定本柳田國男集　第二十一卷（新装版）、筑摩書房、1970､2､20（1977.4.30.13刷）

　

(1)　　　こども風土記

　

(3)　　　　　小序

　

　子どもと其お母さんたちとに、共々に讀めるものをといふ、朝日の企てに動かされたのであつたが、私にはもうさういふ註文に合ふやうな文章を書くことが出來なくなつてゐるらしい。こども風土記が新聞に連載せられてゐる間、面白く讀んでゐるよと言つて勵ましてくれた人は多かつたが、それは大抵は年をとつた仲間だけであつた。近所の又は親しい少年少女の中には、氣をつけてゐたけれども、讀んでゐる者は甚だ少なかつた。

　うれしかつたのは友人の一人が、うちではいつの間にか朝日が切り拔いてある。子どもが讀んでから帳面に貼るさうだと、告げてくれたことである。九州の或町からは、お清書のやうな字を葉書に書いて、鹿の角の遊びを知らせて來た少女がある。母が柳田さんにお知らせするとよいと言ひましたからとあるのを見て、是だけは少なくとも豫定の讀者であつたことがわかつた。小學生の通信は、この以外には二つ三つしか受取つてゐないが、それでも東京大阪の都會へ出て働いてゐる人で、ほんの四五年前の子どもかと思はれる人たちから、あどけない感激の手紙は幾つか來てゐる。始めて親に離れ故郷に別れて、人中の生活をする者の胸のうちには、或はもう一度「子ども」の感じが蘇つて來るのではあるまいか。もしさうだとすると、強ひて現在の子どもと母ばかりを追うてあるくにも及ぶまいかと思ふ。一つの新しい經驗は、横濱近くに住む或一人の女性から、かういふ意味のことを私へ言つて來られた。自分は亡夫が外國にゐた留守の間、二兒を連れて伊豫の松山に住んでゐたが、鹿々何本の遊びは毎日のやうに子どもが窓の外へ來て遊んだのでよく知つてゐる。たゞそれがどういふ所作を伴なふかは出ても見なかつたので言ふことが出來ない。當時最も熱心にこの遊戯に參與した二人の子どもに問へば直ぐに判るのだが、一人は中支に在り、一人は九州の或職場に働いてゐるので、今は尋ねてみる方法も無いといふ。乃ち(4)茲にも亦二十年前の子どもとお母樣とが、再び其感慨を新たにしてゐるのである。母とゐた日の悦樂は、老いたる私にさへも蘇つて來る。つまりは此文章は人の爲に書いたのでは無かつた。

　こども風土記が本の形になつて世に遺ると聽いて、改めて又私は考へて見た。現在の少年少女が老い盡し、彼等の孫曾孫が嬉々として膝の前に遊び戯るゝを見る時代には、この一卷の文章は果してどうなつてゐるであらうか。人間に永遠の兒童があり、不朽の母性があることを認めつゝも、それを未出の同胞國民と共に、談りかはすべき用意は整つてゐると言へるであらうか。僅か百年を隔てた祖先の文章は、もう註釋が無くては我々には讀めない。今日の文章は更に一段と時代の制約を受けてゐる。是がいはゆる現代語譯のお世話になり、味も匂ひもすり切れてしまつてから、たゞ義理だけに敬はれるやうなことの無いやうに、時の古今に亙つた國語の統一といふことが、もう考へられてもよかつたのでは無いか。無始の昔から無限の末の世まで、續いて絶えない母と子との問題であるが故に、殊に共感を深くするものである。讀者をたゞ眼前の人のみに求めた私たちの態度にも懺悔すべきものが至つて多い。もう間に合はぬかも知れぬけれども、是を機縁として改めて文章の書き方を學びたいと思ふ。

　　　　　　　　　　　　　　伊豆古奈の温泉に於て著者しるす。

　　　　　　　　昭和十六年十二月十四日

　

(5)　　　　　鹿・鹿・角・何本

　

　一昨年の九月米國ミズリー大學のブリウスタアといふ未知の人から面白い手紙の問合せを受けた。もしか日本にはかういふ子供の遊戯はありませんかといふ尋ねである。一人の子が目隱しをして立つてゐると、その後にゐる別の子が、ある簡單な文句で拍子をとつて背なかを叩きその手で何本かの指を出して、その數を目隱しの子に當てさせる。英語では間ひの文句が、

　　How many horns has the buck　「いかに　多くの　角を　牡鹿が　持つか」

　ドイツのも全くこれと同じだが、國語のちがひで一言葉少なく、イタリアでは四言葉、スウェーデンやトルコなどは二言葉で、やはり意味は鹿の角の數を訊くことになつてゐる。目隱しをする代りに壁にもたれ、又四つん這ひになつて、その背に跨つて、指を立てゝ問ふ例もある。もう長いあひだかゝつて調べてゐると見えて、これ以外にスコットランド、アイルランド、米合衆國、フランス、ベルギー、オランダ、ギリシア、セルビア、ヘルツェゴビナ、エストニア、スペイン、ボルトガルにも同じ遊びのあることを確かめたといつてゐる。日本にももしかそれがあつたら、面白いと思ふがどうかといふ質問である。

　古い文獻では、ペトロニュウスの諷刺詩の一つにも出てゐるといふ話である。あつたらなるほど面白いが、どうもまだ聞いたことがないやうだ、と皆がいふので、一應さういふ返事をして置いて、なほ念のために「民間傳承」の會報にこの手紙を譯して載せておくと、ほどなく二ヶ所から、あるといふ報知がやつて來た。ありませんなどゝいふ答へはめつたに出來るものでないといふことを、しみ／”＼と我々は經驗したのである。

(6)　滋賀縣の今津近くの村では、少なくとも二十年ほど前まで、この遊びをしたといふことを、長濱女學校の三田村君が先づ知らせてくれた。じやんけんに負けた一人の子は、窓のへりなどにつかまつて身を曲げてゐると、勝つた方の子がそれに馬乘りになつて、指を出し、その數を下の子にいひ當てさせ、それが當るまではこの間答をくりかへし、あたれば今度は上の子が答へる番にまはるのださうである。馬乘りになるだけで、もう背なかは打たなかつたらしいが、やはりその文句は、

　　　鹿・鹿・角・何本

と、くぎつて唱へてゐたといふ。

　

　　　　　あてもの遊び

　

　鹿の角なら二本にきまつてゐるやうなものだが、これは角の叉がいくつに岐れてゐるかといふことらしい。御存じの通り牡鹿の角は、成長するにつれて枝の數が多くなり、五本ぐらゐがまづ大鹿である。單に子供の指の遊びに似つかはしかつたといふだけでなく、山の獵師にとつても重大な問題で、毎度恐らくは聲を立てずに、かうして指を出して相手に知らせ、または噂をしてゐたことがあつたらうかと思ふ。それを子供が遠い／＼音に學んで忘れずに持ち傳へてゐたたのらしい。今日の語でいふと、この遊戯は生活に即してゐる。

　これがもし琵琶湖岸の片隅に、たつた一ヶ所しかない例だつたら、或は近年米國の宣教師が來て、教へて行つたらうなどゝ、ありもせぬことを想像してすます人が多かつたらうが、幸ひなことには九州に一つ、飛び離れて同じ「鹿なんぼ」の遊びがあつた。久留米中學校の峰元君は、近ごろ市中でこの遊戯を子供がしてゐるのを見かけたと報ぜら(7)れた。それから附近の村里を問合せて見たが、三井郡にはたしかにあつて、他の郡にはまだあるといふ人を知らぬといふ。私も強い斷定は差控へるが、これは近江から、又は近江へ、ちかごろ輸入したものでないといふことはまあ言へさうである。

　たゞし詳しい方式はもう一度見なほす必要がある。熱心なブリウスタア氏に知らせてやりたいのは、久留米の方でも背なかを叩かないかどうか。「鹿なんぼ」といふ文句があまり簡單だから、或はこれも馬乘りの方かも知れぬが、文句が殘つてゐる以上は元は拍子をとつて、叩いてゐたのではないかと思ふ。

　これによつて、ふと心づくことは、今でも東京の小學校の子どもが、別れるときなどにちよいと立ちもどつて、

　　　おみやげ　三つに　氣がすんだ

といふ類の、どうしても意味のとれない文句を唱へて、友だちの背なかを打つことである。流行といつてしまへばそれでも説明はつくが、あまりにも無意味だから何か別の形があり、それが鹿・鹿・角・何本でないまでも、少しはこれに近いやうな「あてもの遊び」が、行はれてゐた名殘りではないかと考へてゐる。人の背なかを打つといふことは、さう輕々しい戯れではない。それでも喧嘩にはならぬだけの約束が、曾てはこれを許してゐたもの、といつても理由が一つあるのである。

　

　　　　　かごめ・かごめ

　

　遊戯と童言葉《わらはことば》とは、本來は歌と舞とのやうに、表裏不可分のものであつたらしい。新しい小學校の遊びにも、成るべくは唱歌を添へて與へようとしてゐるが、文句がやゝ混入つてゐるためだらうか、言葉に力を入れすぎて所作の方(8)が輕く取扱はれ、もつとも熱中する遊戯には却つて黙演が多い。自分はこの二つのものゝしつくりと結び合つてゐるか否かによつて、子供遊びの新舊が窺はれるやうに思ふが、どんなものであらうか。

　二つの例を拾つてみるならば、このごろはもうあまり耳にしない遊戯唄、

　　　めぐれど端無し　たまきのごとくに……

といふ變つた節の文句は、調べたら作者のきつとわかるほど新しいものだが、これをうたふべき遊戯は前からあつた。東京などで古くから、蓮華の花が開いたといふのが同じもので、つぼんだ、開いたといふ別の動作があるが、歌の半分はやはり小さな手を繋いで、くる／＼廻つてゐる間に歌ふもので、しかもこれにはなほ今一つ前の形があるのである。どうしてあのやうにいつまでも、面白がつて續けてゐるかと思ふほど、意味の解しにくい文言の羅列だが、「かごめ・かごめ」といふのがやはりまた同じ遊びであつた。

　　　かごめ　かごめ　籠の中の鳥は　いつ／＼出やる

　　　夜あけのばんに　つるつるつーべつた

或は、

　　　鶴と龜とつーべつた

ともいちてゐる。さういふと一しよに全員が土の上にしやがんでしまひ、そのあとで、

　　　うしろの正面だァれ

といふのもあり、また全くそれをいはないのもあるが、動いてゐる人の輪がはたと靜止したときに、眞後にゐるものを誰かときくのだから、これは明らかに「あてもの遊び」の一つであつた。子どもはもう知らずに歌つてゐることであらうが、氣をつけてみると、この「かごめ」は身を屈めよ、すなはちしやがめ／＼といふことであつた。誰が改作したか、それを鳥の?のやうに解して籠の中の鳥といひ、籠だからいつ出るかと問ひの形をとり、夜明けの晩などゝ(9)いふあり得べからざるはぐらかし〔五字傍点〕の語を使つて、一ぺんに坐つてしまふのである。鹿・鹿・角・何本に比べるとたしかにこの方が試驗はむつかしい。さうして數多くの子どもが加はることができて、樂しみは大きかつたかと思はれる。それが少しづゝ形をかへて、ひろく全國の「昔の子供」に、今もなほ記憶せられてゐるのである。

　

　　　　　中の中の小佛

　

　西洋の子供の中にも、まだ幾程かの當てもの遊び（Guessing Games）が殘つてゐることは、かういふことを書いた本によくいふが、あちらではもうその起りを説明することが出來なくなつてゐる。日本ならそれが簡單にわかるのである。

　子供が手を繋いで輪になつて、ぐる／＼廻る遊び、全國どこにもある「中の中の小佛」といふものなどは、鹿の角を幾分か複雜にして、澤山の兒が一緒に樂しめるやうにしたゞけで、やはり問答が中心であつた。六十年も前に私などが唱へてゐた詞は、

　　　中の中の小坊さん　なァぜに背が低い

　　　親の逮夜《たいや》にとゝ食うて　それで背が低い

といふのであつたが、この文句は皆さんの覺えてをられるのと、多分は大同小異であらう。或は魚の代りに「海老食うて」といふ者もあるやうだが、いづれにしたところで父母の命日に、そんな物を食べる人は昔は一人もゐなかつた。それがをかしいので何遍も何遍も、同じ歌ばかりをくり返してゐたけれども、大阪でも東京でも、そのあとに添へて、

　　　うしろにゐる者だァれ

(10)または「うしろの正面だァれ」といつて、その兒の名を當てさせるものが多かつた。或は目隱しをさせ、もしくは顔を兩手で掩はせて、正面に踞《しやが》んだ鬼を誰さんと、いはせることにしてゐたかとも思はれる。鹿兒島縣の田舍などでは、それでこの遊戯をマメエダレとも呼んでゐた。マメエダレはすなはち眞前誰である。

　遊びは後に少しづゝ改良せられてゐる。中の小坊の手に御盆を持たせて、誰それさん御茶あがれと言はせたり、又は一つ／＼手を繋いだところを探つて、こゝは何門と尋ねる問答を重ね、答へによつてそこを切つて出るやうな遊び方もあつた。いづれも小兒が自分たちで考へ出したもので、そんなことに世話を燒く成人はゐなかつたらうと思ふ。それから蓮華の花は開いたといひ、または「かごめ・かごめ」といふ文句に取換へたりしたのも、あんまり上手だから別に作者があつたやうに考へる人もあるか知らぬが、私たちは、なほ、かれらの中の天才が興に乘じて言ひはじめた言葉が、自然に採用せられて傳はつたものと思つてゐる。遊びはもと／＼輪を作つて開いたり莟んだり、立つたり屈んだりするのが眼目であつた。さうして歌は、またその動作と、完全に間拍子があつてゐる。作者が外にあつたらうと思はれぬのである。

　

　　　　　地藏あそび

　

　「中の中の小坊さん」は、私などは弘法樣のことかと思つてゐた。これを小佛と唱へてゐた子供の、近所にあることも知つてゐたのである。山梨縣ではそれを又、

　　　中の中の地藏さん

とうたひ、その「中の地藏」が後で周圍の子の頭を叩きまはつて、

(11)　　　外の外の小僧ども　なぜ背が小さいな云々

といつてゐたさうである。茨城縣で地藏遊びといつたのもこれで、一人をまん中にかゞませて目かくしをさせ、周圍の輪の子供が廻りながら、やはり「なぜに背が低い」を唱へる。さうしてその運動を止めるや否や、中の地藏が一人をとらへてだれさんと名をあてる。それが的中すると地藏が代ることは盲鬼の一種とよく似てゐる。福島縣海岸地方の地藏遊びのことは、前に「日本の傳説」の中にも述べておいた。これは輪の子供が口を揃へて「中の中の」の代りに、

　　　御乘りやァれ地藏樣

といふ言葉を唱へる。乘るとはその兒へ地藏樣に乘り移つて下さいといふことであつた。さうするうちにまん中の兒は、次第々々に地藏樣になつて來る。すなはち自分ではなくなつて、色々のことを言ひ出すのである。さうなると他の子供は口々に、

　　　物教へにござつたか地藏さま　遊びにござつたか地藏さま

と唱へ、皆で面白く歌つたり踊つたりするのだが、元は紛失物などの見つからぬのを、かうして中の中の地藏樣に尋ねたこともあつたといふ。

　古い人類學雜誌に出てゐたのはもとは仙臺附近の農村で、田植休みの日などに若い男女が集つて、大人ばかりでこの地藏遊びをしてゐたさうである。これとても遊びで、信心からではなかつたが、まん中にやゝお人よしといふやうな若い者を坐らせ、ほかの者が輪になつて何か一つの文句をくりかへし／＼唱へてゐると、しまひには今いふ催眠?態に入つて、自分でなくなつて色々の受返事をする。いづれ男女の問題などの、罪もない笑ふやうなことを尋ねて、それに思ひがけない答へがあるので面白かつたのであらうが、それが今一つ山奧の村へ入つて行くと、まじめな信心者だけで集まつて、この中座《なかざ》のいふことを聽いてゐた。それが昔の世にひろく行はれた神の口寄せといふものゝ方式だつたので、つまりは子供がその眞似をくりかへして、形だけでも、これを最近まで持ち傳へてゐてくれたの(12)であつた。

　

　　　　　鉤占ひの話

　

　成人と子供と、同じ遊びをちがつた心持で、持ちつゞけてゐた例は外にもある。おとなの遊戯などゝいふことは考へにくいやうだが、今でも元氣な人たちは退屈すると、折々思ひついて子供みたやうなあてもの〔四字傍点〕などをする。それが案外新發明といふのが少ないのである。ことに酒宴の席では古くさいものが面白がられる。たとへばある一人に目隱しをして盃を持たせ、

　　　こゝらか　まだまだ　こゝらか　そこそこ

などゝ、飲み足りなさうな人に盃をさす戯れは、愚劣なものだが、まだ丸つきり廢れてもゐない。これと「中の中の小坊主」のお茶あがれとは近いのである。

　それからもう一つ、このごろはあまり見受けぬが、箸とか紙縒《こより》とかの尖を少し折曲げたものを、くる／＼と兩手の掌で揉み廻し、その突端の向いて止つた方角の人に、盃を押しつけるといふ方式がもとはあつて、その囃し文句もよく似てゐた。ところがこれと全く同じ遊びが地方では小兒の遊びとして、最もひろく行はれてゐたのである。

　もとは全國にわたつて、ほとんど知らぬ兒童もなかつたらうと思ふ。をかしいことにはそれがことごとく、隱したおなら〔三字傍点〕の犯人を發見する目的のみに用ゐられてゐた。四國・九州ではそれ故にヘヘリカノド、またはヘヒリガンドともカネジヨとも呼ばれてゐた。そのカネジヨもカンドもともに鉤《かぎ》殿で、その小枝や細い棒さきが鉤になつてゐたからの名であらうと、私たちは想像してゐる。すなはちこの鉤をまはして占ひをした目的は、最初は決して下品なもので(13)はなかつたのを、後に酒飲みは盃をさす人をきめるために、子供はたゞおなら〔三字傍点〕の主を見つける戯れだけに用ゐて、その他を忘れてしまつたのである。上方方面の酒の席では、これをベロベロの神樣といつたことが記憶せられてゐる。

　　　ベロベロの神樣は

　　　正直な神さまで

　　　おささの方へ面《おも》向《む》ける

　　　面向ける

といふ囃し言葉を唱へつゝ、なにか細長いものを手で廻したといふことであるが、それと同じ名前は關東・越後・奧羽地方まで通用してゐて、こちらはいづれも皆子供の遊びであり、唱へごとは、

　　　ベロロ　カベロ　正直神で

　　　誰《た》がへをひつた

　　　ひつた方さつん向け　（上總）

といふ類の文句になつてゐる。或はまた「ベロベロカメロ、たふといカメロ」などゝもいふところがある。つまりは初めに、まづ鉤の靈の尊く正直なことを讃へて、それからいよ／＼その指定を求め、これによつて疑ひを決しようとしてゐたので、少なくとも方式だけは、昔の神を祭つた人々の所作を、そのまゝ守つてゐるのである。無心な者のすることには、うつかり看過すことの出來ないものがいろ／＼ある。

　

(14)　　　　　ベロベロの神

　

　東北で小兒がベロベロの遊びをするのは、大ていは樹の小枝の鉤になつたものを折取つて、それを兩手の間にまはして、あのをかしな文句を唱へるのだが、時としては萱とか藁とかの一本の莖を折曲げてすることもある。ベロベロといふ言葉が最初からなにか滑稽な意味をもつてゐるやうに思ふ人もあるかは知らぬが、實際は決してさうでなかつた。長野縣の北部などでは、正月の三日をベロベロの歳取りと稱して、小枝でさういふ鉤をこしらへて三方｜折敷《をしき》に載せて神棚に上げておく家もあり、またはもう、さういふものは作らずに、たゞこの名稱だけを知つてゐる家もあるが、とにかくこれには少しも戯れの心持は伴なはぬのである。奧州の田舍では以前まだ定まつた墓地がない時代に、葬式當日に行列の先に立つ者が、このベロベロを廻して送るべき方角をきめたといふ話なども殘つてゐる。非常に子供らしい素朴過ぎた占ひ方だけれども、前にはかうして右か左かの疑ひをきめるといふ信仰もあつたのではないかと思はれる。

　そんならどういふわけでその尊い、また正直な鉤の神にベロベロなどゝいふ名を付けたらうかといふ問題が起る。私たちの想像では、ベロベロとは嘗めることで、舌の田舍言葉をベロといふのも、元はそれから出てゐるのかと思つてゐる。今でも子供がベロベロの神を廻すのを見てゐると、これを兩手で高く口の前まで持つて來て顎の下あたりで揉み廻すので、ちやうど鉤のさきを鼻と見立て、その細い棒の後から、聲が出て行くやうにしてゐたやうである。極めて簡單なものだが、この鉤を一つの人形のやうに見ることが許されてゐたのではあるまいか。

　人形が今のやうに寫實になつたのは、わが邦でもさう古いことではない。東北で盲の巫女《みこ》が舞はせてゐるオシラサ(15)マといふ木の神は、ある土地では布で掩うた單なる棒であり、また他の土地では、その木の頭に眼鼻口だけを描いてある。さうしてこれをカギボトケといふ名などもまだ時々は記憶せられてゐる。信心な人たちの強いまぼろしでは單なる鉤ある小枝でも、なほ有難い神の姿に見ることができたので、それを祭をする人の口の前に持つて來ることが大切な條件ではなかつたかと思ふ。東京でオシヤブリ、關西でネブリコなどゝいふ木の人形も、これを轆轤でひいて今のコケシボコにするまでの、元の形といふものがあつて、それが後には幼い者の手によつて管理せられることになつたのではあるまいか。

　

　　　　　おもちやの起り

　

　玩具を面白がつて集める成人が多くなつた割には、古いことがまだ一向わかつてをらぬが、近年ブリキ・セルロイドが目まぐるしく新を競ふやうになるまでは、われ／＼のおもちやは不思議なほど種類が限られてゐて、どうやらその一つ／＼から根原を尋ねて行かれるらしく思はれる。大體に、以前の玩具はほゞ三通りに分けることができたやうである。最も數多いのは子供の自製、拾つてすぐ棄てる草の實やどんぐりのやうなものから苗株あねごとか、柿の葉人形とかの、うまく出來たら成るだけ永く大事にしてしまつておかうとするものまで、親も知らないうちに自然に調へられる遊び道具、これを子供は「おもちや」といふものゝ中に入れてゐない。

　オモチヤといふ語のもとは、東京では知らぬ者が多くなつたが、今も關西でいふモチヤソビの語にオをつけたものにちがひない。その弄び物を土地によつては、テムズリともワルサモノともいつて、これだけは實は母や姉の喜ばぬ玩具であつた。もつとも普通に使はれるのは物さしとか箆の類、時としては鉄や針などまで持ち出す兒があつて、あ(16)ぶないばかりか、無くしたり損じたりするので、どこの家でもそれを警戒した。さうして追々とその代りになるものを、こしらへて可愛い子には與へたのだが、最初はそれもたゞ親たちの實用品のやゝ小形のもの、たとへば小さな籠とか桶とか、箒や農具の類が多く、子供もまた成人と同格になつたと思つてそれを喜んでゐたやうである。

　それから第三には、買うて與へる玩具、これが現今の玩具流行のもとで、形には奇拔なものが多く、小兒の想像力を養ふには十分であつたが、如何せん、さういふ喜びを味はふ折が以前は極めて少なかつたのである。おみやげといふ言葉でもわかるやうに、本來は物詣りの歸りに求めて來るのが主であつて、從つてその種類た限られてをり、大體にお祭に伴なふものばかり、たとへば簡單な假面とか樂器とか、または神社から出る記念品のやうなものであつたことは、深い意味のあることなのである。その一つ／＼について話をしてみれば面白いのだが、それではあまり長くなる。たゞこゝで私のいひたいのは、あんなオシヤブリのやうな小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥《おみやげ》であり、すなはち日本人の信仰から生まれて、發達したものだつたといふことである。

　

　　　　　木の枝の力

　

　今の人には何でもない木の小枝の鉤になつたものなどが、昔は非常に重要にみられてゐたといふことは、必ずしも小さな發見ではない。金屬工藝の進まなかつた時代から、土を耕す鍬はすでに備はり、又火を焚く爐の上の鉤も缺くべからざるものであつた。これに天然に備はつた物を用ゐようとすれば木の枝より以上に丈夫なものはなかつた。すなはち昔の人たちは自分の體驗によつて、つとに木の枝の強い力を認めてゐたのである。

　三重縣の北部から滋賀縣の甲賀地方にかけて、春のはじめに神樣を山から、里の方へ御迎へ申す作法として、鉤曳《かぎひき》(17)といふ神事がある。神木に張り渡した太い注連繩に、木の鉤を懸けて歌をうたひつゝ曳くのである。

　東北地方では一般に、峠路の辻や入口にある大木の高い枝に、鉤になつた小枝を下から投げあげて引懸かるかどうかを試みる占ひがあつて、時々は無數にその小枝の懸つてゐる樹を見かけるが、それを鉤懸もしくはカンカケといつてゐる。讃岐の小豆島の寒霞溪もそれらしいから元はこの方面にも同じ風習があつたかと思はれる。今日では小石を石の鳥居の上に乘せて見ようとし、または沓掛《くつかけ》といつて、馬の沓や古草鞋を投げあげるやうにもなつてをり、子供や若い者の慰みくらゐにしか考へられてをるまいが、曾てはまじめに或旅行の成功するか否かを、鉤によつてたしかめて見るといふ信仰があつたのである。

　それよりも今一段と子供らしい方法、從つて今では子供しか試みない戯れに、鉤引といふものがあることは知つてゐる人が多からう。東北ではこれも小さな木の枝の鉤で、それ故に主としてこれに用ゐられるしな〔二字傍点〕の木などを、今も子供はカギヒコノキと呼んでゐる。この遊びをする日が、特に正月の松の内となつてゐるのは、由來の久しいことかと思ふ。他の地方に行くと春もたけてから、路傍の車前《おほばこ》の莖を折曲げて引懸け引張り、または菫の花の馬の首のやうになつた部分を交叉して、むしろその首のたやすくもげて落ちるのを、笑ひ興ずるやうになつてゐるが、二つは最初から別々の遊戯であらうとも思はれない。すなはち、子供の遊びには遠い大昔の、まだ人間が一般に子供らしかつた頃に、まじめにしてゐたことの痕跡があるのである。

　

　　　　　念木・ねんがら

　

　かういふ話をしてゐると、自分の幼いころが際限もなく思ひ出される。秋の末に稻が刈り入れられて、水田の土が(18)まだじく／＼と柔かい時分に、日が暮れて寒くなるまで家に歸ることを忘れ、着物をよごして來てよく叱られた遊びがある。關東ではひろくネツキともネンボウとも呼んでゐるが、それが又木の鉤のさきを尖らしたものを、柔かい田の土などの中に打込んで、相手の立てたのを倒す遊びであつた。

　ちやうど片假名のイの字を逆さにしたやうな棒で、現在は鉤の全く取れたたゞの木切れを尖らせて打つ地方も多いやうだが、私などは鉤が有るために面白く打てたのだと今でも思つてゐる。庭や畠で遊ぶと叱られるから田へ行くだけでなく、全く刈田の頃合の柔かさを、捜してゞも子供はそこへ集つたのである。打ち方の巧者によつては自分のネンボウは深く刺され、同時に敵のをはね出して倒す。さうするとその棒をこちらへ取つてしまふのである。いろ／＼と工夫をして自分の得手に合ふやうなのを削り上げ、それには名前をつけておいたりする子供もある。勝つた獲物を二抱も三抱も、物置の隅にしまつておいて、風呂のしたに焚かれてがつかりした記憶も自分にはある。

　この遊戯は以前は全國的のものだつたのである。從つてそれを詳しく説明する必要はまだないかも知れぬが、こゝで私の考へようとするのは名稱であつて、それが不思議なほど南北に共通してゐるのである。もつとも東北の端の方だけは笄《かうがい》打ち、またはツクシ打ちといふ名もありその他にも少しづゝちがつた地方名はあるけれども、大體においてネンといふ言葉が行き渡つてゐる。關東平野でもネン棒があり、又ネン木と謂つたところもある。ネツキ・ネツクイは根木・根杭であらうと、字を學んだ子供はおよそ想像してゐるが、實は枝のさきを切つて作るので、たゞ土の中へ刺し込む點が、根と呼ぶのにやゝふさはしいだけである。言葉はかういふ風に形と心持とが、別々に移り動くものであるらしく、また必ずしも、學者によつて吟味せられてもゐない。私の心づいたのは、このネンは別に起りがある。或は念の字の音であつて、やはり中古から言ひ始めたのかも知れない。さうするとこの名前よりも遊びの方が古く、またもう一つ前の名があつたにちがひないのである。

　

(19)　　　　　燈臺もと暗し

　

　いはゆる根ツ木の問題には限らず、我々がお互に話し合つて見ないために、覺るべきことを覺らずにゐる場合は甚だ多い。私がこんな小さなことに力を入れるのも、目的はもつと自分の中にある「日本」を見つけ出してもらはうがためである。各地から寄り集つてゐる人々の話題を、出來るだけ朗かな樂しいものにしたいからである。

　まちがつてゐたら正してもらふやうに成るべく多くの地名を掲げる。尖つた木の棒を土の上に突き立てゝ相手の立てたのを倒し合ふ競技を、關東とその周圍の縣ではネツキといふ者が多く、またネンボウといふ名も伊豆あたり迄行はれてゐる。それよりももつとひろいのは、北陸では能登の七浦《しつら》村などでいふネンガラウチで、こゝでは村の鎭守の御祭の日の遊びだが、西の方に行くとそれが子供のたゞの遊びとなつてゐる。たとへば鳥取市の附近の村でもネンガラ、こゝでも稻刈後の田へ出て遊ぶ。次には山口縣の豐浦《とよら》郡でもネンガラ、海を渡つて筑前の大島でネンガラ、これも遊び方は同じだが、注意すべきことには御産のあつた家の前で、子供がこの木を組んで産屋といふものを立てるといふ。しかしもう一度尋ねて見なければ詳しいことは言へない。

　それから西へ廻つて長崎縣の下五島にもネンガラ打ちの遊びがあり、さらに熊本縣の天草下島でも舊十一月丑の日の山の神祭の前に子供が、手頃の木を伐つて來て、このネンガラを作つて置いて祭の日に遊ぶといふのは、いよ／＼信仰上の儀式であつたことを思はしめる。同じ遊びはまた阿蘇郡の山村にもあるが、こゝでは少しかはつてネンゴロといつてゐる。鹿兒島縣の甑《こしき》島へ行くと上甑の方ではネンガラまたはネンガネ、このカネはベロベロの神をカネジヨといふのと同じで鉤のことらしい。下甑の手打港などはこの遊びをネンウチ、それで遊び道具の方をたゞネンと呼ん(20)でゐるが、起りの一つであつたことは疑ひがない。昔は九月九日の節供の日の子供遊びであつたといふが、今ではもう常の日にもすることがあるらしい。奄美大島のやうな遠い島にも、やはり古くからそのネンウチの遊びはあり、その木をネンと呼び遊び方もよく似てゐた。人のネンを打倒して手の幅一つだけ離すことが出來れば、それを取つて自分のものとしたといふ。たゞこれらのネンを繪にかいたのを見ると、關西各地のものには私たちの重要視してゐる鉤の枝のないものが多い。いつからないのか考へて見たいと思つてゐる。

　

　　　　　ねぎごと

　

　ネンウチは念打と字に書くのが本の意にかなふものかと思ふ。或はあまり念が入りすぎるかも知れぬが、もう少しばかり他の土地の例をならべると廣島縣の海岸地方にも、ネンがありまたネンウチの遊びがある。倒して相手のネンを取るほかに、はじめから下手で地面に立たなかつたものも次の番の兒の所得になる。どういふわけでか、それをグツソウと子供はいつてゐる。ネンギリといふ名前が備後の府中などにはある。打つといふ代りに切るともいつてゐたのか、或はまた別の言葉だつたかも知れぬ。豐前の築上郡などではこの木の棒をネンギ、伊豫の宇和島ではこれをキネンといひ、またネンガリともいふのは日本海側のネンガラと似てゐる。

　近いところでは神戸にも、このネンガラといふ語が行はれてゐた。現在はもう木を尖らしたもので無く長さ四、五寸の鐡の棒の、さきの尖つたものを用ゐるといふが、勿論今はもう見られぬであらう。私などもまだ播州にゐたころ、大きな西洋釘に紙の總《ふさ》を附けたものを、地面に打付けてゐるのを見たことがあるが、危いといつて持つことを許されなかつた。しかしあゝいふものでは迚も關東などの根木打の面白さは味はへなかつたらう。以前の競技は青年も加は(21)り、それよりももつと複雜な、且つ興味の深いものではなかつたかと思ふ。

　有馬郡｜有野《ありの》の唐櫃《からと》神社に傳はつてゐるネングイといふものなどは、正月二日の鬼打神事の一部で、はじめに的射の式があつてそれの終つた後、弓を地上においてその弓弦の前と後とに、櫨の木で作つた杭を六本づゝ二度、合せて二十四本打ちこむ。閏年には二十六本、すなはち十三本の倍數を打つといふから、多分はこれに由つて月々の吉凶または晴雨を卜したのだらうと思ふが、現在はもう自信が無くなつたものか、それ／”＼適當の場所に手を持ちそへて刺しこむことにしてゐる。さういつた變化は他の土地の、的射の式などにも折々に見られる。

　つまりは成人の間ではたゞ形だけを殘し、その面白さの方は子供のみが相續してゐるのである。尾張の知多半島などでこの遊びをネギゴトといひ、それに使ふ木の棒をネギといふのも、同じ念木といふ語の地方音だつたかも知れぬが、別にこれを願ひごとまたは禰宜事と解してもよいやうな感覺がなほ殘つてゐて、二つの心持が融合したものと見られる。殊に小兒は單純だから、毎度かういふ思ひちがひをしやすいのである。

　

　　　　　弓太郎と念者

　

　弓箭は農民の間では早くから、神祭の折にしか用ゐられてゐなかつた。從つてその技能は劣つてゐて、實際の役に立たなかつたのである。私の知つてゐる三河の或山村では、氏神の祭禮に金的を射あてる神事がある。箭が的を射貫くと的場の土と一緒に的と箭とを三方の上に載せて神前に供へ、それをもつて祭を終ることになつてをり、祭の前には皆一生懸命に弓の稽古をする。もし中らなかつたらどうしますかと尋ねて見ると、何日でもあたるまでは神祭が續くのださうである。しかしどうしてもあたらぬ時には仕方がないから、神主が箭を持つて行つて、金的に突射すのだ(22)といふ話であつた。

　四國や九州で百手《もゝて》祭、または御的射の神事といつてゐるのは、的も大きく距離も近くしてあるやうだが、射手は大抵の場合には少年であつて、皆前々から精進をして練習する。さうして各自の部落を代表して、あたればその村が神の思召しにかなひ、一年中の仕合せを取るとしてゐたのだから、周圍の人たちも今日の聲援團以上に力瘤を入れたのである。的射に出る少年選手は弓太郎などと呼ばれ、それを出す家には親類から祝ひ物を贈つて來るやうな土地もある。式場には多くの人が出席して、世話をしたり力を附けたことは無論である。朝廷や京都の大きな御社にも、中世以前からこれとよく似た賭弓《のりゆみ》の御式があつて射手《いて》は右左に分れて勝負を競ふほかに、おの／＼一方の聲援者があり、それを念人《ねんにん》といつてゐたことは記録にしば／＼見えてゐる。すなはちめい／＼の選手が勝つことを、心の中で念ずる役である。

　　　少年の箭數問ひ寄る念者ぶり

といふ近世の發句があるが、その念者もまた元は右にいふ念人と同じであつた。われ／＼のネンボウ・ネンガラの遊びには、もはや年を取つた念者の來て見る者は無くなつてゐたけれども、仲間がこの勝ち負けに力を入れる熱心さは、純然たる遊戯になるまでなほ殘つてゐて、それが晴々裡に競技の興奮を忘れ難いものにしてゐたやうに思ふ。相撲とか競馬とか鷄合せとかの如く今まで成人の念者が澤山に押掛けるもの以外に、盆や正月の綱曳きのやうに、ちやうど成人から子供への過渡期にあるものもあれば、さらにまたこのネン打ちや、次にいひたいと思ふハマの遊びのやうに、ほとんと子供だけしか面白がらぬ競技もあつて、それが悉く最初は神樣の祭から出てゐることは、子供を愛する人々の囘顧せずにはゐられぬ歴史である。

　

(23)　　　　　大人から子供へ

　

　兒童に遊戯を考案して與へるといふことは、昔の親たちはまるでしなかつたやうである。それが少しも彼らを寂しくせず、元氣に精一ぱい遊んで大きくなつてゐたことは、不審に思ふ人が無いともいはれぬが、前代のいはゆる兒童文化には、今とよつぽど違つた點があつたのである。

　第一には小學校などの年齡別制度と比べて、年上の子供が世話を燒く場合が多かつた。彼らはこれによつて自分たちの成長を意識し得たゆゑ、悦んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加はらうとして意氣ごんでゐた。この心理はもう衰へかけてゐるが、これが古い日本の遊戯法を引繼ぎやすく、また忘れ難くした一つの力であつて、御蔭でいろ／＼の珍しいものゝ傳はつてゐることをわれ／＼大供も感謝するのである。

　第二には小兒の自治、かれらが自分で思ひつき考へだした遊び方、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいへないほど面白いものがいろ／＼あつて、それを味はつてゐると浮世を忘れさせるが、それはもつと詳しく説くために後まはしにする。

　第三には今日はあまり喜ばれぬ大人の眞似、小兒はその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であつた。昔の大人は自分も單純で隱しごとが少なく、じつと周圍に立つて視つめてゐると、自然に心持の小兒にもわかるやうなことばかりをしてゐた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておかうといふ氣も無かつたとはいへない。共同の仕事にはもとは青年の役が多く、以前の青年は殊に子供から近かつた。故に十二三歳にもなると、子供はもうそろ／＼若者入りの支度をする。一方はまた出來るだけ早く、さういふ仕事は年下の者に渡さうとし(24)たのである。今でも九州や東北の田舍で年に一度の綱曳といふ行事などは、ちやうどこの子供遊びとの境目に立つてゐる。もとは眞面目な年占ひの一つで、その勝ち負けの結果を氣にかけるくせに、夜が更けてくると親爺まで出て曳くが、宵のうちは子供に任せて置いて、よほどの輕はずみでないと青年も手を出さない。村の鎭守の草相撲や盆の踊などもみなそれで、だから兒童はこれを自分たちの遊びと思ひ、後にはそのために、いよ／＼成人が後へ退いてしまふのである。

　

　　　　　小兒の役目

　

　子供が大きい人から引繼がれた行事と、單なる彼らの遊戯との境目は目に立たない。たゞ年月が經つて一方がもうその重要性を認めず、追々に起りを忘れてしまふだけである。中の中の小佛や念打ちなどはよい例だと思ふが、今一つだけもう少し手近いのを擧げると、畠作に力を入れる東日本の農村などでは、もぐらもち（オゴロモチ）の害にはいつも弱りきつてゐる。見かけたらすぐに退治するが、それだけではとても追付かぬので、春の初めの一ばん好い日、すなはち正月十五日の早天に、もぐら追ひといふことをして豫め一年の害を防いで置かうとする。棒で肥桶の腹をこすつてキーキーといふ音を立て、耕地の上を轉がしてまはると?鼠《もぐら》が遁げるといつて、關東・信越の田舍では、今でも農家の主人が出て行つて、このまじなひをする風もあるが、別になほ一つ簡便な方式を行つてゐる村もある。この小獣が海鼠《なまこ》の香を嫌ふといふことは經驗であつたらしい。それでこの物を繩の端に括りつけて、畠を引張りあるく風習もひろく行はれてをり、その時唱へる文句が愉快なので、小兒が志願してその役につく場合も多かつた。必ずしも效果があると信じてゐるわけでもあるまいが、久しい仕來りだから、これをせぬと氣になるためだらう。いまでも子(25)供の無い家からは親爺が出てそれをやつてゐる。海鼠が手に入らぬと、その代りに横槌などを引きずり、又は東北ではトウラ即ち手束《たはし》を曳くところもある。これは海鼠の一名をトウラゴといふから代用になると思つたのかも知れぬ。

　ところがこの海鼠引きが、多くの土地ではもう純然たる正月遊びになつてゐる。たとへば東北では仙臺・氣仙《けせ》沼など、西では近江の彦根でも、又京や大阪のちつとも?鼠などはゐない大都市でも、やはり小兒が町中を押しあるいて、

　　　おごろもちはうちにか　とうらごどんのお見舞ぢや

　　　おるす　おるす

といふやうな文句を節をかしく唱へる風習が近い頃まであつた。九州各地の正月のもぐら打ちの如きも、

　　　もぐらえい、とんとこせ　隣のせつちんもりくやせ（日向）

といふ類の文句は稀に殘つてゐるが、今ではすつかり果樹の豐産を祝ふ式となつて、小兒はたゞ竿で地面を叩いて喜んでゐるだけである。

　

　　　　　鳥小屋の生活

　

　正月はむしろ子供には多忙な月であつた。食べねばならぬし、遊ばねばならぬし、その外に更に頼まれてする仕事がもとは幾つとも無くあつたのである。さういふ中でも?鼠驅除のなまこ引き以上に、もつと子供が大悦びで引きうけた役目は鳥追ひで、その日の面白さは、白髪になる迄忘れずにゐる者が多いのである。その理由の一つは、どんな大きな聲で耳の割れるほどわめいてもよかつたこと、それから今一つは子供ばかりで、二夜も三夜も屋外の假小屋に、親を離れて寢起き飲食するといふことであつた。楊《やなぎ》や白膠木《ぬるで》の木を削つていろ／＼の飾りを附けた祝ひ棒がこのため(26)に銘々に與へられる。それでたん／＼と横木をたゝいて、心まかせに鳥を追ふ詞を唱へるのが、いはゆる鳥小屋の生活であつた。それ故にこの小屋をまたワアホイ小屋・ホンヤラ堂などといふ類のをかしな名で呼ぶ土地が多いのである。ワアホイはもちろん鳥を追ひ散らすおどしの聲、ホンヤラも後から驅り立てる聲だつたとみえて、二月・十二月の風の神送りなどにも、かういふ囃しを用ゐてゐる例がある。たゞ正月の雪の中では、まだ驅逐すべき害鳥が眼の前にはゐないのだから、當の本人たちが却つて言葉の意味を理解せず、今はもうむやみに興奮して騷ぐだけになつてゐるのである。

　村の鳥追ひの詞は誰が考へだしたかしらぬが、よほど古くから今あるものが行はれてゐた。それを少しづゝ子供はまちがへて歌ふのだが、

　　　朝鳥ほほほ　夕鳥ほほほ

　　　長者どのゝ垣内《かくち》は

　　　鳥もないかくちだ

　　　やいほいばたばた

　かういつた文句が東北には廣く分布する。さうして現在でもやはり朝早くと、日の暮れ方とには殊に大聲でわめくことになつてゐる。山形縣の海岸一帶から越後の粟生《あはふ》島あたりにかけて、この「夕鳥」を又ヨンドリほいともうたひ、それで小兒が手に持つ木の棒を、ヨンドリボウと呼んでゐる土地がある。名前は土地毎にといふほども變つてゐるが、日本全國どこの隅に行つても正月はこの棒を持たぬ子供は無く、しかも鳥追ひ以外にもこの棒の大きな力は、一般に今なほ承認せられてをり、それで彼らはまた正月の任務を欣々然として引受けてゐたのである。

　

(27)　　　　　祝ひ棒の力

　

　小兒は全體に木切れを持つて遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり昂奮する。何でもないことのやうに我々は考へがちだが、實は隱れたる由來のあつたことかも知れぬのである。殊に目にたつのは正月の十五日前で、これを子供が持つと、ちやうど神主さんの笏《しやく》や扇子と同じく、彼等の言葉と行ひに或威力がある、といふ風に昔者は今も感じてゐる。單に目に見えぬ害鳥蟲をあらかじめ驅逐し、または果樹を叩いてその木を豐産になし得たのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな兒を生むとさへ信じてゐた時代があつた。だから、

　　　大の子小の子十三人云々

といふ歌があつて、この祝ひ棒をダイノコと呼ぶ土地もあり、または、

　　　男ぼつこ持ちやがれ

などといふ惡口に近い詞さへもあつた。東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩き棒、九州の各地でハラメン棒、對馬でコツパラなどといつたのも、すべてこの正月の祝ひ棒の名で、集めてゐるときりがないが、何れもこの木切れに女を孕ませる力があると思つてゐたからの命名である。祝ひ棒にはいろ／＼の装飾が施されてゐた。色紙を貼つたり彩色をしたり、または左卷きと稱して樹の皮を卷き、燻《いぶ》して型を付けたものもあるが、最も古風なのは精巧な削り掛けがしてあつた。それを手に執ると、實際もう常の心ではをられなかつたのかと思ふ。

　鹿兒島縣の一部などでは、この棒をダシヤレ棒ともいつてゐる。大歳《おほとし》または十四日の年越の晩に、家々の門に來てこれを振りまはし、ダシヤレダシヤレ、またはハーラメダーセ、すなはち孕み女を出せとわめくのである。現在は大(28)抵お菓子や餅を與へて歸すだけだが、固い家では表口に俵をならべその上に花嫁を坐らせて、尻を打つまねをしてもらふ土地も他縣にはあり、または子のないのを歎く女が、所望して打つてもらふといふ例さへ稀にはあつた。枕草子には宮中の人たちが、隱れて女を打たうとしたことが面白く書いてあるが、無論かういふ行事は戯れになりやすく、小兒はまた決していたづらが嫌ひではない。だから中央部がはじめで、次第に今日の公認せられた惡戯となつたのである。あるひは粥杖《かゆづゑ》といふので別ものゝ如くにも見えるが、それもまた一つの祝ひ棒の役目から出た名であつた。

　

　　　　　力あることば

　

　正月十五日の前の晩に、子供が人の家の前に來てわる口を言ふ風習が、稀にはまだ農村には殘つてゐる。羽後の飛島などではそれが必ず兩の手に一本づゝ、ヨンドリ棒を持つてゐてすることにきまつてゐた。家の男女の一年間の隱しごとを、隨分と露骨にいつてしまふのだが、それを黙つて圍爐裏ばたで首を垂れて聽いてゐるのださうである。小兒は勿論人の秘密などは知らない、又は片はし知つてもそれを言ひ現はす言葉はもたない。だから若い衆などが附いて來て、小聲でその文句を授けるのが例であつたといふが、そのやうにしてまで小兒の口から、常は言はないことを言はせてゐたのは、つまりはこの正月の祝ひ棒の力を認めてゐたからであつた。

　早川孝太郎君の飛島圖誌に、このヨンドリ棒の繪が出てゐる。島追ひの日が過ぎると背戸の樹の下などに、その毎年の棒を積み重ねておくといふ。ヨンドリ棒については言つて見たいことが色々あるが、子供に關係がないことだからごくざつと述べると、この棒の材料は桑の木で、上端を削つて眼鼻口を描いたのが、我々の問題にしてゐるオシラサマとよく似てゐる。奧州でオシラサマといふ木の二本の切れを持つて、神の言葉を傳へるのは小兒でなく、イタコ(29)又はモリコと稱する盲目の婦人であるが、この二つの間には共通點があるのみならず、小枝の鉤になつたベロベロの神、一名カギボトケといふものも元は同じ目的に使はれた。それが今はたゞ兒童のあてもの遊戯の中に、幽かな殘形を留めてゐるのである。

　大人がかういふことをするのはもう阿呆らしくなつて、自然に子供の眞似をするのは放任したといふ場合もあつたと思ふが、別に最初から小兒を適任とし、彼らに頼んでさせたといふ行事も、一部にはたしかにあつたのである。たとへば年取つた者ならまだ憶えてゐるだらうが、近畿とその周圍の昔かたぎの家々で、正月元日の朝の起きぬけに、特に彼らをして言はしめた詞、

　　　ゆの木の下のおん事は

　　　さればその事めでたう候

といふ問答などは、意味は分らぬなりに久しく守られてゐた。私たち兄弟も元はそれを言つたことがある。さうして何だか大切なものであつたやうに今にいたるまで印象づけられてゐる。

　

　　　　　ゆの木の祝言

　

　日本外史を讀んで、笠置の山の行宮《かりみや》の御夢に、二人の童子が現はれて楠の樹の下を指ざし、爰ばかりがせめて安らかなる御座所と、御告げ申したといふ記事に接する毎に、いつも子供心には、あの「ゆの木の下の御事」を聯想せずにはをられなかつた。さうしてこの二つはまるで關係のないことではないやうに、今でもまだ考へられるのである。

　ゆの木を私たちは柚子《ゆず》のことかと思つたので不審であつたが、これを土地によつては、

(30)　　　やなぎの下のおん事は

と言はせてゐた家もある。ユといふのは「ゆゝしい」などのユで、元は齋《いみ》の木又は祝ひの木のことであらうから、或は最初門松などの下に立たせて、子供にめでたいことを唱へさせる習ひがあつたのかも知れぬ。信州の松本などには、盆の七日にも柱を立てゝ、その柱の根もとに一人の兒を坐らせて、祭をしたといふことが、たしか天野氏の鹽尻に見えてゐる。神の依りたまふ木から我々の中へ尊い言葉を傳へるのが子供の役であり、それが又正月の御祝ひ棒に言葉を神聖にする力が籠るとした古代人の理由かと思ふ。

　しかし小兒はそんな古い由緒を知らない。それに親たちの心持までは呑みこめぬ者が多いので、いつしかこの特權は濫用せられるやうになつた。一方にはこれを詮もないことだとあざ笑ふやうな氣風も、夙く文化の中心地には起つてゐたのである。安樂庵策傳の醒睡笑《せいすゐせう》は、元和年間に書き上げたといふ笑話集だが、その中には「祝ひ過ぎるも異なもの」といふ題で、そのやうな例が數多く出てゐる。

　　曰く鍛冶屋の長佐といひて西洞院《にしのとうゐん》にありし。物いはふこと人に過ぎたり。年の暮に孫の七八つなるを近づけ、元日にわが顔を見、日本のかなとこ〔四字傍点〕は皆ぢいのかなとこ〔四字傍点〕ぞといへと懇ろに教へし。あくる朝、やれ松千代、昨日のことはといふ時、日本のかなしみ〔四字傍点〕は皆ぢいのかなしみ〔四字傍点〕やといへり。

　今でもこれに似た笑ひ話は、ぼつ／＼と生まれつゝあることと思ふ。無心な小兒の言葉には思ひがけぬ啓示のあることも事實だが、あんまりそれに重きをおいてゐると、時々は興のさめるやうなことにも出遇ふので、まして西洞院の鍛冶屋の隱居のやうに、わざ／＼工作を加へたのは大抵は結果がよくない。ところが昔の村の人たちなどは悠長で、さう大して氣にもかけずに子供にはいひたいことをいはせて、をかしいことをいへばたゞ笑つて、古い仕來りの少しづゝ變つて行くのを、自然のまゝにまかせてゐたのだから面白い。おかげでまだ色々の昔が子供の間に殘つてゐる。

　

(31)　　　　　千艘や萬艘

　

　東北では正月の春田打ち、または田植と稱する行事が、土地によつては今もまだ少年少女の領分である。

　　　明きの方から早乙女が參つた

といつたり、または、

　　　田人《たうど》に來たよ　小苗ぶちが來いした

などといつて、彼ら自身もなんのことだか知らずに、たゞまはつてあるけば餅が貰へるものだと思つてゐる。それに相應の受け答をして、心よく用意の餅を出して與へるのみか、それが來なくなるのを何となく淋しく思つてゐる家もまだ多い。正月はもちろん田植の季節でないが、もとは一年のはじめに一通りそのわざを演じて、農作成功のまじなひとする風があつて、それには外部からかういつて來る者のあることを、一つの瑞相として歡迎したのであつた。ところが他の土地ではもうそのための職業團體が出來たり、または貧しい人たちが顔を包んで、門に立つたりすることがはじまつて、なんだか品の惡いものとして、親も學校も制止するやうになり、子供の正月の樂しみはまた一つ失はれた。

　これと似よつた例は四國の粥釣りや御祝ひそ、中國地方のコトコト・ホトホト、またはトロベイ・トヘイなどといふもの、九州奧州の兩端にあるカセドリなど數へきれぬほどの種類を私は知つてゐる。起源は少しつゝちがつてゐるかも知らぬが、いづれも正月に子供の口から、めでたい言葉を聽かうとした趣意は一つで、もしもはじめから賤しいと見られる所作であつたら、眞似をするはずもないのだから、いはゞ兒童はお株を取られたのである。

(32)　もとよりこの變化は近ごろのものではない。東京などでもまだ江戸といつた昔、町の子供が數人で小さな船の形をしたものをかゝへ、商家の店さきに來て入船の祝言を唱へてゐたといふことが、多くの書き物に殘つてゐるが、これなどもやはりいろ／＼の段階において今も諸國の船着場には行はれてゐる。たとへば津輕の鰺《あぢ》ヶ澤の柱かつぎ、筑前博多のセンザイロウなどはまだ子供の管轄に屬してゐる。そんな話を聽けば珍しがるだらうが、東京人の中でも小さな兒をかゝへゆさぶつて、

　　　千ぞや萬ぞ　お船はぎつちらこ

などと唱へてゐるのが、やはり古い文句の記憶であり、幼い者がそれを樂しんでゐるのも、幽かながらその相續であつた。

　

　　　　　猿ちご問答

　

　今は東京市内になつた高井戸あたりの子供が、もとは甲州街道に出て富士登りの道者に、

　　　お撒《ま》きやれお道者　御山《おやま》の天氣もよからうに

と、錢を撒くことをねだり、もし撒かずに行くと後から、風吹け雨降れといふやうな惡口をしたといふことが、百年ばかり前の紀行に見えてゐる。百年も以前に行はれてゐたものならば、古來の風習だらうと即斷する人がないとは言へぬが、私には一つの零落の姿としか思はれない。見ず知らずの旅人が村を通つて、遠くへ物詣りをするやうな場合がさう早くからあつたはずもなく、またどこに行つても見られる出來ごとでもないからである。なにかもとづくところがあつたらうとまでは考へられる。しかし少なくともかういふいやなことをするやうになつたのは、別に新たな誘(33)因があつたのである。

　しかも道行の多い街道筋、殊に大きな神社や靈場に參詣する路では、今も時々は旅客の袂について施しを求める風儀が殘つてゐるぐらゐで、勿論江戸近郊だけの特例ではなかつた。私などがこれについて思ひ出すのは參宮名所圖會にも出てゐる「さるちご問答」その他、旅人が最初馬鹿にしてかゝつた路傍の小兒から、あべこべに遣りこめられるといふ話で、わが邦ではこれを西行上人や宗祇法師の逸話として、妙に數多く各地に傳へてゐる。知らぬ人も少なからうがこの例を一つだけ擧げておかう。伊勢では櫛田川のほとりのある村で、可愛い童子が樹の上にゐるのを見て、

　　　さる稚兒と見るより早く木に登り

と口ずさんでいゝ氣になつてゐると、すぐにその童子が下の句をつけて、

　　　狗のやうなる法師來たれば

とやり返したので、ぎやふんとあつて早々に遁げ去つたといふ話。その「さる稚兒」は今ならば目に立つほどの美少年とでもいふ言葉だが、それを猿に引掛けて木に登りとからかふと、一方また猿に對して狗といつた、つまりは平凡なたゞの口合ひではあるが、「狗のやうな法師」はあのころのはやりで、旅の連歌師などが自らを嘲る言葉だつたからをかしいのである。兒と法師との多くの問答は、いづれの土地の傳説でも、皆かならず前者の勝利をもつて結ばれてゐる。その賢しい童兒は實は神樣の化現であつたなどといふのを見ると、單なる民間文藝の趣向ではなしに、或はもと路ばたに出て旅の參詣者に呼びかけるやうな宗教的の職業に、子供が參與する慣はしがあつたのではないかと思ふ。

　

(34)　　　　　公認の惡戯

　

　味をしめるといふことが、よく子供についてはいはれる。子供には自制の念が乏しいのは當り前だから、してもよろしいとなると大抵のうまいことが、癖にもなれば流行にもなりやすい。惡戯に獨創のものが少ないのもそのためであつた。

　大阪郊外の村里などにも、八月十五夜の團子突きがつい近ごろまであつたが、あれは全國的といつてもよいほど、各地の子供に知られてゐる惡戯であつた。細い長い竹竿のさきに、縫針や釘などを附けたものさへ關東にはあつた。それを垣根の隙からそつとさし入れて、縁端のお月見團子を取つて行くのである。中には家の人たちがゐる前で、さして來てやつたと自慢する子がある。取られた家でも笑ひながら代りを補充したり、または十五夜團子は盗まれるほど好いと言つたり、その盗んで來たのを貰つて食べると、何かのまじなひになるといふ人さへあつたのだから、面白くてたまらなかつたわけである。

　一方にはまた御手本といつてもよいものがあつた。村に嫁迎へがあると若い衆はよく酒をねだる。これを樽入れ、笊轉《ざるころ》がしなどゝいつて、そつと背戸口から空の容器を持込み、知らぬ間に持つて行くのが普通だつたが、或は竿のさきに樽を結はへて、高塀の外からぶら下げるといふ例も多く、熊野などではこれを釣瓶さしと呼んでゐた。これも家の方では快く入れてくれるのだが、顔を見られまいとする所に一種の冒險味があつた。子供は恐らく狩獵のやうな氣持でそれを羨みまた眞似たものであらう。

　取られる側からいふと一種の豐富感、餘つて誰にでも遣りたいといふ幸福を、味はひたい際なのだから、相手が容(35)易に悦ぶ子供ならば、なほのこと取らせてやりたかつたであらう。

　千葉縣の鼻村などは苗代の種蒔き日に、子供は燒米袋といふのをこしらへてもらつて首にかけて村中をもらひあるいた。雛の節供にお雛はん見せとくれといつて來る子供は、昔も今も炒《いり》豆や菓子が目あてであつた。關西ではこれを雛荒しといふ土地が多く、愛知・岐阜の二縣などは、ガンドウチといふ名が今もまだ行はれてゐる。ガンドは中世語で強盗のことだから、まづ極端なる誇張であるが、以前は斷りなしに雛の供物を取つてゆくのが、子供には何よりの樂しみだつたらしい。やれガンドウメなどと笑ひながら、勝手に炒豆や菓子をつかんで行かせた、昔の人の心持は氣樂でよいと思ふ。

　

　　　　　左義長と正月小屋

　

　公認せられた子供の惡戯といふのが、今日はちつともなく、以前は相應にあつたことは、可否は別として、ともかくも世の變り目である。復活させたくもないものは無論幾つかある。さういふ中でもわれ／＼外部の者の眼に、やゝ憎らしくも思はれるのは正月小屋の生活、ちやうど左義長をやく前後の少年の跋扈であつた。道祖神の勸進と稱して木竹藁を集めあるき、少し出し惜しみをするとすぐに惡口をする。さういふ惡太郎が仲間では、幅をきかしてゐた土地も稀でない。

　もつとひどいのは通行人に錢をねだり、道路に繩を張つてその繩に泥を塗つておくといふのさへあつた。甲州の道祖神祭のごときは、その我儘が殊に甚だしく、これには面白づくで青年も多數に參加してゐた。小屋のある場所には御山木《おやまぎ》または歳《とし》神社といふ木を立て、これから綱を引いて家の爐の鉤に、それ／”＼結びつけて置くといふ村も多いが、(36)憎まれてゐる家では飯時にやたらにこの綱を搖かされて鍋も藥罐も掛けておくことが出來なかつた、といふやうな話も殘つてゐる。

　そんなことまでして叱らなかつたのは、正月ばかりは子供らが神主さんだから、といふやうな考へがまだ幽かに傳はつてゐる土地が多いためであつた。そんなら何神樣の神主かと問ふと正月樣だといふ人もあり、道祖神と思つてゐるものもあつて、結局はつきりとしないが、石城《いはき》郡の海岸一帶などには、七小屋參りと稱して七つの小屋を巡拜し、またはその小屋を燒く以前に年寄たちが、御賽錢をもつて御參りする村があるのである。それを怠る者がだん／＼と多くなつて、いよ／＼この小さな神主さんが荒れ出したのである。

　左義長は關西の方ではたゞ飾り物を燒く行事のやうになつてゐるが、それでもまだ少年がこれを自分の事業のやうに心得てゐる。中部地方から關東では一般に、大か小か一つの小屋を掛けて、その中には神壇を設け燈明供物を上げ、子供の仲間がその中で寢ることを「おこもり」といつてゐる。愛知縣などでは舊十一月の山神祭に同じ事をするやうだが、共に十五日の早曉にその小屋を燒くことをもつて、祭典の終りとしてゐることは一つである。私が今住んでゐる多摩川一帶の農村においては、この正月行事をサイト燒といふが、藁で作つたサイト小屋はどの村のも八疊敷ほどの大きさであつた。そこへ三つの團子を樹の枝の三つ叉にさして、參詣かた／”＼村の人が燒きに來るのである。

　支那事變が姶つてから、遠慮をしてやめたものが多いが、ある一つの部落などは子供が寢てゐるのを知らずに、その小屋に火をかけて、かはいさうなことをしたので、その翌年からやめてしまつた。ともかくも今はもう正月小屋の末期である。

　

(37)　　　　　こども組

　

　正月小屋の中では、をかしいほどまじめな子供の自治が行はれてゐた。或は年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になつた者を親玉または大將と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる實力はなく、これを中老だの隱居だのといつてゐる。指揮と分配とは一切が親玉の權能で、これに楯つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘な兒でも、こゝへ來ると欣々然として親玉の節度に服してゐる。これをしをらしくもけなげにも感ずるためか、年とつた者は少しでも干渉せず、實際にまた一つの修練の機會とも認めてゐたやうである。

　この子供組の最もよく發達してゐるのは、信州北部から越後へかけてであるが、他にも飛び／＼にこれが見られる土地は多い。古くからあつたものゝ消え殘りのやうにも考へられるが、それにしてはあまりに他の地方に痕跡がなさ過ぎる。何か基くところはあつたにしても、それがこの程度まで制度化したのには、別に新たな原因が加はつてゐるのではないか。興味の深い問題だと思ふ。

　一つの想像は青年團の影響である。十五は昔から男が一人前になる年であつたが、若い衆の資格が追々とむつかしくなつても、實際はまだ何年間かの準備期間が必要であつた。中老などと子供組ではいばつてゐても、若連中に入つては使ひ走り、だまつて追ひまはされてゐて一向に頭が擧らない。かれらの側からいふと、こゝでまた一囘の努力がいるのである。さう思つて見るときは、子供組の活躍が何か若連中に加はる目的にばかり、集中してゐるやうにも見られぬことはないのである。

(38)　かれらが無心なる年少者の群と、正月十五日の自由とを利用して、成人を笑はせようとする歌言葉の中にも、さういふ形跡はたしかにある。正月は花やかに笑ふべき月であり、また笑ふとすればいづれこの邊のところに落ちるだらうが、かれらは思ひ切つて成長した男女の問題を、大きな聲でわめかうとしてゐたのである。既に一人前の知識・感覺を持つてゐるぞといふことを示さうとする態度がよく見られる。穩當でないか知らぬが親も祖父も、みんな一度は通つて來た關門であつた。それがたゞ少しづゝ濫用せられてゐただけである。

　

　　　　　女兒のまゝごと

　

　あんまり男の子の荒々しい話に片よつたから、今度は方面をかへて「おまゝごと」の問題を考へてみよう。この遊びが日本では特別によく發達してゐるといふことを、皆さんは多分まだ心づいてをられぬだらうが、同じ年をとつた人たちの所作を眞似るといふ中でも、まゝごとのお手本はさう手近いところにはないやうだ。さうして男の子の鳥追ひやもぐら打ちと同樣に單なる遊戯といふ以上に、まだ一部分は村の公務といつてもよい?態が殘り傳はつてゐるのである。

　これを發見するには最初にまづこの遊びに、季節または機會があるかどうかを注意して行くのがよいかと思ふ。カマクラと稱する秋田縣の雪小屋などは、以前の鳥追歌や御火焚棒《おほたきぼう》がまだ殘つてゐるにも拘らず、今では女の兒が火鉢なんか持込んで、靜かに煮炊きをして樂しむ場所になつてゐる。他の地方の正月小屋でも、餅を燒いて食べ、または世話をする宿があつて、子供ばかりの食事をするのが彼等にとつては重要な事務であつた。たゞしこれだけは女の子を入れない。

(39)　或は天龍川筋の雛送りのやうに、三月節供の日に川原に蓆を敷き、火を焚いて飲み食ひを中心にした少女の集りがあるが、もとは東京の近くの馬入川筋の村にもあつた。まゝごとの地方色はいろ／＼ある中に、若狹の常神村などでカラゴトといふのが、やはりその川原事《かはらごと》であつたらしい。たゞし三月の雛遊びの日に限らず、盆に川原に出て川原粥・川原飯を炊いて食べる方が、むしろずつとひろい風習であつた。

　場所は川原でなくとも磯ばた・海のほとり、または遠くの見える丘の上・橋の袂などを選ぶこともあつた。とにかくに屋外で食べるだけでなく、調理までをするといふのが一つの特色で、それによつて辻めし（美濃）、門飯《かどめし》（五島）、門《かど》まゝ（紀州）などの名があり、また大抵は中元の行事であつたゆゑ、全國を通じて盆かまど・ボンクド・盆飯・盆粥といふ例が多いのである。食べ物を野天でこしらへるといふことは、大人でも興味を持つほどの珍しい事件なのに、ましてやこれに携はつた者がいつの世からともなく女《め》の童《わらは》であつた。どうしてかういふことをするのかは彼らにはわからぬ。たゞその面白さを忘れることができなくて、折さへあればその形をくりかへして、おひ／＼と一つの遊びを發達せしめたのである。

　

　　　　　精靈飯

　

　まゝごとは親が見ても靜かでしをらしく又他日の修練にもなつて、同情のもてる遊びであつたが、それが最初から遊戯として生まれたものでないことは、盆のまゝごとの一つの例を見てもわかる。濱名湖周圍の村々ではシヨウロメシ、瀬戸内海のある島では餓鬼飯とさへいふ通り、盆は目に見えぬ外精靈や無縁ぼとけが、數限りもなくうろつく時である故に、これに供養をして悦ばせて返す必要があつたと共に、家々の常の火常の竈を用ゐて、その食物をこしら(40)へたくなかつた。それが門・辻・川原等に、別に臨時の臺所を特設した理由であり、子供は又觸穢の忌に對して成人程に敏感でないと考へられて、特に接待掛りの任に當つたものと思はれる。

　お盆飯の材料は家々から持寄り、米などは貰ひ集め、野菜ものは畠から取つて來てもよい。或は大角豆《さゝげ》だけは勝手に畠に入ることを許してゐたといふ土地があるのも、私には意味のあることに思はれる。盆に來る精靈は、大角豆畠に暫らく隱れて居るといふやうな言ひ傳へもあるからである。地方によつては盆棚の供物、殊に水のこ又は水の實と稱して、茄子をこま／”＼と刻んで水と米とにまじへたものを、家々から貰つて來て味を付けて煮ることもある。箸にはかならず精靈樣の麻稈《をがら》を折つて用ゐ、めい／＼が喰べる前に先づ辻々で無縁ぼとけを祭り、又は少しづゝ近所の家に配つてまはるといふ例も多い。私はまださういふ場所に行き合せたことが無いが、小さな女の子が年上の娘の子の指圖を受けて、まじめに一生懸命に働いてゐた樣子はほゝゑましいものであつたらうと思ふ。一度は自分もさういふことをして來て、年を取つた村の女たちが、悦んで傍から世話を燒き、またはこの食物をもらつて食べておくと夏痩せぬまじなひなどゝいつてゐたのも、すべて皆いつからとも無い仕來りだからで、たとひ小さな女の子のすることでも公務であり、どんなに樂しくてもそれはやはり勞働であつた。

　これが普通の日のたゞの遊戯となつてしまふ前から、まゝごとといふ言葉は恐らくは有つたのであらう。コトといふのは古い日本語で、祭その他の改つた行事を意味してゐたらしい。�ｺ島縣の伊島などでは、盆のまゝごとといふのがこの精靈飯の儀式のことであつた。盆以外にも同じ行事が元は多かつたであらうが、もうその目的が盆ほどには明らかで無く、從つて人が注意をせぬうちに、追々と變化したかと思ふ。

　

(41)　　　　　盆と成女式

　

　盆のまゝごとと正月のドンドン小屋と、今一つの似た點は成長段階、すなはち子供が大人になる境目を、かなりはつきりと區切つてゐることであつた。遊びのまゝごとは七つ八つ、もう少し大きな兒は冷淡になるに反して、この日は年かさの親玉ともいふべき者が采配を揮つて臨時に女の子供組が組織せられる。讃岐の小豆島の餓鬼飯などは、十六七歳の女子のみが參與するらしく、伊豫の宇和地方の御夏飯にも、年頃の娘ばかりの集會があるといふことだが、その他の多くの土地では頭に立つ女は、もう一人前に近くなつてゐても、これに附き隨ふ面々は村の少女の全部で、それが組織ある行動に出づることは、左義長の子供組も同じであつた。

　さういふ中でも特色のあるのは對馬の阿連《あれ》村などに行はれてゐるといふ盆の十四日のボンドコであつて、トコといふのがやはり釜壇のことであつた。島誌のしるす所によれば、こゝの少女團の首領は十七歳で、その指導の下に村に二箇所の大きな竈を粘土と小石をもつて作り上げ、その上に臺を置いて男女二つの粘土製の人形を載せる。翌十五日には、こゝで飯を炊き、村の若者達の踊と芝居をする組に送る例になつてゐる。信州淺間の山麓の村では、この盆竈の行事をカマツコといふさうだが、これにも物前即ち成女期に近づいた女たちが率先して、米と少しの錢を持寄り、食物を調へて村の青年たちを饗應するのが定めであつた。これが如何なることを意味するかは、多分彼等にもわからなかつたらうが、少なくとも今まで全く經驗せぬ心のときめきを感じたことだけが推察せられる。

　男の兒が盆飯を炊くといふ例も東北などにはある。或は男と女と二組に立分れ、一方の築いてゐる竈を壞して行くといふ惡戯も稀にはあつたといふことを聽いてゐる。女十七歳といふのは少し大きくなり過ぎてゐるが、これも正月(42)のオンベ仲間の中老と同じく、もとは單なる顧問格だつたかも知れぬ。伊豆の田方郡の盆の竈などは、これを作り上げる者は十四歳の娘ときまつてゐた。珍しい話だがその時は必ず腰卷を取つて出て來た。といふのは多分この日から、新たに裳をはく者といふことであつたかと思ふ。こゝでは男の兒の竈はなく、たゞその少女組の竈を突崩しに來るのを、十三歳以下の娘が協力して一生懸命に防衛するのが重要な役目であつたといふ。

　

　　　　　こどもの新語

　

　子供は自分たちの遊戯を改良し、また發逢させる能力を具へてゐるといふことが、まゝごと鬼ごとの二つの遊びにおいては殊によく見られる。盆の門まゝの行事は既に成人が重きを置かぬやうになつた土地でも、彼らは一朝にしてその模倣を中止しなかつたのみか、むしろその中の最も面白かつた部分を殘して、他を新たなる環境に適するやうにかへていつて、昔の生活樣式を我々のために保存してゐるのである。御禮を言はなければなるまい。

　皆さんの郷土でまゝごとを何と呼んでゐるか。これと今日流行の姉さまごとゝはどういふ關係にあるか。とにかく子供を理解するために、また我が身の昔を省みるために、も少し互に他所のものを比べ合ふ必要があるかと思ふ。私などにも今はまだわからぬ言葉が多いが、氣長に集めてゐるうちには、案外なことが見つかるといふ經驗だけはもつてゐる。たとへば備前の邑久《おく》郡などで、まゝごとをバエバエゴクといふのは、釜の下に焚く火を形容した小兒語がもとらしい。

　夕方子供が食事を待つ間、明るく燃えるものに注意を向けてゐたことは、火と燃料とに關する多くの名稱が、彼らの製作にかゝるのを見ても察せられる。九州でバエラ、中部地方でバイタ、モヤとかボヤとかいふのもそれであり、(43)近畿一帶で松毬をチチリ・チンチロなどゝいふのもそれかと思ふ。だからバエバエゴクも御飯をたくわざ〔二字傍点〕といふことに解せられるのである。下總の海上《うなかみ》郡ではオミツチヤゴといふのがこの遊びの名である。今ではあの邊でもあまり耳にしないが、もとは臺所を御水屋といつてゐたので、それで煮炊きの眞似を御水屋事といひ始めたのであらう。安房半島に行くとケンゴト又はケエヤドツコ、ケといふのは常の日の食事ごしらへで、その仕事をケシンといつてゐる土地も他にはあるが、ケエヤドといふ語はちよつと解しかねる。これはカヒヤド即ち臺所のことで、古語にもカヒヤがあり、八丈島ではカヒコヤとも呼んでゐる。それが幼い者に採用せられたために、偶然に今も殘つてゐるのである。

　しかしまゝごとの起りは前にもいふ樣に、毎日の食べ物ごしらへの眞似ではなかつた。何か改つた日の食事の物々しさと、これに伴なふ興奮に印象づけられて、自分も役者として働いてゐたのが始めであつた。それを忘れてしまふと新たにまた似合はしい名を付けて、少しづゝ遊びの興味を補足して來たものと思はれる。

　

　　　　　くばりごと

　

　まゝごとは次第に御客遊びの方へ展開していつたやうだが、それに入らぬ前に調理した食物を、隣近所の人たちに持つて行くといふ段階があつて、それが今でもなか／＼人望がある。東京などの小さな女の兒は、カランコロンとロで木履の音をさせつゝ、何べんでも御馳走をぢゝばゝの處へ持つて來てくれる。富士山南の村々でまゝごとをコンバ、或ひはオコンバといふのは訪問辭であらう。これだと盆の十五日の辻飯分配の方式が、まだ片端は保存せられてゐるのである。�ｺ島縣の北部でこの遊びをクバリアヒ、飛騨の高山でクバリゴト、配るといふのは正式食物の贈與で一段と元の心持に近い。

(44)　甲州の北｜巨摩《こま》郡ではオワザツコといふのが、姉樣ごとの方言だと郡誌にはあるが、東國ではワザツトはもと物を配るときの辭令の語であつた。どうしてわざと〔三字傍点〕といふかは考へて見る人もないが、近ごろの感覺では「しるしばかり」といふのに同じく、われ／＼が最小限度、守らずにはをられぬ御義理だつたので、單なる氣まぐれのお遣ひ物を眞似てゐるのではなかつた。

　遊戯にはまゝごと・鬼ごとに限らず、下にコトといふ語を添へるものが多い。今ではゴツコ・ゴク・ゴとなり、またはナコ・ナンドなどにも變化してゐるが、コトの本來の意味はワザ・オコナヒ・フルマヒも同樣に、儀式もしくは祭典といふことだつたと思ふがどうだらうか。子供の生活を離れて一ぺん考へて見たいものである。青森縣のまゝごと方言は色々あるが、大體に南部領はオフルメヤコ、津輕領はオヒルマイコまたはジサイコナコといふのがひろい。ジサイコは津輕から秋田へかけて、中央でいふ法事・佛事のことで、文字には持齋と書くべき語と言はれてゐる。すなはち、あの地方のまゝごとは、外形が法事と似てゐたのである。加賀の金澤などではこの遊びをオジヤコトといつてゐる。御座は年忌でなくとも僧を請じ、説教を聽聞する人寄せであるが、やはり法事のやうに食物が出たものと思はれる。フルマヒは今では物を食はせることのごとく解せられるが、やはり定つた吉凶行事のある日のことで、たゞこれには必ず御馳走が伴なつただけである。まゝごとの地方名としては米澤でもオフルマエゴト、伊豆の半島でもフルミヤツコ、遠く飛び離れて肥前の小値賀島《をぢかしま》まで、ホンミヤナンドといふ語が行はれてゐる。さうして多分もうその理由が忘れられてゐるだらう。

　

(45)　　　　　おきやく遊び

　

　上州の桐生附近ではオキヤクサンヤツコ、信州諏訪地方でオキヤクボツコ、又はオキヤナンコといふのが東京などの御客遊びに該當する。九州でも熊本縣の球磨郡をはじめ、まゝごとをキヤクナンドといふところは多いやうである。遊戯中心の移るにつれて、新しい名も次々に生まれてゐる。大垣の附近にはゴチソウサンゴト、信州でも上田地方にはヨバレツコもしくはオンバレコ、これは新舊二つの方言のたがひに接近して紛れやすくなつた例である。一茶の方言雜集にオバチコとあるのが、多分北信の例であらう。子供遊びに柿など切り刻みて、呼んだり呼ばれたりすること也とあるが、これは呼ばれごとでなく、姥《うば》ごとの方から出てゐるかと思ふ。

　御客遊びをオクサンゴツケンと呼んでゐる例が、大分市にはあるといふが、越後のどこかにもオカサマゴツチヨといふ名が出來てゐて、この方はかなり起りが古い。たとへば「甲斐の落葉」にはオカダツコ、食物調理の眞似をして遊ぶこと、即ちまゝごととあるが、南大和の方言集にも、雛遊びをこゝではオカタサンゴトといふとある。宮城縣はほとんと全國を通じて、オカカブツ・オカカボチといつた記録がある。主婦をオカタといふのは中世以後の標準語であつて、それを小兒があどけなく發音したのが、今日のカアサマ・カカサン・カカ・オツカーなどの語を作つてゐる。彼らの功勞は國語の先生よりも大きいかと思ふ。

　まゝごとの主役はおかつぱの主婦だつたのである。だから主婦の名が變ればそれについてまゝごとの名も變つて行くのである。母をオウカチヤマといふ越後の新發田邊ではオガチヤマゴト、主婦がジヤジヤと呼ばれる秋田縣の北部ではジヤジヤボツコといふのがまゝごとのことである。ジヤジヤは中世の茶々の局などのチヤチヤと同じく、もとは(46)緑兒が母を呼ぶ聲から出たものらしい。今では父をチヤンと呼ぶ方が多くなつてゐるが、越前の福井附近でまゝごとをジヤジヤンコ、紀州の熊野でチヤチヤボコといふのも、かつては母をさう呼んでゐた名殘りかと思ふ。さういふ例ならば外にも求められる。山形縣のオバコは今日は未婚の女のことだが、米澤地方ではまゝごとをオバコダチ、中國地方のヲバサンは他家の婦人のことなのに、但馬ではこの遊びをヲバサンゴトと呼んでる。それは皆家々の主婦をウバといつたころの遺物なのである。

　

　　　　　ゴコトンボ

　

　主婦をオカタといふ語が、上流に限られてゐる時代には、常人の家ではそれをウバといつたのである。その語もまだ殘つて東北ではアツパ、沖繩ではアンマがあるが、一般に呼名は許される限り上級へと登つて行つて、裏長屋にも奧さんは多くなつたのである。これから考へて行くと信州松本附近のやうに、御客遊びをオバゴトといつてゐるのは一時代古い頃の形といふことが出來る。靜岡縣でも西の方によるとオンバゴトがある。村によつて發音は少しづゝ變りオンバイゴトなどゝいふ兒もあるから、もう主婦の眞似といふことは忘れてゐるかも知れぬ。

　九州の端々でも上五島でバツジヨ、薩摩の下甑島ではバツコーといふのが、ともにまゝごとを意味してゐる。それよりも更にわかりにくいのは紀州東熊野の尾鷲《をわせ》あたりで、ナンコビまたはゴコトンボといふのが同じ遊びの名である。ナンコビの方はまだ不明だが、他の一方は私には説明出來る。ゴコといふのは中國で、若い女性を意味するよい言葉であるが、そのゴコと姥との應對を眞似たことが、ゴコトンボの名の起りであつた。それによく似た例は伊豆七島の三宅島の一部で、まゝごとをネザンバまたはネタンパアといふことで、これは「ねえさん婆さん」の意味だといふこ(47)とを、島の人もまだ知つてゐる。村によつてはオンバツコもしくはウンバージといふところもあり、そのウンバージも姥爺だらうといふ。主人夫婦のことをオヂンバ（土佐幡多、近江伊香）、オンジヨウンボ（鹿兒島縣）、バオジ（出雲）、ウバグヂ（陸前栗原）などゝいひ、または熊手と高砂の繪から思ひ寄つて、ジヨウトンボといふ土地もあるのだから、ゴコトンボも決して不思議な名ではない。

　但し女の兒の遊戯に出て來るゴコは、たゞの年若い娘ではなく、花嫁御のことであつたかと思ふ。常の日には見られぬやうな化粧をして、里で散々練習をして來たよい口上で、新たな家の姥と對談してゐる姿を、眼をまん圓くして傍聽してゐた小娘たちが、それを自分たちの遊戯の名とし、または中心としようとした氣持は、神事のわざをぎ〔四字傍点〕が近世のたゞの芝居になつて來た經過と、何だか似よつたものがあるやうな氣がする。食物の調理を中心とした古い遊戯が次第に眼で視、耳で聽く樂しみに移つて來たのは、必ずしも明治以來の新文化の影響だけではなかつたと私は思つてゐる。

　

　　　　　鬼事言葉

　

　人形がおまゝごとに參加したのは、遠い對馬の阿連の例はあるが、一般にはずつと新しいことで、今ある姉樣遊びに伴なうてひろまつたものらしい。姉樣遊びの姉さまが新嫁の別名であつたことは、あの顔より大きな髪飾り、紅の衣裳の染模樣を見てもわかるが、その花オカタが古いオカタと同居して、特に姉樣と呼ばれて區別せられる必要などは、元は少なくとも村落にはなかつたのである。

　この姉樣人形が入つて來たころから、まゝごとは次第に食べる遊びでなくなつた。三宅島のネザンバなどはどうか(48)しらぬが、子供は人形を相手にして遊び出すと、急におしやべりになるか、さうでないまでも言葉の樂しみを味はふ力が出來てくる。大人が傍にゐるうちは黙つてゐるが、それでも獨言や心の中の言葉が數を増して、感情のやうやく濃やかになつて行くのがよくわかる。やたらに切り刻んだものを食べさせまいとする、衛生おかあ樣の心遣ひはなくとも、文化が進めばまゝごとは文藝化せざるを得なかつたのである。私は實は人形の普及がこれを促した大きな力ではなかつたかと思つてゐるのだが、その説明をし出すとまた長たらしくなるから、今囘は見合せておく。とにかくに日本の子供遊びは、全體に込入つたものが多くなり、且つ文句が面白くまた繁くなつて、言葉の樂しみといふものが親たちの近頃の會話よりも大きかつたのである。

　さういふ中でも特によく發逢してゐるのは鬼ごとであらう。これも名稱が自ら語るごとく、最初は神社佛閣の鬼追ひ行事に、少年を參加せしめたのが起りと思はれるが、今日は野球の規則の一部を採用したアブト鬼といふのまでが各地にはやつてゐる。内田武志君の靜岡縣方言誌の一册が、丹念にこの種類を集めてゐる。全國各地の兒童界にも、親がこしらへて與へたとは思はれぬ色々の鬼事術語が、土地毎に制定せられてゐる。

　たとへば何かの理由で一人だけがタイムを要求する合圖の語に、ミツキ・ミツコ・ニツキ・モンキ・マツチ・チヨマ・ゴイロ・ゴイ・ゴー・タンマ・タンコ・テンマ・タエマ・オヒマ・マヒ・ドツパ・ベン等、さては幼少な者を加へて特別扱ひにすることをチヤチベ・アブラボウズ・カハラケ・ナベコ・ヒデコ・ミヅツコ・スボノコ・ロツパ等々、一々土地を擧げその由來を考へようとしたら、讀者が困つてしまはれるだらう程も數多く出來てゐるのである。

　

(49)　　　　　狐あそび

　

　信州｜小縣《ちひさがた》郡の民謠集に、鬼遊びの童詞が七章まで載つてゐる。

　　　鬼の來るまで　洗濯でもしやしよ

　　　鬼の來るまで　豆でも炒りやしよ

　　　がら／＼がら／＼　石臼がら／＼

　　　豆はたきとん／＼

　鬼を激昂させる手段として、東京でも洗濯だけはいふが、かうなると、もう一つの演劇であつて、しかも作者は土地の子供の外にあり得ない。あるひは文句を他所から聞き覺えて、呪文のやうにそれを守り、または若干の作意を加へたものが鬼きめの言葉には多い。羽後の大館附近に行はれてゐたのは、

　　　隱れぼつちにかたなの者は

　　　しんざのこちやのれんげの花

　これを新澤といふ村の麹屋のことのやうに思つてゐたさうだが、實は非常に古くからある小さ子法師、すなはち一寸法師の物語であつた。江戸でも早くから意味が分らなくなつて、チーチヤコモチヤ桂の葉などとうたつてゐた。備前の岡山では、

　　　つーちやこもちやかづらの葉

　　　ねんねがもつたらちよと引け

(50)　すなはち東北は遠いだけに、まちがひが幾分か大きかつたのである。

　鬼きめといふのは、小さな握り拳を竝べさせて、歌の文句に合せてその上を突いて行くのだが、その言葉にも遊戯の趣意を説かうとする、序曲のやうな役目があつたのかも知れぬ。殊に隱れ鬼や目くら鬼では、遊びのなかばでは聲を立てることが出來ない故に、初めに歌つて置く文句が多かつた。

　　　だあまれ／＼雉の子

　　　鐵砲かたげがとほツぞ

　　　うんともいふな屁もひんな

　これは肥後の球磨地方の、モウゾウ隱れ（隱れんぼ）の歌であつた。是よりも一段と劇的なのは今も田舍に殘つてゐる狐遊び、大阪でもと「大和の源九郎はん」などといつた鬼ごとである。百年以前の嬉遊笑覽にも、

　　鬼ごとの一種に、鬼になりたるを山のおこんと名づけて、引きつれて下に屈《かゞ》み、とも／＼つばな拔こ／＼と言ひつゝ、茅花《つばな》拔くまねびをしてはてに鬼に向ひ、人さし指と大指とにて輪をつくり、その内より覗き見て、是なにと問へばほうしの玉といふと、皆逃げ去るを鬼追払かけて捕ふる也

と見えてゐる。今日の「御山の御山のおこんさん」遊びの筋書は、もうまた大分長くなつてゐて、これに子供でなくては言へぬやうなをかしい問答が數多く繰返される。

　

　　　　　子買ほ問答

　

　私などが子取ろといつてゐた遊びは讃岐ではオトリコトリ、南伊豫でウシノコトリといふのも同じで、鬼事の一種(51)であつた。強い大きな兒を前に、順々に帶に手をかけて繋がり、鬼がその後の兒を捕らうとするのを、動きまはつて先登が防ぐので、これは動作があまり激しいので、短い單調な言葉しかくり返されてゐなかつた。ところが別に今一つ、

　　　子買ほ子買ほ

　　　子を買うてなんにする

　　　赤のまんまに魚そへて食はそ

といふやうな問答を、際限もなく遣り取りする遊びがあつて、それを大阪では子取りといつたときくが、本當であらうか。

　子買ほの文句は國々で實によく發達してゐる。奧州の端では子賣ろといふさうだから、元は「どの兒がほしい」といふのが一般であつたと思はれるのだが、近頃は遊びの名前までが變つて來てゐる。たとへば熊本の附近では猫もらひ、越後の岩船郡でも猫ぢや猫ぢやといふのがこの遊びで、

　　　猫ぢや猫ぢや

　　　どの猫ほしや

　　　後の何々猫ほしいわ

といふ類の問答をする。仙臺の市中の子供はこれを雀とりといつた。

　　　どの雀よかろ

　　　いつも來るよな誰それ雀よかろ

　　　どの茶碗でかせる（食せる）

　　　金の茶碗でかせる

(52)といふ風に、着物や家などを次々にたづね、それが一通り終ると、名ざされた子供が、自分でブーンといつて飛んで來る。即ち子供は問答の面白さに氣を取られて鬼事はもう忘れてゐるのである。しかし埼玉縣で雛買ひといふのはこれに反して、婆さんが川越の市へ雛人形を買ひに行き、一つ／＼を見立てゝ、くすぐつて笑はぬのを買はうといつたり、臼を挽かせたり、よくないといつて返しに來たり、芝居同樣の色々のしぐさがあるのだが、それでゐて留守にその雛が逃げ出し、それから鬼ごとになるのだといつてゐる。察するに最初は、「向ひのをばさん御茶のみにお出で、鬼が怖くて行かれません」のやうに、または遠州の鰛屋問答で、鰛の値段をきいて「負からんと後の子を取るぞ」といふやうに、鬼の遊びを面白くする前幕であつたのが、末には兒童がその文藝を愛するあまりに、これを獨立した靜かな遊戯の一つに、作り上げたのかと思はれる。

　

　　　　　國語と子供

　

　年をとつた者に子供の話をさせると、どうしても懷舊味ばかりが多くなる。もう全體を説き盡くせないことがわかつたから、手短に私の要點と思ふことを述べよう。

　いはゆる兒童文化は孤立した別個の文化ではない。國にそのやうな離れ／”＼のものが、竝び存するわけがないとすると、單に一國一時代の文化相が兒童を通して視ればまたちがつた印象を與へるといふまでの意味しかない。さういふ心持をもつて皆さんと自分は、この兒童文化を少しばかり見なほした。兒童は私が無く、また多感である故に、その能力の許す限りにおいて時代々々の文化を受入れる。古く與へられたものでも印象の深さによつて、これを千年・五百年の後に持ち傳へると共に、いつでも新鮮なる感化には從順であつた。さうして常に幾分か親たちよりも遲く、(53)無用になつたものを棄てることにしてゐたらしい。殊に國語のうるはしい匂ひ・艶・うるほひなどは、かつて我々の親たちの感じたものを、今もまだ彼らだけは感じてゐるやうに思ふ。かういふところに歴史を學ばうとする者の反省の種が潜んでゐる。

　どうしてこのやうに無心な者の言葉が、聽けば身に沁むのかといふことを考へて見るのもよい。風のない晩秋の黄昏に町をあるいて、

　　　大わた來い／＼まゝ食はしよ

　　　まアまがいやなら餅食はしよ

といふ歌を聽いて、涙がこぼれたことも私にはあつた。或は白髪の翁が圍爐裏の脇で、膝の子の小さい手をおさへながら、

　　　ひいひいたもれ

　　　火が無い無いと

　　　この山越して

　　　この田へおりて

などゝ歌つてきかせてゐるのも、單なる昔なつかしの情を超えて、我々を教訓しまた考へさせる。火もらひは燧石の普及よりも、もう一つ以前の世相であつた。それが奧州の昔話や信濃の山村の子守歌だけには殘つてゐる。老人の記憶にはまた一つもとの子供がある。言葉が面白いために消えてしまふことが出來なかつたのである。霞ヶ浦の湖岸の村にも、

　　　ひいころ火ころ

　　　火は無い無いぞ

(54)　　　おばたの下で云々

といふやうな歌がある。東京では年少の者を罵るのに、ヒイヒイタモレといふ語があつた。すなはち元はこの土地にも同じ歌が、幼い人々に口ずさまれてゐたのである。

　

　　　　　鹿遊び

　

　鹿・鹿・角・何本の遊びが、近江と筑後の二箇所にあつたといふことを、物珍しさうに書いておいたところが、忽ち全國から百七十何通の手紙が來て、自分の土地にもあると告げられたのにはびつくりした。この御禮の方法は別に考へなければならぬが、とにかく大要をこゝに載せて、讀者におことわりをする義理が私にはある。

　この遊戯が近ごろまで行はれてゐたのは大體に九州と四國、殊に福岡と愛媛の二縣は、各郡市殘らずといふほどに分布してゐるが、東の方も千葉縣の東海岸、越後佐渡にまで及んでゐた。報告のなかつたのは奧羽六縣と富山以西の日本海側の諸縣及び長野・岐阜の中部二縣だけで、近畿東海にもぽつ／＼とあるが、やはり瀬戸内海のまはりが多い。百七十何通といつても、同じ土地から幾人もの知らせがあつたのだから、總數にして二十四の市と五十五の郡と、五つの島との計八十四箇所に、現在もなほ行はれ、またつい近年まで確かに行はれてゐたのである。報告者はいろ／＼の年齡の人で、いづれも十年・二十年の前に自分が携はつてゐた記憶を喚び起してなつかしいと言つてをられる。若いおかあ樣たちを讀者に豫期してゐたのだが、かういふ意外な人までが見てをられたのである。なるほど新聞はよいものだなと、改めてまた經驗したことであつた。

　そんな話よりも、遊戯のどう變つて來たかといふことを、あらましだけでも述べておかねはならぬ。このごろの鹿(55)遊びは、一體に男の兒の荒々しい運動となり、女が參加することは出來ぬやうになつてゐる。一人がうつむいて馬になることは外國のも同じだが、遠くから走つて來て木馬のやうに飛び乘り、足が地に附いたり、乘りそこねたりするのを負けとしてゐる所さへある。それでゐて例の鹿々何本を、まだ掛聲のやうに唱へてゐるのだから、考へて見ると子供は面白い。伊豫などでは胴乘りと稱して、幾人もの子供が帶をつかまへて繋がり、長い馬になつて組を分けて乘りつくらをしてゐるのもあるが、やはりまだ鹿何ちやうなどゝ、數を當てさせる言葉を使つてゐる。さうして他の多くの例では、依然として當てられた兒が次の馬になる遊びなのである。

　

　　　　　遊戯の進化

　

　九州・四國が最も新しい流行地である故に、變化も一段と烈しいのではないかと思ふ。第一に角といふ語を落してゐるのが多い。初めてシカシカが鹿だつたといふことを知りました、と言つて來た人も多勢ある。或はチカチカなんぼ・チケチケ何本・カチカチなんぼといふ處もある。京都はこの鹿々が犬にでもなつたものか、

　　　ベスペスこれなんぼ

などゝいつてゐる。この唱へ言葉はもつと奇妙に變つてゐるのだが、それはもう一度後でいふ。四國から東では、大體に鹿の角といふ者が多いから、何本といふ問ひの意味はまだ忘れてしまつてはをらぬらしいのである。

　最初これがあてもの遊びの一つであることを知つてゐた間は、女の兒の中でも行はれてゐたものと思はれる。九州北部でも稀にはシカシカ何本と唱へて背なかを叩き、指の數をいひ當てさせることをしてゐたと、あるわかい女の人は報告してゐる。それを男の遊びを半分だけ眞似たやうに思つてゐるのは多分誤りで、まだ他の地方ではお年玉の數、(56)銀杏や榧《かや》の實の數を隱して、相手に當てさせるにも同じ言葉を唱へ、または手を組み、輪になつて、中央に一人の兒をしやがませ、目を押へて物の數を當てさせる場合にもなほ口々にこの鹿々何本を唱へてゐたといふから、馬乘りの方が寧ろ一つの應用だつたとも見られるのである。

　土地によつては、何の申し合せもなしに、不意にかゞんでゐる兒の後から乘りかゝつて、指を高く掲げて鹿なんぼと問ふといふ例もある。これは面白かつた遊びのおさらへとも考へられぬことはないが、濱松地方などでは家の中でこの遊戯をすることがあり、それは唯うつむいてゐる背なかの上で、鹿の角に何本あるかを問ふだけで、女の子もこれに參加するといふから、少なくとも以前はもう少し靜かな、同じ馬乘りとはいつても、たゞこちらを見てはゐないといふことを確かめる目的で、相手を屈ませてゐただけかも知れない。

　二つの遊戯の結合する場合は多い。たとへば石蹴りなどは私などの全く知らなかつた遊びだが、東京でいふチンチンモガモガ、關西でいふ足ケンケンの上手な兒なら、誰でもこれに參加せずにはゐない。ケンケンも元は蹴ることを意味してゐたのかも知れぬが、近ごろはたゞ片足で飛んで「ケンケンばた／＼なぜ泣くね」の歌を、うたひあるく遊びだつたのである。

　

　　　　　兒童文藝

　

　それからまた、この鹿遊びの外國から入つて來たといふことを、全然無視してゐたのも惡かつた。必ずさうだとは誰にもいへまいが、さういふこともあり得るとまでは認めなければならぬ。越後高田のある女學校で、明治初年に教育を受けた一女性がこの遊びを記憶してゐた。こゝに來てゐた米國人の教師で、格別に子供の好きな人があつて、澤(57)山のあちらの遊戯を教へて行つた。これもその一つであつたやうにこの婦人はいつてゐる。これは確かな事實であるにしても、今ある九州・四國の鹿々なんぼが、こゝから運ばれていつて發達したといふことまでは到底證明する道はないであらう。しかしこの程度の出來事なら、同時に他の土地にもあつたかも知れない。私の受取つた報告の中には五十年前にあつたといふものが三つ、あるひは七十近いお婆さんが、私の生まれる前からあつたといつた例も同じ越後にあつたが、それにしたところで明治以前でない。兒童の遊びは他の慣習とちがつて、一年のうちには百度もくり返され、眞似の上手な手あひが熱心に見つめてゐたのである。一旦流布するとすれば足取りは早かつたはずである。

　注意すべきことには、鹿々角何本といふやうに安らかな日常語で問ふ例は割に少なく、前に掲げた濱松市をはじめ、神奈川・山梨・富山などの諸縣には、

　　　鹿よ鹿よ汝の角は幾本なりや

といふ類の、近ごろの新文章口調で問うてゐるものが多い。それが滋賀縣にも、香川縣にも、又シカシカなんぼの最も盛んな福岡縣にもあるのは、あるひはまたこの言葉の珍しく、かつ大人くさいのに興味をひかれたのが、はじめだつたかもしれぬ。指の數を當てさせて、はづれたとき、ちがふといふ代りに正しい數をいひ、「三本何本」と疊みかけて問ふ風は九州にもあるが、大分縣の方には最初から、

　　　レイボン、何本

といふ妙な問ひ方があつて、それを零本のことだと解してゐるらしい。滋賀縣の犬上郡でも、

　　　レイボン、鹿の角何本

　　　鹿の足何本

などゝいふ聞き方があるといふ話だが、このレイボンなどが、或は何らかの手掛りではあるまいか。私はなほ他の地方の變つた事實に、これからも氣をつけてゐたいと思つてゐる。

　

(58)　　　　　ネンガラの鉤

　

　念木・念棒の問題についても、二十何通の通信を私は受取つてゐる。遊びの方式はどこの土地もほゞ一樣で、たゞ細かな規則に少しづゝの差異がある。名稱は隣どうしの村々でもちがつてゐて、しかも不思議に遠い地方との一致が認められる。あまり數が多いので私も全部は列記しなかつたが、やはり一ばん多いのはネンで、その中でもネンガラ・ネンガリなどがひろく行はれてゐる。木とか棒とかクヒとかいふものゝ、今一つ古い言葉がカラではなかつたかと私は思ふ。

　ネンガラには元は皆鉤枝がついてゐたらうといふのが、私の新しい意見であつて、これにはまだ同意の人が少ないやうに思はれた。しかし自分が鉤のある念棒を用ゐてゐたといふためでなく、本來は二叉に岐れた木の枝といふものが、特別に靈の力があるものゝやうに、我々の祖先には考へられてゐた。その心持が今も子供の中に傳はつてゐる如く感じたからである。二また大根などは近頃の話だが、もとは「またぶり」といふ股になつた杖を、旅の聖などは皆ついてゐた。西洋で占ひの杖といふのも皆これで、金鑛地下水の發見の技術も、また北亞細亞名物の寶捜しも、もとはすべてこの枝によつたのであつた。ネンガラの童戯が果して私の想像のやうに、最初子供らしい大人の占ひの方法に出たものならば、必ず鉤があるわけだと私は思つてゐるのである。

　ところが關西のネンガラにはもう一般に鉤がない。ないのが當り前のやうにいふ人が多いので、少しばかり弱つてゐると、これも幸ひに實例が出て來たのである。九州でも中央の山地にはまだ鉤のあるネンがあるらしい。豐後の玖珠《くす》地方のものは久留島武彦氏が圖示してくれられた。たゞしこゝのは關東とちがつて、小枝の方を長くして把手にし(59)てゐる。それでは力の入れ方が我々とは異なつてゐたらうと思ふが、とにかく呼吸だから、覺え込んだものが傳はつてゐるのである。或は鐡で打たせたものもあつて、これも棒ではなく、よほど曲つてゐるのが面白いと思つた。山口縣の一部では、キリコまたはネコといふのが、鉤のある念木の特別品であつた。佐賀縣および豐前の一つの報告では、ネン木は通例は直ぐな棒だが、時には枝附きのものを大事にして持つてをる子がある。この方が勝負に強く、相手に打たれてもくるつとまはつて容易に倒れぬからといふことであつた。

　

　　　　　鹿遊びの分布

　

　朝日新聞のこども風土記の中に鹿・鹿・角・何本の遊戯のことを書いて置いたら僅か七八日の間に、驚くぺし百七十餘通の手紙葉書が到着し、それが何れも近年までこの遊びをして居たといふ、關係者自身からの知らせであつた。この方面に於ては民間傳東の會はまだ無識であり、且つ怠慢であつたことが明らかになつたから、罪滅しの爲にその資料を整理して、同志諸君に報じ、又この問題を起してくれたアメリカの學者に通信し、同時に各地の書?の主に感謝の意を表したいと思ふ。一々その氏名を掲げるのが本意だが、あまり數多いのでそれが出來ない。たゞ次の二十四市・五十五郡と五つの島、合せて八十四箇所以上の土地に、ほんの僅かづゝの變化を以てこの鹿遊びが行はれて居たといふことを、御互ひに知つてもらひ、且つそれを比較し綜合して見ると、斯ういふことが考へられるといふ迄の報告を以て、私の答禮に代へたいのである。

　先づ最初に現に鹿々の遊戯が行はれ、又は近い頃まで行はれて居たことの、確かなところは次の通りである。地名の下の數字は受取つた書?の數で、二三人以外は皆成人だから、是だけの諸君が獨立に記憶して居り、又思ひ出して(60)くれられたのである。

　

　　福岡縣久留米市　5　福岡縣門司市　　　 大分縣大分市　　5

　　同　　三井郡　　　 同　　企救郡　　　 愛媛縣宇和島市　2

　　同　　八女郡　　　 同　　京都郡　　6　同　　西宇和郡　

　　同　　三池郡　　　 同　　田川郡　　4　同　　八幡濱市　2

　　同　　大牟田市　4　同　　絲島郡　　　 同　　喜多都　　2

　　同　　浮羽郡　　　 佐賀縣三養基郡　　 同　　上浮穴郡　

　　同　　朝倉郡　　3　長崎縣北松浦郡　　 同　　伊豫郡　　2

　　同　　福岡市　　4　同　　佐世保市　　 同　　松山市　 16

　　同　　糟屋都　　2　同　　壹岐芦邊浦　 同　　温泉郡　　7

　　同　　鞍手郡　　5　熊本縣菊池郡　　　 同　　越智郡　　

　　同　　直方市　　　 同　　八代郡　　　 同　　大三島　　

　　同　　嘉穗郡　　6　大分縣下毛郡　　　 同　　今治市　　6

　　同　　宗像都　　2　同　　中津市　　 2 同　　周桑郡　　

　　同　　遠賀郡 　10　同　　宇佐郡　　　 同　　新居郡　　

　　同　　八幡市 　11　同　　東國東郡　　 同　　宇摩郡　　2

　　同　　若松市　　3　同　　別府市　　　 香川縣三豐郡　　

　　同　　戸畑市　　　 同　　大分郡　　　 同　　伊吹島　　5

(61)　　香川縣仲多度郡　京都府京都市　　2　　山梨縣北巨摩郡

　　山口縣宇部市　　　三重縣阿山郡　　　　神奈川縣足柄下郡

　　同　　吉敷郡　　　滋賀縣滋賀郡　　　　同　　中郡

　　廣島縣廣島市　　　同　　大津市　　　　同　　高座郡

　　同　　倉橋島　　　同　　犬上郡　　　　千葉縣夷隅郡

　　同　　豐田都　　　同　　彦根市　　　　群馬縣吾妻郡

　　岡山縣淺口郡　　　同　　高島郡　　　　新潟縣高田市

　　兵庫縣赤穗都　　　愛知縣碧海郡　　　　同　　南蒲原郡

　　同　　加西郡　　　靜岡縣濱松市　　　　同　　中蒲原郡

　　大阪府北河内郡　　同　　沼津市　　　　同　　佐渡相川

　　和歌山縣日高郡　　同　　田方郡　　　　富山縣下新川郡

　

　此表で明らかなやうに、大體にこの遊びの分布は西の方、殊に九州と四國との北半分に片よつて居り、福岡、愛媛の二縣などは、殆と全般といつてよい位だが、それと繋がらない他の府縣にも飛び／＼に弘く行渡つて居る上に、方法と言葉の異同が入組んで居るのは、何か一つの古い起りがあつて、近年の流行ではないやうに思はせる。しかしその傳播の實?なり、又子供の新しい遊戯を迎へる熊度なり、習癖なりは、今日まだ決して明らかになつて居るわけでもない。寧ろ斯ういふ顯著なる實例に基いで、改めて是から研究せられてよい問題である故に、汎く兒童文化の考察者の爲に、我々はこの記録を殘して置きたいのである。

　遊びの方法は大體に馬乘式で、背なかを敲くといふのは至つて少ない。荒い擧動である故か男の兒が主であつて、(62)女もして居たといふ例は二つだけである。單純な組合せは三人で一人が行司、數を當てられた兒が次の馬になることは普通で、たゞ問答の文句と節とが、土地毎に少しづゝちがつて居る。指は上に向けて高く掲げる者が多く、片手は馬を押へて居て五本以下の數しか問はない。兩手で十までの變化を爭ふといふ例も稀にはあるが、斯うなると馬の不利益は甚だしい。さうでなくとも多くの兒童が代る／＼、どしんと乘りかゝるのは相應にやりきれなかつたと言つて居る人がある。或は握り拳をさし上げてモゲタ又はモゲタリといふ處も九州に二つ三つあるが、是は多分土地だけの改作であらう。もつと大きな變化は伊豫の各地に於て、幾人かの子供が前の子の帶を捉へて、連鎖式ともいふべき長い馬になり、それへめい／＼が走つて行つて飛乘るもので、是は胴乘りと呼ぶ村もあつて、馬飛びの運動との結合かとも思はれる。鹿々何本の文句は口にしながらも、指の數は當てさせずに、落ちたり足が地に附いたりするのを負けとしてゐるものがある。

　九州のどこからしい或一地では、鹿とは言はずにたゞ馬乘りになつて、

　　　トントントンこれなんぼ

と問うて居る例がある。或はもとその文句に合せて、背なかを叩いて居たなごりではないかと思ふ。或は男生徒のこの遊びをするのが羨ましくで、自分たちでも互ひに背を打つて鹿々なんぼを唱へ、指を出して當てさせる戯れをして居たと知らせてくれられた女性が三人ある。問ひの言葉に格別の興味をもち、節を付けて唱へて居るのが一般であるのを見ると、之はこの方を主として居たのが、後追々に相手を馬にして飛び乘る擧動の方へ移つて來たのではないかとも思ふ。佐賀縣の例では始めからの申し合せも無く、不意に後から乘りかゝつて指の數を問ふ戯れもあるといふ。これなどは愈々背なかを叩く方が元の形ではなかつたかを考へさせる。

　次には指の數を問ふ文句であるが、これには殊に面白い變化がある。全體に鹿・鹿・角・何本とくぎつて、はつきりと言ふ者が少く、九州などは、

(63)　　　しか／＼何本

又はシカナンボといふのが普通で、それが鹿だといふことを今始めて氣づいたといふ人も多かつた。鹿の角を明らかに言つて居るのは、九州では博多と京都郡とたゞ二箇所だけで、其他はシタシタ何本と謂つたり、又はチカチカ何本といふ者が方々にある。廣島市などでは、

　　　チケチケワンボ

とさへ謂つて居る。紀州の日高郡でもチカチカこれ何本、京都では又、

　　　ペスペスこれ何本

　つまり鹿の遊びだといふことはもう忘れて居るのである。

　愛媛縣の方に來ると、鹿の角何本といふのがまだ處々に殘つて居るが、一方には色々の言ひかへが始まり、それも九州ほどには統一してゐない。最も簡單な、しかしかなんぼ以外に、たとへば、

　　　しかいちなんぼ（喜多）

　　　しかちんよなんぼん（松山市等）

　　　しかしかなんちやう（温泉）

　　　しかやんなんぼ（越智）

　　　しか／＼しかの年なんぼ

　その他の珍しい變化が現はれて居る。是は運動の間拍子とも考へ合せて見るべきものであらうが、とにかく意味もわからぬ語が永く傳はるには、別にそれ／”＼の理由が隱れて存するものと見てよい。注意すべき點はなほ幾つかあるが、九州でも大分郡と別府の町とだけに、

　　　レイボン何本

(64)と言つてきく例がある。是は下の兒の答へが當らなかつた場合に、それを打消して「三本!　何本」と疊みかけて問ふ言葉ともみられるが、一本も出さずに握り拳で出すことを、零本といふのは少し出來過ぎて居る。ところが遠く離れて滋賀縣の犬上郡でも、同じ遊びは背の上から指を立てゝ、

　　　レイボン、鹿の角何本、鹿の足何本

といふのがあつて、土地の人は零本と解して居るやうだが、是などは問ひの始めだから殊に妙に聞える。何か原因のまだ捉へられぬものが有るのではないか。小さなことのやうだが手掛りは斯んな所に潜んで居ると思ふ。

