定本柳田國男集 第十九卷(新装版)、筑摩書房、1969、12、20
(入力に当たって、@小見出しには字間があけられたものもあるが、全部つめた。A略、稍、愈、?、各、偶、旁、益の各字に二の字点がつくものは二の字点をに置き換えた。B表組みの所は字のポイントを下げた。C引用部分は全体に二字下げ、改行部分は三字下げになっている。D明瞭な誤植は訂正した。Eユニコードに無く外字注記するほどでもない旧字体は新字体にしておいた。例えば、隆、廻、慎、臈、祈などの一部が違うもの。)
 
(1) 國語の將來
 
(3)  著者の言葉
 
 日本語が今日の姿になるまでの歴史に就いては、私などの知つて居ることはまだほんの僅かなものである。しかしたつた是ばかりの事實に心付いただけでも、もう色々の興味と疑問、又若干の心配を抱かずには居られなくなつた。さうして是を思慮ある同時代人に、説かずに過ぎ去つてはすまぬやうな氣さへするのである。もし斯ういふ知識が更に豐富に蒐集せられ、又整理綜合せられて、愈萬人の常識となり常用となつた場合、國の文化の歩みは之によつて、果してどういふ風な影響を受けるであらうか。地方の隅々に人知れず刻苦して、是等の資料を供給した篤志者の努力は、如何なる程度にまで感謝せられるであらうか。「國語の將來」は言はゞその豫測の書、もしくは小さな試驗の一書である。
 大體の見込をいふと、日本語は日まLに成長して居る。語彙は目に見えて増加し、新しい表現法は相次いで起り、流行し又模倣せられて居る。語音の統一はやゝ難事と見えるが、少なくとも耳につく強い訛りだけは、追々と消えようとして居る。國に偉大な文學が生まれ、人が自由に腹の中を語り得る爲には、是は必要なる條件の一つではあるが、無論是だけではまだ足りない。大きくなるものは丈夫に育てなければならぬ。時代環境の次々の變化に應じて、まだ此上にも立派に又すこやかに、成長し得るやうな體質を賦與しなければならない。それには各人に選擇の力と、判別の基準となるべき高い趣味とを、養つてやることが何よりの急務で、口眞似と型に嵌まつたきまり文句の公認とは、先づ最初に驅逐しなければならぬ。國民の思想の安らかなる流露を祈願する者、無意識なる僞善が習癖となることを悲しむ者は、國語の教育に於て最も有效に、其助長と防衛とを爲し遂げることが出來ると思ふ。
(4) 國語の愛護といふことは、今更之を口にするのもをかしい位に、一人だつて反對する者の無い國一致の政策である。たゞこの日本語をどうすることが、愛護であるかといふ點について、諸君の言ふことが大分まち/\になつて居るだけである。或人は他人の言ふ通りを口眞似して、いつもよそ行きの語を使はなければ、愛護で無いとでも思つて居るらしく、又或者はむやみに新語を嫌つて、つまりは今のまんまにそつとして置くことが、即ち愛護であるかの如き口氣を見せ、中には全く何が愛護であるかを、尋ねても答へてくれさうに無い人も居る。そんな兩立しない解釋の下に、愛護を説くことはむだ、むだと言はうよりも寧ろ有害である。私は行く/\この日本語を以て、言ひたいことは何でも言ひ、書きたいことは何でも書け、しかも我心をはつきりと、少しの曇りも無く且つ感動深く、相手に知らしめ得るやうにすることが、本當の愛護だと思つて居る。それには僅かばかり現在の教へ方を、替へて見る必要は無いかどうか。少なくとももう一度、檢討して見る必要があると思つて居る。
 此本の文章は、大部分が處々の講演の手控へのまゝである。自分に實行の力が無い者に限つて、人に説くときは言葉が強過ぎる。其上に敍述がやゝくど/\しく、又そちこちの重複がある。聰明なる讀者の反感を買はずんば幸ひである。斯ういふ表現こそはもつと平易で、且つ切實なる方式があつてよかつたのである。それが思ふやうに使へなかつたといふのは、つまり私一個人にはまだ國語改良の恩澤が及んで居ないのである。是をも學校教育の不完備に、責任を負うて貰ふと氣が樂なのだが、五十年來の自修生としては、殘念ながらそれも出來ない。
 
(5)  國語の將來
 
     一
 
 自分はこれまで僅かながら、專門の國語學者とはちがつた立場から、日本語の過去を尋ね、且つ其將來を考へて來た。他の多くの先生に比べると、門外漢どころか、川のこちらの住人のやうな感じが自分でもして居る。それが又何か些しは耳新しいことを、御聽かせ申すことが出來るであらうと、主催者側でも認められた理由かと思はれるが、自分も亦其爲に、もつとすぐれた人を推薦して、辭退してしまふことが出來ないのである。
 私の立場といふのは、手短にいふと國語利用者の一人としてゞある。御馳走で言ふならば料理人でも無く、又給仕人でも無く、たゞ單に食べる人の立場である。文章の稽古を始めてから、もう五十年は優にたつて居る。講義といふものを試み出してからも、彼これ四十年近くになつて居る。それで居て曾て一ぺんでも、思ふ存分に書きおほせた、言ひ盡したと思つたことが無い。是が果して全部が全部、本人の無能だけに責を歸すべきものであるか。但しは又國語そのものにも、何かまだ完たからざるものがあつて、この苦惱を我々にさせて居るのでは無いか。少なくとも斯ういふ疑惑は、人情として抱かずには居られないのである。
 第二の大いなる關心事は、是も平凡極まるものであるが、自分の周圍に居る多くの若い人々の言葉の變り方である。彼等の物言ひの我々の感覺を左右することは、勿論流れの音や鳥の聲の比では無い。我々は言はゞ其中に生きて居る(6)のである。是には其人々の容子や眼の色顔の色などが、たしかに有力なる補助手段であつて、腹では斯う思つて居るのだといふことが大よそはわかり、あれは甲乙丙と謂ふつもりで、甲丙丁と謂つて居るのだなと、察するだけの同情は皆もつて居る。よほど惡意を抱く者でないと、笑つたり揚足を取つたりはしない。この聽手の寛容といふこと、是がいつの世にも國語を不必要に變化させて行くのであるが、或は今はやゝそれが烈しくなつて居るかとも思はせる。前後の關係と其場の?況とによつて、ほゞ斯ういふ言葉を聽くだらうと思つて居る者に、それとは大分ちがつた言ひ方を聽かせるといふことは、つまりは餘分の解釋の勞を人に強ひるものである。いゝ加減に聞き流して居る者以外には、こゝに一瞬間の不調和を感ぜしめる。樂器や蓄音器だつたら中を覗いて見るか、又は調節師を頼んで來る場合である。
 手近な實例を擧げると、今まで簡單にハイ・ヘイヘイ又は承知しましたと謂つて居た代りに、此頃は旅行などをすると、「さうですか」といふ答によく出くはす。或はもつと丁寧に謂はうとするときは「さやうでございますか」などといふ者もある。ちよつと人をまごつかせる返事で、時々は何がさうですかだと言ひたいやうな場合もある。この變化の如きは全く偶然の流行であつて、考へて斯う改めたものでないことは明らかである。近世の標準語の「御招き申す」又「おかけ申す」の類も、亦その一つ以前の「招き奉る」「かけまゐらす」などの古臭い形を棄てゝ、其代りに流行したものであつて、始めて之を聽いた老人は苦笑したかも知れぬが、とにかく上品な言葉使ひとして三百年ばかりは行はれて居る。それが近頃は又すたり始めて、其代りとして「お招きいたします」「おかけ致しませう」といふやうになり、更に進んでは「御見せするわ」などゝいふ娘たちが出來て來た。文章にはまだ入つて居ないやうだが、とにかく標準口語に於ては是が大勢にもなつて居る。致すも申すも五十歩百歩ながら、少なくとも致すの方がよいとも便利だともいふ理由は無いのである。標準語などゝいつても、實は始終斯ういふ無意味な變化をして居るのである。囘顧すれば前代にも多くの例が有つた如く、國語はよくも惡くも無いのに變化し、又たしかに惡く變つた場合もあるので(7)ある。人と人との交通が、殊に同胞相互の理解が、たとへ些しでもそんな事のために、不調和又は障碍を加へるとすれば、是は明らかに國にとつて損である。乃ち國語の將來の變化といふことが、自然の成行きに放任して置けない所以である。
 
     二
 
 現在もしば/\目に觸れる國語政策といふ言葉は、多分はこの目に見えぬ國語の不安が、其出現を促したものと思はれるが、たとへ名前だけなりとも、無いよりは遙かに結構なことである。たゞ注意しなければならぬことは、我邦ではいつも政策とは政府の仕事のことだと思ひ、たつた二年か三年で其地位を去つてしまふ役人だけが、考へてくれればよいものゝやうに速斷する弊がある。それは完全なる誤謬であつた。彼等の權能に屬するはたゞ政策の實行のみであつて、政策そのものは別に歳月を費して、專心に之を研究する者が無くてはならぬ。誰が考へるかと言へば第一には利害關係者、國語でいふならば國民全部、それが望めなければ少なくとも彼等の爲に、代つて考へてやらうとする親切心のある人で、其人數も多いほどよいと思ふ。この八月の炎天に、遙々と旅をして來て、どうでも國語の話を聽かなければならぬといふ、諸君こそは恐らく其人であらうと思ふ。少なくとも諸君は多くの疑問をもち、又若干の迷ひを抱いて居られるであらう。其解決に少しでも近よつて行きたいといふのが、爰に集まつて來られた動機であつたとすれば、それは寔に尊い動機であつた。一向御遠慮のいらぬことだから、どし/\と其迷ひなり疑問なりを、表白せられて然るべきだと思ふ。
 言語學には最初から、生活上の目的があり用途があつた。是が數學とか化學とかならば、自分は原理だけを遣るとも言へるであらうし、又之を保險の計算の基礎に使ひ、製藥工場の指導に充てることを、應用と謂つて輕しめてもよいかも知れぬが、醫學が人の病は治らずともよろしい、政治經濟の學が國民を不幸にすることは構はぬといふやうな(8)ことは言へない。言語學も目ざす所は是と同じである。勿論どの學問でも、事實を精確にしなければ立論は出來ない。又その事實を支配する法則は、人力の限りを盡して見つけ出さなければならぬことは皆同じだが、それが悉く明白になつてしまふのを待つて居てもよい程に、のんきな學問といふものはさう多くはない。どの方面を向いでも中間の報告、條件附きの應用といふものが待ち焦れられて居るのである。ましてや其法則の發見だけを終點として、人生への效果は省みなくともよろしいといふものなどは、我々の携はつて居る文化科學の方面には先づ一つも無いのである。政治は時々ずるい者が出て來て、手前勝手に學者の言葉を援用したことがあつた故に、我々は極度に曲學阿世を憎むやうに教へられて居るが、それはたゞ曲げたりおもねつたりすることが惡かつただけである。終點が遠いか近いかの差はあらうとも、世の爲人の爲にはならずともよいといふ學問などが有る筈は無い。さうして言語の學はさういふ中でも、醫學や衛生の學と同樣に、非常に多くの人が其結果を期待して居るのである。諸君の如く實地の利用を目當てに、之を學ばうとする人が有るのは當り前の話で、今日は寧ろさういふ職責に在る者が、紛々たる外國理論の咀嚼に没頭し、乃至は微細なる切れ/\の知識を追掛けまはして、眼前に國の言語が如何なる變化を重ねて居るかを、省みようとせぬ者の多いのを患ひて居るのである。
 
     三
 
 そこで最初に我々がきめてかゝらねばならぬ問題は、何が一國言語學の成功であるか。又は少なくとも其進歩を意味するかといふことである。今頃かやうなことを問題にするのは遲いが、それでもまだ人によつては、手短に是に答へることは出來まい。日本語が今よりも更に遙かに優れた國語になること、言ひかへるならば御互ひがもつと自由に且つ快く、思つた通りを言ひ現はし又聽き取ることを得るやうになること、それより以外に何か別の目的があらうとは、私などには考へて見ることすら出來ない。我々の有形文化は、過去半世紀の間に於て、殆とあらゆる方面に向つ(9)て進歩して居る。それにも拘らず、若干の不滿と不平とを抱き、又は忍んで居らぬ人は無いといふ位に、銘々は常に是以上を望んで居るのである。然るに獨り言語の生活に於てのみは、不思議に不便だとも不自由だとも明言した人が少ない。今までしたゝか苦しい經驗をしたと思はれる文士やジャアナリストの言ふことを注意して居ても、めつたに言葉の數が乏しくて困るとも文章の形が単調で弱るとも、こぼして居る者を聽いたことが無い。皆と一しよにならば苦しんでもよいしいふ、一種古風なる痩我慢からであらうか。乃至はもしひよつと「おれは困らない」といふ者があつたときにはくやしいといふ負けぬ氣からであらうか。とにかくに意外なことである。自分が想像する所では、國語は少しの休みも無く變化して居るのに、人はその一時の現象を以て與へられたるもの、即ち御天氣の晴雨や地震雷鳴の如く、人力を以て如何ともすべからざるものと考へ、是をとやかく言ふのは愚痴のやうに、見切つて居るのではないかと思ふ。もし假にさうだつたとすると、我々の國語教育は、少なくとも此點では失敗して居る。權力や命令ではなるほど思ふ通りにもなるまいが、現に多くの人の集合の力によつて、改めようと努めぬ場合にすら世の言葉は變つて居る。都會へ出て來て二三年も居れば、よほどの低能兒でも無い限り、明らかにちがつた言葉になつて居る。工場や學校に居ればそこで使はれる言葉だけ、餘分のものをさへ覺える。無意識に改まつて行くものは其以外にまだ幾つか有る。小兒の場合で實驗することが出來るやうに、周圍の如何によつて良くもなれば惡くもなる。言語ほど變化し易いものは寧ろ少ないのである。それを眼の前に見て居りながら、いつまでも難儀不自由をしなければならぬといふのは、つまりはまだ望むことを教へられぬからである。教育が惡いからだといふ批評は決して不當で無い。
 我々が行屆いた文章を書かう、又は人を動かすやうな演説がして見たいといふことは、個々の私の小さな要求である。一々そんな注文に應じて居るわけには勿論ゆくまい。是はその人々の天分にもよることで、そんなに困るならばしやべらずに居ればいゝと、言つてしまつてもすむことである。打遣つて置けないのは時代の智能、感情の複雜化に應じて、一般に之を表現する手段の追々と立ちおくれて來ることである。或は一つの事物が増加し、一種の?況が分(10)化すれば、必ず之に伴なうて言葉が生まれるから、心配はいらぬと思ふ者があれば、それは誤りであり、又明らかに事實と反する。現在は殆とすべての新しいものに、或少数の出過ぎ者が言葉を作り、それを若干の者がまね、他の大多數の者が押付けられて居るのである。是を新語などゝ謂つて居るが、その半分以上は程も無く消えて無くなるもので、まだ本當の日本語とは認められないものである。それが國民の大多數とは相談無しに、突如として我々の眼の前に立ち塞がつてしまふのである。幾ら從順であらうとしでも、この暗記は却つて外國語よりはつらい。從つて又思ひちがひ頓珍漢はざらである。
 
     四
 
 この弊害は今や既に忍び難くなつた。諸君は定めてもつと適切な多くの實例を知つて居られるであらうが、少なくとも私などの經驗して居るだけでも、三つほどの新しい型が既に今日の青年の中には出來て居る。地方に行くとそれが殊によくわかるが、第一には最も無邪氣で正直な一派が、平氣でまちがつた新語を交へて話をする。他所に出て一ばん多く笑はれるのは此型に屬する者であるが、是はまだ思つた通りを言はうとするのだから同情がもてる。さうして少し親しくなると、之を理解することも決して困難でない。第二には自重型、是はハイとかイエとか以外に、成るべく積極的には物を言ふまいとする一派であつて、斯うすればなるほど失敗し笑はれることは無いが、其代りには又用が足りない。且つおぴたゞしく相手に手數をかける。友だち仲間ばかり集まると諧謔縱横ともいふべき者が、そばへ見知らぬ人が一人來るとぴたりと靜かになり、又三人四人づれで人を訪問して黙つて坐り、其中で比較的勇敢な者を皆でつゝ突いたりして居る。自分を表現するのに甚だしく用心深い人たちで、聟には到底行けぬ型である。第三のものは之に對して、よくいへば俊秀型、或は聟入型と名づけてもよいかも知れない。即ち前以て場合を豫想して、言ふべき口上をちやんと準備して來る者である。簡單な應對には成功するが、言葉は立派でも折々は實情に該當せぬこ(11)とがある。非常時に入るよりも大分以前から、地方の演説會などはどこへ行つても、四分の三以上は皆同じ話をくり返して居た。是は全く練習と暗記の致す所で、もしこれが個々の本人の腹の中から發したものであつたら、此樣に千篇一律である氣づかひは無いのである。この弊害の怖ろしいことは、以前左傾の言論がさまで壓迫せられなかつた時代には、口が災ひの元になつた例の多かつたのを見てもわかる。心にも無い雄辯美辭を陳列するのは、よくないことだといふことは當人が誰よりもよく意識して居る。しかも果して其通りのことを實際に考へて居るのかと問ひ詰められたときに、實は口眞似でしたと白?することは、中々出來ぬのが人情である。其爲に終に言葉の方へ我心を殉じてしまつて、逆な悲しい結果を生じた者も折々はあつたのである。
 一國の物言ひが、一つの標準語に統一せられるといふことは、何よりも望ましいことに相違ないが、それには是非とも安全なる方法を伴なはなければならぬ。學ぶ者をして先づ豫め其一語々々を體驗せしめ、常に標準語を以て物を考へる習慣を、養はせることが紹對の條件である。言葉が口から外へ出る際に、飜譯をさせ言ひ替へをさせることが毎度あつては、それがどの樣に巧みであつても外國語であり又は音曲である。さういふ結果になることを何とも思はず、是だけ時間を掛け材料を取揃へて、教へて遣つたからは此方には責任は無い。あとは相手の心掛けによることゝ、先づ斯ういつた樣な責任觀念が、普通教育の上にも公認せられて居ることは、悲しむべき國の大きな不幸であつた。以前は私が列擧した三つの型以外に、土地の方言と訛りとで無ければ、物をいふことが出來ないといふ型の人たちが多數であつたことは事實である。それを追々に少なくしただけでも、國語教育は成功であつたといふ見方も有るか知らぬが、しかも普通人の生活に立つて考へて見れば、どんなに交通が頻繁になつたといふ土地でも、毎日々々一家一部落の尋常の交通に供するのが、三分の二又はそれ以上もの國語といふものゝ用途である。其物言ひがもしも完全にこの新しい三つの型の何れかに嵌つてしまつたとしたら、それは改良でもなければ解放でもなく、一種まことに困つた生活の束縛である。幸ひにして今日はまださうはなつて居ない。村では外部の人と接觸するには、比較的世間に馴(12)れて度胸があり、且つ上手に標準に近い語を操つる人を、所謂土地の口きゝとして選定して居た。この人間だけが内外二樣の口を話し、通辯見たやうな地位を占めて居たのである。をかしい話だが元は斯ういふ人々が、却つて内からは警戒せられて居た。それが益役に立つ時代になつて、彼等は有力者になつたのみならず、其流儀を眞似しようとする若者が、年と共に多くなつたのである。御互ひに仲の好いときのみは土地在來の語で話し、何か理窟を言はうとする時には改まつた切り口上になつて、先づ相手を威壓しようとする風が、もう此頃は珍しくもなくなつた。近來は又大分變つたかと思ふが、元は村會などの光景には是がよく現はれて居た。即ち私の謂ふ所の聟入式、最も空々しい辯舌といふものが、斯うした公けの會合の、特に眞率でなければならぬ場合に競ひ起つたのである。
 
     五
 
 今まで恐らくは氣が付いた人も少なかつたらうが、この形式萬能主義には、棄てゝ置けない弊害が潜んで居る。さうして之を導き來たつたものは、現在の國語の教へ方であると思ふ。學校に遣つて置くのもよいが、理窟ばかり達者になつて困るとか、生意氣になるから考へものだなどゝいふことを、まだ昔風の人は折々言つて居る。すると一方はすぐに頑固親爺とかわからずやとか謂つて、反抗するのが普通の世の姿である。いかにも有りふれたる世相には相違ないが、以前の社會には全く無かつたことである。諸君の如き人々が之を平凡とせずに、もう一度しんみりと考へて見らるべき重大な新現象であつた。ナマイキといふのも一つの新語で、普通には若い者がおとなびた口をきくことゝ解せられて居るが、具體的にいふと長者を凌ぐことである。どうして長者を凌ぐかといふと、新しい物の言ひ方を武器にするのである。リクツといふ語も其漢字には何等の意味が無い。底に隱れて居る意味は、一方の全く用意して居ない言葉を使つて面くらはせることをいふのであつて、必ずしも論理學の法則に合して居るといふことでない。頑固とかわからずやとかいふ言葉も、何れもさう古くない時世の産物であつて、皆被攻撃者の知らぬ間に發明せられて居(13)る。此等の語を使はれると、あたかも陀羅尼が狐狸を退散させる如く、相手には意外だから必ずたぢ/\となるのである。勿論さういふ若い者自身もまたゝく間に親爺になる。雙方が共に此語の味はひを知つてしまへば、それは武器でも何でも無くなる。さうすると又急いで雜誌を見たり講演を聽きに行つたりして、成るべく親や叔父の知らないやうな新語を、仕入れて來て煙幕の材料にしようとするのである。今日の新語の極端なる流行、殊に片假字の語に對する憫れむべきあこがれは、斯ういふ馬鹿げた原因も一つ加はつて居るのである。この不安はよほど一般的なものになつた。さうして原因を尋ね/\て、漸く尻を教育の方へ持つて來ようとして居るのである。普通教育の實際化といふ議論なども、その一つの表はれとして見るとき、始めて其心理がうなづかれるのである。是が何か實際以上の高踏的目途を持つて居る機關ならばともかくも、普通教育の如きは人を實際に育てるのがたつた一つの仕事では無かつたか。六十年以上も經つてから、今更その實際化を急呼するが如きは、説く者も耻、説かれて成程これからさうしようと決心するといふのも純な話で、是は寧ろ平たく正直に、惡かつたと言つた方がまだ男らしい。
 しかし改革の機會などは、中々さう容易には來ないものである。現在この形で進んで居る者に、向きをかへよといふことは引込めといふことになる。たとへば國語を讀本で教へるのはいけないから罷めようといふとする。それは教科書屋教科書師等の、生計を無意味にすることを意味する。さやうでござるかと謂ふ氣遣ひは無いのである。英語科廢止の經驗でも明らかなやうに、最後までの防衛者は多分彼等であらう。だから手段としては斯ういふ正面攻撃が一ばん劣つて居る。ところが幸ひなことには茲に一種の緩衝地帶、彼我共同の未開地がある。それを靜かに耕して見ることは、氣の永い話のやうだが效果を收めやすい方法である。自分が聲を大にして「國語の將來はどうなる」といふことを問題にして見ようとする趣旨は、是は誰だつてそんな事は考へるに及ばぬと謂ふ者が無いからである。
 未來は不定だとは言ひながら、斷じて變らないといふことだけは少なくとも言へまい。過去の百年の如きは比較的平穩無事な百年であつたが、それでも天保年間の町田舍の言葉と、今とを比べて見ると大きに變つて居る。通辯か註(14)釋かゞ無いと若い人たちには、もうあの頃の文藝の面白さは呑込めない。古人も勿論斯うなると迄は思つて居なかつたらう。盆の精靈さんも新語字典を携へて來ないと、子孫の言つて居ることがわからぬといふ姿である。是から算へての後の百年が、何を我々にもたらすかといふことを、考へて置かないと實は本も書けないわけである。乃ち是非とも將來を卜すべき必要があるのである。日本の卜占が支那の易などゝちがつて居る重要な點は、國語の豫言に就いては特に痛切に感じられる。或は雙方に同じ語を使ふことが惡いとさへ思はれる。普通に豫言と稱するものは、我々の好むと好まぬとに拘らず、必ず斯うしかならない、もしくはどうしても斯うなるといふ豫言であるが、我々の考へて居る未來はどうとも變へられる未來である。どうか大吉と出ますやうにと、祈念してから引く「おみくじ」である。我々の信心又は心掛次第で、斯うもなるかも知れぬがあゝもなり得る。願くは其中の一ばん都合のよい未來を示したまへと、昔から日本では子孫を大事にする者は皆さう願つて居た。國語が時と共に變化せずに居ないことだけは確かで、それが又或時はよく變り、或時はいやな風にも改まるといふことも、既にこの短い期間の經驗が、相應に我々に教へて居るのである。少なくともどう變つた方がよいか位は、見當をつけて置かなければならぬ。宗教上の豫言には、隱れた超自然の叡智があつて、導き示したものと信じられて居るが、しかも暗々裡には豫言者のもつ知識經驗が、其能力を限定して居たことは、どんな解釋の餘裕のある漠然たる言葉を使つてゞも、なほ今日の飛行機やラジオ等の普及を言ひ當て得なかつたのを見てもわかる。人智の外に在る原因だけは、如何に心を凝らしても見拔くことは出來ない。だから國語の未來の如きも、十分精確なる洞察を望むことは出來ぬかも知れぬが、今日までの經驗だけは、方法さへ正しければ十分に利用することが出來る筈である。歴史の知識の最も大切な使ひみち、史學を現代科學と名づけても差支なく、又普通教育の一科目としなければならなかつた理由は、我々の進み行く手を見究める光として、今は是以上に耀くものが無いからである。過去の千年二千年の間に、同じ民族の歩み來つた方角、又は時々くり返された長所や癖や弱點が、此後も亦多く現はれる可能性のあることだけは爭はれない。さうして其中にはちつとも有難くな(15)かつたもの、又は大いに我意を得たりと謂つてよいものが、共にこの民族の經驗の中から拾ひ出せるとすれば、その良いものは是からなほ何度でも現はれるやうに、感心しないものは永久に決して再現せぬやうに、祈念したくなるのは人情である。乃ち我々は國語の「望ましい豫言」といふものが何であるかを、考へて見ずには居られぬのである。
 
     六
 
 國語史といふ名稱を、用ゐて居られる學者は既に多い。たゞ其方法と範圍とに於て、從つて又之を重く視る程度に於て、今はまだ自分たちの仲間とは大分顯著なる差異があるのである。我々は國語一つに限らず、すべて文化生活の現在の?態を作り上げた原因は、主として近い過去に在ると見て居る。その原因の又原因は、段々と一つ前に有るのであらうから、それをも見落すことは出來ないが、一足飛びに古いものを捉へて、それと今日とを因果づけることは危いと思つて居る。國語の根源といふものがもしあるならば、それを明らかにして置くことは確かに變遷の經路を知る爲に入用である。しかも之を突止めるといふことは決して容易な業ではない。現在殘り傳はつて居る最古の記録、それも亦變遷の一つの段階でなかつたといふことを、誰が斷言し得るであらうか。勿論一段と原の形に近いものであつたといふまでは推定し得るが、同じ萬葉集の二十卷の中に於ても、既に時代と地方との差は認められるではないか。我國の言語が時のまも變化せずには居なかつた證據はこゝにもある。そのたゞ一期間の一地域の?態に、どんなに思ひを潜めてもそれは國語史で無い。單に或一切れの安全な史料を、供與する事業といふに止まるのである。記録の史料はある限られたる部分に於ては相應に豐富であるが、時としては大いなる空隙がある。是ばかりを根據として國語の變化を説く者は、いつも空想の翼を假りて、橋も無い大川を飛び越えて居る。是ではいつになつても夢と歴史との境が立たない。書物の大部分は中央で出來、又文字の力ある人々だけの手に成り且つ保存せられる。さうしていつの世にも尚この以外の多數といふものがあつて、平等に國語を使ひ、又自由に之を變化させて居たのである。それが或(16)場合には更に次の變化に移り、又他の部分ではそれがおくれて稍久しく古い段階に止まつて居る。比較をして見れば今でも歩んで來た足痕はまだ多く殘つて居るのである。我々の方法といふのは、安全なる書いた證據の得られない場合に、この無形の遺物又は遺風といふものを利用しようといふのである。殘存又は殘留といふ語を西洋人は使はうとする。殘留とは人體でいふと耳を動かす筋とか、蟲?突起の如きものだとも謂つて居る。それはもう殘つて居る筈の無いところに、稀有に又偶然に、無目的に殘つて居るものだとたいふが、果してさういふものが有り得るかどうかを私は知らない。兎も角日本で迷信などゝ譯して平氣で居るシューパースチションの語も、本來の意味は是と同樣に取殘されてあつたもの、よく/\説明し難い?態で、過去のものが消えずに居たことを珍重するのである。ところが我々は幸ひに傳統の力強い社會に生きて居て、一度もまだ他國のやうな根こそぎの改革は受けたことが無い。現在我々の目につく古風は、寧ろ大小個々の社會に於て、變へる必要を認めなかつたから變らなかつた迄である。中には意識して古い形を保存したものも勿論あるが、大部分は單に變へるに及ばなかつたといふもので、それが飛び/\ながらなほ弘く殘つて居り、又は土地毎に思ひ/\の改定をしただけの例も多い。ラジオの十數年間の活躍といふものは、諸君の想像を超えて大きな統一をしては居るが、それでなほ今日まで、或は國語の教育が外形的であつた御蔭といふものか、まだ各人の日常語の中には、著しい地方差が現存するのである。
 最近の方言調査運動は、言はず語らずの間にこの今まで心づかれなかつた言語の地方差をはつきりと知り、且つ原因を究めようとする興味によつて導かれて居る。中には單なる物ずき又は獨りよがりも無いとは言はぬが、多數の研究者は根本に大きな一つの目標をもつて居る。私などの見た所では、この國語の地方差の原因は、一つには土地毎の勝手な改造と誤解、又は眞似そこなひのやうなものもあるが、是は存外に量が少なく、又容易に發見せられ訂正せられる。其殘りの部分は過去の或時期の一般の變化?態から、更に歩を進めて現代に向つて來る道筋の、おくれ先だつ色々の段階であつたと見られる。中央では丸で變り、或土地では半分乃至三分の一變り、又やゝ邊鄙な土地では丸で(17)變らずに、一つ前の形のまゝで居るといふ、所謂五十歩百歩の差であつた。それが等しく日本人であり、國外からの感化は殆と受けず、又周圍隣接の地とは没交渉で居られなかつた爲に、多くを竝べ綿密に比較をして見れば、大體に文書記録に殘されなかつた部分の足取りが辿つて行かれる。といふのが今日世間で謂ふ所の民俗學的方法なるもので、是は言語現象以外のものに適用せられて、着々と既に效果を擧げて居る。
 それをもう一段と細説するならば、四國九州とか北陸奧羽とかの、一方面限りの言語の特徴だけであつたならば、或はさうなつた原因に政治の力、もしくはすぐれた人の感化といふ類の、外部の複雜な小原因も考へられるだらうが、この地方差には往々にして遠方の一致がある。中間に大きな距離を置いて、端と端とで同じ特徴を、全然相知らずにもつて居たものが見つかつて來る。たとへばバッテンは北九州ほどやたらに使ふ處はないが、秋田にも南部にも折々は聽くのだから、中部に元は行はれて今は流行せぬ「……ばとても」の早口に過ぎぬといふことがわかる。單語の側でいふと雀をイタクラといふ名詞は、吉野熊野の山間の村、日高郡の奧、阿波では劍山の周圍と、飛んで土佐西端の山地とで採集せられる外、一方關東の平野では利根川の流域だけにジャツチクラがあり、北陸は富山縣の南半部でホウクロ・ホウクラ、中央にも元はフクラスヾメといふ語があつた。それから沖繩の本島では雀がクラで、是はクルクルと鳴くものといふ義だと説明して居る。他の多くの地方ではスヾメは小鳥の總名であつて、特に我々のいふ雀をイヘスヾメ・ノキバスヾメ、又はマスヾなどゝ謂つて居る事實を考へ合せると、元は此小鳥をクラといふ名が弘く行はれ、燕をツバクラといふクラは勿論、山がら・四十雀・小がら等のガラも、或は一つの語の分れでは無かつたかといふ推測も成立つ。話主自身も知らない國語の變化過程が、追々明らかになつて來る見込はあるので、それには日本の近世の鎖國、及び西南から東北まで伸び/\とした、島や岬の端の古語貯藏所を、幾らも備へて居る國であつたことを、大きな幸ひと感謝して居る次第である。我々少數者の力で、是がどれほど迄の成績を收め得られるかはやゝ心細いが、少なくとも此方法の國語史完成の上に、役立つべきことを證明するだけは出來たつもりである。それよりもも(18)つと現在の時世に必要と思はれる點は、第一には國語が瞬間も休まずに變化して居るものであつたこと、第二には此變化には幸福なるものと、後から考へると不幸であつたものとがあり、從つて將來とても、惡くすれば新たなる弊害を生じ又は衰へ、さうでないまでも進化し得るものを停滯させ、逡巡させて置くといふ場合が有り得ることが明らかになつたのである。しかも今日はまだ其法則すらも知られて居ないのだから、官府の力を以て之を統制することなどは望めず、又間際になつてから騷いでも實は間に合はない。結局は永い時と多くの人の力とを組合して、重い物を動かすやうな忍耐を以て進まねばならぬ。口で言ふだけなら前年のパパ・ママや又此頃のキミ・ボクのやうに、戒め禁ずることも片端は出來ようが、腹で思ひ又うつかりと、くしやみのチキショウメのやうに、口から飛出すものまでは制することが出來ない。歴史の恩惠は追々と此顛末を正しく知つて、各人に其知識に依つて自然と良い判斷をさせることで、私たちは是を次の新教育に深く期待して居る。國語の歴史を明らかにして行くと、少なくとも國語は批判すべきものだといふことがわかつて來る。批判といふ語がもし大袈裟だといふならば、各人の自分で選擇する能力を養ふべしと言つてもよい。而うして其合同こそは國語の改良になると思ふ。彼等もし一致して漢語を尊重すべしといひ、乃至メリケン語を眞似しようといふなら是は何とも早致し方も無いが、丸々知らせもせず又判別の能力をも與へずに、一朝いやな單語が流行り出してから叱つただけでは、是は國民を子供扱ひにするものである。子供でも恐らくは心服すまい。ましてや今日の日本人は、もはや其やうな取扱ひを受くべき人民ではないのである。
 
     七
 
 國語史の囘顧によつて、今一つ我々の心づくことは、國語の變遷は必然であるが、是にも亦時代があり地方の風ともいふべきものがあつて、古今南北必ずしも同一の歩調を取り、同一の方角にのみは向つて居なかつたといふことである。たとへば長崎を中心とした或廣さの田舍では、シャンスとかポイシンとか、支那人相手の者の使ひ始めた單語(19)が、今でも少しは殘つて居るなども特色ある一つの痕跡だが、それと現在の英語利用の行過ぎとは稍似て居て、ただ此方は流行の勢ひが一段と強かつた。時過ぎて考へたら、きつと苦笑の種であらうが、今日でも反省の不可能なほど、複雜な原因からでは無い。是は一つには片假字だから覺えやすく、印刷になり易く、從つて模倣が殊に自由なのである。地方の新聞などは毎日のやうに、十行に一つほどの割合でこの片假字の新語を使つて居て、しかもどうやら其原語を知つて居て書くとも限らないやうである。まちがへばまちがつたまゝで讀者の頭にも入るであらうと思ふと心細い。始めて漢語の日本へ弘まつた事情は、是とは少しばかり違つて居たかと思はれる。即ち上代の漢語輸入は漢字と一緒であり、又多くは書いたものゝ上で眞似られて居た。其中には頻々たる使用によつて、分立して口の日本語となつたもの、たとへば念佛・如來・訴訟・證據などの類も若干はあるが、大抵は筆を執る人と讀み得る人とだけの間に限られて居たのである。是が手放しで幾らともなく流布したのは、讀書萬能主義の確立した明治以後のことで、相手構はずの漢語を使ふ風は此時から起り、終にはどんな字を書くなどゝ疊の上に書いて見せたり、健康の康の字などゝ一々言ひ添へたり、其他之に似よつた補助手段を用ゐないと、滿足には話の出來ない國に、日本をしてしまつたのである。明らかに是も亦一つの時代相、又は或土地限りの特徴であつたので、さういふことをしなければ伸びて行けない日本語であつたといふ、證據には決してならぬのである。
 そこで我々は又同じく國語の變遷といふ中にも、芭蕉翁の所謂正風と流行、常と臨時といふやうなものを、見分ける必要を感ずるのである。單なる一時の不用意もしくは濫用と、元から具へて居た國語の成長力の、自然の展開とは同一視することが出來ぬのである。古くから具はつて居た微妙なる表現法でも、永い間にはやはり少しづゝは改まつて、近代は殊に外貌を一新して居る。どんな昔の好い言葉でも、其まゝ使つて古臭いと言はれぬものは先づ無いと思ふが、是を改めて行く方式には自然なものと、やゝ事を好んだものとの二通りがある。もしくは以前は有り得なかつた變革で、近頃特に盛んになつたものがあり、それにも亦今までの途を續けて歩むものと、大分冒險的だなと感じら(20)れるものとの、色々の段階が入交つて居るやうである。全體に物數の急に多くなつて來たこと、其中でも單語數の非常な増加は、近代の特徴として一般に認められて居るが、それが何れの部分に最も著しかつたかは、當つて見た人がまだ無いやうである。自分等の想像して居るのは、單語そのものゝ増加にもまして、その一つ/\の語の使用囘數が更に増加し、從つて其古びが早く、改造が起り易く、且つ選擇が粗末になつたことが、一層大きな近世の變化ではなかつたかと思ふ。古い時代の國語ばかりに注意して居る人にはこの大切な古今の差異を、見落す者が無いとも言はれない。私は少なくとも他にまだ之を説いた人のあることを知らぬが、元來ハナシといふ日本語は、それ自身が一つの中世の新語であつた。從つて此單語が表示して居る一種の國語利用の方式も、都市を中心として徐々に發逢して來たもので、上代は勿論のこと、田舍では久しい後まで之を知らずに居たのである。今でも東北にはハナスといふ動詞は無く、カタルとシャベルとの二つを以て用を辨じて居り、又關西地方でも元は名詞のハナシがあるだけで、イフとハナシヲスルとは明らかに別の意味をもつて居た。以前の會話は一問一答式で、雙方の言ふことは短く又緩やかであつた。一方の長々しい敍述と、他の一方の聽取りとの必要は古代にもあつたが、是は常に重大であり、且つ記憶をしなければならなかつた爲に、定まつた語辭と句形とを用ゐて、特に印象を深くしようとして居た。是が即ち物語であり、今ある語り物は其遺風であらうと思ふ。物語が話といふ形に變つて行く際に、用語の選擇と又その組立ての大いに變つたことは、實例を以て幾らでも其痕跡を指示することが出來るが、一方には又其物言ひの速度の、加はつて來たことも見遁し得ない。早口といふ言葉は以前ほどは用ゐられなくなつて、早口の程度は却つて三十年前よりもうんと加はつて居る。しかも是が個人の癖や趣味だけでないことは、今以て土地々々の間の早口の差が、可なり著しいのを見てもわかる。自分は是をハナシといふ一種の國語利用の、新たなる普及に伴なふものと認めて居るのである。さうして現代の國語の變化には、其結果としか見られぬものが可なり多いのである。
 
(21)     八
 
 所謂早口は今日ではもう何でも無いが、始めてそれへ入つて來るのには、必要なる條件があり、又その自然の結果といふべきものがあつた。語りものゝ用語が古語の莊重なるものを好み、又母音を以て終る語音、即ち日本語の特色と認められて居る滿足なるイロハを使ひたがるのとは反對に、しやべりが早くなると拗音や撥音が多くまじつて來る。それから又言葉の繋がりが多いので、其堺目をはつきりとさせる爲に、若干の細工が入用になつて來る。是は別の機會に詳しく説いて見たいと思つて居るが、たとへば餌の日本語はエであるけれども、エと謂つたのでは隣の單語とくつゝいてしまふ故に、全図を通じてエバ・エサ・エデ・エヅ・エド・エジキ等、色々の改造の何れか一つを採用して居る。斯ういふ單語の變化は幾つもあつて皆新しい。次にはR子音、DB其他の濁音の使用増加、是も亦個々の用語を際だゝせる爲の一つの工夫で、同時に又早口の話の彩どりとしても必要だつたのであらう。漢語が始めて入つて來て口の言葉に用ゐられた際には、フミ・ゼニ・ボニ・ラニのやうに日本化させて使つて居たものが、現在は寧ろ元の形の強く殘つて居ることを喜び、漢語をまじへぬと演説が弱く聽えるといふ者さへある。昔はさうだつたのだから弱い筈は無い。女や子供にはわかるか否かも省みずに、斷乎と守れ其正義といふやうな、文句ばかりが盛んにふえて來る傾向は、全くこの長話の流行によつて、追々と養はれて來たらしいのである。
 今一つの別な結果は、人が短い時間に成るべく多くの話をしてのけようとする努力は、どうしても用語の精選をお留守にする。日本人の奇警なる言ひまはしは名物であつた。所謂開けぬ土地に行くと少しはまだ聽かれるが、今では專門家もそんなことは顧みない。言葉に韻を踏み調子をつける技術は、僅かに今殘つて居る若干の諺などに現はれて居るだけである。是と俳諧といふ文藝との關係は、特に興味のある問題で、たとへば、
   早牛も淀、遲牛も掟
(22) 是は行く處までは早晩行き着くといふたとへであるが、句形が全く歌の下句になつて居る。
   伊像に吹く風讃岐にも
 人生皆斯くの如しといふ意味を述べたものらしいが、上に「何々や」を附ければ發句である。どちらが前であつたにしても、とにかく人は是を日常の口語に用ゐて居たので、それほどにも我々は秀句を貴んで居たのである。ところが今日はもはや大抵の者にはそんなことをする餘裕が無い。一つ感動するものが見つかると、主が有るものでも早速借用する。口眞似が當り前になつただけで無く、場合が許せば何度でも同じものを使ふ故に、少しく氣の利いた表現はすぐにきまり文句となり、やたらに使ふから忽ち效果が薄れる。明けても暮れても「大乘的見地に立」つたり「三位一體の實を擧」げようとしたりする。斯んな言葉を聽いて動かされる者が無いのは當り前の話である。それだから演説などは一人でも賛否の豫想を増減せず、講義は大よそ睡いものとなつてしまふ。準備時間のたつぷりとある者までが、それでいゝものと心得て一向に草稿を作らず、短い時間で話を片づけようとは努めない。それでも放送が三十分となつた御蔭に、よほど人はむだなことを言はなくなつたが、自分などが地方に話に行つた頃には、どんなに要領よく言ふだけのことを言つても、短いのを熱が足らぬといひ、長たらしくないと徹底して居ると思はぬ聽衆ばかり多かつた。其爲につい斯ういふ長話の癖が附いてしまつたのは自分だけで無い。もう一度以前の秀句時代を、振囘つて見る必要が、大いに有るのである。
 しかも今更我々の國語利用から、話といふものを追放することは勿論出來ない。たゞ茲に國語の良い性質と惡い癖を、自由に批判する風を盛んにし、同時に今のやうになつて來た原因を考へて見て、其研究から得た知識を公共のものとするならば、もと/\聰明なる國民は、決して再び極端に走ることなく、それだけでも國語の將來は明るくなる上に、更にこの批判力の養成によつて、追々に幸福なる國語、完全なる國語といふものを形づくらせて、暗々裡に今後の變化を指導することが出來ることゝ信ずる。現在の國語に不滿を抱くといふことは、決して國語を愛せざる者の(23)所行では無い。是が確定不變のものなればこそ、それを惡く言ふのは同情も足らず、又無益の泣きごとのやうにも取れるか知らぬが、絶えず成長して居るものをよく成長させたいといふのだから好意である。子供の痩せて背が低いのを氣にするやうなものである。何一つ足らぬものは無いといふ?態には、まだ我々の言語は到達しては居ないのである。
 
     九
 
 それで此次には日本國語の特質、如何なる長處を持つて居てそれがどの程度まで發揮せられ又どういふ場合に抑制せられ、もしくは捻ぢゆがめられて居たかといふ點に就いて、成るべく他の人の言はなかつたことばかりを述べて見よう。自分の氣づいた所では、我々の同胞は昔から、極めて氣輕に言葉を造る術を解し、又はそれを爲し得る機會を與へられて居た。入用に臨んで次々に單語なり文句なりが設けられるといふことは、今日のやうな新しい事物が激増して、物人互ひ/\の關係が日に錯綜し、知覺感情の細々と分化して行く時代には、何よりも都合のよい長處であつたのだが、不幸なことには其需要が痛切に感じられるやうになつた頃から、却つて其活動が制限を受け始めた。單なる凡人大衆の群に、此事業を委ぬるを不安として、學問が是に干渉したのである。大衆は經驗に乏しく、歴史を知らず、又遠方の土地を參考とする便宜を缺く故に、其作品はしば/\粗造であるが、其代りには自家の經驗に忠實であり、兼て心の中で使つた上でないと口からは出さうとしない。しかも數多くの試みの中で、たやすく仲間の者が承認したものだけが通用するのである。京都の言葉とても元は斯うして出來て居た。文學はさういふ流行の中から、又一段と嚴選したものを採用して、是を後世に遺したかと思はれるから、決して國語の亂雜を引起す患ひは無かつたのである。ところが一方に學問のある人のみに入用があつて、彼等の手で設けた若干の言葉が、後々民間にも普及して行つた例がある爲に、何か無形の造幣局の如きものが、上の方に在るかのやうに想像する人が多くなつたのである。辭(24)書に當つて見てもすぐに判ることだが、斯ういふ讀書子の手から出た新語の數は、實は至つて僅かなもので、堂々たる文獻に跡を留めて居る言葉だから、氏素性がちがふといふものは殆と無い。雅語と所謂俗語とのたつた一つの區別は、後者が新たに生まれてまだ最終の精選を經て居らぬ爲に、數のみ徒らに多くて玉石が混同して居るといふだけである。筆とる人々は是に概括的な不信用を抱いて、其癖いつ迄も不自由をして居るのであるが、作る者の側では昔も今も、格別固有の方針を改めては居ないのである。用言又は働き言葉と謂はれるものに、その實例は幾らでも轉がつて居る。たとへば「音をさせる」といふ意味のナルといふ語の上へ、簡單な一音節を添へてウナルを作り、ドナルを設けたことは既に認められて居るが、此他にも可なり弘い區域に亙つてワナルがありジナルがありヒナルがあり、何れも高い聲を發することである。泣くとか呻くとかをボナルといふ土地もあるが、言葉作りの法則はすべて一つで、作品も亦どちらがよいといふことは容易に言へない。メクとかメカスといふ語の附く動詞は、すべてさういふ樣子をするといふ意味らしいが、是には古くからキラメク・オボメク・トキメク・ナマメク等があつて散文にも用ゐられ、其後も引續いてドメク・ワメク・ホトメク(款待する)・ドシメク(慌てる)等、又名詞形としてヒカメキ(稻妻)・ヒヨメキ等が出來て居る。古いものだけが良いとも決してきめられない。其他コバム・ハバム・イロバム・ケシキバムの類、ヨドム・イドム・オドム・ウドムの類も、一方が許されて居たから他のものも出來たので、時を同じうして現はれたものでも無ければ、又各自が獨立して考へ付かれたものでもないと思ふ。形容詞は殊に近世に入つてから、盛んに増加しなければならぬ理由があつたやうだが、如何なる僻地で手製したものでも、雅語に先型をもたない言葉造りは殆と無い。たゞ終りにナとナイとを附けて使ふものだけが、勝手放題なこしらへ方をして居るやうに見えるが、是とても中央に始まつた一つの時代の風に、準據したものであるやうに思はれる。
 今日の數多き新語彙が、主として學問ある階級の制定にかゝり、又は其指導に成つたやうな感じを、我々に與へて居る原因は幾つもある。何よりも大きな一つは此頃になつて、實際民間にはこの言葉造りの機能を抛棄した者が多く、(25)何でも人まかせにして都府を眞似てさへ居ればよいやうに、考へる傾きが強くなつたことである。なるほど新語の入用を先づ心づいて、是に應ずる爲に細かな智能を働かし得る者は、都人の中に多いのは事實であらうが、彼等の生活經驗とても、實は片より又限られて居るのである。早い話が日本の字引のやうに、名詞ばかりがやたらに多くて、動詞形容詞の種類の乏しいものは、恐らくちよつと他には類が少なからうと思ふ。莫大なる外國事物の輸入が、さういふ用言までを伴なつて來なかつたからといふことも勿論言へるが、又一つには古くからの國民心理で、名を知りさへすれば其實體を捉へ得られるやうに思つて居たことが、注意を此部分にばかり集注させて、今まである内部の感覺の、こま/”\とした分化を省みしめなかつたといふこともあらう。だから我々が急場の需要に際して、斯ういふ言葉を造る手續きは無造作以上である。その亂暴さにかけては田舍者を超越して居る。所謂サ行變格の跋扈は其一例で、如何なる場合にも名詞にスルをくつ附けて、文學する・哲學するといへば用は足りるものと思つて居る。たゞ辭典はまさかに是を載せないのである。此風習は無論近頃の發明では無い。形容詞の方でもナルさへ下に附ければ、どんな言葉でも出來ると高をくゝつて、少しも此方面には勞苦を費さなかつた爲に、御蔭でへんてこれんなものばかりが、標準語の中に入つて居る。それをぽつ/\と地方でも眞似して居るのである。近世の口語ではナルはナと成り、又?モッタイナイなどのナイとも成つて「無い」と混じて居る。是が一般になれ/\しく又卑近に聽えて、文筆家の趣味に合はなかつた爲でもあらうか。それに代つて追々に流行し出したのが、支那にも無いやうな何々的の濫發であつた。是で翻譯だけには困らぬといふやうな顔をして居るのを見ると、我々は誠に困つた人たちに、造語の權能を委任したものだと歎き悲しまずには居られないのである。
 
     一〇
 
 今までの經歴から言へば、日本は言葉の改まり易い國であつた。殊に近年は流行の語が多く、人は急いで之を模倣(26)して、寧ろあまりにも氣輕に古いものを棄てゝしまふ嫌ひさへあつた。然るに獨り標準語の普及といふ事業のみが、是ほどにも熱心な積極政策の下に於て、長い年數をかけてなほ十分な效果を擧げ得ないといふのは何故であらうか。單なる方法の誤りといふ以上に、何か別途の障碍のまだ見顯はせないものが有るのでなからうか。私などの氣にかけて居る一つの點は、個々の地方に入用があつて、久しく備はつて居るものと交替するには、標準語は先づ量に於て不足して居るのではないかといふことである。標準といふからには良い言葉でなくてはならぬといふ考へが誰の頭にもあつて、所謂洗練が幾分か單語と文句の種類を、制限し過ぎて居るかのやうな感じがする。國の言葉の分量をきめるものは、申すまでも無く生活上の必要である。夜でも夜中でも又喧嘩の時でも、我々には日本語が入用なのである。足りない部分だけは假に在來のものを、まじへて使つて差支無しと言つたところで、いつでもさういふ器用なことが出來るかどうかは疑問である。早い話が東京の多くの家庭でも、標準語で無いものを幾らも使つて居る。たとへば「行つてしまふ」をイッチマウ、又はイッチャウと謂つても許されて居る。或はこの三つを三つとも知つて居て、時に應じて使ひ分ける者もあるかと思ふ。口の言葉は文章の用語に比べて、ずつと微細な點まで分化して居るのだから、書いたものに出て居る良い言葉が、すべてゞ無いといふことは子供でもちやんと心得て居る。又さうで無かつたら他人の言ふことが解らぬわけである。ところが國の端々に行くと、學ぶ者は勿論教へる人までが、斯んな簡單なことにすらまだ心づかぬのである。それで今までは五千の言葉を以て營んで居た生活を、三千の良い言葉で續けさせようといふ無理な教育が始まるのである。本で國語を與へようとする教育の弊は、そこに現はれざるを得ないのである。もしも其効果が完全に擧がつて居たら、多くの子弟は一部分の?とならざるを得なかつたのである。この無分別なる交替によつて、失はれんとして居るものも既に多い。常民相互の交通に於て、古來缺くべからざるものとなつて居た感動詞が其一種である。文章の技術はまだそこまで進んで居ないが、我々の口言葉は省略が最も自由で、しかも其時々の心持、内に在る意と情とを精確に相手に傳へる點にかけては、却つて主格客格の具足した本式の文句を、むだとも(27)こけとも感じさせる程に氣の利いた彫琢が加へられて居る。適切なる用語の選擇も一つの力ではあつたが、主として之を助成したものは、この色々の氣分を表はす小さな語の、思ひのまゝなる插入であつた。アナ・アハレ・イデ・イザ・ソモなどの古い用例が、稀々ならず記録の間にも殘り傳はつて居るのを見ると、是を國語固有の長處と言つても誤りで無く、又尋ねようと思へば其由來と、次々の増加改定の理由も尋ねられるのである。最近の所謂方言匡正は、何の代りも與へることなしに、その少しく耳馴れぬものゝすべてを、封じ込めもしくは追拂はうとして居た。つまりは最も從順なる者をして、最も多くの不自由を忍ばせようとして居たのである。風と太陽との古い寓話のやうに、人が容易にその古い外套を、脱がうとしなかつた方に道理があると思ふ。
 標準語が今でも毎日のやうに改まりつゝあるものだといふことを認めるのと同じに、其分量が又現時國民の全般の生活を、隈無く覆ひ盡すほどに豐富では無いといふことを、明らかにするのが何よりも急務ではあるまいか。是ほど澤山の覺えきれない新語が、毎日のやうに供給せられるのだから、もうそれでよからうなどゝ思つてはいけない。どんな有りふれた一つの字引、殊に外國語との對譯辭書を見てもわかることは、此頃やたらに殖えて居るのは名詞ばかりで、動詞や形容詞の之に對する割合は、段々に後へ下つて行くばかりか、曾ては京江戸にも行はれて居たよい言葉の、もう廢語に歸したものが可なり多い。まして地方にばかりまだ行はれて、都市に全く無いといふものは幾らあるか知れない。人がよくいふのはイタムといふたつた一つの標準語に對して、腹が痛むならニガル又はコハヾル、蟲齒ならハシル、疵や腫物ならウヅクと謂はぬと其感じが表はれぬ。それを悉くイタム・イタイで濟ませろといふのは無理だと、中國でも北國でも毎度聽くことだが、是などはたつた一つの例で、しかも對抗する言葉が既に分化して居るのだから、問題はまた輕易である。人の内部の感覺はもう微細なる差別を認め、どうしてそれを表はし分けようかを考へて居る際に、全然さういふ經驗も無く、たゞ大まかに前期文學などを鑑賞して居る人たちに、言ひ方を指定させようとするに至つてはちよつと無謀である。町でも荒々しい生活をする人は幾らも居り、動作の言葉などは此人たち(28)の方が多くもつて居る。殊に田舍には又異なる境涯があつて、同じ一つの田を打つといふウツにも、冬春次々の作業にはそれ/”\の用意のちがひがある如く、人と人との交渉は寧ろ都市よりも煩雜であり、從つて又心の動きを表はす言葉にも、色々の特殊なものを必要として居た。現に我々が複合動詞と呼んで居る常用句なども、まだ數多く行はれて居て、是だけは簡單に新しいものを以て引替へることが出來ない。次に形容詞の方はどうかといふと、是は地方でも以前は至つて數が少なかつた。丸々使はぬといふ程でもないが、目顔や擧動によつて容易に他人の感ずるものを呑込める場合が多く、アンナ・ソンナといふ語ばかりが盛んに利用せられ、たま/\存在しても其範圍がいつも茫漠として居た。カナシイ・イミジイ・ウタテイなどがよい例である。此等が追々に其用途を限定して、たとへばイシイといふ形容詞にオを冠せて、主として女が食物の味の佳なるものだけを意味し、ケナゲナを少年の勇氣ある者を譽める時のみに使ふことになれば、すぐに其殘りの部分に對しては、別に何等かの似つかはしいものを新設しなければならぬ。さうで無くとも交通が開けて、同情と理解の幾分か薄い人々と、物を言はなければならぬ機會が増して來れば、忽ち形容詞の缺乏が痛感せられて、近世は競うて其補充をしようとして居るのである。方言の雜駁且つ粗造で、殊に聽き苦しいものゝこの部分に多いのも理由のあることで、しかも決して昔からの惡い癖では無かつたのである。今日標準語として餘儀なく認められるものゝ中にも、至つて素性の不明な下品なものが幾らもまじつて居り、それで居てなほ我々はいつも形容詞の飢饉を感じて居るのである。之に對する應急策としては、かの何々的といふやつは寧ろ淺ましい鼻元思案であつた。歴史に何等の根據が無いのみか、支那の元方に於てもそんな風には「的」は使つて居ない。幸ひにして今はまだ年寄や女子供は之を顧みず、歌謠文藝にまで取入れようとする程の勇敢な者もないからよいやうなものゝ、斯んなものが日本の標準語になるやうであつたら、それこそ大變な話ではあるまいか。
 文章で新たに國の言葉が弘められるものゝやうに、思つて居るといふことが最初の誤りだと私は信ずる。日本には奈良朝以來、讀者を外國語の知識ある階級だけに限ることを覺悟の上で、外國語をまじへた本を書く人が多かつた。(29)後々之を解する者が少しづゝ増加した爲に、互ひに知つたかぶりにその若干を口にする風が起り、その又一小部分が歸化土着して、少しはまちがへられつゝも日本語化したことは、近頃の英佛語の實?とよく似て居る。たゞ異なる點は始めから日本語にするつもりで、一人が筆を執つて勝手な字をこしらへて、それが通用するものと心得て居ることで、此風は全く百年來の新現象である。以前の翻譯者はそれでもまだ、第二の外國語に移してから持込んだのだが、此頃の連中は漢字もよく知らずに、自分の考へでそれを竝べて居る。それが日本語で有り得ないのは勿論、新語の候補者としても至つて影の薄いものなのだが、殘念なことには國民はそれを判別取捨するの權能を奪はれ、又字に書かれたものを承認する義務を教へられて居る。さうで無くとも國が大きくなつてからは、よそから來るものを重んじ、自分で新語を提案しようといふ勇氣も智力も衰へかゝつて居る。其衰運に乘じて本で新たなる物言ひを押賣りしようといふことは、よほど萬全の自信のある場合でも、なほ國民の言語能力を抑制する危險が潜むのである。ましてや今日は標準語の正體も確かならず、それにどれだけの弱點缺點があるかといふことも、批判して見ようとした人がまだないのである。心細いといふ形容詞は、斯んな時に使つてよいかと思ふ。
 
      一一
 
 國語の將來を豫言しようとするには、先づこの個々の民族毎に具はつた、言語能力の特質といふものを、考へて見る必要があつた。私などの解して居る國語史の實際の用途は茲に一つある。起つて年久しい國ならば、必ずその經過の間から、癖と持前とのすべてのものが、仔細に視て行けば窺ひ得られ、又其他には之を知る方法は無いと思ふからである。時代によつて抑へられ、曲りも捻れもすることはあるだらうが、大體に於てたち〔二字傍点〕は非常によい樣に感じられる。私のまだ片端の觀察がもし幸ひに當つて居るとすれば、將來に向つて樂しい希望を抱いてよいと思ふ。即ち日本人は今後も盛んに美しい文學を産出するは勿論、心の隈も無く語りかはして、今よりも一層鞏固なる結合を、續け得(30)る民族であることだけは疑ふ餘地が無いと思ふ。但し其爲にはもう少し、何とか方法を立て直す必要があるかも知れぬが、それとてもやゝ氣永に且つ遠まはしに、成るべく我々のやうな一般人の關心を是に向けさせ、率直に疑惑と不安とを表白することを許し、又國語は批評してもよいものだといふ考へを普及させるやうにすれば、自然によい方へ改まつて行くと思ふ。靜かにそれを待つて居ても大抵は差支が無ささうであるが、たゞ私たちは念の爲、即ち今一段と確かなる安心を得んが爲に、結論として次のやうなことが言つて置きたいのである。
 一、日本人は聽手としては實に理想的で、かなりぼんやりとした言葉からでも、的確に相手の言はんとする所を把へる能力をもつて居る。さうして又それを自負して居る。それ故に一方では早合點を警戒しなければならない。殊にその弱點を利用していゝ加減なことを言ひ、しかも是が判らないのかとさげすむやうな、顔をして見せる者を防衛しなければならない。わからぬことをわからぬと言ひ切る勇氣を養はしめなければならない。教育者は勿論のこと、誰でも物言ふ者は相手のわかるやうに言ふ義務がある。もしそれが出來なかつたら言ふ者の失敗、といふことにきめて置きたい。即ち解釋學などゝいふものは無用にして見たい。
 一、改良に鋭敏なのも日本人の一つの長處であるが、其爲に總括して一切の新しいものを、尊重しようとする所に時々の弊害を生ずる。新しいといふ以外に何一つの取りえも無い言葉が、やたらに流行するのは紛亂の種だといふことに、心づかせて置く必要がある。しかし時々は此にも入用があり、又早速の判別がつきにくいとすれば、言葉の身に附くには二段の手續きがあることを、はつきりと知らせて置くことが便利ではないかと思ふ。
 一、二段といふのは言葉の用途に、單に聽いてだけ置くものと、自分でもそれを口にするものと二通りあることで、後者はいつでも前の者の中に含まれて居るが、其分量にはもとは著しい差があつた。今でも小さな兒とか、女やたゞの人民には是がよく見られる。聽くのは二度か三度で大よそは心持が取れるが、自分で用ゐることは知り切つて居ても中々出來ない。この堺の線はもとは非常に濃く、今日はやゝ一般に淡くなつて居る。所謂口眞似と自分の言葉との(31)ちがひは、腹でも其語を使つて思ひ又は獨語して居るか否かだから、素人にでも可なりよく確かめ得られる。多くの讀本の國語教育は、心中はとにかく口だけではさう謂へと教へるのだから、この堺の線を無視して居る。
 一、晴れの言葉、即ち言葉のよそ行きといふものがあるといふことを、以前の人たちはよく知つて居て、必要のある時のみそれを使ひ、使へない人は其場合を避けた。それを避けるに及ばぬやうに全國民をしようといふ點は、今日の教育に深謝しなければならぬ。しかし實際の用途からいふと、年に二三度以上も晴れの言葉の用の無い者が、今なほ同胞の過半數を占めて居る。彼等に入用なのは毎日の言葉である。さうして斯ういふ人たちの仲間に限つて、改まつた切口上をよそ/\しいと感じて嫌ふのである。それをすなほに言ふことを教へなければ、標準語の普及はいつまでも監督を要することであらう。
 一、小學校の出來るよりもずつと前から、晴れの言葉だけは皆口移しに教へられて居た。一方のふだんの言葉の耳で聽いて居て覺えるに反して、是だけは必ずしも意味の取りちがへを氣にせず、たゞ言ひそこなひだけを一生懸命に警戒して居た。乃ち暗記が本位であつた故に、私等の頃には山へ行つたといふ記事文には、きまつて一瓢を携へと書き、此日天氣晴朗といひ、家に歸つて燈下に此記を作るなどゝ書いて笑はれたものであつた。さういふ空々しいことはさせたくないと謂つて、出來るだけ毎日の言葉に近づけようと努めたのは大きな手柄であつたが、それでもなほ二種の表現の間には若干の開きがあり、強ひて二つのものを一致させようとすれば、文章が甚だしどけなく、多分は文章とも言へないものとなつてしまふが故に、どんな方言の支持者でも閉口して、終によいほどの所で區切りを付けずには居られぬのである。
 一、是には又十分なる理由、新たに生じた原因が有るやうに私などは思つて居る。言葉を使ふといふには大か小か、必ず用語の選擇が無ければならぬのに、現在の日常語には、その選擇の働きが甚だしく弱くなつて居るのである。古人は一方のよそ行きの方にはやゝ今よりも寛で、一旦きまつたものなら意味が不たしかになつても猶之を墨守しよう(32)とし、可なり形式主義に墮して居た代りに、毎日の生活の言葉は自ら體驗して、知り拔いたもので無いと用ゐなかつた。それでもいつと無く新しい表現法は入つて來るが、多くは自分たちの屬する小社會で、何度か共同に試みて安全になつたものを使はうとして居た。それといふのが物數が少なく且つ緩やかであつた故に、新しい言葉を使ふときには、そこで一つの決斷をするだけの餘裕があつたのである。現今は事情が正反對になつて、話は早く口は多く、内に自然に成長する新語は少なく、外から來たものに對しては、走りを競ふ傾向さへ生じて居るのである。だから殆と全國一帶を通じて、僅かなきまり文句ばかりがうるさく流行し、是を繋ぎ合せる道具立てなどはめちやだ。遠く田舍の隅にでも行つて、律儀な昔風の物言ひを聽くとなつかしくなる位に、普通の會話はお粗末になつて居る。是では折角言文一致に力を入れても、向ふが引下つて行くのだから、附いてあるけなくなるのも尤もだと思ふ。
 一、或は現在がこの選擇能力の、最も衰へて居る絶頂かとも思ふ。わざ/\遲鈍に物を言ふことを教へずとも、やがてこの早口にも馴れてしまへば、もと/\機敏な國民なのだから、その短い時間にも言葉を吟味し判斷する技能が養はれて、突嗟の間に無意識に耳に殘つて居る言葉を、眞似てしまふやうな癖は改まるかも知れない。私は單に用語は自分でよく選ぶべきものだといふことを、教へて置くだけでそれでよいと思つて居る。人に好い惡いをきめて貰つても、各自の境涯に副はなければ何にもならない。うそで無くても結果はうそと同じことになるからである。
 一、この選擇を國語を學ぶ者に、一つの樂しみな練習としてやりたい。めい/\の耳の趣味、乃至は感覺の發達の爲に、役に立つて居るといふことを氣づかせてやりたいと思ふ。それには第一次の耳で聽いて置く言葉の、多量に過ぐることを患ひてはならぬ。良い選擇が豐かなるものゝ中からでないと出來ぬことを考へると、新語の簇出はもつと盛んになつた方がよい。たゞ單に輕々しい模倣の損であることを、覺らしめて置けばよいと思ふ。浮薄な街頭の新語の苦々しいのは、用も無い者が口眞似をするからである。しかしどのやうな重々しい言葉とても、無意味にたゞ音の珍しいのを悦び、もしくは新しいといふだけで使つて見たくなる者があるとしたら、口眞似の害に至つては雙方同じ、(33)と言ふよりも却つて尤もらしいものゝ方が誤解は大である。子供の頃からせつせと口眞似の技術を教へて置きながら、たゞ一部の惡い手本を排撃して見たところで役には立たない。それよりも取捨の能力を先づ與へて、新語は野邊の草のやうに、有り餘るほどに多くした方がよい。さうすれば子供は摘むべきものだけを摘んで來るであらう。
 一、それから一方には今は既に衰へて居るけれども、めい/\で入用な言葉を造る風を、もう一度盛んにして見たいと思ふ。詩になり歌になつて居る多くのよい言葉の根源を尋ねると、何れも田園の土の香を帶びたもので、學者が机の上で考案したものゝ至つて少ないことは、曾てアナトール・フランスも言つて居るが、日本は其造語法の殊によく進んだ國であつた。或は國語の性質が最初からそれに適して居るのかとも私は想像して居る。小さな社會で行はれ始めた言葉は、構成が自然であり又知らず/\仲間の感覺を代表しても居る爲に、よく/\亂暴な聽き苦しいものゝ外は、すぐに承認せられてそこだけでは通用するが、一たび境を出て隣の群と相剋すると、可なり嚴峻な審判が下されて優れたものだけが殘る。それを何度も重ねて終に全國の端々に行渡るらしいのである。だから都門の中心勢力に餘分な支援を與へずとも、今日の交通?態でならば、自然に佳い言葉の統一は行はれ、我々の待焦がれて居る未來の標準語は完成するであらう。たゞ其爲には各人が自己の入用に基いて、自分で選んで使ふ才能をもう少し育てゝ行かなければならぬのである。棄てゝ置いたら賤しいきたない方言が、瀰漫し席卷するであらうと畏れるのは理由が無い。我々は不便だと思へば、えらい先生の始めたものをさへ顧みないのである。さうして政府で全く構はなかつた時代にも、日本語はこゝまで進んで來て居る。惡い言葉に負けると思ふのは、口眞似を教へるからである。身から出た錆である。
 一、よい文章を書き行き屆いた話をしようといふのには、我々の單語は幾らあつても足りない。我邦の今の惱みは文化の進度、人の心意の細緻を極めて居る現?に照して、之を表現する手段のまだ十分に備はつて居らぬ所に潜んで居る。其爲に私たちは無理な言葉や文句を使つて、思つて居ることの半分も説明し得ず、たゞ徒らに相手の理解ばか(34)りを誅求して、まだ自分を責めることを知らないのである。晴れの言葉の整列が、一般人の高尚なる耳の樂しみとなるやうな時代は、まだ/\容易には來さうもない。或は選擇の怠慢もあらうか知らぬが、とにかく次代の國語の部分にならうとする試みを抑制していゝやうな時代ではないのである。幾らでも大膽に落第する覺悟で、勝手に無茶な新語を出して、いやなものはどし/\と棄てゝやる。さうして其中から國民の性情にかなひ、聽いて耳に永く殘り、しかも響を後世に傳へて、是が昭和の世の文藝だと言はれてもよいものを、歌にも著述にも遺すやうにすればよいと思ふ。國民集合の力の是ほども重んぜられる時勢に際して、なほ量の足りない御粗末な手本を掲げて、それで國語が統一し得られると、思つて居る者の多いのには全くうんざりする。出來る筈は無いのである。
 
(35)  國語の成長といふこと
 
     一
 
 國語といふ言葉は、それ自身新しい漢語である。是に當る語は、古い日本語の中には無いやうに思ふ。コトバは唯國語の一部分、その一つ/\の言ひ現はし方の名であつたのを、いつの頃よりか全體のものをも、其名で呼ぶことになつたのは成長であつた。もとはコトノハとも謂つて居たのを見ると、多分は草や木の葉にたとへたもので、それが年々に繁り榮えてはやがて又散り失はれ、再び其跡から大よそは同じ形のものが、次々に芽を吹き伸びて行くことを、最初から承知し又あてにして居たやうに思はれる。
 文學は是に對立して、少しづゝ古い形のものを保存させようとして居た。さうして記録と文字とはそれを助けたのであるが、しかも大勢は是が爲に、あまり動かされては居ない。たとへば今日誰の文章、誰の演説の中からでも、假りに千なら千の言葉を拾ひ集めて、竝べて分類して見るとすると、百年以前にも使つて居たものは半分よりもずつと少なく、古事記や萬葉の頃からあつたといふ言葉は、見つけ出すにも骨が折れる位であらう。即ち言葉は生まれ替つて居るのである。新しい物と考へ方とが、多くの新しい言葉を必要にしたといふことも無論あらうが、國語變化は決してそれだけには止まつて居らぬ。食ふとか寢るとか子とか母とかいふ昔ながらの區域までも、古い言の葉はもう古代のまゝでは殘つて居らぬのである。
 
(36)     二
 
 是に就いて私は色々の想像説をもつて居る。其一つは、言葉の入れ替りには或年限があり、それが一體に今は以前よりも、短くならうとして居るのではないかといふことが一つ。第二には國民の氣質、もしくは時代の風ともいふべきものがあつて、國によつて言葉の改まり方に、遲い速いが有るのではなからうかといふことであるが、是等は共に計算の方法があつて、私の想像の當否を確かめ得られると思ふ。人の使つて居る言葉のねうち、即ち面白さとか珍しさとか、相手を動かす力とかを認め、又はさういふ言葉遣ひをする趣意に同感して、自分たちも言つて見ようといふ氣になることは、御互ひどうしの親しみや附合ひ振り、育ちや境遇の似て居るかどうかにもよることで、日本人は此點にかけては、可なり仲が好く又同化に敏活な方であつたらうと思はれる。
 それからもう一つ、今度は眞似られる側から考へて見て、新しい言葉を創作し、又は始めて採用する人の技能といふものがある。是が巧みでなければ附いて來る者も少ないわけであり、從うて永く古い言葉が殘ることにもなるから、その上手下手といふことが又問題になる。反對の説があるかも知れぬが、是は私は國柄といふよりも、寧ろ國民の練習によつて進みもし、衰へもするものと思つて居る。さう思ふ理由は時代によつて、色々の流儀や趣味や、方向が見られるからである。即ち我々の力でどうにでも成る部分、言はゞ是からの國語政策の、效果を擧げ得られる最も樂しみな未開地はこゝに在ると共に、現在の國字改良運動の意外な邪魔ものも、この間に隱れ潜んで居るのである。
 
     三
 
 ローマ字運動が始まつてからの、僅か三十年四十年の間にも、日本の言葉は絶體に、よほど變つて來て居ることを考へて見なければならぬ。それが少しでも諸君の注文に應じた改まり方でなかつたとすれば、ローマ字はその未來の(37)要求に、備へることすら中々骨折りだと言はねばならぬ。まして其中から不意に飛出して來る妨げを、避け又は防ぐことが出來ぬのは當り前である。故に國語の未來といふことも、やはり諸君等の問題であり、さうして又非常に興味の多い問題である。
 私は主として日本の言葉が、どんな道筋をとつて今までは變つて來たかを、考へて見ようとして居る者であつて、歴史は豫言までをその役目の中に入れて居るものでないが、既に言葉が改まるものだといふことがわかり、それは人間の力でよくもなり惡くもなり、右にも左にも向け得るといふことが明らかになると、その經驗は後々の爲に、大きな參考にならずには居らぬであらう。といふよりもそれより外の參考は丸で無いのである。明治の維新よりこのかたでも、言葉は色々の原因に導かれて、右に進み又左に行つて居た。後になつて考へて見ると、それが我々の爲に利益となり、又は損であつた場合も色々ある。たとへば電報は全部片假字であり、又出來るだけ短くする必要がある爲に、片假字に書いても間違はぬやうな新語を捜して用ゐて居た。其代りには一方漢字を當てにして、傳研だの軍縮だのといふ略語を、無暗に流行らせることにもなつたのである。ラジオの放送が始まると、耳だけで聽いてもわかるやうな言葉を、努めて使ふやうになつて、此點はローマ字會やかな文字會の爲には好都合であるが、其以前には我々は一通りの教育を受け、物の道理をわきまへた人間であることを證據立てる爲に、漢字に書いて見てやつとわかる樣な、紛らはしい新語を使つた時代が、相應に永く續いて居て、今でもさういふ獨り合點の言葉で、物を考へる癖がまだ殘つて居る。ローマ字の文章でも一ぺんは頭の中で、漢字に置きかへてそれから理解して居るのである。そんなことをする者が半分でもある以上は、ローマ字の使用はそれだけ餘計の修養になつて、力の足らぬ者はその惠みを受けることが出來ない。今までの事は致し方が無いとしても、是からさきの新しい言葉だけは、この漢學の拘束から、脱れるやうにしなければならぬのである。全體に教育の盛んになつたといふ最近の四五十年間に、日本の言葉は飛んだ六つかしいものになつた。言葉は相手にわかるのが目的だとすると、國語の學問は進んだとは言はれぬので、諸君のローマ(38)字運動なども、誠に御氣の毒な時節に始められたと、申さなければならぬのである。
 
     四
 
 そこで國語の單純なる成長ぶり、即ち文字の教育を伴なはなかつた頃の變り方、もしくは耳と口とだけで之を利用する人々の間の、新しい言葉の生まれと育ちとが、歴史として大きな參考になるのである。改良といふ言葉は學者しか優はぬが、いはゆる無學な人々とても、惡くするつもりで改める者はあらう筈は無く、しかも毎日の樣に言葉は改まつて來たのである。私の第三の假定説では、言葉も一種の器物である故に、永く使つて居るうちにこはれ歪み、又は角が磨り切れたりなまくらになつたりして、丸々役に立たなくならぬまでも、もつと新しいのが有れば取替へたくなるのでは無いかと思つて居る。その譬へをもう少し進めるならば、品がよいとか出來が優れて居るとかの爲に久しくもつ言葉と、一方に急ごしらへの粗末な言葉とがあつて、粗末なものがすぐに棄てられるのは勿論だが、さうでないものも或年數がたつと、やはり飽きられるやうなことが、あるのではないかと思つて居る。或は使用囘數の如きものが、隱れて豫め定まつて居るのかとも思ふ。とにかくに餘り頻々と使ふ言葉は、後にはきゝ目が薄くなるらしく、一方には又さう念入りのよい言葉でなくとも、始めは面白がつて仲間ではよく眞似られ、それが又早く不用になる原因ともなつて居るのである。この移り變りのテンボが、町は田舍よりもよほど速く、現代は昔に比べて殊に目まぐろしいことは、認めない人は無からうと思ふ。
 さういふ中でも、年や境涯のちがひで、若い人はいつでも老人よりはよく働く。彼等は誰よりも言葉の匂ひ又味はひに敏感であつて、自分も作らうとするが、それよりも人の始めたものによく賛成をする。近頃の新しい單語や物の言ひ方には、年寄が發明したものなどは一つだつて有りはしない。言葉作りの仕事ばかりは、先輩には向かなかつたのである。老人には古いものを大事にするといふ考へが勝つて居た爲ばかりで無く、そこには青年の間に見る樣な、(39)まとまつた大きな群が無かつたからで、群といふことが又言葉の變化に向つての、缺くべからざる條件であつたからである。この點は又國語の將來の爲に、是非とも考へて置かねばならぬ大切な事實だと、私などは思つて居る。
 
     五
 
 たとへばローマ字會の如く、色々の職業學問に携はつて居る多數の若い人が、まじめな一つの目的の爲に集まつて働いて居る團體で、もしも日本の言葉をよくしようといふ志を抱くとすれば、それは或程度までの條件を具へて居る故に、其企ては成功する望みがある。今までの例を見ても、何か共同の利害をもつた仲間では、必ずしもごく若い人ばかりの群でなくとも、やはり少しづゝ新しい言葉を作つて居る。隱語とか職業語とかは、外へ通じないから問題にならぬが、世間に碁打ちが多いと碁の言葉、釣がはやると釣の言葉が、普通の會話の中へも入つて來るのみならず、茶屋や酒場の遊びの言葉までが、いつの間にか家庭にも用ゐられるやうになる。さういふのは大抵惡い言葉で、少しも有難いものではないけれども、群の力の侮り難い證據にはなる。子供は社交的には最も輕く見られて居る者だが、明らかに彼等のこしらへた新語が、幾つとなく採用せられて今の日本語を組立てゝ居るのである。大人が子供の眞似をするのでもあるまいが、他には別に適當な言ひ方が無いので、止めもせず直してもやらず、其まゝ言はせて置くうちに、彼等自身が大人になつて、それを當り前にしてしまふのである。其上に子供は純一で又感覺に忠實である爲に、案外に適切な名を付け又言ひ現はし方を考へ出して、誰もがそれに從はずには居られぬといふ場合も多いのである。我々のやうに國の言葉を豐かにして、何でも言ひ得るやうにしたいといふ願ひも抱かず、もつとはつきりとわかりよい言葉を、人生の爲に用意する必要も感じて居ない者ですら、尚是だけ大きな仕事をして居るのである。まして諸君のやうな人たちが、正しい批判を以て惡い舊語を退け、是なら日本的だと思ふよい新語を承認してその通用を助けられるならば、六つかしい議論の千寓言を費すよりも、遙かにたやすく聽いてわかり易い言葉を作り、ローマ字の效能(40)を示すことが出來るであらうと思ふ。
 私は日本の言葉が、どうしても新しくならずには居なかつた事情を、最も無邪氣な子供たちの仕事の上から、御話して見ようとしたのであるが、少し永くなつたので實例は又の機會に擧げることにする。子供の言葉作りは小學校の教育で押へられて、今はもう過去の歴史になつてしまつた。彼等のして居た大切な役目を、引繼ぐ者はどこにも無くて、しかも日本の言葉は事實どし/\と變つて居るのである。是では惡くなつて行くかも知れぬといふ心痛が、私をして此話を諸君の前に持出させた。御話して見たいことはまだ是だけでは中々盡きない。
 
(41)  昔の國語數育
 
     緒言
 
 我々の國語を、次の代の日本人に引繼ぎ讓り渡す爲に、是までどの位の工夫が積まれ、計畫が立てられ、又その效果がどの程度に擧がつて居たかといふことを問題にして見よう。是を無用の問題だと思ふ者は、幸ひにしてもう一人も無いであらうが、其重要性に至つては色々の立場から、幾分か低く視られがちであつたらしい故に、前以て其點を考へてかゝる必要があるかと思ふ。
 何よりも大きな意見の分岐點は、今ある學校内での教へ方を、守り立てゝ行くか又は建て直すか。別の言葉でいふならば、既成制度に對する批判の深さ淺さ、もしくは未來に描いて居る夢の濃さ淡さに在るであらう。歴史の入用は私たちの經驗によれば、安全なる改革を企つる者に最も痛切に感ぜられる。新たに機織る人でなければ、古い縞帳を出して見る必要が無いのと同じである。勿論誰しも現在の方法に、滿點を附けて居る者は無い。殊に世上の非難が起る度毎に、省みて個々の缺點を物色するのは、寧ろ熱心なる現?維持論者の常であるが、この人々の多くは、別に是以外の新たなシステムが、有らうとも思はぬから考へて見ようともしない。八年延長の平生氏政策に、一つの代案も出なかつたことが之を證朋する。斯ういふ仲間の眼にはよかれ惡しかれ、現在こそは總てゞある。過去は切棄てゝも(42)よく、又都合のよい部分だけを引いてもよく、又は研究の單なる縁の飾りにしてもよい。歴史が格別彼等から重んぜられて居なかつたのにも理由はある。
 しかし斯ういふ人たちにも、是非とも一應は考へてもらはねばならぬことは、大よそ我々が國語教育と呼び得る社會事業の中で、今日の初等中等の教育機關が、現に引受けて居る部分はどれだけ、もしくは彼等でなければ他に引受けるものが無いといふ部分がどれだけ、さうして其期待と現實との二つは、果して理想どほりにしつくりと重なり合つて居るか、或は又出過ぎたり入り過ぎたりしては居ないかといふ點である。古い親たちの時代の國語教育が、如何に行はれて居たかを明らかにした上でないと、實は此分擔の割合を説くことが出來ぬので、歴史はこの意味に於て今でもなほ入用が大きいのである。一度もこの點を考へて見たことのない人は、折々誤つて學校に於て施し與へるものが、國語教育の全體である樣に、思ひもすれば又口にもする。そんなことがあつたら大變で、第一にそれでは明治初年の小學枚設置以前、ごく/\仕合せのよい村里で寺子屋が出來た以前、日本には國語教育が無かつたといふことに歸着するのである。教育をしないで我々の國語が、是ほどまで昔の姿を保存し、又これだけの優れた成長を遂げたといふことは、常理を以て推測し得られることでない。つまりは方法が今と全く異なり、しかも學校のやうに制令の力は假らずして、自然にほゞ全國が統一して居たのである。この舊式の教育方法に比べると、學校の管掌して居た部分の國語教育は、一から十まで行き方が皆ちがつて居る。從つて彼と此とを對照し、もしくは此だけを取立てゝ説かねばならぬ場合に、何か別箇の名を要することは尤もだが、それをたゞ國語教育と呼んでしまつては、毎々面白からぬ誤解を生ずべき懸念が有る上に、實際又この兩者の堺目は不分明で、僅か數十年の間にも始終動いて居る。早い話が或一つの學校が惡くて、思ふ樣に教へてくれて居らぬことに氣が付けば、氣にする親ならば家で其不足を充さうとする。同じ時代に在つてすら、土地毎に新舊の領域は交錯して居る。雙方の理想的限界を定める爲にも、用語の混亂は防がなければならぬ。少し長たらしいが好い名の見つかるまで、私は一方を昔の國語教育、他の一方を學校國語教育(43)と呼んで置いて、差支ないと思ふがどうであらうか。
 教育といふ言葉が新語である爲に、其内容も亦是と共に、近年輸入せられもしくは飜譯せられた如く考へることは、過去を顧みない素人ならば無理もない。學科によつては今までは影も無く、一見して外國の眞似のやうに、印象づけられるものも有るか知らぬが、是とても其採擇を必要とした元の趣旨を考へて見ると、未だ曾て我々の祖先が、願ひも企てもしなかつたものが有らうとは信ぜられない。ましてや言語の如きは呼吸飲食と同列に、人の生活の實體を爲して居るものである。是を正常に且つ出來るだけ有效に活用させようとするのが、「育てる」といふことの目的であつた筈である。固より時代によつて要望の精粗はあらうが、根本の目的は千古を一貫して居る。それを假初にも新文化の賜でゝもあるかの如く、素人を誤解せしめて居たといふのは、何と考へても指導者の失敗であつた。原因は歴史のそゝつかしい觀方が一つ、今一つにはこの萬人に共通した、最も單純なる本旨を高く掲げずに、徒らに末節微細なる論議に馳せる者を、制御する力がどこにも無かつたことである。殆と悲慘なる滑稽とも名づけてもよいのは、國語のしかも初等の教育方法を説く者が、往々にして御自身にもよく覺えられまいと思ふ六つかしい單語、一度も聽いたことの無い表現を以て、何やら面倒くさく長々と辯じて居ること、それを又躍起となつて、判らぬのは自分だけかと思つて一生懸命に讀み返し、頭を痛くし精根を疲らせ、甚だしきはまづ判つた積りで濟ませて居ることである。斯ういふ書き物の親になつた思想が、元方では今少し判り易く、一通りは外國人でも會得せられる表現だつたとすると、それを此樣な形でしか傳へられぬといふことは、確かに又國語教育の不成功を意味する。相手の讀方の能力を詮議する前に、先づ當人の綴方を改良する必要があつたのである。維新以來の翻譯文學の跳梁跋扈は、何人の目にもあまる苦々しい現象であつた。それ故にこそ新式の教育施設に、國民は多くの期待を繋けたのである。それがいつ迄たつても迷文は續出し、人は依然として思つただけのことが言へず、たま/\言つても聽手を困らせ、片手落ち極まる交通を強ひなければすまぬとあつては、仕事はたしかにまだ成つて居らぬのである。もう一度立戻つて昔の人々が、何を所(44)謂國語教育の目的成就と認めて居たかを、尋ねて見る必要は正に有る。乃ち歴史は又斯ういふ人々の爲にも入用であつたのである。
 第二に、私の提出した問題を輕く視る人の中には、さういふ歴史なら既に大體は調べられて居ると、思つて安心して居る者も若干はあるであらう。寺に喝食として預けられて居た大小名の子弟、もしくは貴人の娘子供などが、何を最初の讀本として與へられ、手習にはどんなものを習ひ、それからやゝ成長してどういふ方面へ、進んで行くやうに教訓せられて居たかといふだけならば、代表的ではないかも知れぬが、少しばかりは記録にも見えて居る。しかし我々の今考へようとするのは、さういふ上流少數者の問題ではないのである。文部省では先年庶民の教育史料として、可なり詳しく寺子屋の分布を調べて出して居る。それを讀んだならば定めしはつきりとするであらうが、この至つて小規模なる學舍ですら、起原の二百年と古いものは稀であり、全國數十萬の部落に、漏れなく配置せられたといふ時代は、終に到來せずにしまつたのであつた。其上に子供を寺子屋に上げる家の數は、おのづから定まつて居た。貧困が彼等の欲求を抑へて居たといふのみでない。書札の用途はまだ僅少であつて、親も子も共にその必要を感じなかつたのである。今でも強制が無いと出まい出すまいとする者が若干は有る樣に、以前はたとへ家計が許し世間竝が是を餘儀無くしたとしても、一年か二年の間澁々通うて、やがて中絶して忘れてしまふ者は幾らもあつて、此方面の效果はさうは擧がつて居なかつたのである。書を讀んで事理を解するまでの修業は、寺子屋の普通の課程でなく、特に才分のある者が求めて漸くに得られる境地であつた。神主醫者などの家の職を嗣ぐ者、さては次三男にして分家養子聟の機會をもたず、もしくは力役に適しない者が、僧侶や書記手代等にならうとするのにも、爰ばかりではやはり準備が足りなかつた。乃ち前から見ても後から眺めても、寺子屋は結局特殊なる小部分に過ぎない。是がもし我々の謂ふ國語教育の全部はおろか、假にその主要なる中堅事業であつたと解しても、是から導かれる推論の誤りは非常なものであつたらう。だから寺子屋制度の始めと終りだけを説いて、其他の歴史を考へて見ずに置くといふことは危險なの(45)である。
 人が讀書算筆を以て汎く一般の生活に必要なる修養と認め、是をたゞ單なる職業教育の一種と視なくなつたことは、明白に近代の新現象であつた。都市が榮え交通が繁くなつて、始めて無筆を恥とする氣風は起り、同時に之を學習する者の利便は顯著になつたのである。初期の小學校の如きは私塾の簡易なものといふよりも、寧ろ寺子屋のやゝ完備したものに近かつたのであるが、社會の之に對する尊信は絶大であつた。當時幾らともなく實例を見せられた立身出世が、何人にも爰を通つて獲られるかの如く、感じられた感じも慥かに手傳つて居たことゝ思ふ。とにかくに無筆文旨の人は自ら卑下して、我身を名づけて無教育とさへ謂つて居た。文字以外の國語教育が、一たびは大いに衰へなければならぬ原因も、亦茲に在つたのである。注意すべき一點は他の種舊式の教育法と比べて、學校の授業は態樣が際立ち、又可なり多くの時間と歳月とを獨占した。是ばかりが教育と名づくべきものであるかの如き、根據なき謬想の一世に瀰漫したのにも、恕すべき理由は無しと言はれない。たゞ是あるが爲に聰明なる今日の憂國家までが、この百千年來の我々の祖先の、子孫に良い國語を持たせようとした辛苦經營を、雲雀や鶯が親に似て囀づるのと、同じ類の自然相の如くに、輕々に看過しようとしたことだけは、何と考へても忍び難い損失であつた。
 そこで終りにもう一つ、前のとは反對に、この前代の國語教育史が、到底明らかにし得るものでないといふ速斷から、私の提出する問題に重きを置かぬ人たちの爲に、豫め手短に答へて置きたい。今までの史學の方法では、なる程この間題は解き難いやうに見える。平民の記録は總體に甚だ乏しく、殊に毎日の有りふれたる生活は、始めから文書史料の管轄する所ではなかつたからである。從つて書いたものだけを證跡とし、それで判ることだけが歴史だともし言ふならば、國語教育の歴史は無いといふことにもなる。歴史を私はさうは見て居ないのである。以前には確かに有つた事實、しかもそれが今日の世相の淵源であり、同時に我々の尋究する疑問の答でもあるならば、是を明らかにする手段の如きは自由であつてよい。歴史として取扱へない過去といふものは、有らう筈が無いからである。さうして(46)一方には方法はほゞ立つて居る。文書以外の史料は現世にも充滿して居る。といふよりも古い史實とほゞ同一の生活が、やゝ虐げられ又は蔭になつて、今もまだ各處に行はれて居る場合は多く、少なくとも其痕跡は眼前に在つて、たとへ一度の見聞は證據として微弱でも、必要があれば何回でも繰返して觀測せられ得る。私たちの採録がまだ十分でないのを理由にして、この方法の可能性までを疑ふことは出來ぬのである。本篇の目的は主としてこの可能性の宣明に在る。さうしてもし出來るならば、單なる因習的態度によつてこの新しい方法を無視し、永い歳月に亙つた國民の貴重なる經驗を集積して見ようとせぬことが、如何に將來の改造計畫の爲に、不利であるかを力説して見ようとするのである。
 
     一 最初の選擇
 
 我々が兒童を學校の國語教育に、委託する以前の六年有餘は、今でも決して空々寂々には過ぎて居ない。この期間の指導法は、亂雜無意識な樣で實は目標があり、熱意があり、又個々の社會の系統への遵依があり、其統一には世に伴なふ擴大さへ見られる。無論失敗と誤謬はこゝにもあるが、その適否良不良の效果は、誰よりも先に小學教員が是を感知し得る筈であり、從つて又其價値を評定し、其推移盛衰の跡を辿り得る者も、彼等が第一等の適任者でなければならぬ。私などの實驗は是に比べると狹隘であるが、大體に今日專門家と謂はるゝ人々に、まだ十分に認識せられずに居るかと思ふことは、言語の知識には表と裏の二面があつて、齡と個性とによつてこの兩者の比率が、量として著しい懸隔があるといふことである。或は三面と謂つても此説は成立ち、人によつては是を國語知識の階段の樣に見て居るか知らぬが、とにかく耳に聽いてよく判るといふことゝ、口にその語を上せるといふことゝは、本來は深い關係のある二つの働きであつた樣に考へられる。日本はこのけぢめ〔三字傍点〕の可なり久しい間、明瞭に立つて居た國である。例(47)へば貴人の言葉は、從者には判り過ぎるほどよく判るが、其大部分は心のうちの獨り言にも使はないものばかりである。男言葉女言葉の差別は今でもある。女は大體に無口が美コのやうに考へられ、古來その用語句數は男の使ふものの、三分の一にも足りなかつたと思ふ。その癖知つて居るだけから言へば、氣性のしつかりした婦人ならば、却つて竝々の男子よりも多く又精確であつたのである。それを一生を通して一度も口にせず、もしくは老年に入つて異性と對話する場合、間接叙事の形などを假りて使ひ、又は子や孫に男らしい物言ひをさせようとして、之を教へて居たのである。學校の國語教育が如何なる階段に於ても、この傳統ある表と裏の差別を意識せず、あらゆる表現の選擇を單なる個人の趣味、もしくは才藻ともいふべきものに委ねて居ることは、假に結果は全然無害だつたにしても、なほ計畫の粗漏といふ批評を免れ得ない。しかも我々が笑ひ草とする小兒のませた口のきゝ樣、もしくは博士の娘の「こくねちのさうやく」の類は、所謂無教育の階級には却つて是を見る危險が無いのであつた。
 三馬の浮世風呂を讀んで居ると、三つになる女の兒が燒薯を八里半と謂つたのを聽いて、母とはたの者とが茄を見合せてあきれる條がある。この寫實は可なり我々には參考になる。幼兒の耳と目の力は、よその民族のことは何とも言へないが、少なくとも近世以後の日本に於ては、我々が普通想像して居る以上に、時としては成熟した人々よりも精密に、能くその役目を果たして居たらしいのである。それをたゞ彼等が口にし得る言葉の量のみによつて測定しようとすれば、獨り智能の幅深みを究め難いのみならず、絶えず其間に行はれて居る用語の選擇に、どういふ本然の理法が働いて居るかを明らかにして、後々の參考に資することも出來ぬわけである。辭典を編纂した人ならば誰でも考へずには居られなかつたらうと思ふが、始めて一つの言葉を覺え込ませるといふことは、たとへ簡單な單語でも、決してさう容易な事業ではない。寧ろ緑兒のもつて生まれた力、彼等の敏活な感受性に手傳つて貰つて、漸くにして目的を達して居ると言つてもよいのである。既にあらましの日本語を知つて居ればこそ、古語や外國語は對譯でも通じ、此字は如何なることを意味するかと、字引に相談することも出來ようが、丸々下地の無い者には解説は用に立たない。(48)最初は却つて當人たちをして、自ら經驗せしむるの他はなかつたのである。この肝要なる國語教育の發足點が、不思議に今までは所謂國語教育論の、土俵の外側にほつたらかしてあつた。しかも素人は頻りに此點を氣にして居るのである。
 ツバメを春來る小鳥の一つといひ、スミレを紫色の馬の顔のやうな花と註する類は、春とか紫とかを悉く皆會得した者に、成程うそではないと思はせる迄のもので、實は解説ですらもない場合が多いのであるが、過ぐる六年の間に何を覺え、何をやゝ漠然と覺えかゝつて居るかを、突留める手段の具はらぬ限り、毎々是に似た頓珍漢を、教へられさうな懸念があるのである。さうすると子供は正直に、言葉も註釋も一しよくたに鵜呑にしてしまふから、暗記は出來てもおぼえたことにはならない。マナブとオボエルとは此點に於て二つのものである樣に私たちには感じられる。マナブといふ動詞は上代の口語には有つたやうだが、語原は明らかに眞似・マネブと同じく、さうして今日はもう文章語にしか用ゐられて居ない。「學」といふ漢語をマナブと訓ませたことは、誤りでもあれば又今日の不幸でもあつた。是を日常の生活から物遠いものと考へさせ、もしくは外形の模倣を以て足るかの如く、想像せしめた陷し穴もこゝに在つたとすれば、我々は今からでもなほ警戒しなければならぬ。「學」は「覺」だから寧ろオボエル・サトルの方が當つて居る。又さうでなければ完全に國語の主人となることも出來ないのである。
 小兒が所謂母の言葉を、覺えて行く順序と成績とは、之を詳しく調べて見る方法が必ず有ると思ふ。聽いて即座には諒解したらしい樣子が、ちつとも我々には窺はれぬ場合でも、なほ絶間無く體驗を積重ねて居るのであつたことは、いつも彼等の始めでの物言ひが、周圍の人たちを不意打ちするのを見てもわかる。しかもその選擇には幾つもの條件があつて、知つて居るから皆使ふと、いふわけでは決してないのである。第一には必要が甚だしく限られて居る。僅かばかりの要望と注意の喚起、それも前後の修辭を省き去つて、物だけを擧示すればそれでも用は辨ずる。第二には長いか又は音組織が複雜であるかして、そつくり言ひ終せるといふ自信の無い言葉は避ける。或は面倒であり又は好(49)ましくないといふ子音も、彼等にはあるのではないかと思はれる。少なくとも最初には人を悦ばせ又は感動せしめようとする企てが無い故に、口の言葉の數といふものは、おしやべりと言はれる兒でも至つて少ない。是が彼等の國語知識の全部でないだけは證明がいと容易である。愛する人々は之を確信して、一言の受答へが無くても終日談り暮し、一方には又この特殊の會話の用に、聽かせる爲だけの句や單語が、幾らともなく地方毎に傳はり行はれて居る。屋外の群に參加して半獨立の生活を始める頃よりも、却つて其以前の親の傍に育つ間の方が、長い込入つた兒童語の多いわけは、其目的が耳で聽分ける一方の用途だけに限られて居るからである。東京でもよく用ゐられるカイグリカイグリトットノメ、又はチヽンプイ/\といふ類の言葉は、是を口にする幼兒は稀であると同時に、其意味に通じない者は又恐らくは一人も無い。地方をあるいて見てもオタカラマンチンだの、シヽカヽモッカヽだのといふ耳に快く、聽いたら直ぐ覺えられる面白い言葉が、彼等の爲だけに數多く設けられて居る。斯ういふ親たちの計畫を國語教育でないといふ人は、もう大抵は無くなつて居ると思ふがどうだらう。
 この練習は追々に成人と共通の言葉を覺える爲に、大きな準備となつて居ることは疑ひが無い。たゞその方法として誤謬が無く、又最も有效のものであつたか否かは、心もとないといふのみである。兎に角に簡單ながら一通りの日本語を覺えて後、入學して來る兒童に物を説き明かす仕事を、教育の開始と言へぬことだけは先づ確かで、しかもその前期の難關を舊式のまゝに、或は時として零落にさへ委ねて、何の檢討をも加へないといふことは、萬全の方針ではなかつたのである。氣遣はしいことは色々あるが、此篇は記述を主として居るから、さまでは絮説することが出來ない。たゞ明らかにして置かねばならぬのは、二つの教へ方に大分の用意の相違があつたことである。次にはその新舊の繋ぎ目が、單に小學枚の門を潜る時だけでなく、其後もなほ永く引續いて居て?接觸し、或は牽制し又反撥さへして居ることである。是だけは何とか考慮して、將來の途を平らかにする必要があると思ふ。前代の國語教育の大きな弱味は、選擇の餘りに自由な點であつた。あゝいふ言葉は子供に使はせたくない、是だけは兒童に知らせずに置(50)きたいといふ、消極的の意圖は勿論現はれて居るが、それとても甚だ限られて居て、他の大部分は各個獨自の修得、自然の遭遇に任せてあつた。世相が煩雜で人の利害は牴觸し、智巧術計が露骨に闘ふやうになると、弊害はこゝにも追々と現はれて來るのである。しかし其代りには斯うして覺えるのは、如何なる場合にも活きた國語である。遠い假設の例を以て想像力を重課するとは事かはり、是は現前の要處々々に、最も適切なる用法を體得するのである。必要なる一切の音抑揚、身振顔つき、眼の動きも伴なうて居る。言葉を辭典風に豫備知識の助けを借りて、解説してやることの出來ぬ者には、是より以外の方式はいつの世にも無いのである。さういふ中でも燕とか菫とか、黒いとか紫のとかは指示することが難くない。學校の窓からでも實驗は容易であらうが、捜しても見られず季節にもよらず、形を具へない色々の心持や感覺を、我々成人と同じ言葉で表現させようとするには、單なる口眞似を強ひてそれを以て教育の成功と解しない限り、寧ろこの初期の稍亂難で又投げ遣りな感化法と、何でも覺えて行かうとする繊細な感受性との、御蔭を蒙らずには居られなかつたのである。
 是は一見したところ、如何にも原始的な方法であつて、其效果の今なほ重大なるに拘らず、寧ろ由緒の久しいが爲に文化人は之を輕しめようとして居るが、仔細に點檢すれば此間にも國と種族の風があり、又歴代の考案が加はつて居る。たつた一つ二つの例を擧げると、母がよく使ふメヽ、又はメェと力を入れていふ言葉、是などは幼兒はめつたに口にしないが、完全に理解し又よく記憶して居る。語の意味は「此眼を見よ」といふことで、見ると必ず怖しく變じて居る。乃ち自分の擧動が非難せられて居ることを知るのである。いつの世から始まつたといふ記録こそは無いが、斯樣な簡明で又效果多き表現が、未開時代から既に在つた氣遣ひは無い。しかも便利な形だから永く用ゐられ、成人も之に基いてメヽル(讃岐)・ミヽル(加賀)などゝいふ動詞を拵らへて居る。ネメルも恐らくは其變化であらうし、繼母のマヽなども是から出たらうと私は思つて居る。是よりも更に新しい發明は、アップもしくはバブといふ母の語で、是も機嫌を惡くした時に、急いで唇を閉ぢ頬を脹らませる時の音を誇張したものである。幼兒はこの語を聽くと母の(51)眼を見る。又は敢て見ずとも直ぐに叱られて居ることを感ずるのである。單なる信號のやうなものだがやはり日本語の中に編入せられ、中國九州ではハブテル又はハブツルといふ動詞を、怒るといふ意味に成人も盛んに使つて居る。小兒の耳と目の活動は、斯ういふ利害に切なる語の出來た爲に、又一段と敏捷になつたことゝ思ふ。或は我々の種族の特長かとも思はれる聰明さ、即ち人の語音により眼の色を見て、言葉の背後に潜むものを讀み取らうとする能力なども、この學校以前の巧妙なる教へ方によつて、久しく養はれて居たのでないといふ斷言は出來ない。
 それから小兒の口にする語の選擇、是にも愛する人々は始終干渉して居る。それが悉く彼等を本位とした必要に基いて居るか、但しは餘計な御世話の迷惑なものもまじつて居るかは問題であるが、少なくともその若干は有效であつて、近世の幼言葉は増加し又變化して居る。是を拾ひ集めて見ればすぐに判る樣に、此機關を透しても新しい文化は浸潤して居るのである。しかも是と對立してなほ多くの古い言葉、どうしてさういふのかを説明し得ないものが、弘く全國に共通して行はれて居るのを見れば、彼等獨自の選擇には、まだ我々の心づかぬ條件があるのである。放任が或は健全なる成長への途であつたのかも知れない。さうでない迄もさし當り他には斯ういふ風に指導しようといふ別の方案も立つて居ない。それには少なくとも以前はどうして居たか、今はどうなつて居るかを、先づ明らかにして置く必要があると思ふ。
 
     二 遊ばせ唄
 
 耳で覺えて行く幼兒の語彙を、以前はあまりに制限せぬのが方針であつたらしい。是は口言葉の選擇を彼等の自由に任せる以上、出來るだけその範圍を寛闊にする必要があつたからで、實際に又今でも周りの者の謹慎して、成るべく餘計なことを聽かせまいとする階級では、大きくなるまで口のきゝ方が鈍いのを常とする。無口は通例は氣質によ(52)るものと考へられ、或は上品とさへ認められて居るが、是がもしも端的に心の内の働きと併行して、言葉が足りない故に思つたり感じたりすることが不自由な場合もあるとすると、相當な救濟をする方がよかつたのである。おしやべりと謂はれる兒には、無用の語をくり返し、又は自分にもわからぬことを言ひ續ける者もあるが、是は別種の遊戯に屬し、且つ多くは模倣の癖に基いて居る。通例の兒童の自發の言語も、無論與へられたるものには相違ないが、意識に根をさし體驗に養はれて、表面に顯はれ出るまでには可なりの時間がかゝるのである。面倒さへ厭はなければその時間の長さ、もしくは練習に必要なる囘數も測定し得るわけであるが、それは各箇の語の性質にもよることで、中には幼少の間は口にする必要も無く、又大きくなつてもめつたに其機會は生ぜず、單に覺えて聽分けることが出來て居ればよいといふものもあるので、今まで行はれた觀察法の如く、たゞ當人の發音の日時だけを目標にすることは出來ないのである。しかし大體に毎日の入用があつて、音の組織も複雜でないものは、之を實地に使つて聽かせる度數が、重なれば重なる程づゝ知識は精確になり、それが又何等の勸誘を受けずして、獨りで自然に言ひ出す條件ともなるのである。だからパヽだのマヽだのといふ新語が、忽ちにして彼等の缺くべからざる常用語となり、所謂國粹文化の眞只中ともいふべき多くの事物は、却つて親すらも稀にしか其名を口にしない故に、學校に入つて來てからまで、教へ込むのに手が掛かるのである。何と言つても稚兒の天地は狹い。殊に彼等を中心として、語りかはされる話題は凡庸である。是が生涯の國語教育の大切な準備期間であり、しかも今日のやうな自信に充ちた教育家の、手ぐすねを引いて待構へて居る時代でなかつたとすれば、人が安閑としてたゞ子供の自然に智慧づくのを、眺めて樂しんで居なかつたのは當り前で、乃ち又社會共同の意識によつて、金こそは掛けないが熱心に支持して居た、古來の慣行のあつたことを推測しなければならぬ所以である。
 幼兒の成長にも幾つかの區切りがある。ちやうど生まれて丸一年の前後から、無やみに外へ出たがる傾きがどの兒にもあつて、是が又一つの國語教育に利用せられて居たやうである。日本は夙くから屋外の生活の、特殊に朗かで又(53)賑はしい國であつた。其爲かどうかは知らぬが、民居の八割九割は皆小屋であつた。紙が普及し明かり障子が立てられるまでは、其家は殆と火を焚くのと寢るのとだけに適して居た。子供をたゞ一人搖籃の中に殘して、家の者が外に出て働く期間は、さう永くは續き得なかつたのである。守子といふ制度は古くからあつたものゝやうだが、近世に入つて雇傭が簡易になると共に、其使役が一段と盛んになり、次第にツグラ・イヅメの用途を制限したことも事實である。生まれて間も無い赤子をやゝ大きな小兒に括り附けて、外で勝手に遊ばせて居る光景は今も見られるが、斯ういふのは固より國語の教育とは關係が無い。たゞ幼い者の青空の下で暮したがる習癖を早くから養つて、その間接の誘導をしたとまでは言ひ得るかも知れぬ。
 民謠を尋ねて居る人々の一つの興味は、十や十二の小娘の子守唄が、はや純然たる勞働歌の内容を具へて居ることである。背の子を睡らせるといふことは、彼等に取つては隨分の大仕事である故に、通例は群の合唱によつて調子を取り勞苦を忘れ、又少しでも樂に效果を收めようとした。しかもその背の赤子とは何の交渉も無い點は、船方と船荷との間柄も同じであつた。ネンネコロヽといふ類の文句も、實は前からあるものを承繼いだだけで、聽いても解しない兒にたゞ呪文のやうに之を用ゐて居た。子守の即興の自作歌には、嘲つたり笑つたり、又はいつ迄も働かせ置く主人を當てこすつて見たり、すべて同輩の共鳴を求むる歌ばかりで、背に居る者に言ふやうな言葉は一つも無い。ところが之とは反對に、母や姉祖母などの愛する者が歌ふのは、果して相手が聽いて居るか否かには拘らず、早いうちから赤子に言ひかけて居る。子守唄には明らかに二つの種類があつたのである。さうして前に擧げた勞働用の唄は、少しの給金でよその小娘を雇ひ、赤子を負はせて出す習慣の始まる前から、有つた氣遣ひは無いのである。大阪府下などでは此だけを子守唄、他の一種の文句の長いものを、遊ばせ唄と呼ぶ者が多い。此方も恐らく日本にはよく發達して居るのであらう。とにかくに二つをごつちやにして採集することは誤まつて居る。
 同じ一つの睡を勸める歌でも、前からあつたものはたゞ子供だけを聽手として居る。そんな赤ん坊に判るだらうか(54)と思ふ頃から、もう言ひかけようとするのは愛情のあまりだらうが、元は或は今少し成長して始められたものかも知れない。しかしよく見て行くと一章の詞句のうちにも、幼い者の成長が用意せられて居る。即ち最初の一二句のうちに、すや/\と睡つてしまふ兒には、後の方は用が無いのだが、「あの山こうえて」と遠くの空を胸に描かせて、それでもまだ起きて居る兒には里のみやげ、でん/\太鼓だの笙の笛だのと、又一しきり空想の世界に遊ばせて、それから更に其笛を持つて來いと、靜かに待つて居るやうな氣分を誘致するのである。此歌の作者は近代の凡人であらう。或は又合作ともいへるかと思ふが、親でなければわからぬ子供の能力を認め、又その要求を知つて是に應じようとして居る。この恍惚境の印象といふことも、本來はメスメル一派の術師のみに、任せて置くべきものでなかつたのである。
 それから子供が晝の睡から醒めて、家の外へ出て見ようといふ場合には、再び新鮮なる觀察の教育があつた。國中到る處にほんの僅かづゝの變更を以て、隈無く行渡つて居るお月樣幾つ、是なども一つの優良な教科書だつたと言へる。少なくとも家庭の平常生活では、いつ迄待つて居ても遭遇せぬ樣な題目に、それ/”\語を與へ且つ其情趣を味はしめようとして居る。さうして或一人の考案者以外の者は、判斷して之を採用して居るのだから、單なる出來合ひや有合せではなかつたのである。起原の記録は無いが存外に古くからのものかも知れぬ。老人が孫を抱いて戸の外に出て立つ毎に、何度と無く甦つて來た幼い日の記憶を、聽手にわかる程度に少しづゝ、土地と時代の言葉に改作して來たのかも知れぬ。とにかく是が或事實を語らうとしたものでないことは、單語を鏈にして次から次へ、俳諧のやうに別の場面を繋ぎ附け、それを又歩調に合せて興多く搖動させて居たのを見てもわかる。つまりは物を見て名を言ひ、名によつて想像を馳せる、言語の活用を練習させようとしたのである。自分などの小さな日の記憶では、「わかゐ屋の門で」池をこぼし、二匹の狗が來て「皆嘗めてしまつた」といふことが、如何にもつい此頃に近くの村で、實際あつたことのやうに思はれて仕方が無かつた。現在はもう狗が油を嘗めるといふこともないから、こんなものは通用しなくなつたと思ふ。しかも歴史としても、懷かしいのは、星もまだ出揃はぬ暮方の空の新月に向つて、年は幾つかと(55)いふ最も平明な空想を、自分も子供になつて投げ掛けようとした心持である。それが注意を引付け得れば、其後は何を續けでも耳を傾けたであらうに、やはり一村一郷土では、大體に同じ文句を用ゐて居たといふのは、乃ち是にも又定まつた型を認めたので、共同の意圖或は計畫といふことも、決して又學校ばかりの獨占物ではなかつたのである。
 但し我邦の民間文藝の好尚が、一種物靜かな、幾分かうら淋しい傾向を取らうとして居たのは、或はこの夕方の詠歎の練習といふことが、原因を爲しては居なかつたかを恐れる。二三歳の小兒が外へ出て見たがり、家の中でも煩はしい雜務が多くて、誰かゞ手があいて居れば抱へて出ようとするのも、一般に日の暮頃が主であつたからである。現在地方に行はれる童詞といふものを集めて見ると、其數の多いことも日本は他に比類が無いやうだが、その又大部分が夕方の事物を題材として居るのも珍しい。固より此中には大きくなつて兒童の自作したものも交り、さうでなくとも簡單で記憶に適し、彼等の群だけで利用して居るのが多いが、作者の年齡は構想からでもすぐわかる樣に、大抵は最初兒を抱き又は手を曳いて、行歩の間にもなほ少しづゝ何物かを教へようとした人の言葉が、寧ろ印象の深かつた結果、採用せられて久しく行はれて居るのである。それがたま/\暮年の人であつたが爲に、少しでも陰鬱の影を留めて居るのだとすると、是も亦大いに考へて見なければならぬと共に、改めて又此期の教育の、國民生活の明朗化に對して、無視すべからざる意義があつたことに心づくのである。曾て我々の幼年をはぐゝんだ無數の自然、蟲や小鳥やさま/”\の草の花、又は朝夕の天象の類は、誰しも其樣なたわいもないことは口にせぬといふのみで、大抵は今も覺えて居る遊戯とか、是に伴なふ唱へごととかの中に活きて居る。活?な兒童なら數千囘、自らも之を利用し、靜かな女の兒でも耳に胼胝《たこ》の出來るほど聽いて知つて居る。さうして是には只の名稱だけでなく、必ず之を活躍させた感動といふものが、裏打つて居るのである。それを表出した幾つかの形容詞や動詞、又はやゝ高尚なる社交上の用語などが、其時は格別の必要も無いのでたゞ貯藏せられ、後日青年の愈世の中に出て行く際に、改めてしみ/”\と其味はひを反芻して見るといふやうなことが、現在はもう大分少なくなつて來たらうが、以前は頻々として經驗せられて(56)居たのである。懷舊の情は今でも詩歌であり、人は幼少の日を思慕せずには居ないけれども、是が國語の昔から未來への、大切な一筋の連?であつたことに、心づく機會のみは追々に稀にならうとして居る。
 近年流行した小學校の童謠なるものを見て居ると、題材でも樣式でも、共に在來の童言葉の後を追ふものばかり多いのが注意せられる。我々の周圍の大抵の可愛いゝ事物は、既に皆多勢の問題になつてしまつて居る。よほど創意の豐かな子供にも、始めて興味を見出すといふやうな餘地は殆と無い。其上に彼等の發想の能力は限られて居り、且つ常に現在の仲間だけと、一しよに物を觀、又感じようとする習性を養はれて居る。それが實は彼等の言語の唯一の役目でもあつたのである。だから何かを言はせて見て、もしも童謠が千篇一律に墮さなかつたら、却つて不思議だつたので、それをたゞ少しの氣質智能の差によつて、一人が他の兒よりもやゝ早めに言ひ出したからとて、特筆大書したのは親馬鹿の類であつた。幼稚なる詩人と言ひ得べくんば、國民全體こそはそれであつた。斯ういふ何物をも歌にし文句にしようとするやうな態度などは、日本では昔からであり、他の多くの民族ではさう有ふれた癖ではなかつたからである。嬰兒が辛うじて人の言ふことを聽分け、自身はまだ確に口のきけぬ頃から、外へ連れ出しては長短色々の、面白い文句を取替へ引替へ、唱へてきかせて居た慣習が效を奏したのである。兒童は一般に之を覺えて居て、大きくなつてから自分でそれを唱へ、誤りもしくは考へて一部を改造し、或は類推によつて若干の是とよく似たものを、製作して他の事物の上に應用もした。至つて微細なる新しい經驗をも、觀察批判無しには通過させまいとする鋭敏さ、いつでも仲間の氣に入らうとする饒舌など、それ/”\の弊はあつたらうが、企てゝ養はなかつたら斯うまで發達する筈はないのである。殊に通例彼等には學び難い長篇の遊ばせ唄の如きは、之を敬重し且つ保管する爲に、一段と複雜なる努力が加へられて居た樣に見える。乃ち月は幾つだのネンネの守だのゝやうに、歴代の傳承者の改修の痕あるものも、幾つとなく殘つて居るのである。さういふ中にも我々の特に感謝するものゝ一つ、今日土地によつては女の兒の毬突唄となつて、記憶せられて居る「花折りに」といふ歌などは、多くの點に於て國語教育の、今でも最も望まし(57)い要契に叶つて居る。出來るだけ簡單にその章句を紹介すると、最初はまづそこいらに遊んで居る子供たちに喚びかける。
   わらしど、 わらしど
   花折りに行かねか
   何花折りに……
 津輕や秋田では「友だちなく」といひ、近畿周圍では「子供しゆ/\」、或は「次郎よ太郎よ」といふ土地もある。形はよその子を喚ぶのだが、實は抱いて居る幼兒の注意をひくのを目的として居た。それから短い問答の句になつて、
   何花折りに
   牡丹、芍藥、けしの花折りに
 此花の名が又土地毎に、勝手次第に變化する。是を集めて見ただけでも、小さい者の空想の世界が想像し得られる。
   一本折つては手に持ち
   二本折つては腰にさし
   三本目には日が暮れて……
 或は一本も二本も手に持ち、又は笠にさしとも歌ふが、、三本折るときには大抵は日が暮れるといふ。歌の時刻が既に夕方に近いのである。
   三本目には日が暮れて
   おぢゝの宿にとまらうか
   おばゝの宿にとまらうか
 是を又「上の庄屋にとまらうか、下の庄屋にとまらうか」と言つて見たり、或は又「烏の家にとまらうか、とんびの(58)家にとまらうか」などゝも謂つて居る。よその家に宿とるといふことが、兒童には一つの大きな好奇心の種なのである。多くの例では、こゝで意外な變化を設けて、
   ぢゝいの家は虱の巣
   ばゝあの家は蚤の巣
   蚤の巣にとまつて……
などゝいふ風にふざけて居るが、或はもう少し尋常な形もあつたのであらう。それから隣の座敷を覗いて見る。
   むかふの納戸をあけたれば
   十七八のねえさんが
   ぴつちやんはつちやん機織りやい
と、續けた例が北九州にはあり、信州でも諏訪などは、「七つ小女郎が機を織る」といふが、松本の方では黄金の盃を手に持つて、美しい娘が酒をすゝめて居る。
   あかつき起きて見たれば
   ちごのやうな上臈しゆが
   こがねの盃手に持つて
   こがねの雪駄をはきつめて
   一ぱい參れ百取らう
   二はいまゐれ二百とろ
   三杯めえには肴が無いとてあがらぬか
   おうらがあたりの肴には
(59)   山でほつたはまぐり
   海で掘つたたけの子……
などゝ、色々の食物の名を列ね、小さい兒でもをかしくなる樣な、有りもせぬ珍しい物を教へ上げる。勿論どの文句までが古く、どこから附加へたものかよくは判らぬが、毬唄になつたのは複雜であり、たゞの遊ばせ唄は出來るだけ單純に、事によると處々を省いても歌つたらう。とにかくに常の生活では聽く機會も無いやうな言葉ばかりが、きれいに竝べられて次から次へ變化して行くことは、今日の紙芝居などよりも更に自由であつた。兒童がこの青空夕燒けの下の學校へ、喜んで行き樂しんで歸り、永くその教科を覺えて居たことは、もと/\親たちの深い計畫だつたのである。
 
     三 群の力
 
 但しこの親切を極めた指導期間は、通常の家庭ではさう久しく持續することが出來ない。やがて第二の緑兒が家の裡で啼き、又は老人が衰へて行つて、抱きかゝへが懶くなつて來る。その前に早くその兒を近隣の子供の群に、引渡してしまはなければならなかつたのである。この長幼の聯絡は、今でも僻村の通學生などに見られるやうに、自然に古くからよく整つて居る。姉兄いとこなどの特別の保護者が無くとも、新しい兒の大切にいたはられるのは、それが同時により大きな童兒の、自分の成長を意識する機會ともなるからであらう。親たちが初出の幼兒の口吻を眞似て、自ら紹介し近づいて來る光景は村里ではよく見られる。或は暫くの間は味噌かすだの油坊主だのと、特別の待遇を目まぜで約束することもあるが、當人がそれに氣づく頃までにはそんなものも無くなる。さうしていつの間にか一人前の、村童となつてしまふのである。
(60) 子供組の制度のまだ明らかに殘つて居る地方でも、その加入の期日を就學の際と、一致させようとする傾向がある爲に、それより以前の兒童は淋しくなり、群としての教育力は著しく衰へて居るやうに思はれる。學校のある時刻に邑里をあるいて見ると、殘されて居る者の所在なささうな樣子が目につき、以前は斯うでなかつたらうといふことがしみ/”\と感じられる。この子供たちが次の年の入學の樂しみは、其爲に一段と濃くなるに相違ないが、或は他の一方に年下の者との間柄が、いよ/\繋がりにくゝなりはせぬか。新しい現象だけに實驗して見なければならぬと思ふ。以前も算へ年の七歳が、智惠のつく一つの區切りのやうに認められて居た。こゝで第一囘の生活態度の轉向が行はれ、子供は急に口數が多くなり、又きかず坊になるのも此頃であり、始めて參加して來る幼童に對して、よくも惡くも感化を與へるのは此階級であつた。年とつた人たちの遊ばせ唄を聽いて、小さな懷舊の情を以て先づ其周圍に集まり、改めてもう一度その文句を味はひ、是を孫を生む頃まで記憶して居たり、もしくは毬唄その他の用途に應用したりするのも彼等であつた。それがカバンを下げて欣々として學枚へ行つてしまふと、殘りの生活の索漠となることは、恐らく親々の氣づかずに居られぬ所であらう。我々の舊式國語教育も、此點に就いては何か補填の策を講じなければならなかつたのである。
 私などの知つて居る範圍では、土地によつては小學校の庭に、澤山の幼兒の集まつて來る例が折々ある。現在の方針は之を是認して居るかどうか知らぬが、少なくとも一方の側面から見ると、自然の要求が之を誘うたのである。勿論是が適切な代策だとは私等には思へない。たゞ考へて置かねばならぬことは、可なり重要な初期の四年ほどの間、我々の國語教育は長者の手を離れて、殆と兒童ばかりの自治に委ねられるのが、久しい年代に亙つての普通の例であつて、それが片端崩れながらも、今もまだ續いて居ることである。忘れたのではなくても、一切の幼言葉は避けて使はず、誰にも教へては貰はずに入用の語はすぐ覺えて使ひ、其數が急に増加する。しかも斯ういふ方がよいなどゝいふ選擇は丸で無く、どんな場合にも一色しか言ひ方は知らない。つまりは思ふことゝ言ふことゝ、最も相近い言語生(61)活をして居るのである。この練習が後々の世渡りの上に、どの程度に役立つて居るかは、知らうとせぬから判らぬので、船や一軒家の中に育つた子供と、比べて試驗をして見たらあらましは測定し得ると思ふ。或は斯ういふのを投げ育てなどゝ謂つて、教育のうちには算へない人もあらうが、實際は親々も監視して居るのである。二つ以上の群があればよい方へ近づけようとし、又折々はあんな兒とは遊ぶなと言ひ、よく/\いけないのが有れば、何等かの方法で牽制しようとして居る。たゞ現在の諸制度も同じに、他に採るべき手段が無ければ世間竝を以て我慢し、皆も此通りだからと、あきらめが稍早過ぎるだけである。改良の餘地は尚あつたかも知らぬが、不完全なるが故に教育でなかつたとは言へない。
 しかも此期の國語修得には、興味ある幾つかの特徴があつたやうである。第一には爰には學校で見るやうな、積極的の教授といふものがない。以前も見習とか修業とかいふ期間には、時々は言はせて見る教育があり、家庭では今でも幼兒の慧しさをめづるの餘り、不自然に餘計な言葉まで口眞似をさせて見ようとするが、この兒童ばかりで出來た群の中では、絶對にさういふ試みは無く、寧ろ入用もないのに人の口を模倣する者を憎まうとさへする。新入の小兒は全心を耳と目に打入れて、じつと場合と言葉との吻合を觀察して居るのである。さうして十分にその心持を會得してしまふ迄は、何度でも聽いて覺えて、口には之を言はぬのである。時として言ひ損なひをすることもあるが、さういふ場合には可なり殘酷に笑はれる。是が又相應の年齡に達するまで、正しく國語を覺えさせる唯一の推進機ともなつて居るので、親や先生の親切な介助に比べると、この點が最も著しい相違であるが、しかも日本人を日本語の達人とする效果に於て、何れが有力であつたかはまだ容易に決定し得ない問題である。
 群が小さくなり、七歳以上が分離し去つたといふことは、この舊式の教育法に於ては非常の異變であつた。以前も子供組には祭禮その他の特殊行事があつて、是には小さいのを邪魔にし匿れたり又追返したりもして居たが、さういふ事は一年に三度か四度で、其他は大抵一處に暮して居り、又物々しい指導者や批評家の地位にも立つて居た。彼等(62)が專念に自分の遊びを遊ぶ時は、殊に幼い者には經驗の好機會であつた。兄姉の言ふことすることの全部が、興味ある參考となつたからである。彼等が何回でも當然に繰返して居ることは、正しいものに違ひないといふ信頼はこの際に養はれて、もとは略一生の間持續したのである。技藝その他の別途の教育を見ても、現に手を執つて教へさとし、又は長たらしく意味を解説するなどゝいふことはめつたに無い。それで居て大よそ年頃になれば、誰にも笑はれない一人前になつてしまふといふのは、勿論仕事が平凡であつて、特に圖拔けた人物を期待しなかつた爲もあらうが、一方には又子供の本性を利用して、獨りで自分で覺える習慣を、斯ういふ風に守りたてゝ來た結果でもあるのである。さうして其御蔭は小學校の先生も被らずには居られなかつたのである。この大切な自治群から、やゝ成熟した、比較的豐富な語彙をもち、從つて又優者の雅量をもつた一部分だけが、時間なり關心なりを他に向けて、過半の交渉を絶つたとすると、其影響は輕んずぺからざるものがあると思ふ。同齡前後の仲間は利害も親密であり、相互の諒解も一段と進んでは居ようが、新たなる知識の獲得に向つては、いつでも無邪氣な競爭者の地位に立つて居る。人が笑はれると自分は笑はれまいとし、又は共々に笑はうとする。七つ以上が學校に行つてしまふと、さういふ場合は段々少なくなるかも知らぬが、其代りには新規に覺えることもずつと減ずるであらう。是には何等かの補充の策を講ずる必要は無いかどうか。ともかくも單なる測定を以て推論しようとするには、あまりに顯著なる眼前の變遷であるやうに思ふ。
 親には代つて行ふことの出來ない兒童群の作業には、活?なる言葉造りといふことがあつた。今のやうに外部の刺戟が多くなかつた時代にも、子供は子供だけで手短な意味の深い言葉を色々とこしらへて居た。成人は却つて時々は彼等の説明をきゝ、又意味を取違へて笑はれることもあつた。或は成長して後まで保存せられ、終に國語になりきつたものも、物の名などには澤山に有る。是は現在の學校生活にも、なほ行はれて居る現象であるが、果して幼稚な者と共同して居た時のやうに、率直で且つ印象的なものが、今後も生まれて來るか否かは疑問である。まして成人が作(63)者になるといふことは、群の興味の實際の參與者でないだけに、一段と效果の期し難いことである。是は國語の發達史の上からも、大きな參考になる事實であるが、新しい單語や句法は、多くは共同の遊戯の純一境から發生して居る。才能ある一人の考案といふよりも、群の意向の誰とも知れぬ者の代表、即ち模倣といふよりも承認が之を流布させる。それには勿論目まぐるしい盛衰があつて、結局最も適切なるものが、次々にも採用せられて行くのである。たつた一つの鬼ごとの例だけを見ても、子供しか關係して居ない用語の、もう否認することの出來ぬものが、近世に入つてから幾つとなく出來て居る。殊に彼等の興味を新たにする爲に、遊びの方式に少しづゝの變化が付與せられると、それを企てたのは彼等でなくとも、細かく一つ/\に覺えやすい名を付けて、次の好い語の出來るまでは守つて居る。何かの必要で暫くの休止を乞ふときに、食指を上に向けてタンマと謂ふのは、タメラフといふ古語から出たかと思ふが、多くの土地ではタンコとも變化させ、更に又小便タンゴなどゝも戯れて居る。大和河内では是をミッコ又はミッキ、越後ではヨレといふ。或はゴイともいふのは御宥されの崩れでもあらうか。とにかく成人の干與せぬ語が多く出來て居る。ツキとかヒカエとかいふのは、初めから約束した安全地帶のことであり、それを又ヲカともバとも呼ぶ地方があるが、子供は無造作にそれを休むといふ意味にも使ひ、追はれると直ぐ休む兒をヂキバと謂つて嘲り、鬼が意氣地が無いをヲカナシダなどゝからかつて居る。鬼事の種類だけでも現今は數十あるが、それが唯の一つでも名無しにはすまぬので、規則が新しいものならそれにも亦新しい語が出來て居る。内田武志君が近頃世に出した靜岡縣方言誌第二卷には、斯ういふ兒童語が湛念に集めである。同じ一つの郡でも村毎に名のちがふのは、半分は遊戯と共に學んだ際の誤りらしいが、一部は少なくとも群自らが、僅かな特徴を捉へて制定した用語である。是等が果して日本語の一部なりや否や、我々の方言の範疇に入れてよいものか否かは、多分まだ論議の餘地があらう。少なくともやがて消え行き忘れ去らるゝことの明らかなものであるが、必ずしも父兄の設けた正しい言葉の有る無しを顧慮せず、もしくは大よそ無いだらうといふ推測の下に、自由に入用なだけの語を作つて行かうとする大膽さは、たしかに他の一方の飜(64)譯業者と共に、我々の國語界の異色であつた。勿論一方を許せば他も認めなければならぬといふ、荒つぽい衡平論も成立つまいが、子供の方にはとにかくに支持者がある。小さいながらに之を必要とした社會があつて、其中では理解が一ぱいに擴がつて居るのである。問題はどの程度の統制を加へたら、此練習の效果をより大いなる社會に發揮し得るかといふ點に在る。さうして又現在の實?に於ては、我々の幼年少年は、此階段を通らずに、世の中へ出て行く別の途はもつて居ないのである。
 
