めて居る馬鈴薯の方言は、信州北佐久郡ではカビタイモ、加賀能美郡ではカツイモ、同郡白山山麓ではカヅワキ、此三つはまだ由來が考へられぬ。
 阿波祖谷山ではフドイモ、是はホドであつて、本來は他の野生の球根をさう呼んで居たのであらう。信州東筑摩郡ではヲトコイモ、是は一異種で、多分形のやゝ大なるものであらう。兎に角に僅々六七十年の月日が、此薯の需要を是ほど一般的にした事情も考ふべきであるが、是だけ多數の名詞を創成して、それ/”\土地の實際に使用するに至つたといふことも、正に驚くべき我民族の命名力であつた。
 
(233)  玉蜀黍と蕃椒
 
     一
 
 燐寸が國の南北に亙つて、百にも近い異稱を持つて居るに對して、是とほゞ同じ頃に入つて來た石鹸に、殆と一つの方言も出來なかつた理由や如何。是が私の第二歩の佇立であつた。常識で答へ得る三つの點は、一つには入口、二つには普及速度、三つには必要の急不急である。無くても濟むといふことが、特に燐寸に就ては言ひ難かつた故に、一朝にして常人戸々の燧石に取つて替り、其名を毎日の生活に織り込むに至つた。(之に關聯して不斷火の問題がある。燃料を儉約して火打を盛んに利用した期間は、案外に短かかつたやうである。)ところが他の一方の石鹸といふ舶來品は、暫くの間は明白なる奢侈であつた。石鹸を使つた人々は、恰も其新名稱をも珍重し得るだけの準備ある階級、即ち千年以上の昔から今日まで、寧ろ外語を歡迎する人々であつた故に、一向に自己一流の方言を案出しようとは努めなかつたのである。
 此差別の一例から推して考へると、個々の言語には各自の傳記があつた、と言はんよりも目的物の?態に應じて、或は發生し成長し變化し、或は全く當初の儘で、知らぬ顔をして居るものがあつたのである。今日その區々なるものの集團が方言であるとすれば、少なくとも單語に就ては、方言の區域を劃定することは無理なやうである。音韻の變化に於ては大よそ明白に、地方的の差異が認められるために、或はそれが同時に方言の區域なるかの如く、速斷しよ(234)うとする人はあるかも知らぬが、獨り個々の品詞のみならず、語法に關しても自分はまだ容易に之を承認しない。
 しかし順序だから先づ單語の部分より入つて見ようとするのである。此通り言葉が物次第?況次第に、思ひ/\に生れるものであるとするならば、方言變化の法則は此間から見出す見込が無いかといふと、必ずしもさう思ひ切つたものでも無い。草木は種があつても常に發芽するときまつて居らぬやうに、其以外の條件が實は大いに方言の生成を支配して居るので、此點は既に澤山の單語に共通して見出されて居るかと思ふ。然らばその作物でいふならば温度や土の濕りに該當するものは何かといふと、自分は單純に「入用の度」と答へて置きたい。同じく我々の持つて居る日本語の内でも、一年に一度も使ふか使はぬかの、淡い因縁のものもあり、中には又耳で聽くと理解はするが、常は見もせず用も無く、從うて口にも念頭にも一向浮んで來ぬやうな單語は、女にも小兒にも澤山ある。新らしく方言が出來るのは、申す迄も無くそれを口にする時以後で、それと同じ事情はおのづから、多く使はれる語に多くの變化が起るといふことをも類推せしめるのである。
 あまり適切な例でも無いか知らぬが、サバク即ち裁判をするといふ動詞は、法廷の自由が付與せられた近代までは、常人には殆と用の無い語であつた。一生に一度も此語を使はずに濟んだ百姓は幾らもあつた。ところが大岡越前守や青砥藤綱模稜案といふ類の物語が流行すると、女子供までが折々は此語を使ふ。一方には又村役人の公務を整理することを、早くからの意味に隨つてサバクと謂ふ地方があつた。さうすると是は頻々として場合が生ずる故に常用の語となり、恐らくは裁判のサバクと紛れしめない爲に、後には此方のみをサバクルと謂ひ、それから名詞を作つてサバクリといふ言葉が、和泉國の田舍にもあれば、又沖繩の村々にもあつた。是が或時代或土地にのみに、斯ういふ方言の發生し且つ變化した理由になるのである。
 自分等が此等の言語現象を、意義多き社會事實として、之を整頓して見ることに由つて、所謂史料を持たぬ前代に入り得ると信じて居るのは、ちやうど柳行李の産地と聞いて、但馬豐岡は濕田水腐場の多い處と想像し得るやうに、(235)或程度までは個々の單語が發生地の?況を反映するからであつた。それには先づ語と目的物との關係が、大樣如何なる形を取つて現れるかの、實?を知つて置く必要があり、それが同時に又我々の民族に、今後必ず起るべき言語學といふものゝ、可なり大いなる一部分であらうと思ふのである。
 
     二
 
 燐寸や馬鈴薯の五十年間の歴史のみを見ると、日本人は何でも單語を作る技能があり趣味があり、更に之を保持して他のものを謝絶する位の、愛着さへあつたやうに見えるが、是は歳月が短かかつたといふのみならず、二者の流布した事情にも、幾分か特殊の點があつた爲かも知れない。單語にもせよ、新たに作るといふは勞苦であり、殊に通例は使用に臨んで始めて必要を感ずるのだから、有れば有り合せで間に合せようとしたに相違ない。それが斯ういふ自己流の名前を、幾らとも無く發生せしめたといふことは、兎に角によつぽど承け繼ぎにくい、覺えても心安く使へない元の語であつたことを意味しないであらうか。近世に出來たと思はれる多くの異名を見るのに、成るほど是は適切だと、時には微笑をさへ催すものが稀でない。といふことは其反面から、あまりに耳馴れず又似合はしいと思はれぬ單語を、自分と自分の親しくする物體との間に、立たせて置く氣になれなかつたことを推測せしめる。この點は多數の方言利用者と、外來語を珍重するやうな新人との、可なり著しい心情の差であつたと思ふ。
 單語が氣に入る氣に入らぬといふことは、必ずしも説明が丁寧だといふ意味で無いことは固よりである。何れの民族にも又は其一部曲にも、語音には若干の選擇がある。樂な聲と發しにくい音とがある。聯想に便なるものとさうで無いものとがある。殊に音節の數には好尚があつて、又誰しも餘り多いものは悦ばない。其以外にも暗々裡に働いて居る障碍は、紛れ易くまちがひ易い從前の似たる單語のあることである。斯ういふ尺度に丸々合致せぬ場合ならば、最初から新語を考案し、又は他の方面を捜して代りを見付けようとしたらうが、それ程でも無いが何だか氣に食はぬ、(236)又は辛抱のしにくい不便があつたといふ場合、或は此方がもつと都合がよいといふ際には、誰が首唱するとも無く、ジャガタライモをジャガイモとし、もしくはオジャガとまで切詰めてしまふ位なことはする。刪定は殊に新作よりも手輕であり、又同意者が得られ易い。田舍の小さな社會で此事業が行はれると、學者は之を訛語の中に入れて、今までは其理由を尋ねようともしなかつた。しかし自分だけは之を單語の加工又は調理と名づけて、方言發生の第二の原因に算へようとするのである。
 
     三
 
 空なる談理は私の志で無い。さうして知らなければならぬ實際は、なほ廣々と殘つて居るのである。新たに製作せられた單語の、末にはどうなつて行くかを考へる爲に、都合のいゝ一例としては爰に玉蜀黍がある。是がどういふ閲歴を以て四百年に近い生存を續けたか、まだ自分は特に學ばうとしたことも無いが、少なくとも馬鈴薯よりはずつと弘い地域に亙つて、可なり變化の多い旅行をして居ることだけは疑ひが無い。始めて日本に入つた入口が二つ以上であつたか、さもなければ渚の波のやうに、間を置いて何回にも寄せたものか、何にしても普及の速度は、燐寸ほどに急激で無かつたと見えて、兎に角に今見る方言變化の上からは、名前の缺乏に苦しんだ痕を見出さない。それでも全國を通覽すれば、十に近い系統の分れはあるが、それはたゞ中央部一地方のみの特別な?況に基づくので、大體に於ては三つか四つ、中にもトウキビ(唐黍)といふものが大半の地域を占めて居る。其次には自分の殊に興味をもつナンバン系で、標準語のトウモロコシは其本來の領土からいへば、第三位も少し怪しいくらゐ狹いのである。さうして僅か東京とその附近とが、この語を採用して居たのは偶然であつて、決して選擇でも判定でもなかつたのである。
 色々の意味から玉蜀黍方言の分布には面白い問題がある。地圖を作つて見たら便利なのであるが、成るべく之を省略する方針で簡單に記述する。此作物を栽培し始めた時に、多くの日本の農夫は既に黍を知つて居たのみならず、或(237)土地には之に先だつてモロコシキビが入つて居た。何にでも新しいものはトウ(唐)を附ける習慣から、或は唐モロコシ黍として、長い分は尾を切つたのだといふこと迄は誰も想像するが、別に此以外に唐粟を以て之を呼ばうとした少しの地域があつた。これは事によると其方面が、餘り黍を作らぬ處であつたことを意味するのでは無いかと思ふ。現在の分布は次の如くである。
  トウナ               飛騨高山附近
  トウナワ              同 吉城郡
  トウナ               同 益田郡
  トウナ、トウマメ          美濃武儀郡一部
  トウワ               近江蒲生郡一部
  トナワ、トウノキワ         越中上新川郡
  トナワ               同 高岡邊
  トウナワ              同 福野附近
  トナゴ               越前五箇山
 斯うして見ると飛州が中心の樣に見えるが、此山國へ天から降つたわけも無いから、恐らく北の海邊が入口であつたらうと思ふ。越前五箇山は飛騨とは白山の山彙を隔てゝ居るが、美濃との交通は可なり繁かつたから、此側面から移つたものとも見られる。少なくとも同じ北陸筋としては、加賀一國のトウキビ地域を以て明かに中斷せられて居るのである。
 
(238)     四
 
 この小さな島樣の孤立は、單に四境の別種方言が、第二次に此作物の輸入に伴なうて來た時に、もう之を迎へる必要の無い迄に、既に住民の親しみを獨占して居たことを意味するのか。はた又新たに何等かの長處を携へて、後に此地點まで割込んで來たものであるか。何れにしても此植物の傳記と最も深い關係があるもので、之を區域論者の考へて居る如く地方言語の一般的傾向とは見られないことは、進んで隣接地の變化を比較して、愈確かになるやうに思ふ。岐阜縣の西南部には右の外に、なほ二種の方言が入り交つて行はれて居る。其一はコウライ、其二はハチボクで、コウライの方は滋賀縣の東半分、南は名古屋市を含む尾張平野の一帶と、伊勢三河の片端とが之に加入し、ハチボクの區域はそれよりも遙かに狹く、美濃では郡上郡の北部山間ばかり、主としては近江に於て、コウライ及びナンバと犬牙錯綜して、村々を分有して居る。其他に「物類稱呼」の出來た頃には、伊勢にも一部分ハチボクと謂ふ處があつたやうである。
 コウライは美濃の各郡では、コウライキビと謂ふ方が普通だから、乃ち高麗黍を省略したものであることがわかる。遠く隔てた瀬戸内海の兩岸にも、同じ語を用ゐて居る地域が稍廣く存する。例へば備前邑久郡の一角、備後の沼隈深安二部の海添ひ、安藝では賀茂郡の一部、海を越えて伊豫の大三島、讃岐は高松でも男木女木の島でもコウライキビである。さうして此兩方の中間は一帶にナンバ又はナンバキビの領分である。或はナンバといふ新種の流行する以前、一時押しならして皆コウライであつた時代がある樣にも想像し得るが、土地が文獻の豐かな京畿近くの地であるにも拘らず、まだ書いたものゝ證跡は見出されず、一方には越前の愛發《あらち》を經て、南條郡の一部にもコライキビの語が行はるゝ上に、遙か北に飛んで越後の西蒲原郡でコクレン、又或土地ではコクゾとも謂ふのを見ると、或は別に後代の海上の運搬であつたかも知れぬ。
(239) ハチボクといふ語に至つては殆と意外であつて、未だ命名の動機をすらも考へることが出來ぬが、是が近江に自生したもので無いならば、やはり日本海の側から上陸したこと、多くの北國物産と同じでは無かつたらうか。能登の熊木地方にハチコクといふ類似語がある以外には、其途筋を辿るべき端緒が無い。たゞ遠く離れた伊豫の大洲の近傍に、僅かにハッタイといふ一特例が見出されるといふのみである。
 
     五
 
 滋賀縣の方言が、特に一二の輸入作物の名に就てのみ錯綜して居るのは、地勢殊に水陸交通の事情が之を説明する。他の一方に於ては三河西端の碧海郡などは、獨り玉蜀黍の一種に限らず、澤山の方言が入り交つて併存して居る。是は近年の方言採集が郡を單位とした教育會などの協同事業なるために、殊に此現象を著明ならしめるのであるが、其中でも碧海郡誌には他に見られぬ程の變化があつて、コウライ以外に此郡一部の用語として、玉蜀黍をナンバトウ・カラトウナンバ及びトウカラといふ三種まで掲げてある。勿論是は一物二稱では無く、個々の部落と家庭に於ては、何れか此内の一つを使つて居て、他の三つは聽けば解るといふだけであつたらうが、特に此平原の一區劃のみに、斯ういふ割據主義のなほ行はれて居るのは、如何なる原因に出でたものか。或は二つの系統を異にした方言領の堺目には、別に新命名に對して餘分の自由が認められるものか。兎に角に四つの中の後の二つは、殆と此郡だけにしか見られない語であつた。此推測には安心するだけの根據はまだ無いが、大きく觀ると三河一國が、やはり獨立して自分の方言を作り得る土地であつたやうな形が、少なくとも玉蜀黍に就ては認められるのである。
 但し其點は便宜上後廻しとして、北に進みつゝトナワ領域の東隣の境を見て行くと、妙にこの細長い木曾天龍犀川の水城だけには、孤立した小區域の方言が多い。例へば、
  フクロキビ(袋黍)         美濃惠那郡
(240)  ツトキビ(苞黍)         信濃下伊那郡
  サトキビ              同 上
  トウマメ              同 東筑摩郡
  サトウマメ             同 北安曇郡
  マメキビ              越後西頸城郡根知村
 是から引續いて越後西蒲原の一部と佐渡全島に於てクヮシキビ(又はカシキビ)、越中の北の境でチャノキビ又はキョウノキビがある。此等の一つ/\には略推察し得る意味はあるが、どうして此地方ばかり、各自隨意の新語を採用したかは、明瞭に其理由を捉へることが六つかしい。或は何かの事情があつて最初の流行から除外せられ、後に單獨に此作物を移した爲に、斯ういふ思ひ/\の、幾分か違つた立場からの、命名が行はれたのでは無かつたかとも思ふ。
 此中でもマメキビといふ名稱は、美濃では武儀郡あたりにも既にある。「物類稱呼」にも越後奧州でマメキビといふとあるが、それは餘りに漠然たる話である。越後の方はまだ突留めないけれども、常陸の眞壁郡でトンマメ、奧州では盛岡附近の僅かな土地に、飛び離れて又マメキビの語がある(此邊一般にはたゞギミと謂ふ)。豆とは小兒等の思ひ付きさうな、尤もなる形容ではあるが、理由は單にそれだけでは無く、別にさういふ語の出來てもよい一つの誘因があつたやうに考へられる。即ち日本海岸のやゝ弘い地域に、例のナンバの系統から分岐したかと思ふ次のやうな方言があるのである。
  マンマンキビ            石見大森
  マンマン、マンマンコウ       同 那賀郡一部
  ナンマンキビ            同郡三隅邊
  ナンマイ              同 鹿足郡
(241)  ナンマンキビ           長門阿武郡
  ナンマン              周防都濃都
  マンマンキビ、ナンバキビ      同 大島郡諸島
  ナンマンキビ            同 玖珂郡一部
  ナンナンキビ            安藝倉橋島
  ナンマイ              同 高田郡戸島
  マンマン              同 忠海町附近
 斯うして段々に東のナンバ地域に入つて行くのだが、マンマン又はナンマンは、通例小兒が神佛月星を拜む言葉で、恐らくは南無阿彌の轉訛である。即ち玉蜀黍の「南蠻」が意味を取りにくゝなると、斯んな變化を持つて來て些しでも親しみのある名を作らうとする者があり、一方では又それを聞傳へて、餘りに縁が無ささうに感ずる人々は、或は豆黍といふ意外な方言の、流行を支持しようともしたらしいのである。普通人の自然の癖として、始めて見た物品には必ず先づ其名を尋ねる。さうして心の内で新語の價値を批判せずには居らぬのである。故に其次に自分で之を使用する必要の起つた場合、今まで聞いて居る名が二つ以上であつたら、其中の一番安らかなものを選擇するか、又はそれらのものゝ調和を試みるか、或はまだ一般的に確定した名は無いと感じて、どうかしてより適切なる呼び易き名の、見付かることを希ふであらう。即ち方言の成長と傳播には、物と人との關係以外に、更に單語各自の運勢のやうなものが考へられる理由で、今までの學者の概括的法則なるものに、うつかり信を置き難き所以である。勿論社合には社會的誤解といふものも確かにある。しかしそれが個人の偶然な失敗で無い以上は、一層はつきりした誤解の原因があるわけで、所謂人を馬鹿にした轉訛説ばかりでは、いつになつても地方異同の理由を説明し得ないのは固より、言語が人類の間に成育して行く根本の道さへも、指示することは六つかしからうと思ふ。
 
(242)     六
 
 日本の色々の文化現象の研究に、海上殊に日本海の交通が無視せられて居たことは、忍ぶべからざる損失であつた。言語は其中でも最も大なる被害者の一つであるが、今後は幸ひに遺つた傳播の痕跡を以て、何よりも先に明白に反證することであらう。地圖で陸地しか注意しない人々に取つては、コウライやマメキビが北國の岸から上陸したといふのも意外かは知らぬが、小さな湊の多かつた西廻りの船便と、永い日數の風待ちとを考へると、是は寧ろ影響が無かつたら不思議である。玉蜀黍栽培の一點に就て見ても、無事に苦しんだ船頭たちが遊びに來て、むだ話をして居た光景までが思ひ浮べられる。それは珍らしい、此次はどうか種を貰つて來て下され。御安いことぢや、きつと持つて參りませうといふ類の問答は、十年十五年と季節をたがへずに、同じ泊りに訪れた諸國船の、常の辭令であつたと謂つてもよい。又それが爲に問屋問丸といふ名さへ出來たのである。之を實際の上に證據立てるならば、トウキビといふ言葉は九州一圓(但しをかしい例外が南の端にはある)、四國の外側から中間を置いて、北國と奧羽の廣い地域に及んで居る。西南の方面は列記する必要もあるまいが、中國四國では到る處ナンバンキビと交錯して、稀には近畿の山村にまで入つて居る。トナワ領域の周圍に於ては、先づ第一に能登から加賀、北では越後の蒲原岩船がトウキビであつて、それから外へ出るとたゞ僅かづゝ變つて居る。之を加工といふときは何か餘分のものを添へるやうに聞えるが、大體は短くて濟むものなら、短くしようとする傾向が見える。先づ近くから遠くへの順序で言ふと、越後に接續してトウギミ又はトウキミの語がある。嶺を越えて上州の吾妻から赤城山周圍、南會津から白河石城相馬、山形縣では米澤最上の一帶から、是も陸前に越えて太平洋側の崎々まで、秋田縣でも鳥海の麓、又は田澤湖の周圍に其例があり、更に懸け離れて南部九戸の海岸のチョウキミなども、會津の或山村のトウゲミと共に、亦同系に屬すべきものであらう。他の一方には穩岐の島なども、知夫《ちぶり》の方では確かにトウキミと謂つて居るが、是は黍をキミと謂ふことが古くか(243)らの習ひだから、殆と別種の方言に算へるまでも無い。
 ところがこの今一の外側には、更にトウミギといふ一區域があつて、明らかにトウギミから分れて出て居る。主としては今の栃木縣から舊奧州の一端に及び、仙臺の近くでも、又常陸の鹿島郡でも聽くことが出來る。それが單なる音轉であることは、二つの方言の入り交つて居るのを見ても解るが、之を唐の黍だとは考へなかつた者が多いと見えて、宇都宮でも栃木でもトウムギといふものがあり、水戸と山形縣の莊内平野では、之を端折つてミギとさへ謂つて居る。始めて酒田や鼠ヶ關の濱邊に、此作物が蒔き付けられた時は、無論そんな名では無かつたのであるが、一旦トウギミの發音變化を通つて、終にこの簡略に落付いてしまつたのである。
 
     七
 
 察するところ北邊には在來の黍が無かつた故に、わざ/\唐の字の手數を以て、意味を限定するに及ばなかつたので、此點は又新種の多かつた西南各地に於て、類似の名稱を帶びた作物が多く、其混同を避けんと努力した事實と、興味ある對照を爲すものである。莊内地方では右にいふミギの他に、鶴岡酒田其他にはキビ又はトウキビといふ言葉もあり、更に北進して秋田縣の大部分、岩手と青森との殆と一圓はキミであり、倭名鈔以來の只の黍がもしあつたら、到底此名を以て行はれ得なかつた事を考へさせる。獨り此方面ばかりでは無い。キビを玉蜀黍にして差支の無かつた土地は中國にもある。吉備の國では流石に之を認めなかつたが、それでも備後の油木あたりは例外であり、東隣は播州の宍粟《しさう》神崎二郡、但馬の養父《やぶ》市場、北は因幡伯耆から雲州にかけても、トウキビとは謂はずに只キビと謂つて居た。それでは少し心元無いと感じた者が、或は大山の麓ではタカキビ、もしくはターキミ、出雲の仁多郡ではタータコなどゝいふが、假に今滿洲から高梁などが新たに來たとすれば何と呼んだらうか、事によるとマンシウなどの語を添へて、末には亦西隣のマンマンと、紛れてしまふかも知れぬと思ふ。なほ此以外にキビとのみいふ例が、土佐の香美郡(244)と越後岩船の奧とにあつた。信州の天龍川流域もキビといふが、此方は又別の語の省略であらうと考へて居る。
 キビと同一の事情から單にモロコシといふ地域が、東部日本のトウキビ領の隣に接續する。是もトウモロコシの上略であることはほゞ明かだが、別にモロコシキビといふ作物の存在せぬ土地では、こんな長たらしい名は實際に不用であつた。信州では諏訪郡と千曲川の水域、それから嶺を越えて甲州の大部分、これに接した駿州の梅ヶ島と須走、相州の津久井に武州の秩父などは、交通の關係から方言の一致は是ばかりで無い。珍らしいことにはずつと飛び離れて、釜石以北の陸中の海岸にも、モロコシの名がキミ・トッキビ等と雜處して居り、茨城縣の農村などにも、モロコシを玉蜀黍としか思つて居ない農民が多く居る。しかし彼等に向つてもトウモロコシが通ぜぬのでは無い。只頓狂なる語音を面白がるといふ、江戸兒見たやうな氣風が無い爲に、うるさがつて必要以上のものを守らうとしなかつたのである。關東にはモロコシキビといふ語は、實際滅多に入用を見なかつた。それでいつの時代にかトウを附けぬと間違ふと教へられて、それに服從した土地も可なり廣いのである。秩父を除いた武藏の大部分、それに續く相州から伊豆の島、對岸の上總下總などがそれであつたが、彼等は又わけを忘れて、勝手に便利なる發音をして居たのである。例へば、
  トンモロコシ           横濱附近・三浦郡
  トムグシ             上總九十九里
  トンモルクシ           下總印旛沼邊
  トンモログシ           常陸霞浦邊
の類であつて、此責任は意義不明なるトウモロコシに在るのである。
 
(245)     八
 
 モロコシは如何にも古風な名で、近世の人が案出しさうにも無い。故にトウモロコシが今のモロコシの出店であらうと私は考へるのである。奇拔な舶來品ならばナンバンと附ける方はわかつて居る。南蠻の名を貰つたものは、鴨南蠻などの元になる新種の葱、それから次に比べて見ようとするトウガラシ(蕃椒)の外に、算へたらまだ幾つもあるらしいが、それを玉蜀黍の名に採用した人たちも、少なくとも二組はあつた。即ち簡單にナンバンキビと謂つた人と、ナンバントウキビと謂つた人とは、住所も時も明かに同じではなかつた樣だが、後に各下半分を略してナンバンといふ段になつて、雙方最初から一つであつたかの如き印象を與へるやうになつたのである。
 此歴史は妙な方面から我々に解つて來た。それを説く爲には順序として、南の端から見て來なければならぬが、一言でいへば別に其前からトウキビと名のる一種の黍が、有つたか無かつたかによつて分れる。私はまだ確かめては見ないが、前からあつたといふトウキビは、多分中國などでモロコシといふ黍と同じであらう。九州四國で玉蜀黍をトウキビと呼んで差支が無かつたのは、その以前のトウキビが丸で無いか、もしくはモロコシ其他の別の名を以て知られて居たかで、もし既に同名の作物が來て居たならば、如何に人望があるとても玉蜀黍へ其名を讓らせることは出來まい。
 ところが珍らしい事には九州から南にも、或部分には正しく前からの舊トウキビが有つた。さういふ土地だけは一般の風に從つて、玉蜀黍を只トウキビとは謂へないので、まごついて面倒な工夫を凝らして居る。例へば鹿兒島縣でも奄美大島のみはトウキビが玉蜀黍、喜界島などはトウノチビであるが、僅かな海を隔てゝ沖繩縣に行くと、
  ナンバントウノチン(南蠻唐の黍)
  グスントウノチン(呂宋唐の黍)
(246)と謂はなければ通用せず、慶良間の島ではヤマトトウヂン(大和唐黍)、伊江島ではヤマトウヂニと謂つて居る。即ちトウキビ又はトウノキビといふ黍が既に存する故に、今一つ上に限定語を副へなければならなかつたのである。一方鹿兒島縣内の薩摩の方では、北に玉蜀黍をトキビといふ隣があつて、それに附合はぬも義理が惡く、從つて區別の爲に尚一段の苦心をして居る。即ち、
  トキビノコ            薩摩長島
  ヨメジョトキビ          同 米之津邊
  トキッノヨメジョ         同 鹿兒島市
  ヨメジョ、ダンゴキビ       同 伊作邊
  ヒナジョトキビ          同 知覽
  トキビノヨメジョ         同 秋目
  ヒナジョ、サンガメ        同 甑島
の如く、少しづゝの變化を以て斯んな珍らしい形が行はれて居る。此中で甑島のサンガメのみはまだ解し兼ねるが、ヨメジョの嫁御なることは疑ひが無い。在來のトキビと比べて目に立つ點は、髪を長く垂れ襟をかき合せるやうなしほらしい樣子であつて、之を新粧の少女と見立てたのは機智である。ヒナジョも恐らくは同じことであり、やがて又古代の草雛の形の、髪と襟とばかりに力を入れたやうな形を想ひ起さしめる。さうして此等は何れも皆、もし以前からのトウキビが此地方に無かつたら、少しも必要を見ない譬へごとであつた。
 
     九
 
 この沖繩諸島や薩摩邊の元のトウキビが、東國でいふモロコシであつたらうといふのは想像であるが、天保の前後(247)に出來たかと思ふ「浪花方言」にも、トウキビを擧げてモロコシのこと也と解説し、俚言集覽増補には東國のモロコシキビ、京都にていふトウキどなりとある。其以外にも現に玉蜀黍で無いものを、トウキビと呼んで居る例は愛知縣のコウライ地域にもある。或は又ケンセイとも謂ふさうだが其理由は不明である。碧海郡でトウノキビ、知多郡でトノキビと呼ぶのは即ち是であつて、其爲に後者に在つては、名古屋に倣うてコウライを用ゐる外に、尚玉蜀黍をトントといふ人があるのである。トントはトウトウキビ、即ち唐黍中の更に唐なるもので、何でもかでも新種を悉くトウと謂はうとした、氣輕なる命名法をよく現はして居る。しかも爰から僅かばかり東すれば、遠州濱松邊ではもう玉蜀黍の方をトウノキビといふのは、多分既にモロコシの語が行はれて居た故であらう。「出雲方言」に依れば、かの地方ではモロコシの方を單にキビ、さうしてトウキビが玉蜀黍のことになつて居る。九州の大部分の之と同樣なる地域は、果してモロコシの名を以て混同を防ぎ得たか、はた又在來の黍を持たぬ爲に、キビといへば出雲と同樣にモロコシを意味し得たか、或は全然モロコシといふ作物を知らなかつたか、必ず此三つの原因の何れか一つで、自分は多分第二の場合かと思つて居るが、それがよし誤つて居ようとも、兎に角に行掛りが單語の生成を支配する、隨分顯著なる證據には相違ないのである。
 だからして玉蜀黍をトウトといふが如き珍らしい方言も各地に起るので、是は原因が一つだから、前にいふナンバのやうな、偶然の一致とは言はれない。
  トウトキビ            尾張日間賀島
  トウトキビ            讃岐佐柳島
  トトウキビ            安藝某地
  トウトンキビ           石見太田附近
 此等は皆以前から、モロコシをトウキビと呼んで居た土地と見てよからう。ところが更に出雲の仁多郡まで來ると、(248)玉蜀黍をキビと謂つても差支の無い土地なるに拘らず、別にタータコ又はタータキビの名もあるのは考へさせられる。自分の想像は他の一方の黍に、タカキビもしくはターキビの名があるので、それと此方のトウトウキビとを、結婚させたものであらうと思ふ。種々なる方言の領分堺には、往々にして此類の事實があつた。故に香川縣の島々や近江などに、今後なほ色々の新たな名が出ても、自分だけは驚かぬつもりである。
 
     一〇
 
 文化の展開を其障碍の側面から見て行くと、常に生物の成長と同じやうに、最も抵抗の少ない樂な方面に進んで居ることが目に着くが、其中でも言語が殊に環境の威壓に鋭敏であつたのは、恐らくはそれがいつの場合にも手段であり器械であつて、後代の文人説客の如く、意識してその最上の利用を完成しようとした者が無かつた爲であらう。言葉を新たに作るといふことは、結果から見れば技藝の内であるが、少なくとも作者自身には、通例此爲に巧を施すまでの用意が無かつた。從うて一旦承認せられたものにも、次々の改訂と取捨が行はれたのである。大體から言ふと、最初には丁寧に又  稍々遲鈍なる念入りであつたものが、後次第に粗相に、しかも活き/\と取扱はれることは、陶器や塗り物の俗にゲテといふ品とよく似て居る。即ち最も數多く世に用ゐられる頃は、單語の生命から申せば世盛りには相違ないが、流轉零落の危險はもう其中に在るので、殊に長たらしい最初からの稱呼の如きは、自身に改造變形の誘因を貯へて居たともいへる。例へばナンバントウノキビが、末々ナンバとなるべきは殆と約束であつた。普通選擧を直ちにフセンと謂ひ、軍備縮小を忽ちグンシュクと縮めたいやうな氣風の國に、假令さうせぬと意味が取れぬとしても、一旦なりともそんな長物を存在せしめたのは、全く新奇といふものゝ力であつた。察するところ唐高麗の大昔の交通以來、言語は毎に斯ういふ路を通つて、生老病死して來たものであらう。
 さうなると曾て一種の輸入品が、或はモロコシキビと呼ばれトウノキビと名づけられ、又は先主の既に空しきに乘(249)じて、單なるキビを以て行はれて居たといふことも、結局不明になるのは已むを得ないのであるが、比較を精細に進めて行くうちには、なほ埋もれたる前代の一部分を、掘り起して見る望みはあるのである。同じ東海道の一續きの田舍に、多分は佐夜の中山あたりを境として、モロコシとトウキビとが、東西に分れて存在したことなども、或は重要なる文化移動の方向を暗示するもので無いと言はれぬ。それが今日の方言研究によつて、可なり具體的に推測することが出來るのである。關西のナンバはナンバンキビの略、關東のナンバはナンバントウノキビの略であつたのを、もし偶然の一致といふことが許されるならば、次には又偶然の不一致と名づくべきものが指摘し得られる。即ち方言交錯の一つの焦點たる、參河遠江の平野に於ては、どうしても玉蜀黍をナンバとは呼べない理由があつた。それは此から述べようとする蕃椒(トウガラシ)との抵觸の爲であつた。
 
     一一
 
 蕃椒の名の地方的變化を、今一度細々と記述することは、最早讀者の忍び難い所であらう。故に出來るだけ簡單に要點のみを拔いて説くが、豐臣太閤の朝鮮征伐の時に、かの半島から携へて來られたといふことは確實で無いとしても、少なくとも此作物の西部方言は、本來はコウライゴショウ(高麗胡椒)であつた。現に沖繩縣でも首里那覇の周圍は、之をコウレエグスと謂ふのが普通であるが、却つて先島の方では單にクス又はフスとなり、奄美の列島に於てはクショ・コソなどゝ、追々に九州の方に接近して居るのは、所謂紛れるものが無かつた爲であらう。九州は鹿兒島縣のコッシュを始めとして、處々若干の音變化はあるが、大體に同じ語を以て壹岐對馬の二島まで一貫し、僅かに豐後水道の一角に於て、内海四周のトウガラシから影響を受けて居る。
 トウガラシの領分はトウモロコシに比べると大分廣い。四國は先づ全部、山陽近畿の一帶に亙り、更に關東平野の大部分もそれであるが、只注意すべきことには其中間が、可なり強勢なるナンバ地域を以て、遮斷せられて居ること(250)である。このナンバ又はナンバンは、稀に南蠻辛子といふ土地があるといふのみで、餘りに完全に省略せられて居るために、果して南蠻胡椒といつた例が無かつたか否かも明かならず、從つて起原が一つか二以上かも決し兼ねるが、少なくとも現在の領土は、是も亦南北に截ち切られて居る。しかも其連絡を妨げて居るのがトウガラシのみでは無く、半以上は孤立したコショウ領である。
 斯ういふ方言地圖の彩色を鮮かにするのが、實はこの小さな論文の目的であるが、最初に順序としてナンバンの領域を記載すると、奧羽はごく少しの南端の除外例を以て、一圓にナンバであつて他の名を知らず、それから北陸は福井縣の北半分まで、先づナンバンを主として居る。山陰道には三つの系統の語が入り交つて、まだ分野を明かにし得ないが、近年次第にトウガラシに、統一せられんとする傾向は見える。しかしコショウといふ語も飛び/\にはまだ用ゐられて居て、前にトウキビの分布に於て想定したやうな、海上の移送を痕づけることも難くない。さうして少なくとも中部日本のコショウ地帶が、現在海に接して居るのは上越後の一面だけで、是から入つたものと見ない限りは、或は後に來た語に押込められたとするか、又は獨立して偶然に案出せられたとするか、何れにしてもやゝ立證の六つかしい推論に行かなければならぬのである。
 唐黍、唐モロコシの場合とは違つて、蕃椒をコショウといふことは南部や津輕のキミと同樣に、寧ろ當を失したる命名である上に、胡椒は農民と親しみの無い外來語である。單に實物が土地に無かつたといふだけでは、此誤謬の偶然の一致を證し得まい。故に寧ろ省略の後に於て、物と共に輸入せられた名稱と見るのが相當であり、又少なくとも本當の胡椒を知つて居た土地を、通つて來たので無いことも想像してよからう。蕃椒をコショウといふ語の今の區域は、信州の北半分と飛騨と美濃との一部であるが、越後に續いた北信の飯山あたりでは、下越後でナンバントンボと謂ふ赤蜻蛉のことを、既にコショウトンボと謂つて居る。然るに他の一端の美濃の山縣郡ではカラゴシ、同惠那郡ではカラゴショウとも呼んで居る。是などは恐らく新たに胡椒は斯んなもので無いといふ知識に接した結果で、單なる(251)高麗胡椒の轉訛ではあるまい。さうしてカラといふ語は辛いものだから、一段と行はれ易かつたものであらう。
 
     一二
 
 私が最初から興味を抱いて居た一事は、丸々系統の別なる二つの方言が、到る處に對峙して相下らざる?勢である。蕃椒の方言としてコショウの競爭相手は、越後でも信州でも又美濃の東南の一隅でも共にナンバであるが、不思議なことはこの兩隣りのナンバには聯路が無かつた。東海道筋のナンバは、近江でも尾張三河でも、トウガラシと入り交つて居るが、是亦二處別々に分れて居るやうに思ふ。殊に近江に在つてはナンバが蕃椒で無い部分は、乃ち玉蜀黍を意味して居る。伊勢灣の兩岸に於ても、あれほど頻繁な交通がありながら、三重縣側のナンバは紀伊大和から一續きに、玉蜀黍のナンバであり、對岸の三河で只ナンバと謂へば、人は蕃椒のことゝ解せざるを得ないのである。斯ういふ風に互ひに語音を共通にして、其内容のみが相異なる場合には、もう一方が他を學ぶ餘地は無い。獨り自分の用法を守るに止らず、寧ろ相手の特色を保護して、伊勢ではナンバを以て玉蜀黍のこと兼三河の蕃椒のことゝ解して居たことゝ思ふ。言語の知識には一定の制限は無いから、交通が盛んになると共に、段々に分量は増加する。意味も亦追々に複雜になつて行く。たゞ其中に自然に口に出る言葉と、聽けば理解する、使はうと思へば使へるといふものと、親しさの階段は確かに有り、其堺は始終動いて居るとはいふものゝ、さう急には匡正家の忠言などに由つて、乙から甲へ編入替へもしにくいといふだけである。但し公の式や公の文書などに、一方の使用を差控へることはあらうが、それだけならば昔から遣つて居たので、其爲に却つて多くの方言を保存した位である。少なくとも匡正は、我々の國語の成長を指導する法則の一つであつたとは言はれない。
 指導の最も大なる力が必要であつたことは、他郷に住めば江戸の詞でも改めて居たのを見ればわかる。しかし必要の種類は萬般である。相手を誤解せしめぬ以上に、出來るだけ勞少なく又有效なるものを採用すべかりし爲に、乃ち(252)色々の新語は出來、又舊語が面白く改良せられた。三河の二種のナンバンは少なくとも同じ方角からは入つて來ず、又來る時には聽き別け易い元の名があつた筈だが、之をも必要の最大限度まで、時と多數とが變更を加へざれば止まなかつたのである。何れが前に入つたかは此のみでは決し兼ねるが、兎に角に遲く變更せられたのは玉蜀黍の方のやうである。次の表では、上の段が玉蜀黍、下の括弧の中は蕃椒の方言であるが、村々では斯うして二つの者を區別して居る。
  ナンバトウ(ナンバ)       三河幡豆都
  ナンバトウ(ナンバン)      同 渥美半島
  ナンバンキビ(ナンバン)     同 八名、南設樂
  ナンバンキビ(ナンバン)     遠州龍川村
  ナンバキビ(ナンバン)      同 掛川附近
  ナンバンキビ(ナンバガラシ)   美濃根尾谷
  ナンバキビ(ナンバン)      同 郡上郡奧明方
 此等の例を見ると、ナンバンキビが玉蜀黍の元の名のやうにも思はれるが、此地方は前にもいふ如く、モロコシをトウキビといふ地方であつた。故に單なる省略とすればナンバトウの方が當つて居る。他の多くのナンバキビは、寧ろ後にさう謂つてもよいことを知つて、一旦ナンバと呼んだものに再びキビを副へたものと思ふ。又さうするのが一番安らかな改良でもあつたと思ふ。
 私は今から三十二年ほど前に、三河の伊良湖村に滯在して居て、始めて「ナンバは辛いもの」といふ諺を耳にした。しかも一里の海峽を隔てた志州の神島では、ナンバは我々の子供の時のやうに、玉蜀黍のことであつたのである。斯ういふ誰にも氣付かれる言語上の奇なる現象が、疑はれもせず答へられもせずに、今まで其儘であらうとは想像し難(253)いことであつた。是は學問が書册の記事に、心を專らにした必然の結果であつて、其道に携はつた人の怠慢では無からうと思ふ。しかし此側面から手を下さぬと、古史に對するいぶかしさも霽し難い。さうして我々の知りたくてたまらぬことは、どうしてこの澤山の記録の指導から超脱して、かく迄に日本の言葉が變つたかといふことである。
 
(254)  家具の名二つ三つ
 
     一
 
 我々日本人はつい此頃まで、自分々々のすることや言ふことを、一つの社會現象として觀察することが出來ませんでした。しかし考へて見ますと、めい/\に取つて是くらゐ利害の痛切なことも少なく、又是ほど容易に且つ精確に、調べて見ることの出來るものも少なく、しかも其結果の世の中の爲に、是ほど役に立つことも少ないのであります。言語といふ毎日の人生現象を、斯うして考察して見ようとする學問が、今ちやうど日本にも起りかけて居ります。この新機運をうながすべく、この「ことばの講座」といふ放送が計畫せられましたことは、感謝すべき文化事業だと私は思つて居ります。
 私はまだ研究が淺いので、單に其中の至つて小さな部分、即ち東京その他の大小の中心地に於て、現在使はれて居る日常の言葉の、ほんの二つか三つかを調べて、皆樣と共に、どうして又いつ頃から、斯んな言葉が日本に現はれたかを考へて見ようと思ひます。次々に放送せられる諸君は、多分もつと重要な問題を取扱はれることでありませう。私は家の中にばかり居る人間ですから、家具の名前などの話をするがよからうと謂つて割當てられましたが、それもしごく結構なことで、御蔭で滿天下の女の方たち、又年寄り子供たちと、たとへ三十分の間でも、共同の問題をながめて見ることの出來るのが、大きなしあはせであります。
 
(255)     二
 
 東京の言葉を觀察し又批評するといふ仕事は、今までは誰も無用の如く思つて居りました。しかし其利益はたしかに有ります。言葉を使ふ人にはつきりと、自分の謂つて居ることを承知させる、即ち意識させることが其一つであります。いゝと思つたら適當な場所で適當に使用し、惡いと思つたら段々に少なく用ゐるやうになるからであります。言葉が惡いといふのはどういふことかと申しますと、音が聽き苦しいこと、言ひにくゝ又まちがひ易いこと、もしくは長つたらしいことなどでありますが、さういふ言葉は澤山に殘つて居るものではありません。たゞ棄てゝしまふほど惡くはなくても、代りがあつてもよい、又あつた方がよいといふ言葉は幾らもあるのです。二つ三つも持つて居て、歌とか話の調子とかの爲に、取替へ引替へ使ふのは便利ですから、一つ知つて居ればもうよろしいとは言へません。言葉をよく氣をつけて居ることは、確かに我々自らを話上手にし、考へ上手にする手段だと思ひます。
 家具はさういふ中でも、今まで一向に氣をつける人の無かつた言葉を、色々と持つて居るのであります。さういふ例をたゞ澤山に竝べて見るよりも、私はやゝ詳しく一つ/\の單語の變遷と、改良の跡とを述べて見たいと思つて居ます。話の種は幾らでもありますから、時間の許すだけ多くの問題を出して見ませう。
 
     三
 
 家具の名は元來歌にもめつたに歌はれず、又上品な會話にも現はれて來ませんので、假に少々いやな語があつても、さうは人に嫌はれず、いつと無く是が當りまへとなつてしまふのです。例へばチャワンといふ言葉などは、始めて聽いた人は定めてをかしかつたらうと思ひます。始めてオワンと謂ひ出した人は、さぞ發音がしにくかつたことゝ察せられます。ワンといふ語はオワンよりは古いやうですが、是とても支那語の眞似か、又はその眞似そこなひで、最初(256)から日本に在つた言葉でなく、しかも我々は大昔以來、椀のやうな形の器で物を食べて居たのであります。そんならワン以前には、日本語で是を何と呼んで居つたか。今日知られて居る最も古い語はマリ、金屬で製したものがカナマリでありました。圓いからマリと謂つたかとも思はれますが、それはまだ決して確實でありません。沖繩縣の島々では今でも椀をマカリ、八丈の島でもマッカリと謂ひます。或は其方がマリよりも更に古いのかも知れませぬ。
 御茶を飲む風習が、鎌倉時代に支那から入つて來て、それに先づ陶器の碗を使つたのが、次第に食事の椀にも流行したのかと思はれます。古い我邦の素燒の土器は、人が茶を飲む用には適しなかつたので、支那風の新たな製法が起りました。天目といふのはその深い茶呑みの名であつたのですが、土地によつては今でも陶器の飯碗を、テンモク又はテムクといふ處があります。東京ではそれをチャワンと謂ふと同樣に、元來此器が茶を飲むものだつた歴史を語つて居るらしいのであります。或はこの飯椀をナラチャワン又はナラチャとさへ謂つて居る地方がありますが、是は斯ういふ茶の飲み方が奈良の方に始まつた爲に、飯の食器になる前から其名があつたので、今日の茶碗も亦その奈良茶碗の略語ではなかつたかと思ひます。
 ワン又はオワンといふ語を、木の椀だけに限定したのは、無論この茶碗といふ語が出來てから後の變化で、曾て土燒きのものをさう謂つて居た時代が無いならば、チャワンといふ語などは生れる筈が無かつたのであります。ところが其ワン・オワンは決して言ひ易い語でないので、別に是をゴキといふ地方が中々弘く、元は中央でも此語を用ゐて居ました。是に對して陶器の茶碗の万を、三河でも甲州でもイシゴキ又はイシゴケといふ人があります。石といふのは礦物製の意でありました。さうかと思ふと種子島などでは、却つて木の方をシュリゴケと謂つて居ます。即ち只ゴキと謂へば茶碗をも含んで居たらしいのであります。
 
(257)     四
 
 食器類はもとは洗つても一々之を拭かないで、目の荒い竹籠に入れて水を切りました。其籠を紀州などではゴキカゴ、奧州の北でもゴッカゴと謂ひました。近畿中國はそれを茶碗籠、又はチャンカゴなどゝ謂つたのであります。又臺所に走りまはつて居る油蟲のことを、ゴキカブリ・ゴッコブリといふ土地があります。椀をかぢる者といふ意味であります。田圃の水の上に走る水スマシ、或はマイマイコンゴなどゝいふ、黒い梨の種のやうな小蟲をゴキアラヒといふのも、椀を洗ふ人の手つきと其擧動が似て居るからで、是等は何れも複合によつて古い單語が消え殘つた例であります。
 古い名詞ではありますが、このゴキはやはり過去の新語でありました。字には合器と書くのが多く、又は合子とも謂つて、木地引細工を意味した漢語であります。多分は禅宗の僧などの輸入かと思はれ、是を御器の音だといふ説は、其起りが不明になつてからのこじつけであります。是に反して、ゴキとやゝ似た言葉ですが、ジョウキ或はジョキといふのは、固有の日本語の磨り潰れたもので、常陸その他の關東の田舍にも殘つて居ります。是を常器だといふのもやはり無理な宛て字で、本來は酒杯・高杯などのツキと同じ語でありました。壹岐島などでは食器をヅキ又はクイーヅキ、猫の食器をネコヅキと謂つて居ります。他の多くの地方では、ゴキもヅキも古臭くなつて、專ら犬猫だけの食器の名となつて居ます。他には使はぬ故に、犬ゴキ猫ヅキの語の頭を省略したのでせう。三河の岡崎では、小兒の水を飲む椀だけをジョウギと謂つて居ます。
 御椀の蓋だけは、別に東京などにはオカサといふ語があります。或は又小さな木皿のことであり、酒の盃に使ふ時だけにさういふ土地もあります。是なども笠に似て居るからでも無く、又重ねるからの名でも無く、上方や中國で平椀をカシワンといふのと同じく、古く食器をカシハと謂つた語の名殘であります。カシハは本來木の葉を用ゐたから(258)の名だといふことで、現に標準語でカシハと稱する一種の樹もありますが、地方の言葉を見渡しますと、今なほ色々のカシハがあります。沖繩では芭蕉がカーサ、秋田山形では谷うつぎがガシャ、龜の子ばらの葉で餅を包んで、オカシハと謂つても決してまちがひではないのです。從つて此オカサも古い言葉で又よい言葉であります。大事にして長く使ひたいものだと思ひます。
 
     五
 
 この次に東京で最も人望のあつたスリコギ、夫婦喧嘩といふやうな場面にはきつと飛び出して、よく人を笑はせた一つの棒、あれなどは物が新らしいから名も新らしい筈ですが、その成立ちがまだ知られて居ません。スリはわかつて居るがコギが判らぬと人は申しますが、其コギは實は小さな杵《き》といふことなのです。上方では今でも是をレンゲ、「レンゲで腹切る」といふ伊呂波だとへもあつて、是も人望がありますから、中々スリコギに改めようとしません。このレンゲのゲも杵であります。レンは擂鉢をライバン・ライボンとも謂つて居りましたから、起りは多分木扁に雷と書いた漢語の音でありませう。東京などでは今でも字では擂木と書いて、いふときはスリコギ、さうして西日本のレンゲを笑つて居るのであります。擂鉢にもイシバチ・カハラケバチなどの色々の地方名がありますが、それは略して置きます。擂木の方は全國の廣い區域に亙つて、メグリボウといふ名が行はれて居ます。東北ではマスゲ又はマハシギ、つまりはくる/\とまはして圓を描くことが、杵としては非常な特色であつた爲に、斯んな名が起つたのであります。是に比べるとスルといふ語などは精確でありません。わざ/\この當らない語を採用して置きながら、しかも縁喜をかついでアタリ棒などゝ謂つたのは餘計な手數でありました。マハシギといふ方が遙かによいと思ひます。
 杵の日本語は元來はキであります。一音節であまり短かいのと、樹木のキと紛れるので、東日本殊に奧羽では一般に之をキギ、又はキゲと謂つて居ります。西の方へ行くとキネといふのが普通で、東京語も亦之を採用して居ります(259)が、さて何故にキにネを添へたのかは判らなかつたのであります。多分は中世の變化だらうと思ひますが、兎に角に語音が耳に快く、且つはつきりとして他と紛れない爲に、弘く行はれたのであります。四國では愛媛高知の二縣から、對岸の中國地方にかけて、杵をキノと謂つて居るのは大よそわかります。關東も千葉茨城などの田舍では、杵を單にヲ又はヲーといふ處がありまして、四國中國のキノもやはり亦、キノヲのつまつたものであつたことが是で判ります。淡路の島では杵をキナと謂ひます。其キナも、東京や京都のキネも、或はこのキノの今一つ變つた形かも知れませぬ。キノヲのヲは男性、即ち男のヲであつたやうです。沖繩縣の八重山諸島では擂鉢のライバンをダイバと訛り、是に對して擂木のことを、ダイバノブトと呼んで居ります。ブトは此地方の音韻轉化の法則によれば、ヲット即ち男性配偶者のことであります。少しく粗野な且つ無造作過ぎた命名法ですが、人が自然にさう言ひ出したのですから、何とも致し方がありません。
 
      六
 
 それから次にはクマデといふもの、是も頓狂な名前であります。子供たちはあの格好を見て、熊の手のやうだからクマデと付けたと思ふかも知れませんが、起りはさういふ所には無かつたのであります。東海道の各地から、美濃近江にかけては是をクマゼ又はコマゼ、其他は弘くコマザラヒ、又コマザラともクマンザラヘともいふ處があり、信州松本ではゴマザリ、磐城相馬ではゴンノサレーであります。即ちコマゼ又はクマデも同じ語音の變化だつたらしいのであります。サラヘルは掻き集めることだといふことがわかりますが、コマの方がやはり不明であります。それ故に青森縣の一部には、昔々弘法大師が紙に描いた繪の駒が、散らばつて畠を荒らして困つたのを、此道具を以て掻き集めたから「駒ざらへ」と謂ふのだなどゝいふ昔話まで出來て居るのであります。しかし比較をして見ると本の意味は追々判つて來ます。所謂クマデのクマ又はコマザラヘのコマは、燃料の木の葉のことでありました。夏から秋へかけ(260)て盛んに落ち散る木の葉を、是で掻き集める故に此名が出來たのであります。中部地方では、熊手を又ゴカキとも謂ひまして、人が節くれだつた手の指をして居るのを、「布袋竹のゴカキの樣だ」などゝ形容します。さうして其ゴカキのゴといふのが、やはり松葉のことでありました。三河では松平家の松を憚つたので、松葉をゴといふのも「御」の字の音だなどゝ、連城亭隨筆といふ本に書いてありますが、信州の方でもゴといひますから、此説は作りごとであります。
 信州方面には、又木の葉をゴミといふ土地があります。上諏訪では松葉をマツゴミ、相州津久井でもマツゴメと謂ひます。近頃ではゴミに色々の物がまじります故に、是と區別して松葉だけをゴと謂つたやうですが、もとは農家のゴミといふのは、主として木の葉だつたのです。それを集めて焚きつけにもすれば又堆肥にもしました。それで堆肥をコマゴ工とも謂へば、又苅敷をコグサとも謂つたので、ゴミも熊手のクマも元は同一の語であつたかと思はれます。掃溜を意味するゴンド又はスクボといふ語なども、同時に木の葉のことでありました。ゴミは東京では塵芥も同じ汚ないものゝ名ですが、田舍では燃料にもなり堆肥の原料にもしたのです。京阪以西では松葉だけをコクバ又はコクマと謂ひ、從つて是を集める熊手をコクバカキ・コクマカキと謂ひます。佐渡ではコスバ・コスバカキ、北陸では一方をコスバもしくはコッサと謂ふのに、それを掻くものゝ名をビブラ・ベブラと呼んで居ます。中國地方では是をガンセキ又はガンジキといふ處もあります。ビブラやガンセキの意味はまだ判りませぬ。しかし今に明かになるであらうと思つて居ます。
 佐渡の島では又熊手をジョウトンボとも謂つて居ります。妙な言葉ですが私たちにはわかります。是は高砂の松の畫に出て來る尉と姥、即ち老翁と老婆が是と箒とを持つて居りますので、松と聯想して斯樣な面倒な名を附けたのであります。我々の先祖たちは、物の名前に大きな興味を持つて居まして、一つの語が古び又はわかりにくゝなると、?斯ういふ珍らしい且つ氣の利いた名を新作して樂しんだのであります。
 
(261)     七
 
 所謂熊手は印象の深い變つた名であつた爲に、一向この道具を利用しない江戸人の間にも、もてはやされたのでありますが、全國を見渡しますと、斯う謂つて居る土地は他には殆と無く、又是が元の形に近いといふわけでもありません。是を標準語にしなければならぬ理由は一つも無いのであります。是とよく似た例は十能であります。火鉢や炬燵が家々に出來て、是へ炭火を運ぶ場合が多くなつたのは近年のことですから、此名前も新らしく出來たものに相違ありませんが、どうしてさう謂ひ出したかの理由は明かになつて居りません。私は多分是を製造販賣した商人が、考へてつけた新名かと思つて居ります。現在は東京も上方も共に十能といふので、是が正しい標準語のやうに見えますが、起りがわからぬのですから何とも言へません。全國を見渡しますと、この十能の外に、方言はなほ四通りあります。一つはセンバといふもので、是が北陸一帶から岐阜縣までと、一方中國四國の廣い區域に亙つて居て、ちやうど十能といふ語の領分の外を圍んで居ます。多分センバが一つ前で、次に十能とかはつたのでありませう。滋賀縣から福井縣の西部にかけての僅かな地域には、シャナといふ名が行はれて居ります。シャナは又サナともいひ、他の地方では焜爐の中じきりの、穴のあいた揚げ底のことです。恐らくさういふものを使つて燠の火を運んで居たのだらうと思ひます。九州では今でも一圓に十能をヒスクヒ又はヒスキー・オキスクヒと謂つて居りまして、其語は沖繩の島々まで及んで居ります。東北地方は大體にヒカキと謂ふのが普通で、或は又オキカキとも謂つて居ります。そのオキカキといふ語は京都と其附近に、不思議に現在まで尚殘つて居るのであります。是だけの事實から考へて見ると、元は火をすくひ燠を掻く爲の、爐に附屬した道具に過ぎなかつたのが、追々に火を遠くへ運ぶ必要が多くなつて、特に其装置をしたものが商品として販賣せられ、それをセンバと名づけ次に十能と稱するやうになり、更に其十能に臺を附けて、臺十といふ語さへ出來たのかと思ひます。ダイジュウなどは決してよい言葉では無いのですが、瓦斯や電氣が(262)入つて來てはもう重要な家具でもなくなり、改めて好い名を附けるほどの價値も無いので、古い名前で間に合せて居るのであります。
 
     八
 
 今日の標準語には、心ある人々の取捨選擇によつて、決定したといふものなどは一つもありません。大抵はほんの偶然にさうなつただけで、從うて一二の商人が勝手につけた名でも、末には全國に擴がつたのであります。昔の廣告力の乏しい世にも、商人製造家はやはり商品の名をこしらへてはやらせました。農具の萬能・萬石どほし・千把こきなどは皆それで、十能も亦その例のやうに思はれます。是をセンバと謂つたなどは理由がありませぬが、とにかく我々の間に自然に發生したものとは見えませんから、やはり商品としての命名でありませう。斯ういふものには理窟よりも、寧ろ唱へ易く且つ響きのよいものが人望を博しました。今日臺所で使ふタワシなども其一つで、もとは東京にも幾つかの名があつたのですが、其中でタワシが最も簡便であり、殊に龜の子束子といふ商品が盛んに賣れて、今はこの名に決着してしまひました。さうして其語の意味はまだ不明で、束子などゝ書きますが、其文字はちつとも宛てになりません。
 このタワシといふ物くらゐ、地方の名稱の色々になつて居るものも珍らしいのですが、其中でも標準語のタワシは行はれて居る區域が狹く、東京から西に向つて、東海道の半分ぐらゐに、飛び/\にさういふだけであります。關東平野の東半分から、福島宮城秋田の三縣にかけて、モダラ又はモッタラといふのがこの束子のことであります。多分は「持ち手藁」といふ語のつまつたので、東京のタワシと、元は一つの語かと思ひます。一俵二俵のタハラをタワラと同じに發音するやうになつてから、手藁のタワラと紛らはしくなりました爲に、後の方を少しづゝ言ひかへて區別をしたのてあります。たとへば飛騨ではトーラ・トラ又はタドラ、岩手縣ではトギタラ即ち磨ぎ手藁と申します。奈(263)良縣などではナハドラ又はケドラ。トウラが手藁であることを忘れて、是に又繩とか藁とか毛とかいふ材料の名を添へたものであります。此以外になほ北國地方にはキリワラ・トギナハなどゝいふ名もあり、トギナハは山陰地方でもさう謂ひますし、切藁といふ語は大阪でも聞くことがあります。手藁に比べると新らしい語のやうであります。九州では一圓に束子をソウラ、青森縣ではシタラと謂ひますが、是は東京あたりのササラと同じで、元來は竹を細く割つて束ねた物洗ひだけの名であつたのが、後には藁製のものまでも含めていふやうになつたものと思ひます。京都附近の田舍でも手藁をササラと謂つて居る所がありますが、ササラ・シタラ・ソウラは、共に割竹を束ねたものゝ、あの音から出た言葉でありまして、洗ひ物以外に、今でも是を獅子舞などの樂器として使つて居りますから、それを所謂束子の名にしたのはまちがひであります。我々の用語は斯ういふ風に、元の心持が不明になり、知らぬ間に形をかへ、又意味を變へて行くものであります。さうして土地々々であまり違つて居るのは不便である故に、次第に中央の言葉を共同に採用しようとしますが、それは必ずしも中央語が正しく又最も古いものだからといふ爲ではないのであります。
 時間が參りましたから、家具の話はもう是で止めます。
 
(264)  感動詞のこと
 
     一
 
 東京の人は、なるだけ感動詞を少なく使ふやうに、努力して居るかの如く私たちには見えます。さういふうちにも女は男より比較的多く、小兒は又成人よりも一段と餘計に、此詞を利用する傾きがあり、若い人どうしでいひますと、親しい間柄だけは感動詞の用ゐられることがよほど多いやうであります。衣服にたとへていふならば、是はよそ行きに對する不斷着のやうなもので、氣の置けない附合ひといふことが、この種顆の言葉の存立條件かと思ひます。從つて改まつた文章は勿論、演説や講演などでさへも、よほどせき込んだ場合でないと、感動詞の飛び出すやうなことが無い。それで又普通の標準語の字引などにも、ほんの五つか七つしか是を載せて居りませんので、何だか日本といふ國は、非常に感動詞の乏しい國であるかの如き印象を與へますが、事實は完全にそれと正反對なのであります。言語を生活技術の最も大切な且つ一般的なものとして、其機能を明かにしようとする人々は、字引や所謂國語の本だけから、是を學ばうとしてはいけません。是非とも自分で毎日の人生の事實を、觀察して見る必要があると思ひます。良いにも惡いにも、改めるにも保存するにも、すべては皆この眼前の事實を知つてから後のことであります。
 
(265)     二
 
 然らば我々の感動詞には、如何なる事實が現在はあるかと申しますと、その最も主要なる一つは、この品詞には種類が至つて多く、其用途が何物よりも廣いことであります。外國でもさういふ名を用ゐて居りますが、或は將來感動詞といふ名稱を罷めて、もつと總括的な名を與へた方がよいといふことになるかも知れません。人が思はず知らず口から發する語は、斯ういふ短かいものが多い爲に、是がすべて内部の感動に基づくものゝ如く、解した人も多かつたのでせうが、人には習はしもあり癖もあつて、格別心の動きが無くても、斯ういふのがよいと思つて使つて居る例は幾らもあります。靜かに熟慮した上でも、或場合には是が最も手短かで又最も效果が大きく、目的によく合ふと思へばこの所謂感動詞を用ゐます。同じ一つのオヤオヤといふ語でも、ちつとも驚かない時にも使へば、前以て斯う言つてやらうと思ふときにも使ひます。それが調子やあたりの樣子に伴なうて、大抵はこちらの企てゝ居る通りに、相手の心にも響くのであります。しかも字引を見ると、オヤオヤは「意外の時に發する語」となつて居ますが、もしも是を片端から驚きの感動詞と解したら、誤解どころか丸で國語の役を果すことが出來ないでせう。
 
     三
 
 我々の毎日聽いて居る言葉では、電話のモシモシ、御用聞きのコンチァの如きも、この所謂感動詞の中に入れるより他に、持つて行き處はありません。合圖の言葉の入用は、千差萬別といふほど數が多く、「御免下さい」の代りになる訪問辭だけでも、東北ではハエットク、中國地方でヘ・アンなどゝいふ簡單なものから、オタノミモウシマスといふ類の手の込んだものもあります。遠くの人を呼ぶにサリイと謂つたりナムホイと謂つたり、猫を喚ぷコーネコネ、鷄を逐ひ出すトーだのホーだのも、皆その所謂感動詞のうちなのであります。東京でもよく聽く「ヘン笑はせやが(266)る」などのヘンは、もとは咳ばらひの聲色だつたかと思ひます。北九州の海岸の村では、青年の仲間はづしを受けた者は、路で仲間に逢つて聲を掛けても、エヘンと謂つてすれちがつてしまふので、排斥せられて居ることに心付くのださうです。是などは明かに咳ばらひを單語に變形したもので、感動から生れた語ではありません。もつと奇拔な例はクサメをした時に、チキショウなどゝ叫ぶ人が今でもありますが、是が亦一つの所謂感動詞であります。クサメは昔から誰か陰に居てよくないことを言つて居る兆候で、それに對しては斯うして防禦をせぬと、自分に害を生ずるといふ俗信があつたのが、もはやさういふことを信じなくなつて後まで、癖になつてなほ殘つて居るのであります。東京にはこのチキショウの代りに、クソークラヘといふ命令形を使ふ者がつい此頃までありました。壹岐の島でもクッショクレといふさうであります。是から考へて見ますと、クサメ又はクシャミは名詞になつて居りますが、元はやはりクソハメであつて、即ち隱れたる外敵に對する詛ひ返しの語であつたのです。
 是等の例を竝べますならば、感動詞といふ總稱が當を得ないと同時に、間投詞即ち中間に投入するといふ西洋人の命名も、全部を蔽はぬ解説であつたことがよく判ります。我々はこの一類の語を集め又比較をする前に、實は先づ何とか適當な名前を、考へ出す必要があるのであります。
 
     四
 
 第二に注意せられる大きな事實は、此類の言葉の實際上の必要が、今でも決して衰へて居ないといふ以上に、寧ろ現代に入つて生活の多忙に伴なひ、著しく増加して居るといふことであります。それは此一群の單語の數量、殊に地方的變化の大きいことによつて、證據立てることが出來ます。人間の思慮と感覺の精微になつたことは、何よりも此語の新たなる増加と分化とが示して居ります。人が不用意に且つ手輕に心持を相手に通ずる語音は、主として母音であつて、元はさう數多くは無かつたのです。是で心の中のさま/”\の?態、殊に感じの強さ弱さを表はすのには、場(267)合相應の細工を加へなければなりませぬ。後々の人はたゞきまつた型を追ふのですが、始めてさういふ形を採用した人は、意識してこの變更を試み且つ成功して居たのであります。
 例を以て説明をしますと、八重山群島の女たちは、アの長音にわざと段を附けて強く驚いたときにはアツガー又はアッガヤと謂ひます。それに少しく内を省みるやうな感を伴なふと、エッゲー又はエゲーとも謂ふやうであります。可なり古くから此形はもうあつたと見えまして、沖繩に保存せられて居る五百年も前の神歌に、「えけ、上がる赤星や云々」といふ、有名な美しい星の歌が記録せられて居ます。アッキャといふ形は丹波あたりに今も殘つて居るといふことですが、斯ういふ單純な表現法はよいとなるとよく模倣せられ、新らしいのが出來るとすぐ又それにかぶれますから、島かごく偏卑な土地で無いと、永く地方の特色を保つて居りません。薩摩の甑島などでは、同じやうな場合にアバヨーと申します。肥前の五島でもアンバヨ又はアッパヨでやゝ似て居りますが、兩者の中間に位する肥後の天草島から對岸の八代郡では、アラバヨー・アラヨー・アヨー・アイヨーなどゝなつて居ります。(遠く飛んで山形縣の庄内などにはアバヤといふ語があります。)或は是よりもやゝ輕い驚きを表はすのに、簡單にバといふ地方もあります。肥前の唐津邊では珍らしい人にあふとバーと謂ふさうです。東京などで幼ない者の顔を見るときいふバーなども、多分もとは成人の間で、意外な對面の際に發して居た名殘でせう。さういふ場合に鳥取縣の海邊の村の人はバー・バラー又ボウとも謂ひ、靜岡縣の海岸でもバーヤ、奧州氣仙地方の浦人はババ・ボボと短かく謂ひます。東京で此頃流行して居るダアといふ語も、或は芝居から採用したのかも知れませんが、九州では驚きの感動詞として早くからありました。私の意見では、バーもダーも共にたゞア・オの長母音を、もつと印象的にしようとした或時代の細工かと思ひます。
 
(268)     五
 
 是と考へ合はされるのが、上代からある日本語のアハレでありまして、是も亦アの自然音の修飾であつたらしうございます。文藝の上に大きく働きかけた一語で、後には哀れなる・哀れむなどの形容詞動詞を形づくり、一方物のあはれといふ類の高尚なる無形名詞にもなりましたが、口語としての用途は感動詞が主であつて、是を更に音を強めてアッパレといひ始め、天晴といふ宛て字までが出來ました。本來は南の島々のアッガーやアバヨーと同樣に、アの自然音から成長したものだらうと思ひます。但し別れの辭令として用ゐられて居るアバヨ、もしくは小兒のアバアバだけは、是は起りが別であるやうで、多分は後にいふアレの方に近いものだらうと私は思つて居ります。
 古い出雲風土記の阿用郷の條に、一つ目の鬼に?はれてアヨアヨと叫んだ者があつたので、其土地を阿用と謂ふといふ地名傳説が見えて居ります。それは事實でなかつたにしても、かの書の出來る前から、既に怖ろしい又は悲しい時にアヨと叫ぶ感動詞の例が、出雲にあつたといふ證據にはなります。怪しむ・あやまちの語根のアヤ、又は織物の綾とか言葉のアヤとかいふ類の、至つて微妙なる無形名詞の如きも、或は最初是に近い驚歎の語があつて、それから導かれて次第に複雜な内容を裏付けられることになつたのではありますまいか。岩手縣などには現に今日でも、雅語のアナに相當する驚歎のアヤ又はアヤヤがあります。此點はまだ/\斷定が出來ぬとしましても、少なくとも今ある東京のオヤオヤだのオヤマアだのゝオヤだけは、古風土記のアヨと類を同じくする感動詞の、偶然の保存であることが確かであります。使つても使つても磨滅してしまはないのは、寧ろ多分の技巧を加へない自然の音であつたからだらうと思ひます。
 
(269)     六
 
 しかし日毎に増加して行く我々の需要には、是ばかりでは何としても足りませんでした。そこで成るべく是と縁のある語から、新たに色々の似つかはしい感動詞をこしらへるのですが、それは大體に近世人の事業でありました。中古以前にも同じ需要はあり、同じ努力はあつたかも知れませんが、少なくとも後に新陳代謝して、さう/\古いものがもう殘つては居ないのであります。だから我々の知つて居る第二種の感動詞は、多くは皆歴史のほゞ明かな新語でありました。
 一つの例を擧げますと、アレと目的物を指示して傍に居る者の注意をそこに集めようとする試みの語、即ち代名詞から導かれた感動詞があります。(コレ・コリャ・コレハなども同じ類です。)東京で今盛んに使はれて居るのはアラで、是はどういふわけか女性に限られて居ります。「あれは」といふ省略句のかどの丸くなつたもので、それをアリャと謂へば寧ろ田舍の男たちの驚きの語となります。アレといふ指示代名詞なども、終りの母音を長く引きますと、歌舞伎などで若い娘が危難に遭ふときの感動詞になるのですが、それをごく短かく尻揚がりに發音するのは、却つて若い男たちの言葉で、多少おどけ味を含んだ疑惑又は詰問の辭であります。さうかと言つて二つは始めから別の起りだとは言へないのであります。甲州の西河内領では、是をもつとつゞめてレ又はレーと謂つて居りますが、やはり「あれは」であります。青森縣東北端の尻屋村の娘などは、すべての受返事にアレと謂つて居りました。伊豫の松山近在でも、人が物をいふと皆アレヨーと應へます。ちやうど東京でならばヘーエとかマーアとか謂ふべき所で、愛相にびつくりして見せる語が、癖になつたのであります。全體驚きといふものは、實はちつとも驚いて居ない時でも、さういふ樣子をして見せることがお取持ちでありました。是によつて相手を得意がらせることにもなり、自分を愚かにすることにもなり、又滑稽にもなつたのです。だから又社交上の慮禮にも是が利用せられるので、さも/\感心し(270)たやうに見せる僞善的なものゝ外に、實は驚きはしないのだぞといふことを、相手に知らせても差支の無い場合もあります。斯ういふ無害な感情の戯れは、犬の兒でいふならば齒のトウナメントのやうなもので、是があつて人は次第に敏捷になり、又毎日の生活も退屈でなくなるのであります。さういふ愉快な活用を拔きにした國語などは、實は餅の無いお雜煮のやうなものであります。
 
     七
 
 そんな理窟もまあ拔きにしまして、今すこしアレの例を申しますと、東京及び其附近の小學校の子供は、仲間の一人が何か惡いことをしたときに、アーレヨとかアーレヤとか謂つて囃したりいぢめたりして居ります。ところが同じ語でもアララと早くいひますと、火事の際に走つて行く若者の聲となり、元は又人力車夫がさう謂つて走りましたが、その一つ前にはやゝ明瞭にアリャーリャといふのが普通でありました。ところが北陸では石川福井の二縣から、滋賀の一部にかけて、アララは正直に驚く者の聲でありました。飛騨などではそれをアリャリャと謂つて居りますが、別に幾分かゆとりのある感じに、オリョーといふ語も使つて居ります。是等は何れも皆一つの「あれは」の變形かと思はれるのであります。
 このオリョーは又飛んで九州の方にもあります。佐賀縣などはたしかにその一例で、或は尻をはねてオリョンとも謂ひますが、たゞ驚くといふよりは、少しく訝かしいといふ心持を含んで居るかに聞きなされます。靜岡縣西部できくアンリョーは、是は人の話の受答へでありますが、三重縣の北部では變だなといふ意味のウリューがあります。方言集には是を男言葉だといひ、女は是と同じ氣持を表はすのにオラレといふと報じてあります。此オラレは、アレに自分をさしたオラの冠さつたもので、複合感動詞とも名づくべきものであります。日本は元來人稱代名詞をあまり使はぬ國て、歌でも會話でも是を使ふのは言葉を強める爲、即ち此方が却つて文字通りの感動詞であつたやうで、伊勢(271)のオラアレなどもその一つの遺風であります。關東の農村にはこの心持をもつたオラが、今でも盛んに挿み用ゐられ、東京でも女はまだイヤ・ワタシなどゝ、妙な所へ「私」を添へます。土佐の宿毛邊では意外な時に思はず發する語が、男は只ダイヤで、女だけはウンダイヤ、筑後の吉井でも女はオダンヤーと謂ひます。共に「我は」を添へることが、女性に多いといふ實例であります。關西の方ではオラの代りに、女が?母を喚ぶ風がありました。私の郷里播磨でも、最近はもう絶えたかも知れませんが、元は怖ろしいにも驚いたにも、頻繁に「オカー」といふ感動詞を娘たちが發して居りました。越後の一部分では東京のオヤの代りに、オカ・オコと短かくいふ語がありますが、この方は多分オの自然音の加工で、母とは關係が無からうと思ひます。怖ろしいといふ意味のオッケ・オッカイはやはり此系統に屬するやうであります。
 
     八
 
 斯ういふ新作の感動詞の、原料となつたものには種々の品詞、又省略せられ忘れられた色々の文句がありました。かはつた例では近江の神崎郡で、意外な時に謂ふアツコワ、アは在來のもの、コワは「是は」の古い形であります。越中射水郡でカナンチュシタ、この始めの一音節も亦昔の「こは」でありますが、今では一句の省略とは思はずに、全體を單語として用ゐて居るのであります。播磨の名物にはナシタマアがあります。マーは東京にもありますが、それに「何としたことか」の前半分を添へたのであります。九州へ行くと熊本縣のイサギ、薩摩大隅のワッゼなどが、本來は副詞であるものを、終に獨立させて一つの心持を運ばせて居ります。土佐では有名なタマルカが、疑問形のまゝで感動詞になりました。(對岸日向ではタイライナイと謂ひます。)是とやゝ似たのは奧州人のナントナント、標準語の中でもドッコイなどがそれですが、是が「何處へ」の疑問句から轉じたことは、今ではもう記憶して居る者も少なくなりました。
(272) 我々もよく使つて居るところの、物を考へ出すときのコーットなども、最初は「是は斯うとしてそのことは云々」といふ一人言の文句の、ほんの中ほどをちよつぴり拔いたものなのですが、それを忘れてしまつた人が、いつと無くツの音節を強調するやうになりました。始めて用ゐ出した人に聞かせたらをかしいでせう。是からも日本には斯ういふ感動詞が段々生れて行くことゝ思ひます。最近に出版せられた岡山方言を見ますと、あの地方の少女語として、キターといふ語があつて、いやだといふ意味に使はれて居ると申しますが、是などはキタナイ・キタナの樣式化だらうと思ひます。以前私の家の女の兒に一人、何か氣に入らぬことをするとイケーと叫ぶ兒がありました。イケナイといふ語から自分で作り出した感動詞で、他には誰もさう謂つた者は無いのであります。然るに此兒の生れるより十年以上も前に、越後の西頸城郡で出來た方言集に、
  イケー = いやだ(小兒語)
と記録してあるのを、此頃になつて見つけました。イケナイといふ語が活きて働いて居る地方ならば、各地互ひに獨立しても、斯ういふ語は出來て來るのであります。これによつてわかつた又一つの事實は、所謂感動詞は、三尺の童子にも必要があれば新作し得られ、しかも隱れたる或法則によつて、導かれ又支持せられて居るといふことであります。各地それ/”\の事情から生れて、統一の最も六つかしかるべき品詞であるにも拘らず、國全體としては自然の一致が多いといふことは、興味ある事實だと思ひます。
 
(273)  牛言葉
 
     一
 
 新語といふ問題を考へて見る。小兒の言葉には、人から學んだといふよりも、自ら發明して周圍に承認せられたものが多い。牛は東京などではモー又はモーモーといふのが普通のやうだが、中國地方には之をバーと謂つて居る土地が相應に廣く、是が牛追ひの牛に「止まれ」を命ずる語から、生れて居ることは先づ疑ひが無い。子供が牛をバーといふ土地では、牛言葉の止まれも必ずバーである。備後から石見に掛けて、それをバーバーといふ處ならば、牛を意味する小兒語も亦バーバ、東海の諸國はボウボウであるが、さうすると牛に止まれといふのが又ボウボウである。成人が牛に向つてさう謂ふのを聽いて居て、それを幼ない者が家畜の名かと思つたのである。ところが我々の牛言葉は是一つでは無かつた。長門のやうな飼育法の進んだ地方では、人と牛との間に行はれて居る言葉が少なくとも七つある。少ない處でも四つは大抵使つて居る。其中から特に「止まれ」の一つを擇んで、牛の名とした慣行の、期せずして斯樣に一致して居るのは何故か。
 牛はのろい家畜だから、止まれと言はねばならぬ必要は寧ろ少ない。單に頻繁に使はれて居るからといふだけならば、シー又はシッといふ語こそ模倣せらるべきであつた。是は全くバー・バーバが單純で、且つ其音聲が發し易かつた爲であり、從うて又耳に快く印象的であつたからで、乃ち幼兒にも既に無意識の選定はあつたと言ひ得るのである。(274)始めて彼等の親姉がこの小兒語を聽いた時にも、容易に其目的を理解し且つ之を是認して、次に此符號を持續すべしといふ黙約が成立ち、後には他の子供が別の語を新設しようとしても、別して在來のものゝ使用を強ひる迄になつたのも、やはり此選定が最も適切であつたからであつた。小兒語のバーは新語である。それが牛に命令するバーよりも古い氣遣ひはない。しかも成程といふ程よい言葉ならば、永く方言となつて一地方を支配し得たのである。是が偶然にもし首都の出來事であつたなら、或は堂々として標準語となつて傳はつたかも知れぬのである。
 しかも第一次の牛言葉の發生に關しては、問題は又自ら別になつて來るので、必ずしも當初是だけの結果を豫期する者があつて、考案してバーを「止まれ」の爲に用ゐ出したとも限らない。牛は元來が各家の私有に屬し、主人限りで何とでも話し合ひを付け、それでは話がちがふといふことを絶對に言はぬものときまつて居る。實際又少しく語氣を強くすれば、カーと言つてもコーと言つても、從順に其歩みを止めたかも知れない。彼等に對してのみは一農夫も乃ち君公であつて、言はゞ完全に新語制定の權能を掌握して居るのである。それが郷村の好尚を統一し易い小地域ならば兎も角も、弘く全日本に亙つて大よそは一致して居るのを見ると、何か此間にはまだ我々の心付かない法則が、隱れて國語の流傳を左右して居たのである。即ち新語は是を決すること最も自由なる場合に於ても、なほ一方には進んで之を抑制し、或は之を指導する色々の力があつて、それが積り積つて我々の日本語を、今日の形態にまで持つて來たらしいのである。
 
     二
 
 大きな圖書館の特別書の中には、それを解説してくれる口傳のやうなものが有るのかも知れないが、そんなものを探しまはつて居る爲に、一生を費してしまふのは惜しい。それよりも手近なのは我々の周圍に、少しも勿體ぶらない澤山の言葉が、自ら進み出でゝ手に/\我が經歴を語らうとして居るのである。人の生活は計畫であり豫想であると(275)同時に、一方には又昨日以前の行動の痕跡でもある。この毎日の見聞を分析して見ても、何故に斯くあるかと不審をすることは寧ろ稀で、大抵は一目で其過去を推測し得るものばかりであつた。ところが從來の歴史と裁判所とだけは、是非とも何年の何月何日に、何人が何といふ處でといふこと迄記録しようとした故に、却つて不可能が多くなつて居るのである。私は日本の至つていはけない國語史が、さういふ御番所の日記の如きものになることを欲しない。だから眼前の事實をして、もう一度自分の語り得るだけのものを、語らしめようと試みるのである。
 牛言葉のバー又はバーバ等は、精確な意味に於ての方言では無い。といふことは單なる或地域だけに限られて、用ゐられて居た語では無かつたのである。もしも中央の一大都市に住む者が、知らぬものといふことが方言の定義ならば、是も方言だが其代りには、方言とは日本語のことだと、言はなければならぬ結果になるかも知れぬ。「止まれ」をバーといふ語は中國の中部以西で、其中に挾まつて處々にバーバといふ語がある。二つは同じ語といふことも出來るが、或は重ねていふ方が古風であつたかとも思つて居る。それは今後の採集によつてきめられるが、是と近接したボウボウは弘く行はれ、ボウとたゞ謂つて居る例がまだ餘り見付からぬからである。
 ボウボウは岡山縣の東部以東、三河の豐橋・駿河の吉原附近まで、方々に使はれて居る。牛の飼養には土地毎に沿革があるから、遠くと相類して隣と異なる場合も少なくない筈である。四國では阿波の方がバーで、讃州は却つてボウボウ、伊豫の大洲附近も亦ボウボウである。九州は豐後あたりはどうか知らぬが、大體に南北二つに分れ、北は肥前の産牛地方から、壹岐對馬の島々までがワー、南は薩摩大隅日向、肥後の人吉附近も一帶にオー又はオーオーである。前者が中國のバーと、後者が其外側のボウボウと、一つの言葉の音推移であつたことは想像してもよからう。只どちらが前から有り、どちらが後に變つたかを、さう簡單には見定められぬだけである。
 そこで我々の採集は、この上尚多くの同情者の援助を、要することになるのである。一つの有力な參考は、牛に「止まれ」といふ語が、南大和に於てはオン、河内の交野に於てはオーオーといつて居ることである。京都は夙くか(276)ら牛飼ひの發達した土地であり、牛車を使用したといふことは文獻にも往々見えて居るが、其童子等は賤しい者であつた故か、私などの知る限りでは、それがオーオーと謂つたかバーと謂つたか、まだ出典が見つからぬのである。だから本だけでは話にならぬ。が大體に九州の南端と近畿といふやうに、遠く離れて偶合して居るものは、その中間に新語が出來て押分けられたとも見えるから、一應は此方を古いと推定し得る。それに此方ならば意味も略わかつて居る。即ちオーオーは承認の意、「もうそれ位でよろしい」の意味に、人に對しても折々は用ゐて居る。それを畜類だから幾分か粗末に、且つ人同士に使ふ言葉と、差別を立てようとすればボウボウにもなり得たのである。
 
     三
 
 注意すべき例外は長州も北の半分で、牛に止まれを命ずるのにマイマイと謂つて居ることである。それから今一つは八丈島に於て、「止まれ」を今日ではべー又はベァー/\といふさうである。この二つの懸離れた土地の現象に、何か聯絡が見つかつたら面白からうが、後者は少なくとも、近世の變化であつた。七八十年前に出來た近藤氏の八丈實記に、ベイは牛に向つて「右へ向け」、又は「止まれ」といふ時の言葉だとある。馬とは違つて牛はたゞ一本の綱で、それを右側に控へて後の方から指揮するのだから、止まれも右へも綱の牽き方はよく似て居た。それ故に或は「右へ」といふ語が、轉じて「止まれ」といふ意味にも、用ゐられることがあつたのかと思ふ。果して此假定が當つて居るとすると、我々の新語作成には又一つの隱れた誘因があつたことになり、是がもし新語では無く、バーかボウボウかの改正であれば、音の轉訛にも今の音韻家が考へて居る以外の、法則があつたことが知れるのである。
 「右へ」の牛言葉は肥後球磨郡でミギ(左へはダリ)、鹿兒島宮崎の二縣ではコチ又はコーッ(左へはヒダ又はヒダイ)であるが、是だけはよく解つて居る。私の郷里播州から、西は備前邑久郡でも、又備中の吉備郡などでも、是をシカイもしくはシカエといふのが普通である。此意味も亦一言で説明し得られる。即ちシカエは控へ繩を引くぞの意、更(277)に具體的にいふと鼻の穴が痛いぞといふ警告で、牛の經驗に訴へて、急いで其前に痛くならぬ方へ向かせるのである。此シカエに對して、「左へ」を何といふかと注意して見ると、前に擧げた三國では共にアイシ又はアセと謂つて居る。是も中國地方だけには弘く行はるゝ牛言葉で、たとへば長州では「右へ」をヘイシと謂ふが、「左へ」だけはやつぱりアシ、備中西境の小田郡などでは、「右へ」の方は綱を引張るから不用だと言つて今は無いが、「左へ」を意味するアシだけは殘つて居り、しかも其語を又洗つたり鞋をはかせたりする爲に、足を擧げよと命ずる場合にも使ふのである。是から考へると、牛に取つては右は強制を意味し、左は即ち綱を弛められる故に、自由を意味したのでは無いかと思ふ。兎に角にこの一つの語だけは、前代の記録にも殘つて居る。徒然草に栂尾の上人道を過ぎ給ひけるに、川にて馬を洗ふ男、アシアシと云ひければとある。是は馬ではあるが、さう謂つて足を擧げさせるのは古い日本語であつた。それが何時の間にか「痛くない方」といふ意味にもなつて居たのは、八丈島で「止まれ」と「右へ」が一語を以て、辨ずるやうになつたのにも似て居る。
 それから尚一つ、是も多分は後々の新語であらうと思ふのは、奈良縣の南部では「右へ」の牛言葉が無くて、「左へ向け」がチョイ、津村氏の譚海卷二にも「右へ」はヒョウセ、左へをチャイといふ例を載せて居るのに、北河内では反對に「右へ」がチャイ、駿河の海岸でも右へをチャーと謂つて居ることである。是などはもし牛の賣買が遠く行はれて居たら、大なる人牛辭典の混亂でなければならぬが、我々には凡そ其原因がわかるやうな氣がする。それは綱を引いて鼻の穴を痛くする以外に、別に其綱を鞭の代りにして、牛の背を打つ技術が段々に發達したからで、最初は右へ引く際に打つたのが、それは無駄だから「左へ」向かせる際に、引かずに唯打つことを考へ出したのであらう。實際に牛は綱を弛められると、幾分か氣まゝに動いたかも知れぬ。だから綱引くをシカエで警告したやうに、チャイで「背の皮が痛いぞ」を表示するのは、左へ向かせる場合の方が必要であつた。即ち「左へ」のチャーこそは言語の進化である。
 
(278)     四
 
 しかし是等の牛言葉は、意味が其語の表にやゝ明瞭に現はれて居るだけに、使用の起原は比較的新らしかつたかと思はれて、其分布も概ね限局せられて居る。全國を通じて最も遠く行き渡り、且其趣意も既に不明に歸して居るのは、「左へ」をサセ、「右へ」をヒョウセと謂つた牛言葉であつた。此形の現在も尚行はれるのは、第一には紀州半島で、たとへば日高郡では左がサセ、右がヘウセもしくはヘセ、熊野でも一帶に左へはサセサセ、右へはヘウシだといふ。東國では駿河吉原などが、右はチャーだけれども左はサデ、九州は豐後の國東半島が、右はセー又はゼーだが左はサシ、筑後の八女郡が右はケシケシ(シカエと同系か)で左へがサシサシである。
 サセといふ語の起りも大抵は判つて居るが、ヘウセの方だけはまだ何分にも説明が付かない。それで居て此方がより多く殘つて居るのである。たとへば周防の柳井では左へをハシ又はハセとなつて居るのに右はヘセ、長門も左がアシで右がヘイシ、伊豫の大洲でも左はハセヨで右がヒヨセ、壹岐島では「左へ」をタタと謂つてヒダに近いが、「右へ」に至つては今でもヘシもしくはヘシトである。餘り數多く竝べると見る目も煩はしく、私も亦是以上の例はまだ知らぬが、兎に角に熊野から壹岐までの牛の子は、何れもHSの子音を聽いて、綱の有る方へ首を向けるやうに訓練せられて居たのである。
 さうして此習慣は又可なり古かつた。越後風俗志卷七には、正コ三年に出版せられた禽獣評といふ書を引いて、牛馬とも左をサセイ、右をヒョウセといふと記して居る。此本は多分中央での刊行物だらうと思ふが、京江戸で馬にもさういふ馬言葉を、使つて居たといふことはやゝ疑はしい。しかし田舍でならば馬の用途も?牛と近く、肥料を運ばせたり田を踏ませたりして居たから、其制御の法も相似たるものがあつたらう。原本を手にせぬ故に何とも言へぬが、是も或は越後かどこかの、農村の事實を記して居たのではないか。何にもせよ牛には此言葉が方々に行はれて居(279)るだけで無く、同時に古くもあつたといふ一つの證據にはなるのである。
 しかも之れよりも更に古くからの例は、續狂言記の牛馬といふ狂言に、牛博勞と馬博勞とが新市の市の頭を爭うて、驅けくらをして勝負をきめる條がある。それには馬博勞はドウドウ、さあ勝つたり勝つたりといひ、牛に乘つた方はサセイホウセイと言ひながら走つて居る。是には其言葉が何を意味するかを明かにしないけれども、後代の用法から推して、此時代ばかり違つた内容を持つて居たとも考へられぬ。つまりは是も亦あの時代の牛言葉を保存して居るところの、偶然記録の一つであつたのである。
 