　それからもう一つ、是は同じ滋賀縣の大津などできく問答の言葉に、

　　　鹿のつの／＼何本あるや

　　　三本あるわ

　　　よう當てた

といふのがある。「あるや」は兒童の平語で無いだけに、自然には生まれなかつたものゝやうに思はれる。大津から京都へ越える山中の村でも、

　　　鹿よ鹿よ角何本

　九州方面でも朝倉郡に、

　　　鹿々何本なりや

　福岡市では、

　　　鹿の角何本なるか

　豐前の京都郡には、

　　　鹿の角々何本なりや

(65)　　　三本なァリ

などゝいふ問答があるといふが、是が飛び／＼に廣い地域に及んで居る。少し煩はしいけれども列擧して見ると、たとへば香川縣の三豐郡では、

　　　鹿よ鹿よ立てたる角は何本か

　同じく多度津では、

　　　鹿よ鹿よ汝の角は何本あるか

　東海道の方に來ても濱松市は、

　　　鹿々何本の角ありや

　相模の海岸では、

　　　鹿々汝の角は何本よ

と問ひ、甲州の北巨摩郡では、

　　　鹿よ鹿よ鹿の角は幾本なりや

　當山縣の入善地方に於ても、

　　　鹿よ鹿よ汝の角は何本なりや

と謂つて居る。斯うした一致に至つては偶然ではあり得ない。或は最初外國にあつたものを直譯に移したかといふ想像も成立つのである。

　外部に獨立した證據の無い限り、さう斷定してしまふことは勿論出來ない。我々の一つの仕事は明治以前の文獻の中に、之を記したものが全く無いといふことを確かめることであるが、それは容易ではないだけで無く、記録に無いといふことは實はまだ當てにはならない。平凡なる日常の生活は、筆に表はされずに幾らでも傳はつて居るので、他(66)の多くの兒童遊戯とても、必ずしも何かに出て居るとはきまらぬからである。しかしこの場合に考へて見るべきことは、我々の慣行には年に一度又は人一代にたゞの一ぺんといふやうな、くり返しの間遠なものが多いのに比べて、子供の遊びは毎日の事件であり、これに參加する者は無數である上に、模倣と發明との境目も立たぬほど、印象に忠實な人たちであつた。機會さへあれば學び移し、遠くへ運んで行く足取りは速かだつたらうと思ふ。たゞ斯ういふ海川山坂を以て區畫せられて居る國土に於て、如何にしてその機會が得られたらうかゞ、今はまだ具體的に答へられぬだけである。鹿々の遊戯などは、幸ひにして互によく似て居て、到底中心無しに別々に始まつたものとは思へない。だから各地の實例を引合せて、やがてその運搬の路筋がわかつて來るかも知れぬのである。

　次にはこの遊びが古くからあつたらしいといふこと、これも滋賀縣と九州の一角とは、飛離れて二つだけあると思つて居た間は、私などもさう推定せずには居られなかつたのだが、斯うして中間の飛石がほゞ繋がつて居る以上は、確かとは言へないまでも又別な考へも成立ち得るのである。同じ一つの土地からの報告を比べて見ても、四十歳の人は三十年ほど以前、三十歳の人は二十年ばかり前の、記憶に據つて居るのが多く、もうこの節はやつて居らぬやうだといふのも事實である場合もあらうが、一方には近頃まで、又は小學生などが今でもして居ると、知らせて來た者も有るのである。それと同樣に古い時代からといふのにも限度がある。二三の老人の手紙によると、五十年前にもあつたといふことは事實らしい。越後からは七十のお婆さんが私の生まれる前からだと言つたといふ話も傳はつて居るが、それにしたところで、明治より古くはない。その以前は今はまだ明らかになつて居らぬのである。同じ越後からは又次の樣な報告もあつた。明治の初年高田の女學校で教育を受けた老女が、この遊戯を知つて居る。この學校には米國の宣教師に特に子供が好きで、本國の色々の遊戯を教へて遊ばせて居た人がある。この人去つて後一つづつ無くなつてしまつたといふが、鹿々もその一つのやうに思ふとのことである。但し文句の飜譯口調になつて居るのは、越中の下新川のが最も近いだけで、越後では、

(67)　　　鹿々々の角何本だ

　又は、

　　　しかしかこの角なんぼだ

　佐渡の相川では、

　　　しかしか指何本

といふのが行はれて居る。從つて直譯くさいから米國からの輸入だとも言へないと共に、高田が唯一つの出發點だとも無論認められない。たゞ近世外國人から學び取つたといふことが、丸つきり有り得べからざる空想であるやうに私の考へて居たのは行き過ぎだつただけである。

　但し女の子の學校に於て、米國宣教師が教へた遊びにしては、飛び乘りは少しばかり荒々しいやうに思はれるが、是は唱へごとの文句も同樣に段々と變つて來たものとも見られぬことは無い。現在この遊戯の最も盛んな西南の二縣などは、寧ろ新しい流行地であるが爲に、今のやうなちがつた形になつて居るのかも知れない。もつと他の地方の遊び方を、詳しく尋ねて見なければならぬが、遠州濱松などでは家の中で、女の子も加はつてする遊びであつた。單にうつ伏しになつて居る背の上で指を立てゝ數を問ふだけで、馬乘り・胴乘りといふやうなことまではして居なかつた土地がまだ有るのかも知れない。前に言ひ落したが福岡縣の田川郡でも、女の子は御手玉を隱して數を當てさせるのに、やはり鹿々何本を唱へて居た。又あいにくと地名を擧げてないが、是も北九州の何れかの郡で、銀杏・榧の實などの數をあてる女の子の遊びに此語を用ゐ、中には「中の中の小坊主」と同じく、手を繋いで輪になつて中央に踞つた兒に、鹿々何本と謂つてその樹實の數をあてさせたといふ例さへある。是を男の子の遊びの眞似のやうに思つて居る婦人もあるらしいが、それにしては雙方の動作があまりにちがひ過ぎる。察するにあの活?な飛乘りの運動に合體したのが後の進化であつて、最初は先づ唱へごとの耳新しさが、小さな人たちの興味を誘うたので、それが又奇拔な(68)文章言葉の、遠くまで傳はつて行つた理由でもあらう。之を外國輸入の證據と認めるのはまだ早いとしても、少なくともこの言葉の出來た時代が、明治以後だといふことは疑はれない。さうして子供遊びの興味の中心が動きやすく、一旦その中心をはづれると存外容易に、そこだけは改まつて行くといふことゝ、女の子は比較的古い形を守るものだといふことゝが、是だけの材料からでも言ひ得るかと思ふ。

　

(69)　　　なぞとことわざ

　

(71)　　　　　なぞとことわざ

　

　　　　　　　小學校の朝

　

　私の村の小學校では、冬の寒いときでも火といふたのはなかつた。學校の窓は、大きな生徒の頭よりも少し高かつたが、みんなはその外の壁の前にならんで、日なたぼつこをして暖まつてゐたのであつた。いつでも遠い村から來る者が、かへつて私たちが行つてみると、もうずらりとそこにならんでゐた。さうしてかういふ子供たちのほうが、新しい話はたくさんに持つてきたのである。あのころは山にまだゐのしゝや鹿が多く、毎年三頭は出てきて撃ち取られた。少し暖くなると、方々に小鳥が巣をかける。雉が麥畠やそらまめの畠に出てゐては飛び立つ。秋はまたまつたけの大きなしろ〔二字傍点〕の發見とか、くりをかごに何杯とかいふ心地よい話まで、みんなこの奧の村から來る生徒だけが、自分も見たといつて話すことができたのであつた。それにくらべると里の事件などはつまらなかつた。私たちはあとからやつてきて、何の話をしてゐるのかがわかると、いそいでそのなかまに加はらうとして、よく大きな子供から、おれのかげになるなといつておこられた。それほどまでに村の學校の生徒たちは、變つた話には昔から、夢中になつてゐたのである。しかしだん／＼と日本の國が大きくなり、外へ出ていく人、外から入つてくる者がひじやうに多く、もうこの太平洋戰爭よりもずつと前から村で話になる事件は何十倍、何百倍といふほども増加し、話の種類もすつかり(72)ちがつてきてゐる。今ではあまりにも耳をかたむけなければならぬことが多いために、かへつて注意もせずに過ぎていくことが、いくらでもあるやうになつたのである。

　それからまた、さがせば何かの本にきつと書いてある故に、覺えてゐなくともよいといふ話も多くなつた。もとはわざ／＼覺えようとしなくとも、聞いたら一生がい、忘れずにゐられるやうな話が、かへつて今よりも多かつたのではないかと思ふ。もの覺えがよいと言はれる人は、本を全く讀まない人のなかにいくらもゐた。これはむしろ話の數が少ないので、念を入れて聞かうとするかたむきが強く、また自然にまかせておいても、それが印象となつて心にしみ込む力の、今よりももつと大きかつたためであるかもしれない。年をとつた人たちは、いつたいどういふことをもつともよく覺えてゐるか。それを知ることはよい參考になる。人がぜひとも忘れずにゐなければならぬことは、これから後も、もちろんます／＼多くなる。それを大きな苦勞もなしに、永く覺えておかせる方法が、今もそのなかからさがし出せるかもしれないからである。さういふ心持を持つてこゝではまた、なぞとことわざとの話をしてみようと思ふ。

　

　　　　　　　常とちがふ言葉

　

　昔の時事問題、村で新しいできごとといふものは、だれでも話したがり、また聞きたがることは非常なものであつたが、それは一つにはその數が少ないからでもあつた。無事といふのはまつたくその文字通り、毎年少しも變つたことがなくて、農作も祭もまた人の交際も、すべて豫定のごとく繰返されていくことで、それが何年もつゞくのは珍しいことではなく、住民もまたそれを願つてゐた。さういふなかでも學校に行く年ごろの者などは、よつぽど小さい事件までおもしろがつて話をしたけれども、それさへたねぎれになつてしまふことが折々はあつた。朝の授業の前の三(73)十分か一時間だけでも、そんな話はもう一つもないといふ時があつた。まして大人が寄り合つて日待をする晩とか、若い人たちの夜なべの集りとかには、聞きたい者ばかりで、話したい者がなく、あるのだけれども、まだ大きな聲でだれかれと話すわけにはいかぬといふ場合が多かつたのである。かういふときに歡迎せられたのは、老人の若いころの經驗、または前に聞いてよく覺えてゐる話、このなかには歴史もあり、また有益な科學もあつたわけだが、困ることには同じ話を、またしても同じ人にすることがあるので、よほどだいじにしまつておいたのでないと、聞く者の興味をひくことができない。

　つぎにいま一つは、旅から來た者歸つた者が、自分しか知らない外部の事實を語ることで、これは近年ます／＼多くなつてゐるが、そのなかには容易にさうかと思へないものもまじり、ことに旅商人などには、半分は手製を加へて、人をおもしろがらせるために持ちまはつてゐる者もあつた。名のみは世間話といつてゐても、たねは書物にあり、また昔話であつたといふものも少なくはなかつた。

　昔話といふものは、元來かういふ新しい話の缺乏をおぎなふために、久しいあひだ保存せられ、また發逢してきたもので、みなさんくらゐな年齡の人たちでも、聞いて覺えてゐるものは多いのだが、これにはふしぎに時刻のきまりといふものがあつた。昔話は夜分にするものだ。晝間昔話をするとねずみに小便をかけられる、などともいつて、いくら退屈でも朝から昔話をする者は少なかつた。傳説は村ではふつう言ひ傳へといつてゐるが、これはまたいつそう知つてゐる人がつつしみ深く、かなり改つた氣持でないとこれを人に語らず、したがつて少年少女は案外それを知つてゐない。だから學校の朝の日なたぼつこなどでは、耳新しい村のできごとが何もないとなると、そのあとはつまらぬ人の批評や、口まねやひやかしになつてしまひやすかつた。あの休み時間のがや／＼に耳をとめてみると、さういつたけんかにもう一歩といふやうな、叫び聲ばかりが高いのであつた。さういふなかにおいて、私などの今でもなつかしく思ひ出すのは、女の子やおとなしい男生徒の間で、なぞかけといふことがとき／”＼は行はれてゐたことである。(74)いまではもう村の小學校でも、さういふものは知つてゐる人さへないであらう。

　

　　　　　　　なぞのおこり

　

　いつか私はアフリカのカフィルといふ土人のあひだを旅行した人の紀行を讀んだことがあるが、その多くの寫眞のなかに「なぞなぞの出る時刻」といふのが、おもしろかつたのでよく覺えてゐる。これは部落のなかの年とつたのばかりで、よく日のあたる丘のかげのやうなところに、立つたりしやがんだり、ころんだりして、笑ひ顔で話をしてゐるのが寫されてゐた。かれらはひまだからいつでもこんな問答はできるのだが、それにはやはり古くからの習はしがあつて、あたゝかい日なたに出て休んでゐると、自然にそれが試みたくなつてくるものらしい。日本の子供のなぞかけは、冬の爐ばたのものであり、またこたつにあたるときの遊びであつた。これは老人がかたはらにゐて新しいものを教へてくれ、または小さい弟などの、相手にするのにちやうど都合のよい者がをるためとも思はれる。或はそのもう一つ前、人が集つて火をたく場合にかぎつて、かういふ問答をする慣習が、成人のあひだにもあつたのを、子供がたま／＼持ち傳へてゐたものとも想像せられる。それがなほ一段と遠い昔、まだ自由に火をたくこともできなかつた時代から、もうすでに太陽のあたゝかな光を浴びると、心がやはらぎ舌がなめらかになつて、しぜんになぞといふやうな新しいものゝ言ひ方が、出てくるやうになつてゐたものとも考へられぬことはないのである。もしもこれから後の學問の力で、それが明らかにさうだつたときまるものならば、私たち村の子供が學校の壁にもたれて、笑つて聞いてゐた小さなたはむれの言葉なども、或は數へることもできぬほどの大昔から、自分でも氣づかずに持ちつたへてゐたものゝ、かすかな名殘といふことになるかも知れない。

　ともかくも國語の力、言葉のはたらきがどれほどまで大きいかといふことを、なぞといふものによつて初めて知つ(75)た者は多かつたのである。同じ一つの物でも事でも毎日私たちが言ひあらはしてゐる形のほかに、もつとおもしろくまたは美しく、すこし考へて見てそれからわかるやうな言ひ方が、あつたことに心づいたのは、文藝の芽ばえといつてもよい。また一方には、毎日の常の言葉などで、氣がるに言ひあらはしてしまつては、あまりにもつたいない、あまりにたいせつな事柄がこの世にあること、それを考へてみてやつとわかるやうな、かしこい人だけに教へておいて、その他の人々の大きくなり、まただん／＼と物わかりがよくなつていくのを、待つてゐようとしたのは教育のはじめであつた。なぞが、國語のかくれた意味を殘らず覺えこまうと願ふ人たちのまことによい練習であつた時代は、ずゐぶんと久しくつゞいてゐたのである。そんなものを當てにしないでも、他にいろ／＼の方法があると、大きい人たちが考へるやうになつた後まで、子供だけはなほその競技の樂しさを記憶してゐて、折があると自分たちのあひだだけで、掛けたり解いたりして遊んでゐたものと私などは考へてゐる。子供がつくつたり持つて歩いたりしたために、この文藝は追々と子供らしくなつてゐるが、もと／＼それはけいこなのだから、だれにもわからぬやうなむつかしいものは、昔の世にもさう多くはなかつたので、したがつて今でも古い形だけは殘つてゐるかもしれぬのである。なつかしいことだと言はなければならぬ。

　

　　　　　　　なぞかけの作法

　

　私が小學校のころに覺えてゐたなぞの數は、四十も五十もあつたやうに思ふが、なかにはあんまりつまらぬのもあり、また忘れてしまつたのも多い。四つだけ、その中から例を出してみると、

　　　四方白壁、なかちらちらナーニ

といふのがあつた。これはあんどん〔四字傍点〕と答へるとあたるのだつたが、みなさんはもうあんどんといふものを見られない(76)から、さう聞いても別におもしろくもないであらう。白壁はちやうど私たちの小さなころに、急に村々に多くなつて、遠くから見るときれいなものだつたが、四方を壁にした家は珍しく、それに昔話の山姥のやうに、なかにちらちらと火が見えるといふのだから、子供の好奇心は動かされた。だから、あんどんだとはじめて聞いた者はみな笑つた。紙のあんどんの普及も、村としてはさう古いことではない。つまりはこのなぞは新しくつくられたものであつた。

　　　朝々赤い頭巾を着て庭をはいてをる者ナーニ

　これは、にはとりのことであつたが、やはりもうわからなくなつてゐるかも知れない。もとは家々に一つがひづゝ鷄がゐて、時をつげた。鷄舍とか圍ひとかいふものはどこにもなく、早朝に大戸をあけると、自分でばた／＼高いねぐらから飛び下りてすぐ餌をあさつた。それを庭をはくといふからをかしかつたのである。赤い頭巾といふのも印象のあざやかな言葉であつた。

　　　山で來い來い、畠でいやいやナーニ

　これは尾花と芋の葉と答へればよかつたのだが、あんまり言葉が歌のやうなので、すぐに答へる者は一度教へてもらつた子よりほかになかつた。今考へるとこれなどは多分大人がこしらへて與へたものだつたらう。

　　　いる時のいらぬもの、いらぬ時のいるものナーニ

　これなどは全國的に有名なよいなぞとなつてゐるが、實は私などの故郷には通用しにくいものであつた。答へは、風呂桶のふたで、入るときには不用、湯に入らぬ時ばかり入用、といふ意味だつたが、風呂には、ハイルといつて、イルといふ者は少なかつたのである。これはたしか私が何かの本で見つけて、學校に持つて來て出してみたのだつたが、わかつて笑つた子は二、三人だけであつた。つまりかういふ言葉のあや、または理詰めでやつと解るやうなのは、私たちのではなかつたのである。

　それよりも子供にとつて興味があつたのは、なぞかけにはすこしばかりの作法のあつたことで、まゝごとがたゞお(77)となの口まねをするのとはちがつて、こちらは子供としてはふだん言はぬ言葉をつかふのが、非常に改つたやうな氣持を、起させたのである。もとは東京などでも、これを始めようとする前に、

　　　なぞなぞナアニ

　　　菜つ切り庖丁、なあぎなた

　　　納戸のかけがね、はづすがだいじ

と言つたものださうだが、今はさういふ文句を知つてゐる者は少ない。たゞその一部分だけが、千葉縣の成田附近、または、遠く九州の阿蘇地方などに傳はつてゐる。しかし、これなどもたゞなぞのナの字をならべただけの、やゝおどけた言ひぐさに過ぎないから、その前にはもつと力のこもつた、これからはいよ／＼なぞの問答を始めるぞといふ、言ひ渡しのやうなものがあつたのかもしれない。東北地方の農村に行くと、

　　　何々さんナンジヨ

　　　たァでろ

といふのが、ふたりで始めようといふ時の合圖であつた。それで今でも「なぞを立てる」と言つて「掛ける」とは言はないのであるが、或はたゞ、

　　　ナンゾナンゾ

　　　なんかたナンゾ

と大きな聲でいつて、そのあとへすぐになぞの言葉をつゞけるところもあつた。九州の南の方では、

　　　ナンゾナンゾナーニ

または、

　　　ナゾナゾナイト

(78)といふだけであり、私たちの學校でも、たゞなぞかけしよと言つて、ウンと言はせてから始めるのだつたが、それでも答へをすることができぬときは、わかんないなどゝ言はずに、かならず、

　　　あげましよ

と言ふことにしてゐた。栃木縣などでも同じ場合に、

　　　あげて聞きましよ

と言つたさうだから、これは古くからの作法であつたかと思はれる。或はいつまでも返事をせずにゐると、熊本縣の方ではなぞをかけた子供が、

　　　からうな、からわんな

とたづね、相手がからうと答へてから教へる者もあり、或は、

　　　ぼろした、ぼらした、ぼろはいた

と言つてはやす者もあつた。また富山縣などでは、どういふ意味か知らぬが、相手が答へにつまると、

　　　げすァつまつたか

または、

　　　とと（父）ままくつたか

と言つてはやすこともあるさうである。

　

(79)　　　　　　　分類と比較

　

　富山縣では磯部さんといふ先生が、このなぞを三千以上も集めてゐるといふ話である。そんなに多くなると、なかにはつまらぬものゝまねをしたものもあるにちがひないが、それでも比較によつてどういふのが喜ばれたかがわかり、またこれをこしらへたり覺えたりしてゐたのが、おほよそどんなであつたかが明らかになつてくるであらう。學校に來てまでなぞかけをしてゐた者は少なかつたかもしれぬが、なぞといふものはかなり前から、やつぱり少年少女の領分だつたのである。

　私が全國の各地から、少しづゝ拾ひ集めたものをくらべ合はせてみても、だいたいに子供らしいものが多い。そのなかからやゝ珍しいものを、二十か三十かこゝにならべて、もうかういふ遊びをしないみなさんにも考へさせてみたい。かつこのなかの文字は採集せられた縣の名で、言葉に少しばかり方言がまじつてゐる。

　まづ第一に、山で、畠のなかで、庭でといふやうに、ふだん見なれた場所をあげるものが多い。

　　　山のなかに綿帽子かぶつてをるものナーニ（新潟）

　これはぜんまいといふわらびに似た植物で、ほしてから賣りに來るので、白い綿毛をかぶつてゐることを知らぬ者があるが、生えてゐるところはみな綿帽子をかぶつてゐるのである。

　　　山のなかに赤い脚絆はいてるものナーニ（同）

　新潟縣ではうど〔二字傍点〕と答へられ、秋田縣などではミズと答へられる。いづれも採るころには根もとが紅色をしてゐる。ぜんまいとおなじに春さきに山で採つてきて食べる。

　　　畠のなかにおしろいをつけてをるものナーニ（同）

(80)　これは東京ではトウガンといひ、他ではかもうりといふ大きな瓜であつた。熟すると白い粉がつき、また少しばかり人の頭に似てゐる。

　　　山にみのこ着てをるもの（岩手）

これはところ〔三字傍点〕といふ芋の一種で、毛が生えてゐるからかういふのだが、にがいものだから採つて食べる人は少なかつた。

　　　山からたいこたゝいてくるものは何（岐阜）

答へは水、つまりは谷川の水が、山國だからたいこの音をさせるのである。或はまた「山から祭してくる者は」といふなぞもあつて、これはひあふぎ〔四字傍点〕といふ花の咲く草である。さういふ祭禮のかざり物が出る土地でないと、このなぞは通用しない。

　　　山はぐるぐる雪ア降るナンジョ（岩手）

　これは粉をひく石臼のことで、この土地ではたゞスルス（磨臼）といつてゐる。かういふなぞから分れて出たかと思ふものに、

　　　むかうの山に小刀下げておくもの（福島）

　これは藤の實のことだが、今ではもうこの實の形をした小刀は見られなくなつた。

　　　家のぎやぐりたいこたゝいてをるもの（青森）

　ギャグリは家のまはりのことで、そこでたいこをたゝくのはあまだれだが、いまは金屬のとひといふものができて、もう萱屋根のあまだれもたいこをたゝかなくなつた。

　

(81)　　　　　　　爐ばたとなぞ

　

　親子兄弟といふ親しみの多い人たちを、問題にしてゐるなぞもなか／＼多い。

　　　親さま一人に笠二かいナーニ（石川）

　これは米俵のことであつて、兩端にあてる二つのさんだはらが、笠の形に似てゐるからかういふのである。

　　　親ふたりに子ひとりナーニ（富山）

　これははしごだといふことであるが、子一人といふのは、たぶん子が大勢の誤であつたらう。

　　　親子五人して板子しよつてをるもの（青森）

　板といふのは掌のことで、親子五人は親指から子指までの五本であつた。

　　　とどコも金コ、かかも金コ、なかのお竹子ナンジョ（岩手）

　これは煙管。まんなかが竹で前と後が金屬だからさういふのである。

　　　あんさあるけば穴になる、姉さがあるけば縞になる（秋田）

　これはゐろりの中の火箸と灰ならしのことださうである。なぞは爐ばたで常に行はれたから、このあたりのものを問題にするものが多かつた。

　　　兄弟三人首かしげ

といふのなどはもつとも有名で、どこの村に行つても知つてゐるが、これは灰の中におくごとくといふものゝことである。

　　　四つ子の背なかあぶりナーニ（新潟）

(82)　これは爐ばたの四本の木が、いつも火であたゝまつてゐるのを、背なかあぶりとたはむれたので、ところによつてはこれをまた、

　　　四つ子背なかあぶつて二つ子火をたくもの

といふところもある。その二つ子はたぶん火箸のことであらう。

　　　小僧三人絲ひつぱり（岩手）

　これは納豆の豆つぶを小僧といつたので、三粒も箸で取ればみな絲を引くからさういふらしい。

　　　六角堂に小僧一人、參りがなくて戸が開かぬ（石川）

　だれでも知つてゐるほゝづきのことをさういつたのである。

　　　ふたり坊主に袈裟一つ（福島）

　これも火箸のことである。火箸の頭がまるく、金の輪でつながれてゐるのを、袈裟といつたのは子供らしくてよい。能登などではこれをまた、

　　　小僧二人に數珠一れん

ともいつてゐるやうである。

　　　一つ目小僧に足一本ナーニ

　これは縫針のことで、どこでも知つてゐる人が多い。

　それからいま一つのよく出てくる形には「いつも何々してゐるものナーニ」といふ問ひかたがあるが、さういふものはあまりに明白で、小さな兒童の問ひだけにしか行はれない。さういふ中で、私にもおもしろいと思ふのは、

　　　いつもおしろいつけて隣に遊びに行くものナンジョ（青森）

　これなどは、何か娘か何かのやうな氣がしてちよつと氣がつかぬが、聞いてみると、すゐなうといふ目の細かいふ(83)るひのことであつた。布でつくつて粉をふるふもの、いつでも眞白であり、またよく隣へ借りられる。新しくできたなぞはかういふふうに、できるだけ言葉をたくみにして、人がたやすく氣のつかぬやうに、さうしてわかるとおもしろがつて笑ふやうに、こしらへたものが多くなつてゐる。「むかうは雪降りこちらはあられ」といふのもその一つだが、それと同じやうなのはまだいろ／＼とできてゐる。私はこれを半分は大人の助力、半分は子供がかしこくなつたためと思つてゐる。子供がおもしろがつて記憶しなかつたならば、さうながく傳はるわけがないからである。

　

　　　　　　　新しい事物と新しいなぞ

　

　名作といつてよいものを、もう五つか六つつけ加へておかう。

　　　若いときは白髪で年とつて黒くなるもの

　これなどはよくできてゐるので、廣い區域にひろまつてゐる。答へもみなさんに考へさせたいが、言つてしまふならば毛筆のことである。

　　　水にばちやばちや尾長鳥（岩手）

　柄杓のことであるが、さういはれでみるまでは氣のつかぬ者が多からう。

　　　千すぢの松原に鵯《ひよ》が鳴いて通るナーニ（石川）

　これも機織りのことだが、さうとはなか／＼わからない。おまけにこのごろは機を織るところを見た人が少ないので、このなぞのおもしろさはいよ／＼わからなくなつてゐる。

　　　百軒長屋に釜一つ

　これは汽車のことだから、できたのは古いことではない。むしろ新し過ぎる故に、聞いて意外に思ふ者が多かつた(84)のである。しかし珍しい事物が村にはいつてくるたびに、どうかしてそれをなぞにしてみたい者は、昔からあつたのであらう。豆腐を、

　　　白馬の骨なしナーニ

といふなぞなどは、北は奧羽の端から、西は中國地方の西部までいつてをり、卵を、

　　　口なし甕に水一ぱい（青森）

　　　口なし�ｺ利酒一ぱい（福島）

と言つてみたり、障子を、

　　　水のない田千町（岩手）

　　　あつちの山はつる／＼山、こつちの山はだん／＼山ナーニ（鳥取）

と言つたりするのは、やはりこれらのものがまだ珍しかつたころのものであらう。

　　　しよつてもしよはれぬ土�ｺ利ナンゾ

といふのは掘り井戸のことだつたが、これも村々では新しいものであつた。

　　　天目四つに苧《お》五兩ナーニ（鹿兒島）

　これは答が馬で、新しいものでないが、馬の四つのひづめにたとへた天目といふ陶器は、近世になつてからはいつてきたものであつた。

　それからいま一つは言葉の遊び、前にあげた毛筆や風呂のふたのやうに、聞くといかにもふしぎで、知つてみればなんでもないもの、これなどにも後になつて考へ出したものが多いやうである。

　　　拜めば拜めば長くなるもの（青森）

　　　立てば低くなりすわれば高くなるものナーニ（新潟）

(85)　　　まいてもまいても生えないものナーニ（福井）

　　　寒くなるほど暑くなるものナーニ（當山）

　　　孫は孫でも抱かない孫（青森）

などゝいふのがあつた。その第一は繩で、繩をなふ手つきが拜むのに似てゐるからであり、第二は天井、第三は水、第四は氷、第五はつまごといふ雪ぐつの前おほひである。かういふ種類のものには都會でつくつて、村に持ちこんだものも多少はあるやうである。

　

　　　　　　　耳の文藝

　

　古い昔のなぞがいつまでも、殘つてゐるといふのは少ないかも知れぬ。もとは考への練習用だつたのだから、あまり有名になるともう役には立たぬからである。しかしこの遊びが村でも都會でも、早くからあつたといふ證據だけは、書いた物のなかにも見られるばかりでなく、それが若い人たちをかしこくする教育の一つであつたことは、その名稱からでも察することができる。ナゾは「何ぞ」であつて問ふ人の言葉を、そのまゝ名にしたことは今までの例でも明らかであるが、それをまだいろ／＼の名をもつて、わが國では呼んでゐるのである。たとへば鹿兒島縣のある島ではイイキリムカシ、またある島では物合せといふのがなぞのことである。沖繩の諸島でも言ひ切りもの、またはあかしものといふが、ムカシといふのは語り傳へ、言ひ切るは一口でわかるといふことらしい。あかしものといふ名は古いとみえて、遠く離れた北陸地方でもさういつてゐる。そのほか考へものと言ひあてものといふ名前なども、今では少し別なものになつてゐるが、地方によつてはこれをなぞのことゝして使つてゐる。つまりは人間が國語といふものに大きな注意をするやうになつたのは、かういふ興味の多い問題がみちびきだつたのである。一度は何だらうと思ひ、(86)それを考へ始めてわかつてくるといふことは、子供を大人にする一つの關門であつたものと思はれる。

　なぞといふやうなかんたんな物言ひによつて、言葉のあやといふものにまづ心づいてゐたのは、私たちにとつては幸福なことであつた。人の言ふことには意味の深いものがなか／＼多い。だから落ちついて聞いてゐなければならぬと知つて、つぎに少年少女がことわざのほうに向いていくことができたのもそのためである。ことわざはなぞのやうにはつきりと指すものがない。文句全體を覺えてよく味はつてみないと、その眞の價値はわからない。したがつてこれは若い人たちが自分でつくることはせず、たいていは年とつた者の言つたのを記憶してゐて、自分もやゝ年をとつてから後に、適當な場合にはそのまゝ使つてみたり、または少しづゝ新しいのをつくつてみたりするのである。人にもよるけれども若いうちから、ことわざをよく知つてゐる者は利益を得てゐた。ことわざには人を非難し、または恥づかしめるやうなのがいくつもあつたが、それを知つてゐれば前もつて用心するから、しかられたり笑はれたりすることが少なくてすんだ。それから一方には、このことわざによつて、いろ／＼の必要な技術や知識が、容易に記憶せられて役に立つことが多かつた。子供とことわざとは直接の關係はないけれども、耳の言葉としては大きな影響を與へてゐた。これをそまつにするやうになつてから、物を覺えることがいくぶん骨が折れるやうになつてゐるのである。それで私はなぞの話のついでに、以前日本人の教育のために用ゐられてゐたことわざのいくつかを列記しておいて、折があつたらもう一ぺん、みなさんに考へさせてみたいと思ふ。

　

(87)　　　　　　　ことわざと天氣うらなひ

　

　ことわざにはわざ／＼少年少女のためにつくつたかと思ふほど、わかりやすく覺えやすく、さうして言葉のおもしろいものがたくさんある。いつごろ出來たといふことは明らかでないが、長い年月のおほぜいの經驗をつみ重ねて、もう大抵確かだと思ふことだけを言つてゐるのだから、土地に住みついてからよほどの後、さう古いものでないだけは想像し得られる。すなはち國語を自由に使ひこなす力を、もう私たちの親々は持つてゐたのである。

　はじめにまづ天氣豫報のことわざをならべてみるが、これは毎日の作業をきめるときに、知つてゐるとたいへん都合のよい知識であつた。今でもおそらくはこれによつて、その日の天氣を見定める人が多いことであらう。

　　　朝雨に蓑いらず（福島）

　　　卯のとき雨は笠見りや晴れる（山梨）

　卯のときは今の午前六時ごろ、その時刻に降る雨はすぐに止むものだといふことで、また、

　　　卯のとき雨に笠持つな

といふ所もある。その雨の止むのも、

　　　巳のとき晴れに笠はなす

といつて、十時ごろに降り止めばもう大丈夫だが、

　　　八つ晴れに笠ぬぐな

で、午後になつてからの雨止みはゆだんがならぬ。

　天氣が前の日からわかつてゐると都合はよい。それをいろ／＼の兆候から知らうとしたのだが、あたらぬこともあ(88)つたかもしれない。だいたいに太平洋に面した地方では、山から吹く風には水分が少なく、

　　　秋北に鎌をとげ（高知）

といふやうに、北風を晴れのしるしとしたやうだが、それも季節によりまた時刻にもよることであつた。

　　　朝ぎた夕マジ（山口縣大島）

　マジは南から吹く風で、七月にはこの二つの風は晴れのしらせといふことであつた。

　　　秋の夕やけ鎌をとげ、夏の夕やけ井手放せ（長崎縣壹岐）

　　　春の夕やけみとを下げ（高知）

　鎌をとぐのは一日稻刈りができるからである。井手もみとも共に貯水池の引口のことで、晴れつゞきで水がとぼしくならうから、水路を低くしておく必要があるといふのである。

　　　月に雨笠日笠なし（熊本縣阿蘇）

　この笠は月や日のまはりに現はれるまるい輪のかさで、それは雨ときまつてゐるといふ意味である。これをいま一段とおもしろく言はうとしたのが、

　　　日がさ雨がさ、月がさ日がさ（廣島縣安藝）

であつて、笠と暈との言葉の一つなのを利用して、日がさ、すなはち日よけの笠をかむらなければならぬのは、月が笠きる夜の翌日の天氣であり、これに反して日の笠は雨になるしるしだといふことを教へたものである。

　　　晝とびは日がさ着る、朝とびは蓑を着る（長崎縣五島）

といふ日がさは、日や月の日がさとは關係がなく、とびが朝空に鳴くのは雨、晝間鳴くのは晴れのしるしだといふまでゝ、これは私などもよく經驗してゐる。

　　　朝虹蓑ほごせ、夕虹に蓑を卷け（福島）

(89)　　　上川虹に川越すな（福島）

　虹を目標にした天氣うらなひもいろ／＼ある。蓑をほごすのは雨じたく、朝の虹は雨の近いことを意味してをり、川の上流に虹が立つと、きつと雨になつて水が増すから、川向ふへ渡らぬやうにせよと言つてゐたのである。鳥の聲で天氣を知ることわざも、とびだけでなく、

　　　夕鳩百日びより（新潟）

　　　夕鳩鳴いて空見るな（福島）

などゝいふのもあつた。百日びよりは晴天がつゞくこと、空見るなは晴れにきまつてゐるから空を見るのは無用だといふことであらう。

　

　　　　　　　生産計畫の指導

　

　毎年の天候にも、日本は雨風日照りのかたよりがあるので、農民は作物の計畫を立てるために、できるだけ早くからこれを知つておきたいと念じてゐた。「夕鳩百日びより」もその一例だが、なほ雷の來る方角によつて、これからの晴雨を判斷させることわざもあつた。

　　　乾《ゐぬい》夕立鍋釜割れる（愛知）

　　　木曾かみなりの百日かんかん（岐阜）

　　　東かみなり雨降らず（新潟）

　　　寒かだちは鎌いらず（秋田）

　いづれも雨の少ないことを憂ひとしたことわざで、乾といふのは西北方のこと、この方角に雷の鳴るやうな年は、(90)水がたりなくて飯をたく器までが割れるといふのであり、カダチといふのも雷のことで、それが寒中に鳴るやうでは、翌年は稻を刈る鎌の入用もないほど不作だといふ地方があつたのである。

　雨の多い年によくできるものと、少ない年のはうが收穫の多い作物とがある。一年の天氣が、もし前もつて察知し得られたら、なるべくそれに向くものに力を入れるはうがよいわけで、それを教へることわざもいくつかできてゐる。

　　　降りうね照りさく（新潟）

　ウネといふのは畠の土を上げた部分、サクはそのうねあひの低みのことである。おなじ大豆をまくにも、降り年はうねへ、照り年はさくへまくやうにすれば損害が少ない。

　　　六月小に豆食はず（和歌山）

　太陰暦では月の大小が毎年同じでなかつた。六月の二十九日しかない年は、この大豆がひじやうに惡いものだといふのだが、はたしてさういふことがあるものかどうか、まだ私には確かめることができない。

　　　日さゝげ、雨あづき（長崎縣壹岐）

　　　日でりかぼちやの降り夕顔（新潟）

　　　日なたごぼうに陰なすび（和歌山）

　　　日でりごま、または、日でり綿（福島）

　　　しけぐり、照りごま（長野）

　　　豐年かきに、けかちぐり（高知）

　ケカチは凶年のこと、この豐年も米作のよいことで、栗のよくみのるやうな年は、陽氣が惡くて米のできが思はしくないといふ地方もあつたのである。

　　　雨ぐり日がき（和歌山）

(91)　　　雨がき日でりぐり（大阪附近）

　この二つは話が逆なやうだが、たぶんは後のはうは柿栗のできのよくない年を言つたのであらう。

　　　梅田わか麥（熊本）

　　　梅米枇杷麥（和歌山）

　これらも共に梅の多くなるやうな年は米が豐作だといふのが主で、それはたゞそれつきりの知識ではなく、この反對の年は稻作のよくないことを早くから知つて、何かそれにたいするやうな心がまへをさせようとしたものと思はれる。果實のできのよし惡しは、田畠の作柄よりも早くから、心づかれるものだからである。

　

　　　　　　　わかりやすく覺えやすく

　

　農作物の種まきや刈り入れ時は、小さい人たちにすぐに必要な知識ではないのだが、いたつてだいじなことだから、早くから覺えさせようとしたものか、または大人にもかういふふうにして記憶させたものか、とにかくさういふことわざは子供でもみなよく知つてゐた。いち／＼説明することもできないが、集めるとそれがみな親切に、覺えやすい形になつてゐた。それに、心づけばそれでよいのである。

　　　池二十日（長野）

　　　池川二十日をけ七日（大阪附近）

　桶に籾《もみ》種をひたすことは近ごろ始まつたものゝ、もとは池川に二十日つけておくべしと言つたのを、新しい選種法がすゝめられるやうになると、すぐにまた新しい教訓にこれを利用して、桶なら七日ですむことを説いたものである。

　　　中はずらせはげは待つな（熊本）

(92)　今の暦で六月二十二三日ころ、夏至といふのがもとの五月の中旬で、田植はそれから少しおそく、それから十日後の半夏生といふ日までに、植ゑてしまふやうにといふ意味である。多くの土地ではこの半夏生を、ハゲといふをかしな名で記憶してゐた。

　　　はんげ半毛《はんけ》（長野）

　半毛といふのは半分しか取れないこと、半夏生よりも田植がおそくなると、收穫がずつと惡くなるといふことを、こんなおもしろい文句で記憶させたのであつた。

　　　苗がしんの稲よなか（青森）

　がしん〔三字傍点〕もけかち〔三字傍点〕とおなじく凶作のことである。苗のそだちの惡いのは心配することはない。かへつて本作はよくできるものだといふこと、ヨナカはこの地方では豐作の意味につかはれてゐる。

　　　大苗に豐年なし（兵庫）

　苗の成長しすぎたのはかへつて收穫が惡いといふのである。

　　　三日苗はばかも植ゑぬ（秋田）

　苗は取つてから二日のうちに植ゑなければならぬ。「ばかも」といふのはことわざによくいふ言葉で、さう言はれるとばかでない者は警戒した。

　　　ゆがみ八石すぐ九石（秋田）

　　　まがり八石くねつて九石、まつすぐ十石取れるやうに（千葉）

　これは一種のたはむれるやうな言葉で、直線に植ゑれば一石は多く取れるといふことを言つたまでゝある。何反歩に八石なのやら、始めからしめしてゐない。つまりは曲げて植ゑるのは一石の損だといふのである。

　　　水見半作（新潟）

(93)　田の水かゝりを注意することがだいじだといふので、作の半分までは水見まはりの力だといふのである。

　　　あぜ附け半分（長野）

　　　田をつくるよりあぜをつくれ（同）

　　　あぜの岸は聟《むこ》の分（同）

　田のあぜを塗りこめる仕事は骨折りなものだが、そこをていねいにしておくのはだいじなことで、それをいとはぬやうな聟なら身代をふやすといふのである。

　　　あら草二十日（神戸附近）

　あら草は一番草取り、植ゑて二十日のうちに最初の田の草取りをするものだ。

　　　彼岸のつんぼ肥え（鳥取）

　これは麥畠のこやしのことで、春の彼岸を過ぎるともうきかぬから、つんぼ肥えといつたのである。あるひは、

　　　彼岸過ぎての麥の肥え、三十過ぎての子に意見

といふところも多い。

　　　夏作はぬのこを着せよ、冬作にはかたびらを着せよ（新潟縣佐渡）

　冬のかたぴら夏の綿入れはをかしいから人が注意するが、これはたゞ夏物には土を厚く掛け、冬作には薄くといふことを、かういふふうにしやれて言つたのである。

　

　　　　　　　季節とことわざ

　

　かういふものがおもしろいならば、もう少し多くの例をならべてみよう。

(94)　　　中粟夏黍（長野）

　　　地藏大根（兵庫）

　地藏といふは舊暦七月の二十四日、俗に地藏盆といふ日のことで、二つとも種まきの適期を教へたものである。もとは日をかぞへる必要もなく、たゞ天然の聲や姿によつて、種まき時を覺えてゐたのである。山に殘つた雪の形を、種まき爺だの豆まき男だのと、呼んでゐる例はかぞへられぬほどもある。それよりも尚いちだんと子供たちに興味のあつたのは、東北地方でよく知られてゐることわざに、

　　　とつとの口さ種をまけ、かんこの口さ豆をまけ

といふのがある。これなどはもう百四五十年も前から、今でも知らぬ者がないほどに口ずさまれてゐる。とつとは私たちの筒鳥といふ鳥、かんこはくわくこうのことである。この二つの鳥の鳴きはじめに、籾の種なり豆なりをまくべきだといふことをいつたものである。口へといふから印象が大きかつたので、ほかの多くの土地にも、豆まきくわくこうといふ言葉があつて、豆はついばむのでないけれども、この鳥とは縁は深いのであつた。

　八十八夜といふのは今の五月の月初め、立春の日からかぞへて八十八日目をいふのだが、何か理由があつて農村ではこれをだいじな日としてゐる。かういふ名のできるのもことわざの一つであらう。

　　　八十八夜の針たけ（石川）

は、稻の苗が昔の針の大きさにのぴてゐることをいつたものである。また、

　　　八十八夜のはね豆（千葉）

は、大豆の子葉が二つに分れることで、ちやうどこの日にはさうなつてゐるやうに、陽氣を考へて種をおろすのであつた。壹岐の島では豆は八十八夜ごろに麥の間へまくのだが、やはりかぎまめといふことわざがあつて、麥をかり取るときに鍵の形をしてゐることを目標にしてゐる。

(95)　　　土用の卯の足（兵庫）

　秋あづきは夏の土用のころに、兎の足ほどに成長してゐるのが、順當な成育だとしである。

　　　走り穗五十日（兵庫）

　稻は走り穗が出てから五十日目に熟するといふ。走り穗は二本か三本、早く出る穗のことである。その走り穗も一つのことわざであらう。

　　　麥の猿面（佐賀）

　麥は猿の面の色になつたのがかり時だといふこと。

　　　米は山から麥は里から（和歌山）

　稻は高いところからだん／＼熟してくるから、刈るのも山の手が先であり、麥はその反對だといふ。

　　　朝麥に夕稻（同）

　麥は朝見るとできがよく見えるもの、稻は夕方に見るとよく見えるものだといふ。

　　　作り物で早いものはそばと足なか（長野）

　足なかといふのはかんたんな草履の名、それを添へていふとをかしいからよく記憶する。

　　　苧切りは土用三日前（同）

　何でもないことだが、これも口拍子がよいのですぐ覺えられる。

　　　すいかは土でつくれ、かぼちやは手でつくれ（福島）

　手を掛けさへすればよくできるといふことを、かういふ對句にして教へこまうとしたものが、まだこのほかにもいろいろある。

　

(96)　　　　　　　海で働く人のため

　

　山で木を切り獵をする人たちの山小屋の話、または沖に出て働く漁師や舟方などの間にも、農村に負けないほど數多くのことわざができてゐる。これはそばに女や子供がゐて、聞いて笑ふといふやうなことはなかつたらうが、それでもなほできるだけ輕快な、覺えやすい文句でいはうとすることは同じであつた。ことに海の人の知つてゐるものには、久しい經驗にもとづいたかと思ふ正確なことわざが多かつた。さういふ中でも彼等にとつてだいじなのは、風と潮合ひとの二つであつて、もし全國から集めてみたら、たいへんな數になり、また大きな參考であらうと思ふが、私はざんねんながら、まだ少しばかりしか聞いてゐない。それを一部分だけこゝにならべてみると、

　　　大北のあくるばえ（長崎縣壹岐）

　はえ〔二字傍点〕は南の風のことで、北風の大きいのが吹くと、翌日はきつと南風になるといふのである。

　　　春のひとへ西（長崎縣五島）

　ひとへ〔三字傍点〕は「ひとひ」で一日中のこと、春の西風は一日きりのもので、二日とは吹きつゞくことがないといふのである。

　　　北風の一しほ吹き（廣島）

　一しほは汐と汐との間、おほよそ今の六時間ぐらゐ、瀬戸内海の北風は、吹き出すと六時間はつゞくといふので、帆で舟を走らせる者には、有益な記憶であつた。

　　　月夜に大風なし（石川）

　これは濱の人の言ふことだが、もしこの地方の事實であるならば、農村の人にもよい參考になる。

(97)　　　秋の北風春南（宮城）

　これは氣仙地方の海岸でいふことで、この二つの風は、西南に變りやすいといつて、帆船時代には警戒せられた。すなはち西風が吹くと歸つて來られないからである。

　　　ひかたと手間取りは日のうち（青森）

　ひかた〔三字傍点〕はこの地方一帶に西南から吹く風、手間取りは外から働きに來る人のことで、夜までは働いてくれない。こんな二つの縁のないものをならべると、をかしいからよく記憶するが、實はひかたの風は夕方は止むものだといふことを教へるためだつたのである。同じやうなことわざは山村にもあつた。

　　　風と坊主は四つから（愛知）

　寺の僧も十時ごろからでないと出て歩かない。あまり早朝に來ることは喜ばれなかつたからであるが、風も朝のうちは吹かぬものといつたのである。これを、

　　　ぼさまとならひは四つから

といふ所もある。このぼさまはめくらの三味線ひき、ならひ〔三字傍点〕は山に沿うて吹く風のことである。

　　　卯の日子の日の日半《ひはん》どれ（鹿兒島縣喜界島）

　さういふことがあるかどうか知らぬが、この島でもとこの二つの日は、どんなに凪いでゐても午後からは必ず風が出るといつてゐた。それが日半どれで、どれ〔二字傍点〕とは風のないことであつた。つぎには潮時について、

　　　九にち十日は明暮だたへ、五日二十日は晝だたへ（山口縣大島）

　だたへ〔三字傍点〕は滿潮のじつとしてゐる時刻のことであつた。これはもちろん昔の暦の日である。

　　　七かれ〔二字傍点〕八《や》かれ（香川）

　かれ〔二字傍点〕はまた小潮の辻ともいふ。干潮と滿潮との差のもつとも少ない時のことで、それが昔の暦の七日八日ごろにあ(98)るのである。九日十日の明暮だたへといふことはこゝにもあつて、それでまた膳だたへともいつてゐた。御膳も朝と夕方との二度出すからである。

　　　五日二十日の朝｜干《ひ》殘り（長崎縣五島）

　舊暦の五日と二十日は、朝は引き汐がまだ底まで達してをらぬといふのである。

　　　月の出八合、入りながら滿つ（同）

　滿潮は月の出にはまだ八分どほりまでゝ、月の入りとゝもにふたゝび滿ちてくる。

　　　出月八合入りながら（長崎縣壹岐）

　この方は月の入りに滿潮のまだ半分といふので、どちらが正しいか、土地によつて少しはちがふのか、私にはわからない。

　　　すまるまん時こ八合（山口）

　すまる〔三字傍点〕はすばる星、これもその星の位置と潮時との關係をいつたと思ふが、小野田市（山口縣）あたりでは、これはそばのまき時を教へたものだといひ、そばの一升から粉八合が取れるといふが、これはあやまりのやうに思はれる。沖に出ていく舟には、この星の位置は大切な目標で、その動き方にはだれも注意してゐた。

　　　すまるさば賣り逢はず見ず（香川）

　さば賣り星といふのも人のよく知つてゐる星だが、これはすまる星がはいつてから、交代に南の方から上つてくるので、かういふことわざもできてゐるのである。

　

(88)　　　　　　　必要な生活の知識

　

　　　帆かげ三里

といふことわざは、九州南部の島々に行はれてゐるが、これなどは私たちにもよい知識である。三里を離れると船は帆だけしか見えなくなるといふ。別にまた、

　　　船かげ三里、帆かげ七里

といふ人もあるが、このほうは全く見えなくなつてしまふ距離をいふのだから、二つはどちらもあやまりではないのである。

　私たちが覺えてゐて、いつまでも役に立つことわざは數へきれぬほども多い。さういふなかでも、土地と住居、家をどういふふうに建てるのがよいかといふことなどは、さうたび／＼は得られない經驗であるから、將來のためにも貴重なものである。寺田寅彦さんも言はれたやうに、それをかへりみなかつた新しい建築には、實際失敗してゐるものがすでに多いのである。一つの例を引いてみるならば、

　　　尾崎谷口淵の上

といふことわざは各地にある。かういふ土地に屋敷を建てると、がけくづれや出水暴風の害が必ず多いわけであるが、近ごろはそんな場所に家を建てゝ、ひどい目に遭ふ者が相當にある。尾崎は山の出鼻、谷口は流れの狹くなつたところ、景色がよいものだからつい住んでみたくなるものだが、このことわざを聞いてゐる者だけはそれを避けた。あるひはこれにつゞけて、

　　　神のまつかう佛のま尻

(100)などゝいひ、神社の正面や寺のうしろもきらつてゐるのである。これを俗信だと輕んじてゐる人もあつたが、これとても決してよい氣づかひはないのである。あるひはまた、

　　　南竹やぶ殿隣り（熊本）

といつて、竹やぶの北側もあまり大きな家の隣りもよくないとせられてゐた。屋敷内の建物の配置としては、

　　　乾《ゐぬい》土藏に巽《たつみ》井戸（長野）

　　　乾の倉は山負はせ（大阪）

などゝいつて、家の西北の隅と、東南とを大切にし、こゝには何か特別の木を植ゑることにしてゐる地方も多い。全部ではないまでもかういふなかには、考へてみなければならぬものがいろ／＼ある。ともかくも忘れてしまふのは惜しいと思ふ。

　ことは小さいけれども毎日の生活の指導にも、古人の親切はあふれてゐる。どうすれば聞く者がよく理解して、一度で覺えてしまふだらうかを考へたものが多い。たとへば、

　　　足袋は姉はけせつたは妹はけ

といふなどもその一つで、足袋はちゞむもの、せつたの緒はゆるむものだから、ふたりの娘があるなら足袋はまづ姉が、はきものゝ方は妹から先にはく方がよいといふのである。或はまた、

　　　木六竹八塀十郎

といふのなども、木は六月に竹は八月に手を入れるのがよく、塀は十月になつて修繕すべしといふことらしいが、これを一ぺんに口拍子よく言つてみた者は、もう一生涯忘れつこはないのであつた。

　

(101)　　　　　　　日本國民の技能

　

　終りになほ一つつけ加へておきたいのは、若い人たちに日常の知識をさづけるために、このやうに多くのことわざを利用したことは、よその民族には見られないことであつて、あるひは日本人だけの特別の技能だつたかと私は考へてゐる。古來のことわざは、どこの國でも、人をかしこくまた考へ深くしようとしてゐることは同じだが、その大部分は批評であり、また世の姿の觀察にとゞまつて、新たに何物かを與へようとするものは少ないやうである。さうしてまたわが國においても、別に人をいましめるほうのことわざもたくさんにできてゐて、それにはかなり皮肉なものが多く、通例は何か缺點のある者を、いましめたりしかつたりするときに用ゐられてゐる。最初は事によると人とあらそふ場合に、武力のかはりとして發したのが元かもしれない。とにかくに相手の弱點をついて、周圍の人々に笑はせようとしたものが少なくないのである。今でもたくみなことわざによつて批評せられると、ほかの人たちはどつと笑ひ、自分一人だけが共に笑へない場合が折々はある。日本の年若な人たちは男も女も、それが非常にいやだつたのである。それで何でもなくたゞ笑つてゐるやうにみえても、實際は心のなかで、自分もこれからは氣をつけて、このやうに皆に笑はれぬやうにしようと考へたものらしく、その結果として日本のことわざはます／＼をかしくなると共に、はじめてこれを聞く者は熱心にこれを記憶することになつて、さらにまた多くの教訓に利用することができたのかと思ふ。人をいましめたりなだめたり、反省させたりすることわざにも、新しいものがいくつもできてゐて、聞いて笑つたことのある人は皆よく記憶してゐる。皆さんもよく知つてをられる、

　　　犬が西向きや尾は東

　これはわかりきつたことを珍しさうにいふ者を笑ふときに使ふのだが、それがあんまり古くさくなるとそのかはり(102)に、

　　　猫が肥えれば鰹節がやせる

などゝいひ、ものには必ず原因があるといふ意味で、

　　　瓜のつるになすびはならぬ

といふ。これが平凡になると、

　　　夕顔のつるにはさみ箱はならぬ

などゝ、とてつもないことをいふ者もできる。また仕事はしても手順の惡い者をしかるときに、

　　　水飲んで尻あぶる

　　　もち食つてから火にあたる

などゝいつてゐたのを、今度はもう一つ奇拔に、

　　　あす食ふしほからに、けふ水を飲む

　　　山の芋をかばやきにする

などゝいひ替へて、またあたらしい笑ひを催さうとしてゐた。山の芋がうなぎになるといふことはよく聞くが、さりとて早手過しに、いもをかばやきにしてもつまらぬといふ意味である。

　だいたいに古い書物の中から拾つたやうなのは、解説がつくから感じがうすい。なるべく毎日の口言葉をそのまま、平凡に言つたのがよく通ずるので、ことわざはむしろ學問などのない人の、こしらへたものがよく殘つてゐる。それが私たちにはことになつかしいのである。さういふなかでも、皆さんのやうな、年の若い人たちに聞かせようとしたものは、安らかにできてゐて、またいつまでも考へさせるやうなものが多い。

　　　實を見て木を知れ

(103)　　　木の實は木のもと

　　　壁の穴は壁でふさげ

　　　目で目は見えぬ

　　　雪や氷ももとは水

　　　獵は鳥が教へる

　かういふのは別に説明を加へなくても、いまに皆さんにこの心持がわかつてくるであらう。しかし場合によるともう少し強く、また皮肉にいはないと效果のないこともあつたが、それも子供たちは聞き流してはゐなかつた。

　　　鍬をかたげたこじきは來ない

　　　朝出たちんば〔三字傍点〕にや追ひつけぬ

　　　寢てもち食うても目に粉がはいる

などゝいふのは、だれもくはしく解いてくれる者はなく、一人で考へてゐるうちにだん／＼と意味がわかつてくるのである。また日本人の中には、何か言ひ出したことはあとへ引かず、明らかな反對の證據があるのに、なほ自分の意見を言ひ張る者がをり／＼ある。さういふときに使はれることわざに、

　　　榎の實が三俵なつても木は椋

といふのがもとはあつた。榎と椋とは木がよく似てゐて、ついあらそひになることがあつたからさういつたのである。しかしこれは言ひかたが少しくだ／＼しいので、後にはまたこれを言ひかへて、

　　　はつても黒豆

といふのができてゐた。豆だ、黒い蟲だ、と言ひあらそつてゐるうちに、やがてはひ出したけれども、まだ黒豆だといつてゐるといふのである。ある外國人がこれを聞いて、こんな短い言葉でこれだけ複雜な心持を言ひあらはしたも(104)のは、日本のほかにはあるまいと感心してゐた。それといふのも、よいことわざが久しく行はれ、且つこれを聞く者がことわざにたいして、非常に敏感になつてゐたからであると私は思ふ。

　

(105)　　　　　ことわざの話

　

　　　　　　　一　話し上手

　

　大人が大勢集まつて、話をしてゐるのを見ますと、その中にきつと一人か二人、誰よりも元氣よくまた餘計にしやべる人があつて、それを皆が面白がつて聽いてゐます。今日ではたいてい他の者の知らぬ話、新聞で讀んだり講演で聞いて來たり、または兵隊に行き遠方へ旅をして、その人ばかりが知つてゐる話をいたします。珍しい客がよそから來た時なども、珍しいからなるだけそのお客に話をさせます。かういふ話を世間話といひますが、世間といふのは元は土地より外といふ意味でありました。ところが昔の人たちは、餘り廣くその世間を知りませんでした。本も乏しく新聞もなく、旅行もさう度々はしなかつたからであります。土地で起つたいろ／＼の出來事は、連があつたり、また近所の人といふものがゐて、めつたに自分一人が見た聞いたといふ話はありません。それゆゑにいくら話の上手な人でも、よほど今日とは話の仕方を違へなければならなかつたのであります。

　仲間のうちに幾人も知つてゐる者のある話を、噂といひました。噂はその話を知つてゐる人の中で、一等上手にしやべることの出來る人が、話すことになつてゐました。さうすると他の者は聽き手と一しよになつて、どういふふうに話すかと思つて聽いてゐるのであります。時々は一座の者が、悉く知つてゐる今朝の地震、去年の大水といふやう(106)な噂話もありました。こんな時に長たらしく、さも自分だけが知つてゐるやうな、話し方をする人は笑はれました。それでゐて大きな事件のあつた後では、人は集まつてその誰でも知つてゐる噂を、せずにはゐられなかつたのであります。話を手短にまたうまい言葉で、みんながいひたいと思ふことを誰よりも早く、いふことの出來る人が尊敬せられました。さうしてだん／＼に眞似をする者が多くなつたのであります。諺はかういふ話仲間のために、殊に大切な文藝の一つでありました。だから新たにいろ／＼の世間話がはひつて來ると、追々となくなつても構はぬやうになつたわけであります。

　

　　　　　　　二　爲事と警句

　

　今でも所によつては、變つた世間話よりも、お互ひによく知つてゐる噂の方を好む人があります。さうして集まつてはいつまでも、小さな一つ事をさも樂しさうに、話し合つてゐるのを見かけることがあります。それはこの人たちが、まだ以前の話術の面白さを、よく覺えてゐるからであります。諺はそのために新規に出來るといふ程でもありませんが、古くからあるものだけは忘れずに、時々出して使はうとするのであります。

　噂の種は普通には小さな事ばかりでした。何か驚くやうな出來事があれば、それを一つ話といつて永い間話し合ひますが、靜かな土地ではめつたにそんな問題は起りません。だから毎日のやうに人が出逢つて、話になるのは第一にお天氣の善し惡し、暑いとか寒いとか、もう晩になつたとかいふことで、さういふ問題を出すのを挨拶といひ、または詞をかけるともいひました。さうして少しでも暇のある人ならば、それから立ち留つて話をしたのであります。時候や日和が噂の種になつたのも、元は日々の爲事の都合を、これに由つてきめたからであります。爲事が骨が折れるか、または調子よく樂々と進んで行くかは、ほんたうは決して小さな問題ではありませんでした。さうして一つの土(107)地に働いてゐた人たちには、困ることも喜ぶこともたいていは同じでありました。それゆゑに人が寄り集まるとどうしても爲事の話が多く出たのであります。その話をなるたけ面白くするために、諺の入り用なども多かつたかと思はれます。今殘つてゐるものにはお天氣についての諺もいろ／＼ありますが、爲事の樂しみと苦しみ、その計畫の上手下手、または成功と失敗等については、殊に何度でも人を笑はせるやうな、うまい文句がたくさんにあるのです。諺とはどんなものかといふお話をするには、最初にまづさういふ種類のものを、いくつか擧げて置くのがよからうと思ひます。皆さんもこれから氣をつけて御覽なさい。今でも大勢で一しよに働く時に、をり／＼かういふ諺を使つてゐる人があるのであります。

　　物は試し。（實行して見ないと結果がわからぬといふこと。）

　　蒔かぬ種は生えぬ。

　　打たねば鳴らぬ。

　　始めが大事。

　　始めに二度なし。

　　始め半分。（始めるといふことが爲事の半分に當る。）

　　朝油斷の夕かゞみ。（朝のうち勉強せぬと夕方にへこたれる。）

　　朝跳ねの夕びつこ。

　　小馬の朝駈け。

　　弱馬路をいそぐ。

　　いそぐ蟹穴へはひらず。

　　小舟の宵ごしらへ。（前の晩から支度をすること。小さな爲事に騷ぎの大きいのを笑ふ言葉。また「柴舟の宵ごしらへ」(108)ともいふ。）

　　餅食つて火にあたる。（餅は燒いてから食ふもの、これは順序が逆さまである。）

　　水飲んで腹あぶる。（これも同。）

　　山の芋を蒲燒きにする。（山の芋は鰻になるかも知れぬが、これはあまり早手まはしだ。）

　　早くて間に合はぬ鍛冶屋の向う槌。（爲事は調子を合せなければならぬ。）

　　まだ早いが遲くなる。

　　盗人を捕へて繩を綯《な》ふ。（そんなことをすれば間に合はぬ。）

　　猪を見て箭を矧《は》ぐ。（箭を矧ぐとは製造すること。）

　　軍《いくさ》を見て箭を矧ぐ。

　　油斷大敵。（油斷より怖ろしい敵はない。）

　　春の日に兎釣る。（兎はどこかで眠つてゐる。それを待つのはあまり氣が永い。）

　　船盗人を陸で追ふ。（これもむだな骨折り。）

　　川に水を運ぶ。（無益な爲事。）

　　籠で水汲む。

　　大根を正宗で切る。（むだではないがそんなにまでするには及ばぬ。）

　　提灯で餅を搗く。（これはまつたく出來ない相談。）

　　瓢箪で藁を打つ。

　　杵で頭を剃る。（方法を誤つてゐる。）

　　擂子木《すりこぎ》で芋を盛る。

(109)　　瓢箪で鯰を押へる。（ばかげた骨折りを笑ふ諺。近頃では別の意味に用ゐられるやうになつた。瓢箪鯰といふと押へどころのない人のことである。）

　　塗り箸で海鼠をはさむ。

　　鼻くそで行燈張る。（これはごまかし爲事を笑つたものであらう。）

　　馬に乘るまで牛に乘れ。（たゞ待つてゐるよりは少しでも進むがよい。）

　　鐘鑄るまでの土鑄型。

　　細工は流々仕上げを見よ。

　　蚤を押へて虱を逃がす。（注意の行き屆かなかつた時にいふ。）

　　負うた子を人に尋ねる。

　　置かぬ棚を捜す。

　　上げ舟に物を問へ。（上げ船は川を登つて行く船。降る船のやうに急いで行くものに、話しかけても相手にはしてくれない。目はしの利かぬ者を笑ふ諺である。）

　　押すに引張る（越後）。

　　蓑を着て笠がない。（半分しか支度をしてゐないこと。）

　　鑿《のみ》といへば槌。

　　からりといへば淺蜊汁（陸前牡鹿郡）。（音をきいても察することが出來るはず。）

　　からゝつたらつぶ汁（陸奧八戸市）。（つぶは田螺のこと。）

　　割つた茶碗をついで見る。

　　湯を沸かして水にする。

(110)　　淵へ鹽。

　　泥に灸。（少しもきゝめのない骨折りである。「石に灸すゑる」ともいふ。）

　　鹿待つところの狸。（まるで獲物がないよりは結構。）

　　磯際で船を割る。（また「川口で船を沈める」ともいふ。せつかくしまひに近くなつて失敗をした場合にいふのである。）

　

　　　　　　　三　人の噂

　

　以前の爲事には、人がもやひに働かなければならぬものが、今よりは、ずつと多かつたのであります。それで一人が怠け、または約束を違へると、すぐに全體の成績が惡くなるために、他の者が困つたり怒つたり、また自分も怠けようとしたりしました。どうすればそのやうな惡い癖の者を、改めさせることが出來るかといふことは、お天氣などよりももつと大切な噂の種でありました。陰でもその話をすれば、さういふ人のゐる前でも、をりがあつたらその事をいひ出すことにしてゐました。だから爲事に關係した警句などを見ても、譽める諺より惡くいふ諺の方が多く、ある一人を責めるやうな言葉の方が多いのはその爲で、つまりその時は他の者は黙つて笑ひながら、脇でそれを聽いてゐたのであります。人をいぢめたり冷かしたりするのは善くないことですが、たくさんの人を不平なく同じやうに働かせるには、時には必要なことでありました。それだから喧嘩などをしないおとなしい人でも、さういふ諺はよく覺えてゐて、自分がその的になつて大勢から笑はれぬやうに氣をつけました。それからまたたゞをかしいから覺えてゐるといふ人もたくさんにありました。

　　慌て者半人足。

　　下手の道具調べ。

(111)　　下手の長談絲（これは縫ひ物をする女などのむやみに絲を使ふのを笑つたもの。）

　　話上手の爲事下手。（口ばかり達者な人も惡まれた。）

　　啼く猫鼠捕らず。

　　光るほど鳴らぬ。（口ばかりやかましい人を雷鳴にたとへていふ。）

　　しひな穗の先走り。（しひなは實のない稻の穗。それが實のある穗よりも先へ出る。働かぬくせに出しやばる者を嘲つていふ。）

　　爲事なりあひ飯辨慶。（なりあひはいゝ加減にすること。飯だけは千人力。）

　　内辨慶の外鼠。（今では子供がこの諺を多く使つてゐる。）

　　内蛤の外蜆。（蛤は大きな口をあけてゐるのが威張つてゐるやうに見える。）

　　獨活《うど》の大木柱にならぬ。（からだばかり立派で役にたゝぬ者をいふ。）

　　白豆腐の拍子木。（これも見たところばかりよくて働けぬ者を罵る言葉。）

　　暮れぬ前の提灯。（手まはしばかりして時をつぶす者。）

　　日照りの高｜木履《ぼくり》。

　　歌物語の歌忘れ。（かんじんのところが拔けてゐる。）

　　明後日｜紺屋《こうや》に晩鍛冶屋。（返事だけははき／＼してゐてもちつともしてくれぬ人。紺屋や鍛冶屋を惡くいふ時にも使つてゐた。）

　　醫者のたゞ今。

　　安請け合ひは變攻《へんがへ》のもと。

　　螻蛄《おけら》の水渡り。（熱心に始めて中途で止める人をさういつた。）

(112)　　あけづの鹽買ひ（磐城相馬）。（あけづは蜻蛉。鹽が好きだから鹽員ひにはやれない。）

　　鳩の豆使ひ。（使ひがいつまでも歸つて來ぬ時にさういふ。）

　　湯の山の路連れ。（湯の山は温泉場。どれもこれも病氣あがりのやうに弱い者ばかり。）

　　夜路に早い座頭連れ。（歸る時だけさつさと歸る。「飯辨慶」とよく似てゐる。）

　　蓑笠は手んで持ち。（自分の事は自分でせよ。）

　　取らずの大關。（口ばかりやかましい親方などを惡くいふことわざ。）

　　人の太刀で功名。（これは身勝手なずるい人のことをいふもの。）

　　人の牛蒡で法事する。

　　麥飯で鯉釣る。（うまい事をしようとする者をひやかす。）

　　雁は八百箭は三文。（これも自分に得をすることばかり考へてゐる者をひやかさうとした諺であるらしい。）

　　瘡《かさ》も我瘡鍋も我鍋。（なんでもかでも自分のことだけを考へてゐる人。）

　

　　　　　　　四　笑ひの練習

　

　諺は和歌や俳句のやうに、さう古くからのものは殘つてをりません。それは書いて置く人がなかつたのと、言葉が毎日の話の言葉であつた爲に、古いものをそのまゝ使ふことが出來なかつたからであります。しかしそれを知つてゐた人の數、一つの諺が行はれてゐた區域からいふと、この方がずつと多くまた廣かつたばかりでなく、その起りも和歌などよりは、まだ遙かに前ではなかつたかと思ひます。さうすると一體どうしてこんなものが始まつたか。それを詳しく説明することは、今はまだ少し困難です。それでも大よそわかつてゐることは、下手を勵ましたり横着者を責(113)めたりするのは、諺の最初の目的ではなかつたといふことであります。もしたゞ爲事をまとめ人を精出して働かせるためであつたら、少しは譽めたり感心したりする諺もあつてよいわけであります。こんなにまで人の弱點ばかりを、面白をかしく批評するには及ばなかつたのであります。それといふのは、噂に上る當の相手よりも、黙つて傍に聽いてゐる大勢に、なるほどよくいつた、うまいことをいふものだと思はせる方が主であつて、それがまた直接に本人を叱るよりも、もつと大きなきゝめがあつたからであらうと思ひます。笑ひは笑はれる者にとつては、ちつともをかしいことでない。むしろ情ないことであり、くやしいことでもありました。同じ土地に生まれた友だちどうしが、常にはお互ひに笑つたりひやかしたりしてゐながら、もし仲間の一人が外の者に笑はれると、むきになつて共々に腹を立てるのを見てもわかるやうに、仲間どうしの惡口はもと一つの練習でありました。世間すなはち知らぬ人の中にはひつて、あまり大きな恥をかいて來ぬやうに、前から少しづゝ笑はれる辛さを覺えさせ、またなるたけ笑ふことの出來る人に早くしようとしたのであります。ちやうど撃劔を竹刀で稽古するやうに、笑ひはもと腕力を用ゐない一種の勝負でありました。さうして諺はその竹刀、またはほんたうの劔であつたのであります。だから諺にはこれを聽いてげら／＼と笑ふか、または簡單ににやりとするか、とにかくをかしくならないものはなかつたのであります。私がわざと笑はせるやうな諺だけを、拔き出してゐるのだと思ふ人がもしあるなら、一つでもいゝから、脇にゐる者が、泣きたくなるやうな諺を見付けて御覽なさい。そんなものは絶對にないのであります。

　　捕らぬ狸の皮算用。（當てにもならぬことを考へてゐる人をひやかしていふ。）

　　穴の貉《むじな》を値段する。

　　柳の下の大鯰。（いつでもゐるとは限らない。また「柳の下の泥鰌」ともいふ。）

　　遁がした魚は大きい。（無用の自慢だ。）

　　遁げた猪はいかい（長門）。

(114)　　鳥なき里の蝙蝠。（一人で威張つてゐる。）

　　鷹がゐないと雀が王する。

　　鮒の中では鮒が王。

　　糠舟にも船頭。

　　團栗の背競べ。

　　なうて絹着る。（外に能がないから一つのことだけを自慢する。）

　　しようことなしの米の飯。（同。）

　　養生に身が痩せる。（支度ばかりに苦勞をして少しも目的は達しない。）

　　葬禮もどりの醫者話。（これもまた無益な智惠である。）

　　燒けての後の火の用心。

　　喧嘩過ぎての向う鉢卷き。

　　爪で拾うて箕《み》でこぼす。（努力をむだにする。）

　　尻に目藥。（きかぬことはうけ合ひ。）

　　二階から目藥。（きくかも知れぬがまだるい方法だ。）

　　石に碇《いかり》。（いらぬ用心である。石は流れはしない。）

　　燒き鳥にも綜緒《へを》附けよ。（綜緒は飛ばぬやう足に結はへる紐。島はもう燒き鳥になつてゐる。あんまりな念入りではないか。）

　　長居する鷺は汁になる。（氣の長い人を笑ふ言葉。）

　　鳶も物見ねば舞はぬ。（何か考へてゐる。）

(115)　　頼めば鬼も人食はぬ。（二つとももつたいぶる人を惡くいふのであらう。）

　　聾の立ち聞き。（わかりもせぬ癖にいろ／＼のことを知りたがる人にいふ。）

　　盲の垣覗き。（同。）

　　這うても黒豆。（蟲だ黒豆だと爭つてゐるうちに這ひ出した。いくら這うても黒豆に相違ないといふ。極端に自信の強い人。）

　杓子定木。（曲つてゐるものに依つて直線を引かうとする人。）

　　杵に弦。

　　圓座を笠。（圓座はまるい敷き物のこと。形が似てゐてもそれを笠にしてはをかしい。）

　　紺屋の白袴。（人には勸めて置いて自分はそのとほりにしない人をいふ。）

　　大工の掘り立て。

　　醫者の不養生。

　　椀作りの缺けごき。

　　笠縫ひの棧俵かぶり。

　　髪結ひの亂れ髪。

　　餅屋餅くはず。

　　ねぶか屋の赤葉（能登）。（赤葉は干し菜、人には葱を買はせながら自分は赤葉を食ふ。）

　　坊主に花かんざし。（これは持つてゐてもなんにもならぬもの。）

　　按摩に眼鏡。

　　犬に論語。（なんの興味もない。）

(116)　　犬に星。

　　猫に小判。（ちつともありがたいと思はぬ。）

　　鰹節を猫に預ける。（こつちはまた興味があり過ぎて心配である。）

　　狐に小豆飯を預ける。（「あづき」と「あづける」と、同じ音が重なつてゐるので面白くきこえる。）

　　猫の額に生鰯。

　　雪佛の湯なぶり。

　　土佛の水遊び。

　　紙子着て川立ちする。（紙子は紙で作つたきもの。川にはひれば破れてしまふ。）

　　よその雨乞ひに笛吹く（肥後下益城郡）。（自分の事でもないのに騷ぐ人。）

　　器量貧乏村寶。（村では寶にするくらゐに藝が出來ても、自分はその爲に貧乏する。）

　　細工貧乏人下部（世話盡）。（なんでも出來るためにかへつていつも人に使はれる。）

　　朝歌貧乏。（朝から歌をうたふやうな元氣のいゝ人はかへつて貧乏する。）

　　竿のさきに鈴。（構はずになんでもいつてしまふ人をさういふ。）

　

　　　　　　　五　言葉爭ひ

　

　かういふ種類の諺はまだいろ／＼あります。それをたくさんに覺えてゐて、ちやうどさういつてもよいやうな時に使ひ、またをり／＼は自分でも考へ出して、新しい諺を使つて見ようとする者を、元は口の達者な人といひました。さうして怠け者を働かせ、不注意な人に氣をつけさせる爲でなくとも、始終スポーツのやうに、仲間のうちでこれを(117)練習してゐて、いよ／＼他の人と談判したり、隣の土地へ掛け合ひに行つたりする場合には、必ずこの人が出かけたことは、ちやうど腕の達者な人が戰に出かけるのと同じでありました。最初は眞劔に敵を嘲り、身方を腹いつぱい笑はせるのが目的であつたことは、大よそ確かであります。今日は喧嘩といふものがだん／＼少なくなりましたが、まだ時々はつかみ合ひをする前に、暫らくの間は諺の賣り言葉に買ひ言葉を、闘はしてゐる人があります。東京などではそれを「たんかを切る」といつてゐました。この勝負は脇に聽いてゐる者の中で、笑つてくれる人の多い方が勝ちであつたゆゑ、いつも出來るだけ頓狂な、をかしいことをいはうとしたのであります。すなはち相手を笑はせる積りではなかつたのであります。ところが今では相手の人までが笑つてしまつて、めつたにそんなことで怒る者はありませんが、これはちやうど人を傷つけるための弓術が、後にはなるべく怪我をさせないやうにする競技になつたのと同じことであります。

　しかし諺は弓矢などゝちがつて、幾つでも攻撃の仕方がありました。強くも弱くも時と場合によつて、自由に加減をすることが出來ました。つまり相手が閉口といつて、何もいふことが出來なくなれば勝ちであります。例へば敵がごく弱いと見ると、「鹿の角を蜂がさす」だの、「釣り鐘に蜂」だのといつて笑ひ、向うがそれを聞いて怒つて來ると、「ごまめの齒ぎしり」だの、「蛞蝓《なめくじ》にも角がある」だの、「なぶれば兎もくひつく」だのといひました。それと反對にこれは負けさうだと思ふ時は、「一寸の蟲にも五分の魂」だの、「山椒は小粒でもひりゝと辛いぞ」などゝいつて見たり、また相手があまり大勢である時には、「門前の痩犬」とか、「ところでは犬も吠える」とかいつて遁げて歸りました。さうすると相手の方でも、「犬の遁げ吠え」などゝいつて笑つたものであります。

　しかし近頃はかういふ喧嘩は、子供でもめつたにしなくなりましたが、仲間でない者と何か談判をしなければならぬ場合には、出來るだけ多くの氣のきいた諺を知つてゐる者を選んで、戰爭の代りに外交をもつて、相手をいひ負かさうとしました。掛け合ひといふのは兩方が負けまいと思つて、いろ／＼新しい言葉を出して競爭することでありま(118)した。何度も同じことをいふ者は、「同じことは一つ事だ」といつて笑はれました。さうするともう一言もないといつて、その場は負けになるのであります。だから不斷から諺の練習をして置く必要もあつたのであります。かういふ口の爭ひがなかつたならば、今まで殘つてゐるはずのない諺が、たくさんにあります。例へば單にそのやうのことはない、それはあり得べからざることだといふ代りに、用ゐられたかと思ふ諺が、二十も三十もまだ殘つてゐるのです。

　　豆腐で齒を痛める。

　　冷水で手を燒く。

　　躄《ゐざり》に顎を蹴られる。

　　食はぬ飯が髭に附く。

　　三つ兒の釣り髭。

　　餅の中から屋根石。

　　山から砂糖水。

　　鰯網に鯨。

　　畠に蛤。

　　京の生鱈。（京都では生の鱈は見られなかつた。）

　　小豆の豆腐。

　　鴉を鷺。馬を鹿。

　　盲のよそ見。（するはずがない。）

　　鼈《すつぽん》がときをつくる。

　またこれとよく似た話で、そんな事はたうてい出來ない。それは貴方がむりだといふ代りに、今でも人はいろ／＼(119)の新しい「たとへ」を考へ出しますが、それも古くからいろ／＼あります。

　　蜘珠のいに馬繋ぐ。

　　蓮の絲で大石を釣る。

　　魚に藝教へる。

　　繋ぎ馬に鞭を打つ。

　　蒟蒻《こんにやく》で石垣を築く。

　　雀網で雁を捕る。

　　斧を磨いで針にする。

　　針鰻に轡《くつわ》をかける。

　　とりもちで馬をさす。

　前に竝べて置いた「杵で頭を剃る」や、「擂子木で腹を切る」などゝいふのも、これから始まつたものかと思ひます。かういふふざけた諺が一つもなく、出來る、いや出來ないと始めからしまひまで、同じ言葉をくり返してゐる場合を考へて御覽なさい。どのくらゐ氣もちの惡い睨み合ひが續き、餘計な打ち合ひが始まつたかわかりません。だから諺は世の中のために入用であつたのであります。

　

　　　　　　　六　物まねと比較

　

　たゞし人間がまだ野蠻であつた頃には、これよりもずつと亂暴な諺が行はれてゐたに違ひありませんが、それでも口先をもつて相手をへこませ、身方を喜ばせ元氣をつけたことは同じであつたらうと思ひます。惡口は良くないこと(120)ですけれども、その爲に斬り合ひなぐり合ひがなくてすめば、それだけは良いことでありました。昔の戰に行く人たちの、笑ひたがつてゐたことは非常なものであります。勝てばもちろん笑ひたくなりますが、これから勝ちたいと思ふ時にも、まづ出來るだけ敵を笑つたのは、多分笑はれるとそのことを考へて、相手が弱くなるからであらうと思ひます。だからたんか〔三字傍点〕を切つて喧嘩をする人なども、いよ／＼返答が出來なくなつた方では、必ず「なにつ」といつて、わざと相手の諺の意味がわからぬやうな顔をして、打つてかゝるのであります。

　諺が一番最初に口の武器として、敵を困らせる爲に發明せられ、また練習せられたものだといふことは、それがいつまでも相手の弱味を狙ひ、さうしてこちらの仲間を笑はせることを、目的にしてゐたのを見てもわかりますが、まだその外にも一つの證據があります。敵をばかにする術の最も簡單なものはまねでありました。人が自分では氣がつかずにゐる癖を、上手にまねをして見せれば脇の者は皆笑ひます。それから口まねといつて、人のいふことをそのまゝいふと、たいていはをかしく聞えて、まねられる者は非常に困ります。今でも小さい子はさういふことをして、それが喧嘩になることもよくあります。山で「こだま」といひ「あまんじやく」ともいつたのは、さういふ意地の惡い化物が山にゐて、子供の聲をまねするのだと、思つてゐた者があつたからであります。しかし大人にはたゞまねをしただけではつまりませんから、後にはいろ／＼と相手のすることやいふことを、批評して笑ふやうになりました。批評といつても元は簡單に何々のやうだとか、何に似てゐるとかいふだけですから、これも一種のまねであります。多分は口まねから進化したものと思ひますが、その比べ方が上手で、人が考へもつかぬやうな物を引きあひに出すと、脇で聽いてゐる者は必ず笑ひ、笑はれた人だけがしよげたのであります。ところがその笑はれる敵がゐない世の中になつてからも、多くの人は永くその面白さを覺えてゐて、とき／”＼は仲間ばかりでその演習をしました。すなはち今日の弓や射的のやうに、最初は口合戰の稽古であつたものが、だん／＼スポーツになつたのであります。その見本をこゝに少しばかり出して見ますと、

(121)　　泥鰌の尾に蛇がくひつく。（これはたゞ長いといふことの代りです。）

　　金時が火事見舞ひに來た。（これは赤い顔をしてゐるといふことです。）

　　神がくしやみをした。（これは目と鼻口のつまつた短い顔のことです。）

　　狼が衣を着た。（これはだらしのないふうをしてゐることです。）

　　狐を馬に乘せたやうな男。（ばかとも利口ともわからぬやうな人。）

　　暗がりから牛を牽き出したやうな人。（はつきりしない人。）

　　木に竹を繼いだやうなことをいふ。（話のつゞきがわからぬ時に。）

　　日本橋で知らぬ人に逢つたやうな顔してゐる。（冷淡な態度。）

　　乞食が馬貰つたやうな顔してゐる。（始末に困つてまご／＼してゐる。）

　　大風に灰を播くやうな話。（ぱつとした取り止めのない話。）

　　赤犬が狐を追ふ。（ごちや／＼してわかりにくい話。）

　　木に餅がなる。（あまりうま過ぎて信じられぬ話。）

　　蚊の臑《すね》にやすりをかける。（こまか過ぎる話。）

　　虱の皮を槍で剥ぐ。（理窟に合はぬこと。）

　　裸で柚の木へ登る。（むちやな勇氣。）

　　火事へ蓑着て行く。（向う見ずな計畫。）

　　赤子の手を捻ぢる。（する氣ならすぐに出來ること。）

　　親船に乘つて犬に吠えられる。（少しも氣にかけるに及ばぬこと。）

　これ等の諺はいづれも皆「やうな話」とか「やうなものだ」とかいふ言葉を、後に附けて使つたのですが、一々それ(122)をいふのは面白くないので、なるべく略して置くやうにしました。實際また何度も何度も使つてゐるうちには、そんな言葉は不必要になつて、「金時の火事見舞ひ」といへばすぐに酒に醉つた人の顔、「ちんくLや」といふと、短くつまつた顔が眼に浮ぶやうになりました。それといふのも諺は忙しいをりにいふものなので、少しでも早く濟むのを手柄としてゐたからであります。一々「見たやうな」を添へないでも、次に竝べた短い諺は、どれもこれも「たとへごと」でありました。人の形や行ひの、目に立つ點を形容した言葉でありました。

　　蟷螂《かまきり》の三番子（三河六美村）。（これは痩せた人のことです。）

　　紙撚《こよ》りの馬。（これも細い小さな人。）

　　目の上の瘤。（邪魔になるといふこと。）

　　縁の下の舞ひ。（誰もほめてくれぬ爲事。）

　　釋迦に説法。（これはもと無用のことゝいふ意味ですが、實際はまだ氣がつくまいと思ふ人に、わざと皮肉にこんなことをいつたものです。）

　　猿に木登り。

　　糠に釘。（これは前とは反對に、相手が少しも感じないのを惡くいふことば。）

　　胡椒まる呑み。（少しも味はつて見ようとせぬ。）

　　藪から棒。（出しぬけにいひ出す。）

　　窓から槍。

　　足もとから鳥。（考へてゐるひまもない。）

　　掃き溜めに鶴。（意外なものを見る。）

　　鰻に荷鞍。（ぬらくらしてきまりがつかぬ。）

(123)　　生壁に石。（「赤子の手を捻ぢる」に同じ。）

　　煎餅に鐵槌。

　　濡れ手で粟。

　　燒け石に水。（これは前とは反對にきゝめの少ないことをいふ。）

　　それ彈丸の八方｜的《まと》。

　　薪ざつぼと臑押し。（ヵを入れても張り合ひがない。）

　　冬の雪賣り。（これもむだな働きだ。）

　　日暮れの山入り。（竝の人のせぬことをする。）

　まだかういふのが幾らもありますが、その中にはほんたうは意味のよくわからぬものも少なくはありません。あまり毎度出るので珍しくもなく、今更どういふわけかと尋ねることも出來ないで、たゞ笑つて聽いてゐるうちに、人が少しづゝ始めの心持と、違つたふうに使ふやうになつて後にはたゞなんでもない輕口として、傳はつてゐるものもあるのであります。

　

　　　　　　　七　謎と只言

　

　この諺の「たとへごと」が、脇で聽いてゐる者には非常に面白いものだといふことがわかつて、だん／＼に人は實際の入り用が生ずる時まで待つてゐることが出來なくなりました。多くの遊戯や遊藝も皆同じことですが、最初から慰みのために發明したものはなかつたのです。あまり面白いからふだんの日にもそれをやつて見ようといふことになつて、なるだけ誰にも怪我のないやうに用心をしながら、この一種の戰爭ごつこを始めたのが、後にその方がかへつ(124)て盛んになつたのです。喧嘩や掛け合ひ事や仲間を叱ることが、少しもない日がつゞきますと、自然に諺は別の方角に向つて發達して來ます。「ことわざ」はつまり物をいふ技術といふことでありますが、その技術の目的が少しづゝ變つて來たのであります。それを簡單にお話すると、第一には元は誰にでもすぐわかるやうな明白な「たとへごと」でなければならなかつたのが、遊びには暇があるから少しは考へてもいゝ。それで出來るだけ意外なもの、説明がついて漸く笑ふやうな、謎に近い諺が始まりました。これが後に言はうと思ふ「しやれ」といふものゝ起りであります。

　　繪にかいた地震でちつとも恐ろしくない。

　　去年の暦で當てにならぬ。

　　空店《あきだな》の惠比須樣のやうに一人で笑つてゐる。

　　?の預掘り見たいにむやみに働く。

　まづかういつた種類のものであります。第二には元は必ず相手の急所を刺す必要があつたけれども、後にはそれよりも比較の奇拔をもつて人を笑はせる方が主になつたので、それに力を入れた諺が多くなりました。しかしこれは言葉が長くなるので、今ではあまりはやりません。

　　辨慶と蕃椒《たうがらし》。（兩方ともに赤い。）

　　春の雪と齒拔け狼はこはくない（紀伊有田郡）。

　　朝の雨と女の腕まくり。（これも驚くに足らぬといふこと。）

　　北風と賃取りは日の内（世話盡）。（貸取り人足は日の内だけしか働いてくれぬ。北風も夜に入ると必ず止むものである。）

　　雪と欲とはつもる程道を忘れる。（「ゆき」と「よく」、音の似てゐるのも面白い。）

　　口と財布は締めるが得。

(125)　　屁と頼母子は親から觸れる。（「おや」は発起人のこと。）

　　一口淨瑠璃と親の家は知らぬ者はない。

　　痛いところとめごいところとはしやべらないではをられぬ（宮城縣）。（「めごい」は可愛いゝこと。孫などの可愛いゝといふことは思はず知らず口から出る。）

　これでも普通の者の氣のつかぬことはいつてゐるのですが、形を面白くするのが主になつて、いつの間にかもう人の噂ばかりではなくなつてゐるのであります。第三にはこれとちやうど反對に、あんまりわかり切つてゐるために今まで人のいはなかつたこと、それをわざと事々しくいひ立てゝ、何か大切な諺のやうに思はせるのであります。さうしてこれも「當り前の話だ」といふ場合に使ひますから、やはり一種のたとへごとであつたのであります。

　　雨の降る日は天氣が惡い。

　　犬が東向けば尾が西向く。

　　猫が肥えれば鰹節が痩せる。

　　蛙の子は蛙。犬の子は犬。

　　どこの烏も黒い。

　　鷄は皆｜跣《はだし》だ。

　　山より大きな猪は出ない。

　　役者は役者の中から出る。

　　田があれば畠がある。

　　泣く子もあれば笑ふ子もある。

　　目は二つ鼻は一つ。

(126)　　面《つら》は顔。

　　背中に眼はない。

　　蕃椒は辛くて砂糖は甘い。

　　柳は緑花は紅。

　

　　　　　　　八　智慧と悟り

　

　かういふなんでもない當り前のことを、をかしく事新しくいつて見ようとしてゐるうちに、だん／＼に人は今迄心付かなかつたことに、心付くやうになつて來たのであります。鏡で自分の顔や姿を見ることが少なかつたやうに、自分がどんな者かといふことを知ることも、昔の人にはむつかしかつたのであります。それだから敵に批評をされると、驚いたり困つたりしたのであります。それが噂の種を自分たちの仲間から探し出さうとするやうになつて、始めて毎日の當り前の生活の中にも、また笑ふやうなことがいろ／＼あつたといふことに氣がつきました。諺がたゞ相手のあらを拾ふだけでなく、御世辭にもなり愛嬌にもなつたのは、それから後のことかと思ひます。

　つぎには人を眼の前でやたらに笑つてはいけないとなると、そのつぎには陰げ口といふことが始まります。陰げ口はその人のゐない所で笑ふといふばかりで、いふことはやはり同じやうな惡口ですから、もし聞えたらかへつて餘計に腹を立てます。そこで今一つの、もつと上手な笑ひ方、笑はせ方が發明せられたのであります。これはどういふことかといふと、わざと間違へたりへんなことをして、自分で自分を笑ひ物にするのであります。さうすれば他に一人もいやな氣持をする者はなくて、聽いてゐる人は皆一同に笑ふことが出來るわけです。日本でも西洋でも、昔は大名などの家には必ずさういふ笑ひ物になる人を抱へて置いて、いつも家の内に笑ひの聲の絶えないやうにしてをりまし(127)た。これをおどけ者といつて、村や町にも時々はそんな人がゐました。この人は大勢に笑はれますけれども、始めから承知してゐるのですから少しも腹は立てません。さうして人から愛せられるばかりでなく、毎度人を笑はせながら、よく自分のいふことを聽かせました。曾呂利新左衛門が太閤秀吉を諫めたなどゝいふのがそれであります。人の弱點にもいひにくいことが多く、また當り前の中にも考へて見ると大切なことがなか／＼ありました。それを自分がばかで今始めて知つたやうな顔をしていひますと、聽く者も笑ひながらなるほどゝ氣がついて、さうしてちつとも遣りこめられたとは思はぬのであります。殿樣がわがまゝで、仲間の者がよく怒つた時代には、諺はどうしてもかういふふうに發達して行く外はありません。これが第四の變化でありました。

　　踏めばくぼむ。

　　皮引きや身が痛い。

　　暑さ忘れりや陰忘れる。

　　木の實は木の本。

　　火吹き竹の根は藪にある。

　　獵は鳥が教へる。

　　雪や氷も元は水。

　　野菊も咲くまではたゞの草。

　　きれいな花は山に咲く。

　　よい花は後から。

　　名のない星は宵に出る。

　　流れる水は腐らぬ。

(128)　　壺の中では火は燃えぬ。

　　出る釘は打たれる。

　　十分はこぼれる。

　　一升入る瓢《ふくべ》は海へ行つても一升。

　　八百屋に看板なし。（なんでもかでもならべて置くから、今では八百屋にも看板はあるが、看板は見るに及ばぬ。とにかくに自慢することはその人の長所ではない。）

　　ゆがみ木も山の賑ひ。（多くの人と共に爲事をする方がよい。）

　　天狗にも飛びそこね。

　　火消しの家にも火事。

　　寺にも葬式。

　　ない名はよばれぬ。（「踏めばくぼむ」も同じこと。名があるから人が呼ぶ。）

　　人の口には戸がたてられぬ。（人の批評は遁れることが出來ぬ。）

　　祭よりも前の日。（待つてゐるうちが樂しみ。）

　　泣く兒も目を見る。（「泣く兒も口に物食ふ」ともいふ。どんなに騷いでゐても、やはり人の顔つきなどに氣をつけてゐる。また食べるものは食べてゐる。）

　　皿甞めた猫が咎を負ふ。（肴を食つた猫は遁げてゐる。）

　　公事《くじ》と垣根は一人ぢやゆはれぬ。（垣根を結ふには兩方から二人でゆふ。くじは、「いさかひ」である。これも二人でなければいふことが出來ない。）

　　入り船によい風は出船に惡い。（兩方につがふのよいことは少ない。）

(129)　　雨降つて地固まる。

　

　　　　　　　九　秀句の聖

　

　諸君はどうしてこのやうに多くの諺が、今まで殘つてゐたかと不審に思ふでせう。それは全く面白い諺を考へ出すことが、だん／＼にむつかしくなつた結果であります。元は誰でも口の達者な者が、出放題にその場きりの諺を作つたことは、ちやうど小さな子が喧嘩をする時の通りであつたらうと思ひますが、それでも脇の人は一度は笑つたといふだけで、普通はすぐに忘れてしまひ、また忘れてしまふやうなのは、二度も三度も聽くとなほつまらなくなります。ところがその中に非常にうまいのが時々ありました。何度聞いても面白い。考へれば考へるほどをかしいといふのがありました。それを覺えてゐて今度同じやうな場合に出す方が樂だと思つて、それを記憶しようとする人が多くなりました。かうして多くの人に感心せられ、記憶せられまたまねられる文藝を、この頃では文學といふのであります。たとへて見ると生の瓜と、瓜の漬け物とのやうなものであります。和歌でも俳句でも皆同じことでありますが、この方は夙くから字に書き本にして幾らでも殘すことが出來たので、下手でしやうのない者までが、始めから漬け物の瓜を作らうとしたのであります。諺は書物にする人が少なかつたお蔭に、入り用のものだけしか殘りませんでした。

　だから諺の中には歌や句とちがつて、たゞの素人が一生のうちにたつた一つ、實に面白いことをいつたといふのが、方々から集まつてゐることゝ思ひます。けれども一部分だけはやはり諺の名人、いつでも聽く者が感心するやうな專門家の作つたものが、交つてゐることは疑ひがありません。その作者の名などはもうすつかり知れなくなりましたが、大よそどんな人であつたかといふだけは分ります。かれ等と俳諧の人とは、少なくとも友だちでありました。お互ひによく似た心持で、同じやうな言葉を使つてゐました。おどけといふ技術の力を、よほど細かいところまで知つてゐ(130)る人たちでありました。事によると諺の名人の中で最も考へ深く、また文字を書くことの出來たのが、最初の俳諧師になつたのかも知れません。とにかくに山崎の宗鑑でも伊勢の守武でも、非常に諺がすきで、自分もまたそれに近い「たとへごと」をいつてゐました。さうしてその頃から諺の言葉も上品になり、また巧みになり簡單になり、文句も多くは五文字七文字になつて、まづ形をもつて人を喜ばせ、それでいふことはかへつて目ざす相手もなく、誰に聽かせてもよいやうなものになりました。教訓と諺とはだん／＼近くなつて來ました。これがまた第五の變化であります。

　　早牛も淀遲牛も淀。（淀は京都から西へ出て行く舟場。行き着く所は皆同じといふこと。これなどはまるで連歌の下の句である。）

　　犬一代に狸一匹。（人間一生のうちにとくに記念にするやうなことはさうたくさんはない。）

　　人取る龜は人に取られる。（自分ばかりの都合のよいことは望まれぬ。）

　　伊豫に吹く風讃岐にも。（これも「何々や」を載せると、形だけは俳句になる。）

　　いつも九月に常月夜《じやうつきよ》。（さうなればよいといふこと。）

　　五月女に盆坊主。（五月は田植ゑで女が重んぜられ、盆は僧が時を得てゐる。）

　　蛇の足より人の足。（蛇の足などを論ずるよりも人の足のことでも考へよ。）

　　耳は聞き役目は見役。（目が聞きたがつたらをかしいだらう。）

　　火は火元から騷ぎ出す。（「親から觸れる」も同じ。）

　　鳩懲らすとて豆蒔かぬ。（鳩に食はせるのがいやで豆を作らぬ人もなからう。）

　　泊り旅人朝旅人。（泊つた人は立つ。蒔いたものは苅る。）

　　百姓の去年《こぞ》物語。（今年はよい年だとはめつたにいはぬ。いつでも不滿の多い人を笑つた言葉であるが、わざとそこにゐない百姓を引き合ひに出したのである。）

(131)　　出る日つぼむ花。（これなどは前には全く入り用のない諺である。）

　　花一時人一盛り。

　　花七日。

　　見ぬが花。

　しかしかういふのはやはり文學の諺であつたと見えて、殘つてはゐますが話の中にはあまり出て來ません。人がなんべんでも使つて見ようとするのは、ふだんの話にはひつて繼ぎめのわからぬ言葉、すなはち土地の當時の俗語で出來た諺で、それが古臭くなると若い人はまづ古臭いといふ方に氣を取られますから、自然に前ほどをかしくなくなり、しまひにはかういふ本の中にでも書いて置かないと、忘れてなくしてしまふのであります。しかしさういふうちにも文句が面白いために、諺だけには古い言葉の殘つてゐることが折々あります。今ならば諸君はまだいろ／＼のちがつた諺を聽いて笑ふことが出來るかも知れません。とにかくに諺は耳で聞くものでありますゆゑに、目の見役で見たゞけでは、をかしくはなりません。やはり口拍子の方が大切でありました。これが歌や俳句などゝ、一番はつきりと違つてゐる點であります。

　　先手は萬手。

　　火で火は消えぬ。

　　木灰木を育てる。

　　木を木金を金。（「鷺を烏」のちやうど反對。事實は認めなければならぬ。）

　　流行《はやり》物はすたり物。

　　合せ物は離れ物。

　　空き物は入れ物。

(132)　　犬にも遣らず棚にも置かず。

　　花も折らず實も取らず。

　　沈香も焚かず屁もひらず。

　　帶に短し襷に長し。

　　雀の千聲鶴の一聲。

　　身方見苦しい。（あんまりひいきをする人にさういふ。）

　　こはし見たし。

　

　　　　　　　一〇　伊呂波だとへ

　

　諸君のよく知つてゐる伊呂波歌留多のことを、今でも土地によつてはまだ伊呂波譬へといふ所があります。かるたといふ遊びがなかつた頃から、諺を伊呂波の順にならべて暗記しようとした少年はあつたので、かるたはそれを更に覺え易くするために、後に發明した一つの遊戯でありました。どうしてまたこのやうに、諺を小さい人に教へようとしたかといふことは、一度考へて置いてもよい問題であります。近頃では伊呂波がるたを取るのは、たいていは十より小さい子供だけですが、最初にはもつと大きな、今に大人にならうとする位の者に、伊呂波だとへの暗記をさせてゐたのではないかと、私などは思つてゐます。この遊びが大人の歌留多に似てゐて、その上に文句が面白いから、小さい人たちはよく覺えますが、言葉の意味はほんたうはよくわかつてゐません。さうしてまたわからぬ方がよかつたと思ふ文句もあるのです。全體に童話や童謠または兒童文庫といふふうに、わざ／＼子供のために出來たものは、元は一つもなかつたのであります。それだから今の子供は喜ばなければならぬのであります。諺などは殊に一人前にな(133)つてからの、男女にばかり入り用なものでありました。大人の世界には「たとへ」といふものがある。今のうちからそれを覺えて置いて、それで笑ふべき時には人を笑つたり、またいつもさういつて人に笑はれないやうに、用心をするがよいといふ意味で、教へられてゐたのであります。つまりたゞ大人になる支度でありました。もつとも子供は常にまねをしますから、子供のいふことの中にも諺によく似たものはありました。子供が二組に分れて喧嘩をする時、またはよその子をひやかす時などに、大きな聲で囃す文句は幾らでもあります。その外にも人がやかましいと叱ると、「やかまにしかまは十二かま」といつたり、「しかつたら鹿咬まさう」といつて見たり、いろ／＼と人を笑はせる言葉はありましたが、それは大きくなるともう使はぬものであり、また伊呂波がるたの中には、一つでもはひつてはゐませんでした。

　だから最初伊呂波だとへを覺えた目的は、全く「ことわざ」すなはち口の技藝として、ちやうど親の爲事を習ふやうに習つたのであります。あれが昔の修身の教科書であつたら、大へんなことであります。例へば「花より團子」といふのは、食ふことばかりに熱心な下品な人を笑つた語です。「頭隱して尻隱さず」といふのは、愚かな人のすることです。「下手の長談義」といふのは、誰にでもいやがられるお寺の坊さんのことをいつたものでした。これなどは皆をかしいから、自分がさういふことをすれば笑はれると思つて、自然に氣をつけることになるかも知れませんが、もつと困るのは「一寸さきは闇」だの、「來年の事をいへば鬼が笑ふ」だの、「地獄の沙汰も金次第」だのであります。子供の一寸さきは光明であります。幾ら何が笑はうとも、來年の事はぜひいはなければなりません。地獄の沙汰とはなんのことか、知らぬ子が多いからよいけれども、金次第とは實にいやな言葉であります。全體に伊呂波がるたはむりに頭の字で竝べようとしたゝめに、惡い人の作つた諺も、善い人の作つたのもごちやまぜになつてゐます。あれを教訓だといつたのは誤りで、やはりこの本のやうに、諺とはどんなものかといふことを、若い人たちに教へようとしたゞけで、それにはまた説明が足りなかつたのであります。

(134)　しかし一方には、せつかく子供が面白がつて覺えるのだから、今少し爲になる諺を教へたいものだと思ふ人がありました。そしていろ／＼の書物や御經の中から、永くかゝつて集めて見たのが格言であります。格言と諺とは、名前がちがふやうに物も少しばかりちがふかと思ひます。格言は堅いものだから、説明をしてもらふ必要があり、また勉強して腹に入れることになるのですが、諺の方だと言葉が自分のもので、始めから口拍子に合ふやうに出來てゐるから覺え易く、意味がわかるのと感じるのとが一しよでありました。もつとも格言もたいていはどこかの國の古い諺で、出來るだけ手短に「たとへ」で説かうとしてゐますから、上手に運んで來ればそのまゝ「ことわざ」にも使ふことが出來ますが、それでもなんとなく土地に生えたものとはちがふのです。たゞ幸ひなことには、人が親切に若い者のために、遠い他國の格言までも集めようとする時代になりますと、自然に土地の諺も格言風なものが多く行はれることになつて、兩方が互ひに助け合つて教訓をしてくれるのであります。元はたゞ他人のあら探しの惡口のやうな言葉でも、「といふこと」もあるから氣をつけよといつて教へ、また時々は少しづゝ初めの意味をちがへても用ゐてゐます。おどけ者が自分を笑はせた諺などは、殊にいつまでもよい參考になりました。それからまたわざ／＼このために、考へ出したかと思ふ「たとへごと」も追々に出來ました。これが私のいふ變化の第六であります。

　　寶の持ち腐れ。

　　人の花は赤い。（人のものばかりよく見える。）

　　他人の飯は白い。

　　隣りの稗粥。（「隣りの若菜」ともいふ。）

　　わが上の星はこまい。

　　人ごといはゞ蓆しけ。（陰口をいつてゐると必ずその人が來るから。）

　　噂をすれば影がさす。

(135)　呼ぶよりそしれ。（これも同じこと。人をそしつてゐると不思議にその人が來る。）

　　拔かぬ太刀の高名。（これはもと口ばかりで働かぬ人の惡口であつたらしい。今では喧嘩をするなといふ意味の教訓に使つてゐる人も多くなつた。）

　　轉ばぬさきの杖。

　　あぶないことは怪我のうち。

　　三寸は見なほし。（これも見なほした方がよいといふ教へになつてしまつた。）

　　迷はぬ者に悟りなし。

　　下手は上手のもと。

　　名人人をそしらず。

　　主上田《ぬしじやうでん》（紀伊伊都郡）。（これも主の眼だけには上田に見えるといふことで、元は自慢を笑つたものらしいが、後には主の力で惡田も上田になるといふことに解する人が多くなつた。）

　　燈臺もと暗し。（だからまづ自分の周圍に氣をつけよといふふうにいつてきかせるやうになつた。）

　　岡目八目。（岡目とは遠くから見てゐること。八目を「はちもく」といつて、後には碁の勝負のことだと思ふ人が多くなつてゐる。）

　　澁柿の長持ち。（「まづい物の煮えぶとり」ともいつて、愚かな者の威張つてゐるのを笑つた諺。それが後には長持ちがしたければ澁柿に甘んぜよといふことに變つた。）

　　有る手からこぼれる。（これも人によつていろ／＼に解かれてゐる。）

　　針は包まれぬ。

　　刀から出た錆は磨ぐ砥がない。（「身から出た錆」ともいふ。）

(136)　　持つたが病。

　　涸れ池の塘《つゝみ》はきれぬ。

　　夜路に日は暮れぬ。

　　若竹笛にならず。

　　藪の中でも若竹は育つ。

　

　　　　　　　一一　諳記術

　

　かういふためになる諺は、むろん誰でもよく覺えて置かうとしたのでありますが、やはり氣のきいた譬へごとで、短くてまた口拍子のいゝものでないと、久しく殘ることは出來ませんでした。その理由は至つて明らかであります。書いた物を讀む人は昔はごく少なかつたのであります。村に寺子屋といふ小さな學校はあつても、いろ／＼の文字を覺えるまで、そこに行つてゐる者はわづかしかなかつたのであります。さうすると何か大事なことを忘れぬやうにするためには、毎日のやうに誰かゞいつてゐるのを聞くか、さうでなければ何かにつけて思ひ出さずにはゐられぬやうな、強い力のある言葉でなければならなかつたのです。それゆゑに以前の年よりたちは、ぜひとも若い者に教へて置きたいと思ふことを、出來るだけ面白い文句にしました。それでもまだ足らぬと思ふときには、わざと命令の形にしていつて見たのであります。諺は最初から相手ばかりでなく、傍にゐる者にも聽かせるのが目的であつたから、かういふ形も古い頃からありましたが、それを盛んに用ゐるやうになつたのは、諺が教訓のために作り出されるやうになつてから後のことであります。元はたゞ諺だから覺え易かつたといふだけであつたのが、後にはかへつて諳記させる便利のために、諺にして殘して置くことになり、自然にその中味が變つて來ました。これが變化の第七であります。

(137)　　損して得取れ。

　　急がばまはれ。

　　善は急げ。

　　當つて碎けよ。（碎けるまでも當つて見る方がよい。日本人らしい教訓。）

　　人の馬に乘るな。（「他人の弓を引くな」ともいふ。依頼心をいやしむ言葉。）

　　塔は下から組め。（土臺から築かないと高い塔は組み上げられぬ。）

　　壁は壁で塞げ。（間に合せは役に立たぬ。）

　　損した湊に船繋げ。（失望して遁げてはいけない。）

　　猫を追ふより魚をのけよ。（原因を殘して置いてはいつまでも危險は除かれない。）

　　磨がずに鍛冶を恨むな。（せつかくよく生まれても惰けると惡くなる。）

　　錆に腐らせんより砥でへらせ。（これも刀のたとへである。なまけて役に立たなくなる人間が一番つまらぬといふことを、これより簡單にいつて聽かせる言葉はなかつたのである。）

　多くの日本の若い人たちは、實際またこの通りのことを自分でも考へてゐました。それを改めてかういふ力の強い言葉で聽くと、もはや少しの説明を附け加へてもらはずとも、すぐに同感することが出來たばかりでなく、その「たとへごと」が面白ければ、笑つていつまでもよく覺えてゐて、つぎに生まれて來る人たちに、その通りのことをまたいつて聽かせようとしました。これが本といふものゝ少しもなかつた時代の、われ／＼の教育であります。昔の人は長い話をすることは今よりも下手でしたけれども、それでちつとも困らなかつたのであります。かういふ教へ方は修身ばかりでなく、まだその他のいろ／＼の學課にもありました。農業や漁業の如き親代々の世渡りには、今でもそれを忘れてしまつては、たいへんに損をしなければならぬやうないろ／＼の知識が、至つて簡單な諺になつて殘つてゐ(138)ます。それにもたくさんの種類がありますが、その中でもお天氣の占ひなどは、人が同じ土地に住んでゐる限り、いつになつてももう入り用がなくなつたといふことはなからうと思ひます。これもたいていは覺え易いやうに、命令の形にして教へることにしてゐましたが、さうでなくても一度でも自分で實驗してなるほどゝ思つた者は、それからは決して忘れません。面白い文句はたゞ次の人に、教へる時の便利のためでした。教師用の諺といつてもよかつたのであります。私はまだ少ししか知つてゐませんが、かういふのはこれから氣をつけて、もつと多く集めて置く方がよいと思つてゐます。

