定本柳田國男集　第二十二卷（新装版）、筑摩書房、1970､3､20（1977.4.30.13刷）

　

(1)　　　野草雜記

　

(3)　　　　　記念の言葉

　

　この二册の小さな本のやうに、最初思つた通りに出來あがらなかつた書物も少ない。私は昭和二年の秋、この喜多見の山野のくぬぎ原に、僅かな庭をもつ書齋を建てゝ、こゝを一茶の謂ふつひの住みかにしようといふ氣になつた。あたりはまだ一面の芒《すゝき》尾花で、東西南北には各々二三本の大きな松が見え、風の無い日には小鳥の聲が有る。身の老い心の鎭まつて行くとともに、久しく憶ひ出さなかつた少年の日が蘇つて來る。私の生まれ在所も村であつたが、家が街道端で此邊よりは立て込んで居た爲に、山に入らぬと色々の鳥は見られない。里に居るのは無數の雀ばかり、鳶と烏の他には空を横ぎるものが無かつた。雁も水?も時鳥も、すべて歌俳諧と版畫とに由つて知つたのである。之に反して野の草には友だちが多かつた。それがこの岡のまはりにも群を成しては居るのだが、幼い頃に見たのとはどうも樣子が少し違ふ。といふことが一段と昔を偲ばしめたのである。

　たとへば「雀の毛槍」などは、私等が抽いて弄んだのは、もつと莖が長々として花の總が大きく、繪にある行列の御供の槍とよく似て居た。母子草もこちらのは、餅に入れるほどにもふつくりと伸びず、小さなうちにもう花が咲いてしまふのは風土の爲であらう。すみればかりは關東の野の方が種類も多く、色もずつと鮮かなやうに思はれるが、蒲公英《たんぽゝ》も又｜紫雲英《げんげ》も、花がやゝ少なく且つ色が淋しい。たゞ其埋め合せに野｜木瓜《ぼけ》とか山吹とか、故郷で覺えて居ないさま／”＼の花が、この野の春色を豐かにして居るのである。昭和三年の初めての春は樂しかつた。もしも幸ひにこの家に十年、何事も無くて住み續けることが出來たら、草の話を小さな一卷に集めて、子供や古い友人に讀んでもらはうと、思ひ立つたのも早いことであつたが、まだ其時には野鳥雜記には考へ及ばなかつたのである。

(4)　鳥は舊友川口孫治郎君の感化もあり、小學校に居た頃からもうよほど好きであつた。十三歳の秋から下總の田舍にやつて來て、虚弱な爲に二年ほどの間、目白や鶸《ひは》を捕つたり飼つたりして暮した。百舌と闘つたこともよく覺えて居る。雪の中では南天の實を餌にして、鵯《ひよどり》をつかまへたことも何度かある。雲雀の巣の發見などは、それよりもずつと早く、恐らく自分が單獨に爲し遂げた最初の事業であつて、今でも其日の胸の轟きが記憶せられる。小鳥の嫌ひな少年もあるまいが、私は其中でも出色であつた。川口君の「飛騨の鳥」、「續飛騨の鳥」を出版して、それを外國に持つて行つて毎日讀み、人にも讀ませたのは寂しい爲ばかりではなかつた。少なくとも私の鳥好きは持續して居る。この砧の新村の初期には、野は滿目の麥生であり、空は未明から雲雀の音樂を以て覆はれて居た。それが春毎に少しづゝ遠ざかり、又少なくなつて行くのに心づいて、段々に外へ出て鳥の聲を求めるやうな癖を、養はずには居られなかつたのである。そこへさして現はれて來たのが、野鳥の會と中西悟堂君といふ無雙の鳥好きとであつた。私は五十年も東京に居ながら、まだ中國の土音が拔けきらぬほど耳が惡く、又口眞似が拙であるが、中西氏はその正反對で、從つて又鳥の名を教へる名人でもあつた。あの早起きと健脚とには附いて歩けぬので、ほんの通信教授みたいな指導しか受けなかつたが、それでも少しづゝ新しいことを學んだ。第一にはうちの近所の木にも、存外色々の鳥が遊びに來るといふこと、次には子供の頃に覺えたと思つて居ることにも、可なり間違つて居た點が多いといふことである。元來私は早合點をする質だから、今だつてもまだ誤解が有るかも知れない。が兎に角に氣を付けたり思ひ出したりする事が、是で又一つふえたのである。

　私の家では、始めには庭に何物をも栽ゑない主義であつた。木は門を出ること數歩にして松でも何でもある。草は拔ききれないほど色々のものが生える。どんなものが先づ生えて來るか、見ようと思つて空地にして置いたのだが、あまり土埃りが立つといふので芝を張つた。さうすると其隙間から顔を出したのが、隣の地面からの根笹の芽であつた。是は棄てゝ置くと笹原になるから鋏で切つた。其次には職人が食べてはふつたかと思ふ梨の芽(5)生えが二本、松が一本と片隅に合歡《ねむ》の木とが生えた。是だけは約束だから成長にまかせ、もう其あとは構はずに置くとよかつたのだが、春になつて氣がかはつて梅をたつた一本、竹垣の近くに移植したのが病みつきで、秋は其隣へ小さな木犀と山茶花、安行《あんぎやう》からは富有柿の若木が來る。いけて置いた丹波栗が芽を出す。何やらかやら皆大きくなり、おまけに隣地の檜の木までが林のやうに茂つて來て、目隱しにはよいが日陰が多くなつた。幼な馴染の草などは、大抵は十分な日の光の中で育つものばかりだから、斯んな處には見切りをつけて、ずん／＼と野外に退却してしまひ、家のまはりにはいやな草ばかりがはびこらうとする。雨でも降りつゞいて五六日も出ずに居ると、すぐに化物屋敷のやうになつて心までが荒びるので、近年は草取りが夏秋の日課になつてしまつた。人も草取りを日課にする年になると、もはや少年の日の情愛を以て此物に對することが出來ない。この變化は相應に寂しいものである。

　よい草いやな草の差別は子供もするが、標準は違つて居る。かたばみは我々にとつては迷惑至極な草だが、彼等はあの葉の珍しい形と、實が胡瓜のやうなのに興味をもつ。千なりほうづきなども怖ろしいやつで、うつかり一本を見のがすともう翌年は畠中に滿ち、拔いても棄てゝも後から出て來て、小さななりをして花をもち實が熟する。どうして退治しようかと思ふほどであるのに、孫どもはやつて來ると先づそれに目を著ける。杉菜が畠に入ると飛び上るほども農夫が騷ぐのは、一つには根が深くて除きにくい爲もあるが、それが又土筆採りの子供を誘引して、畝を踏み荒される氣づかひもあるからであつた。佇んでたゞながめるだけなら、あゝ美しいと思ふやうな草でも、土地を再び曠野に返すまいと思へば、精出して拔かねばならぬものが多い。それを承知の上で雜草の方にも、驚くやうな繁殖力、智慧と名づけてもよい程の對抗手段をもつて居ることが、子供で無いだけに少しづゝわかつて來た。觸れるとすぐに筴《さや》が彈けて、遠くまで種子を飛ばすものがある。蔓が容易にちぎれて殘りだけで又根づくものがある。或は地獄蕎麥とも呼ばれる?草《どくだみ》のやうに、惡く臭いので人を近づけぬものもある。環(6)境に應じて大きくも小さくも、形を色々にかへて生きて行かうとする努力などは、或る草は全く知らず、他の或る種には特に著しい。自然の始めからの配慮と言はうよりも、何だかめい／＼の發明の如くにも感ぜられる。自身庭に降りて直接の交渉に當るまでは、眼の前に居ながら丸で知らずに居た。子供で無くなつたといふことも必ずしもさう惡いものでは無い。私は今も草取りによつて少しづゝ學んで居るのである。

　をかしい經驗は人とこの話をして見たいと思ふのに、大抵の場合は草の名を知らない。金田一春彦君が二夏つづけて、かくしに植物圖鑑を入れて教へに來てくれた。庭や門前の僅かな面積に、もう三十種に近い雜草が算へられる。それに一々名があつたことが、寧ろ不思議なくらゐに私には感じられた。是が日本の植物學の進歩なのであらう。畔田翠山の古名録といふやうな、最も綿密な本草書を見ても、まだ其中に掲げてない草が大分あつて、それにも立派な標準語が附いて居る。たゞそれを引用して素人同士話をしようとしても、相手も知らぬのだから間に合はぬだけである。話題になる草は昔から限られて居て、それも少しづゝ數を減じて行くのでは無いかと思はれる。折角氣のきいた佳い名が出來て居るのに、この毎日見るものを斯んなとか斯ういふとか、面倒でしかも不精確な描寫に任せて置いては、それこそ話にもならぬのである。今度の國民學校にも頼まなければならぬが、私の野草雜記も働かずには居られない。たゞそれには十年が少し短かすぎたといふだけである。

　小鳥の方でも實情は是とよく似て居る。私は近年の方言集をあさつて、可なり數多くの草と鳥の名を比べて見たが、多いのは一つのものゝ異名のみで、その種類は不思議なほどにも限られて居る。久しく斯ういふ話題の管理を、少年の手に委ねてしまつて、省みなかつたといふことも原因の一つかも知れぬ。もしさうだとすると今になつて少しばかり、樹蔭で草をむしり鳥の聲に耳を傾けようとしても、急にさう新しい經驗の得られぬのも已むを得ない。それに又彼等の社會にも、やはり免れ難い生活の變化があつて、古い約束などは守つて居られぬやうである。草に外來の新種が幾つか加はり、又は遠くから引移つて來たものがあつて、それが案外に幅を利かして(7)居るやうに、鳥にも新たなる危險が多く、もう以前ほどは悠長で無くなつて居る。四十雀でも藪鶯でも、來たかと思ふとすぐに行つてしまつて、遊んで居ようとする心持が少しもない。殊に頻白などは囀りまでもかへたらしく、何だか一年増しに歌の聲が短くなつて、一筆啓上仕候などゝは、聽いて賞へさうもなくなつた。現在殘つて居る幾つかの鳥の昔話は、どれも皆あの擧動や鳴聲の寫實味に根ざして居る。もしも其根據が搖ぐやうだつたら、後は幼い者までが印象を拒むことになるであらう。新たなるものが未だ生まれず、古い心持は先づ消えようとするこの淋しい過渡期に、ちやうど世に出て行く記録だといふことが、前から少しでもわかつて居たならば、又若干の用意もあつたであらうに、私は漸く此頃になつてそれに氣付いたのである。いかに閑人の閑事業であつたとは謂つても、あまりにその散漫であるのに私は祉ぢて居る。

　今一つの思ひがけぬ滑稽は、この住宅地の周圍の光景が、斯んなにも變つて行くものとは私は考へなかつた。家を移した當座の數年は、二階の寢床から遙かに多摩川對岸の岡が見えた。其頃はまだ眼もよかつたので、いつと無く森や樹木の形に親しみをもち、何度か目標をきめて川を渡つて訪ねて行つたこともある。西の窓からは國境の連山がよく見えて、右の端は秩父の武甲山に大菩薩、一度相模川の流路でたるんで、道志丹澤から大山の尖つた峯まで、雪が來たり雲がかゝつたり、四季時々の眺めには心を惹かるゝものが多く、小鳥の去來といふことも、始終是と結び付けて考へるやうになつて居た。それが一方は近くに高い家が建つて忽ち見えなくなり、一方は樹木が一體に成長して、僅かに葉が落ちてからちら／＼と隱見をするだけになつた。南の正面には高い松の木が二本あつて、春は黒｜鶫《つぐみ》や小壽鷄が來て啼いた。二本合せると誠に好い格好で、月があの方角から出るのだつたらなどゝ評判をして居たが、或る年の火事に遭つてその一本が枯れて伐られ、殘りは一向にくだらぬ木になり、鳥も亦段々來なくなつた。「たけに草」の目の覺めるやうな美しさを見せた西隣の空地は、程無く土が古びて再び芒に占領せられ、今年は愈々隣組が開墾して大根を播いてしまつた。斯んなに攣つてしまふものなら、あの頃(8)寫眞を撮るかスケッチをしてもらつて置くか、自分で畫を學んでもまだ間に合ふ位であつたのに、何もしないで十年も經つてしまつた。今頃どの樣に其噂をして見ても、それが自分の感じて居た通りに、描き出されるわけは無いのであつた。一度斯ういつた記念の書を出さうと思ひ立つて、それにいつまでも執はれて居なかつたら、或はもう少し安らかな、人を樂しましめる雜記が出來たかも知れぬ。私のすることにはいつも斯んな失敗が多い。

　

(9)　　　　　　　野草雜記

　

　　　　　　　　　　一

　

　この喜多見の原の家に住み始めてから、今度はもう第十囘目の春が復つて來る。此間に於ける草木の有爲轉變は、一つの巨大なる歴史であつて、之に比べると人は寧ろ常磐《ときは》であつたとも言へる。最初私たちは久しい町の生活に馴れてさゝやかなる庭前の草をも容赦しなかつた。必ず「年々愁處生」といふやうな詩の句を思ひ出して、それを成長させて置くことが、我身をはふらかすわざの樣に考へて居た。さうかうして居るうちに道路は小砂利になり、又は雨の後の泥にまみれて、根強いものまでが次第に退いて行つた。家のまはりの植物は萩が先づ衰へて、今では僅かに一叢二叢が、譜第の家の子のやうな顔をして培はれて居る。黄なる山菊は殘さうと思つたが、去年などはどうやら咲かずにしまつた。春の草では菫がたゞ一種だけになつて、蒲公英はもう疾くに姿を消して居る。さうしてをかしいことには今生えようとして居る草は、大抵は主人が名を知らぬものばかりである。草の名の教育などは、我々は六つ七つの時から以後、絶えて與へられもせず又受けようともしなかつた。それ故に幼い愛着は永く傳はり、新たなる感歎の時あつて催されると共に、測らずも又人間の無識が、如何に多くの事蹟を閑却して居たかを、心づかしめる機縁ともなるのである。

　

(10)　　　　　　　　　　二

　

　杉菜は此あたりの畠を打つ人たちに、何よりも恨まれて居る草であつて、其根は地獄にも屆いて居る樣に、戯れていふ者さへある位であるが、畠を切り均《なら》したばかりの私の家の外庭には、毎年待つて居る子どもがあるのに、もう一本でも生えて來ようとしない。全體どういふ場處に生えるものなのかと、氣をつけて見てあるいて居ると、時々は濕りがちな田の畔にも、日蔭の多い若木林の端にも、驚くほど澤山の小法師の、竝んで立つて居ることがある。

　さう條件は六つかしくないらしいのだが、不思議に人間の住む所を避けて繁らうとする。庭は全く人の踏む足の數がどこの土よりも多い。それを彼等の開拓者が嫌ふので、根や養ひだけの問題ではなかつたのである。芒なども性癖が是と稍々似て居る。隣の空地ではある季節には是唯一色に蔽はれて、色々の蟲の聲を宿し、小路を隔てゝ一齊に袖を振る樣子は、招くと言はうよりも寧ろデモンストレエションに近く、風が吹けば盛んに穗綿を流して來るのだが、私の庭へは儘かな片蔭以外、めつたに下りて土著しようとはしない。一時は熱心に闘つて拔き棄てたものを、此頃は一株移植して見ようかと思ふほどになつた。是とは反對に根笹は草に隱れて、地續きの一方の空地には覗いても眼につかぬのに、いつになつても其根が走つて來ることを止めない。逕《こみち》にも出れば芝生の中にも出る。垣根の下はもとより、中には五六間も飛離れて絲のやうな筍を抽きんでようとする。是だけは鋏を以て切つてしまはずには居られぬのであるが、考へて見ると竹は人に最も親しむ植物の一つで、鳥であつたらどの位喜ばれたか知れない。

　

　　　　　　　　　　三

　

　それからタケニグサも此土地へ來てから、始めて氣心のよくわかつた野草である。郊外はどこの新建てでも、一度は此草に劫かされて、如何にも文化住宅の淺はかさを、思ひ知らされずにはすまぬ樣な時期があるやうに見えるが、(11)少し程過ぎると、是も薄よりはなほ素直に退散してしまふ。今まで日本に此草のあることを知らず、或は土方草などと謂ふヒメムカシヨモギと共に、遠い國からでも渡つて來たものゝやうに、思つて居る人の多いのも一つの歴史である。タケニグサの生活機會は可なり限られて居るやうである。即ち土を掘り返して日の光が一面に當り、靜かに進み寄る小草のまだ乏しい間に、たとへば植民地の最初の自然移民などの樣に、こゝに暫くの盛りを息づくのである。此植物の褐色の汁液には、少しの臭氣があり又毒もあると言はれる。それよりも人に迫るのはあの熱帶風な大がら、時には見上げるほども伸びてしまふこと、及び是ほど數多くの種子が飛び散つたらどうしようと、思ふ位に實のなることであるが、是は全く魚の子のやうなもので、大部分は無結果に消えてしまふらしいのである。私の家でも三年ほどの間は、タケニ草を目の讎《かたき》にした。蹴飛ばす程まで大きくは決してさせなかつた。指の汚れるのを忍んで莖を持つてそつと引くと、するりと附いて來るやうにして必ず中途で根が切れるので、一層憎らしく思はれたのであつたが、めつたには其古根が復活したのを見たことがない。今でも折々は種が飛んで來て、一二寸の芽生えを育てゝ居るのを見かけることがあるが、それは／＼いたいけで、垣根の外に居る從兄弟とは似もつかない。素性を知らなかつたら豆盆栽にでも、したくなるやうな姿をして居る。それでも拔いて棄てるのは傳統と言つてよい。ちやうど蟒蛇の昔語りがあるばかりに、きれいな小蛇が殺されるのとよく似て居て、此方は更に記憶が生々しいのである。私は前かた上州の利根の奧に遊んで居て、偶然に路傍に此草の一群を見たことがある。土工と日の光がたま／＼同じ條件を設けた爲に、幸運な一粒が何處からか歸つて來て榮えたので、此時ばかりは流石にあななつかしと、昔の敵を愛する氣になつて居た。流轉はまことに此一族の運命であつたかと思はれる。それが恰も今大都市の周邊に、稍々引續いて安住の地を供與せられ、所謂第二の故郷を念がけて居る點は、寧ろ著しく我々の境涯に似て居たのである。

　

(12)　　　　　　　　　　四

　

　字引を引いて見ると此草の本名チャンパギク、博落廻《はくらくくわい》とあるのが我々を考へさせる。日本に最初からあつて名が無かつたか忘れたか。但しは新種の雜草と同じに、物のまぎれに入込んだのが見つかつたか。わざ／＼名を添へて輸入するだけの、物好きは有りさうに思はれぬのみか、それでは現在の分布を説明することが出來ぬのである。元からあるものは一應は元からあつたと認めるのが自然だ。さうすると此草が久しく注意せられず、もしくは注意する者があつても地方的で、是に全國倶通の名を生ずるに至らなかつたと解して置いて、舶載の證跡の後日出て來るのを待つより他はあるまい。自然と文學といふ問題は、此方面からも一度は近よつて見る價値がある。奈良や京都の郊外にタケニ草の繁茂する機會が無く、たま／＼繁つて居てもそれを只けうとしと感じて、來て見る文筆の士も無かつた限りは、記録に傳はるやうな本名は生まれやうが無い。さうして記録の天然は人も知る如く、甚だしく狹隘であつたのである。花ならば梅櫻あやめに菊、鳥獣なら鵜時鳥猪に鹿、まるで近頃の骨牌の繪模樣が、日本の自然文學の目録であつたといふも誇張でない。是は風雅の選擇が嚴峻を極めて、些しく俗氣のあるものは吟詠の料としなかつた爲のやうに、千年の長きに亙つて解しつづけて居たのであるが、そればかりは何分にも信じられない。現在の文士などはもう大分自由なのだが、それでなほ我々の間には、油繪に靜物がもてはやされる程度に、咏物の詩は起らないのである。一つには歌の詞形の短い爲もあらうが、主たる理由は一言でいへば知らなかつたのである。知らない故に歌になる樣な好い名前が生まれなかつた。乃ち斥けたと言はうよりも斷念したといふ方が當つて居るのである。

　畔田翠山翁の古名録などを見ると、牡丹をフカミグサ・ハツガ草といふ類の五音節語は、何百といふ程も設けられて居る。名が無ければ文學の生まれぬのは當り前だから、之を試みようとした者は以前もあつたのだが、それが多くは我儘の、ちつとも適切でないものなので人望が無く、日本の言語として通用しなかつたのだから名譽で無い。國に(13)廣汎なる文藝を起さうとするならば、先づ言葉の問題を一通り解決して置かなければならぬ。歌だから咏物の詩だから事はまだ小さいが、すべてが此調子であつては我々の筆舌は束縛せられ、少し込入つた氣持は上品には人に示すことが出來ない。いくら本名でもチャンパギクでは歌にならぬといふことが、偶然ながらも我々に大きな暗示を與へて居る。それで此線路を辿つて、もう少し前の方へ話を進めて見ようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　日本に佳い單語を増加して行かうといふ努力には、動植物學者もたしかに參與して居るが、幸か不幸か彼等は散文家である爲に、少しでも歌よみの苦勞を察してくれない。どこの國でも學問上の名は本名でないのだが、我邦では精細を旨とするの餘り、二階三階を積重ね穴藏をほり下げて、時には三十一文字と背競べをしようといふ長い名が作られて居る。殆と言語の終極の用途を、念頭に置かぬ者の所行である。此?態で新七草でも投票すれば、選擧肅正などはとても望まれぬことで、誰しも上品な句や歌になりさうな名を持つ草へ、入れたくなるのは免かれぬ弱點であらう。乃ちいつ迄もあれは名が俗だなどゝ、負惜みを謂つてあきらめるものが多いわけである。之に比べると郷土の人たちの附けた名は大抵はもつと實際的であつた。歌にもうたはれず文句の口拍子にも乘らぬやうな草の名は、生まれたかも知らぬが承認せられては居ない。といふよりも寧ろ歌や文句の中から、孕まれたらうと思ふものが多いのである。是は統計の上にも多分現はれることゝ思ふが、今まで最も普通であつたのは三音節、クサの語を下に添へて五字の一句を爲すもの、次には一つのテニヲハの餘地を存して、四音六音でこしらへたものが多い。花とか鳥とかを附けて呼ぶ物の名も是と同樣で、かねて法則を意識して居たのでは無いまでも、所謂語路の惡い言葉は、忌んで採用しなかつたらしいのである。是が深見草一流の歌道のかぶれでなかつたことは、和歌には向かぬが民間のうたひものや童言葉に、ぴたりと合つて居るものゝ多いのを見ればわかる。潜む動機がもしも有りとすれば、遠く溯つて文と唱へとの、(14)未だ分れなかつた世に求めなければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　そこで立戻つて再びタケニグサを説くことになるが、私は此名のいつ頃からあるのかを考へる前に、先づ以て或る一つの野草に、どうして名を與へる必要が起つたかを尋ねて見たい。最もよくある機會は效用の發見、藥や染料の爲に野山を分けて、是一つを捜さなければならぬ時であらうが、今日普通にいふ竹を煮ると柔かくなるといふ説は、何分にもまだ信用が置けない。果して一人でもそんな實驗をして見た人が有るかどうか。確かめもせずに語の解釋に供するのは惡いと思ふ。或は其點は事實に反するまでも、古人が誤り信じてさう名づけたのだらう。タケニといふからにはさう釋くより他は無いと、思つて居る人があるかも知れぬが、それはもう少し多くの事實を知つてからで無いと、我々には到底斷言の出來ぬことである。さう／＼自分たちの先祖をまちがへばかりした樣に、證據も碌に無いのにきめてかゝることは、感心せぬ態度だと私は思ふ。

　だから我々は先づ此植物に對して、現在土地々々で與へて居る名前を、比べ合せて見る必要を認めるのである。所謂チャンパ菊の異名を知つた土地はあまり多くない。最近に耳にしたのは三重と奈良縣の堺の山村でゴウロギ、ゴロはあの地方でも大きな石のごろ／＼として居る處のことだから、其ゴロによく生える木といふ意味に解してよからう。東京京都の人だけは知つて居らぬらしいが、ゴロもゴウラも全國に亙つて、かゝる磽?《げうかく》不毛の地をさう呼んで居る。起りは多分岩くら、くらしゝなどのクラであらう。日本人は斯ういふ語の用途を分化させて行く場合に、いつもいやなものだけを濁音にする癖があるやうだ。現にこの土地でも土と交つた小石の堆積して居る處はガラ、大きな石の在る處だけをゴロと謂ふとのことで、この二つの語は別々とも考へて居らぬ樣だから、つまりは少しでも似つかはしい音に偏よるのである。信州の上伊那から來て居た青年は、國ではタケニ草をガラガラと謂ふと語つた。其時には此植(15)物がうら枯れて後に、秋の風に吹かれる樣子を形容したものかと思つたが、或はその氣持は加はつて居るにしても、やはり發端は亦ガラに生える草といふに在つた。それが大きくなつて木のやうに見えるからゴウロ木で、此程度の一致ならば、別に一方から傳へなくとも、偶然にも起り得たのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　越後の西頸城《にしくびき》地方で、この草をツンボグサと謂ふわけはまだはつきりしない。土地の人ならばまだ其命名の氣持を覺えて居るかも知らぬが、福井附近などで薄の穗を、ミミツンボと謂ふのと、或は關係の有る言葉かと考へられる。是とても竹を煮て軟かくするといふ噂と同樣に、曾てその經驗をした者はあらうと思へぬが、何だか氣になつて近よつて行けない故に、輕々しくさういふ名前が承認せられることになつたのであらう。下總印旛郡の草原地には、或は又ドロボノシンヌギといふ名も行はれて居る。是も一つだけ聽くとあまりに奇拔だが、以前の笑ひの材料には尻といふ語が多かつた。例へば細藺をサギノシリサシ、近頃入つて來たと思ふ龍舌蘭をヌスビトノシリサシと謂ひ、こまかな針のある「とげそば」といふ濕地の草の一名を、ママコノシリヌグヒと呼んで居る人もある。以前は尻拭ひには木や草の葉を用ゐたので、泥棒ならば之を用ゐるだらう。もしくは是で澤山だといふ意味からでも、半ば戯れに斯ういふ名を案出せられ得たのである。立會つて竹を煮させて結果を見た人だけが、タケニグサの命名に參與したと、見なくてもよい一つの理由である。

　それからもう一つは私などの郷里、播磨の一部にはオホカメダホシといふ方言がある。狼が此草を食ふと醉うて倒れるから、斯ういふ名が生まれたやうに説明する者もあるが、此經驗などは愈々以て試み難いものである。狼が草を食ふといふことが既に考へられず、それを見て居て醉つぱらふのを確かめた人などは、捜しまはるだけのものは無いのである。たゞ自分等が是によつて感ずることは、もしもタケニ草の故郷が外國であり、又は早くから現在の地であ(16)つたならば、斯ういふ名は恐らく發生しなかつたらうといふことである。伊勢信濃のガラ・ゴウロギも同じことだが、この異樣な植物はもと狼でも棲息しさうな地に在つて、豫め今日の郊外居住に備へて居たのである。たゞ人間が彼等の存在に注意し始めた機會が區々であつて、斯うして私のやうに昭和の時代に入つて漸くこの一つの生活に美しい意義を見出した者さへあるのである。詩の發展は乃ち無限であらうが、それは今少しく未知の自然の方に、眼を向けかへなければならぬ樣に考へられる。言葉が制限であり、習慣が附け紐である限りは、要するにそれはたゞ蕪村のいはゆる、「水桶にうなづき合ふや瓜｜茄子《なすび》」である。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そんな憎まれ口をきくのが私の目的ではなかつた。チャンパ菊の異名に今一つ、辭書にも認められたササヤキグサといふのがある。物にも似合はぬ佳い名である。此言葉については色々の空想が起る。たとへばあの鈴なりになつた枝の種子が、風に吹かれて幽かに鳴るのかとも思はれ、實は私も其音を聽いたやうな氣さへする。しかし是は明らかに空想であつた。種は柔かな綿のやうなものに包まれて靜かにこぼれて居る。さうして梧桐のやうなあの大きな葉は、がら／＼ならともかくも、さゝやく音は立てようとも思はれぬのである。比較はどこまでもして見なければならぬ。東京の近くでは相州の津久井の山村などが、どこでもタケニ草をササヤケと謂つてゐる。即ち遠くから見てこの草の連なつた穗先が、笹に似てやゝ燒けた樣な色を帶びて居ることが、此名の與へられた元の動機であつたらしいのである。之をササヤキ草と横なまる位のことは、少しく風流心のある者ならば誰にでも出來る。まして適切でもない色々の文藝用異名に、久しく馴らされて居る人ならば喜ぶかも知れない。たゞ私たちはまだ何處にさういふ語の行はれて居るかを知らぬだけである。是がもし東京の現象であるならば、やがては又普及し且つ新たなる解説が副ふことであらう。大よそ一通りこの事情が判つて居ての上ならば、それを觀察して居るのも決して興味の無いことではない。

(17)　近年私の家の庭から追拂はれたタケニ草は、僅かな道路を隔てた西隣の空地に往つて今は住んで居る。爰も芒が一年増しに根を張つて來て、それと昔から仲のよい萩や「われもこう」の、咲きまじつた野原に復らうとして居るが、まだ其片端には普請で土を動かした部分があつて、そこばかりは堂々たるタケニグサの林である。タケニといふ言葉も或は是から出て居るのかも知れぬ。梢が伸びきつて悉く茶色の細長い花筴を附けたところは、山の野生の小竹原を思はせる。竹にもやゝ是に似た色彩を見せる季節がある樣な氣がするがまだ確かなことは言へない。兎に角に此樣なよく嫌はれる草にも、美しく見える日が二日か三日はあつて、それが最も竹らしく感じられる時でもあつた。ちやうど初秋のしつとりと露の置く晩方などに、立止まつて見て居たいやうな氣特になつたことも折々ある。それよりも忘れ難いのは夜の引明けに、二階の寢室の窓を開いて、あゝ美しいと思つて見たことが何度かある。それが雨でも降るか荒い風でも吹くと、すぐにもう狼藉になつてしまふのである。郊外の朝と夕方は存外に多事なもので、私は氣樂だから斯んなものにも目を留めて居るが、省みられぬ場合の方が多いことゝ思ふ。さうして去年まで確かにさうだつたが、此夏はもうどうなつて居るかわからない。

　

　　　　　　　　　　九

　

　たつた十年ばかりの、しかも飛び／＼の觀察などは、今の植物學に逢つてはかなはぬにきまつて居る。しかし私は前に述べた事實に據つて、今は大よそ是だけの歴史を推測して居るのである。このタケニ草の最初の郷里は、寧ろ人げの少ない山中であつた。山が崩れたり水で荒れたりすると、何よりも早く飛んで來て、そこに芽を吹くのは此草の種子であつた。日本は地變稀でない國だから、順にさういふ處をまはつても、血統は絶えなかつたらしいのである。それが近年は土地利用の型が變つて、人里近くにも遊ばせてある場處が出來、それも底土を切つたり覆したりする故に、追々と彼等の進出が始まり、少なくとも都會の周圍では、所謂異國情調を發散するやうになつたのだが、元々御(18)互ひによく似た身の上である以上は、是はたゞ我々の忘却、もしくは最初からの無關心以外の、何物をも意味しないのである。我々の先祖も山に據り、山あひの小さな空地のみを捜し求めて、末々其後裔が斯んな海端の平蕪の地に、集合し又放浪しようとも思はなかつたことは同じだが、人間の長所は次々の境涯に應じて組織を擴大し生活ぶりを變へ、新たな名稱を認め新たな美�ｺをたゝへるに急であつた餘り、古い縁故のある若干の天然を疎外し、又時としては敵視しなければならなかつたのである。しかしタケニ草の世も亦開けた。人と交渉する言葉は多くなり、それが又追々と耳に快いものとならうとして居る。この落莫たる生活があはれを認められ、終に人間の詩の中に入つて來るのも、さう遠い未來ではないやうに思はれる。

　

(19)　　　　　　　蒲公英

　

　　　　　　　　　　一

　

　春になつて郊外の路をあるくたびに、何度と無く考へて見たことであるが、タンポポは日本の昔からの野の草だ。是が新しい春の日の光に耀いて、黒い土の上に咲いて居るのを見て、眼を怡ばしめなかつた人は無かつたらう。さうすれば必ず名があつた筈である。歌を詠まなかつた萬葉時代の人々は、果して此草を何と呼んで居たらうか。以前佳い名があつて不幸にして忘れられたか。但しは又歌に向かないタンポポが古語であつた爲に、斯うしていつ迄も子供にしか省みられないのであらうか。我々の物の名は誰が作り、誰が是から先は管理して行くのであらうか。斯ういふ答の無い色々の問が、今ではまだ野に充ちて居るやうに思ふ。

　學者が都市に住んで標準語といふものを守り立てる迄は、タンポポといふ草の名の行はれて居た區域は案外に狹いものであつた。それが今日のやうに流行したもとは、或は京都の子供の力であつたかも知れない。地方には今でもまだ幾つかの、大人が附けたかと思ふ名稱が、何となく押込められて殘つて居る。それが懸け離れた遠くの土地に於て一致して居るのは、偶然とは言ひ難いやうに思ふ。さういふ中から或は今一度、昔使つて居た尋常の日本語を、見出すやうなことが無いとは言はれぬのである。

　たとへば千葉縣では上總の各郡に亙つて、蒲公英をニガナと謂ふ方言が行はれて居る。以前春の野の草を野菜とし(20)て摘んで居た頃には、確かに苦いといふことが此植物の特徴であつたらう。鹿兒島縣でも奄美大島の北の村々はやはり此草をニギャナと謂ひ、にがいから苦菜だと説明せられて居る。

　それから今一つ、分布の更に弘い方言がある。岐阜縣では山に屬する北半分、信州でも主として北信の諸郡に於て、クジナと謂つて居るのがそれである。俳諧寺一茶の方言雜集の中にも、ちやうどあの人を咏じたやうな、一章の臼唄を書き留めて居る。

　　　男やもめとクジナの花は盛り過ぎれば御坊《ごぼ》となる

　この御坊は即ち坊主で、何人もすさめざる淋しい人のことであるが、この草の花が綿になつて飛んだあと、恰かもがつさうの樣な頭になる點が似て居たのである。

　クジナといふ名詞も又飛び散つて奧羽の處々に行はれて居る。例へば宮城山形の二縣の南半分でクジナ又はグジナ、九戸《くのへ》の葛卷附近ではクジッケァとも謂つて居る。羽前も米澤あたりはタンポポに近い花の名が別にあつて、?《わか》い葉を食料にする場合ばかり、クジナといふ語を用ゐるのである。越後でもグズナは野菜としての蒲公英の名であつた。多分は北信などの臼唄と同樣に、元はタンポポもクジナの花で通つて居たのであらう。

　佐渡にもクチクチナといふ村がある。土地によつては稀にはクヂナといふ處もあるらしいが、其方は轉訛である。倭名鈔には蒲公草和名フジナ、又タナとも謂ふとあつて、タナの方は今は痕跡も無いが、カ行とハ行とは、日本ではもと紛れ易い音であつた。即ち少なくとも曾て或る時代に、京都の上流の間にもクジナに近い語は認められて居たのである。但し何故に此草をフジ菜と謂つたかは、今はまだニガ菜のやうに明らかになつて居ない。和訓栞には藤菜の意味であらうとあるが、少しも根據は無いのだから解説でも何でもない。それよりも今一足遠くへ尋ねて行つて、更に是以外にどんな名前があるかを、知つて置く方が私たちには樂しみである。しかし斯うした氣の永い穿鑿には果して世間の賛同が得られようかどうか。いつも一人で野中の路をあるいて居る者には、一向に見當が付かぬのである。

　

(21)　　　　　　　　　　二

　

　タンポポの代りに行はれて居る方言は、まだ幾つでも意外なものがある。信州でも山を越えて諏訪の湖岸に下ると、そこにはクジナもあるがそれよりもガンボウジの方がよく知られてゐる。甲州でも國なかの平野はガンボウジ、伊那も上下二郡がすべて其通りで、飯田の城下には又ガンボといふ語もある。クジナの行はれて居る善光寺平などにも、やはりガンボジといふ名が知られて居るのを見ると、是は花の方をさして居たものらしい。私の今の想像では、ガンボウジは子供などの頭の「おかつぱ」のことであつて、あの愛らしい花の姿を、形容した語では無かつたらうかと思ふ。是とよく似た例は白頭翁、歌にオキナグサといふ花の名の、土地さま／”＼の變化であるが、それは他日又別に御話をして見たい。兎に角に是とクジナとの間には、最初から語原の關係は無かつたやうである。

　其次には越後の彌彦山の麓の村などに、ゴゴジヨウと謂ふのが又タンポポのことである。是は諏訪あたりのガンボウジと、或は系統を同じうして居るかと思ふが、それもまだ變化の路筋を考へられぬ。同じ例は遙かに飛び離れて、南秋田の八郎潟の岸の村々に、ゴゴロツコ又はゴゴといふ語があるのは妙であるが、現在はまだ此二處以外に蒲公英をゴゴ、若しくは之に近い音で呼んで居る地方は知らない。

　同じ秋田縣でも北秋田郡の一部はクマボ、山本郡ではクマクマといふ土地がある。青森縣も二つの市を始め、津輕は全體にクマクマといふ村が多く、たゞ北端の小泊《こどまり》などに於て、之をカコモコ又はクワモコと謂つて居るのである。或はアイヌ語からでも出たのでは無いかと思つて、念の爲にバチェラー氏の辭典を引いて見たが違つて居る。福井縣の南條郡にはカッポコと云ふ例があるが、是は寧ろ後にいふタンポポの變化であつて、カコモコとは縁が無いやうである。

　何にもせよ今は名の起つた理由までが、丸で不明になつて居るのだから、歴史を問ふことが殊にむつかしい。とこ(22)ろが他の一方にはなほ色々の方言で、どうして出來たかを想像し得られるものが殘つて居る。誠にたわいも無いことではあるが、それをはつきりと知つて置くと、後に類推によつて思ひの外の解説が成立つかも知れぬ望みがある。先づ一番わかり易いものから言ふならば、信州北佐久郡の一部で蒲公英をチヽグサ、是は疑も無く乳草であつて、あの花莖を折つて白い汁の滴るのを、母の乳房に思ひ寄せたのである。作者の髭男で無かつたことだけは斷定しても差支はあるまい。加賀の金澤で此花をヤケドハナと謂ふと、私に教へてくれた人があるが、もし或はヤイトバナの記憶ちがひでは無いか。もう一度別の人に聞いて確かめたいと思つて居る。自分などの幼い頃には、タンポポの莖を折つて折れ口を肌に押すと、小さな固い乳の輪が出來る。其上を麥の黒穗で叩いて、ちやうど御灸の跡のやうになるのを、ヤイトをすゑると謂つて遊んで居た。併し其爲にヤイト草といふ新名を、此草に付與した實例はまだ聞いて居ないが、チヽグサといふ方は信州と百數十里を隔てた、廣島縣の倉橋島にも同じ例があるのである。

　それから今一つ兒童の命名になるかと思ふのは、相州愛甲郡煤ヶ谷の山村などで、蒲公英をピーピーバナ、東上總の海岸でビンビバナといふもので、是はあの莖を切つて草笛を作つて吹いた者の、記念であつたことは言ふ迄も無い。西の方では攝州の有馬郡などで、シービビと謂つたのも同じ趣旨である。私の在所はそれから十四五里も離れた處であるが、シービビといふのは青麥の莖を折つて、吹きならす笛であつた。子供によつては麥の黒穗のことを、シービビと謂ふのだと思つて居る者もあつた。さうして自分も亦口でシービビと謂つて吹く爲か、私たちの耳には明瞭にそれがシービビと聞えたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　紙やセルロイドの色々の玩具で育てられた人は殆と想像も出來ぬ話であるが、以前の子供は春の立ち歸るを待ち兼ねて、斯うして銘々の遊戯材料を求めたのであつた。人が天然と仲がよくなるのも、本當にそれだけの理由があつた(23)のである。しかも其玩具が時々の流行を追うたことは、昔もやはり今と同じであつた。其中でも起原が古く、何度も時を隔てゝ戻つて來たかと思ふのは、タンポポの莖を折つて兩方を少し割り、それを水の中に入れて、其外皮の圓く反りかへるのを見て居る遊びであつた。子供でなければ其樣な氣の永い見物は出來ないと思ふ。是も上總の幾つかの郡に於て、今でもニガ菜の花をマンゴマンゴと謂つて居る。それが如何なる理由から、さう呼ぶかを知らぬ人も多くなつたが、百年ほど前に著された深川｜元儁《もとちか》の三州漫録に其説明がしてある。市原郡の立野といふ村で實見したと言つて居る。小兒は蒲公英の莖を割いて置いて、「まんごまんごまがれ」といふ文句を唱へる。さうすると草は恰かも其號令に從ふかの如く、徐々として曲つて來るのであつた。是から遠く離れた愛知縣の寶飯《ほい》郡・額田《ぬかだ》郡、又｜幡豆《はづ》郡の一部に於いても、タンポポをマンゴと呼んで居る土地が今でもある。更に西の方に行つて大分縣｜玖珠《くす》郡の山村にも、この草をマンガレと稱する處がある。時を同じうして此遊戯が流行したので無いまでも、兎に角にいつの頃にか九州にも「曲れ」といふ唱へごとは用ゐられて居たのである。

　沖繩の諸島を見渡すと、タンポポの方言の今存するものは案外に乏しい。八重山と宮古との中間に在る多良間《たらま》といふ寂しい孤島では、此草をトゥルクナーと謂ふさうであるが、その意味は倭名鈔のフジナと共に、もう私たちには判らなくなつた。それから琉球の本島まで戻つて、一ばんよく知られて居るのはワーオーバー、ワーは即ち家猪のことで、本來は此獣の鳴き聲から出た名である。だからワーオーバーは「豕《ぶた》の青葉」だと思つて居る人も多いらしいが、果して蒲公英を豕に食はせるかどうかは確かで無い。那覇の周圍其他の或る村々では、是をマーウーフアーと謂ふ者もあり、それを眞大葉の意味だと説明してくれた學者もあるが、この二つの語はもと一つらしいから、却つて雙方の解釋の共に誤つて居ることも危まれる。それから今一つ、是もやはり那覇附近にナガリールーといふ方言があつて、是は兒童の國語かと思はれる。沖繩音ではmが殆と常にnに變化し、例へはイマ（今）をナーといひ、ミヤグスク（宮城）をナーグスクと發音して居る。だから恐らくは又此ナガリールーも、「曲る」といふ語の命令形であつて、近(24)世此島でもタンポポの莖を曲らせて、嬉笑する童戯が行はれて居た痕跡であらう。

　上總はどういふものか、妙に此植物の異名が多かつた。茂原の近くでは或はオヤカウカウバナともいふと、是も深川氏の漫録に見えて居る。私の想像ではもとは有名な昔話などがあつて、それで此樣な名が行はれることになつたかと思ふが、兎に角親孝行といふ理由は、此花がよく御使ひするからであつた。信州の子供たちは、タンポポの花の白く綿になつたものを手に取つて、「お坊お坊飴買ひに行け」と言ひつゝ、ふつと吹飛ばせて樂しむといふことが、小山眞夫氏の小縣《ちひさがた》郡民謠集には見えて居る。私の生まれた瀬戸内海の濱近い村にも、是と同樣の遊びはあつたが、唱へごとは全くちがつて居た。今でも思ひ出すのは春の青空にあの花をかざして、幼い子たちが皆一樣に、「あーぶら買ひに酢う買ひに」と言つて、あの花の穗をふつと吹いた。蒲公英の種子は細長く下ぶくれで、少しばかり�ｺ利の形に似て居た。あれが空中に飛び散つて行く樣子を見て、我々は子供が�ｺ利を手に下げて、酢や池を買ひに行く姿を思つたのである。さうして此遊びも又弘く行はれて居たと見えて、對馬の島の洲藻といふ村でも、やはりタンポポを「酒買ひ坊」と謂つてゐる。

　

　　　　　　　　　　四

　

　多くの野の草が稚子を名付親にして居たことを知つて、始めてタンポポといふ言葉の起りが察せられる。タンポポはもと鼓を意味する小兒語であつた。命名の動機はまさしくあの音の寫生に在つた。それが第二段に形の鼓と近い草の花に轉用せられることになつたかと思はれる。小野蘭山の本草綱目啓蒙に、蒲公英を越中國でツヾミグサと謂ふとあり、しかも此地方でタンポポといふのは、花生けその他の竹の筒のことであるのを見ると、やはりあの鼓の音も元はタンポポと聽いたのであつた。中世盛んに流行した歌問答の昔話にも、西行とか宗祇とかいふ旅の歌人が、攝津の鼓の瀧に來て一首の歌を詠んだ話がある。

(25)　　　津の國の鼓の瀧を來て見れば川ぺに咲けりたんポポの花

　さうすると傍に草刈りの童子が居て、第三の句を「うち見れば」と改めてくれた。宗匠自慢の鼻は忽ち折れ、其童子の何とか明神の化現なることを知つたといふ類の物語、是を詳しく説明することは退屈だが、兎に角此話の出來た頃までは、人がタンポポの本は鼓の名であることを知つて居た。後年この樂器の流行がすたれて、小兒は名の起りをもう忘れてしまつたのである。

　タンポポとよく似た名の付け方は、なほ他の色々の樂器にもあつた。例へば越中から越後の平野にかけて、御寺の本堂の大きな鐃鉢《ねうばち》をガンモモ、家々の佛壇の小さな鉦を、チンモモといふのは普通の語である。ガンとかチンとか謂つたばかりでは、幼い人たちには之をあの音の形容と認められなかつた。餘韻の暫らくの間モモと續く所までを、是非とも其名稱の中に取入れなければ、彼等には氣がすまなかつたのである。ところが愈々本堂の大鉦をガンモモと呼ぶことにきまつて、又暫らく經つと今度は形の似たものに之を轉用する。越後の奥から信州北部にかけて、?《かし》の實のうてな我々がドングリのオワンと謂ひ、又は戯れて花嫁のがうしなどゝ呼ぶものを、子供は皆ガンモモと謂つて居る。寺の鐃鉢とは大小の非常な差があるが、形だけでは成程よく似て居る。蒲公英のタンポポになつて來た順序も、全く是と同じであつたと思ふ。

　あまり長くなる故もう今囘で此話はおしまひにする。小兒はタンポポの最初の發明者ではあるが、決して我等の如くいつまでも自分の手柄を記憶して居ない。鼓といふのが三河の萬歳以外に、使ふ者が無いやうになれば、後はたゞタンポポの音の快さと、其花の鮮かな色とを樂しむばかりで、言はゞ其次にもつと面白い名前の、現はれて來るのを待つて居るのである。さうして成人のやうにいつまでも、無意味なる符號を守つて居ることは出來なかつた。だから少しづゝ新意匠を加へて此音を變化させようとして居るのである。

　タンポポは私などの國ではタンポであつた。近畿の府縣では或はタンポコといひ、又はタンポンと謂つた。東海道(26)でも駿河ではタータンポ又はタータンパ、伊豆の入口の方はタンタンボ、奧伊豆に行くとタタンポコ、相州の三浦ではチヤンポ、甲州の東八代はチャンポポ、上州妙義山の周圍はチヤンポコ、それが日本海上に飛んで佐渡の外海府《そとがいふ》もチヤンポンポンン、同じく河原田ではチヤンチヤンポンポンとさへ謂つて居る。

　私たちの今住む三多摩地方には、タッポ又はタッタッポといふ例が可なり多く、是も亦一筋東北の方に向つて居る。その中の最も大きな變化は、岩手青森秋田の三縣に於てテテポポ又はテデッポッポなどゝいふ例である。南部の九戸ではデデポッポボ、北郡の浦野館はデテココ、羽後でも田澤湖岸はデデポッポであるが、横手横澤あたりはテテポッポと謂つて居る。ポッポは恐らく鳩の鳴き聲で、是も今までタンポポ一類の名が、餘りに意味が無い爲に、出來るだけ鳩の聲に近づけて聽かうとしたのである。斯ういふ心の願ひは小兒には常に多い。後に述べたいと思ふツクシといふ春の草なども、今では秋の蝉のツクツクホウシと、その名をおもやひにしようとする子さへあるのである。

　

(27)　　　　　　　虎杖及び土筆

　

　　　　　　　　　　方言量の多少

　

　近世始めて海外から持込まれた物品だけには、或は一種特別の法則が働いて居て、其爲に必ず存在すべき方言の分野を、紛亂させたので無いかといふ疑は有り得る。然らば國土の聞發以來、此民族と相生に今も傳はつて居る山野の草木はどうあるか。何よりも先に我々の注意すべき一事は、松竹梅櫻の類が古今南北を一貫して名一つであるに對して、一方には爰に説かんとする虎杖又は土筆の如く、丘を越えるともう異なつた稱呼を、帶びて居るものゝあることである。方言何に因つて起るかといふ問題は、當然にそこ迄溯らなければならず、方言に區域ありといふ論者も亦、この顯著なる新舊の共通を黙過するわけには行くまい。

　時が方言を造ると云ふごく普通の想像は、命名の本意が段々に忘れられ易く、忘れると新しいものに移り勝ちだといふ一點から見れば當つて居る。併し現存の古語には如何なる語原家でも、こじ付け能はざるものが多數なるに拘らず、それは一種の符號となつて後生大事に守られて居るのである。さうして他の一方では分り切つて居る名稱が、次々取替へられて來て居るやうである。即ち單語そのものにも特に異稱を招き易いものと、さうで無いものとが有るのでは無いか。もし然りとすれば、其理由を目的物の社會的地位、もつと具體化して言へば人と其物との關係如何に求(28)めて見るのが順序であらう。勿論古くからある言葉ほど、變化の機會は多かつたわけだが、事によると其變遷は後々のもので無く、最初から名前澤山に生まれ付いて居たかも知れない。内容は正しく固有のものであつても、稱呼はそれ／”＼の入用の時を以て始まり、それが一處一人の制定に基かぬといふ點は、近世舶載の商品なども異なる所は無い筈である。

　虎杖の方言歴史に關しては、幸ひにして記録の徴證が存留する。枕の草子時代の京都語がイタドリであつたことは、かの枕の草子の、「杖無くてもありぬべき顔つきを」といふ奇警なる一文章によつて熟知せられる。それから遠く溯つて反正天皇紀の注記に、「多遲《たちひ》の花は今の虎杖の花也」とある虎杖も、此書の出來た時代には多分又イタドリであつたらうが、別になぼタチもしくはタチヒといふ語は傳はつて居たのである。方言は必ず轉訛と解し、さうで無ければ異民族語の混入と見ようとする人には、此系統を説明することが既に容易で無い上に、之を右二つの史料に據つて、單なる新陳代謝の例と認めることも事實が許さないのである。といふ理由は至つて簡明で、現在に於てもイタドリとタチヒとは虎杖の日本語として弘い區域に行はれ、過去少なくとも千數百年の間、時の影響を受けて變化しては居なかつたからである。さうして仔細に其錯綜の跡を檢すれば、二語は久しく併存し、其擇一は單なる小區域の流行であつたことが知れるからである。即ち將來闡明せられねばならぬ或る法則に由つて、方言は所謂古典の時代から、著々として發生しつゝあつたことが推測し得られるのである。

　

　　　　　　　　　　理由ある新語作製

　

　記録保存の意味に於て、煩はしいけれども稍々多數の實例を擧げて置きたい。先づイタドリに付ていふならば、その北方の限界は越後であり、南端は土佐の海に及んで、中間にタチヒの領域を包み、九州には僅かなる浸潤の痕を見(29)るのである。關東平原の例はなほ乏しいが、少なくとも武藏にはもう此名は知られて居る。

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　武藏秩父郡

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　同　西多摩郡氷川

　　イタドリ　　　　　　　　　　　　伊豆神津島

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　駿河梅ヶ島

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　遠江御前崎其他

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　三河長篠等

　　イタンドリ（エドズイコ）　　　　信州諏訪以南

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　飛騨吉城郡

　　エダドル（エダロベ）　　　　　　越中上新川郡

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　志摩船越

　　イッタンドリ　　　　　　　　　　伊賀比自岐

　　イッタンドリ（スカンポ）　　　　大和月ヶ瀬

　　イタヅロ（ゴンパチ）　　　　　　同　吉野北山

　　イツタンドリ　　　　　　　　　　山城伏見

　　イッタンドリ（イタイトリ）　　　丹波福知山其他

　　エッタンドリ　　　　　　　　　　同　多紀郡

　　エタンドリ　　　　　　　　　　　播磨加東郡

　　イタヅリ　　　　　　　　　　　　淡路沼島　

(30)　　イタズリ（イタンポ）　　　　　阿波一宇其他

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　周防田島

　　イタンドリ　　　　　　　　　　　石見那賀郡

　　イタイドリ　　　　　　　　　　　同　太田町

　　イタズリ（スヰジ）　　　　　　　伊豫今治市

　　イタヅル（イタンボ）　　　　　　同　喜多郡

　　イタヅリ　　　　　　　　　　　　土佐幡多郡

　　イタヅリ　　　　　　　　　　　　同　沖ノ島

　　イタドイ　　　　　　　　　　　　薩摩長島

　以上の區域外にもイタドリと謂つて通ずる土地はなほ弘いが、それが在來の語か、はた新たなる匡正に基くものかを、確かめ得ざる場合が多い。信州北部などは之に反して、幾分著しい轉訛があり、又何とかして之を解し易い語に、改めようとする傾向は他の地方にも見られる。實際むつかしい名前には相違ないのである。

　　イタンドロ（イタンダラ）　　　　信濃東筑摩

　　イタンドコロ　　　　　　　　　　同　松本市

　　イタコン　　　　　　　　　　　　同　小縣郡一部

　　イタズイコ　　　　　　　　　　　同　下水内郡等

　　イッタンダラケ　　　　　　　　　飛騨高山

　　エッタスイ／＼　　　　　　　　　近江一部

　　エッタノザウリ（スカンポ）　　　大和五位堂

(31)　　イタロウ　　　　　　　　　　　石見波子

　此以外に特に注意するのは、阿波の山村や伊豫土佐の各地に、之をイタンポ又はイタンボといふ例の多いことである。信州の下水内郡のイタズイコなども、スイコは東京でいふスッパグサ即ち酸模のことであるらしいから、イタドリのイタは元來獨立して、此植物を意味して居たのかも知れぬ。イタンポの後半はスカンポなども同じ樣に、もと小兒の間に行はれた一種の愛稱らしい。虎杖をスカンポと呼ぶ區域も相應に廣く、北は越後東は上總、西は瀬戸内海の沿岸に及んで居る。京都郊外の村でスッポン、佐渡の外海府でスッポンポン又はポンポンスイカ、豐前の宇佐郡でもスッポンポンと謂ふのを見ると、山で此植物を折取る時の興味が、スカンポといふ語の人望を助けたかと思ふが、それは必ずしも最初からの意味では無かつたやうで、上總下總などで單にスカンポといふのは、本來はスカナ即ち酸模のことであつた。

　少なくともスカンポのスカは酸いといふことで、人は先づ里近くに多いスカナから之を經驗し、後に山中の同類にまで其名を推及ぼしたのであつた。多分は近世になつての改稱であらうか。信州下水内郡のイタズイコなどは、略々その變化の過程を推測せしめる。此以外になほ同じ地方には次のやうな類例がある。

　　ヤマズイコ　　　　　　　　　　　信濃下水内郡等

　　ウマズイコ　　　　　　　　　　　同　更級郡

　　ボウズイコ　　　　　　　　　　　同　埴科郡

　　タカズイコ　　　　　　　　　　　同　北佐久郡

　　キズイコ　　　　　　　　　　　　同　上

　　オイランスイコ（スイコンボウ）　同　南佐久郡

　　カラスッパ　　　　　　　　　　　同　北安曇郡

(32)　此等は悉く命名の趣旨が自分にはわかる。即ちタカズイコは高いから、ウマズイコは馬であつて、稍々大形のものにはよく用ゐられる。オイランスイコも又同じ意味で、虎杖は確かにスイコ中の上臈である。それから山ズイコ、木ズイコ、棒ズイコは明白であるが、北安曇のカラスッパも同じく稈酸模で、此種の特徴が長大にして幹を存する點にあるからであらう。此と近いものに福島縣石城郡のタケスカナ、福井縣大野郡又山口縣阿武郡のタケスイバなどがある。何れも竹のやうな酸模といふことで、元はそれ／”＼何とかいふ名があつたらうと思ふのに、斯うしてよく似た動機に基いで、新しい方言を造つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　舊語保存

　

　虎杖を信州更級などでウマズイコ、上總の望陀《まうた》方面でウシノスカッポと謂ふに對立して、自分の生地中部播磨では酸模をウシダンジと稱し、ダンジは即ち虎杖のことであつた。ダンジは又隣の村々ではダイジとも謂つて居る。さうして僅かな野を越えて加東といふ郡に行けば、もうエッタンドリといふ語が行はれて居るのであつた。私は枕の草子を讀んで所謂雅語のイタドリであることを知つて後、頗る自分たちの方言を耻づるの感があつたが、近頃比較を重ねて見ると、ダンジは即ちタチヒであつて、古いことに掛けては遙かに他を凌ぐものがあつたのである。どうして此一區劃のみに、斯ういふ古語が殘つて居たかはまだ謎であるが、山陰山陽は少なくとも三分の一、それから内海の幾つかの島と、對岸四國の一角までは確かに分布して居り、更に不思議なことは其間を飛び／＼に、他の色々の方言の入交つて居るのである。地圖を染めて見る代りに稍々細かく其實例を擧げて置くが、

　　ダンジ　　　　　　　　　　　　　播磨神崎郡以西

　　タイジ　　　　　　　　　　　　　同　加西郡

(33)　　ダイジンバ　　　　　　　　　　丹後中部

　　タケダンジ　　　　　　　　　　　同　竹野郡

　　ダンジ　　　　　　　　　　　　　但馬一部

　　ダンジ　　　　　　　　　　　　　因幡岩美郡

　　ダンジ　　　　　　　　　　　　　美作英田郡

　　タヂナ　　　　　　　　　　　　　備中北木島

　　タジンコ　　　　　　　　　　　　備後深安郡

　　タジナ（カンポン）　　　　　　　安藝賀茂郡

　　タシッパ　　　　　　　　　　　　伊豫西條

　　タシッポ（ゴーザ）　　　　　　　同　大保木

　　タジナ（ハアタナ）　　　　　　　同　弓削島

　なほずつと懸け離れて、伊勢の度會《わたらひ》郡にも之をタンバと謂ふ土地がある。此等の諸の例の中でも、タジナなどは之を轉訛といふことさへ出來ぬ。野外で採取する食用品をナと呼ぶことは、殊勝千萬なる昔風であつて、とても近世人の思ひ付くべき名稱で無い。察するところ此等の地方のみは寧ろ稍々怠慢で、特に此植物をもてはやして新名を案出しようとしなかつた爲に、古いものが偶然に保存せられたのである。

　そんならこのタチヒの領域に介在して、現在異を立てゝ居る方言はどうあるかといふと、それにも二通りあつて必ずしも總てのものが、スカンポや竹スイコの如く、後に出來たとも認め難い。其中でも殊に自分が心を惹かれるのは、次のやうな一系統の方言である。

　　サイジ　　　　　　　　　　　　　備前邑久郡

(34)　　サイジンコ　　　　　　　　　　美作苫田郡

　　サジッポ　　　　　　　　　　　　備中川上郡

　　サシツポ　　　　　　　　　　　　同　小田・淺口郡

　　サジッポウ（イタドリ）　　　　　出雲仁多郡

　俚言集覽の増補に、伊勢でも虎杖をサシッポと謂ふとあるが、それは何れの村であり、又今も存するか否かを知らぬ。自分の調査では下野那須郡の伊川村などに、サジッポの例が飛んで存在する。それが必ずしも特殊の傳播で無いことは、羽後由利郡の海岸でもサシボコ、それから尚東北一帶のサシドリがあつて、寧ろ分布は他の何れよりも弘いのである。

　美作備前のサイジ又はサイジンコは、恐らくは隣境のダイジとの混合であらうと思ふが、是にも別になほ一系統の尋ね得られるものがある。例へば、

　　ハイタ　　　　　　　　　　　　　讃岐豐島

　　ハイタ　　　　　　　　　　　　　伊豫安居島

　　ハアタナ（タジナ）　　　　　　　同　弓削島

　　ハエタネ　　　　　　　　　　　　同　伯方島

　　ハイタナ（イタズリ）　　　　　　安藝倉橋島

　　サイタナ　　　　　　　　　　　　周防大島

　是が悉く虎杖の土地稱呼であるといふことは、比較をして見ぬ人には信じ難いことかも知れぬが、一たび古人の歌詠の中にも現はれたるサイタヅマといふ不思議な語を想ひ起すならば、それは寧ろ語音が時と共に、如何に移り變つて行くかを示すべき好個の一例といふことが出來る。サイタヅマは或は單に若々しい春の草のことゝ謂ひ、又虎杖を(35)いふとの口傳もあつた。例の和訓栞の増補語林には、「先たつの妻」の義であらうなどゝ説いて居る。つまり古人も確かなことは知らず、たゞその言の葉の珍しさを興じたのである。さういふ部分には却つて作り事が少ないかと思ふ。故に自分などは以前或る田舍に、虎杖をサイタヅマと謂ふ例があつて、偶然にそれが京人に面白がられたとしても、少しも意外には考へぬのであるが、今の所ではまだ確かにさうであつたとも言はれぬ。寧ろ是から以後の新しい調査に由つて、逆に此語の曾て存在したことを、推定する方が早路のやうである。

