定本柳田國男集 第二卷(新装版)、筑摩書房、1968、12、25、3刷
 
(1)   雪國の春
 
(3)     自序
 
 二十五六年も前から殆と毎年のやうに、北か東のどこかの村をあるいて居たが、紀行を殘して置きたいと思つたのは、大正九年の夏秋の長い旅だけであつた。それを「豆手帖から」と題して東京朝日に連載したのであつたが、どうも調子が取りにくいので中程から止めてしまつた。
 再び取出して讀んで見ると、もうをかしい程自分でも忘れて居ることが多い。今一度あの頃の氣持になつて考へて見たいと思ふやうなことが色々ある。最近代史の薄い霞のやうなものが、少しでも斯うして中に立つてくれると、何だか鄰の園を見る樣な懷かしさが生ずる。そこでなほ幾つかの雜文を取交へて、斯ういふ一卷の册子を作つて見る氣になつたのである。
 身勝手な願と言はれるかも知れぬが、私は暖かい南の方の、ちつとも雪國で無い地方の人たちに、此本を讀んで貰ひたいのである。併し此前の海南小記などもあまりに濃き緑なる沖の島の話であつた爲に、却つて之を信越奧羽の讀書家たちに、推薦する機會が得にくかつた。當節は誰でも自分の郷土の問題に執心して、世間が我地方をどう思ふかに興味を惹かれるのみならず、他處も大凡此通りと推斷して、それなら人の事まで考へるにも及ばぬと、きめて居るのだから致し方が無い。此風がすつかり改まらぬ限り、國の結合は機械的で、知らぬ異國の穿鑿ばかりが、先に立つことは免れ難い。私が北と南と日本の兩端の是だけ迄ちがつた生活を、二つ竝べて見ようとする動機は、其故に決して個人の物ずきでは無いのである。
 たゞ斯ういふ大切な又込入つた問題を、氣輕な紀行風に取扱つたといふことは批難があらうが、どんなに書齋の中の仕事にして見たくても、此方面には本といふものが乏しく、たまには有つても高い處から見たやうなもの(4)ばかりである。だから自分たちは出でゝ實驗に就いたので、それが不幸にして空想のやうに聽えるならば、全く文章が未熟な爲か、もしくは日本の文章が、まだ此類の著作には適しない爲である。これ以上は同情ある讀者の思ひやりに任せるの他は無い。                             (昭和三年一月)
 
(5)     雪國の春
 
          一
 
 支那でも文藝の中心は久しい間、楊青々たる長江の南岸に在つたと思ふ。さうで無くとも我々の祖先が、夙に理解し歎賞したのは、所謂江南の風流であつた。恐らくは天然の著しい類似の、二種民族の感覺を相親しましめたものが有つたからであらう。始めて文字といふものゝ存在を知つた人々が、新たなる符號を透して異國の民の心の、隅々までを窺ふは容易の業で無い。殊に島に住む者の想像には限りが有つた。本來の生活ぶりにも少なからぬ差別があつた。それにも拘らず僅かなる往來の末に、忽ちにして彼等が美しと謂ひ、あはれと思ふものゝ總てを會得したのみか、更に同じ技巧を假りて自身の内に在るものを、彩どり形づくり説き現すことを得たのは、當代に於てもなほ異數と稱すべき慧敏である。かねて風土の住民の上に働いて居た作用の、たま/\雙方に共通なるものが多かつた結果、言はゞ未見の友の如くに、安々と來り近づくことが出來たと見るの外、通例の文化摸倣の法則ばかりでは、實は其理由を説明することがむつかしいのであつた。
 故に日本人の遠い昔の故郷を、かのあたりに見出さうとする學者さへあつたので、呉の泰伯の子孫といふ類の新説は、論據が無くても起り易い空想であつた。獨り魚鳥の遙々と訪ひ寄るもの多く、さては樹の實や草の花に、移さずして既に相同じいものが幾らもあつたのみならずそれを養ひ育てた天然の乳母として、温かく濕つた空氣、之を通し(6)てきら/\と濡れたやうな日の光、豐かなる水と其水に汰り平げられた土の質までが、誠によく似た肌ざはりを、幾百年とも無く兩國の民族に與へて居たのである。人間の心情がその不斷の影響に服したのは意外で無い。
 其上に雙方共に、春が飽きる程永かつた。世界の何れの方面を捜して見ても、亞細亞東海の周邊のやうに、冬と夏とを前うしろに押し擴げて、緩々と温和の季候を樂み得る陸地は、多くあるまい。是は素より北東の日本半分に於ては、味ひ能はざる經驗であつたが、花の林を逍遙して花を待つ心持ち、又は微風に面して落花の行方を思ふやうな境涯は、昨日も今日も一つ調子の、長閑な春の日の久しく續く國に住む人だけには、十分に感じ得られた。夢の蝴蝶の面白い想像が、奇拔な哲學を裏付けた如く、嵐も雲も無い晝の日影の中に坐して、何をしようかと思ふやうな寂寞が、いつと無く所謂春愁の詩となつた。女性に在つては之を春怨とも名づけて居たが、必ずしも單純な人戀しさではなかつた。又近代人のアンニュイのやうに、餘裕の乏しい苦悶でもなかつた。獣などならば只睡り去つて、飽滿以上の平和を占有する時であるが、人には計算があつて生涯の短かさを忘れる暇が無い爲に、寧ろ好い日好い時刻の餘りにかたまつて、浪費せられることを惜まねばならなかつたのである。乃ちその幸福な不調和を紛らすべく、色々の春の遊戯が企てられ、藝術は次第に其間から起つた。日本人は昔かち怠惰なる國民ではなかつたけれども、境遇と經驗とが互に似て居た故に、力を勞せずして鄰國の悠長閑雅の趣味を知り習ふことを得たのである。
 
          二
 
 風土と季候とがかほどまでに、一國の學問藝術を左右するであらうかを訝る者は、恐らくは日本文獻の甚だ片寄つた成長に、まだ心付いて居らぬ人たちである。西南の島から進んで來て内海を取圍む山光水色の中に、年久しく榮え衰へて居た人でないと、實は其美しさを感じ得ないやうな文學を抱へて、それに今まで國全體を代表して貰つて居たのは、必ずしも單なる盲從乃至は無關心では無いのであつた。今一つ根本に溯ると、或は此樣な柔かな自然の間に、(7)殊に安堵して住み付き易い性質の、種族であつたからといふことになるのかも知らぬが、如何なる血筋の人類でも、斯ういふ好い土地に來て悦んで永く留らぬ者はあるまい。全く我々が珍しく幸運であつて、追はれたり遁げたりするやうな問題が少しも無く、いつまでも自分たちばかりで呑氣な世の中を樂み終せて居たうちに、馴染は一段と深くなつて、言はゞ此風土と同化してしまひ、最早此次の新らしい天地から、何か別樣の清く優れた生活を、見つけ出さうとする力が衰へたのである。
 文學の權威は斯ういふ落付いた社會に於て、今の人の推測以上に強大であつた。それを經典呪文の如く繰返し吟誦して居ると、いつの間にか一々の句や言葉に、型とは云ひながらも極めて豐富なる内容が附いてまはることになり、從つて人の表現法の平凡な發明を無用にした。樣式遵奉と摸倣との必要は、たま/\國の中心から少しでも遠ざかつて、山奧や海端に往つて住まうとする者に、殊に痛切に感じられた。それ故に都鄙雅俗といふが如き理由も無い差別標準を、自ら進んで承認する者が益多く、其結果として國民の趣味統一は安々と行はれ、今でも新年の勅題には南北の果から、四萬五萬の獻詠者を出すやうな、特殊の文學が一代を覆ふことになつたのである。
 江戸のあらゆる藝術がつひ近い頃まで、この古文辭の約束を甘受して居たことは、微笑を催すべき程度のものであつた。漸く珍奇なる空想が入つて來て片隅に踞まつて居ることを許され、又は荒々しい生れの人々が、勝手に自分を表白してもよい時代になつても、やはり露西亞とか佛蘭西とかに、何かそれ相應の先型の存在することを確めてからで無いと、人も歡迎せず我も突出して行く氣にならなかつたのは、恐らくは亦永年の摸倣の癖に基づいて居る。即ち梅に鶯紅葉に鹿、菜の花に蝶の引續きである。しかもそれをすら猶大膽に失すと考へる迄に、所謂大衆文藝は敬虔至極のものであつて、今一度不必要に穩當なる前代の讀み本世界に戻らうとして居るのである。西歐羅巴の諸國の古典研究などは、人の考を自由にするが目的だと聽いて居るが、日本ばかりは之に反して、再び捕はれに行く爲に、昔の事を穿鑿して居るやうな姿がある。心細いことだと思ふ。だから我々だけは子供らしいと笑はれてもよい。あんな傾(8)向からはわざと離背しようとするのである。さうして歴史家たちに疎んぜられて居る歴史を捜して、もう少し樂々とした地方々々の文藝の、成長する餘地を見付けたいと思ふのである。
 其話を出來るだけ簡單にする爲に、茲には唯雪の中の正月だけを説いて見るのだが、今説かうとして居る私の意見は、實は甚だ小さな經驗から出發して居る。十年餘り以前に仕事があつて、冬から春にかけて暫くの間、京都に滯在して居たことがあつた。宿の屋根が瓦葺きになつて居て、よく寢る者には知らずにしまふ場合が多かつたが、京都の時雨の雨はなるほど宵曉ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度と無く繰返してさつと通り過ぎる。東國の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る。是ならば正しく小夜時雨だ。夢驚かすと歌に詠んでもよし、降りみ降らずみ定めなきと謂つても風情がある。然るに他のさうでも無い土地に於て、受賣して見ても始まらぬ話だが、天下の時雨の和歌は皆是であつた。連歌俳諧も謠も淨瑠璃も、さては町方の小唄の類に至るまで、滔々として悉く同じ樣なことを謂つて居る。また鴨川の堤の上に出て立つと、北山と西山とには折々水蒸氣が薄く停滯して、峯の遠近に應じて美しい濃淡が出來る。ははア春霞といふのは是だなと始めてわかつた。それが或季節には夜分まで殘つて、所謂おぼろ/\の春の夜の月となり、秋は晝中ばかり霧が立つて、柴舟下る川の面を隱すが、夜は散じて月さやか也と來るのであらう。言はゞ日本國の歌の景は、悉くこの山城の一小盆地の、風物に外ならぬのであつた。御苦勞では無いか都に來ても見ぬ連中まで、題を頂戴してそんな事を歌に詠じたのみか、たま/\我田舍の月時雨が、之と相異した實況を示せば、却つて天然が契約を守らぬやうに感じて居たのである。風景でも人情でも戀でも述懷でも、常に此通りの課題があり、常に其答案の豫期せられて居たことは、天台の論議や舊教のカテキズムも同樣であつた。だから世に謂ふ所の田園文學は、今に至るまでかさぶたの如く村々の生活を覆うて、自由なる精氣の行通ひを遮つて居るのである。
 
(9)          三
 
 白?をすれば自分なども、春永く冬暖かなる中國の海近くに生れて、この稍狹隘な日本風に安心し切つて居た一人である。本さへ讀んで居れば次第々々に、國民としての經驗は得られるやうに考へて見たこともあつた。記憶の霧霞の中からちら/\と、見える昔は別世界であつたが、そこには花と緑の葉が際限も無く連なつて、雪國の村に住む人が氣ぜはしなく、送り迎へた野山の色とは、殆と似も付かぬものであつたことを、互に比べて見る折を持たぬばかりに、永く知らずに過ぎて居たのであつた。七千萬人の知識の中には、斯ういふ例がまだ幾らもあらうと思ふ。故郷の春と題して?描かれる我々の胸の繪は、自分などには眞先きに日のよく當る赤土の岡、小松まじりの躑躅の色、雲雀が子を育てる麥畠の陽炎、里には石垣の蒲公英や菫、神の森の木の大がゝりな藤の紫、今日からあすへの堺目も際立たずに、いつの間にか花の色が淡くなり、樹蔭が多くなつて行く姿であつたが、この休息とも又退屈とも名づくべき春の暮の心持は、たゞ旅行をして見たゞけでは、恐らく北國の人たちには味ひ得なかつたであらう。
 北國で無くとも、京都などはもう北の限りで、僅か數里を離れた所謂比叡の山蔭になると、既に雪高き谷間の庵である。それから嶺を越え湖を少し隔てた土地には、冬籠りをせねばならぬ村里が多かつた。
   丹波雪國積らぬさきに
   つれておでやれうす雪に
といふ盆踊の歌もあつた。之を聽いても山の冬の靜けさ寂しさが考へられる。日本海の水域に屬する低地は、一圓に雪の爲に交通がむつかしくなる。伊豫に住み馴れた土居得能の一黨が、越前に落ちて行かうとして木ノ目峠の山路で、悲慘な最期を遂げたといふ物語は、太平記を讀んだ者の永く忘れ得ない印象である。總體に北國を行脚する人々は、冬のまだ深くならぬうちに、何とかして身を容れるだけの隱れがを見付けて、そこに平穩に一季を送らうとした。さ(10)うして春の復つて來るのを待ち焦れて居たのである。越後あたりの大百姓の家には、斯うした臨時の家族が珍しくはなかつたらしい。我々の懷かしく思ふ菅江眞澄なども、暖かい三河の海近い故郷を、二十八九の頃に出てしまつて、五十年近くの間秋田から津輕、外南部から蝦夷の松前まで、次から次へ旅の宿を移して、冬毎に異なる主人と共に正月を迎へた。山路野路を一人行くよりも、長いだけに此方が一層心細い生活であつたことゝ思はれる。
 汽車の八方に通じて居る國としては、日本のやうに雪の多く降る國も珍しいであらう。それが到る處深い谿を溯り、山の屏風を突き拔けて居る故に、かの、
   黄昏や又ひとり行く雪の人
の句の如く、折々は往還に立つてぢつと眺めて居るやうな場合が多かつたのである。停車場には時としては暖國から來た家族が住んで居る。雪の底の生活に飽き飽きした若い人などが、何といふ目的も無しに、鍬を揮うて庭前の雪を掘り、土の色を見ようとしたといふ話もある。鳥などは食に飢ゑて居る爲に、殊に簡單な方法で捕へられた。二三日も降り續いた後の朝に、一尺か二尺四方の黒い土の肌を出して置くと、何の餌も囮も無くてそれだけで鵯や鶫が下りて來る。大隅の佐多とか土佐の室戸とかの、茂つた御崎山の林に群れて囀りかはして居たものが、僅かばかり飛び越えるともう此樣な國に來てしまふのである。
 我々の祖先が曾て南の海端に住みあまり、或は生活の闘爭に倦んで、今一段と安泰なる居所を?むべく、地續きなればこそ氣輕な決意を以て、流れを傳ひ山坂を越えて、次第に北と東の平野に降りて來た最初には、同じ一つの島が斯程までに冬の長さを異にして居ようとは豫期しなかつたに相違ない。幸ひにして地味は豐かに肥え、勞少なくして所得は元の地に優り、山野の樂みも夏は故郷よりも多く、妻子眷屬と共に居れば、再び窮屈な以前の群に、還つて行かうといふ考も起らなかつたであらうが、秋の慌だしく暮れ春の來ることの遲いのには、定めて暫らくの間は大きな迷惑をしたことゝ思ふ。十和田などは自分が訪ねて見た五月末に、雪を分けて僅かに一本の山櫻が咲かうとして居た。(11)越中の袴腰峠、黒部山の原始林の中では、共に六月初めの雨の日に、まだ融けきらぬ殘雪が塵を被つて、路の傍に堆かく積んで居た。舊三月の雛の節句には、桃の花は無くとも田の泥が顔を出して居ると、奧在所の村民は來て見て之を羨んだ。春の彼岸の墓參りなどにも、心當りの雪を掻きのけて、僅かな窪みを作つて香花を供へて還るといふ話が、越後南魚沼の町方でも語られて居る。あの世に往つて住む者にも淋しいであらうが、此世同士の親類朋友の間でも、大抵の交通は春なかばまで猶豫せられ、他國に旅する者の歸つて來ぬことにきまつて居るは勿論、相互ひに燈の火を望み得る程の近隣りでも、無事に住んで居ることが確かな限りは、訪ひ訪はれることが自然に稀であつた。峠の雙方の麓の宿場などが、雪に中斷せられて二つの嚢の底となることは、常からの片田舍よりも尚一層忍び難いものらしい。だから銘々の家ばかりを最も暖かく、成るだけ明るくして暮さうとする努力があつた。親子兄妹が疎み合うては、三月四月の冬籠りは出來ぬ故に、誰しもこの小さな天地の平和を大切にして、いつかは必ず來る春を靜かに待つて居る。斯ういふ生活が寒い國の多くの村里では、ほゞ人生の四分の一を占めて居たのである。それが男女の氣風と趣味習性に、大きな影響を與へぬ道理は無いのであるが、雪が降れば雪見などゝ稱して門を出でゝ山を望み、もしくは枯柳の風情を句にしようとする類の人々には、ちつとも分らぬまゝで今までは過ぎて來たのである。
 
          四
 
 燕を春の神の使として歡迎する中部歐羅巴などの村人の心持は、似たる境遇に育つた者で無いと解しにくい。雪が融けて始めて黒い大地が處々に現れると、すぐに色々の新らしい歌の聲が起り、黙して叢の中や枝の蔭ばかりを飛び跳ねて居たものが、悉く皆急いで空に騰がり、又は高い樹の頂上にとまつて四方を見るのだが、其中でも今まで見かけなかつた輕快な燕が、わざ/\?け廻つて、幾度か我々をして明るい青空を仰がしめるのを、人は無邪氣なる論理を以て、緑が此鳥に導かれて戻つて來るものゝ如く考へたのである。春よ還つて來たかの只一句は何度繰返されても(12)胸を浪打たしむる詩であつた。嵐吹雪の永い淋しい冬籠りは、ほと/\過ぎ去つた花の頃を忘れしめるばかりで、もしか今度は此儘で雪の谷底に閉されてしまふので無いかといふ樣な、小兒に近い不安を味つて居た太古から、引續いて同じ鳥が同じ歡喜をもたらして居た故に、之を神とも幸運とも結び附けて、飛び姿を木に刻み壁に畫き、寒い日の友と眺める習ひがあつたのである。さうして是とよく似た心持は、亦日本の雪國にも普通であつた。
 即ち此の如くにして漸くに迎へ得たる若者の悦びは、南の人の優れたる空想をさへも超越する。例へば奧羽の處々の田舍では、碧く輝いた大空の下に、風は軟かく水の流れは音高く、家にはぢつとして居られぬやうな日が少し續くと、ありとあらゆる庭の木が一齊に花を開き、其花盛りが一どきに押寄せて來る。春の勞作はこの快い天地の中で始まるので、袖を垂れて遊ぶやうな日とては一日も無く、惜しいと感歎して居る暇も無いうちに、艶麗な野山の姿は次第次第に成長して、白くどんよりとした薄霞の中に、桑は延び麥は熟して行き、やがて閑古鳥が頻りに啼いて、水田苗代の支度を急がせる。この活き/\とした季節の運び、それと調子を合せて行く人間の力には、實は中世のなつかしい移民史が匿れて居る。其歴史を滲み透つて來た感じが人の心を温めて、旅に在つては永く家郷を懷はしめ、家に居ては冬の日の夢を豐かにしたものであつたが、單に農人が文字の力を傭ふことをしなかつたばかりに、其情懷は久しく深雪の下に埋もれて、未だ多くの同胞の間に流轉することを得なかつたのである。
 
          五
 
 さうして又日本の雪國には、二つの春があつて早くから人情を錯綜せしめた。ずつと南の冬の短かい都邑で、編み上げた暦が彼等にも送り屆けられ、彼等も亦移つて來て幾代かを重ねる迄、其暦の春を忘れることが出來なかつたのである。全體日本のやうな南北に細長い山勝ちの島で、正朔を統一しようとすることが實は自然でなかつた。僅かに月の望の夜の算へ易い方法を以て、昔の思ひ出を保つことが出來たのである。然るに新らしい暦法に於ては、更に寒(13)地の實?を省みること無くして、又一月餘の日數を去年から今年へ繰入れたのである。是が西洋の人のするやうに、正月を冬と考へることが出來たならば、其不便も無かつたのか知らぬが、祖先の慣習は法制の感化を以て自然に消滅するものと豫測して、なまじひに勸誘を試みようとしなかつた爲に、終に斯ういふ雪國に於ても、なほ正月は即ち春と、固く信じて渝らなかつたのである。
 東京などでも三月に室咲きの桃の花を求めて、雛祭りをするのをわびしいと思ふ者がある。去年の柏の葉を鹽漬にして置かぬと、端午の節供といふのに柏餅は食べられぬ。九月は菊がまだ見られぬ夏休の中なので、もう多くの村では重陽を説くことを止めた。盆も七夕も其通りではあるが、僅かに月送りの折合ひに由つて、馴れぬ闇夜に精靈を迎へようとして居るのである。併し正月となると更に今一段と大切なる賓客が、雪を踏み分けて迎へられねばならなかつた。正月樣とも歳コ神とも福の神とも名づけて、一年の福運を約諾したまふべき神々がそれであつた。暦の最初の月の滿月の下に於て、是非とも行はれねばならぬ儀式が幾つでも有つた。人も知る如く此等の正月行事は、一つとして農に關係しないものは無かつた。冬を師走の月を以て終るものとして、年が改まれば第一の月の三十日間を種籾よりも農具よりも、遙かに肝要なる精神的の準備に、捧げようとしたのであつて、即ち寅の月を以て正月と定めた根源は、昔もやはり温かい國の人の經驗を以て、寒地の住民に強ひたことは同じであつた。澤山のけなげなる日本人は、其暦法を固く守りつゝ、雪の國までも入つて來た。白く包まれた廣漠の野山には、一筋も春の萌しは見えなかつたけれども、神はなほ大昔の契約のまゝに、定まつた時を以て御降りなされることを疑はず、乃ち冬籠りする門の戸を押開いて、欣然としてまぼろしの春を待つたのである。
 もしも新たに自分の爲に發明するのであつたら、恐らく此樣な不自然不調和を受入れることはしなかつたであらう。邊土の住人が世間の交りが絶えると、心安い同士の間には身嗜みの必要も無くて、鬚を構はなかつたり皮衣を著たり、何か荒々しい風貌を具へて來るのを見て、時としては昔袂を別つた兄弟であることを忘れようとする人たちもあるが、(14)假に何一つ他には證據の無い場合でも、かほど迄も民族の古い信仰に忠實で、天下既に春なりと知る時んば、我家の苦寒は顧みること無く、又何人の促迫をも待たずして、冬の只中にいそ/\と一年の農事の支度に取りかゝる人々が、別の系統から入つて來た氣づかひは無い。
 或は今日の眼から見れば、そんなに迄風土の自然に反抗して、本來の生活樣式を墨守するにも及ばなかつたのかも知れぬが、同じ作物同じ屋作りの、何れも南の島にのみ似つかはしかつたものを、兎に角にこの北端の地に運んで來て、辛苦の末に漸く新たなる環境と調和せしめたのみか、なほ出來るならば西伯利亞にも勘察加にも、はた北米の野山にも移して見ようとする、それが寧ろ笑止なる此國人の癖であつた。曾て中央日本の温和の地に定著して、斯んなによく調和した生活法が又とあらうかと悦んだ滿足が、或は無用に自重心を培養した結果でもあらうか。何にもせよ暦の春が立返ると、西は筑紫の海の果から、東は南部津輕の山の蔭に及ぶまで、多くの農民の行事が殆と些かの變化も無しに、一時一樣に行はるゝは今猶咋の如くであつて、しかも互に鄰縣に同じ例のあることも知らぬらしいのは、即ち亦此等の慣習の久しい昔から、書傳以外に於て持續して居たことを意味するもので無くて何であらう。
 
          六
 
 爰に其正月行事の一つ/\を、列擧して見ることは自分にはむつかしいが、例へば田畠を荒さうとする色々の鳥獣を、神靈の力の最も濃かなりとした正月望の日に、追ひ拂うて置く一種の呪法がある。鳥追ひの唄の文句には後に若干の増減があつたが、ムグラモチを驚かす槌の子の響き肥桶のきしみ、之に附け加へた畏嚇の語の如きは、北も南も一樣に簡明であつて、たゞ奧羽越後の諸縣では凍つた雪の上を、あるくばかりが西南との相違である。此日の小豆粥を果樹に食べさせ片手に鎌鉈などを執つて、恩威二つの力を以てなるかなるまいかを詰問する作法なども、雪國の方の特色といへば、雪が樹の根に堆かくして、眞の春になつてから粥を與へた鉈の切口が、手の屆かぬ程の高い處にな(15)つて居るといふだけである。圍爐裏の側に於て試みられる火の年占が、或は胡桃であり栃の實であり又栗であり大豆であり、粥占の管として竹も葦も用ゐられて居るのは、單に手近に在るものを役に立てるといふのみである。粟穗稗穗の古風なるまじなひから、家具農具に年を取らせる作法までが一つであつた。綱曳の勝負も亦年占の用に供せられた。二種の利害の相容れぬものが土地に有れば、優劣の決定を自然に一任して、之を神意と解したのであるが、もし一方に偏つた願ひがあるとすれば、結局は他の一方が負けることに仕組まれてあつた。雪深き國の多くの町で正月十五日に之を行ふ他に、朝鮮半島に於ても同じ日を以て此式があり、南は沖繩八重山の島々にも、日はちがふが全然同じ勝負が行はれて居た。
 或は同じ穀祭の日に際して、二人の若者が神に扮して、村々の家を訪れる風が南の果の孤島にもあつた。本土の多くの府縣では其神事が稍弛み、今や小兒の戯れの如くならうとして居るが、是も亦正月望の前の宵の行事で、或はタピタビ・トビトビと謂ひ、又はホト/\・コト/\などゝ、戸を叩く音を以て名づけられて居るといふ差があるのみで、神の祝言を家々にもたらす目的は則ち一つである。福島宮城では之を笠鳥とも茶せん子とも呼んで居る。それが今一つ北の方に行くと、却つて古風を存することは南の海の果に近く、敬虔なる若者は假面を被り藁の衣裳を以て身を包んで、神の語を傳へに來るのであつて、殊に怠惰逸樂の徒を憎み罰せんとする故に、之をナマハギともナゴミタクリとも、又ヒカタタクリとも稱するのである。閉伊や男鹿島の荒蝦夷の住んだ國にも、入代つて我々の神を敬する同胞が、早い昔から邑里を横へ滿天の風雪を物の數ともせず、伊勢の暦が春を告ぐる毎に、出でゝ古式を繰返して歳の神に仕へて居た名殘である。
 初春の祭の更に著しい特徴には、異國のクリスマスなども同じ樣に、神の木を飾り立てる習ひがあつて、是も弘く全國に亙つて共通であつた。餅團子の根本の用途は、主として此木の装飾に在つたかとさへ思はれる。飾ると言ふよりも其植物の實を用ゐ姿を假りて、一年の豐熟を豫習せしめようとするのであつて、即ち一種のあやかり〔四字傍点〕の法術であ(16)つた。今日は最初の理由も知らず、單に此木を美しく作り立てる悦ばしさのみを遺傳して居る。家の内の春は此木を中心として榮えるが、更に外に出ると門口にも若木を立て、それから田に行つても亦茂つた樹の枝を插して祝した。此枝の大いに茂る如く、夏秋の稔りも豐かなれと祈願したものであるが、雪の國では廣々とした庭先に畝を劃して、松の葉を早苗に見立て田植のわざを眞似るのが通例であつた。稻はもと熱帶野生の草である。之を瑞穗の國に運び入れたのが、既に大いなる意思の力であつた。況んや軒に屆く程の深い雪の中でも、尚引續いて其成熟を念じて居たのである。さればこそ新らしい代になつて、北は黒龍江の岸邊にさへも、米を作る者が出來て來たのである。信仰が民族の運命を左右した例として、我々に取つては此上も無い感激の種である。
 山の樹の中では松の葉が最も稻の苗とよく似て居る。雪に畏れぬ緑の色をめでて、前代の北方人が珍重したのも自然であるが、しかも斯樣な小さな點まで、新たなる作法の發明でなかつたことは、正月の祭に松を立てるといふ慣習の、此方面のみに限られて居なかつたのが證據である。子の日と稱して野に出でゝ小松を引き、之を移植する遊びは朝家にも採用せられた。但し大宮人が農事には疎かつた爲に、何の目的を以て小松を引栽ゑるか迄は、歌にも詩にも一向に説いて居ないが、多分は山城の都の郊外にも、之を農作の呪法とした農民が住んで居たのである。北日本の兄弟たちは、たゞ其習俗を携へつゝ、北へ北へと進んで行つたのである。
 しかし雪國の暦の正月には、月は照つても戸外の樂みは少なかつた。群の力と酒の勢ひとを借りて、或程度までは寒さと爭つては居るが、後には家の奧に引込んで、物作りの樹の周圍に笑ひさゞめくの他は無かつた。さうして此等の行事が一つ一つ完了して、再び眞冬の淋しさに復歸することは、馴れて後までもなほ忍び難いことであつたらうが、幸ひにして家の中には明るい圍爐裏の火があり、其火のまはりには又物語と追憶とがあつた。何もせぬ日の大いなる活動は、恐らくは主として過去の異常なる印象と興奮との敍述であり、又解説であつたらうと思ふ。即ち冬籠りする家々には、古い美しい感情が保存せられ培養せられて、次々の代の平和と親密とに寄與して居たのである。其傳統が(17)行く/\絶えてしまふであらうか。はた又永く語り得ぬ幸福として續くかは、結局は雪國に住む若い女性の、學問の方向によつて決定せられ、彼等の感情の流れ方が之を左右するであらう。男子が段々と遠い國土に就いて、考へねばならぬ世の中になつた。雪國の春の靜けさと美しさとは、永く彼等の姉妹の手に、其管理を委托せられて居るのである。
 
(18)     眞澄遊覽記を讀む
 
          一
 
 菅江眞澄本名は白井英二秀雄、天明の初年に二十八で、故郷の三河國を出てしまつてから、出羽の角館で七十六歳を以て歿するまで、四十八囘の正月を雪國の雪の中で、次々に迎へて居た人である。此人の半生の旅の日記が、後に眞澄遊覽記と題せられて、今は七十卷ばかり、散在して諸國の文庫に遣つて居る。非常に精密な彩色の自筆畫が添へられ、それを文章の説明の補助にした爲に、却つて此紀行の流布を妨げた形のあつたのは、この親切なる平民生活の觀察者に對して、言はう樣も無い不本意なことであつた。
 久しい以前より自分は此人の舊知の家を尋ね、殊に三河の本國の村里を物色して、どうして斯ういふ寂しくも又骨折な生涯の旅行が始まつたかを知らうとして居るのだが、まだ生れた家の所在すらも明かにならぬ。繰返して彼の紀行を讀んで見ると、何かあの時代としては珍しい事情があつて、かゝる遠國の大雪の底に、空しく親を懷ふ百篇の歌を、埋めるに至つたことは想像し得られるが、遊覽記はさういふ身の上話をするやうな私事の日記では無かつたのである。雪國の春を校正する片手に、ふと心付いて拾ひ讀みに、再び幾つかの卷の正月の條を出して見たが、精彩ある村々の初春行事よりも、なほ鮮かに自分の眼に浮ぶのは、圍爐裏の片脇に何の用も無くて、ぽつんとして見て居た菅江眞澄の姿である。年越の宵曉は主人は神祭りに、刀自は食べ物の用意に餘念も無い時刻であつて、今年ばかりの遊(19)歴の文人に、手傳つてもらふ仕事は一つも無いばかりか、落ち/\と話の相手になる者もあつた筈が無いのである。外がきら/\と霽れた日でもあれば、出でゝ山を望み雀の聲を聽きもしたが、吹き荒れて居る時はしよう事も無い。囘禮の客人には氣樂な話ずきがあつても、眞燈は酒のきらひな幾分か生眞面目な人であつた。故郷の新年を考へ出さずには居られなかつたことゝ思ふ。
 
          二
 
 遊覽記初卷の「伊那の中路」に依れば、天明三年の春までの紀行は、或渡し場の舟が覆つて、流してしまつたと謂つて居る。
 天明四年の正月は信州の諏訪近くで迎へたらしい。「諏訪の海」といふ一卷の紀行があつたといふが、是はまだ何處からも出て來ない。此六月には洗馬から出發して、戸隱に參詣して七月末に北信に向つたことが、「來目路の橋」といふのに詳しく記してある。それから越後を通つて九月にはもう羽前の鼠ヶ關に來て居るから、此地では腰を落付けて休む家もなかつたのである。「鰐田の刈寢」は九月以後の日記である。羽黒の三山に登つて酒田に出で、吹浦象潟を見物して矢島に入り、鳥海の北麓では十月もまだ月始めに、早ひどい風雪に遭つて居るのである。それから山を越えて雄勝郡の西馬音内に遊び、次の月には柳田村の草薙氏の家で、引留められて冬を過すことになつた。道を行く男女目すだれといふものを掛けて、雪に眼を傷めることを防ぐと書いてある。
 雪の正月の第一囘の記録は、この雄勝郡の柳田から始まつて居る。「小野の古里」といふのが其日記の名であつた。東海道の故郷の村と比べると、異なつた風習が幾つともなく目に著いた。粟穗稻穗は信州などゝもちがつて、此邊のは餅を以て其形を作つた。ヲカの餅といふのが奧羽の各地の習ひであつたが、餅を瓢箪の形に中凹みに平めて、家内の男子の數だけこしらへて神に供へた。歳棚の上ではオケラといふ植物の根を焚き、其煙を衣類などにたき籠めて、(20)惡い病を除けるといふ仕來りがあつた。七日の粥の日には村の内の子供たちが、祝言を述べて物を貰ひに來る風があつた。痩馬と名づけて松の葉に少しの穴錢を貫き、この馬痩せて候と言つて與へたとある。十四日の晩は「又の年越」と謂つて、門毎の雪に柳の枝を折つて插した。次の朝の鳥追ひは他の地方も同じであつたが、此邊では餅花を鳥追菓子と名づけて、犬猫花紅葉色々の形に彩色した餅を、重箱に入れて互に贈答した。夜に入つてからは例の十二ヶ月の年占があつた。此邊で行はれた方式の一つは、田結びと稱して十二本の藁を把り、其中程を隱して端の方を二本づゝ結び合せる。偶然に長く繋がるのを田が廣いと謂つて、其年豐作の兆として悦んだとある。餅燒きといふのも元は年占であつたらうが、もう此頃から之を縁結びの戯れに應用して居る。餅を小さく切つて男女を定め、それを爐の片脇に竝べて置くと、燒けてふくれていつと無く近づくのを、それ男が寄つて來たとかこれは女の方から手を出したとか謂つて、娘たちが笑ひどよめいたと書いてある。燒餅を燒くといふ語が嫉妬を意味するのも、多分は昔行はれた此遊戯が元であらう。
 
          三
 
 この天明五年は眞澄が一生の中でも、最も多く旅行した年であつた。四月も終に近く野は霞み郭公の頻りに鳴く頃に、彼は雄勝の詞友たちと別れて、川岸傳ひに北をさして旅立つた。夏は恐らく久保田の城下に居たらうと思ふが、其日記もまだ出て來ない。「外が濱風」「けふのせば布」の二書は、この八月初めから二ヶ月の旅中記であるが、彼は其間に津輕を一巡し、再び引返して北秋田鹿角から、嶺を東に越えて北上川の岸を、江刺郡の岩谷堂の近くまで下つて居る。是は我旅人の鋭氣の盛り、北の世の中の極端に惡い頃であつて、色々と心を動かす話があるのだが省略する。次の天明六年は南部領で正月をした筈であるが、此一年餘りは事蹟が傳はつて居らぬ。秋の末から冬にかけての日記は、「雪の膽澤邊」といふ簡單な一册が遺つて居る。師走の雪の頃まで、一ノ關近くの山の目の大槻氏、膽澤郡コ岡の(21)村上氏の家などに居たといふので、七年の正月も爰で迎へたことゝ想像するばかりである。
 天明七年には更に陸前に入つて來て、石卷から松島、仙臺までも見物をした樣子だが、是も記録が果してあるかどうか。現在まではまだ少しも知られて居らぬ。兎に角に此暮のうちにはもう膽澤郡に引返して居た。さうして舊知の村上家に客となつて、次の初春を迎へたことは、「霞む駒形」といふ一卷が見付かつた爲に、此頃漸く明かになつたのである。
 
          四
 
 コ岡は自分の地圖には見えぬが、前澤の町に近い小部落の名であつた。斯ういふ村々の百四十年前の正月が、目に見るやうに詳しく傳はつたのは、珍重すべきことだと思ふ。二日の朝は子供たちが年禮に來るのに、痩馬と稱して松の小枝に錢をさして與へることは、出羽の雄勝の村も同樣であつて、此邊では之を戯れて馬に乘せると謂つて居た。明きの方といふことは雷樣の年を越した方角のことで、それに由つて村老は又田作りの豐凶を卜した。年を越すとは昨冬の雷鳴が、其方面に聽えたといふことゝ思ふが、近世の暦の八將神の物々しい名前なども、やはりかういふ民間の古い習はしから、出て居たことが考へられるのである。三日は申の日であつたので、家々の馬を引出して遊ばせた。駒形山信仰の支配する土地だけに、馬の神の祭はおろそかで無かつた。六日が節分で豆燒きの灰占は爐端に行はれた。豆をまくことも他の地方と同じであつたが、此邊の唱へ詞は
   天に花さけ地にみのれ
   福は内へ鬼は外へ
といふのであつた。今でもさういふ老人などがあるかどうか。尋ねて見たならば面白いであらう。七日の朝は此土地では白粥に豆を入れたもので、七草をはやすといふのは色々の食器を俎板に置いて、それをマハシ木(擂木)で叩く(22)ことであつた。若菜を得る途は雪の村には無かつたのである。十一日はハダテと稱して、仕事初めの日であつた。雪の上に畝を立てゝ、薄の穗や藁などを早苗に插し、あゝくたびれたと冗談をいふ者もあれば、小苗打ちどうしたなどと小兒等に戯れて、歌をうたひ又酒を飲んだ。
 所謂カセギドリの遣つて來るのは、此村などでは十二日の午前からであつた。ケンダイと稱する藁製の蓑笠を著た樣子から、?のことだと考へて居た者が多く、遁げて還るときにケケロと鳴いて見たり、他村の群と途中で逢つた時は、雌鳥か雄鳥かと先づ尋ねて、雄鳥といへば蹴合ひをしようといつて?み合ひ、雌鳥と答へば卵を取らうといつて貰つた餅を奪ひ合つた。主人が憎まれて居る家ばかりはカセギドリの若い者が入つて來て暴れ、厩の前に在る木櫃を伏せて、杖で其底を突立てゝスハクヘ/\と謂つた。其言葉の意味はもう不明になつたが、なほ老人たちは此訪問者の服装が案山子とよく似て居り、其身に著けた鳴子鳴りがね馬の鈴、木貝と名づくる喇叭のやうな樂器などが、鳥追ひ鹿追ふ秋の田の設備と同じいのを見て、是は田の神の姿であり、スハクヘは其呪文の如きものなることを、想像して居たらしい樣子である。此役は大抵若い男が、願掛けまじなひの爲に勤めるものであつた。例へば重病で死にかゝつた者などが、幸ひに本復しますれば來年はカセギドリに出ますと謂つて、村の鎭守の社に?るのは普通であつて、それ故に折々は三十から四十に近い人が、此群に加はつて餅貰ひに來ると記してある。十五日は黄金餅と稱して、粟の餅を搗く習ひがあつた。家によつては十一日の物ハダテ即ち雪の上の田植を、此朝執行ふ例もあつた。山畠の雪の中に高い柱を立て、一方には杭を打つて其間に繩を張り、ヒサグワクといふ麻絲の絲卷、瓢箪などをつり下げた處もあつた。杭の頭には古草履古藁鞋の類を、幾らとも無く縛りつけてあつたといふ。
 
          五
 
 斯うして端から書拔くと長くなるが、眞澄のやうに方々の正月を、一人で見てあるいた人は無いのだから、殊に其(23)觀察には教へられることが多い。仙臺の近村で今も行はるゝ田植踊、所謂彌十郎藤九郎のエンブリ摺り一行は、コ岡の村では十八日の朝やつて來た。本來はカセギドリの群から分化したものと、自分等は推測して居るのだが、もう此時代から此地方でも伎藝となつて、之を業とした部曲があつたらしい。田植の祝言の中には注意すべき文句が多かつた。例へば早乙女には姙婦を悦んだ心持が述べてある。田人の一行の中には瓢箪の片割れに、眼鼻を彫り白粉を塗つたものを、被つて來る者もあつたといふ。つひ此間幸田先生から朝鮮のヒョットコだと言つて贈られたのが、やはりこの瓠製の素朴なものであつた。此箇條を讀んだのは恰もその次の日であつて、思はず顧みて棚の上の朝鮮の面と、顔を見合せて笑つたことであつた。
 此年の日記にはまだ色々の話の種があるが、前を急ぐ故に今は皆省略する。次の寛政元年は陸中の東山、大原の近くなどで正月をしたものであらうか。夏に入つて六月の上旬に愈此邊を立つて、再び北上の路に就いた。其紀行が「岩手の山」である。野邊地の馬門から狩場澤へ、南部領から津輕領へ、入つて來たのが七月六日、それから青森を過ぎ内灣の岩づたひに、三厩から宇鐵へ出て便船を求め、盆の魂迎へに飢饉で死んだ親姉の名を、頻りに喚んで居る夜半の時刻、松前をさして渡海したことが、「外が濱づたひ」といふ一卷には述べてある。
 松前滯在の日記は五種ほど今あるが、其間がきれて居て踪跡が明かで無い。彼と稍似た境遇の漂泊者が、或は信仰を種とし或は文學によつて、幽かに生活の便宜を得て居たこと、口蝦夷の外部文化に觸れて居るアイヌ等が、なほ半ばは仙人の如く取扱はれて居たことなど、新らしい印象は幾つもあるが、殊に珍らしいのは松前城下の正月の記事であつた。
 それは寛政四年子の春の日記で、標題を「千島の磯」と記して居る。此時は眞澄は大館山の麓の、天神社の脇に借宅をして、淋しい獨身生活をして居たが、餘りに雪が深いので外の正月も森閑として、折々は城内の士人の歌の會などに往來しても、眼につくやうな街頭の行事は無かつたやうである。五日には城中に萬歳を舞はしめらるべしとあつ(24)て、折ふし來合せて冬籠りをする旅役者澤田の某といふ者が、臨時に萬歳になつて召されたと記してある。十四日の宵のみは町家にも儀式があつた。子供が手に持つて唱へ言を述べあるく短い杖を、松前ではゴイハヒ棒と謂つた。即ち羽後飛島のヨンドリ棒、越後の道祖神などゝ一つのもので、古くから此方式ばかりは日本人が、如何なる雪の國にも持つて行かずには居られなかつたことが想像せられる。
 
          六
 
 この寛政四年の十月始めには、丸三年の蝦夷滯在を終つて、引返して外南部の奧戸《おこつぺ》の湊に上陸した。それから二年半ほどの間が、下北半島の小天地の生活であつた。此地方の正月記事は幸ひに「奧の手振」といふ寛政六年のものが、殆と之を我々に傳へんとして用意して置いたかの如く、畫も文章も完備して殘つて居る。奧州の果まで來て見ると、いよ/\盆と正月との二つの行事が、もとは毎半年に繰返された同じ儀式であつたことが分る。除夜にはサイトリカバと謂つて、白樺の皮を門火に焚くことは、他の山國の盆の夕も同じであつた。年棚にはミタマの飯といふものを作つて、祖先の靈にさゝげた。眞澄も手づから其土地の風を習つてさうしたと謂つて居る。節分の豆まきには松の葉と昆布の刻んだのをまじへて撒いた。松は門にも立てたらしいが、先づ一本を家の内の大柱に結んで立て、それに餅だの鮭の魚だのを供へた。南部には私大があつて一日づゝおくれ、七草は即ち八日の日の行事であつた。鹽に貯藏した筍と芹の葉を入れたとある。十一日はやはり仕事始めで、大畑の湊には船玉の祝があり、初町が立つて鹽と飴と針とを賣つた。
 十三日には目名といふ村の獅子舞が來て家々をまはつた。熊野の御礼と御幣とを中に立てゝ山伏が演ずる純乎たる祈?の式であつた。獅子頭は瓢箪を口に咋へて、其中から水を散らしたり、又は柱や障子を?みまはる眞似をして、
   此屋の四方のます鏡
(25)   いのれば神もいはひとどまる
などゝ、聲々に唱へたと記して居る。十四日の夕方になると、爰でも膽澤あたりとよく似たカセギドリが遣つて來る。春田打つ男の人形を作つて、之を盆に載せて手に持つた少年が、
   春の初めにかせぎとりが參りた
と謂ひながら入つて來て、どちの方から、明きの方からといふ問答の後に、餅などを貰つて還つて行つた。關東以西の柊の枝に鰯の頭は、節分の夜の行事となつて居るが、爰ではこの十四日の年越に、魚の鰭魚の皮などを焦して餅と共に串に刺し、すべての入口、窓といふ窓に插んで、それをやはり亦ヤラクサと呼んで居た。つまり臭氣ある物を以て、鬼を追返さうといふ目的に出たのである。八戸などでいふエンブリを、此邊では仙臺などゝ同じに田植と謂つて居る。十五六日の二日、幾群とも無く廻つて來た。?を摺る男の名を藤九郎といひ、謠ふ歌は田植唄であつた。
   正月のごいはひに
   松の葉を手に取持ちで、祝ふなるものかな
   是は誰がほうたんだ
   えもとさえもがほうたんだ
   一本植ゑればせんぼになる
   かいとの早稻の種かな、ほい/\
と唱へて其エンブリを摺つた。松前でゴイハヒ棒と謂つたのも、多分は同じ田植舞が、彼地に移されて居たものであつた。十五日に女の子が雛を祭る習ひがある。是も松前と似て居ると記してある。注意すべき古風である。
 
(26)          七
 
 この地で今一囘の正月を過して、翌寛政七年の三月央ばに、我々の旅人は外南部を去つたやうである。近年中道等君の發見した「津輕の奧」といふ一卷には、野邊地の馬門から關所を越えて、狩場澤小湊と海沿ひの往還を、久しぶりに通つたといふ紀行の次に、淺虫の温泉で正月をしたといふ日記があつて、それが同八年のことであつた。但し此時は湯の宿の閑居であつた爲に、稍世間に疎く歌ばかり多く詠んで居るが、それでも附近の農民が十一日の仕事初めに、肥しを田畠に引く儀式が、如何にも實際的なまじなひであることを記した他に、十三日からは小湊の町に遊びに來て、詳しく小正月の行事を見て居る。此朝は粥が濟んで後に、例の雪の上の田植があつた。下北半島のヤラクサの代りに、小湊で行ふ儀式は節分の豆まきの起原を思はしめる。即ち酒の糟と糠と豆の皮と、此三つの品を桝に入れて、次の詞を唱へつゝ家の周圖にまき散らした。
   豆のかはほんが/\
   錢も金も飛んで來い
   福の神も飛んで來い
是は今でもヤラクロなどゝ稱して、南部の各村には似たる唱へ言の用ゐらるゝ例が多い。或は古酒の香がするなどゝも謂ふが、つまりよき香を以て福の神を内に誘ひ、いやな香を以て鬼を外へ追出さうといふのである。カセギドリは津輕ではカパカパと謂ふが、此頃はなほパカパカともいふ土地もあつたらしい。田打男の人形を折敷に載せ、小さな木の棒で其底を敲くのが習はしで、パカパカは其音から出た名稱であつたやうだ。小湊などでも女の兒は家々に入つて來て、
   春の始めにそとめが參つた
(27)といひ、男の兒はタヂドが參つたと謂つて、錢を貰つてダラコに入れて還つたとあるから、もう此邊では大人の儀式では無くなつて居たのである。之に反して鳥追ひは十六日の拂曉に、笛や太鼓のいかめしい拍子を取つて、最も嚴重に行はれて居る。此時の唱へごとゝして眞澄の手記して居るものは、次のやうな文句であつた。
   朝鳥はより、夕鳥はより
   長者どのゝかくちは
   鳥は一羽も居ないかくちだは、より/\
此から處々を行きめぐつて寛政九年の正月には西津輕郡深浦の湊に居たことが、「津輕のをち」といふ日記に見えて居る。日本海岸の方まで來ると、もう秋田領と似た風習が多かつた。例へば雄勝などのヲカの餅は、こゝでは岡戎と謂つて鳥の子の形であつた。何か大切な謂はれがあるらしいが、知ることが出來なかつたと記してある。松の葉に錢をさして小さな囘禮者に與へる風もあつたが、深浦ではそれを錢馬と謂つて居た。家の内の装飾は精密な見取圖が載せてあるが、殊に此邊の正月の式は複雜なやうで、京や江戸とは比べものにならず、たゞ遠國の田舍の舊家などに、偶然の一致を求むべきものであつた。例へば圍爐裏の側に米俵を置いて、それに一本の心松を立てる風などは、或は九州邊でも似たる習慣があつたやうに思ふ。皿結びと謂つて藁を皿形に結んだものを、其松に取附けて色々の食物を供へるのは、信州などのヤスも同じであつた。十四日の物忌の一つとして、爐の灰を美しく掻きならして、それから後は手を觸れることを戒めた。其禁を犯すと苗代を鴨が踏むと言つたのは、他地方で爐に足を入れると鷺がつくと言ふのと同じであらう。それから長い串に餅をさして窓をふさぐといふことは、外南部なども同じであつたが、家によつては串には插さずに、窓から外へ投げるものもあつた。男鹿の本山の柴燈堂の儀式などゝ、考へ合すべき古風である。
 
(28)          八
 
 同じやうな話ばかり續くから、もう此あとは簡略に、目次のみを作つて置かう。次の寛政十年の日記かと思ふ「津輕のつと」には、又小湊から僅か離れた童子といふ山村の正月が記してある。眞澄の宿つた家は農家であつて、他には見なかつた色々の慣行が殘つて居た。それを此日記は細密に畫にしてある。九日には又小湊に出かけて、新たに色々の見聞を添へた他に、座頭イタコの物言ひや山家人の醉態、村の女の杓子舞の歌を手記するなど、心ある觀察が多かつた。前に引用した「奧の手振」と共に、眞澄遺稿の最も價値多き卷である。彼は此後三年ほどはなほ津輕に居たが、正月の日記は不幸にして傳はつて居ない。享和元年の冬の初めに、最後に深浦を立つて海づたひに秋田に入り、次の年の正月は久保田の城下に居た。其翌年の享和三年の春は、阿仁から出て來て北秋田郡の大瀧の温泉に居た。其折の日記は「薄の出湯」であつて、是にも湯の町へ出て來る色々の物賣、伎藝の徒の歌詞が多く載せてある。十四日には十二所の町に往つて鎌倉燒きの式を見物した。此晩から小正月の年越が改めて繰返され、若水年男の作法、臼鍋農具の年取りなど、嚴重なることは元旦に劣らなかつた。二十日は目出しの祝と謂つて、其前後に若者娘たちの寄合があつた。瞽の巫女は十七日に家々を廻つて、神を拜し又世の中の吉凶を占うた。
 翌文化元年は阿仁の莊に居た。「浦の笛瀧」といふ一卷はあら/\と山村の正月が書いてある。此年は眞澄が始めて男鹿に遊んだ年で、それから引續いて七八年の間は、主として八郎湖の周邊の村々に、多くの知友を見付けて滯在したのである。しかも少しの間でも我家といふものを持たなかつたことは、多くの日記によつて知ることが出來る。二度目の男鹿の勝遊は文化七年の三月から次の年の二月の末まで續いて居て、三卷の詳しい紀行がある。此年の正月記事は「氷魚の村君」といふ日記にあるが、男鹿の東北隅の谷地中といふ海邊の村で、のんびりとした初春の光景を眺めて居る。小正月の田植鳥追ひと色々の物忌、娘や子供たちが如何に新年を樂んだかに付いても、心の留まる記事が(29)多いのだが、澤山の本文を引かねばならぬから省略する。文化八年の元旦は寒風山の麓、海と湖水に挾まつた宮澤といふ村の、畠山某の客であつた。「牡鹿の寒風」の下半分は、この昔風な農家と其周圍の、正月ぶりが書留めてある。自分が頻りに興味を持つミタマの飯、ヲカの餅の風習から、男鹿で最も有名なナマハギの行事などは、此日記によつて稍詳細なる資料を得るのである。
 
          九
 
 眞澄の雪國の春の日記は、自分の知る限りでは以上十一度の正月以外に、もう傳はつて居らぬやうである。是から後の十七八年は、專ら秋田領の地誌を作る爲に費され、其間に吟詠の事業があつたので、珍らしい日記を中止したものかと思ふ。私は將來の東北文化の研究に向つて此人の事業が何程の功績を有するかを説く爲に、例を新年習俗の記述に採つたが、勿論之と關係の無い方面にも、他には求められぬ特別の資料は多いのである。而うして問題は何故に菅江眞澄の著作ばかりが、たゞ獨り百年を隔てゝ今に其價値を認められるかであるが、それには固より學問と文章との、大きな力も與かつて居る。けれどもそれのみならば他にも彼以上の人は幾らも算へられる。我々の珍重すべきは、主としては彼の境遇であり又氣質である。五十年近くも故郷を振棄てゝ、あの多感の歌心を雪の孤獨に埋没しなければならぬやうな運命は、さう多くの旅人の持つて生れることの出來ぬものであつた。
 彼の生涯を一貫して、世に時めくといふ類の朋友は一人も無かつた。學者としては弘前の毛内茂肅、齋藤規房父子の如き、又は久保田の那珂通博の如き、晩年には八澤木の大友直枝なども、次第に彼の詞藻の半面を認むるに至つたやうだが、固より爾汝の間柄ではなかつた。この風雅人の旅の日記を見て、何よりも先づ目に立つのは田夫野人の言葉、彼等と何の心遣ひも無く、自由に立話をした見馴れぬ遠來の客の旅姿であつた。此時代の東北の田舍に於ては、ちやうど明治の終頃に、やたらに洋服を着た者に目禮をしたと同じく、旅人を粗末にせぬしをらしい氣風があつたこ(30)とゝ思ふが、眞澄も亦特段に、家々の奉公人とか女や子供とかの、物言ひ擧動に注意をする人であつた。
 
          一〇
 
 「配志和の若葉」や其前後の日記を見ると、奧州の座頭たちの生活が、頗るこの旅人の興味を引いて居たことが知れる。前澤の町には正保といふボサマが居て、折々同席して話をすることもあつた。一通りは歌も詠んで、彼が松前に立つ前などは送別の吟を寄せて居る。物覺えのよい人同士、恐らくは?閑談の交換をしたことゝ思ふ。冬籠りの奧羽の村では、以前は座頭は缺くべからざる刺戟機關であつた。殊に正月も稍末になつて、再び爐の側の沈黙が始まらうとする頃には、若い者や小兒は堪へ兼ねてボサマの訪問を待つて居た。さうして偶然にも其人々の群の中に、三河國の菅江眞澄が居たのである。
 盲人は弟子を連れて來て、一曲の後には所謂早物語を語らせた。愛嬌のあるボサマたちは、折々自分でもこしらへた世間話、又は由緒ある昔話をした。
 天明八年二月廿一日夜の條に、膽澤郡六日入の鈴木家の圍爐裏のそばに、何一くれ一の二人の旨法師が、一夜の宿を與へられて坐つて居た。三味線を取出して彈かうとすると、童兒が口を出してゾウロリ(淨瑠璃)なぢよにすべい、それ止めて昔々かたれといふ。何昔がよからうかといふに爐の向に居た家刀自が、琵琶にスルスでも語らねかと言つたとある。
 さらば語り申さう聽きたまへや。昔々どつと昔の大昔、ある家に美しい娘が一人あつたとさと、語り始めたのは琵琶法師聟入の喜悲劇であつた。昔の「猿の聟」の作り替へのやうなものであつた。夜どほし琵琶を彈くなら娘を遣らうと約束した爲に、夜が明けると手を引いて連れて行かうとする。臺磨確《したずるす》を薦に包んで米俵だと謂つて負はせて出す。路傍に休んで座頭が斯う謂つた。目も無い人のオガタになつて、一生うざねを吐かうよりは、此川へ飛込んで二人で(31)死なう。そんならさうと其臼を出して、水の中へどぶんと投込み、娘は片脇に隱れて見て居ると、盲も泣きながら續いて淵へ飛込んだ。身は沈み琵琶と磨臼は、浮いて流れてしがらみに引つかゝる。そこで今でも琵琶に磨臼のたとへあり、「といひてはらり」と語つたと記して居る。
 其翌々日は鈴木氏の家を出て、コ岡の村上家へ行かうとした。道案内は一人の少年であつた。雪解の路にあるき疲れて、草原に腰をかけて休んで居ると、兔が飛出して走つて行つた。之を見て童兒が次のやうな話をした。昔鬼に行逢うて田螺《たつぶ》が一首の歌をかけた。
   朝日さすこうかの山の柴かぢり耳が長くてをかしかりけり
之を聽いて兎の返歌、
   やぶ下のちり/\河のごみかぶり尻がよぢれてをかしかりけり
こんな歌を子供が記憶するのは、いふ迄も無くボサマの教育であつた。それよりもをかしいのは奧の草野の彼岸の日の日影に、路に踞まつて兎と田螺の話を、笑つて聽かうとした彼の心持である。眞澄此時は三十五歳、長い旅刀を佩び、頭巾を被つて居たと想像せられる。天明八年といへば江戸でも京都でも、種々の學問と高尚なる風流とが、競ひ進んで居た新文化の世であつた。然るにそれとは没交渉に、遠く奧州北上川の片岸を、斯んな寂しい旅人が一人あるいて居たのである。
 
(32)     雪中隨筆
 
       新交通
 
 新らしい我々の交通方法は、まだ完全に舊い天地と調和して居なかつた感じがする。たとへば日本の如く雪の深い、谷と崖ばかり多い國で、是ほど頻繁に汽車を走らせて居る國は、世界中に他にはもう無いやうである。
 今年は又殊にひどい雪で、殆と毎日と言つてもよい位に、どこかで大風雪が汽車を埋めて居る。遠い土地にばかり友だちを持つて居る者の、本當に淋しくてたまらぬ季節である。
 それだのに村の普通の生活は半分しか理解すること能はず、政治とか讀書とかいふ鄰人と共通で無い趣味に、心を傾けようとする人々が、田舍の隅々に分散して居住する時代になつた。此人たちの互の交通路にも、冬は?目に見えぬ雪崩の如きものが、襲うて來るらしいのである。
 例へば東京などでは、この二月の初めの土曜日が初雪で、それが野山の松や櫪の蔭にきらめいて、却つて青空の光を明るくした。阿波から土佐への海に沿うた村々では、梅の紅白が早既に散り亂れて居る。久しく寒い故郷を出て斯んな國に留まつて居る人ならば、吹雪の田家の光景を忘れてしまふといふよりも、寧ろ思ひ出すことが出來ぬのである。
(33) 平たい言葉で定義づけるならば、友だちとは要するに話をする間柄である。然るに一年の三分の一ほどは、その話の種が切れてしまふのである。消えて無くならぬまでも雪の底に埋もれてしまふので、即ち亦一つの交通の故障である。
 汽車には限らず、日本では何でもかでも、眞似する積りで無造作に始めた仕事で、後に意外な眞劍の實驗をさせられ、しようこと無しに困り拔いて、それから立派な解決をした場合が多い。交際の問題なども、今に必ず何とかなるであらうが、差當つては當てにして居た空想の飛行機は飛ばず、同情の乘合自動車はいつでも延著するとなれば、如何に詠歎せられる詩の孤獨高尚なる個人主義にも、やはり炬燵の向ふ側の、空席見たやうなものが出來ずには居ないのである。
 私は折々東北地方に居住する友人から、毎日々々新聞を友として炬燵で暮らして居るといふ手紙を貰ふ。新聞が果してどの程度にまで、炬燵の向ひの珍客の代りをするものであらうか。それを實驗すべく僅かな紙面を借りて、逢ふことの出來ぬ雪の中の人と、及び越しにこの共同の問題を考へて見ようと思ふ。
 
       コタツ時代
 
 東京の私の家の炬燵には、いつでも所謂洋服を著た少年と少女とがあたつて居る。非常に寒くてたまらぬからでは無く、他には足を投げ出してごろんとして居る場處が、冬になると無くなつてしまふからである。それ故に大抵馬鹿々々しくぬるい。自分などは一寸側へ寄ると、きまつて何か用事を思ひ出して立つてしまふ。つまり格別の必要が實は無いのである。
 斯ういふ炬燵を見るたびに、自分は時代といふものを觀て居るやうな感じがする。温度は炬燵の第一の要件である(34)にも拘はらず、それを此程度に變更してまでも全國の大區域に亙つて、此趣味を流行させた時代が曾てはあつたのである。それが今日は如何にも意味の無いものとなつて、單に強い反對が起らないといふ原因だけで、僅かに殘つて居る地方も此通り弘いのである。是と同時に舊日本の約半分に於ては、その炬燵の火はなほきつく、必要は今もつて少しも減退して居ないのであるが、しかも二三分間も考へて見れば直ぐわかるやうに、炬燵も亦確かに時代の産物であつて、決して坂上田村麿が惡路王を征討した、所謂大同二年頃から既に東北の雪國に、在つたわけでも無いのである。
 炬燵といふむつかしい二個の漢字は、多分五山の禅僧の一人の、發明であらうといふ説がある。さうかも知れぬが文字よりも其言葉の意味が、炬燵の趣意以上に不可解であつて、事によると此制度の滅亡以前には、其歴史を明かにすることが困難であるかも知れぬ。併し名稱の如きはどうあつても宜しい。其よりも更に大切なるは、何故に斯んな奇妙なものが、いつ頃誰によつて創成せられたかであるが、是は單なる常識から判定をして、掛けてある四角な蒲團と稱するものよりも、より古く存在し得なかつたことは明白である。
 蒲團が我々日本人の夜具の一種になつたのも、やはり中世以後の事でなければならぬ。其證據には此語も亦支那の宋代あたりの音で、別に之に對する固有の日本語は無かつたのである。
 フスマ(衾)と謂ふのは大形の衣服のことであつた。ヨブスマといふのは、全身を蔽ひ包む程の大きな藤布製などの夜具のことで、妖怪のヨブスマも其から出た名かと思ふ。近い頃まで山村で使用して居たのは、何れも袖が有り又襟があつた。斯んな形の衾の下には、炬燵は到底發達し得なかつた。つまり炬燵時代は歴史の教科書にこそ書いて無いが、さう古くはない或昔の新文化であつた。
 
(35)       風と光と
 
 兎に角に自分は炬燵その物よりも、コタツ時代とも名づくべき前期生活に興味をもつ。殊にこの奇拔にしてしかも悠長なる保温法を、現在の完成にまで持ち運んで來た所の、文明の過程には考察すべきものがあると思ふ。
 けだし火の最も原始的なる魅惑力は、炎であり光であつた。子供などは何の入用も無い場合にも、物を燃やして突如として咲く花の、あでやかさを賞玩しようとする。暗黒の不安を追ひ拂ふ爲には、跳ねてぱち/\と音を立てるやうな、豆がら馬醉木の類をまじへて焚く必要さへ認められた。然るに今炬燵の温雅なる情趣を味はんとするならば、もう此等一切の古風なる快樂と、袖を別つてしまはねばならなかつたのである。
 必ずしも巖窟の穴の奧に隱れた大昔には限らず、家を建て簾を垂れて住み始めてよりずつと後まで、窓は出來るだけ高く小さく、戸を閉ぢ壁を塞いで雨であれ風であれ、あらゆる外から來る者を總括して、畏れ且つ防衛して居た世の中に於ては、爐の火は誠にたゞ一つの家の中の光明であつた。
 月は洩れ雨は漏るなといふ古歌にもある通り、輝く青空の光ばかりを、差別して内に迎へ入れる方法は、以前には無かつたのである。それが今日の樣にどの室も明るく、最早爐の火に炎と光明とを仰ぐことを、必要とせぬまでになつたのは、單なる人間の智慮分別と言はんよりも寧ろ具體的に紙の力、あかり障子の功勞と謂つた方が當つて居る。
 其後紙は追々に硝子に取つて代られ、終には日中の電氣燈とまで進んで來て、人は如何なる地下室の底でゞも、働き得るやうになつたのであるが、其は必ずしも結構なことで無いかも知れぬ。たゞ少なくとも數十年來の火の光を斷念し、曾ては荒神樣とまで尊信畏服して居たものを、今日の如く自由自在に制御するやうになつたのも、要するに皆コタツ時代の新たなる事業であり、又自信ある勇氣の獲物であつて、炬燵は此意味に於ては、我國民文明の一つの凱(36)旋門であつた。
 
       藁蒲團
 
 旅人の文學などは通例誇張が多く、且つ同情はあつても省察が常に不足であつた。殊に一丈二丈の雪の底の生活に至つては、もし外部から誰かゞ心付くのを待つて居るとしたら、斯うして煙燵の起原の如くに、自分でも忘れてしまふ頃まで棄てゝ置かれるであらう。土地に住む者が靜かに其閑暇を以て、獨立して考へて見るより他は無いのである。
 或は考へて見た人も多かつたのかも知れぬが、少なくとも其は山一つ彼方までも傳はらなかつた。それ故に今日の如く、書物で學問をする風が盛んになつて來ると、却つて谷々の冬は寂しくなるのである。炬燵の序を以て今少しく此點を話して見たい。
 鈴木牧之の北越雪譜の中には、信州秋山郷の山家の夜の光景が畫に描かれて居る。藁で造つた一人用二人用の叺《かます》の中に、夫婦親子が頸から下を差入れて、圍爐裏の四側にごろ/\と寢て居る。珍らしくも又をかしい風俗には相違ないが、世間を知らぬので此邊ばかり、永らく其樣な生活をして居たといふのみで、曾て一度は我々一同の祖先も、美女も勇士も斯うして藁の中に、寢て居た時代があつたのである。
 北へ北へと此國を開いて來た民族が、今以て稻を作らずには片時も安心して居られぬといふわけは、稻が故郷の亞熱帶の植物であつて、神の粢《しとぎ》も祭の日の米の飯も、是が最第一の資料だといふばかりでは無かつた。冬の長夜を安々と睡り去る爲には、なほ其上に年々の新藁と、新籾殻とが澤山に入用であつた時代が、餘り久しかつた故に今も其癖が拔けないのである。それが木綿の種子を輸入して栽培し、綿や古著の賣買が繁くなると、百年もたゝぬ内に藁のトコは疊の名と變じ、をかしな昔の笑話のみが、いつまでも世の中に殘るのである。或貧家の少年、寢藁々々とよく謂(37)ふので、見得坊の父が之を戒め、人の聞く前では必ず蒲團と謂へと教へて置くと、チャンよ、こなたの脊中に蒲團が一筋くつついて居るは、と云つたといふ類の話である。或は寢所の帳臺を恥隱しなどゝ名づけて、其敷居を高くしたのは、中の寢藁を見せぬ爲だつたと今でも信じて居る地方もある。其樣に萬人共通の昔をさへ、恥づる傾きがある故に、不必要に田舍の古風が、段々と輕んぜられることになつたのである。
 
       センバ式文化
 
 「一筋の脊中の蒲團」と、系統を同じくする笑話の一つに、父よ此村では十能で屋根を葺いとるのと謂つたといふのもあつた。今でこそ山の奧までも萱野が開墾せられて、瓦で葺いた家が追々に多くなつたが、以前は宮寺さへも村のは皆草屋であつた。さうして偶々此話の少年の家では、瓦が一枚だけあつて、それを火取りの用に供して居たのである。
 それ程に十能といふものが、元は重要でない器具であつた。つまりは炬燵火鉢の類が少なくて、火を取るべき場合が稀であつたのである。十能は奧羽と九州ではヒカキ又はヒトリと謂ひ他の中央部の大區域ではセンバと呼んで居る。センバも十能もやはりコタツと同樣に、その語の根原が自分にはまだ分らぬが、兎に角に古い道具でなかつた證據には、是亦今一つ以前の固有日本語の、之に該當するものが無いのである。
 火カキと謂ふに至つた理由だけは略明白である。即ち今ある長火鉢の灰ならしと同じで、夜分圍爐裏の火をいける爲に灰を掻き上げる器を、時折は火種を運ぶのに兼用して居た迄であつたことは、あの格好からでも容易に想像することが出來る。それが臺十能などゝいふ特別の形式を供へるに至つたのは、勿論木炭の製法が普及してから後の事で、その木炭は亦つひ近年まで、多くの田舍の家庭に於ては、わざ/\製造せねばならぬ必要を認めなかつたものである。
(38) センバが多くの雪國に於て珍重せられたのは、考へて見れば深い仔細があつた。是は大事な賓客の爲に、特に奧座敷の雨戸を明け放すのと同じ趣旨で、爐の火を取分けて別に一席を設けることは、日常普通の訪問者に對しては、決してせぬ習ひであつたからである。それには此器物の金屬としての新らしい趣味も加はつて奧羽の各地の如く夏の土用の炎天でも、客が來ると先づ第一著に、センバを持出すのを以て款待の表示とするやうになつたものかと思ふ。
 古風の客あしらひには此類の方式化が多かつた。今日の實際では、客を家族の一員の如く待遇することが、非常な好意の樣に悦ばれることになつたが、家には家長の權力が強大である以上、以前はそんなことをするのを非禮と考へたに不思議は無い。それ故に主人は我家と設備との一部分を區劃して、それを稀なる旅人の臨時の領分に提供したのである。
 斯ういふ方面にも日本人の人情は變遷した。さうして形體だけの今なほ殘つて居て、我々をまごつかしめる例は多い。
 
       火の分裂
 
 如何なる種類の新らしい文化でも、必ず一度は經過せねばならなかつた如く、炬燵の普及にもやはり初期の制限はあつたやうである。十能の構造をどれほど改良して見たところで、炭燒の技術が之に伴うて進歩せぬ限は、炬燵の恩澤は到底遠く及ぶことがむつかしかつた。
 ヲキと消炭との能力だけならば高の知れたものである。精々茶の間の附近に今一つの出張所を作る位のもので、出居奧座敷離れの四疊半といふ處まで、度々焚き落しの如きものを運んで居るわけには行かぬ。畢竟するに大小幾つかの炬燵の割據獨立は、炭取りの新發明が之を可能ならしめたと言ふべく、時雨の炬燵といふ類の近松式戀愛なども、(39)言はゞ木炭文明以後の新産物に過ぎなかつた。
 それ故に炬燵はもと、主として夜の設備であつたといふことが出來る。俳諧續猿蓑の連句に曰く、
    別を人の言ひ出せば泣く      里圃
   こたつの火いけて勝手を靜まらせ   馬?
    一石踏みしからうすの米      沾圃
更けて皆の者がさアもう寢ようとなつて、爐の鍵を引上げ板敷に釜をおろし、いぶる燃えさしは土間へ出してとつくりと消してから、殘りのヲキを灰に埋め、其上へ大きな蒲團を覆うて、もぐり込んで一同が睡つたのである。夜中に少し寒くなつたとしても、起きて蒲團をまくつて新たに焚き付けるか、辛抱するかより他には別に方法とても無かつたのである。
 和歌に埋火のもとなどゝ、詠ずればこそ甚だ風流であるが、先づ最初の炬燵は是くらゐ不便なものであつた。丹念な家では夏中のヲキを消して貯へて置いて、夜永の寒さに出して使つたかも知れぬが、大抵は起きて居る限り大火を焚き、殘りの温氣だけを炬燵として利用したのである。
 信州などでは此の半ば概念のやうな暖か味ほとぼりを、如何なる意味でか知らぬがクヨークリと名づけて居る。クヨークリは燠の如く具體的ならず、爐から外へ出せば忽ちにして唯の灰と化し去る。乃ち第二の炬燵、日中の炬燵の、以前は自在に企て得られざりし所以である。
 それが堅炭の世となり、更に所謂炭團のせとなつて、安火だの猫だの番所だのと、便利至極なる置炬燵までが工夫せられ、例へば田舍の御役所のテーブルの下にまで、利用せられることになつたといふのは、炬燵その物の立場から觀察すれば、是も一つの解放には相違なかつた。
 
(40)       炭と家族制度
 
 自慢してよいか惡いかは別の論として、炭燒の事業だけは日本の進歩が世界一らしい。國の生産總量のみならず、此が配給貯藏方法の完備、利用應用の巧妙さから、僅かな歳月の間に改良の成績を擧げ得た點まで、是だけ鮮かに他國を拔いた生産は、恐らく指を折つて算へる程もあるまい。
 伊太利といふ國の日本と似て居る一つの點は、南の半分ではストーブといふものを知らず、炭火の小さな手あぶりを、客にも出せばめい/\にも控へて居ることであるが、氣の毒ながら彼はまだコタツを知らない。尤も暖かいから或はもう永久に眞似をせぬかも知らぬ。其他の歐羅巴の寒い國々でも、木炭といふ言葉はあり、以前は山に入つてわざ/\燒いて居たことも確かだが、其目的の限られて居たことは、日本の中世と同じであつた。全體に西洋人の採温法はつい近頃までは我々よりもおくれて居た。炭を使ふのは鍛冶屋か鑄物師か、さうで無ければ化學の研究室ぐらゐのものであつた。それが石炭を盛んに焚き、次いで又電氣を引いて使ふやうになつたから、もう今後は或は製法を忘れてしまふかも知れない。又炭に燒くべき雜木などの、さう多くないことも事實である。
 ところが我々の方ではどうかと謂ふと、炭の趣味は今や流行の絶頂に達したかとさへ思はれる。都市に於ては瓦斯石炭と對抗し、農村に在つては圍爐裏の火から分立して、炬燵火鉢を一の城砦として、防ぎ守らんとする特殊の利害、特殊の文明の如きものが新たに現れて居るのである。それが新聞と雜誌と澤山の雜書とを味方に引入れて、炬燵に籠城する所謂有識階級を形づくつて居ることは、我々が冬になる毎に最も痛切に實驗する所である。
 尤も此傾向を悉く木炭の責任に歸するは明かに不當な速斷である。炭自身には未だ曾て、砂糖の甘味や酒の醉の如き、流行を促す力は具へて居なかつたので、實際は恰も國風の變化、殊に家を同じくして住む人々の相互の關係が、(41)一つの圍爐裏を取卷くほど緊密で無く、さりとて飛出して竈を別にする程も疎遠ならず、つまりは木炭を利用して各自の室の炬燵に、割據して居たいといふ位の時代に到逢して居た爲に、此物が目に立つて用ゐられることになつたものかと思ふ。
 
       火の管理者
 
 人間が家を持ち家族といふものを引纏め得たのは、火の發見の結果と言つてよろしい。光と温度と食物との一大中心として、圍爐裏といふものがもし無かつたならば、到底今見るやうな家庭及び社會は出來上らなかつたらう。民の竈と謂ひもしくは戸數を何十何煙と謂つて算へたのも、實は一家の内に火を焚く場處が、たゞ一つしか無かつたことを意味するのである。
 その火の管理者を日本ではアルジと名づけ、後には又御亭とも旦那殿とも稱した。さうして其管理權の所在を、具體化したものが爐の横座であつた。横座とは謂つてもそれが正面の席であつて、事實は其左右の敷物が何れも縱に連なつて居るに對して、家長の座だけは横疊に敷いてある故に、さういふ名前が古くから生じて居たのである。
 通例は向つて爐の右手、即ち横座から左になる一側を、嚊座もしくは茶飲み座、腰元又は勝手などゝも呼んで居る。その最も横座に接近した席は、當然に主婦に專屬した。ヘラ即ち飯匙は其權力の象徴であり、食物の分配は唯ヘラ取り、即ちオカタ殿のみの掌る所であり、誤つて其席を侵したアネ子などは、それだけでも離縁せられるに十分な理由があつた。
 此序を以てなほ言ふならば、嚊座と相對する他の一側が客座である。此にも席次があつて最も款待せらるべき者が、一番横座の右近くに坐つた。同じく續猿蓑の俳諧の附け合ひに、
(42)   聟が來てにつともせず物語り
などゝあるのは、つまり此邊の光景に他ならぬのである。それから殘りの今一側の爐端が、下座下郎座又は木尻である。嫁は木尻筋から貰へといふ諺などもあつて、一段と身分の低いものの坐席である。此を津輕などでは轉訛してキンスリ座とも謂ふさうだが、本來は薪の尻を其方へ向けて置く故の名であつた。煙いのを我慢すべき、居心地のよくない座であつた。
 さて是ほどまでに秩序を正して、家には一つしか火の中心を作らぬやうに努めたのであるが人の心の變化は是非無いもので、終に室毎に炬燵を置かねばならぬ時代が來た。最初は取扱に面倒な年寄などを賺して、安火一個に封じ込めたりしたものが、後には息子が新聞や本を抱へて、自ら獨立を宣するやうになつた。それを後援したのは紙と硝子の障子、次にはランプ又電氣燈などであつた。が勿論彼等は之を教唆したので無く、木炭と同樣に頼まれてたゞ遣つて來たゞけである。
 
       炭燒來る
 
 日本に若し雨雪が少なくで、土で塗つた家が發達し、若くは石を重ねて二階三階が出來る位に、地震の心配の少ない國であつたら、平氣で大火を燃やして、いつ迄も炭の便利は認めるに至らなかつたかも知れぬ。ところが城下に木の家を小さく建てゝ住むには、焚き火は何分にも不完全でいけないとなつて、寒くとも是にて我慢をすべしと、炭櫃《すびつ》火桶の類を工夫して使用せしめた。町の女などは氣働きのある者で、それに籠を伏せて衣類を温めたり、又は僅かな香料を焚きこめたりして居たのが、後に在所に於て眞似をし始めた、これが炬燵の根元で無いかと自分は思つて居る。炬燵といふ厄介な二個の制限漢字と共に、この便法も亦禅坊主が發明したといふ説は、徹底を本旨として居た彼等の(43)名譽の爲に、實は自分たちの信ぜざらんと欲する所である。
 炭は足利時代の末の頃までは、京都の武家ですらなほ御馳走の一部分であつた。火箸で炭を挾むことを知らなかつたといふ話も傳はつて居る。若い時に或大家に奉公をして居た女性が、私は炭は手で取るものとばかり思つて居たといふのを聽いて、手が汚れて困つたらうにと不審すると、それではもう此節の炭は、油を引いて一つ/\紙で拭うては置かぬのかと、却つて喫驚したさうだなどゝ謂つて居るが、是も織田信長の料理人の逸話と同じく、成上がり武家の俗惡を冷評した所の、所謂一つ話の一つであらうと思ふ。
 要するに炭はもと趣味のもので、自然天然の寒氣が促して之を製産せしめたものではなかつた。本來深山の奧を出でゝ先づ一旦は町城下の生活に參加し、それから再び逆戻りして徐々に村里に入込んだことは、金銀水晶などゝ其徑路を一にして居る。明治時代の都府文明の大飛躍、此に歸伏し渇仰した人の心、それを繋ぎ合せた船車の新交通が無かつたら、恐らくは今日の製炭傳習も無く講話も無く、遙かの國から炭燒さんも入つて來ず、村では依然として圍爐裏の焚き落しを限度として昼日中から炬燵で轉寢をするやうな、淋しい人生を展開することが出來なかつたであらう。昔も今も偶然の外部の變化に刺戟せられ、出來合ひの境遇に囚はれ又は引摺られて行くことは、人間の誠に氣の毒な一つの癖であつた。
 
       夢は新たなり
 
 奧州で津輕栗原信夫、羽前の最上、それから信州木曾の園原などに於ては、炭燒藤太は必ず金賣吉次の父であつた。山に入つて炭を燒くことが因縁を爲して、他日萬福長者の第一世となつたといふ土地の口碑は、この廣い區域に亙つて共通である。今日の山小屋の寂しく薄暗い炭燒生活を知つて居る人々に、一人として斯んな莫大なる將來の幸運を(44)想像し得る者があらうか。しかも先年自分がほゞ證明し得た所では、南は沖繩の島まで分布する同一の昔話は、何れも炭燒が自ら之を發明し且つ携へあるいて、處々の山國の雪の中の住民にも語つたらしいのである。即ち彼等は一種の職業的空想家であつた。
 それといふのが本來木炭の用途が、原則として家庭日常のものでなかつたからである。狸か何かの皮を縫ひ合せて、大なる踏鞴《たたら》といふものを作り、それを足で踏んで盛んに炭の火を起し、金屬を鎔解して色々の器物を造る人ばかりが、山に竈を築いて多量の炭を製するの必要を持つて居た故である。さうしてこの所謂作金者は、作業の性質から五人七人の小さな群を爲して、遠近の山野を廻つて原料を求め、又泉ある處に假屋を建てゝ、或期間その見馴れぬ工藝を人に見せて居た。カネは多分カナシといふ語と語原が一つで、英語の dear などゝ同じ意味を有つて居たのかと思ふ。技術上の門外漢たちが目を圓くして、最初の金屬の出現を見物した光景は、此一語からでも之を想像することが出來る。しかうして炭は正しく其記念物として金屋の去つた跡に殘さるべきものであつた。
 即ち物は眞黒で無風流であらうとも、非常に高尚なる聯想を伴なうたものであつた。手短かに言へば新文化であつた。筆者などの少年の頃に、家の前の村路が國道になつて、毎日々々牛車に石炭を積み、但馬の生野の官營銀山に運んで行く時代があつた。私の在所では石炭のことをゴヘダと呼んで居た。其ゴヘダの黒く光つた小破片を、牛車の過ぎた跡から拾つて來て、試みに火にくべて見た者も多かつた。さうしてあの香氣を非常に意味あるもの、何か歐米の文物に交渉あるものゝ如くに感じた人も自分のみでは無かつたのである。旅の鑄物師等が來て燒いた炭には、格別異な臭ひも無かつたらうけれども、其代りには彼等の歌、彼等の物語は永く耳に殘つた。村の住民の考へても見なかつた新天地が、之に由つて田舍へは持込まれたのである。
 
(45)       折り焚く柴
 
 火を焚けば話がはずむといふ原因結果は、よほど久しい大昔からの、不思議なる法則であつたらしい。前年和蘭のローレンス博士の一行が、二度目のニウギニヤ雪山の探險を企てた時には、色々考へた末にボルネオ内地の土人を人夫に連れて行つた。勇敢で從順で正直なことは申分が無かつたが、たゞ一つの缺點は夜營地で焚き火をさせると、火の有る間は話をして居てどうしても睡らないから、日中に居眠りをして困ることであつた。赤道直下の島に生れた彼等には、通例は火の必要は無い筈であるが、一たび高山に登つて榾火の夜の光に接すると、忽ちにして悠遠なる祖先の感覺が目ざめて、特殊の興奮に誘はれずには居なかつたのである。
 此點は酒などの效果もよく似たものであつた。酒にもし人をして歌はしめ、牛蒡を掘らしめる力が具はつて居るものならば、飲む者が悉くさう無ければならぬ道理であるが、世の中が開けるにつれて其樣な人は無くなる。つまり面白く笑ひ罵り、又は醉泣きすべき機會が、あべこべに酒盛りの日を待つて居て現れるだけである。日本に於ても昔話は冬のものであり、且つ夜分にするものときまつて居たのは、本來は必ず圍爐裏に火を燃す時の儀式であつた爲かと思ふ。即ち横座の主は家の火の管理者であると同時に、更に先天的に夜話の議長であり、且つこの傳統教育の學校長でもあつたかと思ふのである。
 故に家より外で焚いた火を炭にして、持込んで來るといふことは革命であつた。三寶荒神の信仰に統一の力が無くなつたことを意味するのみならず、炭に伴うて遠國の物語が、段々に入込んで村里の歴史を紛亂せしめたことを、推測することも困難では無い。西洋の國々では炭燒は無口な山人として床しがられて居るが、我々の中には反對の例が多い。例へば佐々木喜善君の江刺郡昔話などは、其大部分がかの郡から來て居た炭燒から聽いたものだといふ。東北(46)の山奧には思ひがけぬ地方から、入つて炭竈を築いて火を焚いて居る者が今でも多い。それから又一方には文藝や思想の上に於ても、ちやうど縣町村の計畫を以て、製炭技術の講習會を開催すると同じ樣に、縁もゆかりも無かつたことを教へられる場合が多い。家の火の祭壇は次第に其信徒と供物とを、失はざるを得ないわけである。
 
       舊文明の名殘
 
 所謂小正月わか年の晩には、豆や胡桃を火に燒いてそれを圍爐裏の灰の上に竝べ、十二ヶ月の晴雨吉凶を占ふことが、いつの世からとも無い我々の慣習であつた。然るに農作の不安は今も昔の儘であつて、獨り火の文明ばかりが際限も無く進展し、又成長しようとするのである。その舊式生活の別離に臨んで、責めて暫らくの炬燵趣味に、低徊せんとする人の多いのは自然である。
 併し結局は移つて次の火に進むべき時節の、既に近づいて居ることも亦確かである。然らば百年の未來の囘顧の日の爲に、我々は何を記念として留めて置けばよいのであらうか。長い大きな旅をして來た國民ではあるが、我々平民の足跡は思ひの外に幽かである。何も爲すこと無く過ぎて來たわけでは決して無からうが、あまり前途を見詰めて居た爲か、歴史にはまだ注意の及ばなかつた隅々が多い。このコタツ時代が今のまゝで終了するとしたら、又澤山の過去が永久に忘れられるであらう。
 今のうちに些しづゝでも考へて置いたらどんなものであらうか。或は是も下らぬ穿鑿といふものかも知らぬが、我々のこの毎日の生活には、小さな不可思議が充滿して居る。例へば炬燵の中で手を叩くことを、老人などの非常にいやがる土地が今でもあつて、それを何故かと尋ねて見ても、もう説明し得る者は一人も無いのである。炬燵は火の神の信仰に對して、明白に一つの叛逆であつた。正月松の内に圍爐裏に足を入れると、苗代に鷺が附くなどゝ謂つて叱(47)られて居たのに、炬燵では何の遠慮も無く、によき/\と突き出してあたつて居る。それにも拘らず、尚知らぬ間に以前からの約束を踏襲して、火の清濁の差別待遇を承認し、此火は食物の煮燒きなどに供用せぬことにきめて居た。手を叩くといふのも恐らくは荒神樣の禮拜を意味し、火の淨からぬ炬燵の中では、其行爲を嚴戒して居たものかと思ふ。
 しかも今日では火棚火鍵は元の黒光りの儘であつても、最早手を叩いてヒホドを拜む者は無くなつた。それだのに斯んな形式が迷信となつて殘つて居る。即ち古い信仰は、却つて革命家の手に由つて、保存せられて居たことになるのである。それを考へ又語り得る能力のある人が炬燵に凭つて靜かに雪中の日を送つて居る閑な時間に、なほ一度後世の學徒に代つて、この消え殘る上古の光と炎とを、辿つて見ることも意義があると思ふ。
 
(48)     北の野の緑
 
          一
 
 奧羽の天然を愛する者が、少し本意ないことに思つてゐるのは、夏の日の草木の緑色が、あまりに強烈で柔かみの無いことである。それは人口のまだ稀薄なためで、今にも大いに開けて赤土山の公園などが出來たら、別に中央部とかはることは無くなるだらうと言ふ人もあるが、必ずしもさうでなささうに思はれるのみならず、さういふ破壞作用を待つて居るわけにも行かぬ。
 東北の風光の美しいのは誰に聞いても紅葉の秋だといふ。それから後の冬木立の山野もよし、春は四峰の雪白水が充ち溢れて、蛙郭公の啼く頃の若緑も、永く待つたゞけに、人の心をとろかす樣にあるらしい。それが再び次の秋に移つて行くまでの數週間は、土地の人々には休憩であり晝寢であつて、必ずしも之を顧みるに足らぬのか知らぬが、生憎その時ばかりが旅行者の季節である。それも火酒を頓服するやうな都人式の急行納涼ならば、變化の少しでも激しいのを喜んでもよからうけれども、或はたゝずみ或は腰を掛けて、靜かに見て居りたい者には、少しくあの色彩が單調であり、また無情であるやうに感じないわけに行かぬ。
 あれは恐らくは日の光の效果か、又は氣中の水分の加減でもあらう。今一段と高い緯度に進むと、次第に此色が白々と、幾分輕く頼りなくなるやうに思ふことは、北歐羅巴をあるいた人の、誰でも容易に經驗する所である。太平洋(49)岸では仙臺松島を過ぎ、一望平遠なる沼澤地域に入らうとする頃から、緑の色のきつさ〔三字傍点〕が追々に眼に迫つて來る。時刻のせゐか空模樣かとも考へて見たが、何度通つても同じ感じで、行けば行くほど淋しさが加はり、終には一人では東北には來るものでないとさへ思つたこともある。
 
          二
 
 或は古人も心付いて居たのではないかと思ふ。もしさうで無ければ無意識に、この過多の涼味を加減することを企てゝ居た形跡がある。秋風ぞ吹くの白河を越えると、街道の並木の赤松が殊に多くなる。その松の幹の色が何ともいへない佳い色に赭くて、常に心を引かれることは恐らくは汽車で通つた人にも同じであつたらう。それから土地によると、兩側に長葉の楊樹《かはやなぎ》を栽ゑてあり、路傍の人家も努めて其蔭に寄つて住まうとしてゐる。この木の幹は又思ひ切つて黒い。さうして葉も少しばかり、他の木よりは緑が淡いやうである。その葉の間からちら/\と見える黒い幹は、單純ながらも風情のある配合である。並木は主として大雪の日の旅人に、路を導く爲のものと認められて居るが、そればかりの趣旨では多分無かつたらう。法令を以て並木に果樹を栽ゑしめた時代もある。夏の日の蔭は寒國に於ても入用である。但し楊は早く成長し早く老い、固より松の長壽なるに如かなかつた。それ故に今は奧州に於ても、若干の伐り殘しを見るだけになつたのである。
 それだけならよいが赤松もどし/\伐られる。自分等が物を覺えてから、奧羽の並木の拂下げられた例は多い。山林は風致林といふ名目を設けて保存しながら土木の官吏は豫算を捻出する場合に、いつでも心無く並木の老松の伐採を計畫する。さうして其跡へは滅多に栽ゑたためしが無く、況んや何を栽ゑようかなどは丸つきり考へぬことにして居るやうである。
 
(50)          三
 
 尤も樹を栽ゑることは近代の一つの流行だが、それは只個人の家のまはり、さも無ければ學校とか小公園とかの、一旦土を削つて地肌を見せた處へ、そんな土地にも成長するものを栽ゑるばかりで、廣い平原の大きい風景の調和などは、何人の任務でも無いから誰も考へない。十和田に七月末に行つて見ると、五月下旬の半ば解けた雪の間から、たつた一本の櫻が咲いて居た、前囘の時よりもまだ淋しい。いやなものだがせめて文化式赤瓦の家なりとも、そこらの湖畔にあればよいと思つた。花卷の温泉は萬事電氣づくめの新式遊覽地だが、山を眺めて居るといつも夕方のやうな氣持がする。何故に此山に百合の紅白、もしくは萱草のやうな赤い花でも取合せて見ようと思はぬのかと言つて見た。つまりは天然は無條件に、いつでも優しく美しいものと、妄信し得られた國の幸福である。
 實際また人間の力で、さう澤山の變化は加へられないのかも知れぬ。しかし東北の人の心持は、不思議に古くからの路傍の松柳に現れてゐたのみならず、それがなほ家々の庭前の花木、更に一歩を進めては娘たちの身だしなみの上まで、偶然ならず認められるのは、恐らく我々のまだ知らぬ眞實であらう。
 鹿角郡などの最も草深い田舍をあるくと、華やかな笑ひ聲よりも先に目に入るのは、働く女たちの躑躅色牡丹色などのかぶり物である。全身を現はして路をあるいて來るのを見ると、襷でも腰卷でも僅かな袖口でも、北地へ行くほど彩色が鳥に近くなる。斯うして若い人ばかりの注意を引付けようとする外に、自分が先づ緑の壓迫に堪へなかつたから、何とかして彩つて見る氣になるのかも知れぬ。それが無意識ながら弘い天然と調和して、夏の淋しさを柔らげ、又女性を缺くべからざるものにしたかと思ふ。
 數年前に私があるいたころは、外南部などには白い布の流行が認められた。夏の花の多くは小さいのに比べると、これは大きく動くから印象は深かつたが、それでも山吹や鮮かな藤色のやうな、快活さはやゝ減少するやうに感じた。(51)即ちあまりに一人々々の空想が自由になることも、土地の爲には幸福で無いやうに考へられるのである。
 
          四
 
 自然は勿論人が愛玩するために設けられたもので無い。南北極地の雪の野が、永久に眞白で一つの斑點も無い如く、ニュウギニヤの島などの縁樹海は、今なほ完全に我々に閉されてゐる。しかし人間は求めざれば止まぬ。ウオレェス博士の馬來多島海記の中には、幾度と無く花が無い、鳥や蝶があまりに少ないと歎思してゐる。奧羽を愛する旅人が、かの單調の緑の涼しさだけに、滿足し得ないのも理由があると思ふ。
 
(52)     草木と海と
 
       名所崇拜
 
 旅行者には好い旅行といふ記念は多いが、好い景色といふ語は却つて空に聞える。松島の海などは曾て小舟で渡つた日、沖から雨の横吹があつて、赤く濁つて騷いで居た爲に、今に自分はなつかしいと云ふ感じを抱くことが出來ぬ。折角來たのだからと宿に居て日和を待つだけの熱心の無かつたのは風流に反するかも知れぬが、暮春初夏の靜かなる日の光に手傳つてもらつてならば、松島ならずとも多くの島山は皆美しいわけである。兎に角に名所は我々に取つて、實は無用の拘束であつた。
 それよりも口癖のやうに海の風景を説く日本人が、支那の新古の畫卷などから趣味の教育を受けて居るのは存外なものである。窮天平蕪の野に家居する人民の、奇峰恠石を愛するのは自然の情でもあらうが、我々は谷の民だ。さうして又海から入つて來た移住者の末であり、盆地の窮屈に倦んで居る者である。濱に臨み岬の端に立つてまで、ひねくれた松の樹を歌に詠む義理は無い。松は海に親しい木ではあるが、殊に風の力に本性を左右せられ易い。野中の神の社などで出逢ふやうな自由奔放なる大木は、海邊に來ると見られない。たまには珍らしいといふのみで、氣の毒ながら木の畸形だ。濱の遊びの面白かつた名殘に、他に記憶し得る纏まつた印象も無い爲に、人が單に松だの岩だのに(53)由つて、聯想の目標をきめるだけである。耶蘇教で言ふならば十字架見たやうなものだ。
 海山は廣くのんびりとして居るけれども、我々の庭はせゝこましい。然るに斯ういふ松や岩を賞美する者がよく用ゐる褒言葉は、持つて行けるものならうちの築山にして眺めて居たいなどゝいふ、不心得な話である。いゝ畫を見ると眞に迫つて居るといふのはよいが、好い風景に對して畫の如しだの、畫に描くとも及ばずなどゝいふのは、よほど平凡なる天地に生を受けた大陸人の口眞似に外ならぬ。そんな人たちと風景の論をして見たところで、話の合はぬことは始から知れ切つて居る。
 
       紀行文學の弊
 
 風景は畫卷や額のやうにいつでも同じ顔はして居らぬ。先づ第一に時代が之を變化させる。我々の一生涯でも行合せた季節、雨雲の彩色は勿論として、空に動く雲の量、風の方角などは悉く其姿を左右する。事によると之に面した旅人の心持、例へば昨晩の眠と夢、胃腸の加減までが美しさに影響するかも知れぬ。つまりは個々の瞬間の遭遇であつて、それだから又生活と交渉することが濃かなのである。多分あの邊を旅行して見たら、好い機會が横はつて居るかも知れぬと、推測し勸説し得る場處は幾らでもあらうが、とてもそれ以上の約束を天然から徴することは不可能である。或は見物の方が甚だしく無我で、聞きしにまさるなどと感歎することがあつても、それは唯西行宗祇山陽拙堂等の、從順なる信者といふに過ぎぬ。
 いつ頃から用ゐ始めたか、日本には名勝といふ語があつて、近年法律を以て之を指定し保存することに爲つて居る。名所といふ俗語の音の轉訛では無いかと思ふ。兎に角に名勝は風雅道の靈場、文人傳の古蹟ともいふべきものだが、風景の方から云へば最も押しの強い押賣である。今更旅人の拘束せらるまじき舊法則である。所謂紀行文學の如き、(54)圖書館では地誌の部に置かれながら、如何にも狹い主觀の、獨斷的個人的の記述であることは、既に心づいた者が多いのであるが、名ある古人を思慕することが、無名の山川を愛する情よりも優つて居る國柄では、風景の遇不遇といふことが殊に大きな意味を持つ。水陸大小の交通路は固より、繪葉書も案内記も心を合せて、今古若干の文人の足跡ばかりを追隨させ、わけも無い風景の流行を作つてしまつた。風景自身に取つては寧ろ顧みられぬのは本意かも知れぬが、靜かに田舍に住んで天然の美しさを學ばうとする者の爲には、無用な誘惑であり又有害な錯亂である。
 天然の觀賞だけなりとも、責めて我々は態度の自由を保ち得たいと思ふ。都會人の具へた感覺の力の中で、やゝ精微を誇り得るのは舌と鼻とだが、それも煙草に荒されて今は稍衰へんとして居る。目と耳とに至つては最初から、概して田舍には及ばなかつた。さうで無くとも狹苦しい經驗の中から、彼等が發見したやうな風景の標準に、全國民が引廻されてたまつたもので無い。中央集權の腹立たしい壓迫の中でも、一番に反抗して見たいのは文藝の專制である。それも日本人を代表し得る優秀な創造力、乃至は親切周到なる觀察から出たものならまだしも、何かといふと外國の受賣をして、所謂つくねいも式山水を有難がるやうな連中に、風景を指定して貰はうとする客引根性は止めにせねばならぬ。それが最も眞率に此國土を愛するの道である。
 
       松が多過ぎる
 
 日本固有の平民文學に於て、最も豐かなものは共同の詠嘆であつた。五人七人の感動を同じくする群が、特に聲の清い舌の滑らかな一人に委托して、代つて眼前の情趣を詞章化せしむる場合に、必ずしも丁寧の敍述を要しなかつたのは當然である。殊に風光は到る處の岡や渚に、衆と共に樂しみ味ふべきものであつた故に、戻つて之を見ぬ人に傳へるやうな、物語の發達する餘地は無かつたのである。從つて文學が少數の才子に由つてもてはやされる世となれば、(55)その精彩の描寫は忽ちに彼等多數の同胞を動かして、却つて異國の文人の好尚に盲從して、自分たちの景色を品評するやうになつた。其弊や既に朗詠古今の昔に始まつて居る。この久しいマンネリズムの穴の底から飛出す爲には、我々は最も勉強して旅を試み、又旅の試みを語らねばならぬ。白砂青松といふ類の先入主を離れて、自在に海の美を説く必要があるのである。
 自分は松の名所を以て世に知られた中國の一地方に生れ、殊に目に映ずる鮮かな緑、沖から通ふ風の響に親しみを持つて居る。しかも故郷に對する叛逆であらうともまゝよ、今以て全日本を通じて、海の歌海の繪とさへ言へば、是非とも松の木を點出しようとする古臭い行平式を憎むのである。内海の磯山松の他よりも一段と目につくのは、土や空氣の最初からの力もあらうが、やはり永年の松風村雨の致す所であつた。間近い都に鹽を燒いて供給を續けて居るうちに、何代と無く附近の林を伐つて薪にした。さうして土を流して岩の骨が露はれ、それが所謂御影石であつた故に、碎けて砂になつて濱邊を清くしたのである。海の景色は此あたりに於て最も著しい歴史の變遷があり、眞率に言ふならば以前の方が明かに美しかつた。今のやうな經濟生活の續く限り、遲かれ早かれ他の府縣の海岸も、次々に之とよく似た外貌になつて、結局は何人も文學の單調を非難し得ぬことになるか知らぬが、幸ひに現在はまだ土地によつて事情の變化が多く、從つて見馴れぬ風景がなほ保存せられ、我々をして再び省察せしめんとして居るのである。
 中國の海の邊をあるいて居て、見落すことの出來ぬのは海の草の繁茂である。歌に玉藻と詠んだのは又別のものか知らぬが、一種たけ長く幅の細い、例へば蘭の葉の如くにして表滑かなのが、岸に打寄せると忽ち白く枯れて、風の後などは堆かく積まれて居る。岸近く船で行くならば、必ず濱の松の緑よりも珍らしい光景を爲すことゝ思はれる。備前の邑久《おく》郡の入江なども、底は悉く此草で其間に海鼠が住み、小さなトロールは藻の上をすべりつゝ、其外に出た海鼠の限りをさらへて行くやうになつて居る。海が荒れる日は葉がきれて岸に寄り、追々に潟の上を埋めるらしい。西に開いた紀州の加太の湊なども、何處から吹寄せるか奧の方は此藻ばかりで朽ちた土は沈んで干潟となり、片端は(56)はや要塞兵の練兵場にさへなつて居た。諸國の入海の岸に住む民が、玉藻を苅るといふ昔からの手業は、之を何の用途に充てたのかを考へて見た者も無いらしいが、それは恐らく田に入れて土を新たにする爲であつた。さういふ隱れたる海の交渉も、今は亦既に絶えてしまつたのである。
 
       自由な花
 
 海の草は磯の香といふものゝ元らしいが、浪に打寄せられて枯れ朽ちる時で無いと、旅をする者の目に觸れることが稀である。天草下島の魚貫《をにき》といふ濱近くに、夕日の最も美しい舟渡しがあつた。一丈餘りの水底は一面の草原で、絶えず靡いて居る植物の間から、色々の小石の光つて居るのが、恰かも花などの如く見えて居た。佐渡の島の東北端、鷲崎といふ靜かな澗も、水澄んでさま/”\の藻が茂つて居た。越後などから燃料の雜木を積みに、小さな船ばかりが入つて來て繋つて居るが、晴れた秋の朝の船出などに、さし込む日の光を以て描かれる風情は、棹や櫂で掻亂するに忍びないやうな見事さであらうと思はれた。汐千に遠く現はれる東上總の磯の石疊は、ヒジキの薄緑が地の色を爲し、其隙々にトサカノリの幽かな紫を交へて居る。南の島に行くに隨うて、隱れ岩には次第に花やかな彩色を加へるやうだが、鷲崎の湊のあたりには冷たい潮が通ふ爲か、藻の緑は殊に深く、且つ葉の廣い北海の種類が多かつた。
 佐渡も海府の果まで往くと、地上の草にも人間の跡がまだ少ない。彈崎《はじきざき》の燈臺から西は、浪打際までが多くは草の原で、遠く近く咲く花には取分けて珍らしいものも無いが、何れも自然の聚落を爲して、此郊外の秋の野の如く入亂れては居なかつた。畠ならば三反五反の廣さが、一面に紅か黄か、それ/”\一種一色の花を以て覆はれた光景は、例へば紫雲英の田のやうであつた。無始の自然が此樣に播き且つ育てるのである。願《ねげ》の賽の河原に接して大野龜といふ龜の形をした孤丘が海に突出して居る。船路の目標でもあれば、帆前船の風の變り目にもなる爲に、?船方の唄の(57)中に歌はれて居る。此小山が裾野からてつぺん迄、自分の通つて見た時には一面の萱草であつた。少しの白百合野茨を除けば山全體があの黄がかつた朱色の花模樣で、をかしな話だが毎年の帝展に、屏風一杯に柿の實などを描く人の、丹念さを想ひ出すやうであつた。最も忘れ難いわすれ草の記憶である。
 牛は盛んに放し飼ひをして居るが、全體に佐渡はまだ草の豐かな島だから、此樣に花と花との間に、領分の境が出來て相爭ふのであらう。それに人間が干渉をして、前栽と名づけた僅かな叢に七草を雜居させて見たり、甚だしきは一鉢の平たい土器に、小さくして悉く花を咲かしめようとする。世の調和といふ事業の中には、往々にして馬鹿々々しく無理なものゝあることを感ぜしめる。凡庸な無名の草が、群れて美觀を呈するのも案外なものであつた。百合などの花ばかり大きく立派で、其幹は痛いけに細く、風も無いのに姶終身を動かして、美を衒ひ知られんことを求めて居るのも、明るい海端の廣漠たる自然の中では、亦生存の必要であること、恰かも孤婦の装ひする如きものなることがよく解つた。
 
       鳥の極樂
 
 島である爲か、或は島の片蔭である爲か、佐渡の海府にはまだ幾つもの古い風景が殘つて居る。海に迫つた山の端の斷崖には、六月潮の緑を背景として、薄桃色の石楠花が咲いて居る。阪を越える村人等は其の艶麗なる耀きに堪へず、思はず一枝を折つて、手に持つてやがて又棄てゝ行く。船から此花を見て行くやうな山は、もう日本には他に無からうかと思ふ。
 それから島の西岸を南へ進んで來ると、少しづゝ水際に平地が出來て、やがては五戸三戸の近世の移住者が、絶壁を背にして家を構へて居る。海の生産は一年の活計に足らぬので、何れも崖路を登つて高地の田を作るのである。紀(58)州の熊野なども同じやうに、沖から望めば一帶の沿海段丘であるが、佐渡での特色は屏風の如き山の端に、喬木の深く茂つて居ることである。山の田に灌漑した水の未が濁つた瀧となつて此間から海に落ち、無數の鳥類が傍に憩ひ遊んで居る。波濤の音に競うて聲は最も高く、全く人間の危害から遠ざかつて居る故に、其動作が至つて自在である。北の大陸から毎年渡つて來る者の、此島を中宿とするのは蒼古以來の習はしであつたらう。雪の越後に比べては冬も暖いが、海が荒れて風強く、人は皆小屋の中に閉ぢ籠る。其上に色々の木の實草の實が、今なほ豐かに供給せられるのである。自分等は斯ういふ地形を鳥の極樂と名づけて居るのだが、佐渡のやうにあらゆる條件を完備した極樂は、さう多くは無いやうに思ふ。
 東海道ならば由比蒲原興津の山々、燒津に越える日本峠のやうに、汽車の響と煙で小鳥を脅かし、更に色々の方法を以て捕獲を試みる處が、年を追うて増すばかりである。海邊の旅の寂しくなつた原因は、一つには禽鳥の零落である。保存法の制定が時おくれ、且つ周到で無い爲に、今日はもう捜して漸くに之を見出すまでになつた。大隅佐多の御崎山が、樹深くして木の實は珠を綴り、南から還るほどの鳥の群は、悉く此山に遊んで久しく留り、三冬連日の大舞樂場を現出して居ることは、曾て自分の驚喜して人に語らんとした所であつた。山の樹の成長は概して里人が伐つて薪に積むよりも遲いから、先づ通ひ易い海沿ひの林から、荒れて行くのは是非も無いことである。只幸ひにして魚附林の利害は、夙くから漁民の之を感じ知る者多く、之に次では宮島や金華山の他にも、島に鹿猿を保護するもの少なからず、又神靈のなほあらたかな御社では、森は下草まで大切に鎌を戒めて居た爲に、單に遠望のほゞ昔の姿を止むるのみにあらず、近づけば花あり樹の實あつて、此に遊ぶ鳥の歌も、幽かながら前代の歡喜を語るのである。但し斯ういふ境を拾ひ求める爲には、汽車や乘合自動車は僅かに半分の便宜である。村に草鞋を賣り、又は閑人の爲に小舟を漕ぎ路を案内する餘裕は、もう段々に無くならうとして居るのである。
 
(59)       砂濱の草
 
 歴史以後にも日本の海岸は大變な變化をした。土が流れて磯を埋めた區域が、落込んだ部分よりはずつと廣かつたかと思ふ。浪華から中國へ掛けての新田には中世まで白帆の船の走つて居たところが多い。大小の島々は塘に繋がれて陸地となり、其蔭を今は汽車が往來して居る。併し是と同時に砂濱の威力も段々に怖ろしくなつた。風は昔も強く吹いたのだが、吹寄せて積上げる砂小石は、近代に入つて益増加した。所謂長汀曲浦の風光の如きも、追々に改まらざるを得なかつたのである。
 草木は之に由つて第一の影響を受けた。今日空漠の荒濱に、生き殘つて居る草の花などを見ると、負けて還つて來た勇士を見るの思がある。日向の南の海岸を行くと、岩の蔭に隱れてなほ色々の南らしい植物が生存して居る。其間を縫うて繁茂する葵葉の牽牛花などは、恐くは中頃民家の園から遁げて出たものでは無く、我々がまだ此花を栽ゑて賞美しなかつた時代から、既にこの附近の天然を占據したこと、例へば熊襲隼人の如きものであつたらう。鼓子花なども今は畠に入り路傍に出で、やつれた可憐の姿を見せて居るが、それはたゞ埋没の災を避けんとして、海から遁げ去る後影であらうと思ふ。
 濱に這ふ植物としては、葉の表が平らで滑りよく、枝に力があつて花を支へるもの、例へば蔓荊の如きが永く生殖した。但し手に摘めば花の香は強烈に過ぎ、木の形も荒くれて居る爲に僅かに浦人が實を採つて枕に入れる位で、通例は之を顧みる者が無いのだが、中央部以西の海岸の風景には、松を除けば此物が最も多く參與する。三十年前に自分が此花を始めて知つたのは、參州の伊良湖岬であつた。千鳥の殊に多い砂濱で、廣々と東南の大洋に面して居る故に、薄暮が最も幽寂であつた。此間に微風に乘じて、僅かに香氣を送つて來るものが蔓荊で、土地では之をハマバウ(60)と呼んで居た。濱を匍ふこと時として一丈に餘り、小高い處から見下すと優美なる砂上の畫であつた。花の色は淡い紫で、青空に翳せば殆と消えんとする風情がある。今でも處々の海邊で立止まつては見るが、其實は樹の根の窪みなどに落ち集まり、少しの空中の水氣に助けられて、次々の血筋を用意するやうに見える。多分は吹上げの濱の擴がつて行く限り、未來の日本の浪打際の風光は、愈此植物によつて支配せられ、歌によまれた白菊の花などは、今に想像することも難くなるだらう。
 
       ?瑰の紅
 
 南部日本のハマバウに對立して、北に進めば則ちハマナスの花がある。支那では?瑰は苑中の物であるらしく、花の艶麗は遙かに蔓荊に優れて居るが、我々の間では曾て野生の境遇を出たことが無いやうである。汽車で海岸を走つて見ると日本海の方面では鉢崎鯨波のあたりからもう旅人の目を留めしめる。能登の磯山にも咲いて居るかと思ふが自分には確かな記憶が無い。山形縣に入つては鼠ヶ關三瀬の邊から次第に多くなり、果もなく北の方へ續いて居る。太平洋岸でも常陸を過ぎて、磐城の濱づたひをすると急に此花の群が盛んになる。福島縣では小此木君の力で、特にその生態と景觀とが報告せられたことがある。東北一帶の海の風景は、勿論?瑰を閑却しては之を談ずることを得ぬのであるが、如何なる法則が有るのか、其産地が妙に飛び/\で、例へば釜石宮古間の海治ひの路などは季節の稍終に近く通つて見たのに、此木に出逢ふこと甚だ稀であつて、北に進んで野田玉川のあたりの荒濱になつて、始めて處々に咲殘つた花の群を見たのであつた。
 全體に此木の多く在る處は、里や林を稍離れた、寂寞たる砂原が多かつた。風に吹き撓められた高山の匍松帶の如く、人の足も立たぬやうに密生して居る。由利郡の海岸などでは、防風用の松林の隙間から、紅の花がちら/\と見(61)えたこともあつたが、普通は孤立して自分の枝は無意味な茨である爲に、折角鮮明なる花の色も、傍の緑の葉と相映ずるやうな風情が無い。その代りには渺茫たる海の色日の光が際限も無く、幽艶の美を助けて居るやうである。八重の薄桃色の薔薇にばかり馴れた目には、古代な紅色の單瓣が、何よりもなつかしく感じられる。夏の北海の靜かな眞晝、白い長い沖の雲を此木の傍に休んで見て居るやうな心持が、まだ我々に殘されてある歌だ。
 ハマナスの根の皮は、採つて染料にして居る地方がある。北海道などでは實を貯へて食用とする土人が多く、寂しい旅の者ならずとも、親しみを感ずる木であつた。蝦夷の浦々にも到る處に大きな群があつたと謂ふから、夏場所の漁民等には、花の中に起臥した者も多かつたらうが、記録には取立てゝ其美しさを語つたものが無い。自分が旅中に見て來たのは、白糠以北の砂山から、釧路の港の後の岡などであつた。今は開けてあの頃の面影も無いか知らぬが、寒地に行くほどたけが高くなるのでは無いかと思はれた。砂地で無い原野にも、幾らも成長して居た。樺太ではアニワの灣内にも、オコツク海の岸にも澤山あつて、名は同じくハマナスであつたが、木の姿と葉の形が、共に内地の樣では無かつた。短かい夏の間に繁殖の營みを終るべく片枝は花が咲いて蝶などが來り遊び、其脇にはまだ小さい蕾もあるのに、一方は實が夙に熟して、綺麗な丹色を爲して垂れて居た。さうして大海の深緑が、昔から變らぬ背景であつた。
 
       合歡と椿
 
 濱に咲く花は此他にも幾らもあつたらうが、大抵は今は忘れて居る。僅かに殘つた記憶の中を捜すと、男鹿の突角の高地、八戸の後の山、津輕の十三潟の出口の野などでは、無數の蝦夷菊の野生を見た。花のたけは二三寸から五寸まで、淺々とした草生地に、此花のみが踏むやうに多かつた。是も紫は至つて淡く、少しく遠ざかれば葉の色と一つ(62)になつた。町では花畠に植ゑられて大きくなり、紅白いろ/\の變種も出來たが、同じ名で呼ぶのを見れば故郷の地も推測せられる。まだ見ぬ何れかの海邊にも、斯うして美しく咲き滿ちた處があるのだらう。
 海に臨んだ岡の片岨に、葛の葉の匍ひ渡つた處は方々にあつた。越後の海府なども汽車で夏通ると、山はこれ一色で杉も槲も覆ひ盡し、深紅の葛の花ばかりが抽け出して咲いて居る。山が荒れ始めると第二次の植物として、一時この蔓草の特に繁榮する時代があるのか、或は牧畜業の衰微などにつれて、斯ういふ偏重を招くものか。兎に角に是は大昔以來の、有りの儘の景色では無いやうに思ふ。
 樹の花では合歡の木。これも日本海岸の廣い區域に亙り、海を見る磯山の端に茂つて居て、同じ頃にやさしい花を著ける。裾のさびしい上を向いた花だから、少し高みから眺めるのが美しい。石川縣では或時代に防風林を造る爲に、松と混植すべく盛んに合歡の苗木を育成したことがあつた。今二十年も過ぎたらあの地方の、珍らしい風景に算へられると思ふ。
 それから椿の木は伊豆や熊野の村々では、餘りに有りふれて目にも留まらぬが寒地に向ふに從つて、次第々々に風景に參與して來る。東北六縣の海の邊で、椿の繁茂する例は存外に數多いが、中部日本のやうに、自在には野山人里に散亂せず、大抵は一處にかたまつて、殊に岬の端などに、出來るだけ海に近く成長する。それが氣仙の尾崎や唐桑、或は秋田の椿の浦のやうに、附近に比べて特に温暖な土地だけに、限られて居るのは言ふまでも無い。津輕方面では深浦の椿崎、小湊の椿山などが珍らしいものに傳へられる。後者は近年の保存法に依つて、天然記念物として指定せられたが、此等の分布が果して天然であるか否かは、必ずしも既に解決した問題で無い。果して純然たる自生であるとすれば、曾ては北地一圓に、平均氣温の甚だ高かつた時代を想像せねばならず、人以外の者の運搬としては、互の距離が稍遠きに過ぎる。しかも南人が北の國に入つて來るのに、其習俗信仰と共に、兼て崇敬する植物の種を携へ、適地を求めて之を養育したことは決して五穀實用のものに限らなかつた。椿も亦特別の樹木の一つとして、社に栽ゑ(63)家に移し、所謂園藝の先驅を爲した上に、若狹の八百比丘尼の如き廻國の傳道者が、手に持つ花の枝も多くは椿であつた。蝦夷が此地方を占領した昔から、特に後年神を祭るべき磯崎ばかりに、椿が自然天然に生育したものだと、論斷する必要は少しも無いのである。
 