     四 遊戯と語り物
 
 兒童は年を取つた何人とも相談せずに、數多くの自用の語を造つて居るが、其自由には勿論一定の制約があつた。それは單に同時代の同胞に、許されたる限りの音韻組織に遵依して、永年慣習づけられた表現の順序を追ふといふだけでなく、個々の言葉にも亦發明の資料とも名づくべきものがあつた。其創案が概して準備なきものであり、又彼等の經驗の蓄積は淺い故に、今後もし若干の注意と比較とを費すならば、どうして斯う言はうとしたかの動機を、尋ねて行くことも不可能でないのである。既に知られて居る語の用法を延長して、やゝ常例に反する變化を試みた爲に、二語の關係の不明になつて居るものもあり、もしくは爰だけに古語を保存して、由來の埋没したものが少なからずあるかと思ふ。その過程を詳かにすることは、大人の言語學としても確かに意義はあるが、なほ一方には初期の國語教育が、昔は主としてどの方面に働いて居たかを、考へて見るためにも必要な研究である。申す迄もなく以前耳に聽き、やゝ漠然とその内容を理解し、もしくは可なり精確に心持を體驗して居た語でなければ、斯ういふ咄嗟の用途に、資材として役立つわけはなかつたのである。私などの想像では、或は算へ年の二つ三つといふ緑兒期に、最初の選擇から漏れたもの、即ち耳では?聽知つて居りながら、口では一度も使ふ折の無かつた語が、時を隔てゝ活用されるも(65)のも必ず有らうが、それよりも遙かに大きな經驗は、屋外の遊戯時代に於て手近に得られ、それを右から左へ移し用ゐることが、兒童の働きでもあれば又大いなる樂しみでもあつたのかと思はれる。果してこの推測に大いなる誤りが無いならば、この方面の供給も近世は次第に涸渇せんとして居る。今後の兒童新語は種切れとならぬまでも、著しくその態樣を變化させられることであらう。
 今日は過渡期であるが故に、實驗はなほ可能である。出來れば之に由つて私の想像の當否を、確めて見たいものである。兒童の言語知識を豐富にする方法は、「月よ幾つ」や「花折りに」の遊ばせ唄以來、引續いてずつと行はれて居た。たゞその管轄が家々の爺嫗から、いつと無く是も兒童の自治に移つて居たのである。家庭や路傍の切れ/”\の小さな會話に比べると、此方は改まつた聲と節、もしくは一定の律語を以て、何度でも飽きてしまふまで繰返され、自分がすんでも亦次の兒の爲にも唱へられる。しかも内容は平凡でなく、初めから聽かせる目的だけに綴られて居る。理解した限りは全部が印象となつて、永く心の裡に留まり、何かの折には外形の類似からも、又は感覺の一致からも、相互に聯想を促し起すやうに出來て居るのである。即座に口眞似をする場合が多いか少ないかによつて、内側に在る知識は測定することが出來ない。寧ろ後々表現の自由さといふことから、その教育的效果を問ふべきものであつた。日本ばかりの特長ではないかも知らぬが、我々の中にはこの幼い言語藝術の、實に莫大なる貯藏があつた。それが中斷無しに兒童の群によつて管理せられ、又彼等の間に於て成長もして居たのである。
 此原因は國民全般が、是と同樣な生活をして居た時代が、比較的近い頃まで續いて居た爲ではないかと、私などは考へて居る。是をもう少し詳しく説明すると、作業に唄があり、方式に定まつた文句を伴なふ風俗が、成人の間にも日本では永く存して居たので、痕を兒童の言語生活の上に留めることが、一段と濃厚であるらしいのである。子供仲間の用語の、一見甚だ獨創的なのに似も遣らず、彼等の遊戯の方は近年輸入の若干を除く外は、限られたる系統があつて少しでも奔放自在でない。さうして全國の隅々に亙つて、著しい一致があるのである。大體に是を成人の行事の(66)模倣、もしくは以前は老少共通であつた行事の、一方は中止し子供だけなほ續けて居るものばかりだと、斷言しても差支は無ささうである。さういふ中でも證跡の至つて明らかなものと、幾分の類推を傭はねば解説の出來ぬものとあるが、鬼ごつこなどは其名も示すやうに、又諸國の舊社の神事にも似た形が傳はつて居る如く、曾ては最も宗教的なる演伎の一つであつた。それが信仰と離れ、面白さのみが永く忘れられないで、季節にも構はずに子供だけが之を演じて遊ぶことは、片端は今日の戰爭ごつこにも似て居る。戰爭とはいふが實は演習の又眞似なのである。隱れ鬼旨鬼なども、今では眞面目な元の形は無いやうだが、昔は多分是と似た神事もあつたことゝ想像する。女の兒のまゝ事の如きは、今でも儀式として眞劔に行ふ例が各地にある。辻飯・門飯・川原飯、さては盆竈などゝいふのがそれであつて、盆やその他の一年の節目に、屋外で本物の煮炊きをして食ふので、主として成女期に臨んだ娘たちが是に携はり、それより小さい子も樂しみにして手助けをする。目的は道路に精靈を饗し返すことに在つたらしいが、そんな事には構はず面白いから、草の葉や穗蓼の實をむしつて、毎日のやうに此眞似をくり返すのである。關西の方へ行くと、まま事をカンノッコといふ土地も多い。觀音講は又家々の刀自が、月々もしくは春秋の二度、集まつて菩薩を拜み、そのあとに飲食の樂しみを共にする慣習であつた。童女の演伎は次々に新意匠を加味し、殊に紙人形の技術が普及してからは、一段と變化が多岐になつたが、結局はめい/\の母や叔母が、言つたりしたりすることの再演を出でないのである。
 それから地藏遊び、中の/\小坊主、かごめ/\と謂つて後の正面に、屈んだ子供の名をあてさせる遊びなども、殆と同一形式で或土地では青年男女の慰みに、又或地では眞劔の占ひの方法に之を行うて居た。起りは今日の問立て・取出しも同樣で、一人に神靈を依らしめて、不審を是に訊かうとした信仰行事より他にはない。子買を・猫もらひ・狐遊びなどの問答も、以前成人がこんなことをして居たといふ例はまだ見つからぬが、全く小兒の爲に考案せられたものとしては、少しばかり趣向が複雜すぎる。さうして古風な地方の神事狂言の中には、この程度にたわいの無(67)いものが幾らも殘つて居る。起りはやゝ又他のものよりも古いのかも知れぬが、曾てハッドン博士が「人間研究」の中に説いた樣に、獨樂でも紙鳶でも又綾取でも、今なほ是を大人の眞面目な行事として居る國もあるのだから、遠く捜せば昔の因縁は判つて來るかも知れない。競馬や?合せや相撲などは、日本でも古くは皆神事、もしくは占ひの方法であり、今でもまだ子供の獨占にまでは零落して居ない。綱曳も之によつて米の價の高低、もしくは年中の雨と旱とを、卜知する手段として居る處があり、一方は既に學校の遊戯にもなつて居る。ネッキ、ネングヒなどゝいふ土に木の枝を打込んだり倒したりする競技も、其名と樣式とから考へて、私は古代の卜法かと思つて居る。弓射は今日は却つて神事に多く殘り、中古には却つて小兒の遊戯として廣くもてはやされた。武藝の必要は?信仰行事と結びついて居る。それが不用になれば小兒の手に歸するのは自然である。チヽンコ・ピンピラコ等の名で知られる水上の石投げ、さてはシンガラ・ピコタコなどゝ、無數の名をもつて居る片足飛びの遊びなども、以前は壯年の者にも入用な、大切な體育の一つであつたやうに、私などは考へて居る。
 但し國語教育の歴史を考へる爲には、是以上に詳しく説く必要は無い。私の述べて見たかつた一點は、此等の大人から子供の群に移つて行つた行事が、大抵は之に伴なふ定まつた言葉をもち、それも多少の變改を受けつゝ、尚引繼がれて居るやうに思はれることである。少なくとも行事に長短の詞章を結び付けることは、兒童ばかりの好みではなかつたらうといふことである。彼等の群の行動は是によつて統一せられ易く、言葉のもつ深い味によそ心では居られなかつたといふことが、單なる偶然の獲物ではないやうに私には感じられる。我々の屈託の多い日常の作業には、民謠が辛うじて僅かに殘るものであるけれども、以前は國語の此方面の働きは今よりも遙かに複雜であつて、文字に縁の無い人たちの知性も感情も、之によつて培はれて居たらしいのである。さうして小兒だけが、まだ失はずにその若干の標本を管理して居るのであつた。草履隱しや一きめ鬼きめの言葉、それから岐れたかと思ふジャンケンポンヨの類、指切りかまきりの嘘を言はぬ誓文、それから相手を辱しめる言葉など、遊びと言はれぬ行爲にもそれ/”\の文句(68)がある。是はまだ分類も試みられて居ないが、何やら其起原に横たはるものが、追々にわかつて來る日がありさうに思はれる。長い語りごとの方は變化も多く、又記憶は薄れがちであるが、少しづゝは今も保存せられて居る。其中でも近世非常に榮えた手毬唄などは、語りと手事と何れが主、何れが從であつたかを疑ふばかりで、少なくともその或ものは、毬を突かぬ子さへよく覺えて居る。前に掲げた「花折りに」の他にも、西部地方に多く聽かれる雉子の唄、
   けん/\ばた/\なぜ啼くね
   親が無いか子が無いか
   親もあるが子も有るが
   たつた一人の男の子
   鷹じよに取られてけふ七日
   七日とおもたら四十九日……
と言つた形の唄などは、やはり興味のある言葉ばかり多く列ねられて、趣向は俳諧の連歌と同じに、次々に移り變つて行くやうに出來て居るから、最初から童兒用のものだつたかも知れぬが、少なくとも手毬に伴なつて歌ふのは轉用であつた。ケン/\といふ名が片足飛びの方言に多いのを見ると、或はもとこの足の運動の拍子を取る爲に、唱へられて居た唄の一つではなかつたかと思ふ。手毬の唄にも、以前品玉師が曲藝に用ゐて居たものを、引繼いだと思ふものが若干はあるが、さういふ中にも「向ふ通るは清十郎ぢやないか」の樣に、言葉の縁に引かれて新しい流行唄も入つて來て居る。もつと變つた取合せは丹波の助三郎、小田原名主の仲娘、更に近頃のものは井筒屋お駒、或はおるすといふ美しい若嫁が、夫の留守に悲しんで死んだといふ樣な物語、即ち歌比丘尼とか讀賣とかいふ女藝人が、語つてあるいたらうと思はれるものまでが、寧ろ手毬を間拍子に利用して、あらかた古い姿を保存して居るのである。作業と物語の傳承との關係は、今日の常識ではやゝ解し難いものがあると思ふ。ひどい骨折仕事の木遣りとか胴突きとか(69)いふものにも、特に音頭を設けて長々しい語りごとを聽かせて居る。盆踊にも中部以西では、皆口説といふ歌ひものを伴なうて居る。是と四つ竹や扇拍子のやうな輕い手の運動とは、その經濟價値から見ると、それ/”\に別のものなのだが、古人はどうやら是を物語の入れ物又は取り枠として、全く同列に視て居たらしく、それと童女の手毬の遊びとも、やはり又似通うた點が認められて居たやうである。其理由は多分是等のよく整うた律動の持續によつて、次第に純化せられて行く心境が、最も物語を受取り又味はひ樂しむに適して居たからであらうと思ふ。單に言葉の同じ形と順序との何囘と無き繰返しが、機械的に記憶に效果多いだけでなく、異常なる感動は此方式を以て寫し取り、人にも語り又永き世に傳へようとする習慣と、一方には更に斯うした合同作業の機會毎に、何等かの變つた語りものを期待する氣持とが、夙に養はれて居たのである。旅の門附けが持運んで來たお駒おるすの哀話などは、最初から手毬の間拍子に合つて居た氣遣ひがない。それでも身に沁みてあはれと聽けば、やがては自分たちの仲間の歌に、語つて殘すことも女の童には出來たのである。個々の言葉の聽手の生活を動かす力に、其用法による差等があつたものとすれ
ば、子供が自分で拵らへた新語の資料も、大よそは出處が察せられる。つまり遊戯は亦大切な彼等の國語教育だつたのである。
 
     五 話の發達
 
 子供は今でもカタルといふ動詞を、群の遊戯に參加するといふ意味だけに、使つて居る例が多くの地方にある。加擔などの怪しい漢字を宛てるカタウドといふ語、もしくは男女の結合をカタラフといふ語も古くから有るのを見ると、此方が却つて本義であつたことは先づ疑ひが無い。さうすると淨瑠璃その他の語り物のカタルも、現在は既に二つ別種の行爲のやうに、考へかゝつて居る者も多いか知らぬが、もとは單に二人以上集まつた人の前で、匿す所無く、も(70)しくは特に告げ知らせんが爲に、敍述することだけを意味したものと解せられ、要點は今日謂ふ所の Publicity に在り、その藝術化は自然にして、しかも亦豫期せられざりし變遷だと言ふことが出來ると思ふ。最も大きな變化の動力に算ふべきものは、カタリの上手下手が早く現はれ、從うて是を專門とし、又は職業とする階級が成立ち得たことであらう。語部《かたりべ》といふ部曲は、久しからずして朝家の制度の表面からは消えたが、其頃から是を衣食の種にする者が、地方に分散して愈其數を増加したやうである。自分等は現在もさほどの不便は感ぜずに、この都鄙新舊の二通りの職業者を、語部の名の下に總括して居るが、考へて見ると後者は領域が廣く、又年代の久しかつただけに、隨分と大きな仕事をして居る。少なくとも我々の文學史の研究を混亂させて居る。さうして又民間の國語教育に、若干の影響を及ぼして居るのである。今でも明白に言へることは、彼等が常套手段とする莊重の句形、もしくは普通には使はれない單語の集積、それをやゝ簡明に失する定式を以て羅列する叙述法などは、共に民族固有であつて個人の發明でなく、常民も依然として必要が有る毎に、是を用ゐて殊なる感動、珍しい事實を言ひ現はさうとして居ることである。黙阿彌の脚本は好んで現代の市井事を題材とし、その描寫は恐ろしく寫實であるが、なほ時々は主要人物に、居ずまひを直して七五調を語らせて居る。是は芝居だから、又地語りの牽制を受けるからとも説明し得られるが、尋常古風の老人の間にも、少しく氣が改まると切口上でないと物の言へぬ者が折々は居る。演説講演などは新しいものかと思つて居ると、上手といふ人ほどわざは芝居に近く、聽衆は又多くさういふ部分に感動するのである。手紙が近頃まで男女の分ちなく、多量の定文句を以て修飾せられて居たのも、御手本の罪と言はうよりも、寧ろ斯ういふ規格ある語に依らなければ、鄭重の意を表示し得られぬものとして居た、久しい因習の束縛であつた。辭儀とか挨拶とかいふ不可解な漢語が、いつの頃よりか社交の上にも用ゐられ、かたる自分にも説明し得ない幾つかの古風な文句が、先づ口眞似を必要とするやうになつて居る。文章を律語の桎梏から、解放する努力は早く試みられ、近頃に至つてほゞ完結しかゝつて居る。之に反して口言葉の散文化は、仕事が大きい爲にまだ一部にしか成功して居ない。兒童は殊に取殘(71)されて、今なほ遠い昔のかたりごとの形でのみ、專ら彼等の友だちとかたらうとしで居るのである。
 ハナスといふ言葉が、この方式あるカタルに對立する一語として、標準語では用ゐられようとして居るが、氣をつけてもらひたいことは、日本の領土の三分の二以上にかけて、まださういふ動詞は知られて居ない。東北は一般にシャベル又はサベル、西の方の田舍ではイフとカタルとを以て間に合せ、中央部ではハナシスルといふのが普通で、天武紀に無端事とあるが元だといふ、古人の説は私は信じないが、少なくともハナシが名詞だつたことは判る。是に「話」といふ漢語を配したのは近代のことで、前には「咄」だの「噺」だのといふ和製字を宛てゝ居るから、乃ち新たに生まれた現象だつたのである。今日の心持からいふと、話の無かつた時代などは想像も出來ぬやうであるが、一族一邑の心を知り合つた者の間では、意を通ずるのに多言の必要はない。珍しい敍述や稍重々しい言明は、兼て用意した形式の整つた物語で、表現しなければならぬとすれば、話は本來は無くても濟んだのである。咄の者などゝいふ職業の記録に見え出したのは、足利第三代の我儘將軍などの頃からであつた。それより古くは無かつたとは固より言はれぬが、本來は今日ジョウダンなどゝ變化して居る雜談《ざふだん》の中でも、特に智巧を弄し聽く人の耳を怡ばせたものだけを、ハナシと呼んだのである。この内容は追々と擴充しては居るが、今でも話半分だの話にならぬなどのことわざがあつて、元の用法はまだ殘つて居る。是にも誇張や虚誕が禁物の如くなつたのは、又よほど後のことのやうに私には考へられる。武邊咄と稱するものが士流の間に流行した時世には、そのハナシはほゞ前代の雜談と、同じ意味までに近づいて居た。當の本人の作り話は勿論糺明せられるが、單にこの樣な話を聽いて來た、又は斯ういふことを言ふ者があといふだけの、噂話の類に至つては缺くべからざる一種であつた。是はまア話として聽いて置いてもらはうとか、たゞさういふ話だよとか謂つて、責任を負ふまいとする風習は、近世の所謂人情本にもよく見えて居る。しかも庚申待・日待・不幸の夜伽、或は寄合のあととか風呂もらひの晩とか、さういふ話の需要は次第に増加して來たのである。世間話は現代の新聞の代りともなつて、散漫なる知識を冬の夜の爐端に配給してくれた。話を言語生活の重要(72)なる一部分の如くに、認めるに至つたのにも理由があり、それが又自然でもあつた。たゞ是を原始以來の我邦の風であつたと、思つたら誤りだといふだけである。古い姿のハナシもまだ殘つて居る。私等は特に是を昔話と呼んで別にして居るけれども、大抵の子供はハナシといへば是ばかりだと思つて居た。さうして成人の間にも、近い頃までは是が普通の話であつて、世間話や噂話といふものも、それ/”\にその「話」の影響を著しく受けて居る。例へば普通にゲナといふ語を添へていふ爲に、西部日本ではゲナバナシといふ名もあり、他の地方でもダサウナ又はトイフ、東北ではトゾの名殘かと思はれるアッタゾンを附けるが、是が又昔話だけでなく多くの世間話にも共通の敍法であつた。つまりは眞實を請合はれぬといふ意味である。ウソかも知れぬから其積りで聽けといふ趣旨である。斯ういふ形で空想の文藝は、其後大いに民間に榮えたのである。話を眞實の歴史の上にまで延長しようとするのは、惡いことでは無いまでも新しい現象であつた。
 だから兒童の學校に「話し方」といふ課目があるといふことは、甚だしく舊式人をまごつかせる。兒童には菓子よりも話のすきな者がある。しかし彼等は徹頭徹尾聽手であつて、話をする役ではなかつたのである。如何なる昔話の一つを取上げて見ても、子供が年長者に向つて語る形で、傳はつて居るものなどは絶無である。又さういふことをする必要もなく、第一に聽衆が有り得なかつたのである。勿論彼等の中には素質によつて、若いうちから話をして聽かせたがる者、又は小兒でも聽いたばかりの話を、口移しに受賣しようとする者があつたらうが、是は成人の模倣であり、前者は則ち早熟であつた。通例はこの記憶をずつと後年に持越し、次の代の子や孫が話をせがむいたいけさ〔五字傍点〕に誘はれて、思はず古い印象を蘇らせるのであつた。近頃は聽衆が又小粒になつて、たゞ睡眠を安らかならしめる手段に、用ゐるかと思ふやうな場合ばかり多いが、もつと盛んに十一十二になる兒までが、群がつて祖父祖母の物語を聽いた時代にも、彼等に期待せられるのはゲニとかサソとか又はフンソレカラとかいふ相槌を打つて、熱心に耳を傾けて居ることを示すだけで、覺えて直ぐに又自分でも同じ話をすることではなかつた。それには口眞似でなければ移せない(73)感じが、餘りに多くまじつて居り、且つ又二度や三度聽いただけで、承繼ぎ得るほど單純なものでもなかつたからである。年寄が昔話の寶の庫となるのは、なほ一生の間に何遍も、黙つて同じ話を傍聽し、幼時少時を追憶する機會が多かつたからで、國語の教育としては此方が遙かに價値が多かつたのである。それを兒童に話がわかる位なら、話をすることも出來る筈だと、思つて居るのは荒つぽい推論ではなからうか。其樣なことを敢てすれば、昔話は急劇に子供らしく、又大まかに過ぎたものになつて、大人は固より幼い者までも、興味をもち得ないものになるか、さうでなければ魔王だのライオンに食はれるなどゝ、用も無い強刺戟を輸入することにならうも知れぬ。小さな話好きの愛着を感じたのは、本來はそれが大人の話だからであつた。大人も面白がり又は面白さうに説いてくれるといふ點に、隱れたる魅力があつたのである。それを子供が眞似するとなると、目途は實は全く別のものになるのである。單に彼等をして思ひ感じたまゝを、口で言ひ現はさしめるやうにとの望みならば、斯ういふ形式的な口眞似は有害であつた。さうしてハナシ方といふ語の用法は、今もなほ誤解を招きやすいのである。
 兒量を話好きにする好結果は、寧ろ或年月を過ぎてから收められるやうに、自分などは考へて居る。わかると言つたところで成長した社會の人事が、さうしつくりと腑に落ちるものでないことは、たつた一つの婚姻譚を見ても知れる。笑ひ話の如きも上品で我々の心から面白がるやうなものは、大人が笑ふから先づをかしいものと心得るだけである。兒量の覺える部分は試驗して見ればすぐにわかる如く、「一つ下さいお伴しよ」や「お宿はどこぢや」の類、もしくは話の前と後に取つて附けた色々の文句、即ちハナシと謂つても却つて方式のカタリゴトに近いものがさきで、それから何囘も黙つて傍聽して居るうちに、想像も鮮かになり、人の憂や悲しみも身に沁みて來るのである。我邦の田舍ではほんの近い頃まで、少なくとも女性だけは成熟した者も、昔話のあはれに耳を傾けて居たらしきことは、シンドレラ系統から段々と深入りした繼子話の、全國に流布して居るのを見ても察せられる。或は親爺が蛇に呑まれんとする蛙の命乞ひに、三人ある娘の一人を嫁にくれる約束をする。父が家に來てそれを言ひ出しかねて、氣を病んで寢(74)て居る心持も知らず、姉二人は腹を立てゝ行つてしまふ。三番目の娘だけが素直な子で、父さんがきめた約束ならどこへでも嫁に行きます、それよりも早く起きて朝飯をあがれといふ、斯ういふ情合ひなどは小兒にはまだわからない。或は善い爺が年取の米を買ひに行く途で、吹雪に濡れて居る六地藏を氣の毒に思ひ、笠を買つて着せ申して自分は手ぶらで戻つて來る。婆に其話をするとあゝそれは好い事をさつしやつた、私等二人は湯をたべて年取をして寢ようといふ段なども、詳しく敍説してもらつて和やかな氣持になるだけの聽手が、以前は?童兒にまじつて耳を傾けて居たのである。一科獨立して居る現在の修身教程の中ですら、斯ういふ農民の心の善良さを、具體的にたゝへた例はまだ無いのである。それを一言の談義も添へずに、端的に胸を打たしめるといふことは、言はゞ言語の最終の目途であつた。自分がそんなよい人になれるか否は別として、少なくとも人間の可能性、さう謂つた世渡りの途もあるといふことを、覺えさせる機會は此外には元は無かつたのである。教訓といふ語は爲永春水までが使つて居るので、或は見當ちがひの批判を招きさうな虞れがあるが、今と方法の異なるものがあつたといふのみで、以前も言語の修得に大きな信頼を繋け、言語を通して歴代の國民の活き方を、傳へ遺さうといふ意思だけは確立して居た。さうして試驗といふ樣な性急な方法を以て、?その教育の功程を確かめようとしなかつた所に、私たちは古人の自信を見るのである。
 
     六 讀み書きの意味
 
 前代の國語教育が、比較的早く終つたやうに見える理由が、自分には三つほど算へられる。その一つは社交と職業とに入用な言葉が、今に比べるとずつと簡單であつて、之を覺える爲にさう多くの力を費さずに濟んだことである。その二はまだ專門の人たちの同意し得ない點かと思ふが、言語の成長力とも名づくべきものゝ利用が、以前は今よりも容易であつたことである。即ち各人はその屬する小社會と共に、次々變つて行く生活環境に適應する言葉を、入用(75)な程づゝ増殖し得るやうに、教育せられて居たかと思はれるのである。是は必ずしも方法の古今の差ではなく、今でも我々は必要なる補充無しに、辛抱しては居らぬのかも知らぬが、その供給の樣式が現在は甚だしく受身であつて、新語の發案協定はおろか、殆と選擇すらも常人には許されぬ場合が多い。この自主の機能が今は全く衰へて居るが、以前は小兒にすらも認められて居たことは既に述べた。さうして其傾向は必ずしも抑制せられなかつたのである。是がやゝ單純に失した準備を以て、若い人が世の中へ出て行つてもよかつた一つの心強さであつたやうに自分には考へられる。
 第三の理由は、前の二つよりも更に顯著なものである。即ち讀み書きの爲に費さるゝ時が永くても三年、それも夜分とか休み日とかの、はしたの時間を是に宛てたものが、今日は御覽の通りの大掛りを以て、教育の殆と全力に近いものをこの二種の學習法に傾けて來たのである。年は長けてもまだ滿足に物を言ひ終せない者を、作つても是は致し方が無い、其代りには讀むことゝ書くことにかけては、少しでも不自由は感じない。と言ひたい所だが此方も聊か心もと無く、結局は世間に出てから又大いに學ばなければならぬ者を、若干は殘して居るのである。所謂讀みの教育を有意義ならしめんとするには、讀まれる側でもちつとは用意しなければならない。萬葉集や文選の如く、一々莫大なる解釋を添へて居たのでは、たとへ義務年限を百年に延長しても、事足る氣遣ひは先づ無いのである。それは極端に走つた言ひ方だとしても、大抵どういふことを教へて置いたかを、知つて居るべき筈の人々が、その教へた中に在るか無いかを考へても見ずに、勝手に六つかしい字を竝べて、諒解を期するのは自信が強過ぎる。是は不當なる讀者誅求であり、或は又國語教育の效果無からんことを、希ふ者の所業に近い。今日強制して普通教育に收容して居る者の過半數が、凡人であることを先づ考へて見なければならぬ。さうして彼等の意識せざる期待、即ちこの人たちの後々の生活に、何が最も入用であり又具はらぬと不自由をするかを、推測してそれを與へることにしないと、信頼に背いたことになるのである。隨意に書を開いて誤らずに其意味を掬し、殊に公文の周知すべきものを、讀んで理解するの(76)も大切なことは確かだが、彼等が長い一生涯に、果してどれだけほど其機會があるであらうか。それとは反對に口と耳とは、一日として使はぬ日は無い。それが思つた通りを正しく言ひ得ず、言へば毎々豫期せざる印象を與へ、甚だしきは全然思つて居ないことを、口ではいふやうな癖を生じたとすれば、自他の不利不便は大變なものである。時間の多くかゝるまではまだ止むを得ない。少なくとも一方の比較的不急なるものゝ爲に、他のもつと入用なものを殺ぎ傷けぬだけは注意してほしいと思ふ。綴方も書方も皆同じことだが、大よそ實際上の用途と比例して、學校でなりとも家でなりとも、必要なものだけはとにかく與へられて居ると、安心して言へるやうにしたいものだ。前代の讀書算筆は職業教育であつた。それが時代の變革に際しては、一時は出世教育であつた經驗さへもあつて、世間は一般にやや此恩惠を過重して居る。しかも今日は望むと否とに拘らず、萬人に課せんとする教育となつて居る以上、もう今迄のやうに優秀者を拔擢する爲に、殘りを踏臺とするやり方を續けてはならないのである。
 此點にかけては舊弊な實地教育の方が、遙かに確實に目標を見つめて居た。多くを望まぬ代りに一人前として通用するだけの、言葉を覺えなければ成功とは見なかつた。それがほゞ婚期に近づいて、安心してもう好いといふことを得たのである。馬鹿聟おろか嫁の昔話などは、その消極的な一つの證據といふことが出來る。斯ういふ話は小さい者も悦んで聽かうとするが、それは恐らく彼等の兄姉が面白がるからで、目的は主としてやゝ成長して、今に大人に成らうとする少年たちに、土地で正しいとして居る言葉と、嘲り笑はるゝ間違ひの言葉とのけぢめを出來るだけ明瞭に知らしめるに在つたかと思ふ。現在の教へ方が生眞面目な正攻法ばかりで、ゆとりも樂しみも見て居らぬのとは正反對に、昔の國語教育は笑ひの利用に走り、遊びの分子がやゝ多過ぎた弊はある。是は久しい歳月に養はれた國民の集合性、即ち孤立を忌み畏れる淋しがりやの氣風から、殊に效果を生じ易かつた爲であつて、或は日本ばかりの特徴と言へるかも知らぬが、他の國の實地と比べて見る手段がまだ得られない。とにかく長者の口元に注意し、その機嫌の好い時はきつとをかしいことを謂ふものときめてかゝり、さうしたら急いで笑ひませうと、豫て用意して居るかとも(77)思はれる、娘や息子たちの樣子は今でもよく見られる。識りつゝさうする者は少ないでもあらうが、古來の慣行が癖になつて居るのである。人を笑ふといふことは慎みの足らぬ行ひだが、人と共に笑ふことは必要であつた。獨り取殘されて笑はずに居るといふことは、自分が笑はれる場合でなくとも、淋しい頼りない?態であつたからである。斯ういふ群心理を教育の上に利用したもので、何よりも有效であつたかと思はれるのはコトワザである。聽いて誰一人會得せぬ者は無い土地の言葉で、短く調子よく又氣の利いた文句を、しかも多分の滑稽味を含めて、物のたとへや人の批判に用ゐるといふ技術が、よそでは見られぬ程度に我邦には發逢して居るとしても、それは少しも偶然な現象ではない。單に物ずきや退屈凌ぎに、是程數多くの俚諺を作り、又は暗記して居る者は有り得ない。一方に饗の聲に應ずる如く、之を聽いて破顔する者の群があると共に、たま/\其笑ひの對象となつて、孤立の不快と寂寞とを痛感し、それに懲りて再び同じ失敗をくり返すまいとする覺悟が、當の本人は申すに及ばず、傍に在つてさも心無げに、くつくつ笑つて居る者の腹の中にも、生ずることを期して居たからである。何百年の長い期間に亙つて、昔のコトワザの數多く傳はつて居るのは、必ずしも最初の考案者の力ではなかつた。後々之を覺えて居て、ちやうど似合ひの場合に應用する者が絶えなかつただけでなく、更に其周圍の人々が之を牢記し、又警戒して居た結果でもある。だから「燒鳥に綜緒《へを》つける」といふ無益の念入りをひやかした諺の意味を忘れてしまつて、今では「燒鳥に鹽」といふ者が多いやうに、誤解を重ねつゝもなほ殘つて居るものもあるのである。技術や天候の判斷に關する多くの知識は、諺と同じ形にして與へればよく保存せられた。つまりは一度も口にすることの無い人々までが、始終心の中で熟讀し、玩味して居るものが諺であつて、それが我々の言語生活を豐富にしたことは、却つて民謠の如く聽けば直ぐに合唱するものよりも、又一段と有力だつたのである。弊は勿論免れなかつたことゝ思ふが、とにかくに效果は現代の教科書よりも、何倍か根強く且つ持續して居た。
 ヨムといふ動詞は、文字が國語の教育に利用せられる以前から存在した。たとへば南方の島々では雀をユムンドリ、(78)長い歌物語をユンタといふ處もある。歌をよむといふのは高らかに唱へることであつたらしく、物の數を算へることも亦ヨムで、目的はやはり誤りの無いことを確かめるに在つた。お經を讀むといふのも、中身とは關係が無く、元は一つ/\の文字に宛てゝ言ふことも出來ない空讀みの徒さへ多かつた。近世は專ら素讀と之を呼んで居る。何を書いて居るのやらも知らずに、口だけ動かすといふことは無駄な努力のやうだが、もと/\知る前からの尊信が深かつた上に、斯うして飽きずにくり返して居るうちには、いつかは追々に其内容を我物にし得るといふ希望を、小さな頃から諺などの例によつて經驗して居たのである。現在の讀本は、努めて幼稚の語を以て文章を構成し、些しでも記憶の爲に心を勞する必要の無いやうにしてあるのだが、なほ先生によつては矢鱈に音讀させ、後には本無しに口拍子で、一卷を空讀みし得る兒が幾らも出來て居る。讀方が元來耳からの教育であつた名殘は、大人の中にも妙ちきりんな節を附けて、新聞までを讀んで居る者が有るのを見てもわかる。さうして手紙だけは聲を立てゝ讀む者が昔から無かつたのである。手紙は既に覺えて居る日本語を文字に現はしただけのものであり、書物は新たに理解しなければならぬものを、先づ外形から學んで行かうとする、相違である樣に私などは思ふ。もし讀方が子供の既に知る言葉に、一つ一つ之を代表する文字を教へ、同時に其語の或用法を例示する趣旨ならば、この古風な暗誦法は少しばかり弊があつた。即ちたつた一種の表現ばかりに、あまりにも習熟し過ぎて、却つて新たなる方面への活用を阻むからである。たとへば私などは「子のたまはく」を何千遍も讀まされながら、ノタマフといふ動詞の使ひ方を知らず、寧ろ曰をタマハクと謂ふのだと、大きくなるまで誤解して居た。しかも「綿蠻たる黄鳥は丘隅に止まる」といふ樣な、耳馴れない言葉の連續にはまだ好奇心がもてた。少なくとも解ると解らぬとの境目がはつきりして居た。今日の讀本などは三分の二以上も、珍しくも何とも無い語句が使はれて居る。口拍子の災ひは愈大きいわけで、末には流行唄のやうに暗記から消えて、文字の印象も共に薄らいでしまふのである。小學校の讀方がどれほどまで役に立つて居るかは、調べる方法も有るのだから是非とも調べて見なければならぬ。假字ならにぢり讀みの「辨慶が長刀」、漢字はたしかに見(79)たことのある字といふ位で、たま/\眞似して書けば皆うそ字を書くといふ者が、もし若干でも今の壯丁の中にまじつて居るとしたら、六年の義務年限は古人に對して、面目ないといふことになるのである。
 漢字は何と言つても我々の重課であつた。是が擧國の兒童に一人殘らず、授ける教育といふことが前以てわかつて居たら、古人も何とか別の思案があつたらうが、實はさういふことは未だ豫期せられず、たゞ出來さうな兒だけが其爲に刻苦したのである。その上に字を識る方法が、今とは又大分ちがつて居た。同じ一つの文字を草紙が眞黒になるまで、毎日々々書きなぐつて居るうちに、覺えるのは筆法だけではなかつた。上はウヘといふ字だがカミとも訓み、のぼるも上げるも是を書き、上手の上の字も亦同じだといふ樣に、親しくなれば追々と知つて來るのである。勿論之を大きな文章に組立て、もしくは其組立てを理解するには、又一段の才能を必要としたであらうが、さし當りの入用には名頭とか村盡しとか、實地に即した御手本が設けられ、商賣往來まで進めば手代番頭には十分であつた。時代の流行なれば無理な宛字も平氣で使ひ、たつた一つの崩し方しか知らぬといふ滑稽な話もあつたけれども、とにかく手習によつて筆札の事務を辨じただけでなく、彼等の讀む爲に振假字も何も附かぬ、澤山の書物は出來て居たのである。所謂四角な文字の流行は徐々であつた。それを活字の普及が急激に促進した爲に、今は却つて多數の青年に、振假字が無ければちつとも讀めない本が多くなつて居るのである。經學萬能とも名づくべき時代は、日本では實はさう長くはなかつた。漢字は其以前も汎く用ゐられて居たが、それは唯簡便に國語を寫し出す手段としてゞあつた。是と漢土の學問とが混同して、普通教育は面倒なものになり、後に再び二者を分立させたけれども、なほ讀書によつて字を學ばせようといふ、無理な方法だけはあとに殘つた。この點は以前の讀み書きの區分の方が、今よりはよほどはつきりとして居た樣である。讀みは新たに覺えなければならぬ國語だから、耳で聽き口で何度もくり返して、追々に意味を會得させる。手習は既に判つて居る言葉を、字にはどう書くかを教へるのだから、專ら目で看て手で寫すことに力を傾けさせるといふ風に、個々の境涯需要に應じて、順序と割合とを加減して居たことは、今でも參考とするに足ると(80)思ふ。眞似から入つて段々に覺え込むといふことは、何れにしてもかはりは無いのだが、たゞ斯うする方が幾分か確實であり、或は中途半端の眞似そこなひを、少なくすることが出來たのである。
 
     七 物言ふすべ
 
 人が口移しに先づ一旦は定まつた形を授け、其内容目的の理解の方は必ずしも窮追せず、自然に少しづゝ覺えるのを期するといふ、素讀式とも名づくべき教授法は書物以外にもあつた。歌や唱へごとや遊び言葉の中にも、幼い頃には意味無しに教へられるものが多いが、是は果して必要に基くといひ得るかどうか、單なる發音の練習に止まるのか、明らかでないから別として、爰には主として辭儀とか挨拶とかいふ類の、他に對して必ず言はねばならぬものを考へて見る。一番早く學ぶのは神佛を拜む言葉で、信仰ばかりはいつの世にも、個人的なる關係が認められ、人が代つて言つたのでは效果が無いやうに感じられて居た。それ故に斯ういふ嚴肅な辭令であるに拘らず、普通は簡單で子供の唱へるに適し、又大きくなつても改訂の折は無いものと見えて、特に結構したものゝ外は、大抵はやゝ素朴に過ぎ、且つ次々に變化して居る。アンと言へなどゝ子供に教へる土地もある。南無といふ語も佛教だけの力でなく、ノウノウといふ祈りの初句から、變化して來たものかも知らぬが、是を神々の御名の頭に添へて、拜んで居る例も稀有ではない。一つ以前の形は「あな尊と」、もしくは是と同系のアヽトウダイ等の禮讃辭であつたらしく、國の端々には今でも是が殘つて、成人にも小兒にも共に使はれて居る。物を人から貰つた場合の禮の言葉が、拜みの折とよく似て居るのを見れば、昔の武士などが恩ある主君に對して、述べた辭令も是と近いものであつたらう。秋田縣の北の方ではトヾゴザンスと謂つて居る。關東以西ではメンタイ又はメンテと謂つて、物に額を近づける風が小兒だけにはある。是も多分は「めでたし」の意であつて、以前は又親々の語でもあつたかと思ふ。今では教へて謂はせる者にも不可解(81)になつて居るのである。カンブンヤといふ言葉が信越地方には行はれで居る。過分といふ中世語の名殘で、言はゞ大人の古着の仕立て直しである。それからダン/\となりオホキニともなつて、是はまだ一般にも用ゐられて居るが、何れも不完全でしかも發音が容易なのを見ると、本來は兒童用として設けたものを、心輕く母姉もなほ使つて居るのである。
 それから正月とか盆節供、又は改まつた式日などに、家の中でも子供の物言ひを指導し、是非とも謂はせようとする言葉が幾つかあつて、其意味もちょつと見ると不通であつた。そんな堅苦しい家庭はもう捜しても容易に見つからぬ迄になり、それを不自然だと批難する聲さへ聞くが、果して小兒たちの爲に惡く、又迷惑な拘束であつたかどうかはまだ問題である。新しい言葉を可なり彼等は好み、又變化した?態には好奇心を誘はれる。斯ういふ機會に學んだ言葉なればこそ、意味の裏附けが無くてもすぐに暗記し、又漠然とでも之に伴なふ情景を、感じ且つ覺えて行くのである。むつかしくいふならば人世の深秘、是から奧にもまだ道があり、しかも必ずしも平凡でないといふことを、このやゝ形式に偏した大人たちの言動から、追々に窺ひ知るのである。言葉と單なる音響との差別、始めて聽いては何の事ともわからぬ聲に、學者が言靈などゝいふ力のあることに心づき、氣をつけて正しく眞似なければならぬ必要を、少しの苦勞も無しに經驗する機會でもあつた。是がもし無かつたら學校へ行つても、右を向き左を向き、窓の外のもう少し判り易いものばかりに耳を傾けて、先生の言ふことを顧みなかつたかも知れない。今でも是だけの下地を作つて、國民は彼等を學校へ送り出して居るのである。
 しかし家庭は自分の教育力の、もと/\有限であることをよく認めて居た。愛情には滿ち溢れて居ても、親と子の共に住む日數は、存外に少ないもの、である。彼等の間には語無くしてかたる場合ばかり多くて、互に豫期して居る辭句の種類は乏しい。一生の大事の聟入嫁入に際しても、親に斯ういへあゝいへと教へてもらつて、果して其通りを遵奉する者が、幾らあるかは覺束ない限りであり、ましてや其文句をおさらへして、出て行く者などは一人も無い。個(82)々の實地に適應した物言ひは、獨自の器量才覺で發明するものゝ他は、大抵は進んで外部の人を眞似るのである。是を一人前の青年となるに先だつて、完成して置くと否との損得は至つて大きいのだが、近世の現實はまづそれが不可能となつて居る。多數の男女は相應の年配になつて、幾分か物恥ぢの念も薄らいだ頃に、厚顔も手傳つて、漸う人の前で笑はれぬ口がきける樣になる。即ち既に世の中へ出てから後に、なほこの修行の爲に澤山のうき目を積むらしいのである。それを當り前だとも唯一の手段だとも、思つて居る者の無いことは、自分の子や孫の爲には氣を揉んで、どうか今少し早く此種の國語教育を卒業するやうに、皆々希望して居るのを見てもわかる。實際この大切な且つ短い一生に、そんな事までして居ては割振が付かない。殊に有效に又無邪氣に、何でも學び得られる少年時代を、管理して居る學校といふ機關に、出來るものならその任務の全部を、引受けて貰ひたいと思ふのは人情と言つてよい。それが果して無法なる注文であるか。やつぱり世間へ出ても尚當分の間は、?かと思ふほどもじ/\して居たり、然らざればたゞ横着を資本に、平氣でをかしなことを謂つて居て、笑はれて少しづゝ改良して行くの外は無いのか。但しは又是にも方法はあつて、大よそ間に合ふだけは學校の教育の中で、何とか始末を付ける途があるのであるか。如何なる境涯で大きくなる兒童にも、必ず一度は起るべき問題である故に、どうか斯道の關係者は、心を潜めて今一度、そんなら以前はどうして居たかを、注意してもらひたいと思ふ。
 物いふすべも碌に知らないといふ批評は、可なり檢束の無いおしやべりの男女に向つても下されて居る。乃ち親しい者だけの間で勝手に言ひたいことを、言ふことも出來ないといふ意味ではないのである。我々は之を晴れの言葉とも謂つて居るが、さういふ總稱も略當つて居ると思ふ。是を解説すれば時と場合に應じ、知る知らぬに拘らず人の前に出て、言ふべきことを言ひ又言ふべきことだけしか言はぬといふ加減の技術である。それは本來は個人の判斷を以て取捨してよいものであつたらうが、歴代の社交道は既に一定の法則を作り設け、煩はしいばかりの辭令の型が出來て居た。さうして其豫想に少しでも反すれば、蔭でか正面でか、必ず嘲笑せられずには濟まなかつたのである。家(83)庭の指導者が十二分に親切であつたに反して、世間の學校では有合せの御手本を投出しただけで、本人の身になつて考へても見てくれず、又言ひそこなつても直したり取成したりはしてくれない。鞭にも罰點にも殘虐なる笑ひが、たつた一つ有るばかりであつた。さういふ中へでも親は思ひ切つて、最愛の我兒を送り出して居たのである。或は見習ひとか潮踏みとか謂つて、少しは訓誡してくれる機關も見出せぬことはなかつたが、是とてもやはり忍苦の生活であつた。たま/\新たなる國語教育の制度が立つと知つて、不完全なる在來の郷黨の陶冶力を見切り、愈其節制を弱めてしまつたのも自然である。つまり學校は大いに期待せられて居たのである。しかも一方には是と共に、社交は日一日と複雜となり、且つ或部分は測量し難くさへなつて來た。晴れの言葉の入用は毎日起り、その種類は數十倍に増加して居る。一つ/\の規範は設け難いことになつた。眞似は誤つて居らぬ場合にも、手本がぐらついて居るのだから滑稽なことが多い。斯ういふ?態に處する最も賢い方法は、根本に立戻つて心の姿を省み、それをどうすれば最も安らかに、又有りのまゝに表白し得るかを、各自に考案させるより他はあるまいと思ふのだが、それは今のところただ一つの理想といふに止まり、さういふ練習をするだけの手段が、不幸にしてまだ備はつて居ない。しかも舊時代の慣行にも、此點にかけては參考とすべきものが甚だ尠ないのである。將來の國語教育の最もむつかしく且つ大きな問題は、どうやら此方面に潜んで居るらしく私には感じられる。
 型にはまつた物の言ひ方といふものは、ちやうど入用な數だけ打つてつけの言葉が揃つて居る場合でも、是を言ふのに手數が掛からず、又しくじりが無いといふばかりで、その相手を動かす力は常に弱く、時としては空々しくさへ聞える。短い時折の挨拶ぐらゐならそれでも濟むが、外へ出て何か改まつた用件を辨じようとする際に、假に知つて居るもので間に合ふとしても、そんな定例の文句ばかりを羅列したのでは、成功は先づ覺束ないのであつた。以前各藩の應接方、もしくは使番などゝ謂つた者の技術は、此意味を以て時としては、武藝以上にも重んぜられて居た。段々と場數を踏ませて器量によつて拔擢し、當人も亦失敗すれば腹を切る位の意氣込で全力を傾けて居たのだから、(84)平素の訓練があつたことは察せられる。書面に對立させて之を口上と謂ひ、或は演舌などゝも稱して、今日の演説といふ語の元であつたが、是も亦晴れの言葉の複合形に他ならず、其技能の養成は、乃ち弘い意味の國語教育であつた。もう少し此方法が普及して居たら、我々の爲には好い手引になるのだが、何分にも數は限られ、しかも相應な年配の者ばかりが、職業として之を守つて居たに止まり、永續の計は立たなかつたのである。殊に村落に於ては此任務に當ることを、誰も彼も尻込するのが習ひであつた。又斯ういふ役に適すと認められることを、寧ろ不愉快にも感じて居たのである。全體に辯舌を働かすべき事件はめつたに起らず、たま/\口達者な者が出來ても無事に苦しんで、何かといふと却つて物議の種をほじくり出さうとするから、今迄はこの應對の技術が、一般に不人望だつたわけである。併し世上の交際が變化して來れば、他の半面の弊害も現はれて來ることは致し方が無い。腹から考へ出し自分で整頓して物を言ふ場合は非常に少なく、いつも聽馴れた他人の口上ばかりを踏襲しようとするので、内では物のわかつた面白い氣風の親爺までが、旅に出で又は晴れの席に列なると、甚だ無口にもなれば折々はをかしな空々しい言葉を吐いて、不當に田舍者の眞價を、低く値踏みせられる結果をも招くのである。前に讀みの條でも述べた如く、口眞似は徹底して是を我身の血と肉とに、してしまふ迄の間が長く、又まちがひが起り勝ちである。新たなる學校の國語教育が、全然この手段を借ること無しに、遂行し得られない時勢であることは誰でも認めるが、其代りには骨を折つて、少しなりともこの手數と時間とを、省く樣にしなければならぬ。單に世の中には自分たちの物の言ひ方と、異なるものがあるといふことだけを知つて、それを思ふまゝに利用するまでに、覺え込ませずにもうよろしいと言つて卒業させることになると、徒らに若者を言語に臆病ならしめるだけで、正直なる者は笑はれることを畏れて口を開かず、借りて來た猫のやうにもじ/\した樣子をする。僅かの才氣あるものは努めて半覺えの語句を利用しようとするが、それも誤解を引起し易く、時々は外形の模倣が主になつて、腹の底とはぴつたりと一致して居らぬといふやうな淺ましい場合をも生じかねないのである。注意しなければならぬことは、言葉を外形だけ引離して、耳に受取り又眞似をす(85)るといふ技能は、幼い時から引續いて進んで居り、殊に日本人の鋭敏さは、此部面に於てよく働いて居て、國の特徴の一つともなつて居ることである。此頃家の外を外國の小唄などを口ずさみつゝ、走つて通る自轉車の小僧を見ても?考へられるが、是が本當の意味の記憶となる爲には、實は飽きるほど數多くのくり返しと、鑑賞とを必要として居るのである。それが前代は可能であつたが、今日はもう到底望めない世情となつて居る。乃ち選擇と判別とが、大いに加はらなければならぬ?態に在るのである。外國人などに言はせて見ると、日本語の學び難い最大の理由は、對社會の立場によつて、一人々々の言ふべきことが、度毎に變つて來ることだといふ。男と女とのちがひは勿論だが、今在る地位なり相手の種類によつて、同じ一つの語を口眞似して使ふことが出來ない。一ぺんは必ず之を自分のものにして、處理して出さなければ本當の物いふすべとは言へないからである。感情の上からは親疎尊卑のけぢめを、判り過ぎるほど認めて居る者が、一たび口移しに教へられた語を使ふとなると、自他を取りちがへて子供でも言はぬことを言つて居ることは、敬語の上では最も多く經驗せられる事實である。敬語は事によつたら發達し過ぎて居るのかも知れぬ。或は出來る限りその段階を省略して、學習の煩瑣を避ける必要があるのかも知れぬ。たゞ少なくとも現在このをかしな現象が稀ならず看取せられる限り、所謂讀みの教育は成功して居らぬといふ、兆候としては指摘し得られる。以前は幸ひにして免れ得た弊害が、今日は既に忍び難くなつて居るのである。模倣にもやはり歴史がある。近頃の御手本は尻を結ばぬ縫絲のやうに、私たちには感じられる。
 
     後記
 
 豫定では此次になほ二章と、少しの感想とを添へるつもりであつたが、時間も頁數も足らなくなつたから、改めて別の機會にそれを補充することゝし、爰にはたゞ簡略に荒増だけを附記する。私は第八章には敬語の教育に、もとは(86)二段の過程があつたらしきことを説かうと思つた。是を敬語の二種別と名づけても、大體に間ちがひは無い樣だが、その一つは共同共用の敬語、即ち同輩の間に共に尊む者を説く言葉で、數も少なく又相手によつて色々と言ひかへる必要が無いから、全體にまなび易く且つ覺え易い。兒童はごく小さい頃から之を教へられ、方言で言はせて置く限り、誤りたくとも誤りやうの無いものであつた。それを方言である爲に改めさせようとして、その方法にちと心得ちがひがあつたかと思はれる。第二の敬語といふのは比較敬語、もしくは晴れの言葉と名づけてもよいもので、相手と自分との間に差等のある際に、第三者の問題を相手に引掛けて、説かうとする場合の敬語である。是は中々複雜で覺えにくゝ、殊に口移しに人の言ふ通りを學ぶと、逆になつて却つてしくじるものが多い。だから兒童にはもとは此部分は課せぬことになつて居た。ところが世が改まり外部との交際が繁くなつて、この必要は増加する一方であつた故に、少しは子供のうちからも、教へて置かぬと困ることになつたのである。禮儀といふものゝ成長とも之を見ることが出來る。たとへば目上といふのは神佛と主君、位の高い人々に限られて居て、其數も遭遇も少なかつたのが、訪問といふ風習の盛んになるにつれて、款待の一つの形としてこの範圍を延長し、實は同等と思つて居る人までが、互ひに相手を高く見て敬語を使ふやうになつて來たのである。さうして其釣合ひ上から一つの村一つの集團の間でも、長者に對する本來の敬意を、言葉で表白せねばならぬやうになつた。即ち所謂晴れの言葉の用途が、心置き無い間柄にも入つて來て、爰でも敬語を使はぬと失禮なやうに感じられ始めたのである。この第二種の方の敬語は、人の感情の豐富になると共に、次々に改良せられ又細かく段階が附けられた。殊に著しいことは敬語の消極的一面として、自卑即ち自分と自分に屬するものに就いて、わざと卑しめる言葉使ひをすることが多くなつて、其爲に更に一段と學びにくゝなつた點である。愚妻とか豚兒とか謂つて居るうちはまだよいが、問題になるのは自分としては大いに尊敬して居る者を、人に對してはどう言ふのがよいかである。支那では弊邦だの寡君だのと、我國我主をも卑しめていふ辭令が元は普通だつたが、是だけは我々はもう遣らぬことにして居る。我村の鎭守や家の氏神なども、幾ら長者に對してゞも(87)謙遜して惡く言ふことはないが、親や兄姉などの最も我身に近い人のことは、さほど貴い相手に向つてゞもなくとも、先づは遠慮をして内々の敬語を、差控へるのが今日までの通則になつて居た。日頃は父母を敬へと教へられる兒童が、他人に對する時だけは粗末にいふ方がよいといふことに、合點の行かぬのも尤もであり、又讀本にもさうは書いてないのである。この微妙なる自他の境目は、實は日本語の最も歴史的なるもの、精神文化といふものゝ成長を痕づけて居る部分であるが、悲しむべし今は混亂に陷らうとして居る。それから今一つの誤りのもとは、敬語と良い言葉との差別を知らぬ者が、段々に多くなつて來たことである。成程上品なよい生活をして居る人々の間に、敬語は最も發達し複雜になつて居ることは事實だが、是は或時代の必要がさうさせたといふに止まり、斯うなくてはならぬといふ理由は別に無いことは、今後もし修正を加へるとすれば、先づ此部分に省くべきものが多いのを見てもわかる。又現在も既にどし/\と、此方面の物言ひが、廢れもしくは改まつても行くのである。良い言葉の標準は、必ずしも敬語の分量でないことに氣づかねばならぬのである。人が心のうちに持つ自然の敬意が、十分に表はれるといふことの方がそれよりも大切である。しかも何人を敬すべきかといふことは、言葉ばかりでは指導せられない。他人を敬ふあまりに自分の心から貴重する者を、粗末に言ふ習はしにも批判の餘地がある。現に東京では女房が人の前で、我夫を呼棄てにする風は久しく行はれて居たが、關西では樣附けにした。少しの敬語を添へたりすることは珍しからぬのみか、こちらでも今は段々と亭主呼棄てをよい趣味とは考へぬ樣になりかゝつて居る。截然たる法則は恐らくは立てられまい。結局は程度問題に歸着するのかも知らぬが、少なくとも現在はよその人の前で、家の目上を敬稱して説くことは、幼兒の外には許されて居ないのである。然るに讀本に「おとうさまが何々とおつしやいました」などゝ書いて、是が同輩ばかりの共同の敬語だといふことを教へない結果は、忽ち髭男が人の前に出て、緑兒同樣の口のきゝ方をする者を生ずる。全く第二種敬語の人により場合によつて、細かく變るものなることに心づかず、是を絶對の良い言葉の如く思ひ込ませた災ひであつた。一つの國語の斯くまで發達した機能を、殺して傳へるといふことは國語教育でない。(88)しかも此弱點を補強する手段といつてもさう面倒ではなく、つまり私の考へて居るやうなことを、もう少し精確に突留めて、それを誰にもわかる樣に、平易に説明してやればそれでよいのである。
 今一つ章を立てゝ、私が説いて見たいと思つて居たのは、國語を護りはぐゝみ、養ひ育てる働きを、古人は如何にして次から次へ承け繼がせようとして居たかといふ點である。勝手に自分の知つて居る或一つの文學時代を取つて、それを正しい標準ときめてかゝり、其以後を零落退歩と見るやうな考へ方でならば、是にも何等の國語教育が無かつたと答へられるだらうが、我々は望みを今後に囑すると同樣に、以前も亦若干の人爲無しに、よかれ惡しかれ此?態には到達し得難かつたらうと信じて居る。文字が一半の傳達を掌どるやうになつて、語音の差別の或ものは不用に歸したとか、男が漢字ばかり書いて居た爲に、句法の變化が鈍かつたといふやうなことはあつても、とにかく我々の表現は時代と共に綿密になつて居る。少なくとも時代に適した改良は加へられて居る。其中でも單語の新増は、必ずしも新たに追加せられた事物の數に伴なふものだけでない。前からちやんとある物の名も?態も擧動も、一樣に悉く分化して居る。古くからあつた言葉も大部分は改まり、もしくは二つ三つの同義語や類似語を併存して居る。語彙の分量は莫大に増加して、なほ八方から不足を訴へられて居るのである。是が如何なる因縁により、又どういふ人たちの手で爲し遂げられたかは、既に新語論といふ一文の中で之を考へたが、更に又兒童の間に生まれ出た言葉からも、一部の消息は得られさうに思つて居る。前にも述べたやうに、子供が自分たちの狹い仲間だけでこしらへて通用させた言葉でも、他に代りのよいものが無ければ、どし/\と大人の世界に入つて來て、後々は全國の用語にもなつて居る。此點が文字の支配する領域の内と外と、可なり明らかに寛大さの差があつたやうに思はれる。典據といふことを文章ではやかましくいふが、口から耳へと傳はつて居る言葉に於ては、相手に間違ひなく氣特が通ずることを目標にして、寧ろ新たなる發明を奨勵したかと思ふ形跡があるのである。今日地方に行はるゝ方言といふものゝ中にも、誤謬に出發した片言は案外に少なく、惡い趣味にもせよ粗雜なる判斷にもせよ、兎に角に二人以上の合意によつて、さうきめ(89)たものゝ方が遙かに多いのである。合意といふことは大抵は一方の發意にちがひない。さうすればこの大膽とも見える勇氣は、誰に支持せられたかといふ問題にもなるので、私は必ずしも本能の自然の進みとは見ぬのである。後々明らかな證據の擧がるを期して居るが、是と模倣の心理とは裏表を爲して、古くは不可分に盛衰して居たものかと私は思つて居る。如何なる時代にも言語には主從は無く、又封建制も成立つては居なかつた。假に強調して使用を命じたところが、使はぬ氣なら使はずに居られる。まして選擇は隨意だつたとすれば、一方に創造する階級と、他方にそれを模倣するものと、二つに分れた筈はないのである。乃ち眞似を何とも思はずにする者が、同時に折々は考へ出す人であり、たゞ各人の氣質氣分が幾分の偏よりを見せて居ただけで、それが天分といふが如き大袈裟なものでなく、寧ろ小兒とか年寄とかの、心に餘裕があり一事に注意を集め易い者に、委ねられて居た仕事では無かつたかと思ふ。都市と田舍とが對立するやうになつて、始めて流行の方向が出來たのであるが、それでもまだ其中には作者に當る者がなかつた。所謂京童は今ならば與太者に過ぎないのである。遊里と文藝とが結合するに至つて、いやな處に新語の卸問屋が出來た。その?勢が今もまだ續いて居るのは、情ない話と言はなければならぬ。しかも是ばかりでは人生に入用な用語の、全部はおろか半分も供給し得るわけが無い。故に依然として土地毎の言葉造りを、大目に見るといふよりも寧ろ奨勵して居たのである。但し至つて自由な樣に見えても是には勿論幾つかの拘束があり、その法則に副はぬものは黙殺の制裁を受けた。音韻の組織には隱れたる條件があつて、語呂が惡ければ小兒も眞似ない。今の學校のやうに強ひて眞似させる人が居なかつたからである。意味が平易に掬まれず又興味のない言葉も成立せぬ。是には勿論無駄な試みも多かつたらうが、一方又先例によつて指導せられて、大體に定まつた方針に進むことが出來たやうに思ふ。それ故に現在知られて居る新語の數多くを集めて、之を整理し且つ比較をして見れば、それが如何なる場合に要求せられ、又どうすれば其要求に應じ得るかゞ、少しづゝは明らかになつて來て、頗る今後の補給事業に參考になるのである。然るに文字を根據とする國語教育が始まつて以來、新語生成の右の二つの側面は、完全に引分けられてし(90)まつた。たつた一人の著述家が、恣に有りもせぬ言葉を作つて押付けるのみならず、どんな愚劣な又輕薄な單語でも、一たび新聞にでも印刷せられゝば、すぐに流行を始め公認せられ、地方はたゞ模倣專門となつて、たま/\好い言葉が出來かゝつても耳を假す人が無く、方言としてすらも成立つ見込は乏しいのである。しかもその流行の語は壽命が短く、眞似てくり返して意識する迄に、さつぱり不用になつて消えてしまふものも、どれくらゐあるか知れぬのである。是ではいつになつても我々の言葉は、豐富にも若々しくもなる見込が立たない。改革の必要ある所以である。
 今日の急務は、たゞ現在何人かの口に上つて居る言葉の數だけを算へずに、實際多數の國民によくわかり、聽けば解釋を添へずとも直ぐに心に響くもの、即ち覺えた言葉の數を増加することでなければならぬ。是が現實の需要に比べて、遙かに不足であるが爲に、無理な新語も起り、又無思慮なる口眞似も盛んなのである。各人が自ら之を使ふと否とは、個々の場合と入用によることで、用も無いのに一度は使つて見たいといふのは、試驗にはよからうが本當の目的には反して居る。入用は勿論年齡と共に激増する。用に臨んでそれ/”\の適當なる言葉を、供與することも親切な介助であらうが、成らうことなら本人自身をして、自由に我貯藏の中から選擇せしめて見たい。即ち兒童が生まれて間も無くから、學校に入つて來るまでさうであつたやうに、いつでも口で使ふよりも何倍か多くの、貯へを持つて居るやうにする必要があらう。現行の組織では不可能だといふのみで、改良しようと思へば方法は幾らもある。小さな生徒を上級の子供と合せて置いてもよく、又先生が大いに話してやつてもよい。つまり「聽方」といふ課目を大切にすればよいので、それも假設の空な言葉でなく、出來るだけ生きた實際のものを聽かせなければ身にはならぬ。虎の卷が無くては意味も取れぬやうな、なんぼでも解釋を誤り得るやうな書物を教へて居たのでは、恐らく口眞似すらも滿足には出來まい。しかもマナブといふことはたゞ一つの手段である。オボエた言葉でなくては人生には利用し得ない。言葉を人生に役立たせる爲に、我々は國語教育をして居るのだといふことを、全部の當事者が三省して見なければならぬ。
 
(91)  敬語と兒童
 
     一
 
 少年の頃に、播州中部の生まれ在所から、突如として下總利根川べりの農村へ連れて來られた自分は、今考へると可なりかはつた言語經驗をして居る。現在は既に目立たなくなつたであらうが、二地の物言ひには誰でも驚くやうな相異が、幾つでもあの當時にはあつたのである。其中で二つだけ、爰に關係のあることを擧げて見ると、第一には子供の仲間に、サンとかチャンとかいふ敬稱が非常に少ない。他處から新たに來て加入した者、又は言葉に氣をつける商家などの兒だけは別になるが、村に共々に育つた者は、御互ひが皆所謂呼棄てゞ、最初は親類でゝもあるのかと思ふやうであつた。是に伴なふ名詞や動詞に、相手を見ての言ひかへの無いことは勿論である。成年の男女が兒童に對する場合も同樣で、殊に奉公人などの、主人には言葉を改める者までが、主家の子たちへは皆「來い」「行け」で、「おいで」とも謂はぬのが著しく奇怪に感じられた。第二には間接敬語、即ちそこに居り合さぬ第三者の話をする時に、少しも其人の地位を考へて敍説法をかへないので、?誰のことを言つて居るのかを知り難く、まごつく場合があつたことを覺えて居る。「是を先生にやりたい」「旦那が歸つたら見せて下さい」などゝ言はれると、上方ではあゝあれだなと心づく部落があつた位であるが、少なくともこの時代の關東の田舍では、是が通例であつて何人も怪しまず、寧ろ相手によつて言ひ方を變へようとすれば、特別の努力と心構へを必要とし、從つて空々しくも亦耳立つても聞え(92)るのであつた。この心持は、暫らくその空氣の中に居ればすぐに馴れて來る。さうして自分も亦同じ言葉を使はずには居られなかつたと見えて、私たち兄弟の物言ひにも、大分この下總かぶれが認められるやうになつて居るのである。
 この經驗は我々個人の生涯から見れば、可なり重大な出來事には相違ないのだが、實は敬語が今日の樣に、國語教育のむつかしい問題になつて來るまでは、是が言語學上の一つの現象であるといふことを、私はまだ十分に心づいて居なかつたのである。外國には此方面の資料は乏しいから、是だけはこちらで獨力で考へて行くことにしなければならぬのだが、さうなると是ばかりの經驗も粗末には出來ない。さうして是を足掛りとして、なほ幾つかの地方の言語現象を、詳しく比較して見ることは必要で又便利である。私などの目下の假定では、敬語を日本語の持つて生まれた特性の如くいふ説は、澤山の制限を附けてゞ無いと、其まゝには受取れぬものゝやうである。固より國語に其表現の可能性があり、且つかねて高く貴きものに對する用語法の殊別を必要として居なかつたら、今頃この問題を引起す原因も無いのだから、それ迄は日本語の比類無き長處ともいふことが出來るが、たゞ是を擴張してあらゆる事物、國民相互の一切の社交に、必ず尊卑何れかの形をきめることを要するといふのは、最初からの約束とは何としても思はれない。敬語の一般化は今もなほ前進の途次に在り、しかもまだ是まで踏んで來た跡を見かへる折が無く、複雜なる生活事情に搖蕩せられて居る爲に、一方には容易に安全なる標準を示し得ず、又他の一方には土地限りの理由によつて、幾つかの異なる?況を殘留し、一層その統一を無理不自然にするのではないかと思ふ。假にもしこの自分の想像が外れて居らうとも、其經過を丸で不明に付して置いて、國語の改良を説いてもだめなことだけは明らかである。中古以前の文獻に偏した、是までの國語史研究がそれを能くしなかつたのは、單なる不可抗力とは辯疏することが出來ない。方法は別に具はつて居る、といふことを私は説いて見たいのである。
 
(93)     二
 
 敬語が煩瑣になつて行くことを、發達と名づけてよいかどうかにはまだ疑問があるが、爰では其點に觸れることを見合せる。とにかくに其意味に於ける敬語の發達は、土地によつて著しい遲速があつた。全國は決して一樣でなかつたことは、大づかみにも之を認めて居る人が多いであらう。事實を以て證明することもさまでの難事では無い。今までの方言調査は一向に無目的であつたが、たとへば敬語量の多少、單語乃至は句法の種類の數と使用度、又は之に携はる人の數などが、甲乙二地の間にどれだけの差等を示すかといふことは、可なり精密に調べ得るのみで無く、著しい例だけならば今でもやゝ判つて居る。私が知つて居る範圍でも、「ます」「ござります」以前と名づくべき土地が飛び飛びに多い。沖繩の群島は明らかにその一つだか、爰ではチェンバレンの報告がまだ唯一の典據である故に、メスやハベルを根幹とした首里の上流語が全體を代表して、寧ろ敬語が古くから、普通であつた樣な印象を與へて居る。所謂良い言葉として一部には知られて居たにしても、神を祭り公けに仕ふる者以外、どれだけ迄が之を用ゐて居るかは問題であるのみでなく、個々の島々に於てはもう一つ古い形が、現實にまだ行はれて居るのである。たとへば奄美大島では「ある」「あらぬ」が對等の言葉又は仲間の言葉で、目上に向つてはアリヲウル・アリヲウラヌが敬語になる。「ヲウル」は多分「居る」を強めた音であらうが、是が一切をまかなつて居るのである。八重山の諸島などは今一段と簡單である。こゝには若干の敬用名詞代名詞はあるが、敬意を表すべき動詞とては無く、有るをアルユウ、無いをアラヌユウと云へば、もうそれで十分に相手を尊み視る感情は傳はるので、今日我々が是非とも面倒に言はなければ、敬つたことにならぬと思ふのは習慣である。八重山の句尾のユウは、我々の「よ」と同系の語と思ふが確かではない。兎に角に發音の形をきめ用途を制限すれば、是だけでも立派に一役を勤めてくれるのである。東北六縣の廣い區域に亙つて、一句の終りに附けるス又はネスといふ語が、是と同じ役目を持つて、現在も可なりよく活躍して居る。或は(94)土地によつてはシ又はネシとも聽えるが、何れにしても起りは「申す」であつたらしいことは、時あつてムシともンスとも謂ひ、又時としてマスとさへいふ者があるのからも推測せられる。このマスは標準語のありますなどのマスと、形は似て居るが全く別のもので、たとへば、
  おれ行くとこァどこだべマス=私の行く所はどこでせうか(岩手縣中部)
のやうに、普通對等の文句にそれだけを添加することはネス・スと同じく、又八重山のアラヌユウなどのユウもよく似て居る。ンスを添加する例は「秋田方言」の中に多く見られる。
  えッたんす=行きました(平鹿)
  やめてもえやんす=止めてもようございます(鹿角)
 この後の例では、舊江戸語の「行きやんす」などが聯想せられるが、東北の方のは全くンスと繋ぐ爲の音便であつて、ヤンスといふ助動詞は無いのである。
 
     三
 
 敬語の地方差はこの他に今一つのものがある。右の南北の二例では、極度に單純だといふばかりで、とにかく有ることは確かに有り、又相應に繁く使用せられて居る。之に對しては別になほ一種、殆と「ござる」「あります」の存在を忘れたのかと思はれる地方が、少なくも元はたしかに有つた。私が五十年前に吃驚した下總の一隅では、それでもまだ小兒と是を相手とする者との群だけに限られ、たゞ其場に居り合さぬ第三者に就いてのみ、成人も之を無視するといふ迄であつたが、稀にはまだずつと此程度を超えた例がある。地域では無いが學校の生活、こゝだけには敬語が甚だしく不人望で、今でも純然たる仲間の言葉が行はれ、人によつてはそれが世の中へ出るまでも續いて居る。行儀作法を好いことゝ心得て居りながら、一方には又ひどく他人行儀といふことを憎む階級が、社會の中堅にも居るのだ(95)から、この問題はむつかしいわけである。しかし解決の鍵もやはり茲に在ると私などは狙つて居る。だから最初に先づ是と地方の敬語使用圏の消長とを比較して見る必要をも感ずるのである。文學は大體に敬語使用者の記録と謂つてもよいのであるが、それでもまだ其中には京と江戸との、可なり際立つた地方差が見られる。是も若い頃の自分の經驗であるが、江戸はあれほど迄二本差した人に對して、遠慮した物の言ひ方をする土地柄であつたに拘らず、仲間同士の會話は所謂ぞんざい〔四字傍点〕でいかつい〔四字傍点〕ものだつた。殊に中分以下の婦人などは、男に對しても別に女言葉も使はず、平氣で行くか來るかどうするのだなどゝ言つて居たことは、近世の中本類にもよく描寫せられて居る。湛念な學者だつたら例は何百でも竝べてくれるであらう。それが明治に入つて程も無く影を潜めたのは、隣近所へ雜多の他處者が入つて來て住んだからで、つまり敬語を必要としなかつた「仲間」が、崩壞してしまつたのである。學校でも中央の出入の多いものでは、ほんの目禮ぐらゐで話をする折も少なく、所謂他人行儀が普通になつて、もう坪内さんの書生氣質のやうな、特色の多い書生言葉も亡びかゝつて居る。この二つの經過には似通うたものがあるかと私には思はれる。敬語をよい言葉と呼ぶ名に絆されて居たけれども、之を使はずともよい間柄の減少することは、考へて見ると必ずしも幸福とは言へなかつた。
 少なくとも以前は互ひに敬語を交さず、私たちが斯ういふ文章で書くやうな、又外國語で見るやうな平常の言葉で、意思を通じて居た人及び場合が、今よりもずつと多かつたことは確かである。それが現在の所謂丁寧な言葉に、改まつて來たのは最近である故に、人で言ふならば少年とか學生とか、勞働の團體とかゞ後に殘り、婦人とか客商賣の者とかゞ、一足先へ進んでしまつたのである。土地を目標にして見て行つても、まだ/\意外な方面に敬語の使用の著しく尠い小社會が殘つて居る。過渡期に生まれ合せた我々學徒の、是が誠に大きな仕合せで、是あればこそ始めて今までの經過を認識し、それを參考にして殘りの未決を、出來るだけ國民に都合のよいやうに、解決することも望み得られるのである。一概にそれを下品と評したり、又は人物粗野などゝ報告したりすることは、手短に申せば因習のし(96)もべであつた。又歴史を正しく視ることの出來ぬ者の、あはれなる現?推持説であつた。
 
     四
 
 國語政策の爲にする方言調査は、今はその一つの目標を斯ういふ方面に置くべき時代である。といふわけは、敬語の土地毎の特徴が、ラジオ其他の影響で追々に薄くなり、資料は急激に減少しかゝつて居るからである。其採集の方法の立つまでの間、假に自分のやゝ新しい經驗を追加して置くが、斯ういふ意味で例に引くのだから、腹を立てる人は多分あるまい。鹿兒島があれほど懸離れた單語と語法とを持ちながら、その敬語の多種複雜と普及の度にかけては、優に千年の古都と匹敵するのとは反對に、中央に近い市街地でも、案外にまだ敬語の使用の盛んでない處がある。信州松本なども其一つで、是は主として舊士族の側のことらしいが、惡い言葉だといふ評を一度ならず聽いたことがある。この惡いといふのは語音が濁つて居るといふのでも無く、又誤まつた語法が多いといふのでも無く、單に人によつて物の言ひ方に變化が少なく、「さうか」「行くのか」といふ類の句を他人にも謂ひ、又は女たちまでが男らしい口をきくことださうで、つまりは他よりも差別の必要を、認めるの念が淡かつたといふに過ぎぬのである。敬語の知識が乏しかつたのでは無論無い。斯ういふ人たちが神とか主君とか、又は改まつた賓客とかに對して、稀に思はずに使役する敬語といふものが、如何に爽快であり且つ印象の深いものであつたらうかを、寧ろ私などは考へずには居られないのである。近世の多くの敬語は、餘り頻繁なる連用によつて大抵は力が弱り、せん方無しに又新しいものを作つては、古いのを下積みにし且つ濫費して居る。オマヘといふ語が或處では最上級の敬語であり、又他の處では下人に向つてしか用ゐないといふ類の不愉快な衝突は、世間が信州松本であつたら、起りつこは無いのであつた。
 それから今一つ是も信州だが、上伊那郡の俗に箕輪地方といふ天龍川の上流は、是こそ確かに「ます」を認めなかつた土地と言ひ得る。誰に物を問はれても「さうだ」「行つた」で、會話は一般に斯ういふものだと、教養ある者まで(97)が思つて居たらしい形跡がある。小學校の效果と外部社會の壓迫と、爰では何れが先に變化をかち得るか。實驗の興味の最も多い地域であるが、少なくともつい近い頃まで、どんな旅人でもこの特徴の殘りを、感ぜずには過ぎることが出來なかつた。さうして此特徴には有力な一つの由來があつたらしい。久しくこの附近に住んだ或老人の説明であるが、私も今はほゞ之を信じて居る。箕輪には昔から、箕輪衆といふ小さな地士が多數に住んで居て、頭を押へ付ける殿樣といふものゝ怖しさをあまり知らない。それであの通り折屈みが下手で、見たところ人づきが荒いのだといふことであつたが、もしさうだつたら懷かしい無形の記念物といふべきである。武藏の兒玉・私の黨を始めとして、斯ういふ小土豪の群立した土地は關東にも多いが、大抵は一度は鐵火の洗禮を受け、それから更に大名制の鑄型に嵌められて、やたらに御辭儀をする禮儀作法を、習得せずにはすまぬ者が多かつたのである。幾ら五町三町の小地頭でも自分の下人はあらうから、それには又威張つたことであらうが、言葉を新設するまでの餘裕も無く、自分が第一仲間同士、敬語を使はぬ話をして居たから、如在ない者にも眞似て見よう手本が無かつたのである。敬語はたゞ單に時の進みに伴なうて、今日の如き發達を見たのでは無いらしい。是には人口の増加と社交の錯綜、即ち目前に多くの異郷人が、出現したことも新たなる原因ではあり、それよりも大きな別種の變化は、敬語と上品なる生活との混同、よい生活をする人がすべて敬語を使用する階級なるが故に、せめて是だけでも模倣をして見ようとして、格別必要もない區域にまで、之を擴張し姶めたのが繁雜のもとであつた。兒童が最も遲くまで其風に染まなかつたのは、箕輪衆と同樣のうれしい素朴である。いよ/\その兒童に敬語の教育を強ひんとするならば、少なくとも豫め敬語の歴史を明白にして置くことが、文政の局に當る人々の必須の義務だと私は信じて居る。
 
     五
 
 禮儀作法の全集までが出る世の中にはなつたが、その所謂伊勢流小笠原流が、どうして出現したかを考へて見よう(98)とする者は、恐らくはまだ無いのである。この二流の元祖は何れも皆室町幕府の胥吏であり、さうして又田舍者であつた。別に上代以來の傳統を主張したわけでは無く、方式はすべて時代に即した發明であつて、しかも此時代には大きな生活ぶりの變化があつたのである。京都の記録を見ても、可なりはつきりと此變化が看取せられる。御成《おなり》などゝ謂つてやたらに臣下の家に來て遊ぶ風習、是は鎌倉にも有つたが此期に入つて完成した。固より政治の關係もあつて、すぐに格式にも先例にもなり、又釣合ひ上一箇處だけですませるわけにも行かない。最初は關東で今もオウバンといふやうな、一門眷屬の正月の共同飲食であつたらうが、後には戰爭に次ぐ位の大事件になつてしまつた。狂言記に出て來る八幡大名の類までが、各分際に應じて家來の家を騷がせ、且つ又相互ひの參會も段々と多くなつた。進退應對の技藝の此際を以て、大いに發達したことは想像に難くないのである。さういふ中でも同列の間、尊でも卑でも無い者の往來が、自由といふ以上に流行して來たことも、この餘勢即ち相伴制度の延長と解せられる。會て世相篇の中にも此點だけは説いたが、座敷と稱する現在の建築と設備、及びまだ適當な日本語も持たぬやうな、中途半ぱな今日の坐り方の、新たに始まつたのも此事情からであつた。獨り言語のみが何等の影響を受けずに、居られたわけはないのである。同輩には元來敬語の入用は有り得ない。敬語はそれから區別せられてこそ、始めて印象も深く價値も大きかつたのである。中世初期に於ても、鋭敏なる感覺をもつた男女の上臈は、事實如何に拘らず人を同輩と見ることを憚り、もしくは多くの他人が尊敬するといふ事實を重んじて、幾分目下の者にも敬語を惜まなかつた實例は少しあるが、單に相互といふだけの條件の下に、仲間に敬語を使ひ出したのは、まさしくこの訪問流行の時代が始めだつたのである。敬語本來の目途に引當てゝ見ると、是は殆と類推とも言はれないほどの大擴張であつた。以前は多分敬語を口にする者だけで無く、周圍に在る者も人の敬語を聽いて、身が引締まるやうであつたらうと思ふのに、後々は却つて是が通常となり、それを略した場合が却つて耳立つて感ぜられるやうになつて居る。敬語の種類の非常な増加、言葉の頻繁なる使用に伴なふ古びと印象の鈍り、それを補はねばならぬ新しい表現の續出などは、すべて原因を爰にも(99)つて居るかと思ふ。それよりも大きな變化は、眞の敬意が心の中に動くと否とを問はず、是を良い言葉又は上品なる言葉として、使用を強ひ省略を責める氣風の起つたこと、しかも其用語が從來の至つて限られたる目的に供せられたものと、何等のけぢめも無く共通になつて居ることである。例は幾らもあるが村の舊家、神職その他の格式のある家々は、昔ながらに何々どんと呼ばれるものが多いのに、ちやうど其隣へもつて來て長どんも居りお三どんも居る。「先生というて灰吹棄てさせる」。それはまだ形式ばかりでも敬語であつたが、今では更にあのやつといふ意味に、「先生よわつて居るらしい」などゝいふ場合が多くなつた。是を聽いては流石に閉口せざるを得ない先生方も、おはしますことゝ思ふ。考へ深い人たちならば、もう是だけでも我々の國語の、隱れた大きな歴史の絲口を見出すことが出來る。演説や書簡などの計畫あるものならば兎に角、人は日常の言葉に意識して空々しいことが言へるものでは無い。それをしようと思へばよほど又技巧がいる。つまり先生だの「どん」だのといふ單語に、既に敬語でも何でもない内容が生まれて居るのである。最初同輩以下に對しても之を適用した際には、まだ敬ふ意しか無かつたであらうが、後々いつの間にか別の意味に、時としては輕しめる意味にさへ交替して居るのである。それを古風な用途と共用して、一方を忌避しなかつたのは不注意と評してもよい。ましてや一囘毎に聽手をして自ら諒解せしめ、甚だしきはその斟酌も出來ないで、内心不快の感を抱くまゝにして置くなどは、實は親切なる指導者の態度でも無かつたのである。殊に是まで正しい意味の敬語の、必要が少ない生活をして居た子供たち、もしくは形ばかりの敬語を愛好して居る女たちに、斯んな?態のまゝの國語のよい言葉を、傳授しようとして居たのだとすれば、其結果の不幸であるのは當り前のやうに思はれる。
 
     六
 
 地方の敬語が今でもまだ甚だしく區々であるのは、私たちには寧ろ興味の深い史料として受取れる。或土地の物言(100)ひが粗野だと報告せられて居るのは、この中世以後の社交用敬語が、未だ必要を認められぬか、もしくは感化模倣の機會を與へられなかつたかの何れかであつて、必ずしもこゝに最初から、敬語の乏しく又は其使用の少なかつたことを、推測する根據にはならぬと思ふ。だから斯ういふ土地に就いて、神樣を何と言つて拜んで居るか、もしくは貴い御方々を、何と言つて御噂申上げるか、さうして又何故にそれを一般の上には及ぼさうとせぬかを進んで尋ねて見ることが、遙かに意義の多い國語運動の一つであつた。そんなたゞの人に敬ふ言葉が使へるものかと答へる者がもしあつたとすれば、其方がたしかに我々よりも率直なのである。實際毎日用ゐて居る我々の敬語は、其用途が餘りにも汎きに失する。それで呼びかけられる同輩は滿足するであらうが、一方昔からの尊び敬ふべき場合に對しては、誰でも特別の不足を感ぜずには居られぬのである。古人の心有る者は其混同を憚つて、やたらに繁瑣なる敬語の階段を設けて居た。それさへ守つて居ればこの良心は安まるが、常民には到底その全部を學び得られず、現に又近頃になつて、それを出來る限り節約しようといふ傾向も見られる。さうすると結局は、この所謂良い言葉を普及させようとする教育は、再び又八重山諸島などの古風に立戻つて、僅かな語音の添附や抑揚によつて、最も大切なる感覺だけを表示することにでもしなければならぬかも知れぬ、まことに無駄な二重の骨折のやうに私には氣づかはれる。
 敬語の效果を十分に發揮するが爲には、今日は寧ろ其使用を限定しなければならぬ時代ではあるまいか。少なくとも我々の無用無意味なる「敬語の如きもの」を停止して、内部の感覺の淀みなく、表出せられる道を講ずる方が急務ではなからうか。現在の多くの殘留にも、起りには相當の根據があつたのであらうが、今となつては民俗學の力でも、それをはつきりと知り難いものが多い。大體に所謂心安い仲では、よほどの眞似助でも無い限り、成人も敬語を使はぬやうに元はして居た。ところが外から來る者の氣心を知り難く、改まつた心持で接しなければならぬものになると、高下には拘らずよい言葉を使ふやうに、關西の人たちは既にしつけられて居る。中部以東には全く無いことだが、桶屋をイヒダドンと謂ひ、紺屋にはクヤドンといふ方言は、町場よりも却つて村方に多い。是等の職業の人々が旅の者(101)であつた時代がわかつて私には面白いが、さう謂ひ始めた動機は必ずしも尊敬とは言へないやうである。九州北部などでもつと變つて居るのは、昔話に限つて猿もサッドン、蟹もガネドンで、「居らした」「來らしたげな」などゝ敬語で其噂をして居る。土地の人に聽いてもたしかな説明は無いが、是は彼等を人がましく取扱はうといふ以上に、決して自分等の仲間ではないこと、即ち他人行儀を明示する一方法であつたらしい。此意圖に出でた所謂敬語は、大よそ尊敬の趣旨とは隔絶したもので、是を又評論や談判の力に利用することも、今なほ珍しくない現象である。親や兄姉にあなたなどゝ言はれる場合は、大抵ひどい小言を食ふ前ぶれときまつて居る。私が瑞西の旅宿で見た英國の老婦人などは、たつた小犬と二人暮しであつたが、何か惡戯をして叱る場合だけ、その小犬に向つて Sir と謂つて居た。相手がそれを聽いてしよげる樣子が、私にはをかしかつた。實際獨佛の同種單語とはちがつて、 sir は奉公人や店番以外の者が使ふのは、斯ういふ機嫌の惡い場合が多いやうである。
 
     七
 
 樣は上代には全く見られない、新たな敬稱であることは誰も知つて居るが、今日はそれが殿よりもなほ上等な、特に大切な呼び方となつて居て、しかも飛んでもないものに迄適用せられて居る。此點にかけても關西は幾分か行き過ぎ、豆さんだのお芋さんだのいふ語の都鄙に及んで居るのには喫驚する。盆さま正月樣や二十三夜樣の類は、此日祭らるゝ神があることを考へると理由もほゞわかり、爐の鉤をかぎ樣、竈をおくどさんといふなども、現にまだ拜んで居る者が少しはあるのだし、粥をおかいさん繪をえゝさんなどゝいふのも、今は理由が無いがさう謂ひ始めた起りだけは察せられる。豆芋に至つては全く見當もつかぬ話だが、少なくとも濫用の最も烈しかつた時代の産物であることと、是が主として少年少女を、間接の聽手として居た造語であることは察せられる。敬語は要するに其擴張によつて、少なからず效果を低め且つ印象を散漫にして居るのである。新たに兒童に對して其使用を慫慂せんとする人々は、是(102)非とも思ひを此點に潜めて、國民の言葉を空々しいものにせぬ樣に警戒しなければならぬ。
 それから今一つ、是も私たちの聞き遁がせない近世風は、關東の田舍者が相手の身うちや尊敬して居る者に就いて、盛んに平語を使用して意とせぬのとは正反對に、上方へ行くと相應の教育ある婦人までが、我親我亭主への敬語を人に聽かせる。「うちのおかあはんが斯う言ひやはります」などは、新嫁の姑に對する心づかひとも同情せられるが、それにしたところが滿足なる辭令とは聽取れない。以前は此點についても若干の工夫がめぐらされて居た。たとへば相手を心安い、言はゞ敬語を用ゐずともよい位の人々に限り、しかも幾つかある敬語の最下級のものを、つゝましやかに使つて居たやうで、此例ならば近松の淨瑠璃、或はもつと以前の文獻からも拾ひ出されるかと思ふ。今日の間接敬語の如きは、どうやら其見堺ひが無くなつて居るのである。さうして奇拔なことに今日の小學校の國語教育が、全然この上方の自尊主義を支持し、もしくは踏襲して居るのである。御蔭で口髭のある堂々たる男の中に、さういふ甘つたるいことをいふ者が大分出來た。
 右の間接敬語は外國人などに、理解の最もむつかしいもので、下手に教育すれば兒童なども大抵はまちがへる。其上に一國全體の方針も、今は少しづゝ變つて行かうとして居る際だから、地方によつて區々になるのも致し方は無いやうなものだが、それにしても混亂が少しくひどすぎる。私は是もやはり間接敬語の使用が、過當に廣汎になつた餘弊だと思つて居る。人と相對して物を言つて居る間に、自然に話頭に上つて來る事物のうちを、我々は自他と中間との三つに區分して考へて居る。自他雙方に共に縁の無いものは平語を以て敍述し、其うち特に共同で尊み敬ふべきものには敬語を使ふ。是は昔からの仕來りのまゝで問題の無い所である。次に相手の身にゆかりのあるものは、苟くも敬語を使ふからにはすべて敬つて言ふこと、是はさうしないと折角の敬語がむだになるのだが、東日本の人たちは稀々ならずそれを取りはづすこと前に述べた如くである。第三に自分の側に屬する事物は、たゞでもよいのだが特に卑下して言はぬと高ぶつて居ると取られると感じて、わざと愚見だの荊妻だのと、惡口に近い語を使つて敬語の效果(103)を補はうとするのが、禮儀正しいといふ人の物言ひであつた。それは支那式で餘計なことゝは思ふが、上方の女房衆と小學讀本の教育に至つては、ちやうど是をあべこべに敬語で言はうとして居るのである。同じくよい言葉といふ中でも、この二色の東西の相異は可なり大きい。是も私などが學生中の經驗だが、あの頃の東京の細君は人に向つて、頻りに我主人の名を呼棄てにすることを手柄のやうにして居た。是も前代の小説類にはある例で、どこかの武家階級で之をやつて居たのを好いことゝ心得、上役筋などに向つて我夫の名を呼棄てるのを御馳走にしたのでもあらうが、後は癖になつて誰にでもそれをやる夫人が出現し、それも亦可なり聽苦しいものであつた。以前は日本では男子の名は忌言葉で、他人にも口にさせまいが爲に、通稱といふものが設けられて居たのである。喜兵衛が居りませぬのでとか、主人三河守が斯樣に申しましたとか、謂つて居るうちはまだよかつた。實名の二字の名乘を表に出して居る者が、それをやたらに呼ばれては堪つたもので無い。此點などはたしかに關西方面の、うちの旦那はんがといふのよりはもつとまづい趣味であつた。今日はそれが殆とすたれて、やはり呼棄てゞはあるが苗字をいふやうになつて居る。さうしてまだ女房が我亭主を樣づけなどにして人に語るのを聽くと、東京ではくす/\と笑ふのである。
 
     八
 
 現行の國語教育が續く限り、少なくとも敬語についてはこの笑ひ合ひを無くすることは出來さうに無い。是ほど嚴肅な又由緒のある敬語といふ言語現象を、毎度口眞似や嘲りの話題とすることは、何と考へても忍び難いことであるが、とにかくに現在の紛亂した?態を以て、國語固有の姿の如く解し、是を改めることが敬の道コを批判することにでもなるかの如く、畏れ慎しんで居る人ばかり多くては、何分にも始末が惡い。斯ういふ人たちに告げたいことは、敬語は現代に入つてからでも、自然にはどし/\と變化して居る。ちやうど亭主の實名を呼棄てにする風習が、試みられて久しからずして又流行しなくなつたやうに、元は使に行く下人が我主人をいやしめて言ふのが慣例であつたの(104)が、今ではもうそんなことは許されなくならうとして居る。幾ら文章の綾でも我邦を弊邦といひ寡君といふ者はもう無くなつた。愚妻豚兒の類も假に使用しても誰も感心しない。さうして階段の無數にあつたあがめ言葉が、今はやゝ不安を感ずるほども單簡になつてしまつたのである。此際に臨んで、是まで平語の生活に親しんで居た兒童たちに、わざ/\複雜な間違ひやすい敬語を、教へ込む必要がどこに在らうか。彼等は世に立つて社交を圓滑にし、乃至品位を維持するの策を講ずべき年齡にはまだ達して居ない。國家神祇の仰ぎ尊むべきもの、親や長上に對して心の底の敬意を、表示すべき言葉は恐らくは既に持つて居るであらう。それをもし使はなかつたら是こそは倫理の問題である。一方には又欲して言ひ現はすことが出來ないといふ感情があつて、そこに始めて言ひ方の教授が用をなすのである。是といふ目あても無しに漠然と、言ひますありました等のよい言葉を使はせて、彼等本有の自由な生活の言葉と相剋させようとするのは、寔に無益なる能力の銷磨だと思ふ。
 私の話はまことにくだ/\しかつたが、結論として言ふことは簡單である。敬語は中世以後やゝ不必要に用途が擴張せられ、又幾分か安賣に過ぎて居る。頻繁なる使用によつて言葉のきゝ目が鈍り、次から次と新しい單語がさし替へられ、從つて地方毎の變化が格別に區々となつて、爲に却つて交通の累ひをなして居る。現在は我人その不便不安を散ぜんが爲に、言はず語らずのうちに出來るだけ、其種類と段階とを省略せんとする傾向を示して居る。國が大きな再統一を爲し遂げたと同樣に、或は單純にして且つ嚴肅なる以前の限定使用に立戻る見込さへあるのである。斯ういふ時代に在つて、今まで折角平語對等の言葉使ひを許されて來た兒童の群に、わざ/\煩雜にして誤り易い敬語の一般的使用を、強制するのはどんなものかといふのである。是が先例どほりの踏襲であつてさへも、なほ無益なことのやうに考へられる。ましてや新たにどこにも無いやうな言ひ方まで、こしらへて押付けるといふに至つては、果して權能の濫用で無いかどうかを危ぶまざるを得ないのである。
 現在の口語體の文章の二つの樣式と、敬語との關係は重要な問題だが、爰で此序を以て説き盡すことは出來ない。(105)單に私たちの取つて居る態度だけを明らかにすると、所謂「であります」式の文體の入用なのは、候文廢止以後の書?だけでよからうと思ふ。演説や放送は相手が不定であり、又高ぶると思はれては效果の上に不利だから、まだ當分のうちは社交語を借りて、ことによると「ござります」とも言はなければなるまい。從つて其筆記が其まゝ文章になれば、是だけは已むを得ないが、それすらも成るべく印刷の際に、私などは書改めようとして居る。其他の文章に至つてはもう敬語を挾まずとも、失禮とは認められない世の中になつて居るのである。それを今更小兒だけにさう書かせ、又はさう讀ませようといふのは甚だ合點が行かぬ。是は多分先生といふ目上の人に、謹んで物を申す形を取らせようといふのであらう。もしさうだつたら、「うちの御母さんが御かへりになりました」といふ類の讀本の文章は、明白に敬語の今までの法則に反して居る。長者の前で我身の側に屬する者に、樣を附けて話をする樣な者は、小學校以外にはどこを捜しても有りはしない。果して其樣な新方式を創立するつもりで、意識して斯んな文章を書かせ、をかしなことを言はせて居るのであらうか。實際のところ、もう少しよく物を考へてから、此仕事には取掛つて實ひたかつた。
 
(106)  方言の成立
 
     一
 
 標準語と呼ばるゝ甲の土地の日本語と、方言といふ乙丙丁の土地の日本語とが、それ/”\別々の法則に導かれて、現在の?態に到達してゞも居るかのやうに思つて居る人が、名だゝる國語學の先生の中にも有るらしいことは、意外でもあれば又困つたことでもあるが、それはいつ迄も方言といふものが、どうして此樣に顯著になつて來たかを、疑ひ尋ねようとする者が無かつた結果である。今日までの方言採集事業には、洩れたる地方がなほ多く、其方法も亦決して完全とは言はれないが、假に一部には不安心な點があらうとも、兎に角資料も是くらゐ豐富になつた上は、もうそろ/\此問題を考へ始めてもよい時期である。無謀なる斷定を下してさへ置かなければ、意見の提出は寧ろ爾後の資料に對する關心を深くする。多くの方言採集なるものが散漫を極め、又我土地一つの報告のみを以て自得して居るやに見えるのも、恐らくは中心に問題を持つて居らぬからであらう。是では學業の美果を結ぶ日が遠いのは勿論、ありふれた俗間の誤つた想像を防ぐことすらも出來ぬのである。當代の國語專攻者たちは、十分に勤勉であり又多忙でもある。方言の研究まではとても手が廻らぬといふのも尤もであるが、一方が斯ういふ?態に在る限りは、やはり自分の方からもう少し進んで、この亂雜なる調査を整理し、又其結果を利用するやうにしなければ、結局は損をしてしまふのは御自分たちであらう。だから此際何かごく大づかみに、方言が如何なる過去を談り、又未來に向つてどうい(107)ふ參考資料を提供して居るかを、解説するものがあると便利だと思ふ。私にそれが出來るか否かは少しばかり心もとないが、先づ一つ試みて見よう。
 
     二
 
 國語がどんなことをしても、時と共に變化せずには居らぬものだといふこと、是は我々の至つて平凡なる經驗であるが、外國人は致し方が無いとしても、國内にもまだ確實に之を認めてかゝらぬ人が若干はあつて、寧ろさういふ人たちが多く國語の研究に携はり、それが又古文を偏重する一つの力ともなつて居る。素より大本には永古不變のものが、儼然として一貫して居ることは、我々も信ぜんと欲するのであるが、果してどの點とどの部分とがそれであるかは、實はまだ誰にも指示することが出來ぬのである。久しい歳月に亙つた變化の種々相を取片付けて、跡に殘つたものが即ちそれなのだから、今は判らぬのが當り前とも言ひ得る。古語は多くの場合には古い頃の新語であつた。それが近頃の新語と同じく、程無く又廢れて第二第三の變化と、入り替つて居る例は幾らでも拾ひ出される。必ずしも國語を或時代の舊態に引戻さうといふ趣意でも無しに、單にたま/\一二の文獻に保存せられて居たといふ理由だけで、之を正しいものとして暗記させたがるといふことは、少なくとも近世の變化を無視しようといふ態度に見える。活きた日本語を體得せしむべき人々に對して、是がもし消化の妨げになつて居るとすれば、たゞ歎息して看過して居るわけにも行くまいと思ふ。
 さういふ中でも方言は變化の特に顯著にして、しかも亦最も自然なものであつた。概ね何人の促迫にも基かず、土地に集まり住む者の心の進み、乃至は時々の必要に應じて、各自殆と無意識に採用して居るものが多い。國の共同生活の新たなる計畫に伴なうて、標準語化といふ更に今一囘の變化を重ねさせなければならぬとなれば、この場合こそは寧ろ内外の兩側から、どうして斯ういふ在來の言葉が出來て居たのかを、精しく考へて見るべき機會である。之を(108)怠つていゝ加減な説明や對譯に準據して居ると、今度はやゝ發見しにくい異義同語を、再び方言として作り出す危險が多いからである。所謂標準語の中にも、言葉はほゞ古い形の通りで、意義だけの移り動いて居るものが相應にあるが、是は關係者が多いので夙に注意せられ、又今からでも證明することが難くない。限られたる地域の特殊な用語が、もしも誤つた新語に置き換へられ、又半分でも喰ひちがひのあるものに改めさせられたとすると、先づ難澁をするのは土地の者で、結局はどうしても一般の意味に附いて行く故に、乃ち元からあつた言葉は、失ひ切りといふことにもなるのである。外部の指令に由つて匡正せられるに際して、特に方言の成立は明らかにして置く必要が大きい。是をたゞ單に己に異なるものを輕しめ、又は總括して田舍ではまちがつて居るときめて掛かる樣な冷淡なる人々に、この仕事を委ねて置くときはよいものをも惡くする。然るに世にはまだ方言變化の理法に、所謂國語の現代化を支配するものと、異なる何ものかゞ有るかの如く、説かうとした人もあるのである。そんな二通りのものが有らう筈が無いことを、證明することは私にも出來る。それを二三の例に由つて説いて見たいのが此一文の目的だが、もつと手輕なところでも、今日の東京の中流語なるものゝ中には、前代江戸人の使つて居たものが最も多く傳はり、更に其背後には四近と共通したもとの武藏野の方言が、なほちら/\と影を見せて居る。是が頻々と文藝に採録せられ、もしくは模倣者を誘致したのは、何れも流行の末勢に過ぎない。所謂洗練は寧ろ其排除であり制限であつて、個々の變化の發端に在つては、少しでも他の小地域の方言と、異なる事情を伴なうては居らぬのである。
 
     三
 
 もう一つの肝要なる觀點も亦往々にして看過せられて居る。以前の不十分なる交通?態の下に於て、國語を本然の發育にまかせて置けば、時と共に其奔逸が遙かになり、甲乙の土地の間の相異が甚だしくなるのは、我々にはちつとも意外な結果でない。從つて今は證跡が幽かにしか殘らぬが、もと/\方言の現象は前には少なく、後世になつて段(109)々と増加して來たことは想像せられるのである。當代では強力なる統一手段が講ぜられ、一方都府中心の文化が力説せられた爲に、勿論方言は量に於てうんと減退したが、この僅かに五十年間の實?によつて、昔を推さうとするのは論理の誤りである。國内移民の永い歴史を考へ合せると、寧ろ曾ては地を異にして、全く同じ物言ひをして居た時代も想像せられる。少なくと三世五世の子孫までは、今でも何處から來たかを言葉によつて、尋ね究められる例は稀でないのである。然るに是が時々は通辯を要する程度に、互ひにちがつたものに化してしまつたといふのは、其原因が比較的新しい時代に起り、それが又次々積重ねられて入り組んで居るものと見なければならぬ。實際又多數の單語や句法には、それ自身に後々の發生であることを、談つて居るものが極めて多いのである。國語の地方性といふやうな言葉を、私なども或は用ゐて居るかも知れぬが、是は誤解を防ぐべくよつぽど用心をしなければならぬ。言語の癖が土質や草木のやうに、かねて土地に附いて人の來るのを待つて居た氣遣ひが無いからである。人より他には言葉をいひかへ使ひ分ける者が有り得ないとすれば、この變化は最初の住民が住みついて後のもの、寧ろ以前の仲間と隔離して居たことが、其原因であつたと見なければならぬからである。方言區域の存在を主張する人々は、目下なほその事實の存在を確認するに急で、どうしてさうあるかの解説を後まはしとして居るが、或はこの國語變化の傾向を、私等とは逆に推測して居るのではあるまいか。もしも前代に溯つて行くほどづゝ、國語の地方差が甚だしかつたものとすれば、何の事は無い我々は異種族といふことに歸するのである。稀にも立證することの出來ない原住民の永續と、且つその大きな感化力とを前提とし、そこへ入つて行くほどの者は、片端から其言葉にかぶれるとでも想像しなければ、東西南北の地域別に、言語が昔から對立して居たものと、いふことは出來ない筈である。
 但しこの「昔から」といふ一語を取去つて、今見る方言の地方性は、近世に入つてから一段と濃厚になつたといふならば、話は又全く別のものになる。個々の盆地の小社會が、思ひ/\の國語改良をしようとするに際して、遠い地方の事實は參考に供せられ難く、比較的交通の多い隣接の地方が、何かといふと影響を與へ合つて、こゝに無意識の(110)申合せの如きものが、成立つといふことは又自然である。だからどんなに太い堺線を引かうとしても、其線の兩側は隨分とよく似て居り、爰ではたゞ若干の互ひにさうは言はないと、知つて居る言葉が拾ひ出せるだけである。是と同時に雙方の端と端とを比べて見ると、無論明白なる差別の、一日の旅人にも心づくものがあるので、是は區域と言はんよりも寧ろ距離である。この距離は素より地圖紙面の長さでは無い。山嶺海洋は平地の歩道よりも、又何層倍かの疎隔となつて、とにかくに文化の中央から離れて居るといふことが、言葉をちがはせて居るのである。京都には素より偉大なる感化力があつて、是に追隨することが國語の改良の主たるものであつたことは、昔も今日と異なる所は無いのだが、以前はたゞその土地毎の能不能に、著しい差等があつたのである。都市の影響の僅かしか及び得ない區域ほど、獨自の變化が多く起つて居ることは推測することも出來るし、實際又多くの人が經驗して居る。しかも京畿よりも更に縁の遠い、互ひに有りとも知らぬやうな南北の果、もしくは佐渡と八丈といふが如き二つの海の島ならば、いよ/\以て似ても似つかぬものに、なつてしまつて居ても已むを得ないわけであるが、此間には却つて時々の共通が見つかつて居るのである。是は方言の沿革を明らかにする上に於て、何よりも重要なる史料だと私などは思つて居るのだが、區域の説をなす者はまだ之を不問に付して居る。
 
     四
 
 地方の比較的交通に惠まれたものが、多かれ少なかれ標準語の影響を受けて居るといふことは、取りもなほさずその標準語が、方言と同じ方向に、しかも一歩先に、變化して居ることを意味する。古辭を尊重する氣風は京師には最も強く、文籍は常に之を固定して居るのであるが、しかも一方口言葉の上に、新しいものゝ生まれる必要も、爰は田舍よりも遙かに多かつたやうに思はれる。新奇の事物の輸入せられたものに、名が無くてはすまなかつたことは誰も想像し得るが、なほ其以外に草でも木でも、乃至行爲でも感覺でも、今まで一つの單語で總稱して居たものを、二つ(111)以上に分けて考へ、又は人に談らなければならぬやうに、姶めて氣づく者は都市人の方に多かつたからである。其上に今一つ、有りふれた表現の古臭さに倦んで、何か耳にとまるやうなよい言葉を使つて見たいといふ氣持も、町の人が餘分に抱いて居たことは、記録にも?例があつて、必ずしも當世ばかりの特徴では無かつた。或は集合生活に於ける頻繁なる使用が、言葉の切れ味とでもいふべきものを鈍くするので、折々新たなものと取替へる必要があつた故かとも私などは想像して居る。文章の用語がいつと無く是を採上げたと同じに、地方も環境の許す限り、やゝ時おくれて是に追隨して居るのである。聽き知つて居りながら別の變化を企てるといふことは、所謂方言匡正の時代で無くとも、昔から地方人はして居ないのである。たゞ其必要を感ずることが、一般に都市よりも遲いことゝ、次には愈必要を感ずるに至つて、交通の制限からよその先例を參考にすることが出來ず、各自獨立の變化を試みなければならぬ場合が起つた爲に、地方の言葉は時と共に、互ひの差が著しくなつて來たらしいのである。
 方言の成立には、幾多の複雜なる原因があつて、それを一つ/\取上げて見ることは、到底出來ないやうに思つて居る人も多いやうだが、それはたゞ綜合歸納の方法が、まだ此方面には發達して居らぬ結果としか認められない。國語は現在の?態に到達するまでには、そのあらゆる部分に於て何囘と無き變化を重ね、殆と固有の形といふものは指摘し難いやうになつて居るのだが、さういふ中でも個々の變化の時期、殊に甲乙土地の間の先後遲速は、大よそは之を判別することが出來る。たとへば明治以降の七十年間に、新たに國外から入つて來た事物、又は是に關聯して新たに設けられた言葉、是だけは大抵の人が一致して認めて居る。しかも種類と使用度とに於て、我々の會話の三分の一は是が占めて居る。殘りの其以前から持傳へたといふものでも、なほ若干は言葉それ自らが、年齡履歴を名のつて居るので、たゞ其通用の始めが、他の土地に比べて後れて居たことを、自ら心づかぬ人が多くなつただけである。都市と田舍と、何れが後か先かは別の問題として、少なくとも言語の變化が全國一齊に、同時に出現するといふことは有り得ない。變化が甲の土地のみに先づ現はれたといふことは、同時に又乙丙等の土地に、保存があつたといふことを(112)意味するのである。乃ちこの二つのものを對立せしめて考へるのでなければ、今日の國語の地方差は、いつ迄も其全部を説明し得る時が來ぬだらうと思ふ。
 
     五
 
 古語の僻陬の地に保存せられて居ることは、前人も?心づき、今は取集めて相應な數にもなるのであるが、それを奇特な異常の例のやうに、「中々に鄙にこそ」などゝ珍しがる態度は我々には賛同が出來ない。上世の文獻に採録せられて、稀々に殘つた言葉の中にすらも、捜せばなほ是ほどの一致が見出せる以上は、更にそれよりも後に生まれ、しかも確實なる證跡を留めずしてやがて又消え去つたものが、此他にも數多く傳はつて居るといふことを、どうして推測することが出來ないのであらうか。文書の豐富に過ぎたる今日の世の中でも、我々の用語の全部までは文字になつて居ない。まして前代は僅かに片端を寫し取り、しかも大半は散佚して居るのである。是しか材料が無いから大事にするといふのみで、古語は此以外にまだ澤山のものが、曾て行はれて居て一部では既に改まり、他の比較的變化の遲い地域に、なほ暫らくの間は殘り留まるといふことも考へ得られる。古語のこの民族の元祖と共に在つたといふものは、有るのかも知らぬが實際は證明が出來ぬ。もしも變化の一つ前の形が、いつからあつてもすべて古語だとするならば、それが標準語と變化の歩調を共にしなかつた各地の方言の中に見出されるのは、當り前の事のやうに私たちには考へられる。標準語の變化の目まぐろしい急速度は、必ずしも現代だけの特徴で無い。從つて?地方の取殘されといふことが有り得たのである。だから斯んなによく變るものを尺度として、方言の變化を説かうとするのは誤りである。
 所謂訛語を方言の中に混じてしまふことは私などには異議があるのだが、それが近年の風潮を爲すに至つたのも已むを得ない原因があり、又兩者を全く別途に見て行くことの出來ない理由もある。ナマルといふ動詞それ自身の、生(113)まれ且つ成長した經路も面白いやうだけれども、それまでは爰では説くまい。とにかくに京都で常用せられる語音以外、それのみ聽き馴れた耳にあやしく聽える音が、奧州訛りであり薩摩なまりであつたことは誰でも知つて居る。ところが其京都では假字制定の直後、多分は意識して今までの語吾の制限を始めて居るのである。文字は念入りに穴のあくほど見つめることも出來るから、さまで細々と音聲を言ひ分ける必要も無いといふ意味もあつたらう。何にしても今まで使つて居た語音の約四割を、次々に廢してしまつたことは、既に橋本教授などが親切に説示して居られる通りである。遠い地方に居て文字に親しみの薄い人々が、今でも平氣で用ゐて居る訛りが、果して完全なる保存であるか否かは請合はれない。中途の小變更もあらうし、又新音の追加も有らうと言ひ得る。しかし南部津輕の一端と、一方宮古や八重山の島々とに行はれて居る類似を、個々の獨創、新能力の發揮と見ることは既に無理な上に、FやKやShの子音が、以前はさうであつたといふ形に行はれて居る土地も多く、或はジとヂとの使ひ分けを、誇りとして改めようとせぬ處もあるのである。是などは略安全に、變化したのは京師の標準語であつて、地方語でないと謂ひ得るであらう。今まで全く無かつた新しい單語が、さういふ土地に入込んだ場合、保存して居た舊語音を以てそれを呼ぶとすると、地方が變化をさせたと見てよいかどうか、是がいつでも問題になるのである。外から來た者には理由までは察し得ず、たしかに異樣だから方言の中に算へようとし、土地では標準語を其まゝ採用したつもりで居る。是を自分などは同語意識と呼んで居るが、中部一帶の方言集などは、大抵は斯んなものを集めて量をふやし、實際別の言葉と言ひ得るものは、拾ひ出すほども無いのである。勿論その中には代を重ねて、たとへば桑の實のドドメがツバメとまでなり、蜻蛉のエンブがヤンマとまで變つて居るやうに、言主もその同語を意識しなくなつたものが幾らかある。是を素人が勝手に判斷せず、暫く方言の列に竝べて置かうとする用意には故障を入れることも出來ぬが、少なくとも是を地方の國語が變化した例に、算へることは理由が無いのである。
 
(114)     六
 
 同じことは又しば/\語法の方面でも言ふことが出來る。たとへばベシといふ助動詞は以前は口言葉にも盛んに用ゐられ、文章は之を襲用して今日に至り、改まつた男の會話には、片端はなほ保存せられて居るが、何かまだ發見せられぬ原因によつて、標準語では先づやさしい人々の物言ひの中から消えて行つた。ナランやデアラウは是とやゝ近いといふのみで、心持には可なりな差等があるらしきにも拘らず、今日は普通ダラウの淡々たる推測語を以て、期待を表示するベシの場合までをまかなはうとして居り、それでは實際にはやゝ物足らぬ爲か、一方にはネバナラヌだの、ト信ズルだのといふ語が、又幾分か不當に廣く使はれる。この變化の先づ中央に起つたことは、關東以北の地にベシが殘つて居るのを見てもわかる。即ち後者は單なる保存だつたのである。それが中世普通の音便風習に遵依して、ダンベイとなり又はダッペイとなつたとしても、田舍が自ら法則を逸脱した例にはならぬのである。打消しのアラヌを終止形として使ふことは、古い記録の中にはまだ先例を見出すことが出來ない。多分は知ラヌワ、行カヌゾ等の餘情を強める末の語が有つて落ちたので、それが以前の未來形と紛れやすい知ラン行カンになつたのが、新しい變化であることは否み難い。東日本の知ラナイ・行カナイは、或はその一つ以前の變化した形であつたかも知れぬことは、「無い」が分離して形容詞の如く取扱はれ、南島以外の土地に弘く流布して居るのからも察せられるのだが、是を今日では東西方言區域の、一つの目標のやうに謂つて居る。一方の變化が未だ他の一方を捲き込むに至らなかつたことは明らかに認められるが、是が其變化の更に一つ前から、雙方もう違つて居たといふことはどうして證明するつもりか。何ともはや合點の行かぬことである。
 我々の國語の斯う改まつて來た原因には、最近のものでもまだ解説の出來ぬものが多い。必ず早晩は言語學の領域に歸屬することゝは思ふが、今日の眼から見れば不審と言つてもよい改廢は隨分多い。一方には色々と氣の利いた言(115)葉、又剴切な表現が考案せられて居ると共に、他方には又損では無かつたらうかと思ふ中止も幾つかある。所謂關東ベイなどもまさしく其一つで、御蔭で我々は英語のシャル・ウイルを共にデアラウと譯し、暗記が出來にくゝて弱つて居る。勿論然らば元へとも言ふわけには行くまいが、少なくとも近い頃の變化位は、若い人にも知らせて置く方が便利である。來タッケ・見タッケなどのタッケといふ助動詞は、中部以東は略一樣にまだ殘つて居る。是は三矢重松氏も夙く注意せられた樣に、ケリ又はキの遺形にちがひないのだが、現在はちやうど方言と標準語の中間のやうな處に居る。東京などの新移住者たちも、一度其心持を寄込めば大抵は之を使つて調法して居る。實際西の方には此意味を傳へるやうな代用の語は無いのである。しかし都市にはもう「たりけり」に該當するタッケだけしか行はれて居らぬに反して、周圍の農村にはまだ色々の使ひ方があつて、タツケの方を澁々標準語の中に入れる人でも、其他の部分はめつたに耳にすることが無いので、是を方言と認めずには居ないのである。さうなつて來ると、假に文學に支持せられた古代日本語を尺度にしても、それに近いものが標準語で、遠ざかつたものが方言であると、考へることは許されない。都市に住む者は必要があつて早く改め、他の一方はまだぐづ/\して居るといふことは、言語以外の生活ぶりに在つては常の現象であるのに、獨り此方面に於てのみ、田舍の人の方が敏活に立働いたやうに、想像して居たといふことが寧ろどうかして居る。
 
     七
 
 地方がめい/\の入用に應じて、都合のよい新語を手製するといふことは、昔とても勿論無かつたとは言へない。しかし少なくとも今日の方言集の表面には、由來の至つて新しいものばかりが竝んで居る。一旦小區域で單獨に作り出したものが、後に代りが出來、又は根本から必要が無くなつて、夙くに消えてしまつたと想像することも可能であり、假にさういふものがもし有つたとすれば、それだけは永遠に埋もれてしまふかも知れぬが、しかし流傳は言葉の(116)本然の性である上に、現に土地々々の人の知らない一致が、意外な遠方にも及んで居る例は多いのだから、古い言葉は大抵は今でも何處かの隅に、活きて働いて居ることゝ私などは思つて居る。其意味に於て最初に私が先づ試みたのが、多分は京都人の干與しなかつたらうと思はれる新語の、蒐集と比較であつた。その判別は獨斷に陷りやすいやうだが、實は多くの言葉が、自ら其素性を名乘つて居る。勘合船以來の外國往來によつて、始めて輸入せられたものにはタウ(唐)といふ語が頭に附いて居る。又はカウライともナンバンとも謂つて、事物の新鮮さを印象づけようとして居る。さうしてその國内に於ける出發點は、大よそは定まつて居たのである。京都も津湊では無いから、或は第二次に他から此語を學んだものがあるかも知れない。少なくとも若干の農産物などの新名稱は、都府を放射線の中心とはして居ないのである。それから農業漁林鑛業等の用語、この中には古くから國民の所有であつて、單に都人士のみが忘却したものも相應にあることは、個々の言葉の領域の廣さからも察せられるが、他の後々の改良變更に伴なふ新語は、それこそ京都とは相談無しに、作り且つ流行らせて居たのである。山中海上の地形名稱などは、過半は千年以上も前からある語と思はれるが、それと肩を竝べて如何にも素朴無造作な、旅の文人を珍しがらせる樣な、名詞が生まれて居るのも同じ事情からである。さういふ中央には全く用の無い、田舍限りの言葉がどの位有るものかは、今のところではまだ目算が立たぬが、何にもせよ範圍は狹いのである。是に據つて一切の方言が、昔も今も常に自由に、勝手放題に作られて居たかの如く、類推することは誤つて居ると思ふ。
 この點は今後の方言調査によつて、追々に明確になつて來るであらうが、既に我々の經驗しただけでも、新語は決して無法則には増加しては居ない。個々の單語も聽き知る限りに於ては標準語に倣はうとしたと同樣に、新たに是を設けようとする動機又は方針に於ても、なほ中央に追隨したとしか見えないのは、つまりは國民性情の導き、乃至は國語の本質の許す所であつて、必ずしも時代限りの感化では無かつたのであらう。たとへば頻々たる使用によつて、たゞ何と無く古い表現に倦きる心持、是などは他の民族に比べて、日本人が多くもつて居たやうで、その爲に餘計に(117)以前の語が改まつただけで無く、代りに出來た語の方が、音でも形でも奇を好んで居る。「ことわざ」は民間文藝の一つとして算へられるが、我々の新語にはその諺に近いものが多く、是を言語藝術の中に入れても、日本では少しも不當で無い。その新語に對する昔の人の感動と從順さも、たしかに又民謠や謎や唱へごとゝ似て居たのである。次には人が特殊の關心を持ち始めた事物や?態に面して、寸時も名稱(代表語)無しには居られないやうな性急な態度、「是は何といふものか」といふ風に、名と一緒に知らうといふ氣持も、特に我々の祖先には強かつたのではないかと思ふ。副詞形容詞を以て限定し、又は「一種の何々」といふ類の表現を以て、永く總名を持續して居ることが、元は日本人には出來なかつたものらしく、其結果はやゝ輕慮に過ぎたる承認と模倣、從つて又目まぐろしい程の近世語の生滅交替が行はれたやうである。兒童が多くの新語の造成に參與して居ることも、是と別々の現象であるとは言はれぬ。現在我邦で方言の種類の最も多いものは、大抵は彼等が遊び相手の草や蟲、又は小魚などに限られて居る。大した創意も無い僅かづゝの變化に興味をもち、新しいものが出來ると其方に移つて行かずに居られない癖は、たしかに少年少女が代表して居るが、此點にかけては成人もなほ或程度の子供らしさを持つて居る。さうして現在は寧ろ其傾向の、更に著しくなつたことを感ずるのである。
 
     八
 
 それから今一つ、是は子供の擔當ではないが、やはり女とか年寄とかの、廣い世間と交渉の少ない人々が、多分に參與したらうかと思ふのは、土地々々の形容詞の手製である。是は遠からず實例を集めて整理して見ようといふ計畫もあるから、今はたゞ所見の大略を述べるに止めるが、全體に我邦には古くからの形容詞といふものが少ない。標準語といふ中にもヤカマシイとかスバラシイとか、ごく近頃製の粗末なものが幾らもまじつて居る。さうして田舍には無數の方言の、意味も形も區々なるものが、現今は可なり重要な役割を演じて居るのである。斯ういふ形容詞を必要(118)とする物の言ひ方、又は考へ方が、近世の交通に入つて急激に増加したのではないかと私などは想像して居るが、外部と接觸して雙方を代表するやうな人々が、もしもこの新語の造成に協力して居たならば、もう少しは他處の振合ひを參酌したであらうに、實際には土地毎に自分の入用を辨ずる爲に、勝手にきめたかと思はれるものが多く、しかも手近のやゝ似寄りのある語を使はうとするので、形はほゞ同じで意味の輪ちがひになつて居る場合が、追々に數を増して居る。色や姿の眼で見るものゝやうに、感覺は其同異を確かめることが容易で無い。よそでは何といふかを知らうにも目安が立たず、已むなく僅かの仲間限りに適用する新語を作るのであるが、久しく此樣な?態が續いて居たら、どれ位我々の意思疏通を阻碍したか知れないのである。ところが何が仕合せになるか判らぬもので、所謂方言匡正の同情無き統一運動、寧ろ無頓着に過ぎたる對譯の選定は、それこそ有無を言はさずに、形容詞を内容ごと標準語の方へ引付けてしまはうとして居た。東京のキタナイは汚れて居ることだけをいひ、關西のキサナイはだらしの無いことのすべてを合むが、後者は發音をかへると共に追々に意味をも限定させられる。アツカマシイといふ語は西の方では混雜してこまる際に用ゐて居たが、今では東國風に厚顔の意に取られても、せん方なきものとしてあきらめて居る。初代の被匡正者は無論よほどまごつくけれども、二代以後は元有つたものに氣づかず、何か又別の方法で其穴を填めようとするらしいのである。さういふことの出來るといふのは、形容詞の需要増加がごく近世の現象であつて、實はまだ試用時代とも名づくべき、拔差しの比較的容易な?態に在つたからかと、私などは想像して居る。是が大掛りな推敲討議を經てきめたものだつたら、なんぼ官府の力でもさう手輕には處理し得なかつたらうが、子供言葉といひ又この新出來の形容詞といひ、共に多くは只ふとした思ひ付きで、次の新しいものが提案せられると、忽ち棄てゝ置いて其方へ移つて行くこと、たとへば銀座ボーイの流行語のやうであつた爲に、實は匡正の功を奏し易かつたのかと思ふ。個々の消えたるものに對しては、必ずしも大きな執着を我々は抱いて居ない。たゞどうしても考へずに居られぬことは、一見獨立の新しい形容詞を要するまでに、はつきりと意識せられて居た或感覺の組合せが、もし少しでも意(119)味の喰違ひのある標準語に取つて代られたとすると、その表現せられない殘りの部分は、其まゝ再び睡つてしまふであらうか、但しは又どこかに新しい出口を求めるであらうかといふこと是が一つ、今一つはこの幾分か無理に見える形容詞の統制には、別に何等かの單語其ものゝ、内からの手引があつたのでは無いかといふことである。前者は豫言になるから人を信ぜしめることが容易でない。しかし後の方はとにかくに歴史である。捜せば證跡の見つからぬわけが無い。乃ち地方の言語變化にはもと/\一定の覊絆があつて、さう止めども無く奔逸するものでなかつたこと、方言の發生改廢にもやはり昔からの標準があつて、大體に中央が先づ變化した跡を追うて、しかも地方は常におくれて居たのだといふことを假定して、是から諸君と共に其當否を檢討して見たいと思ふ所以である。
 
     九
 
 都鄙東西の言葉の相異が、たゞ片一方だけの背反逸脱に基くものでないことは、今はもう説き立てる必要もあるまい。文章はいつの世にも時の口言葉に比べて、大か小か必ず保守的なものであるが、其方の資料を排列して見たばかりでも、優に一篇の國語史が書けるほどに、次々の變化は顯著であつた。其中に生滅したもので、かつて文筆の省みる所とならなかつたものが、無數に有つたことも亦想像せられる。乃ち國語は到る處に於て變化して居たといふ以上に、人も刺戟も共に多い土地に於て、殊に敏活に改まつたと見ることが出來るのである。何の根據も無かつたのは、この一國總體の變化が、地方思ひ/\の方針に進み、乃至は區域毎に各自傳來の規準の如きものを、久しく守つて居たかのやうな斷定であつた。そんなことがあるものかと、言つてしまつてもよい樣に私などは思つて居るが、なほ現實の證據を、追々に擧げて行くことも出來るのである。
 方言の我々の耳に珍しいといふことゝ、それが新たな變化だといふことゝは、二つ全く別な話である。古語の辛うじて前代の文獻に遺り、又僅かに片隅の地に活きて働いて居る場合があつても、今まで大抵の人は二者の一致に心付(120)かず、たゞ一つの田舍の語として訝り又は笑つて居たのである。純乎たる國固有の單語もしくは文句といふものは、さうたやすく見究められるもので無い。稀々に千年以上の昔、大宮人がたしかに用ゐて居たといふものもあらうが、中古に盛んに行はれてやがて廢れ、或はつい五十年三十年の前まであつて、次の言葉に取つて代られたものとても亦古語である。それが一樣に全國一時に、ぱたりと消えてしまつたといふものは先づ無いのだから、どこかにやゝ久しく殘つて居たといふことは皆同じである。方言即ち土地々々の言葉のちがひは、つまりはこの保存と新たなる改定と、二つの力の交錯が均一でなかつたことを意味するものと、私などは解して居る。多くの獨斷はこの一方の變化のみに重きを置き過ぎ、且つ又大抵の古語なるものが、かつて或時代の新語であつたこと、即ち保存の前にも既に幾度かの變化が、先行して居ることを思はなかつた結果である。今日田舍でまだ保存して居る古語の中には、粗末な若干の形容詞のやうに、自身勝手に案出した變化を、其まゝ守つて居るものも無論あるが、さういふのは概して自信が薄いからか、比較的輕易に又次の變化に移つて行かうとして居る。是に對して舊藩の城下などで、良い言葉として久しく認められて居たものは、大抵は皆學んだもの、殊に中央の方から入つて來たものが多いかと思はれ、此分は或は意識しても、改めまいとする者さへある。發音や所謂訛りも、容易に拔けないものゝ一つで、是は或時代の外部の標準に據つたものといふことを、まだ確實に立證することが出來難いが、とにかく永い期間の保存があり、且つ周圍の弘い區域と共同して居る場合が多い爲に、是を正常とする感じが根強く、事實さう速かには統一せられないのである。個々の標準單語が持つ感化力に、土地と時代によつて差等があつた如く、是と對立する方言の保守性とも名づくべきものにも、幾つかの階段があつたのである。さうして文藝によつて支持せられ、もしくは上臈によつて運搬せられて、堂々と都の方から下つて來たものが、やはり最も多くの信頼を以て習得せられ、又最も忠實に永く護られて居た。距離や山坂海川が言葉の傳播を妨げて居たことは事實だが、それはたゞ年數がかゝるといふまでゝ、如何なる邊土の鄙さへづりの中にも、やはり數多くの全國共通の語が、いつと無く到着してまじつて居る。それが大昔以來の、持つて分(121)れて來たといふ類の語で無いことは、その一つ/\をよく見れば判ることである。又さうで無かつたら、日本語も末にはどうなつてしまふか知れなかつたのである。もしも地方が勝手次第に、自分限りの用語を變化させて居たのだつたら、今見る一致だけでも保たれて居る筈がないのである。京師を文化の師表と仰ぐ心持は、言語の上にもかはりは無い、と言はうよりも寧ろ是が主であつた。たゞ其追隨が田舍では非常に時おくれで、又折々は元方が既に再び變化して居るのを、知らずに前のものに取縋つて居る間が長かつた爲に、しば/\眼の前の事實をしか見ない人たちに、ちがつた世界のやうな感じを與へただけである。
 
     一〇
 
 方言の存在は、既に萬人の口にする所であつて、しかも其由來を考へて見ようとする者は、學者の中にすら少ない。根據無き臆測の横行して居るのは、寔にその耻づべき結果である。國語史がたつた一つの解説の途であると同時に、方言を除外した國語史といふものが有り得ないことを提唱するには、成るべく人の忘れかゝつて居る古語の行くへを、尋ねであるくことが便利かと私は思ふ。前代文籍の辛うじて散佚を免かれたものゝ中に、記載の見えるだけを古語だと思ふことは、窮屈極まる迷信であるが、是は古くからの事だから中々打破し難い。今日僅かな區域に活きて居る方言で、中世以後新たに設けられた形跡の無いものは、一應は古語の中に入れて置かうと謂つても、諸君が不安がつてよけて通ればそれ迄である。ところが實際はその兩者の中間に、氣づけば如何にもさうだつたと、曾て本居先生が喜ばれたやうな事例は、此頃になつてもう幾らも出現して居るのである。たとへば陸羽地方から越後にかけて、「直ちに」又は「すぐ」をソマ・ソンマといふ語は古からうと思ふが、これはまだ文獻に跡が見つからぬので、アイヌ語ぐらゐに見られて居るが、駿豆甲信の弘い區域に聽かれる「あひだ」をイトといふ語などは、誰が考へてもイトマよりは古いと言へる。四國九州沖繩の諸島まで、「急に」又は、「遽かに」をアタダニといふ副詞なども、今有るアワタダシ(122)イやアワテルより、前の形であつたことは略察せられる。副詞はどういふわけでか日本には古いものが多く、西洋とは反對にしば/\形容詞を是から導いて居るのである。京都が忘れて居る、東京が知らないといふことは、必ずしも古くないの證據には出來ぬ。この兩地の知らなさ忘れやすさは、寧ろ一種の名産であつたからである。八月朔日に親子王從の間で物品を贈答する慣行を、無盡の頼母子などゝ同じに、タノミ(憑)と謂ふのは京都語であつた。中古の公家の日記には、東國の習俗に從ふものだと煩はしいまでに斷わつてあるが、是は必ずしも田舍の方言が都を征服した例では無くて、農業との縁が切れてから、一時縉紳の間には中絶して居ただけのやうである。現在この日を「田の實」の節供、又タノムともタノモとも謂つて居るのは中國以西で、贈答の風はたゞ九州の一角に殘つて居り、關東奧羽には此日を節日とする習ひさへも絶えて居る。是を足利時代に京都で採用せられたが爲に、右から左へ移したといふ見方もあるか知らぬが、なほ此慣行の背景をなして居る田の神の信仰、又はタノミといふ語の他の用法、たとへば婚姻の贈り物を或地ではタノミ又或地ではユヒノモノと謂つて居るのを思ひ合せると、習俗の根源の遠く久しいことが察せられる。乃ち京都では二度の忘却と、二度の變化とを重ねて居るらしいのである。
 ウラヤマシイといふ語は、珍しく長命した形容詞の一つであつて、今日の標準語が千年以上、同じ形を持ちつゞけた誇らしい例ともいはれるものだが、果して是に包容して居る感覺が昔と同じかどうかには疑問がある。ヤムといふ語根の加はつて居るのを見ても、元は惡意を含んだ嫉の方ではなかつたかとも思ふ。元のネタシは確かに今の感覺とちがつて居たのである。それはとにかくに、室町期の俗用では、羨まし羨むはケナルイ及びケナリガルであつた。さうして地方には今でも此語が多い。イカメイ・イカメガルといふもう一つの語もあつて、却つてウラヤマシイの行はれて居る區域は頗る狹い。故に私は是を多分文學から復原したものと思つて居る。ケナルイはイカメイと共に、もとは嫉ましいといふ第二の感覺は添はなかつたやうだが、現在は既に其堺が紛亂して居る。少なくとも是が狂言記前後の新製であつたことだけは、形の上からでも立證することが出來る。ケナリの起原はまだ明らかで無いが、もとはた(123)だ獨立に感動詞として用ゐられて居た。をかしな例だが獵犬が獲物を咬へて來たとき、又は馬をいたはる場合に北國では今も發する語であり、秋田縣では猫が鼠を捕つた際にもケナリ/\と謂つて居る。是にもう一つケを添へてケナリゲと謂ひ、ケナリゲニ・ケナゲナルといふ語が出來、それが淨瑠璃時代のケナゲ(健氣)のもとになつて居るのだが、「御湯殿上の日記」にも例が多いから、是は明らかに或一時代の標準語だつたのである。ところが多分其ケナゲの意味が限定せられたからであらうが、別になほ一つケナリにイを附して、形容詞とする者が出て來た。是は近世の安易に過ぎたる形容詞作りの一方式で、コンキイだのキノドキイだのと、何でも有合せの言葉をイに繋いだ例は此他にも多い。京都は現在でもケナリイであらうと思ふが、元を忘れた人たちは此方を誤りと感じて、はつきりとケナルイ・ケナルガルといふ土地が多くなつて居る。是を標準語のウラヤマシイに、統一するまでは私にも異存は無い。ただ折角斯ういふ古い正しい語があるのに、ケナルイといふなどはけしからぬと謂つた人があるとすると、それには二重にも三重にも抗議することが出來る。平たくいふならばウラヤマシイは寧ろ文學に教へられた改良語である。
 