     五
 
 さうすると問題になるのは新語の力、即ち何故に是ほど用ゐ馴れて居た牛言葉を、土地によつては始めから之に由らず、もしくは中たび改めて別の語を使ふことになつたかであるが、それは此二語の意味を考へて見ることによつて、或は今に解決し得られようかと思ふ。多くの單語は昔から符號であつて、どうしてさういふかを知らなくても、柿はカキ桃はモモ、又は外國から來たまゝを眞似て、澄まして居る物の名なども非常に多い。意味が無くなつたら愈後生大事に、元の音を守る必要があつたらうとも言へる。しかしそれは唯實物が前に具はつて、折々指さして雙方の思ひちがひを豫防し得る場合だけの話で、話が込入つて來て、誤らない想像を胸に描かせることが必要になれば、現に人どうしの間にも色々の適切なる新用語が案出せられて居る。ましてや牛などは憐れむべき鈍物だから、よつぽど簡單で要を得た言葉を、使つて遣らなければといふ斟酌はありさうなことである。しかもさういふ動機は必ずしも相手が牛である場合には限らなかつた。是が聽く者に最もよく解るだらうといふ判斷は、いつでも言葉の選擇を左右して居る。たゞ牛の場合には向ふの經驗を利用し得ない爲に、一層もとの意味の不明を氣にしなければならなかつただけである。
(280) 牛に左へといふ時にサセを用ゐた理由は、私には略説述することが出來る。馬耕牛耕は今こそあの通り全國に發達したが、僅か十數年前までは中部以東の田舍では、農作に馬を使ふのは二人掛りであつた。唐鋤を牽かせて代田を掻く場合は勿論、苅敷を踏ませるにも、別に小者の口取りが附いて居るのをよく見かけた。牛の方は主として西國に限られ、是は大分前から一人で取扱ふ樣になつて居るが、元はやはり二人を要したことは繪卷物などに幾らも實例が見られる。是も綱は右側に一本だけで、追ふ者が之を控へ、別に左の方へ向かしめる爲に、口綱に短い竹竿などを結び附けて、それを前立の者が手に執つた。其竿がサセの起りである。本來の名詞はサシである樣だが、青森縣では一般に之をサセ棒と謂つて居る。岩手宮城の田舍でも、サセトリ又はサセコトリといふのは此竿を持つ役、それから轉じでは唯馬の口を取つて、あらぐりを掻かしめる者をもさう呼び、更に初春の田遊び舞をもさう稱へて居る。サシは今いふ棒のことで、標準語にはサスマタとかモノサシとかの複合名詞、又はサシニナヒニスルなどの動詞を存するのみだが、地方の言葉にはまだ元のまゝでも行はれて居る。本來は漢字の刺よりも廣く、突出すといふ意味をも持つて居たかと思ふ。即ち此竿をサスことによつて、牛の首を左の方へ押向けたので、サセは多分後の方に居る者の、さう言つて指圖をした言葉であつたらう。サセ棒が無くなり、一人で牛を追ふことになれば、さういふ言葉は全く不用になる。それが尚殘つて居るのは近くまで之を使つて居たか、さも無ければ代りのよい言葉が未だ見付からなかつたのである。
 次に他の一方のホウセイといふ意味は、まだ自分には明瞭で無いが、是も或は樹の枝か何かのことでは無かつたかと想像して居る。幽かな手掛かりだが、河童即ち水の靈を統御する神として、ヒョウスエといふ名が前から知られて居る。文字は兵揃などゝも書いて、其起りは全くわからなくなつて居るが、牛馬安泰の所願は常に水邊で行はれるから、此二つの語は何か關係が有りさうである。牛を草原などに遊ばせて置く場合に、綱を長くして其端に小さなくひぜを附け、それを地に打込んで何處にでも繋ぎ留める。是もたしかホグセ又はホーゼと謂つて居るかと思ふ。何にも(281)せよ他のシカエやチャイの例から推して、是も一つの制御具の名であつたことは考へられるが、私は尚其以上に、一種呪力を備へた樹の枝を携へて、牛の尻を打つて居たことが有つたやうにも想像するのである。
 現在牛を飼ひ勞作を助けさせて居る島や山村の、方言の知られて居るものはまだほんの僅かで、今や採集の事業は熱心に其隅々に及ばうとして居る。人が始めた行爲に理由の無いものは無いと同じく、我々が尋ね究める氣になつて、永遠にわからぬといふ事實も無いと信ずる。殊にホウセイの如きは唯聊かの變化を以て、今も眼の前に於て行はれて居る言葉である。それが説明し得られぬのはたゞ我々が何とも思はなかつたからで、答へは寧ろ夙くから、此問ひを待つて居るのかも知れぬ。私の想像説の當れりや否が決するのも、さう遠い將來のことでは無いであらう。
 日本人は世界の何れの國民にもまして、言靈の力といふものを深く信じて居た。古い言葉の正しく又有效なことは、相手が家畜ならば一層よく實驗し得られた筈である。それですらも時が來れば新らしいものと替へなければならなかつた。是と同時に各人が思ひ/\に、新たに用語をきめても誰も故障を唱へざる、牛言葉の如き自由な場合でも、尚多くの人の言ひさうなことしか言はず、又は古くからの型を意味無しに守つて居る者があつたのである。新語發生の法則は成程まだ些しでも公けにせられては居ないが、それだから何も無いのだと速斷することなどは私には出來ない。之を捜して行くにはやはりこの牛言葉のやうな、事情の最も簡單なものから取掛かるのがよいかと思ふ。それで今後も折を見て、少しづゝ此方面の事實を集めて見ようと思つて居る。幸ひにこの迂遠なる勞苦に同情せらるゝ諸君は、各地現在の牛言葉と共に、次のやうな事柄も報告せられたい。
  一、狗・狗の子の小兒語と、それを呼ぶ言葉
  二、狗を嗾する時の言葉
  三、猫?などの小兒語と、それを呼ぶ言葉
 
(282) (追記)
一、言葉がどういふわけで地方毎に、段々とちがつて來たらうかといふ問題を考へるのに、牛言葉が特に都合のよい點は色々ある。相手に注文が無く、わかりさへすれば直ぐに同意し、從つて話主の我儘が通るといふまでは幼兒語も似て居るが、この方は氣まぐれで世間の振合ひを知らず、何を言ひ出すか見當が付かぬに反して、牛の飼主には常識があり又模倣性がある故に、一つの土地の要求を代表し得る。たゞ其區域が幾らでも小さくあり得るので、創意の效を奏する容易さが、よほど嬰兒の場合に近いといふのみである。次には牛言葉には不十分ながらも文獻があつた。少なくとも中世末期、京都から遠くない村里では、もう「左へ」をサセイといひ、「右へ」をヘウセと謂つて居ただけは證據があつて、しかも地方でも今よりはもつと弘く、此語を採用して居たらしい痕跡も見られるのである。牛が親代々もしくは小さな時から、よくく此語を覺え込み又理解して居たことは、少しぐらゐ音をすべらしても通用したのを見てもわかる。其中でも「左へ」のサセ・サシなどは好い言葉だつたと見えて、之を中國西端から北九州のやうにタシと謂つても、四國の一部や山陰の如くハシェ・ハセと謂つても、又は瀬戸内海北岸から東のやうに、アセ・アッシ・アエシなどゝ謂つても、右へは決して向かなかつた。それを寧ろ使ひ手の方が心もとながつて、新たに自分のよく理解するチャイだのヒダリだのに取替へてしまつたのは、或は私の謂ふ語原忘却、即ちサシ・サセイが何であるかを、知つた人が無くなつた結果と思はれる。「右へ」をヘシ又はヘウセなどゝいふ方はなほのことで、此語を理解するのはよつぽど古風な牛といふべく、是がコチとなり、ヌチョイとなり、又はドコエとなりシカエとなつたのは、至つて自然の變化だと言ひ得るのだが、なほ相應の弘い地域に亙つて、中世のまゝのものが傳はつて居るのは、多分この語の必要が左向けほどには大きくなかつた爲であらう。終りにもう一つ、「止まれ」を意味するバアバアとボウボウとを、一つの掛聲から分れて來たやうに、本文には説いて置いたが、是は或は誤つた想像かもしれぬ。石見長門の方面には、「止まれ」をマイマイ又はマアマアといふ村が可なり多い。話主は或は「先づよい」の語感で使つて居るかも(273)知れぬが、是は恐らくたゞ「とまれ」の早口であり、それが更に荒々しくなると、バア又はバアバアになるのかとも思ふ。さうすると一方のオー又はオーオーとは全く別の起りで、今日弘く行はれて居るボウボウは、この二系の語の接觸面に現はれた、一種の折合ひであつたと見てよからう。小さな問題だがもし變北の過程を明かにして置かうと思へば、今ならばまだ方法は有る。
 
(284)  犬言葉
 
     一
 
 今年は又イヌの年。犬と人間との交渉史の殘されたる一つの部面を尋ねて見よう。りこうな近頃の犬は顔を視る。さうして主人も亦相應に、喜怒を色に表はすやうになつて居る。人と犬との間の言語の必要は減退した。もしくは單なる標準語を以て、用を辨ずる可能性が加はつた。我々の犬言葉は消えて行くであらう。國語を葡萄酒と同じやうに、古くしてから味はゝうとするなどは、私たちの趣味で無い。まだ少しでも活きて働いて居るうちに、どう働いて居るかを實驗することが、國語の研究であるかの如く自分には感じられる。其想像が萬一にも正しいとすれば、もうこの次のイヌの年までは待てないのである。
 但し犬言葉は始めから多くは無かつた。牛には大よそ七種ほどの單語があるが、犬はオアヅケだのチンチンだのゝ專門語を除けば、先づ三通りの語を解して居て、それだけで生活して行くことが出來た。其中でも「來い」とか「還れ」とかを意味する語は、聽くまでも無く犬はよく主人の側へ還つて來る。だから用も無い童子や他人に濫用せられて、既にその本來の用途からは離れようとして居る。「來い」は彼等に取つては恐らく「爰に食物有り」を意味して居たであらうが、今は一向に語原の不可解な、形式語になりかゝつて居る。次には手柄をして褒められる語も、頭を叩いたり顔で十分に喜んだり、代りをする表意方法が色々と出來た爲に、言語としてはさほど發逢して居ないし殘りの(285)只一つの敵に向つて行くことを激勵する言葉、是だけが今日の軍用犬流行の世に入つて、又新たに大いに利用せられ、異種の犬どもにも、日本語として教へ込む必要を生じたのである。犬が西向けば尾が東向くといふ諺はあるが、尾よりも犬の耳が役に立つ場合が、なほ當分は續かなければならぬのである。
 
     二
 
 言語が使用者の制定に出でたもので、聽手の發行した約束手形で無かつたことは、牛言葉犬言葉の例を探れば證明し易い。むかし私の家にはアカといふ牝犬が居た。彼は我毛色が赤いからアカであることを知らなかつた。それだから試みに嚊と呼び、馬鹿と謂つて見ても、なほ私の顔を見て尾を振つた。所謂訛音が最も僅かなる人の心持から次第に通用するものであることは、アカならば是を教へてくれることが出來たのである。犬を嗾する言葉なども、隨分と我儘に變へてある。東京の犬の子は、通例ウシウシと謂へば向うをきつと見るが、人が彼等を指嗾することは、此地では之をケシカケルと謂つて居る。以前は即ちケシケシとも謂つたのである。ケシカケルといふ語の起りは上方らしいが、あちらでも今はイケといふ方が多いかと思ふ。仙臺では百餘年前の「濱荻」にケシロカケルとあるが、現在はどう變つて居るかを知らない。磐城の棚倉ではチョコカケル、青森縣方言集にはヤシカケルとある。
 九州の方でも、肥後の隈府《わいふ》などではヘシカクルと謂ふが、慶長年間の日葡辭書には、ホシメカスといふ語が採録せられて居るから、此地方にもホシホシといふ犬言葉は有つたのである。大隅と日向では獵犬を励ますのにショイショイといひ、それから轉じては人を煽動することをも、ショイショイカクルと謂つて居る。ところが薩摩も谷山のあたりでは、やはり東京と近いウスウス、もしくはオシオシが用ゐられて居る。越後の蒲原地方はゴシゴシといふやうだが、加賀の金澤にはクスカケルといふ動詞が有るから、一つ前にはどうあつたか知れたもので無い。
 
(286)     三
 
 馬や鳥類にも  屡々應用せられた如く、大體にShの子音が、促迫の感じを此連中に與へることを、實驗した上での發明かとは思はれるが、それだけではこの多くの變化は解説し能はぬのみならず、寧ろ斯樣に變へて見られたといふことは、或はまだ十分に適切でなかつた證據かも知れない。兎に角に犬としては少しく迷惑な話であつた。曾て信州の人の會合した席で聞いて見たが、あの一縣だけでも、犬は一つの語を覺えただけでは濟まなかつた。木曾の上松《あげまつ》邊ではオシといふのが「遣つゝけろ」であるが、東筑鹽尻邊ではホシに變つて居る。更級地方へ來るとヨクシヨクシ、南佐久になるとヨキヨキを左樣心得ねばならぬ。島根縣でも石見の鹿足美濃二郡ではホッシホッシ、那賀郡ではやはりオシオシといふが、松江の附近などはホイキキと謂つて、犬を勵ますといふことが出雲方言考には見えて居る。このホイキキなどは「そら行け行け」をごく投げやりに發音すれば斯くも聞える。私たちの郷里でもイケイケと謂つたのを考へ合せると、丸々無意味の語を犬だけに用ゐて居たのでも無いらしいのである。
 聽耳草紙といふ昔話集を見ると、岩手縣の犬どもは、ハックハックといふ語で鼓舞せられて居たやうである。是は疑ひも無く「早く早く」を、少し粗末に使つたものであつて、人も突嗟の際には是と同じ語で指令せられて居たかも知れないが、是をいつ迄も人犬共用にして置くことは、不便でもあり又不愉快でもあつた。犬の爲には出來るだけ簡單な語、さうして彼等の耳にも捉へ易い音配合を、案出する必要があつた上に、又犬だけに限つたものを、きめておく方が使ひよかつたのである。俚言集覽に「シキシキ、犬を奨むるにも馬を追ふにも謂ふこと也」とあるのは、多分江戸と其周圍の事實であつたらうが、是にも「行け行け」の命令形が樣式化してまだ傳はつて居るやうに思ふ。ケシカケルのケシケシも連呼の間に顛倒しただけで、其K音は行けの中から生れ、偶然に挾まつたものでは無いやうに思ふ。
(287) 西洋の寂しい老婦人などが、犬と上品なる會話をして居るのを聽くとをかしいが、我々の犬言葉とても、最初から專用では無かつたのである。ちやうど犬猫の食器に椀皿を卸して與へるやうに、古び又汚れて一見別物の如く、且つ常人用のものと混同することを防いで居るだけである。犬猫の食器を犬ヅキと謂ひ、もしくは猫のゴキなどゝ呼んで居る地方は稀で無い。さうしてツキもゴキも共に由緒ある我々の食器の古語であつて、今は椀だの猪口だのといふ新來の語に代られて居るだけである。犬言葉の根本には轉用があり、又汚染があり差別があつた。けれどもうつはものの本質には異なる所は無かつた。一種特別なる舊語の保存に他ならぬ。
 
     四
 
 犬が獲物をくはへて來て、主人の前に置いた場合、必ず亦一つの語があつたらうと思ふが、私たちばかりか犬自身も、多くはもう是を記憶して居ない。秋田津輕の人たちの間には、猫が鼠を捕つた場合にいふ語がある。是が本來は獵犬に對するもので、即ち今日のヨクシタ・ヨクトッタなどの、前の形であつたらうと思ふ。ケナリケナリといふ語は、既に現在の標準語からは滅びて居る。それから導かれたケナリゲといふ形容詞だけが、ケナゲと變じて  稍々限られた意味に用ゐられ、又是を動詞にしたケナリガルといふ語が、羨むといふだけの方言となつて、各地相知らずに遠慮深く生きて居る。本のケナリはたゞ羨ましいといふ心持になつてしまつたが、東北の犬や猫ばかりは、依然として此語の當初の用法を示されて居たのである。勿論是も亦さう大昔からの語では無いかも知らぬが、兎に角に此語の盛んに用ゐられた足利期に、是で言ひ現はして居た複雜な感覺を、代つて表示する語が無くて今に不自由して居る。あまり差別をすると有つた財産も失つてしまふ。さりとて今頃になつて犬のツキを取戻して來ることも出來ず、しかた無しに聞きにくい外國語で間に合はせなければならぬ。訛りや片言はろくに改めることも出來ずに、たま/\殘つて居た古い佳い語を棄てゝしまふやうな、そゝつかしい方言匡正家のよい戒めである。
(288) 犬に「來い來い」と謂ふ第三の言葉は、現在は多くは仔犬の名となつて傳はつて居る。是は人どうしが相手を喚び寄せる爲に、互ひに名を呼ぶ習はしから類推して、言葉の元を忘れるとそれを叫ばれる者の名かと思つたので、牛に止まれと謂ふバアバアが牛の名となり、カメを西洋語の犬のことゝ解したのも同じ例である。殊にこの一つの犬言葉は、久しい間小兒の管理に歸して居た爲に、變化は勝手次第であり、又頻用によつて飽きて替へられて居る。東京の近くでは、靜岡一縣は犬の小兒語がガンガンであつて、一寸聽くと吠える聲の眞似のやうにも思はれるが、是も今尚各郡の子供等が、犬を喚び付けるに同じ語を使つて居るのから、實は相手の自ら名乘つた名で無いことがわかる。さうして亦「來よ/\」の一つの訛音であつたのである。
 
     五
 
 犬を喚ぶ犬言葉は、大體に全國を二區に分けて居る。一つはずつと狹くてトト區域とも名づくべく、廣島山口の二縣のほゞ全部と、隣接した諸縣の片端とに及んで居る。このトートーは「疾く/\」の中世語の、殊勝なる保存であつて、ちやうど岩手縣のハックハックとは反對に、「速かに此方へ」を意味して居たのである。勿論今日でもさう謂つて小兒は犬を喚ぶのだが、面白いことにはそれが同時に、仔犬を意味する小兒語にもなつて居るのである。犬の子ばかりをエノコロ又はイヌコロなどゝ、コロを附けて呼ぶ理由も是でよく判る。コロも亦小兒がさう謂つて喚び寄せて居たからで、ころ/\として居るからでは無かつたのである。例を擧げるほどの事でも無いが、備後も深安郡などは犬の子をトートノコ、其他の諸郡はトートコ又トトコ、尚縣内には小犬をトチコ、トトココもしくはトートーイヌと謂ふ地があり(廣島縣方言の研究)、周防も岩國コ山その他、何れもトウトウ又はトトコが犬ころのことである。島根縣でも石見の海岸近くに、小犬をトトコといふ地があり、岡山縣でも今はイヌコロといふ方が多いやうだが、其名を應用した植物の「えのころ草」を、邑久郡ではトートコと名づけて居る。
(289) このトートコの終りのコは、犬の子では無くて、やはり「來い來い」のコであつたことが、トトココなどの例からも察せられる。蟻地獄といふ蟲は名の多い蟲で、その突き合ひをする擧動が牛に見立てられ、又相撲にたとへられた名が他府縣にはよくあるが、廣鳥では是も小犬と同じ名を持つて居るのは、小犬もよく力くらぺの樣なことをするからであらう。それにも少しづゝの地方差はあるが、山縣郡の一部にはトーコイといふ例がある。以前犬を喚ぶのに、さう謂つて居た土地も有つたのである。
 第二の來い來い區域はずつと廣い。其中でも九州は全體に犬をコーコーといふ小兒語が多く、博多ではインコーコーとも謂つて居る。四國はまだ詳しくないが、阿波にも讃岐にも伊豫にもコーコがあり、山陰は鳥取縣下から、飛騨の高山あたりも同じくで、大よそ日本の半分はコーコだと言へる。しかし變化は中々多く、前に掲げた駿遠のガンガン以外に、石見の一部ではカーカー、秋田縣の鹿角郡もカカ、越後の或地にはゴゴといふ例もある。京都の近くだが近江の仰木《おのぎ》村、又能登の七尾などでは犬の童語がコッコ、岐阜と茨城の二縣には犬の子をコロといふ土地があり、現に又コロコロと小犬を喚んで居るのを、私も聽いて居る。此地方の人たちはイヌコロの後半が、犬言葉であることを皆知つて居ると思ふ。それに基づいての私の想像は、イヌといふ語の起りも亦、遠い昔の小兒語の承認では無いかといふことである。イヌといふ標準語はよく知られて居るといふのみで、今でも東北ではイゴ・エッコ・ジッコッコ等、思ひがけない名が色々と行はれて居る。何か一つの犬言葉の痕跡のやうに考へられるのである。
 
     六
 
 犬をトートーと謂つて喚ぶことは、私たちには全く珍らしいが、あの地方の人には何だ當り前ぢやないかである。ところが遠く旅をして北の方へ往つて見ると、青森縣の八戸市附近では、トトは猫を喚ぶ言葉であり、從つて又猫の小兒語もトットである。信州の北安曇にも、猫をタータといふ兒語があるから、或は同じやうな喚び方をするのかも(290)知れぬ。猫にも色々の喚び方と名があるが、今年は猫の年で無いから詳しくは述べない。大體に小兒には特に便宜な子音といふものがあつて、其方へ移つて行く傾向があるらしい。たとへば山形秋田から青森へかけて、猫はチャコであり又はチャメ・チャペであるが、此音は稚ない者がよく利用し、父は固より母や姉をもチャアと謂ひつけて居る地方が多い。さういふ處では猫の名は別に有るのである。關東から福島縣にかけて、成人でも猫を喚ぶのにコウネコネコネコネと謂つて居るのを折々聽く、是をネコといふ名詞の起りとも斷定し難いだらうが、少なくとも東京を中にした東海の諸縣に於て、猫をコマといふ語は「來い」から來て居る。八丈の島では小兒が猫を喚ぶにカンカンと謂ひ、猫を一般にカンメと謂つて居る。熊野では小猫をコビ、關東でもコマの代りにコゾとも謂つて居る。是を小僧と解するのは後の心であらう。常陸の稻敷郡と石見の銀山地方では、猫をカイカイといふ兒語がある。對馬は全體に猫をカナ、さうして又カナヨカナヨと謂ふのが、來れを意味する猫言葉である。
 來いをコロコロといふのは犬ころのみで無く、土地によつては又?言葉にもなつて居る。對馬と石見では?を喚ぶのにコロコロと謂ひ、石見ではそれが?を意味する名詞でもある。岡山縣でも西の方の郡では、コロコロといふのが?を招く詞であるが、市の附近に來るとトロトロとなつて居る。多分はトウトウとの合流であらう。トットトットは福島縣までは確かに分布し、それから北にも及んで居るかと思ふ。越後では?をトットコと謂ふから、もとは「疾う疾う來い」と喚んで居たのであらう。トリを子供らしく改めたのがトトだと、思つて居る人が有つたら誤つて居る。トリは大きな鳥類を廣く總稱した名だが、?以外のものはトトとは謂つて居らぬ。魚の肉をオトトといふ方こそ寧ろ同じ語の應用であらう。但し此方は「疾う/\」食べさせよのトトであつて、それ故に後部に「來い」が附いて居ない。小兒の概括法は我々の習ひとは違つて居る。
 
(291)     七
 
 最後に是も初春の景物として、我々と親しみの深い「かはやなぎ」の花芽のことを説いて、犬言葉の脱線を防止しようと思ふ。狗尾草即ちえのころ草をトトコグサといふ地域が、仔犬をトトコといふ地域よりも廣い如く、トトコヤナギの名も稍遠く分布して居るのは、以前犬を喚ぶのにトウトウと謂つたものが、今よりも多かつた證據であらう。あの猫柳の若々しい花穗の、むく/\として蹲踞した形は、猫よりも小犬の方によく似て居る。だから備中の北部でトートー又はトートノメ、作州の津山邊でもトートー、因幡は犬の方は既にコーコといふが、尚是だけは今以てトウトメである。犬が最初で楊が其轉用であることは、他の地方の方言を比べて見ればよく判る。小犬をインコロといふ能登半島ではこの木もインコロ、福島縣ではエッコロ又はエコエコ、筑前博多では是もインコウコウであり、仙臺ではイヌコヤナギとさへ謂つて居る。信州東筑摩でイネコロボ、越後にオネコボボといふ例なども、必ずしも猫から出た名稱では無いやうである。山形縣村山地方のツンコといふ名が解らなかつたが、是も亦チンコロといふ語が青森縣の一部、信州下伊那などにあるのを見て、それと一つの名であることが明かになつた。同じ山形縣の莊内地方では、この木をカハラノコチコチと稱し、他にも東北でコツコツといふ處がある。是も以前の犬を喚ぶ言葉に、コチコチ即ち「此方」へといふのがあつた爲で、猫では無さゝうに思はれる。
 或はベココといふ處も東北にはあるが、是はその近くにメコ又はメメンコといふ例があるから、それの變化であつて、猫柳を牛にたとへたのでは無からう。メメコといふのも、一つの小兒語で、惡戯などをして人に睨まれるのがメメコであつた。春の日影に楊の芽の光るのを、さういふ風に彼等は感じたので、此系統の名だけは起りが別であつたやうである。小兒はいつでも人の眼に注意する。それ故に野葡萄や龍の髯の實の如く、眼によそへた新名が多かつたのである。しかし犬の子に似て居る位だから、猫と謂つてもよし、ベコと名づけてもさう大して無理では無い。起り(292)は何れであらうとも、後にはさうも解したかも知れない。命名の本意といふものは、さういつ迄も記憶せられて居るもので無いからである。たゞ少なくとも猫柳の方言の中に、古代の犬言葉の保存せられて居るだけは疑ひが無い。さうして多くある名稱からネコヤナギの一つが、さも/\正しい日本語のやうに用ゐられて居るのは、言はゞ其他のものを知らなかつたといふ、つまらぬ偶然が原因をなすのである。是を退けてしまはぬまでも、もしも歴史の多いトトコヤナギなどが、心有る人々に第二の別名として認められて居たならば、彼は五音節の句に一ぱいであり、是は六音節で「てにをは」の自由を持つて居る。もう少し快活にこの初春の風物が、我々の歌誹諧の中へ入つて來て、少年の日の追懷を新たならしめたことであらう。
 
 (追記)
一、犬をケシカケルといふ動詞は標準語かも知れぬが、少なくとも東京では既製品の輸入であつた。以前ケシケシといふ犬言葉が爰に有つて、それに基づいて作つたものでは無いやうである。さういふ例は他にもある。たとへば秋田縣の平鹿郡ではキスカケルと謂つて居るが、もう犬に向つてはキスキスとは謂はぬらしく、それから北の方は津輕南部へ掛けて、ヤシカケル又はヤスカケルといふのが犬を嗾することであるが、ヤシヤシとは謂はずに、ハツショ/\、もしくはハック/\といふのが普通である。ハツショも「早くせよ」の樣式化であらうが、土地によつては又アックアックとも謂つて居る。信州の諏訪松本邊ではセシカケル、又はホシカケルといふのが「けしかける」ことなのだが、現在はホシ/\といふ人はあつても、セシ/\の方はもう絶えて居るやうである。之に對して一方では、犬を激勵するにオシオシといふ例は、九州は鹿兒島附近のオシ/\又はウス/\を南の端として、大阪附近では泉州の山村、愛知縣の一部、靜岡縣の二三の郡、その他東北にも石卷湊のオヒ/\の如く、同じ系統に屬する犬言葉は多いにも拘らず、オシカケルといふ動詞のまだ行はれで居るのは、私の知る限りでは越後の糸魚川近邊だけである。ホキカケルと(293)いふ方言は山縣縣の北村山郡、秋田縣の雄勝郡などにもあつた。そこではまだホキ/\といふ犬言葉が行はれて居るやうだが、他の地方に行くと少しづゝかはり、たとへば越後の西蒲原ではホウキ/\、隱岐島ではホウシキ/\とさへ謂つて居るから、もうそのホキカケルが通用しにくゝなつて居る。大體に中部以西の地方では、ホシ/\といふ處が最も多いかと思ふが、その割にはホシカケル又はホシカクルは少なく、私の集録にはまだ一つも出て居ない。壹岐島などでは犬言葉がホシ/\で、「嗾ける」をホシカフ、肥前の下五島はホツメカスであつて、慶長の日葡辭書のホシメカスにも連なつて居る。是から考へると、語尾にカケルを副へた複合形の動詞といふものが、流行し始めたのはさう古いことで無く、しかもホシ/\の犬言葉はもう其以前からあつたので、昔は農民が自ら鍬鎌諸道具の柄や取手を手製したやうに、言葉にも半分の地方自治を認め、煮豆や昆布卷の成品を店で賣るが如き、今日のやうな標準語の押附けは無かつたのであるまいか。犬に行け/\と謂つて聽かせることを、何々カケルといふ類の造語法は、よほどの類推を要するから、さう古くからのものでなかつたらう。之に對して擧動や物言ひを何々メクといひ、それから導いて何々メカスと能動形をこしらへる風は、可なり中世には流行したやうである。ケシカケルも古くはケシケシメカスと謂つた例があるから、とにかくに我々の取捨選擇によつて、後々斯うきまつたといふまでゝある。久留米方言考を見ると、あの地方では犬を嗾けることを、シトマカスと謂つて居た時代がある。是なども或はホシメカスよりも一つ古い形の偶然の殘留であつたかも知れず、それから推して考へると、今日のソソノカスといふ動詞なども、今では上品な人言葉にはなつて居るが、本來は犬に向つてそれ/\といふことを、ソソノクともソソノカスとも謂つて居た痕跡かも知れない。ケシカケル系統の現在の多くの動詞なども、犬に就て用ゐる場合は寧ろ少なく、大半は幾分の滑稽味を含めて、人と人との間柄に應用しようとして居るのである。
一、犬を指嗾するのにヨクシ/\といふ例は、北信ばかりで無く又甲州富士川の下流にもあるが、是はいつの頃からかの誤つたる應用で、本來は鼠を捕つた猫にケナリ/\といふのと同じに、犬の手柄を褒める言葉だつたと思ふ。江(294)戸期の花柳文學にもこのヨクシタ又はヨウシタが、目下の人に對して用ゐられて居た例を見るが、越後の田舍などでは今も子供には「有難う」の代りに、ヨクシタ又はヨウヤを謂ふ者がある。それが人間用には少し粗末になつて、家畜の方へ振向けられて居たのを、今度は更にまちがへて「けしかける」意味に使つて居るのである、或はよくしたでは無くて「よくせよ」では無いかと言ふ人があるかも知れぬが、そんな悠長な訓誡をするやうな場合で無い。語氣さへ似寄つて居れば少々は前のとちがつて居ても、同じやうに感激し昂奮するやうな聽手であつたが故に、犬言葉はこの樣に?變化し、又時としてはまちがつてしまふことさへ出來たので、是もケシケシの一つの訛りとも見られぬことは無いが、なほ效果の經驗といふことが、新語を支持する大きな力だつたのである。それと一つに説くのはひどいかも知らぬけれども、近年の外國語や粗相な飜譯語が、片ことのまゝで盛んに通用して居るのも、半分の責任は相手の素朴さに在つた。それはどういふ意味かと問ひ返すだけの勇氣を、若い人たちに付與することが、國語教育の最初の要件であらうとは思つて居る。
 
(295)  南佐久郡方言集
 
 長野縣南佐久郡の教育會では、前年東條教授の方言採集手帖が出たのを機會に、各町村の小學校が手分けをして、現存地方語の採録を企てた。是は中々骨折な事業で、完成を待つて居るとまだ/\年月がかゝるので、私は一應其手帖を借受けて之を整頓して見ることにした。大正八年刊行の南佐久郡誌にある方言でも、まだこの採集者等の耳に觸れなかつたものが若干ある。たとへば焚落しの火をクヨキリ、目分量をケコロ、酒の肴をツマリといふ類である。此地方の言葉が消滅の期に際して居ることも想像せられ、從うて是だけの語數なりとも、先づ確實にし、且つ利益を同人に頒つ必要があると信ずる次第である。
 我々が此郡の言語現象に、特別の注意を拂はうとする理由は、地圖を開いて見れば誰にでも承認せられるだらう。甲信と一口に人は言ふが、境に大きな山があつて實際の交通路は二つしか無い。その東の方の入口が所謂サクの郡なのである。サクは山間といふことであらうから、北國街道で開けた千曲川中流右岸よりも、川上の方が土着は古かつたわけであるが、しかも此大川を溯つて無形の文化は、その源頭に近くまで到達して居る。それから關東の平原に向つての交通、是も殆と南佐久の一郡が、その全部に近いものを獨占して居た。たとへば武州との直接の往來は、此郡川上村を通つたのが唯一であり、上州の南北甘樂即ち利根川水系の重要なる盆地と、山一重を以て隣して居たのも亦南佐久であつた。
 秩父に信濃石の著名なる傳説が成長した如く、佐久にも隣國の旅人は消えざる足跡を留めて居る。僅かに五百語の(296)方言集を檢して見ても、此山村が言葉の爲に、亦一個重要なる境の市場であつたことがよくわかる。これを一々に述べることは私には力及ばぬが、試みにほんの一二を拾つて、將來の言語地理研究者に、遙かなる聲援を送つて置かうと思ふ。第一に甲州との關係の最も著しいのは、蓑をケデーといふ單語で、是は全國に他には例が無くて、上州は利根吾妻の二郡にまで及んで居る。此郡を通らなければ上州甲州の一致は無いわけである。句法の中にも同縣他郡とよりも、隣縣の方と近いものが段々あるらしいが、それを述べて居ると長くなる。次に東京の方との一致が心付かれるのは、シ・ヒの轉音の普通なことである。是も信州の他の部分には、無いことのやうに思ふが如何であらうか。次に群馬縣との方言貿易は、之に比べるともつと大きかつた。就中農作物や食物の名に、郡内の變化が多くて、半分は關東のものが交つて居るのは、其輸入の經路とどうしても無關係で無い。大角豆《さゝげ》のフロウと豌豆のブンドウとは、語原は一つであつたものと私などは思つて居るが、それが東西からこゝに寄つて來て、竝んで活きて居るのは興味がある。音韻の側からいふと錢をゼギ、釘をクニといふ類の轉音例は、栃木縣などにも折々あるから、東の方からの影響であらう。次に新潟縣との關係の見られるのは、是も音韻ではウ列オ列の轉換で、他の一端は能登の鼻にも及び、此方の端は本郡に盡きて居るかと思ふ。單語に於ては棟上げのゴーチモチ、是は佐渡越後のゴチヨーと關係があり、多分は調製した食物を人に贈ること、即ち午餉といふ新語のなれの果である。それが又今日のゴチソーの元にもなつて居るかと思ふ。注意して居ると甲信地方の「御馳走さま」は、感じが少しばかり我々のと違つて居る。
 最後に信州が信州自身として、久しく持傳へた言葉にも心の留まるものが多い。可愛い愛らしいを意味するツボイといふ語は、足利時代の山伏の舞にもあるといふことを、前代の學者が既に説いて居るが、それが千曲川の岸に活きて居たことは、彼等はまだ恐らく知らなかつた。それから否定命令形ナナ言ッソの類、或は前部を取り或は後部が壞れて、信州に殘つて居ることは顯著なる現象であるが、南佐久の入りにも忠實に之を保存してある。此語法の存留區域は、幽かには太平洋岸の富士川下流まで認められるやうだが、長野縣の如く一般的且つ濃厚では無いのである。さ(297)うしてこの存留の法則ともいふべきものは、まだ何人にも説明せられて居らぬのだから、少なくとも本集の世上に提出した議案は新しいと言はねばならぬ。
 方言の小區域内に於ける異同變化といふことも、日本では誠に興味ある問題であつて、南佐久郡の如く町村別に採集した手帖は、其爲にも貴重なる資料であるが、それは尚一段と綿密なる捜査をしてからでないと、實は十分の利用が望めない。それ故に爰にはたゞ是を郡單位の事實として掲げ、特に其分布の限地的だらうと思ふものを、×符を附して區別して置いた。表記法の僅かづゝの相違は、必ずしも別語を以て目すべきもので無からうが、成るべく其多くを列記することにした。さうして括弧内のものばかりが、同義別語であつて此郡内に併存して居るのである。尚編輯の際に生じたる誤謬も、若干は有ることゝ思ふ。土地の人たちの追補訂正を待つて、行く/\はもう少し完全に近いものにしたいのが、私の切なる念願である。
 
(298)  更級郡方言集
 
 明治二十四年の七月、長野縣書記官小野田元煕氏は、縣下各郡長に照會?を發して、管内方言の取調方を命じた。郡では更に又其旨を各町村に移牒し、その個々の報告を整理して、之を郡の方言として同答したやうである。他の一帶十五郡に於ても、必ず同樣の事實は有つたと思ふが、其記録の存否を確かめることがまだ出來ない。獨りこの更級の一郡のみに於て、最近偶然にその當時の往復文書の一括したものが、保存せられてあつたことを知り得たのである。郡の行政中心が無くなつてから、早既に六七年になる。今後は斯ういふ機會が愈稀になることゝ思ふ。この書類の發見は、たゞに四十年の歳月が地方語の上に與へたる影響を尋ねる資料といふに止まらず、尚一段と根本的に、以前此地方の人々が抱いて居た方言なるものゝ概念が、如何に素朴であり又皮相的であつたかを示すものであつた。是がもし國内文化の一般の水準を下るもので無いとしたら、我々は省みてそれから今日までの顯著なる進展に自得する前に、先づ以て國語を今日の衰?に持來たしたる原因の、遠く且つ廣汎であつたことを歎かなければならぬ。それで此資料をやゝ利用し易い形に書き改めるに際して、二三自分の心付いた點を録し、今後の採集者の參考に供したいと思ふのである。
 第一に長野縣が、何の爲に方言を集めて見る氣になつたのか。それが全然明かで無い。今日もまだ殘つて居る教育會の方言撲滅運動は、此頃はまだ始まつて居なかつたのである。小野田書記官の照會?なるものには、單に「知事官房ニ於テ管内ノ万言入用有之候ニ付」とあるのみで、當時は既に地理局の事業も中止になつた後であるから、是が中(299)央政府の統一ある計畫に出でたものとも思はれない。最も善意に解して誰か有力なる學者の、個人的指唆を受けたものとも解せられるが、少なくとも其趣旨は郡以下には通じて居らず、只その權限ある者の命令に服して、何だか知らぬが書いて差出さなければならぬのださうだといふに過ぎなかつたことは、かの「のうせんかつらの皮」の昔話も同じであつた。是はこの時代としては少しでも珍らしい現象では無かつたが、其爲に最初豫期した樣な結果は得られないことになつて居る。面白いことには「方言」とは何かといふ説明が、何れの文書にも一言も觸れて居ないので、土地によつては丸つきり注文に合はぬものを、是ですかと言つてさし出して居る。其上に期間が驚くほど短かゝつた。七月の三日に郡が命令を受けて、即日に之を町村に移牒するのに、日限を同月十五日迄と指定して居る。三四の町村のやゝ遲滞したものがあつたのを、二十四日には督促して全部出揃はせたのであつたが、其一日前の二十三日には、もう縣に對する答申案は成り、格別追加も無くて月末に發送してしまつて居るのである。今日保存せられて居る他の地方の方言集にも、或は斯ういふ無造作極まるものが有るかも知れない。その心細い内情が、爰では明白に窺ひ知られるのである。
 第二にこの調査の失敗であつたらうかと思ふのは、採集の範圍を上の方から限定してかゝつたことである。この長野縣廳の照會?には、明治十九年地理局輯録の安房國方言といふものを、參考の爲に謄寫版にして添附し、是に照準して遺漏無く取調べよと謂つたのは無理な話であつた。この安房方言は後に内務省で刊行した安房志に載せられたものと同じらしいが、是既に可なりの遺漏があり、又その分類も決して自然なものでなかつた。更級郡の各町村では之を見たが爲に、此中にある單語の異同のみを録して、其他は書上げるに及ばぬものと心得たり、甚だしきは左樣な方言は無いといふだけを言明したりして居る。調査の趣旨をほゞ理解して、類を同じくする我土地の特殊用語を、増補しようとしたものは、二十八個町村の三分の一も無かつた。其上に當時は標準語の知識がまだ今ほどは普及せず、安房の方言集は又近頃のやうな對譯主義で無かつた故に、往々其説明の文字を誤解して、間違つた語を以て充てた例も(300)有る樣子である。たとへば全國的なる農業用語カリシキ(苅敷)又はカッチキといふ語を、安房では地方獨特のK子音脱落によつてカッチイと謂つた。それをカッチと録して其註に、肥料苅草などゝ書いて居る爲に、更級の或村では之をヒクサ(乾草)と報じたものがあつた。乾草どころか是は最も青々としたものを、苅込んですぐに水田に踏込む草である。但し毎年の苅敷ぐらゐは農民ならば直ぐにその誤解に心づくが、無形の事物や行爲を表はす語だと、之をいゝ加減に解する人には、到底採集者の資格は無かつたわけである。だから調査の期日が急迫に過ぎて居たと同樣に、この設問の方法も亦甚だしく當を得なかつた。たゞ僅かに反面の利益として認められるのは、酒をキスと謂ひ飯米をケシネといふが如き、都府には全く無い語が安房と更級と、數十里を隔てゝ併存することが判つたといふ點で、心有る者ならば之に由つて、方言研究の興味を抱くことを得たらうと思ふが、是にも亦つい釣込まれて、微細なる變化差別を無視するといふ危險は、警戒する必要が大いにあつたのである。
 村々の報告書を一覽すると、その半以上はほんの義理一遍に、少量の單語を陳列して居るに對して、他には又オヂーサマ・オパーサマの如き、知れ切つたものゝ多くを掲げたものもある。しかも其表音法は區々であつた。郡が精確に町村から得たものを、其まゝ傳達し得なかつたのは當然といふべきである。併しそれにしたところが郡の役人は採集者でも無いのに、其取捨が餘りにも自由であつた。回答書の端には「追テ本件ハ郡下各地ノ方言ヲ集メタルモノニシテ、歴擧の方言悉ク都下一般ニ通ズル義ニハ無之、此段申添候也」とあつて、是は誠に親切な注意と思ふが、さう言つて見たところで、是が更級郡内何れの一區劃の方言集でも無くなつて居るといふ缺點は補ひ得ない。即ち地方語各現象の聯絡によつて、互ひに解説し得るといふ希望だけは絶えて居るのである。是は此郡の如く袋の如き山地と、交通絡繹たる低地帶とを括り合せ、しかも其中央を大川によつて截斷して居るやうな地方で、尚一郡を區域として方言の調査を爲し、一つの報告書を出して濟まして居るのがよいかどうかの、今日の問題でもあるのであつた。虎杖や蟻地獄の採集で見るやうに、單語は時として一つの村内でも、なほ部落毎に異なる例さへある。方言集を純一なる個(301)體の如く見ようとするには、結局は家別人別の記録でも作らなければならぬことになるが、さう迄することは不可能な話であらう。唯我々は一個偶然に耳に留まつた言語と、その最初の説明とを以て、何か或大きな事實を代表するものゝ如く信じ込みさへしなければよいのである。さうして一方には縣郡の力で之を企てるならば、必ず周到精緻のものが得られるといふ風な、自惚な考を戒めて居ればよいのである。
 更級郡方言集の一つの大いなる恩惠は、その稍露骨に過ぎたる不條理を以て、在來類似の事業の價値を正直に例示し、同時に現在尚行はれつゝある方法に向つて、無意識の警策を打下して居る點に在る。さうして其内容に於ても、必ずしも其不備を隱さぬが故に、却つて注意深い利用を勸めて居る結果になるのである。本誌前號に伊波普猷君は、現今の方言研究者が文獻を偏重し、實地に就て調査せぬのを非難するらしい口吻を洩して居られるが、其趣旨はよもや單なる實地の調査主義のみによつて、方言の研究が達成せられ得るといふのではあるまい。伊波君がもしも首里那覇現代語の解説の外に出で、我々御互ひが生地居住地の方言を説くのと同じ程度に、どうして又斯んな現象があるかを考へて見ようとせらるれば、否でも應でもすべて文獻の力を仰がねばならぬ。前代の言語を知るには、實地に出かけて行くことの出來ぬは勿論、現在隣の島のことだつても、早誰かの書いたものを見なければならぬ。さうして比較をして見ない限りは、知つたと思つて居る我土語の解説すら、尚時には誤りに陷るかも知れぬのである。今日の所謂文獻は如何にも難物で、斯んなものばかり只豐富でも、役には立たぬことは確かであらう。我々は努力して是を精確にし、今後は出來るだけ着實で又良い耳を持つた人に、根氣よく採集してもらふ樣にしなければならず、一方には又音聲學協會などの活躍によつて、周到にしてしかも簡便なる表音法を決定普及してもらふ必要はあるが、その身仕度が整うてしまふまで、研究を見合せて待つて居るとなると、それはよい口實にはならうが、學問の上にはやはり一種の惰眠のくり返しである。問題を出せばこそ方言は注意せられる。調べて斯ういふ疑問が解けるとわかつてこそ、我々の採集は張合ひがあることになる。今日の方言研究が不完全なる資料を使ふことは、不完全な資料しか無いからで(302)ある。是でも結構だと思つて居る人がもしあるなら、それは文獻の偏重では無くて偏輕である。我々は偏重してもよいやうな採集記録が、どし/\と現はれて來る迄の間、假に今ある資料によつて暗示を得、それを手掛りにして又地方の再調を慫慂しようとして居るので、稀にはこの更級郡方言集のやうな一地たゞ一つの資料の中からでも、新たな有力な事實を心づき得ることもあらうが、先づ安全の爲には少なくとも二つ以上、別人別時の記述の一致するを待つて、それを證據として援用することを心がけて居る。是をしも文獻偏重と目し、他にも何か今少し優れた研究の方法が存するかの如き感を、人に與へたとすればそれは伊波氏の本意で無からう。
 今日までの數百種の方言集に、大か小か必ず附纏うて居る弊害が二つ以上ある。其一つは採集者が標準語の知識に乏しい爲に、餘計な語までを拾ひ集めて只記録を煩雜にし、意義ある事實の印象を薄くして居ることである。是は國語史上の問題が何であるかを、次々明確にすることによつて改良し得られると思ふ。第二にはたま/\耳に入つた或一部の語彙によつて、弘い區域の傾向を代表せしめようとすることである。此方は今後も續くかも知れないから、利用者の側でも其積りになり、又警戒するの他は無い。今から四十年も前としては、更級郡の事業は奇特千萬であつたが、尚この二つの弊は眼に餘るまで現はれて居る。それ故に私は、この郡役所の素人たちが、机の上で整理した報告書は其まゝ採用せずに、幸ひに是と共に保存せられてゐた村々の書類の、幾分か忍び易い區々の記述を抄出して見たのである。村によつて語數の多少がある故に、掲げて無いからとて其方言が無かつたとは言はれぬが、先づ用心をして數個所以上に共通のもののみを郡の方言と稱し、一二の町村にしか採録せられて居らぬものは、試みに其使用地名を下段に記入して置いた。一つの言葉の解説の區々なるものも、幾らも無かつたから此序に分けて見た。小池直太郎君始め、此郡の同志の再檢を望むや切である。
 
(303)  石見方言集
 
 石見は今日まで方言採録の最も乏しかつた地方の一である。郷語改善會の島根縣下訛音方言一覽に使用地を録し、又は川崎甫氏の中國方言彙に、たゞ石見とのみ注記した各語を見ると、國中大體に同じ言葉が行はれて居るやうな感じがするが、事實は地形と交通事情の然らしむる所、各郡は素より、同じ邑智鹿足等の一箇都に於てさへも、可なり顯著なる差別が氣づかれるといふことを聞いて居る。本編の採集者千代延氏は、那賀郡海岸部の住人であるから、此集は或は石見那賀郡方言集と題した方がよかつたものかと思ふが、同氏の素志は其調査を石見一圓に及ぼすに在るらしく、又他の區域の石見出身者が、其語は無い、我郷土では斯くいふと注意せられる爲にも、寧ろ此見出しを掲ぐるを便なりと考へる。石州の同志諸君は、どうか之に由つて五六語でも、はた一二句でも、安全に諸君の記憶に存するものを報じて、今一段と此蒐集を完備せられたい。方言排列の方法に就ては、現在の五十音順以外に、まだ何等かの改良が有りさうに思はれる。それで私はこの抄録に際して、試みに動詞形容詞等の、地方差が微弱であつて、郷土人の感覺と表出法に依頼すること多きものを先きにし、音聲の變化のたゞ單に第二次の實地討査を手引きするに過ぎぬものを、分類して終りに置くことにして見たが、勿論是はたゞ一つの試みである。併せて此點にも利用者の批判と訂正とを期待して止まざる者である。
 
 (追記)
(304)一、この千代延尚壽氏の方言集に引つゞいて、石田春昭氏の「石見山間部方言」が、同じ年の同じ月に刊行せられて居る。是も那賀郡の調査ではあるが、海から遠い村方だけに、前者と比べて若干の差異があるらしく思はれる。篠原實氏の「鹿足郡方言の研究」が、それから暫くして公けにせられ、更に數年後には森脇太一氏の邑智郡誌といふ大著述が成つて、それにもやゝ多量の方言が採録せられた。この二郡などは、石見國の兩端を爲し、地勢も交通も歴史も皆ちがつて居る。外からは一團と見なされやすい一地方の言語にも、詳しく見るとそれ/”\の特性があるのだといふことを知るには、非常に都合のよい三郡の採集が出揃つて居るのである。今や石州は既に未知の地域では無くなつた。たゞ是を整理して新らしい國語學の用に立てようとする人が、出現しないのを憾むばかりである。
 
(305)  長門方言集
 
 長門方言集の讀者の大部分は、既に著者重本翁の人となりを、私などよりも詳しく知つて居られることであらうが、私は此書物の永く世に傳はり、又弘く山口縣外の學徒にも、利用せられんことを期待する者である故に、主として其方面の人々の爲に、紹介の役を勤める。民間傳承の會といふ我々の全國的團體に於ては、翁は最年長者であり、しかも最も精鋭なる新進の闘士である。名利を講學の埒の外に突放し、目標を同胞の啓發に見定めた其態度は、我々に取つても此上無く有難い好い手本だと思つて居る。一つには長命の御蔭、又一つには家庭一門に、敬虔なる支援者が充ち溢れて居た爲とはいひながら、我翁天稟の氣魄にも尚たしかに超凡のものがあつた。前にも郷土の教育家として、人間一通り以上の任務を滿足に果して置いてから、更に安養を人生研鑽の間に求め、悦樂を新興學問の中に見出さうとする、斯んな根氣のよい智識人が他にもまた有らうか。とにかくに御國の文化再建の爲に、是は寔に心強い實例と言はなければならぬ。
 昭和十一年の秋の或日、始めて重本翁に山口の圖書館で御目にかゝつた時には、翁にはもう豐東村史二卷の大著があつた。村の家々の成立ちと盛衰とを、軒毎に記述した特色ある村誌ではあるが、それが既に何人かゞ私費を擲たなければ、刊行し得なかつた筈の書物と見られた。その上に翁はなぼ厖大なる十數册の稿本の、口碑民謠俚諺童戯、さては祭儀や年中行事等、あらゆる村内の傳承を分類し採録したものを、抱へて來て示されたのである。私は之を繙き看て感歎し、且慨然として斯ういふ批評をした。人間生の力を傾けて未知を知とするが爲に働くのも、畢竟する所は(306)涓滴を社會に寄與するに在る。今この稿の如きは辛苦は則ち無限であるが、僅かに一本を家に留むるを幸ひとするのみで、寫して學校なり役場なりに、保存するだけでもさう容易には望まれない。何故に貴翁はその努力の片端を割いて、是をもう少し多數が利益を受けやすい形に、整理し且つ公表することを考へられぬのかと言つて、最初には先づ方言集の報告などが、殊に遠近の同學の關心を、引寄せるに適しては居ないかといふことを説いて見た。方言は我重本翁に取つては、夙く是だけの大きな採集をする爲の武器でもあれば又準備階段でもあつた。自身其中に生れ活き、方言は即ち亦翁そのものゝ實在なのである。標準語教育の普及以來、若い人たちはもう使はず、又は忘れて居て辛うじて思ひ出す言葉は多くなつたが、翁はまだそれを用ゐ又それで物を考へて居る。故に一たび之を集録して散佚を防ぎ、同時に村民の多數に前代を回想するの資を供しようとすれば、效果は適切であつて其勞は寧ろ大いに輕く、比年ならずして能く是だけの周到なるものを、世に送ることを得たのである。察するに是が好箇の三番叟となつて、翁の一族同情者たちは次々に各部の採集記録を、讀み易く又買ひ易い形を以て全國に供給することを、まことに張合ひのある公共事業と考へるやうになるであらうし、一方には山口全縣に於ても、是を方言資料の第一輯として、將來無數の續刊を催促せられるやうな、光榮ある立場に置かれることになることゝ思ふ。今までの郷土研究は、甚だしく好事門を出でずの嫌ひがあつた。領分隣の人たちは互ひにけちを付け、又は競爭するだけの關心すらもたず、よく/\の物好きでなければ有るといふことも知らずに、其成果を再度の埋没に委ねて省みなかつたのである。我徒終生の念願たる地方學の綜合が、是によつてやゝ實現の端緒を見つけ得たとすれば、全く無禮なる私の差出口も、測らずして善意の反應を擧げたことになり、この樣な嬉しいことは無いのである。
 そこで此序を以て山口縣の方言に就き、私の心づいて居る二三の點を附記するならば、この縣は古來交通の要衝であるにも拘らず、言語變遷の事實のまだ甚だ明かでない地方に屬する。良いとか惡いとかは個人の判斷だからあてにもなるまいが、とにかく一卷の方言集もまだ公けにされて居らぬ縣といへば、山口の外にはもうさう多くは無いので(307)ある。我々がこの方面の知識を捜らうとするには、最初には「防長史學」に連載せられた、南北三都市の方言比較を參考にするの他は無い。是も細かく見て居ると異同の大體はわかるが、何分にも課題に對しての答を集めたものなるが故に、重本氏の採録に見るやうな、對譯標準語の得にくいものが皆落ちて居る。それでも周防の方には某女學校の生徒報告、及び石山但信・宮本常一の二君の如く、島々の語を書き上げたものが若干あるが、長門と來ては阿武豐浦二郡の調査書に、僅かばかり集めてあるのを見るのみで、其他は個別に旅人の手帳の端、それをもてはやした風俗畫報の類をあさるの他は無く、しかも下(ノ)關などの港場は、もはや旅客が方言を採集し得る土地ではないのである。私は今から三十年も前に、豐後の田舍を横斷して還る折があつて、此地方一帶の語彙語調が、嶺を隔てた他の九州の村々とは變り、ひどく自分などの生れた中國東部と、近くなつて居るのに氣がついた。中世大内氏の文化力などを計算に入れずとも、とにかくに水ならばこつちが上流だから、往還に運んで行くものゝ上の方に多く、下から溯るものゝ少ないのも當然のやうに考へた。ところが近年に入つて長門の西部海岸、殊に角《つの》島|蓋井《ふたゐ》島等の旅行談を聽くと、何だか其反對に筑前から移つたらうかと思ふものが、習俗にも言語にも多いかの如く感じられたのである。素より是はたゞ感じといふのみで、何れも確實なる事實ではないが、私の謂ふ所の方言の邊界現象は、特に斯ういふ交通の大幹線に接して、之を明かにする必要の一段と切なることは疑ひが無い。
 漠然とした私の推測は、果して當つて居たのかどうか。それを確かめて見る機會が今度は來たのである。音韻組織や抑揚は往つて聽かなければ、片假名だけでは到底判るわけが無く、單語とても編者の第一次の記憶だけによつて、計算を立てることは危險かも知らぬが、先づ此集ほどの數量が備はれば、大體の傾向ぐらゐは説く事を許されるだらう。斯うして見るとやはり中國の大部分とは共通で、對岸には多分無からうと思はれる言葉が、最も多いといふことを認めざるを得ないのである。私は今ある山陽線の有年《うね》の隧道が、可なりの隔絶であるやうに昔から思つて居た。我々播磨中部の住民は、備前衆の言葉を關東辯と同じ程度に珍らしがり、未だ曾て同類方言の、末で分れたものとは考(308)へて居なかつた。ところがそこからまだ幾つかの大小藩領を通り越して、長州の端に行つてもなほ行はるゝ單語には、私たちが幼年の頃盛んに使つて、此頃はもう忘れかけて居たものが大分ある。列記も出來ないがホロセといふ語などは、東京では之をホロシと謂つて僅かな人が使ふだけだが、蚤蚊の多かつた爲か我々は最も早く之を學んで居る。ホウケはホケとも又ホケシともいふ子があつて、初冬になると殊に思ひ出すことが多いが、人の口から出る温い息のことで、子供は是に一種の呪力をさへ認めて居た。九州にもあるか知らぬが餘り報告せられず、京都以東でも耳にすることが無いやうである。それから動詞ではテグ、私たちは小川の石の下に潜む魚を、他の一石を打付けて殺す場合にばかり使つて居たが、足の指をテイダなどゝもいふから、碎くといふ語にやゝ近い語感をもつもので、標準語には之に當る語は無い。ジルイといふ形容詞も限地的で、東京ではたゞ路がわるいといふのみであるが、是も私たちに交渉の深い忘れ難い語で、それがちやんと又長門までは行つて居るのである。何故をナヒテ又はナヒタ、さうしてをヘテ又はヘタラといふやうな列記を見ると、打付けに昔の故郷に還つたやうな氣もする。私たち播州の兒童も、やはりこのヘタラとナヒテとの連續の中に、やゝ理窟つぽく養育せられたのである。見サンセ・來サンセは私等の小兒期まで、なほ盛んに行はれて居る女房言葉であつた。男にとつては此程度の敬語を要する場合が少なかつた爲であらう。それが東京へ來ると良家の母までが見サッシャイといふ。此方が古形に近いかと思ひながらも、なほ是一つでも關東語はいかついといふ、印象を受けずには居られなかつた。それからもう一つ甲の言葉を丙に傳へる場合に、東京でいふ……ダサウナは何となく無責任なやうな感が今でもする。それで私たちもどうかすると、まだ時々は來んトイナ・有つたトイナの崩れ形を使つて居ることがある。斯ういふ中古の表現が長門にも、まだ殘つて居るといふのはなつかしいことだ。
 次には播州まで來るともう稀になる單語で、弘く山陰山陽の各地で使ふものが、長門にもあるといふ例は亦多いかと思ふ。たとへば下さいをツカァサイといふなどは、實は三備地方だけの特徴のやうに思つて居たが、長州でもさう(309)謂つて居ることが今度明かになつた。名詞では川楊の若芽をトトコといふなどが、この區域には普通であつて、他にはごく飛び/\にしかない。サバルといふ動詞はサワルとも又少しちがつて、可なり便利によく使はれる言葉だが、この二つの語の差別を呑込んで居る者は、多分中國地方のやゝ西に偏つて、住んで居る人々だけであらう。あんまり竝べ立てるのも煩はしい話であるが、爰でもう一つだけ擧げて見たいのは、魚賣りの女をカネリといふ單語である。この方言は岡山廣島二縣の境あたりに起り、瀬戸内海沿海は概ねカネリ、阿武大津へ行くとたしかカベリである。重本翁の方言集は恰かも兩間に在つて、カネリの解説には「桶を頭にカベル女」と謂ひ、別に又たび/\離縁せられて來る女を、皿カベリといふ珍らしい語も録せられて居る。下(ノ)關附近に行くとイタダキといふ名もよく通ずるらしいが、是は對岸即ち北九州の一角、四國北岸の所々の漁師部落、及び加賀や越後の數箇處に行はれて居る。意味はカネリと同じで又一つの古い形ではないかと思ふ。カネル・カベルは無論カブルの分化だが、誤つてカベルと謂ふとまでは我々には考へられない。しかも九州も南の方へ行くと、頭に戴くことをカンメルといふ動詞があり、それから生れたカンメ帽子といふ名さへあるが、賣り女そのものをカメリとは謂つて居らぬ。即ちこの一語こそは大體に中國の土地産であり、他から運び入れ又は眞似したもので無いとまでは言へるが、その發祥地が果して長州やら、但しはもう少し東の方やら、今日ではまだ斷定することが出來ぬのである。
 通例方言集を編み又は利用する者の陷り易い過失は、土地と一つ/\の言葉を結び付け過ぎることである。私たちの知る限りでは、或地方でしか聽かれない方言などゝいふものは、絶無でもあるまいが數は至つて少なく、たゞ目に立つことは隣と比べて、何か事情があつて用ゐ方がずつと多いといふ場合に、うつかり爰ばかりかと思ふ者があるだけである。防長の方言表を見わたして、始めて出くはしたと私の言ひ得るものは、たとへば「しゆんきく」をローマといふ異國ぶりなどであるが、是とても小野蘭山の啓蒙を見ると、以前は近江その他の遠國にも同じ名があつた。それを忘れずにこゝばかりで續けて居るのは、單にこの疏菜の愛用が他と比べて稍盛んであつたことを、意味するに(310)留まるかと思ふ。我々が知つて居りたいと念願するのは、斯ういふ意表に出る少量の珍語では無くて、寧ろ土地毎にかはつて居る語の組合せと調和である。手近な例をいふと本集が附録として載せられた、阿武郡奈古村の語彙を見るのに、是が本集の一般のものとちがふ點は、大體により多く上方と似て居るといふことに在るかと思ふ。村の所在がさほど隔たつて居らぬ以上は、是は少なくとも九州の方から、移つて來た住民でないといふことになり、或は今一歩を進めて、比較的新らしく東の方から入つた者の建設した村と、見ることが出來ようかも知れぬ。長州が本土の西南端であるが爲に、西南から受けた感化といふものもあるのは當り前だが、是が單なる交通のもたらす所であるか、或は又移住者が携帶して、身を離さなかつたものであるかは、個々の言葉について見分ける方法が、いくらも有るものと私は信じて居る。例を又本集の中から拾つて見ると、谷川の流れを利用した自動米舂き機をサコンタといふのは、「サコン太郎」の下略に相違ないが、是は小さな山あひをサコと呼び、ノの連續使用に母音を脱落する慣例のある地でないと生れない語である。しかも命名の意圖に技巧がある故に、悦んで人の採用した所であつたらう。おくれて斯ういふ水がら臼の装置を試みたといふ證據にはなつても、この語を使ふから九州から來たといふことは出來ないであらう。次に耳のス・鼻のスなどゝ、穴をスといふことは九州には非常に盛んであつて、こゝから東へ行くともう殆と聽くことが無い。私などの想像では、是は大根や牛蒡にスが立つといふスを、やゝ不當に擴張した新語で、動機は最初から人ををかしがらせるに在つた、言はゞ流行語だつたから、學ぶのに手數はいらなかつたのである。たゞ至つて生眞面目な者までが之を採用して、終に元からあつた穴といふ語を廢したのには、別に簡便とか明晰とかいふ單語そのものゝ價値を、考へて見なければならぬだけである。最近東京でもよく/\經驗して居るが、個々の言葉にはそれ/”\の傳播力とも名づくべきものがあつて、一方には風が吹いても飛んで來るほど、手輕に移植の出來るものがあるかと思ふと、他の一方には境を接して、互に異なることを知りながらも、平氣でいつ迄も統一しようとせぬ場合もある。だから地方語の系統を考へようとするには、やはり如何なる點に於て共通して居るかといふことを、見分ける必(311)要があると思ふ。
 重本氏の方言集を見て居て氣がついたのは、唾液をツヅといふ九州語が爰にもあることで、是は私には隣の周防は勿論、長門も全部の郡でさういふのでは無さゝうに考へられる。唾の日本語は古くはツであつた。あまり簡短で聽取りにくいので、近畿中國四國等では夙くからツワ又はツバ、別に東國ではツバキと謂ふ語があつて、この方が標準語になりかゝつて居る。獨り九州の人々だけが、唇のツバと紛れるのを嫌つてか、いつまでもツヅ又はツウヅと謂つて居るのである。是が海峽を渡つて長門にも及んで居るのは意外であつた。停車場の唾壺の假名文字でも明かな如く、是ばかりは東西二つの語が對立して互ひに讓らない、從つてツヅがもしも古くからの豐浦地方の方言だとすると、此一つの單語の領域だけは、どこか中國のやゝ西寄りに、境線が劃せられることになるのである。それからもう一つは玉蜀黍をトウキビといふ名詞、是は近世に入つて來た作物だから、到る處で勝手な名をつけてもよいわけだが、やはり唐黍と謂つて通ずるのは九州のほゞ全土と、一方は栃木縣から東北へかけての廣い地方で、その中間各地ではトウモロコシ・ナンバントウノキビ等の長たらしい名を用ゐて居る。それは別に今一種のトウキビもしくはモロコシキビといふものが既に有つて、まちがへられては困るからさう謂つて區別を明かにしたのである。中國地方の玉蜀黍は、近畿四國も共に、大體にナンバを以て通じて居る。それが西に下ると元の南蠻の意味が不明になつてか、ナンマンキビ又はマンマンキビとなり、日本海岸は多くはマンマンキビで、北の方から來るマメキビといふ方言と、入り交つてしまふやうである。その中國の一角に孤立して、こゝばかりはトウキビが玉蜀黍のことだとすると、是などは疑ひなく對岸の影響であつて、或はこの新種作物の傳來が、幾分錯綜した經路を取つたといふ、隱れた歴史を語るものかも知れぬ。
 序文らしくも無く長くなつて相すまぬが、私は必ずしも自分一人の興味からで無く、弘く方言の事實を以て郷土の史料とする人々の爲に、實は次のやうなことが言ひたかつたのである。言語の地方的特徴を明かにしようとするには、(312)一郡を區域としでも時としては廣きに失する。それは日本人同志のことだから、遠くに離れて居ても似た點は捜せば有らうし、同じ長州ならば大部分は共通かも知れぬが、假に今いふ如く甲の地には必ず存し、乙の土地では一向に耳にせぬといふものが、十でも五つでもありさうだとすると、「長門方言集」ではそれを覆ひ盡されぬ危險があり、又必ずしもさう名のるべき必要もない。重本翁の蒐集には、わかり切つた同種の訛りを竝べ立てゝ、徒らに語數を多く見せかけようとするやうな企ても無く、湛念に多數の生活用語を捜し集め、しかも自身の經驗に活きて居る古風な表現を網羅して居る。是が長州一國の方言であるといふことも、恐らくは亦自然なる自信であらうが、なほ今まで往來せられなかつた村里の隅々には、斯ういふ言葉は使はず、もしくは全く別な言ひ方を知つて居るといふ男女が、若干居るといふだけは認められなければなるまい。故に許さるゝならば私は是を第一長門方言集と解し、次々他の豐浦以外の各郡でも、自分の居村を中心として、第二第三の同名の書を編する篤志者の出て來ることを期待したい。努めて倦むを知らぬ重本翁のことだから、或は自身でもこの續編を企てられるかも知れぬが、少なくとも今後の方言集に於て、何度も無用の重複をくり返させず、郷人合同の力を、必要なる追加補充と意譯の改訂とだけに傾注せしめる爲には、寧ろ斯ういふ少し廣汎なる題名を、付與して置いた方がよいとも言はれぬことは無い。
 
(313)  土佐の方言
 
 土井夫人の仙臺方言集は、今でも記念すべき好著であるが、將來もし私たちの想像して居る樣に、國語の學問がその考察の親切と、感覺の精緻とを要するの故を以て、次第に女性の管掌に歸屬すべきものだとすれば、是が大昔の呉織漢織の功績と、日を同じくして談られる時が來るかも知れない。それはなほ未定の事であるにしても、少なくとも今度約二十年の月日を隔てゝ、更に第二の「土佐の方言」が、同じ手によつて集成せられたといふ事實は、立戻つて以前の勞作の意義を深め、あれがたゞ偶然の筆のすさびで無かつたことを認めしめる。必ずしも着眼の衆に先んじたといふだけではない。限りある一生の力を分つて、二地の言語現象に周到なる觀測を試みるといふことは、男子には寧ろ望み難い事業である。假に夫人の尋常で無い境涯のみが是を許したとしても、我々はなほ其因縁を讃歎しなければならぬ。ましてや是は努力であり、又女らしい執心の結晶でもあつたのである。
 仙臺方言集は、それが世に公けにせられた當座、私はやゝ遠慮の無い批評をして居る。本を貸し失うて居るからもう一度その當否を檢することも出來ぬが、今でも記憶して居る一つの不滿は、少しばかり同情が足らぬやうに感じられた點であつた。私は仙臺に多くの知友をもち、殊に夫人の最も大切な人を知つて居る。私たちの兄事して居た頃の土井晩翠君は、その風貌が既に若き詩人であり、又餘韻のある佳い聲をもつて居た。それが丹花の如き唇を開いて、高くあやつゝて居た仙臺辯には、確かに無邪氣なる自得があつた。大きな御城下の良い家柄に、育つた人ならば當り前の、或一種の自己信頼が感じられたのである。白河以北の廣漠たる天地に在つては、今でも仙臺は決して田舍では(314)ない。よその言葉を聽いて笑ふ權利、我を手本として望むならば矯正してやらうといふ好意ぐらゐは、持つて居たとても少しも不思議は無い。是でよいのだといふ安堵は歴世の遺産であつて、その御蔭を以て言葉は齒切れがよく、左顧右眄の跡がもとは無かつたのである。それが少しも夫人の編したまふ方言集に、反映して居ないといふことは物足らなかつた。風俗畫報などに出て居た旅客の手記、或は方言で詠んだ狂歌の類にこそ、斯ういふ採集は?あるが、是では解説が屆かぬか對譯が略に過ぎるか、とにかく感情的に精確とは言へないと、其當時は正直にさう思つたのであつた。しかし翻つて考へて見ると、知欲の特に旺んな、世相の分析に相應な練習を積んだ男でも、身に近い人々の言動は寧ろ觀測を逸して居る。醫者が我兒の病の診斷を他に頼む樣に、紺屋の白袴の諺も古くあつた樣に、棚へ學者が自分の事を上げて置くのも、弱點ながら或程度までは寛容せられて居る。嫁いで間も無い土井家の若御寮人が、耳をそばだてゝ筆に留められた仙臺方言が、主として路次の人通り市場の聲、臺所や次の間に來る者の物言ひに限られて居たとしても、さう/\やかましく責めるのは無理だつたかも知れない。其上に今一つ、當時は改造新國家の統一主義が、圭として普通教育の部面に働きかけ、その中でも特に反撥の力の乏しさうな、口語同化の易行門に向つて、まだその腕力を振りまはして居た時代のことでもあつた。東北地方人の西南敬重は、高千穗以來の常勢と名づけてもよかつた。秋田と山形との或田舍では、縣の役人のまじめな智慮に基づいて、土佐から若干の小學教師を、言葉を直す爲に招聘したといふ話も聞いて居る。その感化がどう働いたかは明かで無いけれども、土佐はとにかくにジとヂとを言ひ分ける等の二三の長處によつて、一時はメナンカバウの馬來語と同等な、外部の信望を博して居た國である。さういふ時の風潮が勿論無意識に、且つ暗々裡に影響を與へて、女史の觀照の一部を左右して居たとしても、それも亦至つて自然であり、且つ大抵の場合には願はしい感受性だとも言ひ得る。今度の「土佐の方言」もまだ熟讀して見ないが、必ず又昭和十年にふさはしい新たなる眉目を以て、學界に見えることであらうと思ふ。あれから後の二十年は、目ざましい進化の二十年であつたからである。國語の現實が樞要なる人生の知識として迎へられ、是をたゞ單な(315)る好奇の話柄としてもてはやす者は、もはやどこの隅つこにも殘つて居ない時世になつて居るからである。
 そこで改めてこの二つの記念すべき方言集が、試みに前後その順序を替へて世に出たならば、どうであつたらうかと考へて見ざるを得ない。「土佐の方言」の方は必ずしも早く採録せられたが爲に、是よりも更に精確に且つ周到であつたらうとも思はれない。寧ろ若干の他郷の生活を中に置いて、時經て再び囘顧するといふことが、かつは青春の記憶の鮮かに蘇へることを實驗させ、かつは毎日の言葉も知らぬ間に少しづゝ、推し移つて行くものだといふことを教へてくれて、單なる一時代の横斷面式採集以上に、一種ダイナミックな感興を附け添へる利益もある。近頃私なども五十何年ぶりに、母が隣人と話して居た言葉などを思ひ起し、それにしか殘つて居ない昔の村の生活を、もう一度味はつて見ようとして居る。方言集ばかりは野菜や果物とちがつて、是非とも採り立てを賞玩しなくてはならぬもので無いやうに思はれる上に、この集などは更にもう一度新たな用意を以て、還つて故郷の實地を踏んで見られたのだから、時は確かにこの知識を圓熟させて居る。遲きに失した憾みは聊かも無いのである。是に反して二十年前の仙臺方言集は、今ならば多分早過ぎたと、筆者自身も思つて居られるであらう。土井家一代の最も意義多き部分、大よそ人間のなし得る經驗のうちで、殊に痛切なるものゝ幾つかゞ、すべて此中間の二十年に起つて居るからである。言葉を耳より奧の隱れたる機關によつて、聽き分け味ひ分ける修養といふものには、生活そのものより外の指導者は無い。この尋常を超越した環境と素質との合作物を、僅かな時期の食ひ違ひの爲に、後々利用し得なかつたら殘念なことであらう。仙臺には小倉進平氏の校訂して出版せられた濱荻といふ方言集がある。或は只野眞葛ではないかと思ふやうな才分の秀でた女性が、やはり百年ほど前に書留めて置いたもので、是は序文によると奧州に十餘年の生活の後、江戸へ戻つて住んで二地の語を比べて見たと言つて居る。なるほど氣をつけて見ると雙方が共に方言で、今ある普通の採集のやうに、書物の國語によつて解説しようとはして居ない。言はゞ江戸と仙臺との心持を突合はせて居る。昔の女たちは多くは土地に繋がれて、たとへ觀察の慧敏はあつても、斯ういふ比較の機會は與へられぬのが常であつた。(316)然るに我土井夫人は、あらゆる條件を具備して居られるのである。私たちはこの篤志な研究者の第三次の努力が、如何なる方面に展開して行くであらうかを、推測するに苦しまないつもりである。
 日本各地の言語現象の中で、南北兩端の類似又は一致ほど、比較の興味の多い題目は他には無い。私は曾てその顯著なる三四の例を擧げて見たことがあるが、世上の注意が是に向ふにつれて、其數は次々に増加して行くやうである。獨り方言集に拾はれる若干の單語だけに止まらず、語音にも東北と西南の果だけに、古いものゝ幾つかゞ尚殘つて居り、是を組立てゝ行く表出の方法にも、尋ねたら色々の共通が有りさうに思はれるが、否にも然りにもまだ是を調べようとする人が出ぬのである。土佐と仙臺とはやゝこの兩端からは遠く、從つて中央の新たなる影響に攪亂されて居るかも知らぬが、假に是だけ懸け離れた兩地に、偶然とは言へない一致が一つでも有るとしたら、其疑問は却つて百千の相違よりも大きい筈である。さういふうちにも土佐は水陸交通の行き止まりで、入口は少なく出口は更に少ない。島や岬の奧も同じやうに、流れが弱くて底に沈んで居るものが、或は九州中部より多いのではないかと思はれる。私たちの好奇心は、既に一部の報告によつて、可なりの程度まで刺戟せられて居る。たとへば四國の他の三縣との間に、誰の耳にも判るほどの違ひがあること、しかも一縣の間にも東と西と、平地と山分とが互ひに差異を意識して、その御城下町の常の言葉が、曾ての仙臺以上に地方限りの標準語として、今尚卓越の地位を認められて居ることなどは、共に土佐語の歴史の興味ある特殊性で、是が周到なる調査を遂げた曉は、又多くの新たなる資料によつて、國全體の比較を前進させることが出來るかと思つて居る。勿論其希望の全部を、一篇の「土佐の方言」に寄せ掛けるのは苛重であらうが、少なくとも我々はこの大切な仕事が、南北兩地の人生に經驗ある、根氣のよい且つ親切なる一女性の手に、取上げられたことを慶賀せざるを得ない。
 そこで御祝ひのしるしまでに、最近に自分の知つた土佐方言に關する一話柄を提出して、比較の方法の如何に張合ひのあるものであるかを、此書を讀まれる方々に述べて見たい。蝸牛をカタツムリといふのは日本の標準語であるが、(317)是は二つの古語の組合せらしいといふことは、前年蝸牛考の中にも説いて置いた。現在土語として是を口にして居るのは、山形から秋田へかけての海岸地帶だけで、そこではカサツブレとも又カダツブリとも謂つて、TとSの二子音の間を動いて居る。九州は殆と一圓に、蝸牛をツグラメ又はツブラメと謂ひ、對岸の土佐では西部は多くカタカタ又はカタトである。もし此二語の結婚が地方的事實だとすると、その最も接近した境目はこの海上なのだが、京都の古書に夙い記載のあるのを見ると、二語共に曾て中央に行はれて居た時代が、多分相前後してあつたのである。土佐のカタトは海岸づたひに、伊豫の喜多郡まで分布して居る外に、阿波と紀州の西半分を中に置いて、熊野に行くと再びカタカタ・カタタンがあり、それが川を溯つて大和の吉野にも及んで居る。それから再び遠州灘を越して、伊豆半島にはカサンマイがあり、それが又駿河甲州の富士川流域をも支配して居る。イナサといふ風の名は關東一帶を主として、西へ飛び/\にやはり土佐まで行つて居るが、是は風の名だから船で運ぶことも自然である。只船乘りとは何の縁もない蝸牛の名は、たとへ海沿ひだけに殘つて居らうとも、それは陸上で流布したものが段々と押出されて、こゝを一(ノ)谷屋島としたものと見るの外はあるまい。半島は袋の底のやうに、折々斯うした古い語をしまつて居るが、さうかと思ふと又山奧の方へ、立退いて行つて匿れたかと思ふ例もある。雀をイタクラといふなどは其一つで、是にも亦土佐が參加して居る。クラは小鳥を意味する古語であつたと見えて、ツバクラ・ヤマガラ等に殘形を留めて居るのみならず、現に沖繩では今でも雀がクラァであり、それは啼聲から出た語のやうに考へられて居る。越中でホウクロと謂ふのは頬黒とも解せられるが、是もフクラ雀などの語があるから同じクラかも知れず、關東では利根川の兩岸に、雀をジャッチ又はジャッチクラといふなどは、明かなる一致である。イタクラといふ名の起りはまだ明かでないが、私は最初是が紀州の日高郡の奧に有ることを知り、それから氣をつけて居ると熊野の各地、吉野から北して大和國原にまで及んで居ることがわかつた。四國の方面では平地には既に消えて、僅かに阿波の祖谷山《いややま》と一宇《いちう》に、飛んで此語のあることを見出したのみであつたが、最近に土佐の西北境の檮原《いすはら》村調査書を讀んで見ると、爰にも儼然として雀の(318)イタクラが傳はつて居るのである。古い文獻では、輔相集にたゞ一つ、イタクラを物名に詠んだ歌があるばかりだが、是だけの弘い分布を見る以上は、起源の新たでないことは想像せられ、同時に今後の未知區域の捜索が、更にその奧ゆかしさを加へるわけである。在來の學者には、斯ういふ二地以上の著しい類似を、すべて特殊の交通を以て解説しようとする者が多かつたが、雀の名を教へてあるく旅人といふものも考へられず、ましてや聽いて早速それに從はねばならぬ、事情などは有りさうにもない。恐らくは動搖の少ない閑かな山地などに、たゞ何と無く前々からの言葉が、消えも變りもせずに居たといふだけであらうと思ふ。日本は地形の然らしむるところ、さういふ古文化の殘壘とも名づくべきものが多いので、國全體から見れば高知一縣も、亦その一つの場合であるのかも知れない。そこに傳はつて居る言語現象の、何れの部分が果して古い名殘かといふことは、書物だけでは是をきめられない。記録は有つたり無かつたり亡びたり隱れたりして居る。といふ中にも百姓の言語は、文書に載せられぬのを通例として居るからである。是を確かめる途は比較の他には無い。それが又一區域の調査に熱中して居る人には、往々にして省みられない事務であつたのである。二つ以上の全く隔絶した土地の人生に、親しみ昵び理解しあつて來た人が、永い年月を一貫して絶えず言葉の現實に注意を拂ひ、その微細な地方的異同に、深い興味を持ちつゞけて居たといふことは、學問の爲にも寔に稀有の機會であつた。我々はこの又と無い案内者に栞りせられつゝ、新たな研究の路を進んで行かなければならぬ。方言が區々たる一地方の知識ではなくして、國の言語の未來の爲に、必ず明かにすべき事實の破片であること、從つて恥ぢたり笑はれたり又矯正したりする以前に、もつと大切な綜合と比較との仕事があることを、土井夫人の著書ならば、當然に我々をして考へさせるであらうと信ずる。
 
(319)  豐後方言集
 
 近頃盛んになつた方言採集の御蔭に、我々の新たに學び得た重要な事實の一つは、土地による言語現象の變化が、日本では驚くほど入組んだものであつたといふことである。是までの多くの調査は、或は方言といふ文字に泥んだのかも知らぬが、所謂地方を以て採集の單位として居た。故に一たびこの繁雜なる事實に直面すると、忽ち代表者の問題にまされなければならぬのである。ジリエロン・エドモン二氏の事業では、一州毎に三箇所の地點を選定して、そこに生れた最も適當な話主をして、この大きな全國的結論を構成すべき事實を述べさせて居る。佛蘭西あたりではそれでも差支無かつたかとも考へられるが、もしも同じ方法がこの大分縣などに採用せられて居たならばどうであらう。豐後方言集の一卷が世に出た際にも、私は之を播いてしみ/”\とさういふことを思つて見た。輕々しく外國の眞似をしなかつたといふことは、此書の恐らくは意識しない手柄である。私一箇の經驗を語ることが許されるならば、前年自分は「民族」といふ雜誌に、虎杖の日本語が昔から三つあることを述べ、それが新舊の層をなして、各邊隅に割據するだけで無く、瀬戸内海の沿岸の如きは、三者交錯して共に行はれるらしきことを奇なりとした。それが單なる空想でなかつたことは、幸ひにして大よそ證明せられた。此方面には熱心なる採集者が多く、中でも岡山縣の佐藤清明君の如きは、殆と各村各大字に就て其名を問ひ、果して三通りの名詞が、更に大いに分化して竝び存することを確かめられたのである。虎杖の古名はイタドリといふ外に、更にタヂヒとサイタツマとの、子音の可なり判別し易いものが二つあつた。是がやゝ原形を保持して存在する土地が有るかと思ふと、其隣は全く別であり、もしくは二者(320)三者複合して、中間形とも名づくべきものを生じ、其上に又近代の新語かと思ふものを加へて、あの一縣だけでも其種類は百を越えて居た。問題は當初私が豫憩したよりも、遙かに複雜なものであつたのである。たとへ微々たる一草の名であるにしても、是は明白に全日本語の問題であつて、偶然に其事實が發見せられた地方だけの管理すべきもので無いことも亦疑を容れない。然るにも拘らず、今日の郷土調査は府縣のものであるばかりに、各地方は孤立してたゞ是だけの小さな事實を珍重して居る。さうして所謂一語採集の興味は、幾分道樂の形に展開せんとする傾きを示し、丁斑魚《めだか》だ蟻地獄だ翁草だなどゝ、變化の際限も無く現れて來るのを悦んで、寧ろ綜合を吝むかの如き嫌ひさへあつた。此類の奇現象が、速かに其原由を究明せられねばならぬことは固よりであるが、それには相應の支度が入用である。限られたる採集は、單に問題の存在を教へるだけで、それ自身は學問の山口といふまでゝある。しかも近頃の問題提供者の中には、もうそれ切りで休んで居る人もあれば、もしくは大膽に其資料に據つて、地方限りの言語地理學などを、説き立てんとする人さへある。雙方共に有難くもない癖といふべきである。我々の國語が今有る形まで、變化せずには居れなかつた理由は、まだ一人でも解示してくれた人が無いのに、其變化が思つて居たよりも更に一段と入組んだものであつたことが、折重ねて又知られて來たのである、豐後方言集は辛苦の事業であり、且つ我々の爲には無量の新刺戟でもあるが、それは只在來の未解決に、餘分の負擔を追加した結果になつて居る。是には必ず埋れきつた歴史、もしくはまだ踏査せられない地理の知識を啓示する、何物かを含んで居るのであらうが、それを知るにも比較は先づ必要である。爰と同じい言葉なり事實なりが、都や遠くの府縣にも有るか無いか似て居るか。それがどうあらうとも解決は變らぬといふことは、到底有り得ない話である。問題發見者の第二の任務は、一歩でも其答への方へ近よつて行くことでなければならぬ。それには何よりも割據の競ひを止めて、自分のよいと思ふ方法が、次第に域外に延長して行くことを期する必要がある。
 私などの觀た所では、此書第一集の採録のし方は、大體に於て手本とするに足ると思ふ。一つの地方だから單語は(321)先づ一つと、豫測してかゝらなかつた點は賛成である。單語を片端から拾つて行かうとして、不當に話主の精力を誅求し、結局は却つて肝要なものを聽き落すといふのが、今までの採集の弊であつたが、此集では大よそ問題の在りさうな部分に、始めから注意を集めたのが殊によいと思ふ。たゞさうすれば自然に脱落するものがある。是を次々に補充して行くことが、必要の條件にはなるのである。發音の變化は現在の表字法では、さう精確なことは望まれない。さうして又土地には訛音の大體の傾向が定まつて居ることゝ思ふ。それと各人が意識して居る言葉の相違とを、一つに取扱つたことは果してよいかどうか。此點は少しばかり私には氣になる。
 次に採集の事業に生徒を使ふことは、便宜でもあり又實驗の機會でもあるが、さうする爲には彼等の出身地の、或は一部に偏するかも知れぬこと、及び其能力品質の差等をも考へて置かねばならぬ。方言は我邦では單なる地方差で無い如く、部落にも家にも個人にも差異があつて、彼等の知識は必ずしも多數を代表して居るとは限らぬものである。其上に音を手先へ運ぶまでには、もう各人の知識が干渉する。是を判別するのには十分な諸君の練習があらうが、尚餘りに奇拔なものを警戒するだけの用意があつてもよい。動植物の標本やプレパラートは、大抵は採集者が手づから作るに反して、我々の無形の言の葉のみは、  屡々其生活?態を見たことも無い者が、枯れた?葉を乞ひ受けて自分のものとすることを許されて居る。勿論無いものは集まつて來ぬからよいやうなものゝ、それが特殊な畸形であるやら、はた又ごく普通の?態を代表するものやら、一つの例だけでは推定することが出來ぬのである。けなげな若い多くの助手たちを、一樣に正しい採集者に訓練し得ればよし、さうで無ければ資料の供與者として、或程度の記憶力と内省教養とを具へて居るか否かを、眞先に判別してかゝつた佛蘭西流の、眞似をした方がよいやうである。豐後方言集の第二集以後は、いよ/\六つかしい無形名詞、動詞や形容詞の微細なる感覺の差を、表現する部面に入つて行かうとして居る。遠くより聲援して居る私たちの心配以前に、局に當らるゝ諸君が既に實際の經驗に基づいて、適當なる考案を加へて居られるならば、其悦びは決して一地方のものでは無いのである。
 
(322)  對馬北端方言集
 
 是は對馬の豐崎村を中心とした方言の一部分である。豐崎はこの大きな島の最も朝鮮に近い十四の部落を合せた一村であつて、各部落は互ひにやゝ隔離し、其言語現象も實は少しづゝ異なつて居る。曩に雜誌「方言と土俗」に、我々の同志島居傳君が連載せられた「對馬比田勝の方言」は、同じこの豐崎村の採集であるが、我々がその若干の重複を厭はず、再び此集を公けにするに至つた理由は五つも六つもある。
 第一に大浦政臣君の集録は、前の島居君のそれよりも三年ほど前に出て、今まで之を私の手に保管してあつたもので、兩君は同じ比田勝の小學校に奉職しつゝも、雙方この採集をする時期もちがひ、又少しも話し合ひは無かつたらしいのである。
 第二には採集の中心が又同じで無かつた。豐崎は大きな村で、大浦君の任地大字大浦は西に向いた入江の岸に臨み、比田勝は又東に面した湊町であつて、其間約三キロ、僅かながらも山脈を以て境せられて居る。假に全く共通の語があれば、寧ろ一致と名づけてもよかつた。それほどにも以前の生活は分れて居たのである。
 第三に採集者兩君の境涯が又異なつて居た。島居君は峯村木阪の人で、赴任して此地に住し、その新たなる印象によつて、耳に留まつた語を拾つたに反し、大浦君は大浦の久しい土着であつて、永い親しみが言葉を愛撫せしめて居り、兩者觀點が珍らしく相異なつて居た。まだ比べて見ないが、語彙にもそれ/”\の特色が現れて居る筈である。
 今まての多くの方言集を見た目には、誰でも氣の付くのは、大浦君の集には名詞が割に少なく、動詞形容詞副詞が(323)大部分を占めて居ることであらう。是を採集者は何とかして正しく解説しようとし、しかも必ずしも成功しなかつた樣に見えるのは、即ち久しく自分も使ひ來つて、其心持を餘りに鋭敏に掬み取つて居るからかと思ふ。不完全でも土地人のいふことは暗示に富む。是が採集の一新例として、私の之を提供する第四の理由である。
 第五の理由はやゝ無遠慮の嫌ひはあるが、島居大浦二君の事業は二つながらまだ半途である。既に採集した各語の内容を、精密に遠く住む人々に教へ得ぬのみか、對馬は開け過ぎた島地とは言ひながら、住民の利用して居る固有語はまだ/\是ほど貧弱なものでは無い。つまり採訪がまだ足りなかつたのである。此事實は幸ひにして二君共に之を承認して居る。もしこの二囘の獨立した集録が互ひに相映發して、いよ/\言語調査の今にして止むべきもので無いことを、熱情ある二君が自覺せられるならば、其恩惠は弘く日本の言語學全體の上に及ぶやうな時が到達することを信ずる。
 大浦氏の私に示された記録は、分量が約この三倍ほどもあつた。其三分の一は同君の考へで、假令標準語といへども、現實對馬の北端に行はるゝものは載せるといふ積りらしかつたが、各地方に「言泉」を著述するは容易なことで無いから、是は後まはしにすることゝして私が割愛した。他の三分の一は採集者の語原研究の一端を示すべきもので、本誌の讀者たちは興味を以て迎へられたかも知らぬが、何分にも今から五年前、所謂言語地理學のまだ形を成さぬ頃のものを、筆者に補訂もさせずに公表するといふことは不本意である故に、是は他日改めて現在の資料を通覽した上で、別に起稿を乞ふことにした。なほ私が淨寫の際に書き誤り意を取りちがへた點がもし有るなら、是は少しも早く又綿密に訂正せられんことを大浦氏に向つて希望する。
 