　　朝虹蓑ほごせ、夕虹蓑卷け。（朝の虹は雨の知らせ、蓑の用意をしなければならぬ。夕方の虹は天氣がよくなるしらせ。雨具を片づけてもよい。）

　　秋の夕燒け鎌を磨げ。（明日は草を苅るやうないゝ天氣だから。）

　　朝鳶に川渡すな。（鳶が朝のうちに鳴くと雨が降る。川の水が出て歸つて來られぬことがあるかも知れぬ。だから川の向ふへはなるべく行かぬがよい。）

　　夕鳶に笠を脱げ。（夕方の鳶の聲はもう雨が止むしらせ。）

　　八つ晴れに笠脱ぐな。（八つは午後二時頃、「おやつ」の時。雨が止んでもまた降つて來ることが多い。）

　　巳刻晴れに傘放すな。（巳刻は午前十時頃。この二つの諺は別々の土地のことである。他の土地へ行くと、この占ひは皆變つて來る。）

　　朝雨に傘いらず（上野桐生）。（すぐに晴れるから。）

　　朝雨には蓑を卷け（常陸）。

　　朝もやの晝ひより。（もやのある日はどこでもたいていは後にいゝ天氣になる。）

　　秋西に苫《とま》おへ、秋北に鎌磨げ（土佐）。（土佐では秋の頃北風が吹くと翌日は晴天。西風が吹くと雨が近い。苫は船(139)にかける雨覆ひ。）

　　東雷雨降らず（越後）。（越後のどこかでは、東の方の空に雷が鳴つても雨が降つて來ない所がある。）

　　乾《いぬゐ》夕立ち鍋釜が割れる（尾張）。（「いぬゐ」は西北。この方の空で降り出す夕立ち雨は、いつも鍋釜が割れるほど大きな雷をともなふといふのである。）

　　木曾かみなりの百日かん／＼（美濃）。（美濃ではこれと反對に、東の方で雷が鳴ると、百日も雨が降らないでかん／＼と照るといふのである。）

　　越前こがれで馬流す（美濃）。（「こがれ」も夕燒けのこと。西北の方の空が赤く燒ける年は、雨が多くて馬を流すほどの大水が出る。）

　　宵のこうぞう雨こうぞう夜明けのこうぞう日こうぞう（筑前）。（「こうぞう」は梟のこと。晩に啼くと雨、朝方に近く啼くのは天氣がよくなるしるしである。）

　お天氣などは大正でも昭和でも、さう大きなちがひはありません。それだから永くかういふ諺は役に立つのであります。これとはちやうど反對に、今ではもう覺えて置くほどの入り用もないことで、諺だけは面白いからまだ殘つてゐるといふものが、またたくさんにあります。人が口いさかひの時にしか使はなかつた古い「たとへごと」なども皆同じで、むろんだん／＼に消えて行くべきものではありますが、あまりよく出來た文句はなくなるのが惜しいので、始めの目的とは關係なしに、また時には少しは意味を取りちがへても、なるべく殘して置かうとしたのであります。さういふのを集めてよく考へて見ますと、歴史の本には書いてないやうな、いろ／＼の古いことがわかつて來るのであります。

　　灰がなければ麥蒔くな。（麥を蒔くのに必ず灰を肥料に使ふ土地のあつたことが、この諺からわかるのである。）

　　胡麻の遲蒔き小豆の早蒔き。（小豆は少し早めに蒔き、胡麻はゆつくりと蒔く方がかへつてよいものだといふこと。(140)これは今では知らぬ人も多い。）

　　田植ゑ布子の裸麥。（田植ゑの頃に時には綿入れの着物をきる程寒い日があり、麥蒔きは秋の末でも、時には裸で働くほど暖かい日がある。そのつもりでゐなければならぬと昔の人はいつた。）

　　二月は遁げて走る。（正月のつぎの月、遁げるやうに早くたつてしまひ、すぐに三月の働く月が來るといふこと。二月が二十八日でない舊暦の頃の話である。）

　　五月の盲薯。（五月の山の芋は盲でも掘ることが出來るほどよく見つかる。山の芋は五月に掘り取るべきものである。）

　　雨栗日柿。（雨のよく降る年は栗の實が多く、雨の少ない秋は柿の實が落ちないでよく實るといふこと。）

　　桃粟三年柿八年。（これは柿の方が實のなることが遲いといふことであるが、今では何といふ事もなく、子供が歌にうたつてゐる。それにつゞけて「梅はすい／＼十三年」などゝもいふが、これは只の文句である。）

　　木六竹八塀十郎。（木は舊暦六月に、竹は八月に伐るのがよい。土塀板塀は秋の嵐が過ぎて、十月頃に繕ふのがよいといふこと。それを諳記のために人の名のやうにして竝べたのであつた。）

　　卯味噌寅酒。（味噌は卯の日にたき、酒は寅の日にしこむがよいといふこと。以前は日の善し惡しを喧ましくいつて、田植ゑでも嫁入りでも惡い日には決してしなかつた。だからかういふ諺は非常に大切であつた。）

　　とりは食ふともどり食ふな。（どりとは鳥の肺臓のことだといふ。）

　　夜爪取るとも出爪取るな。（夜分に爪を剪る者は親の死にめにあはぬなどゝもいつて嫌つた。しかし家の外で爪を取るのはそれよりもなほ惡いといふ。その理由は今ではよく判らなくなつた。）

　　足袋は姉はけ雪駄は妹はけ。（履き物は鼻緒がゆるむから、少し小さ過ぎると思ふのを買ふ方がよい。足袋の方は足よりは幾らか大ぶりのを買ふのがよい。洗濯をするとつまるから。）

　　瓜に爪あり爪に爪なし。（爪と瓜とは書きまちがへ易い。だから、今でもかういつて覺えてゐる人がある。）

　

(141)　　　　　　　一二　輕口と機嫌取り

　

　おしまひに今一つだけ、諺が後に大きな變化をした、第八の場合といふのをお話すると、それは格言が理窟ばつて、聽いても笑ふことが出來ないのと正反對に、文句さへをかしければ中味はなんであつてもかまはぬといふ口達者が、だん／＼に多くなつて來たことであります。どうしてかういふふうになつたかといふことは、ほんたうはまだよくわかつてゐませんが、何にしても昔は今よりもずつと笑ふことが少なかつたのであります。笑ふといふことがいかに愉快であつても、笑ふと相手の人が必ず怒るやうでは、さう度々は笑ふわけに行きません。だからわれ／＼はをかしくても餘り笑はぬやうにせよと教へられてゐました。元は笑ふのが失禮であつたからであります。ところが自分で承知の上で笑はれてくれるおどけ者といふ人が出來て、もう幾ら笑つても差し支へがないやうになりました。「笑ふ門には福來る」などゝいつて、結構なことだと思ふやうになりました。さうすると笑ひたい盛りの人たちがげら／＼と笑つて、少しでも笑はずにゐるとすぐに退屈をするやうになりました。笑はせてくれる人がゐない時には、友だちどうしが互ひにおどけ者になつて笑ひ合つたのであります。

　かういふ人たちを口で笑はせるのはなんでもないことでした。何か普通には使はれない惡い言葉をちよつと使へば、たいていの若い人はぢきに笑ふやうになつてゐました。しかしさういふ笑はせ方は「くすぐり」といつて、下品なものとしてあります。最も多く用ゐられたのは、やはりこのことわざでありました。ことのわざ即ち物をいふ技術は、どうしても種類を増し、またつぎ／＼に新しくなつて行かなければならなかつたのであります。一番よく用ゐられたのは、誠に頓狂な物のたとへ方であります。前からあつた諺を少しづゝ形を變へて、意外なものを持つて來て、新しいをかし味を添へようとしました。

(142)　　瓜の蔓に茄子はならぬ。（これがもう古くなつたと思ふと、同じことだが次のは極端である。）

　　夕顔の蔓に挾み箱はならぬ。

　　杓子は耳掻きにならぬ。（いくら形はよく似てゐてもこれは大き過ぎる。）

　　長持ちは枕にならぬ。（これなども同じことをいふのに別のたとへを引いたゞけ。）

　　月と鼈。（圓いことは兩方とも圓いが物があまりにちがふ。）

　　義經と向う臑。（縁もゆかりもないといふたとへに、こんなことまでいつてゐる。）

　かういふ珍し過ぎる「たとへ」は、をかしいのはたゞ言葉だけで、意味はかへつて前のものよりも弱くなります。それからもう一つは口拍子にばかり力を入れて、いふことは至つて簡單なものであります。

　　男は度胸坊主はお經。（前の半分だけの方が諺としてはねうちがある。）

　　やせは直つてんくせは直らん（肥前北高來郡）。（痩せは直るが癖は直らぬといふことだが、「八せ」「九せ」といふのがしやれになつてゐる。）

　　兩はういゝのは頻被り（磐城石川郡）。（頬被りは兩方の頬を包むから、喧嘩の仲裁の時などによくこんなことをいふ。それで吹き出してしまふともう喧嘩は出來ないからそれだけで目的は達するのである。）

　　瓜賣つても賣りそこなふ（百用今海）。（役に立たぬ人のことであらうが、いひ方が面白いとひどい惡口には聞えない。）

　　りつぱな合羽着せたやうな人（羽後横手）。（氣取つた人をひやかしてさういふ。）

　　腹立てるより義理立てよ。（この方はまだよいが、次のはずゐぶん下品。それでもこんなことをいひながら、遠慮なしに御馳走にならうとする者が折々あつた。）

　　義理ばるより頻ばれ。

(143)　　薔薇の根から藁ははえぬ。（「瓜の蔓から茄子」と似てゐるが、この方は少しむりに聞える。しかし口拍子だけはよい。）

　　ある時は蟻があり、ない時は梨もない。（梨があると蟻がある、梨がないと蟻がない。面白いいひ方である。しかし意味はよくわからぬ。）

　その次に殊に數多く用ゐられてゐるのは、俗に口合ひともいつて、言葉ばかりでをかし味を作つたものであります。これを聞いて笑はぬ人はありませんが、それでゐて話には何も變つたことはなく、たゞそれだけの文句がむだに加はつたといふだけなのであります。

　　火燵の前であたりまへ。

　　蜻蛉の鉢卷きで目さきが見えぬ。

　　猿の小便できにかゝる。

　　桃に鶯できがちがつてゐる。

　　梨の木の下の晝寢でこの上なし（讃岐高松）。

　　八月の風でそば迷惑。（蕎麥と傍とをもぢつてゐる。）

　　大きな冬瓜でおもしろい。（大きな冬瓜は重くて白いから。）

　　石屋の引越しでおもい／＼。（「重い／＼」と「思ひ／＼」とをかけていふ。）

　　紺屋の地震であひすまぬ。（紺屋に地震があると藍が澄まぬから。）

　　樽屋の前垂れでわすれてゐる。（「輪摺れる」と「忘れる」。）

　　傘屋の小僧で骨折つてしかられた。

　　はやらぬ問屋でにつかぬ。（「荷着かぬ」と「似付かぬ」と。）

(144)　　貧乏稻荷でとりえがない。（「鳥居がない」と「取得がない」と。）

　　座敷の塵取りでうちはで濟ます。（「團扇」と「内輪」と。）

　　子供に手水鉢でしやくにさはる。（子供はよく手水鉢の杓にさはつたものと思はれる。今ではさういふことがなくなつたので、これなどは元のことがわかつて面白い。）

　　佛樣のお椀でかなわん。（「金椀」と「かなはぬ」と。）

　　猫のお椀でにやわん。（「似合はぬ」）

　　死んだ猫の子でにやんともいはぬ。（「なんともいはぬ」。）

　　師走の蛙でかんがへる。（冬の蛙だから「寒蛙」。）

　　蛙の小便でたへしたもんだ。（「田へした」と「大した」と。）

　　蠶の小便でくはしい。（小便のことばかりいつてゐる。）

　　曲つた松の木ではしらにやならぬ。（「柱にはならぬ」と「走らねばならぬ」と。）

　　割り木に飯粒できのまゝ。

　　池田の馬でいたみ入る。（伊丹は池田の近くである。「伊丹へ入る」と「痛み入る」と。）

　かういふ文句は少し氣轉のきいた者なら、誰でも考へ出すことが出來ますから、別に古くさいのをまねする必要はありません。それでこの通りわづかな間に、たくさんになつたのであります。大體は町や港などの、いろ／＼の人が出たりはひつたりして、氣永に物を考へてゐることのできぬ土地で、この輕口といふものは始まつたかと思ひます。それゆゑに田舍の方でも町の流行をよく知つて、その風をまねて見ようとする者と、前からあつた意味のあるたとへごとを口にする者とは、いつでも別々の人であつて、輕口は寧ろ重口の方を輕蔑しようとしたのであります。輕口が盛んにはひつで來ると、それに伴なつて古風な多くの諺は消えました。それで人によつては輕口も諺の一種だといふ(145)ことを疑つてゐるのであります。しかしこの二つは共に人に説く技術であるばかりでなく、その形においても目の前にある問題へ、直接關係のない遠くの何物かを持つて來て、二つを竝べて見るといふ點が同じでありました。さうして結局は笑ひの力をもつて、事件をかたづけようとすることも、雙方一つであつたのであります。おどけ者が「しやれ」をいふ場合でも、小さいながら何か目當てがなくてはそんなことはいひません。誰かゞ機嫌を惡くしてゐる。または氣が荒い人が集まつて喧嘩が出來るかも知れない。さういふ時にわざと普通の人のせぬやうなとぼけた顔をしたり、頓狂なことをいひ出して、笑ひをもつて人の心を外へ向けるのであります。武器以外の武器によつて、相手を自分の思ふ通りにしようといふ趣意に違ひはありません。たゞちがふ點は、敵も身方も共々に笑ふことですが、昔の口合戰の時代でも、あまり上手な「ことわざ」を出せば、時々は思はず敵も一しよになつて笑ひました。さうして笑ひ笑ひ負けたのであります。

　それですから私はかういふ輕口も諺の中に入れます。と同時によく似たものでも諺とはいへないものがあります。格言は教へる人だけにはよくわかつても、餘りむつかしくて誰でも常の物いひの中に入れて使ふといふわけにまゐりません。熟語は多くの人がよく使ひ、また文句も定まつてゐて簡單になつてゐますが、目ざす相手を持つてをりません。隱語も多くは「たとへごと」にはなつてゐますが、これは一部分の者にはわからぬやうにしてあるので、その場にゐる者が一しよになつて笑ふことが出來ません。また古くからある教訓の中でも、たゞさういふことを知つてゐるといふだけで、定まつた文句のまだ出來てゐないものがいろ／＼ありますが、これもその點で諺とはいはれないのであります。藤井乙男先生の諺語大辭典といふ本は、非常にたくさんの諺の集めてあるよい本ですけれども、その中には實際は諺でないものが大分交つてをりますから見分けなければなりません。西洋でも多くの國に諺を集めた本が出來てゐますが、それもあまり數多く集めようとしたゝめに、やはり時々は諺とはいひにくいものも入れてあるやうであります。

　

(146)　　　　　　　一三　諺と兒童

　

　だん／＼お話をして來ました通り、諺は和歌や俳句も同じやうに、いづれも元は大人だけにしか入り用のないものでありました。大人ばかりに聽かせるつもりで、いつたり考へ出したりしてゐたものであります。兒童はたゞ脇にゐて、みんなが面白さうに笑ふのを見て、少しづゝその意味がわかり、大きくなる迄には自分たちも、どれを聽いても笑へるやうになつてゐたのであります。諺が衰へまたは亂雜になつてからは、それがなか／＼容易なことでなくなりました。伊呂波がるたなどゝいふものは、かへつて諺を順序よく覺える者の邪魔になりました。尤も子供の中にはまねが上手で、意味がまだよくわからぬむつかしい諺を、時々使つて見ようとする者もあります。さういふ時にも大人は笑ひますが、それは少年の歌や俳句を感心するのと同じやうに、諺が面白いから笑ふのではなくて、たゞ子供にしては「ませた」ことをいふのがをかしいのであります。だからさううまくない歌や句にも感心するやうに、格別氣がきいてもゐない諺で笑ふのです。笑はせて見たところでつまりません。さうして大人を笑はせるといふことなどは、兒童の役目ではないのであります。

　しかし諺とはどんなものかといふことを、知つてゐるだけは必要であります。人類が他のすべての動物の持たぬ力、すなはち物をいふ力を最初に利用したのは、恐らく外から現はれた危急に對して、仲間を纏めるためであつたらうといはれてゐます。諺は言語といふものが出來てまもない頃から、もうそろ／＼と始まつた古い技術であります。さうして人間に「おしやべり」といふものがある限り、どんなに形を變へても、續いて行かなければならぬ技術であります。今までわれ／＼が「ことわざ」といつてゐたのは、その中の特に古風な文句、ごく短い氣のきいた言葉をもつて、譬へを設けて人を動かさうとする方法だけに限つてゐますが、これは談話といふものがだん／＼に發達して來れば、(147)今に不用になるだらうと思つてゐる人もあります。なるほどさういふ專門の職業が出來、人がその話を聽いてゐる暇をもつやうになれば、なるだけ丁寧に相手が滿足するまで、説明した方がよいといふことになるかも知れませんが、そんなことばかりもしてをられない場合が、實際はまだ多いのであります。他にも爲事があつて急いでゐる時、お互ひに氣持がわかつてゐて詳しい話をするに及ばぬ時、または感情がもつれて氣を轉ずる必要のある時、それからぜひとも覺えてゐて、つぎの人へもいつてもらひたいことがある時などは、今でもわざ／＼標語といつて、強い短い文句を用意して置いて、それを使はうとするのであります。演説や講演に演題といふものがあり、詩でも小説でも皆似つかはしい題をつけてゐるのも、多くは以前使つてゐた諺の代りであります。

　それだのに諺は、いつも學問のある人に輕蔑されてゐました。諺を使つて話をするのを下品なやうにいふ人がありました。しかし、それは惡い諺ばかりたくさんに知つてゐて、とき／”＼は間違つた使ひ方をすることが、下品に聞えたからであらうと思ひます。まるで使はぬことにしたならば、困る場合がまだあるのです。たとへば人と議論をする時などは、今では諺の必要はもうありません。他人の行ひを批評する時にも、へんな譬へなどは引かない方が、かへつてきゝめが多くなりました。教育教訓のためにも先生方のお話が、以前の簡單な諺などに比べると、どの位わかり易くなつたか知れません。しかし苦勞をする人の心を慰め、沈んでゐる者に元氣をつけ、怒らうとしてゐる者に機嫌を直させ、または退屈する者を笑はせる方法としては、かつてわれ／＼の諺がしてゐたゞけの爲事を、代つてするものは他にないのであります。輕口が粗末になつて、日本の笑ひはそれこそ下品になりました。それでも若い人たちは笑はずにはをられぬゆゑに、今は實につまらないことで笑つてゐます。かういふ人が少しも笑はずにゐられるやうになるか、または別に新しい方法が見つかるまでは、やはり諺のなるたけきれいなのを、考へ出して行くより外はありません。中昔のおどけ者が教へてくれたやうに、自分たちのしてゐることの中にも、まだ氣のつかなかつたをかしなことがあります。それをたとへにして話し合つて見ることは、世間の人から笑はれぬ用心にもなり、同時にまた日本(148)の笑ひの改良になるかも知れません。たゞその前に諸君はまづ、諺の善し惡しといふことを知らなければならぬのであります。

　〔「なぞとことわざ」の文中（）の中は、チチ（父）のようなものを除いて１ポイント小さい活字になっているが煩雑なので普通の大きさにしておいた。〕

　

(149)　　　火の昔

　

(151)　　　　　自序

　

　此本はすこし昔の事を譽めすぎると、思ふ人があるかも知れない。火の昔といふ話をするのだから、それは當然のことなのである。もし今日の火の話をするのだつたら、今の方がよいと言はねばならぬことは、別に又もつともつと有るのである。全體に世の中は昔よりもずつと暮しよくなつてゐる。殊に火については昔の人は苦勞をした。さうして更に氣の毒なことには、その色々の苦勞をもう忘れてしまはれようとしてゐる。火の話をする際には、是非ともそれを言はなければならぬのであつた。

　文化といふ言葉は、この頃よく耳にするけれども、それはどういふものかを説明し得る人は存外に少ない。私はそんな言葉を成るたけ使はずに、是が文化だなと思つても差支への無いものを、一つづゝ擧げて見ようとして居る。さういふ中でも火は最もはつきりとしてゐる。乃ち文化は國民が共々に作り上げたものであつた。我々は又問題といふ語を好んで使ふが、時にはそれが必ず答へらるべきものだといふことを考へず、或は答へることの出來ないものが、問題だと思つて居るらしい人さへある。そんなことでは幾ら本を讀んでも、人生は幸福にならぬかも知れない。火の問題だけは幸ひにして、我々を考へさせる。今のまんまでは永くは居られないと思ふことが、是からの計畫を確實にするであらう。少なくとも私だけは、さういふつもりを以て此話をしてゐる。

　今まで聽いことが無いといふやうな話を、若い人たちにして聽かせるのが、この本の目的であつた。年をとつた者にはもうわかり切つたことばかりで、つまらぬであらうと思ふやうであるが、實は私なども是を書きにかゝつてから、あぶなく忘れようとして居た事を憶ひ出したものが幾つもあつた。若い讀者がもし聲を揚げて此本を讀むならば、傍で聽いて居てにこ／＼とし出す人がきつと多いであらう。どうかさういふ人たちの思ひ出話を注(152)意して聽き取り、或は私の本の中に有るかと思ふ誤りの點を、二つでも三つでも見つけ出すやうにしてもらひたい。それも亦今後の學問の、進んで行くべき一つの道である。

　　　　　昭和十八年初冬

　

(153)　　　　　闇と月夜

　

　世の中が進んだといふこと、今が昔とくらべてどの位よくなつてゐるかといふことを考へて見るのには、火の問題が一番わかり易いと思ひます。世の中が明るくなるといふことは、燈火《ともしび》から始つたといつてもいゝのであります。闇はすべてのものを隱し、靜かに休むのには適してゐるが、外で働き道をあるくといふ人たちには、可なり大きな妨げであります。だから近頃では燈火管制をしなければならぬ程、燈火は明るくなつてゐますけれども、もとはその闇を明るくするために、皆が大變な苦勞をしたのであります。

　「親と月夜はいつもよい」といふ子守唄を、あなた方は聞いたことがありますか。女の子は十二三になつて、始めて親の家を出てよそで働く時に、大抵一度は赤ん坊のお守りをすることになつて居たのですが、さういふ子守の娘たちは、別に誰から教へて貰ふといふこともなしに、自分でこしらへた子守唄をよくうたひました。その中には中々いゝ歌が、今でも少しづゝ殘つてゐるのです。

　　　他人おそろし、やみ夜はこはい

　　　親と月夜はいつもよい

　他人の中にもおそろしい人ばかりで無く、好い人はいくらも有ることが段々とわかつて來て、その中から友達をこしらへて行くのですが、馴れないうちは何だかみんながこはい人のやうに思はれたのと同じに、闇夜といふものは何もかも恐ろしいやうに、始めて親の家を離れて世間に出て來た子供たちは感じて居りました。それ故に燈火のまだ發達しなかつた時代には、月夜ほど嬉しいものはなかつたのであります。それは年の若い人たちだけではありません。(154)廣い海上に出た時、或は野原の眞中に立つた時などは、日本は星空の綺麗な國だから、月の無い晩でもうつすりと物の形はわかります。しかしちよつとした樹の蔭や家の脇などを通る時は、そこに何があるのかまるでわからなくなるのです。昔の人たちは「鼻をつまゝれてもわからぬ」といふ言葉で、さういふ闇の晩を形容してゐました。村や屋敷の中までが別世界になつて、何かよそからその闇にまぎれて、近よつて來る者があるやうな不安を抱くのが普通でありました。實際また野獣とか盗賊とかの、さういふ闇の蔭を利用して、人に近よる敵も多かつたのであります。

　月夜は綺麗なばかりでなく、同時に大變うれしいものでありました。皆さんが想像なさるより以上に、昔の人は月を愛し、又有難がつてさへもゐました。明治の初年まで行はれてゐた太陰暦といふ古い暦では、月の十五日を滿月とする立て方になつてゐました。それでちやうどその反對の月の終りの日を、ツゴモリ即ち月の隱れる時といひ、その翌日をツイタチといひました。たつといふのは始めて現はれることであります。古い色々の祭の儀式は、この滿月の晩を待つて行ひました。後には月の初めの頃に、三日月二日月を迎へて拜むやうな信仰も起りましたが、それよりも前には月の二十三日、夜中過ぎにお月樣の出られるのを祀る習はしがあつて、今でもまだ全國の端々に住む人が、二十三夜樣といつて此夜の月を拜んでをります。

　月が夜中に隱れたあとの闇を曉闇《あかつきやみ》と謂ひ、それから二十日過ぎて月の遲く出る前の暗さを宵闇といつてゐました。宵闇はやがて月が出るといふ喜びを以てお祀りするのですが、曉闇は靜かな嚴肅な闇で、多くの人は一番この闇を畏れ惧んでをつたやうであります。さういふ時刻に、家でみんなと靜かに休んでゐることが出來ず、どうしても外をあるかなければならぬといふことは、何かよく／＼の用事、それも困つたことや不幸なことが多かつたのであります。どうして懷中電燈を持つてあるかないのかといふやうな疑ひをもつ人は、恐らく小さな子供たちにももうありますまいが、なぜ挑燈《てうちん》を用ゐなかつたらうかといふ不審は、大きくなつたあなた方にも起らぬとも限りません。それを一つ最初にお話しでみようと思ひます。

　

(155)　　　　　挑燈の形

　

　挑燈といふ名稱は漢語でありますから、始めは多分大陸から入つて來たものだらうと思ひます。しかし少なくとも現在の挑燈は日本獨特のもので、今でも外國の人は珍しがつてそれを集めたり繪に描いたりして、却つて日本の都會の子供たちよりは餘計に注意してをります。その挑燈が又以前あつたものと、近頃のものとでは大へんに變つてゐるのであります。

　日本の挑燈のこしらへ方は、竹を細く割つて削つて、それを輪にしたものを幾つも重ね竝べて、其上へ紙を貼るのです。その輪にする竹の細い棒をひご〔二字傍点〕といひますが、そのひご竹の長さを違へて、輪の大きさを色々に變へて行くことによつて、あのまん圓い挑燈の形が出來るのであります。支那の挑燈は、疊めることまでは日本とお揃ひですが、丸味を作ることが出來なかつたやうであります。滿洲の挑燈には、竹でなく木のひごを弓なりに曲げて縱に合せて、瓜の形にして紙を貼つたものがありますが、この方は伸び縮みが出來ません。つまり眞中の輪を大きくしてふつくりと圓くすることが、日本の挑燈の一つの特徴であります。西洋には挑燈に近いものは見かけませんが、日本の挑燈の長處はあちらの人にもよく判つたのであります。つまりは細い竹の輪を幾つも／＼重ね圓みをつければ、見たところが面白いばかりか、火のあるところが紙から遠ざかつて、燒ける危險が少ないので、夜路をする者は昔から、どうにかして斯んな形のものを作らうと、皆苦心して居たのであります。それからもう一つは、火をともした挑燈を其まゝにして、兩手でほかの仕事をしようとする場合に、つゝかひ棒が無いと挑燈をぢかに地上には置けないので、是にもさま／”＼の工夫が入用でありました。以前はたゞ木の枝か何かにぶらさげで置くやうに、上につり手を附ける位のも(156)ので、下に置くことまでは考へなかつたのを、日本では最初に棒を竪に通して支柱にすることを始めました。さうしてその次には鯨の鬚を利用して、弓張といふものを發明したのであります。近頃ではもう見かけなくなりましたが、以前はどこの家でもふだんの日から、弓張挑燈に紋を附けたものを、臨時の用意に表の間の鴨居の上に、箱に入れて竝べて置くのが、極めて普通のことになつてゐました。この弓張の紋挑燈の發明は、今からせい／”＼百五十年、二百年とは經たない前のことゝ思はれます。闇を明るくする爲には、本たうに我々は考へました。たとへば挑燈の口が餘り小さいと空氣の流通が惡く、口を大きく開ければよく燃える代りに、雨風の防ぎにはぐあひが惡いので、上の方に蓋をつけて、遠路をする時に使つたのが箱挑燈であります。我々の祖先は挑燈一つ造るのにも、多勢の智慧を集めて、色々の改良を加へてゐるのであります。和漢三才圖會といふ本には、炬火《たいまつ》の雨に消えない秘法などゝいふのがあります。炬火は雨に消えることが大きな缺點だつたのが、挑燈が出來ると紙には油が塗つてあり、口には蓋があつて、もうその心配はなくなりました。それだけならまだ當り前とも思はれますが、今日皆さんがよく御存じの紅いかはいゝ酸漿《ほゝづき》挑燈などゝいふものは、もつと飛びはなれた發明で、支那は勿論、昔の日本にも全く無かつたものであります。

　その發明の一つは、そんな小さな挑燈に使へるやうな?燭を考へ出したことです。昔は?燭の大きさもきまつてゐました。それをともしてまはりの紙が燒けないやうにするのには、もとの挑燈は餘程大きくなければなりませんでした。小さな酸漿挑燈が出來るためには、小?燭といふものがなければなりません。さうして小?燭の出來たのは新しいことでありました。東日本では、今でもこの小?燭を仰願寺《かうぐわんじ》と謂つてゐます。その名の説明をした逸話が、色々の本に出てゐますが、今から二百六七十年前の延寶といふ頃に、江戸の淺草の仰願寺といふお寺の上人が、懇意な挑燈屋の話を聽いて、子供にでも持てるやうな挑燈を、數多くともしてあるかせて見たいと思つて、斯んな小さな?燭を作らせたのださうで、いはゞ子供の要求が通つたわけであります。近頃ではそのカウグワンジ?燭でも、まだあぶないやうな小さい酸漿挑燈を、火はともさずにたゞ赤く外を塗つて、晝間でも用ゐるやうになつてゐますが、それにな(157)る道筋は一たん仰願寺の和尚が働いて、それからのちに紅《べに》挑燈といふ?燭無しにでも持つて遊べるやうなものが、第二段に生まれて來たのであります。

　

　　　　　?燭の變遷

　

　?燭といふものはずつと古く、奈良朝の頃から既に日本には其名がありましたが、その用途は非常に限られ、價もよほど高く分量も少なく、上流の人たちでないと使はれぬ大切な品で、宮殿とかお寺の本堂とかでしか用ゐられぬものでした。有ることのみは久しくわかつて居つても、それを挑燈にともすことはたゞの人には出來ませんでした。今日は再びその用ゐ場所が少なくなり、注意してそれを見ることは出來なくなりましたから、もう知らぬ人が多いかも知れませんが、挑燈と同じにこの?燭にも、永い年代の間に非常な改良が加へられてゐるのであります。

　明治に入つてからの一番大きい?燭の改良は芯《しん》の變化でありました。?燭の油を芯に滲ませて、火が長く燃えてゐるやうにするのには、紙を卷いて捻つた紙芯を使ひました。その一つ前には民間で使ふ?燭には、玉蜀黍などの髄《ずゐ》を使つたものもあつたといふことです。紙は燃えれば灰になるからそのまゝにしてもよいが、玉蜀黍の芯はいつまでも太く殘つてをつて、大きく火が燃え?が早く溶けるので、度々其芯をたゝいて小さくする必要がありました。それでこの?燭の名を、頭を敲かれるから折檻《せつかん》?と、戯れに呼んだといふ話もあります。しかし玉蜀黍の芯は勿論、紙で芯を造つた場合でも、火力が強くて?が早く流れますから、とても仰願寺のやうな細い?燭は造れません。それでこの小?燭の發明は、おもに芯を細くすることに力を入れたので、始めは多分燈芯といふものを材料にしてゐたのだらうと思ひます。以前の?燭は芯切りのしごとが非常にうるさく、燭臺の横の鈎《かぎ》には必ずその芯切りといふ金物の鋏が(158)掛かつてゐて、一人が附ききりのやうにしてその芯をはさみ取りました。淨瑠璃や芝居の舞臺でのやうな?燭を立てた所には、必ず一人の芯切りの男が、あちらこちらと走りまはつて芯を切りました。燭臺の下には又切つた芯を入れるための、蓋のある火消壺のやうなものがついてゐて、昔はこれをほくそほとぎ〔六字傍点〕と謂ひました。ホトギは壺のことで大抵は土燒きの器、後には眞鍮などの立派なものが出來ました。燭臺と芯切りとこの壺と、三つ揃へて一組になつたものが、かつては普通の家庭の缺くべからざる道具になつてゐました。ところが近い頃に多分は西洋から、木綿を撚り合はせて芯にした絲芯が入つて來て、この二つの附屬品は不用になりました。さうして?燭の?が少ししか溶けないで、燈火の光が長くたつやうになつたのであります。

　支那から始めて入つて來た?は、蜜蜂の巣から取つた蜜?らしく、これは我國では出來ませんから、後には漆の實、それも主として黄櫨漆《はぜうるし》から採るやうになりました。しかし一方には油煙が多く立ち物は惡いけれど、松脂?燭といふものがありましたので、上等の?燭は無くても、農家ではこれで間に合せて用を足して居たのであります。?燭が段々と多く日本で使はれ出したのは、油菜の普及から後のことかと思ひます。菜種の油をともして家の中が明るくなると、家の外でも又隅々の闇を照らすにも、もつと好い明りが無くてはすまぬやうになつたのであります。?から?燭を造るには、その芯に何度も?を塗り重ねるのを卷掛けと謂ひました。外國から入つて來たのは筒掛けと謂つて、竹を二つに割つた中へ?を流し込むのですが、日本の製し方は、木?一貫目に油一升を練り合せたものを、芯の上に塗り重ねて行くといふことが、和漢三才圖會には見えてをります。さうして?燭の?を絞る櫨《はぜ》の木の栽培が奨勵されたのも、菜種の畠が多くなつたのも、共に弓張挑燈の發明と同じ頃の、今から二百年とは經たない江戸期半ばのことで、その時分から?燭の利用が民間に盛んになつたわけであります。しかもこの利用は又新たに、次の色々の發明を促しました。?を晒す技術が段々と發達して來て、白い美しい色澤《いろつや》をもつて臭味の無い、綺麗な白?が商品として現はれ、次いで又鑛物質の、多分石油の滓から作つた石?といふものが入つて來て、名前は一つでもあなた方のお祖父さんの(159)頃の?燭と、今の?燭とは全く違つたものになつて居るのであります。それと同じやうな變遷は、實は昔から何べんもあつたのです。そのお話が面白いから、もう少し詳しく述べてみませう。

　初めて我國の人が支那からこの燈火を學んだ場合には、ラフソクといはずにラッソクと呼んでをつたかと思はれて、今も古風な一種の?燭だけに其名が殘つて居ります。日本のやうな風の常に吹く國で、風を遮ぎる道具立てを伴なはずに、是が輸入せられたことは一つの不便でありました。裸?燭の一ばん困ることは、風に煽られると?が一方へ靡いて、?の片方だけが溶けて役に立たなくなることです。それを平らに燃えるやうにするためには、紙の障子を附けて風を防ぎ、火をまつすぐにすることで、紙の利用が進まなかつた頃には、?燭は大變使ひにくい面倒なものでした。切支丹が我邦に渡つて來た頃の、ジェシュイットの坊さんの手紙などを見ると、彼等のお祭にも盛んに?燭を使つてをりますが、いづれも裸のまゝの?燭を手に持ち、又は木の枝にさして居たやうです。大陸の風習ではそれでよかつたが、日本は日暮れや夜中に風のよく吹く國だから、是では多くの?燭が片よつて溶けて無駄になり易く、それを防ぐ風除けの覆ひを造るには、紙が昔のやうに價の高いもので無く、誰にでもたやすく得られなければなりません。それ故に紙が自由に手に入つて、家には紙の窓が出來て部屋々々が明るくなるのと同じ頃から、急に?燭は國民の間に使はれるやうになつたのであります。さうして又ちやうどその頃から、これをラッソクといはずにラフソクといふ人が、多くなつて來たやうであります。是は恐らくもう?といふ漢語を知つたので、?の燭だからラフソクの方がよいと思つたからでありませうが、をかしいことには是を改良した?燭の名に限り、古くからあつた方の松脂の?燭だけに、いつまでもラッソクといふ名を殘して居ります。中國地方の山村でも奧羽地方でも、つい近い頃までラッチョクとも又ラッツォクともいふのがあつて、それはいづれも芯の無い、?でないもので造つた燈火でありました。松脂?燭はこの古風なラッソクといふ名の他に、處によつては又ヨジロウといふ、人のやうな名前をつけてをります。それも與次郎といふ人が發明したのでも何でも無く、もとから松脂のことをヨジロといふ日本語があつたのであります。(160)秋田の方では又これを馬鹿?燭といひました。火をともすとまるで馬鹿のやうに、洟《はな》を垂らすからだといつて居ります。

　この松脂?燭を造るには、山へいつて材木にならぬやうな曲つた松の木を見つけ、春さきその幹に傷をつけておき、秋になつて傷口から流れる松脂を集めて材料にしました。斯うして松脂を採る作業をたたき〔三字傍点〕と謂つたことは、ちやうど今日の護謨のタッピングとも似て居りますが、それで一名をタタキラフソクといふ土地もあります。採つた松脂は器物に集めて、火であたゝめて捏《こ》ねて長い棒に造るので、それで又デッチともこれを呼んでゐました。デッチルといふのは「捏ねる」の田舍言葉であります。でつち上げた松脂は笹の葉で包んで、その上をタツノヒゲといふ草で數箇所結びます。少し位の風にも火が消えない故に、やゝ遠い所までともして行くことが出來ましたが、今の挑燈のやうに提げて旅行をするといふことは出來ません。?燭は下に穴があり挑燈には釘が立つて居り、又簡單に火を繼ぐことも出來ましたが、松脂を固めたものは一方の溶けるのを待つて、次のものにくつゝけるだけでした。それでもたゞの木の枝を燃やすよりは便利なので、中世の人たちはこれを續松と書いて、ツイマツと呼んでをりました。ツイマツのマツは木の名であると同時に、日本では又火のことでもあつたやうです。火には松の木が多く使はれて居り、沖繩は今でもオマツといふのが火のことであります。

　

　　　　　炬火の起り

　

　炬火をタイマツといふ言葉は、今ではよくわからぬまゝで人が使つてゐます。或はタクマツだといつたり、又續松のツイマツから變化した言葉だなどゝ、多くの學者は言つてゐますが、それは誤りのやうであります。タイは手火《たひ》と(161)書くべきもので、現に今でも盆の祭をタヒタテと謂つたり、タヒトボシと謂つたり、百八タヒと謂つたり、タヒだけを離して用ゐる地方が多いのを見ても、元來は手に取る火、即ち手火であつたことがよくわかります。その言葉の一番古く文字に現はれたのは、日本書紀の神代の卷に、伊弉諾尊が湯津《ゆづ》の爪櫛の雄柱を一つ缺いてタビとなされ、伊弉冉尊を御覽になつたとあるのがそれで、その頃は二寸か三寸の短いタヒがあつたらしいのが、後には二尺も三尺もある長い松明《たいまつ》が出來たので、今でいへば裸?燭や燐寸の軸木なども、皆一つの手火であります。

　?燭が普通に用ゐられるやうになると、?の屑がたくさんに出來ますが、支那ではこれに燭涙《しよくるゐ》といふ言葉も出來てゐる位、實際涙のやうに?燭の傍から、溶けて流れて下に落ちました。それを大事に貯へておいてもう一度溶かして、こよりなどに塗つたのが紙燭《しそく》といふもので、昔の人はよく之を使ひました。?燭の芯に紙を使ふことは、この紙燭と關係があるやうに思ひますが、勿論そんな火をともして遠くまで歩いて行くわけにはいきません。ほんの今日の?燐寸も同じに、履物を探したり戸棚から物を出したり、さういふ簡單な用にしか使ひませんでした。

　夜分にもし二里も三里もの先へ行かなければならぬやうな時には、必ずタイマツ（松明）といふものをともして出かけました。これが挑燈の普及するまでの、屋外の明りのたつた一つの方法でした。一本が通例昔の半｜時《とき》、今の一時間はもつものとなつてゐて、三｜時《とき》の旅行をするには六本持つて行くとか、月が夜中に出るからそれ迄は二本でよいなどゝ、見積りをするのが重要なことでした。それで夜通し遠路をあるく者、又は山に入つて夜の狩をするやうな人たちは、背なかに大きな籠を負うて、たくさんの松明を其中に入れて出かけたので、夜の外出はもとは大變な支度でした。それが僅か二三本の?燭と、たつた一つの挑燈がありさへすれば用が足りるやうになつたのですから、この便利を吾も／＼と利用するやうになつたのは當り前です。さうしてそれまでになるのにも、幾人もの智慧や才覺が應用せられなければならなかつたので、簡單には作り出すことの出來なかつたことは、現在の懷中電燈も全く同じことであります。

(162)　松明は今でもマツのアカリと書いて居りますが、事實は松以外の材料を使つたものが中々多く、例へば農家では麥藁タイマツ、竹細工が行はれる地方では竹屑を利用した竹タイマツ、または檜の木の薄い削り屑を集めて作つた上品な炬火もあつて、それは商品にもなり、大きな交通路の道ばたでは、これを竝べて旅人に賣つてもゐたやうです。以前は檜の木が多かつたゞけでなく、檜物細工といつて、檜の薄い板を火で暖めて綰《わ》げたものを、桶として使つてをりました。その細工の屑を大事にしまつて置いて、お嫁入りとか晴の旅立ちとかの人に見られるやうな日に、松明に使はうとしたのであります。大きな美しい火の行列といふものは、もとは炬火でしか見られなかつたのです。しかし都會の家がたて込み、火災の怖ろしさを知つてから後は、人家の多い所では成るだけ使はせぬやうになり、從つて挑燈が特別に發達したのであります。それよりずつと以前の紙の商賣も無く、?燭を長くもたせる芯の改良も無く、又挑燈の眞中を圓くして火から遠ざけるだけの發明も無かつた時分には、闇夜は松明よりほかに道を明るくする方法がなかつたのであります。

　村に生まれた人たちなら、今でもまだ折々は見ることが出來る炬火行列は蟲送りであります。害蟲が田畠に發生した時に、火を焚いてそれを驅除するのは理窟に合つたことで、たゞ以前は少しお呪禁《まじなひ》のやうな心持も混へて、それが實行されてゐたのであります。たとへば藁で人形をこしらへて害蟲の親方と見立てたり、これを馬に乘せ食べ物を持たせ、もしくは苞や芋の葉の中へ害蟲を集めて入れたものを、この人形にしよはせたりして、それを先頭に立てゝ松の火をたくさんともし、時によつて村中總出で鉦太鼓をたゝいて送つて行き、しまひには村境の塚の上でもやしたり、又は海川の中へその人形も炬火も、一切がつさい流してしまふのであります。私等の小さい頃は、夏も終りに近くなる頃、どこの村でもこの松明行列を代り番こにして居ました。眞暗な晩だと、田舍では殊にそれが美しく感じられ、いつまでも人がよく覺えて居るのであります。

　近頃でもまだ少しは見ることが出來た今一つの炬火行列は、雨乞ひの時の行事であります。これは通例附近の山の(163)一番高いてつぺんに行つて火を焚くので、遠くから眺めた景色は蟲送りよりも、また一層美しく子供の眼に映りました。これには二種の方法があつて、その一つは燃料をかついで山のてつぺんへ持つて行つてから大きな火を焚くもので、千駄焚《せんだた》きとか千把萱とか謂つて、多勢の手で大きな火を焚くことが、一つのまじなひの力にもなると思つて居たのであります。今一つは山が低いか道が近いかすると、もう村から火を焚いて出て行きます。二本か三本づゝめい／＼が松明を背中にしよつて、消えるとちよつと後へ下つてつけて、前のを捨てゝ又もとの列へかへつて來ます。それが村の青田の眞中を通つて行くのが大變綺麗でした。燃料の節約で火を焚くことが少なくなりましたが、今でもまだ少しは田舍の方には殘つて居ると思ひます。

　

　　　　　盆の火

　

　以前の人たちには、自分があかり無しに夜道をあるくことがつらいので、眼に見えない神樣でも靈でも、すべてが同樣だらうといふ考へ方があつたと見えまして、旱魃の神や蟲の神を送るのにも火を焚いたやうに、盆に遠くから家の御先祖が歸つて來られるのにも、松明をともして迎へなければならぬといふ心持が普通でした。それが盆の火といふものゝ起りであり、さうして又家の外で焚く火の中の、一番大切な又美しいものとせられて居たのであります。

　東京の眞中でもつい近い頃までは、麻幹の僅かばかりを迎へ火送り火と謂つて、盆のあとさきに一度づゝ、門口で燃やしてゐました。田舍では此火の美しさを喜ぶ心持も手傳つて、大變數多く且つ熱心に焚き續けてをります。盆の迎へ火を焚くときには、關東東北の田舍でも又山陰地方の村々でも、どこでも同じやうな言葉を子供たちがとなへてゐました。

(164)　　　ぢいさんばあさん

　　　このあかりで

　　　おでやれおでやーれ

　盆が終つて精靈の歸られる時にも、「このあかりでおいきやれおいきやれ」と言ひました。コノアカリといふ文句がもうわからなくなつて、今ではこの火を焚く儀式の名を、コナカリと謂つてゐる所もあります。春と秋の彼岸の入りの日にも、さういふことをする處がありますが、大抵は盆に焚くのがきまりでした。或は百八タヒといふ名もありますが、今は百八本の松明をともすことは六つかしいので、砂を盛つて作つた線香山に線香を百八本立てる所が多く、信州の南部などでは、廣い蓋のやうなものに穴をあけて、百八本の線香を挿して立てるやうにしたものがあり、それを新盆の家では表口に立てかけておきます。しかし東海道の海岸地方などでは砂に線香をさした線香山の方が多いやうです。

　同じ信州でも中央線の田舍などでは又ドンブヤと謂つて子供たちが、盆の一つの樂しみとしてゐるものがあります。山の小高いところへ火を持つて上つて、藁でこしらへた多くの炬火に、火をつけてふりまはしたり投げたりするので、是も本來は少年の樂しみの爲では無く、やはり夜の大空から、盆の祭に歸つて來られる先祖たちの、道案内のあかりでありました。それが段々と花やかなものになつて來たのであります。大抵の土地の魂迎へは、墓場の前とか河の流れの岸とか又は家の門口とか、こゝを通つて歸つて來られると思ふ所に火を焚きます。魂送りの時は御先祖の靈以外に、ほかの多くの無縁佛がゐると思ふので、殊に燈火を賑やかにして送りました。東京でも近頃まで隅田川の流燈會と謂つて、薄い板の上に?燭を立てゝ、風に消えぬやうに都鳥の形に切つた紙の覆ひをかけて、川上から無數にこのあかりを流しました。他の地方では多くは之を精靈送りと謂つて、小舟の形を作り、之に盆の供物を載せ、火をともして水に流しますが、その舟には西方丸だの極樂丸だのといふ舟の名をつけて、今では半ば遊びのやうになりかけて(165)居ます。中國四國九州の海岸には、繁昌の港町が多く、そこではこの盆の精靈流しを、夏の最も賑やかな樂しみの一つにして居りました。東北でも松島の瑞巖寺の流燈會といふのが有名で、あの景色のよい島々の間へ、この火を流すのが實に綺麗でした。家々の精靈送りはそれほど有名でも無く、むしろ淋しいものでありましたが、やはり必ず食物を包んで御土産とし、又松明の火をともして、「又來年も御出でなさい」と言つて送つて居ります。詳しいことはまだ判つて居りませんが、我々日本人は御先祖の靈が、毎年日を定めて高い所から、來られるといふ信仰を持つて居たやうであります。それ故に送る時はとにかく、迎へる時はきまつて高い所に道案内の火、つまりは航海の燈臺のやうなあかりを上げようとする習慣が古くからあつたわけです。燈籠といふものゝ發明が始まると、高燈籠などゝいふものが出來て、ちやうど船の帆綱を繰るのと同じしかけで、其あかりを出來るだけ高い竿の先へ、つり揚げるやうになりましたが、その一つ以前には、高い空に火を焚くといふことに可なりの苦心をして居たやうであります。近頃では盆燈籠はたゞ家の軒先に吊るすものとなつて居ますが、百年前までは京都でも江戸でも、高燈籠が大變はやつて、家ごとに長い竿を立てました。去年の盆からこの方に人の亡くなつた新盆の家は、是非ともこの高燈籠を立てたのですが、それを遠くから眺めると、精靈ばかりか人間の眼にも大變美しく見えたといふことが、古い書物にも書いてあります。江戸では將軍吉宗が駒場野の狩の歸りに、どのあたりから見られたものか、青山の町のこの高燈籠の火が、非常に見ごとであつたのを感心せられたといふ話も殘つて居ります。しかしこの風は今日ではもう田舍にしかありません。私は大正九年の盆の頃、ちやうど流行感冒のはやつたあとで、東北の海岸地方をあるいたことがありますが、どの村もどの村も、この燈籠の柱が數多く竝んで立つて居るのを峠の上から見て、非常に淋しく感じました。晝間はこの柱の先に白い布を、空から降りて來る人たちの目じるしに下げておいて、夜はそれを燈籠のあかりと取りかへることにして居るのであります。

　

(166)　　　　　燈籠と?燭

　

　高い竿のさきに火を揚げて、空を來る神靈を案内する必要は、まだ?燭が無く燈籠が出來ない以前からありました。それで昔の人たちは、この爲に色々と力を盡したのであります。古い形では柱松と謂つて、非常に長い柱のやうな松明を作つて、其中ほどに幾つもの繩をつけて置き、松明の頭に火をつけてから引起すことにして居ました。しかし柱松明はどんなに長くとも、燃えてしまふので夜どほしはともせません。材料の豐かな家では何本もこれを作つて置いて、順々に次の松明を立てゝ居たかも知れませんが、それではあまりに手數がかゝるので、後には又一つの面白い方法が出來ました。それは柱を立てたてつぺんに、傘を逆さにしたやうな形の竹籠の、ホカゴ又はホウヅキともいふものを作りつけ、それに藁屑などの燃料をうんと入れて置いて、下から小さな松明に火をつけたのを、この火籠の中へ抛り上げて入れるのです。これを投松明と謂つてをりました。是も多くの盆の火と同じに、後には一種の競技になつて、その行事が今でも殘つてゐる土地では、投げた小松明が火籠に入つて、早く火がついた方が勝といふことにし、二本以上の高い柱を立てゝわざ競べをしました。その技術が段々と發達して、たゞでは面白くないと、しやがんで股の間から其手火を投げ上げるやうな風習が、今でも熊野の海岸地方や中國の村々には殘つて居ります。その起りは何れも皆この柱松で、始めに火をつけてから柱を引起す代りに、立てゝ置いて下から火を投げてつけるのが、この大がかりな名物の競技ともなる位に、盆には高いところにあかしを上げる必要が大きかつたのです。

　燈籠はちやうどさういふ必要のある所へ入つて來たので、誰でも早速それを採用せずにはをられなかつたのであります。高燈籠の普通のあげ方は、前にも言つた如く、船の帆を引上げるあのせび〔二字傍点〕といふものを用ゐ、之に二本の綱を(167)附けて上げ下げの出來るやうにしました。火が消えればもちろん下し、雨の日や晝間は下しておきます。是で先づさう澤山の人を使はぬ家でも、めい／＼に盆には高い柱を立てゝ、ほとけ樣を迎へるあかりの火を揚げることが出來るやうになりました。是が燈籠木といふものゝ起りであります。燈籠木はもとは盆の月の朔日に立てゝ、それから七月の月一ぱい、毎夜火をともすのが普通でありました。しかしこの長い間?燭をその燈籠につけて置くといふことは、手數よりも費用がたいへんで、よつぽどお金の有る家で無いと出來ません。何とかして?燭の代りに、油を使ふことは出來ないものかと工夫しました。油をともすのは儉約といふだけで無く、?燭よりも長くもつて、何度も燈籠を上げたり降したりする世話が無くてすみます。それでこゝに又一つの發明が起りました。是は皆さんのやうな若い人でなくても、もう覺えて居ない人が多くなつたらうと思ひますが、大きな盆の燈籠の中には、?燭の代りに油をともす一種の道具を用ゐました。普通はこれを燈蓋《とうがい》と謂つてゐましたが、別に變つた珍しい名が二つありました。こゝで序でにその話をしませう。

　盆の燈籠や大きな挑燈の中へ、?燭の代りに入れて置く燈蓋は、よほど形が普通のものとちがつてゐました。行燈《あんどん》などに使ふやうな淺い油皿だと、すこし風が吹けば傾いて池がこぼれるから、是だけは深い口のつぼんだ形にして、まん中に燈芯をさす細い筒を立て、おまけに二寸ばかりの臺を附けた、ちよつと電柱の碍子を逆さにしたやうな土燒の壺でありました。その臺の底には穴があいて居て、それを燈籠に打ちつけてある釘に刺して、?燭も同じやうに引くりかへらぬしかけがしてあつたのであります。知らない人が見たら何だらう是はと言ひさうな、妙な恰好のものであります。行燈の油燈臺と區別する爲に、東北地方ではこれをタンコロとも、又タンコロリンとも謂つて、片田舍ではまだ少しづゝ使つて居ります。どうしてさういふのかよくは判りませんが、ともし油の�ｺ利をテンコといふ言葉もありますから、或はこれも同じ名で呼んだのが、後には是だけを別にしたのかも知れません。實際ころ／＼とした轉びやすさうな形をして居ります。それから今一つ、上方の方へ行くと是をヒョウソクと謂ひました。是などは確かに(168)おどけた名前で、?燭の代りになつて瓢箪の形をして居るからそれでヒョウソク、誰かゞ戯れに付けたものが、流行してしまひには本名のやうになつたのであります。燈籠といふものがどこの家にも、弘く用ゐられる世の中にならなければ、斯んなをかしなヒョウソクだのタンコロリンだのは、名前ばかりか物も必要が無かつたので、それがこの通り有名になり、どんな小さな村の荒物屋の店さきにも轉がつて居るやうになつたのは、一つには?燭の非常に便利なものであることを知つて、しかもそれを手に入れることの出來ぬ人が多かつたのと、又一つには油といふものが段々と手輕に製造せられて、自由に使はれるやうになつた結果であります。ところが今日は又再び、家の外でも内でも電燈ばかりが用ゐられるやうになつて、もう燈籠とか燈蓋とかいふものが、どんな形をして居たかといふことを、知らない人が多くなつてしまつたのであります。二千六百年餘の昔から、今の通りであつたらうと思ふ者は一人も無いのに、それがどういふ風に變つたかと問はれて、答へる人は少ないのであります。さうして歴史を知らないと、今の時代の有難さといふことも、本當はよく判らぬのであります。

　

　　　　　家の燈火

　

　そこで今度は屋内へ入つて來て、家の燈火がどんな風に發達して來たか、今日の電燈になるまでの間に、どれだけの變化を經て居るかを話してみませう。

　家で油をあかりに使ふやうになつたのは、主として都會地がもとであります。都會は開けるにつれて人の出入りが多く、家族の數もふえるばかりか、夜まで人の出入りする家、例へば東京名物のお湯屋とか蕎麥屋とか又は宿屋とかが、先づ新しい燈火を必要とするやうになりました。單に家族の多いだけなら、一ところに集まつて仕事をすること(169)も出來ますが、御客と名のつくよその人が夜も來るやうな所には、表にも座敷にも、それ／”＼のあかりが入用になりました。普通の家々に同じ油の燈火がともされるやうになつたのは、それより又後のことであります。最初には今日の電燈はもちろん、ランプといふものさへ無かつたのであります。もとは菜種の油をともす行燈といふものさへもありませんでした。繪などに殘つて居るので見て居る人もありませうが、町でもたゞ大きな家の廣敷《ひろしき》や上りはなの天井に、八間《はちけん》といふ形も八角の大きな燈籠が下つてゐました。多分は八間くらゐの遠さまで照らすといふ意味で、そんな名を付けたのだらうと思ひます。?燭は價の高いもので、とても毎晩ともしては居られません。代りにギョトウと謂つて魚をしめて採つた油を使ひました。魚燈の油はまことに臭いもので、?燭も臭かつたがそれよりも更に不愉快な、油が手につけば生ぐさい香がとれなくて困るほどのものでした。しかし日本は昔から一ぺんに魚の澤山獲れる島で、いつも食料には餘るので、斯うして油を搾つて賣るのが、一つの事業になつて居たのです。現在では精製して色々の工業品に製して居ります。前にも害蟲驅除用やその他の新しい用途を考へた人もありましたが、始めて之を搾つた時代には、燈の油にするのが唯一つの目的でありました。魚燈の火はちつとも明るくなく、おまけに外から入つて來るとすぐに鼻につき、着物にもにほひが附くほどの臭い油で、漁村はお手のものだからいつまでも使つて居ましたが、都會では他によい油が無いから使つたので、何か代りになる油の出るのを、言はゞ待ちかねて居たのであります。

　魚燈が菜種の油に變つたといふことは、一つの大きな生活改良でありました。油を燈火に使ふのは、可なり古い時代からのことで、中世の繪卷物などを見ると、宮殿でも神樣佛樣の前でも、又は美しい女の人が短檠《たんけい》といつたり結び燈臺といつたりするものを前に置いて、坐つて居るところなどが描いてあります。是には油の火をともして居たことは確かですが、その油は大變貴重なもので、到底普通の家の經濟に相應せぬものだつたらしいのです。さういふわけはあの頃の油は、原料が主として胡麻だつたからで、胡麻は産量が少ない上に、これから油を搾るのも容易なわざではなかつたからです。胡麻の油の次には、荏《え》の油といふのが可なり古くから、日本へは入つて來てをります。又｜榧《かや》の(170)木の多い所では、榧の實の油を用ゐ、又は椿の實の油を使ふ所もあつたやうですが、是等も亦價が高いから全國一般の燈油にはすることが出來ませんでした。さういふ中でも胡麻と荏胡麻は、たしかに魚燈の油よりも古くから日本にはあつたのですが、之を燈火に用ゐる處は限られて居りました。大きな寺などではこれが重要な消費になり、胡麻一｜色《しき》といつて胡麻だけを以て年貢を納める領地を持つてゐるものさへありました。

　さうかうしてゐるうちに多分支那から、油菜が入つて來たのであります。さうして是が忽ちのうちに、家々の燈火を變化させ、又日本の農業にも變化を與へました。油菜は�壼V《うんだい》と書いて居りますが、これが入つて來るや否や油の價は段々と安くなり、其便利なことが一般にわかつて、いつの間にか全國に普及してしまひました。その原因は恐らく栽培が容易で、産量が胡麻などよりはずつと多く、又何處へでも運送しやすかつたからでせうが、今一つには人がすでに燈油の便利を知つて、しかも魚燈の臭いのに閉口し、何か代りの品を待つて居た爲かと思ひます。何にもせよこの菜種の花の栽培の爲に、田舍の春の景色は一變したかと思ふ位に、萬べんなく廣がつたのであります。もとは日本はどちらかといふと、畠作のあまり進まぬ國でありました。それがちやうど菜種の花を咲かせるやうになつた頃から、麥類も盛んに畠に蒔くことになり、又一方には田圃の緑肥用として、紫雲英《れんげさう》を作り出しまして、麥の緑と菜の花の黄色と、れんげ草の紅の色とで、見ごとに春の平野を彩どることになりました。すなはち家々の夜を明るくしようとした我々の願ひが、偶然ながらも一國の風景までを明るくしたのであります。世の中の進みといふものはまことにうれしいものでありました。

　

(171)　　　　　油と行燈

　

　胡麻はその文字でもわかるやうに、もとは外國から入つて來た植物であります。荏といふ方は日本の名がありますから、御國に始めから有つたのでせうが、その實を油に絞り燈の火に使ふやうになつたのが、胡麻よりも前のことか、又は胡麻に倣つたものかは、確かにいふことが出來ません。しかし土地々々について言ふと、胡麻は全く油としては使はずに、他の植物ばかりを燈火に燃して居た處は多いのであります。椿の實もその一つですが、此方はまだ髪にも附けたり、又食用にもして居ました。榧の實もこれと同樣に、多くは食べる方に使つてをります。是に對して家の中のあかり專門に、油を絞つて居たものが他に何かあるかと思つて捜して居ると、一つはたしかに有ることがわかつて來ました。さうして是はもう段々に、人に忘れられようとして居ります。

　可なり山の中の村へ行かぬと、もうこの油をともして居る人はありませんが、もとは全國に行はれて居たと見えて、どこに行つても其記憶があります。それは榧の木の種類で、普通には犬榧ともいひますが、それよりもよく知られて居たのはヒョウビといふ名であります。少し匂ひが惡く食物にも何もならぬ油で、恐らくはたゞ燈火の爲だけに實を採り油を搾つたものと思はれます。此頃之を用ゐる人が少なくなつたばかりに、よそに同じものがあるのを互ひに知らぬやうになつてしまひました。九州方面の山の村ではヘボノ木とかヘボガヤといふのが古く、中部地方ではヒョウビと謂ひ、東北に行くとショウビ・ソウブといふ樣に、ハ行がサ行に變つて來てゐますが、京都の近くではヘーベ又はヒビ、越後ではヒョウミ、又東京附近の山村ではヘッタマ・ヘダマともいひまして、どれが本來の正しい言葉かわからなくなりましたが、とにかく一つの名が全國に行渡つて居たのですから、かつては一般の必要品であつたことだ(172)けは想像することが出來ます。

　京都の近くの古い有名な御宮でも、神樣の御燈明は必ずこれから採つた油の火を上げるといふ所があります。吉野の奧の村などでは、近頃まで家の火に之を使つて居ました。其油の絞り方を聽いて見ると、先づヒョウビの實のよく熟したのを拾ひ集め、一旦土中にいけて半年ほど置き、冬に入つてからそれを取出して、上皮の腐つた部分を洗ひ去つて、中の實を蒸すのです。厄介なことにはくさい香が移るので、普通の蒸釜は使へません。僅かな汁が釜に入つただけでも、他の食物は皆臭くなるので、そのために特別の蒸釜を用意し、又その道具の置き處も別にしました。この油の特徴は、ひどい寒中の寒さでも凍らないことで、つまりは冬の神祭のある所では、この油しか使へなかつたのであります。石器や繩文土器を使つた大昔の遺跡から、器に入つてこのヒョウビの實が、出て來たことがあるといふ人もあります。さうすると是は食用にはならぬものですから、もうそんな頃からこの植物の油を絞つて、あかりにして居たのかといふことが考へられます。それが山奧の村では今なほ利用せられて居たといふのは驚くべきことであります。油菜の油があればもうこんなのは使はなくてもよいのですが、是でも構はぬといふ人がまだあるのです。殊に神社などで今も昔のまゝにヘベの油をともして居るのは、單に儉約からだけではなくて、古い習はしを改めまいとして居るのであります。

　それが愈々最近になつて、もうこの油を使はないばかりか、名をさへ忘れてしまつた人が多くなりました。さうしてその代りに出て來た種油、種油といへば油菜の種を絞つたものに限る位に普及して居つたその油のことをさへ、斯うしてわざ／＼お話をしなければ、どんなものか知らず、行燈も見たことのないといふ子供たちの多い世の中になりました。しかし今でも近世の文學や繪の中には、行燈だけはしば／＼現はれ、これを知らなければ一部の平民文學は理解することが出來ないといつて、これを保存しようとして居る人はありますが、なほその行燈の油皿に注いで居た油の變化には、氣が付かぬ者が多いのであります。

(173)　多くの田舍の年寄は、もとは皆行燈の下で本を讀んで大きくなりましたから、さう早く之を忘れてはしまひません。行燈の種類には丸行燈と角行燈、その他少しづゝ形のちがつたものがありました。此中では丸行燈の方が勿論しやれたものなので、有名な小堀遠州といふ人の發明なりといはれ、一名を遠州行燈ともいひます。風流な考案がなされてあり、臺の縁に附けた丸い溝によつて、半圓づゝあけたて〔四字傍点〕が出來るやうになつてゐました。圓い筒の半分が重なつて居てくるりと廻すと閉り、風の無い晩には其半分を開けたまゝにして、光の輪が廣いので物を見るのには便利なところから、關西の方では常の家庭のありふれた家具となつて、さういふ風流なものとも知らずに、私たちも使つてゐました。角行燈の方は四角の一方の戸を開けて、火をつけたり油をさしたりしますが、殘り三方は紙に遮られてうす暗く、おまけに中へ手を入れて燈芯をかきたてるのがやゝ不便でした。丸行燈だと油皿が半分外へ出ますから、皿を傾けたり油をこぼしたりする心配が少なく、誰にもよくわかる大へん慧《さか》しい發明でありました。

　家々の行燈の高さは、大人が上の把手を持つて引摺らずに歩けるだけに出來てゐました。それには大きくなつて行く子供が殊に興味を持つて、よく行燈より高くなつたとか、行燈よりはまだ背が低いなどゝ言ひました。それで私たちも、元は行燈の高さといふものは、必ず是だけのものと長い間思つてをりましたが、氣をつけて見ると行燈の高さにも、やはり時世と共に大きな變遷があつたのです。我々の行燈の臺には引出しが附いて居て、其中に燈芯が入つてゐますが、注意の行き屆いた家では、その外にも附木とか火打ちとか、あかりをともす一通りの道具をしまつておきますし、又時々は小錢など入れてあつたと見えて、七部集の連句の中には、

　　　行燈の引出しさがすはした錢《ぜに》

　　　　　顔にもの着てうたたねの月

などゝいふ句も出てゐます。菓子や食べものまでは入れて置きませんが、それでも小さな兒の好奇心の的にはなつてゐました。

　

(174)　　　　　燈芯と燈明皿

　

　油を入れ燈芯をともす皿をスヾキと謂つて居りました。行燈の下から三分の二位の高さに十文字に木が打つてあつて、その結びの處を少し窪めて、上に油皿が乘つてゐるのが普通でしたが、是も地方により又時代によつて、色々の違ひがあつたやうです。茨城縣の方では、挑燈のことをオッペシアンドウといつてゐることが俚言集覽に見えてをりますが、それは行燈をおし潰したといふ意味だけで無く、行燈ももとは挑燈の一種だつたからであります。アンドウのアンは行くといふ字の南方支那音で、元來下げて歩き廻る近距離用の燈だから行燈と名づけたのです。後には危ないからといつて持つてあるく習慣がすたれ、追々と後のランプのやうに、一つ處に置いて使ふやうになりましたが、持つてあるくものだから下げる把手が附いて居るのです。土佐の坂本龍馬の最後にも、行燈をもつて出たところを斬られたといふことは人がよく知つて居ます。又かの猿蓑の有名な連句にも、

　　　草むらに蛙《かはづ》こはがる夕まぐれ

　　　　　蕗の芽とりに行燈ゆりけす

といふのがありまして、お客でもあつてちょつと蕗の芽をとりに、行燈を下げて暗い庭へ下りて行つたら、蛙が跳ねたのに驚いてゆり消したといふので、もとは挑燈ほどは遠くへは下げて出ないまでも、そのへんをちよいとあるくといふ時には、ちやうど今日の懷中電燈の役目をして居たのであります。その用途が後にはボンボリと謂つたり、手燭と謂つたりする小さいものだけに殘つて、上から下げる代りに柄をつけて、簡單に持てるものになりましたが、行燈といふのが始めて出來た時には、寧ろ奧の間で物を捜したり、土間に落ちたものを見付けるといふやうな用途が、主(175)では無かつたかと思ひます。それがしまひには家の中の、きまつた場所に置いて使ふやうになつて、形も大ぶりで下が重く、臺に引出しも有る樣な一つの家具になつたのであります。屋外に持つて出るのは高くて土に引きずるやうでも困るし、中程の木に油皿を載せておけば油もこぼれ易いわけですから、前には多分行燈の底をくぼめて、その上に燈蓋皿を置いたのかと思ひます。臺に引出しも無く足がごく短く、丈の低い底に板のおいてあるものが、今でも繪などの中には殘つて居ます。

　行燈と共に思ひ出すのは、燈芯といふものゝ珍しい形であります。子供は誰でも面白がつて、よく手に取つておもちやにしようとします。是は藺《ゐ》といふ草から拔き出したもので、それ故又此草を燈芯草とも謂ひました。これへ油を吸はせたものは、端の方からよく燃えるので、その火を油皿の緑のところで押へて置くと、そこでとまつて明るい　　焔になるのです。輕くふわ／＼とした長い細いもので、それで痩せ男などゝいふをかしな名もありました。空氣の中に長く出してあるとその細いのが更に又痩せて細くなるので、黒い紙に包んで引出しの中にしまつて居りました。明礬を熱い場にといた中に、一度浸してから乾すと、痩せを防ぐことが出來ると古い本にも出てをります。値段もほくちと同樣に、商品としてはこんな安いものは他に無いと言つてゐましたが、昔の人たちはそれさへ儉約して通例お客でもある時は二すぢ、家の者だけで仕事をする時は一すぢに減らして、三本も燈芯を入れるやうなお嫁さんは、經濟を知らぬ女のやうに惡く言はれました。燈芯が大切なといふよりも、多くして置くと油のへり方が大きいからであります。それさへ構はなければ相應に明るいものなのですが、通例は燈芯を儉約する爲に、行燈はうす暗いものと言はれて居りました。寢る時には無論吹き消しますが、赤ん坊でもあるか、まだ還つて來ぬ人があれば、有明けにして殘して置きます。さういふ時は成るたけ細い一本あかりにして、他の燈芯は燈芯かきで、脇の方へ寄せて置きます。斯ういふ加減があるので、度々行燈の中へ手を入れ、其爲に又丸行燈が便利だつたのであります。

　この燈芯が油皿に浮いてゐると、油がよく沁まず又火が動きやすいので、その上に燈芯押へといふものをのせて、(176)大抵は是を燈芯掻きと兼用にしました。行燈の火を掻き立てるには、その燈芯押へをつまんで燈芯を前へ出し、暗くするのにもそれで後へ下げます。いつ頃からかわかりませんが、この燈芯押へには白い瀬戸物の觀音の像にかたどつたのもありました。普通は下の方が輪になつた棒みたいなもので、是もちよつと珍しい形でした。親たちに行燈をもつと明るくせよ、又は暗くせよと言ひつけられて、燈芯を動かすのが女や子供の役目であつたことは、多分古い世の松の火からの引きつゞきと思ひますが、それは決して不愉快な任務ではなかつたことは、私などもよく記憶して居ります。

　燈蓋又は燈明皿といふものは、昔は一枚のものだつたらしく、古い繪卷に見えて居るのは、多くは木を三本組み合せた上に、皿が一つだけ乘つてゐます。ところが近世のリントウとかスヾキ皿とかいふのは、どこでも上下二枚の皿を重ねてをります。足利時代に出來た眞俗雜記といふ本には、油皿を二枚重ねて下の皿に水を入れて置くと明るいと書いてあります。もうあの頃から燈明皿を二重にする風習が始まつてゐたものと見えます。實際には上の皿に燈芯を入れた場合、燈芯の吸ひ上げる力で油が上に集まり、それが皿の裏へ廻つて下へ滴たるのを防ぐためにさうしたもののやうで、もとは下の皿に溜まつた油を、上の皿へ戻してゐるのをよく見ました。それでもまだ油は物を傳つて流れ易いので、行燈の底には別に又行燈皿といつて、上から落ちるものを受ける大形の皿があり、これが亦家々の缺くべからざる道具の一つでありました。その皿は普通は瀬戸もので、是に簡單な繪模樣が描いてありました。近頃ではもう珍しいものになつて、それをたくさん集めて喜んで居る人さへあります。柳宗悦さんなどが言ひ始められたゲテモノは、斯ういふ行燈皿などの中に多いのであります。

　種油をともした行燈がすたれて、石油のランプになつてからも、子供などは格別面倒がらずに、其ランプの掃除をしましたが、これには古い頃からの歴史があつたのです。行燈も一晩ともせば翌る日は掃除して、毎日綺麗にして置かないと人の怠りがよく現はれるので、夕方あかりをつける前には、一通り汚れを拭き取つたり、下の皿の油を上の(177)皿へ返したりします。それをするのが必ず十三四の娘の子の役のやうになつてゐました。私などが面白く思ふのは、行燈の掃除をして手が汚れると、しまひには反古《ほご》紙で拭きますが、その前に手についた油を髪の毛に塗るのが、儉約な時代の女の子の常の仕草であつたことです。女の子に限らず、男の子でも昔は髪を結つてゐたから、油をむだにせぬやうに、其手を頭へ持つて行く習慣がついたのですが、種油が石油ランプの臭いのに變つて後まで、ランプ掃除をした手を髪で拭かうとする癖だけは、暫らくは殘つて居りました。今でも日本の少年が何かといふと頭を掻く仕草なども、油と關係は無くとも、やはり髪を結つて居た時に始まつたもので、男は今のやうに櫛を持つてあるいたりしませんから、痒いときには指を使つて掻いたので、それが又一つの手持無沙汰の擧動ともなつたのであります。昔の世の仕來りは細かい所まで、この樣に無意味な習慣となつて殘るものなのであります。さういふことにこま／”＼と氣を付けて見ることは、女性にふさはしい歴史の學問であらうと私は思ひます。

　

　　　　　油屋の發生

　

　燈火の油はどういふ風に、國民の間に普及したかを考へて見ますと、先づ油屋といふ商賣が頭に浮びます。油を荷にして賣りあるいたのは中世も早くからのことで、俳諧の元祖の一人と言はれる山崎の宗鑑は油賣りでありました。江戸の町が始まつても、油屋は店を持たずに、小さな家々をまはつて賣つて居りました。「油を賣る」といふのが人の家に來てしやべつて時を費すことを意味するのも其爲であります。子供には「油屋さん」といふ頸から膝の下まで屆く特別の腹掛けをさせるのも、多分この油賣りの職服に似て居たからでありませう。油屋は着物を汚しやすい商賣なので、他の商人のやうに帶から下の前掛けでは足りません。それ故に斯ういふ胸當てをして居た姿が昔の繪にもあ(178)り、又これを着て居れば一目で油屋だといふことがわかつたのであります。

　油屋になるのには特別な練習がありました。油は他の器に移す時、細く絲のやうにいつまでも垂れるので、それを外のものへかけぬやうに、まつすぐに入物の中へ入るやうにするのが一つの技術でした。そのために油賣りの桝と杓とは、特別に精巧なものを用ゐました。さうして穴あき錢の眞中の穴を、縁へかゝらずに油を通せるやうになるのが一人前だといふ位に、手がきつちりきまつてゐなければなりませんでした。足利時代には油座といつて、油を賣る人たちだけの團體があつて、油屋は仲間同士の規則を設け、品質をきめ値段を統制し、租税を前納して專賣の特許を受けて居たといひますが、そんな事はしないでも油屋には特別の技倆があつて、一定の修業をせぬと是に加はることが出來ませんでした。もし油屋の小僧が油を器物の外へこぼすやうだつたら、もうそれだけでも商賣にはならなかつたのであります。

　他の商品に比べると、油は相應に價の高いもので、それだけに又一度にたくさんは買つて置きませんでした。以前は油テンコと謂ふ一種の油�ｺ利がどこの家にもあり、酒�ｺ利などゝ一緒にこの油テンコを下げて、村から町へ子供が買ひに出るのが、田舍でよく見る光景でありました。石油は使ひ方も多かつたので斯んな小さな�ｺ利では足らず、もうこの油テンコは持つて居る家は無いかも知れませんが、村の子供たちのお使ひといふと、これを下げて行くことが多いので、もとは彼等には親しみの多い器でした。私などは子供の時に春の末｜蒲公英《たんぽゝ》の花のほゝけて白くなつたのを手に取つて、

　　　池買ひに酢買ひに

と言つてはふつと吹いて飛ばす遊びをしました。これにはもつと長い童言葉があつたかと思はれます。口で吹くと此花の種子の一つ／＼が風に乘つて、あちこちとゆつくり飛んで行くのが、まるで小さな／＼�ｺ利を下げたやうに見えて、ちやうど酢か油かを買ひに行くかの如く、子供の空想に映じたらしいので、私は今でも此花の白いのを見ると、(179)きつとこの童言葉を思ひ出します。野草雜記の中にも書いておきましたが、千葉縣でも蒲公英を親孝行花と謂つて居る村里があります。是もやはりよく御使ひをする花といふ意味で、斯んな名をこしらへて子供に教へたたのかと思つてをります。

　しかしこのなつかしい子供の油買ひも、やはり大昔からのものではなくて、さういふ小さな油テンコを下げて、しば／＼油を買ひに出たのは種油以後のことであります。ヒョウビの油などは買ふといふことは無く、大抵は家々で自分でしめて使ひました。後に少しづゝ荏の油や胡麻の油を使ふやうになつても、なほ原料は家で栽培して、それを油をしめる人に頼んで、他の家々のと一しよに油にしてもらつたことは、ちやうど手織の木綿布を紺屋に持つて行つて、染めさせるのも同じでありました。其習慣は種油が出て後もまだ暫らく續いて、家の畠で收穫した�壼Vを、油屋に頼んで油にしてもらふ習はしが、東北地方にはありました。油屋は別に料金を取らず、先づ油糟を自分のものにし、又は其以上に菜種の一部分を貰ひ受けました。或は一定の割合をきめて、出來た油と菜種とを交換して、その菜種を次の原料に使ひ、餘分の油は町方などの、菜種を作らぬ人々に賣つて居たやうであります。

　福島縣の北部から、奧羽地方の一帶にかけて、舊暦十一月十五日を、油しめの日と言つて祝つてをりました。しかしそれは實際に油をしめる日ではなくて、其日始めて今年の油を使ふのを、めでたい事として祝つたのでありますが、最初には或はこの日が油をしめる好い日であつて、家々でしめて居たのかも知れません。冬に入つていよ／＼寒く又夜が長くなりますと、燈火用だけでは無く、油氣の食物を多く食べるので、それで此日を使ひ始めの日として祝つたのであります。近い頃までの農家の若い嫁たちは、この日は必ず實家へ歸つて來て、一年中頭へ附けるだけの油を、�ｺ利に入れて貰つて行きました。さうして又その新しい油でこしらへた食べ物を食べさせられるのが、この日の樂しい慣例でありました。近畿地方から關西の方では、もう油しめの祝ひといふことはなくなつて居ますが、その代りに冬至の前後のある一日、油揚とか天ぷらとか、何か油で調理した食べ物を食べる日があつて、しかも其日は特に油を(180)こぼすことを戒めて居ります。油をこぼすと火に祟るとも謂つて、全體に人はそれを嫌つて居りますが、この日はことに謹愼して居たのであります。是も恐らくは東北の油しめと同じ祝ひ日で、やはり亦一段と古い頃に、家々で自家用の油をしめて居た名殘であらうかと、私などは想像して居ります。ともかくも種油の行商人が、まはつて賣りに來るなどゝいふことは村には無く、油の工場は町にさへも少なかつたのであります。

　

　　　　　ランプと石油

　

　家で油を絞める道具などゝいふものは、至つて簡單な又粗末なもので、油の取れ方も少なかつたにちがひありません。それが工場に大きな精巧な機械を置くやうになると、同じ原料からでも餘分の油が取れて、雙方が滿足するやうな種と油との交易が出來ました。それで燈火に油をともす人が多くなるほどづゝ、いよ／＼町の油屋は利益のある商賣となり、一方には又田舍の菜の花畠が、春毎に廣くなつて來たのであります。この油しめの機械といふものは、もう見たことのある人も少なくなりました。秋に入ると町のはづれなどの大きな建物の中から、種油を炒るよいにほひがして來て、長い間を置いてカタンといふ高い音が、道を行く子供の耳に響きました。それは炒つた菜種の袋を絞木にかけ、重い才槌を高い處から滑らせて、その絞木に楔《くさび》を打込む音でありました。今でも耳に殘つてゐる快い響きであります。

　斯ういふ處へもつて來て、殆と突然といつてもよい位に、新しい石油が入つて來たのであります。石油の一ばん大きな影響は、以前の種油の燈火道具を、何一つ利用出來なくしたことです。あの時分の言葉でいふと舶來といふもの、即ち西洋で出來たものか又はその眞似をしたものと、すべてのものを取りかへてしまはなければならなかつたので、(181)家に二重の燈火道具を置くまいとすれば、あかりを根こそぎに改良するの他はなかつたのです。これには百姓は一時は可なりまごつきました。最初ごく暫らくの間は、なるたけ昔の道具を利用しようとしてみましたが、それは到底出來ない相談でありました。そのわけは石油は種油よりも引火し易いために、火の燃えてゐる所と油との間隔を、離して置かなければならないので、以前の燈芯や油皿は、一向役に立たなくなつたのです。それでも久しい間松の火を焚いて、かゞりの煤で眞黒になることには馴れて居たので、初めのうちは裸火の小とぼし、ブリキでこしらへたカンテラなどゝいふものを使ひましたが、これは危なくもあれば又いかにも臭いので、程なく罷めてしまつてその代りに、外國では見られないやうな小さな硝子のホヤを附けた豆ランプといふものが、主として農家で使はれる時代がやつて來ました。是だけはどうやら日本の商人の考案であつたやうであります。

　日本では今まで自分の持つてゐる寶物を、心づかずにゐた例が幾つもありますが、中でも石油などはその著しい例であります。燃ゆる土燃ゆる水の記録は上代の歴史の本にもありますが、越後ではその燃ゆる水が、「くさうづの池」といふ名で、七不思議の一つになつてゐました。それを布切に浸して少しづゝは火繩の代りにしたり、又炬火にも使つてをつたかも知れませんが、新たにランプといふ装置の考へ出されるまでは、たくさんの石油は流れても入用が無く、掘つて見ようとする人さへもなかつたのです。それが今日のやうな大きな産業となつて、北は秋田縣の海岸地方にかけて、あの大きな石油地帶が發見されるやうになつたのも、小さい原因のやうではありますが、農民が極めて短い期間に、種油の行燈から石油ランプに、たやすく移るだけの能力があつたお蔭で、其ランプはもはや今日は利用されなくなつても、それが因縁となつて石油の産業を、是だけ日本に盛んにしたのであります。

　日本には限らずどこの國でも、石油のランプといふものは、僅かの年代のうちに、目まぐるしいほどの變遷發達を通り越して、現在はもう主要の土地からは消え去つてしまつて居ますが、我邦のは殊に驚くべく盛りが短く、それだけは今日達者で居る年寄たちよりほかに、持つことの出來ない大きな經驗でありました。ランプのホヤといふものゝ(182)形なども日本の硝子吹き工場の一つの特徴をなしてゐたやうで、他國の眞似では無しに、こちらへ來てからの自己流の行き方が、可なり働いてゐたと思はれます。硝子の工藝の最も進んだ厚硝子や切籠《きりこ》などは、まだ外國の通りの立派なものが出來なかつた際にも、一番始めに手をつけたのは、數の津山入用なランプのホヤであつたのです。和製のホヤはこはれ易いと言つて居ましたが、それでも初期の硝子工場は、殆とこればかり吹いてをつたといつてもよい有樣でした。今ではもう見ることも出來ないかも知れません。ホヤを造るのには原料の溶けたのを吹筒みたいなものゝ先へつけて、こちらから息を吹込んでふくらますので、それが全く呼吸一つ、眞中が太く後先の細いといつた特殊な形のものを、職工が息の入れ方一つで作り上げました。即ち手工業といふよりも口工業で、よく日本人の間とか勘とか加減とか謂つて居るものを現はして居ります。それですからランプのホヤは、同じらつきよう〔五字傍点〕のやうな形でも、下のくびれでも筒の細みでも、僅かな年月のうちに段々と變つて來て居ります。勿論火口とか螺旋《ねぢ》とかの他の部分にも改良はありましたが、其改良に應じて次々にホヤの形を變化させたのが、最初には皆文字通り、之を吹く人の呼吸一つだつたのです。

　しかしそのうちに機械が手傳ふやうになつて、竹ボヤといふものが始まりました。これは日本だけで考へ出したのでは無いやうですが、上下の太さを同じにした筒型のホヤで、形が小さい割には火が大きく、又扱ひが便利である爲に、段々とこのホヤが好まれるやうになりました。芯も始めは平たい布で作つて、三分芯・五分芯などゝ謂つて、扇の形に火が燃えたものが、竹ボヤになつてからは丸芯に變つて、穴のまはりにまん丸く火がともり、非常に明るくなつたのが又一つの改良でありました。この外にもまだ幾つかの、私などの知らぬ改良もあつたやうですが、とにかくに石油ランプといふものゝ入用がもう無くならうといふ時分になつて、急に明るい又綺麗なのが色々と出來て來たのでした。從つて家に電氣がつくやうになつてからも、なほ暫らくの間はこの改良したランプを使つて居る人もあつて、一時は面白いくらゐさま／”＼の變化を見せて居ましたが、結局はそれも大勢に抗し得ず、手數もかゝらず費用も少な(183)くてすむ理由から、電氣がどうしても引けない離れ島や山の奧を除くほかは、もはや石油燈の姿は見られなくなりました。さうしてその僅かな人たちの爲に、いつも道具を取揃へて置き、又石油を絶えず供給することが非常に六つかしい今の時代になつて、時々はそのもう一つ前の燈明方法に、戻つて行かねばならぬやうにもなりました。

　この石油ランプから電燈へ移つて行く中間に、都會地だけには更に今一種、瓦斯燈といふあかりの方法が行はれました。是は石油燈に比べると、更にずつと短い歴史しかもつて居ませんが、三府五港といふやうな大きな市街では、一時は街燈が全部このガス燈になつて居て、夕方になると人夫が長い竿に火の附いたものを持つて、この街燈の瓦斯に火をともしにあるきまはつて居ました。今になつて考へて見るとこの最近の四五十年間といふものは、日本の夜の燈明に關する限り、過去は申すに及ばず、遠い將來にかけても、ちよつと想像の出來ないやうな大きな變化が、連續して起つてゐたのであります。私は大正の始め頃に、愛知縣の或海岸の岡の上に登つて、東海道の村々の夕方の燈火が、ちら／＼とつくのを眺望して居たことがあります。いつになつたらこの邊の農家の屋根が、全部瓦葺きになり、さうして電氣がついて其下で働くことになるだらうかと、よほど遠い未來のやうに想像して見ました。ところが大抵の世の中の改良といふものが待遠であるのに反して、これだけは豫想より遙かに早く、實現したのであります。其時から僅か十七八年の後、再び同じ場所の高みから里を見ると、見える限りの屋根々々がすべて瓦葺きで、どの窓にも電氣の燈があか／＼と映つて居たのにはびつくりしました。國には數千年を經ても少しも變らぬものが確かにありますが、一方には又是ほどにも激しくえらい速力で、しかも何人も氣がつかずに、變つて行く燈火のやうなものもあるのであります。

　

(184)　　　　　松のヒデ

　

　是も東京から遠くない山麓の村で實驗したことですが、二十四五年の前、そこに暫らく私の滯在してゐた頃には、もう村の大抵の家へは電燈が來てゐました。それで私などよりは年の若い土地の人に聞いて見ると、その人が覺えてから、農家の燈火は、石油燈の小さな變化を一つと勘定しても、すでに四たびの變遷があつたといふことがわかりました。即ち電燈の前には色々の石油ランプがあり、その前には種油の行燈があり、そのもう一つ前のものとしては、親の代から使つて居たといふ古い燈明の道具が、まだこはれもせずに物置の隅つこに轉がつて居りました。あの邊では通例これをヒデバチと呼んでゐます。擂鉢《すりばち》の形に石を彫り窪めた器に、簡單な足をつけて、その眞中で松のヒデといふものを燃やすので、最も古風な道具であります。ヒデといふのは關東地方の方言で、東京の人も知つて居ます。年經た松の樹の脂の多い部分を、伐つて細かく割いたもので、是を五本か六本か鉢の中に立てかけて燃やすのです。わざ／＼石を以てこの器にこしらへるのは、折々は外から御客のある家の、見たところも考へた新しい装飾で、貧乏な家では多くは穴のあいた古鍋とか、大皿の缺けらとか、擂鉢のこほれたのとか、すべて火の用心のよいものゝ廢物利用でありました。土地によると燈臺鍋といふ言葉もありますから、鍋の不用になつたのを使ふ場合が、一般に多かつたのであります。

　關西ではこの松のヒデのことをコエ松と謂つて居ります。東北ではアブラ松、濱松附近ではベタ松とも謂ひますが、脂があつていくらかべた／＼するからでせう。岐阜縣でラフ松と謂ふのは、?の代りといふ意味、京都附近でジンドと謂ひますが、ジンは芯のことらしく、松のジン又は松のツノといふ所もあります。珍しいのは鹿兒島縣の廣い區域(185)で、是をツガマツと謂ふことで、ツガもやはりあかし〔三字傍点〕にするといふ意味があつたらしく、又｜栂《つが》の木と謂つて檜に似た木の名なども、或はこの燈火のツガを取る木なので、さう呼んだのではないかと思つてをります。此通り名は色々であつても、ヒデ即ち油松を細く箸みたいに割つて、火をともすことだけは何處に行つても同じです。今でも夜中に田圃や溝の小魚を捕りに行く時に、夜とぼしと稱して之を焚くことは、燈火が石油燈や電燈になつてからもなほ續いて居ります。この夏は一つうんと魚を捕つてやらうと思ふ人は、春からこの松のヒデをたくさんに採つて蓄へて置くのです。奈良縣南部などの山中の村のやうに、これを本式に多く使ふ所では、先づ大きな松の木を伐つたあとの根株を、三年も五年もほつたらかして置きます。さうすると脂の無い部分が腐つて土になり、あぶらみだけが殘つて居るのを、丹念に掘り出して小さく割つて使ふのです。松取箱といつてそれをしまつて置く箱があつて、その中に一年中の入用を蓄へるといふことであります。

　昔の燈火の缺點ともいふべきことは、始終火の管理者がなければならぬことでした。　　?燭なども一晩中そばに人が附いて居て、あの太い芯を剪らなければ、忽ち火力が強くなつて?が溶けてしまふので、以前は座敷でも舞臺でも一人の芯切り役があつて、念入りに芯を切つてはそれをホクソツボに入れて蓋をしました。絲芯の細い芯にかはるまでは、?燭はたゞつけつぱなしで棄てゝ置くといふわけにいかないものでした。ヒデ鉢燈臺鍋に至つては、それよりももつと煩はしく、一晩に大きな箱一杯も焚かねばならぬばかりでなく、誰かゞ附ききりで後の木を足して行かないと、すぐに火が小さく暗くなつてしまつたのです。?燭に比べると又大變な手數であります。昔の人は夜寢るのが早く、又大抵の用は圍爐裏の火の光で、足して居たからよかつたけれども、たま／＼御客があつて酒盛をするやうな時、又は晩に家の者が土間に降りて夜業をする時などは、どうしてもこのヒデを焚かねばなりません。農家では天氣の都合などで、夜割り又は夜なべと謂つて、夜分も籾摺や稻扱きをすることがあります。その時にはこのヒデ松がたくさんに入用になります。大抵火の番をするのは子供の役でした。座睡《ゐねむり》をしては叱られ／＼、片手では松を細く割つて、そ(186)れをあとから／＼と、あかりの暗くならぬやうに一生懸命にくべました。八つか九つ位の男の子までが、親たちの忙しい晩には斯うして働きました。しかし常の日にはさう子供は使へぬから、成るたけこの松あかしは焚かぬやうにし、又何か必要があつてちよつと焚いても、すぐに消すやうにしました。ランプや電燈のやうに消すのを忘れて寢るといふことは出來ませんでした。

　ところが田舍にも書物を讀む子供が出來て來ると、圍爐裏の火では本を讀みにくいので、少しづゝ松の火の入用が多くなつたでせうが、昔は螢の光や窓の雪で、書物を見たといふ話さへも殘つてをります。わざ／＼一人の爲にヒデはともさなかつたのであります。今の子供は何の氣なしに電燈を使ひ、螢や雪を集めた位で本が讀めるだらうかと、行燈以前の少年の生活を嘘のやうに思ふのですが、昔燈火の材料が得難く、又得られても大變暗かつた時代には、今日の普通の活字本などは、とても樂々と讀めるはずがありません。昔の本は字が大きく、人はさうたくさんは讀まずにしまつたからよいが、この夜の燈火の不自由の中で、多くの本を讀み多くの字を書いた人は、今の人たちの想像も出來ぬやうな苦勞をしたのであります。私の聽いて居る話でも、昔といつても僅か七八十年前に、奧州津輕の學者平尾魯仙といふ人などは、珍しく多くの著書を殘してゐますが、それは皆この松の火をともして、其下で讀んだり寫したりしたものばかりで、其爲に油煙の煤でよごれてしまつて、毎朝黒猫のやうな顔をして起きて來たといふことであります。二宮金次郎などもさうだつたか知れませんが、斯ういふ多くの黒猫が、段々と日本國民を賢くしてくれたのであります。もとより惠まれた境遇の下に學問をした人もあり、中には最大の?燭の光で書き、又は晝間暇があつて明るい日光の下で書いてゐる者もありませうが、以前の民間の學者の著述の少なくとも半分位は、螢の光窓の雪ではないまでも、殆とそれに近い僅かなあかりの下で、顔も眞黒にしようし眼も惡くしようし、一方ならぬ苦勞をしながら、人の爲に働いて居たのだつたといふことを、この燈火の歴史を顧みることによつて、認めなければならぬのであります。

　

(187)　　　　　松とうがい

　

　そこで皆さんと共に考へて見たいのは時代の變化、世の中の移り替りといふものにも二通り、或一つの時を限りにはつと改まつてしまふものと、いつを境といふことも無しに、誰も氣づかぬうちにそろ／＼と、古いものが新しくなるのとがあつて、どちらかと言へば第二のものゝ方が多いといふことであります。少なくとも我々のあかり〔三字傍点〕などはこの方でありました。たとへば都會には電燈より他のものは知らず、元は行燈であり又は?燭であつたこと位を、やつと知つて居る人が多いのに、今でも東北地方の振はない田舍に行くと、まだ石油ランプの恩惠すらも知らずに、あぶら松の割裂きを焚いて居る家も少しはあるのです。さうかと思ふと一方には、晝間でも電氣をつけて其下で働く人もあり、更にその中間の石油燈や種油の行燈を以て、たゞ一つの夜のあかりとして居る家々が、捜せばまだ少しは國の内に有るのであります。しかも段々と昔へ溯つて行けば、今日は電燈の明るい光の下に夜を送る家でも、もとは一度はランプに石油をともし、行燈の燈芯のくらい火をたよりにして居た時代があり、なほ今一段と昔の世になると、どんな身分の高い方々でも、松のあかりで辛抱なされた時代があるのであります。日本武尊が東國の遠征からのお歸りに、甲州の酒折《さかをり》といふ處の假宮で歌をお詠みになつたのは、有名な歴史であります。其時一人の翁が御側に侍して、松の火を持つてゐたと傳へられて居ります。貴人の御側には夜の御食事の間とか、又は御用の有る時とかに、この燈火を手に執る者が居て、後から／＼とその手火《たび》を焚き添へて居たことは、ちやうど貧しい農家の八つ九つの男の子が、夜なべの稻扱きをする人の爲に、今でも燈臺鍋の火の番をして居ると同じでありました。

　石を彫り窪めて作つたヒデ鉢だの、穴のあいた古鍋を燈臺にするなどは、寧ろ後々の新しい考案だつたかも知れま(188)せん。もとは二尺か三尺の松明をこしらへて、それに火をともして誰かに持たせて置くのだつたかと思ひます。いづれ子供か女かゞ其役をいひ付けられたことでせうが、是は?燭の芯を切るよりも、もつと苦勞な任務でありました。荒い仕事をするにはさう迄しなくとも、どこか一定の高い處に火を置いて、それが消えずに居ればよかつたので、もつと單純な原始的な方法の、今でも殘つて居る處がそちこちにあります。たとへば岩手縣の二戸《にのへ》九戸《くのへ》などゝいふ郡の山村では、通例大きな圍爐裏の内庭に近い一隅に、ちやうど行燈くらゐの高さの松の木の、枝の四方に出たものを打込んで、古鍋は乘せずに其上で火を焚いて居ます。松の枝が同じ所から何本も横に出るので、その端と幹とを切りとると、そこに枝だけの皿のやうなものが出來ます。それに平たい石を載せて、其上で油松を焚くのもあります。あの地方ではこれをマツトンゲァ、即ち松燈蓋《まつとうがい》と呼んでゐます。發音がやゝ變つてゐるので、中世の繪卷物などに出て居る宮中の結び燈蓋とは、全く違ふものゝやうに思つて居る人が多いでせうが、名まで一つだからまさしく一つのものであつて、乃ち曾ては都の上つ方でも、油で無しに燈蓋で松のあかしを、焚かれた時代があるのでは無いかと思ひます。

　今でも松とうがいを立てゝ居るやうな農村では、なほその外に圍爐裏の片脇に、木割臺と謂ふ堅い木の俎板《まないた》のやうなものを伏せて、鉈が一梃添へてあります。是で爐の薪や焚付けもこなしますが、通例あかしの油松を焚くときにも、此上で松をごく細かく割りながら、それを燈蓋の火の中へ少しづゝ加へて行くのです。ところがこの木割臺には又かはつた異名があつて、村によつては之をコンニョウボ、又はそれに近い言葉で呼んで居ります。コンニョウボは即ち小女房、小さな女の子といふことでありました。女房といふと今日は人の妻のことになりますが、昔は女を一般にさう謂ひまして、今でも女の子が産れたといふところを、ニョウボの子が産れたなどゝいふ言ひ方が方々の田舍にはあります。爐の番は男の兒だけで無く、小さな娘にもさせたことがもとはあり、又その古い名がをかしいので、長く傳はつて居るのであります。今日はもう其いはれは不明になりましたが、それでも東北出身の人がよく記憶して居るわ(189)けは、寒い頃少年少女が爐の火のまはりに寄ると、よく謎々といふものを立ゝ遊び、その中には毎度この小女房が出て來たからであります。たとへば、

　　夜も晝もあたまたゝかれるものはなーに。……答、コンニョウボ

　　あたまたゝきのけつ腐れなーに。……答、コンニョウボ

　斯ういふ類のものが幾らもありました。東北地方の爐端の生活は、斯んなはかない子供の戯れからも窺はれるのであります。

　斯ういふ生活は、恐らく何千年も續いて居たのであります。今では人が多くなり、松のヒデも自由には手に入らず、又こればかりを燈火にして居ては松山も荒れるから、外の燈火原料が入つて來れば、出來るだけ其方に變ることにして居ますが、それでも注意して見てゐると、たとへば京都近くの神宮でヒョウビの油をともすやうに、たま／＼これをまだ使つて居るのは特殊の行事、神の御社などに於て、古い慣例を出來るだけ守らうとするやうな場合であります。火焚き祭と謂つて冬の半ばのお祭に御神樂をあげる時とか、又は柴燈護摩などゝ謂つて、田舍の神社の廣庭で、冬の行き春の來るのを促さうとする焚火の祭の時などには、如何なる石炭の産地でも、決して石炭は使はずにこの松の火を焚きます。宮中でも重々しい儀式には篝火であり、村々の社の冬祭も燃料はやはり松であつて、雙方ともに言はゞ二つも三つも前の燈明方法が、こゝだけでは嚴重に保存せられて居るのであります。宮も藁屋もといふ古い歌がありますが、この上下の兩端は、寧ろ或場合には非常によく似て居ります。遠い大昔は全國一樣に、松を燈火とし又之を本式として居たことゝ、今でもまだ改良してはならぬもの、改良の出來ないものが殘つてゐることゝは、斯んな事からでも判つて來るのであります。

　

(190)　　　　　屋外の燈火

　

　海上の生活では焚入れといふ漁業などに、石油やアセチレン等の新しい種類のあかりを使ふことになつて居ますが、今でも村々で夜分少しづゝの川魚を捕りに行くには、前にも申したやうに松のヒデを割つたものを、篝火にして焚いて居るのであります。昔はもちろん是以外の燃料とてはありませんから、海川の漁のみならず、獣を捕りに行く本當の狩獵でも、この松の火を使つたのであります。和歌の題に照射と書いてトモシと謂つて居たのもこの事で、つまりは松をともして山野に分け入るので、之をトモシと呼んだのであります。日本の狩の最も勇ましい方法の一つは、馬に乘つてこの松の火を携へ、夜の獣を見つけることでありました。その松の火は即ちタイマツで、道々は右の手に持ちもしますが、愈々弓を射る段になると、是を馬の鞍に括りつけたホグシ（火串）といふ松明立てに立て、火が消えかゝる度にそれを新しい松明に移すやうに、背中には又何本かを背負つて行きます。林の中の獣はこの照射の火に驚いて、ひよいとこちらを視る時に、その二つの眼が光ります。それをすばやく見つけることを、「目を合せる」と昔の獵夫等は謂つて居りました。さうしてちやうどその二つの眼の眞中を狙つて射るのが、彼等の技倆であり、又大いなる昂奮でもありました。山で修行をして居た一人の貴い上人が、あまり獵人が鹿ばかり獲つてくらすのを悲しんで、もしや自分が鹿の代りに射られて死んだら、殺生をやめるかも知れぬと思つて、自身鹿の毛皮を被つて林の蔭の道に待つてゐると、獵師はやがてやつて來て、松の火の光に映る二つの目を見合せ、すぐに射ようとして弓に箭をつがへましたが、どうも眼の間隔が鹿とは違ふと氣づいて、箭をはづし馬から下りて傍へ寄つて見ると、何とそれが日頃から、深く尊敬して居る御僧でありました。獵人の鋭敏な感覺の御蔭で、其僧は生命を棄てずにすみましたが、それで(191)もこの方便は效果があつて、其時限り鹿を捕る業を罷めて、佛門に入つたといふ話が、今昔物語といふ本の中に出て居ります。同じ物語集には、まだこの他にも參考になる幾つかの話があります。たとへば野猪の年經たのが獵人を馬鹿にして、林の中から頻りに名を喚びます。弓手即ち弓をもつた左の手の方になると黙つて居て、引返して來てそこが右手《めて》になると聲を立てゝ愚弄しました。弟の獵夫がそれを聽いて思案をめぐらし、馬の鞍を逆さに置きかへて、後向きに乘つてそこを通つて見ますと、猪は騙されて右手かと思ひ、弓手の方で兄の名を喚んだので、早速その聲をしるべに弓を射放して、其野猪を打取つたと出て居ります。照射即ちともしの狩には、松明の火串は鞍の右手に、結はへ付けて居たものと思はれます。

　以前は家の中や近まはりの用事にも、松の火より他にはともすものが無かつたのですが、後には小さい火は松脂?燭、又デッチとも馬鹿?燭ともいふものを、使ふやうになつたのは改良かと思ひます。この方が度々取替へずともよいので便利だつたのであります。松明は結はへるのが手數であり、松のヒデは五寸か六寸で、燃えたと思ふとすぐ代りを添へなければならないのに、松脂なら恐らく繼いで長くすることが出來たのだらうと思ひます。耽奇漫録といふ本に出て居る秋田地方の松脂?燭は、長くひねつて火繩の代りにもなるとありますが、通例はまはりを笹の葉できり／＼と卷いた四五寸の太いものを、燭臺の上に出て居る短い筒にさし又は釘で留めて居ます。松脂はしまひになると柔かになつて、次のを繼ぎたすことが出來て、此點が松のヒデよりも都合がよかつたらしく、それで又ツイマツ（續松）といふ言葉が、タイマツとは關係なしに、別に出來た理由もわかるやうに思ひます。

　今日では松明と書いてタイマツと呼ぶわけがわからぬ樣になり、辭書には色々と誤つた説明も有りますが、松明は其文字のまゝに、本當はマツアカシであります。タヒは手に持つ火のことですから、手火と書くか又は炬の字を當てる方がよかつたのですが、最初は松あかし以外には手火《たひ》にする材料は無く、又松あかしの用途も手火が主であつた爲に、松明の文字をタヒと謂つても、間ちがひは起らなかつたのです。ところが後々は紙燭に手燭、小とぼしやカンテ(192)ラ、しまひには懷中電燈などゝいふものさへ出來たやうに、手火の種類が多くなりましたので、是非ともタイマツと謂つて區別しなければならなくなつたのです。物の名といふものは斯ういふ風に、一通りは歴史を知つてからでないと、その起りを説明し得るものではありません。幸ひにしてアカシ又はアカリといふのは古い言葉であつて、今でもまだ日本人の毎晩使ふ爲に、その語の使はれ方をよく見て行けば、時代の變遷に心づくことが出來ます。たとへば西の方では壹岐島などは、非常によく開けた島で、もう不用な松の大木も少なくなり、あぶら松を採つて來てあかしにすることが六つかしい爲でせう。今は此島ではアカシといふのが、松の小枝や枯枝のことになつて居ます。さうして樹から其小枝をかき落す鈎をアカシカギといひ、山に之を持つて採りに行くことを、アカシカキに行くと謂つて、もう是が前代の燈火用であつたことを忘れ、アカシといふとたゞ小さな柴の焚附けにでもなるものゝことになつて居ます。或はもとは爐の火を屋内のたゞ一つのアカリとし、何か外に用があると、手當り次第にそこに燃えて居る一本の木を持出したのが、アカシであつたのかも知れません。さういふ中から特によく燃えるものを殘して置き、又は上手に束にして手火用に用意したのが、未來の爲に計畫した我々の心のはたらきであり、同時に又炬火の始めでもあつたらうかと思ひます。

　

　　　　　火の番と火事

　

　手火又は炬火といふ火の運搬が考へ出されますと、其火をどうしてともすかといふことが大きな問題になります。今日なら燐寸といふ簡單な發火方法があつて、それさへ懷に入つて居れば、まだ日のあるうちに家を出ても安心ですが、以前は晝間から山へ行く時でも家から松明の火をつけて行く必要がしば／＼ありました。家續きの里中をあるい(193)て行く場合ならば、立寄つて火をもらふといふことも出來ますが、家の後がすぐ山になつて居て、そこへ登つて夜の仕事をするといふ際には、明るいうちから火を用意しなければなりません。それ故に火の昔を明らかにするには單に燃料や火の利用ばかりでなしに、火の製作といふことから考へてかゝらねばなりません。

　それを此次の章から詳しく述べて見るつもりですが、其前にちよつと言つて置きたいのは、外のあかりの根源は、この松明であつたといふことであります。人が簡單に火を作ることの出來なかつた時代には、家といふものが最も有力な火の中心でありました。どんなうすぐらい小さな家の火でも、それから分れて出なければ闇夜を照らす光といふものは無かつたのです。小説や芝居でも、又は皆さんの記憶にある御伽話でも、夜路に迷うて難儀をするといふことがよく出て來ます。日が暮れかゝつて路を急いだが、たうとう眞暗になつてしまつたといふ話が毎度くり返されました。遙か向ふの方にたつた一つ、ちら／＼と火が見える。やれうれしや天の助けと、いそいでそこに行つて見たら婆さんが一人火を焚いて居た、などゝいふのも珍しい例ではありません。さういふ昔話の人たちは何れも皆我家の火からは遠く離れ、しかも燐寸も無く燧石も少なく、まして火繩といふやうな重寶なものも知らぬ世に住んで居たので、たとへそこらの草木を松明にくゝつても、これに火をつける手蔓といふものを丸で持たなかつたのであります。

　都會で人の集合が始まり出して、屋外にあかりの入用が豫期せられると、先づその新しい中心を考へるやうになりました。都でいふならば、「御垣守衛士の焚く火」といふ古い歌もあるやうに、御所の御門の番人が火を焚きました。太平記の頃になると、京都の町の辻には四十八所の篝屋《かゞりや》を置いたともあつて、そこに番兵が交替で火を守ると同時に、市内巡察の役目もしたので、その番兵たちが持つてあるいた松明の火は、乃ち篝屋の火から分れて行つたのでした。江戸は新しく開けた町だから、常設の辻番があつてもそこから火を分けてもらふ必要は無く、人は手に／＼自分の挑燈をともして出あるきましたが、それでもその辻番小屋の片脇には、必ず一つの火燒屋があつて、魚燈の油か何かを焚いた常燈をつけて、往來の道しるべにして居ました。さうしてよそから來た者も大抵はこゝで道を尋ねたのであり(194)ます。夜中に無挑燈であるくといふことが法度《はつと》で、それを咎めるのも亦辻番門番の一つの役目であつたと言ひます。即ち火は本來は各人の自由で無く、之を支配する大きな統一があつたので、誰でもマッチを持ち、どこでも煙草がのめる今日とは、よほど又事情がちがつて居りました。

　この統一が少し崩れ出すと、大きな都會は頻りに火災に見まはれました。火の番は再び巡警を始めましたが、通つた跡から火が出て、見つけてやつと消すのが火消しの役になりました。城下は寧ろ火の光が少なくて、夜が眞暗なのが平和の姿のやうにも考へられました。もちろん是が戰爭となると、事情は全く別であります。陣屋のまはりには數多くの篝火を焚き、それに澤山の兵卒が起きて番をします。忍びの夜討でも掛ける時の外は、昔の戰場は火事場のやうに明るく、又時としてはわざと家々を燒いて、明るくしたといふ話もあります。軍略上の放火にはいつも松明を使つて居りました。盆の柱松行事に伴なふ投げ松明の競技なども、或は一種の武藝だつたかも知れません。車松明と名づけて松明を十文字に組合せ、その三方の端に火を附けて、振りまはしたといふ話もあります。又は退陣の際敵を欺くために、棄篝と謂つて大きな火を焚いて、行つてしまふこともありました。是だけが始めて番人の附かない火でありました。