     一一
 
 最後にもう一つ、自分の久しく考へて居るソヤサカイニの間題がある。爰で簡單に述べてしまふのは殘念だが、他日表でも作つて説明を補充することにしたい。第一に言ふべきことは、此語が最近まで女子供の用であつて、別に四角ばつた會話に使はれるニヨッテ等が併存して居たことである。言葉は改良といつても最初えらい人が參與したわけで無く、ふとした言ひ習はしが成長して、末には文學の用語にもなるのである。さうして是は其固定以前の?態である。「さうだから」のカラは關東が根據地で、傍近の三四縣に及んで居るだけであるが、奇特なことには飛んで山口縣の大部分が、孤立してカラになつて居る。古い由緒を説かうとする人もあるが、古語のカラとは少しばかり意味がちがひ、又全然ソヤサカイニ等とも一つでなかつたことは、國學者の和文に使つたカラがちと妙に聽え、同じ東京で(124)も別にニヨッテの用法があるのからも想像せられる。乃ち少なくとも近年の濫用があつたのである。ニヨッテは後にデ又はノデ・ノッテとなつたものと一系であらう。サウダデといふ區域は名古屋を中心とした三四縣と、遙か懸離れて熊本縣の南部と、鹿兒島全縣に同じ例がある。一方津輕と南部とのサウダハンデも、或は同じ語の變化かと思はれるが、こゝではサカイニと近いシケェ・ハケェも竝び行はれて居るのである。肥前の五島にはサウヤテンといふのが普通ださうだが、是は南薩地方などのデと、この近傍を取卷くケンとの折合ひと認められる。ケンは九州の大部分の共用語となつて居るが、それが中國四國のケニ・キニ・ケェ等と同語であり、たゞ發音の地方差であることは、雙方が互ひに之を意識して居る。それ等を一括すると因幡備前以西、鳴戸の瀬戸から外は防長肥薩隅の小區域を除けば、大體に皆ケニの領域だといふことが出來る。此語が何等の痕跡を文獻の上に留めない場合にも、之を田舍に生まれて伸び擴がつたものとは、私には見られなかつたのである。ニヨッテとケニとは果して同じ意味の語交迭であつたか、但しは二者幾分か氣持がちがふので併存し、後々何れか一方がやゝ不當に他を侵略したか、これはまだ決しかねるが、とにかくに室町期末に成つた沖繩の碑の文には、ケニが標準語として承認せられて居るのみならず、大鏡その他の平安朝期の記録にも、採用せられて居る例があつたのである。それがさまで頻々と歌文の上に現はれて居ないのは、寧ろ俗用のなほ續いて居たことを示すかと思ふ。少なくとも曾て或時代に、ケニが京都にもあつたことは確かで、それが後々のソヤサカイニの誘因となつたと見るのも不自然では無い。土地毎の小さな變化を別にして見ると、ソヤサカイの領分も相應に弘い。西はケニとの堺の線から、北は日本海に沿うて率土ヶ濱の果にも及んで居る。たゞ其中ではサカイといふ區域が案外に僅かなので、東北のハケェ・ハカイは何れとも決し難いとしても、先づ奈良縣の南端にはスカイがあり、紀州は各郡ともサケとサカイとがまじり、近江も北部高島郡はサケェ、福井石川の二縣にはサカイも有るが、サケ・サケェネと謂ふ者が村方には多く、飛んで山形縣の最上地方も一般にサケである。富山縣は普通はサウダサカエださうだが、爰ではケニ・ケネ等が入交つて居り、越後は全體に亙つてスケェ・シケェが多く、其から又(125)飛んで奧州の北部にもシケがあり、但馬も出石城崎の二郡にはシケェがあつて、この三地には共にサカイは丸で無い。即ち京都でも前には或はサケェで無かつたかと思はれる。ケェは多くの場合にカイの賤しい訛りのやうに、考へられがちだつたからである。ケェの頭にサが附いた理由は、まだ辯明し得ないが、何か一つの文句の終りにス又はシを附ける物言ひは幾種類かあつて、それが「故に」のやゝ輕い意味に、用ゐられて居る場合もある。肥前馬渡島の新村の方で「であるから」をヂャルセン。讃岐小豆島でセニ、伊豆の田方郡でセェニ、越後西頸城でセェ又はソェが何れも「から」を意味し、秋田縣の雄勝でも「さうだから」をソダシェンデ、同じく鹿角では「怒るから止めろ」を、ヲゴルセデガヤメロなどゝいふやうに、今は幽かになつて居るが、前には斯ういふ語のあつたことが認められ、それが盛岡附近では單純なシともなつて居る。上方地方の「わたしいやゝシ」などのシも、元は或は言ひ切るといふ以上に、後に續くべくして略せられた意思を、理由づけて居たのかも知れない。標準語の方でも「雨も降るし疲れても居るから寢よう」などゝ、二段にいふ場合には今も使はれて居る。是とケニとを續けたものが、後に或は堺目が立たなくなつたのではあるまいか。是とよく似た例は九州に一箇所ある。筑後の浮羽郡ではケェの前にナを插んで、寒いナケェが「寒いから」、暑いナケェが「暑いから」であるが、こゝは周圍が一樣にケェ又はケンである故に、この變化の過程が究め易いのである。私たちの問題にするソヤサカイニのサカイこも、元はケニにシ又はスの冠さつたものであることが、この比較を進めて行くことによつて、追々と明白になり、是も亦地方語がやゝおくれ、京都が先づ改まつた一つの例になるかと思つて居るのである。とにもかくにも我々の今もつ所の標準語は、變つては又變つて、其中間の實?を知り難いものが多くなつて居る。中には幾分か事を好んで、無用な後戻りや横路をしたものも見られる。粗忽は寧ろ京童の病だつたのである。だから國民に穩健なる選擇の術を教へ、何を急いで改革し、何を末永く保存すべきかを決めさせる爲には、先づ多くのものを方言から學ばなければならぬ。さうして今ならばそれがまだ間に合ふのである。
 
(126)  形容詞の近世史
 
     一
 
 いつか報告したいと思つてまだ材料の整理が付かずに居る一つの問題は、どうして此樣に日本には形容詞の地方語が多く、且つ甚だしく變化して居るかといふことである。一つの未完成なる計畫と、自分の氣がついた若干の點とを述べて、他日の足掛りをこしらへて置かうと思ふ。無論誰かゞ代つて下さつても結構であるが、たゞ勞力の重複は惜しいから、出來るならば私のすでに集めて居るものを、引繼ぐやうにしたいと念じて居るのみである。
 世には今ある國語の現實が、十分豐富に又精確に記述せられてから後に、方言の理論の研究には取掛るべきだ、もしくはさうしても決して遲くはないと、悠長に構へて居る人も有るやうに見えるが、私は始めからそんなことは賛成できないと言つて居る。方言の蒐集は確かに流行だつたが、それが十年近くも續いてから振返つて見ても、何と一ところばかりこちや/\とつゝ突いて居たことよと、歎息しなければならぬ程しか成績は擧がつて居ない。第一には忍び難い地圖の空白、それよりも更にひどいのは題目の空白であつた。單語はさういふ中でもまだ若干は見出されて居るが、土地の物言ひの主要なる特徴に至つては、實は一九の膝栗毛時代と比べて、何程も前へは出て居ないのである。さういふものを集めて見ようにも方法が立たず、又興味の推進が無いのだから致し方が無い。もしも資料の出揃ふのを待つて居るとすると、其間に消えるものはさつさと消えてしまふであらうし、學者の代替りも何度あるか知れたも(127)のでない。國語を單なるクンデの對象として滿足する者で無い限り、賛成しない方が當り前だらうと私等は思ふ。集めて結局はどういふことが判るかを考へても見ぬ人に、やたらに骨折らせることは氣の毒でもあり、又同時に危險でもある。彼等はいつ何時燐寸のペエパに奔り、郵便切手に轉宗するかも知れぬからである。それをさせまいと思へば努力の意義、即ちこの片々たる小事實の觀察が、末には如何なる智惠を我々にもたらすかといふことを、知らせて置くことが又必要である。始めから全體を説かうとすれば必ず空な話になるだらうが、少なくとも一つの目標を立てゝ、個々の結果を期待させるやうにはしなければならぬ。自身問題をもつ者が採集をするに越したことは無いが、人を頼むにしても無駄骨を折らせたり、從つて又飽きさせたりすることは、拙劣といふ以上の感心せぬ計畫である。
 今まで出て居る澤山の方言集から、私などは最も多くの恩惠を受けた一人だが、是を利用しながらもなほ感ぜずには居られぬことは、この莫大な人間の勞苦が、もしも何等かの共同の目標を見て進んで居たのだつたら、いかに張合ひ多く又樂々と互ひに助け合つて、今頃は又一つ次の段階に入つて居られたらうに、この三四十年間といふものは舊態依然で、補充訂正も碌に無い重複ばかり多くて、以前判らなかつたことは今でもやつぱり判らない。それといふのが皆さんが疑惑を抱きたがらぬからである。どうして此樣な途方も無い變化、土地毎の異同を生じたかの理由を、すべて教養の缺乏ぐらゐに歸してすまして居るからである。斷定をしたがるからである。假に今考へられる解釋を試みて置いて、其當否を將來の證據に問はうといふだけの勇氣が無いからである。さうして日本の國語の效用は、今ぐらゐの?態で先づよいと思つて居るからである。言語を今日の如き不完全不自由な、思つたことも碌に表はせないやうな?態に放置していゝものなら、學問も不用であり、採集も實は無益の道樂と言へる。さうで無ければこそ學者が率先して、この研究の必要を唱へたのではないか。果してその掛聲が本物ならば、この數十年間の成績はどうか、そこいらの責任ある人に答へてもらひたいものである。
 
(128)     二
 
 文章や辯論に、實地の苦勞をした人は皆經驗して居る。國語はたしかにまだ時代人の知識の量、殊に感覺の細かさに比例しては成長して居ない。その缺陷を補足する爲に、各人は勝手な又無理な見苦しい應急手段を講じて居る。働きの無い者はその無謀な先例をさへ眞似ようとして居る。新語は亂雜に増加してもまだ足らず、句法は單調で退屈をしか人に與へない。聽いて心から動かされるといふことが少ないから、言葉はいつの間にか陀羅尼のやうな形式上の役目しか勤めぬことになり、誰もがきまり文句の空々しいことばかりいふ樣になつて居る。斯んな心細い?態は探しても他には例があるまい。是をもう一度正しい任務に就かしめる爲には、少なくとも言語は世の中の移り變りに應じて、どう改まつて行くものかといふことを、出來るだけ精密に知つて置かなければならなかつた。それを心掛けない國語教育なるものがもし有るとしたら、たとへ其機關は如何に充實して居らうとも、一貫した改良の計畫の立たう筈はないのである。方言を撲滅の爲に調査するものと心得て居た人が、今でも物を言つて居るのも妙な世の中だが、それよりもをかしいのは其反對者を目して、恰かも方言の押賣りにでも來たやうに警戒することである。どんな昔の孤立した社會でも、ある語を國語に編入するには、赤ん坊以外の全員の合意を要する。まして是だけ廣範圍の交通をして居る者が、相手の黙認乃至賛同を得ずに、用語を持込むとしたら正に氣ちがひである。それを五人や三人の力で何とかなるかの如く、思ふのが抑の非常識であつた。我々の患ひて居ることは其多數者の選擇なるものが、近來は餘りにも出放題であり無方針であつて、却つて國語の成長を妨げはせぬかといふこと、他の一方にはそれほど迄に、新しい言葉の飢渇が急迫して居るに拘らず、是に供給すべき泉の道が、塞がりもしくは甚だしく濁つて居るらしいことである。是は目前のしかも目にあまる事態であるのだが、斯んな簡單な現象すらも、方言を觀察したことの無い人はなほ心づかず、もしくはわけを知らずにたゞ思ひ惱んで居る。だから私などは「方言」と名のる雜誌が、もう少し自(129)分の國の現實の問題に、近よつて行くことのみを念じて居たのである。
 さういふ中でも形容詞の歴史は、殊に適切に又誤解なしに、時代の要求の向ふ所を示すやうに思つて、私はその研究の少しでも流行せんことを望んだのであつた。現在の日本語彙は、標準語に於てもたしかに増加して居る。二百年三百年の前に溯つて見ると、無論すべてが文獻に傳はるとは限らぬが、それを割引して見ても單語の數はずつと少なかつた。しかし名詞の方ではなほ事物の増加に伴なうて、外からでも入つたやうに速斷する人が無いとも限らぬが、形容詞に至つては明白にすべて國産である。それから一方所謂代名詞の量を見ると、是は階級感覺や敬語の嚴重さ等によつて、昔は必ずしも今よりも乏しかつたとは言はれない。之に反して形容詞は元は甚だ數少なく、この頃著しい増加の趨勢を示すといふのみで、今とても決して豐かではないやうである。少なくとも標準語で書き又は談らうとする者は、我も人も非常な不自由を忍び、或は色々と無くてすませる方法を講じて居るのである。何々的といふ語の元方にも無いほどの盛んな流用なども、その一つの表はれと見てもよいが、是では末永く間に合ひさうもない。何々的は西洋の形容詞の…tiqueなども聯想させ、ちよつと新しくて又紛れが無い語音である爲に、演説にまでは之をひらめかす者もあるが、流石に女は使はず又打とけた會話には用ゐず、幾ら便利でも之に今までの國言葉を、繋ぎ合せてまでは言はうとしない。現在ではまだ用途が限られて居る。是が書?に入り詩歌俳諧を占領し、小學校を支配する時代はまづちよつと來さうも無い。斯んな間に合せを以て一代の學問を處理して居るといふことが、何のことは無い今日の形容詞飢饉を、自白して居るものと言ふことが出來る。しかし今一段と明確な證據を、まだ擧げられると私は豫期して居る。それには或時間をかけて手頃な辞典を算へて見てもよし、又は議事録とか新聞の社説とか記事の文とか、その他歴代の文藝を數種づゝ、坪苅り式に解きほごして、百分率を調べて見ても、恐らく形容詞の用ゐ所が少なく、其品種の更に乏しいことを、發見することが出來るであらう。フランス語は西洋の中でもやゝ日本語に似て居ると謂つた人もあるが、新たに物の名を造ると永く行はれる點などはさうも見えるが、形容詞の豐凶に至つては雲泥の差と(130)いつてもよい。素より彼の形容詞好きも一つの癖、それを我々は名詞とてにをはで、表はし馴れて居るといふことも認められるが、それ等の分を除けてしまつて比べても、なほ新たに語を作る自由さに於て、我々は彼等の競爭者では無いのである。
 但し斯くあらしめた過去の事情に於ては、些しでも肩身を狹くする必要は無いのである。一言でいふならば日本人の大多數は、是まで久しい間、さう形容詞の入用でない社會で生活して居たのである。同じ一つの事物に共同に接する場合で無くとも、一家一郷黨の感情の動きには殆と意外なものが無く、從つて又互ひに心持がよくわかつて居たとすると、常の交通には形容詞を附加すべき必要がない。「そんな」や「あの樣な」を無闇に使用して、前置きも説明もせずに濟ますといふことは、或は外國では許されない文法かも知れぬが、我々は平氣で今でもそれを遣つて居る。あんなとはどんなでござると開き直つて尋ねさうな人、所謂心にくい相手と交渉することが多くなつて、始めてそれでは意を盡さぬ、又は態度が鮮明ではないといふことになつて來るのである。素よりさういふ時節の到來も昨日や今日では無いのだから、夙く其用意をしてから世間へ出ればよかつたのだが、それには今日までまだ適當なる國語教育が無かつたのである。所謂文雅の士は此點でも罪を造つて居る。彼等の一派は僅かある古來のものを墨守して、時としては型に我身の内にあるものを任せて居た。他の一派の今少し實際を重んずる者は、ちやうど今日と同じやうに、註を要する樣な外國の語を借りて使つたのである。是では俗衆が危がつて、眞似をするのに躊躇した方が、現今の鸚鵡式よりも寧ろ正しい。御蔭で土地毎に粗末なる新語が數多く出來て、統一は勿論通譯をさへ困難にしたのである。
 
     三
 
 個々の小社會が新たに單語を制定する?況に於ては、形容詞は或は他の品詞と、少しく異なるものをもつて居たかと私は考へて居る。事物の名稱などはよほど複雜なものにも、可なり考へた氣の利いた語が出來て居る。聽いて成程(131)と思ひ、覺えたら忘れぬといふ新語は、恐らく色々の試みの後であらうが、とにかく若干の工夫が積まれて居る。之に反して一方は咄嗟の用に臨んで、思ひ付いたかと見られるものばかり多い。從つて相手に趣意の屆くを詮とし、しかも有りふれた安普請のやうな方言が多いのであるが、其代りには又事を好んで、必要も無いのに舊語に置換へるといふやうなことは極めて少なかつたらうと思ふ。別な言ひ方をすると、この手製の粗末な形容詞の敷だけ、地方人の感覺は分化し新生し、且つ表現を必要として居たといふことが認められるのである。さうなると誰しも考へられることは、さういふ新語の數は當然に、大都市の方が田舍よりも多かつたであらうに、それは今どうなつてしまつたらうかといふことであるが、實際には黄表紙洒落本の類、乃至都々逸等に偶然に記録せられた少數のものが、大威張りで現在の標準語に入り込んで居る外は、大抵はあまり粗末な出來合ひであつた爲に、久しからずして不用に歸し、代りに御使番の口上見たいな言葉が、上下一統のものになつたのかと思はれる。以前は恐らく無かつたことだらうが、當節は少し世馴れた者は、女でもいはゆる漢語を使つて居る。是が日本の形容詞の、今まで歩んで來た荒涼たる砂原の路であつた。耳で聽いては意味がよくわからず、文字に書いてもらへばなほ判らぬといふ類の國民文藝が、しば/\出現して我々に暗記を強ひるのも、まことに致し方が無かつたのである。
 歌謠に何々的といふ類の語を使ふまいとすると、まだ當分のうちは成るだけ形容詞の無くてすむやうな、物の考へ方感じ方をするやうに努めなければならぬ。いかな氣の強い人でもめい/\の田舍から、自由に其代りを取寄せられるやうに思つて居る者などは多分あるまい。といふわけは此方もやはり粗製濫造で、自分たちこそ馴れて調法に用ゐては居るが、晴れの場處へは到底出せぬといふことを、うす/\は自覺して居るからで、方言の弱味ともいふべきものは、一つは斯ういふ部面に潜んで居るのである。だから地方の言語を觀察しようとするには、少なくとも形容詞に關する限り、是とは全く別な用意、もつと遠大なる企圖を以て臨まなければならぬと私は思ふ。現在各地の文字を重んじない人の間に、活きて働いて居る多數の形容詞は、大部分はつい近年になつて、それも至つて氣輕によその振合(132)ひなどは斟酌せずに、産み出されたものであつた。たま/\古い形のまゝで、もしくは僅かな變更を以て前代の語を踏襲して居る場合でも、其意味内容は面白いほど土地毎に變つて居る。是が交通區域の擴張によつて、忽ち支吾牴觸を見るのは當然であり、從つて又共通の用語に適しないことも明らかであるが、しかも是に依らなければ我々の知り得ないことは、最近の地方生活の進歩に伴なうて、どれ位多くの新しい言葉がどういふ方面に入用になつて居るかといふことである。物質と無形と區々の差はあらうが、人は必要も無いのに新語を設け出した氣遣ひが無いからである。それが土地の?況により、殊に田舍と都會との間には、決して同じものばかりは求められて居ない。多くの方言集の對譯の苦心、苦心と言はんよりもいゝ加減な解説が、分けても形容詞の中に多いのを見ても、まだ我々のよく知らない感覺や批判は既に動き、且つ痛切に其表現を要求して居ることが察せられるのである。是に對しては、もし今ある用語が無理だとするならば、代りのよいものが一日も早く出來ることを、彼等と共々に求めてやらなければならぬ。それを知りもしないで適當でも無いものを與へようとすると、小學校なら強ひて押付けることも出來ようが、人は頻々としてまちがつたことを言ひ、然らざれはへどもど〔四字傍点〕して、所謂口不調法な者になつてしまふだらう。
 例は幾らもあらうが近世の標準語が、やたらに二字繋ぎの漢語にナを附けて形容詞をこしらへると、地方も其式を採用してリクツナだのヘッパクナだのといふ形のものを、何百といふほど作つて居るが、其大部分は後先を靜かに聽かなければ、どんな範圍でいふのかゞ本當には呑込めない。岩手縣などでよくドダリナといふ語などは、ドダリ即ち「どうであれ」といふ語が久しく使はれた揚句に、始めてこの「投げ遣りな」とか「結果を省みぬ」とかいふ意味の形容詞が出て來るので、是を「無謀な」と譯しては、まだはつきりと元の感じが現はれて來ない。それよりももつと私たちに判らぬのは、「腑甲斐ない」などゝ譯されて居るエッチェナといふ同地方の形容詞で、是は基礎になつた語がもう不明だから、どういふ積りであつたのかゞ實は言へないのである。斯ういふ小社會限りの獨り合點はなるほど惡からうが、とにかく入用があるのだから言はせぬわけにも行かず、又頓珍漢な代語を與へることも出來ない。乃ちもつ(133)と穩當な、成るべくは全國に通じ得るものゝ、少しも早く豐富に供給せられ、自由に選擇し得られる時代の來ることを、冀望せざるを得ないわけである。
 
    四
 
 それなら如何すればよいかといふことになると、又委員會でもといふ評定が起るかも知れぬが、そんなものはもう結構である。國に志ある者は、委員會が單なる暇潰しであつた歴史を認めねばならぬ。それよりも數段と有效なる方法は、たとへ五人でも七人でも、今ある亂雜なる形容詞が、大よそ如何なる經路順序を通つて來たかを考へ、又之を人に説くことである。歴史は其知識が各人の判斷の資料になつてこそ有益な學問である。折角方言を集めて樂しみながら、單に斯んな事もあるだけではそれが何にならう。それも理窟を附けたり講釋を添へたりして、やつと承伏するのなら無理が出來るか知らぬが、そんな手數をかける必要は方言には無い。たゞ僅かに眼を今までの小さな區劃から外に放ち、よそではどうして居たかに氣づきさへすればそれでよいのである。國語を今の姿のまゝでは置けないことは、もう多數の同胞は自ら感じて居る。私は是を出來る限り自然の路によつて、獨りでよい方に向はせたいと思つて居るのである。實例が何よりも爰では役に立つ。外國の文化に心醉した者以外には、國では最初からさう突飛な變革をしては居ない。たゞその計畫が土地毎に思ひ/\であつた故に、今では始末の惡い不一致を生じて居るのである。一つの場合をいふと形容詞の必要を感ずる毎に、いつでも我々はイを附ける算段をして居た。笑止をショウシイにしたり、けなりをケナリイ・ケナルイにした例は人が知つて居るが、加賀では「愉快な」に近き感じをゴリショイ(御利生イ)といひ、諏訪では「見ごとな」といふやうな感じにキサンジイ(氣散じイ)を用ゐて居るが、二語とも御利生、氣散じの以前の使ひ方を知れば其應用の輕妙さがわかる。九州では「きまりが惡い」といふ代りにキノドキイといふ例さへある。「氣の毒」はもとは自分の心持を表示する語だつたから、斯ういひ出したのに少しも不審は無い。信州(134)の南から遠州にかけて、骨の折れる仕事をコンキイ、同じく北境ではくたびれて居る?態をナギイ、所謂根氣と難儀との形容詞化であつて、何れも勞働と關係した造語である。上方で今も行はるゝシンドイのシンドなども、越後信濃でシンノイと謂ふのを見比べると、又辛勞にイを附したものなることがわかる。この無意識裡の法則には、本來些かも都鄙の差が無いことは確かである。
 筆の序にもう少し竝べて見ると、標準語のヤカマシイは何故に標準語であるかといふと、單に都市人の文筆にすくひ上げられたといふ、偶然以外には理據はない。是はこの頃流布のナミダグマシイと一樣に、もとは唯ムを以て終る動詞を形容詞にする方便かと思はれるのに、次第に類推せられて中世にも既にアサマシイがある。それを卒爾に模倣すると、筑前戸畑あたりのヒサマシイ、對馬北部のアラガマシイなども出來る。中部地方の一帶ではミガマシイ・ミヤマシイ又はミダマシイ、是は仕事に敏活であつて、脇で見る目にも好ましい者を評する語である。阿波では疲れて大儀なことをダイマシイ、中國では「氣味が惡い」も「齒がゆい」も「きたない」も引くるめてイジマシイ、駿河甲斐では甚だしいといふ意にウザマシイといふなどは、或はウトマシイの變化かも知れぬが、飛騨の南境では嫉ましい又は羨ましいの意にウセマシイを使つて居る。その他青森縣ではどこでも聽くアヅマシイ、是は或はアヂ「味」といふ語から出て居るかも知らぬが、氣持のよい又は安心なといふ樣な感じを表はして居り、秋田では又ツラマシイといふ語があつて、縣の方言集には「惨憺たる」と譯して居る。斯ういふ粗相な新語も無いものだと思ふが、是でも前以ての打合せ無しに、急に作つて用ゐても相手が承知したのだから、目的は却つて何々的よりもよく達して居るのである。ヤカマシイの起りも亦斯ういふ所にあつて、別に古典の根據は無くても、聽く人にはさうと取れたのだから、通用して居るのである。言海の解説の噫喧の轉、或は彌喧の意などは寧ろ後からの話のやうに思はれる。
 今少し卑近の例ではジレッタイ、是などは女しかまだ使はず、人情本にしか見えて居ないうちに、もう字引では承認せられて居る。子供などの「だゝをこねる」だけをジレルといふやうになつてから後の作成である。各地の用法を(135)比べて見ると、ジレルは昔のシレ者のシレと同じく、知りつゝ魯かなことをいひ笑はせることで、子供のヤンチャも其一種である爲に、後には主として是を謂ふに至つたのに止まり、京阪以西のジラ・ジナクソのやうに、滑稽諧謔を意味する方が寧ろ本に近い。從つて攝津の西宮で「無遠慮な」の意にジラタイ、滋賀縣でジラタイ・ジラコイを狡猾なもしくは厚顔なると譯して居る方が尤もと認められ、越後蒲原地方のズレッコナイ又はズデッコナイを「鐵面皮な」又は「不埒な」と謂つて居る方が稍わかるのである。捨てゝ置けば都府の眞中でも、少しも在郷に負けない變な言葉が、どし/\と生まれて來たのである。根本はすべて形容詞の急場の入用が、日を追うて増加するといふことに在るは一つである。
 
     五
 
 それから東京でしか聽かない、イヽツチイといふ形容詞、一種特有のニュアンスが有るので、自分たちもどうかすると使ふが、是を作つた江戸人の氣持などは今もまだはつきりと捉へられて居ない。多分はもとメヽシイといふ語と一つであつたのが、是を發音する時にわざと少しばかり口の動かし方をかへて、新たなる感じを添へたのが語になつたのであらう。とにかく精密に此語の内容をいひかへることは、普通の文筆には出來ない藝で、しかも我々の仲間は必要に應じ?之を試みるまでに氣働きが細かになつて居る。たとへば大阪の附近でゲライと謂つて居るのは、エライの誇張であり特殊發音であつて、聽手は新しい別の語だと迄は思はない。大和で物の厚いことを、強くバツイといふのもブアツイの約まつたので無く、アツイと謂つてはまだ足らぬときの表現かと思ふ。九州中國で「きたない」に近い感じをイビシイといふのはイブセイの古語であらうが、時としては上の母音をはねのけてベヽシイと謂ふ處がある。つまりは在來の一つの形容詞では足りなくなつた場合に、その感覺の分化した路筋を追うて、少しづゝの改造加工を以て新たなる需要を充たしたのである。此例は近世盛んに用ゐられたカハイ・カハイサウナの成長を見てもわかるが、(136)その一つ前の形のメグイにしても、メゴイ・メンコイ・ムゴイ・ムゾナギイ等となつて、やはり何十といふ地方變化を生じて居る。必要があるのだから言葉を作る、相手に通ずるが目的だから最少限度に、古い言ひ方を變へて使ふといふまではよい。唯その親の語がもう年月を重ねて、たとへばウトマシイが悲しいとも恨めしいともなれば、又は物を惠まれた場合の相手の立場を評する語から、感謝の意とさへなつて居ることを省みなかつたのである。人生しばらくも用ゐずして居られなかつたカナシイといふ語すら、いつの間にか愛するといふ意味から悲しむといふところまで、更に或土地では耻づかしいを代表し、又或部分では「つめたい」の意味にも使つて居る。最初やゝ暫くの間は出來る限り祖先の語のみで、毎日の用途に應じようとして居たらしいのである。それが到底間に合はなくつても、人はさう突飛な借物をしようとしなかつた爲に、却つて割據の弊が甚だしくなつたかとも思はれる。しかし何れにしても是では當代に適應し得られない。新しい形容詞はうんと増加しなければならぬことは明白である。たゞ當然なることはそれが漢語の無差別なる採用であつてはならない。少なくとも我々の内に在つて、今や外部に向つて表はさうとする感覺にひたと當てはまつた内心の言葉で無くてはならぬ。今までの急製品がそれではこゝがまづい、もしくは是では相手に通じないといふことを知らせることが出來たら、言はず語らずのうちに人の選擇はもう少し正しくなつて、きれいなはつきりした又言ひよい形容詞が、追々に此國には生まれて來ることゝ信ずる。是を導くことの出來ない國語教育は改革すべく、それを助けることも出來ない方言研究などは繁昌しなくてもよい。
 
(137)  鴨と哉
 
     一
 
 私の話は思ひ切つて問題が小さい。少年の頃から抱いて居た不審で、今なは誰からも説明してもらへないことは、どうして和歌と俳諧の發句とにばかり、此樣に哉が多く用ゐられ、文章や演説となるとそれが省みられないのだらうか。それに伴なうて今一つ、どうして萬葉以前には鴨ばかりが盛んで、古今集から此方は是が皆哉になつて居るのか。この二つの疑問は、子供でもすぐに抱き、しかも老人でも答へることがまだ出來ない。小さいかは知らぬが自分などの一生を支配したから、少なくとも長いとは言へる。さうして明らかに是は言語學上の問題であつた。試みに次のやうな方法を以て、是に近よつて見ては如何であらうか。結論の賛成を求める前に先づ此點を御相談申したいのである。
 斯ういふ問題に當面するたびに、順序として私たちが先づ考へて見ようとするのは、「哉」が所謂古語もしくは死語であるか否かである。古い形の歌俳諧以外に於ては、もはや我々の日用語では無いのかどうか。もしも亡びた語だとすると、「鴨」の代りに「哉」が出來たやうに、何か必ず是に代るべき次の語が無ければならぬが、それは現在のどういふ語に當るのであらうか。外國人で無い限り此答には苦しまぬ筈である。二通りの答が兩立し得るやうに私は思ふ。その一つは「かな」必ずしも全く絶滅しては居ない。少なくとも近い頃までは之を常用する人が居た。三馬の浮世風呂では婆さんが「いやなことかな、いやなことかな」といひ、山門五三の桐の石川五右衛門も、たしか「あゝ絶景か(138)な」と謂つて居るのみならず、私たちでも稀には會話の調子を出す爲に、「幸ひなる哉」などゝ謂つて見ることがある。たゞ十年前までの俳句見たやうに、極度の濫用をせぬだけである。第二の答としては代りも既に出來て居る。話に「かな」を使ふのはあまりに古風だと思ふ者は上方でなら「えゝ都合やな」のヤナ、關東でなら「淋しい晩だな」のダナのやうに、大よそ同じ心持を表はす言葉が幾つか出來て居て、何れもナを存し、カを置き換へ又は拔き去らうとして居るのである。
 
     二
 
 一部の歌謠文藝に於ては、「かな」の流行は實はやゝ過度であつた爲に、用途が世と共に擴張せられ、從うて其講釋も込入つた、獨り合點のものが多くなつたやうだが、近頃の翻譯文學ならばいざ知らず、單語が其樣な煩はしい計畫を以て、發明せられよう筈は無い。畢竟は是も疑問のカにナを附けたまでのもので、以前はそのカといふ疑問辭の用法が、文學に於ては稍廣汎であり、日常語に在つては近世殊に制限せられる傾きを生じた爲に、時を隔てると幾分か物遠く感じられるやうになつたらしいのである。此想像は古今集のカナが、萬葉のカモを相續して居る事實によつて、或程度までは支持せられる。所謂カナを意味するカなるものは、カモの全盛時代にも既にあつた。又モガといふ欲求の後置詞は、鴨期にはモを添へてモガモとなり、哉期に入ると「いそのかみふるや男の太刀もがな」といふ樣に、ナを添へてモガナを作つて居る。近世文藝にも現はれた「何がな一つ」のガナも、其續きのやうに見られる。
 次に注意せられるのは、ナ又は是に近い音の用法に、多くの時代を一貫した何物かゞ有ることである。萬葉期にはネといふ形をとつて、用ゐられて居る例が若干は檢出し得られるやうだが、古今集以下になると、京都では少なくとも專らナとなり、それが又?ナンとも發音せられて、他の異なる目的をもつナンとの境目が、書いたものゝ上では非常に紛らはしくなつた。古今集などのナンは、明らかに三種の全くちがつたものが雜居して居る。第一は未來推測(139)のナン、
   渡らば錦なかや絶えなん
   いとゞ深草野とやなりなん
などのナンで、是はたしかに助動詞であり、ナバ・ナマシ・又コソに對してはナメとも屈曲する。多分はヌ・ヌル・ニキ・ニシなどゝ共に、ナリから出發した一系統の活用の、やゝ不完全なる保存だらうと私は思つて居る。第二には願望のナン、
   山の端にげて入れずもあらなん
   いざこゝに我世は經なん菅原や
などのナンで、是は少しも變化をせず、助動詞でも何でも無くて、單に動詞の未來形の中間に、ナの一音節を插入しただけのものであり、其結合の外形だけが前のナンと似て居るのである。だから一方が、
   散りなん後ぞ戀しかるべき
といふに對して、この方は、
   散らば散らなん散らずとて
といふやうに、繋がり方もちがつて居る上に、更に、
   宵々ごとにうちも寢ななん
   浮きながら消ぬる泡ともなりななん
の如く、第一種の推測のナンの間に、更にもう一つのナを附加したものもあつて、元の形はナンでは無くナである。第三種は所謂天爾乎波のナン、物事を指し定むる意、ゾに似てなだらか也などゝ大槻翁の云ふもの、古今の序には、
   其はじめを思へばかゝるべくなんあらぬ
(140)があるが、歌には用ゐられて居る例をまだ見つけ出さぬ。根源はナモと一つで嚴肅なる表白に限られて居たのかも知れぬが、此頃から次第に數しげく、普通の消息にも談話にも使用するやうになつて來て居る。つまりは單なるナの代りをするやうになつたのである。
 
     三
 
 この三通りのナンのうち、第一種のものだけは少なくとも歴史を異にして居る。語源は或は一つだつたかも知れぬが、それにしても手を分つてから、よほど久しい年代を經て居ると見られる。之に反して第二と第三のナンは、今なは可なり似通うた點を幾つかもつて居る。我々の言葉づかひのどの部分にでも、自由に插み込まれるといふことが其一つである。二つには元の形が實はナであつて、歌には其方がまだ多く用ゐられて居ること、三つには是が今日の口言葉にも盛んに入つて居て、恐らく日本語の最も大いなる特色、しかも何人にも構ひつけられない特色となつて居るアノネ・サウデスナなどのネ又はナと、假令直接では無いまでも、斷ち切れない脈絡を引いて居ることである。此以外にも捜せばまだ有らうが、自分は先づこの三點に注意して見ようとするので、それが上代の我邦に、突如としてカナといふ語が生まれて大流行をした事情を、説明することにもなるかと思つて居る。
 所謂願望のナンが實はナンでは無く、たゞの動詞の未來形の中途に、ナを插入した迄であつたことは前に述べた。この種の構造法は何か理由があつたと見えて、實用の上には早く絶えて、和歌だけに最近まで踏襲せられて居た。是とはちやうど裏表に、第三種のゾに近いといふナンの方は、丸々とも斷言しにくいが殆と歌には用ゐられず、その癖中古の上臈文學には、煩はしいほど多く繰返され、後々の擬古文かきには、是を發句の哉と同じく、眞似の一つの目標にさへして居る。誰でも知つて居る如く、このナンの前身はナモであつて、ナといふだけでは力が足らぬといふ、場合に限つてもとは用ゐられて居た。それを何でも無い日常の物言ひにまで、やたらに添へるやうになつたのは女子(141)供の僻で、同じ流行の例は近世にも色々ある。是を所謂和文の特徴のやうに心得たのは、あはれなる迷信であつた。歌だけがこの顰みに倣はなかつたといふことは、單なる語調の趣味からで無いことは、他にも別種のナンを二つまで、盛んに用ゐて居るのを見ても明らかである。私の想像では、ちやうど古今序の「かゝるべくなんあらぬ」の頃から、歌言葉がほんの少しづゝ、口言葉よりも後へ取殘されて幾分か古風を守るといふ傾向を生じ始めたので、後代二種の用語が段々と分れ遠ざかつた、こゝが追分けの辻であつたかと思ふ。或は文章道の發達が、外に在つて刺戟を與へたのかも知れぬが、それにはまだ安全なる證據が見つからぬ。たゞ少なくとも歌と口言葉と各獨立して、言葉を選び又採用しようとした痕跡だけはほゞ明らかに認められる。
 しかも後世の三十一文字の中に、いつとも知れず入つて來た特殊用語、オモヒキヤ・サモアラバアレの類、或はもう少し下品なナゲクゾヨだの、ワスルナヨといふものゝ全體を見渡しても、單に現存の他の種の文學に無視せられて居るといふのみで、新たに歌といふ象嵌細工の爲に、個人が工夫し出したかと思ふものなどは一つだつて無い。又さういふ新作の語を作つて見たところで、通用した筈も無いのである。殊に其中でもミセバヤナ・ノドケシナなどのやうに、どこにでもナを插んで五字七字の句を充すといふ風は、後世餘りなる摸擬濫用があつたといふのみで、萬葉にも古今にも、探せば幾つもの例が既に有る。たゞ後撰以下の時代の集に入つて、急に著しく其數を増したといふのみである。たとへ文章の上には痕跡は殘らずとも、古く國民の口言葉の中には、今日我々が最も調法して、毎日無制限に使つて居るナアやネエと、大體同じものがちやんと有つたから、歌には之を採つてカの疑問辭にもナを流へ、アラン・ナランの未來形にもナを挾んで、願望を表示し得たのである。個々の應用には發明もあり擴張もあつて、從うて時代の變化は區々であつたが、之を一貫した法則は決して中古の制定では無かつたと思ふ。
 
(142)     四
 
 是は歌謠がもと相手方に言ひ掛けるといふ點に於て、今いふ話し言葉と同じ種類の、國語の働きに屬して居たことに心づけば、少しでも怪しむに足らぬ現象だつたのであるが、是までの國文學家なるものは、どうしてか文章と歌との二つの對立を認めようとせず、是を文學又は文藝の總稱の中に引つくるめ、しかも何の證據も無いのに、歌ばかりか文章までが、すべて或上代の口言葉のまゝを、書傳へたものゝ如く推定して、是とあまりにも懸離れたネエ澤山の我々の會話を、墮落の如くにも自ら卑下して居たのである。文章はどこの國でも、多分筆と紙との工藝が傳はつてから後に、始めて大いに發逢したものと思ふが、もしも其以前にもさう名づけてよいものが既に有つたとすれば、それは今日の「かたりもの」と同じ系統の、國語利用法の古い形であつたらう。カタルとイフとは既に混淆して境が無く、歌と語りものとも人によつては一しよくたに考へて居るが、「かたりごと」は精確と簡明とを主とし、最初から歌のやうに話し言葉の約束に從はなかつたことは、ちやうど演説がどんな口達者な人にやらせても、到底アノナアだのネエ君だのを入れることが出來ないのも同じかと思ふ。ところが現在殘り傳はつて居る中世の物語類は、歌を含み手紙の文を含み、又作中の人の物言ひがずる/\と、括弧も無しに書き續けられて居る爲に、講釋を聽けばこそやつと判るが、讀む者の印象には二樣の言葉使ひのけぢめが立たず、終に近世の所謂和文のやうに、歌と文章語のごもく飯が出來あがつたのである。昔のナンならば文章の中にも使つてよろしい、といふよりも是非使ふことにして居るが、今日のナア・ネエだけは入れられぬといふ理由は有り得ない。二者を入れられぬのは文章だからである。さうすればナンだつてやはりをかしい。このまちがひは所謂漢文崩しの文章にも澤山にあつたのだが、今はもう問題にする必要も無い。爰にはたゞ古來の文獻を無差別に言葉の記録と心得て、是のみによつて國語の歴史が明らかにし得られるものゝ如く、考へて居る人に抗議すればよいのである。日本の文章の一つの見本としては、誰も退屈してよく讀まうとせぬ(143)が、「御湯殿の上の日記」などを擧げることが出來る。是ほど日常の又平易な、女性の文章であるに拘らず、あの中にはたつた一つの哉も無く、又よつぽど氣をつけて探して見たが、コソもゾも見つからず、ナンなども用ゐて居ないやうである。之に反して一方あの頃以來の歌連歌俳諧には、カナが益多くなつただけで無く、例のミセバヤナ・カクトダニ・ゲニサゾナといふ類の獨特の言葉が、際限も無く増加して居る。多數は無責任な先例主義でもあつたらうが、何れも本來は會話の言葉であつたことを考へると、歌の中へならば斯ういふものが入れ易かつたので、是だけは所謂感情の流露、即ち平生物を言ふのと同じ心持で、言葉を使ふがよいといふ古來の感じが、暗々裡にまだ傳はつて居たものかと思ふ。
 
     五
 
 歌や發句だけには使はれて、他の種の文學には用ゐることの出來ない單語文句といふものは、列擧して見ると隨分多いが、其中でも殊に目に立つのは代名詞で、「よしや君昔の玉の床とても」の類は勿論、所謂呼格としては用ゐて居ないワレやナレでも、目的は必ずしも主格客格を明らかにする爲では無く、主としては聽く人の注意を自他の身の上に引付け、印象を強くするに在つたことは同じである。是に就いても我々は、今まで誤つた物の見方をして居た。西洋人の物言ひは、ヤーマイネフラウだの、ビヤンモッシューなどゝ、やたらに人の代名詞を引合ひに出す。もしくはアイ・マイ・ミー・マイセルフと、自分のことばかり言つて居るなどゝ、さも日本語との一つの違ひのやうに看做して居たが、實はこちらでも元は相應にさうなのであつた。たゞ改まつた辭令とか、御使番の口上とかいふものが、多分は文章又は「かたりもの」の影響を受けて、努力してその道具立てを省略しようとし、それが又上品な會話の風ともなつたらしいのである。日本人の演説などゝいふものも、此點に於てもう一應其經過を檢討して見る必要がある。僅か四五十年の間に全く形式化したり、文法としては誤りは無くとも、一人として之に動かされて考へをかへる者な(144)どは無いといふ空表白になつてしまひ、一方には又あの人は座談は無類だが、演説がちつともうまくないなどゝいふ名士を生じたのは、つまりはまだこの合の手の本來の趣旨を會得せず、所謂閣下竝に諸君を、たゞ飜譯式にしか眞似ることが出來なかつた爲かと思ふ。
 近年の言文一致運動なるものも、その效果と動機との兩面から考へて、日本の國語史の上では可なり重大な又興味の深い事蹟であつたにも拘らず、今はまだ僅かに語尾のケリ・ナリを、アッタ・デアリマスに改めたといふに止まり、其御蔭で格別思ふことが書きやすくなつたとも言はれないのは、何かまだ窮屈な古い拘束が殘つて居るのである。文章といふものは元來が記録であつた。語音の到達する現在の周圍以外に、遠い目的をも兼て持つて居る。證據となつて永く殘り、記憶せられて後に役立つことを考へると、晴れの言葉使ひには特別の用意が加はらざるを得ない。乃ち言語の勢ひ・うまみ・潤ほひといふやうなものゝ若干を犠牲にして、辭句の整頓を企てるのだから、所謂よそ行きの切口上と同じく、言はゞ一種の通譯であつたのである。それを許される限り心臓に近いものに引戻さうとするのだから、焦點は勿論デアルでは無い。もつと思ひ切つた解放が、まだ將來に豫期せられて居るのである。之に反して話し言葉の方は、有る限りの國語の妙用を、全部最初から發揮して居たと言ひ得る。普通には交通といふ總稱を使ふやうだが、さういふ中でも要望・勸説・強壓・歎願・非難・反抗等、及び此等の一々に對する應答の如き、大よそ人と人との交渉の原始的なるものは、すべて皆この話し言葉の最初からの役目であり、少なくとも是に依ることが、書くものを含む他のあらゆる方法よりも遙かに早道であつた。その手段としては既に數千年の間、毎日のやうに利用し來つた色々の小さな言葉、たとへば古今集以前から歌にも用ゐられ、今なほごく僅かの模樣替へを以て使ひ續けて居るナとかネとかいふ語音の、特質も效能も考へて見ようとせずに、たゞ演繹論風な言文一致を唱導するとすれば、結果が今日のやうになるのも是は先づ已むを得ない。
 
(145)     六
 
 鴨から哉への變化を説明する爲にも、やはり此點から考へてかゝる必要があるが、しかし此問題の意義は更に一段と深い所にあつたのである。細々としたことは爰では説き表せないが、私の明らかにして置きたい二三の點を擧げると、第一にはこの我々のナ又はネは單語である。年寄などの話によく出て來るエー・アーなどの呼吸音とは大分ちがつたものである。第二は是は方言では無い。どこにもある。誰でも知つて居り且つ使ふ。誰にでも意味はよくわかり、其母音の土地毎の訛りは、少しでも私の謂ふ同語意識を害しない。たとへば東京では、ネの短いのと長いのとだけが、目下最も多く用ゐられるが、人によつては今でもナ・ナァを使ひ、又蒟蒻本などを見ると、しやれ者は「むごくするの」、「うまくいふもんだの」などゝ、以前は隨分ノも使つて居た。強ひて今日の流行を言へば、出來るだけこのネに節を附けないことであらうが、今自分の住む小田急の沿線などは、それとは反對にナァヨ・ネェヨが有力であり、東と北の郊外に行くと、ナァア・ネェエと大いに強調して居り、更にその外側にはアノナイなどゝナイも使はれて居て、それを土地々々の別の語だと思つて居るものは一人も無いのである。僅か氣をつけて居ればわかる樣に、すべての場合を通じて、此語を發するのは必ず眼を相手の顔に遣る時である。それを正面から見るか、ちらと見るか、又は小説などに折々ある如く、努めて見ないやうに横を向いて言ふかは、其時々の氣持の差であつて、何れもそれ/”\の效果を期して居る。まして此ネ・ナを添へると添へないとでは、既に趣意に於て大きな相異があるのである。是を用ゐずに世を渡れと言はれると、我々は非常に困る。ナ・ネを使はずともよいのは文章と、今私のして居るやうなお粗末な講話とだけである。
 全國を見渡してもネ・ナ・ノウの區域は錯綜して居る。又多くは併存し、たゞその一つが特にはやるだけである。或は三者の用法を分化させて居る地方もある。たとへばノウは目下に使ふといふもの、又是とは反對に長者にノウを(146)使ふといふ處がある。短いナよりもナァの方が丁寧だといふ處、又は一般にナを添へるのが丁寧といふ土地がある。ネは女の專用で、男は候はぬといふ所もあれば、母音を強く引くことは感情を表はす爲とも謂つて居る。土地毎に斯ういふ細かな使ひ分けは出來かゝつて居るが、それも追々に種類が分れて來てからのことで、古來のものでは無いと見えて、まだ共通した法則は無い。現在ほゞ明らかになつたことは、此中ではネが最も新しいことである。稀には今一歩進んでニーと言つて居る例さへあるが、是などは又ネからの分化のやうである。ノは短い方が新しく、長い方はナウとも聽えるから元はナの長音で、即ち中古の口言葉のナンに最も近いものである。
 
     七
 
 この以外に、別に敬語を作るナンが名古屋地方にはある。是は我々が覺えてからの變化で、元は今少しはつきりとナモと謂つて居た。其ナモも亦ナモシから變つて來たのらしく、少なくとも上代のナモとは別ものであるが、是を用ゐようとする氣持はやゝ似て居る。このナモとナンとの中間のやうな言ひ方は、信州南部までに及んで居るが、山を隔てゝ東美濃の方は却つてノウシ、三河も一般にノウシ・ノンシ・ノシ等が行はれて居る。是も靜かに聽いて居るとまだナモシに近く響くのである。このノシ・ノンシの區域は存外に廣く、伊良湖の岬端から海を越えて三重縣の南部、熊野路にも續いて居る。紀州は土地毎の小さな變化が數十に及び、或はノシラとも(日高)ノシヨともいふ郡が(海草那賀)あることは、「和歌山縣方言」にも見えて居るが、その主たるものはやはりノシで、人に與へる言葉だからノシを附けるのだと、まじめに説明して居る人さへあるといふ。それから又海を越えて四國の南岸一帶、九州の外廓にも及んで居る外、飛んで又北陸の海治ひにも處々に是があるので、東京には無いといふだけがやゝ方言らしいのである。伊豫松山のナモシなどは、夏目氏の「坊ちやん」が之を有名にしたが、爰でもノモシ・ノウシが併用せられて居るので、最近出た方言集には、ナモシは目上又は見知らぬ人に呼びかけるとき、或は特に人の注意を惹くときに使ふ(147)とある。つまりは申しを附けるから敬語になるのである。本來は神を祭り、上司に告ぐることだけが「申す」であつたのを、我から際限も無く擴張して置いて、後で氣が咎めてそれを少し粗末に發音したものかと思はれる。今日一般の語になつて居る電話のモシ/\なども其末勢だが、今少し「物申す」の心を殘したモシ・マウシを、人を喚ぶ時などに東京でも使つて居る。ナとかノとかに添へることだけが、耳馴れないのである。
 東北一帶から、越後の北部までに行はれて居るネス又はネシも、多分はネ申スの崩れたのであらうと思ふが、是だけは今も明らかに敬語であり、又その以外には敬語の無い土地も多い。たゞ適用が餘りに廣く、又改まつた時にも力を入れるときにも使はうとするが故に、旅人には敬語とまでは受取れぬ場合が多いのである。ネシは村によつてはナシ又はナスともいひ、そこだけにひどく力を入れるので、或は私語することナシウル(梨賣る)といふしやれた慣用動詞も出來て居る。この點は古語のサヽヤク又は近世のコソ/\話もよく似て居る。即ち何を謂ふのか人にはわからなくて、たゞ末尾のコソばかりが、幾度でも耳につくからコソ/\話なのである。
 
     八
 
 ネ・ナは兎に角に相手の理解を、たしかめようとする語であつたのだが、まだそれだけでは何か念が足らぬやうに感ずる場合に、申す其他を附け加へる風が起つたのである。大昔のナモがナンになつたのも是らしいが、女が特にこの必要を切に感ずるのである。東京などのナシやナモシを使はぬ土地では、其代りとしてネェアナタが連發せられる。それを青年少年までが是認して新たに又ネェ君が流行したのは、ほゝゑましい復古である。是と同種の表現は廣島縣西部から周防にかけて盛んに聽かれる。
  よろしうありませうかノンター(祝島)
  こまつてごだんしたらうノンタ(屋代島)
(148)の類で、是は長門の一部にも及んで居るが、さういふ土地では無論ナモシ・ノンシは無い。九州は福岡縣はあまり之を聽かず、肥前に入ると又非常な勢ひで是が用ゐられて居る。藤津郡の一例をいふと、人によろこびをいふにも相手によつて、
  けつこなこつぢやつたナタ(上へ)
  けつこなこつぢやつたノマイ(下へ)
と、アナタとオマヘとをちやんと使ひ分けて居る(念の爲にいふが、前の方のナタはナアナタで、此處ではアナタを多くアタと發音して居る)。佐賀縣の會話のアンタは盛んなもので、唐津あたりはナンショルカンタ・アリャナンカンタなどゝ、何んでもかでも終りにはアンタを附けるので、或文法家は是を動詞の一つの働きの如く報告して居る。しかし斯ういふ風に疑問辭の後にも附け、又明瞭に「お早うあなた」などゝ言つて居る土地もあるのである。肥後へ越えると熊本ではナンカイタ(何ですか)サウカイタ(さうですか)が敬語で、もう形式化して人によつては一種の助動詞とでも言ひさうだが、やはり在方では  略々わかるやうに、アーターを句尾に添へて居る。是などは明白に西洋でいふヴォカチイフで、我がいふことを相手が知つてくれたか否かを、突留めようとする語法なのである。東北でも陸前石卷などには、
  さうなんやキサー
といふ物言ひのあることが石卷辯にも見えて居る。即ち平素はあまり用ゐぬ貴樣といふ語をやゝ粗末に發音して、相手にうつかりと聽き流させまいとする用意かと思はれる。
 
     九
 
 以前は尚更のことゝ思ふが今日の世でも、話を朗讀の如く又雄辯家の演説の如く、立て續けにしやべつてそれで用(149)が足りるといふ相手方は少ない。寧ろ間を置き半分を言ひ殘して、それが如何なる效果を收めて居るかを、調べる爲にも斯ういふ合の手は必要だつたのである。もしナ・ネを達發させまいとすれば、何か代用の語がそこに無くてはならぬ。實際又それが色々と設けられて居り、程よく組合せて使ふうちは耳立たぬが、少しく調法がつて餘分に使ふ口癖を生ずると、聽きつけぬ外部の人はすぐに問題にするのである。關東のハーは話し家の口にも上り、信州人のハイなども使ふなと言つたら苦しがる。東北でよく聽くのは、ナントがありマンヅがありホニがある。よく/\あちらでは此價値が體驗せられて居るのである。大きな都會でネやナが濫用せられるのも、或はさういふ地方丸出しの癖を、すべて抑制して是に代へようとした結果とも見られる。全く無くすることの出來ぬのは是からでもわかるやうに思ふ。我々の口言葉を安らかなものとする爲には、先づこの一つ/\の成立ちを知つて、成るべく適切なる場合だけに、限定するやうにさせるのが早道であらう。徒らに無視するだけでは國語は日を追うて亂雜になり、一方言語學は實際の生活と何の縁も無いといふ時代が、もう少しの間は續くかも知れぬ。
 面白いと思つて居る口言葉の癖はあるが、枝路になるからほんの片端だけに觸れる。日本海側では秋田から新潟にかけて、セェといふ語をよく句の中に入れる。
  あのセェ、おまへも見て居たつたか(西蒲原)
  あのセェ、早く來いと(山本)
 秋田では「あのセァ」・「あのシャ」とも發音し、又「あのエス」といふのも同じ語らしい。關東でも近頃は段々聽かなくなるが、元は年とつた女などが、「私がセニ、斯う謂つたのだよ」とか、「それがセェまるで別の話なんだよ」とかいふことを?謂つて居たのが同じ語だらうと思ふ。或は「あのそれ」などの感じで使つた人もあるか知らぬが、私はなほ以前のコソの名殘のやうに考へて居る。北九州でよくいふ「あのクサ」又は「アンクサ」は、殆と「あのネ」に近い心持でいふやうだが、是は確かにコソであつて、又幾分かネよりも力が入つて居る。一知半解だからあぶなくて(150)多くの例は引き得ないが、「行くバイ」「よかバイ」のバイなども、淨瑠璃でよく使ふ「あるワイヤイ」のワイ、又東京の娘たちの「行くワ」・「あるワ」のワと同じ語で、共にもう起原を意識しない「我は」であつたかも知れぬ。此單語は昔から、實に自由に句の中のどこにでも置かれて居た。東京で「いやだワタシ」などゝいふのも、必ずしも「私はいやだ」を逆にしたものでは無い。東北へ行くと「何だやオラ」、「マンヅオラ暫くでござんした」などゝ、飛んでも無いところにオラを入れる。それも起りを知つて居れば段々と使はぬやうになるだらうが、中には只さういふものだと思つて使つて居る者もまだ多い。たとへば神戸の附近の下流語に、
  シタルカレエ=してやるものか
 熊野の尾鷲邊で、
  カモトカレ=構ふものか
などゝいふに至つては、或は是も動詞の一つの働きのやうに、心得て居る者も無しとせぬのである。福島縣の南部で、「すきにしろヤレ」、「おらやだヤレ」などゝいふヤレが、やはり此列に入るべきものであることから推して考へると、我々に馴染の深い「ヤレうれしや」、「ヤレあぶない」などのヤレも、「遣る」から作つた命令形とは考へられない。是等も多分大昔以來、歌と口語とには常に用ゐられ、文章の中へ入り得なかつた「我は」の變化であらう。
 
     一〇
 
 斯ういふ古風な又地方的な、多くの手段が次々にいやしめられて、ネかナかゞすべて其代りの役を勤めなければならぬことになつたとすると、此語の重要さ、從つて又その細々とした分化は、必然の結果と謂つてもよい。或は最初からN子音に其樣な大きな力があつて、時到つて愈統一の成績を擧げたとも見られぬことも無い。自分は爰にたゞ一二の思ひつきを引用するに止まるが、是は當世の言靈學者に取つては、可なり愉快な課題であらう。とにかくに中(151)古以前の文字記録の幽かだといふだけを以て、ナ・ネの使用が昨今に始まつたものゝ如く、速斷することは許されぬやうである。
 ナ行音の勢力の優越といふことには、少なくとも歴史の可なり確かな根據がある。さうしてその幾つかの用途を一貫して、常に此音を耳にする者の注意を引締めようとする目的をもつて居たことは、ごく簡單に之を證明し得るやうに思ふ。一つの例は、遠く行く者を喚びかけるナウ/\、是だけは不思議に以前の方が盛んで、近頃は却つて「申す」の系統の語に復歸して居るが、今でも方言としては信州參河の境のナムホイ、紀州東牟婁郡のノウテヤ、越後西頸城又は甲州奈良田のナイやナァイが報告せられて居る。曾ては田舍にも是が一般的であつた痕跡かと思ふ。次には人の名を言ふときのサンやドンの前が、ナであつた名殘は奧羽の昔話にヂィナ・バァナ、もしくはヂィナムシがあつて、稀には現在も之を使ふ人がある以外に、セナといふ古語もまだ東日本には活きて居る。それと聯想せられるのは阿波・土佐のナヽである。ナヽサンといへば元は上流の母のことであつたが、今はナヽヤンだのナヽンだのとなつて、年たけた下婢などにのみ用ゐられて居る。是が一地方の發生でなかつた證據は、松前藩でも良家の老婦がナヽと呼ばれたことが、寛政初年の旅人の手記に見えて居る。山形縣の莊内地方でも、父が母を、夫が子持ちの妻をナヽァと呼ぶ例が今もある。多分は小兒の語を借りて用ゐること、當世女房が主人をパヽといふが如きものであらう(但し北海岸一帶では、マヽァといふのは祖父のことである)。このナヽァは又千葉縣にもあるが、爰では兄のことであつて、小兒は又ナヽコウとも謂つて居る。之に對して姉の方はネェ又はネェヤ、即ち姉兄の古い名が、やはり幼兒の喚び聲から出たことを推測せしめる。チャアが父を意味することは全國的だが、東北では母をヂャ/\、佐渡の海府では娘をチャアといふこと足利時代のまゝで、是も亦幼兒語の借用と思はれる。
 其次に考へられるのは汝をナといふこと、古い日本語であつてしかもまだ活きて居る。奧羽はウナ・ンナと發音し、東京ではウヌとまで墮落して居るが、越後の頸城地方などは正直にまだナと謂つて居る。もつと變つて居るのは沖繩(152)では花がノウ/\、肥後の葦北郡でも花をノウ/\又はナヽ、同球磨郡には美しいをナヽカといふ形容詞も出來て來て、伊豆新島でも供花がノンノウであるといふ。是も或は幼兒語の借用でもあらうが、越前吉田郡では太陽をナヽサマと謂つて居る。神佛日月をノヽサマといふのは、起原が或は間接であつたかも知れない。今でも田舍には例のあることだが、神佛などを拜む人の言葉が常にナウ/\を以て始まつて居たのである。それ故に信州では縣巫をノウノ、又その周圍には僧尼道心者をノウノといふ處もある。即ち彼等の發する音から出たことは、烏をカラスといふのともよく似て居る。
 
     一一
 
 それから驚きに際して思はず發するアナ、是は古い言葉で今はアヤもしくはアレハの變化らしいアラと變つて居るが、土地によつてはまだ古風に、オナと謂つて居る處もあり(西頸城)、又之に基いてオナオッカといふ感動詞も出來て居る。複合語としては風の名のアナジなども、豫期し難い怖ろしい風だから、アナジと呼んだものかと思はれる。古史に見えて居る穴の濟又は穴門の海なども、此風と關係のある地名のやうである。
 否をイナといふ語が同じN子音の應用であつたことは、誰にでも類推の可能なことゝ思ふが、それよりも面白いのは、是と反對の然りといふ場合にも、やはり同じ系列の子音が使はれて居たことである。現在の地方語にハイをナイと謂つて居るのは、先づ西端では壹岐と平戸、肥前の東彼杵と唐津地方、筑後の久留米領などは小さな川一筋を隔てて、向ふの柳河領がエイといふに對し、こちらはナイであつた。又肥後の上益城、豐後の大分の附近にも然りをネェといふ處がある。近畿の四周では因幡の東部にもナィ、大和の吉野郡の奧でもノオエ又はノオイが然りを意味し、近江の石山附近にさへ諾を表はすノウが有り、伊勢の北部富田附近にもハイの代りにナといふ處がある。それから東北の方では莊内でナェ、米澤でウンナイ、仙臺も古くはウナイ・ムナイ・ナアイ・ナイなどゝ謂つて居たことが、達用(153)抄その他の方言集に見えて居り、石卷附近では今もンネアといふ答を聽くし、岩手縣で紫波郡、秋田縣でも市の近くまで、ハイの代りにナを用ゐる者が居る。捜せばまだあらうが、もうこれ位でも十分であらう。上代文獻には假に一つの痕跡すら認められずとも、是ほど方言區域を超越した弘い一致がある以上は、夙くから此風が全民族の間に在つたものと見てよからう。東京では「有るのをナイと謂つた」などゝいふ笑話さへ出來て居るが、しかも町の人たちの話を聽いて居ると、盛んにナヽを連發する人が幾らも居る。是を「なるほど」の略と心得て、幽かにルを添へる人もあるやうだが、その「なるほど」だつても實はナが謂ひたい爲の借用かも知れない。其語のもとの意味には應答の感じは含まれて居ないのである。
 反對に用ゐて居たイナの方はイヽエに代つて、却つて今日は普通に行はれて居ない。東北ではナンニー、土佐ではナンチャ、都會でナアニ・ナンノ・ナニサ・ナニクソ等といふものが、言主も「何」のつもりで、頻りに否の代りに用ゐて居るのである。「何」が疑問辭なら終りにカかゾが來なければならぬのだが、それと無關係にたゞ否認の意を表する習はしは、北陸へ行くと殊に耳につく。たとへばさうでないといふ處をナモ・ナンモ・ナァモ、飛騨でもイヽエをナァモヂャなどゝ謂ひ、「つまらぬことをした」をナムナイコトヲシタといふ例は、諏訪でも名古屋附近でも聽くことがある。何といふ漢字を宛てゝよいかどうかも實は疑問である。沖繩縣の言葉と比べると氣がつくが、島々にはイカ(如何)の系統に屬するチャーとかイキャといふ疑問詞がよく普及して居て、ナニに該當するノウとかヌウとかいふ語はたゞ僅かばかり其間に插まつて使はれるのである。後者が比較的新たに參加した特殊形であつたことが想像せられる。それを我々の方ではやゝ無理をしてゞも、あらゆる疑問句の頭に置かうとするので、此方面では古い語法が、甚だしく變化したのである。此點は或は無を意味するナも同じだつたかも知れない。行くナ、ナ行きそなどの單形を見て行くと、是が形容詞化したのは寧ろ第二次で、其爲にアルといふ動詞の活用は歪められて居る。南の島々では今でも「無い」は皆アラヌである。
 
(154)     一二
 
 是等の諸例から綜合して見ても、ナが聽く人の心を捉へる大切な語であることは、先づ確かと言つてよからう。そこで立戻つて鴨が哉になつた經過事情を考へて見るのに、先づ第一に我々のマ行音とナ行音とは、以前は或はもう少し今よりも互ひに近いものだつたかと思はれる。さうして一方から他方への推移、もしくはN子音の流行とも名づくべきものが、少なくとも近畿諸國に在つては、ちやうど我々の二つの古代歌集の中間頃に、出現したものでは無からうかと思ふのである。この二つの子音の動き方は、今でもなほ進行中と言つてよい。蜷結びはミナムスビかニナムスビかといふ説が、徒然草の中にもたしか見えて居るが、現在も地方により又は人によつて、雙方の何れかゞ使はれて居る。虹の語音の變化に就いては、曾て音聲學會の年報に報告したこともあるが、その子音もまた國の五分の三ほどがNで、他の五分の二はMもしくはBなのである。壬生は漢字にはニフと書いて、京都では今でもミブ、鳰は文學にはすべてニホだが、是をミヨ又はミョウツンブラといふ者は駿河邊に多い。蓑をニノといふ地方は瀬戸内海沿岸にあると同時に、之を作る藁のミゴを、ヌイゴといふ處が能登半島にはある。沖繩ではマ行は一般にナ行になつて居るが、それも近世の變化だつたと見えて、現在ナチジンといふ今歸仁の郷名を、四百年前の文書にはミヤキセンと書いて居る。從つて曾て今のナの多くをマ音に近く發音して居た時代も想像せられるが、更に一部には古くからのマ行のまゝを保存して居る例も段々あるらしい。即ちカの自問辭にモを添へて鴨としたと同じ心持で、マニ/\・マヅなどの語は生まれたのかも知れず、更に想像を進むれば申すのマヲス、必ず對手の目を見るマタス・マツル・マヰル等の語も、斯うして用ゐられ始めたかとも思はれるのである。
 ともかくもこの最も發音の自由な二つの子音は、言語の活用即ち我々の次第に精微になつて行く感情なり氣分なりを、最も有效に人に訴へ告ぐる爲に、缺くことの出來ない要具であつた。各人が是を我手で色々に加減調節して、人(155)間の交通は爲し遂げられたのであつた。今更代りも無しに之を禁絶することは、一部の?を作らうといふのだから成功しない。文章道を改良してもつと空々しくないもの、今よりも更に適切なるものとする爲には、話の言葉の支援を仰ぐの他無きことは明らかだが、ネやナは困ると謂つてそれだけを殘して來ることは、蓋の無い火消壺のやうなもので役には立たない。ネェネェ・ナモシのおろかしい濫用は私なども確かに認める。しかし是を排除するが爲にも、なほ何が故に我々の日常語が、斯うならずには居られなかつたかの、理由を明らかにする必要があると思ふ。
 今日までの殆と一般的なる思ひちがへは、所謂方言調査の對象は、すべて皆地方の話し言葉の現象だといふことを、忘れて居たところから出て居る。地方の言葉の現?を精査すれば、わかつて來るのは古來の話し言葉の變遷である。それを如何ほど上手に整理要約して見ても、少數專門家の文章語の參考には先づならない。さう思つて勉強して居たら多分は失望するであらう。文章は世と共に非常に變化するもので、現に今日でも註釋によつて江戸文學を味はつて居る有樣である、それを正しく會得する爲の解釋學も必要かは知らぬが實は事が小さい。文章は何れ先方に述べたいことが有るのだらうから、彼等をして我々の理解するやうに書かせればよろしい。一般國民の言語研究に對する期待要望は、どうすればもつと自在に又樂に、めい/\の思ひ感ずることを表白し得られるかを覺らしめるやうに、この學問の大いに進んで行くことである。それにはその目的に沿ふやうな國語學の方式が必ず有る筈である。餘力のある人々はもつとむつかしい根本的なることを、調べて置かれることもそれは結構である。たゞ斯ういつた同胞多數の待望を棄てつぽかして、さつさと一人で前へ行くことだけは御免を蒙りたい。この點をもつと有效に且つ詳しく力説するが爲にも、私などはネやナの封じられて居ることを不自由に感じて居る。
 
(156)  語形と語音
 
     一
 
 古くは我國に、單音節を以て成る單語の多かつたのが、後追々に語形を變へたといふことゝ、その變化の趨勢は國内一般であつて、標準語は必ずしも方言とちがつた法則、もしくは傾向を示して居ないといふことゝを、實例に由つて少しばかり報告して置きたい。
 始めて自分が此問題に氣づいたのは、前年クモ(蜘蛛)といふ語の地方差を尋ねて見た際であつた。クモの變化には大よそ四通りあつて、九州は先づ全部がコブ又はコウ、京都の周圍にはクボとグモとがあるが、後者は東南面の一小區域に限られ、其他は山陰・北陸・奧羽・關東と中部地方の大部分に亙つてクボである。しかも是とクモノイ(蜘網)の變化區域とは、一向に吻合して居ない。先づ東京は夙くからクモノスであつたやうだが、上方には是と昔からのクモノイとが併存し、たゞ次第に「巣」の方に傾いて行くらしく見える。今でも古語の通りにクモノイと謂ふのは、山口縣には確かに例があり、其兩隣では廣島縣のクモエ、北九州の處々ではコブノエが採録せられて居る。又肥前宇久島にはコオノエ、同長崎にはクモノエが有る。
 是はイといふ單語が餘りに簡單で却つて紛れ易い爲に起つた變化らしい。常はクモノイと謂ふからよく判るが、問題は「蜘蛛がイを掛ける」などゝいふときに起るものと思はれる。九州でも大分宮崎の二縣では多く之をエバ、又は(157)クモンエバと謂ひ、それが更に轉じて單獨にネバといふ人も、福岡縣の方にはある。四國の方でも宇和地方などはエバだが、内海の方へ來ると兩岸とも、エバリ又はエンバリ、或はヘバリ・ヘンバリと謂ふ土地もある。私の想像では、東の方で「イを掛ける」といふところを、西では「イを張る」といふのが普通であつて、それから先づイバリが出來、エバリ・エバ等になつたものかと思ふ。中國筋でも岡山附近ではエギと謂つて居る。イガキといふ語は既に歌にも詠まれて、正しい語と認められて居るが、東北には陸前氣仙地方等、僅かな地域に今も行はれて居る。其以外に茨城縣南部のエガリ、飛騨地方のエガラなどもあるが、東日本は大體にエズといふのが多い。是は關東一帶から福島宮城の二縣にも及び、或は「巣」といふ新語の影響かも知らぬが、とにかく九州などゝよく似た所の、クボノエズ――クボネズの變化も見られる。それからもう一つ、信州越後から山形縣にかけての、アジ又はヤジがある。アジは又草木の細根の網のやうになつたのも謂ふから、果してエズより又轉じたのやら、最初から別の語であつたのやら、私にはまだ判定することが出來ない。
 
     二
 
 斯んな覺えやすく又唱へ易いイの單語を、更に面倒な形にしてしまふといふことは、たゞの所謂よこなまりとは見ることが出來ない。何かさういふ必要が新たに起つて、土地毎に區々の思ひつきの言ひかへをしたのが、段々に公認せられたものかと私などは思つて居る。もしこの想像のやうに、人が意識しての改造であつたとすると、二つの疑問が是に次いで出て來る。其一つは他にもさういふ例が澤山あるか否か。第二には昔は何故にさういふ改造をする必要が無かつたかで、無論後の方が問題はずつとむつかしい。しかし前の方を考へて居るうちには、少しづゝは其端緒を捉へることが出來さうなのである。
 昔は單純な一音節の語であつたものが、追々に修飾せられて殆と別の語のやうになつた例は、尋ねて行くと相應に(158)數が多い。最も手近な例は餌のエであるし複合形としては摺餌・餌差・置餌などの如く、今でもエといふ形が行はれて居るに拘らず、一つを引離して謂ふ場合に限つて必ず長くなつて居る。東京と其周圍の數縣は一般にエサで、イサと發音する者が其間にまじつて居る。熊野の海岸にもエサがあり、又飛んで中國の一部にも稀にイサといふ土地があるといふが、しかし文獻には大よそ記載を見受けない。我々の漢文訓讀法では通例はエバであつた。曾ては都府にもさう謂つた人があるのかも知れぬが、現在エバを用ゐて居るのは中國の處々、殊に岡山廣島島根三縣の方言集に見えて居て、一端は遠く奧羽各地、たとへは東白川・石城・上閉伊・南秋田等の郡でもエバである。山形縣の村山置賜諸郡はユエバだが、是は訛りと謂つてよからう。言泉にはエバはエバミの約とあるが、此説必ずしも安全でない。エジキといふ語は今も行はれ、又文藝の上にも痕跡があるが、是は少しばかり意味が限定せられて居る。
 餌をエドといふ語は醒睡笑卷五に「古鷹のエド」などゝ見えて居る。もとは京都にも行はれて居た證據である。現在このエドを用ゐる區域は最も弘い。淡路が東の端で岡山鳥取二縣の西部、島根縣は美保關、石見の各郡と大原郡と隱岐島、山口縣は内海の島々、大分縣は南海部郡、長崎縣も沿岸と五島の或島、肥後は天草の南端、鹿兒島縣は谷山から志布志まで、甑島・種子島・奄美大島でも採集せられて居て、さうして近畿以東には絶無なのである。ロドリゲスの辭書には、エデとエドとを併録し、「エバに同じ、卑語」とあるさうだが、現在も阿波の美馬郡のやうに、この二つを共に知つて居る地方がある。肥前の五島は島によつてエデ又はエド、壹岐は概してエデの方に統一せられて居る。
 此以外の例としては、古くから松前地方のエヤ又はイヤがあり、それが現在までもなほ北海道の方言となつて居る。是はエといふ元の語の發音の變更かと思はれるが、意識してそれを爲し遂げたのか否かは疑問である。京都の附近にもエと簡單には言はずに、エーと引伸ばして發音する處は多いらしく、丹波多紀郡がそれであり、又「和歌山方言」にも一般にエヽといふとある。乃ち獨立した短母音のエ(餌)の語は、少なくとも口語に於てはもう無くならうとして居るのである。
 
(159)     三
 
 この全國的なる語改造は、發音が面倒だからといふよりも、寧ろ相手に其意味を傳へる爲に必要があつたのかと思ふが、それを確めるべくなほ若干の類例を竝べて見ると、杵は古語キであつたことは、杵築《きづき》・杵島《きしま》・彼杵《そのき》等の、多くの地名からでも知られるが、現在は單音節の形で呼んで居る處は一つも無い。東北地方は一般にキヾ又はキゲで、稀に山形市附近のキヌなどがある。關東地方にもキヾ・キゲがまじつて居るが、一般にはキネが用ゐられ、是が又既に標準語ともなつて居る。ところが何故にキがキネと變つて來たかは、誰にもまだ説明が出來ない。キは勿論木を伐つて使ふからの名であらうが、何かといふ場合にその本元の木の語と紛れやすい。それで「杵の木」をやゝ調子よくキギと謂つたのかと思ふが、キネに至つてはもう一つ中間に過程があつたらしいのである。地方の言葉を比べて見ると、四國の西部殊に伊豫各郡と、對岸の一部とにはキノがある。キノは「杵のヲ」又は「木のヲ」だから、其意味は略わかつて來る。今日杵をたゞヲとのみ謂ふ地方は、關東と其四邊より他には無いやうで、それもやゝ大ぶりなものに限つて、小さいキヾ又はキネと區別して用ゐ、なほヲとだけでは餘り簡單に失する爲か、是をヲーと長めていふものと、アヲと上に母音を添へて呼ぶものとが多い。
 杵をヲと謂ふわけは明らかに「男」の意である。即ち臼の方を女性として、是と對立せしめた名であつた。もつと露骨な類例は、八重山の諸島で擂木をダイバノブトと謂ふさうである。ダイバはライバン即ち擂盆の地方音であり、ブトはヲット(夫)だから摺鉢の亭主といふことになる。杵が眞直ぐな手杵ばかりであつた時代には、スリコギを一種のコギ(小杵)と認めることは困難で無く、從つて又マハシギだのメグリギだのと、多くのよく似た地方名が出來たのであるが、是を男と呼んだ動機は同じにしても、時も場合も東國のヲとは全く別々な面白い偶合である。以前は斯くの如く一つの單音節語を、男にも杵にも又苧麻の名にも、用ゐて差支への無かつた時代があつたのであるが、後(160)には是非とも之を言ひかへて、紛亂を防ぐべき必要を生じたのかと思はれる。苧麻のヲも今なほヲガラ(麻殻)ヲノミ(麻實)などの複合語が行はれて居て、本來は植物そのものをも引きくるめての名であつたらしいが、標準語では夙くから、畠に在るものだけはアサと呼んで居た。東北地方にはそのアサといふ語が無かつたやうで、今では麻の總體をイトといふ人が多く、麻畠をヲツボといふ語も無いではないが、普通にはイトバタケと謂つて居る。是も亦ヲといふ單語のあまり簡單なのを避けたものかと思はれる。
 
     四
 
 コといふ單語にも元は幾つとも無い用途があつて、時と共にその一つ/\が整理せられた。最も今日の日本語と縁がうとくなつたのは海鼠のコで、是はナマコと謂はなければもう通用しない。しかしナマコは生の海鼠のことで、干してあればキンコ、其他コノワタだのコノコだのと、複合語としてはまだ認められて居るのである。蠶もオコサマなどゝ謂へばやつと判るまでゝ、今はカヒコと言はないと標準語とは認められぬやうだが、最古の文獻にはコとあつて、其爲に小兒とまちがへた話も傳はつて居る。鳥の卵もタマゴといふのが相應に古く、その一つ前にはトリノコであつたけれども、最初にはこれもコと謂つて居たやうである。沖繩の諸島では現在はクガ、薩摩の南の部分にも卵燒きをコガヤキといふ方言があるから、是も餌や苧や杵と同樣に、別に語尾に一音節を加へて意味を明らかにしようとした試みが、地方にはあつたのである。粉は古今に亙つてコとよりほかには訓は無いのだが、それでも東京の口言葉に於ては、コナと謂はないと大抵は通用せず、それが上方の人にはひどく珍しいのである。?といふ字をコナガキといふ訓も古い書物にはあるから、或はあちらでも曾てはさう謂つて居たことが有るのかも知れぬ。とにかく現今ではマコ・シンコ、もしくはコオと二音節のやうに長く言ふことになつてをり、九州は豐前の京都郡などはコイとも謂つて居る。
(161) 人間のコに至つては、其内容が又千差萬別であつた。現在はカコ・アゴ・セコ・ヤマゴ等の如く、大抵は上に種類を限定した語を添へて呼ぶことになつて居るが、それでもまた「あのコ好いコだ」の歌のやうに、女のコも亦一種のコであり、「子を思ふ道に迷ひて」などゝいふ歌の中には、赤兒から成長したものまでを含んで居て、決して小さいからコだつたのではない。コラ又はコロと謂つたら、其中の何れかにきまるかといふと、必ずしもさうでないやうである。沖繩の神歌にコロといふのは、多くは軍兵を意味して居たらしいことは、ちやうど萬葉集の「いざこども」がそれであつたのにも似て居る。しかしそんなでは困るから、今日は兒童だけを「たつた一人の子供が」などゝ、單數でもコドモといふやうにして居る。コといふ音節などはどんなに早口に言ひつゞけても、紛れたり埋もれたりする懸念は無いのだが、何しろ此樣に色々の物の名となり、又形となり?態となつて居たのでは、やはり思つたまゝを人に傳へることが出來ぬことは同じなので、是をも後々はほゞ同一の方針に準據して、改定することになつたものかと思はれる。とにかくに最初から單音節語を好まぬ日本人であつたら、是ほどさま/”\の單語が生まれて來るわけは無かつたのである。是を變化させるやうな原因が中古以後に、新たに起つたものと見ることは無謀とは言はれないだらう。
 
     五
 
 この現象に關聯して、私が多分行く/\は證明し得るだらうと、思つて居る假定が幾つかある。一つは同じ變化が名詞以外の、色々の單語にも起つて居るだらうといふことである。トシといふ形容詞は漢語の利・鋭・疾等色々の對譯に用ゐられて居るが、此語は今日はもう耳にすることが無い。無くても濟む筈はないのである。九州北部でよく聽くケンドカ、又は中國地方にも及んで居るスヽドイなどは、ケンとかスヽとかに特別の意味があるので無く、單にトカ・トイを有效にする爲の修飾かと思ふ。スルドイも標準語のうちだが同じ類の改定であり、今日よくはやるヒドイなどもそれかも知れぬ。共に其起原を察せしめるやうな心あたりは他に無いからである。コシ(濃)といふ形容はコ(162)オイとかコイヽとか、色々努力して保存しようとして居るが、其用途が既に色彩に限定せられ、味覺などにはあまり使はれなくなつた。それで北陸地方にはムツゴイといふ語も起り、奧羽には又コドイといふ形容詞も出來て、それから更にコドル(濃くなる)といふ動詞さへ生まれて居る。コイを終りに附した多くの形容詞には、「濃い」とは縁の無いものも大分あるけれども、それが類推を以て新作せられる元が此邊に在つたことは、ハユシといふ語が多くのハイ・パイの附く語を導き出したのも同じかと思ふ。形容詞のこの二つの形は少なくとも、古い記録の中にはあまり見當らない。
 それから數詞原形のヒフミヨの中で、三四六八と千とだけは、複合語の中に單音節のものが保存せられ、一二七九と十百などは、始から二音節であつたやうに人は思つて居るが、五だけはどうやら古くはイ、後にイツとなつた痕跡がある。其他も同じ順序で早く變つたのかも知れない。次に又代名詞のワ・ナ・カ・ソ・アの如きも、複合によつて存するものゝ省略形とは言へない。現に獨立して一音節語のまゝを使ふ者が、地方にはまだ往々あるので、其中でも我のワは西南と東北に共存し、汝のナは東北だけだが其領域が可なり弘い。奧州では是をンナ又はウナと伸べ、東京でもウヌの以前、幼兒語のウナ/\などが記録せられて居るが、越後には今でも單音節のナが用ゐられて居る。そこで自分などはワレ・ナレ・カレ・ソレ等の出現は年久しいけれども、是も亦一音節語の加工使用といふ、今日まで繼續して居る運動の初期の事業と解し、乃ち此變化の要求が、特に此方面に先づ感ぜられる樣な、性質のものでは無かつたらうかと思つて居るのである。
 第二に心づかれることは、この單音節語の修正といふ著しい變化が、必ずしも或地方ばかりの方言の癖では無くて、標準語の中にも盛んに行はれて居ることである。三つの例を擧げると、竹などの長いものを撓めて圓くしたものは、短くワと謂つても、亦は上方のやうにワアと謂つても通ぜぬことは無いが、是をワサと改めて居る人が既に多く、東北に行くと一般に之をワッカ、越後ではワガと呼ぶことにして居る。今は獣を取る装置だけに限らうとして居るワナ(163)なども、町の人々はなほ緒や紐の輪にしたものゝ總稱にも用ゐて居る。又木の薄板の曲げ物に今日は限つて居るけれども、ワッパといふ名も元はワであつたかも知れない。東京では木の葉をハッパといふのが子供ばかりで無い。或は口中の齒と區別する爲かとも考へられるが、物の端數などのハも、複合形に於ては釣錢をウハヽと謂つて居ながら、獨立していふ時のみハンパと謂ふ。しかも根をネッコといふ方はまだ  稍々下品な田舍言葉のやうに感じて居り、自分たちは根といふ語をはつきりと言ふ爲に、可なり餘分の努力をして居ることが注意せられる。モといふ語の表示するものは、以前は裳・喪・痘の三つがあつた。そのうち前の二つは色々の新語を案出して、現在は殆と其使用を停止して居り、後者も幽かに複合の間にしか保存せられて居ない。疱瘡の終りになつて疫神を川に送る儀式を、福島縣の海岸地帶などはモナガシと謂ひ、石川縣の西部では之をイモナガシと謂つて居る。所謂あばた面を意味するイモガホ・イモグシ等のイモが、本來はモであつたことが是でよくわかる。上方でアムシといつたのも、或はその又變化かも知れず、イボといふ例も鳥取縣にはあるから、アバタとても無關係とまでは言へない。モといふ單語がモガサよりも古く、もつと廣汎に用ゐられて居たことは、汗疹をアセモと謂ふなどからも察せられる。デキモノ・ハレモノ又は單にモノといふのも、多分其モの修飾であつて、是を漢譯がましくシュモツなどゝ謂ふのは誠に理由が無い。
 
     六
 
 第三にはこの改作運動が、可なり早くから始まつて居て、近世それが一段と盛んになつたのだといふことが注意せられる。我・汝・彼・是その他の代名詞にレを附したやうに、日をヒル夜をヨルと謂ひはじめたのも新しいことで無い。子をコラ、野をノラと謂つたのも複數形とは言はれぬから、或はラ行音が此目的に利用せられるといふ、特別の約束又は傾向の如きものがあつたのかも知れない。簾は敬語を冠すればミスでよいのだが、單獨には專らスダレと謂はせて居たのも古い。田にもタヅラとかタノモとかいふやうな、有つても邪魔にならぬといふ程度の語音を添へて居(164)る。それがタンボとなりトウモ(タオモ)となつて受け繼がれ、是非とも裸で言はうとするにはタアと謂つて、母音を長めるので無く、寧ろ一母音を添へたやうな發音をして居る。手段は異なつても目的はもと一つだつたかと思はれる。此頃の辭典は大槻さん以來、斯ういふのを一々説明しようとしで居るが、もと/\別の語を作らうといふので無いから、無意味なものがあつてもそれは致し方がないと思ふ。近世に入つてから出來たものは、前に竝べて置いた例のやうに、數が多いので粗末なものが出來がちで、町で使つて居るからとて理窟に合ふともきまらないのである。香のカはよい言葉なのに是をカザと謂ひ、カグをカザムといふ動詞まで、上方ではこしらへてゐる。其他にも名をナマヘ、荷をニモツといふの類は、餘計なものを附けてそれがもう普通の語となり、古文を譯讀するにも一つ/\さう謂ひかへさせて居る。唾はもとの語はツであつたことは、「次の小部屋でつに咽ぶ聲」といふ七部集の句にも殘つて居り、ムシヅガハシルといふ複合形もまだあるのに、是も九州ではツヾとなり、それから東に向ふとツワ・ツオ又はツバとなつて居る。ツバは或は一方のツバキの感化かも知れないが、この二語は全く別の起りをもつて居る。東日本では唾の名に、シタキ・クタキ又はツバキの三者何れかを用ゐる者が多いが、キは液汁のことで全國に弘く行はれて居るから、乃ち舌・口又は唇の液の義であつて、擬音から成つたツとは一つで無いのである。唇をクチビルと謂ふのは標準語になつて居るけれども、是は口のヒラ即ち脇のことらしく、精確とは言はれない。唇には別にツバ又はスバといふ名詞があつて、今でも全國の弘い面積に行はれて居る。唾をその唇の汁液の意にツバキと謂ふことは、漢文の訓みとしては「功名手にツバキして云々」とも教へて居るから、元は京師にも之を用ゐて居たのであり、從つて言海のツバキの解に「ツバ吐きの約か」とあるのは誤釋であつた。是は直接には私の問題とは關係はないが、唾をツといふ語も古くからあつて、是が停車場などの「つばはき」となるまでには、まだ氣づかれない色々の誘因があつたことを、説明する爲には入用なのである。
 第四にこの單音節語の變化が、專ら口言葉の上に於て行はれ、後世文章にそれを用ゐて居るのは、その追隨もしく(165)は採擇だといふこと、是は標準語を學者先覺の事業でゝもあるかの如く心得て居る人々には、可なり參考になる大切な事實であるが、やはり追々には立證すだことが出來るかと思つて居る。一つの例をいふと家はイヘだといふことを知らず、エだと思つてやはり發音に困つて居た人たちが、この單語にも同種の改作を加へて居る。甲州信州の村里では普通に家をエサ又はエンサ、宮城縣の北部では之をイガ、もう一つ北へ行くとエッコといふ語もある。その家の片端に縁を取附けるといふことは、農家に在つては近世の進化であるが、それをエンと呼ぶのは外來語に基くといふことを意識して居たら、何とでも發音の仕方があらうと思ふのに、是も何等かの加工をせずに用ゐて居る土地は殆と無い。長野市の附近では是をエンサ又はエンノ、大和の吉野郡はエンニ、十津川から熊野にかけてはエンノ、丹波多紀郡などはエンナ、播州ではエンゲ、其他の地方も概ねエンバナ・エンガハである。此等を添へたが爲に意味が替るわけで無く、又限定せられるわけでも無い。結局はたゞ單獨にエンといふことが、或は目的を達せざるかを危んだ爲としか思はれないのである。
 
     七
 
 第五にはこの改修の作業が、今もなほ進行中であることが注意せられる。此頃三歳になる幼兒に試みた所では、夕方に蛾が來たのを是はガだと教へて置くと、其次には此蟲を見てガナが來たと謂つた。其子の母も同じ位の年頃には毛をケガと謂ひ、血をチガが出たと謂つて居た。是は物の名の通例二音節であることに馴れて、稀に一音節のものがあることを知らなかつた爲かとも思はれるが、諸國の方言集の中には、是に似よつたものも採録せられて居る。たとへば尾張の知多半島では血をチヤ、紀州の日高郡では毛をケシといひ、チガ・ケガも何處かに有つたやうに思はれ、東京では又?ケバといふ語も耳にする。最初は一人の何でも無い者の思ひ付きだつたのかも知れぬが、兎に角に其周圍に、理解し且つ再用する者が次々に出て來るらしいのである。
(166) 第六に一音節語を改めて行く方式は、必ずしも自分の列擧したもの一種だけではないといふことも注意せられる。たとへば東北六縣に於けるコの使用の如き、コは小をも意味するから、特に意識して小さなもの、又はカハイヽものに付けようともするであらうが、同時に又之を後に附けた語が、獨立した一個の名言葉であることを明らかにする目的がよく看取せられる。特にどういふ語にコが附くかを氣をつけて見れば、やはり後先の語と繋がつてしまつて、話題の埋没することを防ぐぺく、主として簡單な單語の臺のやうな役をさせて居るのである。關東では栃木縣の東部と、飛び離れて八丈の島にあるメの接尾語も、成るほど動物の普通名詞には限られて居るが、我々の使ふやうな輕蔑の意味もなく、又注視する場合だけとも定まつて居ない。少なくとも此範圍内に一音節のやゝ捉へにくい語があれば、すべてコ又はメを添へて處理してしまふ事が出來るのである。北九州の人々は皆氣づいて居るが、あの地方でも木がキであり、又物の穴をスといふことは誰でも知つて居るのだが、それだけを引離して話題とする際には、必ず木をノキと謂ひ、穴をノスと謂ふことにして居る。キ又はスといふ手短な言葉が、文句としては使用に不便だからであらうと思ふ。今でも此方が正しい言葉だと信じて、用ゐて居る者は恐らくは幾らも有るまいが、奈何せん之に代るやうなよい方法が、まだ一つも此地方には始まつて居ないので、をかしいとは感じつゝも之を踏襲する人が多いのであらう。
 故に試みに學校などの特にそれを制止し、もしくは笑つたり怪しんだりする仲間に入つて、どんな風にそれが言ひ替へられるであらうかを、じつと觀て居ることもよい實驗である。大根や牛蒡にスが立つといふ以外に、穴をスといふ言葉はもう東國には無いから問題にはならぬが、木をキといふ方は全國的であつて、しかも入用が隨分多い。ジュモクなどゝいふ新語は女子供に向かぬので、めい/\がこの「キ」といふ語を人に傳へる爲には、皆少しづゝの工夫をして居るかと思はれる。或はごく少しの間を其後先に置く土地もあるらしいが、多くの場合には特に母音を長く伸ばし、もしくは末の方に力を入れるといふやうな傾きが出來ては居らぬだらうか。近畿地方では粉をコナと言はずにコオといひ、其他タンボをタア、ナマヘの代りにナアと謂ふ類が、相應に數多いので耳につくが、關東奧羽等の方面(167)でも、樹木のキだけに就いては是と近い發音をして居る處が多いのではあるまいか。機會を要する仕事だから、速斷をしてはならぬが、假に一部にでもさうした例が有るとすれば、それはこの一つの單音節語に限つて、まだ然るべき語形の改作が、起らなかつた爲とも見られる。所謂アクセントが殿樣の御領分のやうに、川筋山の背を境にして居たと言はうとする人も、一度は少なくとも反省して見る必要がある。是を昔の世からの引續いての現象の如く、考へて居る人たちに至つては尚更の話である。それはたゞに證據が擧げられまいといふだけで無く、そんな筈は無いとさへ私は思つて居る。
 
     八
 
 單語が其使用の個處場合に應じて、始終抑揚の約束を異にして居ることは、日本では至つて普通の事實である。それが單語表の如く裸で一つ/\呼び上げられるといふことは以前は寧ろ稀で、常にはたゞ一つの物言ひの、部分としてのみ存在を認められて居たのである。だから今日のやうな國語用法が、其まゝ昔の世にもあつたといふことを豫め證明しなければ、第一にどれとどれとが同じといふことを、思ふことすらも出來ないのである。僅かに傳はり殘つて居るといふ神遊びの歌などを聽いて見ても、一つの語音を際限も無く引伸ばして、歌謠といふ名は同じく、詞章は概ね相近くても、言葉の取扱ひ方は今とは丸でちがつて居ることがわかる。どこかには必ず上代の物の言ひ方が、そつくり其まゝといふものが有るのであらうが、さて安心して是だといふことは誰にも出來ない。さういふ中でも今あつて昔無かつたものゝ隨一はハナシである。いつ頃始まつたか知らぬがハナシといふ單語そのものが、足利期以前の文獻ではまだ發見せられず、現在とても日本の全版圖に行渡つた言葉ではないのである。人によつてそれは只名稱が改まつたのみで、現に昔話を祖父祖母之物語とも謂つたのだから、物語は即ち近世の話と同じだと思つて居る者もある樣子だが、その昔話の所謂話し方は、我々が覺えてからでも、別物と謂つてよい程に變つて居る。さうして至つて古(168)風な土地又は家庭だけに、その前のゆつくりとした方式が、稀々に殘つて居て比較が出來るのである。歌やかたりものと近いきまり文句の、段々無くなつて來たことが其一つである。是でしか使はれない古い言葉の、暗記の目標となつて居たものが廢れて、追々に現在の平語と置換へられ、從つて説明用の單語が、自由に數多く入つて來たことが又一つである。假に最初は話を物語の中に算へて、何人も怪まなかつたとしても、久しく口で傳へて居るうちに、追々と樣式が改まつてゐるのである。人が相會して言語する場合でも、以前にはモノガタリと謂つてゐたものが、後々は是をザフダン(雜談)と呼び、更に又ハナシ(咄)といふやうになつたと同樣に、言語の利用仕方が口言葉だけは、一般に變つて來たのである。如何に變つたかといふこともあらましは想像し得られる。乃ち或定まつた人が語り手で、殘りが聽手であつてそれを目的として集まるのと、題目もシテの役にも豫定の計畫は無く、もしくは最初から成るべく多くの人に、互ひちがひに物を言はせようとする場合と、同じ國語利用の樣式が保てなかつたのは當り前である。今でも雜談の會合にはよく見られるやうに、群の中では口達者が幅を利かし、同時に甲乙のせり合ひも盛んになる。努めてありふれた表現を避け、新たな人を動かすやうな單語を取入れて、且つその組合せを巧みにしようとする類の技能は、斯ういふ機會の増加によつて、大きな刺戟を受けたことゝ思ふ。源氏物語に有名な雨夜の品定めを始めとし、昔も有閑者の斯ういふ雜談をする風が、皆無であつたらうとは決して言へない。しかし是が市井農間の人々にまで、普及した日の淺かつたことだけは、我々の實驗からでも之を説くことが出來る。今日のやうな自由な社會になつてすら、大抵の群に於ては多數は昔ながらの聽手で、事實話の出來るといふ人は數へるほどしか居ないのである。話術が一つの新技術であることは、御互ひが自ら之を證據立てゝゐる。是が國語の上に及ぼした影響を全く勘定に入れないで、國語の歴史を説いて居る人も多いのを見ると、いはゆる國語學はまことに未來の多い學問だといふことが出來る。
 
(169)     九
 
 早口といふ問題を一つ取上げて見ても、昔の國語と今の日本語との、大きなけぢめは論じ得られる。是は速記者にでも尋ねるならば、すぐに數字を以て答へてくれるであらうが、明治の後半期の雄辯家を以て目せられた二三士が、大よそ一分間に何百語又は何千音節ほどをしやべり、又今日何等の評判にもなつて居ない凡庸の辯士が、それよりどの位多くの語數を發して居るかを、調べて見ることは少しも面倒で無い。以前は早口は惡癖とさへ認められ、若い人には其改良に苦しんだ人も多かつた。然るに今日はもうさういふ批評の語も耳にせぬ位に、一般に人が早口になつて居るのである。是は全く相手の理解力次第のもので、久しく緩やかな語調に馴れて來た者は、自分の追付けない言葉を皆早いと感じたのである。さういふ間隔が段々近くなつて、今では普通といふものが雨夜の品定めは勿論、芝居の口跡などよりも又ずつと早口になつて居る。だから其影響の下に生ずべき國語の變化に、昔は著しからずして今は見過し得ないものが、幾らでも有るのは當り前のことである。
 この過渡期の國語變化は、概して幸福なものでなかつたやうである。古人が型を踏み定まつた格調に由つて、多くは用意した口上を述べて居た時代には、古臭いかは知らぬが穩當なる言葉使ひが多かつた。何でも自由に自分の言葉を發してよいとなつて、今日は却つて口眞似が粗末になつて來たのである。固より一方には差掛かつての入用に應じて、新たに似合ひの語を見つけて來るといふ、小さな天才も?働いては居るのだが、多數者に選擇取捨の餘裕が乏しく、模倣に急であり承認に寛である限りは、少なくともまだ暫くの間は、おろかしい流行語の勢力を制止することが出來ぬだらうと思ふ。その流行語の一つを借りていふならば、つまり日本人の早口は、今はまだ「板に附いて居ない」のである。將來もし物をいふ人も之を聽き分ける人も、共に腹の底から機敏になる時代が來て、咄嗟の間にも單語句法の適否を鑑別し、一番良いものを選り出して用ゐ、相手も亦徒らに煙に卷かれて、どうやら解つたやうなつも(170)りなどで居ることなく、どし/\と間違つた物言ひを否認することになれば、結局はこの放漫を極めた新表現の増加も、寧ろ我々の選擇の天地を廣くすることに歸するのである。
 そこで立戻つて當面の一音節語改造の問題になるのだが、此傾向は古く其端緒を見せて居るとはいへ、今日の如き地方區々の?態に入つたのは、全く雜談流行の以後、比較的の早口が段々と地方の口達者を誘致して居た時代に、多少は根據があり又理解の可能なる方式によつて、格別大きな推敲も經ずに、誰かゞ言ひ始めたものが承認せられたのである。都府に出現した分が勿論多くの人に知られて居るが、それより他には正閏の差別などは無い。闇から闇へ消えてしまつたものは別として、斯うして併存して今に傳はつた以上は、寧ろ自然の競爭に委ねて、一番人望のあるもの又は好い言葉で、次の代の日本語を組織することを期した方がよいと思ふ。方言匡正も一つの政治であり、又否認し得ない實勢力でもある。文學も概ね是と同じ方向に、其選擇を進めて行かうとして居るやうだが、是に抗爭するやうな意見は、最初から私は持つて居ない。たゞさういふ有力な取捨判別の權を揮はうとするならば、もう少し注意ぶかく、國語がどうして今日の形態に到達したかの原因を、知つて置かうとしたらよからうにと、批評するだけである。
 
(171)  國語教育への期待
 
     一
 
 私の話は所謂他山の石、大よそ諸君と立場を異にする者の觀察である。或は少々ばかり同情の足らぬことも言ひ出すかも知らぬが、腹を立てないやうに願ひたい。素より此説の全部を採用ありたしといふのでは無い。又それほど明確なる主張も無いのである。單に從來斯ういふ風な物の見方が、諸君の間に取落されては居なかつたかといふ御注意までゝ、少しでも參考とすべき點があつたら、それで目的は達するわけである。最初に宣明して置きたいことは、是は必ずしも責任無き者の横合からの差出口ではないといふことである。我々の携はつて居る一つの學問、世に日本民俗學と呼ばるゝ部面に於ても、やはりこの「少年少女の國語學習の效果」を以て、大切なる出發點として居る。日本人の日本らしさといふものは、殆と是を唯一つの菅又は筧として、前代から後代に續いて居るからである。諸君との相違は、自身今日謂ふ所の國語教育に參加して居らぬ點で、關心の度に於ては聊かも劣る所が無いと言ひ得るのみか、寧ろ門外漢であるだけに餘計に氣を揉んで居る。さうして此問題に近よつて行かうとする路筋が、諸君の教育學又國語學とは異なつて居るのである。私たちの發言權は、同時に發言義務であると言つてもよいとさへ思つて居る。
 私たちは一つの解決し難い生活問題に當面する毎に、先づ以て以前はどうして居たらうかを考へる。如何にして今日此間題を生じ、又その處理に惱まされなければならぬかを、考へて見ることにして居る。是は思索の至つて自然な(172)る順序でもあれば、又現在の最も普通なる慣行でもある。今更事新しく勸説するまでも無く、夙に斯ういふ研究團體に在つては、試みられて居て然るべき方法であつた。今や國語の普通教育をどうするかの問題は、行詰まつて居ると謂つたら過言かも知れぬが、少なくとも甲論乙駁の收拾し難い?態には在る。紛々たる諸説が廻り燈籠の如くに、遣つて來ては實際家の耳を引張る。それを一々聽いて居たら、殆と手をこまぬいて茫然自失しなければならない。さうしても居られぬ故に其中の一つ、比較的腹に入つたかと思ふどれかの説を固執して、その他を概括的に排除する。さうすれば年齡境涯の異なるにつれて一人々々考へたり説いたりすることがちがひ、不平や非難の交易を日課としなければならぬ。半世紀もかゝつてまだ一地方だけの統一した方針も立たぬのみか、第一にちつとも成績が擧がつて居やしない。各人は汗水を垂らして夜までも働いて居るのが事實だが、なほ結果から見て世上の心無き者が、全體今まで何をして居たのだと謂つたり、この實際より以外に目的をもたない諸君に向つて、もつと教育を實際化せよなどゝ、失禮なることを謂ふのを制することが出來ないのである。斯ういふ?態を名づけて、私たちは假に行詰まりと呼ぶのだが、其言葉は或は當つて居ないかも知れない。ともかくも敢て私は勸告するが、斯ういふ場合にこそ改めて今一度、以前はどうして居たらうかを考へて見られるがよい。昔の日本人がその一つ前の日本人から、如何なる樣式を以て日本人らしさを承け繼いで居たか。別の語でいふと我邦の國語教育は、もとはどういふ風にして與へられて居たか。それと今日のとは比べてどこが加はり、どこが不足になつて居るかを囘顧して見ることが、恐らくは外國の長處を見究めるよりも前の仕事である。まだ氣がつかぬ人も無いとは言はれぬが、日本人はこの小學校令發布よりも以前から、聰明にして且つ機敏な、物の道理のよくわかつた國民であつた。遠い西洋の文化の片端を嗅いだだけでも、忽ち其有利を感知して續々と之を採用し、時には心醉の危險に瀕してまでも學ぶべきものは皆學んで、終に今日の對等?態に漕ぎつけて來た。言語感覺の精微にして能く滑稽と諷刺とを解し、人心看破の術に長じて居る點では、世界無比と言つても誇張では無いとさへ思つて居る。小學教育の是に參加したと否とに拘らず、農漁山村の青年は短期間の見習ひ(173)をさせると、いとも容易に店員や機械工の補充が出來、御蔭で此邦の勞働組合問題は特殊に面倒である。製絲紡績の工業は其爲に繁榮した。病院に働いて居る多くの白衣婦人、町を日轉車で飛び歩く若者等は、大半は所謂田舍出で、僅か居るうちにすぐ都人になつてしまふ。斯ういふ國柄は他には先づあるまい。是が一朝一夕に作られる素質でないことは明らかであり、又小學校が之を養成したといふ證據も乏しい。つまり役に立つ者をこしらへる力が、無意識にもせよ以前から備はつて居たのである。是を諸君は一通り知つて居られなければならない。復古をする必要はよもやあるまいが、少なくとも前に備はつて今は缺けて居る何物かを見出さうとする者が、國の歴史を尋ねて見ないといふ法は無い。未來の進路を誤らない爲に、殊に現在の煩悶を脱する爲に、是より手近な相談相手は有り得ない。是が歴史の普通學科たる唯一の理由、又囘顧といふものゝ社會的意義でさへもあつたのである。
 
     二
 
 但しその「歴史」は、今日さう呼ばれて居るものよりももつと廣い範圍の、外史即ち客觀の歴史をも含まなければならぬ。當事者の書いた歴史ばかりを讀んで見たところで、新たに學ぶべきものゝ無いことは知れて居る。今まではそれだけでよいものゝ樣に思つて居た爲に、歴史が刺戟も與へず又他山の石ともならなかつたのである。文部省には夙に尨大な日本教育史料が出來て居るが、其中に謂ふ所の教育は寺子屋が始めとなつて居る。寺子屋の村方に普及したのは新しいことで、出來てもそこへ通ふ者は住民の一割か二割の、それも二年と續けるのは少ないといふ實?であつたに拘らず、是だけを教育と解し其以外をすべて無教育と呼ぶ仕來りが、諸君の間にまで續いて居る。言葉の現在の用法に從へば、少なくとも國語教育に關する限り、この解釋は悲歎すべき誤謬である。我々は一人殘らず、始めて日本語を學んだのは母からであつた。親と家庭の長者とは、各意識したる國語教育の管理者ですらもあつた。彼等は實際の例によつて、若しくは生命を添へて一々の語を授けた。耳の學習が先づ始まるといふことは確かである。最(174)初に或期間の模寫の無い理解があつて、意味は其全部を眼によつて學んで居た。幼者の眼と耳とには、是に必要なる特殊の鋭敏さが賦與せられて居るやうにも感じられる。多くは年とつて不必要からの減退があるが、女などには地獄耳と謂つて、稀に一生の間續くのもある。記憶力とは區別し得る感受性の強さである。子供には大體二つの傾向があつて、或者は好んで人の前に出たがり、母の前掛にまつはつて大人の言葉に耳を傾けて居るものと、ワニルと稱して引込んでばかり居る者とがあるが、其中の最も無口なやゝ鈍いと評せられる兒でも、小學校へ來るまでには可なり澤山の生活用語を知つて居る。言はせて一二三が言へないなどゝいふのは、それが所謂よそ行きの語であるからで、好い兒・惡い兒・うまい・痛いといふ類の、根本の言葉の意味などは、もつと以前からほゞ精確に知つて居る。それが無かつたならば如何なる名指導者も、策の施しやうは無かつたわけである。國語教育といふ語を縱から見ようが横から見ようが、是を其語の内容の外に置くことは絶對に不可能であらうと私は信ずる。
 だから舊時代の寺子屋に於ては、其任務を國語教育などゝ呼ぶ者は、一人も無かつたのである。日常の日本語では是を「字を教へる」と謂つたことは、諸君も多分御承知であらう。國の言葉を學ぶべき必要理由は、卑近なものだけでも五つはある。其中のやゝ小さな二つ、即ち言葉を字にすることゝ、字にしたものを見て解することゝだけが、寺子屋の役目であつた。しやれて是を學校と謂つたところで、最初は只念入りにそれを教へるまでゝあつた。文字の知識を必要と感ずる者だけしか、是を利用する者の無かつたのは當り前で、其必要が曾ては甚だしく狹かつたのである。醫者や神職僧侶は古くから、次いで公私の手代といふ階級、即ち帳簿筆札に携はるべき職分に進み入らうとする者は夙く來り學んだが、武家でも御祐筆以外にはもとは無筆者の多かつたことは、近世の笑話にもよく見えて居る。たゞ百姓の讀書力と、是に讀ませようとした書物の出版とが、雙方から誘導し合つて世の中は徐々に改まり、終にさういふ字を知つた人たちだけで、時代を現今にしてしまつたのである。此幸福を同胞全部に頒たうとしたのは好意であり、是非とも參加しようといふのが一般の熱望であつた。二者が合體すれば普通教育の機運は、外國に倣はずとも實現す(175)るは當然で、其上に人が遠方と交通する必要が急に多くなつて、口から耳への傳達の有難味が、何だか第二位へ蹴落された感があつたのである。文字を教育の本體の如く、崇め尊ぶに至つたのも無理は無いが、兎に角に何人も記憶して居るやうに、初期の學校などは先づ寺子屋に毛の生えたものに他ならぬのである。これが今日の如く誤つて國語教育を學校の專責と解する者をさへ、生ずるに至つたのは大飛躍で、五十年は永しとも言へない今昔の感である。實際さういふ誤解は、教へられる側の者が却つて強くもつて居た。さうして學校以外に在る昔からの教育力を、好んで自ら最小限度にまで制限したのである。もし幸ひに方法さへ立つならば、全部を公けの機關に委讓する方がよいかも知れない。今ではそれがまだ出來ない相談であるのに、どうかすると其氣になつてしまはれるのが困るだけである。さうしていつから斯ういふ大規模な、寧ろ大膽とも言つてよい任務を、すべて小學校に任せることになつたのかの境目を意識せず、只ずる/\に斯んなことにしてしまつたといふことが、我々素人にとつては譬へやうも無い不安なのである。
 
     三
 
 歴史によつて諸君が先づ學ばれるであらうことは、學校の所謂國語教育が、本來は甚だしく局限せられて居たことである。それが話方とか聽方とかいふ名目を以て、いつと無く次第に其機能を擴張して來たことは事實であるが、それよりも一方に以前同じ役目を勤めて居た家々の教育機關の、退縮してしまつた速度の方が遙かに大きかつたことである。其結果として讀方綴方以外の區域に、可なり廣漠なる空隙が出來て居る。それを如何にして補填充實させようかといふ問題を、誰もまだ心づき解決しようとする人が無いのである。讀み書きを少年に教へる技術に於て、今は以前よりどの位上手になつて居るか、比べものにならぬほど進んで居る。それで居て正直な者ほど人中で黙りこくつて居り、雀のやうによく喋る娘でも、改まつた席では暗記して來たことしか言へぬといふものが多くなつたのは、原因(176)は果してどこに在るか。少なくとも讀方綴方の教授の知つたことでは無いのである。學校が進んで全部の責任を引被ぶるのは男らしいか知らぬが、それならば早く缺陷の眞の有りかを、見出さうとしなければならぬ。それが見當がつかぬばかりに、我から自分の方法を危ぶんで、際限も無く建てたり崩したりして居るのは甚だ感心せぬ。二年か三年に一度づゝ、新たな主義や方法が現はれて、猿の尻笑ひをくり返して居るといふ國語教育は、何と考へても幸福なもので無い。
 そんなら何處に根本の缺陷が有るといふのか。以前は充實し今は則ち空隙となつて省みられない部分が、出來て居るといふことを果して證明し得るかどうか。私はさういふ詰問の出るのを待つて居るのである。文部の當事者の歴史には書いてないだらうが、是は尋ねたら誰でも答へてくれるほどの、歴史とも言へないなま/\しい現實であつて、諸君は寧ろ其中を掻き分けて爰まで遣つて來たのである。それを氣がつかぬといふのは餘程どうかして居る。家でも古風な人たちはまだ若い者の物言ひを氣にして、何かと批判したり、斯ういふ方がよいと教へたりすると同じく、郷黨の故老のやゝ固苦しいと言はれるやうな者には、わざと一々自分等の表現法に言ひ直して、聽かせようとする態度を持して居る者が多い。近頃出る方言集にも、?老人語といふのが採集せられて居る。半ばは偏執であり又惰性かも知らぬが、一方に自己が言語道の先達であり、前代から得たものを後代に引繼ぐ役目に在るといふ意識が無かつたら、そんな御世話燒きはしない方が氣樂であつたらう。以前はそれが又絶對に必要だつたのである。然るに正しい國語教育の全部を、自分たちは學校と書物とから受けて居る如く信じた者が、先づ是を輕んじただけで無く、その舊式の教員自身も亦、多數は是に滿幅の信頼を置いて、安心して祖先以來の職分を抛棄せんとして居るのである。さうまで信頼せられては困ると思ふ者ならば、慌てゝ是を制止するか、さもなくばその期待に背かぬだけの大擴張を、制度の上に加へようとしなければならなかつた。幸か不幸かこの引繼ぎが至つて徐々であつたが爲に、打棄てゝ置いても今までは何とか間に合つて居たばかりで、いよ/\弊害が目に剰る時が來ると、用意の不足が暴露して、この説明す(177)べからざる混沌を招いたのかと私は思ふ。これを學校にはもう話方と聽方との教授法が、備はつて居ると言つて澄まして居る人がもしあれば、耳を押へて鐘を盗むといふ諺がよくあてはまる。そればかりのもので果して人間が活きて行けるか。誰が考へたつて行けるとは考へられまい。
 
     四
 
 諸君謂ふ所の話方は、よそ行きの話方である。人が旅行をし奉公に出で、乃至見馴れぬ遠國者を迎へて、用向を問ひたゞす時などの日本語を教へて居るのである。是が現代の新交通の下に於て、缺くべからざる知識技能であることは論が無い。たゞ其爲に人間平日の入用が、少しでも儉約し得られるわけは無いのだから、それで全部を教へたやうに思つて居たら、間違ひといふことになるのである。この平日の入用は、人により境涯によつて一定して居ない。普通教育を杖柱として居る者の中には、月に平均一枚とも葉書を出さず、一生に何度といふ程度にしか、書方綴方の教育を利用せぬ者も隨分に居る。新聞や低級雜誌は莫大な發行部數のやうだが、是が國内の讀方教育の、全部が效を奏して居る證據にならぬことは、ちよつと勘定して見ればすぐ判るであらう。話方聽方もそれと同樣に、學校を出て行く者があれあの通り、教へてやつたことを役に立てゝ居ると、言つて滿足し得る場合がどの位あらうか。そんなまさかの時のたしなみだけに、六年も費すのが既に勿體ない感があるのに、中には丸々むだになることの前から知れて居るものも相應に有りさうなのである。折角一視同仁の有難い御趣意を拜しながら、もしも是だけがいつ迄も國語教育のすべてゞあるといふならば、私は世上若干の其恩澤に與からず、しかも是を常態と心得てあきらめ切つて居る者の爲に、代つて憤懣の辭を吐かざるを得ない。讀み書き對談の必要こそは、人の職業居住地等によつて多い少ないの差が著しいが、其他の部面では一樣に國語は大切である。如何なる片隅のしがない暮しを立てゝ居る者でも、父母妻子とかたらひ隣人と交はる爲だけで無く、獨りで居る爲にも寸刻も是を缺くことは出來ない。否寧ろさういふ者の方が、(178)書かぬ改まらぬ言葉の入用は痛切なのである。それが萬一にも在來の舊派教員の辭職によつて、正しい利用の方法を學び得なくなつたとしたらどうであらう。其損害は斷じて個人限りのものでは無いのである。
 個々の民族に賦與せられた國語の用法の中で、書くと讀むとは後々の發明であり、元からあつたものには言ふと聽くとの他に、考へるといふ一つがあつてそれが最も主要であることは、心づかない人はよもや有るまいと思ふのだが、其割には是の當不當と能率の大小を注意して居る者が、教育者にも少ないやうに見える。第一に外部に現はれない故に、どんな言葉が用ゐられて居るかもまだ明らかで無いが、私はそれは皆所謂土地の言葉で、學校で授けたものなどは至つて徐々に、且つ迂路を通つてしか其中に入つて行かぬやうに感じて居る。實驗の出來ることらしいから追々に此點を確かめて見たい。土語即ち母の語で物を考へるといふことは、必ずしもそれが早く又自然に修得したもので、他の一方は時おくれて外から注入したものだといふ理由だけではないやうである。學校の言葉には制限があり、又統一の爲の選定がある。假に其全部を遺憾なく消化しても、土地々々の實際の必要を皆覆ふだけの餘裕は無い。常民の思慮感情は決してさう自由奔放のものではないのだが、是を導くのは各人の環境と、至つて平凡なる昔からの實驗である故に、たとへば價値のある新しい材料を授けられたからと言つて、ふだんはさういふ事ばかりを念頭に置いては居ない。如何に國語の教員が干渉を試みるとも、腹で思ふことは勝手でそれには別の語が無いから、依然として入學前から知つて居る語を使用して、考へたいことを考へ、感ずるまゝに感じて居るのである。それが偶外部へ表白せられる場合、一應翻譯見たやうな手續を要するか否かによつて、借りた言葉か自分の言葉かゞ決するのである。本然の國語教育は、是非とも此部分までを包括すべきであるが、今日その名を名のつて居る機關は、僅かに其出口の番をして、しかもよそ行きの改まつたものだけしか檢査をして居ない。是では生涯教育の恩澤に浴し得ぬ者が出來るのも、制度の罪だといふことになりはせぬだらうか。御一考を乞ひたい。
 
(178)     五
 
 人が心の中で使ひつゞけて居る日本語、是が分量に於ても最も大きく、又一ばん大切な仕事をして居ることは、各人自身に就いて自ら測定して見ることが出來る。何ぞの時には自然に文字となり又は口から走り出て、それ/”\の交通に役立つのだけれども、如何によく稼ぐ文筆業者でも、立板に水といふ類の演説家にしても、實際は其片端しか物にはして居ない。ましてや只の人には聽けばわかるといふのみで、自分は一生の間に算へるほども言つて見たことは無いといふ、單語なり句法なりは幾らあるか知れない。女などは普通寸刻も休まずに、朝起るとから夜睡りつくまで、引切りなく何か考へごとをして居るのだが、よく/\で無ければそれを口にせず、又彼等にはどうしても言へない言葉が多い。以前は結構それで用が足りたのである。村には第一共同の思惟があり、又豫期せられ得る共同の感覺が今でもある。大抵の場合には目を見合す迄も無くそれが察せられ、たま/\二つ三つに岐れることがあつても、たつた一言で心持はすでに判る。主格客格の完備した文法通りの長文句を吐くことは、必要でないのみか寧ろ異樣であり且つ適切でなかつた。以前神戸に櫻井一久氏といふ名辯護士があつて、曾て俄雨の中をずぶ濡れになつて緩歩して居た。どうして走らぬかと人が謂つたときに、「さきも降つとる」と答へたといふのが、逸話となつて今も記憶せられて居る。都會だからこそ我々は珍とするが、田舍では毎日のやうにさういふ會話が聽かれるのである。相州の或海岸に私の家の松林が少しある。そこへ松葉をかきに入つて來て困るので、或時留守番が出て制止すると、中年の女が出て行く棄てぜりふに、「なまぢや食へないや」と謂つたと聽いて私は感心した。それで十分に氣持はわかるのだが、是を綴方流に精確にいふと、今まで私たちは此邊の松の葉を拾つて煮たきをして居た。それを圍ひ込まれたからと言つて燃料を斷念するわけには行かぬ。人はなまのものを食つて生活し得るもので無いからといふことを、埋窟はともかくもこの短文の中に、明瞭に綴り込んだ技能は驚くべき練習と言はなければならぬ。
(180) ところが其樣な略文や感動詞だけで、通用せぬ交通といふものが新たに始まつて來たのである。相手には二とほりあつて事實呑込み得ない者と、わかつても同情が足らず又は意地が惡くて、言葉咎めや揚足取りをする者とがある。どちらかは知らぬが兎も角も他郷人、氣心の知れない初對面の人などには、改まつて形式的に諄々と説く者を、選拔して出す必要が生ずるのである。私がよそ行きの話し方といふのも此部分に該當する。村にはさういふ人を多分にこしらへて置くに及ばなかつた。元は口きゝと稱して仲間でも大事にされることは、醫者や手習師匠と同格、時としては其以上に勢威を揮ふこともあつた。勿論年と共に其數は増して行くだらうが、今でも是に任せて黙つて居らうとする者は尚多く、一方口きゝの數が少しでも必要を越すと、剰つた力を内に向けるので物議は絶えない、即ち左樣な明確に過ぎたる話し方の、郷黨には無用だつた證據である。是に反して都會はもと/\他郷人の集まりで、殊に近頃では事實上氣持の全く通じない、略語の不可能な者が相隣して住んで居る。辭令の練磨はその必然の結果であり、外部へ表示せられる言葉の割合は多く、從うて又刺戟によつて頻繁に變化して行くことを免れない。是が國語の都會に先づ發達し、新たなる文藝を支持して、地方に君臨するに至つた起源であつて、耳眼の感覺に雋鋭なる日本人が、甘んじて是を標準と仰いで、其よそ行きの話し方を改良しようとしただけで無く、徐ろに且つ間接には毎日の言葉、即ち感じたり考へたりする用途にも取入れたのは不思議なことでない。問題は畢竟するに其手順で、是を昔の國語教育のやうに、一旦自分のものにしてしまつてから、内で自發的に使はせるか、はた又現今普通に行はれて居るやうに、兎に角先づ改まつた話し方だけを統一して、其他は自然の、成り行きに一任しようとするかである。郷土に即した教育といふ語は折々耳にするが、それだけでは少し空漠の嫌ひがある。私の解説では、個々の教へられる者の入用の最も多い部分、即ち國語でいふならば仲間と共に活き親しみ、且つ内で思つたり感じたりする時の用途に、もう少し重點を置いてもらひたいことで、是でおのづから都市と村落との教へ方をかへる必要が認められて來るかと思ふ。
 
(181)     六
 
 最近百年か百五十年間の、日本語の目ざましい發達は、主として都市の力に負うて居ること、それが國民一般の智能を推進める上に、どの位大きな働きをしたか知れぬといふことは、誰よりも先きに讃歎する者が私である。若干の弊害が既に芟除を要する迄に増長して居るとしても、其爲にこの大きな功績を否むわけには行くまい。日本人が假に兼てから思慮の緻密、感覺の繊細を以て誇り得る民族であらうとも、言葉の是に配當せられるものが無かつたならば、發して外に表示することが出來ぬは勿論、自分でもたゞ襖惱して適當に之を處理することを得なかつたらう。さういふ言葉が近世は非常に増加したのみならず、前からあつたものも大抵は皆變つて來て居る。さうして田舍の手作りでなかつた證據には、一部は知つて用ゐ他の者はまだよくわからぬといふ言葉が、形容詞や無形名詞の中には特に多いのである。斯ういふ新語が都市から持つて來られるたびに、田舍の觀方と感じ方の、新たに生まれぬまでも鮮明になり、又的確になつたことだけは爭へない。しかも寂しい人たちの内部生活は、もう少し多彩であつてもよい。我々が今一段と哲學風に考へ、又は所謂分析的に批判し得る樣になる爲には、斯う書きつゝも親の言葉の、まだ/\足りなかつたことを感ずるばかりである。輸入超過は今後も續いてくれなくては困ると思ふ。但し必要なる條件としては、それが各自の實際に入用なもの、自分で體得して生存の一部に同化するものでなくてはならぬ。單なる外形の模倣では是は口利きの養成にしかならない。いつかは廻り巡つて日常の用語に採られもしようが、それには待遠い時間を要し、又今日のやうな教育組織では、笑はれも咎められもせずに、多くの片言を成長せしめる結果を見るであらう。此點が私には甚だ心もとないのである。
 活きた言葉といふのは少し強過ぎるか知らぬが、とにかく内に根のある語、心で使つて居るものが其まゝ音になつたのを、心の外でも使ひ得るやうに是非させたい。改良するならば根こそげ改良して、出口で飜譯して人に聽かせる(182)やうな、外國語じみた標準語の教へ方は止めさせたいと思ふ。外國語でも英國人などは氣がいゝから、英語が上手になりたくば英語で物を考へる習慣をつけよなどゝいふ。そんなことまでする者が果してあるだらうか。成程十歳十五歳で向ふへやり、彼等の中で育てたらさうなるであらうが、其代りには日本人としては、十五歳以下の者の考へ方しか出來ないで、年ばかり取つて還つて來ようも知れぬ。自國語と外國語との明らかな相違は、幾ら小説で學び脚本で熟知しても、學んだ言葉では喜怒哀樂は表はせない。上手にいへば言ふほど心は芝居になるのだから、相手に響く力も弱いにきまつて居る。といふよりも馬鹿々々しくて、正直な者なら始めから是を試みようとしないのである。自分なども度々脇で聽いて居て、寧ろ同國人の腹のうちを、言はない言葉から感じる場合が多かつた。たま/\行逢つて一通りの辭令を交換するだけならば兎に角、是で親族となり又隣人とならうといふことは、不能でないまでも不自由の限りだと思つて居る。心の底から自然に湧く言葉には目をくれないで、外へ持出す形だけに干渉することは、假に生活のあらゆる機會に、漏れなく行渡つた注意が與へられる場合でも、尚子弟をして餘分の作爲に勞せしめる弊がある。ましてや學校の話方は話の種が限られ、いふことは一本調子で加減も無く又程度もなく、泣くとか怒るとか悲しむとかいふ類の、大切な表現は皆管轄の外に置かれるのみか、平板なる日々の用語ですらも、殆と皆不完全なる各自の環境の感化に任せ、めつたに使ふことも無い改まつた日の文句だけに、力癖を入れて居るのである。惰性もしくは獨り合點といふ以上に、是だけを以て國語教育と解する根據は無いと思ふ。
 