       槲の林のこと
 
 話はやゝ北方に偏するけれども、是非とも言つて見たいのは槲の林のことである。皮革工業が此樣に發達する以前、自分等が知つてから後までも、北海道の平野は到る處此木を以て蔽はれて居た。開墾が進むと共に元の木はすべて伐られ、今は又新たなる栽培を要するに至つたが奧州の一角には却つてまだ昔の面影を存して居る。日本の槲は英語のオークとは別種であるか、畫で見るやうな大木の話をきかず、又歐洲の諸舊國の如く、神話古傳の之に伴ふものは少ないが、木葉に飯を盛つた簡素の世よりして、カシハは人生と濃かな親しみを持つて居た。それが後漸く初夏の節供の方式だけに、此葉を採るやうになつて槲の山も衰微した。或は庭前に之を栽ゑる家はあつても、純なる林相は漸く見ることが難くなつた。東京近くでは相州の奧の山に近頃になつて僅かに其植林が始まつた。
 ところが岩手縣では閉伊郡の北端に、普代の官有林といふのが海に臨む段丘の上に在つて、廣大な樹林であつた。六七年前に自分が通つた頃、世間の景氣に誘はれて賣拂はうとして居たから、是も今は杉扁柏に變つたかも知らぬ。それからなほ遙かに北に向つて、外南部の東通村には、人が忘れたかと思ふ純林が殘つて居た。それが又兼て想像もし得なかつた珍らしい海岸の風景を爲して居た。今はどうなつたか、重ねて尋ねたいと思つて居る。
とんと東北でよく見る高桑畠の通りで、今にも其邊から狗の聲、?の羽音がするかと思ふやうであつたが、勿論幾ら行つても家も畑も無く、その淋しさは山中以上であつた。
 海は此邊では廣大な砂濱を隔てゝ居る。樹林のはづれには小さな沼が、幾つとも無く一列に繋がつて居た。沼の岸を通るときには却つて心付かなかつたが、それは悉く昔の海の斷片であつた。地圖の上で見るとよくわかる。これから南方の小河原沼にかけて、曾ては一帶の長い潟であつたのが、砂に押付けられて萎縮して行くものと見えた。午後にこの猿ヶ森の村を辭して田名部に戻らうとする村境の峠の上から、今一度振返つて東の濱を見た時には、こんな寂しい又美しい風景が、他にもあるだらうかと思ふやうであつた。見渡す限りの槲の林に、僅かの村里などは埋れ盡して居る。切揃へたやうな緑の平面の外には、白々とした砂濱が横はり、外は大洋が荒れ狂うて居る。之とは反對に内側の、槲の林との堺には一列の靜かな小沼が、譬へばエメラルドを緒に貫いた如く、きら/\と光つて居た。畫にかくとしたら餘りに單純な、松にも巖にも縁の無い風景であつたが、自分としてはいつまでも忘れ得ない。
とんと東北でよく見る高桑畠の通りで、今にも其邊から狗の聲、?の羽音がするかと思ふやうであつたが、勿論幾ら行つても家も畑も無く、その淋しさは山中以上であつた。
 海は此邊では廣大な砂濱を隔てゝ居る。樹林のはづれには小さな沼が、幾つとも無く一列に繋がつて居た。沼の岸を通るときには却つて心付かなかつたが、それは悉く昔の海の斷片であつた。地圖の上で見るとよくわかる。これから南方の小河原沼にかけて、曾ては一帶の長い潟であつたのが、砂に押付けられて萎縮して行くものと見えた。午後にこの猿ヶ森の村を辭して田名部に戻らうとする村境の峠の上から、今一度振返つて東の濱を見た時には、こんな寂しい又美しい風景が、他にもあるだらうかと思ふやうであつた。見渡す限りの槲の林に、僅かの村里などは埋れ盡して居る。切揃へたやうな緑の平面の外には、白々とした砂濱が横はり、外は大洋が荒れ狂うて居る。之とは反對に内側の、槲の林との堺には一列の靜かな小沼が、譬へばエメラルドを緒に貫いた如く、きら/\と光つて居た。畫にかくとしたら餘りに單純な、松にも巖にも縁の無い風景であつたが、自分としてはいつまでも忘れ得ない。
 秋の初の頃であつた。自分は尻屋崎の燈臺を見て後に、山を越えて尻勞《しつかり》の昆布採る浦に泊り、翌朝は姉弟二人の小童を案内に連れて、猿ヶ森といふ部落を見に行つた。路は南へ三里餘の平地であつたが、日の照る午前十時前後なの(64)に、終に一人の通行者にも逢はなかつた。密林の端に小川が流れ、それを渡つて曲ると俄に明るくなつたので、心付くとそこは槲の林になつて居た。其樹の大きさも葉の樣子も、とんと東北でよく見る高桑畠の通りで、今にも其邊から狗の聲、?の羽音がするかと思ふやうであつたが、勿論幾ら行つても家も畑も無く、その淋しさは山中以上であつた。
 海は此邊では廣大な砂濱を隔てゝ居る。樹林のはづれには小さな沼が、幾つとも無く一列に繋がつて居た。沼の岸を通るときには却つて心付かなかつたが、それは悉く昔の海の斷片であつた。地圖の上で見るとよくわかる。これから南方の小河原沼にかけて、曾ては一帶の長い潟であつたのが、砂に押付けられて萎縮して行くものと見えた。午後にこの猿ヶ森の村を辭して田名部に戻らうとする村境の峠の上から、今一度振返つて東の濱を見た時には、こんな寂しい又美しい風景が、他にもあるだらうかと思ふやうであつた。見渡す限りの槲の林に、僅かの村里などは埋れ盡して居る。切揃へたやうな緑の平面の外には、白々とした砂濱が横はり、外は大洋が荒れ狂うて居る。之とは反對に内側の、槲の林との堺には一列の靜かな小沼が、譬へばエメラルドを緒に貫いた如く、きら/\と光つて居た。畫にかくとしたら餘りに單純な、松にも巖にも縁の無い風景であつたが、自分としてはいつまでも忘れ得ない。
 
       風景を栽ゑる
 
 自分は僅かに殘存する前代の天然をなつかしむ餘りに、稍不當に人間の改革を輕視したかも知れぬが、要するに日本人の考へ方を、一種の明治式に統一せんとするが非なる如く、海山の景色を型にはめて、片よつた鑑賞を強ひるのは宜しくない。何でもこれは自由なる感動に放任して、心に適し時代に相應した新たな美しさを發見せしむるに限ると思ふ。島こそ小さいが日本の天然は、色彩豐かにして最も變化に富んで居る。狹隘な都會人の藝術觀を以て指導し(65)ようとすれば、その結果は選に洩れたる地方の生活を無聊にするのみならず、兼ては不必要に我々の祖先の、國土を愛した心持を不明ならしめる。所謂雅俗の辯の如きは、言はゞ同胞を離間する惡戯であつた。
 意味無き因習や法則を棄てたら、今はまだ海山の隱れた美しさが、蘇り得る望がある。力めて施行の手續を平易ならしむると共に、若くして眞率なる旅人をして、今少しく自然を讀むの術を解せしめたい。人の國土に對する營みも、本來は花咲き水の流るゝと同じく、おのづから向ふべき一筋の路があつた。天然は始から、彼等に由つて破壞せられるやうに、用意せられてあるのであつた。しかも地理の學者は強ひて破壞と謂ふけれども、それは單に變更であり進化であつた。必ずしも装飾の動機を持たずして、人の加へた變更にも美しいものが多かつた。單なる人間味といふ點だけでも、荒野荒海の中に居る不安を、鎭め又和げる力がある上に、人の仕事は概して色彩の増加であつて、?之に由つて原始の一本調子に、快よい變化を與へて居たのである。
 だから日本の近世の風光にも、尚人間の干渉に多謝すべきものが多かつた。例へば農業は植物の種類を複雜ならしむる所の作業である。緑一樣なる内海の島々を切開いて、水を湛へ田を作り紫雲英を蒔き、菜種麥などを畠に作れば、山の土は顯れて松の間から躑躅が紅く、其麥やがて色づく時は、明るい枇杷色が潮に映じて搖曳する。雲雀や雉が林の外に遊び、海を隔てゝ船中の人が、其聲を聽くやうな日が多くなる。濱近くに多くの家が群がり住み、歌ひ笑ひ燈火を高く掲げなかつたら、月無き夜の濱の景色は、今よりも遙かに寂しかつたらう。伊豫の西岸には新たに山腹を耕して、桑を栽ゑる風が入つて來た。即ち桑の葉の若い緑は、珍らしい春色を此地方にもたらしたのである。
 其他舟を繋がんとする岸には垂柳を移し植ゑ、山に新道を開けば路の曲りには、小家を立て多くは若干の樹を栽ゑる。必ずしも海の入日の前に散り亂るゝことを期せずとも、自然に其樣な情景を催して、旅に倦みたる者をして佇立せしめる。自分などの生れた國では、花は山に入つて尋ねて見るもので、寺か社で無ければ庭前に之を賞する風は無かつたが、好事裕福の俗人が名聞の爲にでも、閑靜の地に家を構へ、若くは人が公園などゝ稱して、高い處を切り平(66)げて赤土にすると、そこに大抵は早く成長する梅櫻の類を栽ゑずには居ない。女や子供の立寄つて悦び見るばかりで無い。それがもし大海の岸に臨んで居たならば、海自身も亦その千古の寂寞が、かゝる無邪氣なる人間の遊戯に由つて、僅かに一展開せんとする形勢を悦ぶことであらう。
 
(67)     豆手帖から
 
       仙臺方言集
 
 仙臺の土井教授の夫人が、最も新らしい型の仙臺方言集を作つて我々に見せられ、又世上今日の奧樣方に、奧樣にも出來る仕事の最も上品な一例を示されたことは、一年經つたからもう忘れても可いといふやうな小さい功績では無い。外國には此方面に所謂男まさりの研究者が隨分有つて、自分等が僅かの調査をして得意にならうとする際などに、折々苦笑ひをして發奮させられるやうな本を著して居るが、日本では先づ一般にはなほ準備時代であるやうだ。方言とか俗信とか云ふ緻密な觀察の入用な學問には、髭の無い人の方が或は適するのかも知れぬ。どうか早く靜かなる一隅の努力では無く、皆で集まつてこんな問題でも討議するやうな國にしたいものだ。
 御婦人の御話に口を出すのは失禮だから、其流行の始まらぬ今の内に申して置くが、方言の問題で第一に決せられねばならぬのは、何よりも先づ「方言とは何ぞや」であらう。大學で聞いたので無いから確かでは無いが、東京の如き集合地に久しく居て見ると、首府以外の地で使ふのが方言だと、簡單にきめてもしまはれぬやうである。然らば古い形に最も近いものとか、又は最も多數の人に用ゐられる形とか、どう謂つて見た處がさう容易く、標準語が見出されるものでは無い。早い話が「然り」に該當する京都のへーが、九州の或地域のエーだのネーだの或は北東日本の、(68)ハイだのアだのを排擠して、標準と爲るだけの資格がどこに有るだらうか。
 其にも拘らず、果して單純なる大膽さの結果かどうか。地方の教育者の方言蒐集は、常に所謂匡正を目的として居つた。幸ひに成功はしなかつたが、之に由つていゝ加減乏しい國語の數と、言現し方の種類とを削減しようとした。しかも最も耳に附く發音法や抑揚には其力が及ばなかつたのである。假に方言匡正家の所謂標準語を繋ぎ合せて、物を言つて見たら如何であらうか。丸で書物で日本語を稽古した外國人のやうな感を、與へずして止まぬではあるまいか。同化の力としては恐らくは文學が最も有力であつたらうが、その文人とてもやはり多數の東京人と共に、漠たる見當に向つて絶えず我が言葉を矯正しつゝある、田舍出の諸君ではなかつたか。
 野鄙と風雅との境界線に就ては、將來も久しく大議論が續くであらう。併しそんな差別は我々の高祖も想像せず、末孫も感じ能はざる差別である。況んや一歩仲間から外れて考へると、同じ時代に於ても尚不可解で、我々はアイヌの社會に、沙留と石狩とがどれだけ異なるかを知らぬのである。方言で謂つて見ても事實は一樣で、如何によく似て居ても沖繩では琉球語を獨立した言語とし、與論島や鬼界島では方言と爲るのは、結局は「此で好いのだ」と思ふと思はぬとの差である。もつと適切に申せば笑はれる語、匡正したくなる語が方言である。從つて國民の結合が強くなつて、次第に顯著なる現象が方言、方言の注意せられるのも國運隆盛の一兆候と謂ひ得る。北米合衆國の國語はあの通り出處が明かで、仙臺語と東京語とよりも遙かに距離は近いが、何人が之を英語の方言と名づけようか。要するに笑ふと承知せぬ人々が、之を使つて居るから獨立した國語なのである。
 斯うなると標準語の決定と云ふことは、愈容易ならぬ問題に爲つて來る。例へば仙臺の語彙と用語法とを集めて方言集と題するのが、當を得て居るか否かゞ疑はれる。自分は仙臺に來るたびに此都會の都會らしさを感ずる。帝都でも無いのに森のミヤコと呼ぶのは、方言以上に感服せぬが、兎に角完成したる大城下町である。教育者はどうか知らぬ。其他は軍人でも商人でも、靜かに微笑しつゝ、些かの煩悶無しに仙臺辯を操つて居るらしく見える。さうして(69)少しは他國者の物言ひを笑つて居るらしくもあり、又永く住む者を同化する力も有る。まだ決して方言とは爲り切つて居らぬのである。源氏の夕顔の卷などを見ると、都人の田舍に制御せられたのも久しい昔からである。願はくは將來大に東北を振興させ、清盛の伊勢語、義仲の木曾語、六波羅探題の伊豆語鎌倉語、室町の三河語等の力を以て、今の京都辯を混成した如く、近くは又北上上流の輕快なる語音を廟堂に聞くやうに、少なくとも一部の仙臺藩閥を、東京の言語の上にも打立てしめたいものである。
 
       失業者の歸農
 
 東京大阪で失業々々と頻りに謂ふのは、新聞の誇張では有りませぬか。此村などでは近年隨分出て行きましたが、まだ一人も還つて來た者は有りませぬ。是が私を泊めてくれた家の、主人の方の疑問であつた。何だか知りませんが、一年増しに奉公人が少くなるのには困りますと謂つて、細君は頻りと立働いて居る。豐かな家庭でも款待の意味で、主婦が出て世話を燒くのは、質素な東北の舊家の慣例ではあるが、其爲ばかりで無いことは容易く想像し得られた。
 此邊などは如何なる人夫募集員が來ても、決して成功すべき土地では無い。出て行く者は毎に自分の考へから、例へば家の姉にしつかり者の婿が來たとか、母親が違ふとか、或は此よりも今一層微妙な感情から、居りたく無い故に出て行くので、非常に零落するか(小農にはもう零落の餘地も無いやうだが)、又は非常に立身しなければ、まづは還らぬ積りなればこそ、遠方へは往くのである。生活上の壓迫と謂へば他の地方も一つだが、拓くにも作るにも地面が無いと云ふ村里から、剰つて出て行く者とは事情が丸で別である。併しながら原因はいづれであつても、去らねばならなかつた元の村へ、滿期の兵卒や伊勢參りと同じやうに、用が無くなれば戻つて來るものとは、どうして又考へたのであらうか。自分等は時として此類の政治家の心持ちを疑ひ、或は知りつゝそんな氣休めを言ふのでは無いかとも(70)思ふ。さうで無ければ餘りに無識なる臆説である。移民を渡り鳥か何ぞの如く思つて居る。同情の無い話である。
 或は又製絲と織物の工場だけはよろしい。勞働者が多くは女だから、と云ふやうな説も有つた。女なればどうして元の村へ還るのか。又何をしに還つて來ると謂ふのであるか。十三四五から縫針の稽古もせず、稚ない者の泣く理由も經驗せず、同じ年頃の者とばかり笑つて日を送り、田植稻刈は勿論のこと、女房のする仕事は三分の一も知らぬ女を、普通の農家が何で嫁に欲しがらう。多くは戻つて來なかつたのと同じやうな、身の片付をするにきまつて居る。元に溯れば必要が有つて、村から外の工場に雇はれに出た者が、罷められて途方に暮れぬ筈が無い。町の長屋の女たちの内職を見ても分ることだ。輕々しく出たから輕々しく、原?快復が出來ると思ふのは、誠に無責任な遊民増加策で、且つ工場主の我慾を辯護する者である。
 おまけに所謂歸農は必ずしも目出たいもので無い。自分は痛ましい實例を知つて居る。越前灰帽子峠の口の秋生《あきふ》などは、男は鑛山の出稼が本業で、女ばかり多い淋しさうな村だ。其をどうして知つたか毎年大阪の工場から、一人に付何圓かの歩を貰ふ募集員が來たり、又は前に出た娘に手紙を書かせたりして、年頃の者を澤山に連れて行く。大阪からは中形の浴衣で寫した寫眞などが來るのに、山村の生活は荒くして且つ苦しい。山坂を登つて僅かな畑を作る爲に、肥料は小さな桶でちやぶ/\と肩に掛けて運んであるくと、時として若い嫁娘の黒髪に天下最惡の香水が滴ることもある。斯う云ふ中に著るしく目に立つのは、折々日向の障子を一枚あけて、色の蒼白い者が坐つて旅人を見て居ることである。此村では若い婦人が死んでいけません。三人や五人では無いのですと、駐在の警吏も惜しさうに語つた。一人も殘らず何かの繊維工業に働いて居た者だと謂ふから都市の埃の中に初めから育つた者よりも、空氣のよい山村の住民は、或は却つて抵抗力が弱かつたのかも知れぬ。折角の佳い風景の中へ、死にゝ還つて來たのは憫れだが、もし又中位の健康で永く村に居たらどうであらうかと、戰慄するやうな結果が想像せられたのである。
 人間が増してどうしても出るのが制止せられぬなら、永く行く先に落付くやうな方法を、是非とも考へて置いて遣(71)らねばならぬ。三月や半季の土工人夫などに世話をして、職業仲介の公務が完うせられたと思つてはならぬ。歸農も固より勞働の一機會ではあるが、棄てゝ置いても元の穴へ入つて行くと見るのは、恕し難い無理である。一旦あけ渡した空隙は必ず何物かゞ充して居る。別に新たに設けてやらなければ迷ふのが當然だ。當節は農民は何處へ行つても同じ農民である代りに、村に占領せられず村に利用せられぬ國土は殆と無い。有形無形の加入金を徴收せず、カリホルニヤ人と正反對の態度で、他所者を迎へるやうな村などは作らなければ自然には一つも無い。之を知らずに歸農を説く人は、氣の毒と云ふよりも寧ろ憎い。
 
       子供の眼
 
 目が心の窓だと云ふ諺は、旅をする者には一番よく分る。二十の紹介?五十の名刺を配つてあるくよりも、更に遙かに好都合なのは、自分の心の窓の磨硝子で無いことゝ、田舍の心の窓の風通しの良いことである。よく旅から歸つて、某地は人氣が善いの惡いのと云ふ人も、其確信を證據立てるまでに、多數の地方人と交渉又は取引をしたのでは無い。やはり口では言ひ現し得ぬ目の交通が、次第に空な感じと思はれぬまでに、強く其印象を與へるからである。電車や汽車の中でも色々な眼の光に接するが、其は主として草野を行くやうな變化の興味である。之に反して村里に入れば、其種類が略揃つて居るために、愈言語に代る程度に、濃厚に人を動かすのである。
 窓の譬を猶繰返すならば、旅人は別に所在も無い爲に、終始此窓に凭れて居るのである。其窓前を多數の内部を知らぬ建物が動いて行く。建物には各又窓がある。覗かずに居られぬでは無いか。又あちらでも窓の側に立つて居るらしい。勿論中で喧嘩をしたり晝寢をしたりして居るのも隨分有るが、元々斯ういふ旅人を見る爲に開けて置く窓だから、一寸でも利用しようとするのが普通である。全體に口の少ない社會だから、我々が言語を傭ひ又は耳を利用する(72)やうな場合にも、人々は目の窓だけで濟まさうとする。從つて見る爲よりも見られる爲に、語る能はざることを語らんが爲に、田舍の眼は遙かに有效に用立つて居るやうである。都會の目は多くは疲れて居る。此方では澄んで居るから中の物もよく映るのであらう。民族性と云ふ程のものでは無いであらう。
 小兒には何十囘と無く、目を以て商賣を問はれ行先を尋ねられ、又は手に持つ本や煙草の名をきかれたが、別に其以外に其よりも交渉は淡く、人間としては遙かに有力なる宣言を、今度の旅行にも此眼を以て二度聽いた。石卷から乘つた自動車が、岡の麓の路を曲つて渡波《わたのは》の松林に走り附かうとする時、遠くに人と馬と荷車との一團が、斜に横たはつて休んで居ると見た瞬間に、其馬が首を囘して車を牽いたまゝ横路に飛び込んだ。小學校を出たばかりかと思ふ小さな馬方が、綱を手にしたまゝ轉んだと見た時には、もう其車の後の輪が一つ、ちやうど腹の上を軋つて過ぎた。それでも子供は眞直に立つて、三足ほど馬を追つて振返つて一寸此方を見て、腹を兩手で押へて又倒れた。反對の側の輪に力が掛つて居たともいひ、路面に深い凹みが有つて、恰も其中に轉んで居たからとも謂つて精確で無い。兎に角病院に連れて行かれて其時は助かつたが、只の一瞬間の子供の眼の色には、人の一大事に關する無數の疑問と斷定とが有つた。其中で自分に問はれたやうに感じたのは、折も折此刻限に、どうして爰を通り合せることになつたかといふ疑問で、其が又朝から色々の手配の狂ひ、計畫の數囘の變更が、ちやうど此場へ今我々の自動車を通らせることに爲つたのを、一種の宿命の樣にも取ることが出來たからである。
 中一日置いて次の日には、自分は十五濱からの歸りに、追波川を上つて來る發動機船の上に居た。大雨の小止みの間に、釜谷の部落を見ようとして甲板に立つと、曳船を頼むと謂つて濡れた舟が一つ、岸に繋いである處へ一群の人が下りて來る。石卷の醫者へつれて行く窒扶斯の病人と聞いて、事務員が面倒な條件ばかりを出すのを、一々首を以て承認して釣臺を擔いで乘らうとする。年とつた女が二人附いて來る。荷の輕さが子供らしいので、成るべく此窓だけは覗くまいとして居たのに、やはりはずみ〔三字傍点〕が有つて其子供と眼を見合せた。今昔物語に鹿の命に代らうとした聖が、(73)獵人と松明の光で見合せたと云ふ類の遭遇で、殆と凡人の發心を催すやうな眼であつた。多分は出水の川船の數里の旅行の後、石卷で亡くなつたことゝ思ふが、それは十一二ばかりの女の兒であつた。草の堤を稍下りに、船を見ようとして私を見付けたのである。眼の文章は詩人にも譯し得まいが、或は自分を醫者かと思つて、御醫者さんなら遠くへ往かずともすむのにと、考へたらしかつたのが哀れであつた。
 こんな場合でも無ければ、子供の眼は常に幸福である。よその多數の幸福を知らずに、安々とした眼をして居るのが、旅人に取つては風景よりも歌謠よりも、更に大なる天然の一慰安である。
 
       田地賣立
 
 吉川子爵は宮城縣の各郡に、大分の土地を持つて小作させて居られる。一寸意外のやうだが尋ねて見ると、相應に因縁は有るものである。特に興味を喚起す程の歴史でも無いが、つまり陸前低地の一帶に散布する巨大なる地主と、單に占有開始の年代を異にするのみと見れば間違は無い。迫《はざま》川の岸に接した一農湯は、細田氏と云ふ人が實際の管理をして居る。細田君は遠田の農學枚の出身で、自身も屈強な農夫である。六十町餘の田を五反八反づゝ、近村の農家に貸渡して、今では五町と畠一町を作るばかりだが、十年前には三十何町を自分で小作したこともある。有名な東北凶作の後、人の手が剰つて二百人三百人、日雇志願に押掛けて斷るに困ると云ふ有樣であつたから、多くの年季男も置かず、此ほどの大面積を三日足らずに植ゑた年も有つたが、明治四十二年を堺にして、不思議にぱつたり來なくなつた。しかも此縣には今なほ數人の年季雇と數百人の日雇とを働かせて、十町十五町の田地を自作する地主も稀では無い。年季雇の樣式には古風な點が多いさうだ。何時まで續かうかと地主自身も謂つて居る。日雇を使ふ方が追々増加するのは、至つて自然なる趨勢である。それには若干の小作地を與へて、附近に住附かせる方法もある。何れにし(74)ても雇傭の條件が面倒になれば、此次には小作が増加するであらう。
 小作は土地も惡いが、借料も中部日本と比べて低廉である。米價が昂つて小作希望者の競ひ進んだ時代にも、格別之を奇貨として引上げようとした地主は無かつたらしい。察する所大地主には小作人を離散させてはならぬ緊切な利害が有る爲で、從つて三流四流と爲ると其影響を受けて、純然たる小作收入では計算が立たず、自作をしようにも氣力と方法を缺くと云ふ類の中途に迷うて居る者が多いことゝ思ふ。それにも拘らず小作人の小地主になりたがる希望は近年却々強く且又之を促した原因も有つた。土地の糶賣は即ち是であつて、小民は寶物でも持つ考へで土地を欲しがる、如何に米が高くなつても、郵便貯金の利子にも足らぬやうな法外な金を拂つて迄も、多少關係ある田地を人に持たせまいとする。他府縣でも聞く反千圓の相場は、陸前のヤチ田にも稀で無かつた。よく言つても經濟知識の缺乏、惡く言へば病的の現象だが、どうせむだ使ひに棄てる金だからと辯護する人があるかも知れぬ。兎に角に斯うして手に入れた田なら、よく/\でなければ賣放すまい。つまりは誰かの希望のやうに、至つて確かな小農地主の出來たことのみは事實で、只それまでに土地の所有に戀焦れる者に、何とかして一反の金で二反の田を、持たせて遣りたかつたと思ふのみである。
 昨年の秋とかにも古川町の芝居小屋で、大規模の田の糶が行はれた。數週前から賣るべき田地を一筆毎に、所在番號其他を掲げて公告し、なほ印刷にも附して弘く廻したやうである。骨董品より始末の惡いのは、欲しい人にあきらめと算盤との無いことである。其上にまだ仲に立つ才取のやうな者が有つて、鞘を取つて賣るつもりで、一時買つて置いて又糶らせる。小さくすればする程高く賣れるとは當然の事ながら殊に氣の毒笑止である。斯んな例は決して二囘や三囘で無い。先づは米高初期以來の地方的流行であつた。一時中絶して居ても又起るに相違無い。地主に取つても利益のことでは無く、門閥の大木に根廻しをするやうなもので、もし其賣上金が紙數ばかり多い此頃の株券にでも變つて居れば、あまりに覿面な結果であつた。社會から謂へば自作の出來ぬ地主などは無くてもよいが、評價の一點(75)だけには何としても遺憾が有る。今十年も待たせて置きたかつた。
 或は此縣の土地事業を中止した荒井泰治氏が、持地を處分した方法が眞似られたので、同氏を此流行の鼻祖とすると云ふ一説もある。夫は多分荒井氏が慧敏で且つ時々は兩國の美術倶樂部などに行かるゝ爲に立つた噂であらう。東北地方で參考にするなら、何も清辰の輩を煩はさずとも、附近に若駒の糶庭と云ふものがある。之と比べて違つた所は僅かに一點、駒では賣主が愚直の農民で、買手が横着慾深の馬喰なるに反し、田では買手が更に無思慮な小作人であることである。
 
       狐のわな
 
 「なアに、あの木は皆胡桃ではがアせん。此邊でカツの木と謂ふ木でがす。燃すとぱち/\とはねる木でがす。
 「櫻はもう見られなくなりました。元は此山などは、春になると花で押しけへすやうでがした。今の人たちは花の咲くまで、おがらせて置かないから分りません。
 「獣かね。當節はもう不足でがす。なんにー、鹿なんか五十年も前から居りません。元は貉が出て豆を食つて困りました。狗を飼つて居て、よく?み殺させたものでがす。
 「其内に狗が年イ取つて、齒が役ウせぬやうになつてしまひました。横濱のアベ商店に賣つてるとつて、機械を買つて來て使つて居たのでがす。なんにー、三寸くれエの、眞中に圓いかねが有つて、ちよいと片つぽの足をのつけると、かたりと落ちるやうになつた、虎挾みと謂つたやうなものでがした。ベイコク製だと謂つて居りやした。十年も使つてゝ何と、此春しよう〔三字傍点〕分を受けて、御上さ取上げられてしまひやした。
 「惡いこつたと知つて居れば、匿すのは造作も無かつたのでがす。二月に其機械で狐を二匹捕つて、すぐに町さ持つ(76)てつて賣りました。さうすると飯野川の警察から喚びに來たから、何だかと思つて往つて見ると、罰金を五十圓出せばよし、金が出ねエなら五十日來て稼げと言ひます。
 「子供に金エ遣はせるでもねエ。おれもまアだ達者だ。往て稼いで來べいと申しやしたら、今まで一ぺんも牢に入つたことも無い爺樣に、七十にもなつてそんなことをさせたくねエから心配すんなと申しやしてね、持つて來て五十兩出してくれやした。
 「一どきに持てくに及ばねエ。切つて出してもいゝのだと、教へてくれた人もありましたが面倒くせエから皆出して來やした。さうか持つて來たか、そんだらをら裁判所さ屆けてやるべつて、よく顔を知つてる巡査さんが、書付を書いてくれまして、機械と五十圓とですんだのでがす。
 「あんなよく出來た機械は、もう無いだらうつて言ひます。法律が有るなら仕方が無い。只一ぺんは知らせてくれゝばいゝのに、惜いことをしました。
 「斯んな一軒屋に住んでるもんで世間を知んねエ。わし等ア別に此澤を開きに入つた者ぢや無いのでがす。二十年も奉公して居た旦那の家の桑畠が、元から爰にござりました。つまり桑の番人でがす。倅どもはそちこち出てしまふ。外に行く處も無い。婆樣が居なくなつたから、末の娘に飯を炊かせてエともつて、婿をめつけたのでがす。
 「さうでがす。喧嘩をしても仲裁に來てくれる隣が無いから、うつかり喧嘩アしられません。ハハハ。
 「是でも路端に近いので、時々人が寄つて來ます。あんたのやうな忘れ物をした人もあれば自轉車が毀れて困つた衆などが來てね。鐵槌は無いかだの、釘拔を貸せのと言ひます。中には空氣ポンプは無いかなんて謂ふ者が度々有りますからそんなに入用な物なら、おれは乘り樣も知んねエが、一挺買つておくがいゝとつて、置いてありますよ。
 「雷樣が急に鳴り出すと、きつと誰か驅け込んで來ます。雨が歇みさうにも無いと、傘を貸すこともあります。
 「なアに、大抵は通るのは知つた人ばかりだ。一ぺんだけ一昨年、だまくらかして持つてつた人があります。飯野川(77)のよく行く店の若え衆だと言ひました。買つたばかりの傘だが、まだ其頃は安かつた。夫でもあんまり久しく屆けて來ねエ。町さ出た序に廻つて貰つて來べいとつて、おら自分で行つて見ました。さうするとさう云ふ人は居ねエつて言ひましてね、全く店の名をかたつたのでがした。遠方の者だらうと云ふこつてす。おれは此年まで、石卷までもめつたに出ねエ者だが、おれの馬鹿なことはよつぽど遠くまで聞こえてるといつて、家で笑つて居たことでがす。
 
       町の大水
 
 宿に着く頃までは、雨はひどかつたが靴の汚れる程の路でも無かつた。其が遲い晝版を食ふ時分には、向側の町役場の前で人聲がして、出て見ると救助の小舟を物置から擔ぎ卸して居る。愈水が來るかなと思ひながら、風呂を知らせて來たから往つて入つた。番頭はよく話をする。それでも後には水の話になつて、今年が七年目ださうですからなどゝ、少しは心配さうである。
 髭などを剃つて居るうちに、外はもう暗くなつた。ちやぶり/\と水の音をさせて歩く者が有る。最初は子供がわざと水溜りを通るのかと思つて居るうちに、段々と音が大袈裟に爲る。手摺の上から西東の通を見ると、町は早家々の燈火が映るまでになつて居た。其うちに大掃除の時のやうな音が下でする。疊を揚げ出したのである。空いて居た隣の室に、病人づれの下の客が引越して來て、溜息をつきながら床を取つて居る。困つた困つたなどゝ云ふ聲が聞えたがやはり程なく自分と共に、闇を透して水の樣子を見ようとして居るのである。向の町役場には高張がつき、提灯が折々出入りをする。
 翌朝眼を覺ますと、もう手水場にも行かれぬやうになつて居た。町の水は下手から流れて來る。本流が高くなつた爲に、其へ吐き出す筈の水が皆戻つて來るのである。色々の板切れなどが浮いて上手へ行く。此方の樣子は柳が蔭に(78)なつて却つて見えないが、向の家々は二階の雨戸を少し開いて、何れも無邪氣な小兒の親が、二つ三つづゝ覗いて居る。飲水の手桶を庇の屋根に上げた家も有る。坊主頭に鉢卷をした爺が、竹を杖に突き着物を臍の邊までまくつて、三度も四度も水の中をあるく。これが何をするのかは終に分らなかつた。
 やがて各種の筏が通行する。巡査や消防方も澤山に出て居る筈であるが、他にも急場が有ると見えて、根つから姿が見えぬ。此邊に來るのは非公式の筏ばかりである。縁臺を裏返したのもある。又何とも知れぬ板や棒の類を急ごしらへに括り合せたやつで、途々材料を拾ひ上げて改造しようとする者もある。盥舟も幾つか出て來る。全體に取敢へず出て見たと云ふ風で、二階から眺めて笑ふやら、笑はれて急にふざけ出すやら、筋向ひの金滿家の屋根では、小旦那が上つて寫眞を撮る。小僧が頼まれて可笑しな風で乘りまはす。誠に呑氣な災害で、何だか面白づくの顔付が多い。偶々用の有りさうな人は、却て筏も無く衣物を高く揚げて水の中を渉つて居る。
 隣室の女の病人は近在の人ださうだ。欄干に近よつて自分も笑ひながらだが、村ならこんな事は無い。百姓は一生懸命なものだ。我家が早く片付けば、ちつとでも人の分を手助けしようとする。だから後でがつかりするのだなどゝ、頗る所感を述べて居る。それを平氣で聞きながら、番頭や女中も客と同じやうに、長い衣物で水の流れるのを見て居る。あゝもう村のやうな水は飲めないと、不意に病人が歎息する。なるほど斯うして濁流を眺めて居ると、自分等にもそんな心持が起る。
 此出水は一日だけで、夜の中に宮城縣の方へ引いて往つてしまつた。翌朝は町に足駄の音が聞え、日はかん/\と照つて居る。早速汽車に乘つて出て見ると、市街が乾し物で大騷ぎであつたに反して、在方では麻畠も桑畠も眞白な泥の下に爲り、どうして元の美しさに復らうかと案じ煩ふ如くに見えた。第二の町では出水が一層急であつた爲に、被害は數倍の甚だしさであつた。橋が墜ちて其袂の大きな家は、土臺石が流れ柱が傾いて居る。濡れた籾や玄米が二三石分ほども路の上に干してあり、腕組みをした人が何人も其附近に立つて居る。其でも早その橋跡の小川の岸に來(79)て、屈托の無い顔で釣をする者が若干ある。村であつたら實際後から突飛ばされたかも知れぬ。
 
       安眠御用心
 
 どうしても寢られぬ晩があつて、斯んなつまらぬ事を考へた。
 宿屋の表二階と云ふやつは風情の多いものだが、蚤の多い晩だけは賛成しかねる。殊に東北では雨戸を立てないから、凡そ町中の一夜の出來事は、悉く枕頭に響いて來る。先づ皿小鉢の甲高な音樂がすむと、女中の叱られない家なら赤ん坊が啼く。表を締める前に一しきり、涼みがてらに路を隔てゝ向の家と話をする。若い衆が笛を吹いて通る。わさ/\と何處でか立話の聲がする。早起の家の起きる時刻と、宵つぱりの家の寢る時刻との間が、夏は誠に短い短夜で其間に狗が吠える。鷄なども決して目覺し時計のやうに精確なものでは無い。電燈の結果か東京では十一時頃にも鳴く。此町でも一番鷄が一時前だ。散々羽ばたきをし且つ鳴いて置いてから、彼等は又ぐつすりと寢るらしいのである。本當に憎いやつだ。
 肉や卵の目的が無かつたなら、何で斯んな動物を飼ふかを疑つてもよいのである。然るに此以外に、寺に頼んで一時間毎に鐘を撞かせる。夜番と稱して折角靜かな雪の晩などに、間斷なくどならせる、拍子木を叩かせる。自分等の解し得ないのは、之をしも名づけて町の平穩を保つ手段とすることであつて、殆と夜寢ることを平和以外の事業と見て居るかとさへ恠まれる。「眠よ何故に我を見棄てし」と、歎息した王樣が一人でも既に有つたとすれば、もう此現象は一の社會問題であつた筈で、さうしてまだ解決せられては居らぬのである。
 歴史に溯つて見ると、警戒は生存の一要件であつて、又團體生活の提供する一大便宜でもあつた。雁や海鹿は一個の代表者に警戒の責任を負はせ、他は皆寢るから勞力の經濟のやうだが其代りには時々襲はれて打殺され且つ食はれ(80)る。人が森に住んで猛獣までを敵にして居た時世には、靜かなる眠は最大の危險であつたから、乃ち火を焚き之を取圍んで色々の話をして、所謂睡魔の來り侵すを防いだ。人類にこの夜番と云ふものが無かつたら、多くの面白い傳説は傳はらなかつた筈である。南洋のボルネオなどは、赤道直下の常夏の國だが、其でも土人は山に入ると火を焚き、火を焚けば終夜話をして、少しも寢ようとしなかつたさうである。さうして晝間一人に爲ると、到る處に轉げ込んで休息するには困つたと、ローレンス博士のニウギニア探險記にも書いてある。
 つまり前代の我々は永く寢ては大變だから、成るたけ四邊近所を物騷がしくして置いたのである。蚤でも蚊でも必要な機關だ。曾て或老人が若い者に言つて聽かせて居た。もし蚊と云ふ者が居なかつたら、御前達はきつと外でばかり寢て、さうして身體を惡くするだらうと。此意味から言へば、蚤も亦天然無代價の枕時計であつて、只近世の鷄などゝ同じく、聊か時間の精確で無いのを遺憾とするばかりである。之を厄介物視するが如き輩は、果して國民中の零コンマの零々何%有らうか。多數の健全分子、即ち起きて居て些しく眠り、寢て居て些しく起きる必要の有る人々に取つては、夜暗に此類の觸覺聽覺の刺戟の有るのは、恰も白日の下に花有り胡蝶有る如く、寧ろ單調生活の芝生に於ける、一種飛石のやうなものである。
 然るに僅かばかり西洋の慣習を學んだ者が、いや鍵を掛けろの壁にしろのと、行はれもせぬ旅館改良論を唱へるのは、本末を誤つた紋附シルクハットの滑稽で原首相の所謂日本の國情に合せざる外來思想の一つである。個人警戒の必要を根絶するか、代表警戒の全責任を負うてくれるか、乃至は人民の過半數を不眠黨に編入し得た後で無ければ、そんな獻策は空想と謂ふものである。日本現在の諸制度は、今なほよく寢られて困る人々の爲に、出來て居るといふことを知らないか。
 
       古物保存
 
 陸中|人首《ひとかべ》の村長さんは、故千家尊福男に少し似た白髯の翁である。自分はこの無口な老人に一言をも費さしむることなくして、一目見て直ちにそれが沼邊氏の遺臣であることを知つた。即ち偶然に討死をしなかつた勇士の子孫である。人首の嶺の北は徑《こみち》に富んだ小友《をとも》の山地である。天下がもし亂れたとすれば徒らに麓の館に立籠ることは地形が許さなかつた。即座に峠を越えて隣領に、小勢を顧みず斬込まねばならぬ大切な切所《せつしよ》で、それ故にこそ所謂頼みきつたる宗徒《むねと》の面々を、伊達家でも此邊境には置いたのである。
 今日既に無用に歸したのは、單に過去の理想の壯烈さだけである。世の中が變つたとても、邑人が引續き舊物を敬愛するには些しも差支が無い。唯日本人が之を名づけて史蹟記念物の保存と謂ふ場合のみに、自分等には若干の異議があるのである。保存と謂ふからには棄てゝ置けば亡くなる物で無ければならぬが、萬人仰ぎ視るとも云ふべき人首唯一の話柄に、果して保存の必要が有るかどうか。高輪の泉岳寺が今の倍數ほどの借家を建て、同時に門前の御土産屋が一軒も無くなつたとて、府や市が石の榜示を立てなければ、四十七士の墓所の不明になる危險は無い筈だ。そんな事を言ひながら、冷淡な遠國人などの、氣が附かずに通り過ぎようとする者の耳を引張り、何でもかでも此話を聽かせようとするのではないかな。
 所謂訓育的效果に隨喜する一派の老人以外、古物保存には何の爲に保存するかの問題がある。我々の子孫は概括的には我々よりも賢い筈である。賢くなつて後猶考へて見ようにも、夙に其材料が亡びて居ては甲斐が無い。だから保存する必要があるものと我々は解して居る。さうすれば形の無い物より遙に消え易い。筆豆でも口豆でも無い人だけが知つて居て、今にも空間に飛び去らうとする多くの昔話が、この江刺郡の山村にも澤山あることを、自分は偶然に(82)も友人から聞いて知つて居るのである。然るに役場の報告の控を見ると、只館山と五輪峠とだけが注意せられて居る。あまり數が多過ぎて縣廳の趣旨に合はぬといふなら、其と取替へて此方を保存して貰ひたいやうな實例に次の如き話もある。
 竈神之由來
 昔々爺と婆があつた。爺は山に柴苅りに往つて、大きな穴を一つ見付けた。こんな穴には惡い物が住むものだ。塞いでしまつた方がよいと思つて、一束の柴を穴の口に押込んだ。さうすると柴は穴の栓には爲らずに、する/\と穴の中に入つていつた。又一束を押込んだが其通りで、それからもう一束もう一束と思ふうちに、三月の間に苅つた柴を、悉く穴へ入れてしまつた。其時に穴の中から、美しい女の人が出て來て、澤山の柴を呉れた禮を言ひ、一度穴の中へ來てくれと言ふ。あまり勸められるので、つひ入つて見ると、中には目の覺めるやうな立派な家が有り、其家の脇には爺が三月かゝつて苅つた柴が、ちやんと積重ねてあつた。御馳走になつて還つて來る時、此を遣るから連れて行けと言はれたのが一人の子供であつた。何とも言へぬ見とも無い顔の、臍ばかりいぢくつて居る兒であつた。是非くれると言ふから到頭連れて還つて家に置いた。あまり臍をいぢくるので、爺が火箸でちょいと突いて見ると、ぷつりと金の小粒が出た。其からは一日に三度づゝ突くと臍から金が出て、爺の家は富貴になつた。ところが婆は慾張りの女で、もつと多く金を出したい爲に、爺の留守に火箸を持つて、子供の臍をぐんと突くと、金は出ないで子供は死んだ。爺が戻つて之を悲んで居ると、夢に其子供が出て來て、泣くな爺樣、おれの顔に似た面を、毎日よく眼に掛る所に掛けて置け、さうすれば家が榮えると教へてくれた。子供の名前はヒヨウトクと謂つた。それ故に此邊の村々では今日まで、醜いヒヨウトクの面を木で作つて竈の上に掛けておき、之を江刺郡では「かまぼとけ」とも呼んで居る。
 
(83)       改造の歩み
 
 獺澤《をそざは》の佐藤氏は、農家で漁業家で且つ役場の書記をして居る。大きな昔風の家である。後の岡が一帶に海の際まで、無數の土器石器と之を使用した人々の埋没地であることを知らずに、久しい歳月の間之を耕して暮して居た。世の中の變らうとする近頃に爲つて、色々の學者が訪ねて來るやうになつたのださうである。
 十九年前の普請と謂ふが、元の地形に元の手法で、以前の材が多分に用ゐてある。栗の木其他の天然の曲線が眞率に利用せられ、殊に勝手の上の隅虹梁は立派な装飾である。江刺地方で童話に爲つて居る竈神のヒヲトコの木の面が、通例掛けて置かれる場處である。自分は此臺所に腰を掛けて、杵や臼の話をした。
 氣仙の村々に今も用ゐらるゝ手杵の功用を尋ねて見た。即ち上下に頭の有る眞直な杵のことで、我々が分り易い爲に、平素兎の杵などゝ名づけて居る所のものである。兎の杵は十何年か前に、天草下島の大江あたりで、麻紋附の不斷着の老女が使つて居るのを見て喫驚したまゝであるが、此邊の農家では今も只の普通の器具である。餅搗きには二本で搗くこともあると謂ふ。之に對して柄の長い方の杵を打杵と呼んで居る。打杵は重いからなどゝ謂ふのを見ると、是には大小の種類は無いものらしい。
 佐藤氏の土間には此以外に猶二通りの臼がある。曰く石の挽臼、曰く入口右手の地唐臼である。此新舊の雜居が可笑しいと思ふと、村には更に第五種の賃舂き臼屋が有ると謂ふ。爰は半島で流れが無いから所謂水車では無いが、電氣を動力にして多數の杵を動かして居るので、兎の杵が重寶がられるやうでは、此方は丸で御客が無さゝうなものだが、昨今又一つ開業すると云ふから、必ずしもさうで無いやうだ。
 本吉郡の大島でも、又唐桑の半島でも、ちやんと石臼が有るのに、手杵で豆の粉等をはたいて居る。譯を聽くと此(84)方が力が入らぬからよいとも、又は舂いて置いて後に挽くのだとも答へて一向に事情が呑込めぬ。さうかと思ふと舊盆の季節が近くなつたので、此等の在所から石油發動機の渡船に乘つて、娘や女房たちが何人と無く、毎日五升一斗の小麥の袋を脊負ひ、氣仙沼附近の水車小屋へ、團子用の粉を挽きに泊り掛けに渡つて來る。
 この複雜極まる?態は、見やうに由つては杵臼問題の討究に、萬人が心を傾けて居る結果とも謂はれるが、惡く評すれば文明を珍膳佳肴の如く考へて、一箸づつは嘗め試みる神農主義、譬へば此邊の何文堂の店に、日蓮大本忍術姓名哲學の類から、ローランやラッセルの白つぽい本迄が肩を並べて、色彩を誇つて居るのと一樣の現象とも言ひ得る。
 但し相州津久井の内郷村などでは、又別樣の話がある。村で生れた校長の長谷川氏は、十二三歳の頃まで家にヒデ鉢と稱して、松を焚いて燈火とする爲の石の平鼎を用ゐて居たのが、其からの廿四五年間に行燈からカンテラ、三分心五分心丸心のランプを經て、今はもう電氣を引いて昔の儘の勝手を照して居ると話された。しかも其最近の古物のヒデ鉢が、どう成つて了つたものか、村内に幾つも遺つては居なかつた。この氣仙郡の半島にも、ヒデ鉢とは謂はぬが松を焚く土製のランプは有つた。或は又毀れた鍋などをも利用して居たと云ふ。しかうして今や之を忘れ、もしくは笑はんとして居るのを見れば、篤實なる農民とても、決して物を昔にするの能力を全然缺いて居るのでは無い。只面倒にそんな事をする必要が無かつたまでゞある。
 伊豫の松山から道後湯へ通ふ電車は、今はどうか知らぬが以前は車内に煙草を許して居た。ひよつこりと乘り込んで來た草鞋がけの老人が、燧石を出してカチ/\と遣るのを見て、英國の一旅客は眼を圓くし、あゝ日本は是だから解し難いと感歎した。なに君の國だつて隨分十六七世紀の發火法を以て、今なほ色々の文物を「煮て食ひ燒いて食ふ」では無いか。しかも其保守主義がいつでも完全に手前勝手だ。我々の月中の兎の杵には、自慢では無いが其弊だけは無い。まあ御互ひに今すこし考へて見よう。
 
(85)       二十五箇年後
 
 唐桑濱の宿と云ふ部落では、家の數が四十戸足らずの中、只の一戸だけ殘つて他は悉くあの海嘯で潰れた。その殘つたと云ふ家でも床の上に四尺あがり、時の間にさつと引いて、浮く程の物は總て持つて行つて了つた。其上に男の兒を一人亡くした。八つに爲る誠におとなしい子だつたさうである。道の傍に店を出して居る婆さんの處へ泊りに往つて、明日は何處とかへ御參りに行くのだから、戻つて居るやうにと迎へに遣つたが、おら詣りたうなござんすと言つて遂に永遠に還つて來なかつた。
 此話をした婦人は其折十四歳であつた。高潮の力に押廻され、中の間の柱と蠶棚との間に挾まつて、動かれなくて居る中に水が引去り、後の岡の上で父が頻に名を呼ぶので、登つて往つたさうである。其晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたと云ふ。海上から此火の光を見掛けて、泳いで歸つた者も大分あつた。母親が自分と同じ中の間に、乳呑兒と一緒に居て助かつたことを、其時は丸で知らなかつたさうである。母は如何な事が有つても此子は放すまいと思つて、左の手で精一杯に抱へて居た。乳房を含ませて居た爲に、潮水は少しも飲まなかつたが山に上がつて夜通し焚火の傍にぢつとして居たので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃で胡麻あえのやうになつて居たさうである。其赤子が歩兵に出て、今年はもう還つて來て居る。よつぽど孝行をして貰はにやと、よく老母は謂ふさうである。
 時刻はちやうど舊五月五日の、月がおはいりやつたばかりだつた。怖ろしい大雨ではあつたが、其でも節句の晩なので、人の家に往つて飲む者が多く、醉ひ倒れて還られぬ爲に助かつたのも有れば、其爲に助からなかつた者もあつた。總體に何を不幸の原因とも決めてしまふことが出來なかつた。例へば山の麓に押潰されて居た家で、馬まで無事(86)であつたのもある。二階に子供を寢させて置いて湯に入つて居た母親が、風呂桶のまゝ海に流されて裸で命を全うし、三日目に屋根を破つて入つて見ると、其兒が症も無く活きて居たと云ふやうな珍らしい話もある。死ぬまじくして死んだ例も固より多からうが、此方は却て親身の者の外は、忘れて行くことが早いらしい。
 併し大體に於て、話になるやうな話だけが、繰返されて濃厚に語り傳へられ、不立文字の記録は年々に其册數を減じつゝあるかと思はれる。此點は五十年前の維新史も同じである。自分は處々の荒濱に立止つて、故老たちの無細工なる海嘯史論を聽かされた。是亦利害關係がなほ多い爲に、十分適切とは認められぬが、一般の空氣はやはり明治の新政と等しく、人の境遇に善惡二樣の變化の有つたことを感じさせて居るやうであつた。
 もつと手短かに言へば金持は貧乏した。貧乏人は亡くした者を探すと稱して、毎日々々浦から崎を歩き廻り、自分の物でも無いものを澤山に拾ひ集めて藏つて置いた。元の主の手に復る場合は甚だ少かつたさうである。恢復と名づくべき事業は行はれ難かつた。智慧の有る人は臆病になつてしまつたと謂ふ。元の屋敷を見棄てゝ高みへ上つた者は、其故にもうよほど以前から後悔をして居る。之に反して夙に經驗を忘れ、又は其よりも食ふが大事だと、ずん/\濱邊近く出た者は、漁業にも商賣にも大きな便宜を得て居る。或は又他處から遣つて來て、委細構はず勝手な處に住む者も有つて、結局村落の形は元の如く、人の數も海嘯の前よりはずつと多い。一人々々の不幸を度外に置けば、疵は既に全く癒えて居る。
 三陸一帶によく謂ふ文明年間の大高潮は、今ではもう完全なる傳説である。峯のばら/\松を指さして、あれが昔の街道跡と謂ふ類の話が多く、金石文などの遺物は一つも無い。明治二十九年の記念塔は之に反して村毎に有るが、恨み綿々などゝ書いた碑文も漢語で、最早其前に立つ人も無い。村の人は只專念に鰹節を削り又は鯣を干して居る。歴史にもやはり烏賊のなま干、又は鰹のなまり節のやうな階段が有るやうに感じられた。
 
(87)       町を作る人
 
 燒けてはならぬものは勿論外には多いが、取分けて大正年間に於ては、町などは火事に遭はせたく無いと思ふ。個人には恢復と云ふものが有る。町には只變化あるのみである。甲の町では一年越しの草原に、思ひ/\の假屋が淋しく伴を待つて居る。燒けて六年になる乙の都會に於ては、赭禿の土藏ばかりが僅に堅實の觀を保つて居る。街區整頓だの屋上制限だの、人の後から案出することは何でも皆斯うだが、亂雜を加へ狼狽の?を顯著にする以外に、些かも積極的の仕事をして居らぬ。自分はぐら/\とする三階の柱に倚り、氣の毒な下界を眺めつゝ、一夜の宿泊をさへ悔いた夕もあつた。
 其につけても世田米は感じの好い町であつた。山の裾の川の高岸に臨んだ、到底大きくなる見込の無い古驛ではあるが、色にも形にも旅人を動かすだけの統一があるのは、幸ひに新時代の災害に罹らなかつた御蔭である。板葺の、たつぷりとした妻入の家で、何れも障子の立つ二階に手摺を附け、屋の棟には勝男木の名殘と見える單純な装飾が、道路に面した一端だけに一樣に附てある。表から見れば立派な町屋であるが、住民の多數は實は馬を飼ふ農夫である爲に之に相應する支度がちやんと家の他の部分にはしてある。私は早天に一の民家の脇を通つて川原に下り、冷たい水に葛の花の流るゝを汲み、未だ萎まぬ對岸の月見草の野を望み、それから又第二の家の横手を還つて來たが、貧富の差は有つても家の作りは全く一つであることを知つた。即ち横を正面とすれば在方の農家と同じく、玄關と勝手口が並んで狹い庭に面し、厩と便所と物置とが各別棟で、其外に僅かの菜園が有る。要するに間口を狹く地割した爲に、住宅を横向にしたゞけである。
 東京の近くでも、府中以西の甲州街道などに、此形式の割地の一層簡單なものが有つて、あの邊に限り草屋が縱列(88)を爲して東に面して居る。但し是には町を爲すまでの變形は加へて無いが一定の長さの道路に沿うて、成るべく多數の民家を置かうとした努力の跡は見えて居る。佐渡の兩津の町なども亦一つの例である。此方は路地を更に細くして、其全部を屋根の下に覆ひ以前は冬分の舶置場も一緒にしたものか。海と湖水との兩側とも、殆と水の際まで一つ屋根を葺下して居り、町をあるけばどの家もどの家も、暗く細長い土間を通して、きらりと鮮な水の光が見える。それがあの町の美しい特色である。
 不吉な想像ではあるが、燒けたら是もどう爲るであらうか。家並に定まつた一つの型があつて、相持ちに揃ひの見事さを保たしめる原因には、勿論第一に屋敷割渡し其他の行政上の制限、第二には大工の流義の固定と云ふことを算へねばならぬが、此二者以外に更に隱れたる一條件が有つた筈である。其は平たく申せば多勢の力である。並の人のする事をせぬ者を憎む力である。協和などゝ謂ひながら、自分たちで選んだ役人を輕んじ、恩を掛けたら目下だと云ふやうな、封建的の考へ方をするものだから、役人の方でも鼻息を窺ふ政治をする。金持の氣の儘は今の町では大抵通つて居る。獨り祭禮の衣裳や花笠提灯ばかりでは無い。只一軒の店が道へ突出してショウウィンドウでも作れば、百千の家の前の雁木が無益になつてしまふ。ペンキ塗の高い家が一つ出來れば、雪を卸す共同組織が變更せられねばならぬ。北國の都會の年増しにいやになつて行くのは、火事の害と謂ふよりも、寧ろ旦那衆の勝手な趣味と謂ふ方がよい。
 東京は既にひどい土埃になつた。在所では何事も物遠い。我々が靜かに文明を味はひ得るのは、地方の都會が唯一つの頼みであつた。其が殆と何人の責任でも無く、水は汚れ市場は掃く人も無く、家々は眞似と虚僞との展覽會のやうになつて行く。町を作る人はもう永久に出て來ぬのであらうか。悲しいことである。
 
(89)       蝉鳴く浦
 
 今まで船室の疊の上を、ずる/\滑つて廻るやうだつた大うねりが、ちよつと眠つた間に丸で靜かになつて居る。起きて出て見ると、右手に茂つた山が有つて、盛にミン/\の聲がする。それほど陸近く汽船は入込んで來たのである。越喜來《をつきらい》の灣だと乘客の若い水兵が教へてくれた。
 眼の細い頬の紅いふとつた青年である。朝の暗い中から一人かた/\と、堅い靴で甲板を歩いて居たのは此先生に違ひない。船員は皆草履か徒跣、他の御客樣は悉く醉つて臥て居たから。しかもこの船に強い海の人までが斯んな事を謂ふ。水害さへ無けりや汽車で來るのだつた。釜石から山を越えてたつた六里だ。汽車が不通だと謂ふから鹽竈を廻つたら、まだるツこくて仕方が無いと。實際今日は天候の爲に、もう六時間以上も遲れて居るのだ。
 水兵の親たちは灣口に近い崎濱と云ふ部落に住んで居る。今日は舊暦の七日盆だ。餅でも搗くだらうと思ふ家が南向きの澤に、一軒も殘らず顔を出して居る。勿論彼の家の屋根も見える筈である。又見えて居るらしい顔付もして居る。今度で二度目の休暇ださうである。もう還つたも同じだ、嬉しいだらうと言ふと、更に其眼を細くして笑つた。
 わし等は他の者に比べると大分損です。慰勞と合せて十七日の休暇だが、往復に五日近くつぶれますと謂ふ。崎濱は汽船の着く浦濱から又一里二十五町ある。蝉の鳴く日盛りの山を、二つ越えて行かねばならぬ。それに又こゝの端舟の遲いことはどうだ。客も手傳つて無暗に喚ぶと、畠に出て居たかと思はれる屯田船頭が、泡を食つて漕いで來る。下りる荷物が廿三個で其半分が米、三分の一はサイダーや東北正宗の罎詰、それから客が一人、其客はもう小舟に飛込み、うねりの中で頻りと積卸しの手傳ひをして居る。どうしても人を貨物に殉ぜしむる航路と見えた。
 少くとも二者の取扱は同等であつた。幸ひにして多數が吐くほど醉つたからよいが、御晝の入港が夕飯まで遲れて(90)も、船には賣つて居る食物も無かつた。又御茶の道具も無いと謂ふ。子持ちの女が幽靈のやうな聲で、時々ボーイさんを喚んで居たが、水は終にくれなかつた。特等室には流石に水の罎が一つある。さうしてコップは無い。あきれたものだ。
 此ぢや寧ろ荷物に爲つて、しつかりと縛られて來た方がよかつたかと思ふと、彼等は必ずしもさほど偏頗で無かつた。荷物にもやはり敵はあつた。船員が遣つて來てハッチの蓋を揚げ、不意に明るい日影がさつと差込むと、御伽話で聽くやうな聲でチユウ/\と鳴き、船底を驅けあるくものがある。やちきしよう、西瓜を斯んなにかじつて居やがる。オヤ蓮の實も食つたなどゝ、如何にも興味ある發見をしたやうな聲を出す。
 船醉さへ治れば此方も無駄口ではひけを取らぬ。事務長さん、質屋には蟲喰鼠喰兩損と云ふことがあるが、船でもやはり「鼠喰片損の事」と云ふ張札でもして置きますかね。へいいや、張札は致しませんが、社の規則には何か書いてあるやうです。この鼠と云ふやつが惡戯なやつで、別に腹がへつたから食ふのでは無いのです。だからメリケン粉などは百袋とも一晩に穴をあけますといふ。はゝあ成程だ。鹽竈以北の海邊に住み、熱でも有つて西瓜を待つの輩は、折々はあの子持ちのおかみさんの如き泣聲を出して、さうして失望せねばならぬのだ。自分等だけでは無いからあきらめられぬことも無いやうだ。
 煙草の專賣でも同じだが、「いやならおよしなされ」くらゐ遣瀬ないものは無い。しかし日本の國民性は此點にかけては堅忍不拔で、多勢と共になら隨分いゝ辛抱をする。それからどうにも斯うにも成らぬ時は、所謂轉じて弱を示すの策も知つて居る。三陸沿海の鐵道などは實に深い智慧だ。此線の開通で他日地主の原始林が高く賣れ、清い溪流の岸で古いサイダーを賞することが出來るなら、言はゞ張儀を秦に遣つた汽船會社の御蔭である。どんな淋しい山でも澤山に隧道を掘つて居るうちには、金銀鑛に當るかも知れない。惡い石炭でも莫大に焚けば、鼠色の顔をした御客が岩や松を褒めに來るだらう。何度毀れても蜀の棧道のやうなものさへ造つて置けば、厄介な四面の海などは無いも同(91)然だ。茲に於てか始めて大陸的氣風を養成することが出來る。とでも云ふやうな事を考へて居るのでは無いかと思はれた。
 
       おかみんの話
 
 宮城縣では宿でも茶店でも、「おかみさん」と云ふ語が用ゐられなくて不自由であつた。もう其心配は無いから今度は其話をしよう。
 此地方では一般に、「おかみさん」と謂へば盲目の女である。めくらで迂散な職業の者と云ふことになるから、なんぼ標準語の權威でも、さう呼ぶには忍びなかつた。略して「おかみ」と謂へば勿論更に惡い。登米以北の舊仙臺領に於ては、區別の爲か「おかみん」と後を跳ねて居る。實用には何のたそくにも爲らぬが、話をするには此方を使ふと區別がつく。
 自分はこの「おかみん」の最も有力なる季節に田舍をあるいた。殊に新盆の家に於ては飛躍するさうである。何れの村にもはた町にも、概ね一戸以上のおかみんは住み、電燈が有れば電燈の光にも照されて居るが、洋服を着た人の眼だけはなか/\其所在に達しない。飯野川《いひのがは》の町で私の頼んだ老按摩は、儼然たる絽の羽織の、某翁とも名づくべき品格の盲人で、此町にもおかみんは居ますかねの問に對し、居るらしう御座りますなどゝとぼけたが、うまく弱點を突かれて無造作に落城した。
 咋日月濱まで同船したおかみんは、實に可愛い子供を三人も連れて往つた。おかみんは子を連れてあるく者と見えると獨語のやうに言ふと、左樣でござりまするか。御世話樣になつたことでござりましよう。あれは手前が娘でござりますと謂つてしまつたものだ。なアに聟が手前と同職でござりまして、當節は鳴子《なるご》へ稼ぎに參つて居て、留守が無(92)いとつて斷つたのでござりますが、どうでも來てくれと申すのであアして往きました。雨が降つてどうしたかと案じて居りましたなどゝ、忽ちにしておかみんの家庭の、甚だしく眼に乏しい事實まで教へてくれた。御世辭では無く此按摩の孫息子は、眼元の涼しい住い兒であつた。而うして其名は「あきら」。哀れな話である。
 「あきら」のアツパは聲の太く且つ嗄れた、聰明な二十八九の婦人であつた。大工の道具箱ほどな箱を、紺麻の風呂敷に包んで持つて居た。あの中に在る物を詳かにしたい爲に、大正年代の若い學者が二人以上、此年頃辛勞をして居るのだ。どこまでも運命的な箱ではある。盛岡近邊の「いたこ」は、あの中へオシラサマと謂ふ物を入れて居るよ。それは/\不思議な力の有るものだよ。聞いたことが有るかねと言ふと、按摩さん少しせき込んだ。オシラサマならば此邊のおかみも皆所持して居りまする。いや桑の木や何かで拵へるのは、道の上から申して正しいものではござりますまい。オシラは竹と極まつたものであります云々。さては桃生郡には竹のオシラガミがあるのか。是も亦一つの新發見であつた。
 老人の變な講釋を綜合すると、少なくとも此地方にのみは、巫女の Initiation の儀式はなほ若干の莊嚴を保つて居る。神附けと謂ふのは即ち是で、女がまだ女に成らぬ中に行ふ習ひとなつて居る。當日は界隈のおかみ達悉く集り、その若い盲女を中に圍んで祈り立てると、女の外形は最も力無く内部が最も充實するに至つて、手に持つ御幣が幽かに震動し始める。と師匠のおかみんが潮合を見て、我膝から床の上に押放し、どなた樣でござりますと問ふのである。之に答へて出雲とか稻荷とか、最初に名乘つた神が一生の守護神になることは、綾部も丹波市も同じことである。時にはどうしても神が憑かず、何度も日を擇んでやりなほすこともある。オシラサマは神附けが滯りなく終つた時に、師匠の作つて與へるものであるといふ。祭の日毎に美しい布で包み添へ、頭部は誰にも見せぬ「しん」が籠めてある。大切なものだと謂つたが何の意味かよく分らぬ。佐沼の高橋清治郎氏は小さな御幣だと言はれた。そんな實例も有るらしいのである。
(93) 但しオシラサマは持つてはあるくが、死靈の口寄には決して用ゐない。一年の中の或季節には、之を祭り又占を問ふことがあるらしいが、地方的に作法も變り結局詳しいことは分らぬ。自分は其後之を根問ひしようとして或村の村長に却つて詰られた。そんな事を知つて何になさるかと、あゝ村長さん、何の爲にもならぬ學問に、吾々は執心して居るのです。それは我々の道樂だとしても、村の人の方でも諦められぬ過去、見究められぬ將來のある限り、つまりは人間に盲目のある限り、おかみんの弓とオシラとは、そつとして置かれたら如何です。少なくとも御互ひの眼が、「あきら」の眼のやうに清く澄むまで。
   人の子の心のやみは果も無しつひの光を何に求めむ
 
       處々の花
 
 やちには到る處、盛りにめど萩が咲いて居た。東京近くの溝端で見るものに比べて、紅色が一層冴えて感ぜられたのは、種類に由るか、はたあたりの空氣の致す所であつたか。何れも廣大な區域を占めて、同じ群のみで自由に咲いて居る。折々は立止つて久しく眺めるほどの美しさであつた。
 百合は山野に在るものは既に實になつて居り、食用の鬼百合ばかりが村々に多かつた。どう云ふわけでか農家では、之を畠の中に少しづゝ離して栽ゑて居る。まだ穗の出揃はぬ粟生の中にもまじつて居る。稍苅頃に近く黒ずんだ陸稗の畑からも抽け出て居た。眼の醒めるやうな丹色である。殊に大豆は本年は上作で、まだ一枚も枯葉の見えぬ青々とした廣い耕地に、此花の幾群も日に照されて立つのを見ながら、茶店の縁などに腰を掛けて居ることは、如何にも贅澤なる休息であつた。冷氣に弱いのか北に進むにつれて、次第に百合は有つても花が少くなる。現在が消えて行くやうに感ぜられた。
(94) 秋草は之に反して南の方ではまだ花を見ることが出來なかつた。女郎花は姿ばかり、桔梗は僅かに蕾で、萩は野に剰るくらゐであつて、しかも只一樣に緑であつた。閉伊を二郡に區分する大澤木の峠路に於て、葛花の風情は初めて之を見た。海に迫つた片岨の、晴々とした長根である。浪板から登つて二里餘りで船越へ下りる。何箇處か大きな赤松が有つて目標とも蔭とも爲り、其間に僅かづゝの小川が流れ、流を渉る度に路は屈曲して居る。葛の花の盛んに散つて居たのは、斯う云ふ曲り路の角が多かつた。時としては仰いで見ても葉も見えぬことがある。日光を慕ふ植物で、蔓を托した木の頂點に行つて咲いて居る。散れば刻々に色が變るから、路面はおのづから紫地の錦であつた。
 宮古以北は野田の玉川のあたりまで、言はゞ一續きの大長根である。只是から流し出す山の水が多量な爲に、おりてはすぐに登る三四百尺の深い澤を、幾筋と無く設けて行人を惱ますだけである。遙かに過ぎてから振返つて見ると、見通す限りの海岸の丘が、上は一文字を爲して居る。莫大な秋の花を載せて居る臺地であつた。萩なども此高原では繚亂として咲いて居た。或朝は小雨に近い霧で、忽ち路に迷つて炭燒の澤に入つてしまつた。炭燒に教へられて小松林の近路を拔けて見ると、そこにも別の旅人が立止まつて牛飼に同じ路を尋ねて居る。十頭近い牛が大息を突きながら現れて來る。此塙を行けば松が一本有ると牛飼が言つた。ハナワは蝦夷語のパナワの名殘で、上の平らな丘のことを謂つて居るらしい。露が深いから是で拂つて行けと、二尺餘の木の枝をくれるのを、其にも及ばぬと元氣のよい青年だ。茣蓙をくる/\と身に卷いて、泳ぐやうにして前へ進んでくれる。其野原が一面に他の草も無く萩であつたのは風流だが、自分等は只面白半分に、古人が「珠にぬかんと取ればけぬ」などゝ謂つた露を、振飜しながら通つてしまつた。
 砂濱へ降りて見ると、往々にして低い?瑰の林叢がある。花は乏しく實は稍熟して、其下では蟲が鳴いて居る。北地の秋は此邊から寂しくなつて來るやうだ。米田《まいた》の山の裾には眞白な工場が一つ在つて、軌道が長々と其から濱へ通つて居る。さうして煙も昇らず又人も居ない。こんな處で何を運搬するつもりだらうか。さあ、大方「せきばく」で(95)も運ぶのであらう。
 斯んな事を言ひながら、我々が長根の旅の日は終つたのである。
 
       鵜住居の寺
 
 江戸では青山邊の御家人等が、近世まで盆の月には高燈籠を揚げて居た。將軍某駒場の狩の歸るさに、其光の晴夜の星の如くなるを賞でたと云ふ話が遺つて居る。それが多分御一新の變化から、一樣に軒先の切子燈籠と爲り、更に轉じては岐阜提灯の水色と爲つて、おまけに夏の央には引込めてしまふ故に、所謂秋のあはれまでが、今では此樣に個人化するに至つたのである。百年前の秋田領風俗問?答書の繪に見えて居る通りの昔風の燈籠は、陸中に入つてから次第に之を見掛けるやうになつた。寺の境内に立てた高い柱には、晝の間は白い幡を掲げて置く例も有るが、尋常民家の燈籠木に至つては、何れも尖端を十字にして、杉の小枝を三房結はへてある。以前は其木が必ず杉であつたことを、是だけでも示すのみならず、村に由ては今なほ天然の杉の木を、梢ばかり殘して柱にして居るものさへ有つた。
 今では不幸の有つた翌々年の盆まで、此燈籠は揚げる習ひに爲つて居る。空を往來する精靈の爲には、誠に便利なる澪標であるが、生きた旅人に取つては此程物淋しいものは無い。殊には白い空の雲に、又は海の緑に映じて高く抽け出でゝ立つのを見ると、立止まつては此等勞働に終始した人々の、生涯の無聊さを考へずには居られなかつた。閉伊の吉里吉里《きりきり》の村などは、小高い處から振返つて見ると、殆と一戸として燈籠の木を立てぬ家はない。どうして又此樣な夥しい數かと思ふと、やはり昨年の流行感冒の爲であつたのだ。
 佛法が日本國民の生活に及ぼした恩澤が、もし唯一つであつたとするならば、其は我々に死者を愛することを教へた點である。供養さへすれば幽靈も怖くは無いことを知つて、我々は始めて視S驅逐の手を緩め、同じ夏冬の終りの(96)季節を以て、親しかつた人々の魂を迎へる日と定め得たのである。合邦の淨瑠璃にも有る如く、血縁の深い者ほど死ねば恐ろしくなるものだなどゝ謂ひつゝも、墓を繞つて永く慟哭するやうな、やさしい自然の情を露し得ることに爲つたのも、此宗教の御蔭と言はねばならぬ。
 鵜住居《うのすまゐ》の淨樂寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺ださうなが、自分は偶然其本堂の前に立つて、しをらしい此土地の風習を見た。村で玉瓔珞と呼んで居るモスリンを三角に縫つた棺の装飾、又は小兒の野邊送りに用ゐたらしい紅い洋傘、其他色々の記念品にまじつて、新舊の肖像畫の額が隙間も無く掲げてある。其中には戰死した青年や大黒帽の生徒などの、多勢で撮つた寫眞の中から、切放し引延ばしたものもあるが、他の大部分は江戸繪風の彩色畫であつた。不思議なことには近頃のもの迄、男は髷があり女房や娘は夜着のやうな衣物を着て居る。獨で茶を飲んで居る處もあり、三人五人と一家團欒の態を描いた畫も多い。後者は海嘯で死んだ人たちだと謂つたが、さうで無くとも一度に溜めて置いて額にする例もあるといふ。立派にさへ描いてやれば、よく似て居ると謂つて悦ぶものださうである。斯うして寺に持つて來て、不幸なる人々は其記憶を、新たにもすれば又美しくもした。誠に人間らしい悲しみやうである。
 淨樂寺の和尚は此界隈の書家と見えた。凡そ街道の右左に立つものは、石でも木標でも一として同じ筆に成らぬものは無い。五山盛時の寫本の字を想はしめるすこし右擧がりの速い書體で、庫裡の障子まで悉く其反古であつた。月とか梅とか一字づゝは讀めても、文句の全體は校長にも判るまいと思ふやうな偈を、遠慮も無く何れの凡人の墓にも書いて立てゝ居る。足で米を磨ぐ禅僧の氣樂さが、殊に斯んな村では十分に許容せられて居るのである。此和尚は自分の寄つた時には生憎留守であつた。さうして女ばかり三四人の家族が、縁先に出て頻にまぶしの繭をむしつて居た。
 
       樺皮の由來
 
(97) 北に進んで外南部まで出ると、不思議に白樺の樹が影を見せないが、この樺皮の話もちやうど其邊から、知らぬ老人が段々多くなる。八戸ぐらゐが境のやうに思はれた。
 久慈から南、釜石から北、殊に閉伊二郡の村々に於ては、舊家と謂ふよりも名族と呼ぶよりも、カバカハの家と聞く方が解りが早い。少くとも門閥が何を意味するかを知らぬ人々まで、カバカハの尊いことだけは感じて居る。而も其カバカハの何物であるかに付いては、押して聞けば誤謬を語るかも知れぬ程、茫漠たる知識しか有つて居らぬのである。
 諸説を綜合した上で自分の推定した所では、カバカハは白樺の樹皮を利用した一種の紙である。寒い山國に於て發明せられたるパピロスであつた。極端なる簡易生活に在つて、楮の紙の手に入らぬ時代、尚是非とも後に傳へねばならぬものは、之を樺皮に描いて置いたのである。文字は之を讀み得る人が有つて始めて有用に爲るのだが、其よりも更に必要だつたのは阿彌陀樣の御影、乃至は六字の御名號である。後世の眼から見れば、弘法大師や慈覺大師の御後姿とも思はれる殊勝な善知識が、生を殺しては生を營む浦の民の境涯に墨の衣の袂をしぼり、さつと通り過ぎてしまつたやうなのが、此地方の昔の佛教であつた。野の未森の奧の人生は、結局は一卷の古い樺皮に依つて、救濟せられねばならぬ場合が多かつたのである。地頭の富が一寺を建立し、一?の本尊を安置するを得た以前、あの塚の松の木に名號の一軸を掛けて、村の者ばかりで死者を取置きしたさうだと云ふ話が、到る處に語り傳へられて居る。即ち當時の所謂頼うだ御方は、心の餓ゑたる者に精神上の夫食《ふじき》までも、貸し與へる風があつたらしいのである。
 關谷の武藤氏の家には近い頃まで、此樺皮のまだ何にも使用せぬものが何枚か有つた。それは/\精巧なものであつたさうである。而も地方に由つては、既に此樣な樹皮を利用した事をも忘れてしまつて居る。單に南無阿彌陀佛の掛軸が、古くなつて何遍と無く無細工に修理せられ、まるで白樺の皮見たやうになつて居るから、其でカバカハと謂ふのだと考へて居た人もある。
(98) 或は又何故なるかは知らず、カバカハは此古い一軸を掛けて、村の舊家で毎年營む所の祭の名だと謂ふ人も有つた。其祭は殆と例外も無く、舊暦の十月を以て行はれた。一家一族の外にかご子などゝ名づけて、此日は必ず來て拜をせねばならぬ人々が有つた。しかも寺の僧は之には與らぬので、御正體は佛號である場合にも、祭の式には宅神祭の名殘かと思ふ古い形を留めて居た。遠野の盆地などではカバカハは寧ろ異名で、通例はオクナイサマと稱へて居る。オシラ神とオクナイ神とは、必ず深い關係が有ることゝ思ふが、あまり問題が幽玄であつて、未だ其一端をも把へることが出來ぬ。
 唯我々の斷定し得る一事は、東北偏土の民間佛教が、もと淨土の念佛では無くして、眞言の念佛であつたことである。それから一向宗で所謂異安心、或は近世江戸で奇獄を起した御庫門徒の信仰は、何れも此地方に今も盛んなる「隱し念佛」の一分派で、實は密宗の秘密念佛の教理から、説明せらるべきものであつたことだ。此點にかけては久しい昔から、今に至るまで坊主たちは誠に無能であつた。其よりも樺皮を持つ程の舊家は、遙かに有力に人の魂を濟つて居た。些し學びに往つてはどうかと思ふ。
 佐々木鏡石君が近頃研究を發表した奧州の座敷童子も、やはり主として右の樺皮の家に居る。彼等は今日なほ小さな足跡を殘し、後姿を見せ、又は肌の透くやうな薄絹の袖を顔に當てゝ、燈火の彼方に坐して居ることもある。しかも何が因縁で斯くまで我々と親しい神に現れるかは謎である。鳥居龍藏氏等はよく好んで有史以前と云ふ語を使ふ。自分は其よりも世人が今少しく、有史以外を省みんことを希ふ者である。
 
       禮儀作法
 
 雪の頃に來て下さらなくつちやア何もならぬ。是れ覇氣ある東北人士の折々用ゐたまふ一拶である。はい/\此に(99)は一言も無いやうなものだが、實は此澤此野山に、雪の積つて寒うい位は、想像の及ばぬ程の別乾坤でも無い。其よりも夏中遣つて來たばかりに、曾て想像を試みたことも無かつたものを、どうです私は觀て還るのであります。
 昔は大黒樣の風呂に入つて居らるゝ所を描いて下さいと謂つて、畫工を困らせた人が有つた。成程あの副神の頭巾の下は、今以て明瞭ならぬ厄介な問題である。畫家にして同時に喜田博士で無い限り、引受けにくかつたのは尤もである。又或時大津の濱に於て、一尾の鹽鮭を肌に取匿して露顯した小冠者が、慨歎して斯う謂つたさうである。如何なる女御更衣とても、斯う素裸にして見たなら干鮭の一匹ぐらゐは出て來ようと。我々の皮相の果して眞相なりや否やを確めるに際して、假に伯龍が天女の浴みを窺つたまでの機會は無いにしても、切めては同情の眼を以て、奧州の奧の女を觀てあるかねばならぬ。殊に國民の主流が暑い南から來たとすればなほ更さうである。
 先づ第一に思ふのは、名前に囚はれる我々の癖である。風俗卑野なりなどゝ書く紀行家に言はせると、湯卷の上に襦袢一つ、細帶代りに前掛を締め、寒ければちやん/\をはおるなどと報ずるのが普通であらう。成程其通りで、おまけに斯んな失禮ななりでとも斷らぬやうだが、全體右に列擧した日本語は正しいか古いか。昔の語でならば多分は斯う言はねばなるまい。「民の女のキヌは、袖もたけもつとめて短くして、動作に便にして居る。下のモは必ず身を匝らせて居るが、上のモは時として身幅に足らぬこともある。秋の境の涼しい朝夕には、キヌの上に更に半臂を着る」と。
 第二の誤解は本末の顛倒だ、常にキヌの襟と袖とに花やかな帛を附けるのを、元來が襦袢だから身頃だけには儉約をした爲と見る人は、言はゞ自分のあたじけなさを以て他を推すもので、もし是が眞に見得であつたならば、つひぞ隱すことの無い部分に、恥を露はして置かう筈も無い。實際又二色の小帛を求め、わざ/\配合の趣を味はつて居るのである。古い女の衣裳に此類の仕立方は無かつたかどうか。少し調べて見た人だけに口は利かせたいものである。
 濱の女の前掛が四幅も六幅も有るのを訝る者も、やはり日本人が奈良朝から、祇園の仲居の如くであつたと思ふ輩(100)で話にならぬ。我々の母たちが皆脛巾を省き、足にまつはる所謂脚布ばかりで暮して居たとしたなら、とくの昔に手足は饅頭の如く柔かくなつて、到底朝比奈三郎や加藤虎之助は、斯邦には生れなかつた筈では無いか。
 流行と正風との論は、單に古池の徒のみの管轄すべきもので無い。東北の婦人がアニリン色素を悦び、モスリン紀州ネルに心を傾けるのは勿論流行であるが、末法の今日に至るまで、上下二つの裳を堅く身に纏ひ、出來合ひの人形のやうに只きればかりを節約したがる改良服論者を毅然として斥けて居るのは、即ち是れ正風の尊さでは無いか。其でもなほ芝居の女のやうな態をせねば無作法だと謂ふなら、勝手にそんな法律でも出すがよい。
 併し年を重ね月をへて、風俗が一定の範圍で變化をして居るのは、人が花などと同じからぬ快よい證明である。俗に三角とも稱する頭を包む帛は、紺が常の色で祭の日などには齡相當の色布を用ゐたが、四五年以來頻りに白が賞美せられる。其はよいが今一歩にして、手拭代用の姉さん被りに移つて行きさうな危險も有る。短い單の衣にも、白を好むものが北へ行くほど多い。黒の半臂を一樣に其上に着て、野路を群れて行くさまは繪であつた。下の裳にも今は紅を厭うて、濃《こき》山吹に染めた若い女が多かつた。白い衣にも草の野にも、誠によく映える色合だ。還つて來たか萬葉集。環のやうに巡るから、流行も亦憎むことができない。
 
       足袋と菓子
 
 草鞋が破れて小石が入つて困るので、小本《をもと》の川口の部落で買はうとしたら、驚くぺし紺絹キャリコの、小はぜが金、かと思ふやうなのしか置いてなかつた。そんなら土地の人たちは、草鞋に何を穿くかと氣を附けて見ると、多くは素足であり、然らざれば足袋とも呼ぶ能はざるものを縛り附けて居る。全く此邊の者には足袋は奢侈品で、奢侈品なるが爲に此の如き、想像し得る限りの最も柔かなものを特に擇ぶのであらう。メリヤスの肌衣なども、夏の最中に裏毛(101)ばかりを賣つて居る。同じ心理上の現象である。
 木綿の歴史は日本では至つて日が淺いが、田舍の足袋の起原は其木綿が行渡つてから、又遙か後である。多くの農家にはまだ祖父曾祖父の革足袋が遺つて居る。革足袋も足袋の中だが、僅かに人間の足の皮の補助をするといふまでで、汚さもきたなく、心を喜ばしむべきものでは無かつた。五尺三尺の木綿が始めて百姓の手にも入り、足袋にでもして穿かうと云ふ際には、やはり今日の絹キャリコに對するやうな、勿體なさと思ひ切りを、根が質朴な人々だけに、必ず感じ且つ樂んだことゝ思ふ。此點に於ては忍《をし》の行田《ぎやうだ》も攝津の灘伊丹と、功罪共に同じと言つて宜しい。
 酒の個人的又は家長專制的なるに反して、菓子の流布には共和制の趨勢と謂はうか、少くとも男女同等の主張が仄見える。しかももし年に一度のジヤガタラ船が、壺に封じて砂糖を運んで來る世であつたら、寒い東北の浦々まで、黴びたりと雖も蓬莱豆、蝕めりと雖もビスケットが、隈無く行渡り得る筈は無いのである。盆の精靈に供へる蓮の花の形の菓子がある。米の粉で固めて紅と青とで彩色がしてある。試みに食つて見るに程よく廿かつた。臺灣が我が屬地となつた御蔭に亡者までが怡ぶ。況んや生きて且ついとをしい人々が、互ひに此文明を利用せんとしなかつたら、却つて不思議だと言はねばならぬ。
 近頃の話である。或やさしい奧さんの宅へ、村でも瓢輕で知られて居る老人が、いつになく眞顔で訪ねて來て、是非おめエ樣に御ねげエ申してい事があると言ふ。此間隣の女隱居の病氣がむつかしいと謂ふ頃から、折々頼みが有る/\と言つて居たが、けふは酒の力を少しは借りたらしく、しかもなほ唇を乾かして思ひ入つて話をした。
 他の者に聞かせると、又何の彼のと評判にするからいやだ。親類でも無い者が見舞にも行かれぬが、おら、あの御婆さんには子供の時、足袋を拵へてもらつてひどく嬉しかつたのが、今に忘れることが出來ない。何と一つ此菓子の袋を、そつと持つて往つて上げて貰へまいかと謂ふのである。
 其が何でも死ぬ四五日前だつたさうである。枕元へ誰にも知らせずに菓子袋を持つて行き、靜かに此話をして聞か(102)せると、さも嬉しさうな顔をして笑つたさうである。さうして大きな涙をこぼしたさうである。子供の時分の事だからよくは覺えないが、そんなことも有つたか知れぬ。何にしても御親切は誠に嬉しい。悦んで居たと言つて下さい。有難く御馳走になつて往くからと言つて下さいと謂つて、心から感謝をして居る樣子であつたと云ふ。
 お婆さんの亡くなつてから、あアは言つたが御菓子はどうなつたらうかと、其と無く氣を附けて見たが、終に其袋さへも見えず、又孫たちも一人も知つた樣子が無かつた。多分は話した通りに、食べてしまつてから死んだことであらうと思はれた。
 
       濱の月夜
 
 あんまり草臥れた、もう泊らうでは無いかと、小子内《をこない》の漁村に只一軒有る宿屋の、清光館と稱しながら西の丘に面して、僅かに四枚の障子を立てた二階に上り込むと、果して古く且つ黒い家だつたが、若い亭主と母と女房の、親切は豫想以上であつた。先づ息を切らせて拭掃除をしてくれる。今夜は初めて還る佛樣も有るらしいのに、頻りに吾々に食はす魚の無いことばかりを歎息して居る。さう氣を揉まれては却つて困ると言つて、ごろりと圍爐裏の方を枕に、臂を曲げて寢轉ぶと、外は蝙蝠も飛ばない靜かな黄昏である。
 小川が一筋あつて板橋が契つて居る。其板橋をから/\と鳴らして、子供たちが追々渡つて行く。小子内では踊はどうかね。はア今に踊ります。去年よりははずむさうで、と謂つて居る中に橋向から、東京などの普請場で聞くやうな、女の聲が次第に高く響いて來る。月が處々の板屋に照つて居る。雲の少しある晩だ。
 五十軒ばかりの村だと謂ふが、道の端には十二三戸しか見えぬ。橋から一町も行かぬ間に、大塚かと思ふやうな孤立した砂山に突當り、左へ曲つて八木の湊へ越える坂に爲る。曲り角の右手に共同の井戸が有り、其前の街道で踊つ(103)て居るのである。太鼓も笛も無い。淋しい踊だなと思つて見たが、略これが總勢であつたらう。後から來て加はる者が、ほんの二人か三人づゝで、すこし永く立つて見て居る者は、踊の輪の中から誰かゞ手を出して、ひよいと列の中に引張り込んでしまふ。次の一巡りの時にはもう其子も一心に踊つて居る。
 此邊では踊るのは女ばかりで、男は見物の役である。其も出稼からまだ戻らぬのか、見せたいだらうに腕組でもして見入つて居る者は、我々を加へても二十人とは無かつた。小さいのを負ぶつたもう爺が、井戸の脇からもつと歌へなどゝわめいて居る。どの村でも理想的の鑑賞家は、踊の輪の中心に入つて見るものだがそれが小子内では十二三迄の男の兒だけで、同じ年頃の小娘なら、皆列に加はつてせつせと踊つて居る。此地方ではちご輪見たやうな髪が學校の娘の髪だ。それが上手に拍子を合せて居ると、踊らぬ婆さんたちが後から、首をつかまへて何處の兒だかと顔を見たりなんぞする。
 我々にはどうせ誰だか分らぬが、本踊子の一樣に白い手拭で顔を隱して居るのが、やはり大きな興味であつた。是が流行か帶も足袋も揃ひの眞白で、ほんの二三人の外は皆新しい下駄だ。前掛は晋からの紺無地だが、今年初めて是に金紙で、家の紋や船印を貼り附けることにしたといふ。奨勵の趣旨が徹底したものか、近所近郷の金紙が品切れに爲つて、それでもまだ候補生までには行渡らぬ爲に、可愛い憤懣が漲つて居ると云ふ話だ。月がさすと斯んな装飾が皆光つたり翳つたり、ほんたうに盆は月送りではだめだと思つた。一つの樂器も無くとも踊は眼の音樂である。四周が閑靜なだけにすぐに揃つて、さうしてしゆんで來る。
 それにあの大きな女の聲の佳いことはどうだ。自分でも確信が有るのだぜ。一人だけ見たまへ手拭無しの草履だ。何て歌ふのか文句を聞いて行かうと、そこら中の見物と對談して見たが何れも笑つて居て教へてくれぬ。中には知りませんと謂つて立退く青年もあつた。結局手帖を空しくして戻つて寢たが、何でもごく短い發句ほどなのが三通りあつて、其を高く低くくりかへして、夜半までも歌ふらしかつた。
(104) 翌朝五時に障子を明けて見ると、一人の娘が踊は繪でも見たことが無いやうな樣子をして水を汲みに通る。隣の細君は腰に籠を下げて、頻りに隱元豆をむしつて居る。あの細君もきつと踊つたらう。まさかあれは踊らなかつたらうと、爭つて見ても夢のやうだ。出立の際に昨夜の踊場を通つて見ると、存外な石高路でおまけに少し坂だが、掃いたよりも綺麗に、稍楕圓形の輪の跡が殘つて居る。今夜は滿月だ。又一生懸命に踊ることであらう。
 八木から一里餘りで鹿糠の宿へ來ると、爰でも濱へ下る辻の處に、小判なりの大遺跡がある。夜明近くまで踊つたやうに宿のかみさんは言ふが、どの娘の顔にも些しの疲れも見えぬのはきついものであつた。其から川尻角濱と來て、馬の食べ盡した廣い芝原の中を、くねり流れる小さな谷地川が、九戸《くのへ》三戸《さんのへ》二郡の郡境であつた。青森縣の月夜では、私は又別樣の踊に出遭つた。
 
(105)     清光館哀史
 
          一
 
 おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかつた宿屋はどこ。
 さうさな。別に惡いといふわけでも無いが、九戸の小子内の清光舘などは、可なり小さくて黒かつたね。
 斯んな何でも無い問答をしながら、うか/\と三四日、汽車の旅を續けて居るうちに、鮫の港に軍艦が入つて來て、混雜して居るので泊るのがいやになつたといふ、殆と偶然に近い事情から、何といふこと無しに陸中八木の終點驛まで來てしまつた。驛を出てすぐ前の僅かな岡を一つ越えて見ると、その南の阪の下が正にその小子内の村であつた。
 ちやうど六年前の舊暦盆の月夜に、大きな波の音を聽きながら、この淋しい村の盆踊を見て居た時は、又いつ來ることかと思ふやうであつたが、今度は心も無く知らぬ間に來てしまつた。あんまり懷かしい。ちよつとあの橋の袂まで行つて見よう。
 實は羽越線の吹浦象潟のあたりから、雄物川の平野に出て來るまでの間、濱にハマナスの木が頻りに目についた。花はもう末に近かつたが、實が丹色に熟して何とも言へぬ程美しい。同行者の多數は、途中下車でもしたい樣な頚付をして居るので、今にどこかの海岸で、澤山にある處へ連れて行つて上げようと、つひ此邊まで來ることになつたのである。
(106) 久慈の砂鐡が大都會での問題になつてからは、小さな八木の停車場も何物かの中心らしく、例へば乘合自動車の發著所、水色に塗り立てたカフェなどが出來たけれども、之に由つて隣の小子内が受けた影響は、街道の砂利が厚くなつて、馬が困る位なものであつた。成程、あの共同井があつて其脇の曲り角に、夜どほし踊り拔いた小判なりの足跡の輪が、はつきり殘つて居たのも爰であつた。來て御覽、あの家がさうだよと言つて、指をさして見せようと思ふと、もう清光館はそこには無かつた。
 まちがへたくとも間違へやうも無い、五戸か六戸の家のかたまりである。この板橋からは三四十間、通りを隔てた向ひは小賣店のこの瓦葺きで、あの朝は未明に若い女房が起き出して、踊りましたといふ顔もせずに、畠の隱元豆か何かを摘んで居た。東はやゝ高みに草屋があつて海を遮り、南も小さな砂山で、月などゝは丸で縁も無いのに、何で又清光館といふやうな、氣樂な名を付けてもらつたのかと、松本佐々木の二人の同行者と、笑つて顔を見合せたことも覺えて居る。
 
          二
 
 盆の十五日で精靈樣のござる晩だ。活きた御客などは誰だつて泊めたくない。定めし家の者ばかりでごろりとして居たかつたらうのに、それでも黙つて庭へ飛び下りて、先づ亭主が雜巾がけを始めてくれた。三十少し餘の小造りな男だつたやうに思ふ。門口で足を洗つて中へ入ると、二階へ上れといふ。豆ランプは有れども無きが如く、冬のまゝ圍爐裏のふちに置いてあつた。それへ十能に山盛りの火を持つて來てついだ。今日は汗まみれなのに疎ましいとは思つたが他には明るい場處も無いので、三人ながら其周圖に集まり、何だかもう忘れた食物で夕飯を濟ませた。
 其うちに月が往來から橋の附近に照り、そろ/\踊を催す人聲足音が聞えて來るので、自分たちも外に出て、ちやうど此邊に立つて見物をしたのであつた。
(107) 其家がもう影も形も無く、石垣ばかりになつて居るのである。石垣の蔭には若干の古材木がごちや/\と寄せかけてある。眞黒けに煤けて居るのを見ると、多分我々三人の、遺跡の破片であらう。幾らあればかりの小家でも、よくまあ建つて居たなと思ふほどの小さな地面で、片隅には二三本の玉蜀黍が秋風にそよぎ、殘りも畠となつて一面の南瓜の花盛りである。
 何をして居るのか不審して、村の人がそちこちから、何氣無い樣子をして吟味にやつて來る。浦島の子の昔の心持の、至つて小さいやうなものが、腹の底から込上げて來て、一人ならば泣きたいやうであつた。
 
          三
 
 何を聞いて見てもたゞ丁寧なばかりで、少しも問ふことの答のやうでは無かつた。併し多勢の言ふことを綜合して見ると、つまり清光館は没落したのである。月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出て居て還らなかつた船がある。それに此宿の小造りな亭主も乘つて居たのである。女房は今久慈の町に往つて、何とかいふ家に奉公をして居る。二人とかある子供を傍に置いて育てることも出來ないのは可愛さうなものだといふ。
 其子供は少しの因縁から引取つてくれた人があつて、此近くにも居りさうなことをいふが、どんな兒であつたか自分には記憶が無い。恐らく六年前のあの晩には、早くから踊場の方へ行つて居て、私たちは逢はずにしまつたのであらう。それよりも一言も物を言はずに別れたが、何だか人のよさゝうな女であつた婆さまはどうしたか。こんな悲しい目に出會はぬ前に、盆に來る人になつてしまつて居たかどうか。それを話してくれる者すら、もう此多勢の中にも居らぬのである。
 
(108)          四
 
 此晩私は八木の宿に還つて來て、巴里に居る松本君へ葉書を書いた。この小さな漁村の六年間の變化を、何か我々の傳記の一部分の樣にも感じたからである。假に我々が引續いてこの近くに居たところで、やはり卒然として同樣の事件は發生したであらう。又丸々縁が切れて遠くに離れて居ても、どんな出來事でも現はれ得るのである。が斯うして二度やつて來て見るとあんまり永い忘却、或は天涯萬里の漂遊が、何か一つの原因であつた樣な感じもする。それはそれで是非が無いとしても、又運命の神樣も御多忙であらうのに、此の如き微々たる片隅の生存まで、一々點檢して與ふべきものを與へ、もしくはあればかりの猫の額から、元あつたものを悉く取除いて、南瓜の花などを咲かせようとなされる。だから誤解の癖ある人々が之を評して、不當に運命の惡戯などゝ謂ふのである。
 
          五
 
 村の人との話はもう濟んでしまつたから、連れの者のさしまねく儘に、私はきよとんとして砂濱に出て見た。そこには此頃盛んにとれる小魚の煮干が一面に乾してあつて、驚く程よくにほつて居た。その澤山の莚の一番端に、十五六人の娘の群が寢轉んで、我々を見て黙つて興奮して居る。白い頻冠りの手拭が一樣に此方を向いて、勿體無いと思ふばかり、注意力を我々に集めて居た。何とかして此人たちと話をして見たら、今少しは昔の事がわかるだらうかと思つて、口實をこしらへて自分は彼等に近よつた。
 ?瑰の實は村の境の岡に登ると、もう幾らでも熟して居るとのことであつた。土地の語では是をヘエダマと謂ふさうで、子供などは採つて遊ぶらしいが、わざわざそんな物を捜しに遠方から、汽車に乘つて來たのが馬鹿げて居ると見えて、あゝヘエダマかと謂つて、互ひに顔を見合せて居た。
(109) 此節は色々の旅人が往來して、彼等をからかつて通るやうな場合が多くなつた爲でもあらうか。うつかり眞に受けまいとする用心が、さういふ微笑の蔭にも潜んで居た。全體にも表情にも、前に私たちが感じて還つたやうなしをらしさが、今日はもう見出され得なかつた。
 一つにはあの時は月夜の力であつたかも知れぬ。或は女ばかりで踊る此邊の盆踊が、特に昔からあゝいふ感じを抱かしめるやうに、仕組まれてあつたのかも知れない。六年前といふと此中の年がさの娘が、まだ踊の見習ひをする時代であつたらう。今年は年が好いから踊をはずませようといふので、若い衆たちが町へ出て金紙銀紙を買つて來て、それを細かく剪つて貼つてやりましたから、綺麗な踊り前掛が出來ました。それが行渡らぬと言つて、小娘たちが不平を言つて居りますと、清光館の亭主が笑ひながら話して居たが、あの時の不平組も段々に發達して、もう踊の名人になつて多分此中に居るだらう。
 成程相撲取りの化粧まはし見たやうな前掛であつた。それが僅かな身動きのたびに、きら/\と月に光つたのが今でも目に殘つて居る。物腰から察すればもう嫁だらうと思ふ年頃の者までが、人の顔も見ず笑ひもせず、伏し目がちに靜かに踊つて居た。さうしてやゝ間を置いて、細々とした聲で歌ひ出すのであつた。たしかに歌は一つ文句ばかりで、それを何遍でも繰返すらしいが、妙に物遠くて如何に聽き耳を立てゝも意味が取れぬ。好奇心の餘りに踊の輪の外をぐる/\あるいて、そこいらに立つて見て居る青年に聞かうとしても、笑つて知らぬといふ者もあれば、ついと暗い方へ退いてしまふ者もあつて、到頭手帖に取ることも出來なかつたのが久しい後までの氣がゝりであつた。
 
          六
 
 今日は一つ愈此序を以て確かめて置くべしと、私は又娘たちに踊の話をした。今でも此村ではよく踊るかね。
 今は踊らない。盆になれば踊る。こんな輕い飜弄を敢てして、又脇に居る者と顔を見合せてくつ/\と笑つて居る。
(110) あの歌は何といふのだらう。何遍聽いて居ても私にはどうしても分らなかつたと、半分獨り言のやうに謂つて、海の方を向いて少し待つて居ると、ふんと謂つたゞけで其問には答へずにやがて年がさの一人が鼻唄のやうにして、次のやうな文句を歌つてくれた。
   なにヤとやーれ
   なにヤとなされのう
あゝやつぱり私の想像して居た如く、古くから傳はつて居るあの歌を、此濱でも盆の月夜になる毎に、歌ひつゝ踊つて居たのであつた。
 古い爲か、はた餘りに簡單な爲か、土地に生れた人でも此意味が解らぬといふことで、現に縣廳の福士さんなども、何とか調べる道が無いかといつて書いて見せられた。どう考へて見たところが、是ばかりの短かい詩形に、さうむつかしい情緒が盛られようわけが無い。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向つて呼びかけた戀の歌である。
 但し大昔も筑波山のかがひを見て、旅の文人などが想像したやうに、此日に限つて羞や批判の煩はしい世間から、遁れて快樂すべしといふだけの、淺はかな歡喜ばかりでもなかつた。忘れても忘れきれない常の日のさま/”\の實驗、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて來る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ數限りも無い明朝の不安があればこそ、
   はアどしよぞいな
と謂つて見ても、
   あア何でもせい
と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。
 
(111)          七
 
 一たび「しょんがえ」の流行節が、海行く若者の歌の囃しとなつてから、三百年の月日は永かつた。如何なる離れ島の月夜の濱でも、燈火花の如く風清き高樓の欄干にもたれても、之を聽く者は一人として憂へざるは無かつたのである。さうして他には新たに心を慰める方法を見出し得ない故に、手を把つて酒杯を交へ、相誘うて戀に命を忘れようとしたのである。
 痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙つて笑ふばかりでどうしても此歌を教へてはくれなかつたのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、假令話して聽かせても此心持は解らぬといふことを、知つて居たのでは無いまでも感じて居たのである。
 
(112)       津輕の旅
 
 又五月になつた。此二階の窓から見える吉野櫻などは、はや既に黒ずんだ深緑になつて、寧ろすが/\しい鄰の梅若葉を羨むかの風情であるが、津輕の山々では是からまだ半月もたつてから、やつと雪の間の山櫻が咲くのである。私が青森大林區署の官用軌道の輕便に乘せて貰つて、十三潟の淋しい岸から、荒れた昔の戀の泊りを見に行つたのは、たしか一昨年の此月二十七日の雨の日であつた。相内の宿屋では地竹の筍の煮たのを肴にして麥酒を傾けた。小泊から松前へ渡る船の航路が絶えてからは、もう大分久しいことになる。さうなれば此邊は用も無い荒濱であるから、町場が只の村よりもなほ森閑となるのにも不思議は無いが、それにしても驚くのは、古來音に聞えた十三の湊の變り樣である。
 亡くなられた和田雄治さんの話であつた。以前朝鮮で海流の試驗をする爲に、何度か處々の岸から空罎を流して見たことがあつたが、いつでも多くはこの津輕西岸の潟の口に近く、漂著する結果を見たといふことである。日本海周邊に住む民族の、船を扱ふ技術がまだ十分に發達しなかつた大昔から、爰は自然に開けたる水陸出入の衝であつた。ところが人間の智能は怖ろしいもので、僅かに木屑を焚くやうな汽動車が山を横ぎつても、それが十三潟の岸の林の木材を、陸で青森の方へ運び出すことになると、もう十三の浦へは一艘も船が來ぬやうになつてしまつた。此海の口の荒いのは昔からのまゝだらうが、港の燈の火の舟人を招く力が次第に弱く一つには又和船の船子までが烈しい勞働をいやがり、日數を切りつめて上手に仕事を取る風になつた爲もあらう。
(113) 津輕を今の五郡に分けたのはいつ頃からか知らぬが、北津輕郡の南西の境は、確かに最初は十三潟の水戸口であつたに相違ない。それが水筋の變化を經たと見えて、今では四五町も隔たつた砂濱の中に、何の附きも無く郡境の榜示杭が立つて居る。此邊は殊にいつも強い風の當る處で、砂除けに栽ゑられた黒松の林が、殆と成長して居る暇も無かつたらしく見える。處々に薄紫で形の菊に似た花が低く咲いて居る。土地ではアブラコ菊と謂ふと後になつて聽いて居るが、關西で吾妻菊、東國で蝦夷菊といふものと色も形も略同じで、あれよりも遙かに姿が弱々しく、地を去ること僅かに二三寸、青い空を眩しがり、海の音に聽き入るやうな花であつた。
 港の前面はたゞ一列の砂の堤であつた。白い濤が絶えず之を越えて居る。其内側に太い綱を張り、之に由つて辛うじて渡船を通はせて居る。荒い西北が一日半夜も吹き續けると、水戸口の砂は忽ち山になつて、潟の内側は水嵩を増し、岩木川の落ち口から、左右一帶の新田場は水の底になるので、多くの人夫が危險を冒して、何でもかでも此砂山を切りに來なければならぬ。それを見張りの番小屋が北の岸にはあつて、電話を引き信號の旗を具へてある。青森から來て居る若い技手は此日留守であつて、其弟が一人で本を讀んで居た。黒い小猫を飼つて居る。
 小屋の片隅の石垣の下には、二尺三尺の流れ木が拾ひ集めて岡の如く積んである。それを見るとすぐに東遊記などの雁風呂の話が想ひ出される。どの邊の海邊から漂うて來たものか。是も近世の隨筆にはよく書いてあるが、所謂蛾眉山下の橋柱だの、天下地上の大將軍の粗彫の木像などは、何れも咸鏡道あたりの低地から出たものらしく、何度となく爰から南の濱の村でも拾はれたのである。そんなものは無いかと氣を附けて居るうちに、ふと目に入つたのは一個の泛子《あば》である。一方に南秋田郡男鹿戸賀港の文字が幽かに見え、他の面には海上安全漁村繁昌云々と書いてある。男鹿も爰からでは四十里近くの南である。棄てたか流したか主ともに見失うたか、元の地の人たちは斯うして私が拾うて還つて、朝晩見守つて居ることも知らないであらう。
 此渡し場からは雪の岩木山が眞正面に見える。寂しい十三湊の民家は、悉く白い大きな此御山の根に抱へられて、(114)名に高い屏風山保安林の常磐木の緑が、僅かに遠い雪と近い砂山との堺を劃して居る。母から昔聽いた山莊大夫の物語、安壽戀しや津志王丸の歌言葉が、圖らずも幼ない頃の悲しみを喚び還した。姉の安壽は後に來て此山の神となつたによつて、丹後一國の船は永く津輕の浦に入ることを許されなかつたといふことも、爰に來てあの御嶽の神々しい姿に對する迄は、明らかに其來由を理解し得なかつた。越後佐渡から京西國にかけて、珍らしく廣い舞臺をもつこの人買ひ船のローマンスは、要するに十三の湊の風待ちの徒然に、遊女などの歌の曲から聽き覺えたものに相違ない。さうして其感動を新たに花やかな言の葉に装うて、次々に語り傳へた女たちも、亦久しく國中を漂泊して居たのであつた。
 しかもその千年來の戀の泊りが、今や眼前に於て一朝に滅び去らんとして居るのである。一しよにあるいて居た遠藤技師の話でも、三四年前にちよつと來て見た時には、町の兩側の何れの家からでも、なまめいた女の聲の聞えぬ家は無かつた。黄昏前には美しい燈を點じて、笑つたり歌つたりする者が、元は何百人と無く遠い國から入込んで居た。よく昔から十三の七不思議などゝ稱して、田は無けれども米が出る。父は無くても子が生れるなどゝ、色々笑ふやうな話の種は多かつたものだが、材木を積む船が青森の方へ廻るやうになつては、忽然として悉く覺めたる夢になつてしまつた。今ではその米が出ない爲に、町の男たちは聞いたことも無い國までも出稼ぎに行き、老いたる者が潟に出て少しづゝの漁をするやら、村には薪山を持たぬ爲に舟渡しを越えて二里三里、北津輕の山に小柴を採らせて貰ひに行く。あれ今の渡し舟でも山行きの女が、あんなにして遣つて來ましたと謂つて見て居ると、きたない頼かぶりをして、小さな連雀のやうなものを脊に負ひ、身には刺子のどんつくの縞目も見えぬものを著ふくれて、まるでエスキモーの奧樣のやうなのが六七人、何やらがや/\と話をして船を下りて行く。是がこの色の湊の十三の町の人とは、昔ならば誰が思はう。やがて今見て來た松林に隱れ、それから野菊の咲く砂山を越えて行く。其後姿は殊に物哀れで、立小便などをして行く樣子までが詩であつた。
(115) 久しく渡頭に立ち盡して後に、自分たちも舟に乘つて、荒い水戸口を南へ渡つた。さうして雨あがりの水溜りを飛び越えながら、荒れたる町の樣子を見てあるいた。五月も早末であるのに、どの家も冬のまゝの大戸を卸し、雁木の下の通りを左右に覗いて見ても、一人も通る者が無い。物賣る店にも色どりになるやうな品物は少なく、町には僅かの鷄が遊んで居るだけで、犬猫の影も見かけない。もう既に荒れてしまつたのである。
 十三から木造の町の方へ行くには、屏風山下の路を四里餘りも通るのである。左手に湖水と其岸の新田とを見下して、晴れたる夕日の影には快活なる風景である。ヤチワタ又はサルケと稱して泥炭を掘り上げ、冬季の燃料に乾し貯へて居る村が多い。南受けの温かい土地である爲か、此邊は對岸北津輕の山と違つて、櫻などはとくに散り、處々に老松が濃かな樹蔭を作るやうな日の光であつた。重い荷物を手車で運ぶ人たちは、裸で一枚の狗の皮を脊にあてゝ働いて居る。それだのに目と鼻の間の十三の浦では、今にあのやうな寒さうな暮し方をして居るといふのは、或はとくの昔に春の季節を費し盡したのでは無からうかと、考へて見たことであつた。
 
(116)     をがさべり
         ――男鹿風景談――
 
       山水宿縁
 
 この間信州へ行くつもりで、中央線の二等車に一人をさまつて居ると、飄然として樞密院の内田伯が入つて來られた。所謂微行で富士の五湖巡りをするのだといふ話である。
 内田さんは今でも旅行が一番好きださうなが、水らく外國にばかり暮して居たので、まだ一向に日本の山水には親しんで居ない。小佛を晝間越えるのは是が始めてだと言つたり、馬入川を見て何といふ川かなどゝ尋ねられる。
 そこで私のよく無い癖が始まつて、頻りに近頃あるいて見た方々の新地名をならべて、風景鑑賞の意見を押賣しようとすると、是はまた意外な話、うん男鹿かね。男鹿なら僕も行つたことがあるよと言ふ。
 併し幸ひなことに、それは今から四十三年ほど前のことであつた。當節は汽車が出來たといふことだが、終點は何といふ町かなどと、船川の人が聞いたら頗る心細がりさうなことばかり言つて居る。
 まだ學校に居た時分のことださうな。町田(忠治氏)が病氣をしてちつとも出て來ないから、引つぱり出しに出かけて、暫らくあれの家に世話になつて居た。其間に一人で男鹿に遊びに行つた。山は三つとも登つて見たといふ。
 隨分元氣のいゝ痛快な旅行であつたらしい。途中までは會津に歸る林權助氏なども一緒であつた。汽車のまだ無い(117)時代の長い道中を、内田さんは草鞋といふものを履かない主義であつたさうな。男鹿の本山にも下駄ばきで登つたのである。
 山では路がわからなくなつて大きに弱つた。併しどつちみち海岸には出るにきまつて居ると思つて、構はずにぐん/\降りて行くと、果して里があつて多勢の女が田の草を取つて居たが何を尋ねても一言も通じないので、是には却つて閉口をしたと言つて居る。
 さう聞くと何か男鹿の農民が、この未來の名士に對して相濟まなかつたやうに聞えるが、なアに、内田さんも熊本縣出の書生さんだつた。言語不通の責任は五分五分であつたらうと思つてをかしかつた。
 私は先月男鹿から歸つて來て、もう大分多くの友人にあの山水を説法した。自分としても内田さん同樣に、まだ四十年ぐらゐは持ちさうな印象がある。特に日記を書いて置く必要は感じないのだが、あんまり此奇遇が面白いので、秋田人の所謂「をがさべり」をして見る氣になつたのである。
 それには今一つあの半島の風景に對して、氣の毒に感ずる理由もあるのである。今度或社の八勝選定に際して、土地の人たちが天然を讃美する方法を知らぬばかりに、受けずともよい冷遇を受けることになつた。思ふに日本の旅行道は是からまだ大いに進歩するであらう。それを待つ間の退屈を紛らす爲には、やつぱり我々も何か餘分のおしやべりでもして居るの他は無いのである。
 
       風景の大小
 
 男鹿に若い旅人の興味を引き付けることは、些しでも面倒な仕事では無い。第一に地圖なら如何に粗大なるものを見ても、直ぐにあの地形の尋常で無いことだけは察せられる。即ち男鹿は出雲風土記の國牽き神話にある通りの、神(118)によつて繋がれたる島であつたことが分るのである。
 汽車で由利から河邊郡の海岸を走つて居るときでも、窓からたゞ海の方を眺めて居るのみで十分である。大抵の人なら思はず名を尋ね、それから行つて見たくなるやうに、山の姿が最初から出來て居るのである。
 能代から鯵ヶ澤への豫定線が今少し延長すると、此引力は更に一段と強くなる見込がある。男鹿の高地の變化は北磯に面した方が複雜であり、海を抱へた水際の曲線も、此側の方が殊に美しいのである。此半島などは一度近くに寄つて地形を知つて後は、何度でも遠望して其美を味はひ得る風景である。それを風景とは掌に載せて賞翫すべきもののやうに考へた人々が、やたらに岩や洞穴に名を付けて、好んで山水を小さくしたのである。
 自分は今から八年前の初秋に、一人で西津輕の濱を南に向いてあるいたことがある。大間岬の突端に來て一つ曲ると、背後の松前の山々と小島大島とは隱れてしまつて、忽ち男鹿の神山が沖遠く現れて來る。深浦岩崎森山のあたりまで來ると、もう七里の長濱が波の上に浮かんで見える。珍しく伸び/\とした外線である。天衣無縫といふやうな語が思ひ出される。即ち又浦人等が神仙の居を想像して、登つて拜せざるを得なかつた動機である。
 尤も自分一人としては、此以外にも因縁はなほ色々あつた。例へば此時よりも更に四年前に十三の湖口の砂濱に立つて、水戸口の番屋の軒の下に、大小の流木の積上げてあるのを見て、昔の雁風呂の話などを思ひ出して居ると、ふと其中から一尺ばかりの、文字を書いた板切れを見出した。今でも記念にして家にあるが、それは男鹿の漁船の網のアバであつて、海上安全戸賀港何の某とある。其時からして戸賀へは是非往つて見たいと考へて居たのである。
 併しそんな特別の理由などは無くとも、津輕の西濱を汽車が走り、汽車に人が乘り其人に用の無い旅をするだけの餘裕があつたならば、足は自然に此半島の岸に向つて、來ずにはしまはないだらうと思ふ。つまり男鹿の人たちは、今少し待つて居りさへすればよかつたのである。
 全體風景に甲乙何れか優るなどゝいふ問題はあり得ない。一方に親しい人は通例他方には疎く、始めて見て珍しい(119)と思ふ心は、やがて見馴れたものを平凡に感ぜしめる。最初から判定者の資格ある者が甚だ稀なのである。さうして男鹿の如きは珍らしと言つて來た者が既に少なく、親しみを感じ得る人も亦あまりに少ないのであつた。それが又果して悲んでよいか否かも、實はさう容易に答へられる問題では無いのだが、自分としては同じ心持を以て此山水を愛し得る者が、今少しは増加する事を祈つて居る。それが又こんな話をして見ようとする動機である。
 