　サイタヅマは見た所複合の形で、且つ其中にはイタドリのイタを含んで居る。併し自分の想像では、果して是が虎杖の方言なりとすれば、寧ろタジナのタジといふ語に、前と後とが附加したものだらうと考へる。單なる机上の論としては、本來長かつた語が分解して、タジ又はイタを生じたものと言ひ得るであらうが、それでは私たちの切に求めて居る變化の理由といふものがなほ一層不明になる。その上に次に述べるやうな他の地方の實際とも愈々喰ひちがふのである。

　

　　　　　　　　　　國の兩端の方言

　

　日本の中央部、全版圖の約半分の虎杖方言は是で一先づ分つたとして、他の半分を占める國の端々が、如何なる異同を示すかを此次には考へて見る。それが自分には言語成長の歴史を辿るべき、最初の手懸かりと信ぜられるからである。

　此中でも九州の方面は比較的簡單で、稀にイタドリの浸潤を受けた以外、一二の異稱の極めて限地的のものを交ふるのみで、大體はサドといふ語を以て一貫して居る。

　　カワタケ　　　　　　　　　　　　肥前南高來郡

(36)　　パッパ　　　　　　　　　　　　對馬豐崎村

　　ギシギシ　　　　　　　　　　　　筑前戸畑

　　カワタケ　　　　　　　　　　　　豐後東國東郡

　　サトガラ　　　　　　　　　　　　同　速見郡

　　サド　　　　　　　　　　　　　　同　保戸島

　　サトガラ　　　　　　　　　　　　同　玖珠郡

　　サド　　　　　　　　　　　　　　肥後下益城郡

　　サドガラ　　　　　　　　　　　　同　八代郡

　　サド　　　　　　　　　　　　　　同　球磨郡

　　サド　　　　　　　　　　　　　　日向東西臼杵郡

　鹿兒島縣のみは現在はイタドリで、サドといふ語が知られて居らぬ村が多いかと思ふ。サドガラのガラは恐らく稈であつて、此植物が成長してしまつて、莖になつて後の名であらうと思ふのは、北の方にもそれと同じ樣な例があるからである。

　ギシギシといふ名は又紀州の有田郡などにも飛び離れて存在する。是は虎杖の齒に當る感覺で、あれを愛食する者のあどけない形容のやうである。此地方の今一つの方言には、熊野から大和の十津川まで掛けて、ゴンパチといふのがあつて系統が不明である。吉野の北山でもゴンパチはイタヅロと併存して居るから、是も至つて假初なる流行に始まるものと見てよからうと思ふ。

　それからずつと離れて東北の諸縣であるが、此方は九州のサドと對立して、サシといふ語を以て一貫して居る。例は多いから唯要處だけを擧げて置くが、

(37)　　サシトリ（スカツパ）　　　　　津輕

　　サシトリ（シカンコ）　　　　　　下北佐井濱

　　サシトリ（スカンコ）　　　　　　野邊地

　　サシドリ　　　　　　　　　　　　南部八戸

　　サシドリ　　　　　　　　　　　　鹿角郡

　　サシドロ　　　　　　　　　　　　南秋田郡

　　サセドリ（トゴエ）　　　　　　　同　　男鹿半島

　　サスドリ　　　　　　　　　　　　羽後龜田

　　サスガラ　　　　　　　　　　　　同　由利郡笹子

　　サシボコ　　　　　　　　　　　　同　同　　金ノ浦

　　サスドリ　　　　　　　　　　　　同　田澤湖岸

　　サシドリ　　　　　　　　　　　　同　雄勝郡

　　シカドリ　　　　　　　　　　　　同　飽海郡飛島

　この最終のシカドリは、前に見えるシカンコ・スカンコと共に、もと酸いといふ點から出たことが想像せられる。さうすればサシドリも亦イタドリと同樣にサシとドリとの複合であつて、其サシは下野の那須、伊勢の一部などのサジッポ、備後のサジナ（本草啓蒙に由る）と一つであるは勿論、なほ九州のサドとも關係があるのかも知れぬ。

　次には南秋田の一部で聽いたトゴエである。土地では近頃北海道の方から、入つて來た語のやうに思つて居る者もあるが、それは少なくとも半分の誤りである。半分といふのは他の一方に、別にこんな語の存立を許す下地のあることを心付かぬからである。同じ東北でもやゝ手前の方に來ると、他に今一種の名詞がより多く用ゐられて居る。

(38)　　ドンガラ（ドンガメ）　　　　　岩代大沼郡

　　ドンゴイガラ　　　　　　　　　　陸前柴田郡

　　ドンゴロ　　　　　　　　　　　　越後岩船郡

　　ドンゴロ　　　　　　　　　　　　同　粟生島

　　トントンガラ　　　　　　　　　　信濃下内水郡

　靜岡縣方言辭典に、此縣にもトトクサと謂ふ區域があるといふのは、事によると此系統かも知れぬ。北の方の境としては、羽後の横手町のドンガランボ、同仙北郡横澤村でもドンガラである。但し別になほサシドリがあつて、葉が出て後はサシドリと謂ひ、若いときをドンガラと謂ふと報告せられて居るが、同郡大曲ではサシドリ又はサシボツコは若芽、さうで無い場合がドンガラだといふ。何れか一方が思ひちがひで、恐らくは大曲の方が正しいのでは無いかと思つて居る。土地で確かめて貫へば、わけも無く知れることである故、此點はかの地方の篤志家に一任する。

　

　　　　　　　　　　中間地帶の混合

　

　右のドンガラのガラがもし莖のことならば、前半のドンは其意味は不明ながら、兎に角イタドリ・サシドリのドリと元一つで、會てドリとのみ謂つて虎杖を意味した時代が、あつたらしいことを想像せしめる。然らば後に至つてイタと謂ひサシといふ語を、之に附加した動機若しくは原因は何であらうか。イタの方は現在に於てはまだ何の端緒も得られぬが、他の一方のサシ又はサスは或は棒のことでは無かつたらうか。此點に關しては他日更に細敍したいと思ふが、棒は朸《あふこ》として肩に擔ぐ風が盛んになる以前から、常人の生活には必要の多いものであつたが、之を表する古語は最早中央の標準語には殘つて居ない。さうして東北地方のみにはサスといふ名があるのである。この虎杖の大きな(39)特徴が、大竹に乏しい奧羽に在つて注意せられ、之を棒樣のドリと呼ぶに至つたことは、竹ある方面でタケスカナ等の名が生じたのと、同じ事情と見ることが出來るやうである。なほサスタケとかサスマタとかいふ語とも、考へ合せて見るべきである。

　ボウといふ名詞とても、後に木篇に奉の字を付與したといふのみで、まさか支那語の借用ではあるまいと思ふ。私の意見が正しいならば、是はホコといふ語の分化であつた。ホコもハタホコなどゝ謂つて、本來刃ある武器に限られたものでは無い。關東一帶で小兒等が弄ぶ小形の棒をボクトと謂ひ、從つて木刀といふ漢字を當てようとするものは、他の地方でベエタ、バイタなどゝ謂ふと同樣のもので、恐らくは又此ホコから出て居るのである。俗に獨活《うど》の大木などゝいふ形ばかりいかめしくて弱いものを、栃木縣あたりではイモガラボクトと謂つて嘲つて居る。即ち芋莖のホコの如しといふ意味である。能登の石動《いするぎ》山の麓の村では、虎杖をイタヅリともいふが又ガラボコとも謂ふ。是から振りかへつて考へると、羽後飛島其他のサシボコも、命名の理由はいと明らかで、たゞ一方何れかを忘れて、趣旨が重複して居るといふに過ぎぬことは、前に多くの例を擧げたナンバントウモロコシなども同じである。

　斯ういふ混淆が個々の方言領の境目に發生することは、單語の運命ともいふべきものであるが、自分の知る限に於てはさういふ入會地は數多くあつて、未だそれを重ね寫しして一般的區劃ともいふべきものを、定めることが出來ぬのみである。

　虎杖に就ては自分の生國瀬戸内海の北岸なども一つの中間地帶であつた。ダイジはイタドリと入交り、他の一方にはサシの系統かと思ふサイジンバ、サジナにも接して、なほ新しいスカンポさへも併用せられる。他の一端では信州北部羽後の雄物川流域などにも、二系相剋の跡を留めて居る。太平洋側では陸中釜石の附近が其一例であるが、山本鹿洲君の報告では、ササドリ及びアオバといふ他に、尚ボーボーガラとデンボーガラとの二つが數へられた。但しこのボーボーを直ちに今日の棒のことだと、斷定してしまふのはまだ早い。といふ理由は東北一帶には、山野に此植物(40)が盛んに繁茂し、小兒が其若芽を生食する以外他に色々の利用法があるからである。津輕などではあの枯れた莖の中に住む蟲を取つて、魚釣の餌にもして居るが、今一段と弘い用途は燃料である。圍爐裏に親しみの薄い今日の人には、聽いても同感は起らぬかも知らぬが、燃料の種類殊にその燃え方によつて、名を付けた例は元は多かつた。馬醉木《あしび》をベリベリ柴と呼び、松毬をチチリと謂ふ類は、始は幼い者を喜ばせる爲としても、今は既に親々の方言になつて居る。故に虎杖のボーボーガラなども、同じく燃える姿からこんな名を成程といふ人が、次第に多くなつたのかも知れぬ。紀州の日高郡の或る村ではホホロダケといふ名前もある。併し其爲に虎杖をホコと謂つた前例と、全然没交渉とまでは言ひ切るに及ばぬ。玉蜀黍のマメキビを作つたやうに、甲あるが爲に乙の方言が殊に採用し易かつたといふ場合は多いのである。復島縣石川郡には、虎杖をテテポーポーといふ例があると報ぜられる。もしそれが誤解で無いならば、やはり一方鳩の啼聲などがある爲に、少しく轉訛してこんな名になつたのである。岩手秋田の田舍ではテテポーポは蒲公英のことであるが、是とても變化の過程は同じで、若し鼓の音のタンポポや、鳩のテテポーポが無かつたならば、蒲公英を斯う呼ぶわけが無いのである。同じ事情から鼓蟲（ミヅスマシ）のマイマイコンゴウが、小兒のキリ／＼マヒの遊戯と名を一つにし、土筆のツクツクボウシは、寒蝉の啼聲と共通の名を持つて居る。土筆は殊に少年の支配に服して居た爲か、斯ういふ二つの原因を氣輕に調合した例が至つて多い。さうして其經路が虎杖よりはもつと明らかに、尋ねて行かれるやうに思はれるのである。

　

　　　　　　　　　　複合形と語義

　

　土筆を表示する日本の方言は、今日もまだ増加して行かうとして居るが、主要なる系統は大略四つであつて、その發生の順序の明らかにし難いこともよく虎杖と似て居る。相違はたゞ此方は全體に命名の必要が遲く始まつたと見え(41)て、其趣意が大よそ察せられ、從うて其相互影響交雜の跡が、幾分か簡單に指示し得るといふ點に在る。

　先づ最初には標準語として承認せられて居るツクシであるが、是は稍々古く文學語として用ゐられて居たといふのみで、現實の領分は決して廣大で無い。東京などですら子供はツクシンボと謂ひ、京都近くでもツクツクシ又はツクツクと呼んで居る。斯うなると既に複合形で、純なる元の姿で無い故に、是から直接には語義を問ふことが出來ぬのである。ツクシは自分の推定では、澪標標（ミヲツクシ）のツクシであつて、突立つた柱を意味する。こんな微物に向つて、通例は重々しく考へられる標木の名を轉用したところに、もう最初からの輕い戯れがあると思ふ。關東以北に於ては特に設けられたる境の榜示のみならず、天然の生木にもツクシの名を與へ、更に進んでは稍々尖つたる山の峰の、特に目標となるものを大ツクシ小ツクシなどゝいふ例が多い。過大過小の差はあるが、轉用といふ一事は土筆のツクシも同じである。

　ツクツク又はツクツクシに至つては、假令「つく／＼と立つて居る」といふ心持が加はつたにしても、前にツクシといふ語が先づ存在しなかつたらば、直接には發生する語では無かつたと思ふ。それにも拘らず是とよく似た語の隨分と弘く行はれて居るのには、單なる口拍子以上に、今一つ大切なる原因があつたからである。

　　ヅクヅクシ　　　　　　　　　　　攝津田邊町

　　ヅクシ（ヅク）　　　　　　　　　尾張西春日井郡

　　ヅンヅクシ　　　　　　　　　　　遠江濱名郡

　　ヅクシ　　　　　　　　　　　　　同　森町

　　ヅクヅクシ（ヅクシ）　　　　　　佐渡外海府

　　ヅクヅクス　　　　　　　　　　　盛岡市

此通り多くの例は、何れも殊更にツクの音を濁つて居る。是は自分に取つては無意味な訛謬とは思はれぬ。即ち單(42)に「突く衝石」といふ以外に、更に第二の系統に屬する「續ぐ」といふ趣旨が添加して居たからだと信ずる。多くの讀者は或は自分の郷里ばかりの一些事なりと考へられるか知らぬが、小兒が土筆を袴の部分から二つに折つて、そつと元の通りに挿して置いて、何處で續いだかをあてさせる遊戯は、古いと見えて殆と全國に行はれて居る。その爲には唄もあり又唱へごともあつたので、ヅク／＼ほ即ちその常用の語として發育したらしいのである。此事を知るには今少しく精細なる比較が入用である。

　　ヅクヅク　　　　　　　　　　　　津輕

　　ヅクヅク　　　　　　　　　　　　陸中釜石

　　ヅクヅク　　　　　　　　　　　　陸前氣仙沼

　　ツギノコ　　　　　　　　　　　　陸中平泉

　　ツギグサ　　　　　　　　　　　　仙臺附近

　　ツギナンボ　　　　　　　　　　　野州北部

　　ツゲノコ　　　　　　　　　　　　下總猿島郡

　　ツツンギノコ　　　　　　　　　　上野邑樂郡

　　ツギツギ　　　　　　　　　　　　越後柏崎邊

　　ドコドコ　　　　　　　　　　　　同　西頸城郡

　　モトモト　　　　　　　　　　　　越中某地

　　ドコドコグサ　　　　　　　　　　加賀能美郡

　　ツギツギグサ　　　　　　　　　　紀州那賀郡

　　ツギマツ　　　　　　　　　　　　土佐

(43)　加賀では別にヘビノロウソク、若しくは?燭草といふ名があるのに、之をドコドコ草といふのは、次のやうな童詞があるからである。

　　　どこ／＼繼いだどこ續いだ

　　　あたまの天井まで皆ついだ

　越後の姫川流域のドコドコにも、

　　　どこ／＼どこから續いだ

といふ言葉があり、紀州の有田郡でも、

　　　つぎ／＼ぐさどこ續いだ

と謂ふさうである。即ちツクシといふ語は由緒正しくとも、是一つからツクツクといふ名は成長しなかつた。誤りにもせよ確かなる根據はあつた。さうしてイヅコ（何處）をドコといふ樣になつたのは近世だとすれば、其頃以前の世の小兒遊戯にも、尚其中間の同じ類の語があつたことが知れる。

　

　　　　　　　　　　語義の推移と感化

　

　同じ「どこ／＼續いだ」の遊戯も、土地によつて土筆即ち花莖を以て行ふところもあれば、又杉菜即ち葉莖を以てするところもあつた。紀州有田郡のツギツギグサなどは杉菜であり、土佐でツギマツといふものも杉菜を意味し、土筆は之をツギノコといへば杉菜の方が前らしい。常陸那珂郡の山村ではツギノコといへば杉菜を意味し、土筆は之をツギノコノハナと呼んで居る。能登の鹿島郡でスギナノトー、越中上新川郡ではスギナコート、コートは蕗《ふき》などの薹のことだから、是も杉菜の方を主にしたのである。それから考へて行くと、杉菜は成程適切なしかも佳い名ではある(44)が、似よつた針葉樹も色々ある中に、特にスギといふ名が弘く行はれたのは、やはり亦「繼ぎ／＼」の遊戯が、此音を耳に親しからしめた結果では無からうか。

　其杉菜の方言を調べて見ると、土佐のツギマツといふ以外に、松にたとへたものも二三ある。例へば、

　　マツナ　　　　　　　　　　　　　肥前南高來郡

　　マツナ　　　　　　　　　　　　　筑前

　　マツブキ　　　　　　　　　　　　播磨

　此二つは本草啓蒙に出て居る。今も果してさういふかどうかを知らない。其他、

　　スギナ　　　　　　　　　　　　　遠江龍川村

　　シギナ　　　　　　　　　　　　　越後粟生島

　　スイナ　　　　　　　　　　　　　陸中種市

　　スギグサ　　　　　　　　　　　　陸前田代島

　　ツギグサ　　　　　　　　　　　　岩代伊達郡

　　ツギナ　　　　　　　　　　　　　新潟縣一部

などが皆杉菜の方言である。越後には草をツギナ、花莖をツギツギといふ土地があるのでは無からうか。尋ねて確めて見たいものと思つて居る。

　兎に角に特にツギナといふ語の發生し易かつた事情はあるので、假に杉菜といふ方言が獨立に始まつたとしても、是もツギツギがツクシと提携したやうに、久しからずして二種の趣旨を混同することになつたかと思ふ。久しく實地を省みなかつた人たちには、或は信じにくい話であるかも知らぬが、同樣の例は弘く捜索する迄も無く、土筆一つに就てもなほ容易く次のものを擧げることが出來る。たとへば私の郷里の播磨神崎郡では、杉菜をオスギと謂ひ、土筆(45)をホウシと謂ひ、さうして次のやうな童詞があつた。

　　　お杉だれの子、ほうしの子

　　　ほうしだれの子、お杉の子

　成程天然の小觀察者に取つては、この兩人の關係は竹と筍との間柄よりも更に神秘であつた。それ故にこそ卵と?との昔話、乃至はナルシッソスの神話にも比ぶべきこんな謎の歌を、いつの頃からとも無く春來る毎に、野に出でゝ唱へて居たのである。しかうしてお杉には杉菜繼菜といふ元の形があつたと同じく、ホウシも亦必ずしもお杉の後に生まれたもので無かつた。あのすつぺりとした稍々尖つた頭に、何故かの衣をぬく／＼と着て出る姿は、お杉が居なくともなほ法師であつた。日本には僧侶の總稱をホウシといふ俗用の他に、どこか形の是と似て一かさ小さい者を、轉用によつてホウシと謂つた時代があつた。狂言記ではカナホウシが幼兒の名ときまつて居たのみならず、吉法師だの三法師だのといふ童名はあの頃は珍しくなかつた。

　さて其ホウシを土筆に付與したのは、果して本來の僧侶の意味でか、或は又子供といふ心持で命名したのかは問題であるが、何れにしても後には雙方に通はして居たことは、前に擧げた童詞が明白に之を立證する。即ち是も亦名が定まつて心が更に改まつた例である。ホウシといふ方言の區域は相應に弘い。

　　ホウシコ　　　　　　　　　　　　播磨宍粟郡

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　美作久米郡等

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　備中上房郡等

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　但馬

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　鳥取縣約一圓

　　ホウシサン　　　　　　　　　　　出雲美保關

(46)　　ホシサン、ホーシ　　　　　　　出雲松江市

　　ホシコ　　　　　　　　　　　　　石見太田町

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　備後深安・沼隈郡

　　ホウシ　　　　　　　　　　　　　安藝賀茂郡

　　ホウシコ　　　　　　　　　　　　同　大崎下島

　　ホウシャヨミノコ　　　　　　　　同　倉橋島

　　ホウシャ　　　　　　　　　　　　周防大島群島

　　ホウシコ　　　　　　　　　　　　讃岐高松其他

　　ホウシコ　　　　　　　　　　　　伊豫松山・西條等

　此中で安藝の倉橋島のホウシャヨミノコは、お杉と關係無しに同種の唄のあつた證據であり、周防大島のホウシャも亦其痕跡と認められる。ホウシコといふのも恐らくは土筆を幼童に譬へた例と思ふが、なほ自分としては此方言の起りは狂言のカナホウシ時代よりも古く、やはり本物の法師と似た所から、直接に持つて來た語であらうと思ふ。其證據としてよいのは、同じ系統に屬する次のやうな方言である。

　　ゴボウ　　　　　　　　　　　　　上總望陀地方

　　ホトケンボウ　　　　　　　　　　常陸稻敷郡

　　ボウズ　　　　　　　　　　　　　加賀河北郡

　　デンボウシ　　　　　　　　　　　備前下津井

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　安藝佐伯郡

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　周防玖珂郡

(47)　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　同　那賀・鹿足郡

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　長門阿武郡

　　ヒガンボ　　　　　　　　　　　　伊豫喜多郡

　　ヒガンボシ　　　　　　　　　　　同　北宇和郡九島

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　土佐幡多郡

　　ヒガンムウズ　　　　　　　　　　同　安藝郡

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　豐前一部

　　ヒガンボウズ　　　　　　　　　　肥後阿蘇小國

　　ヒガンボイボイ　　　　　　　　　日向宮崎郡

　即ち飛び離れた東國の例は別にして、ホウシ區域の西鄰では一樣に、春の彼岸にもてはやされる法師になぞらへて、隨分と氣の利いた可笑味のある方言を採用して居るのである。此中でも石見の濱田方面には、

　　　彼岸坊主は誰の子

　　　すぎなのかゝあのおとむすこ

といふ童詞があつて、言葉は變つても心持だけは、こんな遠く迄も走り廻つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　隔地共通の例

　

　爰まで進んで來ると、東京附近や信州などのツクシンボが、二つの方言の複合であることは、最早討論を要せぬと(48)思ふ。しかも其例は決して或小地域に限られて居らず、是も西は九州の端々と、東は奧羽の各地とに、看過すべからざる共通を見出すのである。

　　ヅクボ　　　　　　　　　　　　　筑前戸畑邊

　　ヅクボウ　　　　　　　　　　　　筑後三瀦郡

　　ツクボンサン　　　　　　　　　　同　柳河

　　ツクボウ　　　　　　　　　　　　佐賀縣一部

　　ヅクボウ　　　　　　　　　　　　對馬豆酘

　　ツクボウ　　　　　　　　　　　　豐後日田郡

　　ツクボウシ　　　　　　　　　　　肥後鹿本郡

　　ツキボシ　　　　　　　　　　　　同　玉名・宇土郡等

　　ツクボシ　　　　　　　　　　　　同　下益城郡

　是と最もよく似た例は先づ中部日本に於て見出される。

　　ヅクボ　　　　　　　　　　　　　美濃養老郡

　　ヅクボウ　　　　　　　　　　　　同　根尾谷

　　ヅキボ　　　　　　　　　　　　　越前大野郡

　　ヅクンボ、ヅクボシ　　　　　　　三河額田郡

　　ヅクンボウシ　　　　　　　　　　同　寶飯郡

　　ヅクンボ　　　　　　　　　　　　遠江袋井其他

　　ツクボウシ　　　　　　　　　　　信濃下伊那郡

(49)　　ヅクンボーシ　　　　　　　　　信濃諏訪地方

　即ち何でも無い差別のやうだが、ボウ又はホウシといふ語の、附加したものにも劃然たる領域があつて、互ひに入交つては居らぬのを見ると、土筆を見て法師の姿を聯想する習はしは、少なくとも近畿其他のツクシ・ツクツク區域等には、行はれて居なかつたと同時に、ツクシンボといふが如き單なる一音節の添加にも、なほそれ相應の意識のあつたことは認められる。前田林外君の民謠全集續篇に、東京府下の子供唄として、次のやうな一つが擧げてある。

　　　つくしんぼうやどうしんぼう

　　　彼岸の入りには袴はいて出やれ

　即ちヒガンボウズといふ方言の領分から、是だけ隔絶した東國の果に於てさへも、小兒は尚土筆を坊主として待遇することを忘れなかつたのである。

　忘れなかつたといふことは、當然に「いつ覺えたか」及び「どうして學んだか」の問題を連れて來る。春の彼岸の頃に里に現はれるツクツクボウシと、夏も稍々終に傾いてから庭の樹に來て啼く蝉の聲とを、一つの言葉で呼ぶといふことは、驚くべき無頓著には相違ないが、兎に角に誤解と稱すべきものではない。二つの地方語の間には明らかに關係があり、しかも何れか一方が正しく他方は之を濫用したのでは無いばかりか、寧ろ相手が無かつたら雙方とも、斯ういふ變化は見なかつたかも知れぬのである。土筆のツクツクホウシは既に九州に始まり、北は奧州の一端に及んで、其鄰のヅクボウと聯絡を保つて居る。

　　ツクツクボウズ　　　　　　　　　豐前宇佐郡

　　ツクツクホウシ　　　　　　　　　大和一部

　　ソクツクホウシ　　　　　　　　　紀伊有田郡

　　ツクツクボウ　　　　　　　　　　同　南牟婁郡

(50)　　ツクツクボウシ　　　　　　　　伊勢山田等

　　ツクツクボウシ　　　　　　　　　近江八幡等

　　チュクチュクボシ　　　　　　　　同　仰木村

　　ヂクヂクポウズ　　　　　　　　　飛騨吉城郡

　　ツクツンボ　　　　　　　　　　　能登珠洲郡

　　ツキッツボ　　　　　　　　　　　越後一部

　　ヅヅボウシ　　　　　　　　　　　靜岡縣一部

　　ツウツンボ　　　　　　　　　　　安房千歳村

　　ツクツクボウ　　　　　　　　　　磐城石城郡

　即ちツクツク又はツギツギといふ在來の語に、坊主の擬人觀を添へれば直ぐに出來る方言で、是だけ見ると蝉の聲は比較的自由だから、小兒が之を聽いて春の土筆の名を貸したとも考へられるが、實際は寒蝉のツクツクホウシは五百年前の文學に現はれ、今日も標準語として認められて居るのみならず、昔からほゞ之に近い啼聲をするものとなつて居たのである。斯んな序でも無いと其記録も遺し得られぬから、退屈凌ぎに其例を竝べて見ると、古い所では蜻蛉日記にクツクツボウシ、散木奇謌集にはウツクシヨシと鳴くとある。近世の口碑に於ては筑紫の人旅に死し、其靈化して蝉となつてツクシコヒシと啼くと、也有の百蟲賦にはあるさうな。その筑紫方面の聽き樣もそれと近く、何れも寒蝉を、

　　ヅクヅクホウシ　　　　　　　　　肥前一部

　　ヅクヅクッショウ　　　　　　　　同上

　　ツクッショウ　　　　　　　　　　肥後各郡

(51)　　ツクンビョウシ　　　　　　　　近江神崎郡

　　チュクチュクオイシ　　　　　　　同　仰木村

　　ツクツクシ　　　　　　　　　　　加賀金澤

　　ツクツクエンヨウシ　　　　　　　越後一部

　　カタカタキンヨウス　　　　　　　同上

　　コチョコチョキーヨウス　　　　　同　西蒲原

　　ツクツクヨウス　　　　　　　　　仙臺

　　ツクンヨン　　　　　　　　　　　下野河内郡

　　ゴトゴトゴイシ　　　　　　　　　常陸稻敷郡

　　キタカタゴンス　　　　　　　　　下總北相馬郡

　　ホウセンツクツク　　　　　　　　上總夷隅郡

　　ホウエンツクツク　　　　　　　　同　長生郡等

などゝ謂つて居る。自分も少年の日に下總北相馬郡に居て、右のキタカタゴンスを聽いた。何か鄰の北方といふ村に、むかし權助とでもいふ男が居たのではないかと思つて居た。最後のホウエンツクツクも法師のことであらうから、兎に角に坊主の聯想は蝉のツクツクの方にも、早くからあつたのである。播州印南郡の土筆採りの童詞として、郡誌には次のやうな唄が載せてある。

　　　つく／＼法師出やらんか

　　　親はないか子は無いか

　　　たつた一人の娘の子

(52)　　　なこどに取られて泣きなさる……

　是は手?唄などになつて今も諸國に弘く行はるゝもので、本來は雉子の歌であつた。

　　　山のけん／＼雉や何を泣くね

　　　親が無いか子が無いか

　　　親もあるが子もあるが

　　　たつた一人の男の子

　　　鷹匠に捕られてけふ七日

　　　七日と思うたら十五日……

といふのであつたが、土地によつてはげんげの花と謂ひ、更に轉じては「つくつくぼんさん何泣くね」とも歌つて居た。それが寒蝉の哀話から又移つて、土筆を見つける際の呪文のやうに迄なつたのである。之を要するに多くの言語は、興味が之を培養して次々に今の形まで成長せしめたので、その久しい前後の傳記を切離し、單なる一時代の横斷面のみを以て、其本質を説かうとするは心得違ひなことでなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　方言區域の論

　

　又々話が長くなつたから、もう一隅の殘つた部分だけを記述して、自分の結論に急ぎたいと思ふ。東北地方の土筆も太平洋側の半面には、前に引例した如く自分の謂ふ第一第二の系統、即ちツクシとツギツギとの交錯に止まつて居るらしいが、他の半面の日本海側には又稍々異樣なる變牝が認められる。

　　ヅクベ　　　　　　　　　　　　　秋田市

(53)　　ヅクベ（ボウズ）　　　　　　　南秋田郡

　　ヂツクビ　　　　　　　　　　　　仙北郡横澤

　　ヅツクベ　　　　　　　　　　　　同　大曲等

　　ヅクンベ　　　　　　　　　　　　河邊郡

　　ヂクベ　　　　　　　　　　　　　由利郡龜田町

　　ヅクベ　　　　　　　　　　　　　同　笹子村

　　グウヅベ　　　　　　　　　　　　飽海郡本楯村

　山形縣下は大體に略々中央部と一致して居る。さて此ヅクベが單なるヅクボクの音訛であるか、はた又新種の協定にして、更に第五の系統を暗示するものであるかは、容易には決し兼ねる。さういふ理由は今までに列擧した以外に、尚幾つかの興味ある新稱呼が、殊に此方面に多く且つ成長しつゝあるからである。讃岐や豐後の一角に存在するタウナ又はトウナ、越中高岡邊のヅンベラコウの如き異例は除き、他の稍々普遍的なる方言は一つには筆にたとへたもの、

　　フデクサ（ツクツク）　　　　　　大和十津川

　　フデバナ　　　　　　　　　　　　信濃北佐久

　　キツネノフデ　　　　　　　　　　越後東蒲原

　　フデノホコ　　　　　　　　　　　奧州野邊地

　二つには?燭にたとへたもの、

　　ヘビノロウソク　　　　　　　　　加賀能美郡

　　キツネロウソク　　　　　　　　　能登鹿島郡

　　キツネノロウソク　　　　　　　　越中入善

(54)　筆も?燭も田舍に知られたのは古いことで無いから、此名を使ひ始めた人々は恐らくは在來のものを見棄てたのである。第二種は少しばかり説明に困るが、先づ次のやうなものである。

　　イノノチンボ　　　　　　　　　　信州一部

　　ネコノチョンボ　　　　　　　　　越後三川村など

　　ンマノスッコ　　　　　　　　　　羽後由利郡

　　ダンベコ　　　　　　　　　　　　北秋田小阿仁

　　ヅヅコ　　　　　　　　　　　　　鹿角郡

　　ヂコババ　　　　　　　　　　　　津輕小泊

　　ヂヂババ　　　　　　　　　　　　下北佐井濱

　ヂヂババは通例男女といふ迄の意味で、これも以前には田舍の子供たちが、無邪氣な笑の料に用ゐたことがあつた。ヅクベの起りは假に繼ぎ／＼であつても、或は童詞などの關係から、特に下品な音を添へる必要があつたかも知れぬのである。

　私は地方語變化の主要なる原因として、個々の客體の社會上の地位、即ち人との關係を算ふべきことを信じて居るが、それは勿論其物の重要さを意味するので無い。寧ろ正反對に生活の交渉が稍々淺く、輕い利害を以て表現の不一致を眺めることの出來る場合に、たとへ隱語の如くわざ／＼の相異を企てぬまでも、自然に形が改まつて若干の不審を招き、解釋に僅かづゝの智力を要することを辛抱し又は歡迎したかと思つて居る。さういふ餘裕の多い者が何人であるかはわかつて居る。無造作率直と少しも苦しまない技巧とは、特に少年たちの參與に基いて、方言の一つの特色となつたのである。但し新渡の農作物、若しくは山野の採取物に於ても、時の經過と共に遠方への商品となつたり、又或る期間の前後を考へられることになると、用語は其樣に浮氣であつてはならぬ。故に追々に各地に固定するのみ(55)ならず、又力めて大勢に迎合せんとするのである。別の言葉でいへば方言の分布には、其本然の約束といふべきものよりも、却つて社會的原因が多く働いて居るわけで、從つて特殊性に富みたる民族の經歴を外にして、いつの時代にも言語の類似から、太古の親類關係が考へられると思ふのは誤謬である。

　所謂方言區域は本篇のやうな調査を重ねて行くうちには、結局は何人も爭ひ得ざるものが劃定せられることゝ思ふが、それは要するに昭和三年以後の方言區域であつて、百年五百年前の異なる文化の下に、同じ分野が現はれて居たといふ證據は、又別に求めなければならぬのである。人は往々にして大體と謂ひ僅かなる例外と謂はんと欲するが、如何に小さな例外でも原因はあるべきで、その原因は即ち過去の異なつたる交錯に在り、寧ろ或る時代の方言區域の、今とは大いに異なつて居たことを示すものかも知れぬのである。

　さうすると時代々々の輪ちがひになつた方言區域を、骨折つて跡付けることも張合ひの無い話の樣であるが、四鄰の異同を詳しく究めた上で無いと、地方的變化の法則を知ることが出來ず、地方と時とがどれだけの影響を與へるかを測量しないでは、言語の成長を説く方法が無いのである。其上に各時代を貫通した傾向の如きものは必ず分つて來る。例へば距離が變化を顯著にすることなどは、假にまだ理論の滿足に之を説明し得るものが無くとも、次第に實驗を積めばもう疑の餘地が無くなる筈である。只之に關聯して自分の考へて見たいと思つて居るのは、言語には發生の大小の中心地があつて、右の距離は是非とも其中心から測るべきものでは無いかといふことである。東北と九州とは互ひの距離は最も大きいが、單語の近似は決して茲に擧げた虎杖や土筆のみで無い。是も昔の京都と其周圍の地とが、一つの強力なる中心地であつた爲では無いかといふことである。故にもし果して言語の傳播にも、周圏波動の法則が存立し得るとするならば、少なくとも一本の堺線を以て、國を南北に二分するの案は危險である。

　

(56)　　　　　　　菫の方言など

　

　　　　　　　　　　一

　

　諸君蒐集の民謠はいつも大なる興味を以つて拜見して居ますが、其中には今はもう歌はないもの、或老人が僅かに記憶して居たもの、意味の不明で誤寫だらうかと思ふものなどがあつて、地上樂園も時としては枯野をあるくやうな感じがします。

　無理も無いことながら、この半世紀の間に、非常に多くの歌が亡びたやうであります。それでも以前は忘れた人と、新たに歌ひ出す人とが同じであつたために、知らず識らずの間に心持を相續して居たやうな痕跡がありますが、是から亡びるものは永久に、又根こそげ無くなるのです。さうかと言つて人爲を以て保存するのはつまりません。只ぢつと看て居るの他は無いと思ひます。

　以前の日本は歌に滿ちたる國であつたやうです。中世の終頃から、それが四句二十六字の小唄に統一せられ、夙く其大部分を喪失したことは、一方には保存せられる民謠の言葉が存外に新しいことに由り、他の一方には神社の祭式の中に少し殘り、もしくは童女の手毬歌などに、散亂して傳はつて居る古いあや言葉から、推測し得られるのであります。

　兒童の前代生活を保存してくれた功勞は没すべからざるものがあります。今では殻ばかりになつた村々の口碑の類(57)が、曾ては美しい辭句と旋律とを以て彩色せられ、深い感動を傾聽者に與へて居たらしいことは、たとへ無意識の片言まじりにもせよ、子供が繰返して居てくれた色々の歌から、僅かに認めることが出來るのであります。

　私は昨年あたりから、人の笑ふやうな御苦勞な方法を盡して、此方面から文學の無かつた時代の文藝を尋ねて見ようとして居ります。その間に新たに得た經驗は、新奇を好む點では何人よりも熱心な子供たちが、實は意外な保守黨であつたといふことでありました。

　その理由は考へて見れば何でも無いのです。「おつむてんてん」などの簡單な遊戯から、「子買を子買を」の如き込入つた演劇に至るまで、一つの行事に一人の兒童の携はるのは、精々一年か二年であります。前の子供にはもう珍しく無くとも次の子供には新奇です。一生懸命になつて模倣をして、程なく之を弟妹に引繼ぐので、彼等はいつまでも留學生の如き感受性を以て、古い古臭い遊戯を學ぶのであります。さうして又教へる側でも、特に計畫ある幼稚園でも無い限り、いつも手近い仕來りを其まゝ利用しますから、偶然に一種の驛傳競走の如く、大昔との聯絡を見るのであります。

　

　　　　　　　　　　二

　

　それから今一つ、平穩無事なる村の生活に老いて行く人々は、子が生まれると再び子の心に復り、孫が出來ると自分が孫であつた頃の、感覺を喚び起されるのであります。殊に子供の相手は年寄ときまつて居まして、其間には又大きな鏈が繋がつて行くのであります。

　此意味からして私は、童兒の持つて居る日本語を珍重します。農夫の骨折な日々の生活では、とても靜かに觀察して居る餘裕も無い天然の事物を、門に立つて老人と幼い者とが、いつまでも噂したのであります。子供が學ぶ新しい物の名は、大抵は祖父が小さい時に教へられて、そのまゝ藏つて置いた古い知識でした。特に小學讀本の如く子供の(58)爲に編纂したものでは無いのです。又そんな訂正をする必要は、今までは少しもありませんでした。現在の少年は之に反して、恐らく孫を見るまでには、一切の幼い時に得たものを、改革してしまつて居るでせう。

　十年ほど前に紀州の或る教師が、兒童の持つて居る童話を蒐集して見たことがありました。それを見て居ると半分は土地の昔話、殘り半分は巖谷小波君、久留島武彦君などの本から讀んだものゝ不精確なる記憶でありました。即ち是非とも確實なる話をしなければならぬとも、思つて居ない若いおばあさんやおつかさんは、胸に浮んで來る順序に、知つて居るだけの話をしたので、所謂教育が傳統の敵であることは、最も顯著に斯ういふ善でも惡でも無いものゝ上に現はれるのであります。

　しかも今日はもう歴史を學ばんとする者が、既に資料の缺乏に苦しみ始めて居るのであります。例へば還つて村の老翁の一人に聞くならば、何でも無く説明してくれるやうな事柄の爲に、圖書館中を驅けずりまはるのであります。外國の參考書は料理がしてあるが、日本の資料はなまである。時としては自ら出て行つて採取しなければならぬのに、問ふすべも知らず、況んや快く語らせるだけの親しさを持ちませんでした。今に大いに不自由を感ずるに違ひないと思つて居ます。

　ところが我々の友人の中には、別に是といふ入用は無くして、單にあつた物の無くなるのを愛惜するといふ情だけから、何と無く手帳をつけて居るやうな人が可なりあります。個々の家庭に必ずある年寄と子供が、朝から晩まで聯絡を保つて居ても、消えるものはやはり消えてしまひました。それに比べると遙かに無力なる斯んな記録が、果して落ち散つた鏈を再び繋ぎ合せることになるかどうか。隨分心細い話ではありますが、幸ひにして古人の聊かも味ひ得なかつた幸福が一つあります。即ち一時に全國の隅々にあるものを、比べて考へて見るといふ便宜であります。

　民謠なども諸君のやうな企てによつて、今更何事をか語らうとして居るのであります。私は日本の民間文藝の最後の傳承者、即ち既に老い又は老いんとする昔の兒童をして、今一度相會して曾て感受したものを説かしめたいと思ふ(59)のであります。さうして單なる冷かな批判者としてでは無く、出來るならば少しでも感激の相槌を以て、彼等に力附けたいとも思ふのであります。

　

　　　　　　　　　　三

　

　そこで差當つて自分が分擔して居る方面、即ち物の名の附け方と小兒の生活、それから歌といふものがどういふ風にして口ずさまれるかなどの問題を、雜然として御話して見ようかと思ひます。涼しい樹の蔭などがあるならば、立ち止まつて暫らくこの顧みられなかつた舊事を考へて見て下さい。

　私は菫といふ草の地方の名稱を比べて見ました。この植物の命名法は、全國を通じて先づ三種類に分れて居ります。それは最初から三通りあつたわけでは無く、多分或る年代を隔てゝ順次に出來たのが、採用されたりされなかつたり、したものだと思ひます。その中で一番古いのは勿論スミレでありませうが、古いだけにどうしてさう名づけられたかわかりません。併し今に知れることゝ思つて居ます。

　第二にはあの紫の花の形を、駒の顔に見立てた命名であります。この微小なる花に、あの大きな馬の顔をもつて來て比べることは、小兒の想像力で無ければ出來ぬことです。本草啓蒙に採集してあるのは、

　　トノウマ　　　　　　　　　　　　薩摩

　　コマヒキグサ　　　　　　　　　　筑後

　　キヨウノウマトヽノウマ　　　　　筑前

などですが、今もさう言ふかどうかわかりません。

　近頃になつて知つたのは、

　　ウシンコッコ、ウンマンコツコ　　薩摩

(60)　　チンチノコマ　　　　　　　　　駿河駿東郡

　　ベコノツノツキ　　　　　　　　　羽後秋田郡

などです。ベコとは牛のこと、チンチは何のことか知りません。ウシンコッコのコッコもまだ分りませんが、兎に角是だけの方言からでも、二つの花を持つて闘はせて居たことが想像せられます。トヽノウマなども「殿の馬」で、京の馬と二つを對抗せしめたものかと思ひます。

　第三種の命名法は即ち角力取草の系統であります。

　　カゲピコ　　　　　　　　　　　　秋田市

　　カギヒッパリ　　　　　　　　　　羽後仙北郡

　　カゲヒキ　　　　　　　　　　　　陸前登米郡

　　カギトリバナ　　　　　　　　　　仙臺

　　カギヒキバナ　　　　　　　　　　同

　　アゴカキバナ　　　　　　　　　　越後

　　ヒッカケ　　　　　　　　　　　　越後西蒲原郡

　　カギバナ　　　　　　　　　　　　讃岐伊豫

　カギといふのは疑も無く此花の馬のあごに譬へられた部分で、現に私たちも是を引掛け合つて、首のむしれた方を負として角力を取らせたものであります。

角力取草といふ名は車前（オホバコ）其他色々の草に付與せられて居ますが、菫をさう呼ぶ地方が一番に廣い。京大阪を中心として、北陸關東から磐城の一部まで、西南は中國四國にも及んで居ます。即ちどうして學んだか此遊戯が、此だけの間に行はれて居たのであります。關東の方では大抵スモウトリバナといふのは、恐らくは別になほ相撲を取(61)らせる草もあつたからでせう。

　

　　　　　　　　　　四

　

　次に珍しい菫の異名は、三河の寶飯郡などでタロンボージロンボーといふので、是は俳人等が早くから注意して、太郎坊次郎坊と歳時記類にも出て居るさうです。同じ例は近國に多く、

　　ジロウタロウ　　　　　　　　　　志摩磯部

　　ジロヤサブロウ　　　　　　　　　伊勢相可

　　ジロウタロウ　　　　　　　　　　美濃惠那郡

　美濃の苗木などでは普通にはスモトリバナで、白花の菫をジロバナ、之に對して紫色のをタロバナと呼んで居ます。即ち菫に相撲を取らせる場合に、一方を次郎、他の一方を太郎と呼んで居た名殘で、狂言記の八幡大名などを聯想せずには居られません。

　菫を此遊戯に使用したのは、多分は此等の名前よりも更に前からでせう。今一種の異名の、

　　オソメバナ　　　　　　　　　　　信州下水内

　　オソメンバナ　　　　　　　　　　越後中魚沼

の如きは、今はまだ名の起りが想像しにくいが、

　　ヂンヂイバンバア　　　　　　　　　　遠州龍川村

に至つては、たしかに二つの花を掛合せた痕跡があります。爺と婆とは普通には春蘭の花を採つてさう呼びました。元は粗野なる歌があつたに相違ありません。甲州の逸見では、蝸牛をもヂットーバットーと呼んで居ます。

　最後に今一つ、熊本縣の人吉附近で、菫をセセンブキブキといふのも歌に依つた名でした。其意味ははつきりしま(62)せんが、角力とは關係なく、二つの馬を闘はしめたのでは無からうかと思つて居ます。此唄の文句を記憶する方の教示を受けたいのです。

　

(63)　　　　　草の名と子供

　

　　　　　　　緒言

　

　小さな自然に名を與へる事業には、兒童が誰よりも多くの興味を以て働いてゐる。其言葉が成人にも承認せられて永く行はれ、一方には又同じ子供のやうな氣持を以て、新たに言ひ始めた物の名も多かつたことは、方言を集めてゐると容易に心づく筈である。此頃外國から持込んだ色々の新語と竝べて見て、殆と兩極端と言つてもよい態度のちがひは、やがて又近世の國語の歴史の、看過すべからざる變革を暗示するものかと思ふ。私が目下分類に着手して居る兒童語彙には、明白に兒童しか使はぬといふものだけを載せることにして居るから、十分な證明をすることが出來ない。それで別に全體に瓦つての物の名の話をして見ようと思ふ。寒中に草の話をするのも時を得ないが、なるだけ因縁の有るやうに第一には「雪の下」、次には卯の年だから兎の何々といふ類の草の名を問題にする。さうして徐ろに春の我々に來るのを待たうと思ふ。

　

(64)　　　　　　　雪の下

　

　私たちの在所では、よく此草の葉を揚げものにして食べた。子供の頃の事を思ふと、先づ最初に眼に浮ぶ冬の草である。寒い盛りにも紅味を帶びた緑の葉が見られて、「雪の下」とい本名も似つかはしいやうだが、雪に覆はれたところを見た記憶は無い。東京へ來てからは庭にも植ゑて見たが、通例は石がけ、殊に井戸の内側などの清いところに、自然に成長して春早く花が咲くので、花の形は白い小さな蝶の羽に似てずつと長めであつた。雪の下といふ名も知つては居たが、子供や女は皆ユツグサと謂つて居た。ユツは播州などでは井戸のことである。他ではまだ同じ名は耳にしないが、紀州の有田郡、飛騨の高山や船津、東北では伊達郡の掛田などで之をヰドグサと呼んで居る。當山縣の射水郡ではイケバタ又はイケノハタといふ。このイケも池では無く、あの邊の方言で井戸のことである。大阪府の泉北地方でイトバスといふのも、多分は井戸かと思ふが、バスの方は明らかでない。岩手縣の九戸郡ではエシガラミ、即ち石にからんで生える草の意であらう。

　「雪の下」の漢名は虎耳草だといふ。成るほど毛がはえて紫がゝつた形が獣の耳を思はせるが、虎にしては少し小さ過ぎる。越後で是をヒゲヂサといふ郡もある。全體に剃りおくれた鬚ほどの毛があるのでさう謂つたといふ。子供の疳の藥、又心臓の病にもきくと謂つて居る。宇都宮附近ではミミダレグサ、磐城相馬郡ではカンカチグサといふ。カンカチは此邊では火傷のことで、それに附けると治る故にさう謂つた。耳だれも恐らく同じ理由であらうが、どうして其樣な試みをしたかといふと、やはり葉の形が耳に似て居るからの思ひ付きと考へられる。紀州の熊野ではカミナリグサ、或は辨慶草のことだといふ土地もあるが（有田）、是を栽ゑて置くと雷が落ちぬと謂つて居る。雷はめつたに落ちるものでないから、此經驗はさう當てにならない。豐後方言集には此地方の名稱が幾つも擧げられて居る。そ(65)の中でキジンサウといふのは名の起りが最も不明だが、九州でも筑後の久留米、肥前五島の久賀島でさういひ、更に東北では仙臺から石の卷に及び、秋田縣の横手もキンズンサウと謂ふから、もとは中央の名であつたかも知れない。五島では此草のしぼり汁を小盃に一杯づゝ、一日に三度飲めば熱さましになるとも謂つてゐる。豐後には又此草をキンギンサウといふ方言がある。葉に白赤の光があつて、めでたい草であるから金銀草と謂つた方が、キジンサウよりは前かとも考へられる。或は又ユキバナといふ名も同じ地方にあり、又雪割り草といふ者があり、愛媛縣の周桑郡ではユキヤケグスリとも謂つて居る。雪のまだ有るうちに花が咲き出すから、雪の下と呼ぶに至つたのも理由があると言へるが、なほ私などはこのユキもイケ、即ち井戸のことでは無かつたかと思つて居る。是くらゐの意味變化は方言には珍しくない。さうしても一旦耳に馴れた古い語形は棄てゝしまはぬのである。

　

　　　　　　　兎の耳

　

　兎といふ名の草は方言に幾つかある。たとへば山口縣の柳井では薊《あざみ》をウサギグサ。是は福島縣の相馬地方でも、野薊を馬の牡丹餅といふから、多分は兎が悦んで食べる草といふ意であらう。越後の刈羽郡で車前《おほばこ》をウサギグサと謂ふのも、やはり此草を飼料とするからかと思ふ。車前は殊に小兒と親しみの深い草で、此莖を引掛け合ふ遊びがあり、相撲取り草の名を是に付與した地方も多く、或はカヘルグサ・ゲエロッパとも謂つて、蛙をひどい目に遭はせて置いてから、此葉を掛けて置くと活きかへるなどゝも謂つて居た。又此葉をよく揉んで絲のさきに結はえ、田の中を持ちあるいて蛙を釣る遊びなどは、あんまり面白いので親になつてからも、私は之を試みて子どもに見せたことがある。他の草でも釣れるのかも知れぬが、我々は車前でなくてはならぬやうに思つてゐた。上手に竿をはねると二丈三丈の青空まで、蛙が飛び上つて遠くの田へ落ちることがある。今考へると蛙こそよい迷惑であつた。

(66)　それから今一つ、靜岡縣の各郡で鼠の耳、もしくは兎の耳と呼んで居る草がある。本名は母子草（ハハコグサ）、私の郷里などではホウコ、好い香がするから芳香であらうと、少年の頃には思つて居た。漢名は鼠?草又は鼠草、色も形も大きさも短い毛のある容子も、鼠の耳にならば似て居ると言へる。從つてどうして兎の耳にたとへたかは疑問であるが、或は又奈良縣北部のやうに猫の耳と呼んで居る地方もあるのである。此草にも色々の異名があつて、我々に取つてはなつかしい記念である。之を鼠の耳といふのは佐渡の國仲地方、他にもまだ有らうと思ふ。阿波の祖谷《いや》山ではホウベラ、春の七草の一つのハコベラが、此草であつたことが想像せられる。三河の寶飯郡でトーゴと謂ふのだけはまだ説明が出來ぬが、千葉縣印旛郡でコウヂバナと謂つて居るのは、葉の色花の形が?に似て居たからで、昔の?は今のやうに白々としたものでなかつたのだらうと思ふ。山口縣の厚狹《あさ》郡ではハハコグサをテンヂクモチ、是を餅に入れて搗いたものも天竺餅と謂ふさうである。以前は餅草即ち艾（ヨモギ）以外に、此草を餅に入れるのは普通であり、又此方が色も佳く、にほひも高いと謂つたものであつたが、關東の人たちはそれを知らず、西でも追々に用ゐる者がなくなつた。或は發生が少なくなつたやうにいふ人もあるが、私はまだ確めて見ない。四月八日のお釋迦の誕生の日に、紫雲英（ゲンゲ）と薊と此花とを以て、花御堂の屋根を葺く習はしもあつたから、天竺餅の名はそれから出たのかも知れぬ。豐前の宇佐地方では此草をネバリブツ、フツは餅草即ちヨモギのことだから、それに比べると粘りが多いか、又は葉の表面が眞綿（ネバシ）のやうなもので覆はれて居るといふ意味であらう。廣島縣安藝郡で此草をオトノサンヨモギ、又淡路島の一部でトノサマユムギといふ理由はわからぬが、是も私などの推測では、餅にはハハコグサを入れる方が古く、今の餅草に改まつたのは後のことで、それで本式の草餅を作る草の意味に、斯ういふ名を設けたのかと思ふ。オトノサンは少なくとも百姓に對立した語であつた。

　

(67)　　　　　　　馬の砂糖

　

　秋田縣の北部では、杉菜を馬の砂糖といふ。馬が非常にうまがつて食べるからの名らしく、乃ち小兒等が砂糖にあり付くやうになつた頃の新語で、今ならば馬のキャラメルとでも謂ふ所であらう。富士山の南麓地方には、是を又ウマノゴック、或はウマノオコハ（馬の強飯）といふ名もある。ゴックは御供で神に供へる飯、即ち亦強飯のことだといふ。此種の命名の動機が既に古く、如何に祝日の飯がうまかつたかも是でよくわかる。此草の地方名も非常に數が多く、又大抵の人は今でも忘れずに居る。奇拔な例を擧げると信州の北安曇郡で是を雷の臍、これたゞ一つでは何故かを知るに苦しむが、他のと比べて見ると意味は「取りにくいもの」といふに在つたらしい。乃ち是などは一つの謎であつて、童兒の考案とは見られぬのである。杉菜が畠に入ると農夫は皆困るのは、其根がどこまでも深くて手ではとても拔き切れぬからで、それで又地獄の鉦紐（伊豆賀茂）、地獄の釣鈎（ツリカギ、駿河庵原）、地獄の鈎つるし（同志太）、或は地獄の自在鈎（大隅｜肝屬《きもつき》）などの名も各地にあつて、地底の國の爐の鈎の紐だなどゝ、困りながらも農夫がしやれたのである。

　スギナといふ名稱は此草の形からと解せられて居る。九州では筑後久留米、肥前の島原半島などでマツナグサ、又は松菜ともいふ例があり、杉又は松に似た菜といふ意味で、使つて居る人も多いのだが、それにも今一つ以前の理由があつて變遷したものとも考へられぬ事はない。たとへば淡路の浦村では杉菜で無くツギナ、磐城の相馬ではツギグサ、紀州の有田郡ではツギツギグサ、其他ツギノコ・ツンギノコなどゝ、呼んで居る村は關東にも多い。斯ういへば誰でも心づくことであらう。此草は莖の節が柔かで、袴の所からちよつと引けば切れる。それを元の通りに袴にさし込んで、「どこ繼いだ」と言つて相手の兒に當てさせる遊戯は、今も東京の郊外をあるいても見られる。それ故に又信(68)州北部から越後頸城地方にかけて之をドコドコグサと謂ひ、飛騨の高山では直接にドコドコツイダを以て此草の名として居る。假にスギナといふ語が前に出來て居たにしても、子供はなほ之をツギナと呼ばずには居られなかつたのである。

　私などの幼少の頃には、此草をオスギと呼んで居た。さうして野に出て土筆を採る際には、

　　　ホウシ誰の子　お杉の子

　　　お杉たれの子　ホウシの子

といふ歌をよく唱へてあるいた。卵と鷄との譬へにも似て居るが、この奇妙な歌の心は、子供にも半分わかつてをかしかつた。ホウシは即ち土筆の方言であるが、同時に男の子又は老入道をもさう謂つて居た。お杉と法師とが全く面ざしを異にして、同じ根同じ土から前後して生まれて出ることが、昔の人には珍しかつたのである。蕗の姑女だの茗荷の子だのといふ言葉は他にもあるが、杉菜もそれと同樣に肥後ではヅキボシノシンルヰと呼び、又ツクノヲバと呼んで居る處もあるのである。

　土筆は東京附近ではツクシンボと謂つて居る子供が多い。今の本名もツクツクシだが、このツクシにはもはや「繼ぐ」といふ意味は無く、澪《みを》の標のミヲツクシなどゝ同じに、土に突立てた標示杭のことに解して居るらしい。飛んでも無く大小の差を無視した點から見ても、是も子供の思ひ付きであつたことがわかる。私たちも又時々はツクツクボウシとも謂つて、ひぐらしといふ蝉の鳴く聲までを、この植物の名のやうに聽いて居たこともあつた。しかしホウシだのボンサンだのといふのも、古くからあつた名と思はれて、關西地方は一帶に是であり、彼岸坊主といふ言葉などは、弘く九州四國にも及び、東の方では越後などもボウズボウズ又はキキンボウといひ、遠州の磐田郡ではヨロボウシとも謂つて居る。ヨロボウシは謠曲の弱法師にもあるやうに少年のことであつた。はかまを着て出るといふことが、殊に斯ういふ名に似つかはしく感じられたのである。

(69)　斯ういふ色々の面白い名が有るに拘らず、兒童はなほ折々は古いものに飽いて、新しい名が出來ると喜んでそれを用ゐようとして居る。越後でも彌彦山の周圍には、土筆をヘビタバコといふ村があり、又狐の煙草と謂つて居る村もある。是は明らかに卷煙草といふものを、村の子供が見てから後の新語で、しかも亦古來の命名法に遵依したものである。肥前の島原ではキツネンフデ、土筆とも筆頭菜とも支那でいふから、是を筆に見立てるのは何でも無いが、わざ／＼狐を引合ひに出すところに、日本の子供の昔からの趣味が現はれて居る。殊にをかしいのは秋田縣の北部で、このツクシンボを猫ノカモコ、もしくは雁ノカモコともカモグサとも謂つて居ることで、是もあの形をさういふ人間で無いもののカモに譬へたのである。此地方の人の話に、杉菜の根には鐡分が寄つて、後に小さな圓筒形に朽ち殘つて溝などに落ちて居ることがある。それを河邊郡ではカッパノシュンチコと謂ふさうである。シュンチは日本の古語シジの訛り、シジもカモも共に男の兒の前のしるしのことで、さういふ名をつけて笑つた子供の顔が、目に見えるやうな氣がする。同じ地方には又土筆をツベノコといふ語もある。多分はツギノコ・ツゲノコから轉じたのであらうが、ツベと謂ひ始めた動機は亦同一であつたやうに思ふ。

　

　　　　　　　雀の袴

　

　かたばみ（酸漿）を雀の袴といふ名は、岩手秋田の二縣にも又佐渡にもあるから、新しい語では無い。勿論農民がはくハカマの方で、此草の葉が夕方になると、たゝまれ折れ重なる形が、袴に似て居るからさう名づけたものと思ふ。近世の野良袴は「たちつけ」などゝ謂つて、はゞき（脛巾）と縫ひ合せて隙間のあかぬものが多くなつたが、以前は膝までゝ、形が殊にかたばみの葉と似て居たのである。しかし斯ういふ大小のかけ離れたものを、直ぐに聯想することは成人にはちよつと出來ない。それだけでも少年少女の考案といふことが察せられるのであるが、佐渡の島では又こ(70)の「雀の袴」のことを、チンチンモグサとも謂ひ、備前の兒島郡でも同じ草をチンチングサ、石見の鹿足《かのあし》郡ではカンカン草とも謂つて居る。昔話のチンチン小袴、もしくは小兒の遊び言葉に、斯ういふ文句のあつたことを記憶して居る人ならば、誰でも此名を聽いて微笑することであらう。雀は斯ういふ小さな袴を、はきさうなものだからさう呼んだのでもあらうが、別にスズメといふ語の用ゐ易かつた理由もある。かたばみは支那でも酸漿といふ位で、少し酸味があるので子供はよく之を咬んで樂しみにして居た。秋田縣の鹿角地方で此草をマンジュシカシカと呼ぶのも、マンジュは不明だがシカシカはすかな（酸模）といふ草の方言だから、やはり酸いといふ所から付けた名である。志州の越賀などでも是をシゴメ、紀州日高都の奧ではスイモノとも謂つてゐる。梅干を製するのに此草を使ふといふ地方もある（東磐井郡誌）。島根縣の一部又は土佐などで、此草を鏡草又はカガミサウと謂ふのも、或はこの酸味を利用して、是で鏡を磨いて居たのではないかと思ふ。さうすれば此名を付けたのは小兒では無い。

　この以外にまだ命名の動機の明らかでないのは、九州阿蘇附近でコガネグサ、此名は大隅にもあるから弘いのであらう。ツマグレ即ち鳳仙花の花びらを以て、子供が指を紅く染めるときに、此葉を交へ揉んで色を出すといふ。薩摩でガネグサと謂ふのも形が蟹に似て居るといふのでは無くて、寧ろコガネグサの訛りかと思はれる。大和の吉野郡にはダンジリ花と謂ふ村がある。祭禮の曳屋臺の飾りものに、こゝではかたばみの花を思はせるものが有つたのであらう。甲州の富士川流域では、此草をネコノチャと呼んで居る。どうしてさういふかは知らぬが、是なども作者は子供らしい。陸中紫波郡ではアケヅノママ、アケヅは蜻蛉のことだから、單に野外に在る飯に似たものといふことであらう。千葉縣印旛沼の附近でもトンボグサ、石川縣にも元はトンボノキウリといふ方言があつた（本草啓蒙一六）。此草の實は少しく胡瓜に似て居て至つて小さい。やはり子供らしい名の付け方である。信州の上田附近では雀の盃といふのが此草の方言であり、越後でもスズメノサンショウ・スズメノカンショウ又はスズメグサ等、雀に因んだ名が多い（新潟縣天産誌）。サンショウは多分酸漿の字音であらう。むつかしい本名を聽いても、すぐに自分たちの面白いと思(71)ふ形にかへてしまふことは、かまきり（蟷螂）をヲガミトウラウなどゝ謂つた例が幾つもある。

　

　　　　　　　猫の枕

　

　うつぼぐさは花の形が、弓の靱《うつぼ》といふものに似て居るからの名といふが、子供は久しく靱などゝいふものを見たことが無いから、幾ら發音しやすくとも此語を使はず、やはり自分たちの覺えやすい新名をこしらへた。たとへば愛媛縣の上浮穴《かみうけな》郡でネコノマクラ、長野縣の埴科《はにしな》郡などで蛇の枕、青森縣の一部でホエドノマクラと謂ふのが、共にこのうつぼ草のことである。ホエドは乞食のことで野に寢るもの、以前の田舍の枕が此花のやうに、幾らか角張つて坐りをよくした長い形のものだつたことが想像せられる。福島縣の東白川郡ではツチンボグサ。ツチンボは藁細工の藁を打つ木槌のことで、是も幾分か形が似て居ると言はれぬことは無いが、此方は或はうつぼぐさの訛り、もしくは誤つてさう解したものとも見られる。