     七
 
 片言は全くこの不完全なる國語教育の産物といつてよい。人が自分たちの使ひつけて居る言葉以外に、別にもう一段と上品な語の存することを知つて、しかも滿足にその意味を學び得なかつた場合に、急にさういふ笑ふべき誤謬が多くなつて來るのである。だから以前はたゞ發育盛りの幼兒が、耳では既に知り口ではまだ十分に習熟して居らぬと(183)いふ期間だけに、この現象は觀察せられ、又片言といふ語も生まれたのである。是が成長した男子の間にも蔓延するに至つたのは、寧ろ交通の稍開け人智の少し進んで、言葉に地方差と階級差、乃至は口と文書とのちがひのあることなどが明らかになつてから後のことで、生理的のもので無いから文化病と名づけでもよい。幼兒の片言が發育の幾分おくれた者に多いに反して、大人の片言はいはゆる尖端人、よく言へば進取的の口きゝの側に起りがちで、馬鹿や遲鈍な者は却つて其非難から免れて居る。此點が社會の疾病として治療を急がねばならぬ理由である。
 弊害の殊に忍び難くなつたのは近頃だが、古人も久しくこの矯正に苦慮しては居た。明治に入つてからも是を教育事業の一項目に算へる者さへあつたが、遺憾なことには出發點に誤謬があつた。それが片言と方言との混同であつたのである。方言の「方」の字も日本ではカタと訓むけれども、其名の起りは地方の言葉といふことで、俗語では郷談もしくは田舍ことばと謂つても、未だ之をカタコトと呼んだ例を知らない。片言は即ち片なりの語である。片輪のカタも同樣に不備を意味し、方角のカタとは同音別語なのである。方言即ち地方言語の中にも、若干の片言はまじつて居る。安原貞室の集めた「かたこと」などは、事實は京都の方言集なのだが、其大部分があの時代の新語の、耳學問の眞似そこなひに基くものであり、是を使つたのが市民の一半で、他に是を嘲り又難ずる者が居つたのだから、是を片言と名づけても先づ差支へは無かつた。しかも其列擧の中には、全く別の理由で文書の上の言葉と異なる表示をしたものが幾らもある。ましてや遠い田舍の、俳諧も流行せず、上品な言葉も傍に無くて、眞似そこなひをしようにも手本が無いといふ土地では、方言は幾らあつても片言はめつたに無かつたのである。二者を一括して訛語などゝ漢譯して居たことが、現代の無理解の元であつた。國語はどこの國でも千年前の通りに、今でも發音して居るといふ處は一つも無い。日本は殊にそれが頻々と變化したことは、記録文獻の上からも片端は推測し得られる。土地によつて其變り方が後れ先だち、又はやゝ方向を異にして居たのは、間ちがひとも實は言はれない。單に京師の上品で自信の強い人々が、自分と同じでないものを誤りと誤解しただけで、いよ/\全國の言ひ方を一致させた方が便利だといふこ(184)とになつて、それを標準にして地方のを改めさせようとするのは、全く別箇の運動に屬する。皹を肥前五島でアカヾリと謂ふのは、足がカヾルのだからアカギレよりも正しく且つ古い。楮を紀州熊野でカミソと謂ふのは、カウゾよりも惡いとはいへない。山慈姑を北信濃でカタコユリと謂ふが、是などは確かに標準語のカタクリの起りを説明する。是を廢してたゞ東京の發音に從ふことは、便宜主義とは言ひながらも氣の毒な犠牲である。同じ一つの語の異なる現はし方でも、少數が即ち訛なりと言ひ切れない證據は幾らもある。ましてや意味が似寄つた全く別の言葉を、よく討究もしないで甲乙相同じと斷定し、一方を訛とし他の一方へ改めさせようとするなどは、甚だ無法な方針と言はざるを得ない。假に踵が關西でキビスであり、九州と奧羽でアクドであらうとも、知つて居りさへすれば多くあることは寧ろ調法である。しかも多數の所謂同義異語の、微妙な心理の記述に役立つものなどは、日本人の細かな感覺では、それ/”\に少しづゝ心持がくひちがつて居て、時と場合によつて取替へて用ゐる必要があることは、外人などの區別に困るといふホカとソト、ナカとウチなどの手近な併存の例を見てもわかる。まこと入用が無ければ自然にも無くなるであらう。よくも入用の有無を考へて見ないで、都府に無い言葉は皆引換へてしまはうとするならば、終にはハセ・ハサキを「稻を架ける棒」と改めたといふやうな、悲惨な滑稽が田舍の事物に就いては起るだらう。方言を撲滅して片言を新たに増長させる。是が精確ならざる訛語といふ新語の、播いて刈上げた情ない収穫であつた。
 
     八
 
 最も大きな迷惑を受けた人は諸君であらう。片言と對立した狹義の方言は、古い用語の保存であり、又は地方限りの發明であつて、兎も角も土地の人々は是に依つて考へ且つ感じ、家庭郷黨と語らひかはすべく、年久しく習慣づけられて居るのである。學者が是によつて前代の生活を探るのは、諸君の關與せぬことだとしても、現在の國語生活は代りの出來るまでは、たゞ是によつてのみ導かれて居たのである。それを總括して敵の寄手の如く寄せつけず、兒童(185)には必ず其他のものを以て國語を教育せよといふやうな、そんな無理な仕事を仰せ付かつて、滿足に成績の擧がらぬのは當り前だつたのである。だから何はさし置いても先づ地方の言語の中から、片言と片言に非ざるもの、即ち狹い意味の方言とを選り分ける事業に取りかゝらなければならぬ。片言の撲滅こそはまさしく諸君の本務である。六年も毎日教育をつゞけながら、大きくなるほど益片言を謂ふ少年ばかりが多いとすれば、其恥辱は決して他の人へは行かない。方言の方は是に反して、幸か不幸か追々に少なくなつて行くやうである。手をかける必要は無いのみか、是をどうして喰ひ止め、又どうして一般の文藝會話の上に役立たせようかの問題の如きは、成人も殊に少數の、所謂高級利用者でないときめられない。諸君はそれを構はずに、專ら生徒をして思ふこと感ずることを、率直且つ有效に表出させるやうに、さうして其自由を妨碍するあらゆる外部の原因を、排除するやうに努められたいものである。尤もさういふことを口では論じた人も既に有る。結果から見ると其説はまだ確かに行はれて居ないのである。
 片言は本來個人の失敗である。稀に其失敗が手本となつて子女も隣人も同じことを謂ふ場合には、形がやゝ方言と近いといふこともあらうが、それでも決して皆がさうは言はない。時々そんなことを謂ふ者があるからとて、是を方言集に拾ふのが既に誤まつて居る。人を笑はせるのが方言集の一つの目的であつた昔の癖が、まだ殘つて居るのである。片言の一般から寛容せられたのは、もとは稚な子のそればかりであつた。それといふのが是だけはよく解るからで、中には寧ろ面白がり又むぞがつて〔五字傍点〕、あべこべに親姉までがそれに同化することさへある。しかも稍成長すると必ず自ら改めて、構はぬと言つても決して是を固守せぬのである。それとやゝ似た片言の相應に普及したものは、戸棚をトナダといひ羽釜をハマガといふ類の顛倒であるが、是なども小兒の舌足らずと同樣に、起りは發音の困難を乘り切るが爲で、相手が承知してくれるからさう言ひ慣れて居るものゝ、自分でも大抵は誤りを意識して居るから、必要があればやがて正常に復つて來る。厄介なのは寧ろ成人としての眞似そこなひで、それを自分はまだ心づかずに居る場合である。近年の洋語流行は新たにその最も奇拔な實例を多く作つたが、それに先だつて所謂漢語の濫用が、可(186)なりに我々の言葉を變ちくりんなものにして居る。書生が社會の樞軸を握つた時勢の、是が一つの副作用であつたのであらう。文章の素讀體は程無くすたれたにも拘らず、會話にはいつ迄も書册の氣臭が附き纏うて居る。文字ではどう書いてよいやら確かには知らぬうちから、好んで耳新しい語句を聽き覺え、ほんの大雜把に其意味の見當がつくや否や、すぐに自分も使つて見ようとするやうな性急な氣風は、不思議に日本の書物教育と伴なうて早くから現はれて居たのだが、維新は更に其傾向を擴大したのである。其原因を突留めることは、我々同時代人の義務であつて、それには先づ是を常態とし、何れの國民にも免れ得られない弱點のやうに想像する、何の證據も無い斷定を棄てなければならない。勿論自慢にならぬ特色ではあるが、日本のやうによく片言をいふ國はさう他には無いのである。
 同じ成人の片言といふ中にも、害の大小から見て幾通りかに類別し得られる。例へば關東の田舍でよく使つて居たモチロモといふ語、是は勿論の眞似そこなひだが、此方は笑はれるだけで害は無い。やゝ近い意味にモットモといふ語も前からあり、副詞の形としてはモで終る方が似つかはしい。ちやうど停車場をステンショと謂つたり、眼の病だからトラホーメと謂つたりする如く、寧ろ是を日本語にする歸化條件とも考へられる。斯うなつて來る頃にはもう自由に毎日の思考用にも入り得るからである。是に反して東京でも折々聽くアラカジメはいけない。「豫め」と書く語が別にちやんとあるのに、是は「あらかた」又は「あらまし」の意味に使ふからである。斯うした誤謬にも恕すべき動機はあらうが、兎に角に甲を言はうとして乙を使ふといふことが、許されるわけも無く又役に立つ筈もない。それが稍暫らくでも世にながらへて居たのは、却つて其語が餘りにも耳遠く、言はゞ聽く者を面喰はせた結果とも考へられる。即ち一種流行の口ずさぴと近いもので、まだ本當の日本語にはなり切つて居なかつたからである。斯ういふ種類のモダーン語なるものは、今日は殊に多い。それに後から解釋をつけた字引が、幾つも出て來るなどは耻づかしい限りである。アラカタをアラカジメといふ樣なとんでも無い片言は、忽ち誤りが暴露するから、さういふ中にも害はなほ小さい。是がもし若干の聯想をもつ無形名詞などで、強ひて後からこじつければ同じだとも言へぬことはないと(187)いふやうな言葉だつたとしたら、その弊の及ぶ所はその位大きいかわからぬ。其上一部の青年が新しいと言はれたいばかりに、やたら斯ういふ借りものゝ語を使つて、寧ろ批判の出來ないやうな聽衆を捜しまはり、それを相手に大聲疾呼して居た結果は、國家言論の今日のやうな紛亂を、餘計に始末の惡いものにしてしまつたのでは無いか。人に心にも無いことを喋べり散らさせるやうにしたのは、私たちから見ると外形教育の責である。是を悔いない限りは、國語は永くその本然の役目を果し得まいと思ふ。
 
     九
 
 次の代の國民に、出來る限り片言をいはせない樣にすること、是を私などは國語教育の一ばん重要なる役目と心得て居る。さうして今はまだその職分が、滿足に遂げられては居らぬと感じて居る。片言にも幾通りかの階段があつて、たとへば幼兒のそれの如く、笑はれしかも理解せられ、又容易に訂正せられるものは大したことは無い。弊のとりわけて大きいのは尤もらしい片言、殊に相手が此方の本心をちがへて取るかも知れない片言である。是が流行し又癖になると、社交も言論も大半はむだとなり、人は無意識にもうそつきになつてしまふかも知れぬ。知りつゝ掛引に心にも無いことを言ふ者は、當人自身が甘んじて責任を負ふであらう。たゞ誤つて是が正しいと心得、又は斯ういふ方が上品なのだと思つて、もしも實際に内で考へて居ることや、獨語で用ゐて居る意味と異なる言葉を、選び出だして居たとしたら如何であらうか。國語はまさしく信頼者を裏切る結果になるのである。それを覺悟し又豫定して居る教育といふものが、有らう道理は無いとすれば、今日の世態は明らかに其失敗を證據立てゝ居る。我々は單に存分に物が言へぬだけで無く、言へば毎回のやうに言ひそこなひをして居る。それが學校も樂に通つて來た、やゝ小ざかしいといふ階級に多いのは、何と考へても教育の成功だとは言へない。外國から來た人々の日本語を見てもわかる樣に、片言は寧ろ新舊二種の文化の、接觸面に於て起りがちなものである。學ぶ能力の乏しい者は、無口にはなつても片言は(188)さう連發しない。學ばうとすればこそ片言もいふので、たゞ是を好い兆候だと安心しても居られぬわけは、穉兒や異人ならば未熟を自認して居るから、改良を心掛けるのに反して、一方は仲間が多い爲に、是でいゝ氣になつて止まつてしまふからである。標準語の普及は必要でもあらうが、折角教へる位ならその移り替りの境に立つて、十分忠實に效果を見究めなければならぬ。それを等閑に付するの風がもしもあつたとすれば、先づは人間を一生の片輪にする事業と、酷評せられても怒るわけに行かぬのである。
 自分どもの解して居る「正しい言葉」は、或は今まで世間に用ゐられて居る意味とちがふかも知らぬが、言語本然の目途から考へて見て、最も精確に各人の言はうとする所を、表示する言葉より他には無い。幾ら上品な又多勢の使つて居る言葉であらうとも、現實にめい/\が内に思ひ心に感ずるものを映して居なければ、正しいと言へないのは當り前ではあるが、親とか教員とかの特殊の關係に在る人々を除けば、それが果して當つて居るか否かを、鑑別することは外部の者には出來ない。乃ち話主自らが之を決定するの他は無いので、強ひて新しい言ひ方の採擇を勸めて見たところが、單にうはべばかりの口眞似であつたならば、本人に責任を負はせることなどはとても出來ない。斯ういふのが所謂尤もらしい片言となつて、非常に毎日の交際を累はして居るのである。
 是は外から見た「正しい言葉」があるといふ想像、もしくは標準語の過信を少しく差控へるならば、或程度までは避け得られる弊害である。標準語は人も認むる通り、毎年可なりの速力を以て成長し又精錬せられ、その新たに加はつた部分は、概して在來のものよりも有力に統一の效を奏しつゝあるが、一方には時々の失敗もあるので、さう容易には國民の生活經驗の全幅を覆ひ支へるに至らない。都府に知られず辭典に載らず、從うて文書演説にも用ゐられない地方語で、對譯を標準語中に見出し得ないものは、地形や農林用語以外に、まだ何千でも我々の手で擧げ得られる。句法や表現の形などでも、所謂文化人は考へて物をいふ餘裕が無い爲に、却つて有りふれた僅かの種類の文句を、うんざりする程何遍でもくり返しで居て、その變化は却つて田舍者よりも乏しいのである。意味は一つで語ばかりがち(189)がつて居るものゝ如く安心しきつて居る有形物の名詞ですら、タウナス・カボチャ・ナンキン・ボウブラのやうに、それを用ゐて居る人の胸の繪の全く同じでないものも數多い。ましてやほんの心持だけを表はして居る二つの無形語が、甲乙同じだといふことはさう容易にきまるものでない。東京の住民などはまだ江戸と謂つた頃から、既に感覺は可なりに精緻になつて、間に合せながらもやゝ豐富な心意現象の用語をもつて居た。それを維新のごく短い期間に、すべて二字づゝ繋がる生硬の漢語に、引替へてしまはうとして居たのである。自分の用辨にすら足りるか否かゞおぼつかない。まして其儘標準語に受け繼いで、あらゆる全國の要求に應じさせようといふなどは、少しでも實驗をした者の抱き得る野望ではないのである。それよりも以前に此種の實用の語彙を、もつと豐富にして置く準備作業が必要だつたのである。
 
     一〇
 
 飜譯でもした人ならば誰も心づいて居るだらうが、現在の標準語には妙に副詞の數が少ない。今まで其需要をどうして充たして居たらうかといふと、一部は顔付きなり語調なりでも間に合つたらうが、其他は動詞自身の種々なる修飾によつて、時に適した表現を企てゝ居たらしいので、イフとかイタムとかいふ一つの標準語に對して、直すより他はない粗末な動詞を、常民はもと十も二十ももつて居たのである。それを下品だから罷めさせようといふには、代りを與へなければ其分は言はれぬことになる。人は明けても暮れても御殿へ出て坐つて居るわけで無い。たまにはせき込んだりまごついたりして居る感じを、其まゝ心安い仲間に知らせたい場合もあるだらう。それを察してやらないから標準語の國語教育は、いつ迄もよそ行き用にしか役立たぬのである。形容詞も最初はあんな斯んなと指をさして、仲間どうし物が自由に言へた時代から、一躍して何々的なる世の中に入つてしまつた。地方ではまさか毎日何々的とも言へない故に、辛吉して各自の分裂して行く感覺に、それ/”\適切なるものをこしらへて來た。だから粗末だとい(190)ふことを宥恕すれば、日常の會話の上では、町よりか遙かに形容詞の數が多いのである。是を其まゝ標準語に引繼ぐことは迷惑であらうが、少なくとも今日日本人が必要として居る形容詞の數が、都市に殘つて居るものよりは遙かに超えて居るといふことを、此事實によつて覺らなければならなかつたのである。新たに提出せられて居る何々的の三字は、ちつとも日本語のやうな氣がしないばかりか、内から發した必要の區劃と、ぴたりと合つて居るといふ場合は少ないのである。さうして少年や少女が、もし何々的と言つたら滑稽であらう。
 是とはちやうど逆に、都府の上中流にのみ異常に發達して、田舍にはまだ一向分化して居らぬといふ單語句法も無論多い。雙方の言葉に對立が無く、從うて彼を改めて直ぐ是にするといふことの容易で無く、誤解と片言の起りやすいのは是も同じであつた。色とか味とか商品の名とかいふものが、實際の不便の主たるものになつて居るが、それよりも一層教育者を惱ますものが敬語である。素朴な生活を導く人々には、たつた一つ有れば用は足りたものが、上下の階段が細かく分たるゝやうになつて、相手によつて言ひかへないと非禮であつた上に、更にその各級の間の組合せが複雜で、甚だ覺えにくいものになつてしまつた。たとへば外へ出て自分の長者の噂をする場合に、その長者と相手との高下を考へて物をいふが如き、乃至一家のうちにも夫妻兄妹の尊敬の序があつて、問題によつて一々言葉をちがへるといふ類は、永年の習ひによつて自然に是に熟した少數の者でも、規則にして見せよと言はれたら恐らくはまごつく。外國人は申すに及ばず、こんな約束の中に育たなかつた青年男女に、是が大きな陷穽であるのは當然のことで、單に目上の人のことは丁寧にとか、又は御だの樣だのを落さぬやうにと覺え込まれると、もう一廉の教育を受けて居る者までが、否寧ろさういふ人ほど餘計に、平氣で私のおにい樣がといふ類の誤りを演じて、何とも名?し難い會話の空氣を作るのである。斯樣な不便なる法則はやがて改まるにきまつて居る。多數が共に陷るなら其誤りさへ法則だと言へるかも知らぬが、少なくとも當の本人の本心から言つて、十分に示すつもりの謹嚴なる態度が、しば/”\相手の忍び笑ひに化してしまつては、それでもよいといふ理由が無い。しかも一方さういふ階段の多い敬語卑語に、平生(191)馴らされて居る僅かの家庭では、小兒でも容易に言ひそこなひに心づくと共に、是を毎度まちがへて人から低能のやうに見られる者でも、其郷里の又別種の敬語だけは、少しの苦勞も無しに規則通り、守つて居るといふ事實を考へると、家と學校では言葉の教へ方に、慥かに二つの方法の差、もしくは技能の高下とも名づくべきものが有るといふことが判り、強ひて樂觀するならば現今殆と行詰まりの如く認められて居る國語教育にも、なほ開けば開かれる廣々とした前途のあることが推測し得られる。正しく教へれば正しく學ぶ可能性だけは、如何なる境遇の日本人も、皆持つて居ることが證明せられるのである。だから又是が指導の任に在る者は、自ら責めなければうそだと思ふ。
 
     一一
 
 そんなら是からはどの方角に向つて、問題の解決を求めようとしたらよいか。手短に言へば今まで省みなかつた區域、空々に看過して居た事實を、もう少し考へて見ればよいのである。多くの諸君はこの都鄙に横溢する新種の片言癖をすらも、さして氣にかけずに進歩の段階ぐらゐに考へて居る。それでは發見も啓示も望まれる筈が無い。自分が之を目して患ふべき文化病の一つとし、或は現行の教育制度の、所産で無いかとまで極言するのは、必ずしも今見る國語紛亂の結果だけから、推論した言ひがゝりではないのであつて、是には幾つかの看過せられて居た情弊の、今でも指摘し得るものがちやんとあるからである。日本國でなければ多分は見られまいと思ふ前代からの行懸りを、格別吟味もせずに承け繼いで居るものが、少なくとも三つは確かにある。それが何等の惡影響をも與へずに、居たかどうかを明らかにするといふことが、今は先づ第一着の急務のやうである。
 其一つとして擧げてよいのは漢字の拘束である。漢字が將來の書札交通に適す適せぬは、こゝに論ずる問題とは別である。私が言はうとするのは過去に於て、是がどの程度にまで言語の正現正解、殊に教育の效果に累を及ぼして居たかを、一度は考へて置く必要があるといふことである。成程この隣國の文字を借用した御蔭に、得がたい無數の知(192)識は我々の間に、いとも手輕に運搬せられて居たことは事實で、是を總括して拘束と呼ぶのも不當かは知らぬが、一方に之を餘りに調法がつたが爲に、言葉を重苦しく又不精確にした迷惑も小さくない。全體私なども既にかぶれて居る樣に、男なら是非とも漢字澤山の文章を書かなければならぬといふことも因習である。中世には漢文の知識も未熟な癖に、公文は全部あちら文字ばかりを使はうといふ趣味だか約束だかゞ固かつた爲に、それは/\馬鹿々々しい澤山の宛字が出來て居るのである。私は曾て戯れに是を節用禍と呼んだことがあるが、用ゐ始めた者は只の思ひつきで、人がまねした見馴れたといふ以上には、公認の基礎は無いにも拘らず、前代の書札教育は之を法則視し、誤れば則ち咎めて居た結果、後々この宛字が語の意味を語るかの如く、速斷する者を生じたのである。所謂眼に一丁字無き者と有る者との交通は、是に由つて疎隔せられざるを得ない。折角國共通の古い單語を保存しながら、其内容が頻々とずれはづれて、人に無意識の片言を使はせる陷穽を多くしたのである。古人が物事に念入りであつたといふ美徳が、今は却つてこの誤解を大きくした。宛字の何か意味ありげな、もしくは少し似よつた語の漢土にもあるものなどは、往々にして外國の辭書から、自分の日本語の解説を求める者などを生じたのである。今も盛んに行はれるアンバイは其一つの例であらう。アンバイはアハヒで、間といふもほゞ近く、だから或土地では健康を意味し、又或土地では天氣を意味し、或は機械のアハヒなどゝ使ふ處も出來たのであるが、なまじひに鹽梅だの按排だのとこじつけ得たばかりに、却つて文字を學んだ者には適切な利用が出來ない。
 無理な宛字の公認によつて、言葉の適應性を妨げた例に至つては、更に算へきれぬほども多い。ケナリゲは中古の女文章にも頻りに用ゐられて、起りはとにかくに明白なる或時代の標準語であつた。それを健氣といふやうな笑ふべき未熟字に宛てた爲に、近代の用途は萎縮してしまつて、後には相手を見下したやうな感じとなり、入用が乏しくて終に廢つた。さうして一方には之を表はす感動詞のケナリが、ケナルイと誤られて、別の形容詞に化したのである。ユエンは本來「故」と一つの語で、隨分便利なよい響きの無形名詞であつたものを、所以と書くまではまだよいとし(193)て由縁などゝいふ字をこしらへたのは氣が知れない。二字にしなければ學者らしくないといふ、をかしな俗信が今古を一貫して居るのであらう。その他辛抱のシノブといふ動詞から出てをり、邪魔のサマタゲといふ名詞と、世話がセハシイやセマイの形容詞と、我慢がカマケルといふ語と、關係のあるらしいことなどは略察せられるが、面倒當惑介抱等の常用辭に至つては、支那語でなかつたことだけは明白であつて、今ではもう其由來もちよつと尋ねにくゝなつて居るのである。カクゴといふ言葉は九州では格護とも書いて、物を藏つて貯へて置くことを意味し、是が又古い用法でもあつたらしい。文字を知らぬ者は寧ろ以前のまゝに、是を用意又は他日の備への意味に使つて居る。覺悟と書くのだからいざ死ぬといふ時にしか使つてはいけないと言つたらどうであらう。淨瑠璃などには覺悟をきはめだの、覺悟はよいかだのといふ句をよく使つて居るが、其樣なカクゴは支那にあつた氣遣ひは無いのである。
 最初自分たちでよい加減な宛字をこしらへて置きながら、それに引付けられて元の語の意味を、その方へ曲げて行くとは何といふ拙ないことであらう。ヤッカイといふ語は家《やか》と居《ゐ》との組合せで、本來はたゞ同居人といふことであつた。是を公文に必ず厄介と書くことになつて、次第に此一語の感じを惡くした。兄や伯父たちと仲よく暮して居る者が、この爲にどれ程肩身を狹くしたことか、考へて見ると宛字も折々は罪を作つて居る。以前是が非でも漢字ばかりを以て男の文章を書かなければならなかつた時代でも、なほ今少し熟慮してもらひたかつたと思ふことは多い。ましてこの自由な假字まじり文の世の中になつて、さういふ偏した立場から、文字に制約せられない人々を、嘲つたり戒めたりすることは、歴史を知つて居たらよもや出來ることで無からう。だから一門郷黨の古い慣行に盲從して居る者は別として、苟くも人に言語を教へようとする者ならば、責めては我々の標準語が、今後なほ幾多の檢討と精撰とを重ねて、始めて完成の域に達すべき、暫定的のものであることを認めなければならぬ。起りは假りに馬鹿げたる誤りにもせよ、とにかく此形で此意味で、多數の間に今は通用して居るのだから、押通してよろしいと思ふ者がもし有りとすれば、諸君も終には又流行の新語字引を買つて、あやふやな片假字言葉を暗記させられる時が來ようも知れぬ。(194)是が果して個々の國民の現實の需要に、適應するか否かを判斷する人が、もう何處にも居ないといふ結果になつてしまふかも知れない。
 
     一二
 
 この用語の判別取捨、即ちちやうど言ひたい通りの言葉を自ら擇むといふことは、或期間の實驗をさせた上でないと、兒童の境遇智能に期待し得られない。彼等は耳に敏く口眞似には最も從順であるが、其代りには氣持の細かな異同を、新しい言葉から感知する力が足りない。彼等の側に立ち、彼等と共に考へる指導者が無かつたならば、口眞似より以上には之を利用することが出來ずに終る場合が無いとは言へない。乃ち外形教育の戰慄すべき惡效果が、最もたやすく現出する區域である。私等の少年の頃には小學校の記事文といふと、必ず此日天氣晴朗であり、おまけに必ず一瓢を携へて居ると笑はれたものであつたが、今だつて是に近いことは毎度あるだらう。たとへば爰に斯んな佳い言葉がある。それを漢字に書けば斯んな字だ。さうして最近町場の人たちに使はれて居るとでも教へようものなら、子供等は恰も伊太利語の歌を諷ふやうに、ろく/\意味などは呑込めなくとも、是非とも暗記して居ていつかは使はうと努めるであらう。そんな知識の供給が、國語教育でないことは確認しなければならぬ。視る者聽く者の理解力は別として、言ふ者が自ら内容を意識しなかつたとすれば、其空虚さは片言以上である。精々舶來の歌ぐらゐに留むべきもので、人と人との日常交通にもしもそれがまじつたら、結果は先づ虚僞の公認以外の何物でも無いであらう。虚僞といふ語は聞棄てにならぬやうだが、是が曾ては言葉の他の一つの用途であつた時代もあるのである。人が音韻の外形に信頼して、意義を神秘に付したアビラウンケンソワカ等の呪文は其一つである。但し我々の子弟は、さういふ教育を期待して居ないだけである。辭令と稱するものゝ中にも、以前は是に近いものがあつた。改まつた一つの式を完成する爲に、乃至は冷酷なる者の非難を脱せんが爲に、親や主人のいふ言葉を口移しに覺えて行つて、しかも言ひ(195)そこなつたといふ類の笑ひ話も數多いから、そんな必要も元はあつたのであらうが、今日は既に大部分は免除せられて居る。古風な母などの斯うお言ひと教へる語までが、追々と小兒の言ひやすく考へやすい方へ變つて來て居る。所謂辭令の心にも無いことを言はねばならぬ場合が、取引や訴訟などにはまだ殘つて居るが、是とても欺瞞の罪を犯して迄も、さも/\誠しやかに心の言葉を以て修飾することに努めて居る。演説などは元來口眞似が習練の主たる手段であるに拘らず、なほ言々肺腑より出づるやうに、聞えるのを上乘として居る。國が廣く敵人が少なくなり、異郷人感覺の制限せられて行く御時世に生まれた御蔭に、言語は棄てゝ置いても追々と本心に近く、獨語と對話との距離は短縮せられようとして居るのである。今頃よそ行きの言葉の陳列や吹込みに、うき身をやつしてよいといふ理窟は有り得ないと思ふのだが、實際に今でもまだ少しは其形があるのは、誰が一體考へついたのであらうか。
 わからぬことは大抵過去を囘顧して見るとわかる。斯んな風潮を促進するやうな一層の教育法が前かた我邦の上流の間に行はれ、それが尾を曳いて今尚常民生活の一隅を占據して居るのである。語法句法の誤謬さへ指摘せられなければ、即ち外から見た形さへ整つて居れば、現在當人は感じて居ないことをたゞ竝べても、結構ですと言はれた文學が、日本では餘りに永い間流行り過ぎて居る。私は前の節用禍、伊呂波字引禍に對して、是をも擬古文學禍と呼ばうとするのである。此弊風は今までは主として和歌に在つた。塵をもすゑない深窓の處女に戀歌を詠ませて、まづ/\歌でよかつたと安心する位はまだ事が小さいが、僅か古文の學問が進むと、模倣は忽ち逸出して所謂萬葉調の復興に及び、乃至はそれ然り豈にそれ然らんやなどゝいふ、自分でもはつきりとせぬ漢文崩しか、恐らく古人にも心當りの無い「侍りてん」や「聽きねかし」か、どちらか一方に據らぬと文章で無いやうな世の中さへ出現した。國語の教育がもしはつきりとした目的を持つて居てくれたならば、斯んな卑屈な時代はもう夙くに打切られて居た筈である。成程古語だつて日本語だから、日本人が借りて使ふには差支へはない。其上日本に古くあつた語だから、一般にやゝ上品には聽える。たゞ困つたことには今の複雜なる生活經驗に比べると、殘つて居る語彙は貧弱で又偏り、たま/\修辭(196)に長けたる人が辛苦して所思を綴り合せ得るだけで、他の多くの者は只言へさうなことを言ひ、甚だしきは或一つの好い語が使つて見たさに、格別言はうとも思はぬことを言つて居たのである。この因習に對抗した運動としては、俳諧などは可なり痛快なものであつたが、それも僅かな時代を通り越すと、やはり廢語の踏襲になつて來た。や哉の使用は此頃目に立つて少なくなつて居るけれども、一度少しでも氣の利いた語が使はれると、きつと後から誰かゞ眞似をする。又さうでもしなければ此樣に多くの人が、ぶら下つては行かれぬわけである。文學が閑あり才藻ある人だけの風雅の遊びであり、又はそれへ進む爲の練習に留まる間は、斯んなことにまで世話を燒く必要は我々には無い。ただ警戒の不安に堪へないのは、同じ氣風が一般民人の自己を表現する態度にも波及することである。歌や發句だけなら御奇特の至りと謂つてもよからう。小説ぐらゐならば樋口一葉が、源氏と西鶴との合の子で書かうとも、讀む人は讀むだらうから勝手にさせて置いてよい。しかし堺を設けて守ることはさう容易でない。もしも是が毎日の政治、毎日の社交の上にも頭を出して、昨日の名士の演説口調を、けふは早速使つて見ようとするやうな、附燒刃が續出したら結果はどうであらう。醒睡笑その他の近世の笑話集には、無識の輕薄兒が「ちと香ばしてやらうと思」つて、眞似そこなひをした話が多く出て居る。旅學問といふ昔話には、血を「朱椀朱折敷」を流しと謂つた滑稽も有名なものであるが、我々は寧ろ誤謬が其樣に容易に發見せられて、腹をかゝへて哄笑せられることを、幸福と認めなければならぬ樣な、惱ましい世態に直面することになりはせぬだらうか。もう少し露骨に言ふと、永年の古文辭模倣の結果、既にやゝ口さきだけの能辯家を作つて居るのではないか。少しの生活史も持たない文章だけの日本語、一度も胸の中で使つて見たことのない單語が、横行闘歩して居るのでさう感じられる。愛する同胞國民だけは九官鳥にしてはいけない。
 
(197)     一三
 
 だから國語の教育に從事する諸君は、もう一度何の爲に古文を學ばなければならぬのかを、考へて見られる必要があると思ふ。目的と言つた所がさう多岐であらう筈は無い。大づかみに言へば書き方を學ぶか、書いてある事柄に興味をもつかの二つで、二つは全然没交渉とまでは言はれぬが、方向は別であり效果は時として相剋する。少なくとも古文尊崇の趣旨を、どつち附かずの堺目に置くことは誤つて居る。自分などの讀書癖は、若い頃からずつと引續いて事實を知る爲にであつたが、是にも後から評すれば無益なもの、有害なものさへ若干はあつた。讀者の年齡や境涯によつて、少なくとも先後の順序だけは確かにある。單に讀書力の長養の爲にならば、餘分の好奇心を刺戟するのはよく無いとも言へる。書物に廣大なる未知の世界の、潜んで居ることを先づ覺らしめ、是を踏み分けて奧の奧まで、入つて行く道は既に備はつて居ること、之を導くものは文字の正しい理解だといふことを教へると共に、一方には同じ血を引く前代の國人の中にも、今の我々には想像も及ばぬさま/”\の變つた運命と經驗があつたことゝ、是に伴なふ計畫と努力の記録が、爲せば爲さるゝ日本民族の可能性を、保障して居るといふことを知らせる材料としては、今日手近に在る多くの讀物の如きは、未だ必ずしも幸福なる選擇とは言へぬやうである。單に面白いからといふ類の空漠たる形容語を以て、用途の所在をぼかさうとしてはならない。たとへば事實内容を知るだけの目的ならば、源氏物語の如きは無用の書だと、堅苦しい昔の人たちはよく此大著ばかりを問題にしたが、同じ標準に引當てゝ見るならば、現今の所謂國文學書の中に、果して百姓の子女に有用なる事實を、供與するものが幾らあらうか。
 それを明けても暮れてもひねくりまはして、もう中等の國語教育が終つたなどゝ思ふのは、言はゞ是等の古文が日本の文學史の上で非常に重要であり又著名な爲であつて、一種の眩惑としか解することは出來ない。中世の風雅階級は自らも頻りに古文辭を弄し、模倣だから當然に不隨意で、過去の才人等が自分の内に活きて居る言葉を驅使して(198)書き傳へたものよりはいつも粗末な、見劣りのするものしか出來なかつた。それを率直に承認して愈御手本の精讀を励み、註釋と傳授に身力を惜しまなかつたことも理由はある。さうして其餘習が綿々として絶えず、延いて我々の代に及んだといふことも、亦一個の顯著なる大史實であつた。だから斯邦文藝の盛衰、殊に文筆の技能が如何に展開し、如何に停頓したかを明らかにしようとする人々が、細心に過去の講説の跡を辿つて行くのは、大切な仕事に相違ない。たゞ是からの國語の教育とは、何分にも縁の無いことのやうに私は思つて居る。今日の活きた日本語が、僅か半世紀の間にも、又大分あの頃とは懸離れて來たからである。假に一般の模倣技術は進まうとも、或は非凡な眞似の名人が出ようとも、第一に讀んでわかる人がもう少ないので、通用は殆と望みが無いからである。しかも數百年來の根強い行掛りは、用が濟んだといふ位の簡單な理由では、中々脱却することが出來ないものらしい。たとへば書いてあることゝいへば我々に何の用も無いことや、もしくは詳しく問はれたら却つて困ることであり、其表現の樣式はといへば、我々には想像も出來ない生活環境の人々、法師や宮廷女性などの極度に精緻なる感覺を、更に娩曲に敍述したものであつて、如何に多くの片言を寛假しようとも、今では模倣する勇氣のある者も、ちよつとは見つけにくいといふ類の文學が、依然として國語を學ぶ者の目標になつて居るのである。我々の子弟に讀本を文章の手本と見る癖が除去されぬ限り、どんな難解の文でも判らぬのは我罪といふ、しをらしい謙遜のつゞく間は、この弊害の及ぶ所は決して小さくない。御蔭で彼等はいりもせぬ過去の文典を暗記する爲に、大事な教育の時間を潰されて居るのである。此災難などは何禍と名をつけたらよいか。ともかくも所謂國文學の目ざましい進歩を見るにつけて、一ばん我々の冷々して居るのは此點である。
 
     一四
 
 初等教育の領内だけには、せめてはこの文學を畏怖し、讀方を難行苦行視する氣風を、浸潤せしめたくないのが自(199)分どもの切なる願ひである。是には局に當る人々も、既に相應の用意をして居るかと見受けるが、菜 り發と私感切なる願ひやあ姦緻億には局に晋も人々も、既に相農の用意をして居るかと見受けるが、奈何せん門を出づること僅かに一歩、外には右申すが如き雜然たる文章の世界があり、殊に近頃よく耳にする解釋學の如きは、殆と文字交通の全部の責任を擧げて、之を讀者だけに負はせようとして居るのである。斯んな片手落ちの讀書觀が世に存する以上、假に小學校内の教育のみは、平明安易の讀方に終始しても、外へ出て見れば忽ち一つの溝渠があつて、實際社會との繋ぎが取れず、學力不足といふ同情の無い非難を浴せられる。從つてこの一般の風潮の爲に、動搖させられざるを得ないのである。正直で素朴で己の言はうとすることを、必ず相手の感銘に到達させようとする表現法を、是非とも小學校のうちから全體に、寧ろ讀方よりも一段の重きを置いて、教へ込まねばならぬ必要は是から出て來る。片言がもしも今日の外形教育の産物であるならば、何はさし置いても極力之を改造しなければならぬ理由も爰に存する。
 書物は尊いもの、其中にはきつと爲になることが書いてある。如何に辛苦してゞも是を會得するのが利益だといふ考へは、久しき傳統ある常民の信條であつたが、現在はそれがもう迷信になりかゝつて居る。毎日市場に溢れ出る愚書賢書の中から、我々は最も意義ある選擇をしなければならぬのである。知らずに手に任せて讀んで居ると、人を損させる本なども中にはある。競うて讀者の意を迎へて自ら薦めなければならぬのは著者であつて、讀者はたゞ取捨をすればよいのである。それがたわいも無い若干の俗書の外は、却つて日を追うて益難解の文を出陳し、殆と我々をして倦んで投出さしめるのを、目的として居るかの如き姿があるのは何故であらうか。私の想像では是は一種の逆手であらうと思ふ。即ち有益なものゝ甚だむつかしかつた永年の經驗と、一見尤もらしくて何をいふのか判らぬものが、有難い書物だといふ粗忽な誤解とが、責任を知らぬ多くの文章家にいつの間にか惡用せられて居るのである。必要以上なる讀者の讓歩、或はわからぬと言ひたくない痩我慢などが、たうとう日本の文章道を混亂させてしまつたのである。今まではもう致し方が無い。次の代からの國民は、斷じて斯んな風潮に抗立しなければならぬと思ふ。
(200) 過去數十年の間、日本に跳梁した翻譯文學の我儘は、或はその上に拜外思想なども手傳つて之を支持して居たかも知れぬ。この中には自分の無理解を、文でごまかさうとした者も多かつたといふが、そんな惡者などは勘定に入れずとも、隅から隅まで一卷の書を會得して、自分でなければ之を傳へる人はないと思ふ者でも、大抵は紙に臨んでから譯字を自製し、乃至は全く日本人の知らなかつた文句を用ゐて居る。精細に表でも作つて見たら面白からうと思ふが、此中には偶然に人に認められて、新語となつたものが少しは有るといふだけで、他の大部分は時を經て皆改まるのみか、中には仲間どうし勝手にちがへて居るものもある。さういふ或時或一人の思ひ付きが、日本語で無いことは誰でも斷言し得るのだが、我々の同胞の知識慾は、斯んな無法なものまでを歡迎して、此方面の解釋學は、一時は奇蹟的に進歩して居たのである。是が日本人の素質の優れた點、即ち新しい變化に對する適應性の、一つの可能度を示すものとは言へるだらう。昔も大倭の遣唐使時代とか、足利期の禅僧文學全盛時代とかには、既にさういふ自我を没却した追隨があつたのかも知らぬが、それは何れも少數の特殊に敏捷なる人々の仕事で、大衆は何等是に關心をもたず、平氣で其圏外に生息することを許されて居たのである。此點が普通教育の今日とは、全く事情を異にするのである。この怪奇晦澁を極めたる翻譯文學が、徐々として一代の文體を改造し終ることも、日本でならば必ずしも望めないことは無いだらうが、それには少なくとも或程度までの統一と、やゝ安定した方針とを要する。歸化には最少限の條件が無くてはならぬ。然るに元々各翻譯者の趣味と良心次第に、獨りで勝手にきめたものである故に、用語も句法も幾らでも變つて居る。甲の譯文の意味は乙の譯者にも呑込めぬ實情は、今日の速記よりも尚ひどい。さうして只如何に不自然な日本離れのした文章でも、辛苦して讀解かうとしてくれる熱心な購讀者のあることを、經驗させたに過ぎないのである。をかしいことには外國語の教育が普及して、翻譯は次第に少しづゝ、平易にならうとする傾向を示すと反比例に、國人が自ら所思を述べようとする文章が、却つて以前の直譯口調を踏襲して、さも/\自分は西洋の言葉でしか物を考へることの出來ぬ人間だといふことを、樂しみにして居るらしく見えるのである。是が高級なる解釋學(201)の習練を重ねた、ごく少數の人々の問題に止まる間は、笑止なことだといふだけで高みの見物も出來るが、日々の業務の忙しい隙を求めて、僅かに書卷に親しまうと心掛ける我々常人の門の屏までが、斯んな亂暴な押しの強い來客によつて敲かれて居るのである。正直な者なら其應接に精根を疲らせるか、氣の弱い者なら避けて逢はぬか、輕薄な者なら理解した顔をするか、何れにしたところが結果は幸福なものでない。文章は畢竟訴へるもの、説いて相手に承知してもらふものである。何の理由があつて其解釋の全責任を、讀み手が引被らなければならぬとして居るのか。此問題をもう一度、とくと考へて見るべき責任のある人は諸君である。
 
     一五
 
 さういふ私などが、殊に文章が拙劣で言ふことが七面倒で、その癖何を言つてるのか  屡々判らぬやうになるといふ非難のあることは、自分でもよく認めて居る。たゞ大きな相異點は、それだから自分は改良しなければならぬと思ひ、表現の當を得ない爲に、賛成者の得られぬのは此方の損だと思つて居る。今日の文章を生活の實地にまで、各人の心の入用に合するまで、改良するといふ事業は我々の役目だと考へて居る。だから有る限りの方法を盡し努力を糾合して、解釋學などゝいふ情ない學問の需要の無くなるまで、判り易くしようぢやないかといふことを同志にも勸説する。是に對する答は意外なほど區々であつた。第一に我々の持つて居る知識が、今の日本語の能力を超えて居る。思想は在來の用語よりもずつと細かく分化し、感覺の態樣程度の内に意識せられるものが、所謂「一種名?すべからざる」又は「何ともかとも言はれない」?態にまで達して居る。是を目前普通の言葉を以て、言ひ表はすことは出來ないと、言ひも思つても居る人が中々多いのである。斯ういふことは各種の技術家乃至心靈道などの人々ならば、公言しても無責任でないだらうが、いやしくも同胞民族の文化を研究し、殊に其異處異時代の交通を念として居る者には、深い反省なしには言つて居られないことである。國語が内に在る知識や思索を支配しないといふことは、今までは一體何(202)物に依つて、記憶しもしくは思念して居たかといふことに歸する。子供の時から外人の中に育ち、もしくは多分の西洋の本を讀んで、たやすく同化し得た僅かの人だけは、心が全然どこかの國の者のやうになつて居るかも知らぬが、それですら大抵の場合には、或一國の人としては子供以下である。其他はたゞ雜然たる方々の言葉の影が、早く纏まつた體系の中に、處を得て納まりたいとうろつき廻つて居るまでゝあらう。日本人として物を思ひ、物を感じて見たい念慮、國語の各人の要求に應ずる急速な成長を、待ち焦れて居ることは、此人たちの方が痛切である筈だと思ふ。單に今までの方法が餘りにもまんがちであり、又我儘であつたといふだけである。改めて協同の努力の、大いに必要なる所以である。氣の長い人々は、自然に放任して置いても今に終點に屆くと思ひ、或は學術上の用語ならば、學者に決定の權能を與へて、どんな不適當な符號でもきめさせればよいと思ふか知らぬが、其限界はさうはつきりとしたもので無いのみならず、永い過渡期の間には國語は紛亂して、それを標準語だと謂つて教へられる者が、最も大いなる災禍を受ける。其上に今ある教育の制度にも、この自然の落着を押戻すやうな、困つた習癖がまだ殘つて居るのである。元へ溯つて學校の内側、即ち始めて言語を學ぶ者の立場から、批判選擇をしなければならぬ人たちに、もう少し自由な發言權を與へるのが、私には有效なる近路と考へられる。諸君は乃ち特に囚はれてはならぬ人々である。
 
     一六
 
 緊要なる一點は、何が國語教育の成功であり、國語發達の兆候であるかを、最も明確に知つて置くことだと信ずる。字が上手、讀方が達者などは勿論末の末で、目的は各人が口でなり筆でなり、自分の言はうと思ふことがいつでも自由に言はれて、しかも豫期の效果を相手に與へ得ることでなければならぬ。望んでも心を表はすすべを知らず、たま/\言へば誤つて笑はれ、それを怖れては人中で無口になり、もしくは感心されたさに暗記して居て、心に思ふことと合するか否かを、確かめても見ないことを言ふ者が出るうちは、どの道本當の國語教育をしたことにならぬのであ(203)る。この缺漏に備へる策としては、何はさし置いても語彙の豐富と選擇の容易を計るべきことは、一方飜譯の片言文學と利害が全く共通して居る。無論境涯と年齡とに應じて其分量は同じでないのは知れて居るが、現實に内に需要のあるものを、是だけはもつと後まで殘して置かうなどゝ、制限することはまちがつて居る。漢字は學びにくければ止めたつてよい。言葉はいつでも使ふ者が擇むのだから、其需要は問題の數よりも何倍か多くなくてはならぬ。それを與へなければ有合せの、粗末なものでも使はうとするは當然である。兒童は往々にして日用の語を作り、それを成人になるまでも使つて居ることがある。土語のうつかりすると又出來て來るといふのも、實は其方が適切だから自然に選擇せられる場合が多い爲である。外からは標準語と全く同じと認められるときですらも、本人等はそれと方言との間に或段階を感じ、又は差別を立てゝ二つとも使はうとすることもある。よくない言葉を外から習ふといふのも、たとへ誤りにせよ此方が效果が多く、各自の社交によく適すると、思ふからこそ持つて來るのである。是等の選擇を誤らしめぬやうに、むだ無く言語の機能を活用せしめる爲には、智慮の熟せぬ者の判別に一任するわけには行くまいが、如何に親切なる觀察者の眼にも、話主の内部の刻々の氣持までは映り難いだらう。だから一つの標準語を掲げて、それと  略々似た若干の用語の、消滅を期することは無理である。現在は強ひてさういふ難事業を、爲し遂げたと言つて自慢する向きもあるが、何ぞ測らんや土地では不自由をして居るのである。幅も深みも今までの氣持に、ひたと合つて居た幾つかの舊語が消えて、代りに馴染の無い一語が入つて來たとすれば、それは明らかに語彙の刪減になり、又活動の拘束に歸する。そんな?態では忍び得るもので無い故に、とかく標準語は改まつたよそ行きの道具となり、又外國語のやうな暗記になつてしまふのである。
 是と比べると、學校以外の統一事業は、今少し自然なものであつた。一つの單語なり表現法なりの土着する爲には、必ず或期間の舊語との併存を條件にして居る。それしか使へない外來人の外に、ほゞ兩方を知つて居て場合に應じ、交互に二つを使ふ者が段々と多くなる。聽いてよく判る者が全員に近くなることも勿論である。いつ迄も使ひ分けて(204)居た方が便利だといふ場合もあるが、大差がないときまると大抵は新しい方へついて行く。それを他處にも使ふ人があることを知るのと、古い方は稍飽かれて印象が薄く、新しいものは耳によく入るといふことが理由であるらしい。即ち土地人の群の中に、目立たぬ實驗と取捨とがあつたのである。新語には都府語文學語ラジオ語が多いから、之を標準語化と謂つても大抵は當るが、是は北海道では蝦夷語、又長崎附近では南京語のやうな他郷の言葉にも適用せられて居たので、たゞ如何なる場合にも其輸入の全部で無かつたのである。古い用語を追々に不用に歸し、それに何倍かの新たなるものを、自作し採用し改作して使ふことは、日本人の前からの技術であつた。其爲に國が少しでも面貌を變へないのは、つまりは充分な試驗と選擇とを經て、歸化の條件が具はらなければ是を自分の語としなかつたからである。けふ生まれて翌はもう忘れられるやうな口すさびを、後生大事に口眞似させるといふ淺慮な方針でなかつたからである。生まれて始めての日本語を、次々覺えて行く小學校の子供にも、どうか諸君の介助によつて此實驗をさせ、各自の判斷によつて正しい選擇をさせたいものである。聽き苦しい語を使つて人に賤まれ、もしくは志す目的に相手が受取つてくれぬことを忌み怖れる情に於ては、成人よりも却つて彼等小兒の方が強い。彼等をして果して其目的に合ふか否かを、?反省させる機會を與へるだけでよいと思ふ。
 此講演を終るに臨み、私は尚二つの誤つた豫想を是正して置く必要を認める。其一つは子供にさう多くの言葉を覺えさせるのは惡からうといふことである。オボエルといふ語がもし本來の意義通り、自分で體驗することであるならば、それは生活の一部になるのだから、記憶とはちがつて重荷にはならない。今日のマナブはマネブだから骨が折れるのである。兒童には限らず、誰でも考へたり感じたりする爲に、入用なだけ言葉は皆持つて居なければならぬ。それが足りないといふことは人間をぼんやりさせる。いるだけ持つことは決して過多で無い。第二には同じ言葉はさう多くいるまいといふ考へ方、是は全く同じといふことが明白になれば無くなる。寧ろ早合點して棄てるから因るのである。假に寸分ちがはぬといふのがあつても、歌や文章の音節數を問ふもの、もしくは子音に特殊の要求を抱く者か(205)らいふと、用途はそれ/”\に別になつて居る。地方語矯正がそんな粗雜な頭で、折角稀々に傳はつて居る古語を排除しようとするならば、日本語は結局何も新しい事は書けない言語になるだらう。其災難に惱む者は、獨り今日の若者たちには止まらぬであらう。だから言葉の輕々しい新増も、今は必ずしも憂ひ憤るには當らない。我々はたゞ其取捨選擇を敏活にして、つまらぬ新語の永く殘り、もしくは空々しく模倣せられることを防げばよい。それが又彼等の思慮と感情とを、伸び/\と發育させる道でもある。
 
 
(207)  西は何方
 
(209)     自序
 
 言葉に興味をもつのは、子どもの天性の一つであつたといふことを、この頃になつて私はやつと心づきました。國語教育がもし此點に着眼して居たならば、もう少しは效果が擧げ得られたらうに、といふことも段々考へられて來たのであります。たゞこまつたことにはそれを自ら試みる力が、私には足りなくなりました。そこで甚だまはりくどい方法ながら、斯ういふ一筋の本をまとめて、教育界の人たちのお目にかけ、僅かなりとも其中から、之を利用するやうな同志者を得て置かうとするのであります。
 この本に集めた八つの文章のうち、終りの蟻地獄の一篇だけは、小學五六年の少年を、豫想の讀者にして書いて見ました。ちやうど多數の學童が田舍に立退いて、讀むものが無い/\と言つて居た時だつたのですが、印刷がおくれて出ずにしまひました。他の諸篇は皆それよりもずつと前に、もつと年を取つたやかましい人々に、讀んでもらふつもりで書いたものばかりですから、此まんまでは子供には向きません。まことにむだな仕事だつたと思つて、永い間捨てゝ置いたものですが、考へて見ると是だけの事實を新たに調べるには中々時がかゝります。もしも將來の教育家が、斯ういふものを使つて見ようとする場合があるとすれば、その勞苦を省くだけでも、若干の手助けにはなると思ひます。さうして蟲は又先生と生徒との間に、一ばんよく取上げられる話題でもあります。
 現在世に出て居る各地の方言集の中に、まだ全く載せてないやうな材料が、この本には相應に多く援用してあります。其わけをごく手短に説明しますと、昭和の初年、私が東京朝日新聞に働いて居た頃に、社内の多くの人の助力を受けて、十五六項の質問書を印刷して、全國の最も知られない山村と離島の小學校へ送り、回答を求め(210)て見ました。たしか千通餘りの照會のうちで、六百と少しの返信がありました。後に倉田一郎君の手元に保管せられて、空襲の火に焚かれてしまひましたが、其内容は寫し取り、又ほゞ全部を利用しました。蛹も蛾蝶も桑の實も蟷螂も蟻蜘蛛も、みんな質問項目の一つ/\だつたのであります。從來の方言調査はまだ一小部分に過ぎず、詳しく尋ねてまはつたらもつと色々の事が判つて來て、國語の知識がずつと進むであらうことを、堅く信ずるやうになつたのも其時からでありました。七千萬人の依つて活きて居る日本の國語を、たゞ書卷によつて知らうとすることは望みにくゝ、この巨大なる未知世界を前に置いて、我々はなほ十分に謙遜であつてよいといふことを、心づくやうになつたのも其御蔭でありました。國語の教育には教へられる者と共々に、更により多くを學ばうといふ心掛けが、何よりも必要だと痛感しまして、それが又我々の新しい勵みともなりました。それだからこの本の中には、斷定するやうな結論が至つて少ないのであります。
 言葉は國民の全部、殊に是から大きくなつて行く人たちの手によつて、伸び立ち美しく磨かれて行くべきものであります。彼等に與へなければならぬのは、取捨選擇の力、個々の表現が果してめい/\の生活要求に、ぴたりと合ふか否かを見究める技能であり、更に又何の心も無く通つて來た路筋の、或時は自然に正しく、或時は愚かに誤つて居たといふ歴史の知識であります。おぼつかないめい/\の判斷を押付け、是が良い言葉と片端から、口先ばかりの眞似をさせようとしたやうな、今までの形式主義を振ひ落すには、先づ以て知らぬ言葉に對する親しみを養ひ、耳を傾けて人の話に聽入るやうな習慣を、付けてやらなければなりません。同じ日本人でありながら、どうしてこの樣に行くさき/”\、人のいふことがちがつて居るのか。さういふ疑ひを心の底から起して、先生が答へずには置かれぬやうになつたら、もうそれだけでも國語の教育は進み、統一への道は開けたと見てよいと思ひます。話し方の教材が足りないなどゝ、今でもまだ困つて居る人が折々ありますが、それは自分の職分を意識せず、兒童の生活の要求を察することの出來ぬ者であります。足りないのは必ずしも教材だけではないやう(211)であります。この本を讀む人は氣がつくかも知れません。信州の方言が割合に多く利用せられて居ります。信州は私の郷里といふ以外に、もとは斯ういふ問題に興味をもつた人が、あの地方からはよく出て來て、自然に材料を供給してくれたのであります。むやみに理論のすきな、竝の人には通じないことを言ひたがる土地柄ですが、其一面には斯ういふ小さな現實にも、關心を拂ふ者があつたのです。どこの府縣に行つて見ても、大なり小なり
この二つの面、即ち理論と現實とが向ひ合つて、結び繋がれない惱みはあることゝ思ひます。しかし私などの見る所、多數民衆の利害は今一段と痛切であります。もしも彼等が古くから持傳へたものをぽつ/\と無くして行き、それに代らねばならぬ新しいものは、まだ滿足に體驗して居ないとすると、それは大へんなことで取捨に迷ふ餘地もありません。是非とも一方の素朴なもの卑近なものに味方して、之に據つて他の一方の高遠なるものを、批判し且つ鑑別しなければならぬのであります。さうしてわからぬことに低頭するといふやうな卑屈古風な癖から、一日も早く同胞を救ひ出したいのが私たちの願ひであります。
        昭和二十三年四月
 
(213)  西はどつち
      ――國語變遷の一つの例――
 
     緒言
 
 多くの日本語の今日ある形が、是ほどまで變化して居るには原因がある筈である。それを單なる記憶ちがひ、もしくは眞似そこなひの如く考へてかゝることは、餘りにも近代人の能力を見縊つた話のやうに思ふ。社會が假に在來の標準語を忘れてしまつて、いつと無く御互ひの片言を咎めず、又嘲らぬやうになつたものとしても、その共同の忘却といふ現象も、亦決して法則無しには生ずまじきものであつた。新たなる文化史學の名譽の爲に、我々は此法則の遠からず闡明せらるべきを期して居る。最初には多分種々なる臆測の、強ひて同意者を募らうとする者が輩出するであらうが、私には少しでも其列伍に加はらうといふ野心が無い。爰にはたゞ眼前の至つて顯著なる客觀的事實、今まで認識せられずに居たのが寧ろ不思議な位の、有りふれたことばかりを集めて、それを何人にも利用し得る形に整理して置くだけである。勿論若干の假定は自然に其間から浮んで來るだらうが、そんな假定は今後の資料の追加に由つて、幾度でも改訂補正せらるべきもので、讀者は格別大きな注意を拂ふにも及ばない。それよりも問題にしてもらひたいのは、次々に擧げて行く各地の事實が、果して精確に報告せられて居るか否かといふことである。私の採集には文書を經由したものが多い。もう一度個々の關係者に、檢閲をして貰ふ必要が大いにある。それ故に努めて個々の單語の(214)使用地域を明示し、成るべく其誤謬を發見し易いやうにした。廣い世界に於ても、日本語のやうに多數の人によつて話されて居る國語はさう幾つも無い。と同時に其歴史の薄暗いことも、他にはちよつと肩を比べるものが無いやうである。今までの研究に缺けて居たのは、協力の便宜と比較の興味とであつた。「方言」といふ雜誌が出來た以上は、必ず此弱點を補強し得ることゝ信じてよからう。
 
     コとカヒコ
 
 そこで先づ縁喜を祝うて、多數共同の結果の最も美しく現はれて居る蠶の話をする。蠶の日本語が千二百年前からコであつたことは、日本書紀(雄略天皇六年三月條)に確かな證據がある。小子部連氏の始租が、國内の蠶を聚めよとの勅命を誤つて、多くの嬰兒を引連れて來たといふ物語は、殊に兒・蠶二つのコの音價に、當時著しい差異の無かつたことを推測せしめる。同じ記録の神代卷には、保食神《うけもちのかみ》の眉の上より?を生じたといふ記事もあり、古訓は之をカイコと讀ませて居るが、是にはなほ疑ひを容るゝ餘地がある。鳥の卵をカヒコといふ言葉は古くからある。それと紛らはしい語音が神代はさて置き、たとへ書紀編纂の直後にでも行はれて居たらうとは思はれない。殊にカイコとイの字を使つたなども、少しばかり出たらめのやうに感ぜられる。
 但し倭名紗の和訓には卵も蠶も、共にカヒコと註してあるが、是をどうして差別したかは訝かしいのである。鳥の子をタマゴと謂ふことが普通になつて、蠶をカヒコと呼んでも差支への無くなる迄の間、之をクハゴもしくはカフコと謂つて居たこともあるらしいが、我々の物言ひが進化して、?對象を前に置かずに、物の名を擧示する場合が多くなつて來ると、コといふ單語などは何物よりも先きに、或方法を以て其種別を劃定する必要はあつたわけである。コを以て表現するものゝ範圍は實際やゝ廣きに過ぎて居た。人だけで言つても、男女老少のすべての個人をコと呼ん(215)で居た故に、之をヲノコ・チヒサコなどゝ言ひ分けなければならぬのみならず、親子の「子」をさへもウミノコとかヤシナヒゴとか言つて、混同を避けることを要したのである。獨り蠶のコばかりが、裸形のまゝで  梢々久しく通用し得たのは、寧ろ重要の度が遙かに劣つて居た爲とも考へられる。だから又今日となつては、カヒコを唯一の標準日本語として、全國を悉く之に準ぜしめ得たのでもあらうが、實際はたゞ此語でもよく通ずといふのみで、未だ所謂「耳の方言」の域を脱せず、「口の方言」としては別の語を使用する者が今も甚だ多いのである。さうして其地方語が大體に於て、依然として尚コであるのは、注意すべき現象と言はなければならぬ。
 蠶をカヒコとより他には謂はぬといふ地方は、主として關東東海の平野のやうに思ふが、其中にも若干の例外はある。懸離れた府縣では、鹿兒島でケコ又はケゴジョ、肥前五島ではキャーゴサマ、鳥取縣の東部に於てケーコサンと謂つて居る。飛騨と越中との一部でコガイ・コガイサマ・コギャハンなどゝいふ例を加へて見ても、其地域は之を單純にコと呼んで居るものよりもずつと狹い。是では人間の「子」と紛れて困るだらうと思ふ人もあるか知らぬが、しかし偶然の差別手段として、蠶のコだけには人以上の敬稱が附いて居る。東京周圍の農村などに於ては、オコサマと同時にオカヒコサマといふ語も使ふのだから、之を敬稱と解するのは誤りで無い。たゞ今日の處では、蠶がさばかりの尊敬を博した理由を、まだ的確に捉へ能はぬのみである。
 
     ヒメコ・トヾコ
 
 我々の敬語は、?意外なものに捧げられて居る。それが今日では只の符號に化しつゝ、永く古代人の自然觀照の痕跡を留むる例は、獨り蠶のオコサマのみでは無い。上總國誌稿を見ると、以前はあの地方でもオコサマの代りに、コドノといふ語が行はれて居た。常陸の南部殊に稻敷郡などには、オコサマと併立して、今もオコドノ又はコドノと(216)いふ名詞がある。此語の最も普通なのは福島縣で、中央阿武隈川の流域だけで無く、相馬の海沿ひにも亦會津の大沼郡にも、共にコドノ・コドノサマ・コドンサマの稱呼を用ゐて居る。それから山の向ふに越えると、越後にも米澤領にも、又仙臺の附近にも、オコ・オゴサマの僅かの地帶があつて、其北には可なりの大面積の、トヾコの領域が横たはつて居るのである。
 一つの異なる例は富山縣の東部、下新川郡入善町其他に於て、蠶をコヾジョもしくはコモショと謂つて居ることである。或は上臈言葉の「コ文字」かと思ふ人もあらうが、其モジは必ず省約に伴なうて居り、言つてしまへば隱語の詮は無いのである。丹後の中郡誌や三重郷土誌に依れば、あの地方にも一部分、蠶をコヾセ或はコボセと謂ふ處がある。この二處の偶合を考へ比べて見ると、コヾセ・コヾジョの接尾辭は、ゴゼ即ち御前であつて、是も蠶を女性と見た一種の敬稱であつたことが推察せられる。越中も當山市の近在には、オコサマの一名をオジョロサマといふ人たちがある。さうして一方には又太平洋岸の村々に、之をヒメコといふ例も存するのである。
 ヒメコのヒメもたゞ尋常の女性のことでは無い。蠶を御前と呼び上臈と名づけたのと、期せざる一致と目すべきである。ヒメコの行はるゝ區域は物類稱呼には房州とあるが、海を隔てゝ伊豆の田方賀茂二郡、駿河の富士郡其他にも、現在なほヒメッコ・ヒメコサンの方言が行はれて居るのみならず、遠くは東北の端にも、今將に同じ新語の起らうとする形勢がある。津輕出身の故齋藤吉彦君の話では、其郷里の田舍では蠶を其頭の形?と斑紋とによつて、ヒメガシラとウマガシラとの二つに別けて居るさうである。頭が馬に似、もしくは女に似て居るといふのは、可なりの意を以て迎へて見なければ認められぬことで、多分は東北に弘く行はれて居る蠶神の由來譚、即ち名馬と美女の二つの靈が天に昇り、後に此蟲に化して桑の枝に天降つた物語の、影響を受けて居るものと思ふ。しかしさういふ幽怪なる言ひ傳へが久しく信ぜられ、且つ弘く流布することになつたのも、更に其根柢に於て之を女性視した習慣の一因となるものがあつた爲かも知れぬのである。
(217) 所謂オシラ神の語りごとには、尚この他にも美しい上臈の魂が、化して蠶になつたといふものが幾つかあつて、名馬栴檀栗毛の戀物語は、その最後の一つであつた。關東地方に行はれて居る常州|蠶影山《こかげさん》の縁起などは、單に繼母に憎まれた姫がうつぼ舟に入れて海に流され、後に蠶の神として祀られたと謂つて、馬が出て來なくても蠶はやはり女性の靈であつた。つまり荒唐なる馬頭夫人の昔話を採用する前から、既に日本では蠶の神は女だつたのである。富士山の東麓から甲州の郡内、更に山を越えて武藏の多摩秩父へかけて、蠶と其神とを共にオシラサマと謂つて居るのは、即ち又奧羽の大部分に亙つて、弘く此蟲をトヾコ・トウトッコなどゝ呼ぶのと、原因は一つであつたかと思ふ。東北方言集に青森秋田岩手の三縣で、一般に蠶をトヾコ又はトヽコと謂ふとあるのは正しいが、私の注意して居る所では、其區域は今少しく廣いやうである。さうして物類稱呼には既に出羽のトヽコを録し、江刺郡の例は菅江氏の天明八年の紀行にも注意せられて居るから、其存在は少なくとも百五六十年の前に溯り得るのである。
 此トヾコの「貴と兒」の意味であることは、田鎖直三氏の氣仙方言に之を説くのみならず、土地の人たちも恐らくは各自之を意識して居る。月をトヾサマといふ類の小兒語は、南部領其他にも行はれ、神を拜む時にも之に近い語は用ゐられ、更に秋田縣などでは物を貰つた時の「有難う」の代りに、トヾゴジャルといふ人も多いさうである。神佛日月をアトサマなどゝいふのも、會てアヽタウトと謂つて拜んだ名殘と思ふが、南會津の朝日村等に於ては、其アトッサマといふのが蠶のことであつた。其感覺の昔の姿は、今はもう我々には不明になつたが、兎に角に他の府縣のオカヒコやコドノサマの類も、基く所は是と一つであつたらしいのである。
 
     古代の新語
 
 是で蠶に敬稱を附けるやうになつた原因だけは、判つたと迄は言はれぬが先づ見當がついた。然るに斯ばかり全國(218)に普遍した習慣ではあつたが、古來の文獻は些しでも之に參與して居ない。といふことは國語史の上から考へると、是が後代新たに現はれた變化であることを意味し、延いてはたゞちに養蠶業の沿革のみと言はず、汎く宗教生活の過去を顧みる者に、有力なる書外資料を供與したことにもなるのである。しかも我々の問題は今一つの奧に、なほ一段と意義のあるものが殘つて居る。蠶と日本人との交渉は、歳月を重ねて幾度か變つて來たやうだが、之をコと名づけて居る日本語は、果して固有のものか。或は上世新たなる利用法の出現に際して、今まであつたものを改めたのか。人類の文化は見霞むやうな川上をもつて居る。是に固有といひ最初といふのもをかしなものだが、とにかくに此語は我々の知り得る限りに於て、曾て一たび改定せられたことが、有つたか無かつたかは考へて見る價値がある。我邦の動物では、海に住む海鼠なども亦コである。同じ一つの單純なる語音を、全然因みの無い二つ以上の物の名に、宛てたと解しても差支へが無いやうなものだが、尚この蠶のコの方だけは、少なくとも其取扱ひ方が人間のコとよく似て居る。それで私は彼より轉用した新しい一種の擬人法では無いかと想像して居るのである。
 其證據としては必ずしも十分有力では無いが、長野縣北部の上下水内郡、それから嶺を隔てた北安曇郡及び東筑摩の一部などに、蠶をボヽー・ボーボ、もしくはボヽーサマなどゝ呼んで居る例がある。ボヽーはボコから更に變化した幼兒の愛稱であつて、現に松本市でも又隣縣の飛騨でも、共に子供のことをボヽ・ボヽサと謂つて居る。或は僅かばかり發音の差を設けて、併せ稱して居る土地もあらうが、大體に蠶が此語を占領すれば、小兒には別のものを與へようとして居る。私の記憶が誤らぬならば、長野の近くなどではボヽが蠶で、赤ん坊にはボコと謂つて居る。ところが其ボコが又より廣い區域に亙つて、蠶の名になつても居るのである。例へば先づ北方に向つては信濃川の流に沿うて、越後の中北魚沼郡が蠶をボコもしくはボコサマ、それから出雲崎の港の附近、海を渡つて佐渡は外海府の果までがボコサンであり、一方は又山梨縣の北巨摩郡から、富士川を下りに駿河の庵原郡までがオボコサンで、此も大海を以て行止りとして居るのである。
(219) 幼兒をボコ・オボコと謂つて居る地域は、無論是よりも又何倍か廣い。さうして其語原はほゞ明らかなのである。赤子の方言は、其色と形に由つてビッキと謂つたり、アカビコと謂つたり、或は啼聲に由つてイガコ・ニカッコなどとも謂ふが、此等は皆氣の利いた思ひ付きといふまでゝ、古語を尋ねるならばウブコの他は無からう。ウブは産衣や産屋の「産」で、ウムといふ動詞から出た語ではあらうが、一方には又「初」を意味するウヒといふ語とも脈絡を引いて居るらしく、オブコ(土佐)オボコ(東北六縣等)の形で之を保存する地方以外、又ウヒゴだのウマレゴだのといふ語もあるのである。
 蠶のオボコサマも、恐らくはまた偶合ではあるまいと思ふ。丹波通辭と題する丹波の方言集は、江戸期終りの頃の事實を録したかど見えるが、是には蠶のことをヲサナモノと謂ふとある。越中の一部には今でも之をオシナモンサマといふ土地がある。即ちコヾセやオコサマのコが、既に「兒」を意味することを知つて居た故に、進んで其誕生と成育との觀察から、更に新たなる次の譬喩を下すことが、格別不自然では無かつたらしいのである。尤も此コといふ單語は、それ自身が時代と共に其内容を變へて居る。例へば萬葉集の「いざ子ども早も大和へ」などのコドモは、髭男のことであつたが、後には遊女の群をも意味すれば、今は又童子のことにもなつて居る。始めて蠶にコといふ語を付與した際には、其心持は全く別であつて、或は蟻蜂も同樣に、「働く者ども」といふ積りであつたかも知れぬが、兎に角に是はコ見たやうだからコと謂つたのだといふことが、所謂社會の記憶には殘つて居るのである。少なくとも自分は蠶といふ一種の蟲が、人に役立つたのは中途からである如く、其名稱も亦或時代に始まつたものと推測する。たとへそれが千何百年の大昔であらうとも、新語はやはり新語であつたと思つて居る。さうすると更に第三の問題として考へられることは、もと是を單にムシといひ又はウジと謂つたか、はた何等かの別の名があつたかは知らず、兎に角に今まで存した語が此新語に代られて、黙つて退散してしまつた理由は何處に在るか。いづれ始めは或者の思ひ付に出でた新語が、後次第に普遍化した條件は、そも/\何であつたかといふことである。是は素より國語の全體に亙つ(220)た問題だが、今はまだ概括的の解決は出來ない。個々の單語の比較の便宜やゝ多きものに就いて、先づ事實の特徴の最も著しいものを捉へ、それを足場にして次々の言葉へ近よつて行くのが、一つの順序のやうに私は思ふ。果してこの方法がどれ程まで適用し得られ、如何なる成績を以てこの迂遠なる辛勞を償うてくれるものか。實はまだ自分にも豫測が付かぬが、兎に角に斯ういふ實驗は獨りで續けて居ても埒が明かぬ。一應は此程度で公共に引繼いで置くのもよいかと思ふ。
 
     ヒヽルの分化
 
 蠶の日本語が、もしも此蟲利用の初期に於て新たに付けられたものだとすると、其以前は然らば之を何と謂つて居たかゞ、先づ我々の好奇心を刺戟する。そんなことが判るものかと言つてしまへばそれきりだが、私には何だか大よその當りだけは付く樣な氣がする。一つの手掛りは此蟲の親、即ち蠶の卵を生むものがヒヽルであり、その又前身の繭に籠るものが、是と同樣にヒヽルである。我邦の野蠶の觀察せられ又採集せられて、人と交渉を開いたのは專らこの二つの形態に於てゞあつた。クハゴは要するに或ヒヽルの子として、我々の知識圏に入つて來たらしいのである。さうなると次には此ヒヽルといふ一語が、當時どういふ閲歴を有し、爾後又如何樣の有爲轉變を重ねたかを、尋ねて見る必要が生ずるので、幸ひなことには此語の歴史は、飽くまでも傳奇的であり、又代表的でもあつたのである。
 現代の標準語界に於ては、蛾は既にガとなり、蛹は即ちサナギであつて、それ以外を知らぬ人も多いやうだが、地方語としては二種のヒヽルが、樣々の變化を受けつゝもまだそちこちに殘つて居る。さうして其變化が何れも我々の古語の、受けねばならなかつた影響を語つてゐるやうに思はれる。私がヒヽルを日本の古語だといふのは、それが倭名鈔の中にちやんと録せられて居るといふ位な、單純な理由からではない。後代の算へ切れない轉訛が示して居るや(221)うに、國民の之を守らうとする執心が餘りにも切であり、しかもその包含する所が餘りにも廣汎であつて、辨別の智能の稍進んだ時代には、到底元のまゝ之を傳へることが望めなくなつて居るのを見て、始めて用ゐた人たちの境涯が察知せられるからである。ヒヽルといふ語の本義は古い爲に今は不明に屬して居る。和訓栞は大膽な書物だから、蛾をヒヽルと謂ふのは「火簸るの義にや」などゝ説いて居るが、是は所謂火取蟲だけにしか當てはまらぬことで、他の一切のヒヽルどもは、棄てゝ省みなかつた臆斷と言ふべきである。倭名鈔の蟲豸類には蛾、和名比々流、蠶作飛蟲也とある他に、蛹といふ漢字はまだ擧げてないが、其代りには?、和名比々流、?内老蠶也と出て居る。?といふ漢字の正しいか否は別として、兎も角も繭に籠つた老蠶の比々流であることだけは知つて居た。さうして此二つの語が傳はつて、生きて今日もまだ地方には働いて居るのである。
 しかもこの源順君の語集に於ては、蝶は早既に外國語の音を採用して居るのみか、蛾も所謂?も共に蠶のそれに限り、他の種の昆蟲の蛾なり蛹なりが、同じくヒヽルであつたことは忘れて居る。つまり此時代の京都の言語知識は、もういゝかげん周到を缺いて居たのである。我々の古記録に對する信頼は、だから相當の割引をしなければならぬ。たとへば同じ書のすぐ次の條に、水蛭和名比流、馬蛭和名無末比流、草蛭和名加佐比流とあるなども、果して始めから比流・比々流の差別が存したかどうか。疑へば疑ひの餘地は有ると思ふ。伊呂波字類抄は例の通り、文章まで倭名鈔を踏襲して居る。易林木の節用集なども蛾はヒール、蛭はヒルと短く書いて、蛹を脱して居ることは同じだが、現代の地方事實では、蛾にも蛹にも多くのヒルがあり、蛭にもヒール・ヘールといふ長母音例はあつて交錯して居る。さうして又此樣な心もとない音差別では、二つの蟲のことは語り得なかつたらうと思ふ。
 
(222)     蒜と柊と毛蟲
 
 蛭のヒルと蛾のヒヽルと、始めから別の語であつたらうと思ふ人には、或は植物の蒜が考へ合されるかも知れぬ。蒜は今日ではノビルとかステコビルとか、たゞ複合の形でのみヒルを保存して居るが、以前は是が蒜類の總名であり、今でも東北には葱をヒロコ、にんにくをシュロコといふ類の語が行はれて居る。改良以前の蒜は、此頃の葱韮と比べて、遙かに其刺戟性が強烈であつた。之を口中に入れ、又は肌膚にふれた感じには、幾分か蛭に咬まれた時と似通うた所があつて、雙方一つの語を以て呼ぶやうになつたとも考へられる。之に反して蠶の蛾や蛹には、少しでもさういふ特徴が無いのだから、假令語音は近くとも、起りは別ものと見てもよい樣な氣がするのである。味覺觸感を表はす日本語彙は、今とても決して豐富で無く、又精密に分堺せられても居らぬ。熱いをイタイと謂ひ、つめたいをカナシイといふ類の方言は色々ある。蛭と蒜とが其名を共にするに至つたのも、曾て一つの語を以て雙方の印象を、言ひ現はして居た結果だといふことは、私も略之を信ぜざるを得ない。たゞそれだから蛾と蛹の、ヒヽルは無關係だといふ點が、まだ若干疑ひの餘地を存するだけである。
 蛭に吸はれ又は蒜にかぶれてヒリ/\トスル感じを、前には何と謂つたかを考へて見る。有名なる神武天皇の御歌には、「植ゑしはじかみ口ひゞく」とあるが、是とても誤寫で無いとは言ひきれない。新撰字鏡には疼、徒冬反、痛也痺也、比々良久又加由之とあるものが、恐らくは是と同じ語であらう。柊といふ樹の和製字が、木に从ひ冬に从ふのも亦この疼から出たと思ふが、それをヒヽラギと謂ふ者があると同時に、京都などでは古くから是をヒラギと發音して居る。賀茂の比良木社は柊の木の多いのを以て知られて居た。比良木と比々良木とは何れが訛、何れが正といふことは言ひ得なかつたのである。暖地の海岸に多く生ずる木で、トベラといふのも刺戟性に富む木であるが、西國では(223)之を柊の代りに、節分の夜の戸口に刺して居る。外形は似て居らずとも、惡鬼を攘却する力は一つであつた。トベラは戸柊で、一方のヒラギに對する新しい名であらうと思ふ。
 兎に角比々流は比々良久といふ動詞の本の形であつた。比流がもし假に「刺戟する者」の意であつたならば、同樣に比々流も之に由つて名を得たと考へてよい。ところが命名の本意は年代を經るにつれて、昔の人でもやはり忘れがちで、單に符號として其語音を記憶するうちに、或は新しい解説を生じて、いつと無く形を其方へ曲げて行き、又は其適用を限定して愈由來を不明にするのであつた。比々流の場合に於ても、是が初めから蠶の蛾と繭の内の老蠶とだけの名であつたならば、恐らくヒヽルとは謂はず、或は又蛭のヒルとも對立はしなかつたらうと思ふ。倭名鈔が編纂せられる時代までに、京都ではこのヒル又はヒヽルの名を負うた一群の中から、脱退して去つた蟲が幾種類と無くあつた。その最後のもので、從つて證跡の最も明らかなものに蝶々がある。蝶も曾てはヒルもしくはヒヽルであつたことは、餘りにも證據が多いから後に詳しく言はうと思ふ。兎に角彼が外國語音に近い名を呼ばれるやうになつて、忽ちにヒヽルの統一は破れ、一方柔和無害の蠶族と、人を螫しまくる蛭類との間に、音の長短などを以て差別を立てることに立至つた。九州で蝮蛇を一般にヒラクチと謂ふなども、或は亦同じ頃からの割據であるかも知れぬ。何にもせよ、蝶はあの通りの風流な蟲だけれども、其前身が同じく人を刺戟する厭はしい毛蟲であつた故に、やはり亦ヒヽルの中に算へられて居たといふことは、大抵誤りが無いやうに思ふ。尤も毛蟲が以前にはヒヽルの中に算へられて居たといふことは、今はまだ明らかな證據が無い故に、私の意見は一種の豫測に止まつて居るが、少なくとも知られて居る限りの毛蟲の方言は、奧州のガイダカ、中部地方のオコジョを始めとし、各地脈絡を缺き且つ珍しく不可解なものが多い。或は今後の採集と比較によつて、寧ろ斯ういふ亂雜の中から、何か新しい痕跡を發見し得るかも知れぬのである。
 要するに蛭と蒜と柊木とが、其名を一つの感覺から得たもので無かつたら、私の意見は無用のものになるが、もし(224)その何れもがヒヽラグによつて與へられた名だとすると、蛾や蝶のヒヽルのみが、その仲間をはづれるわけは無いのであつた。蠶のやうな益蟲が世に知られる以前、所謂匍ふ蟲の特に注意せられたのは、人に災ひする場合が主であつた。從つて其不信用も一般的であつたものかと思はれる。ところが命名の本意が漸く不明になつて來ると、其語の適用はどうしても偏頗を生じ易く、一方個々の新たなる用途交渉に由つて、別々の名を設ける場合には、比較的頻繁に呼ばれて居たものに、元の名を獨占せしめることになるのも自然である。京都の文獻で蠶の蛾だけが永くヒヽルであり、蛭は是と差別して短くヒルと謂つて居た事實は、私には斯ういふ風にしか説明し得られぬ。
 
     蛭と蛹
 
 以前一つで色々の事物をまかなつて居た單語を、後に分類が細かくなつてから、そのうちの何れに相續させて置くがよいかは、社會としても容易に決しかねる問題であつたに相異ない。殊に權力の干與しない部面では、やゝ暫くは互ひに相容れない色々の試みが併立して居て、結局は一般の統一要求から、必ずしも由緒の最も正しいとは言へぬ所に、落着いた場合も多かつたやうである。古語の永く精確に保存し得られなかつた事情の中には、斯ういふ隱れたる相續爭ひの如きものが、互に牽制して相手を變化せしめなければ止まなかつた場合もある。從つて話主の不注意や惡い趣味が、主として責められて居たのは冤罪であつた。
 蛭は今日の地方語でも、その半分以上がヒルであつて、必ずしも倭名鈔以降の古傳を守ることが、困難であつたらうとも思はれない。然るにも拘らず、是がなほ全國の隅々に於て、可なり思ひ切つた改造を加へられて居る。一方にやゝ紛らはしい別種のヒヽルなどがあつて、差別分堺を強要しなかつたならば、誰も好んで此樣な手數は掛けなかつた筈である。此變化の誘因が極めて偶發性のものであつたことは、所謂訛音の分野が一語毎に區々で、今日豫想せら(225)れて居る方言區域の説を以て、解くことの出來ない交錯があるのを見ても察せられる。例へば蛭に就いては、秋田縣の先づ全部と、是に續いて居る山形縣の北の一部のみは、ヒロ又はヘロ、時としてはシュロと謂ふに反して、之を取圍む廣い區域ではビルと濁つて居り、是が又飛び/\に遠く南方に及んで居る。
  青森縣南部領            ビル・ビール
  宮城縣北部諸郡           ビル
  山形縣村山・置賜諸郡        ビル
  福島市周圍             ビル・ビロ
  栃木縣芳賀郡一部          ビル・ビロ
 是から南には次に言はんとするヒールの區域が餘程あつて、ずつと離れた徳島縣の海部郡にビル、福岡縣の築上郡にビール、それから鹿兒島縣の島々に、又それが現はれて居るのである。
  奄美大島・古仁屋          ビル
  徳ノ島               コービル
  沖永良部島             ヒル
  宮古島               ターピシ
  八重山石垣島            ピーリ・ピール
  同  竹宮島            ピル
 即ち先島に行くとB音は既に無いのだが、其代りに爰では蒜の方をビーラと發音して居る。
 蛭を倭名鈔以下節用集までの法則と反して長く延ばして謂ふ例は、ちやうど此中間の稍東に寄つた部分に在る。西の半分は材料が至つて乏しいのは、多分標準語通りにヒルと謂つて居るからで採集しないのであらう。
(226)  武藏入間郡           ヒール・ヒールンボ等
  甲 州               ヒール・ヒルンボー
  信州西筑摩都            シーロ
  同 北安曇郡            ヒーロ・ヘーロ
  能登鹿島郡             ヘーレ
  三河一部              ヘーロ
  備後府中              ヒール
 以上がすべて水に住む蛭といふ蟲の方言である。ヒルとヒヽルが私の想像のやうに、名の起りが一つであつたとすると、斯ういふ音變化は單なる訛語として、輕々に看過することは出來ない。ヒルンボ・ヒルメの類も亦別の觀點から、やはり注意すべき動機があつたやうに思ふが、是は後に蟻の名を考へて見る場合に言ふ方がよい。それよりも尚一段と顯著なる改定で、原因の少しく窺はれるものは、やはり限地的に石川縣の一角に行はれて居る。能登には鹿島郡で蒜をヘーレといふ以外に、又次のやうな例が報告せられて居る。
  能登羽咋郡             ヒバヽ
  同 鳳至郡             ヘリバヽ
  加賀能美郡             ヘンバラ・ヒバヽ
 此縣こそ佐藤清明君などの試みたやうに、小區域の特別の異同を調査する必要のある地方であるが、それには是非とも併行して、他方に蛾や蛹がどう呼ばれて居るかを知らなければならぬ。ヘリバヽなどのバヽは所謂惡稱で、此蟲の田人を累はすことを憎んだ名であらうが、しかも他方に之を牽制して、何等かの差別待遇を求むる者が無かつたら、其語の原の形までを壞すには及ばなかつたかと思ふ。實際此地方は又古くからの蛹の名のほゞ正直に保存せられて居(227)る土地でもあつた。次に列記するのは何れもその「蛹」の方言である。
  能登鳳至郡             ヒョーロ
  加賀河北郡             ヒョーロ・ヒョロ
  同 金澤市             ヒョリ
  同 能美都             ヒフリ(ヒューリ?)
  同 江沼郡             ヒョリ
  越中富山附近            ヒョーロ
  福井縣東部             ヒョリ・ヒョーロー
  近江伊香郡             ヒャウリ
  同 東淺井郡            ヒョウリ
 蠶の蛹(?)が比々流であつたことは、既に倭名鈔にも見えて居るのだが、それを今日でもやゝ是に近く發音して居る處は、阿波の名西郡にヒューロといふ一例がある他、私は少なくともまだ知つて居らぬ。さうすると石川縣の「蛭」だけが、著しく發音を變へて居る原因は、全く此地方には蛹の同語が、別にやゝ紛はしい形で殘つて居たからと、想像しても無理ではあるまい。他の多くの縣では蛹の方が夙く退讓したに反して、爰ばかりは蛭の方が叩きつけられて居たらしいのである。但し其中でも秋田縣の南の郡だけは、蛭と蛹との語音が今尚甚だ近いやうである。何かこの二つを差別する方法が既に出來て居るのか、はた又分化はちやうど進行中に在るのか。是も「秋田方言」以上の精密な調査をして見たいものである。
 
(228)     蛹と蛾
 
 蛹の比々流が消え隱れた原因には、蛭の壓迫の外に今二つ、可なり強力なる影響を與へで居るものがあるかと思ふ。其一つは何人にも想像し得られる蛾の對立で、是などは最初は寧ろ別の考へ方、即ち蛹がヒヽルだから、それから出た羽蟲もヒヽルと言はねばすまぬやうに、思つて居た時代もあつたのであらうが、利用が始まつて觀察が細かくなると、同じ名では何としても不便でしやうが無くなつたのである。だから北日本の養蠶の盛んな土地では、至つて短い歳月にこの名は二轉して居る。たとへば同じ奧州の南部領でも、秋田縣に屬する鹿角郡などでは、蛹をヒロといふと報告せられて居るのに、盛岡の邊にはヒヾツといふ語があり、更に今一つの誘導に動かされて、次に言はうとするニシヒガシ系の新名を、採用して居る者が有るらしいのである。全體から云ふと蛹と蛾と二つのヒールが兩立せぬ場合に、前の方が讓ることになつて居るのは、蛾には適當な名がちよつと見付からなかつたといふこともあるらしいが、もう其以前から此方がよく通つて居り、蛹は是に比して一段と大きな變化を受けて居た爲で、訛語と新語とは事によると、同じ一つの原因から出來て來るものであつたかも知れない。
 蛹のヒヽルがヒヾツなどゝ變るのは、訛語としては可なり顯著なる例であるが、其區域は決して狹いもので無く、それを比べて見ると幾分か變化の過程が察せられる。岩手・宮城の二縣は多分がこの語に屬するかと思ふが、不幸にしてまだ資料が足りない。それから南に下ると、
  福島縣會津地方           ヒヾツ・ヒヾス
  同  相馬郡            ヒヾツ
  同  福島市附近          ヒヾス
(229)  福島縣石川郡           シビッツ
  同  岩瀬・東白川二郡       ヒヾッツ
  信州下水内郡            ヘビッチョ
  同 西筑摩郡            ヒヾ
  飛騨大野郡             ヒヾ
 是が皆蠶の蛹の方言である。少し懸離れて兵庫縣の佐用郡にも、ビービー又はビヽ、隱岐の島後の西岸でもビービと語つて居るのを比べて見ると、蛹のヒヽルはまだ中世の形を保つて居た頃に、既にR音を脱してヒヽといふ癖を生じ、それが北に移つてヒヾス・ヒヾツになつたと見る方が、それが再び南に戻つて、終りの音節を略したとするよりは自然である。
 そこで次には又斯ういふ假定も成立つのでは無いかと思ふ。蛭蛾蛹の如き二つ以上の物の名が、以前共通であつた一語から、別れ遠ざかつて行つた順序は、それ/”\の變り方の著しさの程度によつて、大體に之を示して居るのでは無いか。もしさうだとすれば是は大切なる國語史の史料であると同時に、一方には又記録無き常民の過去生活を語るものである。但し地方の時を異にした變化が、いつも後から/\一つの軌道の上を、進んで行かうとするには色々の故障があつたであらうから、此間から音韻推移の法則を抽き出すことは容易で無い。たゞ少なくとも蛾の比々流は、蛹の比々流よりも長く力強く、さうして又蛭のそれよりは幾分か弱く、原の形に取縋つて居たことだけは認められる。それは獨り此語の領分の蛹より弘かつたといふのみでは無い。後者(蛹)が日本海側の一部を除く外、既に重要なるR音を脱却して居るに反して、蛾の方は今でも略もとの形を以て行はれて居る。百六十年前の物類稱呼に、蠶の蝶に化するものを奧州上野でヒル、伊勢でヒーロ、酉國でヒルロウと謂ふとある外に、明治以降の採集方言に於ても、確實にまだ次のものだけは殘つて居るのである。
(230)  奧州外南部            ビルコ
  同 登米郡・玉造郡         ヒル・ヒール
  同 氣仙郡             ヒール
  羽前東・北村山郡          シロ
  同 置賜地方            ヒル・オヒル
  岩代福島市附近           ヒル
  磐城相馬              ヒル
  上野碓氷郡             ヒール・ヒーロ
  信濃西筑摩郡            ヒロ
  駿河志太郡・遠江濱名郡       ヒール
  紀伊日高郡             ヒューロ
  八丈島               ヒールメ
  阿波一部              ヒュール・ヒューリ
  大分縣一部             ヒーロ
  佐賀縣某地             ヒューロ
 是等は悉く蠶の蛾のことで、中には蛾の總稱としで用ゐらるゝものもあり、又稀には蝶蛾を合せて共にさう呼ぶ處もあるのだが、それを明示しなかつたら、人は或は之を蛭の方言かと思ふかも知れぬ。それほどに是等の蟲の名は、土地を異にして相共通して居るので、しかも蛹の方を比々流に近く呼んで居る土地では、又色々と工夫して他のものには之を避けようとして居るのを見ると、單に現在さうは言はぬといふことによつて、方言語音の正訛を批判するこ(231)とは出来ない。訛音はもと然るべき理由あって生じた如く、又新たなる必要に基いて消えて居る。ラ行音が脱落し、ハ行がバ行に移つたのは音聲學上の約束かも知れないが、それが蛹に現はれ、もしくは蛾蛭の上に行はれたのは、別に考察すべかりし社會的の原因があつたのである。何にもせよ、我々書齋學者の斷定には、常住の警戒が入用なることは確かである。
 
     蛾と蝶
 
 峨には全體にガといふ以外の新語が乏しい。是が蛹の方には續々として、奇抜な新語の出来て居るのと、又一つの注意すべき對照である。日本語の語根にはそれ/”\の特質があつて、暗々裡に次々の造語法を制御して居るといふ説は、平生語學者の概括論に閉口し長大息する自分も、或制限を以て之を承認せざるを得ぬ。といふわけは一旦久しく使ひ馴れた語音は、捻ぢ曲げ引き伸ばしてゞも出来るだけ長く使つて居らうとすると同時に、一方では若干の外國音だけは容易に眞似、且ついつ迄も之を流行らせて行くのは、何か個々のものにそれで無くてはならぬ因縁があるらしいからである。ガといふ一音節語の多くの使ひ所を見ると、是が歸化を完全にした事情も察せられる。ガは元来が化け物の聲、もしくは怖ろしいものを聯想させる音であつたので、夜來る大きな羽蟲の名には適切であつたのかも知れぬ。だから蠶の蛾などはガとは謂はず、チョーといふ土地ばかりが多かつた。是も蛾だから蝶と謂つてはならぬと言ひ出したのは、近頃のことのやうに思はれる。漢語ばかりで無く、此節の片なりの米語などでも、單に理論に指導せられて已むを得ず採用するといふのは、恐らく幾らも無いと思ふ。新語の成立にはいつの世でも試驗があり、そのうち合格して永く傳はるものは少々であるが、こゝで落第して忘れられるものでも、なほ一應は日本人の息が掛かつて居た。ましてや蝶蛾のやうに特殊の人望を博して、斯くまで根を生やして全国に行はるゝ語には、必ず人知れぬ條件(232)の夙く充たされたものがあつた筈である。是をたゞ一通りの心輕さ、乃至は外國の文化の威壓力と、解してしまふことは早計と言はなければならぬ。
 兎に角にガ及びチョーが新語であり、所謂日本語化の例であることは明瞭であるが、其以前是には名が無かつたらうと思ふ者は、恐らくは一人も無い筈である。然らば蝶と蛾の原の名詞は何であつたらうか。是が全然答へ得られぬといふわけは無いのだが、今までは僅かに蝶に二つ三つの異名があることを知るだけで、その何れが大昔の標準語であるかを説くことは難儀とせられて居た。私の假定にはまだ或は證據が足らぬか知らぬが、少なくとも斯う考へることだけは不自然で無い。蛾の固有語がビヽルであつたと同じく、蝶もまた古くはヒヽルであつたらう。毛蟲に蛭と同じ名を宛てたといふ實例は、捜しでも事によると見當らぬかも知れぬに反して、蝶の方には今も相應に痕跡を存して居る。八丈島のヒールメは今日でも蝶蛾の總稱で、終りのメといふ一音はあらゆる蟲鳥類に付與せられて居る。一話一言に轉載した寛政中の八丈方言には、蝶をヒールと謂ふとあるのだから、是は確かに一つの證據であつた。それから奈良縣のどこかにも偶然に蝶をヒウリといふことが、前年の新大和(新聞)に掲載せられた方言集に見えて居る。
 今少しく一般的なる實例も關東の方にはあつた。茨城縣方言集覽に依れば、常陸は南北を通じて次のやうな蝶の地方名がある。他の郡村にも捜したら之に近いものが見付かることゝ思ふ。
  常陸西茨城郡            ヘヾラッチョ
  同 稻敷郡             ベラッコ
  同 久慈郡             ベラッコ・タベラ
 東北でも秋田市と其接續二郡には蝶をベラコ、其南の數郡では同じくベヂョと謂つて居る。前者は佐竹侯の舊領から運ばれて來たものとも考へられるが、類例は決して是に止まらず、なほ隣の縣にも廣くテビラコだのタカエロだのの有ることは、章を改めて詳しく述べる積りである。信州の長野市附近に、蝶をアマビラといふ人があると聞くが、(233)この分布はどこ迄及んで居るか。もう一度かの地の調査者を煩はしたい。是が間違ひなければタカエロも高比々流の轉訛といふべく、蝶がその空を飛ぶ特徴によつて、一旦差別の新名を付與せられて居たことも察せられるのである。
 美しい蝶の多い南方の島々にも、是とよく似た名稱が弘く行はれて居るが、此方は端から端まで一貫してハビルであつた。ハビルのハは「羽」であらうことは、雀をハドリと呼ぶことからも類推し得る。鳥に羽の無いものは一つも無いが、此小鳥と蟲とが特にばた/\とよく羽を動かして見せることが、目に着き易く又名になり易かつたものと思ふ。北の方から順を追うて行くと、
  寶島                ハビー
  奄美大島一部            コーバラ
  佳計呂麻島             ハベラ
  沖永良部島             ハビル
  與論島               ファビル
  國頭郡名護町            ファビル・ハベル
  同  本部村            ハーベル・カーベル
  同  今歸仁村           ターベル
  首里那覇              ハベ・ハーベル
  島尻郡各地             ハベル
  宮古島               パピズ
  八重山石垣島            パビル・ハビル
  同  黒島             パービル
(234)  八重山與那國島          ハビル
  同  波照間島           パピル
 此中で國頭郡のカーベルは單純なる轉音とも考へられるが、大島のコーバラがもし精確ならば、やがて又一つの異例になるので、是も後段に記述すべきカハムシ・カハビラコと、南北遙かに相呼應するものかも知れぬのである。
 
     オシラ神は蠶神
 
 蝶をカハビラコといひ毛蟲をカハムシといふことは、繭にこもり繭を破つて出ることゝ、何か關係があるらしく感ぜられる。從つて蠶のコとこのカハムシのカハと、或は筋を引くかといふ推測も成立つか知らぬが、私は是をたゞ偶然の近似もしくはコの新語を起り易からしめた事情の一つとしか考へて居らぬ。さうして依然として蠶の舊名も、同じくヒヽルであつたらうことを想像して居るのである。その一つの支持材料としては、秋田の地方音に於て蛭と蛹をシュロ・シュロコといひ、木曾に於て蛭をシーロと發音し、羽前の最上地方で又蛾をシロと呼ぶ者があることである。蠶兒の別名は關東の山地で、今でも之をシロといふ處がある。東北の方にも之をシロサマなどゝいふ例が、有つたやうに思ふが、今その地方を記憶しない。近年我々の友人間に於て、始終論議せられて居るオシラサマなども、信仰の根源と名の起りとは別で、此名は實は僅かな區域にしか通用せぬのであるが、兎角名目さへ解説すれば信仰そのものが判るかの如く、思つて居る者が多いので困る。蠶をシロサマといふのは此蟲が病に罹つて、時々白くなつて動かずに居るのを、或は蠶の舍利などゝも呼ぶ者もあるから、是を信仰の中心として其名を生じたものだらうと言ふ人もあつたが、まだ其通りとは誰も認めて居ない。古人は往々にして意外な誤信には陷つて居るが、其推測の底には常に我々よりも念入りな觀察があつた。是はこの病害の歴史からもわかることで、さう古くから日本に白彊蠶が居たとも(235)考へられぬが、假に普通にあつたとしても、其結末はじつと見て居れば經驗し得らるべきことであつた。黙つて拜んで居られるほどの奇瑞は無かつたことゝ信ずる。
 何にもせよシロ神又はオシラサマの、蠶神といふ意味であつたことだけは先づ確かである。東北で紫桑の左右の枝を削つて、一種の幣束を作つて其端に男女馬?などの顔を刻したものを、兩手に執つて拜む神もオシラであると共に、甲州武州の山近き村々に於て、馬鳴菩薩の御姿などゝいふ馬上の像を描いた懸軸も亦オシラサマであつた。兩者共通の點は之を祭つて蠶豐産の祈?をするといふこと以外に、別に是ぞといふものは無かつたらしいのである。名稱の由來は何であらうとも、オシラサマの蠶神であるだけは疑はれない。それを梵語やアイヌ語で説かうとしたり、又は御雛樣の轉訛では無いかと言つたりしたのは、近來關東地方のオシラサマ信仰が、比較せられるやうになつた以前の事である。
 私は斷言しないが、シロ神・オシラサマのシラもシロも、共に蠶をヒヽルと謂つた古音の崩れて傳はつたものでは無いかと思ふ。現在普通の用途には消えてしまつた言葉が、複合の形に於て僅かに保存せられる例は、必ずしも信仰生活の方面に限られたことでは無い。しかも靈界には努めて日常の語の混同を避けようとする要望が強いから、一層古いものが殘り易かつたのである。意味不明といふことは研究者にとつては寶庫だ。さう片端から片付けてしまはうとせずに、寧ろ追々に始末のつかぬ材料を、集積してもらひたいものである。
 ヒヽルの消えようとして消え殘つた例ぐらゐは、氣をつけて居るとまだ/\集まると思ふ。たとへば栃木縣の南部などは、蠶の蛹の方は既にニシワドチとなつて居るのに、山繭だけは今尚ヤマヒッコと謂つて居るのも殘留である。又利根川兩岸の村などで、初冬の夕暮の空を飛びまはる小さな蟲で、子供等がオーワタと謂つて、次のやうな言葉を以て呼びかけるものがあつた。
   オーワタ來い來い、まゝ食はしょ
(236)   まゝがいやならとゝ食はしよ
 其オーワタは羽に白絮を帶びた小さな羽蟲で、本草啓蒙卷三七に依ると、是は?虫《ありまき》の羽化したものだとあるが、自分の郷里播州では、其名をシロコと謂つて居た。伊勢の津では人に擬してシロコバヽ、大和でも伊豫でもシロコといふさうだが、此頃出た周桑郡郷土研究彙報には、あの郡では之をシロコーコ、又はヒヨロと謂つて居ると報ぜられる。蠶の蛾の方はもはやガといふ土地でも、子供の唄などがあると、斯ういふ部分だけには古い稱呼が保存せられるのである。蠶の幼蟲にコだのヒメだの、ヲサナモノだのといふ新語が出來て、それが流布したのも久しい昔からであつたが、尚若干の差別方法を以て、或一定の目的には古名を使用して居たことが無いとは言へない。千葉縣の長生郡等では、穀蛾の幼蟲だけを今でもスールと謂つて居る。蠶のシロ又はオシラも之と同じ例で、やはり比々流の一轉化であることを、暗示して居るものと私は信ずる。
 
     西何方
 
 現在自分たちに最も知り難いことは、何故に又いつ頃から、誰が蠶の蛹をサナギと謂ひ始めたかといふことである。この爲に新舊三四の辭書類を捜して見たが、判つたのは只この語の上品な響きから、存外容易に標準語になつたことと、是が古い記録の中には殆と一つの根據をも持つて居ないことゝである。多分もとは何れかの地方の用語に過ぎなかつたのが、縁あつて中央に新たに進出したもので、或は鈴を意味するサナギを、形似に基いて轉用したのかと思ふが、格別の證據も無いから是は後日の討究に殘して置かう。
 次にもう三つ、由來のわからぬ蛹の地方名があるけれども、是は少しばかり分布が知れて居る。其一つは信州などでよく聞くゾーといふ言葉で、埼玉縣の秩父でもゾー又はズー、千葉縣の山武郡でもゾウ、上越後や佐渡島でもジョ(237)ウと謂ふさうである。次には、
  山城久世郡             シャガマ
  丹波多紀郡大山村          シシャ
  但馬(養父郡誌)          スタ
  土佐高岡郡窪川町          ヅシャ
  薩摩甑島              ヅシャ
などゝいふ例が、前者と關係があるのかも知れぬが、又一つの小さい群を爲して居る。第三には是よりも弘い區域に、且つ稍著しい一致を以て左の方言がある。
  陸前氣仙郡             ヌシコ・ヌーコ
  同 登米郡             ヌシゴ
  飛驛益田郡             ムツゴ
  美濃加茂郡             ムツゴ
  尾張葉栗郡             ムツゴ
  伊勢三重郡             ムツゴ
  石見一部              ムツゴ
  大隅種子島             ムツゴロー
 是は私の想像では、蛆をウジといふ語と同じ系統のもので、共にムシといふ古語から分化して來たのかと思ふが、無論さう斷定する迄には、もつと多くの材料を集積しなければならぬ。兎に角にサナギといふ標準語だけは、此三つの何れとも縁が無いのだから、起りはさう古いものでは無かつたらうと思はれる。
(238) 之に反して現代の特に人望ある蛹の方言は、よく見ると何れも若干の影響を、前の三種の語から受けて居るやうである。例へば信州は養蠶國だけに、蛹の方言も色々あつて、前に掲げたヘビッチョやサナギやゾーの他に、又之をドキョーと呼ぶ村も方々にあるが、此ドキョーのド等は明らかにゾー又はヅーと筋を引いて居る。是自身には或は意味は無いのかも知れぬが、伊豫では新居郡を始め、蛹はキョームシといふ處が多いから、是も次に言はうとするニシハドッチと共に、元はこの遲鈍な動物に向つて、京の方角を尋ねた子供遊びの名殘かとも考へられる。
 蠶の蛹に「西は何方」の名を付與したのは、關東一府五縣は大よそ全部で、其語はニシャドッチで無ければこシャドッコ、稀には又ニシビッカリ(常陸稻敷郡)、ニシービッシャ(同久慈郡)、ニシンチロリン(下總佐倉・千葉)の例もあるのは、少しづゝ童詞の形が變つて居た爲かと思ふ。それから箱根を越えて靜岡縣の東半分、次に或距離を隔てて三重縣は全部、熊野の東の端までもニシドッチの名が知られて居る。
 是より遠方にも、飛び離れて處々に同じ言葉がある。例へば伊豫の宇和島ではニシドッチ、土佐の窪川ではニシャドロ(又はヅシャ)、筑後の三瀦郡ではニシムケヒガシムケ、東北に於ては羽前東村山郡がニスシガス、羽後平鹿郡も一般にニシヒガシである。此名の由つて來る所は、今はまだ説明の必要も無いであらうが、或は知らぬ人も有るかと思ふのは、小兒が西はどつちだと言つて、振向かせて笑ひ興じて居たのは實は尻の方で、指につまんで居る方が頭であつたといふことゝ、第二には此名の始まつたのは他の蟲で、蠶の蛹は後に其仲間入りをしたのだといふ事である。梅林新市君の豐前築上郡方言集を見ると、九州でもあの地方は烏麥をニシムケヒガシムケと謂ふとある。是も此草の莖を兩手にまはしつゝ、さういふ言葉を唱へて頭の向く方を見た遊びからであらうが、植物に此名を付けたのは實は異例で、他は一般に何かの蟲の蛹ではあつた。多くの方言誌の解説は區々になつて居て、大和の北葛城郡ではニシドッチは蓑蟲のことゝいひ、紀州有田郡ではニシドウシ・ニシドウチはさし蟲の幼蟲とあり、武藏の宗岡では毛蟲の蛹といひ、上州館林では砂の中に居る蟲の名だといひ、下野逆川村などは栗蟲の蛹とある。しかも同國足利市邊では、(239)蝮?即ち根切り蟲の蛹となつたものを、ニシャドッコだとして居るので、此方が又古くから通用して居る。寛延年間に出來た山本格安の「尾張方言」に、ニシャドチ??とあるのも是と同じ物で、小野氏の本草啓蒙には?ヂムシ・ネキリムシ云々、春後土中にて化して蝮?(ニシャドチ)となり、後羽化して蝉となるとあり、蝮?俗名は京でニシャドチ、阿州でニシムケ等、其形蠶蛹(ヒール)に異ならず、指にて摘むときは腰以上を左右に搖がす故に、西はどちといふを、轉じてこシャドチと云ふとも記して居る。
 この西が西方寂光淨土を意味して居たことは、別にニシピッカリ等の名があるのを見ても察せられる。少なくとも人が西方に興味をもち、又は西を愛慕する者の多かつた時代に、この遊戯の創始せられたことは確かである。然るに農村各家に蠶を養ひ、小兒等このヒールを見る機會が多くなるにつれて、誰かゞ以前の根切り蟲の蛹を持つてした唱へごとを、是に轉用して見せたのも自然であつたが、人は當時既に種々の蟲に向つて、一つの總括の名を通用しては居られなかつた故に、一方に其名があれば他の方には絶え、從つて村落地を接して互ひに異なるものに、此名を呼ぶやうな結果を見たのである。しかも名稱の推移は之を以て終局を告げなかつた。尾張以東には現在はもはや此語無く、甲州は富士川の流域、遠州は大井川右岸などに、後半を略してニシャと謂ふ小區域があり、それから西の同國磐田郡、三河は寶飯・額田・碧海・西加茂等の諸郡に於て、一帶に蠶の蛹をドチもしくはドッチといふ方言が出來、更に三轉して處々の生絲工場に働く女性を、ドッチガールなどゝ呼ぶ新語が、又此頃は出來て居るのである。この命名の本の心、たとへば西のことばかりいふ道心坊が、ぬく/\と着ぶくれ踞まつて居る姿を、思ひ浮べて笑ふやうな氣持は忘れてしまつたらうが、尚この語音だけには隱れたる古い親しみがあつたらしい。即ちニシャと以前のヌシコ・ムツコ又はシシャ、ドッチとゾー・ドキョーなどの間には、意味以外の一種の聯路が、まだ幽かながらも殘つて居るらしいのである。
 
(240)     外國語の歸化條件
 
 蛾が簡單なる原の語形を以て、その後日本國中を押廻して居られるのも、やはり死や氣などの漢語と同じやうに、ちやうど此方にも幾分の下地があつて、之を迎へるのに適して居た爲かと私などは思つて居る。是は當節の馬鹿げきつたエロ・グロなどの語が、尻を切られて流行して居るのを見てもわかるが、又他の半面からは蝶といふ一輪入語が、折角採用されても殆と完膚無しといふほどの改造を受けなければ、生きては居られなかつた事實からも推論し得られる。第一に蝶は文字でこそテフと書いて居るが、最初からそれに合致した發音があつたか否かも疑はしいのみか、今日ではチョーと唯一音節で呼ぶことすらも樂では無くなつて居る。隨分と耳に快い音である上に、あまり單純に過ぎるといふならば蛾もあり蚊も有るのに、此一語ばかりが變形を必要としたといふのは、つまりは今までに音の親しみが無く、別の語でいふならば、甚だ突如として出て來たからでは無かつたか。次には此問題を一つ考へて見よう。
 蝶の標準語は何といふかと聞いて見ると、先づ只今ではチョーチョーと答へる他はあるまいが、是も實際は確とした根據を有つて居ない。支那でさう謂つたわけでも無く、古い文藝にさう使はれて居るのでも無い。やはり或地方語が偶然に都市の人に知られたといふのみで、從つて亦其の音訛の路程を詳かにする必要のある語である。大體に二つの同語音を重ねて、印象を濃くしようとするのは日本語の習性かも知らぬが、東部日本に來ると其例がずつと少なくなる。チョー/\も主としては京都以西の、大略半分ほどに行はれて居るが、それも四國に行くとチョチョと短くなつたものが多く、九州はチュチュから南端のツヽマンコ(薩摩)まであつて、大抵は又別の音を添へて呼んで居る。最近に杉山正世君の調査せられた愛媛縣周桑一郡の蝶の名なども、少しづゝの相異を算へたてると十種あり、内四種までは別の接尾辭がある。もし瀬戸内海の周邊を探し究めたならば、此變化は恐らく更に幾程かを増加すべく、しか(241)もその多くは必ずしも限地的の事象では無いらしいのである。たとへばチョチョマといふ一語は對岸の備中備後の各村にも、飛び/\ながら廣く行はれ、東國のは一般にチョーマであるが、其間に挾まつて相模の浦賀などはチョチョマと謂つて居る。チョーコといふ例は備前の東部から播磨丹波にかけて分布して居るが、九州でも北の半分は大體チュチュケになつて居る。是等が傳播とは認めにくいと共に、只偶然の一致とも私は考へることが出來ぬ。即ち此語が何等かの變化を受けずに濟まなかつたやうに、變るには又變るべき道筋が、大よそは定まつて居たらしいのである。
 一つのほゞ確かなる例としては、伊豆の東海岸などのチョーチョンマイを擧げることが出來る。前に蝸牛考に於ても注意したことであるが、此地方の蝸牛にはカーサンマイ、もしくはカサノマイなどゝいふ特色ある地方名がある。或は此地方が先かも知らぬが、兎に角に蟲や鳥には成るだけ御揃ひの名を付けようとする氣持が、働いて居たことは察せられる。さうすると中國の各地にチョーコ・チョチョマと入交つて、可なり弘く行はれて居るチョーリの如きも、或は又今廢語となつた蛾をヒウリといふ語の、影響を受けて居るのかも知らぬ。虎杖といふ植物には、イタドリとタヂヒと、サイタツマといふ三つの古語があることを、夙く「民族」に私が書いてから後に、佐藤清明君は岡山縣附近の地方名を詳しく調査せられたが、その中にタジナ・サジナ・ダイジ・ダンジなどゝ、互ひに他系の語の影響によつて半分以下の變化を受けたものが、幾つと無く發見せられたのである。蝸牛の場合も同じやうに、一つの物に新舊の二語があれば、殊に語音の融合といふことが、行はれ易かつたことゝ思はれる。
 關東奧羽の方では、後に列記しようとする古い名の保存以外に、チョーマといふ語とチョッパといふ語が多く用ゐられて居る。茨城縣などでは各郡殆と一つ置きに、ちがつて居るやうに報告してあるが、元來は兩者互ひに代用し得たので、其原因は多分一つであつたらう。どうして此樣な語尾を持つことになつたかも、やがて明らかにすることが出來るであらうが、現在でも片端だけは既に判りかけて居る。たとへば秋田縣は蝶々の異名の珍しく輻輳した地方であつて、其中にはチョマもチョッパもあるが、それが仙北郡などでチョナコ、チョコナコ等になつたのは、北の方か(242)らのテコナの影響らしく、又横手の附近にチョビラコといふ語があるのは、秋田市あたりのベラコと無關係でない。更に關東の方へ戻つて來ても、俚言集覽に出て居る下野のテウ/\バコに呼應して、現に處々に次のやうな異例が報告せられて居る。
  下總北相馬郡その他         チョ/\バコ
  武藏川越地方            チョ/\バコ・チョ/\ベコ
  同 妻沼町附近           チョ/\ベッコ
  上野邑樂郡             チョウ/\ベッコ
 書き方は記録によつて少しづゝのちがひが有つても、大よその傾向だけは窺はれる。さうして又次の段に説かうとするベットーといふ一語が、孤立のもので無かつたことも想像し得られるのである。
 
     テガラと蝶々髷
 
 蝶をベット又はベットーと長くいふ例は、主としては山形縣の最上川水域であるが、其一端は嶺を越えて秋田縣の南部に及び、由利・雄勝・仙北の三郡には、共にベットー又はベッチョといふ土地があるし、南は越後に入つて北蒲原の新發田がベト、西蒲原の吉田がベットウ、中魚沼郡にも亦同じ言葉がある。東京近くでは今は此語を用ゐないが、天保年間に出來た赤松宗旦翁の利根川圖誌には、秋の初めに鮭が流れを溯つて來る頃、一種白色の小さな蛾の群れて飛ぶを見て漁獲の候とし、その蛾をサケベットーと名づくと見えて居る。蛾と蝶とは此場合にも差別をしなかつたのである。山形縣の方でも、米澤あたりでは蝶には別に名があつて、蛾即ち火取蟲をベットーと謂つて居る。莊内では明和の堀季雄翁の濱荻には、ベットウを蝶のことゝあるに拘らず、近年の語集には之を蛾の總稱と解説する者もある(243)が、要するに飽海郡史に言ふ如く、本來は蝶蛾を併せ呼ぶもので、たゞ特殊の新語が後々片端を蠶食しつゝあるのである。ベットーは前に掲げた蛹のヒヾツに近い。私は是もヒヽルの一つの音轉訛で、終りの一音節はチョー/\のそれの如く、特色がある爲に寧ろ重きを置かれ、末には全然縁の無い新語と、考へられる迄になつたかと想像して居る。播磨の佐用郡には蛾をベコといふ例が一つある。是もヒヽルの脱落かと思ふが、尚其分布?態を詳かにしたいものである。
 蝌斗をベットといふ方言は富山縣にあり、若越方言集にはベーットは蛙と出て居るが、此二つは蝶のベットーとは關係が無いやうに思ふ。しかも一方には意外なものに迄、此語の適用は廣がつて居た。越後では新發田に近い五泉の町の採集方言に、ベットウを「頭飾のきれ」と解説して居るのがあるが、此方はほゞ疑ひなく蝶々の名から出て居る。たしか風俗畫報に載せてあつた越後某地の言葉にも、ベット又はベットウを童女の髪飾と記してあり、又幸田文時氏の「さと言葉」にも、西蒲原郡の吉田附近に於て、髪掛けをベットウとも又テフ/\とも謂ふとある。さうして此土地では同時に蝶をもベットウと呼んで居るのである。女の髪の結ひ方に、チョー/\といふ名は東京にもある。今は全國的といふ程に流布して居るが、是も起りは髷の形よりも、其根を結んで居た元結ひのはね方が、蝶の羽に近かつた爲であつたのが、後にはそれが無くても蝶々髷といふことになり、言葉そのものが愛らしい所から、次第に髪の容までを、蝶の揚羽に近くしたやうである。是は女風俗の研究者も多いことだから、今に其順序がわかつて來ることゝ思ふが、單なる名稱からでも、蝶々髷の起る以前に、既にチョー/\といふ飾りのあつたことが傍證し得られる。たとへば今日の丸髷の根掛けに、鹿子絞りの類のきれを掛けるのを、テガラと謂つて居るのも蝶のことであつた。或は搦みつけるから位に輕く解してすまして居る人もあらうが、よく考へて見るとそれではまだ少し變だ。ところが一方には蝶をテガラと謂つて居る土地が確かにあるのである。青森縣總覽の動物方言の部を見ると、蝶類蛾類の總名が四つほど擧げてあつて、其一つにテガラがある。主として東半分の南部領に行はるゝものかと思はれ、上北郡三戸郡の(244)處々で蝶をテンガラ又はテンガラコ、三本木あたりはチョーマ或はテグラ、是が鹿角郡に入るとテカナともテラコともなつて居るが、是もどうやら山形縣のベットーと同樣に、ヒヽルといふ語から次々と轉訛したものらしいのである。テコナやテガラは唯一つ孤立して居ると驚くが、成るべく多くの隣村からの例を竝べて見れば、大よその音推移の痕だけは窺はれる。無論其順序は勝手に斷定するわけに行かぬけれども、少なくとも次に列記する牒の方言には聯絡があつたとは言ひ得る。さうすれば比較的古名のヒヽルと近いものが前であり、それから遠ざかつたものが後といふことも亦想像せられるのである。
  青森縣三戸郡その他         テンガラコ(カヽベ)
  同  某地             テヾラコ
  同  北津輕郡           テラコ
  同  中津輕郡           テラコ(テケナ)
  同  弘前市            テラコ(テコナ)
  岩手縣紫波郡            テビラコ(カヽベ)
  同  江刺郡その他         テビラコ
  同  氣仙郡            デンビラコ
  秋田縣鹿角郡            テカナ、テラコ
  同  北秋田郡           ケトナ
  同  秋田市            ベラコ
 女の元結の伊達は今のリボンも同じやうに、却つて下げ髪の時に必要が多く、從つて又名も生じ易かつたことゝ思ふ。それを形によつて蝶々と名づけるのも、恐らくは結んで垂れて居た場合に似つかはしかつたらう。さうするとテ(245)ガラは古い命名意識が尚殘つて、それが本物の蝶の方言と共に、移動して居た時代の發生であつて、江戸へは多分東北などから入つて來たものであらう。江戸期の終り頃に出來た常陸國誌に、行方鹿島二郡の方言として「テウマ、娘の元結髪」といふのを擧げで其後に、「津輕にてはテコガミといふ由」と言つて居る。雄蝶雌蝶などゝいふ結び方は、今でもまだ祝言の水引だけには傳はつて居る。
 
     テコナ、カハビラコ
 
 比々流のたゞ一種の蝶だけをテビラコと謂つた理由は、私にはやゝ想像が付くやうに思ふ。氣仙の海岸などでは、デンビラコは蝶と蛾の總てをさして謂ふのだが、上北郡の野邊地あたりではテビラコは蛾であり、蝶には別にタカエロ或はタケァコといふ土地もあつて、後にテコナといふ形に變つて行つたのかとも思ふが、兎に角にタカエロは空を行く比々流、即ちタカヒルの一轉訛と解し得られる。信州北部のアマビラは前に掲げたが、甲州でも北巨摩郡其他に、蝶をアマチョチョといふ土地がある。アマもタカも必ずしも「雅語」では無い。現に農家の土間天井、普通にツシといふ物置のことを、タカともアマともいふ地方は多いのである。しかもテビラコの接頭辭のテも、或は亦このタカの忘れられて、單に符號として殘留するものとも考へられる。常陸北境の多賀郡に於ては、蝶をベラッコといひ又タベラと謂つて居る。沖繩の國頭地方にも、ハベル、カーベルの他に、之をタベルといふ村もあるのである。タベラとテビラコとは縁が遠いとは言はれぬ。タカヒヽルは又此途を通つて、テビラコ・テンガラコに迄歩んで行つたのかも知れない。
 津輕方面にはテラコとテコナと、二つの言葉が併行して居るやうである。是が蝶と蛾との差別を示す目的で出來たのか、又現在はどれ程混用せられて居るのか。私にはまだ確實な知識が無い。テコナは萬葉に眞間の手兒名がある爲(246)か、兎角古い言葉のやうに感じられて居る。實際又歌にもなりさうな住い音でもある。しかし周圍の是に近い語を比べて見ても、テコナが元であり、他のものが其末であるとは見極めにくいのみならず、その行はれて居る區域も案外に狹いのである。從うて是を上代語の手付かずに傳はつたものとするには、少なくとも懸離れた一二の地に、是と稍似た言葉を發見する必要がある。先づそれ迄はこれもタカヒヽルの、時を重ねて變れるだけ變つたものとして置くの他は無い。次の諸例は無論變化の順序とは言はれぬが、土地の續きでいふと斯ういふ風にも竝べられる。
  青森縣上北郡            タカエロ
  同  某地             タケァコ
  同  中津輕郡           テケナ
  同  弘前市附近          テコナ
  秋田縣北部             ケトナ
  同  鹿角郡            テカナ
  同  南秋田郡           テンコ
  同  仙北郡            チョナコ・チョコナコ
 津輕には以前もう一つの蝶の方言があつた。物類稱呼には蝶を津輕にてテコナ又はカヽベと謂ふとある。此語は今日も尚使ふ村が有るか否かを知らぬが、南部領の方には確かに殘つて居る。前にテンガラコの條に括弧として入れて置いたやうに、三戸郡にも紫波郡にも、カヽベといふ語は採集せられて居り、又下閉伊郡船越村の方言集にも蝶をカッカベ、寛政年間に出來た盛岡の「御國通辭」にも亦カッカベと出て居る。是も或はタカヒヽルの一つの轉訛かとも考へられぬことは無いが、次のやうなやゝ類似した地方語の遠く離れて存するのを見れば、俚言集覽に「カハビラコの訛か」とある推測の方が、當つて居るらしくも思はれる。
(247)  靜岡縣安倍郡           カーブリ・カンボウ
  滋賀縣伊香郡            カッポ
  同  滋賀郡鵜川          カッポー
  三重縣度會郡            カッポ
 是等は何れも蝶のことで、たゞ駿河のカンボウのみが、蝶と蛾を併せ謂ふと説示せられて居る。遙か南の方の奄美大島のコーバラ、國頭郡本部村のカーベルなども、もし此系統に屬すとせば、カハビラコは即ちあまたゝび其姿を變へて、種を現代まで傳へて居るのであつた。蝶のカハビラコの始めて記録せられたのは、新撰字鏡だから久しいものである。和訓栞が例の通り「川上にひらめく意か」などゝ言つて居るのは、臆説としても無茶な話で、誰が考へて見ても毛虫の古語のカハムシと、關係のあることだけは明らかな筈である。それが繭に籠るといふ此虫の習性に基いたものならば、毛虫も曾ては之をカハヒヽルと謂つた時代があつたらうと思ふが、其明證は之を示すことがやゝ六つかしい。爰にはたゞ僅かな手掛りだけを擧げて置くより外はない。
 毛虫の東北諸縣の方言は、ガイダカ・ガエタカ・ゲダカ等であり、遠くは鳥取縣の西伯郡の一部にも、毛蟲をガイダカと謂ふ村があると聞いて居る。此ガイダカのタカは亦、高ヒールの高では無かつたらうか。果してさうだとすればガイといふ語にも當りは付く。秋田縣では毛蟲を又ケラムシといふ處もある。男鹿半島では之をケガムシもしくはケガ、福島市の附近に來るとケダロとも謂つて居る。岡山縣などでは毛蟲をイラとも謂ふから、ケラムシは或は「毛いら蟲」とも解せられるが、壹岐でケーリと謂ふのが「毛ヒヽル」のやうにも私には聞える。それから栗の木に住む色の白い毛蟲、即ち「てぐす」の繭になる大きな幼蟲を、東京ではシラガダイウといふが、甲州邊では一般にシナンダレ、上州などの人は信濃太郎と解して、乃ち其漢字を宛てゝ居る。福島市のケダロの如きも、鎭目桃泉氏の「濱荻」には、毛太郎の意かと説いて居るが、このダレ又はダロも事によると、テビラコ・デンビラコの筋を引くものかも知(248)れぬ。
 最後にもう一つ、毛蟲の方言で可なり弘く分布して居るものがある。此語の成立ちがもし明らかになつたら、自然に私の假定を裁判することゝ思ふが、今はまだ一向に手掛りが見付からぬ。仍て將來の研究の山口栞として、單に爰には其事實のみを掲げて置かうと思ふ。
  愛知縣東春日井郡          オコゼ
  同  碧海郡            オコジ、オコゼ
  石川縣石川郡その他         オコジョ
  富山縣某地             オコジョ
  山形縣西田川郡           オコジ
  京都府天田郡等           コウジョ
  廣島縣沼隈郡            ホージョウ
  鹿兒島縣某地            ホジョ
 此中で山形の例は「いら蟲」とあり、石川縣の方は梅毛蟲又は「いら蟲」とある。愛知縣でもオコジは最も毒の強い一種の毛蟲だと言つて居る。ところが是も實際には蠶の蛾蛹と同樣に、至つて無害なる類族の間にまで及んで居るのである。
 
  (追記)
  一、この一文を出してから、なほ多くの方言が各地から集まつて來て居るが、大體に筆者の推定を支持するものばかりだから、一つ/\は茲に列擧しない。他日今少しく容易に、さういふ綿密な點を記述し得るやうになるま(249)で、保存して置くことにしようと思ふ。たゞ本文にはまだ説き盡さなかつた一二の要點を書き漆へるならば、蛾の比々流と蛭や蒜の比流と、本來は一つの語であつて、單に後々之を言ひ分ける必要を認めてから、この形に分化させたものだといふことは、各地の現在の口語によつて、一段と證明しやすくなつた。即ち一方をヒルと短母音で呼び、他をヒールと長母音で發音することは、蠶蛾蝶蛹蛭蒜等、土地によつて互ひちがひになつた例が極めて多く、倭名鈔以下の二つの書き別けは、たゞ中世の京都だけの好みであり、最初から全國一樣の法則ではなかつたことが、ほゞ安全に言ひ得られるやうである。
  一、比流・比々流の名の起りが、比々良久(疼)といふ動詞のもとになつた感覺に在るならば、無害平和な喋や蠶にのみそれが保存せられて、元兇ともいふべき毛蟲に其名が無いのは、筋が通らぬやうに自分にも感じられる。是は毛蟲の現在の地方名を、數多く集めて比較をして見ることが、たつた一つの説明の絲口だと思ふが、今のところではまだ其手掛りを得て居ない。自分の想像では、人を咬む毒蛇をマムシと謂つたやうに、之を忌み怖るゝの情が特に其改稱をいそがせたのであつて、今ある毛蟲の方言には、早い頃の隱語忌言葉、もしくは改造の最も原語から遠ざかつたものが、幽かな痕跡となつて殘つて居るのでないかと思ふが、それを指摘することが今はまだ出來ないのである。本文にも掲げて置いたオコジョといふ一語なども、山の神の愛したまふといふ海の魚のヲコゼ又はヲコジと、無關係ではないといふことまで考へられるが、其語原に至つては二つとも明らかでない。毛蟲の方言については、此後同じ雜誌の中に少し書いて見たこともあるが、あんまり纏まつた知識が無さ過ぎるので、わざと今度の文集からは除いて置いた。
  一、蛭も毛蟲以上に農人の忌み嫌ふ蟲であるが、京都の標準語の變らずに居た爲であらうか、たゞ僅かづゝの改作を以て、今もなほ弘く古い語を保存して居る。しかし本文能登半島のヘリバヽなどのやうに、是に惡稱を付した例はまだ他にも有る。たとへば愛知縣は一帶に、蛭をヒールと長母音で呼ぶ地方だが、其中にまじつてヘータ(250)ンボ・ヘータ・ヒータなどゝいふ村が處々に在り、それに近いものは福井縣各地のヘリンボ・ヘレンボ・ヘロンボ等がある。埼玉縣東部のヒルンボー、信州松代附近のヒーロンボも其類で、斯ういふやゝ輕蔑したやうな名で喚んで居ると、其害に負けることが少なからうといふやうな心理は、幾つかの動植物に對して共通のものであつた。毛蟲などにも捜したらそれが有るかもしれない。次に今一つ、蛭方言の分化の著しい傾向には、ビルと濁音に呼んで居る土地が、特に九州の南部と奧羽の東側とに多く、中央の平野には殆と見られなくて、たゞ大和の十津川とか阿波の祖谷山とかいふ樣な山村に殘つて居ることが學げられる。斯ういふ分布?態は、通例一つ前から有つた言葉の、新しい流行語に押出されて、端々に退縮した結果であらうと今までは見て居たのであるが、この場合にもそれが言へるであらうかどうか。ちよつと答へにくい問題になるやうである。しかし自分としては是だけの事實がある爲に、二つは別の語であらうとも、又はヒルよりはビルの方が一つ古かつたらうとも思ふことは出來ない。多分は濁音化といふことが簡單ながらも一種の惡稱であつて、之によつて自然の害惡に對抗しようとする呪法のやうなものが、邊土僻陬には永く保存せられ、中央部には早く消え去つたので、前からなほ殘つて居たヒール等がこちらでは復活したのだらうと解して居る。小さいことではあるが、是からもなほ注意して居る必要がある。或はもう少し良い説明が、考へ付かれようも知れぬからである。
  一、蛾を比々留といふ例は持統紀が多分最も古く、日本靈異記の訓釋にも同じ語が出て居る。しかも現在の國語の中に、是がまだ保存せられて居る地域は存外に弘い。東北は各地とも概してヒルと短くなつて居るが、中部地方は今も多くはヒール、伊勢にはヒーロがあり、大和紀州はヒューロ、阿波に渡るとヒューリ又はヒュール、九州でも佐賀縣にはヒューロ又はヒーがあり、大分縣にはヒーロ・ヒーラ・ヒールが共に行はれて居る。この中には大抵の場合、蠶の蛾も含まれて居る。勿論このものが重要である爲に、古い名目を獨占して居るのでは無く、寧ろわざ/\言ひ万を變へ、又は新しい名を作り與へるだけの、重要性を認めなかつたからだと私は見て居る。
(251)  一、之に對して蠶の幼蟲のみは、世の中の開けるに伴なうて次々と新しい名を得たのだが、それを曾てはヒルと謂つて居た痕跡は、決して蠶神のオシラサマだけではない。今でも蠶そのものをオシロ又はシロ樣といつて居る土地は、靜岡縣の一部、群馬縣から新潟山形の二縣にかけて弘い。以前のサ行音は今よりもずつとハ行音に近く、殊にイ列に於て著しかつたことは、幾つもの傍例が之を證明する。さうして蛹にも蒜にも、比々流系の語にはシと發音せられるものが多く、しかも蛭だけにはそれがまだ一つしか見當らぬのである。最初はどちらとも取れるやうな言ひ方だつたかもしれぬが、後には他と區別すべく、人が意識してヒとシをちがへて居たこともあつたらうと思ふ。
  一、繭も或はもとヒルと謂つて居たことがあるのかもしれぬ。野州の芳賀郡などで、山繭を山ヒッコといふことは本文にも掲げたが、それは決して一地方の珍しい例ではなかつた。秋田縣の田澤湖周邊の村で、小兒の背守りに青い色の山繭を縫ひ付ける風習があるが、其繭をこゝではヤマヒコと謂つて居る。是は山彦山の靈とは關係が無く、ヒッコ即ち比流にコを付した促音と私は解する。岩手縣紫波郡の農村でも、産婦の後産の降りないときは、ヒッコを呑ませればよいといふまじなひがあつて、其ヒッコも亦山繭のことである(民俗學一ノ五)。或はヒヽラギやトベラを窓の戸に插んで置くのと、筋を引くやうな氣持が有つて、比々流だから之をまじなひに用ゐたのではなからうか。東京のごく近くでも、ヒルコといふ言葉はもう無いが、やはり山繭の絲を縒つて、小兒の頸に卷いて置くと百日咳にかゝらぬといふ俗信がある(保谷村郷土資料)。比々流の二こもり、即ち二つ繭を藥物とすることは、夙く本草和名にも見えて、或は中にこもる蛹を靈物と視たのかも知れぬが、少なくとも現在山ヒッコと謂つて居るものは繭のことである。
  一、布部郷土誌を見ると、越後の岩船郡には蝶や蛾をドッペと謂ふ人がある。是はこの周圍にベト又はベットウといふ方言が、可なり弘い區域に亙つて行はれて居ることを知る者には、さう語原を尋ねることの出來ぬ語では(252)ない。しかし一方のベットウの起りは、どこが中心であるかゞ知り難い爲に、更にその外廓を見てまはらぬ限り、簡單には其傳來を究めることが出來ぬのである。方言調査の事業ばかりは、今のやうな割據の?態ではいつまでも成績が擧がらず、從つて又大いなる興味を引付けることも望まれない。心有る者の一考しなければならぬ點だと思ふ。ところが偶然の幸ひといふことはあるもので、今くらゐな乏しい切れ/”\の資料の中からでも、變り變つて來た路筋のわかつて來る場合が、稀には我々の間には見出される。本文にも既に掲げて置いた如く、蝶を秋田縣の北部でケトナといふなどは其一例であつて、東北は全體に單語の符號化ともいふべきものが早く起り、意味が不明になり、命名の趣旨は掬むことが出來なくても、たゞ口拍子で覺えて行かうとした故に、特に小兒の干與した區域には片ことが多く、殆と土地毎の變化といふものが起つて居るのである。ケトナの場合でいふと、其北隣にはテケナ・テコナがあり、又その外側にはテラコ・テヾラコ、或はテガラコといふ語がある故に、一つを引離して見ると驚くけれども、もとは岩手縣各地のテビラコや、福島縣中部のタビラなどの筋を引いたもの、即ち高比々流の轉訛であることが、さまでのこじつけで無く推定し得られるのである。兒童が言葉の應用と傳播とに參與した部分の大きいことは、前に蝸牛考の中でも説いたことであるが、私は今改めてそれが著しくわが國語の歴史を、複雜にもし又興味深くもしたといふことを考へ始めて居る。次に掲げる桑の實の變化なども、下に潜んで居るものはやはり子供の力であつたやうであるし、蝶のカハビラコが北の國の現在へ歩んで來る間に、カヽベ又はカッカベとまで變貌した足取りも、大よそは之を透して考へられるのである。
 