       半島の一世紀
 
 昭和三年の七月は、菅江眞澄翁の百年忌に相當する。故に自分は先づ秋田人に向つて、この遠來の詞客の男鹿紀行五篇を、一つには男鹿の山水の供養の爲に、刊行することを勸めたいのである。
 眞澄翁は最後に秋田の地に入つて落付くより十五六年も前に、多分は寒風山の麓を過ぎて、椿・岩館から津輕の木蓮子《もくれんじ》に、海傳ひに入つて居る。それからも久しい間岩木山周圍の村里を吟行した。故に?西津輕の浦人の男鹿の靈山を説くのを聽いたのみならず、自身も又折々は海波を隔てゝ、遠く朝夕の峰の色を眺めて居たことゝ思はれる。
 乃ち山本郡の海近く、又八郎湖の岸の村に居た頃、僅かな歳月の間に三たびまで杖を半島の地に曳いて、具さに四時の變化を記述した因縁であつたらう。是が尋常の遊歴文士の勉強した風流でなかつたことは固よりである。現に彼が世を去つてから百年になるけれども、如何なる郷土愛も未だ寸分の咏歎を以て、彼が連作以上に加ふることを得なかつたのである。
 蓋し旅行は技藝であると同時に、又一種の修養であり研究であつた。伴を誘ひ酒を載せて、搖蕩して漸く到るといふ類の遊覽者に、歸つて人に傳ふべき何物も無いのは當然と言つて宜しい。此種たゞ評判の名所舊跡ならば、列擧する迄も無く既に煩はしいほど日本には充ちて居る。もと/\骨惜しみの見物左衛門である以上は、成るべく京阪近く(120)の汽車近くの、行き易いので間に合せようとするだらう。そんな御客の爭奪に失敗したことは、却つて男鹿の爲にも結構であつたかも知れぬ。
 眞澄翁の時代に比べると、男鹿の如き世に遠い半島でも、やはり目に付く程の變遷があつた。其變遷を靜かに考へて見ることは、恐らく此地を訪ふ者の最初の興味であつて、其爲にも亦前に遊んだ人の筆の跡は、遺すばかりで無く得やすいものにして置きたいと思ふのである。
 そこでまづ持前の多辯を弄するが、ヲガといふ地名の今も存するのは、第一には筑前の岡の湊即ち蘆屋を中心とした現在の遠賀郡の海角である。陸前の牡鹿郡は久しくヲシカと訓み、鹿が多かつた故と説明せられて居る。成程それも確かな事實で、獨り金華山の神社に此獣を放養するのみならず、土中の古物にも角器骨器の鹿に屬するものが至つて多い。併しそれは單に後に牡鹿といひ男鹿といふ漢字を宛て始めた理由といふばかりで、ヲカといふ名は三ヶ所共に、海に突き出した地であるのを見ると、陸地を意味するヲカが元であつて、海角なるが故に最も早く目に入つた陸地、即ち海上に在る者の命名する所であり、從つて海から植民せられた土地と見てよいやうに思ふ。
 
       海の路絶えたり
 
 ヲガが海から見た陸地のことであつたとしたら、其名を承け繼いで居るからには、當初確かに海の人が、上陸して住んだことになるのであるが、其末々は今どうして居るであらうか。
 思ふに幸ひにして其血は濃く流れて居るにしても、職業は必ず幾たびと無く變つて居る。現在海で働いて居る人々の、多くは近世の移住であることは、尋ねて見れば直ぐに知れることで、男鹿の最初の開發は、無論それよりも遙かに古い話であつた。
(121) 島が追々と主陸に繋がつて來たやうに、人と土地との因縁も、常に内の方へばかり伸びて行く習ひである。海の路は茫洋として早く忘れ易い。足跡を踏んで嗣いで來る者が無ければ、故郷の懷かしさも孫の代までは傳はり得ない。だから若し小さく團結して自ら守ることが難いとすれば、内に向つて平原の統一に、加盟するの他は無いわけである。初期の男鹿人は恐らくは寂しく、且つ忍耐深かつたであらうと思ふ。
 しかもそれは島國の古今を一貫して、避くべからざる生活の關門であつた。我民族の妥協性もしくは事大性とも名づくべきものも、斯うして海を越えて異郷に移る人々の、必要が之を養つたのであつた。他の一方には又新らしい職業を選定して、どし/\と境遇を支配して行く力も、やはり此原因から古來の我々の長處とならなければならなんだ。男鹿は偶々地形の然らしむる所、言はゞ其試驗場の一つに供せられたといふ形であつた。
 前代の歴史は甚だしく埋もれて居る。二三保存し得たる闘爭の記録の如きは、到底黙々たる千年の推移を、窺ひ知らしむるに足らぬのであるが、凡そ此半島の舊姓門閥と稱せられた家々は、夙に利害の衝突を見て、互ひに相傷けて滅び又は衰へてしまうた。天然の恩惠にも制限があつて、兩立して共に榮えることがむつかしく、其上に外部勢力の干渉も繁かつたであらうが、今一層根本の原因といふのは、言はゞ此地には爭奪に値する中心の利益があつたことで、即ち曾て大いに榮えたが爲に、後衰へ又は亡びざるを得なかつたとも言へるのである。
 その中心の主要なる力の一つは、恐らく赤神山の信仰であつた。奧羽の靈山では此半島に限らず、叡山佛教の影響を受けぬものは無く、現存の縁起は各地殆と皆慈覺大師の經營を説くけれども、それは概して後世の假托であつた。孤立少數の外來部曲が、山水の形勝に據つて新宗教を宣傳することは、最も普通なる彼等の自衛策であつたから、是も亦當初は男鹿人の地方神の、強く附近の農村を威壓したものであるかと思ふ。
 それが頻々たる動亂の結果を受けて、殆と其由來を説明すべき何等の史料をも保存せず、近代僅かに一期の隆盛を經た後に、再びまた今日の衰微を見たのである。男鹿の美しく明るい風景の底には、斯ういふ人生の常とも言ひ難い(122)程の、烈しい有爲轉變が潜んで居るのである。
 
       本山眞山の爭ひ
 
 是ほど秀麗なる山水の間に在つて、人がなほ爭つたといふことは不思議なやうであるが、男鹿の南北の生活利害は實は寧ろ餘りに有力なる中心あるが爲に、昔も今の如く早くから調和の困難を見たのである。似たる先例を擧げるならば大和の大峰を中にした熊野と吉野、是などは神武御東征の大昔から、既に後代の本當二派の山伏の對立が、豫期せられて居たと謂つてもよい位である。
 近世に入つては富士も白山も、各之に近い抗爭があつた。大よそ靈山の信仰にして、所謂先達の職分の重んぜられる場合には、二つ以上の登り口の互ひに競爭の相手方を否認せんとするは自然であつて、その根元の動機は決して利慾のみでは無かつた。
 しかも結局は個々の神人の家の活計が、是非とも他の一方の屈服を條件として始めて安全なりといふ程度まで發達する故に、末には苦しまぎれに外部の擁護干渉を導いて來て、却つて固有信仰の純なる姿を、改めることをさへ憚らぬやうになつたのである。
 永い年月の間には?不完全なる和睦があり、或は一方の一時的敗北もあつた。さうして其度毎に、故意に以前の事情を忘却せしめようとしたのである。男鹿では北磯の側からの登り口を、今では眞山といふ名前に確定して居るが、本山の方の舊誌には新山とも書いて居る。眞山といふ文字の如何にも後になつて考へ出したらしいのを見ると、或時代之を新山と呼ばしめて居たものが、後再び分立したことだけは推測し得るが、果してその新山が最初からの呼び方であつたか否かは餘程疑はしい。山では熊野の本宮新宮の關係と同じと謂ふけれども、彼と是とは又事情が別なやう(123)に思ふ。
 眞山の方では光飯廢寺の元の庭に、中興大師の御手栽と稱する榧の大樹が、依然として大いに茂り榮えて居る。或は慈覺その人よりもなほ古いかと思ふ名木で、その在る場處も遠近の海を見晴らし、偶然に生長したものでは勿論無い。此だけを見ても、所謂新山の主張の新儀で無かつたことは領かれる。しかも他の一方には本山は門前の濱を控へ、五社の社殿は正式に南面して、尤も自然な登山口であつたことを、地形が明白に證據立てゝ居るのである。
 つまりは唯一つの尊き神、一つの天に近き高峰に對して、周圍の麓の里に住む者が、等しく熱烈なる信仰を寄せて居て、最初から之を或中心に統一することが困難なる形勢に在つたのである。加賀の白山なども事情は頗る是に近く、出羽では又羽黒の三山の如きも、此混亂の爲に終に自ら其歴史を述べることさへ出來ぬやうになつた。しかも其闘諍に參與した家々は、敵も味方も公平一樣に衰へ盡し、今は却つて稍不純なる原始信仰が、放任の結果として再び平民の間に、復活することになつたのである。
 男鹿では足利時代の終りに近くなつて、本眞二山の社僧が相前後して、眞言山伏の宗派に轉屬したことがあつた。其動機は恐らくは政治的のものであつて、之に伴なうて麓の住民に取つて、不必要なる色々の改革が行はれたやうに見える。例へば漢の武帝だの蘇武だのといふ物々しい縁起は、上古以來のナマハギの信仰を、大切に持ち傳へた素朴なる村人に向つては、餘りにも緑の乏しい外國文學の應用であつた。
 
       正月樣の訪問
 
 斯んな話は風景と縁が無い。又旅人の關知する所で無いと、言ふ人も有りさうであるが、自分等としては男鹿が鹿の居る島であつたと共に、更に又正月十五日のナマハギの故郷であつたが故に、その天然に一段と深き懷かしさを覺(124)えるのである。
 土地の人の直話では、男鹿のナマハギは近年もう著しく衰へたといふことである。そんなに意味のあるものなら、どうにかして今一度復活させようかと言つて見たところで、本來信仰に固い基礎をもつた風習である以上は、形態ばかりを眞似て見たのでは、徒らに好事なる少數者の趣味を滿足させるだけであつて、前代を理解するたそくにはならぬ。やはり黙つて自分等の饒舌を、聽いて居るより他はあるまいと思ふ。
 太平洋に面した奧州の一部では、この小正月の晩に來る蓑笠の神樣を、ナゴミタクリ又はヒカタタクリと呼び、やはり怖ろしい聲をして手には小刀を携へ、それを筒やうの器に入れて、がら/\と鳴らして來る村もある。ヒカタは東京などで「火だこ」ともいふもので、火にばかり當つて居る者の肌膚に出來る斑紋、即ちなまけ者の特徴である。タクルとは即ち剥ぐことであつた。火だこの出來て居る皮を剥いで遣らうと稱して、小刀を鳴らして夜來るので、要するに信越地方などでいふヅクナシに對しての、神聖なる一つの脅迫である。
 ナマハギのナマも同じく「火だこ」のことで、又ナマケ者のナマとも關係が有るやうに思ふ。ナゴミといふのも亦それらしいが、閉伊郡の海岸の人は、それを化け物のことだと私に教へてくれた。或はそのナゴミタクリが、こわい聲でモーと謂つて來る故に、之をモーコと稱し又一般に化け物をモーコと謂ひ、蒙古人のことだと説明した物知りさへあつた。言ふことを聽かぬ小兒が大いに嚇され、親の仲裁によつて辛うじて宥してもらひ、おとなしく其晩は寢ること、子供の無い家でも色々むつかしい文句を述べ、後に酒を出されて假面の下から飲むことなど、閉伊のナゴミも男鹿のナマハギもよく似て居て、其時期はどこの國でも、必ず正月十四日の深夜に限られて居る。即ち是が本來我々の年の神の姿であつたのだ。
 舊仙臺領から南へ行くと、來るには來るが女子供は畏れない。たゞ目出たいことばかり述べ立てゝ、餅や酒を貰ふことにのみ熱心である。半ば以上も遊戯化して居るから、眞面目な好青年は此役に扮することを悦ばぬが、顔を隱し(125)作り聲をして、同じ日の夜來ることだけは一樣である。それを宮城縣の北部ではサセドリ、南の部分ではカセドリとも謂ふやうである。
 津輕でカバカバといふのも同じ式ではあるが、此も今は主として小兒の事業になつて居る。福島から會津にかけてはチヤセンゴと謂つて居る。關東平野の一部ではタビタビ、中國の多くの縣ではホトホト又はコトコト、是は戸を叩く音を意味して居る。戸は叩かずに今では口でさういふのみである。瀬戸内海の西部から土佐にかけては之をカユヅリと稱し、九州に入ると再び又トビトビもしくはタメタメと謂ふさうだ。トビもタビも共に「給へ」即ち下さいといふことを意味する。元は交易の申込であつたらうが、もう此方面では單なる物貰ひに近く、從つて小兒ばかりが之に參與する故に、小學校ではやかましく之を制止する。
 ところが海を越えて遙か南の、八重山群島の村々に於ては、又北の果の男鹿半島と同じやうに、至つて謹嚴なる信仰を以て、之を迎へて一年の祝ひ言を聽かうとする習ひがある。此ことは曾て「海南小記」の中に些しばかり述べて置いたが、其は變化の色々の階段が地方的に異なるといふのみで、本來一つの根源に出づることは、比較をした人ならば疑ふことが出來ぬ。即ち一年の境に、遠い國から村を訪れて遙々神の來ることを、確信せしめんが爲の計畫ある幻しであつた。さうして男鹿人の如きは當然に彼等のナマハギを、靈山の嶺より降り來るものと認めて居たが故に、この深い山水因縁が結ばれたのである。
 
       二人の山の鬼
 
 男鹿のナマハギがもと赤神山の五人の鬼と、關係のあつたことは想像し得られる。大和の吉野山を中心として、全國に宣傳せられた修驗道が、佛教以前の根源をもつことは證明に難くないのだが、此信仰にも亦五鬼と名づけて、神(126)に仕へる善鬼即ち護法神があつた。それが人間に住して山伏の元祖となると傳へて、山伏の家も通例は五流に分れて居た。それ故に男鹿の本山でも、五人の鬼を説き立てたのであらうが、五鬼とはいふが男鹿の方では、ミケンとサカツラとは夫婦の鬼であつた。それが死んで後に眼光と首人と押領との三鬼が、出て來たやうに傳へて居るのは異樣である。恐らくは別系統の沿革があつたことゝ信ずる。
 さうすると本山永禅寺の柴燈堂に於て、毎年正月の十五日の日に、山から降りて來る神人に堂の中央の窓から餅を投げて與へたといふ儀式、及び何人も其姿を見ることを許されず、もし誤つて之を見れば、必ず其人に災ひあるべしと言つた話も、後世の社僧たちがなほ或程度にまで山の傳統を承認した痕跡であるといふことが出來る。
 佛法では直ぐに藥師觀音の化身といふことにしてしまふが、所謂異人の靈山に住むと信ぜられたのは、いつでも佛法以前からのことであつた。或は山の神であり、開山の名僧に地を讓つた地主神であり、又時としては案内者の獵人であつたものが、大抵は大師の法力に心服して、祀られつゝ寺の守護に任じて居るやうに、説明するのが寺々の縁起ではあつた。併しながらそれは必ずしも、土地の住民の父祖から告げ教へられた所と、一致しては居ないのであつた。
 男鹿と似たやうな例は東北の名山に幾らもあるが、近くは津輕の岩木山でも、山の神は安壽と津志王との姉弟で、岩木判官正氏の子であり、津輕伯爵家の先祖を助けたのは、卍字と錫杖との二頭の鬼、山中赤倉の巖窟に今も住むといふのは二人の巨人といふやうに、話は幾組にも分れては居るが、根本はたゞ一つで、解釋のみが色々になつて居るのである。畢竟するに最初其類の言ひ傳へが存在しなかつたら、後に乘込んで來た新宗教も、斯くまで由來記の編述の爲に、苦心結構するの必要は無かつたのだから、なほ信仰の基礎は土民の間に、在つたと見て差支が無いのである。
 だから男鹿でも歴代の爭奪を經て、南北の登山路の寺社は、既に他國の客僧等に占領せられたけれども、なほ其麓の里毎に古來の土を耕す農民等は、各自の最も大切とするものを持つて彼等とは一旦の縁を切つたのである。しかも山の天然との斷つべからざる聯絡は、年々のナマハギに扮する青年が之を掌どり、他の府縣に在つて多くは形式化し(127)遊戯化したものを、爰にはほゞ元の姿を以て、最近まで保存して置いてくれたのである。
 男鹿は此意味に於て、殊に旅人の爲には懷かしい昔の國である。海から來た人が土を拓いて武士と爲り、山に遊んで?者と爲り、神を感じて熱心なる風景の愛護者と爲つた結果が、各我生活の價値を高く評價して、それに相當する利得を要求し、やがては闘爭して相滅さざるを碍なくなつたのである。悲壯なる日本の中世史の、一つの縮圖の如くにも感じられる。
 
       椿の旅
 
 男鹿の風景の殊に詠歎に値するのは、永い年代の目に見えぬ人の力が、痕も無くこの美しい天然の裡に融け込んで居ることである。其中でも椿と鹿との記憶せられざる歴史は、最も多く自分たちの興味を惹いて居る。
 天然物保存に功勞ある生物學者等は、未だ植物の自然生北限といふことに就て我々の合點するだけの説明をしてくれなかつた。太古北半球が曾て甚だ温かかつた時代に、此地方の全土を蔽うて居た椿原が、漸次退縮して今の小部分のみを殘したといふことは、考へれば考へられるといふまでの話で、如何にも心元ない假定である。もし其樣な?態が實在したとすれば、何故に今でも氣候風土の自在なる繁茂を許す地方に、今少しく澤山の野生を見ずして、北地にばかり此通り豐富であつたのであらうか。
 全體に椿といふ木の分布順序に付いては、まだ若干の學者の考へ殘しがあるやうに思ふ。太平洋岸でも氣仙唐桑以北の敷ヶ所、日本海の方でも津輕の深浦、それから青森灣内の小湊その他の岬の蔭に、大よそ鳥が實を啄んで一息に飛ぶ距離の、五倍か七倍かの間隔を以て、何れも一團の林をなして成長繁茂するのを、果して自然界の出鱈目と見ることが出來るであらうかどうか。
(128) しかも他の一方には若狹の八百比丘尼の如く、玉椿の枝を手に持つて、諸國を巡歴したといふ旅人はあつたのである。愛する土地の美女と約束をして、又の年には椿の實を携へて再び訪ねて來たら、之を見て悦ぶべき戀人はもう死んで居たので、それを地に投じて歎き慕うて居ると、芽を吐き成長して神の樹となつたといふ類の言ひ傳へも、土地によつては殘つて居るのである。それから又此木の茂る處は、大抵は神の杜である。無論椿存在の奇異が、神を祀つた原因であつたとも言ひ得るが、兎に角に人と此植物との關係は昨今で無く、又鳥などよりも親しみが深かつたのである。
 植物には榎や柳の如く、庭木で無いまでも里の木であつて、山野に行けば却つて次第に少なくなるものが稀で無い。此等を存在せしめるだけでも人間の意思であつた。奧羽に向つては其上に積極的に、若干の努力が加はつて居るかと思ふ。人が考へて移し試みなかつたならば、椿などは到底雪國には入り得なかつたらう。この細長い日本といふ島は、常にチューブの如く又心太の箱の如く、或力があつて常に南方の文物を、北に向つて押出して居たのである。椿が稻や田芋と同じ程度に、人間生活との交渉の深いもので無かつたといふことは、天然信仰の一向に研究せられぬ此國に於ては、まだ/\斷言し得る者は無い筈である。或は是も亦隱れたる一つの史蹟記念物であつて、單なる天然の記念物では無かつたかも知れぬのである。無暗に專門家の獨斷を信じないことにしよう。
 
       鹿盛衰記
 
 玉椿の常磐に緑にして、次々に若木の花を咲かせたのに比べると、變化曲折の最も甚だしかつたのは、此半島の鹿の歴史であつた。
 爰では常陸鹿島や金華山の如き、信仰の保護は夙くから無かつたらしい。しかも自分が男鹿に遊んで、始めて知つ(129)て大に驚いたのは、今でもまだ鹿が居るといふ事實よりも、人間の干渉が餘りに自由自在で、彼等の運命が椿以上に、常に之に由つて左右せられて居たといふことである。
 男鹿名勝誌の引用した舊記が正しいならば、男鹿山の鹿は既に安倍氏の治世に狩盡されて一旦は其種族が絶えた。それを佐竹侯入國の始の頃、わざ/\仙臺領の多分金華山などから、三頭とか四頭とかを取り寄せて放したといふことである。即ち今あるものも祖先以來の生え拔きではなかつたのである。
 それが久しからずして再び田畠を荒らすやうになり、時に鹿狩を企てゝ其害を除いたといふことで、五六十年後の正コ二年の狩には、三千頭の鹿が捕獲せられた。それから四十年程を隔てゝ又九千三百、まだ其殘りが二十年後に算へて見たら、二萬七千ほど居たといふのは、少々信じ難い統計であつた。
 併し兎に角に鹿の居りさうな山である。居つても差支の無いやうな林の色をして居る。それが今日では「鹿捕へるべからず」の制札ばかり、村はづれの路傍に白々と立つて居て、もう何人からも鹿の話などは聽くことが出來なくなつて居る。
 鐵砲流行の爲ばかりでも無いやうである。明治の文化は徹底して彼等の敵であつた。二三の遊覽地に於ては鹿を珍らしき見物とせんがために、あらゆる手段を講じてその明治化を防いだかの觀がある。現に東京四周の平原の、今筆者の居住する黒土の高臺あたりも、ごく近い頃まで有名な鹿生息地の一つであつたが、誰が來て捕つたといふ人も無しに、今では甲州境の山にさへ少なくなつた。
 食つたり皮を著たりするだけの事なら、昔の人の方が今よりも盛んにやつて居た。つまりは今日は人が公園地以外に在つて、鹿といふものに親しみを持たなくなつた爲に、鹿の方でも生存の興味、又は張合ひともいふべきものが、無くなつた結果ではあるまいかと思ふ。さう考へてもよい樣な話は多いのである。
 人が此五十年の間に二倍になつたとは言つても、まだ/\此邊の海と山との間には、靜かな林や草原が多い。生計(130)の事情の許す限に於て、野獣野鳥の繁殖を公認することが、恐らく男鹿の風景を活かす最初の用意ではあるまいか。自分等は所謂國立公園の計畫も、たゞ此條件の下に於てのみ、全國の支援を受け得べきものだと思つて居る。
 
       雉の聲
 
 斯ういふ心持から、自分が男鹿の風景の將來の爲に、最も嬉しい印象を以て聽いて還つたのは、到る處の雉の聲であつた。雉だけは今でもまだ此半島の中に、稍多過ぎるかと思ふ程も遊んで居る。それがもう他の地方の旅では、さう普通の現象では無いのである。
 又例の餘計な漫談であるが、雉の聲で思ひ出す自分の旅の記念は、多くは無いが皆美しいものであつた。若狹の海岸は島が内陸と繋がつて、中間に潟湖を作つた點は男鹿とよく似て居る。たゞ其山が迫つて、水が小さく幾つかに區切られて居るだけである。この湖岸の林にはやはり雉が多く啼いて居た。六月始めの頃であつたが、小舟に乘つて三つ續いた湖水を縱に渡つて行くと、よく熟した枇杷の實を滿載して來る幾つかの舟とすれちがつた。紺のきものを著た娘などの乘つて居る舟もあつた。岸には高桑の畠が多かつた。此鳥の住んで居るやうな土地には、どこかにゆつたりとした寂しい春がある。
 信州の高府《たかぶ》街道といふのは、犀川から支流の土尻《どじり》川の岸に沿うて越える山路だが、水分れの高原には青具《あをく》といふ村があつて、五月の月末に桃山吹山櫻が盛りであつた。それから下つて行かうとすると、眞黒な火山灰の岡を開いて、菜種の畠が一面の花であり、そこを過ぎると忽ち淺緑の唐松の林で、其上に所謂日本アルプスの雪の峰が連なつて見える。雉が此間に啼いて居たのである。山の斜面は細かな花崗岩の砂になつて居て、音も立てずに車が其上を軋つて下ると、折々は路上に出て遊ぶ雉の、急いで林の中に入つて行く羽毛の鮮かなる後影を見たことであつた。
(131) 斯ういふ算へる程しか無い遭遇以外には、東京が却つて此鳥の聲を聽くに適して居た。春の末に代官町の兵營の前を竹橋へ通ると、右手の吹上の禁苑の中から、いつでも雉の聲が聞えて居た。年々繁殖して今はよほどの數になつて居る樣子である。駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切賣されぬ前には、盛んに雉が遊んで居て啼いた。
 男鹿の北浦などは、獵區設定の計算づくのもので、多分もう農夫の苦情もぽつぽつと出て居るであらうと思ふが、何とか方法を講じて此?態を保存させたいのは、春から夏の境の一番旅に適した季節に、斯うして雉の聲を聽きにでも行かうかといふ土地が、今では非常に少なくなつてしまつたからである。瀬戸内海の小さな島などでは、或は保存に適したものもあらうが、實はあの邊では人間が少し多過ぎて、おまけに精巧を極めた鐵砲を持ち、一日に七十打つたの百羽捕つたのと、自慢をしたがる馬鹿な人が直ぐ遣つて來る。秋田縣の北のはづれの獵區の如きは、設定者の爲には少し氣の毒かも知れぬが、そんな金持はまだ當分は來ても少なさうである。
 
       花と日の光
 
 自分が男鹿に遊んだのは、五月第三の日曜月曜であつた。固より偶然の選定ではあつたけれども、獨り野の鳥の聲を聽くばかりで無く、海山の色を見るにも、是が恐らく最上の季節かと思はれた。今後の行樂者も此頃を中心にして、半島の旅を計畫せられんことを勸める。
 山が霞んで遠景の隱れる點では、或は秋の中頃に劣るといふ人があらうが、其代りには峰の櫻がある。黒木に映ずる柔かな若葉の色がある。全體に此地の人々は、まだ山の花を愛する慣習が無いと見えて、あれだけの樹林と村居とに比べては、見渡したところ天然の彩色が少し淋しいと思つた。今ある櫻なども曾て山詣での最も盛んな時代に、栽ゑて置いたらしい數株の老木のみである。
(132) 其山櫻の老木が、ちやうど私の訪ねた日には、眞青な空の下にちら/\と散つて居た。眞山の五社殿を後に廻はると、僅かな間の草山の登りが特別に急であつて、又其對價以上に眺望が佳かつた。恐らくは將來男鹿を訪ふ者の、必ず來て見なければならぬ場處になるであらう。
 山の斜面は略正東に向いて居る。最初は前に立つ寒風山に隔てられて、たゞ想像するだけの八郎潟が、登るにつれて少しづゝ其兩肩の上に光つて來る。それが半腹を過ぎると殆と全部、寒風の峰を覆ふやうに見えるのであるが、その見晴らしの最も優れた地點で路を曲げ、曲り角にはちやんと櫻があるのは、疑ふ所も無く心有つての設けであつた。以前此邊まで一帶の林であつた頃には、必ず此花の蔭に息を入れて、振返つて始めて三方の海を眺めたことゝ思ふ。
 本山の若葉山の姿も、やはり此あたりから見るのが好いやうに思つた。細かに觀察したならば、美しい理由ともいふべきものが解るであらう。山の傾斜と直立する常磐木との角度、之に對する展望者の位置などが、恰かも頃合ひになつて居るのでは無いか。畫をかく人たちに考へてもらひたいと思つた。
 其上に昔も此通りであつたらうとも言はれぬが、明るい新樹の緑色にまじつた杉の樹の數と高さとが、わざ/\人が計畫したものゝやうに好く調和して居る。自分などの信仰では、山の自然に任せてさへ置けば、永く此?態は保ち得られると思つて居る。北海の水蒸氣はいつでも春の常磐木を紺青にし、之を取圍む色々の雜木に、花無き淋しさを補はしめるやうな、複雜な光の濃淡を與へるのであらう。さうすれば旅人は單に良き時におくれることなく、靜かに昔の山櫻の蔭に來て立つて、歎賞して居りさへすればよいのであつて、自然の畫卷は季節が之を擴げて見せてくれるやうになつて居るのだ。
 
(133)       風景の宗教的起原
 
 この次には男鹿に遊ぶ順路といふものを考へて置きたい。自分は必ずしも海の男鹿を輕んずる心は持たぬが、折角高い廣々とした觀望場があるのに、それを外にして片端から横面を仰いで、直ぐに引返さうといふ遊覽法だけは排斥する。
 日光山で瀧ばかり大騷ぎをしたのと同じ樣に、あれは以前の修驗者の足跡を、法外に尊重した遺風であつたかも知れぬ。實際本山の方の名僧たちには、岩に攀ぢ洞に閉ぢ籠つて、浮世をよその修行をした人も多かつたから、舟で此あたりを過ぐる者の、隨喜し禮讃し且つは畏怖したのも自然だが、それと自然其ものゝ崇拜とは又別である。しかも風景の起原はどこの國でも宗教が之を誘うて居る。殊には葛の根を煎じたものを、カツコンタウと謂へば有難がるやうな日本では、漢字で名の付いて居ることは、俗衆への威壓であつた。つまり囚はれて居るのである。脱しなければならない。
 人は自ら奇を好み珍を愛すと稱しつゝ、多勢が行くなら私も行きたいといふのは、笑ふに餘りある自家撞著である。そんな風だから山水が流行の奴となり、世間が騷いでくれぬと悲しくなるのである。率直に言ふと、男鹿の外海ほどの巖ならば方々にある。伊豆の石廓でも土佐の立串でも、其他全然無名なる中國の海岸でも、まだあの上に青々たる千年の佳松を載せて、今尚一首のへぼ歌をも拜領して居ないものが幾らもある。つまり日本はそんな國なのだ。大きいものを出來るだけ小さく見て、外を知らずに獨りでそれを自慢しようといふ國なのだ。
 新たに世に認められんとする風景はそんな物であつてはならぬ。海が荒れるから今日は引返さうといふやうな不自由極まる鑑賞方法に、この壯大な天然を放擲して置いてはいけない。出來るだけ色々の變化が見られる樣にする必要(134)がある。
 故に男鹿を愛する人々の將來の案内書には、第一著に旅人の選擇し得るやうな幾つかの路順日取りを立てゝ、略その道中の難易を説明すべきである。之に對する設備などは、人通りさへ多くなれば營業者の方で改良してくれる。今までの名勝記は常に客引きを兼ねて居たから、外の人からは失望と不滿とを招くのみならず、仕事としても張合ひが無かつたのだが、斯んな愉快な事業は實は今の世の中にも少ないのである。地理の學問として青年が自ら企つべきである。
 
       南北の結合
 
 汽車の旅人ならば、何れは今後とても一日に見て還りたいといふ人が多からう。併しその中にも必ず難易二種の註文が出て來る。最も勞少なき一巡方法としてはやはり半分は船によつて序に評判の高い海の男鹿を、見落すまいといふことにならうから、稍輕快なる乘合船さへ用意して置けば、永く船川の港のさびれてしまふ心配はあるまい。
 船川門前間の道路は改修の計畫が既にある。こゝを自動車が走れば時間も早くなり、それだけ遊覽の變化も加はるわけである。戸賀《とが》の灣口は今のまゝでも、多分小舟の出入には差支へ無いのであらう。此からやゝ足の達者な連中が、僅かな崖路を登つて一二三ノ目潟を見物し、廣々とした草原を自由に散歩して、陸から別の乘合で歸つて行くとすれば、半分のお客樣は取られる形になるが、それを循環の路線として置けば、逆に歸りの船にも乘る人があるわけだ。
 併し大體からいふと、陸の方には大小の路筋が多く、從つて新らしい情景のまだ發見せられぬものが殘つて居るから、北磯の交通が開けて行くと共に、一時は此方へ人の心が傾くであらう。其傾向と調和して、旅人も土地の人も共に滿足するやうな、有效なる男鹿見物をさせる爲には、戸賀港の水陸聯絡が將來は一段と重要になることゝ思ふ。
(135) 半島の旅行に二日三日を費さうといふ者は、數は遙かに少ないであらうが、質に於て感謝すべき旅人である。然るに現在の所では彼等に對して、款待はおろか相談相手になるだけの設備もない。地圖さへも事によると、細工をして人の判斷を誤らせようとするのだ。是では餘程の冒險家で無い限り、いつでも熟路に由て有りふれた見聞を以て、辛抱をする他はあるまいと思ふ。
 自分等の見たところでは、男鹿の美しさは水と日の光の變化に存する。即ち靜かに止まつて眺めて居るによい風景である。假に温泉などは小規模で、又快活で無いとしても、あの廣大なる高原は寶物である。ゴルフの連中などはきつと涎を流すだらうと思ふが、そんなことには自分たちは構はぬ。其よりも最近折角起りかけて、場處の無いので困つて居るのは、若い人たちの野營旅行だ。明るくて乾いて居て見るものが多くて出入の自由な、斯ういふ好い練習地は東北にもあまり多くは無い。此に飲み水と質素な生活用品とを、供給する位は至つて容易なる準備であるのだが、それをすら今はまだ企てようとする人が無いのである。
 
       旅人の種類
 
 近世の紀行文學の一つのコツは、如何に世に知られた路傍の好風景でも、之をさも新發見の如くに吹聽して、國中の最も無識なる者、もしくは多少の反感を抱く者に對するやうな態度を以て、記述と解説の丁寧を極めることに在るらしい。即ち所謂名辯護士が法廷に立つ如く、常に背後の傍聽人の感激を目的として居ればよかつたやうである。ところが不幸にして私のヲガサベリは、相手が自分よりも遙かに詳しい秋田人であつた。さうして男鹿の天然の大いに惠まれて居ることは、内田伯爵すらもよく知つてござつたのである。
 そこで在來の型を破つて斯んな無益なる豫言の如きものをしなければならぬことになつた。風景は固より品評批判(136)すべきもので無いと思ふが、之に親しまんとする人の心持だけは、まだ幾らでも改良し得られる。山水は永古に無心であらうとも、たゞその正しい鑑賞と理解のみが我々旅人をして修養せしめるからである。
 男鹿は久しい昔から、もう住民のみの男鹿では無かつた。其上に近頃はたしか縣の有力者が先に立つて、顯勝會とでもいふやうなものを設けて居る。會を作つたからには何か仕事が無くてはなるまいと思ふが、まだ其事業が氣を付けて見ると、案外に澤山未發見のまゝで殘つて居る。
 自分の差出口を今一度繰返すならば、土地の生業に障害を及ぼさぬ程度に、今少し樹を茂らせ花を咲かせ、鳥獣を遊ばしめなければならぬ。殊に遠い對岸の大陸から、年々季節を定めて遊びに來る渡り鳥の大群を、せめて觀光團程度には優遇しなければならぬ。打棄てゝさへ置けばそれが自然の保存になるやうだが、現在の人類繁榮は實に暗々裡に彼等の安寧を侵蝕して居るのである。だから心を付けて、少なくとも燃料の爲に樹林が衰へぬだけに、一方には復原區域を設定して置かなければならぬ。
 交通機關の改善も結構だが、別に只あるいて遊ぶ人々の便宜も考へてやる必要がある。然るに此だけ多い小徑と其聯絡とを、示すだけの地圖すらも無い。案内記と名の付くものは偶あつても、それは單なる飲食店の廣告に過ぎぬ。前に來て見た旅人の經驗と興味とが、精確また平均には説明せられて居ない。季節のことも書いてなければ、順路も路々の記念物も閑却せられ、徒らに最上級の讃辭を列ねて、濱に轉がつた岩ばかりを説いて居る。一日も早くそんな物の代りを作つて、頻りに知りたがつて居る人々に語らうとしなければならぬ。
 それよりも尚大切なる急務は、將來如何なる種類の訪問者を、主として期待するがよいかを考へて置くことである。感覺の稀薄ななまけ者ばかりを、何千何萬とをびき寄せて見たところが、男鹿の風景は到底日本一にはなれまい。
 
(137)   秋風帖
 
(139)     自序
 
 これは私の最も自由なる旅行の一つであつた。前にも好んで路程を變へて見ることはあつたが、此時ばかりは始めから計畫といふものが無かつた。駿州の燒津で汽車を降りてから、成るべく鐵道と筋かひにあるいて見ようとして大井と天龍との間を幾日かうろついた。磐田|引佐《いなさ》の堺の尾根づたひに、昔の秋葉路を逆に八名《やな》郡へ拔ける氣になつたのは、濱松で色々の話を聽いた後であつた。こゝでは熊《くんま》村までの二日路を、中村修二君が同行してくれられた。
 三河の新城《しんしろ》では今和次郎君が跡から遣つて來て私を捜しあてた。さうして共々に作手《つくで》の山村に、入つて見ることになつたのである。作手の秋色と故事人物とは殊に奄留に適するやうに思はれたが、我々は遊歴人の氣持にはなり切れなかつた。忙はしく郡堺川の水の流に追隨して、下山の客舍に一夜を明かし、その次の日は既に松平の故邑を見物し、丸久平《くぎうだひら》岩津を通つて、黄昏に岡崎の御城下へ出てしまつた。此間の記事は本文が之を詳かにして居る。菅江眞澄の足跡は消えて居たけれども、彼を生み育てた故郷の土の香には、又改めて大いなる親しみを持つことが出來たのであつた。
 幡豆《はづ》の海沿ひは二十年餘り前に、船から見て通つた懷かしの村里であつた。こゝに一日の逍遥を試みる爲に、私だけは後に殘り、今君は又別の旅に立つてしまふ。次の日は岡田撫琴氏の自動車に送られて、岡崎を辭し矢矧の上流を渡り、擧母《ころも》の町に來て草鞋を買ひ、靴を再び荷持のカバンに結はへ附けた。但し此邊の人足は自轉車に乘つて、さつさと先へ飛ばして案内などはしてくれない。半分途も行かぬうちにもう向ふから戻つて來て、たしかに置いて參りましたなどゝ澄まして居る。西加茂の山村は家毎に瀬戸の陶器用の石粉を搗き、岡を片端から切(140)崩しては鄰國へ賣つて居る。明るい眞白な、しかし落莫たる光景であつた。猿投《さなげ》の靈山の麓の里のみが、獨り此間に於て幽邃であつた。私は土地の考古家小栗鐡次郎氏を頼んで、巴の紋を描いた左鎌の、堆かく積まれて居る御社を參拜し、それから夜に入つて飯野といふ村の、古風な旅籠屋に辿りついた。
 翌朝は美濃の柿野の郷へ、僅かばかりの一つの峠を越えた。地圖には名を掲げてないが昔からの大切な道路と思はれた。尾張と三つもあひになつた三國山の東の腰で、その三國山こそは年に一度、地方に漂泊するサンカ族の寄り集まつて、宴樂し又妻問ひをする會場として著名であつた。柿野には柿の園すでに衰へ、鳥網《となみ》張るわざばかり   愈々盛んである。山の北面は見渡す限り、竹で圍うた鳥屋が高い處まで立て連なり、日の中は人の往來が繁かつたのみならず、「秋山のスケッチ」に見るやうな兩縣の交渉が、此間に行はれて居るのであつた。
 しかも此谷の口になつた山の尾崎を一つ曲ると、再び石の粉の白く漲ぎる里續きであつた。部落をシマといふ古い言葉は殘つて居るが、それを繋いで居るのは、竝木も無い新式の繩手路であつた。石を工場へ運ぶ荷馬車が、ひどい土埃を浴びて絶間も無く下つて行く。その一臺に私の荷物は托して、暮近く多治見の町に入つて見たが、こゝでは何としても獨り宿するに堪へなかつた。それから更に自動車を傭うて、兼山の少し上手で木曾川の橋を渡り、燈の光靜かなる太田の町まで遣つて來た。こゝには紙上の舊知林魁一君が住んで居る。家はこの古驛の制約に依つて、高い防火壁を取附けたる巨大なる萱葺きであつた。夜深く提灯をともして後園の柿をもぎ採り、その種類の有るだけを盆に盛つて、携へて旅店に來て遲くまで話をしてくれた。其夜の話柄は今でも大半は記憶に存して居る。
 次の日は其柿と合乘りして、岐阜に出て久しぶりに汽車の客となつた。大垣の町に下りて見ると、こゝには共進會があつて數限りも無い柿の實が出陳せられて居る。山々の美しい秋の日の光が、流れてこの公園の一隅に淀んで居るやうな感があつた。それから車を馳せて揖斐《いび》川右岸の新らしい川除堤を、海津《かいづ》郡に入つて今須高田の町(141)を歴訪して見たが、河川工事の爲めに交通系統は全く改まり、持つてあるいた地圖は用に立たず、以前津島の天王樣の試樂の日に、遠く太鼓の音を出て聽いたといふ村なども、もうどの邊であるやらわからなくなつて居る。天野信景が浪合記を見つけ出した時代に比べると、尾張は西美濃からずつと引離されてしまつたやうな氣がした。
 その晩は桑名の船津屋に泊つて、曾て此欄干に依つて千鳥を聽いた頃のことを想像して見た。水陸の變化は伊勢灣頭に於て、殊に送迎にいとま無きものがあつた。人間の遺物はほゞ舊形のまゝであるが、歴史は既に遠干潟の如く、遙かに目路のあなたに引退いて居る。此岸ばかりから物を觀てはならぬと思つた。それで船の路の次々に改まつて來たことを考へて、急に紀州の加太《かだ》浦を見る氣になり、出來るならばそこから淡路へ渡つて行かうと思つた。
 翌日の汽車では、伊賀と大和とは素通りにして、直ちに紀ノ川の右岸まで出て見たが、五條以西は私には生路であつた。粉河の觀音の御寺には、古い同志の逸木盛照師が居られる。今では宗務に携はつて不在勝ちの樣にも聞いたが、結線の爲に汽車を下りて參拜した。果して上人は留守であり、境内も至つて森閑として居て、そこらを見巡るうちに自分へ話しかける者は、たゞ古い讀書の僅かな記憶だけであつた。懷かしいと思つたのは後代の兒文珠《ちごもんじゆ》、さては武藏の深大寺などに、移し傳へられて居た神童文學が、茲では千年も前から既に花やかに展開して居たことである。龍宮も寂光淨土も皆それであつたが、我々は終始民族固有の幻しを透して、この渡來の教法を渇仰して居たのであつた。本堂の片隅にいさゝかな手細工物を額に上げて、「おらくをさめたてまつる」と拙ない文字で書いてあるのも、何か大きな現象のやうに私には感じられた。こゝの繪馬堂には長州の講社の名が多く、それが大抵は船方であるらしいのも、思ひ掛けぬ發見であつて、それから今日まで心にかけては居るが、まだ其由緒をつきとめることが出來ない。
 加太は私が想像して居た以上に、十二分に既に漁村化して居た。久しく磯の香の間に立ち盡して居たけれども、(142)遠國の言葉などは一つだつて耳に入つて來ない。濱は土地の人ばかりの、むつまじい休養場であつて、淡路へ渡る船ももうこゝからは出ない。淡島樣の御社では、紅い小さな紙の人形を、婦人の御守りとして出して居るだけで、今でも數多く田舍を巡つて居る修驗者の、本山らしい樣子などは少しも無かつた。夏はやつぱり海水の御客だけを喚ぶやうに、宿屋の支度も改まり、風景も亦それに似つかはしくなつて居る。或は要塞あたりの干渉であつたかも知れぬが、兎に角に湊は案外に早く忘れられるものだと思つた。
 そんなら今度は瀬戸内海の方はどうなつて居るか。序に見て置かうといふ氣になつて、次の日は大阪に出て來て、夕方の下りに乘つた。是だけは昔の旅行には望めないことである。汽車を一夜の宿にして次の朝はもう廣島に降りて居た。それから宇品へ行つて東へ行く乘合船を物色すると、ちやうど何箇處かの島の村に寄りつゝ御手洗《みたらひ》まで行くといふ船がある。大崎下島は今の名を大長村と謂ひ、舊友の五領田君が村長をして居る。島の蜜柑作りも歴史は至つて古いが、それよりもこゝは桃の名所として知られて居た。更にもう一つの世に名高い理由は、勿論地形であり風を頼りの航運法ではあつたが、土地にもそれと調和するだけの機關が、中古以來備はつて居て、それで此湊を若い冒險者たちに、忘れ難いものにして居たのであつた。だから船の構造が變り帆が改良せられて、水路は昔の通りで無くなつても、景氣のよい間は來て繋がれる船が多かつたのであるが、そんな心元ない力だけでは、永く外側との交通を保つことは難い。湊が受身の繁榮によつてその觸角を失ひ、孤立の危險を感ずる例は他の地續きの土地にもあらうが、島では脱却の必要が一段と急である爲に、誰にでも早く氣が付くのである。
 手舟の利用の衰へてしまつたことは、一度はすべての島と岬の村里を、非常に淋しいものにしたやうである。海は大道であるけれども常設の航路の外に立つと、朝夕互ひに見かはして居ながら、少しも消息を知らずにたゞ竝んで居る島の多いことは、平野を旅する者の推想の外であつた。私は大崎下島の技師某君に伴なはれて、一旦|尾道《をのみち》へ戻つて生口《いくち》の島へ渡り、瀬戸田から峰を越えて南の磯づたひに、原とかいふ部落に來て小舟を見つけ、對(143)岸の伊豫の岩城島に送つてもらつた。それから案内も無しに此島の山路を經廻つて、更に生名《いくな》に渡り又|因島《いんのしま》に渡つて、漸く乘合船を得て、汽車のある陸地へ歸つて來た。尾道の淨土寺山に登つて見ると、海が七つの湖水のやうに見えるといふ程、此あたりの島山は重なつて居るのだが、縣が異なる限りは中心も別々であつて、其間の交通が思ふやうで無いのみか、同じ一つの地塊に據りながらも、端と端とには丸で心持のちがつた島人の、住んで居る場合さへ稀で無いらしい。全體に農を重んじ漁を輕んずる人たちが、移つて拓いた村里が多いやうに思はれた。今では事情も大いに變つたらうが、まだあの頃までは瀬戸田の町のやうに、船を持つて弘く世間を試みて來ようといふ氣風は、此邊ではさう普通で無かつた。單なる成行きが土地の幸福を支配して居る點は、山奧の村などゝ異なる所が無かつたのである。
 しかも一方は外部の刺戰が單純であるだけに、どこでも大よそ似たやうな道筋をとつて、變化して行かうとして居るに反して、島の境遇は一つ/\が違つて居た。斯うして一望の裡に羅列して居る生活にも、何れを代表として他を類推してもよいといふ箇所が無い。細かく分けて見るならば瀬戸内海の島々は、或は數百の小さい社會であるかも知れない。是はどうしても志を起し、もう一度計畫を立てゝ見てあるかなければならぬと、深く心に念じて其時は歸つて來たのである。それが知らぬ間に早くも十何年の歳月を隔て、今は僅かに物の序を以て、殘んの思出を辿るばかりになつたのは、誰よりも先づ自分に對して濟まぬ話であつた。旅は一生のうちに見たいと思ふ處を、見盡してしまへばそれでよいと思ふのは、單なる逸民の我慾に他ならぬ。是を身の學びとし又世の知識とする爲には、今日は殊に短い期間に、努力して廣く遠く經廻する必要がある。土地の事情が刻々に移り變つて、今と前年とを比較することが難いからである。自分は壯年以來、幸ひに多くの機會に惠まれて居たけれども、なほ一念の貫徹を缺いて居たが故に、結局一端を知つて他の半面を推斷するやうな、最も覺束無い近代の流俗を、脱出することが出來なかつたのである。
(144) 紀行は全體誰が讀むものかといふことも、今更ながら問題とせざるを得ぬ。實地を知らない人たちへの案内の書であるならば、此本などは餘りにも説明が拙であり、又餘りにも筆が省いてある。或は膝栗毛のやうに知つて居る人々の爲に、共同の興味を抱かしめるものとしては、私の通る路はいつも稍片隅に偏して居た。當時自分ではまだ心付かなかつたけれども、やはり僅かばかりの同じ道を行かうとする人の他に、主としてはその土地の住民の、目に觸れることを期して居たらしいのである。前代の旅日記の類には、斯ういふ讀者を豫想したものは稀であつたらうが、しかも今日となつては此人たち以上に、深い關心を以て之を讀む者は他に無い。紀行の目的とする所は時世と共に變らなければならなかつた。私などの觀察は精確で無かつたかも知れぬが、兎に角にこの新らしい需要に應じたもので、それが事實を見誤つて居らぬ限り、いつかはその土地の人に認められて、或は記録無き郷土の一つの記録として遺るかも知れぬ。
 率直なる外部の批判は、實際は甚だ耳に入り難いものである。是が新聞によつて即刻に頒布せられ、容易にその誤謬を訂正し得るといふことは、今少し利用してもよい新時代の便益であつた。たゞ私は此方面に不馴れである爲に、いつでも文章の效果を危ぶむやうな念があつた。殊に旅先で物を書くといふことが不安であつて、長く續けて行けなかつたのは殘念である。大正九年は私一箇の爲に、最も記念すべき旅行の年であつた。前後三篇の紀行を草して東京朝日新聞に載せて居る。その第三の海南小記は、早く一册の本として世に公にし、最初の東北紀行も之に次いで「雪國の春」の中に載せてある。獨り其中間の「秋風帖」のみが、いつ迄も切拔のまゝで保存せられてあつたのを、今度思ひ立つて書物の形にしたが、よく見ると其分量が少し短か過ぎた。それ故に二三同種の文を其後に附加へ、別に此一篇の追憶記を序文の代りに卷頭に掲げることにした。此頃久しく旅をして見ぬので、筆も脚と共にやゝ痿えて居る。
 
(145)     御祭の香
 
          上
 
 島田の町の祭禮では、面白いのは人が雉や山鳥などゝ同じく、男ばかり極彩色の衣裳で花やかに歌つてあるき、女は渇仰の目を揚げて之を見守つて居る。異性の間には嫉の爭ひと云ふものが、全く無いかと思ふ程である。或はじみな木綿縞の袖口を突出した、賤の女とも謂ふべき婦人が、路傍に彳んで頻りと何か言つて居るから、そつと近づいて聽いて見ると、それは前を通る踊の唄に合唱して居るのであつた。此樣な單純な耳の人が住んで居る土地である。平和ならざるを得ないでは無いか。
 御大禮の時でもさうであつたが、あまり熱中して支度をする爲に、當日が待ち兼ねるものと見えて、宵宮の前の晩からもう十二分の豐の明りをして、肝心の神輿渡りの日には既に些しく樂み疲れに疲れて居る。紅紫の羽二重の襦袢が、汗ばんで塵を招いて居る。大名行列の小さな武士は、馬の上で眠りかけ、又はだゞをこねて附添ひの親たちを困らせて居る。揃への扇のあどけない踊子が、折々懷から柿などを取出し、白粉の口の端を汚しながら、跟いて行くのも是非が無いと思はれた。
 それに又歡樂も今日ばかりと云ふ淋しさも萌して居る。次の四年目には世の中も變るであらう。ましてや遠國から來合せた者などには、無邊際に只一度の遭遇だ。何でもよく見て置かうと思つて、群衆と一團になつて動いて行くと、(146)是が目まぐろしいと謂ふものであらうか、世界が只虹のやうに茫漠と美しいだけで、音聲にも茲を視よと誘ふほどの、強い中心と云ふものが無かつた。獨り不思議なことには平生最も謙遜で且稍幽鬱なる鼻ばかりが、無暗に働いて色々の事を考へさせてくれる。實に意外なる體驗であつた。
 我々平民は固より生れながらの詩人では無い。大まかな同情者が高尚と評してくれさうな今日のやうな感想でも、仔細に分析して見ればやはり物質的の基礎の上に立つて居る。此町に入込む程の者が、均しく感受する快よい恍惚は、則ちこの常と異なる「人いきれ」の致す所である。言はゞ我々の鼻に訴へる土埃の音樂である。香の一種である。氣を附けて見ると、なつかしい昔風のメロデイが、その新しい調子の中に籠められて居る。
 古人の頬にも觸れたに相異無い舊の五月の日影である。其が一旦人々の胸を通つて來て、此市街を暖めんとして居る。最も生活に親しみの深い色々の物の香が、之に由つて運ばれるのである。中でも植物なら花に該當する部分が甲《かん》が高い。所謂殿方用白粉も今日は盛に消費せられて居る。現代文明の力が喚覺した地下の石炭の精が、香料と爲つて其中に現れて出る。次には髪の油であるが、是も昔の若者等が久しく味ふを得なかつた尊さにまで達して居る。おきさ次郎兵衛の淨瑠璃にも「あくれば匂ふ梅花の薫り、闇にもしるき云々」とあつて、心中する程の大阪の女で無ければ、附けることも出來なかつたものを世の中が進めば、此邊では殆と一人殘らずに使用して、且歡樂の熱を以て之を溶して居る。其香が何の爲に我々の祭禮の基調を作るのかは、民を愛する神々ならば勿論知り切つてござるであらう。足穗《たりほ》の田に溢れる如く、人草は里に茂らねばならぬからである。
 之に反して百年前の秋祭に、嚠喨たる響を發して居たもので、今や漸く幽かなのは甕を迸り出る新酒の香であつた。赤い樽を離れ白いコ利に近づく時勢に爲つてから、酒はみだらな者が弄び、眞摯な者の怖れ又は税を掛ける品と變化した。確かに斯邦の神の道では無い。二階で獨り飲むやうな惡風習は改めて、今一度之を御祭の日の合奏に、加へて見たいものである。かう云ふ淋しいことも考へさせられた。
 
(147)          下
 
 煙草を酒と對立させるのも洋風であるが、島田の祭では驚くほど此煙の香が高くて、喚ぎ過すことが出來なかつた。我々に脱帽を命じた神輿の世話方も啣へて居た。踊屋臺の上も下も、女に入交つた若者は殊にバット敷島を愛して居た。僧侶に抹香が伴ふやうな、一種の流行と思はれたが、其祭の空氣を作るに至つては感心しなかつた。自分は先頃奧州|野邊地《のへち》のささ踊で、數名の青年の卷煙草を憎いと思つた。田名部《たなぶ》の寺でもあまり盆踊の啣へ煙草が甚だしいので、終に境内で踊ることを斷られたと云ふ話を聞いた。祭や踊を農村の娯樂などゝ名づける人々が恐らくは斯樣な變な流行に就いて、責任の大半を分たねばならぬのであらう。
 白粉鬢附のロマンチックに對立して、最も古典的なのはやはり食物の香であつた。何人も熟知した種々の昔の、如何にも微妙なる配合である。なつかしい音色《ねいろ》である。其は獨り人間の故郷たる、豐かなる土から發生した爲ばかりでは無い。遠き祖先が餓ゑ疲れる度毎に、必ず思ひ出した林や磯の幸福を、語るが爲と云ふだけでも無い。町の生活に最初から必要であつた統一と調和が、今では祭禮などの日で無ければ、容易に我々の心を動かす迄に現れて來ぬからである。硝子戸の文明は臺所の隔絶を意味するが、大昔に在つては一團の部落は、即ち一箇の庖厨であつた。民の竈の喜びは時として高き屋にも達した。甲の家で松蕈を煮る夕は、直に又乙丙丁の爐側でも、之を味はふ時であつたのに、次第に力の及ばぬ者が多くなり、殆と一塊の森や竹藪で包まれた里にして、やれ何作では鰯を燒くよと、羨まれ評判せらるゝに至つて、乃ち板戸|衝立《ついたて》の沙汰が始まつたのである。祭は何と言つても復古の事業に相異無い。此日ばかりは鮓でも甘酒でも粟の餅でも、人の製する品を我も作るから遠慮が無い。其爲の門戸開放でもあるまいが、戸は引揚げ暖簾ははづし、掃き淨めた土間を透して、紅く勝手元の火が燃え、物の香は子供よりも自由自在に隣近所を出入りする。通り掛つた遠國の者が、深い旅愁を感ずるのも正しく此刻限である。
(148) 御互に笑はれるのを恐れて何も言はぬが、子供の時の食慾ほど、郷里を慕はしめるものは實は無いのだ。さうだ此匂ひもよく記憶して居る。河の神の夏祭の夜などに、廣い草原に一輪の大きな花の如く、塵と人影とが提灯の火に照されて居る部分がある。胸を躍らせて其中に紛れ込むと、煮詰つて行く煮込のおでん、踏潰された果實や瓜、其他色々の香が群衆に暖められて流れて居た。強ひて求めたら地方と時代との特色もあらうが、鹽と五穀の主たる種は一つで、冬の境に一度は遊べと云ふ、神意を共に受けた我々である以上は、此音樂も亦國歌の一である。此次の四年目にも上品に演奏してもらひたい。舞臺に立つ藝人のやうで無く、親や女房子と共に樂しんだ昔の日本人のやうに。(駿州島田にて)
 
(149)     山から海へ
 
 三十年前に測圖をした陸軍の五萬分一は、燒津《やいづ》の見物には殆と役に立たなかつた。當時一筋半の濱の町は、後の田を埋めて四筋の餘に爲り、まだ隣村の地に食出《はみだ》して居る。舊燒津の面影も判らぬ程、在來の人家も變つて居る。濱へ出て見れば防波堤は勿論、海が運んだ只の石までも新しい。濱の松にも老木は少い。あの尚古派のラフカヂオ・ハーンが、どうして此浦を愛し續けたかを訝るばかりである。
 ハーン氏も既に歴史に爲つたが、龜井知事も故人に爲りやうが早かつた。元氣な龜井さんも燒津だけで發動機の漁船が、もう百五十艘にも爲ると聞いたら驚くだらう。勿論元は荒海の危險を凌ぐ爲の發案であつたらうが、安全帶が擴張すれば又その外へ乘出し、さうして常に危險を冒して居る。剰るから人命を粗末にするので無い證據は、燒津でも絶えず人を招いて居る。眼に見えぬ促迫《そくはく》が此世には有るのである。
 宮城岩手の海岸の村々では、燒津の鰹節商だと謂ふ青年によく逢つた。賣りに來たかと思ふとさうでは無く、此邊から半製品を買集めて、燒津で仕上げをして出すのであつた。何でも相應な産出のある土地と聞いて居るのに、更に九州からも奧からも、生節をうんと仕込んで行くとは、よく/\人の手の剰つて困る爲だらうと、想像して見ると事實は寧ろ其反對で、剰つて居るのはやはり資本と所謂企業熱とだけだつた。
 鈴木町長の話に依ると、最初は他郡の漁村から、多くの若者が發動機船の練習に來たのを、聟に取つたり嫁を遣つたり、其他色々の人情の覊《きづな》で繋ぎ留めて、成るべく此湊の船に働かせるやうにしたが、後には相手にも註文が出來て    (150)稽古濟み次第に多くは還つてしまふさうである。それで近頃は力めて山村の青年を招くやうにして居る。成程是ならば還つてもしやうが無いから留まるであらう。船頭が多くて船を山へと云ふ諺があるが、人の方はさう自由にもなるまい。折角思ひ切つて出て來た若い衆を、再び寒い山奧へ稗を食べに戻さぬやうにしたいものだ。
 山が平穩なる隱れ里であつた時代は、實は我々に取つてはあまりに長かつた。最初船で渡つて來た此國民が、流に逆うて高地に入込んだのは、自然の趨勢と云ふことは出來ぬ。前には即ち戰亂の威嚇が有り、近世は又人口増加の壓迫が有つた。羚羊《かもしか》の躍るやうな山腹に麥を播く程にせぬと、この狹い島に六千萬の生靈を盛ることが出來なかつたのである。海が廣漠の未開地であることを心付けば、彼等の下りて來るのは所謂水の低きに就くやうなもので是程成功し易い奨勵は無いのである。其代りに人間の流れにもちやんと水筋を附けて、安全な出口を指示して貰はぬと困る。此責任は誰か負うて居る人が有るだらうか。(駿州燒津にて)
 
(151)     武器か護符か
 
 新進氣鋭の濱松の市でも、稀にはちと古臭い社會事業を遣るらしいことを、少なくも新聞は報じて居る。何でもつひ此頃の話である。口に離れた職工たちを國に還す爲、町の有力者が旅費の金を、慈善家から集めて居ると云ふ噂である。旅費も無いやうな貧乏な家族に、還つて來たぞやれ樂《らく》やと云ふやうな、結構な故郷が有らうとは一寸信ぜられぬ。送還は果して彼等の救濟であるや否や。或はそんな事をして只問題を片付けて置くのでは無いか。
 東京でも路に倒れた行旅病人を前に置いて、虞?《ぐぜい》の爭ひをした警察署が有つたさうだ。無暗な謙遜は啻に事務の延滯であるのみならず、時としては餘分の混亂を近隣に強ひることに爲る。今に全國で一齊に此政策を採用する時の事を考へると、實にぞつとしてしまふ。
 一時の成功から申せば、濱松などで右の旅費の施しをするほど、簡便有效なる救濟事業は他に類が有るまい。何となれば遠方から遣つて來た勞働者は、此附近の工場にはまだ幾らも無いからである。從つて其だけ近所迷惑も大きく無いかも知れぬ。併し同時に他郡他縣から、さうして戻された者の始末を考へて置く必要が有るから、問題は決して簡單では無いのである。其上に之と關聯して、元から町に住み又は近在から出入りする職工とても、單に歸宅を見屆けて安堵する譯には行かぬ。何しろ區域が廣く無いから、是だけは多々益辨ずとも言はれぬやうである。
 職業紹介所はまだ一向閑ださうである。てんから口が無いのだから、其は意外でも何でもない。頼みに來ぬから困らぬのだらうと、斷定し難い事由が何分にも多い。馬鹿げたやうな話だが、首になつたことを近所に隱す爲に、用も(152)ないのに辨當を持つて、毎日出歩いて居る男もあつたさうだ。多くの家庭では稍其に近い忍耐をして居るに相違無い。どうにも成らぬのは成らぬとして、旅費の一件だけはあまり氣樂だと思ふ。
 自殺自決が責任を解除するやうな國柄ではあるが、今度の悲況などは重役の更迭、乃至は會社の解散を以て一切の終りとするやうな小間題でない。勿論行政官を鞭撻さへすれば、何とかしてくれる筈と思ふのは誤りなる如く、若干の有力者が手も足も出ぬからとて、之を責めるのは不當である。平生立派な口を利いてゐるからと言ふなら、寧ろ平生利かせて置いた方が惡いのだ。單に此地方に對して説くのではないが、世の有力者たる者は深く我が無力を覺り、捨て置き難い偉大な問題が捨て置かれた今度の悲しい經驗を忘れないで、機能は有つても智慧の無い者には縋り附かず、此次は解決し得さうな者を働かせる工夫することだ。愚直で昔風な職工が得られて、好い按配だと思ふ如き鼻元思案は、未來の工業市としては第一に撤囘せねばなるまい。(遠州濱松)
 
(153)     出來合の文明
 
 同宿の一人が、宿帳に興味を持つて頻りに飜すのを側から見てゐると、不思議なことが見付かつた。繭買材木商雜貨の註文取等の、遠方の旅客の中にまじつて、附近の村々の、職業は農と記した人が大分來て泊つてゐる。郡會議員や役場員なら、公用で無くても所謂肩書を書く習ひだから、疑ひも無く是は其以外である。此邊でも景氣の良い時節には、自轉車などで町へ泊りに來る人が、やはり多いらしいのである。
 武藏野の奧にも此の類の町は多い。大抵は月に六度の市《いち》が立つてゐる。餘り平穩なる山中に住む者が、時に浮世を見に出て來る場所である。實際山々の口元に、若し二俣の如き町が無かつたら、新時代は永く此人々の爲に、蓬莱の夢であつたかも知れぬ。幸ひにして祖父以前に、植ゑて置いた美しい杉檜が有つて、之を伐つて筏を組むならば、足弱ながら平地の商人が、此あたりまでは買ひに來る。彼等が門の戸は徐ろに叩かれるのである。曾ては谷川の水ばかりが流れ下るものであつた山の奧から、一籠の果實一駄の、炭までが町あるが爲に爰に集まることになつたのだ。
 其對價として彼等の求むる物は、固より新しい幸福で有つた筈だが、たゞ其幸福の目安が、毎に簡單に失してゐた。例へば山の中に居て暖を愛する故に、母や子の爲に綿を買ひ木綿を欲するはよいが、酒の醉をも暖いから結構なものと熱心に求める傾きがあつた。市と酒とは殆と斷つべからざる關係が有る。さうで無くても亭主の方が外出の序が多いのに、斯う云ふ獨善主義の商品が市に在つて、折々は陶然として歌つて還るが爲に、用を作つて出て行かれるやうでは、普通の貞淑では辛抱がしにくい女もあらう。
(154) 自分が試みに見てあるいた町の樣子では、婦人が立止つて覗きたがるやうな店は甚だ少かつた。又小兒の爲に發するかと思ふ音響や色彩も乏しかつた。強ひて我慢をすれば附合へると云ふだけで、要するに山の町は父老の爲に出來てゐる。永く斯うでは居られまいと感ぜられた。
 淋しい山の在所は實は元からの在所ではない。田屋《たや》と名づけて一種の勞働場であつたのを、往復の面倒と亂世の不安と、後には里にも人が溢れた爲に、老幼を携へて當分移り住んだゞけで日本人は邑《むら》に集つて住むのが本性である。折角の天下太平に際會して、假にもう田屋を引揚げて來ることは難いにしても、せめては家内一同で同じ程度に邑居の幸福を分つやうに心がけぬならば、即ち足れ武陵桃源の牢屋である。全體に山村は人が好いばかりで、今までは少し註文が無さ過ぎた。殆と宛がび扶持のやうな世間の餘り物を打込まれて、是が文明かと味はつてゐた嫌ひが有る。町を利用する態度一つでは、今よりも數倍上品で、且寢心地のよい家も出來ように。(遠州二俣)
 
(155)     野の火・山の雲
 
          上
 
 天龍の渡場で、小豆色に塗つた豆自動車にすれちがつた。村の商人の賣物であるが、賣れないので困つて居るさうだ。選擧の時にはずつと上流の熊《くんま》まで大きなやつが來た。荷馬車に出逢つては路が狹くて換れぬので、夜來で夜戻つたといふ話である。其れでも縣道が開けた御蔭にこんな化物が奧在所にも現れる。人馬の脊だけでは澤山の文明は持込まれなかつたのである。
 併し村の人たちは頓と之を歡迎するやうにも見えぬ。何年にもなるが少々の飲食店などの外には、新道の路傍に家を遷した者も無く、依然として一軒づゝ各異つたる平面に住んで居る。稀に石垣が長く續き、二尺以上脊競べをして居るのは舊道である。舊道の方が三分の一も低いから、徒歩の人は之を通るが、其代りには膝に手を添へるやうな坂ばかり登らねばならぬ。嶺には必ず僅な平地があり、人家が有る。越えて向ふへ下ることを、此邊では「ひつくりかへる」と謂ふ。脊戸から直にひつくり返るやうな處にも、寒いであらうに古さうな農家が住んで居る。自分を案内してくれた二年生の兒童は、何れもそんな家の子であつた。
 足跡で踏開いた路だけに、如何にも自然に附いて居る。水分れに立つて見ると、何れか一方の谷は必ず見通すやうになつて居る。其展望を幾らか遮るやうな突出は、多くは昔の微細なる戰場、乃至は砦《とりで》物見の跡らしい。今は引替へ(156)て電信の柱などが此に立つて居る。渡り鳥が野に下るにも、便宜の多さうな路筋である。
 學校の子供は隨分遠くから通ふが、尚どうしても分教場を置かねばならぬ部落が二つある。阿寺《あでら》と云ふ區は名を聞いても寒さうだが、之と反對の西の端には、懷山《ふところやま》の一|字《あざ》が山を負ふて遙に散布して居る。往つては見ぬが其中の數戸は、家の後をひつくりかへれば直に引佐《いなさ》郡の澁川へ下つて行き、表口はまともに曳馬《ひくま》の野を見下すやうな處に立つて居る。いつの昔から斯うして住んで居るか知らぬが、山は元の儘でも野にはえらい進歩があつた。「にほふはり原」と歌に詠まれた叢を分けて、芋掘り長者が薯蕷《やまいも》ばかり掘つて居た時代には、夜は固より眞暗な曠野であつたらうのに、
 一つ二つと燈火の數が増すと共に、畠あり村ある明るい田舍になり始めた。人は死ぬから一|時《とき》を古今と思つたかも知らぬが、最近の變化に至つてはまのあたりである。濱松の松は既に殘り少なで、その代りに出來たのは織物の工場である。一機に一燈の電燈がついて居る。それが鐵道を越えて北は笠井の附近、更に二俣の對岸近くまで、只の農家でも二棟三棟の、長い織場を建てた屋敷が稀では無い。北を向けて明り採りに、屋根の片側を硝子にして居る。何とも無い山の上の農家に於て、靜かな夕方に見て居ると、一時にぱつと美しい光が、廣い平野を彩るのを見るやうに、もう世の中がなつたのである。
 
          下
 
 西武藏の或山村からは、我東京の町の火も、亦此の如く眺められて居る。しかも只茫洋たる光の海であつて、晝の間は緑の海に代り、更に目に見えぬ人の海の、幻を誘ふに止まつて居る。之を取繞らす武藏野原は、即ちその海の淋しい渚である。常は一樣の樹立塵煙だが、夜に入ると處々の村が露はれる。眞正面に進んで來る汽車のランプの、暫くは動くとも見えないのを、今立川の橋にかゝるなどゝ、見馴れた村の人だけは手に取るやう地理を知つてゐる。流れや古木の目標に由つて、恐らくは一々の灯火《ともしび》の主を指點することが出來るのであらう。況んや子を遣つて置く母な(157)どの眼には、?々其光が横に長く、霞みまたゝき又は濡れて映つて居るに違ひ無い、雲に鎖された夕方でも、一つだけは其方角に見えたのかも知れぬ。
 濱松で補習學校を始めてゐる中村君の工場にも、阿多古《あたご》の山から幾人かの少年が下りて來てゐる。もう其郷里では多分の次三男を、分家させるだけの耕地が無いからである。此學校が終つてから、還るか止まるか又は他に行くかは、家の者にも我々にも、等しく大きな問題である。當人等は却て一番呑氣かも知れぬが、親たちとても思案に暮れたと云ふ風でも無い。序があると寄宿舍を訪ねて來て、泊つて行くこともあるさうである。常に促迫と云ふ味を知らぬ人々だ。次の日には工場に坐つて半日以上、機械の動くのを見て居る者も多いと謂ふ。彼岸の前後などには、鴨江の觀音さまに御詣りに來た姉や叔母が、子供の顔を見に一寸寄ることもある。家へ戻つての物語は多からうが、男ばかりのごた/\とした中なので、多くは何の話もせずに行くさうである。碌に修繕もせぬやうだが軌道はやはり輕便なもので、山と町とを半分の距離にした。さうして燈の光も通ふのである。只市中では電燈の數が繁くなつて、とても村里のやうに一人々々の消息を傳へるわけには行かぬ。廣漠たる人の海に向つて、扁舟は將に其纜を解かんとして居るのである。
 中村君は又、よく霽れた午後などに、みんなを引連れて二階の北の窓を開き、君等の村の山が見えるかと、聞いて見たりすることがある。山には裏と表とで、峯の形の丸きり違つて居るものが多いが、其でも感覺は至つて精巧な磁石である。或は又間違つた方角に向つて、心中の郷里を描く者もあるだらう。白い小さな雲が動いて居たりすると、直に以前の似た天氣の日を思ひ出すか、あゝ斯んな日にもや〔二字傍点〕を苅りに行きたいなどゝ、言つた子供もあるさうだ。併しもや〔二字傍点〕を苅るのもさう輕い勞働で無い。こんな日に山に登つて獨りで苅つてゐたら、又里が見え汽車が見え、海から風が吹いて、夕方には戸に凭れて下の灯を眺めるやうなアルネのやうな氣持になつたかも知れぬ。(遠州上阿多古)
 
(158)     御恩制度
 
 小さな母校の庭で、今はちやうど消防の演習がある。部長は二十七八のいゝ男だ。志願兵の少尉でゞもあるかと思ふと、なに只の旦那衆ださうな。今の時節に人を手足の如く動かすのは決して容易な技術では無い。又此邊の人士が來るべき利益を計算して、從順を装ふ程鋭く無いことも明かだ。おまけに消防は殆と全部が義勇軍である。之を率ゐるのは所謂コ望に相違ない。さうして平和な村のコ望は世襲であるやうだ。
 自分の知る限りでは、今朝出て來た遠州の熊《くんま》村の如きは、先づ一流の平和地である。百五十内外の戸數が、中央のたひら〔三字傍点〕に住んで居るが、其中の百二十何戸は元からの村人で無い。しかも近年の景氣で引寄せられたので無い證據には、移住者には二代目もあれば三代目もある。即ち時勢と共に、遁げて來たりまごついて居た者の、事情も亦一樣で無かつたので、其を此村ではいつの世にも親切に世話したのだ。最初は多分どこの仁が、どうして爰へ來たかの好奇心が口を開いたのであらうが、まあ働いて見よが久しからずして、どうやら正直さうなと云ふことになり、信任せられる方では居心地が好く、打明け話をして無理な縁を纏めてもらひ、又は其御面倒を掛けるまでも無く、既に近所の娘と内談をすませたりする。子でも出來ればもう尻が据つたものと看做される。あの畠の半分を屋敷にせよとか、乃至は此山に杉を植ゑさせるといふことになつて、其金は大抵十年間一割の利子拂ひで、すんだことにして貰つて居る。山一つ彼方の「報コ」では別に一年分の禮金が添ふさうだが、此邊ではそんな勘定をする人なら、いつ返すとも知れぬ者に、鍋釜を貸すやうな世話は始めからせず、又そんな冷淡な態度で、旦那|大家樣《おほやさま》と呼ばれて居る人は一人も無い(159)さうである。世話を受けた者が言ふのだから、此は本當であらうと思ふ。
 此連中は吉凶の折は勿論、年に一度の苅入れ麥こなしにも、顔を出すのを義理として居るが、之に對しては食物なり衣類なり、相應以上に氣を附けて遣るのが、大家の夫人の常の習ひで、結局は村の門閥の品格地位は、高い入費を以て平素から維持せられて居るのである。金はいくらでも出すと謂ふ新長者の威張方とは種がちがつて、是には歴史上の根柢がある。
 只惡い事で無いだけに、世の中が變るとなると始末に骨が折れる。早い話が普通選擧が始まつても、斯ういふ村では結果は丸で元の通りである。五名か七名の顔役の、在來の力さへ把へて置けば、依然として情實候補者を當選させることが出來る。我々の感銘の美コが公認されて居る間は、例の温情主義も嘲笑することが出來ない。賄賂を嚴罰に處する程の官憲ですら、あの人の意見には假令非が有つても反對し得ない義理が有るなどゝ、麥刈の手傳にでも行く氣になつて居る國柄だから。
 
(160)     狼去狸來
 
 舞木峠は近年まで立派な杉林であつた。空も見えぬほど茂つた山路であつたが、しかも今日のやうに淋しいことはなかつた。秋の末に村々から出て道を修覆すると、其から後は雨もあまり降らず、草も生えぬ故に通行は樂で、舊正月などは秋葉道者の話聲の絶間が無い位であつた。頂上には熊《くんま》から夫婦者が毎日來て茶店を出し、渡世する世中であつた。其が袋井から輕便が森町に通じて、殆と此路は不用になつた。參州から嫁に來た人が年を取つて、人力で實家へ行きたいと言つたが、三人曳でも四人曳でももう通れなかつた。
 さうなると晝間でも一人では氣持がよくない。時々は女が追掛けられた話もあつたが、其すら最早言はぬやうになつた。なに淋しいと謂つた所が、出る物はきまつて居る。山の犬は斯う木を伐つては此邊には居らぬ。狸などは高の知れたものだ。山の犬は姿を隱すからをつかない〔五字傍点〕が、狸は提灯の前へちよろ/\とあるくこともあつて、惡戯と言つても化の皮がすぐ露れる。でも馴れないと馬鹿にされる。一人で通ると後から呼ぶことがある。振向いて誰も居らぬと急に怖くなるが、尻聲が切れてほいほいと短いのは狐だから、立止つたり返事をしたりせぬがよい。
 全體に狸は他の獣よりも、色々な聲をまねるのが巧なやうだ。狸の神樂などは此邊の人で、一度や二度聞かぬ者が無い位だ。殊によく聞く草つ原が、此峠の路にも有る。つひ四五間の鼻先で、笛なら太鼓なら本物と寸分ちがはず、がや/\と笑ひながら囃す樣子まで、目を潰《つぶ》つて居れば彼の所爲とは思はれぬ。又彼とは知りつゝも、感心せずには居られない。此などは全く騙すのでもなく惡戯でも無く、自分が面白くて遣るのでなければ、恐らく我々をして敬服(161)せしめんが爲だらう。狐の嫁入よりも今一段と社交的である。
 惡戯も或は人なつかしのすさびかも知れぬ。熊村で自分の新たに知つた細君などは、つひ半月ほども前に、四人の同志と共に後の山に登り、盛に薪をしばつて居ると、急に役場の脇の半鐘がけたゝましく鳴り出した。五人が五人共に正に其音を聞いたのである。是は大變と色々としてそこらの高見から、里の方角を見ても煙らしいものは見えぬ。事に由ると狸かも知れないとよく心を落付けて兎に角戻つて來ると、在所は極端に平穩な午後二時の茶漬時であつた。何で此樣につまらぬ惡さをしたかは別問題として、狸が半鐘の眞似も上手なことだけは爭はれぬ。
 秋葉の奧の山が山の御犬の領國であることは、自分も之を認める。しかも此神も既に威武のみを以て君臨して居るのでは無い。天然の神の力にも限りがある。然るに人間の物を信ぜんとする力には限りが無い。此次には何が舞木の杉山を支配するであらうか。
 
(162)     巣山越え
 
 遠江と三河とを繋ぐ此峠を、秋葉路と謂ふかはた鳳來寺路と呼んで居るかは、來て見るまでは自分には推測が出來なかつた。が、兎も角も二州の二大尊の間に、通路を求めんとすれば即ち是で、而も夙に信仰以前から存在したらしい山路である。曾ては鳳來山參詣の爲に用ゐられた時代も有つたのであらうが、近頃では正しく秋葉路であつた。今日は最早やそれでも無い。
 鳶巣《とびのす》と云ふ邊が一ばん高く、大きな四五本の赤松の間から、引佐《いなさ》郡の山が殆と皆見える。鎭玉《しづたま》の一村は眼の下である。鳶のやうな平凡な鳥でも、いつも險岨の巖壁の上に巣をくふから、目標とも爲り地名とも爲る。烏の及ばざる點である。其から僅かばかり山の脊を行くと、縣境であるらしいが傍示の杭は無い。谷を隔てゝ三河八名郡の淺川部落がある。山田の忙しい時だのにさつぱりと庭を掃いて、一戸も貧乏らしい家は無い。三里以内に醫者は居らぬさうだが、水と日當りとは極上らしい。ずつと下ると六本松の民家は道の傍で、水車などが廻つて居る。村を出ると紅葉の山に圍まれて、美しい小沼があり、其端には板橋が架つて居る。冬は往來の人がなぐさみに、氷滑りをして行つたものだと謂ふ。
 沼が隱れてから値の間は野路で、も一つ曲れば巣山の村である。廣々とよく稔つた田が有る爲に、平地に出たやうな感じがするが、四十八曲りの險を降るに及んで、始めて二階の上であつたことを覺るのだ。三州には巣山と云ふ山村が幾つかある。鷹を捕りに來る人達が心づいて拓いたか、捕らせる爲に特に村を設けたか。又何人が之を命名した(163)か。今と爲つては何も分らない。今の道は兎に角毎年の秋葉參りが附けたと謂つてよい。斯んな山村でも宿屋が二軒あつた。突當りの吉田屋は材木でも片商賣にするらしく、家は農作に適するやうに出來て居る。旅客のみを待受けても居られぬ筈である。今一軒は朝鮮へ引越して往つた。立派な石垣の屋敷に桑が栽ゑてある。一晩に三百人もの泊りが有つて、家の者は土間に夏の涼臺を持込み、其上に寢ることも珍らしくは無かつたが、もう夢のやうだと土地の人が言つて居る。
 四十八曲りは巣山の方からは殆と平路である。荷馬車を通すと言つて、之をSの字を押潰したやうな七曲り位に改修して、元の通路は處々毀れたが、それでも婆樣までが新道は通らず、前の前の百何十曲りかを眞直に、姥が瀧と爲つて下つて行く。下つてしまへば細川の村だ。飽きるやうな長い在所だと謂つたが長いだけが事實で、山を後に流れを前にし、昔風の屋敷がよく發達して居るのが、とり/”\に面白い。岡を越えると大野の町である。崖が高くて下を行く三輪川の水は見えぬ。長篠の古城址は此深い谷川を隔てゝ居る。さうして爰にも又一つの鳶巣山がある。
 
(164)     屋根の話
 
 一九の膝栗毛を輪講する會が出來、其が感謝せられる時代に爲つた。廣重の五十三次などももう史料である。此寫實の繪が繪空事かと思はれる程、東海道は別な物に爲つて了つた。獨り鐵道と煉瓦とペイントとが之を致したのでは無い。眼を遙に平穩なる場面に放つて見ても、昔ながらの紅い夕日、蒼い殘月の光を隈どる輪廓が、最早四分の一だけでも舊日本では無くなつた。人の頭から丁髷が引退した如く、家の屋根からは栗檜の枌板《そぎいた》が影を斂めた。菅笠や頬冠りが安い帽子に改まつたやうに、田舍と聞けば目に浮んだ草屋が、僅な間に悉く瓦葺に爲りきらうとして居る。其には又十分な理由が有つて、惜しいと思へばどうにか殘し得るものでは無いやうだ。世には何が何でも變化せねばならぬものが、此通り有るのである。
 濱名湖以東には元は板葺が多かつた。或時代には之を以て驛路の美觀と考へ、都から移した文明の一つに算へたこともあつたらしいが、民家が密集して愈火事が怖くなれば、繪卷物以來のなつかしい板屋でも、罷めて瓦にせねばならなかつた。隣國の三州は有名な瓦の産地である。制度の禁止さへ解けたら、其のみでも之に向ふべき自然の勢であつた上に、右申すやうな火の用心と、木材の騰貴が手傳つて、終に柾大工は衰へ瓦師が大いに興ることになつたのである。徒らに昔の趣味にさへ捕はれずば、見た處は此方がずつと好い。きちんとした瓦茸に電燈でも引いて、小工業の機の音でもすれば、農村の進歩も是までといふ感じがする。唯人があんまり幸福に成つて居らぬのに、當惑をするばかりである。
(165) 曾ては農民の無細工な茅葺も、一旦は立派な藝術にまで進んで居た。併し殘念ながらもう永くは續くまい。寺や社の一生懸命の普請にすら、萱を集める爲にどれ程の苦勞をするか。只の民家で言ふならば、二十年一度の屋根替の用に、空しく十九年の萱野を立てゝ置くことは不可能だ。是に於てか「ゆひ」の組織が有つて、二十戸の家が順々に一戸づゝ葺替へた。其共同の野も畠に拓き木を栽ゑ、瓦に爲つた家から追々に「ゆひ」を脱する。一人の物好きが靜かな雨の音を聽かうとすると、殆と有る限の無理をして、草と職工とを遠方から喚ばねばならぬ。やがて冬の稼の山國の屋根屋も、廻つて來ぬことにならうと思ふ。
 稻藁麥稈は三年も持たぬが、其でも手近の材料だから之を交へて使つて居る。しかも此とても手間融通の慣行の存する間で、飲食の入費が高くなると、やはり贅澤な工事になる。作手《つくで》の山村の如きは萱を立てゝ置く原野はなほ多いが、新たに作る家で之を利用せんとする者は殆と無い。よい時に見に來たとつく/”\我々は思つた。爰ばかりが別天地で居ることの出來ない世の中にもう爲つた。赤い瓦を燒く工場が、此村だけでも三つある。五年の後には村が赭くなつて居るだらう。
 
(166)     ポンの行方
 
 海拔千五百尺の高寒な此村にも、ポンの往來する大道は幾筋か通つて居ると見える。どの山あひを越えるのか、途で遭つたと云ふ人も聞かぬが、今まで一年として來なかつた年も無く、いつの間にかちやんと來て小屋を掛け、つゝましく煙を揚げて居る。部落から稍離れた山の蔭の、樹林を隔てゝ水の靜かに流れる岸などが、此徒の好んで住む地點である。或は往還から下手の日當りに、子供まじりの人聲を聞くことがある。普通の里人なら必ず顔を出して此方を見るが、足音を止めると話聲を絶ち、物色しようとすれば愈ひつそと爲るのはポンである。
 馴れたら斯うも爲るものか。村の人は年々來る彼等を、軒の燕ほども注意して居らぬ。同じのが來るかどうかを尋ねても、確かな返答は得られない。男は朝から川に入つて居て顔を丸きり見せぬ。捕つた物を賣りに來るのは大抵子持の女だが、どうも一つ顔だつたやうに思ふとある。此程度の交通だから、ポンも安氣に住めるのである。竹籠の類も作つて持つて出るが、主たる渡世は川漁で、中にも龜顆はよく捕る。我々には想像も付かぬ小流れから、ちやんと龜の穴を見出して、居ればきつと捉へる。ポン又はポンスケの名も多分は鼈から出た我々の命名であらう。ヲゲと謂ふのも川魚漁具の名が元らしい。警察官はサンカ、又は箕直《みなほ》しなどゝも呼んで居るのである。
 引揚げ前にはこそ/\を働くから、警察では注意すると謂ふが、恐らくは盗難の無い限りは注意せられて居らぬのであらう。來れば一世帶づゝで、群を爲すと云ふまでゞは昔から無かつたが、近年數の減じたのも事實だらう。其は田舍の渡世が段々むつかしくなり、之に反して大都會には紛れて住み易いからである。ポンから見れば離散背叛、我(167)々から言へば半分の歸化が多くなりさうな道理である。遣つて來る季節もある筈だが、それ程よく視察した人も無い。寒くなれば濱手へ下る都合から言ふと、此邊には秋の末の今頃來て居ることゝ思ふ。我々が斯んなことを話して居るのを、何處かで聞いて居るのかも知れぬ。又寒中に五十錢遣つたら、乳まで水に入つて鯉を捕つてくれた。序に料理もしてくれたが下手だつたと云ふ話も聞いた。然らば冬でも此邊には居ることが有るのである。
 不思議なことには國勢調査の時に、氣を附けて見たがどの部落にも、ポンは一世帶も居なかつたと謂つた人が有る。自分は之を怪しまなかつたが興味は感じた。日本の幽冥道の思想と同じく、ポンは此國土の第二の住民である。大團體とは共通せぬ利害を持つ者である。計算の外である。物靜かな京都人が全部踊つたやうな祭の日にも、私は若王子山の松林に、細い煙を擧げて居る者の有るのを見た。即ち齊明天皇紀にある朝倉山の鬼であつて、少しばかりはどうも仕方が無い。我々は久しい間之を大目に見て來たのである。事によると彼等の中の小賢しい奴は、道の辻々の赤い立派な掲示を見て、仲間の者に斯う謂つたかも知れぬ。注意せよ十月一日を、此調査に洩れなかつたらポンの恥ですと。(三州作手村)
 
(168)     馬の仕合吉
 
 此邊の人は見堺《みさかひ》も無くすべて馬頭觀音樣と謂つて居るが、馬の神の石像にも實に色々の種類がある。十一面の省略かと思ふ三面の佛さまにも、庚申さまに相違無いのにも、大日如來にも地藏菩薩にも、共通に頭の眞中に梔子《くちなし》の實によく似た馬の首が附いて居る。岡崎の石屋に馬頭觀音をと註文すると、時に由つて樣々のを屆けて來るのださうである。其がやはり流行でも有るものか、近頃造營の石のまだ白い分は、概して眼のくり/\とした口の脇の下つた意地の惡さうな青面金剛である。現に今《こん》君が寫眞に撮つた、二尺あまりの石の厨子《づし》に安置した馬頭もそれで、直立した髪の毛を黒く彩色して、丸で加藤清正の甲の如く、其前立の處に例の耳の尖つた馬の首がある。大正八年正月とあつた。ちつとも觀音樣ぢや無いねと言つても、さうでせうかと謂つた程の佛教の知識である。
 それで又何故に、斯んな澤山の石體かと謂ふと、人は何處までも無意味な事はせぬものだ。馬ほどの大きな物が、今まで何とも無くて卒然として斃れて死ぬ。驚き又怖れざるを得なかつたのである。乃ち其不安を安めんが爲に、成るべく古くして有難さうな手續きを履んで置くと後日暮方などに獨で其處を通つても、胸騷ぎがするやうな患ひは無い。此も菩提の縁なりと僧たちは謂ふか知らぬが、全くは此面倒も身勝手な人間の爲で、動物虐待防止會の側から言へば遺る恨の古戰場に他ならぬ。其ほど又數多い馬が、今尚路の畔で勞苦の央《なかば》に命を終つて居るのである。
 西津輕の旅の馬追から聞いた。馬は大事に飼へば二十五歳までは生き、生きて居る間は役に立ち牝馬なら仔を産む。併し仔を持てば弱るから成るだけ種を附けぬ。殊に年老いてから牡馬を産むと、十が十まで母は死ぬさうである。駒(169)を賣放すと三日四日は親馬が悲しむ。空しき厩に戻つて嘶く聲が痛ましい。併し一週間も過ぎると忘れるらしい。之に反して食物を與へられた家は、どうしてかよく記憶して居る。だから元の厩舍の近くに來ると、ひどく懷しがるものだと謂つて居た。
 斯んな生活をして馬はどし/\と死んで行く。死んではならぬと云ふ點だけは、僅に人間と共通した利害であるが、さて生かして置いてどうすると謂ふか。やはり二十五歳の天壽を全うする迄は、手綱轡で驅使するばかりである。之を思ふと大津の東町|仕合吉《しあはせよし》と染めた腹掛も當にならぬ。其仕合は結局飼主の仕合で、馬の幸福は馬自身が考へ出すまで、まだ此世の中には存在はせず、馬の神と謂つても實は人間の神で、馬が祭らぬ限りは御利益は馬の上には降らぬのだ。さうしてそんな事を些しも知らぬから、馬は黙々として人に附いて、馬頭樣の前を通つて居る。さも/\我運命を承認するかの如く、一歩毎に合點々々しながらあるいて居る。(三州下山にて)
 
(170)     杉平と松平
 
          上
 
 雁峰山《がんほうざん》の平板な横面を、掻きつくやうにして登り越えると、あちらの麓にはスギダヒラと謂ふ一里がある。作手《つくで》の三十六部落中では、是でも一番に海に近いのだ。併し豐川の下流を汽車でばかり渡る者には、幾度通つて見てもあんな屏風の如き山嶺の北蔭に、更に別箇の小天地があらうとは考へられぬ。作手の谷の水は三筋ともに、巴山の周圍を廻流して、何れも意外の方面から平野に下つて居る爲に、杉平のあたりが却つて山奧の感じを與へるのである。
 御前石《ごぜんいし》峠の頂上まで出て見れば、伊勢灣も濱名湖も一目に眺められ、豐橋附近の繁華は手に取るやうであるが、幾ら弘々として居ても他處は他處だ。杉平の人はやはり杉平の、平和な谷合に戻つて寢た。それが少なくとも五百年來のことである。
 今でも盛んに杉山を仕立てゝ居る。手木《てぎ》と名づけて四尋ばかりの繩の兩端に、一尺五六寸の棒を結び、それを高い枝にからみ附けながら、十間もある杉の木に登り、冬から春にかけて杉の皮を剥ぐのである。民家も多くは此皮を以て屋根を葺く。少し古くなつたものは寂しい色合だ。
 又古風な胴短かの牛を澤山に飼つて居て、牛の放牧の爲に處々に草山がある。牛が自然に踏み開けた小徑は、人間のつけた路によく似て居るが、氣をつけて見ると處々切れて居る。それが山腹を細かにくぎつて居て、遠く之を望め(171)ば若い松球のやうである。
 全體に可なり開けた在所ではあるが、山一つ彼方に比べてあまりに變化がひどい故に、「作手三十六地獄」などゝ昔からわる口を言はれたものださうな。之に對して土地の人たちが、「今も亡者が二人通つた」と謂つたのは、中世の所謂秀句の類であらう。手洗所と書いてチヤライと呼んだ部落などは、住民がたつた三戸である。曾て鄰のユンギ(弓木)といふ村の者が通ると、一人の親爺が路傍の岩に腰掛けて、首をかしげてぢつとして居る。何をして居るかと尋ねると「うん今日は村寄合ひだ」と答へたと云ふ話もある。
 杉平から小さな一阪を越えると、南赤羽根といふ村に出る。家數が十四戸、之に鄰する北赤羽根は五六戸である。高寒の二字を以て形容すべき僻地であつて、僅かな日當りの傾斜地に畠を耕して住んで居る。元龜天正の交に、奧平殿の家來に尾藤源内、黒屋久助二人の者、各之を知行すと傳へ、今も村には其苗字がある。二人は勇士であつて、宇都木阪の勝ち戰の時に討死をした。こんな山畑を耕して居ても、なほ御主の爲に命をまゐらする義理のあつたことは、悲しい話だと思つた。
 奧平氏は忘れるほど古い時から、作手一郷の地頭であつた。東鄰の菅沼氏と共に、武田とコ川との間に挾まつて迷惑をした。結局意を決して長篠籠城の武功を立てる前には、あたら忠義の家來を討たせたのみか、武田へ人質に取られた妻と幼ない弟とは、門谷の金剛堂の前で磔に遭つて居る。市場の龜山にも川尻と云ふ處にも、屋敷迹がまだ殘つて居るが、主は出世をして大名になり、もう故郷へは還つて來なかつた。縁組によつて次第に血も改まり、今の奧平伯などは、軍配團扇の紋の羽織を着て居ながら、品川の海では漁師以上の網打の腕前に誇り、作手出身の人のやうで無くなつた。
 
(172)          下
 
 自分は作手を辭してから、西に向つて郡堺川の流に沿ひ、額田の下山《しもやま》を通つて、松平村の高月院を訪れた。コ川家康から三四代前の先祖が寄進をしたといふ小さな田は、寺の横手に今でも耕され、其證文もちやんと寺に殘つて居る。英雄の故郷としては爰も決してはでなものでない。それから自分には頻りに作手の奧の杉平が思ひ出された。
 松平と杉平と、たつた一字の半分だけの相異だが、土地が天下に名を知られる機會の差に至つては莫大であつた。一方の杉平は一向にえらい人を出さず、村の名を記憶する者は多分私一人だ。運やら天然やら私にも分らぬが、何にせよ杉平だから、土の色も黒く北向きで水分が豐富で、兩側の山が急であつた。之に反して松平の方は、花崗岩の露頭の、白石爛たる小松山であつた。山川の流のちやうど折れ曲りの角に當り、小さな盆地の村であることは同じでも、屋敷の後の岡に登ると、松の間から西參河の平原が見えた。作手市場の奧平八郎左衛門の住居などは、要害の點では羨まれたが、四方は濕地が多く眺望も何も無かつたに反して、松平の山には藤《ふぢ》躑躅《つゝじ》が多く、又月の名所でもあつた。
 この松平の代々の太郎左衛門の一人に、連歌のすきな老人があつた。其頃大濱の稱名寺の念佛團の中に、何阿彌とか云ふ聖坊主《ひじりぼうず》が、折々招かれて來て相手をした。時衆などには珍しい人品で、諸國を行脚して居た故に話が面白かつた。生れは遠い上州だと謂つたが誰も身元を調べたのでは無い。普通で無かつたのは息子を一人連れて居り、それが又發明な器量の好い青年で素朴な松平人に愛せられた。或は何等かの戀物語があつたのかも知れぬが、そんな事を語り傳へるやうな時世では無かつた。兎に角に斯う云ふ和合が元になつて、所望せられて入聟となり其間に生れたのが、紛れも無いコ川公爵の先祖である。
 だからもし地を替へて此邊が杉平だつたら、とても其樣な奇拔な血の改良はむつかしかつたかと思ふ。此種の縁組の結果は大抵の場合良である。それからは小規模ながらも、代々續けて豪傑が生れた。松平の岡に登ると、川下の岩(173)津の山は誰が見てもよい山だ。乃ち久しく心掛けて居て、便宜を見定めてそれへ引移つた。岩津に住んで居てなほ工夫すると、岡崎の方が更に形勝である故に、又策略を廻らして之を乘取つたのである。
 それから後の事は歴史に載せてある。之を要するに人の顔さへ見ると、無暗に松平の苗字をくれて遣つて、日本を松平だらけにした。二十世紀になつても、人が皆よい苗字だと思つて居る。米合衆國などでさへ、今の大使の以前にまだ幾人かの松平といふ名士を識つて居たのである。さうして杉平の方はどうだ。
 我々の生れた家の後の山に、松があるか杉の木が立つて居るかの、輕んずべからざること此の如しと言はうか。或は又松平たり杉平たる何かあらんと言ふか。何れにしても我々の、到底土の子であることだけは、斯うして證據立てるからは認めねばならぬ。それとも又杉平の暗い谷に、有明月夜の風情は味はへずとも、夜話ずきの庄屋の隱居はあつたかも知れず、何も連歌と念佛がはやらずとも、零落した名士が來て食客をしたかも知れぬ。即ちさういふ縁組の太郎左衛門の家のみに成立つたのも、たくましい子供の生れたのも、乃至は三河の山奧の多くの松平のたゞ一つが、松蕈と薪の産地として終らなかつたのも、すべて皆天意であり、又は史的偶然であつたのであらうか。あの杉平の村の村民の爲に、何とか一つ判斷を下してやりたいものだ。
 
(174)     還らざりし人
 
          上
 
 和田君などは岡崎にちやんと親の家が有るのに、宿帳に笑ひながら其番地を書いて、我々の旅館に泊つてしまつた。さうして翌日に爲つて大人に逢ひに往つた。晩には又「おい、君」と云ふ程度の數十名の知人と會食して、夜汽車で東京へ還つて行くのだ。そんな事をするから、愈我が眞澄翁が氣の毒に爲つてしまふでは無いか。
 菅江眞澄は二十八の年にこの岡崎を出て、約五十箇年の間北日本に、家の無い生活を續けて死んだ學者である。墓は秋田の寺内村の古四王神社の附近に、是も今は絶家した鎌田氏の墓地を借りて營まれて居る。晩年最も親しかつた鳥屋長秋の碑文にも、年は七十六七とあるだけで詳しい經歴は舊友の子孫も傳へて居らぬ。岡崎では曾て其樣な人が、生れ且つ去つたことを知つて居る者さへも無いやうであつた。實に怖ろしいのは百年の力である。彼は歎き悲しみつゝ次第に故郷を遠ざかつて往つた。四十頃までの日記には其悲しみの歌が幾つと無く見えて居る。最初は足助《あすけ》あたりから、矢矧《やはぎ》の川上を越えて出たものらしい。其時分の紀行は美濃路で水の中に失つたと自ら謂つて居る。今在るものは天明三年に、信州下伊那から筆が起してある。即ち世に所謂眞澄遊覽記の第一卷である。遊覽どころか斯な苦しい旅であつた。伊那から次は諏訪筑摩、更級の月も見れば戸隱にも參詣したが、同じ處には永く足を止めず、翌年は越後國を通り拔けて、秋の末に出羽の庄内に入つてしまつた。其から以後は只北へ進むばかりで、文(175)政十二年に此世を辭するまで、終に日暖かなる東海の岸には出なかつたのである。
 さうして毎に故郷を思慕して居る。一つには新たな生活の絆を求めなかつた爲も有らうが、還ることの出來なかつた不思議な事情が、殊に彼の旅を淋しくしたやうである。或は繼母に憎まれて、家を追はれたと云ふ説も有つたが、根の無い推量である。眞澄の日記には二親の安否を氣遣つたことが?書いてある。しかも音信を通じたやうな樣子も見えぬ。家では恐らくは出た日を命日として居たことであらう。誠に萍《うきくさ》の如き生涯であつた。豐かなる天分を持ちながら、土に根が無いばかりに其花は賞翫せられなかつた。
 其代りには彼の遺書に由つて、旅行が一の大なる藝術なることが立證せられた。時代の拘束の多い歌よりも繪よりも、漂泊其物が自在に彼を清く美しい境に導いて居る。所謂遊覽記は單に之を世に留めた樂譜の如きものである。彼は限ある島國の偏土に於ても、尚季節と地方とを按じて珍しい旅行を續け、未知の諸州に於て到る處、泣いて別れる程の友人を見出して居る。人情と山水との最も秀麗なるものを綴り合せて、愁多き其孤獨生涯を彩色せんと試みて居る。
 
          下
 
 眞澄翁の旅の跡は「奧の細道」よりも自由に、又「採藥記」よりも更に大膽であつた。どんな立派な地圖に相談しても、とても計畫の出來ないほど、宏大にして同時に閑靜な逍遙であつた。旅を命とする人の魂以外に、何物も彼を此路に導き得たものは無い筈である。
 出羽では三山の參詣から、酒田を經て將に滅びんとする象潟《きさがた》へ、最初は古俳人の足跡を辿つたが、其より西馬音内《にしもない》に山を越え、小野小町が出たと云ふ雄勝郡に遊んで後、次第に雄物川の岸づたひに、秋田の城下の方へ下つたやうである。日記は此間四月ばかり絶えて居て、次の卷は男鹿と津輕との國境の、今でも淋しい木蓮子《もくれんじ》の漁村から始まつて(176)居る。深浦と鯵澤《あちがさは》は夢の花咲く湊であるが、其中程には大間崎《おほまざき》の荒濱が有る。南に天女の衣のやうな男鹿の遠山が隱れる時、北には龍飛《たつひ》を越えて松前の山が見え、大島小島が波濤の上に浮んで來る。岩木山の麓を東へ廻ると、弘前郊外の豐かな在所には、風流の士が多かつた。此等の人々とは約束が有つたと見えて、十幾年かを隔てゝ又來て長く遊んで居る。
 併し初度には僅かしか津輕に留らず、矢立を越えて比内《ひない》に入つて往つた。即ち鑛山以前の淋しい北秋田郡である。それから鹿角《かつの》二戸《にのへ》の山村を經て南部領に入り、北上《きたかみ》の流に附いて南は水澤平泉の附近まで下つて、水の暫くは淀むが如く、二年足らずを此邊で過した。寛政元年には齡三十六七であつたが、忽然として再び北征の長い旅に上つて居る。今度は岩手の靈山を左に取つて、盛岡も過ぎ野邊地《のへち》も過ぎ、青森油川も一夜づゝで、三厩《みんまや》の泊に風を待ち、眞直に蝦夷地に渡つてしまつた。固より彼は冒險者では無かつた。松前藩の上流と交つたのは專ら文藝の方面であつたが、而も折々は遠い浦々を巡つて、漁具や海の草の種類を問ひ、又は淋しい雪中の小屋に宿を借りて、行脚の僧と故郷を語り明した夜もあつた。アイヌに就ての親切な觀察を數卷の書に編んだのは此四年の滯在の間である。十月茫々と風の吹く或朝に、便船は果知らぬ旅の客を、終に本土の一角に運び返した。下北半島の奧戸《おこつペ》と云ふ湊で、又草鞋をはいたと記して居る。南に向ふときは故らに遲々として行つたかとも思はれる。如何なる新因縁に催されたものか、假の宿りの宇曾利山下の町や村に、更に四年の春秋は算へられた。或年の冬は深い雪を冒して、尾駁《をぶち》小川原の沼の邊まで出て來たこともあつたが、旅は悲しいと云ふやうな歌を詠んで、再び田名部《たなぶ》の知人の宅へ、戻つて往つて正月を迎へた。
   一年將盡夜  萬里未歸人
   寥落悲前事  支離笑此身
斯な詩を口ずさんだやうな除夜の晩を經驗して居る。支離と謂ふのはかたわ〔三字傍点〕のことで無かつたかも知らぬが、眞澄は年老い十餘年の津輕の旅を切上げて、土と爲るべく再び秋田領へ入つた頃は、時の間も頭巾を離したことが無いので、(177)常被《じやうかぶ》りと云ふ綽名を附けられたさうである。此頭巾で所々の花紅葉を訪ひ清水を尋ね、美しい繪を描き紀行を遺した。男鹿の半島だけにも六種の日記がある。さうして雪月花の出羽路と題する數十卷の地誌を半成にして、或村の神官の家で、第二の歸らぬ旅に赴いた。死んだ後に事を好む若者たち、餘りとしても不思議なる廿五年間の頭巾を、取つて見て眞相を知らうとしたが、老人が之を制止して果さなかつたと謂ふ。恐らくは大きな刀疵でも有つたのだらうと謂ふ人もあるが、それは只有りさうな推測に止まつて居る。永遠は毎に色々の傷を包んで往つてしまふが、殊に此翁の後姿は、いつまでも見送つて居たい感じがする。(三州岡崎)
 
(178)     ブシュマンまで
 
 桓武大帝の延暦十何年かに、若い崑崙人を只一人乘せた船が、三河の海邊に漂着したと云ふ故跡は、今の矢矧の古川の右岸に在る、天竹《てんちく》と云ふ村であらうと謂ふことだ。此青年も還らざりし人である。常に悲しい聲で何か歌つて居たと、記録にも見えて居る。耳に環をはめたこの黒い男の血は夙に紛れてしまつたが、我々が木綿の種を知つたのは此時が最初で、しかも後代に及んで幡豆《はづ》海邊の低地は、見渡す限り綿畠の白い波であつた。それが元の種からで無かつたとすれば、愈奇なる偶然である。
 江戸で三白と稱へたのは三河白木綿の略である。此ばかり曲尺で三丈二尺を一反とするのは專ら看板腹掛足袋股引の材料とした爲だらうか、何故に特に此地方の産を賞美したかはまだ分らぬ。維新以後其需要が急に増し、一方には紡績の機械が早く利用せられた結果、支那から綿花の入つて來たのもやはり此邊が最初であつた。さうすると織るばかりが農家の作業に爲つて絲を引く仕事は先づ村落から離れてしまつた。絲と木綿と交易した小買と謂ふ制度が、いつか賃機と爲り、終には全部工場の管理に歸したのは、他の地方も同じである。
 併し水車を利用する紡績だけは、今以て岡崎近傍の特色である。土地では之を「から紡」と呼んで居る、臥雲と云ふ信州の僧が工夫をしたと云ふ傳へもあるが、もうそろ/\崑崙漂流式に話がなりかゝつて居る、實際家には沿革は必要が無い。何かと謂ふうちに男川筋から郡堺川其他の小流れの岸まで車小屋を建て續けた。處がさあ綿と謂ふ時代に爲つて、輸入免税が先づ土地の生産を絶やし、次には精巧な機械の競爭を受けて、外棉加工の利益が望まれなくな(179)り、再び曲折して今日の彈き綿の作業に向ふに至つた。短い歳月の間には珍しい變化である。
 是から後も必らず變化するだらうが、我々は只悲歌する所の崑崙人である。見やうに由つては今が究竟底かとも感じられる。屑木綿をほぐして綿にする作業なども、殆と智慮と技巧とを盡して居る。近頃は染料を節約する爲に、初に屑物の色分けをする。紅がゝつた木綿切を集めて、所謂煉瓦色の太い絲を引く綿に弾いて居る。格別面倒な調合はせずとも、古いから自然にそんな色合に爲る。其絲でざつと織つた大幅物が、毛布と云ふ名を帶びて阿弗利加の内地へ行くさうだ。近年まで白耳義の商人が賣つて居たのを、戰爭以來ダァバンあたりから日本へ買出しに來た。嗅覺ばかりが大いに進んだあの方面の御得意樣は、何と我々を呼んで居るか知らぬが、どうやら以前と異なる香がする爲に、此頃漸く日本の存在を承認してくれたことゝ思ふ。他日此生蠻の歴史が夜明けた時、くり舟に乘つて漂流するやうな東海人の文明は、果してどんな痕跡を其上に遺して居るだらうか。出來るものなら今一度後に來て見たい。
 
(180)     茂れ松山
 
 二十年來汽車で通るたびに、自分は遠近の岡の色の、次第に美しくなつて來るのを感じた。此緑なる天然に隱れて、幾人かの裕福な學者が、各其書庫を擁して老いず衰へず、靜かに研究を續けて居るかと思ふと嬉しかつた。今度のやうに歩き且つ彳んで見ると、やはり花は落ち水は流れ、人は去り鴉空しく啼くと云ふ淋しい野も有つた。一方の禿山の芒《すゝき》を引剥いで、此方の砂防工事の堅固にするやうな只の變化も些しは有つた。
 地方の篤學者の永く憬慕の的と爲つて居るのは羨ましい。此でこそ帷を垂れて生涯を讀書に送つた甲斐がある。唯平凡なる悲しみだが、彼等はあまりに夙く過去に屬して居る。豐橋の波多野氏などは子孫が家の學を見棄て、其藏書印の有る本が處々に散つて居る。西尾の岩瀬文庫にも大分購入せられたさうである。刈谷の村上氏の如きも、もう彼家のもので無くなつた、父子合著の書物なども出たやうだが、まだ完全に其文庫を利用し得なかつた筈である。自分は若い頃に名を聞いて、一度は門を叩いて見たいと思つたのがもう此通りである。
 併し一軒の家の變遷とは獨立して、學風は幸ひに世に傳はることゝ信ずる。現に文庫を愛する好い癖だけは、三河の國振と爲つたと謂つてもよい。右の村上氏の集積などは、殆と全部が刈谷の圖書館の有に歸した。土地の人宍戸醫學士の寄進ださうである。醫者には昔から志の深い人が有る。長篠の牧野文齋氏の如きも、巨費を投じて熱心に郷土の書を購ひ又は寫させて居る。私かに一人の家の寶とするに比べると、どの位學問に近くなつたか分らぬ。是以上は單に近づき得る人の有りや無しやだけが問題である。
(181) 岩瀬文庫は一旦公開して後に又閉ぢて居る。擴張の爲に却つて歳月が空しく過ぎてしまふ。此文庫には弘く海内の書が集まらうとして居る。珍しい畫卷などの外に、或は度會氏の舊傳を調べた編集と謂ひ、柳原伯が賣られた大切なる記録日記の類と謂ひ、何れも行く行くは西尾を有名の地にするものである。但し整理中でも學者は老いて止まぬものなることを考へたら、なほ少しく終局の目的の方へ、急がねばなるまいと感じたことである。
 西尾には鍋屋と謂つて、何と言つても本を貸さぬので有名な家がある。同じ幡豆《はづ》郡の寺津には、あまり貸したので大分無くした渡邊政香と云ふ人があつた。渡邊翁は三河志と云ふ大著を未完成で遺し去つた學者である。此本は後に鍋屋に歸し、もうとても見られぬかと思つたら、西尾の小學校に二部の複本と一緒にして置いてあつた。作つた人の心持を考へると、死後には一人でも多くの學者に見てもらひ、増補訂正を必要ならばさせたかつたらうに、誠に此邊の善人たちは、何故に古書が貴重なるかを解して居ないやうである。
 
(182)     秋の山のスケッチ
 
 おう、竹さんどうした。おら死んだかと思つたぜ。あまり酒がえらいでえ。時は大正九年十月三十日の朝の九時過ぎ、處は三河美濃尾張の境なる三國山の東、金毘羅樣の峠の大きな松の樹の蔭である。斯く謂ふ人物は、大きなカバンを自轉車にくゝり附け、此手帖の主を案内してくれる飯野の經師屋、年は四十三四、清洲《きよす》の生れで方々を知つて居る一癖ある男だ。竹さんは六十に近い親爺、だまつて聽いて徐ろに煙草入れを拔いた。つれが一人ある。
 竹さんは美濃の下石《おろし》の鶫《つぐみ》仲買人である。まだ鳥小屋の前景氣の時分に、此邊の村をあるいて高い値で鶫を買ふ豫約をした。さうして今になつて遁げまはつて居るのである。それを取つかまへるのが一つの目的で、私の案内者を志願して來たことが今わかつた。カバンの脇の風呂敷包は、何かと思つたらみな鶫であつた。果して圖星に中つたので、大得意で調子が高い。不義理の竹さんは一言も無く閉息し、澁々十圓何がしを爰で勘定し、高價な鶫を文字通りに背負ひ込んだ。
 多治見からも鳥が來る。東からも鳥が來る。麹は出ず。さつぱり値が出ず。なるだけ値を殺してくれ。もう此値では買はぬと思つてくれ。おれもはだしはつらい。
東と云ふのは木曾の妻籠《つまご》から坂下の邊のこと、あの地方でも山の鳥屋《とや》で、到る處に鶫を取つて居る。
 麹漬の麹が間に合はぬときは、鶫ばかり買込む製造家が少ないから、相場がいつも安いのである。
 鳥屋の衆は多く來れば悦ぶが、仲買は多く捕れては困るのだ。おら約束したとや〔二字傍点〕が七十からある。
(183) おれの方は三十四だ。
 此天氣では今朝も大分捕れたらう。あれ、あんなに鳴いて居る。
 此風では來るぜ。おれは胸が痛くなる。
 全體はじめに十錢ときめながら、十三文にも十四文にも上げたが惡いのだ。
 さうだ/\。
十四文とは一羽十四錢といふことである。經師屋はもう取る者を取つたから、いゝ氣で泣言の相槌をうつて居る。
 此中にはトラが四つある。始末をして置いてくれ。
トラとは虎鶫即ち?《ぬえ》のことで、禁鳥だから見付けられぬやうにせよと謂ふのである。夜明前の眞暗闇にヒューヒューと啼いて來る。幾ら萬葉集に「ぬえこ鳥うら鳴きをれば」などゝ詠まれた大切な鳥でも、飛んで來て引罹るからには仕方が無い。
 禁鳥はみんな嘴が細いのに、どうして?だけは、嘴が太くて禁じられて居るのでござりませう。
 蟲は捕つて食はなくとも、やはり數が少なくて絶えるといけぬから、禁じて居るのだらう。
 はゝあ、さうでござりますか。
斯んなことを話して柿野の村へ降りて來ると、なるほど五十七十の鶫を棒にとほして、右からも左からも人が通る。日當りに囮《をとり》の籠をならべて、鳥を洗つてやつて居る家が多い。店には紙の看板に、
   モヲチエゴマ有り升
と云ふのが方々に見える。モヲチとは黐のこと、荏胡麻は囮の鳥の餌用である。山の方を仰ぎ見ると、高い低い崖の頭のやうな處に、幾つと無く枯れた竹の圍ひがある。それが皆とや〔二字傍点〕である。木曾では松の大枝をさし、又は天然の松林を利用して居るが、此邊ではこんな簡單なことをして居る。それでも年に何十萬の鶫が中部日本の山々では捕れるのだ。
 