　

　　　　　　　狐の剃刀

　

　東京の郊外で彼岸花、俳諧で曼珠沙華などゝ謂つて居る草の葉を、奈良縣北部ではキツネノカミソリ、攝津の多田地方ではカミソリグサ、それから又西へ進んで、播州でも私たちは狐の剃刀と呼んで居た。以前の兒童は「さかやき」を剃られて痛いことを覺えて居るので、剃刀といふものに關心があつた。それと形の似たもので、野外に多く伸びて居る草だから、さう名づけたのも自然である。岡山廣島の二縣、紀州の熊野地方でも、彼岸花を狐草又は狐花と謂つて居る處は多い。單に原野の草といふ以上に、この植物の繁茂するのが、多くは淋しい氣味の惡い場所であつたこと(72)も、狐といふ名を付けた隱れたる動機ではなかつたかと思ふ。島根縣などの例で見ると、出雲の方は一般にキツネバナと謂ひ、石見の方では多くはエンコウバナと呼んで居る。伊豫の周桑郡でもエンコ花といふ者があつて、エンコ又はエンコウは此地方一帶に川童のことをさういふ。即ち水のほとりの、川童でも出さうな土地に咲く花といふ意味である。紀州の田邊附近では、かうほね（骨蓬）のことをゴウライの花といふ者もあり、又この彼岸花をゴウラバナといふものもある（和歌山縣誌）。

　自分たちの郷里では、子供は此植物に就いて三つの名を知つて居た。其一つは前に擧げた狐の剃刀で、是は專ら其葉をさして謂ひ、次にはジュズバナ、今一つはテクサレであるが、此事は後で一しよにいふ。ジュズ花といふのは此花の莖を折つて、數珠の形に眞似て首に掛けて遊ぶからで、播磨一國だけで無く三河の寶飯郡石見の邑智《おほち》郡等にも同じ語が有る。

　九州では大分市の附近などでヲリカケバナ、やはりこの草の花莖を細かく折つて、數珠にして首に掛けるので此名があるといふ。熊本縣の南部でケサカケ、嶺を越て宮崎縣の西隅でもケサバナと謂ふのは、やはり同じやうに折つて首に掛ける風があつたからと思ふ。斯ういふ不吉な名が出來たのにも理由があつたらしいことは、隱岐島の一部又は瀬戸内海の島で、此草をソウレバナといふのを見ても察せられる。

　關東でも群馬その他の地方でジャランボングサといひ、ジャランボンは即ち葬式のことで、墓地の近くに此花が多いことから出た名だと謂つて居る。日向も都城の邊ではヂゴクバナ、壹岐の島でもゴショウバナ、後生といふのも墓地のことをいふらしい。遠州北部の山村でワスレバナ、信州佐久地方にはワスレグサといふ名もあるが、此等も本來は墓の上に生ずる草といふ意味であつたらしい。埼玉縣の東部で幽靈花又はシンダモンバナ（幸手方言誌）。�ｺ島縣の方にもユウレングサ又はチャンチャンボなどゝいふ異名もある。或は此地方から高知縣へかけて、シレイ又はシレイグサといふのも、死靈草の音のやうにいふ説もあるが（土佐の方言）、是だけはさうで無いと思ふ。阿波でも吉野川の(73)上流ではシロイ、隱岐の島にも亦シロエの名があり、對馬でも此草の葉をオシロイグサと謂ふを見れば、シレイは必ずしも元の音とも言へない。名の起りは寧ろスミラ（つるぼ、綿棗兒）と關係が有りさうである。スミラは土地によつて又スブラとも謂ひ、花はちがふが根の形が似て居る。或は何々スブラといふ名が、元は狐の剃刀の方にもあつたのであらう。

　播州も西の境では、此草をシビト花ともいふが、又シブラ・シビレ・シブライなどゝも呼んで居る。此植物の汁液が唇などに附くと刺戟するので、此語を痺れの意味に解したのであらう。

　大和の竹之内村などではテクサリ又はシタコジキ、富士山南麓地方は一般にハコボレグサと謂ひ、子供は此草を口に入れると齒が拔けるなどゝ嚇されて居り、或は又ハツカケバナ・ハツカケバアサンとも謂ふ者もある。信州の南部でも齒拔けばばアといひ、此花を折つただけでも齒が拔けると信じられて居た。九州も大分縣の南海部郡ではハカゲバナ・ハモギ・ハンモゲ・齒拔けいばら等の異名がある。何れも小兒を警戒する爲らしいから、作者は成人であつたことがほゞわかる。

　テクサリといふ語の方は、或は子供の實驗だつたかも知れぬが、私たちは手が腐るなどゝ謂ひながらも、いつも折つて遊んで居た。テクサリといふ名は私の郷里だけで無く、近畿では處々に行はれて居るやうだが、伊豫の大三島《おほみしま》などでは之をテハレグサ、紀州の尾鷲《をわせ》ではヒゼンバナと謂つて居る。ヒゼンはいやな皮膚病の名で、實際此液がつくと指の股が白くなる。

　四國では伊豫から土佐の西岸にかけて、ホゼバナといふ名がある。ホゼルはかぶれることで、現に又カブレ花といふ土地もある。紀州の西部で之をドクホウジ又はニガイホウジと謂ふのも、ホゼと一つの語だつたらしいが、今では其意味を忘れて居る處も多く、鳳仙花と混じてホセンコなどいふ例もある。

　石見の津和野附近ではヤクビヤウバナ又はドクバナ、或はニュウドウバナといふ村もある。ニュウドウは癩病のこ(74)とで、よく／＼惡い名をつけて子供を遠ざけようとした形跡がこゝにも見られる。

　しかし此花の見た目に美しいことは忘れることが出來ない故に、單にさういふ感じから付けた名も、まだ方々で拾ふことが出來る。意味の取りにくいものが他にも幾つかあるが、それだけは除いて置いて、豐後の東國東《ひがしくにさき》郡でイカリ花といふなどは、大分古くからあるが面白いと思ふ。實際花瓣のそりかへつた樣子が少しばかり船の碇と似て居る。石見の大森でテンテンドウロといふのは、河内の南の方でオミコシと謂ふのと共に、そこの祭禮の飾りものと似て居たからであらう。

　香川縣の或る島で、デベソといふのは出臍のことらしく、又其近くでネコグルマといふのも興味がある。猫車は近世支那から輸入した一輪車のことで、どんな幅の狹い田の中の路でもあるくから便利なものだが、我々はそのきい／＼と細く軋る音を形容して、こんな變つた名を付けて居たのである。それを更に同じ田畠の間に咲く車形の花に、轉用したのは快活な態度であつたが、是も恐らくは何か人間以外のものゝ名を冠する風習が、隱れて下に働いて居たのであらう。狐がさういふ中でも最も數多く、引合ひに出されることは前に述べた。福井地方には又キツネノタイマツといふ名も元はあつた。今でも覺えて居る子供はあるかどうか知らぬが、是などは殊に美しく又鮮かな空想であつた。彼岸花の眞赤に咲き連なる光景は、さういはれて見ると成るほど炬火行列を思はせる。或は又狐の扇とも狐の嫁ごともいふ方言があつたといふことだが（本草啓蒙九）、この「嫁ご」もやはり嫁入の行列からであらう。野原に火の光のつゞくのを、狐の嫁入のやうだといふことは今でも謂つて居る。

　

　　　　　　　ぺんぺん草

　

　子供が古い名に飽きやすいこと、又は誰よりも鋭敏に新しい名の面白さに共鳴することが、物の名の盛んに變化し、(75)又地方的に區々になる昔からの原因だつたやうである。それだからその只一つを正しい名とし、他をまちがひとすることは　　　愈々道理が無いと、私などは思つて居るのである。薺《なづな》のたけたのをペンペン草といふことは、東京の人たちもよく知つて居るが、何故にさう謂つたのかは、もうそろ／＼と忘れかゝつて居るらしい。ペンペンは三味線のことで、最初はあの音によつて小兒がつけた名であらうが、後には親兄姉でも、市中の人たちは此語を使つて居た。三味線とは言つても、實はこの草の三角形をした種實が、この樂器を彈く撥《ばち》にかつかうが似て居たからの名である。以前の三味線の撥は琵琶のそれのやうに、今少し中くびれて先が開いて居たのではないかと思ふ。熊本縣の玉名郡では此草をネコンピンと謂つて居る。實の形が三味線の撥に似て居るので、小兒は之を採つて左の手の栂指の爪に當てゝ、三味線を彈くと謂つて戯れ遊んだ。山口縣の厚狹郡では「猫の三味線」と呼び（防長史學四卷二號）、愛媛縣の周桑郡でもシャミセン草、又はチロリンと謂つて居る。中央部殊に京阪などには今はもう此名は無いが、遠く東北の端に行つて、岩手縣の九戸郡ではサミセングサ、秋田縣にも同じ名があり、又シャミセンコと謂ふ村もある。北秋田郡では「狐のシャミセンコ」とも謂つて居る。三味線は江戸期の初めには、まだ關東の人は名を知らなかつたといふ話が、醒睡笑といふ書にも見えて居る。それがもう此樣な端々の土地にしか殘つて居ないのは、草の名の進化の速度がどんなに早かつたかといふことを考へさせるのである。

　無論新舊色々の名の流布も、土地によつて?況が一樣でなく、或は入り交り或は再び古いものが復活し、又二つ以上を抱へて樂しんで居たこともあつたらうが、大體に都府の近くに在るものを、新しい流行と見てよからうと思ふ。物類稱呼は百七八十年前の採集であるが、其中には薺を尾張あたりで爺の巾着婆の巾着と謂ひ、奧州津輕では雀のダラコと謂ふと出て居り、前の方は知らず、ダラコの方は今でも其通りである。巾着もダラコも同じもので、巾着の形は近い頃まで、口を括れば薺の實のやうに三角になるものが、子供や年寄に愛好せられて居たのである。その小さなダラコには錢を入れて下げてあるくのが、彼等には大きな印象であつた。今の青森縣の人たちは、ダラーといふ英語(76)を早く知つて居た證據に是をしたがるが、氣の毒ながらあの地方のダラの中に入つて居たのは、弗貸どころか穴のあいた小錢がせい／”＼であつた。それで現在は彼地だけは銅貨をダラなどゝ謂つて居るが、此通り古い時代から既に巾着はダラであつたので、それは革で作つたのを胴亂などゝいふのと同じ心持から、元はだらりと垂れるからの名だつたらうと思ふ。雀の子が持つダラならば、薺の實ほどの大きさでちやうどよいと見たのである。

　それから今一つ、是はもう少し古いかと思ふ名がある。越後は新潟縣天産誌を見ると、土地によつて薺に色々の名があつて、其中にはダラ又は巾着といふのはまだ見當らない。最も多いのは三味線花、又はペンペン草といふので、次には又軍配草といふのもある。是は他の地方に有るか否かを知らぬが、やはり實の形を軍配といふ扇に見立てたのであらう。其次にはガラガラグサ、又鈴草といふのがある。ガラガラは信州長野の附近でもさう謂ひ、又他では實の形の是と似た植物の名になつた例もある。たとへば「たけに草」なども其一つで、一本の莖から幾つも下つて居る形を、鈴のやうだと思つてさう名づけたのである。此形の鈴は三番叟の舞ぐらゐにしか今はもう見られないが、備前の邑久《おく》郡でも此草をコンガラ樣の鈴と呼んで居る（中國民俗研究二號）。コンガラ樣は此地方でしか名を聞かぬ一種の巫女で、祈?の爲に舞ふ者であつたが、今はもう絶えて居るらしい。是が薺の花莖のやうな鈴を振つて居たことは、たつた一つの草の名によつてわかる。コンガラといふのも、恐らくは其鈴の音に基いた言葉であらう。

　

　　　　　　　繪具花

　

　自分などは子供の時に、鴨跖草即ち「つゆくさ」を、螢草ともギイスグサとも呼んで居た。ギイスはきりぎりす、螽斯、はた織蟲のことであり、螢草の名は東京でも知られて居る。この二種の蟲を籠に入れて飼つて置くのに、何か青いものを添へて蔭と涼しさを供與する料に、特に此草を選んだので、自分等は蟲が此草を食べるものと心得て居た。(77)信州や越後で是をトンボグサと謂ふのは、花の形が蜻蛉に似て居るからだとの説もあるが（　　高志路一卷一〇號）、さう似て居るとも我々には思へない。或は是も亦蜻蛉のまぐさとして、籠の中に入れたからの名かも知れない。佐渡には七八つも此草の異名があるが、其一つにダンブリバナがあり、秋田縣でもダンブリ花、又ドブリ草ダンブリ草の名もあつて、其ドンブリ・ダブリは蜻蛉のことである。或はダンブリに食はせる草だからとも謂つて居る。壹岐で此草をチンチロ花、鹿兒島でチンチロリングサ、信州の上伊那でもチンチロ花と謂ふのは、やはり松蟲の籠の草だつたからかも知れない。

　しかし命名の動機は案外な所にあるものもあらう。子供の心になつて見ないと確かなことは言へない。其うちで大よそ判るのは、佐賀縣藤津郡でトテッポッポといふ名などで、ちよつと鳩のことのやうにも聽えるが、伊豫の周桑地方でケケコウロウともいひ、此方は一名ニハトリ草ともいふから、實は花の形が横から見た?に似て居るのでさう謂つたのである。佐渡では又トットバナ、信州でも伊那では鴨跖草がトテッコ花であり、又ヲンドリ花ともいふが、筑摩郡へ行くと萱草《わすれぐさ》がトテッコウ又はトテコッコである。此方は花よりも葉が?に似て居るかららしいが、越後の出雲崎ではふぢ豆、即ち上方でかき豆といふ豆がトテコウロウで、是は鷄頭といふ花の小片を筴の割れ目に挾み楊枝を足にして、實際に?をこしらへて玩具にして居る處もあつて、それ程にもよく似て居るのだから、斯う名づけるのも自然であるが、つゆ草の方に至つてはよほど又子供の空想が加はつて居る。

　和歌山縣の東牟婁郡でつゆ草をヒカリといふのは判らない。佐渡の二宮《にぐう》村にはメグスリ花といふ名もあるから、何かもう忘れてしまつた言ひ傳へがあるのであらう。駿河の志太郡などは此草の花と、蠅の頭とを女の乳ですりまぜて、赤く色つけたものを目藥として使ふといふ。しかも草の名の方は爰でハナガラと謂つて居る。それから同じく佐渡の一部にカタグロ、もしくはジンジクロといふ名もあるが、是も亦不明である。四國の方では讃岐ではカマグサ、何だか葉の形が鎌に似て居るからのやうな氣もするが、是は甚だ確かでない。伊豫の方に行くと雀草、又卵草の名がある。(78)是は或は此草の實が小さいけれども鳥の卵と似て居るからであらう。卵草と名づけられた草は他にも色々とある。從つて此名はあまり弘くは行はれて居ない。豐後の大野郡では鴨跖草を饅頭ぐさ、伊豫の周桑郡でも、卵草と併存して又柴餅草といふ名がある。柴餅は五月節供の日に作る餅で、所謂龜の子ばらなどの葉に包んだ餡入の餅であるが、是などはたしかによく熟した露草の實が、葉苞に包まれた形と似て居る。ハナガラといふ名の起りもわからぬが分布は弘い。右に擧げた靜岡縣中部以外に、木曾でも伊勢でも遠く離れた山口大分の二縣でも、露草をハナガラと謂ひ、東北は仙臺以北、登米《とよま》地方にかけて同じものをネコノハナガラと呼んで居る。ハナガラは或は飼牛の鼻に通す「鼻づら」又は「鼻ぐり」といふものゝことで無いかと思ふが、此花の形がそれに似て居るといふことはちよつと言へない。とにかくに少し變つた形はして居る。それで津輕の方へ行くと、是を又ネコノベベとも謂ふのである。

　帽子花といふ名は名古屋あたりに古くあり、今でも信州の南部には殘つて居る。巾着花といふ名も此地方にはある。それよりも一段奇拔なのは、名古屋と富山縣の一部とで、露草をコウヤノオカタと謂つて居ることである。オカタは人の家の主婦のことで古い語である。紺屋の細君だからあの樣な好い色に、自由に染めて着られるといふ意味で、つまり此花の色彩のすぐれて鮮かに美しいことをめでた言葉だから、是だけは小兒のウイットには少しばかり荷が勝つて居る。近世染物の技術と材料が新たに普及した際に、最初に流行したのがこのコバルト系の色であつたことは、記録や民謠に段々の證據がある。或は日本人のもとから大好きで、しかも力の及ばなかつた色だつたかとも思ふ。長門の豐浦郡でつゆ草をハナガラ又はハナダ、豐後でもハナガラ又はアヰクサ、信州の下伊那地方でも是をエノグバナ、又はソメグサとも呼んで居る。歌にも詠まれた此草の古い名にツキグサがある。字では月草とも書いて露草の露と對照させて居るが、事實は衣に摺付けることが出來るから附き草で、それ故に又ウツシグサとも呼ばれて居たのである。今でも女の兒が此花の色を、紙に取つて樂しむ遊びがある。乃ちつき草は特に附きやすい花だつたのである。稚ない人たちの新しい名を好む癖は、此方面にも明らかに現はれて居る。例へば秋田市の附近から角館《かくのだて》の邊へかけてダンブ(79)リ花又インキグサといふ名が既に行はれて居る。此語がインキの田舍に入つた時より、前からのものでないことは誰でも認めるだらうが、或は同じ科の中の「むらさきつゆくさ」がインキ花だといふ土地も北信などにはある。花の汁が紫インキのやうだからといふが（更級）、この新しい外國産の草を、紙に染める遊戯があるか否かを私はまだ確めて居ない。

　

　　　　　　　ハゴジヤ

　

　東京では「猫じやらし」と謂つて居るゑのころ草を、越後の西頸城郡ではネコソバエ、三河の東加茂郡でも同樣に猫そばえと謂つてゐる。ソバエルは猫でも子供でもふざけることで、此草の穗を取つて板の間などでまはすと、猫が興味をもつてじやれつくから此名が出來たのである。ゑのころ草の名も狗の子だから是に近い樣に思はれるが、此方は戯れ遊ぶことゝは關係無く、單にむく／＼とした毛の樣子が、小犬を聯想させるからさう謂つたもので、泉州でイヌグサといふのも同じに、寧ろ漢名の狗尾草といふ方に命名の動機が一致して居る。子供の考案に成つた地方名が、この草にも幾つかある。信州小縣郡ではコロコログサ、九州の方にも肥前のイヌコロコロなどがあつて、ゑのころ草といふ名の是と同列のものであつたことを思はしめる。コロコロは本來狗を喚ぶ言葉で、多分は「來よ」といふ語の改造であつた。關東地方を始めとして、今でも?を喚ぶのにコロコロといふ處は多い。さうして?は痩ぎすであり、又引締まつて居るのだから、ころ／＼して居るからエノコロだと思ふのは當らない。小兒はいつでも人の喚ぶ言葉を聽いて、それを相手の名前だと思ふ傾きがあるから、乃ち是も亦元は「犬來よ」であつたことを察し得るのである。中國地方に於けるゑのころ草の方言を見ると、備前ではトートコ、備中はトートーボ、備後ではトートーグサ、周防には又トトコグサ、其他是に近い語が僅かづゝの變化を以て行はれ、そのトトコ等は、すべて皆小狗のことである。(80)一方には又我々のいふ猫柳、春さき銀色の柔かな毛で蔽はれた若芽をつけて、それが又やゝ猫か犬かの形に似て居るものも、山陰その他の可なり弘い地域に亙つて、之をトウトといふ者があり、或は又カハラノコチコチなどゝいふ地方もある。名は殆と同じでも形はさほどゑのころ草と似て居ないが、之を小犬と謂つただけが兩方に共通なのである。犬をトウトといふわけはコロコロも同じだらうと私は思つて居る。?を喚ぶ聲にもトウトウといふのを見てもわかるやうに、是は疾《と》く／＼の音便であつたのである。人に對しても「朝はとうから」とか、「とう行つてとう來い」とか、以前は疾うと柔らげて使ふことが多かつた。三つ四つの幼兒をつれた親たちが、小犬にとうとうといふのは自然なことで、それを聽いて居る者が彼はトウトと呼ばれるものと、解したのも亦異とするに足らず、トウトコのコなども「來い」であつたと思ふ。?はトリだからトトといふのだと心得て居ると、魚の煮たのをもやはりトトと謂ふのである。是などは早く下さいを小兒がとう／＼と謂つたからで、魚の名の片言と見ることは出來ない。それから段々と明らかになつて來ることは、青森縣の五戸《ごのへ》附近では、ゑのころ草の名がハゴジャであつて、次のやうな盆踊歌が曾ては行はれて居た。

　　　ことし始めて粟の草取つたけや

　　　粟とハゴジャのわけ知らの（ぬ）

　このハゴジャも中國のとうとうと同樣に、「早うごじやれ」を粗末に謂つた語で、乃ち此地方では今はとにかく、前にはゑのころをハゴシャと喚んで居たので、それがこの粟とよく似た草の名にもなつたのかも知れない。ハグサといふ標準語は合理化とも考へられるが、この盆踊唄は無論戀の歌であり、之を歌つたのは少女よりも男たちだつたかも知れぬが、とにかく彼等は忠實に小兒の發明した適切なる草の名を、大人になつてからまで守つて居たのである。

　

(81)　　　　　　　山の筆

　

　常陸の筑波山下では、白頭翁即ち「おきなぐさ」を、男の兒はヤマノフデと謂つて居ることが、横瀬夜雨君の隨筆にも見えて居るが、新作であらうと思ふ。此草の花穗に水を含ませると、板塀などへ字が書けるといふのは、無論小學校が出來てからの經驗にちがひないからである。

　其以前の子供の遊びは、この花の長く垂れたしべを髪に結び、又は其形のままを髪の垂れた人に見立てゝ玩ぶことであつた。

　多くの地方名は是から出て居る。大體に色が灰白なので老人に見立てたものと、長くつや／＼としてゐるので少年に擬した名と二通りあり、なほ本草啓蒙や、増補俚言集覽に依れば舞を舞ふ人の姿にたとへたものも元は多かつた。たとへば、飛騨でモノグルヒ、備中でもキツネコンコン、加賀越中でオニゴロといふのも是であり、筑前その他でゼカイサウと謂つたのは、疑ひも無く能の是界坊から出て居る。

　富山の近傍でチゴノマヒ、又は訛つてチグルマイなどゝいふのも、曾てさういふ舞を、面白く見た者の聯想であらう。

　信州の犀川水域では、今でも一般に白頭翁をチゴチゴと呼んで居るが、果してチゴが童兒であることを、意識して居るか否かは疑はしい。下水内郡では是を誤つて、チンコロ花といふ處もあるのである。此名稱の領分はもとは弘かつたやうである。たとへば水戸ではオチゴ花、下野ではチチコ又はカハラチゴ、仙臺でもチチンコと謂つて居たといふが、今ではもう行はれて居らぬかも知れない。九州の方では薩摩でウネコ、豐後でオネゴ、肥後にはオナイコの名があつて明らかに「うなゐ子」であるが、是も其意味が既に不明になつて、福岡縣などではネコバナ・ネコグサなど(82)と猫だと思つて居る者も多くなつて居る。ちごが頭髪を「うなゐ」にして居た時代は過ぎて年久しく、又さういふ語も用ゐられなくなつて居る。カブロといふ語は是に代つて現はれ、髪を切つて頸のところまで垂れたものが皆カブロであつたのが、後には是も或る種類の童女だけの名になつてしまひ、普通の子供にはオカッパと謂ひ、又カンバともガンボウジともいふやうになつた。翁草をカブロといふ處が、伊賀にも木曾にもあつたと啓蒙には見えてゐるが、現在もさうであるか否かを知らない。諏訪郡の一部豐平村などでは、オッカブロウノチンゴンバといふ長い名で呼んで居るといふが、チンゴンバは即ちチゴ花だから、是に又オッカブロの語を添へる必要は實は無かつたのである。ガンボウジといふのは、此地方では蒲公英の花の白くなつたもののことで、同時に人の頭の散らし髪のことであるが、群馬縣の方へ行くと、是が又翁草の名として用ゐられて居るといふ。髪に見立てた動機は皆一つでも、古い命名の趣意が不明になると、やはり新しいものを以て是に置き換へようとするのである。

　東北にも白頭翁の地方名は數多く出來て居るが、爰では奇妙にチゴ・ウナヰゴにたとへたものが無く、全體に老人殊に老女に見立てた名が多い。舊南部領にはウバガシラとウバシラガといふのと二つあつて、姥白髪の方が印象は深いが、私は姥頭の方が舞の姿から出た名で、一つ古いものゝやうに思つて居る。

　秋田植物方言に依れば、此地方には又ウバケヤケヤ、もしくは只ケヤケヤと謂つて居る村が多い。此草の葉に觸れると痒くなるので、或はママコノシリヌグヒともガモコハシとも謂ふ名があるから、ケヤケヤも亦痒い／＼の意だといふ人もあるが、此説はまだ十分に安全でない。或は何か今一つ古い名があつて、それが斯ういふ形で殘つて居るのかも知れぬと思ふ。

　青森縣にも土地によつてツブツケとかヤツレグサとか、なほ二三の別系統の名が採集せられて居るが、大體に東北では老人に見立てたものが多く、チゴバナ・ウナヰコといふ類の名が殆と行はれて居ないのは、何か理由のあることのやうである。或は兒童の髪を切つて垂らす風習が、此地方には無かつたのではないか。

(83)　そんなら婆さんの斯んな頭をしたのが、特に奧羽の端々に多かつたかといふと、是はさうでは無くして寧ろ姥頭といふやうな姿で舞ふ舞に、印象の深いものがあつた爲かと想像して居る。さういふ舞がもう無くなつて、姥といふ名ばかりが記憶せられると、後には福島縣の各地のやうに、カハババだの川原の伯母さんだのといふ名が、改めて又考案せられるのであらう。

　是とよく似た命名は支那で白頭翁、日本でも翁草などゝ、何人にも合點が行くから以前はあつたかも知れぬが、現在は西の方には殆と殘つて居ない。出雲の大原郡にはヤマンババといふのが有る。安藝ではヂイガヒゲ、四國にはジョウドノといふ名が元はあつたといふが、今はどうであるか知らない。ジョウといふのも老翁のことである。

　しかし子供には名のをかしみよりも、遊びの樂しさの方が大きな魅力だつたかと思ふ。茨城縣の眞壁地方では、女の兒は此草の花を實の入らぬ前に採つて來て、毛を二つに分けてきれいに髪を結ひ、小さな赤い人形に着せる。それでオチゴカンバといふ語がなほ殘つて居る（雪あかり）。カンバもやはりカブロのことである。信州の北安曇《きたあづみ》郡では種子を集め丸めて手毬にする。それでチゴチゴ花・オツカブリの外に又テンマリバナといふ新しい名も出來て居る（郷土誌卷三）。或はフデブサといふ名が爰にもあるといふが、爰でも多分小學校の子供が、是で板塀などに落書することが流行し出したのであらう。

　

　　　　　　　爪紅草

　

　二通りの全く反對な名の付け方が、殊に草の名については注意せられる。一方に非常に適切な、誰が聽いても笑ひたくなるやうな名があるかと思ふと、他の一方には意味も無くまちがへて使つて居る草の名も多い。此矛盾は又兒童の癖であらうと思ふ。即ち遊戯の興味の忘れ難いものは、如何なる名であつても覺え、名前の面白さを樂しみにして(84)居るものは、其方にのみ氣を取られる。つまり淋しい昔の子供たちには、名を唱へるだけでも一つの遊戯であつたのである。今度は前の方の例を一つ擧げて置きたい。

　鳳仙花は近世に外國から入つて來た草かと思はれるのに、現在は全國栽ゑて居らぬ土地も無く、其名前が又非常に變化して居る。高知縣の一部でホウカンショ、埼玉縣の妻沼《めぬま》邊ではホシンカン、岩手縣ではコウセンクヮ或はコセンコといふのは明らかに片言であるが、秋田縣の各地でエングヮンコ又はユングヮ、山形縣に行くと莊内でも最上《もがみ》郡でも、共にレングヮと呼んで居るのは判らない。遠く離れて鹿兒島縣の種子島に、エングヮといふ名があるといふのがもし事實ならば、何か今一つ輸入當時からの名があつて、それが東北の一隅には傳つて居るのである。新潟縣では中越方言集の記載によれば、鳳仙花をツマグレナヰ又はホネノキと呼んでゐる。ホネノキは骨拔きの意といふが、それだけではまだ説明にならぬ。或は此草の實が自然に彈けて、ひとりで飛んで出ることをヌゲルと謂ふのでは無いかと思ふ。四國では阿波の祖谷山で此花をノギノギ、土佐でも東部の山村には此名があり、或は又ノギノ花、ノギ流シとも謂つて居る。ノギといふのは麥の芒《のげ》のことで、此草の實の形が麥の穗に似て居るからだと、説明して居るがそれも信じられない。だから又「脱げる」といふ動詞に基いたノギではないかとも想像するのである。

　鳳仙花の實がひとりで飛んで繁殖するといふことは、幼い觀察者にも珍しい現象であつたと思ふ。九州でも大分市の周圍で、此草をトビグサと謂ふのは明らかにそれから出た名であり、別に又トビシャク・トビシャ・トビシャゴなどゝいふ名稱が、此縣を中心に東は對岸の愛媛縣、西は熊本縣の西端まで流布して居る。天草島では舊暦六月三十日の夏越《なごし》の行事に泳ぐ風習があるが、村によつては此花と「かたばみ」の葉とを合せて石の上で搗き、其液を以て爪を染めてから海にはひり、或は棕櫚の葉に紅白のトビシャゴの花を貫いたものを、女の子などは頸に卷いて泳ぐといふ。即ち川童の害を防ぐまじなひに、ひとりで實を飛ばすやうな有力な花を利用したらしいのである。此方言は不思議に分布が弘い。鹿兒島ではトッシャゴ又はトッサゴ、南の境の寶島ではトビシッゴ、沖繩縣でも本島はティンシャグ、(85)又はチングサ、宮古島ではティンザク、八重山諸島ではキンヂャク、與那國島ではキンタク、波照間《はてるま》島ではシンシャクで、何れもたつた一つだけを聽けば、飛草の變化であることはちよつと氣がつかぬが、恐らく飛ぶといふ特徴以外に、今も天草島などで殘つて居るやうな、美しく又印象の深いまじなひの方法と一しよに、持つて渡つた名稱であらうと思ふ。東北では羽後の角館などに、此草をゴシャギトンコといふ名が獨立してある。ゴセヤクは腹を立てること、ちよつと手を觸れるとすぐに實が飛ぶのを、怒つて飛ぶ者と呼んだので、是は西國の方とは無關係に、この土地限り思ひ付いたものらしい。

　此花の紅い汁液で爪を染める風は、支那にも夙くあつて長崎を經て入つて來たといふのは事實であらうが、日本に弘く行はれたのも、少なくとも只の眞似では無かつた。斯うして海に入れば水の物に捉られぬとか、又は草の中をあるいても蛇に卷付かれぬとかいふことを、曾ては信じて眞劔に實行する者があつたので、後には再びたゞ少年少女だけの、面白がつてする遊びになつたが、最初の分布にはもつと強力な動機があつたものと思はれる。此風習を元にした鳳仙花の地方名は二種あつた。其一つはツマベニ、即ち爪紅である。土佐の西半分には是が多く、土地によつて少しづゝ變化してツマベリ・ツワベニ・ツワベリ・ツバメニ・ツバベニ・ツバメリからツバメー、又スバベリとさへ謂ふ處がある。今一つの方はツマグレナヰ、此方は九州の一部にも行はれ、又標準語としても認められて居るらしいが、餘り上品過ぎる爲か略してツマグレ、又ツマグリサウといふ者も多く、山口縣でも東方はツマグリサウ、西部はツマグレと呼んで居るが、九州は更に其分化が弘く、豐前ではツマグロ、豐後には又ツマグラといふ土地もある。佐賀縣ではツバメもしくはツバネ、肥前五島などもツバネであつて、是はツマベニの方から分れたかとも見られるが、やはり中間に燕をツバクロといふ語を置いて考へると、後の方の系統のやうに見られる。もつと驚く變化は、奄美大島の古仁屋《こにや》でダマクラ、名瀬でカマクラ、それからもう一つ變つて鄰の沖永良部島ではハマクラ、喜界島ではマンカとまでなつて居る。南の島々では鎌倉といふ語に、昔からなつかしい響があつた。新たに海の外から入つて來た花に、も(86)しツマグラといふやうな音があつたら、是をカマクラの花と誤るのは自然であつた。此島の民謠として今も記憶せられて居るものに、次のやうな一首がある。

　　　カマクラぬ花や手のさきに染めろ

　　　親のゆしごとや胸にそめろ

　即ち此島でも亦鳳仙花は爪を染める花として、娘たちに知られて居たのである。鳳仙花といふ名を其まゝに用ゐて居る土地でも、爪を染める子供遊びはまだ多く殘つて居るが、是が成人の化粧でもあつたといふ痕跡はもう見出し得ない。たゞ富山縣の中部で此花をケイセバナ、島根縣の西端で之をビジンサウ又はミヤコワスレといふ名を存するを知るのみである。此等は勿論兒童の命名でなくて、或はたゞ單に花の色のくれなゐが、鄙に稀なることをめでてつけたのかも知れぬ。

　

　　　　　　　桝割草

　

　かやつり草は莎草などゝも字に書いて居るが、どういふ漢語が正しく當るかを知らない。一種なつかしい香があつて之を折取ると子供の日の記憶がよみがへつて來る。莖が三角なので二人の兒が申し合せて、前後ちがつた側面から二つに裂くと、縁が繋がつて居て四角な圍ひが出來る。是を彼等は蚊帳を吊ると謂つたのである。ちやうど初夏の、家では蚊帳を取出す頃なので、此名が印象深くきこえるのであるが、熊野では是をマスグサと謂つて居る。

　廣島縣の東部でも桝草、播州には又桝割といふ名があり、山口縣の瀬戸沿海でも桝割草と謂つて居る。割つて桝の形になる草といふ意味で、桝が農家の兒には親しみの多い器物であつた以外に、我々にはなほ二つのことが考へられる。一つは以前の大桝には對角に棒を張つたものが多くて、是が蚊帳よりも一段と此草の割れ方に似て居たことであ(87)る。今一つの事實は多くの子供は蚊帳を知らなかつた。蚊をよける手段には蚊遣火は記録にも見えるが、蚊帳の今の形になつて常民の家にも普及したのは、存外に近頃のことだつたのである。

　草の名としてはカヤツリグサの方が響きはよいが、物を知らなければ聽いても興味が少ない。しかも一部の兒童はまだ蚊帳の中に寢ない時代から、既にこの語を覺えて居たらしいのである。

　國語の流傳にはもうよほど古くから二通りの樣式があつた。即ち體驗をした言葉と、暗記をしなければならぬ言葉とで、今日の小學生等は原則としてその暗記の方を強ひられて居るのである。言葉の意味が何の説明もなくて自然にわかる時代には、子供と國語とは今少し縁が深く、新しい物の名は斯うして草莽《さうまう》の間から生まれて居たのである。

　

　　　　　　　目はりごんぼ

　

　名を付けるといふことそれ自身が或は昔の子供の遊びのうちであつたので、此樣に覺え切れないほどの新しい名が、次から次へと出來たのではないかと思ふ。私などの郷里では畠に夏生える草の「すべりひゆ」を蛸草又はタコと謂つて居た。是はあの草の莖の色とつやが、如何にもゆで章魚とよく似て居るから誰にでも附けられる名だと自分なども思つて居た。多分友だちの一人がさう謂ひ出したのだらう位に考へて居た。後に大阪府でも奈良縣でも、同じ言葉があることを聽いて、寧ろ遠方の一致を珍しく感じたことである。下總の利根川べりに來て見ると、子供は皆此草をヨッパラヒと呼んで居た。是は拔き棄てゝ少しの間置くと、莖の色が著しく赤くなるからの名で、やはり遊びながらでも自然に付けられるほど手輕な名だが、關東では他にもさういふ土地が多いやうである。一人が發明してそれが遠くへ運ばれたので無く、そこでも爰でも別々にさう呼ばずには居られなかつたのではないかと思ふ。とにかくにどんな子供にでも、氣がつかずには居られぬ色の變化であつた。大和はタコグサの名がよく知られて居るが、宇都宮など(88)では又是をアカゴンボ、もしくはアコナレゴンボとも謂つて居る者がある。赤うなれ／＼と唱へて待つて居た兒童の遊戯が想像せられる。或はタコといふのも元は此草の莖を水に浸けて、章魚をゆでるといふ遊びがあり、それを私たちがもう忘れて居るのかも知れない。

　コンボは九州の北部、筑後の三池郡などで、メハリコンボといふのが又「すべりひゆ」のことである。爰にも以前は赤うなれゴンボといふ遊びがあつたか、或は別に此草をコンボといふ名が古くからあつたか、何れかで無ければこの東西の一致は有り得ないと思ふ。メハリといふのは此莖を短く切つて、それを瞼の上下にあてゝ目を張る戯れがあるからである。

　私などの幼い頃には石菖といふ草の穗を取つて、之をつゝぱりにして目を張り、よつて又此植物をメハヂキと謂つて居た。大分別府の近くではメツッパリとも呼んで居る。何でも無いことだが是で目ばたきをせぬやうになると、ちよつと變つた顔に見えるのを興じたのである。

　コンボは小坊で此遊びとは多分關係が無く、新舊二つの名の結合と思はれる。東北は一般に、小兒がだゞをこねることをゴンボホルといひ、或は醉人が管を卷くことをもさう謂ふ處があり、後の方が古くからあつたやうである。

　今では牛蒡を掘るといふ感じで使はれて居るが、事によつたらこのゴンボは醉つぱらひのことであつたかも知れない。南大和のアカゴンボといふ名稱なども、それだとその起源が大よそはわかつて來るのである。

　

(89)　　　野鳥雜記

　

(91)　　　　　野鳥雜記

　

　　　　　　　　　　一

　

　暫らく少年と共に郊外の家に住むことになつて、改めて天然を見なほす樣な心持が出て來た。少なくとも今までの觀察の、大抵は通りすがりのものだつたことを感ずる。旅は讀書と同じく他人の經驗を聽き、出來るだけ多くの想像を以て、その空隙を補綴しなければならぬ。自分の如き代々の村人の末でも、ほんの僅かな間の學間生活によつて、もう是ほどまでに概念のしもべにならうとして居る。是は忘れたといふよりも最初から談らうとしなかつた爲であらう。今に於て始めて野の鳥の徒らに饒舌でなかつたことを考へざるを得ない。

　

　　　　　　　　　　二

　

　畠に耕す人々の、朝にはまだ蕾と見て通つた雜草が、夕方には咲き切つて蝶の來て居るのを見出すやうに、時は幾かへりも同じ處を眺めて居る者にのみ神秘を説くのであつた。靜かに聽いて居ると我々の雀の聲は、毎日のやうに成長し變化して行く。或る日はけたゝましい啼聲を立てゝ、彼等の大事件を報じ合はうとして居る。是が人間でいへば物語であつて、集め又は編纂して歴史となるべきものであらうが、あれを構成して行くめい／＼の惱みと歡びとの交渉配合が、こんなに人生の片寄つた一小部分であつたことを、今までは頓と心付かずに居た。

　

(92)　　　　　　　　　　三

　

　雲雀が方々の空で鳴いて居る。多くは是も自分の畠を持つて居て、他處へ出て行かぬ時ばかり、最も自由に囀り得るものらしい。一つ／＼に流儀といふやうなものがあつて、出來るならば名を付けてやりたい氣がする。或る者は如何にもブマであつて、朝も夕方も少しでも調子をかへず、土の上に居て空の聲を啼いたりする。さうかと思ふと精確におりる時、立つとき、横に行く時と歌ひかへ、高さによつて次々と節を變へるものがある。籠に入れて飼ひ始めてから、人は漸く其巧拙を聽分け、價の差等を設けようとするが、もし差等があるならば疑ひも無く持つて生まれたものであつた。こんな東京の近くの、眞似ならば幾らでも出來る土地に住みながら、一生涯下手に啼いて、暮してしまふ雲雀もあるのを見れば、親が教へるといふことは師弟とは又別のもので、鳥屋が名鳥の籠の隣へ雛を連れて來て、好い調子を學び習はしめようとするのは、一つには只天分の試み、今一つは外界を遮斷して、假に幼い者に之を親かと思はしめるだけの細工であつたかも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　だから雛を育てることの六つかしい雁などの囮《をとり》は、曾て莊周の寓言にもあつたやうに、其鳴聲の邊傳が忽ちに食はれると愛せられるとの境を區別する。美濃から信濃にかけては秋に入ると、鶫《つぐみ》の賣買が盛んであるが、好いヲトリの何年かを飼ひ馴らしたものは、只の仲間の?漬になる鶫の、何千羽を集めたよりも高い價を持つて居る。それが決して教育の力では無く、單に偶然に其聲の囮に適することが發見せられて、多數の中から稀に一つ、取殘して珍重せられたといふに過ぎぬ。專門の鑑定家の話を聽いて見ると、聲の佳いといふのも決して鶫たちの爲に佳いのでは無い。よく鳴く鳥でも其聲が悲しければ、空を行く群がうか／＼と降りては來ない。籠に居ながら籠を忘れて、たゞ食糧と(93)水との豐かなることに滿足してさも樂しさうに歌つて居ると、然らばこゝで休まうと多くの渡り鳥が、網を張り渡した夜の明け方の小松原へ、ばら／＼と飛んで來て捕へられるのである。文人で言ふならば病的天才である。こゝいらの野の雲雀の群には、さういふ標準から鳴聲の善惡を批判せられるやうな心配は幸ひにしてまだ無いばかりか、彼等の仲間だけでは頓馬を極上々と、きめて居たところで致し方は無いのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　少なくも下手は御構ひ無しに、精一杯に彼等は鳴いて居る。それを又我々が色々と意味を付けて聽かうとして居たのである。自分などの小さい頃には、雲雀は、

　　　テンマデノボラウ、テンマデノボラウ

と啼くものと思つて居たから、麥畠のへりの土に居ながら、さういふ鳴き方をするのを聽くと、何かなまけ者の夢のやうでをかしかつた。それから又あの羽を互ひに傾けつゝ下つて來る聲を、

　　　オリヨウ、オリヨウ／＼／＼

と聽く習ひがあつた故に、たま／＼それが行動と一致しないと、今でもあの雲雀はどうかして居ると、思はざるを得ないのである。面倒に考へて來ると、かうした批評家のもつ先例の集積は、目に見えぬ自然らしさを以て法則の力を支持するやうでもあるが、果して然らば何故に突如として、非難せらるべき雲雀をこの世の中に、出現せしめたかといふ問題が殘る。いや是は飛んでも無い理窟になつたが、兎に角に我々の故郷の小鳥は、只それ／”＼に人間の心持だけを鳴いて居たのである。

　

(94)　　　　　　　　　　六

　

　燕が軒の端に來て囀つて居るのを聽くと、あれは、

　　　ツチクテムシクテクチシーブイ

と謂ふのだと思つて居た。土を食ひ蟲を食ひ口が澁くなつたといふことを、彼も亦中國の田舍の方言を以て談つて居たのである。畫眉鳥《ほゝじろ》が杉や川楊などの最上端にとまつて、青い天地を眺めつゝ啼く聲まで、我々には、

　　　イッピツケイジョウツカマツリソロ

といふやうに聽えた。勿論これは寺小屋に行く子供などの、邪推といへば邪推のやうなものであつた。明けても暮れても手習ひの文句の、調子の面白いところを口癖にするのを、後には聞き覺えて鳥の癖に眞似をする。それが例の蒙求《もうぎゆう》を囀るといふ諺の引續きであつて、しかも句としては新しかつた。物類稱呼は安永年間の書物であるが、あの中には關東で「一筆啓上せしめ候」、遠江國に於ては、

　　　ツントイツツブニシュマケタ

と謂ふとある。小玉銀五粒と二朱負けたといふのだから、是は明らかに博奕のことで、今でも信州の大河原の奧などでは、さういふ無教育な鳴き方をする樣に傳へられる。同じ頃に又薩州の方では、

　　　オラガトトハ三八二十四

と、頬白が啼いて居たといふことである。此トトは勿論亭主のことで、若い嫁御さんをひやかした言葉のやうだが、しかも丁寧に三八二十四と、九九の聲を添へてあるのは、さういふ暗記をして居た連中、即ちやはり子供らの通辯であつた。

　

(95)　　　　　　　　　　七

　

　秋の蟋蟀の「肩させ裾刺せ、寒さが來るぞ」でも、さては梟の五郎助奉公、數珠掛鳩の年寄來いも、それ／”＼に之を聽いて特に心を動かす人があつたのである。さうして大抵は老人か女か子供、忙しい働き手はそんなことを考へて居る餘裕も無いから、世の中が段々ませて來ると、もう鳥蟲の歌は今日の舶來の歌の如く、意味は何でも構はぬといふ音樂になるのである。私は之を忘れてしまはぬうちにと思つて、少しづゝ集めて置いたものである。斯ういふ話の序にぼつ／＼と思ひ出すならば、いかるがといふ鳥がヒジリコキーと啼いたといふのも、古い時代の戯れ言葉かと思はれる。ヒジリは上人で女房は無い筈であるのに、時々はその聖の兒といふものが居たのである。キーは調子を高く別に發聲するから、恐らくは嘲ける意味に聽えたのであらう。地方によつては此鳥を三光鳥とも謂つて、「月星日」と啼くといふのが、信州の諏訪筑摩では、ミノカサキー、奧州のどこかの田舍ではアケベエキー、即ち紅い衣を著よと聽いて居た時代もあつた。四月山々の花のゆつたりと咲く頃に、なつかしい心持を以て此鳥の枝に遊ぶのを、見て居た子供たちの姿まで目に浮ぶやうである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　是とは反對に時鳥の啼き聲には、どういふわけでか哀愁を催す樣な話が多く伴なうて居る。昔名古屋の近くの村で、五つ六つばかりの男の子が、人に連れられて物詣りに行く途中、頻りに此鳥の啼く聲を聽いて、一人で嬉しさうに笑つて居た。どうして笑ふかと人が尋ねると、それでもあの鳥が「とゝさへ、かゝさへ」と啼くものをと謂つたといふのは、親の無い兒であつたのであらう。其年麻疹を病んで其子は死んだと、眞澄の奧州の紀行の中に書いてある。郭公は時鳥の雌などといふ俗説もあるが、是が亦同じやうに冥土の鳥であつた。古い物語に母一人子一人、夕の山路を(96)物淋しく通つて居ると、早來早來と此鳥が啼いた。さうして心付いて見ると、背の幼な兒は死んで居たといふ。今では我々の耳にはカッコウとばかり聞えるが、ハヤコ若しくはアコといふ以前の語音に近かつた爲に、特にあの鳴聲を怖れて居たものと思はれる。他の小鳥が寢處を捜す時刻になつてから、この二色の鳥ばかりが際限も無く鳴いて來る故に、憂ある者は殊に耳を峙てざるを得なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それが又ちやうど昔の農民たちの間に、子供の頃聽いた爺姥の物語を、想ひ出す刻限でもあつたのであらう。驚くばかりの澤山の昔話が、時鳥と郭公とについてのみ保存せられて居る。さうして廣い地域に流傳して、しかも其啼聲の聽きやうと、これに基く此鳥の異名だけは、土地毎に少しづゝ變つて居る。誰でも自分の生まれた土地のみの、つまらぬ話のやうに聞き流しては居るが、昔々時鳥と郭公は兄弟で又は姉妹で、誤つて一方を殺して悔い嘆いて鳥になつたといふ類の口碑が、少なくとも國半分に擴がつて居るのである。以前も其一部分を比較して見たことがあるから、爰には簡略に異名だけを述べるのだが、信州の各郡でオトツトコイシ、又はオトツトキツタカキヨキヨキヨ、越後に接した郡でオトツトコロシ若しくはオトヽツツキツタ、土地によつてはホチヨカケタ、東京府下の西部山村でも、或はオトツトツキツチヨと啼くといひ、又はオトハラツキツチョと啼くとも謂ふが、何と鳴かうとも話は大抵同じである。青森縣などは廣い區域に亙つて、この鳥をコナベヤキといふ處があり、秋田でも北部はナベコドリといふ異名がある。昔これも兄弟の二人があつて、兄が出て働いて居る留守に、弟一人小鍋立てをして樂しんで居るところへ、兄が還つて來たのでそつちへ隱れこつちへ隱れて、食へるだけ食つてしまふと背中が裂けて死んで時鳥になつた。だから鳴く聲が、

　　　アチヤトデタ、コチヤトデタ、ボツトサケタ

(97)と謂ふのだといふ昔話もある。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　鳥が我々の前に來て最も自由に物を言ふ動物であることは、恐らくは昔話の特に彼等の爲にいつまでも成長した理由の一つであらう。昔話の管理者は可なり久しい以前から、老人と其孫たちであつた。さうして彼等には又昔話の、時刻といふものがあつたらしいのである。椰子の葉蔭に横たはつて日を過す人々は別として、働かねばならぬ温帶の國の田舍では、日の夕暮はたゞ此等の人々にのみ寂しかつた。兄姉はまだ野仕事から還らず、母は勝手元に火焚き水汲み又は片付け物に屈託をして居る間、省みられざる者は土間の猫?、それから窓に立ち軒の柱にもたれて、雲や丘の樹の取留めも無い景色を、眺めて居ることの出來る人たちであつた。年寄が居なければ子供仲間で、物蔭を怖れて遠くへは行かずに、心ばかりを誰よりも自由に、働かさうとしたのも此時刻であつた。それが百萬囘以上も積重ねられて、爰に色々の村の文學が出來た。螢や蝙蝠は言ふに及ばず、雁でも鴉でも五位鷺でも、彼等に喚びかけられる多くの鳥は、大抵は皆夕の空の旅人であつた。喧嘩もよくしたが歌も此際に於て歌はれた。何百と算へられる子守唄の類を見ても、大部分は日のくだりから、黄昏近くまでの産物であつた。昔話の主人公となつた梟や時鳥、東北の野山ではカッコウや馬追ひ鳥が、何れも暮れかゝつてから啼きしきる鳥であつたことは、私には些しも偶然とは思はれぬ。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　殊に時鳥には繪に描かれるあの形から、思ひ付いたやうな話は一つも無い。中部地方の人々には珍しいが、所謂コナベヤキ又はナベコ鳥の物語は奧羽には弘く行はれて居たらしい。下北半島の或る村々の少年は、我々がカラスカラスと歌ふやうに、時鳥を見ると次のやうな詞を繰返して居た。

(98)　　　小鍋燒きよ

　　　そちやとでた、あちや飛でた

　　　誰に小鍋隱された

　即ち弟が兄に隱して小鍋立てをして居て、それを隱さうとして腹が裂けたといふ話は、或は今一つの山の薯の話などと、混同してからあゝなつたのかも知れぬが、少なくとも此鳥がさも急いで、森から岡へ空を横ぎつて飛ぶ聲を聽いてそつちへ飛んで行つたと叫ぶやうに、考へ出した者があつたのである。羽後大館には此鳥は至つて少ないが、試みに何と啼くかと尋ねて見ると、やはり又、

　　　アチヤトデタン、コチヤントデタン

と啼くさうだと言つた。それから鹿角郡の宮川村、又は南部の野邊地でも盛岡でも、アチヤトデタカと啼くといふ人が多かつた。即ち小鍋隱しのをかしな昔話も、基くところは此鳥の啼く聲であつたのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　それよりもなほ一段と有名なホンゾンカケタカ。是もあの聲をさう解して後に徐々として物語の空想は伸び又彩られたやうである。森口清一君の説に依れば、紀州の有田一郡でも此系統の話は五つまであつて、何れも奧州の鍋子鳥と同じく、此鳥の前生の因縁を説くものであつた。百舌（モズ）と時鳥とは古い友人であるが、百舌が唐から本尊の掛圖を盗んで來たのを知つて、いつも時鳥が「本尊掛けたか」と啼く故に、是に閉口して時鳥の啼く時節だけは、百舌は黙つて居るといふ話。或は又時鳥が百舌に金を預けて、御本尊を求めてくれと頼んだ。それを買はずに酒を飲んでしまつた故に、今でも百舌といふ鳥の顔は赤い。時鳥が「本尊買うたか」と啼くと面目次第も無いので、其頃だけは百舌はどこかに隱れて出て來ないといふ話などもある。

　

(99)　　　　　　　　　　一三

　

　併し時鳥の聲の聽きやうとしては、是は如何にも面白いに相異無いが、話は子供に取つて幾分か込入つて居る。それといふのは百舌と時鳥との關係が、實は今一つ以前から既にあつて、それを爰まで持つて來る爲に、稍々不自然な繼合せがしてあるからである。伊豫の大洲のあたりでは、百舌は友人の時鳥に昔から借りがあつた。それを返辨する爲に時々は蛙などを捕つて、枯枝のさきに突刺して置く約束をした。時鳥はそれを催促して、今でもトツテカケタカと啼くのだと謂つて居る。俊頼や顯昭の盛んに古歌を解説した時代には、果して京都でもさう啼いたものか否かは知らぬが、少なくとも此話だけは源平以前からあつた。「五月ばかりにもずまろ、もろ／＼の小鳥若しくは蛙などを捕りて、木の枝などに貫ぬき置くことあり。是を鵙《もず》の速贄《はやにへ》とは云ふなり。時鳥に借りしをわきまふると也」と顯昭が言つて居れば、俊頼も亦時鳥の啼く五月頃は、百舌は沈黙して垣根などをつたひあるき、たゞ時々聲低く「ほとゝぎすこそ」と喚ぶばかりだなどゝ謂つて居る。はやにへと謂ふのは新鮮なる貢ぎ物、即ち魚類などを貴人に獻ずる爲に晝夜の飛脚を走らせることをいふらしいが、それを百舌から時鳥に向つて、進上せねばならぬといふ樣な何か一つの話が、もうあの時代の歌人等の耳に入るまで、廣く日本にはもてはやされて居たのであつた。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　或は又之を「もずのくつで」とも謂ふ者があつた。八雲御抄には單に「もずのくつで、我身がはりに蛙やうの物を、物に刺して置くなり」とばかりあるが、是も同じく時鳥に向つて、支拂はれなければならぬ沓の代價であつたことは、後々の童話が十分に之を證明する。例へば是も紀州の吉野川の流域で、今も行はれて居る語り草の一つに、昔時烏は馬の沓を造る職人で、百舌は其友人の馬方であつた。何遍と無く時鳥の作つた沓を借倒して、其代錢を拂ふのを怠つ(100)た爲に今以て百舌は蛙其他の蟲類を取つて來て、之を樹の枝に串刺にして置いて忘れる。さうして時鳥に餌を供して居るのは、昔不義理をした罰であるといふさうである。百舌が生き餌を木に刺して忘れてしまふことは、誰でも簡單に觀察し得るだらうが、それを時鳥が後から廻つて食ふかどうかは、さう容易には實驗するわけに行くまい。ましてやそれを昔の馬の沓の辨償であるなどゝは、空に想像することはむつかしい話であつた。是は此烏の異名を沓手鳥といふ如く、曾てはトツテカケタカの代りに、「沓手掛けたか」と子供やその爺婆に啼いて聞かせた時代があつて、それから段々に鳥が人間であつた前の生を、斯ういふ風に想像するやうになつたのであらうと思ふ。しかも移り變つて本尊掛けたかと聞く世の中になつても、なほ百舌と時鳥との交渉は絶えなかつたのである。それから推して考へて見ると、ずつと以前にも別になほ之と類した他の話が有つたのかも知れぬが、少なくとも沓手鳥の異名のもと、即ち百舌に對して馬の沓の代價をはたるといふ話は、あの啼き聲をクツテと聽くやうになつて後に、始めて發生したものに相異ないのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　稚兒の最も敬虔なる傳統主義、有れども無きが如き作者意識を以てして、尚是だけ人望のある昔物語がいつの間にか消え改まり、もしくは新たに美しい芽を吹いたのである。昔と名の付くもの必ずしも古物でない。我々は寧ろ常に珍しく驚くべきものを求めて居た。只幸ひにして童子の世界に於ては、それが彼等の心臓に近く幾らでも轉がつて居たといふばかりである。野の鳥が以前は人間であり、又は今でも人の如き心を持つて、其思ひを我々に語らうとして居るかといふ想像は、單に太古以來の或る人類の癖といふよりも、むしろ代々の小兒たちの、新たなる二葉の夢と言つた方がよいのかも知れぬ。道の教へが果して天地の自然ならば、是と何等の交渉も無しに成長することは出來なかつた筈である。彼等の不思議の國は茫漠たるものではあつたが、しかも説法傳道の勞を仰がずして、自ら夕方の窓に(101)凭《よ》つて、進んで「かくり世」の消息を問はんとしたのも彼等であつた。あの簡單な時鳥の一聲を、是ほど色々に又意味深く、解釋しようとするには準備を要する。さうして其準備も亦歴代の少年少女が、大切に積み重ねて姥翁になつてから、後に來る者に引繼いで行つたものばかりで、所謂智慧ある人々は一向に之に干渉して居ないのであつた。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　しかし彼等のいはけ無い空想にも、やはり大昔以來の隱れたる制限はあつた。日本に馬の沓作りといふ職業が現はれて後、始めて沓手鳥の異名は認められたに相違無いが、それを前世の馬方が生まれ替つて、負ひ目を返すといふ物語と結び付けたのは、依然として歌に詠まれるシデノタヲサ、若しくは淨瑠璃の「冥途の鳥」の、引續き以外の何物でもなかつた。北信の或る山村では、あの聲をヲツトコヒシと聽いて、妬み深い女房の魂が化して此鳥と成つたといふ説があり、一方には東京近くの青梅八王子あたりの田舍では、繼子のひがみから疑つて弟を殺したと稱して、ヲトノドツキツチヨと啼きまはるといふ話がある。谷がちがひ水の流れの異なるにつれて、聽き樣は幾通りにもかはつて居るが、それを解説した物語はほゞ一樣で、何れも曾て人間であつた頃の誤りを悔い悲しみ、我と其罪業を名乘つて子供等の前に來て啼くといふのであつた。二人ある兄弟の一方が素直で優しく、一方がねぢけて荒々しかつたといふなども、至つて古い昔物語の型である。其爭ひの原因が通例は山の薯で、それがちやうど時鳥の山の木に飛びかはす頃に、芽を出し蔓を延ばして在りかを人に知らせる、單純な我々の食物であつたことを考へると、年に一度の定まつた季節が來る毎に、之を思ひ出し語り出した人間の言葉の方こそ、却つて野の鳥の聲よりも更に自然なものであつた。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　能登越中の境あたりの時鳥は、「弟戀し、掘つて煮て食はそ」と啼いて居た。是も山の薯の話であつたことは説明を(102)する迄もあるまい。奧州各地の昔話に於ては、心のひがんだ兄は盲目であつた。妹の掘つて煮て食はせた山の薯が、あまりに旨いので却つて邪推をして、妹はもつと旨いのを食つて居るだらうと思つた。さうして庖丁を以て親切な妹を殺したところが、それが先づ鳥になつてガンコ・ガンコと啼いて飛去つたといふ。ガンコといふのは多分頭の意味で、薯の筋だらけの惡い部分を謂ふのである。即ち私が食べて居たのはガンコだガンコだといふと、さてはさうだつたかと悔い歎いて、盲の兄も鳥となり、ホチヨカケタと啼いて飛び、今でも山の薯の芽を出す頃になると、斯うして互ひに昔の事を語るのだと謂ふのである。自分の想像では郭公と時鳥の混同、今でも多くの田舍でカッコウを時鳥の雌だと思つて居るのは、斯ういふ昔話によつて誤られたものであらうと思ふ。小さい者に聽かせる話としては、鳥の爭ひは兄弟とした方が解し易いが、諸國の例には親と子、妻と夫といふものも少なくは無い。要點は寧ろ前の生の罪業によつて、鳥となつていつまでも啼いて居るといふに在つたので、それにはカッコウは百舌などゝ違つて、同じ季節に里近くへ來るといふだけで無く、夕闇の稍々深くなるまで、悲しい聲を立てゝ啼きかはし飛びかはす習性さへ、よく時鳥と似て居る故に、いよ／＼夫婦兄弟の靈魂が鳥になつたといふ話に似つかはしかつたのである。

　

　　　　　　　　　　一八

　

　昔も昔話が小兒ばかりの戯れであつたなら、或は斯んな細かなことまで考へて置く必要は無いのかも知れぬが、自分にはさうと考へられぬ理由がある。信ずる人がもう尠なくなつて、聽衆を無智文盲の幼童に求めた以前、久しい間夜の鳥は成人にも怖れられた。鵺《ぬえ》は單に未明の空を飛んで鳴く爲に、其聲を聽いた者は呪言を唱へ、鷺も梟も魔の鳥として、その異常な擧動を見た者は祭をした。前に掲げた時鳥のトヽサヘカヽサヘ（父へ母へ）も、聽く人は之を孤兒の死ぬ前兆と考へた。郭公を早來鳥と名づけて人が畏れたのも、ハヤコーを彼の國への招きの如く感じたからである。或はハコ鳥とも稱して魂は箱の中に、管理せられ得るものゝ如き信仰をさへ養つて居た。