(253) 桑の實
 
     一
 
 蠶の日本語が、曾て蝶や毛蟲と共に、比々流といふたゞ一種の名詞に總括せられて居たのが、後に農民との交渉が深くなるにつれて、各地無數の變化を生じたといふことを述べた序に尚一つ、是と因縁のある桑の實の國語史を考へて見たい。桑は古今を通じてクハといふ語より外に、一歩も逸出して居らぬのに反して、其木の實ばかりは他の如何なる果實にも、見られなかつた樣な澤山の名前を持つて居る。さうして不思議なほどに各地の割據があつて、何れが先づ起り何れが後に現はれたのか、順序を見きはめることが困難なのである。私の想像では、以前桑がたゞ山野の植物であつた時代には、取立てゝ人の注意にも上らなかつたものが、利用が盛んになり占有が確實になつた頃から、段々に女や子供の其實を嗜み食ふ者を生じ、新たに此ものに名前を付與する必要が起つたので、新語が地方の自由に委ねられ、中央の既定語が標準を示すべき機會を得なかつた點に於ては、蠶などゝも幾分か事情が似て居るやうに思ふ。
 大體に命名の方針とも名づくべきものが、五通りほどに分れて居るやうであるが、現在標準語と目せられてゐるクハノミは、其中でも最も冷淡な、言はゞ有合せの誰にでも即席に作られる語であつた。今でも我々は他に定まつた名のあることを知らぬ時に、斯ういふ風にして言葉をこしらへて居る。一つの好い例は牡牛にはヲウシ、牝牛にはメウ(254)シといふ語を、英文譯讀をする人などが用ゐて、それが只今では標準語のやうにならうとして居るが、起りは全くコトヒ・ヲナメといふ古語の存することを知らぬからの仕業であつた。しかも其ヲナメも、明らかに女といふ語の應用だから、古人も多くの場合にはそれを試みて、追々に今の形を固定して來たのである。
 桑の實即ち椹をクハノミといふ例は、古い辭書類にも見えて居るのみならず、現在尚さういふ地方が隨分と弘いから、行く/\は是が動かすべからざる標準語となることゝ思ふ。しかも近畿中國にも其例外は多いと同時に、遠い邊土にも飛び/\に是が分布して居るのを見ると、未だ此物件の特に人生に重要でなかつた頃に、さう呼んで居た名殘としか解せられぬ。乃ち今一段と印象的な後々の選定語は、却つて短命に消えて行かうとして居るのである。地圖を作つて見るとよく判るのだが、今日クハノミといふ語の行はれて居るのは、寧ろ京都と隔絶した端々の方に多い。四國九州の如きも大體はクハノミであるが、其間に挾まつて別の言葉が發生しかゝつて居る。例へば阿波名西郡にはクハフグリといふ語さへあり、九州でも大分縣だけは中國以東と相呼應して、既にクハイチゴといふ語を採用して居る。然るに他の一方では越前坂井郡の一部にクハミ、伊豆の神津島にクハノミといふ土語が認められて居る他に、ずつと引離れて秋田青森の北端にばかり、その同じ語が殘つて居るのである。秋田縣でも市以南は、次に述べようとするクハゴの領域であるのに、八郎湖の周邊に行くと再びクハノミもしくはクハノミコがあり、南秋田郡笹館ではクハコノミコ、鹿角郡の花輪などではカッコノミ、陸奧でも上北郡浦野館はカノミである。即ち此方面では、食ふによい〔五字傍点〕樹實がまだ色々あつて、特に蠶を養ふ木の果實のみを、取立てゝ名を與へる迄の必要を見なかつたものと解せられるのである。
 
     二
 
 次に此桑の實をクハゴと呼ぶのも、方言ではあるけれども命名の不熱心さは前のものと近い。たゞ其區域が可なり(255)弘くて、又一續きに繋がつて居るのを見ると、或は是が第二次のものであつて、クハゴの「コ」といふ語には食用にするといふ意味が、表はされて居たのでは無からうかとも考へられる。自分の採集して見た限りでは、クハゴの北の端は下北半島の佐井濱に孤立して一つある外は、大體に奧羽の中程から始まつて居る。即ち岩手縣では盛岡にはカゴとグミとが共に存し、上閉伊郡の釜石にはカゴとクハイチゴが竝び行はれる以外、遠野と平泉の附近は既にクハゴである。日本海側でも雄物川水域がほゞ全部クハンゴ、由利郡は各地大よそ同樣で、たゞ本莊の町だけがクハンボと謂つて居る。山形縣下では酒田の湊だけに、カゴとカノミとの兩用があるけれども(此序にいふがクハをカといふのは東日本全體の傾向である)、其他は皆クハゴであることは、九箇所の實例によつて之を確かめられた。宮城縣では玉造郡の鬼首、柴田郡の川崎の町から、牡鹿の海岸にも此語があるから、假に仙臺の今の言葉は違つて居らうとも、先づこの一帶はクハゴであつたと見てよからう。福島縣では會津の五郡、福島市の周圍、相馬・石城・石川・安達の各郡もクハゴで、南境白河の町附近のみに、クハゴとクハイチゴとが入り交つて行はれて居る。
 この二つの語は、奇妙なほど方々の境に於て相隣りして居る。新潟縣などでも蒲原平野の中程を堺として、それから以北は大體にクハゴ、海上でも佐渡島はクハイチゴであるが、其北に在る粟生島はクハゴである。いつの頃から斯ういふ新語は始まつたものか知らぬが、是は少なくとも蠶をクハゴと謂つた日本語のあることを、全く知らなかつた人たちの命名であつて、しかも櫻の實をサクラゴといふ如く、食はれる果實を「コ」と謂つた習慣に支持せられて、偶然に普及したといふことだけは先づ考へられる。
 
     三
 
 林檎がリンゴとなつて日本に歸化したのも、事によると同じやうな原因かも知れないが、それは何れにしてもイチゴの「ゴ」だけはクハゴと同樣に、附加せられた複合語であつたらうと思ふ。苺は秋田の近傍ではエンジゴ又はエン(256)ジグであり、沖繩諸島に在つてはイチュビ・イッバ・イスビ等である。今は失せたけれどもイチ又は是に近い植物名があつて、その實である故にイチゴと謂つたらしいのである。さうすると之を桑の實に應用してクハゴと謂ひ出したのは新しく、且つ東北數縣に限られて居たにしても、同じ造語法の起原は既に古いので、現にイチゴといふ言葉などは、歌にも文章にも中代からもう用ゐられて居るのである。
 だから第三種のクハイチゴといふ方言は、獨り桑の實の形と味とが、苺とやゝ似て居るといふことを我々に語るだけで無く、更に其食用愛玩が彼よりも後れて始まり、且つ此語の出來た頃には既にイチゴといふ命名理由が、不明瞭になつて居たことをも示して居る。殊に注意せられるのは越後の西境、飛騨の北部、それから飛んで東三河の一部や近江の彦根などで、桑の實のことをたゞイチゴとのみ呼んで居ることである。我々は事物の内容を精確ならしめんが爲に、努めて古語の用途を限定し、旁ら新語を設けて相互の差別を明らかにしようとして居るのであるが、それと同時に他の一方には、その幾つかの種類を概括した總名を、見つけ出す必要をも強く感じて居た。この二通りの希望は、地を異にしては往々に相牴觸する。以前やゝ漠然と縁の近い色々のものを併せ稱へて居た一つの語が、後に其片隅の或一種のものゝ名に固まつてしまつた御蔭に、他の多くの名詞が零落し又離散したのは、必ずしも比流、比々流の場合ばかりでは無い。モヽは元來あゝいふ形の柔かい食用果實の總稱であつたらしきことは、ボヽとかボン/\とかいふ語の弘く用ゐられ、もしくはヤマモヽ・コケモヽ等の別種なるを見ても察せられるが、一旦桃といふ漢字に配當せられてしまふと、折角出來かゝつて居た柔菓の概念は消え失せて、是をも栗椎はしばみなどゝ共に、コノミといふ中に入れてしまふことになり、新たに注意に上つて來た桑の實のやうなものに、手輕に適切な名を付與することが六つかしくなつたのである。イチゴは其語形から見ても、又用法から考へても、決して弘い範圍をもつた總稱ではないのだが、他のよい語が無いばかりに、之を假りて桑の實を表示しようとする者が多かつたのは、ちやうど又蟲類の一部分に、蟇蛙蛇の如く、今以てムシと謂つては何と無く落付かぬ感じのするものが、若干殘つて居るのとよく似て居る。(257)今日の生物學の分類と、昔の日本人の自然界の見分け方とが、一致して居なくても少しも不思議は無い。ムシは蛆を意味するウジといふ語と縁を引くらしいから、恐らくはもと蛙や蟇とは別系の語であつた。それと同樣に英語の nuts に當る椎の實栗の實等の硬い果實と、一つの言葉を以てモヽ類と呼ぶことは出來なかつた故に、文字の上から見れば極めて當然なるクハノミの語を嫌つて、手近の類似によつてクハイチゴといふ新語を、採用する者が此の如く多かつたのである。
 
     四
 
 桑の實をクハイチゴといふ方言は、列擧するのも煩はしい程に、弘く全國に行き渡つて居る。しかもその中心がどこに在り、何が動力となつて斯樣に分布したか、我々には殆と見當が付かず、或は各地偶然に其採用に一致したのでは無いかと思はれる故に、一通りは其領域を明らかにして置く必要があるのである。先づ北端に於ては岩手縣の盛岡以北、即ちクハゴの外側に隔絶して、此語の行はれて居る土地は稍弘い。たとへば三戸郡五戸町はクハエチゴ、三戸町はクハイチゴ、九戸郡久慈町はクハエヅコ、同郡葛卷と種市、下閉伊郡の岩泉及び羅賀は、共にカイチゴと報ぜられて居る。それから南下して釜石の海岸に、此語のあることは前にも述べたが、氣仙沼の港の附近にも飛んで此語があつて、それから此方はずつと中斷して居る。日本海の側では北の端は佐渡の一部にあり、それから越後の中蒲原西蒲原にクハイチゴ、同じく西頸城でイチゴといふ外は、是も山陰道の中央までの間他の系統の語によつて中斷せられて居る。
 私はこの本土東北隅の稍廣い地域と、處々の海岸と島地の幾つかに、クハイチゴといふ語の散布して居るのを、たゞ偶然の一致とは見ることが出來ぬ。其理由は二つ、一つは是がクハゴやクハノミのやうに、誰にも許さるゝ自然の造語では無くて、そこに若干の思ひ付きと、之に對する賛同支持が有つたことである。新語は多くの場合、最も簡(258)單なる一種の民間文藝であつた。兼て衆人の言つて見たいと思ふものを感じて、先づ言葉に現はしたものが歡迎せられ、且つ容易に世に弘まつたことは、程度の差はあるが諺や歌謠なども同じである。どこに其發端があつたかを察し難いことも此等と同樣だが、中心はさう幾つも無かつたらうと思ふ。第二の理由は、このクハイチゴといふ言葉は、日本の西半分ではまだ廣い區域に亙つて一續きに行はれて居り、たゞ特殊なる別の方言によつて、其中間を隔絶せられて居るだけである。是は今まで總體に一つの語であつた中央に、更により新たなるものが發生して、前後左右に押出された結果が、斯ういふ邊隅の分散?態を、引起したものと見るの他は無いのである。
 或は海岸には別に舟運の交通といふものも想像し得るか知らぬが、クハイチゴの分布は決して釜石氣仙沼の如き湊場だけで無く、内陸にも同樣の飛地が殘つて居るのである。前に掲げた奧州白河を北の一例として、それから此方には駿河安倍川の上流の梅ヶ島附近、三河では豐川の水源から南北設樂郡一帶、近江では湖東長濱附近の他に高島郡の朽木谷、大和では吉野の龍門から北山十津川の二村など、何れも如法の奧山家に、島のやうになつて此語が存在する。此等が一つ/\別に考へ付かれたといふ事は、恐らくは何人にも想像し得られぬことであらう。さうすれば船乘衆が來て教へたものでは無くて、却つて此あたりの人々が、次に出來た言葉を知らずに居たといふことに歸着するのである。
 人が桑の實の苺に近いことを注意し始めたのが、もしも私の思ふ如く、桑の木の占有栽培に伴なふものであつたならば、此方言の分布?態は、乃ち間接の日本養蠶史料といふことが出來る。東北は奧南部の果に始まり、西南は對馬島の外側まで、たとへ飛び/\にもせよ行渡つて居る單語は、實際はさう多くないので、しかも此語のやうに隅々に引込んで、團結の力の弱いのも亦珍しい。現在知られて居る限りでは、クハイチゴの稍廣く認められて居るのは、九州では豐前と豐後、是につゞいては長門・周防・石見の三國であらう。伊豫でも二三の島と山村には採用せられて居るが、やはりクハノミといふ土地の方が多いらしく、阿波でも美馬郡の一宇だの、麻植郡の木屋平などゝいふ山村(259)ではたしかにクハイチゴであるが、他には又クハフグリなどゝいふ珍しい語も出來て居る。瀬戸内海では安藝の玖島とか、備中の白石島とかに此語があるが、其周圍はクハノミの標準語の通りと見えて、どの方言集にも現はれて居らず、山陰道でも東伯郡の北谷南谷等はクハイチゴであつても、其近傍は早既に次に述べんとする、クマメの領域になつて居るのである。
 
     五
 
 クハノミとクハゴとクハイチゴと、この三種の命名の間には、音韻轉訛の現象といふものは無い。しかし是を一應記述した上で無いと、中央部一帶の顯著なる方言變化の、實際の意義を把握することが六つかしい樣に思ふ。今日標準語にして又古語なりと目せられるクハノミを始めとし、クハゴもクハイチゴも共に全國を一貫して、定まつた最初の語音を保持したまゝで居るのに、獨り第四段に發生したかと思はるゝ一つの新語のみが、その音節は短く又明晰で、その領土は至つて小さいにも拘らず、どうして斯樣なる四分五裂の?を呈するのか。いやしくも訛語の存在に對して些少の關心を抱く程の者ならば、とくにも之を問題としなければならなかつたのである。私などの見る所を以てすれば、訛語は天さかる鄙であるが故に、必然に起つたものではない。風土や人間の生理がもしも主要なる原因だとしたら、斯んな片手落ちなことは有り得ない筈である。桑や蠶の如く人間との交渉が、歴史あつて以來著しく變化した事物にして、始めて我々は實驗をして見ることが出來るのであるが、言葉は其使用の或段階に到達して、特に音轉訛を招き易い傾向を示すことになつて居たかと思はれる。それが語感の推移に基く原意の忘失であつたか、はた又内容の分化に伴なふ差別の要求であつたかは知らず、兎に角に人の興味と親しみとが加はるに從うて、次第に其用語は特殊性を帶び來り、單に土地限りの約束を以て滿足したといふだけで無く、寧ろ他の地方との合致を避けたのでは無いかと、疑はれる例さへ有るのである。人の名其他の固有名詞の起り、又は符牒とか隱語とかいふものゝ目的は、是と全(260)く別であつたと考へられて居るが、社會が至つて小さな單位に分立して居た時代には、主として内の交通を有效ならしむる爲に、言葉を選定したといふ點は少なくとも同じであつた。或種の單語の地方的變化には、ちやうど今日の標準語運動とは正反對に、聊かも外部の關係を顧慮しなかつた人々が、新たに仲間だけの要求に應じて、獨立してきめたものが幾らもあるやうに思はれる。
 クハイチゴの東西南北の分布が、もと一續きのものであつたといふ推定が成立つとすれば其間に介在する次の方言群はそれよりも新しく現はれたもので無ければならぬが、此一種に限つて實に驚くべき音の轉訛が氣付かれるのである。細かくいふならば村によつても違ふのだが、それでは餘りに煩はしいから、郡によつてたゞ大體の差異を記述すると、同じ一つの桑の實の方言は、西は伯耆のクマメに始まつて、東へ行くにつれて次に示すやうに變つて來て居る。
  クマメ               伯耆東伯郡
  クマメ・フナミ           因幡氣高・岩美郡
  フナベ・ヒナベ           但馬養父郡
  フナメ               播磨宍粟・神崎郡
  フナメ               攝津川邊郡
  フナメ               丹波多紀・船井・何鹿郡
  フナベ・スナベ           同 北桑田郡
  フナビ・ヒナビ           丹後中郡
  ヒナビ               若狹大飯郡
  ヒナミ               同 遠敷郡
  ツマメ               同 三方郡
(261)  ツマメ               近江犬上郡山村
  ツマミ               美濃大垣市・惠那郡
  ツナビ               同 郡上郡
  ツナビ               飛騨白川郷
  ツナミ(クハイチゴ)        同 他の各郡
  ツマメ(イチゴ)          越前敦賀郡
  ツバミ               同 大野・南條・丹生郡
  ツバミ・ツバメ           同 坂井郡
  ツカンベ(?)           加賀江沼郡
  ツマミ               同 能美郡
  ツマミ・ツマメ・ツバメ       同 金澤市
  ツバメ               同 河北郡
  ツバミ・ツマメ・ツマミ       能登鹿島郡
  ツナミ・ヅナミ           信濃下伊那郡
 この最後の信濃南端の例は、前の美濃の方と續いて、北の方は又他の語に中斷せられて居るが、ヅナミと濁つた例があるので試みに茲に置いて見た。此以外には天龍川下流の遠江二郡にウヅラミといふのがあり、東の方には又群馬・栃木・茨城・埼玉・神奈川の五縣に亙つてドヽメがある。此ドヽメと北陸一帶のツバミ・ツマメ等と、聯絡が有るかどうかはよほど疑はしいが、兎に角に桑の實專用の一語を設け成して、毎回の言葉作りを省略したことだけは一致して居る。若狹の三方郡を堺として居る西の方のヒナミ・フナメ等も同樣であつて、是などは恐らく隣同士、互に(262)一つの語の分れたものと思つて居る人は多いことゝ思ふ。
 訛語と狹義の方言との差別は、いつの場合にもさう明瞭なもので無い。殊に北陸一帶のツバメ・フナベの如きは、其起りもまだ實は確かめられて居ないのである。單に早くから自分たちが知つて居るといふだけのものを標準として、其他を模倣といひもしくは模倣の失敗と目するのは早計である。事實はたゞ個々の獨立した命名にかゝるものが、おのづから追々に似て來ることになつたのかも知れぬのである。しかし少なくとも現在の形だけはよく似て居る。是は服部四郎氏の管轄せらるべき問題だが、東は天龍の溪、北は能登半島の一角から、遠く瀬戸内海の潮を望む平原まで、あらゆる音抑揚の地方的特徴を超越して、一つの組立てと一つの發音樣式を具へた三音節の言葉が、同じ桑の實に對して一貫して用ゐられて居ることは、假に各子音の間の直接の聯絡を説明し得ずとも、偶然とは言ふことが出來ぬやうに私には思はれる。即ち一方には土地毎に、是をツナメたりフナベたらしめた何等かの動力の、有つたことを推測させられると共に、更に他の一方には是をウ・ア・エ三つの母音の配列に導いた共通の原因が、隱れて背後に横はることを認めざるを得ぬのである。
 
     六
 
 内外の專門學者の中には、既にこの地方語の特殊なる一致と變化、轉訛と新語成立とのちやうど中間に位する現象を、注意し又解説した人が有るのかも知れぬが、私は渉獵が至つて淺いので、之を利用することが出來なかつた。それで假に自己流に音興味などゝ呼んで居るが、恐らく今にもつと適切なる名稱と、さし替へなければならぬものであらう。音興味は新語の内容興味と對立して、恰も音樂が文藝に對するやうな關係をもつて居たものらしく私には考へられる。人と事物との交渉が改まつて、何か今まである言葉では物足らぬ感じが起つた場合に、機警なる新語が外から傳はり、内に發明せらるれば、人は共々に之を採用しようとするが、其中では語音の耳に快く、もしくは突兀とし(263)て珍しいものに、自然の選擇は常に傾いて居たのではないか。それと同時に氣の利いた形容語、又は適切なる表示法が思ひ付かれなかつた場合には、意味は判らぬなりに響きのよい言葉、簡潔にして他のものと紛らはしからず、しかも面白い聯想をもつ言葉などを、多くの關係ある語音の中から、拾ひ上げて用ゐようとする風があつたのでは無いか。斯くの如く想像しなければ、この近世に出現したらしきたゞ一系統一地區の新語のみが、特に煩雜なる音韻變化を示して居る理由は、解するの途が無いのである。
 別の言ひ現はし方をするならば、私は單なる自然の零落や忘失以外に、特に計畫ある積極的の轉訛を認めようとして居るのである。今では或はまだ頼りない假定とも評せられるだらうが、各地の調査がもう一段と精確になれば、是は追々に立證し又反證し得られることで、いつ迄も水掛論で終る氣遣ひは無い。幾らツバメとかフナベとかいふ語音が面白からうとも、縁もゆかりも無いのに斯んなものを持つて來る者は無い筈である。どこかの端々に其轉訛の元になつた語があつて、それが流傳の間に飛んでも無い變り方をしたものとすれば、多くの實例を比照して見るうちに、後には  略々明白に其經路を知ることが出來るかと思ふ。全體此種の流行が西に始まつて東に進んだか、はた又東の方から現はれて西に行つたか。是には豫斷を加へずに均等に考察する必要があるが、大體に西の方の境に於ては、クハノミ、クハイチゴの二つの語のみが入り交つて居るに反して、他の一方の東部には、別に尚二種以上の顯著なる桑の實の地方語が存在する。其一つは甲州を中心として、やゝ其周圍に及んで居るカミズ、クハミズ又はミズ、其二は信州の一部に行はれて居るクハズミ又はクハグミである。この二組の方言は、直接にはツバメ、フナベの發生を説明せぬが、少なくとも其變化の實?は、有力なる一つの參考である故に、稍詳しく之を記述して置かなければならぬ。
 甲州の桑ミズは駿河の東端に出てクハノメド、相模の足柄上郡に越えてカメンドとなつて居るが、更に北側の信州の方でも、ミブ又はメド等となつて廣い區域を支配して居る。信濃は少なくとも桑の實の方言に於ては、全國に比類無き入會地になつて居て、其調査は重要なる效果を將來に豫期せしめる。それで自分は特に信州人の調査心を刺戟せ(264)んが爲に、稍不完全なる中間報告をして見るのであるが、下伊那郡一部のツナミ又はヅナミを除いても、此縣には尚三通りの名前が入交つて行はれて居る。その三通りを竝べて見ると、
  クハメズ・メズ           諏訪郡大部分
  クハメド・メド           南北佐久郡
  メド・メゾ・ミゾ          小縣郡
  ミゾ                埴科郡
  ミズ                更級・上下水内郡
  クハノミズ・ミズ          下高井郡 
  クハズミ              諏訪郡一部
  クハズミ              上伊那郡
  クハズミ              東筑摩郡
  クハズミ              南安曇郡
  クハグミ              下高井郡
  クハゴミ              更級郡一部
 是は勿論たゞ私の當つて見た土地だけの事實で、同じ一つの郡でも諏訪更級の如く、部落毎に別の語ある場合の想像し得られるだけで無く、時には併存して人によつて選擇自在なる場合さへ有るかも知れぬ。出來ることならば地圖によつて、是を今些しく精確にして見たいものである。
 以上の列記に由つて最初に考へられるのは、クハズミとクハグミと、元は一つの語であつたらうといふことである。ズミは今日ではそのたゞ一種なるガマズミの方言として用ゐて居る土地が多いが、本來は野生樹實の總稱であつたこ(265)とは、他にも何ズミといふものゝ多いのを見てもわかる。一方にグミは夙くより茱萸の實に限られる名であつたけれども、今以て之を色々の小さな實の名に呼んで居る者がある。精確に異なる文字を以て書き現はして置くことが出來る迄は、ズミとグミ位の簡單な音差別で、全國を通じて混同無からしめることは六つかしかつたのである。現に信州などでもクハグミといふ語のある土地では茱萸はグミだが、クハズミの行はるゝ東筑摩などでは、ズミといふのが茱萸のことである。即ち前述の二方言は、我々のグミが分化し獨立する以前、單に桑に生ずるズミといふ意味に於て、作られた語の固定したものであつた。柘即ち今いふヤマボウシをツミと謂つたのは、古代の記録にも例がある。是もグミ同樣に分化しようとしたのが、終に成功をしなかつたものか、さうで無ければズミが一般に昔はツミであつたか。兎に角桑の實に特別の名詞が入用になつた頃には、もう民間には其語は存在しなかつたのである。
 
     七
 
 第二に想像せられるのは信州の東部から、甲州全國に及んで居るミズといふ言葉が、同じく又クハズミのズミから出來たものだらうといふことである。此地方の人たちは此語に親しい餘り、是も或種の樹の實の總稱と思つて居るらしいが、私の知る限りではミゾとかメドとかいふ類の日本語は無いやうだ。さうして其隣が古語のズミを使ふのだから、二つが關係のあることは察せられる。但し此變化は、ズミとグミとが分岐した場合とは違つて、單なる發音の不精確や趣味の自由からは、生まれて來さうにも思はれない。是には今一歩積極的に、言葉を愛玩し撫摩するやうな、今ならば子供じみた人間の意志が、加はつて居るのかも知れぬ。或はマ行音の愛着といふやうなことも言へようか。兎に角戸棚がトナダとなり、ツゴモリ(晦日)がツモゴとなつたりした母音倒置から、類推して見ることは  稍々困難である。
 そこで試みにちやうど此季節に、私たちの郊居の近くによく見られる赤い愛らしい樹實、ガマヅミ(莢?)といふ(266)ものゝ方言の變化を尋ねて見る。是は前にも謂つた如く、只ズミとかゾミとかで通用する區域は弘いが、關東では最も普通にヨソヾミと呼ばれて居る。少年の頃に讀んだ赤松氏の利根川圖誌に、多分著者の作と思ふ斯んな歌が出て居た。
   みやこ人よそにや見らんヨソヾメの染めしもみぢの色は知らずて
 秋の末に印旛沼附近の野をあるくと、如何にも此ヨソヾメの色彩が最も美しく、小鳥ならぬ里の子も之を摘んで食つたのである。此方言の分布は相應に廣く、たとへば信州のクハズミ地帶でも之をヨツズミと謂ひ、新潟縣天産誌にも土地によつて、同じ物をズミ又はヨツドメと謂ふと記して居る。このヨツズミは、實が一つの小枝に固まつて多く附いて居ること、即ち群をなすズミのことであらうと私は思ふが、人は其原義を忘れ又頻用に飽きたものか、これを少しづゝ言ひかへようとして居るのである。深川元雋の房總漫録に依れば、ヨソヾメを上總の或地方ではスヾミ、同埴生郡ではソヾメ、下總千葉郡ではイツズミと呼ぶとある。東京の南の荏原郡の田舍には、是を又ミトヾメといふ者も有るらしきことは、谷川磐雄氏の民俗叢話の中に出て居る。必ずしもヨツズミが始めで無くともよし、是を村によつてミツともイツとも改めたのは、恐らくは使用者の諧謔であらう。
 或は又ソヾメ・スヾミ、もしくはソヾミなどゝ謂つたのも、必ずしも誤解が元で無かつたと思ふ。歌や唱へごとの影響であつたかも知れぬが、我々は食物其他の日常生活に親しい事物に、好んで三音節の語を用ゐようとした傾向をもつて居た。グミを中國四國でグイビ・ゴヨブと謂つたり、ズミの一種をソヨゴ・ソヨモ、又秋田などでジョミと言つたりするのも其現はれで、丸々無意識にそんな片言を作り上げたのでは無いやうである。桑のクハを「カ」と發音するのは珍しく無いが、甲州のカミズが是ばかり特にさういふなどは、やはり三音節を好んだ一つの例とも見られる。
 そこで又考へられるのは、ドヽメといふ方言の成立ちである。此語は甲信のミヅ・クハグミの東隣、大よそ關東一圓の桑實の地方名であつて、僅かに邊端の小地域にのみ、外の語と併存して居るのであるが、此ドヽメのツミ(柘)と(267)同系であり、又はズミの三音節化であることは、私には疑ひを容るゝ餘地が無い。東京では、寒さで唇が「ドヽメ色になつた」などゝいふ語は使ふが、是がよく熟した桑の實の色に譬へたものであることは、心付かぬ人もまだ多い。實際斯うした濁音を以て始まる語は新しいのだが、それでも其以前にズミを認めて居た時代は  稍々久しかつた。さうして桑のズミだけは之を差別して、何か特色に富んだ語音を與へなければならぬ必要が、其次にやつて來たのである。
 是と歴史を略同じくするものには、草ぼけの實を意味するシドメが有つて、是も關東その他の稍廣い區域に行はれて居る。奧羽の北端では?類の實をシダミ・シダメなどゝ謂つて居り、それが此方に來てジダンボ等に變化して居る。又桑の實のツバメとは少し隔たつて居るが、信州の下水内郡あたりには桑の穗の柔かいものを、ツバメ又はシバメとも謂ふさうである。是なども一つの失はれた鍵の一環ではあるまいか。私の假想では、ツバメ・ツマミ・ツナミといふ類の三綴り語の根本には、やはり利根川平野のドヽメと同樣に、曾て野桑の實をツミと謂つた古日本語が隱れて居るかと思ふ。さうして一方中國東部のフナメ・ヒナビ等の例では、子音の聯絡は是と稍遠く、寧ろ其西端に屬する伯耆のクマメなどに、引率せられて居る樣に見えるが、尚其語音の構造に於ては、彼と是とは全然没交渉では無かつた。乃ちクハノミをクマメといふ言葉が先づ起つて、次第に東方のツマミを誘致したか、或は又ツミ(柘)をツナミなどゝいふ前例があつた爲に、自然に西の方のクマミ・フナベ等を可能ならしめたかは、匆卒に決することは出來ぬにしても、兎に角に此等一群の變化の原因だけは共通であつた。さうして私は關東にソゾミ・ドヽメの類型が數多い所から推して、今は幾分か東本西末の説に傾かんとして居るのである。
 
  (附記) 本文に書き落したが、和歌山縣の日高郡でも、また桑實をクハイチゴと謂つて居る。此語の一般的に行はれて居らぬ地では、常に此通り海のへり、又は山の陰などに孤立して居るのである。次に今一つの珍しい現象は、壹岐島では桑實がクハグミであるが、是と相對する對馬島の南端|豆酘《つつ》村ではクハズミと謂ひ、更にクハイチ(268)ゴといふ語も併び行はれて居る。東日本では栃木縣那須の伊川村がクハグミ、岩手縣の盛岡附近に桑實を只グミといふ語が尚殘り、是がカゴ(クハゴ)といふものと兩立して居る。此地方でも「がまずみ」はゾミである。
 
  (追 記)
  一、この文を草する際まで、私は萬葉集の柘枝仙女などの柘即ちツミといふ木を、山桑のことかと思つて居た。柘の漢字は原地でも、二種の異なる木を意味した文獻があつて、其一つは桑柘とつゞけて野生の桑、今一つは全く別科の植物をさして居る。吉野の川梁に流れてかゝつたといふツミの枝はその第二の柘で、すなはち今いふ山帽子の木であつたらうといふことを、この頃は私は信じて居る。そこで本文を少しく改訂して見たのだが、もともと二つの樹種を混同し、山桑によつて説を立てようとした下心は蔽ひ盡すことが出來ないやうである。しかし考へて見ると、古語のツミは、紅い實の最も美しい今日のヤマボウシであらうとも、一方には是が又小さな柔かな實の總稱でもあつて、桑の實もやはりクハヅミと謂つて居たかも知れぬから、さう飛んでもない過ちを犯しては居ないと思ふ。現在の多くの紅い實はズミでありグミであつて、織錦舍隨筆などには酸實《すみ》の義にやとさへ説いて居るのだが、是が最初から切れ/”\に別の語だらうとは、私には考へられないのである。殊に濁音のツスなどは、もう久しい以前から、差別が立ちにくゝなつて居る。多分は一旦木の名などゝ連稱して、複合形の濁音になつて居たのが、後に再び引離されて、斯ういふ珍しい語頭濁音を殘したのであらう。東北ではガマズミを單にジョミと謂ふのが普通だが、そのジョミなどはちよつと眞似にくい發音である。多分はグミ・ゴミなども同じやうに、曾ては屬類の一つであつたものが、後に全體を代表する名によつて、圖らずお里を顯はすことになつたのであらう。ツミといふ古い又きれいな單語が、どうして不用忘却に歸したのかは、今はまだ説明することが出來ない。考へて見たいものと思つて居る。
(269)  一、沖繩諸島の桑の實の方言は、竝べて比べて見るとその變化の路筋がわかる。最初は奄美大島の北部や伊江島などのやうに、クハノキノナリと謂つて居たらしく、今でも他の島々ではさう言つても通用する。ナリは即ちなり物のナリで、薩摩の甑島などでもクワノナイメ、即ち桑のなり實と謂つて居る。ところが是が食用として親しみをもたれた爲であらうか、喜界島ではナラサー、多良間島ではナッヂャ、即ち「なるもの」といふ語を以て之を呼ぶ者が多い。沖繩本島のナンデーシーは桑の木のことで、是も多分は「なる」といふ意味から導かれたものと思ふが、桑の實は更に其下にナリを添へて、ナンデーシーヌナリ又はナンデシーヌミといふのが普通になつて居る。島々の言葉が分れて、通譯を必要とするやうになつたのも、單なる別居と思ひ/\の發達の爲であつた。言葉の歴史を考へて見るといふことは、國を見なほす爲の準備作業であるといふことが言へる。
  一、京都の桑の實方言は現在はどうなつて居るか、是が我々の興味だが、實はまだはつきりとして居ない。京都方言襍記といふ一つの報告文には、こゝでもクハイチゴといふとある。近江の朽木谷、吉野の北山十津川等にも同じ方言があるから、もう大分前からクハノミでは無くなつて居たものらしい。東京では全く知らない語だが、クハイチゴの分布は國の南北、島と方々の海の端にも及び、他の幾つかの語とは比較にならぬほど其領域が弘い。さうして周圍のフナミ・ツバメ等を寄せ付けずに居るのだから、このクハイチゴも標準語と呼ばれる資格はあると思ふ。
  一、若狹の三郡のうち、西の二郡はフナビ・ヒナビであり、東の三方郡だけがツマミになつて居る堺目が、私には説明できない。或は此あたりにもう一つ、別の原因が捜し出されるのかも知れない。とにかくに此線から東の變化が段々に燕に近くなり、終には本ものゝ燕の名を成立たなくして居るのは、私などの謂ふ音興味であらうと思ふ。或は以前にもう一つ、クマメ・フナメに近い語があつて、それが追々に移つて來たかとも考へられる。福井でもずつと東の境に近く、桑の實をクハミといふ村があつた。奧羽と九州の國の兩端にかけて、是ほど弘く行(270)はれるクハノミであるが、ノを拔いて呼ぶ例は他ではあまり聽かない。もしも斯ういふ言ひ方が鳥取縣下にもあつたとしたら、それがクマメと變るのは最も自然であり、從つて又西から東の方へ、段々とヅナミ・ウヅラミにまで移つて行つたとも考へやすい。信州北部に保存せられたズミ又はヅミといふ語が、是に影響なしとまでは言ひ得るが、ズミの三音節化がフナメ・クマメを作つたとは認めにくいから、東本西末の最初の推定は、斷念しなければならぬかもしれない。
  一、私などの今までの知識では、ズミとグミとは二つ異なつた物の名なのだが、長野縣の桑の實方言を透して眺めると、是がもと一つの語だつたといふ想像は誰にでも浮ぶだらう。ズミでもグミでも又ツミでも、主としてさう呼ばれるものは土地により時代によつてちがふが、それは唯其物が人に親しく、名を呼ばれる必要が多かつただけであることは、ちやうどトリといふと鷄であるのと同じかと思ふ。そんならどういふわけでグミとズミとは物がちがひ、又は目と鼻との間で言葉を異にして居るのかといふと、我々の分類が段々と細かくなり、新たに名をこしらへる位だから、古くあるものは粗末にせず、成るたけそれ/”\の用に使ひわけようとして居たので、土地がちがふと折々は其使ひ途が入れちがひになつて、斯うして根本の一つだつたことが判つて來るのである。ガ行とザ行のゆき通ひには、日本では殊に重要な歴史がある。久しい以前から私などの注意して居るのは、ムゴイは今日惨酷なと解せられて居るが、國の南の端に行くと、ムゾイとなつていとしくてたまらぬことであり、其中間にはムゲッタイだのムゾナギイなどがあつて、それはいはゆるかはいさうなを意味して居る。萬葉集のメグシは今もメゴイ・メンコイとなつて、東北だけには傳はつて居るが、西日本に行けばそれがミジョイとなつて、やはり戀する者の言葉であつた。
   藁で作つた人足さへも つまと定めりやミジョござる
 
(271)  青大將の起原
 
     一
 
 蛇をクチナハといふ日本語は、今有るヘビの元の形の倍美《へみ》と共に、夙に倭名鈔時代の京都にも知られて居た。その現在の分布?態を見渡しても、クチナハの使用地域は、ヘビのそれよりも遙かに廣いのである。然るに後者が公認せられて標準語となり、クチナハは個々の方言として、やがて消えようとして居る原因は何に在つたらうか。果して其力の差が專ら文筆に携はる者の選擇に基くか。但しは又別に此語自身の成立ちにも、それを助けるものがあるか。別の形でいふと、クチナハは單なる異名であつたか。はた全然起原を異にする第二の名詞であつて、從つて其分布が何等かの人種學的、もしくは文化的意義を暗示するものであつたかどうか。是が私たちには一つの看過し難い問題である。大槻翁の言海には、朽ちたる繩に似たる故にといふ説と、繩にして口を具する故にといふ説とを載せ、共に此語が後代の意匠に成る新語に過ぎぬことを、推測せしめようとするものゝ如くであるが、私にはまだ輕々しく之に遵ふことが出來ない。單語の生滅には、從來曾て省みられざりしまだ幾つかの法則のあることを思ふ者は、資料の乏しかつた前代の學者の臆説を、さう無造作に丸呑せぬのが至當である。しかもその一つ/\を吟味することも容易で無い。ちやうど此クチナハの樣な例證の稍豐かに、變化の顯著なるものを足場として、少しづゝ考察の歩を進めて行くのがよくは無いかと思つて居た。たま/\前の月の「信濃教育」に、私と最も縁の深い下伊那一郡の青大將方言を、詳し(272)く調査して見られた井上福實君の報告が出たので、それに促されて自分もこの補充の一文を書いて見る氣になつた。さうして是が又私の音訛論の、新たなる一面を受持つてくれることにもなるのである。
 井上氏の調査では、下伊那各村の青大將を意味する地方語は三通りある。一はアヲロジ、二はアヲナ、三は私が兼々捜して居るナブサであつて、それは最も山深い遠山地方に、偶然にも飛離れた分布例を存して居たのである。井上氏の假定結論には少しばかり異議があるが、それを辯難することは目的で無く、又其爲には證據が實は不足である。今はたゞ斯ういふ一見微細なる地方の言語現象に、靜かな注意を拂はうとする同志が、先づ我家の墳墓の地に起つたことを、一つの新たなる刺戟と感ずるのみである。
 
     二
 
 數ある蛇の種類の中でも、所謂青大將は最も里近く住んで、人と交渉する機會が特に多かつた爲か、その名稱は他の何れのものよりも變化に富み、且つ後にも列擧する如く、新たに作り設けたかと思はれる語も少なくない。一方にクチナハといふ語も其形から判斷して、明らかに後の複合に成つたものである。我々日本人が三音節の名詞を好んだらしいことは、前に桑の實に就いても述べて置いたが、其次には之を組合せて長い語にする場合にも、三字になればよし、ならなければ四字にしようとして、時には少々の無理までして居る。多分は歌や唱へごとの必要かと思ふが、別に何か心持の上の約束の如きものがあつたと見えて、四字は必ず其眞中から切れるやうに思つて居た癖が、語義の解釋の際にも無意識に現はれて居るのである。それ故にこのクチナハなども、クチナにハを添へ、チナハにクを載せたものとも想像し得るわけだが、是にはさうで無い證據が幾らでも擧げられるかと思ふ。
 私がこゝで問題にして見たいのは、果して其クチナハが青大將の、一つの「古い新語」であつたか、もしくは蛇類の總稱、乃至は或別種の蛇の名では無かつたかといふことで、此點は今もまだ明らかになつては居ない。之に關して(273)參考すべき事實は、土地によつて二つの語が併び行はれて居ること、即ちクチナハといふ時と、青大將と呼ぶ時とは僅かでも趣意が別で、前者はどうやら蛇類の汎い名であるらしいことが其一つである。第二には倭名鈔の倍美一名久知奈波の下に、「毒虫也」と注記してあること、是も簡單ながらたゞ誤解であつたと見ることは出來ない。第三には蝮蛇即ち人を咬むマムシを、廣く西國ではヒラクチと謂つて居ることである。ヒラクチの今用ゐられて居る區域は、對馬壹岐から平戸五島、長崎の市にはハブといふ語もあるといふが、肥前と肥後とは殆と各郡がヒラクチである。博多の方言集にはヒラクチは青大將のことだと、記したものが一つ有るけれども、俚言集覽増補には筑前でも蝮蛇がヒラクチとあつて、其方が私は正しいと思つて居る。
 其他の各縣も一々は當つて見ないが、九州にはまださう謂つて居る土地は廣いことゝ想像する。蝮蛇は御承知の如く他の種の蛇と比べて、前頭部が著しく扁平である所から、ヒラクチは即ち平口のみと、速斷して居る人も定めし多いことであらう。しかし頭の平たいこと平たい處に口が有るといふのを、ヒラクチと名づけることは實はをかしい。だから前にも想像説を出して置いた樣に、ヒラは蛭・蒜・柊などゝ共通に、身に觸れてヒヽラグ時の感じから、付與せられた名稱であつたかも知れぬのである。さうして此假定が當つて居たならば、ヒラクチは即ち亦ヒラクチナハの下略とも見られるので、或は其實例だけは今でも何處からか出て來さうな氣がする。
 
     三
 
 倭名鈔の「毒虫也」を、誤記だと見るならば致し方が無いが、是が事實だとすると次のやうな推定が成立つ。久知奈波は本來倍美と共に、蛇の有害なるものゝみの名稱であつたのが、後年次第に毒の有無を問はず、汎く蛇類を意味する名詞となつて、更に新たに何等かの接頭辭を付與するの必要を生じたのでは無いか。此想像を先づ最初に裏付けるものは、ヘビと同語の分れであつたらうと言はるゝハブの語の變化である。今日南の島々に往來する者は、ハブと(274)言へば唯畏るべき毒蛇と記憶して居るが、既に沖繩の主島に於てすらも、是を蛇類の總稱として居る者が有るのみならず、八重山郡の諸島の如きは、パブがたゞの蛇であり、毒あるものは特にマパブといふ名を與へて居る。或は又同じ一つの語音をわざと稍變化させて、一方無害のものをフィフアと呼び、又はヒバ・ヒブ・ヒンパなどゝ謂つて居る例も有る。内地の事實も是とよく似て居て、大體に全土を三つに分ち、九州のヒラクチと對立して、中央部は可なり廣い地帶に亙り、蝮蛇をハメ又はハミと謂つて居る。紀州の日高郡などはそれがハビ、同じく熊野地方でもハンビと報ぜられて居て、單に長崎のハブの一例のみを以て、琉球との直接關係を推斷するわけには行かぬのである。
 ハブが若し最初から毒有る蛇だけの名であつたならば、是とたゞ一部の語音變化を以て、聯路を保つて居るヘビも亦、ハミやハンビと共に有毒蛇のことで無ければならなかつた。ところが何か隱れたる或原因の爲に、他の一種の無害の蛇を意味する語が、京都では早く不明に歸して居た爲に、ヘビが總名のやうになつて來て、是に又有毒を現はす接頭辭が、必要になつたらしいのである。文獻は或は此點を明らかにするに足らぬであらうが、現存の社會事實は之をほゞ安全に支持してくれるかと思ふ。蝮蛇の方言の東三分の一に行はれて居るものは、どの邊がハメとの境であるかは不明ながら、之を概括してクソヘビとクチハメとの二種の外には出て居ない。強ひて異を立つるならばマムシといふ一語が、新たに公認の力を以て侵食を進めて居るのであるが、是は寧ろ異名であり忌言葉であつて、ハブの本場の南の島に行つても、やはり同じ語はあるのである。關東奧羽の方では、蝮蛇をマムシといふ語は知つて居る者でも、クチハミと謂はなければ必ずクソヘビと謂つて、しかも此二つの語は相隣りし、又時としては入亂れても居る。ヘビとハミとの本來は一語であつたことが之に由つて察せられるのみならず、更に其序を以てクチナハといふ語の起り、是が亦最初は毒ある蛇だけの名であつて、後に尋常のものに及んだことをも暗示して居るのである。
 
(275)     四
 
 この二つの語の分布を説くに先だつて、私の氣のついたことが二つある。其一は、ハメといふ語を普通とする中國地方の一部分、たとへば播磨の佐用郡で蝮蛇をクチハメ、鳥取縣の一部でクチャメ、美作の久米郡で之をクチハミ又はクチャーメといふ語が、飛離れて挾まつて居ることで、是はクチナハの語の起りが、是ともと一つであつたことを思はしめる。其二は蛇をクチナハといふ語の、全く知られて居らぬ關東の一隅、たとへば常陸の稻敷郡などに、クチナといふ語があつてそれが又蝮蛇を意味して居ることである。之を要するにクチナハがたゞの朽ちたる繩で無く、古語の蜿蜒たる活躍の跡を辿らしめる一筋の手引の綱であつたことが、僅かこの二つの幽かな例からでも心付かれるのである。
 そこでクチナハのクチといふ前半分の添うた理由を知る爲に、稍詳しくクチハミの分布を述べて見るが、是は同時に又江戸の古語でもあつたかと思はれて、主として其四圍に發達しで居る。
  クチハミ        蝮蛇    下總海上郡
  クチハビ        同     常陸鹿島郡
  クチハビ        同     同 水戸
  クチハビ        同     下野河内・鹽谷郡
  クチハビ        同     陸中江刺郡
  クチハビ・クソヘビ   同     同 紫波郡
  クチハビ        同     陸前栗原郡
  クチハビ        同     同 名取郡
(276)  クチサビ       蝮蛇    陸前某地
  クツハビ        同     同 仙臺市
  クツハビ        同     岩代二本松
  クチハヾメェ      同     常陸久慈郡
  クッチャビ       同     同 新治郡
  クッチャビ       同     同 稻敷郡
  クチャメ        同     下總香取郡
  クッチャメ       同     同 千葉郡
  クッチャメ       同     上總山武郡
  クッチャミ       同     同 長生郡
  クッチャミ       同     安房
 右の列記の中で、常陸の稻敷郡にはクチナの語もあることは、前に述べた如くであるのみならず、更に他の報告によればクソヘビといふ者もある。風俗畫報に掲げられた常陸東南部の方言といふのも、何れこの近くのことに相違ないが、それには又クチャヘビといふ語さへ擧げられて居るのである。
 クソヘビといふ方の分布は、右に比べるともう少し範圍が廣く、或はクチハビよりも今一つ前の形では無いかとも思はしめる。西の端は只今知られてゐる限りでは愛知縣であり、他の一端はほゞ北海に達して居る。
  クソヘビ        蝮蛇      三河北設樂郡
  クソヘビ        同       遠江榛原郡
  クソヘビ        同       常陸稻敷郡
(277)  クソヘビ        蝮蛇      磐城東白川・石川郡
  クソヘビ        同       岩代安積郡
  クソヘビ・マヘビ    同       同 福島市
  クソヘビ        同       同 伊達郡
  クソヘビ        同       羽後平鹿郡
  クソフェビ       同       同 仙北郡
  クソフェビ       同       同 河邊郡
  クソヘビ・クサイ    同       青森縣
 會津・米澤・最上・莊内、それから越後へかけての實例は今一寸ノートを見失つて居るが、此等が假に全く別な語であつても、なほ私は右二つの語の交錯と連續とによつて、クチナハのクチも亦クソヘビのクソと同じく、人が此動物を忌み憎んだ惡稱であつたことを、想像することが出來るやうに思ふ。
 
     五
 
 蝮蛇をクソヘビと名づくるに至つた理由として、伊達郡掛田の方言誌などは、是に一種の臭氣が有るからと謂つて居る。臭いのも恐らく事實ではあらうが、それをクソとしも呼び始めたのは、尚この言葉の今一つ古い意味に於てゞあつて、つまりはこの臭氣が特に忌はしいものになつたと同時に、何かよく/\いやな語を以て、之に名づくる必要をも生じて居たものと思ふ。臭いといふ形容詞も、朽つといふ動詞も本原は皆一つで、共に穢れを憎む日本人の呪詛の語であつた。是を或動物の名に冠するのは、彼を罵るといふ以上に、味方に之を避けよといふ意味の警告にもなつて居たかと思ふ。
(278) そこで立戻つて問題になるのは、クチハメ・クソヘビの解説はそれでよいとして、次にクチナハのナハとは何であつたかといふことであるが、私は之を信州下伊那郡などの青大將の方言に殘つて居る、ナブサといふ古語の轉訛かと思ふのである。ナブサは元來平和なる蛇の名で、是には少しでも惡い響きは無いけれども、一たび其頭にクチといふ語を添へて聞くと、忽ちやれ怖ろしやの感じを與へたことは、ちやうどヘビ・ハメが普通の蛇と解せられて後に、新たな複合形を生じたのと同じかと思つて居る。クチナハといふ語は注意して聽いて居ると、今でも土地によつて若干の發音差がある。クツナと短くいふもあればクチノーと長く引くもあり、阿波の各郡は概してクチナゴであり、廣島縣でも安藝安佐郡北部などは、必ずクチナオンと謂つて居るさうである。それを歌文などがほゞ久知奈波の標準まで、統一して來ようとして居た處なのである。さうして是とナブサとの間にはまだ少々の距離があるが、是亦現在の各地の事實が、或程度まではその推移の段階を示して居るのである。
 長野縣南境の山村にナブサが有つたといふことは、私には新たなる一啓示であつた。是と最も近い分布の今知られて居るものは、嶺を隔てた遠江の周智郡であり、又京都府の一隅にも、今は既に消えたか知らぬが、百年ばかりも前のものかと思ふ「丹波通辭」には、茶色の蛇をナブソと謂ふとある。阿波の麻植郡などで、現在ナブサといふのは縞蛇のことであるさうだが、廣島縣の何れかの部分には、青大將をナムッソといふことが、近頃刊行せられた兵庫縣師範學校の雜誌「北斗」に見えて居る。加賀では蛇の一種にアヲナムサといふものが有るが、是も恐らくは青大將のことであらう。俚言集覽の増補には奧州南郡に於て、鼠を捕る蛇をナブサといふとある。秋田縣の「秋田方言」では、アヲノロシとアヲノジしか採集せられて居らぬが、私の聞いて居る語にはアヲナブサ、又鹿角郡のシロナブサがある。青森縣も今出て居る方言書には、やはりアヲノロシとオナブソ、それから津輕の方のシラナピタ、南部のシホナンピサといふのを見るだけであるけれども、是も私は自身直接に、ナブサといふ語の存在を確かめて居る。尤も此地方には青大將の語も既に知られ、又アヲノロシといふのが普通のやうで、ナブサといふと何か尋常で無い靈蛇でゝもある(279)やうな感じがすると、言つた人も一人ならず有る。百何十年以前に採集せられた閉伊那の七月踊歌には、「鍋子長根のひらのふさ」といふのがあり、又繪馬とか路傍の石塔などに、白なぶさといふ文字の刻まれたものが弘前方面にも有るから、兎に角にナブサが蛇であることだけは、古くから知られて居たのであつた。ちやうど今座右に在る岩手縣の東磐井郡誌を見ると、此郡でも青大將の方言は青ノロシ、それに縱筋の斑のあるものを白ナブサと稱し、到る處に多しとある。或はさういふ細かな差別が、爰より以北の地にも認められて居たのかも知れない。
 
     六
 
 何にしてもナブサの分布は案外に廣かつたのである。殊に驚くのは沖繩奄美の諸島に迄も、之と比定し得る語の歴然として存することである。是も宮良君の南島語彙稿に由つて知つたのであるが、同君が採訪した土地だけでも、次の樣な方言が現存して居る。即ち、
  オーナガ        青大將     奄美大島名瀬笠利
  オーナガ        同       同   小湊
  オーナギ        同       同   大和村
  オーナジリ       同       同   古仁屋
  オーナギリ       同       佳計呂麻島於齊
  オーヌラ        同       喜界島
  オーヌズ        同       沖永良部島
  オーヌガ        同       コ之島
  オーヌジ        同       與論島 
(280)  オーナガ       青大將     沖繩島名護
  オーナッザ       同       同  首里那覇
  オーナンザ       同       同  絲滿村
  オーナジバブ      同       宮古島
  アウナジ        同       石垣島
  アウナジパン      同       黒島
  アウナッザ       同       新城島
  アウナンチ       同       小濱島
  ボナチ         同       西表島
  オーナッザパク     同       波照間島
 奧羽のアヲナブサが青ナブサだとすると、この南の島々のアウ又はオーも亦、青大將の青で無ければならぬ。即ちナブサは日本の北と南の端々に於て、今尚是だけの類似を以て行はれて居るのであつた。
 但しさうすると又一つの新たなる疑ひが生まれて來る。ナブサがそれ程まで廣く根強く行はれて居た日本語ならば、何故に斯樣に夙く、京都附近の俚語から忘れられ、又文獻にも保存せられて居らぬのかゞ解説を要するのであるが、之に對しては私はまだ至つて微弱なる想像説しかもつて居ない。或は筆者以外には誰も氣に留めて居る人が無いかも知らぬが、以前「音聲の研究」の第三輯に、虹の地方語音を書いて見た時に、私はたつた一つ殘つて居る日本の虹の異名に、ヲブサといふ語のあることを擧げて、それはナブサの平假名の誤りで無かつたかと述べて置いた。其例は夫木抄(活字本)の卷十九に録せらるゝ西行の歌で、
    高野にありける時かつらぎ山に虹の立ちければ
(281)   更に又そり橋わたすこゝちしてをふさかゝれる葛城のやま
とある「をふさ」であるが、是などこそ他に異なる寫本を覓め、又は同じ語の用例の存否を、究めて見なければならぬ問題だと思つて居る。虹が古人の信仰では蛇類の一つであり、其名のヌジ・ミョウジ等もウナギ・アナゴと共に、最初は一つの語であつたらしきこと、及び淵池の主といふヌシの語の如きも、共に其殘留かと思はれることは、私も之を紹介し又世間でもほゞ知つて居るから、今は再びくり返さうとはしない。たゞ此場合に一言したいのは、ナブサの不用に歸し、新たに青大將の一語の發明又は借用を要するに至つたのは、やはり東北人が今も感じて居る如く、此語の神秘性とも名づくべきものが濃くなつて、之を尋常眼前の實物に、通用することが難くなつた爲では無いかといふことである。曾て此語が中央にも有つたといふことだけならば、「をぶさ」を誤寫と見ずとも他にも證據は得られると思ふ。松井氏の辭典を見ても、ナブサ馬といふ複合形だけは擧げてある。ナブサ馬は、?(字鏡)、又は驃馬(伊呂波字類抄)の漢字に充當すべき國語であつて、馬の毛の青くやゝ黒味を帶びたものゝ名であつたと云つて居る。即ち又靈蛇の色をした馬であつたのである。
 
     七
 
 現在のアヲダイシャウを、日本固有の古語だと思つて居る人は有り得ない。しかも實物は輸入でも新發見でも無い。以前は一段と人の眼に觸れることが多かつた筈であるのに、不思議なことには此蛇には新語が多い。其中でも中國各地のネズミトリ、肥後玉名郡などのエグチナハはよく判つて居るが、其他にも尾張三河でのゴウマハリなどは、郷廻りをするからの名であつた。是とよく似たのは越後でのサトメグリ又はムラマル(新潟縣天産誌)、越中其他でヤシキマハリ、讃岐のケタマハリがあり、更に、
  ヤクヾリ        青大將     肥後球磨郡
(282)  ヤドウシ       青大將     阿波名西郡
  ヤバリ         蛇       紀伊日高郡
  ヤミシリ        同       備後府中
  ヤミシロ        同       安藝安藝郡
  ヤムシ         同       備後海岸
  ヤムシ         青大將     長門萩町
の類も、同じく此蛇の家近く住むからの命名と感じられるが、單語は?もとの意味が薄れて行くと共に、第二の解釋に誘はれて少しづゝ語形を變へて行くから、それを全然新しい發生と見ることも出來ぬ。筑後の三瀦郡では、蛇をデーホリしいふ隱語見たやうな名がある。デーは恐らく土居のことであらう。遠州の掛川では又ドテウナギ、何れも季節によつて此蟲の出入が眼に着き、地下から通ふといふことが、其「里めぐり」を意味あるものにしたのであらう。加賀の河北郡では鼠を取る蛇をワタリモン、其隣の越中にはもつと具體的に、青大將をカンサマヘーブ、即ち神樣蛇といふ土地もある。山口麻太郎君の壹岐島方言集に、「ミコノ、一種の蛇、褐色にして縞あり害すること無し」とあるのも、恐らくは亦神子蛇であらうと思ふ。ミコノの終のノは何でも無いとは認め難い。即ち遠州のドテウナギの後半と共に、ナブサ乃至はクチナハのN音との、聯絡の有無を尋ぬべきものだらうと思ふ。
 それから今一つ、私にはどうしても起原の覺りにくい名詞がある。福島市附近の人は知つて居られるだらうが、彼地には青大將をオサカブ又はオサカベといふ語が存し、それも相應に廣く行はれて居るやうである。即ち、
  オサカブ・オーサカボー 青大將     常陸久慈郡
  オーサカボー      同       下野芳賀郡
  オサカブ・オサカベ   同       福島市
(283)  オサカブ       青大將     伊達郡掛田
  アヲサカブ       同       仙臺「濱荻」
 この最後のものは百何十年か前の集録だから、由つて來る所はやゝ久しいのである。私は是が東北一隅の現象で無いことを、又近頃になつて知ることが出來た。清水君の採集に由ると、備後の府中では縞をシャカオ、森田君のそれによれば周防の柳井でも同じ蛇がサコオであつた。この東西の二語は確かに一語であつて、たゞ自分としては是がどうして生まれたかを言ひ得ないだけである。此ちなみに想ひ起すのは、播州姫路城の天守の護り神に、オサカベ樣又はオサカベ大明神といふ姫神の有つたことである。文字は刑部と書き物々しい縁起なども有るが、或は是も亦ヤムシ崇信の一つの例では無かつたかと思ふ。
 
      八
 
 蛇には此通り、色々の名前が昔から出來て居たが、尚且つナブサといふ語の保存には、人が丸々冷淡であつたわけでも無い。此語の名殘の今に於て推測せられるのは、獨りクチナハのナハのみでは無かつた。例へばナメラといふ語は新潟縣の一部でも、常陸の久慈郡でも縞蛇の名となつて居るが、是も次の例を見ると一種の略稱であり、もしくは以前廣かつた語の限定使用であることが察せられる。
  シマナメラ       縞蛇      信濃下水内郡
  シマナメラ       同       同 北安曇郡
  ナメラ(アヲロジ)   青大將     同
  スヂナメラ       縞蛇      甲州(甲斐の落葉)
  スヾナメ        同       陸前志津川
(284)  スヂナメラ・スヂナブサ  縞蛇    仙臺市
  ナメラヘビ       滑蛇      同
 滑蛇といふ名の蛇はなかつたらうが、是なども何か一種の蛇といふ記憶だけが傳はり、且つナメラを意味づけようとした試みがあつたことを察せしめる。播磨の西隅には青大將をアヲナメソ、尾張の東春日井・中島等の郡には、蛇をナマドといふ語もなほ行はれて居る。採訪が更に進んで、其中間の段階がわかつて來たならば、次第に此ナメラのナブサと關係があり、只「滑らかな蟲」の意でなかつたことが明らかになるであらう。
 一方に青大將といふ飛んでも無い名の起りに就いても、今はまだ明確で無いといふのみで、丸つきり語音轉訛の順序が判らぬといふ程でも無い。さうして信州南端のアヲロジの如きも、亦一つの大切なる目標たることを失はぬのである。ナ行子音の脱落は、或はこの中間過程の一現象であつたかも知れず、或は又別にオロチといふ語に「青」を附したものが有るのかも知れない。オロチは今日では唯ウハヾミの同類の如く考へられて居るが、狩谷※[木+夜]齋翁も既に注意したやうに、蛇の字の古訓は概して於路知であつた。淵や池に住むといふヌシはオロチとは言はぬが、ヌシといふ語と意味の至つて近い、アルジといふ語は今も行はれて居る。即ちナブサには古い頃から、オロチと變つて行く原因が有つたかも知れぬのである。百七十年ほど前に出た「尾張方言」には、黄頷蛇即ち青大將を、アヲウルシと謂つたといふ記述もある。アヲナブサが一旦アヲオロチを經て、約まつてアヲロジとなつたことは想像し得られる。唯それとアヲナブサとの境は、近い頃までさうはつきりと立つて居なかつたのである。現在知られて居る分布から見ると、
  アヲノロシ・オナブソ  青大將     青森縣
  アヲノジ        同       羽後南秋田郡
  アヲノズ        同       同 同   戸賀
  アヲロシ、アオナブサ  同       同 秋田市
(285)  アヲノロシ      青大將     羽後河邊郡
  アヲノロス       同       同 雄勝郡
  アヲノロシ       同       陸中上・下閉伊郡
  アヲノロシ       同       陸前玉造郡
  アヲノロス・オノロス  同       山形縣各郡
  アヲノロシ       同       新潟縣一部
  アヲロチ        同       同  南蒲原郡
  アヲロジ        同       同  佐渡
  アヲラチ・アヲラツ   同       越中一部
  アヲロジ・ナメラ    同       信濃北安曇郡
  アヲロジ・アヲナ・ナブサ 同       信濃下伊那郡
  アヲダイシ       同       下野河内郡
  アヲデーシャ      同       相模津久井郡
  アヲダイシャ      同       伊豆湯ヶ島
  アヲナマズ       同       美濃加茂郡
  アヲンジョ       同       大和北葛城郡
  オナメソ・オナグソ   同       播磨佐用郡
  オホネリ        同       伊豫周桑郡
  オーナッザ・オーナガ  同       沖繩本島
(286) 此中で最後の一つの變化は重要であるが、是はもう一度彼地に就いて確かめて見ないと、十分な證據にはならない。アヲダイシャ系の轉音も今少しく事實を集積する必要があるが、少なくともダイジャといふ語の、干渉して居ることだけは想像し得られる。甲州北巨摩郡の山村に、赤蛇をノジャといふ處があることは、山中翁の甲斐の落葉に記録せられて居る。是なども野蛇といふ文字の智識が、蔭に働いて居るのであらうが、なほ其根本にナブサの永く殘らうとする力を見落すわけに行かない。そこで結局私の今抱いて居る意見は斯うなる。クチナハはクチナブサの四音節化であつて、たゞ複合のみが新たなる言語藝術の意匠であつた。之を構成して居るクチも古語なる如く、ナブサはもと有毒蛇のヘビ・ハブに對立して、人に好意をもつ蛇類の古名であつた。クチナハは單に其組立の意匠が俗であつた故に、雅言としては久しく承認せられず、從つて又文筆にも採用せられることが稀であつた。ヘビがその本來の領分から外に出て、ナブサの代り迄を勤めるやうになつたのも、原因は一つは爰に在つた。即ちクチナハは進んで毒蛇のヘビに取つて代らうとして却つて撃退せられ、もとのナブサの本營までも失はうとして居るのである。
 
  (追 記)
  一、莊内から會津越後へかけての蝮方言は、一度集めたのだが紛失してしまつた。山形縣の村山地方には、クチャビ・クッチャビが流布して居る他に、ユクナシといふ語が報告せられて居る。是はまだ外では聽かぬもので、どうしてさう謂ふのか私には説明ができない。
  一、蝮をクチハメと呼ぶ方言が、やゝ飛離れて西日本にもあるといふことは注意すべき事實だが、その區域は案外に弘く、西は廣島縣にも及んで居る。たとへば安藝の上蒲刈島ではクチハベ、同豐田郡や備後の大崎上島で、クチマメといふのが蝮蛇のことである。同じ廣島縣も江田島などには、マグチといふ語があつて、マムシの元の名がクチナハであつたことを想像せしめる。高知縣の西部、中村町の周圍などでは、クチといふのが蝮の方言で(287)あつた。蛇の有害無害は女や子どもには見分けが付かない。それをたゞ怖ろしいものとする感情と共に、クチナハといふ名前までが、いつと無しに尋常の蛇に及び、其爲に又もう一つ、特別の名を必要としたのがマムシであらうと思ふ。備中の北木島などは、その蝮をマムシハミと謂ひ、一方たゞの蛇をヘビクテナハと呼ぶさうである。慶長二年に成るといふ節用集にも、二つの種類を書き分け、一方のクチナハには蛇の字をあて、第二のクチハメ又マムシには、蛻・蠖といふやうな妙な字を書いて居る。此頃が多分クチナハの意義轉換の行はれて居た時代であらう。
  一、青大將をナブサと謂つて居た痕跡は、島根縣の西部その他にも見出される。信州南端に片鱗を見せた遠山山村のナブサなども、山を越えて弘く遠州の北部には行はれて居るのであつた。佐々木清治氏の作つた方言地圖には、信州の側に行くとアヲロジとなるといつて、縣境を方言の境のやうに見て居るが、さうでない場合も多いのだから氣を付けなければならない。但し現在は青とか白とかの色により、其他さま/”\の限定詞が添うて居るので、愈この痕跡は埋もれがちであるが、一方から見ると斯ういふ複合のあつた御蔭に、保存せられて居たのだともいへる。徳島縣の山村には、タテナブサンといふ蛇がある。是は本文にも擧げた岩手縣南端の白ナブサと同じか、又は通例の縞蛇のことかは知らず、とにかくに縱に線條のあるナブサのことであらうが、或方言集には、たてに匍ふからさう謂ふのかなどゝ、まるで横にはふ蛇も有るかの如き解説をして居る。私などが是によつて心づくのは、單にタテといふだけでもあの姿が眼に浮んだものとすれば、何かナブサといふ語には、美しい斑紋を意味するやうな分子が、有つたかも知れないといふことである。語原は強ひて穿鑿しても徒勞だが、もし少しでも判つて來たら、國語史の興味が豐かになるだけは確かだから、無理はせずに始終心がけて居るのがよいかと思ふ。
  一、福島縣から其隣の三縣にかけて、青大將をオサカブ又はアヲサカブといふ。是と中國地方の一部で蛇をサカ(288)オといふ方言とは、必ず同じ語だらうといふ私の意見は、今もまだ變更して居ない。これもちよつと珍しい現象であるから、何かの拍子にどうしてさういふことになつたかゞ、判るやうだつたら面白からうと思ふ。其後なほ氣を付けて居ると、サカオの行はれて居る區域は思ひの外弘い。たとへば日本海側でも出雲にはサカオがあつて青大將を意味するといひ、瀬戸内海でも讃岐の豐島に、サカオといふ語があつて、是はたゞ蛇とのみ解説せられる。ところが岡山縣は備中の方に、二處までサカオが採集せられて居るが、是は青大將では無くて縞蛇のことだとある。備前備中産物帳といふ記録は、享保二十年に出來たものだが、是にもサカオはあつて、その他に別にナムソウといふものが出て居るのだから、やはり青大將では無いとしたのかも知れない。縞蛇は一體に形が小さく、生態習性も少しちがふやうだが、古人は必ずしも之を別種としなかつたことは、ナブサに青白の限定詞を必要としたのを見てもわかる。さうして縞蛇はシマといふ語よりも新しいのだから、前には是もナブサのうちであり、たま/\或地方のみが、この言葉の用法を局限したものとも見られる。さうなるとサカオ・オサカブといふ語の流傳が、ナブサよりも又一つ古いか、少なくともそれよりも遲くはないといふことになりさうである。この因みに附記したいのは、姫路城の鎭守小刑部大明神、俗にいふヲサカベサンのことは、姫陽秘鑑といふ書の卷二十四に出て居るさうである。天正十一年閏正月二十一日、此神の靈異によつて八天堂を建立したといふことが、圓滿寺の口上書に載つて居るといふ。勿論この神が蛇體であるといふことは全く見えない。自分などの聽いて居る話では、神は美しい姫神であつた。狐を使令としたといふ話も耳にしたやうだが、その點は確かでない。
  一、宮良君の南島採訪語彙には、島々の青大將方言が十八箇處以上採録せられて居るが、是には南北を一貫した著しい共通點がある。やがて本になる筈だから細かい部分までを引用しないが、何れも沖繩本島と同じにNを主たる子音とし、語頭にオーを冠するのは「大」でなく、やはり青ナブサの青であらうと思ふ。此ことは虹に就いての次の一文にも説いたから、爰には重複を避けて置く。北は青森縣の一端から、南は波照間の島まで擴がつて(289)居る青ナブサである以上、是が現在の青大將に繋がることはもう大抵斷定してよからうと思ふが、たゞまだ自分の力でNからDへの推移が、何處で如何なる機會に行はれたらうかを、明示することの出來ぬのは遺憾である。強ひて想像をするならば、三つのアヲダイシャ系の地方語は、東京の周圍を取卷いて居る。多分は舊江戸にも是と近い青ナブサの痕跡が傳はつて居て、それを斯んな風にこじつけたのも江戸人であつたらう。無害平和な家蛇に對しての恭敬は、幽かながらまだこの改造新語の中にも潜んで居る。文獻の捜索も試みなければならぬが、恐らくはさう古いところまで溯ることは出來まい。
 
(290)  虹の語音變化など
 
     一
 
 虹を意味する日本語の音韻に、最も奇拔なる地方的の變化があることを發見して、夙に其理由を究めようとせられたのは、東條操氏の功勞であつた(郷土研究四卷一〇號)。其後現代語の資料は又豐富に蒐集せられ、且つ若干の整理を經て、あの頃に比べると餘程事實が精確になつて來た。もう此問題もいつ迄も何等の解説を下さずに、打遣つて置くことは出來なくなつた樣に思ふ。私は遠からず音聲學會の是からの事業として、古音の今昔に移り進んだ經過と原因とを、討究せらるべきことを期待する者であるが、それには微弱なる記録の徴證以外別に系統立つた方言比較の一方法があるといふことだけを述べて、一部の參考に供し、且つは居催促の態度を表明したいと思ふ。
 我々の何よりも先に決して貰ひたいと思ふ問題は、ニジといふ所謂標準音が既に確定してから後に、それを同胞國民が各地へ持ち退いて、それ/”\自分の趣味もしくは便宜に應じて、その發音を變更することになつたのか。但しは又本來の地方音が、進んで京師文筆の社會に入つて、この形にまで改良せられたものであるか。乃至は別に共同の親ともいふべきものが元有つて、一は之をニジと改め、他は各ノジ・ネジもしくはミョウジなどゝ呼ぶやうになつたものか。三つの内の何れであつたかといふことである。強ひて想像すれば第四の場合、即ち最初から異なる發音をして居た者が、集まつて國を爲したかといふことも考へられぬことは無いが、實際は人は絶えず移住往來して、他には(291)別に孤立の語といふものを持つて居らぬのだから、つまりは唯その發音法の何れか一つを、選擇したといふに過ぎないと思ふ。其選擇がいつ如何にして始まつたものか。それを明らかにして置く必要は、獨り虹といふ一つの語の、小さな歴史のためでは無いと思ふ。
 
     二
 今までの考へ方では、正しい國語といふことゝ、古い國語といふことゝを混同して居た。文章を書き歌詞を聯ねる人々が、力めて古語を採用して形式を莊重ならしめんとしたことは、如何にも近い頃までの世上の風ではあつたが、昔も今の如く、用語は必ずしも常に古いものが、保存せられて居ない。故にやむ無き必要ある場合には、當時尋常の會話の語をさへも、次々に收容せずには居られなかつた筈である。從うて萬葉其他の古典に傳はつて居る單語なども、一たび文藝の上に現はれてから、人の懷かしみと尊敬とを博したといふのみで、單に其頃其地方に行はれて居たといふ以上に、大昔もその音であつたといふ證據にはなり難いのである。
 虹などはさういふ中にも、取分けいつ迄も正しい發音といふものが、一定しなかつたらしい形跡がある。京都で始まつて追々に地方へ持運ばれた事物ならばこそ、其名が横なまつて元の義を失ふといふこともあらうが、斯ういふ世の始めからあつて、何人の感覺をも動かすべき天然の現象に、名が無くして久しく過ぎた道理は無い。乃ち荒海に臨み廣き野を越えて往來した人たちが、久しく或名を以て之を呼んで居たとすれば、その中央部の變化は寧ろ新しいものであつたことを、想像して差支へが無いのである。
 言語の比較に基いて、民族の親疎を察せんとする學者が、斯かる偶然の標準語なるものに、囚はれてはならぬことは無論であるが、音韻の歴史を詳かにする爲にも、亦最初にそれだけの用意を調へることは必要である。ニジが日本の文語に確定する以前、果して今ある地方發音の、どれとどれとを經過して現在の選擇には到着したか。乃至は又そ(292)の何れもが固有の形からは遠く、すべて一旦は京都にニジの音あることを聽き知つて後に、それを移さんとして失敗したものであるか。この出發點の右か左かに由つて、我々の結論は丸で別のものが生じて來る。然るにも拘らず、今までは一般に之を問ふことを敢てしなかつたのである。幸ひにして虹は中央に於ても曾てヌジであり、又ノジであつたかも知れぬといふ資料が遺つて居る。其上に地方は區域を劃して、今尚之に近い形態を保存して居る。何等隱れたる法則無しに、隣同士互ひに變化して居るのでは無かつたといふことが察せられる。是は單に國語學上の一つの興味といふに止まらず、同時に又前代同胞の國内移住が如何に行はれ、又土着といひ故郷といふ語が何を意味したかを、明らかにする便りともなるのであつて、特に我々がこの問題の提出者に對して、永く感謝の意を表すべき所以である。
 
     三
 
 虹の語音變化の區域を考へて見ると、可なり顯著なる一つの事實が認められる。地圖の上に色どつて見れば殊によくわかることであるが、大體に六つばかりの變化が、それ/”\國土の一隅に割據して居て、其間には殆と孤立又は交錯の現象を見出さぬのである。試みに其境の線を引いて見ることは、將來方言區域の論を精細にする爲に、殊に有力なる參考でなければならぬが、それには實際にはまだ少しばかり調査の隙間があるから、今の所ではたゞ傾向として假定を述べて置き、段々に他の語音と單語法との變化が、どの點まで之に伴なふかを注意して見るの他はない。現在はまだ僅かに、ニジといふ一語音の地域的變化のみを、例示するより以上の事は出來ないのである。
 (A)先づ最初には、最も廣汎なるノジ區域がある。東北六縣は略全部、東京を除いた關東一圓が之に屬して居る。其以外には新潟縣の大部分、長野縣の北半分、山梨縣の殆と全部と靜岡縣の東五分一ほどが之に加はるので、たゞ其外周即ち海岸地方に、ごく僅かばかりの侵食のあることは次に述べる。
 (B)第二のネジ區域は直ちにノジ地帶に續いて、靜岡縣では庵原郡の西部、有名な薩?峠の嶺が一つの堺線であるや(293)うに思はれる。それから長野縣の南半と岐阜愛知二縣が大體に於でネジを土音として居ると言つてよい樣である。三重と滋賀とはまだ確かめられぬが、是から西は近畿を中心として、先づ古くからのニジ地域と見てよいのであらう。ノジの領分に入込んでネジの行はれて居るのは、何れも海の側から近より得る土地で、それもごく僅かなものである。伊豆の東海岸にネジ・ノジ併存する外、千葉縣でも東側の夷隅郡にネジがあるのは、事によると安房の端まで擴がつて居るのかも知れない。それから福島縣では相馬郡にネジがある。日本海方面では佐渡の一島だけ、福井縣のどこかにもネジがあると、東條氏は報ぜられたが、私は何れの部分であるかを見出さない。
 (C)第三のミョージ區域は、廣さに於ては或はノジよりも狹いかも知れぬが、その擴がり方は思ひ切つて奇拔である。一方の端はちやうど新潟縣の西境に近い處に在り、此縣は佐渡のネジ、中部一帶のノジと對立して、單に西頸城の海岸ばかりにミョウジがあり、それが遠く西の方に連なつて居る。即ち富山石川の二縣は全部、福井縣は前にいふネジの特例を除いて、大體ミョウジであるらしく、若越方言集には記されて居るのみならず、嶺を越えて近江の湖北にも同語音がある。丹後と但馬とも恐らくは此領域である。それから鳥取縣はどうであるか調べられなかつたが、島根は出雲も石見もミョウジが多く、隱岐だけはまだ不明である。九州に行くと筑後の吉井附近にミョージョウ、是は東隣の豐後日田郡がミョウジだから、其管轄であることは疑ひがない。所謂訛音はどうしても、二つの語音の堺目に起り易いやうである。次に四國では土佐は高知市がミョウジだから、少なくとも其周圍がニジで無かつたことだけは想像せられる。それが又阿波で中斷せられて、紀州の南部諸郡に行つてミョウジとなつて居り、其東の端は熊野の木本あたりにも及んで居るのである。
 (D)九州の西海岸に於ては、可なりの地積を蔽うてジュージ又はヂュージがある。直接にミョージから互ひに別れたらうと思へぬから、爰にも調べたら一つの境はあるのである。大體に肥前一國、即ち長崎佐賀の二縣を含むのだが、それにも例外はあるのみならず、又若干は他縣にも進出して居る。即ち福岡縣でも三瀦郡はヂュージ、肥後でも南の(294)果の葦北郡までそれが擴がつて居る。佐賀市などには或は又リュージといふ例があるといふが、是はジュージと併存して居るので、一つの聽き方の差とも見られるから、私は別のものゝ中には算へない。
 
     四
 
 (E)第五の變化として領分は稍小さいけれども、ニジと同樣に他の種の語音區域に圍まれて、ビョージと謂つて居る地方がある。兵庫縣は西部山間の佐用郡、それから西に續く岡山縣の邑久の海岸、備後の沼隈郡から、嶺を越えて出雲の一部分にまでも、同じくビョージといふ處が少しづゝあるのは、どう見ても中央のニジから、遠くのミョージやジュージに渡つて行く、打橋であつたとは思はれない。果して此ビョージが最初の音で無いときまつたら、その親は東日本のニジ・ネジ・ノジのナ行よりも、寧ろミョージのマ行から來て居ることが察せられる。それ故に其影響を探るべく、今少しく瀬戸内海の島々や、掛離れたる海角岬端の土音に、耳をそばだてる必要を生ずるのである。
 (F)ニジといふ發音と最も近い親類はどこに居るか。もつと私の思ひのまゝをいへば、ニジは果して上に列記した五つの、どれから進化しもしくは改良せられたかといふことは、現在の?に在つては勿論決し難いが、少なくとも近く隣りする音だから最も縁が深いとはきまらぬやうである。是には曾て存在して今はほゞ消えたヌジといふ語音、及びそれに稍近くして最も滅びかゝつて居るニュージといふ語音の、分布を尋ねて見るのが一つの方法である。京都のニジが正音と認められる時世になると、先づ匡正せられるのは最も近い音、即ち改められ易いものから改まるのは自然だから、それが不明であつても不思議は無いが、今日ニュージのまだ行はれて居る地方は、獨り中央に近い徳島の一縣のみでは無い。九州では大分縣の一部分、そこと遙かに隔たつた平戸の島、及び壹岐の島などもニュージである。それから鹿兒島縣にはニシと下を澄んで呼ぶ例があり、南に下ると川邊十島の寶島はニュージである。其外に豐後の海人の語はニリであり、東は紀州の東熊野でも、周圍のミョージの中に介在して、南輪内村のみはニンジである。伊(295)豆の大島にもノージの他に、ヌージとニージとの二つがあるといふのは注意すべき現象だが、それを確めるためには七島を合せて比較しなければならぬ。さうすると虹の語吾がニジに決するより前に、更にナ行とマ行との間の選擇といふものがあつて、それが寧ろ最初の割據を促したのでは無いかといふ、私の推測を強めてくれるかも知れぬのである。
 
     五
 
 此點に關して有力なる一つの參考は、宮良君の南島採訪語彙の記す所である。奄美大島以南の列島も、同じ一つの語の音韻變化であることだけはほゞ明らかだが、其にはおのづから南北二樣の差が看取せられ、大體に北はナ行、南はマ行の傾を示して居るやうである。例へば沖繩本島は主としてヌーヂ、國頭郡の名護にはヌージリ又はノーギリといふ者が稀に居る。沖永良部島とコ之島の天城ではノージ、同じコ之島の龜津ではノーギン又はノーギ、奄美大島には土地により人によつて、ノーギ・ノーキ・ノク・ノーギリ等が行はれて居る。之に對して先島の方では、宮古群島はまだ確かめられぬが、八重山の石垣島はモーギ、小濱島はモーキ、黒島はムーヂ、新城島にはノーヂンもあるが、天の虹と續けていふときはティンヌムヂである。
 マ行ナ行が古くは交互に用ゐられ、其選擇は殆と各人の趣味に近かつたことは、既に徒然草にもニナ結びミナ結びに付いて之を述べて居る。現在といへども蜷をミナと訓むことは誤りとは認められぬやうだが、かの一休和尚の友人の蜷川新左衛門尉や、當代の愛國名士蜷川新君などを知る程の人は、ニナといふ方が一層正しいのだ位には考へて居る。ところが地方の活きた言葉、例へば田螺を田蜷といふ場合などはミナを知りニナを知らざる土地も決して少なくは無い。多分は今よりももつと鼻を使つた時代には、此二種の音をはつきりと差別することが出來ず、さうして虹なり蜷なりの日本語は、既に其頃からもう出來て居たのである。その最初の音から、早く分化し且つ獨立したのがナ(296)行であり、  稍々久しく元のを保持して、幾分か時おくれて今の音に改まつたのがマ行であつたとしたら、同じ一つの語を使つた人々の中でも、甲と乙は居住地も異なり、又移住の時期機會も別であつたことを、想像して見てもよいのかも知れない。MN交換は類例も多く、人も早くから之に注意をして居るが、單に二音の親近といふだけでは、實はミョージがニジに化した理由を解説するには足らぬ。ましてや地方人の心得ちがひもしくは眞似そこなひのみに因つて、ニジが再び面倒なるミョージ・ビョージに戻つたものとするなどは、本人で無くとも容易に心服すべからざる説である。語音が變化するといふことだけは、現に事實だから爭ひの餘地も無いが、その原由と經路に至つては、實はまだ正しからざる推定すらも無いのである。
 そこで自分は先づ隗より始めようと思ふ。ニジが京都に於て正音と認められる以前に、ニュージといふ語は既に其近い處まで擴がつて居た。ニュージは曾て弘い領土を有した語音で、それがミョージと袂を分つたのは、九州の一隅か又はそれよりも南の或島であつたらう。ミョージは海に浮んで遠く四散したけれども、その主たる部分は今の日本海の方へ出て行つた。取殘されたるニュージは稍心細くなつて、其とつおいつの間にジュージといふ音は生まれたものらしい。一方ミョージは亦其流轉につれて、一たびはビョージといふ一變化を派生したこともあつたが、本來口と耳とを主とした傳承である故に、尚久しい間當初の長母音の儘を保持することが出來た。ニュージは之に反して、夙に記録や歌曲の影響を受けて、いつと無く長音の意識を失つてしまつた。しかもネジ・ノジも或時代のヌジと同樣に、出來る限り本來のニュージに、忠誠ならんとする努力ではあつたのである。
 
     六
 
 ノジを秋田縣の一隅で稀にノギと發音する者のあることは、注意しなければならぬ暗示である。ジとギの差別が今日の通りに昔も鮮明なものであつたら、誤まつても轉じて之に移る筈が無いことはニュージ・ミヨージの差別も同じ(297)である。沖繩列島の相隣する島々に於て、ノーギが次第にノージに改まつて行かうとして居るのを見てもわかるやうに、この二つの音は元至つて接近して居たので、別に周圍の大いなる感化は無くとも、孤立して之に戻つて行くことが六つかしくなつたのである。從つて語音變化の各領域の如きは、後代幾たびかその邊境の地に於て、相互の影響の下に伸び又は縮んで居たものに相異無く、單に其中堅の何れかの部分に、少なくとも一つの主動力があつたといふことだけを、認めしめるに止まるのである。さうしてニジを始めとして、次々の變化は繁多であつたが、根原は要するに二流れであつた。京都と僅かに嶺一重を隔てゝ居ても、近江伊香郡のミョージなどは、絶えて久しき叔父甥の再會の如きもので、ニジを誤つてミョージと唱へたのでも無ければ、又北海の濱沿ひの地に住む者が、其誤りから教へられたのでも無かつたことゝ信ずる。
 但しミョージが時あつてビョージと爲り、ノジが再びノギと轉じて來たやうに、語音の横なまることも勿論無かつたのでは無いが、所謂訛音の發生には、ほゞ推測し得べき時期と事情があると、私などは思つて居る。個々の單語は現在のところでは、其大部分が無意味なる符號の如くに見えるけれども、一番最初に是が共同の用語と定まつた際には、如何に笑ふべくはかないものであらうとも、兎に角に何か衆人の承認するだけの、命名の趣旨があつた筈である。それが若干の古語に在つては、餘りに古いので完全に不明に歸し、如何なる勇猛の語原家をさへも斷念させて居るのだが、他の多くの單語は世の進みと共に、追々に新しく追加せられ、現に今以て人が語原意識とも名づくべきものを持ちながら、使つて居る言葉も少なくはないのである。言葉の元の心持が忘れ易いのは、自分等の仲間で作つたものよりも、借りて運んで來たものに多いのは當然のことで、それ故にこそ中央の所謂雅語が、田舍に入ると久しからずして片ことになるのである。是と同時に本居大人を始め、前代の學者が毎度感歎した如く、古風な言葉は中々に鄙に遺つて居るといふことは、要するにそれが彼等の中に成長したものであつたからで、記録の援助を借りては保存をする力の無かつた人々は、一旦この最初の趣旨を忘れると、忽ちに親しみを失ひ、單に知らずに發音を訛るのみならず、(298)時にはわざと解し易い音を採つて、例へばステーションをステンショ(所)といふ類の新味を求めることは、近代殊に多くなつた經驗である。だから虹の地方音が果して訛謬であるか否かを知る爲には、別に今一つの方法としては其命名の本意が、大よそいつの世まで記憶せられて居たかを尋ねて見る必要もあるのである。
 
     七
 
 人が成程と言つて合點をするやうな名前を、いつでも付けて置かうとする傾向は、動植物などに最も多く示されて居るが、虹なども田舍では老若男女共通の問題であつたから、さう/\長い間この語を單なる符號として、使つて居ることは出來なかつたらうと思ふ。それで自分は此樣な短い語ではあるが、ニュージ、ミョージが「無意味」に用ゐられて居たのは、存外僅かな期間であつたらうと想像して居るのである。その一つの證據と見てもよいのは、物類稱呼の中に、虹を尾張國の土人がナベノツルと謂ふとあることで、現在でも伊勢の海では稀に此語を耳にするのみならず、又常陸の稻敷郡でもナベツル、能登の鹿島郡秋田縣の横手附近でもナベノツル、九州では下五島の三井樂邊もナベンツッと呼んで居る。鍋に虹形のつる〔二字傍点〕を附けるやうになつたのは、鑄物普及の後のことであるが、何故にニジと謂はねばならぬかゞ不明になると、早又こんな異名が流傳して、古語を斥けようとしてかゝるのであつた。
 或は又全國方言集などには、肥後の天草島で虹をガゴシといふ人があるといふことを報じて居る。ガゴシは多分標準語のオバケに當るガゴジであつて、元は一段と弘く「畏るべき靈物」を意味して居た。是は私の見る所では新しい異名で無く、本來のジュージ又はニュージにも、亦さういふ意味があつたからでは無いかと思ふ。夫木和歌抄に採録せられた西行上人の虹の歌、
   さらに又そり橋わたすこゝちしてをふさかゝれる葛城の山
 爰にヲフサと有るのも、もしもナフサの誤寫で無いならば、恐らくはナフサと同系の語で、後に青大將などゝ變化(299)した大きな蛇のことであつた。現在でも尚行はれて居る池沼などのヌシといふ語、即ち水中の靈物として、龍や鯰や大蛇の畫などを繼合せて、我々の想像して居た畏ろしきものゝ名が、元はこのニジといふ語と一つであつて、人は其靈物が現はれて虹となるものと信じて居たらしいといふことは、夙にニコライ・ネフスキー君が之を唱へ、又宮良當壯君も別に之を證明し敷衍して居る。實際南の島々の語音の比較をして見ると、ニジがもと長蟲の一種の名であり、ウナギ・アナゴなどゝも縁を引いて、後に我々のナブサやノロシになつたことは、さまで困難無しに之を承認することが出來るのである。細かな列記は發見者に一任するが、青大將を意味する内地の方言にもアヲナフサがあれば、沖繩縣の方でも同じ動物を、首里那覇ではオーナッザァ、八重山の新城島ではアウナッヅァ、同じく石垣島ではアウナヂ、宮古ではオーナジバブ、大島群島の與論島ではオーヌジ、沖永良部に於ては鰻をウナジといふことが、南島採訪語彙にも見えて居るのである。
 而うして虹が中央でニジと定まつてから後まで、それを長蟲の靈なるものだとする意識が、果して續いて居たかどうか疑はしいとすれば、是を轉訛とまでは見ることは出來ないとしても、少なくともこの語音の改訂を企てた者は、都人の方であつたことは斷定してよからう。文語は素より用法の精確を期する爲に、次々に古來の單語を分化させる必要があつた。さうすれば其一つ/\に、必ず命名の本意を保存させることが、出來なくなるのは自然のことでどうせ符號であるからには、成るべくは紛れの少なく、又發音し易く書き現はし易い音に、直して置かうといふことに若干の有力者が一致したのも、是亦一向に意外なことでは無いのである。
 それを今頃になつて自分等は抗議するので無い。たゞ國語が如何やうに成長し、また如何樣に本の筋をそれて走るかを知らうとする者が、先づ京都の音を國の固有のものと立てゝ、方言は即ち悉く是から迷ひ出たものゝ如く豫斷することが、非常に學問の爲に損だといふことを述べたいのである。虹などは我々が此島に住み始めた時から、既にその語音は多樣であつた。即ち方言の比較からで無いと、音韻變化の歴史が尋ねられない一例であつたのである。
 
(300)     八
 
 所謂雅語の撰定には、今の我々が想像する以上に、遙かに自由なる感覺が働いて居た。單に幾通りもある「耳の方言」の中から、響きの最も快く意味が精確で他に紛れる虞れが少なく、且つ使用に簡便なものを採擇しようとしたのみならず、更に一種の新しさ又は物珍しさをも、條件の中に加へて居たのでは無いかと思ふ。もしさうだとすれば、文字の有限に基いて特に表出の簡便に重きを置いたといふ以外には、今日の新語生成の法則も、是と何等の異なる所は無かつたのである。但し或音群の耳に快いか否かに付いては、今までは定まつた尺度が無い爲に、古典讃歎の氣習が盛んになると共に、自然に久しく存するものゝ懷かしさに囚はれることになつたやうだが、多くの我々の古語なるものは其使用の初度に於て、隨分思ひ切つた新案であつたらしいのである。其文獻の彼方側を考へる爲には、方言の比較は今でも殆と唯一つの方法である。ニジが京華の文學に於て、古來のニュージ・ヌージを逐退けたといふ歴史は今はまだ一假定に過ぎぬとしても、他には尚それより顯著なる若干の例がある。私は此序を以て、更に氷柱と霜柱との二つの日本語の、栄枯盛衰の跡を考へて見たいと思ふ。
 
     九
 
 ツラヽといふ標準語の弘く行はるゝ以前、京都には既にタルヒといふ語があつた。雅言集覽が源氏の末摘花の歌を引いて、ツラヽを氷柱に宛てたのは誤りだと言ふのは、結局此物語の作者の言語知識の問題に歸着するが、兎に角にタルヒは垂氷だから、「正しい」ことにかけては一歩もツラヽに讓らないのである。然るにも拘らず、現在は全く方言となり、北は奧州仙臺の周圍、南は肥前佐賀の附近のみに、辛うじて殘壘を守つて居るので、其他の多くの地方では其形がもう變化して、誰が見ても轉訛と言はなければならぬ?態に陷つて居る。察するに是は「垂る」といふ動詞の(301)内容の推移と、餘り簡單で混同せられ易かつたこといふ語の不人望とから、次第に其本意が不明になつた結果であつた。試みに同じ系統の語の分布を辿つて見ると、
  タルヒ               肥前の一部
  タルミ               同 佐賀市
  タラミ               同 同 市附近
  タロメン              同 島原湊
  タロミンチンポー          同 佐世保市
  タルヒ               陸前の一部
  タロヒ               同 栗原郡
  タラヒ               同 氣仙郡
  タロベ               羽後河邊郡
  タロッペ(スガ)          同 秋田市
  タロッペー・トラッペー       同 横手町
  タリゴ               同 飽海郡
  タリンコ              同 鹿島郡
  タルキ               加賀河北郡等
  タルキ               越前の一部
  タランボ・タッペー         下總東葛飾郡
  タッペー              武藏秩父郡
 
(302)     一〇
 
 以上の音轉訛の諸例から、直接に一つの法則を見つけ出すことは六つかしい。といふわけは既に垂氷の元の意味が忘れられて、人は寧ろ各自の想像に、少しでも語の音を近づけようとしたかも知れぬからである。タロといふ音の人の如く感じられたらしいことは、佐世保などの例からも推想せられる。タッペといふのは明らかに混同であつたが、是なども氷柱に新たなる方言の生ずるに至つた一つの原因と見ることが出來る。タツヒ(立氷)は關東の稍廣い區域に於ては、今でも霜柱の名であつて、文獻には見えぬが恐らくは亦古い語であつた。現在は是が少しづゝ形をかへて、
  タッペー              上野邑樂郡
  タッペ・タッピ           下總猿島郡
  タッペ・タッペー          同 千葉郡等
  タッペ               武藏入間郡等
  タッペ               甲斐北都留郡
  タッペ               駿河安倍郡
  シャッペー             駿河富士郡
  サツペー              同 同 郡・菴原郡
  ウッタツ              遠江周智郡
  タチゴホリ             三河碧海郡
といふやうな形に、我々のいふシモバシラを呼ぶことになつて居る。自分等の知る限りに於ては、雪の早い越後奧羽(303)にも、又近畿以西の府縣にも、霜柱を意味する地方語は、殆と一つも採集せられて居らぬ。是は何か氣象風土の相異から、特に此現象が一つの名詞を要するほどに、目に立たなかつた結果ではあるまいか。所謂言語地理の側から考へても、興味ある問題だと思ふ。自分なども十三の年まで、瀬戸内海の岸近くに住んで居たが、シモバシラといふ名は東京に出て始めて知つた。
 ところが關東の方には今一つの方言が、小さい區域に行はれて居る。新編常陸國誌にはオリケ、現在の茨城方言集覽にも此語がある。稻敷郡では霜柱の立つことをオリケがタツ、又某郡ではオリキタツとも謂ふさうである。利根川對岸の東葛飾郡はオリケ又はタッペ(氷柱もタッペ)、下野の河内郡はオリキ、同上都賀郡はオリギであるが、此清濁の差は明瞭で無い。霜柱などいふ語は考へて見ると、其誇張の形容に多分の文藝味がある。恐らくは「立つ」といふ語がすでに存した故に、柱の聯想も起り易かつたので、最初から斯ういふ語が有つたわけではあるまい。之に反してオリキは少なくとも立氷とは獨立して居る。さうして其オリが若し「居る」の義だとすれば、命名の動機も全然別であつた上に、語法の點から見ても亦異なる段階の上に立つものである。それから尚一つの小さな發見は、前のタルキの例と比べ合せて、氷を意味した日本語のヒが、火のヒ、太陽のヒなどゝは違つて、或條件の下にはキに換るやうな、所謂第二のヒでは無かつたかといふことである。但し降氣とか折木とかいふ類の語原論がもし主張せられ得るやうなら、私は強ひてさういふ人たちと水掛論をする氣は無い。
 
     一一
 
 それから次には音聲學會の問題では無いが、此等の方言の複合形が、今日の文法家の謂ふ連體言と、格を異にして居ることも我々の注意に上つて來る。タルヒ・タツヒがもし一地方の特發で無いならば、是は斯んな形がまだ普通に許されて居た時代に、既に日本語になつたものと見てよからう。さうすると國語の歴史に取つて、是も一つの大切な(304)史料であつた。ヰル・ヲルといふ動詞の屈曲が、元は今日の國文法の如くで無かつたことも、一つのオリキから段々に考へて行かれぬことも無い。
 更に自分たちの興味を抱くのは、コホリといふ語が如何なる順路を踏んで、結局漢字の氷の全部の場合を、引受けるに至つたかといふ問題である。我々の名詞が時を追うて、非常な勢で増加して來た間に、それ/”\の時代の特徴といふべきものが略認められるが、一つの明瞭なる段階は、コホルをコホリとする類の動詞利用であつた。動詞は本來種々雜多な場合に働くべきものであつたから、それを定まつた或一つの物の名にするには、豫め先づそれ自身の分化を必要としたことゝ思ふ。もし其分化がまだ十分に行はれず、例へばコモル(籠る)といふ語と、精確なる語音の差別が立てられない内に、早既に其入用を生じた土地であつたとすれば、爰に何等かの複合形を以て、其範圍を限定しなければならぬわけである。京都以外の地方では、氷をヒといふ語が早く消えたか、もしくはコホリといふ名詞が早く出來過ぎたか、兎に角に唯コホリと謂つただけでは、氣の濟まぬ處が多かつたらしい。普通さういふ場合はカナコホリ、もしくは一轉してカンゴホリと謂つて居るのだが、面白いことには愈中央の文藝が浸潤して、單にコホリと謂つて十分に通ずるやうになると、それを氷の特別なる一種、即ち氷柱の名前に讓つて、さうして在來のタルヒを罷めさせたかと思ふ地方が多い。カナは勿論カナシのカナであつて、悲し耻かし愛に堪へずの義にも用ゐられるが、つまりは身に沁みるといふことで、物質的にはツメタイ(爪痛い)を意味して居た。氷柱が殊に手に採る場合の多かつた爲でもあらう。例へは美濃の郡上では、カネコホリと謂へば氷柱と氷兩方であるが、同國山縣郡ではカナゴは氷柱である。其他次に列擧するものは何れもツラヽのことであり、他の多くの地方、例へば關東などに於ては、是が只氷のことであつた。
  カネコロ              越中上市
  カネコーリ             同 富山市
(305)  カネコリ              越後出雲崎
  カナコーリ             同 某地
  カナコーリ             羽前米澤市
  カナグーリ             南會津朝日村
 以上は皆氷柱だけの方言である。是から類推して、次に掲ぐる諸例は何れも今は氷柱のことであるが、元は或は弘くコホリを意味して居たのでは無いかと思ふ。
  スゴリ・スゴーリ          會津大沼郡
  スクリ(スクンダレ)        信州東筑摩郡
  スグリ               同 松本市
  スグリ               同 南安曇郡
 物類稱呼の中にも、此等の地方で氷柱をスゴーリと謂ふと見えて居る。スといふ接頭語もやはり寒冷より以上のものを意味しては居なかつた。越後などでは氷をザイ又はザヤと謂つて居るのに、出雲ではザイ・ザエは氷柱であり、安藝でも亦後者のみをシミザイと謂ふ。津輕のシガマ又はスガマ、秋田のスガ、磐城相馬のシガは氷柱に限るが、他の處々の寒國では凍つた雪をシガと謂つて居る。それとコホリとを結び合せて氷柱の名にする迄、曾て全然此物に名が無かつたのではあるまい。要するにタルヒが稍物遠くなつて、何か新しい語が欲しくなつて居たのである。
 
     一二
 
 氷柱の方言にはまだ起原の尋ねられぬものが多い。例へば筑前の宗像郡、豐後の速見郡などのモーガンコ、筑後川左岸一帶のマガノコの如きは、必ずしも津輕のスガマとは關係があるとも言はれぬ。それから武藏入間郡のゴロンボ(306)ーと、近江湖北のゴンゴロケとは、單に遠方の類似を奇とするのみで、其形はさう古いもので無いのかも知れない。
  ナンリョウ(タルキ)        「若越方言集」
  イチナンリョウ           若狹小濱
  ナンジョウ(ホタレ)        近江高島郡
  ナンリョ              山城久世郡
  ナンジョウ             石見那賀郡
に至つては、其分布のしかく廣いに拘らず、起原は近世の南鐐に在つて、所謂しやれた言葉の一つであることは略疑ひが無い。豐後の臼杵にはヤウラク(瓔珞)といふ語さへ出來て居る。乃ち新たに次々に出現した語の、決して少なくは無かつた一證である。
  サガリカンクリ           上總夷隅郡
  サガンボー             常陸那珂郡
  サルガンボ             同 久慈郡
  カナンボー             上野邑樂郡
  カナンボ              伊勢富田石藥師
 此等も皆氷柱のことである。此中でも上總の一例は、氷柱を單にカナコーリと謂ふやうになつた經路を示して居る。即ち氷をコホリとのみ謂つて濟むやうになれば、最早サガリといふ語を冠らずとも誤解は無くなつたのだが、元は一見斯うして區別を立てたのであつた。サガリといふ語にも或はスガ、スガマの影響は有つたかも知らぬが、それよりも大きな力は久しい間、垂氷と呼び馴れて居た因習であつた。垂れるといふ動詞の用法が限定せられると、假令無意識にでも之に代るべき語が働かねはならぬのであつた。是と同時に他の一方に於ては、語音の親しみもさう手輕には(307)絶縁し得られなかつたものと見えた。吾山の物類稱呼には近江と西國とで、ツラヽをホダレと謂ふと載せて居るが、それが百數十年後の今日に續くのみならず、其分布は實はもつと廣いのであつた。現在の此語の領域は南北に飛び離れて少なくとも四つある。即ち、
  ホンダラ              羽前最上地方
  ボーダレ              能登鳳至郡等
  ホーダレ              近江彦根
  ホンダレ              同 蒲生郡
  ボンダラ              同 八幡
  ホダレ               同 愛知・坂田郡等
  ホラレンボ             同 某地
  ホダレ               大分縣一部
  ホダレ               肥後玉名郡
  ホダラ               同 益城郡等
 此ホダレのホはタルヒのヒとは關係無く、寧ろ前に擧げたサガンボ、又はカナンガなどゝ同系の語であらう。細くて長い物に「棒」の字を付與したのは新しいが、言葉そのものは昔からの日本語であつた。それが一方には稻麥のホ(穗)や蒲の穗となり、他の一方には又ホコ・ムホコ、さては何でもない木の切れを、ボクと呼ぶことにもなつたのかと思ふが、ホダレの場合は、さういふ幾つかの物の名のはつきりと分化したよりも以前に、既に行はれて居たといふことは、單に流傳の遠く廣いのみならず、尚其構成の形の今風で無かつたことからも察せられる。
 そこで私たちの考へて見たいのは、ホダレといふ方言が多くの人の速斷する如く、後世の發生であれば尚更のこと(308)であるが、假に非常に古く、タルヒなどよりも先だつて起つたにしても、是が今日まで活きた言葉として、國民の斯くまで多數に用ゐられて居るといふのは、やはりタルヒといふ語音の親しみが無意識に下に働いて居るのかも知れぬ。單語が始めて聽く人々に承認せられ、又從順に模倣せられる爲には、根原には必ず成程といふだけの理由が無くてはならぬにも拘らず、年を重ねるうちに純然たる符號となり、如何なるこじ付けの達人にも、由來を説く能はざるものが十の八九に及ぶといふのは、要するにこの隱れたる因縁が、人を導き又は牽制して居たからではあるまいか。例へばツラヽはごく古い頃から、表滑らかにして光ある多くの物に、付與せられた形容の語であつた。現に契沖大コ以後の學者が、注意をして居た源氏物語の歌、
   朝日さす軒のタルヒは解けながらなどかツラヽの結ぼゝるらん
を始めとし、池のツラヽだのツラヽの床だのといふ用例は多く、本來はたゞの氷を意味して居たものが、後に分化によつて氷柱だけに限られることになつたのも、かねて久しい間のタルヒといふ語音の親しみが無かつたなら、到底起り得ざる變化では無からうか。さうして又一方には文藝に携はる程の者が、單なる語辭の沿革から超越して、自在に各自の精妙なる感覺に據つて、段々に新たなる方言を取捨し、間接に國語の改良を促してくれなかつたなら、現在斯うして標準語だなどゝ、威張つて居ることも出來ぬものでは無かつたらうか。現在のツラヽは文獻以外、大よそ次のやうな形を以て氷柱の名として分布して居る。
  ツロヽ               伊勢津市
  トロヽ               下總佐倉地方
  トロヽ・アメボー          同 千葉郡
  トロヽ               上總山武郡
  ツロヽ               常陸新治郡
(309)  ツートーロ・ツトラ         常陸行方郡
  トロヽ               肥後八代郡金剛村
 此中でも關東は特にタルヒの永く殘つて居る地方であつた。それ故に又氷柱にツラヽを採用し易かつたと共に、新しい世に入つては一段と所謂方言の匡正に忠であつたらうと思ふ。今日既にツラヽに改定せられてしまつた町村でも、老人や「教育」を受けぬ人々には、まだ若干の古い痕跡は必ず見られる。虹のネジ・ミョージも同じことであるが、語音の變つて行く原因は複雜である。單なる表面の比較のみを以て、直ちに法則を見出し得る如く信ずる音聲學家がもしあるならば、自分は殊に斯ういふ一側面の觀察を、一層高調しなければならぬ必要があると思つて居る。
 
  (追記)
  一、ノジとネジとの境を、東海道の薩?峠などゝ謂つたのは、聊か奇を好んだ表現であつた。大體は當つて居るが、二三の除外例が必要である。峠より東にも駿東郡の清水村などはネジ・ノジ併存、伊豆でも南端の白濱村、天城西側の中川村などはネジである。甲州の方は北巨摩郡ではノジ、信州でも諏訪郡はノジ、北安曇郡まではノヂがあるが、それより東の長野市附近には、却つてネジが採集せられて居る。是などは多分北の方からの感染であらうと思ふ。越後の西頸城郡などはノジ・ノージ又はニャージだが、それに接近して富山縣は概してネジであり、又海上佐渡の島なども一般にネジのやうである。京都から西にはノジは全く無いが、ネジは飛び/\に拾ひ出すことが出來る。たとへば廣島縣の海岸地帶には所々ネジがあり、島根縣でも隱岐の島後にはネンジが有る。
  一、大日本史料に抄出してある千鳥氏記録、建久八年二月二日の條に、
    自春日山、奈良坂へ、白ニウシ立切、但クヒキレニシナリ
とある。この短い文句の中に二つの言葉のちがふわけは、一方の白ニウシは奈良の人の當時の口言葉で、後の方(310)の頸切れニシは文語なのであらう。少なくとも虹をニウジといふ語が、まだ南都には通用して居たのである。ニジは本來は長母音の、しかもヌジとも聽える語であつたことは、之を想像する幾つもの根據がある。MBその他のくさ/”\の子音變化が、國の一側に偏して居ることは、それがこの母音短縮よりも概ね前であつたことも考へられる。或は初期の表記法の不備の故に、文字には奴自又は仁自と書き、口ではなほニウジに近く發音して居た時代が、やゝ暫らくの間續いて居たのかもしれない。壹岐の島をも含めた處々の海のほとりに、ニュージといふ語音のなほ多く傳はつて居るのも、單なる訛語とのみは見られない。本文發表の後に世に出た市場直次郎君の豐後方言集は、虹の語音史に關する限り好い參考である。此地方の土語變化にはミュージ・ミョージがあり、ニュージといふのが大部分を占めて居る他に、又大分市などのニンジもある。ミョウジの他の一端が遠く日本海を北上して、石川富山の二縣にも及び、ビョウジ・ビュージが其中間から分岐して居ることは、いはゆる方言區域の説を超越して居る。之に對して九州西北隅のジュージ・ヂュージ等は、マ行からは直接に變りさうにもないから、N音のなほ久しく此方面に行はれて居た證據になる。もとは南の島々のやうに、MN兩者の中間音のやうなものがあつたにしても、九州ではもう次第に分立しようとして居たのである。
  一、アナゴとウナギとは、曾ては同じ語だつたらうといふことまでは、推測して居た人が、我々の仲間には多かつたが、陸前の牡鹿半島の向ふ側をあるいて見ると、この邊ではアナゴとハモとが、ちやうど瀬戸内海などゝはあべこべになつて居る。富山市附近の海村にも、ハモをマアナゴといふ方言がある。是は或は前者がナブサと系統を同じうする語だといふことの、間接の一つの證據になるかと思つた。ナブサを押のけてヘミ又はハブが廣く用ゐられたやうに、ハモは亦漸次にアナゴ・ウナギに取つて代らうとして居たのではないか。この方言は今日はもはや成立たぬだらうが、少なくとも埋もれたる經過だけは談つて居る。御客ならばともかくも、魚を友とする海の人々が、意味無しにさういふまちがひをするわけが無いからである。
(311)  一、氷柱のツラヽに就いても話して見たいことは色々あるが、蟲の仲間でないからこゝではさし控へて置かう。たつた一つ、小兒が古い言葉の保存に關與した例として擧げたいのは、正月七日の前夜の七草行事を、東北では可なり弘い區域にわたつてセンタラタヽキと呼んで居た。それは暖地の如く七種の菜が揃はず、專ら芹とタラの芽を敲いて居たからで、其時のはやし詞なども、唐土の鳥の渡らぬさきに云々といふ代りに、センタラタヽキセンタヽキといふやうな文句を用ゐて居た。それがいつの間にか少しづゝ變つて、莊内地方から越後にかけては、
   たん/\タルキのたんタルキ
といふのが普通になつて居た。このタルキも亦古語の垂氷であつて、それが新春の日の光に融けつゝ、庇の板などに雫する樂しい光景を、之を唱へる者の胸に描かせたのであつた。今日はもう氷柱をタルヒともタルキとも言はぬ土地まで、この文句だけは流布して居て、たとへば越中などでは是を七草の日にはうたはずに、たゞ謎の言葉として子供が覺えて居た。かの地出身の人なら思ひ出すだらうが、油障子の紙障子はなアになどゝいふ言葉を附け添へて、傘と答へるのが解答なのであつて、即ちこゝではもうタルキの垂氷であることは忘れて居るのである。こんな響きの好い正しい昔の言葉でも、ツラヽといふやうな間ちがつた新語が中央に始まると、忽ち方言となつて次第に消えて行き、其代りに入るのはツラヽでは無くで、別に又色々の珍しい名が、土地々々で考へ出されるのである。何か一つは名が無くては居られぬ人たちに、正しいものを與へる方法がもとは缺けて居た。しかもこの亂雜なる自由が、今となつては我々にはなつかしいのである。
 
(312)  蜘蛛及び蜘蛛の巣
 
     一
 
 蜘蛛を古來の文獻にある通りに、クモと謂つて居た地域はどれほどあるか。近頃さういふ人が急に多くなつたので、もう精確に之を知ることが出來ない。しかし今日の地方方言は殘留であり言はゞ痕跡に過ぎぬにも拘らず、尚その分布によつて、以前から正しくクモと唱へて居た處の、存外に廣くなかつたことが想像せられるのである。
 試みに此一語の音韻變化だけに就いて、方言の區域を劃して見ると、細密に言つて九つ又は十、大まかに概括すれば日本を四つに分けることが出來る。さうして其四つの中では、前からクモと謂つて居た地域が、どうやら最も小さかつたやうに思はれるのである。但し是だけは方言として採集せられて居らぬので、確かなことは言ひ得ないが、中部地方では長野山梨の二縣、關東では是と接續する一府三縣だけが、まだ今までは他の音變化のあつたことを報ぜられて居ない。それから中國地方では寧ろ近畿に遠い四縣が、私には或はこの第一區のクモ地域では無かつたかと思はれるが、此方面は殊に調査が行屆いて居ないから、今後の調査を期するの他は無い。
 第二區は蜘蛛をグモと謂つて居る地帶で、是は大體に於て水の太平洋へ流れる側面の、まづまん中の三分の一と謂つてもよからう。四國では高知縣・徳島縣も恐らくは全部、是と背中合せの北二縣は、クモと入交つて何れを主とも決し難いやうに思はれるが、大勢は寧ろ對岸と共に第一區の方に編入せらるべきものでは無からうか。斯ういふ地方(313)でこそ、佐藤清明君の試みたやうな、部落別の調査をして見たいものである。それから海峽を東へ渡つて、和歌山縣は紀ノ川沿岸にも、熊野の處々の村にもグモがあり、三重縣も度會志摩の邊りは不明だが、北勢では確かにグモと謂つて居る。伊賀の事實が明らかになつたら有益であらうと思ふのは、山を越えて近江はもう違つて居り、是が一つの境線になつて居るからである。次に愛知縣では少なくとも海岸の低地、たとへば東春日井碧海幡豆等の諸郡にはグモがある。是が國境を越えて靜岡縣の濱名郡に及び、其東部の磐田郡ではもうクボといふ者がある。尤もそれがたゞ一部の山村だけの現象であるか、はた又海岸まで引通した地帶があるのかは、今少し細かに此邊を調べて見ないと決せられぬ。前に私は玉蜀黍のナンバと蕃椒のナンバとが、ちやうど此地方に來て入り交らうとして居ることを述べたことがあるが、是もやはり亦行政區劃とは一致せずに、二つの言葉の流れが落合つて堺を立てゝ居るらしいのである。言語の現象を地理の學問に應用しようとする人が、もし此近くに居るならば、既に必ずこの事實には注意して居る筈である。
 それからもう一つ注意せられることは、語音變化の孤立した特異性である。九州は一般に私のいふ第四區、即ち蜘蛛をコブといふ地方であるが、梅林氏の集録によれば豐前築上郡の一部、山本氏の報告に從へば肥前島原半島の或部落に、飛び/\にグモの語が行はれて居る。此樣子では他にもまだ其例が若干は有るのかも知れない。この隔絶した共通は運搬であるのか、もしくは會て有つて既に消えたものゝ殘留であるのか。はた又相互に獨立した出來事の偶合であるか。何にもせよ解説せられねばならぬ。遠江磐田郡のクボなども、今は兎に角に四周とは連絡が無いやうである。それがもし將來綿密な調査によつて、遠く傳播の經路を探り得るとすれば、現在は假に幽かなる例外であらうとも、是を無視しては方言區域の達觀論は出來まいと思ふ。
 
(314)     二
 
 第三の蜘蛛をクボといふ區域は、斜に舊日本の約二分の一を區ぎつて之を包括して居る。北海道だけは新地だから別として、奧羽六縣は先づ全部が是だと見てよからう。一々の出處を擧げるも煩はしいが、青森縣は外南部も津輕も、秋田縣では鹿角北秋田、山形縣でも莊内にクボ、岩手縣では閉伊の海岸も北上川流域も共にクボ、宮城縣だけは不思議に此語が注意せられて居ないが、福島縣では山奧の南會津も、石川岩瀬東白川の諸郡にも、皆此方言が見えて居る。それから關東へ進出して、茨城縣では少なくとも北部數郡、栃木縣では河内芳賀二郡には確かにクボがある。即ち何處かこの近くに、標準語クモとの境目が有る筈である。
 それから日本海側を見渡すと、越佐方言集にはクボとあるが、佐渡島はどうであるやら、實はまだ確かで無い。次に富山縣では下新川郡の入善附近はクボ、石川縣でも能美郡誌の採集方言にはクボと見えて居る。福井縣にも若越方言集にはさうあつて、餘り概括に失する故に心もと無いが、若狹もクボであつたらうと思ふのは、それより尚遠くの丹後の三重郷土誌、古くは丹波通辭にもクボと出て居り、更に山嶺を越えて播州の多可郡などもクボであるからだ。但馬以西の山陰道の各地も、或はまだ隅々には殘つて居るのかも知れぬが、今まで出た方言集だけには痕跡が無い。之に反して他の一方の滋賀縣に於では、湖南の蒲生神崎二郡までクボであり、最も京都と接近した山城久世郡にさへも、尚クボといふ「訛語」が報告せられて居る。前に述べたる遠江磐田郡の孤立の例の他に、遠く八丈の島にもクボナメといふ方言の存するを見ると、少なくともこの語の領域が以前はもつと廣かつたことを、推測する迄は許されることゝ思ふ。
 私が興味を惹かれるのは、この東日本の顯著なる音韻變化が、中間のクモ・グモを飛び越して、遙かに西南一帶の特徴と認められるものと、似通うて居ることである。それはたゞ單にマ行子音がバ行になつて居るといふのみで無い。(315)九州ではコブといぶのが最も普通であるけれども、更に南進して見ると奄美群島と先島の諸島が概してクブであり、沖繩本島だけがクバであつて、母音も一段と接近するのである。それから今一つの點は、東方のクボ地域の中に在つて、次に生まれたかと思ふ部分的の變化、是が又幾分西南と同じ傾向を示して居るのである。たとへば長崎縣の五島でも、コブといふ土地は最も多いが、下五島の本山村などはコウであり、北松浦の宇久島はコオーと報ぜられて居る。之に對しては富山縣の一部に、クヲ又はクーオがあつて、共に一段とマ行からは遠くなつて居るのである。越佐方言集にも前出のクボ以外に、海南諸島と同樣にクブといふ土地のあることを載せて居る(幸田氏の里言葉にはボク又はボッカイといふ語も見える。是も面白い變化だが當面の問題とは關係が無い)。それから石川縣に來ると河北郡のコボ、羽咋郡のケボ・ケーボなどもあるが、この一團の變化だけは此地方のみの現象であつたらしく、能登鹿島郡では是が更に進んで、ケーボ・キーボ・キボ・キモなどの交錯となつて居る。越中にも何れの村かにキボといふ處がある。廣大なるクボ領域の間にあつて、どうして此一隅だけが此樣に周圍と異ならうとしたものか。私にはまだ明確に其動機を把へ得ぬが、或は亦虹のノジ・ネジが、此方面でミョウジになつて居るのと、關係の有つたことかも知れない。
 
     三
 
 私の想像では、クボは兎に角に所謂裏日本の方面に於て、久しく九州のコブと手を繋いで居たらしいのである。それには虹のミョウジ・ビョウジのやうな傍例がある他に、クボの行はれる地域が特に日本海側に於て、ずつと西南の方に延びて居ることも考へられ、いよ/\以て山陰二縣の方言調査が、今尚自らの重要さを意識しないのをもどかしく思ふ。コブの第四區の今明らかに知られて居るのは、九州でも主として外を向いた五縣であつて、福岡縣は多分コブだらうと思つて居たが例外があり、大分縣もまだ全く知られて居ない。最も確かなのは佐賀長崎の二縣で、後者は五島の一端に新たなる變化が現はれ、又島原半島にはグモ・クモの例も報ぜられて居るが、北は對馬島の北部から、(316)時代は長崎版の日葡辭書の頃に溯つて、もう此邊が既にコブであつた。それから筑後では三瀦三池等の諸郡、熊本縣では玉名・宇土・上益城・八代・葦北の各郡誌が、共にコブ又は其複合形を録して居る。宮崎縣では若山甲藏氏の「日向の言葉」に、蜘蛛の巣をコブノエといひ、英語の Cob web に似て居るといふ笑話がある。鹿足島縣方言集にも此縣は一圓にコブだとあるが、是には例外が有つて、川邊郡の知覽、及び東南方村の別府などの方言はコクであつた。コクが第二次の變化であることは、南の島々が又クブ等になつて居るのからも推測し得られる。察するに爰では通則に從うて終りの母音が脱落し、入聲に發音せられる爲に、斯ういふ風に變り易かつたのであらう。宮良君の採集では、薩摩日置郡は蜘蛛が Kot である。
 肥前離島のコウ又はコオー、能登鹿島郡のキーボ等も同じことであるが、假りに夙くから併存して居たものとした所で、原因は尚地方的のものとしか考へられない。大體から見て蜘蛛の日本語の音異同は、四區とは言ひながらもM系とB系との、二つの大きな分野の對立であることは爭へない。さうして是によつて日本の地圖を塗つて見れば、其彩色は可なり東條氏の方言區域などゝちがふであらう。果してどういふ風にこの著しい喰ひ違ひは説明せらるべきであらうか。曩に方言區域の論據として掲げられた若干の語法特徴、乃至は音變化の傾向の如きは、こゝに私が例に取つた蜘蛛を意味する一語と、國語成長の過程を説明する上に於て、果してどれ程まで價値の等差が有るのであらうか。私には少なくとも彼に代表的の論據力を認め、此に原則違背の責を負はせるだけの膽力が無い。クモとクボとの方言堺線は、兎に角に縱に走つて居る。さうして北と南との兩端では接近して居る。是だけは今日の方言區域説とはくひちがひ、しかも事實として認めなければならぬのである。
 
     四
 
 もつと根本的なる一つの疑ひは、國語の地方差なるものは、果して總括した方言區域を設けられる迄に、各現象互(317)ひに相牽聯して居るであらうかといふことである。それが然りと明らかに答へられぬ限りは、たとへ二三の顯著なる異同では一致して居らうとも、それは偶合であつて共通の原因は無かつたのかも知れない。仍て試みにクモと最も縁の深い、クモノイの變化を注意して見ると、是は又全く別途の行動をして居て、少しでも一方の約束に繋がれて居るらしい形跡が無い。尤も此方はまだ資料が乏しく、しかも變化に數多くの段階がある爲に、今はまだ僅かに大よその傾向を窺ふのみで、將來の蒐集によつて補填すべき空隙は澤山あるが、兎に角に奧羽と九州との類似は認められず、且つ文獻上の正語は稍廢れて、わかり易い東國のクモノスが、取つて代つて標準語にならうとして居る。近畿と其周圍の二三の縣では、今もクモノイを用ゐ、且つ是が正しい語であることを知つて居る故に、此語は方言集の問題にはなつて居らぬ樣だが、少し離れた土地でも山口縣の山口と防府とに、クモノイが報告せられて居る。しかも是が私の心付いた唯一つの例であつて、其他は大か小か、悉く此語から外へ逸脱して居るのである。
 私の想像では、是はイといふ單語の餘りにも簡單である爲に、却つて使用に不便であつたのでは無いかと思ふ。それで第二の最も小さな變化、クモノエといふ地域が出來て居る。たとへば備後の府中ではクモエ、筑後三瀦郡ではコブノエ又はコブノヱ、肥前長崎ではコブノエもしくはクモノエ・クモノイエ、北松浦の宇久島はコオーノエ、日向は前にも言ふ如くコブノエ又はコブノエバであつて、固より飛び/\にであらうが、中國から九州に及んで居る。
 第三にはこのイ又はエに、一音節を附加して呼び易くしたもの、是に又種類があつてその一つは出雲などのイギ又はエギ、備前の日生《ひなせ》でもクモノエギと謂つて居る。石見も一部分にはイギ・イゲが行はれて居るが、土地によつてはエバと謂ひ、又は兩方を併用する處もある。
 この第四のエバ區域は、前者に比べると稍廣いやうである。四國では伊豫の宇和島、日向でも宮崎の附近にはコブノエバが併存して居る。豐前の築上郡ではグモンネバ、或は只ネバとも謂ふさうだが、ネバは確かに上のノの語の響きの移りである。九州では是に似た例が折々ある。穴はスであるけれどもミヽノス・シリノスなどゝ常にいふ爲に、(318)引離しても之をノスと謂ひ、エノキ・スギノキ等によつて樹木をノキと呼ぶ者さへある。それと同樣に元の語の忘却の爲に、クモノエバリを福岡市ではネンバリと謂ひ、粘るといふ意味に感じて居る者もあるのである。
 
     五
 
 イギやエバと類を同じくする變化は東國にもあつた。例へば仙臺の古い方言集「濱荻」にはクモノエズ、今日でも福島縣の棚倉ではクボノエズ、茨城縣北部にもクボノエヅ、栃木縣河内郡ではクボネズと謂つて居る。エズやエバ・エギなどの後附の一音節は、今までの方言研究家の掲げたる三名目、即ち單語と音韻と語法との三つ辻のやうなものであつた。起りは全くイの單語の頼りなさを補ふが爲に、何と無く之を添へて印象を強くしたものらしいが、見る人によつては之を單語の相異とも、はた語構成の一つの法則ともいふであらう。私はたゞ其部分には言ひ現はさうとした何物も無い故に、尚之を音訛事象の一つと考へて居るのである。斯ういふ例は必ずしも珍しいことでは無かつた。たとへば餌の日本語はエであるけれども、東京附近の者は之をエサと謂ひ、又他の地方にはエバといふ處もあれば、エド・エヅと發音して居る者も有るのである。次の章に説かうと思ふ蟻なども、恐らくは亦その一つの場合であつた。アリといふ語はどうしてか其まゝは用ゐにくゝ、アリゴ・アリンド・アリンボウの如く、後に或音を添へる者もあれば、スアリ、スガリのやうに前に或音を取附けた例も多いのである。勿論其附添音の選擇にも、尋ねたら理由が見付かることゝは思ふが、兎に角に變化の必要は外部には無かつた。之を新しい別の單語とも言ひ難いと共に、すべての名詞に適用せらるべき通則であつたとも見られない以上は、一種の語音轉訛の例と見るの他は無いのである。
 しかも他の一方にはクモノイが不便である爲に、特に改造しようとする試みもあつたことは事實である。古い所では歌文にも見えて居るクモノイガキ、必ずしもイをかく蜘蛛のふるまひをさしてゞ無く、單にイといふ代りに此語を使つて居る。それが東北では氣仙郡などにまだ殘り、爰ではクボノスガリ、又はエガキといふのが蜘蛛のイのことで(319)ある。常陸の稻敷郡ではスガリ又はエガリ、北飛騨方言にもエガラとあるを見れば、事によると是もイガキの變化であつたかも知れぬ。スガリは少なくともスガキから出た語のやうである。イガキがエガリになるといふのは理由の無いことの樣であるが、一方には意味を爲さない音をすら附添へて、印象を鮮かにする必要があつた上に、更に他の一方にはカクといふ動詞も不明になつて居て、別に尚幾つかの呼び方が周圍の地に行はれて居たとすると、是も暗々裡に其影響を受けたかとも見られるのである。
 