(184)     向小多良
 
 自分は天下多數の佐藤君松田君波多野君河村君等と共に、共同の先祖として田原藤太秀郷を仰ぐの光榮を有して居る。之に由つて昨年の十一月には、右中興の英傑の名字の地を見て來ようと思ひ立ち、妙な取合せながら大阪に於ける講演の序を以て、近江の信柴《しがらき》から紅葉の多い山路を越えて、城州の宇治田原の靜かな谷へ入つて見た。宇治橋の歴史は比類稀なる大變遷である。そも武内宿禰の雄々しい歌物語に始つて、橋姫の信仰は乃ち美麗なる源氏の君の艶話を潤色し、一方には平等院の頼通頼政から、近世の通圓幸齋が生活の痕まで、悉く此橋の袂に纏綿して居るかと思ふと、今は又水に臨んだ大阪電車の花やかな燈火が、此川の水力發電の偉業を描き出して居る。しかも誰か思はんや、百歩の川上には喜撰の歌法師、その又上流には猿丸大夫永く幽居の名殘を留め、更に奧深く入つては我が田原殿あつて、爰に一區の美田を子孫の爲に經營し去つたことを。
 宇治田原は瓦屋根のやうな地形である。僅かな屋の棟を水分れにして、近江の田原と一續きである。秀郷が領して居たのは近江の田原だけと云ふ説もある。併しそれでは「仍て田原藤太と名乘つた」と言ふのには、餘りに分内が狹い。此家の本領は固より東國に歴としたものがあつたが、京近くの莊園は恐らくは父方の特權を繼承したもので、是有るが爲に只の田舍武士に比べて、遙かに優勝な地位を保ち得たのであらう。其頃逢坂の關路は今の横濱の如き都の玄關であつた。秀郷出京の折にはやはり勢多河の流に付いて、湖岸の官道まで下つたものであらう。野州の植民地の往來も勿論同じ路であつた。爰に於てか威名は此附近に鳴り響き、琵琶湖の龍神までが彼の武勇を熟知するやうにな(185)つたのである。
 家の自慢は假令千年前の事でもやはり失禮に當るから、是より以上には説き立てぬことにする。さても近江の貴生川《きぶかは》驛で汽車を降り、犬が綱曳く人力車を傭つたことであつたが、此車夫は移住者とも見えぬのに、ちつとも田原殿の事を知つて居らぬ。自分は長野の町を過ぐるまでわざと話を瀬戸物の火鉢などの問題に低徊させて、徐ろに田原の古今に及ばんとすること、恰も若い猫の鼠を弄ぶが如くであつた。「旦那は何處へ御出でるのです」と聞くから、田原へ行くのだよと少しばかり得意な返答をして見たが、どうも其からの話は調子が合はぬ。タアロなら此道ですぜと左の方を指したり、朝宮の道だと城州へ出てしまひますと當然の事を言つたりする。そこで不見識であつたが五萬分の一の地圖を車上にひろげ、車夫の言と對照して見ると結局此先生の腦中には、宇治田原と云ふ地名が全然無かつたこと、從つて自分の田原と彼の多羅尾《たらを》とが、混線して居たことを發見した。多羅尾ならば信樂の御茶と共に、自分も夙くから知つて居るが、其が我々の田原と聞誤るやうなタアロであらうとは思はなかつた。
 そこで事の上で斯んな事を考へた。語勢や「なまり」の經驗も無くして、無暗に地名の比較研究を發表するのは劍呑である。田原は今日まで稻作に適する草地の意味と思つて居た。山に據つた里に此名は多い。大野君の在所相州の波多野莊で秀郷の子孫の拓いた村にも田原が有る。現に又自分の生れた村も同名であつた。猶又大和其他の國にも古い田原がある。何れも田の原と解してもよく通ずる。一方には多羅尾のタラ、是も亦多い山村の地名である。天武天皇紀の壬申の亂の條にも伊賀の荊萩野《たらの》などがあつて、若芽を食用に供するタラと云ふ木、刺の怖しい所から我々が幼時「よめたゝき」などゝも呼んで居た植物の、簇り生ずる山野の地を、開墾前の名稱のまゝに唱へて居るものと考へて居たのである。併し此樣子では二つの地名は元は同一で、之を文字にする際に多少音韻上の無理を忍び、見た處さうかと思はれるやうな語に變へたこと、恰も近世の蝦夷樺太の地名の類では無かつたらうか。萬一さうであつたとすれば、犬を相棒にして居る長野の車夫は、えらい事を口傳して居たものである。
(186) 是は併し空想かも知れぬ。結局は文字に據つて解した通説が正しいのかも知れぬが、タラと云ふ地名も此外に中々多く、其全部をあの植物の多かつた爲と斷定するには、植物生態の研究が必要である。更に又地形の異同も考へて見ねばならぬ。近江の近くでは若狹の太良の保がある。美濃の時《とき》・多良《たら》の多良村は或は鱈尾《たらを》とも書くさうである。其ばかりでは無く、此邊には何々ダアラといふ地が至つて多い。ダアラは又ダラとも謂つて居る。タヒラの訛音かと思へばさうでない證據に、是は多くは阪路である。唯附近の山地と比べて傾斜が遙かに緩く、所謂段層耕作に適するだけの、地味と水利とを具へて居る爲に、早くから村になつて居るのである。
 ダラの例は至つて多いが、有名なものは殆と無い。唯一つ自分の記憶して居るのは、美濃の長良川のずつと上流、長瀧の長瀧寺と云ふ白山南表の大寺の址へ行く途に、白鳥といふ市の立つ一村がある。越前の穴馬《あなま》から油阪を越えて買物に出て來る處で、昔の軍事上の要衝である。この白鳥と川を相隔てゝ、ムカフコダラといふ一部落がある。東を向いた一箇の入野で、草木と茅屋と隱翳して趣を成す古風な里であるが、何故か以前から人氣が惡く、市へ出ては酒を呑み喧嘩を始め、勘定でも踏まうと云ふやうな人が多かつた。其をつひ近年になつてから、村の有力者の志深い者があつて、色々として子弟に貯金の興味を覺えさせ、後には親たちまでも少しづゝ感化して、家業に熱心するやうな氣風にしたといふ話であつた。自分が縣道の岐路から此村を眺めて、村の樣子も其名前も、共に面白いと感心して居ると、校長の鹽田君が、かう云ふ歌が昔からありますと教へてくれた。
   向ふ小だらの牛の子を見やれ、親がくろけりや子も黒い。
ほう其は又大いに面白い。處が十年來の種畜改良の結果、此節では色々の斑ら牛が、此村からも出ると云ふでは無いですか。私ならばかういふ風に歌はせたいものですと即吟の一句、鸚鵡小町の故智を學んだものであるが、恐くは今は自分以外に之を記憶して居る人もあるまい。
   向ふ小だらの牛の子を見やれ、親が黒うても子は白い。
 
(187)     木曾より五箇山へ
 
 明治四十二年五月二十八日、晴、雲多し。
 木曾の上松の宿屋|境重《さかぢう》の横手より、田の畔道を川端へ下る。道の上で働ける鐵道の工夫等、頻りにばら/\と土や小石をこぼす。
 木曾川を西へ渡る、こゝにも名物の釣越《つりこし》は有れど平水には舟にて渡す。三留野《みどの》の青木君、自ら鐵條の綱を手繰る。
 茲に落合ふ川は小川といふ。小川の澤は眞直に西へ入り、東の方駒嶽の雪と相對す。駒嶽の雪より滑川といふ急傾斜の川流れ下る。空澤《からさは》なり。上松の民家はあたかもこの十文字の結び目に在り。
 小川越の頂上を高倉と云ふ。西に御嶽、東に駒嶽を一時に見る所なり。閑古鳥啼く。
 小川の奧は凡て御料なり。左手の初めの澤は麝香澤、此澤の檜は最も名木なり。麝香澤は檜の高き香より付けた名なるよし。
 次の澤は南の股、北の股。南の股に來て初めて杣木を引く古代の掛聲を聞きたり。木曾の杣は今でも決して大鋸《おほが》は使はず、木の前後より斧を入るゝなり。倒るべき方を受口と云ひ、反對の方の切目を蔽口《おほひぐち》と云ふ。大木は三方から斧を入れる。之をば弦掛と云ふ。鼎の脚のやうに殘したる三脚の、一つを切放せば向側へ倒るゝなり。
 大木の倒るゝ音は烈しきものなり。中空に非常な塵が立つ。谷には日傭が鳶口の音、さいたはつたの差圖の聲、嶮しき勞働なり。我輩が生活は之に比ぶれば遊樂に近し。
(188) 楢の枯林の中に、萬年草の廣場あり。樫鳥は地から三尺ばかりの處をあちこちと飛廻る。其間に山の勞働者の小屋あり。檜皮にて隙間だらけに圍みてあり。
 五月二十九日、きれ/”\の雲、一度は雨。
 小川の北の股より、王瀧村の瀬戸川の奧へ越す。山路半ば棧道なり。源頭の森林には却つて平地多し。溪流の力の未だ十分に排水を爲し得ざる林地に、昔燒畑を造りし跡あり。ゾレと云ふは燒畑のことなり。
 石楠花花盛り。淡紅と白の二種、共に優しく柔なる花なるに、葉の色はまことに無骨なり。新たに檜の柾板にて造れる柾小屋あり。黒き常磐木の林の中に美しく光れり。
 王瀧村の上島《うはじま》にて晝食を食ふ。此より川上にも人家はあれど、先づ此處が山と世間との境なり。
 王瀧川は木曾川本流よりも立派なり、本流は國道を頼みて天下に聞ゆれど、實は根つからの凡水なり。
 上島より上に大字野口、王瀧川が作りたる大野の入口なり。山の中腹に巖石の露出する所を此邊にてはゴウロと云ふ。
 氷ヶ瀬まではよき道なり。左は美濃の付知《つけち》へ行く新道、右の山道に入る。苦しき峠あり。
 柳ヶ瀬には一軒家あり。母と夫婦と女の子二人、亭主は病身なりとて、容貌少年の如し。
 濁川こゝにて王瀧川と落合ふ。御嶽の地嶽谷より出づる川なり。上流にぬるき温泉あり。下り行きて泊る。
 深夜に湯壺にて、美濃の加子母《かしも》の老人と話をす。十五六年前まで群馬縣に行きて住めり。妾に男女二人の子ありしを、其妾にやりて獨り故郷に歸りたりと。博奕の好きさうな爺なり。但し今はよほど衰へて居る風なり。
 五月三十日、快晴。
 再び王瀧川の澤に引返し、なほ川上へ行く。駒鳥昨日より到る處に啼く。
 瀧越は十七戸、嶮しき峠を二つ越え、三里餘にて漸く上島へ出ると云ふ山里なり。太古の川底なりし平地を十町餘(189)耕作す。世間にては三浦とも云へど、三浦とは此奧山の總稱なり。全村皆三浦氏なり。相模の三浦の殘黨と云ふも旁證なし。兎も角も武士の落人なるべし。どの家が一番古いと云ふことの外、一の記録も口碑も無し。女は丸々世間を知らず。美濃より來て此村に永住する教員の夫婦ありと聞く。お寺も醫者も無し。
 山査子《さんざし》なるべきか、土地にて小梨といふ花を、手桶に一杯折り來りて軒の下に置けり。家主が款待振なるぺし。檜皮にて編みたる一尺ばかりの四角な籠、山に行く者は必ず持つ。新しきものは色合何とも言はれずうつくし。
 又一つえらい峠を越す。越して再び王瀧川の岸に下る。小路は去年の洪水に損じたれば、川の石の上を歩む。深山の景色を畫く者、常に晝尚暗しといへど、此溪は極めて明るし。思ふに今日は此の如き好天氣なり。此川は中々廣き川にて、兩岸の崖遠く、しかも川の石はすべて花崗石なる上、水の邊は針葉樹少く、奧山の木は今が若葉の薄緑なれば、取集めて斯く明るく感ぜらるゝならん。靜かにて明るきはよき感じなり。處々の瀬に美濃の岩魚釣を見る。久しく物言ふことを忘れたる人々なり。
 若葉の林の日影をよろこび、熊笹の刈株を踏みて行くうちに、谷は次第に開けて水の音少しく遠ざかり、又檜|椹《さはら》の原始林に入る。土浦の澤には針金の釣橋を渡る。御料所屬の休泊小屋の前に休む。
 柾小屋と云ふ所にて、愈王瀧の本谷に別れ、左へ水無澤を上る。柾小屋は今は無くなり、其跡に黐《もち》小屋あり。瀧越の男三人、こゝに來りて夏中黐を製す。此邊すべてつめたき水溜なり。芍樂花さく。
 鳩啼く。聲が里の山鳩とは異なり。青鳩ですよと丈六は云ふ。今一人の同行者、あの位うまい鳥はありませんと云ふ。鳩は之に構はず平氣で啼く。所謂妻を呼ぶ季節なりと見ゆ。
 ごみ澤を上りきりて、三國山の頂上より八町北に出づ。美濃飛驛の山の額百ばかり遠近に見ゆ。處々の煙。
 嶺通りに數十の塚あり。遙に御嶽の方に列れり。根笹其上に叢生す。何れの時代にか國境を定めたるものなり。
 人の爲の峠は又渡鳥の通路なり。去年の鳥屋猶存し、霞網の竿なども殘り居れり。
(190) 尾根の少し窪みたる所、岩のごろ/\としたる所が飛騨への下口なり。五六歩下れば岩ぬれたり。これが竹原川の源頭にして、我等はその最初の涓滴より道連れと爲りしなり。川より外に道なければ、岩より岩に飛び、自分も一種意識のある瀧となりて里に下る。
 初めて見たる飛騨の人は、兄弟三人の草刈なりき。眼と顔と皆圓く、中のは娘なり。躑躅咲く松原まで下りて來て振返り見れば、まことに暗く淋しき谷なりき。
 文六は瀧越の者なれば、水を飲みながら、木曾の水ほどうまからずと云ふ。まことに木曾はなつかしき山なり。飛騨の家も木曾と同じ板屋なり。
 竹原村の御厩野《みまやの》と云ふ里に出づ。美濃の加子母へ越ゆる縣道の峠の口なり。或家に息ひしに朴の葉に包みたる鮨をくれたり。
 竹原川はこゝにて最早立派な川なり。その益田川に合流する所までを見屆けて、下呂《げろ》の吉村屋に來て寢たり。此町は以前河原に温泉あり、故に湯之島とも云ふ。今は洪水にて水底になりてたゞの町となれり。
 五月三十一日、けふも上々の天氣。
 下呂より小坂まで人力車。道は益田川の岸、桑畠の中、出逢ふは桑の葉を運ぶ車及籠なり。
 小坂より右へ、又落合川の上流、唐谷の御料林に入りて伐木を見る。此道三里餘。
 山の小屋に宿す。夜月よし。蛙啼く。
 初めて蕨の粉を食ふ。これより北の山里、秋神の杣の者携へ來りしものと云ふ。
 六月一日、晴。
 山を下る。杣の頭なる老人、途中まで案内して、木を流す堀川を見せる。竹の杖をつき、鹿の皮の山袴をはき、熊の皮の尻當をぶら下げたり。その寫眞をとりしがよく寫らず。
(191) 山の杜若花、草の丈三寸ほど。谷の向うなる嶮しき山に、藤の花極めて多し。
 谷に臨みて大木の栃あり。花滿開、花の數は千以上あるべし。朝日の影に全容を浴して、壯麗無上なり。道に墮ちたる花を拾ひて見るに、花片は淡紅にして底の端を鮮紅に染む。兼々進化論には腑に落ちざる廉ありしが、果して栃の木などの立派なるは、生長と種類保存との爲には非ず、此木が三十丈高く、花の底の鮮紅なるは恐らく彼の爲に必要にも非ず。人間を樂しましむる爲と推定する方遙に妥當なり。
 溪流の對岸は絶壁にて御嶽へつゞけり。絶壁の上は廣き平地にて之を原八町と云ふ。栗の天然林なり。之を見つゝ獨り山を下る。
 道に四寸ほどの蛇を見る。子供の時燐寸の箱に入れて飼置きしことを想ひ出す。昔巨人が巨蛇と闘ひし頃より、人の方は約百世なり、蛇の方は何百代を經たるか、お互に當時の強烈なる憎惡と畏怖とを遺傳して、今日なほ打解くること能はず、何とかして完全なる平和を恢復し、同情の眼を以て彼の鱗の美を鑑賞したきものなり。
 溪も山もすべて青き中を、朝六《あさむつ》の橋のみ白し。此橋を白く塗りたる人は心あるか。古き傳説をよく味ひて設計したるものか。
 小坂より高山へ七里の車、途中こんな人々に出逢ふ。曰く、子持の女を載せたる人力。村會議員とも云ふべき男、手に團扇を持つ。旅稼の人夫二人又一人。職人二人、其一人は白衣。空の郵便車を曳く脚夫、笑ひながら來る。小學校の子供二人又六人。下駄材を積める荷馬車。萌黄の風呂敷包を負うた娘。脚絆猿袴の商人。米俵を負へる馬、空荷馬車。旅の農夫。荒物類の荷車。子供を三人載せたる村の荷車。土方。堆肥の荷車を引く百姓の夫婦。電信の工夫。農夫谷川の水を見ながら來る。旅商人三人。下駄臺の荷馬車六。郡農會の技手と云ふ風の男。自轉車の高山人三人、やがて又引返し來り我車を追拔く。藥取の子供。石灰の俵を積む荷馬車。四十位の田舍の旦那、よき人力車に乘りて來る。若き木挽。郵便車。乾物の荷車。石灰の荷馬車六輌又四輌。二人にて曳く荷車に病人の婆、こはい顔をして寢(192)て居る。乘馬を引く者。空荷車上に鹽物の籠一つ。農夫。子を負うた女。町へ出た百姓二人、又三人。夫婦にて曳く石灰車。高山の郵便配達人。買物に出た男四人。穀物の荷車。善光寺參りの老女二人。町へ出た人。躑躅を持てる女達三人等。
 六月二日、午後僅かばかりの雷雨。
 町見物、熊膽を求む。
 宿の主人を招き白川村の話を聞く。明日此山に入る用意を爲す。主人は越中の人にて、十五より二十三の年まで白山の東の谷に銅山を經營してありしよし。早く成功して早く失敗したる派出なる經歴あり。其頃の白川村は面白かりしとのこと也。
 色々の訪問者に接す。飛騨は思ひし程の山國には非ずと言ひしに、少しく悦ばざる人もありしやうに思はれたり。
 六月三日、晴、午後四時雷雨。
 郡上《ぐじやう》街道を三日町迄。右へ折れて牧ヶ洞の峠、峠を下りて夏厩《なつまや》の村、時鳥無暗に啼く。此邊最も雪の深き所なりといふ。山の木はまだ都の四月頃の若芽なり。桃の花あり。
 上小鳥《かみをどり》は寥落たる民居たり。山路板の車に行逢ふのみ。水力にて板を挽く僅なる小屋あり。文|黄檗《きはだ》を煮る小屋あり。とある野原には大木の梨の木七八本あり。年々よく實り、旅人來りて採り食ふ由。
 行々小梨多し。即ち瀧越の手桶の花なり。紅白の二種ありて、白は李《すもゝ》に似たり。六厩《むんまや》へ越ゆる小さき峠、滿山此花の盛なり。遠く望めば林白く、近く行けば、薔薇の香あり。珍しき花見なり。初めて旅に醉ふ。
 贅澤なる言草ながら、丸々目的の無き旅をして見たし。毎年旅行に出づれど、まだ放縱散漫の趣味は解し得ず。旅行者の中にては、自分は第二の階級に屬するか。親の大病で歸るほど無意味の旅行でも無けれど、さりとて遊歴の書家ほどの悠長さは無し。つまり興行人や間諜などの亞流なるべし。
(193) 六厩には燒畑多し、燒畑此あたりにては薙《なぎ》と云ふ。此地は既に莊川村の内なり。輕岡峠にかかり雷雨に遭ふ。板を頭に載せて雨をしのぐ人を見る。
 小倉の洋服を着たる若き男、ふら/\と來る。同行者曰く、あれは莊川村の助役なり。今日の村會にて辭職を可決せられて歸る所なり。醉つて居るなりと云ふ。
 三尾河《みをがう》・一色・總則《そうのり》・猿丸・新淵《あらぷち》と來れば、莊川の流はやゝ大きくなり、淵には鱒を捕る竹籠を掛けたり。路の側に少しの田、少しの麻畠あり。麻は薙畑にも作る。以前は一村の衣料大方この麻なりし、ヌノと云へば麻布のことなり。
 夜、月色に背き、運送店の奧座敷に寢たり。
 六月四日、晴、早天は霧。
 此邊の躑躅は花大きく、色は濃艶なる朱なり。田の畔にも咲けり。田の畔に芍藥を栽ゑた家あり。
 三方崩山、雪を戴きて遠く見ゆ。此溪谷の中心に當る。その直下に大字|御母衣《みほろ》あり。一戸にして三十人四十人の大家族ある村々は、凡てこの山の東麓に列れるなり。
 葉小さき山桑にて蠶を養ふ。栃の樹多し、この實は山民冬の間の糧なり。
 莊川村と白川村との境は小さき谷川なり。川上に尾上郷と云ふ二戸の大字あり。是より越前の大野郡へ幽かなる山路ありと云ふ。地圖には見えず。
 御母衣に來て遠山某と云ふ舊家に憩ふ。今は郵便局長。家内の男女四十二人、有名なる話となりをれども、必ずしも特殊の家族制には非ざるべし。土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことは折々ある例なり。唯此村々の慣習法はあまりに嚴肅にて、戸主の外の男子はすべて子を持つことを許されず。生まれたる子は悉く母に屬し、母の家に養はれ、母の家の爲に勞働する故に、かくの如く複雜なる大家内となりしのみ。狹き谷の底(194)にて娶らぬ男と嫁がぬ女と、相呼ばひ靜かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりと言ふべきか。首を囘らせば世相は悉く世絆なり。淋しいとか退屈とか不自由とか云ふ語は、平野人の定義皆誤れり。齒と腕と白きときは、來りて綢繆纏綿し、頭が白くなれば乃ち淡く別れ去ると云ふ風流千萬なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみ之を獨占し、我等は到底其間の消息を解すること能はず。
 里の家は皆草葺の切妻なり。傾斜急にして前より見れば家の高さの八〇%は屋根なり。横より見れば四階にて、第三階にて蠶を養ふ。屋敷を節約し兼ねて風雪の害を避けん爲に、かゝる西洋風の建築となりしなるべし。戸口を入れば牛が居り、横に垂蓆を掲げて上れば、爐ありて主人坐せり。
 對岸の嶮しき山の樹間に、ちら/\と小屋見ゆ。炭燒かと思へば鑛脈を探る冒險者の宿舍なり、大阪より異人も折々來ると云ふ。
 荻町《をぎのまち》、鳩ヶ谷にて夕方になる。柘榴の葉の色、花の色、胸の痛くなるほど美しかりき。
 六月五日、風雨。
 早天に飯島を立つ。高山の荷持を歸し、越中城端に返る荷持を雇ふ。五箇山を往來する荷持はボッカと云ふ。歩荷《かちに》の音なるべし。木曾などにては持子と云ふなり。ベースボールの棒に撞木を取附けたやうなる短き息杖を携ふ。
 庄川の左の岸を下り行く。姫子松多くなり、次で赤松も段々見え始む。赤松の林を隔てたる庄川の急流は全く唐畫の趣あり。上流には盛なりし藤躑躅、下流にては早悉く散りて、谷うつぎ花盛りなり。
 道の側の叢に蟇が鳴く。所謂谷ぐくなるものか。其聲時鳥河鹿などの類にて、節は谷水の音にまぎれず。
 椿原邊より對岸は既に越中にて、處々に籠渡あり。國境の境川より五六町こなた、小白川といふ七八戸の村あり。村に寺あり。軒に釣鐘を釣りたる外、たゞの百姓家とかはらず。住持も經を讀まず。村のはづれに日本最小の小學校あり。
(195) 赤尾の町と云ふ山村より、雨烈しくなる。尾瀬峠を越す、中腹に雪多く、一重の椿咲けり。
 城端は機の聲の町なり。寺々は本堂の扉を開き、聽聞の男女傘を連ね、市に立ちて甘藷の苗賣る者多し。麻の暖簾京めきたり。
 汽車にて加賀の金澤まで來て寢たり、今日の旅、草鞋十一里。
 六月六日、晴。
 疲れたれば寢轉びて物を書く。
 夜は按摩の老人を引留めて、遲くまで白山の話をさせて聽く。
 六月七日、雨。
 此町に一人在りし友人、この四月に逝せたり。朝起きて枕上にこのことを思ふ。
 腹を損じたれば能登の和倉へ寢にゆく。
 七尾に牛馬の共進會ありとて、多く若き駒を曳く。土地の人荒き馬をよろこび、麥酒などを飲ませる者あり。女子供の馬を怖るゝこと鬼の如し。
 能登の茅屋は笹の葉を交ぜて葺けり。古き屋根には黄なる花の苔簇生せり。
 能登島は平遠にして、麥畠の色青く黄に、織物を見るやうなり。能登一國も太古は島なりしか。國府の平野一帶は海よりいくらも高からず。
 六月八日、雲多く日影淡し。
 湯宿の奧の間に終日臥す。オスカア・ワイルドの「奧方の扇」とアーネストとを讀了んぬ。若き女枕元に來て、頻りに大聖寺の話をしたり。
 六月九日、大雨、風冷かなり。
(196) 朝船にて七尾の港に歸る。海岸はすべて赤土の崖なり。日本海は潮差少なければ、浸蝕の痕波の上に美しき線を作せり。
 津幡にて乘換を待つ間、北海に渡る漁夫の群に交りたり。數百の荒くれ者の中に、老人女なども見ゆ。送りに來たる者十五六人、プラットホームに殘る。髪の赭き女、眼を病める男の兒を負ひて立てり。泣くなら己ばかり父《とゝ》と一緒に行くぞと云へば、兒は母の赭き毛を引きて猶泣く。又やゝ清げなる女の、徒跣にて一抱へも有る藥鑵を下げたるあり。やがて汽車の中なる男にそれを渡して物を言ふ。鉢卷をしたる老人、元氣さうなことをいひて大きな唾を吐く。勞働者の聲は皆すこし嗄れたるやうに聞ゆ。
 富山に着く頃雨やみたり。立山は此より見えざれど、四山は凡て雪を戴けり。
 六月十日、晴れて涼し。
 監獄に行きて見る。女囚は二十人ばかりありて絹を織る。禿げて頭に一本も毛なき老婆あり。女囚の顔は凡て神妙にて、惡人とは見えず。後に聞けば出口より三番目のは、男を川へ突落して金を奪ひたりし女なり。
 六月十一日、朝は曇る、今日入梅。
 汽車にて新川郡に入る。名の如く大方は川床より成りたる平地なり。東に行く程づゝ少しく傾斜あり。石川の川上遙かに山見ゆ。
 滑川の濱より高志丸を見にゆく。若き練習生を乘せたる漁船なり。二三日の中に出帆してオコツク海に鱈を釣りに行くなり。
 魚津に着きて泊る。鯛の引網と蜃氣樓を見に日々數百の客あり。蜃氣樓は今日は見えず。詳しく話を聞くに、我がかねて夢想せしものほどは美しからず、いづれ?ジョンなれば見ぬもよし。
 六月十二日、晴。
(197) 此町にても亡友の家の前を過ぐ。格子の隙より夫人の後影見ゆ。
 三日市を過ぎ、愛本の橋より右に折れ、黒部川の岸を上る。山を崩し石灰を燒く煙、狹き谷に滿つ、村の名は内山と云ふ。此奧信濃の境まで村なし。林道を開きて北城に出づ。路上温泉三所あり。
 黒部川水濁りて白緑の色なり。川の中洲に處々廣き茱萸《ぐみ》の林あり。此林の色と今日の水の色とよく似たり。
 殘雪は山の塵を被ぎて、近よるまでは見えず。奧に入れば林は黒けれど檜は見えず。名物の黒部杉、姫子松。ナラにて櫂を作り、女ども負ひて山を下る。
 黒薙の温泉に入りて宿す。巖の下に藥師の堂あり。川音の間に、折々伏鉦の音まじりて聞え來る。
 六月十三日、晴。
 今朝も猶川上に上る。出平の小屋に憩ひしに、よき猿の皮を敷きたり。猿の話を聞く。夏は樹深ければ唯聲のみを聞けど、秋になればよく群を爲して往來するを見る。稀には孤猿あり。一旦群を離るれば友と食物を分つの煩累も無き故、自然に厭世になるなり。其代りには常に他の群より迫害せらるゝよし。
 原の路を引返す、路上に樹を焚く少年あり。鍛冶の炭を製するなり。
 愛本の橋本にてマキを食ふ、笹の葉に包める團子のことなり。
 舟見は靜かなる町、廣き道少しく坂になり、正面に雪の山高し。艾《もぐさ》を作るとて門毎に蓬を乾す。
 泊の町に入り海邊に出でゝ見る。淋しき濱に舟二つ繁り、女ども灰石を荷ひ出せり。東はやがて越後の境に近く、赤土の山を切開き、松の間に電柱の列ねたるは、昔義仲が越え來りし宮崎の鼻にて、其名も悲しき親不知の荒磯へは、此道を行くなり。
   歌と云ふうまやはいづこ宮崎のみさきのをちはたゞ青き海
 
(198)     佐渡一巡記
 
 古い佐渡の旅行の忘れ殘りを、今度入用があるので試みに書きつけて見る。あれから此島ももう大分變つた樣子だが、それをもう一度見に行つた後では、この記念すべき最初の印象が、消えてしまひさうなのが惜しいのである。
 それにしても餘りに古くなり過ぎた。私が新潟から兩津の港へ渡つたのは、今から十二年前の六月の十六日であつた。ちやうど梅雨のかゝりで、日本海の空は白く曇り、靜かな大きいうねりがあつて、雨が少しづゝ降つて居た。それでも船はさう搖れないでしつとりと氣分が落付き、よい季節に來たものだと思はずに居られなかつた。姫崎の鼻をかはらうとする時に、先づ眼に入つたのは一帶の竹の山で、信越では見られない明るい風景であつた。島の東向きが殊に竹山によいといふことで、頂上に近い處まで伐開いて竹を植ゑ、それを盛んに北の縣へ供給して居る。四年から八年までの間に一度づゝ伐るといふ。
 兩尾《もろを》の宇賀神山には今でも毎月二十四日に、龍燈が上るといふ話であつた。それを話してくれたのは甲斐といふ郡會議員の政友會貝で、支部の大會に出席した歸りと言つた。それが音羽の池の故事などを詳しく知つて居るだけで無く、包みから數多くの歌の短册の、近頃書いて貰つて來たのを出して見せたりした。佐渡にはあの頃まではまだ斯ういふ人が居たのである。
 夷《えびす》は見た所まことに簡明な湊であつた。所謂兩津を繋ぐ湖水尻の石橋の袂に、税關の見張所も有れば大きな松もあり、たしか其樹の下に一つの平石が置かれてあつて、昨日の祭禮の御旅所にもなつて居た。この町の祭は新暦六月の(199)十五十六日で、ちやうど偶然に私は來合せたのであつた。宿をきめると早速見物に取りかゝる。馬に騎つた鼻高童子の人形を、車に載せて曳いて行く。信州と同樣に舟の形をした飾りものもあつて、それにも亦下に小さな車が附いて居る。
 同じ行列の鬼太鼓といふものも見た。髪は能の猩々のやうに長く垂れ、面は仲々の上作と思はれた。撥《ばち》の持ち方に特色がある。一方の手に二本とも持つことが折々あつて、其ポーズがよほど蘭陵王の舞の繪に似て居た。それから夜に入つて、笛の音をたよりに尋ねて行くと、吾妻樓といふ貸座敷の奧の間で御神樂がある。それを格子の外から町の人と共に覗いて見る。舞つて居る神子《みこ》は神主殿の細君のよし。その笛の音も能のものとよく似て居る。舞の後で法螺貝を吹いたのは全く珍しい。此土地には山臥から神主になつた者が一人有る。多分は其神主でせうと、是はその晩の按摩の説である。
 翌日も他に用が無いから、何べんも町をあるいて見た。湊の町の海の側の家は、家作りが皆よく似て居る。大抵は二階家で何れも表間口が狹いのに、一間幅の土間を街道から濱まで突進させて居る。土間には軒竝から一間ばかり引込めて入口の戸を附け、其横手からも店の間へ上れるやうにしてある。奧行は途方も無く長く、濱へ段々下りに續いて居ると見えて、暗い家の中を覗いて見ると、土間の行止りに青い海がちらりと、どの家からも見える樣になつて居る。海に面する一區劃は物置に使つて居るらしいが、元は冬分の舟倉であつたらうかと思ふ。現に夷の方では今も此部分に舟を引入れてある家を多く見た。是が水面のやゝ淋しく見える原因のやうであつた。能登の東濱の村々にも、斯うして住宅と舟置場の繋がつて居る建物は幾らもある。
 三十七八年前に加賀の倶利加羅附近から、移住して來たといふ老人と、路をあるきながら話をして見た。今は水津《すゐつ》に住んで農と土方とを兼業にして居るといふ。金山《かなやま》にはたゞ一年餘りしか居なかつたといふ。島へ來て氣がつくのは、旅商人の少ないことであつた。今日は祭の休み日だといふのに、香具師ほし店の類が、一向にそこらを立廻らない。(200)是はわざ/\渡つて來る者が少なく、土地にはまださういふことをする者が多く無いからであらう。
 濱へ出て見ると小舟が一艘鷲崎へ歸つて行かうとして居る。ふいと便船をして行つて見る氣になつて、慌てゝ支度をして大きな荷物を持込んだのが、後で非常に厄介なものになつてしまつた。舟には五六人の老若男女が乘つて居た。何れも親類うちらしく仲よく物を食べ、又色々の話を聽かせてくれたが、もうすつかり忘れてしまつた。舟は古風に地方《ぢかた》に沿うて走つた。あの頃はまだ珍しい小形の發動船である。丘陵が海に迫つて草花が多く、里の森は色が美しくて、民家はそれに隱れて澤山有るやうには見えない。松島辨天岩などゝいふあたりは殊に百合の花が目についた。それから少し手前の北小浦《きたこうら》のあたりが、陸もひどい難處で冬分は全く交通が絶えるといふことであつた。鷲崎は至つて靜かな澗《ま》であつた。水草が茂り其水に夕日がさし込んで居る。何艘かの帆前船が岸からずつと離れて碇泊して居る。新潟から米を積みにやつて來た船だといふ。宿は木村といふ舊家で物持、舟で親切にしてくれた人たちも皆この一家の者らしかつた。
 あくれば六月の十八日、外海府《そとかいふ》一見の旅途に上つた。南濱の赤玉村から來た島道者《しまだうしや》五人、濱尾源一・市橋富士太郎・菊地幸藏・山本紋十郎・臼杵音藏、進んで荷物を引受けてくれ、又忽ちに別懇の間柄になつた。此中では濱尾君少しく文字あり、菊地市橋の二君が稍年長であつた。互に苗字を呼び合つて居るのが面白い。赤玉は今岩首村の一大字で、古來赤玉を産する故に此名がある。古いものは瑪瑙のやうな品がある。今も其石の屑を萬年青の鉢などに入れる爲に、一升何程といふ値で賣るさうである。越後と向き合つた農主漁從の村で、水津から近く五十戸ほどの家數であるといふ。一度是非行く筈になつて居て、まだ約束を果すことが出來ない。
 今日は佳い色をして居るが、外海府も此邊の海は實に荒いのださうである。それ故に屡海難の慘話がある。矢崎の岡を越えると濱は其北を向いて居て、そこには白塗りの小舟が一つと潜水服の乾してあるのとが目に著いた。是だけが新らしい文明色であるといふことは、むしろ荒濱の淋しさを加へるやうにも感じられた。
(201) 佐渡にはホイトといふ者が土著して居る。兩津の南端の住吉社の傍に十數戸、其他にも相川にもとは二十戸、河原田に十何戸、小倉にも赤泊の柳澤邊にも若干居た。ホイトの四十八職といふ諺も傳はつて居る。現在は鑄物師《いもじ》即ち鑄懸屋、蝙蝠傘の直し、屑物買ひなどをするが、その鑄物師も古くからの商賣のうちではなかつた。又正月の春駒にも出たといふことである。
 昔はつゞれを着て一見して普通の農民と見分けることが出來るやうになつて居たが、今では却つてホイトの方が好いなりをして居るといふ。此日我々が彈崎《はじきざき》の燈臺の入口で、すれちがつた四人づれなどは、その三人までが襟に會社の名を染拔いた絆纏を着て、職工のやうな風采をして居たが、それを赤玉の人たちは一見して、すぐに氣が付いてホイトだと囁いた。しかもこんちはなどゝ聲を掛けて別れて、さまで輕しめる樣な風は見えなかつたのである。
 どうしてホイトだといふことが判るのかと訊いて見ると、是には明瞭に答へることが出來なかつた。しかし少なくとも一つの特徴は淺葱色の風呂敷を筒に縫つて、その中程を綴ぢて袋にしたのを、携へて居るから知れると言つた。即ち芝居に出て來る武者修行の旅人などが、肩から斜めに負うて居るのと同じいのを、佐渡のホイトは今でもまだ使用して居るのである。其名を何といふかは誰に聞いても知れなかつた。關東東海では一種の漂泊者、我々がサンカと呼び又箕直《みなほ》しなどゝ謂ふ人々が、スマブクロといふものを持つて居ることはよく聞く話である。是は形が三角なものだなどゝいふ人があつて、私はまだ氣をとめて見たことはないが、それも或は同系統の製式では無かつたかと思ふ。
 兩津の南はづれの住吉社の脇に住む者は、普通スミヨシで知られて居るがやはり亦ホイトであつた。此中には物持があつて、たしか名を半兵衛といつて金を貸した。スミヨシの金を借ると縁起がよいと謂つて、今でもまだ借る人があるといふのは縁起の爲かどうか、但しこの話は後で聽いたのだから間違つて居るかも知れない。
 それよりも強く記憶に印せられて居るのは、この晴れたる午前の外海府の風光であつた。弾崎の燈臺を出てから、眞更川《まさらがは》の村に取付くまでの間、海端《うみはた》に平地があつて大きな阪も無く、磯や砂濱の美しい變化は、一歩毎に濃かになつ(202)て行くやうに思はれた。それで居て路傍に人家といふものが殆と無い。出逢ふのはたゞ牛ばかりであつた。ちやうど野草の最も花の多い季節で天然の秩序とも名付くべきものが、まだ此あたりではよく保たれて居るやうな氣がした。たとへば大野龜の鼻につゞいた一つの小川では、麓から頂上まで萱草《くわんざう》の花一色で、飾り立てたやうな景色を見た。そこへ行くまでにも濱には韮の如き草の一面に、紅い花の咲いて居る處が方々に有り、見馴れて居るたゞの草花でも、大抵は二町三町の廣い面積を、他の草を交へずに連なり咲いて居るのが奇觀であつた。さうして花の色が一樣に極めて鮮明であり、中には又香りの高い白い花などもあつたが、名を問ふことが出來ぬので本當にたより無かつた。?瑰《はまなす》の花はまだ少し早いやうで、稀にしか見られなかつた。蔓荊《はまごう》は既に路の傍にも咲いて居た。
 願《ねげ》の塞《さい》の河原は島巡禮の人たちが、殊に心を留めて拜んで行く靈場であつた。以前は西北を口にした深い岩窟であつたかと思はれるが、いつの世かの風浪にその後の山が崩れて、今は行拔けになつて、わざ/\その中を通るやうに路が出來て居る。前には地藏堂を建て、大小無數の石佛が、穴の内外に起臥して居る。石を積む風習はこゝにも盛んに行はれて居るらしいが、それは皆旅する者の道心からであつて、あたりは廣い間一軒も人家が無い。是が中古の葬地の跡であつたらしいことは、其後他の地方の例を比べて追々に判つて來たのだが、島の人たちにはまださうは考へられず、半ばあの世のやうな信仰を以て眺められて居るのである。
 鵜嶋《うのしま》は最初に目にかゝつたなつかしい人里であつた。是から又一つの岡を越えて、漸く眞更川の村には入つて行くのである。佐渡の名物の「のぼり木戸」といふものが、此邊では幾つか見られる。牛の牧場と畠場とを區劃する爲に、高い石垣を設けて旅人がそれを越えるやうになつて居る。眞更川は光明佛寺に登つて行く山の口である爲に、是も島めぐりをする人にはよく知られ、村は高地に在つて構造がやゝ他と異つて居る。私たちが晝休みを頼んだ一軒の農家などは、床が高く入口に廣い土間があつて、建て方が津輕などゝ似て居たが、他の家々はどうであつたか比べて見なかつた。靜かにして居ると村の人の色々の物言ひが聞えて來る。後鄰の家の老女がオチヤーと聲高く呼んだ時に、返(203)事をしたのは若い娘であつた。足利期の記録によく出て居る阿茶の局、もしくは茶々といふ男女の童名なども、本來は稚兒が人を喚ぶ聲から出たもので、さても國々で父をチャンと謂ひ、母をヂャヂャなどゝいふのも起源は一つであらうといふことが、此時に始めて心付かれたのである。
 外海府の村々は少なくとも現在の?態では漁村で無い。村に田の多いことは却つて上《かみ》の方に越えて居る。海から望んだならばよくわかることゝ思ふが、この邊は海沿ひの臺地がよく發達し、それが磯に向つて絶壁をなして居る。ただ其一部だけが淘《ゆ》られて僅かな濱を作り、或は山水《やまみづ》を誘うて深い澤を刻み、そこに登り降りの苦しい阪が出來たのである。村はこの僅かな浦の低地に固まつて居る故に、外形は一個の漁村のやうにも見えるが、後の岡の上に登ればこの弘い田地があるので、それも排水がよい爲に良質の米を産し、今では島で重要な米どころに算へられて居るのである。
 この海岸の臺地はずつと南に續いて、金を産する相川の後の山までが、同じ高さであるやうに私には思はれた。勿論南へ行くほど濱治ひの低地部は多くなり、山が深くなるほどづゝ川の水は豐かになつて、所謂デンヂは其兩岸に拓かれて居るのだが、尚何度と無く海に迫つた磯山を越えて、次の村へ下つて行かねはならぬことは、伊豆の西濱や天草下島も同じであつた。眞更川を出てから笠取峠といふのが、新道でも可なり險しい山路であつた。光明佛の山から出る一つの山川を、やゝ上流に溯つて渡ることになつて居るので、急に山の中のやうな氣分になる。石楠《しやくなげ》の花なども咲いて居ると見えて、折取つたばかりの一枝が路上に棄てゝあつた。それから濱傳ひに岩谷口の村まで出て來ると、爰はもう農村であつて家のまはりに田が有る。
 赤玉の五人は重い私の荷物を持ちながら、始終面白い話ばかりしてあるいて居る。是は菊地君の話を後から私が聽取つたのだが、佐渡では佛堂の守りをする道心者をロウソウと謂ふらしい。これは老僧では無くて濫僧と書いた古語であらうと思ふ。むかし或家の門に立つて、ロウソウが物を乞ふた。斯ういふ人の中には時々偉い人が姿をかへて御(204)出でることがある。粗末にしてはならぬといふと、忽ちいゝ氣になつて「大師あらはれたり」と謂つた。傍の一人が何をこいつが言ふぞ、貴樣は何村とかのロウソウぢや無いかと叱りつけると、ぬからぬ顔をして「又大師あらはれたり」と謂つたといふ話。是は弘法大師の石芋や喰はずの梨、又は杖立清水の傳説の分布、今でも旅僧がやつれたる姿をして、村々を巡つて人の心を試みてゐるといふ信仰の久しい歴史を考へて見ようとする者ならば、耳を傾けずには居られない奇聞であつた。元は江戸あたりの小咽から出たのかも知れぬが、それを離れ島の浦人が學び知り、又その可笑味を解して居るといふのは、何か隱れたる力があつたことゝ思ふ。佐渡は斯ういふ類のにせ者のどこよりも多く寄つて來る土地である爲に、自然に其間にせり合ひが起つたのでは無いかとも考へて見た。
 けふは舊暦の五月の節供であつた。遠近の家で餅をつく音がする。その昔がトトトンといふ三つ拍子で、我々の横杵に比べると著しく間《ま》が細かい。或はまだ手杵を用ゐて居るのでは無いかと思つて、氣を付けて居たが覗いて見ることが出來なかつた。此あたりには槲《かしは》の樹が多く、何れも日にかゞやいて伸び/\と茂つて居る。その槲の葉の色と餅臼の音とだけで、私の五月節供はすませてしまはなければならなかつた。
 關村|矢柄《やがら》村。若木氏の集めた佐渡の民話で、前から聽いて居た地名である。「生れ在所《ざいしよ》ならなつかしや」といふ歌なども思ひ出した。關には膳棚と稱して磯端には珍らしい平岩が連なつて居る。山からは木の葉石も出るといふことだが、少しも休まず通り過ぎてしまつた。佐渡には近頃まで村での出來事を、歌にうたつて盆踊に踊る風習があつたので、斯うした一人の初旅でも思ひ出すことが多い。
   達者《たつしや》の傳次が燒けた
   海豚《いるか》殺したその罰で
といふ一章などは、今でも海豚を見又は話を聞くたびに、一度でも聯想を馳せなかつたことが無い。海豚が寺詣りに來るといふ話はこの島にもあつた。もつと詳しく尋ねて見たいと思つて居る。達者といふのは姫津の南に在る入江で(205)あつたが、もう此邊にはさういふ話も無ささうである。
 石名の檀特山清水寺の、名木の二本の鴨脚《いてふ》は見ごとなものであつた。此邊の家作りを見て行くと、板葺きも草屋も大小によらず、多くは三つ割式で中央の一間には、表口が一杯に開いて爐が有るらしく、一方は出居《でゐ》の間《ま》他の一方は勝手で、奧の寢所はまだ押入れ同然の附屬物であるやうに見えた。日向の椎葉《しひば》山村で見て來たものと、構造の似て居るのがよく目に著いた。多分は主屋《おもや》と左右の客舍と竈屋《かまや》と、三つが別棟であつたものを一つ棟木の下に、寄せ合せた名殘であらう。外見がやゝ低く見える爲か、二階を作り添へることが此頃は流行して居る。
 小田の某氏は此邊きつての物特で、屋敷も高く家つきも立派に見えたが、是はたつた三代で作り上げた身上で、無理なことをして溜めた金ださうなと同行者は謂つて居た。大倉の平三は此邊での舊家で、梶原平三の護持佛といふのを村に祀り、家には又古い武具類を持傳へて居る。大きな門が田の眞中にあつて墻は無く、其田と家との間を旅人が通り拔けるやうになつて居る。家の障子はすべて清書の紙で貼つてある。質素なものである。しかも鷲崎の木村さんもこゝと縁續きだといふことまで、始めて來る道者たちがもうちやんと知つて居るのである。
 入川《にふかは》の村に一泊する。此村の舊家の服部氏、つひ數月前から宿屋を始めたといつて、家の作りは全く昔のまゝで、食物だけが當世の旅館ぶりであつた。こゝへ泊つて行くのだと意氣込んで入つて行つた一人が、何か挨拶が出來そこなつたとかでさア事をした。是では入れなくなつたと言つて自分だけを殘して、他の小家に行つて宿をとつてしまつた。しかも翌日の朝は作り聲をして、別の人になつて私を誘ひに來てくれたのは、どこまでも親切な島の人の心持であつた。
 入川村の氏神は寶生神社、祭神は木花開耶媛命であるが、祭禮の日には他の村でも同樣な相撲がある。近いうちにもどこかの郷社の祭があるさうで、其村角力の廣告がそちこちの辻に掲げられて居る。村には代々の關取の通り名があつて、其名を有望な青年に相續させて居る。之を代表者として村どうしの勝負を競ふことは、此節の選手制度も同(206)じことで、どこへ行つても人が相撲の話ばかりして居る。奧州會津の新宮權現の相撲は、たしか新葉記にもその事が書いてある。是も村々の關の名が定まつて居て、昨年の最手《ほて》を能力と呼んで居た。江戸でも國々の力士が各々同郷の支援者を有し、片屋は有つても其贔屓が個人的のものであつたのは、原因が是から出て居るかと思ふ。だから村々の花相撲が衰へてしまふと、第一によい力士を見つけることがむつかしくなつて來るのかとも思はれる。
 片邊川の川口では、網を張つて鱒を捕つて居た。此川上は二里位までは捕れるので、山の中に小屋を掛けて漁をする者が今でもあるといふ。
 姫津は町の瓦屋根を、高い處から見て通り過ぎてしまつた。昔は相川專屬の湊であつて、下關大阪との交通が繁く、越後とは殆と取引をして居なかつた。汽船が始まつてから道路は全く變つたが、それでも大きな漁業權があつて農を頼りにせずとも榮えて行くことが出來たのであつた。今ではさうばかりも謂つて居られぬ樣子である。以前は相川の南のドロとかいふ處に住んで居て、純然たる海の移住者であつたらしいが、陸地に馴れると生活が少しづつ變つて來る。相川の海士町《あままち》などもそれより新しい土著者であるが、埋立が出來てから海に遠くなり、もはやかつぎなどをする者は居らぬさうだ。内外の海府が追々に農村となつたのも、恐らくは又同じ過程を經て來たものであらう。
 相川銀山の繁昌は慶長に始まり、正保頃が絶頂であつたらうかと言はれて居る。正保から元禄までの間に此町の寺の潰れたものが、其跡の分明なたのだけでも四十五箇寺あるなどゝ舊記にはあるから、たしかに其頃の方が人間は多かつたのである。しかもその一旦の殷富を維持して居た支柱が、折を見ては一本づゝ拔けて行つたのみで、都會といふものはさう急速に衰へて行くものでも無かつた。寧ろ前から在るものを何とかして保存しようとする點に、榮える町では見られない一種の物なつかしさが感じられる。相川の後の一帶の岡では、樹々の緑が海の光に映じ、鶯が終日啼いて居て、底は此世の地獄とまで歌はれた何百年來の人事の葛藤が籠められて居るものとはどうしても思へなかつた。旅館高田屋の横町から山手に登つて行く小路は多分|金山《かねやま》に働く人たちの出入口であらう。宵から朝方まで始終二(207)三人づゝの足音と話聲が、ぽそ/\と枕元へ聽えて來る。それが夢うつゝの堺で、何か此土地の長い昔語りを、聽いてでも居るやうな氣がしたのであつた。
 こゝから私は又一人になつて、車を雇うて澤根・河原田・新町などを走り過ぎた。此邊の見聞は後に多くの紀行類を讀んだ爲に、印象がごつたになつてどれ迄が自分のものだか分らなくなつた。格別又附加へて見ようと思ふことも無い。それから田切須《たきりす》・西三川・高崎、小比叡、海と村里との變化の多い風景だけは目に殘つて居る。小木《をぎ》に入つて新築したばかりの喜八屋といふに泊つた。建て直してもやつぱり昔風に、まん中の廣間を打通して、二階の客室を周圍だけに設けてあるのが嬉しかつた。是は大きな家族の寢所から發達したものらしく、其後も奧羽の旅行では折々之を見たが、圖でも添へないとそれを詳しく説くことは出來ない。宿屋が亭主の名を屋號のやうに使つて居るのは珍しいが、是も伊香保や瀬見の温泉、伊勢の御師などにも似た例はある。東北ではそれが一轉して、今では苗字と通稱との半分づゝを連ねたものが行はれて居る。
 六月二十一日の朝早く小木を立つて、發動船で松ヶ崎へ渡つた。そこで小さな和船に二人の船頭を雇つて、磯まはりを夷まで漕がせたが、潮が惡いので舟が少しも進まず退屈してしまつた。色々話をしてくれたやうであつたが、今はもう殆と覺えて居らぬ。
 地圖を見て居て氣が付いたことだが、佐渡には同じ村の名の二つあるものが多い。それを大抵は方角などで區別して居る。松ヶ崎の東の東強清水《ひがしこはしみづ》もその一例で、此地は久知村の八幡樣が始めて御上陸なされた故迹と傳へ、御造營の場合は申すに及ばず、毎年の祭にも爰から出て行つて、參列するのが嘉例になつて居た。何でもさういふ名の靈泉があるらしく、強清水といふのも何か神祭りと關係のある言葉かと思はれた。久知の長安寺といふのは昔から有名な寺で、珍しい言ひ傳へが數々あるといふ。
 赤玉の村の沖を通る頃には、もう長い日も黄昏に近くなつて居た。よつぽど爰から上つて水津にでも泊らうかと思(208)つたが、やはり荷物が有る爲に決心がつきかね、其まゝ舟の中に寢轉んで夜の海を渡り、月も隱れてしまつてから漸く兩津の港に戻つて來た。
 その翌日は國中《くになか》の見物に出かけた。中興《なかおき》の川邊氏は兄の知人であるので、訪ねて行つて土地の話を聞いた。此邊で最も古いといふ民家を、見せてやらうと言つて案内せられる。三|間《げん》一尺|梁《はり》といふ言葉があるといふが、私には其意味が呑込めなかつた。現在はおほむね四間になつたといふのは、縁側の附いたことをいふのだと言つた。オエ即ち板敷になつた部分は、私の想像の通り二つに區劃せられ、土間を加へて三つ割になつて居るのである。その中央の間の突當りは寢部屋であつた。親隱しといふ名は知らなかつたが、恥隱しの語はまだ記憶する人がある。寢所に藁を使ふからさういふので、揚げ敷居と稱して敷居を何寸か高くするのも、其寢藁が外へこぼれ出す見苦しさを防ぐ爲かと思はれた。寢部屋の入口が此家では板戸半間で、他の半間は淺い物置きになつて居た。
 風呂桶に藁で編んだ天蓋の樣な蓋のあるのも、私には全く新らしい見學であつた。桶は平日は土間の隅などに轉がして置き、湯をわかす時ばかり上り段の端まで運んで來る。藁の天蓋はちやうど其上に繩でつるしてあるので、之を覆うて湯氣を籠らしめ、其中にしやがんで蒸されるのである。湯の量は僅かで最も熱く、それを時々釜から汲出してさし加へる。足を燒かぬ爲に底に踏臺がある。子供がいゝ心持に中で居睡りをして居るのを知らずに、熱湯をさして火傷をさせたといふ話もある。後にこの附近を旅行した人の話をきくと、新穗では宿屋でも此式の風呂を見た。但し蓋だけは木製の箱であつて、たとへば長火鉢の助炭《じよたん》の如く、一面を引戸にしてあつたといふから、中世の蒸風呂の簡略なものであることがわかる。京都でも戸棚と風呂とを間ちがへた昔話がある。北國では今でも戸棚をばフロと謂つて居る。
 國中にはカノエ塚といふ石塔や塚が多く、今でも折々は新たに之を立てることがある。庚申とは關係が無いと見えて、毎月朔日とかに祭をするといふ者があつた。又石塔の表に大きな梵字を刻したものが念佛塔であることは、關東(209)の板碑時代も異なる所は無い。日蓮親鸞の遺跡ばかり多い處かと思ふと、古い眞言念佛の名殘もまだ全く消えてしまつては居ない。
 此地に茅原鐵藏老といふ古い「郷土研究」の寄書家があつて、大悦びで尋ねて來てくれた。むつかしい原稿を書く人で、いつも編輯者を難澁させ、それを意を掬んで書き直すと、折々違つて居たといふ小言が來る。よつぽどわからぬ人だらうと思つて居ると、逢つて見れば大ちがひで、七十幾つだといふのに壯年の如く、はき/\と物を言ふ人であつた。相手の抱いて居る隨分込入つた不審を、簡單な問ひの言葉の裏に覺つて、そつの無い返答をするだけの明敏さを持つて居る。斯ういふ前世紀教育の完成した人から、文書の採集ばかりを續けて居たのは損失であつた。もう少し此方から出て行つて、口で教へて貰はねはならなかつたのである。しかも私たちの旅で逢ふ人といへば、普通は手紙でも用の足りるやうな人ばかりで、從うて無用な辭令を交換して、別れてしまふやうな場合が多い。遭遇は決して容易では無いと思つた。
 佐渡へ來た以上は誰でも見物に行かぬ者は無いといふ場處を、十箇處ほど教へてもらつて、私は皆殘して來た。誰かゞ觀察して置いてくれられるならば、私などは其教を受けた方がよい。それでも一人だけならうそを教へられるかも知らぬが、多勢の記録があれば比べて見て樂に眞實がわかるだらう。誰もが省みなかつた處にこそ、我々の知りたい事實は遺つて居る。旅の學問には人の顔、何でも無い物ごし物いひなどが、本に書いて無いから自分で行つて經驗しなければならぬ。相川や夷などで在《ざい》から出て來る物賣りは、通りに荷を卸して立つて居る樣子が、何だか少し變つて居ると思つて見ると、多くは人家には背を向けて、町を通る人に賣つて居るのだ。買ふ者も半分は近所の住民で無く、わざ/\買物に出たのかどうかは知らぬが、他處から來た人が多く見受けられた。立賣り町立ちといふ語は奧羽の方にもあるから、あちらの人には珍しくも無いであらうが、少なくとも關東から西にはもう滅多に此光景は見られない。それほど町といふものが、もう文字通りの市になつて居るのである。
(210) 再び海上が至極穩かで、次の日の午後には又新潟に戻つて來て居た。早速縣の圖書館に出かけて、山中樵氏に頼んで佐渡の書物を見せてもらつた。相川縣史二十一册、その第二卷の禁令編には、明治九年二月の相川縣權令達、「自今可改箇條」といふものが出て居る。紙數は二十枚餘、四十四五年後の現在と比べて、風俗の推移を見るに便が多い。其中には寢部屋の風、若い衆仲間の慣習、又は結願とか功コとか謂つて、石塔をむやみに立てる弊害などが説いてあり又一方には其頃の二見港の、繁華の有樣などがよく窺はれる。寫して置いてもよささうな本であつた。
 それから古いものでは佐渡年代記十卷、慶長六年以後嘉永三年までの歴史、主として相川の事蹟を録して居るが、中には又西三川の金山や田切須の町の事も見えて居る。最も心を動かしたのは承應元年三月の小比叡騷動、辻藤左衛門が同僚の姦曲を見るに忍びず、之を彈劾しようとして却つて惡黨の爲に害に遭うた悲劇であつた。密書を携へて江戸に上つた使者が、海上難船してその屍骸が島に漂着し、書?は奸人の手に落ちて事露はれたといふ段などは、事實ではあらうが劇以上の效果である。それから父子主從合せて二十人、蓮華峯寺に楯籠つて燒討せられ、この結構の美を極めた伽藍が、一朝にして灰燼に委した話は、今讀んで見ても胸が躍るやうであつた。
 佐渡志の卷五にはヤシホ即ち椰子の實の記事があつた。此物島の産に非ず、もろこし嶺南の國々より出るものゝ漂ひ流れ來るを、海濱の民拾ひ得るなりとあつた。その海濱といふのは外海府でもあつたらうが、曾て之を手に取つて珍重したのは何人であつたらうか。又其物は今はどうなつてしまつたか。我々の生活の可なり印象深い經驗にも、なほ斯うして痕跡を留めぬものが多いのである。
 
(211)     佐渡の海府
 
          一
 
 地圖で見た佐渡の島は、牽牛花《あさがほ》の二葉の形をして居る。その二葉には僅か大小があつて、外側の大佐渡の方が、峰も高く海岸線も幾分か長いやうである。越後の海府と對立する佐渡の海府は、昔はこの大佐渡の海岸の、略全部を包括したものかと思ふが、現在の内外海府二箇村の地域は、西北鷲崎の海角を中にして、十二三里の間に限られて居る。大字が十四で四百餘戸三千人ばかり、此に巡査が一人居る。冬分は折々杜絶するやうな交通?態である爲に、世間からは今なほ別天地の如く取扱はれて居る。自分は地名から推定し得る海部土著の北の限線として越佐二國の海府の村々に、若干の生活上の特色を豫期して居たのであるが、今の處ではそれが空想であつたやうな感じがする。しかも歴史に見殘された靜かな外海岸の村組織には、兎に角に研究者を失望せしめぬだけの過去が潜むやうである。後の爲に小さな記録を作つて置かうと思ふ。
 佐渡の文獻は必ずしも貧弱では無いが、惜しい哉いづれも二百年以降の集成で、しかも其大部分が國中《くになか》の一盆地と相川とに限られて居る。相川當年の殷富は、爰に昌平文學の實生《みばえ》を成木せしむるに十分であつたが、根が江戸の統一思想から出て居るだけに、所謂郷土の英雄に對する敬意が足りなかつた。其結果は今日に至るまで、此島の歴史は殆と流人の歴史である。中世の地頭が眼近く流人を監視したやうに、相川の風雅の士も、名所舊跡を一眸の下に纏めん(212)とした姿がある。由緒を語るべき本間澁谷藍原等の一類は多くは他郷に去つた。聞書覺書などの頓と傳はらぬ國である。小佐渡の方には其でもまだ、若干の殺伐なる記録が有るが、海府に至つては史學者との交渉が殆と無い。史料を文字以外に求めない限りは、恐らくは永く斯うであらう。手短かに申せば此方面には、闘諍と大きな訴訟とが曾て無かつた。それをするやうな元氣な階級が來て住まなかつた。其故に欽明紀の肅愼《みしはせ》の隈の後、特筆大書するに見る事件が何も起らなかつた。即ち話にならなかつたのである。
 
          二
 
 此樣な事件は實は無い方が結構だが、一つ困ることには海府の名を遺した漁人の部曲が、其後去つたか將《は》た留まつて變じたかを、明瞭に決定することが容易で無い。然し兎も角も戰國の終の頃には、此等の村々は既に只の農村になつて居たらしい。越後の上杉景勝が一島を平定した時には、内海府即ち東南面の十數村は、吉住の本間氏と梅津の澁谷氏とで分ち領し、羽黒の澁谷氏は嶺を越えて、外海府の鵜島《うのしま》眞更川《まさらがは》などを支配し、其他の諸村は石花《いしげ》の石花將監之を領して居た。石花氏は府中の本間殿の旗下であつた。蝸牛角上の爭を事とした永い年月、外海府の山田の米も、やはり兵粮の用に供せられたのである。平野地方の旅人の眼には、不自然にも思はれる肥料の運び方、即ち一桶づゝ汚い物を背に負うて山阪を登る風も、隨分古くから必要になつて居たらしいのである。此點に於ては海に據つた島曲《しまわ》の里でありながら、却つて越前西の谷などの山村と似た事をして居る。
 海府は農村となるべき内外の事情を具へて居た。地貌の上から言へば、歩いて見ればすぐ分ることだが、佐渡島の周圍には一帶に海岸臺地が發達して居り、其が外海府に來て殊に著しい。高さは二百尺ほどもあらうか。つまりは國中《くになか》即ち北南二嶺の中間に横はる平地の、夷港に接した最高部と、略同じ位の高さであつて、其原因がもし自分の想像の如く、島の土地の一般の隆起に在るものとすれば、其年代は大佐渡と小佐渡との、陸續きに爲つた時と同じ頃と謂(213)ひ得る。特色のある海府の風景は、半分は是が原因を爲して居る。長汀曲浦の旅の目を怡ばしむべく、到る處に其高さの瀑布が有る。又我々が名づけて「鳥の極樂」と謂ふ絶壁が多い。鳥の極樂は或は曾て人間の地獄であつた。岡が崩れて眞直な岩を露はし、久しい間に樹木が成長し花咲き、鳥をして快活に歌ひ且つ戀せしめて居る。斯ういふ崖の下を旅人は行くのである。瀧は只見るばかりで、其水は多くは汚れて居る。村から村へ越える時によく知れるが、其水上は皆田の溝である。村の人々は何れも嶮岨な阪路を攀ぢて、此岡の上の田を作るので、國府平野の二三大字を除けば、一戸當りの田地の廣いのは此邊だらうと思ふ。清水掛りで排水が十二分に良い爲か米の質も優良なものが多く、他村に供給する量も少なくないと云ふことである。
 海から見たのみだから正確には知らぬが、熊野の南端にも佐渡とよく似たシーテレースが續いて居る。伊豆の西海岸でも松崎から土肥近くまで、同じやうな地形が見られるが、伊豆では村里も海岸より遠ざかり、田地のある平面に構へられたものが多かつたやうに記憶する。海府の村では一二の例外を除き、何れも渚に臨んで低く住み、時としては如何にも窮屈に通路も無くたて込んで居るのが、或は偶然に此等の里人の以前の境遇を語るものであるかも知れぬ。
 
          三
 
 併しながら住居の所在ばかりでは判斷出來ぬ。自分の見た所では、少なくとも現在に於ては半農半漁とまでも謂ひ難い。第一には浦に繋いだ船の數が少ない。漁業權は此島では概して沿海の村に割渡して居るが、住居は共同に又は平均に之を利用して居るのでは無い。肥料には海村だけに海の物を使ふらしい臭氣がするが、必要缺くべからざる程度では無いやうだ。要するに此だけの田地を經營するには、假令海に臨んで居ても、海へ出るだけの人手は剰りさうにも無い。共に又勞力利用の季節が重複する、田地が雪の下になる頃は海も荒い。折角冷たい水で採つた物も、運び出す方法が如何にも容易で無い。そこで考へると夏分灘の靜かな頃に大いに稼ぐべき漁業と、米の栽培とは兩立せぬ(214)筈である。從つて漸次に漁から農に、移るならば移つてしまふべき傾向がある。あまり農業的であるから海人の末ではあるまいとは言ひ難い。其斷定には今少しく別の材料が必要なやうである。
 灌漑の自由な岡の上野が、農業への誘因であつたと同樣に、一方では漁業からの壓迫も考へられぬことは無い。其一つは漁獲の減少である。佐渡は近世多量の海産物を出したことがあるが、其が世と共に次第に減じては居なかつたか。内海の四季間斷なき漁業地と異なり、一期間の所得で年中の生活を支へねばならぬ所では、分けても豐富で無いと家計の不安を感じ易い。僻遠の地で水産を商品とする爲に、重要なるものは鹽であるが、佐渡は製鹽に付いても一般北國の不便を免れ得なかつた上に、地形の然らしむる所鹽濱の地が多く無い。江戸時代には輸入を以つて補充をしたものか、調べて見たいと思ふが、少くとも僅か有つた製鹽地は先度の改正法律で罷められ、今日は遠國の鹽ばかり嘗めて居る。昔に於いても地方的に鹽が得られぬとすると、或季節に偏した大漁はやはりさほどの恩惠では無かつた。何れにしても餘程の政策が後援を與へぬ以上、漁業は土著當初の條件であつたとしても、村存續の單純なる基礎とはなり難いものゝやうである。
 
          四
 
 然らば其ほど無理な地方へ、海部が移住して來たと見るのが誤ではあるまいか。自分の推測は實は地名が元であつて、他は後に心付いた力の弱い考證であるが、陸人に比べて遙かに移住心の旺な彼等である。現に近い國では越前丹生郡の海岸に、出雲から延びたらしい所謂ソリコが住み、能登西面の輪島には、海士《あま》町の部落があつて肥前の天草から來たと謂つて居る。佐渡でも相川の町の南端に海士町あり、町並が四十間、家數は二十戸足らず、天明初年の佐渡事略には、海士町は農業無し男女とも蚫《あはび》を採るとあり、外海府北端の願《ねげ》村ですら九十餘石であつたのに、此村の草高は只の九斗五升である。相川から一里北の姫津村は、之に次で農業が少なかつた。今日は追々に耕地を買入れたやう(215)だが、文化末年の佐渡志には、畑二町一反此高十五石三斗とあり、しかも大きな邑である。是と相川の海士町との關係はまだ知らぬが、元はやはり漁民として移住して來たものらしく、當初相川より少し南の、ドロと言ふ小さな濱に住み、姫津が相川の津になつて後、保護を與へて爰へ移したものらしい。石見が本國と謂ふことで全村悉く石見氏である。漁業に關して他村の有せぬ特權を持つて居たのは、多分は其歴史を語るものである。併し要するに此等の移住民は相川開けて後のことで、しかも干蚫は長崎商賣の賣渡品と爲るよりも遙か以前から、此國重要物産の一として公にも認められて居た。小佐渡東端の前の濱には蚫と謂ふ一村もあつて、是に基づいた地名と認められて居る。蚫ばかりは誰でも採ると云ふ譯には行かぬ。此のみでも海士部《あまべ》の古くから居たことを證據立てるが、しかも其蚫も今では著しく産額が減じ、之を採るべく海に潜ぐる者は海士町にも最早居なくなつたやうである。さうして機會さへ與へられるならば、彼等はこんな寒い國にでも、移つて來る勇氣を持つて居たのである。
 
          五
 
 併し又海府が此徒の故地であり、其住民が古の白水郎《あま》の子孫であると見るには、證據が乏しいばかりか反證に算ふべきものさへある。其第一に擧げねばならぬのは、所謂カネリ又はイタダキの風習の無いことである。此も職業と同じく變つたと謂はれぬのは、頭に物を載せることは何も漁業の勞務に限る理由が無いからで、殊に海府のやうに山阪の多く且つ急な處では、一層保存の必要があらうと思ふのに、自分が出遇つた婦人は、悉く東部日本一般の背負ひ方をして居り、又色々と尋ねて見たが元は頭に載せたと云ふ話は無かつた。尤も肥前平戸の家船《えぶね》の者などはもう此風を廢して居るやうだから、背負ふから海人で無いとも言はれぬかも知らぬが、兎に角に是は顯著な事實である。第二には言語風俗に、殆と何等の特徴も無いことで、此も私には意外な經驗であつた。家庭の生活に親しんで見たら、或は隱れたる差異を見出し得たかとも思ふが、少なくとも旅人の耳には、サロノクニ一流の訛言は國中《くになか》も小佐渡も同じや(216)うに聞えた。只注意すべきことには右のラ行とダ行との轉訛は、九州の南半に弘く行はれ、又豐後の海部などの中にも著しい。何か研究の端緒にはならぬかと思ふ。
 言語などには細かに注意をしたら、海府特有と云ふべき若干を拾集し得るかも知れぬ。しかも其が海部なるが故に此の如く、他と異なつて居るとはどうしても斷定し得られぬやうである。例へば此一帶の海村では、未婚の女子をオチャーと呼ぶやうである。關東ではネエヤとかアネコなどゝ謂ふのに相當する。オチャーは疑も無く足利時代の阿茶と同じもので、宮も藁屋も以前はこれで通用して居たものが、改良の必要も無くて此處だけに殘つたのであらう。生活上の慣習も亦この通りで、たま/\他の村では之を笑ひもしくは珍重するほどに變化して居ても、其は單に偏卑の地が一種の保存場なることを意味するに止り、容易には此を海部史の資料と認められぬ。婦人の勞働者などで折々著て居るのを見た臂までの刺子袢纏《さしこはんてん》は(名も聞いたが忘れた)、今では恐らくは海府以外の地では見られまいが、此等は近い昔まで島民の一般に用ゐて居たものである。之に就てふと思ひ出したのは、曾て越前から美濃の根尾谷《ねをだに》へ越えた時に、根尾の宿を眼の下に見る岡の端の地藏堂に、常に幾つかの山袴が脱いで置かれるといふ話を聽いた。其は奧在所の女たちが市に出て來るのに、爰までは山村の風俗を保ち、町では笑ふから之を脱ぐので、自然に一つの境界線が出來たのである。處が那須から會津の方へ行けば、女でも平氣でまだモッペをはいて居る。新しい平地地方の流行でも、仕來りと便利とを征服するのは無造作で無い。種族の異同を見出す標準としては、今一段と古くから行はれ、しかも一段と自由に取捨し得た風習を求めねばならぬ。
 建築などにも目に著く程の特徴は有つたが、是は殊に變化の階段が分るから、海府の今の樣式が佐渡一般の昔の形であることは推測し得られた。地割などの制肘の無い限は、茅葺の入母屋でも、板屋の切妻でも、元は同じ建て方であつたものが、自然に些しづゝ新しい番匠の作略の加はつたことがよく知れる。さうして海府には比較的純な形が遺つたのである。即ち平入《ひらい》りの稍狹い間口を、正しく三つに切つて中央を公式の入口とし、多くは向つて左の一方を勝(217)手口として居る。爐は中央の板敷の中程に在り、普通奧の間は僅かに寢所があるのみで、未だ所謂四|間通《まどほ》りの住居には發達して居らぬ。是は恐くは岡に據り、南又は西に向いて家作りをする場合の、尤も自然な形であらう。自分が見た日向の山村でも、又相州津久井の奧でも此通りであつた。納戸の生活が其では如何にも陰鬱だから、必ず將來は急激に改められるだらうと思ふが、今ならばまだ國中《くになか》の村々にも、右申す如き用心と禮儀とを主とした廣間、及び其後に隱れた最も謙遜なる帳臺の中世式を見ることが出來る。但し此建て方では板葺又は瓦葺の場合、殊に低くて外觀が見すぼらしいので、近頃は盛んに二階作りにする風が行はれて居る。二階作りは勿論維新後の變化であらう。海府だけにはまだ一向に其變化が入つて居らぬので、注意して觀察せぬと或は是も根本的の特色に算へたくなるかも知れぬ。之を要するに中世以降の混淆であるか、はた又昔から同一の種屬であつたかは別の問題として、少なくとも近代の生活には完全なる同化があつた。其同化から更に發足した最近の進歩には、交通其他の事情から、多少の遲速が見られると云ふのみである。
 
          六
 
 考へて見れば何れの地方も同じことであるが、佐渡の如き手頃の一つの島に對して見ると、如何にして人が來て住み始めたかの問題が殊に考へられる。地方官の子孫などは流人の後裔も同樣に、評判ほどは繁殖を助けて居らぬに相違ない。さすれば島民の中堅を爲すものは、一元であるか、はた又逐次に各方面から集まつたかと云ふことになる。土佐の男と能登の女と、落合つて夫婦になつたと云ふ昔話はあるが、あれは稻の種類の一番古いものに、其名が有るのから發生した傳説らしい。肅愼人が來て漁をしたことが日本紀にある。神に憎まれて空しく白骨を留めたと語られて居るが、或は北隅の靜かな灣に、多少は安住し得た者が有つたかも知れぬ。地形が其樣な想像をも許すのである。さうで無くても計畫を以て大規模な移民をした形跡は見られぬから、假に後れて此島に到着した一團が時々有つたと(218)しても、必ずしも排斥又は壓迫を受くること無しに、土著開發を爲し得る餘地は隨分有つた筈である。しかうして昔の平民の婚姻慣習はまだ十分には分つて居らぬが、丸々の見ず知らずが別々に作つた村ならば、假令偶然に磯山を隔てゝ相隣接して居ても、其間の交通と混淆とは自ら少ないだらうから、或は將來の個人測定に由つて、存外濃厚に種族の特性を留めて居ることを見出すかも知れぬ。漠然たる觀察で豫言にもなりにくいが、鷲崎附近の海府の奧へ向ふほど、後部へ著しく發逢した圓頭の多いことゝ、西北に面した外海府の數部落には、圓頭でしかも面長な上品な顔だちの多かつたことゝが、注意せられずには居れなかつたのである。
 そこで自分の假定説を大膽に述べて見ると、此島へもやはり或時代に、海部の漂泊者が辿り著いて居る。先入の見に捉はれて居るのかも知らぬが、海府といふ外稱は偶然には起るまいと思ふ。第二には此種族の遠征力の旺盛で、現に日本海の多くの荒濱にも、別に政廳の介助などを須《ま》たずに、移住した前例の有ることである。それには能登の舳倉島《へくらじま》に對する輪島の海士町の如く、最初は越後の岩船に來て住み、爰を根據として其から往來したことが、二國に相對して各海府の地を存する原因かも知れぬ。第三には佐渡島の漁獲の豐かなこと、殊には蚫の多く取れたと云ふ點である。地曳網や磯釣だけならば海岸に住む人民は皆遣るが、水に潜る作業は今日でもまだ專門の技藝になつて居る。此島に限つて其が常人の村に發達したとは思はれぬ。併し現在最早此が行はれぬのは如何かと申せば、洋海を移勤してあるく魚族と異なり、貝類などは殊に生産力が枯渇し易く、又盛衰に一の週期があるとすれば、其週期は頻繁に輪轉する道理である。此が恐くは海部の漂泊性を助長した一の事情であつて、一旦定住の境涯に入つた者に在つては、例へば人一代ほどの間、生産の減少期が續けばもう親の技能を子に傳へ得ぬこと恰も伊豆の天城が御獵地になつて三十年もたゝぬのに、麓の人民に猪害を防ぐだけの鐵砲打ちも無くなつたと同じであらう。しかも佐渡の外海には山の幸も豐かであつた爲に、いつと無く水清く日暖かな臺地を拓いて、米を作つて食ふやうになり、漁業者としては一流でも二流でも無くなつたのであらう。其改造に對する大なる便宜は、後地《うしろぢ》がすぐに高山で、奧に入込んでも前住民の(219)利害を異にする者が無かつたことである。もし此邊の在所に地頭と同系の農民が居たなら、魚や蚫はよく買つてくれても、木を伐り緑肥を刈り牛を放ち水を引くには、きつと大々的な故障を入れ、終に海部をして第二の浦濱を捜索せしめたかも知れぬのである。
 佐渡には國人の崇敬する三座の靈山がある。中央の金北山が第一で、南の小佐渡には經塚山北の海府には光明佛がある。光明佛寺は一に山居《さんきよ》とも稱し、東西南北四筋の參詣道は、共に海府の村を山口として居る。即ち海府の信仰生活の爭ふ者無き中心であるが、しかも此山の開基は關東にも馴染の深い相州の彈誓《だんせい》上人で、慶長十四年に六十三で死んだ行者である。即ち此寺の出來なかつた足利期の終までは、浮世の人には何の用も無い別天地であつたので、更に相川の後の山に光る寶の出る以前は、言はゞ海士でも無ければ居られぬ地方であつたかも知れぬ。今日では事情が既に變化した。自分の如き好事者流の外に、島人に取つても「海府めぐり」は年中行事の一である。願《ねげ》の賽の河原には何百體の石佛がある。路傍の立石にも國中と同じく、光明眞言の供養塔が多い。此三百年の同化力の後に於て、猶三日四日の旅に昔の面目を見出さうとするのは、或は性急に失した研究心かも知れぬ。後の學者に委託するの他は有るまい。
 
(220)     熊野路の現?
 
 大和の初瀬《はせ》の觀音の後から吉隱《よなばり》名張《なばり》を經て伊勢へ詣る路は、僅かの年數ですつかり衰微した。汽車が出來て人が足を厭ふやうになつたら、忽ちにして阿保山《あほやま》峠の上の伊賀茶屋と伊勢茶屋とは泉も石垣も草に埋もれ、梅の古木が殘つてゐるばかりである。然るに此三四年前から、春の好い季節になると遠方の人では無いが、若い者などがわざと汽車に乘らずに、遊び半分に此山路を、打連れて伊勢詣りする事が段々盛になつた。當世の語でいふと即ち遠足である。山や谷川が自然に開いた通路は、さう容易くは滅びて了ふものでは無い一つの實例で、聊か心強い感がする。併し自分等のやうな者が此路を通ることになると、假令日數の掛るのは構はぬにしても、車が通ふか荷持があるかゞ先づ大きな問題である。麓まで來て引返さねばならぬやうでは困るから、地圖の上では計畫が立てにくい。殊に紀州路は昔も今も入口が東西に一つ宛しか無くて、沿海が七十里以上もある。あんな汽船でも之を當にせぬことにすると、眞に袋の底へ入つたやうなもので、出て來る事が骨折だ。由つて新しい自分等の經驗によつて、茲に當分用の案内記を拵へて置かう。
 自分達は和歌山の方から入つた。汽車で南大和の古山川を見ながら往かうとしたのは先づ失敗であつた。大阪から和泉の濱を電車で行く方が奈良經過の關西線より半日以上早い。和歌山市の停車場には黒江行の電車が來て待つて居る。此城下町の今の形勢と、紀川《きのかは》水運の樣子、及び和歌浦と紀三井寺の所謂名勝地が何ほどの物であるかは、此車の中から見て行けば十分である。陸運に引附けられて柑類の栽培が次第に和歌山の方へ寄つて來ることも一目して察せ(221)られた。新しい果樹と新しい種類は市に近い處ほど多い。黒江と日方《ひがた》は家續きの長い一筋町である。總體に山が迫つて外に線路の取りやうも無いから、漁家も商家も悉く所謂長汀曲浦に沿つて構へられてある。併し里を出離れると昔の熊野路は直に境の山を越えようとする。車の路は其立石を左にして濱へ/\と成るだけ急に阪に懸らず、且つ成るだけ多くの里を貫かうとする。里は概して小さな灣に臨んで居るのである。だから新道は快活であるが、以前の山路は同じ海と遠い國とを望むにしても、山の梢越しで遙かに幽艶の趣に富んで居るだらうと思ふ。併し磯の浪音を近く聞くのも決して惡くは無い。偶人家の無い山の蔭などになると鴨が來て浮いてゐる。鹽津の靜かな湊には暮のことであるから、蜜柑を積む船が來て繋つて居る。路の都合で此町は家の屋根を遙か下に見て通る。字峯と云ふ處に人力車の立場がある。黒江の電車は鹽津まで延びる豫定になつて居るが、果してどこを通つて來るものとして許されたか、自分には推測することが出來なかつた。鹽津の峯を降つて暫くは海の見えぬ谷を横ぎり、濱中の港へ行くのである。此平地なども、昔の深い入江が追々に干潟となつたものらしく、熊野繁昌の時代には、舟でなければ通らぬ横路であつたと思ふ。濱中の町にも蜜柑が黄金の山のやうに集り、之を撰り分けて船に運ぶ女の勞働者が其中で働いて居る。高い好い馥《かほり》がする。山路になると處々の畠にまだ採り殘された果實が見える。椒《はじかみ》と云ふ村を右斜に見て、丘の根方を傳ふ樂な路を走つて行く。椒は即ち端神で、自分が豫想した通りの地形であつた。浦の初島の歌を想ひ出した。それから有田川の川口の塘《つゝみ》の上に出來て居る箕島《みしま》の町まで、新路が新田の中を眞直に貫いて居る。箕島は蜜柑輸出の中心地を以て目せられ、小舟で川を下して來る寫眞を繪葉書にして賣つて居るが、實際の光景は見なかつた。此から先は犬が人力の綱を曳く、二人曳ほど速いけれども車賃も無暗に高い。犬の勞銀も中々よい收入である。川口の長い橋を渡ると路は近頃の堤の上に附いて居る。對岸の山は餘程上流まで果樹ばかりである。其山はもとは海に面した磯山であつたのが、有田川が自分の搬出した土で、追々と裾を延ばし、殊に左岸に大分の平地を作つたと見える。沖の島一帶の丘陵は實際海中の島であつたのを、永い年代に内陸と續くことになり、其内側に水害に罹りやすい低地の蜜柑畠(222)などが出來た。今の堤も此丘の端を便りにして築かれて居る。湯淺の盆地は僅かの高地で、此谷と水脈が分たれて居る。茲にも短距離の輕便鐵道が企てられ、糸我《いとが》の村はづれに少しばかりの工夫が働いて居た。まだ盛土も滿足で無いのに、停車場の建物ばかりが田の中に手持無沙汰に立つて居る。電話と電燈と電車とを、無邪氣な此邊の人は文明の全部と解して居る。しかも其動力の採用に附いては、中世式に孤立して居るから妙だ。
 湯淺は寢心地の良い靜穩な町であつた。旭日の出て來る日高境の山を眺めて、どの邊を越えるのかと思つて出たら、川上に存外奧深い谷が入込んで居た。谷の口は南廣村の井關といふ部落で、此水で廣い田を作つて居る。それから津木と云ふ長い村を通るのである。昔の路も多分此筋であらう。良い路だが淋しいもので、人力車などは頓と出逢はない。右の方へ分れて由良へ越える新道が、味も模樣も無く同じ勾配でずつと山を切つて登る。此方は猶更車が往くことを欲しないと云ふ。序に言ふが此邊で事を曳く犬は、先年月ヶ瀬で雇つた犬などから見ると遙か小さい。都會でならチンチンをして遊んで居る奴である。カメ中の?袴子弟《ぐわんこしてい》である。此も車夫と同じく年々其品質に於て退歩して行くのでは無いか。かよわい者の勤勉力行は傍で見るのが隨分大儀である。津木の谷は僅かの山脈を右に隔てゝ居るのに、早些も海邊の氣分がせぬ。車夫などは此邊のやうな山家ではなどゝ言ふ。村の犬は妙に耳の立ち尾の卷いた白狗が多く、頻りに來て車の犬に威壓を加へる。其あとから鐵砲を持つた村の人が來て叱る。それは皆猪を撃ちに行くのです。此邊ではもう猪が捕れるのかい。ヘイ仰山居りまするなどゝ話しながら、鹿瀬《ししがせ》峠の隧道に向つて登つて行く。トンネルの口は日高郡東内原村の原谷である。此も頗る深い入野であつて、降り降つて廣い耕地になると、御坊の町の松原越に海がチラリと見え、遠淺であるのか汽船が沖の方に來て繋つて居る。御坊はまだ大きくなりさうな町だ。縣首府の勢力が次第に弱くなるものか、町に獨立して新聞がある。田邊に行けば二つ、新宮になると四つも新聞を出して居る。町の新聞を見る人が恐らく同時に此等の町を繁榮せしめる御客で、出入の商船は寧ろ其御出入の商人であるらしい。其爲か否かは知らず、縣道はあまり埠頭とは交渉せずに、左へ切れてさつさと日高川の長い橋を渡り、我々に熊(223)野路を捗《はかど》らせてくれる。茲でも清姫の越えたのは大分上流のことであらうと思ふ。此邊から濱が荒くなるからか、漁事を活計にして居るらしい民家までが、ずつと海から引込んで高みに住んで居り、路は流を越える爲に何度となく登り降りする。大體に於て手の屆いた好い路だが、前年の出水に損じた處を二處ばかり歩かねばならぬ。印南《いなみ》は小ぢんまりとした港だけれど、奧在所が淺い上に砂を出す川が邪魔をする。此頃の切目川は谷が深いだけに持出す砂も多く、其砂を西の風が汰《ゆ》り上げて所謂|由良《ゆら》の地を造つて居る。印南から此へ越えるには坂が稍長い。其坂の一部分の些し切通しになつた處が有名な切目王子である。切目と云ふ語も或は此地形を意味するのかも知れぬ。東國で言へば即ちウトウ坂である。切目王子は今は切目明神と唱へて居る。熊野の九十九王子の衰微は、必ずしも我々が笈や頭陀袋の趣味を忘却した結果では無い。熊野を西國三十三番の打ち初にした時代にも、既に王子の社は三つに一つしか殘つて居なかつた。野中とか近露《ちかつゆ》とか近い頃に合祀せられた王子も甚だ多い。結局昔が多きに失したので、今が少なきに失するので無いと言へばそれ迄であるが、古い國に來て古いものの無くなつたのを見るのは、南方さんで無くても決してよい心持はせぬ。切目の濱村から、又切目崎の續きの山を越える。淋しい山路である。雨が降ると寒いけれどもやがて新年と云ふのに草紅葉が殘つて居る。岩代の里中には梅も菜花も咲いて居る。岩代の早豆と云つて既に蠶豆《そらまめ》が花盛りである。有馬皇子の結松《むすびまつ》の古蹟も此邊にちがひない。荒海の滸《ほとり》であるが故に、殊にあの歌の悲しみが身に沁みた。高野の蓮華王院の文書で夙くから名を聞いた南部庄《みなべのしやう》は、思ひの外に新らしい町であつた。爰でも昔の船津の跡は、ずつと川上の方に求めねばなるまい。岬の路も新らしく開けたものらしく、之を廻ると最早熊野の國であるが、今では何等の氣分の變りも無しに、安々と熊野に入込んで行く。後の山々は迫つて居ても灣内が廣くて、渚に沿うた町と松原とを、忘れる程通らねば田邊には達しない。田邊の船着は秋津川の川口に近く、舊城の一角を僅かの模樣替をして用ゐて居る。城の構は幾分か備後の鞆津《とものつ》に似て居り、東國には珍しい形式である。城の要害なら寄り附き難い方がよろしい筈である。海運を主とする近世の都會の利害が、その昔の軍略上の利害と調和し得たのは不思議である。但し(224)自分は大阪商船の營業ぶりを見て聊か發明したことがある。獨占の勢力は大きいもので打捨てゝ置いても客の方から頼みに來る。即ち客は熱心な寄手であるから、石垣を築いても攀ぢ登るかも知れぬ。和歌山から田邊へは二十五里、犬に曳かせても二日かゝる。數個の輕便鐵道を掛けるだけの資本家か政治家かで無ければ、とても犬の車賃を負擔することがならぬ。田邊から東へ向いては其犬にさへ別れねばならぬ。併し是が爲に大に陸運を改良しようと云ふ策略はどんなものであらうか。古來最も勇敢なる船方を出した熊野が、これでは空しく海に降伏したことになる。自分等がもし熊野人なら寧ろ進んで航路を引込み、是を我物として存分に變更利用して見たいと思ふ。
 
(225)     峠に關する二三の考察
 
       一 山の彼方
 ビヨルンソンのアルネの歌は哀調であるけれども、我々日本人にはよく其情合がわからない。日本も諾威に劣らぬ山國で、一々の盆地に一々の村、國も郡も村も多くは山脈を以て境して居るが、その山たるや大抵春は躑躅山櫻の咲く山で、決してアルネの故郷の如く越え難き雪の高嶺ではない。山の彼方の平野と海とは、登れば常に見える。他郷ながら相應の親しみがある。中世の生活を最も鮮かに寫して居る狂言記、あれを讀んで見てもよくわかるが、山一つ彼方に伯母さんがあつて酒を造つて居たり、有コ人が住んで聟を捜して居たりする。自分も子供の頃は「瓜や茄子の花ざかり」とか、「おまんかわいや布さらす」とか云ふ歌の趣をよく知つてゐた。其頃は小學校の新築の流行する時代であつた。どの山へ登つて見てもペンキ塗の偉大なる建築物が、必ず一つづゝは見えた。そして振返つて見ると自分の里も美しかつたのである。
 
(226)       二 たわ・たを・たをり
 
 境の山には必ず山路がある。その最初の山路は、石を切り草を拂ふだけの勞力も掛けない、唯の足跡であったのであらうが、獣すら一筋の徑をもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞を厭ひ、行く人に追付き、來る人に出逢はうと力めるから、自然に羊腸が統一するのである。それのみならずどうしてこの山を越えようかと思ふ人の、考が又一つである。左右の麓を回れば暇がかゝる、正面を越えるなら谷川の川上、山の土の最も多く消磨した部分、當世の語で鞍部を通るのが一番に樂である。純日本語では之を「たわ」と云ひ(古事記)又「たをり」とも云つて居る(萬葉集)。「たわ」「たをり」は地名と爲つて諸國に存するのみならず、普通名詞としても生きて居る。鎌倉の武士大多和三郎は三浦の一族で、今の相州三浦郡武山村大字太田和は其名字の地である。伊賀の八田から大和へ越える大多和越、其他この地名は東國にも多く、西へ行くほど猶多い。「たをり」と云ふ方では大隅の福山から日向の都城《みやこのじやう》へ越える小山、今は馬車の走る國道であるが、其頂上の民居を通山と云ふ。伊豫喜多郡喜多灘村大字今坊字トヲリノ山、備前邑久郡裳掛村大字五助谷通り山、美濃惠那郡靜波村大字野志通り澤、越後南蒲原郡大崎村大字下保内通坂、常陸那珂郡勝田村大字三反田道理山等も皆是である。中國では峠を「たわ」又は「たを」と云ひ、其大部分は乢の字を當てゝ居る。乢は所謂鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡つて四國に入れば、「たを」とは言はずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」は亦「たを」の再轉に相違ない。土佐の國中から穴内《あなない》川の溪へ越える繁藤《しげとう》に、肥後の人吉から日向へ越える加久藤《かくとう》は、共に有名な峠であるが此藤《とう》も亦「たを」であらう。「たうげ」は「たむけ」より來た語だと云ふのは、通説ではあるが疑を容るゝ餘地がある。行路の神に手向をするのは必ずしも山頂とは限らぬ。逢坂山は山城の京の境、奈良坂は大和の京の境であるから、道饗の祭をしただけで、そこが峠の頂上であつた爲では(227)無からう。「たうげ」も亦「たわ」から來た語であるかも知れぬのである。
 
          三 昔の峠と今の峠
 
 「たわ」及「たをり」は今日の撓むと云ふ語と、語源を同じくして居ることは明かであるが、その「たわ」は山頂の線が一所たわんで低くなつて居ることを云ふのか、又は山の裾が幾重も重つて屈曲して入込んで居るのを云ふのか、何れとも決しかねる。新撰字鏡を見ると「嶼、山の豐かなる貌、山のみね、ゐたをり云々」とあり。又「※[土+岸]、曲岸也、くま又たをり又ゐたをり」ともある。實際昔の人が山を越えるのには、頂上の低い所を求めると同時に、水の流に依つて奧深くまで、迷はず入り立つことの出來る所を求むべき道理である。谷川に沿つて上れば、自然に低い所を越えることになる。從つて「たわ」は頂線の「たわ」か、山側の「たわ」か容易に決しにくいのである。兎に角昔の山越は深く入つて急に越え、今の峠は淺い外山から緩く越えることは事實である。大小何れの峠を見ても舊道と新道との相違は即ち是である。峠路に限つて里程の遠くなるのを改修と云つて居る。それと云ふのが七寸以下の勾配でなければ荷を負ふた馬が通らず、三寸の勾配でなければ荷車が通はぬとすれば、馬も車も通らぬ位の峠には一軒の休み茶屋もなく、誰しも山中に野宿はいやだから、急な坂で苦しくとも一日で越える算段をするのである。その爲には谷奧の山村は誠に重要であつた。關所のある峠は勿論のこと、關はなくても難所と聞いては、西行も宗祇も此處へ來て一宿したからである。然るに新道が開けるとその村は不用になる。車屋あの村は何と言ふなどゝ聞くと、それが昔の宿場であつたことも屡である。人の智慧は切通しとなり隧道となり、散々山の容を庭木扱ひにした揚句、汽車の如きに至つては山道を平地にしてしまつた。
 
(228)       四 峠の衰亡
 
 碓氷其他の坂本の宿、越後葡萄峠の如きは麓の村も衰へたが、其後に起つた山道の衰徴の方が猶烈しい。一夏草を芟拂《かりはら》はずに置けば大道も小徑になる。山水が路上を流れて或所はすぐ河原になる。會津の殿樣の參覲道路は、赤松の並木で一部分には敷石が殘つて居るのに、他の一部分はすでに谷川になつて居る。汽車は誠に縮地の術で、迂路とは思ひながら時間ははるかに少く費用は少しの餘計で行く路があつて見れば、山路に骨を折る人の少なくなるのは仕方がない。信濃佐久郡から上州武州へ越える道は澤山あつた。碓水のすぐ南の香坂越、中島孤島君の郷里。其南に志賀越、内山峠、與地峠、武田耕雲齋の越えた道、その南に大日向等である。岩村田以南の人が江戸に出で三峯へ參詣するのには、決して輕井澤へ廻らなかつたのみならず、山脈の西と東と丸々種類のちがつた産物、例へば信州の米と酒、上州の麻に煙草、江戸から來る雜貨類を互に交易する爲には、少しも中山道を利用しなかつたものが、鐵道は乃ち國境の山脈を唯の屏風にし終り、甘樂《かんら》の奧の處々の米藏、佐久の馬の脊につけた三升入の酒樽を悉く閑却したのである。成程今でもちやんとした路はある。併し以前は馬主の總數に賦課した道路の修繕を今は雙方の山口の一村が引受けるのである。ゆく/\は鶯の巣から四十雀の巣に變形して行くのは必然である。近江は四境悉く山であるが、隣國へ越える峠路は先づ山城へ十八、伊賀へ八、伊勢へ九、美濃へ七に越前へ六、若狹への四を合せて五十二、此中四筋は昔からの官道で、今の汽車も略之に併行して走つて居る。他の四十八の峠はとても鐡道と競爭する程の捷路では無いから、身が輕く日を急ぐ者は、山元の山民でも出て來て汽車に乘る。恐らくは後來樵夫と物ずきとの外は通らぬ路になり、峠の茶屋は茶屋跡とでも云ふ地名になつて了ふことであらう。言ふ迄も無いが峠の閉塞の爲に、山村地方の受くべき經濟上の影響は非常に大である。山が深ければ農業一方の生活は營まれぬから、人をへらすか仕事を作るか、兎(229)に角陣立を立直さねばならぬ。昔から山村に存外交易の産物が多かつたのは、正に道路の恩惠であつた。袋の底のやうになつてから、更に里の人と利を爭ふのは嘸苦しいことであらう。
 
       五 峠の裏と表
 
 旅人は誰でも心づくべきことである。頂上に來て立ち止ると必ず今まで吹かなかつた風が吹く。テムペラメントがからりと變る。單に日の色や陰陽の違ふのみならず、山路の光景が丸で違つてゐる。見下す村里は却つて右左よく似て居つても、一方の平地が他の一方より高いとか一方の山側は急傾斜で他の一方は緩であるとか云ふことが著しく眼につく。是は火山國だから殊にさうなのであらう。それのみならず人の仕業の裏表と云ふものが、大抵の峠にはある。麓から頂上までの路は色々と曲折して居つても、結局之を甲乙の二種に分類することが出來る。一言にしていへば、甲種は水の音の近い山道、乙種は水の音の遠い山路である。前者は頂上に近くなつて急に險しくなる路、後者は麓に近い部分が獨り險しい路である。一は低く道をつけて力めて川筋を離れまいとする故に、何度も谷水を渡らねばならぬ。他の一は此煩ひは無いが其代り見下せば千仞の云々と形容すべき、棧道又は岨路を行かねばならぬ。峠に由つては甲種と甲種、又は乙種と乙種とを結び付けたのもある。殊に新道に至つては前にも云ふ通り、乙種のものが多いけれども、古くからの峠ならば一方は甲種他方は乙種である。此を自分は峠の裏表と云ふのである。表口と云ふのは登りに開いた路で、裏口と云ふのは降りに開いた乙種の路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相應の高さに達する迄は、川筋に離れては路に迷ふが故に、出來るだけ其岸を行くわけであるが、いざ此から下りとなれば、麓の平地に目標を付けて置いて、それを見ながら下りる方が便である。それは第一に足が沾したくない上に、山の皺と云ふものは裾になる程多いから、上で一囘廻るべき角は、中腹以下で數囘廻らねはならぬ爲である。故に折角(230)分水線の最低部に到達して置きながら、更に尾根づたひに高みへ上つた上で始めて降路を求めるものもある。即ち鞍部では十分に見通しのつかぬ處から、わざ/\骨を折つて乾いた小路を捜すのである。右の如く解すれば同じ峠路の彼方此方でも、先づ往來を開きかけたアクチーフの側と、之を受け之を利用したるパッシーフの側とは分明であつて、少なくとも初期の經濟事情を知ることが出來るのである。實例を擧げても今の路が古道でないとすればむだになるが、相模の佐野川村から武藏の元八王寺村へ越える案外峠は、案外にも武藏が表で相模が裏、越中の國境莊川の上流に横はつて居る尾瀬峠は、平野地方が裏で五箇山の山村が表であるのはさもありなん。羽後由利郡の本莊西方から、雄物川平原の淺舞横手へ越える峠は、海岸部の方が表口、肥後|山鹿《やまが》の奥岳間村から筑後の矢部へ越える冬野の山道は、複雜して居たが肥後の方が表だつたと記憶する。日本國の峠の數は大小一萬ばかりもあるであらう。誰か統計を取つて表を作つて見る篤志家はあるまいか。
 
       六 峠の趣味
 
 自分の空想は一つ峠會と云ふものを組織し、山岳會の向ふを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて珍しい峠を越え、その報告をしやれた文章で發表させることである。何峠の表七分の六の左側に雪が電車の屋根ほど殘つて居たなど云ふと、そりや愉快だつたらうなどゝ仲間で喝采するのである。嘸《さぞ》かし人望の無い入會希望者の少ない會になるであらう。冗談は拔きにして峠越えの無い旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいと云つても、曲り角から先の路の附け方を、想像するだけでも樂しみがある。峠の茶屋は兩方の平野の文明が、半は爭ひ半は調和して居る所である。殊に氣分の移り方が面白い。更に下りとなれば何のことは無い、成長して行く快い夢である。頂上は風が強く笹がちで鳥屋の跡などがある。少し下れば枯木澤山の原始林、それから植ゑた林、桑畑と麥畠、辻堂と二三の人家、(231)經と子供、木の橋、小さな田、水車、商人の荷車、寺藪、小學校のある村と耕地と町。こんなのが先づ普通である。だから峠の一方の側が急なら急な方から上り、表と裏とあれば裏の方から昇つて、緩々と水に沿うて下つて來るやうに路順をこしらへることを力めねばならぬ。筑波神社の寶物に唐人の繪卷がある。開けば卷頭には、奧山の岩本清水、青羅白雲猿の聲も聞ゆるやうな風景である。この水が段々と集つて淵を爲し、松と岩との間を行くと、樵夫が徒渉し、隱者が腰をかけて居る。次には溪の處に樵夫の來た徑があり、人家があつて牛が行き、更に漁舟を浮べて居る者があり、橋が架つて車が渡り、橋の下までは帆をかけた舟がのぼり、堤が低くなつて水田が廣く見え、城壁の下を流れて都府に入れば、岸には子供が集つて輕業師の藝を見て居る。狗が尾を振つて居る。柳があつて青樓が列り、其先は即ち河口の港で、遠洋から歸つた軍艦商船が碇を卸して居るといふ趣向である。繪卷物の無い國の人には解し得られない興味である。併し繪なれば高々二十尺、二十五尺の、絹の上の變化であるが、天然は更に豐かである、同じ一つの峠路でも、時代及び人の生活、季節晴雨のかはる毎に、日毎に色々の繪卷を我々に示して盡きないのである。
 
(233)   東國古道記
 
(235)     はしがき
 
 かつては日本でも山に入り、又は農村に紛れ込んで住むことを、世を遁れるなどと謂つた文藝が有つて、實は自分たちも若干はそれにかぶれて居た。しかし考へて見ると、そんな「世」なんかは至つてちつぽけなもので、僅かな年月を隔てて振りかへつて見ても、もう何處へ行つたかわからなくなつてしまつて居る。之に反して國民總體の生活は切れ間も無く續き、たとへその一人々々は氣づいて居なくとも、通つて來た跡は一歩毎に踏み固められて居る。二千年前の日本の風景が、今と寸分のちがひは無いとしても、是を保存するにはなほ我々の力が働いて居たと言ひ得る。まして是ほどにも顯著であつた國土の變貌が、そこに住み續けたものの承認を經ずに、爲し遂げられた筈は無いのである。我々の國語では、ヨといひヨノナカといふのは土に活きることであつた。死んでしまへば此世では無くなるが、それでもなほ永く國民はこの國のうちに留まらうとするものと、以前には考へられて居たのである。遁世はただ一つの小さな移動に過ぎなかつた。それと同じやうに、人間の活躍から斷ち切られた自然といふものは、少なくとも我々には接觸して見やうも無いのである。
 風光の變化は時と處、之を眺める者の在りかと身の程、殊に交渉の濃さ淡さによつて、幾通りにも分けて考へられるやうだが、さういふ中でも居住者と旅人、朝夕見て暮らす者と去つて戀々と憶ひ返す者とは、いつの世になつても大きな對立であらう。私は一生を旅人として送つたやうな人間だから、一方の考へ方にはまことに親しみが薄い。それでこの「東國古道記」といふ課題の中では、主として道路、それも自分がまだ十分に味はふことの出來なかつたもの、是からの旅人にもう一度、よく見てもらひたいと思ふものの話をする。それとてもただ偶然に知つて居たものば(236)かりで、まだこの以外にもどれ位興味の深い昔の通路が殘つて居るかは、今は到底語ることが出來ないのである。
 
       人生と古道
 
 古い道路の埋没に歸せんとするものが最近は意外に多くなつて居る。それは山あひの細道の草木に覆ひ盡されて、もう永いこと誰も通つて見たことが無いといふものだけで無く、現に毎日のやうに人が使ひ、路傍には小家のまだ幾らも殘つて居るものでも、是が以前の何といふ處へ通る路だつたかを、忘れてしまへばやはり埋没であつた。人間の懷古にも大よその限りがある。三代四代と續けて記憶を試みる折が無く、尋ね寄る旅人も絶えて居たとすると、もうそれからさきは天然に近いもの、即ち彼等の間に無意識に傳はつてゐる痕跡によつて、古い世の道を辿るの外は無いのである。しかしさういふ痕跡は必ずしも乏しくは無い。ぢつと一つの處を見つめて居ても始まらぬが、各地多くの變化と類似とを、積み重ね又比較をして行くうちには、?土地の人の忘れてしまつて居るものまでを、憶ひ起すよすがを得られるのである。斯ういふ經驗は貴重なものだが、私一人の爲には遺憾ながら時期が少しばかり遲すぎた。若い頃にもあらかじめ計畫を立てて、旅行の機會を待つて居る道樂はあつたのだが、さて出て見ると色々の都合に負けて、やや無造作に豫定の筋道を改め、いつでも三分の一以上を見殘して還つて來てゐる。一つには始めから計畫に無理があつた爲だらうが、ともかくも、もう歩行の旅はすたれ、草鞋は造る人が無く、親切な荷持ちの人夫は得られなくなり、第一に脚が自分の言ふことを聽かなくなつた時分に、やつと人生の古い道が、この地上の舊道の傍に、遺つて居るといふことを覺つたのである。さうで無くとも現在は旅の許される時代では無いが、やがて輝かしい平和が立ち復つて、もう一度靜かに祖先の歩んだ跡を見なほさうといふ若い人が、多くなることは想望せられる。其人たちに引繼いで置きたいものが、實はもう大分たまつて居るのである。私などの未完成は、全體から見ると小さなものだ(237)が、まだこの以外にも計畫はすでに熟して、實現せられて居ないものが多いといふことだけは、是からでも類推し得られる。殊に、年齒のなほ壯なる地方の同志たちが、不本意に中止して居る調査事業などは、單なる保存の爲にでも紹介をして置く必要があり、又その土地毎の孤立した研究の中には、二つ三つ以上を繋ぎ合せて見て、始めて意義の明かになる題目が幾らもあり、それだけは私で無いと、他には聯絡の任に當る者が少なかつたのである。ともかくも先づ古道の選定といふことから話を始めて見よう。
 
       浪合の昔の物語
 
 最初に自分の家と最も縁の深い一つの路線が、私に取つては發見といつてもよい程度に、埋もれて居た話をする。私は明治三十四年の初冬、始めて信州に入つて上諏訪の湯宿にとまり、明日は伊那町の坂下に出ようとして居た日、急に山一つ向ふの藤澤村から迎へが來て、夕方になつてから杖突峠を越え、御堂垣内《みだうがいと》の部落に開かれた、村農會の夜の集まりに參列したことがある。山と山とに挾まれた細長い淋しい村なのに、不思議に潜り戸に油障子を立てゝ、家々の家じるしが墨黒に、夜の燈火に光つて居るのが目についた。爰は以前の宿場で駄馬が多かつたといふ話を珍らしく聽いて、飯田へ還つてから其事を伯父にいふと、それを知らぬ者があるものか。お前の家などでも親代々、一生に何遍も何十遍も、越えて居た金澤峠といふ路だといふ話で、それならば是非一度、自分もこの次は越えて見ませうと思ひ立つたのであるが、しやうも無いものであれから何十囘、汽車でこの下を通り過ぎるたびに、いつもこの問答を憶ひ出すばかりであつた。停車場の名なども程無く青柳《あをやぎ》と改められて、今では金澤はその麓の村の住民だけに、知られて居るやうな小さな地名になつてしまつた。
 この金澤峠の存在は、決して飯田藩の參覲交代の爲だけでは無く、もう少し遠いしつかりとした昔を持つて居た。(238)是も伯父さんの話に基づいた知識だが、尾參以西の低地部から、江戸へ出るには是が近路であつた。大きな旅行團なら設備が足りないから、東海道に由るの他はなかつたが、商人などの小さい一行は、急ぐ場合には皆この方を通つた。飯田まで來るには熱田より少し東、池鯉鮒《ちりふ》か安城《あんじやう》のあたりで本道から岐れたと思ふが、その地點は私にははつきりしない。それから矢作川《やはぎがは》を渡りやゝ東北に進んで、足助《あすけ》といふ町が重要な宿驛であつた。爰には山國へ入つて來る三州その他の鹽の問屋もあり、所謂|中馬路《ちゆうまみち》もこの地を起點にしたと見えて、こゝで包装をしなほした鹽の小俵に、足助鹽といふ名稱も傳はつて居る。それから出て伊勢神峠、
近年辭職峠などといふ新しい異名の出來た長い苦しい一つの峠を越えると、武節《ぶせつ》稻橋《いなはし》、更に小山を一つ隔てゝ信州南端の根羽《ねばね》になるのだが、この區間もまだ私はあるいて見(239)ては居らぬ。
 根羽は南を受けた丁字路の結び目で、是を東へ分れると三州の津具《つぐ》の谷に繋がり、是も重要な古來の通路であつたが、なほ他の一方の鹽の路と比べると、その歴史性ともいふべきものが幾分か劣つて居る。文字の記録の傳はつたものは尠なく、有つても其儘では利用しにくいものが、此地方では有名になつて居るが、私たちはなほさういふ中からでも、此筋が中世生活の一つの經路であつたことを看取し得る。根羽から北に進んで、平谷といふ小盆地が矢作川の水源であるが、これから峠を又一つ越すと浪合《なみあひ》といふ山峽の村がある。尾濃參信の境に占據した若干の豪族、ことに津島天王の社家の祖先と、南朝終りの頃の勤王運動とを結び付けた、浪合記といふ物語は、こゝを中心として展開して居るのである。
 
       加賀樣の隱し路
 
 所謂|中馬《ちゆうま》街道の調査は近い頃に、もう可なりの所まで進められて居る。是には幸ひに僅かの故老が活きて居て、實地の所作をして寫眞にも取らせてくれた。それほどにもこの交通の變化は新らしい事なのである。但しこの輸送は、主として信州の南半を目途とし、直接には金澤峠とは關係が無く、甲州へは別に富士川の流域を利用した、駿豆地方からの補給路があつた。是が江戸開府以來特に盛んになつた一つの支線であつたこともほゞ想像し得られるが、同時に其本線が又一方の北國街道と何處かで連絡せられて、曾ては其方が一層重要な通路であつたらうことも、類推することが出來るのである。鎌倉小田原はやゝ東に寄つて居るから、或は今日のやうに碓水を利用したかも知れぬが、駿府以西になると、日本海の海岸へ出るのに、すべてが木曾路をまはつたらうとは思はれない。中馬の運送は假に信州を行き止まりにして居たとしても、別に旅人の突き進んだ路が、もとは一つならず此あたりを貫通して居たものと見(240)てよからう。汽車が容易な交通機關となつた結果、さういふ由緒のある古い道の幾つかは、たしかに不用になり忘れられかゝつて居るのである。
 佐々成政の佐良々々越の旅は、軍書によつてたつた一つだけ有名になつて居るが、是とても地圖のまだ無かつた時代に單なる見當だけで計畫したのではあるまい。五人十人の僅かな一行の爲ならば、もとは多くの路筋があつて遠くの旅人にも知られ、路の傍に士著する人々には、却つて考へられないものが有つたのかと思はれる。それに就いて、やゝ珍らし過ぎ、或は作りごとかと思ふ一つの話を私は聽いて居る。それは加賀樣の隱し路と謂つて、前田侯が何か萬々一の場合に、領内へ逃げて歸る途が用意せられて居たといふ話である。昔山中共古翁が私に談られたのだから、何か先生の著述の中には、誰から聽いたといふことまでが書いてあるかも知れぬ。素より表向きの記録には有らう筈も無く、知らぬと答へる人の多いことも判つて居るが、中古の交通?態を考へてみると、有り得べからずとまでは言ひ切れない。山中さんの話では、其路筋には若干の距離を隔てゝ、相應な手當がしてあつた。たとへば村の片脇に觀音藥師等の御堂があつて、其建立には無名氏の寄進があつた。堂の佛壇の下は塗籠《ぬりごめ》になつて居て、其中には一通りの椀家具が入れてあつた。さういふのを辿つて行くと、大よその道筋は判るといふやうな話であつた。殿樣が領地に遁げて歸るといふと、時代劇に近くなるが、何か内密に關所には知られずに、使者を往來させる位な必要は感じて居たかも知れず、そんな場合も考へて豫てから、地理の調査などはさせて居たかも知れない。わざと浪人をして蔭に居て主家の爲に謀つたといふやうなことも、以前の社會ならばさう稀々なことでは無かつたのである。
 
       信州北部を横ぎる路
 
 この話を始めて聽いた時から、私は折々夢のやうなこの第二の佐良々々越の路筋を、想像して見る癖を養つた。ま(241)さか膳椀がまだ殘つて居らうとも思はぬが、もしも目に立たずに江戸から金澤へ、脚の達者な者が急いで行かうとしたら、どう通り拔けるのが一番早いか。出來るなら自分も一度、試みようかと思つたことさへあつた。親知らずや明路《あけろ》の今昔の切處《せつしよ》を考へて見ると、越後へ出てしまへばどうしても此邊で引つかゝるにきまつて居る。だから北國へ越えるには是非とも今日の所謂北アルプス連峰、それも立山より南へ出たのでは飛騨の口が拔けられない。黒部の谷へ降りてしまふ路もあるが、それでは迂路になる。さうするとやはり針の木がたゞ一つの順路になると思ふ。それから向ふは茲に謂ふ東國で無いから觸れないが、斜めな捷路は、幾つか開けて居り、又越中は一門の誼みが有るから問題は無い。信州の方でも大町へたどり付く迄は、頃合な路筋を選ぶこともさして困難とは思はれぬが、碓氷に續いた連嶺をどこで越えるかといふことが、やはり決し難い問題になるであらう。しかし私がもしこの計畫に參加したとすれば、何の躊躇も無しに、提案するのは十石峠である。秩父《ちちぶ》の奧には千曲《ちくま》川の川上へ、梓山《あづさやま》を通つて出る路も有るが、是は山岳會員でないと少し六つかしいことであり、又大分のまはり路にもなる。十石峠は昔からの御嶽道者の路であり、又交易も多く相應に人通りのある筋なのだが、其割には番所の固めが簡單であつたらしい。さうして江戸から秩父への路といへば、大きいのが五つもあつて人は皆行き拔けて居た。大體に川越よりは少し南、所謂所澤|扇町屋《あふぎまちや》のあたりを通つて、今の八高線の谷まで出てしまへば、それから先は普通の順路と謂つてもよい。飯能《はんのう》吾野《あがの》を經て正丸《しやうまる》峠にかゝつても、又は小川まで行つてから粥新田《かゆにた》を越えても、秩父までは二日路、少し早足の人なら三日目にはもう信州へ入ることが出來たらう。大日向《おほひなた》即ち十石峠の向ふには、曾て信玄も來往した甲州街道が通つて居る。それから僅かづつ隔てて、中山道と北國街道、更に峠を越えて來た三線の諏訪路と善光寺路が横ぎり、幾つもの脇路は互ひに此等を繋ぎ合せて居る。大體にこの千曲川左岸の高地には古い道路の西北に向ふものが多いかと思はれるが、さういふ中でも望月から丸子別所青木を通つて麻積《をみ》に出る道などは、殆と大町から針の木の山越を目ざして、付けられたかの如き形さへあるのである。それが單なる各地間の通路でなく、時あつて遠方の旅人に、利用せられたとしても不思議(242)は無い。
 
       道志の谷と足柄路
 
 地方の利害がまだ割據孤立して居た間は、或は斯ういふ交通も出來るだけ一方が利用し、外から來る者にはその恩惠を受けさせまいとして、それが追々と自然の閉鎖に歸するやうなことも有つたかも知れない。さうで無くとも地形の關係から、雙方均等に使つて居ないもの、從つて遠くから來る者には容易にその便利を覺り得ないものは多くなつて居る。袋の底だとか行きづまりだとか謂つて、平野の人達に疎んぜられて居た土地で、案外にさうで無いものが幾らもあつた。しかしそれを辯護する必要などは無いのみか、寧ろさういふ處をなほ暫らくは殘して、あんまり變化の早い今日の生活相を、ふり返つて見る目標にしたいとさへ私は思つて居る。山の奧や海の出崎には、最初から習慣のやゝ異る部曲が、少しは住んで居た事實もあつたか知らぬが、私達の知つて居る限りでは、さういふ例は殆と無く、大抵は我々の古風な暮らし方を、外部の感化の少ない爲に、まださう急速には改めようとしないものばかりであつた。よつぽど大事にし、且つ就いて學ばなければならぬと思ふ。
 東京近くの一つの例としては、私は甲州東南隅の道志《だうし》の村を知つて居る。この谷は山あひが細く狹く、多くの人馬に供給することは出來ないが、單なる旅人の通路としてならば、ちやうど信州の金澤峠と、同じやうな役目を果し得たのであつた。駿東以西の各地から、殊に須山越《すやまごえ》のまだ通つて居た時代に、關東の平野へ出ようとするのには、峠は二つあるが大體水の流れに拾うて、この溪を安々と歩み降ることが出來たのである。それが今までただ地方的にしか利用せられなかつたのは、わざと隱して置いたとしか思はれない。更に注意せられるのは、爰と以前の足柄道との間に、幽かな山路がまだ通じて居ることで、是はもちろん江戸とは關係が無く、多分はもう少し古い時代に、和戰二樣(243)の意義をもつて居たものであらう。私などの家の遠祖は河村氏で、中世この道志からの山越路の突き當り、今の山北の驛に近い河村といふ處に住んで居た。あの河村城の重要性は、この小さな通路が有るので幾分か明かになる。つまりは窃かに甲州以北と、爰からならば聯絡が取れたのであつた。武田信玄の軍勢も、曾ては此路を利用したやうに道志の人は謂つたが、私はまだそれを確かめることが出來ない。箱根や伊豆の道が開けて後は、こゝまで出て來られても小田原方はさう困らなかつたらうが、ともかくも四境に斯ういふゴムの袋のやうな、軍勢を隱して置ける谷間を持つて居た國は仕事がしやすい。甲州の武家たちが鎌倉の將軍から、始終忌み憚られて居た原因も一つはこの邊に在つたかとも見られる。
 