(103)　鳥が突如として天空の一角から、我々の眼の前に現はれて啼くのを見て、神の使のやうに思ふのは自然である。人の心が此?を見棄てゝ後まで、夢に現はれ又?々まぼろしに姿を示すのを、魂が異形に宿を移してなほ存在する爲と推測したのがもし自然であるならば、それを野の鳥の聲殊に清く、人の休息し又は靜かに物思ふ刻限を測つて、訪れ來る者に求めようとしたのも、恠しむ餘地は殆と無いのである。たゞ凡人は自ら公冶長を以て任ずることは出來ぬ。其語を通譯するにはおのづから術が無くてはならぬ。故に我々の祖先は其心情の最も小兒に近かつた時代に、特に謹んで野の鳥の昔話を聽いたのみならず、更に忠實に之を記憶して、次に來る者に教へて置かうとしたのであつた。さうして之を説き又一致して耳を傾ける心持を、我々は名づけて面白いと謂つたのである。「面白い」は人の顔が一つの光に向つて、一齊に照らされる形を意味したらしい。さういふ顔をして共同の興味を感じ得る者は、今ではもうごく小さな子供より他には無くなつたのである。

　

　　　　　　　　　　一九

　

　鳥の話は百舌と時鳥、或は時鳥と郭公の友であり同胞であつたといふ話の如く、大抵は善い鳥と惡い鳥との比較對照を以て彩られて居る。馬の沓屋と馬方との話に、一番よく似て居るのは梟と烏との話である。昔は梟は染物屋で、烏は眞白な羽をした美しい鳥であつた。その折角の白い衣裳を、一つ流行文樣に染めませうと思つて、梟紺屋に誂へたところが、梟は粗忽で眞黒々に染めてしまつた。烏は腹を立て梟は面目ながつて、日中烏の出てあるく時刻には、梟は樹の蔭に隱れて決して出て來ない。たま／＼其居處を烏が見付けると、寄つてたかつていぢめ拔くのは其爲だと謂つて居る。此話の頓才ある者の發明であることは認められるが、若しさうならば「沓手掛けたか」の物語が既に出來た後、どうして又その同じ古い形を追はうとしたのか。要するに老人や童兒には、特に前生の因縁を以て鳥類の生活習性を解説しようといふ要求があつて、それが無意識に彼等の Why So Stories の傾向を指定したのである。日本(104)には此類の動物説話が、存外乏しいかの如く考へられたのは誤つてゐる。たゞ之を西洋のよく開けた國と比べて、此方にはまだ統一があり、從つて單調を免れぬといふだけで、それ故に亦一段と我々の中に於ては、どうして民間の説話が成長し分裂し、もしくは世の所謂文藝化を受けて行くかを、察し知ることが容易なのである。

　

　　　　　　　　　　二〇

　

　例へば時鳥の童話の今一つの樣式として、是も紀州の有田で次の樣なものが採集せられて居る。昔雀と時鳥と百舌とは三人の兄弟であつた。母が病氣で死なうとして居た時、雀は知らせを聞いて一番先きにかけつけた。時鳥は御化粧をして居て、母の臨終に間に合はず、何故に遲く來たかと雀が小言をいふと、「もう本尊たてたか、建てゝ無ければ急ぐにや」と言び返した。百舌は不幸を知りながら一番おくれてやつて來て、棺に納めてある母の顔を見たい／＼とだゝをこねたので、姉の時鳥に靜かにせよと叱られた。それだから雀は親孝行の報いで、一年中里に居て食物が最も多く、時鳥は後れて來た故に春の末にやつと出て來る。百舌は時鳥に叱られたから、今でも隱れまはつて時鳥が啼かぬやうにならぬと出て來ない。

　此話の繼ぎ合せであることは他の地方の例と比べて見なくともよくわかる。殊に羽の色に何の特徴も無い時鳥に、御化粧を説くといふことがをかしく、本尊建てたかも關係が甚だ薄い。併し兎に角に親の死に目に逢つた逢はぬといふ話は、不思議に全國に弘く行はれて居る。我々の知つて居る最も普通の形では、雀と燕と啄木鳥の三兄弟となつて居る。此中で啄木鳥の化粧は一番念入りであるが、其爲に親の臨終の日に最もおくれてやつて來た。雀はちやうど御齒黒を附けかけて居たが、急いで頻ぺたの汚れて居るのも拭かずに、飛んで來て介抱をしたので褒められ、燕は黒繻子の引掛け帶などをして居るうちに、少し遲くなつて碌々死水も取らなかつた。それが今の世まで雀は頻に墨が付いて居ても常に穀物に有付き、燕は姿こそよいが忙しく飛廻つて蟲しか食べられず、啄木鳥は伊達な衣裳を着て居ても(105)常に木を叩いて苦勞をする。三人三樣の幸福もすべて前生の報いだといふのである。土地によつては啄木鳥は見られず、或は別の鳥を此仲間に、入れようとした例もあるか知らぬが、先づ斯ういふのが整つた形といつてよろしい。

　

　　　　　　　　　　二一

　

　近代の親子嫁姑の共に住む社會に於て、是が適切なる教訓譚として人望を博したことは、雀の異名を孝行鳥といふ地方が、少なくないのを見ても察せられる。是と相鄰りする雨蛙の不孝者が、せめては亡き親の最終の望みを容れようとして、却つて其眞意に反して水の岸に埋めた。それで雨降る日には泣くのだといふ話などは、確かに轉用であり又計畫ある道話である爲に、或はこの三つの鳥の物語なども、新たに考へ深い先輩の製作したものゝ如く、速斷する人が無いとも言はれぬが、鳥の前生譚だけは前にも列擧した樣に、少しも道�ｺ味の無いものが幾らもあつて、民話は久しい間別の經路を辿つて居たのである。しかも時鳥の話には、童兒があの中空の聲を聽いて、次々に物語の外形を改めて行く機會があつたが、孝行譚の方には其樣な夕方の冥想は無い筈であるのに、斯くまで藝術化し又近代と調和して、しかも前生の因縁を語る點に於て、他の多くの鳥の話と、著しい共通を持つのは不思議だと思つて居た。

　ところが偶然なる手掛りがあつて、今私は其原由を見出さうとして居る。磐城の上遠野附近に住む人から、一友人への通信の中に、あの地方のワカが神明の祭をする時に、雀の孝行、燕の不孝の童話と、同じ内容の歌詞を唱へると謂つて、其文言の一部までも報告して來た。ワカは仙臺領以北でオカミと謂ひ、南部領ではモリコとも又イタコともいふ巫女のことであるが、關東以南のイチコ、梓神子、大弓などいふ婦人と違ふことは、弓や幣束の代りに木に刻んだ二つの人形を手に持つことで、其人形を奧郡ではオシラガミ、阿武隈水域ではシンメサマと謂ふのである。ワカの輩がもし果して鳥類前生の説話に參與して居たとすれば、此程度の開展は必ずしも意外で無い。彼等は單に文字を使用せぬといふ一點を除いて、當代の所謂大衆作家と同じ行き方をしようとした作家であつた。即ち前の方からは時代(106)の趣味、豫期せられた通念に引張られ、しかも目に見えぬ傳統の綱を以て、其空想のうしろ帶を繋がしめて、いはゞ硝子箱の中に泳いで、活きて居たのが彼等であつた。彼等が語るといふことは種子があることを意味する。さうして其種子の何時から始まつたかは、彼女等自身も亦知らないのである。しかし最近の興味の中心が、妖女と劔侠と寶物さがしであるに反して、昔の聽衆は幽界の消息と、因果應報のことわりとを悦んだ。乃ち目に一丁字無き此等の女性文人が、特に物識りとして尊ばれた根據である。

　是が福島縣下の或る一村の偶然で無かつたことは、近頃漸くのことで之を確めることが出來た。南部のイタコなどの經文と稱して讀み上げるものは、長者の姫と名馬との戀物語、後に二つの靈魂は天上に昇り、再び此土に降つて蠶の神になつたといふ、神怪を極めた由來記であるが、現在普通のオシラ神は其影響を受けて、馬と美女との頭にその所謂桑の木人形を彫刻して居る。しかも其以外に今一つ古い形として、別に鳥頭《とりがしら》といふオシラ神があつて、其根原はなほ不明である。八戸のイタコなどの記憶する雀燕の歌物語は、まだ仔細には聽取つて居ないが、主として鳥類の曾て人であつた時の事を説くと云ふから、恐らく以前之を以てオシラ遊びの經文とした時代があつて、それが木像の形の上に影響したのでは無いかと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　二二

　

　奧州のオシラサマには取子と名づけて、多くの少年少女の特別な保護を受ける者があつた。それが祭の日には座に列なつて神と共に一日を遊んだ。イタコの歌語りが大きな印象を、彼等に殘したことは想像に餘りがある。假に時鳥の小鍋燒きの話などが、此日の耳學問の記念では無かつたとしても、其感化が無ければボツトサケタといふ啼き聲は出て來まい。土地により又時代につれて、次から次へと幾らでも奇拔な聽き樣をして居ながら、それが結局は悉く魂の苦悶であり、あの世の音信であるといふことに歸著するのは、單獨に幼い者だけの經驗では無かつた證據ではない(107)か。

　だからもしこの物寂しい黄昏の感動が、自然に人の空想を死の國に誘うたものとしたら、それは我々がまだ子供の如く、爲すことも無くして靜かな夕暮を過すことの出來た大昔から、さういふ心持を持續けて居たのである。しかもそれから後の子供等の觀察の相違に伴なうて、次第に時鳥の昔話は變つて來た。或る村では克明に古い形を需め、他の村では新しいものが珍重せられて、それを又忘れようとさへして居るのである。少年の天地は勿論廣く又明るくはなつて來たが、それと同時に彼等の働くべき仕事は無くなつた。新時代の童話はたゞ料理した御馳走の如く、おまけに飽きられて既に腐つて行かうとして居る。

　

　△何を書いて見ようかを始めから考へずに、段々書いて行くうちに斯んな話になつた。一旦これで止めて置くが、きつと又書いて見たくなるだらうと思ふ。

　

(108)　　　　　鳥の名と昔話

　

　　　　　　　一　水こひ鳥

　

　鳥と我々の祖先とは、今よりもずつと親しい交際をして居たことが、彼等の名前からでも想像し得られると私は思ふ。鳥の名前は確かに人間の贈り物で、それも二人や三人の志では無かつた筈だからである。さうして其記憶の久しく殘つて居ることは、更に又以前の親しみの、近い頃まで續いて居たことを語るのだから、それをもう一度思ひ出すといふことは、鳥によつて我々の親たちの生活を新たに知ることにもなるのである。私は斯ういふ心持を以て、「鳥の名と昔話」を集めて見ようとして居る。靜かな山近くの村里に住む諸君の援助を求めたいものである。

　赤ショウビン一名｜深山《みやま》ショウビンが、歌に詠まれた水戀鳥のことだといふ説は、關東の方でも信じて居る人が多い。普通の會話には用ゐにくい言葉だが、本を讀まぬ人でも此名はよく知つて居る。斯ういふ耳の方言の保存は多分は其背後に在る昔話の力であらうと思ふ。尤もその昔話にも時代につれて、少しづゝの變化はあつたやうだが、大體に鳥の擧動や啼聲の特徴と結び付いたものは、古くから有つた形と見てもよいやうである。鳥にはどういふわけか親に不孝をしたといふ話が多い。三河の北設樂《きたしだら》郡の山村では、水戀鳥は親に死水を遣らなかつた罰で、自分でも水が飲めぬ樣になつた。眞赤な胸の毛が水に映つて、近づいて飲まうとすると水が火に見えるといふ（旅と傳説二卷一號）。それ(109)から下流の長篠附近でも、此鳥前生に姑を虐待して、其報を以て鳥に生まれた。谷の流れに飲むことが出來ないので、僅かに雨露を口に受けて渇をしのぎ、いつも水戀しと啼いて居るのだといふが（郷土研究二卷一二號）、人によつては話が少し異なつて、前生は女で馬に水をくれるのを怠り、其爲に馬が死んだから、罰を被つて水戀鳥になつたといふさうである（三州横山話）。

　此方が一段と原因が特殊だから、前の形であつたらうかと思ふが、今はまだ確かにさう謂ひ始めた動機を見つけることが出來ない。野州の一部で此鳥をトウガラシゴマと謂ふのは（本草綱目啓蒙卷四三）、啼聲が駒鳥に似て羽色が赤いからであらうが、會津の大沼地方でも、又九州の南端でも、共に是を唯コマドリとも謂ふ所を見ると（川口氏）、直接にあの聲を駒の嘶きに似て居ると感じて、馬の聯想を起した者もあつたのかも知れない。東京から見えて居る津久井地方の山村でも、水戀鳥といふ名は人がよく知つて居るにも拘らず、別に是をバクロノカカといふ俗稱がある。昔ある博勞の女房、邪見で馬を乾し殺して其罰で鳥と化し、始終雨ばかり待つて居るといふ話は、大よそ他の地方も同じである（相州内郷村話）。信州の木曾溪でも或る家の馬飼童が、惰けて水を忘れて主人の馬を死なせ、それから水が火になつて飲むことが出來ず、辛うじて木葉の雫で咽を沾《うる》ほすやうになつたと謂つて、やはり此鳥の雨を待ち兼ねるが如き啼聲を説明して居る（小谷口碑集）。しかしさういふ話も、必ずしも啼聲と結び附いたものだけでない。奧州地方の馬追鳥を始め、馬と少年との話も色々あるのである。同じ信州でも白馬山の麓のあたりでは、その牧童は死して雲雀になつたと謂つて居る。今でも此鳥は主人への言ひわけの言葉「水ハホントニクレタンネ」といふ文句をくり返して、終日空に上つては水の在りかを捜して居るといふから（同上）、こゝでも水が飲めぬといふ昔話があつたらしいのである。鳥は一般に雨降り前に多く啼く爲か、雨の話にも亦色々の鳥が參與して居る。鳶や鳩が親不孝で親の墓を水のほとりに設け、雨が降るたびに其墓が流れはしないかと憂へて啼くといふ話は方々にあるが、なほ其以外にも雨を待つといふ鳥の話はある。たとへば能登の鹿島郡で六七月の頃にチーフレー、チーフレーと啼く鳥を慈悲心鳥だといふが、(110)其點は私には判斷が出來ない。昔石崎の漁村に貰はれて來た子供が、毎日朝から晩まで干鰛《ほしか》の番をさせられ、雨が降る時ばかり僅かな間休むことが出來た。それで死んでから此鳥となつて、いつも少し降れと啼いて居るのだといふ話になつて居る（郡誌）。

　赤ショウビンの啼く季節は十日位のもので、雨蛙がすきで捕つて食ふ故に、雨の日には殊に活躍するのだと竹野氏は謂つて居る（野の鳥の生活）。是は正しい觀察であらうと思ふが、兎に角雨の降り出す前に立つて、さも待ち兼ねたやうに又悦びそゞろく樣に、急に聲を立てる情景は感動を與へずには居られなかつたので、自然に斯ういふ話は成長し、又流布したものかと思はれる。會津の飯豐山麓では、啼聲によつてマメコロバシといふ名もあるが、普通には之をアマゴヒドリと呼び、此鳥が啼けば雨が降るからといふのは（耶麻郡誌）、實際は降りさうになると啼くことを意味するのであらう。利根の上流の川場附近でミヅハカリドリといふのは（川口氏）、或は雨降る中を飛びまはるからの名であらうが、下野の山村でミヅホシドリ、又はアマガヘルとも謂ふ處があるのは（本草啓蒙）、假に啼聲の類似から出た名であるとしても、なほ竹野君の説と合致する。土佐の幡多《はた》郡では方言をミヅヨリ、長岡郡｜檮原《ゆずはら》村では又ミヅヨロと謂ふさうだが（川口氏）、本草啓蒙には既に山城の一部でも、ミヅヨロと謂ふことを録して居るから、近頃の語では無かつたのである。ミヅヨロは多分啼聲を寫したもので、なほ想像を進めて見れば、是にも水を悦ぶといふ意味が持たせてあつたのかも知れぬ。

　山形縣の莊内地方では、此鳥を又アマケロと呼んで居り、爰にも例の通り馬喰のかゝあといふ昔話が傳はつて居る（土の香一四號）。ケロは啼聲を擬した名であることは疑が無い。隣の越後でも亦ショウビンはキョロロ又ナンバン鳥とも稱し（新潟縣天産誌）、其ナンバンは蕃椒《とうがらし》のことである。三河地方でも水戀鳥はヒョロローンと鳴くといひ、岩手縣南部に於てもナンバンドリの啼く聲は、ヒョウロローと聽えると謂つて居る（東磐井郡誌）。秋田縣も一般にナンバンドリであるが、亦其聲によつてテロロと呼ぶ土地も多く、角館附近ではテロロが鳴けば天氣が好くなるといふさう(111)である（武藤鐡城君）。栃木縣の一部には此鳥をキヨモリといふ處があることを、是も本草啓蒙に録して居るが、果して現在まで傳はつて居るかどうか。勿論是は平清盛が火の病といふことを知つた者で無ければ付けられぬ名ではあるが、爰にも胸の羽が水に映つて火に見えるといふ話が、曾て行はれて居たことを推測せしめるだけで無く、事によると是も啼聲のケロロ・キョロロが、斯ういふ異名を誘ひ出す元であつたかと思ふ。さう考へて行くと土佐や山城のミヅヨロの語も偶然では無いやうである。

　熊本縣の阿蘇地方では、チヨユミドリといふのが此鳥のことらしいが、啼聲が少しちがつて居る。近頃はもう姿を見たり聲を聽いたりする折も少ないだらうから、話ばかりが傳はれば是くらゐの變化は免れないのであらう。いつも川の端に多く居る鳥で、辛夷《こぷし》の花の咲く頃に啼くと謂つて居る。前の生で親に僞つて、飼牛に水を飲ませなかつた者が、死んで生まれ變つて此鳥になつた。チヨユミは其人間であつた時の名だといふが、是も或はキヨモリの類かも知れない。其牛を川の端に埋めて、牛が流れはせぬかと見てあるくといふのは、此地方でいふアマガクの話、即ち前に擧げた鳶不孝の昔話との混同かと思ふが、それにしても雨が降ると啼くといふ話はあつたのである。川に沿うて下る時は川の音のやうにゴーウ／＼と啼き、川を上るときにはキキキキと啼くといふ點は、テロロ・キョロロとは一致しないけれども、やはり川上には水が一滴も無いので、下つて來るとは謂つて居るのである（民俗學四卷七號）。どういふ鳥かといふことを確かめてからで無いと何とも斷言し得ぬが、南の山續きの肥後五箇莊などには、三河とよく似た話が殘つて居る。奧州南部領などでは、親不孝鳥といふのが時鳥のことであるに反して、この地方の山村では、水戀鳥を親不孝鳥と呼んで居るのである。

　ナンバンドリといふ名の行はれて居る區域は、北は津輕の果にまで及んで居る。十和田湖の附近ではトンガラシドリコ、日光の周圍にもトウガラシドリの異名があるのを見ると、命名の動機は赤いからであつたことは明らかであるが、北秋田の方では羽が赤いから蕃椒鳥だといふに反して、東磐井郡では嘴が眞紅で蕃椒に似て居るからといひ、鳩(112)より小さくして茶褐色だとあるのが（郡誌）、何だか山ショウビンの方にも取れる。しかし啼聲のヒョウロローは赤ショウビンで無ければならない。鹿角郡などでも體が赤いからナンバンドリだと謂つて居る（内田武志君）。北秋田地方では又の名をテロロもしくはヒョウスドリ、青森縣に行くとヒドリといふ方が普通であつた（薄の出湯）。ヒドリは下北半島の海近い山でも、晩春初夏に朝早くよく啼いた。色が赤いから火鳥であつたらうと思ふが、其名に伴なうて不吉な聯想も有つて、必ずしも人望の多い鳥ではなかつた。津輕地方では又赤ショウビンをヂゴクドリ或はケカチドリともいふ。ケカチは飢渇の字音から出來た語で、東日本は一帶に凶年のことを意味して居る。ケカチの年ばかり多く此鳥が出るわけは無いから、單に此鳥を其前兆として忌み怖れたのが起りかと思ふ。九州の方でも彦山の周圍の村などでは、赤ショウビンをニイレといふ方言があり、此鳥が人家に入れば死人があると謂つた。人家へは滅多に入つて來ることが無からうが、啼聲を聽いただけでも其前兆であるやうに謂ひ、午前に鳴けば若い者、午後ならば老人が死ぬなどとさへ謂ふ者があつた（安部幸六氏）。ニイレといふ語の語義は明らかで無いが、沖繩諸島にはニイラ・ニライ又はニラヤといふ語があつて、所謂根の國を意味し、又龍宮の代りにも用ゐられる。或は是も亦時鳥のやうに、冥土の鳥といふことかも知れぬ。豐後の竹田附近にはヒトダマといふ鳥がある。嘴大にして赤く、羽の端には蒼味がある。赤ショウビンかといふ者もあるが、山ショウビンかも知れない。神原村などではこの鳥が啼けば人が死ぬと謂つて居る（川口氏）。氣味のよくない話には相違ないが、鳥を靈ある者又不幸の警告者と見る例は是ばかりで無い。空から來る故に遠い國の使と解し、もしくは亡き人々の假の姿とも見たので、それ故に「前生は人」といふ昔話が、數おほく生まれたのである。奧羽各地でいふマオドリや、中部山村のニヨヒドリの類には、聲のみ聽いて姿を見たことの無いもの、即ち動物學上の問題でない鳥は幾つかある。それに比べるとミヤマショウビンなどは、日本一番の派手な鳥、緑の樹の蔭で最も目に立つ鳥で、其聲も亦決して憂鬱で無いのだが、如何せん毎年其數は乏しくなり、且つその消息があまりにも突如として居る故に、終には逢ふ人の胸を轟かせ、斯ういふ俗信の次第に成長することを制止すること(113)が出來なかつたのである。

　終りに是は自分の領分で無いが、少しばかり分類學上の赤ショウビンを擁護してやりたいと思ふ。此一科の形めづらしい諸鳥は、通例カハセミ即ち翡翠を以て總代として居るやうだが、是は後世に入つて此鳥のみが數多く、所謂赤ショウビンが深山に隱れて、尋常で無くなつた爲かと思ふ。全國を見渡してカハセミを意味する方言は最も數多く、或は水戀鳥に數倍するかと思ふが、其中で殊に大きな區域に行はれて居るのはショウビンの一語であり、是が又赤ショウビンの名の元でもある。其ショウビンも川せみのセミも、共に大昔のソニから轉訛した語音であることは、狩谷?齋の箋註和名鈔にも既に詳かに説いて居る。和名鈔の時代には曾比《そび》、それが?嚢抄には少微《せうび》となり、近世に入つては少鬢《せうびん》ともなつたが、尚播磨では將人《しようにん》、伯耆出雲では初人《しよにん》、備前美作では初爾《しよに》と謂つて、最初の蘇邇《そに》の形を遺して居ると述べてある。今日の方言分布に照して見て、大體に狩谷翁の擧げた通りである上に、關東東北にはソウナといふ例も弘く、宮城秋田等のスナゴドリの如きも、更に其ソナから進化したことが察せられる。故にもし名を正すとなれば、ヤマセビ・カハセミよりもショウビンの方が古に近く、それが訛りとして排斥せられるとすれば、いつそソニドリと呼ぶより他は無いのである。ところが現在のカハセミなるものが、果して大昔のソニであつたか否かには疑がある。萬葉集の歌にはソニ鳥の青き衣とある故に、是で多くの人はもう安心して居る樣だが、奈良朝だから間違ひをしないといふ證據などは一つも無いのである。ソニは引離して見れば何れも赤いといふ意味しかもつて居ない。始めて此語を鳥の名に應用した時には、やはり赤ショウビンの方の名であつたのを、形　　状習性のよく似た同類に押擴めて居た爲に、次第に青い衣の里馴れた魚狗《かはせみ》が、最も多くソニと呼ばれるやうになつたとも見られる。もしさうだとすると、元のソニは名を取られたのである。さうして赤ショウビンなどゝ二重の形容を受けて居るのである。イプセンの芝居の醫師ストックマンの言ひ草ではないが、數が少ないといふことは、何かにつけて損だと思ふ。ソニを尸者《ものまさ》とするといふ有名な神代紀の記事は、我民族の信仰生活の歴史を尋ねる人々の爲に、相應に重要なる史料である。喪のある家(114)で口寄せを立てゝ、死靈の言を聽く風習は、今なほ田舍には正式に行はれて居る。是と同一の行事が夙に天稚彦の神代にもあつたことは、僅かに此記録によつて明らかになるのであるが、其尸者が青い衣を着て居たか、又は赤々と染めた衣を着て居たかは、今日の學問ではまだ知ることが出來ぬわけである。

　

　　　　　　　二　行々子

　

　近世の俳人たちに、妙に行々子といふ鳥の名は氣に入つたらしく、江戸では殊に是を句にした者が多いやうであるが、一時の流行であつたと見えて、七部集などにはまだ一句も出て居ない。さうして元來どこで此文字が生まれたかも、明らかには知れないのである。私たちが聽いて居る限りでは、今の關東の田舍はほゞ一圓に、ケェケェシ又はケケスと謂ふのが「おほよしきり」の方言で、靜岡縣に行くとキャキャス、播磨の自分の故郷ではココチンとも謂つて居たが、ケケスはなほ近江の湖畔、阿波の吉野川流域、丹波等にもあつて弘い名稱である。行々子に近い音で呼ばれて居るのは、九州の方では福岡縣のギョギョウシもしくはギョウギョウセン、佐賀縣のギョギョス、東の方では越後でキョキョシ、青森縣の津輕地方でチョチョジ、それから秋田縣の北部にチョンチョジン又はギョギョジといふ語が有るのみである。最近に八郎潟のほとりで生まれた者が訪ねて來て、一しよに岡の麓の蘆原をあるいて、此鳥の囀りを聽いたのだが、この人々ははつきりとジの音を濁つて呼んで居た。

　行々子といふ名前は、まさか是等の遠方の土地から借りて來たものではなからうと思ふ。いづれ雙方とも啼聲から出た語には相違ないが、多分は以前多くの土地に、斯ういふ二種以上の稱呼が併存して居た時期があつて、後に主として其一つだけが用ゐられ、他の一方が忘れられたのであらう。裏見寒話を見ると、古くは甲州にも剖葦《よしきり》をカラシといふ方言があつた。一つだけ聽くとやゝ變だが、宮城縣などは一圓に今でもカラカラジ、その北に續く舊南部領はガ(115)ラガイシ・ガラガラズ又はガラガイデ、秋田縣にもカラガラスといふ鴉のやうな名があり、青森縣總覽には五種六種の地方名が列記してあつて、しかも土地によつてはその幾つかを共に知つて居る。たとへば西津輕郡七ツ石の子供言葉に、

　　　チョチョジ、カラカラジ

　　　竹原の雀

　　　おらもチョチョジに負けねでしやべろ

といふのがあるが（津輕口碑集）、普通は片方ばかりを使つて居ると見えて、よくしやべる者を評して、「チョチョジのあだまさ鈴こゆひ附けたやうだ」といふたとへ言が、此附近には弘く行はれて居る。ケケス・ケェケェシに今は統一した關東の田舍にも、もう一つの呼び方がつい近い頃まであつたので、それが俳諧者流の愛用する所となると、却つて兒女日常の言葉には向かなくなつたものと思はれる。行々子はまことに氣の利いた文字かも知らぬが、それこそぎようぎようしくて、俗衆は敬遠せざるを得なかつたらう。

　以上の外に、この小鳥の地方名には、全く系統を異にしたものが現在もなほ二つ以上あつて、ヨシキリ・ヨシハラスズメなどゝいふものは其一つである。享保二十年に成つた備前産物帳といふ寫本に、ムギウラシ、剖葦鳥ギョギョシのことを謂ふと出て居る。故友島村知章君の岡山方言を見ると、現在はムギワラスズメといふのが普通で、麥の熟する前に來てヒュヒュヒュカチカチカチと啼くと説明して居る。熟する前に啼くのでは、麥藁では理に合はないから、多分二百年の間に麥ウラシがかう變化したのであらう。ムギウラシとヨシハラ雀とが融合すれば、斯んな形になるのも自然である。ウラスといふのは熟させることで、即ち恰かも此鳥の聲に促されては、麥がウレズに居られぬといふやうな昔の民間暦思想の産物とも認められる。しかし若夏の麥漸く黄ばまうといふ頃に、里近くへ來て啼く鳥は他にも數多い。だから僅かばかり西に離れて藝州の高田郡などに行くと、麥ウラシほ則ち雲雀のことであり（郡誌）、今は(116)どうあるか知らぬが對岸の香川縣あたりでは、郭公を麥ウラシと呼んで居たことが、蘭山先生の本草啓蒙に見えて居る。もつと異なつた例としては、壹岐では梟をムギウマセドリと謂ひ、此鳥が啼き始めると麥がウンデ（熟して）來ると傳へて居る。各地の命名がこの樣に思ひ／＼で、弘い一致の無いといふことは、たとへ二世紀前の寫本に出て居らうとも、やはり其頃の一種の新語であつたことを意味するものである。

　ヨシキリといふ名なども今日は標準語に編入せられて居るが、それはたゞ文化の中心に近い地方の、近世の發案といふに過ぎなかつたかも知れぬ。漢名の剖葦もあの鳴聲の物騷がしく、葦を裂く音のやうだといふ形容らしいから、もし偶然ならば一寸おもしろい内外の一致だと言つてよいけれども、私にはどうやら其等を既に知つて居た人の、飜譯かの如き感じがする。語韻がさつぱりとして居て且つ四音聲であるといふことは、歌謠や語りものには都合がよいので流行も容易であつたらうが、葦をキルといふ語は少しばかり無理である。ヨシハラスズメといふ名は其前からあつて、多分ヨシキリの理解記憶を助けたのであらう。スズメといふ語は本來は小鳥の總稱で、今でも藪スズメ（あをじ）だのカナスズメ（鶺鴒）だのといふ方言は多く、之を差別する爲には今日の軒の雀をサトスズメ・ホクロスズメ又はマスズなどゝ呼んで居る。蘆荻の間ばかりに棲む小鳥だから、ヨシハラスズメと謂つたのは自然である。

　しかしそれとても亦一つの異名で、ヨシキリもムギウラシもまだ生まれなかつた以前、京阪江戸を含んだ廣い日本の版圖には、簡單にあの啼聲を模擬したギヨギヨシ系統の言葉が行はれて居て、俳諧の行々子はたゞ之を漢字にした迄の手柄であり、他の一方ケケス・カラガイデといふ類の多くの方言は、何も知らずに是を保存して居たのかと思ふ。鳥類は昔の方が數も多く又永く續けて啼き、人の其聲に耳を傾けて居る餘裕も、たしかに今よりは多かつたゞけで無く、それに何等かの意味あるものと解して、名稱を其間に求めようとした念慮も、古人は我々よりも遙かに強烈なものを持つて居たのである。

　その證據といふのも物々しいが、行々子は全國の隅々に亙つて、其名と因みのある一定の昔話をもち傳へて居る。(117)名前が地方毎に變つて來るに伴なうて、話も追々に興味を薄めては居るが、傳承の力は誠に恐ろしいばかりで、心を留めて見れば幽かながら、方々に其痕跡がある。たとへば此鳥をココチンなどゝ謂ふ私の郷里でも、子供の頃に父から聽いた前生譚が一つあつた。昔々ココチンは或る御屋敷に奉公をして居た下郎であつた。主人の草鞋をたつた半足盗んだばかりで、罪せられて打首になつた。それで鳥に生まれかはつて、今でもワランジカタシデクビキラレと啼くのだ云々。私には此昔話がいつまでも腑に落ちなかつた。といふわけは何處で何べん聽いて見ても、何としてもワランジカタシとは聞えなかつたからである。ところが近年になつて青森縣八戸市の新聞に彼地方の所謂ガラガイシが、

　　　ジョウリカタバラ、キラバキレ

と啼くといふが、如何なる由來であらうかと設問した人があるので、こいつは面白いと氣をつけて居ると、暫らく經つてから其答が投稿せられた。さうして是が最も詳細に昔話の元の姿を傳へ、又あの啼き聲を適切に説明して居たのである。簡單に其筋をいふと、昔々或る處に長興寺といふ御寺があつた。そこの寺男が和尚の伴をして行く途中、主人の草履を片一方落してしまつた。それが不埒だといふので打首になり、下男は死んで行々子になつた。それ故に今でも此鳥は、

　　　チョコウジ、チョコウジ

　　　ゾウリカタアシナンダンダイ

　　　キラバキレ、キレキレキレ

と啼くのだといふ。勿論最初にはあの啼聲を斯う聽いて、次々にこの説話をまとめ上げたものであり、言はゞ第一次の話し手は鳥だつたとも言へるのだが、それにした所で不思議なのは、同じ言ひ傳へが中國の村里にも及んで、なほ履物の片足といふ點を、失はずに居たといふことである。しかも是が只南北二箇處だけの一致であつた場合は、又何とか手短かの解澤も出來るが、後々氣をつけて居ると中間の例はまだそちこちにある。たとへば羽後の仙北地方では、(118)此鳥は、

　　　常光寺常光寺

　　　ケエズケエズ

と啼くといひ、文句は忘れてしまつて居るけれども、御寺の名だけがよく似て居る。栃木縣の一部分にも、たしか又草履を片足盗んで斬られたといふ話があり、?末は少し入組んで居たが、寺の名は長松寺とか何とか謂つて居る。捜したらまだ／＼見つかることゝ思ふが、東京近くの武州保谷村でも、

　　　ケエケエズ／＼

　　　坊主の頭でクルクルクル

と啼くと謂つて、依然としてなほ御寺との縁は切れない。

　もつと變つた例では同じ南部領でも九戸郡及び上閉伊郡の一部分に、剖葦はその前生に不品行な娘だつたといふ、少しばかりオブシインな昔話がある。萱原の中に寢た爲に萱の葉で尻を切り、それで今でもイテテテと啼いて、さういふ處を飛びまはるのだといふ笑話であつて、殺されたのでは無いが切つたといふ條はなほ殘つて居る。是などはほんの思ひ付きに、田舍の曾呂利が謂ひ始めたものかと思ふと、それさへも突發ではなかつた。越後南蒲原郡の子供言葉に、剖葦の鳴聲だと言つて、それと三分二以上同じものが傳はつて居るのみならず別に又屁ひり爺の昔話の一變形として、小鳥が娘の腹に飛び入つて、さういふ唄を歌つたといふものも採集せられて居る（昔話研究二號）。斯んなたわいも無い戯れごとまでが、なほ其發端を遠々しい昔に持つて居たのである。

　私の行々子觀は次の通りである。此言葉は現在はほゞ俳諧者流の專賣の如くなつて居るが、それが曾て此小鳥の普通の名であつた時代は相應に遠く又久しく、ちやうど我々の間に説話の敍述法が、自由な躍進を許された時代と重なつて居た。人は小鳥が前生を啼いて語るといふ、古い信仰にはなほ囚はれて居ながら、それを出來るだけ奇拔に又寫(119)實的に、話して見ようといふ努力をして居た。あの一風かはつたヨシキリの聲によつて、下郎の絶望した斬れ／＼斬れの罵りの語を空想し、更に有りさうな御寺の名を取添へて、一場の哀話を組立てたなどは、是も亦日本特産の中世の大衆文藝であつたらうと思ふ。

　

(120)　　　　　梟の啼聲

　

　「家の光」の編輯者から、何か夏の晩の縁先などで、子供や女たちと一しよに讀んで面白いやうな、話は無いかといふ相談を受けた。それは幾らでも捜したら有ると思ふ。

　併し話は長くなつてしかたが無い。私は今非常に用が多い。だから爰には問題だけ出して置かう。此雜誌の讀者は何萬人とある筈だから、其中から追々に跡を繼いで話をすることにしたら賑やかでよからうと思ふ。さうしてもし自分の誤まつて居る點などが、其序を以て訂正してもらふことが出來たら、學問のためにも大きな利益である。實際子供たちの話から、我々の學び得ることは多いのである。そこで先づ最初には梟の話をして見よう。

　自分たちは今ちやうど日本語の歴史を考へて居る所である。千年以前の日本語と、今日我々の使つて居る言葉との間には、可なり著しい變化がある。それがどうして此樣に變つたかを説明するには、やはり一つ／＼の物の名から始めて行かなければならぬ。それがまた隨分と興味のある仕事なのである。其中でも鳥の名は最も久しい間、田舍に住む少年たちの面白がる題目であつた。そんなものを忘れたり考へて見なくなつたりすると、てき面に村の生活が淋しくなる。だからそれを思ひ出すことは、一つの大なる復興にもなるのである。

　さういふ理窟はどうでもいゝとして、梟の昔の日本語はツクであつた。それがいつの間にかフクロウと變つて居る。どういふ事情からさう變化したかといふと、ぢつとあの鳥の啼く聲を聽いて居るうちに、子供たちが誰いふと無く、この名を採用することになつて、それに大人も反對をしなかつたものである。鳥とか蟲とかの名前は、大抵は斯うし(121)た簡單な理由から出來て居るが、それが古くなつて意味が少し不明になる頃には、子供は又新しい次の名をこしらへて、彼等仲間の話の種にするのである。

　大人には到底考へられぬことだが、あれは何と言つて居るのだらうかといふ疑問は、今でも鳥や蟲に對して子供が持つて居る。つまり閑が多いからでもあらうが、耳を澄ましていつ迄も聽いて居ると、後にはその言葉がきまつて來て、外に解釋のしやうも無くなつてしまひ、それが自然に名前ともなれば、又之に伴なふ唄にも話にもなつて來るものらしい。

　實例で説明するならば、東京の附近から信州北國にかけて、梟の啼き聲が、

　　　ノリツケホーセ

と聽える地方は至つて弘い。さうして子供は此烏の名を、ノリツケとも呼んで居るのである。あしたはお天氣だ、洗濯物に糊を附けて乾すによい日だと、教へてくれるやうに想像をしたのが、實際はしば／＼雨降りのこともあつて、そんな豫報が當る筈も無い。そこでしかつめらしく説明をして、ノリスリオーケと啼く時が晴天、ノリトリオーケと啼くときが雨天だなどゝ、ちよつと聽くと成程さうかと思ふやうなことを言つた人もあつたが、あれは大人の冗談といふもので、子供たちはそんなこと迄は考へない。

　つまりは梟の啼き聲が二段になつて居て、ホホといふ高い聲の部分が、何だかホーセとも聽えるので、その他の低い聲のぐす／＼とした部分を、糊附けとでもいふのだらうかと、想像して見ただけである。著物を洗つて糊を附けて著ることは、隨分古くからの我々の風習らしいが、百姓の衣類の麻絲が細くなり、又は木綿で織つたものを用ゐるやうになつて、其風が非常に盛んになつたのはやつと二百年ぐらゐ前からの事である。故にかういふ意味に梟の聲を聽くことになつたのも、さう古い話では無いやうに思はれる。

　富山縣の田舍には、ノーツキホーホと啼くといふ處もある。仙臺などではノラスケホーホと啼くと謂つて居るさう(122)だ。ノラスケは多分なまけ者といふことであらう。昔から梟のホーホは、人を馬鹿にしたやうな聲に聽えたと見えて、斯ういふ種類の解釋をして、面白がつた例が幾らもある。一人で林の陰の暗い路などを還る者はやゝ敵意を含んだやうなホーホを聽かされると、腹が立つよりは寧ろ心細く感じたかも知れぬが、村に居て多くの人と共に此聲を聽く子供ならば、誰かそこらに梟にひやかされてもよいやうな、ノラスケが居るものと想像して、をかしがつて此聲を聽いて居たことゝ思はれる。

　伊勢から三河遠州の方面にかけては、此鳥をゴロスケと呼ぶ村が多い。さうしてあの啼聲を説明して、

　　　ホーホ

　　　五郎助どうした

　　　酒でも飲んだか

と啼くのだと、教へてもらつて居た子供もあつた。勿論そんな長たらしい啼きやうはせぬのだが、ホーホと五郎助だけではまだはつきりとせぬ故に、子供を愛する年よりなどが、おどけた通辯をしたのであつた。大抵の子供は之を聽いて、笑つて夕方の淋しさを忘れたであらうが、親がそんな事も考へずに、五郎助といふ名を付けてくれた少年だけは、きつと其たびにいやな思ひをしたことであらう。

　靜岡縣の方では、梟のことを或る村はゴロスケと謂ひ、又他の村ではゴロシチとも謂つて居る。

　　　五郎七ほうこう

　　　たゞ奉公

と啼くといふ話もあつた。あるひは此鳥をゴロッチョともいふ處がある。又千葉縣から茨城縣へかけてはゴロットホーコーと啼くと子供たちはいふ。多くの農民の子弟は學校へ行く代りに、奉公に出て働くのが近い頃までの習ひであつたから、梟もやはりさういふ啼き方をしたのである。岡山縣の西の方へ行くと、

(123)　　　ぼろ著て奉公しよ

といふ歌がある。幾ら貧乏人の兒でも始めて奉公に出るときには、少しはさつぱりとした著物を著て行くのに、それをひやかしてこんなことをいふ。だから梟は子供たちには好かれなかつたらしいが、實際はあの喉を鳴らすやうな低い聲が、何だか五郎七五郎助といひ、又は襤褸著てといふ風に、聽えたのだから仕方が無い。

　栃木縣の宇都宮附近では、梟のことをボロスケと謂ひ、又その啼き聲をボロキチと謂つて居る。それから西の方へ行つて見ると、和歌山縣から�ｺ島縣、香川縣、廣島縣などでは此鳥の名をフルツクといひ、

　　　フルウツクの子

　　　糊をすり置け

　　　あすは日より

と啼くなどゝも謂つて居た。ツクといふのは古くからの名だが、あれもやはり啼き聲から出たものかと思ふ。その他茨城でもホロスケといひ、山口縣の大島でボロコキといひ、筑後の柳河でゴロクソといふなどは、何れも皆同じことであらう。大島のボロコキはボロキテトウコイ、破れた衣物で早く來いと啼くといひ、筑後ではゴロクソヘーゾ、即ち何だか平造といふ人を、馬鹿にしたやうな啼き聲である。

　だから私はフクロウといふ名前も、元は自分で啼き始めたものと思ふ。名古屋の近くの人は此鳥を、ホクロクといふ。秋田縣でも男鹿半島ではフクログと呼んで居る。何かそれ相應の文句があつたのであらうが、私はまだ聽いて居らぬ。東北で又梟のことを、

　　モホ　　　　　　　　　　　秋田縣大館

　　モオドリ　　　　　　　　　青森縣弘前

　　オーホ　　　　　　　　　　岩手縣盛岡

(124)などゝいふのは、是も亦ホーホといふ高い聲の形容である。それを他の國で何と謂つて居るかと尋ねて見ると、

　　コヘイドリ　　　　　　　　栃木縣

　　ゴヘイ　　　　　　　　　　茨城縣一部

　　コウゾウ　　　　　　　　　福岡縣

　　ドウコウ　　　　　　　　　佐賀縣

　　コオズウ　　　　　　　　　大分縣

　　コウゾウ、コウズウドリ　　熊本縣

などゝいふのが多く、いつでも梟は其聲を聽いて怖ろしがるやうな、小僧たちの名ばかりを喚んで居たやうである。鹿兒島縣にも色々の名前があるが、小さい子供のだゝをこねる時などは、「此人取つて食はう」と啼くといふ説もあつて、だから梟のことをトツクヲとも名づけて居た。

　諸君の田舍にはまだ色々の名前があり、歌があり話があることゝ思ふ。私の生まれた中國の村では、以前は梟のことをコジョロと謂つて居た。さうしてあの啼き聲を、

　　　コジョロ

　　　戻つてねんころせ

といふやうに解して居た。小女郎といふのは小さな女の兒のことである。もう夕方になつた。家に還つて寢よといふことを、昔の人は斯ういつたものらしいので、他の地方に比べると甚だ上品な、且つ心のやさしい梟であつたと思つて居る。コーゾーと謂つて啼いたといふ村でも、多分は必ずしも取つて食はうといふやうな、怖ろしいことばかりは言はなかつたものと思ふ。

　以前の子供はまだ色々の話を知つて居た。それをもう覺えて居る者がなくなつて、名前ばかり殘つたのである。一(125)體此鳥は巣を作るのが面倒で、大木のうつろの中に寢るのだけれども、冬の晩は寒くて仕方が無いから、「夜が明けたら巣作らう」と啼いて居るのだといふ話もあつた。さうして朝になると忘れてしまふともいつて居る。即ちフクロウをツクラウと聽き取つて、こんな想像をした子供もあつたのだ。それから推測すると、次に擧げて置く梟の異名にも、必ず何か之に伴なふ歌があり、又話もあつたことゝ思ふ。それを知つて居る人がまだあるなら、今一度子供たちに話して聽かせたらどうであらうか。

　　キドジユ　　　　　　　　　鹿兒島縣

　　コーキチコイ　　　　　　　島根縣美濃郡

　　キロク　　　　　　　　　　岐阜縣山縣郡

　　ボンスケドリ　　　　　　　滋賀縣野洲郡

　　オクンボ　　　　　　　　　靜岡縣志太郡

　　トリオヒ　　　　　　　　　三重縣白子

　

(126)　　　　　九州の鳥

　

　　　　　　　　　　一

　

　多くの友人は笑つて信じなかつたけれども、私は今でも九州の鳥の言葉が、少しばかり東國とちがつて居るやうに思つて居る。たとへば球磨《くま》郡の五木《いつき》では、終日雨の旅宿で鶯の聲ばかり聽いて暮したことがあつたが、ホケキョと三音に鳴くのは二十囘に一度くらゐなもので、普通はきまつて四聲づゝ續けて居た。時烏なども始めに間を置いて二音、それから例の「かけたか」を言ふのが、關東の方では當り前となつて居たのだが、この節東京郊外の私の村などを啼いて通るものは、それさへ節約して大抵は「かけた」きり、時にはキヨキヨと只二音だけで行つてしまふやうな氣の早いのもある。ところが九州では大隅日向の海岸で、里のはづれのアコウの木の高い梢などに、腰をおろし悠々と啼いて居たものは、何れもよく聽いて居ると五音であつた。是は或は樹に居る場合と、空を飛ぶ折とは感情が別なのかも知らぬが、以前日光の山の寺で、庭の木に來てうるさい程啼いた時にも、やはり關東の時鳥は四音にしか啼かなかつたことを思ふと、今では既に又土地々々の、彼等の方言が出來て居るらしいのである。

　鳥の言葉にも地理があり歴史があることは、我々はつとに家々の鷄に於て之を經驗して居る。チャボと名古屋交趾とを竝べて鳴かせて見ても、神代の常世の長鳴鳥の聲昔を、想像することは六つかしい。單に生まれが異なる故に其聲がちがふとすれば、時を同じくせぬものゝ間にも、また若干の變化は有る方が自然である。現に今日はコロクと鳴(127)く鴉も少なく、カケロとうたふ鷄などは探しても居ないのである。都の時鳥もヘドトギスの狂歌の出來た頃までは、まだ南九州の如く克明に我名を啼いて居たかも知らぬ。假にさうだとすると約に背いたのは彼等であつて、古人の命名法は必ずしも不精確ではなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私などの生まれた中國の或る村では、梟の名はコジョロであつた。それはあの鳥が初夜近くなると、「小女郎、戻つて寢んころせ」と啼いて、遊び浮かれて居る小娘をからかふと謂ふのだが、話ばかりであつて終にさういふ風に聽きなす折は無かつた。梟にも何か面白げな「ぐぜり」のあることは事實だけれども、通例は其聲が非常に低く、夜深く背戸の樹にとまつて枕元で啼くやうな家で無いと、それまでを記憶することが出來なかつたのである。だからあのホーホといふ大きな聲ばかりに、色々の意味を持たせて聽くやうになつた。例へば「糊つけ」といふ名は、ホーセー（乾せ）と聽いた人たちの想像で、それから又「あすは天氣」と鳴くのだとまで謂つた。關東東國の村の子どもが、之を「奉公」と聽いたのは哀れであつたが、それに伴つて五郎七少年の身の上話などが、空想せられたのは面白いと思ふ。九州では稍々弘い區域に亙つて、この聲をコーゾーと聽くのが普通であつた。

　　　小僧、鼻くそくふかあ

　斯ういふ幾分か教訓味を帶びた、輕い嘲笑に解釋した土地もあつたけれども、始終は意地の惡い、殊に子供を嚇さうとする鳥として、わざと家庭用に殘して置いたかと思ふ地方が多かつたのである。

　是が當世の童話文學なるものゝ、一の起原であつたらうといふ想像は、もう恐らくは多くの人が抱いて居ることゝ思ふ。子供は梟が何と啼くかを教へてもらつて、決してさうかと言つて黙つてしまふものではない。必ず其後から「なあぜ」と「どうして」を連發して、滿足する迄の説明を要求する。さうなると親たちはうろ覺えの中から、半分は(128)手製の昔話を持出し、乃至は即興の一篇を創作して、それが傑作ならば永く後代に傳はることもあつたかも知れぬからである。しかも自分などの驚いて居るのは、さういふ思ひ／＼の突差の趣向かと思ふ昔話に、尚見遁し得ない共通の動機のやうなものがあつて、それが殆と日本の全國に一貫してゐる事である。單に頑是無い聽衆の好奇心を充す爲ならば、入つて行く必要も無かつたらうと思ふ説明に入つて居ることである。是には何か隱れたる約束があるのではないか。即ち天然は寧ろ各地の鳥の言葉を、ちがつた聽き樣に誘はうとして居るに拘らず、歴史はいつも根強い暗示を以て、我々の解釋を一方に引付けて居るのでは無いか。若しさうだとすれば童話そのものゝ今日の定義は、當然變つて來なければならぬ。私は此推測の當つて居るか否かを知る爲に、今まで意外に顧みられなかつた九州の鳥の昔話が、是から諸君の努力によつて採集せられて來るのを待つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　梟は何と言つて啼くかといふ問題は、今から四十年も前に日本といふ新聞で、其答を全國から募集したことがある。此鳥の地方名は大抵は啼き聲が元で、中國と四國とは稍々弘い區域に亙つてフルツクであるが、一たび九州に入ると殆と土地毎に名が違つて居る。比較的多く行ほれて居るのは小僧鳥であるが、それでも「鼻くそ」を「かなくそ」と謂つて見たり、又「かれくそ食ふか」といふ處もある。肥前の南高來郡の一部などでは、

　　　こーぞーかれ草食ふか

といふさうで、之に伴なうて鳥と小僧との童話があつたといふが、長崎はもう別で、

　　　こーぞー、此月やどーかー

と謂ひ、乃ち亦金貸の靈、死して梟となるといふ昔話があつたのである。これと同じやうな例はまだ幾らもあつて、それを竝べて見るときつと面白いのだが、餘り話が長くなりさうだから爰には割愛する。獨り梟といふ一種の鳥だけ(129)に限らず、九州は全體に他の地方と比べて、鳥の昔話が豐富であるやうに思はれる。豐富といふことは村と村、もしくは家と家との間にも言ひ傳への變化があることで、前にもいふ通り、話の基調までが別なのでは無い。是は恐らく輸送が古く行はれ、保存が久しく續いたことを意味するので、假に最初から各地獨立して發生したものであつたら、斯くまで一致して居る筈がないわけだ、と私は思つて居る。

　何れの民族に於ても、動物の説話は最も古く、從つて亦出處原産地の確かめ難いものとなつて居る。實際日本でも如何なる種類の人が運搬したものか、是ほど全國的な鳥の話が、今ではすべて實生《みば》えの如く、村々の土と結び付いて居る爲に、或は大昔一つの爐にあたつて居た時からあつたのを、持つて別れて來たやうにも考へ、或は又偶然に人の空想が、一致したやうに想像して居る者もあると思ふが、それは兩方共證據の入用なことであつた。人によつては又之と反對に、何でもかでも昔話と言へば、すべて説教僧が法談の資料に、持つてあるいて殘して行つたものと、思つて居る者もあるらしいが、是も簡單には承認し難いことである。

　勿論是だけの一致は偶然といふわけには行かぬが、同時に又地方毎に必ず少しづゝの變化を見ると云ふことも、やはり亦隱れたる原因があつたのである。その原因を發見する爲には、何と言つても事實をもつと多く、集めて見ることが順序である。ところが自分たちは遠方に住んで居て、さういふ機會が得にくいのかも知れぬが、今まで一向に九州の鳥の話を聽いて居ない。たまに珍しい「鳥の言葉」があるので、どうしてさういふのかと子供らしく尋ねて見ても、私も知らぬと言つて、殆と答へてくれた人は無いのである。或は九州の諸君が殊に斯ういふ昔話を、下らぬことだと考へて居られるのかも知れない。若しさうだとするとほんたうに忘れてしまはぬうちに、決して其採集が無意義でないことを、話して見る必要があるかと思ふ。昔話を最も多く持つて居る鳥は時鳥、それに次では梟であるけれども、餘り長くなるからこの二つは後まはしにしよう。さうしてもう少し簡單なものから、段々に比較を進めて見よう

と思ふ。

　

(130)　　　　　　　　　　四

　

　此類の昔話は、妙にいつまでも心の底にしみ込んで消えぬものである。年を取つてから思ひ出す機會の多いものである。それには相當の理由があるのだが、普通は自分だけがさうなのかと思つて、話し合ふ者が少ないのである。耶馬溪附近の人ならば皆知つて居ることゝ思ふ。あの地方の山で初夏の夕方に、淋しい聲で啼く獵師鳥といふ鳥がある。東の方では何といふ鳥であらうか、爰では「獵師來い、黒來い」といつて啼く故に、獵師鳥といふのだと謂つて居る。昔々春の末に或る一人の狩人が、黒といふ狗をつれて狩に入り、彦山に近い山の中で鹿を見つけた。それが彦山權現の神鹿であることを知らずに、七日七夜の間追ひ續けて終に射留めることが出來ず、其鹿も獵師も狗も、共に疲れて平田の岩屋といふ處まで來て倒れてしまつた。獵師には美しい孝行な娘があつた。毎日毎日父の行くへを捜して、山中を尋ねまはつて居たが、悲歎の餘りに發狂して父と狗との名を喚びつゞけて死んでしまつた。それから毎年其季節になると、此鳥が出て來て「獵師來い、黒來い」と啼くので、娘がその鳥になつたといひ傳へるやうになつたといひ、誰でも此鳥の姿だけは、見たものが無いとも言つて居る（郷土研究三卷六號）。その神鹿の蹄の痕、及び犬岩握飯岩などの遺跡もあると言ふから、兎に角土地では實際あつたことゝして傳へて居たので、化して鳥となる點はいはぬけれども、曾て井上哲次郎氏の作として有名であつた「孝女白菊」なども、或はこの昔話を現代化したのでは無かつたかと思ふ。

　今日の人の考へからいふと、折角此樣な美談を傳へて居りながら、石になつたの鳥に化したのと、信じ難いことを附け添へたのは不本意かも知れぬが、實際は其方が元は主であつた。山に奇妙な形をした石が無く、又夏毎に此鳥が啼かなかつたならば、此一話の永世に傳はらなかつたのは固より、或は最初から之を説く者も無かつたかも知れない。事蹟はそれ程にまで遠い幽かな記憶であつて、たゞ年々の鳥の聲ばかりが、現實に人の心を動かして居つたのである。(131)けだし九州には土著の久しい山村も多いことだから、同じ話は尚色々の變化を以て、阿蘇や山國谷以外にも行はれて居るに違ひない。それを比べて見れば必ず新たに心付くことがあらうと思ふが、其仕事はまだ是からである。そこで私は試みに遠く離れた土地の例を引いて、この想像の必ずしも空なもので無いことを認めてもらはうとするのである。

　東北には特に此類の鳥の話が多い。其一つは南會津の山々に啼くモナクナ鳥、是なども啼く聲がちがふから別な鳥だらうと思ふが、やはり亦父を尋ねに行つた獵師の話になつて居る。昔この邊の村に老いたる狩人があつて、元七黒七といふ二人の子供を持つて居た。父は山に入つて大岩に打たれて死んだのを知らず、その二人の子が山へ探しに出て、是も終に還つて來なかつた。其魂魄が化して鳥となり、今でもモナークナーと啼いて山中を飛びまはると謂つて居る。モナクナは即ち元七黒七の呼名らしいから、或は父の方が子を尋ねて居るのかも知れぬが、話はとにかく斯う傳はつて居る（話の世界大正九年六月號）。人が鳥になることが實際は無い事だとすれば、少なくとも或る一つの鳥の話を聽いて、親子相慕ふの情を聯想する習性が、北と南との住民に共通して居たといふ、證據にはなるのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　しかも其中間にも飛び／＼の例があるから、單なる偶然の一致とは言はれないのである。瀬戸内海では讃岐の小豆島などに於て、梟のことをヨシトクと謂つて居るが、是にも半分まで同じ話がある。昔或る村に母と二人の娘が住んで居て、其娘の名は姉がヨシ、妹がトクであつた。或る時大水が出て二人の子の姿が見えなくなり、母はそれを悲しんで死んで鳥となつた。今でも夏の夜が來ると、毎晩暗い中からヨシトクと呼ぶのは、その母親のなつた鳥であると謂ふ（川野正雄君、小豆島民俗誌）。

　都會の地に住む人々は、今ではもう闇夜や黄昏時の淋しさを理解せぬと同時に、人を喚ぶといふ聲を聞く事が稀になつたが、以前の生活にはそれが通例であり、又最も大切な耳の働きでもあつた。さうして宵曉の至つて靜かな時刻(132)に、村里近くまで啼きあるく鳥の言葉は、妙にこの人を喚ぶ聲と、間拍子が似て居つたらしいのである。それが恐らくは我々をして耳を傾けしめ、何か簡單なる日本語を、其中から聽き出し得るやうに、思はせた一つの原因でもあらうが、まだそれだけでは親を尋ねる子、もしくは子を失つて悲しむ親の話の、斯樣に流布する理由を説明し難いのである。尤も土地によつて必ずしも親子の關係とも限つて居ない。例へば遠野物語に於ては長者の娘、男が山へ行つて還つて來ぬのを慕うて、化して鳥になつてオットーン、オットーンと啼きあるくといふ口碑を載せ、薄暮に深山の中で此聲を聽くと、限りも無い哀愁を催すと記して居る。同じ地方には又馬追鳥といふ鳥もあつた。昔或る長者の家に奉公して、馬飼をして居た少年が、山に多くの馬を放して夕方連れて戻らうとすると、一匹だけどうしても見えない。それを心配して夜どほし山の中を探して居るうちに、是も鳥になつて今でもアーホー・アーホーと啼きあるくと謂つて居る。つまり何れも皆其聲の鳥なることを知りつゝも、何か人間の悲しい言葉であるかの如く、解せずには居られなかつたことは一つである。

　遠野の馬追鳥は時鳥に似て少しく大きく、羽の色は赤に茶を帶び、肩には馬の手綱のやうな縞、胸のあたりには馬の口籠に似たる紋樣があるといふ。アーホーは此地方の牧童が馬を集める喚び聲であつて、他では必ずしもさうは言はぬから、他處ではもう其話は通用せぬわけである。ところが何かわけのあることゝ見えて、妙に馬を失つたと言ふいひ傳へばかりが、方々の田舍に鳥の聲と伴なつて殘つて居る。九州でも或はさうでないかと思ふが、自分はまだ一向に聽いて居ない。中部日本では所謂北アルプスの麓の谷に、雲雀は元馬飼であつたといふ話がある。馬に水をくれなかつたので其馬が死んだ。それで自分も死して鳥となり、空高く上つて常に水の在處を探して居る。さうしてその暗く聲は、ミヅハホントニクレタンネと、いふのだとも語られて居る（小谷口碑集）。同じ信州でも木曾川の流域に入ると、是が又水戀鳥の話になつて居た。水戀鳥は前生馬を乾し殺した罰で、鳥になつて一生水に戀ひ焦がれて飛びまはらねばならぬ。折角流れや水溜りを見つけても、自分の胸の毛の赤い色が水に映り、火のやうに見えるので飲むこ(133)とが出來ない。それ故にいつも空に向つて雨を喚んで啼くのだと謂つて居る。武藏に接した相模の山村に於てもこの水戀鳥を「博勞のかゝ」と謂つて居る。昔此鳥は邪見な女で、夫の留守に水もくれなかつた爲に馬が渇して死んでしまつた。其罰で鳥になつたと言つて、それから後段は木曾と同じ話である（相州内郷村話）。

　

　　　　　　　　　　六

　

　全體に夕方や雨の前に啼く鳥の聲は、何となく物悲しく聽えるものだが、殊に水戀鳥のヒョロロン／＼と啼くのは、あの世のたよりの樣に感じられるといふ人が多い。それだから自然に此類の話も出來たのであらうが、不思議なのはこの馬を粗末にした報い、さうで無ければ親不孝の罪でといふ風に、原因がおほよそ定つて居たことである。三河の長篠の古戰場に近い村にも、水戀鳥は前の生は女で、馬に水を遣ることを怠つたからといふ話があるが（三州横山話）、人によつては又姑を虐待した惡い嫁であつたとも謂つて居り、僅かに雨露によつて渇を凌ぎ、常に水戀しと啼くといふことは同じである（郷土研究二卷七號）。それから北の方の山村に入つて行つても、親に死水を與へなかつた罰で、鳥になつてから自分も水を飲むことが出來ぬといふ話は、尚弘く行はれて居るので（旅と傳説二卷一號）、恐らく此鳥が雨の前に鳴き、又胸の毛が火のやうであつたといふ以外に、あの啼聲の中からも、以前は幽界の言葉を聞いて居たものかと思はれる。

　併し話は必ずしも鳥の言葉に基かず、寧ろ我々の聽き樣の方が、話によつて色々に變つて來たことは、梟や時鳥の例を見てもよくわかる。親に不孝な鳥といふ昔話なども、鳶・燕・啄木鳥その他多くの鳥類に行亙つて、たゞ啼き聲だけが變つた點であることは、雲雀や水戀鳥の馬を殺した話も同じであつた。つまりはかの、