(324)  肝屬郡方言集
 
 野村さんの郷里、大隅肝屬郡高山(カウヤマ)の故事遺迹を記述した一卷の寫本を、曾て鹿兒島の圖書館で讀んだことがある。書名は高山風土記だつたかと思ふが確かでない。其際に始めて學んだことは、高山地方の文化の淵源が遠く又久しく、今はまだ記傳の外に在る有明灣の貿易と、根強い關係をもつものらしいといふ點であつた。中古に肝付氏一門の武力が之に由つて養はれ、彼等も亦熱心にこの交通を庇護したことは明かだが、さういふ必要の起るよりも前から、既に高山はよく開けて、富みも榮えもした土地であつたことだけは、幾つとも無い近年の發掘品によつて、證明することができる樣である。そのなつかしい昔の世の文化はどうなつたか。果してすべて皆土の底になつて居るか。人は無意識にも遠い親々の生活の痕を、少しでも身に着けては生れて來ぬものであらうか。といつた樣な兼ての疑ひが、特にこの方言集の我々に對する印象を濃くして居る。肝付氏衰へて四百年、商業の中心は内灣に移り、高山内之浦は在郷となり、郷士の入れ替へは又薩藩の重要なる政策でもあつた。野村さん方の御先祖も、必ず城下の誇りと文化とを携へて、新たに入つて來られたことゝ想像するが、しかも土地にも亦娘があり戀があり笑ひがあり、更にさま/”\の自然の感覺を運ぶべく、耳馴れたる色々の言葉づかひがあつた筈である。それがどれ程まで憐み無く追拂はれ、もしくはしほ/\として去り行く後影を、なほ暫らくは見送られたかといふことは、今も活きて居る若干の土語以外に、何一つ之を記録したものが無いのである。いはゆる薩藩の士風は段階も無く變化も無く、縣を一團としてたゞ數十の人々に代表せしめ得るやうな、單純至極なものであつたらうか。それに然りと答へ得る爲には、まだ我々(325)は其中のたつた一つの場合、高山の方言集をさへ精讀して見る機會をもたなかつたのである。
 三十何年か以前、私は鹿籠《かこ》の枕崎に滯在中、大隅から來て居る御醫者さんが、土地の人たちと議論をするのを聽いて、雙方の言葉のあまりにちがつて居るのに驚いたことがある。揖宿郡出身の福里榮三君なども、朝晩見て育つた對岸半島の物言ひが、是ほどまで自分の村とちがつて居たかといふことを、最近になつて實驗したと言つて居る。同じ一つゞきの甑島の一群でも、北と南の兩端が異なるだけで無く、相隣する村々の單語までが、わざとでは無いかと思ふほども變つて居る。是は素より士分の家と、それと接觸しようとせぬ農漁民の家と、地位境涯の差別からも來て居るだらうが、とにかくにこの縣のやうに、細かく方言の分れて居る地方は珍らしいのである。其原因も私はやゝ推測することが出來る。鹿兒島市の言葉も階級職業によつて、言ひかへられるほどに違つて居るさうだが、大體に言葉はよく洗錬せられ、たゞ發音の長短綬急が、あまりにも中央と一致せぬといふのみで、敬語の如きは他の都會よりもずつと發達して居る。乃ちこの土地のは古いまゝではなくて何度とも無く改良を加へられて居るのである。その次々の新らしい波紋が、到り到らぬ隅々があつても不思議は無い。隣縣以北には猶存するバッテン又はバッチェンが、ドンカラに變つたといふやうな例は他にも多からう。何れが優るといふやうなことは外の者には言へないが、少なくとも遠くの村里にある方が古い分の殘りで、それを後になつて少しづゝ改めて行つたのは、城下の人たちだつたといふことは言へると思ふ。今まで此縣の方言集が、一向に地域の差異を明かにしなかつたのは、多分は鹿兒島の語は昔から此通りで改良が無く、田舍はそれを眞似そこなひ又は誤り傳へて居るのだと信じた爲だらうが、さういふ氣づかひは萬々無い。現に一方は今でも次々と改良し、又他の一方は可なり上手に、それを眞似ようとして居るのである。
 如何なる條件のもとに土地の方言が、分立し又は統一するかといふことは、寧ろ斯ういふ小區域内の現象によつて、實驗する方がわかり易いかと思ふ。それで遠からずもう一つか二つ、同じ鹿兒島縣のやゝ離れた片隅の方言を集めて、異同を比較して見たいと思つて居るのだが、さう謂つて居るうちにもどし/\と前の言葉は消える。印刷の仕事はそ(326)れよりも速力が遲い。いつになつたら我々の志は達しられるか、氣のもめる話である。この肝屬郡方言集なども、自分が出版を決意してから、もう七八年にもなるやうに思ふ。期限も付けない私の引受に、信頼して下されたことも忝けないが、更に野村さんは其忍耐の時間を利用して、三度までこの草稿を書き直されたのである。一番よくなつたと思ふ點は、最初はこの集を故郷の若い人に見せて、今まで何の氣無しに使つて居た在所の言葉でも、中には所謂標準語よりも古く、由緒傳來の確かなものがあるから、粗末にしてはならぬと教へることに力を注がれたかと見えたのが、後には段々と是を一般の用に立て、弘く將來の日本語を良くしようとする者の、參考に供せんと努められるやうになつたことである。誰しも年を取ると先づ幼ない頃の言語を想ひ起し、それを又最も悦んで聽く人たちの前に、提供したくなるのも自然であるが、それだけでは學問としての意義が弱い。殊に或言葉が中世以來の文藝に、用ゐられて居るといふことは好話柄であるが、それを強調して居ると殘りのもの、即ち一度も文人の筆に觸れなかつた分が、別に新たに出來たといふ證據も無いのに、何だか皆新らしいものゝ如く推斷せられさうな懸念がある。古い言葉だつて必要があれば我々はかはりを作るが、單に記録に痕跡が殘つて居ないといふだけでは、言葉のねうちといふものを低く見るわけに行かぬ。古い記録の存することが偶然である如く、それに我々が心づくことも偶然であつて、是は追々と積み貯へて行くの他は無い。一方は今あつてやがて無くなりさうな事實なのだから、急いで有りのまゝを採集して置かねばならぬ。二つは別の事だと私なども考へて居たのである。しかし野村さんの發見には實は興味のあるものが多かつた。一部は雜詰「方言」にも寄稿せられて居るが、どうか其後の研究と合せて、一卷の書として世に遺されんことを希望する。
 それから今一つのやゝ大膽な改定は、此集の語彙の排列のし方であつて、是は著者より以上に私が大きな責任を感じて居る。今までのやうなアイウエオ順では、果してどんな風に如何なる言葉が、分布して居るかを知ることが難い。殊に他の地方の?況と比べ合せて見ようとする場合などは、頭音が一つちがへばもう互ひに何處に在るかもわからず、(327)其爲には我々が苦しんで來たやうに、一應は有るだけの言葉を取分けて見なければならぬのである。しかしこの集の排列法が果して最もよいかどうか。企ては惡くなくとも、もつと賢こい分類があるのでは無いか。實は我々にはまだ安心のならぬ點があるので、寧ろ讀者からの色々の注文や不滿を豫期して居るわけである。この集の如き力の籠つた半生の事業を、斯ういふ試驗用に供したのはよくない事だつたが、小さな語彙では趣意がよくわからず、同時に又弱點も目に立たぬかも知れぬので、終に野村さんに御迷惑を掛けることになつた。しかし案外にこの最初の案がよくて、是で結構といふ人が出て來ぬとも限らぬ。ともかくも世間はたゞ方言集の出たといふことだけを喜ばずに、もう少し之を利用して見ようと心掛ける樣に、なつてくれなければだめだと思ふ。
 最後になほ少し附け添へて置きたいことは、肝屬郡方言集の著者は、同時に又南大和の方言の大量の蒐集者でもあつたといふ一事である。野村さんは大額を出てから、久しい間奈良縣の教育界に働き、今も引續いて同じ縣の公職に就いて居られる關係から、大和の言葉に對しては故郷以上の親しみをもつて居られる。それが一方の若い日の追憶を刺戟して居ると共に、之によつて研磨せられた言語感覺が、更に又第二の故郷の方言の特徴を、比較的容易に會得するに役立つて居るやうである。その南大和方言集は、天理教の學校の「日本文化」といふ學報に、二回に亙つて公表せられて居るが、各語の對譯は簡明にして妥當、選擇にも至つてむだが少ない。是にもし若干の用例を添へることが出來たならば、恐らくもう再び採集の勞をくり返す必要が無からうと思ふ位である。一人で二箇處以上の方言を集めた者も、今まで丸々無かつたわけでないが、旅とか傳聞とかの時間を掛けぬものばかりで、大抵は雙方とも粗末であつた。二十何年も他郷に止住して、しみ/”\と土地の言葉の差異を體驗し、それに促されて飜つて少年の日の、無心眞率の表現を味ひなほすといふやうな境遇に、置かれて居る人は多からう筈がない。野村さんの郷里が肝屬高山の如き、草に埋もれたる一つの小奈良で無くとも、なほ我々はこの懸け離れた二處の方言の互ひに映發する點に、多くの希望を寄せずには居られない。ましてこの土を愛し且つこの先輩を敬慕して止まざる人々は、必ずや之によつて言語(328)文化の遠い水上を汲む力を養はれ、  愈々日本の將來の言葉の、清く豐かに流れて四海に盈つることを期するであらう。此の如くにして始めて著者と編者との素志は成るのである。
 
(329)  寶島方言集
 
 是は鹿兒島縣大島郡十島村の中、寶島といふ島の方言例である。寶島は所謂七島の最南端に在る島で、周圍が三里弱、戸數が九十ばかり、奄美大島の主島と僅かな海峽を以て隔てられて居るのみであるが、其單語音韻は明白に以南の群島と分立し、爰に重要なる一つの堺線を劃するのみならず、北は薩摩大隅の國地とも、亦著しい變化があつて、此方が却つて中央部の方と近い。言語地理の研究者にとつて、特に等閑に附すべからざる一地帶である。敷根利治君はたま/\此孤島から出て居る青年の一人であるが、自分の希望に應じて其故郷の言語を、東條氏の採集手帖に記入してくれられた。その手帖には半以上の空白があつたが、それは事物の此島に存せざるものは勿論、すぐには對語を憶ひ起し得ざるものを省いたので、寧ろ幾分か此豫報の安全性を保障して居る。其以外に手帖に書入れられたもので、全然他の地方の多くと共通な單語は、整理の際私が之を除いた。島に行つて老翁老女の言ふ所を聽いたならば、或はなほ若干の訂正追加をなし得たらうが、それは現在に於いては殆と望み難い。是だけの資料でも今はまだ大いに珍重しなければならぬ。
 
(330)  喜界島方言集
 
 全國方言記録を出したくなつた動機の有力な一つは、この集の原稿がいつまでも原稿のまゝで私の身近くに轉がつて居ることであつた。前年我々の畏敬する伊波普猷君が、沖繩語の古い姿と、それが推移して現在の形態にまで變遷した事情とを詳かにする爲に、久しく外境視せられて居た宮古八重山の列島、殊に三世紀以上も手を別ち、交通を遮斷せられて居た大島郡の島々を廻つて、島毎に持傳へて居た言葉とその改まり方を調べて見ようとせられた際に、最も大きな影響を最初に受けて、奮起した青年がこの集の採録者、岩倉市郎君であつた。それが又幸ひなことには良い耳良い手、且つ非常にはつきりとした理解力をもつて居たのである。岩倉君は先づ自分の生れた土地とその四周の言葉を集め整理して、當然に之を伊波氏に見せた。同氏は其頃すでに東京に寄寓し、遙かに故國の文物歴史に向つて、無限の感懷を寄せて居た際でもあつたので、この大きな方言集に對して一つ/\、沖繩本島の單語の是と相同じく、又は根原は同じと思はれるものを書き込むといふやうなえらい仕事を、寧ろ樂みの心を以て爲し遂げられたのである。前後數十年に亙つた伊波君の學究生活にも、斯ういふ意義の深い遭遇は、なほ希有な事であらうと私は思つて居る。
 その大きな原稿がまはりまはつて、今私の手元に保管せられて居る。是を容易に世の中に送り出すことのできなかつた理由を、私は色々の側面から改めて大いに考へて見た。文書は前代の言語事實を確實に存録するが故に、近世の國語學者は悉く之に依據して、所謂國語學を打立て得べしと信じたのであるが、筆に文字に傳はり得たものは、實はその一小部分に過ぎなかつたと思はれる。第一に文學は都府のしかも上流のみに行はれ、語辭の上品下品を選別する(331)ことは、昔は殊に峻酷であつた。單に内容の文學生活と交渉なきが爲に、其選別の外に置かれたものも多い。南の島には既に記録が乏しく、しかも久しく交通を制限せられて居た。社會の構成にも互ひに異なる條件が來り加はつて居る。それが三百有餘年の隔離を乘り越えて、今も過半の共通點を保持して居たといふことは、何よりも顯著な又重要な現象であると共に、是と他の一方の、考證に由つて始めて根原の同一なることを認め得る親近語とは、資料としては本來二つに分けなければならぬものだつたのである。伊波君が「おもろ草紙」以外殆と中世の記録を傳へぬやうな島々の言葉の有り形を、或時は老人の忘れ殘した古風な知識から、又或時は變り果てたる當世風の言葉使ひの中から、見つけ拾ひ上げようとせられた努力は尊といが、それはもう研究であつて事實より一つ奧のものである。もしも我々の方言集が、眼前現存の何人にも爭へない資料を提供する役目を持つとすれば、この研究に屬する部分は別にするのが、たとへ出版頒布の容易である場合にも、やはり至當なのでは無いかと私は考へた。雜誌「方言」の古い號には、壹岐島方言集と沖繩喜界の言葉と、三つを比較した研究も既に公表せられて居る。日本方言學會の研究報告書なども、たゞの方言集までは出して居られぬだらうが、斯ういふ比較の考證は悦んで載せることゝ思ふ。だから今囘はまづ此中から、喜界島の現在の事實だけを、拔き出して本にすることにし、次には沖繩中央の今日の方言集を出し、それから追々と兩方の地方語のどれだけ近く、どれだけ三百年の間にちがつて來て居るかを、端から段々と明かにして行きませうと、強ひて私は御兩人の共同事業を、引分けるやうな方針を決したのである。伊波君がその折角の仕事を後まはしにしても、いやな顔もせずにこの案に同心せられた雅量ある態度には感謝する。その代りには將來同君の比較研究を、少しでも早く又精確に、世上に紹介しなければならぬ義務も私が負うたのである。一人で集録した今までの方言集にも、語源の穿鑿や正訛の辯、少しばかりの文獻比照、乃至は他の地方との類似變化などを、物の序を以て書き添へたものがあるが、さういふ權能をもつた人は實は少ない筈である。伊波氏の研究を別置した以上は、是からの我々の方言集には、當然にそんな斷片的な解説は、他の方法を以て發表してもらふやうにしなければならぬと思(332)つて居る。
 方言を五十音別に竝べて置くことは、多くの場合には必要の無いことであつた。單にどういふ言葉があるかを知る爲には、寧ろ同種のものを近い所に置く方がよいので、聽いて如何なる意味かを探るべく、之を辭典として索引する者などは有らうとも思はれない。それ故に將來は原則として類別法を採り、なほ利用者の注文に應じて、追々にその竝べ方を改良して行くつもりである。しかしこの南の島々の方言だけは、今まで餘りにも互ひに相知らず、しかも一たび知り得たならば、古い因縁の久しく續くものであることに心付き、新たに啓發する所がきつと多いと思つたので、私はわざと舊式の五十音排列法を、其まゝ採用することにしたのである。今一つの理由は島々の知識人が、採集の爲にさして多くの勞苦を費さずとも、心閑かにこの岩倉君の方言集を見て行くことによつて、自然に自分たちの母の語のどんなものであつたかを思ひ出し、もし又興味があつて此語彙の頭の上にでも、ぽつ/\と異同を書き込んで行つたならば、いつと無く我土地我島の方言集になつてしまふやうに、言はゞ一つの臺帳の役目に、この最初の辛苦の結晶を、利用して見ようと企てゝ居るのである。この澤山に人の住む離れ島をもつた日本のやうな國は、世界を捜しても恐らくは他には無い。國語が永い歳月の隔離によつて、どれだけの獨立した變化を受け、又どれだけの固有の發育を續けるかといふ活きた實驗も我々ならば出來る。それが當代の學問に在つて、今もまだ空想とこじつけとの遊歩場になつて居るのは、全くこの實着なる觀察法の考案せられなかつた爲かと考へると、是は誠に心の勇む鹿島立ちである。私は自分の力の續く限り、先づこの一筋を遠い島々の、方言の惱みをもつ人たちに頒つて見るつもりである。一部の指導者が思つて居るやうに、方言はそんなに改めにくいものでは無い。現に沖繩などの若い男女の言葉は、もうよほどまぜこぜになつて居る。唯之を普通にする爲には若干の歳月を要するだけである。英語佛語といふやうな二つの國語で無いから、今日より甲を止めて乙にするといふことが出來ないだけである。又さうしようと思つた所で、まだ代りのものが與へてないのである。青森でも鹿兒島でも、言葉は話す者自身が段々に覺えて片端から取替へて行き、(333)何の強制は無くとももうよほど判りやすく、又不自由をしなくなつて居る。島々の人が持つ昔からの感覺と考へ方、智能術藝にはそれ/”\の言葉があつた。それを顯はす新しい言葉を授けなければ、いくら移りたくも移ることは出來ず、口で使はずとも腹の中では、依然として古い言葉で考へたり感じたりすることを罷めないであらう。古い言葉の有るだけを一應は出させて見て、それに標準語の正しい言ひ改めが可能であるかどうかを、誰かゞ考へて遣ることが、國語統一政策の實は大切な準備作業であつたのである。順序は逆になつたが今からでも、それを試みた方が效果は擧げ易いと思ふ。私はこの喜界島方言集が縁となつて、島々の言葉の良い對譯が見つけられ、大きな勞苦と壓迫感と無しに、互ひの交通のもつと容易になつて行くことを期待して居る。伊波岩倉二君のやうなまじめな調査もせずに、その方言の滅び消えて行くことをこそ、多くの人々は悼み悲んで居るのである。それが殘りなく新らしい世代の、全國一致の言葉に引繼がれて行くことを、拒み妨げんとする者などは有らう筈が無い。だから統一の必要を感ずる土地では、特にこの新舊の繋がりを尋ね究めなければならぬので、それを全然怠つて居た者が、強ひて昔の言葉を使はせまいとしたことは、島々の大きな不幸であつたと私などは信じて居る。この方言集が世に弘まつた曉、先づ現れて來るものは反省であらう。其次には同情の泉の水上となつて、過ぎ行く老人たちの心持を理解しつゝ、之を若い世代に紹介するやうになるならば、國の協同を愈奧深いものとすることが出來るであらう。その將來を考へたゞけでも、もう世の中は少し明るくなる。方言集をたゞ誤つた物言ひの目録のやうに思つて居た人々は、ともかくも一通りこの本に目を通して、靜かにもう一ぺん考へて見るべきだと思ふ。
 
(334)  北海道の方言
 
 此夏三週間餘り北海道の片田舍をあるいて見て、始めて斯ういふ問題を考へるやうになつた。是は勿論問題だけであつて、答へはいつ出て來るやら、恐らくは可なり程遠いことゝ思ふが、それがなほ私一人に取つては、報告せずには居られない愉快な發見なのである。是まであの方面の方言として、私たちの目に觸れたものは、風俗畫報その他の雜誌に、二三度函館近くの土着稍古き區域の言葉が、僅かづゝ掲げられて居たのを記憶するのみで、東條大田二氏の精密を極めた目録中にも、別に是といふものは無かつたやうである。近頃は各地に此方面の調査稍起り、例へば北見稚内の中學校に於て方言集録の企てがあつて、奧野清介氏等是に携はり、もしくは利尻一島のあらゆる地名を拾つて、之を解説して見ようとした人があつた話などを、札幌に行つて始めて知つたけれども、是等もまだ一般には公表せられて居ないので、今後出現すべき系統だつた研究の、是が發端であるか否かすら世間は知らない。さうして私たち迄が實は誤つて、それも致し方の無いことの樣に考へて居たのである。
 斯ういふ速斷の不當であつたことは、何としても承認せずには居られぬ。北海道の現住者は、村でも市街地でも、決して所謂標準語は話して居ない。或種特異なる地方的言語現象の、そこに行はれて居ることだけは誰でも認める。たゞそれをしも方言と名づけてよいかどうかといふ點に、疑ひをもつ者が有るのみである。ところがその地方語と方言の差別といふものを、他では何人も立てゝ見ようとはしない。或地の方言として一團と目せられて居る地方語群の中には、僅か二三十年の交通と雜居とによつて、外から持込まれて混淆して居るものが可なり多いことは、是亦知ら(335)ぬ者は無いと言つてよい位で、如何に大まかな概括論者でも、是を直接に其地方の、古來の姿と觀ることを敢てしない。單に其傳來が頻る明らめにくいばかりに、今なほ部分的に資料としての價値の高下を論じて居るまでゝある。方言に新舊内外の差異の、無かつた時代などは寧ろ想像し得られない。獨り北海道のみが言葉の來た道筋を知り易い爲に、否知り易からうと察せられる爲に、是を一單位の研究物として、取扱はれなかつたならば間違ひである。此結果として我々は大分の損をして居る。第一に土地の學問を好む人々に、今まで調査欲を起させなかつたこと、第二には滅多に言語學の方面では獲られない機會、即ち最も「實驗」とよく似た「精確なる觀察」の機會を、やゝ時遲れるまで逸して居ることである。
 外から北海道の?況を想像する人は、どうかすると彼處には多種多樣の方言の雜然たる併存があつて、其地の土語といふものは無いかの如くに思ふが、そんな生活は旅ですらも出來ないだらう。しかも此方面は冬の長い、外とは隔絶して内に相親しまなければならぬ小社會が、半世紀も前から既に生れて居るのである。最初に不完全ながら自分の經驗した事實を敍べて見ると、今から二十七年ほど前に、自分は公務によつて若干の函館人と  稍々久しい間交際した。其折に斯ういふ幼稚な疑問を抱いて尋ねて見たことがある。此地方は地理から見ても又歴史から考へても、對岸の津輕地方の延長で無ければならぬのだが、どうして此樣に言葉が違つて聽かれるのだらうと言つた。其答も甚だ大ざつぱなものであつたが、一通り理窟だけは通つて居た。函館は開港當時、一番多く秋田から人が入つて來た。今でも市民は上下を通じて、秋田縣人が多く又古い。それだから言葉が津輕よりも、更に其隣の秋田の方と近いのだと言つた。果してさういふ事實が二十何年前にも、あつたか否かは確めることが出來ぬが、今から考へて見ると此問答には、更に二つの見落すまじきものを見落して居た。其一つは此新開港の都市としての力が、他とは獨立してどれ程まで、其感化を後から來る者に及ぼしたかといふこと、今一つは以前の文化中心たる福山江差の言語が、どれだけ滅びどれだけ傳はつて居るかといふことである。今でこそ人は思ひ切り之を無視して居るが、下國《しものくに》の文化は青森よりも、又事に(336)よると弘前や秋田よりも古い。それが一個の有力なる城下町として、兎に角三百年此地域に君臨して居たのである。假に秋田の影響が隱約の間に認められるとしても、それは明治の事實では無くて、古くから有つたものゝ痕跡かも知れない。たま/\函館が水陸の衝に立ち、又新たなる異分子を吸収して居る證據があつても、其地ばかりの方言の由來を、問うて見ようとしたのは誤りであつたといふこと、それを菅江眞澄の日記類などを讀んで後、愈深く感ずるやうになつたのである。
 ところがまだ一つ考へ足りなかつたことは、今の北海道の全體としての方言構成に、古い文化がどれだけ迄、交渉を有するかといふ點であつた。是には私たちは最近まで實は意を留めて居なかつたのである。松前氏の政治力は人も知る如く、後志地峽の北までは及んで居ない。處々の濱邊の番屋の周圍を除いては、廣い内陸はもとすべて草莽であり、漁民商民は常に去來して、子孫を遺して居るものは尠なかつた。それにも拘らず北海道の地方語が、ほゞ津輕水道を南の境として、よそとは辨別し得る一つの單位となるまでに、例へば九州島の東面豐後と、西に面した肥前の島々との差異よりも、遙かに少ない變化を以て全道に行渡つて居るのはどうしたわけか。是にも函館や其兄たる江差松前の指導を、勘定に入れぬわけには行くまいが、それよりも大きな原因は、今居る住民の内から働きかけた選擇と動向とに、之を求めぬわけには行くまいと思ふ。
 私の觀測は自分ながらも甚だ心もとない。勿論將來の組織立つた調査によつて、ずつと精確な資料と取替へなければならぬが、北見根室の沿海をあるいて見ても、新移住者群の家の中の言葉は別として、少なくとも外で公けに使はれて居る言語には、耳に立つまでの地方差は認め得なかつた。北海道の鐵道は大部分が荷物との混合列車で、一つの驛の停車時間が非常に長く、少しく注意して居れば我々のやうな通過の旅人にも、土地の會話の多量を採取し得る。其以外に又逢ふほどの人に向つて、故郷と何年居るかを問ふことも六つかしくない。彼等は少なくとも我々に向つては、ほんの少しばかり銘々の訛りある北海道語を使ふのである。一つのよき經驗は自分の小學校友だちの一人に、別(337)れてから五十年を隔てゝ旭川で逢つて見た。二十幾つの年に移住して來たといふが、ちやうど多數の東京人と同じ程度に、生地の語音をまじへつゝ北海道の言葉を使つて居る。靜かに目をつぶつて聽いて居ると、少なくとも此人々の意識して居る北海道語の存在を、認めないわけには行かなかつたのである。北見の淋しい村々で話をした人々には、偶然にも自分の比較的耳馴れて居る北陸各地、殊に越前加賀越中の人が多かつたが、是等も生國を言はれて後に、如何にもと心づく程しか國の言葉は持つて無かつた。それからもう一つの經驗は、所謂道産子の幾人かの物言ひを聽いたことであるが、是にはもはや郷音の名殘を見つけ出すことが困難であつた。
 誰しも斯ういふ境に臨んで、北海道語といふものは果して何かと、考へずには居られまいと私は思つた。この方言の特徴の一つは、變つた單語の甚だしく少ないことである。此頃の地方採集家ならば、或は張合ひ無く感ずるか、もしくは強ひて珍らしくも無い些々たるもの迄も、集めて量を増さうとするかの二つの一つに、きつと出るだらうと思ふほど耳に立つ語が少ない。殊に教養ある人々が二つ以上の同義語を知つて居て、外から來る者には標準語の方を使はうとする用意は、他の府縣にも増して十分に看取せられた。此部分に關する限り、方言は既に末期に入つて居る。次に他の一方の語の樣々の忘却が起るならば、もう單語だけは匡正せられたことになるのである。しかもさういふ中にもなほ注意せられるのは、鮭をアキアジといふ類の蝦夷地時代の語が、一種の自尊親によつてまだ殘り、湖沼をトオといふ類のアイヌから學んだ語が、簡易輕快の爲に今も人望があることゝ、更に數多くの無形名詞、もしくは動詞や形容詞などの、感覺と共に早期に印象の上に鑄込まれたかと思ふ語が、適切な代りの語を得ずに今も行はれて居ることで、當然の話であるがそれが皆東北と共通である。例はあまり多く擧げることが出來ないが、採集は可能であらうと思ふ。「坐る」をネマルといふ動詞は、日本海側では可なり南下して居て、是を奧羽から來たとは斷定し得ぬけれども、兎に角に對岸と一致して全道に及んである。「疲れた」又は「息苦しい」をコワイといふ語なども、關東平原まで今尚通用するが、是が北海道にも普通と認められる。中央部の「きたない」「むさくるしい」を、北ではヤバチイ(338)といふのが可なり耳に立つが、是も旅行の途次幾度と無く私は聴いた。問題は土地により又新居住者の出身地別により、どれだけの例外を存するかといふ點に在つて、それを明かにするのは今後の調査にあるが、少なくとも可なり掛離れた端々の土地に於て、共通して居るだけは事實である。
 文部省の方言調査事業以來、我々に供與せられる資料の主たるものは單語であつた。故に比較の研究は此方面からより他は進められないが、單に是だけの事實からでも、なほ大いなる疑問は起り得る。北海道の移住機會は全國に向つて開かれて居た。海から漁業から轉囘して來た者は僅かで、寧ろ内陸の方に居た者が、海邊の低地へ押出して居る。個々の村の構成分子には十分に變化がある。それがたゞ單に早く來た、もしくは多く來たといふだけによつて、果して全道の言語を東北化し、乃至は秋田化し、津輕化することの出來るものかどうか。一つの社會を成す人々に、幾通りもの物言ひを存置することが許されぬとしても、それはたゞ多數の、又は有力者の習ひ又は好みに、統一せられ得るものであるか。はた又今一つ以上の、他に是まで心付かれなかつた法則が、斯くして限られたる一地方のみならず、この大きな一つの島の言語現象を支配して行かうとして居るので無いか否か。今ならば之を單純な思索に委ねず、人々の納得するだけの事實に基づき、原因に溯つて實驗することも可能な樣に思はれる。是が上海や維也納のやうな、異なる多くの國語の湊合地とは違つて、一つの國語のたゞ一部分づゝの變化を、寄せ集め淘りならすことの結果が、終局どうなつて行くかのよい試みの如く、私には考へられるがどんなものであらうか。大阪や京都とても、人口は非常な雜糅を見て居るのであるが、それでもまだ古くからあるものに統一の力があつた。東京に至つては全然以前の土語がもう殘つては居ない。住民の大多數が他地方人であり、それが先後して入つて來て、聯絡も無しに住んで居ることは、恐らく北海道と大差が無いであらう。その東京語が何者の力とも無くて、今なほ田舍者を笑ひ得るまでの、一つの都市語として存立して居るといふことも、考へて見ると不思議な現象である。彼の疑問が明かになるならば、是の法則もやがて推究し得られるかも知れない。乃ち北海道の方言異同を調べるといふことは、獨り此土地のみの興味(339)では無いのである。
 北海道で生れた移住民の子や孫の、語音が行く/\どうなるかといふことも、私には有益な實驗だと思へる。調査の結果は勿論容易に豫言し得るもので無いが、少なくとも隣同志、永くちがつた音韻を守つて、附合つて行けるもので無からうと私は想像する。さうで無いのが我々のかねて抱いて居る「隣」といふものゝ定義だからである。學校の中の共同生活、もしくは外國で大きくなつた日本人の外語發音などが、可なり有力に此推論を支持する。北海道の所謂土音が、複雜煩瑣なる東北地方の舊習を厭はず、東京以南の近代式簡易化に追隨せず、又必ずしも土地毎の多數に捲込まれて、發音の地方差を生じても居らぬことは、甚だ不思議なやうに感じて來たが、私は耳が良くないから斷言はまだしない。是も何等かの確かな方法を以て、彼地に標準語以外の母子音の數が、まだどれだけ傳はつて居るかといふことゝ共に、それを新たに學び添へた人々が、どの位有るかを調べて見たいものである。服部四郎君の年頃心を傾けて居らるゝアクセントの現象も、爰では理論上大變に錯雜して居なければならぬ筈だが、私の經驗ではそれが意外に統一して居るやうに思へた。たとへば新來者の上方訛り、もしくは九州風の物のいひ方が、時に耳に立つて聽えたのは、多分他の多數が大體に揃つて居るからだらうと思はれた。但し私などの今までの考へ方では、日本語の所謂アクセントが、果して一語々々に就て、生じたものかどうかにはまだ疑問がある。しかも一つの句なり文なりを、言ひ出す方式には九州と奧州等、それ/”\に著しい差異があつて、是が其文句を構成する單語を、ちがへて暗記させることは爭はれないのである。最近に隱岐の島後をあるいて居て、村の女や子供の物のいひ方の、薩摩と似て居るには?驚かされた。其癖近よつて聽くと個々の單語は、大部分が對岸の出雲よりも、一段と上方に近いのであつた。此現象はまだ記述する手段が無いかと思ふが、北海道に於てもやはり是と同じやうに、單語には多くの標準語を使つて居る場合にも、音表現は頗る東北地方、殊に津輕と似て居るやうに感じられたのである。
 私の稍大膽なる假定では、是は單語や音韻と切離して、寧ろ句法や文體論の側から、考察して見るべきもので無(340)いかと思つて居る。少なくとも人がさういふ物言ひを採擇した動機は、兩者一つであり、或は不可分で無いかとさへ思ふのである。即ち何が最も效果多く、又如何にすれば相手を強く動かし得るかといふ考慮が、幾つかある方式の取捨を決せしめるので、永年慣行となり他には比べるべきものも無い地方ならば、自然に是に依據することが最良の途であるけれども、北海道の如く色々の地方から、違つた用語句法の輻湊する土地では、可なり敏活に其優勝劣敗が行はれて、事實多くの人の有力と感じたものに、傾いて行くのでは無いかと思ふ。もしも斯ういふ假定がすぐに覆へつてしまはぬとすれば、是も亦頗る重大なる實驗と言ふべきである。所謂正しい文法は實は文章の上の問題であつた。言語の第一次の用途は相手を動かすことで、それが偶然に法則に合ひ、もしくは法則を生み出すは格別、そんなことを考へつゝ物を言つて居る者は、教師以外には無いのである。しかもその無意識の制約内に於て、心を表はす樣式が幾通りもあつたとすれば、人々の選擇は永い間に、おのづから歸一する所があるべきで、是が又將來新たなる今一段と細かい法則を指示することになると思ふ。北海道のやうな自由なる群居地で、何の干渉も受けずに決定して行くものがあつたとすれば、それは有力なる我々の參考資料で、行く/\是によつて物はどういふ風に言ふのが有利であるかを、考へさせる手掛りにはなると思ふ。
 一つの例證を心付いたから述べて置きたい。日本の文章と談話との顯著なる一差別は、ネエといふ妙な挿入語の有無である。同じ演説でもネエを挿むと話らしくなり、是を入れまいとすると朗讀見たやうに聽える。中古以前の文學には無いから新らしく社會に生れたものかと思ふと、それにしては餘りに全國によく行渡つて居る。ネエの無い處にはナアがありノウが有り、或は念入りにナモシ・ノンシ、もしくはネエアナタと言はなければ氣の濟まぬ人もある。つまりは相手に耳を傾けさせねば止まぬ手段、歐羅巴の諸國語でやたらに相手の名を呼び、然らずばムシウだのシニヨレだのを連發するのと目途は一つだと見えて、日本の方ではその呼び掛けが少ない。ネエを程よく加へ又適切な場所に、長短高低して使用する人が、我々の中では話上手と言はれる。他處から來た者の土地の語を學ぶといふのも、(341)大體は此方面から入つて行くやうであり、各地の差異といふものも此中から認められて居る。時には耳ざはりであるが、我々の交通には大切な小道具だ。是まで述べて置いてから、さて北海道のナの用法にもう一度考慮を拂ふと、隣接地域では津輕にも、南部にも乃至秋田山形にもそれ/”\のナ又はナシがあつて、互ひに可なりの地方的差異はあるのだが、北海道の句法は網走でも厚岸でも函館でも、共に著しく津輕のナと似て居る。それが我々の耳に平凡には聽えぬもので、所謂アクセントは何れの土地よりも尻揚がりであり、又極めて輕く短かい。斯んな流行は勿論蠣崎氏の歴史では説明し難いと共に、又單なる偶然をも理由とはなし得ない。ナスやノンシの方々の國人が、めい/\異なるものゝ共進會も續けられず、何れか一つにきめるといふことになつて、結局は己を空しうして是に入札したものと見るより他は無い。勿論此類の採擇には強ひて一地方に偏することは無からうが、大體に津輕は音韻も煩雜で、又幾つかの所謂訛音があり、方言の單語にも下品と評してよいものが少しはあるが、物のいひ方もしくは句のこしらへ方には、此地特有の直截と率直さとがある。それが事實に於て能く人を動かし得た經驗が積まれて、彼等の少しも來て住まぬ土地までに、其風化は及んだものと思はれる。但し私だけはさう想像して居るが、果して現實はどうなつて居るだらうか。それを調べる方法は確かに有るのである。即ち以前の私たちのやうに、是を亂難なものと速斷してしまはずに、細かに土地々々の成立ちから、行付いた今日の結果までを辿つて見て、それをあちこちと比較すればよいのである。民俗心理の部面に於ても、はた又私經濟の成長に關しても、爰が一つの實驗場であつたやうに、是からの北海道の方言の調査者は、大きな寄與を我々の國語教育の上になし得る。事實日本の言語學には鍵の見付からない奧の扉がまだ有るのである。
 
(342)  採集と觀測
 
     一
 
 東條教授などは、近年方言集類の印刷公刊せられるものゝ多きを見て、直ちに方言研究の進歩の足音を聽くやうに喜んで居られるが、少し私には樂觀に失する如く感じられる。是は機運といふよりも、たゞ一種の流行かも知れない。又今後の學徒が之を利用し得るか否かによつて、事業のねうちは始めて決するのであるが、それはまだ些しでも證明せられて居らぬやうに思ふ。自然科學の方でも前例が有る如く、採集してさて何にしようといふ目的の無い人たちの、餘り乘氣になり過ぎるのはさう有難いことで無い。當人の勞苦が酬いられぬ爲に、倦んで  屡々反動の冷淡に陷るのは已むを得ぬとしても、仕事に手戻りがあつて、もう一度之を檢めて見ようとする場合に、既に誰かゞ採集した土地は必ず荒れて居る。習俗や口碑は、大抵は心づいた時が消える時である。言語現象はそれ程でも無いが、やはり多くの人が採集に干與すると、其際を堺に古いものを古いと意識して、自然に遠さかつて行くやうな傾向は見える。此損失も亦警戒せられなければならぬ。故に幸ひにして方言の採集が流行するならば、出來るだけそれを有效な、又後悔の無いものにして置く必要があるのである。
 今日の採集に對する我々の不滿は、まだ多くの大切な區域が、省みずに久しく殘されて居ることである。さうして折角志ある人々の勞苦が、無益に一つ處へ偏より注がれて居ることである。動植物などの採集には決して其樣なこと(343)は無いが、方言だけにはなほ何處ででも收穫は同じだと思ふやうな、迷信が殘つて居るらしい。是は誠に氣遣はしい失望のもとである。言葉が活きて榮えて居る土地に出て摘み採るのと、こちらへ取寄せて見たのとでは大きな違ひであるが、是まで集まつた方言集の中には、町に居る人の筆録したものが少なくない。同じ一つの遠方の縣でも、汽車の通つて居る區域だけは、この二三十年間に著しく改まり、假に標準語化せぬまでも混淆は常の?態である。多くの縣郡の方言集は、それを一國としておもに其中心地の事實を掲げ、それでもう其地方だけは採集が濟んだやうな感を與へて居るのであるが、さやうな府縣すらも實際はまだ國の半分にも達して居らぬ。日本の言語調査に取つては、大きな財産である所の數百の離島、高い山嶺を以て隔てられた千以上の小盆地が、先づ悉くと言つてもよい位に打棄ててあつて、それで方言集が算へ切れぬほど出るのだから、採集は確かに一方に偏して居るわけである。
 
     二
 
 中には又採集とは名づくる能はざるものも出て居る。自身一度も其語を耳にしたことは無く、單に文書を寄せ集めて整理したものは、其際に既に滑稽なる誤讀が有り得る。日本の片假名にはレとシとンとのやうな間違ひ易いものが幾つかある。表音法もまだ一般的に定まつて居ない。それを活字に付して別人が校正すれば、誤讀を生ずるのも致し方が無い。それをもう一度謄寫版に付したり、元の通りを檢査もせずに轉載したりするものが、無いよりはましといふ以上の、讃辭を以て迎へ難いのは當然である。
 それでもまだ出處を明記し、疑ひを存して公けにしたものならば、其意味に於ての參考用には十分であるが、もう少し惡いのは自分の少々の採集の中へ、時も相手も丸で異なつたものを、交へ加へて知らぬ顔をして居るのがある。明治三十年代以後の方言集は、他に新たなものゝ出て來ない地方だけは、致し方が無いから之を現在の事實の如く、私たちも取扱はうとして居る。しかしそれから今日までの約三十年は、最も變化の多い、孫が祖父となる期間であつ(344)た。さうして又我々の殊に知らねばならぬ國語の最近世史でもあつた。其史料の新舊の混同は、研究心のある者ならば斷じて敢てせぬことであるが、是をしも忍んでする樣な方言集の流行である。果して好機運とばかり、慶して安んじて居られるであらうかどうか。
 だから眞面目な採集者に向つては、是非とも今一層の感謝と聲援とが與へられなければならぬのである。さうして其辛苦を少しでも無駄が無く、又張合ひと興味との多いものにする必要があるのである。政府が澤山の金と人の手を掛けてすら、まだあれほどの遺漏を免れなかつた事業を、民間篤志の人だけの力で完成しようといふのには、其用意が是ではまだ十分と言はれない。人間の根氣嗜好には限りがある。第一に是では餘りにも機械的な勞が多過ぎて、自然その熱心を弘い地域に及ぼす餘裕が無くなる。それには先づ以て必要なる採集といふものが、決して無盡藏ではないといふことを、明かにする必要があると思ふ。地方言語の特徴の如きは、たとへ交通の不完全であつた僻村でも、さう何百種といふほども變つて居るものでは無い。それが始めての人に片端から、別の言葉である樣な感を與へるのは、單語語法の差と語音の轉訛とが、混雜して分界を見出しにくい故である。訛音の現象にも或語或場合だけに、特別のものがあるかも知れぬから、全部を法則に抽いて省略してしまふことも出來まいが、是には實は始めから、單なる手帳鉛筆の力では處理し難く、少なくとも別途の考察を要するものもあつたのである。ところが多くの綿密なる採集者は、方言と訛語との見分けを危ながつて、只拾へるまゝに判り切つたなまり迄を列記する。是には勿論言葉の數の、多きを深しと認められるやうな、外部の思わくも手傳つて居るかと思ふが、實は其爲に至つて大切な特殊現象が、砂原の砂金ほどの印象も無しに、其中に埋もれることになるのである。是は最初整理の責任も負ひ得ぬ者が、たゞ何でもかでも集められるだけ集めて來るやうに、激勵した弊害の殘りである。或は又初期の訛音撲滅運動が、只徒らに注意を此方面に引付けた結果かも知れぬ。兎に角に中央に是だけ調べれば十分といふ統一方針が立たぬならば、責めては一つ/\の語に就てでも、集めて何にするかといふ目的だけを理解させるやうに、心がけるとよかつたのである。(345)さうで無くても量を貪りたがるのは採集者の弱點であるのに、今までの要望は幾分か空漠に失して居た。其爲に却つて適切なる調査の、行屆かぬ憾みがあつたとすれば、それこそ此機運に乘じて一轉囘の策を講ずべきである。
 
     三
 
 單語の集録にはこの一律なる訛音の混入の外に、今一つの誤解が累ひを爲して居る。それは各土地の方言が、必ず莫大なる異色を具へて居るだらうといふ豫斷であるが、此點は僅かばかり比較が進んで來れば、自然に消散すべき原因であるから、必ずしも強ひて説き立てることを要しない。たゞ問題となるのは將來の採集者を、果して純然たる土地の居住者中より物色するがよいか、或は又用意ある旅人もしくは寄寓者をして、其任に當らしめるがよいかといふことである。私の意見を最初に言ふと、差當りは外から入つた人の方が、態度さへ輕薄で無ければ、氣の利いた採集を爲し得ることは確かだが、彼等には氣の付かぬ位に微妙なる言語現象のみが、實は今日では隅々にかくれて傳はつて居るので、從つて其見落しを尠なくする爲には、是非ともその地元、少なくとも是と隣接した土地の人達に、豫め採集者としての素地を養つてかゝつてもらふ必要があると思ふのである。此點は「國語教育」の讀者には共鳴して下さる人が多いことゝ信ずる。我々が斯くまでの熱心を以て、日本語の永い歴史、それが現在遭遇して居る數々の幸運と厄難を詳かにせんとするのも、單に言語學の純理に寄與せんとするはかない野心からでは無い。有りやうは各自の母語の周到なる意識によつて、今一層未來と前代との生活連鎖を確實ならしめたいからであつて、それに直接の關心を持ち得る者は、臨時に外から來て暫く住まつて居らうとする者で無いからである。しかも今日の實?に於ては、土地に生れた人たちが、最も多く方言に對する誤まれる想像を抱いて居る。是は以前に我々が住む村の生活を以て、各自全國普通の型なるが如く、信じ切つて居た反動かも知れず、或は中央が輕はずみに、何でも新らしいものは自分ばかりと、得意になつて居た影響かも知れぬが、兎に角に田舍では、言葉は片端から匡正の力を以て、消えて無くなる(346)ものゝ如き豫想を有し、從つて比較もして見ずに自分たちの言葉は、悉く珍らしい方言訛語だと思つて居る者が多いのである。我々が出逢つた幾つかの方言集には、半分近くも東京で使つて居る語彙を載せて、たくさん集めたと思つて居る者がある。最近に手に接した中國の或島の方言中には、大阪神戸の近頃の俗語を、さも物々しく詳解したものがあつた。これを我土地ばかりの特徴と信ずるのも、一つの興味ある事實であり、又ある新語や表示法の、分布が爰に及ぶといふことも知つて居て惡いことは無いが、今日の標準語化時代に、それを一々注意して居ては、他のもつと重要なる調査に、手の屆かなくなる懸念はまさしく有る。是は何としても方言とは如何なるもの、それを我々が記録したいといふ趣旨が、そも/\何に在るかを明白にすべき時機と言はねばならぬ。
 所謂方言研究の機運が、私たちの夢みつゝある如く、漸を以て邊隅離島の忘れられたる地域に及び、同時に又消えて滅びるものが片端から、少なくとも記録に其痕跡を保存してくれるものならば、必ずしも斯樣な憎まれ口を叩くにも及ばぬが、事實はこの比較的必要で無い勞作に力を入れる爲に、古いゴム鞠の如く他の一面がへこんで居るのである。人に是以上のふくらみを要求するが無理ならば、その餘つた努力だけは、もつと大切な方へ振向けて見たい。それにはたゞ準備事業の手廣さを感歎せずに、一歩踏み込んで其能率功程の大小を批判し、新たなる共同の殿堂の爲に、此方から進んで用材の供與を求むべきであるまいか。
 
     四
 
 綿密なる調査を、語數の多いことゝ解した結果は、獨り無益の辛勞を人に強ひたのみで無く、時としては又解説の精確をさへ御留守にさせて居る。一番氣がゝりな近頃の傾向は、方言には悉く標準語の對譯が、有るかとでも思つて居るらしい人の多いことである。是は明治時代の方言調査、即ち標準語の制定を企劃した人たちでも、決して豫想して居なかつた事實である上に、誰しもほんの少しばかり地方の言語事實に親しんで見れば、直ぐに考へなければなら(347)ぬことであるに拘らず、調査者に方言は滅ぼすべきものといふ初一念があつた爲に、無理をしても稍近い對話を是に引付けたのみか、譯の發見しにくい言語の採集を、後まはしにしようとした人さへ出來た。斯ういふ簡単で無い言葉こそ、特に先づ注意して其意味を會得する必要が有つたのである。我々は日本の言語改革が急激で、稍書册の臭氣がきつい爲に、是を實地の用に立てるのに少なからぬ不便を感じて居る。假に全然同一内容の單語が二つ以上あつたからとて、知つて使ふ以上は聊かも差支へ無いと思つて居る。どこの國でも文章を書き易く、響きに色々の變化を持たせる爲には、努めて多數の同義語を貯藏して、語彙を豐富にしようとして居るのである。急いで其一つを忘れてしまはうとすることからが、既に不利益な話だと私などは思つて居る。ましてや假令僅かなりとも心持に違ひのある別の語を、品質も吟味せずに廢止させようとすることは、無法であるのみか實は出來ない企てでもあつたのである。
 私が最も早く經驗して居る一事は、日本の地名は少なくとも一千萬以上、種類にしても何千種とあるのに、不思議に其大部分が意味不可解で、一見殆と日本の語を以て作つたもので無いやうな感じがする。よくアイヌ語だの馬來語だのを以て説明して得々たる人もあるが、それは我々がアイヌ馬來人の後裔であつても、他の言葉がすべて日本語を話して居る以上は、其引繼ぎは想像し難いことであり、假に久しく彼等と雜居して學んだといふならば、地名は其多くがその大昔のものだといふことになる。それでも幸ひによい地圖の出來たのを利用し、もしくは土地の人に尋ねて、地形と地名とを引當てゝ見ると、其一部分は共通に、同じ地物を意味する普通名詞であることが多いのである。山陽でエギ・ニゴと謂ひ、山陰でシノトと謂ひ、東國でクテ・クゴ・フケ・アクツなどゝ謂ふ類の地名は、必ずしも左樣な面倒な歸納法を用ゐずとも、土地の人たちが普通名詞として是を使つて居る。其數はざつと百ほどもあり、何れも日本が流石土地利用の精密な國がらだけに、よくも特徴を捉へて明確に表示したと思ふものばかりである。然るに京都の家つゞきの町中に住んで滅多に旅行せぬ人には、そんな語は入用が無い。倭名鈔に列記した地形名は既に乏しいが、後世の歌文には又其三分の一も使はず、たま/\入用があれば山篇土篇の漢字を見つけて使つて居る。地理の學(348)問が大いに進むに際しては、間に合ふならばこの古い方を復活して使ふのがよかつたのである。然るに陸軍が發頭人となつて、外國の言葉を支那でも驚くやうな漢語に譯して、それを強制して標準語としたのであつた。其御蔭に暗記に骨が折れて、用が無くなると皆大急ぎで忘れる。そんなにしてまで方言を日蔭者にしなければならぬ理由は何處に在つたかといふと、寧ろ言葉を新設する權能のある者が、地方の實際を知らなかつたといふ以上に何も無い。ところが現在は兎に角にもう知つて居るのである。何も將來にわたつて迄、その知らなかつた時代の眞似をする必要は無い。標準語は最初中央で最も正しいもの、もしくは最も快きものを選定して、之を行はうといふ計畫もあつたか知らぬが、今日ではそれは中止して、國民多數の自由なる趨向に任せてあるのである。苟くも現在の國語の調査に當らうとする者が、最も入用の多かるべき言葉と用法とを、後まはしにするといふことは無いわけであるが、是も標準語の對譯に由つて、索引を作つて見ようとするやうなつまらぬ念慮のために、結局は言葉が消えるとその内容まで朧になるかも知れぬほど、大切な古語ばかりを却つて冷淡にして、手を下し得なかつたのである。
 
     五
 
 此意味からいふと、現在普通の採集手段、即ち質問應答の樣式だけでは、何としてたまだ心もと無いところがある。手に執り畫に描いて是は何といふかを尋ねることの出來る有體物でも、問ふ者がもし知らなければそれだけは必ず落ちるし、地方其他の田舍にばかりあつて、標準語のまだ考へなかつたものは聞きやうが無い。それから此方法には中間に是非とも一人、二つを兼ね知る者の介在を要するのだが、それは土地居住者にも旅人にも可なり六つかしい條件であつて、常に期待するわけには行かぬ。しかし此方の仕事は何と言つてもまだ樂で、名前が物に伴なうて必ず存する限りは、棄てゝ自然の統一に放任して置いても、實は格別の差し障りは無く、又幾分か地方の情調を樂しむ爲に、わざと殘して置かうとする試みがあつても、滅多に誤解の不便を感ずるといふことは無いのである。
(349) 之に反して國内日常の交通の爲に、實際相互の理解の急務であるのは、物を前に置いて同一を確認する途の無い言葉、即ち無形名詞の大部分と、之に伴なふ動詞形容詞の若干である。我々常民の感覺が精緻を加へ、内部生活の經驗が複雜になつて行くと共に、此類の單語は幾らあつても足りなかつたにも拘らず、實は我邦では手本を示すべき人々が、何かと言ふと直ぐに文學の語を使用した爲に、形容詞の數などは實際に行はれるものが、何れの文明國と比べても遙かに少なくなつた。動詞にはカットバスとかツッパナスとかいふ類の下品な添へ言葉をして、漸くのことで必要に應じて居た。名詞の方でも一部の代用品が幅をきかした結果、殆と民度に應じきれぬといふ程の幼稚さを以て辛抱して來たのみか、地方は往々にして獨立して自由なる改造を加へ、現在では全く之を一般の通用に供し難くして居る。だから標準語がもし統一の任務を完くしようとするならば、一日も早く十分豐富な語彙を制定して、之が採用を勸誘すべきであつた。ところが實際は新たに設くる語はさう多くを望むことが出來ず、たつた一つか二つの語によつて複雜極まる心意の?態を、上品に表白せしめようとしたのであつた。號令の行はれないのは寧ろ自然である。しかも我々は餘りにも從順であつて、甘んじてこの簡單なるものに自身を嵌め込まうとした爲に、日本人は?にはなり得ずして、しば/\思はぬことを言ふ國民とならうとして居るのである。
 言語が小兒の成長する時代のやうに、内に在る要求よりも豐かに供給せらるゝといふ國は、日本で無くともさう多くは無いかも知れぬ。いつも不足を感じて居る間に、自然に六つかしい新語を學習して、國の言葉は豐富になつて行くのだから、是も痛切なる一つの誘導手段かも知れぬが、現在の如きは既に度を過ぎて居る。此方面に於ける所謂雅語の壓迫は、必ずしも明治文化の餘波のみでは無かつた。其以前とても我々は少しく與へられて、多くの古いものを投げ出させられた上に、強ひて之を守らうとしても、それが既に入用の全部を蔽ふことを得なかつたのである。つまりは日常の俗語の補給といふものを、してくれる源が久しく涸れて居たのである。以前總括してやゝ廣い心意の動きを言ひ表はして居た一語を、言葉の普通の法則に從うて、追々に限定した意味に使ふやうになると、其殘りの部分に(350)はもう適當な言葉が無くて、不自由を感じて居たのである。たとへはウトマシイはウトムといふ詞がもとで、本來はウといふ音が思はず知らず出るやうな一切の場合を形容したのかと思ふが、それでは効果が弱いので、土地によつては悲しい時、又他の土地では人の身の上に同情する時、或は困つたものだと思ふ時に用ゐ、更に轉じては賛成し難い擧動から、後には贈與の謝禮の語として、そんなことをするのは無用だといふ心を表はす者さへあつた。斯う區々になつては幾ら古語でも、もう復活は困難である。又ヅクといふ無形名詞は、日本の東半分ではどこにも用ゐられ、本來は男子の美徳の總體を意味した語らしいが、近世はヅクナシといふ消極の場合を主として、それが甲信では働かぬ者のこと、會津越後では才覺の足らぬ者、奧羽の果に行くと勇氣の無い者をさすやうになつた。ヅツナイといふ語もそれから分れたかと思ふが、此方は又主觀的に疲れた苦しい貧しいまでを、土地毎にちがへて表示して居るから一致は望み難い。しかも此二語ともに、以前は包容して居て後には外へ出した他の意味を、表はす代りの語は殘して來なかつたので、折角單語としては進化しても、地方語全體としてはそれだけ貧しくなつて居るのである。
 
     六
 
 ところが農村ばかりはつい此頃まで、斯ういふ言葉の貧苦にも堪へる力を有つて居た。市に立逢ふ通りがゝりの彌次馬でも、目顔で物の心は半ば以上汲み得られるのに、是は久しい間一つ境遇に養はれ、又眼前共同の題目を説くのであつた。感が深ければたゞ一聲の感投詞でも間に合ひ、よい言葉が無ければ似寄つた語の有合せを使つても、結構仲間だけは理解することが出來た。私の家では以前相州の或村の共有地を買取つて住んで居たが、依然として村の女たちが、圍ひを越えて松葉を掻きに來るので困つた。ある時も女中が之を制止すると、その歸つて行く棄てぜりふに、「なまぢや食へないや」と言つて行つた。實に不精確極まる物の言ひ方ではあつたが、それでも此地面が自分たちの臺所に無くてはならぬものであつたのを、自分たちに斷り無しに賣つてしまつたのだといふ心持だけは、他所者の私(351)にもよくわかつた。それで不完全な古語の殘りで、どうやら用を足して居た事情もほゞ氣づいたのである。
 しかし今日ではもうそんなことを言つて居ると、それはどういふ意味かと、知りつゝも詰問する人ばかり多くなつた。村で所謂顔を見合はせつゝ、ぽつ/\と用ゐて居た言葉では、どうにも致し方の無い交渉が日に加はり、從つて俗に「口のきける」といふ者が、前面に出て時めく時代が來たのである。此連中の人中での修辭法は、教育が甚だ變則であつた。殆と人の口眞似ばかりを能事として居る。武家時代の各藩の使ひ番、又は御留守居などゝいふ者は、罷りまちがへば腹を切らねばならぬ程、大切な利害を代表して居たから、改まつたよそ行きの言葉なども實質から研究して居たのであるが、村では以前から口上には因習で定まつたものがあり、それも若い頃に何度か親主人より口寫しに教へられて、暗記を詮として居た故に、其惰性が今も殘つて居る。殊に演説などゝいふものが新たに行はれて、人の是を視ること説教軍談の如くであつた結果は、晴の物言ひは音響が大事で、いふことは必ずしも自分の常の心の中で無くてもよいといふ考へが、可なり今は蔓つて居るらしい。しかうして標準語の普及運動は、不幸にもちやうど是と時を同じうしたのである。
 だからカカトをキビスと謂ひ、フクラッパギをコムラと改めるやうな、有體名詞の内容は同一のものならば弊も無いが、形容詞や無形名詞などの、果して新舊等しいか否かを確め難いものは、よそ行きの語に於ては言葉を選むと共に、時としては思はぬことを謂ひ、乃至は不適當極まる新語を使つて居たのである。是が小兒などの覺えたての如く、あまりに頓珍漢なものは片言として人が笑ふが、互ひに知らずに濟む位の行きちがひはざらに有り、さりとてよほど腹のある者で無いと、晴れの席上に於て土語をまじへて迄も、實感を表現しようとする者は無かつた。所謂標準語普及の背後には、あはれや此の如き悲劇が潜んで居たのである。今日の地方青年に、言葉を覺えると直ぐ用ゐたがり、單に其音調の壯烈高尚なるを喜んで、それが自分たちの言はんとするものなるか否かを二の次にし、強ひて内外の不一致を指摘すれば、片意地に自己の表情を前言に殉じようとする者が出來たのは、實はこの代用の不精確に基づいて(352)居る。過渡期にはそれも止むを得ぬと言つて居るうちに、弊風は可なり忍ぶべからざる處に及んだ。地方人の爲に國語の教育を與へんといふ志の有る人だけは、責めては先づこの二通りの用語を觀測し、當人の内の需要と外の發表手段の、ひたと喰ひ合つて居るか否かを究める義務がある。即ち對譯を豫め掲げて、通信質問によつて無形語を採集するやうな今までの方法に、異議を挿んで然るべきである。
 
     七
 
 話が餘りに長くなるから、後段を幾分切りちゞめる。私が現在の方言採集法によつて語法の比較研究を開始するに躊躇する理由は、亂雜なる訛語の羅列に基づいて、音韻の變化を調べようとしなかつた理由よりも強い。今ある方法を用ゐて居る限りは、恐らくまだいつになつても、日本人の物言ひは通例どういふ形を好み擇ばうとしたか、將來又どう之を改めて行くことが、最も交通を有效ならしむる途なるかを、歸納推論することは無理である。是は是非とも別に方言を主とし、標準語の之を寫すに足るや否やを、試みる調査から始めなければならぬ。それは勿論迂遠なる待遠しさだ。しかも繩が無ければ泥棒をつかまへてからだつて綯はねばならぬ。
 動詞や形容詞の學校で教へられたものが、多くの實際の感覺を代表せず、これを別途の靜かな時の用語とし、髭でも生えた人の前で使ふものとして居る事情は、まあ此次の折にでも詳しく述べてよいが、目下私の最も氣づかつて居るのは、日本語の大きな一つの特徴として、永年成長して來た敬語の用法が、地方で混亂したゞけで無く、標準語でも滅茶になつて來かゝつたことである。同じ一家の中でも親子兄弟の間毎に言葉がちがひ、貴人に幾段かの段階があるなどは、行く/\無くなつても致し方が無いが、それは我々が意識しての上の話である。曾て其樣な形が神と人、親と子もしくは他郷人との間等に、色々の微妙な差別を立てゝ居たことを、少しも注意せず記録せずに、空漠の向ふに送り込むのは智誠の敵である。一かど有識ぶつた階級の者が、友人の宴會に「おかせられては」を連發したり、又(353)は知らない人ならば見境も無く、「いたゞく」「おつしやる」を進呈するのを見ると、私たちは?一體どうする積りだと問ひたくなる。地方の語法には藤原相之助氏も曾て説かれた如く、全然標準語論者に無視せられる幾種かの敬語が、土地々々で久しく適切に用ゐられて居た。沖繩を中心とした諸島の間だけでも、私の知る限り既に三通りの全く別系のものがある。内地の方にも紀州などはやゝ奄美大島などゝ近く、その他九州にも東北にも又中國にも、それ/”\の特色をもつた形が傳はつて居るのは、何れもその發生の時代の事情を語るものであつた。對譯式國語教授法には、往々にしてこの微細の差別を見遁したものがある。其爲に人に對して自分の家の者の話を、オッカサンガクダサイマシタなどゝ謂つて、平然たる紳士をすら生じたのである。一言を以て斷ずるならば、現在の方言觀察はなつて居ない。
 東條教授の六十種會話は、?採集者の調査に利用して居る所のものであるが、是に向つての地方句法は、やゝ自由自在に報告せられて居る。最近に私が托された中部地方の某郡の採集手帖は、二十何筋あつて此語の對譯が十二三通りあつた。其一々がそれ/”\の似合はしい場合に、仕別けて使はれて居るのなら、其郡の人は幸福だが、恐らくは多數は常用のもので無いのだらう。この質問の題になつた六十句には、各條何人が誰に向つて語るのかを、推測せしめるだけの用意があつたにも拘らず、答は格別にそれを念頭に置いて居ない。新たに標準語を學ぶ者が、中央の敬語變化に無關心なのか、もつと惡ければ地方の敬語そのものが既に亂れかゝつて居るのである。
 日本語の語法なるものを知らうとするならば、終始人と人との關係に留意し、採集には先づ平等の友人同士のものを掲げて、次にその上下の變化を見なければならぬ。それに對して安心してよい樣な資料は、私にはどうしても得られぬから、何としても手が付かぬのである。最近に九州北邊の島々をあるいて、私はもう方言の表面採集が、既に不可能になつたことを痛感して來た。考古學でいふならば計畫ある發掘事業の如きものに、入つて行くべき時期だといふことを推論せざるを得なかつた。しかもその學術的作業を、強ひて問ひもしくは作つて答へしめることだと解せられる危險は更に多い。そこで私の語法調査の案といふのは、先づ採集の地域を見立て、次には大體の目的を立て、し(354)かも採集は人の不用意の會話から、實際用ゐて居るもの即ち活きて居る言葉を、前後の續きと共に覺えて來ることだと思つて居る。斯ういふ手數なことは急に成績を得にくいから、今ある方法の代りにはならぬやうだが、土地に育つた人ならば永い月日の記憶中に、自然耳で聽いたものゝ若干が留まつて居るだらう。責めてはさういふものでも出來るだけ正しく列記して、比較研究の人々にもう少し安心な資料を與へると共に、各人自分の國語の恩惠を、もつと具體的に感得する機會を作りたいものである。純然たる單語篇の大册が、たゞ一部にしか效果の無いといふことは、今後此學問の爲に最も多く働くべき人が、是非とも勇氣を以て斷言すべき事實では無からうか。
 
(355) 方言と昔
 
(357)     序
 
 朝日新聞と自分との關係は、折が有つたら書き付けて置きたいと思つて居たところだつた。社員として働いたのは、大正十三年の春から昭和七年まで、丸八年と少しに過ぎぬけれども、その以前にも客員といふ時代がなほ四年ばかりある。紀行を新聞に出すといふ條件で、社から旅費をもらつて、大きな旅行をしようといふのが私の計畫であつた。最初の約束は國内に一年半、それから南洋の島々を又一年半、あるかせてくれることになつて居たのだが、急に國際連盟に行けと言はれ、老社長も親も共々に勸められるので、つい氣がかはつて、惜しい事業を打切つてしまつた。西洋での見聞も有益だつたとは言へるが、今になつて考へて見ると、あのまゝ旅行を續けて居た方が、自分の爲にも又世の中の爲にも、よかつたやうに思はれる。と言つて見たところで、それもやつぱり當てにはならない。
 大震災の直後に、いそいで還つて來てそれから社に入つた。居心地はちつとも惡くなかつたが、困つたことには仕事の見當が付かない。やはり中年者には新聞のセンスといふやつが身に副はぬのだと感じて、相すまぬわけだが、出來るだけ書かぬ算段ばかりして居た。雜文書きといふ尊稱を受けたことは殘念だつたが、實際にさういふものしか殘つても居ないのである。今度の朝日文庫の企畫に際して、何か少しでも記念になるものをと思つて捜して見ても、をかしいほど堂々たるものが乏しい。長命をして斯樣な世に遭ふことも豫定の外であり、又新聞がもと/\さう遠い未來の讀者に、物言ひかけようとするものでは無いのだから、是も先づ致し方のないことゝ見なければなるまい。
 そこで色々と評定の末、いくらか纏まつて居て、あの頃にはやゝ注意せられ、又後々僅かづゝでも展開して、(358)今もまだ折々は話頭に上るやうな題目を取扱つたものを、四つだけ拾ひ出して置くことにした。興味は主として四半世紀以前、それでも是だけのことはもう判つて居たのかといふ點に在るのだから、本人には少々氣の毒だけれども、當時の形のまゝで改訂を加へぬ方がよいと思ふ。自身に解題を書くといふのは珍らしいことで、精確この上無しといふ印象を人に與へるであらうが、それも實はまだ受合ふことが出來ない。久しく思ひ出さずに居たのでうろんな節もあり、又少しは言ひわけをするかも知れぬからである。
 
(359)     牛ことば
 
 つい鼻の先の小さな問題で、今まで何人も顧みなかつたものゝ中から、まだ色々の昔の生活、殊に我々の祖先の心持を、尋ねて見ることが出來る。方言はほんのその一例である。
 諸君の郷里が牛を飼ふ土地ならば、必ず耳にせずには居られなかつたらう。人間が牛と話をする特別の言葉が、少なくとも五つはある。たれが全體その牛言葉をきめたものか。問題の一つはこれである。
 牛はぐず/\するものだ。故に「前へ進め」といふ語がまづ必要である。中國は一般に馬にいふと同じに、シイといつてをるらしいが、九州に行くと豐後の國東でも、壹岐の島でもホイ、またはホイホイである。
 止れといふ時には馬のやうにドウドウとは概していはない。九州ではワア、山陰山陽ではバアバアである。だから小兒が牛のことをバアと呼んでをる。他の田舍では何といつて牛を止めるか知りたいと思ふ。
 大分縣の日田などでは、後へ下れといふ場合に、ゼレとかゼロとかいつてをる。備中小田郡などではザレである。これは多分シヤレ即ち「しされ」といふ人言葉を、少し粗末にして應用したものと思ふが、次に擧げる二つなどは全く牛專門である。
 どうして牛の子が、この語を學ぶかは第二の問題である。朝鮮から來るあめ牛なども、やはりこの言葉を解して、從順に働いて居るのである。
 田を耕す場合にもつとも必要な言葉は、右へ回れ、左へ回れの二語である。もしその意味が牛に通じなかつたら、時には隣の地面へ入つて行くかも知れぬ。何となれば牛には土地所有權の思想が無いからである。
 
(360)     牛語の右左
 
 馬を御するには二本の綱があるから、中央に居てその綱を引けば無言でもよろしい。これに反して、半の綱は右一本だ。誤解して右へ曲らうとする牛を、注意してやるには言語が入用であつた。
 無慈悲なる牛使ひはこんな場合に、細い枝などで牛の左の尻を打つのだ。故にあるひは牛の側の解釋としては、左方へといふ言葉は「尻の痛い前觸れ」、もしくは「こちらへ囘らぬと打たれること」を意味して居るのかも知れぬ。但しそれには極めて明らかに、牛のあの耳によく響く語音で無ければならぬのは無論である。また一切の我々の言語の如く、一度きめたからはやたらに變更せぬことも必要で、從つて昔の言葉が永く殘るのである。
 表に作つて置くから、段々に追加をしてもらひたい。
               (左へ)      (右へ)
  壹岐島          ハシ        タタ
  備中西部         アシ        ?
  同 東部         アセ        シケェ
  豐  州         サシ        ゼー(セー)
  紀州南部         サセ        ヘウセ(ヘセ)
 足利時代にも既にサセ、ヘウセといつて居たと見える。續狂言記の「牛馬」といふ狂言にも、馬博勞が競走して、どう/\/\さァ勝つたりといふと、牛博勞はサセイホウセイといつて牛を追ふのである。恐らく中世の繪卷物にある牛車の童子なども、畫ではわからぬが、同じ言葉を用ゐたことであらうと思ふ。
(361) 東北地方は近年まで、水田に牛を使はなかつたが、なほ馬耕の馬の口を引く棒をサセボウといひ、その棒を取る指導者をサセトリといつて居る。即ちサセが役畜と農夫との間の、一番大切な用語であつたことを意味する。小正月の晩に來るサセトリといふ少年なども、つまりその農夫の眞似をしたものであつたかと思ふ。
 
     牛の名
 
 牛にはよほどの名牛でも、池月太夫黒といふ類の固有名詞が無かつた。また毛の色にも月毛栗毛等の變化が無いから、差別する場合には「まだら」の特徴をもつて呼んだが、一軒の家にさう澤山は置いてなかつたから、名は無くとも別に困らなかつた。ウシといつても無論通ずるが、關東以北は一般にベコ又はベェコといふのが牛のことだ。ところが西部日本ではベコは子牛のみを意味し、親牛には別にそれ/”\の名があるのである。
 コトヒは古い日本語で、方言でも何でも無い。たゞ雄牛だから成るべく強さうに、力を入れてこれを呼んだだけである。
  コットイ――丹後から紀州まで
        伊豫、土佐、佐渡等
  ゴットイ――中國の東部
  コッテ、コッテイ――中國から九州まで
  ゴッテ――加賀、能登など
 こんな風に區分して見ることも出來るが、どれを使つても互ひに通用する。また東の方へ進んで來ても、三州、遠州などでコテェ、東上總でもコテ、コテンボウなどといつてをり、それから北でも岩手縣、八戸地方まではコテとい(362)ふ語がある。しかも尚ベコの方が一般に行はれて居るのは、恐らく子供の時からいひなれた親しみの爲であらう。
 日本の最南端は八重山の群島まで、コトヒといふ語はまだ殘つて居る。例へば、
  與那國島で             ウグトゥイ
  小濱島で              ウクティ
といふのは男牛である。このウグトゥイは「大コトヒ」か、然らずんば「男コトヒ」である。即ちコトヒがもと牛の總名であつたらしいことを想像せしめるものである。
 どういふ理由でコトヒといふのかは、もう餘り古くなつて明瞭でない。ベコまたはベーコは鳴き聲から出た語であらう。さうすれば、子牛ばかりをベコと呼ぶ地方の方が、一段と古くから色々の牛を、知つて居たといふことになるかも知れぬ。
 
     牛の子
 
 東北ではよく物の名にコをつけるので、子牛のこともベココノコッコといふなどと傳へられるが、私はまだ聽いたことが無い。兎に角にあのかはいゝ物に特別の名が無いのは、以前牛を多く飼はなかつた證據である。恐らくは時々一頭づつベコで引いて來たのを、育てただけであつたらう。アイヌ族でも牛をベコといつて居る。
 産牛の盛んな土地ならば、大抵は小牛に名があるやうだ。例へば
  靜岡邊、東三河で          コンボー
  靜岡縣のある地で          コウジッコ
  能登の西部で            コウジノコ
(363)  能登の西部で            チンコ、チンコロ
 伊勢から西の廣い區域では、普通はベコといへば子牛である。但し丹波の一部分などで、ベコといつたりベコジまたはベコゥジと呼んで居るのは、別にベッコといふ語があつて、それと紛らはしいためである。
 解し難いのは、
  美作で               ヨコ
  因幡で               デンコ
といふ二つの例である。その以外は大抵はよく似て居て、いづれもあの優しい鳴き聲に基づいて居ることがわかる。
  ベィコ               美作で一般に
  ベィベノコ             出雲
  ベベノコ              四國某地方
  ビーまたはベー           豐後
  ベーベー              同
  バイバイ              西國東
  ボイ                同 佐賀關
  ベベ                肥前一圓
その他も九州では大よそ似たものだらうと想像する。
 これは子供が愛してさう呼ぶばかりで無い。牛商人なども略語として、または隱語の樣にしてビーだのベーだのといつてをるさうである。從つてさういふ名稱が遠く東北の方まで、移つたとしても不思議で無い。
 南の島々にはコウシ又はウシノコといふ語ばかり多いが、獨り奄美群島では與論島だけに、ミイエまたはミイアと(364)いふ言葉がある。生れた子牛の聲を聽いた人でないと、そんな名前をつけることは出來ぬと思ふ。
 
     無造作な命名法
 
 今一ぺんだけ牛の話をする。ヲウシ、メウシといふ語は、英語の先生などが大いにはやらせたが、前には一向用ゐた人は無かつた。私の知る限りでは、近江八幡近傍の村で、ヲンウシ、メンウシといつて居ただけである。
 女牛は一般にヲナメ、またはそれに近い語で呼んで居た。その例、
  ウナメ               東上總、甲州北部
  ウナメ、ヲナメ           靜岡縣各地
  ヲナメ               東三河
  ヲナメ、ヲナベ           紀州日高郡等
  同上                丹波福知山邊
  ヲンナメ              因幡
  ヲナメ               播、備、作の大部分
  ヲナミ、ヲンナメ          藝州
  ヲナミ、ヲナメ           出雲
  ウナミ、ヲナメウシ         豐後
  ウノー               肥前大部分
  ウナン、ウナミ           奄美大島
(365) 乳牛をウナジといふのはウナヰウシ(童牛)だらうかといふ谷川氏の説は誤りで、それもやはりヲナウシだと思ふ。佐渡ではミヨージといふ。即ちメウシである。出雲ではまたバウジ、バジといふところもある。ウバウシの略であつて、ウバとは既婚の婦人を意味する。バゴもしくはバッコといふ地方もある。丹波でまたベコといふのは、子牛のベコとは發音法が別で、能登の一部にベッコといふと同じく、メッコ即ち女牛に限るやうである。但し奧州八戸邊には男牛をメッカといふ農村もあるさうである。
 ヲナメ、ヲナベのメまたはベは大昔以來の日本語の複數稱で、人を澤山さうに粗末に使ふときに、この語を添へて呼んだところから一人しか居なくても目下にはメの字を付けて居た。女牛ばかりで無く人間もさういつて呼ばれた。三四十年前までは東京でもよく聽いた、女中のオナベといふ名も、その一つの適用であるらしい。
 
     女中の通り名
 
 奧州南部邊で、牝牛をヲナメといふことの出來なかつたのは、別に一種の召仕女に、古くからさう呼ばれて居るものがあつたからである。名を付けるのは差別が目的である以上、飛んでも無いものと間違ふやうでは用をなさぬ。故にヲトコ・ヲナゴは本來は男・女を意味するけれども、それを下男下女の名とすると、もう他の場合には成るべく裸では使はぬやうになる。あるひは特にヲトコシュ・ヲナゴシュの字を付して、區別しようとした地方も多い。言葉そのものには最初から狹い意味は無いのである。
 またアネェとかネェヤとか、オッカァとかバァヤとか、幾分か惡い境遇の家庭で、母や姉を呼ぶ名稱を、そのまゝ雇人に應用した人も多かつた。それも追々に本元の方では良い言葉に改められ、後には女中ばかりに殘つてしまふために、特別の名詞の如く感じられるに至つたのである。
(366) その中でもオナベなどは古い部に屬し、使つてゐる人には何故にさういふかゞ不明になつた。鍋を取扱ふ職務だからかと、考へた人もあるかも知れぬ。ところが飯たきはもと多く男であつたが、別にその結果鍋造といふ類の名はなかつた。あるひはヨナベ即ち夜仕事をオナベともいつたから、そのためではないかといふ説もあるが、それも家内中が實は一樣に參加して居たので、女中ばかりさう名づけられるわけがない。
 つまりは通り名といつても京大阪の舊家で、鶴七龜吉などと特に定まつて居たのとは違つて、土地で自然にたれがさういふともなく、どこの家のも同じ名で呼ばれたので、言はゞ女中を意味する日本語が、土地によつてはさも人名の如くに、聞えたといふに過ぎぬのかと思はれる。
 
     おきよにおさん
 
 鹿兒島は古風な土地だから、今でも多くの家の女中はマツジョである。またエダといふ例も多くして、よく何屋のエダサンなどと人がいつて居る。マツジョの方は火をたく女といふことかと想像して居るが、エダに至つてはかいもく元の心持が分らぬ。きつとこじつけな説が多からうと思ふから、怖れてまだたれにも尋ねて見ない。
 長崎ではキヨ、またはキヨドンと呼ぶさうである。江州彦根なども、オキヨドンといへば下女のことであつた。これは疑ふ所無く清める職務から出て居る。ずつと古くから勝手元や下まはりを清め所といつた。そこに勤める女だからキヨである。大へん佳い名だが昔は普通の人は付け兼ねた名であつた。それをもう忘れてしまつたのは結構なことである。
 オスヱといふのも臺所のことであつた。足利時代の公家の日記を見ると、男末とも書いてあるが、飲食物はそこから出て來た。そこで働いた女性が、さう呼ばれたのも不思議は無い。
(367) 紀州日高地方ではオヨウといつて居る。それも御用を勤めたからであらう。出羽の庄内ではオヨシといふのが普通ださうな。それもこの用と關係があるかも知れぬ。
 同じく庄内で、ハルコともいつて居るのは解しかねる。しかし九州のどこかには女中をオカルといふ所もあるから、後には追々説明がつくかと思ふ。カルフとは物を背に負ふことで、使はれる女が殊にその勞に服した。さうして商品を運ぶのがヒサメであり、ヒサも早くから女の名のやうにいつた。
 オサンといふ名は六つかしい漢字をあてゝ、飯をたく女にこじつけねばならぬほど、有名な女中の通稱であつた。それがヲサメといふ語の變化らしいことは分るが、如何にして女中專用となつたかは説明が出來ぬ。
 
     きつねの名
 
 をかしなことばかり言ふが、オサンは往々にして有名な狐の名である。名の有るやうな狐は大抵は尊敬せられて居るが、男狐ならば源九郎とか新右衛門とかいふやうに、女性には何森のオサンサマといふのが、往々にしてだましたり祟つたりした。東北方面には殊にその例が多い。
 中國の方で私の知つて居るのには、オミチサンだのオヒデサンだのといふきつねがある。三河のオトラは私が曾て一册の本を書いたほど、事跡に富んだ古狐であつたが、他にも同じ名の話はまだ傳はつて居る。我々の仲間の者が早くから心付いて居るのは、さういふ不思議話には狐に限らず、必ずその主人公に通り名があることである。例へば幽靈になつて人を恨む女は、皿屋敷で無くてもオキクであり、子や夫の跡を慕うて身を投げて死ぬのはオツルであり、旅で死んで祭られて居るのはオサヨである。何かわけがあることゝ思つて居る。
 しかもこれから言はうとして居る如く、昔は普通の女には名前が無かつた。無いはずはないのだが何にも殘つてを(368)らぬ。人さま/”\の今日の戸籍の名は、せい/”\二百年位の間にこの樣に變化をしたので、それが皆女中たちに名が出來たのと同じ順序で、追々にたゞの言葉にオの字を冠して自分のものにした。それ故に時代の趣味、地方の流行といふものが今でも極めていちじるしい。
 男たちも久しい間、特に面倒な名を付けずに濟んだ。例へば中流の家の若黨は、軒ならびに與次郎であり、又は彦次郎や彌五郎や與五郎であつた。後には一時上方などで、久三・久助・孫七などが流行して、あれはどこの久三だなどといふ風であつた。それが追々に甲の家では松に竹、乙の店では福とコとを通り名とするやうに、一人々々の差別の名をつけて、さし合ひを避けるまでになつたのである。
 
     お茶々の局
 
 オナベのオナは單純に女を意味するのだが、昔は一生涯この名で呼ばれて通した婦人が多かつた。例へば狂言記の數百篇を捜して見ても、女の名といへばオナ女郎、子供の名といへばカナ法師より他には一つも無い。つまり娘が一人あれば、どこの家でもそれをオナと呼んで濟まして居たのである。壻入りをせぬ壻殿がひよつこり遣つて來て、こなたにオナ女郎といふ娘御がござらうが。うむある。身共はそのつれあひでおりやるなどと言つて居るのを見ると、これでも今日の文法でいふならば固有名詞である。
 あの狂言記の時代の政治史の上に、盛んに活躍して居る女性の名も、やはりまたオナで無ければネネであり、さうで無ければ阿茶であり茶々であつた。義政でも秀吉でも家康でも、その周圍に幾人とも知れぬ茶々殿もしくは阿茶殿を控へて居たことは、別にさういふ名の女を好んだわけでも無く、當時これ以上には女の名が、まだ分化して居なかつた結果である。
(369) ネネの赤ん坊を意味することは人が知つて居る。米國かぶれのパパさんがベビイといつて嬉しがる如く、娘を愛してネネと呼んだのが、ついそのまゝになつてしまつたので、姉さんといふ語の略語では無いのである。そんなら茶々の方は何かといふと、これもあの頃の子供の愛稱であつた。足利政知の長子に茶々丸があるから、女には限つたことで無い。まはらぬ子供の口で聲高く人を呼ぶときに、もつとも自然にこの音が出るのを、いたいけなく思ふあまりに、大人までが眞似をしたので、從つて全國にわたつて父のことをチャアだのチャンだのといふのみか、一方には又越後の魚沼で母をチャチャ、青森縣の東の方で兄をチャアともいふのである。佐渡の海府では現に娘を今でもアチャと呼んで居る。
 
     ネネとカナ法師
 
 ネネといふ女の名も、必ずしも寢るといふ言葉から出たと速斷するわけには行かない。小さい兒が人を呼ぶときに、日本ではさういふ音が殊に出しよかつたために、後には家庭にそれが常用せられたのかも知れぬ。英語のベビイもその例であれば、マミイもダディーも元は皆幼兒の作つた語である。
 千葉縣では海上郡の子供は姉さんをナナアといふが、山武郡から印旛郡にかけては、ナナアまたはナアといへば兄さんである。山形縣の庄内地方では、一方に母のことをナナと呼ぶ小兒があるかと思ふと、他方には亭主が女房に向つてナナといつてゐる村落もある。無論アクセントは違へてゐるだらうが、雙方別な原因から出たものとは思はれぬ。恐らくヲンナとは關係が無く、最初は何れも幼い者によつて名づけられたのであらう。
 一軒の家に皆からさう呼ばれる者が一人しか無ければ、それが何時と無くいはゆる固有名詞の如くなつてしまふことは、オネネばかりか、カナホウシなどもその一例である。織田信長の嫡孫が一法師、あの時代にはさういふ無造作(370)な童名が多かつた。法師は影法師などのホウシと同じく小さな心安い人といふ位の語であり、カナは今でいへば可愛いゝといふことを意味してゐた。能の狂言のオナ女郎の一人子が、必ずカナホウシであつたのも不思議は無い。
 カナシイが今日の標準語における如く、單に悲哀を意味するやうではこんな名は出來ない。形容詞の内容は時代につれて、次から次へと變つて行くのが通例だが、今でも津輕のはてにおいて、可愛いゝをカナシイといつてゐる如く、カナシ子といへば可愛いくてたまらぬ兒のことであつた。身にしみるといふか胸に徹するといふか、兎に角に大切この上なく感ずるのが、我々の昔のカナシミであつた。英語のdearなどと一番よく似てゐる。
 
     好い兒のカンゾ
 
 至つて僅かな變形を以て、カナホウシ一流の命名法は今日まで傳はつて居る。關東は何れの縣の田舍に入つても、愛せられる小兒は大抵はカンまたはカンゾを以て呼ばれて居る。東京の中でも、事によつたらまだ聽くことが出來るかも知れぬ。
 またカンゾマゴといふ語もある。年寄りが目の中へ入れても痛くないなどといふ類の初孫は、如何に上品な名が別にあらうとも、家では當然にカンゾであり、泣くな/\だれが泣かせたぞ内のカンをなどと、幾らだゝをこねても慰撫せられたものである。
 だから良家のカンゾならば、近所のものもカンチャンと呼んで他の名を言はない。小學校に入る時まで、自分の名は勘藏だと思つて居た兒童も少なくは無かつた。實際また戸籍の表まで、さういふ名にして置いた家も折々あつた。自分の記憶してゐる勘ちやんも何人かある。女の兒でオカンコといふのもあつた。三馬の小説などにもそんな人物があつたやうに思ふ。
(371) 今では單にイイコといふやうだが、元は通例「良い子のカンゾッコ」と言うたものだ。甲州ではこれに當る語にヲンノといふのがある。ヲンノは「おれの子」であつて、さういはれると子供は嬉しい。中部日本ではこれをホンソの子といふ。ホンソは多分奔走の漢字音であつて、粗末の正反對を意味して居た。
 それから轉じて因幡の海岸地方などでは、ホンコもしくはホンコサンといふ。肥前の下五島ではトント、その意味は不明である。關東地方では以前ムゴともいつた。坊はたがムゴだなどと尋ねて、わざと子供に答へさせたと、深川氏の兩總房三州漫録にも出て居る。
 
     メゴイとムゾイ
 
 愛する兒をムゴと言つた理由は尋ねることが出來る。陸前の氣仙地方で好い子をメンコといふも同じ語であつて、もとは形容詞のメゴイから來て居る。即ちメンコは萬葉集などのメグシコの保存せられたものに他ならぬ。
 愛らしいを氣仙ではメゴコイ又はメゴヤと言つて居る。獨りこの地方に止らず、東北六縣は隅から隅まで、また越後でもメゴイといへば愛らしいことである。それを方言だと思つて居るのは不必要なる遠慮である。可愛いといふ語こそ漢語でも無く、古い日本語では尚更無いのだ。どういふ事情から古い分を追ひのけたかは、考へて見るべき問題である。佐渡では今でもメゴ/\として可愛いゝなどと言ひ、まだ昔の語を棄てかねて居るさうである。
 關東の「好い子のカンゾ」もカナムゾウ、即ちカナシイとムゾイと二つの形容詞が、併合せられて居る一例とも見られる。いつから始まつたか知らぬが、ムゾイもまた確かに昔のカナシイ、メゴイ又は可愛いと同じ意味に用ゐられ、しかもまだ決して死んだ語で無いことは、現在の地方の物言ひの中から、無數の實證を擧げることが出來る。例へば「可愛らしい」といふことを、(372)津輕では             ムジョケ
  岩手縣中部             ムゼェ
  越後                ミジョウイ、ミジョウケ
  上野群馬郡             モジッケ
  大分縣               ムゾウラシィ
  長崎縣               ミゾウカ
  同 五島              ミジョカ
  鹿兒島               ムゾカ、ムゼ
 また可愛がるといふことを、鹿兒島でも筑後でも佐賀でも大分でもムゾガル、越後の方ではミジョガルと言つて居るのである。
 ムゾイとメゴイと、二つの語の關係はまだ明かで無いが、メゴイの方には動詞の形はないやうに思ふ。
 
     可愛いと可愛さう
 
 愛子をムゴと言つた東上總では、可愛いゝの方言もまたムゴイである。四國にも同じ意味に、ムゴイといふ語を使ふ地方があるといふが、私はまだ確かめて見ない。
 それはともかくも、惨酷を意味する現今のムゴイが、愛らしいのメゴイと元一つの言葉であつたことだけは、大抵疑ひが無いと思ふ。それはあたかも「可愛い」といふ語が僅か形を變へて、「可愛さう」となれば、きたない乞食にまで及ぶのと同じである。
(373) つまりは愛と憐れみとは、一つの感情の分化であつた。そのアハレミといふ語も、以前は遙かに今よりも廣い内容をもつて居た。恐らくは愛せられる者の、必ず劣弱なる相手方だつたことを意味するのであらう。それが言葉はまだ同じであるうちに、心持はこの通りかけ離れてしまつたのである。
 東北の方では可愛いには成るべくメゴイを使つて、ムゴイは主として可愛さうな、もしくはふびんなといふ場合だけに用ゐんとして居る。例へば、
  モジョイ              津輕黒石
  ムゼェ               陸中遠野
  モゾイ、ムゾコェ          陸前
  ムヅコイ              山形地方
これ等は何れも「ふびんな」といふ意味である。
 これに反して九州の方には、今でも愛するといふムゾガルが行はれて居る爲に、僅かな變化を以て二つの感情を區別して居る。即ち鹿兒島でムジョゲナもしくはムジョナゲナといひ、大分でムゾーナギイといへば「可愛さうな」といふことになるのである。併しその語尾にはほとんど法則が無かつた。東北の方でも、
  モゾウヤナ             陸前氣仙
  ムジョケナイ            津輕
  ムジョケラ             同
  ミゾケナイ             莊内
  ムゾケラニ             會津
などといつて居る。これに無情の字を當てるのは學者すぎる。ムザンといふ語なども、實は無殘と書いても、また無(374)慘と書いても適切でない。そんな語は支那にも無いのだ。
 
     すみません
 
 東京でもまだ時々は聞くやうだが、人が髪を結つたのを丁寧に言ふ積りで、髪をオッシャツタなどといふ者がある。ユウの敬語はいつでもオッシャルだと心得て居るのである。
 少しをかしいが、そればかり笑ふことは出來ない。私などは旅行して居ると、毎々茶店のかみさんなどから、茶代を遣つて「どうも申しわけがありません」などといはれて面くらふことがある。一體全體何が申しわけが無いのであるか。
 つまりは「済みません」といふ言葉が、濫用せられて居る結果である。借金その他の不義理の場合ならば、濟みませんの代りに「何とも早申しわけが無い」と言つた方が、幾分か相手を滿足させるか知らぬが、物をもらつて氣のすまぬ場合まで、一々申し譯をされては遣りきれない。
 ところが無暗に贈答の多い日本國では、こんな喜悦の言葉までが形式化して居る。痛み入りますや恐れ入ります位ならばまだよいが尚進んでは、
  オヨシナサレバヨイニ        東京
  オヒカヘナサヘマシ         埼玉
  オマモリナンショ          常陸多賀
  ゴンミョウサン           越前
などと、相手の判斷にまで干渉するやうな態度を示す、これもまた恩惠の意外であり、いはゆる謝する辭を知らずと(375)いふ心中を、もつとも適切に現はさうとする試みであつた。
 しかもその土地々々においては、さういはないと失禮だと怒られる。一方から見ると御無用さんなどと言ひつゝも、實はもらつた方が遙かに結構なのだから、さういふことが感謝にもなるのである。松江などでは「迷惑いたしました」といふ人がある。「有難う」に相當する。御迷惑なら持つて還りませうと、いふことも出來ぬ迄に、語の内容が進化して居るのである。
 
     お氣の毒
 
 この言葉などは物を貰つて嬉しい場合と、相手に不幸心配のある場合と、兩方ともに用ゐられて居る。それで居て混同の懸念も無いのは、顔つきその他が言葉を補助するからで、つまりは言語が法令や證文の如き、窮屈なもので無い證據である。
 飛騨の山村などには、物をもらつてウタティといふ處が今でもある。東近江ではオウタテなどともいふ。ウタテの本の意は「歎息するに堪へたり」であるが、後にはその用法を制限して、無益に財物を消費する者をさう評することになつた。だから隣人がくれずともよいのに物をくれたのを評して、ウタテイといふことになつたのである。謝禮の言葉としては淡泊といふことは出來ぬが、昔の律儀者はこんな八釜しいことを言つた。それが習慣となつて、今までも殘つたのである。
 あるひはまたウイコトヂャなどとも言つた。ウイはツライの兄弟、カナシイのいとこ位の心持だが、それを以て物を受取つた幸福を言ひ現すに至つたのは、やはりメイワクイタシマスの類であらう。ウイを恥かしいの意味に使つて居る土地もあるのである。
(376) オトマシイはウタテイよりは今一段と猛烈で、當節の「いやになつてしまふ」に近い語であつたが、是をもなほ贈品の謝辭として用ゐる地方があつた。モッタイナイだのヤクタイモナイだのも同じことで、さも/\相手方の浪費をたしなめる樣に批難することが、やがては豫期しなかつた嬉しさを表白する結果にもなつたのである。
 東京人の連發するオキノドクサマも是に近い。氣の毒は本來自分が困ることを意味して居た。ぢつと人の顔を見ながらさう言つて居るうちに、何時の間にか切なる同情の表示となり、終にはヘン御氣の毒樣などと、得意の絶頂から、他人を見下すやうな場合にまで、濫用せらるゝに至つた。しかもその「御氣の毒」を同時に感謝の用にも供して居るのは、考へて見れば奇妙な話だ。
 