       信州から出て來る路
 
 コ川家康が老いて駿府に居た頃に、たしか安倍川の上流から、信州へ拔ける道が有るかどうかを、家臣に命じて探險させたといふ記事を見たことがある。その復命書があつたら面白からうが、どこをどう拔けて見たものか、皆目私などには見當が付かぬにも拘らず、ともかくも向ふへ越えてから還つて來たと言はれて居る。是なども新たに遠征の路を拓かうとしたのでは無く、もしか向ふからこつそりと入つて來る者が有りはしないか。さういふ隱し路が昔からあるのではないか。つまりは少々氣味が惡いからそれを確かめさせたに過ぎぬのであらう。安倍川の上流には、梅ヶ島の温泉があつて人に知られ、それから甲州の西山へ通ずる路は、近年の林業家までが盛んに利用して居る。しかし他の一方の信州境になると、?況は全く別であつて、この川も大井川も共に奧は深いが、其流れは完全に駿河の水ばかりで、水分れから向ふのことは不思議なほど知られて居ない。察する所是は越えて行く可能性が無いといふよりも、寧ろ川筋に少しも民家が無い故に、さういふ必要が認められなかつたものであらう。實際又この邊一帶の山地のやう(244)に、村の發達して居ない地域は東國はさて置き、日本國中にもさう多くは無いのである。
 駿府の老將車が遠山《とほやま》氏の一族を、優遇といふよりも寧ろ懷柔して居たのは、或はこの探險の結論とも見られぬことは無い。遠山は天龍川左岸の一溪谷で、駿府に近接した部分ではないが、もし信州の山間から飛び出して、彼を脅かすものが有るとすれば、爰が最初のいやな足溜りと見られたからである。遠山の狩人たちは、氣多《けた》の後の山を通つて、?|千頭《せんづ》の奧に野宿をしたことがあるといひ、今日は林業も非常に進んだから、處々に山小屋の新部落も出來て居て、それを連結した通路も交叉して居るにちがひないのだが、今でも爰を通り拔けて、大井川の岸まで出て見ようとする人は少ない。さうしてこの川の下流では、千頭々々と頻りに深山がつては居るが、それは比較的口もとだけの話であつて、少なくとも信州の國境とは觸れて居ないのである。
 
       奇談の流行
 
 遠山奇談といふ書物は、妙に近年になつてから、古本屋の店によく並んで居たが、まことに心掛けのよろしくないいやな本の一つであつた。京都大火の後の本願寺再建の際に、この派の或僧が用材を捜しに、遠州の山奧なる遠山といふ處へ難儀な旅行をして來た見聞録の形になつて居るが、少しは事實が有らうかと思ふのは第一卷だけで、殘りの四卷は全部が作り事、しかも類型のいくらもある、都會の住民の貧しい知識から、割り出したやうな空想を以て充ちて居る。さうして何處をどう通つて遠山に入つたといふことも、部落や家の名なども一向に擧げて居ない。假にさういふ旅行が事實企てられたとしても、その旅人の話で無いことは勿論、三人や五人の中に立つ者があつたといふだけの、聞書ならば斯ういふものにはならないだらう。つまりは只出かけたさうなといふ噂だけを聽いて、殘りは勝手にこちらで拵へたものである。百數十年前にも、たまには斯うしたけしからぬものが有るからうつかり出來ない。
(245) 但しこの御蔭に遠山といふ山村が、急に京洛の人に著名になつたといふことは有るかも知れない。肥後の五箇《ごか》山でも、越後の三面《みおもて》でも、阿波の祖谷山《いややま》でも、熊野の北山でも、吉野の十津川でも、飛騨の白川でも、さてはこの遠山から遠くない小俣《をまた》の京丸などでも、みんな奇談のつもりで本を讀んだ人が傳へるのだから、誤聞は無いとしても誇張はたしかに有り、おまけにそれが今日迄も續いて居るやうな想像をさせて、たま/\彼等のすることが世間並であれば、何か約束がちがふやうな事をいふ者さへ有るのである。迷惑至極と言はなければならぬ。不便な入込んだ山の中に住む者などは、最初から若干の辛抱は覺悟したにちがひないが、なほ其制限を出來るだけ少なくしようと努めて居るのである。多くの異風といふものは寧ろ古風であつた。即ち土着當時のそれが普通の生活ぶりであつて、後々せがかはつてもそれを改めることを知らず、又は他所ではもう改めて居ることを知つても、爰ではそれが出來ぬといふものが、年と共にやゝ累加して來るだけである。さういふ中でも私の見た信州遠山などは、其樣な不自由の至つて少ない處、むしろあんまり世間にかぶれ過ぎ、附いて行きすぎるといふ土地柄であつた。それといふのが山の生産の景氣がよかつた際であつて、あれから又事情は變つたかも知れぬが、一つには、土地の分内が廣く、孤立の統一を保つだけの、力と組織とを持つて居たからでもあつた。この一谷の村の構造と、最近百年ばかりの變遷とを描寫した、「南伊那農村誌」といふ書物がこの頃世に出てゐる。それを足場にしてなほ少しづつ視界を擴げて行けば、末には他の多くの山村をも併せ支配した、法則のやうなものも發見せられることゝ思ふが、それには先づ遠山奇談一流の誤つた概念を棄ててしまふ必要がある。
 旅が歩行のことであつた時代は最近まで續いて居た。山阪の登り降りに堪へぬやうな者は、日本では旅行を始めから企てぬことにして居た。旅籠屋《はたごや》と茶店の備はつた街道は、段々に數が限られることになつたらうが、それの無いやうな土地は旅人が珍らしい爲に、却つて引留めて好遇したといふ話も、決して古い世の事で無いのである。
 斯ういふ諸點を綜合して考へて見ると、信州遠山などは山奧ではあるが、やはり中世以來の大通りの一つであつた。(246)歴史は寧ろこの通路が存する爲に、順次にその左右前後に於て展開したものとも見られるのである。
 
       秋葉と遠山道
 
 この山間の大通りが秋葉街道と呼ばれるのは、いつの頃からか明かでないが、少なくとも是は改稱であり、秋葉山の爲に開けたものでないことは、色々の證據がある。現在の起點は信州飯田で、こゝで前に述べた參州街道から、分岐するものと認められて居るけれども、私などの見た所では、この飯田遠山を繋ぐ五六里の分だけが、新らしい附けたしであつたやうに思はれる。現在の小川路峠《をがはぢたうげ》は、水の流れを少しも利用しない人工的のもので、古くから備はつた自然の路では無く之に反して北の方に今の大鹿村、即ち大河原|鹿鹽《かしほ》の舊二村を縱貫して、高遠から諏訪と繋いで居る一線は、山越しの少しの部分を除いて全部が水筋に沿ひ、しかもほゞ眞直ぐに南徴西に通つて居るのみならず、遠山一郷の殆とすべての部落は、北は地藏峠から南は遠州境の青崩《あをくづれ》峠まで、その間十里以上、みな此線の延長の上に立つて居るのである。青崩を越えると水窪川《みさくぼがは》が、是も大體に同じ南北の谷を作つて、天龍の本流へ流れ込み、今の街道も其岸に附いて居る。この位屈曲の少ない通路といふものは、自然の中からはちよつと見出しにくいと思ふ。
 一方遠州の方でも、此路は決して秋葉山で止まつては居ない。方々から詣るのだからそれは當り前のやうなものだが、名前も此方では前後を引きくるめて、たゞ信州街道の名を以て呼んで居る。秋葉の東南には森の町がある。そこで二つに分れて一方は見附から掛塚、他の一方は掛川を經て相良《さがら》御前崎《おまへざき》に達し、此方が本線かと思はれる。御前崎では、毎度私は信州街道といふ言葉を聽いた。冬中は此筋を通つて乾燥した風が吹いて來て、それで名物の薯|切干《きりぼ》しがよく乾く。それを荷造りして送り付けるのも、やはり主としてこの街道であつた。即ち此道は東海道からの分れでは無くて、海まで出るのだから秋葉よりも古いと見てよい。
(247) 秋葉山の信仰とても古いものかは知らぬが、少なくとも近世に入つて著しく發達して居る。さうして今ある社地も前に一度、奧の山から爰に移つて來たものらしいのである。遠州の地誌には、まだ此點を詳しく説いたものを見出さないが、土地の傳へは切れ/”\に採録せられて居る。火災の防止に大きな力があると信じられたのは、この奧の山の山靈であつた。曾て神女が三人の子を儲けて、それを三つの靈山に分ち住ましめたといふ話もある。その一つの常光寺山は水窪川の左岸に近く聳え、其南面には山住神社があつて、今でも俗間には是を秋葉の奧の院と解する者がある。この社を出て山の背を南へ進めば、少しも本道へは降らずに、直接に秋葉に通ずる眺望のよい路があり、佛式崇拜者の道場なども其傍に立つて居る。是が以前の修行者の道であつて、所謂秋葉街道は秋葉とは關係が無く、寧ろ是によつてこの山間の信仰を、長養し又宣布する力になつて居るのでは無いかと、私だけは考へて居るのだが、斷言はまだ出來ない。
 
       諏訪の神領として
 
 然らば一體どういふ種類の人々が、かゝる山間の大道を利用して居たとするか。是は我々の史學の答へずには置けない問題である。高山と早瀬とを以て構成したやうな天龍川の峽谷は、大井川の奧とは反對に外から思つたより以上に村の數が多く、少しは無理と思ふほどの土着が行はれ、さういふ中には古い有力な家々も少なくない。原因は多分此川の珍らしい形態、即ち上流に先づ有形無形の優れた文化が展開したこと、それが海沿ひの平野と手を繋がうとすれば、自然に中流の山地にも浸潤せざるを得なかつた爲であらうが、それにした所で、なほこの急流の岸を傳ふより以外に、自然の路線が備はらなかつたならば、第一に、老人や女子や小兒を伴なうては來られなかつたらう。最初に發見したのは益荒夫だつたにしても、家を創立した一家眷屬は、どこかそろ/\と歩ける路を通つた筈で、その一つ(248)がこの所謂秋葉街道であつたらうと私は思ふ。それから次の原因は急ぐ交通、又は危害を避けようとする交通にも、たゞの險阻はさう利用することが出來ない。それで戰亂割據の世に於ては、何かそれに適するやうな地形があるかどうかを、今日の人よりはもつと用意深く、前以て調査して居たので、斯ういふ道路の發見せられたのも、存外に早期のことだつたのであらう。
 所謂秋葉街道の更定以前、我々から言ふならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んで見たい山あひの交通が、この天龍川筋の特殊な土着を誘導した働きは、隱れて居るけれども相應に大きなものだつたらしい。一時に澤山の人を送り込む必要はこの方面には無く、僅かづつの交通ならば、よほど早くから始まつて居たからである。遠山といふ莊園名は、素より外から附けたものであつた。今でも土地の人は自らはあまり之を使はず、里毎にもつと好い名があり、又中央の和田村を總稱としても居る。誰がこの一帶を遠山と呼び始めたかと考へると、海道の側からならば、まだ幾つもさう謂つてもよい谷があつたに反して、北から入つて來れば是が唯一つの遠山であつた。恐らくは最初は今の大鹿村にかけて、廣い區域が遠山であり、是を命名したのは諏訪の御社の奉仕者たちであつた。一千の鹿の頭を供へたといふのは傳説に過ぎぬだらうが、所謂|耳裂鹿《みみさけじか》の不思議は此山地に屬し、夙く外縣《そとあがた》の最も奧の村として、こゝの住民も亦遙々と恭敬の誠を致して居たかと思はれる。特色は高嶺に圍まれて四境の擾亂が無く、地味も穀作に通して居た上に、今一つの變つたことは鹿鹽には鹽の泉があつて、附近の住民は之を庖厨の用に充てゝ居た。乃ち山村ながらも附近の小市場に、隷從しなければならぬ不利を免れて居たのである。領主香阪氏の孤立は自信の有るものであつたらしい。終始渝らざる此家の勤皇が根柢となつて、宗良親王の甲信經略、又上州の新田氏族黨と遠州|井伊谷《ゐのや》との交通は容易に行はれたのみならず、後年は更に「ゆきよし樣」の御最後といふやうな、かの浪合記の物語までを成長せしめ得たのであつた。
 
(249)       熊谷家傳記
 
 是は今までの郷土史家からは、容易に賛成せられさうにもない新らしい一説だが、私は中世の交通線に、意外な別種の條件と機能との有つたことを考へて見ようとして居る。この改定以前の遠山道、木曾よりももつと窄い山間の隘路に由つて、天龍の峽谷へ運び入れられたものは、獨り浪合記一流の悲壯なる史譚だけでは無かつた。大よそ參遠信の三國相境する山岳地帶に、年久しく土着して居る名門舊家といふものは、遙々と此路を行通うて移つて來た者が特に多く、それが又この方面の傳説や信仰を可なり著しく東國風に彩色して、一つの土地柄を形づくつて居るやうに私には感じられる。たとへば平家の落人といふ口碑などは、稀には越後にも羽後の由利《ゆり》郡にも、又關東の一部にさへも分布して居るのだが、遠山地方に在つてはそれが至つて少ない。さうして其代りとして行はれて居るのは、專ら杖突か金澤かの峠を越えて、東の方から降つて來たかと思はれる、阪東武士の足跡に關するものが多い。浪合記なども言はゞ其一つの例であつて、全部が本當の事だらうとは到底思はれないが、ともかくもさういふ言ひ傳への起るべき素地乃至傾向は、夙く備つて居たのである。
 古い談り草のこの他にもまだ色々と殘つて居る中に、特に私たちの注意を惹いたのは、熊谷家傳記といふ一書であつた。信州の最南端、天龍川右岸の三河に接した坂部《さかべ》といふ小さな村に、熊谷といふ舊家のやゝ衰へかけて居るのがあつた。二百年足らず前のそこの家の主人に、學問の衆に秀でた者があつて、自らその父祖歴代の手記を編輯したと稱して、數卷の大册に纏めたものが此書である。久しく名を傳へて居た珍書であるが、それを前年謄寫版にした篤志家があり、最近は更に又活版にもしたから、もう埋没の危險だけは無くなつて居る。文體用字に統一があり、又後世にならぬと判らぬ筈の事も少々は書いてあるから、先祖の自筆に據つたといふのは信じられぬが、内容には存外新た(250)な附加へが無い。言はゞ二百年以前のこの地域の口碑類を、年代順に排列して、歴代の主人の生涯に割當てたものゝやうであり、從つて又若干の矛盾抵觸も見られるのであるが、さういふ切れ/”\の話柄の綜合によつて、獨り熊谷一家の盛衰のみと言はずこの山間一帶の土豪|地侍《ちざむらひ》といふものゝ生活が、あら方は窺ひ知られるのである。筆者が土地人であり又職業の徒で無いといふことが、よほど特殊な價値を此書には附與して居る。幾分か奇を好むといふ非難は有るかも知れぬが、私は是を野武士文學とでも名づけて置いたら、或は後代人の研究を誘導する機縁にもならうかと思つて居る。
 
       天龍川峽谷への交通
 
 この篇では是を詳しく紹介しても居られぬが、ともかくも或一筋の山中の通路が、以前は今よりもずつと大きな働きをして居たことが、熊谷家傳記からも亦よほど明かになる樣に私には考へられる。三河には昔から關東武士、殊に新田足利と縁のある家々が多く住んで居た。それをたゞ何と無く京鎌倉の道すがら、海道の方から寄り込んだやうに、思つて居る人も多いことゝ思ふが、國から出て來るとすれば是では路のりが大分遠くなる。さうして一方には又高遠遠山を通つて、北部に入つて來た例は段々と有るのである。さういふ中でも熊谷といふ家は興味がある。其出所は北武藏の一つの土地の外には無いであらうのに、不思議に同苗字の分布が弘く、北は奧州から西は中國中部、若狹にも近江にも大きな分れがあるのみか、信州から三河にかけても澤山の舊家を見出し、それが又必ずしも互ひの關係を明かにして居ないのである。阪部村の熊谷氏も一門がさう多くない。さうして此家だけは初代を新田義貞の遺子となし、名乘も兩家を結び付けて、平源の貞直などと傳へて居る。三河の南部には足利方が有力なるに反して、山に接した僻村には南朝方が多かつたのは對立の勢ひ、即ち容易に平地人に屈しないといふ意味だつたかも知れぬが、同時に又背(251)後の交通も之を支持して居たかと思はれ、それが更に水戸學によつて昂揚せられた新らしい正義史觀によつて、いよ/\輝かしく又誇らしいものになつて來たのであつた。熊谷家傳記は斯ういふ小社會の間に處して、必ずしも我祖の勤王を主張しょうとせず、寧ろ名流の血筋を守らんが爲に、沈淪を甘んじたやうに説いて居るけれども、しかも間接にその記述の中から、時勢の變轉に對して懊惱した、地方の舊家たちの境遇を窺ひ知らしめる。武力武功が唯一の手段であつた戰國の時代ならば、野武士にも前進の機會がまだ有つた。一旦平和が確立して、士農の分際が明かに區劃せられてしまふと、彼等の門地と聲望とを支持するものは、古い言ひ傳への他には無かつたのである。それを家々の單獨なる主張に放任しては置かず、彼等互ひにそれを記憶して、正邪の分ちを明かにして居ることは、今なほ日本の田舍の一般の風といふことが出來るが、殊に世離れたる山間の天地に於ては、必要缺くべからざる社交の法則であつた。それがこの傳記の中には可なり明晰に描き出されて居る。遠い昔のことならば反對の證據も無く、誤解も曲解も言ひ傳へである以上は、全く無かつたとは言へまいが、少なくとも何處をどう通つて、彼等はこの峽谷へ入り込んで來たか、當初如何なる因縁があつて、爰に足掛りを得たらうか、といふことまではほゞ判る。阪部の熊谷氏などは、さうした來住者の中に於て、比較的早い方の一群に屬して居たかと思はれて、やゝ信じにくい此家の主張に對しても、之を否認しようとする者は無かつたが、少なくとも天龍下流の平野地方から、遁れて來たもので無いことは、地形を見ただけでも大よそは察しられる。いはゆる秋葉街道を青崩の方へは進まずに、和田から遠山川の流れを附いて降つて行くと、滿島《みつしま》といふ處で天龍川の左岸に出る。そこから國境までは約三里、今の飯田線の電車の路に沿うて、一つの街道が遠州奧山の方へ通つて居た。阪部はちやうどその對岸で、こゝに早くからの舟渡しがあつたのである。多くの旅人はこの渡しを越えて、熊谷氏を訪ねては世話になつて居る。今でこそ山家の奧在所であるけれども、曾ては此あたりが南北交通の、一つの衝點だつた時代も、あつたことがわかるのである。
 
(252)       浪合記の色々の異本
 
 この一つの隱し路が、時代の變化によつて追々に其機能を失つたことを、私は浪合記に據つて考へて見たいと思つて居る。浪合記は天野信景の採録以前、すでに其存在を一部には知られて居た。たとへば藩翰譜の大久保氏の條には、もう之を引用して居る。しかしそれだけに今見る流布本以外、民間に口で語り繼いだものまでを加へると、異傳の夥だしいことは殆と區々といふに近い。極めて肝要な點だけでも、たとへば浪合の合戰を應永三十一年といふものと、同三年といふものとがあつて、その日も八月の十五日又は六月十二日、又は三月二十四日といふ外に、別に永享七年の十二月に、同じやうな戰がもう一度あつたことにもなつて居る。次には此物語の中心ともいふべき辭世の一首、
   おもひきや幾瀬の淀をしのぎ來てこの浪合に沈むべきとは
の歌なども、辭句に異同があるのみか、作者までが固定して居らぬ。それからこの戰闘に働いた人、命を棄てたといふ人の名が、是亦本毎にちがつて居て、曾て青山子爵家の先祖だと認められて毎年の供養が有り、それが此地を御陵墓傳説地と指定せられた、有力なる根據ともなつて居る或一人の武人の名が、たゞ堯翁院の石碑の表に見えるのみで、他の本には全く出て居らぬのも變つて居る。私の見た所では、戰爭參加者の交名には幾多の加除が有るが、大體に三つの系統に分類し得られるやうである。其一つは勿論尾張津島の社家の先祖たち、是は二度目の合戰に若い王子を守護して、御社の神主の先祖としたといふのが主眼だつたから、討死はあまりして居ない。第二の一群は世良田桃井等、宮樣に附いて上州から出て來たといふ人々、此方は新田一門の忠誠の傳統を説くものだが、強ひて想像すると時衆の僧コ阿彌が、コ川家の第一世となるべき十分なる理由があることを、説明する爲の物語とも見られぬことは無い。この時衆の一沙彌を世良田政義の次男として、年代が合ふかどうかよほど疑問である。それから第三には多數の三河武(253)士の集合、是にも桃井世良田や津島の社人の少々は加はつて居るが、大きな働きは此地方の土着の武士がして居る。さうして大抵は東部三河から遠州へかけてのあまり遠方へは知られ得ない舊家の先祖のやうで、熊谷といふ人も二人ほど參加して居るが、注意すべきことには阪部の熊谷家とは至つて關係の遠い家ばかりである。しかし大體からいふと、さういふ烏合の衆ともいふべき地方武士の働いたといふ言ひ傳へは、津島の大橋家の古傳よりも、又はコ川氏の開祖と謂はるゝ松平藏人長親の活躍よりも、東へ寄つて居るだけに、起源が幾分か早かつたやうに思はれる。勿論是には初から人數の限定が無かつた故に、他の二つの主張する顔ぶれが追々と割り込んで來て、遂に今見るやうな複雜なる構成になつて居るのであるが、初めはたゞ單純に土地の家々だけの口碑であつたものであらう。阪部熊谷氏の言ひ傳へに依ると、この家第一代の主人が南北朝の末の頃に、今の處へ入つて來たのは、天龍の川東からであつた。遠州の側では奧の山に桃井某が住み對岸三河の隅には、多田田邊の二族が居て、それらの支援によつて、この無人の山間を開いたのであつて、今日知られて居る地方の舊姓は、その殆と全部が後から來たといふことを、可なり明瞭に記述して居る。新野の高地が新來の關氏によつて占據せられた迄は、今いふ金指街道などは通じて居なかつたらう。波合根羽の三州街道の如きも、山路ぐらゐはあつたらうが、途中に足溜りになる程の村はまだ無かつたのだから、まだ其頃は今のやうな有力な往還では無かつたのである。浪合記の生長年代は、この交通路の發達の方からも、大よそは推定し得られるかと思ふ。
 
       靈の語を信じて
 
 全體に今ある天龍川右岸の交通路は、私たちから見るとちつとも自然でない。第一に大小幾つもの田切《たぎり》があつて、割據防衛には便利だつたかも知れぬが、遠地の往還には苦勞と不安が多く、その上に供給が豐かとは言へないから、(254)宿驛を立てることが容易で無く、寧ろ一旦は川東へ渡つて、昔の御阪國府の官道は通じて居たかと思はれる。無二の足利方と認められた小笠原氏と、其一門の盤居して居た時代に、この道を吉野朝の宮樣が御微行で御通りなされ、飯田駒場の野武士どもの蜂起に、御遭ひなされたといふことが、實は浪合記の最も信じにくい部分である。もしもさういふ當然の路筋で無いとすると、いよ/\浪合平谷などで戰をなされる必要は見られぬのである。
 私の夙くから抱いて居る一つの想像では、もとは「ゆきよし樣」といふ神樣の塚もしくは靈地が、この地方の主要なる往還のほとり、殊に峠の口とか路の辻、又は兩山の迫つた浪合のやうな切處などに、祀られて居た時代があつたらしく、それは勿論應永三十一年よりは、大分後のことかと思はれる。ユキヨシサマとは神の名から考へると旅人の保護者であつたらうが少しく其由來が不明になるとすぐに或すぐれた人の御靈を崇めたものゝやうに、推定するのが昔の人の癖であり、又口寄せをする者の習はしでもあつた。さうして神が自ら語りたまふことを、信じない人は一人も無かつた時代でもある。しかしその尊靈を信濃宮の御子としたことだけは、決して單なる民間の俗信では無く、そこに若干の歴史の學問が働いて居たやうに思ふ。大河原村では、曾て足利直義の遺子行義、附近の武士に攻められて自害したといふ傳説もあつたといふが、それは多分もう土地の人々も主張しないであらう。之に反して一方の南朝皇胤の傳説は、誰の作爲であつたか神の名も尹良親王と書き、後に良の字は「なが」と御訓みなされたことが明かになつてから、それに相當するやうな唱へ方をする人が多くなり、從つて全く土地の口碑とは縁が切れてしまつて、二つ二流れのかたりごとになつた。是だけは文字の教育の無い者には出來ない仕事である。
 宗良親王が七十餘の高齡を以て、遠州井伊谷で御隱れになつてから、四十年ほども過ぎて後に、かの浪合記の悲壯な事件が起つたといふことは、不審と言はうよりも寧ろ手掛りの一つでは無いかと私は思ふ。大河原の方では、通例是を二十八年前の應永三年三月二十四日の事とし又浪合でも堯翁院の石塔だけはさうなつて居たといふが、それを出來るだけ遲くしないと都合の惡い側の人たちが、或はなほ十二年後の永享七年に、更に第二囘の同じ樣な事件をくり(255)返し、辭世の歌の作者までを、此方へ持つて來る必要を認めたのではあるまいか。系圖や關係者の過去帳などと比べて見れば、此點はやがて明かになりさうである。熊谷家傳記は此點甚だ呑氣なもので、應永三十一年と永享七年の二度の合戰を、實見者から聽いたと言つて詳記して居りながら、別に應永四年の四月廿四日の條にも、幸良《ゆきよし》親王といふ南朝の皇子が、當國浪合に於て御逝去なされたといふ人の噂だと書いて居る。當時の主人の自記したものでないことだけは是でもわかるが、少なくとも最初はさういふ言ひ傳へも、天龍川筋の方にはあつたのである。
 
       地方信仰の變遷
 
 尾張津島の天王さまでは、神主家の第一世を良王君、即ち二度目の浪合合戰に難を脱して、この地へ御立退きなされたといふ王子だとして居るが、それは固よりこの御社の起源でない。それよりもずつと前から、津島には堀田大橋といふ二つの社家が、最も有力で相對立して居た。堀田は一族の中から大名を出す位に、俗界にもよく活躍して居たが、之に對して神主家と特に因縁の深かつたのは大橋の方であつた。私は何か此間に隱れたる消息が有るやうに想像して居るのである。堀田氏の系圖といふものは色々傳はつて居るがその多くの異本を通じて、中興の祖ともいふべき主要人物に、行義又は之義といふ名がある。是が信州の南山と遠山筋、その他附近の交通路に接して往々祀られて居た同名の神であり、人を神に齋《いは》うたと言ふよりも、寧ろこの家が自ら神の末と稱して居たのでは無からうかと私は想像して居る。それはこの御本社が、元來八人の御子神によつて神コを宣傳したまふ大神であつたばかりで無く、堀田といふ家が又さういふ仲立ちの役目を持つて、神に奉仕して居たとも考へられるからである。津島の末社の一つには、彌五郎殿といふ祠が有る。天野信景翁以來、この家の先祖の一人たる堀田彌五郎光泰といふ人を祭るものといひ、それが今日の通説のやうになつて居るが、地方の信徒たちは必ずしもさうは思つて居ない。美濃東部の村々では近い頃(256)まで、疫病が流行して來ると三つの藁人形を造つて、天王送りといふことをしたが、その人形の二つを男女二神とし、之に隨行するやゝおどけたる人形を、彌五郎さんと呼ぶのが普通であつた。さうして彌五郎は又諸國の八幡社などに於て合殿《あひどの》の神もしくは門客神《かどまらうど》、或は又主神に治罰せられ統御せられる氣の荒い小神の名でもあつたのである。堀田といふ家と關係の有る神といふことは考へ得るが、是が名乘を持つやうな現實の人であつたといふのは後年の附會である。
 是に因んで偶然に私の知つて居たことは、この天龍川の中流から下の方で、二月と十二月の八日の日、咳氣《がいき》の神を送ると稱して、鉦太鼓で藁人形を村の境まで、又は流れの岸まで送つて行く風が、今でもまだ少し殘つて居るが、もとは八日の節日だけで無く、疫病蔓延の兆しが有れば、臨時にもこの人形を送ることになつて居た。伊那南部の山村では、人形の數はやはり三つであるが、土地によつては此行事を又おかた送りとも呼んで居る。オカタは上流の夫人のことで、こゝでは和知野城の最後の城主關國經の奧方おまんの方といふ女性と其子息、及びこの二人を殺害した瘤《こぶ》の惣十邸といふ下郎の人形だと謂つたさうである。關氏の九十餘年の榮枯盛衰は、熊谷家傳記の中にも、又同じ筆者の手に成つた關家傳記にも、まるで軍書のやうに花やかに描寫せられて居るが、實際は小さな山間の出來事に過ぎなかつた。殊に其おかたの名が關のお萬であつたりするのも、何だかうそ見たやうな氣もするが、亡魂が祟り始めるのは大抵は時が少し經過し、人の記憶のやゝ薄くなつてからのことであり、又多くはさういふ意外でしかも有りさうなことを、言ひ出す職業の者が居たのだから致し方が無い。熊谷家傳記の筆者は、衆と共にそれを事實と信じたのみで無く、是を當時の人の自記と稱するものゝ中に、編入したといふ責任があるだけであつた。
 
(257)       津島天王と東國
 
 話のはずみでつひ此樣な問題に入つて來て、手短かに切上げることが出來なくなつたが、自分の言つて置きたかつたのは、高遠遠山間の山中の一つの細路が、以前は案外に重要な交通線であつたことゝ、それが段々と西の方の、今いふ三州街道に勢力を奪はれたことは、浪合記の一書を見たゞけでも判りさうだといふことで、それを説明しようとなると、どうしても若干の資料批判が必要になつて來るのである。限られたる地域の郷土史家に、看過されやすい二三の點を擧げて見ると、先づ最初には「ゆきよし樣」の傳説地といふものが、決して浪合と大鹿村の大河原とだけで無く、其中間の山地帶にも分布して居て、何れも往還の傍に在りながらそれを繋ぎ合せて見ても一筋の御通り路にならぬのみか、却つて車のやがらの如く八方に放散して、他のすべてのものを誤りだ作り事だと言はぬ以上、到底其中の一つを歴史として確定し難いことである。愛知縣傳説集に採録せられたものだけを見ても、この分布は東三河の山村に片よつて、尾張津島からは遠く、しかも後になつて通じたらしい新野本郷間の、いはゆる金指街道《かなざしかいだう》の上にもそれが幾つか有るのである。それから一方の三州街道の北端、伊那から筑摩へ越える鹽尻村の山間などにも、やはりユキヨシといふ地名が分布して居て、もしかゝつて調べたら、此方はまだ數を加へることゝ思ふ。即ち自然の成長に任せて置きさへすれば、もう今頃は傳説といふものゝ本質が明かになつたかも知れぬのに、なまじひに或一つのものが、あまり有名になり且固定してしまふと、却つて來由が覺りにくゝなるのである。
 強ひて史實と結び付けようとしなかつた「ゆきよし樣」の言ひ傳へが、天龍兩岸の地に斯樣に弘く分布して居たこと、是にも隱れたる原因が無くてはならぬ。今はまだ一つの想像に留まつて居るが、私だけは是もやはり尾張の津島と、關係があつたのでは無いかと思つて居る。東國の天王信仰は、後には追々に京都の祇園と混融し、社の名も八阪(258)神社と呼ぶものが多くなつて居るが、その民間に行はれて居る實?には、なほ東西各自の特色が窺はれる。第一に西では都邑にこの御社の祭が多いに反して、東の方では農村の年中行事に織り込まれ、從つて又疾疫以外、害蟲暴風などの豫防までを神コの中に算へて居る。或はこの方が原の形に近いと言へるのかも知らぬが、農民は單なる擁護の御力に信頼するに止まらず、一旦災害の兆しが現はれたと見ると、急いで神に祈願して、その配下の小神の怒りを制御せられんことを求めた。即ち神送りといふことが、東國の天王祭の一つの特徴であつたのである。それに附け加へて今一つ、御師《おし》の巡國の慣習も、京の八阪にはまだ有つたといふことを聽いて居らぬが、津島の方は是が中々盛んで、古くは室町期から江戸期の前半にかけて、此地方にも毎年のやうに入り込んで居たことが、熊谷家傳記の中にも見えて居る。外から來り侵す色々の害惡を防ぎ、村の安全を保護するのは、津島の神コの主要なるものであり、さういふ境の神は後になつて、次第に一般の行旅をも保護なされるものと信ぜられるやうになつても、なほ最初の猛く勇ましい氣質を失はずに、土地の人たちから畏敬せられるのが普通であつた。それで私はこの「ゆきよし樣」の信仰を、もとは津島の御師たちの教理から、出たものでないかと考へるのである。やゝ具體的にいふならば、紙の御幣を剪つてもらつて、祭つてから後に送つて行く一つの靈地、それをユキヨシサマといふ名でこの人たちが、呼んで居たのでは無いかと思ふのである。
 
       遠江と信濃との連絡
 
 我々の民間傳承採集が、今の?態で停止して居る限り、この點はとても斷定が出來ない。たゞ幸ひに他日斯ういふことに興味をもつ人が多くなり、又意外な方面から之を支持するやうな資料が出て來るといふ望みを私は棄てないので、試みに豫言をして見るのである。假りに永久に是が一つの空想に過ぎぬときまつても、今は睡つてゐる信州のい(259)はゆる遠山道が、諏訪からこちらの多くの山國を、太平洋の海端へ繋ぎ付ける一つの隱し路だつたことに動きは無いのである。信州の南半には、伊豆の半島との交通が幾つかの痕跡を留めて居る。是だけではまだ何處をどう通り拔けたかゞ言はれぬやうだが、遠州に對しても櫻ヶ池の地下水傳説、さては見附《みつけ》の國府の天神の爲に、凶神を退治したといふ名犬しつぺい太郎の物語のやうに、兩地で共々に語り傳へて居るものは幾つもある。この信遠二國の交渉は決して今ある三州街道を迂囘したものでは無い。所謂金指街道も亦此傳説よりは新らしいものかと思はれる。私は前に一度この路をあるいて見て居るが、大野から山吉田《やまのよしだ》を拔けて井伊谷《ゐのや》へ出る路は古くても、是は今一つの秋葉鳳來寺路と共に三河遠江を繋ぐ横の道に過ぎない。是へ國境を越えて、北から一つの路が出て來て連絡したのは新らしいかと思ふ。道路には昔から大小の二種があつた。遠くの人までが豫て知つて居て、そこを心ざして通つて行くには、自然の條件以外に歴史が無くてはならぬ。それが又我々民俗學の學徒にも無視することが許されぬのである。
 阪部熊谷家の傳記を讀んで見ても、實に色々の旅人がこの天龍川東の筋から入つて來て居る。それが何れもたゞ迷ひ込んだのでは無く、大抵は津島の御師などのやうに、一つの目的をもつて通つて行かうとして居たのである。たゞさういふ中で此家の初祖熊谷貞直といふ人のみは、京都で足利家に十三年も奉公して居たといふ關係から、海道を下つて來たやうに傳へられて居るが、其足跡は實ははつきりしない。彼は都を出るに先だつて、遠州隨一の南朝方、井伊谷道政に逢つて知音となり、其依囑によつて御一方の皇子を御預り申し、その御伴をして來たのだが、御名は承らずにしまつたなどと述べて居る。しかも秋葉の奧山に隱れ住む新田の一族、桃井刑部の保護の下に二年留まり、今も内裏といひ熊谷屋敷といふ地名がそこには殘つて居ると謂ふのだから、やはり遠州の宮方の誇りを、幽かながらも持傳へては居たのである。浪合記の中には、遠州の地侍たちが、若干はまだその忠義の名を留めて居る。それがいつと無く次々に西へ移つて、末には尾州西部、津島の大社の由緒を談るものとなつて居て、偶然ながらもこの南北の交通線の推移と並行して居るのは、私たちに取つては小さくない興味である。時勢の動きといふものは、斯ういふ世に遠(260)い山間の古道までを、その影響の外に置くことは出來なかつたのである。
 
       甲州との交通
 
 斯樣な話をし始めた私の動機の一つは、何とかしてもう一度、昔のやうな民風の觀察、即ちやゝ長期の徒歩旅行によつて、一つの道筋に殘り傳はつたものを見てあるき、今ある坪刈式調査の弱點を補ふやうな、記録を後の世に留めさせたいといふに在る。それには風物山水の奇、又歴史の聯想の豐かなものを、二つでも三つでも推薦して置くのがよいのであるが、この遠山道などは私はまだ片端しかあるいて居ない。それで煩はしいやうだがもう一つだけ、熊谷家傳記の中から引用して、この書を手にし得ない又はそれの面倒な人に受賣をして見よう。
 この熊谷家代々の主婦は、多くは隣村の舊家の娘であつた。その中でたゝ一代だけ、遠い甲州から妻を呼んだ直定といふ人がある。その因縁はやゝ珍らしく、之を世話した人は此地方で名の高い禅僧、新野の瑞光院を創立した光國和尚といふ人であつた。この僧も夙く甲州から來た人で、武田信玄の兄弟だと傳へられて居り、熊谷家の女房は二人とも、武田家の侍大將原隼人の子だと言はれて居る。二女はまだ家に居た頃に、この和尚の教化を受け、どうすれば後生は善い所に行かれませうかと尋ねたら、人に施しをするに越したことは無いと言はれた。武家は家法もあり又餘力も乏しく、とても思ふやうな施しはして居られない。それでは農家に縁付いて自分の丹精で人に與へるものを殘すことにしたいと思ひますといふと、それならばと遙々この天龍川の峽谷まで連れて來られたといふのは、隨分思ひ切つた嫁入だと思はれるが、それには禅師にもやゝ心積りがあつたのであらう。實は此地方は良家が少なくて、幾分か縁組の六つかしい處だつた。戰國の武家心理をよく知つた上で無いと、二女の心持は測り知り難いが、ともかくも姉が亡くなつて妹の不縁になつて還つて居たのを後妻に据ゑ、七十八歳で世を去るまで、終に聟入り即ち妻の父との對(261)面をせずにしまつたと謂ふのは、ちよつと珍らしい縁組である。
 この二人の女性は無論高遠から、遠山道を通つて遣つて來たにちがひない。老いたる禅僧と二三人の伴人に守護せられて、山の奧へ歩んで來た若々しい姉妹の姿が、繪にもなりさうな幻しを誘ふのである。この直定といふ人は全體に變つた經歴の人で、武藏の熊谷にもわざ/\尋ねて行つて居る。母親には産の床で死に別れ、それが原因の一つになつて、父は三十六歳で家出をしてしまつた。さうしてこの父といふのも亦甲州に行つて居るのである。最初は武田家に奉公をして居たのだが、後に事件があつて田野の桂コ院に入つて僧になつてしまつた。息子が逢ひに行つても僧には子は無いと謂つて、終に面會を許さなかつたが、後に勝頼の生害の日、その首と家寶とを抱へて、池に飛び込んで死んだといふ噂が聽えた。年は其時に百幾歳かであつたといふのは、あまりにも奇拔な話であるが、ただ言ひ傳へだから穿鑿は或程度までゞよからう。ともかくもこの人もやはり問題の遠山路をあるいて出て行つたのである。武田信玄が大兵力を以て天龍兩岸の地頭たちを威壓し、險阻も無く要害も無く平押しに押し通つた時代まで、なほ一方には斯ういふ山あひの細道が、僧俗さま/”\の旅人によつて利用せられて居た。一つには古來の習はしといふこともあつたらうが、なほ斯ういふ平和の谷を擇んで、山路の登り降りを苦にしない者が多かつたのである。甲府は小さな盆地の底のやうに、世間からは考へられがちだが、武田氏の武威が周邊に伸びて行くにつれて、一時は近世の江戸東京のやうに、爰を文化の一中心として、遠く想望の眼を馳せる者が、なほ久しくこの山中の路を不用にしなかつたのかと思はれる。
 
       中世以前の旅行組織
 
 紀行や繪卷物に描き出されて居る交通路は、昔からほんの僅かなものだつたに反して、多かれ少なかれ其路の傍に、(262)人が家居して居らぬ部分といふものは、本來は少なかつた筈である。一つには成るだけ村里の開けた處を、少しは曲りつゝも繋いで行かうとしたのでもあらうが、あるいて居るうちには自然に餘地を見出し又は思はぬ生活の便宜に心づいて、土着してしまふ者も多かつたのである。素より旅人の數の増減と共に、村が盛衰するといふことはあつたが、この最後に踏み留まつた者とても、やはり旅行によつてその土地のねうちを學んだといふのが少なくは無かつたらう。さうして其道路が長ければ、自然に遠い處から來て落ち着く者が多いといふことも、すでに我々は天龍川峽谷に於て實驗して居る。
 次に考へられるのは、地方の同化力、一つの地域に於ては民俗が大體に相似し、少し離れるとすぐに又ちがつて來るといふことは、今までは當然さもあるべきことのやうに輕く視られて來たが、村の年齡なり系統なりが色々であつた以上は、其理由は説明が無くては判らないのであつた。模倣や曲從も或一つの生活樣式が有力になつてから後のことである。さうして之を有力ならしめる原因は、特に或一門の比例を超えた繁延と、それを可能ならしめる新しい縁組とであつて、是も普通には一つの交通線の上に於て、やゝ容易に行はれ得たかと思はれる。日本にはカラパンの組織は無かつたけれども、大きな旅行群では人を使つて、假屋を作りつゝ何處にでも宿つてあるくことが出來た。たゞ小規模で質素なる旅人たちは、旅舍や茶店の無い路筋では、此點に可なり困つて居た。旅客款待の美コが我邦に發達し又維持せられたのも、一つには此經驗に養はれた弘い相互主義だつたかも知らぬが、なほ其以上に一つの通路の傍に居て、?同じ筋を往來する者の間には、得意とか村親類とかの名をもつた一種の組織が出來て居たやうで、それが又一商業發達期の、得意もしくは問屋といふものゝ根源をなすと共に、一方には又意外なほどの遠方の土地と、縁組をする端緒にもなつたかと思ふ。村と村との交渉は平地部では複雜して居て、之を系統立てることは容易で無いが、山の間ならば今でもまだ尋ね溯つて見ることが出來る。乃ち民俗の地域單位といふものは、地圖で考へるやうなまん丸な塊では無くて、寧ろ細長い路筋を以て伸びて居るらしいのである。近年の交通發達は無論大きな粉亂を與へては(263)居る。たゞ古くからあつたものの中には、汽車や自動車道に乘り取られて、たゞ停滯と衰微の?を呈して居るものが少なくない。斯ういふものこそは今のうちに、細かくあるいて觀察して置く必要があるのである。
 
       江戸以前の東國
 
 東京周圍の田舍などは、近世の動搖を最も強く受けた地方であるが、それでもまだ丘陵の間に挾まつて、中世の交通路の痕跡が次第に見出されるものが少なくは無い。たとへば鎌倉のまだ衰へてしまはなかつた時代に、そこを目ざして東國の各地から、近よつて來た路筋は見出し得られる。その重要なものは境川の流れにからんで、股野飯田澁谷深見といふ風に北進するもので、それが町田のあたりで甲州路に分れ、右に折れて府中久米川と、ちやうど眞字本の曾我物語にあるやうに、武藏の西部を上州へ通つて居る。是が信越北陸の廣い沃土を、覇府と結び付ける一つの幹線であつたのだが、その路筋は埋もれてしまはず、しかも今日の路とも同じでは無いのである。
 それからもう一つ、小田原北條氏の盛りの頃に、東部武藏の方へ出て行く一筋の路があつたやうに思ふ。是は海沿ひを押して行き、又は川越まで出てから東へ轉ずることもあつたらうが、急ぎの使者などの小人數であるく者には、別にこの中間の丘を越える近路があつた筈である。戰前自分が毎週のやうに、南多摩郡の村里を見てまはつて居た頃には、どうやら其痕跡がほゞ見付かつたやうな氣がして居た。書いたものには斯ういふ誰でも知つて居ることは載せず、土地の故老も今では全く覺えて居ないのだから、やはり何度と無く氣永にあるいて居て、自然に判つて來るより他は無いのである。それもたゞ平坦なる原野の間などならば切れたり畠になつたりして不明にもならうが、迫問とか山のたわみのやうな地形の制限の有るところでは、言はゞ自然が之を指定するのである。滅びてしまはうとしても許されない。たゞ遠くから來る人が之を省みなくなるだけである。この頃になつて氣がついたことは、足利時代の僧傳(264)は存外によく傳はつて居る。關東地方にも逞ましい禅宗の碩コなどで、一生に幾つもの大寺を創立して、始終その間を往來した者が少なくない。さういふ寺の地の選定には、やはり當時の交通が干與し、無やみに入り込んだ山の奧でも無く、又念佛の道場のやうな人里のまん中でも無い。つまりはさういふ寺々を繋いで見ても、大よそ此邊を街道が通つて居たといふ、見當だけは付くのである。斯んな山の蔭にどうして出來たかと思ふやうな家並み、殊に或種の部落などは、さう十分な土地選定を許されず、僅かな便宜によつてやゝかけ離れた處に住み、しかも公路からはあまり遠ざかつて居ないものが多く、又比較的永く忍耐して居る。現在はまだ想像の域を脱しないけれども、この種の經驗を積んで行くうちには、やがては幾つかの標準に依つて、未だ知られざる昔の通路でも、確認することが出來るやうになると思ふ。さうすれば將來の徒歩旅行者の樂しみは、又一段と豐かになるわけである。
 たゞ私などの窃かに氣遣つて居ることは、今度の疎開で又大きな混合が起り、前から有つたといふ系統のやゝ尋ねられるものが、愈々埋没の機會を多くして居ることであるが、それが私の列記したやうな山間の古道にまで波動を及ぼすにはまだ若干の年月を要するであらう。人に祖先の生活を顧念するだけの餘裕と、歴史の未知世界が今も中々弘く、それは又追々に闡明する方法が有るといふ經驗を養つて行くことが、子孫の幸福の爲に必要であると思ふ。民俗學の同志たちはこの爲に今まで働いて來た。是からも亦事情の許す限り、同じ態度を續けて行くことゝ信ずる。
 
 この一文は終戰の少し前に、東國風土記といふ本の中に、入れるつもりで書いたのが不用になつて、久しく机の引出しにしまつてあつたのである。地圖を相手に少し綿密に讀んで見れば、わからぬといふ程の專門の研究でも無い。主たる目的は民俗學の方法を人文地理に應用するに在つた。
 
(265)   豆の葉と太陽
 
(267)     自序
 
 茲に私が旅と謂つて居るのは、上代の旅でも無く、又最近の旅行でも無い。日本の旅行道は、少なくとも三段の變遷を重ねて居る。さうして私はその中間のものしか知らぬのである。人を遠方まで運んで行く能力のたくましさ、もしくは一度に乘り越える距離の長さなどでは、今日の實?は我々の祖先の夢想を超越して居るが、其代りには旅があまりに大きな事業になつた爲に、心のゆとりが無く、靜かに道の行く手のものを、味はつて行くといふことが望めなくなつた。初期の旅客には又之に反して、氣を重くするやうなもどかしさがあつた。食料や寢床の携へて行かれぬものゝ爲に、毎日の調達を心掛けねばならなかつた。タビは給へであり、交易を求むる聲であつたかと、私などは想像して居る。風景が彼等の親しい友でなかつたことは明かである。我々がちやうどこのまん中の、最も氣樂な時世に生れ合せ、囚はれざる山水の品評を許されたといふことは、或は後代からふりかへつて見て、うまいことをして居たといふことになるのかも知れぬ。假にさうだとするとこの一卷の文集が、あまりにも貧しい報謝のわざであつたことを愧るの他は無いのである。
 古い文藝を讀んで見ると、つらいわびしい心細いものが、旅であつたといふことを宣明せぬものは殆と無い。私は古人を信じ、しかも世情の變轉を學ぶことが疎かであつた故に、是ならさほどでも無いぢやないかと、頗る人生の行路難を、見くびるやうな自信を抱いて居た。今になつて心づくことは、あんな黄金時代は前にも後にも、さう長くは續かなかつたのである。たとへば厚く刺したわらじ足袋に、新らしい草鞋のはき心地、あれが早朝の山道に少し濕つて、足の裏を輕く押す感じなどは、曾て私に取つては旅の一つの要素であつた。大地を踏みしめて一歩毎に、移り動いて行く風景を觀たといふ記憶は、いつでもこの卑近な觸覺を伴なうて居る。斯うした足ご(268)しらへは、岩根をふみ茨からたちを掻分けたといふ古い世には無かつた。昔の旅人の足は血にあえるか、さうでなければマメとタコとに充ちて居たのである。今日の所謂颯爽たるハイカアたちも、恐らくは亦この趣きは知るまい。第一にごむ底は摩擦で燒ける。草鞋はぐさ/\で、しかももう賣つて居る家が見つからない。
 旅を逍遙と最も近いものに、したいといふのが我々の久しい志であつた。この念願は今や鐵路の御蔭で、容易に成就するやうになつたのだけれども、不幸なことには日本人の孤獨ぎらひが、やゝ滑稽な點まで強調せられて居る。人はがや/\と渡り鳥の群の如く、町や食べものゝ話をしながら山阪をくたびれまはつて居る。自然は斯ういふ群に向つて、たゞ有りふれた型しか示さないのは當然で、たまさかに美しい閃めきを見せたにしても、實は淋しい者でないと、是を後の世には傳へ得ないのである。野外で感じ又は考へなければならぬことは、いつまでも取殘されて居るのである。それが些々たる片隅の風景に關する限りは、或は他人の辭を借りて之を説くことも出來るか知らぬが、一方には既に雲山萬里の空の旅も始まつて居る。海と曠野との大きな調和を、考へて見なければならぬ國民が、是ではまだ隱れたる自然の意義を、釋くべき手掛りを得たことにはならぬのである。この意味からすると、日本の旅行道は衰へたと謂つてもよい。だからあの短い過渡期の幸運に惠まれた者は、各その經驗を傾けて世に遺す義理があつた。私などの粗漏と忘却とは、反省して見ると眞に罪が深い。
 しかし誰しもこの樣に迅速に、世相は改まるものとも思はなかつたのである。自分が得た印象は再び時を隔てて、次の人にも與へられるものと豫期して居たのである。そんな事はめつたに無いといふことが、つひ此頃になつて私にもわかつた。私は好んで古人の旅の歌を誦したが、あの有名な「命なりけり小夜の中山」といふ一章が、どうして人の心を動かすかを説明することが出來ずに居た。昭和十一年の春の旅に、薩摩の海門嶽の麓を二度目に通つて、三十年前の通路が見分け難いほど、改良せられて居るのに喫驚した。還つて來てその話を病弟に聽かせようとすると、うん海門はいゝ山だよと謂つただけで、目を閉ぢて多く語らなかつた。この弟が海軍の船に乘(269)つて、何度と無くあの御嶽の外を通つたことは、私でさへも間接に記憶して居る。病んで疲れて再び訪らふ折の無いことを知ると、寧ろこま/”\とその印象を説くに堪へなかつたのである。さうして私が同じ年の秋に、偶然に三たびこの山下を過ぎた日には、彼は既に世を去つてたゞ僅かな幻想だけが殘つて居た。兄弟二人が一生のうちに、幾度か一つの御嶽の秀でたる峯を仰いで、その神々しさに心を打たれた場合ですらも、それを語りかはす日は無くして、永く別れてしまはなければならぬ例もあつたのである。國土山川の色樣々の美しさと、旅する者の新たなる情感との、遭遇こそはまことに稀有である。萬人が立ち替り入り替り、あしたゆふべに之と向き合つて居るといふことを以て、自然の常在を信ずることは出來ない。もしも私が茲に自分の體驗をたど/\しく説かうとしなかつたら、或日の發見は永久にくりかへされぬかも知れぬ。まして今日は變り過ぎるまでに變らうとしで居る。そのもう一つ前を述べようとするのだから、是はたゞ單なる詠歎の書ではないのである。
                             (昭和十五年十一月)
 
(271)       豆の葉と太陽
 
 何度か東北地方もあるいて見たが、日本海側は暮春初夏、嶺から東の北上川水域の風光は、初秋の今時分が最も佳いと思ふ。今までそれを説く人があまり無かつたのは、田でも畠でもはた事務室でも、ちやうど仕事が段々と面白く、又忙はしくもなつて來る季節だからで、さうすると又私のやうな境涯に居る者が、靜かに旅を談ずるによい時だとも言へる。この頃東京の郊外では、毎日秋風がそよ/\と吹いて、空には雲が白く流れて居る。それを見ながら獨り窓に凭つて居ると、以前の色々の旅行が眼に浮んで來るが、其中でも殊に忘れ難い一つは、奧南部《おくなんぶ》の大豆畠の風光であつた。
 今から精確に二年前、鹿角《かづの》郡の花輪で汽車と別れて、やがて旅客から見棄てらるべき折壁の山道を、記念の爲に越えて見たことがある。最初の日は小豆澤《あづきさは》の大日さまに詣つて、昔の蜻蛉長者《だんぶりちやうじや》の榮華の迹を訪ひ、湯瀬の川岸の湯宿に行つて寢た。最近に兼常清佐君の民謠採集によつて、多くの新人に注意せられた湯瀬であるが、實は同君よりも百四十年程前に、誰にも氣づかれずにそつと來て泊つて行つた一旅客があつて、既に此地を忘れ難きものにして居るのであつた。秋田では後に菅江眞澄の名を以て知られ、東北旅行家の第一位に推さるべき人であるが、此時はまだ三十二歳の、白井秀雄といふ貧しい遊歴文士であつた。其足跡を今頻りに我々が尋ねて居るのである。
 眞澄は天明五年の舊九月の三日、まだ星の多い曉天に此宿の湯舟に身を浸して、急いで支度をして折壁の關所を越えた。路銀はもう遣ひ果したから、町へ出たならばこの着て居る衣類を一枚賣るべしと、考へながらあるいたといふ(272)ことが日記には書いてある。其時分は順路は勿論田山の町を通つて居た。
 今ある新道は其町をずつと左の山手に見て、眞直ぐに何とか新田といふ縣境の小村を拔けて行くのである。私は小坂の鑛山を出て來たといふ若い鑛夫の、夫婦づれの自動車に便乘して、この路を荒屋新町の汽車の終點に向つたのである。
 縣境を越えてから、始めて此峠路の相應に登つて居たことを知つた。新道も可なりの降りで、人家の無い畷《なはて》のやうな路を長く走つた。荒屋の驛に著いて見ると、そこいらの物が何でもかでも新らしい、茶屋の女の顔までがペンキ塗りだ。さうして我々の眞澄は此道は通らなかつたのである。それで私は汽車の煙を見ながら、又引返して今度は淨法寺から福岡の方へ出た。
 二戸郡は上流まで案外によく開けて居る。曾て南部藩の主要なる財源であつた大豆が、今でも廣々と栽培せられ、その豆畑の上を秋の日がよく照つて居た。盆地の兩側の小山の根に村があつて、村々の樹は多くは喬木である。それほど古くから人がこの寒地に入つて住むことになつたのも、無論水筋に附いて溯つたからであらうが、さてその流れはと見ると音も立てずに、小さくなつて大豆畠の間を流れて居る。東北の風景の著しい特徴は、斯ういふ水筋に堤といふものゝ無いことである。さうして此邊りでは川楊が完全に繁茂して、一望果も無く川の流れを挾んで列つて居るのである。
 風も大よそは此流れの通りに吹いて居るやうに思はれた。見て居るうちにその川楊の葉が飜つて、どこ迄も白々とした一色になるかと思ふと、やがて風が休むと又もとの緑色の一筋に戻る。その變化が兩岸の大豆畠の、黄いろな中に於て殊に美しく私の目に映じた。關東の山村にも大豆はよく作つて居るが、葉が枯れてしまつても久しく殘つて居るので、鮮かな色彩を見ることは稀である。奧州では桑でも山の木でも、一度に色づいて瞬くうちに散つてしまふから、其變化が強い印象を與へる。其中でも大豆は葉が薄く透いて居るやうで、それが畠の黒い土の上に搖いで居る風(273)情は、全く風と日光との遊びといふ感じがした。以前に上閉伊の海沿ひの村でも、まだ少しばかり緑色の殘つた豆畠の中をあるいて見たことがあるが、あの邊の農夫は、其畠の境目に赤い百合を植ゑて居た。わざと斯うして美しがらせるのでは無いかと思ふやうであつた。
 ところが今日の風景鑑賞家なるものは、妙に農作物の色調には無關心で、それを又多くの案内者たちも承知して居る。原因は多分從來の文學に、之を感謝する語が見つからなかつたからであらうと思ふ。農民は流石に率直にこの美しさは感じて居たが、彼等は又多數の同輩と其感を共にする故に、くだ/\しく光景を敍する必要を持たなかつたやうである。私はたゞ一人、この二戸の大豆畠の中を通つて居る際に、圖らずも奧州の盆踊歌の、次のやうな文句を思ひ出したが、それは何の集に出て居たかを記憶しない。
   秋風が吹けばいの
   豆の葉が散るわいの
今でもこの歌を歌つて踊つて居る村があるかどうか、それも私は知らぬのであるが、兎も角も非常に感動の深い盆踊歌であることだけはわかつた。この簡單なる十數語の中に、今夕踊らずんばといふ強い意欲と、歡樂極まつて哀情多しといふ、史詩の歎きとが含まれて居る。江戸では近い頃まで若い娘たちが、それをもう少し心輕く且つ花やかに歌つて居た。
   盆盆とても
   けふあすばかり
   あさつては嫁の萎れ草
斯ういふ形式の踊をすゝめる歌はもとは多かつた。又一年後の次の踊の夜まで、果してこの若さが續くかどうかわからない。だから大に踊るべしといふ趣旨は、どれもこれも皆同じだが、東北の青年男女は、この豆の葉の散つてから(274)の、永い寂しさを胸に描いて居たのである。盆の秋風はもう少し肌寒くなると、あの美しい大豆畠の黄金色を、僅か一夜か二夜のうちに消してしまふ。それから又退屈な冬が後に續いて來る。さう思つて見ることが彼等の盆の悦びを痛切にし、更に又この晴々した秋の空を、懷かしいものにしたことであらうと思ふ。しかも私などは偶然に二度も三度も、さういふ季節に東北の旅をして居るが、普通は遠國の者にはその機會が無く、從うてこの盆踊のペソスを解しなかつたのである。菅江眞澄の旅の日記を讀んで見ると、田山から梨木峠を越えて次の晩は、鹿の頻りに鳴く曲田《まがた》といふ宿に泊つた。次の日は淨法寺を通つて桂清水《かつらしみづ》の觀音を拜み、金葛《かなくづ》といふ村のあばら屋に一泊して居る。其翌日は末の松山を見物して、わざと一戸《いちのへ》には泊らずに、小澤といふ寒村に宿を求めたといふのは、恐らくはその旅の衣を、まだ賣ることが出來なかつたからであらう。夕食は粟の飯に、鹽漬の桃の實を副へて食つたとも書いてある。東北はちやうどひどい天明の大飢饉の後であつて、殊に農村の生活が荒びて居た。路々物悲しい歌と記事とは多いが、時は既に舊九月の始めの頃で、もうその豆の葉も散つて居たと見えて、眞澄の紀行には私が見て通つたやうな、大豆畠の風光は一語も之を説いて居ないのである。
 
       海に沿ひて行く
 
          一
 
 若夏の美しい空の光を望みつゝ、斯うして毎日の土埃に惱まされて居る。折々は旅の話をしてなりとも、小さな休息を得て見たいと思ふ午後がある。旅は全くよいものだ。殊にやゝ時過ぎてから、之を想ひ出すのが快樂である。
 しかし思ひの外あるけぬものである。自分などは閑人の方で、いつでも出てあるく算段ばかりして居たが、今なほ往つて見たいと思つて見殘して居る方面が國内にも多い。其上に見たこと迄も忘れる。或は見ようともしないで只通つてしまつた處がある。地圖の上の道路ばかり赤くなつて居て、休んだ家の名も記憶せぬことがある。さうして手帖は箱の底に睡つて居る。
 最初は峠の道の登り降りに深い興味を持つたことがある。頂上に辿り付いた時のうれしさは、アルピニストの感ずるものよりも小さいか知らぬが、表と裏とで全然一變する土地の氣分、水の流れと共に次第に豐かになつて行く人間味、路で行逢ふ者の次々の變化などが、譬へば上手の筆に成る畫卷のやうで、一卷毎に面白さが加はつて行くかと思はれた。全體日本には幾つぐらゐ峠があるものか算へてみようと、空な野望を抱いて見たこともあつたが、滋賀縣だけでも縣界の峠が五十近くあることを知つて、早速に斷念してしまつた。
 峠は恐らくは日本國の旅人の厄難であつたと同時に、又一つの特權であらう。峠で無かつたら特に登つて見る因縁(276)も無さゝうな山々にあがつて、休んで花を見又雲を見ることが出來るのである。僅か半日の歩行を以て、全然別樣なる二つの境涯を、續けて味つて見ることも其御蔭で出來る。大陸の田舍などにはとても無いやうな、小さな村が獨立して一つ/\の谷に在るのを、山道が繋いで居る爲に、入つて見る口實も出來るのである。
 汽車の隧道が飛んでも無い處を突破つて行くたびに、一つづゝ好い峠が失はれるやうに思はれた。そんな場合には勉強して開通前に、成るべくは一度越えて置くやうにする。木曾路の鳥居峠などは、御嶽の遙拜所があつて、棄てゝしまふには惜しい風景であるが、もう之を顧みる人も有りさうに無い。陸前鳴子の中山越は、芭蕉も通れば辨慶も通つた、鳥の多い明るい歴史的の峠路であるが、汽車が出來た以上は乞食でも乘るだらうと思ふ。
 それでもまだ此等は名前ぐらゐは記憶せられる。みじめなのは不用になつたその隣の谷の峠である。山道は荒れ易いから、奧はすぐに草に閉される。今に案内する者までが得られなくなるに相異ない。
 
          二
 
 諸君の旅行趣味が早く變化して、斯う云ふ風景に向つて巡禮する時代の、來るのを待つより他は無い。鐵道の人たちが今少し考へ深くなつて、往復切符の萬能を信じなくなる日を待つより他は無い。同じ長路を戻つて來るのにうんざりして、我々の旅の興がどの位阻まれて居るか。必ずしも自動車乘合馬車の便は無くとも、山を越えたら新しい線路があつて、そこ迄出るのが遠足ほどの距離であることを知り、どんな方法でなりとも手荷物の始末が出來るやうだつたら、きつと多くの小さな停車場までが繁昌するのだが、此節の鐵道地圖などは線路ばかりをいやに太く書いて、其周圍には山を屏風の如く立て列べ、まるで行拔け無用の賠札をする考へとも思はれる。其爲に村々の旅人が一層少なくなつて、片田舍と云ふものが却つて日本には増加したやうに感ぜられる。
 西洋人には旅行と謂ふと、外國へ出ることだと思つて居る者が多い。轉地はよくするやうだが、國の内を次から次(277)へと遊んであるくことが少ない。之に反して日本の汽車の客は、いつでも三分一ばかりは用事も無ささうな旅人である。海外へ出るのが六つかしいからである。斯うした人々にもつと行く處があつたらと思ひ、又實際顧みられぬ隅々の多いことを考へると、折角の好い島に住む我々の幸福にも、まだ割引があることを感ずる。都會をゆかしがる村の人は別として、我々にはどう考へても所謂名所舊蹟の人だかりは閉口だ。季節と謂ふと乘物は込む。宿屋は一杯でやつと泊つても、風呂や便所で辛抱のしつゞけだ。單に旅行の爲の旅行ならば、止めて考へて居た方がよつぽど好い。如何に客商賣同士だからとて、鐵道までが通謀して、滿員客止の程度に迄、名所に人を呼ぶとはどうしたものか。
 
          三
 
 鐵道が世話を燒いて新しい旅をさせてくれる方面は、まだ幾らでも殘つて居る。實際この交通機關が無かつたら、西行や宗祇のやうに殆と生涯の半以上を、費銷してしまはねばならぬ程の大計畫を、今では安々と立て得るのみか、いつでも途中で切上げて何度にも分けて行くことも出來るのである。さうして此島國には地理の本にも紀行にも、ちつとも見えて居らぬ好い山水が、到る處に旅人を待つて居る。自分は峠の巡禮が完成の見込が立たなくなつた頃から、ぽつ/\と全國の濱づたひを始めて居る。此方は鐵道の利便に助けられて、容易に一巡ぐらゐは出來さうに思ふが、やつぱり人の氣づかぬ若干の苦勞がある。但しその苦情を述べ立てゝ居ても何にもならぬ。それよりも先づ少しの經驗から、斯う云ふ閑靜な方面の行脚にも意味があることを談つて、出來るならば此迄に發逢した我邦の旅行藝術の衰頽を防いで見たい。
 東京近くの海岸線は、實はまだ知らぬ部分が大分に有る。安房と三浦と伊豆との三半島は、何れも突端三四里ほど、いつでも行かれると云ふ考へから殘してある。常陸でも鹿島の外海に見ない場所が少しあつた。平潟から小名濱まで、磐城でも汽車から遠ざかつた阿武隈河口一帶が、今尚一向に不案内であるが、四五年前の大きな旅行に、あれから北(278)はよほどあるいて見た。併し鹽竈・松島から金華山の鼻までは、所謂遊覽客の領分であるから、自分が説く必要もあるまい。尤も此間にも日を限つた旅の人に、顧みられぬ幾つかの島があつて、ほんの附近の者にしか消息が知られて居らぬが、それよりもなほ驚くのは、萬石浦《まんごくうら》・女川灣《をながはわん》以北の海の渚が、我々の生活から隔絶して居ることである。單に靜かで山の影が美しいといふのみで無い。天然は更に一般に豐かで、之に誘はれて商人などは入つて居る。古くは武士といふ階級の者までが、土著して割據の平和を樂しんだ證跡は有るのだが、何分にも田が少なく後の山が高く、一言で謂へば世間から用が無い。無口で考への少ない船方ばかりが、黙つて出入をして海の側から聯絡を保つて居る。鐵道本位の陸地の交通から見ると、削つて棄てる芋の皮のやうな地方であつた。北上川の大なる統一力が、ほゞ其流と併行した東海岸一帶と競爭して、之を威壓し又無視したのも久しい昔からのことらしく、文化の進みにおくれ易い種族は、寧ろ其放任を幸ひとして澤山に住んで居たやうで、古い生活を研究する學者の爲に、遺跡が皆そつとして遺してある。さうして普通にはまだ餘計な名所舊蹟が、目まぐろしく出現しては居らぬのである。
 
          四
 
 舊藩時代の風土記などを見ても、此方面を輕く取扱つて居たことは爭はれぬ。課税を免れる迄には氣樂でも無かつたか知らぬが、中央の役人などは今日も同樣に、めつたには入つて來ないで、仕來りの支配力を攪亂することが少なかつたと見える。それでも御奉行の通る路が一筋だけはあつて、志津川から氣仙沼《けせんぬま》、氣仙沼から高田今泉と、少しづつの文化は運ばれて居たのだが、其交通は單に町場を繋ぐ爲のもので、路から外の磯山の鼻、それに圍はれた小さな澗《ま》などは、いつも所謂浮世の外であつた。その永年の寂寥が沈澱して居るとでも謂はうか、時代が新しくなつたからとて、急に我々の生活に馳せ加はることも出來ぬやうに感ぜられる。
 併し旅人の方から之に近づくことは、今はもう何でも無い。我々が京大阪の郊外を逍遙するやうな心持を以て、朝(279)出て暮に戻る見物の方法が、あらかたは具はつて居る。唯因縁がまだ熟せぬ故に、いつ迄も物遠く眺められて居るだけである。自分は繁華な氣仙沼の湊町を足掛りにして、あの附近の變化多き海端を見てあるいた。灣の對岸の大島は全國多數の大島の中でも、殊に土著の古いものゝ一つで、平地の表面は全部人間の手で整理せられて居る。しかも記録文書からは超越した、平穩無事なる農村であつた。最近になつて自然科學の研究者が、手を著けねばならぬ仕事を發見したさうだが、それよりも一段早く入込んで居た新文化は、遠い外國の宗教であつた。島の北部には高い峯があつて、參差たる山と海との風光を總攬する。東面には又僅かの水を隔てゝ、唐桑《からくは》の御崎が靡き横はる。松ののび/\と生長した岡であつて、突端には此地方の信仰の一中心、尾崎明神の社がある。廣い境内の松林は絶壁の上に臨み、自分の參拜した八月半ばに、杜若《かきつばた》や透し百合が海を背景として一面に咲いて居た。此半島もよく開けて居るが、北へ進むほどづゝ山が高く迫り村が遠くなつて、一番人けの少ない部分に至つて、宮城縣は終つてゐるのである。
 
          五
 
 氣仙郡は山で圍はれた別天地である。幾つかの小さな入海が、奧の行止まりに谷川の流れを迎へて、人の住む平野を成長させようとして居る。前年築港の計畫を立てゝ、始めて世間に名乘り出した大船渡《おほふなと》灣は、言はゞこの水陸の協同の、最も六つかしかつた入海である。即ち左右の岩山が土を惜んで、濱を作ることを許さなかつた爲に、港になるだけの水深が保たれて居たのである。之と反對にもう一つの南の廣田灣では、廣々として遠淺が多く、貝や鰻を産し干拓が計畫せられ、船の出入が不便になる。斯ういふ事情の丸でちがつた二つの水面を、廣田の半島が突出して區劃してゐるのである。さうしてその附け根のたしか細越とか謂つた僅かな丘陵が、切通しになつて雙方を聯絡し、其邊が大昔の人の骨などの多く出る古跡であつた。此半島には殊に貝塚が多い。珍しく温暖な土地であつて、椿は老木が幾らもあり、此節は又南の方から、甘藷の種を取寄せて栽培し、以前奧州では得にくかつたものを、常食と爲し得る(280)迄に生産して居る。
 蛇ヶ崎の奇景だけは早くから人に知られて居た。今は古松も多く伐られたが、底知れぬ潭《ふち》の潮が、なほ凄慘の色を漲らしめて居る。外洋に面した濱は、天然が如何にも荒く、永久に世に埋れた漂流漂着の話も稀ならず、誰にも讀み得なかつた外國字の書物などが殘り、曾て海上に於て潜かに小豆と貿易して來たと云ふ寶物が、箱を開いて見れば實は麥酒の空瓶であつたなどといふ逸事もある。しかも新文明は少なくも外形だけは、えらい速力を以て入つて居るのである。水流が乏しい爲に臼場などに電氣を使用して居るかと思ふと、一方にはまだ月の中の兎が持つやうな、棒の杵も用ゐられて居る。さうかと思ふと地唐臼もある。燈火なども魚油を使はぬ家は、多くはもう電燈を引いて居るが、近い頃松を燃して居た土器の松明皿《たいまつざら》もまだ壞れず、家の隅に殘してある。穴のあいた古鍋などの同じ目的に用ゐられたものが其儘ある。
 新舊の交錯は此邊に來れば興味がある。乘合自動車で飛んで來ては、峠を見かけて草鞋をはかねばならぬやうな、色々な變化を海邊の旅では經驗する。大船渡の灣内には浚渫用の發動船が來て働いて居るのに、其近くには無細工な丸木船がまだ幾つか殘つて居て、實際に用ゐられて居るらしかつた。奧州地方の當世の姿には、全體に斯う云ふ調子がある。意外に文明が進んで居ると謂ふのも事實、又意外に開けないと謂ふのも事實である。斯う云ふ二色の分子が、必ずしも相融和せずに、隣を接して並び存して居る。此から北へ進むに從つて、其感じが益強くなる。地方の沿革を考へて行くと、それにも相應な理由があることのやうである。
 
(281)       空から見た東北
 
          一
 
 飛行機の中では風とプロペラの音が高くて、叫ばなければ何の話も出來ない。是が缺點といへば或は缺點でもあらうが、假に頸を抱へ手を執つて耳語する程の親友が乘つて居たところで、私の感想談などは餘りに氣樂だ。そんな話は後で聽かうよと言つて、きつと耳を藉さなかつたに相違ない。雁や椋鳥なんかは如何して居るか知らぬが、實は斯んな話こそ後で聽かれては面白味が無くなるのだ。どうせ一緒に飛ぶならもう少しのん氣に話が出來るやうに、機械の音よりも先づ空中旅行の氣持を改良する必要があると思ふ。
 津輕の海峽をついと飛び越えて、三厩《みうまや》の鼻に差掛かつて最初に目に附いたのは、沿岸の漁師たちが海を經略すべく、次から次へと張り渡した建網《たてあみ》の光景であつた。繪や模型の説明では今までよく呑込めなかつた。高い處で見るから接近し過ぎて居る樣だが、是でも二十町ばかりも間隔があるのであらう。濱と直角に百間以上の網が、沖に向つて一直線に突き出して居る。内外いづれの側からでも此網に近づいて來た魚群が、驚いて沖へ出ようとして網に沿うて進んで行くと、結局は入つてしまはねばならぬ樣に、一方を大きな袋で圍うてある。全體の形を上から見ると、ちやうど赤?《あかえひ》といふ魚に似て居て尾の部分がずつと長い。誰が考へ出したか大規模な餘裕のある、しかも相手の癖と弱點とを見窮めた、實に怖ろしいやうな智慧である。網は昔から曳くものときまつて居た。其爲には多くの網子《あご》の手を調へる(282)必要がある。從つて人氣の少ない北海の荒濱などで、餘分の生産を擧げ得る作業では無かつたのである。蝦夷を現代の北海道に進化させた力としては、開拓使もあり又米國の農學者もあらうが、それよりも以前に人間の智慧を以て、斯うして資本を勞力に代位せしめんとした、隱れたる營みがあつた故に、今に至るまで所謂遺利を拾ひに入込む者ばかりが、移民以上に取囃さるゝ土地柄を作り上げたのである。
 
          二
 
 私は是が北方開發史の第一頁だなと、獨りで高い處で感奮して居た。この建網が津輕の荒海を越えて、次第に蝦夷地東西の各場所に擴げられる迄には、勿論實驗と工夫との幾つかの改良が積重なつたであらうが、兎に角に始めて斯ういふ大袈裟な魚の穽《わな》、待つて居て皆捕るといふ設計をした人は記念碑ものだ。干鰯《ほしか》が稻を肥し、魚燈が村を明るくした原動力も是から出て居る。文化の次の樣式を意外なものとした點では、世界の如何なる發明にも讓る所は無い。たとへ魚の爲にはとんでも無い迷惑であらうとも、是非とも其功績は録せられねばならぬ、などゝ下らぬことを考へながら私は飛んで居たのであつた。
 ところが其次の日、牡鹿半島を一周して、渡波《わたのは》から北上川口の舊遊地の空に向はうとする時に、私は又新たなる一つの見聞を弘めたのである。十何年も前から干拓事業の問題となり、陸と謂はうか水面と謂はうか、どちらも通用しさうな萬石浦の遠淺に、やはり此の赤?式の建網が、殆と隙間も無く張られて居る。それから更に進んで遠田郡の水澤地、何の爲に斯んなものがあるかを、今まで考へても見なかつた大小の沼にも、依然として青森灣頭で見たものと、同じ形の建網が用ゐられて居るのであつた。鮒か鯉の子か何を捕る爲かは知らぬが、少なくとも此地方の漁業は進取的では無い。人の手から言つても、わざ/\是だけの面倒をかけて、儉約しなければならぬ程に不足はして居ない。新たに北方の漁法を模倣する迄の、必要は無かつたにきまつて居る。さうすると爰では慣習の惰性、前から遣つて居(283)るから今でも續けて居るといふ以上に、説明のしやうも無い建網である。自分等がまだ知らなかつたといふばかりで、曾ては海から離れた平野の湖水にも、もう此發明の恩惠を受ける者が、住んで居た時代があつたのである。
 それが最後の資本主義の機會を把へて、到頭今日の勘察加《カムチヤツカ》漁場、工船作業の目ざましい發達を見るまでには、どれだけ久しい間斯んな靜かな沼や入江に、眠つて横たはつて居たかも知れたもので無い。蝦夷地が學んだのは奧羽の實驗であり、無意味に奧羽の漁民が保存して居たものが、飛び渡つて新たに光を放つたのかも知れぬが、是とても一度は必要があつて、どこか南の方から又は異なる民族の中から、次々に移し傳へたもので無いことを斷言し得る者はあるまい。時が穿り窪めた文化の流れは大きい。それを川下から水源の細いせゝらぎまで、一目に見渡す方法が今はまだ無いだけであると思つて居ると、稍古風なる遠田の沼の建網が、何だか横文字のクエッションマーク(?)の形に、似て居る樣な氣がして獨りでをかしかつた。
 
          三
 
 奧州の山野の昔はさぞ開きにくかつたらうといふことが、空から越えて來ると今でも深く感じられる。二戸郡の丘陵地などは、全體が緩い傾斜を爲して、まだ一帶に濶葉樹林を以て蔽はれ、たゞ處々に近頃栽ゑられた杉林が、その若々しい淺緑の頂點を列ねて居る。あれだけ有名な馬の産地だけれども、草原は多くは里の周り、又は谷の低みにばかりある爲か、却つて林の蔭になつて空からは廣く見えない。恰も夏山の茂りの眞盛りともいふべき色相で、其間に大木の栗や楢、其他の花ある雜木がむく/\と白んで居る。通路だけはそれでもたつぷりと切明けられて、其兩側には少しづゝ土の色が露はれて居る。飛行機に驚いた牧馬の大群が、氣狂ひの樣になつて驅けて通ると、それが見て居るうちに土壌の下に隱れてしまふのは、如何にも荒涼たる情景であつた。さうかと思ふと小山一つを隔てゝ、水のありさうな狹い谷には、二つ三つの小屋を掛けて假住をして居る者がある。何れも澤山の煙を立てゝ、一目見てそれが(284)炭燒小屋であることが察せられる。
 炭燒は水河の如き遲々たる速力を以て、この四五十年の間少しづゝ北の方に向つて流れて居る。彼等の伐つた山は直ぐに開かれて畑とならぬ迄も、前よりも一段と人の近づき易い土地にはなる。つまりは先づ里の空氣を移植してくれるのである。彼等の林の奧へ持つて入るものは、米や鹽味噌と僅かの酒煙草だけでは無かつた。炭を買ひ炭を使ふやうな社會の生活、それがいつの間にか背板や肩當の端に附いて、山に持込まれて菌絲の如く成長するのである。以前主として金屋の冶鑄ばかりに、炭といふものが用ゐられた頃には、彼等の物語も此工藝と同じやうに、多くの神秘と呪法とを含んで居た。炭燒藤太と金賣吉次親子の長者の物語なども、鑄物師の行かぬ處へは炭燒がこれを携へて行つたらしい。水の神には銕が毒といふ蛇聟入の話が、山の奧まで分布して居るのも、或は保存の功勞を彼等に歸すべきで無いかと思つて居る。何にしても珍らしい話好きが、山を傳つてあるく炭燒の中に多いのは事實で、現に佐々木喜善君の江刺《えさし》郡昔話なども、たつた一人の旅の炭燒が、話してくれたといふものが九割を占めて居る。忘れてはしまはぬ迄も聽き手がもう無くなつて、斯ういふ谷底でも澤山の好い話が、やはり山の樹の如くに老い且つ朽ちんとして居るので無からうか。醒睡笑の中には説經解きの姿を見て、あの人の胸の中にはいか程の哀れな事があらうずと、泣いて居たといふ姥の話があるが、自分などもそれとよく似た心持で、獨りで懷かしくこの小屋を眺めて過ぎたことであつた。
 
          四
 
 尚一つ是も獨り言にもならぬ樣な話だが、自分としては消し難い印象があつた。東津輕の小湊は地名の示す如く、ほんの少しの平地であるけれども、汽車で通る度に何時も窓から外を見ずには居られぬのは、岡を一つ越した向ひの海端に、日本最北の椿山があるのと、それとは反對の側に是も山の陰になつて、我々の敬慕して居る旅行家の菅江眞(285)澄が、百三十年ほども前に暫らく滯在して居た平内《ひらない》の盆地があるからであつた。童子といふ部落の雪の底の正月を描いた美しいスケッチと紀行とが、自筆のまゝで遣つて居る。昨年の早春に「雪國の春」といふ一書を公けにした時、私はその正月の繪が餘りに面白いので、三色版にして口繪にして置いた。富士山を小さくしたやうな孤山が聳えて、雪の村里は其麓に連つて居る。一度行つて見たことのある人ならば直ぐに内童子のあの邊だなと、心づく位に忠實な寫生畫であつたが、私は實はまだ入つて居ないのである。今度はこの村の上を通るであらうと樂しみにして居た。淺蟲の温泉近くから海と別れて、少しづゝ山地の方に向つて行くので、爰かと心あたりに顔を出して見ると、飛行機はちやうどその富士形の小山の、頂上のところを過ぎて居るのであつた。是だけは何とかして同乘の人たちに、内心の興味を分ちたいと思つて居ると、折惡しく氣流に穴があつて、五十メートルばかりことんと落ちて、腰掛ははづれる體は飛び上る、頭に大きな癌は出來る。其騷ぎのうちにもう南部領まで入つてしまつたのである。痛かつたけれども是は記念の瘤である。幸ひにしてそれが意外の評判になり、東京に還つてからも面白半分に、瘤はいかゞなどゝ見舞を言つてくれる者が澤山にある。此人たちに向つては戯れに斯う答へて居る。菅江翁の心醉者は是からも追々に多くなるであらうが、其繪を著書に載せた翌年に其風景の上を飛行機で飛び、おまけに瘤を作つて結縁をした者は、今後も恐らくは永久に私一人であらうと。
 
(286)     勢至堂峠
 
 猪苗代の湖岸では、東南の一隅が最も好いと思ふ。しかも九月の夕月の晩であつた。熱海の停車場の奧、石莚《いしむしろ》の縣種馬所を見て、其足で三代《みよ》村の糶庭《せりには》を見に行つた。山潟の停車場で下りて、疏水の上流の橋を渡り、少し行くと山の裾の高みになり、濱の松原の梢ばかりが見える。松の上は湖水で、磐梯山がその水に映る。二十年前の五月二十何日かに、此山が破裂した日は、變な日だと思ひつゝも、忙しいので皆桑を採りに出て居つた。此邊からは一番よく見えて恐ろしかつたさうである。
 其山が段々後に見えるやうになる。折々降り坂になつて里へ出る。里はきつと湖水に注ぐ小流に跨つて居る。其川で明日の糶庭に出す駒を洗つて居る。五位鷺が啼いて松原へ行き、追々夜が暗くなつて、船津の人家は燈火ばかりが見えた。水路で會津から來る者は此處へ船を著ける。三代村へは田の中の路を、まだ是から一里ほど入込むのである。
 三代村も湖水に注ぐ一の川の岸で、糶庭は其川の川原に設けてある。翌日は恰も三日目であつた。諸國から入込んだ馬商人が家々に泊つて、夜遲くまで話をして居る。此村は會津街道であつたから、村の中を用水が流れ路幅が廣く、くゞり戸や腰高障子の家が多く、火の影が路へさして、只の田舍のやうではなかつた。駒糶の作法も詳しく聞いたが、長くなるから略する。當日一等の駒を御手打馬と云つて、褒美に赤い盃などを呉れる。良い馬は領主が買上げる故に、御手を打たれるといふ意味である。頭取の男は郡山在の者で、心持の好い男であつた。朝から晩まで馬の値を喚ぶので聲が涸れてをつた。馬でも幼い中は可愛い眼をして居る。埒の中を引廻すのに、多人數に怖れて顔を牽手の袂から(287)放すことが出來ぬ。牽手は大半は女である。思ひ思ひの身嗜みで出て來る。これを見物が囃すのである。中には子を背負つた女房もある。此邊の若駒は凡て婦人の手で育てられるので、優しい別離の場がこの日何囘も演ぜられた。
 三代村の川を段々に登れば勢至堂峠である。この次の日に、市にはとても出られさうも無い。馬を一匹借りて此山を越えた。並の峠路ではあるが、湖水を後にして登つて行くと思ふと心持がよい。分外に廣い山野であつて、木地屋などの小屋掛けしてゐるのを大目に見てある。頂上に近くなると、湖岸の平地は隱れてしまふが、道か右手に白川《しらかは》布引《ぬのびき》の珍らしい山の容が見える。凡そ四五里とも思ふ間、高低なき嶺が東西に走つて居る。其山の上は地竹ばかりで、只はあるかれぬさうである。「布を引く」と云ふ語は今は無い語である。此名をつけた昔の人がなつかしかつた。
 峠の名になつた勢至堂は、降りの中腹にあつて荒れた宿場である。昔は門前の茶屋に赤い前垂が居て、會津へ歸る武士はこゝで酒を飲んだ。こゝはまだ會津領では無かつたのである。勢至菩薩は馬の守護神かと思はれる。奧州では處々にその石塔がある。この山中の村でも家々に駒を育てゝ居る。中には母の死んだと云ふのも居た。昨日の糶で買はれた二歳駒が、五匹六匹一繋ぎになつて、見知らぬ親爺に引かれて行く。何れも首に小さな木札を下げて居る。樹の蔭に休んで居る一匹の札を見たら、香川縣綾歌郡云々と書いてあつた。
 左側が片|岨《そば》になつて、右手が追々開けて來ると、江花《えばな》の古驛は坂路の兩側に村を爲して居る。此邊も皆熱心なる馬飼で、一等賞を得る爲に馬に泥鰌を食はせたり、卵を飲ませたりする連中であるから、子供等が出て來て自分の乘つた古牝馬の、ぴよこ/\と歩行くのを見て笑つた。
 此處から長沼を經て奧州街道へ出る路は、田の中の平地である。親にわかれた若駒どもは、多くは此方へ牽かれて行く。稻の上から首だけが見えるのが、如何にもいたいけであつた。白河へ出るには右手に近路がある。岩瀬の奧の山の端が、阿武隈川の水域へ尾を引いて幾筋とも無く、たとへば佛手柑の皮のやうに出て居るのを、一つ一つ越えて行くのである。昔は此路が會津家の參覲道路であつた。谷あひ毎に里はあるが、何れも寂寞として四十年後の零落を(288)示してゐる。處々赤松の並木、或は敷石の殘つてゐるものは見えても、今は純然たる山路で、都會と都會とを結び付けた街道とは思はれなかつた。
 昔はこんな道が却つて重要であつたのであらう。何れの地點で進軍を中止しても、すぐに防禦の陣形を作ることが出來る。蘆名氏が白河地方に勢力を延ばしたのも、斯う云ふ山路の御蔭であらう。しかし平穩な農民の爲には侘しい田舍である。牧ノ内地方は今でも産馬が主たる産業で、秋の白河の馬市を賑はして居る。江花からたしか六つ目の丘陵から、その白河の城下が美しく見える。此邊は飯土用《いひとよ》村である。飯土用と云ふ地名は東北に多い。何か信仰に關係がある地名と思ふがまだよくは分らぬ。江花と云ふ地名も意義不明である。「ハナ」は塙、即ち高地のことであらうが、「エ」といふのが合點が行かぬ。私は暑い日にこんなことを考へながら、白河の柳屋に來てその晩は泊つた。
 
(289)     椿は春の木(放送
 
          一
 
 今晩は旅行の話を致します。只今ごろ盛んに雪が降つて居ります日本海の海岸には、東京より西の方の人には、ちよつと想像の出來ないかはつた風景があります。さうしてあの方面は全體に旅をする人が少ない故に、僅かな土地の者か、又は昔風の小さな船で陸近く航海する者の外は、まだ知つて居らぬ人が多いのであります。珍らしい話は色々ありますが、其中で一つ、椿は木へんに春と書きますから、御正月に因んで今晩はその話を致します。
 北緯四十度以北と申しますと、樫の木も眞竹も成長せず、薩摩藷も裸麥も作れない土地となつて居ますが、不思議に椿だけは處々の海岸に、森をなして繁茂して居るのであります。太平洋の海ばたにも有るかと思ひますが、私はまだ心づいて居りません。宮城縣本吉郡の椿島、唐桑の半島の權現社などは、まだ其線よりも少しは南になります。日本海に面した方でも、古くから有名なのは由利郡の三崎阪、山形と秋田とのちやうど縣堺で、是は北緯三十九度四分一になつて居ります。女鹿《めが》の關と申しまして、舊道は路の兩側が皆椿でありました。そこから海に向つて突出した山が三崎山で、慈覺大師の舊跡と稱し、あの地方の信仰の一つの中心でありました。其次は南秋田郡で、男鹿《をが》半島の南磯に椿浦、花の頃は朝日夕日に映じ、海の波も紅に染まつたといひますが、私の見ましたのはたゞ二本か三本になつて居りました。是が北緯三十九度五十何分の地點であります。それから愈四十度以北となつて、青森縣の境に近く、(290)又一つの椿といふ村があります。一頃非常に柴えた椿鑛山の所在地で、是も村の名になつたほどの椿が、近年は殆と無くなりかけて居ります。
 
          二
 
 其次には奧州に入つて、西津輕郡の深浦といふ古い港の、外圍ひになつて居るヘナシ崎も、椿が多いので椿山と呼ばれて居ります。この山のことは後に申しますが、この三箇所四箇所の椿の群生地は、何れも其間隔が十里以上づゝもあり、近くには同じやうな光景が無い故に、土地の人たちにも非常に珍らしがられて居たのであります。
 最後に今一つ北へ進んで、青森灣の底になる小湊半島の東側、椿明神の御宮の山、これは恰も四十一度の線の上に在つて、亦一つの大規模なる椿崎であります。勿論この土地が特別に暖かく、風を避け日光をよく受けて居る他に、地味とか潮の流れとかいふ、まだ調査せられぬ原因があることゝ思ひますが、是を此植物の自然生の北限と認めて、天然記念物として内務省が保存を命じて居りますのは、目的は至極よろしいが實は理由が心もとないのであります。詳しく考へて見たら、事によると史蹟記念物であるかも知れないのであります。
 北半球が今よりもずつと暖かゝつた大昔に、この東北一帶に椿の野生があつて、それが爰だけに殘つたといふことは、少しく想像がしにくい樣であります。何となれば今日まだ温かな西南の方でも、椿は人間の保護無しには、さう澤山には野生して居りません。庭樹で無いまでも里の木であります。又御社の森の木であります。鳥が椿の實を嘴にくはへて運ぶにしましても、元々食べる爲にくはへて行くのですから、さう遠方まで持つて行きません。故に私は人が持つて行つたものではないかと、考へて居るのであります。
 日本人が追々と千何百年の間に、雪の深い國に移住して行く際に、何と何とを携へて往つたかは、實は今日まで之を考へて見た人が無いのでありますが、少なくとも武器と農具と作物の種子とだけで無かつたことは確かであります。(291)私は椿の實、もしくは椿の小枝も、最初その一つであつたのでは無いかと思ひます。固より斯んなものを移さうとすれば、十のうちの九つは失敗したでせう。しかし民族の計畫はくり返されます。成功するまでは續けて試みられます。殊に日本人はさうでなかつたかと思ひます。
 三十年餘り前までは、米は北海道に栽培して引合ふか否かゞ激論せられて居りました。しかも今日では旭川の盆地は米産地となり、樺太にも又黒龍江の岸にも、安心して田植をする者が出來て來ました。たゞ今日の人は、もう椿なんかを栽ゑて見ようとせぬだけであります。
 大雪の中の椿山、これが北日本の日本人の、獨り鑑賞し得た風景の一つであります。雪が忽ち霽れて空が青くなりますと、此木の雪だけが滑つて先づ落ちて、日がてら/\とその緑の葉を照します。それが南から來た移住民にとつて、懷かしい嬉しい色であつたことは想像が出來ます。それ故に處々の椿崎椿山には、必ず神を祭つてあつたのかと思ひます。伊豆や紀州では、冬中から椿は咲いて居りますが、津輕では舊四月の八日を以て、椿の花盛りとして居りました。卯月八日はお釋迦樣の誕生である他に、日本では又是を夏の誕生する日として、何れの地方でも此日山に登り、山の花を折つて還りました。つまりは此日に鑑賞し得るやうに、山に椿の木の繁茂することを願つたので、實際は奧羽の果とても、舊三月中頃雪が降り止みますと、もうそろ/\椿の花は咲き始めます。さうして花の盛りが長かつたのであります。小湊の椿山は、花の盛りには緑と紅とがもり上がつた樣に見えて、それが日に照り水に映る風情は、すばらしいものだと土地の人もよく語り、又稀には書物にも書き傳へて居ります。
 
          三
 
 この青森灣内の椿山については傳説があります。昔この湊に往復して、木材を西へ運んで居た船の船頭が、この土地の婦人と馴染になつて居りました。或年の出船の別れの日に、其女が申すには、あなたの御國では椿の實の油を用(292)ゐる故に、女の髪がいつ迄も黒く艶々として居るといふことを聞いて羨ましいと思ひます。どうか來年はその椿の實を持つて來て私に下さいと謂つたさうであります。船頭は快く承知して約束をしましたが、何か故障があつて次の年も、又その次の年も津輕には來ませんでした。三年目の同じ頃に、約束の椿の實を船に積んで、男は小湊へやつて來たのでありますが、もう其時には待兼ねて疑ひ且つ恨んで、海に身を投げて女は死んでしまつて居たと申します。そこでこの岬の山にあつた女の墓に參つて來て、その椿の實を墓のまはりに播き散らして往つたのが、後に是だけの椿の森になつたのだと傳へて居ります。だから此椿は一枝も折つて行くことを許されませぬ。心無い者が之を採らうとすると、必ず美しい女性が現はれて制止するとも謂つて居りました。さうして今日椿明神ととなへて、此山に祭つてあるのが其婦人の靈であるらしく、申す者もあつたのであります。小湊の町から海づたひに、椿明神へ參詣する路には、穴澤と申す處があつて、そこにも一本の古い椿の木がありました。是も昔誰とかゞ枝を盗んで還らうとすると、海が荒れて何としても先へ進むことが出來ない。それで怖ろしくなつて途の傍に棄てたのが、根付いて成長して此木になつたといふ説がございます。
 男鹿半島の椿浦なども、今日はもう村の名だけにならうとして居りますが、村のまん中に僅かな小山があつて是を中山と謂ひ、其麓には美しい清水があります。椿はこの中山だけに茂つて居ましたので、爰には亦女の神が祀られてありました。古い石碑もあるさうですが、登れば暴風雨があるといふ信仰から、元は旅人の近づくことを嚴禁して居りました。況んや椿の枝などは手も觸れさせなかつたので、乃ち最初はとにかく、少なくとも其保存だけは人の力だつたので、もしも天然記念物と呼ぶならば、それは人間の心をも引きくるめての「天然」であつたのです。それ故に今後も只珍らしがるだけでは、保存をしてもなほ古くからの心持は無くなるかも知れぬと思ひます。
 
(293)          四
 
 津輕深浦の椿山の如きも、折ればヘナシ權現の神罰があると謂つて居りましたが、やはり少しづゝは採つて行くえせ風流人があつたやうであります。其上にちよつと我々には想像の及ばない害敵がありました。是は今から百五六十年前の事實談ですが、或年特別に雪の深かつた冬のうちに、男鹿の半島から多くの鹿の群が渡つて來て、すつかりこの椿の林を喰ひ荒して、老木の數はたゞ僅かになり、今は芽ばえの若木ばかり多いと、菅江眞澄といふ旅人の紀行には話して居ります。秋田の男鹿は日本海岸では、最も鹿の澤山居る半島でありましたが、そこと深浦との間は二十里以上もあり、又その中間の山には野獣は幾らも居たのです。それをたゞ鹿が南の方から、又は海邊づたひに來たといふだけで、直ちに男鹿半島からと斷定したのには、何か隱れたる理由があるらしいのであります。
 尤も皆さんが奈良の公園に往つて見られてもわかるやうに、鹿は中々樹木を害するもので、青いものが足りなければ樹の皮でもかじりますから、あゝして松や杉の幹まで竹の簀で卷くのであります。殊に山奧に雪が高くなると、うろついて里に出て來ることも事實です。是も男鹿と深浦との間の海岸でのお話でありますが、濱田といふ村の岩堂の不動尊などは、或年何匹かの鹿が、雪に降りこめられて此岩屋の中に居た時に、其木像をすつかりかじつてしまひました。行基菩薩か誰かの名作が鹿に食べられてもう形もわからぬやうになつて居たと、やはり同じ旅人の日記の中に書いてあります。男鹿の椿浦などは、人家に取圍まれた離れ山だから、相當の保護は出來たわけですが、鹿と椿と、天然と信仰とは、?斯ういふ形式を以て、相誘ひ相傷け又は相結んで、そのよい位なバランスの取れた點を、我々が風景と名づけて居るのであります。生物學者が自分等だけの側面から、是を天然記念物などゝ呼ぶのは少しばかり物知らずな話であります。
 
(294)          五
 
 そんなら誰がいつの頃、椿の插枝などを東北へ運んで來たか。言つて見よといふ人が有るかも知れませぬ。斯んな詰問に對しては、單に「昔、日本人が運んで來た」と、答へて置いても澤山なのですが、私たちの仲間では、是から段々と考へて行つたら、もう少し詳しいことが判ると思つて居ります。それには先づ二つの點、即ち椿を愛する人情の變化と、椿を大切にした階級の盛衰とを、考へて見なければならぬと思ひます。只今のところでは、ほんの想像といふ迄ですが、どうも其運搬者は婦人であつたらしく思はれます。東北にはイタコ・モリコ又はワカなどゝ申しまして、盲の女の宗教家が今でも居ります。この人たちの大切にする木は、紫桑と謂つて、伐つて人形を造る一種の桑の木もありますが、又椿の木で造つた才槌なども重きを置かれて居ります。椿の木の槌を縁の下に隱してぶら下げて置いたら、彼等の占ひや口寄せが少しも中《あた》らなくなるといふ話もありました。又その椿の槌はよく化けるとも謂つて、色々の口碑があります。古木の朽ち株などの夜光るといふものは、榎の木か椎の木か椿の木かにきまつて居ます。是も狹い意味の自然科學だけでは、説明し難いことゝ私は思つて居ります。椿は山中には絶對に無いといふ程ではありませんが、それが林をなして居る處には、必ず人の意思が加はつて居ます。何か傳説がある故に、さう信じてよいといふのではありません。通例は其他に今でも社があり御堂があるからさう考へるのであります。一軒の家の屋敷内でも、たゞ漫然と栽ゑたものは少ないのであります。
 殊に日本海に面した寒い國々、たとへば越中能登などの椿原は、若狹の八百比丘尼といふ非常に長命の婦人が、廻國して來て栽ゑたといふ話になつて居るものが少なくありません。此尼は東北は會津、西は中國から四國までに無數の遺跡がありまして、實際話の通りうそ八百年も長生きしたので無ければ、到底是だけの大旅行は出來ないわけであります。つまり何かの間違ひでありませうが、之に關しての各地共通の言ひ傳への一つには、木を持つて來て宮や寺(295)の前に栽ゑて行つたといふ話があります。其木には杉もあり、又銀杏もありますが、若狹の小濱の本元の寺にある比丘尼の木像は、手に白玉椿の小枝を持つて居るのであります。信仰を持運ぶ此類の女旅人は、丹念に處々に實を播き枝を插し、それが時あつて風土に合して成長するのを見て、神靈の意を卜する風があつたかと思はれます。柳や櫻も此目的に用ゐられたといふ例は澤山有りますが、北の雪國に向つては、或は椿が最も通して居たのではありますまいか。それと言ふのも此木が霜雪を耐へ忍んで、春の歡びを傳へることに鋭敏であつた爲で、上代の朝廷が正月の卯杖卯槌には、必ず椿の木を御用ゐなされたのも、又此植物の名前に木篇に春といふ字を與へられたのも、決して出たら目でも思ひちがへでもなかつたらうと思ひます、ツバキの本當の漢名は山茶又は海石榴ださうですが、椿といふ字は既に萬葉集の中にも用ゐられてあります。ハギを草冠に秋と書くのと同じく、多分は飛鳥朝廷の御代に御制定なされた新字といふものゝ一つで、椿を隨一の春の木と認むべき理由は、あの頃には今よりももつと明白であつたのかと思ひます。
 
(296)     白山茶花
 
 洛北詩仙堂の書院の縁さきに、丈山先生の遺愛の樹といふ山茶花が一本ある。一昨々年はちやうど滿開の日に行き合せて、夕陽の殊に美しい一刻を過ぐして來た。この花は純白で、花はやゝ小輪だが上から下まで、どの枝にも程よくまくばられて咲いて居るのが、如何にも年久しく此土になじんで居るやうに見えた。しかし三百年からの木にしては思ひの外幹は太くない。自分の家にも庭の隅に、今迄冷遇して居たのが一本あつた。是も白山茶花だが木犀の陰などに隱れて、花が咲いても咲いたと云ふ者すらなかつた。そちこちに動かすから枝はまばらだけれども、高さは幾らもちがはず、太さも此割合からすると七八十年と言つて承知をせぬ者はあるまい。傳記は全く無いがとにかくに老木になりかけて居る。あれを一つもう少しよく見える處へ、持ち出してやらうと考へついて私は還つて來た。斯うした氣まぐれな寵愛といふことが、少しでも花の爲に幸福なもので無かつたことは、今になつて見るとよくわかる。今度は日當りのよい窓のすぐ外に移したのだけれども、牙出しがおくれてしまつて蕾の數が幾らも無い。それに第一樹の姿の見すぼらしいのが、眼に立つて來て氣の毒である。
 是と比べると羨ましく元氣のいゝ白山茶花が、九州の田舍には見飽きるほども多かつた。最初私たちは武雄の温泉から、伊萬里へ越えて行く鐵道の兩側に、此木のそちこちに栽ゑてあるのに氣が付いた。栽ゑるとは云つても庭前へ引寄せて、見上げ見おろす樣な窮窟なのでは無く、大抵は垣根の外、又は段々畠の地堺とか、小川の物洗ひ場の後とかに、二本三本づゝ相應の古木があつて、それがことごとく白一色であつた。斯ういふ光景は大分廣い區域に亙つて(297)居る。私たちのあるいて見たのは、西北松浦の一角から長崎へかけての海沿ひであつたが、バスでも汽車でも窓から外を見ると、遠いか近いかに此花の眺められぬ處とては無かつた。單なる畠主の物好みとか、古い流行の名殘とかでないことは大よそわかり、是には何か自分たちのまだ知らぬ歴史が、附隨して居るのだと氣がついて、再び又孤獨なる我家の白山茶花の、生ひ立ちが考へて見たくなつたのである。
 九州の山茶花地帶はどこ迄も續いて居る。長崎郊外の村々では枇杷の果樹園の片端に、雲仙の裾野の丘にも到る處この木がある。宇土にも天草の小さな島々にも栽ゑてあることは、花が咲いて居るので船からでもよくわかつた。葦北郡の海岸では櫨の葉の散り殘り、或は熟しきつた柿の樹などの間に、參差として此花の日に映じて居るのが見られた。汽車が薩摩へ入つて、暫らくは淋しい海沿ひの高原であるが、このあたりはところ/”\、山畑を拓いて是ばかりを植ゑて居るものもある。しかし大體からいふと、桑や櫨などよりは一段と野放しで、少しでも他の生産を妨げぬやうな場處を選んで、此木を茂らせて置かうとした痕跡は明かである。關東の田舍を野梅の咲く頃に、あるいて見た場合にもこの經驗は得られる。野梅と云つたところで主は必ず有るだらうに、その所在は多くは片陰になつて居る。土手の日あたりの藁鳰《わらにほ》の鄰などはまだよい方で、時には竹藪の端から僅かに姿を出して、春の風に吹かれようとして居るものさへある。愛する位ならばもう少し傍へつれて來て、朝晩見られる所に植ゑたらよささうなものと思ふやうだが、さういふ風流心こそは實は今出來の、可なり世間體を考へたものであつた。我々と樹木との昔からの仲らひには、虎伏すジャングルからこの頃の豆盆栽まで、本來幾つもの階段があつたのである。伐拂はずには居られぬやうな時代はとくに過去つても、なほ其次には斧鎌の切れ味の快さの爲に、氣輕に見堺ひも無く薙ぎ倒した期間が久しく續いて居た。こいつは殘して置かうと思ふ念慮にも、三つや五つの動機の差等はある。方々の二本松、又は野中の一本杉の類には、もとは至つて少しの人間の片びいきから、斯うして名木に列することになつたものも多かつたと思ふ。温かい地方を旅行すると、山中に棕櫚の木が高く立ち、時には芭蕉なども葉をひろげて居るのを見かける。中國筋の山に(298)はスウメと稱して、李と同じ花が雜木にまじつて、白々と咲いて居る處もある。わざ/\斯んな處へもつて來て栽ゑる者も無いから、何れも偶然に生えたものが庇護せられるのである。山の櫻は案外よく薪に伐られるので、大木といふほどのものは幾らも無いが、それでも折々は春を見上げる爲に、殘して置くのだらうと思ふやうな處にも咲いて居る。梅や椿は澤山に實がなるからよい。それに又花もきれいだしと、いふ位なところで伐つてしまはれなかつた御蔭に、どれだけ我々の二月の逍遙を、うれしいものにして居るかわからぬのである。是が町の人の如くめい/\の板塀の中へ、圍つて置くものにきまつて居たら、今ある俳諧の七割は生れて來なかつたらう。
 この頃私は西洋人の文化史を讀んで居て、鳥獣の家畜化といふ段に來るといつでも考へる。私などの生れた村では、村の狗といふのが四五匹は常に居たが、狗を飼つて居る家は一軒も無かつた。彼等の食物は不定であり、寢床も自分の癖だけできめて居た。是と毎朝遊びに來る雀、家のまはりに住む燕や鶺鴒との、堺ひめはさうはつきりとして居なかつた。鷄には主があるが遠くまで遊びに出かけ、歸つても勝手に巣へ上つて寢たことは、烏が御宮の森に棲んで居るのとよく似て居た。三宅や粟生《あはふ》島には近い頃まで、山に共同の牛馬が繁殖して居たといふ。兎や野鼠でも島から外へは遁げて出ない。つかまへてめい/\の用に立てようとするまでは、家畜とさうでないものとの區別も實は無かつたのである。植木と野山の木との關係も是とほゞ同じで、自然と芽を出して大きくなるものが、刈り棄てられなかつたら土の主の有に、歸するといふまでゞあつた。つまりは只存在させて置くといふだけに、我々の意思の限られて居たものも多かつたのである。さういふ中でも梅とか桃とかの芽ばえは動かし易くて、我々はよく植木遊びをした。それが成長して花になつた記憶もある。しかし椿などは親木のある場所以外に、移して育てられるといふことさへ知らなかつた。雪や氷に閉される東北の處々の海端に、この木のみごとな林が出來て居るのは、乃ち又一段と力強い人間の企てが、働いて居たことを察せしめるのである。
 さういふ中でも山茶花は問題が又一つ別になる。この木は常識で支那朝鮮からでも渡つて來たやうに、今までは推(299)定せられて居た。名前と宛て字との何だかまだ折合はぬのを見ても、之を迎へ入れた人々の不案内が想像せられ、しかもサザンクヮ以前の日本語は誰も知らず、是では句にならぬので文藝からは敬遠せられて居る。果して其樣に國民の多數と、縁の薄い植物であつたらうか。それを先づ私は疑つて居るのである。京都の人たちは一體に自信が強くて、自分の知らぬものは以前は無かつたやうに考へたがる。一つのよい例はたゞの茶の樹であるが、是は關東から九州の南端まで、山中に入つて見れば何處にでも生えて居る。この宏大な分布は到底栂ノ尾や脊振山の僅かな親木から、出發した氣づかひは無いのである。現實は今ある飲料の御茶といふものを、我々の先祖が知らなかつただけだと思ふ。之を畑に栽ゑて丁寧に世話をすれば、次第に良質となることを氣づかずに居たまでだと思ふ。しかも通説は或一人の名僧が、根を苞にして持つてゞも來たやうに信じて、たしか小學校の兒にもさう教へて居る。不穿鑿な話であつた。さういふ言ひ傳へはこの民族と相生ひの、稻の起原についてさへ存在する。つまりは我々の大切にするものゝ發見が、さう無雜作な事業で無かつたやうに考へる、古い習癖の擴張に他ならぬのである。樹木の利用などは元は水空氣と同じに、採れども盡きぬ天然の惠みであつた。それをさま/”\と工夫して生活の便宜に役立て、我が木と人の木とを使はぬうちから差別する風こそは、追々と新たに他を學んだものと言へるのである。所謂山茶花の用途の如きは、煎茶などよりも又一つ古かつたかも知れぬが、是を完全なる植木とするまでの必要は、なほ久しい間認めては居なかつたのである。花卉を愛玩する流行の始めは、一々の記録こそは得がたいが、少なくとも大名等が戰ひをしなくなつて後に相違ない。紅とか斑入のとかの色々の珍種とともに、をかしなサザンクヮなどゝいふ名稱が入つて來て、それが上層の間に行はれた結果、今まであつた凡庸の白山茶花までが、其中に卷き込まれてしまつたのである。九州の旅行では機會がある毎に、私は多くの人と此花の話をして見たが、古名がカタシであつたことだけは、大體に明かになつた。今でも西部諸縣ではこの語を用ゐ、サザンクワといふ名を知らぬのが普通である。或は椿をカタシの木といふに對して、これだけをヒメガタシと呼んで居る地域もあるが、島原半島などでは此方がカタシで、椿の實はカテャシだとい(300)ふ者もある位だから、元來は二種を區別せずに、合せてカタシと謂つて居たことが察せられる。この一語の領域は、東は瀬戸内海沿岸の全部にまでは及んで居ない。私の生れた播磨中部などには、カタシといふ語のあつた記憶は無く、又白い山茶花も數が少なかつた。さうして椿の實をキノミと謂ひ、その木を又キノミの木とさへ子供は呼んで居た。命名の用途は疑ひも無くあの果實に在り、油をそれから搾り出す爲に、特にこの二種のカタシの木の保存を期したのであつた。自分の概觀が誤つて居ないならば、同じ九州の中でも椿の多い地方と、白山茶花を主とした土地と、自然に二通りに分れて居るやうである。東日本に來ると伊豆七島を始めとし、ツバキの油を專らとするが故に、九州のカタシの木に大小紅白の花の種類が、あつたことを考へる者が少ないのである。是は私の想像に止まるが、白い、花の平たい所謂姫ガタシには、早く實を結ぶとか油の量が多いとか、乃至は操作が簡便だといふ長處があつて、しかもやゝ寒い地方では十分にその特色を發揮させることが出來なかつたのである。花を賞する關東の山茶花などは、實の附き方が一般に少なく、又植木屋もいやがつて取つて棄て、是から油が取れると聽けば皆びつくりする。しかも西部の此花の珍らしくない土地に於ても、神佛の燈明や女たちの髪の油、その他一年中の色々の入用は、大よそ家のまはりのカタシの實を拾つて間に合つたといふことなどを、もう忘れかゝつて居る樣子である。古い生活樣式の次々に改められ、新種の資料が持込まれ、是と一緒に小規模な工業が、片端から農家と絶縁して行くのは、今更氣がつくほどの珍らしい現象でもないが、カタシの木の最初の敵はやはり菜種の花などであつたらう。田舍はこの過渡期がゆるりとして居る爲に、我々はまだこのなつかしいものゝ消え去る後影を見ることが出來るのである。
 狹い一處の經驗などゝいふものは、いつでも見當ちがひの歴史を書くものだといふことを、今度は私もよく思ひ當つた。私が偶然に白山茶花の咲く頃に、くるりと一巡り九州をあるいて來なかつたら、曾て武雄の温泉の近くに、又は薩摩の寂しい砂丘の蔭に、趣味を石川丈山と同じくするやうな隱者が住んで居たかといふ類の想像は、一つの傳説を誘導して居たかも知れない。もしくは大陸の文化がこんな土地だけに、大きな痕跡を留めたやうに、思ふ者をも制(301)止し得なかつたらう。前の方は小さなまちがひだが、第二の分は既に世を誤まつて居るのである。あまり煩はしいから列擧しなかつたが、私たちの旅行にはこの花をながめて、いよ/\心に此戒めを印象づけるやうな日が何日も續いた。日向では霧島の東の傾斜を下る時にも、豐後に越えて來る山路でも、まだ是を盛んに見た。大分附近の平野の人口の多い區域に入つて、漸くさがしても一寸は見當らぬまでになつた。ところが本年の十一月に、土佐の西部を旅行して、窪川の高原に入つて見ると、こゝに再び又數へきれぬほどの純白の山茶花を見、それが斷續して幡多の村々から、伊豫路に及んで居ることを知つたのである。地方の特色といふことは人國記以來、我々の同胞の少しく教養のある者が、口にせずには居られない話柄であつた。それを近年の郷土誌家は、踏襲もし強調もしたのであるが、郷土の特徴とか地方色とかいふものは、比較によらなければ判るわけが無い。さうして其比較はまだ一向に行はれては居らぬやうである。新舊の文化は東京の山茶花と同じに、入りまじつて一つに見られて居る。以前この花を我々の家の近くに、繁茂せしめようとした理由は埋没してしまつた。どこをどう通つて斯んな武藏野の片隅に、この一本の所謂姫ガタシが立つて居ることになつたものか。主人すらも考へて見ようとしなかつたのである。遲々として未だ花咲かざるこの窓前の木に對して、遠い故山の消息を語つて聽かせたいやうな氣がする。
 
(302)     ?譚小篇
 
       柿の枯枝
 
 ちやうど今頃のことだつた。羽前田川の湯の前の林をあるいて居ると、日影の透きとほる淺緑の間を、えらい勢ひで鴉が飛びまはつて居る。何をするのだらうと不審に思つたが、其たびに小さな枯枝が、ぽき/\と折れて落ちるので氣がついた。鴉も巣を造るのにはやはり我々と同じく、斯うして計畫をして材料を集めて居るのであつた。今まで知らずに居たが木の枝の中には、鴉の翼で觸れても折れるやうな弱いものもあるのかと思つて、試みに片手で杖を揚げて輕く打つて見ると、をかしい程もろく折れる枝がある。葉はガマズミに似たもう少し大きな木であつたが、名を尋ねることが出來なかつた。樹木には程よい姿に成長する爲に、一部不用の小枝を枯らして置いて、鳥とか風とかに折棄てゝもらふといふ、まことに調寶な能力があるのである。
 私の家などは、狹い庭に少し木を栽ゑすぎ、おまけに植木師に鋏を使はせぬので、いつも樹木が自分で身じまひをする。勿論最初から枯れるやうな枝を出すまいとするものも多いが、大抵はめい/\の流儀によつて形を整へようとして居る。合歡や棗の木は冬のうちに盛んに小枝を落して、簡略な姿になつて年を越さうとし、梅とか杏とかナハシログミとかは、いつまでさうして居るかといひたいほど、未練がましく枯れた枝をくつゝけて居る。ケンポナシの如(303)きは是と反對に、活きて居る枝は捻ぢ切ることさへ出來ぬが、枯れてしまふとどこからでも、ちよつと敲いてもすぐに折れる。若芽をどし/\と大きくする爲に、早く枯れた分を思ひ切るのかと見られる。
 柿の木のあの飄逸な枝ぶりなども、本來はその獨自の生活樣式から、計畫せられたものだといふことを、私は今度始めて學んだ。柿の枯枝はケンポナシとちがつて、必ず活きて居る枝との岐れ目から折れる。さうして何か防腐用の樹液を出して、そこから病菌の入るのを守る樣子である。元氣なよくみのりさうな枝は上を向き、少し力の足らぬ枝は皆辭職してしまふので、追々に樹高く又屈曲した節の多い姿になるのかと思ふ。柿の木から落ちると三年のうちに死ぬといふ俗信があるのも、單に思はぬ枝が折れるといふ經驗だけで無く、同じ一つの根から伸びて行くものゝ間に、生と死とのけぢめが餘りにも顯著であることを、人はさうで無い故に驚いて眺めて居たので、斯ういふことも言ひ出したものかと思はれる。
 
       蓮華躑躅
 
 六月に旅をするほどの者は、誰でもレンゲツツジの美しさを、印象づけられて還つて來ずには居ない。多分はその爲であらうが、東京の植木屋が、毎年山から採つて來るだけでも、大變な數だといふことである。しかし私たちの知る限りでは、市中へ持込むと大抵は色が淡くなる。何も知らずに目が醒めるやうだなどゝ譽めるが、それは野にあるものと比べて見ないからである。天然の蓮華躑躅は葉の淺緑に映じて、是よりもずつと濃い丹色で、樺だの黄だのといふレンゲは私はまだ見たことが無い。
 この花の名所は大抵は新しいやうである。たとへば富士の裾野では吉田口にも、又須走口の僅か入つた處にも、近年自動車で行けるやうな遊覽地が出來て居るが、是は何れも林を伐拂つた跡地で、今まで樹の蔭に細々と生を繋いで(304)居たものが、急に豐かな日光を惠まれて、どの木よりも先に繁殖してしまつたものらしい。茶の木などにもよくあることだが、必ずしも自然の姿とは言へぬから、やがては又どう變つて行くか知れぬのである。八ヶ岳の山麓では、一度六月に野邊山の方から、若神子《わかみこ》へ越えて見たことがあるが、この木が到る處に生えて居るといふのみで、今はわざ/\見に行くほどに多く無い。山形から秋田へ越える及位《のぞき》の隧道の附近でも、大分以前にこの花の盛りに出逢つたことがあるが、是も現在はもう少なくなつて居ることゝ思ふ。飛騨の莊川の谷では新開の田の畔に、若苗とまじつて蓮華つつじの赤く照つて居るのが珍らしかつたが、これなども亦以前の山地の、面影を留めて居たまでかと思ふ。たつた一種の小さな植物にも、やはり時代は働いて新たなる歴史を作らうとして居るのである。
 