　　　父母の頻りに戀し雉子の聲

といふ俳句のやうに、とかく夕暮方の鳥の聲を聽くと、自然に胸に浮ぶ感情には、夙くから定つた型の如きものがあ(134)つたらしいのである。

　近頃私の聞いた青森縣八戸附近の口碑に、山鳩の啼く聲はテデコーケー、即ち「父よ粉を食へ」と啼くのだといふ話がある。昔々ひどい凶作の年に、父は山畑に鋤踏みに出て居り、母は家に居て炒麥の粉を搗いた。それを子供に持たせて遣つた所が、途中の小川を渡らうとして其粉をこぼし、それを川の雜魚が浮いて來て食つた。子供は面白いので今度はわざと少しこぼすと、雜魚がもや／＼と浮いて來て食つてしまふ。又こぼすと又來て食ふ。そんなことをするうちに時が經つて、哀れ父は餓ゑて山畠で死んでしまつた。少年は之を悔い悲しんで、忽ち山鳩になつたといふので、今でも其季節が來ると斯ういつて啼くと傳へられて居る（　奧南新報）。

　　　テデコーケー、（父よ粉を食へ）

　　　アッパーツーター（母が搗いた）

　この一つの例だけを見ると、誰しも話はあの山鳩の鳴く聲によつて、思ひ付かれたものと考へるのであるが、實際はさうで無かつたのである。全然同じ話といふわけでは無いが、是とほゞ似通うた話は、郭公に付いても語られて居る。たとへば甲州の精進湖に近い山村では、カッコウ鳥はもと惡い繼母であつた。どうかして繼子を苦しめようと思つて、或る日山畠へ麥刈に行つて居る處へ、子供が辨當を持つて來ると、上へ登れば下の方に行き、降りて來れば又上の方へ行つて居て、早く持つて來ぬかと何度も叱るので、しまひには疲れきつて子供は死んだ。その罰で鳥になつて毎年麥を刈る頃、山畠の附近を上下し、八千八聲まで啼かぬと口に蛆がわくといふことである（甲斐昔話集）。紀州の高野の麓の鞆淵村あたりでは、昔木樵があつて三人の男の子を持つて居た。母は繼母で其子たちを憎み、或る日辨當を持たせて父の居る山へ遣り、そつと路傍に隱れて居て三人を谷へ突き落してしまつた。父は其子を探しに日の暮まで、山の中を尋ねまはり、終に郭公といふ鳥になつた。それだから今でもワコーワコーと啼きつゝ淋しい山の中を飛んであるくのだと傳へて居る（土俗と傳説）。さうなると全く南會津のモナクナ鳥や、豐前の山奧の「獵師來い黒來(135)い」と同じ話の土地毎の變化であつたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　太平洋に面した東上總の村々で、クラッコ鳥といつて居るのも、やはりこの郭公のことであつたらしい。昔おくらといふ女がたゞ一人、田の畔に幼兒を寢させて置いて田の草を取つて居ると、不意に鷲が來て其子を攫んで飛んで行つてしまつた。驚いて跡を追うたが尋ねやうもなく、自分も其まゝ鳥になつて、毎年夏になるとクラッコクラッコと、啼きつゝ山や野を飛びまはる。此鳥の足が片方は黒く、片方は白いのは、よごれた股引を半分脱ぎかけたまゝ、飛んで行つたからであるといふ（南總の俚俗）。おくらが自分の子をクラッコと喚んであるくのも妙だが、この話は決して突如として始まつたものではなかつた。隅田川・櫻川・柏崎・三井寺等の十數篇の謠曲を始めとして、近くは駿州の姥ヶ池、下野足利の水使の淵、又は仙臺の小鶴ヶ池の傳説の如く、子を失つた親の悲しみを取扱つた民間の文藝ほど、久しくも又力強く、我々の心を支配したものは無かつたのである。其中でも鷲がつかんで遠くの國まで、連れて行つた子が成長したといふ昔話などは、次々形を變へて千年以上も續いて居る。それを忘れかけては又幽かに思ひ出し、さうして新しい話に語りかへて行く機縁が、やはりこの折々の烏の聲であつたとすれば、人間は決して書物に書き誌され、もしくは學者に説明せられることのみによつて、祖先の思想感情を相續して居たのではなかつた。如何に時代が進み人の心が改まつても、到底絶ち切れない親子の縁、生を隔てゝ相思ふ骨肉の情愛の如きは、寧ろ斯ういふ天然の記録によつて、文字を解せざる萬人に讀み且つ嘆かれて居たのである。

　殊に郭公や時鳥は、親を慕ひ子を懷はしめる鳥であつた。昔の「はこ鳥」といふ簡單な言葉の中にも、人を動かす深秘の意味があつたかと思ふが、箱と信仰との關係などは、寧ろ訓詁を業とする學者の攷究に任せて置いた方がよいと思ふ。それから轉じて又「はやこ鳥」といふ名も出た。曾て夕暮方に幼兒を背に負うて、山路を行く若い母があつ(136)た。早來・早來と啼く鳥の聲を聽いて、悲しく怖ろしく道を急いで居ると、いつの間にかその背の子が死んで居た。これは藻鹽草といふ本にある話で、多分知つて居る人も多いであらう。近世の例としては菅江眞澄翁の日記、若い頃尾張で聽いたといつて次のやうな話を載せて居る。五つか六つになる男の子が、人に負はれて物詣りに行く路で、頻りに時鳥の聲を聞いて一人で笑つて居る。どうして笑ふかとはたの者が問ふと、あの鳥が「とゝさへ、かゝさへ」と啼くからといふので、つれ立つ者も一しよになつて笑つたが、其子は程なく麻疹をわづらつて死んだと言ふことである。多分はもう親の無い兒であつたのであらう。支那でも時鳥を蜀帝の魂といふ傳へがある爲に、日本の「しでの田をさ」は其飜譯であらうといふ人もあつたが、なんぼ飜譯ずきの日本でも、斯んなことをまで譯して見たところが、弘く平民の間に通用する筈がない。おまけに我々の昔話は、時鳥ばかりか郭公の方にも及んで居たのである。この二つは共に夕暮に鳴く島ではあるが、一方は高い樹に住んで空を飛ぶ故か、今でも都市に近づき文學に親しみを持つて居る。郭公はこれに反して低い林に遊ぶ性質があつて、もう私たちの郊外の村にも段々と少なくなつた。さうしてこの二種類を混同する説が、古くから行はれて居たのである。

　

(137)　　　　　翡翠の歎き

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一

　

　杉村楚人冠氏は、巣箱主義の新たなる使徒である。彼の我孫子《あびこ》の村莊は園は森林の如く、晴れたる朝に先生斧を提げて下り立ち、數十本の無用の樹を斫り倒すと、其中に往々にして自然の鳥の巣を見出すといふ實?なるにも拘らず、更に邸内に總計十二箇の巣箱を配置し、其箱の板にはヘットなどを塗り附けて、いとも熱心に雀以上の羽客を歡迎して居るのである。吾人｜窃《ひそ》かに憂ふらくは、昔國中の牢人が競うて大阪城に馳せ集まつた如く、苟くも空中の音樂師の自由なる者の限り、悉く湖畔の白馬城に身を投じて、愈々以て浮世の金網と鳥籠との束縛を、必要とするに至る無きか。乃ち亦此際巣箱の全國的普及を、切望して止まざる所以である。

　但し幸ひなることには、小鳥に對する先生の好意には、著しい厚薄が有る。其愛憎には若干の偏頗がある。カハセミと云ふ奴ばかりは、實際困るのだと謂つて居る。巣箱の大屋さんから、あの飄逸なる尻尾の無い鳥だけが、疎まれて居るのである。それは又如何してかと尋ねて見ると、池に飼つてある魚を狙つて、始末にいけないと云ふ話であつた。

　

(138)　　　　　　　　　　二

　

　水豐かなる關東の丘の陰に居住する者の快樂の一つは、?々此鳥の姿を見ることである。あの聲あの飛び方の奇拔なるは別として、其羽毛の彩色に至つては、確かに等倫を絶して居る。是は疑ふ所も無く熱帶樹林の天然から、小さき一斷片の飛散つて爰に在るものである。魚類ならばホノルルの水族館の如く、辛苦して硝子の水槽の中に養はざる限りは、常に西海の珊瑚暗礁の底深く隱れ、銛も刺網も其力及ばず、到底東部日本の雪氷の地方まで、我々に追隨し來る見込は無いのだが、獨りカハセミだけは多分我々の先祖の移住に先だち、夙に此島國に入り來つて異郷の風物と同化し、殊にそのをかしな嘴と尻尾とを以て、遠くから存在を我々に知らしめ、之に由つて寂しい太陽の子孫たちを慰安し、永く南方常夏の故郷を思念することを得せしめるのである。燕の春を待つて漸く我々を訪ふのに比べて、より以上の忠誠を認めて遣らねばならぬ。それが此樣に有力なる愛鳥者から、新たに忌み嫌はれなければならぬと云ふのは、假に是非も無い自然の運であつたとしても、尚深く嗟歎すべきことではある。

　嫌ひなら嫌ひでそれも結構と言つてよいが、好いぢや無いか君の家の泉水に、ほんの小雜魚を年にもう七十ぴきか、八十尾ほども餘分に飼つて置いて、彼奴に自由自在に狙はせて、遊ばせて見たらどんなものだ。冗談を言つてはいけない。金魚を捕つて食ふのだよ。折角大事にして育てゝ居る金魚を、時々せしめて行くからけしからぬと申すのだとある。

　

　　　　　　　　　　三

　

　なに。カハセミが金魚をくはへて行くか。

　なるほど誰やらを金魚の刺身に譬へた如く、あれは食品として人間すら猶斷念して居る魚類だ。曾て大町桂月君等(139)は蔦の温泉で食つたと云ふ話だが、少なくとも美味求眞で無い事だけは明白だ。それを何ぞや小兒が餅菓子を鑑定するやうに、徒らに皮相の色彩に誘惑せられて、選擇は當を失するのみならず、終に先生の怒を買ふに至つては、翡翠の無知淺慮は誠に憫むに堪へざるものがある。

　しかも飜つて他の一面、古い天然に倦まんとする人間の目から見ると、實は又是ほど斬新奇拔なる取合せは無いのである。和漢古今の畫と文學とを通じて、乃至は纖細の美を誇りとする印度波斯の藝術の中を求めても、恐らくは此の如き光景は無かつた。光あるコバルト色の羽をした、首ばかりの樣な形の鳥が、丹色の小魚を長い嘴のさきに啄ばんで、水の上を飛び渡るといふやうな繪樣は、未だ曾て人の空想にも浮ばなかつたと思ふ。

　僕が楚人冠であつたら、土工の許す限り先づ庭中に幾つもの池を穿ち、水を淺く面を廣々として、安物の數物の大和金魚を其中にうんと放し、少なくとも下總一國のカハセミが評判を聞いて集まり來り、赤い金魚をくはへて右往左往すること、恰かも友禅の染紋樣の如くなることを飽かず眺め興じたであらう。惜しいかな好漢、胸中百卷の書を藏すと雖、樂しむ所は專ら水墨雲煙の變化に在つて、斯ういふ極彩色に對しては、存外に趣味が淡かつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　曾て聽く�ｺ大寺の某大臣、寢殿に鳶居させじとて、屋の上に網を張らしめたと云ふ話がある。即ち人間の非巣箱主義の巨魁であつたが、しかも鳶の居たるばかり何程の事かあらんなどゝ、一旦は批難をした法師原も、後にその目的が池の蛙の保護に在ることを知つて我を折つた。誠に�ｺ蟲魚に及ぶは尊い所業に相異ないが、しかも其間に人を本位とした親疎内外の差別觀が無かつたならば、此樣に無造作に、一方の生命を愛惜する爲ばかりに、他の一方の存在を憎むことは出來なかつたのでは無いかと思ふ。

　蓋し物の命を取らねば生きられぬものと、食はれてはたまらぬ者との仲に立つては、佛すらも取捨の裁決に御迷ひ(140)なされた。終には御自身の股の肉を割愛して、餓ゑ求むる者に與へ去らしめたと云ふが如き、姑息彌縫の解決手段の外に、この悲しむべき利害の大衝突を、永遠に調和せしむる策を見出し得なかつたのである。語を換へて言ふならば、おれの池のおれの金魚が大切と謂へば兎も角も、單に金魚が可愛さうだと云ふことは、一般にカハセミを納得せしむる理由としては不十分だと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　其上に被害者が、もし見にくい池の蛙などであつたら、果してこの弱肉強食の現實に當面して、能く同一程度の義憤を起し得たかどうかも、亦大なる疑問である。

　成程池の蛙は惜しげも無く澤山に、毎年の春は生まれて來る。しかし金魚の出産率は實は此よりも遙かに大きいので、緋や鰹などゝ同じやうに、全く最初から食はれる爲死ぬ爲だけに、生命を開始すると謂つてもよい者が大部分なのである。大和の郡山の舊城跡、三笠春日と向き合ひの暖い岡に、廣い池を幾つも掘つて、此中に孵化する金魚の子の數は、百萬が單位である。其飼主の柳澤伯が、世に知られた統計學者であるのも、何だか澁い皮肉のやうに感ぜられる。

　此池の中から町の金魚屋が、小さなタマを以てやたらにすくひ上げ、荷桶に入れて擔ひ出すときに、やつとの事で金魚の微弱なる生存の價値は發生する。それから次々に山坂を越えて、關東の田舍まで運ばれるに至り、始めてカハセミに對抗して主張せらるべき、何物かゞ現はれるのである。本源に溯れば利欲に專らな或る商人、乃至は物ずきの殿樣が有る爲に、美しい翡翠たちが樂には取つて食ふことを許されず、困窮することにもなるのである。どちらが弱肉だか知れたものでは無い。

　

(141)　　　　　　　　　　六

　

　併しそんならさうかと謂つて、丸々カハセミの放恣を黙認することも、出來ない世の中にもう爲つてしまつた。たしか幸堂得知の句であつたが、

　　　幾ら食ふものか棄て置け稻雀

　江戸座の俳諧にはいつも敬服すべき輕妙はあるが、其代り村の生活に對する同情は不足であつた。若し斯うして雀の食ひしん坊を寛容したなら、全國の秋に於て二三百萬石の收穫は違ふだらう。幾ら食ふものかどころでは無いのである。二百萬石は今日の相場で、一箇の大學であり又は一艘の戰艦である。是は棄て置かない方が確かによいのだ。

　北齋などの讀み本の插畫には、田舍の豐饒を寫し出さうとすると、きまつて鳴子に頓著せぬらしき雀の大群が描いてある。全く是は結果と原因との取違へであつて、此通りにして棄て置いても、まだ餘裕が有りさうだといふだけで、實は雀の一族の大繁榮が、隱れたる後代の禍根であることを知らぬのであつた。雀を繪に描いて豐年萬作の圖と題するが如き人々が、政治を預つて居た故に農村は衰へたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　妙に纏まりが惡くなつたが、何としてなりとももう此一篇を終らう。

　かゝるがゆゑに、雀は百姓たちの生まれながらの敵である。鷺も烏も苗代を荒らすに由つて、農民は之を憎んで居る。正月松の内のめでたい朝も、鳥追ひと稱して野らに出て大聲にわめき、あたま切つて尻尾切つて、鹽に漬けて俵につめて、西の海に流すと云ふやうな怖ろしい宣言をする。皆是れ白馬城主の金魚に對する憐憫を、今一つ下層の穀物にまで推擴めたものであつた。しかも其樣な憎らしいことを言ひながら、雪解け春來り水盈ち稻茂り、やがて秋の(142)風に黄金の穗が波うつ時が來ると、僅かばかりの充足に心まで醉ひうかれて、却つて村雀と共に踊り歌ふのである。國富が増殖して生命が有り餘ると、將軍が兵を用ゐたがつたのと同じやうに、人は案外無慾で、財寶でも稍々不用のものが出來ると、無意味に之を散じて見たくなるらしいが、只此節はそんな場合が、昔に比べて大分少なくなつただけである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　濱で漁師が地曳網を揚げる時などには、今でも子供や老女が來て盗むのみか、事によると飛びまはる?の數が、魚の教よりも多いかと思ふ折もある。梨の實の出盛りに庭坂に行き、又は葡萄酒の仕入時にローヌの溪などをあるいて見ると、盗まれて見なければ豐年の悦喜が、徹底せぬやうな顔した人が居る。極端な場合になると、旅人を捕へて醉ひ倒れしめざれば止まず、或は信州などの十一月には、昔は少なくとも一人の乞食を、食責めにして殺さなければ、濟まぬと考へた日さへあつた。最近までも我々の間には殘つて居た饗宴といふものゝ基調は浪費であつた。貴人長者の羨まるゝ所以は、土藏の戸口に檢束が緩くして、臺所の隅には怠け者の、飯時だけ起きて來るやうな男が、幾人も轉がつて居ることに過ぎなかつた。黄金時代の太平と稱するものも、有りやうは特別の奇跡で無かつた。たゞ斯んな氣樂さが趣意も無く繰返されて居るうちに、多勢の中から名工も詩人も出たので、結局する所は庭前の池の金魚に、龍田だの唐錦だのと名を附けて、朝夕其頭數を勘定して居るやうな世の中になつては、もうカハセミも安閑として、ヒイーなとは啼いては居られないのである。

　天下の小鳥を悉く巣箱に保護して見たら、却つて生活闘爭は激烈になつて來るのでは無いか。平和とは單に山林に生き殘つた者の間だけの、差引勘定の名では無かつたか。若しさうだつたら今少し考へて見なければならぬ。故にカハセミの問題は今尚未解決である。

　

(143)　　　　　繪になる鳥

　

　或る年の五月、アルプといふ川の岸の岡に、用も無い讀書の日を送つて居たことがあつた。氷河の水の下を出て來てからまだ二時間とかにしかならぬといふ急流で、赤く濁つたつめたい水であつたが、兩岸は川楊の古木の林になつて居て、ちやうど其梢が旅館の庭の、緑の芝生と平らであつた。なごやかな風の吹く日には、その楊の花が川の方から、際限もなく飛んで來て、雪のやうに空にたゞようて居る。以前も一度上海郊外の工場を見に行つた折に、所謂｜柳絮《りうじよ》の漂々たる行くへを見送つたことがあつたが、總體に旅客で無い者は、土地の斯ういふ毎年の風物には、深く心を留めようとはせぬらしい。

　併しそれはたゞ人間だけの話で、小鳥は斯ういふ風の吹く日になると、妙に其擧動が常の樣で無かつた。たて横にこの楊の花の飛び散る中に入つて行つて、口を開けて其綿を啄ばまうとする。それをどうするのかと思つてなほ氣を付けて居ると、何れも庭の樹木の茂つた蔭に入つて、今ちやうど落成しかゝつて居る彼等の新家庭の、新しい敷物にするらしいのであつた。ホテルの庭の南に向いた岡の端は、石を欄干にした見晴し臺になつて居て、そこにはさゝやかなる泉があつた。それとは直角に七葉樹の竝木が三列に植ゑられ、既に盛り上がるやうに澤山の花の芽を持つて居る。どれも是も六七十年の逞ましい喬木であつた。鳥どもは多く巣を其梢に托して居ると見えて、そちこちに嬉しさうな家普請の歌の聲が聞えるが、物にまぎれて其在處がよくはわからなかつた。

　ところがどうしたものか其中でたつた一つがひ、しかも羽の色の白い小鳥が、竝木の一番端の地に附くやうな低い(144)枝の中程に巣を掛けて居る。僅かばかり其枝を引き撓めると、地上に立つて居ても巣の中を見ることが出來た。巣の底には例の楊の綿を厚く敷いて、薄鼠色の小さな卵が二つ生んである。それが程無く四つになつて、親鳥が其上に坐り、人が近よつても遁げぬやうになつてしまつた。折々更代に入つて居て、一方が戻つて來るのを待兼ねるやうにして、飛んで行くのが雄であつた。氣を付けて見ると、此方が少しばかり尾が太い。庭掃き老人がそこを通るから、試みに名を尋ねて見た。多分 Verdier といふ鳥だと思ふが確かなことは知らないと答へる。英語では Goldfinch といふ鳥だと、又一人の青年が教へてくれたが、此も恠しいものであつた。後に鳥譜を出して比べて見ると、似て居るのは大きさだけで、羽の色などは雙方とも此巣の鳥とは同じでなかつた。が兎に角に幾らも此邊には居る鳥ではあつたらしい。

　此頃家に十姉妹を飼ふやうになつてから、その小さな目を見るたびに、何時でも私はあの時のことを想ひ出す。ちやうど此目をして七葉樹上の彼等も、亦私を見たのであつた。少しの反抗も無い警戒に、一分の懇願をまじへたやうな目であつた。どうして其樣に近々と私たちを見るのかと、訝かるやうな心持も感じられぬことは無かつた。そこで自分は出來るだけ遠くから、又尻尾の方からばかり、居るか居ないかを見ようとしたのであつた。風の吹く日には尻尾は必ず風下の方へ向いて巣の外へ突出して居た。さうしていつ行つて見ても、殆と其尻尾の出て居ない時は無かつたのである。英國に留學して鳥を研究して居る蜂須賀君が遣つて來て、何日目に雛になるかを知らせてくれと頼んで行つたが、餘り遠慮をして居たのでとう／＼それを確めることすら出來なかつた。

　おまけに此鳥の巣の秘密が、次第に同宿の間に知れ渡つて來た。私の目的は全く保護に在つたのだが、心無く其木の蔭に立つ者を制しようとした爲に、却つて多くの人の話の種になり、中には娘たちを案内して、ぞろ／＼と見物に行く男もあつた。其うちに和蘭の外交官だといふ人の細君が、いたづらさうな男の兒ばかり、四五人も連れて遣つて來た。頬の赤い眼のくる／＼とした子守娘が、事實上の餓鬼大將として之を引率して居る。是は飛んでもない敵軍が(145)押寄せたものだと、獨り鳥以上の不安を抱いて居つたところが、果せるかな其次の日の晝過ぎには、もう其巣は空つぽになつて居た。何でも昨日の朝とかから、親鳥は餌を運び始めて居たといふが、私はとう／＼樣子を見ずにしまつた。そんな小さな目も見えぬものを、彼等は取下してどうしたといふのであらうか。尋ねて見ようにも言葉は通ぜず、さも／＼そんな事は冤罪であるかの如く、平氣な顔をして一日中其樹の下を飛びまはつて、もう次の日には何れへか出發してしまつた。

　私の話は前置きが長くて、本文は却つて僅かしか無いが、書いて見たいと思ふことは此あとの經驗である。ホテルには毎日午前のうちに、寂しいと謂つてもよい程靜かなる少しの時刻がある。私はその際ふと窓外の鳥の聲を聽きつけて、庭に下りて又昨日の七葉樹の蔭に行つて見たが、巣は殆と元のまゝであつて、其上の枝に二羽の親鳥が、半ば身を傾けてぢつとして其巣の中を覗いて居た。何とも言はれぬ位に其形があはれであつた。そこで始めて心付いたことは、古來東方の故郷の國に於て、人が深くも考へずに粉本を傳へて居た、繪樣といふものにも基く所があるといふことであつた。獣には普通子を連れた形、右往左往に遊び戯れるのを、それと無く見守つて居る處を繪にして居るが、所謂花鳥には往々にして此日の午前の Verdier のやうな姿がある。それを單なる配合の面白さから、選び出して寫したやうに是までは考へられて居た。即ち畫は人間の美しいといふ尺度が定まつて後に、それを自然にあてはめて合格したのを採つたものと、多くの歴史家は説明するのであるが、もう自分等はそれを信じなくてもよいと思つた。夢で見たもの幻で感動したことが、強く殘つて居なければ神の像は描かれぬ如く、曾て或る日の物の哀れといふものが、自然に我手を役して其面影を再現させようとしたのが、言はゞ我々の技藝の始めであつた。寫生の眞に迫るといふことは、恐らくは單に心の鏡の澄みきつて居たことを意味する以上に、更にそれ自身の光といふものがあつて、特に力強くある物を照さうとした結果であらうと思つた。鳥が人間の魂の兄弟であることを信じて居た者は前代には多かつた。從つて同じ親子の愛情にしても、彼等の感じたものは格別に理解し易かつたので、彼等の斯んな簡單な巣を窺ふ(146)やうな形までが、永く記念の像を後代に遺すことになつたのでは無いかと思つた。

　旅人が殊に鳥類の聲姿に、心を引かれるのも由來があることらしい。是も藝術の起原論と同樣に、美しいといふことは寧ろ結果であつて、以前は今よりも一段と彼等の擧動によつて、學び心づくことが多かつた爲に、是をよそ／＼しく眺めることが出來なかつたのかも知れぬ。私は又或る時、亞米利加の曠野を過ぎて居て、二羽の闘ふ小鳥が中空に向き合つて、羽ばたきをする姿の美しいシムメトリイを見たことがある。古い鏡の繪や錦の模樣の中に、是は何度と無く見馴れて居る形であつた。鶴の稻穗の國々の傳説を記憶する者には、所謂松喰鶴の繪樣も、單なる空想の所産とは思はれない。たとへ其實驗は稀にしか得られなくとも、やはり最初は之に由つて、何か貴重なる啓示を與へられた名殘であることは、卍字も十字架も異なる所は無かつたのである。

　

(147)　　　　　烏勸請の事

　

　　　　　　　　　　一

　

　これは三好さんの話である。

　雲仙の國立公園のゴルフ場では、たつた一つだけ困ることがある。あの山の烏は横合からやつて來て、飛んで居る球をくはへて行つてしまふ。それでキャデイの任務があそこでは一つ餘分になつて居る。打出すと同時にわい／＼と大聲でわめき立てゝ、皆して其烏を逐ひ拂はないと、毎々大事な球を取られてしまふからだといふ。

　自分はこの話を聽いて、思はず本當ですかと言はなければならぬほど驚いた。しかもさういふ心當りは正に有るのである。同じ經驗は日本でならば、今後もまだ他の地方でも得られるかも知れない。さうして外國のゴルフ場には、恐らくはあまり無いことであらうと思ふ。これは動物にも國史が有るといふ、非常に大切な問題の絲口である。僅かにわかつて居るだけでも一應は記述して置く方がよい。

　それでまづ試みに四五人の仲間の寄合の席で、どんな印象を與へるかと思つてこの話をして見た所が、早速に又新たなる知識を一つ添へることが出來た。友人の榊木敏君は、雲仙の西麓、小濱といふ海岸の村の人であつた。それは如何にも有り得ることだと同君はいふのである。榊木君等の少年の頃には、圓い平たい小石を拾つて、烏の群を目がけて投付ける遊びがあつた。さうすると烏は飛んで來てそれをくはへようとする。つまり雲仙のゴルフ場が開けるよ(148)りもずつと前から、島原の鳥どもは皆そんな練習をして居たわけである。今でも子供たちは同じ遊びをして居るかも知れない。行つて聽けばすぐわかることだが、榊木君などの頃にはその石を投げながら、

　　　烏かんじよう猫かんじよう

といふ詞を唱へて居た。さうしてそのカンジョウを子供心に、「食はぬぞ」といふ意味に解して居たさうである。

　さうすると「この石は餅のやうな形をして居るが、石だから食ふわけには行くまい」と、嘲るつもりであつたのか。但しは又これは餅だが食はないかと、欺くやうな氣持であつたものか。いづれであつたかゞ問題になるが、さういふ細かな點までは確かめ難いのみならず、この解釋も實は誤解であつたらしいのである。今までの子供の遊戯は、大抵は成人の所作の模倣であつた。これも多分は古い時代に、餅を烏に投げ與へた際の唱へ言で、烏勸請は即ち烏を迎へて、饗應をするといふ意味であつたのを、後には口拍子に猫勸請を付添へたものと思はれる。

　自分はさういつて獨りで感心してゐると、傍から又注意をした者がある。關東の子供等は今でも烏の空を行くのを見ると、

　　　鳥はかアかア勘三郎

　　　雀はちうちう忠三郎

　　　とんびは熊野のかね叩き

　　　百日たたいて麥一升

などゝ、何も投げずにたゞ斯ういつて囃すが、文句の長くなつたのは面白づくであつて、この勘三郎も本來は烏勸請、即ち烏を招待する時の言葉から出たものかも知れぬといふ。なるほどそれもまた一つの發見かも知れぬが、これには尚一應東京近郊のゴルフ場でも、折々は飛ぶ球をくはへに來る烏が有るか否かを確かめてから問題にしても遲くはない。近頃の考證家中には言葉ばかりを氣にする人もあるが、言葉ほどこじつけ易いものはないのである。言葉は傍證(149)であつて事實の根據が確かめられた後に、それと思ひ合せて愈々間違ひが無いといふ時の役にしか立たぬものである。

　我々がこゝで考へて見なければならぬのは、島原半島の烏のゴルフの球をくはへに來る技術は、果して兒童の惡戯の圓い平たい小石ばかりで、これを養成することが出來たかどうかである。これには今一つ以前の久しい期間、投げて食はされるのが御馳走の餅であつた時代が續いて、今尚空中に投げられる圓くて白いものを、飛んで來てくはへる習性が生じたのでは無いかといふことである。人間が今のやうに逼迫するよりも前から、もう九州ではこの烏祭は絶えて居る。子供と烏だけがその古い契約を、僅か片端だけでも尚憶えて居るのでは無いか。この點がまづ究められなければならぬのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　ポンソンビ・フエーヌ君は英國から遣つて來て、もう二十年近くも日本の神道を研究してゐる。この頃は鳥喰神事《とりばみのしんじ》に深い興味を抱いて、書物で知つただけの場所は、片つ端から尋ねてあるいて居るといふことである。熱田神宮で行はれる鳥食ひの古式は、この春も拜觀して來た。名古屋の南の郊外が煙突の林になつてしまつてからは、もう肝腎の烏が參列してくれない。式は型ばかりになつて空しくお祭の供物をもてあまして居るといふ。宮司の桑原さんは考へ深い人だ。今にいづれかへ祭場を移される他はあるまいと私も思つて居る。それから近江の多賀大社、彼處では毎日烏に神供を與へる行事が、今でもまだ續いて居る。安藝の宮島の女夫《めをと》烏は、一年に一度しか祭を享けぬことになつて居るが、時々は七浦囘りの信心者の船が供へものをする。熊野は素より日本一の烏の樂土だが、尚この以外にも何ヶ所とか、烏祭の有る御社をポンソンビ君は知つて居る。もつと何處かに無いだらうか。有るなら行つて見たいのだがといふ御相談である。

　いゝやまだ一向に私などは調べて居ません、東京では今頃やつと、國際文化の會といふやうなものが出來る所なの(150)に、よくも貴方一人でさういふ仕事を始めたものですね。これは何とかして御手傳をしなければならぬと、それから色々關係の有りさうなことを話し合つて居るうちに、かの雲仙のゴルフ場の一件なども出て來たわけである。烏に食物を與へる御社は、府縣にはまだ幾らでも有りさうに思はれる。單に我々が構ひつけなかつた爲に現在は御答へをすることが出來ないだけである。近頃目に付いたたつた一つの例は、防長史學といふ雜誌（二卷一號）に玖珂郡柱野村杉森大明神の御鳥喰神事といふのを報じて居る。舊暦九月十三日の朝、餅を二重ねと米の粉を餅の形にしたもの一重ね、それにその朝の飯しる菜を添へて、社の前なる御供石の上に置くと、即時に烏二羽來つてこれを食ふ。但しけがれがある時は烏來らずして石の上に腐り、又他の鳥獣も食はぬといふが、無論さういふ場合はめつたに無いのであらう。

　この烏がたゞ二羽といふことは、宮島でも傳へられて居て人がよく知つて居る。いつでも一つがひに限つて出て來るといふことが信じられ、相續烏が出來ると親は熊野へ還つて行くとさへいふ者がある。これにも何か理由のあることらしいが、私などにはまだ説明することが出來ない。關東の方でも那須の矢又村の鷲子《とりのこ》神社に、二羽烏といふのが山中七不思議の一つに數へられて居るさうだが（下野神社沿革史卷八）、これも恐らく御社の祭なり、または信心の參詣者なりの供物を、出て來て御馳走になる當番の如きものであつたらしく、土地ではその二羽烏をミサキともいつて居るとのことである。

　ミサキ烏といふ言葉は、又宮島でも熊野でも聽くことがある。ミサキは先鋒であり、從つて神々の代表者といふやうな意味ではなかつたらうか。兎に角に人民ともつとも多く接觸する神靈に、その名を用ゐた例が他にも澤山ある。これによつて思ひ合せることは、西の方の諸縣では現在は村共同に、鎭守の社において行ふ烏祭を、東北や越後は今も家々で、個々に營んでゐるのが多いことである。言ひかへれば、烏は餅をふるまはれる機會が、この方面では西部の同類よりもずつと多いらしいのである。

　服島縣｜平《たひら》附近の例をいふと、正月十一日の農立ての日の朝、今年苗代にしようと思ふ田に行つて初鍬をいれ、三(151)所に餅と神酒洗米とを供へて、これを早稻・中稻・晩稻の三通りに見立てゝ置く。さうして大きな聲でオミサキ・オミサキと喚ぶと、直ぐに烏が飛んで來てその餅をくはへて行く。どの餅を先に持つて行くかを見て、三種何れの稻が本年は當り作であるかを決するのださうである（民族一卷二號）。常には憎んで追散らす烏でも、斯ういふ改まつた式の日だけはオミサキであつた。

　

　　　　　　　　　　三

　

　氣仙《けせん》地方にもオミサキツリといふ語がある。社寺に參つて供へた散米を、烏がついばむことをさういふのださうである。正月の式の日には限らず、山や墓所に上げて置く食物なども、烏が取りに來るのを追はぬのみか、却つて食つてくれないと氣にするのである。是もさういふ場合に限つて、烏を一種のミサキと見て居たものと解せられる。但しミサキガラスといふのは、茨城縣などではハシボソガラスのことであつて、ハシブトの方はクソガラスといふ方言もあり、この仲間には入つて居ないらしいが、果して雲仙の山でもさうした差別があるかどうか。また宮島あたりのミサキはどうであらうか。この點を一應當つて置きたいと思つて居る。

　正月に烏に餅を食はせる風習は方々にあるが、同じ東北でも土地によつてその式は少しづゝ變つて居る。青森縣の東の部分では、これを初山掛けといひ、正月八日の早朝に行ふ村が多いけれども、その初山も四日にする所、十一日にする所などが他にはある。

　普通に行はれて居るのは餅を一種の藁苞に入れて、屋敷まはりの一定の樹の枝に引掛けて置き、それから大きな聲で烏を喚ぶのである。その言葉が村により又家によつて、色々變つて居るのが私には面白い。北秋田の扇田あたりから、鹿角郡にかけてはポーポーといつて居た。これは鷹つかひが鷹を呼ぶ時にもさういつたさうだから、烏だけに限つた語では無いらしい。青森縣の上北郡ではシナイシナイ、もしくはコーロコロといふ家もある。シナイはまたスナ(152)イとも聞え、スナイチカイと唱へる例もあるから、多分苗を結ぶ稻わらのことであらう。餅を包んだ藁苞を藏つて置いて、田植の日の苗束に用ゐる風習があつたらしいのである。

　八戸附近の烏喚びの言葉は、ロウロウといふのがもつとも多いが、家によつては又シナイシナイ、シナイローといふものもあり、或はたゞカアカアといふ人もある。越後の古志郡にはカツカラカツカラと呼ぶ村もあり、服島縣などにはカラスカラスとばかりいふ所もある。東京近くの農村にも、折々はこの正月の烏祭をするものが有るが、これもカラスといふだけで、他の合言葉はもう使はぬらしい。

　餅を引掛けて置く樹にも、以前は定まつた約束があつたかと思はれる。今でも里はづれの一本の老木、もしくは山の口元の或る樹まで持つて行つて掛け、歸りにその樹の片枝を伐つて來て、わざ／＼それを燃して御茶をわかして飲む土地もある。初山即ち若木採りの儀式と結びついて居るので、此木を山の神樣、烏を山の神のお使と思つて居る者の多いのも、相應にいはれ因縁のあることである。然しさうなるとその餅の苞を、山や里はづれ迄持つては行かずに、めい／＼の屋敷の外にある樹木にたゞ引かけて置いて烏を喚ぶことが、何だか説明しにくい樣に思ふ人も有るか知らぬが、これは全く餅を烏にやつたといふ事實が、家に取つては大切な記念だからで、いはゞその證據に正月の間だけ、受取?のやうにして眼につく所に掲げるのだらうと思ふ。

　それで次には此藁製の入れ物の名を、村々で何といふかも尋ねて見る必要がある。誰か我邦にもポンソンビさんの如き人が現はれて、丹念に各地の例を比較してくれるとよいがと思ふ。私の知つて居るだけでは、山形秋田の海岸ではこれをノサ、これを樹につるす行事をノサカケといふ。その日は正月四日であり又二日にする處もあり、烏が取りに來るか否かをもう省みない土地もあるが、とにかくに藁できれいに飾り物を作り、それに色々の供物を結び付けて、神の樹の枝に掛けに行く風は、莊内以北由利の海岸も一樣である。越後も多分さうであらうと思ふ。これを烏よりも里の子供が樂しみにして、すぐに後から取りに行くことは、近畿地方の烏塚の風習、もしくは渥美半島の山神祭など(153)とも似て居る。

　

　　　　　　　　　　四

　

　岩手青森の舊南部領でも、ノサもしくはヌサといふ語があつて、正月八日の前夜にヌサウチをする。打つといふのはわらでそのヌサをこしらへることで、これには必ず烏にやる餅を挾むことになつて居る。三戸郡の村々では、ヌサといつても通ずるが、或はこれをヒサゲトシナといふ家がある。トシナは年繩で、東京でいふ注連繩のことを意味し、ヒサゲは手に持つて提げることである。普通の年繩はたゞ張り渡すばかりだが、初山掛けに用ゐるものだけは、下げて行かれるやうに取手がつけてある。それを自分などは挾んだ餅を投げるための装置だらうと想像してゐるのである。

　現在の烏祭では、投げ遣らずにたゞぶら下げて置いて、自由にくはへて行かせる例の方が多いが、以前は烏の擧動を見る爲に、空中に向つてはふり投げるのが普通であつたのでは無いかと思ふ。秋田縣北部などの、烏をポーポーと喚んで居る地方では、その藁製の飾り物をポッポカラといつて居る。これには三つの乳を付けて、大小三個の丸餅をその穴に插み、之を振囘して餅を投げ飛ばすのである。さうして後にそのわら飾りを樹に引掛け、その枝を少しばかり折つて歸つて來るといふ（民俗學四卷二號）。關東の田舍の子供たちは、石投げの遊びにもこれとよく似た装置のものを用ゐて居た。餅を烏に遣るために發明せられた技術でもあるまいが、石を投げるよりも正月に餅を斯うして投げる方が、心理學的にも何倍か愉快であり、また大人もこの日ばかりは少年の心持にかへつて、昔の腕前を示さうとしたことであらう。置いて取らせるやうになつたのは、烏の警戒心の増加だけで無く、或はこの石投げ武藝の衰微のためだらうかと私は思ふ。

　斯ういふ風に解しなければ、かの雲仙ゴルフ場などの、奇現象は説明することが出來ない。正月に烏を祭る風は九州にはもう絶えてしまつたらしく、神社の儀式としても有名なものは無いやうだが、尚烏だけは何十代か前の親々が、(154)かつて空中の餅をついばんだ經驗を相續して、今でも白い小さな圓いものゝ飛ぶのを見ると、大急ぎに出て來てくはへ去らうとする特殊の習性を現はすのである。人がミサキを信じてこれを饗せんとし、烏の本能的なる貪食を以て、神が祭を享けたまふしるしとする思想が、もしも中頃から發達して來たものならば、烏の環境はこれに伴なうて改まり、その生活は變化したのである。即ち烏にもまた一國限りの、種族の歴史といふものがあつたのである。

　日本の烏の風習に大きな特徴のあることは、つとにエドワード・モールス翁なども深い注意を拂つて居る。どこの田舍へ行つても彼等は人に興味をもち、殊に我々の手元や擧動をいつでも横目で見守り、時には近よつて立聽きでもしようとするかと思ふことがある。これをモールス翁は日本人の�ｺが、無心の鳥獣までをなつけて居るやうに、一人で合點して敬服して居られるが、他にもまだ一つの隱れたる理由はあつたので、それだから又雲仙の球拾ひの子供などが難儀をするのである。この頃大分流行つて來た動物心理の研究なども、面白い仕事であるだけに、このモールス翁の眞似はさせたくないと思ふ。

　烏が横着であつたり惡賢こかつたりするのにも、西洋には西洋だけの理由があり、日本には又日本限りの、隱れたる原因があるのかも知れない。個々の動物が出現以來、たつた一つの道しか生きなかつたやうに、きめてかゝるのが出發點であるとしたら、この研究も實は心細い。烏にだつてやはり土地毎の歴史はあり、それがまた後々の生存條件をきめて居る。成程彼等の間には歴史家無く、無論また記録も無い。それが人類とちがふといへばちがふのだが、その人類の内にだつて、九割以上は記録などは傳はつて居やしない。それを歴史が無かつたものの如く、考へることはもう許されないのである。

　雲仙の烏がゴルフの球を盗むには、この國限りの永い由緒があり、又新しい誤解があつた。一旦の遺傳はその原因が消えると、再び又薄れてもよかつたのだが、子供たちがいつまでも烏勸請の遊戯を覺えて居て、それを今日のゴルフの時代まで持越して來たのである。子供の所業は烏どもの歴史の上には、太閤やナボレオンほどの力があつた。

　

(155)　　　　　初烏のことなど

　

　烏はあのやうな惡らしい面構への鳥だが、それでも丸つきり來なくなつてしまふと、正月は殊に思ひ出さずにはゐられない。近世の歳時記には、たゞ早天の鳴き聲のみを賞美し、繪では日の出前に五羽か六羽、黒く飛んでゐるところを描いて、まづ初春の景物としたものであつたが、その簡略な景物すらも、今では實景ではなくなつてしまつた。

　最初にはこれが萬歳の太夫以上に、我々の正月とは深い關係のあつたことを、烏の方でももうとつくに忘れてゐる。雪の多い東北の村だけでは、舊の暦の二日の朝、或は四日の朝にする土地もあるが、農家の主人が自分の田の畔に出て行つて、食物を烏に與へる風習がまだ殘つてゐる。土佐や九州の在所でも、事によると同じことをしてゐるかも知れない。本來は山の神への供物を、烏が御使に來て持つて行くものと思つたのか。兎に角それが食ひ殘されることを非常に嫌つて、早く御馳走をするために、この日は朝起きの競爭をした。さうしてまた烏を喚ぶ單純な唱へ言葉もあつたのである。不思議な話ではあるが、その「からす來うい」といふ喚び聲を聞きつけて、必ず山々の烏が降りて來て、白いシトギを口にくはへてあちこちへ飛びあるいた。村によつては食物を三所に分けておいて、今年は早中晩稻の何れが宜しいかを、占なつて見ようとする習慣もあつた。これが恐らくは初期の俳諧のいはゆる初烏なるものであつたらうと思ふ。

　田畠に遠い城下町の民家では、多分はその食物を屋根の上などへ運んで置いて、やはり大きな聲を擧げて、烏を招き寄せたことがあつたらしい。人間は勝手な者で常は憎んで追つて居ながら、用のある時ばかりはこの通りちやほや(156)した。それと同じ樣な待遇を受けたものが、他にもまだ色々ある。鼠なども松の内だけは「よめが君」などゝいつて、三日の晩又は地方によつて六日の晩に、最もよく出る通路に食物を器に入れて、出しておく家が各地にある。信州ではこれを嫁御の年越しなどゝいふ者もあつて、彼等にも斯うして「おせち」に坐つて年を取らせるのだといつてゐるが、これも口をつけずに朝まで殘してあると、やはり不吉の兆として氣にかけたものであつた。

　牛や犬・猫・鷄には、勿論銘々の年取りがあつたのみならず、同じ晩はまた道具の年越と稱して、臼や箕や桝の類まで、一ところに集めて鏡餅を供へる風が、實際はまだ決して稀でない。かういふ家々の正月が、如何に晴々と心の改まるものであつたかを考へると、自分たちの年始?と初刷との中に、ごろんと寢ころんでゐるやうな新年の、徒然なものであることに始めて心づくのである。

　私の家などは町から五里、隣は枯薄の空屋敷であつて、どの窓からも一本づゝ、可なり大きな松の樹が見える。海からさほど遠くないためか、空が眞青で折々通つて行く雲が、洗つたやうに白く光つてゐる。さういふさつぱりした日影の下に坐つてゐても、何だか物が一つ足りないやうな氣がするのは、考へて見ると烏が來ないからであつた。鳶もこゝへきてから三度目の冬になるが、まだ一度も舞つてゐるのを見たことが無い。斯う毎日のやうに立川の大先輩が、えらい音を立てゝ飛んで來る時代になつては、幾ら頃合の林の木があつても、巣を掛けて住まうといふ氣にはなれぬのであらう。さうすれば一つ舞つてやれといふやうな、威勢のいゝ鳶もこの邊にはゐないはずである。

　烏はそれでも岡の下の、田の苅跡まで行くと見られぬことは無い。晩方には大急ぎで、黙つて遠くの方へ飛んで行く一群を見ることもある。しかし如何なる明け方に眼を覺まして見ても、つひぞ一囘も烏が啼くなと思つて聽いたことが無い。彼等の正月も樂しみが少なくなつたか。これではやはり生活法を、變へて見なければならないと思つてゐるのか。何にもせよ三馬の浮世風呂などに見るやうな、僅かばかりの初春の風情までが、もう郊外に出て味はふわけには行かなくなつたのである。

(157)　この秋よく聽いたのは百舌鳥ばかりであつた。こやつは一羽ゐても騷々しいから、直ぐに遠方からでも來たなといふことが知れる。早天には普通百舌鳥の合間に、畫眉鳥《ほゝじろ》の聲を聽いたものであつた。春のまだ深いころから夏のかゝりまでは、いつもその邊のもつとも高いい枝で啼き、それから暫らく靜かで、秋は低い草むらを渡つてあるいてゐる。この二つだけは來年も又來るかも知れない。しかし椋鳥だけはどうやらもう見切つたらしい。椋鳥に見切られたといふことは、私の家にとつては實は大事件なのである。善後策を講じなければならぬ一問題が、今や突如としてこの閑居に迫つて來てゐるのである。

　先日も電車の中で、駒場の原熈博士に逢つて聞くと、どうも郊外の住宅では芝が枯れて困る。あの害蟲ばかりは驅除のしやうが無いといふ話であつた。私の庭でもこの冬のかゝりに、氣をつけて見ると芝生が端の方から枯れてくる。熊手で掻いて見たらその根のところに、青い蟲が圓くなつて眠つてゐる。それが半日の間に三合ばかりも捕れた。來春はこれが羽蟲になつて、子を産むのだから、先づは折角の芝の末期といふの他は無い。それから腕を組んで考へて見たことであるが、去年はどうしてこの災難を遁れたかと思ふと、毎日今ごろは午前の暖かい時刻に、生垣を潜つて隣の空屋敷から、必ず二三羽のむく鳥が入つて來て、熱心に芝原の上で何かを食つて居た。その擧動には興味があるので、ぼんやりとたゞ見て居つたのであつたが、彼が實際はこの小庭の爲に、害敵を退治してゐてくれたのであつた。それが本年は朝日住宅その他、方々の普請があつて、物の音が高く、新しい瓦やペンキの光が空を射てゐる。あるひはまだ御馳走の記憶があらうとも、降りて遊んで行く氣にはもうなれぬのであらう。何だか知らぬが今年はちつとも來てゐない。その上に私の家では犬を飼ひはじめたのである。

　犬はこの芝生を以て自分のサロンと心得てゐる。しかも敷物の蟲食ひを少しも氣にしない。そこでいよ／＼むく鳥が來ぬと決すれば、別に何かその勞に代るものを求めなければならぬ。鷄などはどんなものだらうかとも考へてゐる。?犬といふから仲がよささうなものだが、この近所には獵犬の後裔で、鷄を獲物と解してゐるらしき犬が澤山ゐる。(158)だから飼ふなら昔の山家の鷄のやうに、羽ばたきをして高く飛び上る種類を求めなければならぬ。そうして日中だけは犬のゐない片隅に於て、去年の椋鳥の代りを勤めてくれるとよいのだが、さういふ在來種の卵が手に入らぬか、又はいくら鷄でもさう蟲ばかり食はぬといふことになると、私の庭の芝は枯れなければならぬのである。

　それからまだ雀と正月といふことも考へてゐるのだが、あんまり呑氣だから正月がもう二つもある年の話にしよう。たゞ一言だけいふと、この邊の雀は、文化住宅の生活にまだ馴れぬために、いはゆる改造の惱みに苦しみ拔いてゐる。私の家だけは早くこの形勢を察して、軒の庇に五つばかりの巣箱を作つてやつたが、雀が家鳩になるのは困難だと見えて、その半分はまだ空家のまゝである。さうしてどの家も雀の住むための瓦の隙間を作らぬために、この村の雀は掛樋に巣くつて、大雨の日には流れ落ち、又は煙突の掃除をすると、三戸分ぐらゐの巣が出ることも稀ではない。それで居てまだ以前の林の木の生活には、還つて行かうといふ決心がつかぬかと思はれる。人間はもう古い慣習を棄てようとしてゐるが、雀や烏等は妙に代りのものを作り設けたがる。さうしてそれには又何十代かの、新たなる苦難を經なければならぬらしいのである。

　

(159)　　　　　鳶の別れ

　

　交番で鼠を買上げることになつてから、もう彼是三十年もたつたであらう。東洋の黒死病の歴史なども、此方面より筆を著けるならば文學になり得ると思ふ。鼠の價は最初は二餞、後に諸色《しよしき》の騰貴と共に、改めて五錢と定められた。其間に暫く割増金附の抽籤券を以て、鼠を引換へた時代があつた。自分の友人に一人の好事家があつて、斯ういふ記念になる樣な紙切れを蒐集して、張り交ぜの小屏風を作らうとした。吉原で發行する御遊興切符なども、品行方正なるが爲に最も採集に苦心をした。或る時金網の鼠捕りを買ひたいと謂ふから、何で急にそんな事をするかと思ふと、實はこの「鼠一匹」と書いた抽籤の番號札を、手に入れたい爲であつた。

　七つ八つの小兒が、長い尾をつまんで鼠をぶら下げ、交番の前に立つて巡査の顔を見て居る光景などは、もう見ることが出來なくなつた。おまはりさんが來ると謂つて泣く子を嚇した時代から、一時は急轉して飴屋などの如く、警官に親しみを感じて居た時もあつたのである。

　五錢に値上した當座であつた。東京市中には鼠を捕つて生活する職業が出來た。青山あたりには買上げてもらふ目的を以て、鼠を養殖してゐる牧場があるといふ評判さへあつた。それは話であつたかも知れぬが、つまりは其頃から東京といふ大都會全體が、一つの鼠放牧場と爲つたことだけは事實である。殊にペスト流行の兆候ある時ばかり、期間を限つて鼠の買上を實施することになれば、其中間の何年間の如きは、最も鼠算の繁榮に好都合な時であつた。人類をも包含する日本全國の動物中で、首都の鼠族ほど食糧に屈託せぬものは無いと謂つてよい。市民が投げ棄てる食(160)物の餘りは、彼等以外の者には到底手の屆かぬ、ドブや石垣の蔭にばかり、堆積して居るからである。

　猫入らずの害は飛んでも無い方面だけに顯はれたが、尚今一つの背後に隱れた影響があつた。やつぱり猫は入用である。猫ならば鼠を捕つて新しい中に食ふから、自分も肥え太り又其邊も片付くのだが、猫入らずでは天井裏や縁の下に不用なものが殘る。それを片づけるのも主として鼠に任せてあるが、多分は甚だ始末の惡いことで、結局は春秋の清潔法を、無意味なものにしてしまふだらうと思ふ。

　田舍では田鼠の撲滅策として、久しい前からチブス菌を撒布することが奨勵せられた。是は自然の結果、鼠の一族を殲滅して、打棄てゝ置けば化して土地の肥分ともなるであらうが、其筆法で町屋の鼠を始末するのは、看過すべからざる不始末である。之を考へること無くしては殺鼠劑驅鼠藥を賣る者は、物賣りとしては怜悧であつたかも知れぬが、少なくとも憂國の志士では無かつた。

　白晝に銀座の横町などを歩いて居て、大きな鼠の走るのを見ることが、近年は次第に多くなつた。彼等が太古の土の中の安全な生活に、復歸して行く傾向は著しい。之に比べると人間は舊弊なもので、折角の鼠捕り器械と藥品、もしくは持つて來い引取らうといふ警察令が出て居るにも拘らず、今尚鼠を殺すと埃溜めの中へ、持つて行くだけの改良法も採用せず、依然として百年以前の舊樣式を墨守し、之を表通りの街路の上にはふり出して、車の輪の蹂躙に委ねて居る。

　教育といふものは机腰掛の中間に、子供を押込まなければ不能なるものゝ如く、考へたのは誤りであつた。單なる模倣を以て、何人からともなく斯樣に無意味なる前代の斃鼠處理法を、多數の東京人は學んで居たのである。此方法たるや、曾て帝都の青空の中に、無數の鳶が輪を描いて居た時代の遺物である。三馬の浮世風呂がもてはやされた世の中には、江戸はまだ一本の電線も無かつた故に、京橋の鳶は能く小僧の揚豆腐さへも、さらつて行くことがあつたのである。今日では如何に勇敢なる晝鳶でも、又如何にうまさうな無毒の鼠が落ちて居ても、この無數の針金の間を(161)くぐつて、之を拾ひに町に降るやつがあらうか。それを一考して見ずに、鼠は町へ捨てるものだと今以て心得て居る。實に驚き入つた傳統主義では無いか。

　第一にちよつと周圖を見まはしても鳶など一羽も鳴いて居ないでは無いか。廣重の世を過ぎて猶三四十年の間は、京橋築地邊の河岸近くにも、材木屋があり竹屋があり、其材木のてつぺんなどには、鳶が羽を休め目を光らして居た。下品な鳶だと人が輕蔑して居たのは、形ばかり鷹のやうに堂々として居ながら、腐つたきたない食物をも念掛けて、齷齪《あくせく》として之を拾つてあるく爲であつた。今となつては其好意は尊いものに感ぜられる。御城や山内の樅檜は、亭々として千年の緑を湛へて居るけれども、曾て此間に靜かなる居を構へて、首府の掃除役を一手に引受けて居た彼等は、知らぬ間に何れへか追ひ拂はれ、彼等の活動を必要とした事情ばかり、却つて以前よりも更に痛切を加へたのである。進歩と名づけられる人類生存方法の變更には、?々此の如き省察の不十分、又同情の缺乏を伴うて居た。之を十分に考へて見ぬ以上は、今の所謂生活改良も要するに手前勝手である。

　

(162)　　　　　村の鳥

　

　巣箱を始めて見たのは、大正六年に、青島へ遊びに行つた時であつた。あそこの公園は東海に面して、鳥の澤山來さうな靜かな小山であつた。それへ獨逸が色々の山の樹を、日本から取寄せて植ゑて居る。巣箱は無くとも巣をかけるにちがひないと思ふやうな處だつた。しかも巣箱を斯ういふ場所に設けて置けば、なほ一段と確かであらうと思つたが、今考へるとそれは誤りであつたやうだ。巣箱を引掛けて置いて、それを忘れてしまふといふことが、實は容易なことで無いからである。

　鳥には斯うして人間が始終氣を付けて居るといふことが、可なり有難くないことらしい。だから木の香や刃物の香が新しいうちは、人の家だと思ふから、覗いて見ようともしない。一向平氣なのは雀ぐらゐなものである。私は支那から歸つてから、早速巣箱の話を内田博士などから聽き、又之を實行し且つ友だちにも勸めたが、庭が小さい爲か暫らくは皆空家であつた。

　一人の友人は田舍に居て庭が廣いので、何でも十ばかりも備へ付けたらしいが、雀ばかり入りやがると舌打ちをして居た。或る時は何だか變だと思つて、後の戸を開いて見たら、熊ん蜂が巣をくつてゐた。あぶなく刺される處だつたといふ。私は構はずほつたらかして置くに限ると思つた。

　さうして自分の家の巣箱だけは、曲つても直さぬ位にして置いたところが、果していつの間にか鳥が入り込み、しかもとつくの昔に立つてしまつて、もう其巣が腐れかゝつて居た。偶然にそれを子供が見出したのだが、雀ではどう(163)も無いやうだ。頬白は斯ういふ穴住居はしないし、四十雀ならよく來るが、どうも小さい頃見た四十雀の巣ともちがふ。鶯にしては笹の葉が少しも使つて無い。やつぱり雀かなアといふやうな次第で、大よそ家主も先づ是くらゐ無頓着であつたら、借家人も居心持がよからうと、内心すこぶる得意であつたが、よく考へて見ると、それでは何も巣箱などを、持つて來てぶら下げて置く必要も無いわけであつた。

　この砧村へ移住して來た際にも、私は一應巣箱の問題を考へて見た。鳥が十和田湖の姫鱒のやうに、必ず放流せられた濱に戻つて來るものなら、何でもかでも此庭に巣を掛ける仕組みをしなければならぬ。しかし鳥の故郷といふものは、相應な廣い區域であるらしい上に、少し物騷なら中途からでも立退いてしまふのだ。私たちの見たいのは小鳥が小枝を運んだり、雛に通つて來たりするしをらしい擧動なのだが、それが斯ういふ風では眺めて居ることが出來ぬのみならず、第一に箱の巣は眞四角で、我々が見たいと思つて居る小鳥の巣とはちがふ。是はどうでも鳥が宿無しになつて、家が持てなくつて困るといふ場合に、彼等の爲に企てゝやるべきことで、自分の樂しみにはならぬものと考へて、今以て巣箱は掛けずに居る。

　但し雀だけは又別な取扱ひをしなければならぬと思つた。彼等が斯う殖えるのはよいことか惡いことかは別として、住居に困つて居るだけは確かである。御互ひの家が出來たら、次には雀の家のことも考へてやらねばならぬ。此邊の雀は勝手がちがふ爲か、時には實に無法な巣の作り方をする。雨樋の受口に藁などを運んで來て、雨が降るたびに直ぐに流れる。煙突の上に巣を掛けて煙がよく詰まり、ボイラーを焚いて見ると、落ちて燒け死んで居たといふことも二度や三度ではない。全く此節の新築には、軒にも庇にも寄寓の場所が無いから、斯んなことをするのだと思つた。それで最初に先づ鳩の箱の半分はどなものを、東側の壁の上へずらりと並べて打附けてやつた。是は今でも利用し、又雀以外のものは利用して居ないやうである。

　次に燕も亦年々苦勞をして居るらしい。此村には燕は來ぬのかと思つて居ると、來ないのではなく高い空はよく飛(164)んで居る。夕方に散歩をして見ると、作り芝の畠の上などを、蟲を追ひかけて何羽も飛びまはつて居る。雨あげくには眞直な新道を、低くどこ迄も走つて行くこともある。たゞ巣だけはかける便宜が無いから、どこの家を覗いて見てもかけて居らぬのである。全く此頃の建築は燕には不便だ。甲州あたりへ來る岩燕でも無いと、こんな新式の住宅地には入り込んで住めない。是は是非とも雀と同樣に、さうして成るべくは道に面した壁の上に、彼等の土の巣を載せる僅かな棚を作ることを、皆樣にも御願ひ申したい。

　此村が春の末から到る處、燕の兒のチチチチと啼く村になつたら、どの位またのんびりとした氣分になるか知れない。私は今に二三の友だちと相談して、この燕棚の普及運動にかゝりたいとも思つて居る。

　他の小鳥の巣箱でも同じことで、一戸や二戸でそんなものを支辨しても、鳥の社會は我々のやうな個人的のもので無いから、生活改良は行はれない。どこでも行く先々に巣箱があつて、入らうと思へば入れるやうになつてゐたら、そのうちに此地方の小鳥の習性も少しづゝは變り、高臺はやがて小鳥の村ともなるかも知れない。雀もほつたらかし燕にも門戸閉鎖で、彼等が既に林か崖の下に、巣をくふ小鳥に變化しなければならぬやうな　　状態で、單に小鳥の趣味から巣箱に珍客を招かうとしても、そんなことは私は知りませんと、小鳥の方で云ふかも知れない。

　小島の生活ぶりも、いつと無く大分變つて居る。巣の形なども地方によつて、可なりな違ひがあることは、私たちも實驗してゐる。此頃本になつて居る鳥の巣の寫眞などを見ても、鶯や四十雀のは私の見て居るのとは確かに異なつて居る。材料や場所の關係で、巣箱にも入らぬ前から、彼等はもうちがつた巣で我慢をしつけて居るのである。人間は何でもする。弱い從順な小鳥位の生活を、變へてやることが出來ぬわけは無い。たゞそれを自然と信じて、多くの人は變へられぬものと思つて居るのと、私たちは又餘りにも孤立的で、たつた一人で出來もせぬことを考へて居るから、むだをするのである。天然も實は人類が其管理者だ。是から多くの集合の力で、計畫してこれをもつと好いものに改めることにしなければならぬ。

(165)　しかし其案を立てる爲には、やはり私のやうな愚かな失敗も經驗である。今までして來たことは大抵は笑ふやうなしくじりのみであつた。たとへば或る季節には、暫らく小鳥がさつぱり來なくなつて寂しいことがある。多分食物の都合だらうと思つて、粟を買つて來て机の傍に置き、思ひ出すたびに庭に出てそちこちに撒いた。さうして見て居ると少年らしい雀が三四羽、さも面倒くささうに下りて來て之を拾つて居ると、直ぐに又何處かへ行つてしまふのである。