　ところが世の中が進みますと、追々に番人の無い火が生まれ、又は誰の火だかわからぬ火さへ出來て來ました。もとは主の無い火といへば先づおばけ〔三字傍点〕でした。火を防ぐ方法が色々と完備して、番するに及ばぬ火が多くなつたのです。農村では灰小屋などゝ謂つて、肥料を作る爲に塵芥を夜燒くのに、土壁を十分に厚くして番人は置きません。行燈の燈芯を一筋にして置けば、消さずに眠つてしまつてもよいことになりましたが、もとは火が燃えて居るといふことは、人が起きて居るといふのと同じ言葉だつたのです。火の用心は即ち火を消すといふことでありました。火を消さずに置く習慣は、もちろん都會の方が始めであります。電氣はつけつぱなしにしても大抵は大丈夫といふのが、この安全感の起りのやうにいふ人もありませうが、それは大まちがひで、一ばんあぶない石油ランプの頃から、もう番をせぬ(195)火は始まつて居り、それが又多くの大火事の種でもありました。是を考へると我々の消防の技術は、どの位進んだものかわかりません。そばに番人は居なくても、夜どほし赤々と光つて居る燈火は、町には際限も無く多くなりました。その爲に夜行く人の姿が美しく、從つて夏のきものがはで〔二字傍点〕になり、音樂はもう家の中のもので無いやうになつたのみか、海から眺めても岡から見おろしても、夜の都會の花やかさは、全く淨土のやうな魅力でありました。斯んなにして居ても火の心配は、昔よりはずつと少なくなつたのは、たしかに人の智慧學問の力といふことが出來るのでありますが、さて再び今日のやうに管制の世になつて見ると、暗闇の不安は却つて昔のやうに、家々の統一があつたときより強くなりました。歴史をふり返つて考へて見ますと、火は結局は番人のゐるものであり、家と火との關係はいつの世になつても、切り放すことの出來ぬものでは無かつたかと思はれます。家が火の中心であり、火の管理者が主婦であつた時代を、もう一度見なほす必要もこゝに在るのです。

　

　　　　　火を大切にする人

　

　日本人が最初に燃料として多く使つて居た植物が、何の木だつたらうかといふことは、まだ問題なのであります。ヒノキが火の木であることは、大抵誰でも想像することですが、それが不思議に現在は火との縁が薄くなつてゐます。之に反してマツはもと火と同じ語だらうといふ私の考へは、まだ十分に證明せられてゐないにも拘らず、今なほこの通り火との關係が深いのであります。是は恐らく檜の木の用ゐられたのが、主として發火法としてゞあつて、それが後世簡便な燧石火打金などに代ると、他にも大切な入用の多い木だから、たゞの薪には伐らぬやうになつた爲でありませう。實際に松の木の方は、火鑽杵《ひきりぎね》火鑽臼《ひきりうす》に使はれた例も無いやうですが、是で火を焚いたのは至つて古いことで、(196)或は役目が二つ別々であつたのかも知れません。沖繩の島では火がオマツだといふことは前にも謂ひましたが、もつと精確にいふと、現在では火種の燠《おき》のことが、向ふの發音でウマチなのであります。即ち一方の檜の木は火を作り出す木であり、こちらはその作られた火を保存し又は繼續する方に利用せられたので、マツの木であつたとも考へられるのであります。それと思ひ合されることは、鹿兒島縣では一帶に近い頃まで、臺所で働く女の名を、オマツ又はマツ女と謂つてゐました。女中にお松といふ名をつけることは、九州南端に限らず、上方邊にもその例があります。皆さんには少し珍し過ぎる話かも知れませんが、元來我邦には今見たやうな女の名前は無かつたのです。或は有るにしても人が知りませんでした。知つて喚ばれたらもう其人に支配せられ、大變なことになるといふ俗信があつたからであります。それで大娘《おほいらつめ》とか仲つ子とか三の宮とか、又は茶々とか禰々《ねゝ》とかいふ誰にも通用する名で呼ばれ、身分の有る人ならば別に稱號を設け、もしくはわざと讀みにくい名をつけて藏つておき、何人も之を口にせぬことにして居りました。しかし朝晩人に使はれる女だけは、名を呼ばずには居られません。それで女中には早くから名があり、古風な家では此頃までも、本名を止めて其家の通り名で呼びました。お末といふのは末即ち臺所で働くから、お鍋といふのは鍋を持つ役だから、おさんどんといふのは何だか六つかしい字を書きますが、もとは「をさめ」とも謂ひましたから道具を始末するといふことらしく、おようもおよしも共に用をする人といふことであつたやうです。鹿兒島ではマツ女の他に今一つ、エダといふのが女中の名で、よく何々家のエダさんと呼んで居ます。是などはどう考へても意味が取れませんが、ともかくも家の勝手で立ち働く人だけには呼び名があつて、それは大抵その職掌を表はして居ますから、おまつは少なくとも火の管理といふことに、關係があつたものと見てよいかと思ひます。しかも昔の火をきり出す技術の困難であつた時代には、之を守つて消さぬやうにすることは、可なり重要な任務でもあつたのであります。

　是は私一人の想像で、まちがつて居るかも知れませんが、日本では昔は火を作り出す役と、出來た火を大事に管理(197)する役目とが、男と女との分業になつて居たのではないかと思ひます。ところが燧石を打つて火を出す方法が、案外手輕にひろまつた爲に、もはや男の力を煩はすまでも無く、ちやうど檜の木が不用になつたと同じに、おまつの仕事ばかりが永く續いたのであります。日本の昔話には、至つて心掛のよい若い女が、大年《おほとし》の晩に火を消して困つて居たところへ、ちやうど松明をともして棺桶をかついだ人が門前を通る。その棺桶を預かる約束で火を分けてもらひ、やつと正月を迎へてから行つて見ると、死骸かと思つたのが桶一ばいの黄金であつたといふ話があります。それ程にも火は大切なものといふ教へだつたかと思ひますが、消えたら何度でも火を打ち出せる燧石が、女の手元に在るやうになつてからでも、なほ彼女等は一旦作られた火を絶やさぬやうに、又その清淨を保つやうに、深い注意と苦心とを續けて居ました。是は恐らく古い昔、まだ簡單には火の種が得られなかつた時からの、年久しい愼みがなほ傳はつて居るのかと思ひます。男は之に比べるともうすつかり氣樂になつて、いつでも何處にでも火は有るものと思ひ、一切の管理を女性に委ねようとして居たのであります。家と火との關係を、先づあなた方が考へて見なければならぬ理由はこゝに在ります。

　世界人類の火の歴史を尋ねて見ると、如何なる未開人でも、今日はもはや火を利用せぬ者が無いと言つてもよいのですが、なほ其中には自ら火を作る技術を知らず、たゞ現在あるものを後生大事に保存して居るだけといふ者が、相應に有るといふことであります。彼等の火の起源は神話でありますが、それでも詳しく調べたら、どうして手に入れた火か判つて來ると思ひます。隣に住む異種族から貰つたとか、又は前には造り方を知つて居たのが忘れられたとか、或は遠い處から天然の火、たとへば火山の火を持つて來たとか、又は雷火に燃えて居る木の枝を、神の御授けとして戴いたものも有るかと思ひます。何れにしたところが、消えたら自分たちの力で作ることが出來ぬので、從つてその管理をした「まつ女」たちの役目は、たとへやうも無く嚴重な、さかしく愼み深い女性で無いと、つとまらぬものであつたことがわかるのであります。

(198)　しかし幸ひなことには昔から、人は一軒きり離れ／”＼には家を建てず、どんな片田舍でも五戸七戸、近所といふものを大抵は持つて居ました。一度にすべての家の火が消えてしまふことは、洪水か何かの時でないと有りません。いつでも隣の家に行けばもらつて來られるので、都會地の長屋住居などでは、むしろ用心の爲に火を消して置いて、度々どうか火種を一つと無心に來るのが、燐寸の出來るまでの普通の?態でした。田舍にもこの火貰ひといふことは永く續いて居ました。家に火道具はちやんと有るのに、燧をかち／＼と鳴らすと消したなと言はれるのがつらいので、前掛の下に缺茶碗などを隱して、裏口から隣家へ走つて行く若い嫁もありました。しかしさういふのは女の耻、殊にどの家からでも火をもらふといふのは不謹愼なことゝしてありました。よく／＼已むを得ぬ必要の起つた場合に、互ひに火を分け合ふ家は先祖からきめられて居て、それを火取隣と謂ひ、其家は特別に親しくつき合つて居りました。是が恐らくは遠い昔、まだ簡單に火を作ることの出來なかつた時代からの、習はしであつたらうと思ひます。

　

　　　　　火を作る法

　

　天然の火の保存といふことは、今の人の思ふほど有り得べからざることではありません。火山の噴火はめつたに出逢はれないにしても、落雷は土地によつて隨分と多く、高い樹木が多ければそれが燒けて、長い間燃えて居ります。今まで生で食べて居た食物が其火に燒かれて、おいしくなるといふ經驗も出來ないことは有りません。マライ半島などの深い林叢の中では、大嵐の日に植物がこすれ合つて、火を出すことが?々ありました。さういふ植物では竹類が最も多く、山火事になりやすかつたさうですが、それは多分割れて稜《かど》が多くなり、又笹の葉が枯れるとすぐ燃えるからだらうと思ひます。日本では聽いたこともありませんが、土人は其火を持つて來ただけで無く、竹を摩擦して火を(199)出すことも、是から學んだらうと言ふ人が有ります。

　世界の發火法の最も原始的なものを集めて見ると、石金を叩き合すものは稍々進んで居るから別にして、植物を擦り合せて火を出すのに、およそ三通りの種類があるといひます。一つは火鋸、第二にはポンプ型、この二つは我邦には無かつたやうです。何れも何百囘と無く同じ運動を續けて居るうちに、道具が熱くなつて次第にそばの物に燃え付くのですが、鋸の方が早く鋸屑が出來るから、幾分か發火が容易であつたかも知れません。ともかくも是には若干の考察と實驗とが加はつて居て、最初のまゝの只の天然の模倣でなかつたことは、二つとも同じであります。最初は多分非常な勇氣と努力とを以て、何とかしてあの通りの火を得ようとして、むだな努力をくり返して居たと思ひます。それがやつと是まで漕ぎ付けて、倦きて中止さへしなければ、しまひには必ず成功するといふ確信が得られたのですが、それでも決して簡單な事業では無いので、むしろ一旦作つた火を大事に守つて、育て又はながらへ〔四字傍点〕しめることに、大きな力を傾けたのであります。

　日本に古くから行はれて居た第三種の發火法、即ち火錐型とも名づくべきものは、前の二つに比べると又一段の改良かと思はれます。是とても阿弗利加の内陸その他、方々に現に之を用ゐてゐる者があります。通例はよく乾いた比較的軟らかな木の厚板の上に、檜木などのさきの尖つた棒をあてゝ強く揉むのであります。この棒に紐を捲き附けて、別の人に雙方から引かせる方法もあるやうですが、我邦のは一人で手掌を合せて揉みます。出雲の大社その他の尊い多くの御社の祭に於て、新しい色々な發火法が考へ出されて居る今日まで、なほ必ずこの手續を以て作り出した火でなければ、神の供物を調理し又御燈明にともすことも出來ぬものとして、今も毎年この古い方式をくり返して居られるのは、深い意味のあることのやうに我々には感じられます。乃ち正しく穢れ無く、少しでも心に弱味の無い人だけが、斯うして神樣の清い火を揉み出し得るといふ、古來の信仰はまだ殘つて居るので、それを試み確かめた後でないと、安心して祭に御仕へ申すことは出來ぬやうに、思つて居る人が多いのであらうと思ひます。單なる古風なしぐさ(200)の記憶又は保存と見ることは誤りのやうであります。

　もちろん新しい火の清く美しいことは、一般に認められてをりました。古い火は物に觸れて汚れやすく、どんなに氣を付けて保管して居ても、いつの間にか神樣には上げられない火になつてしまふことを、日本人は非常に恐れて居たのであります。この點などが外國とはまるでちがふ所で、我々は元の火がちやんと燃えつゞけて居るのに、わざ／＼それを消して「火を改める」といふことを度々しました。ところが永い年月の間には、木の杵臼を以て火をきり出す最初の發火法を、覺えて居ない土地が少しづゝ増して來て、穢れを清めるのに一方ならぬ苦勞をしました。遠くの御社まで火を分けて戴きに行き、松明につけて還つて來るといふやうな必要も、?々有つたことゝ思ひます。操作の是よりも遙かに簡單な燧石の利用法が、一旦民間に知れて來ると、えらい勢ひでそれが普及し、又次々の改良の加はつたのも當然なことで、是はたしかに一つの進歩でありました。古い歴史では日本武尊の東夷御征伐に、袋から火打を取出して草原を御燒きなされたことが見えて居りますが、是は熱田の叔母君からの特別の贈り物で、當時まだ一般には知られなかつたのかと考へられます。古いと言つても一方の火鑽杵と、共に始まつたものとは思はれません。或は大陸からでも傳はつたやうに言ふ人があるかも知れませぬが、ともかくも材料はこちらに多く、又色々の改良もこちらでして居るのです。實驗も亦我々祖先がしたものにちがひありません。

　始めて石からも火が出るといふことを人が知つたのは、少なくとも木の摩擦とは別の折でありました。石屋が鐵の鑿を以て石を斫るときに、火花が散ることは誰にでも氣がつきますが、燧がさういふことを見てから後に、即ち既に鐵の道具を使ひ出してから後に、それを學んだかどうかは問題であります。大きな石を打合せて碎くときにも、稀々には火が飛ぶことがあり、又以前にはさうして石を割つて行く場合が多かつたのであります。燧又は稜石《かどいし》を産する山は日本にはどこにも在り、その中には今でさへ鐵物《かなもの》に不自由をして居る村が有るのであります。それ故に私などは、まだ火打金といふものゝ無かつた頃から、もう二つの稜石を打合はせて、それから飛び散るものを燃ゆる火にする方(201)法が、知られて居たのであらうと思つて居ります。

　しかしさういふ事をして火を取るのは、尖つた檜の木の錐を揉むにも劣らぬ程の苦勞で、又失敗も多かつたことは確かです。燧石はどんなにあつても、其利用の一般に行渡つたのは、どうしても鐡の火打金の、手に入りやすくなつてから後でなければなりません。日本武尊の御使ひなされたのも、古事記には火打とあり書紀には燧とありますが、是だけが鐡の火打金であつた故に、早く效果があつたものかと思ひます。もとはさういふものが得にくかつたので、何でも有合せの金屬の片端を、稜ある石を以て打つてゐたのかも知れませんが、鍛冶屋が村々に入つて來るやうになり、鍋でも鍬鎌でも自由に作れる頃には、その燧金もほゞ形がきまつたのであります。通例は手頃の木片に、僅かの鐡をかすがひ〔四字傍点〕のやうに打込み、それを右の手に持つて石の稜を打つと、すぐに膝の前に火花が落ちました。或は燧鎌などゝ謂つて、鐡を三日月の形に鍛へ上げ、それを装飾用に大きく作つたのも殘つて居ます。旅をする人には袋に入れて腰に下げられるやうに、小さく手際よくこしらへたのもあつて、斯ういふのが三つか四つ、どこの家にも轉がつて居たのですが、もうその囘收も一通りすんだから、繪でも無ければ見られなくなつたでせう。

　注意すべきことには、女が火の保管の全部をつかさどるやうになつてからでも、新たに火を作る燧石燧金だけは、一定の場處に置いて、主人が監督して居る家がありました。さうで無ければ別に神樣用の火打箱があつて、そればかりは女に手を附けさせぬやうにして居ました。さうして何か火を改める必要が起つた時には、是によつて新たに火を切り出したのであります。その名殘は今も形だけは殘り、普通の火で調理した神樣への御供へ物でも、其上でかち／＼と火を打ち火花が飛べば、それで清い火を用ゐたのと同じになり、兵士や學生が家を立つて行く時にも、其者の頭の上で燧の火を切つて、それで穢れは無くなつたものとして安心して發足させました。しかし火鑽杵火鑽臼とはちがつて、毎日氣輕に使ふものである爲に、或は石金そのものにも、穢れが附くかも知れぬといふ心配を、古い人たちは持つて居たやうです。それに對しては十分用心をして居ましたが、もしも意外な原因があつて、穢れが入つて居るこ(202)とを後から氣付きますと、元は村中の火打金を取集めて、鍛冶屋に渡して打ち直させることにして居たさうであります。打ち直すといつてもたゞ鐵床の上に載せて、鎚で數囘敲く位だつたでせうが、器を新しくすれば、火の根源は改まるものと信じて居たことだけは、大昔からの習はしのまゝでありました。つまりは火は靈界から發するものといふ考へ方が、マッチやライタアの時代の、すぐ前までは續いて居たのであります。

　

　　　　　ほくち及びたきつけ

　

　始めて燧石の利用を試みた人たちが、先づ考へずに居られなかつたことは、どうすればこの火をつかまへて、段々と育てゝ燃える火にすることが出來るかといふことであつたらうと思ひます。今までの錐揉み式の發火法では、臼とも杵とも謂つた位で、板の表面に圓い穴がすぐにあきました。それだけの部分が摩擦によつて粉になり、まはりに溜つて居るのですから、それが熱を引いてぷす／＼と燻り出します。ところが石の火はそれこそ雷光石火で、忽ち空中に散つて消えてしまひます。それを何とかして取留めなければ、折角かち／＼と打出したかひ〔二字傍点〕が有りません。この爲にホクチ（火口）といふものを考へ出したのは、全く我々の臼の穴にたまる、木の細かな屑を知つて居て、何かあれに似よつたものをと、捜しまはつて居た爲かとも思はれます。ホクチの無い處は全國どこにもありませんでしたが、その材料は實に土地毎にといふほどにも違つて居ました。一ばん多いのは枯木の朽ちてぼろ／＼になつたもの、それにも山櫻がよいとか何の木がよいとか、人々の經驗によつて一定しません。或は桐などのやうな輕い木を消し炭に燒いて、粉にして使ふのもありましたが、是は手數がかゝり過ぎて多量には作れません。東北地方には猿の腰掛の類の大きな茸をよく乾燥して、碎いて貯へてホクチに使ふこともありました。それよりももつと變つて居るのは、京都附(203)近の古い御社で、祭の日の清淨な火を作る料に、奉書といふ紙をよく揉んで之を火口とし、その上へ燧の火をきり掛けて焚附けへ移す例があつて、是は現在までもなほ續けて居ります。斯うすれば少しの穢れも無い火の生まれることは確かですが、普通の家ではとても其眞似は出來ません。それに家々で之を手製することは、よほどの暇が無いと望まれぬことなので、燧石燧金が民間に普及すると、間も無くホクチは商品になつてしまひました。商品として製造する段になれば、うんと一ぺんに作らなければなりません。それには各地思ひ／＼の今までの原料は適しませんでした。商品のホクチには芒《すゝき》の枯穗、又はパンヤともいふかゞみ（蘿?）の綿も使ひましたが、最も多かつたのは蒲といふ草の穗のよく乾いたものであります。是を其まゝで白ホクチとしても賣つたやうですが、多くは火つきのよい樣に木炭の粉を少しまぜ、又はたゞ體裁の爲に墨の液に浸して干し、ホクチは總體に黒いものとなつて居ました。

　燧石はたゞに火打金といふお相手を必要としただけで無く、更になほホクチの發明を待つて、始めて人間の實用に供して、便利至極のものとなつたのであります。家々には必ず火打箱といふ木の箱が二つ以上ありました。箱は其中を二つにしきつて、一方には稜石と火打金、他の一方のやゝ大きな區劃には、ホクチが一ぱい入れてありました。有名な大田蜀山人の狂歌に、

　　　火うち箱ふた明け方に啼きつれて

　　　　鴻雁なんぞほくちより來たる

といふのがありました。之を聽いて江戸人の大半は笑ひ且つ喝采しましたが、皆さんは多分笑ふことが出來ないでせう。是は唐詩選といふあの頃流行した詩集の中の、誰でもよく知つて居た一句、鴻雁｜那《なんぞ》從2北地1來といふのが、もう忘れられて居る爲もありますが、それよりも大きな原因は火打箱と、それに入つて居るホクチといふものとに、今は全く御縁の無い人ばかりが多く、以前は又是ほど親しいものは無かつたからであります。家々の主婦又はおさんどんは江戸でも田舍でも、早天に起き出すと先づこの火打箱に手を掛けました。さうしてかち／＼と一方のホクチの中へ、(204)燧の石の火を切り入れるのが毎日の役でありました。寢ぼけさへしなければ、大抵は一度か二度で火花がホクチに移ります。さうして火きり臼の木の粉末よりはやゝ早く、それでも相應な緩いテンボを以て、じり／＼と燃えて行きます。それをすばやく手に取つて、次の燃料へ焚きつけるのです。

　前には是がまた中々簡單とは言へない作業でした。この點でも人は色々と工夫を重ねて近世になるとよほど手輕に、火を燃やすことが出來るやうになつたので、こゝにも大きな變遷があり、それがたしかに又改良でありました。今その移り替りの大要を述べますのに順序として先づ改良以前、どの位家々の女の人が、苦勞をして居たかを話して見なければなりません。關東地方の村々に於ては、今でも圍爐裏や竈の下に火を燃やし始めることをフッタケルと謂つて居ります。タケルは焚き付ける行爲をいふのにちがひありませんが、フッといふのがもうわかりにくゝなりました。現在はもはや吹く必要がさして無いからであります。しかしホクチにたゞ其まゝにして居たのでは、燃える火にはならぬにきまつて居ます。それを枯松葉その他の木の葉のよく乾いたの、こまかな芝草のたぐひ、農村でならば藁のはかまのやうな、何か燃えやすいものゝ上に載せて、せつせと吹いて居るとしまひには?があがり、それから幾らでも大きな火になるのです。たゞ其爲には塵が立ち灰が飛んで、女たちの髪の毛がたまらなかつたのであります。女が頭に手拭を被るといふことは、決して之を防ぐのが目的ではありませんが、是があるので幸ひに灰だらけになることを免れました。それから又色々と、そんなに吹かなくとも燃え立つ方法を考へ出したのであります。火吹竹もその一つであり、又は松脂を細く捻つたのや、あぶら松をこまかく割つたのなど、少しでも早く火のともるのを使はうとしたことゝ思ひます。大工が鉋といふもので木の表面を削るやうになつたのは、田舍はさう古い頃のことでありませんが、是が始まるとその鉋屑が、殊に斯ういふ目的には適して居りました。しかし鉋屑などはさういつでもある物ではありません。それよりももつと手に入りやすかつたのは、竹細工の竹屑でありました。國の人口が日増しに多くなり、往つたり來たりが繁くなりますと、籠類の入用が盛んになるのは當然で、しかもその大部分は家々の手製でしたから、(205)その屑はいつもたまります。桶屋といふ者が割竹を箍《たが》にして、桶を結ふやうになつたのも近世のことで、其前は藤蔓であり又その一つ前は檜の木の薄い板を火で曲げた曲げ物を、櫻の木の皮を以て綴ぢて居ました。桶の箍の竹は細く割り丁寧に削りますから、殊に焚付けに適した屑が澤山に出來たのみならず、他の木ではさういふことが出來ないが、竹はそこらに幾らでも生えて居るので、愈々焚付けによいとわかれば、伐つて來て之を屑にすることも出來ます。太い細工用の竹は成長せぬ寒地でも、山の地竹を採つて碎いて使ふことは何でもありません。中味は脂肪があつて見かけによらずよく燃えるものでした。

　太平洋に面した各府縣で附木《つけぎ》と謂つて居たものを、日本海側では九州から北は奧羽までツケダケと謂ふのが先づ普通であります。之を焚付けの引くり返しの如く、又はフッタケルのタケのやうに思つて居る人もありませうが、實は此方面は殊に竹を多く利用して居たので、この名が生まれたものゝやうであります。附木といふのも是と同樣に、火をつけるのに使ふ木といふだけで、最初はたゞ既に燃えて居る火を、外へ移す爲に使つて居たのかも知れませんが、ホクチで新たに火を燃やす場合にも、斯ういふ中には便利なものが多かつた故に、之を雙方どちらの名にしてもよかつたのでありませう。實際又硫黄附木の發明せられる前までは、附木つけ竹もたゞ焚付けの中の、特に燃えやすい一片といふに過ぎなかつたのであります。

　

　　　　　硫黄附木と火吹竹

　

　燧の發明のやうに古く又世界的ではありませんが、附木の頭に硫黄の溶液を塗つたといふだけの思ひつきも、重要さに於ては決して之に負けません。一方が新たに火を作る男子の時間を節約したと同樣に、この方は火を管理する女(206)性の辛苦を救ひました。素より燧石が無かつたら此考案も起らず、又ホクチがあつたればこそ硫黄附木の有難みも現はれたのですが、ホクチが先發の前進隊だとすれば、この方が後續の本隊のやうなもので、是があつて始めて石の火の效果は完全になつたのであります。それがまだ如何なる賢い人の考案に成るのか、判明して居ないのは遺憾なことと言はなければなりません。斯ういふものは何でも支那から來たらうと言へば、大抵の人は承知しますが、それは決してまだ確實でありません。支那にも硫黄は有りますが非常に遠くから運ばれるものであり、之に反して日本には硫黄の山が到る處に在り、その産量も多く又採取が容易でした。或は向ふから我邦へ買ひに來て、それを何にするかと尋ねたのが始めではないかと思ひます。附木の小さな簡單なものを揃へて、それに硫黄を附けて方々へ分配しただけは、少なくとも我々の先祖の働きであつて、些しでも是に他民族の助けは借りて居りません。

　始めてこの附木を使ふことの出來た人たちの感謝は、想像に餘りがあります。うつむいて火を吹くといふ苦勞が全く無くなつて、寧ろあの藥品の變な煙を吸はないやうに、息を留めて居る必要をさへ生じました。火吹竹なども利口な發明だつたといふことが出來ますが、是は殆と入用が無くなつて、どうして今まで殘つて居るかを、考へなければならぬほどであります。是も今日は燐寸の世になつて、もう見た人も少なからうと思ひますから、後の爲にはつきりと書いて置きますが、この硫黄の附木が出來てから後といふものは、もう吹くことは全然無用になつたのであります。豆ほどのホクチでも火がついて居りさへすれば、それへ硫黄をあてるとすぐ青い火が燃えて、少し待つて居るうちに段々と明るくなり、吹くのは却つて消すことになつたのです。以前は箱一ぱいのホクチへ燧の火を切り入れて、それだけは使つてしまふのを覺悟して居ましたが、斯うなると急いで火の附いた部分を?《むし》り取つて、何度でも一箱のホクチを利用することが出來ました。

　ホクチは古來の日本の商品の最も廉價なもので、燈芯や艾《もぐさ》などに比べてもなほ遙かに安く、たつた一文の穴あき錢でも買ふことが出來ましたが、それでもなほ錢を出して買ふ品である故に、我々の先祖たちは之を粗末にすることを(207)嫌ひました。損得の問題よりも、むしろ是が新しい金錢經濟に對する態度であり、錢を使ふのが少なくて濟むといふことは、一種の勝利のやうな感じでありました。それが硫黄の附いた附木の爲に、幾らでも儉約し得られるから儉約したので、近頃の若い人たちの數學の頭では、何だかをかしくも見えて來たのであります。斯ういふ世の中の變り目、古い考へと新しい見方とのちがひは、何度も此前後には有りましたが、結局は若い人が段々と多くなり又若くも無くなるので、古い考へ方は　　愈々わかりにくゝなるのです。注意して見なければならぬ點だと思ひます。硫黄の附木なども、金を拂つて買ふといふことが新しいことなので、一把何厘といふほどの安いものでしたが、なほ暫らくの間は之を使ふまいとした人がありました。どうしても使はずに居られなくなつてからも、一枚の附木を二つに折り四つに折り、細いものにして火を附けるのが普通で、めつたに一枚を一囘に使ふ人は無く、さういふ事をする嫁や娘は忽ち村中の問題になりました。關西の方では、この硫黄を塗つた附木だけをイヲンと謂つて居りました。イヲンはもちろん硫黄のなまりで、乃ち硫黄附木の略語であります。三重縣などでは我々のいふマッチのことを、カラヨと謂ふ人がもとは有りました。是も「唐の硫黄」であつて、即ち新しいから同じ仲間と見たのであります。鳥取縣の方では又硫黄附木のことをタテヨ又はタッチョウとも謂つて居ました。どうして立つと謂つたのか其心持は知れませんが、或はたゞの附木は木竹の屑であつて、この樣に一枚々々形の整つたもので無かつたからかとも思ひます。とにかくに上方方面のイヲン又はタテヨは、始めから幅の細いものでありました。私なども東京へ出て來て、始めて幅の二寸以上もある堂々たる附木を見たのであります。奧羽地方に行くとマサツケギ（柾附木）と謂つて、もつと丁寧に削つた大きな附木があつたと聽いて居ります。一つには材料の豐富だつたからでも有りませうが、それよりも寧ろ常の日にはあまり之を用ゐず、主として來客でも有るやうな改まつた日だけに持ち出されたので、つまりは昔の半紙が上等品であつたのと同じに、言はゞ實用以外の一種晴れのものゝやうな感じが、まだ拔けずに居たのかと思ひます。

　是と關係してなほ思ひ出されることは、日本人の社交はもとは物品の交換を中心として居りました。葬式その他の(208)特別の場合を除いて、物を贈られると是非とも其器の中へ、何かおうつりを入れて返さなければならぬことは、今でもまだ守られてゐる作法であります。彼岸に牡丹餅の遣り取りをしたり、又は赤飯の重箱の片隅だけ殘して返したり、最初は同じ品物でも構はなかつたやうですが、後にはどうしても別の品、それも金錢をもつて買つたものを入れて、こちらでも少しの心遣ひをして居るといふことを、示さなければならぬことになりました。是に用ゐられるのは今でも半紙一枚、マッチ一箱といふのも近頃は多くなつたやうですが、所謂イヲンの流行時代には、その一枚を入れて返すのがごく普通で、それで返禮のことを「おつけ木の代り」とか、「イヲンも入れずに」とかいふ言葉をよく耳にしました。ユワウは「祝ふ」だから縁喜がいゝのだといふ人さへありました。附木を大きく立派にして居たのも、或は斯ういふ場合を考へたのかも知れず、それで又家々の毎日の附木は細く小さく折つて使つて居たのかとも思ひます。

　さういふことまでは勘定に入れなくとも、ともかくも硫黄附木の普及は大きな改革でありました。石油ランプも同じやうに、その盛りは案外に短かつたけれども、色々な影響を與へました。焚付けと謂つたものが非常に荒い粗末なものになつて、どんなに吹つたけても是だけでは火が燃えず、柴ともボヤともベイラともいふものと、格別のちがひは無いものになり、之を燃やすのには何か別の?を必要とするやうになりました。次には又ホクチといふものゝ消費量が急に激減して來て、之を製造して賣ることが、儲けのない商賣になつて行きました。マッチは附木の競爭者にちがひありませんが、是がもし西洋から入つて來なかつたら、硫黄ばかりでは燧石の火を取ることが出來ず、再び家々でホクチを自製するか、又は何か代用品を考へ出さなければならぬことになつて居たかも知れません。尤も是には木炭の多く使はれるやうになつたこと、それに用ゐられる大小さま／”＼の火入れ火鉢が普及して來たことも、考へて見なければなりません。煙管で煙草を吸ふ風が盛んになつて、是には久しい後まで燐寸は使はず、煙草の火だけは大抵の家に有りました。附木はさういふ火からも燃やし付けることが出來たのであります。それ故に我々の家の火打箱の中には、先づ細く割つた硫黄附木が雜居し、後には石と金とはあまり使はなくなつて、その附木ばかりが幅を利かし(209)て居たのであります。行燈の引出しなどにも、いつの間にか火打道具が見えなくなつて、たゞ附木ばかりが燈芯の隣に、同居することになつて居りました。

　しかしその重寶な硫黄附木も、今はもう影を消してしまはうとして居るのであります。木材の用途が進んで價が高くなり、一方にはマッチがやゝ濫用と言つてよい位に、盛んに使はれるやうになつたので、冬のさ中でも無い限り、炭火といふものが保存せられず、從つて附木の役に立つ機會が少なくなつたからであります。近頃は燐寸やライタアが手に入らぬので、もう一度燧石を使はうかといふ人があります。さうすれば當然附木も又世に出ますが、是には少量でもホクチの用意がなくてはなりません。此方は材料は十分有りますが、誰が之を作るかゞ問題であります。火吹竹の早く無くなつてしまはなかつたのは不思議のやうですが、是は以前とは全く目的が變つて、專ら炭火をおこすのに用ゐられて居たからであります。その炭火を強くする方法も、別に幾らも備はつて來ましたから、もう是からは愈々不用になります。たとへもう一度燧石を使ふ時が來ましても、附木がある以上は吹つたける必要は無いからであります。

　

　　　　　民の煙

　

　國が營えて人の數が段々と多くなると、是に比べて火に焚くものゝ分量が、少しづゝ乏しくなることが感じられて來ます。樹木の成長と繁殖とは元のまゝであるといふよりも、時々は今までの林や森を開いて畠にも屋敷にもすれば、又最初からあたりにちつとも焚きものゝ無い處に、廣い新田の村や大きな都會が出來たりします。山の奧在所に入つて行くと、今でもまだ材木にするやうな太い木を、惜しげも無くどん／＼と圍爐裏に投げ込んで燃やしてゐる處も稀(210)にはありますが、さういふ處は却つて住む人の數が少なく、其他は大體に薪は運んで來るもの、お金を出して買ふべきものとなりました。ホクチや火吹竹や硫黄の附木など、次々と便利な發明はあつたに拘らず、火を管理する女たちの役目は前よりも骨折なものになり、燐寸が一般に利用せられるやうになつた頃から、それが更に苦勞の多い仕事になつたのであります。

　女の人の働きとしては、第一に燃料の種類をよく知つて、適當にその使ひ分けをしなければなりません。それから第二には火を上手に焚く技術を覺え込んで、少しでもむだが無く、同じだけの效果を擧げるやうに、練習する必要がありました。この練習には勿論教科書などは無く、又言葉に出して教へるといふこともめつたにありませんが、大抵の家の娘は小さな頃から、年とつた人のするのを見て居て、いつの間にかその呼吸を呑み込んで、おまけに少しづゝは改良して行きました。さうして火を焚くことの下手なものは、一生の間にはよほどの損だといふことをよく知つて居りました。女の慧しさとか考へ深さといふものは、めつたに外部に現はれる機會は無いものですが、それを昔の人たちは、火の焚き方一つを觀て居れば、大よそはわかるものと謂つて居ました。それほどにも火を管理する者の苦心は、十分に認められて居たのであります。面白いことには、男も火は焚き方が大切だといふことをよく知つて居ましたが、爐の横座に坐り込んで居る主人でも、自分では成るたけ薪に手をかけようとはせず、客などが有るともてなし振りに、もつと大きく焚けと言ひつける位のもので、それさへ常の日には口を出さぬやうにして居ました。女房の火を守る仕事は、任務であると共に權能でもあつたのであります。家が大きくて庭竈を焚く折が多いと、無論其役目はお松にも分擔させますが、是とても主婦の監督であつて、主人が火の燃え方について彼是いふなどは、細か過ぎると謂つて笑はれました。西洋の昔話でシンドレラといふ名は、譯して見ると灰娘といふことであつて、是が心がけの良い若い女の、一生懸命に火を焚いて居る姿でありました。日本では之を灰坊太郎とも謂つて、後に出世をする青年が、暫らくそんな仕事をして居た話にもなつて居ますが、是は男としては一番似合はしくない役といふ意味でありました。(211)東北地方の火焚き婆さんといふのも、長者の家の臺所にかゞみ込んで、誰も構ふ者の無い憫《あは》れな女の話になつて居ますけれども、外に何一つの能の無い老女でも、火だけは若い頃からよく練習が積んで、さすがに斯うした火の番の役ならば、任せて置くことが出來たのであつて、それには又家の妻娘の、やさしい氣配りが添うて居たといふことを、土地の人ならば想像することが出來たのであります。

　火焚きの上手下手とはどういふことかと問ひますと、一言で答へるならば煙の多少、火焚き場の煙を少なくすることが、出來るか出來ないかの技倆だつたらうと思ひます。是は木炭が盛んに用ゐられ、瓦斯や電氣の普通になつた今日では問題にならぬことで、家を眞白な木で造り白い紙を多く用ゐ、たま／＼何かで燻《いぶ》ると大騷ぎをする樣な家庭に育つた人たちには、判りにくいことかも知れませんが、昔の火焚きには大か小か、煙は附きものであつたのです。それで住民の數を算へるのに、戸何煙と書いて煙を單位とし、或は又、

　　　民のかまどはにぎはひにけり

といふ古い御歌にも見えるやうに、煙の立つ數を見て土地の繁榮を御察しなされたといふ言ひ傳へも殘つて居るのであります。しかし誰にでも考へられる如く、煙の立つて居る間はまだ十分な火力は揚りません。從つてそれだけの燃料はむだになるのであります。幾らでも近くに焚くものゝ有つたうちは、そんなことを考へるにも及びませんが、少しでもそれがたしなく〔四字傍点〕なると、出來るだけ早く燃え上つて、煙の少なくて濟む工夫をしなければなりません。さういふ中でも殊にたきつけは濕りやすく、それに火が移らぬと燧もホクチも消えてしまふので、時間がかゝるだけで無く、いつまでも同じ所作をくり返すことになります。それで主婦たちは火打をカチ／＼と、何度も同じ音をさせるのを耻として、少しでも早く燃えつく焚付けを、圍つて置くことに大きな苦勞をしました。その目的の爲には、枯松葉が便利なものと昔からなつて居たやうであります。松の葉は脂肪分が多く、又表面がてら／＼として水を切りやすいので、薪の豐かな家でも必ず之を用ゐて居ました。昔の繪にある高砂の尉と姥、白髪の男女二人が大きな松樹の下で、手に(212)持つて居る箒と今一つのもの、東京でクマデと謂つて居る道具などは、最初の世の中から必要であつたやうに思はれます。

　

　　　　　柴と割木

　

　近頃では一般に燃料に乏しい土地に家を持つて、この枯松葉ばかりで身を温め、物を煮炊きする人も少しづゝ出來て來ましたが、さうまですることは無理のやうであります。松の葉は焚付けとしては早く燃える代りに、すぐに灰になつて長く續かず、燠《おき》といふものが全く出來ないので、生の物をおいしく燒くことが出來ません。それでは困るといふものが色々ある中で、取り分け六つかしいのは蒸物と稱して、お湯を煮えくりかへらせ、その熱い湯氣を通して調理する食物であります。今日赤飯とも御強《おこは》とも謂つて、小豆を交へたものがその一種でありますが、以前は小豆を入れない白蒸もあれば、又｜梔子《くちなし》の實で染めた黄蒸などもあつて、改まつた節日には缺くべからざる食品となつて居ました。今の普通の御飯の炊き方が追々と上手になつて來て、古來の強供《こはく》を造る日は著しく少なくなりましたが、その代りには一方に餅が蒸し物の一つとなつて現はれで來ました。前には御團子と同じに、米を搗き碎いて粉にしたものを餅に捏ねたのが、後には粒のまゝ臼に入れて搗くことになつたので、是を強飯以上に柔かく蒸す必要が生じたのであります。この二通りの蒸し物の爲には、藁や松葉などは言ふにも及ばず、薪でも細い小枝のやうなものは、いくら焚いても湯氣があがりません。それでどんなに燃料の不自由な土地でも、お餅を搗いたり強飯をふかしたりしようと思へば、是非ともかねてから火力の十分な良い薪を用意しなければならぬのでありました。關西地方などは一般に、割木といにのがその良い薪のことです。割つて使ふほどの太い木に限ることで、他によく燃える木は有つたかも知れま(213)せんが、本來は松を本式のものとして居たやうであります。關東の方では松マキと謂ひ、マキを薪の總稱のやうにも用ゐて居ますが、マキは眞木であり本式の薪といふことでせうから、やはりこの爲には松の割つたのを使ひ、わざ／＼松マキといふには及ばなかつたらうと思ひます。

　其事實の最もよくわかるのは、今でも正月の門松の根もとに、それを支へる爲に丸く竝べて置く薪は、必ず松の割木ときまつて居ります。是はたゞ一つの装飾といふのでは無く、起りは新年の清い火を燃やす燃料を、斯うして用意して樂しい春を迎へるといふ意味であつたことは、ちやうど正月に家の中に一本の掛竿を渡して、魚や蔬菜の類を數多く引掛けて置くのと同じでありました。食料と燃料と、この二つのものを十分に備へなければ、正月の支度が整つたと言はれなかつたことは、宮も藁屋も一樣でありました。古い歴史の本を讀んで見ると、昔は宮中でも御年越の境に近づいて、百官有司の者がめい／＼數本づゝこの新年の薪を持參して納めることになつて居て、それを御竈木《みかまぎ》進獻と謂つて居りました。百姓の家でも近世になるまで、或はまだ此頃でも、毎年十二月十三日の正月始めといふ日に、分家や出入の者がこの薪を贈つて來る風があり、又は奉公人がこの日の午前中に、山に入つて薪を伐つて來るのを、十三日柴といふ處もあります。下人や出入の者の無いやうな小さな家でも、やはり同じ頃から主人や息子が出て行つて、自分たちの家の年木を樵つて來ました。マキ即ち本式の良い薪の入用は、祭とか祝ひごとゝか、又は其年行はうとする法事とかの爲にも有りましたが、何と言つても正月は寒い頃で、是を使ふ必要が最も多かつたのであります。田舍をあるいてごらんになると、外からもよく見える家の一方の壁際や軒下に、きれいに積み竝べた薪の棚、あれがいよ／＼冬になつたといふしるしでもあれば、正月の用意は出來たといふ合圖でもあつて、我々の思ふ以上に、村の人たちには樂しい感じです。それがどの位あれば安々と一冬が越せるかといふことは、其家の人數などに合せて、どこの家の主婦にも胸算用が出來たのであります。其薪が中途で足りなくなつて、雪の降る中を山へ取りに行かなければならぬやうになることは、貧しいといふよりも情ないことでありました。

(214)　だから又燃料の種類をよく覺えて居て、出すのに都合のよい樣に、つもりを立てゝそれを積み分けてあります。餅搗きその他の改まつた食物をこしらへる日に、思ふさまよい薪を焚かうとすれば、常にはもう少し惡い木を燃やすやうにしなければなりません。割つて使ふほどの松を一本伐つても、必ず澤山の松葉や小枝が取れ、又一本丸のまゝで爐に入れても、よく燃えるやうな太い枝も取れます。それ等には一つ／＼別の名がありました。割らずに一本づゝくべられるやうな中位の薪を、小木《こぎ》とも小端《こはし》とも謂つて居たやうで、分量の少ない御飯や毎日の煮物ならば、是だけでも結構間に合ひました。それよりもやゝ細いのは土地によつて、名も色々とかはつて居ますが、先づ中部から東ではバイタ・ベェタ、九州などではバイラ・ベェラといふのが最も普通で、バイといふのが細い棒のことかと私は思つて居ます。是でも四五本も合せて焚けば相應に煖かく、又鍋のものを温める時などは是で十分です。しかも斯ういふ幾らも有る燃料すらも、なほ儉約する主婦がありました。たとへば外で働いて居てけふはもう火がいらぬといふ日に、客でも有つて湯をわかすといふ日には、もつと早く消えてもよいヨドロといふのを焚きます。ヨドロは和歌によまれるオドロといふ語と一つで、東京の附近でボヤ又はモヤといふのと同じく、茨でも芒でも又色々の灌木でも、ごつちやに生えて居る叢を謂つたらしいのですが、後には焚付けにもなるやうな、小さな燃料を皆さう呼ぶことになつて、竹のヨドロだのヨドロ箒だのといふ言葉まで出來て居ます。さうして又そんなものゝ中からでも、少し太目な枝だけを拔き出して、之をヨドロの脛などゝ謂つて、別の使ひ路にのけて置かうとする人さへありました。

　

　　　　　火を留める

　

　このヨドロといふ雜駁な燃料の利用には、硫黄の附木の發明が此上も無く有難いことでありました。たしなみの有(215)る女たちは、家の圍爐裏の火種だけは、成るたけ消さぬやうにして居ましたが、さあ火を焚かうといふ段になつて、是にヨドロのやうなものを載せて吹き付けて居たのでは、それこそ昔話のシンドレラのやうに、灰まみれになつてしまはなければなりません。それがいやだと思へば一旦は消えるにまかせて置いて、何の神祭の日でもお朔日《ついたち》でも無いのに、又しても燈をカチ／＼と言はせなければなりません。ところが家に硫黄の附木が備へ付けられますと、たとへどの樣に細く裂いて使つても、是だけですぐに燃やし付けることが出來ます。燧で火を出せば失敗が多く、又多量のホクチ焚付けを使はなければならぬに反して、火種はどんなに小さくとも消えずにさへ居れば、いとも簡單に火を焚くことを得たのであります。燐寸は之に比べても更に便利なやうでありますが、人は最初のうちは是を素性の知れぬ火と思つて、安心して何の用にでも使ふといふわけには行かなかつたのです。それ故に埋火即ち火をいけて置くといふ技術は、いつまでも女にとつては大切なものでありました。

　家に火を絶やさずに置くといふことは、或は古い傳統といふのであつたかも知れません。即ち前にも御話をして置いたやうに、最初火を造る方法が甚だ六つかしかつた時代から、是は容易に消してしまつてはならぬものといふ考へが、深く心の中にしみ込んで殘つて居るのかとも思はれます。しかし今日では、もし必要があれば消して居るのであります。たとへば家の主人の代替りの時には、かねて火を分けてもらふ家をきめて置いてから、こちらの火を消すといふ習はしも折々はあります。その以外にも、家に凶事が有れば消し、又は何かの穢れがあつた事に氣がつくと、爐の火を消したといふ話もあります。正月には毎年古い火を消して、新しい火で春を迎へるといふ例も無いではありませんが、さう謂つた場合にもなほ一旦改めた火は大事にして、やたらに消してはしまはず、又その火種の知らぬ間に絶えることを、不吉として嫌つて居た家が多かつたのであります。ところが今夜の火をよくいけて置いて、あすの朝まで持たせるといふことは、さう手輕な技術では無く相應に長い間の練習が必要でありました。家によつて色々流儀も口傳もあつたかと思ひますが、それを比べ合せて見るといふことはまだ私には出來ません。普通に話に聽いて居ま(216)すのは、先づ爐の眞中のホドといふ部分の灰を柔らかにして、そこへ太い木の燃えさしを置き、其上に今まで火の下になつて居た温灰《ぬくばい》を載せます。温灰はクヨウクリと謂ひ、又は鴉アクとも謂ふ地方もあつて、小さな粉炭が火になつて澤山まじつて居ます。それがまだ黒くなつてしまはぬうちに、急いで爐のまはりの灰を集めて、とつぷりと覆ひ隱してしまふのであります。あんまり念入りに中の燃えさしを動かして見たり、又はやりなほしなどをして居たりすると、すぐに其灰がつめたくなつて、折角の火を消してしまひ、かの昔話の年の若い嫁のやうに、一人で大きな心配をしなければならぬことになります。多くの母親たちは馴れたもので、手ばしこく火をまだ赤い灰の中に包んで、どし／＼と上から他の灰を寄せて來て、富士山のやうに盛上げ、それをまはりからロセンともアクセンバとも又灰ならしともいふ板のやうなもので、輕く叩いてよい形にしてしまひます。ロセンは今日ではたゞ火鉢の火の爲に使ふやうな小型のものしかありませんが、もとは圍爐裏には缺くことの出來ない、火箸よりもなほ大切な道具でありました。誰も跡から來て見る人などは無いのですが、是で出來るだけきれいに爐の中を整頓して置くのが、言はゞ主婦たるものゝたしなみでありました。其爲には毎夜家の中の誰よりも、一ばん後から寢ることになります。嫁や娘によく覺えさせて置かうとすると、自分は手を下さずに、脇から見て居て色々と注意をしてやりますから、やつぱり早くは寢られません。

　この大切な火の管理の技術、夜中にいつでも入用があれば、すぐに掻き起して焚きつけることが出來て、しかもちつとも危なげが無く、みんなが安心して寢て居られるやうにする技術を、日本の多くの村々では火をとめると謂つて居ました。火どめの技術は大抵の女たちは知つて居て、あたり前の事と思つて居ましたから、事々しく之を傳授する者もありません。それが世の中の改まり、殊にマッチの進出と燃料の變化とによつて、いつの間にか忘れてしまつて居る人が多くなり、末にはこの過ぎ去つた女の心づかひが、省みられなくならうとして居るのであります。埋火がどうしてよく持つたかといふことは、物理學の問題でありませうが、その火がどういふ方法で留められて居たかを知ら(217)なければ、いつになつても其理由を考へ出すことは出來ますまい。私は多分その燃えさしの木の大きさに程合ひがあり、それに温灰を被せて行く手わざにも加減があつて、上に向いた方だけをやゝ輕くして置くなどゝいふことが、自然に覺え込んで居たこつ〔二字傍点〕といふものであつたらうと思つて居ります。とにかくに巧者な人たちのいけた火は、朝まで消えずに居るばかりか、薪がよく燒けて眞赤な大きな炭火になつて居ましたし、氣の利かない女がいけたのは、折々は黒く冷たくなつて轉がり出すことがあつて、是たゞ一つだけからでも智慮と人柄とを知ることが出來たかとも思はれます。しかし最初から、誰でも上手に斯ういふ火留めが、出來たものでは無かつたでせう。

　

　　　　　榾と埋火

　

　木曾の開田《かいだ》とか飛騨の丹生《にふ》川とかいふやうな山奧の村に行くと、灰の代りに多量の籾殻を掛けて置く家もあるといひます。是ならば空氣の流通があつて火は消えず、又めつたに燃え上る心配もありませんが、其代りには夜どほしぷす／＼と燻つて居て、家中が煙だらけになります。或は大きな薪の端を其まゝ灰の中によく押込んで、燃え上らないだけの手當てをして置くといふやうな、簡單な方法もあつたやうですが、是も煙の立つことを防ぐことが出來ず、又よつぽど大きな圍爐裏で無いと、火事を出す心配が無いとは言はれません。寒い國々では、夜どほし誰かゞ起きて代りばんこに火を焚き、或は爐端に横になつて居ないと、寒い晩は睡られないといふ處もありますが、斯ういふ土地の人たちは又、煙いといふことをさう苦にしなかつたのであります。夜着や綿蒲團といふものが段々に備はつて、寢がけに又火を焚いてよく煖まつてから後に、其寢床へ入つて寢るやうになると、爐の火を散らかしたまゝで置くことは出來ません。火を管理する人の役目としては、最初にまづ大きな薪の燃え殘りを取出して、僅か水をかけ十分消えた(218)のを見すまし、之を土間の上に出し、又は壁などの下に寄せて置きます。次には焚き落しの燠のあらい分を拾つて、年よりでもあればあんか〔三字傍点〕の中へ入れてやり、その他は大抵火消し壺の中で消すのであります。さうして最後には五六寸の成るたけ短い燃えさしを一つだけ殘して、それを前に言つたやうに、上手に熱灰の中にいけるので、其爲には宵のうちから、是をと思ふのをのけて置き、又は前々から火留めに都合のよい短い木を貯へて居ました。乃ち我々の火を管理する技術も、時世と共に段々と進歩して居たのであります。

　この火留めに使ふ木のことを、越後などでは火休め木、九州では火のトキ又はヒケギといふのが普通であり、その他にも土地によつて色々の名がありますが、古くからの日本語にはホダ（榾）といふのがあつて、今でもまだ使はれて居ります。火のトキは恐らく火の伽、ヒケキは火をいける木といふことであらうと思ひます。いけるは現在ではたゞ埋めるといふ意味に解して居る人もありますが、本來は活く・活かすと同じ言葉ですから、活きていつまでも續いて居るものでなければなりません。實際の例としては生け花・花を生ける、又は用水を溜めて置く處をイケといふなどがそれであります。榾《ほだ》といふ名は古いので起りがよく分りませんが、是もたゞ焚いてしまふタキギとは、心持がよほどちがつて居たやうであります。第一には榾にはよく燃える松の木よりも、樫とかウバメガシ、又は椿のやうな堅い目の細かな木が選ばれました。農家では晝間の火留めにもこの榾が入用です。いくら冬でも日中外に出て働くうちは、火を燃して居るには及ばず、消さずに置く必要は常に有つたので、斯ういふあまりよくは燃えず、火になれば長く消えずに居て、持ちのよい木を用ゐ始めたのであります。だから竈の下には榾を入れることは無く、爐でも煮たきには必ず柴なり小木なりを焚き添へました。太い木の伐り株などを掘つて來て焚くのを、ボタと呼んで居る土地もありますから、榾ももとは或は木の根のことかも知れません。

　以前中央の立派な家々にも、必ず爐があつて木を焚いて居た時代には、榾はその爐の四隅から、太い長いのを一本づゝ出して、眞中で交叉させて焚くのが本式であつたかと思ひます。ヨツギ榾といふ語が今でも殘つて居て、四つの(219)木といふことらしく想像せられるからであります。しかし熊野地方などに今日その語のあるのは、文字には世繼と書いて居て、正月のめでたい休みの期間、爐に焚く榾だけに限つて、此名を以て呼ぶことになつて居りますが、是は全く一年の大事な節の日だけに、せめて古來の本式を以て家の火を守り、他の日は都合によつて簡略にしてもよいとしたのが、後次第に正月だけの作法となり、色々な説明が附くことになつたのかと思はれます。熊野と山一重を境した吉野の山村では、この榾を又セチボタとも謂ひます。セチは即ち節供の節、一年中の改まつた日といふことですから、もとは正月以外にも榾を爐に焚く日があつたのであります。しかし新年は爐の火の最もうれしい季節で、殊に又珍客の訪ねて來る時です。それで見ごとな榾を暮から用意し、又は歳末の贈り物として、他家へも分配する風習が多かつたのであります。北國の方ではこの榾を年越かぶ、又は福榾といふ人があります。九州でも土地によつてツゴボタ即ち晦日榾とも、年取ヒケキとも又年トキとも謂つて居まして、是は夜寢る時の火いけには限らぬのでありますが、もと／＼正月中焚き續けるのを本意として居たので、夜になるとやはりたつぷりと灰を掛けて、消さぬやうにしたことは同じです。鹿兒島縣の村々には又ナンカントキといふ言葉もあります。それは元旦から七日正月まで、焚き續けられる火のトキといふことで、びつくりする位太い木でありました。しかしよつぽど上手に管理しないと、どんな大きな榾でも七日までは持ちません。それで家によつては三ヶ日を過ぎると、消して片脇へ寄せて置いて、七日十一日十五日といふやうな日には、改めてそれを燃やして七草の雜炊、藏開きの餅燒き、小正月の小豆粥などに、必ずこの火を用ゐることにして居るのもありました。火正月といふ言葉は他の地方でもよく耳にします。家の中の生活としては、爐の火は全く正月の祝ひ事の中心であつたのです。親子兄弟がこの福榾の燃えるのを見つめて、靜かに休んで居た昔の初春が想像せられます。

　

(220)　　　　　爐端の作法

　

　圍爐裏といふたのがまだそちこちに殘つて居るうちに、皆さんはいま少し昔の家庭生活を考へて置かないといけません。爐が火鉢となり炬燵となつた頃から、家といふものゝ形が少しづゝ改まり、殊に女の人の職分と權能とが、大分に前とはちがつて來て居るのであります。爐は正月の祝ひ事の中心であつたのみで無く、家そのものゝ組織の上にも、大きな役割をもつて居りました。それを簡單に説明する爲には、先づ最初にヰルといふ言葉に氣を付けて見る必要があるかと思ひます。外部に現はれた姿だけからいひますと、人が活きて居るのは立つかねる〔二字傍点〕かゐる〔二字傍点〕か、この三つの外はありません。さういふ中でも立つ〔二字傍点〕は色々と大きな仕事をしました。それに比べると他の二つは時も少なく、又半分は休養に過しましたが、それでも我々の精神生活は、受けるにも與へるにも、大抵はこの二つの中でして居たので、それを目的に設けられたものが、取りも直さず我々の家なのであります。家にはそれ故に定まつたゐる〔二字傍点〕場所がありました。改まつた儀式を擧げ又は貴人を歡待する場合にはデヰ（出居）の間を使ひますが、常の日は中央の一ばん大きな中の間に、家の者は集まつて居り、又普通の客人にもこゝで逢ひました。東北地方ではこゝをジャウヰ（常居）と謂ひ、九州の方へ行くとナカヰ（中居）とも、又オマヘとも、ゴンゼン（御前）などゝも謂ふのがそれであります。ヰマ（居間）といふのも元はこゝのことでしたが、後には主人主婦の私室の名になつて、みんな集まつて御茶を飲むところから、後にはこゝを茶の間といふのが普通になりました。茶の間には今日長火鉢などを置いてありますけれども、それは昔の生活の痕跡といふもので、以前はこの廣間のやゝ臺所寄りに、必ず大きな爐が切つてあつて、家中の者はそのまはりに、互ひに顔を見合つてゐたのであります。圍爐裏といふのはをかしな當て字で、爐を圍むまで(221)は先づ當つて居るとしても、三番目の裏の字がちつとも判りません。是も多分はヰルといふ動詞から出た言葉で、もとはヰルヰとでも謂つて居たのが、後に此樣な漢字を宛でたばかりに、ヰロリが正しくて他は皆誤りのやうに、いふ人が多くなつたものと私などは考へて居ます。實際に又各地の方言を比べて見ますと、ユリイ・ヰルイといふ風に謂つて居る人も少なく無いのであります。

　この所謂ヰロリの四方には、そこにゐる〔二字傍点〕べき人の座がちやんときまつて居りました。先づ最初には戸主の座で、是は土間に面して上り口から最も遠く、こゝだけは疊が一帖、横に敷かれてあつた爲に、上座とは言はずに横座といふのが、全國ほゞ一樣の名になつて居り、稀に亭主座とか親座敷とか、旦那ヰドとかいふ地方が有るだけであります。之に對してその亭主座の右左、即ち通例は長方形な爐の長い方の兩側には、蓙《ござ》が竪に敷いてあります。それでその片方を竪座といふ名もありますが、こゝが外から來る客人の座でありました。即ち家の表口に近い席で、家は大抵は南向きに建つて居るので、又之を南座とも謂ひますが、最も普通の名前は客座であり、或は寄座・ヨリツキとも、又マリト座ともヒト座敷とも謂ふ地方があります。マリトはまれぴと即ち客人の古語であつて、そんなに古い頃からもう客人の座がきまつて居たわけです。人座敷のヒトは皆さんも御存じのやうに、御客といふことであります。或はこの席を聟座とも、又アニ座敷とも男入れとも謂ふ者があります。アニといふのも此場合は家の長男のことで無く、やはり新聟が初見參の日に、舅にもてなされて其傍に近く坐り、又花嫁と晴れて顔を見合ふ席であります故に、斯ういふ名が生まれたものと思ひます。嫁入する前の若い女たちは、ちやうどこの男入れの對岸、やゝ斜めの座に坐つて居ました。もちろん其上席には主人の横座に近く、主婦の座はちやんときまつて居ました。世を讓つた女親は隱居に住み、又は別に小さな爐を切つてそこに居ますが、其場に居合せると主婦の次に坐ります。

　大體にこの側は、家のすべての女たちの坐る席となつてゐたやうですが、上座の者が代表してこゝをかゝ座・うば座、又は女房入れなどゝも申しました。土地によつてもちろん名は色々にかはつて居ます。御話の種にその中の五つ(222)か六つかを擧げて見ますと、一ばん簡單なのは一方の客座を男座といふに對して、この方を女座・ヲナゴザ又はメロジャ、或は一方を南座といふに對して之を北座といひ、横座のことを西座といふものもありますが、他のは大抵はもう少し意味があります。たとへば福井市の附近ではこの主婦の座を焚き座、富山縣の一部でスウダキワといふのも火焚き座の訛りらしく、又廣島縣の北部山間でオモヒジリといふのも、おもな日に火を焚く處といふことのやうです。しかし常の日の火焚きは客の無い客座の方からでも、又下座に居ても焚きますからはつきりしません。嬶座ですることにきまつて居たのは茶をこしらへることで、それで岡山地方ではこゝを茶煎座、山口縣から九州一帶にかけては、茶煮座、又は茶飲座といふ者が多く、それをまちがへて稀にはチャノイザ或はタネザなどゝも謂つて居ます。もつとも大切なことはこゝで食物を取分けて出すことで、從つて其名を附けたものが最も多い。丹波・但馬ではヲナゴ座を又鍋座、美濃でも山中の村はこゝを鍋じろと謂ひます。鍋には多勢の人が手を掛けては始まらぬので、是は主婦の役ときめてあり、亭主の横座との間の隅に、必ず鍋はおろすものとなつて居ました。それ故に又この席をヤゼといふ處も中國地方にはあります。ヤゼは養ふといふのと同じ言葉で、即ちたべ物を盛つて渡すことであります。山梨縣の弘い區域ではバンシ座といふ名がありました。バンシは食物の支度をすることで、バンは食事を意味する中世以來の語であります。今日はもう女中だけをオバンシといふことになつて居る樣ですが、もとは女中の無い家々では細君が御中居、又はオバンシでありました。このバンといふ語の出來るまでは、日本では毎日の食事をケと謂つて居ました。それで又女房座を、信州の南の端の遠山村ではケザ、北の方ではケドコ・ケンジ又はケドモトと謂ひ、中國の或山村や隱岐の島ではケンザ、秋田縣の奧在所でもミケンザと謂つて居ました。何れも食物を調製する場所の意であります。此頃のやうに爐で火を焚かず物を煮ぬことになると、以前こゝに附いて居た名が散らばつてしまひます。たとへばタナモト・棚前・勝手などゝいふ言葉は、弘く臺所の一區劃をいふことになり、腰元といふのは侍女の名だけになりましたが、最初は是もこのかゝ座の名であつたのです。主人の片脇に引添ひ、戰國殺伐の時代などには、始終その左に(223)置いた腰の物、即ち刀を、人に取られぬやうに番をして居たのは妻でありました。

　

　　　　　下座と木尻

　

　それから今一つは亭主の横座に向き合つた下の座で、こゝだけは板敷きで蓙も疊も有りません。大きな家ならば下男下女、出入りの者などがこゝへ來て坐り、それで末座ともシモイリともゲスヰとも、九州の南では又デクヮン座とも謂ひました。デクヮンは字で書けば代官ですが、あの地方では農僕のことをさう謂つたのであります。しかし其樣な大きな家は少なく、小さな家族でも必ず圍爐裏はありましたから、普通はそこを使はずにあけて置いて、アケモトとも取殘しともいふ人がありました。さうしてお産をした女房をこゝに休ませる風習もあつて、こゝを子持ジロとも謂つて居ます。土地によつては嫁座敷といふ例もありますが、是は嫁さまを下人と同格に見たのでは無く、若い女には忌の日が多いから、それを成るだけ神棚から遠ざけたものと思ひます。神棚と佛壇とは、多くの家では主人の坐つて居る横座のすぐ後に在り、この間を女には決して通らせぬ家もありました。若い女房が下座に居ると、自然に幼な兒もそこに寄つて來ます。それで秋田の男鹿半島などでは、此座席をアコジャと呼び、伊豆の新島でもこゝをコヰド、即ち兒の居る處と謂つて居ます。猫も氣樂でいゝので兒の居ない時は爰へ來て寢たと見えまして、九州の島々にはこゝを猫の座敷、又猫の間、或はもつとしやれて猫の横座などゝいふ人があります。

　下座の今一つの特徴は、長い榾の木は此側面から爐にくべます。煙はどうしてもまだ燃えない部分に多いからであります。それでこの座のことをトキグチ・焚き物尻、又は火の尻とも榾尻ともいふのです。木のしり座といふなども意味はよく判つて居るのに、今はまちがへてキンスリ座といふやうな、をかしな名を附けて居る人が東北にはありま(224)す。冬の頃旅をして見ますと、田舍の茶店なんかにはこの一方の爐ぶちだけを、取りはづしの出來る腰掛にしてあつて、旅人が濡れた草鞋のまゝで中に入り、煖まるやうにしたものがあり、さうして火にあたることをドタバヒリと謂ひます。しかし普通の家ではそんな必要が少ないから、多くは當座の燃料を持つて來てそこに置くのであります。それには木尻箱といふ一つの箱があつて、中にはボヤ・ヨドロ・松の落葉といふやうな色々の焚付けまでが入れてあります。或は板の間を揚蓋にして、その下へ焚き物を置く家もあつて、それも木尻と呼んで居た爲に、後には家から離れた薪部屋までをキジリといふ土地も出來て居ますが、それは皆家人のゐる座としては、此一方の爐端の必要が無くなつた結果、即ち一軒の家の家内が少なくなつたからであります。燃料の節約が始まつて、成るたけ爐に火を焚かぬやうになると、こゝにいはゆる焜爐を置き、又は小型の竈を取附けるやうになつたのは自然な變化ですが、其話はもう一度、後に詳しくするつもりです。

　この爐端の幾つかの座席の中で、一番嚴重に近頃までも守られて居たのは、横座とかゝ座、即ち主人夫婦の座でありました。社交が進んで意外の珍客が來るやうになると、亭主がもてなし振りに女房の座まで下つて、横座を來た人に進めるやうな禮儀も出來て來ましたが、なほそれを辭退する客の方がずつと多いのです。以前はこの席を讓るべき相手といふのは、本家の主人か菩提寺の和尚か位なもので、隱居の親が來ても大抵は竝んで坐りました。それが最近は主客ともに、構はぬ者が段々と多くなつて、集會などの晩はどこにでも坐りますが、それでもまだ横座に坐れば米を買はねばならぬといふ言ひ傳へがあつて、米を買へ／＼と囃す者もあれば、猫馬鹿坊主に何とかといふ諺もあつて、この一匹二人だけが横座に上つてもよいのだと謂つて居ます。前年｜膽振《いぶり》のアイヌを訪ねた時にも、私はこの經驗をしました。アイヌは此作法を昔から持つて居たのか、又は我々から學んだのかは知りませんが、主人は十分な尊敬を表しつゝも、なほ自分の右手に最も近い席へ訪問者を請ずるのを最上待遇として、その横座からは動きませんでした。日本に於てももとは貴い旅人には一つの假屋を建てゝ、新たに爐を設けて其横座を提供したのであります。

(225)　其次に大切だつたのは主婦の座です。是は小兒がまつはり附きますから、幾分か秩序が亂れやすかつたかも知れませんが、それでも成長した女性が此座を侵すことを誡めたのは決して新しい嫁だけに限らなかつたのであります。以前はそれをすると嚴しく叱つたといひますが、今ではもうさういふ話を聽きません。たゞ内心好い心持のしないことは、古い習はしだから止むを得ません。杓子を渡すと謂つて家と世帶を引繼いでしまつた姑なども、たま／＼同じ火に當る際には、やはり主婦の次に坐らうとしました。それを無理にでも上座の方へ、すゝめて坐らせるやうにすることが、今でもやさしい女の心掛となつて居ます。一つには家政の相續といふことがさうはつきりと際立たぬものになつたのと、今一つには我々の禮儀が、主として活きて居る人と人との間だけに、限られるやうに考へられて來たからであります。以前は家の中のきまりが明らかについて、總員が各々その處に安んじて居る有樣を、先祖の神靈が爐の上の高い所から、悦んで見て居られると思ふ者が多かつたので、物固い老人ならば、いくら嬉しくとも、決して主人主婦より上には坐らうとしなかつたのであります。それ故に常の日は自由にどこに居てもよいやうな家庭でも、年取榾を焚くやうな日、即ち正月の節の日とか、改まつた祝ひ事、殊に嫁の縁者の初對面の日などは、人情を押へてゞもこの座席をきちんとしました。日頃の心安さに馴れてしまつて、年取の晩などに親をさしおいて、自分で食べ物を分けようとしてはならぬぞと、嫁に行く娘たちが特に誡められるのもその爲であります。以前は一定して動かなかつたものが今はこの通り複雜になつて居るのであります。よく氣をつけて覺えなければなりません。

　

　　　　　火を焚く樂しみ

　

　外國でも冬のある國ならば、必ず火焚き場は備はつて居る筈ですが、それが日本のいはゆる圍爐裏と、同じやうに(226)出來て居るのはどの位あるだらうか、もしちがつて居るならばどういふ風に違ふか、私は折があつたら詳しく知つて置きたいと思ひます。映畫などで見る西洋の家には、厚い壁に爐をはめ込んで、みんなが一方を向いて腰掛けて居るやうなのが多く、又眞中に置き爐があつても、それが高くて向ふの人の顔の見えぬのがあります。日本の平たい爐端は、煙が家一ぱいになるのは困りますが、それでも竝んで居て御互ひの顔が、殘らず見られるのは都合のよいことで、其顔が赤々と焚火に映るのですから、是でこそ一家團欒といふ言葉が、割引き無しに通用します。露地で火を燃やして居た大昔の夜を考へると、是が一ばんにその古い形式に近いやうで、或は家の中に牀《ゆか》を張つて住む樣になつてから後も、なほ何とかして最初の集まり方を、續けたいものと苦心した結果が、斯ういふ圍爐裏の形になつたのかとも思はれます。年中裸で暮して居るやうな熱帶地の土人でも、夜分起きて居るにはやはり火を焚きました。さうして火を焚けば必ず昂奮して、いつまでも話をして睡らないといふことであります。人が近くに顔を見合はしつゝ、續けて物を言ふやうになつた始まりは焚火の傍かも知れません。話と爐端との因縁は深いものがあつたやうです。

　その爐端が常の日の働く晝中には、がらんとして居るのであります。男は田や畠や山野海川に出てしまひ、子供は路の辻で遊び、女たちも背戸や軒先でそれ／”＼の仕事をして居ます。それが黄昏近くになると、方々から戻つてこの一つの火のまはりに寄つて來て、言葉を掛け合ふのであります。けふは休みといふ日の朝の一｜時《とき》、又は節供の膳の後先などにも、みんな揃つて居るなと前後左右を見渡して、是が家だと感じない者は無かつたらうと思ひます。冬は家無しには最も悲しい時であります。火を焚く家さへ持つて居れば、誰でも身と心とを安めることが出來ました。親や年よりが兒を愛するといふことにも、やはり一つの刻限のやうなものが有つたのです。夕方外の風が段々つめたくなる頃から、家の中には赤い火が燃え始めます。母が庭に下りてまだ忙しく立ちまはつて居る間、胡坐《あぐら》の膝の上に兒を載せて、小さな手を温めてやるのにも歌がありました。それを誰から學ぶかといふと、自分が小さなうちに何十遍と無く、聽かせてもらつたのが土臺になつて居るのですから、よつぽど古いものといふことが出來ます。信州あたりに(227)今でも行はれて居るのは子供に手を出させて指と指との間を、押へて行きながら斯う唱へるのです。

　　　火い火いたもれ

　　　火は無い／＼と

　　　あの山越えて

　　　この田へおりて

　　　このうち聞けば

　　　この窪ツたみに少しござる

又は「こゝへ來りやちよつくりござる」などゝ謂つて、こそぐつて笑はせるのであります。この「火い火いたもれ」は、昔家々で火が得にくかつた時代に、近所へ火種を分けてもらひに行く言葉ですが、山を越えたり田に降りたりしても、火が無い／＼といふなどは昔話であります。それに幼い者が興味を持つので、いつも口遊びのやうにして聽かせて居ました。東京などは爐が無くなつてから、もう此歌を思ひ出す時が無く、今では青年や娘を嘲つて、まだ子供ぢやないかといふ時にこのヒイヒイタモレといふ言葉を、意味がわからずに用ゐる人があるだけです。それから小兒に五本の指をひろげさせて、その一つ／＼を算へて行く唱へごとは、全國にわたつて數へ切れぬほど澤山の種顆があります。其中でたつた一つだけ、宮城縣の海岸地方に行はれて居るものを例にとると、

　　　へびがしらにアリヤーリヤー

　　　せい高ぼうじに醫者ぼうじ

　　　酒わかしのかん太郎

　この文句は説明をしないと、他の縣の人にはわかりにくいでせう。蛇頭といふのは拇指のことで、形が少しばかり蛇の頭と似て居ます。アリヤーリヤーといふのは人さし指、人を指さす時にはどこの子供でも、大抵こんな聲を出す(228)ので、又この指をアラアラエンビといふ處もあります。せい高法師の中指であることはよくわかります。私なども元は高々指と謂つて居ました。醫者ぼうじは即ち藥指、この指は外には使ふことが尠なく、もとはまじなひのやうなことによく用ゐたので、くすり指といふ名もあつたのを、更に轉じて醫者殿とも謂ふやうになりました。最後に小指もあまりきたないことには使はぬので、田舍では此指をさし込んで酒の燗を試みました。それ故に小指をさう呼んで居たのですが、そのかん太郎は同時に又、かはいゝ子供といふことでもあつたので、彼等はそれを聽いて機嫌よく笑つたのであります。斯ういふ種類の火の端の童言葉は、集めて見ればまだ幾つかありますが、その多くのものは幼な兒をじつとさせ、又は小さな手の裏表を火にかざして、温まつて居させるやうなものばかりであります。

　子供は斯うして居るうちに段々と言葉を覺え、又その言葉の蔭に隱れて居る感覺をさとつて行きました。近畿地方の可なり廣い區域で、松毬のことをチチリ・チッチロ、又はチンチラコ・チンチロリンなどゝ、よく似た言葉を以て呼んで居ますのは、始めは子供に對して又は子供と共に、こしらへた名であらうと私は思つて居ます。松かさは存外火力の強いもので、是を火に入れて置くと外の木の葉などの消えた後に、暫らく燻つて居てだしぬけにぱつと燃えるので、斯ういふ名が生まれたやうです。こんなはかない事でも子供には慰みになるので、淋しい日の暮などには之をわざ／＼爐の火に加へて、見せて指ざして共々にはやして居た人があつたのかと思ひます。さうで無ければこの樣な變つた音の言葉が、生まれた理由がちよつと考へられません。石川縣の一部にもケッケラマツ又はケンケラマツ、見島といふ山口縣の島ではコッケラ、信州の松本邊ではカッコ、是等も恐らくチチリと同じやうな起りと思はれますが、其以外の名としては松ふぐり、又は是から訛つて來た松ボックリのやうな、無骨なものばかりしか無いのであります。さうして兒童用ともいふべき燃料の名前は、チッチロ以外にもまだ有るやうに思ひます。たとへば三重縣のずつと南の方では、葉の附いて居る薪をバァバ木と謂ひ、火に焚くとバァバと燃えるからだと説明して居ます。栗や柞櫪《はゝそくぬぎ》などの燃え易い枯葉を、バンバといふ處も中國地方にはあります。或は焚付けにするやうな細い木の枝に、芒や笹のまじ(229)つたものを、ボヤともモヤとも謂ふなども、やはり燃え上る樣子を形容した言葉だつたかも知れません。此言葉の行はれる區域は相應に廣く、それから轉じてはさういふ植物の生えて居る場所をモヤといひ、鷹の羽の亂れて役に立たなくなつたのをモヤ摺れと謂つたり、又はたゞ葉枝の多い木をモヤと謂つて、それを伐つて來て水の中に立てゝ、鰻や海老を捕る装置までをモヤと謂つて居る地方さへありますが、數多い例を集め比べて見ると、枯草でも杉の葉でも、何でもたゞ火に入れて早く燃えるものがモヤ又はボヤなのです。をかしいことには東京の町だけでは、火事のごく小さいのがボヤでありました。是などは氣の利いた江戸人の物の言ひ方で、小さくてすんだといふ喜びの形容に、斯んな言葉を持つて來て笑はせたのが始めだらうと思ひます。

　

　　　　　火正月

　

　しかし子供には限らず、昔の人は單純で子供らしい名をつけ、又は子供のつけた名を成人までが改めずに使つて居りました。たとへば一年の最も改まつた節日に、何か活?な音を立てるものを火に入れて燃やすといふのは儀式で、子供の無い家でも皆やつて居ましたが、是にもやはり同じ樣な名があります。天龍川の流域でパチ／＼といふのは、檜の木の青葉のことで、節分と初午と二つの日の夕方には、必ず其一枝を爐に投じてさういふ音をさせました。奈良ではあの公園に澤山ある馬醉木《あしび》といふ木を、パチコと謂つて居るさうですが、多分是もまた節分の豆を炒る火に燒いて、パチ／＼といふ音をさせるのでせう。私などの生まれた土地ではこの馬醉木をベリベリ柴、廣島縣では又バリバリ柴と謂ひます。共に立春の前の晩には、必ず火にくべてそんな音を立てるものとなつて居ます。東の方に來るとこの豆撒きの晩に、豆殻を焚く家が多いやうです。是も實に花々しい吾をして燃えますが、是には特別の名は聽いて居(230)ません。小兒にとつても興味の多い音であり所作でありますけれども、その目的はもつとまじめなものでした。鬼を驚かすとか魔ものを追ひ拂ふとかいつたのは確かで無いにしても、ともかくも何か常の日には焚かない燃料を、使ふといふことに意味があつたのであります。去年の茄子の木を貯へて置いて、六月一日に燃やして其煙にかゝるといふ風習は東京近くにもあります。トベラといふ木の生葉《なまは》を節分の晩に焚くことは、この木の生えて居る地方は何處でもします。臭い香がするので鬼よりも先づ子供がよく記憶して居ります。

　全體に人が爐のまはりに集まつて暮す時、即ち正月のあと先には古くからの行事が多く、それが又小兒の經驗に深く刻まれて殘るものばかりでした。それを竝べて見るのにはこの本はすこし小さ過ぎます。火と直接に關係のあるものだけを拾つても、先づ大みそかの年越の晩には、途方も無く大きな火を爐に焚くのが、もとは日本の南北にかけての普通の習慣で、屋根裏が見えるほど焚くなどゝ謂つて居ました。人が多勢居るので火事にはなりませんが、それでも火棚の煤などに燃えついて、火の子になることが折々はあります。さうすると鼻をこすれ／＼と、一同が揃つて鼻を擦ると消えたなどゝいふことが、古い書物に書いてあります。

　正月十四日の晩は花正月とも謂つて、木を則つて多くの飾り物を作る日でありました。子供も同じ木で祝ひ棒をこしらへてもらひ、次の日は一日之を以て色々のものを打ち、唱へごとをして遊びまはります。以前は其木の一方を細く總《ふさ》に削つて飾りにしたのが、後には剥いた木の皮を細くくる／＼と卷き、又は型紙を剪つて貼つて、爐の火で其上を燻して模樣を附けました。それを父や兄たちが此日だけは手傳つてくれるのであります。それよりももつと大人たちが眞面目になつてするのは、月占といふ爐の火の行事でした。是も同じ小正月の前の晩、もう祝榾が赤々と燃え上つてから、横座の前の灰をきれいに掻きならして、そこに栗とか胡桃とか小豆とかを月の數だけ竝べて、灰になつた分は其月は晴がつゞき、黒いまゝ殘るやうなのは其月雨が多く、ぷうと吹くのは風が有るといふやうにきめるので、それに應じて一年の播き物の計畫を立てることにしました。大人たちが熱心になるので、傍で見て居る兒童の印象も、(231)おのづから常と異ならざるを得ません。その上に燒くのは稀に木の小さな燃えさしもありましたが、大抵は食べる物ばかりなので、一層彼等の好奇心をひきました。或は縁結びなどゝ謂つて、餅を竝べて燒いて一人々々の身の上を判斷するのも、その眞似のやうなものでありました。この餅は誰、その餅は誰さんときめて置いて、一つが膨れて次の餅と繋がるのを、お嫁に行くなどゝ謂つて高笑ひをしました。それから段々と子供らしい遊び、火まはしとか名ごよみとか、松葉の相撲とか十六むさしとかいふものが、餘興として續きますが、それが何れも皆爐の火と關係の有るものでした。成人が兒童の謎立てに參與するのも、又若い者までが一つになつて、昔聽いて居た昔話を思ひ出すのもこの時刻でした。殊に昔話は圍爐裏のまはりで、母も姉も共々に聽いて居た頃のものが上品でありました。それが片隅で二人か三人、くす／＼と笑つて聽くやうになつて、急にきたない話が多くなつたのであります。

　小兒を爐端の生活に親しませることは、別に家の人々の計畫では無かつたのですが、斯ういふ事があつた爲に、おのづからいつ迄もなつかしいものになりました。炬燵の世になると彼等が又炬燵が好きになるのを、子供の癖にと謂つて叱つて居ましたけれども、是もやつぱり圍爐裏の樂しみを、まだ覺えて居たからでありました。こゝでも年よりは身が温まつて、自然ににこ／＼と色々な話をしてくれますが、もう以前のやうな明るい大きな焚火は無く、若い元氣な顔をした人たちは、もうその仲間には入つて來ません。家が一つになつて活きて行くといふ姿は、爐が無くなつてしまふと、もう外からは見られなくなりました。

　

　　　　　爐の鈎のいろ／＼

　

　本にも日記にも書いて置かぬ樣なさま／”＼の思ひ出が、舊い家の爐のめぐりには充ち溢れて居ました。それを竝べ(232)て行くことはとても出來ませんが、小さなことだと思つて居るものにも、存外に大事な問題が隱れて居ります。母が追々に年を取つて忘れつぽくなりますと、よく圍爐裏の鈎に白い紙、又は布切れなどが結び付けられます。斯うして置けば無くし物が出て來るといひましたが、それは單なる御祈?では無くて、この鈎が毎朝毎晩、家の妻が必ず目を遣るべき所だつたから、それで自然に心づくことが多いやうにといふ氣持でありました。鈎に括り付けてあつたものには注意してよいものが色々有ります。一つの例をいふと關東の田舍では、葬式に撒き錢と稱して道々錢を撒く風習があり、年寄は自分の爲に早くから穴明き錢を溜めて居ました。子供が出て行つてそれを拾ふと、今ではうちへ持つて還られないと謂つて買喰ひなどに使ひますが、もとは使ふみちが無いのでやはり親に渡しました。家ではさういふ餞を他のものと一しよにすることを嫌つて、紐に通して爐の鈎に下げて置いたのであります。旅僧とか順禮とかの門に來て立つ者に、取つて與へるのが目的でありましたが、近頃は貰ひ人が來なくなつたので、いつ迄もそれが鈎の中ほどに、ぶら下つて居る家が多いのであります。

　爐の鈎には秋葉｜愛宕《あたご》の火伏せの御礼などを結はへ付けた家も此頃は有りますが、是はすつかり新しい風習で、鈎には家の神の靈が始めから、宿つてござるものと思つて居たのですから、そんな事をする必要は無かつたのであります。それ故に又常日頃から、家ではこの鈎を大事にして居りました。今でも固い人は鈎どの・鈎附け樣、又はオカン樣などゝ敬稱を以て呼び、是に手を掛ける者はきまつて居て、それも出來るだけ靜かにさはります。子供がもしうつかりゆさぶつたりすると、大きくなつて海の旅をする時に、船が搖れると謂つて誡めました。さうして其｜有形《ありかたち》の普通とちがふのを、相應に氣にかけても居ました。老人に尋ねたら色々の話があらうと思ひますが、誰でも目につくのは木で一尺ほどの魚を彫刻したものを、鈎の中ほどに綱で取付けて居ることで、魚は水に屬するから火の用心になるのだといふ説明もあり、又わざ／＼水といふ文字を彫つた板を、魚の代りに用ゐる家さへありますが、私はまださうは信じません。寧ろ繪馬のやうに本ものゝ魚の代りに、爐の神の御目を悦ばせ申す趣意かとも考へられます。ともかくも此(233)魚の頭の方向は一定して居ました。長崎方面では出鈎入魚《でかぎいりうを》といふ諺さへあつて、爐の鈎の端は家の戸の口の方へ、魚は反對に奧の方へ、向かねばならぬものとして居ります。中部地方にも北向鮒、又は上《のぼり》鮒とも入鯛ともいふ名があつて、何れも外から入つて來る形を豫期して居ました。魚は平たいので鯛とも鮒とも見えただけで、きまつては居らぬやうであります。

　この木鯛木鮒は、爐の神の昔の信仰を考へて見るのに、一つのよい手掛りにはなりますが、是とても改良であつて、國の最初からのきまりとは申されません。つまりは毎日の生活に關係のある爐の鈎ですから、次々と改良が進んだのであります。今日はジザイ（自在）といふのが普通の名のやうにはなつて居ますけれども、實際この鈎が自在になる迄には、相當に永い月日がかゝりました。最も進んだ方式は太い竹の節を拔いて、二筋の鐡の棒と鏈《くさり》を中に通し、一方を突き揚げると、他の一方は重みで下るやうにしたもので、是だとよつぽど低くしても鈎のはなは焦げず、從つて少ない燃料で物が煮えましたが、鍛冶屋が近くに來て住むやうにならぬと、斯んな道具は注文することが出來ません。それより前のものは少々は鐡を使つてあつても、やはり上げ下げに手數が掛り、又主たる材料は木と綱とで、うつかりすると焦げますから、さう／＼は引降すわけにも行かなかつたのであります。始めて自在などゝいふ名を教へたのは、無論賣込みの商人か職人でしたらうが、是をなるほど自在だと思つて名にしたのは、今比べて見るとまだ完全とは言へぬものゝ時からで、つまりは大きな改良以前の、小さな滿足にも幾つかの段階があつて、互ひに比べて見ればこちらの方が便利だといふことは判るのです。しかし爐の鈎などは一旦備へ付けると、輕々しく取替へることをしないので、今に全國に亙つて色々の樣式のものが、竝び行はれて居たのであります。ところが最近に愈々爐の鈎が全體に不用になつて來て、その古物が方々より出て來ました。之を骨董品として集めて居る人もありますから、その次の改良の途を、尋ねて行くことも可能なのであります。木鯛や北向鮒を附けたのも其一つですが、以前は今少し簡單な木の板を附けて、綱を捻ぢらせて二つの穴に通し、鈎の高さを程よい所に留めて置く考案をしました。是などもその(234)もう一つ前の方法に比べると、著しい進歩には相違なかつたので、從つて新しい名前が必要であつたのです。長野縣の西北隅から上越後にかけては、之をチュウジ又はチョウジと謂つて居りました。文字に書けば多分中使で、中世の莊園時代に、領主と地役人との間を往來する使の役、後には村々の小使のやうなものもさう呼んで居たところから、斯ういふ名が出來たものと見えて、又小アルキといふ別名もあります。即ち爐の眞中につるした鍋や藥鑵を引張つて、どこでも都合のよい所まで持つて行つて止まつて居られる點が、又一つの新しい自在でありました。或はこの中使をコザルといふ土地もあつて、その區域はコザルの方が廣いやうですが、今見る形は雙方さしてちがつて居ません。猿こそは最も自在に木のそらを上り下りしますから、それにたとへたとしてもをかしい名ですが、なほ其始めは藁の綱の結びつたまを二つ合せたのが、形も小猿に似て居たので、さう呼ばれたのだらうと私は思つて居ます。秋の田圃の稻の葉の上に、眞丸な露の玉が登つて行くのを、小猿といふなども是から採用した言葉で、起りは相應に古いらしいのですが、今日はもう其意味を知つて居る人も少なく、魚の形をした鈎の止め木までを、コザリ・コザラなどといふ地方があるのであります。多分は鯛鮒を彫刻するよりも前から、既に小猿といふ名は知られて居た爲かと思ひます。

　

　　　　　鈎から鐡輪へ

　

　小猿だの北向鮒だのといふ、鐡を用ゐない自在鈎も改良だとすれば、それより前はどんな鈎であつたらうかといふと、それも幸ひにまだ山奧の村には殘つて居ります。是は細長くて丈夫な板に、ぎざ／＼を幾つも切込んだものを、鈎の木の中程に縛り付けて置いて、下から鈎のさきの綱を輪にしたのを、持つて行つて引掛けるので、高さはその切(235)込みの數だけは加減することが出來ます。しかし斯ういふぎざ／＼も鋸が無くては作れませんから、もとはたゞ長い木のところ／”＼に枝の股を殘し、そこへ下の輪を釣り上げたのも有つたでせうし、今一つ以前には鈎に結びつけた綱も無くて、直接に突端の枝の鈎に鍋の鉉《つる》を引掛けるだけの、全く自在で無い鈎を用ゐて居た時もあつたと思ひます。さうしてそんな綱を附けない鈎の木も、まだ山小屋などには使はれて居るのであります。以前はよく伸びた木が多く、人は又丹念にそれを捜しまはつて、自分の家の爐にちやうど合ふやうな、長い丈夫な枝を選んで來ることが出來たのです。これはちやうど鍬の柄などにも有つたことで、現在は鍬の臺は別の木で、それへ柄をさし込んで外を楔で留めて居ますが、以前はヒタエ（直柄）と謂つて、臺と柄が一つの木で作られました。山に入つて枝の太さ、斜めに出た角度の自分の好みに合つたのを見付けると、幹と共に伐つて來て段々に削り取り、それに鍬先の鐡を嵌め込むのであります。どんなに振りまはしても柄の拔ける心配はありません。爐の鈎の木などはそれに比べればずつと見付けやすく、たゞ脇へ出た小枝が頑丈で、股から裂けないやうなのを伐つて來ればよかつたのです。さうしてもし枝が順々に幾つも出て居たら、もうそれだけでも小さな自在だつたのであります。榎の木などがよく是に使はれたといふのは、一つはこの小枝の多かつた爲かと思ひますが、いつの間にか是がめでたい木になりました。エの木・ヨの木は好木といふことださうで、その上に薪にしてもよく燃えました。たゞ必要な一つの條件としては、鈎にする枝は出來るだけまつすぐで、又十分に長くなければなりません。どんな小さい家でも眞中を渡した中引といふ梁《はり》から、爐まで屆くといふ鈎の木は相應な長さです。さうして其中間には、どこにも之を縛り付けるものは無かつたのであります。尤も下の鈎の端は可なり爐の表面から遠く、最初薪の方だけで火の加減をして居たのでせうが、焚くものを儉約しなければならぬことになると、其端へ又丈夫な綱を結はへ付けて、上げたり下げたりをし出したのであります。しかも他の一方の木のさきを、梁へ縛り付けるといふことも高い梯子がいるので、煤掃のついでといふわけには行かなかつたでせう。大抵は建築の際に、特別念入りに藤蔓で結んでもらつて置いて、成るべく取替へない算段をしたことゝ思はれま(236)す。自在鈎の改良が是ほど頻繁に行はれたにも拘らず、なほ舊家には古風な形を守りつゞけて居たものゝ有つたのは、一つにはこの根本の構造の爲でありました。ところが大工の技術は段々に進んで、新しい家ではそんな面倒なことをせずとも何處からか鈎が吊れるやうになりました。爐のある居間には天井は張りませんが、それでも火の上だけには大よそ爐と同じほどの、火棚又はヒアマといふ棚を渡して、煤の掃除に便にしました。雪國ではこゝで粟稗の穗を乾かし、濡れた脛巾《はゞき》や甲掛のやうなものまでも揚げて置きます。立つて大人の手の屆くほどだから高いものでありません。さうして鈎の竿は其棚の眞中を通して、上で色々の方法で留めるやうになりました。詳しい構造はまだ私には呑込めませんが、岩手縣の南で火桁と謂ひ、宮城縣の北部で蝦夷鈎などゝいふのが、其一種かと思はれます。飛騨の丹生川村でタンパ木といふのは、別の木を梁に結びつけてそれから鈎を下げました。是はまだ家中で最も大切な木と認められ、建前の日に兩親の揃つた人に結はへてもらふと謂つて居ります。或は又この横木の、かゝ座の上になる方は長く切り殘してそこを福の神の居る處とし、その反對の客座の上になる方は、貧乏神が坐るからと謂つて出來るだけ短くして居るさうであります。ともかくも家が新しくなるほどづゝ、うす暗い屋根裏から眞直ぐに下つて居た鈎の木の神々しさは、望むことが出來なくなりました。自在鈎は自在になつた代りに、たつた四五尺の短いものゝ名になりました。火じろの古來の規模は先づ高さから制限を受けたのであります。原因は燃料を少なくてすますこと、殊に煙のむだを厭うて、家を大きな竈の中見たやうに、燻してしまふことを避けた爲であります。

　又一つには女たちの火を焚くことが上手になつた結果とも見られます。油を燈火にして別に片脇に置くやうになれば、火はさう高々と燃え上がらせなくともよいことになつたのです。物が煮えればよい煖まればよいと考へ出してから、段々と炭火のねうちが判つて來ました。外から來る客人に成るたけ煙い思ひをさせず、十能で榾《ほだ》の下の燠を掻き出して客座の前にひろげ、ゆつくりと煙草を吸はせるやうなのを旦那火などゝ名づけて、お取持の第一としました。五�ｺといふものゝ用ゐられ始めたのも、最初は爐の片隅で早速に少しのお湯をわかす爲などであつたらうと思ひます(237)が、後々は全く今までの自在鈎を罷めてしまつて、眞中に大きなのを一つ、据ゑて置くやうになりました。五�ｺといふのは商品の效能を宜傳した、商人の作つた名でありませう。中世以來の正しい日本語はカナワ、文字では鐵輪と書いて居ります。近年になつて始めて知つたことは、この鐵輪を爐に使ふ地方がもう全國の半ばにもなつて居ることです。東にも飛び／＼に是が見られますが、中部地方では飛騨の白川、世間で非常に古風な土地のやうに思つて居る、あの白川の谷でも鐵輪が使はれて居り、それからずつと西の方へ大よそ續いて居るのであります。是から向ふは九州の北半分まで、又四國の山村でも、今ではどちらかといふと自在鈎のある爐よりも、鐵輪を使ふ爐の方が遙かに多くなつて居るのであります。

　そこで改めて日本人の火の利用、冬のうち如何なる方式で身を温めて居るかといふ問題を、地圖に由つて答へることになると、近頃はよほど又色分けがちがつて來て居るのであります。瓦斯や電氣や蒸氣のパイプ、又は石炭石油を西洋爐に焚くことは人がよく知つて居ますが、地圖の上に書き込むとほんの小さな點々であります。火鉢しか使はぬものが全面積の約半分、炬燵も炭火しか用ゐませんから此仲間に加へるとしましても、まだ恐らく日本の三分の二にはなりますまい。殘りの三分の一以上は、今でもまだ開いた圍爐裏で、どつさりか少しか、必ず木を燃やして居るのであります。その眞中に鐵輪又はカナヲ・カナゴといふ鐵器を置いて、自在鈎を罷めてしまつたものが現在はもうよほど多く、又年々多くなつて行くのではないかと思ひます。その殘りの爐の鈎といふものが今言つたやうに、色々の種類の自在とまだ自在で無いものとに分れてをり、又は上と下との二つの鈎を綱で繋いで、上げ下げ取りはづしの出來るものと、たゞ一本の長い木の端の鈎に、鍋鉉を引掛けて居るものとがあるのであります。是を竝べて見ると我國の火焚き場の、段々變化して來た順序はざつとわかります。さうして東京都の中のやうに、僅か一日であるけるほどの區域内でも、このすべての段階のすべての標本を、集めて見ることも今日はまだ出來るのであります。

　

(238)　　　　　御竈とへつひ

　

　圍爐裏が段々とすたれて來て、その代りに竈が現はれて來たやうに思ふのは誤りであります。古い記録の中に出て居るのは、へつひと竈の方がずつと前からです。爐はその文字からでもわかる樣に、元來が支那の言葉の採用でありました。それで名前と共に物も外國から眞似たものと、想像する人が無いとは言はれませんが、是は大昔の世から無くてはすまぬもので、たゞ知らない間に名だけが新しくなつたのであります。ロといふ言葉の始まる前には、火ドコといふのがその古い名では無かつたかと思ひます。日本海の沿岸地方では、西は山陰から東は越後にかけて、今では飛び／＼にこの名が行はれて居ります。或は火ジロといふのも一つの名だつたかと思はれて、東京の近くでは山梨長野の二縣の一部から、是も飛び／＼にずつと南の方の島々まで、爐を火じろと謂つて居る處があります。シロは苗代や網代などのシロも同じに、火を焚くべきところといふ意味がよくわかるのですが、後々支那の語を知つた人たちが、ロの音に耳をとめてそれに注意をし始めたことは、ちやうど又人が坐るからヰルヰなどゝ謂つたのを、是非とも圍儘爐裏と書かねばならぬやうに、思つてしまつたのと同じでありませう。ともかくも火を焚くといふことだけは一つでも、爐と竈とは二つ別のもので、どちらも無くてはすまなかつたのであります。

　目的は今でもはつきりと區別することが出來るのです。即ち爐の方はたゞ火を焚いてあたるところ、從つて冬の寒い時だけにしかいらぬわけですが、その以外にも儀式として火を焚くべき日があり、殊に夜分に集まつて起きて居なければならぬ時には、あかりの爲にも燃す必要がありました。沖繩縣の島々などは、一年中火にあたるほどの寒さは知らぬのですが、それでも大きな家には必ず正式の火じろが有つて、それを御火鉢とも謂つて居ります。爰で火を焚(239)く必要の最も多いのは、御産の時などでありました。兒が生まれるとすぐに火を燃やして、汗がたら／＼と流れるまで大きな火を焚きつゞけます。その爲には親類の人々が薪を持ち寄つて來て、代りばんこに火の番をすることになつて居ります。之に對して他の一方の竈又はへつひの方は、言ふまでも無く食物を煮炊きする所で、何も煮るものが無いのにこゝで火を焚くことは、よくない事のやうに言ふ人さへあります。もちろんその食物といふのは正式の、神にも供へ申し衆人と共に食べるものゝことで、一人が臨時に勝手に食べるものなら、爐の火でも又は外のたき火でも燒いて居たでせうが、少なくとも改まつた食事だけは、竈で調理しなければ價値が無いやうに元は考へられ、一つ竈の物を食べるといふことは、一家一門の者のことでありました。それ故に又この火を清く保つといふことに、一通りならぬ苦心をしました。黄泉戸喫《よもつへぐひ》といふ神代の物語は、皆さんはもう聽いて知つて居られるでせう。この竈の火が穢れると、その食物を食べた人とたゞの人とは、つき合ふことが出來なかつたのであります。家に喪のある人だけは是非に及びませんが、他の人々は嚴重に是と竈を別にし、又穢れて來た人が清い竈に近よることを警戒しました。今でも田舍をあるいて見ますと、たとへば九州の南の方とか、東海道の山に入込んだ村々などでは、かま屋と稱して竈のある小屋だけを別棟に、家の片脇に離して建てゝ居ます。是は全く竈の火を穢すまいとする心遣ひでありました。家屋の建築が大きくなつて、何もかも主屋の中へ入れるやうになつてからでも、竈は人の出入の多い上り口から遠くに置いて、出來るだけ素性のわからぬ人を寄せ付けまいとして居ります。近頃はこの用心も段々弛んで來ましたが、それでもまだ氣にかけることが竈の方に多いのは、起りは全く火の穢れを防ぎ、神にも先祖にも供へる食物の清淨を、防衛しようとした習はしからでありました。

　しかも追々と人の暮し方が改まり、殊に飲食の種類や囘數が多くなつて來ると、竈の火ばかりをあてにしては居られなくなつて、その一部の役目を居間の火どこの方へ分けることになり、爐の鈎が追々と忙しくなり始めました。芋とか團子とかを灰の中にはふり込み、又は串に刺して魚を焙《あぶ》るなどゝいふことは、早い頃からたゞの焚火の傍でもし(240)て居たでせうが、鍋とか鑵子《くわんす》とかの鉉《つる》を下げて、掛けたりはづしたりするものが、盛んに使はれるやうになつたのは後のことかと思はれます。たとへばお茶を煎じて飲む風習も、今とは大分こしらへ方はちがひますが、ともかくも鎌倉時代の始め頃から、ぽつ／＼と流行し出したと言はれて居ます。それより以前にはわざ／＼湯をわかして飲むことは多分無かつたので、飲食の爲の爐を使ふことは少なかつたでせう。それよりも大きな變り方は、鍋で今日のやうな御飯が炊けるやうになつたことです。是は蒸籠《せいろう》を用ゐた蒸しものゝイヒ（飯）よりも、ずつと方法が手輕ですから、最初は多分假小屋の生活をした人々が改良したものでせうが、彼等は必ずしも米を食べたとは限りません。必ず米を食事にしたと思はれるのは狩の日又は宮木伐り、それから戰爭の陣屋の中に、日を送る際などであります。陣中には甑《こしき》や蒸籠を携へることは不便なので、いはゆる男炊きの飯は追々と改良せられ、後には粥でもみそうづ〔四字傍点〕でも無いしつかりとした米の飯が、爐の火でも炊けるやうになつて、是を普通の飯と見るやうになつたものと、私などは想像して居ます。皆さんも是から氣をつけて御覽なさい。米の飯は昔からの常食と言はれて居るにも拘らずその炊き方が地方によつて、をかしいほども色々とかはつて居ります。乃ち近世の普及であつた證據かと思ひます。近頃節米の運動が始まつて、新たに又幾つかの炊き方が考案せられたやうですが、その以前にも少なくとも四通りを私は知つて居ます。さうして其中の一番新しい方法が、羽の附いた釜に重い大きな蓋を載せて、竈にかけて炊くいはゆる釜の飯であります。乃ち今日の米の飯は、一旦へつひを別れて爐の上で發達したものだつたのが、もう一度又もとの場所へ戻つて來たので、その留守の間に日本の竈は形や構造や在りどころまでが、大きな變化を遂げて居たのみか、之に對する家の人の考へまでが、よほど以前とはちがつたものになつて居たのであります。今日の?態では爐が有れば竈はいらぬと思ふ者と、爐は無くでも竈さへあればよいと思ふ者ばかり多くなつて、兩つの者は何だか二重なやうに感じられて居ります。さうして大體には爐の方は段々と少なくなり、竈は又もう一度、大きな改良を受けようとして居るのであります。

　

(241)　　　　　庭竈の變遷

　

　新たに建築せられる日本の家では、土間の眞中に竈を築くものが、もう次第に少なくならうとして居ります。是は地面が小さくなり、建坪一ぱいに牀を張らうとすることも原因の一つですが、それよりも大きな理由は、何の爲に庭竈をこしらへて置くのかを、説明することが出來なくなつたからであります。京や大阪の昔からの町家、又は東京でも大震災前までのものには、隨分窮屈な思ひをしても、なほ竈を土間の向ふの壁に寄せてこしらへたものが幾らもあり、それへ出入りをする人の爲に、まるで鰻の廊下のやうな狹い長い通り庭が通つて居りました。何でさういふ風にしたものかは、是だけを見てはわかりませんが、つまりは御飯を炊く竈を引離して内庭に設けないと、本式の家で無いやうな感じが長く殘つて居たのであります。京都だけは千年以上の古い都でありますが、その他の日本の大都會はどれも是も新しいものばかりです。割に古い方でも三百年か四百年足らず、それも始めのうちは廣々と、田舍同然の住居をして居りました。今でも府縣の小さな都會で、家の間口の十分に取れるところでは、農村の舊家にも負けぬやうな立派な竈を内庭に置いて、それを光るほど磨き上げて居ります。最初のおもな市民は、皆さういふ大きな百姓の引越して來たもので、殊に隣どうし知らぬ人が住むやうになると、是を以前の生活の記念物として、いつまでも保存して置いて見せたかつたのであります。燃料をどうして手に入れるかといふことが條件でありますが、ともかくも町の建て込んだ家々の中で、この庭竈を維持して行くことは、早くから決してさう都合のよいもので無く、言はゞ古くからの仕來りを守つて居るといふに過ぎませんでした。

　ところが一方に農村漁村の方では、却つてこの庭竈の無くてもすむ家々が、以前もたくさんに有つたのであります。(242)昔の言葉では總稱して之を小屋と謂ひました。小屋は必ずしも建物が小さいといふだけで無く、之に對する大屋といふものが中心に有つて、祭や祝ひ事は必ず共同で行ふので、正式の食物は皆その大屋に集まつて、そこの庭竈で調理したものを食べますから、別々に竈を備へるには及ばなかつた家であります。分家・しん屋・へや・隱居などゝいふ、一門のまはりに住む者ももとは大抵は是であり、その以外にも名子《なご》とか門屋《かどや》とかいふ出入筋の者も、この小屋でありました。遠い田畠や山林に假屋を掛けて臨時に出て働いて居る者ももちろん歸つて來ました。大屋本家の庭竈の役目は、儀式のある日にはなか／＼大きかつたのであります。爐の鈎に鍋を掛けて今のやうな御飯を炊くことが出來なかつた時代には、正月や節供などの祝ひ日で無くとも、本家で食事をする機會がずつと多く、めい／＼の小屋では至つて簡略な、飯ともいへないやうなものしか食べて居なかつたことゝ察せられますが、さういふ時代はあまりにも遠くなつて、もう憶ひ出すことも出來なくなりました。ともかくも爐の火の利用が段々と巧者になつて來るにつれてこの庭竈の世話になる程度が、次第に少なくなつたことは事實であります。

　第一にはふかし物と謂つて、蒸籠で蒸して作つた強飯を、神にも先祖にも又人々にも、供する度數がめつきりと減じました。餅だけは一年に少なくとも一度、本家に集まつて庭竈を使ふ日が、今でもまだ慣例として殘つて居ますが、この方は寧ろ新しいことで、以前はめい／＼の小臼で穀物を粉にはたき、それを捏ねたものを茄でたり燒いたりしました。たゞ正月の餅だけを賑やかに、又花々しく搗かねばならぬやうに思つて居るのは、恐らくは昔の正式の食事の名殘でありませう。第二の變りとしては竈を使はずとも、少量の蒸し物ならば爐でも出來るやうになつたことです。平鍋に湯を沸かして其眞中に脚の附いた桶甑を置くと、湯氣が甑を通つておこはをふかすことが出來ます。飛騨の山村などにはさういふ方法が行はれて居ることを、私は此頃になつて知りましたが、是はよつぽど無駄の多いやり方で、又極度に爐の火を大きく焚かなければなりません。さうして又其樣にまでして竈を儉約しなければならぬ必要が、昔からあつたらうとは思はれません。以前の竈の構造は粗末で、今よりもずつと爐の火焚き場に似て居たやうですから、(243)或は古い方法を爐の方に採用したのかも知れませんが、少なくとも是では大きな一門の共同の食物はこしらへられません。だからまた遠く出作りをした分家百姓などで、本家の庭竈に頼らずに行かうとした者の、新たに考へ出したものが普及したのであらうと思ひます。

　しかも他の一方には竈の利用も進み、又之を築造する手續きも簡便になつて、新たに内庭に竈を設ける家が、追々と多くなつて來たのであります。殊に新しい時代の分家には最初から、竈を備へて與へることが普通のやうになり、之と本家の格式とは、何の關係も無いものゝ如く考へられました。東北地方でも北の端へ行きますと、分家をすることを「竈を立てる」といひ、本家分家をオヤカマドといふのみか、家來竈といふ言葉さへ出來て居ます。多分はこの方面ではカマドといふのが新しい名前で、斯んな小さな家々にも用ゐられるやうな、小型の竈だけをさう謂ふことになつて居た爲だらうと私は思ひます。もちろんさういふ家でも今までの通りに、爐で煮炊きをすることは罷めなかつたでせうが、ともかくも二つは目的がごく近く、燃料の都合か何かで爐にしようか竈にしようか、どちらか一つ有ればよからうと思ふ人が多く、終に爐をつぶして竈ばかりにした家が段々増加して來ました。其原因の一つは全くこの改良竈の普及に在つたのです。もちろん他にも色々のわけがあつたことは是から申しますが、竈がもし昔の通りの重々しいものだつたら、いくら焚くものが不足して來ても、さう手早くは圍爐裏を無くしてしまふことが出來なかつた筈であります。

　この竈の改良は近世のもので、今ならばまだ皆さんも、その變つて來た實地の道筋を見ることが出來ます。庭竈といふ言葉なども、元來は別棟の竈屋から、主屋の内庭へ持つて來た故の名だつたらうと思はれますのに、現在は之を牀の上に置く竈に對するものと解し、又は不幸とか大事件のあつた時だけに使ふもの、或は臨時にこしらへて用がすめば崩してしまふものに限るかの如く解して居る地方さへあります。さうで無くとも非常に大きな、常には入用が無くて蜘蛛の巣でも張つて居るのが、即ち庭竈だと考へられて居ますが、是が實は最も古い形の、どうやら斯うやら傳(244)はつて居る竈でありました。是にも少しづゝの改良は加はつて居ますが、ともかくもさう毎日の入用も無いのに、まだ古風な家では之を罷めきらずに居るところに、隱れたる何物かゞ有るのです。寒い國々の馬を飼ふ農家では粉糠や萩の枯葉等を白水にまぜて、こゝで温めて馬に給するので、之をトナガマなどゝ呼び、殆と其爲にこしらへてあるやうにも思つて居ますが、たとへ囘數は少なくとも、是よりももつと重要な事に、同じ竈を利用するのが普通であります。たとへば年に一度の味噌豆を煮るにも餅を搗くにも赤飯をふかすにも、又は大きな客をする日の御飯を炊くにも、釜こそ取替へるが同じ竈を使ひ、よほど大きな家で無ければ二つは拵へてありません。さうして又牛馬を飼はない村々にも、?々この大竈はあるのであります。古い構造のものも捜せばきつと殘つて居ませうが、中部以西の最も普通の竈といふのは、現在は三つ竈、少し福々しい家では五つ竈、稀には七つ竈といふのもあつて、それが一續きに扇なりに連なつて、一人が火の番をして皆焚けるやうに出來て居ます。穴が三つだと飯釜と茶釜と鍋ですが、五つ以上になれば一方の端の一つは一段と高く、又直徑がずつと大きい釜をかけて、磨いて置くだけで常の日は使ひません。是が上代以來、ヘツヒの名を以て尊まれた大切な食事の竈であつて、その他は便利の爲に後から次々と、附け添へられたものであります。便利な點は幾つでもありますが、火の管理者の手が省けるだけで無く、時々は立つてまはりの用もして居られます。それほど火の用心はよく、又燃料も節約することが出來ました。だから色々のたべ物好みさへしなければ、この場處一つで毎日の用は足りて、いはゆる圍爐裏はもう一度昔に復り人がたゞ坐つて火にあたつて居る處になつて、夏春は勿論冬のさ中でも、外で働く人の多い家では、こゝを冷たい灰だけにして置いてもよく、火留めの苦勞は殆と無用になつたのであります。それといふのもホクチにユワウ、殊にマッチといふやうな手輕な發火法が始まつた御蔭ではありますが、なほ庭竈が以前のまゝの大きな動かし難いものであつたら、さうして一方には又炭といふものが、斯んなに澤山に出て來なかつたら、今日のやうに圍爐裏とはどんなものか、見たことも無いといふ人ばかりが多くなつてはしまはなかつたでせう。つまりは色々な原因が一緒になつて、我々日本人の火の利用法を、變化(245)させて居るのであります。