       黄金の小枝
 
 熊谷氏の家の紋は鳩に保夜、このホヤが何物であるかは字引を引かずとも、ぢつと實物を見て居れば誰にでもわかる。ホヤは宿り木のことで又ホヨともいふ。「山のこぬれの保與とりて」といふ歌が萬葉にも見えて居る。東北は一般に今でもホヨと謂ひ、或はヒヨウと發音して居る人もある。關東平野にも以前は此語が行はれて居たので、又現在もこのホヨ・ホヤが珍らしく繁茂する地方である。多摩川兩岸の岡の村は、既に衰へたれども槻の大木の多かつた處で、舊い家なら必ず屋敷の一角に、まだ五本や三本は伐らずに殘して居り、又新たなるものが次第に成長して居る。その一本の最も聳えた頂上にホヤが附いて、ちやうど槻の葉の散り盡した頃から、きら/\と太陽の光に映じて居るのである。空を去來する者でなくとも、是を目標に靜かな逍遙を樂しむことが出來る。
 今年は殊に雨が少なく、風も和かで土がよく乾いて居るので、霜解けに足元を氣づかふ必要も無く、私のやうな年を取つた散歩者にも、仰いで白い雲の姿を見るやうな日が多い。山茶花が散り盡し垣根の小菊が枯れ、南天の色がや(305)や惡くなつてから後、美しいものと謂つては是がたゞ一つ殘つて居る。赤い實の熟したところまでは目が屆かぬが、鵯鳥などは今でも其ホヤに來てうれしさうに遊んで居る。鳩はよく打たれるからもう澤山には居ないが、曾ては神樣の森の大木から、彼等が飛んで來ては鳴いて居るうちに、程無くそこへ又ホヤの枝が芽を吹き、それが祭をいとなむ秋の末になると顯はれるので、人は乃ち人間の力以上の何物かを認める。それと或一つの奇瑞とが結びついて、爰に熊谷家の記念の家じるしは生れたものと思ふ。
 昔の武藏野相模野は九分通り畠になり、其間を新路が切開かれ、トラックの土埃は空を蔽うて居るが、このホヤの小枝のみはなほ昔の種である。鳩や鵯鳥も亦神々の御使であつた者の子孫かと思はれる。人もさうかも知れぬが是だけは遠く動いて居た。さうしてもうホヤの傳來を思ひ起さうともしない。
 
(306)     並木の話(舊作
 
 今年(明治四十四年)の大演習に行幸の榮を忝くしたる筑後|八女川《やめがは》の流域は、實に亦二千年前の英主景行天皇の御輦の跡なり。此川の上流は、山谷險阻なれども南國にして土肥え、生意の豐かなる所なれば太古より人口多く、當時の酋長は誠に歴史を彩るに足るべき美しき婦人なりき。久留米市の南、羽犬塚の停車場にて汽車に別れ、東の方山地に向ひて進めば福島の町あり。提灯其他の紙製品を産す。夫より更に川上に黒木と云ふ町あり。一路遙に豐後の津江郷に通ず。國境一帶の山地に野生する所謂|山茶《やまちや》の製品は此町を以て地方の中心とす。又|唐箕《とうみ》等の農具を製作して之を近國に供給するが故に名を知らる。黒木は其名の如く古く黒みたる市街なり。山間にして風少なく水多く、久しく大火の災に遭はざりしが故に、此の如く舊態を保存するなるべし。町の家の建築には特色多し。自分は諸國の屋根の形?の比較をして樂しみとする者なれば、殊に此町の事を忘れず。過る年六月上旬の晴れたる日の夕方なりき。町に入りて先づ快く感じたるは、路傍の小溝の水が、土地に傾斜ある爲に早く流れ且つ清かりしことなり。此町の並木は亦他所にて見られざるもの也。中央部の最も町らしく賑はしき所二三町の間、兩側には梅の木と柘榴の木とを一本おきに栽ゑたり。其時柘榴は赤く花咲き梅は滿枝の實を著けてありき。
 筑後の旅行は今や既に三年前の昔話となれり。此頃渡邊廉一氏の手紙を請取りしに、黒木の邊にては八女川の水力電氣の事業起り、其電柱を建る爲によほど右の風趣ある並木を伐除せりとの事なり。自分は新時代の人間なれば勿論文明の破壞作用に驚かず、又決して大に悲しみもせず。併し黒木の梅柘榴の並木は、彼町の商家の壁に大なる天然の(307)平石を塗り籠めてありし事實と共に、東京に歸りて折々人に話して聞かせし奇談なるに、それが早くも過去の物語と變形したと聞いては、何と無く汝は老人なりと言はれたるが如き感を爲して心細きなり。思ふに今日を中央とする二三十年間は、恐らくは並木の大に伐除せらるゝ時代ならん。仍て茲に並木の小革命史を草して諸兄に示さんとす。
 西洋を見て來た人の談に、米國なりしかと思ふ、林檎を路傍に栽ゑたる所あり。秋になつて美果珠玉を連ね、低く枝垂れて兒童の手の屆く程なれど之を取るものなし。學校歸りの子供に何故に採らぬかと問ひしに、此は村の物なりと答へたり、日本ならば必ず取るなるべし。西洋は感心なり云々。按ずるに果實は取りて食ふ爲に存在す。一人にて全部を貪らざる限りは少々は取るを適當とす。黒木の梅の實と柘榴の實は萬人の眼の前に在る爲に爭奪を免れしものか、又は如何なる風に分配せられしものか知らず。日本では旅人の取りて食ふ爲に果樹を並木とせしこと昔もあり。例へば天平寶字三年(西暦七五九)六月二十二日の格(勅令)に依れば、東大寺の僧普照法師なる者の建白に基づき、國道の兩側に遍ねく果樹を種ゑしめらる。往來の人民樹の傍に息ひ、夏は則ち蔭に就きて熟を避け、飢ゑたる者は其實を摘みて之を喰はんが爲なり。夫より六十餘年の後、弘仁十二年の格には、果樹の並木は折角旅人の蔭となり、食物を供するものなれば之を伐損すること勿れと令せらる。之を以て觀れば、路傍植樹の勅令は一旦實施せられしも、無法なる者ありて追々之を伐り拂ひしと見えたり。右の奈良朝時代の並木は果樹とのみあれど、飢を凌ぐ爲とあれば多分は榛子《はしばみ》栗などなるべし。其頃は食料として栗栖《くるす》即ち栗林を多く作りし也。しかし此外に橘の樹を路傍に栽ゑしこともありき。古き歌に「橘の蔭ふむ道の八ちまた」と云ふ句もあれば、香高き花の下を昔の旅人は旅行し、美しき橘の實の熟する頃には、遠慮なく取りて食べしものなり。橘は蜜柑の類なり。庭前門前などにもよく之を栽ゑて花と實の風情を賞すること、我々の先祖の常の習ひなりき。近世は此事なし。櫻を路傍に栽うることは段々流行し始めたれど果樹の方は頓とはやらず。山中往來の少なき路には、稀に旅人の爲の果樹あり。例へば飛騨の高山より莊川村へ通ふ上小鳥《かみをどり》と云ふ村の山道に、二本の山梨の大木あり。實は小なれど至つて甘しと聞く。是は土地の人が奇特にも伐り(308)殘したるものなり。
 支那にては官道の兩側には到る所槐の木を栽うること、唐時代より盛なり。此槐は正しく日本のエンジュなり。黄色の花多く咲けば散る時などは定めて旅の趣を添へしことなるべし。槐は又一里塚の上にも栽ゑたり。日本にては一里塚に榎を栽う。始めて一里塚に榎を栽ゑしは信長の時とも秀忠の時とも云ひ、松の木を植ゑ申すべきかと伺ひしに餘の木を栽ゑよと命ぜしを、ヨノキを榎と誤りて植ゑしなりと云ひ傳へたり。併し此説は出たらめなり。何か別の理由にてそれよりも遙か以前より、塚の上には榎木を植うるの風習ありし也。戰陣に臨み容易に燃料を得んが爲と云ふ説も想像説なり。燃料の用意としては一里に三本や四本では不足なり。それは兎に角昔の並木には濶葉樹多かりしに、近世になり追々と松杉の如き常磐木に變ぜしことは事實なり。落葉木は概して趣多く冬日は日光を蔽はずして旅人も暖かく、近傍の田畑の陰となることも無くして好都合なるに、何故に陰氣なる杉並木松並木を採用せしものか。松の並木は現今は日本風景の特色を爲す者にして、あまり排斥もし難けれど、猶花などの咲く色々の並木が有りしならばと思ふ。松並木の面白味は水田遠く連れる平野に似合しく、杉並木は山麓に沿へる昔風の道路に適せり。日光街道の杉又は箱根湖畔の杉などは有名のものにて、よく四邊の風景と調和する故長く保存したきもの也。コ川時代には並木の陰になる田畑は地租を輕くしたれば、土地の者も之を迷惑に思はざりしも、今日は其事少なく、從つて之を伐つて貰ひたがる者多し。東海道の松並木も一年ましに數を減じ、其あとに我々がとても其生長を見る望みなき小松を植繼ぎたるもあり。少々智慧の無き話なり。榎なりと栗なりと植ゑよかし。
 櫻並木の最も美しきは埼玉縣與野町なり、浦和及大宮より各一里あり、春の末に此町へ遊びに行きしに町には市立ち落花街に滿ちて夢の國を行くが如くなりき。田舍の人も此頃は都の風を好み並木を新たに作れば必ず柳櫻を植うるなり。柳は生長の容易なる故に人望あれど、元來あまりに柔弱なる木にして廣漠の景色には相應せず。櫻も染井吉野などゝ云ふ類は、青木少なき平蕪の地に集合して植うるは面白からず。まあ綺麗だなどゝ云ふ人に限つて、實は何も(309)知らず。只白く只光るものに眩せらるゝに過ぎず。所謂花見は無風流の事業なり。柳と櫻を一本おきに並ぶるなどは、是亦決して昔風に非ず。昔僧正遍昭と云ふ歌人が西京の東山に登り、「見渡せば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」とよみしは、決して二種の木が理髪店の看板などのやうに交互に連なりし爲に非ず。京都の道路には縱横ともに並木として柳を栽ゑ緑色の織物の如くなりし間に、所々の家の櫻が一群づゝ白く咲きてありしを、春衣の錦に譬へしのみ。今の京都市が西の方に猶あれだけ大きかりし時代には、丹波行きの鐵道ある近邊は朱雀大路と稱し南北に大幅の本通り直貫し、其歩道には柳を栽ゑしなり。此柳は今日の垂柳と異なりしが如く、「朱雀大路の青柳の花や」と花を賞せし歌あり。以前は男子も派手な色の衣服を著たり。春になると此柳の蔭を緩々と歩みて、此の如き歌をうたひし人々は、實にこの電車飛乘を以て面目とする我々の祖先に外ならざるなり。
 小野道風的の柳も町の形?によつてはよき感じを與ふ。風吹けば一齊に靡き、雨降れば一樣に垂るゝを見れば、並木としても資格なきに非ず。よき町の入口などの人家少なき道路に、一二町續きたるはよし。しかし所々に一本の大きな柳のある方が更に妙なり。例へば三十三間堂の堂の端にある柳などは、京都にて最も良き繪葉書の一つなり。橋元の柳もよし。日本にては橋の袂には必ず木あつて、其木今は柳が多けれど、是も實は明治式趣味なり。田舍などにてあまり學ぶべからず。あれは實は稍狹斜式のものなり。
 並木の序に橋戸即ち橋の袂の木のことを申すべし。九州の旅行中に心付きし事なるが、小さき橋にても其四隅の袂に大木を植ゑたるもの多し。日向の椎葉山中にて見しは橋邊の木に限り必ず杉なり。此は以前疑ひもなく橋の控え木の用を爲せしものなり。架橋の術進みては控へ木の必要なくなりたれど、昔は此樹木に大綱を掛けて兩方に渡せしなり。椎葉の山村を始め阿波の祖谷《いや》等の山中には、今も藤橋とてゆら/\とする古風の橋あり。幾筋とも無く藤蔓の長く太きものを四隅の杉の幹に引繋ぎ、其端を結び合せたる上に橋板又は粗朶を列ぶるもの也。其藤は日向では松藤と稱する種類なり。其蔓の數は百數十本もあつて、毎年古くなりたる分より三分の一程づゝ取替ふるは、一時に改造す(310)る時は工事に困難すべき爲なり。又四方の大木の傍には是非小さき家督相續杉を一本づゝ植ゑてあり。人間が始めて足を濡らさずして川を渡るの法を發明せしは、やはり猿の智慧より進化したるものゝ如し。
 
(311)     美しき村
 
          一
 
 山形縣の新庄から、鳴子玉造の温泉地へ越えて行く、縣境の境田といふあたりの一部落と、秋田縣|鹿角《かづの》の小豆澤湯瀬から、二戸郡に入つて行く是も二縣の境、たしか才田と謂つた小さな村とを、僅かな時日を隔てゝ通つて見た際に、兩處の光景のあまりにもよく似て居るのに驚いたことがある。現在は兩方とも、もう汽車が走つて便利になつて居るのだが、却つて降りて見に行かうといふ人が尠ないことゝ思ふ。さうして村に住んで居る者は、素より互ひにそれを知る折は無いのである。
 他にも斯ういふ土地がまだ有るのかも知れない。山と山との間を段々に登つて行くと、溪川はいつとなく細くなり、しまひにはどこを流れて居るのか判らなくなつて、忽ち少しばかりの平地のある處へ出る。あたりは炭に伐り薪に刈つて、目に立つほどの木山も無いまん中に、大きなカハヤナギの樹が十五六本も聳え立ち、其間から古びた若干の萱葺き屋根が隱映する。村に入つて行くと土が黒く草が多く、馬が居り猫が居り又子供が居る。それが一樣に顔を擧げて旅人を熟視する。以前展覽會の日本畫家が、好んで描かうとした寒村の風物に、今一刷子だけ薄墨をかけたやうな趣きである。それよりも私に先づ珍らしかつたのは、何の模倣も申し合せも無い筈の、數十里を隔てた二つの土地で、どうして又是ほども構造が似て居るのか、尋ねても答へられさうな人が居ないから聽かずに戻つて來たが、久しく不(312)審のまゝで忘れずに居たのである。
 
          二
 
 ところが又何年か過ぎて後に、八ヶ嶽の東麓を信州から南へ越えようとして、野邊山が原の一角に於て、再びやゝ小規模の、是を思ひ出させるやうな家居を見たときに、何と無く原因が見つかつた樣な氣がしたのである。これらの楊の老木は勿論栽ゑたものでない。昔から群をなして此あたりには繁茂して居たのを、少しばかり伐り殘して其間に小屋を掛けたのが、後には親しみを生じて其長大を念じ、道路を開くにも新屋敷の地割りにも、程よい讓歩をするやうになつただけで、最初からわざ/\大木の蔭を求めて、村を作らうとしたのではあるまいと思ふ。無論清水の得やすいといふことも、特にこの木の多い處を、擇んだ理由ではあつたらうし、やゝ太くなれば折々は馬を繋ぎ、又は物を見る子供や娘たちが、來ては凭りかゝるといふなどの少しづゝの利用は有つたらうが、それを目當てに豫め配置するといふまでの、細かな心遣ひがあつたらうとも思はれない。我々遊民が爰を通る日は、大抵は空の青い、野山には花の豐かな一年中の好季節である故に、どうして又この樣に村を暗くして置くのかと訝るやうだけれども、路上に働く者には春から秋まで、樹の蔭はいつも戀ひ慕はれる。あそこには楊がある泉があるといふことは、乃ち又村の存在の承認でもあつた。冬のしん/\と雪降る黄昏などは、火を焚いて家に居る者でもやつぱり寂しい。だから越後の廣い田の中の村などでは、わざ/\軒先にしるしの竿を立てゝ居たといふ話さへある。これを遠くからの目標にして、人がとほつて居るといふことを考へただけでも、少しは埋没の感じを追ひ拂ふことが出來たものであらう。必ずしも旅する者の爲と言はず、斯ういふ世の中へのアンテナのやうな役目を、永い歳月に亙つて勤めて來た楊の樹であるが故に、今では我も人もこの樹を引離しては、村の姿を思ふことが出來ぬまでになつたのである。
 
(313)          三
 
 しかも風景は我々が心づくと否とに拘らず、絶えず僅かづゝは變つて行かうとして居る。大よそ人間の力に由つて成るもので、是ほど定まつた形を留め難いものも他には無いと思ふが、更にはかないことには是を歴史のやうに、語り繼ぐ道がまだ備はつて居ないのである。人は一半の忘却の爲に、一段と消えてしまつたものを愛惜し、獨りで看て來た旅人は又往々にして誇張もするが、それが果して其感じの通りであつたかどうか、今からならば實驗の方法は有る。風景は必ずしも時代の進みと共に、惡くばかりは改まつて居らぬやうにも思はれる。殊に草木を衣裳とした我邦のやうな山水では、或はほんの僅かなたしなみを以て、土地の姿を美しくし又はきたなくなることを防ぎ得るのみか、時としては單なる忍耐と寛假とだけでも、いつのまにか村を楊の老樹の間に、落著かせることも出來たのではあるまいか。是は素より理論の問題でない。若い精微な感覺をもつた旅人たちと、一度は伸び/\と曾て觀て來たものを、語り合つて見たいと思ふ。
 書物や先輩と相談をせずに、一人であゝ好い村だと見て通つたのは何處だつたか。斯ういふ問ひを掲げて思ひ出すのもよからう。自分などの古い記憶には、どんな場合にも樹木が參與して居る。一頃田舍には白壁瓦葺き、黒い燒杉の腰板などが流行して、わざと村の端の遠くから見える所へ、見えにさういふ建築をしたかと思ふ家も多く、町へ背後から近づいて行く光景と、その一部だけは似て居るやうであつたが、兩者の相異は村の方はやがて樹に隱れて、幾分か早く古色を帶びる。大きな山を負うた麓の里などで、長い土塀や石垣を取繞らした物持の家が、低い直線を際立たせて居るのは、日本の田園風景の近代の特色かと思ふが、あの美しさの主要な力は、やはり又周圍の天然との結び合せに在つたといふことが、何度も見て行くうちには少しづゝわかつて來るのである。城は多くの人を畏れしめ、又疲れしめもした工作物であつたが、あれを土地の自慢にした民謠は數多く傳はつて居る。松の並木の遙かな末に、く(314)つきりと抽き出した御城の壁と甍、來る者にも還る者にも、斯んなうれしい目の悦びは無かつたのである。
 
          四
 
 しかし旅行をして居るうちには、別にこゝといふ中心も無いやうな、村の風景に出逢ふことが段々に多くなる。一人一家の勢力や趣味が、土地を特色づけるといふことが近世の事蹟であることを考へると、斯ういふ茫として取留めの無い美しさが、假に昔の世のまゝで無いとわかつて居ても、之を作り上げた村の人々の素朴な一致、たとへば廣々した庭の上の子供の遊びのやうな、おのづからの調和が窺はれて、この上も無くゆかしいのである。村の後の川原に咲き續いた月見草の花が、どの家を覗いて見ても裏口越しに、一こまづゝはつきりと見えた夕方の風情などは、大きな音樂を聽くやうな有難ささへ感じられて、今でも寂しい日には折々思ひ出して居る。石州の津和野を出て、益田の方へ下りて來る路の右手に、たしか青野と謂つた山の麓の村などは、何の光も無いやうな古びた一團であつたが、目に立つ里の木がみんな同じ程の年頃で、樹の種類までが一つらしいのが、言ひやうも無くなつかしかつた。最初斯ういふ木の多い林地を拓いて、集まり住んだ村であつたにしても、今立つて居るのは元の木の保存では無い。爰では明かに村の方が年とつて居るのである。さうすると古い親しみを忘れず、甲の家でも乙の家でも、片隅に芽生えたものだけはそつとして、其成長を見守つて居たのが、やがてはそれ/”\に程よい配置に就いて、斯うした珍らしい村の相貌を、形づくることにもなつたかと思はれる。
 日本の村々には、植物の名で呼ぶものが特に多く、その草木の種類が又色々である。其中には開發以前、そこに茂つて居るものによつて附けた地名を、たゞ記憶するに過ぎぬのもあらうが、さういふ場合にもなほ隱れたる因縁は絲を引くらしいのである。私の家の小さな庭なども、前には原であつた故に萩が生えて花咲き、又は楢の木やガマズミなどの二葉が伸びて來る。松や合歡の木の種子は、風が持つて來ることがわかつて居るのだが、是とても近くに子孫(315)を絶やすまいとする者が有ることを知ると、あまり無造作に抽いて棄てる氣にもならぬ。さうするといつかもう忘れた頃に、松を目じるしとし又は合歡の木の花を見て過ぎるやうに、この古屋敷がなつてしまふかも知れぬのである。
 
          五
 
 村は住む人のほんの僅かな氣持から、美しくもまづくもなるものだといふことを、考へるやうな機會が私には多かつた。支那では李花の村といふのが詩にも畫卷にも?顯はれてゐる。向ふはどうあるか知らぬが李などゝいふものは、澤山に實のつても貯藏も出來ず、さう遠くまでは賣りにも行けぬから、生産の用としては村中を此木にするほどの必要は無いやうに思はれる。或は實こぼれが成育し易く、花には見どころがあつて材に是といふ使途の無いことが、次第にこの木の數を多くして居るのかも知れない。中國地方の山中の地名に、スウメ谷といふのが處々に有る。文字には大抵李の字を書いて居るが、山に自然に生える筈は無いから、是だけは別のものだらうと想像して居た。ところが或年櫻には少し早いといふ頃に、備後から出雲へ越えて行く峠路で、折よくこの花の處々の山に咲いて居るのを見た。果實はどうか知らぬが、花は少なくとも我々の園の李と同じで、多分はこの花を見んが爲に、薪にも伐らずに殘されてあるものと思はれた。或は炭材や爐の燃料に、適しなかつたといふこともあるのかも知れぬ。とにかくに斯んな言ふにも足らぬ理由からでも、もう山々の春は美しくなつて居るのである。
 月瀬でも紀州の南部《みなべ》でも、又は東京近くの吉野|越生《をごせ》でも、村を名所にしようと思つて梅を栽ゑたのではないが、人が氣がつく時分には、新たに計畫をしたものよりは更に美しくなつて居る。歳月と生活とが暗々裡に、我々の春の悦びを助けて居たのだといふことは、性急な改良論者のもう少し考へて見なければならぬ點であらう。さういふ中でも東國の廣々とした田舍に、程よく一本二本と配置せられた野梅などは、まだ人間の意思が少し加はつて居る。酸ぱいけれども實は食事の料に、花もきれいだからあの隅つこに、栽ゑて置かうといふこともあつたらう。それほどにも又(316)早くから、枝がくねつて風景に入つて行くことが出來たのである。ところが山中のスウメの樹に至つては、伊豆の島々の椿の原始林も同じやうに、當初さういふ豫想をした者は一人も無くて、花が眞盛りに咲き出す時になつて、人も小鳥も共々に注意することになるのである。因幡の岩井といふ温泉の村へ、汽車から半みちばかり入つて行く路では、村を取りかこんだ十數株の李の木が目標であつて、私の訪れた日の午後は、目も醒めるほどの花盛りであつた。さても風流なと一應は感服したが、考へて見るとその木の若木の頃には、汽車も無ければ斯うして客を引く必要もまだ無かつたのである。
 
          六
 
 信州姨捨の鐡道は、大まはりをして山を越えて居る。あの車の窓から顔を出すと、例の田毎の月は寧ろ小規模で、晝間の月見岩などは省みる者も無く、眼下には多くの村里が連なつて、里毎に大木の杏の樹を栽ゑて居る。四月二十二日の晴れた午前、よい都合にこゝを通つてもう一度見に來ようと思ひ、又自分の村にも杏を栽ゑようと決心した。それほどにも深い印象を私は受けたのである。南チロルのメラノといふ町では、町の内外を埋め盡した果樹園の、花の眞盛りに行き合せたことがある。曉に小鳥の大コーラスが始まつて、故郷の夢を破られたことがある。この地の花の繪葉書は艶麗を極めて居るが、日の光の爲か山が大き過ぎるからか、實際の花の色は白々として居て淋しかつた。信州は之に反して紅霞の如く美しいが、その代りには何としても寫眞などには入らない。たゞ幸ひに花の頃に、其地を通り過ぎた人だけの記念で、あとは悉く住民の樂しみなのである。
 この私たちの新住宅地は、もう大東京の一部になり、町だから殺風景でもしかたが無いやうなものだが、あの頃はまだ砧村と呼ばれて居た。砧村の特色は麥畠の多いことで、雲雀は二階の窓の外に鳴いて居たが、それも一年毎に少なくなる。以前は櫪《くぬぎ》の古株に地蜂の仔が育ち、それを食べに來る蝮蛇が多く、それを又猪があさりに來るので猪狩が(317)行はれたさうな、などゝいふ話も傳はつて居るが、そんなものは名物にもならず、且つ大分昔のことである。何か新らしい面貌を具へる樣にしなければ、斯うして集まつて住んで居る甲斐も無いと、最初に考へ出したのが小柿の林であつた。是も信濃路の晩秋の旅に、きつと印象づけられて誰でも還つて來る、あの小さくてなり作つた、むやみに豐産でしかも警戒せられず、どこの畠の端にも無造作に立つて居る柿の木、あれを一つはやらせて小柿の村と呼ばれたら面白からうと、友人に頼んで二百本ほども苗木を取寄せた。それを植木屋に持たせてやつたり、又自分でも鍬を下げて行つたり、百方運動して近所の家々に收容してもらつた。むじなが來ますぜ、などゝ謂つていやがらせた者がある。何でもこの實の熟したのがあの獣の好物ださうで、冬の夜更に里まはりで鳴くのは、大抵は小柿の木の上でだといふ話もある。それでは結局は貉の名所、といふやうなことになるかとうんざりして居ると、よくしたもので木だけは大きくなつても、實の方はまだ一向に目につかない。全くならぬわけでも無いのだが、信州のやうに強い霜が來ぬので、いつまでも葉があつて其中でひからびてしまひ、落葉の後はもう見る影も無くなつて居る、あてにして居た小柿の村などは、實現しさうも無いことが明かになつた。斯ういふ風土をわきまへぬ設計は、寧ろ丸つきり立てなかつた場合よりもまづい、といふことを私は新たに學んだのである。
 
          七
 
 村を杏の林にしようといふ第二の夢は、ちやうどこの貉の不安がまだ殘つて居るうちから、漸く濃やかになつて來たものだが、是も同情の無い人からは失敗と見られるやうな結果をしかもたらしては居ない。最初北信から約束の苗木が五十本、それが待ちきれなくて埼玉縣の安行《あんぎやう》から又五十本、合せて百本を程よく分配する爲に、それは/\つまらぬ忍耐をした。時々はいりませんよなどゝ金切聲で追ひ拂はれるが、是も一種の押賣だと思ふと、こそ/\と退却して來るより他はなかつた。さうして結局はどうにか斯うにか、うちの五六本を殘して皆かたづいてしまつたのであ(318)る。ところが後になつて段々とわかつて來たことは、杏には妙に横枝を出して曲りくねる癖がある。梅の一族なのだから始めから承知して居なければならなかつたのだが、とにかくに自分の庭前のものは、一本としてすらりと伸びたのが無い。よつぽど素性のよい若木を見立て、又相應な手當てをしなければ、あの更級郡の春色を引立てゝ居るやうな、亭々たる喬木を養成することは出來ぬのであつた。おまけに苗木が寄せ集めであつたのか、花の色形が一本毎にちがひ、且つ花時が前後する。地味に合はないのだといふ説は信じないにしても、大體に蕾の附き方の少ないだけは事實で、それがもう他の木のどし/\と成長する中に埋もれて、實を見るどころか何處に在るのかも判らなくなりかかつて居る。以前はそれでもあの杏が今年は咲きましたよと、途中で顔を合せると知らせてくれる人があつた。自分も時折はたゞの散歩を装うて、それと無く樣子を見てあるいたこともあるが、この三四年はさういふ事も斷念して居る。作者が率先して忘れてしまふやうで無くては、村の風景などは出來あがるものでないことを、遲蒔きにやつと氣がついたからである。
 伐つたり掘りかへしたりせぬ限り、苗木はさうやたらに枯れてしまふもので無い。活きて居る以上はいやでも應でも、ちつとづゝは成長して行くだらう。花も咲くだらうし實がなれば少年も注意するだらうし、稀には注意せられずに、落ちて又新たなる木になることもあらう。とにかくこの一群の小社會の中へ、數十本の杏と俳味に富む小柿の木とが、入つて居ることだけは事實なのである。たゞそれを持ちまはつたつまらぬ世話燒きの名が傳はらぬのみで、それも亦よい事だと私は思つて居る。
 
          八
 
 土地と樹木との因縁は、我々などよりもずつと深く根強く、從つて又ゆつくりとして居る。それを是非とも先途を見屆けなければならぬやうに、自ら義理づけることが物知らずであつた。斯ういふ場合こそは推理の力、もしくは單なる想像を以て遠い結果を夢みてもよい。おまけに我々は人間の意思を以て、自然を美しくした許多の歴史を學んで居るのである。願ひ求めることは他に在つても、人が集まつて作り上げたものは感動させる。多くの風景の發端を考へて見ると、寧ろ無意識にたゞ見ぬ世の同胞と共に、樂しみ悦んだ痕跡に過ぎぬものが多い。たま/\設計者の功績が記憶せられて居ても、その目的とした所は、必ずしも後人の禮讃するものと一致しない。秋田の海岸を特色づける物靜かな森林は、もとは防砂の爲であつた。武藏の野火止《のぴとめ》の並木の村が、遠い行く手に武光山の明るい峯を望ましめるのは、多分はたゞ繩張りの見當にしたものと思はれるが、斯ういふことをして置くと、百年二百年後の旅人が皆悦ぶ。利害は決して一地域のもので無くなつて居るのである。昔の人たちは斯んなことまでは豫期して居ない。強ひて風景の作者を求めるとすれば、是を記念として朝に晩に眺めて居た代々の住民といふことになるのではあるまいか。
 村を美しくする計畫などゝいふものは有り得ないので、或は良い村が自然に美しくなつて行くのでは無いかとも思はれる。たつた一軒や二軒の門の樹を目じるしとせず、誰が始めたとも無く全村一樣に、眞似でも流行でも無しに同じ植物がそちこちに茂つて居る光景、それこそは調和でもあれば又平和そのものでもあつた。いつかは我々の新住宅地にも、それがもう來て居るといふ時が無いとは限らぬ。見ることは出來なくとも考へて見ることは出來る。
 四十年前までは東京の山の手にも、幾つかの屋敷を連ねた一列の槇の生垣がよく見られた。西の方には少ないから、是が東國の海添ひの、普通の風習なのだらうと私は思つて居る。それが夙くからカナメになりカラタチになり、又板塀や土の塀にもなり、一方には古風な竹藪なども少し殘つて居て、統一は既に失はれて居た上に、新たに出來るものはいかめしい煉瓦やコンクリート、後には更に表長屋が建て續けられて、もう捜しても赤い槇の實のなつて居るやうな生垣は見られなくなつてしまつた。しかし關東平野の處々、殊に東上總の海近い處などでは、しつとりとした兩側の槇垣の間を暫くあるいて行くやうな路が多い。遠州の小笠濱名あたりのは皆低いが、こちらには高さが一丈の餘もあつて、それを綺麗に苅り込んで居るのが折々は見られる。たゞ殘念なことには家によつて手入れが屆かず、高さも(320)厚さも段々に不揃ひになつて、村を一つの美しさに纏めて居るとは言へないのである。自分が旅をして見てあるいた中に、今でも覺えて居るのは志摩の國府といふ村で、安乘の燈臺の後の山から西南に通つた一筋路、車で走つてもやゝ久しい間を、兩側に家が並んで、皆一樣に同じ高さに、二段の槇の生垣を以て圍はれてゐた。それが此頃のやうな秋日和に照らされて、少しの枯葉も無く耀いて居たのは、ちやうど時刻もよかつたのかもしれぬが、たとへ樣もない美しい印象であつた。この通りは元は馬場であらう。正面の突當りは鎭守の御社で、遠くの方からも拜殿の上り段が拜まれた。其前に二本の松の木が、枝をまじへて居るのは事々しくていやだつたが、是とても偶然にさうなつて居るのでないことはよく察せられた。乃ち村は村人の一致した心持によつて、本來どの樣にも面貌を改められるものだつたのである。たゞその作者の作者意識とも名づくべきものが、陰にかくれて遠ざかつて居るだけである。是が當世の他の多くの藝術と、どうしても差別せられねばならぬ要點かと思ふ。
 
          九
 
 西川一草亭主人のまだ健在であつた頃、私は幾度かこの一つの問ひを携へて、門を敲かうと企てたことがあつた。風景は果して人間の力を以て、之を美しくすることが出來るものであらうかどうか。もしも可能とすればどの程度に、之を永遠のものとすることが許されるか。我々は旅人であるが故に、たゞ一佇立時の怡樂を以て、萬劫の因縁を結べば足る。次々去つては又來る未知の後生と、それではどういふ風に心を通はし、思ひを一つにすることが出來るかゞ問題なのである。花は日を經て萎れ草木は枯れ朽ち、象瀉の海はあせ松島はポン/\蒸汽の巣にならうとも、曾て類ひも無くそれを美しくした國民の心情は、時をかへ處をかへて幾度でも、隨意にその求むるものを求め出すのでは無かつたか。是にはつきりと答へ得るやうな、修行を積んだ先覺と同じ世に住みながら、僅かな怠りの爲に永い疑ひを殘してしまつた。一草亭の流風餘韻は、今も傳はつて江湖に在るのであらうが、それを收束するにも再び又若干の歳(321)月を要する。新たに生まれんとするものを待ち望む力を與へられぬ限り、名所古蹟がまだ暫くは、我々を誘導するのも是非がない。國土開發の悠揚たる足取りに比べると、人の生涯の如きはあまりにもはしたである。一代の長さに完成し得ないからとて、何の寂寞なことがあらう。山川草木の清く明かなるものは、太古以來悉く皆、我々の味方では無かつたか。人を幸福ならしめずに終る筈が無い。學問藝術も亦復是の如し。たゞ大事なのは發願である。
 
(322)     春を樂しむ術
 
 公園の目的が、もし市中に閑靜なる一隅を保有するに在つたなら、日本などではこれ位の難事難業はあるまい。日曜では無くとも、また少々は雨が降つても、四時を通じて人の數は花の數よりも多く、芝生踏むぺからずの規則を勵行すれば、大抵の春の日には市場以上の雜踏を見、朝から夜分まで腰かけなどは空いてゐた例《ためし》が無い。京都では動物園内に敷物を敷いて、三味線で酒盛をする群をさへ見かける。いはゆる範を西洋の諸國に採つて、立派に計算設計したいといふ技術者は、恐らくこの國民が非凡なる公園利用者たるべきことを、豫測し得なかつたのである。
 さうかと思ふと郊外の各種鐵道の如き、如何なる標準で乘客數を勘定して置くのか、未だ嘗て花時にはいつて、滿足に人間を運送し得たことが無い。女や子供の泣きわめく聲を聽けば、これが折角の休日を保養すべく、遊覽に出かける道中であらうとは、何としても考へられぬ。火事の見舞でも大水の立退きでも、今日はまだこれよりもはるかに落付いてゐるのである。さういふ?態をさも當然の現象の如く、また時としては泰平の兆候かの如く認める者が多い故に、しば/\人が甚だ無意味に死ぬのである。
 警察や交通設備の不十分を責めるのもよいが、責めたのみでは改良の出來ぬ原因が尚殘つて居る。もうそれを察して見てもよい時期では無いかと思ふ。なるほど日本は無暗に人が多い。殊に都會の周圖には押つぶされるばかり集合して居る。しかもその年々の増加率だけならば、前もつて計算して見ぬ者が宜しくないが、實は數字以上に別に種々の誘引と衝動とが、人をぢつとして家の中に置かぬといふことを、未だ何人も研究して見ようとしなかつたのである。
(323) けだし都會人の土を懷かしむ情は、一般人類の本性に基づくもので、五層七層の高樓に住し、たゝいた路ばかりを歩いて居る國において、寧ろ一段と痛切であるわけだが、日本の春は外光が極度に花やかなるに比べて、家は通例暗くかつ窮屈に作られてある。壯者の大多數は屋外の生存を原則として居たのに、近世の町屋住居には庭も縁側ももう無くなつたのである。殊に東京では大震災が、多くのものを奪ひ去つた。空は長閑に霞んでも一羽のつばめも來ず、電燈の影に嚇されて一匹の蝙蝠も飛ばなくなつた。眼に一寸の緑も見ずに、寢轉んで一日を送ることは、それ自身が大なる疲勞である。
 その上に今の住民の大部分は、新來の田舍人であつた。春と秋との野遊び山遊びを、年中行事として守つて居たほどの人々には、久しく草木や水の音と別れて居るに忍びない者が多かつた。そこへ地方からは更に澤山の遊覽者が入つて來て、樂しげに見物して通るのである。外は極樂といふ感じを、起さゞるを得ないでは無いか。
 政府自ら經營する交通の機關が、あらゆる方法を盡して乘客輸送の不平均を促進するの實あるは奇觀である。普通の見物や物詣りは是非無しとするも、公私各種の會合をこと/”\くこの季節に集注せしめ、故意に都市の混亂動搖を招かうとするのは、誠に解し難い惡癖と言はねばならぬ。
 世相の變遷にはこの類の一進一退が多い。例へば婦人が男子と競うて屋外の生活を愛好し、友を誘ひ兒を連れて、どこまでも出てあるくことは、以前の都人の常の習ひでは無かつたけれども、今は當然の改革として、要求せられ又承認せられる。町に歩く者のこれが爲に倍増したことは言をまたぬ。これと同時に他の一方に在つては、花見といへば白晝青空の下に、酒を飲んで醉舞する舊式は、日本の國柄として永くこれを持續せんとするのである。單に公園と言はず汽車電車と言はず、到るところこの新古二樣の生活法の接觸に由つて發生するところの混亂は幾何なりやを知らぬが、それを整頓して見たいといふ考へは、保守派も進歩派もまだ抱いたことが無いらしい。
 人の一生の誠にあわたゞしく、春光清明の日の至つて稀であることは、新らしい時代になつて殊に切に感ぜられる。(324)生れて憂苦多き人々が、忘却をもつて一時の轉換を求めるため、一種單調なる興奮手段にのみ狂奔するのも、あるひは自然の勢ひであるかも知れぬが、今日の事態に在つては國民は一日も早く、他に尚一段と有意義なる三春行樂の手段を發見せねばならぬ。讀書や會談や、靜かな生活を欲する者には一切の機會を鎖し、市民の全部を驅つて激烈なるジャズバンドに踊らしむるをもつて、社會の自然の如く解するは大なる不親切である。
 
(325)     武藏野雜談
 
       一 半鐘の栽培
 
 日本では磨針嶺《すりはりたうげ》傳説とでも名づくべき話、即ち學問に倦んだ學生が、路に老人の鐡棒を磨して針を製せんとするを見て發奮したと云ふ物語の變形したものに、江戸の二代將軍鷹狩の序田舍の寺に立寄り、眉雪の老僧が果樹の接木をするを見て、いつまで生きて居る積りかと笑ふと、名門の祖先となりたまふべき御方にも似合はぬ詞と、あべこべに遣り込められたと云ふのがあるが、作り話にもしろ理屈は立つて居る。東京の西郊、所謂四谷丸太の産地の村々をあるくと、高地の乏しい此地方としては甚だ必要な火見櫓兼半鐘臺の高梯が、多くは一本の杉の木で作られて居るのを見る。下から三四尺の處で二つに分れ、雙方同じ程の太さで間隔も二尺以内、良い工合に眞直に延びた中へ、鐵棒を通して足掛として居る。如何に杉の名處でも、よく又都合のいゝ木が見附かるものだと感心して居たが、後に注意して居ると、それはわざ/\火見櫓用に、始めから計畫して作るのだと云ふことが判つた。總體に此邊の杉林は密植であるが、其中でも特に林のはづれなどの監視しやすい場所に、同じやうな二本が特に接觸して栽ゑてある。此が成長する間に連理となり、右に言ふが如き二股杉が出來るのである。古來箸を立てゝ根芽を生じ成木したと云ふ二本松二本楠の類が、到る處の神社に多くあり、又鳥居木|女夫木《めをとぎ》などゝ稱して、社頭路傍に連理の木のあるのを考へると、此(326)風習は遙かに火見櫓の制無き昔に起つた所謂相生松の流裔であらうと考へられる。火の見にする木はどうしても三十年以上を要する。七代の子孫の果報を汲み上げるやうな、乃至は五十年据置の高利公債を起したいと云ふやうな人々には、とても馬鹿々々しくて出來ぬ計畫であるが、村の長老等は木の未來と共に、村の未來を豫測すること、我々が明日の米を支度する如く、三十年後の隣村の火事を發見して半鐘を打ち、且つ見舞に行くべく、今からこの杉の木を栽ゑるのである。それよりも猶驚くのは、日向の那須山では藤橋を掛けるのに、橋戸の四隅に大木の杉を見立て、最も長い藤蔓を其幹に縛りつけて釣るのであるが、其杉はどう見ても八九十年の物で、まだ大丈夫であるのにも拘らず、其傍には早十年も前に仕付けたかと思ふ素性の善い杉の若木が四隅に各一本づゝ栽ゑてあつた。此木の役に立つ頃には、現在の村民は或は全部新陳代謝して居るかも知れぬと思つたら、村の生活の悠久なことが深く身に沁みて感ぜられた。或は之を聞いて、それは蟲が果實の中へ産卵管を插込むと同じき、本能のやうに考へる人があるかも知れぬが、假に農民がそれ程意識の乏しい者であるとしても、其本能の豫期を覆へすやうな世の中の變遷は、愈以て大事件であると言はねばならぬ。
 
       二 野の色々
 
 大宮から二つに岐れて、汽車の旅は左の仲山道の方がずつと面白いかと思ふ。降りてよく見たことが無いから分らぬが、大宮より熊谷までの國道は大抵鐵道より東であるにも拘らず、汽車の西へ五町八町を隔てゝ、並木めいた大きな松の林が、荒川流域の低地に連つて居る。秋の木の葉の紅くなる頃は、其松の間に雜木林が美しく現はれる。夕日の時刻に通つても朝日の頃に通つても、此松原は常に美しい。だから汽車から東の村々の樣子は、今以て見殘しが多からうと思ふ。
(327) 熊谷を過ぎて西北へ進むと、暫くの間は右側の方が面白い。新らしい籠原の停車場から深谷までの間は深い松林であつて、國道も鐵道も其林の中を貫いて居るのである。冬も霜月に入つてから、我々は多勢の子供をつれて此林に遊んだことがある。枯れた薄を分けて行くと、櫨や海老蔓《えびづる》の外に思ひがけぬ草までが紅葉してまだ殘つて居る。龍膽《りんだう》の花にはまだ咲き盡さぬ蕾があつて、しかも其葉は鳶色に照つて居る。處々の一區割を伐り拓いて日當りをよくし、五戸八戸の小部落が別天地のやうに住んで居る。漸く林が薄くなつて町に近づくのが惜しいやうであつた。汽車が出來てから餘程伐られたかと思ふが、それでも此邊にはまだ昔の武藏野が豐かに殘つて居る。
 秩父へ通ふ鐵道には又まるで別な趣がある。荒川の水が見えるやうになると、もはや山村と云ふ感じである。其手前に數分間雜木林の中を走る處がある。此林は大宮公園の後の椚《くぬぎ》林などと違つて、薪の爲に立てゝあるのでは無いらしい。多分は護岸の工事もしくは海苔の養殖に用ゐる麁朶《そだ》にするのであらう。根もとから何度も苅つたかと見えて細い木ばかりである。其隙間からちら/\と日光の透るのが如何にも快い。明かに今風の造林法であることを知りつゝも、自分は兒玉黨の若侍などが鹿獵をして日を暮したのは、斯う云ふしもと〔三字傍点〕原であつたらうかと、考へずには居られなかつた。
 しかし本式の武藏野は固より此方面では無かつたのである。鎌倉道を兒玉比企よりもずつと南へ下つて、汽車を引合ひに出すならば、川越國分寺間の私設線と青梅行の小鐵道との中間の、幅なら二里三里の平原が、最も武藏野の國を見るに適した地方かと思ふ。開發の最も新らしく荒野の面影が處々に遺つて居る點より云へば、今の甲武線の兩側の方であるが、強い武士と荒い鳥獣との交渉は、却つて稍里近い横山氏平山氏の故居の周圍を求めねばならぬ。多摩川の左岸を斜めに岡越えして、入間川の水域に入るまでの間に、多くの歌名所も散在して居るのである。
 
(328)       三 江戸の鹿
 
 定め無きものは必ずしも人世ばかりで無い。天然の無常迅速も亦驚くべきものがある。人は定まつて成長し、偶を?《もと》め子を設けて死ぬ。所謂人生の四季は寧ろ規則正しくある。利欲と飢渇と是亦常住である。桑田碧海の如き激變は之を人間界に見ることが出來ぬのである。之に比べると自然界の未來は遙かに不確かである。我々は東京に住むが故に殊に之を感ずる。前年巨獣の骨を掘出した田端停車場の後の崖は、人と風雨とが追々に土を崩して、此節は胞衣《えな》神社の前の路は殆と全部が空中になつた。田端の田は埋められて宅地となり、下から都會が潮の如く押寄せて來る。しかも一たび道灌山の最初を囘想して見れば、此邊などは恐くは武藏中の最も淋しい部分であつたらうと思ふ。舟も通はず人も歩かれぬ廣漠たる沮洳の地を控へた高原の突端は、決して敵を持たぬ者の據つて住むべき場所で無かつた。住宅は勿論のこと、薪採りにも畑燒きにも、斯んな處まで出て來ねばならぬ程、豐島郡の土地は不足しては居なかつたらうから、此邊の林には海路に疲れた大小の渡鳥、さては追詰められた野獣などが、多く集つて住んだことゝ思ふ。
 此話を空想と思ふ人は、失禮ながら江戸の歴史に暗い人である。くどい證明の必要は無い。今の田端日暮里の停車場と、一重の岡を隔てた六阿彌陀の與樂寺では、將軍家康入部の當時、一日遊行の序を以て立寄られ、堂の縁側に腰を掛けて鐵砲を以て鹿を射留められたと云ふ記録がある。もし又之を以て留山の松蕈か釣堀の鯉と邪推する人があるなら、ずつと懸け離れた例もある。即ち元文年間に出版せられた飛鳥山十二泉と云ふ繪本の中の道灌山秋月の圖にも、此岡の端に鹿の立つて居る所が描いてある。此時代までは、夜分來て鳴く位のことはあつたから畫いたのであらう。
 太田道灌が狩に出て蓑を無心したと云ふ高田の山吹里が、假令今日は早稻田大學生の下宿屋町になつて居たとても、些かも此口碑を怪しむ必要は無い。あの邊一帶は岡には林があり谷にはニタがあつて、猪鹿のよい遊び場であつた。(329)岩山の險阻こそは無いが、茂み隱れに多摩の奧まで奔馳することも自由であつた。故にコ川將軍家でも以前は?此附近に狩の催しがあつた。所謂釋寺野(石神井)の鹿狩、駒場原の猪狩などは、今の我々が半日の散歩區域に於ける昔の活動であつた。獨り此邊ばかりでは無い。村尾嘉陵老人の紀行を見ると、仲山道を北へ二里、戸田川を渡つて川口の原へ入ると、官道の南側は廣漠たる楢の林で、其中を鹿の往來するのを望み得たと書いてある。此が今から僅か百年の昔であつたことを考へると、獣の世界の有爲轉變こそ、寧ろ數十倍の歎息に催して居ることがわかる。右の道灌山の胞衣埋場から、谷中染井の埋骨場に掛けて、人類の痕跡は日ましに充溢して行くのに反して、自然界の變動の儚さと言ふものは、世を擧つて之を閑却し忘却することである。近頃一つの滑稽な話は、此冬の大雪の朝、田端の汽車道の近くで人が大きな熊を捕へた。秩父の奧山から迷つて出たのだらうなどゝ騷いだら、豈に圖らんやあの附近の新開地に住む見世物師の飼つて居る熊であつて、首に太い鏈が附けてあつたと云ふ。ハイネのアッタトロールなどを思出さずには居られない。
 江戸の場末には多くの諏訪神社が勸請せられて居る。例へば高田の諏訪の森、小石川の諏訪町の如き、日暮里にも亦此社がある。今は子供の遊ぶ里中の社であるが、記録に傳はらぬ眞の由緒は別に之を想像することが出來る。此神の中世の職掌は狩獵であつた。七十五箇の鹿の頭を供へる祭は永く本社に於て行はれ、古く移された薩州などの諏訪神社では、更に又鷹司の家の神としても認められて居る。武藏の原の狩の獲物が最も豐饒であつた時代に、一つには天神の惠を感謝して其永續を希ひ、二つには殺生の不安を慰められんがために、尾花を小屋に葺いて一期の精進をすることが、三四百年前の江戸士人の眞率なる習慣では無かつたらうか。野の鳥獣の減少と共に、單に此神の性質のみといはず、武家の氣風も亦次第に變つて來たやうに思はれる。
 
(330)       四 街道ばた
 
 京王電車が府中町まで開通した翌々日の十一月二日、記念の爲に府中から立川迄、一里半ほど甲州街道を歩いて見た。ほゞ東から西へ通つた良い路で、北多摩郡府中町・同西府村大字本宿・谷保村大字谷保と、僅かに畠地を隔てゝ屋敷が兩側に連つて居る。府中は郡役所も在る町だから東京風の建築が多いが、片町屋敷分と云ふ邊から本宿にかけては、大部分昔の儘の家並である。何と無く見て行く内に心付いたのは、路傍の家が兩側とも殆と一軒も殘らず東を入口にして居ることである。それから少しづゝ氣をつけて見ると斯う云ふ事が分かつた。
 此邊の民家は何れも草葺きの破風造りで、庇は無い方が多く、平入の戸口は正面右手になつて居る。家の間口と奧行は大體三と二位の割合の長方形で、正面の入口より左の部分と、家の左側即ち奧座敷の突當りとは明り障子になつて居り、障子の外は表側のみ縁が有つて、それが濡縁であるのが普通らしい。府中から谷保までの間は右の如き家造りが悉く東を向けて建てゝあるので、其結果は道の右側(北)に在る家は街道に面して開いて居り、左側(南)の家は何れも壁を見せて居る。
 次には裏口のことであるが、多摩地方の村里では通例此建て方の家の、裏口は表口の突當りに開いて居る。是は光線の爲にも屋外へ出る便利の爲にも最も自然な方法であると思ふが、右の甲州街道の家々に限り、家の右側即ち北を向いて裏口のある者が多い。道の南に在る家は勿論、道の北に在る家にも裏口を北に開いたものが多い。從つて井戸も家の東北隅、即ち表裏二つの口の間に設けてあるのが普通だ。其理由は右の如く縱隊編制の家々で、おまけに屋敷堺に垣を設けぬ者が少なくないから、裏口を屋後に開くのは西隣に迷惑をさせることになる爲であらう。
 道路から家々へ入るには、家の正面即ち屋敷の東部を通行するので、北側の方では座敷の前を、南側では勝手の前(331)を過ぎなければ戸口には行かれぬ。しかも可なり大きな家でも中垣も目隱しも無いから、前者に在つては來客は縁先で用を濟まし、後者に至つては急ぐ人は臺所から入つてしまひ、結局表の戸口の用は少ないわけである。家と道路との距離は至つて近く、北側の小家には僅か三尺か一間を隔てゝ障子を以て道路に臨んで居るものが稀で無い。家に居て外を通る者を見るのには、北側の民家の方が遙かに便利で又快活である。
 道傍で何かの商賈をする家は、近頃になつて著しく増したらしいが、是にも北側の方が一見簡便らしく見える。即ち今まで障子の立つて居た家の左側の一部を土間に變形して、一間ばかりの庇を差掛けるとすぐに店になる。尤も此場合には東の縁先を壁にしたり、通例家の西南隅に在る上雪隱を他へ徙《うつ》したりする必要はある。南側の方では道に面する部分は元來が必要の多い勝手元であるから、之を店先に變更することは六つかしかつたと見える。其爲か此路上に、僅か五つ六つある町家風の新建ては、何れも南側の方ばかりにあつた。通行人の目から見ると、一體に南側の方が淋しさうだ。
 然るにちよつと不思議なことは、村でも大家と言はれる程の門構への立派な家は、北側には一軒も無くて皆反對の側のみに在る。是は考へて見ると理由のあることで、北側は快活なだけに外に近くて淺まである。奧座敷の縁先を閑靜にして植木でも裁ゑて見ようと云ふのには、よほど引込めて家を建てぬ限りは、路から左の方で無いと都合が惡い。そこで次第に金の有る者は南側の屋敷を好むやうになつたのであらう。往來の人馬が家の中から見えたり、物賣場を手輕に拵へ得たりすることは、彼等の問ふ所では無かつたのであらう。
 是と云ふのも凡て屋敷地の不足から來て居ることゝ思はれる。最初官道の南側に宅地を割つて渡す時に、八釜しかつたのは表間口の制限であつた。農を主業とする民家を成るべく多く路傍に住ませようとした爲に、百姓は此だけの間口では路を正面として勝手の良い家は建てることが出來ず、殊に左側の方では上州玉村邊のやうに路に背いて家を構へなければ十分の日當りを軒先に得にくかつたので、此の如く平人の家を横向きに立てる結果になつたのである。(332)谷保村の中でも大字青柳や石田新田まで行くと、屋敷が十分であるから常體の如く、長方形の家を南向きに立て、道の左手に在つては道路とは無關係に、すき勝手な屋敷の取り方をして居る。
 家の前面を開き背面を塞ぐことは、日本人の天性と言つてもよろしい。從つて家は南か東を正面にしなければ建てられぬ筈である。それが甲州街道の實例の如く、外部?況の制限を受けると、斯うして最小限度の妥協讓歩をしてすます。北國筋の如く妻入の家を普通とする人民は宜しいが、平入人種の方では道路の傍に住むと、度々斯うしてまごつかなければならぬのである。狹い間口に屋の棟を竝行させようとすると、終には東京の下町に見るやうな、中程に繼足しをする家を建てゝ、雨漏りと明り不足を絶えず苦勞にせねばならぬ結果を見るのである。
 其後折があつて甲州街道に併行した小川街道と五日市街道の一部分をあるいて見たが、此邊は屋敷の表間口が無暗に廣くて、稀には横向きの家もあるが、丸で趣を異にして居る。爰ではたゞ開墾者を淋しがらせぬ爲に、街道の形と名を貸したのである。
 
(333)       武藏野の昔
 
          一
 
 近年の所謂武藏野趣味は、自分の知る限りに於ては故人國木田獨歩君を以て元祖と爲すべきものである。國木田君は今から二十一年程前、澁谷の停車場から少し西北へ入つた處の丘の陰に住んで居て、閑さへあれば東京と反對の方向へばかり散歩をして居つた。勿論其時分にはあの邊にも御影石の門の別莊などは無く、又「たばこ」と書いた紅い看板なども無かつたが、しかも住民の多數は市街に由つて生計を立て、寄ると障るとの立話も東京の事ばかりであつたのに、同君は其方はさまで頓着をせず、大根畠の先の薄原や、其横手の楢の林などを非常に壞しがり、其林の中に百舌の聲や風の音を聞き、又其樹の間から甲州境の山々の雪の風情を見出した。さうして有名な話上手を以て、昔の事を愛する友人たちを感動させ、到頭みんなを散歩好きの武藏野好きにしてしまつたのである。
 國木田君はこの中澁谷の宇田川から十町も出て見れば、もう古今集や太平記の中の武藏野が横はつて居るやうによく話し、又自分もさう信じて居たらしいが、今になつて見ると、彼はやはり享保元文の江戸人の、武藏野觀の傳銃を帶びたものであつた。
 江戸時代の地理學者の珍重した參考書は、古い所では更科日記、中古の紀行では道興准后の廻國雜記などであつた。成程此等の本の或部分は、殆と江戸に居て書いたかと思ふほど江戸中心であつた。さうして都會人は概して草鞋が不(334)得手であつた爲に、あらゆる武藏國の名所を出來るだけ江戸近くに取寄せて樂しまうとし、それに便宜を供する人の説を喜んで聽いた。所謂言問の渡附近の猫の額ほどの區域へ、隅田川關係の一切の舊蹟をぶち込んだのも決して近頃の事で無い。名所が少ないと誠に歌が詠みにくい。さうして江戸には大に和歌が流行して居たのである。
 斯う云ふ心持の人の隨筆類を、我々はいつの間にか色々讀んで居たのである。其上一歩都門を出づれば即ち武藏野だと云ふ思想は、今の人に取つても決して不愉快なもので無かつた。八犬傳が江戸で高評を博したと云ふやうな社會心理は、今日迄も續いて存在する。
 國木田氏が愛して居た村境の楢の木林なども、實は近世の人作であつて、武藏野の殘影では無かつたのである。澁谷邊から西北へ二里も出ると、それが名物四谷丸太の杉林と代つて居る。杉林は特に人家に近く立つて綿密な管理法が施してあるから、誰が見ても古い天然?態と誤ることは無い。楢林もそれと同じで、江戸の燃料は伊豆の大島から船で喚ぶ程の需要が有つたから、近在の農家では計算上?畠に拓くよりも、薪山を立てゝ置くのを有利としたのである。薄山なども草屋根を葺く爲に殘して置いたものでも無く、事に由つたら八月御月見の晩の用に、市中へ賣りに出るしろ物であつたかも知れぬ。
 しかしながら自分等は斯う考へるが爲に、この武藏野に對する情趣を些しでも害せられては居らぬ。名所でも舊蹟でも無い海近い曠野が、此樣に著しく變つて行くことは、それが既に新しい興味である上に、なほ故人の詩を釀した自然だと云ふ記憶がある。唯どうしても氣になるのは當節の頻りに研究々々と云ふ人たちが、さも/\東京の武藏野と言はぬばかりに、此邊を中心にした江戸式の心持で話をすることが、如何にも裏門から覗いてあゝ結構な御住居と言ふやうに感ぜられることである。
 そんなのは只武藏野趣味と言ふが宜しい。武藏野研究と云ふ事は是からの仕事である。それには今些し昔の心持になつて物を見ねばならぬ。
 
(335)          二
 
 武藏野の宏大なることは古い歌に段々と歌はれて居る。是は明かに弓の筈で萱荻を押分けて旅をした人たちの感じでは無い。然らば大昔の歌人などは、如何なる機會に武藏野は廣いと云ふことを感じ得たか。之を最初に考へて見たいと思ふ。
 廣い狹いは本來比較の語である。此野に成長し此野で終つた人々が、或時突然と此樣な感じを起したとはどうしても思はれぬ。中古以後の歌などは京の歌人が居ながらに詠んだものだから宛てにもならぬが、やはり廣いと云ふ噂は旅人から傳はつたものであらう。其旅人等が立留つて此野の果も無いやうな有樣を嗟歎した場所は、恐らくは通路の衝に當つた見晴しのよい岡の上であつたらう。近頃でも遠足の人がよく登る百草《もぐさ》の松蓮寺の後の山、或は所澤西南の荒幡の新富士の山などは、假令精確に其場所で無かつた迄も、昔も略あの近邊の高みで、月の草より出で日の草に落つるを眺めたことゝ思ふ。
 荒幡の富士の岡は即ち古くから、村山とも狹山とも呼ばれた一群の丘陵の東の端である。入間川の低地に沿うて南下した中古迄の道路は、確かに此邊と指すことはまだ出來ぬが、何でも此丘陵地の何れの部分かを越えて、多摩川の岸へは出たやうである。今日の人の考へでは、此ほど廣い平地が有るのに、好んで山坂を上下するわけが無いやうであるが、西も東も同じやうな林藪の中を、迷はずに通過する爲には、多少の迂回をしても折々は高きに出て前途を見定める必要があつた上に、此通路の必ずしも迂回で無いことは、今尚引續いて村山の東麓を往來して居るのを見ても分る。
 昔の語では野中の小高い場所を「のづかさ」と謂つた。野道の單調は旅人を倦ましむるものである。たま/\斯う云ふ場所に行き當れば、單に休息の爲にでもわざ/\登つて見たくなるのは人情である。我々は又昔の人が馬や車に(336)重きを置く今の人のやうに、それほど坂路を苦にしては居なかつたことを考へて見ねばならぬ。殊に日本人が傾斜地に住むことを好む人民であつたことをも考へねばならぬ。狹山で言ふならば今の柳瀬川の流が、以前は水も多く且つ勝手次第に流れ、?徒渉の人に不便不快を與へたことを考へねばならぬ。又昔の道路が正式に測量して開鑿せられたもので無く、多くは自然に踏み明けた前代人の足跡から發達したものであつて、しかも平原の中には其類の原始的通路が縱横に走つて居たに反し、丘陵部に於ては自然に地形の制限があつて數も少なく、又之を辨別すべき目標がたやすく得られたので、旅の者に取つては些しの坂路の辛勞に代へられぬ便宜のあつたことも考へて見ねばならぬ。更に進んで考ふべきことは、後世の茶店掛茶屋に該當する清水の分布である。是が思ひの外有力に古代の路線選定を左右して居つたのである。
 
          三
 
 武藏野の開發に就てはこの一千年の間、水の供給が常に最も重要なる條件であつたと思ふ。多摩と入間の二大水系は、勿論今よりも遙か多量の水を運んで居たであらうから、其岸に近い居住地では、是は問題でも無かつたか知らぬが、行いて川の流れを汲み得る區域には限りがある。しかも多摩川に在つては面積の割に支流が少なかつたやうである。
 茲に於てか例の遁げ水と掘兼の井の話が永く傳はつた。掘兼は文字の如く、地を掘つてたやすく水の得られなかつたことを意味して居る。多大の勞力を費して僅かに獲得した水であるから一層貴重せられた泉である。甚だ恩に着せた井戸である。弘法大師が楊の枝でちよいと突いたら出始めたと云ふ名水などに比べると、井戸それ自身として必ずしも名譽ある名前では無かつた。
 現今でも狹山附近の平野の井戸には、非常に深いものが多いさうである。しかし之に由つて昔の掘兼の井も此通り(337)の、百尺もある井筒のことゝ想像するのは、恐らくは物を知らぬ人の説であらうと思ふ。自分等は竪に地底に向つて井を掘るの技術が、さう夙くから東國の田舍の開墾地まで、入つて居たとは信ずることができぬ。追々調べて見たら何時頃からと云ふことが分るであらうが、是は何でも下財《げざい》とか黒鍬とか謂つた特殊の勞働者の技術で、鑛山などの進歩と關係のあるものらしい。普通農家の鋤や鋤簾《じよれん》では、狹い穴を深く穿ることはむつかしい上に、素人の細工では?えらい勞力が徒爾になる危險がある。乃ち豫め地面の上からどの位掘り下げたら水が有るかを、知るだけの智力が必要であつたのである。
 然らば中世以前の井とは如何なるものであつたか。それは「ゐ」と云ふ日本語について些しく考へて見れば分ることである。「ゐ」は人に在つては居と書き、鳥に在つては棲と云ふ漢字を宛てゝ居る。即ち一つ處に止まつて居ることである。流れる水を何かの方法で溜めて置くのが水に關する「ゐ」であつて、是に支那語の井の字を用ゐた爲に、すべての「ゐ」が昔から所謂筒井筒であつた如く人が誤るのである。今でも灌漑用の爲に川の水を堰き留めたのを「ゐ」と謂ふが、是には堰の字が當てゝある故に、本來二つの者の同じであることを忘れた人が多い。
 川の無い地方の井は、或場合には山の雫を溜め、或は又地下水の露頭の傍を掘り凹めて流さぬやうにした。何れも丘陵の平地に接する部分に於て之を設けることができたもので、至つて高低の少ない武藏野などでは、地形上井に適する場所は既に少なかつたのである。其上に此野では土の下がどうなつて居るのか、水の分布が甚だしく不平均である。斯ういふ場合には通例稍濕氣の有る僅かの傾斜地に就て人力を加へ、横又は斜に少しばかり土を取ると、自然に附近の搾れ水が集まつて來る筈であるが、武藏野ではさう云ふ手輕な横井の計畫が往々むだ骨折に歸し、新たに分家出郷を作らうとする者を失望させたのであらう。さうしてそれを掘兼とは言つたのであらう。或一箇所の井戸だけに此名が有ると云ふのは、名所を珍重する後世の人情であらうと思ふが、只是を或社の神の御コに結び附けて傳へて居るのは、多少の理由が無いでも無い。
 
(338)          四
 
 遁げ水の話もやはり掘兼の井と深い關係があるらしい。是迄普通の説明では、恰も沙漠の幻影などのやうに、遠き野の末に水の流れのあるを認めて、急いで之に赴けば忽ち其所在を失ふこと、水に心が有つて逃げ廻るやうであつたが故に此名が有るといふのであるが、此の如き空中現象は曾て之を實驗した人のあつたことを聞かぬから、名稱に由つて空に考へ出した説と見るの他は無い。第二の説は、にげ水は苦水の轉訛だと言ふのである。海の水が高潮となつて耕地に上り、作物に害を與へるのを苦しんだ人の言ひ始めた名稱であらうと言ふのである。川尻附近の近代の新田場ならば兎に角、海から懸け隔たつた武藏野の平原に於ては到底有り得べからざる話である。
 或は又斯んなことを言ふ人もあつた。狹山の近傍に俗に年不取川と云ふ小川がある。此川は毎年十二月末になると水が悉く地の底へ流れ込んでしまひ、次の年の始めまでは少しも地上を流れない。年取らずの名も其から起り、又逃げ水と云ふのも此川の事であると。此説は一見奇怪のやうであるが、水の流れの時あつて地下に匿れるのを、逃げると謂つた點だけは有りさうなことである。何れの地方の水無瀬川でも、梅雨季等の水量の多い時節には常の路を流れ、冬分の渇水時ばかり地下を通るのが普通であれば、此話のやうに除夜の晩に限つて流れぬと言つたのは話であらうが、斯うして逃げてしまふ水は武藏野には隨分多いらしいのである。
 勿論自分はまだどの川がどの邊で逃げると指して言ふことはできぬが、此野の端々に思ひ掛けぬ所から幾つもの泉が湧くのを見ては、地下水の頗る豐富なるべきを推測し得るのである。察する所此平原は全體に地底の磐が遠くて、砂礫の層が發達して居る爲に、此の如く意外なる水の分布を見るのであらう。
 もし此想像が當つて居るとすれば、遁げ水は其附近に住み又は往來する者に取つては迷惑至極なものであるが、それと同時に武藏野全體としては、此事實から大なる利益を受けて居る。早い話が東京の大都會の如きも、もし此地方(339)の野水が常道のみを走つて居たならば、とても存立することが出來なかつた。神田や赤坂の岡の麓に、最初半農半漁の小部落が起つたのも、全く此近くに地下水の露頭があつた爲である。江戸が有力なる武將の城下となつてから後も、尚暫くの間は此二箇所の丘の下の泉を掬んで居た。愈人の數が増加してそれでは不足するやうになつて、始めて郊外二三里の間に在る若干の井の頭池を物色して、簡易水道を敷設した。遠く玉川の水を引くことになつたのは、それから又何十年かの後のことであつた。市民を養つた近郊の水田と野菜畠も、やはり直接間接に或地方の遁げ水の思惠を受けて居たのである。
 故に武藏野の文明史を研究せんとする人に取つては、水の問題は最初に注意すべき事柄である。
 
          五
 
 武藏は其面積の五割以上が平原であるが、よく觀ると其平原にも多少の起伏がある。多摩入間の流に接した區域は勿論の事である。川から餘程離れた野中でも、處に由つては海拔六十何尺位から、急に四五十尺も降つて行く路がある。或は高地の端が小山の形を爲し、一帶の稻田に臨んで風景を爲して居る處もある。甲武線の沿道などは此變化の最も少ない部分であるが、それから右左へ僅か歩いて見れば、到る處此の如き細い低地が縱横に入込んで、平野の單調を破つて居る。
 東國では此種の帶のやうな低地を窪又はヤツなどゝ謂ひ、谷田の縁になる岡の端をハケと呼んで居るやうである。ヤツの表土は黒く細かく且つ深い。荒川左岸の村々に於ては谷《やつ》には今尚排水が不十分で、所謂摘田法に由るの外米作の出來ぬ箇處が少なくない。
 自分等が之に由つて想像するのは、中古の武藏野の今よりも遙かに足場の惡い濕地が多かつたことである。現在の如く何處でも自由に自轉車を飛ばし得るやうな道路になつたのは、ほんの數十年來の事である。其以前には雪が降れ(340)ば馬でも通れぬやうな場所が多かつた。殊に千年も前の天然?態に於ては、動植物の分布などもよほど今とは變つて居たことゝ思ふ。それが僅かの傾斜に由つて自然と水筋を掘凹め、其末が大川に繋がつて下流の方から、徐々に排水をすることになつて、いつとなく村に適するヤツ又はクボの數が増加し、開墾の土工が更に一層速かに、ヤツの上手を乾かす結果となつたのであらう。
 但し此場合に於ても、新村の興立に與つて力が有つたのはやはり地下水である。葦や水草の茂るやうな濕地でも、家用水は別に之を求めねばならなかつた故に、如何に燃料と秣が豐富でも、無肥料で米を作る地面が多くても、泉の無い原野には家を作つて來住することができぬ。然るに幸ひなことには斯ういふハケの陰には、必ず何處かに清水の出る場所があつた。是が武藏野に特有なる意外の一天惠であつて、やがて今日の如く殆と限界を知らぬ程の經濟發達を見た原因である。
 もしも武藏野の地の下が、今日迄の地質調査を以て十分とする程の單純なものであつたら、第一に帶見たやうな細長い谷《やつ》も出來ず、次には之を拓いた村々も起らず、何時までも淋しい牧場であつたことゝ考へる。それ故に農夫の泉に對する感謝は大きなものであつた。何れの谷でも峽通《はけどほ》りに奧へ入つて見ると、其行止りの附近には必ず宮があり、泉は其神社の御手洗になつて居る。社が先づ出來て御手洗は其爲に作つたやうに思ふ人が有るか知らぬが、清水はさう自由に何處からでも出ぬから、乃ち泉の所在に就て神を祀つたことが分るのである。社があれば之に仕へた寺が建つ。門前には二三の小家が出來、人が來て立止り、次第に其邊が村の中心となるのである。谷によつては中頃から清水の出なくなつて、痕跡のみを地形の上に留めて居るものがある。其場合には多くは社寺も人家も無いから、愈以て地下水の露頭が、部落の命の源であつたことを知るのである。
 
(341)          六
 
 用水を川上から引いて來て村の中を通すことになれば、地味の良い原野は何處でも開墾し得るのは勿論であるが、是は巨額の資金勞力の要る話で、よほどの富豪でも個人の力では先づ六つかしい。吾妻鏡には鎌倉の幕府が、若干の浪人を入れて土著せしめたと云ふ記事があるが、それは少なくとも今の所謂武藏野の中では無いらしい。川崎氏の祖先が公命を受けて、大規模の新田事業を實行したのは、僅かに二百年前の事であつた。其以前にも川越侯が野火止《のびとめ》用水を引いて新座地方を拓いた例などもあつて、稍有力なる領主が精確な豫算の下に著手すれば、利益の有ることは疑ひが無かつたのであるが、大體に於ては此野は明治大正の聖代を待つて、始めて大に榮えんことを期して居たものゝ如く、許多の生産力を未開のまゝに保持し來つたのであつた。
 其原因の一つとして自分の算へるのは、武藏平原の天然が大開墾を企つるに適する人物を出し得なかつたことである。平和時代の企業者と云へば金持であるが、會社も取引所も無かつた舊代には、長者となる爲には自在に勞働者を使つて有利なる勞作を爲し得るだけの大區域の既耕地が無ければならぬ。其樣な條件は此附近には具はつて居なかつた。今一段と古い時代には、大農は同時に武士であつて、人夫を集めるには便であつたが、領主としての勢力を保つ爲には戰をする必要があつた。少なくとも隣人の襲撃を防ぐだけの屋敷に據つて、家來を庇護せねばならなかつたのに、此平野の中では武士の居住に適する土地が至つて見出し難かつた。
 中世の武家の屋敷には必ず後の山と云ふものを要とした。敵の來るのを早く知る物見の岡、妻子や足弱を落すべき間道、兵糧を運んで置いて立て籠るべき嶮岨と云ふものが、無くてはならぬのに此地方には少なかつた。家の後は山であつても、遠く平坦な岡に續き、?四面から取圍まれる危險があり、一時なりとも寄手を喰止め得る流れや沼が少なかつた。故に萬一の場合を考へると、野中へ出て住んで四方を拓いて見たいといふ氣にならなかつたかと思ふ。
(342) つまり武藏野は、中古の小領主が來て住むのには些し廣過ぎたので、歌に詠まれて高名な割には、利用は進んで居なかつたのである。斯ういふ土地は狩場としては最も面白かつたであらう。又其片端は牛馬の牧として早くより用ゐられ、是に關係ある下賤の農夫が、極めて淋しく且つ悠長なる生活をして、歴史を超越した數百年を送つたものと思はれる。
 自分は此等の事情を考へ合せて、多摩郡の開けた順序を、用水の種類から知ることができるやうに思つて居る、即ち有名無名の人工水道から、家の水と田の水とを取る村は最も新しい。谷の入口にある井の頭から掬むものは、それより以前の中古の村である。大川の流れに沿ひ或は山地附近の清水を飲んで居る村は、それよりも更に古い。即ち多摩川秋川の岸に點在する村落を別にして見れば、村山一帶の丘陵地などが、武藏野中の一番古い土著地、即ち昔の中心と云ふことになるのである。尤も今住んで居る村の人が、果して舊家の末か否かは更に考察を要するが、村の在り處としては最も古いと言つてよからう。深い竪井に至つては個人的のものであつて、是を村全體の年代の標準にすることは先づ不可能である。
 
          七
 
 單に飲水といふ一點から考へて見ても、武藏野の野中には、江戸期のなかば以後で無ければ成立し得なかつた村が多いのである。然るに村人の一部では、近頃の新田に引越して來たやうな家なら、さう立派な素性の者ではあるまいと思はれはせぬかといふ懸念から、兎角我村の古かつたと云ふ證據を歡迎したがる妙な癖がある。是は道理の無いことではあるが、住民としては幾分同情すべき優しい感情である。しかし苟くも武藏野を研究すると云ふ觸込の先生方が、たやすく其類の速斷に同意をするのは面白く無いことで、それは全く土地の口碑或は舊記などに重きを置き過ぎる結果である。舊記と言つた所が二百年より古いものは甚だ少く、多くは三代四代前の口碑を書いた迄である。しか(343)も口碑ほど誤りが無いと云ふ證據の乏しいものは先づ無いので、言はゞ只一箇の參考、即ち他にも何かさもあるべしとの推定材料が有つて、始めて大に光を放つべきものである。
 其一つの例として話して見たいのは、此邊の村々で老人などのよく謂ふ鎌倉路と云ふ古道である。此名が殘つて居れば必ず昔の奧州街道の宿場でゞもあつたやうに決定してしまふが、第一それでは奧州街道が何本あつても足らぬ上に、單に鎌倉路と謂ふだけでは、何處からのと云ふことが分らぬ筈である。もし又其村の近所から鎌倉へ行く道であつたと言へば是は有得べきことで、つまりは江戸がまだ關東の中心で無かつた時代からの通路と云ふだけの話である。奧州と鎌倉又は鎌倉から京都、猶古い處では相模甲斐上野等の國府と、武藏の府中とを繋いだ官道が必ず何處かに在つたに相違無いが、其路筋を明かにするには、古今地形の變遷を考察すると共に、更に昔の心持に爲つて旅人の習慣を想像して見ねばならぬ。
 自分は既に古代の田舍人が山阪を苦にする者でなかつたこと、及び路傍の清水は、今の掛茶屋と同樣に必要であつたことを述べた。其上に猶言ひたいのは作り道の舊慣である。人は或は官府が令を下して足柄箱根の山道を切開いた記事、又は名僧や篤志の富人が渡津を設け橋を架けたとある言ひ傳へを見て、昔も今の縣郡の如く、始終官吏を出張させて、原中に眞直に道路を作らせて居たやうに思ふかも知らぬが、それが事實とは反して居る。此等の記事は寧ろ珍らしい事だから書き殘されたと見得る上に、又峠であり橋渡であつた爲に、特に此の如き勞費を掛けたとも云ひ得る。さういふ特別の事情の無い地域では、馬車も自動車も無い時世の事だから、大よそ人の通れる所、もしくは古來の選擇に因つて、自然に前人の踏み固めた足跡の上を歩いて居たことゝ思ふ。
 武藏が東海道に屬したのは中頃からのことである。最初は相模からよりも上野から入るのが本筋であつた。國府の地位が甚だしく移つて居らぬと假定すれば、北から來る者は何れ狹山の高地を目掛けて進んだであらうから、昔の路が其東側の斜面を通つて居たに相違なく、從つて北武藏の住人に取つては、是こそ眞の鎌倉路であつた。新田と北條(344)との戰争なども、現に此附近で取合ひがあつた。但し此から推して今の所澤街道の路線を以て、其舊蹟と見ようとするのはまだ早い。戰をしたからそこが道路とも言はれぬ。たとへ六間幅八間幅の大道があつたにしても、何も其上で戰ふ必要は無い。其路筋に町があり民家が多ければこそ敵味方共に街道を爭ふが、其頃はどうであつたか分らぬ。參謀演習のやうなつもりで數百年前の戰史を説く人が、今でも多いのは困つたものである。
 
          八
 
 田舍の昔を明かにする材料は、何と言つても遺物と遺跡との他には無い、圖書記録の類は勿論廣い意味の遺物の中ではあるが、肝腎の年代が何れも餘り古くないから話にならぬ。然らば此外に如何なる種類の遺物に目を著けたらよろしいか。それを些しばかり話して置きたいと思ふ。
 古人の遺した最重要の遺跡は今人である。骨格其他の體質上の遺傳から觀ても、其人々の今尚保存して居る大小種々の習俗感情等から推定しても、彼等の元祖たる人たちが如何なる人で、如何なる生活をして居たかは大體分るべき道理であるが、唯それが此土地と何程の關係が有つたかと云ふ一點だけが不明である。
 昔の人とても旅をしたかも知れぬ。久しく漂泊して永住の地を?めて居たかも知れぬ。又遠方から配偶者を喚ばなかつたとは限らぬ。嫁は兎に角聟には京都人を迎へるのが、昔の東國武家の流行であつた。さすれば今日の生活樣式には後年の輸入が多くて、是から舊武藏野の?況を想像することは無謀かも知れぬ。因つて我々は先づ今の武藏野の村々の成立を考へ、出來るならばどの邊が一番古い土著であつたらうかを決する必要がある。村の名が古い書物に有るから此村は古い、と言ふ人があつたら研究者では無い。
 自分は居住の起原を知る爲に所謂苗字の分布を考へて見たことがある。人も知る如く、只の農民が家號を名乘ることを許されたのは明治の始めからである。其際には極の小民の中には自ら我苗字を知らぬ者もあつた。役場員で彼等(345)の相談を受け、新奇な氏の名を發明して遣つた例も少なくなかつた。しかし大抵の場合には假令僅かな因縁でも、何か理由を附けて附近に最も普通な、世間體の惡くない苗字を用ゐたので、つまり現在の分布は概略其地方の特色を示して居ると言つて差支へがない。
 然るに今の武藏野住民の苗字は、果して我々に向つて如何なる歴史を語つて居るかと云ふと、之を要するに中古の開墾者である。他國からの來住である。即ち昔時地主が土地に由つて我家の苗字を作り出した時代から、此地方にずつと續けて住んで居たかと思はれる證跡は至つて乏しいのである。尤も是には家々の榮枯盛衰と云ふことも考へて見ねばならぬ。永い間には五十町百町の大百姓たちが零落して、其子孫は名も無き作男と爲り、何作何兵衛の通稱のみで、呼ばれて居る中に元の家號を忘れ、後に來た富人の眷屬の如く自分も信じて、明治になつて其苗字を貰つた者もまじつて居るのかも知れぬ。しかし少なくとも表層に現れて居る多くの舊家は、土地との關係に於てはそれ程の舊家では無い。斯ういふと頗る舊家の自重心を傷つけるやうであるが、私は決してその家々の古いことを疑ふわけでは無い。單に其苗字の出來た頃には、まだ其家は今の地に來て居なかつたと言ふだけである。
 日本の歴史には、一時盛んに所謂苗字の増加した時代がある。東國で言へば院政時代の些し前から、先づ鎌倉幕府の初期迄がそれであつて、即ち常に莊園の新立及び擴張と伴なつて居る。善惡色々の原因に基づく地方人民の大移動は、其後も度々あつたのである。南北朝以後にも新苗字は丸で出來なかつたとは言はぬが、規則正しく分地別家の度毎に苗字を設ける風習は無くなつて、人は?本の苗字を帶びたまゝ遠方まで移住したので、其後はさして増さなかつたやうに思ふ。近代の二三百年間は、百姓に苗字を用ゐさせなかつたのだから、勿論新たに生ずる餘地が無い。
 苗字は恐らくやはり名字と書くのが正しいかと思ふ。日本でも東洋の諸舊國と同じく、人の本名を喚ぶのは對等者間には無禮の事と考へられて居たから、別に太郎次郎平三源五などゝ云ふ字《あざな》を設けて互に呼んで居た。ところが一族が繁榮し人數が多くなると、同じ平姓の家の三番目の息子が何人も有つて、平三だけでは區別が付かぬ。そこで其人(346)の現に住んで居る地の名を添へて、平景時を梶原の平三と稱する樣にしたのである。
 其故に今日二萬内外も有らうかと思ふ日本人の苗字が、九割何分までは何處かの地名である。家の起原の明白な者は、尋ねて見れば殆と皆、最初の居住地附近に苗字と同じ地名が有る。中古の武家が其本領のことを、名字の地と謂つたのも此爲である。
 隣國に於ては新田足利小山那須、小田でも千葉でも三浦でも土肥でも此通りであるが、武藏でも有名なる七黨の系圖などを見ると、次男三男の家號を異にする者は、次から次へと其近郷の村の名を帶びて居る。地圖と對照して分家の筋を辿つて見ると、七つの大一族の利害が或は衝突し或は妥協した跡がよく分る。恰も源平合戰の些し前頃に、此國にまだ未開の原野の多かつたのを、斯くの如くにして追々に村にして來たのである。さうしてその澤山な新苗字の家々は終にどうなつたかと言ふと、少なくとも元の武藏の中には多く遣つて居らぬ。兒玉氏などは中國から九州へ掛けて擴がつて居ることは人の知る通りである。其分家の小代《せうだい》氏などは、後に肥後の西北隅に行つて住んで居た。猪俣氏なども珍らしい家號だが、是も意外な遠國に散布して居る。
 是は遠國に在るが爲に、本家の名門なることを示す必要もあり、又區別の爲に新家號を作る必要が無くなつたからでもあらう。兎にも角にも人が遠くまで轉住する風が始まつて、所謂苗字と居住地名との關係は絶えたのである。自分は一々の例に就て調べたのでは無いが、武藏人の苗字には殊に是が著しいやうに思ふ。薩摩や土佐の人の如く、縣内甲地の地名を苗字として、乙地に往つて住むと云ふものも少ないやうに思ふ。此中に何程の舊武藏人が混じて居るかは、此點だけでは推測し得ぬのである。
 
          九
 
 系圖と云ふものは單に甲が乙の子であり丙の孫であることを示すもので、多くの場合には一家の私事であるが、之(347)に比べると苗字の分布は、より多く社會史上の事實を含んで居る、即ち今ある田畠の地主、土地と人との關係が如何にして始まつたかを語るものは、此外には餘り無いのである。
 それと言ふのが何れの家でも、苗字は名の如く勝手に附けたり、吉凶に由つて改めたりするもので無いからである。古い程貴いものなるが故に、人は尋ね捜してゞも古い苗字を名乘らうとするからである。一つ/\に就て見ると何でも無いやうであるが、集め比べて見ると意外にも大きな隱れた過去を語るものである。
 苗字の中には武藏にしか無いと云ふやうな特別なものがある。少なくとも或一定の地方にのみ其起原の求められるものがある。兒玉や熊谷はたとへ中國九州に在つても、元は此國から出た家と見て先づは差支へが無い。是と同時に逸見《へんみ》とか小笠原とか曾雌《をし》とか帶金《おびがね》とか言へば、少なくも最初は甲州人であり、波多野とか澁谷とか股野とか言へば、假に國境を越えて眞直に遣つて來たのでは無いまでも、相模系の家であることは想像し得られる。
 此外に猶小林中村伊藤高橋由中の類の、どこの府縣に往つても五十戸や八十戸は必ずあり、しかもどの地方が發祥の地と云ふことのしかと分らぬ者も隨分多い。併し是とても家紋や名乘の一字などに注意して見ると、ほゞ其間にも區別のあることが知れ、近村に散在する同苗字の家の話などを參考して、次第にどの筋といふことの明かになる見込もある。
 猶一つの便宜と言ふべきは、人が天からも降らず地からも湧かぬ事である。今日でも田舍では十里離れた土地の樣子は分らぬことが多い。現に居る處よりも何か大に勝る點が有ることを知らなければ、人は容易に父祖の地を去るもので無い。囘國の聖でも無い限りは、遠方に樂地の在ることは知らずに終るのが普通である。故にさう離れた處からの移住は無い筈である。
 又一戸々々單獨の移住も多くは六つかしかつたと思ふ。さうすれば新地の領主が招くか、舊地の主人が連れて來るか、或程度までは組織のある引越しであつたのである。中にも武藏の原野には、戰國時代の所謂立退き百姓が、數多(348)く入込んで來たやうに思はれるが、此などはかね/”\計畫して居た人々で無いから、殊に少しでも早く落付いて住みたい。即ち愈以て近い地方から來た者と見得る。
 川筋又は山路の交通の如き地理上の研究から、又は近國の戰亂政治に關する近世の記録類から、些しく注意さへして居れば家の昔を知ることはあまり困難ではあるまい。それには先づ苗字の比較と云ふことが、缺くべからざる準備である。
 
          一〇
 
 有史以前と云ふ語は時々耳にするが、之を武藏の一平原と結び付けて聽くときは、誠に奇異の感じがする。新編風土記稿を見ると、若干の村は江戸に幕府が出來てから後、斯く/\の事情の下に成立したとあるが、他の大部分に至つては、起原を詳かにせずと謂ふのが普通で、人間に文字あり京都に記録あることが、聊かも此地方を有史以後にはしてくれて居らぬのである。さうして我々散歩黨の最も切に知りたいのは、この靜かな田舍の背後に續いて居る昔である。眼醒めんとして居る人々の前の宵の夢である。或は又甲の久保には白壁石垣の佳い邑があり、乙丙のヤツは蛙の鳴く青田ばかりである理由は如何。ヤツは北日本に弘く分布するヤチと同じらしく、峽田《ハケタ》岨《はけ》ノ下《した》などのハケに至つてはアイヌ語の Pake と、大岱《おほぬた》黒似田などのヌタ又はニタは、樹木ある濕地を意味する同じ語の Nitat と、前後は兎に角必ず元一つと思ふが、此樣な名詞を保存するだけの共同生活は、果していつの時代まで續いたものか。終局は分離であつたかはた又融合であつたか。此等の問題も悉く、大學の史學では答へ得ないのである。文書の證明には限度が有る。最初少數の官人と僧徒が、都から來て住み著いたこと、次には極めて少量の田舍の種が、文明の中心に向つて移植せられたことの外、人の一切の喜怒哀樂と努力とは、すべて皆此野の草の花と同じく、一つ處に咲きにほひ且つ過ぎ去つた。此間に在つて獨り先づ貝塚の石の矢の根をひねくるのは、只の好事に近い偏頗である。我々の考古學(349)はずつと低空に向つて、猶大に飛ばねばならぬやうに思はれる。
 人の遺した遺物の中で、一番の表層に散布して居るものは慣習である。表層であるが爲に攪亂せられ易く、殊に外氣に接觸して風化破壞し易いこと、土石で作つた器具よりも更に甚だしいものも亦是である。百餘年前に觀察の學問が、漸く江戸の地に芽を催した頃、風俗には時代の變化があると共に、地方に由つて興味ある相異の存することを認めたのが、かの風俗問?を全國の篤志者に發送した、屋代輸池翁一派の人々であつた。しかも此人たちも、江戸が曾ては寂寥たる蘆荻の渚であつたことを忘れ、三河を筆頭として多くの郡村から、持込んで來てまだ調和せぬ風俗なることを忘れて、武藏一國位は江戸の年中行事が代表して居るものと考へて居た。さうして?數歩の郊外に、思ひも設けぬ珍らしい生活のあることを知つて驚いて居る。それから以後の見聞録を見ても、やはり同化の力を信じ過ぎて、外國人が來て見た時の樣な態度を採る者が、近頃まで中々多かつたのである。之に加ふるに今迄の考古學には、有形の物體にばかり重きを置く學風が盛んであつた。疑ひを解くのを研究の主眼とせずに、信じたことを聞かせる方を先にすること、精確の籠の小鳥を愛する餘りに、想像の風來猫を憎むことは、國史の編修官も同樣であつた。其結果としては、保存の最も困難なる古物に、古物保存の手は聊かも延びなかつたのである。武藏野を愛好する此から後の旅人には、なほ巨大なる手帖が必要であると自分などは思ふ。衣食は當代に於ては小さからぬ壓迫であるのに、其間に處してなほ若干の熱心を分たねばならぬ、一見無用の儀式又は作法が有るとすれば、假に一代に一度も其何故を考へて見ぬ迄も、集合生活の底に隱れて、何か根強い動機が横はつて居たと見るべきではないか。同じく水の神の祭であつても、旱を畏れる土地に住んだ者と、汎濫の悲しい經驗を持つ者とは、する事や唱へ言が必ず別であらう。蟲を送り疫神を送る方角は、多分はその入つて來るを常とする口と反對の側であらう。其他平地から入込んだ者がヲコゼで山の神を祭り、山から野に下つた人々が永く雷雨の神を尊崇する類は、村毎にでも色々な歴史を物語るかも知れぬ。追々と比較を進めて來た後に、土地と人との複雜なる因縁を知る時分、漸く我々の問題えり食ひの弊を覺るやうなこ(350)とに、せめて東京の附近だけでもしたく無いものだ。
 
          一一
 
 實際材料は整理に骨の折れるものである。證據が無ければ何も言はぬと云ふ顔をした人まで、時々はわざと遺物の豐かなる區域を、避けるかと疑はれるやうな態度に出ることもある。もしくは中古の遊戯の韻ふたぎと云ふ遊びの如く、簡單な史料に由つて一旦の斷案を下して置き、後に現れて來る證據の是と矛盾せざることを祈つて居るかと思ふ新説もある。所謂フオクロアは斯うする爲には厄介な學問であるが、古物を相手とする研究は之に反して、其樂しみが多いやうである。殊に日本はそれが著しい。雨が多く傾斜が急で、工作物の永くもたぬことは、恐らくは他國に例の少ない程である。住宅の類とても眞の千年屋は殆と絶無で、宗教上の建築にもし此と大きな共通點が無かつたとすれば、只僅かに大工の家に傳はる流義、乃至は後の農民が成るだけ以前のまゝの家を欲したと云ふことに頼つて、この生活の重要なる一點を考察するの他は無いのである。しかも民屋にも明かに時代の變化があつた。茅野が乏しくなれば町から瓦を買つて屋根を葺く。柱の強いのが得にくゝなれば、勢ひ傾斜の急な屋根を作られぬ。棟のイチハツ(鳶尾草)の花は追々影を收めて、其代りに亞鉛板が到る處に光つて居る。遠くから見たゞけでも此の如き今樣が侵略した。固より之を以て登録した證文と同じやうに、昔を語るものとは見られぬのである。しかしそれならば何人でも自由に思ひ/\の家を建てること、例へば芝の淺野氏のやうであるかと申せばさうで無い。どの程度迄とはきめられぬが相應に著しく、特に改造の理由を認めぬ部分は元の儘で、遺し傳へて來て居るのである。即ち家の建て方などは有形の遺物としては落第でも、無形の史料としては決して粗末には取扱はれぬ。
 武藏野が我々に提示するほゞ三通りの農家の建て方は、偶然とは見られぬだけに各自の領域をもつて居る。之を顧みなかつたら正に不注意である。例へば京濱線の西の窓から、遠近に散布する草屋は低地の樣式である。關西にも似(351)た形はあるが、グシが至つて短くして所謂|四下《しか》(東屋)の風貌を留め、破風は無いかと思ふ位に小さい。全體に見た所の立派で無いのは材料の乏しい爲で、恐らくは一番早く瓦其他に變るべき運命を持つて居る。ところが丘を登つて次第に林の中の村里に進むと、村は却つて新しいと思ふ場合でも、遙かに念の入つた葺き樣をして居る。甲武線の左右にある畠場の農屋は、少なくとも中央部は一體に此式で、棟の長さも間口の三分の二を超え、破風は非常に大きく、三角形の木の椅子或は竹を編んだ戸を以て、之を装飾して居るものが多い。低地式に對して高地式とでも名づけたらよいか。概して巖丈に出來て居るのは多分人手が乏しく、度々の小修繕が煩しい爲であつて、孤立經濟の名殘とも見られる。第三には多摩の上流に入込んで更に山地式とも稱すべきものがある。敷地又は日受けとの關係からでもあらうが常に甚しく長い家である。奧行を百として水田地方は間口が百二十から百五十、府中近傍は二百内外であるのに、此邊は表の幅が三百にも及んで居る。破風の大さも中央の高地式に近いが、二者の區別は彼の眞直なのに反して、此は屋の棟が更に長い爲に、牡牛の角の如く左右へ斜に出て居る。同じ大工が注文次第で、如何樣にも作ると云ふ譯に行かぬことはたしかで、即ち最初からか、はた土著以後漸を以てか、兎に角に生活に調和させた特殊の風が存するのである。さうして其特殊の區域がどう入亂れて居るかを尋ねれば、昔の武藏の國の開け方が少しづゝ分るのである。
 
          一二
 
 住居に關聯して昔を保つものに屋敷がある。屋敷は何か格別の事情の無い限り、先づは初めて設けた時の形の儘である。さうして武藏野の村々は村毎に起原を異にして居るから、四五哩もあるく間には色々な見本に接し得るのである。勿論用水の制限が井戸掘り技術の發達前に大きかつた如く、地形の制限は餘地の減少する程多くなつて來たが、それでも猶總體に於て、自ら擇んだ屋敷と與へられた屋敷との差別は著しい。與へられたと云ふのは住地を指定せられた農家を意味する。例へば此岡を十戸で開かせよう。此谷を十五戸に作らせようとする計畫の豫め存する場合には、(352)所謂百姓屋敷の割渡しが行はれる。武藏野にも散居式の開墾は絶無だつたとは思はぬが、遠くから來た爲に淋しかつたか、或は特に共助防衛を要する危害でもあつたか、大抵の村は密集して居る。平和時代に入つてからは更に別箇の特色ある方式が案出せられた。即ち最初に一本の廣い眞直な道路を開いて、其南側に屋敷を割るものである。隣國交通の幹線路の外に、無理な何々街道の名稱を附して、北多摩の野に幾筋も横はつて居る長い路は、實は本來旅人の爲に設けられたものでは無かつた。其證據は二箇所の家竝の地を繋いで居る畷《なはて》の無いこと、及び兩側の屋敷があまりに廣い間口を持つて居ること等、至つて明白なるものがある。飛行機の人たちには容易に實驗し得ることゝ思ふが、原野が段々と畠になつて行くにつれて、子供の遊戯の十六ムサシなどのやうに、樫や欅の紐の如き林が、ほゞ東西に何本も何本も射出して居るのは、悉く此方式の村の屋敷地の列である。中でも小川と砂川の二村は最も大きいが、此外にも稍短く且つ細い線路が、多摩川のこちらに澤山あつて、此野の初夏と晩秋とを面白くして居るのみならず、江戸で根小屋物と稱する器具用の材木の、産地ともなり又工藝地ともなつて居る。さうして又都人の爲に、わざ/\でも作りたいやうな遊歩地である。
 つまり斯うして開かねばならなかつた部分が、一番開きにくかつた原野であつた。其外側の稍起伏の多い地を相して、古くからの土著は行はれたやうである。此中にもわしは爰に住むと言つて來た者と、おまへはそこに居れと言はれて居る者とは、やはり屋敷の樣式から見分けられる。それが必ずしも經濟力の大小で無かつたことは、隱田《をんでん》と名づけて人知れず林の中に入込み、もしくは出屋敷と名づけて村の背後に孤立して家を構へた例でも知れるが、概して世の中が中世に近い程、小民は適切なる保護を必要としたから、寺や大家の門前には、此指定を甘んじた多くの小屋敷が發生した。從つて同じ一つの古い村の中にも、一箇又は數箇の中心を爲す屋敷と、明かに此に從屬する小屋敷とがあつた。其差の著しく無い村は新しいと見ても誤りが少ない。尤も武藏には黨とか一揆とか呼ぶ共和的の社會組織も古くからあつたが、各自若干の身内を率ゐて居たからには、集まつて一つの部落を爲す程近接しては住まなかつたら(353)う。要するに此場合にも、原則としては一箇の核を具へたものが、細胞として生きて居たと言ひ得る。舊家の没落は江戸期にも決して稀有では無かつたが、其歴史は丸つきり埋没してはしまはなかつた。石垣は崩れ麥は秀でゝ、空しく何々屋敷の地名のみになつて居ても、語るべき昔は其場所が之を語つて居る。實例に就かぬと話は六つかしいけれども、大體に於て世が降ると共に、名主の屋敷も次第に低い處へ降りて來た。さうして廣い處へ出て來た。地面のまだ豐富であつた時代には、後から開いた村の方が、却つて十分な屋敷の取り方をして居るやうに思ふ。
 
          一三
 
 武藏野の村里をあるいて見て、常に我々の考へに浮ぶのは、水の次には用材の問題である。今でも田舍では遠くから木を運ぶことが難いが、もと/\小名たちの所領なるものは、穀物野菜を取ると共に、家屋の材料をも自給すべき約束であつた。それ故に山地の百姓が長い眞直な樅や栂の木を自由にした場合にも、平野に來た者だけは、曲つた赤松などで我慢をせねばならなかつた。此事情が建築法の上に及ぼした影響は誠に著しいものがある。機會が許すならば稍黒ずんだ農家に入つて御覽なさい。梁や大きな垂木《たるき》には殆とすぐな材は無い。それを又巧みに利用して支へる力を強くした上に、色々の屈曲を以てしをらしい一種の郷土藝術を爲して居る。短い部分には栗の材が?使つてある。松と栗との外には欅を装飾にして居る。つまり昔から此地方の林相はほゞ今のものと同じかつたのである。草分けなどゝ謂はれる家の主人は、斯う云ふことを思案してかゝる外に、更に第二次の建築の爲に用材を用意すべく、地味に適する樹木を栽ゑねばならなかつた。從つて所謂屋敷林の歴史は決して單純でない。廣い野中の自由な住居にも、南を外庭にして日光を十分に取り、北と西とに色々の植物を栽ゑたのは、必ずしも冬分の主風と、隣の火事とを防ぐ爲のみで無い。畠や小路に不便な日蔭を作つて迄も、竹を栽ゑ杉と欅とを程よく配つて植ゑたのは、山に遠く森が次第に小さくなつて行くからであつた。此外にも屋敷の廣い家では、南の境に樫を竝べ栽ゑて、僅かづゝの農具の柄など(354)に供し、菜園の周圍には桐もつくり、猶桃李や若楓の如き、觀る木觀らるゝ木を栽ゑるだけの餘裕があつた。人間が放浪生活と絶縁して農家と呼ばるゝ爲には、此ほどの數しげき注意を要するものであることは、町にばかり居る人のとても會得し能はざる所である。
 近年の新田場には、之に比べると甚だ大膽な土著が行はれた。交通方法の發達に信頼して、木と大工とを町に仰ぐばかりか、時としては何を燃して暖を取るかをも、よく考へて置かなかつた村がある。所謂野方でも此頃のやうな陸稻耕作が永く續くと、開墾の行止まりは藁より外に焚く物の無い農家になるかも知らぬ。さうして藁の用途は別に又大に進んで來た。或はしまひにはずつと建築の法を改めて、温熱を儉約するの必要を見るかも知らぬが、今日迄はまだ仕來りのまゝで、寒中も戸の口を締めずに大火《おほび》を燒き、煙を追出す工夫のみをして居る者が、武藏の原には多いのである。五十年の間に三千萬が六千萬に、増加した人口の壓迫だから、是非も無い話とは思ふが、少なくとも此は開發人等の用意とは背馳して居る。純農業の經濟に於ては、如何にしても燃料を買ふ計算は出て來ぬ。故に茅屋根を續ける間は茅山を置かねばならぬ如く、水田を耕す限りは池と溝敷が入用な如く、薪山と用材山とは必ず各部落に附いて居たのである。それが此邊では既に痕跡となりつゝある。此等の村持の雜用地は勢ひ後世ほど狹くなつた。即ち古く起つた村は分内が廣いか、然らざれば自然に分家の數が増して聚落が大きく、然らざれば一戸分の耕地が廣く、然らざれば原野などの管理が鷹揚に失して居る。甲乙相鄰りする二部落で、繪圖を見ずとも堺のよく分る程に、年齡の相異を示して居る例が、やはり武藏野方面には存するやうである。
 
          一四
 
 散歩者の又一つの樂しみは道路の年代を見ることである。殊に現在の?態を標準とした新らしい地圖が陸地測量部から出て居るから、比較の趣味が出て來るのである。話が長くなるから要を摘んで述べるが、屈曲の少ない道は如何(355)にも遠くへ行く感が深いから、一見幹線のやうに思はれるが、決して前代の幹線では無い上に、前に申す如き開發の爲の徒らに廣い直路もある。道幅の如きも亦決して新舊の目安にはならぬ。細い方が却つて古い場合も多い道理である。なぜかと申せば昔の道は、人と馬とがすれちがひ得れば十分であつた。其上に路はぢきに狹くなるものである。大體に於ては江戸灣は船の出入口でなかつた。隅田川江戸川の下流は越え難い沮洳地であつた。さすれば江戸繁昌前の東西の交通は、必要が甚だ乏しかつたから多くない筈である。しかも此野の東半分に在つては、排水は大川に誘はれて西から東へ行はれたものが多い。さうでなくても南に向く爲に、村は東西に竝びたがるものである。東西に長い二箇三箇の村を繋がうとすれば、自然に又南北の徑路が追々と發生して來る。こんな風に考へて見てもよいやうに思ふ。
 近年の新道は其樣な苦勞をせずともよく分る。記録をまたずとも路傍の記録、即ち地藏庚申馬頭觀音の類の、甚だしく尠ないことが消極的に之を示して居る。立石の類には又現實の年代が有る。もし面倒を忍んで地圖の上に之を記入して見たら、甲と乙との古さうな路にも、自ら兄弟の順が有ることを認め得るであらう。此等の石は勞力と費用との大分かゝるものである。少年や若者の慰みには立てられぬ。馬が斃れた地に馬頭樣を祀るにしても、決して一人の私情から出た計畫では無い。一つにはそんな場所は惡い處だらうとの懸念、第二には馬の凶靈が後の人馬を害せぬ爲に、念佛の供養を仲間でもすれば、此機會に又通行人にも勸進したので、往來が無ければ或は別の道筋があれば、此樣な石は建てなかつたわけである。殊に念佛が今よりも遙かに盛んであつた時代には、囘向の相手方は言はゞ迷へる魂であつた。疫病其他の害惡を持込んだと信ぜられたのは、主として此等無形の旅人だから、やはり旅の道を傳つて去來するものと見たのである。境の關守は兼て旅人の道しるべでもあつた。それが今では又我々の爲に、昔に通ふ標柱の用をも爲して居る。
 武藏の名物とも言ふべき板碑《いたび》、俗に板佛と云ふ石は、山中翁でもまだ明白に其性質を説明して居られぬが、それが(356)念佛供養の記念であり、又往々にして路傍に立てられてあるのを見れば、庚申塔系の立石の前驅を爲して居ることが想像し得られる。但し其多數が集合して地下に埋められて居た例が少なくない爲に、珍奇なる推定を下す人も有るか知らぬが、私の信ずる所では、ずつと地上に在つた板碑も隨分あると思ふ。心無い人々が古物をひねくり、今では處々に持運んで土地との關係を薄くしてしまつたが、是も今以て信仰せられて居る分だけは、皆道路と關係して居る。故に今後の新らしい發見は、どうか良い地圖に記入して見たいものである。
 
          一五
 
 塚と立石とは亦確かに關係する所がある。道祖や庚申を始めとして、同じ名稱同じ信仰が二者に共通するものが多い上に、塚ある地に來つて石を立て、又石を立てる爲に僅かな盛り土をすることもある。思ふに石は必ずしもどの地方でも得ると云ふわけには行かぬ。故に運搬の不便な原の中などでは、高い物を作ると謂へば土の塚を築くの他は無い。之に要する人間の勞力は、今の計畫からすれば比較にならぬが、それが甲乙選擇の問題であつた時代もあつた。大體に於ては石より土の方が古いかと思はれる。武藏の板碑には鎌倉初期からのものがあるが、言はゞ一地方の特殊現象である。文字の無い人々に立石と只の石とを鑑別させるには、無暗に大きいか、又は形の奇なるものを立てねばならぬが、是は一層容易の業で無い。それから石の工作も石屋で無ければ出來ない。更に今一つの觀點は、塚には其最初の趣旨、即ち山の模倣もしくは人工の峯と云ふ意味が、なほ著しく保存せられて居る。富士に對しての多くの富士塚淺間塚の外に、二子山と二子塚、茶臼山と茶白塚、飯山と飯塚又は飯盛山と飯盛塚のやうに、山に附ける名を塚にも附けて居る。關八州には此等の塚が元は非常に多かつた。多くは附近の沃土を集めて築いたから、信仰が薄れるや否や端から鋤き崩されて、地名ばかりを遺すやうになつたが、何れも皆山に遠ざかつて野に住む人々が、家用の樹林を仕立てると同じく、人工を以て代用の祭壇を構へたものらしい。それを知らずに無益の發掘を試みた學者が、近(357)頃まで折々有つたのは、稀には前から其地に在る古墳を、塚として新たに利用した結果、同じやうな名前を之にも與へ居た爲である。曾て博物館の和田君であつたか、塚の名稱の注意すべきものなることを論じて、人形塚は埴輪が有つたから、又大日塚や藥師塚の類は、埴輪の人形を其土佛と誤り信じた爲だらうと言はれたが、さうすると此名の塚どもは、悉く古墳であるべき義務を生ずると共に、草人形を境上の塚まで送つて行く風俗、又は板碑と至つて縁の深い路傍の大日樣などが、説明の責任を免れてしまふことになる。塚の歴史は結局中世の民間信仰の歴史である。名前ばかりで其由來を説くことのむつかしいは勿論、其研究の過半は將來に屬して居るが、是が兎に角に人の力で成つたものとすれば、古ければ古いほど、由來不明ならば不明なだけに、昔を尋ねようとする人の目を惹く價値はある。江戸の地誌にも塚の記事が澤山あるが、或ものは社寺の境内に、又或ものは武家の邸内に圍ひ込まれた。さうして借屋難の今日、最早十中の八九までは切り平らげられたことであらう。郊外に出て見てもやはり同じやうな冷遇が、次第に迫つて來ることを感ずる。今の間に地圖の上へ其記録をする物ずきも、一人ぐらゐはあつてもよささうである。
 
          一六
 
 板碑の久しい昔を保存する理由には、石が秩父の青石だつたと云ふ外に、あの堅い石に工作を施し得た技術をも考へて見ねばならぬ。時間で言へば少なくとも四百年以上、武藏を中心とした數府縣に亙つて、殆と郡毎に數十數百の彫刻した石を分布する爲には、石工の數だけでも少ないもので無かつたらう。それが皆よほど鋭利な鏨《たがね》と、優秀な技能とを具へなければ、遺すことの出來ぬものを遺して居るのである。さうして彼等の末は今どうなつたか。僅かに山に寄つた一二の村に、石切りを業として居る若干戸が殘るのみで、何れより來り何れに向つて去つたかを知らず、更に又彼等に對してあの精巧な刃物を供給したのは、どう云ふ種類の鍛冶屋であつたか、工作物だけは殘つても、人の跡は却つて茫々として尋ねる方法も無いのである。
(358) 塚に關聯しても、やはり恐ろしい程大きな事業が埋もれて居る。關東平野殊に武藏の塚の名には、カネー塚と云ふのが極めて多い。或は金塚と書いて金神の祭地と考へ、鉦塚と書いて修驗者の入定した話などもあるが、人によつては此をカノエ塚即ち庚申塚だと説明するものもある。併し庚申樣ならば庚《かのえ》とばかりでは分らぬ。此は察するに地方によつてカナイ塚又カネイ塚とも謂ひ、又弘く中國の端に迄かけて、分布して居るカネイバの地名と共に、金鑄塚か又は金屋塚かの二者の一で、金屋即ち金屬工藝を業とする徒の、多分は築いた塚だらうと思ふ。相州の低地部には又カナクソ塚といふ塚が多く、其塚の邊から現實に鉄滓の出る所さへある。關東には一體に鍛冶の村に住む者が近世まで多かつた。材料の鐡はどこから持つて來たかまだ知らぬが、大小の領主の保護を受けて、武器を鍛へた家の事が記録にも遺つて居る。しかし一方の所謂|鑄物師《いもじ》の方に至つては、後には主として大江戸の城下に住し、田舍をあるいて居た話は餘り聞かぬのに、昔彼等の働いた痕跡だけは此樣に多いのである。彼徒は普通には金屋《かなや》と呼ばれた。或は鍛錬と冶鑄とを兼ね營んで居たのかも知れぬ。鑄懸けの如きは今日では稍賤められ、鍋釜師と雖之と同列に見られることを厭ふが、元は一つであつたことは疑ひが無い。只の農民には企てられぬ業務である爲に、自然に一階級を爲し、しかも土地との縁が薄いから身輕に轉住して居たやうで、それで村々に遺跡があるのである。此だけの話ならば格別の不思議とは思はれまいが、私の言ひたいのは此徒がどうして塚を築いたか、又は少なくとも塚に關聯して、其名を殘したかと云ふことである。金屋は今でも必ず金屋神を祭つて居る。或は金鑄子神とも稱し、又單に金井神とも謂ふ地方がある。以前は仲間以外の常人にも拜ませたやうな形跡が、「おはぐろ」の慣習などに伴なつて少しづゝ窺はれる。塚の名に金屋又は金鑄と呼ぶのは、恐らくは此信仰からであらう。それは尚後の問題として殘して置くとしても、少なくとも二つの事だけは、確信を以て述べることが出來る。其一つは武藏などの古い神社の御正體に、掛け佛と謂つて耳の二つある鏡の、表面に神佛の御姿を細彫りしたものは、材料は多くは銅だがやはり此徒の手に成つたことである。是も板碑と同じく年月の銘文があつて、其時代は敷百年に亙つて居る。第二には金賣吉次の名に託した各地の長(359)者の話が、此徒の旅行生活に由つて大に發達し又傳播したことである。長者は佛典では大富豪を意味して居るが、日本の長者の元は必ずしも金持では無かつた。金賣苦次は義經記で弘く人に知られて居たから、恐らく奧州邊より金屬を持込んだ金屋どもの先祖の話が、いつの間にか是と混同して、子孫の自負の種となつたのであらう。福島山形二市の附近では、金賣吉次の親の名を炭燒藤太などゝ謂ひ、炭を燒いて生活するやうな小民が、一朝の機縁で大長者になつたことを傳へて居る。炭が中世に於ては普通の一商品で無かつたこと、村に住む者は相應の大家でも、今のやうに火鉢に炭火を起すことはしなかつたのを考へると、是が又金賣吉次の話のもとゝなつた金屋の職業を想像させる。或は炭燒藤太の代りに、芋掘藤吾の話として同じ物語を傳へて居るのも、事によると鑄物師のイモジと關係があるのかも知れぬ。之を要するに武藏野の野中には、曾て金屬の工藝を以て農産物の分前に參與し、特殊の神を祭り珍らしい遠國の話をして聞かせ、荒い生活の農民たちに、異常の印象を與へて往つた一種の團體が多數にあつたことだけは、散歩をして居ても氣付かれるのだが、其無名氏等の足の跡に至つては、もうどうしても遠く迄は繋いで行かれぬのである。
 
          一七
 
 武藏野は人の少ない廣漠の地ではあつたが、固より久しい昔からの日本の郡縣である。津輕|糠部《ぬかのべ》の邊土の如きものでは無い。殊に鎌倉が武家政治の中心になつて後は、奧州の産物の出て來る物の限りは此野中を運び、箱根を越えて來る西部の文明は、悉く此野を過ぎてから分散した。それのみならず此地方にも、京都で所謂「田舍わたらひ」を、誘ふに足るだけの自己の富があつた。荒い牧場の農夫たちに對しても、やはり中央の信仰が傳道せられ、次々の文藝が供給せられたことは、是も容易に諒解し得るだけの實物の證據が有る。例へば江戸の近郊に稻荷を土地の守護神としたより遙か以前、八幡を武家の方人の如く專崇したよりもなほ前に、或時代には白山權現の禰宜たち、又或時には(360)諏訪の祝《はふり》などが、各自我神の分靈を奉じて、新らしい村開發者の寂寞を訪らつたこともある。熊野は鹿島に競爭して主として奧州の方面に遠征の手を延べたが、猶其道筋に當る此邊の在所にも、傳道の力を分つことを忘れなかつた。佛教に於ては踊と拍子の面白味をかせにした念佛の宗旨が、勿論大に其簡易なる勸進を成功させたが、猶其以前に於で光明眞言を中心とした、一種大日教とも名づくべき民間佛法も盛んであつたことは、板碑などに由つて明かに窺ひ得られる。今日村々に存する寺や社が、獨り此光景を語り傳へるばかりで無い。近くは角筈の十二社に於て、熊野から出たらしい鈴木三郎の舊話を傳へ、谷保《やぼ》の天神には神孫流寓の物語を殘すの類、何れも江戸期の好事者流には作爲し能はざる由來談である。長者の傳説にも、金賣りの昔を説くものゝ外に、鳴子の淨蓮や深大寺で言ふ狛江《こまえ》の長者の如く、最愛の娘に大蛇の聟を取りあてたやうな話が、水の神の信仰の一端を髣髴させる。此等は結局僧徒たちの勿體ぶりに成るものとしても、何れの時如何なる機會から、里人までが之に調子を合せるに至つたか。更に溯つては神にも即かず佛にも依らぬ、ダイダラボウシの山作り、足跡の清水の口碑の如きは、弘く東部の諸國に行き亙つて多いだけに、之を持つてあるいた人の境遇が猶分らぬ。常陸風土記の中には富士と筑波の對立談がある。富士は天つ神に疎まれて雪深く人登らず、筑波は愛せられた爲に四時榮えたと云ふのは、西と東の二つの山を見比べて、山を相爭ふものと考へた地方の人たちが、最初に之を考へ出したものと見ねばならぬ。天然に對して敬虔の誠を失はぬ人々には、同じこの武藏野の雲と日影、栗や赤松の林を隔てゝ、ちろ/\と聞えて來る野川の水の音も、鳥も草の花もすべて皆、我々とは丸で趣を異にした感じを與へて來たのである。斯うして又改まつて來る次の五百年を考へて見ると、或日の逍遙が遭遇する一刻の黄昏も、猶且つ偉大なる時の帷帳《とばり》であることを感じ得るであらう。
 