     ありがたう
 
 風俗畫報には、秋田で「有難う」をヲガンブエといふと報じてある。あるひは「拜むべェ」かと早合點をする人もあらうが、かの近村一帶に、またガンブともカンボーとも謂つて居るのを見ると、「過分」といふ語の土着したものに相違ない。
 過分は即ち分に過ぎたり、相當以上なる恩惠だといふことで、やはり人間の交易正義から出發した語である。今では明かに了解することが六つかしくなつたが、カタジケナイといふのもこれと同じ心持から、感謝を意味する言葉に進化したものかと思ふ。
 今日のアリガタウといふ語とても、やはり斯うした順序を經なければ、御禮のあいさつにはなり樣が無かつた。有難しは讀んで字の如く、不可能もしくは至つて稀なりといふ内容しか持たなかつたのだが、あまり毎日使ふ爲に當り前以下となり、しまひには「大きに有難う」だの、「段々有難う」だの「どうも有難う」だのと、景物を添へぬと感じが(377)利かなくなつた。
 オホキニといふ言葉が發明せられたのは、つい四、五十年前からのことかと思ふが、現在は破竹の勢をもつて全國に流行して居る。この節は關東の田舍でも時々これを耳にするやうになつた。
 しかし中國の西半分、四國から九州にかけては、今尚これに對抗してダンダンといふ言葉が弘く行はれて居る。この角力は見ものであるが、結局は二つ共にさう永く命脈を保つことは出來ぬと思ふ。さうすると是から百年ほど後の日本の「有難う」は、如何なる言葉に變化して居るだらうか。出來ることなら精確に感謝を形容した、空々しく無い語を流行させたいものと思ふ。
 しかしダンダンは耳に快い言葉である。あるひは子供等の別れの詞などになつて、尚久しく殘るかも知れぬ。讃州高松で別れに際してアバラダンダン、肥後の人吉でもアバヨと同じ場合に使用せられて居る。
 
     さようなら
 
 サヨウナラは響きの好い音だが、古い語では無い。左樣といふ漢字に意味が無く、サヨウといふ日本語も元はなかつた。
 今一つ前にはオサラバと言つた。「もう還らねばならぬ事情があるから」といふ心持を、簡明にかつ印象深く言ひ現はした語が、追々に樣式化したものである。
 サイナラといふ例は最も多いが、まだ地方によつては色々の形が殘つて居る。
  ハチヤマア             甲州一部
  ソンヂヤハヂヤ           越後南魚沼
(378)  ソンダバ             越後岩船
  ソンナラマヅ            米澤地方
  ンダラマンツ            羽後平鹿都
  ンダラマヅハ            同 田澤邊
  ソンダラハ             陸中上閉伊
  ササソンデエ            氣仙越喜來
  ソデマヅ              陸前鬼首
  サンバ               近江高島郡
  サンバア              佐賀附近
  サイバヨ              對馬
 もちろん是は親しい者の間のことで、改まつた人々には是非とも「左樣なら」と言はぬと禮儀で無い。さうして禮儀と情愛とは、そろ/\と手を分つて來たのである。
 だから一切の辭令は常に情愛に始まり、後に形式に行止まつて固定したと見るべきである。現在のサヨウナラでは最早眞の感じは出ない。今に何か好い言葉が發明せられ、それが眞似られてまた新たに流行することであらう。
 但し如何なる場合にも、簡單といふことは要件であつた。殊に此節は短いものを尚ぶやうになつたが、律儀と稱せられる村の人たちの、あいさつは少し長かつた。それを口上と名づけて別の物のやうに、考へて居る者も多くなつた。
 オシヅカニも誠に感じのよい言葉である。今日では見送る方ばかりが使用することになつたが以前は客の方でもさう言つて歸つて行つたので、その意味は「平安を祈る」であつた。
  オシヅカナハンセ          越中上新川
(379)  オシヅカンナサイ         越前下味見
などは、確かにその名殘だが、何か小學校の先生の小言のやうにも聽える。
 
     仙臺のタデエマ
 
 別れの言葉の例外に長いのは、羽後の笹子《じねご》の山村などで、
  ヲラエサモキテケッチャー
「私万へも來て下さい」である。
 鹿兒島縣の昔風な人は、
  アイガトモシアゲモシタ
これで以前の「有難う」の心持の、幾分か今とちがつて居ることが察せられる。
 壹岐の島では
  ソリヂャドゥゾオキバリオイデマッセ
などと言つて居る。キバルとは「よく働く」といふこと。だから福島縣の石川郡ではオカセギナンショといひ、陸中釜石邊でもオカセギヤ、またはカセイデケヤといふのである。さうかと思ふとチトオヤスミなどと、勞をいたはる言葉を使ふ土地もある。趣意に於ては全く一つであつた。
 種子島などの別れのあいさつは、
  マタメッカリモウソウ
これは九州の他の地方にも行はれて居るらしい。オシヅカニの英語流に對して、これは獨逸語のアウフヰーダーゼー(380)エンに似て居る。この例は尋ねるとまだ諸國にあると思ふ。
  マタクルガノ            日向生目村
  マタマヰリマショウ         對馬
  ヘエマタキマショウ         石州三隅
  マタナ               大分縣宇佐
  マタクルニ             靜岡縣一部
  マタコズニ             同 上
  マタキヤスベー           福島縣石城
  マタアガリヤス           同 耶麻郡
  マダクマッセア           陸中平泉
 仙臺などでは逢ふときも別れる時も、いつでもタデエマと言つて濟ませるのは妙だが、只今は、「久しからずして」といふことだから、これもまた逢ひませうの意味に他ならぬと思ふ。
  インマナー             伊豫喜多郡
  エマニー              米澤市
  オアスー              同 上
  アツタエ              羽後追分
  コンドメヤ             佐渡
  マタヨ、マタネー          遠州一部
  マンナ               滋賀縣北部
(381) 東京の子供たちもマタネといつて別れて居る。もちろん言葉通りすぐに又逢ふ者の用語だが、大人もこれを採用して差支ない位に、昔の田舍には大きな別離といふ事件が少なかつた。
 
     あぐ別れ
 
 自分にまだ心持のよく解らぬのは、九州五島のダッチョ、又はダッチョナである。是は鹿見島縣の甑《こしき》島などでも、
  ダアチイ              目下へ
  ダアツウヤイモセ          目上へ
  ダアツウヤレ            同輩へ
といふさうだから、何か隱れた由來のある語に相違ない。
 それから肥前の諫早のグサンシュ、同南高來郡神代村のゴサイマッシュ。是も必ず古くからの別辭の、幾分か省略せられたものであらうと思ふ。
 永い別離に向つては、元は必ず今少し丁寧な言葉があつたらう。その古風の一つかと想像するのは、
  イクツイカイ            能登能登島
  イコンナ              志州磯部
  マアイクジョウ           尾張東春日井
  イタアメンデ            薩摩市來邊
あるひはイッテコカイなどといふ土地もあつた。沖繩のンヂャビラもこの系統であらう。即ち、「出で行かん」の決心を表す語で、イデとかイザとかいふ間投詞の起原である。
(382) 子供の用語としてはアバヨといふ言葉が、ほとんど無意識に昔を保存して居る。アバは今日でいふなら「あれは」であつて、名殘を惜む人たちの掛け聲が元であつた。
 遠く別れて行く者が何遍も振り返つて、もう互に顔の小さくなるまで、送る方でも立つて見て居る。即ちいはゆる見送りであつて、船路の旅立には殊に涙の多い光景であつた。アバエ・アバヤは斯ういふ際に、自然に發生した聲に他ならぬ。
 越後では我々のいふ見送りをアグワカレ、又はアゴワカレとも言つて居る。あごで合圖をすることを意味するのであらう。アハの二つの音は最も遠くまでよく屆く。つまり最後の別れの語に適したのである。
 小兒は斯ういふ感動の深い?態をよく眞似る。さうして誇張は彼等の常の癖であつた故に、夕方隣家のをばさんと別れる場合にも、アバエンなどといつて親たちを興ぜしめたのである。
 乃ち幼い者の生活の中には、まだ意外なる色々の昔が潜むのである。
 
     なべすみ蟲
 
 少し理窟に傾いたやうだから、今度は方面をかへて物の名の成長といふことを考へて見よう。
 當山縣の何れかの村では、東京でいふカナカナ、即ち「ひぐらし」といふ蝉のことを、
  ナベスミムシ
と名づけてゐる。この命名者も恐らくは子供である。
 鍋のすみを掻く音を聽いたことのある人ならば、誰でも成程と合點するであらうが、自身でさういふ名前を付與する氣にはちよつとなれまい。ところが子供には古くさいヒグラシの名が適切でなかつた上に、常にかういふ敏活なる(383)聯想があつたのである。
 カナカナも中々氣のきいた形容だが、ナベスミムシには更に畫がありまた風情がある。さうして音ばかりか、間合ひまでもよく似て居るのである。
 但しヒグラシといふ言葉も、やはり昔の子供の事業かと思ふ。あの聲を聽く頃から夏の日の暗く涼しくなるのを經驗して、直ちに日を暮にするせみと解することは、大人には出來ない想像であつた。
 上總の東海岸の子供たちは、我々のオタマジャクシ、即ち春の末の蛙の子のことを、
  フッパリドヂョウ
と呼んでをる。フッパリとは頬腫れ、即ちお多福風などといつて、首の兩側のはれる病氣を意味して居る。少し馬鹿にする心持も含んで、友だちの間に使はれて居たのを、ふとこの小さいものに應用したので、あの蟲のほつぺたの少しふくれてゐるのを見て、フッパリのドヂョウと名づけたのである。何でも無い形容のやうだが、社會の事相を分類し、かつ整理して考へようとする人には、到底思ひ付くことは六つかしい。子供の天地は狹いけれども自由であつた。
 
     さるをがせ
 
 半ばは戯れに子供の付けたやうな名前でも、後には採用せられて正しい日本語になるものは多い。古くなつてもう意味のわからぬ言葉の中にも、尋ねたら同じ例が必ずあらうと思ふ。
 谷の林の中でよく目につくヒカゲノカヅラといふ植物は、色も形も普通で無い故か、早くから神事に用ゐられた。和歌にはサルヲガセとも詠んで居る。
 新潟縣天産誌を見ると、越後佐渡の各地の方言がならべてあるが、その中には他の地方にも行はれて居るのが幾ら(384)もある。例へば
  ヤマノカミノタスキ         紀州でも
  ヤマウバノタスキ          伊豫でも
  テングノタスキ           同上
さうして昔の祭の日には、人もしば/\これをタスキとして肩にかけて居たのである。
 まだ他にも名があると思ふが、越後と豐前では同じ物をキツネノケサともいひ、又本草啓蒙にはキツネノヲガセといふ名も出て居る。
 ヲガセは我々の祖先が麻ばかり着て居た時代に、もつとも普通に目に觸れた織物原料の麻絲のことであつた。深山にあつてそれに似て居るから、それでこの草をきつねの麻絲と名づけたのである。さうすればサルヲガセもやはり同じ趣意に出たもので、一方が雅で一方が俗といふことは無い。單に京都近くの山村の子供が、偶然に狐といはず、猿のヲガセと言つたまでゝある。
 それと似たのは山によくあるツチフグリといふもの、松露とよく似てつぶすと煙の出る一種の植物を、
  大和で               キツネノチャブクロ
  若狹で               キツネノハヒブクロ
  伊勢で               キツネノヒキチャ
  越前で               キツネノハヒダハラ
と言つて居る。これ等の一つの方が、ツチフグリよりもずつと上品だ。それを自分で方言などと遠慮する理由は少しも無い。
 
 (追記) サルヲガセトキツネノヲガセとは別の植物であつたらしい。渡邊梧樓氏の注意によつて、再考をすることにした。
 
(385)     ママコ
 
 子供は多くの草木の命名者であつたと思ふ。例へば人家の周圍などに多くあるリウノヒゲ、またはタツノヒゲといふ草の實を、越後ではネコノメ、あるひはメメンコと言つて居る。メメンコとは母などがにらむことである。
 草の葉の薩から青い玉が光るのを、にらむと想像し得る者は子供である。富士山の附近では野ぶだうの實をウシノメダマ、ちやうど野原の牛のゐさうな處に、かの物も光つて居る。加賀では麥の黒穗のことを、インキョノメダマ(隱居の眼球)と名づけてゐる。
 秋田縣の横手町近傍では、かはやなぎの木の白い芽出し、普通に我々がネコヤナギだのチンコロだのといふものを、方言にメメコと呼んで居る。このメメコも前の龍のひげのメメンコと同樣に、にらむことを意味するのでは無いかと思ふ。
 もつとも横手では現在はにらむことをメメコとは言はぬかもしれない。小さな兒が母に叱られるときには、ママンツオンツオンといつてにらまれる。
 しかし秋田市に行くとママコ、コ島縣などはメメカ。東京は今簡單にメエとばかりいふが、これをメンメといふ地もあれば、メメンチョといふ處もある。肥前の平戸でも怒つてこはい顔をすることを、メッコンゴウダスといつて居る。
 要するに恐ろしい目をして小兒の注意をよぶ語だからメメである。アカンべも赤い眼、ベカッコーのベは即ち眼、カッコは「おばけ」といふことである。
(386) それから考へると、愛の乏しい母親をマヽハヽといふのも、古い言葉だがやはり子供の側の製作にかかり、毎にこはい眼をする母を意味して居たのかも知れぬ。ママンツオンの下半分は多分舌打ちをする口眞似である。
 
     和尚と小僧
 
 靜岡縣方言辭典に依れば、まき(槇)の實をヤンゾウと呼んで居る土地がある。誠に意味のとりにくい方言である。
 しかし他の村ではこれをヤンゾウコンゾウともいふのを見ると、あの樹實の形?に由つて、もと彌藏が小僧を肩車に載せて居るものと想像して付けた名なることがわかる。
 恐らくは曾てその樣な子供唄が流行したことがあるのであらう。コゾウは小兒のことであり、ヤンゾウはそれから出た口拍子に相違ないが、彌藏といふと如何にも子供でも肩にのせて遊ばせさうな、下男か何かの名に似つかはしい。
 まきの實は二つの圓果が重なつて居て、上の方が赤くて小さくて甘い、これに由つて小鳥などを誘ひ分布を助けしめるので、種子は下の部分の青黒く丈夫さうな方に在る。自分なども採つて食つた記憶がある。もしその樣な愉快な名稱があつたなら、一も二も無くそれを呼んだであらうと思ふ。
 濱松市の近在では、また同じ物をオショコゾと名づけて居る。即ち和尚小僧であつて、一方の小さい方を小僧といふに基づいて、他を和尚と見立てゝしまつたものである。
 和尚と小僧との昔話は、中田千畝君が一册の本を著はしたほど澤山の種類があつて、久しい間日本の兒重文學を賑はして居た。今でもクワンクワンの話や、切りたくもあり切りたくも無しの連歌などは、親から聽いてまだ知つて居る者が多いのである。
 だから小兒たちは小僧といふ話を耳にするや否や、忽ち和尚さんを聯想して、これを圓いものが二つ重なつて居る(387)樹實に、付與せざるを得なかつたのである。
 それだけならば興味はあるが、珍らしいとまでは言はれぬ。たゞ我々が國語の成長を考へて見るに際して、一つ忘れて居た重大事を教へてくれるのは、こんな子供らしい物の名までが、行く/\採用せられて大人の言葉になつて殘つて居るといふことである。
 
     嫁の椀
 
 ヨメノゴキと稱する植物が二種類ある。關東地方でさういふのはなら(楢)の實のへた〔二字傍点〕である。女の兒はこれをオワンだのオチョコだのといふ。
 九州地方のヨメノゴキは、合子草ともいふ畠近くに見る蔓草で、江戸でも之をヨメノワンと名づけて居た。小さな實が熟すると、まん中から上は飛んでしまひ、下の半分の椀の形をした中に無數の種子が盛られたのが現れる。小さくてしをらしいから嫁の椀と名づけられたのである。
 椀もゴキも全く同じものである。昔は農民は皆木の椀で飯を食ひ、それをゴキと言つたのだ。さうして實際は幾ら御嫁樣の椀でも、ドングリの皿のやうな小さいのは無かつた。
 しかしこの空想は中々廣く行渡つて居た。伊勢でもヨメノゴキ、信州でも群馬縣の一部でもヨメノガウシと言つた。合子も食物を入れる木地の椀のことである。
 越後ではゴキヅル即ちこの合子草の實のことを、ガモモンといふ村もある。ガモモンはお寺の本堂にある「にようはち」といふ樂器のことで、鳴らすとガモモンといふ音がするから、子供たちがそんな名を付けた。植物のヨメノワンもなるほど形だけはよく似て居るが、是は又無暗に大きな物に比べて見たものである。(388)「にようはち」のガモモンに對して、家の佛壇の小さな「りん」を、チモモンとも謂つて居る。音で物體に名をつけることは、子供の方が大人より上手のやうである。
 このガモモンを越中ではガイモモ、あるひはガイモモンともいつて居る。上總の田舍でチャンポンポといふのも同じ物で、それがまたあの地方で蓮の實をも意味して居るのは、やはり形?が少し似て居るからであつた。近頃の話だから、まだかうして尋ねれば元がわかるが、古くなると學者が色々とこじつけるにきまつて居る。
 
     小兒語採用
 
 最初は子供が作つたに相違ない言葉が、幾らでも大人の社會に用ゐられて居る。我々は時に言語を改造する必要があつて、しかも幼い者ほどは、適切に新語を案出し得なかつたのかと思はれる。
 葬禮などは至つて古風な、かつ小兒の遊び戯れと最も縁の遠い事務であるのに、これを意味する村々の實用語は、多くは彼等からの借り物であつた。
  ジャンボ              宇都宮附近
  ヂャランボー            下總香取郡
  ヂャンヂンボー           常陸稻敷郡
  ヂンヂャーボ            同 湖來附近
  ビンチャン             上州館林邊
  ジャンボン             信州北佐久
  ザランボ              福島縣伊達
(389)  ザザンボウ             福島縣安達郡
  ザランバイ             同 岩瀬郡
  ザラブ               山形縣一部
  ヂャンヂャン            駿河島田邊
  チンカンボー            伊勢度會郡
  シンモコ              美濃土岐郡
  シンモウ              丹波何鹿郡
  ヂャボ               長崎縣一部
  チントウグヮン           宮崎縣一部
  クヮンクヮン            同上
 これ等はどれも是も皆葬式の音から出て居る。この平常耳にせぬ異樣の印象を、そのまゝ名前にしようとする率直な心の働きは、固より世故にもまれた人々の與かり知らぬことだつたが、しかも不吉な語は成るだけ使ふまいとする心理から、いつの間にか親たちがこれを眞似て、終には無邪氣過ぎた方言が出來てしまつたのである。
 死ぬといふことを奈良縣の高田ではチンマンマン、越後ではチンドンともジャンバンとも子供たちは言つて居た。筑後の柳河ではガーンサンニハッテクといふ。そのガーンサンは彼の世といふやうな心持で、これも亦人を送る日の音樂の響から小さい人たちの空想の國が、さう名づけられることになつたのである。
 
(390)     音から出た名前
 
 昔の子供も恐らくは同じことをして居たのであらう。もしさうで無ければ昔の大人が、我々の兒童と同じやうな心持で活きて居たのである。
 音をそのまゝ名前にする方法は手輕で、しかも間違ひが少なかつた。ふくろふの五郎助奉公でも、ほゝじろの一筆啓上でも、一つ處に住む人にはこと/”\く同じに聽えた。それ故に犬の聲をワンワンと聞く人と、バウワウと聞く人とは異國人であつたのである。
 私などは英國人の飼犬の聲を聽き、また彼等の國に往つても氣を付けて聽いて見たが、やはりワンワンとしかきこえなかつた。
 しかし同國人でも別れて住んで居ると、少しづつは違つてきこえ始める。例へば雷樣の聲を、東京ではゴロゴロさんなどと子供が言ふが、肥前の杵島藤津ではドロンサン、北高來郡ではドロガミといひ、伊豫の西條や安藝の忠海、その他内海沿岸の各地では、ドドロとかドンドロとかいつて居る。
 また日本の地理の特色として、小さな谷川の流れが、少し淀んでから急に落ちて居る處は多いが、土地によつて色々の名を以てそれを呼んで居る。例を擧げるのは多過ぎて却つて困る。ある村ではザワメキ、ある村ではガラメキ、またグルメキともドロメキともいふのが、行つて見れば皆同じ場所である。
 それを唐目木だの泥目木だのと書くために、後には何か面倒な理由を想像する人が出來るのである。或は百々と書いてドドなどとよませて居る。あれも小石川のドンドン橋と同じである。
 これを一樣にトヾロキといつた時代には、社會も感情も今よりは單純であつた。それが成長すると古臭い語ではす(391)まなくなつて、寧ろ進んで變化を求めたのである。
 
     名を作る
 
 佐賀縣では鑄懸屋のことを、スウホウともプウスウとも言つて居る。それが彼等の使ふ吹革《ふいご》の音から出て居ることは、何人も疑ふ者はあるまい。あの地方では火吹竹をもフスイダケといふのである。
 越中ではその吹革をシコポコといふ樣である。多分子供たちはこれを使ふ人をもさう呼ぶことと思ふ。沖繩ではフーチ、我々のフイゴとても、吹革は後に當てた文字で、本來は音の形容であつたかも知れぬ。も一つ進めばフクといふ言葉とても、音以外の原因から發生した氣遣ひは無いのである。
 木魚も同じ富山縣の入善あたりで、モクモクといふ名のあるを見れば、こんな漢字を最初から持つて來たことは、偶然の好都合といふまでゝ、少なくともこれをモクギョといつた人々は、音から出た名前と思つて居たにちがびない。
 ガンモモだのチンモモだのは、さういふ漢字にぶつゝからなかつた爲に、笑はれたり馬鹿にされたりして居るのである。何の事は無い日本の雅言は、漢語の奴隷のやうなものであつた。そんな事には頓着なしに、平民の子たちはどし/\と新らしい名を作つた。入用であつたのだから仕方が無い。
 宇佐で三味線をツレツレといつたのも適切であつた。徒然な場合に彈くからなどと、後には説明して居たかも知れぬが、そんな名は弘く通用するはずが無い。
 ごく新しいところでは、この頃の石油發動機船を、宮崎縣その他ではポッポブネ、伊豆の西海岸ではチャマッチャマアと謂つて居るが、いかな學者さんでもこれだけは説明もし得られまい。
 湯を入れて冬の夜手足を温めるものを、東京ではユタンポといふが、近江ではヘウタンがタンポであり、越中では(392)竹の筒がタンポである。たゝけばそんな音のする物は、鼓までがタンポポであり、あるひは莖を水に入れて、鼓の形をまねる一種の草までがタンポポである。ヘウタンばかりにあんな字を當てゝもだめだ。
 
     犬ころ
 
 名詞を作るといふよりも、寧ろ發生すると言った方が正しい。小兒は單にたれよりも早く、言葉の「芽ばえ」に氣が付くといふだけである。
 昔は殊にこの働きが盛んであつたらうと思ふ。故に我々が古語と名づけるものゝ中にも、斯うして發見せられたものが多いわけである。
 一つの例を擧げると、犬をヱノコロといふ語は、古い文學にも現れてゐるが、その理由は最近に入つて、西洋犬をカメと名づけたのと全然同じであった。
 カメは英米人がその犬にCome(來い)と言つて居るのを聽いて、それを直ちに名稱に採用したので、英語を知らぬからの誤解では無い。さうして犬ころのコロもまた「來れ」といふ命令の古い形であつた。
 關東でも今はコオ若くはコオヨといつて、コロの形は使はなくなつたが、犬だけに對しては茨城縣などで、コオロコロコロと呼んで居る。犬が特に保守派であつた爲で無く、犬と人との差が分化の必要を生じたのである。
 對馬や石見銀山では、鷄を呼ぶのにこのコロコロを用ゐて居る。それが一轉して名詞になつたといふことも、今日小兒が犬を何といふかに、注意して見ればすぐわかる。
 駿河の藤枝邊では、犬をガンガンと名づけ、またさう呼んで居る。これも「來い來い」の變化であらうと思ふ。その他、
(393)  コッコ              近江湖西
  コオコ               讃岐高松
  コウコ               伊豫今治
  コオサリ、コオコ          宮崎縣
筑前博多ではインコウ/\。小兒ばかりか親もさう稱へて居る。備後福山邊では犬をトウトノコといふ。トウトは「疾く/\」でこれも「來れ」を意味する。鷄をトウトと呼ぶのは一般の事だが、あれも決して鳥といふ語とは關係が無い。
 
     行行子
 
 この次には、頑是ない小兒の發明した言葉を、大人がどの程度にまで承認したかを考へて見よう。
 俳諧には昔の人はよく新らしい言葉を使つた。しかし一旦使ひ始めると、古くなるまで大切にして後にはそれに風雅の味をもたせる。
 最初はたゞどこかの地方人が、村で使つて居た單純な名稱を、面白がつて句にしただけだが、現在の風流人はもうそんな大膽なことは出來ない。
 ヨシキリ(剖葦)一名ヨシハラスズメを、行行子と書いたなども一例である。古い言葉で無かつたのは無論だが、他の類例を比べて見ると、あの啼き聲から出たことは確かで、作者は子供か、さうで無ければ子供らしい人であつた。
  キョキョシ             越後
  ギャギャス             羽後横手邊
(394)  カラカラズ            南秋田
  ガラガイシ             岩手縣北部
  ガラガイデ             外南部
  ガラガラシ             仙臺附近
  キャギャス             静岡縣
  ケケス               近江神崎郡
  ケケス               丹波、阿波
  ココチン              播州
  ギョギョウス            佐賀縣
 即ち行行子などと、尤もらしい漢字が當てゝあつても、最初はあの聲を眞似たのが元であつた。私は播州で生れたから、今でもあの聲がココチンと聞える。行行子といふと、何かよそ行きの美しい衣裳の樣な感じがする。
 ヨシキリといふ名も形容であらう。物を切る時のやうな聲を出し、さうして葦原に住んで居るからである。
 雀と似て居る故にヨシハラスズメともいふのだが、實は小鳥はもと何でもスズメであつたらしい。さうしてそれも同じく啼き聲の形容であつた。たゞ採用せられた年代が、九州などのギョギョスよりも遙かに古いといふだけであつた。
 
(395) 國語史 新語篇
 
(397)     序
 
 この二篇の拙文の中間には、二年餘りの日數があり、採集資料の若干の増加があり、從つて又少しばかりの考へ方の變りがある。當初自分は人生の新語需要といふものを、幾分か單純に見過ぎて居た。新らしい事物や觀念のまだ適當な表はしやうの無いものと、有つて何かの拍子に忘れて居るものと、有るのは知つて居るけれどもそれでは物足らぬか、又は相手を誤らしめさうな懸念のある場合とだけに、誰かゞ言葉を造つてそれが世に行はれるのだと思つて居た。無論この三通りの入用の大きいものであることは、今とても疑つては居ない。又強ひて辯ずるならば、それから後に氣づいたものでも、この三つのうちの何れかに入れられぬことはない。しかし本當はまだ考へて居なかつた點が多いのである。歌語辭令の特殊の約束から、何か新らしい好みを掲げようとする以外に、人が時あつて變化そのものにも興味をもち、單なる形の長短や音の組合せ、乃至は聯想のをかしさなどに心を惹かれて、斯樣にまで氣輕に色々の新語を、受入れようとして居たことは知らなかつたのである。是が當世に入つて一段と其勢ひを長じ、或は才分ある者のわざ競べとなり、もしくは輕薄でしかも遲鈍なる者の、旨從とも口眞似ともなつたのは自然で、悲しむべき今日の亂雜?態にも、言はゞ培はるゝ本の種はあつたのである。この流弊と闘ふの途は、第一次には是までの行掛りを知ることである。それが幸ひにしてはつきりと判れば、必ずしも指導者の頓悟を待たずとも、大衆自身の力でも、警戒して無益の動搖を避けることが出來ると思ふ。人はどうあるか知らぬが、我々の歴史を修めようとする動機は、是より外には無いのである。自分一箇の限りある智能を以て、それが十分に爲し遂げられぬと感じた場合、いよ/\熱心に其希望と可能性とを主張する必要がある。本書は乃ちその一つの試みである。
(398)    昭和十一年十月
 
(399)  新語論
 
     一 問題の範圖
 
 言語史はちやうど政治史などとは正反對に、記録文書の史料が具はらず、且つ年立時代別の目標を見つけることが不可能である故に、假にその研究の動機が今日のやうに、さし當つた色々の疑惑を釋くに在る場合で無くとも、やはり我々の眼の前の事案、もしくは最も手近なる言語現象の、容易に何人にも認識し得られるものから發足して、所謂倒敍式に調べて行く必要がある。今まで斯道に向つて切々の志を抱く者が、日本では兎角古いことばかりを説かうとして居たのは、手短かにいふならば一派有力の史學の、不本意なる感染であつたと思ふ。無論さういふ方法にも、幾多の獨立した結構な發見は有り得る。たゞそれが現在の多數人から答を待たれて居る根本の疑問、即ちどうして一つの國語が、僅かな歳月の間に此樣にまで、大きな變化をしなければならなかつたかといふ説明と、餘りにも懸け離れて居ることを憾むのみである。此問題を處理する第一歩は、先づ御互ひの知つて居る區域に於て、言葉が時につれてどう言ひかへられ、もしくは地を隔てゝどう言ひちがへられて居るかを、明かにすることである。眼のあたりの現象ならば想像を加へずに、直接にその原因を究むる方法がある。その原因が見つかると、次にはその同じ法則が、以前も同種の場合に働いて居たのではないかといふ問題に、近よつて行く手がかりが出來たことになるのである。五十年(400)百年後の日本語が如何に變化するだらうか、乃至は又如何に改まらしむべきものであるかといふことも、極めて重大な問題には相違ないが、それもこれも自分の今までの經歴を、知つてから後のことで無ければならぬ。ところが多くの先生は、過去の「何故」を明かにして居らぬのみならず、まだ最近の「如何に」をさへ答へようとしない。さうしてたゞ中古以前の國文的事實だけを説かうとするのだから、全くひどいと謂つてよいのである。私の採る所の方法は、素人として、單なる一個の日本語利用者として、夙に起さずには居られなかつた疑問に、正面から答へて見たいといふ計畫の上に立つて居る。この答はたゞ僅かに次のよりよきものゝ現はれる迄の、暫定的のものに過ぎないが、問としては相應に有力に且つ永く、即ち日本に一國言語史の成立つてしまふまで、引込め又は片づけて置くことの出來ぬものである。
 
     二 方法と用語
 
 私の問題は自然に二つに分れる。その一つは言語の時代差、即ち明治の初年の東京で聽いた言葉と、昭和の今日の同地の言葉と、どれだけ違つて居り又何故にその相異を生じたかであり、第二はその中央都市と信州越後乃至は九州東北の諸縣と、今尚可なりの變化があるのは何故か。即ち言語の地方差の理由である。この二通りの現象は、原因が或程度まで共通であつたと見てよい。自分は前々から相應に數多い證跡に據つて、二者の關係を非常に深いものと見て居り、ここでも重ねてそれを説くつもりであるが、それを信受し得ぬ人々でも、この二つが丸々別筋の路を歩み、全くちがつた法則に支配せられて居ると迄、考へて居る人は多分無いので、結局は程度問題に歸着すると思ふ。概括的な諭斷は實は出來るものでは無く、又最初からさうきめて掛る必要も私には無い。我々の方法からいふと、時の變化は僅か半世紀の前でも、もう立證が現在ほど安全で無い。個人の記憶を信ずるか、  偶々書き殘されたものを誤り無(401)しとするか、とにかく少しばかりは我々の手で實驗し難いものを、判別によつて承認しなければならず、それには旁證を要し又若干の習熟を要する。だから順序としては先づ方言の差異に通じ、その比較を明かにすることに主力を傾け、次いで第二段に過去の事實へ、入つて行くやうにした方がよいかと考へる。この竪横二つの變化が、假に異なる道程を取つて居るものとすれば、勿論斯ういふ取扱ひ方をすべきであるし、或は自分などの推測の如く、結局は一つの現象の視角の差であつたことがわかるにしても、やはり一應は別々に考へて行くのが便利である。方言に就いては既に或程度の資料が集まつて居るに反して、一方の史實はまだ些しも整理せられては居ない。かたがた此方には即座に手を下すことが出來ぬのである。
 そこで愈この限定せられたる第一段の問題について考へて見る。現在日本人の當面する國語の時代差は、果して何の理由を以て生れたものであるか。單なる歴史の一偶然であつたか。但しは避けんとしても避けられなかつた成長形態とも名づくべきものであつたか。ともかくもどういふ力が働いて、この顯著なる社會事實を作り上げたか。これは苟くも方言採集の事業に携はるほどの人ならば、最初に抱くべき疑問であり、或は寧ろ其動機となるべき疑問でもあるのだが、不思議に今まではこれに關心を示した者が尠ない。自然史の方面では、採集といへば必ず目的があり、それを學業の用に供しなければ、集めて來ただけでは調査でも研究でも無いと考へ、明瞭に草苅り雜魚すくひの仕事とは區別して居るけれども、方言ではこの堺目がはつきりせず、言葉の内容を確かめる任務にある人たちが、却つてその研究上の用語を混亂させて居る。獨り「採集」といふ一語が、不當に寛大に使はれて居るのみで無い。他の多くの方言に關係ある用語、殊に方言といふその語自身までが、今はまだ人によつて、どんな違つた意味にも用ゐてよい樣な實?である。或はこの亂雜を整理するが爲に、一日も早く標準語を以て全國を統一しようといふ人も有るか知らぬが、それは問題を逃避するに過ぎない上に、その「標準語」といふ語が、やはり近よつて見れば見るほど、定まつた眼鼻の無いものゝやうに考へられる。必要なる最初の一致は、何とかしてこの紛糾を極めた眼前の言語現象の一團(402)を、出來るだけ今後の研究に便利な樣に、區劃し又解析して行くことに在ると思ふ。自分の試案は必ずしも強力なる主張では無い。次の今一段と便利なる分類法の現はれる迄、假に斯うして置いて意見を進めて見るだけである。目的はたゞ國語の歴史を、明かにするより他には無いのである。
 
     三 地方言語事實
 
 「方言」といふ單語の範圍を、廣く狹く勝手に解して行くといふことは、何はさし置いても非常に不便な話である。新たに設けられた學術上の用語ならば、一應は發明者の定義次第として置いてもよいが、既に或程度まで社會の通用に供せられて居る以上は、我々は先づその行掛りを明かにして、無斷で今までの約束を變へぬやうに努力する必要があるのである。ところが日本の新語利用者の間には、奇妙に言葉の外形に氣を取られて、その内容の推移を意としない癖があつて、それが近年は殊に甚だしくなつて居るらしいことは、後に列擧しようとする幾つかの例からも想像し得られる。方言といふ語の意味なども、近頃の事實である故に證明はごく容易だが、この三十年餘りの間に早よほど變化して居るのである。明治中期以後、主として矯正の目的を以て行はれた地方の調査には、殆と例外無しに方言と訛語とを併記して居るのみならず、或は丁寧に一つ/\の地方語を、二つの種目に分屬せしめたものも稀ではない。言葉が果して訛なるか否かが、さう簡單に決し得る問題でないことは無論である。中には一つの語の言ひそこなひと認められて居たもので、實は全く別起原のものもあらうし、これと反對に話者の意識に於て、我土地ばかりの特殊なものと思つて居たのが、古い誤謬の殘形であつたといふ場合もあらう。經驗未熟の士が大膽に決行した分類には、遺憾が多いことは言ふにも及ばぬが、少なくとも今の雜然たる各地の言語現象の中には、右にいふ二つの流れが入り交り、その水源の二つ異なる方角に在るらしいことを、認めて居たゞけは穩健である。恐らくはその以前からの學者の、(403)「方言」に對する概念を承け繼いだものであらうと思ふ。自分の場合を例に取ることは有力で無いが、私なども早くから、方言は異なる單語、又異なる物の言ひ方を意味するものと心得、同じ語であり表現であるものを、聽き馴れぬ音調でいふだけがナマリだと思つて居た。(ナマリが近世の新語たる「訛語」よりも狹いもので、後者には別に其以外の「語法の訛」と認むべきものをも含んで居たらしいことは、此頃になつて漸く心づいたのである。)東北出身の人たちには、此けぢめは最も明かなやうだが、自分なども國を出て四十餘年、書くときは固より物を言ふ際にも、注意して小學讀本に無い單語、所謂「東京の中流の家庭」とかで使はぬ文句は、口にせぬやうにして居るのであるが、尚誰が聽いても生れ故郷を發見し得るやうな語音を發して居る。同じ言葉の音の出し方のちがひと、異なる言葉の存在とは別の事實であつたのである。方言といふ名詞を自分たちの慣用の通りに、後者に限つてもらふと便利は此上無いのだが、それが出來ない迄もこの部分の言語事實だけには、何か是非ともはつきりとした總稱が無くてはならぬ。さうで無いと、かの一方の徽妙なる音韻變化を外にして、別に言葉の生長と死歿との、獨立した法則を考へて見ようとする者が困るからである。ところが僅かに三十年足らずを隔てゝ再び興隆した地方調査では、方言といふ語はあらゆるナマリを含み、其上に單なる音抑揚をも是に打込んでしまつた。中部平野の鐵道沿線、諸國來往の目まぐろしい大都市周圍の村などの、所謂標準語化の徹底した土地では、時によつては以前私などの方言と謂つて居たものを、一語も載せない方言集さへ出て居るのである。單語は分化して段々に精密になつて行くものかと思つて居ると、「方言」といふ語のみは、逆に多面の意義を包括することになつたのである。以前の文部省の國語調査委員會が、國語の地方的變化を觀察する事業を、公に方言取調と稱し、次いで方言採集簿が全土に頒布せられるに及んで、この新らしい内容はほゞ固定してしまつた。それには幾つかの理由があつたことは言ふ迄も無い。西洋のdialectといふ語にも對譯の簡單なものが入用であつたらうし、一つの機關によつて行はるゝ地方調査である以上は、是を總合した名稱も無くてはならなかつた。殊に訛語といふ名は穩かならぬ豫斷であつて、語弊を伴ひさうだから出來るなら避けた方がよかつた。(404)他に通當なよい言葉が見付からぬとすれば、今後はその「方言」を弘い意味だけに、用ゐることにしようと決められたのも是非が無い。假に是非があつても今となつては、我々は是に遵はずには居れぬのである。たゞ將來に向つてまだ間に合ふことは、今日謂ふ所の「方言」の三通りの變化なるものは、三者別々に考へて行くことが今でもやはり便利であり、又必要でさへもあるといふことと、其中でも特に單語の地方差は、純なる言語學の立場からも、他と獨立に其素因を尋究すべきもので、從つて是に何等かの一定の名を、付與して置かねばならぬといふことである。感じは好くないが方言單語、若くは狹義の方言と謂ふなども一案であらう。(私の講説は專ら其狹義の方言の成立と交渉があるので、他に紛れる懸念の無い限り、暫らく簡便の爲に古い頃の意味に、「方言」といふ語を用ゐたいと思つて居る。)兎に角に我々の研究の對象とすべきものに、手頃な呼び名の無い事は御互ひに困ることであるから、折角持傳へた以前の語は尊重して、無闇にその中味を入れ替へぬ樣にしなければならぬ。最近の東條操氏は、もう一段と「方言」といふ語の範圍を擴大して、今度は土地々々に現に行はれる標準語までも、詰め込まうといふ意見であるといふが、そんな事は是非とも願下げにしたい。標準語の浸潤は時々刻々に進んで居り、到底ある一時點の?態を切放して考察の用に供し難いのみならず、是と在來語との配合や比率を問題にする必要などは、如何なる矯正運動家も豫想しては居るまい。強ひて學問上の入用も無いところへ、この大切な用語を押し遣つてしまふのは、無くしてしまふのと同樣に惜しい。もしもたまさかにその標準語混入の?態を、一語で言ひ現はす必要が生じたならば、是を地方語現象とか、地方言語事實とか謂つても臨時の用は足るのである。今ある廣義の方言なども、實はこの名で呼んで居てよかつたのである。何かよい語が有れば尚よいといふ迄で、單語・音韻・語法の三者を總括して研究の對象としなければならぬ樣な場合は、我々の知る限りではさう頻々とは起つて居ない。たゞ素人の多くの採集者を、迷はせるだけが落ちであらうと思ふ。
 
(405)     四 訛語の種別
 
 「方言」といふ語の範圍の、次第に擴張したがる傾向には、又一つ別の原因もあるかと思ふ。方言の意識は、最初先づ外から來た人の胸に萌すべきものであつて、各地住民の自身日常に使用する所の言語が、その所謂「方言」であることを知るには、更に第二次の修得を必要とするのであつた。ところが近頃の採集事業には、經驗ある專門家を働かしめる場合は極めて少く、却つて餘り世間に觸れない地元の住民の話主をして、直接にその現實の用語を自記せしめようとしたのである。何が方言であるかの疑問が投出せられるのは自然である。是に對する指導者の答は、親切と謂つてよいか否かを私は知らない。小學讀本はやゝ口語に似たる文語である。是と同型なる言葉を話して居る者は、東京の眞中にだつて一人も有りはすまい。所謂中流の家庭のまじりの無い標準語を話すものは、捜したら何處かに有るのかも知れぬが、それを地方に居てどうして知ることが出來る。もしも是と異なるものが皆方言だと答へたならば、結局各人は讀本などに依つて、めい/\の想像上の標準語を作り上げ、いつ迄たつても自分ぎめの方言を、盛り澤山に提供せざれば已まぬわけである。我々の標準語は時々刻々に成長し、且つ又批評せられ補訂せらるべきものである。假にもう少し把へ處のある場合でも、尚是を尺度にすることは鴉の黒雲を目あてとする喩へに近い。ましてや今日の方言採集者に、それを知らせる方法は少しでも具はつて居ないのである。いつそのこと何もかも草苅式に苅り集めさせて、こちらで仕別けをしようといふ一案を、案出する人が現はれるのも已むを得ない。それならば必要の資料の逸脱する懸念は先づ無いかも知らぬが、その代りには方言が如何にして出來たかといふ根本の問題を、解決することが一段と困難になるであらう。
 しからば何によつて地方の言葉の、採集すべきものと否とを判別したらよいか。是は私達にはさう苦しい詰問では(406)無い。大よそ採集者の力量次第、是が方言であらうと思はれるものを採ればよいので、それの選定が屡當を失する者は、乃ち適任で無いのだから止めるのが最も簡便だと思ふ。假に熱情が有つて是非續けるといふならば、せめては日本の至つて普通の辭典に、載せてある語だけは方言として報告せぬことを約束せしめたら、それでもう十分であらう。今日公刊せられて居る大きな字引には、隨分餘計な國語ともいへないもの迄も網羅して居るが、方言だけは擧げぬと言明し、若くは古い増補俚言集覽の如く、何れの地の方言といふことを明示して録して居る。これ等に出て居る言葉を又出すのは詮も無いことであり、それに洩れて居るやうなら兎に角に新らしい知識である。たとへ方言では無くとも之を保存するは意義があり、又問題とするに足るのである。しかも實際はその大部分が、我々の求めて居る方言であらうと思ふ。だから採集者の實用的定義としては、日本で最も完全と自稱する辭典に、未だ載せられて居ない言葉が方言だと、明言して置いても格別の誤りは無く、且つ不穿鑿なる採集者を戒めることが出來るのである。斯う言つてしまふと必ず第二の不審として、それではあんまり又廣過ぎはしないかといふ説が出よう。?鼠を土地によつてウグラモチ、乃至はオゴロモチ・イグラモチと謂はうとも、それがムグラモチの變化なることは誰でも知つて居る。百合は北國へ行くとルリ・ロレン、ドレンと謂ふ者さへ時々はある。家の引移りはヤウツリであらうが、京阪は專らヤオツリと謂ひ、紀州の南岸に行くとユアタリともユワタリとも謂つて居る。その他戸棚をトナダ、茶釜をチャマガ、釣瓶と書く語をツブレと呼ぶの類、一々是を取上げたら際限も無く、又方言の範圍がぼやけるといふ人があらう。それは正にその通りであるが、今日は實際さうやつて居り、是等を削除したら消えて無くなる方言集も、中央部には可なり多いのである。何と言つても方言集は辭典である。それを此樣な亂雜なものにしたのは、起りは近年の定義擴張と、之に伴ふべき分類の怠慢、一つの手帖を以て三種以上の現象を、寫してしまはせようとした性急に坐する。三十年前の小學教育者が、矯正の事業を樂觀したのは失敗だつたが、それは彼等ばかりの大膽では無い。寧ろ推服してよいのは訛語と方言を對立せしめ、何れは雙方とも撲滅させて然るべきものだが、其間に若干の緩急ある事を、意識し(407)て居たらしい態度である。然るに結果はどうなつたかといふと、單語の統一は先づ行はれ、所謂訛語の習性となつたものは後に殘つた。ちやうど豫想とあべこべの事態を招致したのは、言はゞこの二つの現象に、二通りの法則の行はれて居るかも知れぬ事を忘れた爲である。其位の不注意ならば今でも尚やつて居る。といふよりも今の方が甚だしい。單語は新らしいものゝ出現が歡迎せられ、少しく古くなると、わざと別の語を發明しても之を取替へる。新語を考案する技能は日本人は殊に長じてゐる。教員が努力せずとも惡い言葉まで覺えて來る。それとは反對に自分では意識せず、又一同が是で世間竝の如く思つて居る物の言ひ方は、よほど教へ込まぬと其差異を認めさせ難く、又始終そんな點に注意を拂つて居れば、外國語と同じで、言語の自然の利用は出來なくなる。故に殆と例外無しに、此分だけが後に殘るのである。訛とか正とかいふ語の意義の穿鑿は私は爰ではしない。單に一定の地方的異同として此語を解するならば、その國内統一を阻碍した事情は、寧ろ雙方又は一方の同語意識に在つたのである。私の考へて見ようとする「狹義の方言」には、最初からそんな意識は絶無である故に、採らうか採るまいかの決斷はすぐに必要になる。さうして我々は又可なり新しい語の眞似は好きである。これに反して訛語は少くとも話者によつて、稀にしかその相異を氣づかれて居ない。即ちロウソクだからドウソクと謂ふのに何が惡いと思ひ、茄子といふ積りで梨子に近い音を發するのである。普通の會話は達意を目的として居る。一人で違つた訛語の中へ飛込めば、逆に此方が笑はれる恐れさへあつた。假に誤解をした所で其責は先づ旅人が負はされる。ましてや話はよく判つて居るのに、其言ひ方がよくないなどと、中央集權時代の役人の如き、批難をする力は外來人には無かつた。だから追々にそれが固まつて、各地割據の?態を改め難くなつたのである。訛語と方言の差別は歴史的にもよく立つて居る。前者は即ち同じ一つの言葉の、外から來た者にはよく認められる言ひ方のちがひであり、後者は通辯を要する知らぬ語であつたのである。是を混同して考へて居る限りは、地方語の起りなどは答へやうが無いかも知れない。
 訛語は元來客觀に基く名であつた。外から聽く者には之を指示することが甚だ容易であるに反し、内に住する人々(408)に取つては、往々にして其範圍を決し難かつたのは、それが差別の新たなる發覺を前提とし、私の謂ふ同語意識の破壞を意味したからである。其結果は最も古文獻を尊重し、同時に是と些かの聯絡も無い都市の語辭に對しても、十分に從順であつた人たちまでが、尚折々は改むべき土語を取殘すのみならず、更に他の一方には方言も亦一種の訛語に過ぎぬかの如き、匆卒なる類推をする場合が多かつたのである。難波のアシが伊勢のハマヲギであることは、寧ろ京人の興味を以て聽く所であつた。一つの事物には是非とも唯一つの單語だけで無いと、記憶に苦しむなどと謂つた人は一人も無く、又カボチャが正であつてナンキンが訛、カモウリはうそでトウガンが本當などと、斷定した者も曾て無かつたのである。それを大急ぎで片一方を引込ませ、中には頃合の對譯も無い方言まで、廢して使はぬことにしたのは、如何に地方の人が差別の撤却に熱心であつたかを證明はするが、御蔭で我邦は一段と語彙の貧弱な國になりかかつて居る。新語の無差別に補給せらるゝ所以である。方言の範圍の改めて考察せらるべきは申すに及ばず、更に前年の訛語と認められたものゝ中でも、元に溯つて何故に訛であつたかを、見分ける必要が多い樣に思ふ。
 
     五 同語意識の崩壞
 
 前にも言ふ通り、我々の訛語の概念には、最初から單なる音韻現象以外のものを含んで居た。例へば九州で黒いを黒かといひ、受けるを受くるといふ類の變化も、本の語はちやんと判つて居て、たま/\1是を表出する語音の變つて居る點は同じである故に、人は均しなみに是をも國なまりの中に加へようとしたらしいのである。一方を假りに音訛と謂ふとすれば、こちらは用訛とも語法靴とも名づくべきもので、古人必ずしもこの二者を混同したのでもあるまいが、外部の觀測者の耳に響く感じが似て居た爲に、一語で總括してもよいと思つたのであらう。斯うなつて來ると、愈正訛の論はやかましくならねばならぬ。殊に音韻とちがつてどこかに古い形態を保存して居るといふ想像も成立(409)たず、況んや京の語法が必ず純といふ豫斷も許されず、兎に角中代以前の若干の記録があつて、雙方の共に既に改まつて居ることが證據立てられる以上は、少しでも元の形に近い方がより正しいといふ説も起り得べく、便宜一點張りの標準語の足元は、一段とたど/\しくなるわけだが、私は斯んな實際問題には干與したくない。それよりも考へて見なければならぬことは、同じく訛語と目せられたものゝ中でも、是は原因が全く音韻の變化とは異なつて、寧ろ其生成の法則を方言單語と、共にする點がありはせぬかといふことである。形容詞や動詞には時の需要に應じ、人の才覺を以て、新たに調達せられたものが隨分多いと同時に、特に計畫を以て從來の用法を更訂し、乃至は之を保持しようとしたものが少なくない樣に思はれる。かつて我々が一つの語に習熟して、自由に色々と是を用ゐて居る間に、何か隱れた理由で其中の一つ二つが、格別に土地の嗜好に叶うて盛んに流行し、次第に同類を揃へて他の型を排除したといふやうなことが、現在の語法の地方差を、作り上げた一つの原因では無かつたらうか。もしも文法家の曾て考へたやうに、一つの心持を表はす用語法は唯一つで、是に依らないものは皆まちがひであつたとしたら、斯ういふ變化は起りやうが無いのである。數多い實例は又我々の眼の前にも在る。年とつた人たちの首を傾ける物言ひが、幾つか流行して大半はやがて消え、僅か殘りの印象の特に好いものが、兒女の口にも上ると家々に根を生やして、彼等の成長とともにいつと無く、次の代の當然となつてしまふ。此點は個々の新語ともよく似て居り、音韻の變化とは可なり著しく異なつて居るのである。
 但し所謂音訛の方面に於ても、これと同じ傾向は全く無いわけでは無い。以前「音訛事象の考察」といふ論文に於て、多くの蟲の名に就いて述べて見たこともあるが、人の新意匠は時あつて音の變更の上にも加はつて居り、それが又選擇によつて容認せられて居る。或時は語意の分化に伴ふ差別の必要から、又或時は單なる音聲の興味から、わざ/\古いものを罷めて新らしいものに就き、又は強ひて特徴の多いものに赴かうとして居る。それを悉く生理學上の現象と見、古風墨守の不成功の如く解することは、よほど無理な音韻變化の法則を、築き上げさせる結果になりさう(410)である。この實例として自分の引用した中部地方の桑の實の方言などは、或はまだ十分に適切なもので無かつたかも知れぬが(方言二卷一號參照)、少なくとも多くの類型的なる自然音訛と對立して、別に一種の孤立的、即ち他の一般の傾向と伴はない、特殊の變り方の有ることだけは認められる。それが土地毎の流行であり、又數あるものゝ中からの選擇であるとすれば、爰にも語法推移の場合と同樣に、やはり第二の人爲音訛、もしくは社會的音訛とも名付くべきものの存在を疑ふわけには行かぬのである。
 訛語と我々が今まで呼んで居たものゝ中に、音と用法との二通りの變化があつたことを、是非とも明瞭にしてからで無いと、この總稱を存置することが危險である樣に、その二通りの變化の各にも、更に二つ以上の全く異なる原因が入り交つて働いて居なかつたかどうかは、やはり豫め之を確かめる必要がある。それを怠つての概括的歸納は、價値が乏しいばかりか有害でさへあると思ふ。しかし此點を詳しく論ずる爲には、今は適當なる機會で無い。私が力を專らにしなければならぬのは、訛語と方言との分界の不明、或者は殆と全部の地方語を片端から誤謬と見て、僅か殘つて居る文獻資料を以て悉く之を證明しようとし、他の或者は是と逆に、兒女の言ひそこなひ迄を皆別の單語と認めて、麗々と之を五十音順に竝べて置かなければ承知せぬといふ樣な、兩種極端の方言集の共に方言集として珍重せられる?態が、どういふ風にすれば整理し得られるかといふ問題であつて、是には前に述べた樣な種別觀察を、全然閑却することが出來なかつたゞけである。音韻の地方差には、自然變異の法則が既に認められ、それが又實際に發音の意識的なる改革を牽制する力も相應に著しいのであるが、他の所謂語法訛の方面に在つては、本來どれ程迄の無意識の轉向を許し得るものであつたかもまだ究められて居らず、從うて一見稍無方針なる各地の言ひ換へが、自由に續けられて居たかの如き感じを與へる。無論さういふことは有り得べきもので無く、苟くもそれが社合の必要であり、又取捨の結果であるからには、背後には必ず之を統制する法則の、未だ人間の會得に入らぬものが、潜んで存在すると見なければならぬのだが、其發見の爲にも方法は尚盡されて居ない。言語利用の樣式の次々に移り動くと共に、之(411)を改良して來た前代の動機と經路は忘却せられ、いつと無く私の謂ふ同語意識を失つて、異なる單語のやうに解せられたものが、特に此部分に多いのは當然の結果である。方言生成の起原を考へて見ようとする者が、最初に先づ訛語との交渉に留意しなければならぬのも此爲である。個々の實例には假に異論を唱へる人があらうとも、兎に角にこの同語意識の崩壞によつて、分立した方言が若干は有ることを、認めた上で無いと新語論は説けないのである。音轉訛の場合は大抵は過程が明白で、之を別語と見る程の開きがあるものは尠ないのだが、それでも時には好みや必要によつて、意外な形にまで言ひかへて居るものがある。元を忘れてしまへばそんなのも方言であるが、是は寧ろ將來利用せらるべき音韻論の新資料で、我々は唯之を誘致した底の動機は、どれだけ迄新語の製作、もしくは語法の選擇と共通したものがあるかを、討究して見ればよいのである。
 以上が無調法ながら此篇の序論見たやうなものである。もう一度手輕に要約すると、方言といふ語の範圍を、言語の地方差の全部の如く解せられる事も、今は早致し方は無い。唯もしも地方差の起原を明らかにするのが學問ならば、所謂三つの部門は分別せられなければならぬ。是を混淆の?に置いては目的は達しない。次に三つの中で先づ單語の變化を考へて見るのは、必然の順序である。現在の資料は此部分のみ稍採集せられて居るだけで、他の二つの問題は尚甚だしく不完全だからである。是に關してはそれ/”\の採集法、又それ/”\の整理比較の方法があるべきであるのに、今はまだ物の序に、僅かに事實の片端をしか把へて居らぬからである。事實に據らない推理といふものは私たちには出來ない。出來ると信ずる人に遣らせて見るの他は無いのである。但し今日わかつて居るだけでも、二種の所謂訛語の原因に、各二つの場合があることは察せられる。さうして其一方の社會人の發意により、特に意識して變更し又は保存しようとしたものだけが、狹義の方言と交渉が有るらしく思はれる。といふわけは其若干は訛語の群から離れて、既に異なる單語の如く看做されて居るからである。「訛語」といふ字の用法に就いては、私は責任を負はない。事實を記述する學問には、素より正訛の問題は無いからである。
 
(412) (註) 人の選擇に基づく特殊の用語法が、動機不明に歸して一箇の新語の如くなつた例は、動詞には最も多いが、形容詞にも幾つか見つけられて居る。イシイは多分イミジの音訛だらうが、食物に限つて特に敬語を附した女性の用法は、今ではオイシイとなつて美味のものを意味する一語である。東北諸縣で「幾分か」、又は「或程度まで」を意味するモサバは、「申さば」といふ古風な句形の名殘である。音韻の方でも本文のユワタリなどは一つの例だが、紀州の南郡で「くちなし」をサンビキ、又他の郡でサンヒチとも、サンシチとも謂ふから元は山梔子の字音の變化であつた。是と反對に美濃飛騨などで、「庭たゝき」をセキリンと謂ふのは、後に鶺鴒の音に近づけようとしたゞけで、他にシキリン・シチリン・チチンドリなどの例もあるから、元は啼聲の方からの推移であつた。是と同樣に蟷螂をトウロウといふのも、ヲガミタラウ・ヲガマナトホサンなどの例を比べて行くと、此蟲の擧動の拜むに似た所から、附けた名の「通らう」の方が元である。
 
     六 古語保留
 
 方言に昔の言葉が殘るといふことは、既に南留別志の頃からの好話題であつた。玉勝間の有名な一章には、親切にその觀察の態度を説いて、是が國語の研究の上に缺くべからざる修養であるとさへ訓へられて居る。是は誠に感謝すべき啓發であり、又廣汎なる眞實でもあつた。今日の地方の學徒が、各自の郷談の中に古事記萬葉集の破片を見出して狂喜するのも、本居大人の手引といふことが出來るのであるが、單にその新舊の比較を古文獻の上に限つて居ただけでは、本當はまだ言語史の事業でも無かつたのである。個々の單語が千年二千年の昔から、用ゐ馴らされた日本語であることは、書物に出て居ればそれでもう疑ひは無い。それには色々と辭典も出來て居て、わざわざ知る爲に地方語を探るにも及ばぬわけである。我々の疑問は尚この以外に、不幸にして現在の記録文語に、一度も採用せられなかつた言葉が、どの位有つたらうかといふことが一つ、第二にはさばかり由緒のある前代日本語の或部分が全く影を斂め、又は都府の生活から退いて、僅かに片隅に零落の姿を留め、今更之を珍しがる人たちの話を、黙つて拜聽しなけ(413)ればならぬのは何故か。普通の考へでは殘つて居るのが當りまへで、それが稀だといふ方が寧ろ不思議なのである。この第二の疑問を釋く爲に、我々の新語論は乃ち入用であつた。日本語の語彙は今とても決して豐富ならず、新しい經驗はいつも叙述の器物を溢れ、「言ふに言はれぬ」情感ばかりが、日ましに複雜になつて、どんな粗末な表現のし方でも、誰かゞきつと眞似するといふ世の中に、どうして斯う惜しげも無く古いものは棄てゝ來たか。新規に發明する力は別のもので、之を保存の方向に轉用することが出來なかつたか。乃至は其餘勢に卷添へを喰つて、消えずともよい古語までが追拂はれてしまふことになつたか。これ等の諸點を考へて見る爲にも、やはり新語の出現といふ側から、近よつて行くのが便利である。古語と新語との實際上の堺目は、時を以て劃することも出來ず、文書の初見を以て目標とすることも尚心もと無い。昨日以前から有る我々の古語といふものは、或はその全部が太古以來の、何れの時代かの新語であつたかも知れぬのである。今まで思ひも付かなかつた別の名や言ひ方を、新たに考へ出して世に行ふ技能なり必要なりが、不意に中途から起るもので無く、又人類と相生であつたといふ言葉が、どれであるかを證出することは容易でないとすると、古語は唯單に第二のものが生れて來て、取つて代らうとして未だ果さない僅かな期間だけに、存立し得る名稱だと言つてもよいのであるが、さういふ風には通例は考へられて居ない。現在世にある言葉を大まかに二つに分けて、一度でも筆紙に上つたものは、反對の證據の無い限り古くから傳はつて居るやうに、其他は何れも皆近頃になつて始まつた樣に、見ようとする風が今まではあつた。それが條理の無い差別であることは、自然に少しづつ判りかけて來ては居るが、さて何人にも納得の行くだけに、解説しようとすると其方法がまだ具はつて居ない。我々は先づ之を見つけなければならぬのである。現代の新語は共通の經驗で、その出現の過程を觀測する者も多く、又計畫すれば實驗さへも不可能でなかつたに反して、過去は單なる痕跡の群であり、從うて又推察の領分に屬する。果して今日の通りの需要の複雜性と、種々なる樣式の配合とを以て、昔も其新語を産み育てゝ居たかといふと、寧ろ然りとは答へ得ないので、しかも時代々々の傾向なり流義なりは、さう簡單には把捉し難いのが當然である。た(414)ゞ我々の頼りとしてよいことは、第一には一つの國民の曾て具へて居た能力の持傳へ、第二にはその能力の發揮を要求する外部の事情の繼續、之を具體的にいふと、日本人は恐らく昔から言葉造りが巧者で、同時にその新語の入用が、絶えず斯邦には大きかつたらしきことである。十分なる證例の出揃はぬ前に、斷定を下すことは固より不可であるが、兎に角自分等は現在の最も複雜なる現象の中に、若干の過去にもあつたものが、今尚包含せられて居ることを豫想して、是から出發すれば歴代の新語も、次第に起りが判つて來るものと樂觀して居るのである。新語論の完成は、一國言語史の全幅に及び得る。斯くして始めて純粹の古語、即ち民族と其存立の初端を等しうする言葉を取分けて、之を安全なる異國語間の比較にも援用し得るわけであつて、多分古からうといふ近頃の推測には、ノシを波斯語だといふ類の笑ふべき誤りが多いのも、この準備の研究を無視した性急に災ひされて居るのである。
 斯ういふ心持を以て、私は古語保留といふ言葉を使つて居る。是が絶對の古語だといふことは、まだ何人も言ひ切ることは出來ないだらうが、兎に角に可なり久しい間、次の新語によつて更替せられなかつた語が、所謂俚言の中にも相應にあるのである。或は寧ろ地方の現象であるが爲に、特に注意せられるのかも知れない。多く古樣を存するのは文語であり、是と最も親しい都市語である筈なのに、其方は既に改まつて都にのみそれが殘るといふことは、先入感ある人々には珍しかつたであらうが、もし是をたゞ單なる新語不發生の?態として見るならば、少しでも奇妙な事實では無い。何となれば新語は昔も今も、言語活用の活?なる、即ち人間の多い土地に起り易かつたからである。古語を一度でも古文獻の上に現はれたものだけに限るならば、それは田舍の方には多く殘らなかつたかも知れぬが、誰が其以外に昔の日本語が、もう無いといふことを斷言し得よう。方言の調査のさし當りの功コは、寧ろさういふ魯かしい俗念から、御互ひを救ひ出すことに在つたのである。我々は努めて手近なる多くのよい例を、早く見つけて無益の論を省かなければならぬのだが、今はまだ同志が割據して、僅かな比較をさへ試みようとして居ない。其爲にいと容易な發明までが阻まれて居るのである。私の家の軒先に、今漸く芽を出さうとして居るアケビといふ植物は、倭名
(415)鈔の時代から既に阿介比であつて、是と異なる各地の呼び方は、すべて訛音として卑しまれて居た。東京の近郊から中部地方へかけては廣くアクビと謂ひ、關東の村方には下總香取などの如く、アックリといふ處も多いやうだが、是は其果實が口を開けて居る故に、斯ういふ方が適切だと思つたものらしい。アキビ・アキベといふ地方でも、無論大急ぎでアケビに矯正しようとして居るやうだが、一昨年私が隱岐に行つて採集して來た所によると、あの島の方音にはアキベとアキンベとがあり、是に對して今一種の木通《むべ》をフユンベと謂つて居る。さうして其果實の成熟は幾分か一方が早いさうだから、あけびの起りの「秋むべ」であつたことがよく判る。古語は却つて邊隅に於て保留せられて居たのである。山慈姑のカタクリは東北は一般にカタコで、此方が標準語よりも今一歩、古い形の「かたかこ」に近いことは認められて居るのだが、信州の川中島附近では、今でも方言が明晰にカタコユリであつて、都府のカタクリが却つて其音訛であつたことを知る。是なども關東のアクビ・アックリと同じやうに、次の聯想のクリといふ意味が働いて、一つの言ひちがへを固定せしめて居るので、單なる音韻の現象ではなかつたのである。侏儒を一寸法師といふことは或時代の戯語で、多分は今ある同名の御伽草子と前後して生れたものと思ふが、其以前の古語のチヒサコ又はチッサコであつたことは、仙臺の方言集濱荻によつて窺はれる。江戸には近頃まで「ちいちや子ぼつちや」の童謠が行はれて居て、嬉遊笑覽の著者の博識を以てするも、其本意はもう解らなかつた。しかも桃太郎同系の神子出現譚が、遠く小子部連栖輕《ちひさこべのむらじすがる》の物語以前から、既にわが邦に存在したらしいことは、この唯一つの語の發見によつて、ほゞ明かになつて來たのである(民族三卷四號參照)。九州では蟇をタンギャクといふのが古語であることは早くから注意せられて居る。紀州は熊野にもタンゴクといふ形があつて、是は先づ疑ひが無いらしいが、最近に沖繩語の採集が始まつて、同種の例は更に急激に増加しようとして居る。伊波氏が引用せられた錐をイリといふ語なども、分布は九州の南半に及んで居る。射だの彫だのに該當するイル・エルと同原のイリが以前の形で、キリは更にそれから導かれた上代の新語であつたのである。その他標準語のナミダに對するナダ又はメナダ、地べたのベタに對するミザ、慌だしくを(416)意味するアタダニの如き、何れも其分布は南方の一隅に偏せず、八丈とか佐渡とか山陰の田舍とかのやうに、懸離れた土地に於ても至つて謙遜なる存在を保つて居た。平心に之を比照すれば、我々はその變化の順序を知るに苦しまない。單に中央の詞客の國語を改良せんとした努力を見縊り、彼等をたゞ單なる舊式墨守者と見て居た人々だけが、いつ迄も古語の文獻以外に傳はつて居ることを、覺ることが出來なかつたのである。
 
     七 複合保存の例
 
 新語作成は一つの技術であつた故に、他の多くの技術も同じやうに、やはり都市に於てその特殊の發達を見たものかと思はれる。田舍の弱點は第一に新語の需要が少なく、第二にはこれを鑑賞批判し、又採擇支持するの力が十分でなかつた。方言は今日その稀有なる仕事の跡として珍重せられるが、他の主要なる部分は標準語の中に於て、却つて最も目立たずに爲し遂げられて居たのである。村の役目は昔も今の如く、新たに生れたものゝ模倣であり、次には其保管であつた。是が寧ろ我々の言語史研究に、利用せらるべき大切な資料で、地方の新語はたゞ中央に久しく繰返されて居た事業が、爰にも其一端を反映して居たに過ぎぬのである。地方の言葉の中には忘れ殘り、即ち既に變更せらるべくして、何と無く其儘になつて居るものが中々多い。キヌが絹絲や絹織物を意味するやうになつてから、衣服をキヌといふ語は廢語となり、沖繩諸島を除けば一般に、キモノかキルモンかゞ是に代用せられて居る。ところが他の語と複合して、何か特定の物を意味する場合だけは、不便も無い限り在來の名前を續けて用ゐて別に氣にしても居ない。たとへば蛇のぬけがらを富山地方でヘーブノキンといふなどは古語である。北陸一帶に衣服を入れて置く一種の箱を、キンビツ・キンベツといふのも衣櫃であるが、土地によつてはタンスといふ新語を拒んで、是をさへ同じ名で呼んで居る者がある。農家に缺くべからざる衣裳掛の竹竿には、全國殆と一樣にナラシといふ新語が普及して居るに(417)も拘らず、九州の島々にはそれを知りつゝ、尚キンカケザホの語を併用して居る例もあるのである。更へずにすむものなら更へずに居ようとする傾きは、農民の間には可なり著しい。町では單語の氣持なり素性なりを、幾らか餘分に注意して居たと見えて、此種の新舊不一致は或程度まで整理してある。たとへば天然痘をホウソウと稱して、モガサもしくはモと謂はなくなつて後も、アセモといふ語だけは尚殘つて居るが、是も現在はアセボと謂はうとする者が多くなつた。是に反して九州にはたしか水痘をソラモといふ語があり、福島縣の海岸地方には、疱瘡神送りをモナガシといふ名が行はれて居るのみならず、痘痕のアバタをモガサ・モクソ、或はイモグシなどと間違へて呼んで居る土地も多い。薪《たきゞ》をコルといふ動詞が廢せられると、キコリといふ音の佳なる名詞までが、僅かに文語の中に保存せられるだけになつたが、今も山陰の諸國などでは、正月二日の山入の行事を、口言葉でもコリゾメと謂ふのである。炬火をタヒと謂つたのは既に歴史であつて、松明のタヒマツすら既に燒松の音便と解せられて居る(言海)。にも拘らず盆の魂祭に焚くものはタヒであり、乃ち百八タヒといふ語は弘く中部の諸縣に分布する。魚をナと謂つたのは、酒の肴といふ場合だけに殘つて居るが、それさへも野菜の菜だなどと謂つて、我々の酒宴に必ず鮮を用ゐた風習を忘れてしまふ迄になつて居るのだが、地方の複合詞の中には魚を納るゝ屋をナヤ・ナゴヤ、魚を乾す装置をナダナと謂ひ、魚群をナブラともナムラともいふ名が殘り、天龍川の流域では川をしきつて魚を捕る漁法に、ナツボといふ名稱も尚用ゐられて居る。古い記録に見えて居る單語だけは、斯うして竝べて行けば何人も其存留を認めるであらうが、是が記録にある語だから殘つたので無い以上、記録を逸した古語で亦同じことがあつたと見なければならぬ。それを念頭に置かずに、方言の起りを説くのは誤りである。物の楕圓形なるをイビツナリといふことは、是も亦|飯櫃《いひびつ》といふ古語の複合保存であるが、今日のめし櫃はメンパ・ワッパを除くの他、もはや楕圓のものは見られなくなつて居り、從つて語原の異なる解釋も成立ち得るか知らぬが、是を中國のどこかでは、今でもユリナリと謂つて居て、此方が又一つ古かつたのである。ユリと稱する楕圓形の器物を、現在まだ用ゐて居る土地はごく僅かだが、是を記憶する老人は幾らも(418)居る。名の起りは多分穀粒を淘《ゆ》り汰《よな》げる用途からであらう。主としては食物を田人に餉《おく》る爲に、頭に載せて運ぶ目的に供せられ、壹岐島などでは更に之を神祭りの具として居て、百合若説話の主人公の名前までが、其根源を是に溯らしめるのである。それは又一つの決し難い問題だとしても、兎に角ユリといふ重要な一つの物の名が消えて、ユリナリといふ複合形のみが地方にはあつた。それを矯正してイビツナリとする事は、改良にもならず又復古にもならない。細くて長い一本の木材をボウといふ語と、ボクといふ語とは現今は別ものと考へられて居る。前者は棒の音、後者は古木の音の半略のやうに、多くの物知りたちは心得て居るが、そんな用法は二つとも、原産國の支那には無い。子供が手遊びにする木切れをボクトといふなども、人は木刀かと思つて居るが少しでも刀では無い。これ等の混亂はホコといふ古い日本語が、單に鉾や矛だけを意味するやうになつて、其他を忘れてしまつた結果らしいが、所謂木のボウの元はホコであつた名殘は、屋根葺きの用語にも複合して殘つて居る。たとへば屋根の萱を押へる木は、どこの田舍に行つてもオシボクであり又はスマボコ等である。それから運搬用の朸もオホコらしい。是を天秤棒などと謂ふことになつたのは、所謂兩天秤に擔ぐ樣になつてからの話で、さういふ擔ぎ方は以前には無かつた。椋と字にかく木を現在はムク、是なども一つの分化かと思ふ。(エノキにも古くは朴の字が宛てゝあるが、やはりボクに近い別名があつた爲かも知れない。)椋は今でも棒を作る木として知られて居る。それは必ずしも此木が強いからで無く、何か信仰上の習はしに基づいたものらしいのである。
 
 (註) キヌビツといふ語は、源氏の松風に出て居ることが、和訓栞の増補にも注意してある。ヘビノキンといふ語は富山近在だけでない。加賀河北郡の方言としても採集せられて居る。
 
(419)     八 限定保存と意義分化
 
 新語の流布にも折々は無意識のものがあつたと同時に、古語の保留にも亦時として、我々の計畫に基づくものがあつた。是も方言の發生を説く場合に、一應は觸れて置かねばならぬ問題である。古語が複合によつて殘る例の中に、椀をゴキと謂つた痕跡などは、知つて居る人も多からう。ゴキは御器とも合器とも書いてあつて、轆轤で木を刳《く》つて造つたものは皆ゴキだつたらうが、主として飯椀をさして居たと見えて、それが陶器の茶碗に改まつた頃を境に、追々にその語は不用に歸して、今殘つて居るのは鼓蟲即ち水すましのゴキアラヒ、又は油蟲のゴキカブリもしくはゴキコブリ等、複合保留をそちこちに現じて居る他に、今一つは犬猫の食器の名となつて居る。最初はそれ/”\犬のゴキ、又は猫のゴキとも謂つたらしく、今でもさう謂ふ土地が少しはあるが、外に紛れやうが無いから、大抵は只ゴキとのみ呼んで居る。以前はさしも重要だつた我々の日常語が、僅かに餘喘を一隅に保つて居る例である。犬猫の食器の名に氣を付けて見ると、他にもう一つヅキといふ語があつて、中部地方の山村には可なり弘く分布して居る。ヅキは日本人の飯椀が木のゴキに改まる以前、普通に用ゐられて居たツキ(抔)といふ語の名殘らしい。即ち單語も亦其食器それ自らと同樣に、古く且つ不用になると之を家畜に與へたのみならず、わざと少しばかり其音をかへて、高抔其他の清淨なものと、同一視せられない用心をしたのである。其樣にまでして尚古い語を置かうとしたことは、可なり新語の好きな日本人にも似合はぬやうだが、犬や猫などの爲に一語を新調することは、何だか奢りの沙汰のやうに古人は考へたのかも知れぬ。實際新語は其程度に、重々しく考へられて居た人間の行爲であつたのである。餘り上品な類例で無いが、梅毒をカサと謂つた事情も是とよく似て居る。カサは古語としては一切のデキモノ、即ち皮膚の病を總括して居た。始めてこの性病が日本へ來た頃には、是に假想の原産地名を被らせて、他の種のカサと區別して居たら(420)しい。琉球ではナンバンフェガサ、このフェガサのフェは不明であるが、近畿中國では今でもヘエ又はヒエ、東北でも秋田縣などはフェボもしくはヘボである。それを言はない地方では、肥前五島がナンバンガサ、壹岐はナンバであり、種子島寶島はナンバンであつて、是では京阪の玉蜀黍と同じになる。九州南部にはランガサともいふが、別にトモといふ新語も案出せられて居る。是と同じ語の流布かと思ふのは、福井石川から冨山の一部にかけて行はれる、トンコ又はトンコカキで、トモは土地によつてトモヤミと謂つて居るから、疑ひも無く男女の共に病むといふ此瘡の特徴に依つて、新たに作り出した單語であつたのである。他の多くの地方では、それ迄の手數を是に掛けようとはしなかつた。惡い病の患者に對して昔からしたやうに、爰でもカサといふ一語を置き去りにして、一同は他へ立退いてしまつたのである。
 カサといふ古語には、現在はもう他の意味は無くなつてしまつて居る。自分は此現象を古語の限定保存と名づけんとして居るのである。ツキが濁音にかへられて犬猫ばかりの食器の名となつたのも、亦此例に算へてよいのだが、是には尚タカツキ・サカヅキなどの複合形が殘つて居り、從うて故意の手入れによつて、差別を細かにする必要があつた。それを私は又意義の分化と言はうとするのである。カサといふ語の原形は、もう一つ近い所まで辿り得られる。その一つはクサであつて、是を一種の皮膚病の名に用ゐて居る地方と、更にそれよりも廣い意味に解して居る處とがある。九州の殆と全島に亙つて、クサフルフといふのは、何か外部の邪氣に觸れて、病魔に取附かれたと感ずる場合のことで、壹岐の島あたりで春さき野草の芽の出る頃、不意に煩ひ出す病氣のやうに解するのは、恐らくはクサといふ語の後の聯想で、本來は單に怖るべきもの忌むべきものの總稱であつたと思ふ。節用集以來のこじつけによつて、今日草臥などと書くクタビレルの動詞なども、右のクサフルフの音訛であつて、此語の領域は曾てはもつと廣かつた。カサも恐らくは此クサから分出したのである。次に今一つコセ又はコシといふ語がある。是も地方によつては色々のカセル病を包含し、又他の土地ではドスともナリともいふ最惡の皮膚病に限定して保存して居る。九州の南部では是(421)をコシキといふ。此語がカタヰといふ語と共に、癩人と乞丐人とを兼ね呼んで居たことは、既に先輩も之を説いて居る。斯ういふ特殊な病者などを意味する語は、古來何處でも限定せられ、又分化して行かずには居られなかつたのである。しかしさういふ場合で無くとも、古語は必要のあるたびに分化し、同時に在來形の用途を局限しようとしで居る。つまりは新語を作らずに濟ませようとする努力である。  蝋燭は最初の輸入の際の日本名がラッソク又はラッチョク、それを中國の或山村などでは、古くから用ゐられて居る松脂?燭、即ち耽奇漫録などに畫かれて居るヤニアカシの方に委讓して、?蝋で作つた改良品のみに、新らしいロウソクの稱呼を適用して居る。是などは思慮ある分配であつて、單なる自然音訛では決して無い。ツムジといふ古語は土地によつて、今では色々の物に限定せられて居る。標準語では馬や人間の頭の旋毛、又旋風をツムジカゼといふ語もあるが、信州松本などには四つ辻をヨツツムジ、即ち道のツジも元來はツムジであつたのである。四通八達といふ語と相對して、幾つかの線の集合する一點が、以前はすべてツムジであつたのを、少しづゝ謂ひ分けて行く必要があつたのである。武藏の水田地方で耕地の小區劃、京都の町のまん中で小巷を、共にヅシといふなども、音は僅かばかり改めてあるが、起りは何れも皆道の辻のツムジから出て居ると思ふ。それはまだ問題だとしても、他にも同じ樣な例は有るので、たとへば山の頂上はツジとはつきり謂ひ、農家の厩などの上を物置にしたのは、特にツシと澄んで呼ぶことになつて居る。ツシだけは別の語のやうに思つて居る人も有るか知らぬが、是をも村によつてはヅシともツジともツチとも謂ひ、或は其代りにタカとかソラとかアマとかいふ別の古語を、應用して居る故に新語ではなかつたのである。
 今一段と異論の少なさうな例を擧げると、テテは最初に小兒の父を喚ぶ語から起つたものと思ふが、是を色々の同じ年配の者に、推及ぼす風は各地にあつた。仙臺の濱荻を見ると、父を正式にテテといふ語は傳つて居るにも拘らず、別にテデといふ濁音化形があつて、是は男性の御附役を意味して居り、さういふ類例は既に下學集にも出て居ると謂ふ。出羽の莊内にもテテオヤといふ語は知られて居るらしいが、テデと濁つて呼べば下僕の年取つた者のことである。(422)さうかと思ふと伊豫の一地には、物貰ひに來る一種の部落民のみを、特に限定してテテといふ處もあつた。飛騨や越前に住む或家筋の、女系を以て相續する者にも此名がある。さういふ家々ではテテ即ち父の地位が特殊である故に、普通と異なる語を付與して置く必要があつたのである。庄司甚左衛門を君がテテと謂つたことは既に異本洞房語園に出て居る。遊女の親方ばかりをオトッツァンといふ土地では、もう與一兵衛をさう呼ぶことが少しく變に聞える。ウバといふ語の分化も今日では可なり大規模である。記録の最初の形は古事記のアモであり、沖繩の島々にも汎くアンマが行はれ、伊豆の半島と佐渡と東北の一部には、ウンマ・ウマアイ・ウンメァ等の形が殘り、母には一般にM子音が秀出して居て、從うて今日の新語のママを恕し易くして居る樣だが、奧羽には尚弘く母をアッパといふ語も普及して居る。標準語は今日ではウバを乳母に限り、稀に草の名や山姥などの複合形に、是と異なる用法を保留するのみであるが、それが僅かに變形してオバとなると、忽ち驚くほど其内容を複雜にし、可なり發音や句の構造に注意して居ても、紛らはしい事だらけである。父母の姉妹や其年頃の婦人を、引きくるめてオバサマといふのは小母の義だなどといふ傍から、長女以外の家々の未婚女は皆オバサマであり、是は行く/\叔母になる人だから、さういふのかも知れぬと思つて居ると、日本海側では遊女も亦オバでありンバである。要するにウバは本來の語義が女への對稱であり、且つ小兒の物いひの採用であつた爲に、自然に年長女性に對する敬稱の如く感じられて、姥といふ漢語を宛てゝもよく、婆といふ漢字の音ででもあるかの如く、想像して置いても濟むことになつたのだが、御蔭で若いウバたちは皆迷惑して居る。ババは偶然に婆の字を發見したからこじつけられた。ヂヂは不幸にして是に該當する漢字が無い。乃ちチチといふ語の分化としか、解し方は無いのである。
 
 (註) 古い言葉の意味を限定して、使はうとして居る例は尚色々ある。形容詞の中ではメデタイやアリガタイもそれであるが、地方に殘つて居るものにはウタテイやウトマシイなどが、殆と一地毎に其對譯を異にして採録せられて居る。多くの方言集を比(423)較して見て、始めて其語の經歴がわかつて來るのである。副詞に於ても北九州のジンベンニなどは、どうやら中世語の「神妙に」の限定かと思はれるが、今では珍らしいとか稀にとかいふ意味に使はれで居る土地が多い。福島縣とその二三の隣縣に分布して居るザンマイといふ語なども、斷念・思ひ切りを意味する「三昧」が起りらしいが、現在はすべて他人の好意を辭退し制止する時に限り、從うて岐阜福井その他の縣のウトマシイと共に、物などを貰つた時の感謝の辭と化しかゝつて居るのは面白い。チョウハイといふ語は北陸地方では親類訪問、ことに嫁壻が生家へ行くことをいふから、「朝拜」の限定保存であることがほぼ判るが、青森縣に行くとそれが款待を意味し、長野コ島その他の地方に於ては、人にへつらふことをオチョウベ又はオチョッパイなどと謂ひ、對馬の島では昔忠兵衛といふ者が非常にお世辭がうまかつたので、それでお世辭といふことをチウベエと謂ふのだと謂つて居る。
 
     九 新物新語
 
 古語に手を加へて新らしい必要に應ぜんとした我々の骨折、即ち新語の節約の場合は、考へて行くとまだ幾らも出て來るだらうが、先づ此程度で止めて置かう。次には  愈々何としても新たに一つの語を、設けなければ濟まなかつた場合を考へて見る。誰しも氣が付くのは、國の交通が發達して、今まで經驗もせず想つても見なかつた事物が、新たに眼の前に出現すれば、いやも應も無く自然に國の語彙は増殖するといふことで、人によつては是が唯一の新語の機會ででもあるかの如く、考へたり説いたりして居たのである。維新以來の若干の飜譯業者が、自分を日本の言葉作りの命《みこと》と考へたり、もしくは今一段と人の惡い者が、有りふれた自分の持物を新らしいと見せかける爲に、わざと耳馴れぬ言葉使ひをして見たりするのも、言はゞ熱心に過ぎたる辭典家が、慌てゝそれを拾つて我字引を大きくしようとした結果に他ならぬ。模倣は日本人の決して不得意な藝で無く、輕はずみな採用が短命なる新語を導き入れた場合も少しとはせぬが、それよりも大がかりな、もつと無分別な模倣者は近世の所謂著述業者であつた。新語は魚の子の如(424)く、生れるのは無數であるがさう澤山は育つものでは無い。我々は外國語を生《なま》で使ふのを面倒がり、符徴のつもりで其譯語を受取つて居る。どんなへたくそな昔の飜譯語をも寛恕した代りに、強制が無ければ半日でも之を守護しようとしない。眞似もしたくないものはどし/\と聽きずてにして居る。そんな日本語といふものがあつてよいかどうか、深く考へて見ずともわかり切つた話である。どこを境といふ事はまだ決して居ないが、或一人の勝手な表現が、日本語の新語となるには關門がある。たゞ其門の柱が見たところ少しよろめき、やゝ戸締りの惡いといふ事實が、現在は認められるだけである。地方はさういふうちにもまだ幾分か物固い。内に必要がある場合だけに、少しづゝ改めて斯ういふ出來合ひ語を通過させて居る。勿論爰でも、どつと押寄せて來るものを、防ぎ止める迄の力は無いのだが、少なくとも個々の各自の社會で、新たに生れるものだけは吟味せられて居た。是が方言の中でも新語の成立が、特に注意せらるべき理由であり、それから飜つて都市人の言葉作りの大活躍が、もう一度見直されなければならぬ理由でもある。
 飜譯は個々の小地域でも行はれて居る。新らしい事物ならば其前名のまゝで受入れたら手數が省けるだらうに、事實は是を國風に言ひかへないと、自分のものといふ親しみが持てなかつたらしい。是は一般に我々の古い風習であつたかと思ふ。以前の外來語は殆と例外なしに、是を存立せしめる爲に特別の努力が拂はれて居り、其癖いつの間にかもう元方には判らぬやうな日本化を受けてしまつて居る。其他の大多數は言葉だけは和製であつた。誰とも知れぬ人が是を考案して、一同の共用物とする爲に、可なり大きな智力を傾けて居るのである。新語が此國の文化の一つの重荷、厄介な未解決となつて居るのも、免れ難い必然の勢ひである。
 私は議論を好まぬ故に、努めて顯著なる多くの事例を集めようとして居る。田舍の新語には微笑を催すやうなものが多い。是は根本の作者が子供であり、又は子供の相手をする單純な人たちであつたからでは無いかと思ふ。最近の例ではオートバイ、もしくはオートサイクルと米語のまゝで呼ぶもの、東京の子供には此エイゴは不人望で、極めてぎごちない自動自轉車といふ名が通用して居るが、田舍では夙に上手な飜譯が公認せられて居る。伊勢の北境から熊(425)野路にかけて、可なり廣い地域に是をバタバタと謂つて居ることは、幾つかの方言集にあるからもう固定したと見てよい。たしかに子供らしい形容だが、きまつた以上は成人も使ふだらうし、又其子供もすぐに成人する。石油發動機船も現在はもう標準語となつて居るか知らぬが、それをいやがる氣持は私などには同情し得られる。瀬戸内海へ出かけて見ると、是をトントンと謂つて居る海岸が多い。讃岐の小豆島ではもつと丁寧にトントンブネ、安藝の佐木島ではトントコ、周防の屋代島ではポンポンセンといふ。ポンポンもしくはポッポブネといふ土地は、此以外にもまだ諸處にある。和歌山の南海岸一帶では、今は變つて居るかも知らぬが、十餘年前にはハイカラブネト謂つて居た。其ハイカラも日本化しきつた外來語である。是とよく似た行き方は以前もあつた。たとへば乘合馬車をトテバシャといふなども、靜かな山村の多くに一致して居る。音は其物體が自ら名乘る語の如く、解したくなるのが稚ない人情である。だから鳥蟲には啼聲を以て、其まゝ名にした習はしが古く且つ汎いのである。しかし名づけんと思ふものゝ特徴を捉へ、誰でも是認して直ぐに遵行するやうな新語を、與へた例は擬音だけに限らない。たとへば鳥打帽子はハンティングといふ語を驅逐した、隨分働きのある自由譯と評してよいのだが、田舍ではさういふ經驗をまだしては居ない。從うて其方言は次のやうに區々になつて居る。
  チョッキイボウシ          鹿兒島縣薩摩郡
  イッパイジャップ          山形縣村山置賜
  ミカンチャツプ           栃木縣芳賀郡
  ゴメンボウシ            石川縣鹿島郡
  チョンコ              岐阜縣武儀郡
  コベイボウシ            島根縣那賀郡
  ジレコシャップ           秋田縣鹿角郡
(426)  イングラボウウシ         愛媛縣越智郡
  ナマイキボウシ           廣島縣安藝郡
 此中で前の五つは先づ判つて居るとして、後の四つの類似は興味がある。僅かづつの氣持の差はあるにしても、コベイもジレコもイングラも共にナマイキと近く、つまりは少年の  稍々ませた者が、よく被つて居る帽子といふことで、東京大阪でも事實は亦其通りである。さうすると此語は土地毎にちがつて居ても、是を付與した動機は、鳥打よりも更に全國的だといふことになるのである。
 今一つの例は、東京でハガシゴヨミといふもの、是も新物であるが土地毎の名が出來て居る。福島山形の二縣で採集せられたのはヒハガシ、秋田縣の南部ではヒムシリ、別に尚ヒメクリといふ土地もあつた樣に記憶する。毎日※[手偏+劣]つて取るのが特徴だから、ハガシゴヨミだけでは適切でなく、暦は略しても他に紛れが無いとすれば、後の方が寧ろ氣が利いて居る。是は生意氣帽子とちがつて惡評で無いから、或は商人などの發案かとも考へられるが、それにした所で是を採擇して土地の語にする迄には、各處暗々裡に一致した理解が無くてはならぬのである。田舍の模倣といふことも簡單には考へられない。新たに一語を作るまでの努力は要しなかつたといふのみで、隱れたる選擇はやはり社會の意思であつた。巡査といふ名稱の考案者は、是を利用する者の便宜までは思はなかつたらしいが、さて敬稱を添へて呼ばうとするとl、其語音は發しにくかつた。其爲でもあらうかホウボウサン、又はホウボシなどといふ新語が出來て、鳥取和歌山高知靜岡の飛び/\の縣に行はれて居る。捕亡使であらうと言つた人もあるがそれは考へ過ぎで、方々を歩きまはるからであらう。或は山林の監守などと共にカンクサンと謂つて居る土地もある。斯ういふ名前が各地別々に偶發したと見ることはやゝ六つかしい。さうすれば新語は又最初から擴張流傳の力さへ具へて居たのである。
 所謂言語地理學の存在理由は、斯ういふ所にあるやうに思ふ。しかも事情は單なる地形地勢で無く、それに色々の人間を載せた、動くと見えぬ大船の針路があつたからで、個々の地域内の小さな現象記述のみを、學といふことは些し(427)く僭越である。自分の研究などもまだ少しでも系統立つたものでは無かつたが、六年ほど以前に玉蜀黍と蕃椒と、二つの輸入植物の地方名を比較して見たことがある(民族三卷四號)。これ等の方言には遠近の一致があつて、新語が新物と共に國内を流傳した跡が窺はれる。其中でも蕃椒は全日本に亙つて僅か三通りしか異なる名稱が無い。九州の約半分と美濃信濃越後を繋ぐ一帶の地域とだけがコショウで、殘りは大體東北がナンバン又はナンバ、西南がトウガラシと分れて居るが、是にも東海道などは可なりの錯綜があり、又そのナンバンにも南蠻|芥子《からし》から出たものと、南蠻胡椒の後略であるものとが、入交つて居たやうである。この二つの語は出來た時代がさう違ふとも思はれない。單に胡椒をよく知つた土地では、高麗胡椒や南蠻胡椒が迎へられ易く、芥子に親しみを持つ區域では、唐芥子や南蠻芥子の方が採用せられたのである。ナンバンの流布に對する他の一つの障碍は、別に今一種の同名のものが、既に同じ地に入込んで居たことで、何れが前であつたかは知らぬが、玉蜀黍と蕃椒との二つのナンバンも東海道に於ては衝突して居る。玉蜀黍の方言は蕃椒よりも遙かに複雜で、しかも名の起りが後者とは趣を異にして居た。九州と奧羽の南半と、日本の最も弘い區域を占めて居る新語はトウキビであつたが、是は黍といふ作物が既に在つた爲で、奧羽の北半分の黍を知らなかつた地方では、現に玉蜀黍のトウキビを略してキビとばかり謂つて居るのである。それから又一方には黍に似た別種の作物が前に入つて居て、是をモロコシキビ又はトウノキビと謂つて居る土地があつた。九州の南の部分から沖繩諸島、四國中國から東へ、關東諸州までがさうであつたやうである。斯ういふ土地には無論トウキビの語を採用することが出來ない。それで玉蜀黍には別の名をこしらへるか、さうで無ければ長くなるのを忍んで、トウモロコシキビとかナンバントウノキビとかいふ新語を作らなければならぬ。さういふものが又少しづつ省略せられて是等の地の方言になつて居るのである。同じ玉蜀黍のナンバでも、中國邊のは南蠻黍の略語であつたに反して、東海道のは南蠻唐ノ黍を切詰めたものであつた。それが隣に在る蕃椒のナンバンと、區別をする必要のある場合に至つて、ナンバトといふ形になつて現はれて居る土地もある。沖繩の島では玉蜀黍の新語が南蠻唐ノ黍、もしくは呂宋唐ノ黍(428)であつた。ルスンもナンバンも必ずしも傳來の證にはならぬ。單に唐とかモロコシとかよりも、又一つの新らしい交通を意味するだけで、事實は輸入の順序を示すに過ぎなかつたのである。しかし兎に角に方言が訛語で無かつたことだけは是で判る。新語は少なくとも考へて之を作り、若くは自分の場合を省みて採否をきめた。他にも色々の提案はあつたか知らぬが、土地の需要に相應じなかつたものは、單なる異名としても殘り傳はることが出來なかつたのである。
 