     六
 
 それで第七の變化として私の注意するのは、クモノエバリと謂つて居る方言區域である。エバリのハリは「張る」の連體形で、意味は殆とイガキのカキと同じい。是も現在ではまだ僅かしか採集せられて居らぬが、曾ては弘く行はれて居たものか、其分布が飛び/\に遠く及んで居る。福岡市のネンバリが其一つの例であることは前に述べた。中國では山口縣熊毛郡がエンバリ、その對岸の伊豫周桑郡などでは、一方にエギもエバも共に存する外に、村によつて更にエバリ・エンバリ・ヘバリ・ヘンバリの語も併び行はれて居る。此中のヘバリ・ヘンバリは亦一つの音韻轉訛であつて、やはり最初はエの單母音の、物の名としては頼りなく感じられた爲に、自然に移つて行かうとする形では無いかと思ふ。和歌山縣東牟婁郡の一部には、蜘蛛のイをヘーと發音して居る處がある。伊勢でも北に寄つた員辨三重鈴鹿の三郡では、クモノヘバリ又はヘンバリといふ語があつて、爰ばかりが遙かに四國の一隅と一致して居るのである。
 蜘蛛のイは文獻の上に於ても、夙くからワ行のヰを以て書き表はされたものが多かつた。其イがヘーとなり、エンバリがヘンバリとなつて來たやうな變化は、成程類の少ないものには相違ないが、一方是とはちやうど逆に、ハ行音の半數以上が殆と普通に、ワ行音の樣に發音せられて居ることを考へると、もと/\此二つのものは、相互に通ひ移(320)り易かつたのかも知れぬのである。我々が現在まだ是以上にはつきりと、この問題を説き得ないわけは、全く觀察が特に此方面に於て周到で無かつた爲であつた。是だけ手近でしかも必ず一つは有つたらうと思ふ蜘蛛の巣の方言が、實際はまだ案外に採集せられて居らぬのである。近年簇出する方言集の如く、片端から何でもかでも出來るだけ多くを掻き集めようとする方針には、折々は斯ういふ穴のあく虞れが有る。それで一方には問題の興味を先づ認め、ほゞ定まつた目途の下に一つ/\の語を拾つて行く氣風を、もう少し盛んにする必要があるのである。
 そこで私の豫想なども、方言區域説の新しい啓發には役立たぬ迄も、一つの當て物としての刺戟だけは有る。鈴鹿の連嶺はヘンバリの北の端であると共に、グモといふ發音の一方の行止まりであるが、なほ是だけの著しい事實によつて、こゝに方言區域の一つの線を引くことは六つかしい樣に私は思つて居る。グモは必ずしもヘンバリの音變化と、伴なはなければならぬ歴史も無く、一方には又遠く北の方に立離れて、或はエバリの影響では無いかと思ふエガラ・エガリといふ語も分布して居るからである。兎に角に發見は斯ういふ方面にこそ期待せられる。詰め込みはもう滿腹といつてもよいのである。
 
     七
 
 以上八つの音變化の他に、もう二つの異なる方言があつて、是だけは別の單語であつたらしいといふことを附加へて置かねばならぬ。その一つは、今日先づ標準語の如く認められて居るクモノスであるが、是は最初から或田舍だけの方言では無く、一つの同義語として中央にも併用せられて居たのでは無いかと思ふ。さう思ふ理由はこの語の使用區域が以前から可なり廣く、又特殊の用語の既に出來て居る土地でも、住民はさう言はぬといふのみで、之を使つても誤りとは認められなかつたらしいからである。クモノスに巣の漢字を宛てるがよいか否かは別として、スといふ日本語は斯ういふもの迄も含み得た。さうしてクモノイの方には或不便があつて、地方區々たる改造を要したのだとす(321)ると、クモノスが標準語となるべき理由は十分と言つてよい。たゞ公認がそれ迄の省察の結果では無くで、單に江戸附近の以前の選擇に、追隨しただけだといふことも亦事實なのである。
 クモノス又はスガキの新語となつて出現したのは、いつ頃の事やらまだ手掛りは無いが、是に對して早又一つの方言が出來て、それが相應に流傳して居たやうである。奧羽は米澤以北が今も材料を得難いが、アジといふ語の知られて居る區城は左の通りである。
  ヤジ          蜘珠の巣  米澤
  ヤジ          同     「越佐方言集」
  クモノオヤジ      同     越中一部
  クモノヨージ      同     同
  クモノヤジ       同     信州北安曇郡
  アヂ          同     相州津久井郡
  アヂ          同     八丈島三根
  テゴナージ       同     同  樫立・末吉
 八丈島では蜘蛛をクボナメともいふと共に、又テンゴメといふ語も行はれて居る。(是が九州各地のテンコブといふ語と、關係の有ることは察せられるが、それを詳しく説くだけの用意がない。)それでテンゴノアジといふ語もあり、又テゴナージも出來たのである。信州の西北部に於ては、ヤジといふ語の範圍はやゝ弘い。例へば草木の細根の繁く延びたのをもヤヂといへば、絲などのもつれたものをもヤヂと謂つて居て、特にクモのヤヂといふ添詞が無いとわからぬのである。斯ういふ例がある爲に、私は其ヤジはアジからの再轉であり、アジのアは網などのアと語原を同じうするものと想像して居るのだが、果して誤りでは無いかどうか。是亦將來の資料によつて判決してもらふの他は(322)無い。關東東北だけにあるエズといふ第五の場合が、このヤジ・アジの影響を受けたもので有るか否かも、同樣にやがて明らかになることゝ思ふ。
 
     八
 
 この他肥前の島原半島に、コブノミャーといふ事の有ることも山本氏は報じて居るが、是はまだ孤立の例だから見當が付かぬ。さうすると結局今知られて居る蜘蛛の巣の方言區域は、どうあつても全國を十に分けて見なければならぬ。即ち、
  一 イ
  二 エ
  三 イギ・エギ・イケ
  四 エバ・ネバ
  五 ユズ・エヅ・ネズ
  六 エガリ・エガラ・エガキ(イガキ)
  七 エバリ・エンバリ・ネンバリ
  八 ヘー・ヘバリ・ヘンバリ
  九 ス・スガリ(スガキ)
 一〇 アジ・ヤジ
 此等の領域の外には、前申すやうにまだ空隙が弘いから、新たなものが成立し得るは勿論である。さてこの十のものを、前の蜘蛛の音變化の四大區域と比べて見ると、雙方がどれだけ交錯し重疊して居るかは一目してわかる。私た(323)ちの見た所では、少なくとも蜘蛛と蜘蛛の巣とは在來の一般的方言區域を無視して居る。斯ういふ法外のものゝ横行を許容しつゝ、尚かの方言區域の説を打立てることは、何だか私にはよほど困難な事業のやうに思へるのである。
 
  (追 記)
  一、本文に不明として置いた大分縣の蜘蛛方言は、全縣を通じて大體にグモであり、僅かな例外として大分郡だけに、西九州のコブ又はテンコブが入込んで居ることがわかつた。太平洋側のグモ領域の、此邊が西の境になつて居るのである。之に對して日本海側のクボ領は、奧羽北端から少なくとも山陰但馬地方に及んで居る。それから西は因幡伯耆はまだ不明だが、出雲石見にはクモノスがあるから、爰も早くからクモだつたかもしれない。但し中國地方に於けるグモとクボとの境は、脊梁山脈をずつと南に越えて居り、播州などはなほ弘い區域、内海に迫つた村々にもクボが有る。京都も文獻には概ねクモであつたが、クボも併存して居たらしい痕跡がある。
  一、陸中も閉伊の海岸に於ては、蜘蛛をクブといふ土地があつて、却つて最も隔絶した沖繩の或島と一致して居る。バ行が前であり、マ行が後の改革であつたことが、是によつて推測し得られる。
  一、クモノスを巣と書くことは後の誤りだとしても、スといふ言葉のみは古くからあつたのかも知れない。簾と簀の漢字を以て譯されたスといふものは早くから知られ、それと蜘蛛のイとに或一致が考へられるからである。其スを動詞にしたらしいスクといふ語も、漁網については今も行はれて居るから、アジとかヤジとかいふやゝ珍しい地方語なども、その複合形とも考へられぬことはない。網は現在はアミだけれども、アゴ(網子)・アジロ(網代)・アバ(網羽)などゝいふときは皆アである。但しこのクモノスは判りやすいよい言葉である故に、後に此形になつてから地方には採用せられたのかもしれぬ。グモの行はれて居る三重縣の南海岸でも是だけはクモンス、コブを普通とする佐賀縣北岸でも是のみをクモンス、クボ領域の津輕地方にはクモノス、山形縣村山地方に(324)もクモロスが有る。從つて島根縣の出雲にクモノス、隱岐の島にクモノシがあつても、是だけによつて此地方が蜘蛛をクモといふ地域だつたとはきめてしまふことが出來ない。
  一、鹿兒島縣の薩摩郡は、この蜘蛛のイに關する限り、興味ある方言變化が見られる。福里榮三氏の報告では、同じ南端の山川港周圍でも、成川福元あたりはコッノス、兒ヶ水ではコンノス、十町ではコッノエ、大山などでコッノケンである。コッノケンは又同國谷山にもあり、北して川内《せんだい》に行けばそれがコブノケンとなつて居る。ケンの語原は説明することが出來ない。谷山などでは蜂の針、仙人掌《しやぼてん》の針もケンといふさうであるが、是は別の語か、又は不當なる擴張か何れともきめられない。なほ此地方では蜘蛛はコッだけれども、鹿兒島市の周邊にはやはりもうクモンスが行はれて居る。多くの方言は斯ういふ風にして匡正せられ、又複雜にもなつて行くものと思はれる。
 
(325)  蟻方言の變化
 
     一
 
 蟻の方言匡正は比較的六つかしかつたやうである。蟻を御一新前から只アリとのみ呼んで居た土地は、近畿近國の小さな區域の外に、四國がほゞ全部、東北六縣の大部分だけであつたやうで、今でもまだ其他の地方に於ては、何とかかとか違つた謂ひ方をして之を改めようとしない。しかも耳で聽き文章で讀んで、誤解する者の無かつたのを見ると、この方言變化の原因は、聊か奇を好んだ言ひ方をするならば、寧ろこの標準語の全國的一致そのものに在つたとも言ひ得る。即ち他の蟻地獄や蟷螂などゝは反對に、何處へ行つてもいつも蟻はアリであつた爲に、却つて其言ひ方を變へなければならなかつたのである。新語造成の言語藝術と語音の改訂とには、歌と音樂との差のやうな區別があると思ふ。近頃流行の一種單語の蒐集者たちは、往々にしてこの區別を省みない。それが一方には又多くの方言集を、其まゝ利用し得ない雜駁なものにしてしまつて居るのである。
 新語異名が積極的興味を目途としたに反して、音訛は其起原に於ては單に誤解を避け、又は表示を容易にしようといふ、消極的の動機しか持つて居なかつた。それが全部に通じて言ひ得ることか、はた又一部にしかあて嵌らぬことであるかは、今はまだ決し難いとしても、少なくともさういふ例もあるといふ迄は、蟻の現在の呼び方によつて先づ大よそは立證し得られる。私の集めて見た資料だけではまだ不安心ならば、更に今後の觀察に際して、もう一度この(326)點に注意を拂はれんことを希望する。數はやゝ多くなつたといふのみで、在來の採集は實は一部に偏し、又あまりにも行きあたりばつたりであつた。是のみで動かぬ法則を發見しようといふことは、或は蟲のよすぎた話であるかも知れぬのである。
 
     二
 
 しかし兎に角に、次に擧げるだけの事實はあつたのである。先づ手近なる例から見て行くと、私の家は長野縣の南部から出て居るが、昨年世を去つた老親二人は、生涯「蟻」のことをアリゴと謂つて居た。氣を附けて見ると信州下伊那郡では、今も一般にアリゴが行はれて居る。そこで最初にアリゴを附して呼ぶ方言區域が、どこ迄及んで居るかに注意して見ると、此縣で最近増補版を出した上田市附近方言集に此語がある。次に越後では中魚沼郡の中部、西蒲原郡吉田町でも、二三年前に同じ語が採集せられて居る。山形縣では先月出た方言集には何とも見えぬが、少なくとも村山四郡では、幾箇處と無くアリゴの方言のあることを聽いて居る。さうして是が奧羽に於ける一つの注意すべき異例である。
 それから他の一方には信州の南境に接する三河の北設樂郡と、少し引離れて美濃の山縣郡にはアリゴがある。確かな證據は無いが、此堺の線以内には、捜せば同じ例は何程も有るやうに私は思つて居る。しかし大體から言ふと、アリゴの領分は日本海側に偏して居たやうで、北陸の三縣だけはまだ一向に不明だが、山陰へ行くと此語は再び始まつて居る。殊に島根縣は東の境から鹿足郡の山村にかけて、僅かの變化はあるがアリゴといふ村が最も弘く、それが境を越えて山口縣の山口と柳井、廣島縣の安藝郡から雙三郡までに及んで居る。備後の府中などにも、アリコとアリゴが併用せられて居る。
 細かい差別をいふならば、アリコと第二子音をKに發音する土地が少し有つて、それが各地方に入り交つて居るや(327)うである。右に列記した周防の二地、安藝の佐伯豐田二郡などの他に、北は山形縣でも西村山郡の谷地町などは、アリゴで無くてアリコださうである。それとはどういふ關係があるか、若狹の知三村で蟻をアリコ、紀州では南牟婁郡の輪内村だけに飛んで又一つのアリコがある。蟻に子を附して呼ぶことは、たゞ小さいものといふ意味では無くて、是を人がましく見ようとした痕跡かとも思はれる。是は次々の蟻ぼう蟻どんと比べて愈さう感ずるのだが、コといふ日本語はもと幼兒のみに限られず、セコだのフナコだの山コだのといふ例も多くあつて、古くは個々の働く者のことであつた。從つて此場合にも蟻が隊伍を組み、多數協力して行動して居ることが、自然に此二音節を附添する誘導になつたかも知れぬのである。だから又アリンゴといふ語も「蟻の子」であつたとも見られる。アリンゴの區域は中國のアリゴに接して、岡山市を中心として縣下各郡、廣島縣の東三分の一、出雲の一部にも及んで居る。東國の方には同じ例は無いが、三河の東に續いて遠江引佐のアリンコ、美濃の一地にもアリンコと謂つて、終りのコの音を澄んだ例はある。假に此四つの語、即ちアリゴ・アリコ・アリンゴ・アリンコを以て、一つの系統の出と見得るとすれば、私の家などは日本で最も有力な一つの蟻訛音に屬して居たことを、誇りとしてもよかつたわけである。
 
     三
 
 但し江戸地方の在來の蟻の方言は、どうも此アリゴ系では無かつたやうである。爰には勿論蟻を必ずアリと謂ふ人も來り住し、又私の家の如くちがつた呼び方を持込んだものもあるだらうが、土地には又一つの自己流があつて、それはアリンボであつたやうな氣がする。それは或は文藝の記録の方からも證明せられるのであらうし、又接續町村の現?からも追々尋ね得られる。武藏の南半分では、農民の語はまだ少ししか採集せられて居らぬからわからぬが、是から東に隣する下總・上總・房州は、ほゞ一帶にアリンボ又はアリンボウであつたことが、千葉・市原・君津・安房、その他諸郡の方言集からも窺はれる。但し下總でも香取海上の二郡にはアリボがあり、利根川を北に渡つて、茨城縣(328)でも北相馬郡、常陸の稻敷郡などはアリンボである。尤もこの一帶の低地は、他にも色々の單語に於て提携して居る地方で、私などは是をさして南關東、もしくは海部關東とも喚びたいと思つて居るのだが、是が東京灣の全沿岸を、包括して居たか否かには問題がある。といふのは其中央から西の半分即ち東京横濱方面が、近世餘りにも變動したからである。
 何にもせよ、右のアリンボ區域は、面積に於て案外に狹く、少し北へ行くと直ぐに二つの隣領と突張り合つて居る。その一つは後にいふ栃木縣のアリメ領、即ち多くの動物の名にメを附けて呼ぶもの、今一つは第二に有力なるアリンドの領であつて、同じ下總でも北端の猿島郡は、もう既に蟻をアリンドンと謂つて居る。群馬縣でも是と接する邑樂郡はアリンド又はアリンドン、其南方北武藏の妻沼寄居の二地は共にアリンド、北葛飾郡がアリドン、それから山を越えて、山梨縣は郡内地方から、西は富士川の流域までもすべてアリンドー、靜岡縣に入ると伊豆は先づ全部がアリンド又はアリンドー、駿河も安倍郡、遠江も前出引佐郡のアリンコ、及び他の諸郡のイヤリ・イラと併存して、別にアリンドの語が報ぜられ、愛知縣に於ても三河幡豆郡、同じく碧海郡ではアリンボ・アリボと共に、亦アリンドといふ語が採集せられて居て、是が中部のどの村かに於て、信州の方から入つて來たアリゴ系と境を立てゝ居るのである。一昨年世に出た「尾張の方言」にも、此縣北部のアリンドが見えて居る。さうすると又一つ木曾川兩岸のどの邊かに、境の線が引かれることになるのであつた。
 昭和七年六月の「方言」特輯號、瀬戸内海諸島の言語調査は、種々なる點に於て意義の深い企てゞあつたが、私にとつて、殊に面白かつた事實は、蟻の全國的方言の幾つと無い變化が、宛かも見本のやうに島毎に分配せられて居ることであつた。アリンドーといふ一語の如きは、今までは京以東の特徴のやうに考へられて居たのが、こゝでは備後の大崎上下島、伊豫の弓削島と越智大島と、四つまでの島々に現存して居るのであつた。別に一方が他の一方から移し傳へずとも、離れた土地でも日本人である以上は、申し合せずして同じやうな改訂を、用語の上に加へることもあ(329)つたといふことが考へられると共に、音訛の原因をたゞ語音そのものゝ自然にばかり、歸せんとする意見の心もとなさが、之に由つてやゝ露骨になつて來るのである。
 
     四
 
 飛び離れた一致の例は今一つあつた。相州の津久井は北武藏と甲州と、二つのアリンド領の通路であつたにも拘らず、此郡内郷村などでは蟻をアリンゾー、又はアリーゾーと謂ふさうである。是がたゞ一箇處だけの特徴であつたならば、どんな想像でも下すことは出來ようが、互ひに相知らざる佐渡の島などに於て、やはりアリンショ(小木)と謂ひアリンジョ(相川)といふ例が有るのみならず、遠く懸離れた大隅の種子島でも、やはり亦蟻のことをアリージョーと謂つて居る。さうすると是も亦一つの新案であつたと言へるかと思ふ。ジョウは九州の南の方では、輕い敬語として無暗に色々の人倫に付與して居るが、中部日本では幾分か限定的に、丈や尉の字を宛てゝもよいやうな男性にのみ用ゐて居る。蟻までにジョウと謂つたのは少し過ぎて居るが、是にも亦今からは推測できない複雜な心持があつたのか、乃至はそれがたゞ人を意味する迄の、輕い内容しか持たなかつた時代があつた爲であらう。兎に角にジョウといふ語の起りがまだ明瞭でない限りは、是は寧ろそれを解説する爲の參考資料として、留意すべきものであると思ふ。
 次には一語の遠くわかれて偶合する場合とは反對に、幾つかの語の隣を接して、竝び行はれて居る例を考へて見る必要がある。森彦太郎君が蒐集した南紀土俗資料の中に、日高郡一部の蟻方言を列擧して居るが、其變化は内海の島々にも勝つて居る。此地方で普通に聽く所のアリドンの外に、南部《みなべ》地方にあるものはアリンボウシ及びアリトモ、東本庄に於てはアリトメと謂ひ、更に名田村では婦人小兒の語として、又アリメともいふさうである。アリといふ本の語が誰にも知られて居たと同じく、僅かな郡内のことだから斯ういふ呼び方の違ひも、氣付かずには居られなかつた(330)筈である。さうしてなほ互ひに併呑せられずに存立し得たといふのは、言はゞ各自の好みが相手から認められたので、一方には此語の地方的變化の今以て複雜であり、所謂匡正の成績の容易に擧がらなかつた理由も察せられると共に、他の一方には國の用語の自由に發逢して、終に今日の?態に達すべき素地ともいふべきものが、最初からあつたのだといふ私の想像にも、一つの根據が與へられたことになるのである。
 右の日高郡の五つの蟻名詞の中でも、殊に興味をひくのは最後のメを附した例である。是は現在では栃木縣から茨城縣北部までと、八丈の一島とのみに濃厚に痕跡を印して居るだけであるが、氣をつけて見ると何れの地方にも、多いか少ないか皆用ゐられて居る。大抵はガツキメだのコイツメだのと憎しみ輕しめる時が多いので、睨む語のメを混同して居るが、起りは語部《かたりべ》や小子部《ちひさこべ》の、べといふ語と同じであつたかも知れぬのである。兎に角に蟻にもこのメを附加し得た土地で、別に其他の變形法を採用せずに居られたのを見ると、本來の目途は雙方同じであつたものと見られる。人が其趣旨を意識して附けたり取つたりして居る間は、是を語法と名づけて憚らない學者でも、それが惰性となり癖となつて、いつも取附けたまゝで使ふやうになると、是を單語の變化と見たり、もしくは音韻の轉移と思つたりするので、この三つの者の境は、實はさうはつきりとして居なかつたのである。不味のモミナイがもとは「うまうも無い」であり、醜いのミットモナイが實は「見たうも無い」であることだけは、此頃になつて全く判明したやうだが、近世の動詞にも斯うして出來た成句語とも謂ふべきものが多い上に、單なる語音の訛りと認められて居た名詞にも、是と由來の似たものゝ有ることが、蟻の地方的異同によつて、少しづゝ判つて來ようとして居るのである。
 
     五
 
 語尾にコやボウを添へて呼ぶ名詞は、アリの他にもまだ幾らもあるのだが、其選擇は幾分か氣まぐれであつて、法則とまでに確定したものが少なかつた爲に、是だけが何か特別の理由に基いた單語形でゝもあるやうに、思ふ人が多(331)くなつたのである。奧羽の各縣では名詞にコを附して呼ぶ風が、今ではやゝ度を超えて行はれて居る。それ故に蟻にも通例コを附ける習ひは有るのだが、特に其アリコを蟻の方言としては報告しないのである。栃木縣でも蟻は大抵アリメと呼ばれて居るが、外にも動物には多くはメを添へて居るので、是ばかりでは標準單語のアリと、ちがつて居るとも思はなかつたのである。しかも斯ういふ語構成法が一般に行はれて居る地方では、もう其隣のアリンボやアリンドウを、採用する必要を感じて居なかつたのを見ると、他の各地に於て色々と語形を變更しようとした目的は、わざとか偶然にかは知らず、兎に角に茲では既に達せられて居たらしいのである。
 一方に八丈島の場合を考へて見るに、こゝでも下野國東部に負けぬ位に、多くの動物にメを附けるが、妙に蟻だけにはメの附かぬ語が行はれて居る。即ちアリメといふ言葉も今では出來たやうだが、もう一つ別にヒアシといふ語があつて、其方が古くからのものらしいのである。ヒアシは自分の知る限りに於て、他には類例の無い珍しい形であるが、段々考へて行くと、さうも變つたらうと思ふ路筋は略わかる。それは後節に之を述べることゝして、兎に角にアリにメを添へドンを附けて呼ぶ必要が、ヒアシと改名するともう消滅してしまふやうな、性質のものであつたといふことが想像し得られるのである。
 是を具體的にいふと、アリといふ言葉は發音が餘り單純であるか、もしくは他に紛れやすい別の語があるか、又はまだ自分の心付かぬ別の理由の爲に、單語としてはよく通じても、長い文句の中にまじると、聞取ることが困難であつたのでは無いかと、私は思つて居る。人の談話が段々に成長して、眼の前に無いものを題材とするやうになると、個々の用語は必然に修飾を加へられて、其印象を濃厚にしなければならなかつた。殊に文字の制約も無く、又其支援をも受けなかつた人々には、專ら表出の自由を個々の單語の強調の上に、求めようとする風が多かつたらしい。それほどにも彼等の會話は、文章とは縁の遠いもので、それで兎も角も今日までは用を足して來た。だから近世に入つてから、急に形の改造せられた物の名が、幾つとも無く有るのだらうと思ふ。永らくヱの一音節であつた餌の日本語が、(332)ヱサだのヱバだの、ヱドだのヱヤだのとなつたことは、一つの例として蜘蛛のイの章に引いたが、同じやうな變化は家のエン(縁)といふ語にもあつた。土地によつてはエンサ又はエンヤ、或はクレエンだのエンガハだのと別の語を添へたものもある。是が尋常農民の住居に、所謂縁側を取附ける流行より、古く始まつた氣遣ひは無いのである。家のイヘをイエと發音するやうになつて以來、之を判り易く他の續きの語と紛れぬやうにする爲に、今以て我々の無意識に苦心して居ることは、少しく注意をして居れば誰にでも觀察が出來る。要は今までの人が斯んなことを注意しなかつただけである。蟻の地方語の僅かづゝの相違が、古くからあつたといふ一つの證據も無く、且つ又他に之を誘うた理由の擧げ得るものが無いとすると、一應は自分のやうに推定して置いて、今後の資料によつて之を追認又は否認するより外はあるまい。たゞ何と無くさういふことは有るまいと、言つて澄まして居る時代では無いと思ふ。
 
     六
 
 八丈島のヒアシが、アリゴ・アリンボ等の代りであつたらうかといふ説は、尚他の地方の異例を比べて行くうちに、少しづゝ有力になつて來るやうである。現在まだ飛び/\にしか發見せられて居ない地方語の幾つかを竝べて見ると、本土と其屬島との中にも、早明らかに二通りの變化の種類の有ることが心付かれる。其一つは單にアリといふ名詞の後へ、何か別の語を附添へたもの、即ちアリンボやアリンドと同系に屬するものと、他の一つは八丈のヒアシの如く、この語の音韻構成に若干の變改を加へたものとである。例へば遠江濱名郡の一部でいふアリマチは、餘り珍しいので解説も容易で無いが、兎に角に附添の例である。是は多分蟻の牧畜だといふ竹蝨のアリマキと關係があつて、マチ又はマキは群といふことであらう。長崎港外の沖の島にもアットウといふ語があつて、九州では目に立つ一つの例外になつて居る。次に三河の額田郡の或村で、アリガ又はアリガンドゥといふのも同じ類であつて、ガンドゥは即ち強盗のこと、掠奪する者の一黨といふことだらうと思ふ。備後の因ノ島にはアリカンドといふ方言もある。
(333) 第二種の音韻變化として東日本の方に存するものは、岩手縣下閉伊郡の海岸にあるアガリ又はアガニ(船越小學校調)、是も或は上へあがるからなどゝ、解せられて居るかも知らぬが、本來は一つの音修飾であつたと思ふ。瀬戸内海の諸島調査を見渡すと、島によつて蟻をアルイ(上蒲苅島)と呼び、又はアイリ(大三島)と謂つて居る例が二三ある。是が比較を重ねず類例の有無を問はず、土地限りで由來を知らうとすれば何とでも説は立つが、名譽の占者で無い限り、後で崩れることは先づ請合ひである。此種の變化は此あたりには珍しいといふのみで、九州に行けば其仲間は幾らも有る。四國も只今までの調査には現はれなかつたけれども、引込んだ土地にはまだ此同類が生きて居るのかも知れぬ。だから現在の各地の採集者のやうに、細かく我附近を調べ上げただけで、用はもう濟んだといふ顔はして居られぬのである。調査は學問の爲には偉大なる恩人であるが、それ自身はまだ學問でも何でも無い。如何にして斯うあるかを疑ひ訝り能ふ者だけが、進んで自分の採集した資料を以て、我研究の武器に供し得るのである。
 説法はまあ此位にして置いて、蟻をアイリと謂ひ、乃至はアガリと謂ひ始めた理由は究められなければならぬ。九州の蟻方言は明白に又二つの系統に小分せられて居て、それが二つ共に私のいふ第二類、即ち本の語の音韻改造に屬して居るらしいのである。所謂方言區域の説にとつては、斯ういふ對立の至つて鮮明なる地方差こそ、殊に有力なる好參考で無ければならぬ。私などの見た所では、大體にこの大きな一島を東西に二つに縦斷して、東の一方がずつと南の方まで廻つて居るといふことは、船の通路の影響であると思ふ。四圍に僅かに殘る例を見つけた上だと、話は又よほど容易になるのだが、今日知れて居るだけでも九州の東側は、一括して私の名づけんとするイヤリ系に屬して居る。
  イヤリ               筑前宗像郡
  イヤリ               豐前小倉附近
  イアリ・イラレ           同 京都郡
(334)  イヤリ              豐前築上郡
  イアリ               豐後速見郡
  イダレ               大分縣一部
  イヤリ               大隅肝屬郡
  イアイ               薩摩川内附近
  イラレ               肥後八代郡金剛村
  イヤリ・スガリ           筑後吉井附近
 肥後と筑後とは大體からいふと、第二のスガリの領分であるが、時に入りまじつて此樣な異例がある。鹿兒島縣は二つの語の境であると思はれて、縣の方言集には二語を併載し、村毎に相異を見、又私の謂ふ邊疆現象が認められる。それよりも一段と大切な事實は、遠く引離れて紀州の有田郡で、蟻の小さなものをイアリ、更に東へ行つて遠江の小笠磐田引佐の三郡で蟻をイヤリ、その東の周智榛原志太の三郡に於て、是を又イラとも謂つて居ることである。和名鈔の卷一九に、赤蟻を伊比阿里と記して居ることは、既に二三の先輩も注意した所であつて、是が九州東部と紀伊と遠江とに殘存して居たのだといふと話は簡單であるが、なほ私のみは此記録に根據を置いて、すべての赤蟻以外の蟻類をもさういふことが、何れも誤れる擴張であつたといふ迄に、眼前の事實を否認し得ないのである。イヒアリは恐らく飯に着く蟻であつたらうが、一方のイヤリのイヤは二重母音で、時としてはイダレ・イラ・イラレとも轉訛し得るイヤであつた。言語の實際に親しんだ觀察者ならば、さう容易には古書の指導に服し得ないことゝ思ふ。
 
     七
 
 第二の蟻の九州語も、便宜の爲に之をスガリ系と名づけることにするが、起りは是も亦スアリであつたやうである。(335)目下知られて居るだけの例を竝べて、追々に其中間の事實の發見によつて、私の假定の當否を決しようと思ふ。
  スアリ               肥前家船の者
  スガリ               同 唐津附近
  スガリ               同 北松浦郡
  スガリ・シギヤッ          同 南松浦上五島
  シガル               同 同  下五島
  スガイ               同 佐賀附近
  スガリ               同 千々岩・大江
  スガネ               同 島原湊
  スガレ・スガール・スーガン     同 南高來郡の一部
  スガリ               筑後三瀦郡
  スガリ               肥後玉名郡南關
  ズガネ               同 同 郡一部
  スワレ               同 天草郡牛深
  シャイ(イヽヤイ)         薩摩知覽
  スワイ               同 永利
  シアイ               同 指宿湊等
  スアイ               同 山川町等
此通り北と南と兩方の端にスアリ・スアイが形を存して居る。八丈のヒアシなどは是からはよほど遠いが、もし中(336)間に幾つかの段階があれば、移つて行けない程の大きな變化でもない。今は單に是を證出する途が無いといふのみである。肥前島原湊のスガネといふ方言が、只一つ殘つて居たとしたら、八丈島のヒアシと同じにどんな推測をでも許すだらうが、此方は幸ひに周圍が陸つゞきで、そこに縁の近い同系語が連續して居り、よほどの僻案家でも是を無視することは出來なかつたので、斯うして將來の調査の目標とすることを得るのである。
 或はスアリのスは亦一つの接頭辭で、是を用ゐて蟻を喚んだのも文法であり、私の謂ふ第一類の方だと見る人があるかも知れない。關東では常陸稻敷郡、又は信州の下水内郡などで、ダニをスダニと謂ふ方言が今も行はれて居る。蟹にもスガニといふ語があつたやうに思ふ。東北で地蜂をスガリ・シガリといふも其例かと考へられる。スガリは九州では蟻のことを謂ひ、奧羽に行くと蜂のことになると言つた學者もある。斯ういふ隨筆式報告は、隨分と影響の大きなものである。前にイヤリの例に引いた大隅の肝屬郡では、別に又スガリといふ語も併び行はれて居るさうで、野村傳四氏の肝屬都方言葉には、スガリは刺す赤蟻を謂ふと報じて居られるが、此二語は果してさういふ明らかな分堺を立てゝ使用せられて居るかどうか。もう一度まるで別途の資料に據つて、安全に之を確めて見たいものである。
 
  (追 記)
  一、其後集録して置いた若干の方言ノートを取出して、本文に引當てゝは見たが、別に訂正しなければならぬ個條を見出さなかつたので、一々は列擧せぬことにした。イアリとスアリとの二種の接頭辭は、依然として九州の東西南側に割據し、本土その他の諸島に於て、之に呼應するものは少ないやうである。アリゴ同系の語尾にコを附けた例は、思ひの外に分布が弘く、本土はほゞ西の端までに、飛び/\に行はれて居るが、氣を付けて見るとコを澄んで呼ぶものは西へ行くほど多く、殊に中國地方は山陽の方がそれであるやうに思ふ。しかもこの一致は前にも明言した如く、必ずしも一つの造語の傳播では無くて、何とか音修飾の必要を認めるとすれば、誰しも最(337)初に思ひ付くのは、この小動物が群を成して行動することで、それを子といふのはいと自然であり、從つて又?偶合し得たらうと思ふ。他の色々の附添は事實やゝ遲く始まつたかも知れぬが、是が中央に於て今までのアリゴに取つて代り、之を邊隅に押出したといふやうなことは、蟻の名に關する限り私は想像しては居らぬ。
  一、虹や蛇などの場合とは反對に、アリは口語も最初には文語と同じであつた。人が饒舌に又早口になると共に、アリでは何分はつきりとせぬ場合が多くなつたので、是を色々と細工したことは、寧ろ雲のイの方とよく似て居る。その必要の感じ方と、話主の生活態度などが影響して、變化の現はれが遲く早く、又土地毎に思ひ/\であつたらしいが、それは主として民俗學上の興味と言へるかもしれない。少なくとも今謂ふ方言の成立には二つの路筋があつて、この方は言はゞ國語の可能性、是からどう變るか、どう變るのが望ましいかの參考であり、純なる國語史の上からは、古語の殘留を見つけ出す仕事ほど、重要でないと言ふやうな説も成立つだらう。是はしかし歴史の全般に就いても言へることだが、この現代といふものを作り上げた力は、其大部分が近い過去の中に籠つて居る筈である。誰とも知れぬ人に其研究を委ねて置いて、自分等はたゞ中古以前の書いた資料だけから、目前の問題を論議しようとすることは、なんぼ當世の學風であらうとも賛成が出來ない。さうして又斯ういふ些々たる地方の事實に依るより他に、國語の近世史を明らかにする途は無いのである。一つのアリといふ語の日常の不便を遁れようとするには、さう目新しい方法は思ひ付くことができない。文藝は風雅にたてこもつて、格別の大きな指導をしなかつた。寧ろ平凡なる大衆でも、心が揃へば是くらゐの改革が出來たといふ實例を、今は先づ珍重してよい時代であると思ふ。
  一、我々が生類を心ある者と見、人と對等のやうに考へようとしたことは、幼い古風な自然觀に相違ないが、是をすべての鳥獣蟲魚には應用せず、たま/\生活と交渉が深く、しかも其名がはつきりと呼びにくい者に、ボウだのジ∋ウだのを附けようとしたのは、特にさうする必要が別にあつたからで、たとへはイアリとかスアリとか(338)謂つて通ずるならば、もうさういふことはしないのを見ても、是が手近な一つの方法だつたといふことがわかる。さうして一旦さういふ名で呼び始めてからも、いつしかその氣持は忘れてしまつて之を單なる符號として取扱ひ、どうしてアリンド・アリンボなのかを、もう考へなくなつて居るのである。最初は敬語の濫用であつたことは、比較によつて始めて判つて來る。埼玉縣の東部地方などには、偶然にアリドンといふ方言が殘つて居る。しかも蟻だけさういふのは不公平としたか、こゝではケラドン其他、二三の蟲類にも其ドンを付與して居る(幸手方言集)。愛知縣の寶飯郡にはアリボサといふ名が行はれて居る。その西隣の碧海郡などに、アリブンといふ名のあるのも蟻法師で、乃ち他の多くの土地のアリンボも、元は敬稱だつたらしいことが推測せられる。勿論濫用すれば卑稱に化することは、關東北部などのメも同じであり、中には又最初から彼等を憎んだ惡稱であつた場合もあらう。長野の附近にはアリバヽといふ小兒語があり、九州などでも豐後にはアリマン・アリメン・アリゲンドなどゝいふのがある。アリゲンドも多分はガンドウで、彼等がやたら物を運んで去ることを憎んだものであらう。
  一、奄美大島には蟻をアシといふのが、あの島の民謠の中にも見えて居る。この語原は不可解だが、隣のコ之島でアーミといふから、やはりアリの語の音修飾かも知れない。鳥取縣の西伯郡にはアーリがあり、愛知縣中部にもアーリがあり、紀州の日高郡にはアイルがある。アを長音にかへれば長い文句に挾まつて居てもよほど聽取りやすかつたのである。
 
(339)  蟷螂考
 
     はしがき
 
 採集者の勞苦は甚だ報いられぬものである。殊に我々の學問に於て、都會に住む人々が何時と無く、鵜匠の如き地位を占めんとするのは不當である。花は必ず培ふ者の園に於て、實を結び熟すべきものである。しかしながら釀して酒となし、織つて綾錦とする生産に至つては、孤立の精勵は功を收めることが容易で無い。是が現在雜誌を以て研究の中心とし、更に其相互の親密なる聯絡に由つて、力めて知識を公有にせんとする理由である。以前は自分なども忠實なる採集に二種なしと考へた。採集その物が直ちに學問であるとも考へた。しかし其收穫が利用せられなかつたら、實はせん無き辛勞であると同じく、單なる集積は却つて紛亂の危險をさへ伴なふのである。故に知識は得るに從つて整理せられねばならぬ。少なくとも整理せんと企てられなければならぬ。是が又我々の修養でもあり、人生觀照の方法でもある。比較が大なる啓發なることを實驗する爲には、自身先づ此用意を以て、所謂博聞の事業に着手するがよいと思ふ。そこでこの蟷螂考なども、誠に微々たる閑題目に相違ないが、斯んな小さな一種の蟲の名ですらも、志ある多くの者が共同して考察するならば、なほ興味ある人間生活の片端を窺はしめる、といふ一例を供與する上から見れば、個々の内容の殆と採集する價が無かつたやうに見えた點が、却つて採集者の刺戟ともなれば又警戒ともなり、(340)行く/\は或は人の爲に働くといふやうな不滿を散ずることにならうかと思ふ。
 
     一
 
 そこで何か遠州と縁のある方面から、此間題を説き出して見たいと思ふ。飯尾君の報告に依れば、磐田郡龍川村方面では、蟷螂の方言はヲンガミ、この蟲の習性として、雌が雄を食ふ故に雄咬みであると、説明せられて居るさうである。其事實のあることは、現に最近の「改造」にも、或生物學者の説が見えて居るが、他の地方に於て之を名稱の理由とした例は、私はまだ聽いて居ない。さうして全國を通じて最も弘く行はれて居る蟷螂の方言は、實は此系統に屬するものであつた。先づヲンガミに一番近いものから擧げると、
  ヲガミ               伊勢三重郡
  ヲガミ               紀伊西牟婁郡
  ヲガミ               越中五箇山
  ヲガミムシ             下野足利町
  ヲガミムシ             同 栃木町
  ヲガミムシ・ヲンガメ        肥後球磨郡
  ヲガミドホセ            近江神崎郡
  ヲガミトオト            同 愛知郡
 この終の二例は後にも引合ひに出て來るが、兎に角にヲガミは拜禮のことである。蟷螂の高く差上げた二つの大きな手が、神を拜むやうに見えたからさう名づけたことを暗示する。ヲガミトオトのトオトは「尊と」であつて、昔の人が神を拜む時に、常に唱へて居た詞であつた。此點は西洋人の觀察も偶然に一致して居る。此蟲の學名の Mantis(341) religiosa は、それから出た語であり、英語でも Praying Mantis (?り蟲)と謂つて居るのである。但し注意すべきことは、日本の他の弘い地域では、ヲガミはヲガメといふ命令形になつて居る。それは主として京都以西の地方であるが、稀には北國邊にもあつたやうに記憶する。見當つたら後に追加するつもりである。
  ヲガメ               美濃郡上郡
  ヲガメ               紀州日高郡等
  ヲガメ               播磨神崎郡山間部
  ヲガメ               伊豫喜多郡等
  ヲガメ               土佐幡多郡
  ヲガメ               同 鵜來島
  ヲガメ               筑後三瀦郡
  ヲガメ               肥後各郡
  ヲンガメ              薩摩川邊郡
 尤も九州の方でもヲガメといふのは西に面した海岸の南部約半分であつて、他の部分には若干の變化がある。例へば大分縣などはヲガモである。
  ヲガモ               豐前字佐郡
  ヲガモ               同 下毛郡
  ヲガモ               豐後玖珠郡
  ヲガモ               對馬與艮(南端)
 東國の人はさう解し兼ねるか知らぬが、此將然形も、西の方の平語では命令に使はれた。多分此蟲に對して、小兒(342)が唱へて居た詞の中に、相手の拜禮を要求した文句があつて、ヲガメ・ヲガモは共に其破片であらうと思ふ。伊豫の北宇和郡大島などでは、
   をがめく
   をがまんと殺す
といふ唄があつた。日本語では命令形が同時に相手の名の如くにも聞えるのである。能登の鹿島郡などでは、螻蛄《けら》といふ蟲に向つて、「をがめ/\」といふ童詞が行はれ、又ゲンゴラウといふ水に居る蟲にも、ヲガメといふ名がある。三つながら前肢の甚だ目に立つ動物である點が一致して居る。遠州龍川村のヲンガミだけが單獨に自生したといふことは考へにくいから、是も最初の意味は「拜み」であつたのが、後に今一つの尤もらしい理由と、更代したものと見るの他はあるまい。
 
     二
 
 兎に角に此命令の根源には、單なる觀察者の形容といふ以上に、今一段と密接な蟲と人との交渉があつた。それが一般的に童兒の歌であつたらうといふ想像も、蝸牛などの類例から推して、さう不自然では無いやうである。それを確めて見る爲に、更に類似の方言を尋ねて行くと、
  ヲンガマッソ・ヲガモ        宮崎縣一部
  ヲンガマッショ           薩摩西長島
  ヲガミショ             肥前五島濱浦
  ヲガマス・ヲガマズ         大和十津川村
  ヲガマ               紀州南牟婁郡一部
(343) それから尚一層強壓的なものとしては、
  ヲガマニャトオサン         對馬豐崎村
  ヲガマニャトオサン         肥前生月島等
  ヲガマニャトオサン         筑後浮羽郡・久留米市
  ヲガマニャトオサン         肥後阿蘇郡小國・熊本市
  ヲガマナトオサン          近江坂田郡・犬上郡
  オカマトオサン           同 東淺井郡等
といふが如き、ほんの一時の思ひ付きの戯れと思ふ名前までが、此通り弘い區域に亙つて相似て居る。其中でも滋賀縣は殊に興味ある交錯地の一つで、色々の名稱が竝び行はれる。まだ此以外にヲガンダと呼ぶ處もあれば、ガマンダと謂つて居る村もある。オカマトオサンは片ことであらうが、前に擧げたヲガミトオトが近くにあるのを見ると、後世の子供たちは、別に之を何處かのオトウ、即ち親爺に聯想して居たかも知れぬので、やはり亦遠州の「雄咬み」などゝ、同じ列に考へてよい一般的の誤解である。
 人らしい名前を動物に付與した例は幾らもある。兒童は單に蟲にも心ありと空想し得たのみならず、?彼等を遊び相手とする爲に、特に似合ひの名を見つけて天然の友に贈らうとした。その中の最も平易で且つ無理の無いものが永く殘るのである。
  ヲガンボウ             阿波一宇山
  ヲガミタラウ            日向島野浦
  ヲガンダロ             肥前南高來都
  ヲガミタラウ            同 長崎市・大村市等
(344)  ヲガンダラ             美濃根尾谷
  ヲガンダムシ            同 大垣市
 この終りの二つは、事によると「拜んだら通さう」の下略かと思ふが、その他のタラウは何れも太郎といふ男の兒のやうな名をヲガミに附け添へて、親しい交際をしようとした試みであつて、最初には蟷螂の漢字音と、何等の關係も無かつたことゝ思ふのだが、紀州の人に聞くと和歌山ではヲガミトウロウ、有田郡には、
   をがめとうろう
   拜まにや殺そ
といふ唄も行ほれて居るといふ。それのみならず長野縣の各地には、「拜め」とは全然獨立して、蟷螂の字の音かと思はれる方言さへあるのである。
  トウロ               信州北安曇郡
  トウロウ              同 諏訪郡原村
  トウロウカヽシ           同 同  北山村
  トウクロウ             同 飯田市
 又千葉縣の何れの部分かにも、此蟲をトウロンビと呼ぶ村があると見えて、俚謠集拾遺には次のやうな唄が載つて居る。
   とうろんび/\
   どつちの川ァ深いか
 即ち水の流れを望んで居るやうな此蟲の腰つきに興じて、斯んなひやかしめいた文句を流行させたらしいのである。
 或は此等の例に基いて、別に尚一つの推定も成立つであらう。即ち初めに此蟲の漢名がトウロウなることを教へた(345)者があつて、夙く各地の名稱を改めて居たのが、後に九州の一隅に於て之を太郎と誤解することになつたものと、考へて見ても通用するかも知れない。しかし何れにしても一旦命名の本旨が忘れられて後、形は殘り氣持のみ改まつて、なほ流轉する習はしが言語だけにはあつたのである。
 是は或は世の常の文學と、同じく人間の智巧に成る所の、言語といふものとの差別點であつたかも知れぬ。言語には別に音聲其物の力といふやうなものがあつた。さうして其力が一つ/\の民族によつて區々であつた。例へば蟷螂の斧といふ諺などは、早くから知つて居た人が多いか知らぬが、支那では何故に此蟲を蟷螂と謂ひ始めたかは、本草綱目でも讀んで見た人でないと、誰も説明することは出來なかつたのである。時珍の説に依れば、此蟲兩臂斧の如く、轍に當つて避けず、故に當郎の名を得たりとあつて、言はゞ頑強に抵抗する者を意味したのだが、日本では其トウロウの音に促されて、進んで通過せんとする者といふ風な心持を與へて居る。太郎といふ言葉自身も、亦既に同じ法則に支配せられて居たらしい。即ち我々の國語の中に、幾分か之と近いタルといふやうな音があつた爲に、此語の輸入採用は容易であつた代りに、範圍が少しばかり原産地とは異なることになつたかと思ふ。言はゞ言語は使ふ人の智力境遇次第で、追々に變化し發達する樣に、最初から出來て居るので、それが徐々として移れば人は怪しまず、獨り遠州のヲンガミの如くに、意外に急激であつた場合にのみ、驚いて之に注意するのである。
 古人の天然を觀察する態度の親切で又精確であつたことは、既に學者の感歎を吝まざる所であつた。其上に性情の自然は、往々にして東西異種民の間にすら、著しい事蹟の一致を偶發せしめたことは、拜み蟲の僅かな例からでも之を認めることが出來る。しかも其觀察の要點は次から次へ、移つて暫らくも停止しなかつたのである。其結果が蟷螂の如く、別に人生と深い交渉を持たなかつた動物の名をさへも、無數に變化せしめて今日に至つたので、之を綿密に記録して見るならば、或は言語の史料ばかりでも、一篇の國民生活誌を作り上げることが出來る。少なくとも此民族の文化過程には、僅かに斯ういふ方面との交渉に於て、其痕跡を留めて居るものが多いのである。之を度外視した國(346)史の研究は、恐らくは方法を盡したものとは言はれないであらう。
     三
 
 越後の糸魚川の上流などには、蟷螂をセキムシと呼んで居る村がある。セキは即ち關防の意であつて、是ばかりは當郎の本の語義と、偶然に一致して居るのである。全體に此蟲の擧動の鈍重にして、頗る他の小蟲の倉皇と遁げ隱れるに類せず、且つ眼の在り所や前足の形が、妙に人間ならば敵意を抱いた者と、類似して居たことは不幸であつた。其爲に由無き多くの惡名は付與せられた。九州四國の小兒が拜むなら通さうと、戯れたなどはまだやさしい方で、或はもつと腹の底からの、憎みを持たれて居たのでは無いかと思ふ。確かなことはまだ言へぬが、段々に蟷螂の地方の名を集めて行くと、近世の兒童の遊び唄より以前に、彼等の親たちが遙かに嚴肅な態度を以て、此種の天然に臨んで居た世の中が、あつたといふことだけはほゞ認められる。
 それを少しでも明らかにして置きたいのが、差當つての私の目的である。今日蟷螂の標準語として全國に知られて居るのはカマキリであるが、如何なる順序を經て是が京都の著述用語に、採用せられることになつたかは不明である。少なくとも近世に於ては、此語の領土は案外に狹かつた。さうして古くは盛んに行はれて居たといふ證據も無いのである。或は此名稱が偶然に阪東武士などに伴なはれて、都に入つて居たから文人に知られ、書物にあるから有力者に認められ、しかも東國では元々我處の出である故に、殊に之を承認し易かつたのでは無からうか。さういふ實例は此外にもまだ幾つもあるやうである。
 西國でも筑前福岡などは、夙くカマキリといふ語があり、それから豐前豐後の  稍々廣い區域にかけて、カマギッチョウといふ方言が行はれて居るが、其三方を取圍んで、ヲガメ其他の別系統の方言があるから、是は東の方から入つて來たものと思ふ。カマキリ系の語は、東の方は近畿地方に始まつて、西は中國一帶、東は大よそ太平洋側の低地を(347)飛び/\に、他の一端は奧州にも入込み、所謂訛語の變化は最も關東平野に於て繁雜である。勿論今となつては何處を發生地と見定めることは難いが、カマキリを一番古い形と臆斷しない限りは、やはり多くある類似を比較して、この命名の由來を尋ねて見るの他は無いのである。
 このカマギッチョウといふ語が、遠く地を隔てゝ江戸にもあつたことは、俚言集覽が既に之を録して居る。江戸だけならば或は九州から之を移したとも見られようが、さう見ることの出來ぬ理由は、第一には分布がずつと弘く、且つ隨分の田舍に及んで居る。
  カマゲッチョ            安房
  カマゲツチョ            下總東葛飾郡
  カマガッ(ギツ)チョウ       常陸新治郡
  カマギツチョ            下野河内郡
  カマギツチョ            上野佐波郡
  カマギッチョ            靜岡縣某地
  カヾミッチョ            同  安倍郡
 第二には蟷螂と蜥蜴との奇異なる混同が、東西兩地にあることである。九州でも熊本の附近などは、蟷螂をトカゲと言ひ、區別の爲に本物の蜥蜴の方を、トカギリと謂ふさうであるが、是だけではまだ説明が付かなかつた。ところが關東に於て玉川桂川の水域、それから利根川印旛沼の岸にも、處々に同じ例がある外に、更に伊豆に於てはカヾミッチョは蜥蜴、駿河に越えると同じ語が蟷螂を意味する。武藏の北多摩郡などの蟷螂をトカゲと呼ぶ地方では、蜥蜴は即ちカヾミッチョウである。相模の某地では蜥蜴のことをカマキリ、上總の山武郡では之をカマギッチョ、さうして蟷螂の方をカマンチョなどゝ謂つて居る。しかし斯ういふ入組んだ間ちがひも、東國ならばほゞ説明することを得(348)るのである。
 
     四
 
 東部日本の人々は一般に、蜥蜴に二種あることを認めて居る。自分は親しく比較して見たことは無いが、一方が只のトカゲで他の一方はカナヘビ、或は青蜥蜴とも謂つて、彩色の鮮かな小形の物をいふので無いかと思ふ。なほ專門家に尋ぬべきである。そのカナヘビには色々の異名がある。ほんの僅少の例を擧げるならば、
  カナゲッチョウ           陸前栗原郡
  カナギチコ             同 遠田郡
  カナゲチョ             仙臺市
  カナヘンビ             秋田市
  カナチョロ・チョロ/\       新潟縣一部
  チン/\カネヘビ          富山縣一部
  カナエッチョ            信濃下水内郡
  タカビッチョウ           同 北佐久郡
  カヾミッチョウ           甲州
  カマンチョロ            下總東葛飾都
  オカマヘビ・オカマチョロ      同 北相馬郡
  カマキチョウ            上野邑樂郡
  カマンチョ             下總印旛郡
(349)  カマチコ              下總香取郡等
  カマキチ              東上總一帶
 是が皆カナヘビのことであつて、中でも香取郡のカマチコなどは、隣の印旛郡では蟷螂を意味し、上總のカマキチは同時に小旋風即ちカマイタチを意味し、其カマイタチも、上越後や甲州郡内では蟷螂のことであつた。
 つまりは二つの名は接近によつて混同を來たしたのである。東京などでも多分カナヘビをカヾミッチョロと謂つて居るだらう。もしカマキリをカマギッチョウと謂ふ者があつたら、それと前者とは紛れてもしかたがない。但しこれだけでは蟷螂をトカゲと謂つた原因は尚不明だが、それも蜥蜴の一蟲二名を忘れ、新たに二蟲一名の不便を避けようとしたら、元々名前の意味を知らぬ者は、或は感じの惡い方の名を、人望の少ない蟲に與へようとしたかも知れぬのである。
 兎に角にカマギッチョは東日本に於て、カヾミッチョロと相隣して住んで居た。九州の方には其隣が無かつたのである。從つてこの言葉の趣旨とも言ふべきものは、彼の方面からは尋ね出すことは出來ぬわけである。カマキリの變化はヲガメ程には奇拔で無いが、それでも大體の系統があつて、必ずしもカマキリを以て本來の正しい形と、推定することを許さぬものがある。先づ近い分から列擧して見ると、所謂標準語の威力は、東海の濱に至つて既に衰へてゐる。
  カマッキリ             遠州御前崎
  カマッキリ             駿州梅ヶ島
  カマッタキリ            伊豆神津島
  カマッキリ             相州小田原邊
  カマッキリ             武藏橘樹郡
(350)  カマッチョ            上總馬來田
  カマカリ              水戸附近
  カマガリメ             常陸那賀郡
  カンマキリ             陸中種市
 終りの例は近世の輸入かも知れぬ。斷るまでも無く地名は採集地で、是より外へは及ばぬといふので無く、寧ろ反對に其周圍も同樣であつたことを推定せしめるが、それにしても存外に狹い領土であつた。或はカマキリといふ言葉の構成が、鎌を使ふ人々には却つて不可解であつた爲では無いか。日本海の側面に於ては、伯耆の山村から出雲石見の大部分にかけて、カマカケといふ稱呼が行はれて居る。鎌掛けならば幾分か意味を取り易い。即ち例の蟷螂の斧を高く上げて、木草の間に渡つて行く樣子は、鎌を掛けると見立てゝも不自然では無かつたからである。
 
     五
 
 それから次にはカマタテと謂ふ地域が、今一段と弘く雙方の海に及んでゐる。
  カマタテ・カマタチ         加賀江沼郡等
  カマタテ              越前大野郡
  カマタテ              大和高市郡
  カマタテ              美作苫田郡
  カマタテ              備後沼隈郡
  カマタテ              周防玖珂郡
  カマタテ              土佐土佐郡
(351)  カマタテ・カマウッタテ       常陸那珂郡
 ウッタテルとは高く擧げることで、之を武器として使用する場合を意味するのであらう。さうだとすれば此蟲の人を見て避けんとせぬ樣子を、日本の田舍でも憎く氣味惡く、又けなげにも感じた者があつたので、名のつけ方の率直さから考へても、弘い區域の一致に由つて見ても、此方が古くからあつたものゝ樣に思はれる。
 しかしそれが轉じてカマガリとなり、又カマカケとなりカマキリとなるには、やはり相應なる理由がなくてはならぬ。第一には鎌を立てゝ反抗する蟲といふ觀察が止んで後に、尚あの前肢の鎌に似て居ることを、認めて居たものがあつたのでは無いか。第二には又ヲガメトウロウやカヾミッチョロの例のやうに、何か新たなる變化に導くべき誘因があつたのでは無いか。さう思つて見ると爰に全く別系統のカミキリといふ方言があつたのである。是が生態學上の事實であるか否かは知らぬが、髪の毛を與へると咬み切るから、それでカミキリだといふ人もあつた。支那でも時珍などは「喜んで人の髪を食ふ」と説いて居る。さうかと思ふと第二の説もある。自分などは中國の郷里に於て、幼時幾度か蟷螂の腹を割いて、黒い長い絲の如きものを出して見たことがある。あれは臓器の一部だといふが、久しい間土の上で蠕動する。それを子供たちはカミキリムシと名づけて居た。何れにもせよ此名前も亦弘い區域に行はれて居る。北は奧州の九戸郡葛卷、羽後の平鹿郡、加賀の小松附近、近畿では攝津の有馬郡、それから播州の赤穗郡又藝州の大崎下島でも、現に蟷螂をカミキリと呼んで居り、東國に於ても上總夷隅郡などに、他の名稱と併存して今も此語があるのである。是は勿論一個の假定であるが、カマタテ・カマガリメの古い名の隣に、假に耳立つカミキリの名が現はれたとすれば、子供だちが之を混同して一つにすることも、少しも不自然ではなかつたのである。それを強ひて鎌だから切ると解して、何故に鎌といひ始めたかを考へなかつた場合もあり得る。唯今日まで人が承知をしなかつたのは、古くしてしかも書物にさへ出て居る言葉に、そんな輕々しい誤りがあらうかといふ點であるが、カマキリといふ名前は翰林の碩學が、諸子百家の書を渉獵して後に、判定して是なりとした公用語でもなかつたのである。
(352) 實は斯んなことは兒童の領分で、大人はたゞ成長するまで之を記憶したばかりである。子供は他の子供の言ふこととちがつたことをいへば、正しくても笑はれる。年齡の差ある者が交際すれば、大きな兒のいふことが常に正しい。だからほんの一人か二人が誤解しても村の語は變り得る。例へば東京の少年たちが今でも使ふ有名な誓約文に、「ユビキリカマキリ」と云ふのがある。一方が指切りならば後段は髪切りでなければならぬ。蟷螂が果して詛ひごとに引合ひに出される理由があるならば、前のユビキリは何かの誤りでは無いか。自分等は單に一本の指を曲げて、嘘をついたら指が腐ると宣言する場合に、最初から其指髪を切るといふ理由が無いと思つてゐる。從つて是はこの忌むべく畏るべき一個の生物を、誓約の證人に連れて來たものと解するが、それにしてもやはりユビキリと誤るだけの、原因は別にあつたのである。
 
      六
 
 京都地方に行はれた蟷螂の最も古い方言は、カマキリではなくしてイボムシリであつた。倭名鈔には以保無之利と出て居る。全く不思議な話だが、今日京都にはもう之を使ふ者は無く、却つて國の片端に往つて、ほゞ完全に保存せられて居るのである。大體に於て奧羽各地から、越後までを其領分と見てよいが、他の地方にも同じ例はある。例へば信州の木曾でイボンジリ、出雲もどの邊かでイボムシリ、土佐でも土佐郡でイボウジ、安藝郡でもイモジリと謂つて居る。此點は自分が曾て比較を試みた蝸牛の、カタツムリとマイ/\との關係に  稍々似て居る。即ち一つ以前に確かに京に行はれたイボムシリは追ひ出されて、奧羽や山陰や四國に往つて殘り、其跡へは東海道を登つて、カマキリが足利尊氏などの如く、都に入つて來て近國に號令して居るのである。だから此上なほ三つも四つも同種の方言變化が見當つたならば、そろ/\之を法則の一つとして、承認することにしてもよからうと思ふ。
 東北地方で一番に普通な蟷螂の方言はイボムシである。
(353)  エンボムシ            信州上水内柵村
  エボムシ              越後北蒲原郡等
  エボリムシ             同 某地
  イボムシ              同 岩船郡關谷
  エモボツ              山形縣飛島
  エボヽチ              秋田縣龜田
  エボムシ              同 鹿角郡
  イボムシ              陸前田代島
  イボムス              「仙臺方言考」
  イブムシ(タバコムシ)       陸前川崎邊
 宮城縣栗原郡誌には、此蟲は疣をきるからそれでイボムシと謂ふと書いてある。切るといふのは果して咬み切ることであらうか。さういふ氣味の惡い實驗をした人もあるまいと思ふが、支那でも北部では蟷螂を蝕肬と名づけ、疣を病む者往々にして此蟲を捕へて之を食はしむと本草綱目には書いてあつて、決して空な話では無かつた。ところが又一方では、幸田文時氏の「さとことば」に、同氏の居村越後西蒲原郡吉田村鴻巣に於ては、蟷螂をエボミシ又はエボキリミシといひ、之を捕へて疣をこすれば治すといふとあり、或は之をすりつぶして疣に塗るといふ民間療法も、どこかに有つたと記憶する。結局至つて不確實な經驗には相違ないのであるが、それにも拘らず、それから出たらうと思ふ名稱は更に弘く行はれて居る。
  イボクヒムシ            青森縣佐井濱
  エボキリムシ            同  浦野館
(354)  イボクヒムシ           青森縣八戸市
  エボドリムシ            陸中釜石
  イボキリ・イボカキ         下野河内郡
  イボカキ・イボカリ         常陸北部
  イボカッキリ・イボクヒ       同 東南部
  イボクヒムシ            下總香取郡等
  イガッツリムシ           信州更級郡等
  イボキリ              同 北安曇郡
  イボッタムシ            相州三浦郡
  イボキリムシ            駿河駿東郡等
  イボクヒ(テウナウチ)       伊豫弓削島
 即ち北は外南部の突角から、江戸の周圍を經て西南は瀬戸内海にも及んで居るので、自分がユビキリカマキリのカマキリがもし蟷螂ならば、ユビキリも亦同樣に疣切りであつて、疣を切り髪を切るといふ蟷螂を以て證人とする爲に、指を曲げて其形に擬したのが、後誤まつてユビキリに代つたかと、想像して見るのも若干の根據があると思ふ。
 
     七
 
 以保無之利のムシリも疣を取去ることで、勿論イボムシにリが附いたのではあるまいが、其意味は夙く不明に歸したと見えて、之をイボシリと謂つたのも古いことである。例へば新猿樂記には蟷螂舞と書いて、イボシリマヒと訓ませて居る。イボシリは木曾などのイボンジリを中に置いて、イボムシリの省略であつたことが察せられる。又女の髪(355)の最も簡單な結び樣に、イボジリ卷きといふのが近頃まであつた。それが蟷螂の形から出て居たことは、伊豆大島のインボンジリを見ればよく分る。あれは島田髷の長く垂れ下つたもので、其かつかうは正しく蟷螂の後姿であつた。カミキリといふ別名もあることを、知つて居たならば忌んだであらうが、近くにあつても恐らくは知らなかつたのである。
 神奈川縣の西部にはイボシリといふ名が行はれて居た。馬入右岸の山村などは、今も蟷螂をイボシリと謂つて居る。甲州黒駒附近の村も亦同樣である。富山縣の南端加賀に接した區域で、此無視をイモリといふのは驚くべき變化だが、やはり此順序を經て誤解せられたものかと思ふ。加賀では金澤市及び河北郡などでイモチャケと謂つて居る。もう又新たなる解説は出來たにしても、疣との因縁が元はあつたのである。越中は色々面白い話のある國だが、方言に就いても注意すべき特例が多い。例へば蟷螂を、
  エモジゲンタロ           越中上新川郡
  エモジカヽズノゲンダ        同 同   針原村
  エモジケンダン           々 入善
などゝいふのは、是もエボムシ・イボシリの片言であらうとも、なほ新たなる空想の之を支持したものはあつたのである。唄や遊詞の相手になる動物が、?人がましい待遇を受けたことは、前にヲガメ太郎について既に述べたが、爰では尚一段と具體的な、有りさうな人の名を拜領して居る。同じ地方ではヰモリ即ち蠑?のことを、ヨモジゲンタラウといふ村がある。ヨモジ・エモジは恐らくは鑄物師《いもじ》である。旅の鑄物師は藝人であり、歌知り話上手で、殊に滑稽を以て人に愛せられた。是も筆者の以前からの假想説であるが、全國に流布する手毬唄の、「とうから御出でたおいも屋さん、お芋は一升いくらだね」といふ文句なども、イモジに向つての戯れであつた故に、無限に子供たちには興味があつたのかと思ふ。あの終りの詞の、「もちつとまからかちやからかぽん」は、斯ういふからかひを氣輕にあし(356)らつた受け返辭と、旅職人の我境遇を題材とした歌の節と足拍子とが思ひ出される。本物の芋賣りは農夫だから、到底斯んな風流は案じ付くわけが無いと思ふ。さうすると鑄物師の源太なども、文字には現はれない可笑味が伴なうて居たので、此職が今日の立派な我邦の工藝に進化する以前、如何に彼等の中の不遇なる者が、異郷の旅に身を侘びて居たかといふことも、かつは窺ひ知られるのである。
 しかしそれだけではまだ合點の行かぬのは、何故に其鑄物師の名が源太源太郎であつて、平太でも藤太郎でもなかつたかといふことである。越中の蟷螂は、鑄物師で無くてもなほ源太であつた。
  ゲンタ               越中中新川郡
  ゲンダ               同 婦負郡大長谷
  ゲンダイロ             同 五箇山其他
  ゲンダイボ             加賀一部分
  ハタオリゲンダ           越中某地
  ハイトリゲンベェ          同 魚津邊
  ハイトリゲンボ           加賀河北郡
 ハイトリは即ち蠅を取るといふ習性から出たもので、山形秋田の二縣などは、主として此名を以て蟷螂を呼ぶのであるが、注意すべきことにはあの地方へも源太が出かけて居た。
  ヒャトリゲンジェヤボ        羽後横手
  ハラタチゲンベェ          上總夷隅郡
  ハラタチゲッポ           下總印旛郡
  タケンボ              信州小谷
(357)  ドンダェボ             越中氷見郡
  ドンダイボ             能登鹿島郡一部
 最後のドンダイボはゲンダイボから出たやうだが、是も憎むからドを附したことは、吉野の北山村などでヲガメの代りに、ドンガメと謂ふのと同じく、小兒と蟷螂との間の敵意の反映に他ならぬと思ふ。まだ此以外にも澤山の惡名がある。惡い名を付けるのは詛ひであつた。ちやうど氣の弱い男が惡口を聽いてひるむ樣に、之に由つて少しでも相手の勢力を殺がうとしたのである。
 
     八
 
 何故に源太源太夫源左衛門の類を以て、蟷螂を擬人化したかには理由があるらしい。話が横にそれるが、動物のゲンザを以て呼ばれるもので、一番著名なのは蜻蛉である。蜻蛉の日本語は全國略三通りで、京都周圍のトンボに始まり、津輕のダンブリに終るもの、是が一番新しくて、九州迄は入つて居なかつた。九州のヘンブ・エンバと、東部のヤンマとは一つの語の變化かと思つてゐる。それから國の南方の端には、古いアケヅがまだ殘つて居る。此間に挾まつて獨り茨城縣の北部から、栃木縣の東部にかけて、ゲンザといふ異名が行はれ、或はそれから轉じて、
  ゲンザッポウ            常陸西茨城都
  ゲンザンボウ            岡 久慈・多賀郡
  ゲンザッポウ            下野河内郡横川
  ゲンザ(トンボ)          同 同  富屋村
と村々の變化がある。それが隣の縣にはまだ此例を見出さぬに反して、遠く離れて秋田市でゲンザ、羽後河邊郡の諸村でもゲンザといふ。土地の學者が佐竹殿の家來たちの、昔常陸の故郷から持つて來た言葉と見て居るのは、多分當(358)を得たる推測であらう。
 常陸國誌にはケンザッポウは蜻蛉の小さきものとある。然るに近江滋賀郡の鵜川村などでは、最も大なる蜻蛉をゲンジといふのである。螢なども一種大形の光る部分に横筋のあるものを、ゲンジと謂ふ地方は多い。字にはよく源氏螢と書いて居るけれども、それは理由の無いことである。兒童の螢捕りの唄は各地一樣でないが、多くは、
   ほうたる來い、山ぶし来い
 又は山吹來い/\とも歌つて居る。其山吹もしくは山臥が、右にいふゲンジ螢のことらしくて、しかも誰もまだどうしてさう謂ふかは考へて居なかつた。沖繩縣でも宮古の諸島だけは、螢をヤンブ又はエンブといふ語があるから、或は別の説明も付くかも知れぬ。しかし自分のみはゲンジ(驗師)だから即ち山伏ともいふので、何かは知らずこの大形の螢だけに、一種の力を感じて居た名殘かと思つて居る。蜻蛉のゲンザに至つては、殊に驗者といふ名稱の依り所があつたと思ふ。驗者とは修驗者、祈?師又は魔術者を意味して、古く俗間にも用ゐられた語である。一つには眼の畏ろしさ、二つには見かけ以上に輕捷であつて、能く色々の生き物を襲ひ殺す。故に蟷螂にも亦蜻蛉と同じく、驗者といふ名を命じたのが、後に普通の源太等に、なつてしまつたのではあるまいか。ゲンベといふ言葉は福井縣のどこかで、動物の荒く強いことを意味して居るが、それは或は關係の無いことかも知れぬ。しかし遠州小笠郡の大洲村などで、鴉のことをゲンジ、又東京あたりのゲジ/\といふ蟲の名の如きは、多分同じ趣旨の驗者から出た名であらう。ゲンザの問題を起した越中でも常陸でも、共に其ゲジ/\をカヂハラと謂つて居るが、やはり之もいやな奴といふ意味であらう。即ち氣味が惡い故に嫌はれたのである。
 
      九
 
 富山縣下には今一つ、外では聽かぬ蟷螂の異名がある。
(359)  オヤメヽリ            富山市附近
  オヤミヽル             越中出町
  イシミヽリ             高岡市
 其他メヽリムシ又メヽルムシといふ村もあるらしい。メヽル・ミヽルは睨むことで、即ちこの蟲の眼のあり所が、妙に氣味惡く畏ろしいのに注意した命名であるが、其中でも石にらみは少しくおどけた名で、石の樣な何でもないものを睨むやうでは、高が知れて居るといふ安心も含まれて居るが、親睨みに至つては二通りに解釋がつけられる。親をさへミヽルほどの僧むべき蟲といふことであつたか、或は「親をにらめ」といふ詛ひ言を以て、彼の惡意に反抗したへらず口であつたか。自分は恐らく後の方だと思つて居る。天然の害敵に對する前代人の態度は、常に強弱の二通りがあつて、必ずしも阿諛曲從を以て能事とはしてゐなかつた。だから斯ういふ腕力以外の攻撃方法の如きも、單なる感情の發露では無くして、寧ろ荒い語氣惡い批評を以て、自分が折々遣られた如く、大いに相手を遣込めて、其毒氣を拔去らうとする計畫からであつた。蝮をクソヘビといふのも、盗人萩の實をバカとかドロボと謂つたのも、今日の戰でいへば爆彈投下の如きもので、たゞ蟷螂にも感情の鋭敏なものがあつて、そんな惡口を聽いてひるむだらうと思つたことが、幾分か昔風であつただけである。親めゝりは例の「親まけ」と同じく、新しい世代の人々には頗るその文句の動機が解しにくい。
 それから尚此地方には、オンバ、とかテラノバヽサとか、老女に託した名稱が二三あるが、それが嘲笑の意に出て居るか否かは明らかでない。が兎に角に是ばかり好感に基いたものとも解し得ないから、或は若い男子がさう言はれると怒つた如く、蟷螂も一廉の勇者を以て任じて居る者として、之を老女と評して彼の敵意に酬いたのかも知れぬ。新潟縣の中にはオコリムシ又はハラタチムシの異名があつた。それが關東に行くと、
  ハラタチヂヽイ           上野多野郡
(360)  ハラタチバヽア          上野多野郡
  ハラタチゴウヂ           武藏秩父郡
  ハラタチバアバア          上總長生郡
  ハラタチバヽ            同 夷隅郡
となり、それが前に擧げたハラタチゲンベイに續くのである。武藏入間郡には蟷螂に對して、オマンバカ/\云々といふ童詞もある。何故にオマンであるか、土地にはなほ昔話などが殘つて居るかも知らぬ。斯うして子供の遊び相手になる頃には、曾て驗者と信じて畏れ且つ警戒して居た習慣が、由なき殘虐と變じて輕蔑の唄を以て之に挑み、又は意味も無い殺戮を試みることにもなるので、平和が學問の啓發に須つ所多きことは、亦斯んな所からも經驗せられる。
 
     一〇
 
 江戸の近在にもハイトリムシといふ名のあつたことは、百七十年前の物類稱呼にも之を記して居る。新しい觀察に由つた名であらうが、不思議に西部日本には普及しなかつた。それはもつと適切で又興味ある方言が、支配して居たからと見てよいのであらう。兎に角に今日同じ語の行はれて居る區域は、日本海側に限られて居る。今は單に其分布の例だけを擧げて置くが、如何いふわけでイボムシ系の間々へ、此語が飛び/\に入つて來たかは、今後の言語學者に答へて貰ふべき問題である。
  ハイトリムシ            能登能登島
  ハイトリムシ            越後粟島
  ハイトリ              羽前東村山郡等
  ヒヤトリ              羽後由利郡
(361)  ヘァトリ・ヘトリ         羽後南秋田郡
  フェトリ              同 男鹿半島
  ヘイトリムシ            同 田澤湖邊
  ハエトリ              同 北秋田郡
 さて以上の分類比較によつて、大凡方言の分野が明らかになつた。即ちヲガメは西部にイボムシは東北に割據して、其中間を弘くカマキリ系が征服した。しかも相互に入交つて若干の飛地を領した外に、なほ地方的に有力なる新名稱が輩出して、自然に中立地帶を作り、今までは小さい方言領の獨立を保たせて居た。それをカマキリの新國家主義が、追々に統一して行かうとして居るのである。
 さうして小さなしかも興味ある幾つかの言語現象が、或は省みられずして永く消え去らうとして居る。筆者は差當つて、責めては其問題だけなりとも列擧して置くべき義務を感ずるのである。其一つは既に蠅取りの例でも見たやうに、蟷螂の異名はもう十分に多いにも拘らず、後に機會ある毎に、又別のものを作り出さうとした試みのあつたことである。陸前柴田郡で此蟲をタバコムシ、勿論是もあの手つきの形容であるが、煙管といふ物が田舍にも行はれると、誰が付けるか斯んな名も出來る。
  ナタムシ              若狹大島
  チョウナムシ            阿波木屋平
  チョウナカタギ           伊豫伯方島
  チョウナキリ            同 大三島
  チョウナウチ            同 弓削島
チョウナは確かに手斧である。古くからあつたかは知らぬが、之を蟷螂の形容に充てたのはさう昔のことでは無か(362)つたらう。
  タイコブチ             能登鹿島郡一部
  タェコンブチ            越中婦負郡一部
  タイコンブチ            信州南佐久郡
 是は即ち太鼓打ちで、二つの前肢の上下する點に、特に注意を拂つたのは改良である。多分は此中の何れかで始まつて、其他の地方は之を採用したのである。
 第二に見遁すべからざるは、さういふ新しい又は珍しい稱呼までが、遠く地を隔てゝ一致して居ることである。それを互ひに獨立した偶然の發明と見ることは、大抵の場合にはむつかしい樣である。
  ザットウボウ            安房
  ザットノボ             播磨宍粟郡
  ザットノボウ            同 佐用郡
 即ち座頭の坊で盲人のことである。盲人が前腕を立て掌を開いて手さぐりすることは、成程よく此蟲の形と似て居る。しかしあれは芝居などの誇張であつて、按摩といふ類の職業が始まる前には、果して手も引かれずにあんなあるき方をしたかどうか。それにも拘らず蟷螂の手つきに興を催し、之を座頭に比べた名を與へた者が、中國にも關東にも居たのである。
  ショウロサマ            日向廣瀬町
  ショウロウマ            同 宮崎附近
  ホトケノウマ            壹岐沼津村
  ホトケウマ             淡路沼島
(363)  ホトケンマ             阿波木屋平
 このホトケは死者の靈のことで、精靈と同じである。どうして此蟲を死者の乘り物と見たかは、實は明瞭に説明することが難いが、或はたゞ盆の頃に出て來るといふだけで無しに、蟷螂の擧動が遲鈍で、いつ迄も一つ處にじつとして居るのを、盆の瓜茄子の苧稈を脚とする馬の、少しも歩まぬのによそへたものでは無いか。伊豆半島では所謂野呂馬者をショウロマ、同松崎ではショウロツキと謂つて居る。即ち動き出さぬ馬といふ意味から、ホトケノウマなどゝ名づけたのかも知れぬ。しかも其樣な奇拔な批評が、淡路から壹岐まで空を馳せて行つて居るのである。それよりも更に著しい遠方の一致は、
  イナボザル             下總印旛郡
  イネザル              上總山武郡
  サール               沖繩縣宮古島
  サールグヮ             同  本島絲滿
 千葉縣には猿は早くから居ないが、兎に角に田の稻の間などを、長い臂を伸べて渡つて行くのを見て、此獣にたとへたことは疑ひが無い。しかも宮古の樣な猿と縁の薄い島で、輸入で無しに此名稱が現はれようとは思はれぬ。方言は正しく人に付いて、縁があれば案外の土地にまで、永い間には持ち運ばれて居たのである。從つてそれを方言と謂ふことさへ、實は正確では無いのであつた。
 
     一一
 
 第三の點は國語史の研究者としては不面目であるが、現在各地方に活きて働く言葉にも、之を製作した趣旨の不明なものが多いことである。しかもそれが高千穗の二上峯以前から、持つて降つたもので無い場合には、殊に我々の心(364)の歴史が、それだけ埋もれ隱れて居ることを意味するのである。しかし不明といふことが明らかに意識せられるならば、いつかは之を發見する試みが成功するかも知れぬ。さうすれば必ず新たにもたらす所がある筈である。現在に於て最も氣になるのは、
  チョーレー             豐後北部
  チョーロンミヤー          肥前平戸島
  チョウライ             日向椎葉村
  カンチョーレー           同 家代村
  カマキリテウライ          肥前一部
  カマキリテウラウ          近江愛知郡
の一類であつて、是も東は滋賀縣に飛んで居ること、前のヲガマナトオサンとよく似て居る。或は使用する人に聞いて見たら、大よその心持が知れるかもわからぬ。其他、
  トラボ               羽後仙北郡横澤
  ツルンマイ             上總某地
  カハミソ              信濃某地
  クヮンノンムシ           越後中魚沼郡
  サンマエノホネカジリ        越中婦負郡草島
  シラメトリ             對馬豐崎村
の類の、孤立した例はまだ大分あるが、それには或は永久に重大で無いものもあらう。之に反して今も南方諸島に亙つて最も著しい一致を示す一個の方言の如きは、幸ひにして其由來を語り得たとしたら、國語の歴史のそれから受け(365)る恩惠は、非常に大きなものがあるだらうと思ふ。
  イシャトゥー            首里那覇
  イッサトゥー            喜界島
  イシャトゥマヤ           波照間島
  イサトゥーマイ           與那國島
  イッサトゥマイ           奄美大島大和村
  イシトバン             同   古仁屋
  サートゥー             久米島
  サートンペー            平安座島
 沖繩の言語の九州島との親しみは、時としては九州が本土に對する關係よりも深いものがあつた。故に或種の例外的現象が、此ほど截然たる區劃を示すことは、必ず未發見の一事實又は一法則を語らんとするものである。筆者が自分自身の無識に對して、なほ無限の希望を抱くのは此爲である。
 最後に今一つだけ、言語の上からは縁由の薄い中華の前代社會にも、なほ單語製作の動機として、非常によく我々と似た心理が、働いて居たといふことを言ひたい。その爲に今一度改めて李時珍を引用するが、本草綱目の卷三十二には曰く、
  蟷螂兩臂斧の如く、轍に當つて避けず、故に當郎の名を得たり(一)。俗呼んで刀?と爲す(二)。?人之を拒斧と謂ひ(三)。又不過と呼ぶ(四)。代人は之を天馬と謂ふ。其首の驤馬の如きに因れる也(五)。燕趙の間之を蝕肬と謂ふ。肬は即ち疣子、小内贅なり。今の人肬を病む者、往々此を捕へて之を食はしむ。其來ること自らあり矣(六)。其子房を蛸?と名づく。其?輕飃にして?の如し。村人毎に灸焦して小兒に養ひ、夜尿を止むと云へ(366)り。則ち??致神の名、蓋し此に取れるなり。酉陽雜俎には之を野狐鼻涕といふ。形に象れる也云々。
 之を日本の各地の方言に比べると、(六)のイボクヒムシのことは既に述べた。(五)の天馬は日向のショウロウマであり、(四)の不過はヲガマニャトオサンに該當する。(三)の担斧はカマウッタテ、或はナタムシ・チョウナムシと同じであり、(一)の當郎はハラダチゲンベイ、又はセキムシ・メヽリムシにも似通うて居る。(二)の刀?の轉訛の如きも、例を求むればヲガミトウラウを、いつの間にかヲガメタラウにしてしまつたのと、異なる所は無いのである。更に最後の野狐鼻涕に對してさへも、普通にはヂイノフグリ(丹後)もしくはウシノフグリ(佐渡)の名を以て知られて居るが、上總などには別に蟷螂の卵をヘビノヨダレといふ例がある。要するに如何なる異民族の間にも共通であつたのは、人の自然觀察が今よりも遙かに親切で、物の特徴を感じて之を言ひ現はすに鋭敏であつたことである。それは國民能力の優劣といふよりも、寧ろ自然が一般人にとつて、より偉大なる問題であつたからであらう。
 
  (追 記)
  一、蟷螂考は謄寫版で、僅か二百四十部しか出さなかつたが、是が機縁となつて方言の蒐集を始めた人が多く、その報告の幾つかは雜誌「方言」又は「方言と土俗」にも掲載せられて居り、之によつて補訂しなければならぬ點も少しづゝはあつた。宮崎縣高等農林學校の日野教授が、「日向郷土資料」の中で整理せられたものなどは殊に有益であつて、斯ういふ變化の多い物の名は、一地の採集で無く、やはり村から村へと調べて行かぬと、見落しが多いといふことが心付かれた。この縣もヲガメ・ヲガモ系の方言が全面に行き渡り、中でも霧島山周邊などは主として是であるが、なほその以外に二つの系統の語の對立して居るものがある。その一つは本文にも掲げたショウロンマ(精靈馬)で、此方は區域も小さいが、今一つのチョウロンメ系の方は縣の北部のやゝ廣い區域に亙り、更に隣の大分縣から、遠くは長崎佐賀の二縣にも呼應して居る。チョウロンマイは瀬戸内海などのチョウナカタ(367)ギも同じに、手斧であらうといふ人もあつたが、私はまだ安心してさうかと言へないのは、語の調子がよほど一方のショウロンマに近いのと、更に聽きやうによつては、九州各地のトウロウ系とも似よつて居るからである。それからなほ一點この言葉に限つてカンチョロメ、又はカンチョウリャーなどゝカンを頭に附けたものが多い。これにも何か仔細が有ることゝ思はれて、まだ簡單にはチョウナ(手斧)の訛りとはきめずに居る。辭書には出て居ないやうだが、東京にもカンチョウライといふ俗語があつた。痩せて骨と皮との子供を形容して、カンチョウライのやうな子と謂つたやうに記憶する。乃ち自分などもさう評せられた一人なのだが、それがカマキリのことだつたとまでは確かに言へない。たゞカマギッチョと形がやゝ似て居るので、大かたそんなことだらうと思つて強ひても討究しなかつた。本文の中ではごく手輕にしか取扱つて居ないが、トカゲとカマキリとが名を入れちがへにして居るなどゝいふことは、國語の上では珍しい出來事である。その原因を明らかにする爲には、なほ斯ういふ方面からも考へてかゝらねばならぬかと思ふ。
  一、沖繩諸島のイサトウ又はイサトウマイといふ一類の方言は、今のところ最も説明に苦しむものだが、是も土地の人に尋ねたら、存外に簡單なことなのかも知れない。之に就いて私の新たに知つたことは、このイシャトウが九州の南端にもあるらしいことゝ、これが沖繩の本部半島などでは、マミジャトー又はマミジャイトーといふ風に、變つた接頭語をもつて居ることゝである。サールーといふ異名もこの島々には稀でなく、それは飛び離れて千葉縣だけにはイナボザルの例があつた。猿にたとへることは臺灣にもあつて、福建系の人々はツァウカウ(草猴)と謂ふさうだが、この三つは多分偶合であり、又イサトーとも關係の無い新語かと思ふ。
  一、糸魚川地方のセキムシは關蟲でなく、セキコムなどのセキで腹を立てることだつたかもしれない。斯ういふ種類の一地方限りの新語は、集めるとまだ幾つもあるかと思はれる。その一つ二つを拾ふと、「阿波の方言」にはエンマハン、又オカンボージといふのも出て居る。エンマは或はイボムシリからの脱出かもしれぬが、他の一つ(368)は全く新しい名である。鹿兒島縣のどこかにはセミトリがあり、又ワラキリ蟲といふのがあるが、是も東日本に蠅取りがあり、髪切り蟲が有ることを知らずに付けた名であらう。中國地方では美作久米郡のクビナガ、周防平群島のタマツクリ、同祝島のセンネンオンボウなど、命名の動機にはわかりかねるものもあるが、ともかくも何か今までの名を罷めて、變つた呼び方をして見たいといふ氣持が、特に此蟲に對して抱かれ易かつたことは窺はれ、それが又現在全國のカマキリ方言の、滅法に數多き事情をも説明するかと思ふ。
  一、拜み蟲に拜まれた者は死ぬといふ俗信は、長崎縣の五島や島原半島には殘つて居て少なくとも母は幼兒の爲に警戒するといふ事が、郡誌にも土地の人の話にも出て來る。以前は輕蔑以上の敵意を抱き、それが少しづゝ平和の交際に移つて來た經過が、或はこの次々の改稱に現はれて居るのかと私は想像する。日本でこの蟲を驗者と呼んだやうな氣持が、西洋にもなほ痕跡を留めて居るのは珍しい。マンチスといふのは占者のことだといふが、やはり我邦の修驗の如きものであつたらう。獨逸語では今でも此蟲をゴッテスアンベェテリン、女性になつて居るのも我々のオンバヽなどゝ似て居る。
  一、イボムシリは今ある方言の疣かき、疣食ひ等と同じく、活きた此蟲をまじなひに利用したもので、醫療の經驗を傳へたものではないらしい。茨城縣の或郡では、イボカリと謂つて、此蟲を捕へて疣をかき切るやうな手眞似をさせると疣が落ちるとも傳へて居た。イボツリ蟲といふのも同じ俗信から出た語にちがひないのだが、信州北部などではそれをこの蟲の擧動と結び合せて、イボツルとは怒ることだと思つてしまひ、女や子供のふくれ面をすることを、イボヲツルといふ者が多くなつて居る。こんな近世のたつた一つの動詞ですらも、考へて見なければ由來がわからず、考へて見ればやがてはよく判るといふことは、學問をする者の自然の奨勵のやうに思はれる。
  一、信州の松本周圍には、蜥蜴の青色でない方のを、カーミッチョ又はカーミソといふ名が大正年間まではたし(369)かにあつた。それと本文中の蟷螂のカハミソとは同じ言葉に相違ない。さうすれば爰にもまた一つ、二種の蟲の名を混同し又は取ちがへた例があるのである。カマギッチョとカヾミッチョロと名の近いのが原因であつたとしては、或は此點までの説明は付けにくいかもしれぬ。
 
(370)  蟻地獄と子供
       ――特に疎開の少年の爲に――
 
     一 言葉の樂しみ
 
 誰でも寂しい時には、何かおしやべりをして、元氣をつけようとするのが普通である。それも一つの方法にはちがひないが、考へが伴なはないと言葉にむだが多く、又粗末になり亂暴になつて、終にはいさかひの種にもなりやすい。斯ういふ場合にも、よい頃合を見て、何か變つた珍しい話を持ち出し、みんなから悦ばれる人がある。それは却つてふだん無口な人に多いやうである。無口といふのは?や吃りとはちがふ。たゞ物を言ふ前にちよつと考へる傾きがあり、又は人の言葉に餘分に氣を取られるので、他の人よりも言ひ出すのがおくれて、つい黙つてしまふといふやうな質の人なのである。そんな人たちの知つて居ることは、必ず只のおしやべりよりも多い。だから出來るだけさういふ人の話を聽くやうに、又自分たちも人の言葉を味はふことの出來るやうに、力を入れて聽くのも寂しさに勝つ一つの方法である。耳を肥すと昔の人は謂つて居た。口を動かすばかりが話し方ではないのである。
 今まで自分たちの使つて居た言葉と、丸でちがつた言葉が日本には幾らでも有ることを、定めて皆さんは氣がついたことであらう。どうして此樣に行く先々で、言葉がちがふのかと考へて見た人もあらう。それには何か理由が有るだらうと、思つて居る人も少なくはあるまい。理由は色々と有るがまづ第一に、旅行が少なくて分れ/\の土地に住(371)んで居れば、よそには無い言葉が追々と生まれて來るのは當り前である。だから此頃のやうに交通が盛んになれば、僅かづゝでも互ひに似た言葉が多くなつて行く。又さうでなくては困るのである。私は今から五十年も經たぬうちに、日本全國の言葉が何處に行つても大よそは同じで、外國から來た人などには方言のちがひが、聽き分けられなくなる時が來るだらうといふことを信じて居る。しかしその時に行はれる標準語は、今日の大都會の言葉の通りではあるまい。何となれば是からも新しい言葉が澤山に生まれ、又その中には地方から、入つて來るものもきつとあるからである。地方の言葉を笑つて聽いて居るうちは、それを眞似する氣には中々なれまいが、今度の疎開では、それを笑はずに聽く人と、その心持を味はつて見る機會とが多くなつたからである。佳い言葉美しい言葉といふことは、獨りではきめることが出來ぬが、變つた言葉・面白い言葉は誰にでも覺えられる。さういふことを私もすでに經驗した。その話を一つして見よう。
 
     二 言葉のちがひ
 
 地方の言葉のちがひに、二つの方面のあることは誰にでも氣が附くだらう。その一つは、言はうとして居ることは同じで、たゞ其音聲の出し方、又は節《ふし》や調子だけに差があつて、ちよつと聽くとその言葉だと思へぬもの、それを昔の人はナマリと呼んで居た。親代々又は近所隣が皆一つなので、久しく馴れてしまつて癖のやうなものになり、改めませうと思つても急には中々なほらない。又そればかりを考へて居ると、思つたことがすら/\と言へなくなるから、直さうと努める人も少ないのである。しかし實際は僅かづゝ、自分でも知らぬうちに段々と、このちがひは少なくなつて行かうとして居る。一つには遠方の色々のナマリの人が、寄り合つて暮す場合の多くなつた爲、今一つは字を識つて居る者の數が増して來て音響だけをあてにして物をいふ必要がなくなり、以前ほど節や調子に力を入れぬやうに(372)なつた爲でもある。棄てゝ置いても數十年の後には、よほど互ひに近くなつて來ることであらう。現に最近の三十年五十年のうちにも、この言ひ方のちがひは大分薄くなつて、ひどいナマリの人といふのが、一年ましに少なくなつた樣に思はれる。尤もこれには小學校の、國語の教育も少なからず手傳つて居るのである。
 今一つの言葉のちがひといふのは、是とは全く關係が無く、音の出し方はどうであらうと、何べん言ひなほしても相手には判らぬ言葉のあることで、是は一つ/\覺えて行くより他は無いものである。この中にも甲の土地と乙の土地とで、たとへば踵をキビスといひアクトと謂ふ人が有るやうに、同じ一つの物や事に、ちがつた言葉を使ふ場合と、一方の人は今まで全く知らず、又は丸で氣の附かなかつたことに、他の一方だけでは言葉が有るといふ場合とがある。さうしてこの後の方がもちろん覺えやすい。これを覺えてしまふと、それだけ私たちの知つて居る言葉の數が多くなるのだから、大抵の人はよくそれに注意し、又時々は自分でも使ふやうにするのである。しかしこの點は同じ一つの物に、雙方別々の言葉が有る場合も同じことで、是非覺えて置くといふ必要は無くとも、知つて居た方が何かにつけて便利で、言葉は二つも三つも有つて邪魔だといふものでは無い。たゞそれを自分でもいふとなると、第一には聽手が知つて居る言葉でなければならぬから、自然に私たちはその中の一つ、殊に多くの人が知つて居り、又わかりやすくきれいだと思ふ方を、ふだんは使ふことになるのである。言葉は斯ういふ風に、ちがつた土地の人々が交際をし始めると、自然におもやひのものが多くなつて行くのである。私たちは是を選擇と名づけて居る。その選擇の行はれる爲には、先づ御互ひにちがつた言葉を知り合ふことが順序で、それは皆さんのやうに言葉を覺える盛りの人には、ずゐぶん面白い又樂しみな仕事でもある。ちがつた言葉といふ中には、長い文句もあり、又小さな色々の用言も有るが、さういふものよりも一番早く氣が附くのは物の名である。
 
(373)     三 くぼ蟲
 
 そこで爰には一つ物の名の話、その中でも若い人に最も親しみの多い、小さな動物の名を拾つて見よう。私の是から言はうとする蟻地獄といふ蟲などは、物は一つで何處に行つても名が有るのに、それがなんと、全國にわたつて數十種、ことによると百を越えるかと思ふほどの名前を、土地々々でちがつて持つて居るのである。動植物の中には猫鼠や萩桔梗のやうに、日本中を探しても他の名は殆と無いものと、それとは正反對にやたらに名が多く、行く先々できつとちがつて居るものとがある。溝に棲む丁斑魚《めだか》といふ小さな魚は、二千に近い方言があると言はれ、私の調べて見た蝸牛や蟷螂なども、どんなに少なく見ても二百から三百までの名がある。どうしてこの樣に大きなちがひが有るのだらうかといふことは、博物に興味をもつ人たちも、多分知つて置きたいことであらう。さうしてこの蟻地獄の話でも大よそわかるやうに、それには子供が關係して居り、この言葉を作つたのは、昔この蟲と共に遊んで居た、皆さんよりももつと小さな子供たちであつたらしいのである。
 東京あたりで育つた人たちは、大抵はこの蟲が薄羽蜻蛉《うすばかげろふ》の幼蟲であることを知つて居るだらうが、是をアリヂゴクといふより他に、名が有らうとは思つて居ない。しかしこの蟻地獄といふ名稱は、どうも古くからの日本語では無いやうである。蟻が此蟲の掘つた穴に墮ち込むと、助からぬといふことは事實だけれども、それを多くの人が知つて居たかどうかは疑はしいだけで無く、それで蟻の地獄と名を附けるといふことが、新しい好みのやうに思はれるからである。西洋にはこの蟲を蟻の獅子といふ名が有るさうだが、蟻地獄も事によるとそれを知つてから後の名かも知れない。もとより斯んな蟲は歴史にも出て來ず、又文學の上にもめつたに用が無いから、古い書物の中に見えないといふだけの理由から、この名が新しいとはきめられぬが、もし古い名であつたならば、今少し弘い區域に知られて居り、(374)又他にも似寄りの名が有りさうなものだのに、實際この言葉を使ふのは、書物と學校とで學んだ人に多く、年寄りや小さい兒には少ないのである。
 そんなら古い名は何と謂つたらうか。蟻地獄と呼び始める前にも、この蟲には何かそれ相應の名があつたとは思ふが、古い本にも出て來ぬのだから、それがどういふ名といふことは私にはきめにくい。多分は今のやうに土地によつて色々の名があり、たゞ其中に早く生まれたものと、新しいのとがあつただけであらう。さうしてその古い方の一つに、クボムシといふのが有つたらうと私は考へて居る。
 
     四 言葉を新しくする
 
 蟻地獄を今でもくぼ蟲〔三字傍点〕と謂つて居る處は、有るかも知れないが私はまだ聽いて居ない。たゞ此蟲の作るやうな砂の凹みを、窪といふのがもとは普通であつたのと、似よりの名が今でも方々に有るのと、窪に居るから窪蟲といふのがごく手輕で、それで十分に他の蟲と區別することが出來たらうからさう思ふのである。京都では今何と呼んで居るか知らぬが、其周圍のさう遠くない村々には、くぼ蟲から出たらしい名が折々有る。たとへば大和の宇陀郡などではメメクボ、丹波の氷上《ひかみ》郡ではクボ/\ドン/\、同じ兵庫縣でも、山を隔てた攝津の多田地方では、コボ/\又はオコボと謂つて居り、子供が砂を掘つて此蟲を探す時の童詞に、
   オコボ出て來い
   オコボ出て來い
といふのがある。クボ/\ドン/\の名が始まつたのも、多分さう謂つて此蟲を見つけようとしたからであらう。
 それから同じ兵庫縣の西の方から、岡山縣の北と東にかけて、コモ/\といふ名がやゝ弘く行はれて居る。四國の(375)方でも伊豫の周桑郡などに、ウヅコモリといふ名があるのは、同じ言葉の變化と見てよからう。もちろん是は此蟲が砂の窪みに、隱れて居ることをさう言つたもので、ウヅクマルといふ今日の言葉も同じであらうから、いよ/\コモコモといふ名のもとは、クボ蟲であつたことが想像せられる。京都より東の方では、名古屋附近の砂遊びの子供唄に、
   あら/\あつちへ行け
   こま/\こつちへ來い
といふのが、尾張童謠集といふ本に出て居る。今ではたゞ粗い砂と細かい砂とを、えり分けることだと思つて居るかもしれぬが、元はやつぱり匿れて居るこの蟲を見つけようとして、斯ういふ唱へごとをしたもので、こゝにもコモコモ又はクボ/\といふ名の、曾ては有つたといふことが大よそわかる。
 昔の人は自分たちの名を替へることを、今のやうに重々しくは考へなかつたやうに、蟲や草花にも新しい名を好んで、よいのがあればその方を採用することが多かつた。人によつては新しいのは皆面白いときめてかゝり、何でも眞似しようとする傾きさへ有つたが、注意ぶかい人はやはり諸君と同じく、最初はまづそれは蟻地獄なら蟻地獄のことだといふことを覺えるだけに止め、それからゆつくりとどちらを使はうかといふことをきめて居たやうである。
 
     五 すりばち蟲
 
 古い名稱が新しいものに改められた例として、蟻地獄のスリバチ蟲などは最もはつきりとして居る。この言葉は、東北では山形縣の莊内を始め、關東地方の一部、又靜岡縣の東部にも西の方にも、近畿地方にも行はれて居るばかりか、今まで丸で知らなかつた人でも、聽くとあの蟲のことだなとすぐにさとる程に、適當な名であつた。しかも大昔から有つた名前でない證據には、第一に擂鉢といふ道具が、決してさう古い物では無いのである。米や小麥・豆など(376)の穀類を水に浸けてうるかし〔四字傍点〕、それを粉にして食べる食物は多かつたが、もとはそれを皆小さな木の臼に入れて搗き潰して居た。さうでなければ豆腐屋のやうに、石臼にかけて挽いて居たのである。僅かな分量のものは各家庭で、もつと簡單に小さな杵をくる/\廻して、土器の内側に切り込んだ臼の目で、摺りつぶす樣になつたのは發明である。私は多分中華國人の智惠だつたらうと思つて居る。今までの臼類とはちがつて、この方は杵を上下するので無く、主として圓形にその件をまはし動かして、鉢の目と摺り合せるのが特色で、その爲にこの木の棒をめぐり棒、又はまはしぎ〔四字傍点〕と謂ふ土地も多く、すりこぎ〔四字傍点〕のコギもまた小杵であつた。すりこぎ〔四字傍点〕はもと山椒の木で作るものときまつて居た。以前は江戸の町で一日に何丈何尺とか山椒の木を食べて居るなどと、計算をして見た人もある位で、如何なる家の臺所にも必ず備はり、御蔭でとろゝ〔三字傍点〕でも毎朝の味噌汁でも、舌ざはりのよいうまいものになつた。しかしそれには今日で謂ふ大量生産、やすい價でこの便利な、内側に目の有る土の鉢を燒いて賣り出す工場が必要だつたのである。擂鉢の形は、底が極めて小さく、上の縁が出來るだけ廣く、從つて鉢のまはりの傾斜がゆるくて、形が何物よりもよく蟻地獄の窪みと似て居た。それで此名を聽くと成程とうなづく人ばかりで、どうして擂鉢蟲と謂ふだらうかと、訝る者などは無かつたから、少なくともこの道具がまだ珍しいうちは、氣の利いた名として悦んで用ゐた人も多かつたのである。しかし物が次第に有りふれたつまらぬものになると、又何か別の新しい響きのよい名に、變つて行かぬとも限らなかつた。たとへば近畿地方でも奈良縣の一部などでは、この蟲をスリバチコロバシと呼ぶ者も出來た。擂鉢轉ばしといふのは、この土燒きの小摺臼が出來て後に始まつた正月遊びの一つの名であつた。以前は穴あき錢を壁に打ちあてゝ、ころ/\と轉ばし、裏か表かの現はれるのによつて勝負をしたものが、今度は擂鉢のヘリから目に沿うて錢を轉がし入れ、底に落ちてうつむくか上向くかを見たもので、それと蟲とは別に關係が無いが、其遊びの面白さを忘れない人々が、この長たらしい名をこしらへて、蟻地獄を呼ぶことにしたのである。
 
(377)     六 ちよこ/\婆さん
 
 蟻地獄が砂の上に穴を掘つて、底に隱れて居るといふ擧動は、他の蟲には全く無いことだから、何百年前の子供にも面白かつたのであらう。穴を掘る蟲といふ風な名が、今もそちこちに殘つて居る。たとへば青森縣の一部ではホリコ又はカネホリコ、この地方ではもと砂金を採つて居たこともあるが、それが必ずしも斯ういふ形で、穴を掘つて居たといふので無くホリコでは餘り平凡で面白くもないから、わざ/\金掘り子などゝ謂つて見たので、事によると蟲を金掘りに見たてた子供唄でもあつたのかと思ふ。
 靜岡縣の海近くの村々には、前にも言つたやうに擂鉢蟲、又はオスルバチといふ名が有るが、それと入りまじつて、又伊豆半島などでも、チョコホリ蟲と呼ぶ子供がある。チョコは小さな陶器の盃のことで、猪口などゝいふ變な漢字を使ふのを見ても判る通り、本來の日本語では無かつた。大抵擂鉢などゝ前後して、そんな名前の酒を飲む器が、流行して來たのである。殊に近頃のいはゆる猪口の形は、擂鉢と似て居て、大きさが一層蟻地獄の窪と近い。だからホリ蟲といふ名は古くから有つても、是にチョコを附け添へたのはほんの近頃のことかと思はれる。
 猪口も擂鉢もまだ無かつた時代には、或はサラホリ蟲又はサラ蟲と謂つて居たので無いかと思ふ。岩手縣の稗貫郡などには、今でもサラコ蟲の名があり、そこと山一重隔てた秋田縣の雄勝郡その他にもサルコ蟲といふ名がある。皿はたゞ今ではひらたい盆のやうな形だが、もしも昔のサラキといふ土器が同じ言葉ならば、サラキには笠を逆さにしたやうな、非常に蟻地獄の穴とよく似たものが多かつたのである。
 それから今一つはコ島高知二縣の境などのツボ/\蟲、又はチボといふ名前があるのも、かつて此蟲をツボホリ蟲と謂つた殘りかもしれない。ツボも現在では中程のふくれた、頸の細い、深い器物だけをいふやうになつたが、古く(378)はもつと色々の形をした陶器もツボであつたことは、陶器作りをツボ屋といふ言葉が有るのを見てもわかる。それが今見るやうな形のものだけに限ることになつて、いよ/\古い名は通用しにくゝ、その代りに新しい擂鉢蟲や猪口蟲の方が、流行しやすかつたのかと思ふ。土佐にはこの蟲をツボイといふ人もあるさうだが、ツボイは又小さいとか可愛らしいとかいふ意味の古い形容詞でもあつた。即ちツボ蟲といふわけがもうわからなくなつたので、斯んな風に言ひかへたのであらう。
 チョク蟲といふ名は、又コ島縣のツボ/\の近所にもあり、宮崎縣の南部でも、モッコ蟲といふ名も有るが、別になほチョコ/\蟲といふ村がある。關東の方では、千葉縣の山武郡ではイナチョコ、靜岡縣などでも前擧げたチョコホリ蟲の外に、之をチョコホリバアサとも、チョコ/\バアサともいふ子供が多く、この蟲と遊ぶときの唱へごとに、
   チョコ/\バアサ
   穴掘つておくれ
といふのが、行はれて居るといふことである。即ちチョコが盃のことであることは知らなくても、言葉の音がをかしいので、それを歌にしてうたつた者が有つて、其名が段々に弘まつて來たものかと思はれる。
 
     七 地ごつとい
 
 婆さんといふのはからかひの言葉で、この蟲の色がくすんで皺があり、擧動の鈍いのを老人にたとへたかとも考へられるが、別になほ一つ、牝牛といふ意味でさう呼んで居た者も有つたやうだ。牝牛は中央から西ではヲナメ又はウナミ、即ち女めといふ語で呼ぶのが普通だが、その他の土地では年齡に關係無く、すべてバヽだのバウジだのといふ(379)者が多い。もとは姥牛で、僅かばかり尊敬した語であつた。蟻地獄の體格は小さいだけでやゝ牛に似て居るが、殊に腹のあたりが太いので、之を牝牛にたとへたのはよく當つて居る。長野縣の松本附近ではハコバヽと謂ふ。ハコはこの蟲に相撲を取らせて遊ぶ時の掛聲だつたらしいが、その事は後に言はう。新潟縣の南の郡ではコウジバヽ、コウジは即ち小牛であつて、小さな牝牛といふことかと思はれる。佐渡の島の北部海岸ではバコ、こゝでは大きな牝牛はバウジだが、蟻地獄は小さいから牝の小牛といつたのであらう。上方や中國で小牛をベコといふのは、鳴聲からつけた名であるが、奧羽地方に行くと親牛も仔牛も共にベコであり、それで又この蟲をベコ蟲、又はベコ/\蟲といふ處も福島縣には有る。同じ信州でも上田市附近の村ではヘコ/\といひ、之を探し出さうとする時は子供たちは斯ういつてうたふ。
   ヘコ/\田ぶて(打て)
   お茶飲んで田ぶて
 さうするとヘコはこそ/\と土の中へむぐるので、すぐにヘコの居ることがわかるといふ。田を耕せといふのを見れば、このヘコ蟲も亦牛のことであつた。
 斯んな簡單なことでも、時がたつと忘れてしまふと見えて、少しづゝはまちがへて使つて居る例が有る。たとへば靜岡縣でも大井川右岸では、蟻地獄をオコジといふのがある。是も仔牛のことだつたと見えて、
   オコジ、 オコジ
   下に火事あるで天井へ上れ
などゝいふ童詞が有る。しかし今日では小牛をコボウといふ者の方が多く、それで又濱松の近くになると、この蟲をオコンボ、もしくはメヽコジとも謂つて居る。しかもこのオコンボは事によると、クボ蟲又コモ/\などの殘りと一しよになつて居るのかも知れない。メヽコジの方は奈良縣などでもよく聽くが、是はどうやら思ひちがひの樣である。(380)前に蝸牛考といふ本にも書いて置いたが、この二つの縣の中間になる地方では、蝸牛のことを、メヽクジといふ處が多い、蝸牛も角があるから小牛と謂つてもよく、又その貝殻が渦卷きになつて居るので、マイ/\又はメェ/\といふ名が方々に出來て居る。そのメヽを蟻地獄の方に持つて來て附けるのは、幼い人たちの記憶の誤りと見られるのである。たゞ原因はまだ明らかでないが、岡山縣の東の方でこの蟲をミヽスッテイ、又信州の諏訪でもミヽットウ蟲と謂つて、子供が戯れに人の耳のそばで、急に大きな聲を出すのに使ふ言葉と、同じ名を附けて居るのを見ると、別に何かこのメヽクジに紛れるやうな名前が、もとはこの近くにもあつたのかも知れない。
 關東から東北地方にかけては、馬が多く牛が少なく、本にはウシと書いてあつても、口ではベコといふのが普通になつて居るが、それでも蟻地獄をウシといふ處がそちこちに有る。茨城縣の大部分では、昔からウシコ又はウシタッコ、それから北に接した福島縣の田舍にもウシッコがあり、段々と北へ行くとウシッコロ、或はウスコともウソコともいふ者があるのは、多分まだウシがベコのことだとは知らずに、よそから聽いて使つて居たのであらう。しかしそこから又遠く北へ進んで、岩手縣の九戸郡などには、此蟲をウシアナ、又はホロコだのサルコ蟲だの、色々の名で呼んで居る。序にいふが、ホロコといふのは仔馬のことで、是も亦蟻地獄のやうに腹ばかりが太い。
 一つの郡といふほどの狹い土地に、四つも五つもの名が同じ物に附いて居るのは、古い名の有る處へ新しいものが入つて來て、どれを使はうか、まだ極めかねて居る場合なのである。東京の近まはりでは、埼玉縣の入間郡などにも、蟻地獄の名が澤山ある。それを竝べて居るとごた/\するから、後に追々言ふことにするが、その中にはオッコカッコといふ長い名もある。水戸市の附近のウシコタッコと、よく似て居ることに誰でも氣がつくが、この方は牛だといふことをもう忘れて、押合ひといふ意味に取つて居るのである。ところが蟻地獄はあまり押しつこはしない。むしろ反對に後へさがらうとする擧動が多く、二匹を一つの窪に入れて見ると、その爲に時々おしり〔三字傍点〕の押合ひをするだけである。だからオシッコは元は牛子だつたのである。
(381) 一つ聽いただけではわけの判らぬ名は、他にまだ幾らもある。たとへば島根縣の石見の村々では、蟻地獄をグルモンジといふ。是などは古い名稱と思はれるが、車牛即ち車を牽かせる牛といふのをなまつたのである。牛車に乘る人は身分のある人々、殊に婦人が多かつた。車の牛には毛竝のよい筋骨たくましい牡牛を選び、大事に一頭だけ別にして飼ひ立てた。それが穴毎に一つづゝ入つて居てよく太つた蟻地獄にたとへられたのである。長崎縣の壹岐島でも蟻地獄はヂゴッテー、又は單にコッテーウシと謂ふ人もある。コトヒは萬葉集時代からの日本語で、今いふ牡牛のことである。東京などの子供は知るまいが、私たちはコットイと謂つて居た。コットイは角の大きな眼のこはい、よく喧嘩をする牛で、その前を通るのは氣味がわるかつた。牛にたとへることは全國同じでも、あの島では特に其點に注意して、名を附けて居たのである。
 
     八 さをとめ蟲
 
 蟻地獄は牛の他に、まだ色々の動物にたとへられて居るが、それは一番おしまひにまとめて話すことにしよう。爰で言ひたいことは、ちよつと聽くと何のことかわからぬやうな名でも、之を附けた人たちには理由があり、又始めて之を聽いた者にも成程と思つて、使つて見ようとするだけの面白味があつたこと、だから只自分にわからぬといふだけで、輕しめたり嘲つたりしてはならぬといふことである。子供の附けた名には大抵は實驗が有る。それも獨りで無く友だちと共に、毎日々々一時間も二時間も、じつと此蟲の擧動を觀て居ること、あたかもファーブル先生のやうでないと、斯んな多くの珍しい名は生まれないだらう。さうして一つの土地に生まれたものを、遠くへ持つて行くといふことはめつたに無いのに、日本のうちだとよつぽど離れた土地にも、まるで言ひ合せたやうに同じ名前を、附けて居るものがよく有るのである。たとへば蟻地獄がおしり〔三字傍点〕の方に力があつて、何かといふと後へ下らうとするのを見て、(382)附けた名が方々にある。和歌山縣の有田郡では、この蟲をアトンジョリ、又はアトサリ蟲ともゴメン/\ともいふ。御免といふのも戯れの言葉で、人が後へ退くときにはさういふからである。隣の奈良縣でコメン/\といふのもそれであらう。兵庫縣の但馬地方は、コボ/\だのツチクボだのコモ/\だの、蟻地獄の名のむやみに多い處だが、その多くの中にも、アトスンダイモーモンジョといふやうな長い名があつて、是も子供の囃詞から出て居る。アトスンダイは後じさり即ち尻込すること、モーモンジョといふのはばけものゝことらしい。隱れて居て出しぬけに〔五字傍点〕襲撃するから怪物《ばけもの》といふのである。但馬と和歌山縣の海岸部とは、何か昔からの特別の交通があつたといふから、是だけなら或は持ち運んだとも見られる。しかしこの他にもずつと遠く隔たつた青森縣の野邊地あたりにも、アトサリベコといふ方言が有り、秋田縣の北の方の數郡でも、この蟲の名はウシロベコである。中部地方では長野縣の長野附近から、千隈の川の上流にかけて、ベコだのチョコ蟲だのカッコ蟲だのと、色々の名のある中に又アトサリ蟲、アトシャリカッコといふのもある。子供がこの蟲を見つけて、
   カッコ/\後へしやれ
とはやすのを見ると、カッコの方が前であり、後へ下る癖のあることを知つて、新たにアトシャリといふ名を附け加へたのであつた。
 それよりももつと變つて居るのは、中國地方は廣島縣の備後府中あたりで、この蟲をショウトメ、又山口縣の西の端、一ばん九州に近い豐浦郡でソウトメと謂ふことで、是などは説明をしないと、都會から來た學童には判らぬのも無理は無い。ショウトメ・ソウトメは古い日本語で、正しくいふならばサヲトメ、即ちサの月の田植の日に、田に下りて苗を植ゑる若い女のことである。この日は特別に美しい勞働衣を着て、田歌をうたひつゝ苗を挿すので、人の注意に上り又色々の物の名にもなつて居る。たとへばちやうど其頃に咲く花菖蒲、又はかきつばた〔五字傍点〕のこともソウトメといひ、蟲でも田の水の面をくる/\とまはつて居る、黒い小さな梨の種子のやうな蟲を、ソウトメといふ人も多いが、(383)それと是とは名を附けた理由が丸でちがつて居る。蟻地獄の方は乾いた砂の中に居て田とは關係も無いのだが、たゞ後の方へ段々あとじさりする擧動が、早乙女とよく似て居るのである。稻の苗は植ゑた上を踏まぬやうに、もとは前の方から植ゑて後へ下るのがきまり〔三字傍点〕であつた。十人十五人の若い嫁娘が竝んで植ゑる田では、はか〔二字傍点〕と謂つて一人が四株か五株分を受持ち、横へは動かずに段々と後へ下る。それで又彼等の田植歌にも、
   植ゑてしやれ/\
といふ囃詞が附いて居たのである。
 
     九 テッコハッコ
 
 東京の近くでは、江戸川對岸の松戸のまはりの村々に、蟻地獄をスッコッコといふ言葉が有る。爰でもこの蟲の後じさりする擧動がよく知られて居り、遠慮深く何にでも尻込する人を、スッコッコのやうだと批評するさうである。それと反對によく出しやばる人には、東京でも「すつこんで居ろ」などゝいふから、スッコは引込むといふことかとも思はれるが、それはまだ確かではない。是と形のよく似た色々の言葉が、他にもまだ此蟲の名として數多く出來て居て、それが多くは又後じさりと直接の關係無しに、出來て居るやうに思はれるからである。二つ三つの例を擧げて見ると、同じ埼玉縣でも東京に近い川越附近などはカッコ、又はカッコ/\だが、秩父地方の山の村ではテッコハッコ、それから東の方の平野へ下るとトッコ又はトトッコとなり、更に進んで栃木縣の南に入るとトット又はトトット、宇都宮の近所になるとテロッコタロッコで、それが茨城縣から北の方のウシコと結び附いて、水戸市あたりのウシコタッコにもなつて居るのである。長野縣などは大きな縣で、中央には數多くの名前も出來て居るが、北の端の下水内郡は蟻地獄をカッコといひ、南の端の下伊那郡ではハッコと謂つて居り、この二つは同じ言葉らしく、その中間に出(384)來て居るものは、前に擧げたハコバヽやアトシャリカッコの如く、是ともう一つの名との結び合つたものが多い。そこでこのテッコやハッコは何だらうかといふと、私は多分この蟲に相撲を取らせて見るときの子供らの掛聲だらうと思つて居る。
 相撲とはいつても、現今の職業選手のとはちがつて、以前は四つに組んでしまふといふことが少なかつたことは、能の狂言の三百年前の相撲を見てもわかる。昔の角力は立上つてから後も始終離れて居て、隙を狙つては引張つたり蹴つたり、又は突き飛ばしたりすることが多かつたやうである。蟻地獄の喧嘩も、他の大きな動物のそれと同じく、幾分かこの古風な相撲に近かつたものらしい。掛聲は力士が自ら掛けるのが普通だが、無言の力士の爲には見物も聲援したかと思ふ。最も多く使つたのはテといふ言葉、是は相手の手が一ばん前へ出て居るから、それを取らうとするときに御手と謂つたのである。次にはいつ迄も狙つて居て動かないのをせかす爲に、早く來いといひ、見物も早く行けと言つたらしく、今でも行司などは意味もわからずに、ハッケヨイとどなり續けて居る。テッコハッコのハッコもそれらしいが、カッコは其變化であるやら、又は別の掛聲であるやら、私にはまだ決しかねる。ドッコイはもとは「何處へ」と謂つて、相手の出て來たのをそらす時に、多少からかふ氣持でどつこいと謂つたやうだが、蟻地獄の爲には誰もさう謂ふ者は無かつたと見える。其代りにトット又はトッコなどといふ掛聲があつた。それはオットドッコイなどのオットか、又は疾く行けのトウであつたか、今となつては明らかでないが、ともかくも蟻地獄の相撲には見物がトット又はトッコの掛聲を、かけて居たやうに思はれる。
 
     一〇 次郎と太郎
 
 蟻地獄は、蟻や蜘蛛などの穴に墮ちたのを捕へるばかりで無く、同類でも二つを一つ穴に入れるときつと食ひ合ひ(385)をする。それを知つて居たいたづらつ兒はきつと多かつたと思ふが、その爭ひを相撲と謂つたのは、さう弘い區域にわたつてのことでは無かつたやうである。岐阜縣でも飛騨の北半分に限つて、この蟲にスモ/\といふ名前が有る。それから南の方へ來るとジモ/\となつて居て、もう何故さういふのかゞ判らなくなつて居るやうである。信州の西の方にも、ジモ蟲又はジモ/\が入つて居り、愛知縣の三河の海岸部まで、ジモといふ名は用ゐられるが、土地の人に尋ねて見ると蟻地獄だけでなく、地蜘蛛といふ蟲をも含んで居るさうで、或は是によつてヂグモの方が正しいと、思つて居る人が無いとも言へぬが、とにかくに飛騨のジモ/\は、地蜘蛛ではないのである。
 變つた名稱の一つとしては、和歌山の市などでは、この蟲をケン/\ソソソ、又同じ縣の南海岸で、ケン/\とも謂つて居る。是は疑ひも無く蹴るといふ動詞から出た名で、今日の相撲道では禁じられて居るが、なほ力士たちは此語を知つて居るのみならず、古くは又|當麻蹴速《たいまのけはや》といふやうな名人も居た。子供の遊戯では片足飛びがケン/\であつて、之に基いて、
   けん/\ばた/\なぜ鳴くね
   親が無いか子が無いか
   親も有るが子も有るが
   鷹じよに取られてけふ七日
   七日と思たら十五日……
などゝいふやうな、雉子の鳥を歌つた遊び唄も出來て居る。子供は足ケン/\といふ名を、あの飛び方が頭に響く感じから來たと思つて居るが、もとは片一方の休ませて居る足を使つて、相手を蹴り倒すのがケン/\であつた。蟻地獄が巧みに跳ねて砂を彈いて、その上に居る敵を墮すから、見て居てさう謂ひたくなるのも當り前であり、ソソソといふのは多分それそれといふ激勵の語であつたと思ふ。
(386) それから今一つ、茨城縣の南部稻敷郡といふあたりでは、蟻地獄をジーロコタロコと謂つて居るのが、他にはまだ似た例も無い。是は言葉通り次郎子太郎子といふことで、今の力士に何々山何々の海が有る如く、もとは選手の名前であつたと思はれる。信州|洗馬《せば》村の小曾部《こそぶ》といふ山間の部落に、古い道祖神の石塔があつて、その表には二人の男が相撲を取るところが線彫りになつて居て、其横手に次郎太郎と刻んであるのも一つの證據だが、それよりももつと人がよく知つて居るのは、岐阜縣の木曾川流域から三重縣にかけて、すみれの花をまた次郎太郎と謂ふ名があることである。或は紫色の方を次郎、白すみれを太郎といふ處もあるが、是は恐らく後のことで、本來はこの花の首を引掛け合つて、勝負をすることを相撲と謂つて居たので、それ故に又之をスモウトリ花といふ人も多いのである。次郎太郎は東西の最手《ほて》を呼ぶ臨時の名乘で、從つて相撲といへば必ずこの呼び聲を聽く故に、自然に力士のことを意味するやうになつたものと思ふ。
 なほこの以外にも、かつて相撲を見物する人々が、大きな聲でわめいた言葉で、蟻地獄の名になつて居るものが、幾つか有るのではないかと私は想像して居る。たしかな證據が無いので皆不明のうちに入れて置くが、岡山縣の兒島郡などでこの蟲をイチ/\、愛知縣の北設樂郡でイチコンコ、東京から西につゞく北多摩郡の一部でエヂッコといふなども、、最後に勝つた力士を一と呼んだのが、もとであるやうに考へられる。
 
     一一 幼い者と言葉
 
 二匹の蟻地獄を一つの窪に入れて、相撲を取らせて見るといふやうな遊びは、さう長くは續くものでない。子供もその位の年齡になると、次から次へと新しい遊びをおぼえて行くし、殊にこの節はもつと上品な遊戯が幾らも出來て居る。しかしさういふいたづら遊び〔六字傍点〕を、傍に立つて見て居るほどの年下の兒には、家から遠くへ行かぬので遊戯の種(387)類が少なく、却つて斯ういふ名前を永く覺えて居たり、又は何の爲とも無くこの蟲を捕へようとしたりするので、今でもまだ學校へも行かれぬ兒が、實際は幾つもの蟲の名などを知つてゐるのである。これは幼童に其樣な言葉を使ひ分ける力が別に有つたわけでは無く、たゞ以前には大人になるまで改める必要が無くて、五つ六つの年からの言葉を續けて用ゐて居たのが、此頃は學校に行き本を讀むやうになると、今までのものを罷め、新しい名を學ぶので、何だか小さな者ばかりが、土地の言葉をよけいに知つて居るやうに見えるのである。さういふ言葉には思ひちがへも多く、又よその事を知らぬ故に都合の惡いものもあつて、日本の國語として永く役に立ち得るものは少ないかも知れぬ。もしも程無く不用になるものだとすれば、皆さんはそれがまだ消えずに居るうちに、急いで是によつて、言葉はどうしてできて來るかを、覺えて置く必要があるのである。
 小さな子供の使ふ言葉には、大きな人の言ふのを覺えて居るのも無論あるが、自分の仲間で言ひ始めたものも存外に多いのである。一つの例としては蟻地獄を穴の中から探し出すときの、唱へごとを其まゝ名にしたもの、奈良縣の一部ではデヽコ(十津川ではテシコイ)、山口縣の山口附近でデン/\マイコ、三重縣の南の部分でデンデラ蟲又はデンデラボ、長野縣の東筑摩郡でテンボなどゝいふものがある。毎日々々何十ぺんとも無く、出ろ/\、出んか出んかなどゝ謂つて居ると、それが童詞とも蟲の名ともなるのは無理も無いが、あいにくこの方面には蝸牛といふものがあつて、是にも貝殻の中から出るのを見る遊びが流行して、出い/\といふ名前は大抵は何處かの土地で、蝸牛のことゝして使はれて居る。同じ言葉が二種の蟲の名になつて居ては、日本全體の通用には向かぬのである。
 大人が言ひ始めたかと思ふ尤もらしい蟻地獄の名も澤山に有る。その中にはどうしてさういふのか、もつと似よつた例を集め比べて見ないと、説明し難いものが少なくない。誰かその土地の人に詳しく尋ねて見るまで、當分のうちは表にして殘して置くのがよいかと思ふ。たゞ終りにもう一つだけ、蟻地獄を牛以外の動物にたとへたものは、大よそは私にも説明が出來るから、それを話して見よう。是などは名を附けた者が大人では無いまでも、幼い兒童ではな(388)かつたやうに思はれる。
 
     一二 砂の中の怪物
 
 淡路の島の小さい子供たちには、蟻地獄をシヽボといふ者があり、この蟲を探す時の遊び言葉に、
   シヽボ出て來い
   あしたりや赤いベヽ着せたろぞ
といふのがあつた。アシタリは明日といふことだが、何故にシヽボといふのか、子供に尋ねて見ても恐らく知つて居る者はあるまい。牛を田のシヽといふことが九州から向ふには有るが、このシヽボは野猪の荒々しい振舞にたとへて、ずつと前に出來た名前かと思はれる。靜岡縣の氣多《けた》といふ山の中の村でも、シヽンボといふ言葉があつて、是は蟻地獄が猪に似て居るからだと説明して居る。
 次に長野縣の北の方の、非常に數多くこの蟲の名のある地方では、その一つにスナネコといふのもある。是は相手の氣が附かぬ處に潜んで居て、不意に飛びかゝる擧動が猫に近いからで、新しい思ひ附きらしいだけに、皆さんも聽いたら或は成程といつて、使つて見る氣になるかも知れない。是と似たものには、岡山縣の邑久《おく》郡にスナガメといふのがある。ガメは只の龜では無くて、鼈の年經たものといひ、北陸地方に行くと、川童といふ水中の怪物と同じもの、又はよく似たものゝやうにいふ人もある。怪物だから無論實見した者は至つて少なく、どんな形かといふと話はまち/\だが、ともかくもさういふ人を襲ふ怖いものが居るといふことだけは考へて居る者が多かつた。ガメといふ言葉も最初は龜だつたかも知らぬが後には怪物の聲であり、咬むぞといふことのやうにも子供は解して居た。溝や田の水の中に居て小魚や蛙をとつて食ふ大きな昆蟲を、タガメ(田鼈)と謂ふのもそれであつて、是にも土地によつて蛙は(389)さみ〔四字傍点〕その他、色々の氣味の惡い名が附いて居る。源五郎といふ蟲は、田鼈よりも小さくてきれいで、時々は田鼈に捕つて食はれるのだが、二つのものは?混同せられ、東京からすぐ東にあたる千葉縣の農村などでは、蟻地獄のことをもゲンゴラウと呼んで居る。
 蟻地獄の窪みに墮ちて犠牲になるものには、蟻類が一ばん多いといふことも、早くから注意せられて居た。だから埼玉縣の川越地方では砂?子《ありぢごく》を又アリックヒ、即ち蟻を食ふ者とも呼んで居る。兵庫縣の但馬地方でもアリクリといふのは、小さい人が蟻食ひを聞きそこなつたらしい。蟻がこの穴に墮ちたら大抵は助からぬといふことも、大きな兒ならば觀察によつて知つて居たらう。だから誰かゞアリヂゴクといふ名を附けて見れば、成程と謂つてよくわかるだけで無く、ちよつと新しいから自分も是からさう言はうといふ氣になるのも無理は無い。しかしながら、地獄などゝいふ語は音聲からも意味からも、さう氣特のよいものでなく、毎日この蟲と遊ばうといふ者には面白くない。歌や文學でも、たまには使ひたいこともあらうが、毎日の言葉には強すぎてよい言葉でない。だから丸つきり棄てゝしまはずとも、それはそれとして置いてもう一つか二つ、子供向きの名があつてもよい。砂猫などはどんなものであらうか。古くてきれいなのがよければアトサリ蟲、サヲトメ蟲、又はコモ/\などは如何であらうか。
 