　斯んな無益な手數は、少し考へれば掛けずとも濟むことである。雜草の種子でも穀物でも、勝手に好みのものを選り食ひが出來るので、言はゞ小鳥は臺所をあちらへ移して居るのである。人家の庭園へ來るのはそんなものが少なくなつて、殊に繁殖の榮養の爲に、動物質の食餌を爰で探すので、僅かな穀粒などは當てにしては居ないのだ。是が飼鳥と自由な鳥との、最もはつきりした生活方法の差別であるが、そんな事すら知らずに私などは、只小鳥を愛して居たのである。

　目白は籠に飼はれると、熟柿などよりも却つて薯を好んで食ふ。私は子供の頃の一冬、兄にねだつて薩摩芋を一俵買つて貰つて、朝々其薯を一つづゝ火に燒いて、半分は目白に、半分は自分で食つて暮して居たことがある。目白の實家には勿論燒芋などは無い。だから氣樂に野で遊んで居る小鳥は、燒芋を遣るからと云つても附いて來ないのは當り前である。

　又この村へ來てからのことだが、春さき庭へ出て見ると芝の上に、眞赤な青木の實が飛んでもないところに轉がつて居る。近い處では宅地の北の隅の二三本、ちやうど出入口ではあるが、夜明けの靜かな時刻に、鵯がやつて來て啄むらしいのである。それが斯うして折々落ちて居るのを見ると、彼を招き寄せるには赤い木の實に限ると考へ出した。

　それから閑人なものだから、懸命になつて赤い實のなる木を集め始めた。青木ばかりでも能が無いと思ひ、又もう少し嘴の小さい小鳥も、此序に招き寄せてやれなどゝ、蟲のいゝことをたくらんで、大よそ實のなる木なら何でも栽(166)ゑようとした。植木にかけては無暗に慾が深いぢやないかと、云はれたのも此頃のことであつた。たつた二冬の經驗だから確かで無いが、同じ我々の眼には赤いといふだけの樹の實でも、鳥の好みは色々であり、又鳥によつてそれ／”＼の趣味があるらしい。もつと澤山に栽ゑ比べて見なければ、目的に合はぬやうに思つていよ／＼慾を深くして居る。

　たとへば莢?《がまずみ》などはいゝ色だが、何處で注意して見てもつびぞ是にたかつて居る小鳥を見ない。南天の實には鵯は花鳥の畫では附き物だが、うちの南天などは曾て省みられたことが無い。梅モドキの實だけはたしかに人望がある。三四年前に庭に一本の小さいのを栽ゑると、早その實をくはへて方々に落して歩く鳥がある。こいつを利用してやれと思つて方々から買ひ集めた。

　牛込の舊宅の隅に、篠竹の中にまじつて一本の梅モドキがあつた。暫らく氣付かぬうちに大きくはなつたが、竹に押されてひよろひよろと一方へかしいだ、をかしな枝ぶりの樹になつてしまつた。それを持つて來て庭の正面に栽ゑたものである。恰好はなる程よく無いが、ちやうどいゝぢやないか、あの横つちよの枝に鵯が來てとまつて、赤い實に戀々としてゐる樣子を見るにはと云つて、頗る熱心な氣構へで冬の來るのを待つてゐた。

　ところが滑稽な經驗といふのは、折角今年はよく附いたと思ふ梅モドキの實が、僅かな間にめつきり少なくなつて居る。或る朝早天にふと氣がつくと、窓の外に何やらばさり／＼といふ音がする。それが鵯鳥どのゝ朝飯時であつた。少し小休みしては又枝移りをして、脇目もふらずに貪り食つて居るのである。さうしていかにも惡いことをしたやうに、晝間は遠くへ行つて居て影も見せない。鳥にはどうやら遠くへ出て食事をする習性のあるものがある。斯ういふのに出逢つては梅モドキもやはり客引きにはならない。

　それでわかつたのは、此近村の路傍の家に、此木の美しく實のつたのに、破れ傘を覆うて居るのがあつた。をかしな事をすると思つたが、斯うしないと木は二朝か三朝で坊主になつてしまふのであつた。東京の町内の三十坪か五十坪の小庭に、栽ゑてこそ梅モドキは風情を愛し得られる。たま／＼紛れ込んだ鳥があつても、きよと／＼と人に畏れ(167)て窓を覗き、ほんの二粒か三粒かを取つて食ふと、ぴいと啼いて飛んで行つてしまふので、さういふ處に又此木の面白味があつたのだ。梅モドキは要するに市中の愛玩用で、斯んな廣々とした村の庭に植ゑて置いて、赤い實に日のあたる美しさを眺めよう、鳥も呼び寄せて樂しまうなどゝいふ、蟲のよいことを考へたのが誤りだつた。

　この村の身上は、何といつても高い數十本の雌松雄松である。やがて是も減つて行くことだらうが、今はとにかく亭々として茂り榮え、又この五六年に可なり大きくもなつた。私の家などは自分の地面には一本も無くて、落葉を掃く手數が無く、しかもどの窓を開けても正面に松があり、晴れた日ならばその木々に日が當つて居る。さうしてこの樹の上で鳴く鳥は、庭へ下りて來る場合とちがつて、全く自分の在所のやうな顔をして、いつ迄も同じ處で遊んで居るのである。御蔭で我々は色々の鳥の歌を覺え、又遠くからだが其擧動や姿勢を見た。春の末にはエナガが來る、コガラが來る。秋も暮れんとする頃には、以前は野外に出てしか聽かなかつたカハラヒワの群が、終日ギイキリキリと啼いて遊び、時にはその透きとほつた羽根が日に照らされて見える。椋鳥とか雲雀とかいふ地面を戀しがる鳥は、もう段々退去したが、松のある爲に枝移りをして、意外な野鳥までがめい／＼の庭へ入つて來る。是を迎へるやうな新しい設備は、烏を愛する人々の合同によつてゞ無いと實現されない。それには又案もあるのだが、餘り一人で飛びまはるのも百舌鳥のやうでいけない。百舌鳥は私なども實は嫌ひだ。

　

(168)　　　　　六月の鳥

　

　雲雀は飛行機にはさまで苦しめられないが、いはゆる文化住宅には事の外閉口して居るらしい。この邊の新築は、去年までの麥畠を乘り取つたものが多く、さうして白く青く絶えず光つて、彼等を寄せ付けまいとして居るやうに見えるからである。渡り鳥なら二度と再び、斯んな處に來るものかと、どこへでも引越してしまふだらうが、雲雀だけは餘りにも巣立つた土地をよく覺えて居る。それで同じあたりに又自分の兒を育てゝ、毎日其巣の見える空ばかりで、啼いて居ようといふのだから氣ぜはしない。此夏も方々に大工の音がする。止めたり立ち退いたり、子無しで暮らしてしまふ雲雀も多いのでは無いかと思ふ。三四年前までは此屋根のほゞ眞上で、終日啼いて居るやうな日も時折はあつたが、近頃は二階の南の小窓をあけて、目をさまして寢て居る明け方などに、斜めに遠くから其聲が入つて來るだけになつた。日中は賑やかな雀の鳴きに紛れてしまふ。少し横日になると杖を携へて、一人で雲雀を聽きに出て見ることもあるが、岡の端まで行くと下は一帶の水田で、其向ふには又隣村の同類が啼いて居る。こちらの雲雀は段々に狹くなる畠に我慢して、どうにか昔通りの生活を續けようとするらしいのである。

　行々子は最初から、人の來ぬやうな不毛の地に據つて、孤立の平和を保たうとする樣子が見える。同じ岡つゞきの僅かな澤に、水がじめ／＼として周圍は杉、中は一面に蘆より外の草の生えないやうな土地がある。獵友倶樂部が其片端を使つて、夏分の射撃の練習場にして居る。靜かな番人の親子が野鴨の子などを飼つて居る。そこ迄出かけぬと此鳥は聽くことが出來ない。通例五月のなかば、此蘆の芽のまだ若々しい頃に往つて見ると、只あちこちと雀などの(169)やうに飛びまはつて、一向身を入れて囀らうといふ樣子が無い。それが月を越え蘆のたけが伸びて、葉ずれの音がさらさら／＼とするやうになると、恰かも其音を威壓するかの如き調子で、巣を持つ限りの葦切がかはる／”＼鳴き立てるのである。ケケシや行々子といふ名も面白いが、ヨシキリといふ語もよく觀察してある。何だつて此樣に高い聲を出すのか。人に聽かせるならもつと出て來てもよいに、自分は斯んな谷陰の蘆の中に隱れて、しかも悠揚とした擧動で澄まし込んで啼いて居る。雲雀とは竪横の差はあるが、是もやつぱり遠くで聽くやうに出來て居る鳥であつた。殊に月のある夕方などに、一望限りも無い村の外の蘆原で、永い一日がゝりでもまだ啼き切れなかつたやうに、さも物々しく啼いてゐるのを聽いて、昔の人たちが空想を描いたのも、私だけには理由があるやうに思へる。どこの田舍へ行つても行々子には昔話がある。首を切られた下郎の魂が此鳥になつて、いつ迄も同じ最後の惡口雜言を、くりかへして居るやうに傳へられるのは、滑稽なやうだが考へて見ると淋しい。

　燕は此あたりでは宿をして居る家がどこにも無い。農家も折々は氣を付けて見るが、燕が土を持つて出入りする樣子は見かけない。それで居て空の晴れた午後には、高いところを冴えた聲で、元氣よく飛んで行く姿を見ることもあれば、時には芝作りの廣い畠地の上を、羽蟲を求めていつ迄も飛びかはして居ることもある。往來には人と同じ樣に、道路を利用する癖がまだ殘つて居る。自動車が通つたばかりの後の土埃の中を、さも用ありげに走つて行く影を時々見る。現在の住居は寺の堂か、御宮の軒の下などに限られて居るかと思ふが、是だけでは追々に來なくなるだらう。巣箱を設ける位な人は此鳥の爲に、今の内に壁へ板でも出しかけて、少しは親切を示してやつてもよいと思ふ。

　電線は此頃では燕はとまらず、たゞ頬白ばかりが利用して居る。大きな松の木などもあるのに、わざ／＼窓に近い針金の上にとまつて、時々は一時間も囀りつゞけて居ることがある。多分は遠くの見える處を好むからであらうが、我々には何か人間に親しみたい風に見える。此鳥くらゐ物おぢをせぬ快活な鳥は無いと言つた人があるが、成ほど冬のさ中にも里から遠くへは去らず、いつも路傍の叢の上ばかりを飛んで居る。アヲジも遁げない鳥で、「婆たらし」な(170)どの異名があるが、是は聲も羽の色も共にじみで、おまけに此邊では妻問ひの季節になつても、高い枝に飛び上つて囀らうとしない。之に反して畫眉鳥の雄ばかりは、家庭を女に任せていつでも歌つて居る。さうして巣のある處から、可なり遠くまで出てあるくやうである。

　私は此節朝早く目があくので、改めて雀の言葉を調べてみょうとして居る。それには此季節が一番都合がよく、冬はただ一群の村雀となつてしまふものが、今は明らかに老若男女の區別を立て、其間の交渉が最も複雜になつて居る。僅かばかり庭をひろげてまだ家も建てず、やたらに木を栽ゑたら蟲を多く生じて、雀には都合のよい樂園となつた。子を養ふ爲には滋養物が入用な爲か、又は氣にいつた動物質の食料が夏は豐富だからか、粟を撒いて遣つても嬉しさうな聲は聽かない。ただ兒雀が嘴の練習のやうに、時々覺束なく拾ひに來るだけである。それを又親鳥が周りに來て、世話を燒くことは人間以上である。さうかと思ふと一方では、近くの屋根さきや木の上で、二番子三番子の談合をして居る者も幾組かある。或は仲間で爭ひをして、はしたなく罵り合ひ、そこへ何かゞ來るとそら來たと遁げて行く等、彼等の個性と表情は、目下最大限度にまで展開せられて居る。しかも夜のしら／”＼と明けて、爽かな微風が緑の葉を搖がす時刻だけはどれも是も約半時ほどの間、同じやうな緩い調子で同じ一つの音を上下して居る。それを聽いて居ると人間のもう忘れてしまつた獨り言、即ち「今日もまだ生きて居る」といふ自我の意識を、自ら問ひ自ら答へる習慣が、ちやうど我々のラヂオ體操のやうに、まだ雀たちの間には行はれて居るといふことが考へられる。

　

(171)　　　　　須走から

　

　裾野の會から還つて來たら、何だか急にうちのまはりの鳥の聲が、多く新しくなつた樣な氣がする。次の早朝例の通り窓をあけて寢て居ると、先づカハセミが小さな外庭を啼いて通つた。此丘の兩側に在る若蘆の原まで、出かけて聽くことにして居たオホヨシキリが、僅かな間だが地堺の欅の樹に來て啼いた。あれがクロツグミだと教へてもらつた鳥が、あたかも復習をしてくれるかの如く、路の突當りの大きな赤松の上で、丁寧に何度も何度も囀つて居る。それよりももつと有難いと思ふのは、永年問題になつて居た私の時鳥が確定したこと、次には又七八年も前から、初夏の夕方には時々家のまはりで鳴くのを、雨蛙の一種かなどゝ思つて居たのが、ヨタカといふ鳥の聲だとわかつたことである。是も日數がたつと又ぼんやりとしてしまふのだが、幸ひに早速次の晩は遣つて來て、いよ／＼まちがひの無い、御手本通りの啼きを聽かせてくれた。年を取つても教育の機會は案外有るものだ。全體に今までは聽き樣も粗末であつたやうに思ふ。私の家ではつい一月ほど前に、小さな餌箱を樹の蔭に置いて、粟を一ぱい入れて小鳥を誘うて見たが、雀は此季節にはあまり穀食をせぬらしく、他の鳥も最初は一向に顧みない樣子であつた。それが旅から還つて見るとすつかりからになつて居る。御客はどうやら鶸《ひは》類が多いらしい。彼等の啼聲が以前空を飛び、又は喬《たか》い木の枝に休んで、仲間を待ち合せる際に發して居た聲と、此頃は大分ちがつた囀りを交へるやうになつた。或は家庭生活が始まつたか、又は複雜になつた爲かも知らぬが、とにかく囀るといつてよい位に、啼き方が悠長に又面白さうになつた。さうして一つ處に翼を休めて、いつまでも啼いて居るやうになつたのは、食物の安心からであらうと思ふ。富士(172)でもさういふ風に啼いて居たよと、謂つてやりたい樣な場合が毎度ある。私は少年の頃に、マヒワのよく馴れたのを一年ほど飼つて居たことがある。カハラヒワの方は群れて飛んであるくのを見て居たゞけで、その大小の二種を聽き分けることは出來ないが、此頃こゝへ來るのはずつと小さいから、多分は須走で出逢つたコカハラヒワの方であらうと思ふ。それとマヒワとが餌箱以來盛んにこの小庭へ遊びに來て、絶えず裾野の一日を、記念させてくれるのである。

　今度の旅行には、精良な筆と繪具とを携へて、行かれた人が幾人もある。あの神秘に近い林の底の淺緑、雨に濕つた火山の黒土を、飾り立てゝ居る色々の卵の寶玉などは、是は既に散文の領域で無い。私たちの役割に殘されたものは何が有るかと思ふやうだが、幸ひに因縁があつたからコカハラヒワの一些事を記録して置かう。須走の村の片端に、くぬぎか何かの大木が路を蔽うて居て、その高い梢の三つ叉に、サンショウクヒが巣を掛けて居た。それを見に行つてやゝ暫らく頸をそらし、色々評定をしてさて歸つて來ようとすると、路ばたの人立ちの中から、杖をついた婆樣が一人出て來る。此木にも何か巣が有るやうだと言つて、自分の家の出入口の、二丈餘りの杉の茂つた枝を指さす。高田の昂さんがまるで若い者のやうに、靴をぬいで早速登つて行くと、だまつて一羽の小鳥が東の方へ飛出して行く。それがコカハラヒワであつたのである。雛は昨日あたり孵つたかと思はれるのが四つ居たといふ。あれから半月以上にもなるから、もう又大分成長したことであらう。ところがこの婆さんは子無しであつた。家も建てかへたと見えて、大きな屋敷にやゝ不似合な、假普請のやうな小屋になつて居る。夫婦養子をしたが夫婦とも出稼ぎに行つてしまつた。さうしてたゞ一人、枚をつき藁草履をはいて、コカハラヒワの巣の下を出たり入つたりして居るのである。裾野の林は廣く、佳心地のよささうな緑の樹は多い。それにわざ／＼村の中の、こんな小さな家の小さな木の枝に來て子を育てるのは、どういふ心持であるか私にはよくわからない。果して食物がこの近くなら得やすい爲か。それとも寂しさうな婆さんが一人で居るから、往つて少しばかり啼いてやらうといふ好意でもあるのか。うちのコカハラヒワに尋ねて見たいやうな氣がする。

　

(173)　　　　　雀をクラといふこと

　

　　　　　　　　　　一

　

　雀をスヾメと呼ぶのは古來の日本語で、それと異なるものは即ち皆方言と考へられて居るらしいが、比較によつて其速斷の誤りであつたことが知れる。

　現在のところでは日本海地方の一部、即ち石川富山の二縣と、越後の海上の粟島などに限られて居るが、以前は日本の弘い區域にわたつて、スヾメは一般に今いふ小鳥の總稱であつたらしい。トリといふ語は本來食用の鳥類、主として雉子のことであつた。それ故に今でも鷄をトリと謂ひ、又ニハトリとも謂ふのである。漢字では寧ろ禽といふ方が當つて居る。ウヲといふ語も是と同樣に、食用に供せられぬ丁班魚（メダカ）などには及ばなかつた。それがコトリと小の字を添へて、弘く雀の類を總括する迄には、若干の新しい推理を必要とする。だから小鳥に又別の名があつても不思議では無いのである。

　文獻に現はれたスヾメといふ語とても、果して最初から今のスヾメを意味して居たかどうか、まだ必ずしも確實で無い。是は雀といふ漢字も亦同樣である。スヾメを弘く小鳥の意味に使つた痕跡は、氣を付けて見ると方々に遺つて居る。例へば東京などでもスヾメカゴといへば小さな鳥籠のことで、時々は雀も入れる迄であるが、コトリカゴといふ語が出來て居る爲に、此方は特に粗末なものだけをさういふ樣になつた。しかし能登や越中の村々では、總ての小(174)鳥籠をスヾメカゴと謂つて、他の名前はまだ無いのである。それから尚多くの府縣を見渡しても、今日の所謂スヾメの爲に、特に接頭語を副へて他の小鳥と區別することを必要としたらしい形跡は幾らもある。その著しい例を拾つて見るならば、

　　マスヾメ　　　　　　　　石川縣河北・石川郡等

　　マスヾメ　　　　　　　　千葉縣望陀

　　マスヾメ　　　　　　　　神奈川縣戸塚邊

　　マスヾ　　　　　　　　　茨城縣那珂・行方郡

　是はマトリといへば鷲であり、マキといへば羅漢松、若しくは土地によつては薪のことを意味すると同樣に、つまりは最もよく知られて居る一種のスヾメといふことで、やがては又單にスヾメとだけ謂つても、此小鳥を指すやうになつて來た路筋を示すものである。

　日本鳥學會で編輯した「狩獵鳥類方言」の中には、此類の方言の十數種が載せられてある。それを一々茲に引くのは無益だが、

　　サトスヾメ　　　　　　　秋田縣仙北郡

　　ノスヾメ　　　　　　　　千葉縣海上郡

　　シバスヾメ、ニハスヾメ　同　　香取郡

　　イヘスヾメ　　　　　　　愛媛縣北宇和郡

　　ノキスヾメ　　　　　　　同　　宇摩郡

の類は、特に此小鳥が農村と交渉多く、從つて其名がマスヾメともなり、又只のスヾメともなつた事情を語るやうに思ふ。

(175)　此中で軒、千葉縣は取分け雀と親しみを持つ人が多く住んで居たと見えて（是には必ず理由があることゝ思ふ）、まだ色々の方言が行はれて居り、それが又或る程度まで、遠く離れた當山縣などゝ似て居る。例へば上總から北へ、利根川を渡つて茨城縣の一部まで、雀をノキバと謂ふ村が澤山ある。是は疑ひもなく軒端スヾメの省略であつて、他には紛れる語が無い故に、暫らく言ひ馴れて後に、後を切つて簡單にしたものである。ところが北國の方でも婦負《ねひ》・射水の二郡の境では、雀をノキバノヲバサンなどゝ謂ふ處があるのである。毎日々々家の軒に來てとまつて、口やかましく囀るところから、子供や女たちがいつの間にか、戯れに名を付けることになつたのだらうが、これはさう古くからの事では無からうと思つて居る。

　雀だけでは無いが富山といふ縣は、妙に一つの動植物に色々の方言を付與する風がある。勿論一人又は一家一村で、その多くの名詞をかはる／”＼使用して居るのではなく、單に隣同士の部落が、別々の言葉を持つて居るといふだけであらうが、それは要するに弘い地域に亙つて、一つの用語が確定する以前から、即ちスヾメといふ語に一致するより前から、この一種のスヾメに何か特別の名前を與へたいといふ人たちが、僅かな仲間限りで色々と呼んで見た結果であつて、むつかしく言ふならば言語の發達に比べて、住民の心の働きばかりが、一足前へ進んで居たといふことになるのかも知れぬ。

　沖繩縣などは離れ島が多いから、やはり斯ういふ標準語の缺乏から、地方限りの新語を多く作つて居るのも自然だが、内地の方でも處々に孤立して、斯うした現象を呈するのは注意すべきことである。富山縣に就いては田村榮太郎君が、興味を以て多くの實例を集めてくれた。それを試みに自分の考へで整理して見ると、大體三通りか四通りの命名動機が、入り交つて働いて居るやうに思はれる。其一つは雀の服装から出た名前で、高岡市のバンドリスヾメがそれである。バンドリとは藁で製した一種の蓑のことで、雀の毛の色とむく／＼した樣子とが、恰かもバンドリを着て居るやうに見えたからさう謂ふと考へられて居る。是から轉じてはバンチクといふ村もあり、伏木の港に行くと普通(176)にはバンチャと謂つて居るが、チクとかチャとかは多分啼聲に基いたあだ名の如きものであらう。次には此縣の氷見郡から、能登半島にかけてポットスヾメといふ小兒語がある。自分の推測では、是も同じ樣な觀察から出た語で、蓑でも着たやうな丸くなつた姿が、特に他のスヾメ（小鳥）と違つて居た故に、之をポットスヾメと呼んだものと思ふ。是と聯想するのは神奈川縣の三浦郡などで、今でも雀をフクラと謂ふことである。フクラスヾメの語は既に謠曲の放下僧の歌にも見えて居り、普通には冬の雀がまん丸くふくれて居る故に、此名が出來たものと考へられて居るのである。併し單語の新作は隨分複雜な心の働きであるから、必ずしもたつた一つの事由から、始まつたものと斷定することは出來ない。殊に幾つとない異稱が周圍の地に行はれ、どれか其中の一つを採用しようといふ場合には、暗々裡に其選擇を左右した微細の力があつたことは確かだが、自分の觀た所では言語には變化の痕跡があつて、今あるものに就いてその元の力の何であつたかを、或る程度迄は推測することが出來るやうである。例へば右にいふフクラスヾメの如き、是が人望あり從つて永く殘つた理由は、單に他の小鳥の形の引締まつて居るに比べて、雀ばかりが蓑でも着たやうに丸くふくれて居る特徴を、適切に形容したからといふだけに止らず、別に又口の脇が黒いから（一）、及びクラといふ名前が昔あつたから（二）といふ事情も、手傳つて居ることは明らかであるのみならず、始めて此名が出來た時、此名を付けた人の心持は、必ずしも今之を使用する人々の想像して居るものと、同じであつたかどうかも確かでは無いのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　方言は却つて何れとも解し得るやうな種類のものが、久しく保存せられるに好都合であつたのかも知れない。今一つの例をいへばバンチクとバンチャは、明らかにバンドリスヾメの變化であり、其バンドリは雀のことであつたが、是が行はれるには他の一方に於て、同じ當山縣の北の方の境に近く、バヽスヾメ或は訛つてバワスヾムなどの語が流(177)行して居たことが、間接に聲援して居たものとも考へられる。

　或はこの反對の側から、バンチャなどゝいふ語が既にあつた爲に、婆雀などの名が新たに出來易かつたとも考へ得るが、後者に就いても別に前に擧げたノキバノヲバサンなどの例があつて、決して他の一方から誤り轉じたもので無いことだけは確かであり、言はゞ二つの根原から、斯んな語音の採用が有力に支援せられたのである。あまり話が長くならぬ樣に、表に由つて互ひに縁のありさうな語を比較して見ると、

　　バンドリスヾメ　　　　　越中高岡

　　バンチャ　　　　　　　　同　伏木

　　バンチク　　　　　　　　同　氷見其他

　　バヾスヾメ　　　　　　　同　下新川郡

　　ノキバノヲバサン　　　　同　婦負・射水郡一部

　　オハグロスヾメ　　　　　同　婦負郡以東

　　クチグロ　　　　　　　　同　富山市

　　ヘソクロ　　　　　　　　下總結城下館

　　ヘソクロ（ヌキバ）　　　上總夷隅都

　　イヂクロ、イヂワル　　　同　　上

　　フクロ　　　　　　　　　下總匝瑳郡

　　フクラ　　　　　　　　　相模三浦郡

　即ち最後のフクラ、フクロの如きも、斯うして竝べて見て始めて頬黒の意味であるかの想像も起るので、それが又他の類似の系統を立てると、必ずしも最初からの理由であつたとも速斷が出來なくなる。將來沖繩縣の人たちが、其(178)學問を携へて大いに遠征しなければならぬ所以である。

　以上列記した雀の方言の中で、殊に單獨では何のことか解らぬものは、東上總のイヂクロとイヂワルであるが、それは多分此小鳥が、人前も構はず口喧ましく囀りかはすからで、黒いといふことが元來感心せぬ形容であつたところから、一段とその誇張を促したものであらう。バンチャ・バンチクも人柄のよい老刀自たちには氣のどくな話だが、つまりは女性の中でも一番遠慮なしに、よく物をいふ人だといふ心持が、其流行を助けたといふ點は、雙方同一の傾向といつてよい。富山縣でも南部の出町附近では、クソスヾメといふ名さへ行はれて居る。そんなに迄馬鹿にせずともよからうにと、雀を見るたびに私は笑止に感ずる。

　それから之に伴なうて先づ思ひ浮ぶことは、雀の特徴を口達者といふ點に見出さうとしたのは、決して内地の一部分のみではなかつたといふことである。九州以南でも所謂道の島々では、

　　ユムンドゥリ、ユムンドゥラ等　　　大島

　　ユンドゥラ、ユンドゥリ等　　　　　�ｺ之島

　　ユンドゥリヤ、イロドゥラア等　　　喜界島

　　ユムドゥイ等　　　　　　　　　　　沖永良部島

　其他之に似通うた方言が分布して居る。久高の島でもクラグワの他に亦ユムルヤー、名瀬では又ヨメンドリとも謂ふ人があるさうであるが、その起原は正しく「讀む鳥」、即ち「口の達者な鳥」に出たものである。ヨムといふ日本語は、漢字でいへば讀よりも誦の方に當つて居た。聽く人に聞かせる爲に聲を揚げて、會話以外の調子を以て述べ立てることであつた。輕蔑の心持は無いまでも、此點を普通で無いものと見ただけは確かである。前にもいふ如く、小鳥をトリと謂ひ始めたのは古いことで無いから、是はクラよりも後の改稱であらうが、兎に角に以前の島々の社會に於て、ヨムを以て職業にした人が何であつたかを考へたら、雀を婆樣と謂つた地方の人の心持も、さう意外では無いと(179)共に、他の一方にはそれが決して此頃になつて、僅かな人の機智考案に由つたもので無いことも、迫々にわかつて來るわけである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　其證據として第二段に述べて見たいのは、雀又は小鳥全體をクラと呼んで居た名殘かとも認められるイタクラといふ一種の方言である。私が始めて此一語を發見したのは、森彦太郎君の南紀土俗資料であつた。和歌山縣の日高郡、殊に山路《さんぢ》と稱する山中の村々では、スヾメと謂へば我々のホヽジロ（畫眉鳥）のことで、鶯をホケジロと謂ひ、雀は即ちイタクラと呼んで居た。それが後に氣を付けて見ると、此名稱は決して或る山奧だけで突發したもので無いことがわかつた。例へば、

　　イタクロ　　　　　　　　紀州海草郡

　　イタクラ　　　　　　　　同　西牟婁郡

　　イナグラ　　　　　　　　同　南牟婁郡相野谷

　　イタクラスヾメ　　　　　大和十津川等

　　イタックロ　　　　　　　同　吉野郡北山

　　イタクラ　　　　　　　　阿波祖谷山

　この終の祖谷山《いややま》は、美馬郡の土佐に接した山村で、偏卑な爲に却つて有名な土地であるが、こゝ迄行渡つて居るのを見ると、或は一度中間の平地にも、この語を使つた時代があつたのかも知れぬ。

　それから沖繩縣には居るかどうかは知らぬが、雀の一種にニフナイスヾメといふのがある。關東東北でワタリスヾメ、靜岡縣でタビスヾメ、近畿地方でセンバスヾメ、中國九州でホウライスヾメ、又はムレスヾメと謂ひ、言海には(180)支那で黄雀といふのがそれだとある。此方は頗ぺたに黒斑が無いから、ニフナイのニフは即ち是を意味するかと思つて居る。大和でも柳生地方、及び四國西部の東宇和郡の山村などは、此ニフナイのことをイタクラスヾメと謂つて居る。併し東京を始めとして、二種の雀の區別を知らぬ土地は多いから、一方のイタクラを誤りともいはれない。つまり相應に古くから、雀をイタクラといふ日本語は存在し、後々他の名稱に取つて代られて、稍々交通の不完全な山地にばかり元の名が殘つただけである。

　右の弘い地域に亙つたイタクラといふ方言を知つて、今一度考へて見たくなるのは東上總のイヂクロ、それから變化したかと思ふイヂワルといふ語である。人は折々古い物の名を保存しながら、其本意が少しく不明になると、いつと無く之を自分の知識の領分に引張り込んで解かうとする傾きがあつて、其爲には僅かづゝの語音變更は常に行はれて居る。雀のイタクラなども、或はその爲にイヂクロと謂ひかへられたのかも知れず、又其儘にして置いても、板倉稻倉に來て住む故に、斯んな名が出來たものかと思つて居る人が有らうかも知れぬが、もしさう思つて居るならば解釋だけの近代化である。

　自分の考へた所では、イタクラの名の起りは道の島のユムンドリと、全然同じ心持から出たものと見て差支が無い。奧州の田舍に今も多く住む盲目の巫女、土地によつてはゴゼと謂ひ、ワカと謂ひ、又はモリコともオカミサンともいふ者を、南部と津輕の各郡ではイタコといふ。澤山の物語を暗記して之を讀誦するのが本職である故に、或はアイヌ語のイタク（語る）といふ動詞から、成長した語とも考へられるが、足利時代の終頃までは、關東は勿論京都の周圍にさへ、稍々似た境遇に在る者でイタカと云ふ部曲があつたこと、それから推して行くと上代に於て板擧と書き、後々市女又は一の御子などゝ呼ばれた、神に仕へる一種の女性があつたのも、同じ系統のものらしく、或は我々の國語の方にも、今の琉球のユタなどを包括して、もとさういふ語が存在したやうに思はれる。

　此事はもう久しい以前に、人類學雜誌に詳しく述べて置いたが、現在でも自分の意見は變らず、又之に對しては別(181)に反對の説を表示した人もなかつた。乃ち之を雀の場合に當てゝいふと、イタカ又はイタコの如くよく物いふクラだからイタタラと、之を名づけた人が曾てあるといふことに歸着する。

　

　　　　　　　　　　四

　

　クラといふ名詞が、本來漢字の雀の如く、又北陸道のスヾメと同じく、少なくとも内地に於ては弘く色々の小鳥を總括して居たらしいことは、燕をツバクロ又はツバクラと謂ふだけでも一つの有力な證據であるが、紀州の串本では鶺鴒をチンチクロ、鹿兒島縣の一部では、雲雀をシヨクレ若しくはシヨクリといふとそれ／”＼の方言集に見えて居る。此三語ともに、前半は啼聲の形容であつたらうと思ふ。それから今一歩類推を進めるならば、シヾウカラ（四十雀）なども何れの辭書にも説明に困つて居るが、單にシジウと啼くクラといふ迄で、それによく似た五十雀・山雀・小雀、何れも雀の字をガラと訓んで居るのは、クラと原一つであると見て大抵誤りはあるまい。

　さうすると自分が前に列擧した今の雀の方言の、オハグロ・クチグロ・フクロ・ヘソクロといふ類も、假に口の脇の黒斑を見て、之に名づけたものとしても、既に斯ういふ下染のあつた以上、尚更覺え易く又學び易かつた道理である。

　そこで問題は既に一つの結論に到着した。私は最初から此程度以上に、沖繩の言語研究には干渉せぬ考へであつたが、只一つだけ豫め答へて置くべき小問題が殘つて居る。それは沖繩にクラがあつて、スヾメが如何して無いかといふことである。其答としては必要がなかつたと言つてもよし、流行しなかつたと言つてもよい。兎に角現在無いといふことは、必ずしも知らなかつた又は最初から無かつたといふ證據にはならぬと思ふ。

　此點は雀を他の小鳥と差別する爲に、ノキバスヾメとかオハグロスヾメとか呼んで居たものが、後に半分でも通用することが明らかになると、一方は單にノキバ又はオハグロと謂ひ、他の一方では弘くスヾメと謂つて居るのと、同(182)じ事情であらうと思ふ。クラは發生の時代がスヾメより古いか知らぬが、それを證明するには又別の方法が入用である。單に早く分立した南北の方言に、共通して居たといふのみを以て、さう推定するわけにも行くまいと思ふ。

　そこで更に進んでスヾメといふ名の起りを考へて見るに、是も啼き聲の形容に始まつたことは、大抵疑ひが無いやうである。千葉縣にも不思議な位雀の方言が多く、香取郡の或る村では、別に又ヂヤッチクラともいふと、香取郡誌の方言の部に見えて居り、それから利根川を渡つて茨城縣の東南部にも、同じ名前の行はれて居ることは、明治四十年七月の風俗畫報に見えて居る。自分はそれよりも亦二十年ほど前に、此大川の稍々上流の地に二年あまり居たが、確かに雀をヂヤッチと謂つて居たばかりで無く、それが如何にも適切な名のやうにも感じて居た。

　鳥の聲などは如何樣にも聽かれる上に、人が一たび名を付け聽き樣を定めてしまふと、後には却つて其方に引付けられることは、梟の方言の諸國それ／”＼に異なるのを見てもわかる。近代の都會の子供は、

　　　雀はちゆう／＼忠三郎

などゝ唱へて、大抵チュウと囁くことにして居るが、自分の生まれた播磨ではチュン／＼、福島縣以北ではチンチンと聽くのが普通で、其形容がやがては小兒の間に、雀の名詞として通用することにもなつたので、ヂヤッチクラは亦其一つの例といふ迄であつた。現に同じ香取郡の一部から、隣の匝瑳郡にかけて別に又ヂチリウ、若しくはヂチリといふ名もあつたことが、鳥學會の方言集には見えて居る。尚地方の之に似た例を擧げるならば、

　　チンチラ　　　　　　　　羽後田澤湖附近

　　チンチ　　　　　　　　　信州佐久・諏訪

　　チウスケ　　　　　　　　讃岐仲多度郡

　　チンチン　　　　　　　　肥前北松浦郡

　　ツンツン　　　　　　　　同　大島

(183)　　シユウメ　　　　　　　肥前五島三井樂

　　シユイメ　　　　　　　　同　上岐宿

　　シーナギ　　　　　　　　常陸稻敷郡

　　スズネメ　　　　　　　　同　久慈・多賀郡

などの如く、最初はたゞ小兒等の不完全なる形容の差異が、地方々々に偶然の變化を與へたので、其中の一つが夙く文獻の支援を受けて、標準語の地位を占め他を改訂する力を具へるに至つて、茲に始めて永く活きる言葉と、次々に變つて行く言葉との、二段の差別が生じたといふのみで、それだけではまだ古さ新しさの標準とするに足らず、一つの在る處には他の一つが無かつたといふ證據にもならぬかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　現に沖繩の各地に於ても、内地と共通に現在の啼き聲を以て、雀の名を作らうとしで居る傾向は見出される。私の知つて居る二三の例をいへば、

　　チョチョグワ　　　　　　國頭郡本部渡久地

　　チョチョイグワ　　　　　同　郡　名護

　　チョチョログワ　　　　　中頭郡中城

　　マンチョウジ　　　　　　平安座島

　　マシャガマ　　　　　　　宮古島平良

　此等も勿論あどけない者の所業であつて、それは本當の語では無いといふ人がまだ居るか知らぬが、其子供が親となり祖父母となる頃までには、實はどうなつて行くかわからぬといふ理由は、人が動物の最も顯著なる特徴を捉へて、(184)其名にしようといふ心持だけは、千年も二千年も一貫して聯かも變つて居らず、絶えては又起り何れこの邊のところばかりを、往つたり來たりして居るに違ひないからである。

　但しさういふ内にも聽方には古今の差が生ずる。チュウとかチンとか啼くものと思つて居る今の人々には、ヂヤッチクラやヂチリウといふ語が異樣に感じられると同じく、あの聲がスヾとは聽えさうにも無いといふことを疑ふ者は、もう再び之を以て雀を形容しようとはせぬであらう。此點は狗の聲?の聲を、異人種がどう聽くかといふことゝ比較して見ても解ることで、土地と時代には定まつた一つの耳の働きがあるから、之に依つて判別すれば自然に新舊の異同も明らかになつて來るのである。さうするとスヾメが今日の聽き方よりも一つ古いといふことが言へる如く、クラは又それよりも更に前のものだつたといふ推測も成立つかも知れぬ。

　クラが雀の啼聲から出た證據は、幸ひにして沖繩には殘つて居た。佐喜眞興英君の南島説話に、奧州北陸にも傳はつて居るところの炭燒長者の物語の一例を擧げて、雀が次のやうな歌を以て女房に未來の幸福を教へたといふ話を述べて居る。

　　　クル、クル

　　　くまねすだからん

　　　やんばる山かい

　　　炭やちぐらかい

　即ち南の島の昔話の雀は、つい此頃までもクルクルと啼いて居たので、それからクラといふ名前が始まつたといふことが知れるのである。

　内地の方でも此鳥のけたゝましく啼く時は、蛇が出たとか、大鳥が渡るとか、何か異常の場合であつた故に、之れを一種の占方の樣に考へる風は今も處々の田舍にあり、又或はあの囀りの言葉がもしわかるものならば、必ず意外の(185)智慧であつたらうといふ想像は、種々なる説話の上にも働いて居るのだが、クラが其根源をなすこと迄はもう記憶して居る者はなく、從つて別に新たなる聽き樣に基いて、スヾメ以後の多くの名を作つたのである。だからもし二三の内陸の山村に、偶然に此古風が保存せられて居ることを知らなかつたら、或はいつ迄もチェンバレン氏等と共に、南北言語の一致を看過することになつたかも測られぬので、此意味からいふと私の發見も相應に重大なものであつた。

　是に基いて尚考へて行くべきことは、同じ一つの民族でも時により處につれて、曾てクルクルと聽いた聲を、スズともチンチンともヂヤッチとも聽く位に、我々の形容は大ざつぱな又精確で無いものであつたのである。それは恐らく蓄音機の如く正しく傳へようといふよりも、寧ろ面白く又快く聽取らうといふ要求の方が強かつた爲で、言はゞ音響に對する人の趣味のやうなものゝ變遷であつたのでは無いか。雀に比べると親しみは遙かに少なかつたが、村の林に來た小鳥はさま／”＼で、到底其一つを以て代表させることは出來ぬ筈であるにも拘らず、現にクラでもスヾメでも、今尚總稱の如くに用ゐられる土地が多く、殊に我執の無い童兒の群に在つては、何度でも立戻つて斯ういふ不精確に甘んじようといふ風のあつたことは、畢竟する所單語は符號であり、相手の了解する限度に於て、寧ろ知功よりも簡易を尚んだ爲であつて、是が恐らくは譬へとか綽名とか諺とか稱する小さな文藝との、最もはつきりした一つの堺線であらうと思ふ。

　茲で其話をすると脱線かも知れぬが、物を面白く言はうとする人の心持と、成るべく手輕に用を辨じようとする念慮とは、多くの場合に於て相闘つて居る。ある一つの語を選んで其他のものを棄てることが必要ならば、此樣に次から次へ、新たなる語が起るわけは無いやうなものだが、實際は前にも多くの例を擧げた如く、いつの間にか土地々々の用語は變り、其中には確かに意外なる新作があつた。即ちたゞ交通の目的のみには、原形の保守は或は最上の便法であつても、人は一方に珍奇なるものを樂しみたいやうな餘裕があつて、機會のある毎に流行を容れたのである。別の言ひ現はし方を用ゐるならば、方言の起りは一種の技術であつた。從つて必ずしも外部から感化を受けずとも、時(186)の經過によつて昔あつたものを一變し、ちがつた言語と見える迄に、外形を改めてしまふかもしれない。さうして細かな比較考慮に由らなければ、其歴史は知ることがむつかしいのである。

　兎に角に我々には古語といふものは幾らもあるが、安心して最初の語と信じ得るものは一つも無いと思ふ。況んや古いから正しいとか善いとかいふに至つては、迷信以外の何物でも無いのである。イタクラ・ツバクラのクラが昔の人の聽き方であつたとすれば、スヾメやツバメのメも亦さうかも知れぬ。そんな聲には聽えさうにも無いといふときは、ツバメもスヾメも同樣であるが、此方は擬聲と解するより以外に、別の意見も無いらしいのである。斯うして二種の語が重複して存することは、一方の意味の既に不明となり、單なる符號として殘留することを示すもので、それを比べて行くと追々に發生の順序も明らかになるのであらう。今ではまだクラとメと何れが前、もしくは二地に別存して、抵觸相剋する機會が無かつたか否かを、確める便宜を得ないといふのみである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　最後に尚一つ言つて置きたいことは、人に親しい或る種の物の名が、是だけ移り改まる性質を持つて居るからは、現在の分布に由つて其音の領域を、狹く推定するのは危險だといふことである。

　例へば利根川流域の儘かな平野の方言が省みられなかつたら、雀にクラといふ語の内地にもあつたことは知つても、それが曾て日本人全般に通用して居たといふ想像は起らぬのみか、更に奇異なるイチクロといふ一語などは、至つて近世の誤謬として黙笑に付し去られたかも知れぬのである。言語の學問の甚だ振はなかつた原因は、結局採集の不完全が主たるものであつたとも考へられる。

　宮良君の南島採訪語彙稿を見ると、沖繩諸島にはクラ以下の前に掲げた三種の外に、尚先島の方面には少なくとも三通りの方言が注意せられて居る。黒島のフナドゥリは或はクラから出たものであらうが、其隣島の小濱と西表では、(187)カラヤヌトゥラマ又カラヤヌグックグワと謂つて居る。カラヤが若し瓦屋ならば、是は新しい發生である。其次には石垣の本島から南へかけて、

　　ミストゥンナ　　　　　　石垣

　　ミシドゥマ　　　　　　　新城

　　ミスドゥリ　　　　　　　波照間

などの例である。是は内地で鷦鷯をミソッチョ又はミソクグリと云ふと同じく、或は現在では味噌と聯想して、其由來を考へて見ようとする人もあるかも知れぬが、自分の推測ではやはりスヾメのメと一つ系統で、假に啼き聲から直接に出たと言はれぬ迄も、少なくとも小鳥をメといふことゝ關係があらうと思ふ。

　それから尚一つ第三の例としては、東では宮古島のパドゥイ又はパドゥー、西は與那國島のハドゥヤーがある。羽鳥の音であらうかと思はれるが、果して土地の人はどう考へて居るか。兎に角に富山縣の一部のバンドリスヾメと似通うて居るのは偶然ではあるまい。藁蓑の一種をバンドリといふことは、北は越後、南は美濃あたりに及んで居て、必ずしも越中だけの現象では無いが、其命名の理由はまだ不明であつた。或は?鼠《むさゝび》の一類にバンドリといふものがあつて、蓑を着た形が之と似て居るからとも見られるが、其獣を何故にさういふかは、やはり亦不明であつた。是は却つて雀を羽鳥といつた方が前であつて、それが蓑に行き?鼠に行つたものと、解した方が自然に聽えるのだが、現在の資料ばかりでは、まださう斷定するには少し早い。是が自分の南方諸島に於て、更に綿密なる方言調査の、進行せんことを希望する差當りの理由である。

　

(188)　　　　　談雀

　

　　　　　　　雀の郷里

　

　霜が深く田畠に食べ物が無くなると、雀が追々と村里へ歸つて來る。自分はまだ一羽の雀にも見覺えは無いが、是を歸つて來たといふのには相應な理由が有ると思つて居る。庭の餌箱に粟を入れて見て居ると、それを啄みに來る雀にはどう見ても二つの種類がある。一組はいつも群をなして集まり、大よそ飯時ともいふべきものがあるらしいに反して、一方には一羽か二羽、時々其あひまに來て食べて行かうとするのがある。この二つの組が落合ふと無論喧嘩になる。多分は雄かと思ふきつい雀があつて、そればかりが出て闘ふのだから數の問題では無い。他の大勢は聲援はおろか、見物すらもして居ないに拘らず、敗北するのは小さい組の者ときまつて居り、中には次の群の影を見ると、見切つてさつさと飛んで行くのもある。又此方が一段きよと／＼して居り、他の組は幾分か落着いて居るやうにも見えるが、是は或はさう思つて見るからかも知れぬ。しかし少なくとも私のこの小さな庭を、領分として住んでゐる雀と、よそに根據があつて何かの都合から、入つて來る雀とのあることだけはたしかである。

　この領分がはじめどうしてきまるかといふことは、問題にする必要も無いかと思ふが、私の見て居る所では、やはり巣立つた場所の周圍が、自然に其雀の郷里になることは、人間も同じことかと思はれる。普通は勝手な瓦の隙間な(189)どに巣を掛け、それが又竝んで居るので見究め難いが、私が自分の寢る室の窓の前に、柱のやうな木を一本栽ゑ、それに巣箱を引掛けて三囘ほど雛を孵させて見たところでは、子雀の時代にいつも此巣箱の附近へ、集まつて來る者がちやうど一腹の數ほどあつた。其中から次の家長が出るのか、或は又丸々別の夫婦が其巣へ來るのか。それが簡單にわかると面白いのだが、どうもまだ確かめる方法が無い。しかし少なくとも道路に接した木の上などから、物におびえて逃げて來るのを見て居ると、或ものは眞直に東の屋根の端に行き、又一部は西寄りの屋根を目がけて飛ぶ外に、此木の巣箱のまはりへ來て一休みした上で、行動をきめようとする者が又數羽はあるので、乃ち大きくなつてからも、又巣時でない群生活の時代にも、危險不安を感ずる毎に思はず知らず、寄り付く場所が彼等にあつて、それがどうやら生まれた家の附近らしいのである。だから雀に聽いて見ない以上確實なことも言へぬが、彼等の領土といふのは郷里のことで、其中にもめい／＼の生まれ在所があり、何か特別の事態が起らぬ限り、近所に住む雀どもは親類、又は同族であつたのだらうと思つて居る。

　

　　　　　　　雀の顔

　

　一期の子育てを終つてしまふと、雀の家庭は解散してしまふかどうかは常に問題になる。大きな群でばかり押廻はして居る樣子を見れば、あの中には小さな結合などは存立し得ないやうに思はれるが、それだけの事實ではまだ斷定は出來ない。群は何かといふと一時的に崩れて行くが、さういふ場合にもめつたに一羽きりにはならない。たゞ二羽三羽と最後まで提携するのが、毎囘同じか否かゞ突留められぬだけである。しかし私などが想像するやうに、いつも古巣の方角に向つて、先づ逃げて行かうとする習性が彼等にあるとすれば、やはり同じ巣に育つた者が利害は最も近く、共に暮らす時間も最も長いわけで、おのづから其中から配偶者もきまることゝ思ふ。一つの混亂のもとは落伍者(190)の多いことで、相手を失つた獨身の雀が、何とか身の振り方をつけようとしてうろ／＼とするのが、少なからず我々の觀察を誤らしめるが、それでも氣をつけて居ると色々の事實がわかつて來る。たとへば寒の中に、夜だけ巣箱に入つて寢る雀がある。さういふのは大抵は二羽づれで、たつた一羽といふものは無く、三羽以上といふのも見たことがない。京の深草の雀のお宿などでは、もうわかり切つて居ることなのかも知れぬが、斯ういふのが春になると、やがて其場處を家庭にしてしまふのではないかと思ふ。勿論はじめから子無しの夫婦として住んで居るのではあるまいが、近くに親しい異性があれば、それと縁を組む氣になるのはまあ自然であらう。子供の頃のことで覺えて居るのは、田舍で屋敷の隅に僅かな梨の棚があつた。どうしたわけでか其棚の一本の太い竹が節が拔いてあつた。秋の末にそれへ雀の入つて行くのを私が見つけて、一方に網袋をあてゝ追込んで見たら二羽とれた。巣があるだらうと思つて色々として覗いて居たら、有るものかと謂つて笑はれたことがある。少なくとも或る幸福な雀は、斯うして冬になる前から共棲して居るのであつた。

　私がいつでも問題にして居たのは、どうして此樣ながや／＼とした群の中から、たつた一羽の相手を見定めるのであらうかといふことであつた。背恰好といひ着て居る着物のがらまで、是ほどもよく似た者がまちがへも騙されもせずに、ある者とは親しく又或る者とはやゝ冷淡に、時々は闘爭までするといふのが不審に堪へなかつた。しかし一心に同じ巣の雛を愛して居る場合は勿論、さうで無くとも彼等の行動には隱れたる指導があつて、?々一つの屋根にとまり、同じ梢に集まつて居るといふことが、馴れない連中との見分けを容易にするらしい上に、群の中でも個々の一羽の見覺えがついて居るのだといふことが此頃やゝ判つて來た。鶯や目白のやうな素人には何とも致し方の無い小鳥でも、詳しく見究めたら仲間うちだけで、通用して居る個性といふものはきつとあると思ふが、雀に至つては外からでもほゞ明らかな特徴がそれ／”＼に備はつて居る。是が雀界の社會學の、今に成立つだらうと思ふ一つの理由であつて、自分がもし今少しの時間をもち又眼が良かつたら、先づ第一に彼等の頬の黒い斑を、形と大きさによつて分類し(191)たことであらう。ごく大體の氣のついた點をいふと、雀の頬の黒い毛の部分は、よほど遠くからでも見分けられるほどの、大小と輪廓の差があつて、周りが白だから殊にはつきりして居る。是さへ覺えてしまへばたとへ何千羽の群の中に居ても、友を見失ふやうな懸念は無いのである。私の想像では、是がこの一種族の他に立優つた強みであると共に、人に名前があり住家があつて、いつでも再會し得る爲に別れ易くなつた如く、幾分か彼等の行動を自由にし、且つ複雜にして居るのではないかと思ふ。雀はきたない鳥だが其文化は他の動物よりも少し進んで居る、と思つてもよいやうな事實が次々に心づかれるのである。

　

　　　　　　　雀の家庭

　

　春さき此鳥の言葉が急に多くなり、又活?になるのは誰でも氣がつくが、是は彼等が人に近く、從つて又愼みが無い爲とも説明し得られるかも知らぬ。たゞ雀は少なくとも境遇によつて、可なり色々と生活ぶりを變へる鳥であることは、其擧動を見て居る者の感ぜずには居られぬことで、それが淋しい深山の鳥、又は獣などの數少ない群であつたら、恐らく斯ういふ眞似は出來まいと思ふと、この無限の繁殖の理由が、先づ一つはわかつたやうな氣がする。冬から續いて仲よくして居る雀が、さつさと巣を造つてもう一番子を孵したらうと思ふ頃まで、まだ相手がきまらず飛んであるく雀がある。口に一筋の建築材料をくはへて、同じ處で長い間同じ音を鳴き續けて居るのが、急に早調子になるから出て見ると、きつと其傍へ今一羽やつて來て、いかにも其聲を聽く樣な樣子をして居る。古い日本語でカタラフといふのが是かと察せられる。即ち爰で一緒になつて、家を持たうではないかといふ相談である。鳥の世界でも、やはり雄の方が機嫌を取るらしい事實はある。たとへば百舌などは夜の引明けに、小高い木の枝に二羽ならんで居て、その一羽だけが何度でも下に降りて、巣になりさうな叢に飛んで行つては歸つて來る。或る時は又食物を拾つて來て(192)は食はせる。それを雛見たやうに兩翼を顫はせながら、口をあけて食べさせてもらふのが雌であつた。是と同じ擧動は他の小鳥にも、巣に就く前に?々見られる。鷄などでも食物を見つけると、雄は食べずに相手を喚び集め、又は土を掻き散らして食物があるといふ樣子をして、だまして喚びよせようとするものもある。だから雀の場合にも、藁などをくはへた不自由な口で、鳴いて相手を誘なふのは雄の方かも知れぬが、巣の計畫には雌の方が熱心な小鳥も多いから、今はまだ何とも言へないのである。

　食物と住居の安全と、この二つが大切な相談の題目であることは想像し得られる。之に就いての意見が異なると、さう簡單には近よつて來ぬのが常法で、是をたゞ雀の好き嫌ひと解し、もしくは稀に雀望の無い雀があるかのやうに、言つた人もあるが私は賛成しない。こゝでも個性といふものが現はれるとすれば、早く子を持ちたいといふ念願は殊に強く、其爲にやゝ大膽に過ぎた場處の選擇をする者と、それに同意し兼ねる仲間が多いといふことは有り得るかと思ふ。山に住む鳥には食料は問題が小さく、巣の方に餘分の注意を向けて居るらしい形跡が著しい。彼等の營巣風習には時代の變化が見られず、又地域の差異もずつと少なくて、可なり嚴重に古い法則を守つて居る。それに反して雀は此點が自由である。瓦葺きが普及すれば瓦の間に、萱葺が厚くなれば是に穴をあけて住み、人が居なかつた昔はどうして居たらうかを、もう考へて見ることも出來ぬやうになつて居る。雀の食物だつてさう乏しいわけでもないが、あたりが騷々しくておち／＼と食べられぬ場合が多い上に、子育ての前後になると生きたものを捜さねばならぬので、一層その計畫が立てにくゝ、勢ひ其方へ多く氣を取られて、住居の問題をいゝ加減に解決するのではないかと思ふ。雀が巣の場所を定める方針の、出たらめであることは著名である。さうして又恐ろしく仕事が早い。私の家では二日置きに風呂を立てゝ居た頃、毎度煙突の口に巣を食つた雀が、落ちて死ぬのを憐んだことがあつた。北海道の或る停車場では、腰赤燕の泥の巣の壞れたのに、せつせと草を運んで居る雀を見たことがある。相州の海岸ではたしかに又松の木の地上三尺ばかりに、巣をかけ卵を産んだ雀を知つて居るのである。斯ういふ點から見ると何だか野蠻なやう(193)だが、大よそ今日知られて居る小鳥の中で、彼ほど自在に生き方を變へて、環境に適應しようとする者は有らうとは思へない。外の家畜が利用せられてばかり居るとは反對に、彼等は輒《すなは》ち人を利用し村里を利用して、村雀又は里雀となつて居るのである。

　

　　　　　　　雀の引越し

　

　もしも雀が食料の獲得といふことに重きを置くことも無く、たゞ徒らに住居の選擇にぞんざいであるといふのだつたら、是は一向にだめな鳥といふことになるが、それで此通り繁昌して行けようとは私には思はれない。やはりこの二つは婚姻育兒の條件ではあるが、鳥により又その境遇によつて、幾分か何れかを輕く重く、見なければならぬ事情があつたものと思はれる。妻を求める頃の擧動を見て居ても、食物は大抵大丈夫、住居は此邊がよからうではないかと啼くものと、蟲の狩場はこゝときめた、巣は先づこゝで我慢をしようと相談を掛けるのと、二通りあることは略々わかる。雀も決して住居の方に、鷄見たやうに呑氣でないことは、早く巣を作るものが形勝と安全とを先占し、よつぽど遲くなつてから、巣箱の店借りに來るのでも察せられる。既に多くの人に氣づかれて居ることは、四十雀が家を捜しまはつて、巣箱の近くへ來てもまだ考へて居る。それを里雀が見かけると急いで先へ入り、又はまだ相手もきまらぬのに邪魔をしようとする。だから巣箱の穴を出來るだけ小さくして、始めから雀が斷念するやうに、四十雀だけにしか入れぬやうにしなければならぬのである。意地の惡いやつだと舌打ちする人もあるが、雀の立場からいへば氣がもめるのであらう。しかし人を信用する經驗も、山野の鳥よりは雀の方が多くもつて居る。是ほど惡太郎の多い人間社會を信ずるといふのも輕慮のやうだが、それでも人里ではまだ危險の種類が少ない。さうして馴れて忘れてしまつた危險も多いかと思ふ。私の家では落葉松の高い幹に縛つて置いた巣箱が三越製であつた。主人も考へが足りなく(194)て、屋根の板の薄いのを氣にしなかつたところ、二春まで續けて親子二代とも何かに喰はれてしまつた。多分は村の外の林に棲む梟のしわざだつたらう。屋根の板を剥し割つて夜の中に荒して行つたのである。大屋も店子も共に此危險には無知であつた。深山の鳥ならば恐らくは本能が之を避けさせたことゝ思ふ。

　しかもこの危險が、もし少しでも豫知し得られるものだつたら、選んだ後でも何かの處置を取つたであらうことは、幸ひにして之を確かめる機會が私にはあつた。鳥類の不安の感じは却つて人間よりはずつと鋭敏なのである。たゞ我々のやうな推理の力が具はらぬ爲に、梟にも襲はれ煙突からも落ちるのみならず、むだな恐怖によつて大きな損をするのである。この砧村の野の中に住んだ當座、私は庭に僅かな芝生を設けて、春の緑を樂しんで居たが、毎日のやうに其中に雀の卵の破片を見かける。時には傷の無い卵もあり、又は孵化したばかりの雛が、落ちて居て蟻にたかられて居ることもあつた。其頃は近所のそちこちに大工づかひの音がきこえ、トラックのやたらに飛びまはる時であつたから、雀も落付きが惡くて外へ移らうとするのだらうと思つた。故川口孫治郎君が訪ねて來られた際に、この想像を私が話して見ると、待つて下さいよと川口氏は謂つた。雀には借家が有りませんからねえ、急に引越して行く先がありますまいからねとも謂つた。それもさうだとは思ふが、此事實にはそれより以外の説明が有り得ない。つまり此現象はまだ鳥學界でも問題になつて居ないのである。もう少し見て居てやりませうと又數年を重ねたが、つひぞ雀が雛又は卵を抱へて、飛んで行くのを見たことは無かつた。是は夜明けの最も氣力の旺んな時刻とか、又はよく／＼人影の見えぬときを見定めて、決行するものと考へられる。芝の上に卵や雛の落ちて居ることは、氣をつけて居る爲かいよ／＼多くなる。それで一計を案じて窓の外の手の屆く處に、ごく簡單な大ぶりな巣箱を引掛けた。最初は勿論中に入らうとしない。それでも春がたけてどうにもならぬといふ時分に、晩婚の雀が是へ來て家を持つた。六七日の間はそつとして置いて、もうよからうと脇の戸から、手を入れて見ると卵を生んで居る。やがて子が孵つてぢい／＼と幽かに啼き始めてから、毎朝手を入れて撫でゝ見ることにして居た。さぞ雀のおつかさんが、煙草くさい兒だと謂つて(195)いやがるでせうと娘たちがいふので、なに小鳥には嗅覺が無いといふことだなどゝ冗談を謂つて居ると、たつた三日か四日で、あの柔かな何ともいへない肌ざはりのものが、突如として箱の中から消えてしまつて居る。さてこそと取下して見ると中は藻拔の殻であつた。獨りで飛んで行つた氣づかひは無いのである。行く先に頃合ひの空家が有らうと無からうと、少しく不安を感ずると食つてしまふといふ親さへあるのだ。とにかく爰には置かれぬといふだけでそつと抱へ出し、何かに驚けば取落して行くものと見える。恐らく安全に育つといふことは、この成長?態では望めないであらう。つまらぬ試驗をしたものだと今に氣が咎めて居る。それから又氣のついたことだが、家の近所で見る巣立雀の中には、人ならば七八つもちがふと思ふ年齡の差が見られる。一家の都合とか兩親の氣持とかでは、可なり思ひ切つて早い巣立ちもさせるらしいのである。いたづらつ兒時代の記憶を喚起して見ても、瓦をめくつて親かとまちがへるやうな大きな子雀を見たこともあれば、又縁先などへ入つて來るのには、時々は腋の下などの赤裸なのも居る。斯ういふのは出ても滿足には成長せぬかも知れぬが、とにかく雀は住居に關心が淡いと言つても、やはり一定の要求だけはあつて、それが充されぬと愛する者の生命を賭しても、立退いてしまはずには居ないのである。それ位ならもう少し巣を作る前に、周圍の條件を吟味すればいゝのにと思ふが、やはり内側にさう十分な熟慮と、忍耐とをさせないやうな促迫があるらしいのである。自然を愛する人々の、もう一足だけ前に進んで、考へて見なければならぬ問題が爰に殘つて居る。私の家では餌箱に粟を絶やさず、蟲などは幾らでも拾へるやうに庭を荒して、是で食物だけは保障してやつたと思つて居るが、さうすれば又粗末な巣でも急いで作つて、斯うして中途に悲しい思ひをするやうな、雀ばかりが多くなつて來るのである。