 (註) 燐寸と馬鈴薯との新語も私は集めて見たが(民族三卷三號)、二者は何れも稍々自由に、土地毎の思ひ付きを新語にして、寧ろ珍らしいものゝ興味を傳へようとして居ることが、幾分か生意氣帽子などと似て居る。是が或は單語發生の、初期の?態を示すものでは無いかと思ふ。其中でも燐寸は商業の統一が急で、簡便なるマッチが他の多くの奇拔な命名を征服して居るやうだが、馬鈴薯はまだ餘り中央の公認語に讓歩しようとして居ない。新語の價値といふことを、經濟の一面ばかりから考へて見るのは誤りである。村の單調なる生活にとつては、音が快く心持がをかしいといふことなども、やはり一つの大きな需要であつた。
 
     一〇 舊物新語
 
 新たに生れて來た言葉の興味が、餘波を意外な方面にまで及ぼして居ることは、地方をあるいて來た者の幾度でも感ぜずには居られぬことであつた。農民の語彙は必要以上に入れ替つて居る。單に新たなる入用に導かれて、若干の語詞や句形を餘分に仕入れただけのやうに思つて居ると、いつの間にか一方には是と縁もゆかりも無いものが、不用によつて端から忘却せられ、殆と人間の記憶が、定まつた桝目の伸び縮みも無い容器であるかのやうに思はれることがある。これは或は空な感じでは無いのかも知れぬ。人が談話をする機會や時間は、決して新語に比例して増加するわけには行かぬのみか、近世は一般に夜伽や庚申講の類の寄合は少なくなつて來て居る。まんべん無く知つて居る言葉を使ふとしても、一語の使用囘數は減じなければならぬ勘定であるのに、日本人は特に新語を愛玩する癖が有る爲(429)か、》一度氣の利いた言葉を覺え込むと、可なり繰返してそれを使はうとするやうである。斯ういふ現象は實驗して見ようと思へば方法は幾らも有る。單に私たちだけの經驗として聞流してしまふに及ばぬことである。近い頃の感化としては政治談又は實業談があり、此爲に女性の物言ひにまで漢語が多く入つたが、それよりも大きな影響は、日清日露の戰役があつてから、それが國全體に大きな關心を持たせただけに、多くの生硬なる公文用語までが、遍ねく常民の口に上るやうになつた。法律家といふ善く辯ずる人の言葉つきが、村の口きゝ連中の茶話の日本語となり、軍人が還つて來て青年の新語が豐富になるといふ類の效果が、短かい歳月に又その外廓まで波及して居るのである。是は恐らく單語の新増と入れ替へだけに止まらず、同時に間接には古語の停廢を伴なうて居ることゝ思ふ。ナマリや片言の無意識なるものは却つて後に殘つても、狹義の方言だけは矯正の成績が、幾分か擧がり過ぎて居ると謂つてもよいのである。無差別に二者を引きくるめて、地方人の固陋を歎息しようとするのは、此事實を無視した者の言である。
 其證跡を比較的見やすいものから私は援用する。新潟縣天産誌・青森縣總覽、又は水口清君の秋田植物名彙といふ類の書を取つて見ると、明治以後に生れたことの明白な物名は中々多い。たとへばカブトムシは別にオニムシといふ名が古く知られて居るのみであつたが、是をバリカン蟲といふ語が方々の縣に出來て居る。ミヅスマシといふ蟲は東と西と二種あつて、共に昔から數多い地方名を持つて居た。西日本の水すましは本草の水黽ださうで、是には飴の香がするからアメンボウ又はギョウセン等、嘗めると鹽辛いといふので鹽屋シホウリなどの名がある他に、又その脚の長くてよく走る特徴も注意せられて居るが、それが埼玉縣では今日はクルマヤ又はジンリキヒキと謂ひ、山口縣でも亦クルマヤと謂ふやうになつて居る。今一つの水すましは鼓蟲に宛てゝある。黒い梨子の種ほどの蟲で、能く水上を旋轉する故に、我々はマヒマヒと謂ひ、又はミコともイタコマヒとも謂ひ、季節が田植の頃だからソウトメともいふ他に、近世手習が行はれてからジカキムシ・イロハムシなどとも呼ぶことになつて居たが、九州の一部では(別府市など)、新たに之をジテンシャムシなどと、屋上に屋を架して居る。蜘蛛の一種に色彩の殊に鮮かなるものを、女郎(430)蜘蛛と呼ぶのが普通であつたが、是も山口邊では今はヘイタイグモと謂ひ、又一種の?自分で腹を切るといふものを、曾てはハラキリといひ又は戯れてカンペイとも謂つたが、たしか千葉縣の東部で之をムカシ)サムレェと謂ふ子供がある。これ等は何れも皆現代になつてからの新語だと思ふ。其他植物の方にも「つゆくさ」をインキバナ(是も早くから異稱の多い草であつた)、「とりかぶと」をシャッポバナ、「たにうつぎ」をシャボンバナ、或は「やへむぐら」をクンショウグサといふ類は、何れも物それ自身の重要度の増加よりは、何かに斯ういふ名前が付けて見たくて、捜して付けたかと思ふ姿がある。即ちバリカンとかインキとか勲章とかの新語は、少なくとも小兒輩には、それたゞ一つの物だけに限つて置くのは惜しいほどの興味であつたらしいのである。私たちの今住む郊外の空地などに、やたらに茂つて困る一種の雜草で、ヒメムカシヨモギといふのも新名ださうだが、是には途法も無く澤山の地方名が出來て居る。たとへばテツドウグサ・ドカタグサ・イジングサ・カイセイグサ・メイヂグサなどといふのが皆それで、是などは寧ろ老いたる農夫等の、歎息しつゝ付與したらしい痕跡が認められる。ゲンノショウコをテキメンサウ、又はイシャイラズだのイシャタホシだのと謂つたのは稍古いことか知らぬが、是にも此頃はセキリグサといふ語が出來て、中國にも信越にも共に行はれて居る。「田うこぎ」といふ草をハイビャウサウといふなどは(秋田)、是に比べるとずつと新らしい發明で、それを言ひ始めた時代は私などもよく知つて居る。長門の海岸部には「ちくわ」をトンネルカマボコといふ名がある。是などは啻に隧道の工事が始まつて後といふだけで無く、そんな風に呼ぶことに興味をもつた藝術作品かと思ふが、起りはともあれ既に一般の用に供せられ、又生眞面目な人々までが之を使ふ以上は、新語としては成功したものである。福島縣などの小學生徒が、遊戯に使ふ白い小石の、きら/\と光るものをギンカエシといふなども、最初は只いはけない戯に出たのであらうが、僅かな間に其兒が大きくなつて、他に適切な名を知らなければ、やはり普通語として使ふのである。斯ういふ事例は古くからもよく有つた。たとへばボンボリといふ語は滋賀縣あたりでは、傘のことをもいひ又一種の紙貼りの玩具の名ともして居り、今の小行燈だけに限らぬのだが、始めて(431)紙製の器具の行はれた時代に、斯ういふ擬聲語に興味をもつた者は、三つか四つの小兒であつたらう。それが成人の間にも終に採用せられて、一部は既に歴とした標準語になつて居る。作者の地位や名聲のやうなものに、一向重きを置かなかつたのが、古い頃の新語の特色だといふことは言へるやうである。
 さてこれ等の例はまだ幾らも追加し得られるが、新語は必ずしも新らしい事物、即ち舶來や發明のみに伴ふとは限らぬ事を、證する目的には是くらゐでも十分であらう。さうすると問題になるのは其動機、若くは何の必要の爲に斯ういふ手數を、忙しい人々が厭はなかつたかといふことが一つである。私の推量は或は簡に失するかも知らぬが、言葉の用途はたゞ意を通ずるだけで無く、少しでもきき目の多からんことを望む故に、始終鵜の目鷹の目で、印象の強いものを捜して居たものと思つて居る。同じ目的に合ふ語が二つ以上ある場合、選擇の標準は古いとか正しいとかいふことでは無くて、殆と相手の把捉し得る限度に於て、又時としては教示を兼ねつゝ、もしくは向ふの知つたかぶりを利用してさへも、聽いたら忘れぬやうな語を使つて見ようとしたのである。雷同附和といふと惡コのやうにも聽えるが、島國人の氣持は妙に調子が揃ひ易くて、傾向は常に一端に趨り、殆と區々の同義語の併存を許さぬ勢ひがあつた。其上に人は或は佛蘭西人以上に、言葉造りの才能に長じて居たのである。たとへ複合なり意義限定なりの條件の下にでも、まだ今ほどの古語が傳はつて居たことは、寧ろ奇瑞と言つてもよかつたのである。古語がやみ/\と社交界から締め出しを食はされ、もしくは文字通りの黙穀を受けて、有れども無きに等しい現?に沈淪して居る理由は、その一つ/\に就いて檢すれば、大樣は察知し得られるだらう。野草や鳥蟲の類は輸入品でも無く、又中近世に入つて始めて發見せられるといふことも有り得ない。?問題に上ることが無かつたといふのみで、指させば何とか名をのらぬものは稀であつたらう。それが一朝に頓狂な改名をして、更に其以前の名をすら忘れられて居る。新らしい立場から見てよほど感じの鈍い、不向きな名前であつたことが想像し得られる。しかも實際の變化は、仲々その程度では止まつて居ない。鼓蟲や鴨跖草《つゆくさ》のやうに舊名が既に甚だ多く、中には奇拔で感歎を禁じ得ないものが、指を屈して(432)も足らぬ位に出來て居るのに、尚それ以上に印象的なものを、追増して行かなければ承知しなかつたのである。つまりは前代にも久しく新語は歡迎せられたといふ他に、事物の種類によつて殊に古びたものを厭ひ、人々自ら進んで積極的に、言葉を改革しようと協力した場合もあつたのである。
 
     一一 音興味と語形興味
 
 新語は異國との交通が許されず、旅も商業もたゞ踏固めた路ばかりを辿つて居た時代にも、尚間斷無く増加して居たことは、今ある言葉自らが物語る歴史である。大正昭和の新たなる文化が、特に此方面に活躍したやうに我々を感ぜしめるのは、一つには「新語」といふ新語の強い印象であり、次には又是にも時代相があつて、一つ以前のものと比べて、其資料も樣式も共に著しく異なつて居た爲である。明治初年の漢語流行が、我々の國語の外貌を變へた事は、背後に官府の支援が有つたゞけに、仲々今日の片假字洋語のやうな生ぬるいもので無かつた。たゞ此方は年久しい浸潤であつた故に、文字に目馴れたる人々は、格別激しい變化とも心付かずに過ぎたのである。以前は漢字を書札の上にこそよく使つたが、大部分は節用集風の無理な宛字であり、もしくは所謂和訓を代表する迄のもので、實際に用ゐた外國の語は幾らも無く、それも皆十分に日本化した專門の言葉の、長い間に土着したものばかりであつた。耳で一旦其音を聽きながら、掌《てのひら》や疊の上に書いてもらつたり、或は説明を受けて始めて合點し、それから今度は自分も眞似て見ようとしたりすることは、少なくとも田舍では新らしい現象であつた。私の幼少の頃に、村でたつた一人、カンゴを使ふといはれるお婆さんが居た。我々だつて大根ともいへば大工とも謂ふのに、どうしてあの人だけが漢語を使ふといふのかと不審に思ひ、よく氣を付けて居ると此老女の漢語は、成るほど大抵の相手には解らなかつた。チンプンカンといふ新語の日本に流行したのも、此時代のことである。人は一般に語尾にンの附く語を面白がり、ちやうど(433)饅頭をオストアンデルと謂つたり、袴をスワルトバートルと謂つて笑つたと同じやうに、時々は後で註釋の入用なことを承知の上で、カンとかトンとかいふ語を多く採用せんとした形跡は、以前も寺院や山伏の名だけには普通であつたが、此期に入るに及んで稍法外に擴張した。音の興味に對する敏感は、日本人の一つの特徴であつたらしく、是に由つて無數の外來語を排除し、又はよくよく此國ぶりに變形してからで無いと、大衆の用語にはしなかつたと共に、面白いと感ずれば時には無くてもすむものまで採擇した。さうして其趣味も少しづつ推移つて居たのである。明治の維新の際には限らず、總體に人が世の中の變り目を意識して、遲れてはならぬといふ氣持を起す場合には、その内部の動搖は先づ此方面に現はれるのでは無かつたか。長崎の出島や京の五山、以前も幾度か是と似通うた傾向が、單語の更迭の上に認められたやうである。辭典はたゞ單なる集積を以て能事とせず、もう一度時代を劃してそれ/”\の世の姿を、檢めて見る必要があるかと思ふ。男女の顔付や擧動などは繪で見たばかりでも變つて居るのがよくわかる。まして言葉はそれ以上に、人が改めようとして居たものである。是に時代がもし反映しなかつたら、寧ろ我々は其理由を知るに苦しまなければならなかつたのである。
 語音の組合せは遠い昔から、人が新語を案出する大切な手引きになつて居る。詩歌物語の清い響きを求むる者は、いつの世とても佳い詞を嚴選して、所謂現代語は十分に豐富であるなどゝ思つて居る人などは無いのが當然だが、只の日常の談話でも、少しく耳新らしく相手の心を動かさうと念ずれば、もう尋常なる踏襲や複合の範圍に、跼蹐して居るわけに行かなかつた。意外でしかも適切な、容易に公認せられ得る言葉造りは、自然に擬聲語の方に向つて進んで出たのである。だから前に掲げたトントコ舟やボンボリのやうな、明かに童幼の發意に成ると思はれる新語でも、之をいはけなしとして輕蔑してはしまはなかつた。そんなことをして居ると、言語の活氣と新鮮味とを、いつでも犧牲にしなければならなかつたからである。それだけの用意は昔の人も持つて居た。單なる理窟づめでは新らしい語を作り設けて居ない。其例は幾らもあり又それ/”\に年代を示して居る。街道の飴賣りが竹まはしを以て子供を集めた(434)のは昔だが、江戸では其音によつて飴屋をカアトロといふ語が出來、それが方言となつて今尚甲州東部には遺つて居る。鑄懸屋が天秤棒を以て小形の吹革を擔ぎあるき出してから、此器をシンパコといふ名に始まり、越中では之をシコバコとも謂つて箱の聯想を誘ひ、横濱附近には別に又此職人をハフヤといふ名も現はれた。伊豆の東海岸では濱の船揚場をハラエー又はハレーエといふが、是は船を引揚げる掛聲から出て居る。熊本縣の北部では吹出し井戸をツンツンといふが、是なども其土工の起りと同じ頃の新語であらう。水の音は殊に言葉になり易かつたと見えて、信州伊那では川の瀬をザザ、從うて瀬蟲をザザムシ、常陸の久慈郡では急流をダー、尾張の知多では水門をゾウ、伊勢の富田では之をドー、加賀の金澤でも堰がドンド、東京にも小石川のドンドン橋があり、ドドメキ・サワメキ・ガラメキの類は、到る處の山間に地名となつて今も傳はつて居る。江戸では下水の事になつた水溜りのドブ・ドンボ・タンボの類、それより稍古いセセナギ・セセラギなども、同じ系統の造語であつたことが比較によつてわかる。中國各地で雷をドンドロ、又はドンドロケとも謂つて居るのは、とゞろくといふ動詞よりも新らしいといふことは出來まいし、大鋸をオホガと稱する元の語のガガリなども、古書に見えて居るからとて是だけは新語で無いとも言はれまい。人の好みの自然とも見られるか知らぬが、兎に角にこの時々の新らしい思ひ付きが無かつたら、如何に我々の物言ひは古臭く、且つ長たらしく退屈であつたか知れぬので、それを避けようとした國民の氣風が、或時は江戸の奴言葉となり、又或時は陳紛漢や眞似そこなひの外國語となつても、まあ暫らくの間は是非が無いのである。一つの注意すべき相異は、元は事物が有つて後に之に據つて音の珍らしい新語が生れたのが、いつの頃よりか新語が空に行はれて、内容をこちらから持つて行つて押付けた。從つて意味の適切さに可なり著しい隔たりが出來たのである。言葉の外形の面白さに絆されて、心にも無いことが言ひたくなる癖は、曾ては擬古の文藝の問だけに限られて居たのが、今では擬新の會話の上にさへ見られる。口と耳ばかりで新語の眞似をさせて、それを國語の教育だと思つて居る者がもしあつたら、聰明なる日本人は却つて鸚鵡となる危險が多いのである。
(435) だから我々は過去の稍長い期間に亙つて、今少し多くの新語造成の樣式、及び趣味の移り變りを考察しなければならぬ。我同胞の言語技能は、決して語音の組合せばかりに傾注しては居なかつた。?單調に流れる舊辭の補綴によつて、味もアロマも無い語を作るのがいやで、其爲にこそ折々は借り物をもしたが、他に手段が有るならそれも亦試みて、しかも其風が流行した時代もあつたのである。無論ある場合にしか是も應用し得なかつたが、以前人の生活と交渉が多かつた自然物の名前の如きは、今ある大部分がこの命名法に由つて居る。最近の動植物名が藝者屋の看板の如く、上へ上へと限定詞を載せて行くに反して、地方の稱呼には笑つて付けたらうと思ふやうなものが多い。其中でも特に人望のあつた一二種を擧げると、
  キツネノロウソク     土筆        越中入善
  キツネノセウベンタゴ   龍膽        紀州有田
  キツネノハヒダハラ    馬勃        越前
  キツネノチョウテン    つりがね草     上總その他
  キツネノタバコ      野げし       大和
  キツネノシャクシ     半夏        近江
  キツネノカミソリ     石蒜        播磨等
  キツネノボタン      コンペイトウ草   武藏妻沼
  キツネノタスキ      日蔭のかづら    但馬その他
  キツネノタヒマツ     石蒜花       越前
  キツネノケサ       日蔭のかづら    越後
 同じ例は今もまだ増加中である。ジキタリスの「狐の手袋」などは確かに飜譯だが、そんなのがまじつて居ても少(436)しも目立たない。西洋にも斯んな名の付け方をする國はあるやうだが、此點にかけては日本は先輩である。次にもう一つ、
  カラスノヲバ       源五郎蟲      紀伊
  カラスノマクラ      烏瓜        近江八幡
  カラスノアヅキメシ    接骨木       津輕
  カラスノマクラ      黒曜石       五島・平戸
  カラスノセンコウ     やり草       越後
  カラスノツギボ      やどり木      信濃下水内
 自分たちの幼時の記憶には、雀の粥豆と烏の豌豆とがある。是も野外の物で形が似て大小があつた。「うば貝」をカラスガヒと謂つたなども、一方に蜆貝をスズメガヒかと思つた、あどけない誤解が元らしい。其他蛙の蒲團だとか鷺の尻刺しとか、水邊の草の名は水に住む者に托し、山ではサルヲガセ・サルノコシカケ、山姥の襷だの天狗の錫杖だのと、えらい所まで空想を働かせて居るが、是も後には  稍々流行を追ひ奇を好んで、おまけに數が餘りに多い爲に、くだ/\しくて物の名には似合はなくなつた。興味が行き過ぎれば何にでもいやみは生ずる。後には果して其樣な一時の思ひ付きに、人を拘束する力があつたらうかを疑ふばかりであるが、當初需要が有り又十分な效果が無かつたならば、誰が此樣な面倒くさい仕事を始めよう。つまりは此技術も年と共に樣式化して來て、僅かに因習に依つて支援せられて居るに過ぎぬのだが、少なくとも其初期の事業だけには、我々の國語を活  溌ならしめる效果があつたのである。
 
(437)     一二 異名と戯語と隱語
 
 是等の手のこんだ造語中には、最初から大きな抱負も無くて、至つて氣輕な心持ちで提出したものが、圖らず成功したといふ例が多いやうである。我々も書生の頃にはよく經驗したやうに、所謂うま合ひの小人數の間には、單に教師の綽名ばかりで無しに、さういぶ試みは常に繰返されて居た。案に典據があつたか先例があつたかは別として、兎に角に話のはずみや問題のこみ入つた場合に、仲間の誰も彼もが言はんと欲して未だ口にし得ないものを、すばやく言つてのけようとする者が、一人か二人は必ず有る。普通の交際ではうまく言つたと褒めて見たり、なある程と感心したりするだけで、めつたに受賣までしようとする者も無いのだが、心の通うた友達の間だと、喝采が直ぐに可決であり、中には賛成の手續すらも無しに、自分たちで共に言ひ得たやうに滿足を感じて居る者もある。總員の是認が新語の條件であつたといふよりも、寧ろその小さな社會の意思が、或一人の口を假りて表示せられたといふ方が當つて居る。新語を民間文藝の一種と見る私の考へ方は、あまりまだ同意者も無ささうだが、斯ういふ古風の殘留した場合は勿論、是が追々と複雜化した今日の都市の現象に照し、乃至はその中間の如何なる段階と突合せて見ても、どこにも不都合な所は無いやうに思ふ。
 民間文藝と言つても、範圍は汎いが、試みに童謠の例を取つて新語と比べて見よう。童謠は昔は星が歌はせるのだと謂つたといふことが、「山海里」といふ書物には見えて居る。それ程にも作者は無名なものであつた。現實に何の某が唱へ出したといふことを、知る者が全く無いわけでもなく、又捜したら判る時もあるのだが、我も人も共に是を明かにする必要は無いものと思つて居たのである。次には是を歌ひ出す技能、即ち群の感覺を先づ的確に感知して、それを言葉の形にする才分は、誰もが同じ程度に具へて居るわけでは無いから、氣を付けて居れば何の某が最も長じて(438)居るといふことも判明する筈だが、さういふことには久しく頓着する者が無かつた。もと/\一群の共に思ふことを代表するのだから、黙つて聽く者までがそれを自分等が謂つたと同じに感じて、特に彼がさう謂つたとは考へなかつたのである。其上に同じやうな選手が實際は幾人もあつて、其間の甲乙はきめられなかつたらうと思ふ。名を重んずる必要の無い者は、ちやうど小學校の教室で三分の二も手を擧げるやうに、むやみに其技を試みるので、個人としては傑出することが出來なかつた。即ち千百の無用の試みの中から、たま/\一同がうまく言つてくれたと思ふ僅かなものだけが、忽ち群の作品の如く認められて、内にも是を記憶し外にも是を眞似て、追々に流轉して行くことは、童謠もよく似て居たやうに思ふ。それから今一つの類似としては、兩方とも是を言ひ始めた者は素より、最初の採用者にも、是によつて日本の一語を制定し、又は改造しようといふ野望が無かつたことである。山詞や沖詞もしくは伊勢の七つの忌詞の如く、平素の用語を禁止せられた場合だけは別だが、其他はたゞ是からは斯うも謂はうでは無いかといふ、一つの異名の勸説に過ぎなかつたのである。ところが是は又日本人の癖であつたかも知らぬが、我々は兎角同義語の容認に吝かであつた。稀に今でも三つ四つの同地異名を持つ語もあるが、それは一時的であつて程なく何れかの一つを主用し、他を粗末にし又忘れようとする。だから手毬唄や子守唄を採集しても、土地毎の變化が甚だしいと同樣に、方言の異同が非常に複雜なのである。一つの事物に一つしか單語があつてはならぬといふやうな考へ方は、國語の統一の爲にも大きな邪魔ものであるが、それは新語の提案者たちの知つたことで無かつた。寧ろ其追隨者の餘りにも熱心に、又偏狹であつたのがよく無いのである。
 標準語が今まで各地方の新語どもと闘つて居たことは、私には誠に笑止なる徒勞のやうに思へる。地方の言葉は滅びもしようけれども、是を面白がつて居る者が現にあるのだから、あすの日にも亦生れる。さうして次の新語は又次の民間文藝と同じく、次第に個人の技巧が働いて、社會性の薄いものになつて行かうとして居るのである。近代の新語の中には、誰にでも容易に企てられねやうな、又必ずしも土地の人々の意圖を代表して居らぬやうな、手の込んだ(439)趣向のものが多くなつて來た。是も亦民謠や謎や諺と同じ樣に、素人が時々其製作に携はつて居た舊慣を斷念して、次第に聽衆の側に行つてしまはうとして居るので、大袈裟なことをいへば天才の承認を意味し、又文藝職業化の開始を語るものとも言へる。我々凡人は此樣にまで謙抑に己を虚しうして、尚會話を活き/\とさせるやうな、新鮮な言葉を待望して居たのである。眞似は卑屈のやうだが、是が大昔以來の國語を培養する常の道であつた。たゞ趣味の偏倚が甚だしく、多くの異名の併存が望まれなくなつて、その技藝の競爭が一段と烈しくなり、いつも稍奇を衒ふ少數の先達にばかり、引きまはされる結果を見たゞけが今風なのである。是も實例は幾らもあるが、紙面が乏しいから澤山は擧げられない。薩摩芋を「くりより」うまいから十三里と呼び始めたなどは、ほんの或瓢輕者の駄洒落であつたらうが、九州の或縣などでは、既に是を方言集に載せて居る。關東では夙に又之を八里半と謂ひ、其語を幼兒が使つたことが、三馬の浮世風呂にもちやんと見えて居る。大體に都市が斯ういふ新語の問屋町であつたことは明かだが、田舍とても決して受賣ばかりはして居ない。たとへば山子の背に負ふ編袋は、全國を通じてスカリといふものが多いが、越後の南魚沼の奧あたりでは、その稍大ぶりなものをゴカリと謂ふ。スカリを訛つてシカリといふ故に、一つ大きいのをゴカリと謂ひ出したのである。山に入つて行く材木商人には懸引が多いので、是を山バクロウと呼んで居る土地は珍らしくないが、播州の奧在所では、それをもう一つ捻つてボクロウなどと謂つて居る。玉蜀黍は九州では汎くトウキビだが、既に一種の唐黍を持つて居た南の方の田舍では、もう一つ何か限定辭を副へる必要があつたことは前に述べた。薩摩の半島で是をヨメゾギッ(谷山)、もしくはトキッノヨメジョ(知覽)と謂つて居るのは、即ち唐黍の嫁じょである。髪を長く垂れ襟を何故も合せたのを花嫁に見立てたので、可なり念入りな謎に近い新語であつたが、現在此地方にはもう是以外の名稱は無い。蜥蜴《とかげ》をヘビノイシャといふ方言は中部地方ではよく聽くが、北九州では一帶に、魚狗即ち「かはせみ」といふ鳥を、ヒラクチノイシャと謂ふさうである。ヒラクチは蝮のこと、此烏が背を丸くし首を突出し、撫でつけの樣な頭をして穴の中へ入つて行く風體を、醫者と見立てたのは少し人が惡いが、五(440)六十年前の村醫の人品も、それから又其頃の周圍の感情も、微笑ましいほど此一語によく表はれて居る。さうかと思ふと外から來た人には、説明を聽かぬと面白味がわからぬものもある。津輕で童顔の花をオタノマショと謂つたのは、この花の底には小さな蟲が居て、子供が手に持つて案内を乞ふ聲を掛けると、中からのこ/\と出て來るからださうである。靜岡縣の海岸で、「やどかり」をアンナイモウと謂ふのも是と近い起りであつた。同じ地方で槇の實をオショコゾ、又はヤンゾウコンゾウと謂ふなどは、紅い小さな肉果を負うて居るあの樹實の姿を見ると、一應は成程と思ふやうであるが、是も兒童がよく聽いて居る「和尚と小僧」の笑話を知つた上で無いと、それが採用せられて一般の通語となつた迄の、本當の心持は呑込めないのである。全體に新語の發案を、一種の文藝と視るやうな氣風が無かつたならば、斯んなにまで手數をかけて意外な珍らしい名を普及させ、我々を不審がらせる必要は無かつた。外國語採用の無造作とはちやうど正反對に、少し念入りに過ぎる弊も曾ては有つたのである。しかし其御蔭には今ある言葉から我々の祖先の氣働らき、愉快に世を送らうとした心持などは窺はれる。
 是等も最初は皆少しでも異名の數を殖さうとしただけで、取つて替らうと迄は考へなかつたのであらうが、案外に今謂ふファンが多かつたのである。大分縣の速見郡では、「ちんば」をダイコヌシト、即ち大根盗人と謂つて居る。是は霜月二十三日の大師講の由來として、昔あるところに脚の不具なる老女が、大師さまに供養するとて人の畠の大根を盗み、大師が其罪を匿さんが爲に、雪を降らせて足跡を無くしたといふ故事があるからで、信越以東の諸國では今もよく謂ふ話だが、以前は九州邊にも弘く行はれ、この新語を聽いて雷同する者が多かつたものと思はれる。對馬その他の島々には鰈をオヤネギリといふ。親を睨んだ罰に眼が斯んなになつたといふ話から出た名らしいが、此話ももう大抵忘れられて居る。三河の加茂設樂の村々では、「あをじ」といふ小鳥をバッタラシ、婆にもつかまるかと思ふほど逃げない鳥だが、實際は中々敏捷で、結局は婆がたらされる。それから又尺とり蟲をドビンワリと謂ふなども、土瓶が行はれで以來の新語に相違無いが、やはり此蟲を樹の小枝と間違へて、土瓶を引掛けて落して割つたといふ、一(441)つの笑話を背景にもつて生れて居る。斯ういふのは土地だけでは相應に知れ渡つた話だから、それを土臺にして言葉が出來た事情も稍わかるが、中には全然或一人の考案に成つた判じ物同樣の新語もある。たとへば備前の兒島郡で、春さきの曇つた天氣をササゲビヨリ、其心は「きつとふらうでも無い」といふのは、如何にも古風な口合ひである。フロウといふのも此地の方言で、大角豆《ささげ》とよく似た豆だからさう謂ふのである。陸中の各郡では宵つぱりの子供をフルアヂキ、古小豆だから中々ねないといふ洒落で、それが「煮えない」と同じだといふことは、外から來た人には一寸判らぬだらう。是などは作者も略想像し得られる。座頭の坊などは始終こんな小さな頓智を貯へて、今でも時々取出しては落ちを取つて居たのである。陸前栗原郡誌の方言の部には、いやに物體ぶることをビハゴシラヘといふ語がある。是も古風な新語だが、やはり盲の坊樣の作で、技藝は下手なくせにいつ迄も支度に念を入れることを、自分の琵琶支度に喩へたのが喝采せられたのである。しかし彼等で無くとも日本人の中には、大きな雄辯家は出なかつた代りに、斯ういふ短かい輕い皮肉で、人を怒らせずに效果を擧げる術は發達して居た。下手な大工をカマスダイク、下手な桶屋をソウケイヒダといふ類の、笑つてしまふやうな惡口は常用になつて居る。その農民等が子供に名を附けるのに、やたらに何彦だの何|義《よし》だのといふと、直ぐに其そばからナサマなどといふ批判の語が出來る。名前ばかりが「樣」だといふ意味である。實際我々の文法は今でもまだ極度に窮屈で、人を拘束することばかりを目途にして居る。もしも斯ういふ方面に一條の活路が無かつたら、少しく感情の鋭敏な者共は、夙くの昔に息づまつて死んで居たかも知れぬのである。
 
     一三 無形名詞の成長
 
 藤井乙男氏の諺語大辭典などには、この種の新語はすべて諺だとしてある。コトワザといふ日本語の語義から言ふ(442)と、是までを含むのは當り前かと思ふが、さて西洋のProverbといふものや、もしくは漢土の諺と稱するものと、比べて見た場合は如何であらうか。我々が日常利用して居る言《こと》のわざには、始と終の整うた一つの文句もあれば、何々見たやうにといふ副詞型、神がくしやみをしたやうなといふ類の形容詞型もあると共に、單なる複合名詞の、異名として設けられたものもあるのである。それが表現の中に織込まれて、繼目も無しに使はれて居ることは同じだが、單語といふ場合には最後のものしか考へられず、それが又格別自由に應用せられて居る。技術は一つでも製品としては差別してよいのかも知れない。或は又是は戯語であり、もしくは隱語であるから別物だといふ人も有りさうだが、作つた動機は何であらうとも、事實浮世風呂の八里半のやうに、三つ兒も眞似する頃には、もう普通の單語と變りは無い。隱語は世間が知つてしまへば、もう隱語では無くなつて居るのである。
 但し斯ういふ考へ落ちともいふべき趣向の語は、すべての我邦のことわざと共通に、必ず座を花やかにし聽く人を笑はしめる目的を持つて居る。泣いたり憂へたり嚴肅に物を考へたりする際には、わざと其使用を避ける位に、此言葉は似つかはしく無かつたのである。如何に此方面に新語が増加しても、それでは間に合はぬ問題が人生には段々多くなつた。それに應ずる爲に學問に携はる人々が、他國の語と文字で思索した事は、我國語の上には大きな損であつた。よその國にも斯ういふ人は有るのかも知らぬが、日本には殊に無學な智者、眼に一丁字無き賢人といふものが多かつたやうだ。さういふ人たちの新語の需要は、常に或程度までしか充されて居なかつたのである。漢語の採用は便利のやうだが、それは繪に描き形の比べられる物だけで、一たび心意の上の現象に入ると、所謂字訓の一致は學者にも確かめ難いものが多く、ましてや耳學問では誤解を免れることが難い。だから我々の思惟の進むと共に、何とかして各自の實驗を以て裏打ちしたものから、適切な言葉を見付けようとして居たのであるが、其努力の過程は今ある標準語の上には殆と全く現はれて居ない。私たちが各府縣の方言を學んで行くうちに、二三やゝ判りかけて來た事實はあるが、是は何れも方言の今少し實のある研究によつて、將來確證しなければならぬことばかりである。問題の一つ(443)は前にも述べたやうに、新語の好みには時代相があつて、或時代はもつと輕薄でない内部の要求から、質素なしかも有益な語彙の増加に、主力を傾けて居たこともあつたかといふ點である。必ずしも一つの方針が新たに生れて他に代るのでは無く、前から存在した幾通りかの樣式のうち、彼に就き是に奔る折々の流行があるのだとすると、其移動の跡を詳かに知ることは、やがては意識した改良にも導かれ得るのである。一つの例をいふと動詞から名詞をこしらへること、是などはコヒとかオモヒとかの如く、夙く世に現はれて文藝に利用せられたものもあるが、その急激なる同類の増加は、遙かに後世の現象のやうに思はれる。さうして我同胞の物の考へ方が、これに依つて非常に樂になつただけで無く、今まで名?すべからずと謂つて居た色々の心意の動きまでが、それ/”\適當に名を付けられて、人にも獨語にも言ひ現はす自由を得たことは、疑ひも無い一つの進歩であつた。それがもし今日の所謂「哲學する」人などに扶助せられて居たならば、どれだけ我々の學問は獨立して居たか測られぬのだが、不幸にもそれは切れ/”\の田舍の事業であつて、主として凡俗の用を辨ずるに止まり、たゞ將來に向つて大きな可能性を證明したに過ぎなかつた。動詞も次に説かうとする如く、まだ現在は十分増加したと言へぬが、もしも其全部の連用形を、一つ/\別の言葉にしあげるならば、それだけでも日本語は可なり豐富になる、といふことを前人は既に實驗して居るのである。是には勿論使用者間の約束を要する。單に或一人が無斷で使つても聽く者が承知をせぬ故に、やはり新語の手續は履まねばならぬのである。オトシといふ語は東京では火鉢の銅製の底のことだが、越中では水田のあと水口即ち用水を落す處を意味し、下總常陸では?の雜種を意味し、壹岐島などは又便所の甕のことである。同じく落すといふ動詞から出た語でも、集團毎に異なつた内容に限定せられて居る。メグリは標準語では周圍のことであるが、日本海側の廣い地域では、是を擂木の意に用ゐて居る。ナラスは物を水平に横へることだが、關東のナラシは稻架のことであり、九州その他では衣掛け竿を謂つて居る。さういふ中でも東北と西南と、遠く離れて一致して居るものは、其語の早く出來たことを談るものかも知れぬ。眞綿をネバシといふ語は奧羽にあり、また中國以西にも行はれて居る。米の洗ひ汁をニ(444)ゴシといふのも、福岡縣で聽き又信州より此方の東國でも之を聽く。陸中山目邊で盥をアラヒと呼ぶのを見ると、タラヒもタラフ(手洗ふ)といふ動詞が前であつたかも知れない。ソクヒも今日は速飯《そくいひ》の如くこじつける人もあるが、ソクフといふ動詞は既に犬筑波集に見えて居る。鞭はムチ・ブチの訛音が優勢になつて居るけれども、ウツといふ動詞の古い岐れであつたことは想像せられ、フグリは袋の變化では無くて、フクルといふ動詞の以前の言ひ方に、是を導くやうな形のあつたことを思はしめる。陰嚢をサガリと謂つて居る方言も現にあるのである。私などの意見では、動詞が先づ自由に出來て、それから入用のあるたびに、引出しては個々の名詞を造つて居たので、それも區域が小さく限られ、且つ物々しい抽象名詞を必要とせぬ人に委ねてあつた爲に、起るべき多くの新語が起らずして今に至つたのである。
 希臘は精確な好い言葉を、無數に持つて居た國民として羨まれて居るが、彼とても一度は原始時代があつたらう。最初から六つかしい概念の語を抱へて、此世に現はれて來た氣づかひは無い。やはり今までの日常用語を分化させ又限定して、追々と物を考へるのに便利な語を造つたので、多分彼等の隣に漢語も英語も無く、同時に又吉備眞備とか加藤弘之とかいふ人が居なかつた御蔭であらう。言はゞ我々は餘りに氣短かであつた。我家の釜の飯の熟するを待つて居られないほど、新らしい知識に飢ゑて居たのである。内で何の用意もして居なかつたとは決して言はれないし、又其方法が無いともいふことは出來ない。新語は此方向に徐々の歩みを進めて居たのである。一つの例をいふと、日本人は中々よく怒る民族だが、「怒る」を意味する古語は甚だ乏しく、今ある俗語は方言として誠に區々である。地方それぞれの新語が近世に入つて作られたのである。大體に分けて其種類は五つ、中央は「腹が立つ」だが、西へ行くとゴウガワク、又はゾウノキリワクなどと謂ひ、東の方ではキモガイレル若くはゴセヤケルがある。何れも怒つた時に胸から下腹にかけて、熱くなることの形容のやうだから、この五つのハラ・ゾウ・キモ・ゴウ及びゴセは同じものであらう。ハラもキモも元は眼に見える肢體の一部だが、是も既に色々の心の?態の名として用ゐられて居る。ゾウ(445)だけは臓の漢語らしく、九州以外には使はぬが、ゴウの元の形のコはそれと同じで、河童に尻のコを拔かれるなどといふ時は内臓を意味して居る。セの方はセイと延べて、漢語の精の字の音だと思はれて居るが、やはり背中のセと一つで、肩では無しに呼吸機關のことであつたかと思ふ。「セが切れる」といふ類の用法は今でも多い。惰けて働かぬ者を標準語では骨惜み、東北へ行くと是をカバネヤミ又はセヤミと謂ひ、少しづゝ無形の或?態の名に、進めて行かうとして居るのである。宮城岩手の二縣にはミノコナシといふ語がある。ミノコも亦ゴであつて、是を氣力とか忍耐とかの意味に使ふ故に、ミノコ無しが意氣地なしの事にもなるのである。それからドワスレやドショウボネなどのド、ヒヨワのヒの如きも、胴や脾の外國音を、借用したものとは思はれず、氣の字に同化しきつた我々のキも、本來は氣體で無く液體であつて、寧ろ血液のチと分化した語らしかつた。ヅクといふ語の内容に付いては前にも何かで述べた事があるが、現在は普通ヅクナシといふ形で行はれて居る。それが奧羽では臆病者を罵る語だから、それだけから推すとヅクは勇氣らしいが、越後會津の境ではヅクナシが間拔けとんまのことだから、ヅクが智慮機轉を意味し、信州甲州ではヅクナシが所謂無精者だから、即ち又根氣とか精勵とかがヅクである。大よそ理想の青年男女の美點の總稱ともいふべき語であつたものが、新たな道コ稱呼の埒外に置かれたばかりに、今では土地毎に唯其片端を把へて、消極的の場合のみに人を嘲る詞として使つて居るのである。古い方言集には此語の起りを説いて、或は車などの軸であらうといひ、或は弓の?《づく》から出て居るともいふが、それ等の用例をも含めて、ツクは日本では直立するものゝ名であつたことは、杭や柱をツクと謂ふこと、さては浮標のツクシなどからも推測し得られる。さうして斯ういふ場合の人間のツクは、本來は背骨のことだらうと思ふ。ヅクナシは單に音が興味を繋いで、國内に廣く流布して居る。駿河や伊豆に行くと、其ヅクナシが又二つに分れて、一方は惰けて働かぬ者のことだが、それをヅツナシと謂ふと本人の側から、苦しい骨が折れるを言ひ表はす語になつて居り、それが西の方は中國の半分までにかけて、病苦や貧苦を形容するヅツナイとなり、時には術無いなどと文字に書く者さへ生じたのである。無形名詞の新造は斯くの如くにして將(446)來を望まれて居た。それが苗にして秀でなかつたのは、決して作者の責では無いのである。だから私には敗軍の跡を弔ふやうな感じがする。
 
     一四 動詞増加
 
 今日の標準語支持者の省みて自ら恥ぢなければならぬのは、是ほど複雜又多樣なる人生の活動、それを一つ/\見分けて居る微細なる感覺が、今尚五分の四以上まで、言ひ現はす言葉を與へられて居らぬことである。これでは何としても濟むわけが無いから、さしも名譽ある「東京の中流家庭なるもの」でも、内々は色々内輪の語をこしらへて使ひ、常は必ずしもよそ行きの言葉ばかりで辛抱しては居ない。田舍は尚更晴れといふ機會が少ないから、前から有るものを心置き無く用ゐて居るのである。無くて事足るならば勸められて止めもしようが、代りが無いのだからそれを慎しむと、或心持だけが言へなくなる。それでも笑はれるのが辛さに黙りこくつて居る人を見ると、殘酷な話だと私などは思ふ。つまり新語の供給が怠られて居るのである。それは唯單なるクッツブスやフットバスの類であらう。そんなものが何だとせせら笑ふ者も無いとは言へぬが、是とても普通の「つぶす」や「飛ばす」を以てさし替へられぬ氣持はある。しかも自分たちのいふのはさういふ例だけで無い。前には日本人は時の用に應じてよく動詞を作り、今はそれを戒められて居るのである。人の發する聲はなり高しなどと謂うて、ナルといふのが古い動詞であつた。ドナルやウナルは東京でも毎日使つて居る。之を地方は新たにもう一段と分化させようとして居たのである。次の表の地名は下に其他か等々かを附して讀んで貰ひたい。中段の對譯は方言集の記載である。
  ヂナル          大聲でどなる    栃木縣東部
  ガナル          怒號する      足利、館林、飛騨
(447)  ガシナル、ガチナル    どなる      靜岡縣
  ワナル          わめく、うなる   鳥取縣
  ヅナル          どなる       津輕、北海道
  ギャナル         どなる       米澤市
  ワナル          叫ぶ        加賀、能登、越前
  オナル          うめく、唸る    備中中部
 是等を訛音であり、ウナルを正しいなどといふ理由はどこにもない。メクを下に附けた動詞にはウゴメク・キラメク・トキメクなどが古い所にもあり、ワメク・ウメクは文學にも有るので、ちやんと辭典には認められて居る。語原は知らぬが、「外からはさう見える」といふ感じであり、メカスといふ語さへ今は定まつた意味を以て行はれて居る。この前例が確かなればこそ、田舍では色々の何メクをこしらへるのである。
  ホメク          ほとぼる、熱氣内に在ること  日向
  ホトメタ         款待する      柳河、佐賀
  ドメク          馬鹿に騷ぐ     壹岐
  ソソメク         私語する      島原半島
  バメキドリ        あとり、蝋嘴鳥   霧島地方
 是等は何れも九州の方言だが、奧州の田舍にも胸をワクメカスだの、鼻をフンフラメカスだの、ホクホクメカスだのといふ語が行はれ、八丈の島でも笑ふことをヘヘラメクと謂つた。即ち遠境に於て相似て居るのである。此樣な例はまだ大分見付かりさうである。たとへばウドムといふ語は伊豫と石見では唸るに同じく、鳥取市の附近では響き渡ること、大分縣の大野郡では高聲を出すことだといふ。關東では粉などの水の中に沈澱するのがオドムである。ドム(448)の本來の意味は不明であるが、是と淀むのヨドム、もしくは挑むのイドムとは成立ちがよく似て居る。東京のイガミアヒは相罵であるが、仙臺では又唸るをイガムと謂つて居た。是と標準語のヲガム・ユガム・カガム・セガム、もしくはシャガムなどと、別の由來だとは言ひ難い(ハニカムも多分此仲間であらう)。其他イトナム・サイナム・タシナムの類、又はワカヤグ・サヤグ・ハシャグの一列など、生れた時代には前後があり、文藝との親疎は著しいとしても、とにかく一つの型が前に存する故に、之に倣うて次の語は作られたので、通例の語學者以上に各語の性質を理解し、その活力に觸れて居たもので無ければ、言ひ出すことも出來ず、又承認することも出來なかつたらう。是をたゞ單純なる擬聲語ともいへぬことは、次々の變化が追々と複雜な感じを表はすやうになつて居るのを見てもわかる。適當な時期に傍から支援するものがあつたら、此方面だけでもよほど澤山の新しい動詞は出來た筈であり、それから又色々の名詞を、導き出すことも不可能ではなかつた。寔に惜しい歴史と言つてよいと思ふ。
 しかも斯ういふ手輕な方法だけでは、あらゆる入用に行渡らぬことは、昔の人の方が却つてよく知つて居た。それで多數のことわざの句の、當初必ずしも新語とする計畫も無かつたものを、一同が牢く記憶して頻々と之を使ひ、後には常の言葉にしてしまつたものも亦多いのである。たとへば小兒や若い娘などのすねて機嫌の惡いことを、山陰は一帶にブリツルと謂つて居る。元は恐らく戯語又は隱語で、寢小便をすることを周防でゴリヲオス、秋田津輕でマストルといふと同じく、ぶり/\するから鰤釣るであつたかと思ふ。九州では是をハブツル、山陽四國は一般にハブテルで、共に今では何故さういふかを知つて居ない。信州から越後へかけてイボツル又イボキルと謂ふのは、蟷螂の方言をイボキリ蟲もしくはイボツリといふのと關係があつた。この蟲はよく怒る故に、「腹立ちばゝさ」などの異名もあり、終にはイボツリを怒ることゝ思つたのであるが、此方はイボムシリといふ古名もあつて、疣を治するに利用したのが元であつた。それが現在はあべこべに解せられて居るのである。醉うてクダヲマクことを鹿兒島ではヤマイモホル、北陸東北では汎くゴボウホルと謂ふ。何れも始のうちは笑はせたであらうが、今日はまじめくさつた人々の間に(449)も、此語が用ゐられて居る。ことわざとしての趣向は尚わかつて居ても、もはや符號のやうにしか考へられて居らぬのである。始めて聽く者には感心する作品が幾らもある。斯ういふものこそ是からも集めて見なければならぬのである。複雜なものからさきに擧げると、
  モチワラキセル      おだてる      津輕
  ハヒダラカツグ      迷惑を被る     仙臺
  ゲタヲアヅケル      難題を持込む    近江湖南
  アミヲアゲル       打切る       甲州中部
  ササラスル        離間する      佐渡
  ネソヲクル        執拗にくり返す   備後
  イソヘヨル        行きづまる     近江
  イヲカフ         培育する      信州下伊那
  イシヒク         内證金を作る    豐後
  ナシウル         あてこする     羽後河邊郡
  タコツル         いぢめる      紀州東部
 この終りの二つは短く説明する必要がある。ナシは秋田では女などの人に物いふ際に、語尾を強める爲に添へる音である。ナシといふ語尾に力を籠めるのを梨賣ると戯れたのである。タコツルは子供の兩頬を平手で挾んで釣上げることで、腕力のよほど差等のある者の間で無いと行はれない。だから汝の如きものは子供の樣に取扱つてやるといふ輕蔑の意も含んで居るので、只いぢめると解しては些し當らない。何にもせよ右に列擧したやうな句の意味を、もし正面から標準語の「よい言葉」でいふとなると、長たらしいのみか感じが丸で出ない。乃ちこんな新語を雇はなけれ(450)ばならぬ所以である。今日活きて働いて居る方言の中に、無用でたゞ止めてもよいものが有るなどと、思ふ人があつたらどうかして居る。
 
     一五 形容詞の缺乏
 
 斯樣にまでして居ても語彙は尚不足であつた。御互ひが何か少しく新らしい事を説かうとするに臨んで、幾度か深い苦惱を感ずるのは、心と言葉との隔離が餘りに大きいからである。日本人の殊に宿命的に苦しめられて居るのは、何は置いても形容詞の足りないことである。此點にかけては佛蘭西は羨んでもいゝと思ふ。何の一つ/\飜譯し得なかつた語は無いと、好い氣になつて居る人も大分見えるが、それが悉く下品な「的」の字を、下に副へなければ少しでも用は足りない譯語である。歌を作る者やよい文章を書かうとする者は、無意識に形容詞を使はぬ樣に骨折つて居る。さうで無ければ死んだ古文辭を掘起して使つて居る。どうして此國が又是ほどまで貧しい形容詞で、永い間暮らして行かれたかは不思議であるが、考へて見ると是は我々が同じ谷あひに、同じ空氣の中に久しく共住した爲に、人の感ずることは其通り自分も感じて、顋をしやくつても眼でまばたきをしても、現在の用だけは足りた爲であつた。記憶も印象も共に續く間柄では、あんなのといへばすぐに合點し、想像の力も略同等ならば、そんなことと謂つて略通じ、たま/\呑込の惡い者があるときは苦笑ひをして見せると、後には氣がつき又はついた樣な顔もする。さうして遠くの縁の無い他人に對しては、「言ふにいはれぬ」とか「名?し難い」とか、言つてそれでも察してくれたのである。つまりは國柄や社會組織が、異常に此品詞の用途を少なくして、久しく過ごし得た結果としか考へられぬのである。其爲であらうと思ふのは、改まつた交際の辭令の中に、必要あつて使はれて居た形容詞は、何れも的といふのに近い借り物であつて、心安い仲間だけでは、精々五十か六十の、よほどの未開民族でも知つて居るやうなものだ(451)けで、兎に角に交通の目的は達して來たのである。以前世相史の中でも此事は説いたが、我々の繪畫は今の程度に發達し、染料の許す極限まで、常に我々の色模樣は變化して居たのだが、色に關する形容語はびつくりするほど尠ない。これは國人の幻影が單彩であつた爲で無くして、互ひにそれを語りかはすべき言葉の入用が少なかつたのである。心の隈々の晴れ曇り、時と境とによる幾十階の色合ひなども、やはり以心傳心を主として居た。將來どういふ風にしたら是を自由に、否む者にまで傳へられることにならうか。いつになつたら支那の俗語にも無いやうな何々的の連續を逃れて、安らかな文章が書けるであらうか。是こそ我邦の言語文化に課せられた、最も難儀な宿題であつたのである。
 古人が少しづつこの侘びしい貧窮から、脱して行かうとした手段は奇拔であつた。日本のことわざが外國の俚諺とはちがつて、一種特異な方向に發達して來たのは、斯ういふのも大きな理由の一つであつた。我々の間に於ては、「ことわざ」といふ語は學問的にしか用ゐられて居らず、其代りにはタトヘといふ名があつた。タトヘの大部分は單なる形容詞を使はずして、總括して事物の?況を説示する用に供せられて居た。是はちやうど動詞が色々の接頭辭や形の修飾を以て、努めて鮮明に僅かなる感じの差を顯はさうとしたこと、又は名詞がいやが上にも好み擇ばれて、少しでも多く特徴を描き出すものが歡迎せられたのと同じで、私の意見では、全く形容詞の微力を補ふが爲であつたと思ふ。歌謠でも無い限りは、全體としての效果が同率以上であれば、言葉の役は遂げたのである。或は反對の側から、斯んな便法が具はつて居た故に、愈形容詞の數が増加しなかつたのだと、言ふことも出來るかも知れない。ところが近世の文章や演説には、さういふ色彩の濃い輸廓のくつきりとした地方の新語を使ふことを勸めぬのみか、物數を少なく簡明に用を辨ずることを、本來の目的としたタトヘゴトも亦排斥する。曾て議會で「目くそが鼻くそを笑ふ」といふ成句を援用して、取消を命ぜられようとした議員もあつた。その爲に長くして退屈な、どこにも人を打つ所の無い雄辯を、我々は強ひられるのである。私は斷じて復古論者では無いが、從來の國語利用がこの二つの言語藝術、即ち剴切でをかし味を持つ短いタトヘと、幾分事を好むに近い奇警なる造語とによつて、容易に培養し難い形容詞の凶作(452)を、今まではどうなり斯うなり凌いで居たことを明かに知つて、さてこの二者を退け去つたら今後はどうしてよいかを、是非とも考へる樣にしたいと思ふのである。
 
 (註) よその國でならばよい形容詞を使はうとするやうな場合を、一つの氣の利いた名詞で間に合せようとした例は、面白いものが中々多い。動詞が副詞の需要を省かうとしたことも同じだが、それは前章に少し述べた。ほんの二つ三つの名詞の例を擧げると、博多でムネタカオビ(胸高帶)といふのは律儀な人をひやかした語で、伊豫の今治でアフギサシ(扇指)といふのも形式ばる人のことである。「おでこ」を津輕でトドコナンヂキ、ナンヂキはナヅキで額の古語、トドコは蠶だから、蠶のやうな額の意である。同じ地方で眼の垂れた人をエドマナグ、多分「江戸見たか」といふ戯から出て居る。仙臺その他で野葡萄をメクラブドウ、盲人の眼に似て居るからで、駿河では又ウシノメダマといふ。福島市附近で「ばつた」といふ蟲をオトゲエナシ、顋の無い特徴を捉へたので、紀州の海岸ではオトガイナシは「つばめこのしろ」といふ魚のことである。蝌斗を東上總でフッパリドヂョウ、フッパリとは子供などの頬の脹れる病、「おたふくかぜ」のことである。氣仙地方では猫撫聲をナンダラゴヱ、お世辭によく「なんだらえゝ兒だぺ」などといふからである。佐渡では人にへつらふ者をエンバナネヅリ、縁端を甞めるやうにするといふ意である。人の前へ出ては小さくなり、家で威ばつて居る男を蔭辨慶といふのは標準語かも知れぬが、それを長州ではコタツベンケイ、仙臺ではロブチベンケイ、野州鹽谷郡ではインナカベンケィ、佐渡ではユリナタベンケイといふ。ユリナタもインナカも共に「ゐろり」のことをいふのである。
 
     一六 癖と能力
 
 私は此一篇の文に於て、自分の思ふことをすら/\と、殘る所無く説き盡すことが出來なくても、今更その責を國語教育の不振に持つて行かうとは思はない。しかし少なくとも是から世に出て來る子や孫の爲には、もう少し國の其任務に當る人々に、考へ且つ働いて貰はなくては困ると感じて居る。この七千萬を越ゆる大衆のうち、筆を執り又は(453)壇に立つて、他に向つて物を言ふ人の數などは知れたものである。彼等は恐らく天分もあり、又それぞれ求むる所のある人なのだから、何としてでも餘分に勉強して、國語を一段と巧妙に利用することを練習すればよいのだ。普通教育があてにせられて居るのは、寧ろ他の最大多數の常人が心の内に持つものを、少しのこだはりも無く人に告げ得るやうにして貰ふことである。他人の言ふことを理解する方は、もう御蔭さまで可なり進んだと謂つてよいのだが、他の一方の自己表現の方は、不安心といふのが精々のお世辭である。五十幾年もかゝつて普通の人は、思つたことの半分も言へず、たま/\おしやべりが出來ればみな口眞似だ。我々は無意識にうそをつかされて居る。斯んな國語教育がどこの國に有らう。標準語の良いものであることは自明の理である。何となれば良い言葉を標準語と稱するからである。しかし言葉を標準語たらしむるには、批判もしなければならぬ。講究もしなければならぬ。一つ一つの單語と句法とをぢつと眺めて、それが果して現在意味しようと思ふ心持と、ぴたりと合つて居るかどうか、それと同價値もしくはより以上のものが、現にこの外にも得られるか否かを突止めても見なければならぬ。どんなえらい人でも、今日の日本語の語彙の貧弱、數は多くても一方に偏して居ること、その統辭法の出來合ひで種類が乏しく、少し長い文章を綴ると、飽きてうんざりさせられるものしか出來ないことを、體驗して居らぬ者は無いのである。(自分だけだと言はれることを怖れて、誰も彼も痩我慢をして居るだけである。)かゝる?態に於て、今ある一部の物の言ひ方を標準語と認め、それを萬人に強ひんとするに至つては、物を知らぬにも程がある。
 我々の國語は棄てゝ置いても變化して居る。一つの大都市のまん中に行はれて居る言葉ですら、時過ぎれば丸で面貌を改めてしまつて居ることは、三十歳にもなれば心付かぬ人は無い。それが感じの好いものであつたり、又出たらめの程無く唾棄せられるものであつたり、わざと巧らんで流行らせようとするものであつたり、人によつて判別も固より區々ではあるが、兎に角構はずに置く限り、毎日のやうに亂雜を加へて居るのである。第一に果して日本語と謂つてよいかどうか、先月は聽いたやうだつたがもうこの頃は誰も使はないといふ類の新語が、ろくに試驗も經ずにど(454)しどしと生れては又消えて居るのである。どこをつかまへて之を日本の標準語と言はうとするのか。夢で無ければ人の惡い虚喝である。日本語である以上は、聽いてわかるもので無くてはならぬ。出來た當座から新語字引を引かなければ、何のことやら判らぬといふ新語を、勝手にのさばらせて置いて何が標準語運動か。大よそわけの判らぬことをいふ者は、今日の所謂有識者であると私は思ふ。
 國語の學問が進んで居なかつた結果だと、多分後世の人々は誤解をすることであらう。それはどうやら事實に反するらしいが、兎に角に國内の言語現象をよく觀察して、訛語と狹義の方言とを見わける注意だけは缺けて居る。訛語は何としても改むべきものだ。素より何れが正しく何れが訛かといふことは、爭へば幾らでも爭へるに違ひないが、それは理論であり實際の生活としては、同じ一つの言葉を雙方で違つた言ひ方をするといふことは、不便であるのみならず見た所も不體裁だ。一つに揃へるとすれば正訛舊新の論は別として、忍んで多數者の一致する所に、從はねばならぬのも亦致し方が無い。自分たちでは既に同語意識を失ひ、全然別の語と思つて居るものでも、元來一つだと判れば言ひ直させるのもよからう。それと是とは同一視し難いのは、折角我々がこしらへ上げて、今まで保管して居た他の色々のよい言葉が、果して是からさき入用は無いか否かも吟味せられずに、やたらに排除せられることである。歌謠に我國語を光らせようとする者などには、たつた一つ二つの音節の多少でも大事である。音の異なる同義語の存在は多々益辨ずと謂つてもよい幸福である。語彙の乏しい國民には、是を省みないことが既に誤まつて居る。まして各地は生活の差異によつて、片方に全く無いものがこちらには出來て居る。よいにも惡いにも標準語には、まだ代りの無い語がどつさり有る。それを矯正してしまへば元も子も無くなる。訛語を嘲けるどさくさ紛れに、考へも無しにそんなものまで撲滅したのは、悔いても及ばぬ大いなる損失であつた。
 其罪滅ぼしとしては、努力して是から多くの佳い言葉の、新たに誕生するのを助産しなければならぬ。元來我同胞が言語の感覺に敏であつて、事物に適切な語を付與する技能にかけては、佛蘭西人などと優に比肩し得る上に、人が(455)すなほに他の發明に賛同して、是を仲間のうちに採用する襟度も亦尋常で無かつたことは、前段に私が實證した通りである。言葉と内部の意味や感じとの、微細に打合ふか否かを判定する力に於ても、斯ういふ荒い生活をした海山の民に、不似合ひな位の長處を持つて居る。それが近頃のやうに聲と形とのゆかしさを愛づるの餘り、よくは知らぬが使つて見ようとするやうな、何を言つてるのか自分にもわからぬ演説をしたり、それを指摘せられるとさうで無いことを證明したさに、後から努力して左傾右傾になつたりするやうな、なさけ無い?態に變つたのは落ちぶれである。一日も早く心の底で思ふまゝの言葉を、大聲に發しても文章になり演説になるやうに、導いてやることが彼等の爲であると共に、又一國の幸福でもある。新語は以前の通り何人も自由に之を提案し得られ、且つ何人も自由に是を批判して、選擇使用し得る樣にしたいものである。是は固より或少數の學者の、宣傳や指導によつて到達し得ることでは無い。たゞ我々は率直にまた成心無しに、久しい過去の言語事實を學び知ることによつて、自ら我能力を解し、同時に御互ひの陷り易い癖が、どんなものであつたかを明かにし、共々に國の言語を何にでも役立つ立派なものにすればよいのである。事實を詳かに知るだけでは學問で無いやうに、思つて居る人が一番恐ろしい。そんな人たちが限りある我知識を根據として、五十年の未來にすら適用せぬやうな、無理な説法をしたがるからである。
 
(456)  新語餘論
 
     一
 
 源順とか橘忠兼といふやうな、特に斯邦の言葉に詳しかつた前代の學者が、試みにもう一度我々の中に戻つて來て、現代日本人の物言ひに耳を傾けたとすると、一ばん驚きもし、又困りもするであらうと思ふのは、新らしく意外な澤山の單語の、生れて當り前のやうに使はれて居ることである。語音の變り方も一應は無論まごつくであらうが、少し心を落付けて聽けば、追々に傾向が判つて來る。法則とは言へない迄も、同じ音はさう色々には變化して居ない。其場合も亦至つて限られて居る。ちやうど北人が南の島に行つて留まつて居る時のやうに、僅か馴れゝば教師などは無くとも、彼を是にと引當てる事が出來る。言葉の組立て方や順序に至つては、大體に以前の通りと言つてもよかつた。たゞ文句の終りの部分に取つて附ける道具立てが、無暗にこざ/\と面倒になつて居て、容易に眞似をすることが出來ぬだけで、それも亦實は數がきまつて居る。厄介なのは專ら是に用ゐられて居る一つ/\の語であつて、此方は和漢の字に書いてもらつても尚わからない。どんな長たらしい一くさりの文句の中にでも、前からあつたといふ單語は一つか二つあるのが精々で、其他は通譯にも頼めないものばかり多いのである。日本語がこの一千年近くの時の經過に伴なうて、變化をしたといふことは考へぬ者は一人もあるまいが、それが如何に變化したかに就いては、今人と古人と、恐らく見る者の立場によつて、可なりに認識の著しい相違があると思ふ。或ものは目に立ち、或ものは凡常と(457)して之を看過してしまふからである。百年二百年の後世に對しては、我々は即ち古人である。殊にその未來の變化について、希望をもち又責任を感ずる者ならば、寧ろ今まで埋もれがちで、看過せられ易かつた部分の變化に、多くの注意を拂ふのが至當である。言語史の教育的意義は、第一次には茲に在ると信ずる。歴史の大きい小さいといふことに關しては、今でもまだ議論があるらしいが、自分たちはもう迷つては居ない。即ち變化の最も激しく、しかも其經過のまだ明かになつて居ないのが、我々にとつては重要なる歴史である。雁に實用の價値を計量せぬ場合でも、なほ學問はその方向へ、進んで行かなければならぬものと思つて居る。
 單語が我邦に於て如何に交迭し、如何に分岐し又新増したかに就いては、記録は殆と存せずして只眼の前の痕跡がある。個々の言葉は其外貌に由つて、ほゞ年齡を察知せしめるのみで無く、言葉であるがために木や草の葉とはちがつて、それが生れて出た日の事情を、仔細に又はあら/\と自ら語つて居るのである。現在活きて働いて居る言葉は、大抵は皆若い。辭書は主として本を讀む人の味方らしく、一度何かに出た單語は、片端から遁がすまいとして居るだけだが、それでも曾て行はれて再び隱れてしまつたものが、まだ此以外に莫大であつたことを、却つてその新舊の亂雜によつて想像せしめる。それを悉くもう一ぺん喚び出すわざは、如何なる平凡社にも望み難い事であらうが、少なくとも是が現れたり消えたりした事情だけは、眼の前の確かな經驗から、段々に類推して行く事が可能かと思ふ。素より國がらにもより時代の風もあつて、昔は昔だけで別に新語の増加する理由の、今とは異なるものが無かつたとは言へない。しかし此喰違ひは我々の心掛け次第で、最少限度まで小さくする見込みはある。現在の調査が十分に周到であるならば、この實駿の中には以前のものゝ名殘も見出され、更に又未來の未知數の、萌芽といふべきものをも認め得られぬとも限らぬ。歴史は是まで幾多の無能力を告白して、少しも恥かしいとは思はない學問であつたが、それでも方法はいつの間にか進んで、わからぬといふことが大分少なくなつて來て居る。殊に國語の沿革の如き、書いて傳へられた史料の乏しい方面では、是非ともこの限堺をもう一歩押擴める必要もあれば又價値も多いのである。鳥獣(458)虫魚草木等の世界には、何十萬年の永い過去があるのだけれども、それを詳かにする爲には人はたゞ現在あるものを採集する。たま/\保存せられて居る化石のみを宛にしては居ない。書物と化石とを一つに視るのはひどいか知らぬが、一方の與へる知識が不完全な場合に、他方に赴かずに居られぬ迄は同じである。國語は少なくとも採集無しに、即ち目前の事實の觀測無しに、机上でわかつてしまふ樣な無造作な過去はもつて居ない。永い歳月の間に何十億とも知れぬ人の中を、通つて來て終に斯うなつたのだから、其經歴を知る爲にも、我々はもう少し餘分の手數は掛けなければならぬ。近代の方言採集は大分盛んになつたやうに、たゞ書目を列ねて悦んで居る人もあるが、もと/\無我夢中で掻集めたものが多いのだから、入用な資料の出揃ふのには程遠いのである。此?態に於て分類を試み、もしくは總括論を下す事はやゝ冒險に過ぎる。しかも手を空しうして完成の日を待つまいとすれば、やはり切れ/”\の小さな暗示を粗末にせず、許される限りの比較と綜合とによつて、徐々に變化の輪廓を跡づけて行くの他は無いのである。是が幸ひに興味ある一つの假定として認められるならば、將來の採集には自然に目標を生じて、むだをする者が少なくなるであらう。さういふ趣旨の下に、茲には尚若干の今知られて居る實例を竝べて見るのである。
 
     二
 
 最初に氣のつくことは、今ある新語の作者の少なくとも大部分は、決してさう偉い人でもなく、又格別是が爲に大きな勞苦をも費して居なかつたといふことである。或は見樣によつてはさういふ凡俗の作、手數のあんまりかゝつて居らぬ言葉の方が、受けられ記憶せられたとも言へるのかも知れぬが、それは結局は同じ事に歸着する。採用者は即ち第二次の作者であり、又他日の創案者でもあり得たからである。個々の單語としてはたしかに新らしくとも、下に流通した法則は古今一貫して居て、其要項の一つは「平易」であつたことが察知せられる。勿論この法則自身といへども、尚且つ變遷は免かれなかつたであらう。しかもその或者の古くから持續して居たことは、又他の側面からも立(459)證し得られさうなのである。一番凡庸な實例から話を始める。
ペッチリ 是は阪神地方で改良服のホック Huck のことを謂ひ、掛ける時の音から作つた、至極の新語と目せられて居る。即ち前編のポンポンブネの亞流である。併し衣服の紐結びを省略して、釦留めにする風の始りはずつと古く、海で働く者には西國では是が普通になつて居た。島根縣その他で之をペチ、又はベチと謂つて居るのが、もしも偶合ならば愈意義が深いが、多分は無意識の記憶による再用であらうと思ふ。從つて辭書にも出て居る東京のパチンドメ(帶止金具)は、もつと適切ではあるが發明とは認め難い。是が一商人の創作だつたら、もう少し上品なものを選んだことゝ思ふ。
コットリ 是も上方地方の古い新語で、私などは幼時常に使用して居た。雨戸の戸締りに引卸して置く、半自動式ともいふべき木切れの装置で、無論音形容から出た言葉だが、抑揚は全く別になつて居る。現在は色々な改良が入つて、もう是を用ゐる古風な家だけしか此語は無いさうだが、以前暗闇の中で此音を聽き確かめた時のことを考へると、他に代りの得難い適切な命名であつた。殆と千年前からあるクルルといふ單語も、やはり同種の事情の下に、發明せられたる上代の新語かと思ふ。
カンカラカン 埼玉縣の入間郡などで、所謂ブリキの空鑵を斯う謂ふ。子供が是を臨時の玩具にする所から生れたらしいが、無論成人の間にもこれで通用して居る。單にカラカンとかカンカラとか謂ふよりも、音が近いから一層有效に役立つたのである。他でも使つて居たが場處を思ひ出せない。或はたゞ一時の流行のやうに見る人もあらうが、固定して永く行はれぬとも限らぬのである。たとへば壹岐島の方言集にカカレ、田畑の中に隱れて居て鋤に當る石とある。語の起りはカクレであるにしても、なほ其小石の鋤や鍬に當る音から、影響を受けて居ることは爭へない。さうすれば金屬農具の初期の印象に、始まつて居るものとも想像し得られるのである。
バチバチ 信州の下伊那郡で、檜のことをさう謂つて居る。此枝を爐にくべて燃える時の音から附けた名だといふ。(460)節分の晩や初午の日の朝は、檜の青い小枝は缺くべからざる儀式の燃料であつた。是とよく似た例は播磨ではベリベリシバ、馬醉木アセブともいふ灌木の別名で、同じく年越の夕方は其一枝を茶釜の下に投込んで、あの威勢のよい小爆音を聽いて樂しんだ所から、常の折にも此名以外の名を呼ばぬ人が多くなつたのである。其以外にも式の日の用ではないが、近畿一圓で松毬をチンチロ又はチッチリ、北陸地方でケッケラマツと謂ふのも、葉の少しまじつた?などの枝薪をバンバといふ土地があるのも、原因は全く同じであり、たゞの細い薪を九州でバエラ、中部以東でバエタと謂ひ、更に轉じては太鼓を打つ撥までをバイと謂つて居るのも、起りは竈の前の單純な印象であつたかも知れない。東京で今日小さな火事を意味するボヤなどは、或はモヤとも發音して、共に田舍に行けば焚附けになる茅萱雜木の小枝などのことである。燐寸も硫黄附木もまだ無かつた時代に、これを燠の火に吹付けて火を揚げた。元は江戸でも小さな火事を、戯れてボヤだなどと謂つて居たのであらう。
ギイトロ 前に竝べた新語の制定にも、小兒の參與して居たことは私には想像し得られるが、もつとはつきりして居るのは蟲類の命名で、ギイトロは即ち茨城縣南部などで、あぶら蝉の鳴音を寫し出した方言である。高島春雄君の一所懸命の所領だから、私たちは成るべく立入らぬことにして居るが、夏は大人が蝉などの新名に、工夫を凝らしては居られぬ季節だといふ點を、一言するだけは許してもらはう。ミンミンとかカナカナとかいふ最も普通の語も、私は子供の時に關東へ移つて始めて知つた。しかも一方にはツクツクホウシなどの、數百年來の著名なるものもあるのである。すべてが兒童の作とすれば、其管轄にも久しい由緒がある。
テンコロ 砧即ち衣打ち臺の方言として、岡山市だけで採録せられて居るが、其分布は相應に弘いことゝ思ふ。小さな横槌で木の株の盤の上を、細かく打つやうになつてから後の出現と思はれる。是がもし昔ながらのジョウバ石であつたら、テンコロなどといふ優雅な音は浮んで來ぬのである。
トンコツリ 讃岐の仲多度郡などで、麥搗きの作業を、戯れてさういふ者があるといふ程度に行はれて居る。コツリ(461)は杵のさきに附いた麥粒を、臼のかばちで叩いて落す時の音だといふ。
トンカンブルヒ 是は下總の印旛地方で、小麥の粉を挽いてふるひ分ける箱篩といふ器具の名である。夜分や雨の日に粉を製して居ると村中に此音が響き、皆々手傳に來て何かこしらへて食ふのだと謂つて居る。さういふ意味から此語は生れたのであらうが、挽臼の使用は近世の流行であり、このトンカン篩に至つては更に新らしい。木曾や天龍川の流域で屋根のこけら葺きのことを、トントンブキといふ語はよく知られて居るが、是なども葺板を釘で打付ける風が始まつてから後のことで、亦決して古い技術ではなかつた。命名は恐らく其印象のまだ新鮮な間に、企てられたものであらうと思ふ。
トントン 石見の鹿足郡の一部で、いたどり(虎杖)といふ春の山の植物をトントン、やはり折る時の音からかと謂ふ人があるが、是などは私には始まりがよくわからぬ。野外の食物の知識は思ひの外普遍的でなく、甲地で盛んに食ひ、乙地では顧みぬものも中々多い。虎杖は固有の産物であつても、或は其幼芽を採取するの風が、近頃になつて起つたのかも知れぬ。私などの生地では虎杖の一名をスカンポ、是は確かに折る時の音からであるが、しかも一方には同類の植物の、スカナ(酸模)といふ語から影響を受けて居る。中國のうちでも、是を又スッポンといふ土地が多い。スッポンは又一段と新らしい樣に思ふが、トントンに至つては愈聯想が稀薄になる。何かもう一つ隱れた動機が、あつてまだ見付からぬのかとも考へられる。
トンキラ 信州伊那谷の南部で、古い形の水臼をさう呼んで居る。杵を取付けた横木の片方の端の凹みに、筧の水が一ぱい流れ込むと、重みで傾いてこぼれて杵先がとんと落ちる。其拍子によつて設けられた地方語らしい。或は又是をボンクラとも、ドッサリとも謂ふとあるから、言はゞまだ新語の候補者ともいふべきものである。東筑摩郡に來ると、是を又アッカリと呼ぶ村がある。多分は空になるを意味するアカルの名詞形に、此物の動作の間拍子を合せた語であらう。
(462)ギットン 佐賀縣の小城郡などでは、是が又サコンタロウの事であるといふ。迫の太郎は即ち前項の水臼のことで、谷間で獨り働く者といふ樣な愉快な命名だつたらしいが、久しくなるともう其感じが實際と合はなくなり、却つて素朴に過ぎたるギットンなどに取つて代られるのである。飛騨の吉城郡で同じものをギイポチャンと謂ふのは偶合と思ふ。ギイは水槽の次第に下がつて行く軋みの吾で、即ちトンキラのキラの部分に當るのである。
バックチ 是は關東北部から福島縣にかけて行はれるほゝゑましい方言で、戸の隙間などの廣くあいて居ることを意味する。バといふ音を發する時の口といふことで、對譯を標準語に見つけることが出來ない。しかも小兒語などの中には、是と同列のものがまだ幾つかある。
アヲチロ 小鳥には技巧の少ない新語が、次々に付與せられて居るのだが、爰には先づ一つの例だけを擧げて置かう。アヲチロは紀州の日高郡で?眼兒めじろのことである。青は羽の色、チロは啼聲から出た言葉としか考へられない。此郡は如何なる理由でか、特別に小島の名の變化が多い。只の雀にも吉野熊野をかけて、古來のイタクラといふ語が尚存する外に、畫眉鳥ほゝじろはヤマスズメと謂ひ、鶯を却つてホケジロと謂ふさうである(南紀土俗資料)。チロといふのが或は以前の小鳥の總稱で、目白頼白などの白は誤りでないかとも思ふ。さうで無いまでも此アヲチロは、近頃の新語では無いやうである。
ホッポガリ 日向の米良などに此語があり、追狩のことだといふ。獣を追ひ起す掛聲なども、少しづつだが變化して居る。さうしてこの類の造語だけに殘つて、解釋を困難ならしめる場合もあるのである。
バフ 秋田縣の鹿角郡などで、足で踏んで空氣を送り火氣を強める器械、即ち蹈鞴のことを斯う謂つて居るのは、明かに新らしい擬音語である。たたらは大層古い言葉だが、もとは單に足踏みの形容であつたらしいから、僅かでも使用の方式が變ると、すぐに感じの無い只の合ひ言葉となり、やがては他の一段と剴切なる語に代られやすいのである。前編に引用した旅の鑄物師をハフヤといふ語などは、もとはこのバフから筋を引いて居るかと思ふ。
(463)プウソコ 是は長崎附近の方言で、鑄掛屋のことである。やはり前のハフヤだの、ツンパコ・シコパコなどと同列に、彼等が使用する吹革が蹈鞴に比べるとずつと小規模だから、其語音も亦やさしいのである。
ドッコンセイ 掘拔き井戸をさう謂ふと會津大沼郡の方言集に出て居るのは、多分は鑿泉作業の掛聲によるもので、此地方では是が他の仕事には用ゐられなかつた故に、印象が強かつたのであらう。ドッコイショでもドッコイドッコイでも、今は歌の囃しや踊にまで用ゐられて居るが、起りは「何處へ」で相撲の際の掛聲であつたことが、狂言記などによつて推測せられる。
エンヤラコ 是は名古屋で水揚日雇のこと、即ち掘川から各木場へ木材を揚げる人夫の名だと、林業辭典には見えて居る。つまり是が最も顯著なる特色であつたからである。東京で今日エンヤコラと謂へば、地搗きに出て働く女性勞働者に、限られて居るのとよく似て居る。
ヤヘンドウ 周防の大島などで、漁舟の網を捲き揚げる舊式な轆轤のことである。ヤヘンドウ、マイタァといふ掛聲を、其時だけに限つて使つて居た。
ドンチョ 宮崎縣の南部で、かけや即ち大きな槌をさう呼ぶと「日向の言葉」卷三に出て居る。杭を打込む音からであらうと思ふ。
チャガラキ 津輕で蟲送りなどの日に鳴らす鉦のことを謂つたのは、又その長く耳に殘る音からである。他の諸國の察禮の名にも、同樣にこの金屬樂器の囃の音によつたものが稀で無い。
ガモモ 宮城山形から富山石川の數縣にかけて、廣く行はれて居る新語で、多分は亦兒童の作品である。或はガイモモ、又はガイモモンとも謂ひ、御寺の本堂で鳴らす大きな鉦を意味する。之に對して小さな「りん」をチンモモと謂ふから、音とその餘響の形容であることは疑ひが無い。それから一轉して佛閣の縁日を米澤でガモモ、更に又?の實のへた、即ち東京の子供が「どんぐりのお椀」といつて居るものを、越中ではガンモンモと謂ふ。大小を無視すれば(464)形はよく似て居るからである。筑後の柳河邊で死ぬことを子供が「ガァンさんにはつてく」と謂ふのもやはり此音によつて葬式をガァンさんと謂つたからである。
モロンモロン 神社の拜殿の鈴又は佛前の鰐口を關東の處々で、成人にもモロンモロンといふ者があるのは音からである。葬式をジャンボン、又は之に近い語で呼ぶ土地も多いが、此方は幾分隱語の性質を帶びて居るかも知れない。
チャンボンボラ 茨城名勝志に、多賀郡五浦の海岸に在る、波濤が打込んで響をなす洞窟を、此名を以て呼び漢字では鐘鼓洞と書いて居る。鉦鼓をチャンボンと謂ふ語が、此地方には普通だつたのである。
ホウホウコ 今度は方面をかへて、少しく人事に關する例を引くと、所謂秘藏兒を阿波ではホウホウコ、周圍の者が何でもホウ/\といふ光景を寫生して居る。上方で弘くホンソノコと謂つたのも、同じ起りであることが察せられる。關東ではカンゾッコ又カンゾ孫などといふのは、是は慈愛を表示する語がもとで、狂言のカナ法師などと共に、カナシといふ形容詞から出て居る。
ダンダンサマ 備前の牛窓邊で御醫者のこと。ダンダンは有難うに該當する感謝の辭で、醫師に對しては特にそれを連發したからであらう。現在は中國四國に普及して居るが、このダンダンはさう古いものでない。
バッタハン バッタは新式の機織機に與へられた新語であつたが、更に進んでその工女をもバッタハンと呼ぶやうになつた。福井その他の地で採集せられて居る。
ツコツコハン 紀州で年の暮に賃餅を搗いてあるく者のこと。杵をかたげ臼を轉がして來るのが、以前の町の歳末風景であつたといふ。ウロウロ舟などとよく似た語である。
カンパチ 同じ地方で東西屋のことをさう謂つた。拍子木を叩いて町の興行ものなどを觸れてあるく職である。勘八は如何にも似つかはしい名だが、なほ其拍子木の音の影響が著しい。
テンヤ 大阪でも神戸でも、屑物買ひのことを今では專らさう呼んで居る。東京のバタヤとは少しかはつて、「屑は(465)溜まつて居ませんか」、クザタァッテンといふ終りの音から取つたといふが、それもまだ聊か心もとない。以前は大阪ではデイデイといふのが屑屋だつたと、色々の物に見えて居るが、文化年間の守貞漫稿には、既に紙屑テンテンと謂つて廻つたことが見えて居る。それも古手の略音かといふのは疑はしく、或は古來の「たまはれ」のなぐれかも知れない。名稱が斯うきまると、却つて向ふの方から近よつて來る傾きも有り得る。きたない話だがオワイヤはよい例である。
 
     三
 
 斯ういふ端的なる造語法は、如何に制しても今後も尚續くであらうし、又現に試みられては當り或ははづれて居る。上品なる階級の日常に採用せられてよいか否かは別問題として、少なくとも聽いて理解するだけの程度には、我々も加擔を強ひられて居るのである。もしも正しい選擇を志すとすれば、愈以て其出現と、是が動機となる力とを覺悟して居らねばならぬ。次には是に比べてやゝ一段の思慮が加はり、小さな趣向の働いて居るものがあるが、此方は幾分か時代に囚はれ、ちやうど今日の舶來片言の如く、流行るなら眞似て見ようといふ樣な心輕さがあるから、或は政策を以て少しづつは之を指導することが出來るかも知れない。併し一旦承認せられてしまふと、個人の力では作者にすら悔い返されない點は、前の自然新語と異なる所がない。だからやはり亦本源に溯つて斯ういふものゝ要求せられる事情を知つて置かねばならぬのである。私の引例は限りある採集の中から拾つたのだから、時として甚だ適切でないものもまじつて居る。それは追々に數を加へ、又引替へて行く他は無いのである。
アクワ 大阪府の南部で、臆病者を意味する新語。何かといふとおゝこはいといふ所から、其音を少し修飾して一語を設けたのである。東國で化物をオコとかオカとかいふのに比べると、僅かだが是には智能が干與して居る。
オロロ 尾張の南知多方言集に、ちよこまかする兒のことだと謂つて居る。オロロは一般に驚く場合に發する感動詞(466)だから、即ち?此樣な語を必要とするやうな子供といふ意味で、少し氣の利いた人が用ゐ始めたものと思ふ。獨立して如何にも紛れの無い一語となつて居る。
ドムナラ 或はドモナラヤッコともいひ、又はドモナリとまで改まつた例もある。是も言ふことを聽かぬ腕白者のことで(このワンパクも一つ前の新語らしい)、紀州の南端から但馬にまでも及んで居る。最初は唯ドムナランと謂つて居たのが、後にはさう言はれる子の總稱になつてしまつたのである。
テナワン 如何なる理由でか、このやゝ御し難い少年少女に對しては、近代に生れた新語はなか/\多い。中古以前にあつて滅びたらしいものも無いやうだから、乃ち兒童の社會的地位が改まつたのではないかと思ふ。秋田縣の山本郡では、小兒のいたづらをナラジと謂つて居る。標準語のナラズモノと成立ちを一つにして居るかと思ふ。テナワンも「手に合はぬ」の常用句の名詞化で、是は但馬の西隣の因幡に行はれて居る。やはり兒童と成人の狡猾な者と、兩方に兼用せられて居るさうである。
ネエモノクハズ クハズは喰はんずで即ち喰はうの意、北信でよく耳にする語である。私などの生國播磨では「無い物くれの孫八」などといひ、江戸にもたしか是に似た名詞があつた。知りつゝ無理なねだりごとをする兒のことである。ジレルといふ動詞の内容は既に變つて居るが、もとは是に近かつたのでジレコといふ語もあり、又冗談をジラともジナクソとも謂ふので、元はしれ者などのシレルから出て居る。
セキラシ 是は青森地方に行はれる語で、やはり言ふことをきかぬ子供と、放逸無頼の惡者とに併せ用ゐるらしい。セヲキラス者、即ちこちらをほつとさせる人間の意である。
ヨウマタレ 伊豫の中(ノ)島などの採集で餞舌家のことだといふが、此解は少しばかり精確でない。ヨウマはオロロ同然の感動詞、よくまあそんなことが言へるといふべき場合に、西國では略してヨウマアといふのだから、寧ろあたり構はずの放言にあきれる語音である。タレルは「言ふ」に代る罵語で、垂れるを宛てゝ居るが、事によるとタクラタ・(467)クナタフレなどのタフレルで、始から妄語のことであつたかも知れぬ。
イケバヨシ 肥前の川上地方でいふ。強請その他人に難題を吹掛ける者。行けば好しで無理を承知で言つて見る意と思ふ。博多でも聽いたことがある。
ミタクナシ 東北には弘く行はるゝ、主として女性を惡くいふ語。見たうも無いをミットモナイと形容詞化したのと同じで是は名詞、醜女とも譯せられて居る。
イラズヤ 古道具屋のことを、信州で弘くさういふ。無造作な言葉のやうだが實は多少の趣向がある。是に似た語はまだ幾つか出來て居る。
ヒイラズ 淡路方言研究に、火入らずで土藏のことだとある。是と同じ列のものには鼠入らずがあり、上方には又蠅入らずのハイラズもある。イルを此意味には今日はもう使つて居らぬ。即ち亦複合で殘つた例である。最近の新語のネコイラズは別の類に屬する。
トキシラズ 此語は考案の鉢合せで、今でもまだ色々のちがつたものに應用せられて居る。たとへば東北では一種の草花、アヅマギク又エゾギクともいふものを、春秋共に咲くところから時知らずといふ土地が多いが、奧南部の野邊地でも越後の新潟附近でも、此草花をさう謂ふと同時に、別に春夏の交に市場に出る鮭を時知らずと呼んで居る。此方は即ち其季節で無い意である。それから壹岐島では、小兒に出來る一種の腫物にも時知らずがあり、關東では茸にも其名があつたやうだ。つまり氣の利いた語だから多勢が爭うて之を利用しようとしたのである。
トナリシラズ 是も處々で聽くしやれた新語で、大體に臼杵の音を立てずにこしらへる萩の餅の事である。安藝の山縣郡で苗代祝ひの日作る餅だといふさうだが、もとは正月の大鏡餅を殘して置いて食べたといふから、やはり東京でいふフタタビモチの樣に、杵の音をさせず隣でも知らなかつた爲の名であらう。
スズメシラズ 埼玉縣の幸手方言集に、早稻の一種として此名がある。あまり早いので雀も知らぬうちに刈つてしま(468)ふからと謂つて居る。備前岡山の享保二十年の産物帳に、早稻の部に同じ名の宿がある。二百年前から既にあつた新語である。
イナクハズ 農馬の口にはめる藁繩製の網のこと、九州北部には可なり廣く行はれて居る。クチゴといふ簡便な語もあるのに、特に斯うした一趣向あるものを設けたのは、單なる交通の必要からとも思はれない。
ツラアラハズ 田中博士の「魚のいろ/\」に、カサゴの磯近く居るものは地色の赤に、黒味がかゝつて顔がきたなく見える故に、之を面洗はずといふ方言があると見えて居るが、場處はどことも書いてない。仙臺でさういふのは鮠に似て二寸ばかりといふから別の魚らしいが、やはりよごれたるやうなる魚ゆゑ斯くいふと濱荻には誌してある。福島市の附近でツラアラハズといふのは燕の異名ださうなが、此方は理由がまだ明かでない。
ツラモタズ 面の序でに肥前の島原半島で、ツラモタズと謂ふのは「はにかみや」のことだといふ。或は又カホモタズともいふ。モツとは支へて正面を切ることかと思ふが、別に又ツラナシといふ村もある。
ヒトカマハズ 是は福井市と其附近の方言にあつて、無責任と譯せられて居るが、やはりさうした態度の人を意味するのであらう。副詞的にならば他の地方でもよく用ゐられてゐる。
ハミズハナミズ 青森縣の野邊地方言集に、彼岸花即ち石蒜のことだといふ。葉と花とが別々の時に成長するからで、是などは一異名といふに止まり、まだ本の名を逐ひ退けては居ないのかも知れぬ。
ドッチツカズ 秋田縣の鹿角地方で、草牡丹をさういふと方言集にはある。芍藥ともちがふといふ意であらうが、如何なる植物か私はまだ知らない。
ウバイラズ 是は備中の海岸部の村々などで、嬰兒に飲ませる米の粉の溶液をさう呼んで居る。物は前からあつて、言葉のみが近頃流行し始めたものかと思ふ。
イシャダホシ 「げんのしやうこ」といふ草を殆と全國に亙つて、是に近い名を以て呼んで居る。この植物の醫藥的(469)用途は、近頃始めて知られたのでもないらしいが、この稍露骨に過ぎた新名が、知識の普及に伴なひ又助けたことは、前の乳母いらずとよく似て居る。
ゲカコロシ 武藏檜原の山村で、外科殺しといふひどい名を付與せられて居る草は、ツワブキのことかと思はれ、はれものゝ上に貼つて膿を出すに用ゐられるといふ。是などは確かに流行らせた人の誇張の命名であらうが、それでも猫いらずのやうな商人の所業では無い。
ヤモメダホシ 或は又ゴケダホシといふ土地もある。近世農村に入つて來たセンバ又はカナゴキといふ稻扱き器のことである。前には扱き箸又は管を使用して功程が進まず、孀婦も之によつて職を得て居たのが、是が普及した爲に仕事が無くなつたといふ意味で、やはり商人ならば斯んな憂鬱な名は付けない。和漢三才圖會にも既に後家泣かせの語が出て居る。二百年前から始まつた新語であつた。岡山縣の邑久郡で、後家倒しは連枷からさをのことだとあるのが誤りでなければ、以前の籾打ちもやはり寡婦の業であつたと見える。
 