    附表 蟻地獄の異名
 
 一 タエコタエコ蟲          山形縣置賜地方
 二 ダイコクサン           滋賀縣伊香郡
 三 タイ/\蟲・アイタイ       兵庫縣淡路島
 四 ハマシャグ            新潟縣岩船郡
(390) 五  ガク/\           新潟縣東頸城郡
 六  カクサン            山梨縣南巨摩郡
 七  イボ・イボジリ         靜岡縣磐田郡
 八  インボイボイ          佐賀縣一部
 九  チンチロ            三重縣飯南郡
 一〇 チンコロメ           栃木縣芳賀郡
 一一 マヒマヒサン          滋賀縣伊香郡
 一二 メヽコ、メヽタコ        奈良縣添上郡
 一三 マヽッコ            神奈川縣舊橘樹郡
 一四 メヽタシ            岡山縣御津郡
 一五 ミヽスッティ          同  邑久郡
 一六 ミヽットウ蟲          長野縣諏訪郡
 一七 モヽンジョ           兵庫縣但馬地方
 一八 ネンネンコボシ         同
 一九 トノサマ蟲           奈良縣吉野郡
 二〇 ヤタノヲバサン         同  生駒郡
 二一 カッポリ            島根縣鹿足郡
 二二 ジーノミ・ジンノミ       愛媛縣周桑郡
 二三 キナズリ            大分縣大分郡
(391) 二四 コゴ蟲            宮崎縣西臼杵郡
 二五 ヘフミ蟲            鹿兒島縣惡石島
 是等は何れも變つた名であつて、たゞまちがひだけで出來るもので無いと思ふが、私にはまだ其起りを説明することができない。それで話の種として假に茲に拾ひ上げて置く。なほ東北地方では宮城、北陸では福井・石川、中國では鳥取、四國では徳島・香川・高知、九州では福岡・熊本の諸縣の言葉が、この中にはまだ一つも出て居ない。それ等の地方の人に逢つたときは、蟻地獄を何と言つて居るか、尋ねて見る必要がある。
 なほこの表について、心附いたことを書き添へて置くと、(二)のダイコクサンと(一一)のマヒマヒサンとは起りが一つかも知れない。昔は大黒といふ一種の職の者が、舞を舞つてあるいたからである。蟻地獄の出たり引込んだりする擧動が、その舞と似て居たのかも知れぬ。(六)のカクサンはカッコといふ名と關係があらう。カッコははつきりと判らぬが信州には弘く行はれて居る。(七)のイボジリは、他の地方ではかまきり(蟷螂)のことであつて、蟻地獄をさういふ地方だけは、區別の爲に蟷螂の方をカマギリといふが、もとは只イボ又はイボサマといふのが蟻地獄のことだつたのを、後に混同してイボジリと言ひ出したのかと思ふ。(九)のチンチロは此地方から近畿中國にかけて、松ぼつくり(松毬)のことをいふ。考へて見ると蟻地獄の形は、少しばかり松毬《まつかさ》と似て居る。(一二)のメヽコも舞ひ舞ひから來て居るのかと思ふ。さうすればまい/\つぶろ(蝸牛)よりも、この方が先だつたかも知れないのである。(一六)のミヽットウは此蟲が聾だといふ話でもあつたのではなからうか。(一七)のモヽンジョは化け物のことだから、砂ガメと最も近い名だつたといへる。(一八)のネン/\コボシは子守唄のことらしいが、どうしてさういふかは丸でわからぬ。(二〇)のヤタノヲバサンの矢田は有名な地藏さまの在るところ、この蟲を老女にたとへる例は前にもあつた。(二一)のカッポリのもとは掘り蟲で、それにカッコの附いたものかも知れぬが、山陰地方には他に似た例が無い。この他の十幾つの異名はまだ全く心當りが無い。ひまがあつたら諸君が考へて見るべきである。
(392) 私の集めた蟻地獄の地方名は、幾つあるか勘定もして見ないが、日本全國にはまだ/\澤山、私たちの知らぬものが殘つて居ることは疑ひが無い。もし是からそれを段々集めて見たいと思ふ人があつたら、先づ手帖か小さな紙きれに、今までわかつて居るものをアイウエオ順に書いて置き、新しい名をきくたびに、それと比べ合せてまだ無いもの、又はちがつた土地に同じ名の行はれて居るのを、段々に書き込んで行くやうにすればよいかと思ふ。しかしよつぽどすきで無ければ、そんなこと迄をするには及ばない。たゞ一つの蟲にでも名前は非常に多いのがあること、その名は半分以上、諸君よりもつと小さい子供が、言ひ出したものだといふことを、知つて居るだけでも參考になるだらうと思ふ。
 
(393)  毎日の言葉
 
(395)   新版自序
 
 國語史といふ言葉を、私だけはやゝ弘い意味に使つて居ります。日本では文字の使用が遲く始まり、その以前はいはゆる語り部の時代、即ち口から耳への感動の引繼ぎを以て、記録に代へて居た期間が、驚くほども、永く續きました。今でも物覺えのよいといふ例は、女性の間などに稀ならず殘つて居ますが、以前は必要があつた爲に、その人を選定し養成し又大いに優遇したのであります。もとより其能力には限度がありました。殊に千年以上もの永い歳月の間には、變つたり消えたりするものゝ、次第に多くなるのは免れませぬ。我々の國語はむしろ斯ういふ活用のために、烈しい盛衰をしたかとも推察せられます。史は文字の事業だといふ漢字の定義にとらはれて、我々の國語史がこの期間を、考察の外に置くことを許されぬのは當然であります。
 我々の上代史書が、當時手の及ぶ限りの傳承を集録して、必ずしも異同を取捨しようとしなかつたことは、神代卷の多くの「一書に曰く」を見渡しただけでもよくわかります。色々の力強く美しい單語は、多分は語り部の口を經たもので、當時の日本人の言語能力の、既に十分に成熟して居たことが窺はれます。しかも神々の御名を始めとし、地名や物の名の端々には、現代は言ふに及ばず、中古全く忘却せられて、命名の動機の知り難いものが多いのは、乃ち亦我々の國語史の、遠く文獻以前に溯るべきものなることを示して居ります。日本で方言と呼ばれる地方語の中には、中央で久しく忘れられた昔の言葉の、形なり心持なりが消えずに居て、大きな色々の手掛りを與へるものが有りさうです。「毎日の言葉」をたゞ一身の修養の爲で無く、それをこの民族の根元を明る(396)くする爲に、兼て又遠い末の世を計畫するの料に、追々と考へて行くやうな世の中の到來せんことを、私は獨り夢みて居るのであります。
        昭和三十一年七月
 
(397)     自序
 
 この一册は、專ら若い女性を讀者に豫想して、書いて見たものであります。言葉の心得ちがひが、特にこの人たちの間に多いからといふわけでは決して無く、又さういふ方面だけに、興味ある話題が集まつて居ると、思つたからでもありませんが、正直なことを言へば、今男たちは氣が立つて居て、話をしてもじつくりと考へてくれさうに無いからであります。さうして國語の變遷の解説には、最も聽く人の緻密な感受性を必要とするものが有るからであります。國語は變遷するものだといふことは、別けても今日に於て心附くべきことであり、又是からの人生の爲に、何よりも頼もしく樂しいことでありますが、それには第一に先づ國語學といふものゝ中心點を、書いた古來の文章の方から、活きて日々働いて居る口言葉の中へ、引移して來なければなりません。從つて書くといふよりも言ふといふことに、言ふよりも聽く又は考へるといふ方に、多分の力を傾けようとする人々の、同感を得なければならぬのであります。人が口さきだけの好い言葉を、受け渡しして居た時世のあぢきなさを、しみじみと經驗なされた皆さんのまだ若いうちに、急いで私は斯う言つて置きたいのです。國語は我々の心掛け次第この上まだ幾らでも良くなりますが、其代りに又今よりもつと見苦しくもなります。その心掛けといふのはどんな事かといふと、何よりもまづよく知つた言葉を使ふことです。その知るといふことが是までは足りませんでした。面白く話をするやうな人があまりにも少なかつた爲であります。この毎日の言葉といふやうなことを考へさせる書物が、追々と女の人たちの中からも出て來るやうに、私はごく僅かな見本のやうなものを書いて見まし(398)た。是が迎へ水といふものになつて、清い泉の空高く吹上げる日が來ることを、心の奧底から念じて居る者が私であります。
        昭和二十一年三月六日
 
(399)  毎日の言葉
 
     緒言
 
 國語の知識を一つの新しい學問とする爲に、私たちは毎日の言葉から、注意してかゝらうとして居ります。どうして今あるこれらの言葉が出來たかといふ疑ひを、抱く人があるものとしてこの話をして見ます。中にはもう皆さまに判つて居ることがまじつて居るかも知れません。又その解釋が人によつて、色々とちがつて居る場合もありませう。國語の歴史を明らかにするには、すべてのものを比べて見ることが、實に必要なのであります。
 
     オ禮ヲスル
 
 誰でも普通に使つて居る言葉にも、問題になるものは幾らもあります。オレイは禮といふ漢語の採用ですが、その意味が日本では少しちがつて、世話になつた人に物を贈ることをお禮をする、又はたゞ有難うといふことを御禮を言ふと、謂つて居る場合が多いのです。さうするのも禮儀の一つだからと、いふだけで今まではすまして居ました。しかし其爲に「禮」の範圍が狹くなつて、所謂禮をするや禮をいふ以外のものに、別に何等かの言葉を設ける必要が生(400)じたことは爭へません。此頃は本來の弘い意味に、禮といふ語を用ゐる風が始まりましたが、さうする爲には又今までのオレイの方に、何か似合はしい言葉をこしらへないと、をかしな誤解が起るかも知れません。日本でこの狹い意味のオレイ即ち有難うといひ物を贈ることが主になつたわけは、昔これだけが非常に重要であつた時代が、久しく續いて居たからであります。今でもまだ田舍に殘つて居るのは端午禮や盆禮、是は主として新婚の聟が、盆節供の日に嫁の親里へ顔を出すことをいひますが、元は一般に本家とか出入先、又は村の頭立つた人の家へ、この日訪問することが禮であつて、それには必ず何か禮の物といふ贈り物を、持參したらしいのであります。正月の年始も年始禮ですが、是だけは對等の者が互ひに行くやうな社交が始まつて、禮といふ意味がはつきりしなくなりました。しかし本來はすべて目下の者が、目上に對して從屬を誓ひ、同時に保護の永續を願ふ嚴重な式でありました。東北では小作人が地主の處へ、正月に行くのも小作禮と謂ひますが、やはり一番やかましかつたのは武家の主從、殿と被管との間柄であつて、中世の社會は是だけで維持して居たと謂つてもよいのです。それが後世段々と擴張して、すべての世話になつた人へ進物をするのを御禮をするといひ、人に向つて有難うといふのを、御禮を言ふといふやうになつたもとかと思ひます。私などの若い頃によく聽いて居た都々逸の歌に、
   醫者の藥禮と高根の櫻
     取りにや行かれずさき次第
と謂ふのがあつた。藥禮といふものも其レイの一つであり、又地面の賣買の世話などをする者が、あてにして居るコンミッションもやはり禮といひます。斯ういふ濫用が多くなれば、いよ/\禮をいふ言葉の本來の意味から、遠くなつて行くのは自然であります。やがて恐らくは改められずには居るまいと思ひます。
 
(401)  (追記)
   禮ヲスルといふ言葉が、殊に今日はまちがひ易く、いつも我々は音聲以外のもの、即ち其場の樣子とか相手の顔つきとかによつて、同じ言葉の二つの意味を、汲み分けなければならぬのであります。本でも讀んで居る人ならば、竝んで身を正し頭を下げ、たゞ敬意を表することを禮ヲスルだと思ひますが、それでもうつかりすると何かくれるのかと思つて、手もとを見るやうなことも無いとは限りません。それを區別する爲に、一方だけをオレイと謂へば誤解を免れますが、男は目下の者などに對しては、大抵さうは言はぬのであります。さうして昔からの本式の「禮」の方を、却つて挨拶とか口上とか名づけて、別にして居るのであります。禮といふものゝ正しい心持が、次第におろそかになつた原因も、一つはこの邊に在るのかも知れません。「敬意を表する」といふ此頃の言葉などは、女には向かず、何だか書生くさく聽えますが、代りのもつと良いものが生まれるまで、なるべく大事にして冗談や滑稽用には、使はぬやうにしなければなりません。さうして斯んな新しい語の必要になつた事情と、その一つ以前にはどうして居たかを、考へて見るのがよいかと思ひます。以前は可なり久しい間「禮」の爲に改まつて人に逢ふことをゲンゾと謂つて居りました。ゲンゾは見參と云ふ語の日本風な發音であります。それで正月の藪入りなどに家に還つて來ることを親ゲンゾと謂ひ、縁組によつて始めて親類になることを、一ゲンとも謂つて居たのであります。つまりは「禮」の特別なものだけに、何か新しい名を附けようとしたのですが、それでも其折に必ず持つて行つた贈り物は、なほ昔のまゝに禮の物と謂つて居りました。人に世話になつた嬉しさのしるしに、物を贈ることを禮といふ樣になつたのは、この「禮の物」の略語だらうと思ひます。禮ヲイフと云ふ言葉に至つては、それから又一つ變つて來たもので、昔の日本人にはそれと聽かせても、恐らくは其感じが、通じまいと思ひます。さうかと言つて之を罷めてしまふことは、今日ではもちろん出來ませんが、言葉は時世につれて幾らでも變つて行くものだといふことに心づき、是からさきも更に好い言葉をこしらへるやうに、めいめ(402)いが念じ又努めて行くことは必要で、それをたゞ自然の成り行きにまかせて置くと、時々は斯んな紛らはしい、まづい結果になるのであります。
 
     有難ウ
 
 日本人は案外のんきに、たとへば禮といふやうな大切な言葉でも、二つの殆と別な意味に、使つて居るやうなことがありました。それに氣がつくといふことは好い修養で、少なくとも將來はなるたけさういふことをしなくなります。アリガタイといふ言葉などもその一例で、一方には神佛を尊む場合にも、アリガタイと謂つて居りながら、他の一方には毎日の小さな事にも、女は殊にアリガタウを連發して居ります。雙方とも感謝を表するのだから、差支へ無いぢやないかといふかも知れませんが、それでは神樣の方へ少し失禮になるのであります。この二つの用ゐ方のうち、どちらが古くからあつたものかを知りたい人は辭書を御覽なさい。最初は言葉通り有り得ないもの、有るのがふしぎなものといふ意味で、人間わざを越えた神の御徳御力を讃へてさう言つて居たのが、いつから又人と人との間の御禮の言葉になつたものか、少なくとも後の方は中世以前の記録には無いやうです。多分は神佛に對して、しきりにこの言葉を口にした時代を通つて、何でも嬉しい時には毎にさう謂つたのが、後々之を御禮の言葉に使ふやうになつた起りだらうと思ひます。外國にも之によく似た例は、たとへば佛蘭西人のメルシ、伊大利人のグラチエなどがあり、この二つの語は共にもと「神の惠みよ」といふ意味でありました。有難うも之と同樣に、樂しいにつけうれしいにつけて、神又は佛を讃へたのであります。それを「どういたしまして」だの、「何のあなた」だのと、丸で自分に言はれたやうに否定するのは、考へて見るといゝ氣なものでありました。しかし今日となつては言ふ方も其氣なのだから、今更神佛を信ぜざる者は「有難う」といふべからずとも言へません。が少なくとも斯うなつて來た歴史だけは知つて居る方(403)がよいのです。古い日本人は、人に對する感謝の場合に、さうは言はなかつたにちがひないからであります。
 最初は今日の子供のやうに、多分顔で喜びを表はし、又はたゞ「好いな」とか「うれしいな」とか言つて居たものと思ひますが、それに定まつた形の文句が出來たのは禮儀であります。目上の尊敬する人にだけは、今でも私などは「有難う存じます」と謂ひます。又女の人たちも丁寧にいふときには、大抵は「有難うございました」などゝいひ、ただ簡略でもいゝ時だけ「ありがたう」で打切り、もつと粗末に言はうとする時にはアリガット、又はアイヤットなどと謂つて居る地方さへあります。私の父などは、孫たちが「どうもありがたう」といふのを聽くと、いつでもをかしさうに笑ひました。昔の人はさうは謂はなかつたものと思はれます。上方の人が「大きに」といひ、又は「だん/\」といひますのも、元は「大きに有難う」、或は「重ね/\有難う」の下略で、明治以後に始まつたものと思はれます。今に東京でも「どうも」だけで片付けるやうにならぬとも限りません。つまりはあまり濫用をするために、つい言葉の形が粗末になつてしまふので、是では又別に心から感謝の意を表する場合だけに、何か特別の言葉を發明しなくてはならぬやうになるのであります。
 田舍の人たちが今何と謂つて居るかは、いつも好い參考になります。伊豆大島などでは、年とつた人は物を貰つて、トウテヤナといふ者が今でも有るさうです。さうして此トウテヤナは同時に又、神樣佛樣やお日樣を拜む時の言葉でもあるのです。同じ例は東北地方、殊に秋田縣の北部などにあり、男はトヾゴザル、女はトヾゴザンスといふのが拜む言葉で、同時に又人に禮をいふ言葉でもあります。勿論物を與へる人が尊いわけでは無く、さういふ幸福を授けたまふ神の思召しが尊いのであつたことは、西洋のメルシ・グラチエも、又今日のアリガタウも同樣であります。
 この以外に、信州の北部から越後にかけて、カンブンヤ又はカンブンといふ禮の言葉があります。是は歌舞伎で武士などがいふ「過分ぢや」も同じで、もとは自分などの分に過ぎたる好意、即ち思ひもよらぬ悦びだといふ意味、即ち是だけは相手に向つていふ言葉ですが、後にはやはり形式に流れて、心からさう思はぬ場合にも使ひました。北陸(404)地方から岐阜縣、滋賀縣などで物を貰つてウタテイだのオトマシイだのといふのは、それから又一歩を進めて、そんな必要も無いのにあなたは無益なことをなされるといふ、批評のやうな形を取つた言葉ですが、是も後には自分でも意味を知らずに使ふやうになりました。是等は何れも自分より目上の人に對して、我身をへりくだつていふ言葉であつたのが、後には對等の人どうし、又時には低い地位の者にも之を使ふやうになつて、もとの感じが無くなりました。以前は我子とか雇人とか又は仲間の者だけには、別にヨクシタとかヨウヤとかいふ語があつたやうで、田舍では心安い人の間だけに、殊に子供に對して、今もまだ各地に行はれて居ます。
 
     スミマセン
 
 御禮に「ありがたう」といふ言葉は元は使はなかつたと、伊勢貞丈翁なども斷言して居ります。さういふ場合には目上の人に對しても、皆カタジケナウゴザルと謂つて居たものださうであります。ところが近世は上から下に向つて、カタジケナイ又は唯オカタジケといふ語のみが殘つて、身分の低い者が高い人に感謝するには、專ら「有難う存じます」を用ゐるやうになつて居たのですが、それが又最近には簡略なアリガタウに變つて、同輩以上に對してさういふのは、何だか失禮なやうな感じがするやうになつて來ました。言葉も衣服や器物などゝ同じに、使つて居るうちに段々と古びてしまつて、尊敬する人の前には出せなくなるものかと思はれます。カタジケナイといふ言葉なども、語源はまだはつきりしませんが、中世以前には低い者から長上に向つて用ゐたもので、今でも漢字を宛てると忝だの辱だの羞だのと書きまして、きまりが惡いとか氣が咎めるとか、とにかく身をへり降つた意味をまだ殘して居ります。それが普通の禮の言葉となると、上の人は勝手にそれを粗末にして使つてもよいが、下の者は別に又一段と鄭重なものを考へ出さなければならなかつたのであります。アリガタウが幾分か威張つたやうに聽え始めると、下から上に向(405)つて禮をいふとき、殊に女たちは同輩の間にも、之を避けてよくスミマセンをいふやうになつたのは、同じ法則の現はれだらうと思ひます。スムは恐らく澄むといふ漢字を宛てゝもよい語で、氣が澄む心が澄むといふのは、安らかで動搖の無いことを意味したかと思ひます。あなたにこの樣なことをしていたゞいては、私の心が安らかでありませんといふのが、このスミマセンの最初の感覺でありました。前に例に引いた過分のカンブンヤの外に、地方によつてはウタテヤと歎息して見たり、又オショウシナとかメイワクイタシマスとか、言つたりするのもそれであります。若い娘たちがコマルワといふのも、至つて自然でありますがこの感じを表はして居ります。東北の端の方に行くと、有難うの代りにホンニヤクテと謂ひ、又ホジネヤだのホンネアだのといふのも、起りは「本意ない」であつて、やはりまた物を貰つて「困つてしまふ」ことであります。東京でもつい近頃まで、オヒカヘナサイマシだの、オヨシナサレバヨイノニだのといふ、御禮の挨拶がよく聽かれました。まさかさうですかと持つて還へる人は有りませんが、つまりはさうでも言はぬと氣が澄まぬほど、豫期せざる大きな幸福だといふことを示すのであります。スミマセンなどもその色々ある形の一つですが、是ではまだ幾分か物足らぬので、少しでも丁寧に言はうとして「相すみません」といふ者もあります。何だか候文のやうで滑稽の感じがします。私は先年東海道の或驛の茶店で、茶代を置いておかみさんから、「申しわけございません」と言はれて喫驚したことがあります。申しわけは辯解のことで、是は御詫をする必要が無い場合であります。つまりは是もスミマセンを、もう一段と念入りに言はうとした、新工夫であつたので、言葉は段々と古くさくなる故に、いつでも此樣な改良が試みられ、それが時としては面白くないことも有るのであります。
 
     モッタイナイ
 
 有難いを御禮の言葉にしたのが新しいことであるやうに、カタジケナイも亦最初から、人に對する感謝の語では無(406)かつたやうであります。さうするとその前は何と言つて居たらうかゞ問題になりますが、私は少なくとも曾て一度、メデタイといふのがそれであつた時代が、あるのではないかと思つて居ります。さう想像する根據は三つほどあります。其一つは維新の前まで、武家の禮法では臣下の拜禮に對して、上の人はたゞメデタイと謂つて居たことであります。飛騨の山村では正月の年禮に、多くの村民は大家の門口に來て、「畠打ち參りたり」又は「綿むき參りたり」と祝ひ言を述べました。其時に主人が出てメデタイと答へたといふことが、飛州志といふ本に出て居ります。第二の根據としては今でも小兒だけが、人から物を貰つたときにそれを兩手に持つて、額のところまでさし上げていふ言葉に、メッタイ・メンタイ又はメッテイといふのが方々の土地にあります。親がそばに居て「メッテせい」、又は「オメンせよ」と指圖するのが普通になつて居ます。或はそれを又「アンガトせい」と謂ひ、山形縣の莊内地方などは「アッツせ」といふさうで、つまり小兒に取つては貰つた物を戴いて、悦びを表示するのがオメン又はメッテだつたのであります。人によつては之をタイ/\とも、チョウダイとも教へて居ますが、頂戴は寧ろ文字を知る人達が、斯ういふ風習に基いて、新たに使用し始めた外來語なのであります。もとは上流や小兒だけに限らず、贈物を額に押しあてゝいふ言葉が、一般にメデタイ又はメデタウゴザルであつた時期が、有るのではないかと思はれます。メデルといふ動詞は昔から今日まで、大よそさういふめづらしい物を、悦び迎へることを意味して居るのです。
 それから第三に心づくことは、モッタイ及びメンダウといふ二つの言葉、現在何人も殆と其由來を説明し得ない二つの俗語が、どうやらこのメッタイ又はメンテイといふ感謝の辭と、關係をもつらしいことであります。もちろん標準語に於てはそれは有り得ないことのやうに思はれませうが、各地色々の用法を比べ合せて見ますと、最初から今のやうに引離れたものでなかつたやうであります。先づ第一モッタイは「モッタイを附ける」、「モッタイぶる」といふやうな使ひ方もあつて、それ自身が元は好ましいこと又尊い事でありました。從つてモッタイナシを無勿體などゝ書き、又はモツタイナクモなどゝ謂つて居たのは誤りで、この語尾のナイは打消しではなかつたやうであります。今日(407)行はれる形容詞には其例が幾らもあります。つまりはモッタイが元は形容詞だつたことを忘れて、それに又ナを附けて使つて居るうちに、ちやうど「せつな」がセツナイとなり、「黄イな」がキナイとなつた如く、多くある形容詞の形に同化したもので、それ故に「勿體ある」といふ言葉が無かつたのだと私は思ひます。但し現在このモッタイといふ言葉が、少しも良い意味には使はれることが無いのは、必ずしもナイの誤解からばかりではないやうです。私の解する所では、至つて念入りな御禮の文句に、却つてウトマシヤだの「迷惑致します」だの、「困つてしまふわ」だのを使ふのと同じく、是も餘りに意外な好意を受けた場合に、どうしたらよいのか判斷にまごつくといふ感じを以て、人がこの語を用ゐて居た名殘なのであります。前代の社會慣習では、身分の低い者から目上に向つて、物や勞務を捧げるのが普通であるのに、それを却つて先づ上の方から下され、もしくは相應以上の御返しがあつたとすれば、たゞウレシイとかヨロコバシイと言つただけではまだ十分でありません。何か今日のスミマセヌやオソレイリマスに該當するやうな表現を、しなければならなかつたのであります。即ち相手方には、こちらが非常に悦んで居るといふ意味に取られる言葉でも、それ自身を單獨に聽いて、ちつとも有難くないものがよく用ゐられて居るのは其爲であります。モッタイナイなどは本來はこれでなかつたのですが、やはり過分な好意を受けて當惑するといふ心持を、強調した辭令に供して居た結果、後には是だけを引離すと、惡い感じをもつやうになつたのであります。北陸地方では一般に、モッタイシヤといふのが東京などでいふ、「面倒な」の意味をもつて居ます。そのメンダウナも四國から中國の西部、又九州の或區域では、「恥かしい」とか「きまりが惡い」とかいふことであり、更に一轉しては「見にくい」もしくは「見すぼらしい」の意味に、使つて居る地方も弘いのであります。是も或時代に最大級の感謝の辭であつたものが、いつの間にか之を述べる人の複雜な心理だけを、言ひ現はす單語となつて殘つたものと思ひます。古い言葉の少しづゝ音を改めると共に、内容をずらせ動かして行く例は、日本には非常に多いやうであります。
 
(408)     イタヾキマス
 
 イタヾクは、しやれて「頂戴する」と謂つた人が多いのを見てもわかるやうに、元來は物を頭に載せることでありました。木でも山でも頂上がイタヾキで、それ等も皆このイタヾクといふ動詞に基き、人の頭をさう呼んだのが始めかと思ひます。又頭に魚の桶を載せて賣りにあるく女たちを、北陸や四國の海近くで、イタヾキと呼んで居たのもその一つの證據であります。以前は目上の人から衣服などを賜つた場合にも、纏頭と謂つて頭の上にかつぎました。それを後々は少しづゝ省略して、たゞ兩手に持つて目よりも高く、ちやうど額のあたりまでさし上げて直ぐにおろすのを、イタヾク又は頂戴するといふことにしたのであります。食べ物などをイタヾクといふやうになつたのは、恐らくはこの略式が普通になつてからの後のことかと思ひますが、或は是さへも曾ては頭のてつぺんに、のつける形をした時代があつたかも知れません。小さな兒が咽に魚の骨を立てた場合に、同じ骨の一部を頭の上にちよいと置くといふまじなひが、今でも殘つて居りまして中々よくきゝます。食べ物をイタヾク場合といふのは、元は神樣の前か貴人の前で、改まつた式の日の食事として、同時に同じ物を御一しよに食べる時で、昔はその共食を相饗《あひあへ》とも、又|直會《なほらひ》とも謂つて居りました。事實この時だけはその食べ物を、頭へか又額までか戴いて見たものと思はれます。中世に主從の階段が細かく行き渡り、人が二人出逢へば必ず一方は目上であり、さうで無くとも互ひに相手を目上と同じやうに尊むのを、禮儀とするやうになつてからは、當然にこのイタヾク場合が激増しました。さうで無くても、一種の哲理から、ふだん三度の食事でも、すべて君と神との御賜だといふ心持で、食後に箸を立て又は兩手で膳を少し高く擧げて、目をつぶつて黙念するといふ人が澤山に有りました。イタヾキマスといふ言葉の近頃の普及も、大半はこの考へ方に伴なふものゝやうですが、同時に他の一方には是をたゞ女の言葉、又は上品な言葉とばかり考へて、やたらに使ふ人(409)の多くなつたことも認めなければなりません。昔の通りに頭の上にイタヾク人はもう無くなつたといふこと、ひどいのはごろりと寢ころんで、イタヾイて居る人もあるといふ事實を、心づいて見なければなりません。イタヾクといふ語の濫用の元祖は、料理法の放送者であつたやうに私などは思つて居ります。
 
     タベルとクフ
 
 食ふをイタダクといふ樣になつた最近の變遷と、大よそ同じ經路を通つてタベルといふ語は生まれました。タベルは恐らくタパルの後の形、即ちタブといふ動詞の受身の形で、漢語を宛てるならば給と被給、即ち上に給與する人のある食物に限つた語であります。自分で山野から採つて來た食物などは、タベルといふべき理由は無かつたわけですが、國民多數の者の大部分の食物が、實際は給與であつた爲に、この語が普及したのであります。九州の南部に行くと、食物を一般にタモリモンといひ、又食ふことをタモルと謂ひますが、流石あの邊では人に向つて、オタモリナサレとは言はぬのみか、主として之を自分の爲に使ふ者も、貧しい又は小さい人たちだけのやうで、たとへば一群の首長と立てられる者は、まだタモルとは言はなかつたやうに思ひます。人に物を勸めるのに「さア遠慮無くタベて下さい」などゝ、失禮なことをいふやうになつたのは、東京の方でも近頃の現象かと思ひます。メシアガレといふ迄の敬語は使はなくても、この相手を見下げたやうなタベロの代りに、せめてはその中間の、クヘといふ平語を使つた方がよかつたのです。ところがタベルの謙遜な言葉が、あまりにも弘く流行した結果、今では女たちはクフといふ語を、怖ろしいものにさへ考へようとして居ります。それを私は敬語のやゝ過度なる擴張が、最初は女性の間に起つて、少なくとも阪東の男子だけは、まだ暫らくその拘束を受けなかつた結果と考へて、昔なつかしく感じて居ります。男女言葉の對立といふことは、中世以後に却つて著しくなつて來たのであります。クフはクハヘルといふ動詞が示すやう(410)に、たゞ上下の唇を合せて口の中へ入れることで、それ自身には少しも荒々しい意味が無いのであります。しかもその一つ前にあつたハムといふ語を罷めて、段々とクフを用ゐるやうにした時代さへあつたのです。ハムは今日「嚼む」の意味に用ゐなれて居るカムといふ語と元は一つでありませう。南島では現に今でも「食ふ」をカムと謂つて居ります。斯うしてわざ/\採用したほどのクフといふ好い言葉を、今では男までが成るべく言はぬやうにして居るのは、原因は全くタベルといふ謙遜語が、必要を超えて廣く用ゐられることになつた爲であります。それ故にもし今のやうにイタヾクの濫用が續くならば、やがては又タベルも惡い言葉となり、女のくせにタベルなどゝ謂つてはいけませんと、叱られるやうな時代が來るかも知れぬのであります。
 
     オイシイとウマイ
 
 ウマイといふ形容詞なども、久しい歴史のある又響きの好い言葉ですが、やはりオイシイといふ女言葉が幅をきかして居る爲に、今では男子のみの遠慮をせぬ言葉となり、男も子供だけには制止して使はせまいとして居る親があります。オイシイは、中世以前の書き物には全く見當らぬ言葉です。多分は中世のイミジ、それにつゞいて生まれた「イシクもしたるものかな」などゝいふイシ・イシクに、女房一流の御を添へて、それを食物の味の好いことだけに、限つて用ゐ出したのが初めかと思ひます。イシといふ形容詞とてもさう古い語ではありません。或は「好し」といふ語と同じ系統のやうに解してゐる人も有るかも知れませんが、この二つは活用が別々であります。寧ろ文藝の中によく現はれるイミジイといふ語の地方音で、是が西國に行くとイビシイとなつたと同じく、東國の田舍人はイッシイと發聲して居たのを、筆に表はすときはイシイとしか書けなかつたのであらうと、私は想像して居ります。武家の勢力が都門を壓した時代に、此語が軍書などに先づ出て來たのも偶然ではありません。上流の女性が世俗の言葉を知つて(411)居ても、そのまゝ使ふことをいやがつて、ハモジだのヒモジだのとわざと形を少しかへて採用したのは、其頃以來の習はしのやうでありますが、さういふ中でも形容詞や動詞までに、頭にオを附けるのは新しいことでした。今日もそれの盛んなのは紀州の田邊附近、三河の東部から信州へかけての地方などで、東京も江戸といつた時代から、京都に比べるとずつと多くのオを附けた語を持つて居りました。オイシイは京都が原産地かも知れませんが、オアツイ・オサムイと何でもない形容詞に、やたらにオを附けるのは寧ろ江戸の方の變つた好みでありました。三信地方のオ見ル・オ行キルを、笑ふことは決して出來ません。此方は是でも相手の行爲をいふのですから、まだ敬語を添へる理由があつたのです。日本では女が盛んに自分の言葉をこしらへた時代があり、それには又相應な理由もあつたのですが、是を一概に上品な言葉と思つて、男までが眞似をしたのは損なことでありました。ウマイなどは強ひて改良をさせるやうな惡い言葉ではありません。
 
     クダサイとオクレ
 
 言葉を粗末にするといふことは、多くは元の感じを忘れてしまつて、たゞの符號のやうに使ふことを意味するかと思ひますが、それは決して今に始まつたものでは無く、隨分久しい前からくり返されて居たやうです。其一つの現はれとして、本來は低い身分の者が、目上に向つてばかり用ゐて居たものを、後には上から下の方に對して用ゐるやうになつたものがあることは前にも申しました。「下さい」なども明らかにその一例であつて、今日之を使ふのは大抵は御主人側、殊によそへ御客に行つて、少しは遠慮をするといふ場合にそれをいふので、旅館や料理屋ではこの言葉を最も多く耳にします。さうして一方にはもう雇人などがそれを使ふと、何だか横柄なやうにも感じられるやうになつて來ました。この變遷は近い頃のものと思はれて、まだ昔者はさうやたらに下に向つてクダサイは謂ひません。其(412)代りにはオクレ、又はオクンナサイを使つて居ます。オクレもオだけは敬語ですが、流石にもうクレェとむき出しでは言ひにくゝなつたのです。クレ・クルヽを與へる意味に使ふのは、少なくとも徒然草の頃には例があります。來るのクルから分化したのではないかといふことは、クセだのコセだのゝ命令形からも類推せられるやうですが、或は是も亦ずつと古く、食べるのクラフがまだ敬語であつた時代に、ちやうど下さるからクダサレが出來たやうに、それから分岐した下人用の語であつたのを、後に粗末にして貴人が使ふことになつたものなのかも知れません。
 
     モラヒマス
 
 京阪地方に行くと、モラフは東京のイタヾクと同じに、上にテの語をそへて助動詞のやうにしか使つて居ませんが、最初はやはり物を食べることでありました。それもたゞ一人で食べることでなく、必ず長上の人と共に、同じ物を分けて食べることを意味して居たことは、モラフもイタヾクも同樣でありました。しかもモラフに對しては一方に、モルといふもつと簡單な動詞があつたので、それは「酒もり」などゝいふ語にまだ殘つて居ります。現在はこのモルといふ動詞はあまり流行しません。「見せてもらふ」だの「歌はせてもらひます」だのゝモラヒマスも、上方以外の土地では人望が無いので、是には實は心理學上の理由がありました。關東でも西國でも、モラフは最も狹い意味の食を乞ふこと、即ちいはゆる乞食のことをオモラヒだのモラヒドなど謂つて居るからであります。乞食をモラヒと呼んで居る地方の人が聽くと、モラヒマスが如何にも卑屈にきこえて、眞似をする氣になりませんが、本來は決してその樣なものに限らず、現に友人とか新しくなつた親類のことを、東北ではまだオモラヒ樣などゝ喚びかけて居るのであります。古い頃のこの言葉の意味は、漢語の糊といふのとも少しかはつて、弘く人々が食を共にすることでありました。その多くの共食者の間には、自然に長幼尊卑の段階があつて、モラフはいつの問にか「いたゞく」者の側だけの用語(413)になつて來たのであります。乞食をモラヒと謂ひ始めたのは、その又一段の引下げであつたのか、但しは彼等に食をモルことにも、何か特殊の目的があつて、最初からさういふ名が出來て居たのか、今日までの學問では、まだはつきりと見究めることが出來ません。がとにかくにモラヒマスの用法は、既に食べ物の關係を離れて、單なる「許される」といふ心持にまで延長して居るのであります。古い慣例を楯にとつて言へば、濫用と評してもよいのであります。私などの記憶では、モラフはもと東京でも低級敬語、即ち「ちよつと來い」の代りに「ちよつと來てもらひたい」といふやうな、上から下への丁寧な言葉づかひだけに用ゐられて居ました。それが京阪のやうに下にマスを添へて、再び幾分か高い敬語に逆戻りしたのは、東海道の田舍でよく聽くオクレマセウなどゝも少しく似て居ります。
 
     イル・イラナイ
 
 イルといふ言葉は命令形も無く、又過去形もめつたに現はれることが無く、果して動詞であるかどうかも疑はしくなつて居ますので、人は段々に之をイリヨウナ、イリヨウナラバといふ風に、形容詞にして使はうとして居りますが、元は立派な四段活用の動詞であり、その變化の型がモラフとよく似て居りました。たゞ一方はモルが先に亡びたのと反對に、こちらはイラフといふ形の方が、早く標準語から消え去つたのが、相異の點であります。其原因かと思はれるのは、中世いつの頃からか「借る」「貸す」といふ使ひやすい語が現はれて來て、イル・イラフといふ動詞を、いらぬものにしてしまつたことで、實際に此語の本來の意味は、單に入用などいふだけでは無く、其爲に人から借りることであつたらしいのであります。
 今でも元の語のまゝで、此語を用ゐて居るのは、東京の近くでは山梨縣の富士川右岸、それから隣縣の富士郡などで、こゝでは物を借りることを、イラフとも又イロフとも謂つて居ります。四國の方でも阿波の祖谷山《いややま》の奧の村、又(414)は高知縣の幾つかの郡でも、イリタイといふ形容詞になつて殘つて居ますが、それはもうたゞ「ほしい」といふだけの意味で、買つても見付けても方法にはお構ひなく、「子供が一人だけイリタイ」などゝ謂つて居ります。しかしそのイリタイも元は宛でも無しにさう謂つたのではなく、物を目ざしてそれが欲しいといふ場合だけに限られて居たことは、九州もずつと南の方から、島々へ渡つて見ればよくわかります。たとへば喜界島でイリ、即ちイレと命令形でいふのは、この物を汝の物にせよといふ意味であり、同時に返濟物をイレームンといふ名詞もありますから、イルに該當する完全な動詞が、元はあつたといふことが推定せられるのであります。
 イルを入用入費などゝ書くのは、誤りと言つてよいやうです。イルは最初は多分「得る」のウル又はエルから、分岐した言葉と思ひますが、さてどういふ順序を經て斯うなつたかといふまでは、今はまだ説明し得る人が無いのです。しかも後々「得る」とは混同させたくないやうな、やゝ別な心持が固着したので、是を少しづゝ變へて使はうとしたことが、語の形と活用法の上に現はれて來て居るのであります。イルを其まゝ「借る」の意味に使つて居るのは、沖繩縣でも西南端の與那國島のイルンぐらゐで、其他は多くは山梨靜岡の二縣などのイラフ・イロフに近い形を取つて居ります。たとへば鹿兒島縣の島々でも、沖永良部島はイヨール、與論島ではイヨーユン、喜界島ではイラユイ又はイラウイといふのが「借る」であり、或は東京の如く全部カルの方を採用して、イルをたゞ限られた場合の特別な表現にしか用ゐぬやうになつた處も多いのです。喜界島にもハユイ、即ち我々のカルに當る動詞はありまして、それは普通の借用を意味し、このイラユイの方は物を同じ物で返す場合、又金錢ならば無利子の場合だけに限つて居るさうであります。今日の貸し借りが新しい慣習であり、この方は買ふ・換へるに近きものであつたことが是で大よそは想像し得られます。
 イルに對しては又貸す方のイラスがありました。日本書紀などの古い記録に、貸稻と書いてイラシの稻と讀んだのがそれですが、この方は標準語としては全く消滅して居ります。それの今殘つて居るのはやはり南の方の島々で、た(415)とへば喜界ではイラーシュイ、沖永良部島ではヨースム、首里那覇ではイラスン、與那國島ではイラミルンと謂つて居ります。其他の多くの島ではカラスン又はカラシムと謂つて居るのは、乃ち沖繩の方でも古いイラシの言葉が、もういらぬやうになつたからであります。
 
     モシ/\
 
 電話のモシ/\は發明でも制定でも無く、ちやうど都合よく我邦に有つた言葉を使つて居るのですが、今ではもう其意味がわからず、又どうして斯ういふのかを知らぬ人が多くなりました。作り話かも知れませんが、英語で電話を掛けるのに if-if と謂つたといふ逸話も傳はつて居ります。最近まで實際にこの言葉を使つて居たのは交番の諸君、普通はオイ/\といふところを、丁寧な巡査だけがモシ/\といひました。それから商店に物を忘れて、出て來るところを喚び返されるときにも、まだ之を聽いた記憶をもつ人が有るでせう。
 このモシ/\は氣のせく際の重ね言葉で、自然に音が短くなり又響きもよいので、十分の效果が擧がるのですが、通例ゆつくりとした場合にはモウシとたゞ一言で、人は振りかへり又は近よつて來ました。これはもう都會では耳にする折が無くなつて居るかも知れません。以前は東京でも是が標準語で、私の養母などは父に話しかけるときに、始終このモウシを使ひました。それを現在の奧樣たちが、アノだのネエアナタなどに變へて居られるのは、流行かは知りませんが言葉から見ると退歩であり、其爲に又ネエの使用が、うるさいほど多くなりました。しかしとにかくに西洋人のやうに、やたらに主人の名を呼ばぬのが、日本では禮儀であつたので、ちやうど似合はしい言葉の備はつて居るのも、又一つのこちらの長處であります。
 このモウシの用途は、今でも地方では中々廣うございます。たとへば人の家を訪ねて入口に誰も居ないときに、家(416)の者の注意をひく言葉、東京でならばコンチャなどいふ無意味な掛聲、又は御免下さいだのお許しななどゝいふ代りに、元はモウシといふ者が澤山にありました。三重縣の鳥羽の町でもモウシ、山形縣の米澤地方でも、子供は店へ買ひに來て、
   マオス、半紙一帖おくれ
などゝ謂つて居り、其他にも竝べきれないほど實例があります。頼みますは元來その家の使用人に、取次の勞を頼みたいといふ意味でありました。召仕も無いほどの家では是も虚禮と感じられます。モノモウといふのは武家用の如く、考へて居る人があるかも知れませんが、農民漁民でも正月の年禮だけにはまだ之を使つて居る土地が方々にあり、又は正月四日の寺年始だけに、住職がさう言つて來るといふ處もあります。吉野の西奧の山村などでは、人が途中で行き逢つて聲を掛けるときには、平日でもモノモ・ドゥレを交換して居たといふことを此頃聽きました。このモノモウの意味が既に判らなくなつて、正月に戸の口へ來てモノ/\又はモロ/\などゝいふ村さへあるさうですが、起りは「物申す」であり、モウシは即ちその略形であつたことは疑ひがありません。今でも土地によるとゴブサタといふ言葉の代りに、久しく物も申しませんで失禮といふやうなことを、謂つて居る人があるのです。
 申すは言ふの謙讓語、「私は言ふ」といふ心持から發したものとしますと、どうしてモウスといはずにモウシとなつたらうかゞ問題になるでせう。確かなことは私には言ひきれませんが、之は通常の敍述用と區別する必要もあり、又シと結んだ方が強く相手に響きます。即ち訪問の辭令又人を喚び止めるときの用具として、是だけ別にして置くのが便利だつたのでせう。東北では米澤の買物言葉のやうに、まだはつきりとマオスと發音して居る處もあります。同じ山形縣の村山地方でも、子供が蛙を殺してから其上に車前草《おほばこ》の葉を被せ、生き返らせて見るといふ遊びが、他の多くの府縣と共通にありますが、其折の唱へごとが、こゝのは又變つて居ります。話の種にそれを掲げて見ますと、
   びつきもさ、びつきもさ
(417)   なぜ死んだ
   ゆべなの粕よて今朝死んだ
   醫者どな來たから戸をあけろ
 意味は大よそ解るでせうが、ユベナノカスヨテは昨晩の粕に醉つて、ビッキモサのビッキは蛙のことであります。モサは申さんもしくは申さうの訛りで無く、寧ろ「申すは」から變つたのかも知れませんが、とにかく人に向つて物をいふ合圖でありました。是が岩手縣の方になると今でも村々ではヂィナムシ、バアナムシといふのが、爺婆に物を言ひかける敬語であります。仙臺の城下でも今は既にすたれて居るでせうが、人を喚ぶ言葉にムシ・モサ・ムサ・モシャ・ムシャの五通りあつたといふことが、享保五年の仙臺言葉伊呂波寄の中に見えて居ります。即ち淨瑠璃の「もうし勝頼さま」なども、たゞ其變化の一つの形に過ぎなかつたことが考へられるのであります。
 電話のモシ/\がこのモウシから生まれる以前、既に物申すを略してたゞモウシとした時代があつたのですが、それはいつ頃の事であつたか、ちよつとわかりにくいやうです。しかし言葉はこの通り、世々を經て次第に改まるものであり、しかも基くところ無しには、さう安々と生まれるもので無いことだけは、大よそ御認めになつてもまちがひはありません。この變化の中にも今一つ、是まで我々が氣づかずに居たことは、元は物をいふ發端にばかり取添へて居たモウシを、いつとなく文句の末に附ける場合が多くなつて來たことで、是も東北地方に行くとかなり判然とそれが聽かれます。相手の名を喚んで婆なムシなどゝ、後から申すを添へるのが始めだつたかも知れませんが、しまひにはどんな物言ひにも之を附け、通例對等の間柄に使ふ言葉に、「申す」さへ添へれば敬語になつて居るのであります。たとへば、エがエンシとなれば「よろしうございます」になり、コダがコダンスになれば「斯うであります」、キタがキタンシとなれば「來ました」に取られるのであります。その最終の音が餘りに簡略になり、?シともスとも聞えるのですが、多くはンシとかンスとか謂ひますから、即ち是も亦「申す」の變化だつたことが判るのであります。
(418) 更に他の一方の端の九州南部に行つて見ますと、鹿兒島などには數多くのイキモス・シモス等々がありまして、土地の人も是が申すであることを知り、文字には申と書いて居ります。然るに一方にマスがあり、それはマヰラスから出たものだといふ説がありまして、このモスまでもそれから變つたやうに、考へる人が現はれました。是には「私は言ふ」の意味の申すならば、ユクモス・スモスで無ければならぬといふ見方も手傳つて居るでせうが、是くらゐの言ひかへは永いうちには起るのです。現に標準語でも御知らせ申す・御話申しますなどゝ續けて居り、それを改良して此頃は御見せ致しますだの御見せしますなどにもなつて居るのです。今日の敬語のマスなども、本來がマヰラスだけからとは決していへません。久しくこの文句のしまひの申すを使つて居りますうちに、つまりは雙方からの影響を半々に受けたのであります。
 それから今一つ、喚びかけのモウシをあまり使はない地方でも、相手に念を押す場合のナアやノウには、よくこのモウシを附けて、さうして相手の人の顔を見ます。あまり頻繁に使ふので耳に立ち都會人にはきらはれ、今では新たなノウアンタ、又はネェアナタに變へてしまひましたが、この方は近頃のことゝ見えて文獻には一向見えません。ノンシやナンシを自分の郷里だけの癖だと思つて居た人が、?東京では鉢合せをして居ますが、是も滋賀縣の東南部などのやうに、今以てはつきりとナーモシと謂つて居る處があるのです。大阪の女の人たちのユクシ・イヤヽシといふ終りのシなども、或は亦東北のアノス・行クスの「ス」と共に、古くからあつた物申すの最後の殘形であるのかも知れません。言葉がいひそこなひだ、まちがひだと知る爲には、先づ他ではどうだらうかを、大よそは比べて見なければなりません。縁も交通も無い國の端々が、五個所も七個所も同じまちがひをして居たといふことは先づ無いことです。今日はまだ誰も説明し得る人が無くとも、何かさう變らねばならぬ原因が、國語そのものゝ中に有つたと見るべきであります。
 
(419)     コソ/\話
 
 モウシが公然と、誰に聽かれてもよい言葉の前觸れであるに對して、あまり聽かせたくない所謂ナイショ話のことを、「こそ/\話」といふのはどういふわけであらうか。それはわかりきつて居る。こそ/\と話をするからだ、といふ人があるかも知れませんが、その低い話し聲を、どうして又コソ/\と形容し始めたかゞ、實はやつぱり不審なのであります。有名な芭蕉翁の俳諧の中に、
   こそ/\と草鞋を作る月夜ざし
といふ句もありますが、是は藁などの輕く擦れる音から出たもので、ちやうど落葉の中をあるく音を、がさ/\と形容するのも似て居ります。人が耳のそばで何かいふ時には、そんな聲は出さないと思ひます。多分は今一つ、別に此方には理由があつたのを、後だん/\と融合してしまつて、コッソリといふ樣な副詞も生まれ、又はコソ/\泥棒、略してコソドロなどゝいふ新語も出來たものでせう。斯んなつまらぬたつた一つの言葉でも、氣をつけて見るとやはり面白い歴史が附いて居ります。古い文學では、私語はサヽメゴト、又はサヽヤキと謂つて居ります。地方にはそれがまだ殘つて居て、たとへば九州の北部は今でも一般にソヽメキバナシといひ、ソヽメクといふのが其動詞であります。中部地方でも福井市の附近ではソヽヤク、丹波でも元はソヽカフと謂つて居りました。私の想像では、サ行即ち S の子音が、どんなに低くても耳につきやすいところから、人が斯ういふ言葉を作り出したので、ソシルといふ動詞なども、やはり最初は S 音を氣にする者が、言ひ始めたものと思ひます。コソ/\話の方も同じ系統と言ふことは出來ますが、是にはなほ一つ、新しい心持が加はつて居るやうです。即ち單なるサとかソとかの音が耳立つといふ以上に、特にコソといふ「てにをは」が盛んに使はれる物言ひといふ意味で、いさゝか皆樣には御迷惑かも知れませんが、(420)どうも私には御婦人の責任のやうに感じられます。これ迄の國文法の先生たちは、コソもゾも同じ價値、たゞ偶然の使ひわけのやうに教へて居ますけれども、この二つのものは大分感じがちがひ、又口にする人の種類もちがひます。中古に女流文學が流行してから、コソの用法が急に發達した如く、今でも氣をつけて居ると男の人はあまり使はず、又使ふとやゝめゝしくも聽えます。之に反して女性は小さなことにも力を入れて、それこそ、私こそ等を連發しようとします。しかも遠慮がちに小さな聲で、人の顔を遠目に見ながら、何かといふとこの「こそ」を使ふのですから、つまりはコソ/\話の專門家といふことになるので、少なくともこの一つの戲語を考案したのは、それを皮肉つた男たちの所行にちがひありません。地方の類例を比べて見ますと、滋賀縣の東部では私語をモノクソと謂ひ、コ島縣の北部ではモノコソイフといふのがさゝやくことであります。モノは即ち言語ですから、其下に附けたコソは「竊かに」の意味で無く、寧ろそのコソをよく聽く時の感じに近づけんが爲に、わざとコソ/\と二つ重ねたものかも知れません。斯ういふいたづらは男は中々上手です。たとへば山形縣の一部では、女が告げ口をするのを「梨賣る」といふ隱語があります。あの地方の若い女たちは、何か力を入れて物を言ふときに、句の終りにナシといふ語を添へます。それを知つて居る人なら、この複合動詞はよくわかり且つ面白いのです。コソ/\話の意味もそれと同樣に、いやにコソばかりを耳立たせる話といふことで、それも今日となつてはもう過去の遺物であります。前に掲げたモノコソイフの地方には、又ミヽコソといふ語もあります。是をきくと氣がつくのは、東京などでもまだ行はれて居るミヽコスリ、又はアテコスリといふ言葉で、是なども少しも「こする」といふ動作とは伴なはぬのだから、やはりコソ/\話のコソを、動詞にこしらへたのかといふことが考へられます。昔の人は言葉を動詞にする技能を、今よりも遙かに多く具へて居りました。たとへば彩色からサイシク、料理からリョウルといふ動詞を作り、決して哲學するだの科學するだのといふやうな、下手なことは言ひませんでした。昔の人ならば、或はテツガカン、クヮガカバヤと謂つたかも知れぬのです。
 
(421)     ゴモットモ
 
 今の人が考へると、どうしても一つの言葉とは思へないものを、同じ言葉を以てまかなつて居る例は色々ありますが、それはまだ説明せられない隱れた歴史があることを意味するかと思ひます。文章によく使はれる最の字などは、もつとも正しいだの、もつとも美しいだのと、一ばん正しい美しいといふ場合には用ゐて居ますが、口で言ふのを聽いて居ると、「しかし」といふ代りにいふことが多く、又年寄などは「おまへの言ふのももつともぢや」といふ風に、道理があるといふ時に「もつとも」を用ゐ、最初はサイショ、最後はサイゴと言つて、斯ういふ際には却つて「もつとも」とは言はず、子供たちは此頃イットウといふ語で間に合せて居るやうです。隨分大きな距離だと言はなければなりません。是が始めから三つ三通りに、行はれて居たといふことは考へにくい。どれかゞ元の意味に一とう近く、他は少しづゝ遠ざかつて來て居るものとすると、其順序は追々に明らかになると思ひます。
 始めて私が此問題に心づいたのは、ちよつと珍しい機會でありました。信州松本附近の農村では、今でも節分の晩の豆撒きを二人でします。後から附いて行くのは少年か年とつた女で、手には杓子だの擂木だのを持ち、前の一人が豆をまきつゝ「鬼は外、福は内」を唱へると、すぐに其あとから「ごもつとも/\」と言ひます。この豆まきが二人といふ處は存外に多いもので、さういふ土地では加賀の金澤でも、又九州肥前の平戸五島でも、同じやうにこのゴモットモをいふことになつて居ります。是から考へると、お前の言ふのはもつともぢやといふ「もつとも」が最も是に近く、多分は福は内云々の唱へごとが、確かなことだ、まちがひの無い言葉だと、公認するのが本來の目的であつたのを、後々やゝ社交的に濫用して、さほどでも無いことに同じ受け答へをして、終には御無理御尤もなどゝいふ樣な、ふざけた口合まで出來たものと思ひます。まじなひの言葉といふものは、一般に今日はすたれて居りますが、一人が(422)たゞ之を唱へただけではまだ力が足らず、何かその後へ之を確實にする文句を、添へずに居られぬやうな氣持がしたと見えまして、たとへば五月節供の蟲まじなひの文句の末にも、淡路の島などでは元はギホウといふ語を添へました。文字には儀方と書き、沖繩の島には今でも多くのまじなひの詞のあとに之を附けます。新潟縣の西頸城郡などには、キリギッチョといふ言葉を添へますが、是は陰陽道の急々如律令を、意味もわからずに眞似たものと思はれます。佛教の陀羅尼のアビラウンケンソワカも、方々の土地で採用せられ、老女がそれを「油桶そわか」とおぼえて居たといふ笑話などもあります。斯ういふ外來の文句の普及するまでは、日本ではモットモといふのが是に當る言葉だつたらしいのであります。人に頼まずに自分で續けて言つてもよかつたと見えまして、岩手縣紫波郡の桃太郎童話には、犬猿雉が桃太郎に向つて、「日本一の黍團子を一つ、ごもつとも」と言つて、貰つて食べたといふ話もあります。是から推して行きますと、最初にはいはゆる言靈《ことだま》の力を確認する言葉であつたものが、段々と相手の言ふことを何でもかでも、承知する言葉になつてしまひ、一方には又是だけのことは是非言つて置かねばならぬといふ時に、「モツトモ私の方にも手落ちはあるが」などゝ、但しや「しかしながら」に近い用ゐ方をしたのでせう。「一ばんに」又は「一とう」をモットモといふのは或は更にそれよりも新しく、漢語の最の字をモットモと訓み出してから後に、寧ろあちらの語義に引かれて、斯ういふ心持を附け加へたものかも知れません。
 
     ナルホド
 
 成程も近頃では「尤も」と同じやうに、後へ「しかし」を附けて反對のことをいふ爲に、用ゐることが多くなりましたが、始めは是も亦言葉通りに、力一ぱいとか此上も無くとかの、意味だけに使はれて居りました。この二つを反對用に供し始めたのは新しいことゝ思はれます。能の狂言などに見える例は、「成るほどさう致しませう」とか、又は(423)「成るほど見ごとにござる」とかいふ風に、單に相手の言葉を是認するのみでなく、それにこちらも極力ついて行くといふ意味がありまして、成るほどの本來は「出來るだけ」と、一つであつたことが大よそわかります。即ち元はモットモも同じ樣に、それが唯一の正しいものである故に、從はずには居られぬといふことだけに限つて居たのが、後々社交上にやたらに利用せられた末は、寧ろあんまり感心せぬことを、一應はちよつと認めて置いて、さて反駁するといふ際などに、却つて多く使ふことになつたことは、佛蘭西語のセブレイなどゝも似て居ります。女の人にはめつたに用はありますまいが、時々は横で聽いて居ても、をかしいとお思ひになることがあるでせう。受返事にこのナルホドを、頻りに濫用する人が今でもよく有ります。可なり空々しい感じを相手には與へるものです。或は又特に力強く、この成るほどを長く引張つて明瞭に發音するものを、心から同感した場合だけに使ひ、その他のいゝ加減に聽き流してしまふものには、ナールと謂つたりナーッと謂つて見たり、甚だしきは人が物を言つて居るあひだ中、殆と引つきり無しにナナナを、機關銃の如く連發する親爺さんも有ります。私の考へでは、この不完全で又曖昧なナール以下は、元來は別の語だつたやうに思ひます。今でも受返事にナやナイやネイを使ふ地方は、捜して見れば各地に殘つて居りますが、以前はさういふ人が今よりずつと多かつたことは、芝居の奴言葉などで、東京の人もよく知つて居ります。つまりは餘りになるほどを濫用し粗末にした爲に、それと今一つの答へのネイやナイとの區別が、自分にも判らなくなつてしまつたのであります。二つの語音の近い言葉が、末には一つのやうになつてしまふ例は、毎日數しげく使つて居るものゝ中に、却つて多いやうであります。例へば此文章にも使つて居るマスなどが、申すとまゐらすとを混合して居るのも其一つの場合です。
 
(424)     左樣シカラバ
 
 人の言葉を聽いて、それが自分に向つて言つて居るのか、又は或人がさう言つたといふことを告げるだけなのかを、區別することが以前は今よりも六つかしく、しかもそれを明らかにする必要が元は多かつたかと思はれます。いはゆる間接叙述は語法の一段の發達であり、又國語教育の效果であります故に、子供などにはまだそれが出來ず、又しば/\間違へても居ります。上手に話をする人は別人の言つたことを、すべて自分の話に引直して、この混亂を避けようとしますが、それではどうしても元の話の印象が薄くなりますので、我々も折々は耳で聽いて來た話の口眞似をして、其まゝを次の人へ引繼がうとします。其爲に話が二段にも三段にもなつて、たとへば甲のやうな親切な人は無いと、乙が話して居るのを丙が聽いて、丁に話したのを其丁から、始めて甲に言つて聽かすといふやうなことが毎度あります。或はそれが自分の説ではないといふことを、明らかにしなければならぬ必要も常にあります。この區切りを明白にする爲に、今でも東北地方ではサウといふ副詞を、「言つた」の前に必ず附けて居ります。其サウイッタがセッタとなり、又はヘッタとさへ變化して、「言ふ」をセウ又はヘウと謂ふなどゝ、多くの方言集には出て居るのであります。しかし是は東京でも?耳にする物言ひで、精確には方言といふべきものでありません。以前は恐らくは日本人が一般に、斯う言つて人の話と我が話とをしきつたものと思ひます。それよりも關東の或區域でしか行はれず、西の方へ行くと又異なる言ひ方をして居るのは、文句の終りにサを添へて、是だけが私の言はうとすることだの意味を明らかにしようとするもの、是は便利でもあり有效でもありますので、追々と弘く行はれ、所謂標準語にならうとして居るやうですが、兎に角に新しい發明であつたやうで、古い文學にも記録にも出て居らぬのみか、全くこの用ゐ方を知らぬ人が、全國には大分あります。もとは方言だつたと謂つても誤りではありません。東北などに今も傳はつて居(425)るサウイフ(セウ・ヘウ)などゝ異なる點は、單に形が短くなつて居るだけで無く、あちらはたゞ他人の言ふことを傳へる爲であるのに、此方のそれにはトサとわざ/\トを加へ、たゞ自分のために物言ふ時にのみ、このサを附けるのであります。さうして便利なものだから段々と用ゐ方が擴張し、行くのさ・有るのさの樣にノを入れたものが昔から多かつた外に、此頃では人の言葉をきゝ返す場合にも、ナニサァなどゝ尾を引くものまでが出來て來ました。今にどうして斯ういふ形が生まれたのかを、説明することが困難になつて來ませう。サは元來が相手のもの、身から引離したものだけの指示かと思はれますから、之を自分の言ふことの區切りに附けるのは、言はゞ一つの轉用であります。それを不審に思ひ又は別ものと考へる人の、出て來るのは已むを得ないことです。しかし同じ例は文章語の云爾、即ちシカイフ又はイフコトシカリなどの場合にもあります。元は他人の言葉を然り即ちシカアリと見たのですが、後には自分の言ふことにも、終りにこのシカイフを附ける人が出て來ました。つまりは我言葉を客觀したのであります。シカとサとは元來一つの語だつたと見えて、用法が大よそ一致し、たゞ日常の口言葉には、シカツメラシイなどゝ謂つて、嫌つてシカの方を餘り用ゐない樣です(例外はシカシが有ります)。多分はシカの方が一つ古いか、又はサが女言葉だつたのでせう。とにかくにサの方だけは實に人望があり、又久しくさま/”\の目途に用ゐられて居ります。「其」のソノなども一つの變形と思はれますが、今はそれだけは問題の外にして置きます。サを人の言ふことの全體を指すものとして、それから作られて居る言葉は色々あり、それが又至つて調法な便利なものですから、よく/\我々はこの小さなサの一語に、御禮を言はなければならぬのであります。たとへば嬉しサや戀しサのやうに、すべての形容詞を思想化する形なども、この恩惠の一つと見てよいでせう。サシヅやサシアゲルなどのサシの如きも、心ざすや指すのサスだと思つて御出でかも知れませんが、それ等のサスとてもこのサが無かつたら作れますまい。女性の盛んに用ゐて居るサゾ・サコソなどは、單に相手の言ふことを信ずるといふ以上に、是から言ふのであらうものまでを、受入れようといふ態度をさへ示して居ります。サモ悲しさうになどゝいふサモは、現在では幾分かよくない場合に傾(426)きかけて居りますが、是も嘗ては餘りに頻々たる利用を通り越して來て、つまりは稍飽きられ氣味になつて居る爲かとも思はれます。中世の滑稽でもうわかりにくゝなつてゐる昔話に、或僧が老女に物を與へて、自分の説教の時に泣かせる約束をしたといふのがよくあります。或尼さんが坐睡をして居て、説教者からこはい眼で睨まれた際に、南無阿彌陀佛といふ代りに、サモアミダブツと謂つたといふしやれなどは、斯ういふ人たちが如何に頻々と、サモを使つて居たかを知つて始めてをかしいのであります。
 次の間題の左樣に就いては、もうくだ/\しく説く必要も無くなりました。人の言葉に對するサヨはヨを附けただけで、恐らくは本來女性の用語だつたらうと思ひます。「左」でも無ければ又「樣」でも何でも無かつたのです。男は漢字ばかりで手紙日記を書かねばならぬといふ、因果な束縛を受けて居た爲に、苦勞して斯んな左樣などゝいふ宛て字を見つけたのみか、それに引かれてわざ/\「左樣でござる」などゝ、二重の斷定をして居ました。子供は流石にサヨナラと昔のまゝに發音はして居ますが、是とてもやはり一旦きまつた形に囚はれて居るので、一つにはヨの音のやさしさに誘はれて行つたのでせうが、本當はサラバ・サレバの方が今一つ古かつたのであります。
 
     知ラナイワ
 
 明治時代の女學生が、明治のお婆樣からよく笑はれて居たのは、アルワヨ・無イワヨなどゝ、ワの後へわざ/\ヨをくつゝけるからで、單に言葉のしまひにワを添へるだけならば、もう江戸時代と謂つた頃から、東京にも有つて珍しいことではなかつたのです。どうして又新たにヨを附け始めたものか、其原因又は流行のもとはわかりません。多分どこかの田舍から、おしやべりの娘が携へて來たのでせうが、その原産地もまだ突留められて居りません。但し東京の知らないワなども、かくべつ古い言葉ではなかつたやうです。さうして今と維新前とを比べましても、用法の少(427)しの差は有りました。其一つは使ふ人、もとは町方の幾分はすはな女たち、男に對して自由に口のきける商賣の人が、多くこのワを用ゐて居りました。女學生が之を採用したのはやはり變遷であります。第二のもつと大きなちがひは、氣をつけて江戸文學をお讀みになるとわかりますが、以前は低い人が多いので、終りにワを附ける文句は大抵は敬語でしたし アリマスワ・有リマセンワが普通に聽く言葉で、從つて今のお孃さんたちのイクワ・來ルワなどは、やつぱり少しはをかしかつたのであります。それがもう誰も笑はなくなつたのですから、言葉は流行によつて變つて行くといふ、一つの例證にはなるわけであります。
 流行はたゞ氣まぐれのものか、たゞしは種子があり理由が有るものかといふことが問題になつて來ます。女が自分のいふことにワをくつゝける土地は、現在の方言にはもう少ないやうです。和歌山縣の農村にはまだ有るといひますが、それも男子とおもやひで、別に女だからワを附けるのでは無いのです。男のワに至つては、京阪地方では寧ろ普通であります。しかし此方は當然に太く重く抑揚もちがひ、どちらかといふとごつ〔二字傍点〕い言葉で、東京の娘たちのワと同じものとは、雙方とも思つて居ないのですが、そんなら別ものかといふと、又首をかしげる者が多いでせう。私などの少年の時分までは、ワイといふ人の方がワよりも多かつたやうです。ワイは下品な言葉だと謂つて親に叱られましたが、それでもまだワよりは少しは良いといふ感じで、折々うつかりと使ふことがありましたが、ワの方はてんで問題にならなかつたのであります。下品といふことは、田舍者しか使はぬといふ意味だつたやうです。現に近松から竹田出雲頃までのは、都會の人たちも盛んにこのワイを使つて居りまして、從つて下品では無かつたことゝ思ひますが、それでも目上の人に向つては是を言はなかつた樣で、其點がやはり皆さんのワとは少しちがつて居ます。
 ワイだのワイヤイだの、又は女の無イワイナだのに、十分な親しみをもつた者が聽きますと、北九州のバイなども單なる W−B 變化であつて、根本は一つだつたことが大抵うなづかれます。つまり日本人は、何か思つたこと見たことを人に告げる場合に、この種の一語を下に添へまして、「それを言ふ者は自分である」ことを明らかにする習はしが(428)あつたので、文章語では全く跡を潜めて居りますが、和歌のみにはまだ少しばかり保存せられて居る「我は」と同じく、人稱代名詞の一つの置き所だつたのかと、私は考へて居ります(考へて居ります、私は)。日本語は代名詞の不用な言語、少なくとも代名詞の使用度の少ない國のやうにいふ人があるのは、言はば文章の本ばかりで、日本語を學び得たと思つて居る先生方であります。
 たとへば「知らないわ」といふ人は、たゞの一度でも他人の知らぬといふのをさう謂ふ例が有りません。知らぬは私だといふ以上に、その點を明言するといふ意味も含めて居るのです。子供の言ふことに注意して御覽なさい。關東地方の村々の兒童たちは、オラシラネとも言ひますが、つい近頃まではシラネオラの方がずつと多く、又どうやらこの二つは、心持が僅かばかりちがつて居るやうです。大阪附近に行つて見ても、川邊郡の山村などではシランヤレ、又はソウダヤレなどゝ謂つて居ります。(是から考へると、ヤレ嬉シヤなどのヤレも元は我だつたらしい)。それが必要であつたことは、東京でも若い娘たちが、ワといふ氣持はもう忘れてしまつて、知ラナイワワタシなどゝ、今一ぺん一人稱代名詞を附けたして、念を入れようとして居るのを見てもわかります。私を文の始めに置かねばならぬ樣にしたのは、漢語か英語かは知らず、とにかくに外國語かぶれのやうであります。
 紀州の熊野地方で耳につく言葉に、「構ふものか」の意味に、シタルカレといふのが有りました。それと近い語が和歌山の市中にもあり、
  そんなことを言ふたかてシルカレ
を、知るもんか、知つたことかといふ意味に使つて居りました。カレは動詞の終止段を受け、此方の……モノカ、又は……カイに當ると、杉村楚人冠氏は言つて居られますが、このカレもカの疑問辭にワレもしくはアレを添へたものにちがひありません。此地方に傳はつて居るもう一つの形に、「行かう」をイコラ・イコライ又はイコレ等、「行くまい」をイコマイラ、イカマエラ、「遊ばう」をアソボラ、アソボレなどゝいふのが有ります。この最終の一語は所謂助(429)動詞では無かつたのであります。東京でも子供がよく使ふアラー、シッテラーなどの末の音も、ワといふ代名詞がある爲に斯う變つて來るのです。それを考へないで口語文法を書いたら、多分後世の人から笑はれませう。
 口語では文句の終りに「我は」を附けるのが、寧ろ全國を通じた法則だつたかと思はれます。それが新しい文化に影響せられぬ土地には、一樣に又少しづゝ形をかへて保存せられて居るのであります。東北では岩手縣の北部などに、「さうでせう」をソウダベドラ、文章語にして見れば「さうであるべいぞ我は」となると思ひます。外南部で私の荷物を背負つてくれた娘などは、人が物を言ふ毎に一つ/\、ソウカエオラとオラの語を添へた受返事をしました。山形方言集を見ますと、村山三郡には又フダドレといふ語があります。
  石を打つたのは君か?――フダドレ
 フダは他の地方でホンダ、ホダなどゝいふのも同じく、「さうだ」の音の訛り、ドレのドはゾかと思はれますから、やはり終りにオレが附いて居るのであります。最上郡の方では、
  この人だこんだらきしェだワード
といふのが、「此人ならいやだ」といふ意味だと申します。ダコンダラは「だといふならば」、キシェダは此地方でのキラヒダの發音差、ワードは即ち我等の意であります。人は「誰でもさうだらう」といふ氣持のあるときには、自分一人の場合にも複數の我等を使ふことがあるのです。
 この言葉づかひが全國的だつたといふ證據に、もう少し他の地方の例を引いて見ませう。滋賀縣の北部には、「さうだ」をソウヤナレ、「私のだ」をワシノヤナレなどいふ語があります。ちよつと是だけを見るとナにアレを附けた樣にも取れますが、アレと指すものが無くても言ふのですから、是もやはり「我は」でせう。話の言ひ切りにヤを附けることは、關西ではごく普通なので、自然にイヤヽワといふやうな言葉が出來ます。越前の福井地方などでも、「にくらしい」の意味でイヤタインニャワと謂ひます。加賀の大聖寺附近でも、「いやだ」をアカヤワなどゝ謂ひますが、(430)幾分かそれをやさしくしようとすると、其ワをワイネとも又ワネとも謂ひかへるさうです(江沼郡河南村方言考)。飛騨の北部などでは、ワもワイも有りますが、この二つはやゝ粗暴な語と受取られ、女は普通にワイナを使ふこと、淨瑠璃や都々逸の文句も同じです。たとへば「何でも無い」といふことを、男ならナモヤワイ、女だとナモヤワイナと謂ふのであります。山形縣の海岸地方にもこのワがあつて、主として男に使はれて居るかと思はれますが、兩地の中間になる越後の平野では、此ワがバに變つて居て、女たちもよく使ふことは、次の樣な笑ひ歌にも現はれて居ます。
   おや/\、 どうしよーば
   おかゝどうしよーばのし
   どうしよーばたつてどしよーばやれ
 をかしい文句ですが、ちよつと是は説明しかねます。つまりは不品行な女の困つて居る樣子を親子の問答にして笑つたもので、其おしまひのヤレも、亦一つの「我は」であつたやうですから、もうこのバの代名詞であることを忘れて居るものであります。
 
     ヨス・ヨサウ
 
 始めて田舍から東京に出て來た者が、一度は必ずびつくりするのは、止めるをヨスといふ四段活用の動詞です。さういふ中でもオヨシナサイといふ命令形が、響きがよい爲か殊に心に留まります。新たに斯ういふ言葉が標準語になることは、已むを得ぬといふよりも面白いことだと思ひますが、その代りには是が古語でも無く、又決して日本の弘い區域に、行はれて居た言葉でも無いといふことを、知つて居るだけの必要はあります。斯ういふ道を通つて我々の古語は、まだ/\是からも成長するからであります。
(431) ヨシは吉野のよき人の御歌以來、しぱ/\單獨に感動詞風に用ゐられて居りました。さういふうちに其内容が少しづゝ弘くなり、善から可へ、「それでもよろしい」から「それには及ばぬ」まで、段々と伸びて行つたのは、乃ち好い言葉だつたからであります。相手の感情を出來るだけ傷けないで、勸誘を拒絶する表現法として、ヨシにするといふ複合動詞が、先づ發明せられたのも自然の進みと言つてよいでせう。標準語が普及した爲に境目が判らなくなりましたが、元は箱根から西は一般に「ヨシになされ」で、ヨシに敬語を載せて「オヨシ遊ばせ」などゝいふことは無かつたかと思はれ、今でも亦餘りさう言ひません。しかもそのヨシニスル方は、京では足利期の季にはもう盛んに使はれて居ります。或はオの濫用が元になつて、敬語の側から變つて來たのかも知れませんが、西の方でも鳥取縣の東伯郡あたりには、止めるをヨッスルといふ動詞も出來て居ますから、東京のヨシタやヨセヤイの如きも、曾ては斯ういふ段階を通つて、終に「好し」といふ感じから脱却したものとも想像し得られます。何れにしたところが、止めるが直接にヨス・ヨサウと變つて來るわけの無かつたことは同じであります。紀州の熊野地方の人はよく知つて居られるでせうが、あの邊では東京のヨス又は罷めるを、普通にはマイスルと謂つて居ります。是などもヨシニスルといふ語から推して、その起原を察することが出來ます。即ち最初はマァエイといふのが、簡單な辭退又は謝絶の語であつたのを、あまり頻々と口癖のやうに使つて居るうちに、それが「先づよし」の意だといふことを忘れてしまつて、ちやうど科學スルや哲學スルと同樣に、之を動詞にして未然形や命令形をこしらへ、又さうすることが便利だと思ふやうにもなつたのであります。東北では青森縣の津輕地方に行きますと、いけないとかだめだとかいふ意味に、マイナイといふ言葉をよく使ひますが、是も恐らくは熊野のマイスルと同じで、元はマァイヽから出て居るかと私は思つて居ります。たゞ一方が之を動詞にした代りに、こちらではナイを添へで形容詞にしただけのちがひで、つまりは「マイと言ひたいやうな感じ」といふ意味かと思ひます。ナイが必ずしも打消しの「無い」では無く、たゞ形容詞の形を作る爲に、くつゝけられたものゝ多いことは、前にモツタイナイやカタジケナイの條でも申して置きました。たゞ私のま(432)だ説明し得ないことは、現在の津輕人はこのマイナイと同じ場合に、?マイヘンと謂つて居ることであります。ヘンは助動詞の打消し敬語ですから、是では却つて「止めない」といふ意味になるのですが、多分は土地の人までがもうマァノヽの本の心を忘れてしまつて、ナイを打消しのやうに感じて居る爲に、再び之を動詞にする際に、マイヘンと譯したものかと思ひます。
 
     ヨマヒゴト
 
 世迷言などゝいふ奇妙な漢字を宛てゝ居ますが、無論少しも當てにはなりません。現在は何の役にも立たぬ繰言、愚痴とも未練とも評せられる長文句がヨマヒゴトであり、又はたゞ老人などの、筋の通らぬ意見のやうなものを、惡くいふときにも此語を使ひますが、是等も皆宛て字の「迷」といふのに引付けられて、少しづゝ意味を動搖させて居るのであります。起原がはつきりとしない限り、内容の不精確は免れ難く、やがては其爲に使ふ人が少なくなつて、忘れて江戸文學にまで註釋を必要とするやうな、時代を現出する種になるかも知れません。田舍の言葉に注意さへして居れば、今ならばまだ原因を尋ねる途は有るかと思ひます。是非とも殘して置かねばならぬといふ程の好い言葉では無いにしても、とにかくに是に代るべきものは他に無いのですから、消えてしまへば是だけは物が言へなくなる。その點が私には惜しいと思はれるのであります。ヨマヒゴトは多分近世になつて、都會の人が作つた單語でせうが、之を作り出すにはその一つ前に、ヨマフといふ動詞のそこに行はれて居たことを想像しなければなりません。今日このヨマフの行はれて居るのは、東京の周圍の狹い地域だけで、それも多くはヨマアレルといふ、受身の形でのみ保存せられて居るのですが、その心持はどこも一樣に、叱られる又は小言をいはれることがヨマアレルであります。さうして口ではあまり使はぬ處でも、ヨマフが相手方の小言をいふことであるだけは皆知つて居ります。甲州などにはそ(433)のヨマフがあり、又は叱り付けることをヨマヒコメルなどゝいふ語も出來て居ります。ところが信州へ入つて行くと、ヨマフも有るらしいがヨモフといふ人の方が多く、越中の下新川郡あたりでも、やはりヨモフがあつて、「くどく」ことだと解説せられて居ります。私の知つて居る限りでは、是から西の方にはもう例は見つかりませぬが、ヨマヒゴトといふ語が成立つて居る以上は、元は江戸にも京都にも、このヨマフの動詞がよく知られて居たのであります。ヨマフは中世以前には丸で無かつたちよつと珍しい言葉で、斷定することはまだ危險ですが、前のクドクなどの例から推して、私にはほゞ其起りを想像することが出來ます。クドクは御承知の如く、町と田舍で意味がよほど違つて居ります。しかしクドイといふ形容詞などもあつて、人がクド/\と、又はくだ/\しく物をいふ行爲を、いとも無造作にクを附けて動詞にしたのが、恐らくはその最初の形でありまして、踊の語りものにクドキと謂つたり、求婚をクドクと謂つたりするのは、それから再び轉じたものと見てよいでせう。ヨマフといふ動詞も是と同じやうに、何か頻々と人が用ゐて居た感動詞もしくは短句に、ヨマと聽えるものがあつて、本の意味が忘れられたのでは無いかといふことが考へられます。はつきりそれだとまでは私には言ひ切れませんが、中國地方には今でもヨーマといふ語があるのです。岡山縣の淺口郡などの方言採集には、ヨーマは無駄口のことだと出て居ますが、その隣接地の備後の二三地方では、遠慮も無く人の惡口などをいふ者を、ヨーマタレと謂つて居るのみならず、婦人は今でも僅かばかり意外な言葉を聽くと、すぐにヨーマーといふのを口癖にするものが多く、現に私なども二三べんはさう言はれたことが有ります。その語の感じはどういふことであるのか、廣島縣出身の方たちに思ひ出していたゞきたいのですが、私は是を「ようもまアそんなことが言へる」といふ文句を、わかり切つて居るので省略したものと解して居ります。關東の方では今日は無論ようまアとは言ひませんが、それでもまだ古風な物のいひ方をする人たちは、「よくもまアそんな云々」と、文句の中間にまアを插むのが普通であり、今日も女の人たちが盛んに用ゐて居られるマアといふ間投詞などは、その大半が是と同系統の、輕い驚きの感じを示して居るのであります。東北に行つて見ますと、この「まア」をマヅ・マ(434)ンヅと發音して居りまして、是が「先づ」即ち何よりも此點に心を引かれるといふ感情の、表白であつたことが認められます。人の物言ひや行爲を批難する爲に、以前はこのヨーマーを器械的に、頻繁に用ゐる時代があつて、それがヨマフといふ動詞を發生せしめたのは、京か大阪か、とにかく西の方の都會地であつたのが、既に動詞になつてから後に、段々と東の方へ普及して來たのでは無いかと、私は想像して居ります。群馬縣の北部ではヤレル(言はれる)、千葉縣市原郡ではコヾチャレル(小言いはれる)、同君津郡ではヨンマレル等、どういふものか「叱られる」を意味する方言動詞が、近世になつて急に新たに増加して居ります。
 
     オヽコハイとオッカナイ
 
 動詞の新たに造られる氣輕さといふやうなものを説いた序に、今度は形容詞の隱れた語原を、一つ二つ御話して見ませう。コハイは方言に興味を抱く人々の、最初に心づく單語の一つでありまして、東京では怖ろしいがコハイであるのに、是から東の方の農村に行くと、疲れた・くたびれたといふべき時に、みんなコハイと謂つて居ると笑ふ人が多く、笑はれてはつまらぬ故に改めようとする者もあつて、意外にこの言葉の流通は妨げられて居ります。國語辭典を見ればすぐわかる樣に、コハイの古い意味は又別にありまして、たとへば飯がコハイとか蕨筍がコハイとかいふ樣に、柔かいの反對、しなやかで無いものがコハイですから、寧ろ病氣のため又は働き過ぎの爲に、筋骨の強ばるやうな感じがするのを、コハイといふ方が元に近いのであります。疲れるやくたびれるは動詞であり、又一つの推理でありまして、疲れたと言つてもよいやうな?態もしくは感覺を、コハイと形容するのとは大分に心持がちがひます。もしも是を罷めてしまつて、怖ろしい場合にしか使はぬことにきめますと、もう身のこはゞることを言ひ表はす代りの語の無い處が多いのであります。どちらか一つに統一する必要が有るならば、寧ろ他に言ひ樣の幾らもある「怖ろし(435)い」の万を、コハイと言はぬやうにしたらよからうと思ひます。しかしさういふことを決定するのも國民總體の知識ですから、其前に先づ一通り、どうしてこの都會風の、第三種のコハイが現はれて來たのかを、知つて置く必要が有ると思ひます。現在の形は全く同じになりましたが、この最後のものだけは、用ゐ方が少しく他の二つとちがつて居ました。それが各地の實例から、今ならまだ窺ふことも出來るのであります。たとへばオヽといふ驚きの短辭を添へて、オヽコハイといふ場合が特別に多いこと、次には東京などでは近頃聽かなくなりましたが、もとはオヽコハと形容詞の語尾を附けずに、單なる感動詞の形で使ふ者が少なくなかつたことなど、人は何でも無い現象の樣に思つて居るかも知れませんが、氣をつけて見れば是も此語の成立ちを暗示して居ります。それよりも更に注意しなければならなかつたのは、今でも關東以北に弘く行はれて居るオッカナイといふ方言、是がオヽコハイと殆と同じ意味に使用せられ、本來は一つのものであつたらしいことであります。ナイは形容詞を造り出す一つの方式、最も簡單な語尾の一種であつて、別にオッカが「無い」といふ意味で無かつたことは、今でも幼い者だけに對しては、オッカイといふ場合が多いのを見てもわかります。小兒には少しでも手短に物をいふ必要が有る爲か、何かあぶない事を制止するやうな際に、丸々この形容詞語尾を附けずに、オッカだのオッコだのと、親姉が言つて居る例は至つて多く、それが地方によつて少しづゝの差はありますが、何れもわざとながら驚き怖れの感じを運び、よほど又上方人などのオヽコハと近くなつて居るのであります。
 爰まで話を進めて來ると、思ひ出す人がきつと多いことゝ思ひますのは、今日まだ全國の隅々に保存せられて居る「牡丹餅は化けもの」と呼ばれる笑話であります。昔愚か聟が嫁の里を訪問すると、牡丹餅をこしらへて御馳走しようとする。それを子供が傍に居て欲しがるので、是はオッカだと謂つて親がだまして居る。愚か聟がその言葉を聽いて大いに怖れ、蒼くなつて逃げて還るといふ話で、子供にもよくわかつて皆高笑ひをします。この昔話の趣向の「やま」、笑ひの中心ともいふべきオッカといふ語は、土地によつて色々とかはつて居ますが、西の方ではオヽコハとな(436)り、東北に行くとヤッカ、オッコ、又はオケァエモンコなどゝなつて居るのですから、オヽコハイとこのオッカナイが根原を一にし、つまりは化け物ではないかといふものに遭遇した驚きの聲から、發して居ることが明らかになるのであります。柔かならざるものゝコハイとは全く關係無く、怖ろしいのコハだけは「是は」であり、それが意味をもたぬ所謂間投詞となつてしまふほど、曾ては頻々と用ゐて居た時代があつたのです。この傾向は今でも隨處に見られますが、どういふわけか追々とコレハに改まり、コハの方は古風になつてしまつて、「こはそもいかに」位にしか、もうその痕跡を留めなくなりました。或は寧ろコレハが盛んに使はれることになつた故に、コハを怖ろしい場合だけに限つても、誤解の虞れが無くなつたのかも知れません。最初の用途は勿論ずつと廣く、單に注意を或一點に集める意味だつたのでせうが、さう色々の目的には用ゐなくなつてから、自然に怖ろしい感じばかりと結び付き、從つて「是は」と同じだといふことを忘れるに至つたのであります。伊豆八丈島の樫立村などでは、汚ない又はきみが惡いの意味に、オヽコハイ・オヽコハサを用ゐ、驚いたりびつくりした時には、クロワ又はクルワ即ち「是は」と謂ふさうで、是も亦一つの使ひ分けであります。滋賀縣の神崎郡などでは、アックワといふのがたゞ驚いた時の感動詞でありますが、大阪府の泉南地方になると、アクワはもう臆病者を意味する名詞になつて居ります。即ち始終アクワといふ聲ばかり出す人といふわけで、爰では勇氣の足らぬ者のみが、主としてさういふ驚きの語を發して居たからかと思ひます。コハとコレハとが同じ語で無いといふ感じは、斯うして段々と擴がつて來て、しまひには一方ばかりの形容詞化が起つたので、オヽコハがオッカなどゝ變つたのも、或は其必要が之を促がしたとも言へますが、なほその以前から富山縣の一部の如く、「こは何といふことをした」をカナンチュシタといふ類の變化は、方々に現はれて居りました。打消しでは無いのにナイを附けて形容詞を造る例も古くからのことです。雅文に折々出て來るコヨナシといふ語なども、此上無と宛て字をする人がありますが、上をヨといひ又ノを省く筈がありません。是もコヨ(是よ)といふ指定の感動詞があつて、それに形容詞語尾のナイを附したのが元であつたらうと思ひます。
 
(437)     ミトムナイ其他
 
 醜をミニクイと謂つたのは上世以來の言葉で、今では寧ろ物遠く上品にも響きますが、かつて此語の普通に使はれて居た時代には、女性が關係して居るだけに、少しく酷烈に過ぎる印象を、周圍の人に與へたかと思はれます。それを惡口や嘲弄用に保留して置いて、常にはもうちつと穩かな形容詞を、用ゐようとする努力が行はれた痕跡が、何段にも殘つて居ります。しかも僅かな期間使ひ馴れますと、はや又惡い感じが積み重なつて、相手を害すること無しには用ゐ難くなるのであります。ミニクイも本來は「憎い」とは關係無く、單に見て居ることが出來ないといふ、同情の感さへ伴なつた語でしたが、さうは取られぬまでに内容が不愉快になりまして、たとへばミヅライとかミグルシイとかいふやうな、格別のちがひも無い新語にでも、取替へ引替へしなければならぬ必要が感じられ、それが程無く又惡くなつて來るのです。東北ではミグサイ又はメグサイといふ語が、近頃は行はれて居ります。クサイはたゞ單に「さういふ氣がする」といふ意味に、用ゐられ始めた語でありますが、もと/\面白くない場合に多く使つて居ました爲に、終に是だけを添へても感じが現はれたのであります。或は又ミタクナシといふ名詞もありますが、是はどういふものか、形容詞としてはあまり使ひません。之に反して東京以西のミットモナィ、又は京阪地方のミトムナイは、最初は「見たうも無い」といふ婉曲な複合句でありました。それがいつの間にか單語の形容詞のやうになつて、やはりやゝ強過ぎる語となりかけて居るのであります。食物のまづいものをモムナイと謂つたのも、起りは是と同じで「うまうも無い」の意でありますが、此方は追々に口にする人が無くなりました。コハイやオッカナイの例でもよくわかる樣に、言葉は語原だけでは決していひわけにはならぬのであります。現在主としてどういふ場合に使ふかといふことが、次第にその内容をきめて行くので、現にミグルシイといふ形容詞なども、よつぽど遠慮をした物の言ひ方(438)であつたのですが、今ではさう評せられると怒らぬ人は無いまでになつて居ります。乃ち多勢の共同によらなければ、國語の改良の望まれない所以であります。
 
     モヨウを見る
 
 模樣はもと支那語だつたやうですが、この二つの漢字は共に型のことで、今ならば見本とか雛形とかいふのに當る言葉であります。古くから我邦の女の人たちに親しまれて居たのは、衣類のいはゆる染模樣、綾模樣などがあるからで、是には文樣と書き、紋樣とも字を替へて書きましたが、元は一つの語であつたかも知れません。しかしこの語が毎日の言葉として、斯んなにも弘く用ゐられる理由は別にありました。つまりは今一つの全くちがつた語が、少しばかり是と似て居る爲に、混同してしまつたのであります。我々のよく使つて居たのは、寧ろ純日本語のモヨヒから出たモヨウの方なのですが、漢字で書かうとした人が雙方を區別無く、共に模樣の文字で現はさうとしたばかりに、今ではモヨウと書くとモヤウと直される迄になりました。モヨヒは本來は時の感覺で、模樣や文樣のやうに眼に訴へるものでなかつたのです。たとへば大病人はどんなモヨウかと尋ねたり、又は雨もよひ・雪もよひを、御天氣モヨウと謂つたりするのは、少しでも模や樣では無いのであります。このをかしな混同を起した原因は二つ、一つは伊呂波字引を作る人に考へが足りなかつたこと、今一つはモヨフといふ氣の利いた好い動詞が、夙く中央の都市から消え去つたことであります。標準語では「催す」といふ第二の動詞だけが辛うじて殘り、それもモヨホシといふ名詞形だけで、間に合せようとする人が多くなりましたが、以前はモヨフといふ動詞の使はれて居たことは證據があり、關東以北の田舍には、今でもまだ活きて働いて居ります。同じ言葉が中央には無いといふことは、何と言つても地方語の弱味であります。他ではどうかといふことを知る磯會が無いので、形も意味も少しづゝ、土地限りで變つて行くからであり(439)ます。しかしモヨフといふ動詞などは、さういふ中でも變り方の少ない方で、各地の方言集を見くらべて行きますと、今でもほゞ元の心持は窺ふことが出來ます。たとへば山形縣の各郡などは、我々が「三日たつて」「五日して」などゝいふところを、
  三日モヨテから遊びに行く
といひ、又は、
  今すこしモフとお祭だ
のやうに、モヨフをモフと發音して居る村もあります。宮城縣の方でも仙臺の附近はモフといひ、又はわざ/\オを附けてオモフとも謂ふ人があります。
  今二三日オモフと花咲きすべ
などゝいふのは、多分「思ふ」といふ語と同じだと思つたからでせう。
 モヨフは其爲にたゞ時がたつ程經るといふだけで無く、待つとか見合はすとかためらふとかいふ意味に、移つて行かうとして居るかも知れませんが、もと/\自分が時の經過に心づいて居ることなのですから、此ちがひは僅かなものであります。それから一方には外形がモフとはならずに、モヨルとラ行四段のやうになることも折々あります。越後は新潟附近などで、
  暫らくモイルと彼女がやつて來た
といふ風に、モイルと發音して居る人さへあるさうですが、岩手・青森・秋田の三縣では、一帶にモヨルとなつて居ます。尤も此地方では、フで終る動詞がどれも是も、終止形をルに改めて、買ふをカル、使ふをツカルなどゝいふ癖があり、一方ではモヨルの名詞形は、モヨリで無くてモエといひますから、まだ完全に變つてしまつたとも言へません。たゞ其内容が「時を過す」だけでは無くて、爰では支度をする又は準備をするの意味に、モヨルといふ動詞を使(440)つて居りまして、たとへば女が御化粧をすることをモヨル、又はよそ行きの着物をモエといふ處があるので、何だか又別の語のやうにも想像せられますが、さういふ豫期を伴なふのが、實はモヨフといふ語の元からの用法であつたことは、モヨホスといふ言葉からも考へられます。古くから有つた此樣な便利な言葉を忘れてしまつて、衣服の文樣や雛形などとごつちやにして使ふのは惜しいことだと思つて居ります。
 
     よいアンバイに
 
 男が文章を必ず漢字ばかりで書くことになつて居た爲に、色々と無理なことを我々はして居ました。毎日の口言葉は日本語だから、之に該當する漢字が無いのは當り前なのに、強ひてこじつけて「さしあげ」を差上、「くだされたく」を被下度などゝした例は手紙だけで無く、今でも立派な學者が「考へ度い」などゝ、をかしな文字を使つて居られます。度は漢音がタクですから「たく」の代りにはなりますが、「度い」などゝ假名を送ることが出來る筈は無いのであります。斯んな文字を覺えるのに、時間をかけたのはつまらぬことでありました。節用集とか伊呂波字引とかいふものは、つまりは其勞を省く爲に、日本語を漢字にする方法を教へた本でありましたが、是が又多くは考への足らぬもので、御蔭で言葉の意味をまちがへてしまふ場合が、幾らとも無く生じて來たのであります。模樣といふのもその一つの例ですが、是はまだ少しは型がありました。アンバイを按排と書き又は鹽梅と書かせるに至つては、言葉の本の意味からよほど遠くなり、文字を知つた人々の用ゐ方が、却つて中ぶらりんになる樣な結果を見ました。今でも國民の多數が使つて居るのを見ても知れるやうに、我々のアンバイは物を適當に排列することでも無く、又料理の鹽加減などでも無く、本來は「あはひ」即ち間《ま》といふことだつたのであります。それがアワイと發音せられる時代になつて、ワ行の字音はいつと無くバ行に移つたのか、と思はれます。濁音に先だつ母音には N が附く例もよくありますが、アワ(441)イをアンバイといふなどは、或は鹽梅の方からの影響だつたかも知れません。鹽梅はエンバイで、アンバイと謂つた筈は無いと思ひますが、その中間に味のアヂハヒを置いて考へると、斯うなり易い傾きはあつたので、現に狂言の茶子味梅《ちやすあんばい》などは、味梅といふ字を書いて居るのであります。さうして地方の端々に於ては、今でもアワイといひアウェといひ、又はアバイといふ人が實際には多く、寧ろあの當らぬ宛て字を知つて居る者だけが、さも/\自信を以てアンバイと發音して居るのであります。
 斯ういふ好い言葉、將來使ひ方によつてはどんなにも精確に、學問上の用語にもなり得る一語を、あやふやな?態に棄てゝ置くのは惜しいものです。それで最初に先づ日常の言葉として、是がどういふ風に用ゐられて居るかを、見究める必要が有ると思ひます。關西の方は一般に、人の健康?態をアンバイと謂つて居るやうで、主として病人の有る時だけに、御アンバイはいかゞなどゝ問ひますが、アンバイが惡いと謂ひますから、好いアンバイも有るわけであります。是に對して東日本の、殊に海近くの田舍では、いゝアンバイですといふのが毎朝の挨拶の言葉で、この方は天氣模樣のことを意味して居ります。必ずしも晴天とは限らず、田植の前ならばやがてしと/\と降りさうな空合ひもイヽアンバイの一つであり、海に出る者はシケで無い日、追風の快く吹くのがそれであつて、從つて船方などには、アワイもヒヨリもほゞ同じ心持に用ゐられて居ります。しかし一方に使つたからとて、其爲に他には通用しないほど、この言葉の意味は窮屈なもので無かつたやうで、岡山地方などでは感冒をカゼアンバイと謂ひ、天氣にもヨイアンバイヂャといふ他に、更に工場では機械のアワエが惡いなどゝいひ、又その調子を整へることを、アワエを取るとも謂つて居ります。つまりは段々と推しひろめて、後は科學の用語ともなし得る便利な言葉であつたのを、餘計な正しくも無い漢字を設けたばかりに、アハヒとアンバイと、別なものゝやうになつてしまつたのであります。アハヒは本來合ふ、逢ふなどゝいふ動詞からこしらへた、上品な古語でありました。それを短くつめてアイと發音する人が多くなり、しかも副詞は三音節にして置くのが、何か都合のよいことがあつたと見えまして、更に一語を添へてアイマだの、(442)グアイだのといふことになりましたが、このグアイのグの如きも、やはり元からの日本語で、現に?態とか場合とかの意味に、今でもグだけを離して使つて居る例が方々にあります。是なども此頃は具合だの工合だのといふ字を宛てる人がありますが、何だか眞似をする氣になれませんのは、やはり言葉の成立ちを考へたことも無い者の、出たらめな思ひ附きだつたからであります。
 
(443)     「毎日の言葉」の終りに
 
 たくさんの讀者の手紙の中から、問題にしてもよいと思ふ幾つかの言葉を、拾ひ出して竝べて見ました。この外にもすでに述べたことが、自然にお答へになつて居る御尋ねが大分有り、又直接に葉書で御返事をしたものもあります。或土地限りの方言でも、私たちには珍しく又面白いのですが、全部はとても載せられませんから、他日又何かの折に利用して見るつもりです。私の説明はあまり上手でも無いのに、熱心に讀んで考へて見て下さる方の多かつたのはうれしいことです。
 
 人が訪ねて來て居るのに、イラッシャイだのオイデナサイだのと、是から來てもらふやうな言葉を使ふのは變ぢやないかといふ質問が、方々から來たのは尤もなことだと思ひます。是は未來を祝福する意味の、御機嫌よく行つて御出でなさいや、御ゆるりと御休みなさいなどからの類推で、挨拶には何か希望を述べるといふことが、癖になつて居る爲ではありますまいか。もう一つの想像は、古い人はヨウコソをよく使ひましたから、其コソの結びの所謂已然形が命令形のやうになつて殘つて居るのかも知れません。とにかくに近頃の挨拶は囘數ばかり多く、言葉はコンバンだのヨロシクだのと、みんな尻切れとんぼになつて居ますから、是も後先に何かあつたのが落ちたものと見てよいやうです。
 
(444) ケッコウデスといふ言葉がよく使はれるが、あれは何だらうといふ御尋ねがありました。「結構な」はもと「好い」といふ代りに、學の有る人だけの使ふしやれた形容詞でした。それが覺えやすい音である爲に、猫も杓子も眞似るやうになつたのです。だから氣をつけて御覽なさい。その使用の範圍はいつもヨイ又はヨロシイといふ場合と一致して居ります。我々はなまじ文字を知つて居る爲に、女が之を使ふのを聽くと何か物々し過ぎるやうに感じるのであります。
 
 有難うに相當する言葉が、今もまだ全國まち/\で、たつた一つだけを聽いては解し難いものが多く、前に述べただけでは、根本の感覺の共通なものを、説き明すにはまだ足りなかつたといふことを感じます。結局はさういふ各地のちがひを、出來るだけ多く集めて、もう一度よく考へて見るの他はありません。島根縣の一部では人の贈り物に對して、タイガタウございます又はタイガタイことでございますと謂ひ、秋田縣の北部では同じ場合に、オホリナイ・オホジナイ又はホノゴジャンスと謂つて居るといふ知らせを受けました。前者は勿論「堪へ難い」後者は「本意ない」としか考へられませんが、共にこの二つの言葉の普通の意味とは變つて居ります。やはりスミマセンやメイワク致しますと同じに、餘りに待ち設けなかつた好意である故に、何と心の中を言ひ表はしてよいかに迷ふといふ意味を、出來るだけ有効に傳へようとした色々の試みの中で、是が一ばんよからうと思つたものが殘つたのでありませう。乃ち以前は地方の人々にも、言葉を選擇する能力が備はつて居た證據であります。
 
 小さな兒に對する御別れの言葉に、ハイチャイといふのは何故かと、尋ねた人のあるのには驚きました。斯んな明治以後の新流行でさへも、もう起原が不明になりかゝつて居るのであります。氣がついて見ますとサヨナラの前に、ハイを附けることは元は普通であり、近頃は段々耳にせぬやうになつて居ります。ハイは勿論相手の言葉に對する受(445)け返事で、御機嫌ようとか皆樣によろしくとか、何か向ふの挨拶を聽いてから、後で此語を發したことはサヨナラも同じでありました。それがいつの間にか出しぬけにサヨナラと謂つても、ハイサヨナラと謂つてもよいことになつたのであります。辭令といふものは形式化しやすく、それがきまりになると幼い者までが、舌足らずで眞似るのであります。さうして成人はたゞおつきあひに、彼等の用語を使ふまでかと思ひます。次に今一つのアバヨの方は、是は不審を抱かれるのが尤もで、現在まだ起原がはつきりとして居ないのですが、私はこのヨは後に附け添へたもので、元は專らアバ/\と謂つたのでは無いかと想像して居ます。アハは中世以前の歌言葉にも多く用ゐられ、最初はたゞ遠くに在るものを指さす時の掛け聲のやうなものだつたのです。それが去つて行く人の後影を、いつまでも立つて見送るときの感動詞となつて、出來るならばその相手の耳にも屆くやうに、聲高に且つ重ねて唱へるうちに、「彼は」の意味を離れてアハがアバになつたものらしいのであります。さうして是も兒童語では無いまでも、氣持があどけないので、髭の有る人たちはあまり使はないのであらうと思ひます。
 
 關東東北のコハイの代りに、くたびれたことをシンドイといふのはどういふわけかと尋ねた人があります。もう判つて居る人も多いことゝ思ひますが、是は辛勞といふ漢語が久しく行はれた後に、それにイを添へて形容詞を造つたので、氣散じからキサンジイ、氣の毒からキノドキイなどゝ、斯ういふ造語法も或時代には流行しました。辛勞をシンドと發音したのも早いことで、多分はシンロが稍いひにくかつた爲でせう。信州などでは之をシンノともいひ、今いふ慰勞會をシンノ喚び、又シンノ休みなどゝいふ語も出來て居ます。東京などでゴクロウといふ所を、九州では今でもゴシンロウと謂つて居ます。長く引伸ばせば言へぬ程ではありませんが、やはり御苦勞の方が發音しやすかつたのかと思ひます。
 
(446) 「大きい」をデカイと謂ふのはどう謂ふわけか。是はイカイといふ形容詞が行はれた後、それでも言ひ足りない大きさを、半ば戯れに斯う謂つて見たのが元かと思ひます。大阪方面で帳面などの甚だしく厚いのを、バツイといふのもそれと同じでせう。
 
 誇張には幾分かふざけた語を使ふ習慣があつたのです。馬鹿に塞いだの馬鹿に靜かだなどゝいふ「馬鹿に」も、穩かとも上品とも言へませんが、感じだけはよく出て居ります。瀬戸内海周圍の諸縣では、「たいへんに」とか「えらく」とかいふ代りに、ボッコウといふ人が多い。是はどうしたわけだらうかといふ質問がありました。私の考へたところでは、是も「馬鹿に」と全く同じ語で、即ち中世によく行はれたヲコといふ言葉の變化であります。勝手放題な漢字を宛てゝ居ますが、バカやヲコといふ語が支那天竺から來る筈も無く、來たところで學ぶ者があるわけも有りません。斯んなことまで外國の書物で説明しようとするのは、それこそヲコのわざであります。
 
 どうして人が力を入れるときにドッコイショといふのだらうと問はれた方がありました。狂言記にしば/\出て來る相撲の掛け聲に、ドコヘと謂つて居るのが元だらうと私は思つて居ります。「何處へ」といふ意味で相手の狙ひをそらし、又は防ぎ止めようとする際に、自然に出て來る言葉であつたことは、「ドッコイさうはさせぬぞ」と續けて謂ふ者が多かつたのでもわかります。後には相手が無くとも力足を踏む場合には、癖になつて之をいふのかと思はれます。
 
 人より先に何かをするときに、オサキシマシタと會釋をするのは、自分の事にオを附けてはをかしいやうに思ふがと熊本縣の人が尋ねられました。是は相手の先ですから敬語を附ける方がよいのです。たゞオサキシマシタは方言で、(447)他の地方ならば普通オサキニと謂ひ、そのニがヘともなりイとも聽えるのを、熊本では無いくらゐ短く言ふので、自分がスルやうに感じられるのです。
 
 しまつて置くことをなぜナホスと謂ふのか、死ぬことをどうしてミテルといふ樣になつたのかと、福岡縣の讀者の質問であります。この二つの動詞は東京にはありませんが、中國・四國から西の方では弘く行はれ、各地の用ゐ方を比べ合せて見ると、意味の段々と狹くなつて來た順序はすぐにわかります。ナホスは何でも有るべき處に置くことですから、是を元へ戻す意味にも、片づけて置くことにも使ふのは自然です。たゞそれを定まつた一つの行爲にいふ人が多くなると、まちがつては困るので、追々とその他には言はなくなるだけであります。ミテルも盈又は滿に相當するミツルの自動形、物がおのづから一ぱいになることで、場處でも時間でも全部を使ひ果す意味に、今でも弘く用ゐて居る土地があるのですが、一旦之を「死ぬ」の代りに用ゐ始めますと、もう他の場合には忌んで言はなくなるのです。シヌといふ動詞それ自身が、最初はもつと弘い言葉であつたやうですが、先づ其意味を限定せられてしまひ、後にはそれを避けてハテルとかスギルとか、色々言ひかへてそれが又忌はしい言葉になつて行くのです。ミテルも始めから不吉な語では無かつたのです。それで私の長話も、紙面がミテましたから、もう是でミテルことにします。
 
(448)     買物言葉
 
 子供の物いひから、昔の世の生活が少しづゝわかつて來る。その一つの例として、斯んな小さな問題に注意して見るのである。子供が店屋に物を買ひに來る場合に何と言つたか、諸君の古い記憶を比べ合せると、きつと面白い變化があることに心附かれるであらう。東京は多くはクダサイナ又はオクンナサイ、私などの國ではオクレといふのが普通だつたが、關東の一部には、もう丸でちがつて居るのがあつた。五十何年か前に私もたしかに使つたことがあるが、今も恐らくはまだ全然無くなつては居るまい。
  カーヨ               茨城縣北相馬郡・稻敷郡
  カアベ               千葉縣東葛飾郡
  カーベー              茨城縣水戸地方
  カインショ             同  久慈郡
 東京にも元はカヒマショといふ者が多かつたらしいから此區域はもう少し弘かつたものと思ふ。是が最も明瞭で又堂々として居る形だが、他の地方の例は妙に遠慮深く、たゞで物を貰はうとする場合と、區別の立たぬものばかり多い。甲州はそれでもウッテクダイショといふのが常ださうで、代を拂ふといふ點を明らかにして居るが、他の地方は總體にクダサイナ系に屡する。
  ケイナ               神奈川縣三浦郡・高座郡
(449)  ケイヤッセイ            神奈川縣中郡等
 この二つは地域的の差では無くて、二通りが併せ行はれ後の方がやゝ丁寧な女兒用ともいふべきものであらう。
  オクンナ              靜岡縣田方郡
  オクー               同  靜岡市
  オクッセー             同  濱名郡
  ヤットクレ             岐阜縣高山市
  ツカハサイ             廣島縣三原地方
  ツカッセ              福岡縣嘉穗郡
  クテ                大分縣西國東郡
  クダン               同  北海部郡
  クイヤシ              鹿兒島市附近
 東北地方も大體に是とよく似て居る。現在知つて居るだけを竝べて見るならば、
  クレナンショ            群馬縣一部
  クンツァイ             福島縣大沼郡
  クナーヘ              宮城縣仙臺附近
  クンチャイ             岩手縣東・西磐井郡
  ケラシエ              同  膽澤都
  クナンエ              同  江刺郡
  ケヘー、ケヘ            青森縣津輕地方
(450)  ケサイ               北海道南の一部
  タンヘ               秋田縣北秋田郡
 是等も多分一つとは限らず、色々入交へて用ゐて居ることゝ思ふが、今までは斯んなことに注意する人が少なかつたので、もうこの以外には記憶せられたものが無い。タンヘは珍しいやうだが「たまへ」の變化、といはうよりも出來るだけ安易に、此語を使はうとしたものと見られる。本來はクダサイも同樣に、可なり隔たりの大きい敬語なのだが、斯ういふ安つぽい適用をするので、後には目上に對しては失禮のやうになつてしまふのである。
 同じ秋田縣でも男鹿半島の戸賀などで私の聽いたのは、小兒が店の前に立つてナンダカー、又はナニカーと謂ふのが「買はう」といふ意味であつた。ほしい物がちやんときまつて居るのに「何か」といふのだから形式語にちがひない。しかも新しい流行かと思はれて、飛び/\に諸處に之を聽くやうになつて來た。私などの小さい頃は、今いふ「おやつ」又は「お三時」をナンゾと謂つて居たが、ナニは小兒の心理には「好い物」と意味が近いやうで、それが又、この一語の古い用途でもあつたやうに思ふ。
 福井縣の一部には、物を買ひに來る兒の言葉に、ウンデマといふのがあつた。是だけは感じがよく映らないが、同縣武生の附近ではオツケマともいふさうだから、マは多分最少限度の敬辭であつて、ウンデは「賣つて」、「オツケ」は「おくれ」ではないかと思ふ。土地の人に一度確かめて見たいものである。以前の會話には、終りに「申す」を附けるのが普通で、それが今日電話などのモシ/\ともなり、又は東北地方のムシ、ンシ又はシとなつて殘つて居る。北陸地方では人の名などにもマを添へて呼ぶが、是も奧羽の婆なムシ、爺なムシと同樣に、申すの極端な省略形を誤用して居るものと思ふ。
 熊本縣南部の人吉地方では、以前は店へ來ると小兒との間に斯んな辭令が交されて居た。
  兒  クイヤンモウシ
(451)  店  ヨイヤンモウシ
 このクイヤンは多分クレヤレの發音變化かと思はれ、やゝ上品なのはクダハンモウシとも謂つて居た。之に對して店の者のヨイヤンは「寄りやれ」即ち東京などのイラッシャイ、又は上方のマアオカケに該當する。立つて物申す人に近く寄りたまへといふのである。
 加賀の金澤市などの買物言葉は、コンネ又はコンネーといふのが兒童の辭令で、是も「この家の人に物申さん」といふやうな文句の形式化だつたらしい。之に對して家の者は、ヤーヤ、オイダスバセと應答するのださうである。それから小さな取引がすんで還るときに、御客の方からアイヤット、是は「有難う」の最も粗末な發音かと思はれる。紀州の和歌山でも買手の方がアリガットを謂つて出て行く例であつた。不見識のやうだが昔の社會では、賣つてくれる方が大抵は御大家であつたからである。さうして今日は統制經濟に入つて、他の大都會でも再び又顧客の方が、毎度ありがたうの語を達發しなければならぬ形勢に立ちかへらんとして居るのだから、この感覺は今ならばまだ理解し得られる。
 
(452)     あいさつの言葉
 
 挨拶は禅僧が支那から輸入した近世の漢語で、挨は押す、拶は押しかへす、元は單に受け答へといふ心持しか無く、禮儀の感じは含んで居なかつたやうです。その語が今日婦人年よりの間まで普及して、日本特殊の意味をもつに至つたのは、多分は我々ばかりの受ける語音の響きが、愛や愛敬などゝ似通うて、好ましい印象を與へたからでありませう。
 ともかく是が新しく始まつた語だとすると、その前にはいはゆる挨拶が全く無かつたか、又は何か別種の日本語が用ゐられて居たか、二つに一つで無くてはなりませんが、人が顔を見て物を言はぬといふことは有り得ませんから、私は前にも之に相當する言葉が、有つて消えようとして居るものと思ひます。
 今でも挨拶といふ語を使はぬ人が、稀ならず居るから氣を附けて御覽なさい。さういふ人たちは通例その代りに、「言葉をかける」又は「聲を掛けた」などゝ謂つて居ります。たとへば今誰それが爰を通つたが、聲も掛けずに行つたのはどうしたのだらうなどゝ謂ひます。是が少なくとも或時代の一つの用語であつたのです。
 又名詞の形で言はうとすると、モノイヒといふ語を使ひます。物言ひは今ではよくない場合、何かごた/\の起るやうな際だけに用ゐることになつて、從つてふだんの日は我々は之を避けて居ますが、それとても元は改まつた言葉使ひをするところからさう謂つたので、始めから惡い感じを伴なふべき語ではありません。現に口のきけない女や青年を、物いふすべも知らぬと評する語もあります。
(453) 阿波の租谷山の方言を集めたものには、
  モノイ  挨拶のこと
とあります。即ちこゝでは正式の言葉を、一般に物言ひと謂つて居るらしいのであります。他の地方では、その一部分の特に改まつたものだけを、さういふ例もあります。たとへは長門の相島では、新聟の禮まはりのみをモノイヒと稱し、聟は水祝ひといつて、物言ひに出ると頭から水を掛けられたといひます。備中の或山村でも、花嫁が嫁入の二日後に、姑につれられて村中をまはることだけを物言ひと言ふさうであります。挨拶などゝいふ外來語が面白くないとすれば、たゞ漢字だけの使用を禁止せずに、何か限定辭を添へてこのモノイヒを再用するがよいかと思ひます。
 物言ひをしようといふ際には、古風な人たちは先づ是から物を言ふといふ宣言をしました。それが物申す又略してモノモウといふ言葉の起りで、申すは即ち人に向つて「言ふ」を意味する敬語の一つであります。「物申すわれ」といふ言葉は、すでに古今集の歌の中にも見えて居ります。
 この物申す又はモノモウといふ言葉を、常の日のいはゆる挨拶にも使つて居る土地が有るといひますが、私はまだ直接耳にしたことはありません。たゞ昔かたぎの人が他家を訪問する際に、玄關に立つてモノモウと聲を掛ける風だけは、明治の終り頃まで東京の市中にも確かにありました。是に對する受け返事はドウレであつて、このドウレは「誰か」の意味では無く、「どれ見せろ」などのドレ、即ち「いづれ」といふ訝かりの語が、ひどく形式化してしまつたものと思ひます。
 多くの土地の訪問詞のモノモウは、今では專ら正月の年禮の折だけに限られてをります。珍しいことは多くは海岸の村ですが、中には京都府下の綴喜郡などにもそれがあります。さうして今は大概、どうしてさういふのかゞ判らなくなつて居ます。熊野の須賀利などではモロ/\と謂つて來るさうですが、それでも答へはまだ一般に、ドウレと謂つて居ります。
(454) 或は年頭の物いひの中でも、特に正月四日の寺年始に、僧侶の隨行者だけがそれをいひ、他の人々はもう使はぬといふ地方もあります。福井縣越前の海岸地方などは、その寺年始に供の者が戸を開けて、モロモウと呼ぶと、家の者はドウレと應じ、それからえらい僧が新年の祝詞を述べます。越後でも頸城地方では既にモノ/\となつて居ますが、下越の新發田《しばた》附近の寺方廻禮はモノモウであり、それにドウレと返事をして出ると、杓子とお卷數《くわんず》とを置いて行くのださうであります。
 三河の佐久島では、船と船との年頭禮だけに、一方からモロモウテ、他の一方はドウレといひ、それから祝言を述べましたが、その隣の尾張|日間賀《ひまか》島の方では、子供が元日におひねりを持つて、モノモスと謂つて門口へ來ます。どうれと答へると、おめでたうと謂つて行くのださうです。以前は誰でもして居たことを、今は小兒だけが續けて居るのかと思ひます。秋田縣角館地方に殘つて居る田螺聟入の昔話にも、小さ子が長者の戸の口に來て、モノ/\といふ聲がするが、出て見ると誰も姿は見えない。足駄の陰になつて見えなかつたなどゝいふのがあります。飛騨の丹生川村などでは若い女たちまでが、買ひ物に來ると其店の名を喚んで、たとへば寺田モンド松田モンドなどゝいふさうです。「者ども」の意かといひますがさうで無く、是もモノトフの變化であらうと思ひます。とふといふ動詞の意味は、元は今よりもよほど廣く、言ひかけるといふまでを含んで居たのであります。
 この物申すの前ぶれは、段々に無くてもすむやうになりました。人が顔を見合はせば眼の色に手傳はせ、影が見えなければ一段と聲を張り上げて、相手に注意させた爲かと思ひます。物いひといふ語があいさつと變つても、言ふべき言葉はさう急にはちがつて來ず、從つて人は一生のうち何千何萬とそれをくりかへすので、聽く人も別にその内容にまでは注意せず、從つてやゝ形ばかりのものに固定してしまつたかと思はれるのであります。
 この意味で物いひの言葉を分類して見ますと、やはり衣類や食物と同じに、常體即ちふだんのものと、臨時即ちよそ行きのものとの、二種になるやうであります。言ひかはすべき相手は同じでも、婚禮誕生その他の一生の大事件、(455)もしくは盆正月節供祭禮の如き、年に一度しか無い場合の物いひは耳だちます。從つて少しはめい/\の考へや感じを、まじへてもよかつたわけでもありますが、さう/\は適當な言葉が案じ出せぬので、是も大體には誰かのよい言葉を覺えて居て使ふので、同じ型になりがちでありました。久しく逢はずに居た知人や、是から當分は見られぬといふ別れには、それでもめい/\の境遇に合せて、形式的で無い色々の物を言ひましたが、吉凶禍福の辭令などは、一家では稀でも集めると數が多いので、やはり一定の文句に馴れてしまつて、新意匠を出すことを憚かつたのであります。
 訪問の折の物いひなども、一部はたしかに常體でない改まつた重々しいものがあつたのですが、是だけは近年著しく退歩しました。さうして一方には村うち近所隣の來往が、數多く又心安くなつた爲に、何年も來たことの無いやうな人の言葉までがそれにかぶれ、顔も知らぬ男が戸の口に立つて、コンチャなどゝいふやうな時代になりました。其爲にコンチャが何であるか、聽く者も言ふ者も共に説明が出來なくなつたのであります。
 同じ邑里の中の常體の物いひにも、内と外との二種の別があつて、大きな家ならば家の中でも、互ひに「聲をかける」必要もありましたが、起きるから寢るまで顔を見て居る小家の中では、もとは物言ひを交換するには及ばなかつたのであります。必要があつたのは一日に一度か二度、時には二三日も顔を見ずに居るやうな人に逢ふ場合で、是には是非とも互ひが懇意であつて、よその者では無いといふ承認をしなければなりません。つまりはこの一つの小社會の結合の爲に、物言ひは特に大切だつたのであります。
 だから今でも黙つてすれちがつたり、又は一町以内位でたゞ見て居たりすると、變に感ずる者が多いのであります。
 しかし平穩な以前の生活では、物を言ひたくともさう毎日の話題はありません。そこで勢ひ内容の乏しい、有りふれたことばかりを口にするやうになつて、愈形式化を早めたのであります。支那の内陸に滯在して居る諸君が、あちらでは人の顔さへ見ると、飯を食つたかと尋ねるのを珍しがつて、そちこちから通信せられますが、同じ風は獨逸(456)などにも有るのみならず、我邦にもさして稀有なことでありません。食事が其人たちの大きな問題だからと解するのは思ひちがひで、寧ろそれ以外に共同の關心事、即ち頃合ひの話柄が見附からぬ爲と私は思ひます。
 日本にはそれでも平凡な飲食ひの外に、まだ共通の題目が二つほど出來て居ます。其一つは勞働と勤勉、是などは社會が小さくて互ひの作業に共通の點が多い場合には、至つて自然でもあれば又適切な話題でもあつて、それが端緒となつて數分間の立ち話もすることが出來ますが、一方は朝の間を稼ぐ物賣りであり、他方は夜釣りに出る漁師だつたりすると、もう話が少し合はぬのであります。第二には其日の天氣模樣のよし惡し、是も我邦の如く風や雨の日が多く、氣象が毎日のやうに變化して、しかもその制限を受ける生産事業に携はる者の、固まつて住んで居る國でないと、うつかりしたことは言へぬのであります。大體に無風快晴の日を喜ぶ職業は多いから、空さへ青ければ「よいあんばいです」と謂つてもいゝわけですが、都會にも少數の下駄屋傘屋のやうな、雨を心待ちにして居る者も居ます。殊に田植の前後に農村へ行つて、そんなことを言へば怒られます。村では一年に何回と無く、「よいおしめり」と言はねばならぬ日があるのです。風でも方角によつて悦んで待つ者が、元は港場には幾らも居りました。
 現在我々の用ゐて居る「今日は」や「今晩は」などは、形としては不完全で、外國人ならば大抵は不審に思ふのですが、事によると是も使用の區域が廣くなつた爲に、はつきりとしまひまで言つてしまふことの出來ぬ事情が有つたからかも知れません。試みに今日はどうしたのだと聞き返すと、答へられぬ人が都會にはあり、又配給以前の出入商人といふ者の中には、今日はいかゞさまとか、何か御用はありませんかとか、つゞけて言つてしまふ者がありました。さうなると是はもう用件で、挨拶でも禮儀でもありません。田舍では流石にその言はうとすることを意識せぬ者は無く、又必ず天氣のことを説いて、それが其日の作業に都合がよいことを喜び合つて居ります。即ち形式化はまだ都會地ほど甚だしくはないのであります。
 しかし一日のうちに二度も同じ人に逢ふか、さうで無くとも格別の空模樣の變りも無ければ、そんなにいつ迄も天(457)氣の話ばかりはして居られません。さうして午後から夕方になるほどづゝ、段々と勞働の話題が出るのも誠に自然であります。食物と茶のことは、大體に此頃は晝休みの後先に言ふのを普通として居るやうです。この通り刻限に應じて物言ひの内容をちがへて行くのは、その言葉がまだ活きて働いて居る證據とも見られるのに、人によつてはもう「今日は」の一點張りで、幼い子供にまでたゞこの一つだけを言はせようとするのは、何だか少し物足らぬやうな感じがします。
 それでまだ地方の物言ひが色々と殘つて居るうちに、その少しづゝの變化によつて、もとの心持を尋ねて見たいと思ひます。私の集めて居るのはほんの片端だけですが、是でも時刻と場合によつてそれ/”\の物の言ひ方があり、それを取りちがへるとをかしな感じを人に與へたらうことだけは察しられます。さうして之を單純にしてしまふことの、愈以て挨拶を空々しいものにする懸念のあることがわかるのであります。
 先づ第一には早朝の言葉、是は今殆とオハヨウの一つに統一しかゝつて居て、それは何を言ふつもりなのかも不明になりかゝつて居ますが、本來は早く起き出したねと、相手の勤勉を感歎する意味でありました。それ故に八時九時に顔を洗ひに出るやうな朝寢坊に對しては、今でも氣のこまかい人は、微笑を帶びてゞ無いと此語を發しません。加賀の金澤あたりでお早うをオヒナリアソバイタカ、又は簡略にたゞオヒンナリと謂ひ、九州の下五島でもオヒンナシタといふのは、共にもう起きられたのかの小さい驚きを表した言葉らしく、オヒナルは勿論目を覺ますを意味する上品な語であります。莊内地方ではこのお早うの代りに、タヾイマと謂ふさうです。このタヾイマは實に珍しい言葉で、土地によつて用ゐ方が色々になつて居ます。東京では學校などから還つて來た者がタヾイマと謂ふのに、仙臺では行つて參りますがタデェマ、又いつておいでなさいといふ時にも、人が還つて來たのを迎へる時にもタヾイマといふ者があることは、ちやうど旅館などの客の送り迎へに、共にお早う御歸りといふのと似て居ります。只今は「今と謂つてもよいほど早いこと」なのですから、是はどうも莊内のが一番よく當つて居るやうで、つまりは朝起きを賞讃した(458)のが始めであります。乃ち惰け者に向つて言ふと皮肉にしか聞えなかつたわけで、從つて少し遲くなると之を略し、すぐに天氣の事を言ふのが田舍では普通であつたのであります。私なんかも朝が遲い方なので、めつたに近所の人のお早うといふのを聽いたことはありません。たゞ表を通る人たちの好いあんばいです。何だかはつきりしません。降つて來ましたねや、困つた天氣ですね等々を耳にするのは、まだ此附近が實は村である爲かと思つて居ります。
 天氣の批評は種類が多く、又實際に即して居ますから、「今日は」見たやうに空虚には聞えませんが、是が昔からの早朝の物言ひではなかつたことは確かで、何か其前にもう一つ、早起きをせぬ者にも通用するやうなのが有つた筈であります。沖繩の島でいふチウヤウガナビラ、今日は拜み侍るよ。又は種子島などのケフハメツカリ申サンが、其日始めて顔を合すときの禮節の言葉だつたと思ひますが、それに該當すものゝ中央にもあることは、まだ私は聽いて居りません。佐渡の島では朝の挨拶として、オツカンナサイマショウといふのが有るさうです。多分はお疲れなさるだらうといふことで、是も一日の勤勉を豫想した、同情ある勞働の批評であります。
 それからやゝ時刻が進んで、人が仕事に身を入れて居る處を通りかゝるや、又はさういふ家を訪れる時に、
  ゴショオダシ            播磨その他
  オセイヲオダシナサイマシ      佐渡
  オセンドサン            近江一部
  キビシゴザイマス          大和五條邊
  オカマケナンショイ         上野多野郡
  アヲミマシテクダンセ        能登熊木
  オッケナハリマッシュウ       肥後宇土郡
  オヤンサンスロ           大分縣一部
(459)といふ類の物言ひがあります。みんな他にも似た例があることで、一々解説するにも及びますまいが、何れも勤勉の禮讃でありまして、殊に命令形を用ゐたものゝ多いのは、こちらの承認の意を強める目的かと思ひます。たゞさういふ中でも晝の食事の前後になつて、
  ノマンシタカ            丹後加佐郡
  オチャオアガリ           越中礪波
などゝいふのが稍珍しいでせう。飲んだかと問ふのはやはり御茶で、是は午前中にも一度、御晝も簡單ですから御茶のうちに算へて居るのです。關西の方では食事の處へ行き合せた時ばかり、ヨウオアガリといふやうになつて居ますが、是は多分誤解であります。アガルは仕事を中途で切つて、田畠から休みに出て來ることで、それで晝あがり・四つあがりといふ名もあり、學校から子供の歸つて來ることをも、三時あがりなどゝいふ人があるのです。關東以北の日中の挨拶、
  オアガリナサイ           下總香取郡
  オワガリナサイ           常陸稻敷郡
  アガネスカ             南秋田戸賀
  アガリアンスダカ          陸中閉伊
  オアゲアンスタカ          同
 佐渡で人の家の食事なかばに入つて行つたときに、オアゲナサイマシタといふのも、主翁主婦に向つて謂ふのだから食物を與へたかではありません。外へ出て働く人々を休ませて居るのを見て、骨折さこそとねぎらふ意味なのであります。
 それがいよ/\晩方に近くなりますと、もうお上りとは言はずに、オシマヒナといふのが、全國最も普通の辭令で(460)あります。一々土地の名を擧げるまでもありませんが、
  オシマイ              備後福山
  オシマイヤス            大阪
  オシマイナ             紀州日高郡など
  オシマイデゴゼェンスカ       靜岡縣一部
  オシマイナサイマシ         同  伊豆韮山
  オシマイナサイ           千葉縣香取郡
 多くが命令形の句になつて居るのは、一日働きどほしたのだもの、早くしまふのが當然だといふ、思ひやりの意味が籠つて居るのです。それよりももつと身に沁むのは、いよ/\日が沈んで手もとのうす暗くなる頃に、
  オバンデゴザリマス         富山附近
  オバンニナリヤシタ         靜岡縣一部
  オバンニナリシテゴザリス      仙臺附近
  オバンニナッタナシ         山形縣南部
  オバンデゴザンス          岩手縣南部
などの聲を聽くことで、働いても/\まだ仕事が殘つたらうと、いたはられるやうな感じがあり、是だけは妙に御晩と敬語を添へていふのも耳だちます。尤も土地の人はさう深くも考へずにいふのでせうが、黄昏にすれちがふときに知らぬ男などから、オバンと聲を掛けられるとはつとして、今晩はとは又ちがつた印象であります。甲州から信州のやゝ廣い區域に掛けて、オツカレと言はれるのも旅人には忘れられません。是は午後の茶時からそろ/\始まつて、學校の兒童までが年長者の顔を見ると皆さう謂つて、目禮だけでは過ぎて行かぬ土地が方々にあるのであります。
 