　

　　　　　焜爐になるまで

　

　その原因を一つづゝ、氣を付けて見て行くことは、人生を學ぶ爲にも必要であります。かまどは二千年以上の大昔から、今まで續いて行はれてゐる日本語でありますが、名はもとのまゝであつても、いつの間にかものはよほど變りました。最初は多分居間にある圍爐裏と、形はさして變らぬ火焚き場であつて、たゞ此方は食物の調理の爲に、何か簡單な装置がしてあつただけの違ひかと思ひます。かまどのカマも又へつひのへも、共に煮炊きをする器物のことのやうですから、たとへば三本の石を中央に立てゝ、釜を載せる臺にするとか、又は鐵輪のもとになるやうに圓い輪を石で造つて、火の上に置いて居たかも知れません。今でも野外で物を煮ようとするとき、又は葬式などの際に臨時の竈を設けるには、三本の木を上の方で括つて脚を火の上にひろげ、綱をその結び目から垂れて鍋などを下げますが、是と近いやうな方法も元はあつたかも知れません。爐の鈎も始めは竈の上に下つて居たのが、後々爐の方に屬するものゝやうになつたとも考へられぬことはありません。ともかくも前にはこの竈のまはりにも、人が集まつて火にあたることが出來たやうで、たゞ最も明らかな差別としては、此方では爐のやうに主人が出て來て、横座に坐るといふことは絶對に無かつたのであります。一方が煖を取りあかりを取るのを主たる用途としたに反して、こちらは今一つの大切な目的があるのですから、このちがひの生ずるのは當り前であります。

　飯の煮炊きの目的から言ひますと、この舊式の竈には幾らでも改良する餘地があつたのであります。それで第一に煙があまり洩れず又火の子が散らぬやうに、土を練つて周圖をかこふことが先づ始まり、次にはその閉ぢこめた中で(246)もなほ薪がよく燃えて、火力が十分に揚るやうに、或は竈の口の廣さ高さ、又は内側の曲りや底の傾斜などに、人知れぬ苦心と經驗が積み重ねられました。この土の竈の上に掛ける爲に、鍋のお尻の恰好なども變へられたことゝ思ひます。殊に感心なのはツバガマともハソリガマとも謂つて、釜の中腹に鍔《つば》を附けて、それでぴつたりと火力の外に洩れるのを止めた工夫ですが、その代りには其下で火を焚く技能が、又一段と六つかしいものになりました。お釜にはどうして羽があるのか、取手にしては少し大袈裟なやうだと、不審に思ふ人があるかも知れませんが、あれは或時代の竈の改良に伴なうて出來たもので、それが近頃では再び又必要が無くなりかけて居るのです。

　庭竈が昔のまんまでは不便だといふことが判つてから此かた、日本人くらゐ其改良の爲に骨を折つたものはありません。それで居て今日はまだ是に限るといふものがきまらず種類は段々と多くなつて行く一方なのです。誰でも自分の家の御飯の炊き方が普通のもので、よそも大抵は此通りだと思つて居ると、飛んだまちがひになるのであります。それといふのが毎日の入用に追はれて、十分な實驗をしてからきめるといふわけに行かず、つい手近のものを眞似てしまつて、いつも少しづゝの不滿足を感じて居るためかと思ひます。だから本當の改良を爲し遂げるには、もつと廣く遠く知らなければならぬのであります。大體に商人や專門の職人がこの改良に參加するやうになつてからは、段々ともつたいぶつた是に限るやうな名を付けるものが多くなりましたが、其以前にもやゝ新しい方式を採用する際には、何か今まで使はなかつた名を使つて、新舊を區別する風があつたやうです。かまど・へつひなどは古い言葉で、元は同じものであつたかと思ふのに、それを新たに改良釜だけの名として、用ゐ始めたらしい處があります。東北で分家をカマドといふのは、竈の小型でどこにでも置けるものだけを、此地方でさう呼んで居た結果であらうといふことは前にも申しました。クドも是と同樣に非常に古い言葉なのですが、或地方では昔からの竈をさう呼び、又或土地では新たに改良せられた小さい土塗りの竈だけを、さう謂ふやうになりました。さうして一方には別に圍爐裏の眞中の火を焚く部分を、ホドといふ語は殘つて居るのであります。ホドもクドも元來は一つの語にちがひありませんが、今で(247)は二つが全くちがつたものゝ名になりました。是も奧羽地方の可なり弘い區域にわたつて、いはゆる圍爐裏をヒホドと謂ふ言葉が、竈をクドと呼ぶ名と併び行はれて居ます。それが發音の六つかしい爲に、しば／＼シボト・シビト・スビトなどゝいふ人があつて、歌や文學にも出て來るスビツといふ語と近くなつて居ます。そのスビツももとは炭櫃では無くてやはり火を焚くだけのホド、即ち火ホドを訛つたのでは無からうかと私などは考へて居るのです。

　ともかくも現在のクドもカマドも、又オヘッツヒなどゝいふ言葉も、共に昔からの日本語ではありますが、その形や大きさや在り處は殆と皆改良せられ、しかも土地毎に可なりちがつて居るのです。人が互ひに氣付かずに居ることは、その改良が思ひ／＼で、もう是以上のものは無いといふところまで到達しては居ないことです。一つの例を言つて見ますと、竈の焚口は今でもまだ向ふ側に在つて、茶の間の方へ背を見せて居るものが多く、或は爐端の主人の横座から、竈の火の見えるのはよくないといふ言ひ傳へさへあります。ところが女たちの手の足らぬ家では、そんなことをして置いたら火の監督が出來ず、不便でこまるので近頃はこちらを向けるやうになりました。殊に都會の住宅などは内庭が狹く、とても向ふへまはつて焚くほどの餘地は無いので、むしろ竈の方を板の間の端へ持つて來て、土間に立つて居て焚くやうにしたものと、それから今一つは焚口を上の方に向けて、坐つて居て焚けるやうにしたものとが出來ました。同じ一つの竈の据ゑ方ですら、もうこの通り裏表の二通りになつて居るのです。それから三つ竈・五つ竈がずらりと扇形に竝んで、黒い漆喰で塗り固められ、朝晩拭き磨かれるのが普通になつて來ると、是が無くては一軒の家の體裁を備へぬものゝ如く、考へられた時代が暫らくは續いて、いはゆる一つへつひは長屋暮し、貧しい落付かぬ生活の看板のやうに輕しめられて居りました。ところが庭竈の最初は皆一つ竈だつたのみで無く、最初に家を持つ新しい家庭でも、そんな大がゝりな三つ五つの塗竈などは、用意する者が一軒も無く、竈は先づ一つのものと、再び相場がきまりさうになつて來ました。是がこのさきどう又變つて行くか、今日のところでは全く不定であります。從つて人が一國全體の爲に、考へて見る餘地は十分に有るのであります。

(248)　以前は庭竈が大きくて、めつたに場所を變へることが出來なかつたとは反對に、今日の竈は始めから勝手に動かすやうに出來て居ること、是だけは一つの著しい相異であります。私などが物を覺えてからでも、家々の一つへつひはなほくど屋〔三字傍点〕に頼んで造らせて居ました。それが出來合ひの商品となつた頃から、更に土製だの金製だの便利な竈が幾らも買ひ調へられるやうになつて、引越しにもそれを持ちあるくやうになり、竈は家屋の一部分では無く、單なる家財道具の一つになりました。土間内庭といふものゝ最初の用途は、半分は夜の荒仕事の爲、殘りは煮炊き場を常の座所から引離す爲でしたが、それが兩方とも段々と不用になつて、後にはたゞ履物を脱ぐ場所が少しあればよく、あまり廣いと鼠や猫の運動場に、しなければならぬ家ばかり多くなりました。一つのものが變ると次のものが又變ります。それを變へずに置くと又色々の不調和が起るのです。ちやうど變つて行く境目に生まれ合せた者は、いやでも眼の前の歴史をよく視なければならぬのはこの爲であります。もちろん我々はこの方が便利だから、又はさうせずには居られぬから、人もさうするから其通りを眞似たので、是で結局は損で無く、且つ大體に前よりも樂になつて居ることゝ思ひますが、すべての生活改良といふものは、廣く隅々の影響までを考へ盡したもので無く、又この次の事情の變化を勘定の中にも入れては居りません。しかもその改良を促す根本の原因は、まだ／＼長く力強く續いて行きさうなのであります。火の昔でいふならば燃料の制限と配給の故障、又は之を管理する人の手の不足などは、既に數百年も前から始まつて居て、是からさき／”＼もまだちよつと元へ戻りさうにも無いのであります。改良はなほ幾度かくりかへされ、人は又改良に先だつ不便を、其たび毎に味はゝなければなりません。その覺悟と用意との爲にも、皆さんの知つて居られてよいことは多いのです。

　

(249)　　　　　漁樵問答

　

　そこで今度は一つ方面をかへて、山で木樵りと謂ふ薪を伐つて暮して居た人たちが、段々と炭燒きに變つて來た路筋を話して見ませう。最初我々の先祖が村を開いて住んだ頃には、必ず飲水をどこから汲んで來るかをたしかめてかゝつたと同樣に、燃料が手近に得られるといふことを見究めた上でないと、安心してそこの人となることは出來ませんでした。古い村里は大抵は山や岡の麓に在つて、自由に薪を採り、又折々は建築や道具の用材までを伐つて來る場所を、周圍に廣々と今でも持つて居るか、もしくは持つて居た痕跡があります。是を村山・垣内山《かいとやま》、その他色々の名で呼んで居ましたが、關東平野などでは東京の近くまで、一般に之をサンヤと謂つて居たやうであります。今では山谷だの三野だのと書いて、もとの意味がわかりにくゝなつて居ますが、多分は散野と書くのが正しく、それを山野とも解して居たかも知れません。東京近くの散野は平地つゞきですから、人が多くなるとすぐに田畠に拓かれ、又は住宅や交通路になつて、末には市街に編入せられたものも幾つか有ります。斯うして薪取場を無くしてしまつた村が、近世は非常に多いのみならず、始めからさういふ自分の燃料の無いのを承知で、どうにかなるものと思つて新たに立てた村や町が、他に色々の都合のよいことがあつた爲に、却つて追々と繁昌して來ました。最初暫らくのうちは入會《いりあひ》と謂つて、近所の廣い野山を持つた村に頼んで、そこへめい／＼の焚く物を採りに行かせてもらふことにして居ましたが、それは行返りも難儀であり手數も多く、第一にさういふ他村の野山も狹く遠くなるばかりなので、こゝに始めて價を出して柴や薪を手に入れるといふことが必要になつて來たのであります。

　昔話の桃太郎の爺さんなども、もとは時々自分の家で焚くものを、刈りに行けばよかつたのですが、後には段々と(250)それを大きな束にして、朸《あふこ》の兩端にさしたのをかたげて、山から里へ持つて出ることになりました。是が僅かな米や鹽に換へられるので、この人たちにも便利なことが多く、町は四方の奧在所から、斯ういふ貧しい木樵りの翁などの、集まつて來る場處となつたのであります。支那でも漁樵問答と稱して、山から薪を賣りに出た老人が、海川の魚類を拾つて來る者と行逢つて、路の傍で話をして居るところを繪にしたものが、夙くからもてはやされて居ります。是が都會の新しい風景であつた時代があるのであります。斯ういふ人たちは正直で慾が無く、少しばかりの代りを得ると滿足して、還りには一ぱいの酒を引掛けて、鼻歌などをうたつて行きました。それが又昔の人には面白かつたので、貧しい爺さんが寶の兒を授かり、又は小狗に金銀を掘り出してもらつたり、雀に輕い葛籠《つゞら》を背負はせられたりして、しまひに大へんな金持になる話を、大抵は山へ柴刈りに行くやうな爺のことにして居たのであります。或は漁礁問答が繪になつたやうに、斯うして少しばかりの魚や薪を賣りに來た頃が、殊に昔話の多く語られた時代だつたのかも知れません。豐後の野津市《のづいち》の吉右衛門といふおどけ者は、うまく柴賣をだまして柴を只儲けしたなどゝいふ、笑ひ話を殘して居ります。買ふから持つて入れといふ、薪を擔つたまゝで、例の鰻の廊下のやうな内庭を通つて、裏口へ出て荷を下さうとする。そこで法外に安い値を付けるので、柴賣は怒つて又出て行つてしまふ。その行き返りに柴がぶつつかつて折れてこぼれる。それを掃き集めて先づけふ一日は焚くものが出來たといふ話、是なんかは勿論うそ話ですが、さういふ細い木の小枝までも、柴にして焚かうといふ人が其頃はあつたのであります。山野を近くに持たぬ忙しい人たちは、段々と薪の不足を感じて來ました。京では大原女が頭の上に柴を載せて、賣りに出たことは誰もよく知つて居ますが、この大きな都が、あればかりのもので暖められて居た筈はありません。是はたゞ此樣な僅かな柴の枝までも、求めようとする人が有つたといふだけで、たとへ十分とは言はれぬまでも、別に本式の燃料を供給する方法は備はつて居たのであります。

　其方法が我々の知らずに居るうちに、少しづゝ變化してありました。大體に遠く遠くと運んで行くやうになつたの(251)が、近世の交通機關の發達でありますが、そんな事の出來るのは、土地によつて燃料の値段に非常な高下がある爲で、どこでも役に立つものを、わざ／＼遠方まで持ちまはるといふことは、國としては大きな損だつたのです。以前はそれ故に出來る限り近まはりの、何でも有るものを焚くやうにして居たのですが、それではどうしても追付けぬことになりました。都でいふならば宇治の柴舟、大原の柴車に北山の牛、さういふものが繪にもなり歌にも詠まれて居るうちに、一方には日毎にふえて行く居住者の爲に、もつと安全な燃料の供給をする計畫が着々と進んで居りました。それも事情の變化が有りまして、いつまでも古い一つの方式を守つて居ることが出來ず、次々と新たな種類の燃料を確保することばかりが問題となり、以前はどうして居たかを考へて見る暇がまだ無かつたのであります。

　都會の住民たちは、昔から薪には苦勞しました。それといふのが家のまはりに、冬は焚くものを山のやうに積んで、冬籠りをして居た人々の子孫だからであります。日本は幸ひに眞中を山脈が通り、それから流れ出す山川は皆早瀬で、水に浮くものを運ぶには都合のよい國でありました。多くの有力者は川上に薪山を持ち、又は下流の岸に近く、めい／＼の町を興しました。或は山奧の住民の年貢を輕くして、入用の木を税として流させました。金銀で薪を買はなければならぬ人たちも、多くは合同して年々の山を買ひ取り、山子を雇うて伐らせ且つ流させました。木には木印又は山じるしといふ刻印が打つてあつて、一つの川をごた／＼に流れて來たものでも、見分けてめい／＼の處に引上げることが出來ました。東北地方に行つて見ると、普通にこの流し木のことを春木と謂つて居ります。冬は川の水が細くなつて、思ふやうに流れて來ないので、春の雪解けの出水の時を待つたのでせうが、もうそろ／＼と入用の少なくなる頃で、買つて貯へて置くことの出來る人ばかりに、都合のよい季節でありました。春木の長さは三尺がきまりで、積んで置くのには此方が便利ですが、今では是を半分に挽き切らずに、此まゝ焚けるやうな爐や竈は町には有りません。乃ち古くからの約束がまだ改まらずに殘つて居るのであります。

　さうかと思ふと越後の蒲原平野などの流し木は、コロと稱して短い太いものでありました。それが枝川を入つて村(252)々の小さい溝川まで、ころ／＼と流れて來ます。村でも此地方は少しも薪を採る散野が無いからであります。もとは斯ういふ良い薪を取寄せる家はきまつて居たので、木印さへ打つて置けば自然に屆きましたが、今では焚く人が多くなり、毎度まちがへて拾はれてしまひます。流し木には番人が附いて、山から木と一緒に川の岸を下つて來なければならなくなりました。薪を山で買つてめい／＼に取寄せることは面倒になつて、木屋の手を經てこちらへ到着してから、買ふ者が段々とふえて來ました。目方に掛けて金を拂ふので、この方は掛木《かけき》と謂つて居ります。山には幾らでも有つて價の安い木でも、斯うして色々の手數がかゝる爲に追々に高くなりました。それに季節を構はずに流して來ようとすると、川で無くしてしまふものも非常に多かつたのであります。水が少なくなると方々の岩に引かゝりますし、大水になると海へ出てしまひ、又そちこちの砂に埋もれてしまひます。前年私は吉野川の岸を傳つて、土佐から阿波の方へあるいて見たことがありますが、あの川のほとりの村々では、唐鍬を持つて川へ降りて、砂の中から古い流木の埋もれたのを拾つて居りました。さうして皮が剥けて兩端の丸くなつたやうな木が、普通の薪と同じに、どの家にもきれいに積んでありました。桃太郎の昔話も此邊へ來れば「爺は川へ柴掘りに」と言はなければなるまいと、獨りでをかしくなつて笑つたことでありました。

　

　　　　　藁と藁灰

　

　實際にどうして燃料を手に入れるかについて、この吉野川沿岸の農民ほどの心構へをすらも、持つて居らぬ人が多くなつて來て居たのであります。川に柴掘りに行く爺たちは、もとは是でも薪山を持つて居ました。それが追々に開墾せられて、燃料の不足を感じ始めた頃から、一方には川へは主の無い木が流れて來るものだといふことを經驗して、(253)少しづゝ其方へ乘り替へて行つたのであります。ところが世の中には最初から何の當ても無しに、ちつとも薪の無い處に住んで見ようとした者が、段々とふえて來たのであります。さういふ中でも一番向ふ見ずであつたのは、海沿ひの廣々とした埋立新田で、是には役人までが世話を燒いて、遠淺の干潟に潮除堤を築いて、澤山の農民を其中に住ませました。昔は日本の海濱には松の林が多く、村はぽつ／＼とその間に出來て居たので、燃料などは問題にするに及ばなかつたのでせうが、鹽を潮水から直接に取るやうな風習が行はれ、それもちつとやそつとの分量では無かつた爲に、忽ちのうちにその松の木は伐りへらされて、よほど手當てに注意をしないと、海邊の山や岡は禿げて土が流れ、景色は好いかも知らぬが岩ばかりになつてしまひ、松葉でも掻き集めないと、焚くものが無いといふやうになつたのであります。ましてやそれから又外の方へ、何百町といふ程の廣い田を開いたとすると、そこでは燃料が大きな問題になるのは、始めからわかり切つたことでありました。是は全く水や日の光と同じやうに、燃料は何處に行つても得られた古くからの習はしが、農民を安心させて居た爲でありまして、牛の糞まで乾して置いて焚くやうな國だつたら、早くから騷がずには居られなかつたことであります。古い村里では新田場とちがつて、屋敷の地面を幾分か廣く取つて、まはりに色々な竹木を茂らせてありました。是は全く薪山が無いか、又は遠くて取りに行かれぬやうな平野の村々を開く場合の、一つの用意であつたかと思はれます。それで薪といふほどの立派な木は得られなくとも、何でもそこいらに有るものを焚けと謂つた、昔話の愚か息子のやうな笑話なども生まれたのであります。北國の農村などでは、もとは田と田の問に榛木《はんのき》などを一列に植ゑて、秋は刈稻を其木に掛け、枝をおろしては焚きものゝたそくにして居ましたが、それも此頃は日蔭になると謂つて伐らせてしまひました。或はカクマと稱して川の曲り目などの不用地に生えて居る茅や雜木を、刈り集めて來て焚くといふこともあつて、山形秋田あたりでは之を川隈刈《かくまが》りと謂つて居ました。

　　　山でがさごそ狐か狸

　　　なんの狐だべかくま刈り

(254)　こんな笑ひ歌も殘つて居ますが、今では水筋がきれいに整理せられて、山まで行かないと其カクマも刈れなくなりました。買へばいゝぢやないかと言ふ人が有らうも知れませんが、斯ういふ土地には固より薪炭商は無く、又多數の住民は買ふやうな經濟では無かつたのであります。

　斯ういふ不自由な境涯に入つて、新たに又一つの活き方を始めたのは日本人の長處であります。他に焚くものが無ければ藁を焚くのは當りまへのやうなものですが、今までの火焚き場の構造では、之を十分に利用することが實は出來なかつたのであります。藁は燃えやすいから焚きつけには都合がよく、急に大きな火にするのにも之を焚けばよいといふことを、昔の人はよく知つて居ましたけれども、爐にくべることは全くしませんでした。斯んな打開けた火じろでは火力がまとまらず、ゆつくりとあたつては居られぬのみか、人が附き切りに焚いても、物を煮ることなどは出來ないからであります。新田開發が我邦の米作地を、倍にも其以上にも廣くしたのは近世のことですが、ちやうど同じ頃から急に爐が少なく、竈の改良したものが多くなつたのは、藁で米の御飯を炊くことが出來るやうに、なつた爲であらうと私は思つて居ります。甑や蒸籠で蒸し上げる樣な強飯であつたら、いくら竈でも藁火では出來なかつたかも知れません。從つて飯の炊き方の既に改まつて居たことが、條件であつたとも言はれませうが、ともかくも藁より以外の燃料を得られなかつた人たちが、飯を必ず竈で煮るものとしたことだけは疑ひがありません。さうして又其爲に竈と炊き方とを改良して、御飯を今日のやうにふつくりと、柔かでおいしいものにしたのであります。竈の改良には、前にも述べた鍔釜の發明を始めとし、火の廻りを良くする細かな心遣ひが色々とあつたやうですが、それを詳しく説くことはまだ私には出來ません。大體に昔の庭竈よりはずつと小型にして、弱い藁の火でもよく屆くやうにしましたが、家内の人數がもう以前よりは少なくなつて居るので、それでちつとも差支へがなかつたのであります。たゞ其爲に火を管理する女性の技能が、新たな方面に向つて進歩しなければならぬことになつたことは確かであります。藁は誰でも想像し得るやうに、すぐに燃えてしまふので補充しなければなりませんが、無暗に詰め込めば口が塞がつ(255)て燻つてしまひます。それを頃合の小さな輪にわがねて、ちやうど燃え切らうとする火の上へ、程よく投げ入れて行くのが腕前でありました。女は多分小娘の時から、お風呂の下などで練習をしたのかと思ひます。言葉にも言ひ現はせない僅かな加減ですが、是が下手だと毎日の御飯がまづく、飯もろくに炊けないと言はれて耻をかきました。それがつらさに皆一生懸命になつて覺え込んだものであります。

　それから次には藁灰の後始末、少しは中に殘して竈の火氣を保ち、あとは掻き出して外で消し、安全な處に溜めて置くこと、是が又藁を焚く家の女たちの、大切な役目でありました。それといふのが藁灰はたゞの灰で無く、後にまだ色々の用途があつたからですが、其話はもう一度火鉢のところで話しませう。とにかくに今までの爐や竈の火焚きとは別に一つの新しい技術が短い年月のうちに、可なりの處まで發達して居たのであります。然るに世の中が再び改まりまして、藁もさう／＼は焚けない時代がやつて來ました。全體に稲の藁は用途の廣いもので、昔も決して粗末にはして居なかつたのです。正月その他の神祭の飾り物を始めとし、人が履物をはけばその履物の全部、蓆が入用になればその蓆の大部分、もとは蒲團が少ないので、藁を柔かに打つて床に敷いても居りました。其上に家畜の飼料にも日本では之を與へたので、餘つて燃料にしてもよいといふ分量は少なかつたのであります。米作地の面積が急に増加してから、暫らくの間は其産額が多くなつて、之を燃料にするのが一ばん手近だ、といふ時代があつただけであります。ところが國の産業が大いに起り、交通が盛んになるにつれて、繩や叺《かます》の需要が際限も無く増加しました。打藁の寢床に寢る者は少なくなつた代りに、どの家も牀に厚床の疊を敷いて、それが全部藁製であります。藁の履物はぐつと減少して來ましたが、藁を原料とする工産物の中には、印刷用紙のやうに幾らあつても足らぬものがあります。他にどうしても焚くものが見つからぬので、今でも藁を燃やして居る家が若干は有りますが、何か代りがあれば罷めたいと思ふ人ばかりであります。籾殻はその代りにならぬかと考へて見た人もありました。籾殻は毎年餘つて始末に因るもので、是が燃料になればそれに越したことはありませんが、之を燃え上がらせる器械がまだ考へ出されぬので、(256)薪としては使ふことが出來ないのです。さういふうちにも日本人は、何か必ず新しい工夫をすることゝ思ひますが、少なくとも今は再び燃料の計畫を、少しも立てゝ居ない國民の數を、非常に多くして居るのであります。

　

　　　　　木炭時代

　

　今日の如く木炭自動車が東西に走りまはるやうになるよりも前から、日本は既に世界に稀なる木炭の消費國でありました。どんな小さな町にも炭屋があり、炭が無くては暮せない家庭が、もう澤山に出來て居ました。それだから炭が普通の商品になつて居て、必要があればすぐに之をガソリンの代りに使ふことができるのであります。しかし斯ういふ?態は至つて新しく始まつたもので、是が又一つの竈改良の影響でありました。炭を日本人が知つて居たのは、遠くは神武天皇の御代からと傳へられ、まだその以前にも有つたらうといふことは想像せられますが、もとは此火を用ゐる人が限られて居たのであります。炭を必ず使はねばならぬのは、金屬を熔かし又は軟げて、道具を製造する職業の者だけで、この人たちはわざ／＼木を燒いて之を作つて居ましたが、その他の多くの家々では、炭はたゞ薪の焚き落し、即ち燠の火が消えて自然に成るものと、思つて居た時代が久しく續いたのであります。今からやつと五十年ばかり前、明治の中頃には炭燒の講習會といふものが、全國一齊に開催せられて、上手に炭竈を築き立てる技術を、教へる先生があるきまはりました。それから後もなほ長い間、土地でまだ炭燒をしようといふ者が少なくて、遠い國から來て山を買ひ、炭を燒いて儲けて行く者が幾らも有りました。炭竈の焚き方にはかん〔二字傍点〕とかこつ〔二字傍点〕とかいふものゝ、山の人たちには覺えにくいものが思ひの外多く、へたに燒くと金にならなかつたのであります。それで其技術を傳授する中心のやうなものが、方々に有つたのであります。關東から東では栃木縣の人が、どういふものか遠く奧羽地方(257)まであるいて居りました。九州では大分縣、豐前豐後の山村の住民が、炭燒の業を隣縣へ弘めました。さうして此地方には、茨をイモジ（鑄物師）といふ言葉が今でも殘つて居まして、もとは金屬工藝の用途に、炭を燒いて居たものといふことを想像させます。少なくとも我邦の製炭方法は、最初｜金屋《かなや》の手によつて發達したものでありました。

　ところが都では小野の炭竈、雪の山陰から煙の立昇る風情を、歌に詠じたのも早くからのことで、文學の方では存外によく知られて居た爲に、さうではあるまいと思ふ人もあるか知れませんが、是はちやうど北山の氷室《ひむろ》も同じことで、都なればこそであります。高貴な方々のお住居では、間毎に火を燃やし煙を揚げることも出來ず、あかり障子や油燈臺の調度が備はると、爐の火に集まる必要も亦ありませんでした。冬は火桶に寄り添ふといふ習慣が可なり早く始まつて、單にその御用の爲に炭を燒く竈が、特に都近くの山里には開かれたのかと思はれます。さうして其習慣は近い頃まで、まださう弘くは普及しなかつたのであります。面白い近世の逸話が一つ、火箸といふものはもとは形が大きく、爐や庭竈と伴なふべき道具でありましたが、我々は是を火鉢に附くものと思つて居ります。ところが宮殿の御火鉢には炭火が一ぱいに盛られ、炭取には火箸が添はぬといふことを聽いて、それでは炭を取るのに指がよごれはしませんかと、年老いたる官女に尋ねて見た人がありました。さうすると今度は向ふの方でびつくりして、炭をよごれたまゝで使ふ人が此頃は有るのかと、言はれたといふ話が或隨筆に出て居ります。以前の炭は一つ／＼、油を附けた紙でよく拭ひとりましたから、手で持つても黒くならなかつたといふのであります。それが事實であつたかどうかは確かめられませんが、先づそれほどにも昔と今と、木炭の使ひみちは違つて來て居るのであります。

　火鉢が今日の如く普及した原因の一つには、陶器の進歩といふことが算へられるでせう。もとは穀物とか液體とかの、こぼれては困るものばかりを入れて置く器だつたものを、少し形を變へて是を大小さま／”＼の火焚き場としたのは、日本人の智處といふことが出來ます。多分は萱の莖や樹の皮や枌板《そぎいた》を以て屋根を葺く代りに、瓦を載せるといふ風がたゞの民家に弘まつて來たのと同じ方向の歩みでありましたらう。カハラケ・カハラバチ（擂鉢）・瓦火鉢など(258)は、何れも單純粗造の土器の名でありますが、それが段々と固くなり、又形をどの樣にも好むことが出來て來たのであります。陶器の竈には、鑄物師や鍛冶の如く木炭は焚かず、薪を焚いて居たのが多いやうですが、その竈の構築には炭竈と共に、金屬工藝の人々から助けられた點が多いのでは無いかと思ひます。ともかくも斯ういふ手輕な火鉢が買はれるやうになつてから、どこの家でも是に少しの火を入れて、用の無い人たちはさつさと爐端から離れて行くことになりました。私たちは是を家の火の分裂と名づけて、非常に大きな世の中の變り目と見て居るのでありますが、それでもまだ最初のうちは燐の火を分けるだけで、山で燒いて來る木炭は火鉢には使はなかつたのであります。

　コタツといふものゝ盛んになつたのも、やはり火鉢へのおつきあひでありました。炬燵などゝいふ妙な漢字を書きますが、是が支那から來たといふ證據などはありません。我々はむしろ踏臺をケタツと謂ひ、又は魚釣用の輕便な足場をキャタツといふ語から分れたもので、もとはあのヤグラを腰掛として、使つて居たのだらうと思つて居ます。夜分爐の火をいけてさあ寢ようといふ前に、暫らく女たちが殘つて居る燠の火で、足を温めて居たのが始めだつたかも知れません。或は寒い晩に爐の傍で寢る人が考へ出したものか、ともかくも　　　棺の火のまだ燃えて居る間は、あぶなくてさういふことは出來ませんが、何か布切れのやうな物で上を覆ふと、僅かばかりの火でも暖かいものだといふことを經驗したのは、火を留める役目の人たちであつたらうと思ひます。信州のやうな寒い土地では、五尺か一間もある大きな爐に、そつくり乘るやうなヤグラが有り、それに相應する掛蒲團が出來て居まして、夜だけは出して使ひました。是をユリゴタツと謂つたのは、ユリが今いふ圍爐裏のことだつたからであります。朝晩に大きな火を燃やす家では、其ユリも十分に大きく、又この炬燵の櫓も夜分しか出せませんが、炭火を焚くことにすれば明りと兼用にすることが出來ぬ代りに、幾らでも爐を小さくし、又いつでも之を炬燵にすることが出來たのであります。木綿や木綿綿の普及につれて、この炬燵の樂しみは段々と深くなつて來ました。それで家内の少ない靜かな家庭から、先づ今までの爐をぐつと小さくし始め、ふだんは鐵輪に鐵瓶をかけて置いて、お茶でも飲んでしまふとすぐに又、ヤグラを持つて(259)來て炬燵にするやうな家が多くなつたばかりか、後には二階でも離れでも、好きな處へこの爐を切るやうになつたのであります。爐の在り處はもとは一定して居つて、最初は土間の土の上で火を焚いたのですから、牀が高くなつてから後も、底だけは土に屆いて居たのであります。それが斯ういふ手輕なものになると、見たところは同じでも底は地を離れて、何の事は無い嵌め込みの火鉢のやうになつてしまひました。ヤグラに淺い火入れを取附けた置炬燵といふもの、又は行火《あんくわ》といひ番所炬燵といひ猫といふものなどは、むしろ火鉢の方の改良でありました。一人でぽつんと居る者などには、便利といへば此上も無く便利でしたが、その代りには圖爐裏とは縁もゆかりも無い存在となり、從つて又炭火をどうして手に入れるかに就いて、新たに一苦勞しなければならぬことになりました。木炭全盛の時代はこの樣にして、もう日本には到來して居たのであります。

　

　　　　　風爐と焜爐

　

　火鉢や土製の置炬燵が、どこの家にも備はるやうになつて、炭の入用が急に増して來たことは事實ですが、それでもまだ當分のうちは、山の炭竈のお世話にはならずに、どうにか間に合せることが出來ましたのは、臺所の竈の改良があつたからであります。土で塗り固めて袋にした小さな竈は、それ自身が一種の炭竈でありました。燠がたくさん奧の方に溜まれば、薪を焚く場所が狹くなるので、せつせと掻き出さねばなりませんが、竈の外は温度がちがひますから、少しあらけて置くと黒い炭になります。此點が爐の燠の片端から白いじよう〔三字傍点〕になつてしまふのと、大きなちがひであつたのですが、家中が此火のまはりに集まつて居る頃には、是に氣がつく者などは無かつたのであります。いはゆる家の火の分裂が始まる頃から、段々とこの消炭を粗末にせぬやうになりました。家々の火消壺は大きくなり、(260)年寄でも有る處では夏のうちから、ケシコを乾して貯へて置くやうにしましたし火掻き・火すくひの役目は忽ち大きなものになつて、薄い鐡の板を曲げて作つたのが、商品として廣く賣出されました。是を地方の言葉でセンバといふのはわかりませんが、十能と謂つたのは色々の效能が有るといふ意味でした。後には臺を附けて臺十といふ名が行はれて居ます。つまりは炭取では持つてあるかれない炭火の運搬が、家の中で行はれて居た爲であります。

　家に爐といふものゝ無くなつて行く原因は、必ずしも燃料の不足ばかりでなかつたことは、可なり生計の豐かな、いくらでも榾薪の得られるやうな人までが、夙く竈を主とした家に住んで居るのを見てもわかります。全體に是は重要な、至つて古くからのしきたりでありまして、もう時世とは合はぬことに氣づいても、中々簡單には更へることが出來なかつたものです。それ故に一旦爐を中心とした家の神の信仰が薄れ、又爐端の作法がやかましく言はれぬやうになりますと、もうそれだけでも人は爐に火を焚くことを罷めて、もつと小ぢんまりとした爐と煤との少ない家に、住みたいといふ氣になつたかも知れぬのであります。さういふ折柄に、ちやうど焚きものを儉約する必要が起つただけで無く、一方には戸障子間じきりが外の寒さを防ぎ、行燈やランプが家を明るくして、爐の火のまはりにかたまつて暮すに及ばず、おまけに何處へでも持ち運べるやうな、大小色々の火入れ火鉢が出來たのであります。始めは多分春の半ばから寒くなりかけまで爐を塞いで置いて、冬だけは元の通り爐をあけて火を焚いたのでせう。越後などでは長火鉢のことを、今でも夏爐と謂つて居る處があります。しかし越後のやうな非常に寒い處でなければ、一ぺん是を使ひ始めると、さうたび／＼出したりしまつたりはしません。さうして長火鉢だけは他の火鉢とちがつて、めつたに置き處を變へることも無く、主婦の坐るべき座席もちやんときまつて居ました。つまりは昔の爐端の慣行を、許される限りは是へ引繼がうとして居たのであります。

　山形縣あたりへ行つて見ますと、この長火鉢のことをブショウロ又はブショウブロ、ブシブロなどゝ謂ふ人があります。爐で火を焚けば焚きつけを出しに、立つたり動いたりすることが多いに反して、是は炭取でも傍に引附けて置(261)けば、坐つたまゝで大抵の事が出來ます。殊に便利なのは小さな引出しが幾つも附いて居て、ちよつとした道具や入用の書きつけまで、しまつて置くことが出來たので、そこで戯れに無精者には都合のいゝ爐といふ意味で、斯んな名をつけたのであります。しかしそれだけではまだ皆さんにはわかりにくからうと思ふことは、どうして是を又無精ブロとも謂つたのかで、フロは他の多くの土地では、今日はまるでちがつたものゝ名になつて居るのです。茶の湯のお稽古をした人のみは知つて居ますが、フロは元來あゝいふ形をした小型の爐、どこへでも持つて行かれる一種の火鉢の名でありました。まはりをよく圍つて一方だけに口をあけ、空氣の通ひをよくしてあるので、風爐といふ文字が當つて居るやうにも思はれますが、日本の言葉でも昔から、斯ういふこんもりとしたものがフロでありました。たとへば中國地方では神樣の森の周圍に樹の茂つた處がフロであり、又北陸地方では戸棚と我々の謂ふものがフロでありました。浴場をフロバ又はオフロといふのも、元はすつかりまはりを立て切つて、湯氣で蒸されるやうになつて居たからであります。多分は温室や?室のムロと同じ語であらうと私は思つて居りますが、どちらにしたところでお風呂がこの通り普通の語になつては、もう間違ひやすいからこの一種の火鉢を、フロといふわけには行かなくなつて、新たに又焜爐といふやうな、妙な名前が生まれて來たのであります。ところが茶の湯をする人たちの他に東北地方などではまだフロといふ語を用ゐ、貝燒きをする小さなのをカヒフロと謂つたり新式のいはゆる焜爐をハヤフロと謂つたりして居るのであります。一方の浴場のフロと同樣に、この古風な火鉢のフロの方にも、次々の改良がありました。さうして是に伴なうて木炭をわざ／＼買ひ求める必要が、段々と多くなつて來ました。

　實際に又鍛冶や鑄物師といふ職業以外の人々に、炭を今日のやうに親しませたのは、茶の湯のあの風爐の力であつたらうと思ひます。茶の湯はもと大名の遊びと言はれた時代を通つて來て居ますが、必ずしも貴人富豪の眞似をしようといふつもりは無くとも、友と集つて靜かに茶の樂しみを味はゝうとするには、炭を置く時から心を落付けてかゝらねばならず、從つて爐や竈の洩りの消炭を、持つて來る氣にはなれなかつたのであります。或は僧院の晴れの行事、(262)又は神社の冬の祭の式などから、あの嚴肅な感じを學び取つたのかも知れません。ともかくも最初は柴の薪でも、お茶は自由に飲めたものが、追々に流派が起り宗匠がもつたいを附けて、炭を置く作法が先づきまり、次で其種類や形を吟味するまでになつて、しまひには專門の金屬職工も知らぬやうな炭燒きの技術が、是によつて發達して來たのであります。

　　　白炭や燒かぬ昔の雪の枝

といふ句を作つて、白炭の忠知の名を得た俳諧師の現はれたのは、もう二百何十年も前の事ですが、さういふ白く塗つた炭などは普通の家庭には用がありません。もとは燒き方によつて、外の白くなる炭を珍重したのが、後には好んで白い化粧をさせたのであります。豐後の内山には、昔炭燒長者が燒いたといふ枝炭といふものが寺に寶物になつて居ます。是は細い小枝や花の形までが、生《しやう》のまゝで見られる精巧な燒き方ですが、珍しいといふのみで少しでも實用にはなりません。それでも近代の人の歌に、

　　　くれなゐににほふ躑躅の枝炭は

　　　　　花折りくべしこゝちこそすれ

といふのが有るくらゐで、茶の湯をする人たちの間だけには、まだこの枝炭はよく知られて居りました。今日の女性の行儀作法と、茶の湯とは深い關係があります。別に茶道に通じたいといふ願ひは無くとも、一とほりは教へて置かうといふ教育が久しく行はれ、お茶の禮式は普通の家庭に入り、人は知らず／＼炭や火鉢に關する限り、少しばかり趣味が高くなり過ぎました。一方は年に何度といふ晴れの會ですが、この方は毎日の生活であります。それが消炭を侘しいものと思ひ、藁灰を失禮なものと感ずるやうになつたのだからたまりません。池田とか佐倉とかいふ多くの有名な好い炭は、何れも大都市の周圍から産するので、土地が開けるとすぐ高くなります。さうして其中には茶の湯にも金屬工藝にも、關係の無いものが少なくはありません。焜爐の料理は其御蔭で進みましたけれども、火の生計費は(263)急に増加し、しかも木炭の輸送は流し木よりも、又一段と六つかしい問題となつて都會を煖かくしようとする人々の、苦勞の種が一つふえたのであります。

　

　　　　　町の燃料

　

　むかし私が瑞西のジュネーブに住んで居ました頃、或靜かな屋敷町を散歩して居ると前へ行く四十餘りの男が、頻りに路の上にこゞんでは又あるき出します。何をするのかと歩みを緩めてよく見ましたら、兩側の邸内に高く伸びて居る樅《もみ》の木から、澤山に落ちこぼれた枯れた毬果、日本でいふならば松毬《まつかさ》に當るものを、拾つて上衣の隱しに入れて行くのでした。それがまだ初冬の午後であつたのに、今からそんなことではこの先どうするかと思ふやうでありました。多分はお湯だけは是で沸かして飲まうといふのですが、是などはまだ餘裕の有る失業者だつたかも知れません。向ふは御承知の如くパンを買ひますから、水を飲んで居れば食事には火が要りません。それでも寒さの嚴しい年は、大きな町だけには凍え死ぬ者があることは、支那なども同じことで、つまりは大都會の防寒設備は、まだ滿足だとは言へないのであります。我邦は水と燃料とには惠まれた國で、一生この二つの不自由を知らずにしまふ人が、もとは國民の八九割まであつたのですが、それでも新たに町を作る際には、十分にその手當をして居りました。たとへば東北では仙臺ばかりを、森の都などゝいふ人が有りますが、その他の多くの市とても、近年火事のあつたものは別にして、都では無いまでもともかくも森でした。即ち屋敷を出來るだけ廣く取つて、端には大きな樹を栽ゑさせて、薪が足りない年は伐つて焚けるやうにしてありました。東京の町でも山の手はつい近年まで、おまけに郊外には廣々とした林地が、其爲かと思ふやうに殘してあつたのです。下町も大震災前までの地割は、處々に大きな屋敷をまじへて、(264)相應に疎散してありました。其空地へあとから／＼と、少しも燃料の覺悟の無い人たちが、入つて來て住んだだけであります。彼等に對しては瓦斯や電氣が、用意してあるからいゝと思つて居たのですが、斯ういふ非常時の制限は是非がないとしても、元が一つなので故障は大きく、おまけによほど取締を嚴しくしても、値上げの必要が毎度起つて、事實煖まることの出來ぬ人が、少しづゝはふえて來るのであります。木炭を主要な燃料とすることが、どの程度に必要であり、又どれ程六つかしいものであるかを確かめる爲に、昔はどうして居たか、外國ではどうして居るか、此二つを參考にすることは、火の管理者であつた女性の任務です。それを勘定に入れない家政學なんかは、今にひつくりかへつてしまふ時が來るかも知れません。

　西歐羅巴の諸國では、町で炭屋といふ商賣を見かけたことは、少なくとも私にはありません。木炭は藥屋（アポテック）へ買ひに行くものだと、教へてくれた人もありました。化學の實驗などに使ふのが、主たる用途であるからだらうと思ひます。以前石炭の今のやうに出まはらなかつた時代には、料理用の炭といふものはあつた筈ですが、それが爐の薪の焚落しの外に、山から賣りに來るものをどの位使つたものか。使つて居たとしでも分量は至つて少なく、從つて製法も粗末で、とても日本の改良竈のやうな、精巧なもので無かつたらうと思ひます。アルプス山中の炭燒きは映畫になつて來ましたから、見て居られる人があるかも知れません。山の土を穴に掘つて周圍に高く積んで置き、底に木を組んで火を燃やし、よほど燒けたところで急いでまはりの土を掛けて消すので、是にも口傳が有り加減があるのでせうが、それはもう日本では眞似られない方法であります。或は捜したらもつと上手な燒き方もあるだらうと思ひますが、ともかくも今日では我邦のやうな、全國的な商品は無いのであります。

　火鉢に該當するブラジェーといふものが、あちらにも有ることは私は聽いて居ましたが、博物館以外で見たのはたつた一度、今度獨英が激戰した伊太利のサレルノの宿屋で、蓋が有り把手のある眞鍮の手あぶりのやうなのを、番頭が撫でゝ居るのを見かけました。其時は氣を附けずにしまつたのですが、いくら形は似て居ても、中味はこちらとは(265)よほどちがつて居た筈であります。日本の火鉢や炬燵行火の特徴は、藁灰を以て炭の火を包むことでありました。藁灰は實は藁の炭ですから、まはりから一緒に燃えて行つて、小さな炭火でも割合に煖かく又長くもつのであります。この方法はいつの頃、誰が考へ出したかは書いたものには見えません。或は支那の方にも早くからあつたのでせうが、それを眞似するやうな機會は、ちよつと想像することが出來ません。結局は藁を毎日の火に焚く家が多くなつた頃から、其火のあとのぬくもりに居殘るやうな人たちが、自然にさうし始めたものと見るの他は無いので、それが偶然にも火鉢や炬燵の、この樣な珍しい普及を助けたのであります。燠の火を爐の熱灰の中に埋めるだけの技術ならば、家々の主婦たちが何十代の練習を積んで居ました。黒い藁の炭を藁灰といふのを見ても、最初は何と無くそれを利用したのだといふことがわかります。是が温度を永く保つのを知つただけが、新しい生活の經驗であつて、その經驗も亦恐らくは女性のものだつたらうと私は思ひます。さういふ機會は、稻を作らぬ西洋の諸國の、木炭利用者には得られません。それで製造運搬に大きな手數のかゝる割に、火力も少なく不經濟なものだといふことに氣がつき、ちやうど日本とは反對に、成るだけ木炭を使はずにすむ樣な算段をしまして、今では殆と是を燃料の一種とも、認めないやうになつたのであります。

　日本の都會地では、柴薪を手に入れる途が先づ塞がり、次にこの立派な補助燃料であつた藁灰が得られなくなりました。さうして一方には改良焜爐、炭をどし／＼と燃やす方法ばかり發明せられるので、一年増しに其消費量が激増して、此頃では百里二百里の遠くから、運んでも追付かなくなつて居るのです。上品な座敷では藁灰を賤しみましたが、以前は冬のさし入りに、之を捜し求めない家庭は少なかつたのであります。町の藁灰の多くは米俵から取りました。毎年一人當り二俵以上の米が、どこの町でも田舍から入つて來まして、その俵の藁が他には先づ使ひ途が無かつたのです。東京などではよく燒芋屋へ藁灰をもらひに行きました。甘藷は藁の火で燒いたのがおいしいので、爰では古俵以外にも藁を農村から取寄せ、しかもその黒灰の始末には困つて居りました。それを家々では引受けて、白い本(266)たうの灰にしてから、それ／”＼處分したのであります。其爲に火鉢炬燵の炭の入用が少なくてすんだのですから、是も一つの町の燃料といふことが出來ます。薪を竈に焚いて居た頃は、是と合算して都會は莫大な灰の生産地でありました。日本は元來灰の利用法の進んだ國で、染物その他の工藝にも、又食物の調製にも之を使ひ、地方ではわざ／＼山に入つて灰を取る灰山の作業もありましたが、町ではさう澤山の需要が無くて、その遣り場には皆難澁しました。灰を道路に棄て溝に流すことを、禁止した法令も古くからあります。ところが江戸だけは何人の智慮であつたか、之を農村に送る組織が立つて居て、殊に今日の埼玉縣境の、新河岸川などゝいふのは其交通路でありました。さうして其終點の川越の町に、定期の灰市が立ちました。來がけの空船を利用して戸障子の類を運び、それであの町附近には指物《さしもの》の工藝が早く起つただけで無く、一方には誰でもすきな川越藷、その他の畠作物が見ごとに出來ました。大きな都會が周圍の野を開いた力は、單に下水や家肥だけではありません。それが今日となつては全く縁が切れて、たゞ石炭の殻や雜物を田畠の上に積み載せて、氣もちの惡い住宅地を撰げて行くだけになりました。町の燃料の變遷といふことは、どうしても新たに又一つの生活方式を、考へ出さねばならぬ?態に來て居るのであります。

　

　　　　　燃料の將來

　

　昔の人の感覺では、火にはきれいな清い火と、穢れたきたない火との有ることを認めて居りました。御飯は神樣にも先祖樣にも上げるものですから、竈には安心の出來るやうな薪でないと、焚いてならぬものにして居まして、燃料の選擇といふことがやかましかつたのです。朝繩夜藤とか朝藤夕繩とかいふ諺を、今でも年寄は記憶して居て、どういふわけでか藤の蔓や藁繩は、爐に焚くことをさへ嫌ひました。祭や祝ひ事の晴れの集まりに、必ず形のある木炭を(267)火鉢に置かうとしたのも、消炭では何だか其出處が心もとないからかも知れません。ところが愈々薪が遠くから來るやうになると、少なくとも町ではそんな事を構はない人が多くなります。それも最初のうちは浴場のフロの下とか炬燵とかだけで、それ故に炬燵の火で餅を燒いたりすると叱られました。藁火で飯を炊く人たちは、藁ほど清い火は無いと自慢すると共に、濱で汐木を拾ひ川原へ流れ木を掘りに行く者は、本式の薪を燃やす人には氣の毒がられました。實際又川上の方からは、時々飛んでも無いきたない木切れも流れて來たのであります。それがどの火も皆一つだ、火は何でも淨めると、思ふやうになつたのは理科の教育であつて、其爲に忽ち燃料の前途は開け、都會の生活にも一つのくつろぎが出來たのであります。

　さういふ中でも一ばん滑稽な顔をして、罷り出でたのは炭團《たどん》であります。何れ平凡な人の發明だらうと思ひますが、是によつて炭屋の塵芥が、一つの役割をもつことになつた代りに、土や灰などをたゞ眞黒に染めて、練炭でございと賣るやうな癖を養つて、愈々我々の熱量計算を困難にし、都市人の冬の構へを心細くしました。是を安全に保障することは瓦斯や電氣の豐かなる供給にも、劣らぬほどの大事業だと思ひます。ゴミといふものゝ分類が、先づ必要なやうに言はれて居りますが、田舍では大體にその仕分けは付いて居ました。塵とか埃とかは拂ひ出して、自然に落ち付くのを待つより他は無いもの、芥は水に沈んで朽ちて段々と土になつて行くもので、是等もしまひには農業の助けとはなりましたが、其處分には時を掛けるだけで、火とは何等の關係は有りません。燒いて片付け且つ利用しようとして居たのは、ゴミでありゴモクでありました。是には主として木竹の葉や小枝、藁屑その他の作物の殻類がありました。薪が不足するか又は賣つて金に換へられるとなりますと、斯ういふものもたゞ燒き棄てゝしまはずに、其中から少しづゝ焚きものに採用したので、藁や枯松葉を竈に燃やす土地は言ふに及ばず、近年村落に著しく据風呂の多くなつたのも、すべてこのゴミ・ゴモクの利用の進みであります。ところが都會だけが場所が狹い爲に、やたらにこのゴミと塵芥との三つを混同し、おまけに瀬戸物硝子の破片のやうな、あぶないものまでもごみ箱に投込むので、今まで(268)は始末が付かなかつたのであります。今度はどうやら改良の絲口が見つかつたやうで、やがて我々のかじけないでもすむ冬が、來ることであらうと思ひます。

　ゴミといふ言葉の起りはわかりませんが、是は火に焚けば燃えるもので、今までは棄てゝ省みなかつたものゝ總稱のやうであります。ゴミの整理が燃料の増加になつた實例は、算へ立てると中々ありますが、大抵は一種づゝで、それも土地の人たちが皆共にで無いと新たにさういふものを焚く氣にはならぬのです。蠶に桑の葉を給したあとの枝は、クハデと謂つてもとは竈には焚かず、始末にこまつて居た人が多かつたのですが、もう今では普通の焚きものになつたばかりか、桑畠整理によつて掘り起した根株まで、冬の用意に積んで置く家があります。羽後の飛島などでは、全島に生ひ茂つた虎杖《いたどり》の枯莖だけが燃料で、その御蔭に松も少ないこの島に、澤山の人が住んで居ます。萱や沼邊の蘆ばかりを燃料にして、暮して居るといふ村も處々にあります。もつと變つたのは津輕の十三潟の周圍に、サルケといふ土を焚く風習で、是は色々の植物の半ば炭化したのを、田の底から掘り出して煉瓦型に切り、高く積み上げて置いて乾かしてから焚きます。一種獨特の煙の香がするのと、眼を疾む人が多いので、通行の者にもすぐわかります。秋田縣の雄物川流域にも、是に似たものをネッコと謂つて、焚いて居た處があります。越後から信州の一部にかけてヤチマグソと謂つたのも其類で、何れも煙には構はずにたゞ爐にくべるだけらしく、之に相應するやうな竈の装置はまだ無いかと思はれます。人が薪炭の缺乏にどれだけまで堪へるかといふ試みのやうなもので、是たゞ一種では住みつゞけられもせず、又さういふ生活方式もまだ固定して居ないことは、今日東北の方から盛んに入つて來る亞炭や褐炭も同じであります。未來の燃料はたゞ之を見つけ出しただけで無く、どうすれば我々の毎日の要求に、ぴたりと合ふだらうかを考へて見なければなりません。大きな問題がまだ殘つて居ります。

　石炭を炭薪の代りにすることを、西洋人から教へてもらつたやうに思ふのはまちがひであります。新たに日本の國民が心付いたのは、地下にもまだ澤山に埋もれて居て、掘り出せば使へるといふことだけで、地上に近くあるものだ(269)けは、早くから其土地では知り且つ利用して居りました。ウニとかスクボとか、關西地方で謂つたのもそれであり、もつと弘く知られて居るのは、ゴエダ又はゴヘイダといふ名であります。何か五平太とでもいふ人が見つけたやうにも思はれますが、是等の言葉の起りはまだ明らかでありません。磐城の海岸線でも折々見られるやうに、よく／＼他の燃料が無いときは是も使ひますが、臭くて煙が多くて日本の火焚き場に向かぬことは、今も百年前も同じであります。全く外國を眞似した家屋に住むか、さうでなければ特別の竈を普及させなければ、まだ我々の新しい燃料とは言へないのです。もちろん此品物の産出が年々に多く又容易になり、是が公共のあらゆる機關、船や車やさま／”＼の工場にも利用せられて、間接に在來の燃料を豐かに殘してくれることは、何とも言へない心強さでありまして、御蔭で今までの人のやうな、是から先はどうして行くかといふ、取越苦勞をする必要はなくなりましたが、ともかくも希望はなほ未來に在るのであります。石炭の火で食べ物をこしらへたり、又煖まつたりして居る人の數は、昔に比べてさう多くもなつて居りません。

　永い日本の歴史を振り返つて見ましても、火の昔のやうに次々と事情が移り變り、前に普通であつたことが珍しくなり、よもやと思ふことが新たに起り、困れば又忽ち途が開けて、いつも樂しい未來を豫期することの出來たものは他にはありません。最初廣々とした山野を伐りあけて、少しの燒畑を作つて居た頃には、人はむしろ樹木の餘りによく茂るのに閉口して居たのです。倒した大木でも燒き拂つた炭でも、皆ほつたらかして還つて來て、是が價のあるものにならうとは思つても見なかつたのであります。しかも段々に邑里が繁昌して、薪や油が幾らでも入用となりますと、もう一度山へ入つて細い柴の枝まで刈り束ね、又は古い根株を掘り起して來て、餘りを多く殘して足りない人たちに分けました。爐や竈はさうなつても少しも差支への無いやうに、いつの間にか改良が加へられて居りました。つまりは少ない燃料で多くの人を煖まらせる考案を、誰がしたとも無く一同で爲し遂げて居るのであります。今度は空前の大戰役の爲に、又一囘の缺乏に見まはれましたけれども、もう一方には石油があり石炭があり、瓦斯を導く方法(270)も備はつた上に、更に電氣といふ驚くべき發明が、幾らでも利用せられる?態まで進んで來て居るのであります。さういつ迄も我々を我慢させ辛抱させるだけでは置くまいと思ひます。賢く活きて行くことは日本人の特長でありますが、その特長を發揮させるにも、やはり今までの成功の經驗と、多數を幸福にするといふ希望とを以て、勇氣づける必要があるのであります。

　燃ゆる土・燃ゆる水が日本に在ることは、大昔以來知られて居りました。たゞそれを我々は、急いで使はうとしなかつただけでありました。土が木を生み木が火を生む以外に、金からも火を取ることが出來ることは、學者が説いたばかりで無く、同時に常人の實用知識でもありました。たゞ最近まで全く氣づかずに居たことは、瀧や早瀬の水の力が、金屬の機械を通れば火に變るといふことで、まだ／＼此世には人間の光となり熱となるものが隱れて殘つて居るといふことが是でよくわかり、もつと考へて見よう働いて見ようといふ人が、急にその爲に多くなつて來ました。電氣は我々の交通方法を根本から改良し、又色々の精密な工作機械を動かして居る以上に、もう全國一千萬からの家庭の、夜の燈火ともなつて居るのであります。是が家々の食物を調理し、年寄や子供の身を温める火となるのも、決して遠い／＼先のことではありません。もちろん費用といふことが大きな問題ですが、それよりも線を使はずに、どこへでも運べることが重要な條件だと思ひます。谷の奧なら木が多いからまだよいかも知れませんが、小さな離れ島に離れて住む人が、日本には非常に多いからであります。中央の山脈が高くて雨のよく降る國ですから、水力の源は盡きる時がありませんが、海の眞中の小島だけはそれも望むことが出來ないのです。或は是から後は絶えず吹く強い風、大きく寄せて來る激浪の力を、電氣にするやうな方法も考へなければなりますまい。又それを小さな漁船などにも貯へて持つてあるく手段も見つけなければなりません。我々の樂しんで働くべき仕事は、まだ／＼眼の前にも澤山に横たはつて居ります。

　

(271)　　　　　火の文化

　

　人と他の生物とのたしかな境、彼等がいつまでも原の姿で居て、人ばかりがどし／＼と進み改まつて行く岐れ路が、火の利用であつたことは誰でも言つて居りますが、その最初があまりに遠い昔であつた爲に、是を思ひ出し感謝するやうな機會は少なく、たゞ現在あるものを當り前と思ふ者が多くなつて、時々はもつと良くするといふ念願が衰へかけて居ました。ところが今度はいよ／＼大東亞圏内の、何百といふほどのちがつた民族と共々に手を取つて進んで行くといふ時代に入つたので、土地により又は教養によつて、同じ原住民と呼ばれる人々の中にも、火の利用の仕方に著しい差等のあることがわかり、それが又日本國民の以前にやつて居たことゝ、似よつた點が幾つもあることに、或不思議さをさへ感ずるやうになつたのであります。此等の諸民族に關する書物が、近頃は數多く出て居ります。もし折があつたら其中から、火はどうして居るかといふ點に氣を付けて御覽なさい。きつと考へさせられることが色々あるでせう。

　先づ第一に火がどういふわけで、此樣に人の親しむものになつたかといふことが考へられます。寒いからあたる、あたれば煖かくなるから火の傍を離れられぬといふことも無論ありますが、それが一ばん大きな火の恩惠であつたとは思はれません。最初の經驗は煖かいよりも熱いで、人はまだ之を加減することを知らなかつたらうからであります。火をたよりにして寒い土地へ、入つて行くといふことは出來たかも知れませんが、寒地で始めて火を學んだ者が有るとすれば、是にたよらない生活も有り得たのであります。暑い島々では勿論さういふ火はいりません。それでもやつぱり火は大事に守り續けて居るのであります。闇の不安と怖ろしさとを追拂ふ爲に、焚き火を月の光の代りにするこ(272)とも必要でありましたらうが、是には今一つ、匿れてじつとして居るといふ方法もありますので、火はむしろ人が集まり、何か行動をするやうになつてから、大きく焚き上げる風習が始まつたものとも見られます。南北暑寒の二帶を通じて、群にも個人にも共に入用の早くからあつたのは、やはり食物を食べよくすることでなければなりません。

　次のやうな場面がまづ想像に浮びます。噴火とか落雷とか又は密林の摩擦とか、何か自然の炎燒のあつた處へ、やゝ下火になつてから近づいて見た者が、今まで生のまゝで食べて居た樹の實や草の根、又は小鳥の類が半燒けになつて落ちて居るのを見つける。試みに拾つて食べて見ると格別に風味がよろしい。煙草以前の人たちは殊に鼻の感覺が鋭かつたので、あのかうばしい〔五字傍点〕と名づくる香氣が、忘れ難い印象を與へたかと思はれます。其經驗を二度三度、又は幾人かゞくり返すうちに、何とかして一つこの赤い熱い不思議なものを、めい／＼の洞穴に持ち込んで、愛する同居者と共々に、同じやうな食物を味はつて見たいといふ、氣持になるのも自然であります。赤道直下の森の人々でも、食物のためには皆火を焚きます。さうして最も古風な料理法といふものは、生で食べてもよいやうなものを、其まゝ焚き火の中にはふり込んで燒くことでありました。日本のやうに十分に開けた國でさへも、此方法はまだ全く忘れてしまつては居りません。栗や薩摩芋は皮を剥きますから、斯うして燒いても少しもきたないことは無く、又樂しみなものとも考へられて居ります。それよりももつと古風で無造作なのは、山に入込んだ村々で茶の子などゝいふ團子で、是は朝飯前に一仕事をする者が、起きぬけに食べて行くものとなつて居ます。粟稗屑籾の類を粉に挽いて水で捏ねたもので、大きさは一番の護謨《ごむ》球ほどもあります。是を前の晩から爐の火と共に埋めて置いて、翌朝は掘り出して灰をはたき、馬上でかじりながら草刈りに行つたものだといふことです。勿論こんなものをかじる人は段々少なくなりますが、以前は餅なども餅燒き網やテッキュウが買へなくて、斯うして燒くのが普通だつたのであります。昔話の「和尚と小僧」の中にも、和尚が小僧を村の建前に見せにやつて、其あとで一人で餅を燒いて食べます。それを小僧が勘づいてすぐに途中から引返し、普請の模樣を話すのに、火箸を柱にして方々の灰の中に突き立て、いけてあつた餅を(273)皆出してしまふといふ笑話があり、或は名前をフウフウと變へてもらつて、和尚が夜分に燒餅の灰を吹いて居ると、はいと返事をして起き出して來る話などもありました。

　しかし食物が灰まみれになることは、どうせ氣持のいゝもので無いので、後には燒串といふものを考へ出しました。是が未開の熱帶島人などの中にも、有るかどうかは私はまだ知りませんが、日本では竹を削つて串にする方法が發達しました。それから魚などは形をこはすことを厭うて、細い木を二つに割つて中に挾み、其一方の端をよく合せる爲に、タマクラといふ小さな土製の輪を用ゐ、其串の木にも樟や鳥小柴のやうな、成るべく香の高い良いものを使ひました。餅や團子のやうな圓いものは、串に刺すより他はなかつたと見えて、今でも山で食べる御幣餅などは、必ず串に刺して爐の灰に立てゝ、兩方から焙るものときまつて居ります。豆腐は古くからあつた食物ではありませんが、是も燒くときには皆串に刺しました。今では長い焜爐の上に横にするので、何故に田樂といふのかわからなくなりましたが、もとは味噌を附け長い串にさして、斜に火の上にかざした樣子が、田樂の一足といふ舞に似て居るので、戯れに斯んな名を附けた人が有るのであります。

　一方には又もつと簡單な燒き方として、包み燒といふのが考へ出されました。多分は廣い木の葉の中に食物を包んで、ぢかに燃えて居る火の中にくべたものでせう。茶の子團子のやうなばら／＼のものを結び固めた食物は、斯うして燒けば灰まみれにならずにすみます。東北地方でホド蒸しと謂つたのは、即ちこの包み燒のことで、ホドは前にも述べたやうに、圍爐裏の眞中の火の燃えて居る處のことであります。私なども小さい頃に、卵だけはよくさうして燒いてもらひました。是は反古紙を沾《ぬ》らして幾重にも包み、火鉢の中に埋めて置くのでありますが、包みやうが惡いか沾らし方が足らぬかすると、折々破裂して灰神樂を舞はすことがありました。あんな手輕な?卵《ゆでたまご》のやうなものでも、ちやうど火鉢に載せるやうな小さな土鍋の無い頃には出來なかつたので、まだ此樣な古い方法が傳はつて居るのであります。

(274)　我々が穀物を食べるのは最初からでせうが、是にはやはり之を炊く器物の、無かつた時代を想像することが出來ます。米が五穀の中で最も貴いものと認められたのも、生で咬んだときの味はひが、遙かに他のものに優つて居る爲かと思はれます。實際に又生米を咬む風習は近い頃までありまして、農家ではそれを制止するのに骨を折りました。燒米といふものゝ味はもう忘れた人が多くなりましたが、もとは之をこしらへて神と先祖に供へ、人も食べる日が一年に二度ありました。一ぺんは舊暦八月の穗掛刈掛の日、まだ十分に實の入らぬ稻穗を少し扱いて、籾をよく燒いて臼で搗いたので、その米粒には皺があるので、シワゴメとも又ヒラゴメ（?米）とも謂つて居りました。今一囘は四月の苗代始めに、種籾の餘りを乾かして燒くので、水に浸けたのはふくれて居てまづいので、別にこの日の燒米の料を用意して置く家もありました。焙烙《はうろく》や妙鍋が備はつて居れば何でもありませんが、此風習も恐らくはさういふ道具よりも古くからあるので、やはりどうして籾を燒いたかゞ問題になるのです。二つの方法が我々には想像せられます。

　一つは穗のまゝで集めて燒いてから、後で灰やごみを拂ひのけて、殘りを掃き集めるものであり、もう一つは石の上に大きな火を燃やし、石が燒けてから急いで其火をのけて、其跡に籾を置くものであります。恐らく二つとも用ゐられて居たものでありませう。

　　　岩の上に小猿米燒く米だにも

　　　　　たげて通らせかましゝのをぢ

　斯ういふ珍しい古い歌が、昔の童謠だと言つて傳はつて居ります。猿や羚羊《かましゝ》が燒米を食べた筈はありませんが、人がさういふことを皆して居た時代だから、彼等もその眞似をするかのやうに思つて、面白がつたのだといふことは想像し得られます。

　人が石の破片を道具にして居た大昔から、もう我邦には土器といふものが有りまして、土の中から一しよに出て來ます。その土器の中には火に掛けたと見えて、お尻の黒く焦げたのも折々はまじつて居るのですが、太平洋上の多く(275)の島々には、今ですら土の鍋釜を全く持たぬ人民が、幾らとも無く住んで居るのであります。土器も造ることが出來ぬほど、智能の劣つた者ばかりが居るわけでなく、造る手段が無いから考へ出せなかつた者も少なくはないのです。日本の中でも八丈の南の青ヶ島などでは、島に土器を燒く粘土が無くてたま／＼外から入つて來る鉢や�ｺ利を、寶物のやうに大事にして居ます。沖繩縣でも八重山の島々では、たゞの赤土に蝸牛の粘りを搗きまぜて、非常な苦心を以て壺類を燒き、附近に供給して居た一つの島がありました。土器は内地の方でもどこにも生産するといふもので無く、殊に鐡の鍋釜に至つては純然たる商品でありまして、賣りに來てくれなければ無くてすませ、又はたつた一つの物を以て間に合せなければなりません。古い先祖の火の利用法が、いつまでも殘つて居たのは其爲であります。さうして南海の島の住民には、今までは煮炊きの道具を與へようとする、親切な人が少なかつたのであります。改めて大いに考へてやらなければなりません。

　前に私は日本の米の飯が、蒸し物の強飯から段々とカタカユ（?）に移つて來たことを述べて、是も竈とお釜の改良のお蔭であつたことを話しましたが、火の利用が色々の道具よりも早いことを考へますと、その又一つ前のものを想像せずには居られません。釜に湯をたぎらせて湯氣を揚げるといふことは、さう容易な仕事ではありません。普通の土燒きの鍋や釜では、少し強い火に掛けるとひゞが入つて漏つてしまひます。始めは恐らくはホド蒸しのやうに、水によく濕した米を木の葉に包み、熱灰の中に埋めて火を焚いたものでせう。それがいつと無く桶甑、又は土甑の採用となり、更に組蒸籠のやうな便利なものになつたのは、へつひと釜との大きな改良が、之を誘うたからと見るの他は有りません。御飯の煮方の今日のやうに進んだ後まで、なほ祭や祝ひ事にはこの強飯で無ければならぬとなつて居るのも、源に溯つてまだ蒸飯の味と趣きとが、黙つて國民の間に傳はつて居るからであります。尋ねて見るならば我々の祖先の活きて來た跡は、決してまるつきり埋もれてしまつては居りません。さうして大よそは大東亞圏内の、今も文化の恩惠に浴しない人たちと、似かようたものを持つて居たのです。我々は夙くさういふ不便な境涯を、通り拔(276)けて進んで來ました。だから是からは餘つた力を分けて、おくれて來る者を扶けてやらなければなりません。

　

(277)　　　村と學童

　

(279)　　　　　はしがき

　

　疎開學童の讀物が足らぬといふことを聽いて、どうかしなければならぬと思ふ者は多い。それには今までの本を集めて送るなり、何か良いものを寫し取つて與へるなり、他にもまだ色々の方法は有るだらうが、自分は大體に次の樣なことを心に置いて、新たにこの一册をまとめて見た。

　まづ第一には始めての土地に入つて、急に活き／＼として來た注意力と知識欲とを、出來るだけ一生の爲になる方向へ働かすやうに、當人たちにも考へ付かせることである。今まではたゞ言葉としてのみ聽いて居た觀察とか理解とかいふものを、又と得難い今度の機會に於て、十分に體得させたいといふ願ひを私は持つて居る。それには何よりも彼等自らの疑問を以て、發足點としなければならぬわけであつて、境涯の全くちがつた自分の如き者が、作り設けた問題は適切とは言はれぬかも知れぬが、この趣旨には必ず賛成の人が有つて、同じやうな書物は是からも出るであらうし、又自分でもなほ追々と、學童の知りたがるやうな題目を見つけ出さうとしで居る。

　第二にはこの本の讀者を、專ら五年六年の大きな生徒の中に、求めようと私はして居る。それは必ずしも小さい人に讀ませるものを書くのが、むつかしいからといふ理由ばかりで無い。實際に又上級の學童、殊に女の子たちの中に、讀物の缺乏が甚だしいと思ふからである。家に居るうちは、親兄姉などの讀んで居るものを、少しは借りても見ることが出來たのだが、疎開の土地ではそれが望まれない。さうして是までの學童用といふものは、通例は三年か四年を目標として居るやうで、讀書力のやゝ進んだ高學年の兒童には、とかく斯ういふ讀物を甘く見る風があり、やたらに數ばかり多く讀み飛ばして、大部分は忘れてしまふやうな惡癖をさへ生じて居るのである。前に中央公論社の綴方全集や、其他數種の兒童文集を讀んで見た時にも、可なりはつきりと自分には氣がつ(280)いたことだが、文章の上から見て、この五年といふ學年がちやうど一つの境目になつて居る。單に内容の複雜を悦ぶといふ自然の傾きが現はれるのみで無く、それに用ゐられる新しい語句と表現法とに、急に大きな興味をもつやうになるらしく思はれる。勿論他人の口眞似が賤しむべきものだといふことをよく教へて置かないと、時々は心にも無いことを書くといふ危險も有るが、その點さへ警成して居れば結果には頼もしいものが有る。即ちめい／＼の自力を以て、始めて知る言葉の意味と眞價とを、覺え込まうとせずには居られないからである。國民古來の歴史から考へても、人が一人前の日本人と成る爲に、是は最も重要な年齡であつた。昔の言葉でも「物心がつく」と謂つて、一々傍から斯く思へ、斯く感ずべしと勸めなくとも、獨りで段々と觀察し又理解して、それから得たものを以て一生の體驗を養ひ立てる時期なのである。それが今囘の如き絶大の機會に惠まれて、折角新鮮なる印象の中に入り浸つて居りながら、たゞ言葉の供給が足りないばかりに、我と我が思想を導いて進むべき手段を缺くとすれば、損失は決して當人たちだけのもので無い。それ故に自分は先づこの年頃の學童の爲に、社會と人生とを周圍の事物の間から、覺えて行くやうな路を開きたいと思ふのである。

　言葉の選擇に關しては、自分は幾分か他とちがつた考へ方をしてゐる。耳で學量の聽いて覺える言葉、私たちの中で耳言葉と名づけるものゝ分量は、はたで推察するよりも實際はずつと多いもので、殊に十一二歳にもなると、子供の質にもよるが一體にそれが急に増加する。必要なことはたゞどういふ文字を以て書き、またどういふ風に使つたのが一番正しいかを知らせるといふ點に在る。だから一ぺん以上本式の教科書で、教へられて居る單語句法に限るべしといふよりも、寧ろ毎日耳にして居る言葉に、出來るだけ近い文章を書いて與へることが、彼等の注意を引き寄せる力であると思つて居る。但し自分の今書いて居るものが、最も安らかであり又適當なものであると、自信して居るわけでは決して無い。成城學園の柴田勝君、其他二三の知友の批評では、全體に少しむつかし過ぎるが、たゞ高學年のやゝ讀書力の進んだ學童だけが、わかつて珍しがるだらうといふことに一致した。(281)前にも言つたやうに、五六年の生徒の、現在の本の讀み樣はよほど荒つぽい。今までの如く弟妹たちとおもやひに、樂に又忙しく見て居た氣持では、この本を味はふことの出來ぬのも致し方が無い。二度や三度は同じ處を讀み返し、又は間を置いて讀みなほす位な熱心が無いと、面白くならぬことは確かであり、又そんなに迄するだけのねうちが、有るかどうかも問題であるが、幸か不幸か今日は讀物がまだ足りない。少なくとも是から出て來る色々の良書の爲に、細かく讀み且つ十分な利用を心がける練習に、この本は役に立つことであらうと思ふ。

　この本を書き始めたのは本年の正月、三月の末までにこの倍ほどのものが出來たのだが、半分を先づ世の中へ送つて見ることにした。最初は豫期しなかつた色々の故障によつて、活字も小さく本の數も少なく、めい／＼が手に執つて靜かに讀むといふことが望めなくなつた。さうなると又先生たちの苦勞の種で、是を朗讀して仲間に聽かせるとしたら、説明や註釋などゝいふことが必要になると思ふ。しかしさうなれば又それだけの利益もあつて、少しは四年以下の兒にも興味がもたれ、早く大きくなつて斯ういふものも讀んで見たいといふ、新しい刺戟にもなることであらう。他の一方には又土地の人々の、何か疎開の兒に爲になるやうな話を、して聽かせたいと思つて居る者にも、この本は多少の參考になるであらう。今まで何處でもこの通りと考へて居たことが、めつたによそでは出逢はぬことだつたり、又はその反對に爰ばかりと思ふことが、遠く離れた多くの土地にもあつて、愈々その由來を究めずには居られぬ問題が、幾つと無くこの本の中に含まれて居るからである。世が治まり國が益々榮えて行く際に及んで、この大切な知識を人生の役に立て、又は之を一段と正確なものにして、次の代へ傳へるのも諸君の任務である。さういふ諸君の爲にならば、私はまだこの上にも働いて見たいと思つて居る。

　　　　　　　　昭和二十年七月

　

(283)　　　　　母の手毬歌

　

　　　　　　　一　正月の遊び

　

　皆さんは今度の疎開で、うちに靜かに暮して居る樣な時間は無くなつたけれども、其代りには今まで丸で知らずに居た色々の珍しいことを、見たり聞いたりする場合は多くなつて來た。村には前々からの生活ぶりをよく覺えて居て、親切に話をしてくれる人が有るものである。さういふ話の中には、いつまでも役に立ち、又永く樂しみになるものが多い。注意して聽いて還り、年をとつた人々、又弟や妹たちにも御土産にしなければならない。その一つの御手本として、私がもう六十何年もの間、忘れずに居たことを一つ書いて見よう。

　戰時の田舍の御正月は、もうどういふ風に變つて居るか知らぬが、近い頃までは女の子の初春の遊びには、羽根羽子板と手毬とがあつた。この二つは、自分の手と體?とが思ふやうに動くことを知る初めての機會である故に、大抵の子供には嬉しくて止められず、大きくなつてからも正月が來るたびに、いつも思ひ出す樂しい遊びであつた。ゴム毬のゴムが無くなつてしまつた淋しさ、それを南洋の皇軍から、わざ／＼送り屆けてもらつた悦びなどは、今でも忘れずに居る人がきつと多いことゝ思ふ。ところで其｜護謨《ごむ》といふものゝ日本に現はれたのは、明治の世の中もやゝ後になつてからの事で、田舍では皆さんのお母樣ぐらゐの人までが、小さい頃にはまだ御正月に、木綿絲を卷いてこしら(284)へた手毬を突いて居たのである。白の木綿絲をまん丸に卷き上げ、その上をカガルと謂つて、紅青黄紫の鮮かな色の絲で、花や菱形の美しい形に飾つたので、その美しさを女の兒が愛して居た爲に、護謨毬になつてから後もなほ暫らくの間は、そのゴム毬の上をもとの絲かゞりの通りに、彩つて塗つたものが流行して居た。木綿絲の手毬も作つて店で賣つて居たけれども、さういふのは中味が綿ばかりで、絲は少しゝか卷いて無いので、潰れやすくもあり、又ちつとも彈まなかつた。女の兒たちが自分で作つた手毬は、出來る限り卷き付ける木綿絲を多くし、その芯にはごく少しの綿を丸くして入れ、又よくはづむ樣にと謂つて、龍の髭の緑色の實を包んだり、蜆貝《しゞみかひ》に小さな石などを入れて包んで、幽かな音のするのを喜んだりして居た。手毬に卷く木綿絲などは、もちろん長いものを使ふのでは無かつた。その頃はまだ家々で木綿機を織つて居たので、其織絲の端の方の、もうどうしても布に織れない部分、普通にキリシネともハタシの絲とも謂つて、三四寸は切つてのけるものを貰ひ集めて、それを一本づゝ丹念に繋いだものであつた。

　一つの毬を卷き上げるにもなか／＼時間がかゝつた。母や祖母はその子の喜ぶ顔が見たさに、よその家のキリシネまでも無心をしてあるいたり、又手傳つたり指圖をしたりして、どこの家でも正月が來るまでに、二つか三つかの新しい手毬が出來て居た。夜もこの新しい手毬を枕もとに置いて、もう幾つ寢ると御正月と、指折り算へて居た子供は多かつたのである。

　

　　　　　　　二　手毬と木綿絲

　

　手毬がこの樣に美しいものになつたのは、木綿機が家々で織られるやうになつてから後のことである。木綿といふものゝ我邦に知られたのは、相應に古い頃からのことであつたやうだが、木わた〔二字傍点〕といふ作物を諸處方々の田畠に栽ゑ、それから綿を取り絲を紡いで、誰でも木綿の着物を着るやうになつたのは、江戸時代も中頃から後のことで、其以前(285)には冬も麻布の衣服を着るのが普通であつた。麻絲は晒して眞白にすることがむつかしく、又木綿のやうの紅や青の鮮かな色には染まらなかつた上に、これで織つた布が長くもつので、さうたび／＼は機は立てなかつた。そればかりかこの絲は木綿のやうにふつくりとはして居ないから、手毬に卷き付けても今のゴム毬のやうには、ついてよく彈まなかつたのである。其爲でもあつたらうか、ちやうどこの木綿絲を手毬に利用することが始まつた頃から、段々と手毬の遊びが變つて來た。近い頃の手毬はつく〔二字傍点〕と謂つて、板の間とか土の上とかに打ち付けて、跳ね揚つて來るのを又打つといふ、幾らか間の早い遊戯になつて、それを上手に續けてつく面白さが、又一段と加はつて來たのである。

　浮世又平の浮世繪などを見ても、もうあの時代から女の子が膝を突いて、手毬をつく所が描いてあるが、是はその頃にはまだ珍しい遊びだつたのであらう。麻の機絲の切れ端を繋ぎ合せて、手毬に卷いて居たといふことは何の本にも書いて無いやうだが、木綿絲の多くなる以前には、それをしなかつたら手毬は無い筈であり、又それが有つた故に、木綿絲の手毬も段々に流行することになつたものと思ふ。つまりは絲を卷く手毬は新しいものでは無いけれども、それが木綿の絲に變つた爲に、急に手毬といふものは珍しく、又女の子の遊びが以前に比べて、ずつと面白いものになつたことだけは爭へないのである。

　是は民謠覺書といふ本の中に、詳しく書いて置いたから、大きくなつてから讀んで御覽なさい。我々の持ち傳へて居る手毬歌の中には、氣をつけて見ると二通りの種類がある。其一つはやゝ間の早いつき毬の歌で、

　　　とん／＼叩くは誰さんぢや

とか、又は、

　　　つく／”＼ぼうしはなぜ泣くね

とかいふやうな、歌の言葉からもそれと到るものがある。今一つの方は揚げ毬と謂つて、空に向つて二つ又は三つの手毬を投げ上げて、手に受けては又揚げるといふ動作をくり返す遊びで、この方は毬の高低によつて、歌の節を長く(286)も短くもするのが又面白く、是ならば彈まぬ手毬でも遊ぶことが出來た。私などの小さかつた頃には、もうこの二通りの遊び方は共に行はれて居たけれども、私の母などの樂しんで歌つたのは、主としてこの高く揚げる方の手毬歌であつた。

　

　　　　　　　三　母と手毬

　

　私の母は、今活きて居ると百六歳ほどになるのだが、もう五十年も前になくなつてしまつた。男の子ばかりが八人もあつて、それを育てるのに大へんな苦勞をして、朝から夜までじつとして居る時が無いくらゐ、用の多いからだであつたのに、おまけに人の世話をすることが好きで、よく頼まれては若い者に意見をしたり、家庭のごた／＼の仲裁をして見たり、とかく理窟めいた話が多く、どちらかといふと女らしい所の少ない人であつたが、それで居て不思議に手毬だけを無上に愛して居た。うちには女の子は一人も無いのに、剰つた木綿絲さへ見れば、きつと自分で手毬をかゞつて、よその小娘にも遣れば又うちにも置いたので、私たちの玩具箱には、いつも二つも三つもごろ／＼して居た。さうして私たちがたま／＼ついて見たり揚げて見たりして居ると、傍へ寄つて來て正月で無い時にも、自分で上手に遊んで見せてくれた。しかし母のはいつでも揚げ毬の方であつた。さうして其歌が村の女の子たちの歌つて居るのとは、大分にちがつて居た。それを何べんも聽いて居るうちに、わざ〔二字傍点〕は眞似ることが出來なかつたが、歌だけは私も大よそ覺えてしまつたのである。

　明治の御代の中頃に、大和田建樹さんといふ國文の先生が、日本全國の手毬歌を集めて、大きな本にして出されたことがある。その時にはもう母は居なかつたのだが、私はこの書物を讀んで見るたびに、母を思ひ出してなつかしかつた。さうしていつか一度は「母の手毬歌」といふやうな文章を、書いて見たいものと思つて居た。母が歌つて居た(287)手毬歌は三通りほどあつたが、その中の二つ、

　　　とのは丹波の助三《すけさぶ》さまよ……

といふのと、

　　　寺へさしやげて手習させて……

といふ歌とは、文句は少しづゝ變つて居ても、日本の東にも西にもあつた。しかしもう一つの「鎌倉の椿」といふのだけは、その大和田氏の歌謠類聚の中にも、又他の色々の本にも、そつくり同じといふものがまだ出て居ない。それが私には非常に興味深く、今でも感ぜずには居られないのである。

　

　　　　　　　四　あれ見やれ向ふ見やれ

　

　母は自分でも娘の頃といふものが、大へん短かゝつたと謂つて歎いて居た。さうであつたらうと思ふことは、たしか十四の年に兄二人と、つゞいて母親とを失つて急に家が淋しくなり、父と小さな妹とを世話しつゝ、貧しい家計を立てゝ居た。二十歳で私の家の人になる前に、僅か一年ほど藩の大きな武家へ見習奉公に出て朋輩も多かつたといふことだから、そこの正月の遊びで學んだのかも知れぬが、多分はそれよりもずつと前、まだ十幾つの幸福な小娘だつた頃に、斯ういふ手毬歌に夢中になつて居たことが有るのであらう。ともかくも歌の言葉があまりに古風なものだから、何處でもそれを知つて居た女たちは皆居なくなつて、近年の採集には洩れたものと思はれる。

　長い歌だから、少しづゝ切つて説明をして見よう。片假字を用ゐた部分は、特に言葉を長く伸ばして歌ふところである。揚げ手毬では毬を高く揚げるたびに、文句にも力を入れて時間を合せるので、それが女の子たちにはこの上も無く面白かつたのである。

(288)　　　あれ見ィやれむゥかう見ィやれ

　　　六まい屏風にすゥごろく

　　　すごろォくに五ォばん負けて

　　　二ィ度と打つまいかァまくら

　　　鎌くゥらにまァゐるみィちで

　　　つゥばき一本見ィつけた

　屏風とか雙六盤《すごろくばん》とかは、もとは京鎌倉の家々だけに在るもので、久しく名は聽いて見たことの無いといふ女や子供が多かつた。それが少しづゝ田舍へも入つて來た始めには、この樣な珍しい、誰でも見たがるものは他には無かつた。それで手毬の唄には、最初に傍に居る者が斯ういふことを謂つて、手毬を揚げる者の眼をふと手毬から離れさせて、受けそこなはせようとした戯れの言葉であつた。それが後にはいつと無く自分でも、さう謂つてこの遊びをするやうになつたものらしい。私などの若い頃までは、村に入つて來る遊藝人の群の中に、品玉と稱して三つの手毬を高く投げ揚げて、それを巧みに受けて見せる者があつた。それには必ずひようげ役〔五字傍点〕といふのが脇に居て、色々をかしいことを謂つて其藝をしくじらせようとしたものであつたが、それが斯ういふ女の子の歌にも、傳はつて居たものと思はれる。とにかくに今も殘つて居る全國の手毬歌には、是と同じやうに「あれ見やれ」とか「向ふ通るは」とかいふ文句を以て始まり、毬の落ちて來るのを見つめて居る子の注意を、外へ向けさせるやうにしたものが多いのである。もとはさういふ歌を傍の子供たちがうたつて、囃したりはぐらかさうとしたりしたらしいのだが、それには又、雙六とか六枚屏風とかいふ樣な、珍しいものゝ名を出すのがをかしかつたものと思はれる。古い頃の雙六は今有る一枚刷りの道中雙六などゝはちがつて、碁や將棋と同じやうな盤の上の競技であつた。さうしてその遊びをすることを打つと謂つて居た。打つといふ言葉が有るので、大よそこの手毬歌の始まつた時代の、さう新しいもので無いことが判つて來る(289)のである。

　

　　　　　　　五　寺と椿の花

　

　雙六の遊びには、昔の人たちは女でもことのほか熱中したもので、繪にも文學にもさういふことはよく出て居る。二度と打つまい鎌倉といふのは、少しく意味がはつきりしない樣だが、この歌は全部を二句づゝに切つて、その終りの言葉を次の句の始めに、くり返すやうに出來て居るから、是もその次の句の鎌倉といふのを、引き上げて前の方へ附けたまでゝあらう。

　　　其つゥばきだァてのつゥばき

　　　御寺へもォてゝそォだてた

　　　日が照ェればすゥずみどォころ

　　　あァめが降ゥればやめどころ

　俄雨を避けて軒の下や大木の蔭に、立ち寄つて晴間を待つことを、昔の人たちはヤメルと謂つて居た。田舍では今でもさういふかも知れぬが、もう標準語ではヨケルとか何とかいふやうになつて居るから、この言葉も古いのである。ダテといふのは質素の反對で、今ならば「ぜいたくな」とでもいふところ、すなはち雨が降つても、日が照つてもこの椿は土地の人たちのやうに、外に出てあるくことは出來ないといふので、椿の花の美しいのを、いつの間にか人のやうに取扱つて居るのである。御寺はもと戰國時代といつた頃には、よく身分の有る人の娘や小さな子の、暫らく預けられて居る所であつた。寺の庭は廣々として掃除がよく屆き、珍しい花や植木なども多かつたので、椿を人にたとへたといふことはまだ心付かなくても、是だけを聽いても子供には興味があつた。たゞこの歌は二句づゝで話が次々(290)と移り變り、切れ／”＼の小さな繪を竝べたやうになつて居るので、續き話を好む今日の人たちには、少しばかり勝手がちがふかも知れない。

　古い頃の文藝の中には、斯ういふ形のものがまだ色々あつた。連歌といふものなどは殊に是とよく似て居る。或はこの手毬歌なども最初はもつと長く、もつと連歌といふものに近かつたのではないかと思ふが、母と私の覺えて居たものでは、この歌はもう是で切り上げてしまつて、其あとにまるで縁の無い、次のやうな歌が續いて居るのであつた。

　　　そのあァめに降りこめらァれて

　　　お茶もいや／＼煙草もいや／＼

　　　しよんがいなァ、しよんがいな

　　　しよんがい婆ァばさん

　　　こォとし九ゥ十九で、くゥまァのへ

　　　よォめりしよとおォしやる……

　

　　　　　　　六　しよんがい婆々

　

　このしよんがい婆さんといふあたりから、手毬の手は急に早くなり、歌の調子もまるで變つて來るので、もとは明らかに別々のものだつた歌を、二つ繋ぎ合せたといふことが判る。さうして後の方の歌はずつとおどけて居て、子供でも歌ひながら笑ふところであつた。シヨンガイナは今の皆さんの「しようが無いな」と同じ意味の言葉で、もう今から三百年も前の、流行唄の囃しの文句であつた。宮城縣などでは伊達政宗に始まつたといふ「さんさしぐれか」と(291)いふ歌にもこの囃しがが附いて居る。九州の方では長崎縣の島々にも、又は鹿兒島縣で開聞嶽《かいもんだけ》を詠じたといふ「雲の帶してなよ／＼と」といふ歌にもこの囃しがあり、更に南へ行つて沖繩縣の八重山群島などにも、しよんがいを以て終る哀れな別れの歌があつた。海上の交通が進んだ爲に、一つの節が是だけ廣く弘まつたことは勿論であるが、なほ一方には又こゝに出て來る「しよんがい婆々さん」といふやうな、やゝ滑稽なことをいふ老女なども、この歌を職業にして地方をあるきまはつて居たので、斯ういふ手毬歌が女の子たちの間にも、行はれることになつたのかと思ふ。時代からいふと、鎌倉へ參る路にといふのよりは、又少しばかり後のことだつたらうと思はれる。

　　　しィらが（白髪）三ィすぢにたァけェながかァけて

　　　おォくば（奧齒）二ィまいにべエにかねつゥけて

　　　こォれでよォいかとお爺イさんに問ォへば

　　　そォれでよォいよい嫁入しよとらァくぢや

　　　やァまをとォほればいィばらがとォめる

　　　かァはをとォほれば船頭さんが止ォめる……

とあつて、其あとまだ十句ほど續いたやうに思ふが、私はもう忘れてしまつて居る。

　手毬の上手だつた母のやうな人たちは、そんな長い手毬歌が終つても、まだ手毬は消えずに居るので、歌を止めるか初めへ戻ることはせずに、それへ勝手に又別の歌を、くつゝけて歌つたものと思はれる。その爲に一層歌の心持が、脇で聽く者にはわかりにくゝなつてしまつたのである。

　この終りに近い文句の中で、ラクヂヤといふ言葉には説明がいるかも知れない。私などの生まれた兵庫縣の中部では、もとは東京で「することが出來る」、「してもよい」又は「差支へない」といひ、又は東北各地で「するによい」といふ言葉の代りに、シヨウトラクヂヤと謂つたものである。他の地方にも全く無いといふほどでは無いが、私の故郷(292)では幾分か之を使ひ過ぎて居た。しかしこの言葉などは、確かに後になつて出來たもので、初めてこの手毬歌の生まれた頃には、又ちがつた言ひ方をして居たものと思ふ。事によるとまだ小娘であつた私の母や、その友だち仲間などがさう言ひ始めた位がもとであるかもしれぬ。一句々々の感じはよく解つて居るものだから、歌の言葉がちつとでも古臭くなると、子供は斯うして段々と、歌ひやすいやうに改作して來たのかと思ふ。

　

　　　　　　　七　傳承者といふこと

　

　近頃の童謠や童詩とはちがつて、手毬歌には見たことも無いやうな遠くの土地を歌つたものが有る。もと／＼空想の美しさを樂しまうとする歌なのだから、京都でも江戸でも又大阪でも、そこの住人よりは、寧ろまだ來て見たことの無い村里の子供の方が、色々と取りはやし、又は少なくとも聽いて忘れずに居てくれたのである。もしも鎌倉が近い頃までのやうな、淋しいたゞの田舍になつて居たならば、このやうな手毬歌は生まれよう筈が無い。だから此歌の出來た頃には、まだ此土地が繁昌して居て、或は今よりももつと花やかな、都に次いでの文化の一中心であつたことが考へられる。文部省から出て居る俚謠集といふ本の中には、たしか伊豆半島の物搗歌《ものつきうた》として、鎌倉を詠じた民謠が三つ四つ出て居り、次のやうなおどけたものも其中にはまじつて居る。

　　　鎌倉では女が無いとて

　　　猿に夜麥をつゥかせる

　　　猿が三びき、手杵が三本

　　　どォれも緞子《どんす》の前掛で

　しかし伊豆ならば頼朝の覇府《はふ》に近く、また北條氏とも深い關係が有つた。そこに昔なつかしい鎌倉の歌が、大事に(293)保存せられて居たとしても不思議は無い。珍しいと思ふのはその鎌倉から、百數十里も西に隔たつた、中國地方の或田舍に、いつの間にか斯んな歌が入つて居て、しかもその歌のこしらへ方が、伊豆の物搗歌などゝも似通うて居ることである。京都を始めとし、京と鎌倉との中間地帶にも、同じ歌はまだ一つも採集せられて居ないが、東京の周圍の村々の中には、この「鎌倉の椿」の歌の斷片と見るべきものが、まだ二つ三つは殘り傳はつて居た。しかも御互ひに全くそれを知らず、たゞ偶然に私が母の歌を記憶して居たのだけれども、氣がついて見ると一國の文化は、私たちの知らぬ間に國中に行き通うて居たのであつた。皆さんもこれから注意深く、段々と見たり聞いたりしたことを積み貯へて行かれるならば、國の昔の交通の跡を明らかにし、昔の人の心持をよく理解し、又それを一生涯、覺えて居ることもらくなのである。

　

(294)　　　　　親棄山

　

　　　　　　　一　有名な昔話

　

　都會で育つた人たちは物わかりが早く、思ひやりの有る人が多いのだが、周圍が忙しくて、ゆつくりと話をして聽かせる者が少ないので、何も考へずに大きくなるといふやうなことも無いとは言へない。今度はちがつた土地で年を迎へて、見ること聞くことが皆新しく珍しく、それだけに又こちらもよく注意をするので、還つて來てからの話の種はどつさり出來ることゝ思ふ。さういふ中でも爲になり又樂しみになるものを、ついうつかりと聽き流してしまはぬやうに、私などが若い頃から聽きためて、段々と深い意味の判つて來た色々の昔話の中で、親棄山といふ變つた話を一つして見よう。

　親棄山とはけしからぬ〔五字傍点〕話、聽くも耳の穢れと思ふ人もあらうが、是はさういふ驚くやうな話題を出して、先づ聽く者の注意を引き寄せようとする手だてゞあつて、實際は人に孝行を勸める話なのである。人によつては又棄老國ともいふが、この名稱は外國から來て居る。昔々、いつの頃とも知れない遠い昔、さうして又何處に在るかもはつきりしない或一つの國に、親が六十歳になると、山へ棄てゝ來なければならぬといふ、飛んでも無い習はしがあつた。それが一人のよい子供、もしくは心のやさしい者の行ひによつて、もう、永久にそんな事をする者が無いやうになつたとい(295)ふ話、その話し方が又變つて居て面白いのであつた。

　この話は日本全國にと言つてもよい程、弘く方々の土地に行はれて居た。もとは恐らくは誰でも一度、大きくなる迄には必ず聽いたものと思ふが、今日はもう知らぬ子が多い。そればかりか地方により又家によつて、その話し方がよほどちがつて居て、一人で二通りの話を知つて居る者は先づ無いから、こゝと他處とではどういふ風にちがふかといふことに、氣が付かずに居るのが普通である。私はよほど久しい前から採集を重ねて居るので、大よそはその土地々々の變化を語ることが出來る。それが是からの人にも、好い參考になるだらうと思ふのである。

　

　　　　　　　二　四通りの話し方

　

　話を親棄山といふことは同じで、事がらのかなりはつきりとちがつて居るのが、私の知つて居るだけでも四種はある。さうしてその二つは、明らかに外國から採用したもの、他の二つは多分我邦に、よほど古い頃からあつたものである。試みに誰か話の好きな老人に尋ねて御覽なさい。事によるとまだ私も知らぬやうな、又別な珍しいのを覺えて居るかも知れない。それから又次に私のいふ話を二つ以上、繋ぎ合せて一つにして居るかも知れない。どうしてさういふ樣になるかといふことも話して見たいが、その前にざつとその四通りの話を比べて見よう。

　第一種の話といふのは、或男が六十になつた親を畚《もつこ》とか簣《あじか》とかに入れて、小さい息子に片棒をかつがせて、山の奧へ棄てに行く。やがて簣も棒もそこに置いて歸つて來ようとすると、その孫が父に向つて、是は家へ持つて還りませう、今に又いることが有るからと謂つた。それを聽いて男はあゝさうだつたと心づき、親を棄てることを止めて又つれて戻つたといふので、この話はよほど古い頃から、支那で有名な話だつたといふことで、色々の本にも繪にも彫刻にもなつて居る。本によつてはその孫の子が、わざと斯ういふことを言ひ出して、父の不孝の行ひを諫めたのだから、(296)孝行者の手本だと言つて居るが、それならば父に附いてわざ／＼山奧まで出かける前に、さう言つてもよさゝうに思はれる。日本の話では、少年がたゞ無邪氣にそんな事を言ひ出したので、父がびつくりして成ほどさうだつたと思ひ、善心に立ち歸つて棄てゝ還るのを止めたと話すものが多いが、何れにしたところで是はいさゝか感心しない利己主義であつた。東北地方に行はれる一つの例では、その息子が父に向つて、私にはとてもそんな事は出來ぬと言つて泣いたので、それに感動して再び老人を、連れ戻ることになつたといふ風に話して居るものもあるが、ともかくも孫の少年の言葉によつて、親を山に棄てるといふやうな惡い行ひを、止めたといふ點まではどれも皆同じである。

　

　　　　　　　三　老人の智惠

　

　第二種の話し方は、是よりも今すこし込み入つて居て興味がある。むかし／＼或國の王が、年寄りはいらぬものだから皆棄てゝしまへといふ命令を出して、それに背いた者は嚴罰を受けることになつて居た際に、一人の孝行者がどうしても棄てることが出來ず、親を床の下とか土手の陰とかに匿して置いて、そつと毎日の食物を運んで養つて居た。そのうちに敵の國から、こちらの人の智惠を試さうと思つて、むつかしい問題を出して來た。是に答へぬと恥でもあり、又賢い人が無いと知つて、攻めて來られるにちがひないので、誰かこの難題を解く者があつたら、望み次第の褒美を下さるといふことになつた。親を匿してゐた孝行な倅が其話を親にすると、そんな事は何でも無い。斯うすればよいのだと簡單に教へてくれた。それを王樣のところへ申し出て、賞與の代りには親を棄てなかつた罪を宥して下さいといふと、王も始めて老人は賢いものだといふことに心づき、且つは息子のやさしい心掛けに感心して、約束の褒美を與へると共に、早速そんなまちがつた命令を取消したといふ話で、是も我邦へは支那から入つて來たらしいが、元の起りは印度であり、雜寶藏經といふ佛法の經文の中に、出て居るといふことまで今日ではもう判つて居る。

(297)　しかし此話の日本に來たのも古いことで、人によつては是をこの國であつた事のやうに、思つて居る者もある位に、今なほ方々の農村に於て語り傳へられて居る。年を取つた人たちには深い智惠があつて、それに教へて貰へば敵の國の侮りを防ぎ、又は澤山の賞與を受けることも出來る。だから大事にしなければならぬ、棄てたり何かするのは損だといふのは、考へて見ると誠にいやな話で、とても日本人などの尤もだとは思へない理窟であるが、それとは關係無しにこの昔話の面白かつたのは、話の中に出て來る幾つかの試驗問題といふのが、何れもちよつと聽けば不可能のやうで、よく聽いて見れば成程さうだなと思ふやうな、智惠の練習になるものばかりだつたからで、親を棄てるなんていふことが有るものかと思ふ子供たちでも、この方には耳を傾けずには居られなかつたのである。村で昔話の上手と言はれる老人などが、おどけまじりに此話をして、だから年寄は大事にせねばならぬといふことだなどゝ、氣輕に笑つて居た樣子が目に見えるやうな氣がする。

　

　　　　　　　四　七曲の玉の緒その他

　

　そこで一體どういふ種類の珍しい難問題が、老人の力で無くては釋《と》くことが出來なかつたと語り傳へられて居たかといふことを、少し詳しく話して見ると日本ではそれが七つほどあつて、どれも是も相應に弘くそちこちに行はれて居る。この七つのうち、五つは少なくとも外國から入つて來たものであつた。但し我邦では印度のやうに、敵の國がこちらの智惠をためしに來るなどゝいふことは無いので、それをごく簡單に殿樣の懸賞で、是が出來た者には一萬兩の御褒美などゝいふやうに、飜譯して居るものが多いのである。

　一ばん有名なのは七曲の玉の緒、一名を蟻通しといふ話、是は今から千年も昔、紀貫之の時代よりも前の事とさへ言はれて居る。大きな玉に穴が通つて居て、その穴が中で七つも曲つて居る。是へ緒を貫いて見せて下さいといふ敵(298)方の望みである。是には誰もよい考へが無く、何と返事をしたものかと困つて居ると、老人がそれを聽いてそんな事は何でも無い。蜜を一方の穴の口に塗つて置き、蟻の足に絹絲を結はへて、こつちの穴から入れてやれば、蜜の香に引かれてきつと一方へ拔けて出る。その絲を段々太くすればよいと教へてくれた。この爲にもちろん親を棄てずに居た罪は宥されたのみか、後に神に祀つて蟻通明神といふのがそれだといふことになつて居る。其話は古い書物に書いてあるばかりで無く、今も國民の口から耳へ、切れ間も無く語り嗣がれては居るが、村々の子供には玉といふもの、それに七曲りの穴を通したものなどゝいふことは考へにくいので、信州の南の方では是を法螺の貝に緒を通すといひ、加賀の江沼郡などでは榮螺《さゞえ》の殻の底に穴を明けて、蟻を匍はせて見よと、謂つたことにもなつて居る。さうしてこの話を感心して聽く者は、大抵はそれが其樣に遠い昔から、日本に有つた話だといふことを知らずに居るのである。

　それから次には木の本末、及び親子馬といふ話があつて、二つともに八百何十年も前の、今昔物話といふ本に出て居る。何か珍しい三尺ばかりの木の棒の、同じ太さに削つたものを持つて來て、是はどちらが先の方で、どちらが根元かあてゝ見て下さいと、言つて來られたので困つてしまつた。孝行な息子がそつと匿して居た父に尋ねて見ると、それは何でも無い。水に流して見てやゝ沈む方、又は川下になる方がその木の根もとだと教へてくれた。又毛色のよく似た同じくらゐの馬を二匹牽いて來て、是は親子ですがどちらが親ですかきめて下さいと謂つた。是も年寄の智惠によつて、秣《まぐさ》を與へて見て先づ食べる方が子馬の大きくなつたのであり、それを見て居てゆつくり後から食べにかゝるのが親だと教へられ、その通りにして見たら果してすぐにわかつた。動物でも親の愛情は深いものだといふことを、この老人が知つて居たのである。

　

(299)　　　　　　　五　外國で作つた昔話

　

　それから是とやゝ似た問題で、二つの蛇を持つて來て雌雄を區別して見よといつたこと、是は印度で出來たといふ雜寶藏輕にも出て居る。すべ／＼とした絹の敷物の上に、二匹の蛇を載せて見ると、騷いで匍ひまはる方が雄蛇であり、じつと靜かにして居るのは雌蛇といふことを知つて居たので、是も簡單に答へることが出來た。今一つは大きな象を引張つて來て、この象の重さは何千貫かといふ問で、是も相應な難題だが、支那の古い本に出て居る。日本では象の重さと謂つても子供には考へにくいので、それをでつかい牡牛といふ話にして居る。支那の方では賢い子供があつて、それを考へ出したことになつて居るのだが、我邦ではやはり親を棄てゝ居た時代に、棄てることを悲しんで匿して置いた老いた父の智惠といふことになつて居る。船を水に浮べて其上にこの牛を載せ、どこまで沈んだかを印して置いて、後で其印のところまで數多い石を積み、其重さを加へ算すれば、わけ無く牛の目方がわかるといふのである。今の子供ならさうむつかしい問題でも無いか知らぬが、以前はそれを聽いて成程さうだつたと思ふ者が多かつたらしいのである。

　この以外にもう二つ、老人の御蔭で答へられたといふ難題があつて、是だけは日本で昔話をする人たちが、思ひ付いた趣向だつたやうに思はれる。その一つは灰繩千束を獻上せよ、今一つは「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」を持つて來い。どちらもたゞ人を困らせるだけの命令であつて、どうして其樣な無理を謂つたのかと思ふやうであるが、もと／＼是は「殿樣の難題」といふ別の話の中に有つたものを、借りて來て爰に使つて居たので、つまりは外國から持つて來た話の種では、十分に日本の子供を樂しませることが出來ないから、誰かゞ取替へて之を年寄の考へ深かつた例に用ゐたものと思ふ。灰で繩を綯《な》ふといふことは出來る事でない。どうしたらよからうかと思案投首をして居るのを見て、(300)繩を千束綯ひ上げてから、それをそつくり燒いて灰にして、獻上すればよいぢやないかと、注意してくれたのが其父であつた。それでは崩れてしまふと思つたものか、鹽水によく浸してから燒くやうにと教へたといふ話し方もある。「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」などは何處にも無い。さて／＼困つたと困り拔いて居ると、それも何でも無い事だと小さい太鼓の革を剥がして、其中へ澤山の蜂を入れ、鋲を打ち直して無理な殿樣の處へ持參させた。最後に其蜂がぶん／＼と飛び出して、殿樣や家來を螫《さ》したので、もうこらへてくれとあやまつた、などゝいふ笑ひの結末にもなつて居る。

　

　　　　　　　六　接穗と臺木

　

　少し長たらしかつたが、是までが親棄山の第二種の話であつて、日本にも流行し又少しづゝの作り替へもあつたとは言ひながら、本來は支那又は印度に始まつた昔話である。老人は考へ深く又色々の好い經驗も積み貯へて居て、何か困つたことがあると助けてくれる。それだから大切にしなければならぬと言ふのでは、親孝行も何だか勘定づくになつて、我々の心持とは一致しない。是がたゞ面白いから外國から採用したものであつたのは、むしろさうなくてはならぬことのやうに思はれる。

　しかし斯ういつた外國の昔話が、千年も八百年も前に、もう我邦の人たちに覺えられて居たといふことは、こちらにもそれと半分以上似かようたものが有つた爲だと見ることは出來ないであらうか。果樹や花の木の新種といふものは、實をもいで來て播いて生やすよりは、臺木を見つけてそれに接穗をする方が早く成長する。さうしてその臺木には大抵は同種の木が用ゐられる。親棄山の昔話にも、さういふ臺木になるものが前々から、日本にはすでに有つたのでは無からうか、私は今それを考へて居るのである。

　さう思つて束を付けて居ると、この二通りの話し方以外に、日本に又別の親棄山があり、和歌で有名になつて居る(301)信州更級の姨捨山なども、その一つの殘りの形であるやうな氣がする。姨捨山の話も中世の書物に多く現はれ、殊に大和物語といふ本に有るのが、よく人に知られて居る。この文學の中では、棄てられた人が親では無くて、伯母だつたといふことになつて居る。是は多分母親を山へ棄てたといふのを、あんまりな話と思つて變へたのかも知れぬが、小さい時に母を失つて、親代りに育てゝくれた伯母だつたといふから、穩かで無いことは同じである。古い日本語ではウバは姥と書き、母でも誰でも尊敬すべき婦人は皆ウバであつた。母をウバ又はウマ・アッパなどゝいふ言葉が、田舍にはまだ行はれて居る。京都だけには母をウバと呼ぶ習はしが早くから無かつたので、之を伯母を棄てた話に改めることが容易だつたらしいのである。さうしてこの話は和歌を愛した人々の間では、よほど以前から話し方が大分ちがつて居て、本を讀む人の數が多くなると共に、是ばかりが弘く知られることになつたものかと思ふ。その元の形かと見られる話が、まだ幸ひに田舍には今でも殘つて居る。それと比べて見ると新舊のちがひがよく判り、本に出て居るからそれが最初からの話だつたと、言ふことの出來ない證據にもなるのである。

　

　　　　　　　七　日本で出來た昔話

　

　このことをあまり強く言ふと議論になり、皆さんの讀み物には向かないから、茲にはたゞざつと姨捨山とよく似た話が、今でも東北地方には有るといふことを述べて、どこまで似て居るかを考へて見ることにしよう。前に擧げて置いた二通りの親棄山、即ち孫の言葉と老人の智惠才覺と、二つの外國出來の昔話とちがつて居る點が、こちらの二つの話、即ち姨棄山と親棄山とでは互ひによく似て居る。たとへば親が六十になると棄てなければならぬといふ、法律があつたといふことは此方では言はない。それから今一つは男は心がやさしく、いつまでも孝養したいと思ふのだけれども、その女房が甚だよくない女で、年寄をうるさがつて棄てゝしまひなさいと始終勸める。あまり色々といふの(302)で男もつひに負けて、姥をだまして山へ連れて行くことになる。この二つの點は外國から來た二種の話には無く、此方の話では二つとも同じである。たゞ大和物語などに書いてあるのは、その晩はちやうど好い月夜で、じつと山を眺めて居ると悲しくなつた。それで男は、