     四
 
 以上數十種の新語は、流行の樣式を追ひ、多少物ずきな名の付け方をした嫌ひはあるが、それでも何等かの入用があつて、どうせ造らねばならぬのなら少しでも氣の利いた、相手のすぐに理解し又襲用するものをと、念がけたといふだけのものであるが、まだ此以外に、尋ねたら相應の古い言葉のあるのを、知りつゝも尋ねて見ようとせず、又は知つて居てもそれに反抗し無視して、自己流のものを土地限りに行はうと企て、且つそれに成功して居る場合も可なりある。言葉の價値は現實に之を授受する者が、最もよく計量するといふ一つの證據ではないかと思ふ。取捨選擇の投票數が、今日のやうに大きくなれば、かゝる一地方の思ひ付きは大抵は敗北し、同時に又旨目なる追隨者も輩出するのであるが、以前は少なくとも口眞似の片言を賤しみ、互ひに我仲間の理解を限度として、出來るだけ有效な表現(470)を志して居たやうで、其傾向は近い頃までの造語法の上に現はれて居る。さうして讀本教育と印刷技術とは、えらい力で是を抑制しようと努めて居るから、或は此方面への展開はもう此邊が最後であるかも知れぬ。記念の爲に出來るだけ多くの例を集めて置きたい。
フワジバ 是は簡單服などとも呼ばれる洋風の女夏着のことで、愛知縣で採集せられて居る。ふわりとした襦袢の義であらうが、如何にもあの品物にうつてつけの、紛れの無い新語である。
ヒイル 是も同じ地方で護謨紐のことを謂ふとあるが、多分絲で包んだ女の兒の髪などを結ふものであらう。ヒイルは此あたりでは蛭のことだが、それと同じ語音を用ゐても、この二つの物は混同する懸念が無い。
キペン 是は岩手秋田の二縣にかけて行はれる語で、鉛筆のことである。ペンといふ語を認める位なら、斯んな改作をする必要も無いやうなものだが、木ペンの方がはつきりと頭に響き、且つ幾分か此物の感觸を寫して居る。字から學んだから使つて居るやうなものゝ、エンピツは如何にも意味が無い。
イトガネ 針金のことであつて、西美作方言集その他に見えて居る。或は絲金の方が古い新語かも知れぬが、針金が普通になつてから後まで使ふのは反抗である。成程ハリと謂つてはあの感じが出ない。
ヤツワレ 近年普及して來た板裏草履のことで、伊豫だけは八つ割れ又は八つ折れで通用して居る。是も此方が簡單で又適切である。
ヤエン 是は或は戯語の類かも知れぬが、紀州の上山路などでは常用に供せられて居る。山から鐵線を引いて物を運ぶ所謂索道のことで、無論その言葉があまり氣に食はぬ爲の發明であらう。
ヘカナベ 石見鹿足郡の方言調査に、鍋燒に用ゐる鍋の事だとある。ウスナベといふ語もある筈だが、それには定まつた内容が出來て居るか、又は此方がもつと面白いと考へられたのであらう。ヘカは薄い金器の音の形容かと思はれる。
(471)イチコヤキ 茨城縣の多賀郡でホドムシ即ち爐の灰に食物を埋めて燒く方法を謂ふ。イチコは此地方では蟻地獄のことを意味するらしい。是も本の語のまだ有るうちから、よい名が見付かつてそれを採用したのである。
ヨギス 信州下伊那郡の方言集に、馬追蟲のことだとある。鳴く聲が少しくギスと似て居るけれども、此改稱は全く事を好んだとしか思はれない。
シリメメズ 加賀の江沼郡で蛔蟲をさう謂ふ。此命名の無造作には、幾分か漢語尊奉に對する反抗がある樣にも感じられる。
テングッパ 上總の長生郡で、やつでの木を謂ふのは天狗葉である。天狗さんのもつ羽團扇に、幾らか葉の形が似て居る。子供らしい譬喩の飛躍である。
トラガメ 鹿兒島縣の喜界島で、口の最も大きな甕のことをさういふ。
キツネ 安藝山縣郡などで、片手桶の一種に、茶釜に水を汲み入れるに便なやうに、一方を細くしたものを形によつて狐、是も心の幼い人の思ひ付きのやうである。
カキザネ 紀州熊野の各村で、臺所に居る一種のあぶら蟲、他の地方で椀カブリともゴキコブリともいふものを、カキダネ又はカキザネと呼ぶのは柿核である。本名はチャバネゴキフリ、成ほど色と形が可なりよく似て居る。
トウダイ 播州飾磨郡の山村などで、櫪を雪の中で下から四五寸殘して伐り、其伐跡から葉の出たものをさう呼んで居る。農家の燈臺は元は此形で、その上で松のアカシを焚いて居た。それがもう絶えてしまつて、名殘が斯ういふものに留まつて居るのである。相應に古い頃の新語と認めてよい。
ヂケブ 是も上總の東海岸で、もや即ち地を覆ふ水蒸氣を、地煙と謂つて居る村がある。或は只のもやとは少しばかり立ち方がちがふ爲かも知れぬ。もやといふ語は此邊でもよく知られて居るから。
ハシテ 大分縣では一般に右の方を箸手といふさうである。土地によつては或は鎌手、是に對して左をカマサキと謂(472)つて居る。標準語は簡明にミギテ・ヒダリテであるが、なほ以前のめて・ゆんでの呼び方の興味を忘れてしまふことが出來なかつたものと思はれる。東日本でも聽いたやうだから、此語はさう新しいものでないだらう。
ソクザシ 成るべく飛び/\にちがつた例を擧げて見る。相州の青根で仲買をソクザシといふのは、即座といふ語の流行つて居た頃の作であらう。全體に旅から入込む商人にはまじめな名が少ない。是も幾分戯れて付けたやうに思ふ。
ソレショク 備後の比婆郡などで、專門家といふことだといふ。是も同じやうな氣持でこしらへた語らしい。
コレシ 博徒のことを南河内でさういふ。無論賽筒を傾ける手つきを伴なうて居たのである。此徒をバクチだのバクトだのとは蔭でもいふことを憚かつた。どうしてもかくいふより他は無かつたのである。
 
     五
 
 次には片言であり、又笑はれることを承知しても、元からある語を使ふ氣にはならぬといふ場合が、折々はあつた樣に考へられる。町で今日流行して來る新語でも、五段六段と受賣の重なるうちには、少しづつ言ひやすく、又聽きやすい形に變るのである。それを思ひ切つて土地流に、改めて使はうとする者が一人でもあると、當然にそれから後は此方になつてしまふ。時の僅かな經過が本の形を忘れさせ、是のみ根を生やして居る場合が幾らもあるやうである。
ネブリカン 輸入の歴史のまだ記憶せられて居るネェブルオレンジは、譯して臍蜜柑といふ者と、ネェプルなどと誤つて居る者とがある他に、廣島あたりではネブリカンといふ者もある。ネブルは舐るで此柑類の皮の剥きにくゝ、袋の離れないのと何か關係があるらしき感じを與へ、少なくとも此方が親しみがある。野蒜をネブリといふ稱呼なども古くからあつて、言はゞより多く日本語らしくなるのである。
シルケジマ 絹絲の入つた縞物、信州南部に於ては、今日既に老人だけの語になつて居るといふが、絹絲のシルクである事を知つてから以後の改造である。
(473)ガドバシ 鉄橋をガードと謂ひ出したのは新しいことだが、是さへ其儘には使へないで、勝手の自家用を製して居る。福井縣東部の例である。ステンショ・テンシャバの類も或は又、單なる眞似そこなひで無いのかも知れぬ。
トンボイヲ 同じ地方で飛魚即ちアゴをいふ。蜻蛉と謂つた方が一段とあの形を髣髴せしめると思つたのである。
キズアハセ 又同じ地方で、甘柿即ち關東でキザワシといふ柿をさういふ者がある。サワスといふ動詞の意味が、不明に歸した結果である。
ヤッコラサ 信州の下伊那方言集に、山の上から崩れ落ちる大石のことだとある。ヤッコラの元の形はイハクラ、それを斯ういふ語音にかへて、落ちて來るものだけに限つたのである。我々が「旅學問」と呼んで居る昔話に、大石をヤッコラサと覺えて來て、父が石に打たれた際に醫者の所へ、さういふ手紙を書いたといふ滑稽譚がある。其聯想が斯んな處にも働いて居るのである。
ハラビトヲナゴ 仙臺方言考に姙婦のことゝある。ハラビトとは古來の語で孕み人の意であるのを、腹太のやうに解したから更にヲナゴを添へてしまつた。
センスラリ この語の生れた路筋などはまだ記憶せられて居る。うそつきを上方で千三つと謂つた樣に、日向にはセンソラマンイチといふ長い名があつた。それを略してセンソラ又はセンスラと謂つて居るうちに、いつと無くセンスラリとなつて、スラゴツのスラが無視せられたのである。スラリは辯舌の淀みなき感じで、他でもよく使はれる。
マヒゲ 眉をマユゲといふのは後の言葉だが、それには落付かなくてヒゲの類推が效を奏したのである。和歌山方言集。
コサブロウ 秋田縣北部では、コシアブラといふ山の木を、小三郎といふ人の名らしく言ひかへて居る。あの地方の發音法によると殊に自然である。
カシマメ 同じ地でツノハシバミといふ樹の實をさういふ。菓子豆と聽える。飛騨の北部でも亦同じく棒實をカシマ(474)メ。KとHとの音が、もとは今よりも近かつたのである。以前の菓子は多くは樹の實であつた。
ハヤムシャ 鳥取縣の各地では鳥の隼をハヤムサ或はハヤムシャ。武者といふ語を聯想する樣になつて來たのである。
クサビラ 吉野の山の山村では食べられぬ薗だけを、クサビラといふやうに限定して居る。クサは大抵好ましからぬものだけに附けるから。
ツイシガケ 甲州の南巨摩郡で石垣をツイシガケ。ツイヂは本來石垣のやうなもの迄も含めた名であつたが、何か不精確のやうに感じて二語を繼合はせ、其爲にツだけが餘計になつた。イシガケといふ語は近畿でも普通で、是も斷崖を意味するガケの影響を受けて居るのである。所謂穴太役の技術の發達に伴なふものと思はれる。
イミヅガヘリ 越中と飛騨とでは、死者の生き返ることをイミヅ返りといふ。射水郡といふ地名を知らない越後の中魚沼などではイモジガヘリ、イモジは鑄掛屋のことである。美濃の山縣郡ではヨミズガヘリ。貞室の「かた言」に、蘇生をユミツガヘリは如何、ヨミヂガヘリといふべしとある。標準語のヨミガヘリも尚一種の改造かと思ふ。
バギュウ 次にはもう一歩を進めて、寧ろ誤謬を樂しんだ新語がある。斯うして笑はせて置けば忘れもせず又よく行はれるからである。バギュウは宮崎縣で馬肉のことであつた。牛肉をギュウといふ珍らしい語音を利用したものとも言へる。
ユウチュウ 壹岐でも沖繩でも、燒酎の湯を割つて薄めたものを、ユウチュウといふのは、目的が前のとよく似て居る。
ゴンタンヤ 飛騨で藥の行商人をさういふのは、反魂丹屋の上略とも認め得るが、なほコンタンといふ語に人をごまかす意のあるのを、成るべく遠まはしに利用しようとして居る趣意が窺はれる。
ヒゲンシャ 福岡市方言調査書に、貧しい者をさういふとあるのは、明かに分限者《ぶげんしや》と對立させた戯語である。ヒゲは卑下などと書いて我身を輕しめる態度をいふのだが、是などは決して謙遜の語では無く、しかも作者は當人の他にあ(475)り得ない。
ハヤカン 和歌山で湯の沸くことの早い銅製の藥鑵のことだとあるが、單なる音のつまりでは無く、わざと造つた語であらうと思ふ。何だか早桶などといふ忌はしい名稱を知つて居ながら作つたものゝやうな氣がする。
コサメ 是は同じ縣の山村でしか聽かぬ語で、谿流に棲む?といふ魚のことだが、起りはやはり戯語であらうと思ふ。即ちアメの魚の小ぶりなものだからコサメ(小雨)で、越後の南魚沼などの人が、スカリをシカリと誤つて置きながら、そのやゝ大形のものをゴカリと喚ぶのともよく似て居る。
 
     六
 
 以前の新語が今日の世相と稍異なつて、文字教養ある人々の考慮協定に依らず、至つて尋常なる者のしかも突嗟の思ひ付きから、甚だ不用意に出現したらしき事は、斯ういふ實例の今後の集積を以て、多分追々に明白になつて來ることゝ私は想像して居る。是に引續いて起る二つの問題は、一つはいつの世から其樣な傾向が起つたかで、此點は亦個々の古い單語の年齡を知ることにより、又一方には爰に列記した言葉の中にも、稀には百年二百年の昔から、つづけて行はれて居たものゝ有ることを確かめて後に、やはり數量の上から大勢を察知し得られると思ふ。文書が我々の生活の如何なる隅々にも浸み透り、毎日の平俗を極めた用途の上にも、其働きを見せて居たものならば、筆で造つたといふ新語も少し位は拾ひ上げられるか知らぬが、事實は全く反對で、口と耳との役目には寸隙が無く、手と目はたゞ稀に其跡を辿つて居たのだから、機會の何れに多かつたかは辯ずる迄も無い話である。無論饒舌は常に無駄のことをして居る。萬も二萬も試みた言葉造りの中から、僅かな小部分が共鳴せられて後に傳はつたゞけで無く、其又片端ばかりが縁あつて筆執る者に知られ、趣意の適切さや語音の似つかはしさ、乃至は敏感なる人々の價値判斷に合格して採用せられて居るのである。さういふ中でも因縁は大きな力であつた。今日の標準語なるものゝ構成を見てもわ(476)かる樣に、江戸が關東の海の渚で無く、又尾參駿遠の中古の在郷紳士が、擧つて引移つて來て要位を占めた都市で無かつたら、存在すまじき物言ひが幾らあるかわからぬ。國語の歴史から見ればそんなことは皆偶然である。しかも足りないからとてこちらで手製しようとした言葉は、數も乏しく材料も限りあり、且つ方法も多くは舊方針を追うて居る。書礼文學の影響の案外に少なかつたのは、言葉が本來は大衆の支持を得なければ、活きて大きくなるものでないことを、考へて見るならば些しも不思議は無い。つまりは讀書の力が普及し、更に印刷が今のやうに無造作になるまでは、この他に新語の世に出る途は無かつたのである。證據が足らぬ故に私は斷定せぬだけで、以前は尚更この通りであつたと、假定するには相應の根據があると思つて居る。
 第二の問題は將來はどうなる。是からさきは全然面目が一新して、今のやうに子供も漢洋語をあやつることになるか。但しは又この各地方言の微笑すべき部分が、一半は傳はつてもう一つ次の代を支配するだらうか。是には國語教育の政策といふが如き、重大なる未知數が横たはつて居るのだから、到底適中する豫言は出來ない。大體に爭ふべからざる傾向は社會が大きくなつて居るのだから、割據は無論六つかしく、從うて各地の小規模の創意が、效果を生ずる望みが一段と乏しいといふことであらう。次々の新語の候補者が、主として都府に窟起することは、單なる人の數と通話の機會の、多さからでも推測することが許される。たゞそれが愈日本語の部分となつて、永く活き廣く一般に行はれるには、如何に遠く離れて居り、如何にちらほらと土着して居ても、なほ一社會の總員の承認、又支持といふ事が必須であつた。この總員といふ中には、至つて柔順なるぐうたらべえの大多數が、昔もありし如く今もあることは事實である。未來にも恐らく相應に居るだらう。赤兒は勿論だが、大きくなつてからでも、只幽かに新語の存在を知り又は全く知らず、耳で聽けばどうやら略判り、もしくは一向に判らずして説明してもらつて合點し、甚だしきは判つた顔だけをして居て、自分は是を使ふ樣な入用をもたぬ者、斯んな人の多數が前の方に立つて居ることは、何か此間題を不當に簡易に見せかけて居るらしいが、しかしさういふ多數の盲從を頼りにして、出て來てのさばるだ(477)けでは生命は無い。地を易へ時を異にして何人に繰返させても、同じ内容をしか運ばせないやうにするには、少なくとも初期の同時代人に、第一次の作者と等しい感覺と經驗とをもたせなければならぬと思ふ。それには先づ以て新たなる一語の必要を感じ、人が言ひ出さなければ自分が言はうといふ程度に、期待し又共同する者のあることが條件である。又同じ言語の藝術の中でも、言葉造りは一夕の歌俳諧とちがつて、最初から萬人の模倣を本意として居る。平凡は寧ろその心がけられたる趣向であつた。假に奇を弄し頓智をひらめかすことが許されても、それにも尚相手の理解が限度であつたことは、幾分か高座の俗曲や落語と近かつたのである。それを舶來の新事物に新たなる名があるのと混同して、僅かな取卷き達とゝもに何にでも語を與へようとする者があるのは、一つには印刷の災ひであり、更に又無暗に新文化を畏敬する、旨從者の激増の爲でもあつた。げにや其樣なる無謀の試みは時を經ずして大半は歿落して居る。五山僧侶の唐臭い記録は勿論、江戸後期のまだ青々とした文學ですらも、俗語に附いてあるいた若干のものを除くの外は、今日之を讀んで理解し得る者が幾らあらう。百年もたつかたゝぬかに、註釋訓詁の徒に飯を食はせなければ、後世と談ることも出來ぬ樣な文章を書いて、殘すといふことは時代の恥と言つてよい。だから國語の教育は先づかの口先ばかりの模倣を戒めて、心に在る通りの表現を努めしめると共に、何等の批判も無く共感も無くして、やたらに急造の新語を容認し、旨從するの弊を抑へなければならない。さうして一方には弘く全國内のあらゆる需要に應じ、且つ出來るだけ久しい後代まで通用する事を目途として、各自の才分にかなつた新語を推薦するの風を、養つて行かなければならぬと思ふ。よい言葉の需要は現在は非常に増加し又甚だしく多岐になつて居るだらうが、もし勞苦を厭はぬ人が一定の方法を立てゝ、眼の前の生れてはやがて消え去る泡沫のやうな半製品を觀察したならば、大よそは社會の求めて居るものがどこに在り、個人の與へようとするものがそれと如何に喰ひ違つて居るかゞ判る筈である。大體に人の感覺が微細になつて、僅かの差異にも別の語を欲するやうな傾向は著しく、この分化作用とも名づくべきものは、世が改まつて確かに躍進した。しかし其以外に前からもあつたやうに、人は又古い形に倦んでたゞ新(478)らしいものを悦んで居るのである。それを粗末に補充すれば、なほ/\早く變へたくなる。輕薄なる新語の流行は、或は一つ前の代の、失敗の尻拭ひであるかも知れない。それは何れであらうとも、今は兎に角にそれが雨後の雜草以上に簇生することを、制する力も無く又制する必要も無い。我々は唯率直に是を批判し、自由に取捨するだけの能力を養へばよいので、それには古來如何なる種類の一般的要求が、歴代の新語を採擇し、且つ存續させて居たかを、尋ねて行くのも一つの手段であると信ずる。
 
     七
 
 以前全く言葉の無かつた區域に、新たに似合ひのものを設けるといふ事も、今日では大きな需要に相違ないが、その附加へだけでは國語は斯うまでは變化し得られない。次には何等かの言ひ現はし方が、捜せば決して無いわけでは無いのだが、それを忘れてしまつて無いも同然となつて居るか、又は有るものが幾分不精確で、それでは適切に現在の關係を明示し難いかの、二つの場合が想像し得られるが、此中でも前の方はさう多からうとも思はれない。物言はぬ前にも人は言葉で考へて居り、考へないことをいふ場合は少ないからである。之に反して今まで折々用ゐて居た言葉の不適當、殊にあまりに範圍が廣過ぎて、注意や力の入れ所が、相手に映らぬかといふ懸念は、世とゝもに益多くなつて居る。いつになつても我々は存分に言ひ終せたといふ樣な氣になれない。この内部の苦闘に促されて、自然に出て來る色々の突嗟の試みが、もしも外部の制約を受けなかつたら、自由亂雜になるのは必然であらう。外部の制約といふのは理解であり、更に其以上なる必要の共同感であつた。是が現代は大いに弛み、以前は稍窮屈な迄に緊迫して居たのである。此今古の相異は氣を留めて見なければならない。しかも其資料を供すべき地方の言語事實は、下手に集めて居るうちに片端から消えて、もう間に合ふまいとして居るのである。氣の揉める話である。私などの知つて居ることは、實はまだ至つて少ないのだが、それでも僅かづゝ明かになつて來るのは、以前の新語の入用といふ(479)ものには、一地一階級だけに孤立せぬものが多いといふことである。前の腕白小僧の例でも察せられるやうに、爰に生じた變化は又他處でも起つて居て、流行や申合せで無い故に、結果はたゞ稀にしか偶合して居ない。即ち新語を特に要望するやうな一般的なる事由が、曾て全國の各小社會を通じて、?同時に生じたらしい一證である。最も目に立つ例は日常の會話に、努めて「死ぬ」といふ語を使ふまいとした風習で、是などはさして新らしからず、前にも同じものがあつて次々に改めて行つたかとも考へられる。
オヒマク 熊野では昔は「金になる」と謂つたといふことが物に見えて居るが、此頃は笈卷くといふ語が東牟婁郡などには行はれて居る。笈を卷くのは旅人の出立であつた。故に解説を須たずして死ぬことになるのである。
ダンツム 土佐にもミテルとかハテルとかいふ簡單な動詞の他に、壇積むといふのが死ぬを意味し、是を又すべての物の最後にも應用せられて居る。墓を壇といふことは九州には弘く知られて居るが、土佐は却つてさうは言はなかつたものと思ふ。
イシヲイタダク 三河の北設樂では是が死ぬことになつて居る。墓の上には枕石を置くのが習はしだつたからである。
シバカブル 飛騨で芝被るといふのもやはり墓造りの樣式と關係があらう。
ゴトムス 又はゴトハメル。越中の上新川郡では、葬式には五斗の米を蒸して人に食ましめるからと謂つて居るが、此解説は必ずしも宛てにならない。只さういふ言ひかへがあつたことを知るのみである。
ハッソクワラカツグ 能登の鹿島郡では火葬が通例だから此語がある。是を私に教へてくれた諏訪藤馬氏も、既に八束藁を被いでしまつた。
オヤマサイク 野邊地方言集に見えて居る。此御山は宇曾利山のことで、人が死ぬと其山に行くものと信ぜられて居たのだからたとへ言ではない。
ヒロシマヘワタカヒニユク 伊豫の温泉郡でやゝ戯れてさう謂つたことが、日本周遊奇談には見えて居る。同じ縣の(480)越智郡では廣島へ茶買ひに、同じく新居郡は廣島へ煙草買ひに、長州の萩では長崎へ茶買ひに行くといふと、それぞれの方言集にある。長崎はたゞ遠方といふ迄であつたらうが、對岸の廣島を擧げたのは、恐らく廣い島といふ言葉からかと思ふ。死んで行く先は實際廣い。
モバヲヘコニカク 周防の大島で北前船に乘る者が、破船して死ぬことを藻葉を褌にかくと謂つて居た。
サカガメコハス 大酒の爲に命を終つた人のことを、酒甕を毀すと青森でいふさうである。是などは別に形容の巧みを興じたのであらうが、前の多くの例でも若干は戯れをまじへて居る。
ハザヒク 親が生れた兒を育てようとせぬことを、マビク又ハザヒクといふのは共に農作の語の假用である。或はカヘスといひヒガヘリなどといふのもあるが、此方は純なる隱し言葉だつたかも知れぬ。其他の場合に在つては人が皆知り悉し、他の意味には取れぬのだから隱語と呼ぶのは誤つて居る。
アカシカキニヤル 壹岐島ではこの嬰兒殺を、あかしかきィやるとも又こつぱかきィ遣るとも謂つた。アカシもコッパも共に小さな燃料で、山へ遣つたを意味する語である。即ち竊かに山間に埋めた爲と思ふ。
ガニトリニヤル 備中の海岸地方では同じ行爲を、蟹捕りに遣るとも蜆拾ひに遣るとも謂つて居た。後竊かに海ばたに埋めるのが普通だつたからである。蟹捕り蜆拾ひは小兒に似つかしくて殊にあはれに思ふ。是等の文句は組立がよく判り、時には文章よりも複雜な内容を盛つて居るけれども、私などは尚是を複合動詞として一つの單語の取扱ひをして居る。多分議論のある見方であらう。併し出來た時は一つであり意味も亦一つで、分けると言はうとすることが無くなつてしまふのだから、是だけを一個の語と見るより他は無いと思ふ。名詞の場合も亦同じことである。
アブカン 埼玉縣中部などで葬式のことをさう謂ふ。油揚の料理が出て鉦が鳴るからアブカンだといふのは、ジャンボンよりも今一層ふざけて居る。しかも葬式といふ語を使ふまいとする動機だけは共通であつた。東北は一帶に是をダミと謂ふのは、荼毘から來て居ることは疑はれぬが、實は其意味を明かにせぬ爲に、却つて合言葉の役をして居る(481)のである。さうして火葬だけには限られて居ない。
オチダンベ 飛騨では葬式に斯んな名があるが、意味はまだ自分には明かでない。
センダンマクラ 南河内では死ぬことをせんだん枕。せんだんは楝の木のことである。伊藤櫟堂君の説明に、此地方では墓所には必ず楝の樹があり、葬式は其樹の下で執行ふが故に此語があるといふ。元の起りは明かでないが、京でも獄舍の前に此木があり、獄門の木は楝であつたことが、保元物語その他の書に見えて居る。
カキノハ この序に掲げて置きたいのは、播州の神崎郡などで、子の無い者を罵つて柿の葉めなどといふことがある。是は盆の三日の間、佛壇の片端で無縁佛の供養をするが、其供物だけは定まつて柿の葉に盛るからで、即ちやがて柿の葉で供養を受けなければならぬ者といふ義である。ところが岐阜縣東部地方の盆供では、子孫のある新佛も一般に土器には柿の葉を敷くので、是を外精靈に限るやうになつたのは、新らしいことの樣に思はれる。僅かな土地限りでも斯んな皮肉な語を案出して、しかも流行し又保存せられて居たのである。
キノマツカ 秋田縣の鹿角郡などで、還暦を木のまつかと戯れて謂ふものがある。マツカは木の二股のことで、昔は老人が六十一歳になると、山に連れて行つて木のまつかに置いて來たものだといふ話があるからで、多分は當人が自ら嘲つて、斯んなことを謂つたのが襲用せられたのであらう。
 
     八
 
 仲間のうちでも明かには言ひたくない言葉が、右の外にもまだ色々とある。次には其種目だけを竝べて置いて、追々に類例を集めて見たい。誰でも使つて居る以上、是を隱語と名づけては當らぬことは、前にも述べた通りである。或は忌み言葉といふ名目には、廣義でならば是も含まれるかも知らぬが、普通にさう謂つて居るものには、必ず定まつた代用の語がある。彼を口にすることを戒められると同時に、是を用ゐることを指示せられて居るのである。是に(482)反して爰に擧げる者は、只一方を避けようとするのみで、他の一方は寧ろ變化を競うて居る。慎しみでは無くて却つて餘分の自由がある。最初に人のまだ知らぬ語を知つて居たといふ際には、隱語や忌詞と共通の性質をもつて居たにしても、程無く其興味の刺戟によつて、流布と賞讃とを喜ぶやうになつてしまひ、新語は却つて此方面から、不必要に簇出することになつたのである。だから隱語型又は忌詞型といふ名なら與へてもよいが、是を其類に算入することは出來ぬのである。可なり有名になつて普通の用語よりも、却つて盛んに行はれて居る隱語型の新語は、都市では數が多いから由來を知るに苦しむが、田舍に僅かある例は人が珍重してよく記憶する上に、氣を付けて見れば傾向がやゝ判り、大よそ如何なる題目に關聯して、會話が此種の新語を欲して居るかゞ言へるかと思ふ。但し私はまださう色々と集めて居るのではない。單に斯ういふ方角に、多分は材料があらうと思ふのみである。一つの例は前は不吉の新語と近く、我人ともに感心せぬこととして、あらはには言ふまいとすることに別な言ひ方が出來る。物々しい考へ方をする學者ならば、或は是を國民の道徳批判の發達と、結びつけて説かうとするかも知れない。實際又世相の變り目であるが故に、需要が増加したと見られるものが多いのである。たとへば瓜畠に働く者が瓜を食ひ、葡萄園の收穫に參加する者が葡萄を摘んで口にするなどは、行儀の惡いことだらうが、昔から誰もして居た。それを事新らしく咎める者も無いうちに、段々と弊害が烈しく、殊に業主の目の屆かぬ水上の作業に於ては、甚だ始末の惡いものにもう久しくなつて居る。九州全島に行はれて居るカンダラといふ語などは此所業を意味し、多分は是も或時代の新語だつたらうが、今では其起りを尋ねることも出來ない。東日本の海沿ひをあるいて見ても、土地毎にヤンツウとか、ドウシンボウとか、モスケとかいふ類の語が幾らもあつて、何れも網場などの豐富なる漁獲の中から、獣つて一小部分を掠めて去ることを意味するのである。公然と理非を論ずるならば、それを差支へ無しといふ者は一人だつて無いのだが、なほ誰でもする普通の行爲としで、ヌスミといふ語ほどには使用を忌まず、松浦の某港では、「カンダラ鯨はえ」と大聲を揚げて、町を振賣するのを聽いたといふ話もある。或は寧ろ是を條件附に公認してしまつて、限度を越えたもの(483)だけを曲事とするがよいといふ説が出かゝると、はや一方にはその第二種のものに、別に又一つの新語を附與しようとする試みがあるといふ。つまりは斯ういふ特殊なる現實がある以上、善惡には拘らず何か名が無くてはならず、それも外部の批判者の付與するもので無くて、多數の直接是に携はる人々が、自分で考案して流行させるのだから、次々に奇拔な又興味のあるものが絶えないのである。
ビハヲヒク 是は肥前の五島あたりで、特に鰯漁の際に行はれるカンダラのことだといふ。盲法師の琵琶を彈く手つきに、魚をつかまうとする擧動が似て居た爲らしく、雙方を熟知する者には、笑はずには居られない氣の利いた思ひ付であつた。しかも現在はもう琵琶を負うて、竈祓ひに來る者も少なくなつたのだから、さう昨今の思ひつきではないのである。
フナネズミ 漁船には限らず、水手の船荷を拔取る事を舶鼠といふ語がある。是も船内の鼠が他に行き所も無く、暇に任せて惡戯をすることを知る者は、たしかに可笑味のあるよい譬へであつたらうが、海員自らがさういふ語を使ふ例は段々少なくなり、九州以外の土地では外からの惡聲の如く解せられようとして居る。家族の私財を意味するヘソクリ・ホマチ、又はチョカガネとか針箱銀とかいふ語が、近頃次第に本人の自ら用ゐず、たゞ蔭口や嘲笑の時に口にするだけになつたのと、變遷の經路は稍似て居る。
アカンマ 上州の桐生郷土誌に、赤馬を火事の隱語とあるのも、亦一つの忘れられんとする歴史である。放火が人殺しに次ぐ重惡の罪であることを、知らずに居るかと思ふ無知の男女が、地方によつては近い頃まで多く居た。斯ういふ人たちが何か恨を含むと、よく赤馬を走らせるだの、赤猫を追ひ上げるだの、赤い鳥を飛ばせて遣るだのと、無造作に口にして居たのである。斯んな不用意な言葉は因習であり、又現在の刑罰を知らぬ者でないと使へない。だから近來は全く絶滅に歸して、單なる一破片が別の用途の爲に殘つて居るのである。
アカダンゴ 赤團子といふ語も亦ちがつた意味で不用になつた。是は御灸のことであつて、小兒がだゝをこねて親を(484)困らせる場合に、よし/\それでは赤團子を十遣らうなどと、言はれると閉口したのである。是を隱語だといふ人もあるが、知らない子供は先づ一人も無かつた。そんな隱語はあらう筈がない。仙臺には以前アカハラオビといふ語のあつたことが濱荻に出て居る。赤腹帶は切腹のことであつた。
ゴンドカブリ この系統の數語は、東北では最近殊に入用になり、從つて又發達しようとして居る。ゴンドは塵埃のことで、是を被るといふのは密造酒を意味する。生活の程度に比べて清酒の價は高く、しかも寒地の習癖は中々制し難い爲に、豫め罪に服すべき者をこしらへて置いて、竊かに濁酒を釀す村さへあると言はれて居る。こゝでは眞實の隱語も或は必要であつたかも知らぬが、それの略周知に屬したものが、幾つとなく解放せられて、差支ない場合に用ゐられて居るのである。
ムジナ 是も福島縣の一部で、同じ意味に用ゐられて居る。貉も草や木の葉を被つて穴の陰に隱れて居るからだが、意味はあまりあらはで最初から隱語の用には立たなかつたらうと思ふ。
フクロソダテ 袋育てはもと何か別のものゝ名であつたかも知れぬ。現在は秋田地方で、やはり密造酒のことをいふさうである。
オホ 野邊地方言集に、亦同じ濁酒のことだとある。オホ又はモホは鳴聲から出來た梟の地方語で、梟でも棲みさうな樹の陰に、此酒が隱されることが多いからだといふ。
 
     九
 
 松前では昔濁酒を、二五里だからとて七里酒と呼んで居たことが、菅江氏の紀行に見えて居る。是も禁令の餘波であつたかも知らぬが、さうで無くても酒は本來異名の生れ易い物品であつた。誰でも知つて居る堂々たる標準語があるにも拘らず、今でも是をまともに謂ふ者は主として婦人で、兒童には兒童語があり、飲む者は又別に幾らともない(485)用語を貯へて居る。自分は此頃鹿苑日録を讀んで居て、あの頃の僧侶の毎日よく飲むのにも驚いたが、酒といふ字を書くまいとする努力、それを色々と書替へようとする根氣にもびつくりした。何か古い時代から正語を避けたがる心理があつたものと見える。だから手帖を持つて町に出て見れば、今でも二十三十の出來合ひを、採集することはいとやすいと思ふが、そんなに迄して證據を上げる必要は無い。今後は寧ろ如何なる方面から、その代りの語が供給せられるかを、見て行く方が意義があり、それにも亦田舍の稍根強く殘つて居るものを、注意するのがよいのである。アカとかオットとかいふ類の兒童語は、座席に小兒の居合はす場合、成人でもよく之を利用するのは一つの例である。アカは多分面色の赭くなる所から、オットは盃を受ける者の常の辭令からで、何れも發明者は幼童自身かと思ふのに、それの長く續いて居るのは公認の結果であつた。其以外にも三つほど、ちがつた型のものを竝べて見る。
ナカワタ 信州上田附近方言集に見えて居るが、此語の知られて居る區域はずつと弘い。即ち中綿であつて内から煖めれば衣類も焚火も無くてよいといふ。寒國らしい戯語と認められる。ちやうど飯食はぬ酒客がよく使ふ「米の水」といふ言葉と動機が似て居る。
ケズリ 是は大工たちの隱語として早くから知られて居るが、實は隱語では無くてケンズイの訛りであつた。間食も大工見舞に餉られるものは、必ず酒を伴なうて居た。それを職業がらとて削りかと思つたのである。
キス 是は所謂てき屋等の隱語として、事々しく集録せられ、又泥醉をキスグレ、酒宴をキスバと謂ふなどを、よほどの深秘の如くもてはやして居るが、現實には千葉縣の安房、信州の更級郡、又大分市附近の方言集に、常人の用ゐとして報告せられて居る。酒をクスリもしくはクシなどと謂つた古語の名殘で、一旦廢せられてなほ記憶のある中に、再び取出して特別の使途に宛てたので、單に其沿革を知らぬ者のみに、やゝ奇拔なる新語であつた。
ミヅヅケ それから酒のついでに引くのも穩でないか知らぬが、諸國の町湊の賣色の女にも、殆と土地毎にともいふ程の異名があつて、本名は却つて知られて居ない。中でも日本海側に變化が多いのは、まさしく航運の影響と思はれ(486)る。即ち交通は必ずしも單語の領域を推し擴げるものともきまらなかつたのである。シシとかヤギとかガノジとかの例は、既に雜書類にも採録せられて居るから、私は勞を彼等に讓らう。たゞ一つ面白いと思つて覺えて居るのは、津輕の深浦で遊女をミヅヅケ、ミヅといふのは山の青物で、採つて漬けて置いて東北の人は食用にする。その根もとの紅色を帶びて居るのを、此種の女性の行装にたとへたので、彼等はつい此頃まで西鶴の草子にでもあるやうに、赤いはゞきをして居たのである。ミヅを漬けることも赤い脛巾も、他處から來た者は大抵は知らない。乃ち土地にも斯ういふ意外な特徴を新語にして、はやらせるだけの力をもつて居たのである。
シマ 吉野の大淀村風俗誌に、シマは飯の隱語だとある。飯をどうして別の語で呼ばなければならなかつたか。シマの語源が判つたら答へられるだらう。他には刑務所以外にまだ其樣な例のあることを知らない。
ケトバシ 長野縣では馬肉を蹴飛ばし。此地方でもその消費は盛んだが、やはり同趣味の者以外に知らせたくないのがもとであらう。佐久郡では兎をナガ、是は恐らく山言葉で、食料との關係はなかつたかと思ふ。
ゼンマイコ 秋田縣の北部などで、犬の肉をゼンマイコといふのは、尻尾の形から造つた語だといふ。是は動機が蹴飛ばしと同じいかと思ふ。
クロトリ 茄子を乞食仲間で黒鳥といふと、東京の隱語集には出て居るが、滋賀縣の一部にも方言として行はれて居るのを見ると、前者は發明の權を主張することが出來ぬのである。
ハトウチ 終りに今一つ、少し無作法な新語を添へるならば、野糞にも色々の異なる表現があつて、人は露骨には蕪村の句のやうなことは言はなかつた。壹岐で鳩打ちといふなどは其中でも優雅なものに屬する。
カミソリ 青森縣の野邊地では、路傍にたれてあるものを剃刀といふことが方言集に出て居る。踏むとあぶないといふ所から出た戯語とも思はれる。
ナタ 福島縣では古くから、是を鉈と謂つて居た。仙臺領も其通りで、今でもそこに鉈がある足切るななどと戯れて(487)いふとある。
サトハブ ずつと南へ飛んで鹿兒島縣の奄美大島にも、亦一つの是に類する名があつた。南島雜話には曰ふ。下品の家には雪隱無く云々、又海邊に出でて辨ずることなり。草むらは反鼻蛇の畏れあれば通路にて屎をひる。大和の人之を里はぶと云ふと。毒蛇にたとへるのもやはり機智であつた。まじめに名をいふのは話にならぬからである。
 
     一〇
 
 今ある僅かばかりの類例によつて、遽かに斷定することは難いが、大體に新語の出現する方面が限られて居て、一方の土地に需要あるものは、それとは申合せ無しに又他の地方でも、何か別樣の言葉が出來て居り、しかも其隣には同じ一つの語で、いつも間に合せようとして居るものが幾らもあるのを見ると、是ほど繁雜を極めた近代の語辭増加にも、なほ跡つけ得られる路筋があつたらしいと、いふこと迄は推測し得られる。それを見究める方法としては、迂遠ではあらうが私の今試みて居るものが、唯一つの安全なる道だと思つて居る。是には多數の志を同じうする者の、協力が可能だからである。さうして人一代の努力によつて、明かになつてしまふ樣な、簡單な問題でもないからである。私の謂ふ所の狹義の方言が、斯くばかり區々になつた原因は、今日もまだ一向に説明しようとした人が無い。素より古語の忘れ殘りと轉用、又新らしいものゝ眞似そこなひ、或は書物や專門家に教へられて、盲從して居るものもあることは確かだが、どう考へて見てもそれは小部分である。現實に我々が驅使して居るものは、いつの會話を引拔いて實驗して見ても、大抵は新しい語であり又何人かゞ發案して、他の周圍の者が承認し、且つ採用したものばかりから成立つて居る。それがどういふ必要に基づき、又如何なる手順を經て日本語となつたかを知らなければ、未來の國語が如何に變るだらうかの、豫想すらも實は出來ないわけである。ましてや其指導などといふことは、假に出來たとしたら必ず疝氣筋にきまつて居る。さうして又學校の教師が不審を打つやうな言葉ばかりが、街頭に滿ちて居るの(488)である。
 今日の世相から見ると、單語は先づ斬新にして奇拔なるものが人望を博して廣く行はれ、次いで其爲に一隅に押遣られた前の語が、不用の結果として漸々に消滅するものゝ如く考へられるか知らぬが、是は平たくいふと國語教育の然らしむる所で、猫も杓子も口眞似を詮とするから、口眞似が盛んになつて來たゞけのことである。人の日常に無くてはならぬ言葉は、斯んな事ぐらゐでは中々消えない。消えたら大變だが實は併存が許され、家と外とで兩樣に物を言つて居る者が多いのである。素より模倣も一種の入用とは言へる。以前も絶無であつたといふのは誤りであり、從つて是が單語を一變した例も捜せばあるが、そんな事ばかりして居ると、心に思ふことが言へなくなる。少なくとも思つた通りが相手の心に映じて居るかどうかの見究めがつかなくなる。間ちがつても格別害も無いやうな、しやれや輕口や世間竝の辭儀などに、限らざるを得なかつたのである。それが今日はずつと範圍を越えて、祝辭でも卓上演説でもすべて型にはまり、腹の底から出たやうな人語を聽くことが稀になつて來た。斯んなに迄して外形を統一しなければならぬ必要はどこにも無い。しかも昔のやうに人の往來が限られ、他に氣の利いた言ひ方の存在することも、丸々知らなかつた田舍でも、やはりどし/\と言葉は變化して居た。否寧ろさういふ外の刺戟の薄い時代の方が、言葉をよく味はつて餘計の入れ替をして居るのである。單に人が使ふから、自分も言つて見ようといふ愚か者は皆笑はれて居る。乃ち別に其以外に、永く在來の單語を固守しては居られぬ理由が、内側にも有つたのである。私は前の新語論に於て、言葉は利器だから連續使用によつて鈍り、前ほどの效果を相手に與へぬやうになつたらう、といふ點に重きを置き過ぎて居たかも知れぬ。あまり頻々と出して使ふと、自他ともに倦み又は厭ふといふ事は確かにあるが、さういふ單語はさう澤山には無いのである。それよりも有力な動機は、どうしても言ひたくないといふ言葉の多くなることで、是は我々の人生觀の變化、乃至は宗教感覺の成長につれて、時と共に其態樣を改めるのが自然で、それが格別目に立たぬ樣な民族だつたら、智能も活力も大抵は底が知れて居る。斯ういふ激變はあつた方がめでたいので、今(489)後は其上に無心の模倣と、官府の力を負ふ標準語の強要の爲に、更に一層の複雜さを加ふることが豫期せられるのである。
 人が今まで用ゐて居た言葉を、罷めて新たにしようといふ理由の一つに、雅俗都鄙のけぢめの算へられて居たことは、以前とても同じであつた。それと近年の標準語運動との異なる點は、實際はたゞ速度と數量との差に過ぎぬかと思ふが、假に選擇の自由までは奪はぬにしても、斯う一どきに莫大の改良を以て臨まれると、勢ひ個々の單語の吟味が粗雜になり、果して乙を以て甲にさし替へるのが、當れりや否や心もとなくなることは、多くの方言集の對譯を見た者の感じないでは居られぬ所である。勿論丸々の見當ちがひならば發覺するが、範圍や程度の可なり喰ひちがつたものを、代りに使つてすまして居る地方人は多いやうである。言葉は必ずしも蛙や蝸牛のやうに、つかまへて是だと言へるものばかりで無いからである。此方面の新語が大部分出來合品であり、その以前の制作者と是からの採用者とが、境遇經驗を共にしなかつたといふことが、今まで生れて出た個々の新語と、著しく異なる所又頗る困つた點である。幸ひにして人は昔に比べてずつと鋭敏になり又よく讀書をするから、獨りで考へてどうもちがふと警戒し得る者も多くなつたらうが、其判別を大衆に望むことは無理である。今日のやうな交通?態の下では、假に干渉はせずとも言語は雜糅し、都府の新語は無意識にも學ばされる。それを正しい用途に歸せしめようとするには、何よりもさきに新舊兩語を對照して、同じか少しちがふかを見分ける力を養はなくてはなるまい。さうして更に出來ることならば、調子も氣持も同じであるかどうか、言ひ替へるならば今まで通りに、もしくはそれよりも適切に、腹にあるまゝが言ひ現はせるかどうかを、鑑定し得るやうにしてやらなくてはならぬ。それが出來なければ本當は國語教育ぢやなかつたのである。
 我々はともすれば現在の制度に不安を抱き、又あまりに當路者が過去を省みぬのを歎く爲に、昔を説く事がやゝ熱烈に過ぎ、或はもう一度小學校以前の、自治?態に復るがいゝとでも言ふ樣に聽えるかも知らぬが、そんな事は出來(490)るものでも無く、たとへ出來ても毛頭さうしたい念願は無い。たゞ言語史の世を益する出發點として、是だけの事を知つたならあんな事は考へまい、もしくは何等かのよい暗示を得るだらうと思ふ點だけは明かにして置きたいのである。新語の需要は本來は内に在つた。人の本性に在り、もしくは社會の進みの中に在つた。既に今まで用ゐて居たものゝ不適當を感じ、又不十分に心付いたからには、それに何物かを以て補充しようといふ希望の現はれるのは、突如として舶來した新物の、まだ名の無いものに名を附けるのも同じことで、新語は即ち乾いた海綿の水を求むる如く、即座に吸収せられて人生の利器となり得たのである。但しその必要は一般のものであつた。始めて之に應じて新語を提案した者も、個人ではあつたらうが群の人であつた。近くに共に住む場合は勿論、たとへ離れて居ても共通の經驗と、共通の感覺とをもつて居た。故にいち早く全體の缺乏に心づいて、衆に代つて最も似合ひの語を、言ひ出して推賞せられ又追隨せられたのである。さういふ中でも其五倍七倍の試案が、意外に不評でむだに消えたことも想像せられる。今日はそれが同情も無い外の人の、ほんの口から出まかせの新作なのだから、又どの位數が増して居るかわからぬのだが、之を片端から眞似なければ損だと言はぬばかりに、一應は皆暗記しようとし、さうしてやがては又忘れてしまふのである。この輕薄なる新人の態度こそは、國語を亂雜ならしめる主たる原因であつた。言葉をよく味はひ判別取捨するの技能を、國語教育の根幹としなければならぬ理由は茲に在る。新語と新語たらんとするものとの境目に關を据ゑて、許しを與へることは政府には出來ないが、教養ある大衆ならば自然に爲し遂げ得る。日本人は元來敏感であつて、口には言へぬまでも言葉の心持の僅かな差異をよく覺り、殊に歌謠を愛して音の組合せの面白味を理解する國民であつたことは、近世採擇せられた多數の單語にも著しく現はれて居る。たゞ弊害を言ふならば新奇をめづる餘りに、又あまりにも言葉作りの樂しみを知り過ぎた爲に、現在は稍形式に墮し、時としては精確を犠牲にする嫌ひさへあつたのである。明治時代は遠方の空氣を同じうせぬ人々と交際して、多少外面の賢しさを装ふ必要を助長したかも知らぬが、同じ傾向は以前からも若干はあつた。是に心づきその流弊を阻止することに、教へる人々の方針(491)は向けられねばならなかつたのが、事實は悲しい哉寧ろ其反對に出て居る。過去の新語を一つ/\評價して行くなどといふことは、勿論誰だつて容易な業だといふ者は無い。しかもそれをしない限り、言語は際限も無く混難し、それを又自然の勢ひとして、?然として手を束ねて居る人々を、啓發する機會は來ないのである。私の方法は、もし幸ひにやゝ豐富の資料を集積し得るならば、是によつて國語の憂はしき現?を引起した事情が知れると思ふ。大體から云つて所謂興言利口が、世と共に益盛んになつて來たのである。人が右左に睨まれたり突かれたりする事が多くなれば、責めては言葉でなりと慰まうと、皮肉な又含蓄のある、自分等ばかりなら笑ふことの出來る新語を、作り出さうとするのが町の人、又は田舍者の心理であつた。日本は不幸にしてさういふ外の壓迫が、案外に長く續くのである。新語は其爲に一種の藝術とさへなつた。しかも他のあらゆる言語藝術と同じく、行く/\それをさへ座頭幇間、もしくは三文文士などに横取せられようとして居る。この追隨は更に一層の苦痛であらうと思ふ。言葉は呼吸の一種だから、これだけはもう少し各人の自由にさせたい。
 
     附録
 
 最初は今わかつて居る近世の新語の數を、出來るだけ多く竝べて置かうといふのが目的であつたが、議論が長くなつて餘白がもう乏しい。各地やゝ似寄つたものゝ偶合して居る例を、前に少しばかり掲げて、其あとへは我々の言葉造りが、決して拙劣でなかつたといふ證據になるもの幾つかを竝べて見る。是も後々分類しなければならぬことは勿論である。
 
(492)     ○
 
エンヅコバラヒ 自分の末の子を、卑下して人に言つたかと思ふ語が、東北には多い。末子にとつては笑止なことだが、老いて家貧しくしてなほ子を生むのを、恥ぢる樣な意味であらう。エンヅコは幼兒を入れて置く籠のこと、他の地方でイヂコ・ツグラといふも同じである。もう是で籠も空になるといふだけだから、さう辛辣な戯語でもない。宮城縣北部。
フクロバタキ 是は奧南部の各地で耳にするが、袋に子供は入れないから、是は果物か何かに譬へたのである。即ちもう是でおしまひの意。
ハチナデ 越後の西頸城郡などでいふ。鉢は餅團子などをこしらへる器。最後の一つを以て鉢の底を撫でる習はしがあるので、之を末子にたとへたのかと思ふが、土地の者でないと此聯想ははつきりしない。
ツルタクリ 是も越後の各郡で謂ふさうである。蔓たくりは蔓の末の方に實る瓜の意、蔓をたぐる頃にやつと熟するからといふのは、穿ち過ぎかと思ふ。
アクトハヅレ 末の兒又は欲しないのに生れた兒と謂つて居る。山形縣の最上地方でいふ。アグトは踵、かゝとのことで、本來は失氣を意味する語であつたのを轉用したのである。田舍人の洒脱は時として此程度まで進んで居る。女がそんなことを謂つたかと思ふとをかしい。
ヤツメカス 津輕では末子を戯れて斯ういふ人がある。ヤツメは次三男のことで總領でない者はヤッコに準ぜられる。おまけに其糟なのだから有難くない。
シバキレヲヂ 野邊地方言集にあるが他でも行はれて居る。シバは尻尾、キレは端、ヲヂは即ち跡取でない兄弟のことだから、前の語と意味は近い。
(493)ネコノシッポ 是は東京でも折々聽く語。有つても無くても猫の尻尾などといふが、是を末子の意に使ふのは、やはり導かれる所があつたのである。
 
     ○
 
テヌグヒウマ 次には外の者から附けた名前だが、夫婦連れだつて外出することは餘程目に立つたと見えて、是をとやかくと評判した語が、近年になつて多く出來て居る。手拭馬はもと町見物の在郷の人が、はぐれぬやうに手拭の兩端をもつてあるくことを、形容した嘲語だつたのが、更に同情の無いこの特別の二人づれに、轉用せられることになつたのである。
チガヒナ 藁の穗の所を二つ撚り合せて、苅稻などを束ねる繩。スガヒともいふが元はツガヒであらう。之を男女の連れ立つて行くによそへたのである。わる口ではないが、なほ聽く人を笑はせるに足る意外な譬へではあつた。加賀に行はれて居た。
サッサバ 博多などできく。刺鯖は二尾の干魚を一つに合せたもの。以前は盆や田植時の正式食品であつたが、もう知る者が少ないから可笑味が通じない。
ラクダ 關西諸處に近い頃まで行はれて居た。始めて駱駝が日本へ牽いて來られた時からの流行だといふが、確かではない。
イカケ 是も大阪で謂ふが、たゞ鑄懸では意味がよくわからぬ。旅の鑄懸屋は妻をつれて來るからともいふ人があつたが、浪花方言にはドビンノイカケともある。
バオヂヅレ 岡山地方では夫婦同行をさういふ。バオヂは嫗翁だが、若い二人でもやはり同じ語でひやかされる。宮城縣栗原郡で夫婦をウバグチといふのも亦ウバオヂであらう。伊賀ではバボヂ、出雲の大原飯石ではバオヂ、薩摩で(494)はオンヂョンボ、この女男の順序はたゞの口拍子である。高砂の老翁嫗をジョウトンバといふもそれで、佐渡などは更に之を轉用して、熊手のことをジョトンボと謂つて居る。
 
     ○
 
シホカラゴヱ 人の聲とか眼つきとかを批評する言葉が、集めて見たら相應に有るやうに思ふ。是なども前のバオヂヅレと同樣に、無くては事が缺けるから設けたといふよりも、寧ろ何とか言つて笑ひたいために案出したといふのが多く、從つて大抵は頓狂でをかしく、又必ずしもさう適切でない。鹽辛聲はしはがれた聲のことだと和歌山方言集にあり、他でも聽いたことがあるが、さてどうしてさういふかとなると、實は明かでない。猫撫聲なども標準語かも知らぬが、やはり考へて見ると妙な構造である。
ケシネゴヱ ケシネとは常の日の飯米のことだが、是を聲の形容に使ふのは、たゞ粗末なもしくは人に聽かせるに足らぬといふ心かと思はれる。久留米の殯荻に、黄色なる聲、かんづうなる聲なりとあつて、趣意がはつきりとしない。
ヨナカゴヱ 博多方言集に、調子の合はぬ聲とある。
カゴメゴヱ 新潟の花柳界でいふ言葉、?のやうな聲だといふ。どんな聲をいふのかわからぬが、此聲はとても優良な歌手とはなれぬさうである。
オナミゴヱ 備後の三次で、男子の柔かな聲だといふ。オナミは牝牛のことだが、是はそんな聲は出しさうもない。恐らく女のやうなの意で、それを牛の女性の語で言ひ現はした迄であらう。是等に比べると、前編の例に引いたナンダラゴヱなどは遙かに適切である。
ウソマナコ 青森縣に弘く行はるゝ斜視を意味する語で、ヤブニラミの方がずつと面白い新語だが、是もウソといふ言葉の、此土地での感じを知る爲には役立つて居る。
(495)ネコマナグ 鹿角方言集に、他人が見て居る時は眼をそらし、見て居らぬときのみ鋭くこちらを視るやうな人だとある。是などはよく當つて居る。しかし格別當つて居ないでも、團栗眼とか獅子つ鼻といふやうに、意外なたとへなら人は笑ひ、笑へば造語の目的は達したのである。
 
     ○
 
スリバチウリ 佝僂即ち背むしに色々の地方語が出來て居るのも、人の惡い話だが目的はやはり笑ひたいに在つたやぅに思ふ。どちらの語が聞えても當人の怒るのは同じだから、隱語でも忌言葉でもないのみか、却つて本來の語のまゝでは笑へないので、斯うして新たな考案を費したとも見える。いつ頃からの風か知らぬが、昔も無益に人の才能は働いて居たのである。擂鉢賣は津輕でいふ語で、物を賣る者が多く商品を背に負うて來る所から思ひついたのである。
ハチカツギ 越後の西頸城郡でさういふ。このカツグも鉢被ぎの物語とはちがつて、やはり背に負ふことをいふらしい。
ヒバコ 是も同じ地方の語。火箱は火打箱のことではあるまいか。
セコショヒ 陸中の大槌で猫背をセッコボといふが、是は背瘤であつて寧ろ日本語である。たゞ加賀の金澤などで之をセコ背負ひといふに至つては、既に其セコを箱か何ぞの樣に考へて居るのである。
ハコオヒ 阿波では背むしを箱負ひと謂つて居る。或は又ブンコカルヒといふ土地もどこかにあつたやうに思ふ。
コンゴカレ 鹿兒島の附近ではさういふ。カレはカルヒ即ち負ふこと。又コンゴドンともいふから、コンゴは何か箱の類であつたらうと思ふ。
カゴメ 五島で焚火などにあたつて居ると出來る火斑を其形によつて籠目といふ。火斑はなまけ者のしるしとして非常に憎まれ又輕しめられたが、是には却つて笑ふやうな異名が少ない。奧羽でナモミ・ナゴミ、北陸でアマミといふ(496)のは、共にアマビの轉訛らしく、さうでなければたゞヒカタと呼んで居る。
ハゴイタ といふのは一つの珍らしい例で、是は備後の比婆郡に行はれる。私は多分手を火にかざしてあたる形を、羽子板にたとへたので、元は單に火にばかり當つて居ることを謂つたのでは無いかと思ふ。
 
     ○
 
ババオドシ こん度は全く方面をかへて、雨雪その他天候の變り目に、珍しい名稱の多いことに注意したい。是は村里に住む者の最もよく取上げる話題であり、又事柄が單純である故に、夙く言ひ古して言葉をかへる以外に、新味を求むる餘地がなかつた爲か、續々と面白い語が作り出されて居る。婆嚇しは肥前の島原で時雨のことだといふ。やがて寒さが來るぞと、老人を脅かす意味かと考へられる。
ヨメオドシ 舊八月九月の交、急に寒くなる氣候を、豐前では嫁嚇し、佐賀の近傍では姥おどしといふ。ヨメもウバも共に九州では家女房のことで、冬の支度のまだ少しも無いのに、どうすればよいかと心せはしくなることであらう。
テヅチオドシ 飛騨では早い雪をさう呼んで居る。町では又シミッタレオドシともいふさうである。テヅチは甲斐性無し、仕事の下手なこと、即ち手づつである。さういふ女が冬に近づくと驚かされるのである。
ショビタレオドシ 志州の鳥羽邊で、九月に入つて二三日急に寒くなることをさういふ。是も高山のシミッタレと同じく、夏中何の心構へも無く過して來た女を嚇すのである。
ブリオドシ 能登の七尾で十一月の中頃過ぎ、北風が一荒れして木葉を搖り落す頃から海では鰤がとれ出す。其前後雷が鳴つて寒い霙でも降ると、ほう鰤おどしが來たと、山村の人々も喜んで待つといふ。鰤にまでおどすをいふのは、別に何とか嚇しの語の行はれて居た感化であらう。
ダヲノスネキリ 秋田地方で春のなかばに降る雪をいふ。ダヲは朱鷺即ち「とき」といふ鳥、是が渡つて來る頃だか(497)ら、其脛を切るといふのである。
ガンノメカクシ 同じ地方では又雁の目隱しといふ名もある。雁が歸つて行くのに、行く先も見えぬやうに降るといふ意である。天明六年の眞澄の紀行にも既に見えて居る。
カヘルノメカクシ 是も同じ季節に降る雪を、現在も越後の山村でさう謂ひ、又百三四十年前に陸中でも謂つて居た。
ヒバリコロシ 野邊地では四月に入つて降るのを雲雀殺し。
サドダホシ サドは虎杖のことで、此植物の若芽が倒れると謂ふのであらう。九州の阿蘇地方には、「四月のサド倒し」といふ諺があるといふ。諺と謂つてもよいのだが、他の例では既に名のやうに用ゐて居るものも多い。文學によく出るウノハナクダシは勿論、サミダレもシグレも元は此類の命名であつたと思はれる。
ツシゴオトシ 貯への焚木がもう盡きて、ツシゴにしてある木まで落して焚くといふ意味。越後の東蒲原などで舊二月三月の雪をさういふ。ツシは通例土間の物置天井のことだが、又火棚をもさういふらしい。
タナハヅシ 同じ地方でも棚木はづし、青森でも棚はづしは三月頃の大吹雪のことだといふ。
ヲノハガクシ 麻の葉隱しである。麻の生ひ立つ頃になつて降る雪を、同じく越後でさう謂つて居る。
アセモガラシ 是は岡山附近で夏の雨を謂ふ名。子供が裸になつて其雨に打たれながら、アセモをからせ、モをからせと唱へたといふから、汗瘡が引込むといふ意味である。
キツネドンノゴズンケ 薩摩の谷山などで照降り雨のことをいふ。ゴズンケは御前迎へ即ち嫁取りのことで、形を少しかへて全國に謂ふ名である。是等と稍似た新語は、嶽の雪の消え殘つた形にも又多く附與せられて居る。それは主として農作の合圖で、知つて居ると色々便利だから、諺として記憶せられるやうに、印象の最も鮮かな形を以て之を言ひ現はさうとした。それが結果に於てやはり亦個々の新語になつて殘つたのである。
 
(498)     ○
 
イトコニ 新語は始めて世に迎へられた時の要求と、續いて行はれて居る事情とが、異なつて居るものと同じのとがあるやうだ。從うて是を標準にして二つに分け、または段階を設けることも可能かと思ふ。今日古語と謂はれて居るものにも年齡がある如く、詳しく尋ねたら一つ/\の理由の中に、やはり此頃のやうな稍輕はずみのものも、交つて居らぬとは限らぬのである。單語の存留には外界の條件以外、又それ自身の資質ともいふべきものがあつて、兩者の折合ひは時と共に變るだけで、必ずしも單なる偶然には支配せられず、捜せば將來の選擇方針、乃至は造語技術を指導するに足る法則が、追々に見つかるかと思ふ。それを未來に期して私は成るたけ多くの變つた例を集めて置きたい。いとこ煮又はいとこ汁といふ語などは、現在は本土の兩端まで分布し、時代は又ロドリゲスの辭典の頃まで溯り得るが、其成立ちを見ると確かに戯れの語であつて、しかも其解説はすでにまちがつて居る。「いとこ」は今でもたゞ親族といふ意味に用ゐて居る土地が多いから、以前は單に色々の畠の物を、集めて煮た食物といふ迄であつたと思ふのに、江戸の隨筆には、「おひ/\煮る」から從兄弟煮だなどと、まるで實際とは合はぬことを謂つて居る。味噌汁に小豆を入れて作るなども、或は名稱に囚はれた改造かも知れない。さうでないイトコこもまだ方々にあるのである。
サラバセン 山形縣の莊内地方で、餞別の贈り物のことをいふ。別れにサラバといふのも既に古風であり、色々の費目に何々餞の名を使ふことも、過去に屬する流行であるが、此言葉だけはなは行はれて居る。北海道では遲く捕れる鰊にサラバニシンといふ異名もある。
サゾイハヒ 五島の魚目で、出産のとき親類から餅などを持つて來ることだといふ。さぞといふ副詞は今も稀には聽くが、東京などは主として不幸の時の辭令になつて居る。
ノガレミマヒ 信州の上伊那郡で、火事に難を遁れた近所の家への挨拶、所謂近火御見舞を遮れ見舞といふ。無論こ(499)の方がずつと上等の語だが、さう古い發明ではないと思ふ。
ココセ 是も上五島で細事まで大切にすることをココシェスルと謂ふのは、恐らくココセスルの訛だらうと思ふ。淡路では大事の時に、有りたけの力を出すことを名詞にしてココセといふ。古今集などの「こゝをせに」、それから轉じたらしき軍書の「こゝをせんどと」などと同じ言葉であらうと思ふ。
ノノホトケ 吉野の北山村などで、「ねもごろに」又は「委曲を盡して」を意味する副詞。本來は祈願の言葉らしいが、現在は只の依頼の場合にも用ゐられて居る。
ツキニケリ 謠曲や語り物によくある句。是を滋賀縣では物の終末を意味する名詞として用ゐ、鳥取縣の中部では、「終に」の代りに使つて居る。
アシアラヒ 本來は田植終りの祝ひ日のことだが、肥後の鹿本郡では名詞にしてすべての物事の終りを意味する。東京で「足を洗ふ」といふ動詞も、多分は亦田植の語からであらう。
チウジ 爐の自在鉤の「かせ」を、佐渡で中使といふのは村役人の名から出て居る。中使はもと地頭と作人との間を連絡する役だが、土地によつてはアルキ又は小使の意味にも用ゐられて居る。
コザル 右の自在鉤の中使には、木で作つた魚を附けるものが多いが、或は猿の形のもあつたと見えて、其名をコザルと呼ぶ土地がある。信州の南安曇郡ではそれを又轉用して、夕方稻の葉先に出來る露の珠を小猿と謂つて居る。小猿が昇つたら家へ還れなどといふさうである。關東の處々では又その葉末の露をサルコノボリといふさうである。直接猿にたとへたのでは無く、やはり自在鉤のサルコから出たやうに思はれる。
 
     ○
 
ネコヤロ 近頃の新語の中でも、或ものは程無く消え、又或ものは其外形の面白さ、もしくは音の安らかで紛れが無(500)く、會話や民謠に乘り易いなどの理由から、語義は不可解になつても尚久しく踏襲せられるものがあり得ることは、今日の所謂古語も同じであらう。國語を目前の用途だけに限らず、是によつて次々の代の人とも交通しようとする者が、一層選擇に注意深く、又正しくなければならぬのは其爲で、僅か百年前の文學に註釋をしてくれるやうな閑人は、もう是からはさう出て來さうにもないからである。しかしどういふ言葉が永く傳はり、どんなのが廢語になるかは、まだ實驗が足らぬから容易にはきめられない。方言は斯ういふ目的のためにも、今少しく忍耐して觀察すべきものであつた。そこで二三のやゝ珍らしい言葉の、今なら造成の動機のまだ判つて居るものを、記留して後驗に供したい。ネコヤロは紀州の日高郡などで、けら螻蛄のことである。此蟲は子供の遊び相手である故に、テデフグリだのトトケェアッペだのと、あらはに解説し得ない異名が甚だ多い。猫遣らうも其一つで、此蟲の頸部をつまむと、ちょつと小猫を持つて引上げた時の樣な形をする所から此名がある。可なり意外な又氣の利いた語だから殘るかと思ふ。
ユフハンドリ 美濃の揖斐郡で、ひぐらし蜩を夕飯鳥、又は夕飯ばゝあとも謂ふ。夕の食事前頃に最もよく鳴くからである。此蟲も地方名が多い。前に擧げた鍋墨点もその一例であり、ヒグラシといふのも恐らく新語固定と思ふ。
コクラヘビ 富山で縞蛇を小倉蛇、是も小倉織の竪縞を、盛んに男帶にした時代でないと、作りもしなければ又採用もせられなかつたらうが、音の響きはよいから覺えられやすい。
ナベブタイヲ 薩摩の南端で、かれひ鰈を鍋葢魚。或は斯ういふ形の尾の附いた蒲の葉などの葢があつたのではないかと思ふ。
トスベリ 信州の下伊那郡で、いぼたの木を戸滑り、此木の蟲?を戸閾に塗つて、滑りをよくする風はさう古いものでなく、又長く續かうとも思はれぬ。
ヤシリグサ 木賊を秋田地方で鑢草。伊豆の田方郡では又齒磨きとも謂ふ。トクサも砥草だから動機は似て居る。
ダンブバナ 是も同じ地方で月見草をさういふのは、遊女花の意である。東京附近でオイランサウといふのは別の草(501)で、是は花の形が簪に似て居るからの名らしいが、一方は日の暮方から急に美しくなる特徴が、月見草と謂ふのではまだ足らなかつたのである。愛知縣でヤシャコラ花といふ其ヤシャコラも娼婦のことである。待宵草や夕化粧は優雅のやうだが、趣意は皆共通である。ダンブは東北ではもと鹽鮭のことであつた。それが賣笑者の名となり、再轉して此花の名になつたのである。
イジンソ 岡山方言に「からむし」をいふ。外人を異人と呼んだ時代の新語なることは明かで、しかもこのソは草では無くて苧のことだから、新舊の僅かな境目でないと生れぬ語であつた。
イモバナ 島原半島でダリヤのことを謂ふ。球根が甘藷と似て居る。近畿では一時天竺牡丹と謂つたが、變種の盛んに入つた頃から、ダリヤが普通になつてしまつた。
カナクソイモ 奧南部でつくねいも、佛掌薯のことである。此形をした銕滓を目に見る機會はもう少ない。一方この畸形の薯の此地方に入つたのも古いことでないから、丁度二つの文化の接觸面と言へる。此方面では又ネマリイモ、ネマルといふのは坐ることである。つくね薯の名の起りと近い。
ソコマメ 落花生を底豆といふ土地は紀州その他に多い。此方がよいのに妙な語が標準になつた。
キタラヘンキ 野邊地方言集に坐骨神經痛のことゝある。仙臺方言考にもキックラセンキとある。起つときにキクラとする疝氣といふ意味である。要領を得た覺え易い語だが、醫者は賛同しまいからさう長くは行はれぬかも知れぬ。
 
     ○
 
シバエゴタツ 最後に若干の趣向が面白い爲に、共鳴者を得たかと思ふ語を竝べて見る。是等は入用が相手の感歎に在つたともいへるから、意味が不可解になればやがて消えるにきまつて居る。近世人の機智と敏感との記念碑といふべき語だから、出來るだけ採集して置きたい。盛岡の附近で火の無い炬燵を芝居ごたつ、炬燵のある芝居は紙治ぐら(502)ゐより私たちは知らぬが、茨城縣南部でも前に同じ語を聽いた。久しく流行した戯語らしい。
ニハトリグラシ 大隅肝屬郡で、「其日暮し」の代りに鷄暮しといふ由。成ほど牛馬などならば秣は半年分も近くに積んである。
モミダネヌスミ 伊豫の大三島で私が聽いて來た。この邊で「あぶらめ」といふ魚のことで、田植の前頃が殊に味がよい。大切な種籾を賣飛ばしても求めて食べたくなるといぶ意味の由。盗みは即ちこの少しうま過ぎる魚を、罵つた語である。
サイソクマゲ 埼玉縣北部で島田まげを催促髷。早く縁邊を探すやうに、親たちを急がしめるといふ戯れの語。東京でも元は耳にしたが、さういふ感覺も又この髪形の如く、ほんの一時代だけのものであつた。
ヒキダシヨメ 婚姻はいつも世間の評判の好題目、從つて奇警な造語が多い。鹿角地方で出されては又復縁する嫁を引出し嫁。箪笥が田舍に入つてから後の作だから古い語ではない。
カマクヤシ 山口縣で縁遠い娘を竈くやし、クヤスは壞すである。美濃には家附きの女房を竈柱といふ語がある。是と關聯があるかと思ふ。行かずに年たけた女性をイカズゴケといふ方はやゝ古い。
ナスグラ 是も家附きの妻を信州では茄子ぐら。タラは苗床のことで、多分其まゝ畠になり、移植せぬものがあるからであらう。
ハナキレウシ 現在は殆と見かけぬが、牛の鼻環を通す穴が切れて、綱で制御することの出來ぬのが折々あつたと見えて、笑ひ歌などにもなつて弘く鼻かけ牛といふ語が殘つて居る。博多では鼻切れ牛といふのは無茶者向ふ見ずのことである。
テサクマゴ 手作は隱居の老人が獨力で耕作する僅かな田畠。青森縣では老いて生ませた孫のやうな末の子を、戯れに自分でもさう呼んで居る。
(503)カマスオヒ 佐渡で力の弱い男を嘲つて斯ういふ。即ち一俵の米麥は負ひ切れぬので、叺に小さく分けて持つといふ意である。
タンゴモチ 大隅高山地方で弟のことである。タンゴは桶、即ち兄が漁に行くとき桶を持つて附いて行く役といふこと。何かにつけて是が次三男の地位であつた。
オヤカタビヨリ 能登の七尾で、夜降つて晝間は霽れる天氣だといふ。即ち親方の爲に都合のよい日和の意で、此語をこしらへた人の氣持もよくわかる。
ナキトムラヒ 濱松邊で採集せられて居るが、關東でもたしかに聽いたことがある。一家の杖柱になるものを失つた場合、即ち悲歎する者の多い葬の意である。しかも葬式の日に泣くことは普通であり、泣かぬ葬式は無かつたのだから此語の造られたのは新しい。
カドヨノナカ 同じ作物でも家々で出來不出來があり一樣でない年を、三河の北部でさういふ。門毎にちがふ世の中の意。ヨノナカは元は豐凶のことであつた。
ヨシミユヅリ 是はさう新らしくも無いかも知れぬ。事實は今でもよく行はれて居るが、表面は無償贈與の形をとつて、其實酒代その他の名目で相當の禮金を受けるもの。地面は斯うして賣買といふことを避けたが、現在は他の物品にも此形式による例が多い。
セケンバラ 九州には廣くいふ語で、別に是といふ定まつた相手無しに、たゞ何と無く腹の立つことをいふ。爰でいふ世間は今の社會といふ語に當る。或はもつと廣くウゼケンバラともいふ。即ち大世間腹で、不平とか厭世觀といふ語も此中に含まれて居る。
カタヤマチラシ 仕事にむらがあつて、一方に精力を傾注して他を閑却すること。上品な語だがやはり百姓の作である。羽前莊内地方など。
(504)ヒタキマブシ 以下は第三者の笑を目途にする點が諺と近い。まぶしは獣を待つ獵人の配置、こゝで火を焚けば猪などは近よらぬにきまつて居る。故に日向の北部では、拙劣なセコをさう呼んで居る。カマス大工・サウケイヒダなどの類である。
カウシンバタケ 庚申樣の供物には七種の食物をあげる。故に一つの畠に色々のものを栽培することを、紀州の那賀郡では七色畠、又は庚申畠と謂つて嘲るさうである。
ヨアケダ 攝津の三島郡などで、未熟者の耕耘をさう謂つてひやかす。一種の謎であつて、起きぬ所もあり起きた所もあるといふ意味。
イリコバシ 飛騨方言集にあるが、是は可なり説明しにくい隱語である。炒粉に箸だから「粉すくはぬ」、即ち「こすかん」といふことで、人好きのせぬ者を評する言葉だといふ。他所へは通じなくとも、久しく「好かん」に小を添へていふ風が行はれ、それから更に移つてこの炒粉箸になつたので、土地では笑つて合點をする人が、初めから多いことがわかつて居たのである。
 
(505) 標準語と方言
 
(507)     自序
 
 是からの國語教育、國語史の目的と方法、この二つの文章だけが近頃發表したもので、他の諸篇は何れも終戰前の仕事であるが、それを一册にまとめたのは、互ひに説明を補充せしめんが爲に他ならぬ。私の立場は以前からちつとも變つて居ない。むしろ世が改まつて必要が一段と痛感せられ、今更のやうに自分の表現能力の、まだまだ貧しいものであつたことを歎くばかりである。
 その私の立場といふのは、廣い意味に於ける父兄の立場であつた。誰が見てもすぐ判る如く、專門の國語學者とは遠く隔たり、又角度もちがつて居る。永い一生の間にしみ/”\と感じたことは、人が心を語る力の、追々と衰へて行くらしい傾きであつた。書いたものゝ極めて乏しかつた時代の方が、遙かに今よりも常人の心が、讀みやすかつたといふことである。自然にさうならずには居られぬといふ事情もあるか知らぬが、それがもし一部分でも、國語教育の方針に起因するものであるならば、何はおいても是は檢討し、且つ論議すべき緊要な問題である。然るに最近の國語政策なるものは、依然としてなほ書字の方面に偏して居た。書字はもとより有用の具ではあるが、その用途は限られ、しかも?征略の手段に供せられて居る。是に對して各人が自由に自らを表白する方法を與へなかつたならば、平等の政治は永く行はるゝ望みがないであらう。それを私は痛切に憂惧して居るのである。
 日本は方言の珍らしく多い國、それがいつまでも幅をきかせで居る國であつた。私たちが是を單なる停滯と見ず、何かまだ隱れたる歴史上の理由、地理から心理に亙つてのくさ/”\の原因の、微妙に作用するものがあることを想像して、永い年月の間、注意をこの現象に傾けて居たことは事實であるが、しかも是を以て世のいはゆる(508)標準語化運動の障碍であつたかの如く、説かうとする者がもしあるならば、それはたゞ一種失敗の口實に過ぎない。國語の統一は大きな趨勢である。假に全く打棄てゝ置かうとも、自然の歸着點はそこより他にはない。それが何十年の努力を累ねつゝも、なほ同じあたりを行戻りして居たといふのは、要するに目のつけどころ、力の入れどころが惡かつたからではないか。今日方言保存の論などを抱く者は一人も無いが、今までの標準語觀は誤りであり、是が話方教育の要點を餘りにも輕視して居たといふことだけは、可なり久しい前から私たちも注意して居る。それを少しでも論究して見ようとしなかつたといふことが、局に當つた人たちの落度ではないかと思ふ。しかし古いことはもうどうでもよろしい。今度は愈國語教育の革新期である。この際に於て學徒の意見の、區々に流れることは最も好ましくない。それ故に私は平生の所信を先づ公表して、反對の立場をもつ人たちの論評を求めようとするのである。
 
(509)  標準語の話
 
     緒言
 
 國語統一の必要を痛感する人が、最近に著しく増加して來たかと思はれるが、その割には評定が手間取り、まだ根本の對策といふものが立ちにくい樣子である。或はこの間題についての各人の常識に、今まで喰ひ違ひが有るのを氣付かなかつたのが、始めて表面に顯はれて來て、その話し合ひがむつかしい爲では無いか。もしもさうだとすると、その常識の統一の方が更に急務であつた。いはゆる立脚點を異にして居ては、議論は纏まる見込が無いからである。誰か或一人が勇氣を出して、自分の斯うだと思つて居る點を竝べて見るとよい。案外さうだつたかといふ人があるかもしれず、又事實に由つて訂正せられることもあるであらう。とにかくに斯うして多くの人の豫備知識さへ一致するならば、自然に方法は是より他に無いといふものが見つかる筈で、むだな心配はせずにすむであらう。私は專門で無いから、遠慮をしてあまり強いことは言はない。たゞ大よそ證明の出來る若干の事實だけを列擧して、この間題に携はる人々の、兼て考へて居られることゝ突き合せて見たいのである。もしも全く其通り、誰だつてさう考へて居らぬ者は無いといふことであれば、自分の仕事は徒勞に歸するけれども、結果が早く得られるからそれも亦幸ひである。
 
(510)     一
 
 國語は萬人の之に由つて活きるものだから、深遠なる學理よりも、先づ安全な常識の上にその基礎を置かなければならぬ。その常識が甲と乙と丙と、話し合つて見ると皆ちがふといふやうだつたら、改良も對策もあつたもので無い。しかもその常識を比較して見る折などは實はめつたに來ない。今度は好機會だから十分に利用すべきだと思ふ。それ故に乞ふ隗より始めよ。先づ自分の當りまへだと思つて居ることを、一つ書きにして次に竝べる。
 第一に、國語の不統一は、文語の問題では無くして口語の問題である。口語も口語、毎日の話言葉、ふだんの會話の日本語が、まち/\であるのが不便であり、又不體裁でもあつて困るのである。文章は始めから統一して居る。目的によつて形が變るといふだけで、誰が書いてどこへ持つて行つても、通用しないといふものは無い。口の言葉も改まつたものだけは統一して居る。維新の非常時に九州の武士が、奧州に行つて會話が通ぜず、謠の言葉で物を言つたら通じたといふ話が殘つて居る。目には一字を知らぬ昔の爺婆が、義太夫の淨瑠璃を聽いてわかつて泣いて居たのを、私も?見て居る。是なども實は書き言葉では無かつたのである。即ち昔は話言葉でも、或種のものは統一して居た。文字といふものが用をなさなかつた時代は、國總體としては非常に古いことだが、地方として又人の群としては、つい近い頃までのことであつた。書き言葉に全然縁の無い人々の間にも、やはり統一した部分とせぬ部分とがあつて、前者は必要のある人のみが、特にそれを練習して居たものである。學ばなければ出來ないのは言葉だけではない。さうして現在の口言葉などは、たゞ以前からの家庭郷黨の感化といふ一方法があるのみで、曾てわざ/\教へられて居た正式口語の方は、省みられぬやうになつて居るのである。其原因も私には説明し得られる。つまり書字の教育が普及して、晴の口言葉の重要性が薄くなり、いつしかふだんの口言葉の中に、吸収せられてしまつたのである。朝夕の感化と口眞似とによつて、すべてが自然に、學び取れるものゝ如く、思ふ人ばかりが多くなつたのである。是は大きな(511)見込ちがひであつた。其爲に口言葉の不統一は擴大したのみならず、御蔭で他人の中でをかしなことばかり言ふ者が、以前よりも却つて多くなつて居るのである。現在の交通?態の下に於てでも、もしはつきりとこの二種の口言葉、即ち晴と褻《け》の差別を立てることが出來るならば、私は一部の外と接觸する必要のある人だけに、その共通語を修得させ、殘りの大多數には自由を與へて、彼等の方言のおのづから改まつて行くのを、待つて居てもよいとさへ思つて居る。しかし國の教育の方針は、人民のすべてに一樣の機會を與へて、今は入用が無くとも入用が起れば役に立つやうに、教へて置かうといふに在つた。即ち晴の口言葉の前代の教育法は、一般に踏襲せられなければならなかつたのである。それを反對に統一なき部分、即ち土地々々の母の言葉の學び方に準じて、みんな勝手によくなれと放任して居たのであつた。今頃日本語の不統一を歎くのも遲いが、それが對策として更によそ行き言葉の改良を以て臨まうとするなどは、よつぽどの見當ちがひのやうに私には見られる。
 
     二
 
 第二には、所謂標準語は文字こそは新らしいが、その心持は古くからあつたといふことである。先づ文章には言ひ方と使ふべき單語、御手本と言つてもよい程に嚴重な約束があつて、それを守らぬ書き言葉は理解せられず又は非難せられた。挨拶口上演説その他の晴の口言葉にも、國を通じての一定の型があつて、少しでも言ひそこなふと、笑はれるといふ怖ろしい制裁があつた。たゞその型には時代毎の變遷があつて、田舍は幾分か移り方がおくれるといふことはあるが、それは固苦しいとか律儀とかいふだけで、一つ前の標準語なのだから、笑ふ方が惡いとしてあつた。この二つは夙に統一があつたので、標準のあるのも不思議は無いが、更に第三の、今日不統一を歎息せられて居る日常の口言葉にも、實は標準型としか呼び得ないものが元は有つた。たゞその通用區域が今よりもずつと限られ、全國に唯一つといふわけでは無かつた點がちがふのである。むかし私が大學の寄宿舍に居たときに、同室の鹿兒島縣人が四(512)人あつて、そのうちの一人だけがいつも笑はれあざけられる。三人は城下の生れだつたのである。私たちには五十歩百歩とすらも聽き分けられなかつたが、後に氣が付くと、あの地方には、もつと繁雜な上中下の差別があつて、しかも機會がある毎に笑はれぬ方へ、改まつて行かうとする傾向は今でもまだ見られる。斯ういふ小さい中心地が、以前は數多く、後次第にやゝ大きいものに、併呑せられて來たことは想像せられるが、それでも右に擧げた鹿兒島のやうな例が、全國を通じてまだ數十箇所は算へられ、由緒は固より別であらうが、東京も京都も大阪も、大よそは同じやうな力を以て、周圍の地方に臨んで居たのが、近い頃までの實?であつた。方言をたゞ片田舍の奇異なる現象の如く解する人の多かつた理由は、此等大小の中心地に於ては、それ/”\其土地限りの國語の統一があつたからで、是には晴の場合の口語とちがつて、通例は強制も無く、積極的なる教育も無かつたけれども、そこへ入つて來る他處者はいつと無く同化せられて、永く孤立を續けては居なかつたのである。今でもこの統一はさまで破られては居ない。東海道筋の三四の都市、又は歸住者の多い長州の萩などは、何だか行くたびに土地の物言ひが、段々東京化して來るやうに感じられるが、是とても東京から入込んだ人たちが、相手構はずに自分の言葉を振りまはして居るのでは無く、土地限りの標準語が外からの影響を受けて、少しづゝ變つて來て居るのであつて、實際又標準語は昔から、斯うして始終變るべきものでもあつた。たゞその外來者の數とか勢力とかの増加によつて、幾分か變化の速力と方向とを、支配せられるといふことは有つたであらう。此點にかけては東京は寧ろ著しい一つの例であつて、爰では變化が激甚であつたといふ以上に、或は統一が少しばかり崩されては居らぬかと思ふ形跡さへ有る。其理由も私たちには明白で、成るべく早くこの大都府の標準語に、同化しようとする者は今も多からうが、別に其以外にちつともそんな事に頓着せず、時にはわざと御國言葉を使ふかとさへ思ふ者が、政治家實業家の上の方を占めてしまつたのである。斯ういふ人たちでも後にはかぶれるかも知らぬが、少なくともこの土地の物言ひの、こま/”\とした微妙な感覺までは捉へようと努めない。一方彼等が諸國から携へて來たものも、周圍の者だけが呑込むのがやつとのことで、在來の言葉に取つ(513)て代るまでの力は無い。それで合の子の生硬な新語が生れ、あれ程數繁く作られて居た近代の動詞形容詞が、半分過ぎも不用に歸して居るのである。近頃東京語化したといはれる地方限りの標準語にも、果して是に類する退歩現象が見られないかどうか。私はその有無を檢査することによつて、變化か、はた又統一の崩壞かを、差別し得ると思つて居る。
 新たに總國の標準語を迎へる爲には、何れにしたところでこの今までの割據的な地方標準語は、一應はみんな棄權しなければならぬことは同じである。たゞ我々が是ほどまで統一を重んじ、一つの中心地に入つて來る毎に、必ずそこで最もよいと思はれる言葉に同化して、相互の交通を萬全にしようとした永年の仕來りを無視して、東京に居てさへ一生の間、平氣で郷里の土語を使つて居るやうな無頓着な人たちに、國語統一の大切な問題を、考へてもらふのが心細いのである。統一は言語の本性であるのみならず、寧ろ今までは其力がよく働き過ぎて居た爲に、一朝ばら/\になつて區域の外へ出て行くと、始めて甲乙の相異の兩存し難いことが心付かれるのである。手短かにいふならば、大きな統一の缺けて居ることを、知らずに居た人が多かつたのである。知らずに居られては甚だ困るならば、先づ知らせるのが對策だと思ふが、どんなものだらうか。
 
     三
 
 第三には、いはゆる標準語は、時代に伴なうて追々に變つて行くといふこと、是も私などは當り前と心得て居るのだが、制定などゝいふ語を使ふ人の中には、或は國中でいつまでも守れるやうなものを、きめて置かうといふ念虜がありはしないか。此點を明かにした上でないと、國語統一の方策は立たない。變らぬものならば、祝詞の文語のやうな、又は萬葉集の歌言葉のやうな、簡潔で奧ゆかしいものを選り拔いて、講釋附きで教へて置いてもよいが、變るときまれば、今ある言葉でも、安心して押付けるわけには行かない。明日以後に備へる用意は、おのづから別で無けれ(514)ばならぬのである。さういふ中でも文語と晴の口語は、大體に保守の傾きがあつて、たつた一つか二つの場合の爲に、記憶せられて居るといふ表現も少なからず、又その爲に實習の價値が認められ、稀に擬古といふ一派さへ成立つて居るのだが、是ですらも永い間には、ちつとも自分の力でないものに推し動かされて、段々と新らしくならずには居なかつた。日常の口語も、元は改廢が目に立たぬほど、やゝ暫くは同じ姿を保ち得られたのだが、それでも百年を區切りにして前と後とを比べて見れば、江戸語を一つのものと思ふ誤りなどはすぐに顯れる。是が近頃になつて又ずつと目まぐるしく、人が一代の間に婆と孫と、互ひに驚き合ふほども改まつて行くのである。もう少し穩當な又きれいな語を選んで使つて居たら、さうは變動せずにすむだらうにと、考へて居る人は無論多からうが、とにかくに意外な事物の次々に出現して、新たな命名を要求するに止らず、是まで一つの語を以て間に合せて居た動詞でも形容詞でも、經驗が深まり感覺の精微になるにつれて、二つにも三つにも分化せずには居られない。それに急場のいゝ頃加減な語を宛てゝ置くために、又しても新語が戀しくなつて來るのである。變化は我々から見れば生活の必然とも言ひ得る。從つて折角考案をして是を斯う言はうときめて見たところで、四五十年もかゝつて效果の顯れない近頃の標準語運動では、尻尾につかまつて行くことも先づむつかしく、むだな事をして居るといふ酷評を、撃退する望みは無いのである。新たに一つの方針を立て替へて、試みなほすの他は無いといふ結論が、下されさうに私は思ふ。
 