　

(196)　　　　　　　雀の國語

　

　語學と謂つて居るやうな雀の語の研究は、我々には到底出來ない。如何に惠まれたる公冶長であつても、雀と話をしようとする企ては成立たず、又そんな入用もないからである。文字を雀が用ゐて居ないといふことも、少なからず我々の觀察を簡單にする。人間の國語でも、一應は斯ういふ純な　　状態から學び始めた方がよいやうに、私は此頃考へ始めて來た。通辯を頼まずにはそれは無理のやうに見えるが、幸ひなことには鳥の言葉は數が至つて少ない。何度も聽いて居るうちには意味はやがて判るので、たゞ判りましたといふことを他人に示すことが、幾分か面倒なだけである。だから私は誰一人として信用する者が無いといふことを、覺悟の上でこの報告をするのであるが、さういふ中でも少しは同感の人も有らうかと思ふことは、雀の國の言葉が比較的に、どの鳥類よりも複雜だといふ一事である。すぐ近くへ來て啼く頬白やアヲジ又は鶺鴒といふやうな、一括して田舍ではスズメと呼ぶものを比べて見ても、語數の多いことにかけては里雀に及ぶものは無い。四十雀は幾分か啼聲に變化が多く、山に入つてあれも四十雀かと、不思議に思ふことがある位であり、コガハラヒワなども聽いて居ると囀りに二色三色、地鳴きも場合によつて全く別なものを使ふが、頻白に至つては雄は半日でも同じ調子の高音をくり返し、雌はごく無口でたゞ時々地鳴きをする。藁雀（アヲジ）やジョウビタキは毎朝のやうに來ても、啼聲はたゞ一種で囀りもしない。是に反して雀は饒舌の評が高いだけに、それはそれは色々の語を持つて居る。正しい對譯が下しにくい故に、列擧も亦容易でないが、先づ誰でも知つて居ると思ふのは、遠い處から何かあぶないことがあつて遁げて來る場合、是は一語づゝ引離して、可なりはつきりと發音するので、如何にも我々の「やれうれしや」に似た感じを與へる。次には婚約が愈々成つて、是から巣に就かうとする際の悦びの聲、此方は細く美しく且つ連續して、是くらゐ顯著に幸福の感を表示するものは無い。それか(197)ら又警戒の聲でも、猫が木の下へ來た場合と子供などの近よる時とは、馴れてしまへば素人にでも差別がよくわかる。仲間が之を聽いて危險の性質を、即座に諒解することは言ふまでも無からう。是と一羽が害に遭うて、騷ぎ立てる時とは又聲がちがつて居る。餘りに人らしい解釋かも知れぬが、私などは是を「同情に堪へぬ」と譯して居る。苦しい又はかなしいを意味するらしい聲は、喧嘩をして地に落ちようとする時などに聽かれるが、是と黐竿《もちざを》で刺された時とはよく似て居ても、周圍に居る雀の態度は大分ちがふから、よく聽き分けたら多少の差があるのであらう。野原に出て行つて稻架の間などで遊ぶ時の聲と、夕方ねどこにして居る木や竹藪に戻つて、騷ぎ立てるものとはよほどよく似て居る。是は多分取止めの無い昂奮であつて、會話といふよりは寧ろ運動の方に近いものと思はれる。それと早曉のぽつ／＼と眼を覺ます際の言葉とは、同じ鳥の朝夕とは思はれぬほどの相違があり、此方は「こゝに居る」、もしくは「皆はどうした」とかいふ風にも聞き取られ、僅かな數で木にとまつて居る時には、晝間でも是とよく似た言葉を使ふことがある。

　囀づるといふことは今日の鳥屋の意味では、雀には全く無いやうにも思はれるが、是は本來は雀などから始まつた語らしいから、現在の用法が變つて居るのである。人間でいふならばよそ心、鳥としては最も自然な無爲の生活をして居る際の、是ぞといふ定まつた目途も無しに、いつまでも同じ調子の言葉をくり返すといふことは、如何に氣ぜはしない雀とても、丸々その樂しみを奪はれては居ない。子供らが聽いて共鳴をするのも此聲に限られて居るのは、隱れた意味のあることかと思ふ。雀は何と鳴くと彼等に尋ねて見ると、チュンと鳴くといふのが即ち囀づりであつた。是を平板に又は尻揚りに、或は一つ置きにアクセントを取替へて、許されるなら晩までも、際限も無く唱へて居らうとするのを見ると、此語には詩歌俳諧と同じく、差當つての目途は無く、聽いて居る仲間も之を用向きだとは認めて居なかつたのである。それを何等かの大切な交通語の間に取りまぜて使はうとする故に、外の者には愈々解しにくゝ、又非常に騷々しいおしやべりとも評せられることは、ちやうど我々が駄洒落を興じて居るところを、西洋人などが立(198)聽きしたやうなものであらう。南の島々では雀をユムンドリといふ者が多い。ユムンは「よむ」であつて暗誦のことである。何だか物々しい意味がありさうで、それが判らぬ爲になほのこと、よくも覺えたものだといふ感じを人に與へる。雀の語によつて靈界の神秘を知つたといふ昔話が、空想せられた動機もこゝに在るかと思ふ。沖繩の炭燒長者の女房などは、雀に山原《やんばる》の炭燒き谷に行けと教へられて、長者の始祖になつたと謂はれて居る。こゝではクルクルといふのが雀の囀づりの聲であつた。我々がチュンチュンと聽き、スズメと寫して居た音を、島ではクルクルと聽き、從つて又此鳥をクラと呼んで居るのであつた。

　我々の片假字で描き出さうとするから失敗するのだが、もと／＼雀の子音は至つて數少なく、ことによつたら一つの音素が、出しやうによつてちがつて聽えるのかとも思ふ。それを色々と組合せて、少なくとも三十種に近い場合と心持とを表示し、更に自分の樂しみの鼻歌までこしらへて居るのは、全く雀の國獨得の文化であつて、他の多くの鳥たちの企てられぬことであつた。きたない鳥だし尻尾などはたしかに無細工だが、言葉だけはたしかに進んで居る。それが又必要によつて促されたものだとすると、彼等の社會なり生活境遇なりは、著しく複雜になつて居るのである。是を具體的に知らうとすれば、人に近く住むだけに方法は幾らでもあると思ふ。音の變りの少ない言葉を、音字で現はさうとするから無理がある。私は胡麻點のやうな形のものを、大小幾通りかこしらへ、又必要ならば點を白黒鼠色にし、それを斜めにしたり竪にしたり、又中間のあけ方と數とを加減すれば、立派に雀和辭典は活版になし得るものと考へて居る。

　

(199)　　　信州隨筆

　

(201)　　　　　自序

　

　この砧村の家へ遷つて來てからの九年間に、いろ／＼の雜誌に發表した文章の中で、讀者に信州の人々を豫期して居たもの、十餘篇を集めて一册の本にする。隨筆とはいふけれども、題材に既に偏倚があり、その取扱ひに自分の流義があり、更にほゞ此等を一貫した時代觀と、信濃を知る者の友情とがある。實は私は是以上の手重なる方法を以て、勸説するだけの必要は認めて居ないのである。此地の學問の前途は、此地をして自ら選擇せしめるがよろしい。さうして我々は年來の經驗によつて、夙に信州が一世の機運に、些しでも後れて居る土地でないことを知つて居るのである。

　私たちの參加する方面でも、その小さな實例は幾つか擧げられる。たとへば飯田は國外にもまだ知られない山間の一都邑であるが、こゝでは日本に幾らもない民俗叢書の出版が、數年前から計畫せられ、又着々と實行せられて居る。地方の文化事業の中では、印刷が最も振はない一つであつた。明治の初年までは尚各藩時代の餘勢を受けて、見事な刻本を世に供したこともあるが、それが過ぎてしまふと忽ち火が消えたやうで、どんなつまらぬ案内記の類でも、大部分は東京の印刷所に頼むことになつた。まして一國の書として永く後年に保存すべきものに、地方の名を冠するなどは絶對に望み難いことに今はなつて居る。ところが常人の生活誌のやうに、資料も利用者も共に地方に在つて、しかも最初から需要が乏しく、時日を過ぐれば愈々貴重となるべき書籍の如きは、之を中央の大量生産の機關に、托し得られる道理が無かつたので、僅かに運のよい一二の好事家が、雜誌新聞の斷片の中から、拾つて貯へて置くといふ樣な情ない?態の下に、この重要なる國風の推移期を、何等纏まつたる觀察も無くして通り過ぎて來たのである。飯田が私の家と縁の淡い町であり、叢書が又別途の研究部門に屬する場(202)合でも、尚この地方文化の解放運動に對しては、身に應じた聲援をせずには居られない。まして此事業の、半分は私の知りたいと思つて居ることを教へ、半分は特に我々の明らかにしたいと念じて居た過去に、新たなる側光を投げ掛けるものであつた。だから私は何の躊躇も無しに、悦んで下伊那郡の事業に加盟を約諾したのであるが、果してこの微々たる信州隨筆の一著が、その聲援の效果を奏するかどうかは實は甚だ心もとない。内にも外にも此仕事の完成に對して、まだ色々の難關があるからである。

　柳田といふ家は今から二百七十年ほど前に、野州の東隅から殿樣に隨從して南信へ入つて來た者の末である。代々子供が少なくて分家は一戸も無く、おまけに大半は江戸に出て住んで居た。現在の族員には、一人として國で生まれた者は居ない。故郷といふ言葉の眞の意味を考へて見るのに、必ずしもかの山間の水を飲み、かの土産の穀物を以て身を養つて居たからと、いふのみでは無いらしい。私の家には新古さま／”＼の因縁があつて、人はひまも無く信州と來往し悉く此地方の言葉を理解し、又その言葉の負搬する感覺なり思想なりを、あらましは理解して居る。しかも其間には一部の利害の、固守しなければならぬものが無い故に、いつもこの巨大なる集團が、團として如何に歩んで居るかといふことを、やゝ遠くから顧念するより他の能は無かつたのである。昔も幾つか出て居る「信濃の家苞《いへづと》」とか、「信濃漫録」とかいふ記念の書と比べて、信州隨筆がもし何物をか附加へて居るとすれば、それはたゞ私の家の立場、乃至は私がやゝ信州を理解して居る爲であつて、當代最も調寶がられる愛郷心なるものゝ、作用でないことだけは告白しなければならぬ。信州の學徒は文章講演を愛し、又表現の能に長じて居る。彼等もし志を立てるならば、縣外に柳田の如き者を五十人百人、作り上げることはさう困難でない。たゞそれには先づ地方の文化事業を改造して、中央瞻望の弊を矯め、少しは信州以外の人も悦んで讀まうとするやうな、地方の文獻を守り立てなければならぬ。徒らに鄰家翁の歎賞を博して、能事了れりとするやうな郷土研究を揚棄してしまはなければ國は朗かにはならない。學問の本旨は要するに利他であり、郷土を研究の對象とす(203)ることも、今はまだ少しばかりふくれた利己主義に過ぎないからである。

　　　　　　昭和十一年九月

　

(205)　　　　　信濃柿のことなど

　

　　　　　　　　　　一

　

　始めて私がシナノといふ言葉を學んだのは、四つの歳の秋であつたやうに思ふ。二番目の兄が相續して居る隣村の井上といふ家は醫者で、邸内にさま／”＼の變つた草木を栽ゑて居たが、其中に一本の小柿があつて、それを信濃柿といふものだと教へてもらつたのである。信濃柿は實が小さくて細くて、色も形も美しい間は澁く、霜げて干からびる頃になつてやつと甘くなる。殆と果樹とも謂へない程の植物ではあるが、小鳥と小兒には又別樣の愛着があつた。私は永くこの一本の木を、忘れることが出來なかつたのである。それで今の砧村に移住して來た際にも、信州から小柿の苗を百本餘りも貰つて來て、自分の家の庭ばかりか、隣近所にも學校の庭にも、片端から植ゑてまはつて、ひたすら其成木を待つて居たことは、丸でかの猿蟹合戰の昔話の通りであつた。

　但し今ある信州の小柿は、自分の幼年の頃に見た信濃柿とは、全く同じ物とは言へない。こちらのは普通に平柿の形であるに反して、五十數年前に播磨で見て居たのは、椎の實などよりももつと細長い形の長さ六七分のものであつた。しかも是をシナノガキと呼んだのは中國の一部だけでなく、近畿地方は一般にさうだから、先づは標準語と認めてもよからう。前代の本草學者たちは、漢名の君遷子を以て之に宛てゝ居る。それがこの長い方の一種だけのことか、はた雙方を共に含むかは私は知らぬが、少なくとも今日の信濃の小柿をシナノガキで無いとは謂へぬやうに思ふ。さ(206)うして自分などは右の二種の併存して居ることが、此植物の山中の野生から、次第に人家庭前の觀賞に入つて來た、歴史を語つて居るやうにも感じて居る。足利期の文學には、柿系圖といふ一篇の戯文があつて、新編御伽草紙の中にも採録せられて居る。柿の進化は既に中世に始つて居るのだが、その現今の如き驚くべき大改良は、多く明治以來の事業であつた。さうして信州には、今も尚甘柿の在來種が保存せられ、其中には鎧通しと呼ばるゝ類の細長く尖つたものと、妙丹などといふ中高の平柿とが、連綿として山の小柿の二系統の、分かれて發達して來た經路を跡づけさせて居るのである。

　この澁く且つ愛らしい小柿が、如何にして近畿中國の府縣へ出て行き、しかも信濃柿の名を以て永く記憶せられることになつたかは、私には必ずしも小さな問題では無いやうに考へられる。移植は假に持つて行く人々の趣味に由るとしても、其以前是が既に本の地に普通でなかつたならば、名前までを副へて運搬せられることはなかつたらう。信州が與へる國であつたといふことは、即ち又内に充ち溢れて居たことを意味する。是には此地方の澁の工業の、埋もれたる久しい歴史が考へられるのである。信州人が自分の郷土の過去を考へて見ようとするときに、單なる自分達の持つて居る舊記古文書の蟲干しのみを以て、能事了れりとなす能はざる理由も爰に存する。

　近頃私は足利期の京都人の、二三の記録を讀んで居て、偶然に信濃櫻といふ植物の盛んに移植せられ、又愛玩せられて居ることに心づいた。信濃梅といふ名は今も折々聽くが、信濃櫻の方は既に忘れられて居る。是が或時代の貴族武將の家に於て、斯くももてはやされた理由はどこに在つたらうか。其花其木ぶりには如何なる特徴があり、又何人がそれを信濃人の文化から取傳へて、中央の一つの社會相を作り上げるに至つたのか。物が直接に食べたり着たりするもので無いだけに、此分布には一層の意義が有るやうに思はれる。信州の春の風景の美しい一つの姿として、私は曾て年經たる枝垂櫻の到る處に多いことを説いた。是が今日まで保存せられて居る動機には、單なる詩歌人の風流以上に、別に宗教的なる何物かゞあつたらしいことは、ほゞ我々には明らかになつて居る。一方に日本の庭園藝術にも、(207)庭師の全く説明し得ない色々の古い約束が有るのは、其起源がやはり是と同様に常民の信仰に根ざして居ることを語るものである。故にもし私が想像して居る如く、京都中世の日記類の所謂信濃櫻が、實はあの清くあでやかなる信州の枝垂櫻であつたとするならば、當然に誰が此花を遠くこの山國から、運んで都に送つたらうかといふことが問題になるので、是に答へることも亦一つの、可なり大切なる諸君の事業なのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　今までの學者の中には、文化は單に優劣二種の種族の接觸の結果、當然に一から他に傳播するものゝ如く、説かうとする人もあつたが、私たちは少なくとも其樣な荒つぽい推斷を承認することが出來ない。もしもそんなことが可能ならば、現在の如き國々の生活風習の、複雜なる異動は無い筈である。新舊の文化は個々の社會毎に、それ／”＼違つた配合を見せて居る。二族の間には獨り優劣の勝負があつただけで無く、個々の傳播には互に條件があり、文選擇を伴なうて居たのである。それ故にこそたゞ一地方の花なり、柿の實なりが、出でゝ或土地或時代の、物の名を支配することにもなつたのである。

　或は我々日本人が、特に異郷の産物を好み、且つ其出處をゆかしがる氣風を、餘分に具へて居たとは言へるかも知れぬが、それにしたところで與ふる者が無いならば、空虚から痕跡を殘すことは出來るわけが無い。さうして信州が曾て縣外に供給して居たものは、たゞに若干の草木や工藝晶のみに止まらず、尚他の遙かに重要にして且つ意外なるものが幾つかあつた。江戸で田舍者をオシナと謂つた方言なども、實は信濃者といふ語から作つた新語であつて、前代に此地方が許多《あまた》の出稼勞働者を、この新米の都市に送つて居た名殘である。寒い山村の冬中の勞力ほど、剰つて溢れて流れ出し易いものは無かつたのである。それから又シナノミコ（信濃巫）といふ言葉も、少なくとも江戸期の關東地方ではよく知られて居た。其生活記録は切れ／”＼ながら殘つて居る。是も前にいふ信濃柿と同樣に、却つて原産(208)地に於ては、其事實を知らぬ人が多かつたが、信濃から出もしないものを、誰が其樣に呼んで承知するだらうか。否それ以上にも明白な路筋が知られて居るのである。

　信濃巫の近世の根據地は、小縣《ちひさがた》郡の禰津《ねづ》村であつて、今ではその最後の家さへ絶えてしまつたが、以前はもう少し汎い區域に亙つて、この職業の者を全國へ送り出して居たやうに思はれる。上方あたりでも、稀には信濃みこといふ語を聽くこともあつたが、通例はこれに代る名稱として縣巫《あがたみこ》又はアガタといふ語を用ゐて居た。さうして私は此アガタも亦小縣郡などの「縣」で、即ち諏訪の神領の意味であつたらうと思ふ。根津神平が鷹つかひの傳説などを思ひ合せると、少なくとも小縣郡の所謂ノノウが諏訪大明神の信仰と關係が有つたことは、ほゞ之を疑ふことが出來ぬのである。彼等の職掌にも時代の變化はあつて近世は專ら個々の民家の爲に、其家に屬する死靈のみの口を寄せて居たやうだが、旅をする巫女たちには、是は寧ろ不向きな仕事であつた。土地に其役目を勤める者が無くなり、一方には彼等在來の本業が輕んぜられた結果、自然にこちらへ轉向して來ただけで、以前は多分諏訪の御社の靈驗を説き、其神宣を傳達することが目的であつたらうかと思ふ。尤も此點に就いては、まだ確かな直接の證據は無いから、強ひて此假定を主張する考へも持たぬが、彼等で無ければ他には輸送した者が無ささうに思はれる二つの大いなるものが、現在は亦弘く全日本に行はれて居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　其一つは何人も知つて居る諏訪大明神の信仰、是は信州の與へたる最も大いなるものであつた。北は奧州の南部津輕の果から、南は九州の長崎にも鹿兒島にも、何れも諏訪樣の立派な御社がある。關東東國に分布する諏訪神社も、小さいのまで入れると恐らくは千を越えて居る。是は我國の神道史の、未だ注意せられざりし一大特色であつた。延喜式の三千何百といふ諸州官知の御社は、その一つ／＼が土地で祭り始めた神々であるに反して、今ある全國の鎭守(209)は九割までが移住神である。古いところでは東國の宗像《むなかた》神社、それに次いでは熊野八幡白山秋葉等、京都以外の御社の神々も、遠い國にまで齋き祀られて居る。社記には大抵は領主が之を勸請したことになつて居て、實際は多くは託宣の奇瑞に基いて居た。神の口寄せをする任務の、此間に於て非常に重要であつたことが考へられ、是とその名をもつ土地から出た女の旅人との、關係も亦推測せられるので、諏訪は唯その多くの例の一つといふに過ぎぬのであるが、是にも其信仰の各地方に於ける相異から、注意して比較を進めて行けば、追々にその宣教の時代の推移と順序とを、見つけ出すことが出來るやうに私は思つて居る。

　第二の輸出品は信州の民間文藝である。其内容から判斷して、信濃より以外の土地では産し得ないものが、弘く日本の全版圖に行はれ、又後代の文學を培つて居るのである。其中で今日比較的よく判つて居るものは、やはり又諏訪明神の御縁起であつた。甲賀三郎といふ英雄が、大蛇の姿になつて地中を永い間旅行してあるいた話である。最近十年の間に私が目に觸れたものは、現に信州人の家に保存せられたものだけが、十種に近くも有つた。其筆寫の年代は上は天正年間から、近くは明治に入つて出來たかと思ふものまで、四百年足らずに亙つて居るが、大體の筋は皆同じで、たゞ文句だけが一つ／＼稍々違つて居る。乃ち口移しに暗誦記憶せられて居た證據である。これと南北朝期の終りに、漢字を以て書かれた安居院《あぐゐの》神道集の諏訪明神御事とが、著しい詳略の差はあつても、要點と敍述順序に於て共に一致して居るのは、私にとつては大いなる興味である。といふわけは此一篇の語りごとは、近江大岡寺の觀世音の信仰を中心としたもので、甲賀三郎といふ名前も是から起り、つまりは縣外に於ける加工品であつたにも拘らず、それが再び原産地へ逆輸入せられて、土地で大きくなつたものゝやうに、信州の人々には考へられて居たからである。京都地方に留まつた甲賀三郎は、後には淨瑠璃の詞曲にもなつて居るが、此方は信州の語りものに蓼科山と謂つて居る處を、若狹國の高懸《かうかけ》山と變へてあつて、亦中途からの一つの分岐の例を示して居る。短い時間では説明することは六つかしいが、兎に角に諏訪の根原を述べた一つの物語は遠く漂泊し、又幾度と無く故郷の信州に還つて來て居るの(210)である。

　それから又御伽草子の物草太郎、これも穗高明神の御本地を説いて居る故に、其文中に所謂「つかまの都あたらし村」が、他所でこしらへた固有名詞で無いことを知るのである。但し現在書册の形を以て保存せられて居るものは、既に文學化し又あまりにも笑話化して居る。當初信州の田舍から持つて出たものは、どの部分が其中に殘り、どの部分が新たに潤飾せられたのかといふことは、僅かな比較研究で辨別し得られる。なまけて寢てばかり居た若者が、其實は素姓の至つて貴く、且つ後々大いに立身すべき非凡兒であつたといふこと、此點は世界の桃太郎系説話の最も普通なる一つの型であつて、それが又信州にも別に古くから行はれて居たことは、北信では小縣都｜産川《うぶかは》上流の小泉村に

於て、蛇體を母として生まれた小泉小太郎の口碑、又安曇の方では信《のぶ》ノ宮の信太郎が、睡つて居る間に大蛇になつたといふ話など、何れも物臭太郎とは無關係に、其痕跡を今に留めて居る。さうして此點は又一方に於て、諏訪の縁起の甲賀三郎とも縁を引いて居るのである。この説話の改造と運搬とに、中世の信濃巫が參與したといふことには、勿論記録の證據などは無い。しかもそれを他の方面から段々と證明して行くことは、興味ある事業であるのみならず、假に又さうで無いといふことが後に明らかになつたとしても、然らば何人であつたかといふことが、やはり一つの珍しい研究問題になるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　北信の信濃巫たちは、後追々に善光寺の勢力に、引付けられたものが多い樣である。諏訪樣と善光寺さんは仲が惡いなどゝいふ俗説は、神と佛との爭ひでなかつたことは固よりで、言はゞ是に屬する者の二派になつたことを意味するのである。善光寺の信仰にも巫女は關係して居た。中世の文學に痕を留むる山姥の舞の如きも、信州の又一つの名物であつた。是がこの大寺に屬した一種の女性の舞であつたことは、百魔山姥といふ語が之を推測せしめる。謠曲の(211)中で失うた子を尋ねる物狂ひの舞は、三井寺・櫻川・隅田川その他數多ぐあるが、百萬といふのが中でも古い形であるやうに思はれる。奈良の舞女であると傳へられる百萬といふ婦人が、愛兒を失つて捜しまはつて居るうちに、嵯峨の釋迦堂の大念佛會の日に、群衆の中で舞ひ狂つて居て、測らず親子の再會をしたといふので、別に形の是とよく似たものが、信濃善光寺に就いても二つまで語り傳へられて居るのだから、山姥の百魔といふことも多分其舞から出た名であらうと私は想つて居る。更級郡の新長谷寺に伴なふ白介翁の相撲に勝つた説話、又は小泉八雲の「怪談」に出て居るのと同じ型の鬼に座頭が耳を切取られた話が、曾呂利物語にはやはり善光寺内の或比丘尼寺の出來事として傳へられて居るが如き、是等は私のいふ男話、即ち座頭か物語法師かの作もしくは藝に屬するやうであるが、それとは別に尚一種の巫女の舞の、此御寺の信仰を宣傳した者は居たらしいのである。

　日本の民間文藝の今日までの發展に、信州が寄與貢獻した部分は小さくは無かつたと思はれる。それを空なる想像説とせず行く／＼確かめて見る途は他には無い。つまり一度は門外に立出ること數歩、ふり返つて我庭の信濃櫻や信濃柿を、眺めるやうな態度を採らなければならないのである。信州の郷土史料が悉くこの一圍ひの山嶺の内側に、取籠められて居るやうに考へるのは誤りである。諸君の郷土内の調査も恐らくは又新たに、多くの知識を全國に與へることではあらうが、信州も亦外から澤山の暗示と解釋とを導いて來る必要が有るのである。知識の交易と相互援助は、我々の見る所では、何よりも大切な郷土研究の要件だと思ふ。今日の如き割據的の作業だけによつて、尚當然に判明するやうな簡單な事柄だけならば、強ひて人に教へようとせずともよろしい。一方に是ほど際限も無く生まれて來る文化史上の問題、入つて行けば行くほど益々痛切に感じられる色々の疑ひを前に置いて、もう是を郷土の教育に應用しようとすることは、餘りなる早手まはし、と言はんよりも寧ろ無責任である。今囘の信州民俗講座が、囘を重ねる毎に愈々問題を多端にし、しかも疑惑を濃厚にし、且つその解釋の要求を熱烈ならしめるであらうことは、私たちから見れば最も慶賀すべき兆候である。是より新たに生まれんとする問ひの草問が、今まで流行して居た答への學問に、(212)取つて替らうとする境目になつて居るやうに思ふ。郷人が耳を傾けて聽かんことを欲するや否やをも考へて見ずに、ひたすら自分等のよく知つて居ることのみを、人の耳をつかまへて説き教へてやらうとするやうな舊式の博學は、少なくとも多忙なる實際生活をする人々から、斯ういふ際を機會として、もうそろ／＼振棄てられてもよい時代である。

　

(213)　　　　　しだれ櫻の問題

　

　　　　　　　　　　一

　

　昭和五年四月のたしか二十六日、東筑摩の和田村を通つて見ると、廣い耕地のところ／”＼に、古木の枝垂《しだれ》櫻があつて美しく咲き亂れて居る。近年野を開いたらうと思ふ畠の地堺などで、庭園の跡とも見えず、妙な處に櫻が有るといふと、同行の矢ヶ崎君は曰く、以前はもつと古いのがまだ方々に在つた。さうして墓地であつたかと思ふ處が多いといふことである。私には是は全く始めての經驗であつた。

　それから洗馬《せば》の村に行つて見ると、爰では東漸寺の門頭に一本の老樹が花盛りであつた。檀家に死人のある前兆に、梢に提灯が點つたといふ傳説の木である。其外にも尚一二本のやゝ若いのがあるだけで無く、寺にしだれ櫻のある例ならば、何村にも何々寺にもと、居合せた人々が指を折つて列擧する。なるほど是は注意して見なければならぬと思つた。私の記憶するしだれ櫻はさう多くないが、仙臺以北の庭櫻は、普通にしだれて居るのだから別として、其他は寺に屬したものが多かつた。ある年丹波の福知山の奧をあるいて見ると、小山の頂上に近く寺があつて、それを取圍んで十數本の木が花盛りであつた。山を越えて播磨の多可郡に入つて見ても、やはり此木の目につく處は皆寺であつた。此頃の小學校でこそ競うて栽ゑるが、櫻は全體に民家の樹では無かつたやうで、たま／＼里中に在るといへば、大抵は堂なり祠なりの傍である。私の生まれた家なども明治の十四五年頃に、始めて絲櫻の若木を移植したが、百二(214)十戸の部落でそれが最初の櫻であつたのみならず、今でも此他にはさう多くは見かけないのである。櫻は必ず山に咲いて居るものといふ感じは、村に育つた者ならば皆持つて居たかと思ふ。

　寺にしだれ櫻の有名なものがある例は、先づ京では祇園の長樂寺の夜櫻、東京では上野の觀音堂の秋色櫻がある。さういふ名木が幾らほどあるものか、又反對の場合はどの位あるか。殊に信州に於ては之に伴なふ言ひ傳へと共に、今後精確に其所在を記録して見たいものである。勿論これはまだ頼り無い假定であるが、事によると靈場殊に死者を祭る揚處に、是非ともしだれた木を栽ゑなければならぬ理由が、前代にはあつたことを意味するのかも知れぬ。本來山野に生えて居て、伐り殘されて自然に殘るやうな種類の木で無いだけに、一層最初から人間の意思が加はつて居たやうに思はれるのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　是と必ず比較をして見なければならぬものは、千曲之眞砂附録などに見えて居る天狗の枝垂栗の記事である。筑摩と伊那との郡境・南小野の三分村の三分峠の麓に、天狗の林といふ林があつて、木は一本も殘らずこの栗の木であつた。枝は柳か絲櫻の如く靜かにしだれ、地に屆くばかり栗の實がなる。天狗の栗と稱して其實を取る者無く、たゞ地に落ちたるは拾ふと誌してある。是は百八十年前の寶暦初年の事實だから、多分同じ木同じ土地ではあるまいが、今でもあの邊には此木の多い處があるといふことである。さうして信州では必ずしもさう珍しい木では無かつたらしい。たとへば和田峠の西の餅屋から、僅か諏訪の方へ降つた處にも二本あつた。大田南畝の享和二年の紀行に、左の岨《そば》に栗の木の枝を垂れて、垂絲海棠《しだれかいだう》の如く見ゆる木二もとあり。こはいかなる木と問へば栗の木なり。昔より天狗の休み所と謂ひならはして、かくの如くしだれたりといふとある。是も百二十年餘になるから現在はもう無いかも知れぬが、處をかへて同じ言ひ傳へは殘つて居らぬとも限らぬ。此地方の諸君に、是から注意してもらふべき問題である。

(215)　栗と櫻と二つの類例の相異點は、一方は天狗樣に對する崇信、他は普通に死靈と結び付いて居たらしいことだが、峠の神の起原には、路に死したる旅人を祀つた例も多かつた。永い年月の間にはさういふ不幸な旅客も相應にあり、もしくは時々の恠異を其種の亡靈の行爲と、解する理由が出來て居たと見えて、峠の塚や石塔にはさういふ遺跡が多い。山の中だから山の神だと思ふ混同は起りがちであつたらう。しかも一方には精靈が樹に依るといふ信仰は、よほど古くから廣汎な區域に及んで居たのだから、必ずしも直接の關係は無く、雙方別々に斯ういふ習俗は發達し、又は殘留したとも考へられぬことはない。何にもせよ墓所や寺の庭にしだれ櫻のあることゝ、山で天狗の木といふのがしだれ栗であつたことゝ、假にこの二つの現象はもつと遠方の地に離れてあつても、尚根原に何等かの共通するものがあることを、想像させずには置かぬやうに思ふ。

　習俗といふ語を爰に使ふことは、まだ少しく早いやうであるが、わざ／＼實を播き移植しなくとも、自然にある木を伐り殘し、もしくは戒めて手を觸れぬやうにするのも人の意思である。それだけの所謂不行爲が若し無かつたら、峠の傍にしだれ栗は生ひ立たなかつたわけである。神木の成長に就いては以前に書いて見たものもあるが、最初一度は必ず微々たる若木の、特別の待遇といふことがあつたのである。記念植樹の場合で無くとも、是だけは大切にして置かうといふ氣になるのには、何か十分なる理由が無くてはならなかつた。私は諸國の夫婦松《めをとまつ》や三本杉といふ類の名木は、何れもそれ自身に保存せらるべき性質を具へて居たものと考へるのだが、其以外にも「捻れ木」と謂つて二木の幹のからみ合つたもの、「日通し」と稱して南北二股に分かれた木などは、何か隱れたる神意の下にさうして置かれるものと解して鎌斧を當てなかつたのである。さういふ畸形も列擧すればまだ澤山にあらうが、其中でも最も普通であつたのは、この枝垂栗の類であつた。勿論枝葉の空を指すのを常とする植物が、垂れて居る故に靈異と感ぜられたので、其爲に各地の逆さ杉逆さ銀杏や逆さ竹は七不思議にも算へられた。?《かし》や椎の木などの中にも、しだれて居る故に保存せられたものも稀には有るやうだが、何と言つても最も數多くあつたのは松の木である。笠松又は傘松の名は(216)有つても無くても、山野に孤存する多くの神樣松は笠形であつた。さうして星降りの松とか影向《やうがう》の松とか、現實に神靈の此木を梯《かけはし》として空より降つたことを、傳へ説く例も多かつたのである。栗のしだれ木なども是と同樣に、特に常性に反してそれだけが下に垂れて居ると、乃ち山鬼の乘り憩ふべき豫定席と認めて、手を觸れ實を落すことを忌み憚つたといふのは、要するにすべて昔の人達の、精靈の行動に關する特殊なる考へ方の結果と認められる。それから推して行けば、墓地や行旅死亡者を埋めた場處を標示すべく、特に枝垂れた櫻の若木を持つて來て栽ゑたといふことも、單に其土地が常用に供すべからざる一區劃なることを人に知らしめる目的以外に、人間の魂魄も亦蒼空を通つて、祭られに來るものと信じて居た痕跡とも想像し得られるので、つまりは此一現象がさう小さな遊び半分の、どうでもよい問題でなかつたことを意味するのである。私は兎角つまらぬ事を大きく見ようとする癖があると言はれて居るが、この問題などは初めから決して小さくは無かつた。幽靈がきまつて柳の木の下に出るといふことなども、實は六つかしい問題であつた。それを柳の木は何だか凄味があるから、ちやうどよく幽靈と調和するのだなどゝ、言つて濟まして居る人が多い。そんなら何故にしだれた柳が物凄く感じられるかと問ふと、又幽靈が?々其下に現はれるからとでも答へるだらう。それでは問題はぐる／＼廻りだ。其方がよつぽどをかしい。

　

　　　　　　　　　　三

　

　それよりも自分たちが元へ遡つて考へて見たいのは、何故にしだれ櫻の花は艶にやさしく、三階松の緑はけだかく清々しく、我々の眼に映ずることになつたかといふ最初の理由である。能や三番叟の舞臺の正面には、必ずこの枝垂れたる松の木を描くことになつて居るが、それは前代の神降し行事が、必ず面白い舞の形を以て行はれたことを、語るもので無くて何であらう。人は此等の舞の藝を、單なる悦樂の用に供するやうになつても、尚背景に斯ういふ老松の姿を見ぬと、刺戟と昂奮とは完全であり得なかつたのである。近代の人家の林泉の樂しみなども、たゞ任意の天然(217)の一斷片を切つて取入れようとしたのでは無かつた。是非とも中央に枝の垂れたる一本の心木《しんぎ》を要し、それが又普通は松であつて、其下には表の平らな石をあしらふことになつて居る。石は其數が法則として三つで、一つは凭り一つは足を置き、中の一つは腰をおろすやうに高低があつたのも、多分は神を祭つた日の光景を留むるもので、果して其側には清き泉が流れ、又は靜かなる池が湛へて居た。即ち庭園藝術の鑑賞にも、同じく亦それに先だつて、我々の美にあこがれる心はあつたのである。庭は或土地の方言ではロヂと謂つて居る。ロヂは露地とも書いてどうしてさういふかを解し得ないが、ツボは即ち又ツボニハとも謂ふから、圍はれたるニハの意に相違ない。ニハは本來は作業場といふことである。主としては農作物の加工や衣食調製の爲に用ゐられるが、其一部分だけは之を區劃して、今一種の特別な作業即ち季節毎に神を迎へる場として居たのである。春の始めに御松を迎へて來ることも、坪に老松を栽ゑ門に垂柳を靡かしめたのと、本の心は一つであつたと考へられる。たゞ一方は臨時であるだけに次第に略式にもなつたが、他の一方は常設の靈場である故に、出來る限り姿のけだかい木を好んで、家の誇りを示し頼みを掛けて居たのであつた。庭に栽ゑる木と栽ゑない木の種類も改めてもう一度此意味を以て見直すべきである。梅とか柘榴《ざくろ》とかいふ唐樣の木は除いて、大體になり果物の木は坪庭には入れられなかつた。是にも所謂「みならぬ木」の信仰などがあつて、神に占められるには適しなかつた爲かと思ふ。武道はなり下るなどゝ謂つて、蔓物も亦忌まれて居た。此方は反對に餘りにも其光景が物々しい故に、叨《みだ》りに是を生ひ茂らしむることが出來なかつたのではあるまいか。松に藤波の咲きかかる風情は、繪卷物によく見えて居る貴人の家の春の樂しみではあつたが、村里では只神の森、若しくは古塚の上などに之を見るだけで、尋常の民家には稍々高尚過ぎて居たやうである。

　最後にしだれ櫻の問題には今一つ、自分のまだ明らかにし得ないものが殘つて居る。それはどこから其若木を得、何人がそれを郊野に栽ゑ始めたらうかといふことである。是が幸ひに答へ得る時が來れば、和田村などの歴史も又著しく其興味を加へるに相違ない。といふわけは習俗は前代住民の生活の反映に他ならぬからである。前にも言つた如(218)く、東北地方の櫻は、しだれて花の色の艶に美しいものが多い。私の家にも吉野作造氏から貰つた仙臺のしだれ櫻を三本栽ゑて見たが、一本は枯れて他の二本もまだ咲かない。櫻には殊に土地の特色が多く、勿論次第に傳播しては行くが、尚行く先々で少しづゝ性質が變るらしい。筑摩高原のしだれ櫻が、本來どの方面の種であつたかは、植物學者が今に之を發見してくれるであらう。さうすれば習俗の起りについても、少しづゝの見當は出來て來るわけである。日本人の生活技術、又人生の觀照態度には、勿論大いなる共通點はあるのだが、しかも家々門黨は其中に於て出來るだけ異を立て特長を發揮しようとして居た。傳記と傳説とはすべて其努力の痕であつたが、尚無意識にも色々のものを殘して居る。例へば美濃には土岐の一族の如く、桔梗を紋所とする者が繁榮して居た。此花の蕾を精靈の宿りと考へて之を手に持つて祭をする風習は、弘く此周圍の田舍に行はれて居たから、此家も亦特別に此花を重んじたことが察せられる。甲州の小笠原の松皮菱は、別に三目結ひの名もある故に、單なる染模樣の一片からとも見られるか知らぬが、それでは餘りに選定の理由が輕微である。是などは或は三階松、即ち神の梯立《はしだて》としての枝垂松に、何か感動すべき奇瑞があつた結果、永く記念の家じるしとしたのかも知れぬのである。しかし松とか桔梗とかは、全國到る處にある植物だから、たま／＼特に之を紋所とする家筋があつても、唯以前其信仰が其故土にもあつたことを語るに過ぎないが、垂絲櫻の方は培養變種かと思はれる故に是によつて時代も確かめられ更に其傳來の路筋も分かつて來る希望がある。其上に現に遺物は存し、又幽かながらも口碑の之に伴なふものがあるのである。斯ういふ事實こそ空々に看過ぐさぬ方が本當だと思ふ。そこで民族心理の學問の爲に、次の三つの質問を掲げて是を將來の研究者に引繼いで置かうと思ふ。

　一、しだれ櫻の老木を見られたことは無いか。

　二、もし有るならばその場所はどんな地形であつたか。

　三、其木には名は無かつたか、何か此木に伴なふ口碑の類は無かつたか。

(219)　　（附記）　寺に枝垂櫻を栽ゑた例、信州では東筑摩郡諏訪郡になほ十敷處あることを「郷土」一卷二號に藤野小口酒井の諸君詳しく報ぜられ、又備中でも都窪《つくぼ》郡輕部の乳の神の神木垂乳根櫻、老木のしだれ櫻なる由、桂又三郎君報告せられた。駿國雜志卷二六には安倍郡中にも寺に名木の垂櫻あるものを四處、又淺間神社の廻廊の左右にもあり、牛妻村光明寺の境内にはしだれ栗があると出て居る。松崎｜慊堂《かうだう》の慊堂日歴、文政九年二月二日の條を見ると、江戸でも廣尾の光林寺や鳴子の成願寺などに垂櫻が花盛りであつたとある。今でもまだ捜せば方々にあることゝ思ふ。�ｺ島縣老木名木誌にも社寺や古塚の傍に年經たる垂櫻のある例を幾つか擧げて居るから、此樹を靈地に栽ゑる風習を、信州獨特のものゝ如く見ることは許されない。たゞ中世の日記に信濃櫻とあるものが、しだれ櫻であつたことが確かめられた場合に、始めて是が信州の問題になるのである。信濃櫻の記事は、後法興院日記明應七年九月廿一日、同十年二月十九日以後等の條に、たび／＼移植獻上分配のことが見えて居る。一度かゝつて細かく他の日記類をも捜して見ようとして未だ果さない。白井秀雄の隨筆「しのゝはぐさ」には、信州から奧羽にかけてある英《はな》大にして淡紅なる八重と一重の櫻は、なでん（南殿）の櫻といふ種類だと謂つて居る。是が京都へ移植せられた信濃の櫻だとすると、それは自分の注意して居る枝垂櫻ではないやうである。東筑摩の島内村などでは、田の畔などの閑地に櫻を多く栽ゑてあるのを、時々買ひに來る者があつて、枝を二尺ほどに切つて京都方面へ、今でも送り出して居ると池上喜作君は謂はれた。此櫻も枝垂でないさうである。上下伊那郡の野生枝垂栗は、その後天然記念物に指定せられ、その報告書が公刊せられて居る。其前後に河野齡藏翁から賜はつた鉢植の一本は、今私の家の園に根を下して、成長して一丈餘になつて居る。

　

(220)　　　　　信濃櫻の話

　

　子供が桃や柿の芽生えを見つけて來て、庭の片隅に栽ゑて置くやうな心持で、棄てもせず忘れてもしまはず、時々來て見るといふ程度の問題が、私には十ばかりも有る。いつ實がなるといふ當ては無いが、是でもたゞの野生とはちがつて、僅かながら人間の意圖が籠つて居る。誰かゞ引取つて育てゝくれるまで、目じるしの棒でも立てゝ置かうといふだけのものゝ、是はその一つである。

　十年ほど前に世に出した信州隨筆といふ本の中に、私はしだれ櫻の大きなのが信州に多いといふことを書いた。しかしそれから氣を付けて見ると、それは決して爰だけには限らず、少なくとも京都から東では諸處方々に老木のしだれがあり、その在り處も神社佛閣、その他靈地と謂つてよいやうな場所が多いことは、信州とあまりかはりが無い。たとへば近頃讀んで見た駿國雜志でも、靜岡附近には名木の絲櫻がある寺院が幾つもあり、江戸でも上野の護國院、芝の増上寺を始めとし、大きなしだれ櫻のあつたといふ寺が、六七ヶ所も列擧せられて居た。これ等は大抵はもう滅失して居るやうだが、最近に私の行つて見た多摩川對岸の、乞田《こつだ》の吉祥院の門の傍に在るのなどは、高さ五六丈もあるかと思ふ見事な大木で、しかも些しも老い朽ちては居なかつた。殘念なことには、ちやうど花の盛りに逢ふといふことが少ないので、たゞしだれと謂つても同じ種類のものか、否かといふことを確かめることが出來ない。この點が先づ氣になるので、まだ進んで分布の道筋を尋ねて見ようとする勇氣が起らなかつたのである。

　しかしたゞ伐り殘されてそこに在るといふだけのものとしては、餘りにも其場所がきまつて居り、又枝ぶりや花の(221)姿の特色が著し過ぎる。やはり何處かに元木があり、接木取木の法があり、又は種を拾ひ實生《みしやう》を育てる手數があり、之を遠近に運ぶ勞働があつて、今のやうに弘い地域に行渡つたものと想像せられる。信州で始めてこの花に私が心づいたといふことは偶然に過ぎないけれども、外からわざ／＼この山國へ、持込んだといふ場合は考へにくいから、或はひよつとすると原産地といふべきものが、どこか此地方に有るのかも知れぬと思つて居た。ちやうどさういふ折柄に、圖らずも信濃櫻といふ名の花があることを私は知つたのである。それが果して信州で自分が見て居るあの大木のしだれ櫻と、同じ種類のものだつたかどうかといふことは、當然に問題にならずには居ない。さうして是もどうやら花のうつくしい、且つ見事に成長する絲櫻だつたらしいことが、少しづゝ判つて來たのである。今でも信濃櫻といふ名を知つて居る人が、京都以外の地にも居るであらうか。此點を何とかして尋ねて見たいと念じ始めたのも其爲である。

　始めてこの信濃櫻の名を見付けたのは、先年平泉澄氏等の手で校訂活刷した後法興院記近衛｜准后《じゆごう》政家といふ人の、寛正永正年間（一四六六−一五〇五）の日記である。亂世にも拘らず、珍しく庭苑花木に關する記事の多い日記だが、一つには時代一般の趣味であり殊に蹴鞠が上流の間に流行して居たので、それに伴なうていはゆる懸りの樹の好みが、枝垂れた柳や櫻の移植を促したものかと思ふ。先づ最初に文明十六年十月廿四日の條に、前庭植信乃櫻十本とあるが、是は其前年に家を新築した爲なので、舊い住居の方でも前庭櫻花盛開といふ記事が?々見えるから、元來が花の多い家だつた。それから十五年ほどの後明應七年の九月にも、屏中門の外へ信濃櫻四五本を移植したとあり、更に同十年にも何本かの信濃櫻を、取寄せて栽ゑさせた記事が見え、是には鞠の家元の飛鳥井家の主人が參與して居る。鞠の庭の周圍であつたかどうかは明らかでないが、ともかくもこの家には櫻が多く、それが信濃櫻といふ種類のものだつたことだけは是で判るのである。

　この木が確かにしだれ櫻であつたといふ證據は、單に同じ日記の中に、前庭の絲櫻といふ條が多いだけで無く、他(222)にもまだ幾つか求められると思ふ。たとへば江戸期も終りに近くなつて、或京都人の書いた「思ひのまゝの記」といふ隨筆が、隨筆大成の一輯卷七に出て居るが、其中には次のやうな一條がある。

　　近衛殿庭前の絲櫻は有名の樹なり。その枝垂れて地に付く。官地となりしより培養無ければ中央まで枯れたり、惜むべし。往古の近衛殿の絲櫻といひしは、寺ノ内の南、御靈圖子の別邸の絲櫻のこと也。家記に信濃櫻數樹を植ゑられし由見えたり。

　この家記といふのは、前に擧げた政家の日記かも知れぬが、或は其前後の家長たちの書いたものにも、この事が出て居ないとは限らぬ。段々に探して行く手がゝりは有ると思ふ。何れにもせよ、京都の故老にはこの櫻を知る者は少なからず、たゞ邸宅が折々移つた爲に幾分か言ひ傳へが區々になつて居たのであるが、それも京都坊目考などには詳しく考へてある筈である。之に就いて思ひ合されることは、芭蕉の七部集の「冬の日」の第一歌仙に、

　　　　隣さかしき町におり居る

　　　二の尼に近衛の花の盛り聞く

　　　　蝶はむぐらにとばかり鼻かむ

といふ一續きがあるが、この近衛の花といふのも、やはり信濃櫻の傳來を、うす／＼知つて居た者の言葉であつたと思はれる。

　しかもその名稱がたゞ僅かな人だけの、勝手に付けたもので無いことも證據があるのである。伏見宮家の古い御日記、看聞御記といふものは是も活字になつて居て、不思議に市井の話題に充ちた文獻であるが、後に後崇光院の尊號を受けさせられたこの宮樣も、植物が非常に御好きであつて庭作りの記事が多い。さうして其中にも一箇所、庭前の信濃櫻一本を仙洞へ進らせたといふことが出て居る。それは應永二十八年の十一月、即ち近衛家の十本移植といふ時から、六十三年も前の出來事なのである。五鳳集といふ詩集は今ちよつと年代をたしかめにくいが、其中には細川｜典(223)厩《てんきう》源公の庭の花盛りに開く、俗に謂ふ所の信濃櫻なるもの也云々とあつて、庭下の白櫻千樹雪といふ詩の句を載せて居る。白櫻と云ふのは少しく私の豫想に反するが、それは必ずしも寫生では無いのかも知れない。次には亞槐《あくわい》集といふ歌の卷にも、侍從大納言實隆卿の許より、しなの櫻の返り花の枝に插して、

　　　待つけん人の兄がたき宿なれや年に稀なる花咲きにけり

の一首を贈られたといふことが出て居る。この實隆は日記の主近衛政家と同時代の人だがこの返り花は自分の家の木であらう。實隆公記も今日は活字になつて居るから、捜せばなほ若干の資料が出て來るかも知れぬ。たゞ暇が無いので私はまだ目を通して居ない。

　畔田《くろだ》翠山の古名録には、信濃櫻の項があつて右の二つの詩歌集を引用して居るのだが、その他の幾つかの本草書、又は櫻品櫻譜といふ類の書に當つて見ても、どうも此名稱を掲げたものに出くはさない。言葉が追々と忘れられて來た爲といふことは爭はれないが、それが此種類の木の少なくなり又は絶えたことを、意味するものではあるまいと私は考へて居る。植物には特に同じ例が多いかと思ふが、人はごく容易に知らぬ國の名を、やゝ珍しい種類のものに附けようとする。伊勢櫻や鎌倉櫻などの例でもわかるやうに、もとは彼地にしか無かつたものといふまでの精確なる意味ではなしに、寧ろその方角から持込んで來たものも、中には有るといふまでゞあつたかも知れない。しかし少なくとも信濃櫻は、やゝ尋常山野のものと異なつた特色をもつて居る。どの部分までが培養愛育に基き、どれだけが始めから具はつて居る性質かはきめ兼ねるにしても、そこに選擇があり一つの元木の繁殖があつて、人に助けられて廣く旅行をしただけは考へられる。さうして別に他の地方を名のるものも無いとすれば、信州はやはりその故郷の一つとして、想定せられなければならぬのである。

　人間ことに年を取つた者の旅行が、是から當分は六つかしくなるとすれば、花の寫生といふことが私たちには望ましくなる。植物學者の記述などは、あまりにも凡帳面で、胸に描いて見ることも我々には出來ない。どうかさういふ(224)畫に力を入れてくれるやうな、三熊花癲《みくまくわてん》の如き同志を得たいと思つて居る。そこでやゝ閑談に傾くが此ついでにもう少し櫻の話をして見ると、二十三四年も前に、吉野作造君がわざ／＼仙臺から取寄せたと謂つて、彼地の名物のしだれ櫻の苗木を二本贈られたのが、ちやうどこの窓の外に、こちらを向いて立つて居る。何度も引移したので發育は至つて惡く、それでも二三年前からぽつ／＼と花を著けて、高さはもう二丈ほどになり、枝の端は地に付いて居る。仙臺にはこの木の見事なのが林を成す公園もあるので、之を仙臺の櫻と呼んで皆承知するが、考へて見ると歴史はまだ必ずしも明らかにせられては居ない。茲へも或は最初京都などから、運んで來た篤志家があつたのでは無いか。調べて見る途はきつと有ると思ふ。吉野君がこの櫻の苗を贈られた因縁は、たしかその前の年の春の盛りに、一緒に山形の市に往つて講演をした時、旅館の樓上から見た隣の庭が、小さな櫻の林でちやうど滿開であつた。花の美しさがよく似て居て、何れも若木であつたので誰にきゝたゞしもせずに、我々は是を仙臺から來たものときめてしまつて居た。さうして自分の家にも栽ゑて見たいといふやうなことを、言つたのではないかと思ふ。花に産地の名を付けるといふことには、此程度の推定が多かつたのかも知れない。ところが近頃になつて始めて知つたことは、羽後の角館の士族町をあるいて見ると、殆と屋敷毎に一二本の大木があつて、花は無い頃だつたが話の樣子が、よほど仙臺のとよく似て居て、木の古さはあちらにも負けなかつた。單に樹齡によつて本家分家をきめるならば、こちらから送つたとも言はれぬことも無いと思つた。乃ち共通の先祖といふものが、どうしても改めて考へられなければならぬのは、獨り信濃櫻の問題のみで無いのである。

　物と名稱の離合、又その各箇の變轉といふことも無視することは出來ない。信濃櫻などはたゞさう謂はなくなつただけだが、場合によつては名は又名として別に行はれて居るものがある。是も今から十數年昔の春、對馬の北端の村をあるいて、山の櫻の盛りを賞したことがあるが、この木をタイサンボクと此土地では謂ふと聽いて、私はたゞ泰山府君の訛りであらうと速斷して居た。ところが森口多里君の故郷、陸中水澤の「町の話」といふ本を讀んで見ると、(225)五百里近くも隔てゝ爰にも同じ名の櫻があり、それが物だけは雙方別のやうに思はれた。恰顔齋《いがんさい》櫻品などの記述に依ると、いはゆる泰山府君は虎の尾の一種なりとあつて、たしかに對州で私の見た山の櫻とは同じでない。從つて彼を是からの誤解と見ることが先づ疑はしいのである。古今要覽稿の櫻の部には、屋代弘賢の説として斯ういふことを述べて居る。泰山府君はもと對馬より出た。彼島に於ては之を對山木と呼んで居る。宗對馬守の息女、太田攝津守に嫁する時、この木を携へ來つて之を千駄木の別邸に栽ゑられた。仍て太田家では今もタイサンボクと呼んで居る。然るに櫻町中納言花の壽命を延べんが爲に、泰山府君の祭を營んだといふ故事に據つて、好事の輩が是にこの文字を宛てたのは、却つて後代の附會であらう云々。しかしそれならば元の種類は判つて居る筈なのに虎の尾見たやうなやゝ特徴の多い花に、此名が遷つて行つたのはどういふわけであらうか。或は事によると二つの名稱は、二度に生まれたものが後になつて一つになつたのかも知れない。現に今でも泰山府君といふ櫻には、もう五つまでも變種があるといふことである。

　信濃櫻の場合でも同じことだが、名稱はやはり一種の手がゝりといふに止め、重きを其點には置かぬやうに、物の異同といふことから流布と保存の理法を尋ねなければならぬと思ふ。是が文字を唯一に近い資料として、今まで進んで來た學問の改めらるべき點である。さうは言ひながらも我々の探究がともすればその古くさい方法に傾きやすいのは、問題の中心をはつきりと見定めて、それへ／＼と近よつて行くことによつて防ぎ得られる。假に京都で數百年以前から、信濃櫻といふ名で呼んで居た花が、今も信州で見られる老木の枝垂のことであり、北は奧羽の果までも分布して、愛賞せられて居たものもそれだつたと決しても、そこで止まつたのではたゞの博識で、記憶を勞するまでも無い小さな事實に過ぎない。私たちの問題にしなければならぬのは、何故に斯ういふ枝の垂れた絲櫻が、もとは限られたる一地域の産であり、後には弘く國中にもてはやされるに至つたか。單なる珍奇をめでる心より以外に、何かその背後に之を重く見なければならぬ、古來の感覺が有つたのではないかといふことである。私の一つの假定は、神靈が(226)樹に依ること、大空を行くものが地上に降り來らんとするには、特に枝の垂れたる樹を擇むであらうと想像するのが、もとは普通であつたかといふことである。即ち幽靈を垂柳の蔭に思ひ合せるのと、同じ心持が櫻や栗の木の場合にも働いて居たのではないか。少なくとも今はさう思つてこの問題を注意して居る。

　家の庭に又は蹴鞠の懸り木に、之を栽ゑるのは轉變であり、且つは一種の忘却とも考へられ、やはり一方の社や寺の前、その他靈地タッシヨといふべき處に限つたのが、田舍に古い感覺の取殘される例かも知れない。乃ち都鄙年代の前後には依らぬのである。行脚隨筆といふ百數年前の紀行に、上州｜北甘樂《きたかんら》郡下瀧村の慈眼寺に、古いしだれ櫻の木のあつたことを記して居る。足利尊氏がこゝに來て此花を賞し、連歌の一座を興行したといふのはどうでもよろしいが、今でも村の人々は此地を冥土の往來の入口といひ、一つの洞穴をその口碑と結び付けて居る以外に、曾て亡靈が現はれて、此櫻の花を見て來た者は地獄の責苦を免れるであらうと、言つたといふことまで語り傳へて居る。花見が一つの祭の式であつた時代が、上世にはあつたらしいといふことが考へられる。

　その最初の樹といふものが、枯れずに殘つて居る筈はもう無いけれども、前には山野のさういふ木の在る處に、こちらから出かけて迎へ祭をしたものが、後々任意の靈場を設定するやうになつてからは、次第に若木を育てたり、又は移植するやうな習はしを生じ、それが又この一種の木の分布を、助けたものとも見られぬことは無い。原地をどこと指すことは出來ぬまでも、ともかくも今ある社や寺の創立よりも古く、又はそれとは縁の無い由來不明のいはゆる雜種地に、?々しだれ櫻の老木を見るといふ地方ならば、曾てこの信仰習俗の行はれて居た遺跡と推定してよいのではなからうか。さうは概括していふことは出來ぬまでも、特に大きな樹があつたといふ記録は、注意すべきだと私は思つて居る。松屋筆記卷八十八に、次の樣な記事があつて是は文政年間の事實である。曰く、

　　益澤｜勾當《こうたう》話、信州飯田眞言宗普門院に、しだれ櫻六抱半の木、同近邊山本村、近藤登之助陣屋に、七かゝへのしだれ櫻あり。又高遠城には五かゝへの櫻あり、是はかば櫻かしだれ櫻か不詳云々

(227)　京都で伏見宮、近衛殿の庭の櫻などに比べると、どちらが年上だつたかは決し難いが、少なくとも前の二本の大木などは、其寺よりも陣屋よりも古くからのものであつた。それが自然の生木を伐り殘したのでは無く、わざ／＼若木を移して來たものだつたとしても、その趣意目的は恐らく京の二箇處と、全くちがつたものであつたらうと私は信じて居る。

　

　（附記）　山宮考の中には書いて置かなかつたが、伊勢の山田の度會氏の山宮祭場には、泰山木といふ木があつて、そこで其祭をしたと二三の書に見える。その泰山木といふのはどんな樹であつたらうか。今はもう跡形もあるまいが、誰か覺えて居る人は無いかどうか。多分櫻の木をさう謂つたのではあるまいか。なほ如何にしてさういふ名が出來たかゞ、自分にとつては好い參考になるのである。

　

(228)　　　　　なんぢやもんぢやの樹

　

　　　　　　　　　　一

　

　信州に感謝しなければならぬ私の第二の問題は、しだれ櫻に比べるとずつと古い歴史をもつて居る。自分はまだ二十歳の夏、友人と二人利根川の右岸を旅行して、利根川圖誌でお馴染の、香取郡｜神崎《かうざき》の「なんぢやもんぢやの木」を始めて見物した。始めてと言つてもそれから三十何年、折々あの御社の森の下を通るが、實は再びは參拜して居ないので、どうして斯ういふ珍しい木の名が起つたかの疑問は、其時に抱いたまゝを持越して居たものである。青山の神宮外苑に在る同名の木が注意せられたのは、白井博士の最近の記述（史蹟名勝天然記念物五集九號）に依れば、明治三十六年の末のことだといふから、それから又何年か後の話であつた。其際にも確か新聞に寫眞と詳しい記事が出て、自分は無論強い好奇心を起したのであつたが、まだこの二箇處の樹の異同を究めて見るには至らなかつた。此名稱が愈々深い意味を有つて居ると感じたのは、「信濃教育」の矢澤さんの報告を讀んでから後のことである。

　下總神崎の「なんぢやもんぢやの樹」は、利根川圖誌には本草綱目載する所の山桂樹の類なりとある。高田與清の鹿島日記には年經たる大桂の木とあるが、二書はほゞ同じ頃に出來た本だから、知識のもとは一つであつたらうと思ふ。明治三十三年刊行の香取郡誌も尚之に由り、たゞ一説に薩摩地方にいふイヌグスといふ樹だといひ、又は普通のクスノキだとの説もあるといふことを、書添へて居るだけであつた。從うて此名稱の起りが、樹の種類とは全く關係(229)が無いとまでは言ひ切れなかつた。ところが信州の類例が幾つと無く現はれた結果、漸くのことでそれが疑ひの無いことになつたのである。丁度其印象のまだ新しい頃に、自分は又常磐線の汽車の中で大學の川村清一教授と逢つて此話をしたことがある。其折には川村氏も神崎の「なんぢやもんぢや」だけは、正しく通常のクスノキだと斷言せられた。それから後になつて、清宮秀堅翁の下總國式社考（神祇全書本）を讀んで見ると、是には明白に樟樹だと書いてあるのであつた。樟ならば房總三國に亙つて、さう珍しいといふほどの樹でも無い。現に同じ香取郡でも府馬村の宇賀神社の境内にも一本古いのがあつて、その大きさは却つて神崎社頭のものに優つて居るのである。なまじひに何の木だか分明せぬから斯ういふ名を付けたといふ説のある爲に、知りつゝもうつかりしたことは言へぬと、思つた者が多かつたらしいのである。