　　　我が心なぐさめかねつ更級やをばすて山に照る月を見て

といふ一首の歌を詠んで、又再び老女を迎へに行つたといふことになつて居て、其あとどうしたかを詳しくは語つて居ないのに、一方の奧羽地方などに行はれて居る話は、その惡い女房が罰せられたといふ點がちがふのである。是は日本ばかりに限らぬことだが、昔話には舌切雀の重い葛籠の婆のやうに、又は花咲爺の隣の慾深爺のやうに、善人がしあはせをしたといふ話には、必ず惡い人が惡い報いを受けたといふことが附いて居る。多分は聽く者にはつきりと響くやうに、又話を長く面白くする爲に、裏と表と兩面から、丁寧に説く習はしがあつたのであらう。さうしてこの民間の親棄山に於ても、やはり棄てられた老女の不思議な幸福を語るために、斯んな有りさうにも無い惡い女房を、引張つて來る必要が有つたものかと思ふ。

　この話は今のところ、私の知つて居るのが五つか六つあるが、土地によつて話し方が少しづゝちがつて居る。しかし大體は皆同じ結果で、老母は常日頃心掛けのよい人だつた故に、山の神樣の惠みを受け、又は不思議の幸運によつて、思ふことの何でも叶ふ打出小槌といふ寶物を手に入れる。それで地を敲《たゝ》いて、先づ食べ物や着物を打出し、次に自分が若く又美しくなり、それから其山中を大きな町にして、立派な家をその中央に出現させて、店を開いたとも言へば、酒屋になつたとも言つて居る。惡い女房はその噂を聽いて、羨ましくてたまらなかつた。それで今度は男に頼んで、自分を山の中に棄てさせたが、あてにして居た寶物は手に入らず、ひどい難儀をして死んでしまつたといふ話で、勿論わが心慰めかねつといふやうな、あはれな三十一文字《みそひともじ》などは殘つても居ないのであつた。

　

(303)　　　　　　　八　昔話と和歌

　

　古い頃の昔話には、和歌を伴なふものがこの他にも幾つかあつた。中には歌だけが前から有つて、それを説明する爲に話を取つて附けたものもある。姨棄山などは其方であらうといふ人もあるが、大抵の場合には話をする人が、作つたものと見てよいやうである。もと／＼實際にさういふことが有つたわけで無く、いづれ誰かゞこしらへて、語り始めたものであらうから、歌もその時から出來て居たとも考へられようが、それにしては少しばかり合點の行かぬのは、同じ一つの話が方々の土地にあつて、或處では歌が附き、又或處では歌無しにその話をして居る。殊に外國に似たやうな話の有る場合などは、言葉がちがふから歌までは持つて來ることが出來ない。それで私などは昔話の聽き手、すなはち人の話すのを聽いて心を動かした者が、後に覺えて居て次の人に傳へる際に、新たに歌だけを附け添へることが、?々あつたものと想像して居るのである。その一つの好い例として、ちやうど第四種の親棄山、是も我邦に古くからあつたもう一つの話を紹介して見よう。それが又私の最初からの目的でもあつたのである。

　その第四の昔話といふのは、前の三つのどれよりも、簡單で又古風であつた。あまり簡單なために此頃では、後先におまけ〔三字傍点〕の附いたものが多い。どうして親を棄てることになつたか、もとは明らかになつて居なかつたらしいのを、此頃では外國風の棄老國に倣つて、さういふ法令が出て居たやうにいふ話も稀で無いが、それではこの話の感動は少し薄くなるのである。最初はたゞ何かよく／＼の理由があつて、どうしても親を山の奧へ送つて行くことになり、親も承知の上で子の背に負はれ、山に入つて行つたといふ話だつたかと思はれる。老人の智惠といふ話が多くは父親であるに反して、この方は母親だつたといふのが普通である。その母が子の背に負はれて居て、路々左右の木の小枝を折つて行く。又は草を圓めて棄てゝ行つたとも、或は罌粟《けし》の種子を少しづゝ播いたともいふ處がある。どうして其樣(304)なことをなさるかと息子が尋ねると、おまへが還つて行くのに路に迷はぬやうに、栞をして置いてやるのだと答へたので、親の慈愛に深く感動してしまつて、何が何であらうとも、この親を山には殘して置けないと、再びその場から連れて戻つて以前にもまさる孝行をしたといふ、至つて短い話だつたやうである。けし〔二字傍点〕の種子を撒いて行くといふ話の、まちがひであつたことは誰にでも判る。そんなものを撒いて置いても、息子の還り路の役には立たぬからで、是はお銀小銀といふやうな又別の昔話で、妹が春になつてから、けし〔二字傍点〕の花の咲く路を辿つて、姉を尋ねて來るやうにこの種子を蒔くといふのを繼ぎ合せたもので、もとからの話では無かつたのである。

　

　　　　　　　九　母の愛情

　

　それよりも現在行はれて居る各地の話には、この後へもつて來て木の本末や親子馬、又は灰繩千束などを附けたしたものが多く、その爲に又負はれたのを父親とし、その親が詠んだといふ和歌までを取替へて居るものがある。今度は日本の南の端の一例を擧げて見ると、鹿兒島縣の離島などでは、その父が息子の背に負はれて木の小枝を折つて栞とし、わけを問はれると斯ういふ歌を詠んだ。

　　　道すがら枝折《しをり》々々と折り柴はわが身見棄てゝ歸る子の爲

　それで同行して居た孫がその歌に感動して、父を説き付けて祖父を連れ戻つたといふ點は、第一種の畚を持つて還らうと言つた話であり、それから家に匿して置くうちに祖父の智惠によつて、蛇の雌雄と木の本末とを見分けよといふ敵國の難題を解いた第二種の話とを、繼ぎたして居るのである。話としては外國から輸入したものゝ方が、新しく又珍しいのだから、それが流行したのは已むを得ないが、さういふ中にもなほ昔からの、最も簡單な話と和歌とが、遠い島々にはまだ痕跡を留めて居たのである。

(305)　大體からいふと、昔話は段々と興味深くなり、笑つて聽くやうなものが多くなつて來て居る。面白いと思つて聽く者が殖えて來た代りには、心から是に感じ入つて、一生忘れずに又次の代の若い人たちへ、話して置かうとするやうな者は少なくなつて行くやうに思ふ。甑島の老人が詠んだといふ道すがらの歌なども、古く傳はつて居るのはもつとよい歌であつた。さうして女の歌であり、又涙をこぼして感動した母親の歌でもあつた。

　　　奧山にしをる栞は誰のため身をかき分けて生める子の爲

　是を又「我が身を分けて」と言ひ傳へて居る人もあるが、それでは力がずつと弱くなる。身をかき分けてといふ歌言葉は、母の口づからで無いと出て來ない言葉であつた。私の想像するところでは、始めて和歌を添へて此昔話をした人は、或一人の母であつた。若い頃は心のやさしい娘であつて、かつてしみ／”＼とこの話を聽いて、一生の間覺えて居たのである。それを年とつてから娘たちに、又はかはいゝ孫たちにして聽かせる時に、思はず知らず斯ういふ歌が心に浮かんで、それを山に棄てられて行く老女の作のやうにして、高い聲を出して歌つたので、じつと聽いて居た若い女たちも、親の有難さをじんと胸に響かせて、恐らくは皆涙ぐんだことだらうと思ふ。私は母に別れてからもう五十年にもなるが、それでもこの歌を聽くと思ひ出して、いつも孝行の足りなかつたことを悔み歎かずには居られない。

　

(306)　　　　　マハツブの話

　

　　　　　　　一　遊戯と觀察

　

　

　マハツブつて何だらう。さういふ人はきつと多いと思ふが、それを承知の上で私はこの話をする。珍しい名前は一ぺん聽くと、いつまでも覺えて居るものだからである。

　マハツブは又マノハチブともいふ人が有る。奧羽地方もずつと北の方で、子供たちのよく知つて居る一種の植物に、さういふ名のものがある。本名はイガホヽヅキ、又オニホヽヅキともいふさうで、皆もよく知つて居る酸漿《ほゝづき》と共に、茄子科に屬する草なのである。日本では北から南の端まで、何處に行つても見られる野生の草だといふが、自分などはまだこのをかしい昔話を聽いて居なかつたので、見たことは有るのだらうが實はもう覺えて居ない。それで今度はまづ皆さんの爲に、マハツブの話をして見ようと思ふのである。

　その前に一つ考へて置きたいことは、この頃の酸漿は人が栽培して賣りに來るので、實も大きく色も美しく、遊び方も段々とかはつて居る。名は近くても毬酸漿《いがほゝづき》といふ草の實と、あんまりよくは似て居ないやうになつた。しかし丹波酸漿を畠で作り出したのは後のことで、店や縁日で賣るやうになつたのは、都會でもさう古くからでは無いのである。以前の村々の少女たちは、酸漿もやはり野や路傍に生えて居るのを、採つて遊戯に用ゐたのであつた。酸漿の遊(307)び方はあのよく熟した實を揉んで、ネヤマノネホヅキといふ芯を拔き出し、袋にして咬んで鳴らすことがその一つで、是は多分ずつと前からも有つたらうが、丹波酸漿の口に一ぱいになるやうなのが出てから、この遊びが殊に面白く、他の遊び方は忘れてしまふやうになつた。千成酸漿だけはまだ採つて來る兒もあるが、たゞの毬酸漿などは顧みる者が無くなつたのである。

　それからなほ一つ、毬酸漿では遊べない古い遊び方があつた。それはこの二種の酸漿の最も著しいちがひから來て居るもので、昔の子供には又注意せずには居られぬことであつた。普通の酸漿の他のものとかはつて居る點は、うてな〔三字傍点〕が實の成熟につれて段々と伸びて來て、しまひには繋がつて袋のやうに縫ひ合はされ、そつくりあの紅い實を包んでしまつて、蠅や小蜂に吸ひ枯らされることを防ぐことである。毬酸漿のうてなも茄子などゝ同じに、實と共に段々と大きくなつては行くが、それが中途で止まつて、實の全體を蔽ひ隱すまでにはならない。酸漿だけは完全な袋になつてしまふから、永く木に附けて置くと袋の表皮が剥げ、繊維だけが蚊帳のやうに殘つて、紅い提灯だといつて持つて遊ぶことが出來たけれども、毬酸漿の方にはさういふ遊びが無い。イガホヽヅキ又は鬼酸漿といふ名前は、莖に刺毛が有るところから附けられたのだが、それよりも小さい天然觀察者たちには、この點がもつと注意を引いて居たのである。さうしてマハツブといふ東北の方言なども、或は斯ういふ點に基くものではないかと私は想像して居る。少なくとも我々の一つの昔話だけは、誰が始めたものか、この點を説明して居るのである。

　

　　　　　　　二　苧績み宿の夜

　

　そこで愈々マハツブの話になるが、昔の昔の大昔、酸漿とマハツブとは姉と妹、二人の同胞であつたといふ。この二人が相談をして、めい／＼一枚の麻のきものをこしらへようといふことにきめ、苧《を》の絲を績《う》み始めた。苧絲を績む(308)といふことは、もう見たことも聽いたことも無い子供が多くなつて居るが、麻の皮を剥いで蒸して乾してよく?して、白くきれいな部分だけを、爪の先で細く割つて、つないで撚りを與へて一筋の絲にして行くことで、蠶の吐く絲の細いものを五つ七つと合せて行くのとは、仕事がまるで反對になつて居る。それで同じ一握みの麻の苧でも、細く裂けば絲が長く、從つて長い布が織れるが、下手に荒々しく太く取つてしまふと、地の厚い布は出來ても寸尺は足りなくなるのである。木綿が日本に普及するまでは、麻布を着ぬ日本人は一人も無く、苧を績み布を織らぬ女も皆無に近かつた。それで斯ういふ事柄はみな常識となつて、わざ／＼言ひ教へる人も無く、今となつては却つてこの珍しい昔話の心持を、解りにくいものにして居るのである。

　話は土地によつて少しづゝちがつて居るやうだから、是からたまだ數多く、尋ね集めて見る必要がある。青森縣の東の端、八戸市の附近の村里では斯んな話になつて居る。二人の女兄弟が苧を績んで着物を織つたが、姉さんの方は丹念な辛抱づよい氣質で、出來るだけ絲を細くして十分な布を織り上げたから、とつぷりと頭から爪先まで、身を包むやうな着物を縫ひ上げることが出來た。ところが妹はせつかちで仕事が粗いので、苧絲が太過ぎて一反の布になるだけは取れず、それで衣装をしたてたら腰までしか無くて、丸いおしりが丸出しになつてしまつた。その姉といふのが今の酸漿であり、妹はマハツブとなつて今でもお尻を出して居るといふ。

　マハツブとホヽヅキとどこがちがふかを、小さい頃から見て知つて居る娘たちは、始めてこの話を聽いてぷつと吹き出し、又はおなかの皮の痛くなる程、笑ひこけぬ者は無かつたことゝ思ふ。睡い盛りの人たちは獨りではとても夜なべは出來ない。其爲ばかりとも言へないが、冬の夜長になると五六人以上、順まはりに朋輩の家に集まつて來て、色々話などをしながら賑やかに苧を績んだ。夜が更けて睡氣のさすやうになると、誰か年上の者がをかしい昔話をし出して、みんなを笑はせようとしたことも普通であつた。しかしこの話の本來の目的は、たゞ苧績み宿の睡氣を追ひ拂ふ爲だけでは無かつたかも知れぬ。少なくとも結果に於て、もつと大きな役に立つて居たのである。まさかマハツ(309)ブのやうな亂暴な苧の績み方はせぬまでも、常から絲が太いと小言をいはれ、又自分でも氣にして居た女ならば、この話をたゞ笑つてばかりは聽かれず、何か氣が咎めて自分が笑はれてゞも居るやうに感じ、無理にも忍耐して絲の割りやうを細かくしようとしたことであらうし、又細い絲を引くことの出來る娘ならば、愈々安心して友だちにおくれぬやうに、日頃の熟練に磨きをかけるやうにしたことゝ思ふ。

　

　　　　　　　三　農家と麻布

　

　この一つの笑ひ話が、さう古くから有つたもので無いことは、その話の中からも窺ふことが出來る。麻布の絲の細さ太さは、以前は是ほど大きな問題ではなかつたからである。麻は農家がめい／＼の畠に栽培し、入用があれば多く作るから、さまで原料の節約をするには及ばず、一方働く人たちの衣類としては、むしろ太い絲で厚々と、丈夫に織り上げる必要もあつた位で、たゞ朝廷への貢ぎもの、又は領主への年々の獻上品だけが、上布《じやうふ》と謂つて精巧な布でなければならなかつたのだが、その分量は全體の上からいふと知れたもので、是には一人か二人の特に技術のすぐれた者を、雇うて織らせてもよかつたのである。ところが中央の文化が進んでから、優良な麻布を織り出すので名高くなつた土地が方々に出來て、之を租税の代りに又は商品として、有利な生産をする風が始まり、紡織の手わざは先づさう謂つた地方に於て、追々と發達して來たのである。冬は軟かな絹織物や眞綿を、用ゐる人たちが多くなつて、麻布が主として夏のものとなると、勿論絲の細い輕い布が悦ばれ、つひに此頃見る蝉の羽のやうなものばかりが、麻の上布だと思はれるやうになつたのである。しかし奧羽地方の人たちは、つい近頃まで冬も麻を着て居た。さうして彼等の手織りには、そんな薄い布は入用が無かつた。それよりも地のよくつんだ丈夫向きの、ちつとやそつとの荒仕事では、すぐに絲が片寄つてしまはぬやうなのを賞美したのだが、それでも女の子は聽いて知つて居るので、やはり絲の(310)細く目方の輕いのを、織り出すことを手柄とするやうになつて、今謂つたマハツブの笑ひ話などが、生まれて來ることにもなつたのである。

　秋田岩手二縣の境、鹿角の或村に行はれて居る話などは、是から考へると今少し古いものかも知れぬが、衣服の好みがもう變つて來たので、話が少しばかり解りにくゝなつて居る。是も酸漿とマハツブとは、姉と妹か友だちかであつたやうだが、二人が日を切つてめい／＼の着物を織り上げることになつた時に、酸漿はどんなでもよいからと大急ぎで仕上げた故に、今でもあの通りがさ／＼とした目の荒い着物だが、ともかくも全身を包むことが出來た。之に反して一方の毬酸漿は、あまり念入りに丁寧に、こしらへようとしたので時間が足らず、着物はぴつたりと身に合つて居ても、長さが短くてお尻が出て居るといふやうな話になつて居る。是では雙方どちらもをかしくていやだから、どうすればよからうかと娘たちは考へたことであらうが、酸漿の如くぶく／＼した、地の透くやうな布を織る氣にはなれず、やはりマハツブの如く引締まつた布を、精出して織つてお尻の出ぬやうに、手早く仕上げるのがよいといふことになつたらうと思ふ。乃ちこの方の話は上手下手といふ代りに、努力と勤勉とをすゝめる教訓に、用ゐられて居たらしいのである。

　

　　　　　　四　かせ掛け蚯蚓

　

　昔は機織りが全國の女性の仕事であつたやうに、是とよく似た昔話も、弘く日本の隅々に行はれて居た。マハツブの話といふのは、或は東北地方だけにしか無いのかも知れぬが、この鹿角の例と最も近くて、更に今一段とをかしいものが、こゝから最も遠く隔たつた九州の方にも、二つまでもう採集せられて居るのである。その一つは長崎縣下、壹岐島の或村に行はれて居たもの、自分は假に之をカセ掛け蚯蚓《みゝず》と呼ぶことにして居る。カセといふ言葉も、今日で(311)ははや説明が必要になつた。カセは布を織る經絲を束ねたもので、その絲を?枠《かせわく》といふやゝ大ぶりな枠に取つてから、染めたり色を合せたり綜《へ》たりするので、絲の勘定に都合のよい樣に、長さのちやんときまつた大きい輪になつて居た。それを枠からはづして後、曲げて捻つて紺屋《こうや》などにも持つて行くのだが、以前は機を織る女が其まゝで首に掛けて居ることも有つたらしく、それが大きな蚯蚓の首に白い輪のあるものと似て居るので、斯んな笑ひ話もそちこちに傳はつたのである。

　むかし／＼、二人の女が近い所に住んで、二人ともよく布を織つて居た。その一人は仕事が早く粗く、今一方の女は念入りな代りに遲かつた。市の日が來たのに、こちらはまだ機にもかゝらず、隣の女は絲の太い、目の荒い布を織り上げて、もうそれを着物にして市へ着て出かけた。こちらは間に合はぬので、白い?絲を頸に掛け、大きな甕《かめ》に入つて夫の背に負はれ、市の見物に出かけた。その途で隣の女の新しい着物であるくのを見かけ、くやしいものだから甕の中から惡口をいふ。その問答を島の言葉で斯ういふ風に謂つたと壹岐島昔話集には出て居る。

　　「あすけにや（彼處には）絲太《いとぶと》が行くばい、あり見ろあり見ろ」

と一方がいふと、相手も負けては居らずに、

　　「絲太でも着てこそよからう。甕打ち割ればからだは裸」

と笑ひ返した。女房を負うて居た亭主は、この口いさかひを聽いて恥かしくてたまらぬので、その甕を土の上に抛り出すと、甕は割れて?を頸に掛けた裸の女房が轉げ出したが、多勢に見られるのが辛くて土の中にもぐり込み、たうとうこの蚯蚓になつたといふ話である。誰が考へ出した話かは知らぬが、機に熱心だつた昔の世の娘たちには、この位をかしい話もちよつと類が無く、頸に白い輪の有る大きな蚯蚓を見るたびにいつでも思ひ出して、次々と小さい女の子に、話して聽かせたことゝ思ふ。

　

(312)　　　　　　　五　女の工藝

　

　しかしこの昔話だけでは、仕事が綿密で、たゞ手の遲いといふ女が、かはいさうな氣もするが、一方のいはゆる絲太とても、決して同情せられて居たわけでも無いのである。だから大分縣の山間の村などでは、これが又よつぽどちがつて、蟇《ひき》と蚯蚓との前の生《しやう》の話ともなつて居るのである。

　昔々、バツクン（蟇）と蚯蚓は友だちであつた。二人の女は相談をして、めい／＼着物をこしらへようといふことになつた。蚯蚓は細い絲で成るだけ美しいきものを作りたいといふし、蟇の方は「わしやもう大けな絲でん、早く作らう」と謂つた。それで粗い布の着物だが、蟇の方のは大そう早く出來、蚯蚓はあんまり細い絲で織らうとしたので、もつれてしまつて手が付けられぬやうになつて、いつ迄もあの通り、かせを頸にかけたまんまで居る。さうして蟇の方の着物は間に合つたといふばかりで、今でもあんなきたないなりをして居るのだといつて居る。

　布を織る女の技藝は、工場や大機械の用ゐられるやうになる前も、永い間には段々と改良せられて居た。私は詳しくその歴史を皆さんに語ることは出來ぬが、沖繩縣などの遠い島々に行つて見ると、今でもまだカセといふものを作らずに、少さな絲卷からすぐに機絲を綜て居る女が多い。絲を染めてから機にかけるといふことは、縞が流行し木綿が盛んに織られるやうになつてから後の事だつたと思はれる。頸に女が白い?絲を掛けてあるくなどゝいふことは、今から考へると妙な風俗のやうだが、あれでも?枠の新たに始まつた當座には、さうしてあるくことも一つの見えであり、又一つの樂しみでもあつたので、それでこのやうな笑ひ話が、新たに彼等の間にもてはやされたのでは無いだらうか。

　もしもさうだつたとすると今一つ、やはり同じ頃に若い娘たちの間に、をかしく面白い話が生まれて居たのであつ(313)た。是は目的が直接にこの技藝を奨勵するものでは無いが、それでも比較的人のよく知つて居る昔話だから、このついでにざつとそれも話して置きたい。以前は若い人たちの教育に、昔話といふものがなか／＼よく働いて居た。それを知るのにはちやうどよい例だからである。

　

　　　　　　　六　孝行な雀の昔話

　

　その話は我々の間では、雀孝行といふ名で知られて居る。昔々、雀と燕、又は雀と啄木鳥《きつゝき》とは、姉と妹であつた。或はその一方を?といひ、南の島では魚狗《かはせみ》だともいふが、片一方は必ず雀ときまつて居る。この二人の母親が病氣をして、もう危ないといふ通知が來たときに、二人の女はちやうどお化粧をして居た、といふ話が地方には多い。燕啄木鳥又は魚狗はおしやれだから、色とり／”＼の着物や帶を出して、どれにしようかなどゝ考へて居るうちに、おくれてしまつて親の死目に會へなかつた。雀だけはちやうどお齒黒を附けかけて居たところで、知らせを受けてすぐに飛んで行つたから、間に合つて母を喜ばせることが出來た。今でも雀の頻べたに黒いものゝ附いて居るのは、そのお齒黒の汚れだが、孝行の�ｺによつて一生の間、米を食べて暮すことが出來るのに反して、燕はおめかしをして家に還るのが遲くなつた罰に、土や蟲を食つて口を澁くして居るといひ、啄木鳥も衣装だけは美しいが、一日木をつゝいて居るので夜になると嘴が病めるといつて啼く、などゝいふやうなをかしい話が多く、もとは大抵の子供は一度はこの話を聽いたものであつた。

　ところが娘が嫁になり母になる頃に齒黒めをする風習は、五十年ほど前から無くなつて、まださういふ事を聽いて居ない人があり、あの雀の頻の黒い斑が、銕漿《かね》の汚れだといふ話をしても、笑ひたくならぬ者が段々と多くなつて來た。しかもこの銕漿附けの風習は、京江戸大阪を始め、大抵の土地の良い家庭には行はれて居たのだけれども、それ(314)でも日本全國を見渡すと、まだ隅々には最初から、さういふことを知らぬ女たちが幾らも住んで居て、この雀の頻ぺたの黒いわけなどは、それ等の土地でも通用しないのであつた。

　しかしお齒黒といふものを附けることを知らない土地にも、やつぱり雀孝行の昔話は有つた。さうして姉妹二人の小鳥が、ちやうど御化粧をして居た時にといふ代りに、其二人も酸漿とマハツブとのやうに、めい／＼の着物を織らうとして居たといふ話になつて居るのである。多分はこの方が一つ前のもので、後に齒黒の風習が弘く流行して來てから、それが珍しいのでこの點だけを、話しかへることにしたのだと思ふ。さうにちがひ無いとまでは言へないが、ともかくも自分の今知つて居る三つの實例を竝べて、この話を終ることにしよう。

　

　　　　　　　七　島の女性と勞働

　

　その一つは鹿兒島縣の南の島、奄美大島で採集せられたもの、雀と啄木鳥との姉妹は奉公に出て居て、家に年とつた親を殘して居た。二人が相談して飛白《かすり》を織つて着ようと、その支度をして居ると親の大病を知らせに來た。啄木鳥はその絣《かすり》のきものを織り上げて着て還らうといひ、雀はまだ染めない?絲を頸にかけたまゝで飛んで歸つた。その爲に雀だけは親の死目にあつて喜ばれ、啄木鳥は到頭間に合はなかつたので、今でも飛白の好い着物は着て居るが、いつも枯木を敲いて食べ物を見つけるのに苦勞しなければならぬ。雀は孝行を神に賞でられて、自由に米が食べられるのだが、その代りには頸に?絲を掛けたまゝで、いまでも雀の首のまはりは白いのだといふ。

　是と大體同じ話が、奄美大島の隣の喜界島といふ島にもあつた。但し爰では啄木鳥の代りに、一方を魚狗だつたと謂つて居る。魚狗の羽には飛白が無いので、たゞ絲を染めてきれいな着物をこしらへる爲に遲くなり、雀ばかりが染めない?絲を掛けて、急いで飛び還つたから、今でも首のまはりが白いのだと言はれて居る。

(315)　それからこの二つの島からずつと離れた、瀬戸内海の志々島といふ島にも同じ昔話があるが、爰では不孝な姉の方を?だつたと言つて居る。?は器量好しだから、髪を撫で付けたり化粧をしたりしてから、ゆつくりして還つたので親の生前に逢ふことが出來ず、その罰で今も日に三度づゝ生水を吐いて、ひもじい思ひをして居るが、雀は機ごしらへをして居た苧?を首に掛けたまゝ、急いで飛んで來たといふ話になつて居る。志々島の若い女たちは、お齒黒といふものを無論知つて居たのだが、まだあの頬ぺたの黒い斑が、お齒黒の汚れだといふ話を聽いて居なかつたので、なほ以前の?掛雀の話を持ち傳へて居るものかと思はれる。男は海に出るので島の女たちは、畠の耕作を一手に引受けるのみで無く、なほ折々は濱の手傳もしなければならぬのだが、さういふ間にも少しの時を見つけては、苧?を頸にかけて布機の支度をしたのであつた。町に出て來て反物を買ひ求めたり、又は仕立屋に縫つてもらふなどゝいふことは、斯ういふ昔話に笑ひ興じた娘たちの、夢にも豫想し得ないことであつた。それで雀であらうが蚯蚓であらうが、すべてこの世の女性は皆布の絲を?にして、首にかけてあるいたといふ話が通用したのである。今日はそれに反して、大抵の女の人の着物は、お金を拂つて買ふものとなつてしまつた。それだから斯ういふ昔話にも、説明がいる〔二字傍点〕やうになつたのである。つまりは世の中が變つたのである。

　

(316)　　　　　三角は飛ぶ

　

　　　　　　　一　屋根の形

　

　今から十七八年も前に、我邦に來てゐた佛蘭西の全權大使、ポウル・クロウデルといふ人は名の聞えた詩人であつた。この人が國へ還らうとするに先だつて、日本を詠じた一篇の詩を作つて世に公けにした。その文句はもう誰も覺えて居らぬだらうが、各節の終りの一行に、

　　　あゝ三角は飛ぶよ

といふ言葉のあつたのを、どういふ意味であらうかと、あの當時の人は評判にしたものである。

　後になつて考へて見ると、それは別にむつかしい謎ではなかつたやうである。東京は大正十二年九月の大震災に遭つて、目ぬきの大通りの町屋は、殆と皆燒け崩れて、その跡へは丸で以前のものとはちがつた、屋根の平たい堂々たるビルといふものが建ち竝ばうとして居た。即ち三角はもう飛んでしまつたのである。帝都以外の大きな都會でも、家を建てなほす場合には大抵はこの形をまねて、屋上に庭園が有り運動場の有るやうな家を造ることが出來ないと、建築家で無いやうに思ふ者が多くなつた。高い處などに登つて見ると、町の形がまるで變つて、日本に居るやうな感じがしなくなりかけて居た。それをクロウデルが惜しいことだと思つたのである。

(317)　しかし日本の屋根の三角は、決してまだ飛び去つてしまつては居ない。田舍はもちろんの事、大きな都會でも、新しい平屋根が目につき出したといふだけで、我々の住んで居る家は、大抵は三角に尖つたまゝで居る。たゞその三角の形がだん／＼にかはり、又そのちがつた三角が、ひどく入りまじつて、お揃ひでは無くなつた。それがやつぱり古い美しさの消えて行く姿として、惜しいといへば惜しいのである。美しいと見にくいとは、さう簡單には私たちではきめられないが、それよりも先に知つて置いてよいのは、どうして此樣に日本の屋根の形が、だん／＼變つて行くのかといふこと、及び是からもなほ變つて入りまじつて行くだらうかどうかといふことであらう。

　

　　　　　　　二　三角の二つの種類

　

　汽車の窓から見て居れば、誰にでもすぐわかるやうに、屋根の三角の角度は行く先々でかはつて居るが、それは大抵は屋根を葺く材料のちがひに伴なふもので、同じ草屋根でも土地によつて、少しは傾斜がちがふけれども、そのちがひは實は僅かなものなので、それが板屋根となると、三角の尖りが急に目に見えてかはつて來るのである。中央線でいふならば、山梨縣は小佛のトンネルから始まり、向ふは日野春と富士見の二つの停車場の中程で終るのだが、見て行くうちに屋根の形がいつの間にか丸でかはつてしまふ。それといふのが東の半分は萱で葺いた家ばかりであり、西から西北へかけて長野縣に近づくにつれて、板屋根が追々と多くなつて來るからである。小佛から笹子のトンネルまでの間は、甲州では郡内《ぐんない》といふ名を以て知られて居る。郡内の萱屋は、山からこちらの東京都西部の民家とは、大分形がちがつて居て、横に長い家は段々少なく、二階のある高い家が多くなつて居るが、それでも三角の角度だけは、兩方が大よそ同じ位である。之に反して釜無川の岸に近い信州境の農家は、枌板《そぎいた》を以て葺くものだから、東の郡内や其續きに比べると、屋根がずつと扁《ひら》たくなつて居るのである。同じ日本の屋根にもこの著しい形の差の有ることは、(318)山梨縣だけを通つて見ても、注意する人にはすぐ判るのである。

　さうして又この理由ほど、簡單なものはさう他には無い。板屋根を葺くのは枌板と謂つて、もとは杉だの檜だのゝ柾目のよくとほつた太い材木を、鉈のやうな刀物でそぎ割つた薄い板であつた。これを釘で打ち付けるとひゞが入りやすく、又そこから腐れやすかつたので、板屋根には釘を使ふことを非常に嫌つた。その代りには澤山重ねた枌板の上を、枝の有る木で押へたり、又は石を載せたりして、その板の風に吹き飛ばされることを防がなければならなかつたのである。屋根の斜面を急にしてあの三角を尖らせて置くと、石や材木がすべり落ちるかも知れない。それで板屋根だけはどうしても、出來るだけ平たくする必要があつたのである。

　

　　　　　　　三　板葺きの變化

　

　是とは反對に萱で葺く屋根の方は、あまり平べつたくして置くと雨の水がよく流れず、萱の茎の間に濕氣をもつて、軟かくなりまた早く腐つて、葺き替へをしなければならなくなるので、何處の地方に行つても、葺くのに差支への無いかぎりは、成るだけあの三角を尖らせようとして居る。それがこの二つの種類の屋根の形が、誰にも氣が付くほど、はつきりとちがつて居る理由である。

　そこで私たちの次に知りたいと思ふことは、この萱屋根と板葺きの屋根と、二つの葺き方は二つとも、昔から日本にあつたものか、但しはどちらかゞ後から始まつて、他の一方の前からあつたものを、變へ改めたのかといふことであるが、それをまだはつきりと答へられるまでに、日本の屋根の歴史は明らかにはなつて居ないけれども、まづよつぽど古い頃、今から一千年も千五百年も前に、もう兩方ともあつたといふことは言へる。さうしてどちらも段々に變つて來たといふ中でも、板葺きの方は少しづゝ後へ下り、萱葺きはつい近頃まで、數も多くなり又技術も進んで居た、(319)といふことが言へるやうである。

　どうして又さうなつたのであらうか。其理由も皆さんが少し考へて見ればわかる。一言でいふならば、薄く割つて屋根葺き板にするやうな、大きな素性の良い木材が、追々に乏しくなつて來たからである。日本は珍しく山に良い木の多い國であつたが、國が榮え人の數が殖えるにつれて、家具にも家の柱や梁《うつばり》にも、使ひ途が益々増加して來て、立派な木をそいで屋根などに葺くことが、何だかもつたいない樣に考へられ始めた。それで山間の樹木の多い村々までが、大きなものは皆世間へ送り出すやうにして、自分たちの屋根葺きには、成るだけ小さいので間に合せるやうになつた。以前の枌板の大きな型のものは無くなつて、寸法のごく短いこけら板といふものを、澤山用ゐることになつたのである。コケラといふのは魚などの鱗のことであつたらしい。是も上手に重ねて葺けば、中々見ごとな屋根が出來たが、それには遠くから專門の職人を頼んで來なければならぬ。故に大抵は簡單な葺き方になり、毎年々々損じたこけら板だけをさし替へて、多くの小石を載せて押へて置き、又はとん／＼葺きなどゝ稱して、構はず釘で打ち付けるやうな粗末な葺き方も始まつたのである。

　

　　　　　　　四　一種のピラミッド

　

　屋根を葺く材料の種類は、我邦では思ひの外數多いのだが、大體に今でも之を二つに分つことが出來る。その一つは板葺き一派の三角の緩い扁たいものでさゝ板やこけら板で葺いたのから、檜はだ杉皮の屋根まであり、現在盛んに建つて居る瓦葺きも其中に含めてよい。一方は又萱屋根だけで無く、藁や其他の植物で葺いたものが色々あつて、それは何れも皆三角がうんと尖つて居る。北陸地方へ行くと、前の方を總稱してシユク屋といふが、この名はもと宿驛の家といふことで、街道往還の左右の家だけは、成るべく斯ういふ屋根ばかりを、葺かせることにしたのである。之(320)に對して他の一方の總稱は、草屋根又はクズ屋といふ處が多い。草屋根はもと萱で葺くのが主であつたからかも知れぬが、クズ屋と謂ふのはどういふ意味であらうか。私の想像では、やはり有合せの屑物を利用したといふことで、最初はたゞ臨時の小屋、又は貧しい人たちの住居だけに、斯ういふ屋根を葺いて居たものと思ふ。愛知縣の日間賀島《ひまかじま》などでは、もとは大小を問はず、すべての草屋根をイホリと謂つて居た。即ち秋の田の苅穗のいほも同じで、假の建物ばかりに萱や藁、その他の不用品を使つて居たので、斯んな名が今も殘つてをるのかと思ふ。

　ところがこの草屋根の葺き方は、中也からこのかた非常に進歩した。よその民族の田舍家と比べても、又は素人の假小屋などゝ比べて見てもすぐに判るが、日本の萱葺きには大へんな手のかゝつた見ごとなものが少なくない。專門の職工には技術のすぐれた者が多く、鋏とか槌とかこて板とか、その他色々の道具の使ひ方を考へ出して、二尺三尺の厚さに端を切り揃へ、あの美しい屋根の形を作り出したのは、空中の彫刻と謂つてもよく、是と比べ合せると板葺きは寧ろ單調に見える。東京都下でも多摩川上流の山村、千葉茨城二縣の沼澤地方、又は奧羽や越後の一部などにも、立派な作品が幾つと無く殘つて居る。建物の大きさから言つても、住心地の上から言つても、又保存年限の長さから見ても、斯ういふのはもう決して苅穗のいほでは無い。屑屋どころか材料にえらい費用がかゝつて居る。つまり私たち日本人は、あの小さなぼや／＼とした草小屋から、段々と工夫を重ねて、色といひ又形といひ、今まで丸で見られなかつた美しいものを築き上げて、それを全國に普及させたのであつて、誰の力といふことが尋ね難く、又毎日見馴れてしまつた故に、之を當りまへのやうに思ふ者ばかり多くなつたが、人が集まつて大きな事業を爲し遂げ、且つ生活を改良したといふ點から見れば、是も亦民族の一つの記念、一種のピラミッドであつたと言ふことが出來る。

　

(321)　　　　　　　五　ユヒに屋根葺く

　

　しかも大震災のやうな意外の激變も無く、また西洋文化の影響も無くて、たゞ眼の前の何でも無い原因から、この草屋根の三角も、やがて飛び去らうとして居るのである。皆さんが親になり祖父母になる頃には、もう日本の子供たちは、繪や寫眞で見るか、又は山奧へでも入つて見ぬ限り、この見ごとな大きなくず屋といふものは、眺めることがむつかしくなるであらう。物が無くなつてしまへば説明もよくは出來ず、又説明を求める者も少ないかも知れぬ。それだから今のうちにもつと注意を拂ひ、又私のするやうな話を聽いて置く必要があるのである。

　どうして草屋根の、あの三角は飛ばうとして居るか。是も少し考へて見ればわかることで、つまりは材料の萱がもう無いのである。萱には幾つかの種類があるが、まづ東京でいふ薄尾花のことで、郊外の私の家の狹い庭でも、お月見に挿す位なら、栽ゑなくとも自然に生える。しかしそれを苅り集めて一軒の屋根を葺くには、萱野といふものが近くになければならぬ。大きな家ならば五年三年の前から心がけて苅りためて置くか、又は遠くへ人を遣つて、えらい入費をかけて集めて來なければならぬ。厚く丈夫に葺いた萱屋根は、三十年以上はもち、巧みに插萱をすれば五十年は葺替へをせずともよいと言はれて居る。その代りにはさあ葺くべしとなると、ちつとやそつとの萱野では追付かぬのであつた。それで本家とか舊家とかいふやうな、最も念入りの葺き方をして居た家から、最初に之を罷めて瓦屋にならうとして居る。

　もう少し小さな家々では、この草屋根を續けて行く爲に、ユヒといふ團結を作つて居た。ユヒは土地によつて萱講とも、又萱無盡とも謂ふ者があるが、その目的は出來るだけ少ない萱野から、組中の屋根の萱を得ようといふに在つた。屋根は天氣を見定めて一日のうちに葺くから、手傳もいるし繩や竹も集めねばならぬが、それだけならば傭ひも(322)買ひもすることが出來る。萱ばかりは何としても、ユヒの共同に依るの他は無かつたのである。

　ユヒの實際を今すこし詳しく言つて見ると、たとへば爰に三町歩とか四町歩とか、ちやうど普通の家の屋根が二戸葺けるだけの、萱の生える共有地が有るとする。それを家々から勝手に出て苅るならば、一戸はさて置き半分の用にも足らぬほどの萱も、持つて來ることが出來ぬであらう。よく葺いた萱屋根は、大よそ三十年ぐらゐはもつとすれば、順番をこしらへて或家は幾分か早めに、又或家は何とかして少し長く辛抱すると、五十軒以上の農家が、たつた是だけの萱野によつて、次々に屋根を葺いて行くことが出來るのみか、仲間が助け合つて五十束七十束と苅り集めてくれて、苅り時をおくらす心配も無いのである。萱が野山に幾らでもあつた時代にも、斯ういふ助け合ひは必要であつたが、その萱野が狹くなつて來ると、いよ／＼このユヒを親密にしなければならぬわけである。

　

　　　　　　　六　藁の一つ屋

　

　村に附いた共有の萱野といふものは、廣くなる場合などは一つも無く、狹められる原因は幾つもあつた。第一に土地が繁昌して、働く人が多く食べる人が多くなれば、誰しも斯ういふ野原を拓いて、何か作つたらといふ氣になる。殊に瓦で屋根を葺いた家が、何軒でも新築せられるやうになると、萱野などは何かもつとよい利用の途が有りさうなものだといふ考へが起りやすく、以前の手近な處の萱野は無くなつて、段々と便利の惡い、遠い山の上などに苅りに行かねばならぬことになる。家を是非とも萱葺きにして居りたい人は、自分の持地の中に生やして置けばよいのだが、それをすることは大へんな地面の費えだから、やはり多くの仲間のユヒによつて、材料を集めて來る必要があり、さういふ希望の者が少なくなれば、たとへ自分一人はどの樣に萱屋根を續けたくとも、しまひには斷念するの他は無いのである。

(323)　村に生まれて萱葺きの家に育つた者は、年を取ると妙にこの住心地の戀しくなるものである。殊に都會の騷がしい音に疲れて、何とかして今一度、靜かな葺屋の雨の音を聽いて睡りたいと、思つて居る人は存外に多く、現に私などもその一人であつた。ところが今から三十年も前、まだ東京の郊外が武藏野であつた頃に、今の多摩墓地の少し東の方に、たつた一軒だけこの萱葺きの家を新築した人があつた。その時分にはまだ武藏野は薄だらけであつたが、次の葺替への時のことを考へたものか、この家では周圍を廣々とかこひ込んで、一面に萱を生やして居た。面白い考へだなと思つて、散歩のついでには折々通つて見たが、どうも長くは住みつゞけて居なかつたやうである。此樣なことをすれば、出入りに不便で、淋しくて仕方が無く、第一に火の用心が惡い。地面が安ければ遊ばせて置いてもよいやうなものだが、いくら萱野でも、管理にはやはり手數を要する。春は一度か二度火を入れなければならぬし、秋は又すつかり苅取つてしまはねばならぬ。それを怠ると古株はすぐ弱つて、外の地へ出店を出してしまふからで、いつでも葺き萱を得られる樣にするには、やはりユヒの協力は缺くべからざるものであつた。無理に一人で斯ういふ家を維持しようとする者は、金に困らぬ人の中にはまだ有るかも知らぬが、それ等はびつくりするやうな高い價を、以前は無代であつた萱の爲に拂つて居る。普通の農家ではとても其眞似は出來ない。だから今日でもまだ全く無くなつては居ないといふだけで、萱野はもう一つの奢りになりかけて居る。それを以前のまゝになほ持ち續けて來られたのは、一つは改革のさうたやすくない爲と、今一つは我邦に發達した、ユヒといふ團結の御蔭であつた。

　

　　　　　　　七　古代瓦と今瓦

　

　日本の畠作農業の進歩、殊に稻以外の穀物の栽培は、二百年このかた非常に盛んになつて來て居る。萱の生産地の狹まり又は遠くなつたことも、決して近年に入つて始まつたことでない。たゞそれが屋根の三角の角度を、斯んなに(324)扁たくしたのは新しいことで、手短にいふと、瓦が私たちの手に入りやすくなつた結果なのである。

　瓦を以て屋根を葺く習はしは古いが、もとは其利用者が限られて居た。寺を瓦葺きと謂つた言葉が伊勢神宮にもあつて、宮殿や神の御社でさへも、最初は瓦を使つては居なかつた。それが追々と廣く行はれるやうになつてからも、普通の人民には許さなかつた地方は多く、たとへ許されても人はさういふ目に立つことはしなかつた。それが明治の維新を境にして、誰が瓦で屋根を葺いても、少しもかまはぬことになつたのである。土の中から出て來る古代の瓦に比べると、堅さも重さも又大きさも、共に大ちがひな安物ではあるけれども、安いだけに人が求めるに手輕であり、之を遠くへ運ぶことは、損じやすくで不便であつた故に、却つて村々に小さな瓦を燒く竈が數多く出來て、一層その普及を早くした。私などの若い頃には、どの地方へ旅行して見ても、瓦を燒く煙の見られない處は無かつた。燃料は大抵松の枯枝で、土はそこいらの粘土を持つて來て、水でこねて型に取つた。瓦の型などもこの際に大いに變り、雌瓦雄瓦を一つにした浪型のものばかり多くなつたやうである。瓦屋根の葺き方も驚くほど簡単になつた。もとは板屋の上に土をうんと載せて、それを瓦で覆ふやうにして居たのでその重みがかゝり、よつぽど丈夫な柱やつかを以て支へなければならず、從つて屋根の三角も特別の形でなければならなかつたが、後には材木を儉約して、むしろこの樣な輕い瓦を喜び、土もあんまり使はずにそつと載せて置くやうになつて、屋根の形は板葺きと非常に近くなつた。さうして握り拳で敲いて何故割つたといふやうな瓦なのだから、火事に遭つても又寒さに凍つてもすぐ碎けて、火の用心にはあまりならなかつた。さうしてまだ昔の瓦屋の時分の安全感だけが、殘つて居るらしいのは少々あぶない。

　火事の話も皆さんの爲になるのだが、直接に三角とは關係が無いから後まはしにして、こゝには先づ草屋根の角度が、少しづゝ變つて來たことを話して見よう。萱野の萱が段々と足りなくなつて來て、木材ももう少ないのだから、再び板葺きに戻ることも出來ず、瓦はまださう容易には手に入らぬといふ時代には、普通の日本人は色々と、他の材料を代りに使ふ工夫をした。青森縣の十三潟のやうな、廣い淺い沼のほとりに住む村々では、細い一種の蘆を苅つて(325)來て、葉をむしり棄てゝそれで屋根を葺いて居る。栃木縣の西部のやうに麻を多く作る地方では、その麻稈を以て葺く風習が始まつた。その以外にもごく細い篠竹、紙を製する處では楮の小枝、養蠶の盛んな土地で桑の枝、又は笹の葉で葺いて居る例も私は知つて居るが、さういふのは全國一般といふことが出來ないであらう。之に對して藁屋すなはち藁葺きの家といふのは、今やすでにどの府縣に行つても、見られぬ處は無いといふまでに廣がつて居る。さうしてこの藁屋の三角は、又少しばかり萱葺きとちがはずに居られなかつたのである。

　

　　　　　　　八　新式の藁屋

　

　藁屋といふ言葉は、古くから我邦にあつた。

　　　世の中はとてもかくてもありぬべしみやも藁屋も限りなければ

　斯ういふ歌も私たちは記憶して居る。しかしそれだから今のやうな藁葺きが、昔もあつたらうと思ふのは誤りである。昔の藁屋は假小屋で、それにいつまでも住んで居なければならぬのは、よつぽど貧しい人だけであつた。その點は最初の藁葺きでも同じだつたかも知れぬが、是が一旦發達して、專門の良い職工が出て國々を廻つてあるき、つひに今見るやうな大きな見ごとな草屋根を、澤山に殘して置いてくれた後に、今度は材料の萱の不足といふことが始まつて、何か代りのものを使はねばならぬやうになり、改めてその技術を新たな藁葺きに傳授したのである。昔風な藁の假葺きは、今もまだそちこちに見られるが、それとこの新しい藁屋とのちがひは、誰の目にもはつきりとして居る。皆さんはたゞ注意して見ればよいのである。

　新舊二つの相異は色々と有るが、一番よく判るのは葺き草の方向である。今でも年々新たにする屋敷神の祠、又は山小屋や積み物の雨覆ひ等は、大抵は藁の穗先の方を外へ出すことにして居る。あの秋の田の苅穗のいほなども、多(326)分は是と同じかつたらう。是を又｜苫葺《とまぶ》きとも呼ぶのは、舟の苫などもこの葺き方だつたからで、田舍では又逆さ藁とも謂つて、普通の住居には嫌つて斯うは葺かず、ちやうどその反對に根本の方を軒先に向けて、端をきれいに鋏で剪り揃へて居る。それから今一つ一目で氣のつくちがひは三角の頂點、即ち屋棟の葺き合せかたが、近頃の藁屋では非常に複雜になつて居る。もとは簡單に四方から葺き上げて中央に纏め、上へ一束の藁をひろげて載せてもよく、又はしまひの藁を折り曲げても置いたか知らぬが、斯んな事では長くはもつて居ない。それでどうすれば爰から雨や雪が入つて來ぬやうになるか、是には永い間、家を建てる者が皆苦心したかと思はれる。色々の考案が萱葺きの盛んだつた頃から、この點については試みられて居る。たとへば竹や木を渡した上に土を載せ、其土が流れてしまはぬやうに、根の強い植物を栽ゑたのが關東地方には多く、東北の方では又野芝を土とともに切つて來て、屋の棟に被せて置くものがあつて、時々はそこに百合の花が咲き、または小松などの生えて居るのを見かける。或は箱棟と謂つて舟の形をした木を逆さに伏せ、もしくは瓦を以て此部分だけを包んだものも有るが、日本全國を通じて最も多いのは、やはり萱とか藁とかの同じ材料と、多量の竹木とを利用して、横に枕のやうに棟の上を掩うたもので、一々詳しくは話して居ることが出來ぬが、是にも土地によつての幾つもの種類がある。寫眞に取つて比べて見ても面白い。大體にこゝは風あたりが強くで損じやすく、又さう度々は登つて行きにくい處だから、最も念入りに丈夫に、且つ遠くから見た目も好ましいやうに、作り上げようとした努力がよく現はれて居る。屋根屋といふ專門の職人の、腕を揮ふ領域は　　益々多くなり、是まで久しい間農民の持ち傳へた技術は、是と反比例に追々と隱れてしまつたのである。

　

　　　　　　　九　天井と鼠

　

　家も食べ物や衣類と同じやうに、以前は皆めい／＼の手製であつた。國の文化が大いに榮えてから後も、都の宮殿(327)とか神の御社とか城とか寺とかには、遠國の職人を喚び寄せて働かせたが、それは全體からいふと僅かなことで、其他の建築は皆土地限り、結《ゆひ》で助け合ひ又手傳ひに來て、何とか安樂に住めるやうなものを作り上げて居たのである。大工を番匠といふのは徴用工といふ意味であつた。壁を塗る人をシャクワン（左官）といふのは、その補佐役といふことであつた。それで地方によつては屋根茸きのことを、左官と呼ぶ處も有るわけである。その番匠と左官とが、澤山の弟子を取り、大きな工事ならば皆出て働き、御用がすんでしまつて手が剰ると、それ／”＼縁故の有る土地に歸つて、追々に普通の人の家も造ることになつたのだが、それでも飛騨の白川のやうな邊鄙な土地では、たつた一人の大工が來て棟上げまですむと、後は村の人に任せて還つたさうである。土佐の山村でも隅葺きさんといふたゞ一人の屋根葺き職を頼み、隅のむつかしい仕事だけを引受けてもらふことにして居た。だから土地々々の昔からの葺き方などが、次第に改良せられつゝも、なほ久しく殘り傳はることが出來たのである。

　專門の職人には職人氣質といつて、成るだけ手の込んだ見ごとなものを作りたいといふ念が強い。それから又腕に自信が有るので、土地の者の經驗を輕く見ようとする傾きもあつた。さうして思はぬ失敗をした場合も無いとは言はれぬのである。そのをかしい一つの例を擧げるならば、萱葺き藁葺きの家には、もとは板天井といふものが無かつた。家に入ると屋根裏の見えるものが多く、さうで無くともツシといふ竹や木の棒を渡しただけの二階で、風が吹く日には隙間から埃が落ちて來た。板をびつしりと張つた方が見たところもよいので、大工に勸められると大抵は板天井を附けることにしたが、草屋根の爲には是は損なことだつた。斯ういふ家では、よほど大きな破風の窓を聞いて風通しを付けないと、家の中の濕つた空氣が上に滯つて、屋根の痛みが早いだけで無く、爐の煙をぢかにあてゝ燻して、防腐をすることも出來なくなる。もつと困つたことには天井は鼠の牧場となり、猫をたび／＼征伐に遣はさぬ限り、鼠算といつて忽ち繁殖してしまふ。それを又狙つて青大將といふ蛇が外から入つて來るのだが、この蛇は屋通《やどほ》しといふ別名も有る位で、しば／＼屋根の萱や藁の儘かな隙間から出入りして、飛んでも無い大きな穴を明けるのであつた。(328)さうして草屋根の保存年限が、三十年のものなら二十何年しかもたなくすることを、板天井を張る大工たちには、氣づかぬ者もあり、又は氣にしない者もあつたのである。

　

　　　　　　　一〇　昔の屋根縫ひ

　

　草屋根が次の葺替へまで、何十何年ほど持つかといふことは、勞力の上から見ても農家には重要なことであつた。それに入用な人の手は、ユヒによつてたやすく得られるにしても、耕作のあひ間にそれだけの勞力を、村としては餘分に出さねばならず、保存の年限が短くなればユヒは小さくなり、從つて一人が澤山に出て働くことになるからである。萱野の萱が足りなければ、幾らでも藁を代りに使へばよいと、いふことの出來なかつた理由もそこに在る。藁の中では小麥稈のよくすぐ〔二字傍点〕つたのが一ばん萱に近かつたが、それでも一方の三分の一も持たない。大麥や裸麥は藁もたけも短く、且つぶよ／＼して居るのでもつと早く腐れる。稻の藁は、日本で是ほど色々の役に立つものは無いのだが、屋根葺き材料だけには全く向かない。しかし斯ういふ不適當な代用品でも、萱が手に入らぬときまれば使つて見る他は無い。幸ひなことには農業には藁類の堆肥が必要であつて、三種の麥稈などは、苅つた年のものを積み肥にするよりも、散々に雨に打たせ煙に燻して、脆く碎けやすくなつたものゝ方がよかつた。そこで農家では鼻の穴を眞黒にして、八年十年といふ短い期間に、たび／＼屋根藁を卸しては葺き替へたのである。斯うなつて來ると無論人の手が足りない。家の者やごく親しい人は働かずには居られないが、その他の勞力は外から來る者を雇つて來る。關東地方では茨城縣の筑波とか、遠くは福島縣の會津地方のやうな、田畠が少ないか又は秋の農作の早く片づく村から、群をなして其屋根葺き職の者が出て來て、大よそ見當を付け文は前の年から約束をして、今年葺き替へる家々を廻つて居た。即ち彼等も亦農民の片商賣なのだが、數をかけて居るので簡單な技術を覺え、又道具を揃へて居て、普通の人よりは(329)仕事が早く、手際もよく葺き上げたのである。たゞ其爲にユヒといふ一つの勞働組織は崩れたのみならず、私の謂ふ手製建築法の、最後の部分までが滅び去つたのは已むを得なかつた。

　伊豆の八丈島などでは、屋根葺き終りの日の祝宴をニイトメ祝と謂つて居るが、これが縫ひ留めであることはもう氣づかぬ人が多くなつた。昔は草屋根も菅笠などゝ同じく、葺くことを縫ふと謂つて居たのである。屋根の三角の斜面には、まづ何十本もの木竹を括り付けて、それをヌヒボクと謂つた。それから竿のさきに穴のあいたものへ繩を通して、助手が下からさし出すのを、上に居る葺き手が取上げて、それを以て萱藁を縫ひぼくに結び付けるのが、ちやうど着物を縫ふのと同じだつた。それでその長い竿を針といひ、今でも沖繩などではこの助手の役を針刺しと呼んで居る。爺は屋根に上り婆は下から針をさしたといふことは、昔話ではまだ語られて居るが、今日の屋根屋は葺藁を深く積み重ね、要所々々を手持ちの繩で括るだけで、もう一針づゝ運んで行くやうな悠長な事はしない。

　

　　　　　　　一一　新しい三角

　

　屋根の三角は萱葺きが藁に代つてから、自然に少しづゝ尖つて來ぬわけには行かない。私の生まれた家なども小麥の稈を用ゐて、かなり上手に葺いてあつたが、その角度は關東の古い大きな萱屋と比べると、氣づかずに居られぬほどの鋭角であつた。全國を比べて見ると、佐賀縣の北海岸地方から、壹岐その他の島々が殊に尖つて居るやうに思ふが、こゝは或は大麥の稈を、使つて居るのではないかと思ふ。斜面が急になれば棟も高く、登つて葺くのには不便が多いのだけれども、少しでも長くその屋根をもたせようとするには、斯うして雨水を早く流し、藁の間に濕氣を含ませぬやうにすることが必要であつた。島では全體に尖つた屋根が多いやうである。鹿兒島縣南方の島々などは、萱をまだ葺くものも有るかと思ふのに、家が小さな割に高く尖り、その上に屋敷に小屋の數が多いので、高くから見ると(330)かはつた印象を受ける。是も私は雨が多く濕氣が強いから、斯うして水を切る必要が一層大きいのかと思つて居る。今後建築の材料が一變してしまはぬ以上、この三角などは中々飛んで行つてしまはぬであらう。

　或は又屋根の角度はあまりかへないで、材料の加減で保存をよくしようとする試みも、職業屋根葺きになつてから、色々と實行せられるやうになつた。たとへば南に面したよく乾く側は小麥藁、日陰になる方は萱とか、丁の字形の屋根の谷になる部分には木や瓦を當てるとか、場所によつて使ふものをちがへ、又は始めから材料を混合して、萱は半分三分の一といふのもあり、又は上葺きを萱にして、下の厚みは藁その他のもので付けるといふやうなものも有る。無論斯ういふ巧者なことは素人には出來ない。職人は又腕前を示すべく、棟や軒の端の切り揃へに、蘆とか篠竹とかの切り口を、順序よく並べて見せて居る。關東東部の田舍をあるく人は、少し氣をつけて居ればこの例がよく見られる。

　石川縣の東部を汽車で通ると、笹の葉を澤山葺き込んだくず屋〔三字傍点〕が大分ある。是なども只材料の不足を禰ふ爲だけで無く、斯うすれば幾分か屋根のもちが良いのであらう。奈良縣の東半分から京都府の一部へかけての、屋根の葺き方には特色がある。是は稻藁を材料に使つた殆とたゞ一つの例で、遠くから眺めた白つぽい色もかはつて居るし、家の形も珍しく、三角が可なり急であるが、是などは萱の缺乏を補ふ目的で、始まつたものでは無ささうで、下に十分な萱を葺いた上に薄く稻藁が覆うてあるのだから、美觀を主としたものゝやうに思はれる。屋根の形も四方葺きで無く、切妻と稱して前後は壁になつたものが多い。斯ういふ形の家が數多く集まつて、建つて居た時代の風景は美しかつたに相違ないが、今日はもはやさま／”＼のものが入りまじつて、何かたゞ私たちの理解を困難にして居るやうにしか見えない。

　

(331)　　　　　　　一二　江戸の三角

　

　都會も最初のうちは、屋根の形や葺き方がお揃ひであつたらしいことは、火事に遭はない幾つかの小さな町の、家竝みを見ても大よそは想像し得られる。それが後から／＼と人が入つて來て、今のやうに大きな市街になると、とても統一は取れなくなつてしまふのである。さういふ中でも土藏造りといふ瓦葺きなどは新しいもので、大きな商人の多量の財貨を抱へた者でないと、必要も無く又持ちこたへることが出來ない。しかも火災に對して少しでも安全なのはこの他には無く、殊に市民の半分は借家人であつた爲に、家は燒けるものと始めからきめてしまつて、火事が有ると身のまはりの物を持つて、さつさと遁げて立退く算段ばかりして居た。是が東京などの大都會に、大火の多かつた原因の一つで、さうして又屋根の三角が、愈々不揃ひなものになる種でもあつた。

　東京はその地勢からいふと、木が少なく萱や葦が周圍に多く、自然に任せて置けば草屋根の大きなものが、幾らでも立ち續くべき御城下であつた。慶長見聞集といふ本を讀んで見ると、今から三百四十年ほど前の、慶長六年霜月二日、江戸丸燒けといふ大火があつた後、幕府は命令を出して草葺きを改めさせ、新築は成るべく板屋根にするやうにと指圖した。火事の用心に板葺きといふのはをかしいが、その板の上には蠣《かき》の殻を多く載せて、火の子の燃え付くのを防がせることにしたのであつた。蠣殻はこの海岸一帶に多く産し、瓦はまだ普通の人が利用するまでに、普及して居なかつたからである。この際に大通りの本町二丁目に、瀧山彌次兵衛といふ金持があつて、家を新築するのに町に面した屋根だけを瓦で葺き、棟から裏の方は板葺きにした。それが珍しいといつて遠くから見物に來る人が多く、半瓦の彌次兵衛といふ綽名を付けられて、大評判であつたといふ逸話も傳はつて居る。

　皆さんが多分驚かれるだらうと思ふのは、この慶長の大火事の頃までは、江戸の市中には棟の高い大きな家が多く、(332)そのてつぺんには鳶だの鷺だの、又｜鸛《こふ》の鳥だの、巣をくつたのが見られたといふことである。板葺きの三角は平たいから、どんなに大きくてもさう棟が高くはならない。又この時分は二階屋といふものも少なかつた。だからさういふ鳥の巣のあつたのは、萱屋根の上に棟押への木を組んで載せたもので現在奧多摩の山村などに在る農家よりも、今一かさ偉大なものが、昔の東京市内には立つて居たので、それがこの大火に燒けて、もう再び造られなくなつたのである。しかし萱ぶき藁ぶきの家が、是を限りに全く無くなつたのではないこと勿論である。現にこの時から百二十何年の後、享保十二年の大火事の翌年にも、藁葺きの新築は禁止するといふお觸れが出て居り、其又次の年には、成るべく下地總塗りの家作、即ち今いふ土藏造りを建てよといふ命令も發せられたが、それに附け加へて、「但し土留め迄に蠣殻さし置き候分は勝手次第」とあるから、屋根はまだ瓦では無く、たゞ板の上に土を載せて、火の用心にして居たのである。塵塚談といふ書物は、ちやうど是から少し後に生まれた老人の、若い頃の見聞を誌したものだが、是には目貫きの大通りだけで無く、山の手端々の武家町家ともに、こけら葺きに蠣殻を載せた屋根が普通だつたと出て居るから、ところ／”＼にはまだ小さな藁屋だけは殘つて居たのである。

　

　　　　　　　一三　經驗と實驗

　

　蠣の貝殻を載せた板屋根は、海近くの村へ遊びに行つて、見たことが有るといふ人は多からう。あんな見窄《みすぼ》らしいものは無いと、私などは思つて居るのだが、それがこの東京都の、最も本式な屋根であつた時代も一度は有り、更に其一つ前には、是すら珍しかつた時代さへあるのである。やはり江戸の初期に出來た老人雜話といふ本には、「昔は江戸中に蠣殻葺き四五軒のみ。近年は大方蠣殻葺きに成り、これも火の用心よろし」とある。萱藁で葺いたり板ばかりを載せたりした家よりは、成るほど燃え付き方が少しは遲いかも知れぬが、あんまり安心の出來ないことは、是から(333)後にも怖ろしい大火が、何十囘かあつたのを見てもわかる。それで最後には瓦ならよからう、又は瓦に限るといふことになつたことゝ思ふが、是とても屋根に澤山の土を置いて、それが雨の水に流れぬやうに、隙間なく覆ひをするのならよいが、それには又十分な重みを支へるやうに、今よりも何倍か丈夫な木柱を使ふ必要があつた。ところが材木は遠くから持ち運ぶので、成るだけ儉約する爲に屋根の上を輕くし、つひに今日のやうな見たところばかりの、屋上制限といふものが成り立つたのである。或は板屋根の上に土や土留めを載せるといふことが、始めから無理だつたのかも知れない。蠣殻は最初この附近に多く取れたといふだけで無く、石のちつとも無い地方だから、是も藁葺きと同樣に、その代りに用ゐ始めたものらしく、石よりは輕くて都合のよいこともあつたが、石にはもと防火の目的はなく、たゞ屋根板の風に吹き飛ばされるのを、押へようといふだけの趣意であつて、火事にはむしろこの石の墜ちて來るのがあぶなく、早く逃げ出す必要さへあつた。それで近頃はたゞの丸石を轉がして置く代りに、薄くて幅廣いよく剥げる石の有る地方では、之を採つて來て一面に敷きつめ、又は柾板にまじへて直接に屋根を葺いて居るものも多くなつたのである。私たち日本人の生活は、考へて見ると毎日の改良であつた。以前これは便利だ都合がよいといつて採用した技術で、其まゝいつ迄も使つて居られるものは少ない。又最初の通りだと思つて居て、知らぬ間に中味のちがつて來てしまつたものも多い。殊に住宅などはまだその改良の半途であり、敵の空襲といふやうな、前には考へて置くことの出來なかつた危險と不安とが、大きいのから小さいのまで、幾つも有るといふことがよく判つて來たのである。新たに是に應ずる改良を、しなければならぬ人は皆さんである。どこに親たちの苦心した點が在るかを知ると共に、別に又どの部分がまだ十分で無かつたかを、見究めるだけの目と判斷とを、自ら養ふやうに心がけなければならない。

　

(334)　　　　　　　一四　帝都の美觀と安全

　

　そこでもう一つだけ古い書物を引いて見ると、是は今から僅か九十年ほど前に、大阪から出て來て江戸を見た人の、皇都午睡《くわうとごすゐ》といふ本の中に、斯ういふことが書いてある。江戸は年々歳々の御觸出しあるが故に、通り筋と間筋は大方瓦葺きとなつたが端々には叩き屋根が多い。風吹きに屋根板の散らぬやうに、細い竹を伏せて手頃の石か瓦の割れを載せて置くとある。即ち蠣の殻はもう使つて居ないので、叩き屋根といふのは釘を以て板を打付けた屋根のことである。それから又中くらゐの場所は表側だけ瓦葺きで、いはゆる半瓦の家は珍しくなく、まして場末には瓦一枚も使はぬ家ばかりであつたが、僅か四五年を隔てゝ二度目に下つて見ると、もう瓦葺きがよほど多くなつて居たから、後には京大阪の市中と同樣になるであらうとも言つて居る。即ち上方の二つの大都會では、この時もう瓦屋根が普通になつて居たのである。

　しかし火事は江戸の花などゝ謂つて、特に江戸の方に多かつたのは其爲でも無かつたらしい。あれから瓦葺きが急激に増加して來たけれども、なほ明治の半ば過ぎまでは、二千三千といふやうな大きな延燒が、毎年のやうに續いて居た。一つには丘陵の間が狹くて風の道が通り、又冬分の風が強いからとも言はれて居たが、それが近年になつてから、囘數はもとゝ同じでも、燒ける家數がめつきりと少なくなつたのは、全く消防の技術の進みと言つてよい。其技術といふ中には、隊の組織や報知機關の完備、機械の精巧さとか、消火栓の配置とか、道路の取擴げとか、なほ色々の要件が含まれて居るが、屋根の葺き方や諸材料の改良が、その一つに算へられるかどうかはまだ疑問である。たゞ戰國時代の城下の町のやうに、民家は燒けるもの、火が來れば家財を抱へて、逃げればよいものといふやうな考へ方が段々と消えて、爰は一國の大切な都だ、是を美しくし又安全な場所にしよう、燒いては相すまぬといふ共同の念慮(335)が、日増しに強くなつて來て居るといふことだけは、想像することが出來るのである。但しその爲には、災害が目の前に迫つてから、是と必死に闘ふといふだけではまだ足りない。どうすれば日本の國土に相應し、風景と調和し、無事の日には快い住心地と、樂しい安全感とを與へるやうな住宅の群を作り上げて、愈々私たちの愛惜の念を、深くかつ切なるものにし得るかを考へなければならぬ。斯ういふ大きな任務が、是から成長して行く若い國民に委ねられて居る。それはむつかしいことだ、出來ない望みだといふことは、まだ皆さんは言ひ切ることが出來ない。何となれば皆さんは今まで、ちつとも屋根の歴史といふものを調べたことが無いからである。今度の疎開はまことによい機會だ。今まで知らなかつたことを少しでも多く知つて、それを友だちと共に考へて見ることが必要である。雨のよく降る日本では、三角は恐らく飛んでしまはないであらう。たゞその三角をどういふ風に組みたてたら、一ばん安全であり又見た目にも美しいかを、きめてくれる人を我邦は待つて居るのである。

　

(336)　　　　　三度の食事

　

　　　　　　　一　人生の宿題

　

　この戰爭の始まる前、二食主義と謂つてお晝の食事をしない人が、東京などには可なり多く居た。一體に朝が農村よりはずつと遲いので、仕事に取掛かつて程も無く、やつと身が入る頃にもう十二時になる。そこで又一時間ばかりも、息を拔くのが何だか惜しい。消化のためにはもし我慢が出來るなら、間を長くする方がよいといふのが、主たる理由のやうであつたが、なほその以外にも昔の日本人は、朝と夕の二度の食事ですませて居た。是を三度にしたのは新しい習慣だから、もう一ぺんふるい方式に戻つた方がよいといふ、歴史を重んずる考へも働いて居たかと思ふ。歴史が私たちの將來の生活をきめて行く上に、大きな參考になることは凝つて見るまでも無い。たゞその知識は十分に精確なもので無いと、何かの折には迷ひが起つて、動かない列斷の根據にはならぬのである。我々の知つて置きたいことは、出來る限り歴史の全體でありたい。即ち昔は朝晩の二度だけしか、食事をしなかつたといふのが、本當であるかどうかを確かめるだけで無く、そんなら又如何なる理由と事情とで、此頃のやうに三度々々の食事と謂ひ、二度しか食べない子供を缺食兒童などゝいふ迄に、それが普通の習はしになつてしまつたか、この點も誤りなく答へられるやうな、歴史を學ばなければならぬ。さういふことまでを説明した書物は、まだ出て居ないやうであり、假に斯う(337)いふわけだらうと言つた人が有つたところで、確かだと思ふことが出來なければ役には立たぬ。しかし皆さんが成るほどそれは大切な歴史だ、どうかして其點を明らかにして後に、是から二食にしてもよいか惡いかを、決したいものだと思ふやうになれば、今に必ず其答は出て來るであらう。どうしても判らぬといふほどの、秘密な事件でも無いからである。私たちが知つて居りたいと思はなかつたばかりに、まだ知らずに居る事柄は、食事の問題以外にも幾らもある。さあ入用だといふ時になつて、あわてゝ尋ねまはつてもさう急にはわからない。

　

　　　　　　　二　お晝とは何か

　

　だから若い人々は、是から必要が起るであらうと思ふ歴史を、今のうちに覺えて置かうとして居るのであるが、それを片端から皆覺えるといふわけには行かない。何か機會があつて是は面白いと思つたことから、次へ／＼と注意して見るのがよい。興味を以て見たり聽いたりした事は、そんなに骨を折らずとも、いつまでも覺えて居られるものだからである。食事の習慣が皆さんのと非常にちがつた村々に、暫らく住んで居るといふことは一つの機會である。私が斯ういふ話をしなくとも、氣の付くことはきつと多い。たゞ他の土地ではどうかといふことだけを、附け加へて一ぺん話して見るのである。

　お晝を食べない家は、現在はもう無くなつて居る。わざ／＼朝晩の二食にしようときめた人でも、家の者を殘らずその流儀にさせることは、ちよつと出來さうにも無い。それほどにも一日三食といふことが、今ではもう當りまへになつて居るのである。しかし氣を付けて見ると、そのお晝の食べ方といふのが、土地により人により又仕事の種類によつて、思ひの外まち／＼になつて居るやうである。家に入つて疊の上に坐つて、御膳を出して朝飯夕飯と同じに、食事をする者は上流の家、又は都會に住む人の所でも、決して全部とは言はれぬのである。數多くの農村漁村は言ふ(338)に及ばず、町の人たちにも外へ出て食べる者は非常に多い。食堂とか飲食店とかの出來たのは勿論近い世のことで、その前は皆家から食物を持つて來て、仕事場の片脇でお晝を食べるのが、今とても働く人たちの普通の習ひである。さうして以前の日本人の仕事は、屋外のものが最も多く、日中も家に居て膳で食事の出來るやうな人は、男は素より女や年寄にも、ほんの僅かな數だけであつた。お晝と朝晩の食事とのちがひは、ちよつと考へて見ても幾つかある。第一に家族が順序よく一列に竝んで、同じ時刻に同じ物を分けて食べるといふことが無い。次には食事の器物が、持つてあるくやうに出來たもので、家で食べる時と全く別であり、同時に又分量も前からきまつて居て、何でも勝手に食べてよいといふ品數が甚だ少ない。辨當といふ言葉はいつ頃からあるか、又どういふわけで斯んな名を付けたか、私などにはまだ解らないが、田舍では今でも之をモチビルといふ人が多い。一つの飯櫃や鍋の物を、みんなして共々に食べるので無く、前からめい／＼に分け與へられて、一人々々が自由に食べるといふ點は、成るほど餅とよく似て居る。餅をモチといふのも多分は是と同じく、「持つ」といふ語から出たものであらう。

　

　　　　　　　三　ケドキは飯時

　

　だから三度の食事といふ中でも、晝飯だけはよほど形がちがつて居るので、それが三度ともほゞ同じことになつたのは、朝から晩まで家に居られる職業、たとへば小賣商の自分で店番する者、又は仕立屋などのやうに家で仕事をする者が、多くなつてから後のことである。村にも此頃はさういふ人ができて來たが、元は市街地だけにしか無いことであつた。お晝を包んで家の外へ持つて出て、別々に食べるのも食事のうちに入れるとすると、昔は二食であつたといふことがよつぽど疑はしい。確かにさうだつたとは、今はまだ言ふことが出來ないのである。

　そればかりでは無く、現代は食事が三度になつたといふことも、國の全體からいふと事實に反する。お晝と朝晩と(339)のやうに丸でちがつた食べ方、場所も仲間も分量も器物も、共に變つて居るものも皆食事だとすれば、村では三度では無く四度か五度、稀には六度以上も食べて居る家があるのである。中華民國を始め、大東亞圏内の國々はどうなつて居るか、比べて見たいと思つてまだ出來ずに居るが、少なくとも日本の歴史に於ては、この二通りの食事は最初から別々のものであつた。是から後もやはり分けて考へる方が都合がよいと思ふ。さうしてこの家の外で食べる分を別にすると、以前はたしかに二食であり、近頃は又色々の新しい理由から、三食の人が次第に多くなつて行かうとして居るのである。

　朝と夕との本式の食事を、古い日本語ではケと謂つて居たらしい。今でも朝げ夕げといふ名を使ふ人が少しはあり、又神さまにさし上げる御膳は、朝みけ夕みけと昔から敬語を添へて稱へて居る。お晝の食事も晝げといふことになつたのは、何か特別に日中にこの御膳をこしらへる場合だけに、限つたことだつたらうと私は思つて居るが、後々外へ持つて行く辨當までも、晝げだと思ふ人が多くなつて來て、其ケといふ語の意味が、はつきりとせぬやうになつたのである。最初の起りは膳椀のやうな、きまつた食器がケであつて、それで食べる食事だけを、朝け夕けと謂つたらしいことは、

　　　家にあればケに盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る

といふ有名な古歌からも想像し得られるが、一方には又家庭生活、日常生活のこともケと謂つて居るから、或は却つてこちらが先かも知れない。近畿地方の一部、又は中部地方のそちこちに、飯時をケドキといふ言葉がある。岐阜縣の南の方などでは、このケドキに對して、外でする食事を御茶時といつて區別して居る。

　

(340)　　　　　　　四　飯時と茶時

　

　めし時といふ言葉は東京などでもよく使ふが、是もケドキと同樣に、家の中での食事のことであつた。田の畔に腰かけて黄粉握飯などを食べて居る人に、路を尋ねたりするときには、よく私たちも飯時に失禮などゝいふが、是は誤りでないまでも一種の戯れで、向ふでも大抵につこりとする。メシは本來「きこしめす」又「めしあがる」のメスから出た語であつて、ちやうど「賜はる」から出たタベルに相對する敬語であつた。今はクフといふ語が失敬になつて、其代りに弘く用ゐられて居るが、もとは目上の人に向つて謂つたもので、乃ちお給仕をする者の有る食事がメシであつた。戸外の勞働に伴なふ午食が午餐で無く、從つてメシと呼ばるべきものでなかつたことは明らかである。この心持から言つて見ると、一日五度も六度もある農民の食事は、之を飯時又ケドキと、さうでないものとの二つに分けることができるので、お茶時といふ名は古いものでなくとも、今ならば他の一方をさう呼ぶのが最も適して居る。

　このお茶時が以前の世に比べると、追々と囘數も多くなり、又缺くべからざるものになつて來たことは先づ確かである。最初のケドキ即ち朝飯と晩飯との時刻は、朝日の豐さか昇りと夕日のくだち〔三字傍点〕、日の出と日の入りとを本式として居たことは、神を御祭り申す祝詞といふものゝ中に、さういふ文句のあるのを見てもわかる。しかし是ではその中間が約十二時間で、何も食べずにはとても辛抱が出來なかつたらうと、今の人の心持では、さう思はずには居られないやうであるが是にはまた私たちの忘れかけて居る一つのことがあつた。それは體質のちがひと言はうよりも、寧ろ今と昔との習慣の差であつたかも知らぬ。以前は一度にうんと物を食つて置いて、其あと一日も二日も食はずに居られる人、又は長い間飲まず食はずに、平氣で居られる人が隨分と多かつたのである。近世になつてからでも、血氣盛んな壯年の中には、稀々にさういふ男があつて、溜食《ためじき》と稱して、是も武勇の一つのやうに、評判にもすれば自慢にも(341)して居た。實際又戰國の時代には、急な使に遠くへ遣られるとか、もしくは敵の中に潜み匿れて居るとか、この特技の必要な場合が毎度あつた。今度の大戰でも恐らくは經驗したことであらうが、何か食はぬと直ぐに弱つてしまふやうなのは、活躍する者にとつて可なり不便だといふことが、昔は一般の常識であつた故に、この溜食の出來る人は重んぜられ、又わざ／＼其練習をする者も、少しづゝは有つたのである。尤もこれによつて食料の儉約などは出來ず、從つて又榮養の低下といふこともなかつた。斯んなことの出來る人は、寧ろ大抵は大食ひであつた。

　

　　　　　　　五　臨時食物のある日

　

　人が生命を繋ぎ養つて行く爲の食物と、人の悦び樂しみを深くする爲の食物と、二つは始めから二通りのものであつたかと、私などは考へて居る。是が無くては活きて居られぬことは、雙方少しも甲乙が無いにしても、一方はとにかくに毎日の事であるに對して、こちらは日が定まり季節があり、又その食べ方やこしらへ方に、一つ／＼の特徴があつた。大體に時と手數のかゝつた珍しい食べ物が後の方に多く、それ故に又之をかはり物とも、品がはりとも謂つて居る處がある。家に居てみんなと一緒に食べることもあるけれども、この品がはりは家から外、假小屋や幕の内又は青空の下で、賞翫する場合の方が昔から多く、それは又私たちの親々の、何か變つた仕事をする日でもあつた。一ばんよく知られて居るのは神を祭る日、正月と盆と彼岸、その他節供といつて一年のうちに何囘か、業を休んで祝ふ日にも品がはりが出來た。斯ういふ日の食物は、先づ神々に供へ先祖の靈に進め、それと同じ物を我も人も、共々に食べるから殊に樂しかつたのである。それから家々としては婚禮の夜やお産のとき、又は年祝といつて老人の長命を祝ふ日、一方には又人が亡くなつて野邊送りをする後先から、次第に月日が經つて月忌年忌の祭をする日まで、身うち知合ひの人々の集まつて來るやうな際には、今でも必ずたゞの朝飯夕飯とちがつた物を調理して、食べさせなけれ(342)ばならぬものとなつて居る。

　しかしさういふ場合が、まだこの以外にも色々有つたことは、もう心づかぬ人が多いかも知れない。一年の間にやつと一度か二度、もしくは今一段と稀々にしか起らぬ事件で、人がその爲に全力を揮ひ、精魂を盡して働かねばならぬやうな際にも、やはりふだんとは全くちがつた食べ物を用意し、且つ出來るならば酒も添へて、日頃は一座で食事をすることも無いやうな人たちと共々に、改まつた氣持でしかも樂しく食べて居たのである。算へ上げて見るとさういふ機會は多かつた。戰も昔からその一つで、忙しくなれば食事どころでは無かつたらうが、出陣の始めの日とか凱旋の悦びの日とか、さうで無くても明日は決戰といふ前の晩とかには、大抵の場合この食べ物が出た。慰勞にも前祝ひにも、常の通りの膳立てゞは、とても引締まつた晴れの感じにはなり切れなかつたのである。日本の食事の習慣が、戰國時代と呼ばれて居る室町期の終りの頃、諸國に小さな戰爭の非常に多かつた百年ほどの間に、目に見えて大きく變化した理由は、全く戰時の食べ方の常とちがつて居た爲であつた。

　

　　　　　　　六　狩と伐木と旅行

　

　戰と比べると事はずつと小さいが、人が家々から出て大きな働きをするといふ點で、よく似て居るものには狩倉があつた。是にも働く人々の意氣込を統一し、仕事に對する熱意を昂める爲に、やはり品がはりの食ひ物が支度せられた。宮とか御殿とかの建築や船造りのために、山に木材を採りに入る時もその一つ、それから木を運び斫《き》り削つて、いよ／＼船のかはら〔三字傍点〕（底材）をすゑ、又は新築の棟木を揚げる日なども、一同が集まつてこの食事をする。屋根葺きのグシを包む日も、もとは同樣に大切な日であつた。それとは反對にその家が火災水災に遭ひ、多くの外の人が來て働いてくれた時にも、成功不成功に拘はらず、やはり焚出しの握飯と酒とが出た。今では罹災者に給與するものゝや(343)うに考へられて居るが、本來はこの特別の勞働が、必ず特別の食物を以て犒《ねぎら》ふべきものであつたことは、葬式の時などゝも變りは無いのである。

　次に今一つの殊に大切なものは、旅行の人々に對する給養であつた。宿屋は今でも宿泊者を御客と謂つて、人を招いたときと同じやうな饗應をするが、さういふ設備の全く無かつた時代でも、えらい人の一行が或土地を通過するといふことは、附近の住民に取つては大變な騷ぎであつた。中世の記録を見れば幾らでも實例が出て居るが、京都から奈良へといふほどの一日路の旅でも、前以て通知があつて、晝の用意をする者が有る。駄餉《だしよう》とも雜餉《ざつしよう》とも之を謂つて、飯は屯食《とんじき》といふ握飯で、汁は添はなかつたやうであるが、その代りには色々の御馳走が櫃や長持で持運ばれ、上下何十人の者が路傍の森の陰などで、草に莚を敷いてゆつくりと之を食べ、馬や車牛までが結構な秣に有りついたのであつた。あの時代の有力者はそれを一種の見えにして、常からさういふ奉仕をする者を、行く先々に見つけて置いて、十分な手當てをしたのであるが、さういふ縁故をもたぬ貧乏な旅人には、旅は誠にういものつらいものであつた。晝飯をカレヒといふのは枯れた飯、すなはち干飯を持つて歩いたからである。普通は清水の傍で水をかけて食べたのだが、涙がその上にこぼれて干飯が柔かになつたと、伊勢物語といふ本には書いてある。何日も／＼、さういふものを食べて行く旅は苦しかつたらうが、それでもこの食物が品がはりの一つであつたことは、他のすべての場合と變りは無いのである。つまり旅行といふものは戰や狩や建築工事などゝ同樣に、家で朝晩に食べて居るものと、すつかり異なつた方式を以て、食事をしなければならぬ人生の一部分なのであつた。

　

　　　　　　　七　農業と屋外の食事

　

　家の内と外の食事、すなはち親子兄弟水入らずで、氣樂に食べてしまふ毎日の飯と、何か事ある時だけに集まつて、(344)神樣や貴人の前で、又は他處から來た人々と共に、張り切つた氣特で食べる物とは、品が當然にかはるばかりか、之を調製する女たちの心遣ひもちがひ、又その材料の出處も別であつた。朝け夕けの常の飯料は、普通にはげびつ〔三字傍点〕又は糧米櫃、即ち今いふ米櫃の中に入れてあつて、それにはざつと二合半入りの、大きな木の椀を添へて置いて、頭數に合せてそれではかり出した。乃ち一日一人の扶持米を、五合と立てた計算のもとである。之に對して屋外の食事には、前日から粉を搗くことが多く、飯を炊くにしても是だけは白米で、他の一方の常食の色々雜穀をまぜ合せたものとは別であつた。さういふ中でも田植の日の飯米などは、固い家では早くから精《しら》げて俵にして、用意して置くものが今でも有る。又はその中へ正月の三方折敷の米を、必ず加へて炊《かし》ぐといふ風習も殘つて居る。斯ういふ事實を知り拔いて居る人々は、誰でも改まつた氣持になつて、之を味はゝずには居られなかつた。殊に勇ましい勞働の後であつた故に、何が無くてもこの田植の日の、厚朴葉飯や黄粉握飯ほど、うまいと思つたものは無かつたと、村から出た人はいつまでも話の種にして居る。

　毎年くりかへされる農耕の作業の中で、斯ういふ屋外の食事を伴なふものは、土地によつて範圍が定まつて居らず、夏中打續く處もあり、僅かしか無い處もあるやうだが、如何なる場合にも田植の前後だけは、是は必ず缺くべからざるものとなつて居る。さうなつて居る理由は幾つもあるが、手短に言ふならば、田植は重要な勞働であると共に、又一つの祭典でもあつたからである。若い男女はこの日は皆新しい仕事着で、襷や白手拭の泥になるのも構はず、朝は早天から田に下りて、日の出にはもう田植唄を歌つて居た。その唄の章句は數多く傳はつて居るが、是には皆田の神を田に迎へて、その神�ｺをたゝへその御惠みに頼るといふことを、はつきりと述べて居る。お晝も近くなると一人の若い娘が、この日の食べ物を頭に載せて運んで來た。中國地方では是をオナリド、關東から東北一帶では晝間持ちと謂つて居る。オナリドは煮焚き調理をする人といふことであり、晝間は即ちお晝の食べ物をさう謂ふのだが、それも田植唄の中では長者のまな娘、どの早乙女よりも美しく化粧し着飾つて、色々の好い食べ物を持つて來るのが待遠だ(345)といふ風に歌はれて居る。以前は多分その人に御田の神の祭を、奉仕する役目を持たせて居たのである。さういふ日の晝の食べ物が、粗末ないゝ加減なものであらう筈は無い。殊に田植にはユヒ組と謂つて、ある地方では近隣の親しい家々、又或土地では嫁聟の縁家先などが言ひ合せて、互ひに來て助けて出來るだけ短い日數に、競うて廣い田を栽ゑ終らうとして居たのである。さういふ人たちを悦び勇ませ、たゞに仕事の勞苦を忘れしめるだけで無く、その上になほ生産の前途に對して、明るい希望を抱かせようとするのが、この日の食事の本來の目的であつた。その起りはよつぽど古く、事によつたら他の色々の祝ひごとよりも、前からあつたかも知れぬのである。

　

　　　　　　　八　三つの變遷

　

　日本の最も古い書物の中にも、女が田人に食べ物を持つて行くといふ話が載せられて居る。又さういふ婦人に何か不思議な事があつて、神に崇め又は塚に祀つたといふ傳説は、今でも折々田舍には殘つて居る。田植の日にお晝を田のへりで食べるといふ慣習の、昔から有つたといふ證據は、もう竝べる必要も無いほど多いのである。私の皆さんに話して見ようとするのは、それが今日の三度の食事、又は一日に六度も食べる仕來りと、どういふ繋がりを持つて居るかといふことで、是だけは知つて置くと、きつと何かの役に立つ時が來ると思ふ。食物を最も樂しく又最も有效に食べるには、何囘に分け、どう割り振るのがよいかといふことは、是からも必ず問題になり、さうしてそれをきめる人は皆さんだからである。

　三つほどの大きな變遷が、近世になつて始まつたことにまづ心付かれる。その一つはこの臨時の食物が甘くおいしく、かつ段々と珍しいものに移つて來たことである。第二にはさういふ臨時の食物を食べる日が、次第に數多くなつたこと、第三には又一日のうちにも、其囘數が一度以上、二度も三度もくり返されるやうになつたことである。この(346)三つの變遷の中で、一は原因が他にもあつたやうであるが、二と三とは專ら田植の日の影響であつたと見えて、農業以外には是非ともさうしなければならぬといふきまりが無い。それでこの方を先に見てしまつてから、最後に皆さんとも關係の深い、甘い物の話をすることにしよう。

　田植のあとさきには、同じやうに骨の折れる大きな仕事が色々有る。二毛作といつて田にも麥を作るやうになると、稻の苅り跡は冬に入る前に、馬などを使つてさつさと起してしまふが、以前は春になりやつと田の氷の融けるのを待つて、若い男が總出で一つ／＼、去年の苅株を掘り返して行く。是が春田打ちで、先づ一年の農事の始めであつた。それから苗代のこしらへが直ぐに續き、籾種を播いてしまつた日にも小さい祭があり、種籾のあまりを燒米にして、袋に入れてもらつて子供らは喜んで?んで居る。其次は池｜浚《さら》へ溝なほし、田に掛かる水の路をよく通して、土が段々と軟かくなると、あらくれといふ大きな土の塊を碎き、水が漏れないやうに田の畔を塗り固めて、それへ大豆などを蒔く支度をして置くのである。愈々田植となつて代《しろ》掻きえぶり〔三字傍点〕すり、苗も其日の朝取るのが普通だつたが、忙しい日には前日の日暮に取つて置くやうになつた。植ゑみて・さのぼりなどゝいふ祝ひの日が休みで、その僅かな期間が過ぎると、程無く田の草取りが始まつて、それが又三番草、四番草までも續くのである。田植を農民の重要な祭だと氣づかなくなつて、晝間の食事をこの日だけに、限るわけが無いと考へ出したのは當然であらう。それで家々の男女の集まつて働く日は、ユヒ組の助け合ひは無い場合にも、やはり大田植の日と似たやうな、臨時の食物を以て犒ふ風習が、段々と擴張して行つたのである。

　

　　　　　　九　晝飯と晝寢

　

　ちやうどそれは日の永い汗の出る季節でもあつた故に、たび／＼少しづゝの休憩をしないと、却つて力一杯の働き(347)が出來なかつた。多くの若い者を使つて居た農家では、線香一本のたつ間などゝいふ、をかしいほど短い時間の晝寢をさへ規則にして居た。卯月八日（舊四月八日）の花の日に始まり、八月一日の八朔を終りとして、毎日それだけの晝寢を、働く人たちの權利のやうに思つて居る地方は今でも多く、ヒノツヂといふ言葉は日の頂上、すなはち日盛りの意味だつたのを忘れて、晝寢をヒノツリと謂ひ、八朔の日をヒノツリの取上げといふ人さへあつた。田圃が廣々と開かれて好い樹蔭が無くなると、家が近ければ日の辻には歸つて來て、晝間の食事だけは家でする風習も生じたのである。この休憩の時間をきつぱりと切りあげて、早く人の手を揃へる爲には、爰でも僅かな食物を支度して、食べて立たせるやうにする必要があつた。それで晝寢の前と、其あとの眼さましと、午後は二度まで小晝間を出す處も出來たのだが、それは何れも人を使ふ家の考案で、最初の趣意からはやゝ遠いものであつた。

　ひるま〔三字傍点〕がもとは日中といふだけの意味であつたのを、いつか其中間の食物の名にしたことは、今私たちのつかふヒルといふ言葉も同じことであるが、是だけはまだ久しい間、朝飯夕飯のやうな家の中でのきまりの食事にはなつて居なかつた。そのことは是から言はうとするコビル・コビルマが、今でも屋外の臨時の食事であるのを見てもわかる。コビルマは疑ひなく「ひるま」の小さいものといふ意味だらうが、現在この名の行はれて居るのは、中國四國と九州との端の方だけで、その他の廣い區域にはコビルといふものが最も多い。東北地方の一部、紀州や北陸の二三の土地で、是をコビリと謂つて居るのは、多分晝飯を「ひるいひ」といふ古語の殘つて居た爲と思ふが、その由來が既に不明になつて、信州ではコビレ・オコビレ、富山縣ではコブレ又はコバレ、能登半島ではコベリと謂つて居る者もある。全國を見渡すと、大體に午後の休みに食べるのがこのコビルで、午前のはナカマ・オナカイリ、又はアサコビリなどの名で呼ぶ土地が多いが、中には雙方共にコビリで、之をヒルマデコビリとヒルカラコビリとに、言ひ分けて居る大分縣のやうな例もあり、稀には又午前のだけがコビリで、午後のをわざ／＼ヒルコビリ、もしくはユフコビリと謂つて居る處もある。土地によつてやゝまち／＼になつて居るのは、時を異にして始まつた爲かと思ふ。岐阜縣の北部山(348)間などでは、六月農事の最も忙しい時、午後に二度まで出る小晝の二囘目を、オトコビルと呼ぶ名もある。さうかと思ふと秋田縣の雄物川筋から、津輕地方までの可なり弘い區域で、たゞ田植の日の豆の粉握飯、又は強飯のやうな食べ物だけを、コビリノママといふ例もあるのである。

　

　　　　　　　一〇　小晝飯とコバサマ

　

　斯ういふ序でないと、もう皆さんが聽くこともあるまいと思ふから話して置くが、まだこの以外に幾つかの變つた名前がある。たとへば東京の周圍の村里から、北は福島宮城の二縣まで、西は甲州と信州の一部、東海道筋は愛知縣の東部にかけて、コビルといふ名は無くて其代りにコヂユウハン、又はオコヂヨだのオコヂだのといふ語が行はれて居る。是を小中飯といふ漢字に宛てる人もあるが、實際は晝飯又はヒルイヒを、しやれてチユウハンと言ひ出してから後の名である。さうして是にも亦午後の小晝をさういふ處と、午前のものだけをコヂユウハンといふ處とが出來て居るのである。

　次になほ一つ、中國地方は鳥取島根、又廣島などの各縣に、夏の農作の激しい頃、三度の外に出る食事をハシマといふ名稱がある。之を箸間と書き、箸で食べる食事の間のものだから、さういふのだと説明してくれる人も有るが、それはこじつけで實際は晝間のマと同じく、たゞ中間の食事といふに過ぎぬことは、村によつては小を附けてコバシマ、又はコバサマと謂ふ人のあるのを見ても知れる。ハサマは即ち物と物との中間のこと、今いふ間食をアヒダグヒ、又はハサグヒといふのと元は一つである。是も春の彼岸から秋の彼岸まで、毎日出るといふ處と、盆の十三日のハシマを以て終るといふ處と、田植の間だけしか出さぬといふのとがあり、時刻も午後が多いが午前のをハシマといふ例もある。もつと珍しいのは、後にいふ茶の子と同樣に、早朝の簡單な食事をさう謂つて居る村も有ることである。し(349)かしこの最後のものだけは思ひちがへと言つてよい。つまりはハシマやコバサマが、中間の食事といふことだつたのを忘れて、簡單な食べ物なら皆ハシマと、考へるやうになつてから後のことなのである。

　日本の北の端、岩手縣の九戸郡ではコワエコといふのが、午前の九時頃と午後の三時頃、仕事の一ぷく休みに取る食べ物のことであつた。之に對して九州の一部、たとへば佐賀縣の三養基郡《みやきぐん》などでは、同じ小晝の食事をヤーノメシ（あひの飯）とも謂つてゐる。國の兩方に遠く離れては居るが、この二つは共に間の食事といふことで、名を付けた起りはハシマやコバサマもかはる所は無かつたのである。ひるまも最初のうちは朝夕二つのケの中間といふことだつたのが、いつか毎日の三度の食事の一つになつて來ると、もうその他の小さな間食を、マといふことは出來なくなつて、別にアヒとかハサマとかいふやうな、意味は同じで音のちがつた言葉を、用ゐる必要が生じたものと思はれる。

　

　　　　　　　一一　間食といふ言葉

　

　間食といふ二つの漢字は、古く奈良朝時代の終り頃に、書かれた本の中にもすでに使つて居る。日本の最初の口言葉では、それを何と謂つたのか明らかでないが、少なくとも今のやうにカンシヨクといふ人はもとは無く、ケンズイと字音で呼んだのが古いことであつた。食をシー又はスイーと讀むのは呉音《ごおん》といふもので、佛教を學んだ人は皆呉音を使つて居た。多分は大きな寺などに行つて働いた人々が、覺えて來てはやらせたものであらう。近畿地方の各府縣の住民は、今でも小晝間や小バサマといふ代りに、このケンズイといふ語を用ゐて居る。さうしてもう其語がどういふ所から始まつたかを忘れて居るのである。間炊と書いて間に炊く飯だからといふ者があり、又は粥を出すからケンズイのスイは吸ふことだと思つて居る者もあり、又は硯水などゝいふ飛んでもない字を書いて、昔咸陽宮で冬の日硯の水が凍つた時に、酒を注いで其氷を融かしたので、それから酒を硯水といふなどゝ、有りもしない故事を引用した(350)者もある。しかし中央部の多くの例でもわかるやうに、ケンズイに酒を出す場合はむしろ少なく、たゞの飯の殘りを出すこともあれば麥のお粥もあり、土地によつては又厚朴の葉で包んだ強飯や、餅饅頭の類だけを、さう謂つて居る處もある。さうして是も小晝のやうに、午後を主として午前のを朝ケンズイ・四つケンズイといつたり、或は又一方を七つケンズイと謂つたりして居る。

　このケンズイといふ言葉を、知つて居る區域は可なり廣いが、端々では其意味が少しちがつて來たことは、是も秋田縣などのコビリの飯と似て居る。新潟縣の一部のやうに、小豆餡の鰻頭といふやうな念の入つた品がはりだけをケンズイといふのは、年に一度か二度の特別勞働の日らしく、中國地方の西北海岸や、九州の南部から島々にかけて、ケンズイといふのは親類からの見舞品で、主として大病人のあるときとか、家の普請に大工職人の入つて居るときかに、手傳の氣特で酒や米、又は重詰めの肴を贈つて來ることであつた。もとは家々の間食も皆ケンズイだつたのが、後々斯ういふ見舞品に力を入れる風習が起つて、何か特別のものと見るやうになつたことは、今でもわざ／＼家建《やた》てケンズイなどゝ謂つて居る地方が有るのを見てもわかる。建築に專門の職人を頼み始めてから、急に間食が大層な御馳走になつて來たのである。東京などの大工たちも、建て前棟上げの日に酒肴が出て、それをケンズイといふことはよく覺えて居る。たゞもうそれをまちがへて、ケヅリといふ者が多くなつて居るだけである。

　

　　　　　　　一二　お茶の始まり

　

　斯ういふ職人たちに給與する間食を、現在はお茶といふのが普通になつた。村では是と今までの小晝や小ヂユウハンと、別々に見て居るものもまだ多いが、農家にも追々年季の奉公人が少なく、日雇ひの働き手を入れるやうになると、食べさせる物も一つになり、從つて名前をちがへる必要が無くなる。關東地方でも、千葉縣などではコヂヤとい(351)ふ言葉が弘く用ゐられ、中國地方も隱岐島などは、田植の日の午前の小バサマを小茶、午後に晝寢をして起きて食べるのを立ち小茶とも謂つて居る。廣島縣の漁村などには、夕飯に近い間食を、孫茶といふ言葉も有る。もちろん小茶よりも小さいものといふ洒落であつた。京阪周圍の村々でも、ケンズイといふ名はもう知らぬ人が出來て、市街地同樣にお茶といふ語がよく通じ、前茶・朝お茶・四つ茶といふのが午前の茶のこと、八つ茶・七つ茶・二番茶などゝいふのが午後のである。もう知つて居る人は多いだらうが、四つ八つ七つは昔の時の算へ方であつた。七つといふのは大よそ午後四時、八つはその前の午後二時頃、さうして子供たちのオヤツといふ語のもとであつた。

　お茶を簡單な食事の意味につかふことは、西洋もよく似て居る。人を働かせる日の間食には限らず、本膳を出さぬ程の手輕な饗應を、茶といふ處は田舍には多く、殊に九州などでは婚禮の前後にもお茶、又佛事の日にもお茶といつて人を招いて居る。このお茶には無論酒が出る肴が出る。しかし名稱の起りはやはり茶を飲んだからであつた。茶は鎌倉時代の始め頃に、えらい禅宗の僧が支那から持つて還り、九州では肥前の背振山、それから都近くの栂尾《とがのを》や宇治に栽ゑたといふことになつて居るが、此説の半分はまちがつて居る。輸入をしなくとも我邦の中央山脈には東は東京のまはりの山々から、西は九州の南の端まで、到る處に自然に生えて居て、燒畑を止めると眞先に芽を吹くのは茶の木であつた。たゞ隣邦のやうに此葉を煎じて、飲むといふことだけをもとは知らなかつたのである。茶には十�ｺが有ると禅家の人たちは言ふが、農民にとつてはその半分は有難くないことだと、いふ樣な話も古い書物に出て居る。少なくともこの御蔭に温かい飲み物が出來、口の悦びが一つ加はつたので、今でも茶人以上に茶を多く飲むのは、實際は農村に働く人たちである。この流行の大きな力になつて居るのは、何と言つてもこの飲み物が、何かかんか食べる物を添へずには出なかつたことであらう。最初は茶鹽氣と謂つて梅干か漬物、稀には小匙に一ぱいの鹽といふこともあり、さうで無くとも腹を太くするほどの多量の物は伴なはずに、たゞ簡單に一時の口淋しさを紛らし得るといふことが、恐らくは茶の人望の基であつた。短い休憩の囘數が其爲に多くなり、一方には又何の仕事もせず、腹もへらな(352)い人たちまでが、退屈だといつては盛んにお茶を飲むやうになつた。さうして居るうちに、砂糖といふ曲者が、愈々姿を現はして來たのである。

　

　　　　　　　一三　砂糖の魅力

　

　一ばん大きな變勤を受けたのは子供たちであるが、それもずつと後の出來事であつた。砂糖が日本に入つて來たのは、四百年近くも前の話だけれども、始めのうちは只名を聽いたばかりの珍物で、都會に住む人々、それもよつぽど良い暮しの家でないと手に入らなかつた。しかし其頃を一つの堺として、甘いといふ味が追々と普及することになつたのは、やはりお茶といふものゝ影響であらう。子供はたゞ味を覺えたら忘れぬといふだけで、自分で捜し出すことは出來ないのに、砂糖以外の色々の甘味が、次から次と日本の食べ物に加はつて來て居るのである。

　茶を飲む風習が農家に入つてから後に、始まつたらうと思ふ食べ物は幾つかある。一つの例を擧げるとオケヂヤ又はウケヂヤといふもの、全國諸處にあるが、名前だけは同じで、物は少しづゝちがつて居る。播磨の一部では挽割麥と蠶豆とをまぜて、鹽加減をして飯に炊いたもの、備中の吉備郡では麥と豆とを炒つてまぜて煮た米の飯、出雲の松江附近では番茶を煮立てゝ其中に飯を入れて煮たもの、どれも是も旨くもなさゝうだが、香氣が有るのでちよつと愛相になつたものであらう。越後の高田邊でも、米と大豆をざつと炒つて飯に炊いたのがオケヂヤ、駿河の志太郡では飯を炒つて味を付けたのをウケヂヤ又は茶菓子とも謂つて居り、紀州の熊野などでは、妙り米と薩摩薯とをまぜて炊いたのがオケヂヤである。飴や砂糖とは比べものにもならぬが、甘藷や黒豆には少しの甘味があり、又珍しいのでお茶の相手によかつたのであらう。ともかくもたゞ空腹を凌ぐといふだけでなしに、次第に口を悦ばすといふ目的が附け加へられたことは、餡餅なども同じである。

(353)　農村には今でも砂糖をあまり當てにせず、今度の配給から使ひ始めたといふ家も稀ではないらしい。小豆の餡などは私たちから考へると、たゞ砂糖の宿としか見えぬのだが、その砂糖は全く無くて、餡だけを餅に塗つて食べて居た時が、隨分久しいこと續いて居るのである。是には何か特別の理由も有るらしいが、總體に昔の人は齒を重んじ、咬みしめて味の出るものを悦んだに對して、此頃は舌の觸覺を主にするやうになつて居る。榮養といふ言葉は使はなかつたけれども、食べて身の力になるといふことが、以前は食事のたゞ一つの目的であつたのが、後には却つて口の樂しみに引かれるやうになつた。殊に砂糖の食物が得やすくなつてからは、子供の食事などは囘數が多く、茶と茶の中間に又新たなる間食を、ほしがる者さへ出來て居たのであつた。是も一つの習慣にはちがひないが、オヤツやお三時の起りは存外に新しいものなのである。以前は食べる日が一年のうちに、指を折つて算へられるほどしか無かつた。それを毎日必ずもらふことにしたのは、子供としては一つの大きな歴史であつた。

　

　　　　　　　一四　お菓子の歴史

　

　おしまひに今一つだけ、お菓子の歴史といふものを此ついでに話して置かう。菓子はその文字が示して居るやうに、もとはたゞの果實のことであつた。果實にも桃・梨・楊梅《やまもゝ》・覆盆子《いちご》等、柔かくて甘いものが色々あるが、生で食べられる日は幾日も無いから、年中いつでも出るのは乾して貯へて置かれるものだけであつた。それをぼつ／＼と摘まんで食べたのは、客などの來たときの只の慰めであつて、飢を凌ぐといふのは始めからの目的で無かつた。家でも正月だけは集まつて之を食べたと見えて、干柿・榧《かや》・搗栗《かちぐり》といふやうな、今はお菓子と言はない昔の葉子が、三方折敷の上に鏡餅と共に必ず積み上げられる。昆布や山の薯や野老《ところ》などは木の實でないが、是も早くから菓子のうちに加へられて居た。それよりももつと喜ばれたのは白黒の大豆の妙つたの、次には蠶豆といふ大粒の豆などで、私たちの小さ(354)い頃には菓子といふものは別にあつて、是等を菓子とは言はなかつたが、村の子供は實際は斯ういふものばかり食べて居た。

　京都その他の大きな都會に、菓子屋といふ店の出來たのは古いことであるが、最初はたゞ昔からの菓子、即ち木の實や豆や昆布や薯を、味よく食べられるやうにしたものだつたらしい。そこへ砂糖が入つたので早速とそれを利用し、今いふ干菓子といふものを色々と考へ出して賣つたが、まだ暫らくの間、餅團子の類はお菓子のうちには入れなかつた。生菓子蒸菓子といふやうな名前は、上方から西の子供は知らなかつた。餅菓子といふと餅と菓子と、二つを竝べたものゝやうに思つて居た。菓子が柔かな?み碎く必要の無いものになつたのは新しいことである。

　そんなら其干菓子で無い方の、今いふ生菓子を何と謂つたかといふと、百年前までの日本語はお茶の子であつた。お茶の茶受けは鹽でも梅干でもよかつたのだが、何か事のある日には念入りに、斯ういふものをこしらへて出したので、今でも年とつた人にはまだ此言葉を知つて居る者が少しはある。腹にたまるまでの澤山の分量は出さぬので、どうしても味をおいしくする必要があり、甘味なども少しづゝ此方面から加はつて來たのだが、それでもまだ田舍には、ちつとも甘くはないお茶の子、どちらかといふと少しまづいお茶の子が殘つて居る。是から夏の始め頃にかけて、皆さんのやうに朝早く起きる人たちは、氣のつく折がきつと有ると思ふ。農家の若い男女は床を離れるとすぐに、鎌を持ち馬を牽いて山へ草を苅りに行くが、其時には圍爐裏の灰の中から、昨晩入れて燒いて置いた大きな團子を掘り出して、ふう／＼と灰をはたき、路々かじりながら出かけるのが、多くの農村の普通の例であつた。さうして一仕事して來てから、還つて本ものゝ朝飯を食べるのであつた。この團子の大きさはメロンほどもあつて、材料は蕎麦稗の粉、たまに土穗と謂つて米の調製のときに、一番あとに殘つた屑籾を粉に挽いたものもある。鹽も入れないのが多いから決してうまい物で無いが、若い者は喜んで是で空腹を充たしたのであつた。この團子の名は何處へ行つて聽いても、大抵はお茶の子であつた。すなはちもとはお茶の相手に食べたものを、後にはお茶無しに、「子」だけ食べて居た(355)のである。

　

　　　　　　　一五　遲い朝飯

　

　このお茶の子ばかりは、實は私なども食べて見ようといふ氣にはなれなかつた。それで旅から還つて其話をすると、もとは東京などの人はびつくりしたり笑つたりしたものであつた。しかしさういふのはもう歴史を忘れたので、前には江戸といつた大きな都會でも、草こそは苅りに行かなかつたけれども、やはり早朝にこのお茶の子を食つて居たのである。その證據としては何によらず、それ位な仕事はいと容易だ、又はちつとも困らないといふやうな場合に、朝飯前だともいへば又お茶の子だとも謂つて居た。すなはち二つの言葉は同じで、朝飯を食はぬうちにお茶の子だけで、一仕事をして居た名殘である。寶暦現來集といふ書物を見ると、今から百六七十年前の安永年間までは、朝々江戸の町をお茶の子／＼といつて賣りあるく商人があつた。そのお茶の子は今いふ鶯餅のやうに、餡を包んだ餅に黄粉をまぶしたものであつた。手の無い家では之を買ひ取つて朝茶を飲み、それで朝飯を拔きにした人が多かつたといふことである。農家のやうに暗いうちから起きるので無ければ、この茶の子のあとで朝飯を食べ、それから又晝の支度をするといふのは、なるほど必要も無いことであつたらう。佛蘭西人などの生活を見て居ても、朝は起きぬけに珈琲を飲みパンを少しかじるだけで、我々が朝飯と譯して居る食事は十一時過ぎ、お晝の少し前になつて食べるのを普通のやうにして居る。日本の田舍でも朝飯は昨日の殘りもの、其他至つて簡單にすませて置いて、その代りには晝飯をずつと早く、十時少し過ぎるともう食べるといふ處もあるが、是などは果して晝飯であるやら、又は朝飯の時刻を遲くしたのやらわからない。といふわけは斯ういふ土地に於てはきつと朝飯のことを茶の子と呼んで居るからである。さうして一方には又ひるまの食事は屋外で食べるものとして、茶の子の次に來る朝飯を遲く、且つ十分に食べる土地も、(356)東北などには有るのである。何もしないで一日に三度、毎回膳ごしらへをして食事をするといふのは、必ずしも日本の普通の生活では無い。都會の住民でもさうして居る人は、實は半分も無いのである。二度にしたからとて食料の儉約にはならず、やはり身を養ふ分量だけはへらせないが、それでも是に伴なふ手數と氣づかひとだけは、二度に戻すことによつて省くことが出來るであらう。それが又剛健なる古代日本人の生活でもあつた。