     四
 
 第四には、標準語といふ名稱の、内容の曖昧なこと、從つてもし今更是を棄てゝしまふことが出來ぬとすれば、責めてはその幾つかの意味の喰ひちがひを承知して、當人だけなりともはつきりと定義して、之を用ゐるやうにしなければならぬ、といふことを私は考へて居る。始めて此語の出來た頃の事情を想像すると、同じ一つの事物に、土地によつて、それ/”\ちがつた名や言ひ方が幾通りもある。それでは聽いても互ひに理解せぬ場合が多い故に、どれかそ(515)の中の一つ、といふよりも東京とか京都とかに、前から行はれて居るよい言葉にきめて、それのみを使ふことにしたらよからうといふ説が行はれて、之を先づ標準語と呼んだものらしい。我々の國語では、單數複數の表現にいつも不自由をする。今なら標準單語とでも標準句法とでも名づけて、個々のものだといふことを明かにするところだが、うつかりして居るとそれと全體とをごつちやにする虞れがあつた。其上に一方英語がはやり、獨逸語が譽められ、又は支那語だのアイヌ語だのといふ名がよく用ゐられた爲に、爰に一つの標準といふ好い言語、一つの系統を具へた學ぶに足る國語が、有るかの如く誤解する者を生じ、どこだ/\と探しまはる騷ぎになつたのである。無いとは決して言ふことが出來ないが、それは明日以後のものであつて、どこにもまだ陳列して居ない。いつかはこの愛する國土の上に、出現させようといふ我々の決意は固いが、今のまんまで居たらいつの事やらわからぬので、斯く多勢が氣を揉んで居るのである。それと眼の前のとうなすかぼちや、なんばんとうもろこしの類とを、一しょくたにする阿呆が有るものでない。個々の單語の東京にもある場合ならば、それに耳馴れて居る人の數も多く、又大抵は上品にも聽える。二つ竝べて見せてやれば、打棄てゝ置いても自然に子供でも此方へ寄つて來る。又現にさうなつても居るのだから問題でも何でもない。問題になるのは地方限りの必要、次には是から新たに起るべき個々の必要に對して、何を標準にして國内のふだんの言葉を統一しようかである。都府の生活は消費に片寄つて居る。生産面の用語は知識が乏しく、一歩郊外に踏み出せば木でも草でも、何といふかを知らぬものだらけであることは、市民自らも之を認めて居る。それは職業語であるから、もし入用なら田舍のを借りればよいと思ふかも知れぬが、たとへば田植終りの祝ひをサナゴ・サナブリ・サナボリ・サノボリ等、各地區々であつたらどれに統一するか、又もしどこの方言もまづかつたらどうするか、是が答へられぬ樣なら標準語でも何でも無いのである。方言は何れ粗雜な不精確な、無くてもすむものばかりと思つて居るのは、それこそ無智の獨斷であつて、どんな方法ででも我々は反證を擧げ得る。獨り農林漁業の專門の術語には限らず、日常の生活用語にももう可なり複雜な分化が現れて居る。たとへば動詞の數は平均二倍、形容(516)詞に至つては三倍以上もあるかと思ふほど、今日は地方に有るものが大都市よりは多い。同じ大都市でも、東京は大阪よりも少ないと見えて、此頃若干をあちらから取寄せて使用して居る。市街人の感覺がさう大まかであつた筈は無い。忘れるたび毎にいつも學者くさい漢字の音を借りて、代用の新語をこしらへて居るのである。女や子供にはそんなものは役に立たない。御蔭で彼等の單語は惨酷に乏しくなつて居る。だから今有りつたけの標準單語を皆竝べて、殘らず使はせることにしても、明日の標準語にはならない。おまけにそれ迄の親切な人も無かつたことは、是ほど莫大な地方語が、對譯無しに居ることをすら、氣が付かずに居るのを見てもわかる。もしも小學讀本程度の單語なり句法なりだけで、是非とも心中を談らなければならぬといふのが、國語の統一だといふならば、不統一に隨喜する者が却つてうんと殖えるだらう。さうでなければ人は沖繩の老翁老婆の如く、たゞ口をむぐ/\させて黙つて居るの他は無いからである。あんな情け無い?態に國中がなつてしまつてもよいか。ちと考へてから後に計畫は立てゝもらふとよかつた。
 
     五
 
 第五に、近代の國語教育の方針が、或は幾分か統一の妨げとなつては居ないか、といふことを私などは考へて居る。我々の求めて居る標準語は明日以後、未來に役に立つものであればよいので、今までの分は惡ければなほす迄であるが、いやしくも國民が共同の意識を以て、自然の成行き以上のものを造り上げようとするからには、大體にどんな姿どんな輸廓をもつたものが欲しいといふ構圖だけは、胸に描いて見なければならぬが、それには振り囘つて今までの經過、又は親たちの判斷の當否を、公平に批判する習はしを養ふ必要がある。歴史が我々の進歩を指導する。歴史を正しく學ぶことが唯一の途なのだから、遠慮をするわけには行かぬ。永い日本の過去世を通じて、我々の口言葉が明治以來の如く、激變した時代は無かつたかと思はれるが、それは單語の數量の増加よりも、又は古いものゝ突如たる(517)消滅よりも、主として漢語洋語の段々の蓄積の上に現れて居る。讀書習字の教育が民間に普及し、しかも其教育を受けたといふことが、直接生計向上の便宜になつたのも大きな力ではあらうが、其蔭に在つて働いて居るのは、ちがつた土語をもつ諸方の人の交際に、讀書用の言葉を以て共通語にしようとした心持、それからなほ一つは、目で見る文字の便利さに陶醉した初心者が、半ば暗記の目的で物好きに使つて見ようとする風であつた。幼なかつた自分の印象でも、役場の用掛りをヨウケイといひ、同時に舶來種の鷄を洋鷄と謂つたのが、どうしたわけかと不審に堪へなかつた。勿論法外なものは次第に排除せられたが、この時代の好尚だけは今日までなほ續いて居る。江戸時代の漢學は人の數こそ少なかつたが、之に携はつて居る者の漢語に對する親しみは遙かに深かつた。詩文も近頃よりはずつと上手、おまけに唐音を操るなどゝいふ人もあつた位だが、それでも日常の會話に書物の語の飛び出すのを、惡い趣味として居た形跡は色々のものに見られる。それが未熟な者の多くなつてから、却つて盛んに漢語を振りまはしたのだから、所謂半可通の唐變木が、流行を作つたと見てまちがひは無い。それにも拘らず、この流行は後を曳いた。最も口語に近い文章として親しまれて居る小學讀本にも、案外に漢語が多くなつて居り、少しく見馴れぬ二字續きの文字は、すべて漢音に讀まうとする氣風が、若い人たちの間にはひろがつて居る。無論その爲に毎日の言葉の數はふえたらうが、同時に娘の子までが是を以て今までの言葉に置き換へ、盆に御先祖がもし還つて聽くならば、びつくりするだらうと思ふほどに、關係だの例外だの全然だの反對だのといふことを平氣で言つて居る。しかもをかしくてさういふ言葉はとても使へないといふ人が、今も相應に居るのだから、統一がしにくいわけである。統一を期するからには、女性にも趣味の人にも又たゞの農夫にも、安らかに用ゐられるやうな標準を掲げなければなるまい。それでなかつたら次の言ひ替へが、又新たに始まるにきまつて居る。それよりももつと困つたことは、文語即ち書いたものに出て居る言葉なら、どれでも勝手に口語に使つてよく、おまへ知らんのかと逆捩ぢを食はせたり、或はどんな字を書くかと疊の上に描かせて見たりするといふ、日本獨得の奇拔な會話が、現在では普通になつてしまつた。是と出鱈目な漢字を二個(518)合せて、ろくに漢語も知らぬ者が、任意に幾らでも文語を作るといふ、途方も無い慣行とが提携したのだから、虎を野に放つが如し、忽ちにして我邦のふだんの口言葉は、めちや/\に荒れてしまつたのである。冤罪をかこつ者が有るかも知らぬが、是も私は讀本のせゐだと言はうとして居る。前代の讀方教育には明かに二通りのけぢめがあつた。いはゆる書を讀んで事理を解せんと心掛ける者は、遠大の計を以て、最初何年間は寺の小僧の經文と同じく、何の事だか知らずに素讀をくり返し、讀書百遍義自ら通ずといふやうな、悠長なことを言つて居た。實際又さうだつたかも知れぬが、半數は中途に落伍したのである。之に對して民衆の大多數は、讀みながら判るものを教へられて居た。即ち既に耳で知つて居る日本語が、字で書けばどう書くかを學んだのである。ちやうど實語教と三字經とがその境目で、それから先へは三分の一の少年も進んで行かなかつた。實用を旨とする普通強制の教育に、そのむつかしい素讀式を加味したのが誤りでは無かつたか。御蔭で一課に三日も五日も掛けて、讀みが徹底したなどゝ得意になつて居る者が現はれ、生徒の方ではたゞ暗記に終始して、言葉をもう一度他に適用する道に疎いばかりで無く、本を無暗に畏敬して我儘な著述業者をはびこらせてしまつたのである。何故に我々の理解する言葉で本を書かぬかと、詰問する權能を奪はれて居るのである。斯んな事をして居て果して明日の日本に、萬人共用に適する標準語が生れるものかどうか。私などは頗る之を危んで居る。
 
     六
 
 第六は、日本に口の言葉を教へる學校が無く、又之を研究する公けの機關も無いといふこと、始めて聽いた外國人ならば魂消るだらうが、私なども知つて居ながらやはり驚いて居る。是は手も無く國語統一を希望せず、標準語などは無くても結構といふ者の、態度としか見えないからである。地方の言葉のまち/\になつて居てをかしいのは、好いにも惡いにも別の言ひ方の有ることを、知らずに大きくなる者が多いからである。知らぬ者には教へてやること、(519)それが國語教育だと言はれさうな氣もするが、現在のところでは話方聽方の時間を設けようとも、又は讀本の時間を半分割いてくれようとも、誰が教へるかといふことがなほ問題になる。府縣の師範學校で數年の間、みつしり勉強して來たといふ國語は、書物に書いたもの、それも五六百年も前のものが主であつた。自分の毎日使つて居る言葉より、もつと體裁のよい言葉が有るといふこと迄はたしかに知つて居ても、さて其正眞の見本といふものに、接することは滅多に無い。事實又さういふものは探しでも見付け難い。小學讀本だけは多分あの通りを、口で謂つてもよいものだらうと思つて居る者もある。もしさうだつたら、口の言葉は味も匂ひも無いものになるのだが、そんな事までは氣が付かない。其他戯曲とか小説の會話とか、ラジオドラマの齒の浮くやうな作り言葉とか、色々なものを綜合して概念だけは出來ようが、練習が有るわけでも無し、試驗は無し、教授方法などはてんで顧みられない。是だけの知識を提げて自分が教へる人になるといふことは、普通の青年教師には出來ない藝である。師範の國語の先生とても、地を換へれば亦同じことで、假に東京で三年學んでも、學び得る國語は國文學の隣、中古の文言葉がどう書かれて居るかに精しくなるばかりで、自分の物言ひさへ改まつてしまはぬうちに、學校を出て行くのである。今の東京語のどの部分が果して言はるゝ如く標準語となるに適するか、それには何を除き何を加へて完全なものにすることを得るかなどを、判斷するやうには養成せられて居ないのである。假に東京語の蓄音器見たやうになつて歸つたとしても、それを代表的のものだと言ひ切ることが出來るかどうか。現在の混亂?態では、先づその整頓が可なり面倒な豫備作業であると思ふ。子供は元來ごく少しの言葉ででも活きて行かれる。彼等の國語教育だけで統一の實が擧げられるやうに、思つて居ることが既に樂觀に過ぎる。まして成人の活きた言葉に對する知識を、斯樣な貧弱の?態に放置して、掛聲ばかりで何ぞの成績を收めようとしたなどは、大膽とも無謀とも、評しやうの無い不用意だつた。當然の順序は、先づ現在の國語の姿、それが中央と地方とどの程度にもう一致し、又はどれだけの過不足に惱んで、統一の道を進み兼ねて居るかといふことを、幾ら厄介でも一通りは知つてかゝることである。早晩消え行くものとしても、なほ方言は究め(520)て見る必要がある。ましてやあの中からよほどのものを採用しなければ、我々の標準語は完備する見込が無い。取るにも拾てるにも知つた上のことである。その仕事は一體誰が遣つて居るか。
 
     七
 
 そんなやかましいことばかり言つて、足下には何か案でもあるのか、斯う言はれると少し恐縮するが、實は全く無いわけでもないのである。私の意見では、小さい者を捉へて一々さう言ふな斯う言へと、指圖して見たところが始まらない。寧ろ大きくなつて統一の事業に參加し得るやうな、素養だけを與へて置いて十分だと思ふ。その仕事だけならば、自分はしやべれなくとも、心有る小學教師には必ず出來る。ちやうど日本國の大きさや人の多さを教へるやうに、自分等は今斯ういふ言葉を使つて居るが、是にはまだ幾つもの言ひ方が有るらしいといふことを、例へばといつて、知つて居れば教へる、知つて居なければ教へずともよろしいが、たゞ其中には耳に聽いてきれいなのと汚ないのと、はつきり相手に聽えるのと、聽取りにくいのと、その他色々の優劣がある筈といふ事を知らせ、それから成るべく多くの人と共々に、使へさうなものを使はうといふ風に、選擇の必要と其目標とを覺らしめるやうにしたい。單語の歴史がもしわかつて居るならば、正しい正しくないを説くことも異議は無い。たゞ僻説が多いから受賣には警戒の必要がある。とにかくに個々の國民の自主的なる選擇によつて、自然に選り出されて行くものを我々は標準語にしたいのである。從つて中央都市の語だからと言つて、盲從摸倣をする弊を防ぐは勿論、一般に人眞似といふことをいやなことゝ思はせたい。それには東京の此頃の新語や、又は昔からの變つた物言ひを、無邪氣に批評させて見ることも、練習になつてよからう。しかし小兒と教師とだけに一任するには、此事業はあまりにも重要である。多くの成人にも關心を持たせるやうにすることが、第二の方法だらうと私は思つて居る。北支や滿洲で働いて居た日本語教師がしば/\日本語はまだ統一して居ないとの評を受けて、恥かしく思つた話などはよい刺戟であるが、それだけではまだ一(521)人一人が、此爲に働く氣にはなれない。それよりも上手に又は簡潔に、遺憾無く心中を人に語り得たといふ喜びを體驗させて、段々に言葉を一つの生活技術として、磨いて行く風習を盛んにしたいのだが、それには選擇の能力と共に、出來るだけ豐富な資材を供することが必要である。此目的の爲に、私は必ずしも無差別に新語を排斥しない。たゞ走りに一箸といふやうないやな物眞似根性を棄てさせ、自分で判斷してよいと思ふものを、少しでも多く貯へさせたい。古語を再用するといふことは擬古派でないと出來ず、褻の口語では擬古は嫌はれて居るが、それでも消えようとして未だ消えず、口では使はないが耳では知つて居るといふものは澤山あつて、是だけは復活することが出來る。方言といふものゝ中にも、昔の中央の標準語の若干が、まだ活きて殘つて居る。さういふものゝ存在は興味をもちやすい。面倒なやうでもその一つ/\に就て、調べて常識の世界へ送り込むやうな、研究の機關があつてよい。
 國語愛といふ言葉を空な標語に歸せしめない樣に、特に申込んで考へてもらふべき向きが二箇處ある。その一つは文士歌人俳人の群、この人々が日本の語彙の貧困に惱み、しかもさうやたらに自家鑄造の暴擧にも出ないまごゝろは私たちも敬服して居る。さうして言葉は決して彼等の思ふほど、乏しくなつては居ないことを知れば、悦ぶであらうことも亦察しで居る。もう少し方言を注意して下さいと、要望することが急務である。方言は必ずしも文獻國語學者の思つて居るほど、墮落誤謬を以て充ちては居らず、何かの偶然、といふよりも都市人の氣輕な新語好きの爲に、都市から見棄て追出されたものが多い。それを尋ねて氣に入つたものだけを利用すれば、きつと表現は自由になり、音調は豐富になり、好い文學が生れるだらう。好い文學の讀者を動かすものをもつと多くして、その用語の民間の共有になることを、我々は心竊かに期待して居るのである。この國語愛は同時に又、文學を繁榮させる道でもある。
 今一つの相手方は、文士を含んだ所謂名士、東京でも地方でも澤山の追隨者を持つて、口の言葉の影響の多い人々、この人たちの國語愛の缺乏には全く閉口する。東京語のだらしなく混亂して來たのも、人が出放題にどんな鵺のやうな言葉でもしやべつてもよいといふ氣になつたのも、有りやうは彼等によい日本語を作り上げたいといふ念慮が、塵(522)ほども無い爲である。外國を羨むにも及ばぬが、さういふ一流人物が下品な物言ひをする國は、まあ日本だけだらうと思ふと情け無くなる。家で小さな仲間で話して居るうちはよいやうなものだが、檢束が足らぬからどこへ出てもそれをやるのである。せめて放送ぐらゐには遠慮をして出ないやうにするか、さうで無ければ改良を心掛けてもらひたいものだと思ふ。この連中が反省しない限り、國語の統一は或は成功しないかも知れぬ。
 國語を專門家以外の人たちの問題とすること、斯んな何でもない企てを實現する爲にも、やはり先驅者は相應に苦闘して居る。しかもその國語の數多い問題のうちで、何を最初に考へるかに就ては、まだ素人の評定は一致して居ないのである。文章の書き替へが急務だと説かれ、如何にもさうだと思つて居るものがある。まづ全國のアクセントを揃へてからと、すぐにもさういふことが出來るかのやうに、安請合をしてもらつて悦んで居る者も居る。何だかやはりまだ、いはゆる斯道の先覺に引張りまはされて居るのではないかと氣になつてならぬ。國語文化講座のやうな、間口の廣い、角度の多方面な論集が行き渡つて、讀者は始めて自分の問題を見つけることが出來るのだが、それでもまだ地方人の立場から、物を言つて居る人の少ないのが私には淋しい。言葉の自然の統一を促進する道は考へないで、たゞ片端から中央の御注文に應ずるのだつたら、田舍の小學校の國語の時間は、何倍あつても東京にはかなはぬだらう。劣性承認を目的とする國語政策は、もういゝ加減に罷めてはどうか。
 
(523)  方言問題の統一
 
     一
 
 
 國語の統一が今頃唱へられるのは何としてもをかしい。統一すべきものは外に在つて、それは寧ろこの問題に對する識者の態度であらう。
 國語學の分野は文章日本語、方言研究は專ら普通人の話言葉と、今まで我邦では妙に二わかれに對立してゐたが、もうさうしてはゐられぬ時世が來たのである。海外のいはゆる日本語熱などは、私等から見れば單なる一のきつかけに過ぎない。久しい前から我々國内人も、僅かばかりの讀本と、種々雜多の口言葉とを付與せられて、取捨にまごついてゐたことは同じである。
 たゞ勇敢に何とかして下さいと、當路有識に訴へなかつたゞけである。文章をなるたけ口語に近からしめようとして、それが不十分であり不徹底であつても、辛抱してゐた點のみがちがふのである。必要はとつくに始まつてゐる。口で説かねばならぬ問題が年と共に増し、ラジオは又耳の文學を要求する。字を看て漸く合點する今までの國語教育が、ちつとも補修せられずにゐたから、この期に及んで茫然自失しなければならぬのである。
 しかし幸ひにして機會は與へられた。二つの研究はたゞ接近するといふ以上に、これから入り交つて大に共に働かなくてはなるまい。私は一個の門外漢であつたが、少なくとも日本方言學會の誕生するに至つた、必然性だけはわか(524)つたやうな氣がする。
 標準語といふ言葉は上田萬年先生の發案だといふが、その思想に至つては決して新らしいものでは無い。ある種特定の言葉で無くては通用しない區域が、以前の世に於ても相應に廣かつたのである。先づ第一に文章は全部が標準語で、わざとか又は誤つてかでないと、片端でもその中へ方言はまじへなかつた。その次には法廷その他公邊の用語、たとへば宿場の役人とか本陣の亭主とかゞ、旅の御武家樣に對してアガイナ・コガイナ・ボクヂャだのウザネハクだのと言へば、咎められないまでも大抵は笑はれる。笑はれてはつまらぬから、かういふ人たちは、標準語を覺えること今日の客商賣もほゞ同じであつた。
 最初は警戒であつたと言つても恐らくは過言であるまい。つひぞ見知らぬ相手には高下を問はず、出來るならばこれを使つて物を言はうとする心構へは今でもある。私の今住む郊外の村などには、若い頃いはゆる御屋敷にゐた婦女が多い。物を問へは必ずきれいな東京語で答へるが、その代りにはほんの僅かな間があつて、口で一ぺん譯してゐるのだといふ事がよく判る。さうして折々は譯しきれない語がまじるのである。子供などのまだ飜譯に馴れぬ者は、この間が突拍子も無く長くて、たゞまじ/\と顔を見るのは本意ないやうだが、これでも實は標準語を承認してゐるのである。
 標準語といふ名稱は、無論かういふ人は知らない。或は素朴に「よい言葉」と謂つてゐるかも知れぬ。ところがその「よい言葉」を毎日の言葉に、させようといふ運動が悦ばれないのである。どうしたわけでか今に一向に效を奏してゐないのである。その原因は果してどこに在るか。これは國語學にも方言研究にも、共通した大きな問題だと思ふ。
 
     二
 
 我々のよい着物が晴着であつた如く、所謂「よい言葉」も元は晴の日の言葉であつた。これをあらゆる勞働の際に(525)も、家に坐つてゐるにも用ゐさせるか否かによつて、形?寸尺地質、殊に供給量の上に大きな用意の差があるべきことは、國民服の問題も同じである。或はその用意がまだ民間に缺けてゐるのではないか。かういふことが先づ第一に考へられる。
 「晴の言葉」の最初の目途は、信仰行事であつたやうに私などは想像してゐる。さうでない迄も文學のまだ行はれぬ前から、口の文章ともいふべきものが既に存し、幾分か古風な、又最も日本語らしい語辭句形が、選りに選つてこれに用ゐられ、それぞれの場合に應じて適切な效果を擧げてゐたゞけは事實であつて、それが出來ると否とによつて、個人の品位などを決定しようとしてゐたことは、却つて大衆の方が我々よりもよく記憶してゐる。
 こんなよいものを勸められて、尻込する理由は他にあらうとも思はれない。一言でいふならば支度が足らぬのである。これを何とかしてやらぬ限り、標準語運動の如きは、たゞ人を板挾みの苦しみに陷れる結果を見るだらう。
 昔の標準語は使ふべき時がきまつてゐた。應接掛合ひなら口きゝを押立て、前からわかつてをれば教へてもらつてもよし、或は文章でいふ推敲のやうに、一晩かゝつてかう言つてやりませうと、文句を練つて行くことも可能であつた。それに第一表現の範圍が限られてゐて、用ゐられる言葉は少なくてすんだ。
 いよ/\何でもかでも寢ても起きても、全國一樣のよい言葉づかひを理想とするとなると、新たに作つて與へなければならぬ標準語が、どの位入用になるか測り難いのである。早い話が、喧嘩は今までは惡い言葉を以てしてゐた。これに晴の言葉の無いのは當り前である。子女を戒め又は叱るにも、東京風の語を使つたら效果は丸で無くなる。
 これは極端を想像して見た話だが、この以外にだつてめい/\の入用な言葉に、棄てゝは全く代りの無いものが、何ぼでもまだ殘つてゐるのである。それほど又急激に、現代の晴の言葉の範圍が擴張せられたのである。喧嘩や小言なら出來なくなつた方がよいかも知らぬが、とにかくよい標準語を見付けてやるまで、暫くさういふことは言はぬやうにせよといふが如きは、一般論としては少し無茶である。
(526) それでも東京の近くなどならば、ちつとも標準語でない町の言葉を、眞似て間に合せるといふ便宜もあるが、この頃問題になつた沖繩諸島の如きは、殆と讀本以外には何の御手本も與へることが出來ないくせに、今までの土地の言葉を全廢しようと企てゝゐる。そんなことが出來るものか、といふ一言で評は盡きる。
 文章や演説は國語のほんの一部だといふこと、口でいふ言葉は口から學ぶものといふことに、少しでも氣付いてゐたら、よもやあのやうな性急な方策には出なかつたらうと思ふ。まことさういふ政治上の必要があるなら、ちよつとは面倒でも實現の途は他にあつたのだ。それを省みないで、むだな煩累を招いたのは役人の爲にも惜しい。
 
     三
 
 方言の使用をやめさせようと思へば、それの代りになる言葉を與へるより他の途は無い。ちやうど二つの言ひ方が同じだと知れば、人は勸められもせぬのに、折々は眞似てみようとさへする。新らしい表現を採用することは、我々は決して不得手でも嫌ひでもないのである。それが二度や三度耳にしただけでは腑に落ちず、まだ安心して使ふ氣になれぬといふのは、むしろ篤實賞すべき氣質なので、かういふ人たちに、とつくりと體驗させてこそ、言葉は精神に根を生やすのである。
 代りの言葉の有る無しに拘らず、土語は止めろといふ者は論外だが、心持や感じの強弱に若干の差があらうとも、これが近いのだから此方に改めよといふ人も、まじめな教育者とは言ふことが出來ない。土地で實際に入用な言葉は、こんなことでは消えてしまふわけが無い。
 かりにやかましい人の前では口をつぐんでゐても、腹ではいつ迄もこれを用ゐ、咄嗟の際にはそれが飛出しもしようし、また強ひて新らしい語を使つても、彼等の間だけには古い内容がそれに盛られて、一段と地方差を複雜にするだらう。
(527) 程無く撲滅せらるべき方言などの研究に、力を傾けるのは無益だといふ考へが先きに立つやうだが、これは大きな思ひ違ひである。甲の標準語と乙の方言と、全然同じだといふことが、確實に請合つてもらへぬ以上、口眞似をさせてみても結果はむだであり、さうで無ければ誤解と喰ひちがひは新たに生じて、いつになつても統一の效は奏し得ないからである。
 例は竝べようとすれば幾らもあるが、沖繩のやうな離れ島でなくとも、地方の生活事情や慣行の差に基づいて、一つの土地に存し他處には對譯の無い言葉はまだ澤山ある。現に動詞や形容詞などは、生硬な漢字を竝べて女子供に使へないのを取りのけてしまふと、大都會は普通の田舍にあるものゝ三分の一の語數も持つてゐないのである。單なる全國標準語化の前提としてゞなくとも、標準語そのものを豐富にすることは、獨立して目今の急務である。
 我々の晴の言葉の機會はこの通り激増し、打明けたいと思ふ内の心持は、段々と細かくなつて行くのに、これを表すべき單語は元のまゝといひたいが、寧ろ安心のならぬ新語に取つて代られて、百年前に較べると大分減つてゐる。これではもう良い文學も新鮮なる放送も期待することが出來ない。
 俗語の輕蔑といふ古い癖が拔け切らぬ爲もあるが、一つには方言を度外視してゐた、永年の無識が祟つてゐるのである。將來選定せらるべき標準語の候補者の多くが、今いふ方言の中にまだ埋もれてゐることを、事實で證明し得る人は我々の他には無い。それを怠つてゐて、たゞ國語學者の方言に冷淡なることを責めるのは、少しく臭い者身知らずの感があると思ふ。
 
(528)  言語生活の指導
 
     一
 
 標準語の制定、又は制度化された標準語といふ言葉は、誰かゞもう古い頃から口にして居たらしく、今は一部の人の常識となつて居るやうであるが、實は甚だ疑はしい言葉である。標準語は果して制定することが出來るか、又は制定する必要があるか、又は制定した結果はよくなるか、等々の疑問を私は抱いて居る。といふよりも寧ろ否といふ答をほゞ用意して居る。是が恐らくは肝要なる一つの論點であらう。しかも現在は積極の論を、はつきりと打立てゝ居る人が少ないのだから、我々としては甚だ討議がしにくい。果して暗黙のうちに世論は變つたと解してよいかどうか。それを一つ討究して見たい。
 以前の標準語制定論は、當然に官府權力の發勤を豫期して居た。それが不可能であつたことは、時がほゞ十分に證明してくれたと私は思ふ。あれ程騷いで四十年、今以て二三先輩の御苦勞を些しでも輕めることが出來ないのは、則ち元來が出來ない相談であつた證據と、言ふことが出來ないであらうか。皮肉でも何でも無く、村の學校の子供らの訛りと方言は、?臨檢の監督官を驚かし、しかも一方にはたゞ世の中の修業によつて、いつの間にか相應に都市に近い物言ひをする成人男女を見かける。乃ち又制定の全く不必要だつた實證でもあるかと思ふ。
 ところが新らしい教育家の説く所では、制定は群の力、社會が共同してよい言葉を流行らせることを意味するかと(529)思はれるから、是には服從も無く強制は固より無く、言はゞ「制定」といふ一つの單語の假借的用法に過ぎない。前期の所謂方言撲滅運動者の解釋からは遠く、却つて眼前普通の進行?態と近いのである。強ひて差別を立てるならば、いはゆる制定説には統一への明かな方向意識があるとも言へようが、大よそ日本に東隅と西隅と、互ひに理解し得ない言葉を使つて居た方がよいと、思つて居た者は昔から無かつたらうのみか、是を已むを得ないことゝして、改良を斷念して居たと認むべき事實も無い。雙方歩み合ふならば多數人のつかふ用語に、上下二通りがあるならば良い生活をして居る人々の言葉に、附いて行かうとするのも一般の方針であつた。たゞ其必要が交通の繁くなつた近世のやうに痛切で無かつたから、其方向への變化が以前は遲々として居たといふのみだと思ふ。打棄てゝ置いても此傾向は累増すべき時代が來て居るのである。其證據には、標準語でも何でも無いたゞの言葉を、好みや便宜の爲に學ばうとする者さへ多いのである。口先ばかりの眞似は心にも無いことを言ふ危險がある。それを警戒する方が寧ろ必要だつた程に、急激に國語は統一に向つて奔つて居る。掛聲ばかりの標準語制定は、徒らに奔馬に鞭うつて、しかも目標を指示し得ざる弱味もあつた。出來れば試みに一度制定して見るのもよいが、今更制定といふ語の内容を入れ替へて、一段とこの茫漠たる觀念を擴張するだけは、何と考へて見ても不利益な話だと思ふ。
 
     二
 
 或は小學讀本によつて、標準語の制定をしおほせたやうにいふ人もあらうが、是は氣休めの甚だしきものである。此點は最近に當局も言明して居るから、もはや讀本を讀ませて居れば、おのづから標準語は教育し得ると思ふ人もあるまいが、以前は讀本の通りに物いふことが、標準語だと誤解した人が遠地にはあつた。さう誤解したのも、他に御手本を見せることが出來なかつたからである。文章は過去數百年に亙つて、わざと鄙人の語を寫生しようとしたもの以外、すべて全國一律の語を以て綴られて居る(萬葉集の東歌を反證に擧げてはいけない。あれは口言葉である。文(530)章ではない)。關西の方面には、二三の中央に知られない文章用語があるといふが、それも忘れ殘り、即ち一つ前の世の標準語であつた。沖繩のやうな著しい口語の地方差のあつた地方でも、文書記録には、東國人が讀んで、不明な點などは殆と無い。今頃文章語の標準を示す必要などは、絶對に有り得ないのである。獨り文章のみと言はず、改まつた口上といふものにも、國を一貫した統一がもとはあつた。東北の或代議士は、緊急をチンキュウと謂つて忽ち笑はれた。乃ち多數がさう言はず、又は言ふまいと努めて居た證據である。不用意の間に方言はまじるかも知らぬが、今日は訛りや調子までも、南北一樣を以て本則と認められて居る。昔も謠ひや淨瑠璃の口調を以て、意思を通じたといふ話があるが、かたり物の口言葉なども亦方言を超越しようとして居る。尋常朝夕の自然の會話だけが、今後標準語の御世話にならなければならぬのである。近年の文章は進んで口言葉に近づかうとしては居るが、筆で書かうとするには必然に辭句の選擇があるのみならず、又所謂樣式の固定がある。耳で聽き流される口言葉ほど、強く濃く細かく印象づけようとせずとも、文章は何度も見返すから含蓄が埋もれてしまはず、又餘情などゝ呼ばるゝ聯想が文字には附いて居て、日本人は殊にそれを感ずるに敏である。從つて踏襲(擬古)が便利がられ、古い文句が固定しやすく、同時に省略が可能になり又氣が利いて居ると認められがちなのである。口言葉の語彙量に比べて、この方は遙かに少ない數で用を辨じて居る。假に聽手が人生の甘酸を味はひ盡した壯老男女であらうとも、この書かれたものもしくは演説の語だけを知つて居れば、それで日常の用が足りるといふわけには行かない。ましてや讀本は少年にわかるのを限度に、大よそ世渡りの波風とは縁の遠い、やゝ一方に片よつた言葉のみを排列して書いたものである。それで標準語を制定したことに、ならうなどゝは、誰だつて考へることが出來ない。だから學校を出るや否や、早速講談本のやうな容易なものから、急いで亂雜なる彼等の標準語を見つけ出さうとし、それさへも滿足に血になり肉となることは望めないのである。書物に標準語を載せて有るといふが如き、氣休めは有害なものにならうとして居る。だから標準語の制定は、是からは教師の口によつて爲し遂げられるやうに言ふことは、制定といふ言葉使ひは當を得ないけれど(531)も、現在の?態としては當つて居る。たゞその教師の標準語が、どうして養成せられ又は指導せられるかといふ點まで考へて行くと、結局日本の國語教育の組織は、今ある何人のプランよりも以上の、もつと根本的な大改革を必要とするといふ結論になるのである。
 
     三
 
 その大きな目的の爲に、先づ明確にして置きたい點が二三ある。人によつては標準語は抽象的なものだとも、又は觀念的な存在だとも謂つて居る者があるのを見ると、私は些しばかり心配になる。もしか標準語には完成といふものが想像せられ、その理想の究竟地に於ては、是が又一つの國語の系統となるものゝやうに、豫測してでも居るのではないか。さういふことは有るわけのものでないのである。以前東京語とか上方語とかいふ名稱を、さも/\アイヌ語オロッコ語などゝ同列らしく、用ゐて居たのが惡かつたのである。學問の上ではこの二種の用法には紛れもない境目がある。どんな隔絶した邊土の日本語どうしでも、日本語である限りは竝べ比べて見ると、多くの明かな一致がある。松竹梅犬猫等の昔からの單語には、稀々にも方言を拾ひ出すLとはむつかしく、語法の中でも疑ひの何・いづれ、否定のぬ・ないを始めとして、絶對に異なる形を存せず、聽いて見れば皆わかるものが幾らもある。方言は要するに其中の異例・舊式等が、寧ろ尋常の文句の間に挿まるから耳に付くのである。二種三種の事物の名や表現の形式の中で、土地の好みが片より又は癖になつて、末には他のものを忘れるといふこともあらうが、口では使はぬが耳では理解するといふ言葉は、元から多くあり、又現在も増加して居る。始めから一致して居る部分に、標準語の有り得ないのは當り前で、つまり標準語は國語の一部分の名であり、それ故に又方言と對立するのである。我々の國語の今一つの地方差は、海邊にしか入用の無いもの、山の獵人しか使はぬ語、是は他の地に無いから方言として珍しがられるが、無くすることは出來ても所謂匡正は不可能である。日本の田舍人は必ずしも感覺が粗笨でない。それを表示する形容詞(532)は土地毎に多く、殊に孤立割據の時代に新作したために、それが折々は互ひにくひちがつて居る。首都の中流の家庭なるものが、必要で無い故にもつて居ない言葉は、全國から集めれば百でも百五十でもある。それを場合に應じ又相手によつて、各自が活用する音抑揚や語結合、其他あらゆる表出の變化は、短時間には擧げきれない。標準語であるが故に必ず其全部を置き換へて、何とか方言で無い言ひ方をしなければならぬとしたら、假にハサ・ハセを「稻を架ける木」といふ類の、最も間の拔けた對譯までを採用することにしても、いつの世になつても標準語化の完成は望めないのが當り前である。
 概念の標準語といふものに、制定を説くことが既に誤つて居ると思ふ。個々の單語なり句形なり、又發音の最も普通な方式なりは、それよりもこちらが聽きよい、又は多數が是だから此方にしようといふことは出來る。さうして又やゝ早過ぎると氣遣ふほどに、人はよく他人の眞似をする。しかしそれは選擇であつて遵奉では無いのである。ましてやまだどう決してよいか、何と言ふのが當つて居るかもきまらず、果して改めねばならぬか否かさへ豫想し得られぬものを、制定するなどゝいふことが出來ると思つて居るのだらうか。「制定せられつゝ普及せられつゝ」と謂つた人があるが、是は全くをかしな文句で、恰も赤ん坊が生れつゝ這ひまはりつゝあるといふやうなもので、たゞ善意に解すれば是は標準語が部分的のものであり、文學もしくは都會の言葉が、干渉し得ない部分が常に有ることを、承認した意味と取ることも出來る。さうだとすれば自分などの見る所と同じで、單に制定などゝ言はうとするだけがよくないのである。
 
     四
 
 言語の二重生活を我邦の免れ難い現象と認め、少なくとも指導者だけは、その二重生活に陷ることを奨勵するが如き、説をなす人の態度には感服できない。標準語はいつの世になつても、そんなことでは言語生活の全部をまかなふ(533)力を具へるだらうとは思はれない。少なくとも現在は、まだほんの片端だけしか教へ示されては居らぬのである。是でもし人が二重生活を營むぺく強ひられるとしたら、その不幸不便は、外國語との二重生活に比べて、何層倍苦しいものかわかつたものでない。しかし幸ひなことには日本の大部分では、現實にさういふ目に遭つて居る者が僅かしか居ない。我々の知る限りでは、旅館とか、小賣商人とかの客商賣をして居る者が、旅人に對してはなるだけ標準語を使ひ、自分等相互の間では心安く、土地の語で話をして居るのを聽くが、是等とても精々一重半の生活である。といふわけは對外的にも幾分の方言を有し、對内的にももう澤山の東京語を採り入れて居るからで、是などは必要があつて特に改まつた言葉を使つて居るうちに、いつと無く仲間でもそれで通用する部分が増加するのである。別の語で言ふならば、最初は選擇に努力を要し、緊張した場合でないと出て來なかつた標準語が、馴れて容易に口に上るやうになつたので、古來の地方語の變化は、皆この過程を經て居るものと思ふ。だから多數のよそゆき語の入用で無い人々は、幾分か緩慢にたゞその一重生活を改良して行けばよかつたのである。
 この實驗は、注意すれば今からでも出來る。たとへは名古屋は二十年前まで、可なり特徴の多い方言を持つて居たが、寄留人口の増加と并行して、行つて見るたびにその特徴が消え又は微弱になり、其窪みを補填するものは東京語である。新舊の語句は融合して來て居る。捜せば絶無でもあるまいが、二通りの物言ひを、使ひわけて居る者は私などは出くはしたことが無い。長州の萩の人は、東京に出て來て居る者が却つて頑強に郷語を保持しようとするに反して、或は退休者が多い爲か、土地には多量の東京人語が入つて居る。それも單なる混和であつて、今ではいづれかの一方で話をせよと言はれたら困る人ばかりだと思ふ。之に反して鹿兒島は寧ろ二重生活が自慢であつた。我々に對してはほゞ滿足な東京辯を操る人たちが、ドシと話をして居るのを聽くと、いつ迄も故郷の語を保有して居た。但しそれが郷人の判斷する所、どれほどまで純粋性をもつて居るかは私には言はれないが、最近に彼地に遊んだ際、試みに舊友に頼んで、土地の語を以て歡迎の辭を述べて貰つたが、少なくとも演説口調には、もう澤山の標準語のまじるこ(534)とを免れなかつたやうである。
 私は明治の末年以來、前後六回ほど鹿兒島縣を旅行し、毎回十數日を費して居るが、行くたびに言葉のわかり易くなつて居ることを感ずるのは、必ずしも耳の習熟では無いと思つて居る。縣内の汽車電車で人の談話して居るのを側聽すると、職業にはよらず、大體に老人の言葉は古風で、之に對する若い男女の物言ひには標準語が多い。是でも相手は既にわかるのだから、もう二重生活では無いのである。ところが女子師範學校に校長を訪問して、得た答は又格別であつた。是は十年あまり前の話だから、今は又?況を異にして居るかも知れないが、あの頃の女學生の言語生活は、三重だといふことであつた。教室の中では標準語のみである。のみといふのは少々心もとないが、とにかく薩摩辯は使はうとしない。家に歸つて行くと母や祖母が笑ひ、中には喜ばぬ者さへあるので、家庭では純鹿兒島語で物をいふことが公然の事實であつた。但しこの純といふのもやはり少しく怪しい。第三には廊下運動場その他娘たちだけの仲間では、兩方の言葉の口から出やすいもの、即ち標方混合の語を、勝手に使つて居るからをかしいといふことであつたが、私は今に全部がこれになるでせうねと、校長さんと話して別れて來た。さうして日本の地方都市の、現在の國語といふのは大體に是であつた。たゞ其程度が土地と家庭によつて前後へ進退して居る。學校の職員も毎日の生活に、二つの使ひわけをして居る者は、さう普通にはあるまいと思ふが、讀者諸君は果して多くの反證を擧げ得られるであらうかどうか。
 
     五
 
 言語二重生活の惱みを、したゝかに味つて居たのは沖繩地方の教員であつた。ところが是は全く特殊なる?勢の下に、今や急激に一重に復歸しようとして居る。此顛末を自分の知つて居るだけ、報告して置くのは批判ではない。單に標準語教育に關する中央人の考へ方を、再檢討する爲の參考といふに過ぎぬのである。
(535) 沖縄の方言量は他の府縣に比べるとぐつと多い。國語の變化分岐が早い頃に始まつて、雙方のちがひ方がよほど縁遠く、話主自らにも由來と關聯を心付かぬものが幾らもあり、其中から僅かな一致を拾ひ揚げることが、最近までの日琉同祖論者の事業であつた。世間は素より島々の住民までが、或は日本語とは別の國語かと思つて居た。系統を辿つて自他の語形を比定することが困難で、改めるとすれば全部改めてしまはねばならぬやうに、考へる人ばかり多くなつて居た。そこへもつて來て、朝鮮半島の國語普及政策の、やゝ筋違ひの追隨が始まつたのである。
 二十年ほど前に私が此島を訪れた際にも、新聞その他の新文物の影響から、少なくとも首里・那覇の二都市では、古い單語や語法の多くが失はれ、標準語が其あとに補填せられて居るのを知つた。古いと謂つても六百年前の歌謠が、既に常人には讀み解き難くなり、新たに其代りに生れたと思はれる方言は少なかつた。自然に放任して置いても一歩づゝ、いはゆる大和口と接近して來ることは確かであつたが、私などは寧ろ學校教育の二重言語が、幾分か沖繩口の舊形を保存することを悦んだ位であつて、それ程にもはかなく昔の物言ひが、研究の時間も無しに消え去らうとして居たのである。國語を習得する少青年の負擔は無論重かつた。たとへば多良間島の一秀才は、小學校を平良の町に卒業して先づ宮古島の語を學び、師範學校時代を首里で送つて、こゝで沖繩本島語と標準語とを學んだ。四つの言葉は入り交りには用ゐられない。二重どころか四重の言語生活をさへした者があるのである。さういふ中でも三つの島の言葉は、少し注意すれば聯絡が見出され、法則も簡單で理解に便であるが、所謂國語だけは學ぶ手段が限られて居た。教科書その他の若干の印刷物、他府縣から來て居る先生の口にする言葉以外には、いくら知らうとしても材料を得る途が無い。從つて使はれぬ部分といふものが多いのである。文字に書いたものを讀めば、諒解に苦しむやうな點は少しも無いといふ沖繩人ですらも、却つて平凡な物の名や形容詞を使ひ得ず、又は始めから知つて居ない例が多く、さうして一般に口がやゝ遲い。如何に彼等が母の語を抑制して、まじりの無い標準語を使ふ爲に、餘分の努力を課せられて居たかゞ是でよくわかる。だからもし二重生活論者の已むを得ずと謂ふものが、斯んな?態を豫想して居るので(536)あつたら、私は是非ともこの沖繩人の苦しみを、片端なりとも知つてから後に、もう一度考へ直してもらひたかつたのである。
 ところが現在のあの島の指導者たちは、言語の二重生活の煩累を認めることは私たちと同じでも、之に對處する方策は全く別であつて、非常時民心の緊縮を機會に、一擧に標準語化の實を収めようとして居るらしい。この計畫は、一切の民間用語がすべて適當なる對譯をもち、且つ求むればすぐ得られるといふ推測から出て居る。果してさういふ希望が空しいものでないか否か。今はちやうど又觀察の潮どきであつて、氣の毒な話だが、沖繩はその實驗臺の役を勤めて居るのである。たしかな人から聽いた話では、最近の教育方針は中小のすべての學校生徒に、教室以外でも今までの物言ひを許さない。即ち鹿兒島縣でいふ第三の言語、廊下運動場の自由な選擇をさへ制限して居る。そればかりならよいが、村々をして自發的に決議をさせ、兒童の家庭でも沖繩語を使はせまいとして居る處が多い。島には昔から黒札といふ仕法があつて、次の違犯者を摘發した功によつて、我身の責任を解除してもらふといふ、その組織を此禁止の上にも利用して居るとは情けない話である。女の學校などでは、おしやべりといふ者が丸で無くなつた。何か言はうとすれば、自然に違犯になるからである。今の所謂標準語には、老幼の差は少し設けてあるが、男女の言葉の區別といふものを設けて居ない。今まで女らしい物言ひをして居た者が、最初に先づ用語の缺乏に行き詰まるのである。それでは致し方が無いから、戀愛小説、映畫劇の臺本といふやうなものを、うんと讀ませるのだねと言つては見たが、是が又讀んで見てもまだ十分には情が映らぬらしい。娘に讀本の範圍内の言語生活をさせるといふことは、何と考へても不自然である。だから教場だけでは淀みなく答へをする子でも、寄宿舍の中では黙りこくつてしよんぼりとして居る。たま/\町の子などの勇敢な者は、何かを言ふけれども、句の尻毎に、すべてヨーといふ一音を添へて、其音の高低長短によつて、内の感動を調節しようとして居るといふ話。私は之を聽いて胸が痛くなり、一方には又全國の標準語運動なるものが、何の原因かは知らずとにかくに故障が多くて、今なほ聲を大にする人々の理想に、(537)接近せずに居ることを幸福だとも感じたのである。
 
     六
 
 我々はほんの八年か十年の間、注意深くこの沖繩の國語政策の成績を觀察して居ることによつて、願うても無い一つの實驗をすることが出來る。しかし是までも度々苦い經驗を甞めて居ることは、そうら御覽なさいと言つてよい時分には、もう以前の責任者は一人も居らず、たま/\殘つて居ても知らぬ顔をして居る。だから杞憂のやうに見えても豫言をする方がよいのである。ましてや少しでも見損ひかと思はれる點に心付けば、前以てそれを論じて置くことが、人を無用に苦勞させぬだけでも親切である。多くの標準語普及論者の説くことは一本調子で、殆と取付く島も無いやうであつたが、幸ひに新しい教育者の言ふことには手掛りがある。殊に實行の衝に當る人々は、みんな惱んで居るのである。もう一度とくと方言處理策の未來を、勘考して見るのは正によい機會なのである。
 それから今一つ、私などの危く思ふことは、標準語に二つの類別があるといふ説である。一方に制定せられたる觀念的標準語、他方生きた言葉として具體的に體驗せられたる標準語といふものを考へると言つた人があるが、二つが全く一致するものなら分けるのはむだであり、雙方矛盾し抵觸することもあり得るとすれば、どちらが本物ですかと問はれるのも自然である。是は私等から見ればたゞ文字の用法の不當に基づくもので、前の「標準語」は一國の言語の外觀が今よりもよくなつた?態の絶稱であり、強ひて短い名がほしければ改良國語とでも謂つておいてよいものである。之に對して一方の標準語は、國語の部分の一つ一つの名であつた。始めて上田萬年先生が標準語といふ譯字を掲げられた時の用法も、調べて見ることが出來ようかと思ふ。方言の無いところに、標準語といふものは考へやうが無い。地方の物の言ひ方が群立對立して、どれによつてよいかと迷ふ場合に、こゝに標準語の必要もあり、之を打立てる意義も有つたのだから、其比較は個々の單語もしくは表出法に於てのみ可能であつた。あの人は標準語で物が言(538)へないといふのは、たゞ若干の方言が拔けずに居るといふ迄で、固より英語がしやべれないなどゝいふのと同日の談ではなかつたのである。それを標準語といふ一種別系統の日本語でもあるかの如く、思ふに至つたのは俗習であつて、正確にいふならば「標準語を多く用ゐる國語」なのである。殆と方言といふものを意識しない東京人の物言ひなどは、右の誤用の「標準語」、即ちいはゆる觀念上の標準語と混同せられ易いが、實は本人たち自らも、是でもうきまつたと思つて居ない證據には、明治以來どし/\と改まり又すたれ忘れられて居る部分があり、しかも是を構成する狹義の標準語も、概してよい方へではあらうが、絶えず變動して安定しないのである。
 自分などの例證し得る限りでは、個々のこの標準語の權威、もしくは統御力とも名づくべきものには、著しい差等がある。他にも理由は勿論あるが、主としては之に由つて征服せらるべき方言の弱さ根強さ、又は土地の生活と因縁の深さ淺さが、一種の對抗性を加減して居るのだと思ふ。たとへば此方が古い又は正しいと信ずる心、しかとは意識せぬ適切さ又は耳の快さ、單に使ひなれたから止められぬといふものも、上方人などには多からう。彼等は便利に敏感だといふのみで、もと/\東人の舌だみたる物言ひを、渇仰し又は甘心しては居らぬのである。それよりも力強いものはなほ二つ、與へられたる標準語對譯が、ひたと同じ内容に當らぬこと、もしくは丸々代るべきものを與へられぬこと、それが進んだ文化人の感覺ではよくわかるのである。斯ういふ場合には、よほど強ひられぬと元からの語を捨てない。それから今一つは語調、素人には判らないアクセントなどゝいふ西洋語で呼ばるゝもの、是は本氣にせき込んで物いふ時に殊によく現はれるもので、之を直してかゝらうとすると表現の熱意がさめ、言葉の力が弱るから、大切な時だけは少なくとも之を省みない。それで單語はたしかに標準語でありながら、なまりで東北だ四國だといふことのよくわかる人ばかり多いのである。なまじ有りもせぬ觀念上の標準語などを胸に描き、それが制定の力で橋を渡り峠を越えるが如く、向ふへ移れるやうに思ふ人が有るばかりに、現に是ほどまで國内の言葉は互ひに近接しかゝつて居るに拘らず、なほ餘計な御世話を燒く者が絶えないのである。標準語を正しいものゝ一團のかたまりと見るこ(539)とは、誤りであるだけで無く、弊害が既に現れて居る。沖繩の子女はその無益なる犠牲であつた。よもやこの抽象的なる觀念上の標準語を、規準とするやうにと念じて居る人は、若い教育者の中にはもうあるまい。規準とはむつかしい語であるが、口言葉でいへば御手本のことである。抽象的なるものを御手本とすることは、哲學者にでも恐らくは出來まい。
 
     七
 
 終りに今一つだけ、美と整正と明解といふことについて述べたい。この三つを國語改良の目標として掲げることは大賛成だが、是にも緩急の差等があることを認めなければならぬ。もし明解を「互ひに言はんと欲する所を知り悉す」ことゝ解すれば、是だけが國語教育の殆と唯一の實用であり、標準語といふ語の存在理由も主としてはこゝに在る。之に對して他の二つは、言はゞ主觀であり程度問題であつて、いつになつても實は完成が來ないと共に、判斷力を養つてやらぬとけちな所でも滿足する。現に今日は美でないものを美と感じ、亂雜至極のものを整正と妄信して、何でも眞似ようとする氣風が強く、自信も無いものを人に押賣しようとする指導者さへ出來て居るのである。此點から見ても、標準語を概念の對象物たるに止めず、その一つ一つを取出して批判し檢討し、殊に必要にして未だ備はらざるものを補充しなければならぬ。捉へることも出來ない「東京の中流家庭」などを言ひ拔けにして置いて、てん/”\が自分の使ひつけたものを、手本として示すやうな我儘を續けて居たら、統一どころか亂雜は益加はるであらう。ましてや其爲にたとへ僅かでも明解を犠牲にさせ、人を一部分の?聾にするやうな結果になつたら、其責任の歸する所は、結局は空疎なる標準語論を闘はせて居る人たちといふことになるであらう。戒慎しなければならぬ。
 然らば一體どうするがよいか。私は現代國語道に於て最も缺けたるもの、即ち各人の用語精選を、奨勵し助長することを急務とする。個々の標準語の存在を指示し、必要とあらば急いで之を増加することも妨げないが、之を裸で知(540)つたといふだけでは自由なる採用は出來ない。必ず何度でも適切なる場合に、使つて聽かせなければ相手には體驗にならない。それも文章でも書くやうな飜譯作業としてゞなく、常から自分でもその言葉で活きなければ力が無い。從つて教員の二重生活といふものを、自分は我慢し得ないのである。先生が努力してよそ行きにしか使はぬ語を、強ひて生徒に言はせてもそれは口眞似であり、身になり血にならぬのは當り前ではあるまいか。ところが今までは其口眞似を以て滿足して居た。それが習癖となつて、世の中へ出て後も、少しく新らしい語を聽けば皆模倣せんとし、心にも無いことを口にする者が多くなり、素朴正直なる人々は却つていつ迄も、親讓りの土語を守らうとして居る。平等なる日本人の問に口の利ける者と利けない者との二階級を作つて、實際の政治は今もなほ寡頭政治である。斯うするつもりで普通教育の中に、國語を大切な課目と定められたのでは無かつた。つまりまだ效果が擧がつて居ないのである。
 原因はほゞ判つて居るから、改めることも出來ると思ふ。同じ一つの物でも言ひ方が幾つかあることに心付かせ、土地ではどちらを使つても通ずるが(又は方言の方が早くわかるが)、よその人たちにはそれでは通じないと、謂つただけでもう十分かと思ふ。或はこちらの方が音がきれいだ、他の言葉と紛れなくてよいと、いふ位のことは教へてもよし、又さうせずとも先生が毎日使ひ、又は東京でさういふと知れば、その後は群が自ら判斷するであらう。書物にも斯う書いてあるといふことは、昔から有力な參考ではあつたが、口言葉が往々之に背いて、氣儘な方へ行くのは、一方が固定するからである。現在はその固定はやゝ解けた代りに、新たに又一つの惡いことが出來た。文章を讀み手に判つて貰はうとするには、用語を既に知られて居る口言葉の中から選擇するより他は無い。それを今日は普通で無い古書の中から採り、又はどこにも無いものを自分でこしらへて、相手の合意も求めずに勝手に使つて居る。それを又自分だけの知らぬ語かと思つて、讀者の苦勞するさまは見る目も痛はしい。或は新聞などゝいふ忙しい文章が仕事をする爲か、この選擇が毎度誤つて居り、一旦使ひ出すとそればかりやたらに連用する。乃ち流行語と稱して今にな(541)くなるにきまつて居る語の爲に、餘計な暗記をさせられることが多いのである。教科書の如きはあれほどの時と人とを掛けて居るのだが、やはり口言葉としては使へないものが少しはある。あれを標準語の手本と見られては困るといふ當局者の言葉はよい注意だと思ふ。
 國語が全國の隅々に亙つて、すつかり同じになるといふことは朗らかな空想である。少しは其爲には苦勞をしてもよいといふ考へは誰でも持つて居る。しかし現在の完備に近い交通?態を以てしても、それが出現を期することは先づ六つかしい。折角呑込んでしまつた頃には、片方には又新たに加はり生れる部分があるからである。今くらゐでもう十分だと迄は言はぬが、少しでも段々近よつて來ることを、喜ばしいと考へることは必要である。多分の標準語が本により又は旅人によつて地方に知られ、一重の言語生活が年増しに標準單語の數を増して來たら、責めてはそれを教育者の手柄と認めるやうにしなければならぬ。ところが現在の實?は、學校で教はつたものを持傳へた國民は少なく、大きくなつてから粗末な選擇、否むしろ無選擇の追隨によつて、地方の言葉は東京化しかゝつて居るのである。尊敬すべき中流の家庭とやらから、その源を引いて居るともきまらぬのである。茲に於てか私はもう一度、正しい選擇をするだけの能力を、少青年のうちから養つてやることを主張するのである。此點から見ると、限られた標準語を指定して、何かそれを役に立たせるやうな、能因法師式努力をさせることは考へものだと思つて居る。寧ろ出來次第に耳で聽くだけの語彙を豐富にして置いて、其中から是がよいと思ふものを拾つて、自發的に用ゐさせるやうにすれば、兒童の頭の練習にもなつて興味を添へ、一方には又教師が實例によつて指導する便宜もある。是は暗記で無く自然の印象に從ふのだから、必ずしも心力の誅求にもなるまいし、又好むと好まぬとに拘らず、今日の地方言語の實?はそれである。以前は選擇などの餘地は無かつた土地でも、今日は既にそれが怠るべからざるものとなつて居る。
 
(542)     八
 
 外國に在る同胞、又は異民族に對する日本語はどうするかといふ問題が殘る。今日標準語の論議が新たに燃え立つたのも、有りやうはこの實地の必要から起つたので、自分等はたゞ此機會を利用したに過ぎぬのだが、斯ういふさし掛つた眼前の必要を目途に立てゝ、一國言語教育の方針をとやかくいふのは無理である。標準語は本來地方區々の?にある方言に對立させた言葉である。丸きり日本語を知らぬ人たちには、標準語も何もないので、標準語を彼等に教へたいといふ注文が既に、豆腐屋へ味噌を買ひに來るやうなものである。彼等に供與する日本語としては、よいも惡いも選擇は一つしか無い。即ち文章に書かれる日本語と最も近く、比較的多くの日本人が話し、且つ標準語の大部分が最も安全に應用せられて居ると見るべき、東京人の語を教へるの他は無いのである。之を半分しか知らない田舍人が、教へに行かうとするならば、前以て準備せしむべく、その東京人語が山の手と下町、古風と新家庭でちがつて居て、もしも取捨に迷ふといふならば、乃ち其爲には委員會でも何でも設けて動かぬ所を決定すべきである。しかし其序を以て、現に日本語をあやつつて居る六千餘萬人に、そこで制定したものを押付けようといふのだつたら、それはむだな話だから見合はせた方がよいと思ふ。
 
(543)  是からの國語教育
 
     一
 
 このたびの大敗戰の責任は、一半は國民自身にも在るといふことを言はれて、いやな氣特にはなるのだが、まだはつきりと是々の點に於てと、指摘するだけの勇氣ある人が無い爲に、我々は是非ともそれに反對しようといふ氣にはならない。寧ろさうかも知れぬと、小さくうなづいて居る者が多いやうな感じもする。斯ういふ問題は、恐らくは次の代の人が裁定してよいものであらう。しかし單なる過去の原因ならば、どんなに大きくともそれはたゞ史學の興味に止まる。問題はなほ將來に跡を曳くもの、即ち法制や軍部組織などのやうに、この際を期として大變更を加へられるもの以外の、今後も今まで通り續けて行かうとして居るものゝ中に在つて、それだけは我々も干與して、考へて見、又決定して置かなければならぬかと思ふ。
 國民といふからには、少數特殊の人々の心掛けや行動をさすのではない。從來我々が久しい間、一致協力して維持して來た制度組織、たとへば我邦の普通教育の方式といつたやうなものに、もしもその禍根が一部でも潜んで居たといふ疑ひが有るとしたら、是は百年世論の定まる日を、待つて居ることは到底許されぬのである。果してこの方面には些しの氣遣ひも無いかどうか。茲だけは元のまゝ、そつとして置いてもよいかどうか。我々は今までのやり方を續けて行くには、大抵大丈夫と思つても一通り、それも外國人などの氣の付かぬ部面を、やゝ綿密すぎる程に、檢討し(544)て見た上で安心することにしなければならない。
 國語教育學會の熱情を籠めたる再起計畫の、底の目的はこゝに在るものと私だけは拜察して居る。もしさうで無ければ、この十數年來、筆に言葉に止めども無く、殆と無益に近い杞憂を表白して居た柳田某の如きが、最初に引張り出されて話をさせられる筈が無いからである。まちがつて居るかも知れぬが私だけは其つもりで、心の奧に有るものを包み隱す所無く述べて見ようと思ふ。
 
     二
 
 終戰後の教育雜誌などをざつと見渡しても、國語教育の問題に就ては、當事者は一般に、歴史教育に關して苦悶するほどには苦悶して居ない。どうやら今までの式で進んで行つてもよからうと、考へて居るのではないかとも想像せられる。殊に數年前の學校改革に、話方の科目が新たに掲げられながら、實施方法もまだ提示せられず、中ぶらりんになつて居る事實と見合せて、この?勢が途方も無く私には氣になるのである。
 たつた一言でこの七十年間の經過を批評するならば、理解の國語教育のみは著しく進んだ。或は寧ろ進み過ぎて居る。之に反して表現の國語教育は、今はまだちつとも行はれて居ない。と私は見て居るのである。この二つのものゝ重要性は、もとは五分五分どころか、九と一との割合であつてもよい時代があつた。黙つて合點々々してくれる國民は、或は理想の國民であつた昔も有る。しかし今日は普通選拳は徹底し、本は讀まずに居られる生活があつても、思つたことを言はずにすますことはもう出來なくなつた。もしも表現といふことを思慮の構成、即ち思ひ言葉、腹で使つて居る言葉にまで推し及ぼすならば、是は殆と言語生活の大半を占むるものである。是を棄てゝ置くといふことは教育機關としての大きな怠慢と言はねばならぬ。
 以前は學校以外の方法が、或程度までは備はつて居た。今日はそれが又衰へて居る。學枚より他には之を導く手段(545)が無いのである。それにも拘らず、最近の國語運動なるものゝ主流は、まだ依然として解釋學の手先であり、どうか讀みやすく書いてくれ、覺えやすい字を使つてくれといふ方に力を入れ、個々の語るべき人、書くべき人の爲には考へようとして居ない。假に讀方聽取方の大切さは、今日に於て更に加はつたとしても、それを理由として人を?にして置いてよいといふことは言へない。さう思つて居たのでないとすれば、又一段と不手際な話である。
 ?といふ言葉は決して誇張でない、實際少しも物の言へない者を、幾らでもこしらへて居るのである。話術と文章道は零落したと言はうよりも、寧ろ始めから國民の八十%には、與へようとしなかつたのである。言葉を口から外へ出すのは勇氣の問題であらうが、その勇氣を鈍らせることには、國語教育が手傳をして居る。それだけならまだ辛抱も出來るかも知らぬが、それがなほ一歩奧に進んで、是では心の中の考へ又は感じを結んで言葉にする能力を、抑壓するのではないかとさへ私は心配する。斯んな事をして置けば、民主主義などは型ばかりで、事實は首領政治・煽動政治になるのも已むを得ない。だから昔から飛んでも無い方角へ、片よつてばかり居たのだとも言ひ得る。
 
     三
 
 過去七十年の普通教育が、結局は今日の六つかしい文章を普通にし、それを判りやすく學びやすくする爲に、又大きな運動を起す必要を生じたといふことは、其事自身が國語教育のこの方面には全く無能だつたことを表白して居る。今度の大戰爭には多數の青年壯年が家郷を離れ、平生手紙を書かぬ人たちも大分書いたが、其手紙にはきまつた型のものしか無く、個性などは少しも出て居なかつた。集めて殘して置かうとした人たちもすぐに中止してしまつた。決して檢閲の嚴しかつた爲ばかりでない。教へてもらはなければどう書いてよいかを知らなかつた者が多いのである。さうして一方には廣告などは少しもしないで、戰時用文章といふ類の手紙文範が物すごく賣れて居たのである。國内の手紙の型といふものがきまつてしまつた。私も孫や其年頃の學校兒量から、隨分澤山の手紙を受取るが、何べん來(546)ても皆同じもの、兵隊さんへの慰問文なども、變化は恐らくは氏名だけであつたらう。ちやうど自分等の小學校で、記事文といへば、この日天氣晴朗、もしくは紙と木とにて造りと書いたのも皆同じことで、それは平凡以下の愚かしいことであつた。全國の國語能力は斯んな段階に於て均一し且つ永續して居る。一體どうするつもりなのかと私は言ひたい。
 後世から見ても、又他國から見ても、文章は國の文化を測定せしめる主要なる尺度である。それが今日の如く一部は生硬晦澁、他の大部分は千篇一律、殆と國語に活きて居るとは言はれない姿を示すのは、反省して見なければならない。學者の文章の六つかしいのは、もとは或は讀者層の限定、是が判る位の人でなければ、讀んでもらはずとよろしいといふ高い誇りから來て居たかもしれない。少なくともさういふ風に推測して、志のある若者たちは、刻苦してその六つかしいものを理解しようとした。明治初年の多くの飜譯書などには、誤譯はあり文法のまちがひは算へ切れないにも拘らず、たゞそれだけを精讀して、えらくなつた人は幾らもあつた。其習慣が今もなほ殘つて、或は書く人に餘分の自由を與へたのみか、時としてはわざと難解の辭句を弄して、平凡を粉飾せんとする者をさへ生じたのである。もちろん其樣な愚かしい時代はやがて過ぎ去り、今日の文士の文章がさうであるやうに、少しでも多くの讀者を把へる目途から、出來るだけ平易に又感銘深く、表現しようとする者が出來ることゝ思ふが、それを促進する一つの條件としては、やはり今ある尋常の讀者の中に、判らぬものを判らぬといひ切る勇氣、あなたの文章は六つかし過ぎると、面と向つてゞも言ふことの出來る自信を、養成する必要があるのである。
 この勇氣と自信とを、或は國語教育の管轄の外である如く、思つて居る人はまだあるかも知らぬが、言葉は心の中に在るものを外に移し、しかも相手の心に屆くことを要件とするものだといふことを教へてもらつてさへ居れば、この樣な卑屈な曲從を忍ぶには及ばなかつたのである。それを怠つたが爲に、小賢しい者が、中味をよくも考へずに形ばかりを模倣して、心にも無いことを書くやうになるのである。速かに教育の方法を改めて、正しい表現の技術を授(547)與しなければ殘酷である。言文一致といふことはわかり切つた話だが、たゞ句の終りを、である・でありますにすることでは無い。名は口語體と稱して、つひぞ口語では聽いたことも無い文章を書くのは約束違反であり、その不一致の責は主として文の方に在ると言つてよいが、又一つには口言葉が、現在は非常に衰へても居るのである。口で毎日言ふ通りを書取つたのでは、實は讀むに堪へないから、文章が避けようとするのである。其まゝ文章に書き表はしても判るやうな物の言ひ方を、一人々々に先づ教へなければならない。三人や五人の慧敏なる兒童、たま/\勘どころを捉へてすぐに自分の言葉にし得るやうな者の書いたものを取囃して、全學級の誇りとするといふ態度を續けて居ては、ちやうど名士の出身を看板にするやうなもので、世の中からはちつとも御禮を言はない。多數の通常の子はやはり口眞似をし、手紙文範と首引をしなければならぬ。我々の問題とすべきは全體であり、少なくとも大多數である。しかも今ある教へ方が續く限り、彼等は表現の方面では先づ無教育のまゝで、世の中に出て行く結果になるだらう、と言つても言ひ過ぎではないと私は思ふ。
 
     四
 
 表現の國語教育は、どうしても話方から始めなければなるまい。話すのと同じ心持を以て筆を執り、一方には又話すのと同じ用語によつて、思惟することを教へなければならぬからである。この二つの階段に於て飜譯をする必要があるやうでは、正直な子供ほど口數が少なく、筆が鈍くなることを免れ難いであらう。この意味に於て今までの標準語普及法には弱點があつた。新らしい言葉が話主の腹の中に於て、用ゐられて居るかどうかを突留めようとしなかつたからである。空々しくともよいから是非口眞似をせよと勸めたからである。曾て東北の端々の小學校の教員たちが、方言文章を主張した動機については、いつまでも私は同情がもてる。今までは口に發する場合ばかり、斯ういふものだと教へるのだから、言はゞ摸倣の強制であつて、この位たよりないものは實はなかつたのである。斯ういふものゝ(548)役に立つのは儀式のときだけ、又は前々から支度の出來る表現だけで、この分は全國を統一するのもさして難事ではあるまいが、たゞそれでは一生の實際問題は、大抵は處理することが出來なかつたらう。
 日本は新時代の交通完備によつて、斯うしたよそ行きの言葉の入用が、急激に増加して來たことは事實にちがひないが、しかも東京・神戸のやうな寄合ひの大都會ですらも、決してそれだけでは毎日の生活は行はれて居ない。背後には亂雜なる土地の方言が生れかけて居るのみならず、折角のよそ行き語も頽廢して行くを免れない。嚴重なる意味に於ては、多くのよそ行き言葉はもう言葉でない。たとへば人が出逢つてコンチハといふなどはたゞ合圖のやうな掛聲で、今日はどうしたといふのか、もう知つて居ない人、考へて居ない人が多くなつて居る。響きがあるといふのみで、目禮も咲顔も擇ぶ所はないのである。幾ら通例とはいひながらも、斯んな意味を持たない符號の如きものゝ若干を與へただけで、もう世の中へ突出してしまひ、それで國語教育の目的は遂げたと、言はれるかどうかは大きな疑問である。
 學校は本來さういふ毎日の、いはゆる褻《け》の言葉までを教へる處でなかつたから、其用意が無いのだといふ理由は一應は成り立つ。しかし考へて見なければならぬことは、單に家庭や郷黨の教育力が、學校のある爲に著しく衰へて居るのみでなく、人を一國社會と結び付ける準備は、以前は必要を認められなかつたのである。殊に表現を以てあらゆる見ず知らずの同國人と接觸するといふことは、新たなる國家的要求であつて、是が完全に行はれなかつた結果は、徒らに少數の口達者な者をはびこらせて、既に色々の弊害を生じて居るのである。さうして又是には學校以外に、別に一つの機關を働かせる餘地は無い。兒童が物を覺えるに最も適當な時間の殆と全部を獨占して居るものが、當然にこの任務を引受くべきだと私は思ふ。新らしい用語であるが、この私の所謂思ひ言葉の教育は、當然に學校の管轄であり、又それを有效に實行する手段として、話方といふ科目は新たに創設せられたものと解すべきである。從つて又模倣と下ごしらへと暗記を專らとする一種の演奏を以て、話方教育の目的と見ることは誤りだと言はなければならな(549)い。
 
     五
 
 新らしい任務であるだけに、其方法に就ては色々の意見が有り得るが、大體の方針としては自然主義、出來るだけ是まで兒童の進み來つた路に、逆らはぬやうにするのがよいかと私は思ふ。今まで久しい年代の間、どういふ風にして國語は我々の身に附いて來たか。この歴史を尋ねて見ることは、今日でもさう困難なことではない。親が愛の餘りに幼ない者に、色々言はせて見る例も稀にはあるが、多數の場合には放任して彼等に自修させ、たゞ誤つた時だけに之を匡正してやるのが古來の方法であつた。その自修といふものには、現在は新舊二つの形があつて、之を併せ用ゐ、たゞ子供の氣質又は習慣によつて、どちらか一方への偏倚を見せて居るやうである。
 それをやゝ詳しく言つて見ると、第一のは古くから行はれて居たもので、兒童は折さへあれば大人の席に近づいて、じつと耳を澄ませてその言つて居る言葉を聽き、其うちから是は珍らしいと思ふものだけを拾ひ取る。使ふ必要が無ければ大きくなるまで使はないが、使はずとも度々聽くうちに段々と知識を濃くし、いつでも使ふことの出來るやうになつて居る。子供の質にもよるが、六囘か七囘、或はもつとそれ以上にも經驗を重ねて、始めて正しく印象づけられる。物に形があり擧動に定まつた方式のある名詞動詞は勿論、其場に無いものを想像の上に持つて來ようとする形容詞や、今まで氣づかなかつた色々の抽象の語まで、度々使はれるのを注意して居るうちに、いつかは意味を呑込んで、略まちがはずに使ひ得るやうになる。斯ういふ受身の自修だけでも、興味を抱いてさへ居れば可なりの語數をためて行くことが出來るので、今まであまり人の用ゐない名目だが、私だけは之を耳言葉又は聽き言葉と呼ぶことにして居る。數量の豐富といふことも望ましいが、もつと大切なのはこの知識の精確であるべきことで、舊時代の話方教育は格別にそれに力を入れ、かたこと・言ひそこなひを片端から笑ふことにして居た。
(550) 第二の方法は古くからも有つたか知らぬが、現代に入つて殊に盛んになつたやうに思はれる。即ち小兒はじつとして偶然の遭遇を待つて居らず、自ら進んでどういふ言葉が此世に存するかを探り出さうとする。さうして第一の受動的自修よりはやゝ早く、その耳言葉の貯蓄を充實しようとするのである。都會の生活に於ては、めつきり是が多くなつたやうに思ふが、子供は何か興味のある事物?態に接すると、やたらにアレナアニやドウシテやナニガ等を連發して、我々に物を言はせようとする。目的はその答へを得るといふよりも、斯ういふときに大人は如何なる言葉をどう使ふかを、先づ知つて置かうとするのである。うれしい知識慾だと私は思つて居る。
 この二通りの自修方法を、可なり敏活に活用することによつて、入學の頃になると、普通の兒童の耳言葉は、もう我々の想像以上に豐富になつて居る。だから小學校でもこの傾向を持續させて、成るたけ彼等が興味を以て聽かうとするものを、たゞ一囘きりで無く、何度かくりかへして聽かせ、又は其ドウシテやナアニ等が、おのづから連發せられることを期すべきである。強ひて理由を問はうとして居るのだと思はずともよいのである。
 
     六
 
 言葉に興味を抱かせる方法、是はよほど大きくなるまで、言葉を覺え込ませるのに有效なものと私は思つて居る。何萬といふほども有る日本の言葉を、一つ/\説いて居ては切りがあるまいなどゝ、すぐに難癖を付ける人が今日は多いが、目的は本來國語への關心を、今まで以上に深めるに在るのだから、片端から詰込まうといふのでは無い。何か珍らしく面白い若干の例示によつて、他の部分を類推し、もしくはもつと珍らしくもつと面白いことが、まだ有るかもしれぬと思はせることが出來ればよいのである。近頃書いて居るもので推測せられるであらう如く、私は成人にもなほこの方法を用ゐてよいとさへ考へて居る。つまりは國民にしか味はゝれぬ國語の面白み、言葉は次第に移り變るもの、又思ひちがひの有り得るもの、良くしようと思へば幾らでもよくなつて行くもの等、色々のことを實地に考(551)へさせるといふ目的で、是からもなほ此方法を試みて見ようとして居るので、その材料はなほ追々と積み重ねられ、國語の研究は之によつて、更に刺戟せられることを期して居る。
 とにかくに斯うして覺えた語は大抵は忘れない。少なくともいつか其語を聽き又は使ふ場合には、必ず思ひ出して自他の表現に注意するやうになる。讀方教育の是までの弊と言つてよいのは、事實内容を會得させるのに力を入れ、又は一句一文の美しさを説くに專らで、往々にして之を構成する個々の言葉を閑却した。諺その他の名文句を、丸ごと暗記させることも意味無しとはしないが、一方には國語が數多くの單語の巧妙なる組合せなることを説き落し、從つてその一つ/\に對する注意を薄くすることは、教育の目途には背いて居る。さういふ中でも名詞などは引離しても覺えられ、應用を妨げられる虞は先づあるまいが、動詞以下に至つてはいつでも分析が足りない。殊に助動詞は六つかしいものと見えて、はつきりと説明してくれといふと困る人が多い。此頃色々の方言集を見ての經驗では、之を集めた人は多くは教員なのだが、品詞の分類が此部面では可なり亂れて居る。是ではそれだけを拔き出して、他で用ゐることは望まれぬと思ふ。表現の技術を教へようとするには、ひとり動詞だけで無く、副詞その他の色々の用言を、細かく解きほぐして新たに組みかへさせ、成るだけ廣範圍に使はせることを考へなければならぬ。よその國では盛んにそれをするらしいのに、日本だけはやゝ怠つて居るかと思はれる。是が自由自在にならないと、單語の解釋は試驗を通つて居ても、入用の時に出して使へないのみか、腹の中でもそれを役に立てることが出來ない。從つて何か思つて居ることを打明けようとする場合に、何ともかとも言へないなどゝ、ごまかしてしまふ者ばかり多く、すら/\と物の言へる人間は作ることが出來ない。おしやべりといふ子は勿論多いだらうが、是はたゞむだ口へらず口、極めて拙劣なことをたゞ早口に言つてしまふだけで、言はゞ表現の未熟を意識した、不安の暴露とも見られるものが稀でない。寧ろさういふ種顆の多辯が少なくなるやうに、もつと原因に溯つて考へさせるやうにしたいものと思ふ。
 
(552)     七
 
 言葉を美しく又效果多くしようといふことは、人間の天性であるといふ以上に、日本人には昔から言葉に興味をもつ癖があつて、人の物言ひをほめたゝへ、又は嘲り笑つたといふ話は、中世以來の文獻にも多く傳はり、又民間にも數限りなく行はれて居る。殊に交通が今のやうに盛んになれば、愈題目は増加し選擇は自由であり、又之によつて想像力を養つて行く機會も少なくない。最初は少しく骨が折れるかもしれぬが、話方の材料順序は幾らでも精選して行かれる。やがては先生も乘氣になり、世間も亦追々に共鳴して、適切なる問題を提供するであらうことは、自分などの今までの經驗でも受合ふことが出來る。從つて今後の教授の力の入れどころ、資料の排列・順序・割當といふやうな實際問題も、前以て研究し得られ、單に此まゝでは置けないとか、何とかしなければならぬといふ我々の提案も、空論として聞流してしまはずにすむであらう。子供を教へ導く前に先づ教へる人たちが興味を持つならば、恐らくは近い將來に於て、一通りの方法が立ち、仕事が段々にしやすくなるであらう。もちろん私の謂ふ耳言葉の整頓は、話方教育の唯一の目的では無い。學年を重ねて行くうちにはおのづから、生徒も先生も共に心づくことは幾つも有り得る。たとへば物の言ひ方には、下手と上手、言葉の組合せと順序・頃合・問拍子等によつて、相手を動かす力に大きな差等があつて、言葉さへ正しく知つて居れば、今まではとても子供には言へまいと思ふやうな事でも、段々に言はれるやうになるといふ希望を持たせる。是などはたつた一つの讀本にかじり付かせて居たのでは、いつの世になつても見られない效果であらう。
 一つの事物に二つ以上、ちがつた表現のし方が有るといふことを、子供に教へるのは負擔の過重であるやうに、是まで考へて來たのは實際に反すると思ふ。實際は全く同じといふものはごく少なく、似よつた多くの言葉の中から、どれが此場合に一ばんよく合ふだらうかときめるのは、雙方三方をもし知つて居るならば、子供にはむしろ樂しみな(553)作業であつたことは、僅かな實驗でも確かめられる。一方を匿して知らせまいとすると、却つて使つて見たがる例は學校などでは毎度出くはすだらう。いくら小さくても話主以外に、選擇をする者は有り得ない。だから彼等をしてその選擇の責任を負はしめ、それを正しくさせるやうに仕向けるの他は無いのである。方言と標準語との場合でも同じことだが、二つを同じ程度にもし知つて居たら、棄てゝ置いても新らしい方に赴いたらうが、それがまだ確實な耳言葉になつて居ない爲に、安んじて選擇することが出來なかつたのである。どちらを使つてよいかに迷ふ位に、我々の言葉が豐富であつたら、國語の樂しみはもつと濃やかだつたらうが、現實はそれと反對であつて、國民は老弱男女を問はず、表現の不自由に苦しみ、いつも言葉の數が心の動き方よりも少なく、其爲に始終もや/\とし、いはゆる言ふに言はれない顔付ばかりして居るのである。
 
     八
 
 最近の漢字の制限は、漢語の制限を前提として居る。だから今重寶して居る色々の漢語も、多分は追々に消えて行き、日本は殊に用語の足りない國になる危險がある。さうで無くても學術上の需要は急増する。何としてでも新語をふやす必要があるといふこと、是もめい/\が自分で選擇し、選擇は實は捜索であることを體驗しなければ、一般の國民はそれに氣が付かず、なほ依然として無思慮な摸倣をつゞけるであらう。古語の復活、老衰語の若返らせ、それでも足りなければ廣範圍に行はるゝ方言の採用もよからうが、其分量は知れたものであらう。私の一つの意見としては、日本語固有の造語力を活用して、早く今のやうな動詞、形容詞の衰弱を補強しなければならぬと思ふのだが、それにも最も有力なる働き手は民衆である。彼等の無邪氣で大膽な試みが、失敗にもめげずに續々とくり返されることも必要だが、それを判別取捨する能力が、今のやうに低下し切つて居ても目的は達せられない。ましてやたゞ少數の指導に一任して、すぐに助けを外國に求めようとすることは、何のことは無い唐制採用時代の再現であつて、是が國(554)語の展開を二股ならしめ、一方には判つたつもりで居る者や、急いで口眞似をする一群と、他の一方はあきらめて自分の土語に閉ぢ籠らうとする人々とが對立し、二者の交渉のみに苦勞して、其他を忘れてしまふやうな?態が、是からでもやつて來ぬとは限らない。それを何とかして避けたい念願から、今までも私はやかましいことを言つて居たのである。さうしてそれが單なる杞憂であつたか否か。今ならば多分判斷し得られると思ふ。
 聊か時を惜しんだ爲に、何かまだ言ひ殘したことが有るやうな氣がする。國語教育が一つの學を成す時代は、假に未來に在りとするも、豫め是が爲に一つの學會を組織することは些しも差支無い。たゞ其中心をどこに置くかが、差しかゝつての問題となるばかりである。私の見た所では、少なくとも國語教育史といふものだけは、たしかに技術の外であり、單なる練磨によつては學ぶことが出來ない。何となればその方法は以前も變遷があり、是からも亦幾段かの革新が豫期せられる。我々の經驗は利用せられねばならぬ。さうして其經驗は今でも非常に豐富であり、又甚だしく複雜である故に、之を綜合し整理する必要があり、さうすれば又必ず其中から、何か新たなる智慧が生れて來るにきまつて居る。即ち既に各人の思惟の領域に屬し、傳受踏襲の古い型を超越して居る。自然の統一が保てなくなつたといふことは、やがては又一つの學會の、集まつて協同の討究を企つべき機縁とも言ひ得る。私の内々最も氣にして居るのは、始めて世の中に眼をあけた兒童たちと一緒に、國の言葉の大きな力を意識し、そのくさ/”\の働きに驚いて、どうして斯うなのかを尋ねずに居られぬやうな、素朴な感覺を抱くことが、果して先生たちにも出來るだらうかといふことである。少なくとも今までの先生たちは、さういふ風には養成せられて居なかつた。子供らしい疑問はうんと有つても、それは子供らしいが爲に尋ねることを許されない。さうして御手本は狹く限られて居るのだから、結局は以前の自修時代よりも惡く、言はゞ國語教育は型にはまつて居るのである。それを改めることは何よりも必要なのだが、障碍は定めて多いことであらう。學會の最初の事業は斯ういふ處に在るのではないか。御一考を煩はしたいものである。
 
(555)  話せない人を作る教育
 
 輿水氏の見解と意圖、それと同じいものを幸ひに私も抱いて居る。しかも之を現代の實際家たちに説き付ける方法の不備、及び之を如何に實現しようかの名案が無い點でも、大抵御同樣なのは、是は困つたことである。まあ幾分か氣永に、何度もこの間題を考へて見るより他は無いと思つて居る。次に竝べて見るのも批評で無く、反對では勿論無いのだが、言はゞ黙つて居ると不熱心かと思はれるのを恐れて、何か一言口を出すといふ程度のものと御承知を願ひたい。
 一、「獨言」といふ問題では、私は多少經驗して居る。年をとると意志の抑制が弱くなつて、殊に一人で居る時間の多い自分などは、折々相手無しに物を言つて、はつと思ふことがあるが、若いうちはさういふ癖は無かつたやうに記憶する。他人の獨語も稀には耳にせぬことも無いが、之を發するのは概して異常?態で、從つて是には感動詞と省略句ばかりが多い。獨語を根本的な談話、又は基礎的な形態と言はれるのは、人から揚足を取られさうな懸念がある。是は言葉の分類のし方が惡いからでなからうかと思ふ。觸言葉といふのは盲人の點字のことゝ思はれるが、そんなものを入れる代りに、(三)考へ言葉といふものが揚げたかつた。獨言は要するにその考へ言葉の落ちこぼれ、又は切れつ端だからである。子供の考へ言葉がどう成育して居るかを、探り知るべき一つの兆候に過ぎぬからである。
 二、考へ言葉こそは大切である。今まで此用途に何が使はれ、且つ教育が如何にそれを補給して居るかを知るのは困難だつたが、知らうとした人も少なく、是を問題にする事すら流行しなかつた。その點を我々に代つて輿水君のや(556)うな人に痛論して戴きたかつた。あたまの中では惡いきたない言葉で、ほしいことや困つたり苦しんだりしたことを考へて居る。それを其學校に來て口にすれば叱られる、直される。又は良い言葉を知つて居る兒から笑はれる。さうして教へる人はまだ其子どもが、何を思つて居るのかを知つて居ない。言はゞだんまりを作るのが小學校ぢやないか。骨の折れる仕事ではあらうが、もし物を考へるのには斯ういふ風に考へるとまで言ひたいなら、先づ先生が子供の生活を知らなければならない。それで無いと、しまひには思はぬことを言ひますよ。
 三、よそ行きの言葉も他にはもう教へる人が無い。社會は學校を範として居る。しかし我々は稀にでも、よそ行きの言葉で物を考へたことがあるだらうか。どんなに誡めても、頭の中で、もしくは獨語で、「おなかゞすきました。餅がいたゞきたうございます」といふ子供があらうか。それをすら念頭に置かないほどに、今日は考へ言葉といふものを問題にしてゐる人が無いのである。晴と褻の言葉、家や村内の談話と吉凶訪答の辭令とを、出來るだけ接近させたいといふのが我々の理想ではあるが、それも是も今までの永い年月、使ひなれて居た言葉使ひを解してから後の話である。のつけからそれを野蠻扱ひにして、さア是から好い言葉で物を考へろと謂つたところで、繋ぎ馬に鞭打つやうなものである。殘虐と言はなければならぬ。
 四、話方教育實現の案といつて見たところで、まだ必要も感じないやうな人たちに賛成してもらへるやうなものが、素人に立てられる筈が無い。さうして私などは寧ろ思ひ切つた新計畫を掲げて、どうしてさう迄いふのかと不審を起させたいとさへ思つて居るのである。私の考へて居ることは三つ、一つは讀本の制限、出來るなら是を半分にし、もしくは其教へ方をずつと簡明なものにして時間を省き、それを子供の自由に物を言へる時間にして見たい。お天氣のよい日などは、何時問も青天井の下をあるき、樹の蔭に休み遠くの見える岡に立つて、彼等の心から出て來る言葉を伸びさせたい。誰でも知るやうに、兒童は物を言ひたがる人間だ。それが入つて來れば忽ち  唖になるといふ教室などは、思へば彼等の成長に適した沃地では無かつたのである。第二には、今日の讀本きちがひ、顯徴鏡的分析や勘定や(557)表ばかりに没頭して、一人で嬉しがつて居るやうな所謂國語人を、年齡にかゝはらずもう一度再教育すること。少なくともこの人々に國語は物が言へるやうに教育するものだといふことを考へさせること、第三には、同胞に對する國語教育の有效無效を成果によつて檢査する方式を立てゝもらふこと。それを少しもさせずに、只毎日働いて居るから多分むだでないと樂觀して居ては話にならない。徴兵檢査の際などには讀めるか書けるかだけを尋ね、それさへも決して皆感心するやうなことばかりでも無いが、我々は同胞の全部を書記にしようとして居るのでは無い。たとへ讀み書きは滿點でも、物が言へず、暗記しか出來ず、腹では小さな子供ほどしか物が考へられず、いつまでも「言ふに言はれぬ」だの「名?すべからざる」だのをくり返すやうでは、折角上品なよい言葉を、口眞似させつゞけた甲斐がありませんからね。
 
(558)  國語教育とラジオ
 
     一
 
 私は從來必ずしもさう熱心なラジオ黨でも無かつたのだが、此頃折々ラジオの功罪といふやうな議論が、教育者の間から出るのを聽いて居ると、少しばかり横合から口が出したくなつて來る。自分たちの感じて居る所では、新聞であれ教科書であれ、是だけ短い期間に是だけ大きな感化を、國語利用者の總體の上に、及ぼし得たものはラジオの他には無いと言つてよい。從うて其感化が良いものか惡いものであつたかは、非常に重要な問題になつて來るのであるが、それに對し弊はあつてもさう大したもので無く、又徐々に改良の出來るもののみであり、他の一方に利益の方は相應に積極的な、且つ目に立つものであつて、是は亦我々の意識次第、尚この以上にも進めて行かれる性質のものが多いといふ風に兼て信じて居た爲に、安心してラジオの普及を眺めて居たのであつた。其確信がもし誤つて居たら大變である故に、この與へられたる好機會に、先づ自分の意見を述べて、人がどう思つて居られるかを尋ねて見たいのである。
 
     二
 
 最初に誰でも心づく一事は、ラジオが設けてくれた講演時間の單位、是を普通は三十分間としたことが、日本では(559)可なり大きな革命であつた。實は此點では私も被征服者の一人で、自分が放送する時ばかりはもう少し長ければよいがと、内々は恨まないことも無いのだが、もし此點を今までの全國的振合ひに順應しようとして居たら、よほど大きな無駄を總加入者に負擔させて居たに相違ない。といふわけは、是でも結構、一つの講演の目的は達して居るからである。東京では時々學會などに、學者先生の十分間演説といふものもあつたが、其他の集まりでは三十分で澤山だといふ者は決して無かつた。殊に田舍では何の仕事でも半日か一夜が單位であつたから、聽きに出て來る位なら、そんな短いことで、さつさと歸つて行く者などは無く、必ずあつけ無いとかつまらなかつたと言ひ、或は不親切だといふ者さへ有つたらうと思ふ。地方に講演といふものが流行し始めてから、彼是もう五十年にもなるだらうが、人をこの通りの講演ずきとする爲には、實はよほどの御機嫌取りが必要であつた。或は御寺の説教などから學んだのかも知れないが、話の後先にはきつと一二ヶ處、ごくたわいも無いことで笑はせる豫定があつたり、座席のざわめきが少し止む迄、乃至はどんなことを喜ぶ聽衆かを見定め得る迄、何でも無い前置や言ひわけに敷分間を費す人がある。脱線と稱して、言はうと思つて來なかつたことを、ふいと思ひ出して長々と辯ずる人がある。さういふのは却つて場馴れた講演者に多く、用意をして來ずとも何か喋られようといふ自信のある者に多かつた。是が三十分ときまると流石にそんな悠長なことは出來ない。御蔭を以て我々は又あれを言ひ出したなどゝ、苦笑をさせられる危險から助かつたのである。日本の話術は今ちやうど發達の過渡期で、形式がやたらに多く、文句が延び過ぎ、しかも時の制限が無く、又議會のやうな我儘な前例があるので、實の無い長話が婚禮の祝辭といふやうな場合までに現はれて、いゝ加減我々を苦しめて居たのである。正直な所ラジオが三十分となつた時に、腹で拍手をして居たのは私たちであつた。是で必要上人間は氣の利いた短い文句で、思ふことを人に告げる技術を養ひ得るだらうと思つた。さうして世の中がどうやらさうなつて行くらしかつたのである。
 
(560)     三
 
 其次に是は必ずしも計畫で無かつたらうが、ラジオが藪から棒に知らぬ人を引張つて來て、しかも空氣の向ふ側で話をさせる結果、顔付や擧動で辯舌の下手を補充することが絶對に出來なくなつたこと、所謂仕方話で心の無い者を笑はせるやうな、馬鹿げたことの無くなつたのが嬉しい。よく今日の講演は面白かつたと言つて居る者に、どんな事を話したかねと尋ねて見ると、それは大抵の場合要點でも何でも無い部分であつた。日本人は社交の上では最もよく人の言を記憶し、何かといふ場合に其通りを言つて見る癖を持つて居るが、講演ばかりは假にその全部を理解した人でも、其言葉の印象が誠に淡いものであつた。それといふのが人寄せを見物と考へる風が未だ改まらず、何かを見て行かうとする心持が、始終耳の働きを牽制する傾きがあるからであつた。私などの經驗では、講演會の席上ほど人の一擧一動が目に立つ場處は無い。たつた一つの稍異常な行爲によつて、話を攪亂するはいと容易なるのみならず、辯者も又精々そんな手段によつて、注意を自分の方へ引付けようとするのである。斯ういふ不純なる輕度の演戯と絶縁してしまつて、單なる言語そのものゝ效果のみを收めようとさせることは、無意識にもせよラジオの一つの功績である。個々の言葉は自分の持つ力のみで、何の外援も無しに其目的を達しなければならなくなつたのである。是は國語の威信の爲に、可なり大切なる獨立運動であり、この結果としてはコウとかケンとかいふ同じ二つの音響で、幾つも幾つもの意味をもつ單語などは、勢ひその何れか一つに定まつてしまつて、他は何か別の表現を用ゐなければならぬことになつて來る。へへえそれはどんな字を書きますかと尋ねたり、疊の上や掌へ一して棒してなどゝ書いて見せたりすることは、ラジオばかりでは絶對に不可能であつて、是が又行く/\國語を文字の助け無しに、獨りで働かせる新らしい大きな刺戟になつて居るやうに思ふ。
 