 
(361)     游秦野記
 
 田原氏の系圖を見ると、田原藤太秀郷の孫の孫たる公光は相模守であつた。其子の公俊も亦相模守であつたといふ説がある。公俊の子經秀は則ち波多野家の元祖である。經秀の曾孫波多野二郎義通は天仁元年(西暦一一〇八)に生れて六十二歳で死んだ人である。則ち保元平治時代の有力なる武人で、同時に又熱心なる開墾事業家でもあつたらしい。此筋を大波多野と稱し、多くの同族が此から分れて居る。義通は又其一男を足柄郡の松田に分家させて松田氏の先祖たらしめ、更に弟の河村秀高をして河村郷の開發地主たらしめた。三浦岡崎曾我澁谷など此地方の武士は悉く彼等の縁者であつた。しかし年月の力と云ふものは如何ともせん方無きもので、是程の名門でも今往つて見ると、村名以外には殆と何の痕跡をも留めて居らぬ。
 我々は波多野家の第一世が國守の一族と云ふ餘勢を挾んで、獵の好きな郎從を引連れ、國府の傍を流るゝ花水川の岸傳ひに、新たに村を作るべく谷奧へ入込んだ時の事を考へて見た。さうして始めて腰を卸した開墾地は果してどの邊であつたらうかと、或は地圖を擴げ或は高處に登つて四方を見た。東秦野村の大字寺山には波多野二郎の城址といふ地がある。通稱を二郎と云つた人は決して義通ばかりでは無い。又義通の時代は平和なる經營時代で、城山に構へ込んで居るにも及ばなかつた筈である。故に勿論是のみでは證據にならぬが、地形から判斷してもやはり此邊を最初の住地と見ることが出來る。則ち彼等が金目川《かなめがは》の流を傳つたものとすれば、落合から寺山邊が取附の平地である。其西表の大字東田原及び西田原は、波多野一郷の中では唯一の田代則ち水田適地であつたらしい。山脈の南麓の低地で(362)あれば清水が引き易い。又其清水を温めるに十分なる日當りがある。東南に靡いた僅かな丘陵は、要害にも風除けにもよく役立つて居る。尚一つ考へねばならぬことは大山との關係である。海に沿うた官道を旅する僧が、雄大な山の姿を望んで一つあの山に御本尊を持ち込まうと考へたとすれば、どうしても山の天然の正面から登り口を求めた筈である。西の方から遣つて來て此山を目指して入るとすれば金目川の澤である。寺山の北入の大字簑毛及び小簑毛は、後世迄も一方の大山登山路であつた。富士ならば大宮口に該當してゐる。簑毛の千代滿坊と大滿坊とは、昔良辨僧正に隨伴して來たと云ふ三軒の兒捨(侍者?)の二軒であつて、永く一方の御師《おし》職を勤めたが、江戸の方から樂な阪を登る者が多くなつて、此阪本は衰微したやうである。
 波多野の一郷は正しく學校の先生の所謂一箇の盆地ではあるが、此盆地は些しく單純で無い。四周を山と岡とで取卷き川が一方を切開いて居ると云ふ約束には合するが、水筋が南北に立分れて中央に昔の水の作つた大分の高みがある。こじつけて煙草盆地とでも云つたら酒落になるかも知らんが、我々は之を馬蹄の痕に譬へて見たいと思ふ。但し此足跡は左側へ稍きつく踏み立てゝ居る。即ち北を流れる金目川の谿の方が南秦野の境の水無川より遙かに深く刻まれて居て、兄弟非常に齡の差ふことを示して居るのである。水無川は秦野の京の鴨川であるが、惜しいことには瀬が高過ぎる。大橋の上に立つて川上を見ると、川上と云はんよりも寧ろ尾上と云ふの當れるを感ずる。町の本通りの爪尖上りと唯僅かの差を以て、川底も亦爪尖上りになつて居る。成ほど水の無いのを却つて幸福と認めねばならぬ川である。地下水は波多野郷の一特色であるらしい。水無川の伏流は約三里ほど續いて居るが、下流に於て出て來る水量は常は存外に少なく、之に反して思ひ掛けぬ處々に清泉が有つて其數も量も共に多い。今の秦野の町が二十五年の間に略二倍の戸數になつたのも、一つには水の分布が右の如く奇拔であつた爲で、此も昔の相模守等がちつとも豫期しなかつた現象を、時と天然とが逐次に展開して見せてくれたのである。
 新編相模風土記に所謂波多野原は、かなり廣い緩傾斜の臺地である。此地が密林に蔽はれて居た時分を想像して見(363)ると、獵にはよほど愉快な、武士の新住地として樂しみの多かつた處かと思ふが、其代りには交通の障碍でもあつた。後代水無川右岸の村々が、恐らくは逆に上流の方から開かれて後も、此原ばかりは永く原であつたと見える。北秦野の大字三屋(山野の義?)は寛文新檢の戸川の出村で、しかも村としては最も新らしく、其後は移住を企てた者が無かつた。曾屋に屬する數十町の秣場の如きは、明治になつて始めて常畠に開かれたのである。南秦野の南の岡などは、頂上まで畠に成つて既に年久しいと云ふのに、北野ばかりは片端から少しづゝ開く者があつても、入込んで村を立てることをしなかつたのは、やはり水の手の工夫が付かなかつた爲であらう。然るに今の秦野の町即ち曾屋の一村ばかりは、此野の最も低い部分に位し且つ良い水が出た爲に、容易に農村が出來、次で市場が起つて夙くから立派な一都會であつた。それが全く唯一つの清水の力である。町の上の端に鎭座する氏神曾屋神社は、以前の名は井之宮又は井大明神であつた。宮の側の御手洗は清冽且つ豐富であつて、一村悉く其下流に沿うて軒を連ね、深く神コを仰いで居た。後に戸數が大分多くなつて、井戸でも掘らねば水が些し足らぬと云ふ頃に至り、一時烈しく疫病の流行したことがあつた。然るに住民の其原因を推斷した論法が、今日とは丸で正反對で、是は御手洗の末を汲まぬ不信者がある爲であらうと云ふことになり、京都吉田家に言ひ入れて正一位の神格を申し請け、盛んな御祭をして今後は井戸を掘る者があつても祟をなさらぬやうに神に願つた。享保年中のことであつた。今も其折の祭文が社に殘つて居る。併し其以來もどう云ふわけか掘井があまり出來ず、明治の世になつて愈水の不足が甚だしくなつた爲、有名な簡易水道と云ふのを設計して、町を貫流する用水堀を罷め、飲水本位に水の分配方法を改めた。煙草の工業が盛んになつて職工の家が殖え、町の戸數が二千近くになつた今日まで、兎に角に一つの御手洗から飲料水を供給し得たのは、全く水道工事の功績である。しかしそれほどにも豐富な泉ではあるが、もうそろ/\不足の心配が出來て來た。都合よく新らしい水筋を見つけて増工事をしたいと云つて居る。
 秦野の波多はやはり畠のことであつたかと思ふ。昔も今の如く陸田に適する土地ばかり多かつたのである。併しな(364)がら此地方の農業には、珍らしく大きな變遷があつたらしい。例へは産馬事業なども昔は盛んであつたに違ひない。此邊の馬の神の信仰記念物には、よい形式が殘つて居る。頭に馬の首を載せた石像も觀音では無く、馬頭神とも名づくべき日本風の御姿である。垣内山《かいとやま》の草立の樣子を見ても、よほど烈しく刈つた跡が見える。波多野原の開墾が次第に進むと共に、賣りに出すほどの馬は飼へなくなり、今日の畠作は運搬にも肥料の爲にも、多く牛馬を要しない性質の者に追々と移つて、斯う云ふ結果を呈したのであらう。煙草の耕作は明治に入つてから大に進んだ。此地の專賣支局だけで年々百萬圓以上の品を收納するやうになつたが、實は僅か百六七十年來の新作物である。寶氷度の富士山燒けに、澤山の噴出物を被つて土質が一變したと云ふことを聞いたが、是は地下水などの問題と比べて尚よく考へて見ねば信ぜられぬ。兎に角に畠作の將來を講究したい者にはよほど有益な例を澤山に持つて居る地方である。新舊作物の消長調和如何と云ふ問題は、同行の木村君が報告せられる筈になつて居る。
 北秦野から上秦野の方へあるいて見ると、風景に一段の變化がある。水無川の小石原を横ぎつて堀山下の部落に入れば、地盤が波多野原の奧よりも高いのに、清水掛りで一帶の棚田を作つて居る。新編風土記には事も無げに書いた二筋の堀と云ふのは、山水が永い間に掘り開いた狹い谷で、深さが五六十間もあるかと思ふ。常は底に僅かの水があるばかりで、切立てたやうな兩側面には、樹竹が茂り紅葉などがまじつて居る。藏林寺の山門の前に立つと、美しい江の島邊の海が見える。波多野の全景を一望するには、此から川音川を越えて西の山腹の路を通るのである。此川の水が酒匂川の方へ出る爲に、此流を以て今の郡界にはして居るが、上秦野はやはり昔の波多野の中である。優品の煙草も此邊から出れば、柳川も菖蒲も皆昔の波多野氏の分家の苗字である。
 自分は僅か一泊の旅行の御蔭で非常な歴史家になつた。どう考へても田原藤太の家筋には武略の才の遺傳がある。平時は靜かな暖かい山の陰に遊んで居て、いざとなれば西へ出て關本の險を扼し、又は東に下つて國府を壓迫する。衆寡敵せずと見ると尊佛丹澤の峯傳ひに、愛甲津久井の山奧の村に潜んで居る。此一族の者が鎌倉殿の威光にも、時(365)として反抗の擬勢を示したのは、つまりは右の如き根據があつたからである。併しながらそれが爲にあまり用ゐられず、つまらぬ口實で腹などを切らされた。自分も波多野氏の遺蘖であるが、この先祖の經驗をよく心得て置きたいと思ふ。
 
(366)     箱根の宿(舊作
 
 今度の講演會の歸途、箱根山中に入り、蘆湖湖畔の宿に數日をくらしたり。小田原の混雜に引かへて、山中の海は浪も立つこと稀に、雲深く時鳥啼き、折々の涼雨は秋の如く、風流にして且つ退屈なり。たゞ町長の松岡氏、夜分に訪ひ來りて頗る箱根の沿革を語る。松岡氏は舊家の一にして、自身亦維新前後の世變を閲歴し、更に此町の將來の爲に考慮しつゝある人なり。故にその言ふ所趣味あり、結論なき所に教訓あり。凡そ何れの町村にも、それ/”\の歴史あれど、箱根町の過去の如きは、誠に風土誌上の一異例なり。乃ち其談片を補綴して諸君の覽に供す。受賣は智慧が無きに似たれども、猶平凡なる旅行日記に勝るべし。
 箱根町は自然に發生したる町に非ず、作られたる町なり。天和年中に官道往來の便宜の爲に特設したる驛次なり。伊豆の三島と東麓の小田原とより特に移されたる植民地なり。今も町の字に三島町小田原町と稱するは此が爲なり。此外に新屋町と稱するは其後の自由移民なり。離宮の前の平地是なりしが、近年すべて離散せり。又蘆川町と稱するは一に杓子町とも云ふ、此のみは官道以前より此地に居住し、箱根權現の神戸なり、山に入りて木を樵り杓子の類を作りて業を營みしもの、新宿の興行と共に、亦道傍に出でゝ驛遞の民に編せらる。されば此湖水の岸に住する僅々數百の聚落は、分れて三個の支配に屬せり。元箱根村は以前より權現の神領、所謂門前百姓なるものなり。箱根宿は史に二つに分れ、小田原町以東は小田原領、三島町以西は幕府領にして、韮山代官の管轄なり。其境界は今の郵便局の前あたりなり。
(367) 箱根町の成立は此の如し。故に町と稱して一商賈なく市場なく又近在無し。形は村の如くにして絶えて穀作を營まず、生業は甚だ單純にしてしかも有利なる廣義の驛遞業なりき。最初の移民は三島及小田原より各五十戸に止まりしも、久しからずして戸口は數倍に増殖せり、中央の平坦地には旅舍大小百餘戸あり。其東西に接して數十戸の馬持あり。更に其兩端に住するものは徒役即ち所謂雲助宿なり。此他に公認の賭場二箇所あり、言はゞ雲助の補充部なり。雲助の親分は一種の人傑なり、大雲助なり。由緒ある浪人などの偶然に來り投じ、終に山中の將軍と爲るものも少からず。或は政治的意味を有する旅行家の假寓する者、終に此群を脱すること能はず、愉快なる落魄の中に生涯を了するものあり。彼等は其膂力と膽力とを以て多數の人足を威壓し?使し、駄賃の頭を馘ね、時としては道中方の革財布より、逆縁の賄賂を收得して豐かなる生活を爲せり。
 雲助は浮浪飄泊の徒なれども、其收入に至りては即ち間接に町の收入なり。宿屋茶店の收入の如きは餘利更に多し。町長は曰ふ、昔は五合の酒と、一皿の瓜もみと、一鉢の冷素麺と有れば、日に一兩二分を儲くることを得たり。上下の客無事に關所を通過し、嬉しげに門を出で來るを見掛けてお目出たうござる、先づお祝ひ申すと言へば、前程を急ぐ午前の客といへども、碌々手を着けざる酒肴に對して、少なくも二朱の祝儀を惜まず、之を少しく繕へば、容易に五六人の旅人を款待することを得たりと。之を以て全豹を推知すべし。されば宿中の者大小と無く繁昌の餘澤に潤ひ、如何なる小民なりとも、米を食はず魚を食はざるもの無く、窮乏の何たるを知らずして略三百年間を過ぎたり。
 樂觀したる箱根の町民は、夢の如くに多くの士人が、急遽倉皇として山路を東西するを眺めたり。是れ維新の序幕なりしなり。次で所謂箱根戰爭なる顯微鏡的戰爭の銃聲を聞きて、時の既に明治なることを覺れり。次で山嶺より蒸汽船の洋上を走るを見たり。而うして終に足柄山北の鐵道と、崎嶇たる八里の磐梯《いははし》を以て、競爭せざるべからざる時節に到着せり。明治三十一年に町長が小田原に行き、始めて今の周布知事に逢ひし時、新任の知事はその箱根の町長なるを聞きて、驚きで箱根町は今でも在るかと言はれたり。蓋し周布氏は明治十六年に關口元老院議官と同行して此(368)地方を視察し、箱根町は遠からず全滅すべしと復命せしのみならず、且つ其時まで其結論を自信せられしなり。而うして箱根が一種不測なる攝理に因り、啻に汽車開通の打撃を凌ぎ來りしのみならず、尚其前途に少分の希望を有すること明なるに至るや、手を拍つて箱根の爲に悦び、更に將來の計畫を周到ならしむべきを諭されたり。知事が水産其他の産業について、又車道の開發等について、種々なる方面より此町に具體的の同情を寄せられしは、實に此時を始めとすと云へり。
 箱根町は世の租税運上なるものを知らざりき。町民は官に對し何等の負擔を爲さゞりし上に、別に年々三百俵の飯米を下し給せられき。故に明治九年の地租改正に遭遇して非常に驚きたり。宅地に對する賦課は是非も無し、唯從來一文の薪錢草錢を納めざりしものが、この廣大なる村受山に就きて、地券を受け地價に依りて地租を課せらるゝは忍ぶべからず、此の如き意見を以て若干の樹林地を除くの外、一切の山林原野の上地を歎願せり。當局の不機嫌を買ひつゝ、強ひて上地を爲し得て悦びたり。此が爲に深山の中に在りながら、町有の山は多からず、しかも旅客の杜絶したる箱根町は、三百年前の舊態に復り、山野の稼ぎを爲すの外、別に其生業を托すべきもの無きなり。故に期年ならずして僅かばかりなる山林は荒れたり。馬の飼養に至りては、負搬の用絶えてより、忽然として跡を收め、野草は徒に蔓延して、關東稀に見るの大草山と爲れり。
 箱根は此の如くにして大に零落せり。滅亡の豫言は正に的中せんとせり。然るに茲に幸ひなる一つの事情は現はれたり。驛遞の爲に繁昌せし舊箱根が、實着なる産業に依つて自立すべき新箱根に遷り行く過渡時代の困難は是が爲に濟はれたり。其事情といふは何かといへば、山水を愛する旅客の來住なり。殊に高地を好める西洋人は遠近の開港場より群集して、茲に避暑部落を作り、ボートは蘆の湖に浮び、破風屋は箱根ホテルとなり、ペンキは盛んに尋常の民家を塗抹し、湯治場の客も遊びに來れり。昔の賑ひに比するときは、固より十の一にも達せざれど、兎に角町民歳計の一半は之に依つて始めて支持することを得たり。現在に於てもなほ然り。町長は此日宮の下よりの歸りに、親子四(369)人の箱根人が、水入らずに異人のチェアを擔ぎつゝ下るに逢へり。宮の下迄の賃錢は、公定の率一人六十五錢也。四人半日の辛勞は、優に一家二日半の生活を支ふべし。夏季の稼ぎ高は同時に秋冬の費用に充つるに足る。故に箱根の郵便局は、必ずしも繪葉書の消印のみを以て能事とせず、貯金の事務に於ても亦頗る多忙なり。
 唯茲に注意すべきは、現在駕籠を擔ぎ馬を牽きて衣食する者は、決して以前の雲助浮浪の徒に非ずして、久しく定住せる町民なり。人足の人種は全く一變したり。馴れたる職業なるべしと思ふ者あらば誤れる也。假令彼等は相應以上の所得あるも、我等の眼より見れば明かに一種の零落なり。加之遊覽地の繁昌の如きは、實は倩女の寵榮なり、受け身の幸福なり。氣まぐれなる遊民は飽くことも早し。氣心の知れざる外國人は、何時流行の變動の爲に他の地方に向ふかもしれず。官設の宿場すら時來れば廢せらる。況んや避暑地としての箱根が繼續し得べきや否やは大なる疑問なり。自分は町長に向ひて此意見を述べ、更に將來に於ける自動的産業方策の有無を訊ねたり。
 此町に農作の存せざることは前述の如し。桑は早寒晩霜の害に耐へず、果樹は概して多濕の爲に生育せず、水稻は未だ之を試むべき地無きが如し。唯蔬菜は稍地味に合へり。米以外の穀作は必ずしも不可なりと言ふべからざるも、多くは其成績を確かめず。更に杞柳の如き、白楊の如き又は薄荷の如き、其他藥草類にして幸ひに生産の效を奏せば、販路を求むるに苦しまざるもの多々なり。然るに概括的に農業を悲觀するは早計なり。如何に優れたる農學者なりとも、一日二日の逗留の間に、何が此土地に適するかを答へ得べき理なし。個々の種類に就きて忍耐して數年の試驗を積まざれば、容易に速斷し得べきものに非ず。從來の農事試驗の不成績は、其原因寧ろ住民の農に適せざるに在るに似たり。若し然りとすれば農業の開發は困難に非ず。次に此町の周圍の山は野草極めて豐かなり。しかも畜産業の起らざるは他に理由あり。仙石原の澁澤牧場の蹉跌も同一の原因には非ざるか、蓋し畜産業に於ける勞作は夏期に尤も必要なり、一日一圓に値する成男の勞働を以て、牛馬を飼育せんとせば引合はぬは無論なり。故に中規模の經營は不利なり。餘剰又は不用なる自家勞力を以て家庭的に從事せば、此困難を感ずること無かるべし。乳牛育成の如きは最(370)も妙ならんと信ず。
 箱根は山家なれども、獵よりも漁の方が有望なり。昔は山中に猪鹿猿多かりき。權現の社頭に於ては鐵砲を禁止せしが故に、獣を獲んとする者は、之を湖水の中に追入れて捕へたり。此禁解けて後、銃獵盛んに行はれ、爲に遊人の數を加へたりしも、須臾にして捕り盡し驅り盡し、今は鳩雉の類も少なしと言へり。之に反して湖水の魚族は次第に孳殖の傾向あり。此水面は現在御料なれども、町は之が使用を特許せられ、町民をして網釣を爲さしむ。唯湖水澄徹にしてプランクトン少なく稚魚を養ふに適せざるが故に、人工孵化の術を行ふの必要あり。毎歳十月の交、湖中の鱒?等を捕へて其卵を孵化せしめ、之を飼養すること數月の後放流す。其數僅かに數萬尾に過ぎず。規模小なるが爲に效果未だ十分ならず。御料局は今年より自ら手を下して養魚所を開設し、飼育期間を延長し、魚數を數十倍するの計畫なりといふ。元來此地は海に近くして到底十和田支笏の如き地勢の利を有する能はざるも、町民の生業の之に依つて増進すべきは疑ひなし。現在に於ても漁業を兼ぬる者二十戸を下らずといへり。
 山林の稼ぎは豫想外に乏し。薪炭は勿論外部の供給を仰ぐに至らずと雖、其他の木材は既に竭《つ》きたりと言ふに近し。二三十年の前避暑の客の未だ多からずして、飯米の極めて貴かりし年、僅かに殘存せし槻山桑の類は伐りて之を小田原に運び、悉く南京米の價と爲したり。植林の業は久しく迂遠なりとして嘲笑せられし位なれば、箱根町に於ては當分建築用材を麓より擔ぎ上ぐるの必要あり。轆轤其他の箱根細工の原料も、最早種切れの姿にて、其大部分は之を伊豆の天城に仰ぎつゝあり。湖水の渚に出でゝ四望すれば、周邊の山は大方奇麗なる坊主山にて、僅かに神山の一角の鬱蒼舊時の面影を留むるのみ。風景としては或は此方を愛する人あらんも、町の爲には心細しと言はざるべからず。唯此間に於て多少注目すべきは名物の箱根竹なり。植林の盛なる地方にては、篠竹の類は大なる邪魔物なれど、此地に於ては山より得らるべき財源の重なるものなり。此竹の販路は王として京阪地方なり。「竹になりたや」の小歌の如く、太き所を團扇の柄に其次を煙管の羅宇に、末の細き部分は筆の軸に充つる等、用途甚だ多し。老材の堅實なるも(371)のは、一丈三尺の物二百本を一把とし、現在の市價十六七錢なり。西側伊豆田方郡の諸村にては、之を加工精製して、運賃を節約し收入を増加するの手段を講ずれども、箱根にては其事今は行はれず。他日もしこの無盡藏なる原料を利用して、適當なる工業を起し得るの日あらば、心ずしも漫遊の旅客のみに憑頼するの要は無かるべし。
 要するに箱根町は、その最初の印象は極めて寂寞たるものなれども、靜かに四圍の形勢を考察するときは、必ずしも將來の零落を危虞するを娶せず。殊に此地に通例の産業が起らざる原因を以て、一圖に地味地位の不便に歸せんとする説は、假令長年の經驗ある町住民の口より出づるとも、容易に信じ難し。氣温や濕度や地盤の高度の如きは、箱根よりも一層不利なる地方全國にいくらも在り。其地方にても人住すれば生活せざるべからず。衣食の爲には勤勞せざるべからず。温泉や風景の武器なき所にては、やはり耕作なり山稼ぎをして活計を立つるなり。今若し箱根に限り何物か缺陷ありとせば、そは寧ろ資本なり、廉價なる勞力なり、殊に産業に對する用意なり。此等の生産要件は或は此町の住民に不足する所ありと言ふことを得。試みに一例を擧ぐれば、昔は此町にては婦人には更に勞働の課程なかりき。女の働かぬは一の特色なりき。然るに段々と生計が苦しくなりて、青年の徒が平地に下り職業を求むるに至るや、その偶再び故郷に歸り來る者、時として他所より妻を伴なひ來るあり。伊豆駿河の女は男に負けざる屈強の勞働者なり。夫婦共稼ぎを本分とする者なり。女房が働けば亭主も酒を飲むに何と無く義理惡く、從つて暮し向きも次第に安樂なり。夫婦して山へ行けば一日十把の竹を伐り出すことは容易なり。土地生れの女子も働く者を笑はず。寧ろ稍その感化を受け、近年は主人のみに稼がする町風の家庭は漸次減少するの傾きあり、悦ばしきことなり。何をして衣食するも生計に二つは無きやうなれど、本來の地勢は村にてあるべきに、特殊の事情の爲に久しく町の生活を爲し來れば、經濟上の苦痛と不安とは勢ひ多からざる能はず、もし戸口の減少を防ぎ、現?を維持し法人の生命を永續せしめんとせば、何物か外界の事情に左右せられざる生業の基礎を、定め置くことは是非とも必要なり。箱根町の戸數は一時三百戸に達せしに、今日は高々百戸となれり。多くの移住者は横濱に赴けりと云ふ。彼所の生存競爭は尤も(372)激烈なり、彼等は今如何に生活しつゝあるか。靜穩なる山中にありて之を思へば轉《うた》た懸念に堪へず。
 町長と勤勞の問題を談論せし自分は、しかも數日の逗在中甚しく怠惰なりき。携へたる書物は殆と之を抛擲して、圍碁や畫寢に日を暮したり。或朝夙く起きて舟人と共に湖に出で、鱒釣の延繩を揚ぐるを見たり。獲る所甚だ少なくして望を失ふ。乃ち其舟を漕がせて湖尻に行き、觀望の美を樂しみたり。所謂|深山木《みやまぎ》には花の白きもの多し。舟人名を教ふれども一も記憶する能はず。枝柯屈伸自在にして尋常庭前の樹と同じからず、些しく人間刀筆の吏を馬鹿にするに似たり。時に雨碧潭に注ぎ、岸頭の巖濡れ、山百合の花點頭す。幽寂にして久しく居り難し。歸りて歌をよむ、歌に曰く、
   忘れめや高嶺の海の釣舟にからかささしてパン食ひし日を
 此歌は同じく小田原の講演會より來りて、我と半日の遊びを共にせし、備中の小野節君に贈らんとするものなり。
 
(373)     秋風の吹く頃に
 
 八ヶ嶽の裾野は佐久の方から越えて來る時に、ほんの暫らくの間だが高原といふ感じがした。路を少し下れば澤が深くなり、低みには田を開き森を立てゝ、もう眺望が狹くなつてしまふが、國境近くだけは傾斜も目に立たぬ程の一面の草原で、その周圍はそれ/”\雪を戴く名山が縁《へり》を取つて居る。私は六月蓮華躑躅の咲き滿ち、郭公の盛んに飛びまはつて居る頃に、馬で是から若神子《わかみこ》の方へ出て見たことが一度ある。汽車は今此野を斜めに横ぎるのだから、多分行く/\は日本でも珍らしい風景の窓を供與することになるだらう。たゞ殘念なことには東京との交通に、是くらゐ縁の薄い線路もめつたに無いので、わざ/\通つて見るといふ旅行がはやらぬ限り、やはり當分は認められまいと思ふ。
 多くの風景を説く人々は、二つの條件を言ひ落して居る。その一つは季節と時刻、いつ何時在つて見てもよいといふ風景は有らう筈が無い。其次にはどうしてどの邊から見るかといふこと、之を考へてくれないので話が獨り合點に墮し易い。日本には高原が勿論少ないのであらうが、少しは有つても近よつて行く方便が設けられて居ない。汽車は大抵川筋に沿ひ、人里を縫うて走つて居り、峠路の眺望は頂上に近くなつて始めて開ける。我々の往還は、大よそこんな高原で無ささうな區域ばかりを、昔から利用して居たのである。富士の周邊などは地圖をひろげて見ると、高原と謂つてもよい面積を大分控へて居るのだが、登つて見おろすのを本意とした旅人には、そこは只退屈なる中途としか記憶せられて居ない。新らしい通路も開かれなければならぬが、それよりもやはり旅行の趣味の、少しづゝ改まつ(374)て行くことを待つの他は無いのである。
 全體に斯んな山國であるに拘らず、今までは所謂登臨の樂しみにやゝ心醉し過ぎて居た。私は是を大陸文學の感化だらうと思つて居る。支那は平蕪千里といふ國だから、少し小高い處があれば物珍らしくかけ上つても見たらうが、我々は實は山坂の凸凹に倦んで居たのである。だから山中で働く人々は、今でも僅かばかりの平地を見つけると、急いでそこに行つて寢轉んだり辨當を食つたりすることにして居る。高い尖りの、二人上れば三人は下で待つて居なければならぬ樣な處へ、無暗に拔けがけをしたがるのは平地の趣味であつた。たとへば日本に高原といふたのがちつとは有つても、是では誰にも心づかれずに過ぎたかも知れないのである。
 古人が國見と謂つて居たのは、最初から目的が別に有つたのだ。西部の府縣では山行きとか岳行きとか謂つて、春の盛りの人間の事業の最も華やかな時節に、高きに登つて自分たちの住む處の、樂しさを味ははうとする風習が普通であるが、關東の方でも三月節供の次の朝に、雛を送つて後の岡に登り、海川村里園や田畠、櫻菜の花青麥の美しさを人形に見せて、又來年もござれと送り出す例は稀で無かつた。斯ういふのは何れも生活の勝利、自然がいとも從順に人類の指令に服して、變化の巧みを盡す心地よさを求めて居たので、實は今までの展望臺は、主として此方面に向つてしか開けて居なかつた。近頃の言葉でいふと、「人のある風景」ばかりが、田舍には備はつて居たのである。
 高原の素朴な延び/\とした姿、その寂寞の清らかさとも名づくべきものは、旅人でないと之を發見することがむつかしかつたのだが、是には又色々の妨げがあつた。道路は土地の人たちの踏み開けたものゝ中から、最も安全な僅かのものを擇んで、旅人は通らうとする。泊りや辨當の時刻で無くても、いつも終點に急いで其方へばかり氣を取られる。めつたに廣い野を正面に行くやうな機會には、惠まれて居なかつたのである。旅行の自由は此頃になつて著しく加はつた。是から漸く高原の美を、探つてあるく時代が來ることゝ思ふ。又さうして捜しまはらねばならぬほど、日本には高原と名づけてよい區域が殘つて居ない。私は若い頃露伴氏の雁阪峠を讀んで、甲州の谷に育つたアルネの(375)やうな一少年が、始めて境の山の頭に出て、關東平野の大きな風に、ぼうと顔を吹かれるといふ一節に感動した。それから暫くの間はこの峠の心持を味はふ爲に、あるきまはつたと謂つてもよい位であるが、大抵の峠の風景は我々には精巧過ぎる。長い繼梯子を横たへた樣な澤の村でないまでも、水と道路の白い線で縁どつた人生が、新たなる染絹のやうに眼の下にひろげられる。殆と「還つて來る蕩兒」の爲に、用意せられて居る故郷の圖の如きものが多かつた。さうでなくとも國が古いからであらう、地表がどこまでもよく彫琢せられて居る。たとへば熊野の那智から妙法山へ詣る路、伊勢の朝熊の金剛證寺の門前から、西南に志摩度會の村々を見た景色、木曾と美濃飛騨とを結ぶ三國山の上から見渡した眼路の限り、さては又摩周の火山湖の岸に立つて、十勝一國の外線を眺めたときなど、よくも此樣に行儀よく並んだものだと思ふ位に、ほゞ同じ高さの小山が、何百とも知れず連なり立つて居る。それに一つ/\多分は名が有り、一つ/\植物相を異にして居る上に、其蔭にはそれ/”\の谷川が流れ、入れるだけの人が入つて住んで居る。越後の松の山家の周圍などは、是がまだ別々の圓い團子にこね上げられて居ないだけで、曲りくねつた谷の奧までが、田になり村になつて思ひ/\の生活を展開して居るが、どこか國境の便宜の地に立つて振囘つて觀ると、曾て一續きの廣々とした高地の、老いて皺になつた姿であることがよく判る。日本のやうに水の豐かな國では、自然に任せて置いても地貌は永く單調を保ち得ない。それを人間があらゆる拮据經營を以て、少しでもよそより美しく、又は目につく樣に取り繕はうとして居たのである。だから我々の靜かに高原の美を賞したいと思ふ心持は、やがては又社會の原始?態に對する憧憬と似たものかも知れない。興味は寧ろそれが現代の光景まで變化した、歴史の無い過程の方に在るのだが、まだ當分のうちは自分等にもそれが氣付かぬのである。
 因幡と但馬との間の山の上に、人が登つて見ることの出來ない數萬町歩の平地があるといふことは、本にも書いてあり私なども前から聽いて居た。地圖で當つて見てもさういふ餘裕は有りさうにも思はれぬのだが、一箇處ぐらゐは我々の空想の間に、そんな高原を殘して置いてもよい。日本人が好んで高原の文字を用ゐたがり、又しば/\さうで(376)ないものに此語を使つて見ようとする動機には同情せられる。以前越前の穴馬谷の小學校で、子供に海の概念なるものを與へようとして居るのを聽いて居たことがある。みんなは九頭龍《くづりゆう》川の何とか淵を知つて居るだらう。海といふものはあれを何十萬、まだその何十倍も繋ぎ合せて、平らな一續きにしたやうなものだと教へて居た。地理學の「高原」などもさういふ風に説明する必要があるかも知れない。しかも標本の幸福は、いつでもいやな部分からは採つて來ないことで、日本の海洋文學が、常に渚の月、磯の松を咏歎して居たやうに、キャンプの高原も色々の野原の花を以て飾られ、寒い北風も吹かず狼の聲などは尚聞えず、其代りには行く/\週末列車の終點となつて、「海はどこでせうか」といふ漫畫のやうに、盛り場ばかりを高原といふことにならぬとも限らぬ。なにさうなれば又別の名前を、我々の高原の爲に見つけるだけのことである。
 私たちの高原は、人の氣の少ないことを要件として居る。さうして眼にも見えない海拔といふものを、さうひどく氣にしては居らぬ。海拔は何千尺あつても目の前を又高い山が取卷いて、田はあり街道は塵煙を立て、?犬の聲相連なるといふやうな土地を高原といつては私には通じない。之に反して關東の田舍などは、ほんの臺地の草原であるが、稀に其片端のハケの上の路をあるいて、高い處に居るといふ感じがするのは、私がさういふ地形の少しも見られない西の方から、出て來た爲だけでは無いと思ふ。尾花が漸く穗に出ようとする九月の始め、白い雲が流れて秋風の吹く頃が、最も此あたりの逍遙には適して居る。それから此海岸をどこ迄も北へ進むと、愈村里が少なく野が廣く、生えて居る植物も單調になつて來る。僅かばかり海を離れてまだ磯の音が聞え、岡の頭の雲なども、まだ海上から生れた形を持つたまゝで居るのに、下閉伊《しもへい》郡北部などは既に十分に高原の感じを與へる。私はやはり秋のかゝりに、その地方を三日ほど跋渉して見たことがある。或日は小雨が降り次の日は霧で、どこ迄行つても萩のまじつた芒原であつた。山と山との間にも稀には斯ういふ靜かな原があるかも知れない。初夏の小鳥の聲の多い頃も面白いが、私は秋の風に吹かれて、もう一度少しも急がずに、さういふ野の中をあるいて見たい。
 
(377)     四國の旅(通信
 
 讃岐へは四度參りましたが、まだ「ことひら」を知つて居るとは言へません。御山に參拜したのは秋の或日の半日だけで、それも西洋人を一人同行して居ました。誰にも見られずにどこか靜かな處から、せめて二三日は眺めて見たいものだと思つたことであります。此次は花の多い季節に、成るたけ人の少ない山路などを通つて行つて見ようと思つて居ります。
 三豐は汽車のまだ出來ぬ前に、伊豫の方へ拔けて見ました。今は故人になつた荻田元廣君が案内をせられました。此人の家も知つて居ります。惜しい學者でしたが長生をしてくれませんでした。我々は脇路の野原を多くあるいたのですが、本通りの方も砂丘などがあつて、海の景色を見るには車を下りて、暫くは遊ばなければならぬ樣です。從つて他國の者にはまだ餘り多く知られて居ません。所謂ハイカアたちには樂しみな地方であらうと思つて居ます。
 私たちは時間の足らぬ爲もありますが、いつも駈け拔けるやうな旅行をして、それがうまく佳い風景に行き當らぬと、つまらぬ處だつたなどゝ惡く言ひます。さういふ我儘な批評をさせぬ樣に、少しは土地の方でも用意をして置かなければなりません。今度出來た飛騨の高山線などは、鐡道建設の掛りが氣を利かせてか、中々面白く路線を取つてあります。あれだと秋も行き、又春も通つて見ようといふ氣になるのです。
 一つの直線旅行の例を御話しますと、私は或年の初夏の朝備中の北木島の山の上に登つて居ました。さうしてけふは歸らうと言つて居る所へ、折よく白い汽船が沖を通りました。急いで濱へ出るとそれは多度津行きで、乃ち四國に(378)渡ることになつたのであります。多度津では無論汽車の時間と聯絡して居ます。それで高松へ來て知人を訪ねると、可なり忙しさうだから僅か居て驛へ引返しました。その頃津田行と謂つた列車がまだ出ずに居りました。それがのろい車で三時近くまでかゝりました。津田の驛の前には一臺しか自動車が居りません。黙つて乘つてしまふと何處へ行くのだと尋ねます。撫養《むや》だと申しますと大分考へて居ました。ちやうど夕陽になつて大阪の峠を越えて見るのが私の注文ですが、歸りを考へると阿波行きは躊躇したものと思はれます。改修した縣堺の山路は豫想以上に安全でした。さうして色々の大きなカーブが有る爲に、窓から海と島との配合の變化が、のんびりと眺められます。村里の田の水と池の水の白く光つて居るのもなつかしい情景でした。伊豫では久萬へ越える御阪峠などが、是とよく似た田園の趣を展開します。信州の上諏訪から高遠へ行く杖突峠が、今では八ヶ岳の裾野の全景を見せるやうに、休み茶屋までこしらへて旅人を招いて居ます。しかし季節と時刻とを考へて行かぬと、いつも美しい天然に對面するとはきまりません。
 それから私は阿波の東北隅の繁昌した村里を、黄昏の間に見て通りました。撫養の長い町はもう眞暗で、燈の火が美しく並んで居ました。兎に角波止場へと當てずつぽうに行つて見ると、棧橋に大きな黒い船が繋つて煙を出して居ます。やつと切符が買へて乘るや否や船が動きました。自動車の御金は危ふく飛んでしまふところでした。其晩は淡路の福良の湊に宿をとつて、次の朝は洲本へ、そこで城趾などをゆつくり見物して、泉州の淡輪《たんのわ》へ渡りました。こゝでも鞄を下げて少しあるきましたけれども、午飯はもう大阪の知るべの家で、讃岐を見て來た話をしながら食べて居たのであります。運もよくなければさう/\は斯ういふ旅は出來ません。
 自動車の旅は月見には向かぬやうですが、雨の日の朝夕は大降りでさへなければ、却つて今まで知らなかつた色々のものが見られます。昨年も私は常陸の下館から、下妻・岩井・野田で乘りかへて、武藏の大宮まで十數里の畠路を、バスを利用して横斷して見たことがあります。斯んな日は乘合も無く、すれちがふ車も尠なく土埃も立たないで、畫(379)にも寫眞にも無いやうな雨の田舍が見られます。あの邊は沼や大川があつて變つた地形ですが、この交通機關が出來た御蔭に、可なり廣い區域を泊らずに見物が出來ます。そんなにまでしなくともと、宿屋の人たちは思ふでせうが、これにも相應の理由は有るのです。以前は琴平などにも田舍の人が多く行き、町から來た者でも一日中寂しい處をあるいて來るのだから、幾ら旅館が賑やかでも困らなかつたのですが、今日の旅人の一部分は繁華に飽き、群衆の醉を醒ましに行くのです。そこが都會の小さな模倣であつたり、もしくは働いて居る日以上の混雜であつたりしては、酒と唄とで紛らさうとする連中以外の者は、却つて外に寢たために草臥れて還る他はありません。だからめい/\が無理な旅程を組んで、成るべくは夜は自分の寢床へ戻つて來ようとするのです。優れた風景と名勝とを幾つも持つて居る讃岐のやうな土地では、それを遠近の旅客に味はしめる爲に、特に落付いた寢心地のよい宿屋の一隅を、用意して置くのが一大慈悲心で、それを怠るといつまでも、醉つてわめいて何を見て來たか覺えて居らぬ者ばかりが、國立公園を渡りあるく樣な結果になるかも知れません。さうだとするとまづ野原のまん中も同じことですね。
 
(380)     隱岐より還りて(談話
 
 よその島と比べて見ないから、隱岐の人は氣が付くまいが、今のまんまでは風景がすこし寂しい。春の盛りのよく晴れた日だつたのに、どの山も緑がやゝ黒ずんで居て引立たない。一つには勿論海の色が澄み切つて青く、空の光が眩いほど明るい爲とも考へられるし、又島の土質にもよるのであらうが、或は幾分か植物の種類が、偏して居るからではないかとも感じられた。島後の北側へまはるとさうでも無いと聽いて居るが、そこまで行ける人は割合ひに少なく、第一是では外來者が親しめなくて、永く島の中を廻らうとしないであらう。山を針葉樹にして置かぬと島の用が缺けると思ふのは尤もだが、それなら片端に一本なりとも、せめて春だけは花の咲く木があつてほしい。さういふのが却つて引立つもので、それもわざ/\栽ゑに行かずとも、白なり紅なり花の目につく雜木を、伐り殘す習慣を付ければよいのである。ところが此島では里の近く屋敷の隅、社寺の境内や路傍の雜種地にも、總體に花の木が少ないやうに思はれたのは、或はまだ花を愛する情が、他の地方ほどには發達して居ないのでは無いか。是は速斷かも知れず、梅の頃に來て見ないと確かなことは言へぬが、もしも梅のやうに早く風景の中に融け込む樹木さへ少ないやうであつたら、愈この島の人たちの想像力が、まだこの方面だけには十分に伸びきつて居ないと、批評してもよいかと思ふ。島としてはそれも無理はない。さうして又珍らしい例でも無いのである。出たり入つたり、他郷に永く留まつたりする場合が少なければ、船から眺めた島の山水の美しさを、我々旅人の如く心に刻み込むことの出來ぬのは當り前で、言はゞ彼等自身が、今なほ畫圖の中の生活を續けて居るのだから、其作品の好さ惡さを考へられないのである。
(381) 島前の内海へ突出した燒火山の一つの尾根に、たつた一箇所だけ樟の木の若芽が日に照り、山櫻らしい柔かな葉の色をした木などが入り交つて、公園見たやうな感じのする一角があつた。どうしたわけであの附近ばかり、際立つて明るく見えるのだらうと不審をすると、其處はちやうど燒火權現の代々の御神主、松浦靜麿さんの持山であつた。あれはこの前私が栽ゑさせて見たのですと、島で愛郷家の隨一にも算へられる、その御本人が傍に居て説明せられる。だからあゝいふ木をもつと澤山に、栽ゑてまはるやうにしなければいけませんよ。梅桃櫻山吹藤躑躅平凡でもいゝから花の咲く苗木を、どうです一萬本ばかり分配して見ては。さうで無いどいつ迄も私のやうな旅客が、自分の明るい外光の中に居ることを考へないで、北の海だといふ初一念に囚はれて、何だかうすぐらい島だなどゝ評をして行きますよ。
 觀光協會のどつさり節の宣傳、あれなどは誠につまりませんな。あんなものを嬉しがつて金をつかつて行く御客が何になります。水商賣の者に雜用を負擔させようとするから、彼等のビラの代理ばかりして居るのです。それよりも島は自動車の土埃や馬の糞が少なく、所謂ハイキングには樂しい土地です。おまけに夏休みが最も海の靜かな、又光線のきれいな季節ぢやありませんか。海に沿うてくるりとまはれる路を、細くてもよいから島毎に完成させることですね。清水などの掬んで飲める場所がきつとありませう。そこを整頓してさつぱりとした休憩所、又出來るならキャンプ場を設けてやることですね。若い人たちがきつと來ますよ。彼等が好い印象を受けて還つて行き、大きくなつてから可愛いゝ細君をつれ、又は小學校へ行き出した子供などをつれて、樂しみにして再びやつて來るとしたらどうです。風景はたゞ斯うしてのみ育てられるもので、決して西行上人や宗祇法師の力では無いのです。衆と共にといふことが名勝の昔からの條件で、それを企てることだけが個人の功勞なのです。
 斯んな説法も實は無用であつたかも知れない。もうこの頃はどし/\と花の木が入つて居るのかも知れない。海から眺めた島の姿が、繪卷物のやうになりかゝつて居るらしい氣がする。私ももう一度それを見に行くつもりだ。いゝ(382)あんばいに島のめぐりに清い泉があり、そこに腰掛の石などが置いてあればよいがと思ふ。松は赤松も黒松も、あの島には少なくないのだが、妙に私の記憶では海岸には少なかつたやうに思ふ。今から移植するのは遲いかも知れないが、それが處々の休み場の目じるしに有つたら、島めぐりをする人は船からでも山からでも、それを見て大に喜ぶことであらう。あの樹を透した日影は美しいものだ。程よい處に大きなのがもし有つたら、成るべくは薪などに伐らせたくないものである。隱岐は數多く昔の歌の殘つて居る島だが、それも是も斯ういふ色々の木の蔭や花の色と、結び附けてでなければ島の外へは傳はるまいと、私などは感じて居る。
 
(383)     島
 
          一
 
 島の最初の移住者が、多くは農民であつたといふことは、必ずしも意外な歴史で無い。漁業を專らにする人々は、最初から交易の必要を感じて居た故に、成るべく穀物を作る村の近くに、又は來往の便宜の多い箇處に、其居を定めようとしたからである。漁民も少しづゝ旁らに耕作を營んだであらうが、是を農民が餘暇に磯あさりをして、食物の補充を講ずるのに比べると、難易の差は大へんに違つて居る。だから日本の主島も同樣に、古く開けた島は何れも動くことの少なさうな農民の方が、先づ渡つて來て之を開いて居るのである。海人が主として内陸の端に住み、沖繩の諸島や壹岐の島などの、地圖では海の勞働者ばかりが、割擧して居るだらうと想像せらるゝ處に、船を使はぬ人々が靜かに暮らして居たのは其爲のやうに私は思ふ。
 ところが島はその農業者等に取つて、絶對に安全な根據地とも云へない事情があつた。其一つは可なり重大な、是からも深く考へて見るべきもの、即ち農作が成功すると直ぐに人數の過剰となり、一旦落ちつくと容易に外へ出られないで、勢ひ内輪で爭奪をしなければならぬことである。此?勢は島が小さいほど早く現はれ、今は既に又最大の島にも及んで居るのだが、それは物の序に説き盡し得るやうな問題で無いから、今囘は後過しにする。第二の小さな事情は島の土の早く痩せることである。殊に我邦は降水が多く、島の傾斜は急なものが多いから、是を開いてしまふと(384)其次には土の流れることを患へなければならぬ。小さな島ではそれが皆海底へ入つて、寄洲のやうな代りの物を與へてくれない。島の農業は言はゞ我身を食つて生きて居るやうなものである。
 島の人々はその天然の征御に於て、又一つ餘分の仕事を課せられて居る。壹岐などは古い國であり、又特別に平和な島でもあつたやうだが、この苦闘の痕が、今行つて見ても可なり明瞭に遺つて居る。海へ失つてしまつたのを、何とぞして取戻さうとする努力は、所謂藻苅舟のわざに現れて居ると謂つてもよい。歌人が風流の題材として居た玉藻苅る海少女どもの勞苦は、食料とも燃料とも思はれぬから、すべてこの失はれた地力を快復する爲であつたらう。少なくとも現在は皆さうである。近江の湖岸でも、羽後の八郎潟でも見ることであるが、蝦夷の人たちが昆布を採る時に使ふものと、ほゞ同じ樣な道具を兩手に持つて、終日浦の小舟の中で肥料用の海草を引上げて居る。岸には是を積重ねた圓い推肥場が無數に出來て居ることは、ちやうど山村の乾草ニホも同じである。それが稍熟するを待つて、湛念に各自の畠に入れるのである。
 或は流れる土をも運び戻さうとするらしい。海に入つてしまつたものは、鹽氣を拔くことが容易で無いので、それを中途で出來るだけ抑留しようとして居る。「農村語彙」にや採録したアヅダメ又はアンダメといふ語は、壹岐の他では私はまだ耳にしたことが無い。畠地の低い方の片隅に溝を掘り窪めて、雨の後ならばそこに泥水が溜まつて居る。ひまさへ有れば其泥を畠へ荷ひ込んで居るのである。アヅとはその沃土のことを意味するかと思はれる。アヅも海の緑肥も共に島地の略まん中に運ぶのが、通例の作業であると見えて、此島の岡の耕地は何處をあるいて見ても、大抵は中高の饅頭形になつて居るのが、よそでは見られない特徴である。斯うすればいよ/\土が流れ易いから、切り均したらよささうに我々には見えるが、何かそれを許さぬ經驗があるのであらう。島では一枚の畠の作物の出來にむら〔二字傍点〕があつて、よく働く家の畠はまん中が茂り、土運びを怠るか又は金肥を使ふ家のは、却つてこの圓頂の部分が地肌を赤く出して居る。是を見ると農業も隨分氣ぜはしいものだと思はれるのだが、多くの旅人は是をも島の變つた風物の(385)中に、算へ入れて眺めて居るかも知れない。
 
          二
 
 斯ういふ内と外との心持のちがひは、日本のやうに人が押合つて住んで居る國でも、尚避けることが出來ないやうである。近世の歌人で誰であつたか忘れたが、
   あまの子が世をうみ渡るともし火もよそめ涼しき浪の上かな
といふ歌のあつたことを私は記憶して居る。冬の鴨河の友禅染さらしなども同じだが、夜の焚入れや帆かけて走る船を始めとし、水上の緊張には陸人の解し得ぬものが多く、從うて評價は?かはるのである。島の風景の如きは、單なる或時刻の遠望によつて、之を報告することからして不當だが、大體に今は二通りのものが旅人に知られて居る。即ち岸近く巖が峙だつて、松の緑が垂れ臨み、白い浪がしらが花輪のやうに其前後を飾るもの、松島式もしくは海金剛式とも名づけてよいかも知らぬが、瀬戸内海の航海でも折々見て通ることがある。島の名は忘れたが備中の白石あたりでは無かつたかと思ふ。山が花崗岩の崩れたもので、形の良い小松が疎らに立ち、赤い躑躅などが其間に咲いて居て、水に映るから春行くと感じが深い。畠も飛び/\に目につかぬことは無いが、農業の側からいふと斯んなのは末期である。或は最初より耕作には向かぬ島を、強ひて來て開いたといふことになるのかも知らぬ。古いことだと見えて畫家の幻しには、傳統をなす迄に強く結び付けられて居る。それから今一つは山はさして高からず、少しく耕地があつて、一生懸命に之を維持して居るもの、磯の根が遠くに張つて稍平べつたい淋しい印象を與へる。
 沖の小島に雲雀があがる云々といふ國木田獨歩の歌などもあるが、多くの場合にはぢつと是を眺めて行く者は無いのである。能登の和倉は昔は好い温泉場で、欄に凭つて居ると入江の對岸に、雉子の頻りに啼く松林の村がある。鹿島の郡名の元になつた能登島の一部が是で、近い頃まで鹿が多く、農民が是と闘つた話なども傳はつて居るが、餘り(386)に内陸の里と似て居るので、島として其風光を味はうとする者も少ない。しかも斯ういふ條件は、島では永く保續することが六つかしく、それが小さければ小さいほど、所謂農國本論の根柢は、どうかすると崩されがちであつた。自然は人類と遭遇すれば、結局變形せずには居らぬのであるが、一方は既に改まり盡した最終の姿であるに反して、他の一方の農耕の島々は、今現に推移しつゝあるさ中である。人でいふならば少年少女の、髪が延び眼が光をもち、是から色々の衣裳を著けようとする趣にも似て居る。我々の藝術が力をその變化するものゝ方に傾けなかつたのは惜しい。
 
          三
 
 島には尚第三の種類のものが、以前有つたことは確かだが、それはもう殆と殘つて居ない。日本は山國なれども今は深山が無いのと同樣に、人が渡つて來れば變らずには居なかつたのである。松岡映丘の畫にした島々は、現にその在りかを見つけるよりは、繪卷物の中から夢み出す方が遙かに容易である。私たちは毎度この渡り鳥の先祖のみが、知つて居たらうかと思ふ内海の昔の風景を、語り合うては懷かしがつたものである。出羽の象潟などは芭蕉翁が見に來て、
   松島は笑ふが如く象潟は恨むが如し
と言つた頃までは、原始林の面影を緑波に映じて居たのかも知れない。鳥海山の噴火で入江が田になつてから百數十年は過ぎて居るのだが、今見る田中の離れ森にも、まだところ/”\藤が咲き、山櫻の若木が生え繼いで花を見せて居る。しかし是などは島と謂つても、何れも五十坪か百坪ほどのもので、さういふ小島ならば神が守り人が畏れて、そつとして置く例は南の方にもある。現在松がちでところ/”\土に日が當り、又は草山の炭も燒けない島々でも、明治の改革まではよく茂つて居たやうに、老人たちは時々話する。是が居住者も無く伐りに來る者も無くて、春は色々の(387)若葉が枝をさしかはし、十分以上の水分と日の光とを浴びて、全山を蔽ひ包んで居た時代が、一度は有つたことだけは推測に難くないのである。沖繩は暖地だから人が盈ち切つた今日まで、御嶽の奧だけは隙も見えぬ林叢であり、又|山原《やんばる》の片隅へ行くと、まだ開墾者の開き得なかつた樹海が、水溜りほどになつて殘つて居る。奄美大島でも奄美嶽の四周に、信仰が保護した入らず山があり、對馬でも豆酘《つゝ》の龍良《たつら》の神山だけは、辛うじて天然記念物の保護が間に合ひ、爰には三かゝへもある榊の樹が有るといふ。隱岐も島後の山には亞熱帶性の草木が、手つかずに茂り合つてゐる一區域があるといふが、是等は何れも皆濱からは稍入込み、もはや潮の流れに枝垂れた以前の姿は見られない。ましてや瀬戸内海などの風光が、古今一變して居ることは想像に餘りがある。私の知つて居る一つの例として、備中の北木島はもと木の島で、其南に連なる鹽飽《しわく》の諸島から、木材を探りに來た頃の命名かと云はれるが、現今切り出して居るものは御影石ばかりで、小松以外の木はすべて珍らしいと言つてもよい。是がこんもりとして多くの花を咲かせ、秋は色々の樹實を熟せしめて、自ら榮え又小鳥を悦ばしめて居た頃のことを考へると、此島々の間を目近く漕ぎ渡り、又は潮待ち日和待ちの爲に、幾處か船がかりをしてあるいた昔の人たちの、あれだけ結構な文學藝術でも、まだその印象に冷淡だつたやうに思はれる。近頃僅かづゝ熱を増して來た海上國立公園の計畫なども、言はゞ至つて遲蒔きの埋合せのやうなものである。よつぽど考へて貫はぬと、先祖の罪滅ぼしには足らぬやうな氣がする。
 
          四
 
 そこで改めて今一度、我々普通人の立場から見た風景といふものを尋ねて見ると、是が教養ある若干の旅人に專屬する樂しみで無い限り、所謂よい景色は時代と共に、次々に場處を變へて居るやうである。やはり大きな問題になつてしまふ樣だが、天然の美しさにも千載を一貫した、尺度も頂點も無かつたものと私等には思へる。雪國の住民の雪見はせぬ如く、最初廣漠たる山水の間に一人立つた者は、市街を飛出して來た日曜人のやうな氣持にはなれない。自(388)然の壓迫などゝいふ氣の利いた感じは持てぬ迄も、是をどうして手を著けて、其間に自家安住の磯陰を見つけようかといふ屈託の爲に、茂つた島山も好いものとは感じられなかつたらう。北海道の移民が森林を粗末にした如く、見馴れた地貌なるが故に繪卷の中にも、物の序にしか寫生をして置かなかつたのかも知れない。さういふ?態は無論永くは續き得なかつたらうが、是を囘顧して我々の如く懷かしがる迄には、又若干の年處を經なければならぬ。さうして一方には又人間の力を以て爲し遂げ得たものに、多分の興味は惹かれざるを得なかつたのである。繪とか歌とかの我々の心を捕へたのも、最初は表現の技藝からであつて、それが描き出さうとした實物の價値で無かつたことは、どんな下手なものを見せても子供は面白がる、あの心持を考へて見てもわかる。だから風景の批判を藝術によつて指導せられ、「まるで畫のやうだ」の、「筆にかくとも及ばず」のといふのは誤つて居る。畫にならない景色の方がずつと好かつたかも知れないからである。
 我々はたま/\自分等の表現法を持たぬ爲に、互ひに示唆を受けて畫の景色を愛し始めた。さうして島の崩れて岩ばかりになつて行く?態を、面白いと思つたりし始めたのである。しかし言葉こそまだ適切なものは無いけれども、囚はれない萬人の心のうちには、幾つかの好いと思ふ風景は共通して存して居る。俳諧だけは今でも無邪氣に、折々はさういふ感じを句にして居る。たとへば七部集の連句の中に、
   法印の湯治を送る花盛り
    繩手を下りて青麥の出來
又は、
   堤より田の青やぎていさぎよき
    加茂のやしろはよき社なり
といふ類の快感は、農夫で無い者も昔から之を味はひ、今でも割引無く是を買取つて居るのだが、所謂好い景色の目(389)録にはまだ入れてない。蘭領のハルマヘェラ島で陸稻を作つて居た友人の江川が、害蟲の驅除の爲に三晝夜も寢ずに働いた後に、漸く片付いて小屋に入つて休んで居ると、廣々とした圃場の上を白鷺のやうな鳥が二三羽、緩やかに飛びまはつて居る。それを見て何といふこと無しに、居合せた者が皆涙をこぼしたと言つたが、斯ういふ感動の小さいのはどの縣の百姓も皆經驗して居る。つまり人間の努力の前に、自然がなよ/\と凭りかゝる光景が快いのである。新らしい文化が國に入つて、さういふ經驗は幾らでも積添へて居る。荒野のまん中を二線の鐵道が目の屆く限り突走り、去年は海であつた遠干潟を、眞直ぐな堤が取圍ひ、帝都の燒原に大きな石の家が建つて、夜は星近くまで燈の火が連なるなど、目馴れてしまつた後まで、實は一同がいゝ心持をして居るのである。以前の畫題とても出來るなら是に及ばうとした。さうして又或部分は成功をして居る。それが偶然の所産なるが故に、我々の物に感ずる心を制限せられる理由は無かつたのである。もしも雅俗の境がそんな處にあるならば、早速撤囘して自由になつた方がよい。
 
          五
 
 風景の歎賞には教育などは無論いらない。たゞこの永年の癖がある故に、批評は少しづゝ試みる必要があるだけである。自分の觀る所を以てすれば、國人の成るべく多くを旅行好きにするだけの目的ならば、必ずしも大掛りな設備又は事々しい區劃を構へるにも及ばない。彼等はよく/\の困窮で無い限り、可なりの旅行好きであり又眞似好きでも有る。好いと人が評すると何處へでも見に行く。實際又大抵の名所舊跡が、自宅の近所よりは遙かに珍らしい。よく言へば日本は到る處皆公園である。只其中から互ひに他處の人たちの來て感心する以前に、土地でも好いと思ひ且つ愛して居るといふ景色を、すぐり出さうとするとそれは少ないのである。官府に指定して貰つてはつと心づき、それから自慢をし出すのもいゝ加減なものだが、外へは隨分と宣傳しながら、自分たちは腹でふゝんと謂つて居るに至つては、明かに自然を味はふ態度の喰ひ違ひを意味する。さうして何でも珍らしがる旅の者の誇張に放任して置いた(390)ら、風景は却つて是が爲に荒れるであらうと思ふ。
 目馴れて感じなくなつた我土地の美しさを、人から見直してもらふは樂しみなことであるが、其批評は十分に客觀的で、住民の立場に即したもので無いと、實際は何の參考にもならない。島の場合は殊に今までの鑑賞が我儘であつた。其中に住む者の憂喜とは交渉無しに、遠く沖から眺め又は僅かに濱の片端を踏んで、景色のよし惡しを説く者が多かつた。我々の記述能力がもう少し進んだら、始めて稍ちがつた種類の旅人が、島に訪ね寄ることにならうと思ふ。汽車が平野の村里を横ぎり過るやうになる迄は、普通の田舍もやはり同じやうな、冷淡な見方をせられ勝ちであつた。それが一方には自ら知らうとする學問が興ると共に、斯うして近々と農家のセド・カイドから、瞥見的にもせよ中の生活が覗けるやうになつて、次第に住民と同じ立場に立つて、其周圍の天然を觀ることが可能になつた。それとよく似た改革は遠からず海の旅にも行はれることゝ思ふ。少なくとも我々は其途に向つて歩んで居る。
 それは必ずしも島住民の生活觀照に、外から來る者の心持を引付けようといふのでは無い。一方には又我々の知らんと欲する所、知つて共々に悦び且つ樂しまんとするものが、何であるかを彼等にも解せしめて、事情の許す限り雙方の快感を一致せしめようといふので、是が出來ないやうでは茶屋小屋船頭等の客商賣以外の者にとつて、旅人の如きものは實は邪魔である。久しく別れ/\の生活はして居たが、我々の美を愛する感覺には意外な共通がある。單に他人が悦ぶのを見て、惡い氣持はせぬといふやうな受身の同情で無く、どんな違つた境遇に居る者でも、自然はまだ豐かだ、我々の活躍にはまだ餘地がある、それを斯ういふ風に利用し且つ享受する途もあるといふ事實を發見して、心地よいといふ感じを抱かぬものが無いのは、恐らく人間の原始以來積重ねられた無意識の經驗であらう。それが私有とか獨占とかいふ差別の念を離れた場合に、弘く人全體の優越感となつて現はれて來るので、國民が永く攪亂せられぬ群生活を續けて居ると、それが特殊の國風ともなり、又相互のセメントともなるのかと思ふ。大きなよく熟した果樹園の傍を通る。濱へ來て見ると地曳網に鯛が跳ねて居る。斯ういふ場合ににこ/\として立止らぬ人が無い如く、(391)理論は不明であつても人間繁榮の著しい兆候を見て、好い印象を受けるのは亦自然である。如何なる藝術の傳統は有らうとも、是を抑制して眼を荒涼の景に轉ぜしめんとする試みは、恐らく大衆の間には成功しまい。
 
          六
 
 島に對する風景鑑賞家の要望が、從來は?無理であり、同時に又行きなりであつたといふことを、私は言ひたいのである。天然は今は確かに我々が管理して居る。是を住みよく又見て快いものにすることは、不可能で無いばかりか實は人間の義務である。然るに都市に對しては幾多の計畫が有るに反して、田園は散漫として總括して之を省みる者が無く、僅かに各人の自發的なる所作の跡が、偶然我々の固有の趣味に、投合するものあるを以て滿足して居た。さうしてたま/\注文を付ける者があれば、それは却つて一般住民の生活の、萎頓退縮を希ふやうな案であつた。しかしどの樣に言つて見たところで、多數が活きて行かうとする力の方が強烈だ。自然の推し移る趨勢は大よそ定まつて居る。單に其間に於て何れの部分が、避けようと思へば避けられる破壞であり、もしくは輕微の勞を以て保持し得る美しさであるかを、自他共に考へて見るだけの機會が、與へられるならばもうそれで滿足しなければならぬ。
 或は樂觀に過ぐといふ評を受けるかも知らぬが、人が努力し活躍することに由つて、風景は決して惡くなるものでないと私は思つて居る。好いとか惡いとかいふのがもし獨斷ならば、少なくとも知能勤勞の勝利を意味する新しい變化を見て、不愉快に感ずる者は稀だとは謂つてもよからう。型に囚はれた對岸大陸の一律農業を見て來た目で、日本へ渡つて村々の精農たちの、最も自由な土地經營法を眺めた者が、まるで庭園のやうだといふ感じを抱くのは普通である。何等の計畫が無く又申し合せが無くても、人の活き/\と稼いで居る結果は、自然に同胞の其傍を過ぐる者に、豐かなる旅心を與へずには已まぬものゝやうである。ましてや限られたる一つの島の中で、是を快く美しいものに仕上げ、もしくは既に出來たものを、能ふ限りに於て保存しようとする努力が、現はれずに居る筈は無いと思ふ。我々(392)は國全體としても、天地を立派なものにして見せようといふ共同の意思を持つて居る。島が小さくなればなる程、その成績は撃がり易いわけである。外から指導を受け又氣まぐれな注文に應ずることが出來ぬならば、少なくとも自分の得意とするものを、出來るだけ十分に味はひ且つ感ぜしむべきである。所謂觀光事業の眞諦は此他には無い。個々の屋敷自慢は垣根に花を栽ゑ、もしくは門外に泉を流して旅人の眼を惹かうとして居る。島に住する者が今尚その程度にも我島を愛して居ないやうに見えるのは、恐らくはまだ進歩の途中に在るからであると思ふ。
 私はちやうど菜種の花ざかりの頃に、西海の島々をあるいて見て、つく/”\と蒼波の國の美しさを知つた。下五島では山のふつくりとした高みが、たゞ一むらの錦を以て包まれたやうに見えて、近より訪れんとする船の脚の遲いのがもどかしく思はれた。壹岐では朝の雨の漸く霽れた時に、蘆邊浦の北口から徐ろに船が入つて行つた。岸の町屋の上に幾段かの岡が連つて、麥と菜の花がすが/”\しく日に照つて居るのが、即ち此島の春であつた。沖をたゞ行く船でも斯ういふ風情には心を奪はれる。況んや是から上つて見ようとする土地の、全き姿を先づ望むのである。久しく他處に出て居た者の還つて來る際などであつたならば、是が又何倍かの力を以て其胸を打つことであらうと思つた。ところが此地方には限らず、どこでも定期船は惡い時刻に入るのを能にして居る。此朝なども對州で港の口が荒れて、船がおくれた爲に此時刻になつたのであり、五島ではわざと小船を雇うて、辛うじて夕日の島々の美しさを眺め得たのであつた。島の人たちが夜船を好み、船で寢て行くのを便とするからとよくいふが、それだけの理由ならば何とでも都合は付けられる。僅か一時の時の加減によつて、旅で無ければ出逢はれぬ黄昏や日の出の景趣を、味はひつゝ出入することも實は困難でない。どうせ醉ふのだから、ごろ/\と寢てしまふのだからと、全く荷物でも送り屆けるやうに客を運び、窓や欄干が何の爲に備はつて居るのかも、考へて見ないやうな立派な船が多い。斯んなことをして居れば、いつになつても島の旅は興らない。さうして知られぬうちに風景は狩野派化し文人畫化し、生活は荒涼たるものになつてしまふだらう。
 
(393)          七
 
 多くの風景論者が形を重んじ外線を氣にかけながら、色を粗末にして居る弊も島でいよ/\現はれて居る。海の天然は普通は大まかで、浪でも雲の色でも變化が單調になりやすい。だから小さな遠くの島の影にも、人は折々は戀ひ焦がれるのである。日本の船長にはやさしい人が多い。布哇では時刻をはかりつゝ、ちやうど島近くをゆつくりと走つてもらつたこともある。地中海ではストロンボリの山を寫眞に取る樣に、午後の航路を稍かへてくれた。日本へ歸つて來る船の旅人には、大隅の肝屬《きもつき》の山をよく見て通つた者も多いことゝ思ふ。斯ういふ場合には土地よりも物が知りたいのだが、はつきりと心に殘る色彩の足らぬのが普通であつた。全體に海はよく光つて、旅の季節には明る過ぎるので、陸に在る物の色が黒ずんで見える。島の美しさが日中は割引せられがちである。隱岐でも私などは?此感を抱かされた。折角斯んな好い日に海を走りながら、諸君の居る島がどうもくすんでしか見えない。あまり杉扁柏の植栽に勉強したからでは無いかとも謂つて見た。黒木には限らず、一色の植物が揃つて生えて居ると、島の外觀が寂しく感じられることは、ウオレス博士の東印度諸島記などにも、幾度と無く歎息して述べてある。沖の船から眺めて居られるといふことを考へたら、是に改良を加へることも必ずしも繁榮とは抵觸せぬ僅かな手數だと思ふ。今になつて考へて見ると、天然は却つて用意が深かつた。山が荒れかゝると山躑躅が多く咲き、樹が深く茂ると藤の花をその表に匍ひまはらせる。北陸の海邊などは、崖は葛の花が一ぱいに花をつけ、砂地には合歡の木が自然に分布して行く。人間も斯うなくては春の山、秋の岡邊らしくないといふ知覺を生じて、わざとも栽ゑぬのだらうが、色々の花の木や紅葉を伐り殘して居た。峰には一本松、谷の岸には古木の?、所謂心あつてのわざかと思はれる保存が行はれて居る。中國の山地をあるいて見ると、スウメといふ地名が諸處にあり、實際又そちこちに李の花が見られる。山櫻は葉が多くて一本きりではやゝ頼りなく、殊に此頃のやうに乘物が早く過ぎると、もう少し濃厚な彩りがほしくなる。即ち山(394)吹が多く栽ゑられ、更に進んでは夾竹桃といふ類の紅い花が、西國の田舍には流行して來るのである。獨り島々の片陰だけに、今日もまだ其工作が始まつて居ない。同じ若葉でも樹種を入交へて栽ゑて置くならば、鄰どし互ひに木の姿によつて、それ/”\の名を語らしめることも出來る。單に彼方にあるものを此方にも二三本、持つて來るといふだけで面目は新たになる。日本は實際さういふ企てに向くやうに、色なり光なりの幾つとなき段階が、山野の草木の間にまで備はつて居るのである。
 今の瀬戸内海の多くの草山なども、以前の林相に戻つて行くことはそれは六つかしからうが、土地の利用者たちには是といふ迷惑は掛けないで、寧ろ其人々の利益に歸する方法で、もう少し美しくする見込はなほ殘つて居る。それが斯ういふ見窄らしい形のまゝで、國立公園の隊伍に列するといふことは、餘りにも痛々しい氣がする。僅かばかりの花なり若葉なりの苗木を植ゑて、試みるだけの親切は無いものであらうか。開くといふ事を土の皮を剥ぐことゝ解し、人が心無しに踏みにじることのみを、繁榮と認めるやうな者には此經營は任せられない。風致林の保存には法令の干渉はあるが、是とても墨繪を風景の標準にして居るやうな、現在の鑑賞ぶりが行はれて居る限りは、いつ迄も往來の汽船は沖遠く過ぎて、歌や繪卷物の昔の情趣は、永遠に我々の間には復《かへ》つて來ぬかも知れぬ。
 
(395)     川
 
          一
 
 風景の味はひ方ばかりは、いくら名論でも日本を見ない人の言ふことを聽いて居られない。我々の山水は、其成立が既に獨自であり、また人間との交渉に於て、我國限りのかはつた展開を示して居る。從つてめい/\の經驗以外に、之を理解する途を求めようとするのは無理で、もしも今までの經驗が不十分だつたとすれば、改めて大にそれを養はなければならなかつたのである。然るに他の多くの精神文化については、やゝ極度に近く此點が強調せられ、あらゆる他山の石を排除しようとする樣な氣勢が、目に立つほども熾《さか》んになつて來た今日、妙に風景の方面だけには、昔ながらの大まかな追隨がある。人に斯ういふのが佳いのだと教へられると、さうですかと云つて見直す位の人のよさがある。それでも差支が無いかどうかを考へてもらふ前に、先づ我々は文化史上の一現象として、さういふ事實が曾て存し、今も隨分と普通であることに、目を留める必要がある。さうして出來ることならば其來由、即ち斯うならずには居られなかつた前々からの事情を、一通りはわかるやうにして見たい。私の現在心づいて居ることは、實はまだ僅かで公表するにも足らぬのだが、もし幸ひに是が端緒となつて、將來同じ方向への觀察が續けられるならば、人は到る處に適意の天然を見出すことを得て、旅行は今よりもずつと自由になり、風景は坐ながらにして若やぎ、この久しい歳月の間、たゞ黙々として我々の祖先の心を、慰め怡《よろこ》ばせて居てくれた故國の山川に、報謝する時が來るだらうと(396)思ふ。さういふ希望の下に私はこの川の話を試みる。
 
          二
 
 最近の僅か百年ばかりの間に、百を以て算へるほどの新風景が發見せられたといふことは、古く住み榮えて居た日本の如き國としては、先づ珍らしい出來事と言はなければならぬ。是は素より他の府縣の未だ知らなかつた者が、始めて聞き知つたといふだけの意味であり、又は所謂不遇の山水が、ゆくりなく詞人好士の歎賞を博したといふに過ぎぬのでもあらうが、それにしたところがこの交通のよく開け、人の御國自慢の聊か實利に走らうとする時世まで、騷ぎ殘して居た箇處がなほ是ほどもあつたといふことは、考へて見ると實は奇異な話である。思ふに我々は風景に對しては、ついうつかりと看過ぐして居る癖があつた。もう發見は是つきりといふことは、今とても決して斷言は出來ず、つまりは氣が付くにつれて幾らでも、出て來ようといふ國だつたのである。この想像は近頃の名所出現の傾向も之を支持して居る。どちらを向いても新舞子・新耶馬溪、手本が無ければ競爭者は出て來ない。寄るとさはると優劣の比較ばかりで、無類とすまして居られるものは指を折るほども無い。はやらぬ風景の未來の發見を待つて居るものが、樂しみな位にまだ殘つて居るらしいのである。其中でも川などは細々と山あひを流れて居る間ばかり、何とかかとか人の評判に上つて、平野へ出てしまふともうさつぱりと、省みる者が今は無いのである。斯ういふのが他日我々の後裔の鑑賞用に、貯へて置かれるのは頼もしいやうなものだが、果して昔の人たちも此通り川には冷淡であり、もしくは美人の老いたるを憐むやうな感じを以て、たゞ上流の美しさを語るだけで、空しく渡り過ぎて居たらうかといふと、それはまだよほどの問題である。風景に對する我々の愛情には、可なり氣まぐれなる時代毎の變化があるやうに思ふ。さうして現在の態度などは傳統には依らず、さりとて是から生れて來る者の心持に協調しようとする樣子も丸で無い。文章でも技藝でも、斯ういつた其日暮らしは他には例が尠ない。つまり此部面が法外に立ちおくれて居るのである。
 
(397)          三
 
 川などはちやうど其一つの見せしめであつた。今まで心づいた人があつた樣にも思はぬが、川は我邦の地貌を今日あらしむる上に、何物よりも多く參與して居る。即ち天然の最も日本的なるものであつた。世界無比などゝいふことは大膽で言ひ切れないが、この限られたる大地の表面に、錯綜して居る流れの數、大小長短と形態のさま/”\を、僅かな距離の間に見てあるかれる國といふものが、島にも大陸にも他にあることを知らない。是が當然に住民の歴史を、制約し又指導したことは既に説かれて居るが、更に氣をつけて見ると川そのものが、普通の生物以上に榮枯盛衰し、又刻々に流轉して居るのであつた。その色々と移つて行く活きた風景、詩歌や粉本を忽ちに痕跡化せしめるほどの動く美しさを、世代も重ねずして日本では味はひ得たのである。川が今までの「發見」から洩れて居た理由に、もしも其變化が餘りに取止め難く、たとへば夕燒の雲などの如く、定まつた形が傳へられぬといふことがあるとすれば、それは直ちに我々の國の山水が、別に一種の觀方描き方を、必要とすることを意味して居るだけである。しかも一方には變らぬものゝ譬へに、是まで引かれて居た山でも岩石でも、遲いといふばかりで少しづゝは常に動き、よくも惡くも元の姿で居るものは無いのに、それを御互ひが一生の慌だしさから、ぢつと目を留めて見て居ることが出來ぬ爲に、一ぺん譽めたら永く譽めなければならぬ樣な、無益な義理立てをして居たことなどが、追々に此方面からわかつて來る。風景觀賞の手ほどきといふやうなものがもし入用ならば、日本では何としても川からまづ學んで行かなければならなかつたのである。
 
          四
 
 川にも勿論ちつとも面白くないのがある。又いぢくりまはして惡くしたものも多い。しかし私の謂ふ歴史的興味の(398)みは、大抵の川が皆備へて居る。古歌によく詠まれた大和の飛鳥川などは、後には變遷の合言葉のやうになつてしまつて、川は却つてどれがさうだか知つて居る者も少ない。淵は瀬になる所か、考證をしなければわからぬ迄に、小さなものになつてしまつて居る。しかし是などはまだ千年からの歳月をかけて居るのだから其筈だとも言へる。私の故郷の市川の如きは、明治の初年に一時川舟が登り降りをして居たさうだが、程なくそれが眞とは思はれぬ程度に、一面の石川原になつてしまつた。堰桁が處々を斷ちきつて、水を兩岸の田に引き、もう川筋は段々登りになつて居た。駒ヶ岩といふ傳説の大岩があつて、其陰だけが僅かの淵であり、我々の夏の泳ぎ場であつた。覗けば底の小石が算へられる深さではあつたけれども、それでも河太郎が棲んで時には子供を取り、又或時は娘が來て身投げをした。今でも色々の追憶はこの一つの岩に纏綿して居る。それが十年餘りを隔てゝ歸つて見ると、對岸を汽車が通り、下流に長い橋が架つて、其橋の上から見るともうその岩も淵も無くなつて居る。そんな筈は無いがと尋ねまはつた擧句、やつと饅頭笠ほどの大きさに、昔の駒ヶ岩が赭色の頭を、砂の中から出して居るのを見つけた。さうして村の氏神樣が神馬に召して、飛んで蹄の痕を岩の上に遺されたといふ傳説の方は、更にそれ以上に埋もれてしまつて居たのである。斯ういふ經驗はたゞ固有名詞だけを變へて、誰でも故郷を外に出て居る人なら、大抵は一つづゝは抱へて居ることゝ思ふ。
 
          五
 
 川の面貌を形づくる兩岸の風物に至つては、その變遷が今一段と著しく、見るたびに景色が違つて居るといふ感じは、旅で通つてもよく經驗する。大體に樹や叢の低く小さく又稀薄になつて行くことが、近代の傾向であることは爭はれぬ。わざ/\流れのほとりに來て植栽する者は無いのだが、川が自然に運んで居た植物の量はもとは大きなものであつた。それが採取ばかり次第に進み、且つ頻繁なる此頃の出水に掃蕩せられると、川原はたゞ廣々とした陽炎の(399)遊び場に、化してしまはずには居られぬのである。土木工事が源頭の山を治めずに、ひたすら當面の防築を事とする弊は、少しく同情の足らぬ程度までも難詰せられて居るが、以前も今一層限地的な川普請、目のさきだけの彌縫策が行はれて居た。しかし此方は力の足らぬ爲に、却つて色々の在來の地物を利用して、おのづから曲折の變化を存して居る。今の私の家から近い多摩川の中流から上、その他東京郊外にも是がまだ殘つて居る。春さき岸に沿うて無心に歩いて見る樂しさは、寧ろこの切れ/”\の土工が、岡や林を繋いでくれた御陰であり、堤防は元來がさういふ形のものであつた。それが新らしい水利事業になると、あまりにも論理を一貫する。幅や高さを揃へぬと承知が出來ず、眞直ぐに通つて居ないと間違ひかと思はれやすい。さうしてほんの頬白がとまるほどの茨藪を殘しても、早統一は破られるらしいのである。是にも無論壯快な大きな構圖が掲げられて居るが、しかしどうしても地形が單調になり、且つ個性の乏しくなつて行くことは損失と言つてよからう。
 
          六
 
 之を補填する方法の有る無しは別に考へるとして、川の風景の零落すべかりし今一つの原因に、舟の往來の少なくなつたことも考へて見なければならぬ。以前關東の平野をあるいて見た人には、定めて鮮明に記憶せられて居ることと思ふが、村を出離れ森の陰を曲つた時、ぽかりと前面に大きな白帆が、次の林の上へ現はれて、そこが川だと知ることが毎度あつた。あの愉快な驚きはもう過去に屬して居る。廣重あたりのよく筆にした若蘆の向ふの帆影は、あれは川尻の光景で所在もよくわかるが、少し上手に登ると川は是ほども物靜かに、且つ屈曲して流れて居たのである。繪でしか帆掛船を見たことのない私は、少年の頃に下總へ遣つて來て、先づ此方面から利根川の新たなる風情を學んだ。一里ばかりも隔てた岡の麓からであつたが、ちやうど眞向ひに川の中島があつて、畠作を主とした新村が開かれ、上端がばら/\松の林になつて居た。その松の林の前を、あたかも物を擔いで人があるく程の速度で、白帆だけが過(400)ぎて行くのである。川船は妙に雁などのやうに、引連れて來るものであつた。東風《こち》のよく吹く初秋の午前などは、ちよいと見ない間に十五も二十も、竝んで居ることが毎度あつた。汽車がやつぱり川に附いて走らうとする爲に、さういふ船がやがて不用になり、おまけに改修の堤がうんと高くなつて、稀に通つても帆頭しか見られぬやうになつた。
 
          七
 
 江戸を中心に利用せられて居た關東の多くの川筋には、流れを表口にした小さな町が、水驛《みづうまや》として幾つとも無く成育して居た。小さな川蒸汽が客を乘せて直航するやうになつて、問屋が先づ閉され、次いでは茶屋の燈が侘びしくなつた。以前の構へは燒けなければまだ見られるが、雁木《がんぎ》石垣の下は寄洲などになつて居て、物洗ひ場も遠くなり、こゝにどうして船を繋いだかと怪《あや》しむやうな土地ばかりである。曾てはこの河岸の淺くなるのを氣にして、出水のあるたびに渫《さら》へたり掘り上げたりして居たものであるが、私などの覺えて居る頃には、もうそれを自然の盛衰に任せて居たやうである。妻子を乘せ込んで共稼ぎをする荷船は、却つて其頃から多くなつたかと思ふ。わざと賑やかでない家の下や樹の陰に、さも風流な船がゝりをして、日が暮れると町へ買物に上がつて來る人の物ごし、見物かと思ふ若者の鼻唄、何か煮るらしい火のひらめき、内輪ばかりの話し聲などが、岸に立てば手に取るやうに、見たり聽いたりせられた時もあつたのだが、高い堤防や川原に遮られて、遠ざかつて居るうちに段々と消えてしまつたやうで、夜の川の寂しさばかりは、却つて現代に入つて山の中に近くなつて來た。
 
          八
 
 要するに流れと人間との交渉が、最近著しく其樣式を變へようとして居るのである。釣の流行なども其一つに算へてよからうが、其以外にもなほ簗や堰ぜき、水力電氣の工事、汽車の鐵橋等、全體に横の利害とも名づくべきものが、(401)あらゆる舊來の縱の用法を、押除け取つて代らうとする形勢が見える。是も評定の末ならば是非に及ばぬことだが、少なくとも我々の風景を味はうとする立場も、是に伴なうて變らなければならぬことを、考へて置くだけは必要である。以前の風雅の士の水を愛する趣向といふものは、大抵は型がきまつて居た。出來るだけ流れに近く、時には水害にも遭ひかねまじき場所に、居を構へもしくは席を設けて、自分はぢつとして居て眼の前に移り動くものを、送り迎へて樂しまうとして居た例が多い。土手萬能の今日に立ち至つては、それがもう殆と望み難くなつた。つまり此方面の好風景は、どし/\と破却せられて居るのである。改まつて更によくならうといふものが少ないのである。それでも古人が詩賦に畫卷に、散々詠歎して居るのだから惡い道理が無いと言はうとすると、乃ち亦自分の内側の感じに、一向忠誠でない人になつてしまふのである。名前や傳説は物が變つてからでも殘り得る。曾てはこの内容があゝだつたからもてはやされたらう。今では斯うだから話にならぬといふけぢめを、知つて居りさへすれば鑑賞は自由な筈だ。日本は幸ひに幾らでも、その文字以外の歴史が殘つて居る國なのに、とかく海水浴場の鴫立澤といふ類のものが、まだ方々に大事がられて居る。名所といふ文字の災ひではなかつたかと思ふ。
 
          九
 
 川は萬葉人の眞率なる吟詠の中にも、既に十分に讃美せられ、祖先が此風景に冷淡でなかつた證跡は歴然として居る。旅はさやかなる川音に導かれ、又は千鳥かはづの清き聲を友として、自然に其岸に立ち盡した者が多かつたらうが、獨り京都の中で成長した文藝だけには、實地と懸け離れた定型のやうなものが、かなり夙くから出來て居た。所謂歌枕の聯想によつて、詩人の胸に描かれた川の姿は、必ずしも古い經驗を基礎としたもので無く、寧ろ一ぺんはあの時代の、繪師の筆を通つて來たやうな感じがある。それは勿論多くの人を引寄せるほどに、確かで又美しいものであつたに相違ないが、餘りに融通がきいてどこの川も皆是になり、眼で見る風景には御構ひなしに、後には我々の好(402)みにこびりついてしまつた。さうして其對比の最も不可能なものが、扇や浴衣の模樣になつて、今日までなほ持越されて居るのである。しかし是等はまだ別に目途があつて、へんにまちがつて居ればそれが又面白いとも言へる。我々の先代の感覺を有りのまゝに、まともに傳へて居るやうに思つて居る藝術が、もし一部分でもこの習氣に捕へられて居たとすると、後世は失望しなければならぬ。ましてさういふものを固定の尺度として、活きて日々に動いて居る風景を批評し、いや繪のやうだの繪も及ばずだのといふ者が今でももし有るとすると、國のきたなくなるだけが其連中の責任で、高一美しくなつてもそれは其力で無いやうに見られても先づ致し方は無いと思ふ。
 
          一〇
 
 この古臭い拘束から解脱するには、川を觀てあるくことも一つの方便である。繪卷物の川なども、もとは必ずある場合の寫生から生れたものだらうが、少なくとも今では三府五港の周圍を捜しても、あんなのはもう一筋だつて流れて居ない。よほど久しい前から變化して居たのである。前年私は十勝の平原を拔渉して居て、二つ三つ古畫のやうな川を見つけて、成ほど美しいと思つて見たことがある。ちやうど色々の草の花の咲く頃であつた。水は自由に地表を走つて居るから、ちつとも深くはならずに面白い多くの屈曲を作つて、草でも小石でも、ほんの僅かなものが平らなる岸を劃して居た。十和田から出て來る奧入瀬の上流とか、宮古へ越えて行く峠のすぐ下といふやうな處にも、樹に蔽はれては居るが斯ういふ流れがなほ見られる。山の奧ならばまだ此形で居られるのだから、或は本來の川の性質とも言ひ得るかも知らぬ。しかし平地へ出て來ると、さういつ迄もそんな我儘は許して置かれない。人が手をかけて定まつた路を通すか、さうで無くとも自然の低みに集合して、一つの力になつて自ら彫刻の作業を始めるのである。日本にこの第一期の?態が普遍して居たのは、多くの繪卷物の出來た時よりはずつと前のことで、從つて川といへば必ず水清淺といつた樣に、描き出さねばならぬきまりになつたのは、曾て此形の自在なる流れに、特に印象づけられて(403)居た名殘ではないかと思ふ。尤もそれから後の高瀬川時代に入つても、土地に不足をしなかつたなほ暫くの間は、洪水の時を考へて今よりも遙かに廣大な地積を、川敷として見棄てゝ置いたやうだから、日頃は少しの水だけが其上を流れて居たとすると、其外貌は幾分か上代のものと似て居たかも知れない。しかしそれだつたらもつと高低があつて水が迅く、あれまでの曲流は見られない筈で、つまりこの新舊二つの趣味が混同せられたらしいことは、雙方どちらの爲にも幸福なものではなかつた。
 
          一一
 
 是は專門の人に頼んで、もう少し精細に説いてもらふべき問題だが、川は右にいふ二つの時期の中間に、今一つの重要な段階を經て居るのである。それは主として高い處の水が、追々と力を集めて路の土石を押流し、大地を掘り下げて來た奮闘の歴史であつた。日本のやうな傾斜の多い國でも、それが愈海の平均する勢力と遭遇する迄の間、相應に永い時を費して居る。今でもまだ其?態に止まつて居る川が尠なくない。岸に近く生を營む人々の爲には、是が又最も平和な、且つ思ひ出の豐かなる昔でもあつたのである。美しい多くの邑里が、この深い川を縁にして生れ出でたと同時に、我々の文學にも此日の生活を目に見る樣に、記述し讃歎したものが少なくない。しかも今日は負荷の能率がやゝ衰へて、淵は瀬となり水底は高まり、川に荒されまいとすれば防禦の策を講じて、次第に疎隔の道を歩まなければならぬやうになつて來て居るのである。この自然の推移の跡こそは、直ちに又人間の文化の流轉を語るもので、我々の山水鑑賞が、ともすれば一種うら悲しい感情を伴なはずに居られなかつた、隱れたる原因でもあつたやうに思ふ。このさま/”\なる川の年齡と環境、人の敵となり又友となつて、結局は全く手を別つことの出來なかつた數千年の關係が、旅をして居れば一日の間にも見て行かれる。之に反して僅かに一つの流れのほとりに立つて、びま無く流れ去るものを見て暮らしたゞけでは、少なくとも風景を國民の共有物とすることはむつかしく、人は依然として宿屋(404)や運送業の、引札配りの役しか勤まらぬことであらう。
 
          一二
 
 さて話が長たらしくばかりなつて、見て來た處々の川の風景を説かうとした、最初の企ては見合はせなければならぬが、私の言はうとした一つの點は、昔も今のやうに又はそれ以上に、風景は愛せられ、殊に我々の愛情は川に傾いて居たやうであるが、それを表現する方法を求めようとしなかつた爲に、?たゞ一部のそれを心得た人の好みに引廻はされ、もしくは蔽はれて傳はらなかつたといふことである。今でも尋常の日本人が、伸び/\と心を樂しましめる天然に對して、發する言葉は極度に限られて居る。それを意地惡くどこがよいなどゝ問ひ返されると、黙つてしまふは勿論、時としてはさては好くないのかと思つて、其後は成るべく譽めるのを控へようとする者さへある。風景を國民の怡悦とし、又烈しく働く人々の慰安とするには、何よりも先づ若干の常用語彙を集めて、自由に使はせるやうにしなければならぬ。
 古い日本語の今でも行はれて居るものを見ると、ナガメ・ミハラシ・セイセイシタなど、眼界の特に廣く、所謂寸人豆馬の綜合を樂しんだらしく思はれるものが可なり目立つて居る。是は日本の如き屏障の多い地形、谷あひ山陰を常の居とした民族としては當然のことで、ちやうど對岸の大陸國人が、蒼茫たる平蕪の間に生死するが故に、渓山奇巖の些々たる高底をも珍重するのと、裏と表とのちがひとしか思はれぬ。凡人の幸福の主要なものに算へられた視力の鋭さが、斯う云ふ場合には滿足に證明せられ、もしくは我が土地我が世界の、是ほど寛濶だといふことを、意識する嬉しさも手傳つて居たことは、麥譽め青田譽めの習はしを見て想像せられるが、根原は窮屈なる小家の圍ひから脱して、別に天地の我を迎へるものがあることを、體驗する快樂に在つたことは、今日の所謂ハイカアたちも同じであつた。川がこの同情すべき人間の欲望に、氣さくに應じてくれたことは、三期何れの時も變りはなかつたらうが、今(405)少しく生活に即して考へると、それが靜かに流れて何の害意をも示さず、漁樵採取の色々の喜びが約束せられ、もしくは行く者訪ひ來る者に、或程度の便宜を供與して居た時代が、殊に門を出で又は樓に登つて眺望する人々の、氣持にはよく適して居たかと思ふ。それをあゝ好い景色と言つてほめ、能ふならば一杯の酒を傾け、もしくは記憶して再び三たび來て感心するのは、自然の感情の命ずる所なのである。然るにやれ寫眞にとれぬの、畫にすると平たすぎるのなどゝ、徒らに眉を壓するやうな前面の高いものだけを推賞して、是が風景だといふ風にきめてしまつたのは、少しく思ひ遣りの足らぬ話であつた。素人の樂しむ風景だけは、彼等の自由なる選拔に任せてやりたい。さうして互ひの批判によつて、少しでも現代の鑑賞にかなふ樣に、保護は出來ない迄も成長させて行きたいものである。川だけに限らず、今までの立場から見ては、もうだめになつた所が隨分あるが、其代りに文明は新たなる多くの機會を供與して居る。山の峠が尾根通りに附けかへられて、始めて我が里の全景を知つた者も多い。汽車は立止まつてくれないのが困るが、川のまん中から悠々と、川下を見て行く手段は元は無かつた。單調なる石川原に鳥も飛ばず、藪も小松の影も無くなつたのは寂しいけれども、其代りに遠く源頭の山の線を見究めて、たつた一つの流れでも是だけ偉大な彫刻を、永い年代の間に爲し遂げたことを考へて見るといふ類の味はひ方があつてよい。飛行機がもつと盛んに飛びまはるやうになつたら、風景の定義も變るだらうといふことは、誰でももう疾くに想像して居る。しかしわざ/\空へ上がつて見るまでも無く、山は地に立つ者の目隱しである故に、昔からやゝ重々しく考へられ過ぎて居た。諸國の名山の背競べの傳説なども、多分は是から出て居るかと思ふ。川のめい/\思ひ/\の方向に、悠揚として流れて居る方が我々には安氣でよい。風景は之を要するに議論で等級を決すべきもので無い。だから又私の言はうとする所も、決して山嶽の如き堂々たるものではないのである。
 
(406)     風景の成長(談話
 
          一
 
 毎日忙しく働いて、思ふやうに旅行も出來ぬ諸君に、風景の話をするなどは情が無いやうだが、私の考へでは、風景は何も眞向きに向き合つて居なければ、考へられぬといふほどの問題ではない。誰しも一つの故郷一つの「子供の頃」を持つて居るやうに、常に幾つかの或山水を胸に抱いて居る。それを大切に育て又樂しんで行く爲には、折には斯ういふ話を聽いて置かれるのもよいかと思ふ。
 旅行は元來日本人には、稍不得手なる藝術であつたと言つてよい。たゞ遠くへ走るを能とするもの、人の行く處へ自分も行つて見たいといふ希望、斯ういつたものに?累はされて、少し氣の弱い者は家に還つて來て、やれ/\是でやつと安心したといふ類の、骨の折れる氣のつまる旅行を、夏などは皆がして居る。旅商人とか掛合ひ事のある人たちならば知らず、折角の修養又は行樂としてならば、如何にも割の惡い時間の利用法と言はねばならぬ。その癖この東京などが、他の府縣にもちよつと珍らしい變化ある風景を以て取圍まれ、たゞ僅かばかり郊外へ踏み出せば、所謂御好み次第の天然に按し得ることを忘れてしまつて居る人が多く、「それは散歩ぢやないか」などゝ言はれて、不必要に肩身を狹くして居るのである。
 散歩が旅行になり得ない國といへば、支那などがそれである。大陸は全體に地形が單調だから、うんと歩かなくて(407)は一風かはつた處には出られない。それだからどうしても近くの名所に人が群衆し、又人工の庭園などを以て其不足を補はうとするのである。我々は幸ひにして少しでも其必要を見なかつたのであるが、どうかした拍子で名所舊蹟を見てあるかぬと、旅行する甲斐が無いと思ふやうな傾向を生じた。名所舊蹟はどうしても京や奈良の近傍に多い。從つて中央の方へばかり旅人が集まつて來ることになり、日本の半分以上はいつ迄も偏卑で、村の名どころか時としては郡の名まで、互ひに知らぬ位の冷淡さで暮して居る。
 
          二
 
 この舊蹟を愛する心理は、先づわかつたといへばわかつた樣なものだが、名所といふ分はどう考へても、私たちには意味が解し得られない。外形から謂へば古くから人の知つて居る處、古い書物にも既に出て居る處、もつと具體的にいふならば、昔誰かゞ大に感心した風景とでも言はれようが、それならばどうして是非そこを訪れなければならぬかと問ふと、さう手輕には答へることが出來ない。つまり前の人の足跡を踏んで見ようとする心持を、強ひて自分の風景を愛する趣味と解して見ようとするので、言はゞ一つの型に囚はれて居るものである。
 多くの舊蹟といふものも實は亦名所であつた。中には名ばかりしか殘つて居ない舊蹟もある。名所は素より名を主とする。果して古人の味はひ得たものを、其儘自分たちも味はうて居るのやらどうやら、それが既に大きな疑問である。日本の山水は過去一千年の間に、人の力を以て非常に變化させられて居る。大體に於ては私は好くなつて居るやうに思ふが、人によつてはさう思はぬかも知れない。が兎に角に變つて居ることだけは事實である。同じ武藏野の遠山の姿でも、窓から見ると門を出て眺めるとは、はや全くちがつた印象を與へる。風景を見る人の立場といふものは、決して寫眞師などの如く自由なものでは無かつた。旅をする人は必ず道路といふものに拘束せられる。さうして其道路にはもう殆と、昔ながらのものは一つも無いと言つてよいのである。
 
(408)          三
 
 日本はもと今よりも遙かに平地の少ない國であつた。太平洋側でいふと、この東京の周圍の大面積、三河と尾張との平野、内海に面しては大阪を含む淀川下流一帶、岡山廣島附近の米作地、九州では有明・不知火の二灣の岸などは、悉く新らしい歴史時代に入つて現はれた。山の樹を伐り土がやゝ露はれるやうになつてから、急に川々の水が多量の沈澱物を運んで、天然の埋立を實行したのである。以前からあつた平地部も、水が自在に流れ植物が茂り、もとは沼地が多かつたやうであるが、關東は一帶に土地が隆起し、川の下流が段々に深く切れて、次第に上流の岸を排水してくれた。武藏野などはその干上つた水たまりの跡が多い。今日でもまだ少しは殘つて居る摘田《つみた》地方、即ち田植が出來なくて籾を直接に播いて居た土地は、埼玉縣などに行くと幾らも見られる。二つの丘陵地の間に在る幅の狹い低地を、このあたりでは往々に相の田又は相の川と呼んで居る。非常に緩い傾斜地を降つて行くと、いつとなく畠が田になつて、中央を小川が貫いて居る。それに附いて上流へ登つて行くと、すぐに行留まりになつて、そこにある畠を島畠と謂つて居る。島畠は即ち水から取上げた畠であつて、地味が肥え蔬菜に適して居た。或は其岡の麓から水が少し涌いて、それを排水してしまはぬと畠にならぬ土地もある。其水を下流へ送る小溝を根井堀などゝ呼んで居るのは、新たなる人工の痕跡であつた。
 斯ういふ低濕の地を横ぎつて、始めて道路を開くことは困難であつたに違ひない。中世以前には作り路は稀であつた。通路は自然に多くの旅人が、踏み明けて行つた足跡であつた。だから何處へ行つても舊道は高い處に在る。信州諏訪湖の北岸でも、又房州の内側でも、何れも道路は三段になつて居て、新らしいものほど岡の下を通つて居る。武藏では川越から西の山際に、高阪といふ村があつて古い開發である。是も其名の如く岡の横腹に一筋の道が通じて居る。さうして是から南して多摩川の岸へ出る爲には、再び又村山の丘陵を越えて居たのである。草茫々たる武藏野原(409)で無くとも、大よそ村里の少ない荒野を横ぎるのに、何よりも必要なものは目標であつた。それを見つける爲には高い處を通らねばならぬ。其次に入用なものは飲水で、茶屋の無い時代の旅の客は、毎に泉の傍に憩うて食事をした故に、所謂|高清水《たかしみづ》の所在は、彼等の爲に便利が多かつた。山嶺を越える場合には、勿論早くから見晴しのある處へ登らうとした。足で行く者は昇り降りの勞よりも、寧ろ近路を求めようとした。馬や車の往還が増加するにつれて、自然にこの路線は移り動いたのである。風景は是と共に變化せざるを得ない。今ある東海道なども、富士見西行の通つた路とは全く別であつて、以前は富士川もずつと上流を越えて、十里木の峠から愛鷹山の後を、須山竹の下を通つて足柄にかゝつたのが、箱根が本道になつてから、始めて海沿ひの砂濱を行くやうになつたのである。
 
          四
 
 この交通の?態を一變した主たる原因は、一言で言ふならば「文化」であつた。驛家所在の移動も、邑里分布の革命も、共に其結果に過ぎない。是に就いては三つの點が考へられる。その一つは防備である。今でも遠い國には其痕跡が見られるが、以前の居住には消極的の安全が先づ要求せられて居た。即ち敵は近よりにくゝ、味方には遠望がきいて且つ遁げ易いこと、此條件を充すには高く險岨な處を選定するの他は無かつた。然るに保護者が強力になり是に信頼し得ることになると、其居館の周圍に農民は集まつて來る。關東で根小屋・根岸又は根がらみと謂ひ、寄居と謂ひ箕輪と謂つた村、中國西國で構《かまへ》と謂ひ拵《かこひ》と名づけ、又は山下《さんげ》とも麓とも呼ばれた邑落は、追々に有力な領主の要害山の下に出來た。即ち城下町の始めである。平和が今一段と進むに及んで、廣い野中に新開の村も起り、又は山の峠の辻にたゞ一軒で住むことも可能になつた。旅人は乃ち斯ういふ人間の香のする處を慕うて、次第に數多く往來するやうになつたのである。
 第二には生業、即ち積極的安全の保證、人の活計の日に増して改良して來たことである。土地の耕作者として最も(410)其利を享けたのは、畠作農業の進化であつた。畠作はもとは天然物の採取に近かつた。山を切り開いて燒いた灰に物を蒔いても、程無く再び元の荒野に復して居たものが、作物の收益が急に多くなつて、人は幸福に其間にも生を營むことが出來たのである。野菜はその一例で、もとは唯野生のものを採るだけであつたのが、三四百年來の新種輸入と共に、今では早春の若菜摘みを忘れる迄になつた。所謂田無しの村は武藏の平原に限らず、到る處に其人口を増加し、從うて道路の方向は一變して來たのである。
 第三に考へられるのは生活便宜、主として日光と水との供給が自由になつたことである。人は隱れて住む必要から、?樹の蔭の陰鬱を忍ばなければならなかつたのが、一たび平和の日の光に浴して、急に農民の家は美しくなつた。紙を障子に貼るやうになると、家の中は明るくして白い陶器や金物が光り出した。庭に草花が栽ゑられ門に松柳が緑すると共に、是を愛する人には家の軒に縁を設け、旅人が之を見つゝ行き過ぐるやうになつた。今まで圃場を使つて居た收穫物の調製にも、土間や外庭を宛てることが出來て、次第に村屋は賑はしくなつた。水は行きて汲み又竹の筧で引くとすれば、其利用も十分で無く、風呂もろく/\立てることが出來なかつたものが、簡易なる鑿井の技術を學ぶに至つて、始めて日本は地下水の多い國、どこを掘つても水を得られ、從つてどこにでも村を作り得る國であることを知つた。是と同時に一方には水の害を免れる術も、ちやうど亦同じ頃から國内には普及した。洪水と水濕とは、水田を主業とする者には大きな惱みであつたのが、先づ土工の進歩に由つて排水の方法を見つけ、次には堤防を以て流れを刺し居住を容易にした。平野の村々は斯くの如くにして始めて起り、我々の作り路は次第にそれを横ぎつて通ずることになつたのである。
 
          五
 
 作り路は大抵は眞直ぐに付けられる。畷は即ち繩手であつて、岡を取卷いた箕の手などに對する語である。芝の高(411)繩などは高繩手と解せられて居るが、是は或は高塙《たかはなは》であつたかも知れぬ。花輪はもとアイヌ語から出たものらしく、今の語でいふと段丘端、東國でいふ峽《はけ》通りであるが、斯ういふ通路の新たに出來たのも、やはり亦どこにでも村を開くことの、可能になつた結果であつて、以前はさういふ路線は設計する必要も無かつた。道主村從即ち道路の便宜の爲に村を置いた例は、東海道などには其痕跡が多い。江戸期の驛傳制では馬を集める必要から、是非とも路傍に百姓を住まはせなければならなかつた。それで地子免除等の特典によつて、街道に多くの邑里を興し、繩手の作り路を以て之を繋いだのであつた。それが現在は道路を自由自在に開いて、村の移動を自然に任せて居る。
 街道の一つの拘束は川越しであつた。是あるが爲に爰だけは自由に路を付けることが出來なかつた。日本は荒川の多い國で、もとは徒渉が原則であつた。大井川の連臺などはそれから發達して居る。徒渉の爲には淺瀬を求める必要があり、わざ/\塙の道を下つて、川幅の最も廣い部分を通つたのである。ところが渡し舟の方は之に反して、特に緩流の地を選定した。緩流は川の幅の狹くなるすぐ上、九州ではツルと謂ひ中部以東ではトロといふ部分が是に適し、ちやうど徒渉場とは反對の地形であつた。津留《つる》には舟待ちや荷揃への爲の人が集まつて、次第に其邊が町になつた。それから第三段にいよ/\此川に高橋を渡すことになると、又全く別種の地形が要求せられる。即ち兩方の岸が最も接近した處で、それは多くは山阪の間に在り、平野を行く者が一旦登つて來て、高い處に於て橋を渡るものが多かつた。その一例は甲州の猿橋で、上にも下にも平坦の地は有るのに、わざ/\岡續きの谷の迫つた部分に、この橋本の驛は出來て居るのである。
 
          六
 
 橋本の宿では遠州の濱名に在るものが、早くから有名であつたが、此以外にも同じ名の地點は處々に在つた。そこには柳があり茶屋があつて、遊女が袂を飜へして行人の情を惹き、又多くの民謠の題材ともなつて居る。阪本|阪足《さかなし》は(412)峠のかゝり、馬を返して歩荷持《かちにもち》を雇ふ場所で、そこが古くから繁昌した理由はわかるが、橋本の宿がそれと同樣に、榮えて居たのは何故であつたらうか。私にはまだ説明することが出來ない。しかし兎に角にこゝで旅の者が休むのは自然であつた。何れどこかで一休みするとすれば、橋本まで來て休まうとしたものと思ふ。橋の袂には大きな樹木が以前は必要であつた。それを目當にして路を歩み、又其樹蔭に立寄つて、遙々と水の流れを望む樂しみが、恐らくは茶屋をこのあたりに作らせることになつたので、即ち又一つの旅と風景との交渉であつた。以前は全く考へられなかつたことだと思ふ。
 繩手の作り路や川の堤の路なども、退屈なものだとよく人は言ふが、それが始めて出來た頃の事を考へると、たしかに人の心を爽快ならしめたらうと思ふ。空と一文字に繋がる大海の景色を除いては、斯ういふ雄大な且つ整頓した形は他には無かつた。是が人間の力を以て成されたといふことは、新たなる一つの驚きでもあつた。都府や宮殿佛閣の美しさも同じことだが、一種文化の喜悦とも名づくべきものを、始めて觀た人たちは感ぜずには居られなかつたかと思ふ。人が自然に克つたといふ感じは、久しく其自然と闘つて居た者には、快い大きな收穫で無ければならぬ。長い山阪を登り盡して、峠の頂上から遠く眺めた心持なども、是と稍似たるものがあつた。單に眼に入る線の屈曲、色の濃淡のみを以て風景は説明し難い。之に對する我々の心の動きには、歴史に養はれた複雜な色々の力が加はつて居るからである。
 汽車の威力と魅力とが、斯んな島國に於ても船よりは更に大であつたのも、原因は隱れて別に在つたのである。一つには旅をする者の立場を、十分に自由にしてくれたといふ滿足もあつて、それで此交通機關が過當に尊信せられるのであらう。此點は最近の飛行機ならば、今一段と有難い筈だが、それはまだ經驗せられて居ない。汽車では今まで豫想しなかつた景色の見やうが有ることを、もう心づかぬ人も無くなつた。白いリボンに譬へらるゝ山路の風情、村を次から次へ見比べて行く面白味、又は見らるゝ村の自ら装はんとする身嗜なみ、又時代によつて心ならずも動かさ(413)れて行く有樣、斯んなものを靜かに眺めて居ることは、「汽車の窓」にして始めて可能である。或は又要望なき交渉とも名づけてよいであらう。捕らうといふ氣にもならぬ小鳥、摘んで食べようとも思はない紅色の果實が、あゝ美しいといつて旅人から見られる場合は、彌次や喜多八の時代には、さう澤山には遭遇することが出來なかつたのである。
 
          七
 
 實際に村は其外觀に於て、近年たしかに美しくなつた。森に包まれた關東北國などは別として、家がかたまつて露出して居る西日本の田舍では、其外景は可なりくすんだ、且つ稍だらしの無い空線を描いて居た。それが形に於て又色彩に於て、次第に端麗に又鮮明になつて來て、周圍の大きな山水との自然の調和を保つやうになつた。たとへば今見る村の瓦葺きと白壁、是は何れも數十年來の普及である。西は山陰地方からずつと日本海の岸に沿うて、現在弘く行はれて居る屋根の赤瓦は、もとは凍害に對する發明であつたらうが、是が雪霜にも又夏の青葉にも反映して、頗る農村の姿を華やかならしめて居ることは事實である。それから夜の燈の數なども、都市と比べては淋しいといふだけで、村でもいつの間にか以前に十倍二十倍するやうになつて居る。外國から來る觀光客が、よく日本を美しい國だと褒めて居る點も、事によると是等の至つてモダーンな變化のみを意味するのかも知れない。彼等は歴史を知らず又概念に囚はれるといふことが無いから、必ずしも我々と同じやうな風景の見方はして居ない。
 全體「自然を愛する」といふ言葉は、日本では詩人で無い者も?口にするが、自然は果して其樣に愛すべきものかどうかも疑問である。ウオーレス博士の南島紀行を讀んで見ると、緑の一色に蔽はれた熱帶諸島の寂寞を頻りに説いて居る。見渡す限り茫々とした樹海の中には、花も少なく鳥も蝶も其樹蔭に隱れて遊び、色の變化といふものが殆と無い。この單調なる自然は寧ろ人を壓迫すると謂つて居る。温帶の島には四時の推移があつて、秋の山の樹は染めて散り、春は又色々の芽出しを見せてくれるが、尚純然たる自然は餘りにも力強い。人は我力を以て是に幾分の加減(414)をして、所謂仁者の山を樂しみ、智者の水を樂しむことを得せしめたのである。我々の風景と名づくるものに、或程度までの人間交渉を條件としなかつたものは、昔から無かつたやうである。
 しかも其天然に對する變革にも、時代々々の特徴があつた。川や湖沼の狹くなり淺くなつた外に、山の形や島の姿の如きも、前から此通りと思はれるものは一つも無い。土が雨に流れ岩が崩れて谷を下る外に、人は仇敵の如くに山の木を伐り倒して居た。一つ/\の植物でも、よく見ると去年と同じ形のものは無い。それが集まつて此瞬間の風景を爲すのである。獨り古人が見た場所から、今の人は見て居ないといふだけで無く、その見らるゝ物それ自身が、既に以前の約束を破つて居るのである。
 
          八
 
 一體に濶葉樹の數と種類とが、一地限りでは減つて行くのでは無いかと思ふ。少なくとも山は常磐樹がよほど幅をきかして來た。野の草にも優劣の戰ひが多かつた。履歴のほゞ判つて居る月見草が川原を覆ひ、鐵道草だの土方草だのと呼ばるゝヒメムカシヨモギばかりが、處々の空地を占領して居るなどは、たしかに江戸期以前には見られない光景であつた。庭の木は只輕々しい人の好みに基づいて、殆と村の外貌を一變するまでに流行する。自分の生れ故郷などは、近頃になつて盛んに爽竹桃を栽ゑて、夏の日中は眼が痛いほど眞赤に咲いて居る。櫻は東京の所謂染井吉野が、全國の公園學校等に分布して、それとは餘りに異なつた山々の山櫻の、ちら/\と散る風情などは省みられなくなつた。畠の作物も著しく田園の色彩を變化させて居る。私たちの幼少の頃は、春の菜種の花の最も美しい時代であつた。野遊びに岡の高みにつれて行かれて、日本は昔から此通りきれいな國だつたらうと思つて居た。それが程無く稍衰へて、最近に再び奨勵せられた種類は、もう以前のものと大分色合ひの違つた黄色であつた。紫雲英の栽培面積は追々に増加したかも知れぬが、種取りに花を十分に咲かせる田は制限せられて居る。即ち田舍の春の錦が、僅か三四十年(415)のうちにも、著しく其綾模樣をかへたのである。草綿が始めて日本の田に作られたのは、二百年この方のことであつた。それが太平洋岸の廣い面積に普及して居た頃には、夜は時ならぬ雪かと思ふやうであつたといふ。今日は既に其日の俤を記憶する者も無いのである。
 植物のみか動物も大いに變つて來た。工場の近くに育つ雀は皆きたなくなつた。全體に町の雀はいつもきよと/\して、北原白秋が「雀の生活」に書いたやうな、鷹揚さ頓狂さは見られなくなつた。鳶や烏の賢明になつたことは、よほど前から人に氣づかれて居たが、それが今一歩を進めて邑落へは近よらなくなつた。椋鳥は鳥類の特に氣樂な者のやうに、今までは思つて居たところ、文化住宅の屋根瓦の光に怖れて、是さへも近頃はさつぱり我々の芝生へ降りて來なくなつた。燕と電線との珍らしい取合せは、明治の團扇繪などの新意匠として、一度は斯んなものでも畫になるかといふ、貴とい實驗をさせてくれたのであるが、今は是さへも昔の風景になつて、徒らにきまつた型をゲテ物の中に留めるだけである。多くの花鳥の圖を子供たちが、剥製かと思ふのも無理は無い。魚なども性情が既に變り擧動が敏活となつて、もはや展覽會の繪絹の上でのやうに、我々の前では遊んでくれないのである。
 
          九
 
 人問は最初この自然の印象が、一瞬時の後に消え去るを惜み、もしくはその感動の強烈なるに堪へずして、是を技藝に託して尚暫らくの保存を念じたのであつたが、其力が稍剰つて、今は却つて次に來る者の感動を指導せんとして居る。我々の好風景の標準は前代の畫であり、文學であり、しかも往々にして外國のそれであつた。何でも描き出すだけの力を持ちながら、いつも時おくれてやゝ古い頃の天然を崇拜し、それと一致しなくなつた眼前の變化を輕んじようとして居る。現世が果して美しいものゝ多くを失うてしまつたかどうか。それもまだ確かには答へられぬのだが、假りに自然の力が稍退嬰したとすれば、いよ/\以て殘り留まるものを尊重すべきであつた。少なくとも我々の前に(416)在るものは新らしく、又現代の生活に適切である筈だが、今ある藝術はまだ其片端しか説き表はさうとして居ない。自分々々の眼を以て耳を以て、もう一度感じ直さなければならぬ所以である。幸ひにしてこの新らしい文化は、我々の風景觀を自由ならしめた。物を觀ずる機會は日ましに多くなつた。是をたゞ人の解説を通して、知らうとして居たことは御互ひの誤りであつた。全體に今は少しく「讀む」といふことに偏して居る。此拘束を拔け出して、改めて生存の意味を學び知る爲には、旅でも散歩でも、兎に角にもう少し「あるく」ことが必要だと思ふ。
 
(417)     旅人の爲に
        ――千葉縣觀光協會講演――
 
          一
 
 風景は今日職業として之を研究しなければならぬ人が、既に日本には出來て居るのだが、それにしては又あまりにも大ざつぱな考へ方で今までは過ぎて居た。もう少し精確な知識にして置く必要があるやうに思ふ。
 日本人は世界何れの國の人にもまして、よく旅行をする國民に今はなつて居る。是は旅館の數とか汽車の切符の枚數とかを統計に取つて見ても、大丈夫證明することが出來るであらう。一人が旅行をする分量としては負けるであらうが、こちらは非常に多くの人が動きまはつて居る。即ち旅行家は少なくて、旅をする人がうんと増加して居るのである。よその國と比べて見て、用向も或は多いかも知れぬが、少なくとも半分又は四割以上は、所謂旅行の爲の旅行をして居る。即ち生計費の一部を割いて、旅の好印象を購はうとして居るのである。果してこの商品が安いか高いか。又どういふ風に供給せられて居るか。俗なやうだが斯ういつた物の見方もあるのである。
 その又旅の好印象なるものも、複雜な構成分子をもつて居る。さうして確かにその一部分をなす所の風景そのものも、決して他の人事關係と引離して考へられるものでない。どうも酒がまづいので、折角のいゝ景色も有難みが薄いとか、隣に醉つぱらひが乘つて居て、不愉快で通つてしまつたとかいふことはよく聽く話である。しかしいざ遊覽客を引くといふ段になると、どこでも天然の美を説かずに居ないのを見れば、他の條件が通常である限り、たしかに風(418)景は旅する人を悦ばせ、時と入費とを惜まぬ氣持にする力を持つて居るのである。尤も時には評判を聞いて、なるほど斯ういふのが好い景色なのかと思つて見たり、多數が行く以上は好い處と見て然るべしと考へたりする人も大分あるが、その根本にはやはり旅行通の鑑賞が働いて居るのである。我々の半生の經驗に於ても、つまらぬ處は一時評判になつても、久しからずして皆衰へて居る。流行は必ずしも風景の優劣を決しては居ない。
 