　たゞその爲に急に口淋しくなる人が、年寄や子供の中に多くなることだけはお氣の毒だと言はなければならぬ。斯ういふ烈しい時代だから、年寄は多分我慢をするであらう。それから小さな人たちも母の注意によつて、段々と間食を少なくする習慣をつけられて居る。砂糖の甘さなどはもう忘れてしまはねばならぬ時が來て居る。しかし今から二三十年前までは、それは／＼子供がよく食べた。一つには大人も何とかかとか言つて、茶を飲み甘い物を食べる囘數を多くして居たからであつた。晝間、中間のマといふ言葉を始めとし、ハシマも小バサマもケンズイも、元はすべて間食といふことであつた。それが更に進んでその又中間にも何か食べるのを、中國地方ではハスワ食ひ、四國ではアヒマ食ひ、九州の各地ではハザ食ひ、南の島々ではマドモノ、中部地方に來るとコバミともコマグチとも謂ふ者が多く、近畿地方ではどういふわけでか、之をホウセキともヒズカシとも謂つて居た。又タラシとも謂ふ人があるのを見ると、ヒズカシも幼兒を賺《すか》す物といふことであらう。越後から北信地方にかけては、之を又スサビといふ語もあつて、古い名のやうに思はれる。私などの生まれた村では、オヤツだのお三時だのといふ言葉は無くで、小さい兒は之をナンゾと謂つて居る。東京でナンカといふと同じく、何でもよいから下さいといふことから出て居る。このナンゾを連發しつゝ、私たちは成長して來たのであつたが、それと比べると今の時代は又大いに變つて居る。

　

(357)　　　　　棒の歴史

　

　　　　　　　一　風呂敷包み

　

　日本人の特徴は、眼鏡に風呂敷包みだと、よく外人らがもとは言つたものである。勿論そんな特徴ばかりを見て居たからいけないのだが、成るほど考へて見るとこの二つはよく目につく。眼鏡は日本人で無くとも少しは掛けて居るが、風呂敷包みの方はよその國の者はあまり持つてあるかない。さうして眼鏡は近視眼さへ無くすればうんと減るが、風呂敷包みの方はどうであらうか。皆さんは大抵カバンを掛けるやうになつたが、その爲には風呂敷はちつともまだ不用になつては居ない。風呂敷とは全體妙な言葉である。もとは風呂を出たときに、こんな四角な布で足を拭いて居たからといふ人もあるが、それがどうして荷物を包むものになつたのか、今は風呂にも敷かないのに、どうしてそんな名を付けたのか、その説明にはちつともなつて居ない。東北地方では風呂敷は女が顔を包む頭布のことで、是は風呂敷頭布を略した言葉かも知れないが、あちらでは私たちほどには風呂敷包みを持つてあるかない。九州地方には風呂敷といふ名は無くて、平油單《ひらゆたん》といふのがこの風呂敷のことである。油單はもと行燈などの下に敷く敷物、後には箪笥や長持の覆ひに掛けて置く布の袋のことで、それを平たく又四角にして、別の用に使ふから平抽單なのであらうが、ともかくも三百年前には聞いたことも無いものであつた。

(358)　然らばどういふわけで、この樣な物が日本に始まつたのであらうか。又はこの風呂敷包みが始まるまでは、何が代りの役をして居たものであらうか。斯ういふことは判るならば知つて置いた方がよい。殊に昔からこの通りであつたものと思つて、當りまへのことだとして居た人は考へた方がよい。人によつてはもと服紗とも謂つたものを、誰かゞ風呂敷などゝ名を替へたのだといふが、この二つは同じ物では無い。服紗は絹の美しい小さなもの、一方には粗末な大風呂敷も有つて、物を包むだけにしか使はぬが、服紗には物を包む以外の色々の使ひ途があつた。或は又平包みといふのが、風呂敷包みのもとの名のやうに言ふ人もあるが、それもまちがつて居る。平包みはたゞ物を平たく包むだけで、是ならば支那から來る呉服商人なども持つてあるいて居る。こちらの風呂敷包みは四隅を紐の代りにして結ぶのである。平包みや服紗包みが前に無かつたら、風呂敷包みといふことは考へ出されなかつたらうと迄は言ふことが出來る。たゞ斯ういふ包み方の出來たのは新しいことで、それは又新たなる必要からである。

　

　　　　　　　二　歴史は單純でない

　

　私の話の題は棒の歴史、あんな棒見たやうな何でも無い物にも、なほ人間の方から見て、見過せない大事な變遷があるといふことを、皆さんに氣づかせたい爲に斯んな題を付けたのだが、それは同時に又風呂敷包みの歴史でもあるのみか、弘くいふならば我邦の、運搬方法の昔から今まで、段々と進んで來た途筋を説くことにもなるのである。

　何か爰に在る物をあそこまで運んで行きたいと思ふ場合、鳥や獣や蟻・蜂・蜻蛉なども、足でつかんだり口にくはへたりして、持ちあるくことまではする。猿だけは手に取つて或距離を運び得るが、手といふものは元來他にも色々の用があるので、永くは持つても居られず、又さう大きな物も持てない。人は幸ひに夙くから考へ深く、手もさま／”＼の形にして利用したばかりか、なほ次々に頭と背と肩とを使つて手を休ませ、又手では持ちきれない物までも遠く(359)へ運んだ。それが今日のやうに高い空から、又は海の底から、自由に送り屆けられるやうになるまでに、人が人に頼まれ、もしくは牛馬駱駝や船車などを使ひこなして、それは／＼色々の新しい運送方法を、近世は殊に頻繁に考へ出して居たのである。それが一つとして手數が今までよりも少なく、效果が今までよりも大きくならなかつたものは無いのは、棒の改良も風呂敷包みも皆同じだつた。是だけは誰にでも、考へて見ればすぐにわかる。

　私たちの不思議に思ふのは、是ほど改良に改良を重ね、村には手車やリヤカアが行渡つた今日、どうしてなほいくつもの古風な方法、たとへば棒でいふならば、前からあつた三通り以上のものが、今でもなほ使はれて居るのか、又は風呂敷包みのやうな昔からあつたわけでも無いものが、何處に行つてもまだこの樣に流行して居て、舊いものと新しい方法とが、竝んで共々に活きて居るのかといふことである。土地の事情といふやうな簡單な言葉でも、一通りは説明し得られるのかも知れぬが、つまりは私たちの一人々々の必要には、まだ改良の出來ないこま／”＼としたものが、數多く殘つて居たのである。さうして現在有るものが、ともかくも今では一番都合のよい方法であるといふことが、大體には想像し得られるのである。それを折角色々の新しい便利なものがもう與へられて居るのに、頑固で物知らずで古いものにくつ付いて居るのだと言はうとする人もあるが、そんな事を言ふのは、今少し一つ／＼のものゝ實際の働きを、詳しく知つてから後でなければならない。

　

　　　　　　　三　荷造りと入れ物

　

　たゞし皆さんはまださう多くのものを知つて居ない。村に疎開して朝晩見て居ると、この風呂敷包みには限らず、今まで知らなかつた色々な物の運び方が、有つたといふことに氣がつくばかりであらう。私はそれを數多く集めて見ると、二千六百餘年の日本の交通輸送の歴史が、大體にわかつて來るのだから、忘れぬやうにしなければならぬとい(360)ふことを話して見たいのである。

　最初には博物の學問も同じやうに、先づ上手な分類といふことが必要であつて、それには自分たちよりも多くの事實を知つて居る人の、言ふことを聽いて見なければならない。物を遠くの土地へ何日もかゝつて、又は人を頼んで送らうとするには、荷造りといふことをしなければならぬが、それが近まはりを自分で持ちあるく場合ならば、大した丈夫な荷造りにも及ばず、又さうすると却つて解くのに手數が掛かつて損なことも多い。私たちの運搬は、先づこの近まはりの方から始まつて居るのである。家の前うしろや隣家までなら、猿も同樣にむき出しでも抱へて行けるが、散つたりこぼれたり人に見られたりするのを厭へば、容器すなはち入れ物が欲しくなる。それで入れ物は荷造りの最初なのである。もとは貯藏用と兼ねても居たらうが、大抵は手製なのだから、色々と自分たちの必要に合せて、便利な大きさや形が考へ出され、後にはそれをやゝ遠方への、旅行にも携へて行けるやうになつた。さういふ中にも幾つと無き種類があつて、古い繪卷物などの畫に傳はつて居るのは、木の櫃や袋のたぐひであるが、二つとも手製が容易で無い上に、櫃の方は持つのに二人かゝるものが多く、袋だけは粗末なごは／＼した物を入れてあるく爲に、絹や布以外の多くの材料を使つたのが、今でもまだ弘く用ゐられて居る。それよりも日本といふ國の有難いことは、竹と葛蔓とが野山に有り餘つて、之をいろ／＼の容器に利用する技術が、まことに樂々と國民の間に進み且つ弘まつて來たことである。籠といふものゝ古い日本語はコであつて、そのコの形　　状は我邦では實に無數である。寫眞やスケッチにして集めて見ると、却つて分類に迷ふほど千變萬化であるが、幸ひにして使ひ方が大よそ定まつて居り、又名稱もよく似たものが多いから、簡單にその系統を尋ねて見ることが出來る。それは手に持つか腰に下げるか、頭に載せて行くか背に負ふか、はた又棒に括りつけて肩に擔ふか、之によつて大小もかつかうもきまり、又區別のために名前も變へて居る。さうして始めは或一つの方法の爲に出來た籠又は袋を、後には第二第三の運搬用にも、使ひ出したといふことが判つて來るし、どの點が特に都合がよくて、改良をしたかといふことも明らかになつて來るのである。

(361)　風呂敷はつまり其改良の一つの端であつた。袋には底があつて出し入れに少し不便であり、籠の方は又からつぽになつても、嵩だけはちつとも小さくならない。だから持つて行つて置いて來るやうな品物には、（イ）最初には背を休め、又背負ひ方を手輕にする爲に、平包みの布の二隅を紐に代用して、其まゝ肩にかける方法が考へ出され、（ロ）次には下げたり抱へたりする袋や籠の代りに、用がすめば無くなつてしまふほどの、かはいゝ服紗に近い小風呂敷といふものが始まつたのである。だから風呂敷包みがどうして出來たかを説明するのには、やつぱり今ある手と背との運搬方法を、氣を付けて見る必要があるのである。

　

　　　　　　　四　女と運搬

　

　小風呂敷はもとは女のもので、之を男までが盛んに使ひ出したのは至つて新しく、明治以來と言つても言ひ過ぎで無い。そんなら其前にはどうして居たかといふことが當然に問題になるが、是にも男女を分けて考へて見るのが順序である。先づ男の方には負ふとか擔ふとか、他に色々の持ち方があり、少し大きな物なら供の男を連れて、持たせて行くといふ途があつた。だから供といふ者の無くなつてしまふまで、男には小風呂敷の用は無かつたのである。女も背や肩を使ふことは村の内では少しして居るが、遠くへ行く時には貧しい者でもあまりそれをしなかつた。その理由は別にもう一つ、頭の上に載せて行くといふ技術が、彼等の間には發達して居たからである。

　それで最初にまづこの戴きといふ運搬法を話して見なければならぬが、是は近世の百年か二百年の間に、急に少なくなつて行かうとして居る。東京の附近で育つた人などは、之を見ようと思へば伊豆の大島か、それから南の島々に行くより他は無いが、僅か以前は伊豆半島の南部でも、又房州にもそれが幾らも有つた。京都で名物の大原や北山の柴賣女を別にすると、大體にこの風習は海近くの村里、殊に魚などを賣りあるく婦人にばかり多いので、何か職業や(362)家筋と結び付いた特別の技術のやうに、考へて居る人もあるらしいがまちがつて居る。頭の眞中に重い物を載せて、手放しであるいて來るなどゝいふことは、ちつとやそつとの巧者では眞似られるもので無い。必ず身のこなしや足の運び樣に、祖母から母への代々の練習が、積み重なつて居たのである。その練習の機會が僅かでも少なくなれば、たとへ續けるにしても、段々と骨折が多くなつて來て、終には是で一生の暮しを立てる人たちだけの、職業の技術のやうになつてしまふのである。伊豆の大島などに行つて見てもわかるし、又同じ習はしをもつ大東亞圏内の、多くの民族の例を聽いて見ても同樣だが、どこでも始めには水汲みから稽古するのである。大島の女の子なども私の行つて見た頃には、學校へ來るのに本の包みまで頭に載せ、又僅かづゝの柴や秣までさゝげて居たが、親が教へたのは水汲みが主であつたと見えて、八つ九つの小娘までが、年に似合つた小さな水桶をこしらへてもらつて、それを頭に捧げて遠い井戸に通つて居た。朝晩時刻をきめて女たちは一列にならび、一ばん年かさのしつかりとしたのが、水の桶を小さい子の頭に置いてやつて、しまひに自分は一人でさゝげで行くのであつた。降つても照つても一日に二度、この水は汲みに行かねばならぬ。家に使はれる者の無い小さな家庭では、是が妻娘の普通の役目であつたことは、もとは京都なども同樣であつた。其爲に多くの女たちは、頭の眞中の毛が禿げて居たといふことが、鎌倉時代の書物にも書いてある。だから此頃の女の人は、みんな頭に物をのせてあるくことが出來たわけである。

　

　　　　　　　五　水を運ぶ技術

　

　それが如何なるわけで今日のやうに、頭上運搬といふものが珍しくなつたのかといふと、是も私は飲水が主たる原因であつたと思つて居る。水道やポンプの普及するよりも前から、横にも竪にも水を引く工事は發達して、掘井戸は家々に近くなり、共同の泉まで汲みに行く必要が、多くの村里では無くなつてしまつた上に、更に手桶といふものが(363)發明せられて、あまり遠くない井戸からならば、之を片手に下げて來られるやうになつたのである。今から考へると何でも無い事のやうであるが、以前に幅の廣い薄板を曲げて綴ぢた桶、又は水甕を以て水を運んで居た頃には、是に手を附けて提《ひつさ》げるなどゝいふことは、想像も及ばぬ話であつた。それが今見るやうな桶に變つたのは、女たちに取つては大へんな出來ごとであつた。樽屋桶屋の商賣が我邦に始まつたのは、はつきり何時からといふことは出來ないが、ともかくもさう古い頃のことで無いらしい。是は曲物細工からの改良ではなく、全然新しい別な工藝であつた。榑《くれ》と稱する檜や杉の木の四つ割を、圓周に沿うた線で厚く竪に割り、それを削つて圓い形に繋ぎ合せ、外から葛や竹の輪で締め付けて、底を入れたものが今日の桶であり樽であるが、是だとごく簡單に、手桶の手を附けることが出來るのであつた。手桶の下げ方にもうまいと拙いとはあらうが、大體に今はまだ形がきまつて居ないといふ感じがする。さうして三町と五町と隔たつた處から、斯うして水を汲んで來ることは容易なわざで無い。つまりは井戸が近くなつたことが、大いに手桶の利用を助けて居るのである。司馬江漢の西遊譚といふ紀行は、今から百四五十年前のものであるが、是には中國の或山村で、女が毎日谷川へ水を汲みに通ふことが書いてある。往復一里もある路を頭に桶を載せて、路々も手を休めずに苧絲を績みながらあるいて居るとある。手桶で水を運ぶ人には勿論そんなことは出來ない。千代能といふ尼さんは江戸期の始め頃に京都に居た人だが、この人が悟りを開いたときに詠んだといふ有名な和歌がある。

　　　千代能がいたゞく桶の底拔けて水たまらねば月もやどらず

　すなはちこの人もまだ水桶は戴いて居たのである。松風村雨といふ二人の女の舞は、源氏物語に基いて作つたといふが、それが二つの桶を棒の兩方に擔つて、潮を汲みに行く所を舞ふのは、繪空事といふものである。手桶が出來て後ならばバケツといふものも考へ出されようし、棒で兩方に下げる擔ひ桶を、男にかつがせることも始まるであらうが、それがもし普通であつたら、女の頭上運搬はこの樣に久しくは行はれなかつた筈である。今となつては何だか氣(364)の毒な勞働のやうに思はれるけれども、近頃まで是の行はれて居た地方では、女の姿勢はすらりとし、足腰の筋肉もよく發逢して居て、今見る前屈みの内足などは、むしろ小風呂敷の盛んに用ゐられるやうになつてからのことだつた。物を持ち運ぶ方法は、一般に手から背へ肩へ又は腰へと、成るだけ手を明けて置かうとする方針であるのに、この風呂敷包みといふものだけは、新たに始まつたものとしては、不思議に手の自由を制限しようとして居るのである。

　

　　　　　　　六　額を使ふ負ひ方

　

　女が頭と頸の骨とを使ふ運搬の仕方が、もう一つあることは知らぬ人が定めて多いであらう。それは日本の端の方の、僅かな區域だけに行はれて居るからで、それも或は遠からず消えてしまふのでは無いかと思ふ。人が背なかに物を負ふ場合、力の半分は肩に持たせるのが普通だが、九州の南に遠く離れた島々と、中部では八丈島と、北は北海道の前からの住民との間に、負紐《おひひも》を額に當てゝ背負ふものがあつて、是も女の運搬に多く行はれて居る。私などの珍しいと思つて居るのは、南の島では是にはつきりとした境の線があつて、たとへば沖繩本島ではあの島の最も細くなつて居るあたりが一つの境で、それから南では荷物を頭の上に載せる。沖繩より北の島々では、寶海峽が又一つの境の線であつて、それから南には今もぽつ／＼とそれが見られ、北は七島から九州の内陸沿岸までは、一帶に皆頭上運搬の方である。或はこの人たちも重い荷物だけは八丈島のやうに、もとは斯うして背と額とで支へて居たのが、後に一方を罷めたので無いかとも思はれるが、ともかくも現在は南北の兩地とも、額を使ふ人々の間にはもう頭の上に戴く風は見かけ無い。さうして一般に棒とか大風呂敷包みとかいふやうな、肩を以前よりも多く使ふ運搬法が、段々と弘く行はれて來て居る。

　今から考へて見ると、負搬すなはち背で物を運ぶ方法には、便利と言へば言はれる點が二つ有つた。その一つは兩(365)の手の自由に使へること、山へ登るのに木に捉まり萱を分け、又は杖とか少しの武器とかを執つて、急場の危害を防ぎ得られること、その二は練習と忍耐又は持前の力によつて、荷物の分量をよほどの所まで増加し得られることで、その爲に人が餘計な勞苦をすることになつたけれども、一方には又この二つの長處を利用して、中世以來の我邦の交通は、著しく開け進んだのであつた。手に物を下げたり抱へたりする場合は言ふに及ばず、頭に載せるものもさうさう遠くまでは行けない。稀には病氣の夫を蒲團にくるんで、京都の御醫者へ通うたなどゝいふ話も殘つて居るが、さういふことは重さだけで無く、かさから言つても無理な話で、その點は棒に通して肩で擔ふ場合もほゞ同じことだが、つまりは人間の背なかだけが、あんな大きな物を運ぶ可能性をもつて居たのである。車や役畜の幾らでも利用せられるやうになるまでは、どんなに骨が折れてもこの方法は世の中の爲に必要であり、從つて又之を少しでも樂に輕便にするやうに、今でも改良はなほ少しづゝ續いて居る。しかもその改良はどれも是も、さう著しいものでなかつたからであらうか、ちがつた土地に行くとまだ元のまゝの處も多く、皆さんが疎開の村里に於て、直接見て居るものを竝べ比べて見ても、殆と昔からの變遷の、すべての段階を知ることが出來るのである。比較といふことが斯ういふ場合に於て、分類に次いで大切なことがわかる。一人で殘らず見ることの出來ぬ人々は、それを互ひに話し合つて見るために、出來るだけ確實に物を觀て、書いたり覺えたりする習慣をつけて置くと、將來都合の好いことが非常に多いであらう。

　

　　　　　　　七　駄荷と歩荷

　

　人が自ら働く昔からの運搬法の中では、たゞこの背を使ふものだけが遠方の輸送に供せられ、從つて又職業になつて居た。我邦の中央山脈では、之を横斷する無數の交通路があり、何れも之によつて物を向ふ側へ送つて居たと思は(366)れるが、さういふ中でも北陸の各縣から、主として海で採つた物を持込んで、麻や米麥などの内陸の産物と、交易したものが最も有名で、私たちは之をボッカと呼んでゐた。いそいで今の内によく見て置かないと、もう是も段々と少なくなり、繪や寫眞などにもさう殘るまいと思ふが、この人たちだけは遠方へ物を持つて行くのだから、よつぽど村々の間を背負ひあるく者と、異なつた支度をしてゐたのである。

　ボッカは文字に書くと歩荷、古い日本語ではカチニと謂つてゐたのを、いつの頃よりかしやれて字音で呼ぶやうになつて居るのである。駄荷すなはち牛や馬の背で運ぶものに對して、人が徒歩で負ふ故に歩荷であつた。人はもちろん牛馬のやうに、さう多くの重い物は負つてあるけない。それならどうして駄荷にしなかつたかと、怪しむ人が有らうも知れぬが、其答は至つて簡單である。つまりは山越えの路を、牛馬の通るやうに平らにすることは、非常に金のかゝる仕事だつたからである。多くの昔から有る峠路の麓には、輕井澤といふ地名がまだ殘つて居る。富士や日光山の馬返しといふのも意味は同じで爰まで馬の背に積んで來た荷物を、この澤の口で卸して小さくして、人がかるふ〔三字傍点〕ことになつて居た處なのである。繩で背中に物を括り付けることをカルフといふ言葉は多くの人がまだ知つて居る。奧羽地方に行くと、家々の若い働き手をカリコといふが、是もかるひ子で、かるふのが彼等のおもな仕事だつたからである。江戸の町にも元はカルコといふ者が多く住んで、引越し其他の運搬に傭はれて居たらしく、今も輕子坂といふ地名が殘つて居る。ちやうど牛込見附と飯田橋との間を、北へ登つて行く細い坂路がそれで、馬は幾らも使へる江戸のやうな土地でも、やはり人の背を借りた方が、便利な場合が幾らもあつたのである。

　

　　　　　　　八　連尺あきなひ

　

　このついでに今一つ、江戸の古い町の名で、東京になるまで殘つて居た、神田の連雀町といふ地名も、もとは運送(367)業者の住んで居た處であつた。是は明暦三年の大火事に燒けて、今までそこに住んで居た人たちを、西の郊外に移して村を立て開墾させた。それが三鷹の驛の近くに在る連雀といふ村だつたといふことが、古い書物には書いてある。百餘年以前には、村の戸數が上下を合せて百六七十、まだ其以外にも同じ火災のあとで、利根川の川口に近い新田場へ、疎開させた家が數十戸もあつた。是が全部みな連雀を職業にして居たのでは無く、もう其頃には色々の人が入りまじつて住んで居たのかも知れぬが、ともかくも連雀は背に物を負ふ方法の一つであり、それがちやうどこの大火の頃から、段々とこの大都會には、入用が少なくならうとして居たのである。

　かる子とこの連雀とのちがひははつきりとして居る。之を職業にして居た者の出所も、又習慣も恐らくは別であつたらう。かる子の方はたゞ長い荷繩を以て、物を直接に背にかるふ者だつたに對して、連雀も長い繩を用ゐたことは同じだが、別に木で造つた簡單な枠のやうな物が有つて、それへ荷物を括り付けてから負うたのであつた。連雀は元來小鳥の名で、連鵲《れんじやく》とも書くことがある。左右の翼に一本づゝ、長い羽があつて垂れて居るのが、この背負ひ枠と少し似て居たので、誰かゞ戯れに此樣な名を付けたものであるが、それも江戸になつてから始まつたもので無く、まだ織田信長が尾張に居た頃から、秀吉の伯母聟になる杉原七郎左衝門といふ人が、清洲に住んで連尺商ひをして居たといふ話があり、又茶壺といふ能狂言では、路傍に睡つて居る男の連尺へ片手を入れて、その荷物を自分の物だと、言ひがゝりをつける惡者の話などもある。すなはち荷を括つた繩の餘りを前にまはして、それへ左右の手を通して負ひあるくやうな、簡單な仕掛けを考へ出した者があつて、それが商ひ物などを賣りあるくのに、かるひと比べると非常に便利なので、利用する者が多かつたのである。或は連寂衆といふ一種の部落があつて、是で行商をして居たといふ言ひ傳へもある。其爲かどうかは知らぬが、農村の人たちはあまり之を使つて居なかつた。

　是が連雀といふ鳥に似て居るからといふことは、今ではもう忘れてしまつた人が多くなつた。普通は連尺といふ字を書いて、之を背負ひ枠の兩脇に取付けた紐のことだといひ、又山林の方で働く人たちは、連尺はたゞ長いロープの(368)ことだとも謂つてゐる。さうなつた原因はいつの頃よりか、この連尺に又小さな改良が加へられ、繩の餘りを前の方にまはして輪にする代りに、別に是だけに兩手を通す紐を附け、それも肩に喰ひ込むのを防ぐために、其部分の紐を廣く、布の古切れで織つたものを使ひ始めたからである。それで土地によつては連尺を背負子の手ともいひ（三宅島）、或は又荷繩のことだといふ者も有る（佐渡）のである。しかし連尺の便利といふ點は、荷物がぢかに背なかに附いて、汗などで汚すことが無く、又卸したり負うたりするのが手輕だつたことで、連尺といふ名はもう知らない土地でも、この兩手を通す紐だけはよく採用してゐた。さうして又新しい色々の名が生まれて居るのである。江戸といふやうな大きな都會では、連尺で運ばせるやうな大切な荷物が色々有つたが、さういふ中でも最も珍しいのは、花嫁さんを是で運んで居たことである。駕籠といふ乘物はもとは奢りであつて、中流の家庭では嫁は家來に負はせて遣つたが、是には連尺の必要が大きく、其爲に足を載せる木を取附けたものもあつたといふ。此風習も江戸では早く無くなつたらしいが、東北の田舍などは百年ばかり前まで、馬にも乘せないで背に負うて行く花嫁が多かつた。それには別に一本の木を横にしたものを附けて、其上に腰を掛けさせたが、それをモリ木とも又ウモレ木とも呼んで居た。ウモルといふのは負ふといふ語の訛りである。其モリ木を大切に一生涯しまつて置いて、死んだら火葬の薪に使ふものだつた、といふやうな話も傳はつて居るが、それはたゞ一つの話かも知れない。

　

　　　　　　　九　かるひの改良

　

　大きな市街地では、もう久しい前からこの連雀といふ背負ひ方は見られなくなり、連尺商ひといふ言葉も忘れてしまつて居るが、その旅支度の一部分は歩荷たちの中に傳はり、一方には又追々と、村々の運送法にも影響を與へて居る。今度の物資統制の始まるまでは、東京附近の田舍、殊に千葉縣の成田線に沿ふ農村から、日に何百人といふ程の(369)小さな行商人が、籠を背に負うて物を賣りに出て來て居た。信州飛騨などの歩荷とちがふ點は、彼等の全部が婦人であることが一つ、汽車に乘つて來るので足ごしらへをしないことが一つ、それから荷物の荷造りが簡單で、大抵はそつくり入れ物に入れて來ることが又一つであつたが、其負ひ方だけは改良した連雀も同じで、竹籠の左右に幅の廣い裂織の紐を結び付け、それへ兩手を通して掛けはづしを自由にしたものであつた。この竹籠も後には長方形の、幾つも入れ子のあるよい恰好のものになつて居たが、五十年前に私など見て居たのは、たゞの農家の桑摘みや落葉掻きに、使つて居た目籠も同じであつた。つまりは田の少ない新開地の女房たちが、仕事のひま／＼に畠の産物を持つて、稻作の忙しい村々へ賣りに行つたので、それに都合のよいやうな籠背負ひといふものが、もうこの方面には始まつて居たのである。

　しかし以前の農村の負搬法といふものは、是とは全くちがつたかるひ繩、もしくは荷繩一式の仕事であつた。行きがけにはその繩ばかりを肩に引掛けて、身輕な姿で出て行く代りに歸りには山から薪、野から馬の草、田畠からは色々の穀物の苅取つたのを、山のやうに負うて來なければならぬのであつた。是にも荷ごしらへの上手下手は有つたらうが、ともかくも持てる限り多くのものを、その繩で背に括り付けて來ればよいので、歩荷や籠背負ひの行商人のやうに、途中で卸したり分けたりする必要はちつとも無かつたのである。それがいつの頃よりか、別に木で造つた背負ひ道具を携へて、物を負ひに出かけるやうになり、それも土地毎にと言つてもよいほど、形と名稱が色々とちがつて居るのは、つまりはこの改良が至つて新しく、斯ういふ運搬の必要がなほ續いて居るからである。一つにはこの勞働が可なり苦しいので、少しでも之を樂にしたいといふ希望があつたからでもあらうが、一方には又連尺商ひや歩荷といふ類の、之を專業にした人々と接する折が無かつたら、さう容易にはこの改良を考へ出すことも出來なかつたらう。連尺商ひのもう一つ前には、日本は聖又は山臥といふ旅をする宗教家があつて、それが修行の傍に僅かづゝの物品を地方に運んで、呉服とか小間物とかの商賣を開いたと言はれて居る。斯ういふ人たちの永い間の實驗によつた考案が、(370)或は間接に農村の方に、働いて居るのかも知れないのである。

　

　　　　　　　一〇　背なかうち

　

　棒の話がいよ／＼遲くなるが、もう少しこの背負ひ道具の變つて來た順序を談つて置かねばならぬ。古い繪を見ると、裸で大きな荷を負うた人もよく描いてあるが、大抵の荷物は突張つてごそ／＼するので、夏でもかるひ子は荷摺といふ半袖腰きりの仕事着を着た。是も裂織の厚ぼつたい布で、荷物に摺れてもさう早くは破れなかつた代りに、着物といふやうな柔かい感じのもので無かつた。或はその荷摺は着ないで、藁で造つた背中當てを、荷物と背との間に當てゝ居る人もある。私などの知つて居るのは、藁を橢圓形に編んで、まはりをきれなどで飾つたものだが、處によつては袖を附け手を通すものもあり、又は木で造つた負ひ臺のやうなものも有るといふ。どういふわけか知らぬが之を背中打ち、又はセナクチ・セナコーヂといふ地方も弘く、越後ではセナクワンジ、美濃の山村にはゼンコウジといふ者さへある。勸進は神や佛の御姿などを背に負うで、諸國の信者に禮拜を勸めあるいた人のことだから、曾ては斯ういふものに載せて、旅をして居たことがあるのかも知れない。單に荷物の積み卸しの便利だけからならば、農村では木で作つた色々の背負ひ道具などは必要が無かつた筈で、むしろ今までのやうに荷繩だけでかるふ方が、分量も多く又何でも背負ふことが出來るのであつた。それが追々と此方に變つて來たのは、多分は品物の種類が多くなり、中には直接に肌に觸れてはいけない樣な、大切なものも有つたからであらう、といふことがこの背中打ちの弘く用ゐられて居ることからも考へられる。

　九州の山村などでは、藁の背中當てに似たものをシカタと謂ひ、道具は使はずに繩とシカタばかりで負ふことを地かるひと謂つて居る。他の地方には別に名は無いが、この地かるひの方法は奈良縣の吉野地方、その他處々の山村に(371)まだ殘つて居る。さうして一方の木製の臺は、名も形も土地毎に異なつて居るのである。繪にでもして竝べて見ないと、話だけではわかりにくいが、大體に關西の方ではオヒコ、東に來るとシヨヒコといふのがこの木製の臺の名で、東京のまはりだけでは背負梯子といつて、特に脚の長いものが多い。脚の長いのは立つて休むのに都合がよいやうだが、それは平地の多い場所のことで、左右が傾斜になつた山路を行くには、脚は却つて邪魔になるのである。越中越後などのボッカたちは、太い野球の棒のやうな、頭が撞木になりもしくは二股になつたものを杖に突いてゐて、休む時にはそれで背の荷を支へる。それを荷股ともニンボウとも、又ニヅンボウとも色々の名で呼んで居る。東北地方などには、もとは路傍に休み石といふものが、彼等の休憩の爲に處々に置いてあつた。それを近頃は退けてしまつた土地が多いので、荷持は一段苦しい勞働になり、從つて又澤山は運べなくなつた。さうして少しづゝ何度にも通ふのが普通になり、以前のやうに一日の仕事の終りに、うんと背負つて還つて來るといふ、農夫の働きぶりは次第に見られなくなつた。

　それから他の一方には別に色々の容器を作つて、物を入れて負ふといふ方法も盛んになつて居る。袋や竹籠の類は前からあつて、是も背中に負ふものが多かつたが、それ等は格別重いもので無く、何か荷物が出來ればその上に小附けして來るのだつたが、後には仕事によつてそれ／”＼の容器を考へ出し、それにも新しい色々の名が出來て居る。中國地方のトノスは鳥の巣に似て居り、福島縣から北ではそれに近いものをタガラと謂つてゐる。その他土や砂利などを背で運ぶ木の箱の、立つて居て蓋の綱を引き、中の物をあけるしかけなども、誰が考へ出したか此頃は始まつて居る。總體に荷繩の使用を少なく、解いたり結んだりする手數を省き、背板の兩端に鈎を附けて引掛けたり、又は下の方に枝を殘して載せる臺にしたりして居る。近頃は又朝鮮風な一つの背負ひ方も、チゲといふ名前と共に入つて來て居る。

　斯うして段々に荷繩を儉約した最後の形が、大風呂敷といふものであつた。是だけはまだ農民は用ゐないが、村へ(372)入つて來る商人には之を利用する者が多い。乃ち平包みの布の二隅を引出して、之を紐の代りにして背に負ふもので、是は兩腕の上部に力の半分を持たせるから、今までの荷負ひのやうに手を自由に使ふことが出來ない。乃ち道路の危害の少なくなつた今の世で無くては、發達し得ない一つの運搬法であつた。

　

　　　　　　　一一　棒の始め

　

　そこで最後に棒といふものゝ歴史になつて來るのだが、棒の發達は歴史としては新しいもので、道路の改良といふことがその一つの條件となつて居る。昔の交通は坂路が主であつて、棒を運搬の用に供する場合が、絶無では無かつたが甚だしく限られて居たのである。棒は或は半分は武器であつたと、いふ方が當つて居るかも知れない。即座に敵を防いで荷物を保護し得るといふ、たつた一つの長處を除いては、以前盛んに行はれた背負繩の運搬の、代りになるだけの力はもつて居なかつたのである。それがどういふわけで古い頃から、ともかくも交通の用に供せられて居たかといふと、人の背中では運びにくいものが幾つかあつて、それだけは棒が引受けて居たのである。たとへば大きな櫃長持の類、中に入つた物を傾けたり曲げたりしてはならぬ場合、殊に清淨を保つて雜人の身に近づけたくない品物などは、しば／＼六尺よりももつと長い棒の中程に結はへ付けて、平らにして持ち運ぶ必要があつた。神の御輿とか貴人の手輿とかになると、二本の棒を合せて其上に載せて舁き、出來るだけ土から遠くしようとして居り、今でも物によると天井持と謂つて棒を下に通して舁くことが稀には有る。勿論是には二人以上、時としては四人も六人もの力を合せるので、一人ですむといふことは絶對に無かつたのみならず、急な坂だつたら前がつかへるので、斯ういふ運搬は先づ不可能で、利用の道は始めから限られて居たのである。

　次に今一つ、棒の片方の端に荷物をしかと括り付けて、それを斜めに肩にかけることがあつた。是なら背に負うて(373)も同じことのやうに思はれるが、物を背に負ふ者が一歩々々、足を踏みしめて道をあるく習ひであるに反して、此方は奇妙に早足で行くことが出來た。もちろん是は荷物の輕い時ばかりで、又さういふ物を運ぶ爲に、走る練習をさせたものかも知れぬが、昔の大名行列の挾箱持ちは、馬と同じ速力で附いて行かねばならず、飛脚といふ者などは?箱を肩に掛けて、街道を走り通さねばならなかつた。明治の御代になつてもやゝ暫らくの間は、郵便脚夫といふ者が、是も棒の片端に荷を結はへ付けて走つて居た他に、東北地方の市場に行つて見ると、村と濱邊とから交易に出て來る男女が、やはり斯ういふ荷物を肩にして、何れも急ぎ足で町の方へ出て來るのが見られた。

　和歌山高知等の諸縣に於ては、この棒の片荷で物を運ぶことをクジユフと謂つて居る。クジユフと擔ふとのはつきりしたちがひは、この方は荷繩を以て棒の端にしつかと縛り付けることであつた。肩にかたげて手で持つときには、棒は斜めになつて居るので、斯うして置かないと荷物がずれ下つて來るからである。どうしてクジユフといふのかはまだよくは到らぬが、地方によつては之をコジヨフとも謂つて居るから小背負かも知れない。とにかくに棒はこの他の場合にはすべて平らにしてかたげるので、クジユフは要するに棒を斜めにして肩に置くことであつた。

　

　　　　　　　一二　桙と朸

　

　棒といふ文字は支那の方にも有るけれども、それと我々のボウとは、少しばかり物がちがふやうである。さうして國内でもまだ此語を使はずに、もう一つ古い名を用ゐて居る人が多いのである。現在最も弘く知られて居る名は大よそ三つ、その一つはオコ又はオーコ、是には木扁に力といふ字を宛てゝ居るが、朸《おこ》は日本で作つた新字といふものであつた。オコは私たちの桙といつて居るもの、及び椋といふ木の名などゝ關係の有る言葉らしい。昔の辭書にはアフコと假名で書き、又アフコと詠んだ古歌もあるが、それはたま／＼それに近い發音をした土地もあつたといふまでゝ、(374)元來が物と最も縁の遠い人たちの書いたものだから、それが正しいとまでは信用することが出來ない。それから後の記録にはオコが多く、今も全國に亙つて皆オコかオーコであり、北九州の方にはボーコといふ處もあり、薩摩の甑島などははつきりとホコと呼んで居る。漢字で鉾と書くものはすべて刃物に限るやうだが、日本で木扁に變へて居る桙《ほこ》の中には、明らかに鉾《ほこさき》を附けないたゞの木竹の棒も含まれて居た。旗の竿を幡桙といふのもその一つの例であり、草屋根を葺くのに使ふ棒にも、隅ぼく縫ひぼくなどゝ色々のボクがある。木の株や太い部分をボク又はボクトといふのも、木といふ漢字の音では無かつた。つまりは木で作つた斯ういふ長いものが、我邦ではすべてホコ又はムホコであつたのを、武器にはホコといひ、他の棒にはオコといつて區別をしたので、椋も削つてホコにするのに適した木だつたから此名があり、現に又是をホコと呼ぶ例もある。棒といふ漢字を當てゝ居るけれども、ボウも事によるとホコといふ日本語から、分れて出た言葉かも知れぬのである。ともかくも昔は我邦にボウといふ言葉は無くて、斯ういふ物だけはたしかに有り、それをホコともオコとも謂つて居たのである。山で手頃な細い眞直ぐな木を伐つて、それを利用して獵の獲物などを、持つて來ることは今でもする。さういふのが此道具の始まりでは無かつたらうかと、私は考へて居るのである。

　斯んな細かなことは皆さんには入用が無いやうに見えるが、棒の歴史の是が第一章なのだから、やつぱり一通りは聽いて置かなければならない。國の文化が進むといふことは、斯んな何でも無いものが段々と改良せられて來ることである。それも現在まだどし／＼と進んで居るものなら、人が何かにつけて其起原を考へずに居ないだらうが、棒などは一旦廣く用ゐられて後に、今では又用が無くなつてしまはうとして居るのである。もし此まゝにして置いたら、大抵の人は忘れるであらう。さうして前代日本人の、色々の苦心と經驗とが、判らなくなるであらう。それでは困るから歴史は學ぶのである。

　

(375)　　　　　　　一三　棒の分類

　

　木扁に力と書いてオコとよんで居るもの以外に、地方では又棒をサスといふ者と、天秤棒といふ者とがある。東京などはその第三の天秤棒の方であつて、是が棒といふ言葉の普通になつたもとであつた。この三つの名稱は、三つとも使つて居る處はやゝ少なく、多くは其うちの一つ又は二つを知つて居て、それで間に合ふものゝやうに思つて居る。つまりは棒の使ひ途が幾つもあり、其こしらへもそれ／”＼に、ちがつて居ることに氣が付かぬのであつた。村に入つて住んで居ると、このちがひには注意せずには居られない。現在最も多く見かけるのは、棒の兩端をずつと細くしたものだが、是にも二通りあつてたゞ先を尖らしたものと、ツクと稱する小さな突起を二つ、木又は金屬で作つて嵌め込んだものとがある。この二つは、共に比較的新しい改良であつて、以前は成るべく平らな眞直ぐな棒を、少しも削らずに使ふのが朸であつた。重い大きな荷物をこの朸の中程に結はへつけ、二人で南端を肩に載せて行くのを中擔ひ、又は差擔ひとも謂つて居た。小さい二人の兄弟が斯うして水を運び、又は親子で棒をやゝ前下りに、荷物を成るだけ後の方へ引取つて、かつぐ練習をさせるのもよく見られ、今でも道普請の土運びには是が普通である。地方によつては中取りと謂つて、斯うして物を運ぶのをいやがる處もあると聽くが、それは唯荷物を棒に括り付けるものだけで、多分は簡單な葬式と、形が似て居るのが忌はしいからで、綱を長く下げて棒に通すものまで嫌つたのでは、折角平らな廣い路が出來ても、大きな重い物は運ばれないことになるから、其方は構はずにやつて居るのであらう。

　しかし人が二人以上話し合つた上で無いと、物が運べないのでは朸の效能は小さい。一人でも力の有る男はそれを一方の端に引掛け、又は分けられる物ならば半分づゝ兩端に附けて、眞中をかたげて運ばうとするやうになつたのは自然のことである。一人で持つならばよつぽどの山坂でも、杖を突き足元に氣をつけて持つて來ることが出來た。關(376)東東北の働き人たちが、荷繩ばかりを背にかけて山に行き田畠に行くに對して、もとは西國では朸を抱へて出かける風があつた。是を九州ではヤンモコ即ち山朸といひ、又はヤマコとも山行き朸とも謂つて居た。山朸のさきには鎌を結はへ、それにオコノコといふ長い荷繩を添へてかたげて居るのが、作男や小百姓の常の出立ちであつたとも言はれて居る。ところがいつの間にかそれも亦變つて、他の地方ではサスと謂ひ、又はトギリ朸とも（岡山）トガラシ朸とも（大和）チヨガシ朸とも（熊野）いふ棒を、山朸と呼ぶ村々も出來て來たやうである。

　

　　　　　　　一四　サスとノメシ棒

　

　棒の兩端を尖らしたものを、東京の近在では又ノメシ棒とも謂つて居る。ノメシといふのは惰《なま》け者のことで、荷繩で棒に括り付ける面倒をいやがり、ぢかに荷物の中へ棒の端を刺し込んで、擔つて歸るから、さういふ戯れの名を付けたのだが、これも實は十分に其便利を知つた人の言葉であつた。是だと荷繩を掛ける爲の時間は省かれるが、其代りには柴とか萱とか稻束とか、是非ともしつかりと束に結んだもので、棒を刺しても損じない物でなければならない。さうして又それ等の物の束ね方、及びそれに使ふ繩とか蔓とかの材料も、問題になつて來るのだが、實際のところ村里には、斯うして束ねたやうな簡單な荷物ばかりが多かつたのである。此方法が始まると、一々長い繩で棒に括り付けることがむだな手數のやうに考へられ、今までの山朸だけで無く地かるひといふ樣な背で負ふ荷造りまで、成るべく荷繩を少なく使はうとして、背板や背負梯子の類に改められることにもなつたものらしい。

　サスといふ棒の名は、束に突き刺すからサスだと思ふ人が、今では農民の中にも多くなつて居るが、それだけは誤りである。尖つた棒でもなほオコと謂ふ土地が多いといふのみで無く、サスは元來横に渡すといふ意味で、乃ち斜めにして肩に載せるクジユフといふ動詞に對する語であつた。直徑をサシワタシといふのと同じやうに、二人で棒の兩(377)端を舁《か》くことを、今でもサシニナヒ又はサシアヒ持ちといふのが常である。しかしノメシ棒やチヨガシ朸も何だか變だから、これからはさきの尖つた朸だけを、サスといふことにするのは便利かも知れない。たゞ其爲に一方の之をオコといふ人を、笑ふことは出來ないだけである。まちがへを無くしようと思へば此方をサスオコ、他の昔からあつた尖らない朸の方を、熊野地方のやうにマルオコと呼ぶのがよいかも知れない。

　しかしまだこの以外に、私の是から言はうとする天秤棒のことを、サスと呼びオコと謂つて居る地方も有るが、是だけは紛らはしいから區別を明らかにして置かなければならない。天秤棒もまことに變な名前で、變だから又覺えやすかつたのかも知らぬが、天秤は元來はかりの器械のことであつた。普通の衡器は、棒の根元に近い所に衡《はか》りの緒があり、それを下げて居て他の一方の端の方へ、分銅を送つて行くしかけであつたのが、藥や金銀のやうな少しの物を量る天秤といふものだけは、中央に支柱が立つて居て、兩方の皿が權衡を取るやうになつて居た。それが此棒を以て物を擔ふ形と似て居るので、天秤棒といふ名は始まつたのである。その天秤が今ではたゞ、兩天秤などゝいふ言葉だけを殘して、段々使はれなくなつて來た爲に、説明がむつかしくなつた。さうして又この所謂天秤棒には、何か變つた名を付けてゞも、區別しなければならぬ大きな特徴があつたのである。

　

　　　　　　　一五　天秤棒の特色

　

　この發明は或は支那に始まつたものかとも思ふが、假に外國から學んだとしても、その便利を直ちに理解して、是だけまで弘く國内に普及させたことは、なほ我々の祖先の手柄と言はなければならぬ。同じく兩端を細くした棒でも、束に突き刺すだけの尖らし朸と、この天秤棒とは削り方がちがひ、又よく見ると此方は、眞中の所もやゝ平めに削つてある。是は擔つて行く者の足取りにつれて、兩端が少しづゝ上下に動き、その僅かの間だけ、肩を休めるやうに出(378)來て居るので、さういふ動作のために荷物の吊繩が辷り落ちない樣に、丈夫な小さな突起が、棒の兩端に附いて居るのである。この突起をツクと謂ひ、又ツコともチコともいふ人があるが、ツクの方は古い日本語であつて、小舟の櫓などにも古くからツクが附いて居た。つまりは天秤棒はこのツクの有る御蔭に、サスとはちがつて棒がよつぽど傾いても、荷物はずり落ちてしまはないのだから、肩で加減をすれば雙方の荷が平均しなくとも、其まゝ擔つて行くことが出來る。その點が又衡器の天秤とよく似て居たのである。

　このいはゆる天秤棒のことを、長崎地方では又ツクオーコと謂ふので、この方がむしろよく當つて居る。伊豫の宇和島では之をカリコ棒、このカリコは東北からもらつて來た言葉であらうが、此地方ではかる子も繩を以て背にかるはずにツクの有る棒で擔つて居たのである。伊賀の上野あたりでは、タビヨコといふが天秤棒のことであつた。タビヨコは即ち旅朸であつて、斯ういふ擔ひ方をすれば相應に重い荷物でも、可なりの速力で遠くまで持つて行くことが出來たので、旅の商ひをする人たちが先づ之を利用し始めたのである。東京の市中で見て居ると、多くの商人は手車を曳くやうになつたが、今でも天秤棒をかついで來るのは豆腐屋に金魚賣り、その他液體の入つた容器を擔ふ者に多い。農村の方でも水を汲むとか、下水を田畠に運ぶとかには、他の方法だつたら容易のわざで無いのを、タゴといふ桶ならばよほど簡單になるので、この特別の棒を早くから採用し、其爲に畠作などは著しい進歩をしたのであつた。しかしそれも今日はもう歴史である。是から先はどう變つて行くか、私たちは又一つの新しい經驗を積まなければならぬのである。

　町では天秤棒を生活の要具として居たのは、今までは八百屋と肴屋とが主であつた。此頃は配給だから問題は無いが、その前にも既に八百屋は車になつて居た。肴屋の方は走らないと新鮮だといふ感じが出ないので、まだ各地方で天秤棒をかついで居るが、是も段々と汽車電車などに乘る故に、長い棒が邪魔にされて、しまひには亞鉛《トタン》の板で張つた四角な箱を、カンカラと謂つて又背負ひあるくやうになつて居る。水汲みが手桶になり擔ひ桶になり又水道になつ(379)た結果、女の頭の上に物を載せる練習が足りなくなつたことは、もう前に話をしてしまつたが、之を專門に魚などを賣りあるいた女たちも、愈々この運送法の變遷の爲に、あの古風な形を罷めなければならぬ時に出逢つて居る。中國地方ではこの魚賣りの女をカネリ又はカベリと謂つて居た。カベルは被るといふのと一つの言葉である。その周圍の四國でも九州でもまた北陸地方でも、まだイタダキといふ昔の名を持つて居る。しかもその戴きが既に天秤棒をかつぎ、又はリヤカアを引張つてあるいて居る土地は、もう段々と多くなつて居のである。

　

(380)　　　　　千駄焚き

　

　　　　　　　一　地名の起り

　

　東京の元の市區のまはりには、西南の端に千駄ヶ谷、北に片よつて千駄木といふ町があつて、共に聞き馴れぬ地名だから人が注意して居る。千駄ヶ谷はもと郊外の農村だつた。古い地誌にはこゝは廣い野で、萱《かや》が千駄も苅れるところから、千駄萱と謂つたのが村の名の起りであらうと書いてある。一駄といふのは駄馬一頭に背負はせるほどの荷物のことだから、萱は輕いといつても二十貫以上はある。それが千駄も苅れたとすれば、大へんな廣い野に相違ないが、武藏相模の高原にかけて、それ位の野は今でもまだ殘つて居る。別に地名にするほどの珍しい事實では無かつた。千駄木の方もその通りで、もとは一軒の家ですら、年に三駄五駄の木は焚いて居たのだから、薪山としてはむしろちつぽけなものであつた。

　何か斯ういふ地名の生まれるやうな原因が、他にあつたのではないかと考へて見ると、日本全國を通じて、一度に千駄の萱又は木を、焚かねばならぬ場合がたつた一つだけあつた。それは夏の初め、農作に最も水の必要な頃に、雨がちつとも降らぬと百姓が弱つてしまつて、色々雨乞の祈?をする。その最後のものが千駄焚きだつたのである。通例はこの火は山の頂上の一ばん天に近い處に行つて焚くので、それで雲燒きとも雲焙《くもあぶ》りとも謂ふ地方も有るのだが、(381)東京の近くは誰も知る通り、一日あるいて行つても尖つた山が無い。それ故に何處かやゝ廣々とした野を見つけて、人がそこに寄つて來てこの大きな火を焚いたものと思はれる。山の上であつては見に行くことも容易でないが、斯ういふ平地ならば老人も女も行き、幼い兒童もまた連れて行つてもらはれたことであらう。さうして有名になつて其野が世に知られ、後々開墾せられて村になつてからも、別に新しい村名を附けるに及ばなかつたのであらう。たゞ近頃は東京都の中などに、さういふ雨乞をする村が殆と無いので、どうだらうかと疑ふ人があるかも知れぬが、以前ごく普通であつた風習で、今はもう無くなつたものはこの他にも幾つか有る。殊に燃料が段々足りなくなると、この樣な事はせずとも、他にも方法があると思ふやうになるのは當り前で、今はしないといふことは昔も無かつたといふ證據にはならぬのである。

　

　　　　　　　二　雨乞のさま／”＼の方法

　

　この本を讀む人は、方々の土地で生まれた人、さうで無くとも父や母が、遠くの田舍で育つたといふ人が多からうと思ふから、この風習が決して一部の地方ばかりのものでないことを明らかにすべく、今度は成るだけ多くの實例を擧げて置くことにしよう。

　先づ名稱の方からいふと、是は千駄焚き又はセンダキといふ處が最も多い。しかし名前だけでは無く、實際にも木なり萱なりを千把は焚くので、勞力だけとしても容易なことでない。それだから七日や十日の雨無しには、もつと簡單な別の方法で雨乞をするが、それ等がどうしても效果無く、いはゆる百計盡きたといふ時になつて、思ひ切つてこの手段に出るのである。田植や夏物の栽培に對して、雨がどの位大事なものであつたかは、斯ういふ雨乞の方法の何十種といふ程も有るのを見ても判る。二十三夜待などゝやゝ似て居たのは、立待《たちまち》と謂つて氏神さまの社の前に、氏子(382)が何人か交替して立ち通しに立つて居て、其間鉦を鳴らし續けること、是は靜岡縣西部の海近くなどにもある。或は又川の瀬待と稱して、谷の流れの上に棚をかけて其上で神を祭り、又は念佛を唱へることもあつて、是は土佐の山村にも行はれて居る。雨乞に鉦を打ち太鼓を鳴らし、それにつれて雨乞踊を催すなどは常の例で、其中でも變つて居るのは、紀州の岩代といふ村などでは、普は大きな蟹を捕へて踊山といふ山の峰に登り、その蟹を中に置いて大いに踊り、それから又其蟹を持出して海上遙かの沖の、大きな岩の上に置くと、必ず雨が降つたと謂つても居る。

　或は宮や寺の寶物になつて居る古い假面を借り、釣鐘をおろし又路傍の石地藏の最も靈驗のあるといふのを、繩でぐる／＼卷きにしたりして、川の淵などの定まつた場所へ沈めると雨が降るといふのも多かつた。山口縣の北の海岸部には、蛇籠の祈?と謂つて蛇を竹籠の中に入れて、水の底に沈めるといふ方法もあつた。もつと氣味の惡い方法としては、ふだんは見ることも無い牛や馬の首を斬つたのを、或神聖なる瀧の瀧壺へ沈めに行くといふなども、私の子供の頃まではあつた。是等は汚ないことの御嫌ひな水の神を怒らせて、大いに暴れていたゞくといふ趣意らしく、勿論日本に昔からあつたまじなひでは無い。その他硯洗ひといつて家々から硯を出させ、それを一日に洗つてしまふもの、又は百桝洗ひと謂つて桝を數多く集めて來て、水の神の祭つてある池で洗ふといふのもあつたが、雨が人間の力では自由に降らすことの出來ぬものである故に、斯うでもしたならばといふ試みが色々と考へられ、それが又偶然に、たしかに效目があるといふ經驗にもなつて居たのである。

　

　　　　　　　三　雨たもれの松明行列

　

　千駄焚きは愈々さういふ色々の手段がみな無效に終り、もはや辛抱が出來ないといふ際になつて、村が大きな決意を以て取掛かる方法となつて居たが、燃料がまだ豐かで又人の手にも餘りがあつた時代には、或はもつと手輕にさう(383)いふ企てをしたかも知れない。近い頃までそれがまだ殘つて居たのは、東北では岩手縣の遠野地方などは千駄木、西の方では長崎縣の下五島久賀島、佐賀縣では嚴木《きゆうらぎ》の山村、大分縣でも玖珠郡《くすぐん》の村々などにこの雨乞があり、それをセンダキといふのも有るが、是等は千駄木では無く「千焚き」であつたかも知れない。數は千といふ程多くても、もう束がずつと小さく、從つて又之を千把焚き、もしくは千ばえ焚きと謂ふ處が多いのである。

　長門の見島《みしま》といふ島などは、畠ばかりの島だから麥稈を千把、岡の上へ持つて行つて焚き、之を千焚きと謂つて居る。佐渡の島などは薪を千把、山の頂上で燃やす雨乞があつて、それを千把焚きと謂つて居た。信州は山國でも、もう薪の少なくなつた地方の一つだが、それでも各郡にこの千駄焚きといふ語は殘つて居て、實際はたゞ方々の家から松の枝などを持寄り、大きな火を山の上で焚くだけである。千駄といふやうな莫大な萱や木を、集めて焚いたのは遠い昔のことで、今ではたゞ藁や篠雜木などの松明を多く背負つて、山に登つて行くのが通例のやうになり、又炬火だから夜に入ると途中からでも火を點して、行列を作つて頂上に到着すると、其殘りのものを一處に集めて、焚いて還るのが雨乞になつてしまつた。私などの故郷では、夏のなかばの眞暗な晩に、この炬火の長い行列を眺めるのは、蟲送りと共に美しい見ものであつた。あの二つのちがふのは、蟲送りは田の中だけを廻つて早く還つて來るが、雨乞の方は段々に高くへ登り、又隣の村々の火も遠くから見える。樂しみは長かつた代りに、蟲送りのやうに毎年頻々とは實行せられなかつた。さうして起りは一つにちがひないのだが、是はもう千焚きとも千把焚きとも、私の村では謂はぬやうになつて居たのである。昔の千駄焚きの壯觀に比べると、いくら美しくとも是は事が小さく思ひ切つた手段とも言へないのであるが、しかも土地の人々はこの爲に祈願の力が弱くなつたとは思はず、つい此頃まで必死の場合には、この方法に由る他は無いと考へて居たのは、私には深い理由が有ることゝ思はれる。それを一言でいふならば、村の總員が心を合せて、是非とも雨を得ようと協力することは、燃料の分量とは關係なく、昔も今も同じことだつたからである。

　

(384)　　　　　　　四　村の協同

　

　是に就いて思ひ合はされる一つの事實は、以前は越後では好いおしめりを求める爲に、田植の始め苗代の終り頃に、農休みの日が何日か有つた。早朝に氏神樣に御參りして、暫らく坐つて居る位が其日の勤めであつて、何も積極的に働く用は無かつたらしいのだが、それでもなほ此日業を休まずに、常の仕事をして居る者は非常に憎まれた。さういふ事をする者が一人でも有ると、夕立雲が起り雷が鳴り出しても、其村だけは降らずに過ぎて行くとも謂つて、憎むといふよりも寧ろ怖れた。たゞの噂話だつたかも知れぬが、さういふ不心得な者の家には、村の若い衆たちが遣つて來て、屋根の萱を引剥いだものださうな。雨が降らずともよいのなら、この家に屋根は無用だらうと謂つたともいふが、實は此あたりの農家はユヒ組と稱して、村人の協力を以て屋根を葺いて居たから、さういふことも言へるのであつた。雇はれて働く人々にとつては、休みは一つの權利だつたか知らぬが、自分の身を使つて居る獨立の農民には、それが又大きな義務でもあつたのである。少し手の足りないよく稼ぐ夫婦者などは、休みたいのは人とかはらぬが、爰でも一區切りはかを行かせて置くと、後が都合が好いのだがと思ふことが?々あつた。それで人の目を忍んで働いて居ることもあり、又それを見つけて憎み怯かす者もあつたのである。

　乃ち方式は後に色々と變つて來たけれども、雨乞もまた一つの臨時の祭だつたのである。村によつてはこの日村の神社に參集し、又は一夜を拜殿の中に明かす處もまだ多い。それを神職又は重だつた氏子に任せた場合でも、なほ一同はめい／＼の家に引籠つて、愼しみの日を送らなければならなかつたので、この日に常の仕事をしてはならぬといふのも、古來の物忌の一つの形であつたことが明らかである。沖繩の島にはハブといふ毒蛇がもとは多く、その中で金ハブ銀ハブといふのは殊に畏ろしかつたのに、島の人はそれを神樣の御使のやうに思つて居た。どういふ人がこの(385)ハブに咬まれるかと聽いて見ると、主としてウマツリ（御祭）の日に休まず働いて居た者が、咬まれたといふのは意外な話である。神樣はたゞさう多數の人が合同して?るのならば、助けてやらずばなるまいとおぼしめしただけで無く、その合同に加擔せぬ者を、御怒りなされるとまで信じて居た人が有るのである。さうしてそれが又古くからの御約束でもあつたかと思ふ。一族一村の住民の中に、一人でもちがつた感じを抱き、すべきことをせぬ者が有るとすると、たつたそれだけの爲にも公共の願ひ事が、かなはぬ場合が有るかも知れぬと、古風な人々は氣にしたのであつた。もちろん其爲には最初から、人心の一致を望まれぬやうな、小さな祈願の祭は計畫することは出來なかつたので、それで日本の神樣は至つておほまかな、公けの大事にしか關與なされなかつたのである。多數の人々が共々に熱心になつて願ふことを、援助なされるのが我々の神樣であつた。少なくとも古い人たちはさう信じて居た。

　

　　　　　　　五　敬神といふ意味

　

　しかし皆さんは、まださういふ事を考へて見る役ではない。たゞ遠からず之を決定する人と成つた時の爲に、今のうちからもつと多くの事實を、覺えて置く必要が有るだけである。それが面白くも何とも無い事柄だつたら、覺えて居るのも御苦勞なわけであるが、村では斯ういふことが珍しく又新しいものであり、村に入つて居ると見まい聞くまいとしても、氣が付かずに居られぬことばかりなのである。さうして又斯ういふことをよく理解するのが、土地に住む人々と、心を一つにする途なのだから、まことに好い機會だと思つてよいのである。

　村の祭に一人の例外も無く協力し得るといふことは、もう大分久しい前から望み難いことになつて居る。今日は氏神氏子の範圍が擴げられ、その地に生まれた者は皆氏神の子と呼ばれて居るけれども、なほ家々のお嫁さん以外にも、よそで生まれた人が數多く入つて住んで居り、それが何年住めば氏子になるといふきまりも無く、又皆さんのやうに(386)今に還つてしまふことのわかつて居る人も澤山居る。人の願ひごとが皆一致するといふことも、又さう多くの人が一致して願ひ望むやうなことも、段々と少なくなつて來た。それで第二段の私たちの努力としては、さういふ中でも出來る限り多くの人數を協力させること、更に又私などのやうに、遠くに住んで居て、めつたにそんな祈願に出逢はなくても、なほ村の人の心持だけはよく解つて居るといふ者を、是も出來るだけ多くすることが考へられるのである。

　この二つの中の第一の方は、強ひて引張り込んでも實はねうちが少ない。之に反して後の方は、私たちの注意により又理解によつてまだ／＼うんと進めることが出來さうなのである。非常時になつて始めて顯はれたやうな女の人たちの心掛けのやうに、今まで知りやうの無かつたものは是非が無いが、何によらず田舍の事といへばたゞ六つかしくて、説明のしやうも無いやうにきめて居た人が多かつたのは不注意な話である。

　だから皆さんは先づ最初に敬神といふことは、たとへばどういふことをいふのかを注意して見るとよい。是は皇室を始め奉り、下々としても大事なことで、是をどうだつてよいと思つて居る者は有り得ない。ところが文字の方から物を學ぶ人たちは、是をたゞ神の御社を敬ふことだとばかり思つて、御社以外の祭は振向いて見ようとしないのみか、氏子がめい／＼の神樣を拜む心持が、どの樣にあるかをさへも考へようとはしない。敬神といふ言葉は大昔から、色々の書いたものに用ゐられて居るが、それを見比べてもはつきりと判るやうに、神を敬ふのはもとは有難いと思ふから、又多くの者が有難がつて居ることをよく知つて居るからであつた。さうしてこの有難いは、たゞの感謝とはちがふのである。その初めの心持は、有難いといふ言葉が示す通り、他には全く有り得ないもの、人間の思慮の及ばぬところといふことであつた。それを數千年間の經驗だけによつて、知つてよく覺えて居るのが信心といふものであつた。自分ではもう信心をすることの出來ぬ者があつても、是は致し方が無い。たゞ人の信心を輕んじたり、又は何でも無いことのやうに思つて、深い奧底の有ることを認めようとせぬだけは誤つて居る。

　

(387)　　　　　　　六　千燈籠と千本幟

　

　人が多くの同志者と共に、同じ祭をつかへまつる心強さは、今では田舍の住人ばかりがよく知つて居て、都會では段々とわからなくなりかけて居る。田舍では土地にたゞ一つの神の御社の祭典に、不熱心な者のあるのを嫌ふのみで無く、どうしても其統一が保ち難いと感じ始めると、別に少數の仲間だけで申合せて、庚申｜甲子《きのえね》等の色々の講、或は二十三夜講のやうなものを組織し又繼續して、其講中だけは一人も脱け落ちず、我人同じ心に信心を養つて行かうとして居るのである。都會もその必要は田舍よりは大きいのだから、以前はこの講が殊に盛んだつたのだが、何分各人の願ひ望みがまち／＼である爲に、今では名ばかり殘つて、一年に一度の物詣りにつき合ふだけ、又は方々から集まつて來るのみで、あの人は一體どんな心願が有るのだらうかと、互ひに知らぬ者がたゞ折々顔を合せることになつて居る。その結果としては祈願が益々小さく、又甚だしく公けでない、身勝手なものになつてしまつたのである。

　さうして其以前の痕跡だけは、まだ幽かに殘つて居るのである。たとへば町でも年一度の大祭の日だけは、軒竝に揃ひの提灯を入口へ下げさせる。是は雨乞の嶽登りに、百炬火《ひやくたひ》・千束柴を持つて出たのと同じものにちがひないのだが、今では美觀が主になつて、何のわけも判らずに、たゞ祭の景氣だの、お祭氣分だのといふ人ばかり多い。昔も平重盛が千の燈籠を點させて、燈籠の大臣と呼ばれたといふ話のやうに、一人の資力によつて澤山の人を使ひ、何か自分だけの心願の爲に、數の燈火を神に上げるといふ處もあるが、もとは是も土地々々の協同であつた。肥前五島の小値賀《をぢか》島の千燈籠などは、是も亦一部落の雨乞の爲であつて、今は子供が主になつて岡の上で大きな火を焚き、後でそれを松明に移して下つて來るのであつた。各戸が協力し、又どういふことが願はしいのかを、はつきりと胸に持つて居るのでなければ、この大掛りな願望も實はたゞの慰みに過ぎぬのであつたが、それまで考へて居る者は、果して町(388)にも有るかどうか、よつぽど不確かなものになつて居る。

　それから又東京の附近などにも、つい近頃までは千本幟といふのがあつた。半紙を八つほどに剪つたのを糊で竹の串に貼り付け、それに拜みに行く神樣の名と月日などを書いて、參詣路の左右に刺すもので、一目でその神の信者の多いことが判り、いはゆる景氣のよいものではあるが、其代りには祭の幟とは似ても似つかない、粗末な簡略な紙の小幟ばかりであつた。是も現在は平重盛の千燈籠のやうに、たゞ一人の者が何か願掛けをするときに、さういふ約束を神樣に向つてする者が多くなつて居る樣だが、村々の方ではもとは千度參りと稱して、澤山の人が言ひ合せて、新たなる大きい祈願をする時だけ立てたもので、千人が揃ふといふことは六つかしくとも、出來るだけは一村各家から總出をして、一度に一本づゝ持つて來て立てるのが本意であつた。時と僅かな費用とさへ掛ければ、一人でならば何時だつて斯ういふ事は出來る。たゞそれが神樣のおぼし召しにも叶ふと思つたのは、言はゞやゝ勘定づくな、いやしい又新しい迷信だつたことは否めないのである。

　

　　　　　　　七　祭禮と幟

　

　幟《のほり》は夏の初め秋のなかば、村に入つて行く者の氣づかずには居られない、最もさはやかな快い印象を與へるよい見ものであるが、是を祭の日に立てるやうになつた起りは、まだ考へて見た人が無いらしい。私の意見では、最初一つの高い木の柱を立てる習慣があつて、夜はそのてつぺんで火を點し、晝は又目じるしの白い布を附けたのが、後々あの大きな二幅三幅の竪旗となり、その布の上に天下太平だの國土安全だのゝ文字を書くことになつてから、それがよく讀めるやうに、片側に乳を附け綱をとほし、終に今見る形になつたものと思はれる。近頃は外に出た人の家の前などに何本と無く立てる風習も始まつたが、元來は定まつた場所に一本又は二本竝んで立つのがきまりで、多分は神前(389)の幣串と同じく、之を中心に祭る人々の心を、統一せしめるのが趣意であつたのである。それを千本幟の樣に數ばかり多く、ちやうど千駄焚きが炬火に變つた如く、めい／＼別々に持つものにしたことが既に變遷であつた。まして一人の手でこの樣なことをするのは、たゞ外觀の爲としか思はれない。それを御喜びなされるのは昔からの神とはいふことが出來ない。人の心の集合と統一とが、こんなものからは殆と期し得られぬからである。

　ところが田舍の方には是よりも一つ前に、日幟さんと謂つてたゞ一本の大きな幟を、多くの村人が集まつて來て、一日のうちに作つて立てる習はしがあつた。伯耆の大山《だいせん》の麓の村里などでは、其日は正月下旬の或一日、又は秋の收穫がすんでから後に、一日の中に木棉綿から絲を引き、機にこしらへて織り上げたものを、直ちに村はづれの路傍に持つて行つて幟に立てた。それは容易なことではない爲だらうか、近年は絲だけは前以て支度し、機ごしらへから始める村もあり、又は綿布まで他處で買ひ調へて置いて、幟に縫ふことから始める村さへ出來たといふことである。佐賀縣の綾部八幡といふ御社には、もとは六月十五日、今は七月の同じ日に、旗上げ旗下しといふ神事がある。古來十三歳になる女の子を一人きめて、一日の中に其旗の麻を織つて旗に仕上げさせ、之を日旗と呼んで居た。十三歳の者で無くとも、一人の娘の子にはそれは六つかしい事であつた。故に物馴れた老女が世話を燒き、今では又老女に頼んで織つてもらふやうにもなつて居る。この旗は普通の幟よりも小さいものらしいが、それにしてもこの一日仕事に參與する者は、とても一人の老女だけではすむまいと思ふ。越後の七不思議の一つなる弘智法印の寺などでも、毎年四月八日の御衣替へといふ日に、もとは海邊七浦の姥子たち、各々一つかみづゝの苧を持ち寄つて、一日の中に紡み績ぎ織り縫つて、法印の像に着せ申したのを、日中機《ひぢゆうばた》と謂つたといふことが、二百何十年か前の行脚文集に見えて居る。今ではもう罷めて居るかも知れぬが、是なども起りだけはこの日幟さんと同じものであつた。

　

(390)　　　　　　　八　日中機

　

　この協同は段々と形を變へて、今では一人の願ひごとを助けるやうな習はしにならうとして居る。たとへば同じ日中機でも、壹岐の島でさういふのは、或家の幼兒の乳呑齒が、下の方から生えずに上から生えるのを、よくないことと恐れ、是には七機一反の着物を着せるか、又はこの日中機を織つて着せなければならぬと謂つて居る。七機一反はむつかしい言葉だが、七箇所の機で織つた布をもらひ集め、それを繼ぎ合せて着物に縫ふことで、之を又ナナトコギレとも謂ひ、さういふ着物を着せると子供が丈夫に育つといふ地方は多く、それと同樣に又七軒もらひと稱して、七戸の家から米を少しづゝもらつて來て粥に炊いて食べると、夏負をせぬとも或は病がなほるともいひ、或は七雜炊といつて正月七日の午前、七つになる兒をつれて七軒をまはり、此日の雜炊を少しづゝ乞受けて食べさせると、丈夫な兒になると信じて今でもさうして居る處が多い。七つはたゞ好い數といふまでゝ、つまりは斯うして多くの力を集めることが、本人の身の上に頼もしい效果を及ぼすといふことを經驗して、村に住む人たちが久しい間、互ひに助け合つて居た點は皆似て居る。その七機一反の代りになるのだから、日中機の方も亦多くの親しい女たちが集まつて、綜《へ》たり織つたり縫つたりすることを、手傳つて居たにちがひないのである。

　九州でも宮崎縣の西南部、霧島山麓の村々などでは、斯ういふ場合に織つて着せる布をヒゲノノと呼んで居る。是も近所の女たちが寄つて來て、一日の中に機にかけて織つて縫つて其兒に着せた後、それを藁人形に着せたまゝ川に流したりする。ヒゲノノといふのは日返り布、すなはち一日の中に織つて縫つて着せて、流してしまふからさういふのかも知れぬが、壹岐から遠くない五島の島々が日返り機といふのなどは、流すといふことは無くて、やはり一日のうちに織つて縫つて着せる。さうして逆齒の生える緑兒の全部で無く、丙午の年に生まれた兒にさうするといゝ、又(391)は赤ん坊が夜啼をして困るときにも、この日返り機を織つて着せる村があつた。最初は必ずしも一つの場合に限らず、何か氣になるやうなことの有る際は、斯ういふ着物を着せて神を拜ませたのではないかと思ふ。

　是等は何れもぜひ一日の中に、こしらへ上げねばならぬものでは無いのだから、むしろ衆人の力を集めて居るといふ點に、何か私たちのもう忘れた大きな意味があつたのである。今日では人はさう毎日頼めないから、一日で片づけようとするのだと解する者も多からうが、屋根も一日で葺き、味噌も一日で仕込むのみならず、蚊帳なども必ず一日で縫つてしまふべきものと、きめて居る家が京大阪にもある。香川縣の或村では、お産の前に死んだ若い婦人の爲に、洗ひざらしといふ五六尺の布切れを、路の傍の地藏さんの前などに張つて置いて、通行の人に水をそゝぎかけてもらふことは、他の地方も同じであるが、この布を又一夜機と稱して、朝から絲を繰り機に立てゝ織ることにして居る。鹿兒島縣南海の奄美大島では、十三歳になる女の子には十三袴と謂つて、叔母さんから赤い腰卷を遣ることになつて居る。是も全國どこにもあることだが、この島のは特に一日のうちに織つて染めて縫つてやることになつて居た。すなはちその叔母さんも一人だけでは出來ぬことなのである。

　

　　　　　　　九　子供の欲しい家

　

　旗や幟について、なほ二つ三つの變つた話を私は知つて居る。一つは鳥取縣の或山村だけで聽いたことだが、蓆旗と稱して五月の節供の前の晩、子供が欲しいのに生まれないといふ家の前に、若者達中がこつそりと遣つて來て定まつた方式の通りに蓆の旗を立てるときつと子が出來る。その家の者が知つて居ては效目が無い。其方式といふのは、先づ此家より上の方に男の兒をもつた家の屋の棟に繩をゆはへ附け、次にその繩を氏神さんの社に引き、更に子供の欲しい家の外庭まで引いて來て、蓆旗を立てた竿の尖に結び繋いで置くのである。繩が途中で地に附いたり切れたり(392)して居てはいけない。又この法によつて男の子の生まれた家からは繩を引いて來ぬといふ。繩と蓆は後で此家が貰ひ受けるといふが、ともかくも相應の長い繩が要るであらうのに、それを當人たちには知らせずに、潜かに用意をするといふのは大きな好意であり、それを又氏神社に繋ぐといふのも、信心の一つの現はれであつた。村に丈夫な男の子の増加することは、神樣ばかりか村民にも望ましいことで、以前には東北地方で年切りといふ行事のやうに、果樹を叩いて千なれ萬なれと、唱へごとをして居た正月十五日の晩、同時に若い嫁たちのお尻を産め／＼と謂つて打つまじなひも有つたといふが、今ではもう頼まれもせぬのに、そんな事までする者は村にも居らぬであらう。しかし村がまだ淋しく弱かつた頃には、時をちがへて互ひに斯ういふ助け合ひをするまでに、村の人たちの團結心は強かつたのである。

　それからもう一つ、信州の南部から美濃の方にかけて、つい近い頃まで送り旗といふ面白い風習があつた。これは旗とはいふが幟のことらしく、人が或遠くの御社を信仰して、幟を一つさし上げたいが參詣に行かれぬといふ場合に、それを作り上げて何里かは自分で持運び、路の傍に立てかけて戻つて來る。さうすると通行人の中から、荷物は無くて信心の志のある者が、二里でも三里でも御社の方角へ送つて行くのである。其協力が積り積つて、しまひには志の處まで屆いたといふのは、誰がしたとも知れないだけに、誠に奧ゆかしい我邦の美風であつた。或は又地藏送りといつて、石の地藏を造つて此方法で遠くへ運ぶことが、一時はやつたといふ話もある。是などは荷馬車が多くなつた時代に、主として馬方が篤志で運んだといふことで、是にもやはり行く先が書いてあるのを、讀める人がもう多くなつた御蔭であつた。私なども今から二十年ほど前に、奈良の二月堂に獻上するといふ青竹の束が、あの交通の多い街道の片脇に、幾らも轉がしてあるのを見たことがある。川筋や海の上では材木に大きく伊勢木と書いて、山から流したものがよく浮いて居る。或は酒樽に奉納住吉大明神、又は金毘羅大權現寶前と書いたのを、海で船頭が拾ひ上げることもある。何れも自ら行けない信心者が、同じ志の者の多いことを信じて、誰とも無しに頼みを掛けるので、人と共(393)々に神を祭ることを、大きな力と思つて居た社會で無いと、實際は思ひ切つてやれぬことであつた。

　

　　　　　　　一〇　神社合祀

　

　この協同の信心といふことは、もとは村限りの小さい氏神の社に於て生まれ、後に追々と國の大神の、互ひに知らぬ信徒の間にも擴がつたものと思ふのだが、それにしては其本元の村や大字に於て、やゝ結合の弛み始めたのが、少し早過ぎるやうに思はれるのは殘念である。しかしさうなつた原因には、同情しなければならぬ點が幾つもある。その一つは、村で産土《うぶすな》とも又氏神ともいふ御社が急に大きくなつて來て、之をお祭り申す人員が増加し、仲間が幾分か雜駁になつたことである。それは必ずしも明治の御代の終りに近く、政府の手で行はれた神社合祀によつて、始まつたことでは無い。元來産土といふのはもとどころ〔五字傍点〕（本居）、自分の生まれた土地といふだけの意味であつて、そこには氏毎に一族毎に、それ／”＼のちがつた氏神を祭つて居たのを、故郷が一つで共に出て働いて居りながら、めい／＼その本居の神がちがふのはこまるといふ考へが起つて、段々と之を一つにする方へ進んで來たものらしい。村に留まつて居る人々の中でも、隣の氏神祭は、人數が多くて賑はしく樂しさうなのに、こちらは集まる者が少なくて心細いといふ感じがして、時によつては合同してもう一つ新たに御社を建てた。たとへば近くに有力な寺などが有つて、そこに祭つて居る鎭守の神の祭に、住民が參加することになつたなどはそれであり、又外から來た人に勸められて、遠くの尊い大神を御迎へ申したのもそれであつた。しかしさういふことはしなくとも、村にはおのづから産土樣として共同に祭つてもよい大きな氏神が一つあつたのである。我邦ではどんな小さな部落でも、大抵は三つ五つの氏が連合して住んで居る。さうして互ひに縁組をして、血の繋がりは却つて一門よりも濃くなつたものが多い。斯ういふ人たちが相談をして、村にたゞ一つの大きな神社を維持しようといふことになつたのだから、話は纏まりやすかつた筈で(394)ある。書いたものにはなつて居なくとも、この歴史はまだ記憶する者がある。幾つか有る氏々の氏神の中でも、一ばん家數が多く又しつかりとした人の居る氏の神樣を立てゝ、そこを中心の神社とし、一同がそこで同じ日に祭をすることになつて居るのが普通のやうで、素よりその爲に他の氏々の神を廢したのでは無く、みんな其場處に集めたものと解して居たのではあらうが、斯うなつて來るとそれ／”＼の氏族の、慣例や利害の差が少しづゝ現はれて、古來定まつた常の祭の他は、折々は一同の一致することの出來ぬ場合が生ずることを免れなかつたのである。

　氏を同じくする一族の結合を、今日ではマキといふ地方が多いが、そのマキの内でも、氣特のちがふことは全く無いとは言へないが、その總本家の權能は非常に古くからのもので、之に楯突くことは世間からも許されないが、多くの氏々の連合にはさういふ中心の力が弱い。それを統一する爲にまはり神主、又は宮座頭屋といふ固い約束が結ばれ、或は又世襲神職の家筋といふものが定められたのであるが、是が又二つとも、新しい時代になつて取續けて行かれない事情が現はれた。外から來て一時寄留する人の多い爲だけで無く、村の中でも大分前から、この點については少しこまつて居たのである。

　

　　　　　　　一一　個人祈願といふこと

　

　私たちの謂ふ個人祈願、一人限りの願ひごとを神樣に申し上げることが、日本の神道にも始まつて來たのはこの結果であつた。佛法の方でも國家の爲、又は少なくとも一つの郷土の爲に、祈願をするのが舊い教へであつたのだが、中古以來その方はすたれてしまつて、たゞ誰かの爲に何事かを?るものばかり多くなつて居た。それを朝晩見馴れて居るのだから、神の御社に向つて一人願ひをするのも、格別怪しいこととは思はなかつたけれども、是は我邦の昔の世には無いことであり、恐らくは神樣にも御意外なことであつたらう。神佛の境目といふものが、この爲に愈々はつ(395)きりとしなくなつた。村では毎日のやうに參詣をしに來る人、さうで無くとも月の三日は、缺かさず社頭を拜する人と、例祭の日の他は一ぺんも顔を出さず、又は祭にすら忙しいと出て來ぬ者がある樣になり、家々としても老人か主婦かゞ代表して一人は必ず參つて居る家と、全く知らぬ顔をして居るのとが出來て、神信心の差等が日に増し著しくなつて來た。さういふ冷淡な人と仲間になつて、祭を營んでも心願がかなふだらうかと、危む者の多くなつたのも自然である。そこで一村の中にも亦特に敬神の念の深い者ばかりの、共同といふことが始まつて來た。神社が合祀せられ氏子が多くなると、さういふ小さい團體は數を増して、互ひに相手の心持が通ぜず、思ひ／＼なことをするやうになつたのである。

　信心といふ言葉の意味が、是に伴なうて段々と變つて來て、後には却つて迷ひの多い者、大小さま／”＼の村の外の神々にも、又は神にも佛にも、そちこち僅かづゝ祈願を掛けてあるくやうな者を、信心深い人といふことになつたのは、考へて見ると變な話である。もちろんさういふ人は外からは笑はれる。さうして神信心といふ言葉までが、其爲に輕々しく見られるやうになつたのは悲しいことであつた。しかし村には決してさういふ新しい信心者ばかりが居るわけでない。今でもまだ人の最も大きな災厄危難を救つて下さるのは、先祖代々いつの世からとも知れず、御祭り申して居る村の神樣より他には無いといふことを、信じて疑はぬ者は半數以上で、それあるが爲に、國に大きな事件のある際にも、なほ國民は向ふ所を失はずに居られたのである。神の御威力と思召しとを信ずるのは、理論では無くして經驗であつた。親々が自ら體驗して、それを最愛の子や孫に語り繼いだものがよく記憶せられ、その方式の通りに今も祭をしてさへ居れば、いつでも私たちは安心して居ることが出來る。之に反して少しでも、以前の條件とはちがつて居ることに氣が付くと、口には出さずともそれが不安の種になつて、何かその代りになり補充になるものを探し出さうとする。小さな色々の堂や祠、又は新しい講や教團の現はれたのも全く其爲であつた。

　

(396)　　　　　　　一二　千垢離

　

　たつた一軒の家の憂ひや惱みでも、それが村人の一人である限り、決して神樣は打棄てゝ置かれなかつたことは、前に紹介して置いた蓆旗の繩を、氏神社から子の欲しい家へ、引いて來て居るのを見てもわかり、又は逆齒の生えた幼兒の爲に、村の人が集まつて日中機を織るのを見ても考へられる。斯ういふ信心の最も明らかに顯はれて居るのは、村で大事な氏子が大病にかゝつて命危いときに、多くの人が出て祈願をする千度參り、又は數參り度《たび》參りともいふものであるが、是なども最初はもつと弘く、村に何事か大きな憂ひ事が有る場合、殊に五月六月におしめりが無くて、田が植ゑられなくて苦しむ時などの方が多かつた。女や子供までを加へても、村では千人といふ人は中々揃はない。多分はめい／＼が二度も三度も、還つては又御參りに行くので、千といふのは精確で無くとも、實際は千度よりも多く、一日の内に神樣の前に出て、口々に同じ言葉を申し上げて、神樣を動かさうとしたことゝ思ふ。私たちが見てさへ感動せずには居られないのは、漁船が沖へ出て居るのに暴風雨が起つて、船が次の日までも歸つて來ぬ場合などに、母とか妻とか姉妹とか小さな兒童などが集まつて、この千度參りをする有樣である。隱岐島の海士《あま》村などでは、この日の祈願に先だつて、濱の小石を千個だけ拾ひ寄せて、めい／＼がそれを一つづゝ手に持つて、御參りしては拜殿に置いて來るさうである。人が是だけ一心になると、たとへば船がよその港に遁げ込み、又は嵐と入れちがつて無事に歸つて來たとすれば、それを千度參りの力だと思ひ、又神樣の御助けと信ぜずには居られなかつた筈である。

　さうしてこの濱の小石といふのは、本來はたゞの數取りではなかつたのである。すなはち海の潮を以て、まづ身と心を潔くしてから、祈りを神に申すといふ意味があつた。海から遠く離れた山奧の村々でも、雨乞その他の切なる願(397)ひが有る場合に、やはり川の流れに浸つて一つづゝ小石を拾ひ、それを手に持つて濡れたまゝで參ることが多い。それを千度｜垢離《ごり》とも千願垢離とも謂ふのは、多くの人が加はり又數多く參るからでもあらうが、もとは瀬垢離であつたと見えて、之を又センゴリといふ村も少なくない。三河の山村では斯ういふ際に、七箇所で水を浴びるので七瀬垢離といひ、遠州の氣多《けた》川筋では又五十瀬百瀬などゝ謂つて、段々上流の方へ場所を變へて、水垢離を取つて御參りをする者も有るといふことである。垢離を取るといふのは妙な言葉で、どうして斯んな文字を書くのか、まだはつきりとして居ないが、ともかくも以前は神を拜する人々が、何れも全身に水を浴びてから、始めて神前に近づくのが普通であつた。今でも古い御社の傍には御手洗川が流れて居り、又それを最も簡略にしたのが、多くの社頭に見られる銅や石の手水鉢である。近頃では爰で手を洗はぬ人さへ多くなり、いはゆる垢離も一般に手輕になつてしまつたが、なほ特別の切なる祈願だけには、眞冬でも之をして居る人が有るのである。

　

　　　　　　　一三　見舞參り

　

　村々の年をとつた女の人たちが、我子我夫の安否を氣づかふの餘り、再び昔の本式の潔齋をして居る者は近い頃は非常に多くなつて居たやうであるが、土地の住民が集まつて來て、同じ神樣に共同の祈願をする爲に、千垢離を取る場合は大體に少なくなつた。さうして不思議にたゞ一つだけがまだ方々に殘つて居る。それは或一軒の家に重い病人がある場合で、是には身内や出入の者だけで無く、組合又は部落總體から、一戸一人づゝが出て千度詣りをする風習が、?々この千垢離を伴なうて居るのである。是を見舞參りといふ處も有るのを見れば、今では半分は世の中の義理、前には自分の家も同じやうにして助けられたとか、いつかは此方もさうした世話になるのだからとか、村の附合ひといふことが根になつて居るのだらうが、是が氏神の御心に叶つて、危篤な病人を恢復させる力になるといふことを信(398)じて居なかつたら、單なる社交だけでは是までの協力をなし合ふ者は無かつたらうと思ふ。つまりは願ひ事があまりにむつかしく、個人の智惠や技術だけでは成就の望みが無いと思ふ場合でも、是がたゞ一つの家だけの私の利益では無くして、村人多數の共に切望する所でありますといふことを明らかにすれば、それならば助けて見ようといふ思し召しが神にもあつて、御蔭を被ることが多いといふことを、久しく私たちの祖先は經驗して居たのである。村に住む者が吉凶禍福、常に互ひに助け合はねばならぬといふ考へ方が、たま／＼その信仰と結び付いたものと私は思ふ。この千度參りを村の人にしてもらつて、危い命を取留めたといふ者の話なども、注意して居れば折々は聞くことが出來る。土地によつては千度參りの人たちは、社の前に立つて大きな鬨《とき》の聲を揚げる。それが病人の枕元まで聞えて來ることもしば／＼有る。或は參詣の人たちが垢離を取つた姿のまゝで、歸りにどや／＼と其家に寄つて行くこともある。斯ういふ聲を聽くと、譬へ樣も無く心丈夫になり、又元氣がつくものださうである。或は斯ういふ所にも共同の祈願の隱れたる效果があるのかも知れない。

　ところがこの千度參りの人の數といふものは、實際は段々に少なくなつて來て居る。殊に交際の限られた都會の人々などは、御百度はたゞ一人で踏むものと思ひ、何べんも同じ處へ行くことを、御百度を踏むといふ諺さへ有る。大きな御社の鳥居の脇には、御百度石といふ石が立つて居て、手に數取りの紙縒や竹の串を持つて、脇目も振らずにそこと社殿との間を、往き返りする人を毎度見かける。是も病人の爲か、又は遠い處に居る旅人の爲かの、切なる願ひ事であることは同じなのだが、今ではそれがもう純然たる個人祈願になつてしまつて居るのである。

　

　　　　　　　一四　千社參り

　

　一つの神樣の御社へ、百度二百度の御參りをする代りに、續けて數多くの宮を巡つてあるくといふ風も、大分前か(399)ら始まつて居る。近頃では是も急に盛んになつたが、以前も春と秋の時候の好い頃に、又は田植のあとの休み日などに、仲間を何人もこしらへて百社參り、千社參りをするのも神信心のうちに算へられて居た。京都は大きな神社の數多い土地であり、朝廷でも何か事があると、一時に全國諸社の奉幣を遊ばすので、何か一つの社だけに願掛けをすることが、他をおろそかにするやうに感じられたのであらう。この風習の起りは都方であつた。最初は專ら祈願の爲だつたかも知れぬが、斯うして季節を選み休日を待ち、又は好い同行を誘ひ合はせるやうになると、半分は遠足やハイキングに近い。江戸ではもう二百年近くも前から天愚孔平といふ人がやり出して、千社札といふことが始まつた。是などは只自分の名を色々と小札に印刷して、それを出來るだけ多くの堂宮の戸や柱に貼つてあるくだけで、刷毛の附いた繼竿などを用意して、手の屆かぬやうな高い處に貼り付けるのを手柄にして居た。その札が今でも思ひがけず、遠い村里の御社の軒にも見られるのは、まださういふことをする人が少しは有るのである。それに比べると近頃の千社參りなどは、大抵は外に居る者の爲であつて、たゞぢつとしては居りにくいやうな心持から、さうしてあるく者が多いやうに思はれるけれども、是まで何の縁も親しみも無かつた他處の御社に、さう數多く願ひを掛けて見たところで、それが集まつて一つの大きな御助けに、なるとまで考へることも出來ず、むしろ念力の分散に歸することは判つて居る筈で、言はゞたゞ一つのまじなひだから試みにさうして見る、みんながするのを見れば效果が有るのかも知れないといふやうな、淡い幽かな望みから出たもので、是も互ひに祈願の筋をよく理解した、よい協力者の得られなくなつた爲だとすれば、同情し又深く考へて見ねばならぬことである。

　人が獨りの力ではどうすることも出來ぬことでも、多數の志を集めるならば何とかなるといふことを、千人針といふものはよく認めて居る。しかしそこには人間以上の高くすぐれた御力があつて、我々の願ひに應じて下さるといふ信頼は無いのだから、是もなほまじなひの一種でしか無い。日本人の曾てしつかりと持つて居た信心は、決してそんなものでは無かつた。一つの願ひ事が公けのものであり、村を同じくして共に住む者の、等しく願はしいものである(400)ときまると、たつた一人の村民を活かせて置きたい、又はたつた一人の赤子を増加したいといふ樣な小さな願望にも加擔して、その一軒の家を助けて、といふよりもむしろそれに代つて、協同の祈?に熱中したのであつた。それ等と比べると何千萬倍とも知れないほどの大きな願ひ事は、今や私たちの心の中に燃え上つて居るのである。さうして其願ひの筋には、各人寸分の差異も無い。それを一つに纏めて貫徹させる意氣込みだけが、缺けていつまでも備はらずに居るわけは無いと思ふ。

　

　　　　　　　一五　勢祈?

　

　岡山縣の各郡などでは、村々の氏神社で行ふこの協同の祈願祭を、總參りといひ又せい參り、せい祈?とも謂つて居る。このセイももとは千垢離などの千だつたかも知れぬが、今居る人たちは皆勢ひのセイと心得て、勢參り勢祈?と字にも書いて居る。是は尤もなことだから私たちもさういふ言葉を使はうと思ふ。勢祈?も近頃は病人などの爲ばかりだから、段々と人數が少なくなつて居るが、この大きな總國の祈願を機會として、出來るなら有るだけの人が參加し得るやうな、簡單な式を設けたいものである。普通の勢參りでは、先づ神前に恭しく拜をして後に、歸りに一同がウヮーと高い聲を揚げる。之を鬨の聲とも又總の聲とも謂つた。他の府縣の千度詣りにも是はよく有ることで、或はエイ／＼と力の籠つた大聲を出すので、之をエイ／＼祝詞《のつと》といふ土地もある。もとは年越その他の定例の祭にも、氏子が集つてこの總の聲、又はエイ／＼祝詞を上げる御社があつたさうである。古い六つかしい文章で、祭の目的を詳しく申し陳べる必要は少しも無い。神樣は赤子の初宮參りの日から、もう氏子を御存じであつて、それが心に何を願つて居るかもよく知つて居られるものと、昔から私たちは教へられて居たのである。たゞ必要なことは諸人の熱意が滿ち溢れ、しかも皆揃ひであることを明らかにすることであつた。それが明らかになると祈る人々自らに、神は聽(401)き受けたまふべしといふ信仰が生じたのである。この必要は多數の國民の必要である。少しでも人の熱意を冷し醒すやうなことは、如何なる立場に在る者でも、共々に之を愼まなければならない。

　

(403)　　　　　　　あとがき

　

　ちやうど今から四年前、空の猛火はだん／＼に迫つて來て、自分たちの生死も全く不定であつたころ、村に避難をして居る小學生諸君、さういふ中でも殊に始めて親の手を離れて、淋しがつて居る女の子に讀ませたいと思つて、私は斯ういふ文章を十ばかり書いて見た。其中の六つを一册の本にまとめて、「村と學童」といふ名で出版して居る。可なり急いだけれども印刷が間に合はず、あの八月十五日も過ぎてから、やつと世の中へ出ることになつた。歸りの支度や何かに取りまぎれて、落ちついて讀んでくれた人は、ごく僅かな數であつたにちがひない。

　しかしこの本の中に書いてあることは、戰がすんでしまへばもう用は無いと、いふやうな種類のものでは無かつた。むしろ折角珍しい土地に來て居るのだから、たゞ淋しがつたり、うちを戀しがつたりして居ないで、出來るだけ周圍の事物に注意を拂ひ、今まで知らずに居た色々の面白い話を、聽いておぼえて置くやうにしようといふのが、これを書いた時からの私の趣意であつた。現在は旅行が中々六つかしく、又新しい讀み物が多過ぎて、疎開の日のことなどは忘れかけて居るであらうが、皆さんが大きくなり、上の學校に進み、社會の數々の問題に觸れて行くたびに、きつとあの當時の印象があざやかに活きかへり、どういふわけでといふ不審を、今に起さずには居られなくなるであらう。

　日本では都會の數が多く、又非常に大きくもなつて居るが、その大部分は近世に入つてから、村を出て來た人がこしらへたものである。それがたゞ僅かな年月の間に、斯んなにまで互ひに知らず、聽けば眼を圓くするやうな話ばかりが多くなつて居るのは、どう考へて見てもをかしな事であつて、是では一國の親しみを繋ぐために、(404)いつまでも中央の大きな力に導かれて、だまつて附いて行くといふことにならぬとも限らない。そんな事があつてはこまる故に、私たちはもつと詳しく他處の人の生活を知り、同時に又町と田舍との間に、どうしてこの樣な多くのちがひが出來たかを、考へて見ようとして居るのである。今度は新たに社會科の教育が始まつて、問へば追々に教へてもらへる道が、皆さんの爲にも開かれて居る。私なども活きて居るうちはなほ勉強して、もつといろ／＼の問題に答へられるやうになりたいと思ふのだが、果してあの四年前のやうな張り切つた心持で、斯ういふ話をすることが出來るかどうか、それが少しばかり心もとない。

　この本に載せたものゝ他に、まだ五つほどの文章がある。「棒の歴史」といふのと、屋根のことを書いた「三角は飛ぶ」といふのは、「村と學童」の中にはあるが、こちらへは持つて來なかつた。「蟻地獄と子供」といふのは、一度蟲の雜誌に載せて後に、「西は何方」といふ方言研究の本の中に入れた。「二十三夜塔」といふ一文は、今に「年中行事覺書」といふ本の中に入れるつもり。「謎と諺の話」といふのは、一度成城學園の雜誌へ出したが、是は少しばかり書きたして見たいと思つて居る。全體にすこし文章が固く、又六つかしい文字もまじつて居て、五年六年の小學生の、獨りで讀むにはやゝ無理ではないかとも思はれたが、あれから諸君もずつと大きくなつて居る。又この程度のものが却つて力が入つてよからうとも考へて、わざと書きかへることをしなかつた。わかりにくい點があつたら受持の先生なり、うちのお母樣なりに相談をして見るのもよからう。この方たちも何を私が皆さんに話さうとして居るかを知りたいであらうし、又斯ういふ問題について、事によると皆さん以上に、大きな興味を持たれるかも知れない。それから一方には村に生まれた人たちも、自分たちの生活がどういふ風にゑがゝれて居るかといふことに、町の人以上の關心を抱くかも知れない。彼等の多くはよその土地の事を知らぬので、いつも問題を小さく看て過ぎる嫌ひがある。是が全國の隅々に一致して行はれ、しかも久しい以前から續いて居たのだといふことを、始めて心づいて不思議に思ふ場合がきつと多いことゝ思ふ。知つて知らなかつたといふこ(405)とは、人間には幾らもある。それが自然にわかつて來るといふことは、大いなる學問の樂しみである。

　　　　　　　昭和二十三年十二月

　

(407)　　　村のすがた〔この文には多数の挿絵があるが、すべて省略した、入力者。〕

　

(409)　　　　　著者の言葉

　

　つとめて有りふれた毎日の生活の中から、氣がつけば考へて見ずには居られぬやうな話題を、拾ひ出して行かうといふのが、私たちの仲間の流儀でありました。世の中の平凡といふものには、大よそ二つの種類がある。その一つは人がいつでも顔を合せさへすれば、止めども無く説き立てひねくりまはさずには居らぬに反して、他の一方は妙にしまひこんで置かうとします。故郷の思ひ出とか、幼い頃の切れ／”＼の印象とかいふものが、この第二の部類に入つて居るのは、つまりはまだ互ひに似たやうなものを持つて居ることを知らず、是が日本人の多數に共通のものだといふことに氣づかぬからでありまして、從つてこの種の平凡の中には、なほ將來の新しい發見があり、從つて又學問への大切な暗示が、含まれて居るのではないかと思つて居りました。

　それを試みるのに誠に都合の好い機會が、測らずも最近に一度得られたのであります。生まれも育ちもそれ／”＼にちがつた澤山の若い人たちが、國の端々から呼び集められて、あちらこちらで共同生活の日を送り、夜は一つの火のまはりに寄り合つて、何か心を樂しくするやうな話の種は無いものかと、捜し求めるといふ期間が隨分と久しく續いたのであります。その當時、いはゆる戰時色を以て全面を塗りつぶされて居た、或一つの有力なる週刊誌が、特にその卷頭の一頁を區劃して、そこに繪入りの「村のすがた」を連載する計畫を立てましたのも、實は始めからこの若い人々の氣持が、はつきりと感じられて居たからでありました。それで此面だけでは何か全く別な話、少しもいくさの問題を取り上げぬやうにといふ注文で、私もまたそれを快諾したのであります。どれだけの效果があつたかは確かめることも出來ませんが、少なくとも非常によく讀まれ、又いつまでも覺えて居てくれた人が多く、本にまとめて殘して置くことを、勸められることも度々でありまして、年をとつて居るだけに、(410)それが何よりも私にはうれしかつたのであります。

　しかも愈々是を一册にして出すことになりますと、いさゝか氣になることが一つ。果して是が現在の村の姿、日本の常の人の生活の、そつくり其まゝだと言ひ切れるかどうか。今は過ぎ去つたと言はねばならぬ部分が、少しづゝはもう出來て居るのでないかといふことであります。僅か數年の前までは確かに有つた事實、うそと思ふ人は何べんでも、見に行き聽きに行くことの可能であつたものが、或はもう片端は單なる記録と化して、居るのではなからうかといふ點であります。もしもさうだつたとすると、やゝ拍子拔けの形ですが、幸ひにして私は至つて有りふれたことばかりを取り上げて居ります。さうしてまだ私の調べて見なかつた土地は、全國に亙つて非常に弘いのであります。さういふ中には同じ古風な生活樣式がなほ續けられ、又はたしかな記憶をもつ人が幾らも居り、今まではそれを自分等だけの平凡と心得て人に語らず、たま／＼斯うした本の中に、問題になつたので始めて珍しがるといふ場合が、きつと是からも出て來ることゝ思ひます。國が自ら知るといふことは、斯うして國民が互ひに知るより他に道がありません。それを今までは極度に怠つて、頓珍漢な外國經驗ばかりが、都會では幅を利かせて居るのであります。是をもう一度新たな出發點に引戻す爲には、村の姿を見るといふ興味を、少しでも多くの人に弘めることが必要なので、何だ是ばかり、もつと面白い問題が他にも色々有るのにといふ類の批難ならば、受ける方が却つて望ましいのであります。そこで今度は又さういふ別方面の讀者を豫期しつゝ、改めてお目見えをすることにしました。

　この本の説明に用ゐた插畫は、ざつと四分の三ほどが寫眞によつたもので、何れも昭和十年からこちらに、郷土生活研究所の諸君が、實地に出かけて寫して來たものであります。それを繪にして下すつた野口義惠さんには、特にどういふ點に我々が心を引かれるのかを、うるさい程にも詳しく話しました。殘りの四分の一は適當な寫眞が手に入らなかつたので、大抵は野口さんの以前のスケッチを利用しました。伯耆大山の西麓の村々の實景がや(411)や多いのは、そこが野口さんの故郷だからでありますが、まだ其以外にもこの人は、女には珍しい山村の旅行家で、寫眞よりはずつと味はひのあるよい寫生帖をもつて居られるので、それからもちやうど打つて附けのものを、大分出してもらひました。結局は單なる想像によつて描いたものは、ほんの一つか二つといふことになつて居るのであります。日本國中の何處かの土地に、斯ういつた人間生活の一つの樣式が、少なくともこゝ十年ほどの前までは、たしかにあつたといふだけは請け合ふことが出來るのです。それもたゞ一箇所の孤立の例では無く、遠くかけ離れためい／＼の郷土にも、それとよく似た事が色々有つて、今まで知らずに居たといふことが、追々に明らかになつて來るのであります。さういふ意外な一致に心づき、どうしてだらうかと思はずに居られぬのは、是から大きくなつて行く少年や少女であり、それを面白く又判りやすく説いて聽かせることが、彼等の指導者たちの樂しい役目だといふ時代は來なければなりません。今日いふ所の社會科教育が、新たに日本の風土に於て根づき成長する頃ともなれば、必ず是よりももつと詳しく美しい繪本が、後から／＼と出て來るにちがひありませんが、さういふ中でもなほこの一册だけは、ちやうど我々の歴史の最も大きく變化した、その境目に跨がつて居ります故に、いつまでも忘れられずに殘り留まるであらうと思ひます。

　　　　　　　　昭和二十三年三月

　

(413)　　　　　わさ植ゑの日

　

　國の端々から寄り集まつた人たちが、のんびりと我が故郷の思ひ出を、談り合ふやうな日の早く來るやうに、何か少しでも其話の種になるものを、播いて置かうといふのがこの本の趣意である。今まで自分の生まれた村だけの、をかしな習はしかと思つて包み隱さうとしたり、又は斯ういふことは日本國中、みんな同じの有りふれたものときめ込んで、口にも出さずに居たりしたことが色々ある。それが話をして居るうちに二つとも、さうで無かつたといふことが追々にわかつて來るのである。土地が變れば丸つきり一つといふ風俗はめつたに無いと共に、元が一つなのだから何處に往つても、大抵は似よつたことがきつと有る。つまりは永い月日と境遇のちがひが、少しづゝ生活樣式の上に働いて居るのである。それを互ひに心づくといふだけでも、同胞國民の親しみは加はらずには居ない。さうして又是からはどうなるかと、いふことも考へさせられるのである。

　人の話の面白さを味はふには、繪を見るのが一ばん早いのだが、斯ういつた寫眞は中々手に入らない。又集めて居ると切りが無いのである。わさ植ゑは初田植、土地によつてはサビラキとも、又サオリともサイケともいふ名があるが、この日をワサウヱと謂ふ區域が最も廣い。早稻をワセといふ言葉とは多分關係があり、暖い南の方から移つて來たゞけに、早いといふことに特に力を入れたものであらう。我邦多數の農村人にとつて、稻の栽培ほど樂しみな生産作業は無かつた。さうして其背後には、古い信仰が今もまだ流れて居る。春は櫻が咲き種おろしの用意が整ふと、苗代に注連を張り、水口に齋串《いぐし》を立てゝ、そこに家々の田の神が迎へられる。田の神の惠みは、專らその家の田産を豐かならしめるに在つて、恐らくは遠い祖先の靈であらうと想像せられる。その苗代の緑が漸う濃くなつて、愈々之を(414)廣い田に移す日が來ると、そこにこのワサウヱといふ、第一次の感謝祭は營まれたのである。それが感謝であつて祈願ではなかつたことは、この日の歌や賑はひから、又は用意せられる飲食の數々からでもわかる。祭の方式は地方によつて僅かづゝのちがひがあり、或家は神棚や床の間に、或は最も大きな竈《へつひ》を祭壇とし、又は臼とか箕とか枡といふやうな、重要な道具を皆參加させて、臼庭の眞中に於て祭る家もあるが、拜む當體は何處も同じことで、若苗の根の泥を洗ひ淨め、それを三把に分けたものを正面に置いて、それを他の祭の榊や御幣の如く、神靈の依りたまふものとしたことは一樣であつた。中國四國の可なり廣い地方にわたり、田の神をサンバイサンと呼んて居るもとは、是からではないかと私は思ふ。

　

　　　　　　　ゆひ仲間

　

　農業の中でも、田植は別して激しい勞働であるに拘らず、どこか祭禮のやうななつかしい思ひ出が殘り、若い人たちにはその日を待ちかねるやうな氣持さへあるのは、是も亦日本の村の生活の、美しい一つの特色と言つてよからう。

　いつの世に誰が始めたことゝも知れず、この日は勞働着の新しいのを卸して、笠も紅いたすきも皆鮮かな色のものを、惜しげも無く水田の泥によごし、さうして日頃はたゞ遠くから、顔を見かはすやうな人々が、けふばかりは入りまじり肩を竝べて共々に働く習はしになつて居た。飛騨の或舊い社の田植祭の式に、

　　　君が田に我が田の竝ぶうれしさよ

　　　わが田にかゝれ君が田の水

といふ田唄の傳はつて居るのも、もとは實際の田植に歌はれて居たものと思ふが、斯ういふ戀の歌は、なほ幾つと無(415)くそれから後にも生まれて居る。このせつは段々手不足になつたけれども、以前は夫婦親子三四人だけで、田を植ゑるといふことは例外で、それをカンナイ田などゝ謂つて、ちがつた仕事のやうに見て居た。大きな農家ならば分家子分の者が合力に來る。なみの家では互ひに申し合せて、五戸七戸が協同しつゝ順に植ゑて行くことにして居た。今でも小さな田に溢れるほども人が入つて、男は代《しろ》をならし苗を配り、それをせき立てるやうに早乙女が、せつせと植ゑてさがる光景は、時々はまだ目にもつくのである。話は手を休めるといつて嫌はれるが、そのかはりには朝晝夕方の田歌があつて、作業の調子を揃へ、又はずみを付けた。つまりはこの樂しい昂奮が疲れを忘れさせたのである。

　土地によつては田植組と稱して、親々の代から定まつた關係を續け、もしくは縁組が當然にその約束を結ぶ例もあるが、それでも大事なことだから、正月には集まつて其年の打合せをしたり、又は必ず來てくれる田人《たうど》を招いて一ぺんは御馳走をして置くといふ風もある。北は奧州の端から、南は沖繩の島々まで、一樣にこれをユヒと名づけて、少なくとも是が近世農村の常の慣行であつたことは、知らずにゐる人がまだあるかもしれぬ。ユヒは漢字に書けば團結の結、我々日本人の協力の方法であつた。田植には限らず、屋根葺きのユヒ、又は麥搗きや味噌造りのユヒもあり、髪を結ふにも風呂で背中を流すにも、ユヒにしようやなどゝ女たちは謂つて居る。以前は單なる勞務の交易で無く、自他のけぢめを撤した共同の努力が、ユヒの目的であつたことは、古くは上野（群馬縣）の古碑にも結の文字があり、現在も海ばたの網曳く濱に、由比といふ地名が數多く出來て居るのを見てもわかる。

　

　　　　　　　大足と水下駄

　