(461)     ○
 
 訪問辭は東京の「今日は」、「今晩は」のやうに、時刻に相應した途上の挨拶を、其まゝ流用する人が多くなりましたが、是は我々の家が小さく淺く、先づ案内を乞ふ必要も無くなつてから後のこゝと思はれます。それで古風な人たちは、たゞ誰かゞ表へ來たといふ知らせだけに、格別禮儀ともいへぬやうな大きな聲を立てるのです。一ばん變つて居るのは九州南部のマカリデモソやメリアゲモソですが、そんな律儀なことをいふ人は少なくなりました。心安い中では爰でも食事がすんだかどうか、又は亭主か家人の在否を尋ねるのが普通であります。
  ヲンナハンモウスカ         肥後球磨郡
  ヲルカヲ              日向椎葉
  ウチナ               筑前博多
  アンタンデゴザイスカ        周防岩國
  オイデナハイ            福井縣一部
  オイダスバスケ           加賀金澤
  コンノシトイライシャルケ      同   附近
  オイデナハンスケ          越中富山
  イラシンスケ            能登一部
  ハイゴンスカ            佐渡
  イタゲアリ             福島縣石城郡
  オデヤンシタカ           岩手縣一部
(462) 斯んな例が數多く、上下親疎の差等を以て使はれて居ります。紀州の那賀郡のワガイといふのなども、もとは我家に居るかの意味のやうであります。東北地方には是よりももつと略式の、たゞ咳ばらひと近いやうな音づれも色々あります。
  ハァイ               秋田市
  ハイツトウ             山形縣村山地方
  ネアイ               同  莊内
  ハイット              陸前氣仙海岸
 斯ういふのが西の方にもなほ分布して、
  ネ                 下總東葛飾
  バ                 近江伊香
  ヨイト               紀州日高
  ハイー               伊豫北宇和
 是が其次の物申しに續いて、ハイ今日はともなれば、又信州松代あたりのヘイコンともなつたのであります。
 私の故郷などでは、子供は皆ゴメン、もしくはゴメンナと謂つて居ました。是にも土地によつて多くの種類があり、もとはオユルシナサレを色々と、言ひかへて見たものといふことがわかります。
  オイロン              長門下關
  ゴヨウシャオシツケラリマッセー   壹岐
  ゴヨウシャ、ゴヨウ         同
  ゴシャメンナサイマセ        淡路由良
(463)  オユルシナ           近江その他
  ゴリサイ、ゴイサレ         加賀一部
  オヨセテクダサイ          信州南部
  ゴメンネァセアンセ         陸中下閉伊
 ユルスは元來家に入れるといふまでの意味に使はれて居たことは、方々のオタノモウシマスやネゲヤンスも同じかと思ひます。前年丁抹のシュメットさんといふ若い女學士が、私の門口へ來て頻りに「すみません/\」と叫んで居ました。何事かと驚いて飛出して見ると、この人はゴメンクダサイとスミマセンを取違へて居るのでした。言葉が形式化すれば心持が段々輕くなるものだといふことを、此時も經驗したことであります。タノムといふ語なども、私たちは成るべく使はぬのですが、それでも訪問の時のみは連發します。それでも氣になるものか少しく發音をかへて、加賀の士族たちはトオンときこえるやうに謂つて居ります。
 それから夕方以後の外來者に警戒して居たかと思ふ名殘には、關東の方にはヨイバンデゴザイマスといふ言葉があります。是は其晩の天氣にはよらず、月が有つても無くてもさういふらしいので、もとは獨逸話のグーテンアーベントなどゝ同じく、自分の訪問は災ひの種でないことを、安心させる爲の祝ひごとだつたかと思ひます。東北の方には日と時刻によらず、いつもオメントガス、又はオメデトガンスと謂つて入つて來る處さへあるのです。
 終りに今一つ、人が別れて行くときの言葉は、途上も訪問も共に重要視せられて居たやうであります。一つの要點は、この別れがほんの一時のもので、永い別れでは決して無いといふことを確かめることでありました。子供がイマニイとかマタアシタとか謂ふのは、彼等だからさういふのでなくて、寧ろ古い樣式を保存して居るのかと思ひます。年とつた人でもそれをいふ處は方々に有りました。
  マタクルガノ            日向生目村
(464)  マタナ              豐前宇佐
  インマナ              伊豫喜多郡
  マタキマショ            安藝倉橋島
  ヘエマタキマショウ         石見那賀郡
  マタコズニ、マタヨ         靜岡縣一部
  コンドメヤ             佐渡
  マタアガリヤス           福島縣耶麻都
  マタキヤスベ            同  石城郭
  マダクマッセア           岩手縣平泉
  オミャウニチ            宮城縣南部
  オアスウ              山形縣米澤
 あすや明日に御を附けるのはをかしいですが、こゝでは其言葉の大切なことは、御正月や御盆と同じかつたからでせう。仙臺のタデェマが、行く者も送り出す者も共にさう言ふなども、只今といふほど早く又逢はうと、約束するのだと思へば少しも不思議ではありません。
 北陸の各地では、客を送り出す家の者が、イカサイセとかイラシテとかアエシャレとか、行けといふ意味の命令形を使ふのが、何だか情が無いやうに聽えますが、是は氣をつけて又は安全に、行けといふのを省略したもので、現にヨウユカンシ(佐渡)ともカセェデケヤ(陸中遠野)ともいふ者があり、又氣をつけてとか、おしづかにといふのは普通であります。木曾で斯ういふ場合にタメラヒと言ひます。タメラフとはあまり無理をせずに、ゆつくりと行けといふ意味であります。土佐でオブエガといふのは判りませんが、やはり同じやうな心持かと思つて居ります。
(465) 是に對して歸つて行く客の方で、夜ならばオヤスミナサイと謂ふのが標準形になつて居ます。是もたゞ休息せよと解しても通じますが、やはり本來はその前にゆる/\と、又は安全にといふ意味の副詞が附いて居たのかと思ひます。九州の島々には、
  ダーツヤイモセ、ダーチー      薩摩甑島
  ダツヨ               肥前上五島
  ダッチョ、ダッチョナ        同 下五島
  オイザト、オーザトウ        壹岐
  ザットヤー、オイザトナー      對馬
 是は明らかに一つの言葉で、起りはイザトウ即ち何か事があればすぐ眼が覺めるやうに、氣をつけて休まれよといふことであつたやうで、斯ういふ雙方からの祝福の辭の交換があつて、そこで始めてソレヂャ・ソンナラバ、又はサヨウナラ・サラバといふ言葉が出て來るのであります。今のやうに出しぬけにハイサヨウナラと謂つて別れてしまつては、それがもう何を意味するかを知らぬ人が、段々と多くなるのも已むを得ぬことかと思ひます。
 
(466)  どうもありがたう
 
 二十年前に、八十四で亡くなられたうちのおぢい樣は、毎度孫たちが集まつて來て、話をして居るのをじつと聽いてござつて、どうも有難うと誰かゞ言ふと、必ずお笑ひなされた。ドウモアリガタウか、アハハハと、さも面白さうに高笑ひをせられた。
 どうしてあれがあんなにをかしかつたのでせう。ほんたうにね、私たちは平氣でさう言つてゐるがねえ。今でも時々は思ひ出してかういふ話をする。
 孫や子どもの言葉ほど、意外といふ分子の少ないものは無い。さうして又老翁は、人生の最も笑ひにくい段階である。それが愛情の餘りとはいひながら、こんなにも高い興味を、この一言葉によつて誘はれたのはたゞ事で無い。もし現象といふならば、明らかに言語學的現象であつた。これがもしいつ迄も説明し得ないやうなら、まづ國語の問題に口を出すことをさし控へなければなるまい。
 
     一
 
 さう思つて私は、少しづゝまだ考へつゞけて居る。ドウモは近世の新語には相違ないが、これが盛んに民間に行はれてから、すでに相應の年數を重ねて居る。たとへば江戸後期の市井文藝を捜しても、多量の用例を拾ひ集められる。從つて是は當世流行の珍しい語だからをかしいといふよりも、むしろ十二三四の女の兒などが、口にするのがをかし(467)かつたので、言はゞ一種の老人語、思慮ある階級に屬する者がもつたいらしく、どうしても、如何に考へて見てもと、さも終局の判斷らしく附け添へて居た言葉を、「ありがたい」のやうな問題の無い文句に、心輕く結び附けたのが、古い習はしを知つてゐる者には、何べん聽いても笑はずにはゐられなかつたのだ、といふ風にも私には考へられる。
 
     二
 
 つまりは單語の來歴の無視、古い條件の解除といふことが、少しも相談を受けなかつた階級を面くらはせたので、この點は此頃大はやりのトテモともよく似て居る。私は明治三十四年の初冬に、旅して信州の上伊那の郡境あたりで、初めて「トテモ寒いえ」といふ車屋の言葉を聽いて、飛び揚がるほど驚いたことがある。まだあの時代は、いはゆる北アルプスも世に知られず、トテモは先づ出來ない相談に附けるものときまつて居た。それが若い山岳家の見え坊の口眞似がもとになつて、小さな妹たちがまじめに覺え込み、やがて奧さん母さんになつても、平氣でトテモきれいだおいしいをくり返すうちに、それををかしく思ふやうな者は、たうとう一人も居なくなつたのである。ドウモありがたうを笑つたうちの老人なども、故郷が信州で二十過ぎまで國に居たから、このトテモの方はずつと早く、卒業をしてをつたのかもしれない。今でも方言は色々の理由をつけて笑はれてゐるが、是も結局は數の問題といふよりも、若い人たちの附いて來るかどうかに歸する。以前はさうは言はなかつた、といふことは牽制の力にはならない。從つて將來、もつと餘分の知識なり判斷なりが働かぬと、國の言葉は良くならぬといふ點は、すべての文化も政治も皆同じだと思ふ。
 
     三
 
 ドウモもトテモも元は一つの言葉だつたことは、大抵の人がまだ幽かに記憶してゐる。田舍にはトテモカクテモと(468)同じやうに、ドウモカウモと續けて言はぬと、氣のすまぬ人が幾らもゐる。東北には二人座頭、堂茂幸茂といふ二人の盲目が、つかみ合ひをして方角がわからなくなつたといふ類の昔話が、そちこちに傳はつて居る。それよりも珍しいのは、下越後から北の海岸一帶に、ドモッコといふ一種の女用の頭巾がある。これは三四尺の布を染めて縫つて、夏冬いろ/\の形に頭を卷き包むもので、是を日常のトモカウモと區別するために、僅かばかり語音の形を勢へて、今でも重寶に使つて居る。男の下帶のモッコなども、起りは運搬具の名では無く、やはり色々の使ひ途を持つドモカウモであつたらしい。ドウモを盛んに使ふ都會の社交人にも、何かの拍子にこの一語に力を入れて、頻りにドウモカウモをくり返す者があり、又は會話の餘裕を作るために、ドウモを文句の最終にもつて來て、以下省略の形を採るやうにするのも常の例で、どう試みても、何と考へてもの本來の氣持を、半ば無意識に保存しようとして居る。是から考へるとたゞありがたうと言つてもすむのに、斯んな何でもないドウモをくつゝけるなどは、やゝ無邪氣に過ぎた物眞似であつた。人が追々と自分の言葉に氣をつけるやうになれば、笑はれずとも今に無くなるであらう。ところが近頃は何でもかんでも心から〔三字傍点〕御禮を申しますなどゝ、まだ/\きまり文句を積重ねて行く、おろかな流行が絶えないのである。これでは將來、特に痛切なる感情を、表現する言葉が種切れになるかもしれない。もう誰かゞ考へてくれぬと、國語は又一段と退化するだらう。
 
     四
 
 日本語の歴史をふりかへつて見ると、このトモカクモの一系列の言葉のやうに、早く生まれよく働き、さうして又永く役に立つてゐた言葉も稀である。之に比べるとドウモはずつと新しく、しかもタ行の濁音化といふ一般の風潮に從つたとはいふものゝ、この中にも時期と動機との區々なる階段があつて、必ずしも統一の中心は無かつたやうである。たとへばイヅレをドレ、イヅコをドコ、イヅチをドチ・ドッチ、又はイカヾを南島でキャー・チャーといふやう(469)になつたのは、語頭のイ音の脱落に伴なうて、斯く變らずにはすまなかつた共通の事情からとも見られるが、タレ(誰)をダレといふなどは單なる類推であり、ナニ(何)をドノ又はドウにした理由に至つては、中間にやゝ似た「何れ」のドレを立てゝ見ない限り、想像することも出來ず、更にトモカクモとドウモカウモとの間隔の如きは、又一段と橋が架けにくいのである。現在はまだ確かな證據が得られないけれども、何か中古に新たなる要望が起つて、和歌や祭詞にあれほどまで嫌はれてゐた幾つかの所謂濁音、さういふ中でも殊に耳に立つ D 子音を、わざと句頭や中心に置かうとする傾向が強くなり、それが今日のデゲス・デハ・ダッテやデモ・ダカラ・デスカラ・デハサヨウナラまで、なほ持續してゐるのではあるまいか。人が口々に言ひ爭ひ、聽きも習はぬ坂東聲を、眞似する者が京にもあつたといふ、中古の口遊は殘つて居る。醜を一つの美コとする好尚は、必ずしも萬葉の歌ばかりではなかつた。おかげで日本はもう立派な、「ことさえぐ」國になり切つてゐるのである。
 
     五
 
 しかも結局はそればかりではすまぬことが、少しづゝわかつて來たやうである。一ばん困つたのは女たちであつたらうが、この方には別に救濟は無く、たゞ物數を少なく又は低い聲で、どうにか切拔けて今までは來て居た。何とかしなければならなかつたのは晴れの日の口言葉、中でも心を置くやうな人と人との間には、さう/\は手放しに D 子音も亂發しかねて、一旦は文章語の中に送り込まうとして居たトカク系の言葉を、若干は今も現實に取殘して利用して居る。昔の文藝に殘つてゐるやうな「とすればかゝり」、「となりかくなり」とか「とさんかうさん」といつた樣な、細かな使ひわけはもう出來ないが、それでもトヤカク・トニカクニ・トツオイツといふ類の、新しい形も出來てゐて、決して「兎も角」だけになり固まつてはゐない。つまりは一旦文語の世界へ、送り込まれようとしたものを喚び戻して、もう一度働かせるだけの必要がこの世に有り、それ程にも又この言葉は、清らかで自由で活用しやすかつたので(470)ある。同じ目途に作られたよその國々の言葉と比較して見ても、この點はお國自慢で無く、はつきりと認められると思ふ。
 
     六
 
 しかも將來我々の國語教育が進んで、すべての若い人々がめい/\の疑問を提出し、先生の解説に耳を傾けるやうになつた時に、最も多くの好奇心の集中するのも、恐らくはこの方面であらう。どうしてトモカクモがドウモカウモと變り、ドウゾがお願ひに附き、ドウモが有難うに附くやうになつたものか。それよりも今一つ遡つて、ドウがカウ・サウ・アヽなどゝ竝んで、ちやうど文法家の講釋に都合のよい樣に、物を尋ねる形にきまつたのはいつからであらうか。以前はたゞイカヾがあり、次にナニが來て加はつたことは判つてゐるが、それがドに改まつた道筋が、私などにはまだ全く説明しきれない。こゝにも或はトニカクニのトが干與して、こんな顯著な國語の變遷を仲立したものでは無からうか。トニカクニの發見は幸福なものであつたが、とにかくに〔五字傍点〕それは上代の新語であつた。其前には既にカニカクニがあり、トといふ單語はもとは所謂代名詞ではなかつた。前年一度ナといふ語音が、「何」を作るに至つた來歴を考へて見たことがあるが、トといふ一音もやはり其例で、我々の國語には、斯うした遊軍のやうな幾つかの語音があつて、いつまでも便利に色々な役目に使はれて居るものかと思はれる。近頃氣をつけて各地の街頭録音を聽いて居るが、トといふ一語音を實に高く強く發聲して、言ふも思ふも其後には、附けるのを忘れてしまふ人が多くなつて來た。やつてゐるわいと獨り笑ひをして、いつまでも私はこのトカクの源頭をなつかしむのである。
 之に對してはダ行濁音化は、言はゞ一つの厄難であつた。極く荒々しく、家人眷屬を統御するにはふさはしいが、みんながそれに化することは發案者の本意でなかつたかもしれぬ。私などの家では風などを引いて寢てゐると、父だけはどうだい、又はどうかなと謂つて見舞に來た。母や女房や娘たちはイカヾデスカ。どうですといつてもよいのだ(471)がめつたには使はない。うちの先代などは知り過ぎるほど D の濁音の效果を知つて居たのだが、その爲に却つて幼稚な孫たちが、ドウモといふことに高笑ひをせずには居られなかつたかと思ふ。なつかしい昔である。
 
(472)  女の名
 
 近頃世に出た「信長・秀吉・家康」といふ本の中に、家庭に送つた秀吉の自筆書?が何通か載せられて居るが、その宛名に「五さ」とあるのを、多分は北政所の侍女の名であらうと、辻博士は解説して居られる。尾張出身の人ならば、反對せられさうなものと氣を附けて居るが、まださういふ話も耳にしないので、單に一説として自分の知つて居ることだけを竝べて見る。斯んな機會で無いと考へて見る人も無い小さな問題だと思ふから引合ひに出したまでゝ、是を論爭の種にする氣は、私は勿論、辻さんにも恐らくは有るまい。
 五さは例の太閤さんの無造作から、ゴサンといふ口語を表示した宛字と思はれる。さうして其ゴサンは少なくとも近い頃まで、東京などのオクサンに該當する、濃尾地方の方言だつたのである。私などの珍重するのは、三百數十年前に既にこの單語があつたといふほゞ確かな證據として、殊に「樣」をサ又はサンと發音する風が、もうあの頃から始まつて居たことが、たつた一つの「五さ」の字から窺はれる點である。即ち秀吉一人で無く、其周圍の者どもゝ、この夫人をゴサと呼んで居たらしいことを察せしめるのは、國語史上の亦一つの偉功であつた。
 但しこの中間の三百年に於て、ゴサ又はゴサンといふ語を用ゐつゞけて居たといふ證據は、絶對に擧げられないとは言はれぬが、大へん骨折な仕事であらう。我々の學問では比較的集めやすい現在の實例によつて、それが弘い區域に分布し、且つ新たにさう改まつたといふ形跡が無い限り、一應は前からさうあつたものと見て行くのである。從つて記録文書に一つでも、曾てさうあつた場合が明らかに知れると、それから此方は續いて居ると見、一旦廢止して再(473)び又起つたとは見ないのである。五さがゴサン即ち奧方のことで、侍女の固有名詞でないといふのも一つの推定で、斯ういふ逆推方法にも何か不安が有るやうに考へられるかも知れぬが、それも結局は事實の力によつてきまることゝ思ふ。數多い類例の比較、偶然とは評し難い廣汎な類似現象の綜合が、從つて必要になつて來るわけである。
 地方の方言集は可なり澤山に世に公けにせられて居るのだが、今まで斯う謂つた目的に利用せられることが少なかつた。殊にゴサンといふやうな家族制度の用語に於てさうであつた。又と言つても折が無からうから、序でに私はもつと一般的に考へて見ようと思つて居る。一々引用書の名を出すのも煩はしいから、此點は自分のノートを信用してもらふことにしたい。以前はどうあつたか確かめられぬが、此頃のゴサンは促音を入れて、ゴッサンと聽えるやうに發音して居る。そのゴッサンを中級の家の主婦、東京でオカミサンといふ位の人に向つて敬稱として使ふことは、名古屋・岐阜の二つの市と、其周圍の郡村も一樣である。奧さんの例でもよくわかるやうに、新しい稱呼は上品なものが入つて來る。從つて今まであつたものが二等に落ち三等に降ることは、オカタもナヽも皆同じであるが、さういふうちにも此ゴッサンだけは田舍へ入つて行くほど上品な名になつて居て、この點は東京などのオカミさんとは逆である。東京ではよほどの御大家でも主婦はオカミサンで、奧さんはもと武家醫者眞宗寺などに限られて居た。それが裏店まで普及するに至つて、忽ちオカミサンの聯想は惡くなつたのである。是と似たやうな經歴を村の舊家のゴッサンは積み重ねて居るらしい。或は今でもまだゴッサマと謂つて居る處が、美濃でも山縣武儀の二郡、尾張では知多にも西春日井にもあつて、是も小さな區別であつたやうだが、今では古風なものとしてやはり稍低い目途にしか使はれて居らぬのは、北政所に對しても少し失禮なやうな氣がする。
 主婦をゴッサンといふ方言は、飛び離れて紀州の田邊にもあるが、爰と名古屋との中間はどうなつて居るのか、まだ尋ねて見ることが出來ない。其以外の土地にも同じ言葉はまだ存するが、其意味が著しくずれて居るので、強辯するならば別の語だとも言へぬことは無い。之に對して内容は他人の妻をいふことは同じで、たゞ語の形の僅かばかり(474)違つたものが、廣島山口の二縣と島根縣の石見郡などに分布して居る。即ち此方はオゴウサンと必ず上にオを添へて呼ぶもので、ちやうど其區域が毛利氏の勢力圏と一致するから、是も或は元就・輝元の時代からあつたやうにも考へられるが、今日はやはり適用が弘く且つ低く、萩はどうあるかまだ當つて居ないけれども、山口・下關・コ山・岩國などの市街地では、大體に中流商家の妻女がオゴウサンと呼ばれ、又は一段と輕々しく、目下をオゴウといふ者もあるやうである。廣島の方の方言を集めたものゝ中には、オゴウサンは奧さんに相當し、最上の敬語だと云ふ人も有るのを見ると、前には今少し制限せられて、相應な格式のある家だけに用ゐられて居たものかと考へられる。
 濃尾のゴッサンと防長のオゴウサンとは、先づ同じ言葉と思つてよからう。女たちの用語には何にでもオが附くから、是も其例の一つと見られぬことは無いが、山口縣の場合だけは、別に其以上に「大」といふ心持が添うて居たかと思ふのは、山口の市ではお孃さんをゴウサマ、馬關やコ山では娘をゴウサン、又他人の女に對する敬稱として、ゴウゴウといふ語も此地方には有る。女性を尊敬してゴと呼び、それに「御」の字を宛てゝ居る例は至つて古い。果して「御」の字が當るかどうかは問題だが、少なくとも是は誰にでも無差別に付與せられる呼び名では無く、從つて又どの樣に汎く用ゐられても、なほ必ず相手が他人である場合に限られ、秀吉が北政所に對して五さと書いたのなども、たゞ周圍の者がさう謂つて居たのに依つた、幾分のしやれ氣の有る使ひ方と見られる。
 九州の各地を見渡すと、主婦又は夫人をゴサンといふ例は殆と無く、若い未婚の女子だけが弘くさういつて呼ばれて居る。北の縣では佐賀附近で娘をゴコサン又はハナゴコ、五島の濱ノ浦などで孃さんをゴコ、壹岐でもゴコといひ、昔話の「千代ごこ出やつせ」のやうに、名を頭に添へて呼ぶ風もあつた。是だけを見れば對岸の山口縣のやうに、別に妻女をオホゴといふ言葉も有つたかの如く考へられるが、事實はさうでなくて九州のオゴはすべて娘のことである。たとへば「お孃さん」を壹岐でもオゴシャン、平戸でもオゴもしくはオゴシャマ、筑後の三池・三瀦二郡でもオンゴ、佐賀にもオンゴンがあり、更に南に越えて鹿兒島縣でもオゴイサア、又はオゴジョ・オゴ・ゴコ等、相手によつて少(475)しづゝ言ひ分けて使つて居り、主婦には別に又ちがつた語が有るのである。宮崎縣なども一般に、他人の娘をオゴといふ習はしがあるが、高鍋附近などでは嫁のことも、舅姑だけはオゴと呼んで居るさうである。是は中部から關東以北で、長男の?婦をアネといふに同じく、次代の家刀自に對する若干の斟酌であつて、生みの娘なら名を喚ぶところを、特に斯うして區別するのであらうが、是を見ても本來この言葉に、配偶者の有無を表示するまでの内容は無かつたことが判る。
 飜つて他の一方の奧羽地方はどうなつて居るかと見ると、右にいふ二つの意味は共に知られて居て、たゞその何れか一方だけが、土地毎に入り交つて行はれて居るやうである。たとへば仙臺でも今は廢語になつたらうが、武家の娘をオゴサマといふ語があり、それが又達用抄などゝいふ百數十年前の集録にも既に見えて居る。陸中山ノ目でもオゴサマはお孃さんのことであり、登米郡にも上流の娘をオゴウといふ語がもとは有つた。さうかと思ふと山形縣の東村山郡などでは、ゴンゴといふのが奧樣のことであるといひ、同じ語はなほ北上川の流域にも行はれて居たと見えて、やはり江戸時代の「岩手の山」といふ紀行には、老女をゴンゴと謂ひ、又三十から四十位までの女を、ゴンゴヒメゴと呼んで居たといふ山村の例を載せて居る。最初は老少のけぢめ無く、尊敬すべき女性をすべてゴと謂つたのかも知れぬが、後々適用の範圍が擴がつて來ると、自然と「身分ある」といふやうな本來の意味は薄れて、妻か娘かどちらか一方に偏することになつたのである。京都などではオゴは夙くから娘の輕い敬稱になつて居たことは、狂言記以後の幾つかの文藝に痕跡があり、殊に醒睡笑などの笑話の中には、「お五」といふやうな文字さへ宛てゝ居るのである。
 貴女をゴと稱した中世以前の日本語が、斯く零落しつゝもなほ國内に傳はつて居るのだといふことは、勿論まだ是だけでは確認せられるわけにも行くまい。しかし少なくとも現在もなほ口語として活きて居るから、又は一地域限りの方言であるから、乃ち近い頃に生まれたものだといふ臆測をすることは許されない。たとへば袈裟御前や巴御前などの御前から、尻を切つてこしらへた語だらうなどゝいふことは、誰かゞ考へ附きさうなことであるが、記録の初出(476)もこの方が新しく、是には亦明らかな起原がある。たゞこの二つの語には若干の脈絡があり、ゴといふ女性呼稱が曾て無かつたならば、ゴゼン又はゴゼといふ語も此樣に汎く、流布しなかつたであらうとまでは言へると思ふ。是とやや似た例は、上方方面に此頃まで行はれて居た、良家の若い夫人をゴリョウニンといふ名、又はその一つ以前に貴族のみに專用せられた御簾中といふ呼び方が、やはり同じゴといふ在來の敬稱によつて支持せられて居るらしいことである。表にして見た方が話はわかりやすいが、是などは  愈々用ゐ方が入り組んで、殆と土地毎に目途がちがつて居る。
  ゴリエン          奧さん       豐後日田
  ゴリュンサン        同         同 大分
  ゴリョンサン、ゴリョン   御新造さん     博多
  ゴレンサマ         士族の夫人     對馬佐須奈
  オゴレンハン        町家の若い細君   備後福山
  ゴレン           嫁、村長内室    飛騨
  ゴリョン          目上の人の妻    越後の一部
  オゴリッサマ、オゴリゥン  奧さま、おかみさん 米澤地方
 これ等は何れも大阪などの所謂御寮人と同じく、既婚者の敬稱であるに對して、一方には又、
  ゴリョンサン        息女        熊本市
  オゴリョンサマ       お孃さま      周防岩國
  ゴリョウ          少女        飛騨益田郡
  オゴレン          娘の尊稱      「杜陵方言考」
の如く、娘を同じ語で呼ぶ風も南北に行き渡つて居る。どうして斯ういふ添へ言葉が附くのか、まだ私には説明する(477)ことが出來ないが、ともかくも是には「ゴ」といふ古い語が基底を爲すことだけは想像せられ、つい近頃まで可なり流行して居た所謂御新造なども、その系統かも知れぬと私は睨んで居る。
 ゴといふ言葉の起原は、私はやつぱり「子」であつて、「御」の漢語の音では無からうと、思つて居るがどんなものであらうか。今いふ標準語の中でも嫁ご娘ご姪ごさんなどがあつて、聟とか息子とか孫とかいふ類の、「子」を以て呼ぶ語には是を添へないこと、又中世の女子の名の、大子仲子三子等には、すべてコを濁音にして居たことなどからさう考へる。日本では單語の分化は濁音化に由るものが多いが、大抵は濁れば一段と劣つたものになるのが普通で、コをゴといふ爲に敬語となるのが、早い頃からの習はしならばたしかに異例である。しかし漢語の御の字が入つて來て後に、それが女御といふやうな語を作つたとはどうも考へられない。記録にはまだ明らかな證據は無いけれども、コといふ語の範圍は最初は甚だ弘く、それを先づ男女の二つに分つ必要が感ぜられ、メとかヲミナとかいふ類の語が之に代つて行つた後にも、なほ特殊な目途だけに其ゴを殘してあつたのが、斯うしていつ迄もすたれてしまはなかつたのかと思ふ。
 
(478)  ウバも敬語
 
 言葉も目に見える衣類諸道具のやうに、古びてはやらなくなつても直ぐに棄てゝはしまはず、是を粗末にして長く使はうとする傾きのあることは、曾て犬のヅキ・猫のゴキに就いて説いて見たことがある。女の名前などは殊に變化が早く、從つて其例は幾つもある。最初は貴女を意味したオカタといふ語が、後にオツカァとなつて年をとつた雇女だけに、用ゐられて居たのも其一つの場合であつた。北陸一帶には色々と珍しい地方語があるが、その中で誰も語原の解説に困つて居るらしい下婢をベーヤといふのなども、此點を念頭に置いて見ると大よそは傳來が辿られる。加賀の能美郡で女中をベーヤ又はベ、能登は奧郡まで之をベヤ・ベーヤ、越中にもベーヤ・ベヤサがあり、下新川郡などは特に若い女中、子守などがベーだと報じて居る。土地の人ならばもう心づいて居るかも知れぬが、富山市近在方言集にはウンメサといふ語があつて、女中の總稱だと謂つて居るのは、右のベヤサなどゝ最も近いものゝやうに思はれる。「ウンメサが嫁さんになつたのだが」といふ樣な使ひ方もあるのを見ると、若い未婚の女も含めてさう呼んで居るのである。
 他の二三の土地では、このウンメサが、母を意味する言葉として傳はつて居る。たとへば佐渡島では母をウメァ又はウメェ、是は幼兒の語だが、小木の町などでは成人も之を踏襲して居るらしい。安房の半島でも母をウメヤー又はマイ/\、是も兒語から始まつたかと思はれる。次に靜岡縣の東部、伊豆の二郡から駿東にかけて、母をウメヤイ・ウンメヤイ・ウマエー・ウマヤイ・ウマイ等といふ幼言葉があつて、その一部が又普通の口語にも入込んで居る。
(479) 滋賀縣の湖北地方にも一つ飛んで、母をウメといふ方言があるが、小兒の專用か否かを究めることが出來ない。ここから東へ寄つて飛騨の一部でも母をウンマァと呼びかける風があり、遠くは岩手縣の東山地方でも母をウマヤ、西は肥前五島の有川でも三井樂でも、母をウマといふ語がカヽ・カッカと併用せられて居る。親しく聽いて見たら細かな用法の差が感じられるだらうと思ふ。
 ベーヤとなつてしまつてはちょつと聯絡が氣づかれぬが、ウメならばまだウバとの關係が窺はれるのである。即ち其あとに附いたヤイとかエイとかいふ長母音が、マをメに變ずることは有り得るので、伊豆などは梶原景時の守山のいちごの歌にも見えるやうに、あの頃から既にウバをウマといふ地方であつた。さうして幼兒を育てるほどの若い女性までが、もとはウマであつたことも是でわかるのである。
 漢字の女扁に老いたりといふ字を、この古くからのウバに宛てたことが、大きな原因であつたことは爭はれないが、さうで無くともウバの尊敬せられるものが、年を取つた婦人に多かつたことは自然で、其爲に是がいつと無く、祖母を意味するオバアサマ即ち大ウバと混同して、境目もはつきりせぬやうになつたが、なほこの以外にも少壯のウバが色々あつた。先づ第一には乳母のウバ、是も幼兒の口にかゝると、マヽともなり又バヽとも變化した。長崎ではバンバが乳母、加賀の金澤でもバンバ又はバァヤとなつて居る。最初から彼等がウバと呼ばれた筈は無いが、是も多分は色々の女性に、この名を擴張した擧句のはてゞあらう。下婢をウバといふ例は福島縣の大沼郡に有る。會津の若松ではこれをンバ、山を越えて安積郡に來るとオバになつて居る。伊達郡の一部でも雇女をオバ、それから轉じて寺々の隱し妻、俗に大黒といふものをオバといふ處が、こゝから宮城縣の北部に及び、遠く地方を隔てゝ三重縣でも妾がオバであつた。
 それから今一つのオバは、東日本の弘い區域にかけて、長女を除く外の娘が皆それであつた。ヲバは小母だといふ説が通用して居るが、這ひまはるほどの幼女でもさういふのだから、此はまだ信用が出來ない。オバコ節の本場に行(480)つて見ればわかるが、大よそ母とは縁の無い者ばかりがあの邊ではオバなので、從つて又湊々のいやしい職業の女などもさう呼ばれる。之に對しては堅氣の既婚者を、アバと謂つて區別して居る處も多いのだが、越後の出雲崎まで來ると、妹娘もアバ、又下女のことも茲ではアバと謂つて居る。
 東北では青森・岩手・秋田の三縣にかけて、このアバだけは母又は主婦の爲に留保せられて居るが、それも段々と小さな生計の階級へ降されて、從つて今では雇人の名になつて居る處もある。アッパといふのも小兒語であつたらうが、遠野物語などには壯年の男も之を使ひ、或は又亭主が小兒をまねて我女房をさういふ例もある。南部の方ではアッパは老いたる母をもいふが、西津輕郡などでは若い母だけがアパ、老母には別にガヽといふ名がある。即ち此あたりではオカタをウバよりも一段と高く見て居るのである。母音のウとオとは、日本では何處に行つても紛れやすいが、是をアと變へるには若干の意圖を要するかと思ふ。それで本來の尊敬する感じを、アバ・アッパだけにしきつて殘したかと察せられるのだが、なほ盛岡では次女以下をウバ、叔母をウバといふ形も認められて居り、そこから近くの紫波郡の村里では、老人が我妻を呼ぶのにオバといふ語を用ゐて居る。京師の文獻によれば、女房は通例ウバであつた。是はオカタと同樣に、本來は主婦の地位をあがめた語であつたと思ふことは、高砂の老夫婦をジョウトンバ、夫婦をパオヂと謂ひ又ウバゴヂともいつたことであるが、誰でもさういひ出してから段々と安つぽくなつて、しまひには寧ろ心安い輕い者のみに此を應用し、別に相應な良い言葉、たとへはオカタとかジョウロとかいふのを、新たに採用しておもたゞしいものを呼ぶことにしたのかと思はれる。
 姥を石凝姥のやうにトメと訓んだのを見ると、古くはトメともタウメともいふ語が、敬稱として行はれた時代が有つたかと思ふが、その範圍はもうはつきりとして居ない。之に比べるとウバは母となり妻となつて今も傳はつて居るのだから、さうして其分布は可なり弘いのだから、もとは良家の刀自だけの美稱であつたことも考へられる。しかし何分にも時が久しく又適用が弘くなつて、よほど細かく捜して見ないと、是が敬語の一つだつたことを證出すること(481)が出來ない。さうして一方には人に使はれるやうな女性のみを、ウバといふ語が行渡つて居るのである。東京でもよく耳にした此アマあのアマといふアマなども、少しでも尊敬の意は含んで居ないが、尾張の知多郡や近江の伊香郡に行はれ、何れも女の兒のことであつた。紀州の串本ではアマノコといふのが女のことであり、同那賀郡にはアマノセガレといふ語もある、是も恐らくはウバからの零落であらう。或は比丘尼の尼だらうといふ人もあるが、それこそアクセントが丸でちがつて居るのである。
 
(482)  御方の推移
 
 主婦の敬稱として今なほ最も弘く行はれて居るのは、奧樣でも無く又おかみさんでもなく、やはり方言のオカッサマであらうと思ふ。或は之を口にする人の數から、又は之をよい言葉と思つて居る點に於て、近來はもう「奧樣」に負けて居るかも知れぬが、少なくとも分布の地域にかけては、オカッサマは優に全國の三分の二の面積を占めて居る。言葉が何處でも大よそは同じなのだから、一々事實を竝べるのは煩に堪へないが、せめて自分が當つて見た方言集だけでも擧げて置かぬと、どれだけ廣汎に行はれて居るかの見當が附くまい。先づ東北では青森・岩手の二縣にもあるのだが、是は發音がやゝちがつてオガサマと聽え、何か別の樣にも取れるから除いて置くことゝし、紛れの無いオカッサマ又はオカッツァマの用ゐられるのは福島市附近、伊達掛田、それから多分はずつと續いて、關東は栃木・茨城・群馬の三縣に許多の例がある。大體に中部以東と九州のごく端の方だけに、サマをはつきりといふ處があつて、其中間はすべてオカッサンであることは、觀音さんなども同じことで、是を別箇の言葉だといふ人はよもや有るまい。
 中部地方では信州の松本周邊、上下伊那郡でも共に採録せられ、爰ではオカッサマは奧樣のことだと謂つて居る。飛騨は高山でも又吉城郡の村々でも主婦をオカッツァマ、一方は又山梨縣から靜岡の附近、藤枝のあたりにかけてオカッサンがあり、是も亦主婦を對譯にして居る。愛知縣は多分三河などのゴッサン區域の外であらうが、信州南部と共通にオカッサマが行はれて居る。美濃は稻葉・山縣・武儀・加茂等の諸郡にオカッツァマがあるが、それとゴッサマとが如何に對立して居るかは明らかでない。北陸では越後からはまだ資料が得られないが、越中以西にも飛び/\(483)に其例が出て居る。下新川都では中以上のかみさまがオカッツァンだといひ、能登の鹿島郡ではオカッサマは中流以上の家婦だといひ、加賀の金澤でも平民の妻、又は町家の細君がオカッサマだと謂つて居るのを見ると、もしジャサマが有るとすれば、其間にはおのづから段階が見られるのであらう。若越方言集でもオカッツァマはおかみさんのことだとあるから、最上級でないことはほゞ確かである。
 それから近畿と四國とは例によつてまだ材料が乏しいが、中國の方でも僅かに出雲に一つ、オカッサンといふのは中流の家の主婦のことだと出て居る。珍しいと思ふのは周防の岩國でオカッサマはお嫁さんのことだといひ、同國柳井津では之を女の敬稱と謂つて居ることで、もしも其意味がジョウロウやゴの如く、既婚未婚を問はぬのであつたら、是はたしかに一つの異例である。なほ山口の市だけにはオカァサンといふのが、名家の老婦のことだといふ報告も有るが、この點は後に一括してもう一度説く必要がある。とにかくに此方面の分布は現在はよほど稀薄になつて居て、それが九州に入ると改めて又數多く採集せられるのである。私の知つて居るだけでも、大分縣は宇佐以南の諸郡、福岡縣は筑後の山門・三瀦二郡、長崎縣では長崎と千々岩と平戸、熊本縣は宇土・上益城の二郡、鹿兒島・宮崎の二縣にも飛び/\に其例が知られて居り、是には相對して呼び掛けに使ふ場合と、蔭で話に出て來る場合とが含まれて居るが、主たる用途は「樣」だから前の方であり、それも土地毎に尊敬の度の僅かづゝの等差があるやうである。
 爭はれないことは領域の縮少、即ち現在はもう使はない土地にも、曾ては行はれて居た痕跡が幾らもある。たとへば近松語彙を引いて見ると、オカサマ・オカモジサマがあつて、共に妻女の意味に用ゐてある。西鶴にも八文字屋本にも捜せばきつと出て來る。それよりも古い所では狂言の「釣り女」に、「オカッサマを釣らうよ」と太郎冠者の謂ふのも主婦のことで、是などは全國一樣の促音がまた挾まつて居る。即ち本來はオカタといふ語に、樣を添へた名殘である。どうして此語が追々に衰退して、他の新たな名に代へられたかの原因も、自分にはほゞ判つた氣がする。少なくともその一つは兒童が採用して、母といふ意味に盛んに使つたことであつた。子供は人が我母をさう喚ぶのを眞似(484)しただけであらうが、母と他人の妻とではものが全く別で、二者を同じ語で表はすと不便のことが多いので、後の方が普及すれば、古い分には、何か代りのものを見つける必要が起るのである。しかし其代用品は現在有るものだけで、もう十分であるかどうかは問題である。私などの氣がついて居るのは、東西二京の如き文化の中心地で、嫁聟雙方の親たちが互ひに物言ふ場合に、向ふの姑女をオフクロサマは稍古くさく、さりとて奧樣おかみさまも他人行儀に失するので、せん方無しになほ以前のオカーサマを使ふ家が多いかと思はれる。たゞ今日では其心持が暗々裡に移つて、何か女房が亭主をパヽといふと同じに、子供から借りたものゝやうに肩身狹く使つて居るのだが、是も成立ちを考へて見れば、尊敬すべき主婦の意味なのだから、少しも遠慮をするには及ばなかつたのである。周防・山口で上流の家の老刀自だけがさう呼ばれたのも、決してめい/\が子のつもり、もしくは子の口眞似ではなかつた。信州の南安曇郡などには、人の妻をオッカサマといふ語があつて、母をさういふ場合とは所謂アクセントを異にして居るといふが、果してそんな必要のあるまで、後の方にも便はれて居るかどうかは疑はしい。寧ろ他處では母の意味に用ゐて居るやうだが、爰では一般に主婦のことを同じ言葉で呼ぶと、いふまでゝは無からうか。もし然りとすれば意義の變化、乃至は用途の限定といふに過ぎぬのであつた。
 私たちの子供の頃までは、母をたゞオカァといび又はカヽといふ家が隨分多かつた。それを下品だから必ずサンを附けるやうに、親も學校もやかましく教へ込んだ結果が、いよ/\混亂して自他のけぢめを薄くしたのである。オカタは御方だから御前も同じやうに、それ自身がもとは敬語であつた。即ち其人を直視し又は指さすことをせず、たゞ漠然と居られる方角を言ひ現はしただけで、もう目的を達するのだから慎ましい態度だつたのである。汝をアナタといひソナタと謂ふのも、さては獨逸や伊太利で三人稱を二人稱に使ふのも、もとの心持は同じであつた。村内の舊家をオカタと呼んで今は岡田などゝ書き、本家をオマヘといふなども皆其適用であるのみならず、後に取つて附けたサマといふ語も、元來は方角のことなのだから、言はゞ不必要な重複であつた。最初は恐らく家の所在地などに由つて、(485)其方向を示して居たものが、太郎兵衛樣にも權兵衛樣にもなつたので、それでも是を自他の堺として居た間はまだよかつたが、後々最も近しい家の中の人々にまで、之を附けずにはすまぬやうになつて、折角のよい言葉が裸では失禮なやうに感じられて來たのは、自然の成行きとは言ひながらも、何だかむだの樣な氣がする。
 武家で身分の高い人の妻をオカタと謂つて居た實例は、吾妻鏡、太平記その他中古の記録にはあまる程もある。先代の主婦がまだ達者で居れば之を大カタ、文字には大方殿と殿を附けて呼ぶものが多かつたが、流石に御方樣といふ人は近い頃までは無かつたらしい。ところが今日はそれが當り前になつて、たゞオカタといふのが惡い言葉、少なくとも敬意の足りない感じを與へるまでになつた。是も全國に亙つてまだ決して亡び失せた語では無いが、是を他人の細君に對する辭令として使ふものは、殆と東北と九州との一隅のみに限られ、その他はやゝ輕しめたる蔭口として使ふか、又は靜岡縣の一部や、東北でも米澤地方のやうに、主としてオラオカタ、即ち自分の妻のみに卑下をして使ふこと、今日のカヽやオッカァと同じになつて居るものさへあるのである。此調子で行くと、今では裏店まで普及して居る人望多きオクサマなども、いつかは家庭の夫婦喧嘩用にしか殘つて居ないといふ時が來ようも知れぬ。國語は時代に伴なふ大きな變遷が有るものといふことを、日本では特に前以て承知して置く必要が有るやうである。
 
(486)  上臈
 
 女性を尊敬した數多くの呼び掛けの言葉では、ゴサン又はオゴといふ類のものが可なり古く、其他は皆後から次々に現はれて、前に在つたものに交替したやうである。上臈はさういふうちでも比較的早く始まつた方だらうが、もとが漢語であつただけに程久しい間、文章にばかり使用せられ、それが地方にまで流布したのは、やはり口語として十分に耳馴れてから後のことで無ければならぬ。さうして一頃は可なりはやつたものらしく、全國の隅々にかけて其痕跡はあるが、やがて又其次に來るものに押されて、追々と珍しい方言になつて行かうとして居るのである。
 上臈といふ語の意味は、文獻の上に出て來るものと、民間の口語とで少しばかりちがつて居た。是をたゞ身分の高い家の婦人と解する以上に、長い袖を垂れ裳の裾を引いて勞働を事とせず、臙脂白粉を以て化粧した人といふ風に取るやうになつて、都會や港場では飛んでも無い女たちが、此名稱を獨占する傾きを生じた。たとへ文字は全く異なつたものを用ゐようとも、彼等と似通うた名を以て、もう世の常の良家の女性を呼ぶことは出來ない。それで一段と早目に此言葉は、いはゆる標準語から消え去つたのである。
 現在まだ殘つて居る實例を集めて見ると、是もオゴサマ系統の語と同樣に、土地によつて適用が區々になつて居る。其中で一番に多いのは主婦に對する敬稱だが、それと入り交つて未婚の女をさういふ處がある。たとへば秋田縣の西南の隅、由利郡の矢島ではジョロといへば妻女のことだが、そこと嶺一重を隔てた山形縣の莊内地方ではジョロハンと言へば上流の娘のことであつた。佐渡の島には他人の妻をジョウロサンといふ語が行はれ、小木の港などでは三十(487)歳以上の奧さんのことだとも報告せられ、一方福井縣ではどの邊のことか知らぬが、上流の夫人をジョルサンと謂ふと、若越方言集にも見えて居るのに、二地の中間に在る加賀の金澤などは、ジョウロサマといふのが士族の娘さんを呼ぶ名であつた。九州の方では次にいふオジョウモンの場合の外、娘をジョウラウといふ語は見當らぬやうだが、それでも東海岸に面した大分縣の諸郡では、オジョラサマは主婦奧樣令夫人のことだといふに對して、西部佐賀縣の或部分では、ジョウラはたゞ主婦を意味し、又主人が妻を呼ぶ名にもなつて、格別の敬語でも無い。
 やゝ變つて居るのは香川縣の例である。高松市などでは、オジョウロといへば豪家の内儀のことであり、その若いのはジョウサマ、又普通の町家の細君には、ジョウサンもしくはジョウハンと謂つて居る。そこから東の大川・木田の二郡でも、ジョウロサンとジョウサンの二種があつて、相手の家によつて使ひ分けをして居るやうである。是とやゝ似た例は關東の方にもある。千葉縣の香取郡から長生郡の海岸にかけて、普通他人の家のオカミサンはジョウサンと謂つたが、之に對して別に上流の夫人の爲にジョウサマが有り、又その娘たちをジョウコサマと謂つて居たことが、古くは深川氏の上總志料などにも出て居る。江戸で大いに行はれ又標準語ともなつたオジョウサマなども、やはり上臈の系統に屬するもので、元は必ずしも所謂令孃のみに限らなかつたことが、斯ういふ比較によつて判つて來るのである。
 妻を夫がジョウ又はイジョウといふ例は、紀州南牟婁郡の村々にある。さうして熊野地方は一般に、ジョウといふのが嫁のことださうである。上臈といふ言葉の單なる下略とも見られるが、或は中間に佐賀地方の如く、自分の女房をジョウラといふ語があつて、其ラを只の接尾語かと思つて取棄てたのかも知れない。靜岡縣の東部殊に伊豆の二郡などでは、他家の花嫁に限つてオジョウロと謂ふ語が使はれて居る。是は甲州のハナオカタも同じ樣に、もとは花ジョウロといふのが普通だつたのを、それだけが印象深くいつまでも記憶せられ、其他は段々に消えて區別する必要が無くなつたものと思はれ、甲州の方でもオカタ打ちなどゝ、オカタを新婦だけに解する者が多くなつて居る。もとは(488)ジョウロの中には老若色々の種類があつたと見えて、岩手縣の稗貫郡では姪女をメジョロ、島根縣の出雲地方にも、めいジャラ・孫ジャラ・嫁ジャラなどの語があり、たゞオジョロといふときは娘のことである。嫁ジョ・妹ジョのジョが「女」で無いことは先づ確かだと思ふ。小さな女の子を近江の八幡、豐後の西國東都でもジョコと謂ふが、能登の鹿島郡の一部ではジョウロといひ、もとは江戸でもさう謂つたと思はれて、小娘をジョウロの子といふ言葉が、たしか三馬の浮世風呂にも見えて居る。
 つまりは上臈の始めの意味が忘れられて、たゞ其用途だけがあとに殘つた爲に、少しづゝの加工と、之に伴なふ適用の誤りを、免れることが出來なかつたのである。珍しい一つの例は福岡縣を始めに、西は佐賀縣の松浦地方、南は熊本縣の上下益城郡まで、分布して居るジョウモンといふ言葉で、もとはたゞ若い女といふ意味だつたことは、ジョウモンシといふ複數形のあるのを見てもわかるが、それが上物と音が近い爲に、いはゆる別品のことだと解して居る人が今は多い。東の方でも山梨縣には同じオジョウモンといふ語があつて、是を美人のことだと説明しながら、實際はネエサンといふ程度の、若い女中などに向つて盛んに用ゐて居る。或は最初からさういふ戯れの心持を以て、この物々しい上臈を改造したものかも知れないが、なんぼ古びて晴れの用に立たなくなつたとしても、是は又あまり粗末な取扱ひ方であつた。
 しかもさういふ例は必ずしも是一つでは無い。前に竝べて置いたオカタ・カヽなどもそれだが、同じ上臈の系統に屬するか、さうで無いまでも是と最も近い北陸地方のジャーマといふ呼び方も、やはり零落の路筋はよく似て居る。石川・富山の二縣二箇國を通じて、ジャーとかジャーマとかいふ名で母を呼び、又は中年以上の妻女を呼ぶのは今も普通だが、實際は主として家庭用ともいふべきもので、是を他人に向つて用ゐ得る範圍は、ちやうど東京などのオッカァも同じ樣に、年と共に縮少しつゝあるのである。ジャーマは土地によつて又ジャーサといふ處もある。雙方ともサマを稍ぞんざいに發音したものにちがひないが、現在は出入の女房、又はやゝ年を取つた雇女にも之を用ゐる故(489)に、いかに貧しくとも、獨立した他家の主婦たちには、ジャーマと言ひかけることが何と無く遠慮せられるのである。しかも他の一方には加賀の大聖寺とか越中の入善とかの方言集を見ると、大家のおふくろ樣だけをジャサマといふとあり、又はジャーサマは他人の妻の尊稱だとあつて、サマをはつきりと發音しさへすれば、決して失禮でも下品な言葉でもなかつたのである。
 東北では岩手・秋田の二縣で、母をジャ/\といひもしくはジャッチャと謂ふ言葉が、是とよほどよく似通うて居る。是も樣を下に附けると他人の妻の尊稱になるのだが、家庭に於ては樣を附けずに、古風な行儀のよい家々でも成人までが之を使つて居る。もとは此語自身に尊敬の意が籠つて居たものと見ることが出來る。それをジョウロウからの變化だといふことは、まだ頭を傾ける人も多いであらうし、又その周圍に聽かれる父をチャン、又はチャー/\だのツァ/\だのといふ語と竝べて、何か他の起原が有るやうに考へられぬことも無いが、母が兒童の最初の話相手であつたことゝ、彼等の片言の常に承認せられ、又?踏襲せられて居ることを思ひ合せると、この程度の言ひかへが行はれたことも不思議では無い。それと同じ例は現に又、オカタをカヽといひカアサンといふ場合にも實驗し得られるのである。
 
(490)  人の名に樣を附けること
 
     一
 
 この近所のある農家のをばさんは、娘のころ久しく東京で働いて居て、町の言葉をよく覺え、それをよそ行きの言葉として、私たちとは話をするのだが、その話の中には時々こちらの者に、耳馴れない言葉づかひがまじる。たとへば東京では通例アオムキニ、又はアオヌケニなどゝいふところを、このをばさんは必ずアオノケサニと、サの音を中に挾まずには言はない。私はこれを聽いていろ/\考へて見たのだが、これはこの方が良いと思つて殘して居るので、癖になつてやめられないのでもなく、又今日の東京の言ひ方を知らぬためでもないといふことに氣がついた。ちよつとおもしろい話の種だと思ふからその話をして見る。
 アオノクは又アオヌクといふ人もある。もとはアフグ、もしくはアホグといひ、古い書物には大抵さう書いてあるのだが、少し發音のしにくい言葉だつたのと、別に扇でアホグなどゝいふ動詞もあつて、それと區別する必要があつたからだらうか。中世の武家時代より、口ではアオヌク又はアオノクといふ人が多くなつて來たのみならず、後にはだん/\他の言ひ方、たとへばウヘヲムクとかソラムクとかいふやうに、向くといふ語を使はうとする者ができて、それに伴なうていつとなく、アオヌクが又アオムクとも變つて來た。さうしてこのごろではそのアオムクも、もうあまり使はなくなつて居るのである。
(491) 皆さんもこれから氣をつけて居られるとよい。たとへばお醫者さんが診察のときに何と言はれるか。上を向いてねてごらんなさい。アオにおなりなさい又はアオムケになつて下さいなどゝいふのが普通で、たゞアオムクと言つては、腰を掛けたまんまで、首から上だけを後に曲げることになるのである。アオムケニとアオムクとは、よく似て居ても意味が大分ちがふ。さうして又そのアオムケニも、もとはアオムケサマニと言はないと通用しなかつた。サカとサカサマとちがふが如く、その中間にサの音を一つ入れなければ、背なかを下にして長く寢たことにはならぬのであつて、すなはちこの點はをばさんの言ふ方が正確なのである。
 
     二
 
 このサ又はサマといふ添へことばは、これからの日本語にとつても、大いに役に立つべき大切な單語である。始めは主として方角の意味に使はれて居たのが、後には追々とその用途をひろげ、何でも人のはたらきに伴なうて、現はれて來ることには皆さう言はうとする慣例が認められた。人の名に何々樣とサマをつけるやうになつたのも、その應用の一つの場合であつたらしいが、これがあまりに流行した結果、かへつてアオノケサニをアオノケニといふ風に、他のいろ/\のサマやサを、略してしまつたものが多いのである。
 しかし東京より外の土地に行けば、まだ以前のものが幾つも殘つて居る。たとへば何處へか行く途で、又は歸つて來る途中でといふことを、イキシナに又はカヘリシナにといふ言葉がある。このシナなども元はサマであつたことは、イキッチマ・カヘリシマといふ土地があり、又イニサマ・カヘリサマといふ言葉が、書いたものにはあるのを見てもわかる。東京で今も耳にするのはオモフサマさう言つてやつたなど、これも始めはオモヒサマであつたらうが、後々僅かばかり形をかへて、特別な力を強める意味に用ゐて居る。イカサマといふのも古くからの言葉で、後にはイカサマをするなどゝ、あやしいことをさすやうになつたが、元來は何と考へてもといふ心持だから同じサマである。
(492) 今日はドウモといふ語が流行し、このイカサマの代りをして居るが、これはもとドウモカウモと、二つ重ねて言はぬと役に立たぬ語てあつた。トニカクニやトモカクモが皆その類であつて、それも古いころには、
   我がかどをトサンカウサンねるをのこ
   よしこそあるらしよしこさるらしや
などゝ、やはりイカサマと同じに、下にサンを附けて使つて居た。ネルといふのはゆつくりとあるくことで、門の前をあつちへ行きこつちへ行き、何度も通る男がある、何か理由があるだらうといふ意味の歌なのである。あるひは東行西行雲漠々といふ漢詩の句を譯して、
   トサマニ行きカウサマニ行き云々
と讀んだといふ話も傳はつて居る。サマニは、つまり、その方角へといふことであつた。アオヌケサはたゞ首を上に向けたといふだけでなく、からだ全體が仰ぐ形になることなのだから、それをたゞアオヌケと言つたのでは當らない。是非ともサマを添へないとこちらのいふことが通じないと思ふのは、あの農家のをばさんの感じが、我々よりも鋭敏であつた證據である。
 
     三
 
 九州で生まれた人たちならば皆知つて居るだらう。人の名にサンを附けることは、ドンを附けるよりもずつと少なく、その代りにまだサマを方角の意味に使ふことは、九州地方が盛んである。たとへば東京で西の方へ、又は横濱の方へなどゝいふ「方」を、あちらではサマニ、もしくはサマヘといふ處が多く、それを早口にサメェと言ひ、又サネと言ふ者も少なくはない。サネはサメを又言ひかへたものであるか、あるひはサマニのつもりで言ふのか、私にはいづれとも決しかねるが、いづれにしてもこのサが方角のサマであるだけは疑はれない。土地によつてはサマニの代り(493)に、西ノヨウニ行く、横濱ノヨウニ行くといふのもあるが、そのノヨウニは多分サマを樣と書くことを知つた人々が、後にさう言ひかへる風習をはやらせたのであらう。あるひはこれを又西ノゴツ行く、港ノゴツ行くといふ風に言つて居る地方もあるが、ゴツは如くだから「樣に」とよく似て居る。カタとサマとは初めから二つの言葉で、心持にも若干のちがひがあつたのだらうが、方を漢音によつてホウエ・ホウニなどゝいふやうになつてから、この區別がはつきりとしなくなつた。さうして私たちは「如く」の意味に、ヨウニといふ言葉をしきりに使つて居る。九州南部でいふ方角のゴツなども、多分はこの「方」のカタともと同じ言葉なのであらう。
 サマを方角を示す語として使ふ習はしは、東北地方のものが有名で、どこサ行く、おらホサ來るなどゝ言へば、まづあちらの人ときまつて居るが、東京附近の田舍でも、それは決して珍しいことでない。
  京ニ筑紫ヘ阪東サ
といふ諺は、もう今から四百年も前に、すでに西洋人が珍しがつて本にも書いて居る。これは京都附近で、「どこそこニ」といふのを、西國ではヘと言ひ、東の國々ではサと言つて居るといふ意味なのだが、この言ひ傳へはたしかにまちがひであつた。近畿地方では近世になつて、サといふ語を使はぬことは事實だが、方角を示すにはニもヘも共に使ひ、その二つは心持が少しかはつて居る。關東・奧羽の人はサをよく用ゐるといふだけで、ニでもヘでも皆持つて居るし、九州の方でもこの通り、今もつてサを多く使つて居るのである。つまりはたゞ人の名にサマ・サン・サ等を附けるやうになつたために、日本全體としてなるだけ方角のサを少なくしようとして居るだけでないかと思ふ。
 
     四
 
 サマを人の敬稱として附けることは、いつから始まつたか、はつきりとしたことは言へないが、さうなつた理由だけはこれで大抵わかる。つまりこれもまた方角の語であつて、人をこの人あの人と指さしたり、又は見つめたりする(494)ことを失禮とした結果なのである。今日よく使ふアノカタコノカタの方、あるひはアナタといひソナタといつて、ただ方角をもつて人に呼び掛けるのも趣意はよく似て居る。足下といふのも足の下、御前といふのも相手の顔は見ずに、たゞその人の膝もとに對するといふことであつた。その御前といふ言葉一つでも、ゴゼンと漢字の音で呼べば、相當に高い地位の人に限り、オマヘといふ言葉なども土地によつて、えらいと思ふやうな人にしか使はぬことにして居る者もあつた。それがだん/\と使ひ過ぎて安つぽくなり、オメエなどゝ言はれると腹が立つやうになつて來たが、起りは單にその人の前を見るだけで、面と向つて目を見合はさぬことを、意味して居たことは皆同じである。
 今でも汽車や電車の中で、氣をつけて居るとよくわかるが、女でなくとも慎しみ深い人は、決して他人の顔をまつすぐに見ない。又さういふ風に見ることを、失禮だと思ふ者がまだ多いらしい。そのために日本人の一つの癖、いはゆる流し目にちらりと見る風が生じて來たのである。私は若いころからさうすることをあまり好まず、子どもや親しい人に對するやうに、なるだけ目を見合つて居ようとして居たのだが、そのためにひどく相手を怒らせたことも稀にはあつた。考へて見るとこれも理由のあることで、いくら柔らかな無害な目つきをして居ても、よく見ようとするとちよつと目がすわつて、互に話でもして居る場合でない限り、人に見られるといふ不安の感を抱かせるのである。何でそのやうに人の顔を見るかと、突掛つて來る人もあつた。實際又これを挑戰の一つの方式とする者も元はあつたのである。あるひはそれとは反對に、こちらが何の氣なしに目をとめても、相手の方ではもう見忘れて居る古い知合ひだつたかと思つて、帽子を取つたり物を言ひかけて來た人もあつたが、ともかくもやたらに人の顔をまじ/\と見ようとすることは、日本人としてはあまりよい作法でなかつたので、昔は一般にこれをしなかつたかと思はれる。人を呼ぶのに方角の言葉、サマといふ語を添へたのは、言つて見ればこの方角に居る人、自分の今向つて居る方角に居られる御方といふことで、それも以前は尊敬の程度によつて、目をやる所の距離がちがひ、殿下閣下などの差別もそれに基いて出來てゐる。サマはさういふ中でも、ことに中心から遠ざからうとした呼び方だつたらしく、最初は主とし(495)て女性の貴人をさしたのではないかと思ふが、これもあまり流行が過ぎると、平凡になり粗末になり、しまひにはなぜさういふのか、知らぬ人ばかりが多くなつて來るのである。
 
     五
 
 そんなら我々の祖先が、まだ人の名に樣をつけることを知らなかつたころ、どういふ風にして長上先輩に對する敬意を表して居たかといふことは、興味ある問題だが、實はまだはつきりとわかつて居ない。本にもその事はあまり書いてない。それを尋ねて見る一つの途は、今でもサマといふ言葉をあまり使はない地方の人々の間に、何か古い形のものが殘つては居ないかと、注意して行くことであらうと思ふ。氣がつくことはいろ/\あるが、以前は西洋人も同じやうに、同輩や友人などは大部分、呼びずてにしても失禮ではなかつたかと思ふ。次には少數の必ず尊敬の言葉をもつて呼ぶべき人たちには、それ/”\の言葉があつて他の人には使はなかつたから、その語を口にすればおのづから敬意が現はし得られたらしい。たとへば神をカミと言ひ、主人をトノと言ひ、祖母又は母をウバといふ類は、それ自身が尊い名だから、下にサマを附けなくても、そのまゝで敬ふことになつた。親をオヤといふのも同じ例で、これなどはウヤマウといふ言葉のもとであつたとも考へられる。
 次には名を言はずにたゞ方角の言葉を使ふこと、これも一つの敬稱であつた。今でも家々の母は父に對して、たゞアナタといふのが普通であるが、以前は父の方から母に對しても、ソナタとかコナタとかいつて呼んで居た。たゞ呼びずてにはしなかつたやうである。オマヘといふのも元來は妻に對する敬語であつた。それよりももつと廣く行はれたのはオカタといふ語であつて、これも主婦に向つてのうやまひの呼び方であつた。小さな子どもは父のこの語をまねて、やはり母をオカタと言つて居たらしい。それが子供だから正しくはまねられないで、オカともオカヽともなつてしまつたのである。大人やよその人までがそんな語を用ゐるやうになつて、何かあまりお粗末なやうにきこえ、(496)後々は更にその下にサマを添へて、オカアサマとかカヽサマとか言はせるやうになつたが、この變化は至つて新しいことであつたばかりか、オカタといふ言葉までが中世以前にはないことであつた。ハヽといふ言葉は古い書物にもあり、今でも上品な語として知られて居るが、これとカヽとは別々のものだつたと、私などは信じて居る。しかもそのハヽといふ言葉さへも、最初からのものとは見られないのは、國の上世の記録の中にも、母をオモといつた例が存する。オモは一方にはウバやアンマと近く、又一方にはオモウといふ言葉とも筋を引いて居るから、これをもつて母を呼びかけた心持はよくわかる。たゞわからぬのはハヽといふ言葉の起りと、どうしてこのやうな毎日の言葉が、最初からあるものを守つて居られないで、次々と改めて來たかといふ點だが、これも氣をつけて居ると今にさとることが出來るであらう。毎日の言葉だから古びやすく粗末になりやすく、又濫用せられる心配もあるので、かへつて時々は新しく美しく、又心の中の正しい感じに、ぴたりと合ふものに取りかへる必要があつたのかも知れぬと、私はさう思つて居る。
 
(497)  ボクとワタクシ
 
     一
 
 ボクといふ代名詞、人が自分のことをボクといふ日本の言葉は、今にきつと使ふ人が無くなるであらう。私はそれを豫言することが出來る。この毎日入用なボクといふ語が無くなつたあと、その代りにどんな言葉が生まれて來るだらうか。今から當てつこすることは、面白い試みでは無いかと思ふ。
 それをうまく言ひ當てる爲には、まづ言葉はどうして生まれるかを知らなければならない。ボクなども元は日本に全く無い言葉であつた。やはり近年になつて生まれた言葉なのである。誰が始めてボクなどゝ言ひ出したかといふことも、大よそはわかつて居る。多くの人たちが、よくも考へずにそれを眞似したので、この樣に弘くひろがつてしまつたのである。
 それ故に、日本に良い言葉を生まれさせようと思へば、少しづゝは皆が考へて見なければならない。ボクは本當はあまり良い言葉でなかつた。この國の言葉には、昔は濁音といふものが少なく、殊に最初の音を濁る言葉は、今でもさう多くはないのだが、其中でもバ行の音はあまり好まれて居なかつた。
 バビブベボの音を以て始まる言葉などは、よく氣をつけて御覽なさい。半分以上は有難くない言葉である。わざと惡い言葉を是でこしらへて、笑つて居る場合が幾らでも有る。
(498) 九州と四國の一部分では、前から別にボクといふ語が一つあつて、それが又ちつとも良くない言葉であつた。たとへば大分縣の南部から、宮崎鹿兒島の二縣にかけて、いけないといふ代りにボクぢやと謂ひ、しまつた失敗したといふ意味で、ボクしたとも謂つて居る。愛媛縣の山の方に寄つた村々でも、ボクといふ語が「だめ」と同じ心持に使はれて居る。さういふ土地の人たちは、自分のことをボクとはちよつと言ひにくかつたらうと思ふ。
 このボクは馬鹿といふ語と、もとは一つのものであつたらしい。ボクの代りにボッコといふ處も香川縣などには有つて、そこでは、
  ボッコに附ける藥が無い
とか、又は、
  ボッコと鋏は使ひやうで切れる
とかいふ樣な、ことわざも行はれて居る。京都大阪からさう遠くない地方でも、私たちが馬鹿な話とか、馬鹿に大きいといふ代りに、ボコイ又はボッコウなどゝいふ人が多い。その起りは雙方とも、中世のヲコといふ語だらうと僕は思つて居る。
 
     二
 
 どうして又こんなボクを、自分のことに使ふやうになつたかといふと、僕は元來が支那の語であつた。それを日本ではボクと聽えるやうに發音して居たのである。漢文を書く者は向うの人のすることを眞似て、古くからこの文字を自分といふ代りに、文章の中では用ゐて居た。さうしてその僕が使用人、即ち下男のことだといふことをよく知つて居た。相手を尊敬し我身をへり下つて、あなたの召使ひといふ意味に、自分をさう呼んで居たのである。目上でも何でも無い只の同輩に、この文字を使ふのは濫用であつた。
(499) どこの國でも、手紙には斯ういふやゝ空々しい敬語を使ふ習慣はあつたが、口でそんなことをいふ者はめつたに無い。實際に又口でボクといふときには、前には日本でも下男のことゝしか取られなかつたのである。しかし下男は僕であつたけれども、それには又別にシモベとかヲトコシとかいふ古い言葉があつて、僕と言はねばならぬ必要が無く、ちやうどあいて居たので近頃になつてから、之を自分といふ意味に使ふ者が出て來たのである。
 最初は主として書生といふ青年たち、すなはち漢籍を讀み漢文を書くことを習つた人々が、口でも僕などゝ言ひ始めたのであるが、それも始めは仲間どうしの、半ば戯れのやうな使ひ方であつた。それがいつしか癖になつて、母や姉妹にもボクを用ゐ、誰も變に思ふ者が無くなつて來た。さうして其書生の弟や子どもが先づ眞似をした。それが多くは良い家庭の人であつた故に、學校の中でも之を聽きなれて、さも/\良い言葉のやうに、みんなの耳に響くやうになつたのである。
 人の僕でも下男でも無い者が、自分をさう呼ぶのは卑屈な話のやうだけれども、眞似をした人の大多數は、言葉のもとの意味を知らなかつたのだから仕方がない。知つた時にはもう癖になつて居り、又ちよつと代りの言葉も見つからず、其上に誰でも皆ボクと謂つて居るので、まづ/\當分は此まゝにと、まだ改めずに居るのである。さうしていやだなと思ふ者が、少しづゝ多くなりかけても居る。何か代りの良い言葉が生まれさへすれば、今にも無くなつてしまふにきまつて居る。女にはこの男のボクに對して、ショウ(妾)といふ言葉が少しはやりかけたことがあつた。しかし此方はボクといふよりももつと感じが惡かつたと見えて、眞似をする者も少なく、弘まらぬうちにすたれてしまつて、今では忘れた人が多く、この分だけ女の兒には言葉が一つ足りなくなつて居る。
 
     三
 
 今でもボクといふ語を使はぬやうにして居る人は、女だけでは無く、他にもまだ幾らでもあるはずだが、さういふ(500)人たちは自分のことを何と言つて居るだらうか。是から氣をつけて居たら、段々おもしろいことが判つて來るにちがひない。
 オレ又はオラといふ者が、小さい人には少しづゝ多くなつて來るらしい。この二つは決してボクのやうに新しいもので無く、又まちがつた言ひ方とも言へない。今日知られて居る最も古い日本語では、ワといふのが自分のこと、文法でいふ一人稱の代名詞であつて、土地によつては今でもまだ使はれて居る。しかしワといふだけではあんまり短く、早口で物を言ふときには隣の語にくつゝいて、分らなくなつてしまひさうなので、是にレを添へてワレといふ言ひ方が始まつた。オレは確かにその發音の僅かな變化であり、オラはオレハであらうから、是などはまづ正しい日本の言葉といつてもよい。たゞ困つたことは久しい間、あんまり粗末にこの語を使つて居たので、何か失禮な物のいひ方であるやうに、感ずる人が多くなつて居るのである。
 それから又一つ、ワタクシといふ言葉が弘く行はれて居る。ボクだのオレだのと言ひたくない人は、今でもこの言葉を使はうとするが、是なども隨分古くからの日本語で、しかも上品な慎しみ深い言葉と認められて居た。缺點をいふならば少し長過ぎることで、その爲だけでは無いが人が之を短くして、ワタシだのワシだの、ワッチだのワチキだの、又アタイだのアテだのといふ者が多く、勢ひその用ゐ方が亂雜になつて居る。
 以前はワタクシは女言葉であつたかもしれない。今では男も使ふが女の人の方がやつぱり多く使ひ、何か男らしくないやうな感じをもつて、之を避けようとする者が少しは有る。其上に是はもと公けのオホヤケと相對する言葉であつて、私曲をワタクシ事といひ、私欲を圖ることをワタクシするなどゝいふ言葉がある爲に、社會へ出て働く人には、悦ばれないやうな傾きもある。惜しいものだがボクを罷めてしまつて、そつくり其代りをワタクシにすると、いふことまでは望めないやうに思ふ。
 ワタクシといふ語の起りは、ボクほどには明らかに知られて居らぬ。是に似よつた言葉は、まだ他には見つけられ(501)ない。しかし少なくともこのワタクシのワは、我のワから取つたものか、もしさうで無ければ我のワが前からある故に、覺えやすく又行はれやすかつたものと見てよからう。つまりは今日のボクなどゝはちがつて、至つて自然なる又親しみのある言葉の一つだつたのである。
 
     四
 
 それなのに日本人の多數は、もうよつぽど以前から、成るたけワタクシといふ語を使ふまいとして居た。たとへば親は子どもに向つて、どんな場合にも決して自分をワタクシとは言はない。年を取つた人は、總體にあまりこの語を使はぬ。又學校の友だちの間でも、互ひにワタクシとは言はぬ方が當りまへで、もしさう言つたら相手が妙な顔をする。もし同級の仲間にワタクシなどゝ言つて居たら、先生に向つていふ言葉が無くなるからであつた。
 よその國語にはあまり無いことらしいが、日本では自分なら自分といふ一つのことに、人により又立場によつて、幾つもの言葉が入用であつて、それを程よく使ひ分けなければならなかつた。ワタクシが目上に對して、最も丁寧な良い言葉であることを知る故に、却つて常の日には之を使はず、別に拙者だのミドモだの、又は夏目漱石さんの猫のやうに、吾輩は猫であるなどゝ謂つても居た。女にもワタクシを變形して、アタイだのワテだのといふ外に、更になほウチだのコチだのと、色々の言葉をふだんには使つて居る者が多かつた。
 ボクを少年が眞似し始めたのも、つまりは今までのものだけではまだ足らぬからで、其爲に古い言葉の方を棄てゝしまつたのでは無いが、一方にはさう幾つもの言葉を覺えて使ひ分けさせるのも、小さな者には無理だらうと考へるやうになつて、出來ることならば西洋の國語のやうに、一つで色々の場合に間に合ふ言葉を、見つけさせたいと思ふ人が多くなつて居たのである。あんまり感心せぬ言葉だつたけれども、ボクなどは新しいだけに、ちやうど其目的にはかなつて居た。親や先生やよその人に對してはいふに及ばず、毎日遊んで居る友だち仲間にも、時には小さな弟や(502)妹にも、ボクと謂つて居れば皆通用する。それが近頃になつてボクといふ言葉の、急にはやつて來た又一つの理由であつた。
 だから  愈々この語を罷めようとすると、又一つの新しい代名詞が考へ出されなければならない。古くから有るものは良いといふことがきまつても、もう一度出してはやらせることの出來ないわけは、是にはそれ/”\の持主のやうな者が出來て居て、其人と同じ立場でない人がそれを使ふと、すぐに誰見たいだと言つて笑はれ、こちらでも氣がとがめて使へないからである。だから新しく生まれて來るものを、待つ外は無いわけである。
 
     五
 
 言葉は最初から、さう狹い區域にしか用ゐられないものを、考へ出さうとしたのではないやうである。ワでもオレでも新しいうちはボクと同じに、まづ毎日の入用に應じ、それを目上にも又下にも、出來るだけ弘く使ふことにして居るのであるが、尊敬する人に對しては言葉を改めると稱して、常とちがつたいひ方をしなければ氣がすまぬやうになつて、段々と別な言葉を用意する風習が起り、それが人間の感じの細かくなるにつれて、更に幾通りにも言ひ分けることになつた。つまりは我々の國語を味はふ力の進みであつて、外からさうさせられたといふものでは無いやうである。
 この差別の立て方には、大體に二通りの形があつたらしい。其一つは、今までのものを成るべくは保存して置いて、別にやゝ粗末なふだん着のやうなものを、こしらへて使ふもので、たとへば御客が來ると其人にはワタクシといふ家でも、母は子に對してワタシと謂ひ、父はワシと謂ひ、小さな姉妹は互ひにワテといふのは珍しくない。アナタは良い言葉であり、もつと丁寧にいふときはアナタサマといふものだと知つて居ても、懇意な人だけには、大抵はアンタと謂ふことにして居る。
(503) 斯ういふのは元が一つだから、幾つに分れて居ても覺えやすく、又まちがひ無く使ひこなすことが出來るが、今一つの方は中々さうは行かない。是は言葉が古くなつて、少し馴れ/\しい感じが出來て來ると、そつくり其まゝ晴衣をふだん着におろすやうに、敬語から外へ出してしまふものである。たとへばオマヘはゴゼンといふのも同じで、もとは相手の人の眼を視ることも出來ず、たゞ其座席の前に目をつけるから、御前と謂つたのであつたが、今では東京などではオマヘと言はれると、同輩の人でも少し怒る。尊敬どころかやゝ輕蔑したときに、使ふ言葉にもうなつて居るからである。ところが九州の或地方に行くと、オマヘはまだ人をあがめた時にしか使はない。それを知らずにあの邊は言葉が惡いなどゝ、還つて來てさういふ人が折々有つた。汝をナといふ例は上代の記録に、ナセの君だのナガみことだのといふ歌言葉もあつて、貴人に對しても使つて居たのに、今では東北でも親が娘や子供に向つて、ンナといふだけになつて居り、東京などではウナ又はウヌと言ひかへて、人を叱る場合にしかもう用ゐて居ない。ボクといふ言葉も其例に近く、少年は誰に向つても自分をボクといふが、大きくなつた人は私たち老人に對して、めつたにボクと謂ふことは無く、却つて遠慮の無い目下の者に向つて、このボクを用ゐて居る。さうなるといよ/\僕といふ言葉が、全く理由の無いものになつてしまふので、どう考へても永く此まゝにして置くことは出來ないのである。
 
     六
 
 無意味な面白くもない言葉がたゞ符號のやうになつて、いつまでも殘つて居る例は決してボクばかりでは無い。代りにちやうど良いものが現はれて來ぬ以上は、毎日用のある言葉だから消えたくても消えられないのである。しかし何かの折に少しでも變つた新しい語がはやり出すと、人は待つて居ましたとばかり、すぐにそれを眞似ようとするであらう。斯ういふのが實際生まれやすい言葉といふものである。ボクの始めて日本に生まれたのも、それまで有つたものが皆どこかに缺點があり、又はあまりに種類が多く、早く新しいものが生まれて統一をしてくれるとよいがと、(504)人が待ちかねて居た所だつた爲かも知れない。さうして念入りに次のものゝ、良いか惡いかを判斷することが出來なかつたのかも知れない。そんな事をして居ては、言葉は段々に惡くなつて行くばかりである。
 父とか母とかいふ大切な言葉さへも、古來日本では何度と無く變化し、家により村によつて、色々のちがひがあつて統一が得られなかつた。それがしまひにはパヽだのマヽだのといふ外國の眞似にまでなつたのである。父が母を喚び、母が父に話しかけるときの言葉なども、全國は少しも一致せず、さうして皆何と言つたらよいかに迷つてゐる。日本の口言葉がこの通り亂雜になつたのは、いづれももとはあまりに考へ無しに、人の言ふことを眞似したからであつて、其爲に自分でも永く一つの言葉を守つて居ることが出來なくなつたのである。ボクに代つて出て來る此次の言葉なども、今から用意をして、あまり粗末なものは採用せぬやうにしなければならぬ。斯ういふ仕事は國家も命令せず、又先生も教へてはくれない。少年は自ら正しい選擇をして、未來の國語の美しさを作り出さなければならぬ。
 
(505)
 
 幼言葉分類の試み
 村莊閑話
 話の話
 單語の年齡と性質
 
(507)  幼言葉分類の試み
 
     一
 
 成人がもう起原を説明し得ないアトサンだのノウ/\だのといふ古い世の言葉が、家から外へ出ることも無い穉兒の間だけに、そこでも爰でも共通に殘つて居るといふことは、考へて見ると不思議な話であります。無論これは親たち兄姉が、知つて居て教へるからには違ひありませんが、彼等は何れかといふと教育者といふよりもよき理解者であつて小さい者の片言に對しては可なり寛大であります。よつぽどをかしなことを言つても、意味の取れるだけは其まゝ承認し、却つてこちらからそれを眞似たりして居ます。だから家限りその子供限りといふ新しい珍語も追々に出來て居るのであります。さういふ中に於て或少數の單語のみが、古くから傳はり又弘く日本の南北に分布して居るとしますれば、それはよく/\教へ易い又覺え易い語だつたと思はねばなりません。それ故にこそ又今後の幼兒教育の爲に、貴重なる參考となるのであります。同じく幼兒の第一期の用語の中でも、古くよりあるものと近頃始まつたものと、なほ出來ることならば其中間に發生したものとを、三つか二つかに分けて置く必要があるのは此爲で、其新舊を見分けることも、馴れゝばさほど難事ではない樣に、自分などは思つて居るのであります。
 たとへば水は子供の飲みたがるものですが、それを千葉縣ではマンマ又はマンマー、群馬縣東部ではマヽ、信州北部ではマー、越後の中魚沼ではウモー、山形縣莊内ではウモ、遠く離れて熊本縣球磨郡でもモンモです。是だけの一(508)致があると、もはや新しい發案とは見られぬのみならず、上古にも水をモヒと謂つて居た例はあります。或は子供の方が前かも知れませんが、兎に角に今までそれが傳はつて居たのであります。さうしてオブウも亦其變化だつたらしいのです。母を幼兒がウンマイ、ウマヤイ又はウメア等と呼ぶことは、さう弘くはありませんが、伊豆半島と佐渡島と山形縣あたりとには確かにあります。お乳はうまいからなどゝいふのは當て推量で、現在は乳母だけを意味するウバといふ語が、曾て一般に目上の女性の總稱であつた時代から、傳はつて只少し變形して居るのだと思ひます。同じ名殘は成人の間にも母をアッパと謂ひ又アンマと謂ふ風になつて、今でも方々に認められます。
 
     二
 
 是が今一段と後の世に生まれたものになると、斯ういふ弘い區域の一致を見られません。たとへばオンブ即ち負はれることを意味する幼兒語は、たしか東北にはマカ/\といふ處がありました。或は外に出ることをマカルと謂つた動詞から、作られたものではないかと思ひます。近畿とその四周の田舍ではタヽスルと謂ひました。今日の負ひ帶を、元はタツナともタンナとも謂つた所から、それに基いて小さい者がいひ始めたものかと思ひます。しかし九州の北部や壹岐島で、之をカイ/\と謂はせて居るなどは、まだどうしても理由が解りません。さうして捜したらまだ色々と變つたのが出て來ると思ひますが、是等は或は子を負ふといふ風が、遲く流行し始めた故に、地方毎に區々の名が生まれたのかも知れません。
 もつと成立ちのはつきりして居るのは、舟を意味する幼言葉であります。皆樣が集めて見られたら面白からうと思ひますが、同じ海沿ひの土地でも、肥前平戸の兒は舟をヨイヤと謂ひ、壹岐では又エイヤカッポ、東の方へ來ると伊豆などはエンヤであります。勿論舟を濱へ引揚げる時の掛聲を、先づ子供が覺えて居て名にしたので、是が當節の發動機船になると、愈土地毎に異なる名が出來て居ることは、既に新語論といふ書にも述べて置きました。是とよく(509)似て居るのは家畜の幼兒語であります。關東ではトウト又はトヽと謂ふのは鷄のことですが、中國以西に於てはそれは小狗を意味して居り、更に又我々がえのころ草といふ草をも、トウトコといふ地方があります。エノコロは既に成人の語になつて居ますが、多分は幼兒の間に始まつたものと思ひます。茨城縣の南部などでは、犬の子を單にコロと謂ひ、且つコロ/\/\と謂つて小犬を喚びます。靜岡附近の子供はガンガ、阿波の祖谷山などではコウコ、何れも仔犬を意味し、又之を喚ぶ言葉でもあります。洋犬をカメと謂つたと同樣に、來れといふ語の變形にちがひありません。然るに此コロ/\が石見銀山邊に行くと、鷄のことになつて居ります。さうして對馬でも鷄をコロ/\と謂つて喚ぶさうであります。トウ/\は人が「とり」といふ語の片言のやうにも思つて居ますが、實は「疾う/\」であつて、やはり早く來れの意味であつたのです。東京あたりの幼童が、魚の肉をトヽといふのを見ても、それがわかります。この魚の方のオトヽは、中國地方にはハヨと謂つて居る處もありまして、つまりは口を開けて、早う/\といふのから出來た名であります。それを二歳か三歳の緑兒が、古風にとう/\などゝ謂つた時代もあるらしいのであります。
 
     三
 
 今まで誰も氣をつけて見ようとした人はありませんでしたが、幼言葉の中には此樣にも多くの時代を含んで居たのであります。古いと知つて大切にして居る人は無いのですから、年數がたつ程消滅するものが多いわけであります。それにも拘はらず尚活き/\として殘つて居るのを見ますと、何かよつぽど強い生活力が、その單語自身に具はつて居るのであります。それを注意して見ることが、末々このいはけない日本人に、初歩の國語を教へる方たちの、大きな參考となることは疑ひがありません。大體に稚兒の發音能力で取りまかなふことの出來る音のうち、殊に音と音との堺目がはつきりとして居て、言はうとする通りに言ひ得るものが、採用せられ易く從つて又保存せられ易いことは言ふ迄もありますまい。子供が人の語音を聽き分ける力は、我々の想像以上に鋭敏なものであることは、次の條にも(510)説くつもりでありますが、彼等は笑はれなくとも、自分の片言をよく意識して居るらしいのであります。たゞどうしてもサ行をタ行に、又は R 子音を Y 音にしか出すことが出來ない故に、出來るだけさういふ言葉を避けようとするのです。だから一人々々の兒の逸話としては、隨分面白い片言が記憶せられて居ますが、それが其まゝ地方の幼言葉として永く傳はつては居りません。後に新たに附け加はつたものを見ても、どれも皆言ひやすい、聽いて快く理解の出來る單語ばかりです。教へる人にそれ迄の用意は無くとも、澤山の數を比べて見て行くうちには、自然の選擇の方向は彼等自身の要望を示して居るのであります。觀察採集と分類とは、此爲に必要であります。
 牛は何と鳴くといふ質問は、幼兒の最初に受ける一つの試驗で、是にはモウと答へて及第する子が多く、そこで又此動物の名もきまるのですが、大人は理窟つぼいから其次に馬はと問ひますが、この方はずつと六つかしくて、教へてやつても中々言ひません。馬がさう頻々と牛のやうには鳴かぬ爲もありませうが、ヒヽンでもヒン/\でも實は發音が簡明で無いのです。それで又馬の幼兒語は、鳴聲からは出來て居りません。却つてマといふ標準語が早く用ゐられます。關西の方では牛も馬も、後から追ふ者がバアと謂つて呼び止める故に、馬をバアバといふ幼兒語が弘く行はれて居ます。東日本は一般にドウ/\ですが、福島縣だけは馬をワアワといふ語が行はれて居ます。乃ち以前は此地方でもバアに近いワアを以て馬を止めたので、其方が言ひやすく聽かせよいから、選擇によつて永く殘つたのであります。お風呂に子供を入れる風は、近世に入つて盛んになつたと思ひますが、之を意味する幼兒語は、ダヽ・ダンダ・タンタ・ブタ/\・バヤ/\等、土地毎に色々の新語があつてまだ容易に優劣がきまりません。着物の幼言葉なども、案外にまち/\であります。北陸はバア又はバ、會澤はカッカ、秋田附近はガカもしくはバヽで、外南部に行くとポッポです。ベヽといふ語なども地方では別の用途があつて、到底全日本の赤ん坊を統制し得ようとは思はれません。愛知縣には好い着物をオヽノベヽといふ語が出來て居ます。是などは印象も強く、稚兒には覺えやすさうな語ですから、その分は永く殘ることゝ思ひます。斯ういふ新しい例もなほ澤山に集めて見たいものであります。
 
(511)     四
 
 私たちの幼言葉と申して居るものが、ちやうど兒童の小學校に入る頃を區切りにして、そこまで一續きに繋がつて居るものだと、この間題はごく簡單でよいのですが、實際は始めにも述べたやうに、中途に一段の可なり著しい變り目があるのです。大事に育てられる一人子などならば四つ五つ、竝の貧しい家では丸二歳にもなるかならぬかの頃に、今まで相手をしてくれた成人の手を離れ、外へ出て遊ぶ樣になつて、忽然として彼等の言語生活が改まります。後々の兵營でも工場でも見られぬ樣な、思ひ切つた舊習破壞が始まるのであります。私はこの前の方を稚兒語、次を小兒語とでも分けて置きたいと思つて居ますが、その小兒の方の言語は、實は入學以後の數年間、開けない村では殆と全期間も、學校の廊下や運動場、往復の途上を支配して居るのであります。此時代の大きな特徴は自治でありました。一語一表現毎に親姉などの承認を經て、支援せられて居たのとは正反對に、仲間限りできめた語がどし/\と成長し、近頃は殊に變り方が烈しいのであります。新米の加入者は、如何なる國語教育にも見られぬほどの熱意を以て、之を修得し又追隨しようとします故、前期の幼言葉の如きは忘れてしまはぬまでも、極端に無視せられ輕蔑せられるのであります。さうして今まで調べて見ようとした人も少ないやうですが、この所謂小兒語の進路にも、やはり我々の參考とすべき若干の法則が行はれて居て、決して外見のやうに亂雜なもので無かつたかと思はれます。
 最初に我々の先づ驚歎しますのは、斯んな小さな人々の具へて居る修得力ともいふべきものであります。漸く歩き出したばかりの兒が、外へ出て遊びはじめると程も無く、全然今までとは別系統の物言ひを、毎日の樣に覺えて來てそれを使つて見ようとします。仲間に外れまいとする社會的の動機が暗々裡に之を強ひて居ることは無論ですが、なほ其以外に隱れたる一種の下準備がありました。稚兒の言語能力は、通例その表現の側からのみ試驗せられて、未熟な不完全極まるものと、見下げ又容赦せられて居ますけれども、實際は彼等のもつ言語知識は、それよりもずつと大(512)きかつたのであります。
 耳で聽くと言はんよりも、寧ろ感じるといふ方が當つて居ます。物をいふ相手の眼の色や顔つきや擧動を綜合して、語音の個々の目途を聽き分ける技能は、或は怜悧な家畜などゝも共通かも知れませんが、兎に角に普通の成人よりは遙かに優れて居るかと思はれます。赤ん坊が聲を掛けられて高笑ひするなども、その一つの現はれであります。養育者は經驗によつて彼等の理解する力を見はからひ、次々に色々の言葉を聽かせて居ります。是だけは口が働くやうになつても多くの稚兒が自分では言はうとしません。
 又もと/\耳の爲の幼言葉ですから、子どもが其通りを言ひ得るか否かを、初めから考へてはかゝらなかつたのであります。しかも數多くのものを聽いて行くうちに、追々に稚兒は注意深くなり、又聽き上手にもなつて、第二期の言語生活に入つても、少しも困らずにすむやうに準備せられますのは、人の發明した方法でなく寧ろ自然が兼て巧んだ所の、感謝すべき生理かと思ひます。
 
     五
 
 それ故に私たちは、この第一段の幼言葉と、次の小兒の用語との中間に、又もう一つの欄を設けて、兩者の橋架けとして役立つて居る、耳言葉ともいふべきものを集めて見なければならぬのであります。東京の緑兒たちのよく知つて居る、イヤ/\などは其初級のものであります。其語の意味を學んだわけでもないでせうが、是を聽くと首を振つて見せます。カンブリ/\といふ土地もあれば、奧州氣仙の海岸地方ではハチ/\とも謂ひます。カイグリ/\はやや手の込んだ技藝で、うまく遣る兒は少ないのですが、意味だけは解して試みようとします。新潟・福島の二縣では「輪くゞり」と是を言ひ、何れにしても小さい聽き手には不通な命名法であります。トットノメも其類ですが、指を一つ出して片方の掌を指す動作は、存外稚兒の興味を惹きます。米澤地方では是をネヽヅ、又はネヽヅボと謂つて居(513)りますが、其理由は私にも判りません。越後の糸魚川邊で、タンポ/\と謂ふのは他ではまだ例を知りません。左の臂を曲げて右の手で打つ眞似をするやゝ複雜な動作を誘ふもので、袂々の義といふのは使用者までが忘れて居るので、實は鼓を打つ眞似らしいのであります。
 それから更に進んでアバ/\とか、前に掲げたメンタイの如きも、若干修身の教育を含んだ學課で、親は子供にもさう言はせようとしますが、是もやはり理解はしても、口では大抵は言はうとせぬ語であります。祖父母が抱きかゝへて外まはりをあるいたり、遊ばせ唄をうたつて聽かせたりする頃になりますと、この系列の語が、段々と複雜高尚になつて來ます。
 單にいゝ兒といふ代りにオタカラマンチンと謂つて悦ばせたり、痛いといつて泣く時にチヽンプイ/\とか、ピンポンパチンとかいふ呪ひの樣な語を聽かせたり、又はギッコマンマだのシヽカヽモッカヽだのといふ節の附いた唱へ音を以て子供を運動させて、間拍子といふものを教へようとしたりします。それが今一段に發逢して、可なり大きくなつてまで、兒童と成人の連鎖となつて居る語も色々あります。今日全國に數十の異名をもつて居る肩車なども其一つであります。
 是と併行して又他の一方に、子供の心に或一つの考へ又は感じを、植ゑ附けようとして居る專用の語が幾つかあります。
 是も勿論聽く言葉で、自分で口にする兒は都會でも稀にしかありません。
 東北でメンコ・メゴコ、關東でカンゾッコ、伊賀近江のオモゴ、九州の一部でオメゴなどは、何れも我々のいふイイコに該當し、之を聽くと悦び又少々の腕白は中止します。元は思はず親の口から出た語かも知れませんが、後々は計畫を以て使はれるのです。是と反對に餘り滿足しないといふ態度を、表示するものも色々あります。必ずしも當人に向つて言はずとも、脇の人どうしでカメッコだのキメッコだのと批評して居ても、子供は自分のことをいふのだか(514)ら可なり注意して之を聽き、長者も亦大抵は聽かせるつもりで言ふのであります。兒童のたちにもよりますが、斯うして間接に教へ込まれ、又は其つもりは無くて、うつかり教へてしまふ言葉の分量は、相應に多いのを例として居ります。それを彼等が口にしないから、知らずに居るものと思ふやうな親は少ないのであります。
 しかし寂しい家庭などでは、或は寂しい餘りに獨り言か何かのつもりで、つい不必要な又は有害なことまで、早期に知らせるといふ弊はあるかと思ひますが、よくしたもので兒童は自分と交渉の無いことは案外氣にもとめず、又程無く忘れてしまふやうであります。
 國語の教育を學校の門や土手で區劃しようとしない人ならば、この效果の多い初期の學習がどんな方式で、又どの樣な選擇の下に行はれて居るかを、溯つて考へて見ずには居られぬことゝ思ひます。
 それで私どもは所謂稚兒と小兒との堺目の前後に、爰で列擧して見た以外にも、まだ大よそどの位の言葉が、彼等の頭に沁み込まうとしつゝあるかを、一類として調査蒐集して見たいのであります。
 
(515)  村莊閑話
 
 前年、鹿兒島縣の女子師範學校長を訪ねて、あそこの附屬小學の生徒たちの言葉の樣子を詳しく承はつたことがある。先づ第一には教室内の兒童の物言ひと、家庭に還つて使ふ語とが、二通り全然別のものだといふこと、これは自分なども兼々聞いて居たことであるが、校長の話では尚その以外に、更に第三の運動場用語とも名づくべき、二者中間のものが出來て居るといふことであつた。これは我々に取つて可なり興味ある事實で、つまりは永年の國語統一運動に或程度までの實績があつたことを意味し、それが必ずしも反自然の、無理な計畫では無かつたことを證明するのである。兒童が群と共に學び知つた言葉には、相應に價値の大きなものがあつて、時としては一旦家で教へられた古い表現法を棄てゝ、知らず識らず新しいものに移らせるだけの力さへもつて居た。たゞその印象には著しい厚薄があつて、もし彼等に自由を與へると、豫定の全矯正案の一部は採擇し、他の一部はこれを拒絶し、もしくは冷淡に受け流したので、その結果が斯ういふ少し滑稽なる、混成語を作り上げたものと思はれる。
 學校の廊下や運動場だけでといふと、何だか非常に制限せられたものゝ樣な感じを與へるが、これが實際は最も自然なる國語成長の姿であり、從うてまた志有る者の努めて觀察しなければならぬ言語現象であつたのである。今ほど熱心な又組織立つた計畫は無いまでも、以前も所謂よい言葉で、惡い言葉を改めさせようといふ運動は有つた筈である。方言は言はゞその運動の、各地區々なる效果とも見られる。しかもこれと同時に他の一方には、それを妨げ又は防がうとする、反對の力も昔から存し、且つ現在まで續いて居る。さうしてその力は土地によつて、今でも相應に強(516)い處もあつた。ごく最近はどう變つたか知らぬが、鹿兒島は町のまん中の新しい家庭でも、尚子供たちが學校で覺えて來た言葉を使ふのを、聽いてをかしがる母や祖母が多かつたさうである。古風な老人にはこれを制止し、もしくは訂正しようとする者さへ有つたといふ。全體にマトロンが子女の教育に、大きな力を有する地方である上に、更に古來の文化中心だといふ誇りが、この舊御城下の家々にはあつたのである。だから、幾ら學校の標準語教育が普及しても、尚常人が常の日の會話を、土地の言葉でする習慣を滅ぼすことは出來ない。多くの家庭間には別に又一種の適當なる彼等の言葉があるからである。斯ういふ第二の力が少しでもまだ認められて居る場合、結局我々の國語はどう變化して行くことであらうか。これは、實驗の問題であり又は事實であつて、單なる少數理論家の抱負とか主張とかの、正しいか否かの問題では無いやうに私は思ふ。知るといふことが論ずるといふことに先だゝねばならぬ理由も爰に在る。一つの號令を以て、右に向け左に向け得る如く信じて居る人が、觀察を粗末にしてくれることが一番に自分等は困る。
 私は斯ういふ一つの經驗をもつて居る。以前大學の同級生に、兒玉といふ鹿兒島出身の青年があつた。珍しい才子で、見た所も東京人の通りであり、國から來たばかりなのに、言葉は殆と純然たる東京語を話して居た。稀に感動の語などに薩摩の音が認められるが、調子は遙かに千葉・茨城の學生よりはよかつた。それが或時私に向つて、一つ鹿兒島辯を聽かせて遺らうかと謂つた。今向ふから來るのが、神崎といふ有名な道樂者だ。あれはもう二十年も東京に出て居るのだが、今でも國の者には國の言葉で話をするのだと謂つて、にこ/\と近よつて別の語で物を言ひかけた。さうすると果して彼は、からだの屈曲まで薩摩風にして、元氣よく所謂ニセ衆の會話を交換し、忽然として私の耳をまだ見ぬ南國の昔の世の中へ誘ひ入れてくれた。この時のエサツの一部分は今でも記憶して居るが、無論一語として解説無しに、我々に通ずる言葉は無かつたのである。この時始めて知つたのは鹿兒島縣の人たちは同時に二通りの日(517)本語を覺えて居るといふことであつた。二つ引出しを異にして一揃への言葉をしまひ込み、入用に臨んでどちらからでも、まじりの無いものを出して使へるといふことであつた。これがまじりの無いものだとは斷定し得ないが、少なくとも日本人及び聽く者にはさう信じられて居る。これが中國東部などで生まれた私たちには、絶對に出來ない藝術であつたのである。
 私たちの標準語化は單なる浸潤に過ぎない。一通り他處の言葉に化したと思ふ頃に、或は故郷に還り又は竹馬の友と逢うて、何とかして郷談を試みたいと念ずることがあつても、それは唯幾分か餘分に古い單語が挿入せられるといふだけで、それすら眞似のやうに又はたゞ耳立つてしか響かないのである。郷里自身が總體に、よほど又此方へ近くなつて居る。たま/\覺えで居る私などの幼時の物言ひには、?相手にさへ通じない方言がある。それで居て自由に話をしようとすると、國を出てから四十五年にもなるが、尚容易に郷里が露はれるのである。我々の日本語は要するに鹿兒島の小學校の、廊下乃至は運動場の用語に過ぎなかつたのである。
 
 この方言の推移には、無論地方によつて濃淡の差があるが、その中でも名古屋などは、特に著しい變り方のやうに思はれる。自分等の寄宿舍時代には、最も異色に富んだ國の言葉を、丸出しに使つたのは愛知縣の學生であつた。これは理由のあることで、彼等には二種を使ひ分ける練習が無いと共に、又その言葉はかはつて居るといふのみで、九州奧羽の端の言葉のやうに、聽く者に判らぬだらうといふ斟酌が少しも無い。その上に名古屋の語ならば我地方の標準語だといふ、永年の自信も無意識に働いて居たらしいのである。これでも地元の人が聽いたら純で無いと謂つたかも知れぬが、私等にはいと安心げに、持つて生まれためい/\の國言葉を、使つて居るとしか聞えなかつた。少なくとも他の一二の地方の青年のやうに、強ひて郷土の特徴を保持しようといふ、努力の痕は無かつたのである。或は言葉の相異といふことに、さう大きな注意を拂つて居なかつたと言へるかも知れない。兎に角に斯ういふ人たちの言葉(518)は、改まる段になると存外早く改まつた。さうして追々にそれを持つて還るものと見えて、曾てはあれ程耳立つた名古屋辯が、今では郷里に居る學生の口からでも、あまり鮮明には聽き出せなくなつて居るのである。所謂方言矯正の教育の是がもし效果であるならば、たしかに感歎に値し又手本にしてもよいのだが、奈何せん事情は土地毎に一樣で無かつた。或地は力を用ゐずして忽ち改まり、或部分は骨折つても尚元のまゝであつた。どうしてさうなのかは別に考へて見る必要があるのである。
 
 私の書齋の窓の外の通りは、以前此地がまだ薪林であつた頃から、林の中の小徑である故に、今でも村から出て來る人たちは、何と無く此筋をあるく者が多い。私は過去七年半の間、獨りで居る時はいつも外を行く者の言葉に耳を傾けようとして居たのであるが、それが近頃ではもう興味の無いものになつてしまつた。始めて此住宅地へ移つて來た時に比べると、人通りは先づ十倍になつて、村の方言は二十分の一以下にも減少した樣に感ずる。第一に大きな聲で物を言ひながらあるく人が少なく、更に都市風の平凡なる辭令ばかり多く、人が聽いて居るといふ意識が、既に一般に行渡つて居るらしく、たま/\異樣の語調を耳にするのは、親や祖父母に連れられた小兒か、さうで無ければ全く別の田舍から、突然入込んだ者の昂奮した會話だけである。世間普通の表面採集家であつたならば、或はもう喜多見村の方言は、東京と同じと報告してすまして居たかも知れない。
 實際又是を所謂匡正運動の、完成と解しても決して誤つては居ない。たゞ私たちの如く最も日常的な、少しも用意の無い村内の口語を以て、國語の本體と解して居る者には、今でもまだ尋ねたら尋ねられる此地の言葉が、有るだらうと思ふだけである。玉川一帶の村方には、娘を奉公に出す風が行渡つて居る。どんな惡いきものを着て畠に出て居る女でも、二年か三年かは必ず町の家庭に居たのだから、私等がもし物でも尋ねれば、大抵は皆正確な東京語で應へてくれる。男も色々の用で常に町へ入つて居る。言ふのは土語がまじるが、こちらの言葉はニュアンスまでもよく理(519)解する。是が僅かの實習を積めば、都人と判別のつかぬやうになるのも當然である。しかし是だけの事實によつて、此地の方言が消滅したものと、推定することだけは早計である。斯ういふ人々が家に戻つて、何等の心置きなく話をして居る際に、使つて居る言葉は別なものがあるので、その基礎語とも名づくべきものが、どれだけ變つて行くかといふことが問題になるのである。それを實驗する機會は私たちにも少ない。手帖や何かで採らうとすることは殊に六つかしい。
 其中でも小兒は比較的物耻ぢをしないから、そばへ近よつても急に言葉を換へようとはせぬ。時には片言もまじつて居らうが、先づ彼等から間接に家庭語が窺はれる。學校の教科書に出て居らぬ物の名、先生の前では使ふ折の無いあくたれ口などは、今でもさう以前と違つては居ないやうである。それから今一つは路ばたや電車の中で、不意に久しぶりに知人と逢つた場合などは、思はず聲が高くなり又彼等同志の語が出て來る。それも少しく落着き又傍に聽いて居る人が有ると氣づくと、言葉少なにもなれば又所謂よそ行きの語も使ふが、標準語には對譯の無いやうな、種々なる感情の交換をまだ彼等は必要として居る。斯ういふ部分が恐らくは尚暫らくは續くのであらう。それを罷めるとすると生活の機能の、或一部が閉鎖せられることになるからである。
 一例を擧げると、東京のネエアナタに相當するナーヨである。此語の使用區域は玉川を越え境川を越えて、遠く相模の平原に及んで居る。高座中郡の海岸までは確かに出て居るが、西と東との堺線は定かでない。少なくとも甲州では既に絶え、又大都の東側に行くと、もうネーエに代つて居るやうである。我邦の口語の歴史の中で、最も起原の究め難い一語法は、特に此區域に於て一つの異例を示して居り、しかも如何なる新鋭の文化も、まだ其必要を終熄せしめることが出來ないのである。是を使はずに人を交際させようとすると、?にもなるまいがよほど印象の微弱な人となることを免れないかと思ふ。ナモシ・ノンシやナス・ネシも同じことだが、是は相手の注意を惹くといふよりも、相手が聽いて居るか否かを確かめる語であつて、愛想のよい人ならば必ず之を聽いて受返事をする。言ひ手は又それ(520)に力づいて、もつと話を進めて行かうとするので、文法の學問では何といふ部類に屬するかは知らず、是が無くては到底人と共に活きることが出來ないほど、大切な日用語であつて、それはまだ方言に屬して居る。同じ種類の表現法は、算へればまだ他にもあるか知らぬが、少なくとも一を以て他にさしかへるといふことは、此方面に於ては可なり苦しい試練らしい。言葉を直すといふことは活き方をも改めることになるからである。家でよそ行きの言葉を始終使つて居られる樣な平穩無事な生活は萬人には望まれない。與へられたる標準語には心の隈々までを、すべてまかなふだけの語彙句法の準備が無いとすると、將來の地方語は結局は隱語か暗號の如くなつて、いつ迄も學者の研究の外に、あぢきなき存在を續けるかも知れない。それを免れんとすれば觀察の方法を變へる必要がある。いつ迄も書齋の窓の外を、通つて行く言葉ばかりを追うては居られぬと思つて居る。
 
(521)  話の話
 
 文章を書くことを、今でも學校ではツヾリ方といつて居るらしいが、あれはこの際一つ、やめてしまつてはどうだらうか。第一にツヾルといふ言葉は、日本ではもう使ふ人が少なく、子供などには意味を知らぬ者が多い。綴といふ漢字もおぼえにくいが、これに又二つのよみ方があつて、本や帳面のときにはトヂルといつて居る。トヂルもツヾルも元は一つの言葉で、離れ/”\のものを絲か何かで繋ぎ合せることをさういつて居たのだけれども、この頃はどういふわけでか、めつたには用ゐられず、たまに豆や小豆に蟲が附いて、絲を引くやうになるのをツヾルといふ位なものである。そんなわからぬ言葉を、知らずに使つて居ることはよくない。
 西洋では二つ以上の字を繋ぎ合せないと、一つの音も出せないやうな場合が多い。その爲に英語でスペルなどゝいふ名が起つたのだが、スペルはたゞ文章の取掛りといふまでゝ、文を作ることそのものでは無い。外國の眞似のしかたが、始めからまちがつて居るのである。
 そんなら是を罷めて、何と呼ぶことにしたらよいか。サクブンといふのは漢語だけれども、日本人も久しく使つて居る。作文といふ文字がやさしいばかりか、耳で聽いてもわかるから、今ならばサクブンといつて少しも差支へがない。しかしそれよりも便利なのは、書き方といふにこしたことは無い。書き方は今までは習字、すなはちオテナラヒの名になつて居るやうだが、是なども本たうは改めた方がよいのであつた。カクといふ言葉を、字と文章との兩方に使ふことは、よその國でも決して珍しくないが、殊に日本では手紙をカク、小説をカクなどゝ、文章の方に主として(522)用ゐて居て、あの人はカクのがすきだといへばこの方の意味になり、ショとか字をカクとか言はないと、學校でいふ「書き方」にはならない。だから是非とも殘して置きたければ、字の書き方といはねばならぬ。テナラヒといふ良い言葉が有るのだから、それをもう一度出して使ふのもいゝかと思ふ。さうすれば少しは是から、手習ひが役に立つやうになるであらう。今のまんまの書き方では、學課もその名前も、兩方ともむだなやうな氣がする。
 
     ○
 
 ぢい樣ばあ樣の時代までは、この手習ひが文字教育、文字を使つて與へる國語教育の全部であつた。それが今いふ書き方のやうな、ちつぽけなものでなかつたことは當り前である。多くの少年少女たちは、たゞ大人の如くうまく速く達者に、字が書けるやうにと思つて手習ひに精を出したのでは無い。今までに聽いてもう知つて居る日本の言葉が、字に書けばどんな字を以て、書き現はされて居るかを知らうとして、何べんでもそのお手本を讀み、又は讀まなくとも段々に覺えて行つたのである。毎日の生活に入用な言葉、數字と方角と十干十二支などを始めとし、土地に住んで居る男女の名前に毎度出て來る字を名頭《ながしら》といひ、周圍の村と部落の名を示すものを村蓋しといつて、この二つを次に教へられた。それから順々に職業用語や旅行地名、人が世渡りの爲に使ふべき道コ人情、その他物の道理を述べるときに、入用な言葉の書き方を覺えて行つたのである。さういふ言葉の中には、自分ではまだ口にしたことは無くとも、耳で何度も聽いてよく知つて居るものが大部分であつたが、たま/\自分だけは忘れて居たり、又は丸々聽いたことの無かつたりする言葉がまじつて居ても、みんなと一しよだからすぐに覺えてしまひ、後々はその言葉を考へ、又は字に書くことが出來るやうになる。さうして是だけの字をもとにして、もつと新しい本が讀んで見たいといふ者が、少しづゝは生まれて來るのであつたが、それは素より今日普通教育といふものゝ外であつた。
 
(523)     ○
 
 一方には今いふ綴り方、私などの是から書き方と呼ぶことにしたいと思ふものも、昔の子供は教へてもらふことが出來なかつた。たゞ何十囘といふことも無く、同じ文字を手習ひしでゐるうちに、自然にその字と親しくなつて、すこし働きのある子供だけが、之を使つて自分の言葉を、文字にして人に見せることが出來ただけである。しかし自分の思ふ言葉、言はうとする言葉は中々數が多い。それをことごとく字で書けるやうに、覺えて居るといふことは容易でない。今なら知らない字はカナで書いてもかまはぬのだが、以前は男だけは男文字といつて、漢字ばかりを竝べて書かないと、女みたいだと笑はれた故に、候文といふ一種の文章、形は漢文のやうであの國の人にもわからず、又此頃の子供にも讀めないといふ變なものが、日本に行はれたのであつた。カナを自由に使ひ、口でいふ通りに書けばわかりやすく、第一自分にも樂なのだが、日本人は少し普通でないことをするとすぐ笑ひ、又笑はれることを非常にきらつたので、いつまでも自由に言ひたいことを文に作ることが困難であつた。つまり今日の言葉でいふツヾリ方の教育が、昔は非常に不完全だつたのである。この結果として、面白くないことが少なくとも三つはある。その一つは成るたけ書かずにしまはうといふ人が多くなつたこと、第二には、書くときはいつも人の書いたものをまねて、をかしなきまり文句ばかりが多くなり、文章がそら/”\しいものになつてしまつたこと、更に第三には、たま/\一人か二人の達者に書く者があると、たちまち降參してその人の書いたものを、よくも考へずに頭から感心してしまふことである。この三つの弊害は癖になつて、こまつたことには今でもまだ續いて居る。
 
     ○
 
 新しい國語教育では、出來るだけ教へる漢字の數を少なくし、讀本の中でもさう色々の六つかしい字を、覺えなく(524)ともよいやうにした。よく出來る兒童には少し物足りないかも知れぬが、大抵の生徒は是で非常に助かつて居る。言ふまでも無いことだが、是は少しでも、私たちの使ふ日本語の數を、制限しようといふ意味ではない。今でも日本の言葉は少な過ぎ、これから追々と多くして行かなければならぬ。漢字が教へられないとすれば、それだけはカナで書くのは當り前の話で、つまりは今までのやうに、男は漢字を使はないと人に笑はれるといふやうな心づかひは、今はもう不必要になつて居るのである。さういふ中でも女たちは、紫式部や清少納言の昔から勝手にカナばかりで文を書いて、色々と立派なものを世に殘して居る。それが男と一つになつて、字を知らないから何も書けないと、思ふやうになつたのは本たうにつまらぬことだつた。さういふ風な考へ方が始まつたのは、小學校が出來てから後のことである。私の家には、百年前の女たちの手紙が、大きな箱に一ぱいもあつて、それは皆遠くに別れて居る母や娘たちが、時々の用事を書いて送つたもので、どれもこれも卷紙の長さが一丈もあり、大部分はカナ書きではあるが、それでも此頃の小學生の手紙見たいに、デハさやうならといふ類のきまり文句が少なく、今讀んで見ても心を動かすことが多く、日本の文章の衰へて居ることが、是からでもよくわかるのである。
 たゞ一つこまつたことに、斯ういつた古い人の手紙は、讀める者が段々に少なくなる。活版の利用が盛んになつて、カナのつゞけ書きを練習するやうな場合が無いからで、つまりは手習ひの方法が、もう昔とはまるで變つたのである。少し注意をすればぢきに讀めるやうになるのだが、今の人は一般に氣が短く、それに他にも讀むものがいろ/\有るので、つい斯ういふものは後まはしにしてしまひ、いつと無しに親や祖父母の時代との、縁がうすくなつて行くのである。是を考へると、今から又五十年百年の後の人たちに讀ませようとするには、書く者の方でも少しは氣を附けなければならない。口で言ふ言葉と書きことばとの一つのちがひは、一方は其場で消えてしまひ、書いたものは今こゝに居ない人の眼にも屆くことである。それが讀む者にわからぬやうでは、書くだけの勞苦がむだになつて、ちやうど相手の一人も居ない處で、話をして居るのと同じことになる。文と文字の二つの書き方を、小學校で教へる目的は斯(525)ういふ點に在るわけである。
 
     ○
 
 口で物をいふときには、話し方に皆氣をつける。つんぼや遠くに居る人には聲を高く、いふことを聽かぬ子には彼等が注意をするやうに、誰でも言ひ現はし方に加減をして居る。それと同じことが書く方にも無くではならぬ。大體に言葉は口を使ふ場合が多く、誰でも知らぬうちに皆少しづゝは熟練して居るから、それを其通りに書き方に移せばよいわけだが、さう言つてしまへない幾つかの理由がある。カナ文字の一つの缺點は、頭も尻尾もなく、前の言葉に附くのやら、後の文句の始めになるのやら、はつきりしない場合が多い。それで近頃は點や丸を使つて區切りをはつきりとさせ、又は分ち書きの方法も考へられて居るが、それさへまだ十分とは言へないのは話し方にも色々の惡い癖がついて居る。とても此まんまでは文章にはならぬといふ物の言ひ方が、永い間には數多く生まれて居る。誰でも實驗して見るとすぐわかることだが、日本人は單に文章がへたになつて居るだけで無く、口のきゝ方も決して上手だとは言へない。五十年近くもの間、文は口語體がよいといふことになつて居るにも拘らず、それと本ものゝ口語との間には、いつでも大きな距離があり、たとへは演説のやうな改まつた物言ひですらも、それを其まゝ筆記したのではまだ文章にならない。もつと書き方を改良することも必要であらうが、一方には又若い人たちの話し方に注意を拂ひ、少しづゝでも之を今少し文章に移しやすいものに、改めて行くべきだと思ふ。是が新しい話し方教育に對する私たちの注文であつて單にだらしの無いおしやべりの數をふやすなどは、ちつとでも有難いことではないのである。
 今日世間で口達者と言はれるのは、大抵は考へ無しに物をいふ人たちである。中にはたゞ相手の發言を押へる爲に、同じやうなことを何度もいひ、何か少しでもよい言葉を見つけると、そればかりに力を入れてくりかへし、却つてきき目を弱くして居る。さういふのを其まゝ文章に書かれてはたまつたもので無い。だからいゝかげんに聽き流し、も(526)しくは揚足を取らうとする者ばかり多く、言語のかんじんの働きは小さいのであるが、年とつた人たちならそれも致し方は無い。たゞ是からいよ/\世の中へ出て行く者だけは、今さら其樣な惡い癖にかぶれさせたくないものである。正しく導くといふことは容易の事業ではないかも知らぬが、少なくとも多辯を奨勵するやうな態度を示さず、むしろ短いゆつくりとした言葉づかひを以て、いふべきことだけを言つてしまつたものを、選んでほめて行くようにしてはどうかと思ふ。同じ一つの事でも話し方が色々あつてすなほに簡單に言ひ現はす方が、印象は深いといふことを經驗させることは、同時に又聽き方の練習にもなると思ふ。私などの知つて居る限り、兒童は驚くほど人の言葉に鋭敏なものである。きまり文句の暗記にばかり、今までこの能力をふり向けて居たことは、何と考へても教授法の失敗であつた。
 
     ○
 
 わかり切つたことを長たらしく何度もくり返すことは、今日の話し言葉の病と言つてもよい。さうすればよく覺えられると、思ふのが先づ誤つて居る。それをした爲に耳の注意力は却つて衰へて居るのである。それよりも少しは尻拔けがあつてもかまはぬ。出來るだけ多く新しいこと、もしくは新しい物の言ひ方を與へて、其中から自分で入用なものを拾ひためさせるやうにしたいものである。但し、是をするには教員は相應に骨が折れる。骨惜しみをする人は何とかかんとか、理窟をつけて反對するかも知れない。どういふ反對が一ばん有力であらうか。私は是からも氣を附けて其説を集めて見たいと思ふ。
 それから今一つ、今日の話し言葉はくだ/\しく、人を飽きさせるのを能として居るくせに、妙に大切なところで文句を省き、言葉の結びを言ひ殘さうとする傾きがある。斯ういふのがまた口と文との交流を妨げて居る。文句を完全にしまひまでいふ人も稀にはあり、それを昔風とかりちぎなとかいふのを見ると、多分は近世になつてから始まつ(527)た風習なのであらう。そこに居合せた者には其場の空氣、目つき顔つき身ぶりでも氣持は通じ、又は聲の調子でも傳へられようが、それですらなほ早合點と誤解があり、又後日の言ひ拔けの種にも供せられる。ましてや之を文字に寫して、文章にして傳へることは望み難い。將來の日本の文章をやさしくし、誰にでも書けるやうにするには、話し方を出發點にするより他はないが、その準備としては先づこの種類の弊風を改めてかからなければならぬ。改めるのは中々容易でないとしても、少なくともこの事實の存在に心附かなければならぬ。腹で感じて居ることゝ口にすることとが別々だつたり、人の言ふこと書いたものゝ、意味もまだよくは呑込めないのに、もう其言葉を眞似ようとしたりするのは、私たちには決して日本人の本性だとは思はれない。たゞ多くの人がさうするから自分もするといふ考へが、不幸にして我々の中には行渡つて居るのである。その惡習のまだ染み込んで居ないのは、小學校に居る人たちだけである。それがもう十年も立てば世の中の人になるのである。彼等の天眞を愛護することは、獨り彼等の爲だけではない。同時に又この祖國に對する私たちの大きな責務である。
 
(528)  單語の年齡と性質
 
 アニハカランヤといふ言葉は、もとは漢學書生の言ひはじめたものに違ひないのだが、不思議に明治以來の會話にはひり込み、私なども實は何度か使つた覺えがある。珍しい音構成である爲に、ちよつと話の座の空氣を新たにするやうな、效果があつたのを利用したものゝやうに思ふ。近頃は是も追々忘れられて行くらしいが、其以外にいま一つ、ソレシカリ・アニ〔二字傍点〕ソレシカランヤといふ、長つたらしいアニの利用法があつた。短い期間だが新聞の論説によく用ゐられ、稀には演説の中でも是をふりまはす人があつた。この方は口眞似も私はせずにしまつたが、第一には意味がはつきりと飲込めなかつた。「一がいにさうとばかりは言へない」とか、「何かまだ隱れた事情があるらしい」とか、とにかくに容易に承認をせず、しかも其理由を述べずにしまはうとする遁げ口上の一種で、本來の用法とも合はず、たゞ單に自分は斯んな文句も心得て居るといふ、肩書附き名刺のやうな効果しか、狙つて居ないといふ風にも取れて氣にくはなかつた。漢字で豈の字を當てゝ居るアニといふ日本語は、何とかしてもう一度役立てゝ見たいやうな、興味ある音感をもつて居るが、近代の漢文の訓讀にしか傳はつて居らず、方言の中にもまだ實例が見當らない。それが口眞似をして見たくなる隱れた心理かとも思はれるが、とにかく人の口もとから、氣に入つたやゝ珍しい文句を採用して、すぐ使つて見ようとする近年の風潮は反省しなければならぬ。事によると是は以前の素讀教育の餘弊、意味はどうであれ、先づ外形を學ばせようとした流儀の殘りかもしれない。今でも何だか僅少のきまり文句ばかりが、老若萬人の口から流れて出るやうな感じがするのである。
(529) 斯ういふ早口やへらず口の横行する時代は、殊に型にはまつた空々しい表現が害をする。人がしんみりと相手の言葉を味はひ、是に動かされて考へを定めるといふ用意をもたなくなると、先づ最初に公明で無くなるものは選擧である。他にも幾つかの事情が附纏つて居るだらうが、とにかく演説といふものゝきゝ目が、今のやうに稀薄であつては、金でも使ふより以上の方法は無く、從つて又利慾の輩の、政治に入込むことが防ぎ切れず、折角の普通選擧も、國を朗らかにする手段にはまだちつともなつて居ない。人を、成長する六年三年の間、無理にもつかまへて國語の教育を授けようとする趣旨が、貫徹して居るとは決して言へない。以前も私は機會があるたびに、言語の效果の淺さ深さといふことについて、若い教員たちと懇ろに話し合つて見た。日本は昔から學問を學文〔二字傍点〕などゝ書いて、單に字の形を知り言葉の音をまちがへぬやうになることを、一應の到達と見る惡い癖があつた。其上に更に方言の匡正に力を入れて、口眞似と丸呑みを奨勵して來た。大事な公けの場の話し合ひが、却つて腹にも無いことを遣り取りする機會になつてしまつた。果して少年少女たちが、わかりませんと言ひ切る勇氣をもち、少なくともそれを擧動に出すだけの習慣を養はれて來て居るのであらうか。現在の選擧の實?を見ると、それが尚甚だ心もとないのである。
 「言語生活」の諸君はどう思つて居られるか知らぬが、今日はもはやたゞ頻杖を突いて、憂愁してよい時期では無いやうな氣がする。どんな小さな方策でも、何とかして古い行掛りを、轉回させるものを實現して見なければならぬ。と言はうよりも寧ろ此方面に見落しが多く、事が小さいだけに試驗の失敗も忍びやすい。全體に教育界には今までは大がゝりな立論のみが出陳せられ、それが平均七八年の割合ひで、效果も見ぬうちに次々と更代して居る。是もやゝ大掛りな一種の模倣だつた爲であらうか。さういふ間にも文化の所謂植民地化のみはなほ、間斷なく進行して居たのである。
 ナショナリズムといふ言葉は、今や國内の人たちにも警戒せられるが、何が何でも日本といふ國ほど、經歴なり現?なり又是からの見通しなりに、多くの特色をもつて居る國は他には無く、たまには外からも考へてくれる親切人は(530)あるかもしれぬが、それを待つて居るうちには、我々が先づ無感覺になりさうな懸念がある。無益といふに近い現代の多くの混亂は、わざ/\歴史にしてから囘顧して慨歎する必要などは少しもない。實際といふ言葉こそは使ひにくいが、始めから大よそ結果を想定して置いて、じつと進行を觀察するといふことまでは出來よう。それが又國内の現況から出立した私たちの提案が、輕々しく看過されてはこまる一つの理由である。
 
     ○
 
 さて前置きばかりが物々しくて、次に出て來るものが一層小さく見えるが、私の今考へて居る一つの提案といふのは、右の口癖のやうになつた幾つかのきまり文句を、殊に是から覺えようとする生徒たちに對して、排除もしくは警戒、少なくともそんなものに力を入れぬ方針を立てることである。よその國々では多分は既に常識であらうが、日本ばかりではそれが近年次々と生まれ、それを指導者が便利がつて使ふ故に、丸呑が普通になつて、却つて他のものゝ通過を妨げる。出來るものならは成るべく早期にそれを分解して、句を構成して居る一つ/\の單語に興味をもたせ、もしくはさういふ組合せの例を幾つか竝べて、意外な利用法のあることに心附かせ、その新しみをめい/\の技術にも取込ませることにしたい。日常の口語の方面では、是は昔からの最も普通の方法であつた。日本は元來單語の生滅の烈しかつた國、おくれ先だつ單語の移動によつて、所謂方言のたまつて行く國であつた。シンタックスには男女老幼の差異が著しくそれ故に眞似をして覺えて行く兒童たちも、笑はれるから文句は丸呑みにしなかつた。親が稀々に晴れの辭令を口移しに教へる場合にも、通例はそれを兒童用に譯して暗記させた。だから學校時代になつてからでも、見馴れぬ他所者に標準語で物を言ひかけられる場合などは、殆と當然のやうに一語の答へもせずに、まじ/\とこちらの顔を見て立つて居たのだつた。それが餘りにも殺風景と思つて、色々世話を燒いたのは教員たちであつて、是が又万言撲滅運動なるものゝ、最初のきつかけになつて居る。しかも不幸なことにはあの頃以來、今でも方言として騷(531)がれて居るのは單語のみで、それをどういふ風に組合せて、境涯年齡にふさはしい新表現を作り出すかは、すべて各自の才覺に一任してあつたと言つてよい。文章はもとよりのこと、日常普通の平語の中にも、面白い句法が幾つと無く出來て居て、聽けば忘れず、永く思ひ出の中に殘つて居たものが、知らぬ間に段々と消え去つて、インテリと言へば地方は何處でも、僅か十種か十五種のきまり文句を、くり返して應接して居る。この寂しい國内統一ばかりは、何と考へても指導者に御禮をいふ氣になれない。
 然らばこの度衆智を聚めて、索引附き國内用會話書でも作つて見てはどうかといふ案も出ようが、自分などはそれには及ばない、たゞ何と無くそれを變だなと感ずる者を、若い敏感な人たちの間に、多くして行けばよからうと思つて居る。それよりも氣になるのは單語の缺乏、折角新しい言葉を無制限に造つて置きながら、突嗟の應酬にはそれが思ひ出せず、もしくは精確に場合に合ふか否かを吟味せずに、「何と言つたらよいか」だの「何々とでも言ふか」などと、言はゞ理解の責任の半分を聽手に押附けて、しかも用語の選定に苦心するかの如き印象を人に與へようとする。實に失禮なる態度であるが、斯ういふのが、今以て公人の中によくあるのは、つまりは是をさも氣が利いて居るやうに、やがては自分も眞似て見ようと思ふ者が多い爲である。單語は發言者自らが選定採擇すべきものであることを、今のうちから若い人たちに教へ込んで置きたい。實際に彼等は又、めつたに一知半解の語は使はうとしない。言葉の選擇さへ適切であれば、文句は略形でも結構趣旨は通ずる。小兒のかたことなどは單にやゝ必要の時より早く、語形音聲などの興味に誘はれて模倣して行くものが多く、誤解の點もすぐにわかつて、めつたに根を張り傳播することが無く、却つて笑ひの爲に印象を濃くする場合もある。
 萬を以て算ふる日本の單語を、片端から學び取らうとするなどは、辭典ですらも出來ない。私はたゞ其中の特に毎日の生活と交渉するものを拾つて、是を適當なる時期に覺え込ませる爲に、今少し念入りの方法を試み、それを根據にして各自獨立の表現を考へ出すやうにしたいと思つたのである。單語の成立にはそれ/”\の時代相があり、それに(532)伴なうて性質の差異が認められる。之を活用しようとする者の立場によつて、其選擇にも色々の好みがあり、しかも又是非とも一意一語ときめてしまふべきもので無いことを、やゝ悠長に私は説いて見たかつた。時間が足らなくなり、又此頃疲れて居るので、思ふ通りには書けず、又少々長たらしくなつた。殘りは次の號に載せることにするか、もしくは他日全部を書きかへるか、どちらかを編集者にきめてもらふことにしよう。
 
(533)  第十九卷 内容細目
 
國語の將來
  著者の言葉
  國語の將來(昭和十四年五月、國學院雜誌四十五卷五號)………………………五
  國語の成長といふこと(昭和十一年一月、二月、ローマ字世界) …………三五
  昔の國語教育(昭和十二年七月、岩波講座國語教育)…………………………四一
  敬語と兒童(昭和十三年十月、國語・國文八卷十號)…………………………九一
  方言の成立(昭和十五年二月、安藤教授還暦祝賀記念論文集)……………一〇六
  形容詞の近世史(昭和十三年五月、方言八卷二號)…………………………一二六
  鴨と哉(昭和十四年一月、言語研究一號)……………………………………一三七
  語形と語音(昭和十四年二月、國學院雜誌四十五卷二號)…………………一五六
  國語教育への期待(昭和十年五月、十月、方言五卷五號(原題、「片言と方言と」)同五卷十號)……………………………………………………………………………一七一
 
西は何方
  自序
  西はどつち(昭和六年九月、十月、十一月、方言一卷一號、二號、三號、(原題、「音訛事象の考察」)…………………………………………………………………………二一三
(534)  桑の實(昭和七年一月、方言二卷一號)…………………………………二五三
  青大將の起原(昭和七年四月、方言二卷四號)(原題、「なぶさ考」)………二七一
  虹の語音變化など(昭和五年三月、音聲の研究三輯)(原題、「語音變化に關する研究」)………二九〇
  蜘蛛及び蜘蛛の巣(昭和七年九月、方言二卷九號)………‥………………三一二
  蟻方言の變化(昭和八年三月、方言三卷三號)………………………………三二五
  蟷螂考(昭和二年九月、土のいろ四卷四號)…………………………………三三九
  蟻地獄と子供(昭和二十一年一月、二月、三月、五月、六月、七月、八月、蟲界速報一−三號、四−六號、七號、八號、九・十號、十一・十二號、十三・十四號、昭和二十一年十一月、同二十二年五月、蟲・自然十五號、十六號)…………………………三七〇
 
毎日の言葉
  新版自序
  自序
  毎日の言葉(昭和十七年九月−同十八年七月、婦人公論二十七卷九號−同二十八卷七號)
   緒言
   オ禮ヲスル………………………………………………………………………三九九
   有難ウ……………………………………………………………………………四〇二
   スミマセン………………………………………………………………………四〇四
   モッタイナイ……………………………………………………………………四〇五
   イタヾキマス……………………………………………………………………四〇八
(535)  タベルとクフ…………………………………………………………………四〇九
   オイシイとウマイ………………………………………………………………四一〇
   クダサイとオクレ………………………………………………………………四一一
   モラヒマス………………………………………………………………………四一二
   イル・イラナイ…………………………………………………………………四一三
   モシ/\…………………………………………………………………………四一五
   コソ/\話………………………………………………………………………四一九
   ゴモットモ………………………………………………………………………四二一
   ナルホド…………………………………………………………………………四二二
   左樣シカラバ……………………………………………………………………四二四
   知ラナイワ………………………………………………………………………四二六
   ヨス・ヨサウ……………………………………………………………………四三〇
   ヨマヒゴト………………………………………………………………………四三二
   オヽコハイとオッカナイ………………………………………………………四三四
   ミトムナイ其他…………………………………………………………………四三七
   モヨウを見る……………………………………………………………………四三八
   よいアンバイに…………………………………………………………………四四〇
 
  「毎日の言葉」の終りに(昭和十八年八月、婦人公論二十八卷八號)……四四三
  買物言葉(昭和十七年七月、民間傳承八卷三號)(原題、「話題集」)………四四八
  あいさつの言葉(昭和十九年三月、四月、五月、民間傳承十卷三號、四號、五號)………………………………………………………………………………………………四五二
  どうもありがたう(昭和二十七年四月、言語生活七號)……………………四六六
(536)  女の名(昭和十九年六月、民間傳承十卷六號)…………………………四七二
  ウバも敬語(昭和二十二年六月、民間傳承十一卷四・五號)………………四七八
  御方の推移(昭和二十一年十月、民間傳承十一卷三號)……………………四八二
  上臈(昭和二十一年九月、民間傳承十一卷二號)……………………………四八六
  人の名に樣を附けること(昭和二十七年五月、言語生活八號)……………四九〇
  ボクとワタクシ(昭和二十一年五月、赤とんぼ一卷一號)‥………………四九七
 
幼言葉分類の試み(昭和十二年二月、愛育三卷二號)……………………………五〇七
村莊閑話(昭和九年四月、十二月、國語八號、十一號)…………………………五一五
話の話(昭和二十四年十二月、信濃教育七四八號)………………………………五二一
單語の年齡と性質(昭和二十八年十二月、言語生活二十七號)…………………五二八