          二
 
 さうすると第一に實際問題として我々の胸に浮ぶのは、風景は果して人間の力を以て、改良し又美化することが出來るか否かである。天然は持つて生れためい/\の顔のやうなもので、人力を以て如何ともすべからざるものであるかどうかである。各地の觀光協會といつたやうな團體では、是を先づ考へてから其事業に取掛るべきである。私の意見は必ずしも有力だとは自惚れても居ないが、今日の講演の目的はとにかくその一つの答を出すことである。自分は人間の計畫によつて、或程度までは風景を好くすることが出來ると思つて居るので、もし御參考になるならば其方法、否寧ろこの間題に對する諸氏の態度が、如何にあらねばならぬかを説いて見ようと思つて居る。
 風景の決して古今不變のものでないといふ證據はあまる程も有る。第一には地理學上の變化といふもの。たとへば自分は櫻島へ二度遊びに行つたが、前には小舟で島を一周することが出來、後には熔岩を踏んで人が歩んで行くのを見た。日光の裏兄の瀧は、もとは瀧の背後を見てあるかれる小路があつたが、明治末年の大出水でそれが無くなつた。しかし風景の改造者としてほ、天然よりも人の方が更に有力なものであつた。何だか非常に惡くなつたといふ言葉も毎度耳にする。それには不可抗力もあるが、人間の計畫に成る破壞の方がずつと多い。少なくとも日本などはさうである。最近問題となつた奧入瀬川の水利土木、斯ういふ例は他に幾らもある。惡くすることが出來る位なら、考へたら良くすることも出來る筈である。破壞は出來るが建設は望めないといふことは無いと思ふ。
(419) 實際又近年になつて、明かに風景をよくしたといふ事業も少なくはない。たとへば評判の奧州松島など、人が一望の下に見なければ承知しなくなつて、どこから眺めるのがよいかといふ評定が始まつた。富山の次には新富山、或は宮戸島の大高森などゝ指を折つて見ても、よい路が無ければがむしやらの若者しか登れない。斯ういふ箇處を行き易く、程よい所に休み茶屋を設けたのは、百年以來の遊覽時代の現象である。老樹を伐るといふことは罪惡であるが、その爲に眺望の甚だ好くなつたといふ處は、關東地方にも隨分有るのである。奧州では金華山の頂上など、さぞ眺めが好からうと思つて人が行くが、近い頃までは木が繁つて居て何も見えなかつた。秋田縣では男鹿の本山もそれで、隣の眞山の方だけはもう裸になつたから遠くが見える。展望の爲に木を伐るといふことは考へものであり、從つて又雙方歩み合ふ必要があるかと思ふが、兎に角に人の力によつて、風景はどうにもなるといふよい證據にはなるのである。
 
          三
 
 風景の時代と共に動いて行くといふことは、曾て他でも説いたことがあるから、今はたゞ大要だけを述べるに止めるが、同じ日本の自然と謂つても、繪卷物の中に描かれて居るものと、今日の寫眞の中に出て來るのとでは、別な國と云つてもよいほどにちがつて居る。川が土を流す埋立地が島を主陸に繋ぐ。大抵之を可能ならしめたのは「時」であるが、人間も亦少なからず參與して居る。その著しい一つの場合は道路である。道路は遠望を必要とする。殊に山越しの道に於てさうである。風景を賞するには見る人の立場を條件とする。飛行機の飛びまはる現代でも、空からの景色といふものはまだ人に説くことが出來ない。僅かの者しか經驗をして居ないからである。さうして其道路は概して言ふと、昔よりは低い方へ降りて來た。即ち横に眺める景色がふえて、見おろす景色が減少した。汽車はなほ更のことであるが、歩道も平野を行くものは直線に進まうとするから、眼顔の向く方が一定してしまひ、細かな曲りや向(420)きのかはりから、味はつて居た風景の動きは少なくなつた。
 之に反して山路の方は、却つてこの變化が面白く見られるやうになつた。瀬戸内海南側の例でいふと、香川縣から阿波へ越える大阪越、西では伊豫松山の南の三阪越のやうに、所謂羊腸九折の新道を作ると、自動車の中からでも大小の島が眺められる。五月六月の夕方の田の水の美しさなども、ぢつとして居て隅々までが見える。斯ういふ風景は恐らくは昔の人は知らなかつたであらう。だから古人の紀行に譽め、又は寫生畫にどんなによく描かれて居ても、その多くのものは今はもう得られぬと同時に、我々は又古人の到底味はひ得なかつた山水を、いと容易に樂しみつゝあるのである。
 
          四
 
 それから今一つの時代の變化は、風景美といふものに對する我々の考へ方である。一體全體好風景といふものは、果してどんなものをさして謂ふのであるか。是には明かに新舊二通りの答がある。日本で名勝といふものは、實は最初すぐれた先輩がきめたものであつた。多數は教へ導かれて日本三景だの、近江八景だのを知つたのである。勿論熱心に人の知らぬ處を捜しまはつて、忠實な比較品等を試みた人もあるが、其數は至つて僅かであつた。所謂不遇の山水、土地が偏卑で山陽も拙堂も行かず、西行法師も宗祇も來ずにしまつたといふ所はまだ澤山にある。大正昭和に入つてからも、その追加は段々にあり、中には葉書投票を以てきめたのもあるが、土地の人たちの愛郷心は、葉書の有るたけは投票しようとするから、結局甲乙はきめ難く且つ評判の無いものはやはり殘る。少なくとも此外にもまだ有るだらうといふ想像は、却つて是が爲に刺戟せられて居るのである。人に教へてもらつたのでは仕方が無いといふ考へが、旅行の好きな人々の中には漸く起り、別に食物や書物などのやうに、自分々々の好みから選擇するといふ風が盛んになつて來たのも、或はこの近年の風景競爭のたまものだつたとも見られる。
(421) この傾向は必ずしも新たに始まつたものでは無い。たゞ多數は文人や畫家のやうに、自分の鑑識を他に語ることが出來ず、又適當に自分の感動をいひ現す技術をもたぬから、愈となると人がきめてくれた名勝に、讓歩せざるを得なかつたのである。さういふ中でも最も強く、以前我々の自由な感動を拘束して居たのは、近世の風景畫であつたと思ふ。文章は之に比べるとやゝ感化力が劣つて居る。「畫も及ばず」といふ誉め言葉は、素人が却つてよく使用して、自然に風景の理想を畫中に求める傾きを強くして居る。
 ところが日本の山水畫といふものが、人も知る如く技藝の傳統を支那から引いて居るのである。考へて見ると是はやゝ不幸なことであつた。雪舟とか大雅堂とかいふ一流の天才までが、我々からいふと可なり偏した山水を、胸底に藏して居たやうに思はれる。日本ではちよつと出くはせない景色、多分揚子江などの中流以上の、水遠くして對岸に畸形の山の竝んで居るところ、下手が描くと所謂つくね芋山水になつてしまふもの、其間を小さな帆舟が往來したり、又は柳や松の蔭に漁翁が坐睡して居たり、さうかと思ふと忽ちにして溪流が布を瀑し樵路が雲に入り、之に對して堂々たる樓閣が聳えて居るといふやうなのを、今でもだまつて頼むと描いてくれる人が多いのである。島國にはそんなべらぼうな大きな川は無い。ずつと川口に出ると但馬の丸山川や、薩摩の南端の小さな川のやうな靜かな水面もあり、又は利根川の下流の所謂水郷もあるが、殘念ながら一方の「つくねいも」が無い。もつと海岸の方へ其技術を移したらよささうなものだが、是は又背景がぱつとし過ぎて、纏まりが惡いと見えてあんまりはやらない。島の景色や入海の水の光、岬の屈曲などはやゝ始末がいゝ筈だが、惡口をいふならば是は又御手本がちつとも無い。支那は又日本とちがつて、珍らしく島の少ない國であつた。前に「島」といふ雜誌を出して居たときに、標題の字を選まうと思つて澤山の法帖を捜したが、嶋も島も共に殆と見付からなかつたことがある。絶無ではないのだが詩賦の上に、現れることが至つて少ないのである。
 
(422)          五
 
 要するに我々の所謂山水には、俗人にはわからぬ一つの型がある。是は外國から學んだ趣味だからである。獨り文人畫の別名をもつ南畫だけで無く、もつと古くからあつたといふ北宗の畫でも、實は岩ばかりを描きたがつて困るのである。支那は幾分か天然の單調な國であつた。支那で無くても大陸は概して其通りであり、大陸で無くても英國などは九分通りが平原で、まづ千葉縣を引伸ばしたやうな國だ。言はゞ岩石の珍らしい人が多く居るのである。江山の圖といふものも其要求から出て居ることは、支那の庭園藝術を味はつた人にはわかることであらう。しかも庭造りの方は日本には又日本の流義が發達して居るかと思ふ。繪畫や造庭術は技藝だから、師匠の圖にかぶれても是は致し方が無い。たゞ國民が自國の風土を愛する上に、是がもし尺度となるならばたまらない話である。
 しかも我々の同胞は、書物の知識を崇拜したと同じやうに、上流社會の藝術と趣味とに、いつも至つて無邪氣な尊信を抱き、是がいゝ景色なのだよと教へられると、さうですかと謂つて感心する氣味があつた。なぜいゝのかといふやうなことは、成るべく言はぬやうにして、毎度見て居ると段々によいのがわかつて來るだらうなどゝ、人の好い考へ方をして居る。繪などの鑑賞には是が實際の手引だつたやうである。何だつまらんぢやないかとか、自分はこつちの方が好いと思ふなとか、無遠慮に言ひ得る者は今でもまだあまり出て來ない。たゞ風景に關してのみは、それが少しづゝ現れて來かゝつて居るのである。是は全く問題が大衆のものとなつたからで、勿論昔風な人の居る前では、爭ふ必要も無いから相槌を打つかも知れぬが、それでも近世の紀行文などの中には、評判ほどにも無いとか、二十五景などゝいふからよつぽど好い處かと思つたが、往つて見てがつかりしたといふ樣なことを、書いて居る人も既に大分ある。私なども現にその一人で、誰にもいつ行つてもきつと好い景色などゝいふものは、無いとさへ思つて居る。季節にもよらうし御天氣都合や時刻の如何もあらうし、甚だしきはこちらの頭のぐあひ胃腸の加減によつても、風景は(423)よく見えたり惡く見えたりするものだとも思つて居る。
 
          六
 
 さう我儘にてん/”\が勝手なことを謂つては、風景論などは成立たぬと思はれるかも知らぬが、實際はさほどばら/\になつてもしまはぬのは、やはり好いものは誰にも好いからである。わざと人の賞めるものをけなさうといふ「あまのじやく」の説は別として、鄰の人の噂といふものは、實は文人畫の指導などよりは確かなものである。一つの社會文化の中に共同の生活をして居れば、求むる所はおのづから一に歸すべきものであらう。第一に家を出て、常に見馴れて居らぬものを見るといふこと、是だけでも多數者の一致する悦びである。第二には他の仲間の人々が、既に見て大に樂しんだといふこと、これも亦我々の興味を惹く。第三に我々の風景は、前代に比べてたしかに美しくなり、又豐富になり且つ見やすくなつて居るのである。難儀をして自分たゞ一人、往つて見たといふ誇らしい優越感は無い代りに、諸君等の親切なる奉仕によつて、妻子眷屬同郷の友人とゝもに、らくに樂しめるといふ長處は、この新らしい、時代の專有物なのである。この恩惠は同時代人がほゞ平等に之に浴して居る。即ち我々の悦びは一致して居る。
 各人の鑑賞を自由にしたことによつて、決して日本の風景美は散漫にもならず、又埋没しても居ない。一生の間かつて一度も、風景だの好いけしきだのといふ言葉を、使はずにしまつた人々が、もとは多かつたのだが、今は非常に少なくなつた。以前の名所圖會などゝいふ本には、片言隻句も觸れなかつた地域から、幾つとも無い新風景が發見せられ、又是からも發見せられることは疑ひが無い。たゞ新たなる問題としては、どういふわけで房總なら房總の風景がよいのか。如何なる理由があつて、ぶらりと此邊の海端や岡の上をあるくと心持がよく、又いつまでも人にその話をせずには居られぬやうな好印象を殘すかと、考へて見なければならぬだけである。今日の人ほど鋭敏な感覺は持た(424)なかつたらうが、我々の祖先もやはりこの樂しみは解して居た。恐らくは繪畫などゝいふものゝ起らぬ前から、又宣傳などゝいふものゝ無い頃から、閑があり心配の無い人々は、出來るならケシキを見て樂しまうとしたことであらう。旅は以前は草枕と謂つて、誠に「ういものつらいもの」であつた。それにも拘らず旅をする人は滿足して居た。一生をそれに使ひ果して、後悔を知らぬ人も多かつた。どこにさういふ大きな魅力が潜むかを考へて見ることは、うちあけたところ一般觀光業者の飯の種である。何を目あてに今日遊覽の旅人が、時と金とを共に費して、斯くまでぞろ/\と出てあるくやうになつたのか、その動機こそは研究して見る價値がある。金まうけの爲に又は職業の必要から、あるくといふ人のことは別にして置いてよい。さうでも無い普通の日本人を、世界有數の旅行國民とした原因は、外に手招きするものがあるからだけではなく、内にも亦さうしたくてたまらぬ促迫が、必ずあるといふことを認めずには居られないのである。
 
          七
 
 旅行の歴史は簡單だから大よそは判つて居る。是は今日ではもう「附けたり」かも知らぬが、元は一つの大きな力であつた、伊勢の道者や熊野の道者、蟻のお熊野參りといふたとへまで殘つて居る。此地方ならば出羽の三山、上方ならば金峯山上や琴平詣で、形こそかはれ今も皆續いて居る。次には是と近く且つ一段と古かつた都見物、御城下見物、町へ買物に又は市へ物賣りに、是も普通の人々には一つ話の種、もしくは一生の思ひ出であつた。この二つには田舍者が參加して居る。常に見たことの無い美しいものを見る。うまい物を一度は食べて見る。先づ風景とは縁が無いやうに見えるが、動機は今日の新式旅行とも似通うた所があつた。たゞちがふ點は都會から田舍へと足を向ける者が、近頃と比べると非常に少なかつたことである。町から他の町へ行つて見ようといふ人はあつても、田舍へ遊びに行くといふことはあまり無かつたやうである。江戸でも近郊の地理が明るくなつたのは、四神地名録などが早い方で(425)あり、京傳は草鞋をはくすべを知らなかつたといふ類の話もあつて、旅をせぬといふことも町人の一つの誇りらしかつた。それが現在は都府が大きくなつて、出ずには居られぬ壓迫は田舍よりも却つて強くなり、地方は寧ろその流行にかぶれかゝつて居る。著しい變化といはなければならぬ。
 最初の都市からの旅行者として、今のやうな流行を作つたもとは遊歴人、その一つ前は行脚僧などであつた。多くは一藝を携へて地方人に、金を使はせる目的を持つて居たやうだが、それでもぽつ/\と都市でない處を見てあるく面白味を、還つて教へたのは彼等であつた。すぐれた紀行がその中から生れ愛讀せられて居る。たとへば橘南谿の東遊記西遊記、桃井塘雨の笈埃隨筆などは著名であり、その前には貝原益軒の諸州巡りなどが出て、この人々も風景物産を説き、且つ自由なる感動をして居る。關東の旅行家として有名なのは常陸の長久保赤水、その感化を受けたといふ備中の古河古松軒のやうに、田舍から出た學者もまじつて居るが、名山大澤を拔渉しようといふ者は、大體に於て都市の生活を味はつて居る。ちやうど今日の東京大阪の紳士が、山登りの大家であるのとよく似て居た。意外なことには山の中に住む者は、何か特別の用向の無い限り、近郡の山にもあまり登つて居ない。ましてや遠國の山などへは、參詣以外は遊びに行かうとはしない。海のほとりに住む人も亦同樣で、よその海岸は一向に知つて居らず、淋しい在所に住む人々も、親類訪問以外には他村を見に行くといふことは無い。旅に出るくらゐなら都會見物に行く。賑かな人のうんと集まつて居る處へ行つて見ようとする。日頃さういふ處を見ることが無いからである。珍らしいから行くのである。旅は要するに轉換であり、人生の一本調子に綾を附ける試みであつた。一生あるき通しの人はどうか知らぬが、僅かな暇をこしらへて行くには、選擇は通例この方に傾くのが自然であると思ふ。
 
          八
 
 それから又山の人は平地を慕ひ、海近くに住む者は山を戀しがる。群馬栃木の人々ならば、海の風は武藏野を通つ(426)て絶えず吹いて來るわけだが、それでも何かといふと濤の音の聽える處まで、出て來ぬと保養で無く、轉地でないかのやうに考へて居る。都會から押出す者も其通りで、平生人の氣にむれ人の波にもまれて居る故に、人影の少ない處へ出ると清々とするのである。瑞西の山の旅客などは、景色を譽めるのにトレサウバージュ、英語ならばワイルドと謂ふのが口癖である。好いといふことを野蠻と同じ語で形容するのはをかしいと思つて聽いたが、是も御本人たちの文化に疲れて居るといふことを意味する。しかし閑靜でよいといふのは好い挨拶だが、聽きやうによつては片田舍の人は感情を害する。さうで無いまでもいゝ物好きだと笑ふだらう。是が全國一般に通じての趣味になる氣づかひは無いのである。だから淋しい地方に一生を送る人々が、強ひて其樣な場所へ行かうとするのは、人眞似であると言はれても致し方が無いのである。
 そこで各地の觀光事業に携はる人々の用意又は態度は、自然にきまつて來ることになるかと思ふ。諸氏は何よりも先づ自分の地方の特徴を理解しなければならぬ。どういふ種類の人に好まれる風景であらうか、如何なる要求を持つ旅人が、特に快い印象を受けて還るであらうかを考へて見なければならぬ。日本は國が小さいが風土の變化は千差萬別である。是ほど人口が充ち滿ちて居ても、なほ天然のまゝのサウバージュな山水が、捜せば到る處に見つかる。人が路をつけ宿屋を備へ、是を見に來る人々の期待と調和させる方法も、殆と一府縣毎に又は一箇處毎に、各々定まつた特殊性がある筈で、よそを見て來て眞似をすればそれでよいといふもので無い。たとへばこの偉大な海洋を控へた外海岸の曲線、その中に活き/\と働いて居る漁人の生活、男々しく又昔なつかしい風情は我々には終日見ても見飽かぬのだが、是をわざ/\遠方の海邊から、見物に來る人があつたらそれはよく/\の物好きといはなければならぬ。そんな種類の人まで引付ける支度といふものは出來ないのである。しかも一方にはこゝが一ばん來やすくて、他へ行つては斯ういふ景色を味はへないといふ人々もうんと居る。それがどうすれば又たび/\來たくなるかといふことを、考へて見なければならぬのである。
(427) この内灣沿岸の水田の遠く開けた區域、又は利根川流末の靜かな水面の多くの湖沼、初夏もよいが殊に秋のかゝりは何とも言へない美しさである。私は十三の年まで、中國の海から五里ほども離れた小山の裾の村に育ち、春は山の頂に登つてたま/\霞む海上を望むだけで、鳥や色々の樹の花は知つても、斯ういふ廣々とした低地の風情に觸れて見たことの無い子供であつた。それが始めて關東の平野に入つて來て、松原の上を白帆の行く景色や、雁鴨が夕曉に群れて空を渡るのを見て、子供ながらも醉ふやうな心持で之を眺めた。全く新らしいこの天然の美しさを、平野と水郷と岡の臺畑の起伏の間とに學んだのである。風景を説き立てるのは通例は老人だが、實は斯うして大きくなる盛りに、うぶな心を以て感動したものが、一生の鑑賞を指導して居るのである。どんな土地の風光にも、見る人によつてきつと好い所がある。一年中いつもよいとは言へぬまでも、少なくとも季節しゆん時刻ともいふべきものがある。その好い印象を感じ易い境遇の人に植付けて行くことが、百の宣傳よりも效果は大きい。風景は温い饅頭や燒芋の如く、けさ拵へて今日賣つてしまふべきものでない。是を考へると今の當業者の廣告方法は、よつぽど性急であり又順序もちがつて居る。
 
          九
 
 郷土の美點を世に紹介するといふことは口癖であるが、それには先づ自分たちが自ら其美點を知つて居なければならぬ。それよりも更に適切なことは、之に伴なふ缺點をも氣づくことである。缺點は大抵は改められるものであつて、人が風景を好くする最も手輕な著手でもある。たとへば所謂觀光道路が、終點にばかり急ぐのは不經濟な話である。幾ら早く走つてももし來る路が退屈ならば、遠い處は必ず近い處に負ける。だから近路を作るよりも、見てあるかれる路を考へることが必要である。殊にハイキングの要求は、いつも自動車道路とは兩立しない。然るに何れの土地でも小路を詳しく描いて、あるく人の選擇を自由にしたものは出て居ない。爰に立つて眺めると好いといふ地點が、房(428)總では數多く發見せられて居て人がまだ知らない。たまには少し位は路を付けかへ、腰かけを置いたり目障りの枝を拂つたりする位の用意があつてもよい。
 鐵道が網の目のやうになつて居て殊に惜しいものだと思ふのは、歩行遊覽者に對する世話の足らぬことである。汽車は是非とも往復切符で、同じ路線を往つて歸らせようとする傾きが見える。旅行者手荷物の特別扱ひ、別な線の異なる驛まで、あるくのに不便な携帶品だけをまはしてやること、是さへ出來ればまんべん無く汽車が利用せられて、窓から跳ね込む醜?も減ずるかと思ふ。全體に私等には不審なことが多い。鐵道自身が躍起となつて、出來るだけ車中の生活を無價値にしようとして居る。汽車の折角の窓が、何だか我々には辨當を買ふ穴としか見えない。席さへあいて居れば乘客は皆寢そべり、さうで無ければ一生懸命にキングなどを讀んで居る。遊びに來た人やら、家にもめ事があつて歸る人やら、擧動からは判別がつかない。是は全く新たな風景を案内してやる手段が無いからである。車掌には大役の暗誦式説明などは、近所迷惑でもあれば又靜かな鑑賞を妨げても居る。私は前から個々の線に就て、窓外の山や村里を略説した小册子を出すことを勸めて居る。さうすれば別に行先をきめず、汽車を樂しみにする旅人もふえ、土地々々にも豫期せざる同情者、又紹介者が得られると思ふ。
 旅をして見たいといふ若い人の心理は、若い頃に盛んに旅をした私などが片端は知つて居るかも知れぬ。風景とは必ずしも原始林野、人に馴れない海川のことではない。我々の同胞が其上へ、數千年かゝつて築き上げたあるもの、それの自分たちの知つて居るのとちがふものを、見てあるきたいのである。是に對しては鐵道は感謝せられてよい。道路は昔からあり又土地でこしらへるが、汽車は外から來て遠慮なく村を突拔ける。千葉でも東京でも場末ではよく見られるが、僅かな軒先の樹の實や植木鉢、縁をからりとあけて親子が飯を食つて居たり、二階に蚊帳を吊つて寢ころんで居たり、おしめが乾してあるなどは感心せぬかも知れぬが、とにかく土地々々の生活の諸相を、ほんの一瞬間ながら近々と見て通る。外國を旅行した者には經驗もあらうが、是が何とも言はれぬ親しみを感ぜしめる。我々もそ(429)れから色々の學問をして居る。さうかと思ふとすぐに田圃に出たり山の陰を通つて見たり、里の順序や路の屈曲を省略して、最も變化の多い天然を展開して見せてくれる。恐らくは是が人生の最も面白い教科書で、まじめな生徒ならば皆おしまひになることを惜しがつて居る。わざとさうしようとは思はなくても、既に是だけの效果を擧げて居るのである。ましてや計畫をしたならば、まだ/\成績は幾らでも大きくし得られると思ふ。
 旅の面白さを説かうとすると、勢ひ鐵道や旅館の提灯持になりがちだが、必ずしもそれを避けるに及ばぬと思ふほどに、誰にきいても見てもよいといふ處が一致して居る。たとへば越前の杉津《すゐつ》の驛頭から、海に臨んだ緩傾斜を見おろした眺めなどは、汽車がほんのもう一分だけ、長く止まつて居てくれたらと思はぬ者は無い。山陰線では小濱と松江の灣に沿うて走る路、東郷湖岸や石州の海のほとり、リビエラなどを羨む必要はちつとも無い。山の中では古い往還の白い一筋に沿うて、靜かに國境の山を越えて行く因備線や飛越線、殊に後者は風景を味はせる爲に、路線を斯う取つたかと思ふ個所が多い。花や紅葉の頃にこの線の展望を寫して置けば、趣向は立てなくとも其まゝが繪卷になると思つた。中央線でいふと高山帶に沿うて行く韮崎以北だの、初鹿野《はじかの》を出てからの甲州盆地の眺望だのは、何度通つても氣分が新たになる。富士の南麓などは少し繪葉書が多過ぎ、汽車には又何でも無いといふ顔をした人ばかり乘つて居るが、子供が率直に喜ぶのを見れば、是も我々の心を樂しくする景色であつた。わざとで無くとも全國に斯ういふ處が多い。日本はつまり風景の至つて小味な國で、此間を走つて居ると知らず識らずにも、此國土を愛したくなるのである。旅を或一地に到着するだけの事業にしてしまはうとするのは馬鹿げた損である。一度に金をかけるといふわけにも行くまいが、旅行を愉快にする權能は實は諸君の手中に在るのである。寫眞の發達が中途半端な爲に、遠くへ傳へられない山水の美しさ、光と色彩とは今以て風景の秘密に屬して居る。それを我々も應分に樂しんでは居るのだが、諸君がもし本當に人の心を靜かにする術を究められたならば、日本に特有なこの色と光との價値は、忽然として今の價値を數倍し、同時にそれを國民共同の貴とい感覺と化することが出來るだらうと思ふ。人間は決して不可能(430)なことを望む者ではない。どうでもなることでまだ努められぬことが殘つて居るのである。一言でいふと、我々の旅行設備はもう古い。是と新らしい文化との調和、即ち誰も損する者は無くて國はなほ此上にも美しくなり、それを鑑賞せしめんとする職業の人たちは自然に富み得る。その方法をもつと細かに考へて見ること、是を觀光協會の第一の任務にして見たいといふのが私などの希望である。
 
(433)   旅中小景
 
          一
 
 一萬八千本の櫻の樹が燒けたと聞いて、最初に眼前に浮ぶのは、上野あたりの落花の趣であつた。花は白つぽい大まかな、とんと單調な木ぶりであつたが、何百本と平地に栽ゑ竝べると散る時は眞に雪であつた。
 靜かな雨の日もよかつた。殊には眞盛りの木の下に、ちらりはらりと散る所は、實際江戸の人の醉つたのも尤もだと思はれた。お花見といふと誰でも此光景を思ひ出すであらう。去年の春を限りに、あれが歴史になつたのはまことに淋しい。
 もうあの趣はどこの國へ行つても味はれまい。併し春はまだ到る處に有る。處々の野山で花は靜かに咲いて居る。旅に出て見ると、又色々の花の美しさに逢ふこだが出來る。
 中國邊の赤土の小松山では躑躅はつまづく程多いが、櫻の木は育たぬか至つて少ない。たまに森や林のはづれなどに、一二本の大木を見つけて、事の外之を賞讃したものである。
 昔から上方の花見はさうだつたと見えて、よく茂つた山の中でも、他の樹にまじつてそこらに白いのを、遠くから眺めて樂しんでゐる。つまりは栽ゑたのと伐り殘したとの差であらう。
   ながむとて花にもいたし首の骨
(434)と云ふ古い句はあるが、此とても樹の直下に立つて仰ぎ看たのでは無く、只處々の嶺の櫻を、里づたひに看てあるいた心得であらうと思ふ。
 丹波の山村で、宿屋の窓から見ると、杉山の頂上に數本の絲櫻が白かつた。其蔭に瓦葺きがあつて、夕方には鐘をつき、暮れてしまふと灯がとぼる。寺の僧の曾て栽ゑた花であつた。
 併し旅をする者には、自然生の方が櫻は一層なつかしい。薪に焚けばよく燃ゑる木を、何かの考で殘して置いたり或は山があまり高く、谷があまり深い爲に、つひ伐らずに置いて、遠くからあゝ咲いたなと、眺めてゐた人の心持がなつかしいのである。
  十和田の湖水を見に行つたのは、或年の五月二十九日であつた。山が深いので水に面した山のひらは北も東も悉く雪のまゝであつた。其中に處々溪川などの爲か融けてゐた部分は黒い帶のやうで、そこにある山櫻だけが雪中に花をつけて午後の日の影に光つてゐた。こんなのを見た山村の人が、山の神を美しい女性と想像して、色々の昔話を夢みたのだらうと思つた。
 
          二
 
 此あひだ大火事のあつた三河の鳳來寺山の後の方から、鹿の革の山袴の、まだちつとも汚れて居ないのを、三圓で讓り受けて來た人がある。
 此が三圓なら私等もほしいと、里の人たちは皆謂つたさうだ。第一に今時にこんな厚い佳い鹿皮は見たことが無い。ずつと是よりも薄いのでも、袴にすると十五六圓はかゝると謂つた。即ち豐川の上流の村には、今尚革袴をはいてあるく人が、何んぼでも住んで居るわけである。
 當節の革袴はすつかりかつこう〔四字傍点〕が變つて、西洋のズボン見たやうに細くなつてしまつた。三方ヶ原近くのスノキと(435)云ふ村の人が、こしらへて賣りに來る。一度賣込んで置くと、それからは折々に繕ひに廻つて來ると云ふ。此も以前は獵師が自分で縫つたのださうな。尤もなめし〔三字傍点〕だけは或部落の人に頼んで居た。
 この革袴と云ふやつが、決して輕便でも調寶でもないしろ物である。第一に雨に降られると、もうそれで臺無しになる。故に獵師が山中で雨に遭ふと、あわてゝそれをぬいで疊んでしまはねばならぬ。
 だが白くてしやんとして伊達なものには相違ない。親類の老人が毎年年頭の禮に來るときだけ、きつと同じ見事な革袴をはいて來るのを、どう云ふわけかと奇妙に考へて居たと、話した人もある。
 若狹の名田莊などをあるくと、田に立つ程の男も女も、言ひ合せたやうに生麻の袴を着て草を取つて居るのが、まるで鶴白鷺などのやうな感じであつた。水に洗へば洗ふほど、次第に白く美しくなるといふ話であつた。
 最初には娘たち、次には其の友だちの青年が、山袴をきらつてはかぬやうになる。美濃の根尾谷の後の岡に、地藏堂があつてそこに澤山の山袴が脱ぎ捨てゝあるのを見た。町へ出て來る若い女などが、親が言ふのでこゝ迄ははいて來るのである。
 
          三
 
 茂林寺一遊を試みる。畠路の土が柔かで乘り心地はよいが、車屋は大に汗をかいて走つて居る。
 彼は此旅行の用向をよく知つて居る筈だ。何だ、分福茶釜の爲に、こんなに骨を折らされるのか、と憤慨しはせまいかと、少しばかり不安であつた。
 併し其樣子も無く、雲雀や彼岸櫻のことなどを話してくれる。只苦しくなると、どうしても客を荷物としか考へないであらうと思つた。又通り掛りの知り人たちが、今日は、御稼ぎでなどと挨拶するのが、如何にも乘り手に入格を認めぬ態度であつた。
(436) 人力車などはもう駄目であらう。文字から言つても「自」の字のつく車の方が、取つて代りさうに思はれる。それにしても誠に短い歴史であつた。
 成田街道の松原などでは、手拭をかぶつた「おかみさん」が、人力を曳いて居たのをよく記憶して居る。これを感心なものだなどと譽めて居た時代もあつた。
 士族の子弟の學問の嫌ひなのが、車夫をして居る地方も多かつた。雲助よりはずつと品位が有るやうに考へられて居た。散らし髪におはぐろを附けて、追剥ぎを威壓するのを誇りとした勇者もあつた。
 天笠コ兵衛や自來也の繪を彩色で描いた人力車が、國道縣道を飛びまはつたのも、今は昔の花やかな夢だ。田舍の少年は立て場に集つて、取り/”\に此繪を鑑賞したものであつた。
 それが無地の漆塗りにかはつてからも、暫くの間は珍しかつた。車の後から近づいて行くと、自分の顔や形が蜘蛛男のやうに平たく映る。
 あのをかしさは旅をした者は皆知つて居る。只其奇妙な感じがいつ迄續くかは、あの時分にはどうしても分らなかつた。
 
          四
 
 今度はナルゴの温泉に、降りて見る時間が無かつた。いゝ月夜の春の夜であつた。汽車の窓から眼を出して、よく氣を附けて見て居たのだが、どうももうなくなつてしまつたものらしい。
 無くなつてしまつたと云ふのは、芭蕉の奧の細道にもちよいと書いてある巨大なるシトマイ(尿前)の長者の舊宅のことである。六年前の谷うつぎの花盛りに、私が爰へ來て遊んで居た時にはまだ在つた。
 壁はことごとく落ち、屋根の萱は一しべも殘らず、しかも立派な木材の組合せが、儼然として立つてゐた。土間も(437)座敷も一面の青草であつて、零落した當主の侘住居が、其がらんだうの眞只中に、別に古瓦で屋根を葺いて、その小さいことは臍の人體に於ける割合ぐらゐであつた。
 鳴子温泉の繪葉書を買ふと、「尿前の關所の故跡」と題して、その恠偉なるあばらやが、ちやんと寫眞の中に入つてゐる。芭蕉の有名な一句
   のみしらみ馬のしとする枕元
と云ふのも、やはり此家に一宿して詠んだのだと、土地の人は信じて居た。
 此邊では前栽の庭のことをロヂ(露地)と謂ふ。界隈にあの家ほど見事なロヂを持つた家は無かつた。湯治の客が一度はきつと拜見に出かける、言はゞ名所の一つであつた。
 別に是ぞと云ふ失敗も無く、只あまりに舊家であつた爲に潰れたやうなものである。只世間の噂では、尿前どんの最後の主人には、一つだけ妙な道樂があつた。
 それは内儀を取替へるといふ妙な癖で、一代に何遍と算へることの出來ぬほど、女房を出しては又迎へた。それがいつでも十五か六の若い嫁で、自分が年を取るにつれて、段々と無理になり、其度に大物入で、それで身上が惡くなつた。
 しかもその昔風の大邸宅だけは誰が何と言つても、損じ放題にして賣らなかつた。其珍らしい家がもう無くなつたらしいのだ。さうして此峠を汽車が走つて居る。
 
(438)   丹波市記
 
 大正五年四月三日の午前十一時、畝傍山陵の御親祭が畢《をは》つて後、兩陛下には橿原神宮を拜せられて、直ちに停車場の方へ還御になると、沿道の奉迎者は警官に許されて、悉く路上の人になつた。神宮から歸つて來る我々の車は群衆の中に入つて、土埃を浴びながら立留らねばならぬことが何度かあつた。今井八木の二町は人で一杯であつた。殊に畝傍驛で特別列車に乘り遲れた參列員たちはよほど困つたらしい。自分が常の服になつて驛前の茶店を出た時は、人通りの最も烈しい處であつた。獨りでに足が北に向き、吐出されるやうにして八木の町を出た。眞直に南北に通つた中街道を、大勢の村の人が歸つて行く。若い衆や小學生徒の大きいのは、足早に前の人を追ひ越して行く。併し五町七町と來るうちには、混雜と云ふ程では無くなり、次第々々に人は左右の横路へ分れて行き、條里制の痕跡かと思はれる縱横に並行した大小の路を、文字通りの老若男女が、幾つかの群になつて歸つて行くのが、耳成《みみなし》の山を背景にして、如何にも長閑な畫のやうに見え始める。村へ入ると今歸つて來た子供等が、まだ門口に立つて今日の話をして居る。其村を又出離れると、遠近の人の數がずつと少なくなる。又次の村に來る頃は早ちらりほらりで、十市《とをち》の里を北へ拔けて、大きな池の堤に立つて四方を見ると、大和國原は早既に、全く閑寂なる元の田舍になつて居た。
 三輪の山は外線が如何にも美しい。其後に引込んで立つ高い山は、「纏向《まきむく》の穴師《あなし》の山に雲ゐつつ雨はふれども沾《ぬ》れつつぞ來る」と歌はれた、あの萬葉集の山であらう。今は上通りと呼ばれて居る山の下の道を、正北《まきた》へあるいて行くと、三輪の神の花嫁御の墓だと云ふ、箸中の塚の下を通る。最も古い帝都の多く有つたのは此邊の傾斜地で、此から(439)見ると葛城《かつらぎ》山脈の入日の景色が、二千年の昔もさぞ花やかであつたらうと思ふ。柳本《やなぎもと》の町を北へ出ると、杉に圍まれて大和神社が、物深く神々しい。此神の社頭に在る名木の枝垂櫻が、たつた二つ三つ花になつて居る。橘の實が佳い色をしてぎつしりとまだ枝に著いて居る。さうして一人も參詣者が無い。御召列車を拜みに、線路の側まで出たかと思ふ村の若者が三人ほど、馬場の松の下に踞まつて話をして居る。靜かだと云ふよりは寧ろ淋しい。
 元治元年十月二十六日の略此時刻に、庄屋敷の勤め場所の棟上祝から、大豆越《まめこし》の山中と云ふ家へ赴かんとする途中、此社の前で御神樂勤めをして、神官から狐踊のやうな眞似をすると咎められた初期の天理教徒は、其永年の忍耐力を積上げて、たう/\丹波市を一箇の小エルサレムにして了つた。其大伽藍の新しい屋根の瓦が、もう茲から遙かに光つて見える。人が若し獣ならば、もう丸で變つた空氣を喚ぎ始める頃である。
 丹波市は元來|石上神宮《いそのかみしんぐう》への岐路である爲に、出來た町であるらしい。現に今も布瑠《ふる》川の水が町中を走つて、特色のある此宗教の禮服や、土産物の天理煎餅などを賣つて居る家々に、物洗ひ場の便を供與して居る。三島庄屋敷の新聖地は、即ち布留社《ふるのやしろ》の參詣路の中程に出現したもので、宛も天理教廳へ行く爲の路の如くなつた、二千數百年の古い道を、多くの信者が、何か此奧にもまた別の御社があるやうだ、などと云ふやうにならぬ用心の爲に、官幣大社の方では偉大なる石柱を、前の丁字路頭に建てゝ居るが、天理教の方では特に是と云ふ道しるべを必要として居ない。六七町の間、正東《まひがし》に向つて僅かづつの坂路で、至つて形勝の地である。汽車からよく見える宏大なる瓦葺の多數が、何と何とであるかを知るのが、自分の今日の遠足の第一の目的であつたが、あまり澤山の建物が、狹い道路を境にして密集して居るので、滿足に見物することが六つかしかつた。白壁に燒壁板《やきしたみ》の住心地のよささうな大きい家に、庭木などを十分に栽込み、石垣練塀の用心もよろしく、或は二階などが打開いて、日當りも眺望も申分の無いのが目に著くので、或は管長中山氏なる者の住宅かと思つて門へ廻つて見ると、どれも/\何々教會の詰所とある。佛教の本山ならば宿坊に相當するものであるが、魚味を用ゐる宗旨だけに、表附きが快活で、或は玄關に金箔の衝立など、幾分か上(440)品な旅館のやうに見えるのも是非が無い。
 松村と云ふ大教正の郷里である故か、河内高安の詰所などは殊に立派だが、此外に五つも六つも、略同じ大さのが既に建つて居り、又此からも競うて建てるのか、そここゝに田を潰して大材木を寄せて居る。其は信徒の保護の上からも假本殿の美觀の上からも、必要な計畫である。多分詰所のある結果であらう。成田の不動前に見るやうな大きな宿屋は一つも無い。本通りの左右には小家が多く、腰掛けて食べるやうな食物店、或は參拜人の買つて還りさうな物を賣る、小商人が住んで居る外に、數百の取引先を店先に掲示した、某銀行三島支店などもある。
 其間を來往する人の中で目に立つのは、木綿袴に髭をはやした人、劔術指南のやうなのから、小學校教員のやうなの迄、剛柔色々の樣子をして居る人が、皆是れ各地教會の布教貝で、不思議な事には三十か四十迄の者が最も多い。只の信徒を案内して行くのもあれば、御簾か荒|薦《ごも》かと思ふ長い紙包に、冠の纓插《えいばさ》みをくゝり附けたのを肩に掛けて、二三人笑ひながら歸つて來るのもある。自分のやうな氣まぐれな見物人は、新婚旅行らしい大阪者の一組があつただけである。
 本部の大建築は村の東北隅を占めて居る。ちやうど二年前に竣功した二十四間に十六間、高さ八丈惣檜の大建築を、信徒等は教義の上からやはり假御本殿と呼んで居る。此敷地が教組の所謂甘露臺である爲に、故の地を移すことが出來ず、改築に先立つて一時假教堂を作つて置いて、其間に古い神殿を取壞したので、其入費だけ餘分に掛つて居る。勸める人も咎める人も無いから、自由に拜殿に登つて見ると、四百疊を敷くと云ふ一室の中央に、幅一間の渡り板が神前まで通つて居る。神壇は北向でよくは分らぬが、少し佛式を加味したやうな構造である。北の口から幅一間半の渡り廊下で、教祖殿に通じて居り、右に折れて管長の住居へ、左に曲つて教廳の事務室へと聯絡するが、此等の建物は勿論別にそれ/”\宏大な玄關があり、殊に本殿と住居とで取圍うた中庭は、造り上げたら見事な泉水になるらしく、此へ入つて來る中門は日本建築には珍しい樓門で、たゞ些しく硝子戸を立て詰めた、住居の方の平家とは調和せぬ。
(441) 拜殿は今が最も淋しい時であるらしく、時々二組三組の參拜者が來て坐り、拜を畢つてからそこらを見廻し、小さな聲で永く話をして居る。其群の中には必ず一人の教員が交つて居る。女の教員もある。紫の袴に廂髪で、師範學校にでも居りましたと言ひさうなのが、懷から木の笏を取出して、拜禮をした時は珍しかつた。子供が澤山來て廻廓の上で遊んで居る。子守が別に固まつて喋つて居る。よほど開放的な宗教である。祖靈殿の方へ進んで行つて見ると、パッチ尻からげに風呂敷包を背負つた十七八の小男が、土埃も拂はずにのそ/\と入り、教祖の靈牌に近い所まで出て、信者らしからぬ辭儀をして居る。婆樣が三人ほど是も教員に連れられて立つてあるいて居る。赤ん坊が一人泣いて居る。少し指の曲つて顔一面赤紫に腫れた忌はしい病人が、絹の衣服を著て事務員のやうな人と共に出て來る。斯んな人が思切つたヒノキシンをするのであらうと思つた。
 今一人酒臭い息の男も、肌膚の色がちと恠しい。非常に熱心に私に此宗教を説明したが、どうも論理的で無かつた。立話である上に醉つて居るのだから仕方が無い。此處を御地場と云ふことと、教組を親樣《おやさま》と云ひ、神を天の親樣と云ふこととは、此男に教へて貰つて初めて知つた。頻りに眼目と云ふ語を使つたが、何が眼目なのかは言はなかつた。
 再び本殿へ來て見ると、土地の人らしい二十五六の子持の女が、束髪で絣の羽織を著て拜殿の右中程に坐り、熱心に御手振《おてぶり》をして居る。眞言の手印と踊りの手とを取交へたやうな擧動だが、ぢつと見て居ると、其手の握り方の一つ一つに、信仰上の意味があるらしく思はれた。只其手が如何にも丸々と太つて居るので、なまめかしい感じがせぬでも無かつた。其傍へ村の青年と云ふやうなのが二人來た。此方は手の握り方が輕佻で眞似としか思はれず、彼等も私がぢつと見て居るのを知つて笑つて止めた。
 門を出て右へ別の道を歸つて來ると天理中學校がある。休日であるから何も見られぬ。正面には注連繩が張つてある。別に普通の中學と變りは無い。只毎朝神拜をさせるだけだと云ふことである。それから後戻りをして本屋によつて見た。銀座の警醒社よりは、一段と宗教臭い本屋であつた。親子の女が店番をして居て、傳道と營利と二重の熱心(442)を以て、あらゆる天理教の書籍と雜誌を勸めたので、御蔭で教祖殿の醉人が、説き能はざりし諸種の事情を知つた。
 奈良のホテルに歸つて、此日の見聞を或老大官に話すと、それは一度見て來なければならぬと、翌日は多武峯の歸りにそつと往つて見られた。微行のつもりであつたが、教廳では何時の間にか知つて居て、丁寧に新建築の全部を案内した上に、私が買つて來たより數倍の書物を一包にして、恭しくこの何も解らぬ老有力者に贈呈したと云ふ話である。
 
(443)   樺太紀行
 
     はしがき
 
 是は今から五十二年前、日露媾和の次の年の九月に、樺太島の中部高原と、西海岸の一部とを巡囘した日記である。北海道の方では新たな産業政策の計畫に著手する際とあつて、床次荒井などといふ内務大藏の大官たちが、下檢分に行かれる尻に附いて、始めて自分も此方面を見學してあるいた。其あと一行と小樽で別れて、樺太へ一人で渡つたのも計畫であつたが、この方には豫想に反したことが幾つもあつた。第一にこちらには小さくとも戰があり、その後始末の付かぬうちに雪になつて、翌年の雪解まで待たねばならぬ仕事がどつさりあつた。第二には人手があまりにも足りない。北海道の方には開拓が始まつて、永住の農家が追々と増して來たが、こちらは春來て秋還るといふ、燕見たやうな漁民ばかりが多く、稀には鄰の北海道から流れて來ようとする文字通りの移民もあつたが、この衆の狙つて居るのは今少し大きな儲けばかりで、よほど條件をよくしても落付いて爰に住まうといふ者が得にくかつた。現在は定めて方式が改まつたらうが、以前の露西亞からの強制移民といふのは、他でなら死刑を課せられるほどの、極惡の無期流刑者と、その後裔の者が主であつた。どういふ風に話を付けたものか、それをそつくりと對岸の何れかへ送り返すことにきまつて、迎への船の來るまでの間、可なり久しいこと大(444)泊に集めて保護して居た。それがついこの間やつとのことで還つて往つたといふ處へ、私は入つて行つたのである。
 しかも村々にはぽつ/\と、まだ話の付かぬ者が殘つて居たのである。言葉の全く通ぜぬのをよいことにして、こやつの來歴は斯う斯うと、殆と信じ難いやうな話をするとも知らず、たゞにこ/\と笑つて居るのを見ると、こちら迄が段々と淋しくなるやうな氣がした。是は何でももう一度、もつと落付いた頃にやつて來て、是から後の事を考へて見ることにして、今度は地形と天然の豐かさを味つて行かうといふ氣になつて、さつさと通り過ぎてしまつたのだつたが、それも結局は實現しなかつた。
 この日記の中にも片端は書き付けて置いたが、生活の歡喜は寒い國に行くほど、前後を忘れしめるほども強烈なものがあるらしい。僅かな徒渉場の砂川の邊に立つと、數へ切れないほど多くの川鱒が、背中を半分出して水上へ昇つて行くかと思ふと、一方にはもう力が衰へて平たくなつて流れて行くものがある。鯉の瀧昇りまでは繪そらごとかも知れぬが、この邊では海からもう遠いのに、なほ遙々と子を産みに上つて來るのである。アイヌたちの部落を遠くから見ると、小屋も隱れるばかりたく山の魚が乾してある。それを冬中の食料にして、あの樺太の橇犬は育つて行くのださうである。
 一方には又樹の倒れた林の間に、聽いても覺えきれぬほど多種類のベリーが熟して來る。今はまだ花の方が多いが、やがては小鳥や蟲にも喰ひあまされて、際限も無く次の代を作るらしい。オコツク海の濱まで出て見ると、そこは又一面のハマナスの叢であつて、一株の中に蕾から花、花からよく熟した果實までを著けてゐて、人は却つて近よつて見ようともせぬのであつた。
 話が長くなつて「はしがき」とも言へなくなつたから、もうこの邊で一應は切上げる。此あと書いて置きたいと思ふことがまだ三つ四つあるが、それは折を見て此あとに書き繼いで置くことにしたい。(昭和三十三年五月)
 
(445)九月九日 朝雨、夜暴風
 六時十分旭川出發の汽車にのる。ここにて同行十一人と別る。此人々はけふ名寄《なよろ》に行く人々、大橋、前田、栃内三氏停車場迄送り來る。内田定槌氏同乘、物語して時のたつを忘る。
 小樽の商人戸島、大阪の人なり。同じ列車に在りて語る。
 十二時札幌山形屋着。
 家より手紙、多くの?共廻付し來る。
 宿を立ち、中川の所へ行つて碁をうつ。細君にあふ。
 五時十分の汽車にて札幌を立つ。中川君送來る。嵐吹き雨烈し、明朝船出づるや否や心つかはし、七時近く小樽越中や着。内田氏の案内市川道廳屬、好意にて予が爲にランチを求めたれども得ず。
 三井の店員手塚氏にあふ。戰時中志願兵にて出て奉天の戰に腹を傷つけたり。
 家へはがき。
 夜、十時過船に乘れといはれてたつ。上川丸千四百噸、唯今始めて、北海道を離る。樺太の熊谷氏へ電報にて知らせる。
 家よりまはし來れる手紙。中原※[登+月]洲氏より、西田教授より二通、島田俊雄より、津の三村君より桃澤君うせたりといふ報知。
 三河の八名郡山吉田の内藤、本田より手紙。
 
九月十日 雲多く風すこしあり
(446) 朝の四時ねたる間に船は出でたり。夜稚内につく迄はゆれたり。同乘は大かた漁業者なり。漁業者の中にも醉ひたるものあり。船の中にて四、五本のはがきをかきたり。起きて甲板に上れば船傾きて倒れさうなればあわてゝ下りてねる。食事も定刻にする能はず、室にて珈琲、パン、かゆなどを食ふ。午後出でて見れば利尻島近し。八時半稚内泊、十時半出發。けふは終日室にありてねたり。
 
九月十一日 晴
 早朝にアニワ灣に入り、七時投錨。
 榊原支署長出迎、尾崎事務官の官舍に入りて寄寓す。
 楠瀬司令官へ挨拶に行く。
 熊谷長官と馬車にて市中一巡、かへりて民政署に入りて人々にあふ。
 夜、榊原君、和田君とクラブに行て玉突を見る。
 道家氏へ細書、北海道のことなり。
 
九月十二日 雲あれどあたたかなり。
 吉原三郎氏へ手紙。家へ手紙。
 農事試作場に行て見んと左の山間に入りしも道わからずしてかへりぬ。道にめづらしき木多し。「高ねばら」といふが?瑰《はまなす》の如くにて少し木たかく實赤くなり、花も單瓣にてうつくしといへり。
 凡そ花はつきて今は盛に實のなる時季なりとおぼし、尤多きは、紅の實の南天の如くなれる灌木到る處に在り。其名をたづぬべし。
(447) 此所は、露人の建築多し。
 民政署の茂木、桑名來、後日ウラヂミロフカの方へ同行を約す。
 午後守備隊病院の横手より山の中をぬけて大泊に行く。學校の新築さるゝ上の山より見れば、到るところ半成の家、工を急ぎ、盛なるものなり。買物す。
 伊太利の軍艦入港上陸を許されず。
 海岸の道をつたひてかへる。
 夕司令官の處に招かれ夕食。經理部長、憲兵長、民政署の人々。外に東京に歸るべき士官二人招客なり。
 かへりにクラブにて長官と玉をつく。
 
九月十三日 晴
 宿舍に居て書類をよむ。
 山林の係なる月居技手來り、?勢を語る。桑名技手來り明日の打合せをなす。
 署に行て片寄、矢木の二氏に調べものをたのむ。
 夜長官の饗應にて第一亭といふに行て飲む。相客は楠瀬少將、岡澤參謀(中佐)、緒方經理部長(三等主計正)、副官恒屋大尉、某中尉、憲兵隊長浦野大尉、其他通信部長なる某大尉、鐵道工事の係りなる某工兵大尉などなり。司令官は二三日中に雇汽船にて東部海岸をシッカ迄行くよし、同行をすゝめられたれど辭したり。民政署の人は和田、榊原。田村、橋本の二工學士、秋元通譯片寄屬なり。秋元はけふウラヂミロフカの支署長を命ぜられたり。
 夜おそくなりてかへりてねたり。
 けふクラブにて、漁業者小倉某などと玉を突きて遊びたり。
(448) 今村幸男より繪葉書。
 
九月十四日 晴
 朝七時過に宿を立つ。同行者は桑名、茂木と、尾崎君の從者村田なり。尾中醫學士の馬を借りて乘る。甚心もとなし。
 ソロイヨフカ迄二里半は磯山の下なる渚をゆくなり。西の山に雲白く麓に沈みて朝の海さやかなり。ペリワヤパーチ、フタラヤパーチ、トンチャパーチといふは第一、第二、第三の谷《やつ》といふ義なり。ペリワヤあたりに小さき漁場二つ三つあり。
 ペリワヤには近き頃迄牛馬の收容所ありき、茂木はこゝにすめり。フタラヤに通信部(陸軍)の分遣隊あり。輕便錢道工事の材料を陸揚しつゝあり。
 ソロイヨフカには種畜場あり。もとの一村の家屋を其まゝ取こめて厩舍等に宛てたり。南部樺太には數千の牛馬ありしが、亂雛の後官民の引き構へて世話するものなかりし爲、半數以上死にうせたり。路に牛馬の骨狼藉たり。場の主任西村は米澤辯の熱心な男なり。牛馬各二頭の種畜を北海道より取よせて、更に繁殖の業を經營せんとす。
 ここにコロボックルの遺跡多し。先頃は飯島博士もあまた採收してかへられたり。事務所もあまた集めおけり。
 ここより鈴谷の川に治ひて唐松林を左にして行くなり。右はひくき岡、種畜場の構内なり。鐵路の工事と道路の改修の爲に勞働者あまた入込めり、路のかたへにテントを張れり。多くふとん着物を負ひて往來するもの數百人にあへり。
 ミツリヨフカの三浦屋といふ驛遞にて晝食。此あたりは右左唐松のまばらなる林、幽趣心をうごかす。下草は大かた姫石楠、其芽香はしく、露人はとりて香料とせりといふ。又シダも多し。早かれたるが色うつくし。川の邊は濕地なり。
(449) リストのユニチノエは、狹き谷の中に在る小村なり。
 ホムトフカにコルサコフの兵、舍營せり。こゝからマウカに山越をするなり。
 ここに岡山縣の人的場某、移住して、牛馬をかへり。北見に在りて漁業に從事せし者なり。
 此村を流るるスヽヤの支流に鱒あまた上れり。的場馬にて案内してもりにて突きてくれたり。濶葉樹林の中の日影うつくしく、水の音ものあはれなる處なり。魚のとりて捨てるがあまた腐れる香みてり。生殖の力のはげしさは、動物も植物も同じやうにて、北地一年の日數短き所は殊に著しきやうに思はれたり。
 パリシャヤヱラニの村にも移住者僅か在り。露人の殘れる者少しあり。露人は皆犯罪人にて人相惡しけれども、其子供は無智にいたいけにて、時としては路の側に立ちあどけなく目禮す。
 ウラヂミロフカ、林地を區劃して市街を設けんとす。林の中に露人の墓地あり。末は如何になるべきかと思ふ。此村今は一筋の家つづきにて、露人の建てたる大なる家も少なからず。日本人の住みあふれたるものはテントをつくりて商をいとなむもあり。此頃朝夕は内地の十一月の寒さなり。
 此あたりの山林は過る日火を失ひたりとて赤くなれり。ここにつきたるは七時。
 民政支署により、宿舍の中、竹田通譯の室にとまる。前の支署長の佐藤三吾、出來りて食事を共にす。
 
九月十五日 晴(土)
 朝七時過ぎに立つ。
 昨日の同行者の外に竹田通譯、石山屬騎馬にて同行。
 ルゴウォエ迄の路は草深き野地なり。昨年の戰に露軍ここにて防禦陣地を設けたる跡のこれり。露人馬を濕地に陷れて難儀せるを見る。かゝることは?あり。
(450) ルゴウォエの村にも移民少し入れり。村長某の家に息ひて支署の人と別る。主人夫妻は不在。この村長も殺人犯なり。娘の十四五なる、名はアントニナ、牛乳バタチーズ黒パンなどを出す。黒パンはやはり小麥にてつくるよし。
 ノオエアレキサンドルスコエには内山吉太の牧牛場あり。大なる村なり。家の數百以上、されど露人の殘れる者二三人のみ。
 ベレズニヤキイは丘の上の村なり。スヽヤとナイブチの支流大タコエ川との分水點なり。此村とクレストイには露人一人も居らず。茂木の言によれば、日本の斥候二十名も殺されたる所、日本の隊長の怒りにあへるなりといへり。軍事上重要の地とおぼしく、ベレズニヤキイには分遣隊あり。其外には中村名義の驛遞一戸あるのみ。
 燕麥の原種かと思はれる牧草亂生せる中に馬を放ちて飼ふ。或空屋を覗きしに酒屋なり、きたなきバーと棚あり。窓わくを青くぬれり。ここの驛遞にて湯をわかさせ、携へたる黒燒パンを食ふ。
 クレストイにてガルキノウラスコエの出張所長平尾及びウラヂミロフカの署員宍戸のガルキノよりかへるに逢ふ。
雨ふり出でたり。此あたり、南側の松林は久しき以前にやけたりとおぼしく、黒くなりてたほれたる木多し。牧草其間にしげれり。
 ポルショエタコエにて、佐藤といふ牧場の事務所に息ふ。管理人は千葉縣長生郡の人某なり。沿道此家やゝうつくしければ、ウラヂの大隊長の家族も遊びに來り、過る日は本願寺の裏方も往復にいこはれたり。されど床はよごれたる上にゴザをしきていぬるなり。南京蟲多しとて寢臺は外にすてたり。
 此家の前の持主は獨乙種の露人マルテンといふ殺人犯なり。六十八にて妻もここにてもらひたる殺人犯なり。情夫の爲に夫と十四になる男の兒をころせし者なり。家と家畜とをうりたれば明日はここを引上げて小樽よりかへるといふ。此二人の者の孫にアリウシアといふ十八九なる娘、ウラヂミロフカの支署の傭人をしてありしことあり。通譯の渡邊といふ男の妾となれりなどいふ評あり。旅をする若者多く此女の家に息ひて話をす。日本の俗謠を多くしれり。(451)氣前のよき女のよし。マルテンの家の窓をのぞけば、其妻と外に一人の男あり(タアタアなりといへり)。こゝヘアリウシア來れり。雨ふればショオルをかぶり、更紗の袴をはき桃色の足にてはだしなり。圓顔の中高の女なり。窓の中より我を見る。
 此村はづれに大なる官設の水車あり。車は横にまはり軸木はたてなり。非常に荒れたり。附屬品を盗みて去る者多し。
 水車と道をへだてゝ六戸あり。其頭目かと思ふ家に入りて中の樣子を見る。鱒をとりて繩に通して多く乾せり。半分は冬中の犬の食物なり。犬は各戸十數匹をやしなふ。冬中ソリを牽かせてよき貸餞をとるなりといへり。
 マロエタコエ。此村には加藤といふ人一戸のみ住めり。若き妻と幼兒一人あり。
 ガルキノウラスコエに近づく所にてあまたのアイヌにあふ。幼兒を腹に入れたる女の、杖つきて路をいそぐもあり。
 此から少し出た林のわきで燒けて黒くなつた木の倒れたのを熊と見て驚きし也。馬より落つ。けがなし。
 村に近き水車小屋に測量部員の宿舍あり。立寄りて古林といふ男にあふ。北海道にて植民地區劃の事に經驗ある男なり。ここにては川の水をのむ。鱒多き時は人入込みて水のにごるにはこまるといへり。酒かひてかへる者あり。
 ガルキノウラスコエも淋しき村なり。人家三四戸、いはゆる後家は唯一軒。中隊あり、隊長の大尉は鱒を兵にとらせ、燻製などにして家に送るといふしれ者なり。
 出張所の東といふ男は金澤の人、臺灣にて蕃境の警察に在りしといふ快男子、よくあるじぶりをしたり。此島に來てうそをつかぬ男を始めて見たり。
 出張所長のるすの室にねたり。有海といふ通譯、土方のやうな男。
 
(452)九月十六日(日)
 朝東同伴してドヴキイに行く。マロエチキノといふ村を過ぐ。ナイブチ川の岸には小村多し。ニコライエフスコエにはアイヌも住めり。土地肥えたり。
 此あたりの山林三里四方もやけたり。近頃のことなり。
 ナイブチ川水みちてゆたかに流る。下流なれば小石一つなし。水草のしげりたる川あり、此あたりの小川幅一間ばかりなるも鱒あまた上れり。馬之を見ておどろく。路にてニコライエフスコエのアイヌ近藤太郎(ワシリ)、ナイブチの仙コ清之助、ロシエの中島|宗太《むねた》などにあへり。仙コと中島は日本人との雜種かもしれず。
 ドブキイにも移住者あり。驛遞をするもののきたなき家にて晝食を取る。
 サカイはまに行く路に?瑰あまた咲けり。ツボミもあれば赤き實も多くつけり。渚に近き草野に竪穴のあと多し。
 オロチョンはコロボックルと同種ならんと栃内君などはいへり。從者にほらせたれど砂のみにて何も出でず。
 サカイはまにて山本己之助の漁場を訪ひ、管理者小林にあふ。これに案内させてアイヌの家を二三戸訪ひたり。男は皆不在なり。物も言はで烟草のみのみてあり。若き娘はさすがにやさし。我々を見てかくれたり。子供に菓子をやる。漁場では露人アイヌを使役す。酒、煙草を與へて利を見、尤亡?なるを常とす。山丹人といふはギリヤックか、又は其雜種なるか。年々マキリ其邊の器物を携へ來りて、アザラシの皮などを買ひてかへるといふ。
 ここよりドブキイにかへり、北の方ナイブチに行く。ここにもアイヌの家を見たり。仙コ清之助の家により、其母と妻とにあふ。
 官の補助をうけ、ナイブチの渡の渡守をなせり。此家は窓のこしらへなどよほど露人をまねたり。寫眞はあまたあり。主人は二十一二の頃北海道にてうつせしといふ寫眞は、まるで日本人のやうなり。
 川の渡の所までゆきて見たり。北方の海岸をのぞむ。山立竝びて處々低き唐松の岡あり。海岸にははまなす群生し
 
(453) 樺太古地圖(明治三十八年六月十日發行「時事新報樺太及勘察加全圖」より製圖 秋岡武次郎氏提供)
〔地図省略〕
 
(454)て花うつくし。濱麥といふ草を馬喰ふ。五葉の松多し。夏はあやめ多く花さきうつくしといふ。此道にも竪穴あまたあり。
 ドブキイにて見たる女よく肥えて十七なりといへり。雪のある頃マウカよりアイヌをつれて山越せるより、熊といふアダナあり。漁場の男はマグロといふ。肉にたるみたるなく、よく肥えたればなり。顔かたちも見苦しからず。至るところジダラクにて追出され、何處にてもいとはる。樺太に來て宿無しとなれる十七の女ありとは思はざりき。
 ドブキイの濱は波あらく磯あれども、東海岸の船つきなり。漁場にかよふ蒸汽船の難儀は想ふに勝りたり。
 歸途マロエタコエのあたりより雨に逢ふ。雷なる。烈しくなりてより馬をはせたれど及ばず。雨具は荷車につみておくれたり。肌までぬれとほりぬ。夕方ガルキノにかへりて乾しなどす。
 昨夕の古林來り、繪圖などを見せて、測量の?況をものがたる。
 
九月十七日(月)
 朝立たんとすれば馬三頭にげたり。パヴロスコエの方へ追ひ行てとらへたる爲におくれたり。東君同行。道に雨にあふ。このたびは雨具あり。されど道はなはだぬかる。
 ベレズニアキイにて、わびしき黒燒パンのひるめしを食ふ。此あたりよりは雨無く、道やゝよし。
 ルゴウォエにて日くれたり。野地の中の道を馬を戒めてゆく。七時半にウラヂミロフカに着きたり。
 秋元支署長來てあり、一昨日の室に同宿。主人竹田は桑名と共にクラブに行てねたり。
 
九月十八日 晴
 支署の宍戸の案内にてブリヂネエよりトロイツコエに行く。馬は金靴をかへる爲に置きたれば一日歩行。二里あま(455)りの路なり。
 ブリヂネエには淨土宗の布教師花車圓瑞が管理せる小學校あり。十七八人の生徒、此前にある鐘は露國の寺院のものなり。
 トロイツコエへの路は半ば迄松林の中なり。濕地なれば木材をしきつめて路とす。熊出でたりといふ話をしてありく。姫石楠多し。
 トロイツコエの村人業閑多きにより官の爲に草を刈り、其代に南京米をもらふ。けふ之をとりにコルサコフへ行く。惣代も村民も共に行く。
 移住者は此年のまうけ不足なれば家を整へ作物を植附けて後に、出稼ぎに出たるもの多し。
 トロイツコエの試作場を見る。燕麥めきたる牧草しげりて麥其他の作物をさまたぐ。豆小豆は面白からねど少し出來たり。玉蜀黍もあり。薄荷をつくり試みたるものあり。
 此後を流るゝ川に鱒を求めたれど既に下りて在らず。絲を垂れて山べ、あめます、岩なをつる。一時間がほどに百あまりを得たり。晝食に食べたり。隱元のさやまめ、馬鈴薯、赤大根など。
 此村に移住せる紀州那賀郡の人西風信之助は西風重遠の弟なり。釜山の書記生、商船の社員などもしたることあり。此村に來てより妻は從者とかけ落したり。獨身にて農を營み、いとまにはかゝる本もよめりとて、帝國文庫の高僧實傳を示す。
 露人の病院にせんとしたる建物、今は測量部員の宿舍となれるに立寄る。行く行くは學校役場に宛てんといへり。村人の家二三戸を訪へり。
 夕方ここを出でてウラヂミロフカにかへる。今夕稻垣といふ通譯と泊り會はす。秋元の友人なり。川崎理學士と共に北方の山々をめぐりたりとて奇談多し。途中絲と針とマッチなどなくなりてこまりしこと、米の?々たえしこと、(456)險阻に臨み荷物を山より投げ下す爲に鍋の?損ぜること、山鳥を手取りにすること等、おどろくやうなことばかりなり。
 夜ここの中樺クラブといふに行て、竹田と玉をつく。憲兵隊の瀬川少尉といふ老人にあふ。
 
九月十九日 晴 朝夕は中々さぶし(水)
 八時半にここを立つ。桑名茂木には昨日、ブリヂネエにて分れしなり。
 馬にやゝなれて時々走らすことをえたり。
 ミツリョフカの三浦にて例の晝食。
 一時にソロイヨフカにつきたり。種畜場の吉川といふ男の案内にて、海岸の貝塚をほりたれど何もえず。丘の上のをこころみたれど、骨製の針一を得しのみなり。
 道普請にて馬を下りたる所多し。種畜場の西村は不在。コルサコフへのかへり道にてあふ。
 海さやかに晴れたり。四時前ソロイヨフカを出でゝかへる。
 ペリワヤパーチより山路をとほりてかへる。
 六時前者。
 昨日とけふと漁場の入札。來年度の繼續及料金引下を見越して大景氣の競爭なり。五萬圓ほどと思ひし十七ヶ所の入札一番札四十何萬圓となる。
 長官漁業家の重立ちたる人を饗する會に列席。笹野(水産組合長?)、藤山(北海道の天鹽に農場を有せる人)、村上、米林、中山、桂、小倉、前田、吉松、米田、小林、郵船の小寺など客なり。和田、榊原、田村、食後此人々の主《あるじ》する宴會あり、招かる。又第一亭なり。おそくなりてかへる。
(457) 飯田の伯父上より手紙。五十度近くへ行きたりと思ひたまへり。
 
九月二十日
 理髪。
 夕八時天晴丸にてマウカ行。
 同行は長官、橋本工學士、片寄、林。マウカの醫務官片岡、片岡は出石の人池田謙齋の婿。
 ノトロ迄は靜にて、岬をかはすよりやゝゆれ出す。おのれはよくいねたり。
 
九月二十一日
 けふも船の中なり。何も食はずしてよくいねたり。
 五時頃マウカ着。
 支署の吏員、町の人々三半船に國旗をたてゝ迎に出でたり。
 かこのかけ聲はいさまし。櫓は六挺なり。
 守備隊の行軍あり。宿屋は皆ふさがりたれば、長官以下は支署長森良綱の宿舍に、橋本と予とは、金澤辰次郎の新成の商店に授宿す。
 夜官舍の方に行て入浴す。谷川を隔てたる丘の陰にて、泉の水を鰊釜に入れてわかしたるものなり。竈のみは煉瓦なりしかど、錨を三つ合せて代用せるもありといへり。
 
(458)九月二十二日
 風あらくして、終日船を出すこと能はず。
 支署に行きて事務を見る。市中を散歩す。
 明治の初年樺太開拓使の出張所ありし丘の上を相して、支署新營の計畫あり。
 此あたりセショノフ、デムビの漁場にて、露風家屋のやゝ見よきもの少し殘れり。
 鹿野商店が試みたる畑地には、胡瓜、南瓜、菜豆、玉菜などよく出來たり。
 夜西谷の倉庫にて歡迎會。主人側百二十人なり。經理部長淺野、ガルキノの中陵長飯田なども加はれり。
 其くづれ、ところをかへてのむ。「あけぼの」には先日函館の勝田にて逢ひし田島の知れる小兒來てあり。行きて見ればよく記憶せり。田島へ繪ハガキを出す。
 
九月二十三日
 けふも風にて船出でず。
 昨日もけふも鰊釜の湯に入りたり。町の者山下、辻など來て情況をのぶ。
 コルサコフにをる昊澄《ひろずみ》良一といふ者も訪ひ來る。
 夕長官支署員を招きて、丸萬に宴すとて予も招かる。
 片岡に誘はれて百足屋といふ家にも行きて見たり。主人は有志者の一人なり。前齒かけたる男。
 
九月二十四日 彼岸中日
 けさ出さんといひし船又出でず。何もせずしてくらす。
(459) 山下、奥村などいふ町民陳情に來る。
 午後長官と碁をうつ。片寄とも、不思議にも自分の方が強し。
 天晴丸の船長の上り來て船出せんといふ。
 橋元と二人丘の上より海を望む。
 六時過ぎ船にのる。波あらし。
 船は北の方クシュンナイに向ふ。
 
九月二十五日
 クシュンナイの沖には着きたれど、磯荒れて小舟をよぶこと能はず。岸には電報によりて、出迎へたる人多けれど、ものいふ聲も聞えねばすべなし。
 石川といふクスンナイの雇員に買はれたる十六七の女、秋田の者のよし。一人女なりとて船中一同より忌まれたりし。岸には石川も來て在るらんになどうはさす。
 日くれたれど空しく待つのみ。やがて岸にも燈をかゝげたり。見わたせば、少し入込みたる五六戸のさびしき村なり。
 淺野、飯田の二氏も此より上陸する考へなりしも、すべなくて其まゝ錨をあげ、船は夜ふけに引かへす。風烈しく方向定らず。
 
九月二十六日
 北の方ナヤシへ行くつもりなりしも、此の如くなれば、如何ともすべきやうなくて引きかへす。
(460) マウカのあたりも雨風にて見えず。さしも送り迎へせし町の人も知らぬなるべし。
 正午頃此前を過てなほ南す。時々雨又はあられ、風は西になる。
 夜に入りてノトロのあたり、晴れて月うつくしく、波は甲板よりもたかし。大まはりして灣内に入る。
 くるしくて横になりてあれど、よくはねられず。
 
九月二十七日
 灣内はやゝ靜かにしてねられたり。
 三時頃より食堂の人聲に目さめて話の中にまじりたり。
 八時にコルサコフに上陸す。
 尾中、横田の二君は十三日に歸りてあり。
 榊原君は馬にけられたりとてねてあり。森本、内山などいふ政友會の議員五人渡來、晝食の時あへり。
 午後先日の茂木來。
 ウラヂミロフカの秋元も昨日より來て居る。
 夜横田君と碁をうつ。
 長官と話をしふけてねたり。ここち少しよからず。
 
九月二十八日
 朝馬にてウゴリナパチの試作場を見る。桑名案内。
 まはりの山に松蕈《まつたけ》初たけありといへど、香氣少なく色も白くうすし。同じものと思はれず。もらひてかへる。
(461) 午後病院に行きて尾中氏にあふ。
 クラブにて玉をつく。
 囑託の辭令をば付與せらる。
 夜宴會、森本、丹後、奧野、青柳、吉山の五議員、其他は家の人、司令部の田原、天野、淺の、浦のなどいふ軍人。ふくるまで面白く話す。
 又出でゝ玉をつく。相手は浦の及竹田なり。
 事務の柳瀬に調べものをたのむ。
 
九月二十九日
 桑名來訪。
 東京の小林書記官へ報告的の書?を出す。
 午後司令部に天野を訪ふ。不在。田原大尉を訪ふ。共に寫眞をとりたり。
 橋本竹田の宿舍を訪ひ、夕食に牛なべを馳走せられたり。
 竹田は二十九年より占守にわたり、三十五年頃まで千島と往來せし報效義會々員なり。面白き北洋の話をきゝえたり。
 竹田と共にクラブにて玉をつきたり。
 
九月三十日(日)
 淺野經理部長を訪ひて話をきく。
(462) 田村技師を訪ふ。恰も引越にて不在。此家に北部より引上げる露人の一族あり。子供日曜なれば鮮かなる衣をきて、日あたりよき所にて遊ぶ。
 けさは氷をみたりといふ。日中のみはあたたかなり。
 夜井上子爵を第一亭に訪ひて酒宴、子爵は昨日の釧路丸にて着。けふウラヂミロフカに馬にて往復されたり。元氣おどろくべし。
 榊原と共に又丸吉といふ青樓に行きてのむ。夜、雨ふる。西の風つよくさむし。おそくかへりあすの船出如何にと思ひつゝねたり。
 
十月一日
 風あれたれど終に船を出す。
 朝のうち田原大尉、鑛山部の緒形など來て話す。
 ガルキノの東《あづま》はやめられさうなり。近因は予に在り。心に關る。
 一昨日田原氏ととりし寫眞變てこにも出來たり。
 船の同乘者は井上子、大坪(富山より來れる漁業者)、西派本願寺の布教者藥師寺某など。
 アニワ灣頭の山、一角に雪ふれり。けさより急に寒し。
 午後二時出帆。
 代議士連は御用船盛運丸にて先にたつ。やがてノトロの前にてのり越したり。
 
十月二日
(463) 波あらし。十一時迄ねたり。
 一時半小樽着。
 井上氏と共に炭礦の船にて手宮に上陸す。
 郵船の社員土方にあふ。姫路の人舊識ありといへど忘れたり。
 昨日落成式を擧げたる郵船の支店一見。支店長某にもあふ。
 手宮にて石壁の奇文字を見る。赤くそめて見やすくしたり。
 越中やに授宿す。
 コルサコフの横田、函館の龍岡へ手紙、家へ電報。處々へ小樽の繪葉書をおくる。
 楠瀬少將の一行同宿の由。
 夜大坪來り話す。よき男なり。
 
(464)   遊海島記
 
   打麻乎麻績王白水郎有哉射等籠荷四間乃珠藻苅麻須
   空蝉之命乎惜美浪爾所濕伊良虞能島之玉藻苅食
                       萬葉、一
 
 伊勢の海の清き渚に遊び、類《たぐひ》無き夕凪夕月夜の風情を身に泌め、物悲しき千島の聲に和して、遠き代の物語の中に辿り入らんとならば、三河の伊良湖岬《いらござき》に増したる處は無かるべし。昔|麻績《をみ》の大君が都を遠く流離《さすら》ひ玉ひて、「うつせみの命を惜しみ浪に濡れ」と詠《なが》めさせ玉ひしも、同じこの荒濱なり。若し一たび海角の巖の上に腰掛けて、絡古癒えざる大灘の狂ひを見、さては海峽の潮の流の險しきに驚き、飜りて又靜に?《たをや》かなる入海の水に、雲と白帆の映りては漂ひ行く?を見ば、新に此歌の哀を覺ゆること切なるべく、若し更に黄昏《たそがれ》の徐《おもむ》ろに催して、沖に燈火の三つ二つ仄めき初むるに遭はゞ、在りし世の浪の毳沫《しぶき》は悉く旅人の袖を沾《うるほ》すなるべし。我|少《わか》くして愁多く、曾て獨サーチャイルドが歌の卷を懷《ふところ》にして、西に夕づつの國に憧れ行きし日、圖《はか》らずも此浦人の宿に留りて、此處に時の間の幻影を樂しみし事ありき。年經たる今日、都の裡に在りて、其日の松の影波の光を想ひ起すは亦儚き幸なり。
 伊良湖岬、古は伊良虞《いらご》ヶ島と云へり。中世《なかつよ》海は改まりて、寄洲《よりす》は陸を繋ぎしかば、乃ち三河の國となりぬ。其前は伊勢國|度會《わたらひ》郡にて、神宮の御莊《みそう》なりき。我が初めて伊良湖の後の山に登り、南は志州の海邊より知多郡の東にかけて、竝《なみ》立てる島山の有樣を望みつゝありし時、斯く語りしは老いたる村の翁なり。見玉へ、和地《わち》の大山《おほやま》より西に靡きたる(465)群山《むらやま》と、此方の邑《むら》との間に在る一帶の平地は、すべて昔の海の跡なり。沙《すな》原は海の面より高きこと幾何《いくばく》もあらず。生ひたる松も皆若し。昔は伊勢の海に出入る船、皆此間をや通りつらん。對岸伊勢の海邊、贄崎《にへざき》辛洲《からす》などの濱より見るときは、伊良湖は志摩の神島と相竝びて、正《まさ》しく二つの島と見ゆべし。漁夫が沖に漕出でて吾家の方を顧るには、此處の平地に水の乘るを見て、船路の遠さを計るが常なり。
 此《これ》に付けて聽きし物語は、曾て一夜|安乘崎《あのりざき》の燈臺に、如何にしてか燈を點ぜざることありき。折から沖を行きし船、此平地に水の乘りたるを、海峽なりと思ひ誤りて、其梶を變へしかば、忽ち外海の沙濱に乘上げつ。船人等打驚き、積荷を陸に揚げて船脚を輕めんと、大なる提灯を近き里より借來て、帆柱の頂に結び付け、終夜《よもすがら》犇《ひしめ》きたりしに、これも浪路を急ぎし大船の、此光を燈臺の火と誤りて、同じ夜に四艘まで、遠近に破船したるものありしとか。
 難破の災は昔も今も?耳にすることなり。久しき前伊萬里の陶器を積みし船、江戸へ上る路にて、神島の沖に疾風に遭ひ、遂に此浦に來て覆《くつがへ》りし、其折|巧《たくみ》優れたる數々の寶の、海底深く沈みたるが、中には形の全きもありて、貝取る海士《あま》の潜《かづ》き入る者、折々拾ひ上ぐることあり。年月經たる潮の匂に、殊なる趣の更に添はれるを、人々戯れに伊良湖燒など名《なづ》けて玩ぶを見るにも、昔想はれて哀なり。近頃燈臺の設けも備はりて、海路安らかに爲りたれど、猶時々の風浪は遁れ難くてや、淺ましく悲しき物語の、傳へらるゝものも多きなり。
 我が來て未だ半月ならざるに、遠州新井の濱の鰹船、烈しき嵐に遭ひて、沖に漂ふこと二晝夜、一船盡く溺れ死し、幾つとも無き遺骸《なきがら》の、磯に流れ寄りたるを目前《まのあたり》見たることあり。こは稀なる例ならんも、何れは波の上の生業《なりはひ》なれば、小さき雲もともすれば、心に掛りて、如何に朝夕の心細からんに、況してや此の海峽の潮の速さは、馴れたる水手《かこ》も息|吐《づ》くべき處なり、
   阿波の鳴門か、銚子の口か、伊良湖|渡合《どあひ》か、恐ろしや
 渡合の廣さは一里にも足らず。げにや伊勢の海の入江々々の滿潮引潮を集めて、流し下《くだ》し差し上《のぼ》す勢は、比ぶるに(466)物も無く、潮凝《そこり》の須臾《しばらく》の間ならでは、水の淀むといふこと無し。殊に風ある日は、ひかた、ならひ〔六字傍点〕の隔つる山無きは更なり。其他|何方《いづく》より吹き來るも、多くは神島に吹當てゝ、忽にしまき〔三字傍点〕となり、帆を劈《つんざ》き船を飜す勢は、偏《ひとへ》に鬼神の業《わざ》の如し。
 されど此は皆世を海渡る者の惱にして、陸《くが》の遠目には中々に珍らしき景色なり。神島の東面は絶壁にて、其岩根に碎け散る白波の、光も色も全く花のやうなる、又は島松の風に吹立てられて侘しげなる姿、さては雨ふる暮方など、一|帆《ぱん》の絶え/”\に難《なづ》み行く樣も、凡て皆世の常の畫工が思ひも及ばぬ境なり。
 小舟の神島より來るを見るに、先づあらぬ西北の方などに漕出でて、其折々の風に乘り、又は引潮の流に誘はれて、此濱には向ふなり。船路の斯く煩しければ、自《おのづか》ら往來も稀にして、打向ひては汀《みぎは》の人も見交すばかりなれども、海の荒るゝ頃などは、月を越えて猶|音信《おとづれ》を聞かぬことあり。我が初めて此島の人に逢ひしは、島に病みたる者出來て、急に新しき鷄卵《たまご》を求むとて、荒布《あらめ》の大なる束を幾つとも無く舟に載せて、伊良湖へ取換へに來りし時なりき。
 神島には家の敷二百|許《ばかり》あり。多くは海の業に暇無く、世に疎きが常なれど、時ありて名古屋豐橋あたりに往通ふ者あり。鳥羽の港よりは月に三四度、郵便脚夫巡査などを載せて來る船あれば、島を出づるには其歸途を待ち、又は家の舟に送られても行くべけれど、或は三河路を廻り、伊良湖の方より島に歸らんとする者は、皆此里人の許しを得て、岬の絶端なる小山の頂に上りて火を燒《た》けば、島より其煙を望見て、迎の舟漕來るを習とす。
 島の名のみも床しきに、月落ち懸る曉、又は晴れたる日の夕は、端的《うちつけ》に仙境を望む思ありて、行きて見まほしさの堪へ難かりしを、島人も聞知りて、水無月待宵の空の雲、吹漂はす微風に乘りて、我を迎の舟は來りぬ。恰も島の祭の日にて、其夜は芝居あり。明神の社の後なる小松原に舞臺を設けて、潮風に黒みたる若者等、自ら俳優《わざをぎ》の巧を眞似び、妻や妹の眼を悦ばしむ。阿漕《あこぎ》の平次妹背山の鱶七など、何れかは蜑《あま》少女の心を憧れしめざる。涙の墮つるに堪へぬ者もあるべし。素《もと》より手筒なる遊ながら、其の人|雜《ま》ぜもせぬ樂《たのしみ》を見ては、都の旅人は羨ましさに堪へざりき。
(467) 想出るまゝを書付けて、物語の亂雜《しどろ》なるを咎めずば、猶神島のことを言はんに、其夜我は更《ふ》けて島の寺桂光院に宿りぬ。東と北とを見晴したる山腹にて、庭に聳えたる大小の巖|直《ただち》に絶壁となりて、下は青潭《あをぶち》、波の音|?鞳《だうたふ》として物寂びたる夜を、砌《みぎり》の椿熊笹の葉に月面白く照りたり。共に寢ねたるは今宵の芝居にちよぼ〔三字傍点〕を語りし、松阪の某といふ者なり。白髪の翁にて醉ひて善く談ず。年々此島に來て早四十年に近し。近頃齒も悉く落ちて、歌の聲洩れがちなれど、島人馴れぬ太夫を厭ひて、芝居のある毎に今も此翁をのみ招くとか。
 明くれば山僧案内して島の内を見あるきぬ。島は大小二つの山より成り、東に在りて伊良湖に面するもの、西の山よりも遙に高し。此頂より望めば、正南には安乘《あのり》崎、大王の鼻は突出して、其より遠《をち》に猶海見ゆ。安乘より此方には國崎《くざき》、皆志州の地なり。其他は忘れたり。島は數へも盡し難し。北に向へば知多郡の師崎《もろざき》は正面に、左は野間の崎、海を隔てゝ伊勢の國に、山の名里の名、限りも無く聞きたれど、今は面影も朧《おぼろ》なり。知多より東に些《すこ》し離れて、三河の幡豆《はづ》の崎、左に一色《いしき》、右には蒲郡、共に曾て聞きし名なり。群山の中に一つ禿げたるが眼に着くを、あれは赤阪の驛のあたり也。かの南を汽車は行くと、聞くさへも夢のやうなりき。
 神島の二つの山は相結びて、南北に谿《たに》を作る。北の平地は隘《せま》く、南なるは寛かなるに、猶里人が北にのみ集りて住めるは、遠淺の舟の上下に便なると、大洋の風を厭ふが爲なるべし。南の濱へ行くには細き徑《こみち》あり。徑の兩側に山の雫を堰き溜めて、僅なる稻を植ゑたり。山畑には麥も作るといへど、之を合せて島人二月の糧《かて》に足らず。其餘は知多郡より運ぶなるべし。
 山の南に下れば荒野なり。風|勁《つよ》くして草も榮えず。浪|哮《たけ》り砂飛びて、其凄まじさ久しく在るに堪へず。海に近く幽《かすか》なる?《こむら》あるを、立寄りて見れば小さき墓二つ三つ竝び立てり。昔より海に死したる人の、此濱に漂着するものあれば、皆此處に葬るが習にで、偶々身寄の者の弔ひ來て、墓標を設けて歸らんといふあれば、亦此處に建てさす。一つの碑《いしぶみ》の背に紀伊國といふ文字の、辛うじて認め得るもあり。死して後まで猶旅なる此等の人の上に比ぶれば、命ある(468)間の心細さは屑《ものゝかず》ならずなど獨《ひとり》思ひぬ。
 峯を傳ひて行けば、東の山に近く大いなる石窟《いはや》あり、岩角を蹙《ふ》みて探り入れば、深さ數十間、海水下に通ひて怪しき樂の音を作《な》す。五月海氣蒸す頃は、此石壁に奇しき花開くと、昔より言ひ傳ふ。形は牡丹の如く、徑《わたり》尺餘にして白し。好事《かうず》なる名古屋人などの、年々舟に酒を載せて、遙に見に來るもありとか。或は苔の類なりといふ者もあれど、見ねば殊に床し。都に思ふ人などありて、旅の日記見せに遣らんとき、
   神島の巖も花は咲くものを君が心よ春としも無き
と興ずるも亦面白からん。岩屋の東は伊良湖より見ゆる絶崖なり。鵜の島|夥多《あまた》絶えず集り來て、浪と白きを爭ふさまなり。海士の子其糞を採りて、伊勢尾張の農夫に販《ひさ》ぐ。石灰も亦此島の産物の一なり。岩の花咲く窟の邊より、西も東も一島凡て此石にて、海の幸乏しき頃は、島人之を切出して生計《なりはひ》とす。熱田のセメント會社は、十年の間を約して一手に買入るゝ由にて、既に若干の前金をも受取りぬなど噂せしが、今は如何にしけん。やがては島も無くなるべしと思はれて心細きを、さしも顧みぬ島人の、終日《ひねもす》戞々《かつ/\》と石割る音、今猶其海に響くらんか。
 海の風涼しき磯に坐し、往來する蜑人《あまびと》を呼留めて、山の名、船の行方を問ひ、又其老いたる父と語る程に、黄昏は沖より催し來て、日は落ち雲の色は暗くなりぬ。夕暮は浦に住む者の尤悲しむ時なり。今日こそ若者共、皆祭の爲に歸りて家に在れど、汐路遠く舟出して、風も浪も更に其|音信《たより》を傳へぬ日には、海の果のみ眺められて侘しきに、昔も斯る折にや歌ひ初めし、節哀れなる鄙歌《ひなうた》の傳はりて、遊子の夕を寒からしむるものも多し。人々が海の?《かせぎ》に出でたる時、島に殘りて女子供を問ひ慰め、又は萬一の災あるときは、寄合ひて夫々の處置を定むる爲に、老功の人を選びて之を村隱居といふ。御寺村長の次に尊まるゝは此人々なり。我に樣々の物語聽かせしは、多くは此等の村隱居なりき。
 此夜は水無月の望《もち》なれば、其名も由ある桂光院の庭にして、清き影を仰がんと思ひしに、生憎に雲多く、初夜より風吹き立ち、海いたく荒れたれば、念《おもひ》を絶つて寢たり。明方雨となりて、嵐は大いに鎭まりたるに、此間に歸り玉へと、(469)主僧|強《あなが》ちに我を喚覺す。周章《あわたゞ》しく岸に下れば、帆の音はた/\と早漕ぎ離れたる船もあり。物陰のまだ暗きに、送り出でたる人なるべし、誰とも知れず彼處此處に立てり。再來べき島にもあらず、と思へば胸迫りて、船の底に伏しぬ。松の聲の私語《ささやき》のやうなりしも遠ざかれば、渡合の波の穗の仄々と、舟路は東雲《しのゝめ》になりぬる、忘れ難き風情なりき。
 伊良湖に歸り來れば、神島の懷かしさは、更に渡らざりし前に異らず、?後の山に登りて遠く望みぬ。神島の陰になりて、片端見ゆるは大築海島《おほづくみしま》小築海烏《こづくみしま》、人は住むや否や知らず、其名の物語めきたるが珍らしと思ひぬ。其彼方には菅島《すがしま》、小さき燈臺あり。其南には答志島《たふししま》、萬葉に、「釧《くしろ》着くたふしか崎に今もかも」といふ歌思ひ出づ。此島人も亦芝居を好みで、先年は都にも稀なる定《ぢやう》小屋を建てたりと、神島にて聽きぬ。鳥羽の港へ行かんには、此島陰を通るなるべし。障ることありて終に赴かず。某寺といふ清き禅院ありて、海を見るに宜しといへり。伊良湖の圓通寺に在りて、此島の和尚に見《まみ》えしとき、樣々の昔話をせしが、げにや曾て戰國の末の世に、自ら海賊と名乘りて、鯨船に弓鐵砲を積載せ、東は濱名、西は熊野の津々浦々に迄、勇しき名を轟かせし、志摩の舟武者が子孫は、今も此邊に殘り住みて、昔の事も知らず、歌をうたひて世を送るなるべし。
 志州の島々の、西に遠山を負ひて、暗く淋しげなるに引かへて、日の影晴やかなるは尾張の島なり、篠島《しのじま》、日間賀《ひまか》、佐久の島、いづれも平なる禿山の見どころは無けれど、山の色鮮かに海に映えて、朝は殊に愛らしく見ゆ。釣舟の外海の灘に往來するもの、其島陰より此方《こなた》、渡合の澪《みを》にかけて、時としては白帆數十連ることあり。殊に篠島は曾て歴史にて其名を知りぬ。延元三年の八月に、南朝の將軍若き皇子を奉じて、伊勢の大湊より船に乘り、奧州に下らんとせしが、伊豆の崎にて颶風《はやて》に遭ひ、宮の船は此島に漂着す。其假宮の跡古井など、今も里人に守られて、殘れりと聞きしが、是も亦行きて見ず。後汽船にて知多の龜崎に向ひし日、暫時此島陰に泊《は》てゝ、聞きつる城山の松も望みたれど、今は今めかしき海水浴湯設けられて、三味線の音も喧《かまびす》しきに、斯くては懷古の詮も無かるべしと、終に空しく通り過ぎにき。
(470) 篠島の名に由りて今一つ思ひ出づるは、俳人杜國がことなり。芭蕉が芳野の旅に伴ひて自ら侍僮《じどう》萬菊丸と稱し、洒脱なる名を世に傳へたるは此人にて、初め名古屋に住み、事に由りて罪を得、此島に流されしが、中比《なかごろ》竊《ひそか》に遁れ出でて、伊良湖の北なる畠村といふ處に來て世を終りぬ。芭蕉曾て越人と共に、此半島に遊びし時、初めて彼に逢へり。
   鷹一つ見付けて嬉し伊良湖崎
といふ句は、斯る海角の荒濱に來て、圖らず逸才を見出でたる喜を述べたるものなりといふは眞《まこと》にや。此折の唱和の卷は、今も土地の人の藏するありて、げに如何ばかり心の合ひつらんと、想ひ遣らるゝものなり。此人が事は近き昔なれば知る人も多く、我は又樣々の日記手簡などを見て、更に其人柄の慕はしさを覺えぬ。墓は福江の港、潮音寺の門の南、三叉路頭の叢の裡に在り。碑苔に閉ぢて、高さ尺に足らず。曾て伊良湖の鷹とまで歌はれし人の跡ながら、埋るれば斯くも埋るゝものかと、坐《そゞろ》に涙ぐまれき。
 杜國逝きて百年の後、此荒磯に又一人の詩人ありき。之はまことの漁夫が子にて、伊良湖の浦人なり。粕谷半之丞といふ。歌には磯丸と書けり。生れて文字を知らざりしが、二十六の年、母の病を明神の社に祈るとて、ふと歌を詠み初めぬ。おのれ稚《をさな》き頃、家に有りし短册の中にて磯丸の歌を知り、次ぎては近昔の家々の聞書《ききがき》などに、漁夫磯丸の名の?傳へられたるを見て、珍らしきことに思ひしが、圖らずも伊良湖に來て其家の隣に宿り、又幾度か其墓に詣でぬ。里人の質朴なる心には、唯神業なりとや思ひけん。火伏《ひぶせ》雷除《らいよけ》其他種々の禁呪《まじなひ》は悉く此人の歌なり。初めて來りし時、我窓の外に小さき社あるを、何の神ぞと問へば、磯丸樣なりと答へぬ。されど今は里人の信も稍薄らぎたればにや、或時人が鼠除の歌拜ませんとて、神棚より取出だせしを見しに、紙は何時と無く其鼠に喰破られて、文字も讀まれずなりてありき。假令《たとひ》歌は巧なりとも、斯る里に生れずば、暫時の間にても神とは崇められ得んやなど、獨思ひしこともありしが、其報にや、我は終に拙き歌のみ詠みて、あたら都の中に年老いんとす。
 神なる磯丸が塵の世の骸《かばね》は、此里數百年の祖先と共に、渚に近き松原の奧に葬らる。月白き宵など、我は幾度か清(471)き寂しさに醉ひて此邊に逍遙し、見ぬ世の浦人が安らかなる眠を訪れき。墓の石を見るに多くは自然石にして、名も月日も刻まず。されど詣づる者は、其形と在處《ありどころ》とによりて、我が母、人の姉を分つならん。同じく埋れ行く身の程ならば、初めより跡を留めずして、唯昔を慕ふ妻子にのみ、記憶せらるゝもよかるべし。げにや如何に優れたる碑の文なりとも、古き伊良湖人の生涯を、此無言の石塊《いしくれ》より以上に、巧には傳ふること能はざりしならん。
 此濱の自然兒の間に、我は多くの忘れ難き友を得たり。殊に窓の外を、夕暮の歌の聲清く通り過ぐる者、又は沙に引上げたる小舟の縁に腰掛けて、見たる遠き湊を雲の彼方に指し、平和の單調に倦みて、再荒海の戰に向はんと願ふ者、戀も歎も凡て皆、此小天地の裡に取集めて、人をして問題の繁きに堪へざらしむ。村に唯一つの白壁、小高き丘に寄りて立てり。若者はいふ。海に乘出でて十數里、家を離れて六七日、初めて伊良湖の戀しさを知りぬ。和地の大山の陰に當れる田原の山が、左へ外れて見ゆる所を出山《でやま》といふ。熊野の山々の、神島の陰になりて、見えずなるあたりを山外れといふ。雲立ち風霞む折々は、馴れても心細く、ともすれば網舟の梶の手|弛《たゆ》みて、家路見返りがちなり。或は押送りの舟の夜を込めて、宮、名古屋に急ぐに、曙に野間の鼻をかはれば、伊良湖は早山のみ見えて、低き處は皆水なり。山の見ゆるは十里を限にて、妻子思ふ淋しさは此時より切なり。伊勢の大港の某屋の二階に上れば、晴れたる日には伊良湖の白壁、沙の上に見ゆることあり。願ふこと成らざりし若者等の、心強くも村を見捨てゝ、再還らじと誓ひし者などは、斯るとき殊に多く酒を飲む。さては其白壁の落書に、相合傘の行末望あり、金溜めてこそ又逢はめと、二年三年の別を忍ぶ者、かかる夕は悔い疑ひ心弱くなるは、凡て此浦人の癖なり。
   なんぼ田島の新木《あらき》の櫓でも那《あ》の兒懷へば苦にやならぬ
 田島は知多郡のことなり。生活の烈しく人情の險しき、この對岸の地に來て、彼等は生涯の幸運を占《うら》問ふなり。さては其故郷に待つ者も、情柔かに夢多く、遠き水の上を眺めては漂ふ人の行方を愁ふるが故に、自然旅人を勞《いたは》るの情も優しきなるべし。
(472) 此少女等が手に摘み髪に插むべき花、山邊濱邊にいと多き中に、百合撫子露草などの他所の里にも有るは言はず。山にて美しと思ひしは雁皮《かにひ》の花なり。葉はうつぎに似て小さく枝細くして、花は薄桃色の筒形なるが群りて咲けり。手折り持ちて峯に登り、日の照る海の色に翳《かざ》し見るに、風情の淡く幽《かすか》なるも亦處がらに合へり。薫の強く烈しきは蔓荊《まんけい》の花、爰にてははふ〔二字傍点〕の木といへり。廣き沙原に、到る處叢を爲して咲滿ちたり。千鳥啼き星繁き宵、乘越の丘の草に坐して、遠く安乘の燈臺の火の、潮に映るを望みつゝ居れば、此花|隙《ひま》も無く香り來て、獨久しく在るに勝へず。相州の海邊にても、會て此薄紫の花を見しことあれど、未だ此崎のやうに多く咲きたるは有らず。盛の頃に風吹く日は、沖行く舟にも薫るといふはさもあるべし。
(473) 岬の絶端の山を小山といふ。小山の東面は松の林にて、靜かなる處なり。大洋の風常に通ひて涼しければ、折々其奧に入りて書を讀むに、兔多く群遊びて、甚人を恐れず、圓《つぶら》なる目をして此方を見るも興あり。干潮の時は、此松原の果より小山の裾を廻りて、右に入海の方へ向ふべし。神島の正面より聊外海に片寄りて、大なる巖多く海に連れり。昔は海驢《あしか》といふ獣の、群を爲して來り遊びしが、今は來ずなりぬ。與八といふ翁の物語に、若き頃は幾つともなく、此大きなる獣を打留めたりき。或時はあまりに近く寄りて、仕損じたることあり。岩の陰に眠れるを見出して、其岩の頂より伏して狙ひしに、粗末なる火繩筒なれば、丸《たま》ころ/\と轉げ出でて、海驢の頸窩《ぼんのくぼ》に落ちしかば、驚き覺めて海に飛入りぬ。二の矢繼ぐ程には、早半里も泳ぎ去りしなるべしと笑ひて言ふ。
 晴れたる日には?鷲を見る。熊野の山奧より、信遠の高嶺に往通ふものは、大抵伊良湖の空を過ぐるなり。山の上にわなを設け、犬などを餌にして之を捕ふることあり。磯鷲といふは、尾羽にもやずれ〔四字傍点〕とて、茨などに觸れて破れたる所多く、良き種類のものに非ずとか。鴨は春歸る鳥と思ひしに、入江の蘆原には夏も多く住めり。入日の影漸く涼しくなる時、沙濱を逍遙して其鳴く聲を聞けば、時ならず珍らし。或は水に入りて戯れに之を追ふに、久しからずして又下りて鳴く。或日は彼の與八案内して、網をもて捕らんとせしが、一羽も獲る所なかりしかば、疲れて松原の中に來て息ひぬ。
 與八は濱に寢る人なり。暑き夜は家の中は寢苦しとて、孫と共に蓙を持ちて、沙の上に出でて寢るなり。此を濱寢と云ひて、昔より此海邊の習なり。今も濱寢をする人、此翁のみに非ず。月の明かに照る夜、立出でて見れば、彼方にも此方にも、黒き物の横はれるを、其舟の南に三人寢たるが、與八と其孫とならんなどゝ人のいふも面白し。明くる日此事を語りしに、夜露は蓙を透りて、衣を濡るゝことありといふ。
 村の若者も多くは其家に寢ず。二十前後の頃は、皆村の重《おも》立ちたる人に託せられて、夜は其長屋に行きて寢るなり。長屋の仲間の中には、不文の掟ありて、賤しき所行を戒め合ひ、又長屋の戸主夫婦も、之を監督して其|過《あやまち》を防ぐな(474)り。我が三月の間宿りしは、或長屋の隣にて、夜更くる迄質朴なる青年が海の話を聞き、我も折々は都のことを語るに、或は驚きて耳を聳て、又は笑ひて喜ぶさま、手筒なれども身に沁みて嬉しかりき。
 里人海に潜《かづ》きて淡菜《いのかひ》を採るを生業とす。乾して支那に輸出するなり。此貝にも亦珠あり。色淡黒にして虹の彩《いろどり》を帶びたり。一匁の値は四五十錢、一季の間に一人が獲る珠は十四五匁、粉碎して目の藥とすといふは眞にや。形の良きものあれば、長屋の若者常に持來りて我に贈る。これも嬉しき記念なり。或日此貝採る舟に載せられて磯に出でしに、大浪のうねり舟に居てさへ恐ろしきを、勇ましくも千尋《ちひろ》の底に飛入りて立働くさま、潮澄みたれば明に窺ふべし。又小さき夜 手偏叉《やす》をもて、岩の陰なる魚を刺す。魚突といふは此濱の若者の、一の藝として他に誇るところなり。石決明《あはび》も大いなるもの多くあり。雌貝雄貝といふことは知らざりしが、此處に來て教へられぬ。雄は皮厚く背《せな》圓く色黒くして味良からず。蠣は近き昔、奧州より優れたる種を持來て、伊勢の海の各處に放せしかば、今は名物の一つとなれり。大なるは硯ほどなるがあり、小山の磯の朝の汐干に、浪に寄せられたるを打碎きて、海の水に洗ひ直ちに食ふに、彼の蓮の實を貪りて、故郷思はざりし人のこと思ひ出されぬ。
 小山の松林より東、外海の岸は、昔より戀路が海、玉章《たまづさ》の磯などいふ。何の故とも知らず。濤《なみ》高く飛沫《しぶき》霧と立ちて、物凄じき荒磯なり。打向ふ海は大灘の果も無く、沖を走る大船は目よりも高く、仰ぎて見るやうなる心地す。此渚傳ひに歩めば、心の留まるもの多し。或時は釣竿の長きに、絲の半附きたるを拾ひぬ。又大いなる豆のやうなるものを拾ひ上げて里人に問へば、藻玉とて海草の實なりと答へぬ。嵐の次の日に行きしに、椰子の實一つ漂ひ寄りたり。打破りて見れば、梢を離れて久しからざるにや、白く生《なま》々としたるに、坐に南の島戀しくなりぬ。
 此荒磯の盡くる所、伊良湖の村の境なり。山は海に迫りて奇巖怪石數限も無し。其形によそへて牛の首といふ。石門二つあり。一は海の中に立ち、其下船を通はすべし。一は岸にあり。此にも洞のやうなるもの多く、海水此間を東西に流れて、變幻の態を極む。漢文の巧をもて寫さまほしき境なり。
(475) 石門は日出村《ひいむら》に屬す。海岸線は茲に一曲して、北東に向へり。日出の次は堀切、小鹽津、和地《わち》越戸《をつと》赤羽根と、遠江に行くべき上代《かみつよ》の道なり。帝都の大和に在りし世には、山を越えて伊勢に出で、大港又は安濃《あの》の津などより舟を漕出で、三河の南端に上陸して、此道を東國に赴きしなり。外海に向へる村々は、其生業の?も伊良湖とは異なり、人情も自然同じからず、言葉も些《いささか》變れるやうに覺えき。
 和地の大山は、伊勢の海を大觀するには、此上も無き山なり。北の方田原の山の陰を除きては、見渡さぬ境も無く、入海の八十島より、知多郡の山脈まで、皆其の山の嶺を見下すべし。近國十州の山々、樣々の形して竝び立ち、海は遠く遠江の果より、志摩の東南端まで、悉く見渡すべく、僅に半島一片の土塊《つちくれ》に隔てられたるが爲に、内外二樣の海の怪しきばかり其趣を異にせるも、此山の頂に在れば、直に之を知ることを得べし。況して麓なる一色の海岸は、岩も松も皆土佐などの畫のやうにて、疊み寄する浪の上に、帆の靜かに横走る、又は雲の往來の珍らしきも、未だ見ぬ人には語り難き景なり。
 船は種々の形せるものを、朝に夕に見たり。四日市の港に出入るもの、熱田鳥羽より紀路《きぢ》に通ふもの、豐橋の南牟呂より神社《かみやしろ》に行くもの、又は福江と龜崎との間を通ふものは、大小の汽船なり。和船の純粹なるは此頃少くなれり。外海の船を初めて、近き沖行く漁舟までも、大抵帆のみは三角の西洋形にて、帆柱の數も多し。楫も舊來の形は不便にて、暴風の時|楫柄《かぢづか》に拂はれて、折々人の海に落さるゝことありしかば、今は大抵西洋形に改めぬ。船首《みよし》の形も聊《いささか》昔のものとは變れり。
 庭よく海の凪ぎたる朝、渚に立ち又は丘に上りて、船を見ることは樂し。大小色々の形せる舟の、己《おの》がまに/\思ふ方に向ふさま、うちつけに世の中の姿を示し、漕ぎ行く舟のといふ歌の深き心は、今更に酌み知りぬ。漁《すなどり》する舟は日の中は遠く出で去りて淋しく、夕に向ふ頃は再び歸り出でて海もどよむかと思はる。雨しぶき風荒るゝ日にも、舟の影の全く伊勢の海に絶ゆる時はあらず。唯舊暦七月十三日の夕より、十六日の曉までは、亡《なき》魂《たま》の故郷に往來する日(476)なりとて、舟人甚しく海に出づることを忌み、各其|伏屋《ふせや》に歸りて、又海を顧みず。我が永き旅寢の末、終に伊良湖に別れしは、恰もその孟蘭盆の時に當りき。折ふし日は晴れ海穩かに、空も水も同じ色に、清々と澄み透りたるに、海上空漠として片帆も行かず、孤舟も寄らず、處々の島陰山陰に、立上る煙の白きもかつは寂しさを添へて、うたゝ別れの悲しさに堪へざりき。語らひ馴れたる里人、我を送りて遠く松原を行き、砂原を行き、橋を渡り、畑の中道を歩み、伊良湖見えずならんとする所に到りて、終に歸り去りぬ。
 其後三河尾張を旅して伊勢に入り、津の公園の山より遠く望み、又は贄崎《にへざき》の燈臺の下に立ちて、つく/”\と東南をながめ、彼は神島彼は伊良湖の後の山、彼は和地の大山と、一々指點して獨言ちたりしが、更に其海邊をさへ別れぬれば、今は早夢ならでは、見ること難くなりぬ、人々|恙《つつか》なしや否や、近きに又行きて見ん。
 伊勢より來りし人の物語に、此頃其海峽に砲臺築かんの企ありて、神島二百餘戸の漁民は、志州の國崎に移さるべしなどいへり。伊良湖も亦如何あらん。願はしきものは平和なり。
 
(477)     附記(旅行略暦
 
 初めて旅らしい旅をしたのは、明治二十七年の三月で、筑波を越えて北常陸の海岸を幾日もあるいた。同行者は今の海洋氣象臺長の岡田武松君であつた。
 同じ年の暑中には田山花袋君等と日光に行く路で、野州南境の草原の村をあるいた。田山氏の感化は著しいものがあつたが、あの時代の青年は一般に、今まで人の試みなかつた旅行を、して見ようといふ傾向を持つて居たのである。
 日光では毎日出てあるいて、谿の流れ山の樹の色々の姿を見たが、初めて荒濱に働く人たちの、朝晩の生活にまじつたのは、伊良湖半島の二月であつた。是は明治三十年の夏のことで、本篇の文はそれを漸く五年の後に、記憶を追うて書いて見たものである。
 全體に紀行といひ文學と云ふものには縁の無い旅であつた。やゝ計畫を立てゝ旅行をしたのは、官を罷めて大正九年の夏から、翌年早春までの南北の旅で、是だけは途上の感懷を新聞に載せ、尚「雪國の春」と「海南小記」とに、その半分ばかりを公表して居る。
 最も大きな旅行は明治四十一年の五月から九月まで、九州の田舍を細かく視て後に、更に中國から引返して四國の西半分の山と海角とをあるいた。僅かな日記と歌と小さな講演と、「後狩詞記」の一篇とが、其記念として殘つて居るのみである。
 北海道と樺太とには、二十何年か前に長い旅をしたまゝであるが、幸ひにして非常に美しい印象を有つて居る。近頃樂しかつたのは男鹿半島の花の盛りの旅である。瀬戸内海は前後四囘、小さな汽船を利用して幾つかの島を訪れた。
 名所舊蹟の巡拜は割愛して、成るたけ偏土をあるいて見ようといふのが、此旅人の小さな發願であつた。しかも全(478)國の峠の主たるものを三百ほどといふ計畫が、三分の一も果さぬうちにもう草鞋が無理になつた。せめては、海岸を一廻りと思つたのが、未だ三百里からも殘つて居る。島々の土を踏んだのも百には充たぬ。さうして今尚日本の旅行道の革正を前途に期して居るのは、考へて見ると理窟に合はぬ話であつた。
 
(479)第二卷 内容細目
 
雪國の春(1928年2月岡書院初版、1940年3月創元選書)
 自序
 雪國の春(大正十四年一月、婦人の友)…………………………………………五
 眞澄遊覽記を讀む(昭和三年一月十六日)……………………………………一八
 雪中隨筆(昭和二年二月、東京朝日新聞)……………………………………三二
 北の野の緑(昭和二年六月、週刊朝日)………………………………………四八
 草木と海と(大正十五年六月、太陽)…………………………………………五二
 豆手帖から(大正九年八月、九月、東京朝日新聞)
  仙臺方言集  …………………………………………………………………六七
  失業者の歸農……………………………………………………………………六九
  子供の眼…………………………………………………………………………七一
  田地賣立…………………………………………………………………………七三
  狐のわな…………………………………………………………………………七五
  町の大水…………………………………………………………………………七七
  安眠御用心………………………………………………………………………七九
  古物保存 ………………………………………………………………………八一
  改造の歩み………………………………………………………………………八三
(480)  二十五箇年後………………………………………………………………八五
  町を作る人………………………………………………………………………八七
  蝉鳴く浦…………………………………………………………………………八九
  おかみんの話……………………………………………………………………九一
  處々の花…………………………………………………………………………九三
  鵜住居の寺………………………………………………………………………九五
  樺皮の由來………………………………………………………………………九六
  禮儀作法…………………………………………………………………………九八
  足袋と菓子……………………………………………………………………一〇〇
  濱の月夜………………………………………………………………………一〇二
 清光館哀史(大正十五年九月、文藝春秋)…………………………………一〇五
 津輕の旅(大正七年五月、同人)……………………………………………一一二
 をがさべり(男鹿風景談)(昭和二年六月、東京朝日新聞秋田版)………一一六
 
秋風帖(1932年11月梓書房初版、1940年3月創元選書)
 自序
 秋風帖(大正九年十一月、東京朝日新聞)
  御祭の香………………………………………………………………………一四五
  山から海へ……………………………………………………………………一四九
  武器か護符か…………………………………………………………………一五一
  出来合の文明…………………………………………………………………一五三
  野の火・山の雲………………………………………………………………一五五
(481)  御恩制度………………………………………………………………一五八
  狼去狸來………………………………………………………………………一六〇
  巣山越え………………………………………………………………………一六二
  屋根の話………………………………………………………………………一六四
  ポンの行方……………………………………………………………………一六六
  馬の仕合吉……………………………………………………………………一六八
  杉平と松平……………………………………………………………………一七〇
  還らざりし人…………………………………………………………………一七四
  ブシュマンまで…‥…………………………………………………………一七八
  茂れ松山……………………………………………………………‥………一八〇
 秋の山のスケッチ(大正十四年十一月、民族)……………………………一八二
 向小多良(大正八年五月、同人)……………………………………………一八四
 木曾より五箇山へ(明治四十二年十一月、文章世界)……………………一八七
 佐渡一巡記(昭和七年十月、旅と傳説)……………………………………一九八
 佐渡の海府(大正九年八月、歴史と地理)…………………………………二一一
 熊野路の現?(大正三年二月、郷土研究)…………………………………二二〇
 峠に関する二三の考察(明治四十三年三月、太陽)………………………二二五
 
東國古道記
  はしがき
  人生と古道……………………………………………………………………二三六
  浪合の昔の物語………………………………………………………………二三七
(483)  加賀樣の隱し路………………………………………………………二三九
  信州北部を横ぎる路…………………………………………………………二四〇
  道志の谷と足柄路……………………………………………………………二四二
  信州から出て來る路…………………………………………………………二四三
  奇談の流行……………………………………………………………………二四四
  秋葉と遠山道…………………………………………………………………二四六
  諏訪の神領として……………………………………………………………二四七
  熊谷家傳記……………………………………………………………………二四九
  天龍川峽谷への交通…………………………………………………………二五〇
  浪合記の色々の異本…………………………………………………………二五二
  靈の語を信じて………………………………………………………………二五三
  地方信仰の變遷………………………………………………………………二五五
  津島天王と東國………………………………………………………………二五七
  遠江と信濃との連絡…………………………………………………………二五八
  甲州との交通…………………………………………………………………二六〇
  中世以前の旅行組織…………………………………………………………二六一
江戸以前の東國……………………………………………………………………二六三
 
豆の葉と太陽(1941年1月創元社)
 自序
 豆の葉と太陽(昭和五年九月、東北の旅)…………………………………二七一
 海に沿ひて行く(大正十四年八月、行樂)…………………………………二七五
(483) 空から見た東北(昭和四年九月、文藝春秋)………………………二八一
 勢至堂峠(大正五年九月、讀賣新聞)………………………………………二八六
 椿は春の木(放送)(昭和三年一月三日)…………………………………二八九
 白山茶花(昭和十三年十二月、俳句研究)…………………………………二九六
 照譚小篇(昭和十三年六月、新風土、昭和十五年二月、季節)…………三〇二
 並木の話(舊作)(明治四十四年十二月、法學新報) ……………………三〇六
 美しき村(昭和十五年十一月)………………………………………………三一一
 春を樂しむ術(大正十五年四月十日、東京朝日新聞)……………………三二二
 武藏野雜談(大正三年四月、六月、九月、大正五年十二月、郷土研究)…三二五
 武藏野の昔(大正八年七月、大正九年六月、登高行)……………………三三三
 游秦野記(大正二年十二月、郷土研究)……………………………………三六一
 箱根の宿(舊作)(明治四十年九月、斯民)………………………………三六六
 秋風の吹く頃に(昭和九年十月、山)……………………………………三七三
 四國の旅(通信)(昭和十年二月、ことひら)……………………………三七七
 隱岐より還りて(談話)(昭和八年十一月、島根評論)…………………三八〇
 島(昭和九年四月、島)……………………………………………………三八三
 川(昭和十一年八月、東陽)………………………………………………三九五
 風景の成長(談話)(昭和八年一月、塔)…………………………………四〇六
 旅人の爲に(講演)(昭和九年五月四日)…………………………………四一七
 
旅中小景……………………………………………………………………………四三三
 
(484)丹波市記……………………………………………………………………四三八
 
樺太紀行……………………………………………………………………………四四三
 
遊海島記……………………………………………………………………………四六四
          〔2014年9月5日(金)午後9時8分了〕