　段々と各地の話を聽いて見ると、農が日本では決して保守一方の生産技術でなかつたことが心付かれる。以前に山(416)の裾野の緩傾斜の、水を引くにも又落すにも都合の好い所ばかりを田に拓いて、それで入用の米が取れて居た間は、田植はむしろ悠長な、さつぱりとした作業だつたかと思ふのだが、人が多く町が大きくなり、もつと米をといふ聲が高くなると、今まで見棄てゝあつた沼の片岸、ヤヂやジタダミといふやうな濕地までも、田にして作らねば足りなくなつた。蛭に吸はれるなどの農民の苦しみも、急にその頃から増して來たのである。汽車で通つて見ても、女が腰までを泥水につかつて、田をうなふ姿が越後などでは見られた。旅人が闇夜に田の中に落ちこんで、朝出て見ると笠だけが白く、水の上に浮いて居たさうな、といふ類のほら話までが成長したのも、それからの事であつた。

　しかし實際はさういふヒドロ田を作る爲には、それ／”＼に農民自らの考案と用意とがあつて、さう古くからのもので無いだけに、各地思ひ／＼の興味ある變化を見せて居るのである。一つには水の量、泥の深さにもよることであらうが、ドギ（土木）と稱して長い木材を田の中に横たへ、足を踏み入れずにあるく算段をしたものもある。或は小さな苗舟に苗を載せ、又はやゝ大きな田舟に苅取つた稻を積んで、それに力を託して身を輕く押して行くのもある。

　全國に弘く知られてゐる大足《おほあし》といふ大きな履物も、その考案の一つであつた。多分は雪中の輪かんじきを手本にしたものであらうが、是にも繩を添へてそれを兩の手にあやつるものと、關東地方のやうにたゞ足首の巧者によつて、水を切つて自由にあるくものとがあることは、山に働く人たちのカンジキも同じである。富士を眞北に仰ぐ東海道の海沿ひは、古歌にしば／＼詠まれた浮島ヶ原であつた。こゝに川々の砂を吹上げて、天の橋立のやうな一筋の松原を出現させたのであるが、それも最初は安全でなかつたものか、別に愛鷹《あしたか》の山の裾を繞つて、足柄の方へ出た以前の街道の跡がある。さうしてこの新舊二つの道の中間が、今でも出水には田を繋いで置くといふ、須津《すど》の沼澤地帶であつた。此地方の開發がいつ始まつたかは知らぬが、爰には大小さま／”＼の水下駄の型が、殆と家毎の好み又は足癖に合せたかと、思ふほどにも數多く考へ出されて居る。

　たゞの路上の小さな下駄でさへも、之をはきこなすのは日本人の特技のやうに言はれてゐる。それを水田の泥の中(417)で安々と使つて、田植や草取りの細かな作業をするなどは、考へて見れば驚くべき農民の器用さであつて、しかもさう古くからの習熟ではなかつた。

　

　　　　　　　手杵の變遷

　

　晴れた夜の月に對して居ると、私などのやうな年を取つた者でも、あれは兎が餅を抱いて居るのださうなと教へられた、子供の頃の話を想ひ出さずには居ない。さうして旁にもし小さな兒がをれば、笑ひながらもう一度、それを受賣して見たいやうな氣がすることであらう。それ程にもあの月中のうす黒い影が、長い二つの耳をつんと立てた兎の姿に似て居るのである。

　中華でももう千何百年の昔から、玉兎藥を擣《つ》く秋また春、といつたやうな詩が生まれて居るが、我邦ではその藥が餅となつて居る故に、一段と私たちにはなつかしかつたのである。

　九州の北部、その他廣い區域に行はれる昔話の中に、兎と龜、又は蟇蛙と猿などがもやひ田を作り、そこから取入れた糯米をふかして、餅を搗いたげなといふ話がある。この杵はゆがんで居るからいかん、もつと眞直ぐなのを見つけて來やれと、一方を山へ杵伐り(418)に遣つて置いてから、あとでその曲つた杵で餅を搗き、一人で食べてしまはうとしたといふ、ずるい猿又は兎の話である。さういふ昔話の杵などは、すべてこの繪に描いてある樣な、木の兩端を削つて圓くした、一本棒の手杵であつた。

　村々の女たちが、今でも忘れずに續けて居る毎年の味噌つきのユヒなどには、斯ういふ手杵を使つて居るものが多い。餅や團子をこしらへるにも、母や祖母たちが一人で小體《こてい》に搗く場合には、この手杵を用ゐる方が便利だから、まだ方々の田舍に是が殘つて居る。以前は米を一晩水に浸けて置いて、柔かくしてからこの手杵で粉にすることを、ネバシヅキと謂つて居た。それを丸めたものが粢《しとぎ》といふもので、之を神樣にも先祖棚にも供へ、人も生のまゝで、又は煮たり燒いたりして食べて居た。コガシと稱して炒麥《いりむぎ》を搗き碎き、又は大豆の香ばしいキナコを作るにも、手杵の方が手輕でよかつたが、最初は籾から段々と白米を精《しら》げるにも、なほこの一本の杵を手に持つて、氣永に僅かづゝ搗いて居た時代があるのである。摺臼や石の挽臼、又は地面に掘込んだ地がら臼の類は、何れも改良であり新しい人の考案であつた。

　重い大きな大道臼に、馬の顔見たやうな横杵を使ふやうになつてから、白米も早く搗け、餅の味もうまくなつたが、もうそれは女たちの仕事では無くなつた。臼の改良が進み種類が多くなつても、まだ片端にこの手杵が殘つて居るやうな土地ならば、ユヒには限らず、古風な人生の考へ方はまだ消えずに居る。遠い南洋の山の奧に住む人たちには、長さ一丈もあるこの手杵を揃へて、夏の月夜にコンコロ／＼と、美しい臼唄を歌つて遊んで居る者も居るのである。

　

(419)　　　　　　　さばらひ行事

　

　舊暦六月の終りの日を以て、大祓の日と定められた趣旨は、本來は稻の成長の爲に、是が最も大切な時期であつたからで、別に此際に限つてめい／＼の罪穢れを、拂ひ淨める必要のあつたものとは思はれない。日本の固有信仰の著しい特徴は、神に愛せられる唯一つの條件として、身と心とを明るく曇り無く、家々村の内を清淨に保つことを努めて居た點に在つた。あらゆる災害は神の戒めと解し、一旦不幸の兆候が顯はれると、急いで過失を反省してその肅正に取掛つた故に、後には追々に害惡そのものを驅除するやうな形になり、別にマガ事のみを管理する神があつて、逐はるゝものゝ如く考へるやうにもなつたものかと思ふ。

　正月は神を迎へて祭をする時節であつて、こゝでも鳥追ひ猪追ひの類、その他一村の平和を害すべきおしやべりや蔭口、無益の小鍋立てや旅商人までが、豫め追ひ拂はれて居たのであるが、六月は殊に色々の目に見えた不安が、次々と田を作る人々をおびやかす故に、彼等はたゞ靜かなる謹愼のうちに、日を送つてのみは居られなくなつたのである。

　多くの農村に於ては、稻祈?とか陽氣祝ひとかいふ名を以て、まだ少しの災害の兆候も見えぬうちから、色々の祭を營む風習があり、それも目的は祓ひであつたかと思ふが、愈々現實の危險が見えはじめると、其行事は一段と熱烈に、又具體的にならざるを得なかつたのである。氣になることは色々とあつたらうが、最も惧れたのは水の不足と風の吹き過ぎ、それよりも更にこはいのは、害蟲の蔓延であつた。關西では享保十七年といふ年に、其爲に收穫は皆無、人が餓死するといふ苦い經驗を嘗めた地域が廣かつた。もちろん驅除法は此時から進み、殊に明治に入つては是を學(420)術として研究するやうにもなつたが、その效果が萬全でない限り、いつまでも我々の不安は絶えない。それで大昔以來のはらひ〔三字傍点〕の方法を、まだ無用とすることが出來なかつたのである。山口縣の各郡では、もとはこの六月の蟲送りをサバラヒと呼んで居た。サといふのは五月のサツキ、又は早苗だの早乙女だのゝサであつて、今の言葉でいへば稻栽培期の祓ひといふことである。

　是には藁で人形を作り、その人形に食物をもたせ、又は草の葉に害蟲の若干を包んだのを背負はせて、夜は松明に鉦太鼓を鳴らして、田の中の小路を村境まで送り出した。是に參加する子供の印象は深く、それの無い年は淋しかつたのみならず、年を取つた人々までがこの行事がすむと、言ひ知れぬ心の落ちつきを感じたのである。是が丸々無用とわかつても、私たちはなほ是からも續けて行かせたいやうにさへ思つて居る。

　

　　　　　　　人形祭

　

　昔の人形祭は思ひきつて素朴なものだつた。それが現在の雛の節供になるまでには、何十段とも知れない變遷を經て居るのだが、しかも其以前の各段階は、今もまだ全く消え滅びては居らず、捜せば色々の痕跡が、村人の生活の中に見出される。さばらひ又は實盛《さねもり》さんなどゝいふ蟲送りの人形もその一つであれば、紙で最も簡單な人の形を剪つて、身を撫でゝから川へ流すといふ六月晦日の大祓なども別の系統のものといふことは出來ない。さうして其中間には、こゝの繪で見るやうな、ほゝゑましい各地方の特色が幾つでも拾ひ上げられるのである。

　大體に村の手近な材料、藁とか篠竹とかいふ類のものを使つて、素人細工で作り上げた人形といふ點は同じでも、それにも早くから二つの傾向が現はれて居た。即ち一方は一つの場所にすゑて置く故に、たゞ形を大きく又奇拔にし(421)ようとして居たに反して、他の一方は諸處を持ちあるくので、追々とこまかな技巧を加へて、その動作を面白く見せることを心がけるやうになつた。日本の人形芝居の根源がこゝに在るといふことは、詳しく説明せぬとまだ認める人が少ないかも知らぬが、少なくとも日本を二つに分けて、西の村々の人形には移動式が多く、東北には巨大な作り付けのものがまだあつて、?々都會の旅人をびつくりさせるのだから、この方が一つ古いといふことまでは考へられる。

　この二つの樣式の境目と見てもよいのは、關東平野のやゝ北寄り、水戸市から分岐する水郡線の兩側などの、ちやうどこの大助《おほすけ》人形の立てられる地方であらう。これから南下して霞ヶ浦の湖岸一帶、利根川を渡つて香取印旛二郡方面まで來ると、村の人形は遠征する。

　　　鹿島かんどり戰に來い

　　　戰に負けたら喧嘩に來い

などゝ高い聲で唱へつゝ、竿のさきにこの人形を附けて、少年は村中を押しあるき、後には境に出て隣の部落の子供と威勢くらぺをして居る。それを鹿島人形といふのは古い名かも知れぬが、是に鎧兜を着せたり、二本の刀を佩かせたり、近世の技巧は段々に加はつて居る。

　ところが北の方へ進んで行くと、たゞむやみに大きな男女の像を造つて、それを村はづれや家の門口に、立たせて置くだけのものが多くなり、何か魔よけの番人のやうに見られるけれども、是等もやはり一日の式が終ると、村の境(422)に送り出して置いて來る。もとの起りが雙方一つであつて、共に稻作の最も重要な時期に、部内を清淨にして災害の根を絶たうとする、是も一種のサバラヒであつたことは、比較によつて少しづゝわかつて來るやうである。

　

　　　　　　　ねぶた流し

　

　一丈何尺もある大きな人形を、木竹で組立てゝ紙を貼り彩色を施し、それを飾つて置いて幾日も前から、辻々を曳いてあるくといふやうな、最も花々しい青森や弘前のネブタでも、其はやし詞の文句だけは、他の地方の小さな村里の七夕送りと、大よそ同じやうなものを今もまだ用ゐて居る。

　　　ねぶたは流れろ

　　　まめの実はとゞまれ

　斯ういつた僅かな唱へごとが殘つてゐる御蔭に、この古風な風俗が都會と共に、次第に成長して來たものだといふことがわかるのである。

　ネブタはネブタ流し、土地によつては又眠流しとも謂つてゐる。七月七日の早天に之を流して置くならば、一年中｜坐睡《ゐねぶり》が出ないとも、早く眼がさめるとも信ずる者がもとは多かつた。萬燈や挑燈に灯をともし、又は笹竹に色々の短册などを飾り立てゝ、それを海川に持つて出て流すといふ例もそちこちにあるが、最も素朴なのは合歡《ねむ》の木の小枝を手に取つて、身をこすり又眼をこすつてから、それを流れに投げ入れて、其ついでに水を浴びて來るのである。ネムは土地によつては又ネブタともいふ人が多い。その葉は日が暮れるとすぐに眠つてしまふので、是を睡魔の代表者の如く考へたらしく、豆の葉は又形がやゝ似て居て、是はマメといふから勤勉と解して、斯ういふまじなひの言葉まで(423)が生まれたのであらう。そろ／＼忙しくなる秋の取入れの季節に、睡りを忍ぶことの苦しさを經驗して居る人々が、言ひ始めたものであることは疑ひが無い。

　東北六縣を始めとし、關東の各地から北陸信州の弘い區域にかけて、同じ七日の朝に眠流しを行ふ村々は、指の數では足りないほど、多くの實例が擧げ得られる。遠く飛び離れた隱岐の島、又西端の對馬にも是があつた。東京の近くでは、伊豆大島の泉津《せんづ》の村にも、やはり同じ日の同じ行事がなほ續けられて居る。但し爰では合歡木をネムタとは謂はずに、子供たちは之をメンズリゴズリといふ名で呼んで居るのは、やはり之に伴なふ唱へごとの言葉からであつた。この日彼等は山に行つてこの木の枝を採つて來て、それを海の水に浸して目を撫でること三度、

　　　めんずり、ごずり

　　　しよ（潮）の花こすり

　　　目のしよの燒けぬよに

と唱へながら流し棄てた。即ち島では睡りを防ぐ代りに、先づ海の村に例の多いトラホームなどを、避けようとしたのであつた。

　七月七日の七夕の日は、織女牽牛の二つの星の話を知らぬ頃から、我々に取つては何か大事な節の日であつた。七度水をあび七度物を食べるといふ、少年に取つても深い思ひ出の日であつた。

　

　　　　　　　盆棚のさまざま

　

　初秋の月のまん丸にならうとする頃に、家々の先祖たちがうちつれ立つて、故郷の村に還つて來られるといふ考へ(424)方は、事によると佛教渡來以前からの我々の信仰だつたかも知れない。それを盂蘭盆といひ、ほとけ樣を迎へると謂ひ、又は棚經を讀んでもらつたりするのが普通になつた爲に、何だか中世から新たに始まつたことのやうに思はれて、神道の家などでは粗末にして居るが、斯ういふ三つか四つの小さな點を除いては、この日の行事には佛教では説明のできぬものばかり多い。第一に先祖の御靈が、毎年日を定めて戻つて來られるといふことからして、あの宗旨の教へとは一致して居らぬのである。

　盆の魂棚のこしらへ方は、土地によつて大分のちがひが有るが、それを詳しく尋ねて數多く比べて行くと、段々と正月の年棚と近いものだといふことがわかつて來る。暮の年越しにも魂祭をしたことは、中世なかばまでの京都の風習であり、今でも東北には其痕跡が、はつきりと殘つて居る。つまりは春と秋との初めに、年に二たび同じ事がくり返されて居たのであつて、たゞ雙方のちがひといへば、盆の精靈を正月にはミタマと謂ひ、盆花の桔梗や粟花のかはりに、こちらでは松や色々の青柴を立てるだけで、それを山や野に迎へに行く作法などには、まだ色々の似通うた點がある。かつて暦は文字に書いたものが無く、たゞ滿月の光をたよりに、年の境をきめて居た時代には、この類似は一段と近かつたことゝ思ふ。

　どうしてこの樣に盆だけが佛法くさくなつたか。其原因の一つは三界萬靈、即ち家の先祖の靈以外の亡魂が、夏と秋との境には特に出てあるくであらうと思つたこと、今一つは新たに世を去つた身うちの人たちへの哀慕の情が、世(425)と共に深く悲しく又痛々しくなつて、それを供養する方に力を傾けて來たからであらうと思ふ。幸福な家庭の十年も二十年も、誰も缺けずに長生をするやうな處では、盆も正月と同樣にめでたく樂しく、先祖の訪問を迎へて飲食を共にし、昔をしのび行く末を計畫するといふ、記念の日であることは初春も變りは無い。この繪に見るやうに老人と孫と、一しよに魂祭をするといふことはよい教育であり、同時に又一方の大いなる安心の種でもあつた。斯うして迎へられるならば、さうして瓜茄子の豐かに取れる季節に、ゆつくり還つて來てこの平和な家の容子を見ることが出來るならば、長い眠りもさう惡いものでは無いと、死んで行くことをさして苦にしなかつた人が、以前は必ず多かつたことゝ思はれる。小さな頃から毎年の初秋毎に、それを見馴れて當然のことのやうに、考へる習慣が出來て居たから、もとは二つの世界は今よりも近かつたのである。

　

　　　　　　　村と清水

　

　盆に還つて來る先祖樣には、以前は食物よりも水が第一のもてなしであつたらしい。たべものは色々珍しいものを考へ出して、成るだけ品數を多く上げようとしたが、是には日に三度の刻限といふものがある。朝から夜まで誰か一人附きゝつて、絶えず新鮮な飲料を取替へてすゝめるといふことは、それにもました心遣ひであつて、あの世のお客もさぞ悦ぶことゝ想像せられて居たのである。それ故に親類一門の者が、魂棚に參ることを水向けといび、瓜や茄子をこま／”＼と切り刻んで、それに洗ひ米《よね》をまじへて水に浮かせたものを、水の實とも水の子とも呼んで居るのである。今日の人たちの趣味ではなくなつたが、斯んな素朴な料理を愛して居た頃からの、古い作法がなほ守られて居るので、つまりは其頃からもう魂祭はあつたものと見てよい。

(426)　故郷の水の味のなつかしさといふことは、むかし旅をした人々の經驗であつたらうが、彼等は多分それを遠い代々の父母も、永く忘れずに居られるものと思つたのである。お茶や砂糖や香料によつてかき亂されてしまふまでは、水に對する味覺だけは昔の人の方が遙かに敏感であつたと思ふ。さうして又土地毎に泉ごとに、それ／”＼の風味の差と優劣があつて、至つて幼少の時から私たちはそれを味はひ分けることが出來たのかと思ふ。

　水の惠みを日本人のやうに、こまかに悟り得た民族も少なかつたのではあるまいか。水の最も好ましいのは冬は温かく、夏は氷のやうに冷たいことで、それを直接に泉の源頭に就いて掬ぶことが、一つの宴樂であつた證據は、神遊びの古歌にもある。

　　　大原やせが井の清水ひさごもて

　　　とりは啼くとも遊ぶ瀬を汲め

　東北ではスンヅといひ、關東北陸ではサウヅ・ショウヅといふのが、その忘れ難い清水のことであつた。以前の旅の路は折れ曲つても必ずその側を通り、人も能ふべくはその近くに家を建てゝ住まうとした。子孫が榮えて來ると、自然の流れだけでは足りなくなる。それで追々と工夫を重ねたのが、よその國には類の無い我々の給水史であつた。さうして國が古く土着が年久しいだけに、今に至つてもなほ新舊さま／”＼の水汲場の形態が、行くさき／”＼の村には見られるのであつた。大體に餘つた水を空しく流してはしまはず、溜めていつ來ても汲み得るやうに、少しづゝ手を加へてあるものがヰであつた。井戸をカハともいひイケともいふ地方は弘い。カハは天然の流れに就いて汲んだ名殘、イケは即ち水を活かして置くことであつた。泉を活き／＼といつも新しく保たうとして、我々の地下工事は年と共に發達した。水の文化は今も絶えず、村々を流れ進んで居る。

　

(427)　　　　　　　イタダキの風習

　

　水汲みは女の毎日の仕事であつた故に、その效果を擧げる爲の色々の考案には、女たちも多く參加して居たことゝ思ふ。タゴ即ち擔ひ桶の發明なども、今から考へて見ると小さくない改良の一つであつた。桶が以前のやうな檜の薄い板の曲げものだつた間は、底が張りにくいからさう大きなものは作れず、把手《とつて》が附かぬので棒に通して擔ふことも出來ず、手に持ち頭に載せては、一ぺんに多量の水を運ぶことが望まれなかつた。それが近世のやうに木の榑《くれ》を合せ、竹の輪を以て締めるやうになれば、桶はいくらでも大きくすることが出來るが、是も棒の兩端にツクといふ小さな凸起を附けて、棒をしなはせても荷繩の滑り落ちぬ工夫をしなければ、肩にこたへて重いものは運んで來られない。一つには家が多くなり共同の泉が遠くなつてからの窮策でもあらうが、ともかくも近世この二つの點の改良が完成して、始めて、女の物を頭に戴く辛勞が解かれたのである。

　昔は京都でも貧しい人の妻は、毎日々々水を戴くので、頭のてつぺんが禿になつて居たと、沙石集といふ本には書いてある。江戸期の始めの有名な女性、

　　　千代能がいたゞく桶の底拔けて

　　　水たまらねば月もやどらず

といふ歌を詠んで、忽ち悟道を開いたといふ尼さんでも、やはり斯うして日常の飲水を運んで居たのであつた。わづか百年餘り前の司馬江漢の西遊譚の中にも、今も廣島縣の或村で、朝々谷川へ水汲みに下りる女たちが、桶を頭にのせながら路々麻絲を績《う》んであるいて居るのを見たとある。この風習は世界的であり、是より他には液體をもちあるく(428)手段が無い國は多いのみならず、日本でもまだ伊豆の島々などに行けば見られるのだが、何か新しい方法が見つかつて毎日の必要が無くなれば忽ち忘れてしまつて、もうそんな事は考へられなくなるのである。京都の附近では小野や大原、瀬戸内海とか北陸海岸の行商人などが珍しがられ、何か人種でも異なるかのやうに思つて居る人さへあるが、是などはたゞ偶然に、古い一般の風習がそこだけに消えずに居たのであつて、それも追々に名ばかりはイタダキ、又はカネリ・カベリといひながら、實際はもう朸《あふこ》の棒を以て肩に擔ひ、またはリヤカアに載せて曳いてあるく者ばかりが、現在は多くならうとして居るのである。

　村の姿、といふよりも女の姿が、うつかりして居るうちに少しづゝ變つて來たかと思ふ。いたゞきは氣の毒な勞働に相違ないが、是の行はれる土地では、年をとるまで女がすらりとして居た。近頃は一體に前こゞみの仕事が多く、腰の曲つた人が村里にはふえて來たやうな氣がする。

　

　　　　　井戸と川戸

　

　水は水道の栓をひねると出て來るものと、思つて居るやうな都市の子どもに、昔はさうでなかつたことを説明するのは容易で無い。そんならどうして居たかといふ問に對しては、幾つもの答があるからである。

　町では車井戸、村に行くとハネツルベ、又は繩のさきに小さな桶を附けて、巧みに水をすくひ上げるフリツルベまで、同じ掘井戸にも色々の汲み方が有るだけで無く、今でもこの方法のどれ一つをも用ゐて居らぬ土地が、存外に日本には廣いのである。

　井戸にもオリヰといつて段々を降つて汲みに入るのがあり、山に横穴をあけて水を流し出す横井といふのがあるが、(429)まだ其外にも井戸といふ名は呼ばず、北陸地方などのやうにイケといふ地方もある。九州や沖繩ではカハといふのが井戸のことで、本ものゝ川の方は却つてカアラと謂つて區別して居る人さへある。以前久しい間堤を築いて水を貯へ、又は川の流れを飲料に供して居なかつたならば、斯ういふ言葉が殘り傳はるはずは無いのである。

　どこの民族でも、水の爲には皆苦勞をして居る。殊に日本人はきれいずきで、多量の水づかひを必要として居るのだが、幸ひなことには大小の泉が豐かであり、地面に程よい傾斜がある御蔭に、少しづゝの智慮才覺を以て、自在に清い流れを導き、汲みに通ふ女たちの難儀を輕くすることが出來た。村の姿の最もよその國とかはつて居るのは、筧で家々に谷の清水を喚び、又は簡單に里の路の兩側まで、川の流れを分けて來ることであつた。飲料には早朝の澄み切つた流れを汲み、洗ひ物にも次々の順序をきめて、下流に住む人の迷惑にならぬやうな、不文の約束が守られて居た。しかし人家の數が多くなれば、何としても濁りやすく、三尺流れるうちに水の神が清めて下さるとも言つて居たが、やはり流行病などの媒にはなりがちだつた。それと今一つは交通の必要から、次第に埋立てたり使はなくなつたものが多く、今ではこの畫に見るやうな山間の村でないと、昔の川戸の生活は知ることが難くなつた。

　水の手のよしあしが女の一生にとつて、大きな幸不幸の分れ目であつたことは、水罰《みづばち》といふ言葉のあるのを見ても(430)わかる。有るにまかせてあまり粗末な水づかひをすると、水罰があたつて水の不自由な家に縁づくことになると、村の娘たちは殆と信じて居た。それで井戸が近く、水屋を水が流れて居るやうな家に生まれても、やはりむだになる水は汲まぬのみか、年の夜は水の恩を送るといつて、一夜を起きて明かす習はしさへあつた。

　

　　　　　　　秋晴

　

　秋の田園風景はその頃の天氣都合によつて、毎年の印象が一樣で無いが、さういふ中でも風や俄雨が少なくて、仕事が豫定通りに手順よく運び、片づけ物は片づき、干し物は皆乾き、少しも氣が散らずに其日の用事に身を入れることが出來て、さて一ぷくと四邊をながめるやうな日が續けば、どんなに草臥れても秋ほど樂しい季節は無いのである。

　澄みきつた青い空、眞白な高い小さな雲、蜻蛉の羽のきらめき、野菊つは蕗のやうな何でも無い花までが、目にしむほど美しいのも斯ういふ日で、それを旅人たちも忘れずに居る故に、日本は好い邦だといふ場合には、いつもこの光景を胸にゑがく者が多いのである。

　村の平和と豐滿とを、何よりも自然に表示するものは、秋の色々の干しものであつた。それにも段々の歴史があるかと思ふが、中でも古いのは懸稻に次いで、吊し柿などがその一つであつたらしく、是は新年の缺くべからざる食物ともなつて居る。串に刺したのは大量を遠くへ運ぶためで、乃ち全國の端々まで柿無しには年が取れなかつたことを意味する。木練・木ざはしは改良品種であらうから、もとは斯うして繩で干すことが貯藏法であり、又おもな利用法でもあつたかと思ふ。

　人が看過してしまふやうな僅かな技巧でも、是が大昔以來の方式のまゝかと思ふとなつかしい。殊に砂糖といふも(431)のを知らなかつた小兒の生活を考へて見ると、是が彼等の幸福と没交渉でなかつたことはよく判る。現に私などは年を取るまで、あの吊し柿を一つづゝ、繩から取りはづす手つきをよく記憶し、又あの生乾しの柿の風味の、段々ちがつて行く順序もよくおぼえて居る。

　最初はさういふ心持も無かつたのか知らぬが、何だか我々にはこの軒先のつるし柿が、一種の宣言であるやうな感じがする。うちには子供が有る。もしくは子供のすきな老人が居る。又は正月には柿を繩からほどいて、大いに食ふのだといふことを表明して居るやうにも、さびしい旅人などには感じられたのである。

　又さういふ意味も全く無かつたとは言へない。たとへば玉蜀黍は至つて新しい干し物の一つだが、土佐の山村などではこれを軒先にかけずに、わざと崖の端の石垣の上に掛け竝べる。それが秋の日に美しく光るのを遠くの方から眺めて、あの家はよく働く、冬の構へは豐かだと、見て通る人が元は多かつたらしいのである。

　

　　　　　　　掛稻風景

　

　「ハデはつか」といふ短い諺が、岡山縣などには有る。稻を苅取つてハデに掛けて置く期間は、大よそ二十日くらゐがよいといふ意味もあり、同時に是が又百姓たちの一ばんうれしい時代だといふ心持も含まれてゐた。

　ハデは土地によつてハゼ、ハズ、もしくはハゾ、私たちは普通之をハサギと呼んで居る。實際またハサ木といふ土地が、今日では最も多いかも知れない。古い文學ではハデは又ハツ木とも書かれて居た。田圃の一方の端に建てるから端木だといふ説明もあるが、現在のところは田と田の中間に在るものが多く、ハサ即ち間の木といふのが、殊に當つて居るやうな氣がするのである。

(432)　嘗ては我邦でも、南方の島々に見られる樣に、穗だけを拔取るといふ收穫法があつたらしいが、稻には後熟の大切なことを考へると、この改良は必要であつて、古くは平安の京の始の頃に、すでにハサ木に掛けて乾せといふ勅令が出て居る。御蔭で日本の米はうまく、秋の風景は美しくなつたのみか、何の記録も無い農民の歴史にも、次々の生産躍進を跡づけることが出來るやうになつたのである。

　掛稻の方式は、全國名稱の共通にも拘らず、土地毎に色々の變化と考案とがあつて、少し氣をつけて見ると旅人にも、それの改まつて來た路筋がよく判る。木バサ、造りバサといふ二つの名が埼玉縣などにはあるが、木バサといふのは天然の樹の枝に稻の束を掛けるもので、此方がもちろん一つ前である。近畿地方の早く開けた古田には、まだ殘つてゐるやうだが、純然たる木バサのよく見られるのは、寶塚から有馬へ行く路などで、こゝでは榎などの老木の枝振りの面白いのが、その目的の爲に山田の崖の上に多く立つて居る。北陸三縣は廣々とした平地の水田地帶に、際限も無くこのハサ木の立つて居るのが特色であつた。是は下枝を拂ひ出來るだけ木を高くし、横に棒を渡して稻を架けるので、もとは山村の屋敷のまはりに、城壁のやうに掛けめぐらして居た風習を移したものだつたが、田圃の蔭になると役人がやかましいことを言つて、僅か四五十年のうちに皆伐らせてしまひ、がらんとした吹きさらしにしたのである。材料が有り手間さへ有るなら、五段七段の高い造りバサも出來ぬことは無いが、それには丸太の出し入れと貯藏、高いところに持つて行く鳶職のやうな仕事を覺えなければならぬ。それが面倒で東海道筋のやうに、たゞ一段の長い稻架を連ねて行くと、見張りや泥棒の用心に、わざと泥田の中央へもつて行つて立てることになる。さうしてあの黄金色の寶物が、秋の日に照り輝く美しさを、遠くから眺めて居る樂しみが薄くならざるを得ないのである。

　

(433)　　　　　　　鳰と藁鳰

　

　ニホも恐らくは日本でしか見られない冬の田園の風物の一つであらう。名前の起りが判らぬものだから、鳰などゝいふ漢字を當てる人もあるが、その鳥とは何の關係も無く、又土地によつてはニョウだのミョウだのと、少しづゝちがつた發音もして居る。さうして奧羽の北端から、南は鹿兒島縣まで、飛び／＼に同じ名稱が行はれて居るのである。

　單なる稻藁の貯藏法のやうに思つてゐる人が、今は多いかも知れぬが、本來は、はさ木に掛けて乾した新稻を、秋の祭がすむまで斯ういふ形にして田の中に、圍うて置かなければならなかつたので、最初は或はこれが田の神の、祭壇であつたかとさへ我々は考へてゐる。乃ち村では上代の生活樣式が、しば／＼無意識に保存せられて居た一例である。

　九州の中部ではコヅミ、それから北の方は山口・島根の二縣まで、トシャクといふのがこの所謂藁鳰のことである。現在は藁を主とし、なほその以外に葺萱でも薪でも、牛馬の草の積んだのでも、皆同じ名で呼んで居るが、コヅミはもと穗積、トシャクは稻積をしやれて字音で唱へたものなることは、土地の學者たちもすでに氣づいて居る。さうして段々と少なくはなつて行くが、まだ／＼稻の穗そのものを、斯うして積んで置く風は、方々にちやんと殘つて居る。その中でも殊に著しいのは、沖繩諸島のイネマヂン、文字では稻眞積と書くもので、これなどは一年中保存して籾藏の用を兼ねさせ、また今ある高倉といふものゝ起原ともなつて居る。近畿地方とその周圍の廣い區域で、ススキ・スズシまたはスズミといふのは、この稻積の祭壇の頂上に、立てゝある飾物の名から起つたものかと、私などは考へて居るのだが、その話は長くなるので爰では出來ない。

(434)　東北地方の稻作は遲く始まり、鳰を實用のものとしか考へなかつたので、折々は驚くやうな巨大なる藁ニホも造られるが、稻のニホは高さも定まり、又構造もやゝ丁寧で、底には必ず木の枠を据ゑて濕氣の上るのを防いだやうである。泥棒の虞などは無かつたにしても、斯んなことをすれば野鼠の害がたまるまいと思ふやうだが、それにはちやんと天然の番人があつた。秋もやゝ寒くなる頃から、この中に入つて眼を光らしてゐる者に、善良なる青大將がある。それで我々の先祖はこの蛇を、神の御使として尊敬したのである。どういふ祭り方があつたかは、もう百姓も忘れたらしいが、ともかくも稻鳰はもとは祭られて居た。今から二百年も前の京都の書物に、「穗を拾うてメウに參らする」といふ諺が出て居る。メウ即ちニホの神は豐かなる稻を下さる神、それへ落穗などを供へるのは、無用のことだといふ譬へごとである。

　

　　　　　　　藁細工

　

　ごむ靴ぢか足袋が手に入りにくゝなつて、祖父が少年に再び藁細工を教へはじめたといふ話を折々聽くが、大體に藁仕事はこの十年二十年のうちに、めつきりと技術が低下して來て居る。今さら下手になるといふ筈はないが、腕に覺えの有る老人の數が、一年増しに少なくなつて行くのみか、斯ういふものに念を入れることが、つまらぬ好みのやうに考へられる時代になつたのである。

　一つの變遷は色々の履物が普及して、女が藁草履なんかに興味をもたなくなつたことである。どこの田舍に行つても、之を作るのはもとは男の手わざであり、又しば／＼求愛の方式でもあつて、紅い小切れを編み込むといふやうな、心の籠つた作品も多かつた。若い男たちに限つたことでもあるまいが、知らぬ土地へ入つて行くと先づ足もとを見ら(435)れる。それで草鞋や雪沓の改良が、近世は殊に相次いで起つたのである。九州でネヂカケ、中國地方でサシゴメともモッセともいふなどは、足に合はせて藁を編み附けただけで、歸つて來ればほぐして棄てるから、沓の形はして居るが、はいて居る時より外には實物が無い。その他にも形を僅かづゝちがへて、雪沓ほど數多く、をかしい名前をもつたものは稀である。たとへばすぐり藁をシベともスベともいふのは古語であるが、東北では是をシンベと聽えるやうに發音し、さういふ名で呼ぶ沓類が幾つか有るのみか、更にそのシンベをやゝ變形して、サンベといふ沓もあれば、又ゴンベと呼ぶ沓もある。つまりは農民の藁の履物に對する興味は、今日よりも遙かに深かつたのである。

　繩や綱や俵莚の類の用途は、昔とても決して少なかつたのでは無い。是を新年の仕事始めの日に、男は必ず作ることになつて居て、舊家ではまだその慣例を守つて居る。たゞ是を大量に寄せ集めて、途法も無く遠方へ輸送するやうになつただけが新しいのである。現在はいはゆる藁工品の種類が少なくなり、それも器械を使ふので、久しく手に附いて居た技藝だけは消えて行かうとして居る。ニホに稻の神を祭つた信仰は過去のものとなつても、それから筋を引いた數々の清い器具、たとへば正月門松に附けるヤスノゴキや藁皿、神の供物や祝ひの食品を運ぶ爲に、缺くことの出來なかつた色々の藁苞の類は、古い感覺を新藁の香と共に、村の内外に漾はせて居たのだが、是は藁製の履物の流行に壓せられて、一足さきに消えて行つた。さういふ中でたつた一つ、今でもまだ殘つで居るのは正月の飾り物、ことに注連繩には百姓が力を入れて居る。稻の收穫と春を迎へる儀式とは、以前の暦では二箇月を隔てゝ居たのだが、兩者の間には重要な鏈鎖があつた。餅もその一つであるが、藁ニホの役目も大きいものであつた。「春」は必ずこの二つの路を通つて、農民の家を訪れたのである。

　

(436)　　　　　　　爐のまはり

　

　大きな農家では爐が二つ、一つは廣敷《ひろしき》にあつて若い衆や作男、たまには旅の人も寄つて來て火にあたつた。内の者は通例茶の間の爐を圍んで、主翁も必ずその横座に出て坐つたのである。燈油《ともしあぶら》の生産が普及するまでは、夜の明りと言へばこゝより他には無いから、爐端の生活は賑やかなものであつたと想像せられる。それに比べると現在は型ばかりで、それも追々と炭火に代らうとして居る。二つあつた爐も大抵は一つになつた。まだしも古い火床のなほ殘つて居るのが、せめて囘顧のよすがともなるのである。

　東北地方などの記録を讀んで見ると、主《あるじ》が用心の刀を脇に置いて、大きな胡坐をかいて夜なべを監督し、自分も手を遊ばせずに鐵砲の掃除をしたり、道具の手入れをして居たといふのも、さう遠い昔のことでは無かつた。それがいつの間にか、客に茶でも出さうといふ時で無いと、めつたに爐の傍へは寄ることもなくなつて居る。是が新文化といふものかも知れぬが、一つには火鉢でどこへでも温度が運べるやうになつたこと、今一つは本を讀み字を書くのに、十分な燈火が備はつて來た結果である。

　家で農民のしなければならぬ仕事といふものが、全體に量で殖え、種類では減少してゐるかと思ふ。同じ藁仕事でも蓆とか馬の沓とか、若い者の造るのは元のまゝでも、注連繩や神の苞《つと》といふ類の改まつた品々は、よほど小さな家で無いと、亭主が自ら手を下すやうなことはない。つまり爐端の用が段々に無くなつて來たのである。以前白紙の手に入らなかつた時代には、注連繩のシデも皆｜削掛《けづりかけ》であつた。それには家々の口傳と技術、又鋭利なる刀物があり、之を長く清々しく削り上げることは初春の悦びでもあれば、同時に身の力の試驗でもあつた。花木《はなぎ》の削り屑は一片も散(437)らさずに、集めて爐の火に燒かなければならぬ。さうせぬと田圃の草が取りきれぬ、などゝいふ俗信もあつた。

　正月あとさきの色々の行事には、一つとして爐端と縁の無いものは無かつたのである。注連繩も夜に入つて誰も來ぬ時刻に、戸をたてゝ爐の火の影で綯ふものとなつて居た。是にも極端に精進を忌みきらつて、何か傍になまぐさ物を置き、それを手に附けつゝ注連を造る風が筑前などにはあつた。雪の深い國々でなくとも、年の夜に太い大きな木を焚き始めて、春は我々の圍爐裏の火から、生まれるものゝやうに考へられて居た。燃料の不足は追々に年取火いけ木の思ひ出を消滅させた。今では姥一人が僅かな枯柴を折つて、爐を守るやうな家ばかりが多くなつて居る。

　

　　　　　　　薪用意

　

　節榾《せちほだ》又は年取火いけ木などゝいふ正月の巨大なる薪を、冬の始めから家々に用意するだけで無く、是を歳末の贈り物として、親しい間に遣り取りする風習は、田舍の端々にまだ殘つて居て、御年玉といふのはこの事だと、思つて居る人々も稀には有る。火に對する日本人の觀念は、古くは今よりも遙かに嚴肅なものであつたことが、幽かながらも斯うした方面から窺はれるのである。

　たとへば東京の市街地で、正月門松の根元を圓くかこふ立派な松まきなども、是を燃料だと思ふ者はもう少なく、或はたゞ有合せの薪を利用したやうに考へる人もあるが、それを眼に見たときの感覺のたのしさ心地よさだけは、無言のうちにもまだ前代を傳へて居るのみならず、形は色々にちがつても、松の薪を門松の支へにする風は、弘く全國に分布して居る。松を春の神の宿りとして門前に立てることも、或はそれ自身が亦、火になる木であつたからかとも考へられる。

(438)　年棚を一枚の板で張らずに、薪を一本ならべに竝べて造るといふ例は、關東各地の多くの舊家にもある。九州北部に於て幸木《さいはひぎ》、四國の西南一帶で十二｜節《ふし》などいふ正月の掛竿なども、氣を付けて見るとやはり燃料の木であつた。新年の火を清く明るく、又樂しいものにする爲に、我々の祖先はまづ其火の蕾ともいふべきものを、珍重して居たのであつた。古い文藝に年木《としき》樵《こ》ると詠じたのも、本來は火が餅よりも更に有力に、初春の儀式の中心を爲して居たからで、曾てはこの一句を耳にしただけでも、歌になるやうな美しい感動を、喚び起すに十分であつたものと思はれる。

　斯うして靜かに春を待つ家々の情景は、村の姿として外部には現はれて來ぬものが多い。殊に現代はあらゆる慣行が簡略になり、又思ひ／＼の趣味が採用せられるので、旅人が自分の經驗によつて、よその生活を想像する力は弱つて居る。しかし幸ひにまだ乾し物とか稻木とかのやうに、二三の適切なる目標のやうなものが殘つて居るのである。薪の場合でいふならば、百姓家の一方の壁に沿うて、ぎつしり積まれて居る燃料の配合からでも、大よそ其うちの冬から春への、年中行事が窺はれるのである。單にこの家は焚き物に不自由をしない、いかにも暖かさうだといふだけで無しに、常の日には粗末な雜木の枝を燃やしつゝ、ちやうど餅搗きとか粥の汁の日とかになると、太い火力の強い良い薪が、拔きも崩しもせずに取出せるやうに、日取りを見つもつて順序よく重ねてある。その心構へが一目見てもよくわかるのである。主婦の才能と苦心もこの中に籠つて居ることは明らかだが、家には又何千年とも知れぬ昔からの、火を大事にする傳統が、斯んな外形を以て脈々と傳はつて居るのである。

　

　　　　　　　霜月祭

　

　田の神は冬になると、山に登つて山の神となり、春は又里に降りて來て、田の神として農作を御守りなされるとい(439)ふのは、變つた言ひ傳へのやうだが、日本では全國に亙つて行はれて居る。さうして春は舊暦の二月又は三月に一度、秋の收穫が終ると又一度、日は七日九日十二日十六日等、土地によつてまち／＼だが、大抵は兩度とも同じ日に、同じやうな山の神祭を營んで居る。中央以東では秋が早いので、通例十月にこの第二囘の祭がある。暖い地方では以前の霜月、今は月送りに十二月にする者も多い。さうして雪國では春の祭を重んずるに反して、南へ行くはどこの初冬の方を大事にして居る。北九州は一般に霜月初丑の日に、田の神を田から迎へて餅を搗き、臼の上に箕を載せてその上でお祭りする。それで丑祭ともお丑樣とも謂つて居るが、鹿兒島縣まで行くと同じ日の祭を、やはり東北と同じに山の神と呼んで居る。

　書いたものには傳はらぬから、今では解釋もちがつて來て居ることゝ思ふが、是が獵人や木樵の信仰する神と、同じ神で無いことはほゞ確かである。つまり我々の農作を助けたまふ神は、その任務が終ると山に入つて、休息なされるものと信じられて居たので、多分はその爲にもとは山の口で祭り、從つて混同せられたものと私は思ふ。

　農業は昔から自然の制約が多く、大きな氣苦勞の種であつた。それを御任せ申して安心して居られたのは、よつぽど力強い又惠み深い神樣であつて、たゞの山神の兼務だつたとは思はれない。寧ろ一家の爲一國の爲に、最も大切な産業を保護したまふ神が、御用がすむと山に御還りなされる習はしをもつて居られるものと、以前の人々は考へて居たので、盆と正月とに迎へ祭る神靈が、山から降つて來られるといふ信仰と、本來は同一系統のものだつたのかも知れぬのである。

　霜月祭の祭式には、土地によつて色々の變化があるが、場處は屋敷の一隅の最も清い所に臨時に新藁のホコラを作つて、幣束を立て供物を上げるといふのも少なくない。近頃になつて石や木の常設の小宮を建て、稻荷だの地神様だのと謂つて拜む屋敷神にも、もとはたゞこの祭場として指定せられて居た靈地があるかと思ふ。山に入つて祭をする風が絶えた爲に、次第に信仰は變らうとして居るのである。しかし古風な土地に行くと、今でも山の中に藁の假屋を(440)造つて、祭の前夜には集まつて御籠りをして居る。さうして祭のあとにその小屋を燒いてしまふことは、東京四周などの道祖神祭も同じで、神を送るに臨んで大きな火を焚くのが、今でも強い感銘を若い人たちに與へて居るのである。

　

　　　　　　　煤男

　

　もとは師走の十三日が、一般に煤掃きの日であつたらしい。前代の武家記録に、例が幾らも見えて居るだけで無く、今でも全國いたる處、この日少なくとも神棚先祖棚の煤だけは、取つて置くといふ慣習が傳はつてゐる。それでこの日を煤取節供と呼ぶ土地も多く、信州北部などでは汚れ年とさへいつて居る。「年」は即ち年取りの意である。我々の考へからいふと少し早過ぎるのみか、十三日とは半端な日のやうに思はれるが、これを説明すれば昔の新年は正月十五日、その一月前から家の火を清めて、正月の用意に取りかゝるので、そのまた前日に舊い火に屬する煤を片附けてしまふのである。我邦の「一日」は、もとは日の出が中心で、今いふ前日の夕日の入りから始まつて居た。それで大三十日《おほみそか》の夕食が年越しになるのである。

　だからこの十二月の十三日を、今でも年季奉公人の出替りの日として居る土地が多い。俗に十三柴といつて、若い衆は午前中に山に入り、躑躅の柴を一荷伐つて來て、その午後には暇乞ひをして出て行くのである。それでこの日を泣き節供といび（甲州）、または戯れにこの午後こしらへる團子を、追出し團子といふところ（大和）も有るのである。近畿地方の商業地帶でも、この日は分家から本家へ、舊奉公人から主家へ、または弟子から師匠の處へ、羽織を着て禮に行く習はしがまだ殘つて居る。大阪などではこれを事始めといふが、それを丁寧に正月事始めといふ者も有れば、またはたゞ正月始めといふ地域も弘い。この日新年用の米を搗くので米搗き正月（淡路）、正月入用の色々の木を、こ(441)の日伐つて來るので正月迎へといふ地方もある（但馬）。

　しかし以前の儀式の中心は、やはり爐の火の更新であり、同時にまた家の火神の祭であつたらうと思ふ。煤掃きが終ると必ず御燈明をあげる。神棚と先祖棚とは主人が手づから、特にこのために用意した箒を以て掃除し、固い家ならばその煤も清い處へ持つて行つて置く。九州北部の島々では、今でもこの御煤下げの箒を、丸一年の間荒神樣の棚に飾つてある。栗とか椎とか茱萸の木とかの小枝を中に通し、藁を巧みに捻ぢ曲げて色々のめでたい物の形に似せ、それをエビガネだのトラ卷きだのと、變つた名で呼んで居るが、つまりは神の煤を取る箒までも粗末にせぬのである。

　中部地方は信濃川の流域から、遠く山形秋田の二縣にかけて、この日の箒を竿のまゝ、屋敷の前に立てゝその下に埃を一旦置く。この竿は左義長の火に燒き、または十五日の粥を煮る竈で焚くが、家によつてはこれにも新年の食物を供へ、或は新酒の口切りを、まづこの竿に注ぎかける風も元はあつた。本來は火の神の形代《かたしろ》であつたものが、のちに不明になつたと見えて、この箒を煤男、または煤はき男などゝ呼ぶ處も多い。土地によつてはこれをまた煤ボンデンともいふ。ボンデンは多分もとホデといつたのであらう。紀州の粉河などでも正月始めの藁箒を保存して置くと、ちやうど一月後の正月十三日のトンド括りの日に、

　　　トンドのホデくうだんせ

といつて、子供たちが貰つてまはつたといふことである。

　

　　　　　　　みたまの飯

　

　みたまの飯が歳の暮の魂祭であることは、中部以東の日本人には説明の必要もあるまいが、是が名をちがへまたは(442)形式をやゝ變へて、西の半分にも行はれて居るかどうかは、今はまだ確かに言ふことが出來ない。

　この慣習の特徴はいろ／＼有るが、中でも注意してよいのは、この飯を正月の十五日まで殘して、必ず家の跡取息子に食べさせるといふ土地のあること、乾して藏つて置いて四月種播きの種子とまぜて播く者、または六月朔日の氷餅と共に、炒つて食べる者などのあることである。もちろん何處でも皆さうするのではないが、斯ういふ行事は理由なしに始まるべきものでない。

　それからもう一つ、名は同じでもしきたりが少しづゝ異なつて居る。南秋田のやうに三角握飯を十二、それに一本づゝ折箸を插したのを、床の間や神棚の片端に供へるといふのが弘いかも知らぬが、同じ秋田縣でも由利郡のみたまのまゝなどは、笹の葉に包んだものを數多く繩につるして上げること、五月節供の「卷き」によく似て居て、たゞその形の三角な點のみが、南秋田郡などのと一致する。信州の北部から越後へかけては、折敷《をしき》に紙を布き白い飯を山に盛つて、箸だけは十二本、閏年には十三本立てるが、それも家例によつて六本もあり十五本もある。

　どうして斯ういふことをするかゞ、する人自身にも段々と判らなくならうとして居るが、今ならばまだ考へて見ることが出來る。ミタマは靈魂に敬語を添へたものだが、今でもこの語を家の先祖の意味に、用ゐて居る土地は九州の方にもある。十二月十三日の正月始めの日から、そのみたま棚にお燈明を上げ始めるといふことは、關東地方でも折々は聽くことである。その先祖棚を佛壇などゝ呼ぶまちがつた名稱が行はれてから、最近に死者のあつたいはゆるあらみたまの家でなくとも、この祭を正月から排除しようとし出したのである。除夜にこの飯を先祖樣に供へて後、佛壇を締め切つて正月何日かの間、そつとして置く家も出來たが、一方にはまた新年に入つてから、わざ／＼この祭をする慣習もまだ殘つて居る。つまり正月も盆と共に、もとはみたまに飯を上げる日だつたのである。

　暮の魂祭が東國にはなほ行ほれて居るといふことは、誰でも知つて居る徒然草の記事であるが、京都の方にも同じ祭をして居たことは、

(443)　　　たま祭る年の終りになりにけり

といふ和歌があつたのを見てもわかる。中世においても僅か百年か二百年の間に、古い民俗は消えまたは改まつて居たのであつた。

　

　　　　　　　年の餅

　

　東北の村里では、年取りは白米の御飯でするものと思つて居るに對して、中部以西では元旦の雜煮の餅で、年を迎へるやうにいふ人が多く、年の數だけ食ふべしなどゝ、力んで居る青年も稀でない。

　薩摩の甑島《こしきじま》などでは、年の餅は相應に大きな丸餅が一つ、是を年どんといふサンタクラウズのやうな人が、除夜の眞夜中に來て枕もとに置いて行く。言ふことを聽かぬ兒には、年どんが餅を持つて來ぬとも言つてきかされ、もとは親しい者を頼んで、年どんになつてその餅を持つて來てもらふ風も、あつたといふことである。

　是がミタマの飯の東日本だけにある理由ではないかと私は思ふ。即ち西の方では先祖の靈に向つても、正月には我々と同じに、鏡餅を供へることにして居るので、それで御靈《みたま》の飯といふものが、もう行はれないやうになつたらしいのである。

　飯と餅との最もはつきりとした差異は、考へて見れば今でもすぐに判る。飯は同じ時刻に上から下まで、殊に祝ひ日には家の全員が、序列を正しく神棚の有る廣間に居竝び、祝ひ肴の附いた一樣の臍に坐つて、所謂一つ鍋の物を食べ合ふのだが、餅の方は大部分、搗いた日には食べてしまはずに、今でも古風な家では各員に分配して、その自由なる消費に任せて居る。即ちおれの餅わたしの餅といふものが有るのである。モチイヒのモチといふ語源が、保存に堪(444)へるといふ意味のモツや、さては所持を意味するモツの動詞と、もと一つであつたことが考へられる。しやれて言ふならば個人所有權の始め、又は人格の承認と解してもよいのである。幸福な人たちは家の外からも、正月はこの餅を多くもらふ。分配の分け前を九州以南では、タマスともタマシとも謂つて居る。是が年玉のタマと同じいのみか、私は或は靈魂のタマと、同じ語でないかとさへ想像して居るのである。

　神と人とにその鏡餅を供する以外に、新年には是をまた人で無いものにも分配して居る。餅の乏しい今日としては珍しいが、東北地方には今でも馬の餅があり又べこ（牛）の餅がある。彼等は與へればすぐに食つてしまふが、臼とか鍋釜とか諸道具とかは、いつまでも食べずにそれを抱へて居る。めつたに入つて見る機會も無いが、農家の臺所では若ぜや女衆のみで無く、鍬鎌鉈の類までが皆きれいに整頓して、めい／＼正月の餅を持つて居るのを見るほど、なつかしい光景は他には少ない。正月も十九二十日の頃になると、男たちは鉈の餅を、女たちは苧桶《をぼけ》の餅を、その馴染の道具に代つて集つて食べてしまふ。それが又忘れ難い故郷の樂しみであつた。

　

　　　　　　　つむの鉢と喰積

　

　以前私などが年始の禮にあるきまはつて居た頃、東京人の玄關さきが、正月だけは實に變化に富む樣相を示して居た。故郷が皆ちがふのだから無理もないとは思つたが、さういふ中で殊に異樣に感じたのは、白木又は黒塗りの三方折敷の上に、婚禮の日しか見られぬやうな立派な長熨斗の鮑《あはび》が、きれいに紙に卷いて置いてある。さうして取次は居ないのだから、例の通り案内は乞はずに、是へ名札を置いて歸つて行く人が多かつた。是が江戸期前からの武家方の風だつたので、手掛け又は手掛け熨斗といふものだつたことは後になつて知つた。

(445)　しかし現在の農村において、北は宮城山形の二縣から越後佐渡の各地、西は北九州の島々にまで、正月に用意せられて居る手掛けは、是よりももつと複雜な、またよほど素朴な飾り物であつた。一言でいふと其臺は食物の色々、榧《かや》搗栗《かちぐり》とか串柿とかの集合であつて、その下には眞白な米が敷いてある。熨斗鮑も稀にはあるが、普通その代りをゴマメが勤める。土地によつては昆布を缺くべからざるものとし、越後などの手掛けには、切炭に水引をかけたのも出て來る。つまりはこの食器をなるだけ美々しく、又めでたく飾り立てようとしたことは、婚禮の島臺ともよく似て居るのである。

　年始の客人は上り込めば無論之を食べたらうが、正月には禮者は多く門口から歸つて行くから、後にはたゞ形式となつて、ちよつと手を掛け又扇子の端を是に觸れて、いたゞきましたと謂つて行く、それで手掛けといふ名が始まつたものらしい。家の中でも同じ臺が出來て居たが、是は手掛けに止まらず、まづ串柿あたりから少しづゝ賞玩する。白米もつまんで嚼む者があつたが、この方は少しづゝ紙の包み、おひねりとして神々にも持つて參ることにして居り、殘りは大抵十五日の粥に入れた。蓬莱といふ名稱も都會には出來て居るが、村には單純に之を年桶などゝいふ者が多く、小さい家では内外を一つの年桶でまに合せて居る。桶でない處では木鉢や曲げ物で、信濃川流域の山村では之をツムの盆、又はツムの鉢といひ、秋山の谷などは正月でなくても、珍しい客が來ると先づこの鉢を出し、「物つましやれ」と言つたといふから、ツムは即ち標準語の「摘まむ」であつた。

　　　ほつ／＼と喰積あらす夫婦かな　　　　　　　　嵐雪

　この喰積《くひつみ》は正月の重詰めのことだと、俳諧新辭典にはあるが、それは家内中又は外から來る友人と、同じ食物を分つて親しみを深くしようとした、昔の人の心持を忘れたからで、夫婦ばかりで外からの客も少なく、たゞ二人切りで手かけ盆を荒らすといふことが、この作者にはをかしかつたのである。

　

(446)　　　　　　　注連と飾り

　

　上代日本人の感覺の中で、山に對する愛着と信頼とのみは忘却が多く、體驗を新たにする折が少なく、年を追うて幽かになつて行く樣であるが、是は致し方の無いことだと私などは思つて居る。一望何里といふやうな山に縁の無い新田場が、到る處に開拓せられなかつたならば、到底今日の如き國土の繁榮は得られなかつたからで、是も亦一つの文化の代償と見るほかは無い。民族の悠久性に活きんと欲する者は、先づこの變遷した一隅に向つて、理解を深める必要がある。さうして正月は一つの機會であつて、古い祖先の情熱を以て、鑄出した型のやうなものが、爰にはまだ傳はつて居る。

　一例を擧げるならば初春の山の草、又は裏白ともいふ齒朶の葉の飾りである。是が鏡餅の下に敷かれ、年桶手掛盆の食物に添へられ、さては注連繩の眞中に結はへ付けられないと、今でもまだ私たちは、年が立ち歸つて來たといふ感じにはなりにくいのである。單なる永年の癖のやうなものだつたにしても、それにもなほ起りが無ければならなかつた。まして斯ういふ小さな暗示からでないと、入つて行けないやうな重大な問題が、この背後には横たはつて居るのである。

　注連繩又は尻くめ繩の由來なども、學者の説明は粗略なものであつた。これが繩張りから中の清淨を保證し、外から來る侵犯を塞ぎ止める趣旨だつたことは、シメといふ言葉一つからでも推測し得られようが、然らばその注連に東京では伊勢海老、橙などを括り付け、地方では又色々の食物の、蓬莱島臺に積み上げるやうなものを、齒朶や楪葉《ゆづりは》と共に飾り立てることを、嘉例として居る家が多いのは何故か。是と尋常年頭の客に對して、春の喜びを分たうとする(447)ツムの鉢などの作法と、何等かの脈絡があるのではないかどうか。

　注連飾りの樣式は變化を極めて居る。さういふ中でも輪飾りや牛蒡注連の類は、繩をまとめて形を面白くした跡がまだ見られるが、田舍の舊家には蓑組みなどゝ稱して、新藁を美しく揃へて青竹の下に垂れ、その竹に昆布串柿榧搗栗等々を、隙間もなく飾り立てたのである。之を大戸の入口でなく、内庭の正面や表の間のかゝりに下げる處もあつて、それなどは感じが注連繩からは遠く、寧ろ北九州の幸木《さいはひぎ》萬懸《よろづか》け、五島の島々でスェーワギだのシャハンドンといつて居るものに近い。門松や年木も同じやうに、山から迎へて來た神聖な木を中心として、是に人間の力を以て獲得した、あらゆる文化の幸福を結び付けようとしたのが、やがては又山野と村里、先祖の鎭まる處と子孫の活動する場所と、新舊二つのものゝ交通であつて、以前の正月は特に是がために、いひ知れぬ怡樂を我々に與へて居たのでは無からうか。

　

　　　　　　　初山入

　

　新年にはまだ色々の話柄が有るのだが、もうこれ一つで切上げることにしよう。三箇日の祝ひ日を中に置いて、前にも後にも山に入つて行く式があることは、何だか二重のやうに私たちにも感じられる。それで又一方を省かうとする傾きも見られるが、幸木や蓑注連の本意を考へると、是は都會の掛取りが、數時間後に年頭の禮に來たのにもよく似て居て、一方は年々の頼み事、一夜明けると今度はその悦びを述べに行くものであつたことが判つて來る。

　この新春早々の山入り行事は、山譽めとか若山とか初山踏みとか、土地によつてそれはさま／”＼の佳い名が有るのだが、之をヌサ掛けと謂ふ地域が最も廣く、西は山陰の島根縣の一部から、遠く日本海に沿うて山形秋田の二縣、或(448)はもつと北東の方にまで及んで居る。ヌサも漢字では幣の字を宛てるが、是と御幣などのシデといふ幣とは、日本語としては二つ全く異なつて居る。山入りのヌサ掛け又はノサ掛けにも、注連繩のやうな物を持つて行くので、注連がヌサなのだらうと速斷する人もありさうだが、是は實際は山の神への進物の、のしか水引のやうなものであつた。よい寫眞がまだ手に入らぬので、スケッチを以て説明することが出來ないが、このヌサ掛けの注連の古風なものは、形がよほど變つて居り、ざつと草鞋の乳のむやみに多いのだと思へばよいといふことである。通例はその乳のやうなものが左右各々六つ、閏年には十三にしたといふから、一年の月の數である。この穴にそれ／”＼切餅を挾んで持つて行き、山の樹の枝にそれを引掛ける前に又は後に、端の繩を手に把つて大きく振りまはす風も奧羽地方にはあつた。小兒の振りづんばいといふ石投げ遊びなども、是と無關係では無かつたらしい。さうすると十二個の切餅は遠く近く飛び、又はいつまでも注連の穴に留つて居るのもあつた。是で月々の作業の捗どり方、即ち山の神が何れの月の餅を、最も早く取つて行かれるかを、卜したもので無かつたかと私は想像して居る。鴉が此日に限つて馴々しく近より來り、宙にその餅をくはへて飛んだのも神秘であつた。それで此鳥を山の神の使と信じ切り、大きな聲を出して喚びよせるので、それで又この式を鴉呼びといふ土地も多く、しかもその喚び方が村々の思ひつきで、同じ郡内でも大字毎にちがつて居るのも面白い。

　ヌサは中央では布絹、白紙などを主にして居るので、切餅が幣物だらうといふことは考へにくいが、京都から遠くない攝丹播の山村で、この山入りの日をホナガ・フナガ、又はフナゴとも謂つて居るのも、この日山から取つて來る柴類のことでは無く、穗長即ち昨年の稻の穗の殊に見ごとなのを持つて入つて樹の枝に掛けたのが、名だけ殘つて作法は絶えたのかと思ふ。ヌサ掛けを續けて居る東北の農村でも、これを掛ける木の一枝ぐらゐは伐つて來て、それで福茶を沸かして飲むことにして居るが、それなどは進物のうつりのやうなもので、それを採る爲にわざ／＼行くのでは無かつたものらしい。

　

(449)　　　　　　　鉤曳神事

　

　これは江州湖南の山村から、伊賀一圓伊勢の北部にかけて、もとは部落毎にと言つてもよいほど、汎く行はれて居た初春の祭である。他にも有らうかと氣をつけて居るが、そつくり同じといふ例はまだ他府縣では聽かない。季節は舊正月の上旬から二月の始めまで、すなはち山の神が里に降つて、田の神と成りたまふといふ頃のことである。氏神社頭にはこの儀式の爲に、栽ゑ又は殘されたかと思ふ二つの神木が、程好い處に立つて居る。この日は家々から藁を持寄つて、大きな注連繩を造つてこの二本の老樹の間に張り、それへ七八尺の木の枝の鉤を引掛けて、歌に合せて村人一同がそれを曳くのが祭であつた。俚謠集その他二三の書に、この鉤曳音頭の詞が載つて居る。村によつてやゝ文句の差があり、それを集めて見たらきつと明らかになると思ふが、つまりは山に休らひたまふ神の、里への御出ましを促すのが目的で、早く降りて來て我村を豐かにして下されといふ言葉が必ず入つて居る。是が單なる山林の保護者を、さしたので無いことはよく判るのだが、外から見た者は、是をも山神の祭のやうに思つて居る。村によつては女性を此祭に參列せしめないものもあつた。祭の前夜の齋忌《ものいみ》の、もとは嚴重であつた名殘かと思はれる。

　鉤を祭の式に用ゐて居る例は多い。殊に神木の高い枝に、下から木の枝の鉤を投げ揚げて、願ひ事の成る成らぬを占問ふ習はしなどは、其木を神の木と認めなければせぬことであり、試みる前には必ず祈念が有るのだから、簡略ながらもやはり此系統の祭であらうが、これならば全國に弘く行き渡り、一方には石の鳥居の笠木の上に、小石を投げて見る行事にまで續いて居る。東北ではこの枝占を鉤掛けと謂つて、山路を通る者は誰でも之を見、又半分はその眞似をして見る。かつて同じ名が西國にもあつたことは、讃州小豆島の寒霞溪《かんかけい》が、もとは神掛けであつたのからも想像(450)せられる。

　鉤の重要さには二つの原因があつた。一つは前にも言つた圍爐裏の鉤、その二は田を耕す鍬の柄で、兩者は共に山中の多くの樹木の中から、枝の分れ方の意に適するものを伐つて來て、自然の強味を其まゝ利用したのであつた。山は人生に缺くことの出來ないこの二つの物を、賜はる場所だとして居たことが、多分祭と鉤との古い因縁であつたらう。大和の方へ來ると初春の山祭に、家から小型の鍬鋤の木製のを、家族の男の數だけこしらへて、神酒や餅と共に持つて詣る風もある。信仰行事も永い年月の間には、勿論ちとづゝは變化して居る。しかし互ひに話し合つて見れば、もとはどれくらゐ近いものであつたかゞ明らかになるのである。

　

　　　　　　　山人の好み

　

　越中桂と飛騨｜加須良《かずら》とは、僅かな谷川の流れを國境にして、二つ相對した山奧の小部落であつた。浮世の人の訪れて來ないことにかけては、先づ無類の僻村と言つてもよい。私の知友の中では、二十何年を間に置いて、たつた二人だけその地へ足を踏み入れ、還つて來てその大いなる感動を物語つた人が居る。しかも前には我々の社會と、殆と完全に近い隔絶が有るやうに傳へられたものが、二度目の寫眞で見るともう半分以上、平地の邑里と同じ風俗に化して居る。この見取の圖には省かれて居るが、十二三歳の、いはゆる洋服の女の兒も立ちまじつて居た。今度はもちろん戰後の大いなる國民生活に、入り加はつて居るにきまつて居る。

　しかしさういふ統一の姿の中に、何かまだ山人固有の生活が、殘り漾うて居ることは氣が付かずに居られない。二人の若者の腰のあたりに垂れて居る、四角な腰當などもその珍しいものゝ一つであつた。大抵は早い頃に自分で捕つ(451)た獣、又は父叔父から讓られたものもあるか知らぬが、とにかく是にはニク又は青シシと謂つて、今は禁獵になつて居る羚羊《くらしゝ》の毛皮をよく用ゐる。稀には狸などの最も毛竝のよいものを、伊達にして持つて居る者がある。山に入つて岩や木の根に腰をおろしたときに、是があつたら便利なことはよくわかるが、私らにはぶら／＼するのが氣になつて、有つてももう眞似て見ようといふ念は起らない。しかし以前は里の家々でも皆是を下げて居て、座蒲團なんかは考へない時代が有つたのである。

　かつて飛騨の小坂の御料林に入つて見たところ、日傭の頭の白髪の翁が、是を附けて居た紐の寸法の、まことに程合ひがよかつたのには、つく／”＼と感心したこともあつた。それから常に氣をつけて見るのに、みんなそれ／”＼に自分の好み、又は身のこなしに合せて、よいぐあひな所にぶら下げ、めつたに手を掛けたりなどはせぬやうにして居る。昭和のごく始め頃、私の住宅地の眞中へ青森縣の或町から出て來て、喫茶店を開いた三十台の婦人が、いつでも狐の毛皮のやゝ大ぶりな、この引敷《ひつしき》をぶら下げて居た。あゝ遣つて來たなといふやうな、樂しい氣持になつて私は眺めて居たが、それが最終のものでもう私は他でも見たことが無い。

　山をあてにして居た我々の生活は、早く改まつてしまはねばならなかつたのである。武士の向佩《むかばき》などは繪で見るばかり、ツラヌキは名ばかりで牛の皮をつかひ、それも地下足袋にかはつてしまつた。古い文化には山奧へ山奧へと、引込んでやがて消えるもの(452)が多かつたやうである。

　

　　　　　　　毛皮と生活

　

　野猪の大きいのを何でロウソクといふのかゞ、久しく私には判らなかつた。近畿周圍の山村に於て少し小ぶりの猪を五足物、四足物などゝいつて居るのを知つて、始めてそれが一枚の皮で沓が六足分、取れるほどの大きさといふ意味であることが明らかになつた。ヰノグツ（猪沓）といふ名のまだ殘つて居るのを見ると、もとはこの毛皮で縫つて居たのにちがひないが、自分などの知る限りでは、近畿周圍ではもうすべて牛の皮の沓になつて居た。足の甲のところに襞を取つて、紐で締めるから巾着沓、平たく無細工なので蛙沓又はワン沓、或は田沓だの地沓だのと、色々の名も出來て居るが、農民の間ではたゞクツといつて通用し、むしろ一方の西洋靴の方を、椅子靴などゝ呼んで區別して居たのである。

　牛の皮のなめし沓の利用せられた區域は、最初からさう廣くは無かつたらしいが、その背後には遠い昔の狩獵時代の、毛沓といふものが續いて居る。野猪は全部の皮をすべて沓に縫つたが、信州などの獵人は、主として羚羊《くらしゝ》の後肢の毛皮を使つて居た。秋田縣の阿仁のマタギの慣習では、羚羊の後肢は初矢の者のトロフィーであつた。その起りは此獣の後肢が、ちやうど一足の沓を縫ふに適したからでもあらうが、皮を剥ぐとすぐに我が足にあてゝ、蹄の方を爪先にして一定の縫ひ方があり、それを履いて居ることは若い者の一つの見えであつた。但しこの地方では之をタビといつて居るが、我々の足袋とはちがつて、此方はいはゆる踏皮《たうひ》、即ち一種の沓である。

　是から推して考へると、古く皮沓をツナヌキといつたのも、綱とは何の關係も無く、面貫《つらぬき》といふ方がもとであつた(453)らしい。即ち獵の功名を記念するために、獲物の顔の皮を沓にして居たことは、馬上の膝掛を向剥《むかばき》といひ、事實さういふ毛皮を用ゐて居たのと同じかと思はれる。斯ういふ荒々しい心理は、もう山奧の村からも消え去つて居るが、それでもまだ毛皮の好みといふものだけは、幽かながら殘つて居る。

　前年横黒線の或小さい停車場に汽車を待つ間、ちやうど前の田で田の草を取る青年の、すばらしい夏毛の鹿の皮を着て居るのを見た。その毛皮の寸法が實によく此男に合つて居て、肩は肩に腰は腰に、前肢が二の腕の半ばに屆いて鹿が笠を着て働いて居ると見てもよいやうであつた。幾つも捕つた鹿の中から、この一つを見つけるのには苦勞をしたことゝ思はれ、今ではもうたゞの装束をして居る東北の鹿踊なども、曾てはこの姿で出て踊つたことが、たしかに有つたらうと考へずには居られなかつた。

　

　　　　　　　毛ぼかひ毛祭

　

　越後では山に働く人の祭る神をサガミサマ、又はオサトサマと謂つて居るのが、我々の間では興味ある問題の一つに算へられた。或は山幸海幸のサチ、獵師をサツヲといふ言葉とも、聯絡のあるものでは無いかと考へられるのは、東北の各地に社地神《しやちがみ》などゝ書く神の祠が少なからぬのみならず、獣を捕る力とも名づくべきものを、シャチと謂つて居る土地が、今もまだ弘いからである。

　多くの山民の思想からいふと、其シャチは人に附き、又は武器や彈丸に附いて居るだけで無く、狩獵そのものを通して、獣から傳へられるやうにも見える。熊の肉をサチノミといふのは、專門のマタギの山言葉であり、又獲物の内臓の中には必ず串に刺して焙《あぶ》つて神に供へ、後を仲間だけで山中で食べてしまふものがある。その串にする樹の種類(454)とか立て方とか、之に伴なふ唱へごと等に、嚴重な作法があつて、首領のみがそれを知つて居た。もとより其中には、新たに修驗者などから傳授されたものもまじつて居るだらうが、各地の實例を數多く比べて見るうちには、どの部分が古來の要點であつたかゞ、段々と氣づかれる筈である。それが秘密のうちにいつと無く重要でなくなり、誰にも理解せられずに、消えてしまふことは考へて見ると惜しい。

　熊の毛祭の最も著明な方式は、此繪に見る樣に皮をそつくりと剥いで、もう一度逆さにそれを熊の身に着せることで、是だけは勢子までが見て居るからよく記憶せられて居る。我邦で人がこの世を去る場合に、着物を逆さに掛けることゝ關係が有ることは疑はれないが、どうしてさうするかは雙方ともにまだ不明である。斯うして獣の靈が滿足するやうな儀禮を盡せば、シャチは永く繋がれ、後の獲物は必ず豐かであるといふことを、言葉にも形にも現はすものが多いので、すぐにアイヌの熊祭などを思ひ合せ、種族の親近性までを説かうとする人もあつたが、幸ひなことには是が東北方面のみに限らず、遠く九州南部の山村にも隔絶してよく似たことが發見せられたのである。但しこの方面では熊は昔から少なく、野猪や鹿について、その毛ボカヒなるものをして居たのである。

　私たちの仲間で重きを置くことは、獵の成功した後の色々の昂奮の言葉、殊に毛ボカヒといふ古風な名稱であつた。ホカフは九州でも目に見えぬ精靈に對して、酒食の清いものを先づ分配することであつて、中央まで來るともう意味がやゝ轉じて居るが、もとは盆といふ先祖の祭なども、我邦の言葉ではやはりホカヒであつた。雪に埋もれた北地の(455)山の小屋で、今なほその古語が元の意味に於て、その自然の友の靈魂を慰めて居るのである。

　

　　　　　　　古夫知と少年

　

　僅かな小山の裾を取卷いた村々でも、もとは狩獵の樂しみを或程度までは味はふことが出來た。私が十三四の頃に、暫らく住んで居た關東東部の田舍家などは、屋敷の一側が臺畑の斜面になつて居て、松椎などの林に細い逕《こみち》をつけ、處々に少しの庭樹を栽ゑまじへてあつたので、秋は色々の思ひがけぬ鳥類の、遠くから遊びに來るのが見られた。それを少年たちはさま／”＼の方法で捕るのだが、數が少ないので彼等を脅かすに至らず、いぢめるといふよりも鳥と共に、遊んで居るといふ感じが深かつた。

　さういふ中でもとても捕れさうにも無い鳥と、何かといふとすぐに引掛かる鳥とがあつて、目白などは幾つでも籠に入れて、熟柿や燒薯を食はせて置くと、やがて馴れてよく囀つた。蒿雀《あをじ》はバッタラシ（婆たらし）といふ異名さへ有る位で、人を怖れないで近くまで來るが、中々つかまらない鳥であつた。斯ういふのに對して、このコンブチといふ罠が計畫せられるのである。私などの拵へてゐたのは、此繪に見るのよりはもう少し複雜な、又空想的な機巧であつた。躑躅の陰などの小さな平地を、青い木の枝を折つて來てすつかり圍つてしまひ、その一方口にこれに似たしかけをして置く。さうしてどんな食物がすきなのやら知らないから、米粒粟粒などの他に、紅い色々の樹の實を、小鳥の一歩毎に(456)落ちて居る位に撒いて置くのである。自分が鳥だつたらきつと入つて見たくなると思ふ位、きれいな小ぢんまりとした好い御座敷だつたのだが、樂しみは却つてこの支度のうちに在つて、うまく引掛つたといふ記憶は甚だ少ない。

　一千年前の和名鈔といふ辭書に、古夫知《こぷち》と有るのがこのコンブチだつたといふことを、知つたのはずつと大きくなつた後であつた。さうして是がコゴチ・クブテ・クミチだの、クビッチョだのと少しづゝ變化して、日本の如何なる隅つこにも行はれて居ることが、段々判つて來たのも愉快なことであつた。小鳥と私たちの交渉は以前はともかくも今よりは遙かに親しかつたのである。小鳥がその啼聲によつて、前生を語るといふ昔話は、日本に數が多く、殊に蒿雀などは、鳥の中の巫だとさへ言はれて居た。

　さうして彼等も亦、もとは鷹揚で且つ子供らしかつたのではないかと思はれる。こゝに出してある第二の装置は、九州で弘く毛掛けと謂つて居る古夫知の一種だが、繪で見ただけでも人間の計略はすぐにわかる。是にたま／＼でも引掛かる鵯《ひよどり》などが有るとすると、時來らば捕られてやらうといふ古來の約束が、まだ此方面では守られて居るものとも考へられる。此頃郊外の私の庭などへ來るやつには、さういふ氣の善い小鳥はもう一羽も居らぬやうである。

　

(457)　　　　　　　秋葉の常夜燈

　

　話も春の神と共に、もう段々と里の方へ歩んで來なければなるまい。濱名湖周邊の田舍をまはつて居て、すばらしく金のかゝつた、形のよい木の燈籠が、村の入口や辻の角に立つて居るのを、秋葉山の御燈明だと聽いたときには、同じ遠州の、近い處に在る御社のことだから、さうまで私は喫驚もしなかつた。しかしこの信仰行事は、意外に弘く廣まつて居るのである。どこまで是が及んで居るかは、諸國の人が集まつた席上の話題にして見たいものだが、少なくともこの名の小さい御社を拜んで居るだけならば、北は奧羽の端に近い村々にも例が有り、南は奄美大島一隅の世離れた部落でも、近年同じ名の御社の出來たのを私は見て居る。さうして目的はどれも是も、火災の不安を救濟せられんが爲であつた。

　大きな都會では、又ちがつた慣行も始まつて居るか知らぬが、秋葉講の組織には一つの特色があつて、それがやゝ隣組とも似て居た。講中は籤などで總代をきめて、毎年の參詣もして居るやうだが、それよりも大切なのはこの常夜燈の制度、即ち各戸が順番に毎日夕方になると、この木の燈籠へ火を灯しに行くのである。以前はその爲に丈夫な大きな火打箱があつて、毎朝早天に隣からまはして來る。それが當番のしるしであり、多くは忘れぬやうに上り端に置いたまゝにしてあつた。箱の中には燧金と燧石、ほくち〔三字傍点〕に附木、後々は無論燐寸にも變つたらう。燈油はめい／＼の家のを出す村もあつたか知らぬが、大抵は講の餞で買つて置いた小出しの油差を、箱と共に隣送りして居た。この聯絡は信仰以上に、力強い警戒の協同ともなつて居たやうである。

　奈良の有名な御社に詣つて見なくとも、燈籠は今や全國大小の御社の、缺くべからざる構成のやうになつて居る。(458)石で刻み上げた堂々たるものが列を成し、しかも常夜燈などゝ麗々と彫つてありながら、是に火の入つて居るのを見たことはめつたに無い。多分は日中にばかり社參をするのが、もう一般の風になつた爲に、それにも及ぶまいといふ考へが徹底して居るからであらう。大小の祭の宵の臨時の火ならば、篝を焚いた方がずつと印象が深い。是を毎晩のものとしたのは一つの變遷で、或は秋葉の信心などが、最初では無かつたかとも思ふ。火事が人間の力を超越したものであることは、昔の日本人もしみ／”＼と體驗して、之を家の喪と同じやうに、年忌をとむらふ習はしも元はあつた。隱れた世界に之を支配する力があるものと考へたのが、恐らくは愛宕や秋葉山の新しい信仰の起りで、それを天狗といふ山の靈と解したのにも、私には遠い根源が有るやうな氣がする。

　

　　　　　　　道祖と御山木

　

　道祖神の祭日は土地によつて區々で、或は舊暦の二月三月に、又は初冬の滿月の頃などに祭るものもある。是を正月の十五日としたのも、その變化の一つとしか思はれぬのだが、それが妙に新年の行事と結び付いて、どこ迄がこの神の信仰に基き、どこから先が初春の悦びを表現するものか、その境目がもう明瞭で無くなつて居る。原因は多分これ等の儀式の管理を、年の行かぬ者に委ねてしまつたからで、この人たちは學者とは正反對に、物の由來や系統を考へることが、極端に不得手だつたのである。だから名稱は偶然に古いものが殘つて居ても、中味はもう大いに變つて居るものと考へなければならず、從つて比較が大へんに必要になつて來るのである。

　私たちも一度は彼等の身になつて、すなほに古い興味を引繼ぐやうな氣持に、浸つて見たいものと思つて居る。正月にはあゝ美しいと觀るやうなものが、まだそちこちに保存せられて居るが、さういふ中でもこの甲州の御山木《おやまぎ》など(459)は、まぼろしの世界からの贈り物のやうに、忽然と子供の空想を豐富にして居た。大きくなつてからまでその樂しみが忘れ難く、陰に居て色々の世話を燒く者が、段々と之を此樣な大がゝりなものにしたのも、無理はないと私などには思へる。

　子供が元來は許されるなら、惡戯をしたくてたまらない者なのに、おまけに背後に居て笑ひながら、大いに激勵する人も居たらしいのである。甲州の道祖神祭は質《たち》が惡いといふ評判で、色々の取締り規約などが、若者組の中には昔から出來て居た。このスケッチの中には現はれて居ないが、御山木の竿には長い藁繩を結び付けて、去年の正月以後に慶び事のあつた家々の、圍爐裏の自在鉤に繋いで置くのが例で、中には其繩の二三町も屆くのが有つたといふことである。思つたほど祝儀をはずまぬか、又は日頃からよく思はれて居らぬ家では、飯時に此繩がぐら／＼と搖られて、困り切つたといふ話も殘つて居る。

　御山木は勿論山から迎へる神の依りましで、祭の行事の中心はそこに在り、從つて是を守る人々は、臨時の巫祝として威力があつたのであらう。しかし一方にはこの一本の木を立てゝ飾る代りに、めい／＼が其小さいのを手に執つて、神の祝福を傳へようとした地方も多く、是を持つて居る少年の言葉には、隨分と聽きぐるしい惡口雜言がまじつて居たといふ話も稀でない。祭がすんでしまふと其棒は清い土地に積み重ねて置き、又は火に燒くといふ例もあるのだが、處によつては是を道祖神の祠の前に納めた。それを悦んで神が受けたまふと考へてか、時々は又何かの願掛けの爲に、作つて持つて行く人も出來たやうである。

　

(460)　　　　　　　個人祈願

　

　東京近郊の村をあるいても、まだ折々は不思議な物を見かける。よいとか正しくないとかの批判は後にして、まづどうして斯ういふ事をするかゞ答へ得られたら、よほど我々の民衆理解が、進むであらうのにと思ふことが多いのである。村社といふ程のちやんとした御社の格子にも、熱情の籠つた黒髪の一束などゝ共に、時々は繭を二三十も絲に通して下げて置く人が有る。新しい竹の柄杓の底をわざ／＼拔いて、何十本と無く納めてある御堂もある。模倣即ち人も斯うするから、多分は是が本式なのだらうと、輕い心でさうして見た者も有らうが、其根柢にはやはり昔から、久しいこと是でよかつたのだから、效果の無いわけが無いといふ判斷が横たはつて居る。昔に對する私たちの信用は、それ程にも厚いものであつた。

　何かさういふ推測を導くやうな事實が、古い頃にも有つたのではないか、といふことが考へられる。山から御迎へ申す神の祭の式に、樹の枝や花や蔓を重要な飾り物として用ゐて居たと同じに、海の外から入つて來られた新たなる神々には、貝とか玉石とか美しい海の藻とかいふやうな物を、御目にかけるといふことが承認のしるしと考へられ、我々の信仰はこの外形の上からも、おのづから内と外との二つに分つことが出來たのでは無からうか。是はまだ假定ともいへない程の空な想像だが、初期の佛教があまりにも容易に、この國土に根を下したことゝ、是と其後に始めて出現なされた幾つかの大神の信仰とが、やゝ似た足取りを以て廣まつて居ることが、幾分かこの想像を扶けるのである。

　しかしさういふ議論めいたことは、村の繪話にはふさはしくない。爰にはたゞ斯ういふ事實も有つて、それが昨今(461)の思ひ付きでは無いといふことだけを、述べて記憶をして置いて貰へばよい。他にも多分類例の有ることだらうが、三河の日間賀《ひまか》島の地藏さんなどは、色々の形の貝殻を絲に貫いて、瓔珞のやうに身に纏うて居られる。さうしてよく見るとその貝にまじつて、ブリキの空罐なども綴られて居るのである。貝を装飾用とする風習は世界的だが、普通は穴をあけ緒に通し、又は自然の摩擦によつて、穴のあいた貝や石なども珍重せられた。平田派の諸先生が大騷ぎをした、石笛などゝいふのも其類と見てよい。是に對して一方の海に遠い村里の、わざ／＼杓や土器の底に穴をあけて上げる風は、いつ頃からかは知らぬがやゝ無理な類推であつた。ぜひ願ひ事の通りますやうにの意味だなどゝいふのは、判じもの同然の解説であるが、その爲に又特に聾の願掛けとか、或は岡山の乳神さんのやうな、風俗の偏りともなつて居るのである。

　

　　　　　　　沓掛と杓奉納

　

　必ず古い世のまゝのものが、村の姿のうちに傳はつて居ると、きめてかゝるのは無論誤りである。永い歳月の間には一般の思ひちがへ、殊に前にあるく者の魯かしい解釋に、たゞ何と無く引かれて行くといふことも有り得る。人が久しくさうして居たのならば、わけは判らぬけれどもこれでよいのだらうといふほどに、昔に對しての我々の信用は篤かつたのである。それからもう一つは出來るだけ衆人と共に、みんなとお揃ひのことをして行きたいといふ考へ、それが個人祈願のこれだけ盛んになつた今日でも、なほ續いて居るといふのはなつかしいことでもある。

　淺草觀音の仁王門の前には、つい近頃まで巨大なる草鞋が、何足となく下げてあつて、その理由は寺の僧たちも説明し得なかつた。或はかういふ風習がすでに關東一帶に行はれて居て、たゞ爰だけは仁王さまである故に、特にあの(462)樣な七八尺もあるものを、半ばゝ江戸人の洒落氣から、上げ始めたものとも考へられて居るか知らぬが、田舍の方ではまだ眞劔な心持で、是を疫病除けなどの村境の道切りの注連繩に、ぶら下げて居る處が多いのである。四國の西南隅から南九州の島々にかけて、毎年一度の定まつた日に、すてきに大きな草鞋を片足だけ作つて、沖へ流すといふ慣行を、今でも續けて居るらしい村がそちこちに有る。村にはこんな履物の入用な者が居る。うつかり近よるとひどい目に遭ふぞと、外から來る敵を威嚇するためなどゝ、一種の策略の如く思つて居る人もあるが、是とても本來は信仰であつて、門に金剛力士の怪偉なる木像を置く方が、却つて新しい擴張だつたかも知れぬのである。

　しかもこれたゞ一つの場合から推して、いはゆる沓掛信仰の根源をき

めてしまふことは出來ない。他にも此繪に見るやうな常の草鞋を、祠の隱れるまで掛け連ねる例があり、又は山の神の祭にそれをたゞ片足だけ上げて、山の神は御足が一本だからと謂つて居たり、又はわざ／＼馬の沓を謹製して、それを路傍の靈木の枝に掛けたりして居るのを見ると、もとは寧ろ行旅の具として、遠くより來る神をもてなす方式の一つだつたのが、後々それを境の守護神だけに限るやうになつて、斯う解釋を變へたとも見られる。

　杓子を心願のしるしに納めて行くといふ御社も現在は大分多くなつて居る。それを私などは本來は瓢であり、たましひの入れ物を神に委ねる意味かと考へて見たこともあつたが、斯ういふことはまだ容易には斷定が出來ない。少しも御互ひが知らずに居る事實が、なほ是からも現はれて來さうだからである。神々の恩澤はしぱ／＼清い泉によつて流露し、柄杓は杓子に比べると又一段とその水に縁が深い。何かこの間に新しい暗示が有るかと思ふが、今はまだ多(463)くの言ひ傳へを、殘念ながら私は聽いて居らぬ。

　

　　　　　　　足手荒神

　

　如何なる小さな者の身のうちの患ひ惱みでも、隈無く知ろしめし救ひたまふべしといふのが、かつては私たちの氏の神、ところの神に對する深い信頼であつて、それを事新しく述べ立てゝ、助けを願ふといふやうな方式は、もとは日本には備はつて居なかつた。現在の神信心のさま／”＼の作法と比べ合せると、そこには餘りにも顯著なる古今の差が認められる。淫祠邪神といふやうな輕々しい名稱が、採用せられたのも其爲かは知らぬが、この境目は決して簡單には立てられない。同じ神さまでも土地により、又は詣る人の多少によつて、祈願の掛け方がもう違つて居るのである。是には何としても今日のやうに改まつて來た、原由を突き留めて見なければならぬ。

　何か他の多くの人と共通でない苦しみだけは、特に訴へなければならぬと考へ出したことが、この原因の一つだつたかとも思ふ。手足や乳房に痛みのある者が、木や?細工で其形をこしらへて、持つて來て納める風習などは、加特力の大きな寺院などにもよく見られる。同じ一つの神にも祭場の異なるに伴なうて、奇瑞靈驗の種類がちがふやうに、考へる者が今でも少なしとしない。まして我邦の神々には或程度の分業が有り、人はそれを聽き傳へて遠くからも信心の歩みを運んで居たのである。その同信の者が多ければ多いほど、何とかして早く自分の望みを受入れていたゞきたいと、目に立つ方法を案じ出すのも自然である。

　津輕地方の繪馬などは、馬の繪を上げるものが少なく、大抵は當人の目下苦しみ愁ひて居ることを繪にして居た。男鹿《をが》の本山の門前の神には、この繪で見るやうな足と手の型が無數に上げてあつた。最初は多分是は誰のかと、神が(464)御注意をなされるやうにといふ趣意だつたらうが、その效果が一たび傳へられると、我も／＼と同じ事をするので、しまひにはたゞ神�ｺのあまりなる專門化を、世上に表白する結果しか得られなかつたのである。斯ういふ信仰は日本に多いが、大抵は程無く衰へて、愈々神の道の推移を複雜にして居る。

　ところが一方には衆人と共に、人が多數を以て奉仕することを、大きな力とする信仰がまだ幸ひに殘つて居る。たとへば足手の木の型を納める目的が不明になり、同じ惱みを持つて居ない人まで、何かは知らず多勢がさうするからと、たゞ其方式によつて恭敬を表する者が、いつと無く納めものを變へるのであつた。佐賀縣三瀬村、東京都久我山などで、木槌を奉納するなども誤りのもとはほゞ判る。こゝへは足を作つて上げて居たのであらう。杓子なども或は手の形だつたかも知れない。

　

　　　　　　　祭禮の記念

　

　武藏府中の六所樣、大國魂神社の大祭には、この近所の農家の人たちもよくお參りをする。さうして今でも皆この繪に見えるやうな鴉を描いた團扇を、買ひ求めて來るやうである。御社の方では近世の記録類の整頓がよく行き屆き、之を研究した人も段々有るけれども、斯ういふ單純な信心者を透して、我々の受ける印象には又別な味はひがある。

(465)それで神道の成長といふことを考へて見た序に、少し季節は早いが、今度は一つその話をして置かう。

　伊勢の御田植の御田扇などゝ、同じ系統のものとまではいふことが出來るが、今ある鴉團扇の始まりはさう古いものではあるまい。江戸の手工業と問屋組織とが手傳はなかつたら、とてもこれだけの數を農村に頒つことは出來ぬからである。しかも他の一方から考へて、新たにこの樣な風習を設けたところで、すぐに附いて來るやうな民衆では無いとすると、何かこの一つ前の忘れ難いものが、隱れたる連鎖として働いて居たのである。

　祭のいろ／＼の飾り物、人形とか花笠とか、又は臨時に調へた祭の用具などを、仲よく少しづゝ奉仕者の間に分配して、保存して居る習はしは國の端々にも見られる。祭が有名になり遠くから見物が集まるやうな處では、この分配がもつとも亂暴なものになつて、たとへば飛騨の船津の「かますたくり」などのやうに、群衆が飛びかゝつて引きちぎり、僅かな切れ端まで爭奪するやうなものも多い。この府中の御社などでも、一度はさういふ段階を通つて來て、それでも追付かなくなつて終ふと、この小さな模型を買つて還つて、記念にするやうになつたのでは無からうか。ともかくも是が單なる慰みの宮笥《みやげ》では無くて、稻田に蟲が附いたときに、急いでこの團扇を以て煽げば退散すると信ずるまでに、本社の祭の式の效果靈驗を、之によつて持ち運んだつもりになつて居るのである。

　祭の見物人といふものゝ實質が、以前は今と全くちがつて居たのである。たとへ神社の方では勘定に入れて居らずとも、祭の場に列して群の昂奮に參加した者は、誰も彼も是を自分たちの祭のやうに、感ずることが出來たのである。(466)無事に其祭がすんだといふ安堵、又來る一年の間、神樣との舊い約束が更新したといふ喜びは、彼等までが之を分つて居た。從つてその記念の團扇などを大戸の口に掲げて置くのも、結果は護符と同じだつたらうが、護符とは又ちがつた意味であつた。是を東北地方のやうに神棚の列に貼つて置くことになつて、多くの神の御札の性質がやゝちがつて來た。後には參詣もせず小さな祭にも參列せずに、たゞ貰ひ受けて拜んで居るといふやうな、ちがつた信仰も生まれて來て、今日の信仰は又一つの曲折を重ねて居る。

　

　　　　　　　餅撒き

　

　新横濱市の市内になつて居る或農村から、屋普請の祝ひの餅だと謂つて、薄い反りくりかへつた煎餅の生なものゝ樣なのを貰つたことがある。いつ頃から斯んな形になつたかと尋ねて見ると、それはつい近年、この棟上げの餅が頭にあたつて、大怪我をした小兒があつたので、村で申し合せてこの形の餅にきめたといふ話であつた。つまり以前は怖ろしいやうな固い大きい圓餅を投げて居たので、考へて見るとその方が一層の不思議であつた。

　どうして又餅の如くめでたい大切な食物を、幾ら拾ふ人が有るからとても、土の上に撒き散らすことになつたのか。少なくともこれが國の初めからの、慣行のまゝで無かつたことは推定してよいのではあるまいか。最初は多分この日の祭の供物を、居合はす人々の總員に分配して、とも／”＼に食べてもらふのが本意であつたのが、後々參加者の數が増して來て、かうでもしないと行き渡らせることが、出來なくなつたものかと思はれる。

　以前の祭には、一般に參列する者が多く、又それを信仰の大きな力とも解して居たやうだが、その中でも建築は殊に衆人の意思と希望とが、集まれば集まるほど鞏固になるものと言つたやうな感じが、今でもまだ幽かには殘つて居(467)る。そこで屋移粥といふお粥だけは、少しづゝ重箱に入れて隣近所や親類に配り、また隅つこ粥と東北でいふものなどは、本來は四隅の柱の根に注ぎかけるのが作法だつたが、後には兩親の揃つた男女　　　各々二人の子供に、柱を代表して食べてもらつたのみならず、更に來て居る手傳ひの衆にも、一箸づゝ啜つてもらふといふ土地が有るのである。

　棟上げの日にはグシ餅などゝ稱して、棟に餅を供へる風は全國的であるが、その餅は多くは粢《しとぎ》、即ち米の粉を水で固めたものであつた。是だとほろ／＼して當つても碎けるからよいのだが、近世の餅は念入りに捏ねてあるから、少し乾いて來ると不慮の怪我人さへ出來ることがあつたのである。さうしようと思つて始めた氣遣ひは萬々無いのだが、何分風習は端から僅かづゝ、何の心も無しに變へられて來て、しまひには愛宕山の土器のやうになつたのである。

　神社の祭典にも、わざ／＼群集に向つて餅を撒く例が、まだ二三の地方には保存せられて居る。是も人寄せが決して目的では無くて、もとは寧ろ餘りに多く御參りの人が來るので、斯うでもしなければいはゆる直會《なほらひ》の趣旨を、徹底することが出來ぬと思つたからであらう。東京その他の名有る御社では、御供《ごくう》と稱して紙に包んだ粉の菓子を、正式參拜の人に持たせて還す風習もあつて、是も本來の趣旨は明らかに一つだが、もう今日では之を戴いて行く多勢の間に、最も重要なる信仰の協同といふことが、意識せられては居らぬやうになつて居る。

　

　　　　　　　卯月八日

　

　東京周圍の村里などでは、昔はさしも重要であつた卯月八日の名殘が、もう寺々の甘茶もらひにしか見られなくなつた。近年この日を以て、母を思ふ日としようとする計畫もあつたやうに、童形の釋迦といふことは、女子供にも親しみの深いものが有るが、今一つの力としては甘《あま》いといふこと、是が多くのあどけない信者を引付けて居たのである。(468)五十年ほど前の風俗畫報に、鮮齋永濯の面白い繪が出て居た。それと比べて見ても又風俗の變化が著しい。結局この由來は判らなくなつてしまふのでは無からうか。

　私などの少年の日には、この花御堂の屋根を葺く花は、あの頃普及し始めた紫雲英《げんげさう》の花ときまつて居た。その爲かどうかは知らぬが、今でも紫雲英をハナと呼ぶ土地は多い。しかし民家の軒毎に高く掲げたのは山躑躅が主であつて、是を天道花とも花の塔とも謂つて居る。木曾をあるいて見ると門口の柱に、つゝじと山吹とをまじへて結はへ附けて居た。秋田の八郎湖畔の村々には、同じ頃山吹の花を軒に挿す風習ももとは有つた。私の郷里の方でも天道花の中に、きまつて石楠《しやくなげ》の花を加へて立てるといふ風習も強く行はれて居た。

　是等の花が皆山から採つて來るものばかりであつたことを考へると、卯月八日を又花折節供と稱して、この日は山に登るものとして居た古來の行事が、之と關係の有るものであつたことは疑ひが無い。佛者は出來る限り之を自家の信仰に、引寄せようとして居たけれども、あの有名な髪下げ蟲を成敗ぞするの歌を始めとして、お釋迦の誕生日では説明し得ないことが色々ある。第一に天竺から日本の暦に引直して、どうすれば四月八日といふ日が割出せたかといふことが、クリスマスも同樣に甚だ心もとないのである。やはり我々にとつては何よりも大切なものが、此日に生まれ出るといふ言ひ傳へが前からあつて、それなら佛祖も同じ日でなければならぬと、いつた樣な推論があつたのでは無いかと思ふ。我々の暦では山々の花の咲き榮える時が、同時に又苗代の仕事の始まる季節でもあつた。山に休養して居た尊い神靈の、愈々人間の生産に協力する時として、本來は之をトシといふものゝ始めと算へて居たのでは無いか。今でも山を背後にした諸國の舊社で、卯月八日を大祭の日として居るものが存外に數多いのである。

　

(469)　　　　　　　村のばん木

　

　もとはこの繪に見るやうな、いつの代からとも知れぬ厚い木の板であつたものが、時々は鐵製のかね板とさし替へられて、いはゆる半鐘への移行過程を示して居る。村に學校や小工場の絶えざるどよめきが先づ起り、それから汽車電車の轟き過ぐる時代が來て、ちつとやそつとの物音では耳をそばだてることも出來なくなつたが、かつてはこのやうな木の板に、しかも手を掛けて打ち鳴らしても、間拍子一つで十分に、警戒の役目を果し得た社會があつたのである。

　小さな都會の湯屋などでも、竹法螺を吹いて風呂のわいてゐるのを知らせてゐたことは、まだ記憶する人が多いであらう。飴屋が手でまはしてあるいた竹の筒のぎい／＼なども、實に思ひ切つて調子の低いものであつた。しかも人間の作り出した聲であるために、風や川音のやうな雄大な天然の響きの中からでも、なほ我々はこれだけに心を留めることが出來たのである。ところがさういふ聲が雜然と競ひ起つて、互ひに少しでも早く知られようとするやうになると、却つて路上の物音は紛亂した。さうして多くの大切な言葉までが、それに伴なうて聽き流され、從つて又むだ口といふものが多くなつて來たのである。

　律氣な實着な生活を送る人々に取つては、物を言ふことは可なりな勞苦であつた。それで定まつた誤解の虞のない言葉だけなりとも、成るべくは合圖(470)を以て間に合せようとしたのが板木《ばんき》や竹法螺などの始めかと思つてゐる。もとより一ぺんに多くの人、又遠くの人にまで語るといふ目的もあつたらうが、村の住民は大聲であり、且つ「少し話がある」といふ類の内證話が少なかつた。愛媛縣の或山村には、谷を隔てゝ話をする場所がきまつてゐたといひ、實際またさういふ打合せが有るのかと思ふやうな、右と左の高い話聲の中を、通つたことも私は折々ある。他の人たちにも聽かせで置くといふことが、村の會話の豫期する所であつた。

　話が込入つてをれば、小高い處に登つて、口の達者な者に觸れさせる。話が單純で例の通りならば、鐘でも板木でも敲くといふのが、親代々と言つてよい約束だつたかと思ふ。現在は必要上、この合圖の種類も數多く、晝だお茶だといふだけには止まらぬが、それでも言葉の代理である以上は、やはりその一つ／＼に情愛があり、その感動は聽く者にも傳はつてゐるはずである。單なる街頭の物音と、ちがふ點もこゝにある。古い時代に言ひ始めたことださうだが、江戸の町などでも、初夜の鐘の聲を「寢よとの鐘」といつてゐた。しかももうその言葉も注意せられなくならうとしてゐる。

　

　　　　　　　自然の隣組

　

　ばん木が火の見の半鐘と變つたのは、公共團體の成長と謂つてよい。半鐘は何處に懸つて居るのかも知らぬやうな方角から響いて來るに對して、ばん木はどれ位力を入れて打つても、岡が限りでその向ふまでは屆かぬだらう。人が利害を一つにし、互助の責任を意識して活きるのも、大よそこの範圍の家と田園とをもつて、足るとして居た時代が有つたのである。

　

(471)〔絵図２つ〕

　

(472)　我邦の部落は大體に於て皆小さい。現在大字と謂つて居るものも、いくつかの自然村を集めたのが多い。さうでないものは寧ろ分立しようとして居る。半分は地形の制限、殘りの又一部は領主の關係からであるが、その他になほ最初から望みが小さく、あまり慾ばつで土地を占據しなかつたものがある。斯ういふ家々では子が多く門黨が繁昌すれば、すぐに喰み出して出村新田を計畫しなければならぬのだが、それまでには一時やゝ窮屈を忍んで、まづ今までの區域に一杯になつた。實際に又その程度の増加の方が多いのである。

　村には單式と複式とがあつて、通例は二家以上が婚姻の必要などを考へて、始めから提携して土地を見立て、互ひに入交つて土着したものが多いやうだが、それにも種類があり、たゞ仲よく隣を接するのみで、同じ村とは言つてもめい／＼の區域があり、その中問に僅かの空隙をさへ持つたものが有る。三河遠江などの山地帶に、數多く見られる五戸七戸の孤立部落は、まだ一つ／＼當つては見ないが、先づ大體に私の謂ふ單式構成と見られる。勿論其中には苗字もちがひ、又はマキを異にする者も居るかも知れぬが、起りが一家であり中心がそこに在るので、なほ結合の力は強いのである。

　茲に掲げることの出來た二つの寫生畫は、幸ひにして私の未だ言ひ盡さぬことを證明する。福島縣の例は家數が五戸、一つのマキを以て作つた單式の自然村で、距離はわからぬが兎に角に次の村からは引離されて居る。多分左から二軒目の家が古く、最初暫らくは淋しさに堪へて居て、後追々と兄弟を分住させることが出來たものらしく、一目見ただけでも心強い隣組なることが察せられる。

　第二の土佐の例は地形から言へば一つの部落だが、二つのマキから成つて居るから複式の村である。大きな樹木の有るのは氏神と思はれ、この御社に近い方が、此地に土着した時が早いのでは無いかと推測する。この二つの門黨の間には、無論濃厚なる血の交流が有るであらうし、或は寧ろ姻戚であるが爲に、招き招かれて相寄つたのでもあらうが、こゝに最も安らかで且つ效果のある公共生活を展開させようとすれば、やはり隣組の數は二つでなければならぬ(473)のである。

　

　　　　　　　もらひ湯

　

　風呂に入ることが近頃不自由になつて來て、昔はどうして居たらうかといふことが頻りと考へられる。浴法の變遷に就いては中桐藤浪兩教授の研究もあつて、是に興味をもつ人が多いかと思ふが、あれは主として都府上流の記録に依つたもので、田舍は相變らず目に立たずに、古くから有つたものを無くしてしまはうとして居る。わづかに殘つた痕跡にも注意しなければなるまい。

　先づ第一に我々の湯を使ふといふことに、大よそ三通りの階段があつて、其三番目のものは流行がごく新しかつたことが心づかれる。三通りといふのは洗ふと滌ぐと、それから入るといつて體を湯の中に沈めることだが、この最後のものだけは、もとは容易でない奢りの沙汰であつた。夏ならば是は何でも無いことで、現に牛馬までがその悦びに浸つて居るのだが、一旦水を好い加減といふ温度にし、頸から下を殘らず暖めようといふのには、大きな器物を要し又は大がゝりな設計をしなければならぬ。湯屋の根源が佛寺に在り、下に宗教的な意圖さへ推測せられるのも其爲かと思はれるが、それを庶民の間に普及せしめたのは、爭ふべくも無い桶結ひ技術の手柄であつた。

　今でも風呂桶は持ち運ぶものと思つて居る人が多く、かつては俄雨の日に亭主の入つたまゝ、風呂桶を運び入れたといふ大力女の逸話なども殘つて居る。私も若い頃にたつた一度だけ、木曾の紅葉の溪底で米の磨汁の白いお湯に入れてもらつたことがあり、又白馬山の山登りに、風呂桶を擔がせて行つたといふ大阪人の噂を、新聞で見たこともある。つまりはあゝ好いお湯だといふ我々の快樂は、それが新しい出現である爲に、殊にその悦びが濃かだつたので(474)ある。

　是を何とかして村共同のものにしようとして色々の試みが起つたのも自然である。都會は以前｜合木《がうぼく》といふ習慣もあつたやうだが、村では燃料に大きな價が無いから、たゞ之を集めたり焚いたり水を汲んだりすることが、その人たちの分擔であつた。だから貰ひ湯などゝいふのも、たゞ單なる一方の施しでは無かつた。實際みんなが少しづゝ、自分のあまつた時間を働いて、一つの樂しみの方へ連れ立つて行くのを見ると、斯うも隣人は仲のよいものかと、感ずるやうな折が毎度ある。或は湯風呂のぬくもりが魅力なのかも知らぬが、それこそ赤裸々に、斯ういふ毀れかゝつた共同浴場の中からでも、村の社交性が露呈せられるのであつた。

　

　　　　　　　タバの村

　

　汽車で走つてゐても、どうして又あのやうな高いところへ、わざ／＼登つて住んで居るのかと、不審を抱くやうな村がそちこちに見られる。信州では松本平から、姥捨の方へ越える中間の山地なども、その一つの好い例である。是は所謂立ち場の相違といふやつで、彼等が何も高い處へ登つて住むのでは無く、近代の通路がわざ／＼低い處ばかりを通つてゐるのである。歴史を囘顧する者の感心の仕方には、時々斯ういふ風な頓珍漢とでも名づくべきものが有る。もう少し向ふの身になつて、物を考へる習慣を付けたいものだと思ふ。

　農で生活する人々の最も戀しがつたのは日光である。水さへ自由に引いて來ることが出來れば、暗い濕つぼい谷底(475)の林の中に、永く留まつてゐる必要は無いのであつた。尤も川の流れの近くにも、日當りの良い廣場は切開けば有る。しかし斯ういふ處は毎度意外な出水に脅かされる。それよりも更に無用心な敵は泥棒や無法者、是等の襲撃ももとは自分で防がねばならなかつた。それ故に出來るだけ遠くの見える、しかも走つては來られないやうな高みの端《はな》に、かうした目に立つ屋敷を構へる人が多かつたのである。

　かつて山も野もすべて草木を以て蔽はれてゐた時代に、どうして又斯ういふ高い處の耕作適地を、見つけ得たらうかは一つの問題であらう。獵は昔の人に取つて興味の深い仕事だつたから、獣を追掛けては可なりの遠方までもあるきまはつた。春の菜摘みや秋の菌採りにも、毎年の通路があり、また家々の持場もあつた。その他交易にも社交にも人は時間があり、且つ山坂の登り降りを吉にしなかつたから、永い間には後々屋敷にしてもよいやうな場處を、知つて開發をしようとしたのである。中國の山地にはナル又はナロといつて、まだ開墾せられぬ山中の平地が幾らも有る。ナロは奈良とも同じ言葉で、邑里を作るに適した土地の、まだ利用せられない前からの地名であつた。四國の島にもナロといふ地名は多いが、それよりも一段と高い處に在るもつと小規模な平地を、タバといふ方がよく知られてゐる。タバは山稼ぎの人々が休憩し、辨當を食ひ雜談しまたは遠望し、四方から持つて來る山の貨物を、整理し荷送りする處だと謂つて、駄場などの字を當てゝゐるが、必ずしも馬をこゝまで牽いて來るわけでも無い。たゞさういふタバの中で、周圍の地が肥え又清水の好いのがあつたりすると、是もよく働く次男坊の野心家などが、家を新たに立てる計畫の中に入れずにはゐなかつたのである。全體に地方の交通は、もとは高いところを成るたけ利用しようとして居た。其交通が遠く廣く伸びるにつれて、道路は次々に低い方へ降つて來たのである。山から里へといふ言葉は考へて見ると、村の生活の推移の婆であつた。

　

(477)　　　第二十一卷　内容細目

　

こども風土記（昭和十七年二月、朝日新聞社）………………………………………一

なぞとことわざ（昭和二十七年十月、筑摩書房）

　なぞとことわざ（昭和二十一年七月、八月、九月、教育改造二號、三號、四號）（原題「謎と諺」）………………………………………………………………七一

　ことわざの話（昭和五年一月、アルス）………………………………………一〇五

　

火の昔（昭和十九年八月、實業之日本社）………………………………………一四九

　

村と學童（昭和二十年九月、朝日新聞社）

　はしがき

　母の手毬歌（昭和二十年一月、週刊少國民四卷一號）…………………………二八三

　親棄山（昭和二十年二月、三月、少女の友三八卷二號、三號）………………二九四

　マハツブの話…………………………………………………………………………三〇六

　三角は飛ぶ……………………………………………………………………………三一六

(478)　三度の食事………………………………………………………………………三三六

　棒の歴史………………………………………………………………………………三五七

　千駄焚き（昭和二十四年十二月、「母の手毬唄」所收）…………………………三八〇

　あとがき

　

　村のすがた（昭和二十三年七月、朝日新聞社）……………………………………四〇七

　　　　　　　　　〔2014年11月28日（金）、午後5時12分、入力終了〕