(561)     四
 
 今でも祝辭だの弔辭だの、大臣の演説だのと云つて、豫めこしらへてある文書を讀み、又はそれが有るからと御互ひに安心してゐるものと、即席にふいと起つて、何か變つたことを言はうとする演説とでは、もう餘程言葉の用ゐ方が違つて居る。後者にもしば/\激語や場當りでごまかさうとする者が有るが、それですら尚聽衆は之を一つの作品とは考へずに、直接に語音の活きた力で動かされようとして居るのである。是がもし時間の制限によつて出來るだけ無用の辯を省き、更に顔を見せて居てくれぬ相手の爲に、最も印象の深い單語と句法とを選擇することに、誰もが苦勞する樣になつたら、國語は當然に改良せられる。我々の國語の近世史に於ては、言葉が急激に數多くなつて、しかも其大部分が極めて色彩の淡い、又輸廓のぼんやりとしたものであつた。人が無駄口を好み、且つ新語の流行に溺れるやうになつた原因もそこに在るかと思ふ。兒童少年は先づ口眞似によつて出來るだけ豐富な語彙を蓄積し、其選定は稍年を取つてから、追々に之を精確にして行くのが昔からの習はしであつた。それが今日では一生片言で暮らさうといふ人が多くなつたのである。ラジオが我々にこの苦しい練習を強制してくれる結果、言葉は要するに人間の心の影を、最も鮮明に映し出す爲に利用すべきものだつたといふことを、追々と一般社會に感ぜしめる樣になつたら、當然に今までの「國語教育」も改良して來ることゝは思ふが、それには今はまだ少しばかり、辯士がいゝ氣になり過ぎて居る。人も下手なのだから、自分ばかりさう旨く無くともよいと思つて居るか、中味が結構なのだから、容れ物は粗末でも差支へ無からう、とでも考へて居られるらしい御話をちよい/\拜聽する。この樂觀が流行して居る限り、ラジオの功績もまあ當分は知れたものであらう。折角好い兆候は見えて居るのに、それがてきぱきと進展しないで、御同然にじれつたいことである。
 
(562)     五
 
 毎日々々のアナウンサアも骨折なことだらうが、わけを知らずに苦しんで居る落語家などの惱みにも同情せられる。時々は餘りに氣の毒で聽いて居られぬやうなことさへある。古い革袋に新しい酒を入れてはならぬことは格言になつて居るが、彼等の袋などはもう穴があいて居るのである。中味のよしあしの問題はもう通り越して居る。しかも斯ういふ人たちでも、電報は文言を短かくし、電話が手つ取り早く用を足すべきものだといふこと位は知つて居るのだが、どういふものかラジオの文明だけは、まだ本當に利用しては居ない。是は直木三十五君も曾て言つたやうに、作家や新聞記者がまだ自分たちの夢の讀者を持つて居る如く、諸家たちも亦その新らしい實際の御客樣を知らぬからであらう。下手な話をすれば欠伸をして線を切つたり、乃至は舌打ちしたり憐れんだりする人の、國の隅々にもう澤山に出來て居ることを、何とかして講演者に知らせる手段を放送局でも御考へになつては如何。日本といふ國では昨年あたり、新語の字引といふものが五つも七つも出て、それが賣れて行かうとする程に、人のいゝ人の多い國だ。どんな陳紛漢でも聽かせれば聽くだらうと、高をくゝられるのも尤もではあるが、實はさういふ人たちの爲に、この放送の事業は始まつたのでは無いのである。たまには彼方を向いた人にこちらを向かせたり、うつかりして居る者に氣をつけさせようといふには、やはり日本語らしい日本語を使はなければならぬ。言葉や文句は色々有るやうでも、或一つの場合に向つては、さう幾通りもの言ひ方は無い筈だ。その選定法が今はひどく衰へて居る。もう一度親が子供に教へるやうな親切を以て、我々の國語教育は實際化しなければならぬ世になつて居る。それには差當りはラジオ以上に、我々の頼りにして居るものは無いといふことを、御世辭で無しに私は強く言つて見たいのである。
 
(563)  東京語と標準語
 
     一
 
 所謂東京語と標準語との混同は、口で言ふ人は勿論、耳で聽く人にも往々にして免れない。以前は都市の言葉と異なるものを方言と呼び、今は又その方言を少なくせんが爲に、標準語といふものゝ弘く認められんことを、念じてゐる事がその原因の一つであり、しかも標準語の確かに認められたものがまだ一向に乏しく、毎日の言葉の需要は増して又増す故に、假に手近の慣用語を吟味もせずに使つて間に合はせる東京人の多いことも、亦一つの理由であつた。それでも結構用が足りるといふ、そのタリルなども一つの例と言つてよからう。少なくとも我々は必ず是に由らなければならぬことは無い。もつと良いものを待つのも坂逆ではない。つまりはたゞ行掛りの在來の東京語を、批判も無しに御手本とすることは、輕浮兒の所行だといふことを覺り、しかも其批判はブチコワシで無しに、十分に親切であればよいのである。
 「落ちる」をオッコチルといふ語ばかりは、いくら東京語でもまねる氣にならぬと奈良の某君が謂ふ。成るほど落ちるといふ語を知つて居りながら、わざ/\そんな語を使ひ、又情人をオッコチなどとまで謂つたのは、物ずきに過ぎると評してもよい。しかしそれから氣を付けて居ると、口言葉では殆とさう言はぬ人が尠ない。殊に「落す」といふ場合などは、オッコトスと言はぬと感じが出ないやうな氣がする。斯ういふのはどう始末をしたらよいものであらう(564)か。無論最初は深く考へもせずにさう言ひ初めたのであらうが、元來日本には動詞の數が少なく、是に幾つかの複合形をこしらへて、細かな分化に應ずる風は夙く始まり、その中の佳品だけは文藝に拾はれ、雅語に編入せられても居たのである。濫作の嫌ひは町田舍の盛んに動作する人々の間には確かにあつたが、是とても無用に作り儲けたものは實は少ないと思ふ。殊に多くの人が便利を認め、又は適切と感じて採用したものは、入用があつたのだからさうたやすくは止めない。現にオッコトスに對する「おとす」でも「とりおとす」でも、今ではもう僅かづつちがつた意味をもつことになつて、文書の上でならともかくも、口言葉としては直ぐに取替へてもしまはれぬ。斯うした根の生えたものは標準語として異議なく引受けるか。但しは又一々其素性を洗つて、鄙しい生れの無理な言葉づかひだけは排斥するか。至つて大切な根本の方針だと私は思ふのだが、是もどうやらまだきまつては居ないやうである。
 
     二
 
 正しい正しくないの學問上の道理を離れて、久しく聽き馴れた語音といふものは約束する。少しの心の働きもなしに、響けば胸に映るといふまでの習はしになつてゐる言葉を捨てて、新らしいものに言ひかへさせようとするには、よつぽど標準語の方にも確かな根據が無くてはならない。單に此方が正しいのだといふだけでも十分でない。まして都會に住む者がさう言つて居るといふだけを力とすることは、たとへばオッコトスを奈良人に強ひるやうなもので、當不當は假に論じないとしても、その成績を擧げにくいことだけは爭はれぬ。結局はやはり無くてもすむかどうかを、個々の物いふ人に考へさせる以外に、未來のよい國語を作る途は無いのではないか。即ち自今の標準語運動は、其途を誤つて居るのではないか。
 爰に偶然「棄てる」といふ語を私は用ゐたが、この動詞は上方中國では口言葉にもステルだが、關東以北はウッチャルが弘く行はれ、今は少しづゝ文語の領域にも入つて來かゝつて居る。是を標準語として維持する前に、考へて見(565)なければならぬことが幾つもある。第一に「打遣る」と文字で書くのは怪しい。そんな言葉使ひも古くからあらうが、遣ると棄つとは別の行動だから、「棄てる」を「やる」といふ筈はないのである。九州は一般にウスツルといふのが、打棄つるの發音變化らしいが、後には更にウツスともなつて、たとへば子供の「棄て育て」といふことを、ウツセオヤシなどと謂つて居る土地もある。東京のウッチャルがもし私たちの推測して居るやうに、やはり打棄てるの訛りであつたとするならば、まだ/\九州の方がましだといふことにもなるのだが、さりとて其邊まで中返りすることは勿論、もう一度はつきりとウチステルと謂はうといつても行はれないだらう。下品かは知らぬが、是にはもうちやんと定まつた感じが附いて居て、しかも多くの人が言ひ馴れてしまつて居るのである。私等の見た所では、何と言つてもマジヨリテといふことが力である。だから批判もせず又反省をも教へずに、たゞ大勢の進みに任せて置けば、やがて全國がウッチャルに風靡せられ、文章にもすべて打遣ると書く時代が來てしまふだらう。それを悲しいことだといふのではないが、もし萬一にも標準語運動の使命が、國の言語をもつと良いものにしようといふに在ると信じてゐる人があるとすると、今の?態は失望への歩みである。少しは自分でも尺度のやうなものを考へて見ようとせずに、いつも標準語とは何ぞやの問に對して、たゞ東京語と答へるやうな無責任さでは困る。その東京語も區により家によつて、今は隨分とまち/\なものになり、又引切り無しに變化しようとして居るのである。是がもし標準語だつたら、それこそ蒟蒻製のぶんまはし、又は護謨製の桝のやうなものである。
 
     三
 
 この東京語の歴史を考へてみるのに、以前も方々の人が入りまじつて住んで居て、色々の方角から感化を與へ、元からの言葉を守つても居られなかつたらしいが、殊に近年は自分達の群の中で、新らしい物言ひを考へ出して、急激に流行させるといふ特技を持つた人が多かつたかと思はれる。たとへば假名垣魯文から饗庭篁村までといふ期間に、(566)彼等が生粹の江戸言葉と信じて寫生して居たものゝ中にも、もう春水・三馬等の丸で使はなかつたらうと思ふ單語・句形が、幾つと無く拾ひ出される。市民は又本にでも出て居ると愈安心して、目前のものを永代のものゝやうに心得、それを用ゐない地方人を嘲るだけの度胸をもち、競うて毎日のやうに之を振りまはして居たのだが、それがやがては又早く古び、飽きられ且つ代られる原因ともなつて居たやうである。だから今日試みに篁村の一つの小説を取つて讀ませて見たら、若い東京人には呑込めぬ會話が多く、三十年を出でずして註釋書が必要になることゝ思ふ。實例を擧げるのもをこがましいが、自分などの始めて出て來た頃には、「行くな」「言ふな」の半敬語を、オイキデナイ・オイヒデナイといふのがさも上品に聽えた。親類の老女などは死ぬまでさう言つて居たから、捜せばどこかの隅にまだ殘り、聽けば判るといふ人までは多からうが、少なくともそれはもう一度も小説の中には出て來ない。すたれたことだけは確かである。それよりも端唄・都々逸の類の小文學に、何千萬回かくり返されたホレルといふ語はどうしたらう。何かといふと男までが直ぐに口にしたジレッテエ・コジレッテエなどといふ形容詞は何所へ行つたか。始めて之を流行らせた時代が既に新らしく、又適用擴張の方法としても當を得ないものばかりだが、一時の勢ひは凄いものであつた。大體に動詞と形容詞には斯うして俄かに起り、程無く滅びたものが、近世の江戸には多かつたやうに思はれる。それを比較的數多く記憶して使ふ人が昔風と呼ばれるが、實はちつとも昔風なことはなく、言はゞ時おくれの新らしがりに過ぎぬのである。私は最近はやり出したトテモやエゲツナイのやうに、是が東京語になつた路筋には興味を感ずるが、ほんの偶然といふべき理由から、三十年で亡びるものが八十年程殘つて居たからとて、急いで標準語に之を組入れようとする人々の態度だけは冷笑する。
 
     四
 
 しかも一方にどうして此樣に新語が無造作に採擇せられ、且つあの樣に急激に流行したかといふことを考へると、(567)まだ/\國語學者の答ふべくして答へ得ざるものゝ多いことを感ずる。江戸人のセンスは必要以上と言つてもよい程に發達してゐた。それの一つ/\に適切な言葉を持たうとすれば、斯うして鋭敏に人の口元に注意して、一切の新たなものを聽き遁すまいとし、時としては早合點をしてまちがつたものを眞似、やがて其失敗を覺つて是を改める等、所謂左顧右眄は有りがちであつたので、必ずしも何の尺度も無しに、ひたすら新しいものに舌鼓を打つたのではないと思ふ。文章を書く人の選擇は音の雅馴、即ち拗音撥音の餘り幅を利かさぬ事、及び語形の平明即ち亂暴なる變化のないものを重んじて居るが、口言葉に至つては耳の征服が主であるが故に、寧ろやゝ突飛な發音を悦ぶ場合が多く、しかも讀書人でもない者が多かつたので、?エチモロジイを無視しようとして居た。一度誤つた應用が成立つたとすると、それが又一つの發足點となつて、次から次へと意味がそれて行く。他にも澤山あるがホレルやジレッタイは其例とも見られる。惚るゝは「老いぼれ」などの語にも見られるやうに、本來は心神耗弱のことであつた。鳥獣にはたしかに生殖期だけ、馬鹿のやうになるものがあるが、人の戀愛にはそんなものは近世は有り得なかつた。寧ろ芝居で扇子をオッコトシテ見せたりするやうに、一種誇張の語として之を採用したもので、それには又ハ行ラ行の子音が久しく戀愛生活と縁が無くて、物珍らしかつたのも一つの動機かと思ふ。ジレッタイの「じれる」は、もと「しれ者」などのシレであつた。全國の用法を見渡すと、多くは是を濁音に替へて、專ら知つて知らざる眞似をする者の名として居る。ジラコキといふのは、人を欺く者から、わざととぼけた間違ひをして見せて、相手を笑はせようとする者をも含み、ジラ又はジナクソといふのは所謂じやうだんや馬鹿話のことで、從つて人を罵る時に之を使つても、腹からの愚物といふのではないから、やゝ圭角が少ないのである。ところが地方によつてはこのジラを、特に小兒の知りつゝだゝをこねる者のみに使つて居る。ジレルといふ動詞も普通の惡謔を意味する例は無く、大抵はあまやかされた兒童の、親にほい/\と言はれたい爲に、出來ない事をねだりせがむ者だけにいふのである。最初は形容詞も亦恐らくは彼等の爲のものであつた。今でも村里にはその痕跡が見られる。それが都會の或區域の女性だけに、轉用せられた(568)のは新味であるが、髭ある大男の口から出るやうになつでは、實はもう此言葉もおしまひであつた。
 
     五
 
 是は必ずしも町だけに限つたことで無いが、新たな表現法の需要は豫想することが出來ない。大抵は用に臨んで何人かゞ案出し、それを周圍の者が承認するのが最初である故に、急場の間に合せといつた樣な粗末なものが多く、詩歌文章の用語の如く、洗練せられたものが少ないのである。世が進み人事が複雜になるにつれて、この傾向が愈著しくなることも亦免れ難い。しかも他の一面から見れば、其樣にしてまで變な新語が作られ、それが又たやすく流行したといふことは、乃ち其部分に缺乏があり、之を補充すべき必要が急であつた爲とも言ひ得る。標準語の任務は後から廻つて之を檢査し、あまりに無法なだらしのないものは、單に非難をして排斥してしまふだけで無く、少しでも穩當なよい言葉と、追々に取替へて行けるやうに世話をすることだらうと思ふが、其準備として必要なる地方語の比較、殊に我邦に昔から備はつてゐた言葉造りの法則といふものが、今はまだちつとも考へられて居ないのは、遺憾なことだと思ふ。
 近世の二百年か精々三百年ほどのうちに、各地思ひ/\に作り出した動詞と形容詞との數は非常に多いが、それには兼て一定の法則、もしくは基礎といふべきものがあつた御蔭に、仕事も手輕であり又相互の理解にも便であつたことは、以前或機會に例を擧げて既に之を述べたことがある。
 都市の新語は幾分か奇を好んで、寧ろ有り來りの約束から逸脱しようとする嫌ひはあつたが、それでも氣を附けて居ると、大體に種を田舍から取寄せ、又は暗示を彼から受けて、それをやゝ大袈裟に敷衍したものが多く、意外に獨自の創作といふものは少ないのである。たゞ流行の期間が概して短い爲に、變化が目まぐろしく、從つて其由來を見究めることが、田舍の言葉に比べると少しく面倒であり、又なまじひに學者が近くに居るばかりに、却つてこじつけ(569)の解釋に迷はされる場合が多いといふだけである。かういふ中でも東京人は殊に氣が早く自信が強く、眞似ばかりして居ながら御手本になりたがり、しかも最も容易に學者には誤られる。自由に彼等の言葉の變遷を批判し得る者は、住民の中からは現れさうにも思はれない。もしも此途を通つて行かなければ我々の標準語は完成しないとすれば、どうしても地方に其適任者を求めるの他はない。さうして實際に又是は總國の事業であつて、決して一都市の私すべきもので無いのである。言葉に苦勞をしたことの最も少ない者が、言葉の改良を説くといふことが、既によつぽどをかしいのである。
 
      六
 
 地方の言葉はたゞ現在の横斷面だけにしか見られないのに反して、東京の言葉は其成長の進みが跡付け得られる。京都大阪等にも若干の資料は備はつて居るが、東京は殊に近世の文藝が豐富であり、又幸ひなことには口語の寫生が流行した。我々は何の氣も無しに中味の事實ばかりを讀んで居るが、もし試みに二十年三十年と間を切つて、成るたけ多くの用語と句法を竝べて見れば、前には少しも無くて後に現はれて來たもの、及び曾てはうるさく用ゐられて居て、いつしかばつたりと跡を消したものゝ數々が見出され、如何に都市人の言葉遣ひが移り氣なものだつたかゞ判るであらう。勿論記録初見といふことはい用語の發生時代を意味するものでない。有つてもさう/\は筆に上さなかつたといふ時期が、相當に永く續いて居たかも知れない。しかし少なくとも流行して居たならば、是だけの文獻の中には何かの拍子には現れる。急いで跡をつけるのが町の人の癖だからである。殊に一旦盛んに行はれて後に見かけなくなつたものは、とにかくに衰微と見てよろしい。さうして言葉は此順序によつて古語死語となり、註釋を要するといふ?態に落ちて行くのである。「鹿の卷筆」を解説無しに笑ひ得る青年が幾らあるか、實驗して見ることも方法であるが、さう迄古いところに溯つて行かずとも、明治以來の五六十年間の産物、たとへば坪内氏の書生氣質、又は長谷(570)川氏の浮雲などに寫生した、所謂中流家庭の日用語を口すさんで、どれほど奇異に感ずるかは誰にでも言へることである。
 自分はこの東京語の成長の姿を知らうとして、近頃久保田万太郎氏の作品の多く、殊に戯曲を注意して讀んでみた。學校の國語教育が比較的少なく影響して居る淺草人士の言葉にも、現代の影の濃いのは當然であり、從つて又江戸後期の市井文藝の中で、我々田舍生れの者をして目を峙てしめた、多くの齒切れの好い都會語が、もう後姿をすら見せないのも不思議は無いが、其代りになつて入つて來たかと思はれる町言葉の中には、耳では勿論、本や新聞雜誌でも、一度も出遭つた記憶の無いものが幾らもあるのには喫驚した。自分の見聞の狹いことが先づ第一の原因であり、作者周圍の特別な事情といふことも第二には考へられるが、なほこの大いなる都府の一隅では、文學文章とも交渉なしに、新たに入用なる言葉を私鑄する風が止まないのである。是は勿論生活の強い要求であつて、如何なる統制政治でも抑壓することの出來ないものであるが、少なくとも是には趣味といひ好みといふ舊い鑄型があり、言語經驗といふ材料の供給者があつた。たとへ突嗟の十分な選擇も許されぬ場合に、殆と後先も考へずに作り出したものであらうとも、もし新語が此過程を經て生れるといふ事實さへ知つて居れば、豫め源頭に溯つて流れを清くすることも可能であらう。概して東京の言葉は質がよく、上品でしかも效果が大きく、其まゝ標準語として採用してもよいといふ信用が、まだ一世に瀰漫して居るうちに、出來ることならば是を精撰する方法を授けて、たつた五年や八年で流行の外に驅逐せられるやうな、無益な發明の爲に人の智巧を浪費させず、永く文藝に支持せられて、我々の今日の感情思想を後代に運び得るやうにしたいものと思ふ。
 
     七
 
 此點にかけては近世の東京語は、大體に於て失敗して居る。といふよりも、日本語が一般にさうした弱點をもつて(571)居るのかも知れない。用語の新陳代謝が激しいといふことは、現世の小社會の個々の生活を活?にはしてくれるが、文學が之を十分に會得し是認して採擇し利用して居る暇が無く、從つて其大部分は空中に消えてしまはなければならぬ。或は今日の如く同時代人のみを相手とする文士は、少なくとも其一部分を利用して氣の利いた寫生の文學を産出し得るかも知れぬが、百年も立たぬうちに忽ち註釋書の御厄介となり、しかも間違ひだらけの解説によつて褒められたり謗られたりしなければならぬ。古來我々の同胞の文筆を以て世に盡さうとした者は、一人も殘らず此問題には惱んで居る。言語の時代差地方差を超越して、百年の後の人と語らうと思へば、古典の文體を摸倣して其威力を假りなければならぬ。或は江戸期のやうに漢文で物を書くことを學ばなければならぬ。是は日本の讀書教育がいつまでも十八史略・文章軌範から出發することを條件として居る。もしくは中學校の國文法が、永遠に今日の如く、言葉の玉緒の燒直しに止まつてゐることを條件とする。さうしたところで自分の言語生活と何の親しみも無いものに、さう多くの注意を分つ氣遣ひは無く、第一に是では現在との交渉が絶えてしまふから、活きた言葉として働くわけには行かぬのである。所謂言文一致の運動は明治が始めでは決してない。少しづゝ形をかへて、いつの世にも、口言葉の活き/\とした姿に接觸しようとせずには居られなかつた。源氏物語が即ちそれであり、萬葉とても大方はあの世の口語である。この二つの本のやうに流行になれば、富士に登るほどの辛苦をしても世人が拜みに來る。しかし他の莫大なる群小文學に至つては、多くは是れ文庫の塵となり、たま/\物好きが國語辭典をたよりに、讀んでくれゝぱ奇特といふまでに、もう古代との交通は薄れかゝつて居る。日本人の讀書の渇きは、近頃の出版事業の隆興が之を證明し、恐らく世界のどの國よりも立越えて居る。しかも此國のやうに外國のものがやたらと多く讀まれ、前代の著述の無數のものを棚に上げて、僅か二十か三十ほどの古書に、有象無象の取附いて居る國も、まあ恐らくは他に無からうと思ふ。もつと珍らしいのは明治の文藝を歴史だと謂つて、わざ/\紹介をしたり解説を附けたり、文學の現在といふものは角力取よりも短命で、我々の同時代なるものは路次のひあはひの如く狹く、ちつと手を伸ばすとすぐに歴史だ。それ(572)といふのが言葉が過去になり易く、文筆にそれを固定するだけの力が無いからである。標準語の必要は、空間に對してよりも、時間の長さを征服する點に於て、一段と痛切に感ぜられる。何れは時來つてチョウサアとなりハンス・ザックスとなることも免れまいが、責めては親と子との間ぐらゐは、「今」といふ一つの心持を以て語りかはすやうにしたいものと思ふが、それも許さぬ位に東京の言葉はすぐ古びて行くのである。大きな都市になると、下町とか山の手とか、互ひに異なる物言ひの生ずるのも止むを得ないといふが、それが常理ならば標準語の可能性はどこに在るか、ましてやその東京語に假に代理をさせて、安閑として居られる根據はどこに在らうか。方言を統制の的とするからには、一方には又自由なる言葉造りと、その無分別なる摸倣に對して、何等かの管理の方法を講じなければならぬ。方言には若干の古語の保存もあるが、是は數少なく、大部分は新語と摸倣とであつた。この傾向は當然に都市の方が強く、殊に東京人は昔からその名人であつた。たゞそれだけでは方言といはぬばかりである。是で文章を書けば文章は早く老衰する。不明とまではなりもすまいが、古くさくなつて馬鹿にせられる。際物以外に文學する者は無くなる。
 
     八
 
 この篇の最初の目的は、今ある東京語の新たに生れた時、及び是が採用せられて流布した事情を、一つ一つの語に就いてもう少し考へて見るに在つた。憎まれ口をきくよりも其方が私にも面白い。たゞいつの間にか話が長くなり、切詰めようとするといよ/\判りにくゝなるから、例は他日のことゝして、一應は是で結びを附ける。
 自分の意見としては、東京語が斯くも敏活に生れ又滅びる?態は、文章の語として不利だといふことが一つ、文章が是非とも之に據つて立たなければならぬものならば、用語の選擇について今一段と確かな立場、よい尺度、もしくは親切なる理解を持たねばならぬといふこと是が又一つ、この態度なり尺度なりをきめることが、即ち標準語運動の發足點であつて、それも無いうちからいち早く標準語呼はりをし、何が標準語かと人に問はれたときに、形も定まら(573)ぬ都市のある言葉使ひを指して答へるなどは、無責任の甚だしきものだといふこと、是が又一つである。物には順序がある。少しは面倒でも一つ一つの語を手に取つて、それが如何に無造作に生れ又振棄てられて來たかといふことを、或程度までは知つて置くこと、是が必要なる彼等の練修である。
 或は爰ばかりでは抑制が不自然だといひ、禁止撲滅が不可能だといふ者もあるか知らぬが、國語教育は本來それを爲すことを意味して居る。單に方法が今はまだ立たぬといふのみである。けふ出來て明日はすぐに廢れるやうな流行語に、無益な努力を費して悔いぬ者はあり得ない。單に言語の自然の成長といふことに就て、古人が年久しく經驗し得た知識を、ちつとも東京人は引繼いで居ないのである。幽かな本能のやうなものを目標とする以外に、是といふ選擇の尺度といふものを與へられて居らぬ故に、幾らか輕はずみにたゞ新らしいものを眞似るのである。言葉は自分で選んで使ふべきものだといふことは、學校でゝも教へられる。或は良い言葉、惡い言葉の存在、もつと具體的にいふと、笑はれる言葉、をかしな言葉があるから氣を付けるやうに、説いて聽かせたゞけでも人は用心する。進んで知らうとする者があれば、言葉の諸用途、歌でも文章でも改まつた人の前の話でも、先例は有り餘るほどあるのだから、規則とはいへぬまでも大體の傾向だけは、此方で歸納して示してやることも出來る。
 多くの町言葉は群集宴遊の間に生れて居る。是も國語の成長する芽先き根先きであつて、近代幾つと無き新展開、たとへば濁音やR子音の活躍の如き、此方面からの貢獻は大きかつたが、別にこの以外のやゝ目立たぬ機會に、植物でいふならば幹が太くなり、蕾が花になり果實になるやうな、もつと重々しい變化のあつたことが、とかく此爲に忘れられがちであつた。やたらに流行語の輕薄を非難するよりも、寧ろ飜つて此方面の注意の、今まで微弱であつたものを喚起する方が、積極的で且つ有效であらうと思ふ。放送局の人たちには迷惑にちがひないが、職業なのだから是は致し方がない。世人があれを聽いて居て彼是と批評するなども、實習としてはよい方法である。文學の方面でも此頃はよほど推敲が盛んになつて、少しもむだの無い永い命のある言葉を、選んで使はうといふ傾きの見えるのは悦ば(574)しい。すぐれた人々も竝の人々も、自ら責任があると思つて居る人も自由な人も、共に/\今少しは好い言葉を使ひ、又出來るだけ適切な物の言ひ方をしようとすること、是以外には標準語を制定する途は無い。この制定は社會がすべきものである。
 
(575)  歌と國語(試論)
 
     一
 
 萬葉集中に用ゐられて居る日本語は、一語も殘さず目録にとり又は暗記して、たゞにその用法を詳かにするだけで無く、出來るならば遠いあの世の人の感覺を、それから學び知らうと念じて居る學者が、箒で掃くほども今日は生れて居るのに、怪しいかな現代の歌言葉のみは、曾て之を言語學上の現象として、味はつて見ようとした者が無い。日本では歌よみだけの筆にし又口にして、凡人の全く知らない單語や文句が、昔も少々はあつたかも知れぬが、近年は大分増加して居る。或ものは流行して暫く生きながらへ、又或ものはあつと思ふ間にすぐ消えて居る。それがどうして生れ育ち、又さき/”\はどうなつてしまふものか。古今東西のすべての國語に、是は、通有の一つの性質であるのか、但しは我邦だけが特殊に珍らしい型を、展開しなければならぬ境涯に置かれて居るのか。何れにしたところが、今は觀測と實驗との絶好の機會のやうに思はれる。ちつとやそつとの佳い歌の數のふえるよりは、この問題の方が遙かに興味がある。素朴に物を訝かり又は原因を究めようとすることまでは、今の日本人には期待するのが無理かも知れぬが、せめては小まめに目の前の事實を、知つて書き留めて整理して置く位は、頼まなくても誰かゞしてくれさうなものである。それが自分の知つて居る限り、まだ何處にも始つた樣子の無いのは、どうも只忙しいからといふだけでは無いらしい。人は氣が乘れば相應に御苦勞なことをして居る。つまりはたゞ國語の問題には、誰もあんまり氣が乘ら(576)ぬのであつて、さうしてしまつたのも教育の風、萬葉の研究なら大にやるべしだが、毎日の言葉は行きなりでよいといふ樣な、一般方針の祟りであつたらうかと思ふ。歌と國語と雙方に關心をもつ人は、昔から幾らも有つた筈だが、そんな連中は皆歌よみの方にまはりたがり、其方で忙しくなつてしまふのである。さうで無ければ、「けれ」と云つて「こそ」の無いのは不都合だなどゝ、やかましいことばかりいふ役になつて、この二派は寧ろ仲が惡い。御蔭で大切な國民文學が籠城をして、ちつとも常の言葉の世話をしてはくれない。君はをかしなことをいふね、なあに是が歌なのだよ、へいさうかねといふ如き時代が、あんまり永く續かざらんことを希ふ人には、少しは僻説がまじつて居ようとも、斯ういふ私のするやうな新たな試論に耳を假し、又行く/\之を補正しようとしなければなるまい。私は是でも國語の成長の爲に、忍んで歌を樂しむ特權を抛棄せんとする、篤志門外漢の一人なのである。
 
     二
 
 文化史上の事實として、歌道の變遷を見るといふことが、最初の用意かと私は思ふ。今も歌よむ人の數のみは昔のまゝだが、其種類は半分以上ちがひ、之に携はる動機に至つてはまるで變つて居る。文藝から文學への、進歩の跡と名づけてもほゞ差支へは無からうが、とにかくに昔の歌には身近なる用途があつた。それは言語の最も尋常なる使命即ち相手を見定めての交通であつた。或はもつと力強く、戀歌が主であつたと謂つても誤りではない。但し其戀は異性に限らず、神も貴人も旅に在る親子同胞をも含めて、聽手として居たといふのみである。書?の片端に一首の歌を、書き添へるといふなども殘留であるが、以前は詞は無くて歌ばかりを、書きもし口づから傳へても有效であつた。其效果を萬全ならしめる爲に、さうしてそれが又人生の重要事であつた故に、そこに題詠の練習が盛んになつたのである。假設の咏歎境は屏風の繪に、又は歌合の競技などに誘はれたでもあらうが、是とても最初は認められんが爲であつて、その晴の日の一章を印象深きものとすべく、人は日頃の稽古に励んで、あらゆる事物の組合せを題に取つたの(577)みか、或は旅に出て意外の境地に試みんとし、又時折は無用の戀をしたらしい形跡さへあつた。しかし其樣なすきものが多からう筈は無い。つまり他の多數は只遠國の歌枕、眼前ならざる感興に終始したのであつて、其結果が表現の技術に力を入れ、固有國語の美しい特徴を捉へる方に、傾いて來たのも自然である。
 和歌が漠然たる我が社會、見ず知らずの同時代人を讀者ときめて、毎日の見聞の、元は獨語か日記にしかならなかつたことを、何でもかでも詠じてよろしいとなつたのは、聊かの誇張も無しに一つの革命と名づけることが出來る。假に斯ういふ繁劇多事の時世に出くはさなくても、人は一旦は題材の洪水にたゞよひ埋もれて、歌語の古い用法慣例などは、垣根であるとすらも心付かず、急いで先づ言葉を言葉をと、掻き集めようとせずには居られなかつた筈である。以前は新語の要求が零に近かつたに引替へて、今はその渇きに勝へざらんとして居るのである。しかも今日の如何なる種類の文學と見比べても、歌ほど周到に又繊細に、個人の感情を表白しようと努めて居るものは無く、私などは是唯一つを透して、この目ざましい時代の活躍と苦惱とが、民に與へて居る印象を窺はうとさへして居るのである。國語の生命がこの機會を以て、弘く四隣の國々にも伸び行くであらう兆候はまのあたりと言つてもよい。たつた一つの條件は、歌よみが皆其氣になつて居るかどうかに繋かつて居る。言葉を一億萬人のおもやひのものと認めず、咳や欠伸やくしやみの如く、身一つに屬して自分勝手にどうともなるものと、心得て居る人が少しも無いかどうか。それがまだちいとばかり心元ないのである。
 
     三
 
 皮肉なことは絶對に言はぬ所存だが、是だけのことは何としても考へずには居られない。昔今の歌道のでんぐり返しに近い激變は、人が一流の歌人になつて行く順序の差に現はれて居る。歌は一生涯の修行だといふことを、口癖のやうに昔の人は説いて居たが、それには到達は容易でないまでも、遠くに歴然とした目標があつたから、さういふ心(578)持にもなれたのである。ところが其目標とはそも/\何だと、言ふやうな人ばかりが今日は多くなつて居る。以前睡いといふことしか知らぬ給仕人や供の者に取圍まれて、一夜を吟詠の樂しみに語らひ明したといふ道の友などは、もとはそれ/”\の離れ島であつた。四邊は悉く俗衆の海によつて遮られて居た。誰が何と言はうとも、仲間の制約、師匠の傳授が爭へない尺度であつて、それに引當て、一歩一歩の成長を、我人共に公認することが出來たのである。この舊習は今でも根絶したと迄は行くまいが、自信ある歌人の心あての讀者は、次第にその周圍の俗衆に求められんとして居る。あなたが譽めて下さらなければこちらで譽めさせますと、自給自足を心掛ける者も少しはあり、選者をこちらで選擇するといふことなどは、既に舊幕時代から始まつて居た。同じ一種の面籠手胴竹刀をかたげて、他流仕合にあるける時代も、もうさう/\は長く續くまいと感じられる。
 
     四
 
 歌人が自らを目立たしめる爲に、新らしいといふことを武器にしようとするのは、少しでも無理な話ではない。第一に時代が新らしいのであり、又感覺が新らしいのであり、其上に我々も新奇を悦ばうとして居るからである。寧ろどうしていつまでも、三十一文字もしくは其附近で無ければならぬのかを、釋き難い謎として惑ひ怪しんで居る位である。だから當人の企つると否とに拘らず、變つた形のもの、たとへばめつたに聽かない語を驅使し、わざと中世の文法を破り、或は有りふれた句形を逆に取つて見るといふ類の、ほんの或時のふとした思ひ付きに成つたやうなものが、?内容の眞新らしさと同じ程度に、氣輕な行きずりの人の心を捕へて、おのづから前進の路を切り開けることもあるのである。最初からさうしようといふ巧みで無くとも、其路が平易ときまればぐん/\と歩んで行くであらうし、又若干は附いて來る者も有らうが、もと/\變則の珍らしさであつたのだから、少しく普通になりかゝると、すぐに見くびられ、移り氣な世間は又次の新らしいものを待ち受ける。歌に詠まれる人生の新陳代謝よりも、もつと目(579)まぐろしく歌の姿は變つて居る。さうして昔ならば、落葉が下になつてしまつたかも知れぬ古いものが、やはり何とかして表へ出て竝んで居る。互ひに相許さうとせぬことは勿論である。之を煎じ詰めると、一人一流派、しまひには十萬でも、十五萬でも、歌を詠む人の數だけの派が出來て、それからさてどうしようといふことに、なるのでは無いかと思ふと、ほつとする。斯うなれかしとまで念じた者は、一人だつて有らう筈は無いのだが、以前の練習法があまりにもすなほであり、拘束が餘りにも窮屈であつたが爲に、一旦それが解けると反動だけでも斯うなつて行くらしく、日本は誠に反動の怖ろしい國であつた。柿本人麿がもう一人出て來たなら、統一が出來るだらうかといふ問題がこゝに生れるが、それは私はだめだらうと思ふ。神代この方、我々の吟詠の道は、只の草の屋の嫗や刀自、田に立ち途にいたづくあらしこにも開かれて居た。手引入門の方便は後更に完備し、如何なる凡庸でも歌がよめるといふ教育は、徹底して數百歳を經て居る。英雄の發見には征服を前提とするが、今日はその征服が、全く出來ないやうな組織にさへなつて居る。みんなが偶然に一致して、反省して見るやうな問題が一つか二つ、有つたらよからうにと門外漢は思ふ。さうして幸ひなことには國語の問題が、まだ殆と手付かずに轉がつて居るのである。方々の歌人が黙つては居られぬやうに、實はよつぽどの僻説を吐いても、なほ國論統一の功だけはあるわけだが、氣の弱い私には、やはり正しいと信じて居ることしか言へない。
 
     五
 
 最初に思ひ切つて言つて置いた方がよいと思ふことは、言葉が足りない、適切な力強い表現が乏しい。もつと響きのさはやかな、しかも單調に陷らない辭句が欲しいといふことは、今日の國民總體の惱みであつて、何も歌をよむ人たちだけの特殊の要求ではないといふことである。それを自分等だけは先づ斯うして間に合せ、もしくは斯うして難關を突破し得たからよいと思ふ所に、文學の病は潜んで居るのかと思はれる。ほんの少しの國語に對する省察が、い(580)とも容易にこの病を豫防し得た筈である。國語は言ふまでも無く國の生活の展開に伴なうて成長はするが、誰かゞ努めなかつたら其追隨は幾らでもおくれる。社會が突如として新たに擴大し、樣々の古いきまりは崩れ、個人利害の隣どうしくひちがつて、その關係が日ましに複雜になつて行く時世に、今まで有つたものを教へるより以上の國語教育を與へなかつたとしたら、言葉は缺乏し國語は萎縮するのは自明の理である。何でも是だけで間に合せようと工面し、間に合はなければ黙つて居ればよいと思ひ、乃至はさういふ不自由なものが國語だと、あきらめて居た人の多いのは是非も無いが、それはたゞ貧困の相をあらはにするだけで、少しでも我々の交通を圓滑にしてはくれないのである。眼の前に斯んな淋しい事態を見ながら、ともかくも歌だけは達者に言ひたいことを言へるやうになつたと安心し自得して居ることは、新體制にも舊體制にも添はない、憎らしい利己主義であるだけで無く、同時に又めい/\の歌を永き世に遺す手段でも無いのである。古今の歌言葉は、共有の國語になつたればこそ傳はつて居る。もしも國語の大海の水にまじり得なかつたら、それは只註釋家の餌食であり、誤植誤寫の隣人に過ぎぬであらう。新萬葉集が一千年の後に、再び新萬葉集の鑑賞家を、誘致し得るか否かの別れ目もこゝに在る。
 
     六
 
 言葉の缺乏は當然に何人かの補給すべきものである。昔はその人が里閭の中に在り、一つの大きな爐の爐端にも坐つて居たものであつたが、それが既に甚だしく權能を削減せられ、代つて進出したのが町の與太者、銀座ボーイとも名づくべき徒輩である爲に、國人は之を採擇することを警戒するやうになつた。獨り文藝のみは益その地位を高め、又その言はんとすることの高尚であり深秘である爲に、印象の威力は次第に強くなつて來て居る。さういふ中でも歌は昔から、一種宗教的の尊信を要求し、意味は呑込めなくとも、句形が五七五七七であれば、ゆかしなつかしと記憶しようとした者さへ多かつたのである。許されてこの樣な形勝の地位に居る人々が、言葉を新たに見つけ又は用語を(581)擴張してくれなかつたら、我々は或はもつと見苦しい、半分?に近い文化生活をしなければならなかつたかも知れぬ。だから歌よみの自由といふものは、世の爲にももつと安全に庇護してやつてよい。たゞそれだからどんな無茶を吐いても、如何なる氣まぐれを文字としても、それで通用するのだと思ひさへしなければよいのである。卑俗な物の言ひ方だが、もつと小説家を見習へと言つてもよい。彼等は解説を附けねば相手に判らぬやうな言葉では決して書かない。書くかも知れぬが、そんなものは出ないからである。或は又もう少し國語の性質を知つてから、歌は始めなさいと言つてもよい。日本の言語學は説明ばかり物々しくて、まだ/\痒いところに手の屆かぬことは事實だが、それでももう中古の文法を教へる仕事よりは今日は少しく前へ出て居る。又この連中に教へられなくとも、自分たちの母の語だもの、少し氣をつけて居れば斯んなものだ位はわかる。歌よみは生れつきからも竝の人よりは言葉の勘は鋭い。知らぬといふよりも寧ろ構はぬのがいけないのである。言葉を自分一人のものだと心得て居るのが惡いのである。それをさうですかと附いてあるくのがよくないのである。
 歌よみでも守らなければ、國語の制約、といふ名稱に反感が起り易いならば、自然に歩いて行ける言葉の道といつてもよい、國語を大きく豐かに強く又命長くしようとならば、どの方角に進むのが正しいかといふことを、彼等には是非とも考へてもらふ必要があると私は信じて居る。指導の出來る者は私は申すに及ばず他にも一人もあるまいが、とにかくみんなが共々に、改めて今から考へて行かうぢやないかといふことを説くことが、此一文の最初の計畫であつた。それには最初の新らしい歌を、色々と引用する必要があるのだが、誰の御作をどう引用したら、最も少なく怒られるだらうかと考へて居るうちに、原稿が長くなり期日が來てしまつた。此あと時間があつたらもう少し具體的なことを書き續けて、少なくとも次代國民の爲に、歌に對する至當なる要望を代辯したいと思ふ。しかしすなほに氣輕にうんさうだなと、答へさうな人の少ないことを考へると、何だか筆も心も抑へられたやうに重くなる。
 
(582)  國語史の目的と方法
 
 陛下が今度ワタクシといふ言葉を採用なされたことは、つまりこの一つの日本語の意味が、又一段の進化を重ねたものと、解して居て些しも差支は無い。今まで御用ゐになつて居たあの一つの單語とても、是が御口づからの言葉となつたのは至つて新しい出來ごとであつて、以前はたゞ正式の文書の上に、唐土の風習を移して筆寫せしめられたのみであつたのを、いはゆる學文の進むにつれて、口語の上にまでそれを御使はせ申すやうになつたのも、恐らくは明治の御代からであらうと思ふ。語音の珍らしさといひ、語感の物遠さといひ、寧ろ今度の變更よりも、一きは大きな事件だつたのではないかとも想像せられる。漢字制限の新たな機運から推して行けば、是はいつかは起るべき改定であつた。それが幾分か不自然に早かつただけである。
 さうは考へながらも、今まで深い親しみを古典に持つた學者たちは、なほさまざまの感慨を催さずして、この一つの推移を見送ることは出來ぬであらう。さうしてそれにも一通りは、考へて見てよい理由が含まれて居る。
 多くの辭書にも明かなやうに、ワタクシはもと公のオホヤケと對立する一語であつた。從つて古來漢語の「私」の字を以て之を表示し、避けてわざ/\平假名を使ふ人も今は多いけれども、私などは活字の簡便の爲に、なほ引續いて其字を書いて居る。古い文獻の最初の用例は、專ら女性のものであつたといふ説も行はれ、少なくとも晴の正廳よりは内部の室の人を意味して居た。古語は本義に據つてしか用ゐられぬものゝ如く思つて居た人々に取つて、この轉用は端的に一つの自家撞着とも言へる。何か今すこしく至尊にふさはしく、民衆の内の感覺に逆らはぬやうな、安ら(583)かな選擇が有り得たのではなかつたらうかと、なげく者が多いとしても不思議では決して無い。
 しかし自分には一つの解説があつて、幸ひにさういふ無爲の慷慨家の群には加はらずにすんで居る。むしろ此樣な大きな機會を以て、今少しく同胞國民の關心を、國語の上に傾けさせることが出來れば、それも亦悦ぶべき因縁だつたとさへ考へて居る。ワタクシといふ語は語原も不明であり、又女性に限らぬまでも、本來は物蔭の人が自ら呼ぶ名であつたことも確かだが、是が公人の間に公然と使はるゝことになつたのも、決して近頃からの誤りでない。男が一生涯に何萬囘、少なくとも毎日二度三度、使はずには暮らせない代名詞が、氣をつけて見るとこの他にたくさんはまだ生れて居ないのである。拙者・やつがれ・身どもの類から、今日のボクに至るまで、幾つも試みられたが、皆やがてすたれ、永續きをするものゝ少なかつたのは、結局はこのワタクシといふ一語のやうに普及する力を持たなかつた爲かとも見られる。別に是よりも優つたものが無かつたのだから、上つ方が御用ゐになるのも是非に及ばず、それで又差支の無いやうな感じが、いつと無く學者でない人の間には出來ても居るのであつた。
 そんならどういふ點にこの單語の普及力、中世以前とちがつて誰でもが之を使はうとするやうな、人望の元ともいふべきものが在るかといふと、私の想像では根原の日本語、古く我々が上下を通じて、自己を表現して居たワといふ一音が、この中に含まれて居るために、舊から新への移動が容易だつたのみならず、事實さうであるか否かには關係無く、何かワタクシを以てワといふ以前の語の改良であるかの如く、感じて居る人が多かつたからではないかと思ふ。實際又女性が物言ひに氣をつけ、之を改めて行かうとしたことは、いつの時代にも男よりは早かつたらしいから、果してワタクシが最初女の用語だつたとすれば、是が息子を通じて弘まつて行くことも、一層たやすかつたらうと考へられるのである。
 日本語のいはゆる一人稱代名詞が、本來はすべてワであつたことに、神も貴人も例外で無かつたのは、遠く萬葉集以前の歌にも見られ、後世の文語にも、永く傳はり、現在もなは東北六縣、南は九州の外に續く島々の地方語からもよ(584)く窺はれる。それが保存し得られたら問題は無かつたのだが、何分にも社會の事情が之を許さなかつた。第一に人が群居し早口が普通になつて、ワレ・ナレ・カレと「レ」を添へて、語の切目を明かにしようとしたらしいことは、「國語の將來」の中でも説いて見たことがあるが、是も或時代からの改良だつたと見えて、全國の隅々までは行渡つて居らぬのみか、その用法も土地によつて區々になりやすかつたやうである。たとへばワレを自分の意味には決して使はず、却つて相手を卑しめた場合の、二人稱だけに使つて居る土地も相應に廣い。オレはオノレの短縮では無くして、ワレを強めて言はうとした發音加工かと思ふのだが、是は又目下の者に對して使ひ過ぎた爲だらうか、中央人の感覺には粗暴とも、又下品とも聽えるやうになつて、流行の外に押出されてしまつた。歴史の最も豐かなワといふ本の語までが、その卷添へに遭うて段々と消えて行かうとして居るのは、考へて見ると惜しいことであつた。
 さういふ中に在つて、ワタクシといふ一語のみが、益その用途を擴げて居るといふのは、單なる傳統への縋り付きといふ以上に、何かまだ隱れた法則が潜んで居るのかも知れない。さういふことを考へて見るのも、國語學徒の一つの役目かと私は思ふ。他の類語にも全く無いことゝは言へぬが、この言葉には可なりはつきりとした彈力性、もしくは氣分の傳達力ともいふべきものがある。ワタクシとワタシ・ワシ、又はワッシ・ワッチ・ワチキなどといふ言ひ方は、各別な語だと思つて居る者などは一人も無いに拘らず、この色々のものゝ一つの選擇は自由でも無く、又個人の趣味でも無い。父や兄姉は子弟妹に對して、ワタクシを使ふことはめつたに無く、世間へ出ては感心にそれをいふ人でも、家に戻れば大抵はワシ・ワタシですませて居る。學校ではワタクシを言はせようとする先生も、自分でそれをいふのは初任の挨拶くらゐなものだらう。親しさ心安さの程度といはうか、又は身を置く境地に應ずるものか。一つしか言ひ方を知らぬらしい人たちでも、その使ひ道はちやんと心得て居て、それを取りちがへると第一に相手が變に思はずに居ない。然るに斯ういふ便利な加減の方法が有ることを、丸で知らずに居る人がなんぼでも世間にはある。さうして私たちは早くから之に氣づき、今は又些しづつ忘れて行かうとして居るのである。
(585) 會て有名なる大隈重信侯などは、大きな聲を揚げてワーガハイハと謂つた。その他、本官はだの本員はだのと謂つて演説する人は是からも恐らくは絶えまい。つまりは演説も一種の文語だからである。口語で一國の國語を統一するといふことの、可能か不可能かは是から試みようとする所だが、少なくともその最第一の有難味は、人から人へ、心から心へ、告げんとするものが其まゝに傳はつて行くことである。ワタクシが精確に陛下の御氣持に合し、又承はる者の豫想に合するか否かが、今はまだ明かにし得られないとすれば、形は似て居ても是は口語でないのかも知れない。もし文語であるならば、選擇はもつと廣くてもよかつた。全體に今日の口語が窮屈で、殊に代名詞には我々すら不自由をして居る。強ひて其中から見つける必要が無いとすれば、今少し捜し求めて見たかつた。今少し日本語の歴史を知つた者が、御相談にあづかるとよかつた。
 新らしい事物・行動の加はつて來るにつれて、言葉はおのづから豐富になるものと、安心は決してして居られないことは、最近の五十年間に、したゝかに私たちが經驗をして居る。その時世の變化に心づき、表現の必要を感ずる者は、先づ少數の先覺者であつて、しかも彼等は語辭の選擇に、特殊に無頓着な人ばかりだつたからである。新たに生れた口語は、大部分が實は文語であつた。多くの同時代人は之を口眞似するのが精々で、意味までは掬み取らずに時を過し、中には理解を以て到達とし、わかれば乃ち信じてしまふといふ、經典に對するやうな讀者があり、更にひどいのは陀羅尼を覺えるやうに、意味の不明といふことに功コを認める者さへあつた。是が愈毎日の實際生活とからみ合ふ時に及んで、却つて茫然とする者が多くなるのは其爲である。言葉は實際に入用なだけ、増加して居るのでは決して無く、たゞ文語を暗記することの出來た者が、寧ろ稍うろんな人たちに向つて、威張らうとする武器のやうになつてしまつた。漢字の制限は折角の企てだつたけれども、今は却つて呑込めない新語の數を多くし、毎日の生活は以前よりも不自由になつて來て居るのは情ないことだ。
 不幸なことには我邦では、この文語の強壓といふものが、ちやうど標準語化の運動と時を同じくして盛んになり、(586)更に一方には小學校の形式教育が、その勢を助けた姿があつた。方言の差異は本來は交通の障碍に基づいたもので、僅かな歳月の經過によつて、今ならば自然に薄れて行くべきものだつた。それを統一教育の力によつて、一擧に效を收めることを期したばかりに、體驗も無い言葉を口移しに眞似させようとし、それが出たらめな飜譯語や著作語を、何の批判も無く受入れるのみか、今まで身に附いて居た適切な日常語を、どの位棄てさせる原因になつて居たか數へ切れない。壯年の男子ならば、それでもまだ片成りに、代りの言葉を拾つても使はれたらうが、女や子供にはたゞ毎日の用語が通用しなくなるだけで、その缺乏を補ふものが得られない。思ふことの言へない人たちが、彼等の間には其爲によほどふえて居る。さうでなければ、髭の有る者の言ふやうな言葉を、きまりも惡がらずに使ふ者が出て來るのである。口語は民衆の間にもり育てられて、活きて行くものだといふたつた一つの眞實を、忘れて居た弊害は隨分と大きい。
 方言調査に關する宮艮當壯君の流儀は、或點自分などの進んで來た道とはちがひ、又若いだけに計畫も大規模なやうだが、それでも此雜誌(日本の言葉)の中には、話者の選擇といふことを同君も書いて居り、其點は幸ひにこちらとも一致して居る。私は日本の國語が出來るだけ短い期間に、ずつと豐富になり又精確になつて、早くこの表現の不自由さを克服することを念じ、それには今回の教育刷新の機會に於て、言葉は話者自らが選擇すべきものであることを、力を入れて少國民に教へ込むより以上に、他に良策は無いものと思つて居るのである。それを今までは、斯く言ふべきもの、斯くいふ方が正しいと、話者の心の中をよくも見定めずに、外から型を與へようとしたのが惡かつた。是では何のことは無い雷同附和を強ひることになつて、個性の展開などは望みやうが無いのである。
 但しその判斷の力だけは養つてやらねばならぬ。單に優れた人又は前へ行く人が口にする言葉がよいと思ふやうでは何にもならぬ。出來るだけ有效に、こちらの告げようとすることが、聽手に屆くことを期するには、先づ相手がどう受取るかを知つて居る必要があり、それを知るには互ひに人がどういふ風に物いふかを、注意する習慣を付けなけ(587)ればならぬ。國語の教育といふのは現在の役に立つのが主であるべきだが、今まではとかく古書を讀み、文章を書かせる方に偏し過ぎて、活きた言葉に對する興味といふものを輕んじて居た。どうして此樣に二つ以上の言ひ方の差、今と昔との變りといふものが出來たであらうかを不審がらせるやうにすることが、少年少女に言葉を注意させる手段かと私は思つて居る。國語史といふ名は他にも使つて居た人があるが、多くは現在をわかり切つたことゝし、古い時代の變遷を明かにしただけで、それと今日との繋がりをおろそかにして居る。方言の細かな變化を比較した上でないと、言葉が今の如くになつて來た理由は説明し難く、それをしなければ、小さな人々に國語に關心を持たせることが六つかしい。活きた言葉に注意をする者が多くならぬと、我々の豫期するやうな教育の效果は擧らぬかもしれぬのである。宮良君の計畫は遠大で頼もしいが、その完備の日を待つことの出來ぬほど、國語の?勢は悲運に傾いて居る。目前の問題は中々大きい。雜誌が幸ひに出來た以上は、行く行く之を論評しつゝ進まねばなるまい。
 
(588)  標準語普及案
      (日本方言學會講演)
 
     一
 
 東京方言學會を、日本方言學會と改めた效果の、最も大きなものは何かといふことを考へて見るに、今晩のやうな集まりに、何としても出席することが出來ぬ人が、日一日と多くなつて行くことである。會では此變化をどう處理せらるべきであらうか。元來方言の研究は田舍が本場である。もし此地方の會員が働くことが無かつたら、先づまちがひなく此學會は衰へる。それ故に之を聯絡する會報の役目は大きいといふよりも、是がもし官報のやうに上意下達に專らであつたら、たとへ毎月會報を出して居ても、たゞ池の中に石を投込むだけの效果であらう。我々は書店の學會のやうに、會報購讀だけを以て目途としてはならない。どうすれば會へ出席の出來ない多數の會員に、快く且つ有益に物を言つてもらへるかを考へて見る義務がある。其爲にはこゝで問題を多くこしらへる必要を、私などはしみ/”\と感ずるのである。
 それは必ずしも六つかしいことではないと思ふ。たゞ樂にこの集會が活躍すればよいのである。つまりは講演よりも談話を、謹聽よりも訂正補充乃至は反對を、自由にすればよいのである。一つの意見もしくは推定が、次々に改められて行くといふことが、實は書籍と對立した學會と其會報との特長であると思ふが、それをこの會ほど爲し遂げや(589)すい會は無いのである。ところが寧ろ反對の現象が、今までは起つて居た。日本方言學會になつてからはまだ試みる折は無いが、この先代の東京方言學會には妙な癖があつた。或一つのレクチュアが終ると、まるで學校の講義のすんだ時のやうに、聽衆はほつとして休憩する。一つにはこの名?すべからざる建築物の爲で、是がもし固いテーブルを圍んで顔を見合つて居るのだつたら、斯ういふことにならぬのかも知れぬが、忽ちそこに三人、爰に二人、すぐに小さな聲でさも仲よく話をし始める。一時に七組八組の意見交換が行はれ、結局何があるのやら黙つて居る者にはわからなくなる。是ぢや集會で無くて群衆だ。年よりには群衆は禁物だから、さつさと立退くの他は無い。それで私などは一度出ると三度は缺席して居た。あんな風にして居ると、學會は恐らく成長すまいと思ふ。日本は本來新らしい氣風の起り易い國である。だから比較的統一の必要の多い此會などが率先して、もつと講演よりも意見交換を盛んにする慣習を作られたらどうかと思ふ。
 それには又もつと問題を引起すやうな話を出して、思はず知らず何か言ひたくなるといふ風に、仕向けて行つてはどうだらうかと思ふ。わざとゝいふわけにも行くまいが、ちやうど爰に私の一つの僻説がある。隨分と修正をして下さる人が有りさうな、一箇の意見を私は提出する。私は國語教育の革新が唱へられ出した機運を捉へて、最近是非一つ世に問うて見たいと思ふ標準語普及案といふものを持つて居る。日本方言學會の一員として、そんな説を吐くのは面白くない。少なくとも會長として任期中にそんなことを言はれてはこまる。平會員に復して後のことにしてもらひたいといふ類の抗議が御有りになるかどうか。それを試みる爲に、わざと一時間半ほどの談話をして、後にまだ二時間あまりを殘すことにする。どうか記念になり又好い先例になるやうに、さも學會の集まりらしい批評討論を以て、この一晩を送ることに御協力下さい。
 
(590)     二
 
 國語不統一の問題が、日本で新たに燃燒し始めたのは、御承知の如く外地外國の日本語教授が、うまく行かないことが實驗せられたからであつて、私などは是を「雨降つて地固まる」だと喜んで居るが、一方には此間題さへどうにか片付けば、まだ再び元のまゝで進んで行つてもよいかの如く、思つて居るらしき人も相應にある。文部當局の中にも是を好機會として、例の漢字制限・略字採用・發音かな遣ひなどの宿案を、實現しようとばかり念じて居る向きがあるらしくも推察せられる。それも結構なことかも知らぬが、それは所謂國字間題、即ち書き言葉だけに限られた、言はゞ國語問題の片端に過ぎない。書き言葉は不完全ながらも、今日はもう統一して居る。今の國字間題の如きは、寧ろ改良の爲に是から其統一を破らうといふ事業なのである。日本では過去千年來、物ずき以外には方言で文章を書いて見ようとする者などは無かつた。文章のみならず、演説でも口上でも、晴れの言葉は、全國民一人殘らず、皆標準語に依らうと努力せぬ者は無かつたのである。標準語の問題の起るのは、話言葉、即ち我々が呼吸と同樣に無意識に、毎日口から出して居る口の言葉の上だけである。讀本は蓄音器のレコードに依つて、如何に精確に指導の通りに讀んで聽かせても、地理や歴史を教へる他の先生が、出雲や秋田の言葉で自己流に物を言ふから、外國人に馬鹿にせられて困るのである。この見境ひすらも出來ぬ人たちが、國語の統一を説くといふことが、今日の患ふべき國の病なのではあるまいか。或は間に合はぬといふ者が有るかも知れぬが、先づ國語とは何か、それがどういふ形で國民に利用せられて居るかを、考へてかゝるのが一つの用意ではないかと私は思ふ。
 
     三
 
 標準語とは何ぞや。是は讀んで字の如しと謂つても一應の答にはなるのか知らぬが、それをほゞ具體的に説明する(591)ことは、實は日本方言學會の諸君で無くては出來ない。何となれば、標準語は即ち方言に對する言葉、方言あつて初めて存在を認められる名稱だからである。從うて標準語はどこに在るといふ問ひに對して、未來に在る・理想に在る、もしくはまだはつきりと見つかつて居ないと、答へることの出來る人が現はれるのを、我々は待たなければならぬのである。痛快であつたのは、前年小學讀本の一編輯者が、讀本は標準語の手本ではないといふことを、可なりはつきりと言つてくれたことで、是は當り前のわかりきつた話なのだが、地方には今でもこの讀本の通りに、ネもナもサも附けずに、棒のやうに物は言ふべきものだと、思つて居る教員がうんと居るのである。そんなら御手本はどこに在るのかといふと、一方には又東京語、それが實際はまち/\だといふと、そんなら東京の山の手の中流の生えぬきの家庭で使ふ言葉などゝいふ。是も無責任な遁口上と謂つてよいのは、そんなものを捉まへて聽く道などは無いからで、結局は甚だ自信の強い者が、先づ私の言ふ通りに御言ひなさいと、答へたのと同じに歸するからである。そんな出來もせぬことを言ふ爲に、どの位片田舍に住む者が煩悶することか。罪な話ではないかと私は思ふ。
 標準語は一つ/\の單語には無論有り得る。日本では名詞の複數が現ほれず、又總稱と部分名とが一つである故によく混亂するが、我々の氣づいて居るのは、たゞ若干の標準單語の存在だけである。一つの事物には?二つ以上の單語が出來て居る。それには聽いてこちらの方が美しい、又は此方が弘く多勢の人に用ゐられて居るといふものはある。人はその二つの存在を知る限り、誰でも取捨選擇せんとし、又その選擇は自然に歸一する。たゞ其樣な單語の數は限られて居て、どんなに骨を折つて集積して見ても、到底全體といふものにはならぬのである。ところが中央の或指導者は、その有りもせぬ全體を強ひようとする。少なくとも地方の言葉の全體を否認する。是などはたしかに暴虐といつてもよい。もしもわざとさうするので無いならば、彼等はこの全體の標準語なるものが、今は理想であり國民の美しい夢であることを忘れて居るのである。いつかはさういふ日の到來するやうに、國を擧つて同じ一つの純なる國語を以て交通し得るやうにもしも願はぬ者があつたら、それは日本人で無いと謂つてもよい。たゞ奈何せん、其方(592)法はまだ示されぬのみか、之を組立つべき個々の部分が、日に日に移り動いてゐるのである。さうしてそれすら氣付かずにゐる人が多いのである。
 國の標準單語の一つ/\が、ひま無く變つてゐることは知る方法が幾らもある。試みに數百年前の口語寫生、たとへば狂言記とか芝居の臺帳とかを見ても、殆と全部が改まつてゐることを知るのみならず、もしも忠實に記録してゐる人があつたら、この東京などはもう十年ばかりを一區切りとして、どん/\新陳代謝してゐることが證明し得られるだらう。それは又不思議な事でも何でも無い。是だけ多くの地方人が、後から/\と入つて來て、いつも重要な地位を占めてゐるのだもの、言葉が變つて行かぬやうだつたら却つてどうかしてゐる。
 町が大きくなれば、本所・深川と本郷とでも、もう少しづゝは變り方の差があつて、それが影響し合ひ又勝ち負けをする。子供などが恐らく無心の働き手であらうが、此頃ネーエと長く引張つたネが耳だち、だからサ・私がサといふやうなせはしないサの連用が起つて居る。初めは田舍者かと思つてゐたが、どうやら下町に始まり、今ちやうど山の手へ入らうとしてゐるらしい。そんな小さな變化よりも、大體に於て語彙が乏しく句法の變化の少なくなつて行くことが、江戸末期の市井小説を參考にしても、感ぜずにはゐられまい。新語は寧ろその必要なる補充であつて、之を排斥してゐたら言はれぬ心持は多くなる一方である。よいから選擇し摸倣するのでは恐らくはあるまい。寧ろ皮相の標準語論者が、覺悟も無く古い言葉を押へる爲に、新らしいを武器にして粗造の新語が跋扈するのである。是を整頓するにも先づ事實を知ることが必要である。東京方言學會は不幸にして東京方言の學會で無かつた故に、斯ういふ現象は考へずに過ぎてしまつた。諸君の仕事はまだ/\澤山にし殘されてゐる。我々を外にして、此仕事は一體誰がすべきものであるか。さうして又どれだけの仕事が、今までに片付いてゐるか。
 
(593)     四
 
 標準語に關する今一つの大きな誤謬は、國語統一に努力しなかつたといふ責を、負はすべき人の指定がまちがつてゐる。今までの國語學は、少なくとも文獻本位であつた。耳の學問で無く眼の研究であつた。多くの書き言葉の、それも少しばかり古くなつたものを、唯一ともいつてよい資料にしてゐた。是を學ぶ人が地方から出て來て三四年、本の勉強をすればする程、いはゆる東京生え拔きの中流家庭などには近よつて行く折が無い。どんな天神さまのやうな秀才であらうとも、この人たちが出でゝ師範學校の先生となつて、理想の標準語を教へられよう筈が無いのである。その先生の教へ子が又村に還つて、鵺式の物言ひを村の兒に教へ、もしくは北支那まで出かけて御里を露はさうとも、それを以て今日の國語學を責めるのは冤罪である。外地外國でいふ所の日本語なるものは、現在の實際の日本語のことを意味する。それを學ばない者が教へることの出來ないのは當り前で、何が惡いと言ひたい位のものである。人を教へる爲には少なくとも自ら知らなければならぬ。だから今からでも遲くはない。改めてこの東京語の現在のものが果してどの位の速かな足取りを以て、新たなるより良きものに赴かうとして、しかも甚だしく失敗しつゝあるかを考へ、かつは彼等を扶けて國の區々なる言葉を征服する力あるものに、即ち完全に美しいものに、することを心掛けるのが急務かと思ふ。
 といふやうなことを是から私は、高く呼號したいと思ふが、どうであらうか。方言學會の一會貝として、斯ういふことを唱へるのはわるいであらうか。どうか御遠慮のない各位の御批判を承りたいものである。
 年をとつた者の氣持から言ふと、古く使ひ馴れたものの滅びるのは一般に惜しいが、それも替りがあつてこそまだ我慢が出來る。今日の早口に使ひこなされてゐる言葉などは、「何と言つたらよいか」「言つて見れば」「斯ういふと語弊があるかも知れぬが」等々の挿み言葉を濫發しつゝ、まづい代用品ばかりで腹をこしらへさせようとしてゐるので(594)ある。調査をして見ないから精確ではないが、最も活動盛りの若い人々の、現實に支配してゐる語數と句の種類は貧弱なやうである。それを日本語のもつて生れた性質のやうに思ふことは不當である。我々の經驗し得べき古語消滅の過程は、最初には先づ早口の選擇不十分の爲に、好い單語や句法が口の技能から追出されて、耳で聽けばまだわかるといふものが増加する。ところが耳の知識は袁へやすいので、僅か三十年二十年の間にも死語に近くなるものが多いのである。國の未來の標準語を豐富にしようと思へば、一方には選擇を注意深からしめると共に、やはりこの耳からの供給を自由にして置かなければならぬ。現在もこの入口は必ずしも塞がれてゐるわけでは無い。寧ろ幾分か供給過多で、且つやゝ一方に偏してゐる爲に、口へ採用するまでの體驗を養ひ得ぬのでは無いかと思ふ。さういふ中でも女や子供は誠に見じめである。古くからのものはどし/\と失ひ、之に代つて入る新たな耳言葉は、彼等には使ひ切れぬやうなごつ/\したものが多い。この意味に於て文章を安らかにする運動は非常に必要であり、殊に大衆に訴へようとする文藝には、もつと多くの役目をもたせなければならぬと私などは思つてゐる。歌も發句も國民の文學となる爲には、あゝ勝手放題な言葉造りをさせて置いてはいけない。
 
     五
 
 是に關しての又一つの誤解は、田舍は全體として言葉が惡いといふ先入主である。そんな氣遣ひは斷じて無く、幾らも反證は擧げられるのだが、たゞ是には一つの厄介な問題、發音方式の地方差といふことが搦み付いて、それで信用を害してゐる。殊に實際問題として大きいのは、所謂日本語のアクセントである。熱心なる三四の少壯學者の御蔭で、事實が先づ最近にめつきりと明かになつた。方言そのものゝ永い間の調査も、到底及ばぬほどの進況が此方面には認められる。それで我々は遠からぬ機會に、之を今一段と弘い社會層の常識とするやうな、講演會と書物の刊行とを企てゝゐる。議論はそれを爲し遂げてから、取掛かるのが無論順序ではあるが、私などの夢は其次の段階として、(595)是を西洋の諸國語のアクセントと比べ、どこと何とが異なつてゐるかを明かにしたいことで、是も亦必要缺くべからざる國語統一の準備條件なのである。其次には金田一春彦君などの研究した前代事實、昔も所謂アクセントは日本語にあつて、それと今日とはどこが變り改まつて來たか、はた又古今少しのちがひも無いかどうか。其次には平山君などの考へて居られる地方差の理由、もと/\此通りか又はいつ頃から今のやうになつたか、前者ならば面白いが、それはたゞの歴史である。もし又幸ひにして後者ならば、アクセントは變り得るといふことになる。乃ち將來どうして改めて行くかの、大きな參考にもなるので、是を東京式に統一するといふことがたゞの空想か、又は實現可能の案であるかも、之に由つて始めて決するのである。私などの身の上話は實例にもなるまいが、是でももう五十三年ほど東京にばかり住んで、まだ上方式のアクセントは拔けない。うちの子供はいつでも遠慮無くハハハと笑ふのである。だから氣を付けてゐれば時々は直せるにも拘らず、心置き無く人とつき合ひ、思ふ存分の話をする段になると、忽ち上方生れといふことが露顯する。もしもこのアクセントを全國一つにすることが、國語政策の唯一の成功であるならば、誇張でも何でも無しに、きつと國内闘爭が起ると思つてゐる。それを遁れる方法は一つだけ可能なものがある。鹿兒島・津輕などの人たちの、殊に文字を表現の用に供せぬ人のやうに、強くはつきりと濃厚に之を高調せず、段々と弱く薄れて來るやうに念ずること、即ち久しく各地を轉々して居る田舍人の如く、氣をつけて聽けば生れ故郷の調子は殘つてゐるが、それがあつても言葉使ひが正しければ正しい日本語と、認めるやうにすることが解決策であらうかと思ふ。がとにもかくにも事實をもつと明かにすること、即ち今度の講演會と出版とが成功することを私は期してゐる。
 
     六
 
 國の言葉を一つの制度のやうに、法令・告示の類を以て改めようといふ考へは、止めた方がよく、止めなくても結果は同じことである。さうすると一見迂遠な助長主義に依る他は無いわけであつて、それでは間に合はぬと、政府に(596)運動してゐる人々は不滿を抱くかも知れないが、しかし強制はとても出來ないといふことは、もう四十年間の經驗だから、思ひ切つた方がよい。政策は實は斯ういふ場合にこそ入用なのである。急を要するものは拙速といふことがある。たとへだらしが無くとも、少しの中心が無くとも、教へるならば今は先づ東京語を教へるといふ、現在の方針に附いて行くの他はない。さうしてその教員養成所を最も多く教員を出し得る府縣へ持つて行けばよいので、東京の如く自分でも年々五百人以上も教員が不足する土地で、是を營むのは身を削ぐやうなものである。たゞ今日は東京語が教へられるといふ自信のある人は少ない上に、惡くするとミイラ取りがミイラになる虞れもあるから、用心しなければならぬ。此點に於ては沖繩島のやうに、土地の言葉とのちがひが大きくて、かぶれる心配が少なく、又一方には澤山の中學校教員を毎年外に出してゐる所に、この養成所を設けることは、こちらも安全であり、先方も大いに悦ぶであらう。かの島では出稼人が出さきで歡迎せられず、餘つた人口を十分に送り出してしまへぬことを悲しみ、それをすべて方言の責に歸して、島内方言の撲滅を政策としてゐる。家で老い且つ終らうとしてゐる爺婆までに、子供の時からの母の語を棄てさせて、所謂普通語を以て、かなしい苦しいを言ひ現はせるやうに、なつてしまふことを理想とした。御蔭で澤山の悲喜劇が簇發して居る。沖繩の指導階級では、土地の言葉で無いものを一括して、まさかに標準語とも謂へないので、之を普通語と呼んでゐる。さうして沖繩口を罷めてさへしまへば、たとへ奧州出の先生の眞似をしようとも、熊本訛りにかぶれてしまはうとも、それを皆成功の部に入れてゐたのは笑ふべきことであつた。かぶれるといふことは、勿論その言葉で活きるといふのとは大分ちがふ。永い間異なる慣習、ちがつた社會生活の中に育つた者が、其生活の全部を別の言葉でするといふこと、即ち新たなる言葉で聽きもし言ひもし又考へもするといふことは、丸つきり身内から見離されでもしなければ出來ぬことである。まして今日の普通教育が與へる國語などは、分量が甚だしく限られてゐて、成人の入用には不足する。泣くとか笑ふとか爭ふとかいふ場合の感情などは、之を表はす標準語らしきものが無いから、結局?と同じになつてゐなければならぬのである。それでは若い者などはあまり可(597)愛さうだ。責めてシナリオでも小説でも十分に讀ませたらよからうと思つても、そんなものも僅かしか渡つてゐない。つまり賣る品も無いのに店を開いて、買ひに來ぬ者を叱つてゐたのである。今まで標準語が有るぢやないかと謂つてゐたのは、通例は有形の物の名だけであつた。それすらも東京には全く無い言葉で、地方では入用なものが隨分とある。たとへば秋になつて稻を架けて乾す木を、ハセ・ハサ木・ハデ木などゝいふのは殆と全國的で、しかも古くから歌にも詠まれてゐる。それを田舍にしか無い語だから方言だといつて、「稻を架ける木」と匡正した中等學校もある。こんなのは人造の最も拙劣なもので、標準語として存續する見込は無いのである。形容詞などは近世の急ごしらへばかりで、田舍には殊に粗末なものが多いが、それでも關東北陸のオヤゲナイ、東北のヤバチイ、關西のイビシイやホウトクナイの類は、土地にははつきりとした意味感覺があつて、且つ行はれてゐる區域が弘い。人は此語によつて悲しみ憂ひ、又考へることが出來たので、ちやうどそれに該當する言葉は、今は少なくとも東京語の中には無いのである。これを是非とも罷めさせようとするには、代りになるものを與へなければならない。しかもその代りを供給すべき人々、新たな御手本の所在がどこかといふことは、今はまだ誰にもわかつてゐないのである。
 しかし少なくともさういふ感覺の表現を、必要とする人は有るのである。我々が今後の文藝作家に期待するのは、彼等をしてそのよい言葉を見付けさせたいからである。和歌なども我邦では特殊の地位を占め、殊に今日は昔とちがつて、都市に住む學問ある田舍者が、好んで田舍の感覺を之によつて表現しようとしてゐる。朗讀即ち聲を出して是等の文學を讀まうとする風習が、まだ少しでも殘つてゐるうちで無いと、書き言葉は直接には私の謂ふ耳言葉にならない。ところが歌にも發句にも此頃はルビを附けることが流行し出して、今はもう純然たる目言葉に化しつゝあるのである。斯うなつて來ると、標準語の正しい補給が一層六つかしくなる。早くしないと間に合はない恐れがあるのである。
 
(598)     七
 
 歌には限らぬが、文筆の人々の言葉造りは愈活?になつて、しかも實際の需要に無關心なものばかり多くなつて來た。私が近頃讀んで見た或一つの飜譯などは、東部グリーンランドの土人の生活の實寫で、内容は面白く、筆者は又出來るだけやさしい言葉で譯さうとしてゐるのだが、殘念ながら外國歸りで折々言葉を忘れ、自分だけの新語を以て其缺乏を補はうとしてゐる。例へば、くたびれてへたばることをクタバルといひ、くしやみをすることをクシャミヲツク、洋燈を吹消すことをランプヲフクなどゝ謂つてゐる。總體に書く人は實に勝手なことをしてゐるが、讀者は努力してそれを理解しようとしてゐる。この關係の續く限りはまだ希望がある。書く方の側さへ國語の爲に盡さうとしてくれゝば、よい言葉はまだ幾らでもふえて行くのである。
 だから自然の進みに任せて置いても、いつかは國語はよくなり標準語は完備する時が來るものと、私も樂觀はしてゐる。たゞ日本方言學會の刻下の事業としては、手を袖にして傍觀するだけでは少し足りないやうに思ふ。それで私などのこの會に期待してゐるのは、訛り又はアクセントは別途の研究を進めて行くこと、是は起原も對策も別のやうだから、特に其方だけに深入する人が有る方がよいと思ふ。方言そのものゝ研究としては、先づ消え殘つてゐる地方の言葉に留意し、それが現實に運ばうとしてゐた心持が、果して東京語なり今ある標準單語なりにも、傳はつてゐるかどうかを檢すること、さうしてもし無ければ是からどうするかを考へて見ることにしたい。標準語を掲げて地方の言葉を尋ねるといふ採集手帖の方法は、斯ういふ大切な部分を看過する懸念がある。東條氏の採集手帖の如く、この他に何でも有るならば知りたいと、空白を存して置くのも一方法であらうが、私は寧ろ土地人同士の會話の中から、耳に留まつた言葉を全文句と共に採集して置くことを勸めたいのである。意味は飜譯を頼まなくとも、何度か重ねて聽くうちには此方でわかるが、時には又中に立つ者に解説してもらつてもよい。とにかくに言葉は現に活きて働いて(599)ゐるものを、有りのまゝの姿で學ぶことが大事だと思ふ。この東京語の標準語性を確める方法としても、先づ現實を知るといふことから始めるより他には、名案があらうとも思はれない。假にあの人なら純東京語を話すだらう、又は私の言ふのが正しい、といふ人があらうとも、それは少しでも安全な資料では無い。寧ろ斯ういふ人たちは自分以外の生活に無知であり、又我々門外漢よりも一段と、民衆の言葉に對する注意がおろそかでさへある。面倒なやうでもやはり一つ/\の言語現象を、現象として見て行くことが基礎工作で、それは今までは極端に怠られ、しかも我々のやうな心ある田舍者のみが、爲し遂げられる仕事だつたのである。如何なる學問でも、最初の要件は新たに事實を知ることの他には無い。之を採集といつても觀察といつても記録といつてもよいが、とにかく手帖を持つて自身街頭に出て行くこと、それを私は國語學の新たなる課程の中に加へてもらひたいのである。幸ひに其努力が、たつた十年か二十年も積み重ねられるならば、少なくとも國に固定不動の標準語が備はつてゐるかの如き、まちがつた想像をする者などは、もう日本には一人もゐなくなつて、日本語は自然に健康なる成長の道を進んで行くと、私一人だけは固く信じてゐる。
 とにかくに自分としては、ざつと斯ういふ筋の話を、今少し丁寧に又上手に世の中に向つて述べて見たいのである。或は反對の意見をもつて居られる方々も、此學會の中には有るのではないかといふ氣がする。反對ではないまでも氣にくはぬといふ點があるかも知れない。それを此席に於て承ることが出來たら、私ばかりか、學會の爲にも、しあはせなことだと思ふ。
 
(600)  日本方言學會の創立にあたりて
 
 日本方言學會を創立して、方言の調査研究及び利用を、日本總國の事業としなければならぬ時代が、もはや到來してゐるのではないかと考へて居りましたところ、果して我々の豫想はたがはず、忽ち三百人の同志が一緒に働いて見ようといふ、誠に悦ばしい申し合せをなされて、茲に愈この第一囘の會合を催される運びになりましたことは、國の爲又學問の爲に、何よりもめでたいことであります。
 本日御來集の諸君ばかりで無く、遠く國中の各地に在つて、此會に參加して下さつた方々とても、ほんの僅かな例外を除けば、大抵は既に方言の研究者であります。中には十年二十年、熱心なる記録を續け、又感謝すべき報告を公表せられてゐる人も、隨分と多いのであります。或は御自分の土地、故郷の周圍の事實に就いては、もう改めて外の者から學ばなければならぬ何物をも、持つて居られない人もあらうかと思ひます。
 然るにさういふ方々までが、今やその一隅の博識を以て滿足せず、斯うして新たに遠國の同志たちと提携して行かうとせられるのは、動機はその今までの大事な知識をもつと基礎あるものに、今一段と意義多きものに、組立てようといふに在ることゝ信じます。如何なる學問でも古來皆この順序を踏んで成長致しました。その最も好ましい兆候を、ちやうど我々は眼前に見てゐるのであります。
 方言はその字義から申せば、元來は或小さな地域の言葉といふことでありました。しかも日本は國情と交通、殊に種族の統一といふことが、頗る地方の言葉を一致させて居りますから、全國的の方言ともいふべきものがあるのであ(601)ります。其例は溢れるほども有りますが、それを竝べ立てる必要は諸君の前ではありますまい。たつた一つか二つ、話の種として取出して見ますと、たとへば長崎バッテンなど稱して、バッテンは一つの長崎名物のやうに思つてゐる人がありますが、此語を使ふ者は九州は殆と一圓、遠くは秋田でも佐渡の島でも、バッテンと謂つて居るのみならず、東京にも近い頃まで、バトテモはありました。たゞ「行くばつてん」「見るばつてん」と所謂連體言には繋がらず、「行けばとても」「見ればとても」と元の形を守つてゐたのと、今一つはあのカステイラの名産地のやうに、さう頻々と連用しなかつたのが相違點であります。全く使はぬ土地もありますから之を珍らしがりますが、珍らしいのは寧ろ用ゐ方のあまりにも烈しいことで、其分布の偏りこそは考へて見なければなりません。しかももしこの全國の比較に疎かであつたならば、或は我々はかの遼東の豕商人に、なつてしまつたかも知れぬのであります。
 ケナリイ・ケナリガルは、京都の近世の記録に、幾らでも見えて居ります。是を羨ましい・羨むに對する方言として、地方毎に報告してゐる方言集が、實は百近くもあるのです。或はケナリイの無い處を捜す法が手取早いくらゐで、段々捜して行くと結局は無いのは東京、といふ樣なことになりはしないかとも思ひます。世の所謂標準語運動の起りを考へて見ますと、一つの全く同じ心持に對して、二つ以上の單語の有るのはむだで混雜のもとだ、東京の語に依つて統一しようといふ考へには道理があります。たゞその二つの言葉が全く同じいかどうかといふ點に、問題が生ずるのであります。ケナリイと羨ましいとの間にも、ほんの些しばかり感じのちがひが有るやうに私は思ひますが、それも是から實地に就いて、尋ねて見なければなりません。二つの言葉の内容が少しでも喰ひちがつて、十分精確なる對譯の得られぬ場合、言葉が分れたり、新たなるものが加はつたりするのは當然の話で、將來増加して行く標準語の中には、曾て新村さんが論じられたトテモのやうに、新たに地方の言葉の有力なものが、採用せられて行く場合は必ず多いだらうと考へられます。即ち方言は言はゞ未來の標準語の素材なのであります。
 我々の國語を豐富にし優美にし、又精密にする任務も、全國の方言研究者の雙肩に懸かつて居ると言つてよいかと(602)思ひます。たゞ其前提として我々は、自分の郷土以外の事實を、もう少し精しく知らなければならぬのであります。この全國の協力と相互啓發とを仲介する役目は大切であります。それに當るべき一つの機關は是非とも入用であります。私は日本方言學會がその大きな抱負を世に掲げる前に、一先づ自分の持つて生れた重い責任を意識して、之を果すに全力を傾けられることを期待して居ります。
 方言學を獨立した一科の學とすることが、國の爲に有利であるかどうか。もしくは現在の國語學と親子兄弟夫婦、如何なる契りを結ぶのが最も自然であるか。是は大切な問題であることは疑へませんが、急いできめることも出來ず、又その必要も無いと思ひます。私などは一個人としては實はまだ其準備が無いのであります。がとにもかくにも方言の研究を、一日も早く學問にすることだけは、絶對に必要であります。現在の如きはたゞ雜然たる無數の知識といふのみで、まだちつとでも系統立つて居りませぬ。そんなものゝ片端を互ひに見せ合つていゝ氣になつてゐても、實は學問といふには程遠いのであります。誰かが率先して、どうして斯ういふ事實があるか、即ち方言は如何にして起つたか。二千六百年以前には、恐らく同一であつたらう所の日本語が、何故に斯んなに五里十里の間で、ちがつてゐて、しかも匡正しなければならなくなつたか。其わけを明かにして置かない以上、折角一度は大骨折を以て統一をして見ても、いつかは又再び新らしいバベルの塔が建つかも知れない。其理法を學び取る爲には、面倒なやうでもバッテンなりケナリイなり、一つ/\の語と用ゐ方とに就いて、もう少し親切に全國の姿を見て行かなければならぬ。さうして日本方言學會は、是非ともそれを助けなければならぬと思ひます。從つて斯うして集まつて結構な御話を聽く以外に、めい/\も常に自ら考へ、且つそれを試みに世に問ふやうにすることが、殊に地方に孤立して、寂しく物を考へて居る人々の爲に、缺くべからざる方法かと思ひます。私の一つの案は、懸賞論文などに由つて、若い人たちの研究のもつと盛んに世に顯れる機會を作りたい。勿論それを決定し實行するものは委員會ですが、もし幸ひに私の意見が成立ちましたならば、今日御來會の諸君が手本となつて、どし/\と各自の新らしい見解を、憚らず公表せられるや(603)うな習慣を、日本方言學會だけにでも先づ附けていたゞきたい。是が私の會長就任の御挨拶であります。
 
(604)  第十八卷 内容細目
蝸牛考
  改訂版の序
  初版序
    言語の時代差と地方差…………………………………………………一一
    四つの事實………………………………………………………………一三
    方言出現の遲速…………………………………………………………一七
    デンデンムシの領域……………………………………………………二一
    童詞と新語發生…………………………………………………………二四
    二種の蝸牛の唄…………………………………………………………二八
    方言轉訛の誘因…………………………………………………………三四
    マイマイ領域……………………………………………………………三九
    その種々なる複合形……………………………………………………四三
    蛞蝓と蝸牛………………………………………………………………四六
    語感の推移………………………………………………………………五〇
    命名は興味から…………………………………………………………五五
    上代人の誤謬……………………………………………………………六一
    單純から複雜へ…………………………………………………………六七
    語音分化…………………………………………………………………七二 
(605)    訛語と方言と………………………………………………………七六
    東北と西南と……………………………………………………………八〇
    都府生活と言語…………………………………………………………八九
    物の名と知識……………………………………………………………九七
    方言周圏論………………………………………………………………一〇三
    蝸牛異名分布表…………………………………………………………一一〇
方言覺書
  自序
  故郷の言葉(昭和十年五月、兵庫縣民俗資料十七號)(原題、「方言心覺え」)………………………………………………………………………………………………一四三
  煕譚日録(昭和十五年一月、科學知識二十卷一號)……………………一五四
  唾を(昭和四年七月、岡山文化資料五號)………………………………一五九
  阿也都古考(昭和五年五月、土の香二十號)……………………………一六九
  鍋墨と黛と入墨(昭和六年四月、信濃教育五三四號)…………………一八二
  おかうばり(昭和十二年八月二十八日、東京朝日新聞)………………一九九
  福引と盆の窪(昭和九年一月、旅と傳説七卷一號)………………………二〇一
  末子のことなど(昭和二年九月、民族二卷六號)(原題、「末子を意味する方言」)……………………………………………………………………………………………二〇五
  ヅグリといふ獨樂(昭和六年十月、むつ二號)(原題、「ヅグリの事その他」)…………………………………………………………………………………………………二一〇
  燐寸と馬鈴薯(昭和三年三月、民族三卷三號)(原題、「方言の小研究」)…二二〇
  玉蜀黍と蕃椒(昭和三年五月、民族三卷四號)……………………………二三三
  家具の名二つ三つ(昭和十年五月、「ことばの講座二」日本放送出版協會)(原題、「家具に關す(606)る日本語」)…………………………………………………………二五四
  感動詞のこと(昭和十年五月、「ことばの講座二」日本放送出版協會)(原題、「感動詞の歴史」)……………………………………………………………………………二六四
  牛言葉(昭和六年十一月、國語教育十六卷十一號)………………………二七三
  犬言葉(昭和九年一月、改造十六卷一號)(原題、「犬と言葉」)…………二八四
  南佐久郡方言集(昭和六年十一月、方言一卷三號)…………‥……………二九五
  更級郡方言集(昭和七年十月、方言二卷十號)………………………………二九八
  石見方言集(昭和七年五月、方言二卷五號)…………………………………三〇三
  長門方言集(昭和十二年十二月、重本多喜津著「長門方言集」序、防長文化研究會)………三〇五
  土佐の方言(昭和十年五月、土井八枝著「土佐の方言」序、春陽堂)……三一三
  豐後方言集(昭和九年三月、市場直三郎著「豐後方言集2」序、國文會)…三一九
  對馬北端方言集(昭和七年二月、方言二卷二號)……………………………三二二
  肝屬郡方言集(昭和十七年四月、野村傳四著「大隅肝屬郡方言集」序、中央公論社)……………………………………………………………………………………………三二四
  寶島方言集(昭和七年一月、方言二卷一號)…………………………………三二九
  喜界島方言集(昭和十六年八月、岩倉市郎著「喜界島方言集」序、中央公論社)(原題、「喜界島方言集を第一編とした理由」)…………………………………………三三〇
  北海道の方言(昭和八年十月、方言三卷十號)………………………………三三四
  採集と觀測(昭和六年九月、國語教育十六卷九號)…………………………三四二
方言と昔(昭和二年四月〜十月、アサヒグラフ八卷十五號〜九卷十七號)……三五五
國語史 新語篇
(607)  序
  新語論(昭和九年七月、國語科學講座Z國語方言學)………………………三九九
  新語餘論……………………………………………………………………………四五六
標準語と方言
  自序
  標準語の話(昭和十六年七月、國諸文化講座國語間題篇)(原題、「標準語と方言」)……………………………………………………………………………………………五〇九
  方言問題の統一(昭和十五年十月十五日〜十七日、東京朝日新聞)………五二三
  言語生活の指導(昭和十四年十二月、コトバ一卷三號)(原題、「言語生活の指導に就いて」)…五二八
  是からの國語教育…………………………………………………………………五四三
  話せない人を作る教育(昭和十五年三月、コトバ二卷三號)………………五五五
  國語教育とラジオ…………………………………………………………………五五八
  東京語と標準語(昭和十五年九月、「標準語と國語教育」岩波書店)(原題、「東京語批判」)……五六三
  歌と國語(試論)(昭和十六年一月、短歌研究十卷一號)……………………五七五
  國語史の目的と方法(昭和二十二年八月、日本の言葉一卷三號)……………五八二
  標準語普及案…………………………………………………………………………五八八
  日本方言學會の創立にあたりて(昭和十六年二月、方言研究二號)…………六〇〇