　江戸の青山六道辻にあつたといふヒトツバタゴは、場處がよい爲に非常に高名になつて居るが、その樹齡は決して高くない。保存協會の報告（植物の部第五）にも見えて居る如く、幕末に此土地に住んで居た某本草家の庭上の樹として、若木を育成したのだらうといふ想定は恐らくは當つて居る。少なくとも此樹が尾張の山中に於て發見せられ、一つ葉タゴといふ和名を付與せられたのが、大よそ利根川圖誌や鹿島日記の世に出たのと同じ頃の事であつて、それより前から江戸に知られて居たわけでも無いらしい。珍しい木だから「なんぢやもんぢや」と呼ばうといふ考へは、事によると下總香取の方から、學んだものかも知れぬのである。神崎の樟樹は老木であつただけに、其名稱も亦近年のものでは無かつた。嬉遊笑覽卷十二に引用して居る俳諧葛藤は、多分元禄以前の著と思ふが、それには「下總かう崎の岸に舟を寄せ、なんぢやもんぢやの木を尋ねて」と端書して、

　　　何若葉自問自答の郭公《ほとゝぎす》

といふ句を載せて居る。即ち江戸の文人には、其頃既にこの奇拔な名稱が注意せられて居たのである。新たに何かの珍木が出現した場合に、それに同じ名を借用したとしても不思議とは言はれぬ。但し我々の看過すべからざる一事は、(230)笑覽の著者喜多村氏がこの後に附加へて「なんぢやもんぢやに二種あり、此にいふは樟木なり云々」と言ひ、別に今一種の同名の木があることを、既に知つて居たと思はれる點である。それが果して青山の六道辻の木、もしくは其親木であつた尾張山中のヒトツバタゴであつたのか。もしくは他に尚さういふ類例を聞き知つて居たのかといふことが問題になるが、自分は後の方の推測に傾いて居る。今まで何人も心付かなかつたことだが、喜多村氏の家には信州から來て居た奉公人の中に、一人大さう話の種の多い者があつて、先生はそれから色々の材料を聞出して居ることが、此著述の處々に窺ひ得られる。たとへば今私の集めて居る瓜子姫とアマノジヤクとの昔話なども、その若い信州人から教へて貰つたと言つて、小縣郡あたりに今も行はれて居るものと、同じ形の話を略記してある。斷定をするには勿論まだ早いが、或は「なんぢやもんぢやの木」の北信にもあつて、それが樟樹で無いことを既に知つて居たのでは無かつたらうか。假にさうだとすると民間傳承の學問が、新たに長野縣に起らんとするのにも、隱れた因縁はあつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　「信濃教育」のなんぢやもんぢやの報告は、二囘あつたやうに自分は思つて居たが、小池直太郎君に調べて見て貰つたら、先づその一囘分だけが手に入つた。今一つは別の雜誌であつたかも知れない。もう少し探して見ようと思ふ。矢澤氏の記述の出て居るのは、大正四年十一月號（三四九號）であつて、是にはたゞ三本の「なんぢやもんぢや」が擧げてある。其一つは南佐久郡大澤村の小學校の北の某寺にあるもの、樹種はトラノヲモミ一名ハリモミといふもので、火災に遭つて今は既に枯れて居るとある。第二は小縣郡鹽尻村の東方の山の頂上に在るもので、樹種はヤマエンジユ又フヂキとも謂ふものである。第三は上水内《かみみのち》郡芋井村の名木神代櫻の少し下手《しもて》の畠の中に在る樹、實は此地方でネレノキと謂ふアキニレの木であるのだが、奇妙な傳説が是には附いて居る。人が欅だといへば榎となり、榎だといへば(231)又他の木となる。花咲くこと無くして實を結ぶ。俗に又「名無し木」とも謂ふとあるのは、殊に自分等の面白いと思ふ點である。どこの學校にも保存せられて居る雜誌だから、此以上に詳しくは引用しないが、我々にとつては是は誠に大切な記録であつた。神宮外苑のヒトツバタゴなどゝは違つて、珍しいとは言つても兎に角に名があり、又其名を知つて居る者があるのに、之を「なんぢやもんぢや」と呼ぶに至つたのは、別に理由が無くてはならぬ。さうして其理由は今はまだ不明なのである。是は尋ねて見る價値があると思ふ。

　長野縣以外にも同じ名を持つ樹木が、まだ幾つもあるといふことを矢澤氏は注意をして居られる。たとへば常陸筑波山の「なんぢやもんぢや」はアブラチヤンの木、上州新田廟に在るものは亦クスノキだとあるが、自分はまだ實物を見たことが無いのは勿論、以前何人によつてそれが報告せられて居るのかも知らない。此點も亦大いに感謝しなければならぬと思つて居る。但しなんぢやもんぢやの木、信州にはこの三本とある點だけは、あれから以後の十五六年間に、矢澤氏は勿論、他の諸君も訂正増補の必要を認めて居られるに相違ない。自分は早くそれが知りたいのである。自分の心づいて居るのは北安曇郡誌に一つ北城村｜蕨平《わらびだひら》區の觀音堂にある木で、是はまだ何の木だとも確かめられて居ない。單に三百五十年前に此堂建立の際奉仕の僧の栽ゑたものとあるばかりである。是だけ有る以上は必ず此以外にも何處かに有るか、又は有つたといふ話が記憶せられて居ると思ふ。今後は何とかしてもう少し注意して聞き出し、同時に其木の種類性質、是と土地の住民との關係を明らかにしたいものである。私が最近に知つたのは、東京府下のしかも自分と同じ郡の一方の端、保谷《ほや》村大字上保谷字上宿、下田某といふ舊家の持つて居る桑畑の中に在るもので、高橋文太郎君が寫眞を取つて送つてくれられた。現在あるものは以前の大木の後に芽生したもので、高さ僅か七八尺、三本の幹が根から岐れて立つて居る。なんぢやもんぢやと謂ふばかりで、古老に訊ねても樹名を知らぬが、素人目には樟か又はその一種かと思はれると高橋君は言つて居る。單に發育?態が惡いといふだけで若木では無いらしく、秋になると實が熟するといひ、又今から三十年も前に、此木の枝を伐つた爲疫病に犯されたといふ話もある。

(232)　それから今一本、やはり千葉縣の長生郡｜土睦《つちむつ》村大字寺崎（舊稱勝見宿）の宿中にも一本あつたことが、房總志料續篇に見えて居る。其葉は槻《つき》に似て大なり。人その名を知る者無し、依つて「なんぢやもんぢや」といふとあるが、八九十年前に此書の出來た時既に大木であつたといふから、斯ういふ往來の衝ではもう恐らくは保存せられても居るまい。しかし幸ひに殘つて居たところで、單に其枝葉花實を檢して見たばかりでは、どうして斯ういふ名が出來たかの解説は得難いといふことだけは、もう信州の實驗によつて判つて居るのである。今日知られて居る十箇所の「なんぢやもんぢや」に於て、少なくとも六つまでは互ひに縁も無い別々の樹であることが明らかになつた。即ち之をさう唱へるに至つた最初の理由が、何か木の種類以外にあつたといふことを考へさせる一つの手掛りであつて、それが突留められると人類の命名行爲の法則、物に一つ／＼の言葉が附着するに至つた順序、即ち國語の歴史の今まで最も輕んぜられて居た部分が、是から追々に興味を引くことになるかも知れぬのである。現在の物の名は大部分は符號であるけれども、單に之を他の物と差別する爲だけならば、さうは付けなかつたらうと思ふやうな、面倒な名が多く遺つて居る。其中でも殊に複雜なのは人の名であつたが、尚其他にも神の名や土地の名の如く、我々が選定を鄭重にしたものはまだ幾つかある。佳い名惡い名が將來の幸福までを支配するといふ思想は、姓名哲學などゝ稱して今日も横行して居る。過去の俗信なりと言つてしまふことも出來ない。それが曾ては公共の問題であつた時代があつて、暗々裡に個人の種々なる提案の中から、取捨し選擇する働きがもし社會に無かつたら、少なくとも各地の固有名詞などは斯うして確立し又流傳することが出來なかつた筈である。「なんぢやもんぢや」の木の名が始めて唱へられた時に、それが何人の耳にも成る程適當の名だと感じられたことは、たつた一本の香取神崎の實例からでも、之を想像することが自分たちには出來る。ましてこの山國の丸で異なつた樹の種類に、多分は偶然に同じ事實が現はれで居たとすれば、いよ／＼以て斯ういふ命名の風習が、一人や二人のやゝ事を好む者の思ひ付きから、出たもので無いことが察せられるのである。

　

(233)　　　　　　　　　　三

　

　此斷定は更に多くの資料の採集を待たなければならぬが、今ある記録だけからでも、尚若干の推測は下されぬことは無い。例へば上水内郡芋井村の「なんぢやもんぢや」が、一名を名無し木と謂つて居たのも一つの名であつた。是と同名の名木は越後の南蒲原郡、飯田の三千坊の大伽藍址といふ地にもあつて、それは明らかにアキニレの樹では無かつた。嵐溪史の記す所に依れば、園池に臨んで一大樹あり。土人其名を知らず、稱して没名樹《なゝしのき》と云ふ。皮は銀杏に似、葉は椋に似たり。春候に至り極めて細微なる青白色の花を開く。或人の説に印度に産する銀木樹と稱し、護摩を焚くに用ゐる木なりといふ。枝幹｜崔嵬《さいくわい》として宛然巨人の園池に對するが如し云々とある。ところが以前三千坊といふ大寺が爰に在り、黒鳥一平の亂に燒けたといふのも、實は一群の傳説に過ぎなかつた。從うてこの或人の説なるものも至つて心細いものである。恐らくは分類の學者に見てもらつたら、信州や美濃三河の「花の木」ぐらゐには、分布して居る木の老いたるものであつたかも知れない。「傳説の越後と佐渡」といふ書には、其木も今は枯れて無しとあるが、嵐溪史の方には現存して居る樣に書いて居る。兎に角に名無しの木と謂つた理由は、必ずしも何人も名を知らなかつた爲で無く、人が却つて有りふれた名を之に付與したくない爲に、斯ういふ名を付けて居たらしいのである。單に名を知らぬからさう呼ぶとならば、どこの山にも名無しの木は幾らもあり「なんぢやもんぢや」も多過ぎて困つた筈である。越後飯田の没名樹などは、三千坊の大釣鐘の池の底に沈んで居るのが、此木の梢に登れば明らかに其姿を見られると言つて居り、或は幹を傷けたら血が流れたと言ひ、又は三千坊へ行かう／＼と泣いたといふ話もある。それ程著名な木だから、木名を知り又は付けようとすれば、昔とても決して不可能であつたわけは無い。言はゞ餘りにも貴い木であるが故に、謹んで常人に之を稱へしめまいとしたのであらうと思ふ。

　是と同じ例は捜せば他の地方にもあるかと思ふ。宇井縫藏氏の紀州植物誌に依れば、紀三井寺の名木應同樹なるも(234)のも、この南海に面した山々には、決して珍しくは無いタブの木（イヌグス）であつたが、此寺では開山上人が龍宮から貰つて來た七種の珍寶の一と稱し、之を物々しく應同樹と呼んで居たが、同じ木の熊野古座川の上流一枚岩の附近に在るものは、亦之を「名無しの木」と謂つて居たさうである。勿論斯ういふのは何れも巨木であり、由緒も信仰も是に伴なうて存したので、寧ろ同類の木が近所に多い場合に、之を名無しといふ必要は却つてあつたかも知れぬのである。紀三井寺のタブの木は夙くから固有の名があつたに拘らず、それが最も素朴なる信州芋井の名無し木と同樣に、やはり「花咲かずして實がなる」といふ言ひ傳へを、持つて居たのは面白いことである（　　紀伊續風土記卷十五）。

　名無しが特別の一つの名前であつた證據には、又無名指の例を擧げることが出來る。此指は國語でも奈奈之乃指であつたことは、倭名鈔にちやんと見えて居るが、現在は普通クスリユビ、又はベニサシユビと謂つて居る故に、ナナシは漢語の直譯でもあるかと私は疑つて居た。ところが宮良君の南島語彙稿を讀んで居ると、北は大島島群から南は八重山島群まで、大體に之を「名無し指」といふ者が多く、名護でナシラズ、絲滿で「知らぬ指」といふ他に、最南端の波照間島に於ては、ンダシグルサールビ、即ち「出し苦しき指」といふ名をさへ與へて居るのであつた。他の四本の指がそれ／”＼の所役を持つに反して、此指ばかりは殆と日常の任務に携はつて居ない。それが所謂無名指の呪力を信じて、わざと遠まはしの名前を以て之を呼んだ理由であつたかと思はれる。クスリユビのクスリは藥品に限らず、まじなひのわざも含んで居たのであらうが、今でも此名ある故に小さな丸藥などを此指に附け、又は塗り藥を此指を以て塗る者があると共に、唾を痛み處につけるにもやはり此指を働かせようとする者を見かける。ベニが元來此指を以てさすべきもの、即ち信仰上の意味をもつものだつたのと、後代轉じて毎日の装飾に用ゐられたのであることはもう大抵の人には知られて居る。要するに無名指のナナシなどは、餘りに珍しい爲でもなく、又人が知らぬ爲でも無かつた。之をクスリ指だの呪力ある指だのと、露はに名づくることを我々が欲しなかつただけである。信州の「なんぢやもんぢや」の一本が名無し木であつたことも、之を土地人がネレの木を知らなかつた結果とは、想像することが出(235)來ぬ様に思ふが、諸君の判斷は果してどうであらうか。

　人が欅だといへば忽ち榎となり、榎だと言ふと又變じて他の木となるといふ傳説に就いては、以前「爭ひの樹と榎樹」といふ論文（民族、一卷三號）に、殆と今度の問題を豫想したやうなことを書いて置いた。それを見なかつた人の爲に簡單に再説すると、所謂榎木を日本でエノキ又はヨノキといふのは本來は吉木といふ意味で、元は卜占の用に供したからの名であらう。此木が見る人によつて形を變へ、?々槻と榎、椋と榎との間の混亂があり論爭があつたと傳へられ、後には「椋の實千俵なつても樹は榎」などゝいふ俚諺まで出來たのは古い世に其の樹相を望んで年の豐凶禍福を卜知した名殘りで、それには寄生木《やどりぎ》の最も普通なる一種が特に日本では榎の梢に寓し易かつたといふ天然の事實が、原因を爲して居るだらうといふのがフレエザー教授の説から心づいた私の一つの意見であつた。槻でも椋でも榎でも無い信州の楡《にれ》の木が斯ういふ傳説をもつわけは無いやうなものだが、要するにそれは或古木を靈なりとする場合の至つて普通なる説明であり、信ずる人々には又容易にさういふ風に見えたのであらうと思ふ。各地の「名無し木」が人に省みられざる樹では無く寧ろ正反對にやゝ熱心に注意せられる木であつたといふことは、即ち又「なんぢやもんぢや」の語の由つて來たる所を、推測せしむるに足る根據でもあつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　斯んな悠長な問題はもう考へて居る人も少なくなつたらうが、今まではやゝ速斷的に、なんぢやもんぢやは疑問の語で、現在の「何物ぢや」に該當するそんな方言が、何處かに有つたかの如く考へるのが普通であつた。例へば香取郡誌に載録した河田羆といふ明治の詩人の、神崎祠と題する一篇には、「爲問豫樟千載古、不知名處却傳名」とあつて其自註に祠頭に豫樟樹あり、世人名を知らず、呼んで何物樹と做すと云ふとある。前にも言ふ如く樟樹なら此土地の人は名を知らぬ筈は無いと同時に、何物樹といふ意味に「なんぢやもんぢや」といふ語を使ふことは、恐らくは香取(236)人に限らず、誰一人として知らなかつたらうと思ふ。どこにさういふ日本語があるかと問はれて、答へることも出來なかつた人たちがあの邊は田舍だからさういふ語も曾てはあつたらう位に、輕く推量して居たのが誤りのもとであつた。故山中笑翁の共古隨筆の中には、誰から聞かれたか知らぬが次の樣な話を載せてある。下總佐原の大木とはあるが、神崎のことに相違ない。昔水戸黄門が參詣して、此木はナンヂヤと尋ねられたのを、土人が諒解しかねてナンヂヤモンヂヤと問ひ返した。それを殿樣が答かと思つて、乃ち此木の名になつたといふのは、ちやうど甲州身延山の下流にあるオドレの木の話とよく似て居る。曾て御奉行が舟に乘つて富士川を下る時に、舟夫に向つてあの大きな木は何といふかと聞いた。ところが其問が不明なので舟の者が、おどれでござりますかと丁寧に問返したのを、奉行早合點してあゝオドレと申す木かと謂つた。それでもう訂正することが出來なくなり、以後其木をオドレの木と呼ぶことになつた。今でも岸の上に四五本ある云々。是等は昔話であつて調べると其分布の系統もわかる。果して富士川の岸の山に、そんな名の木が前からあつたか否かは知らぬが、たとへ今までは無くとも、或土地に來てさういふ昔話が土著すれば、名前は後からでも記憶する者が付けてくれる。それと各地に分布して居る幾つかの「なんぢやもんぢや」とは、本來は何の關係も無かつたことは、所謂水戸黄門早合點説の不自然なのを見てもすぐにわかる。貴人に「何ぢや」と聞かれて其意味を解せぬ筈も無く、それを問返すに「何ぢやもんぢや」と言ふやうな、語法も亦無いからである。

　簡單なる説明は、モノといふ日本語の用途が、以前は甚だ弘く、後には段々に狹くなつて來たことである。一つの例はコソコソバナシなどといふ耳語のことを、方言にモノモノ又はモノクソといふ土地は方々にある。モノイヒなどといふ複合語に於ても、亦昔の用法の一部は殘つて居る。我々が標準語の不自由を感ずる場合の一つは、人にやゝ込入つたる事柄を話すとき、もしくはふと用語の念頭に浮んで來ぬ際に、先づ一應「我は答へ得」といふだけを知らせるべく、使用する文句のまだ一定して居らぬことである。之を簡單にモノデスといふ短句で言ひ現はす土地も方々に(237)ある。江戸では此必要だけ遺つて用語がすたれ、「何が何して何とやら」だの「あの何でございますよ」などゝいふのは、疑問辭と混同して却つて不便だが、是も今一つ前には「何やら」といふ語を用ゐて「或もの」といふ意味に代へたのが端緒であつたらしい。狂言記の會話を檢すると、古くは都府の語にも今日のナニの代りに、モノを用ゐて居る例は有り過ぎるほどである。たとへば鷺流の狂言「八幡前」の終りに、

　　シテ「アヽ今歌のさきを思ひ出いてござる。　舅「何と。　シテ「物と。　舅「何と。　シテ「物と。　舅「何と。　シテ「八幡の前に……。　舅「八幡の前に、　兩人「八幡の前に……と引く

　同じく「柑子」の末の方にも、

　　主謠「今一つの柑子を、何と又したぞへ。　太郎謠「物と又致した。　主謠「何と又したぞへ。　太郎謠「物と又致した。　主「何と。　太郎「物と。　主「何と。　太郎「それも私が下されてござる。

　即ち斯ういふ質問に對する最初の答は、必ず一應は先づモノですと答へて居ることは、甲斐信濃の人はよく知つて居る筈だ。だから「なんぢやもんぢや」が問答の木といふことにもなれば、言はれ因縁故事來歴を、持つて居る木といふことをも意味したのである。俳諧葛藤といふ書の世に出た頃までは、江戸の人までが之を自問自答の時鳥と謂つて居た。時鳥は御承知の如く「本尊掛けたか」と啼き、又其後から「掛けた」とも啼いて居る。即ち自ら問ひ自ら答へて居る。神木が自ら「なんぢやもんぢや」と名乘つて居るのも、問はゞ答へんの意味ではあつたらうが、旅人には尚その時鳥の聯想を起させたのであつた。最初の命名者たる土地の人たちから言へば、是ほど要領を得又印象深く、永く此木が尋常の樟又は楡の木で無いことを、記憶せしめるのに有效な名前は無かつたので、其證據には又自分の如き者も、三十何年も經つて後まで、尚此名に就いて斯ういふ研究を試みずには居られなかつたのである。

　

(238)　　　　　　　　　　五

　

　しかも肝腎の傳説そのものが、消えてしまつて居るのは不本意なことであつたが、是は假に今少しく具體的な、名前を付けて置いても之を防ぐことは出來なかつたらう。今日日本に殘つて居る數百萬の土地の名には、起原の説明し得られるものは四分の一も無い。他の大部分は何か傳説の有るらしき地名であつて、しかも實際にそれを保持して居るものは又ほんの僅かなものである。たとへば若杉・箱柳・飯塚・鬼石などゝいふ類の固有名詞は捜せば國内に百以上もあるであらうが、大抵は其地に塚も木石も無く、從うて如何してさう言ひ始めたかを答へ得る者が無くなつて居る。たま／＼傳説のまだ殘つて居るといふ場合にも、その言ふ所はをかしいほど喰ひちがつて、中頃一旦忘れたり壞れたりしたものを後の人が補修した痕跡の露はなものが多い。傳説の昔話などゝ異なつて居る一つの點は、聽く者説く者が共に之を信じようとすることである。それ故に人智が進めば、段々に歴史と矛盾せぬやうに改訂せられ、それが又何としても信じ難くなれば、乃ちいつと無く消えてしまふのであつた。住民各自の感覺は別として、外部から概括して言ふならば、今でもまだ活きて居るといふ傳説は新しく、又比較的重要な改造を經て居るので、よく／＼強烈なる特殊信仰を保持して居る土地でも無い限り、古い形は其儘に傳はつて居らず、單に多數の類例の比較に由つて、或程度まで之を復原して見ることが出來るといふに過ぎない。其比較の目標になるものは、現在に於ては個々の地物、即ち傳説の附著して居る樹木岩石や、塚や池沼などの他には無いのであるが、其中でも樹には年齡を知る方法があり、又名稱を次から次へ移轉して行くやうな處れも少ない故に、一段とその變化の過程を尋ね易いのである。「なんぢやもんぢや」は誠に取留めも無い瓢輕な名前のやうであるが、近世の標準語でもそんなことは言はず、又中古以前にも其樣な語法は無かつた。之を所謂自問自答の意味に、もしくは「さる仔細あり」とか「かゝる謂はれあり」とかいふ意味に用ゐたのがいつの時代の事であつたかは、國語史の研究が進めば今に明らかになるであらう。即ちちやうどさう(239)いふ時代の土地の人たちが、此木だけは平凡なる普通名詞を以つて、呼ぶことを敢えてしなかつた名殘であつたのである。人は歴史々々と頻りに書いたものばかり捜しまはるが、それは大抵ずつと後に出來たものであるのみならず、記録にはたつた是くらゐの事でも、其昔の常人の感覺を、書いて殘して居るものは無いのである。

　獨り傳説や信仰の方面に限らず、人と天然との何千年來の因縁交渉は、今までは之を推究する必要も無く、又その手段も無いものゝ如く考へられて居た。是ほど色々の外國の知識は學んだけれども、自分たちの國土と生活との關係だけは、たゞいゝ加減に知つて居ればよい樣に、思つて居る者が悲しむべく多かつたのである。しかもさういふ惡い癖を匡《たゞ》さうとするには、是非とも先づ方法を見つけ、且つ又其方法を出來るだけ興味あるものにして見せなければならぬ。面白くも何とも無い理窟ばかりを竝べる者は、味方の樣に見せかけて實は郷土研究の敵である。「なんぢやもんぢや」といふ樣な珍しい名を、土地で大切に思ふ樹木に付與して置いて、我々をして永く忘れしめず、又?々疑ひ且つ問はしめようとした昔の人の親切は、將來の學徒も學んでよいと思ふ。自分の推測にしてもし誤り無くんば、傳説ある樹木の名前の付け方は、傳説そのものが進化したと同樣に、やはり時世につれて改まつて來たやうである。たとへば、杖立銀杏とか腰懸松といふやうな、内容を説明した名稱は古いものには少ない。それを今一段と具體的に、いや八幡太郎の旗立櫻だの、いや西行上人の見返柳だのと、愈々動かぬものにしてしまつたのが、近代の地方史學であつた。要領を得て居るか知らぬが、是ではもう少し正確になれば、忽ち矛盾が判つて棄てられるにきまつて居る。以前の名稱は之に反して、一般に遙かに彈力性を帶び、拔き差しの出來るものであつたらしい。單なる「神の木」とか「靈《たま》の木」とかいふ呼び方を以て、内面に豐富なる聯想を授受して居た時代も久しかつたかと思はれる。人がそれだけでは深く心を留めず、強ひて由緒も問はずに過ぎ去るやうな虞れが生じて、是非なく追々に斯ういふ内容を略述する樣な名稱を生じたので、「なんぢやもんぢや」などは丁度その中間の一過程を示すものではなかつたかと思ふ。此假定を確かめる爲には諸君助勢の下に更に數多く樹木の固有名詞を集めて見る必要がある。タブといふ木の以前我々(240)の祖先によつて重要視せられたことは、折口君も既に心づかれて居るが、此木は暖國の産である故に、北の方に來ると次第に稀になり、それに代つて又全く別種の樹を、同じ名を以て呼ぶ習はしも始まつて居る。即ち樹があるから名をつけたといふよりも、何かさういふ名を以て呼ぶべき樹が、人生に必要であつた名殘りらしいのである。イスの木は九州四國では有りふれて居るが、それが北部の稍々珍しい地方になると、別にヒヨンの木といふ名が新たに付與せられて居る。出雲方言考には此樹の花葉に中空洞なる桃實大の變形物が出來て、吹けば鳴る故にヒヨンの木だと謂つて居る。中國の一部には?實（ドングリ）を吹き鳴らす童戯があつて、其爲に其實をヒヨンと謂つた例もあるが、原因はどうもそれ一つでは無かつたらしい。たとへば伊豫｜周桑《しうさう》郡古田のヒヨウの木などは、郷土研究彙報第四號に依ると、一本の木から色々の葉が出ること、今でも此木にさはると腹が痛くなるなどゝいふことゝ、此名前とを關聯させて居るらしい。江戸の數寄屋橋の七不思議の一つに、或老婆の杖を立てたのが成長したといふヒヨンの木のあつたことは前にも書いたが、是などはイスの木（蚊母樹）では無くて、杉に似た木であつたと傳へて居る。青森秋田等の諸縣でヤドリ木のことをヒヨウの木と謂つて居るのは、ホヨといふ古語の音訛ではあらうが、しかもそれがヒヨウの木を以て通用するに至つたのは或は別に耳に珍しい新語音を以て、之を指示しようといふ動機が、まじつて居なかつたとも言はれぬのである。そこで私は次のやうな問題を、又信州の諸君に提出して置きたいと思ふ。

　一、ヒヨンの木又はヒヨウの木といふ樹の名を耳にせられたことは無いか。もしあるならばどんな木。

　二、何か珍しい耳に殘るやうな樹の名を知つて居られるや否。

　三、「なんぢやもんぢや」の木は私の列擧した以外にもあるか否。

　

　（附記）　其後教へてもらつた「なんぢやもんぢや」の所在地。小縣郡本原村字赤井神の山神社の後に一つ。欅かとおもへば木は楡に似、楡かとおもへば葉は欅に似て、花は開かぬが實を結ぶと傳へて居るが、正しくはアキニ(241)レの木だといふ。小山眞夫君報。次に山梨縣東八代那鶯宿峠の「なんぢやもんぢや」の木、これにも杉に見えて杉に非ず、檜に見えて檜でもない不思議な木といふ言ひ傳へがあるさうだが、植物研究雜誌五卷七號に、牧野博士は之を一つの變種とし、リヨウメンヒノキといふ名を付せられて居る。伊豆三島神社の社頭に在る「なんぢやもんぢや」。是は同誌の同博士説に依ればカツラである。埼玉縣松山にも同じ名の木があつて、是は同誌にはイヌザクラだと云つて居る。有賀喜左衛門君報（以上、郷土一卷四號）。この鶯宿峠の樹は山梨縣名木誌に寫眞があり、又天然記念物保存協會の報告にも出て居た。房州鋸山の本寺の側に在る「なんぢやもんぢや」は、沙羅樹ならんといふ者もあるが實は確かで無いと、井上圓了博士の日本週遊奇談に見える。本文に擧げた武藏保谷村の「なんぢやもんぢや」は、マユミの木だつたさうである。

　

(242)　　　　　御頭の木

　

　　　　　　　　　　一

　

　傳説は絶えず推移し又改訂せられて居る。其中で比較的久しく保存せられ、從つて史料としての價値の最も多い部分は名稱であるのだが、我々はまだ其取扱ひに馴れず、且つ國中無數の類型が整理せられて居らぬ爲に、今尚一般に是を利用して前代農民の生活を語らしめることが出來ぬのである。地方研究の是から先の事業は、この廣漠たる雜草の原の如きものを縱横十文字に走り廻ることでは無くて、たとへ片端の僅かばかりでも、開き得る平地を耕して行くことであらうと思ふ。それには信州などでは御頭《おとう》の木の問題が、まづ手近でもあり又やゝ效果を收め易いやうである。私が樹木の傳説に諸君の注意を引かうとする趣旨は、一つには是が實例の殊に多いこと、二つには觀察が容易で、誤認訛傳を發見する便宜の多いことを利用せんが爲であつた。然るにこの御頭の木の問題には、更に特殊の立證方法と、歴史上の興味とを伴なうて居るのである。たま／＼宮地直一氏の諏訪史二卷前篇が世に公けにせられて、今まで文獻の精査を旨とした專門家が更に研究の新生面を展開すべく、「努めて地方傳承の遺聞」に聽かうと言明した好機會でもある。出來ることならば個々の採集者の勞苦が、將來は餘り待遠で無く酬いられるやうにしたいと思ふ。

　

(243)　　　　　　　　　　二

　

　御頭の木といふ樹の名は追々に廢れて行くらしいが、今のうちならばまだ拾ひ上げることも出來る。もと／＼信州では是がごく普通の言葉であつた。さう早速には跡形も無く消えてしまはぬ筈である。但し最近に私の知つたのは、北安曇郡郷土誌稿（二ノ一三八頁）に報告せられた北城村字切久保のオトの木一つであるが、捜したらあの附近にも必ずまだ有ると思ふ。切久保の諏訪明神御遺跡の事は、信府統記にも既に見えて居るが、いつの時代からか、ボツカの徒の信心する所となつて、彼等送り狼の危難を除く爲に、此神社を勸請したといふ口碑さへ傳はつて居る。是が此土地だけの一つの特徴であるのか、はた又他の方面の山間通路に於ても言ふことであるか。斯ういふ點にこそ、殊に多くの例を比較して見たいと思ふのである。

　御頭の木の樹種は一定して居なかつたやうである。北安曇郡切久保のは樅の木で、其空洞に祠を安置してオト神樣、もしくはナイガマ樣と稱へて居る。本社の奧殿に納めてある鎌の形をした鐵製品を、七年に一度の祭典の際に取出して、此木の空洞の中の祠に納めることを「オト神樣が下る」と謂ひ、それから一年の間此祠で祀つて後、再び又もとの奧殿に入れて置くといふのは、注意すべき慣例である。ナイガマは或は内鎌と書いた例もあるさうだが、それは後の宛字で、薙鎌とある方が正しいらしい。多分は大形の鎌を、以前は信州でさう呼んで居たのである。鎌が伐木の際に老樹の幹から出現した實例は、既に胡桃澤氏の「松本と安曇」、小池直太郎氏の「小谷口碑集」にも幾つか掲げられて居る。同じ北城村でも雨降宮の神木の桂の樹から明治初年頃に出たといふ薙鎌は、其神社に今も納めて在り、又北小谷の村社諏訪神社の神寶にも同じものが一つあつて、共に口碑集には其圖を載せて居る。其形?は現在上諏訪の本社の祭典の日に、鉾の頭に附けて立て列ねられるものとよく似て居て、其尖端は蛇か鳥獣か、何か動物の首に象《かた》どつてある。切久保の諏訪社に在るものもやはり他の例の如く、曾てこの神木の樅樹の幹から發見せられたものかも知れ(244)ぬが、是を七年に一度の祭の度毎に、再び其空洞の中に納めて一年の間置くといふことは、即ち亦古來の薙鎌の神事の遺習を踏襲するものと思はれる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　鎌を神木の幹に打込む慣行は、今日傳説に殘つて居る各地の物語と一續きのものであつて、共に諏訪の信仰と深い關係のあることは、大よそ安全に之を推定することが出來る。越後の國境に近い戸土（トード、遠戸であつて外門の意）の境ノ宮などに於ては、七年一度といふのは御柱祭の行はるゝ甲寅の年であつた。立木に打込まれた薙鎌のまだ半身を露出したるものが尠なからず、その最も新しいものには明治六年の銘文が見えるといふことである。諏訪の本社の記録に、此行事を説くこと至つて疎であるのは奇異なやうであるが、是は多分もと神秘に屬して居た爲で、假に現在は全く絶えて居るにしても、是によつて一方の證跡を無視することは出來ない。ましてやこの遺物の出現は遠近の各地に及び、更に上社の神寶の中にも、天正十八年寅年の六月に奉納したといふ薙鎌の鉾を存し、其寫眞は諏訪史の附圖に出て居るのである。

　だから我々は其次の問題、如何なる動機からこの薙鎌の神事が起り、又どういふ事情の下にそれが久しく持續して居たかを、考へて見てよいのであるが、それには先づもつと澤山の事實を集積し、且つ之を確認することが必要である。さうで無いと又例の速斷家が、得たりかしこしと色々の事を教へてくれて、持ちも卸しもならぬやうになるからである。我々が最初に信州以外の地方から、比較の材料を求め得られるのは「御頭」といふ言葉の内容に就いてゞある。最近の民俗報告には、備前の頭屋《とうや》に關する故島村知章君の記述を始め、大分精密なものが集まつて居る。頭は今日のトウバンといふ語にも表はれて居る如く、古くからの用法は其年の祭の役に當つた家又は其主人、即ち所謂一年神主の勤めを意味し、此漢字の示す通り、神に仕ふる者の先頭に立つことを謂つたやうに、今までは考へられて居た(245)のである。併し其通説が果して間違ひの無いものかどうか。この北安曇のオト神樣の例などに出會ふと、トウといふ言葉の起り又は其内容を、さう簡單に見てよいかどうかゞ、少しばかり氣がゝりになつて來る。

　實は今までにも考へて見なければならなかつたのである。諏訪は大體に此語のよく用ゐらるゝ信仰で、今でも頭郷といふ稱へはあり、古くも御頭禮錢の帳面などが殘つて居て、其「頭」はすべて巡番に祭りの役を勤めるものと解せられて居た。併しそれでは稍々意味を取りにくいのは、南信各村の鎭守の社地などに、往々にして御頭左宮司といふ小祠の神のあることであつた。左宮司又は左口《さごん》神も亦至つて説明し難い信仰であるが、其外形から見ると木を削つて作つた玉串の如きものであつたらしく、是に神附《かみつけ》といふ嚴重の作法があつたことから推すと、諏訪より分派して行く神靈の依坐《よりまし》であつたこと迄は考へられる。それを祠に齋いて永く祭るのはわかつたとしても、其左口神に「御頭」の語を被らしめて呼ぶのは殆と理由を見出すに苦しむことであつた。普通に説く所は以前各郷が御頭の役を勤めた記念として、其都度此祠を建てた故に、往々にして一地に二つ以上の御頭左宮司があるのだといふが、私の記憶にして誤り無くんば、郡外の久しく頭郷の列に加はらなかつた村にも尚この名の祠がある上に、頭に當つたたびに新たに別の祭場を開くといふことは、到底常例とは爲し難きことで、從うてそれ程數多くは此祠は出來て居ないのである。小谷の切久保の御頭の木のやうな例が、今後尚諸方から報告せられて來れば明らかになることゝ思ふが、トウといふ言葉の元の心持が恐らく今とは異なつて居たか、若しくは今よりも複雜であつたのである。假に日本全國がさうで無かつたとすれば、諏訪を中心とした信州のオトウだけが、稍々特殊なる態樣を具へて居たので、唯其輪廓が今はまだ明確になつて居らぬのである。將來の神祇史研究に取つては、是は確かに新たなる一つの題目である。

　

　　　　　　　　　　四

　

　頭に關する各地の慣行を尋ねて見ると、其選定の方法には明らかに新舊の二通りがあつた。其一つは役に當るべき(246)家格の者と、其順位とが前以てきまつて居て、觸穢其他の特別の故障ある場合に、それを飛越して次へ行くの外、來年は誰といふことに問題の無いもの、さういふ格式の舊家を頭名と謂ひ、その掟書を頭文《とうぶみ》と謂ふのが普通であつた。第二には頭衆の連名のみはほゞ定まつて居ても、次囘に祭祀を掌るべき者の誰であるかを其都度神意に由つて決するもので、是には禊齋などの準備を要する故に、稍々早めに、大抵は前の祭典の後宴《ごえん》の日に、後世は鬮引などの簡單な方法で、選拔するやうになつて居た。入費その他の色々の拘束から、頭役を純乎たる光榮とばかりは考へられなくなり、一方又久しく其名譽に遠ざかるのを悲しむ情もあつて、前年番に當つた者は此鬮取に加はらぬ習ひが、次第に延長して行くと、末にはそれも無用になつて來たであらうと思ふが、以前は專ら之を目に見えぬ御指圖に打任せて、神の御望みの通りの場處と人とで無いと、御祭をして其の詮が無いやうに思つて居た時代があつて、たとへば同じ地の同じ家ばかりが、連年頭として出でゝ仕へるやうなことがあつても、それを爭はうとする者が無かつたのであらう。近世の各社の專任神主の中には、最初から筋目あり又は唯一人の奉仕者であつて、他には住民を代表する者の無かつたといふものばかりで無く、此手順を踏んでなほ自然に神寵を獨占するに至つた場合も多かつたことは、所謂靈媒業の進展の跡を見ても察せられる。巫女や尸童の神旨を託宣する者などは、たとへ私の巧みは無くとも、無意識にも氣質の相近き者を引いて、勢ひ自分の一族のみを指定する傾きを持つて居たからである。トウが今日の如き制度となる以前、神樣にきめて戴いた慣行がもし久しく續いて居たとすれば、それが神主の家を世襲ならしめたと同樣に、又祭祀の場處を常設ならしめた事情もあつたかも知れぬのである。

　祭禮が毎年人を替へ場處を替へて營まるゝことを、他の國々では「頭」と謂つたに反して、斯ういふ恒例の常設祭場の標幟を、御頭の木と謂つて居た事實は、私には今は右の如くにしか解することが出來ぬ。諏訪は大祭が六年を隔てて待遠しかつた上に、分靈勸請の思想は夙に存し、且つ所謂神領が廣かつた故に、各地同時にそれ／”＼の靈地を、毎囘の祭場に指定することを妨げなかつたのである。今日でこそ全國數百社の賀茂八幡の御宮に、一つ日一つ時刻に(247)一つ神を迎へまつることを恠まなくなつて居るが、それは實際には「頭」の信仰が、ある一段の曲折を經てから後のことで無ければならぬ。さうして諏訪の神道などが、ちやうど其變化を導くに適して居たのでは無いかと思ふ。今まで考へて見ようとした人は無かつたけれども、諏訪で神領と稱へて居た言葉の意味は、始めから世俗方の所領といふものとは同じで無かつたやうである。即ち内縣外縣大縣小縣の名目は古く存しても、いつの時代にも其全部の行政を統括し、土收を獨占して居た事實は無かつたので、單に其域内に在つては到る處に信者があり、隨時に大神の指示に應じて欣んで祭の役を奉仕せんとしたといふ迄では無かつたかと思ふ。その意味でならば諏訪の神領は漸を以て擴張して居る。獨り信州一國の隅々に及んだのみならず、後には西國の南の端にも、北國奧羽の人知らぬ田舍にさへも、神は顯はれて仰ぎ祀られて居られたのである。諏訪の歴史に忠實なる學者たちが、たま／＼その唯一隅の分布を目して、神移動の經路、即ち今の湖畔の本社が存立する以前より、既に信仰が各地に行はれた證跡とせられるのは、私にはその何の意たるかを解し兼ねる。諏訪に建御名方神が御入りになつたといふ舊記は、諏訪から出なくつて何處から出よう。さうして又其舊記が無かつたら、何によつて此神の信州と御縁が有つたことが證明し得られよう。是はどう見ても、傳説と歴史との混同としか思はれない。

　

　　　　　　　　　　五

　

　國や郡の境の嶺の老樹が、久しく薙鎌を標幟とする御頭の木であつたこと、もしくは其木の所在を以て堺線を劃したといふことは、假令現在の傳説が何と之を解釋しようとも、寧ろ其兩側に住む民が等しく諏訪明神の御威�ｺを畏敬して居た證據である。是が信ぜらるゝ如く神領の誠の終端であつたなら（その神領の意味は何れであらうとも）、其木の彼方の者が容易に之を承認する筈は無かつたのである。だから里中の鎭守の社領に在る神木も全く同じことで、つまりは之を中心とする地域に、薙鎌の信仰が會て流布して居たことを、語るものと見てよからうと思ふ。但し一點(248)の是と異なる所は、境は常人の生活には中々大切な問題であつた故に、其地に祭を營むことは?々必要であり、必ずしも之を神樣の思召次第に、御任せ申して置くといふわけに行かず、從うて特に諏訪樣のやうに、兼ねて定まつたる樹に憑つて幾度も降りたまふ神で、又同時に一箇所以上の「頭」に於て、祭を享けたまふ習ひある神を、信仰しなければならぬことにもなつたのであらう。

　私は遠近各地の諏訪神社の勸請の由來、殊に御頭の木の傳説が數多く比較し得られたならば、乃ち諏訪本社の歴史も明らかになるであらうと豫期して居る。新たに他處の神を奉祀し始めるといふことは、昔とても決して簡單な業では無く、又外から見ても可なり顯著な事蹟であつた。それが諏訪信仰に於ては是ほど頻繁に併發して居たのである。尋ねても其動機が永久に不明だといふことはあるまいと信ずる。今日知られたる北安曇北境の口碑に建御名方神御母｜古志沼名河媛《こしぬなかはひめ》神と、桂の樹の下で對面なされて後、其樹に御魂代の薙鎌を分ち殘されたといふなども（小谷口碑集六七頁）、是たゞ一つを聽くと信ずる人は信ずる、信じない人は信じないの二つより外は無いやうであるが、それを信府統記の舊俗傳に、越後越中加賀三國の神樣が、それ／”＼諏訪明神と立會つて國堺を議定なされ、其後この三箇所へ七ヶ年に一度づゝ、内鎌《ないがま》といふものが到來して堺目の證としたといふ説と比べて見ると、少なくとも此書の編述せられた時代以前から、所謂御頭の木と其儀式との由緒久しきことを、神御自身の事蹟の如く説明する習はしがあつたのである。別の言ひ方をするならば、既に常理を以て説く能はざる貴い起原が、感ぜられて居たことだけは知り得るのである。是を事實とは認めない癖に、しかも稍々是と近い史實の反映でゞもあるかの如く、推斷しようといふのが近頃の傳説解釋家の疾であつた。そんな事をすれば解るものも解らなくなつてしまふであらう。

　問題は我々に取つては至極簡單である。つまり本社の方には既に廢せられて居た行事、即ち祭の日に樹に鎌を立てる例が、端々には尚永い間守られて居たのである。さうして其根原を主神の御行蹟に托することは、自然であり又普通でもあつた。越後の方では前年刊行せられた頸城三郡志料に、下の如き記事がある。曰く「糸魚川より六里、松本(249)への往還白池越は、信越の境目なり。毎年兩國の村民此樹の下に出合ひ、兩國境界の規約を談じ、此樹に鎌を打立て恒例に違はざるを誓ふを習慣とす。此例往古よりありて此栗の樹に鎌疵のあと幾數あるを知らず。故に世人鎌立栗と稱すとなん（中略）。此他當郡にて是に類する境目の目印、往々にして今猶存せり」と。この白池越は私は其地點を知らぬが、信府統記にも見えて居る。たゞ彼には彌彦權現との對談を傳ふるに反して、是には往古より此例ありといふのみである。南安曇郡誌に引用した科布國名考といふ書にも、越後國堺の中谷村の諏訪社に、年々一囘づゝ下諏訪の本社から、長さ一尺五寸ばかりの鎌を送つて來たことを記して居る。「下社の祝部の姓名年號を彫附る也。こはいと古き例にて、かの地の神體と爲すあり。傳へ聞くに白鳳の年號の彫れるものあり」ともあつて、是も亦傳説の類であるが、必ずしも二神行逢の物語などによつて、其起原の悠久を主張しようとまではして居なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　之を要するに鎌立栗が國の堺を劃して居たことは、諏訪信仰の一つの應用であつた。山に運上を課したり開墾を奨勵したりする迄は、無人の山野はたゞ漠然たる雙方の入會であつてよかつたのが、所領の分限が微細になり、?々境論の起る時世が來ると、最も尊敬せらるゝ神木の所在を、目標とするが便利であつたといふだけで、從うで「頭」を一定の地に繰返すといふ風習も、ほゞこの頃から始まつたものかと思ふ。所謂行逢裁面の傳説の樹木に伴なふものは他にもあるが（　　拙著日本傳説集一三七頁）、それは何れも國郡の境が八釜しくなつてから後の發生で、内容が古いから傳説の出來たのも古からうと、想像することは誤りである。さうして又薙鎌打立の慣習の、全部の理由を解説するに足らぬのである。

　其證據には境界の劃定に關係の無い土地にも、やはり鎌立の神事は行はれて居たのである。一番手近な例は、北野誌の上卷（四五頁）に、京の北野の天神の境内末社の内に、那伊鎌神社があつて祭神は建御名方命とある。末社に國々(250)の大社の神を勸請することは、近畿其他の普通の例であるが、其事情も方式も共にまだ不明である。併し少なくとも諏訪の神には鎌を驗としたことが、此社名から推測せられるのである。紀州伊都郡｜見好《みよし》村の、兄井の鎌八幡宮といふのも根元は諏訪であつた。村の諏訪神社の境内に在る櫟《くぬぎ》の大木を、八幡と稱へて拜んで居たので、神職望月某の先祖の諏訪氏が、祭り始めたと傳へて居る。紀伊續風土記（卷四七ノ一〇七頁）に曰ふ。「祈願の者鎌を櫟樹に打入れ、是を神に獻ずといふ。祈願成就すべきは其鎌樹に入ること次第に深く、叶はざるものは落つといふ。根より上二丈ばかりの處、鎌を打つこと蓑の如く、寸地の空隙無し、鎌の深く入る者は樹中を貫きて薄刃外に出ること一寸餘云々、鎌は大小好に從ひ社前に賣る。祈願の者或は一時に千挺も打つ者あり、然るに其木鬱蒼として繁茂す」とあるのは、定めし珍しい觀物であつたらう。

　福島縣安積郡豐田村大字成田には、村名を俗に鎌成田とも呼ぶくらゐに、有名なる鎌立の榎があつた。是が亦村の諏訪明神の神木であつたのである。相生集といふ地誌に、此榎は舊城内の諏訪の御社に在り。二股の間から鎌の生えた樹だとある。是には近郷の鍛冶屋たちのみが、宿願に鎌を打込み祈?する習ひがあつた。昔蒲生氏郷が會津に居た時、此木の話を聞及んで、領主の山田金兵衛に事の由を尋ねたところが、金兵衛誤解して其木を伐つて獻上したので、非常に叱られたといふ言傳へは本當らしいから、近世知られて居る木は後植ゑで、鎌は其以後に打込まれたものであつた。

　鎌を神木に打込む習はしは又北國にもあつた。越中｜婦負《ねひ》郡速星村の麥島の宮は、祭神は諏訪ではないといふが、やはり神木の樫に鎌を打つた。「祭禮の日ごと或は宿願あるときは此木に鎌を打込む故數百挺の鎌打込みてあり。しかも此木の活生かはること無し」と越中舊事記にはあり、又肯構泉達録には其由來として「此神五?豐熟を守るの誓あり。我を祭らば試みに社樹を拆くべし。其樹枯れなば誓空しからんと宣ふ。是より農民鎌を社樹に打込み祈願するに靈驗あり。今に社の樹に數多の鎌打込みあれども、其樹枯れずして榮えたり云々」と記して居る。能登の七尾から西(251)の方、金丸村の鎌の宮といふのは明らかに諏訪神社である。百數十年前の能登國名跡志には「祭の日に神木杉の木に新しき鎌を打込むなり。鎌次第に木中に入りて筋となる也云々」とあるのに、不思議なことには近年の大日本老樹名木誌には、神木の大樟樹と記し、此宮神體無く此木即ち鎌立の木を以て神體とすとも謂つて居る。それから又鹿島郡誌を見ると「神木は佳木又は?津利葉と稱して周廻二丈餘、鎌は恰も龍鱗の如くにして、既に其全體を木皮の裡に没せるものあり、亦地方の奇觀云々」とあるから、事によると其神木は折々交代し移動して居たのである。何にもせよ祭日は本社の御射山祭《みさやままつり》と同じ七月二十七日で、此日は鎌舞と稱して參詣の群衆、手に／＼鎌を持つて此木に打込み、上古大神の妖魔御退治の?を摸すると謂つた。維新後其式を改めて、たゞ神官が長さ尺餘の鎌二挺に、新稻穗を副へて奉獻し、式後之を神木に打込むことにしたといふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　或御社の祭禮が年番の頭役によつて代表せられず、諸人思ひ／＼に祈願の鎌を打込むやうになつては、其木の枯れ易く、其式の改定を要するのも、已むを得なかつたことであらう。現在此行事の變遷した痕跡の見らるゝものは、信州の本社にも又諸國の勸請社にも共にある。たとへば秋田縣では仙北郡六郷町の鎭守諏訪神社、七月廿七日の祭の日に、祈願の者木で造つた鎌を奉納して居た。秋田風俗問?答書に「何方にても此神は木鎌を奉る也云々」とあるから、同じ慣例は尚他の村々にもあつたらしい。七月廿七日は、新暦では多く八月に改められた。同郡大曲町の諏訪社八月の祭には、行列の先頭に鎌を持つて進んだが、是は風除けの意か、又雷鳴の日に軒に鎌を立てる風習と、關係があるかの如く考へられるやうになつて居る（土の鈴七、田口松圃君）。

　それからずつと飛離れて、熊本縣南端の佐敷の諏訪神社は、もと白木といふ村に奉祀して居た社で、七月廿七日の祭には、永く此村から眞榊と蕨餅とを供進する習ひであつたが、此御社では神體は鎌に移り坐すといふ言傳へがあり、(252)氏子の農民は殊に鎌を崇敬して居たといふことである（肥後國志）。中央部に於ては江州蒲生郡｜老蘇《おいそ》の鎌宮神社、爰には日本武尊携へたまふ鎌を祭り、鎌大明神と稱すといふ縁起がある。今日の祭神は天兒屋根命であるが、木曾路名所圖會には尚相殿諏訪明神と出て居る。祭は三月初申の日で、此日氏子の者鎌を獻納する信仰行事があつた。

　尤も鎌を神のヨリマシとし、又は信徒が之を奉納する例は諏訪以外にも間々あることで、それを皆信州から出たものと見ることは出來ぬが、私は其動機だけはもと一つであつたらうと思つて居る。從うて弘く其類似と相異とを比照することによつて、雙方の原因を究め得べしとするのである。今後より多くの資料を集めて行く必要はあるが、私が今知つて居る例では、飛騨の高根村上ヶ洞の道後神社には、往古奉納せられたる古き大いなる鎌と鍬とがあつて、是を祭禮の日に神輿に副へて、村中氏子の家々を巡行なさしめ奉り、還御の節又鎌と鍬とを本社に納め奉るが古典ださうなと、斐太後風土記に見えて居る。羽後大曲の如く行列の先に立てたのか、或は神輿に載せたのかは明らかで無い。鎌を數多く祈願者の納める例は、又三河の猿投山《さなげやま》神社にもあつて、私は大正九年の秋の旅に、自身之を目撃した。特徴は左鎌と稱して、刃の表が右手で持てば外になることである。是に金色の巴の紋を描いたものが、大小無數に拜殿の縁に積上げられ、又門前には之を鬻《ひさ》ぐ店もあつた。世界大戰の鐵缺乏の際に、今までのものを鐡商に拂ひ下げたといふ話であつたが、それでも尚驚くほどの分量がたまつて居た。此社の信仰で注意せられたのは、祭の日に參詣する者が鐵砲を打放しつゝ登山することで、或は後に言はうと思ふ矢立の習慣の一つの痕跡では無からうかとも考へて見たが、それも今日ではまだ中々斷定し難い。

　鎌を是等の御社に奉納するやうになつた原因は、勿論まだ何人にも解説することが容易で無い。遠江磐田郡南御厨村の鎌田といふ部落では、村の神明樣に小兒の蟲封じ願掛をして、九歳になると願果しに鎌を納める習はしがある（郷土研究四卷五五八頁）。地名の鎌田といふのが偶然では無いやうだから、多分此俗信には一つ前の形があつたのである。信州にも子供の蟲切鎌を授ける信仰は折々ある。上水内郡日里村字梅木の蟲倉山觀音などもそれであり、又同郡(253)小田切村小鍋の三竈社、善鬼大明神の奧院の三つの洞穴は、この蟲倉山に通ふと信じられて居るが、こゝでも社前で賣つて居るブリキ製の鎌を以て、頭腹背を撫でまはして後之を奉納すると、小兒が病難を免れると謂つて居り、こゝの祭日は諸方の山上の神と同樣に四月の八日である。鎌と小兒の蟲氣とは、何と考へても直接の關係は無いやうである。是には幾段かの信仰の推移と、之を理由づけた解釋の進歩があつた筈であるが、それも色々の過程に在る社會事實を、竝べて觀察するやうになれば、強ち永久に不明に歸してはしまはぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこでもう一度出發點に戻つて來て、何故に諏訪その他の古い社に於て、鎌を神木に打つて神降臨の驗としたかを考へて見る。一つの暗示は近江の蒲生郡に、鎌掛と書いてカイカケと呼ぶ村がある。東海道の土山驛から、中仙道の愛知川驛に通ずる、所謂御代參街道の宿次であつた。今日は既に文字の通りに、カマカケと呼ばせて居るらしいが、古い文書には鎰懸《かぎかけ》と書いたものもあるから、カイカケが正しかつたのである。蒲生郡志卷八に引用する蒲生舊跡考に依れば、古へ山神の祭があつて、鎌を木の枝に掛けて獻るに因つて村の名となつた。鎌をカイと訓むのは音便だとある。或は國中の山伏が此地に投宿して、貝を掛けたからとも記して居るが、貝を樹に懸けるといふことは他では聞かず、鎌を音便にカイと謂つたことも信じ難い。それはやはり鎌を樹の枝に掛けることを、此地ではカイカケと唱へて居たものと解するの他は無いやうである。カイカケの語の起りは鍵掛であつた。或は又カンカケと呼ぶ土地もあつた。鍵掛の風習については、雜誌「民俗藝術」四卷四號にも詳しく述べて置いたが、それは殆と日本の全版圖に亙つて、行人が路傍の靈樹に木の枝を投掛けて、神に手向け且つ身の運を占ふ目的である。鍵は普通には單なる二肢の枝を折つて用ゐたが、時としてわざ／＼鍬柄の形に削りなしたものも引掛けた。是にも方法は二通りあつて、高い樹の梢に投上げて、掛かり掛からぬを偶然に任せるものと、今一つは定まつた枝なり綱なりに、掛けることを期するものとがあ(254)つた。伊賀や近江の山神祭は後者に屬し、奧羽地方に行はるゝ鍵掛は前者であつた。勿論此方でも?る者の希望は掛かることであつて、之を心願の成就する兆と解した故に、出來る限りの技巧を盡し、且つ豫め冥助を祈念する故に、實際は引掛かる場合が多かつたのであらうが、それでは尚心もと無くして、萬全を期したのが他の一方の所謂鍵曳の神事であつた。此神事の作法は雜誌「民族」に曾て報ぜられて居る。春の始めの定まつた日に樹の枝を以て長い鉤を作つて、山神の神木の注連に引掛け、それを曳いて山の神を里へ誘ひ出すと謂つて居たことは、たしか本朝國語かにも記されて居る。ちやうど頭屋の選定なども同じことで、前には一向に神意の示す所に任せて居たものが、後には必ず祭る者の願ひと一致せんことを期したのである。蒲生氏の故郷の鎌掛村などでは、或は鎌を用ゐて此祭の式を行ふことゝなつて居た爲に、文字は斯う書いて尚カイカケと呼んで居たのでは無いか。若し此推測の如しとすれば、それは信州の薙鎌神事の、近世の型とよく似て居るのであるが、果して是と同じ例がまだ此以外にもあるかどうか。それを今些し捜して見る必要がある。

　諏訪の信仰の曾て盛んであつた時代には、無論信濃はもう少し樹の多い國であつたらう。見渡す限りの亭々たる林木の間に於て、何れの木の本が最も清らかにして、且つ大神の好みて降りたまふ御座であるかを、人間の智慮だけでは決し得なかつたこと、恰かも來年の頭屋を神の指令によつて、定めて居たのと同じやうな時代があつて、薙鎌は乃ち其占方の爲に用ゐられ始めたのでは無かつたか。山に入る者が鉈斧の類を山神に取隱さるゝといふ話は今でもある。大隅の屋久島で如竹上人が始めたといふ占法、即ち伐らうとする大木の根に鉞《まさかり》を立てかけて置いて、翌朝それが倒れて居なかつたら御許しが有つたものと見るといふ式などは、必ずしも此島ばかりの固有のもので無かつた。鎌の占ひなども高い處に登つて、林の眞中へ投込んだかも知れぬし、或は無心の童兒や神懸りをした者に、自在に行き巡つて打たせて見たのかも知れない。兎に角に我々の祖先は最も素直なる託宣の信者であつた。誰が如何なる場處で祭を奉仕すべきかを、斯ういふ外からの判斷に委ねて之を疑はず、又疑ふだけの必要も無かつたのである。ところが個人の(255)祈願が別れ／＼に發達するに及んで、祭の方式にもそれ／”＼の注文が現はれるやうになつた。乃ち頭の制度の稍々固定したと同じく、神木も次第に移し動かすべからざるものとなつたのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　此點は日本の固有信仰が今も昔の如く、都鄙二千年前の進化は丸で無かつたやうに、思つて居る人たちとは共に談ずることが出來ぬが、私一箇にとつてはこの薙鎌の沿革を明らかにする爲に、可なり都合のよい參考資料だと思つて居るものが二つある。其一つは祈り釘即ち神木に釘を打つて祈願を懸ける慣習である。芝居や草雙紙の丑の時參りばかりを知つて居る者は、藁人形を左の手に持ち、五�ｺに三本の?燭を立てたものを頭に載せた女だけが、斯ういふ所業に携はるものと思ふか知らぬが、そんなのは寧ろ稀有であつたと思ふ。私は幼時幾度と無く、産土の社前の赤松に釘の打込んであるのを目撃したことがあるが、平和なる自分の小さな村には、未だ曾て呪詛の沙汰などは無かつたので、其當時は之を不審に思つて居た。併し此祈?は單に人に見られては效がないと信ぜられて、深夜に之を行ふ者が多かつたといふに過ぎなかつたのが、後に神木に疵を付ける本の趣旨が稍々忘れられて、之をゆゝしいことのやうに感じた者が、自然に所謂｜鐵輪《かなわ》のローマンスを空想することになつたものかと察せられる。現在も公然と此風習の行はれて居る例は折々ある。たとへば前に引用した老樹名木誌に、同じく能登鹿島郡矢田郷村、妙淨の館といふ處にも是があつたと記して居る。七尾の灣上から遙かに望み得る大木の松が或は北陸一の松とも稱せられて、注連繩を張り神木として祭られて居る。現在の祭神は天照大御神で、妙淨の名の起りも不明に歸して居るが、「古來妙淨樣に丑の刻を期して願掛すれば、何事も叶ふとて參詣する者多く、爲に幾十本の釘は樹幹に打込まれ、又幾百條の女子の切髪は、此根本に散亂せり」と謂つて居る。是などは今でも呪詛では無い只の祈念の釘が多かつたことゝ思ふ。同じ行事は又日向兒湯郡の米良《めら》神社にも有つて、此方は今は既に絶えてしまつたらしいが、太宰管内志には次のやうな記事がある。(256)曰く「國人云。米良に米良ノ本宮といふ社あり。磐長姫を祭ると云ふ。そこに櫟の木に釘の生てある木あり。二寸三寸或は五六寸もあり。甚だ多し。上の釘は太く下の釘は短し。一本倒るれば又外の釘の出る櫟出來るありて絶ゆること無し」。此文章は少し精確を缺き、或は樹の幹から釘が生えるものゝ如く思つて居たやうにも見えるが、恐らくは社頭の一本の櫟に、折々釘を打つてあつたことを意味するのであらう。米良は武陵桃源にも比ぶべき山村であつて、人が嫉妬の爲に丑時參りをするやうな土地では無かつた。山の神は容姿見にくき女性の神だといひ、又嫉み深い神だといふ説は、弘く他の地方にも行はれて居る。或は山神を磐長姫なりといふ言傳へもそれから生じ、從うて後に此祈願の目的を、狹く限るやうになつたかも知れぬが、少なくとも爰では其樣なことは考へる者も無く、それ故に又其起りが夙く不明になつたのである。

　自分の觀る所を以てすれば、薙鎌とこの祈釘との關係は、ちやうど頭屋の制度から願掛への、信仰の推移を代表して居る。願掛は素より一囘の祭典には相異無いが、それは餘りにも個人的なる私祭であつた。一つの社會、多數の公衆の共に與にする祭ならば、群の中の何人が、神領の何れの地點に神を御降し申すがよいかを、神意に問うて決定することも可能であるが、祈願が或家もしくは一人の私に屬して、何でもかでも自分より他の者には奉仕せしめることが出來ぬとなると、乃ち釘と槌とを以て兼ねて定まつて居る神木の幹に自ら打込むことを必要としたのである。此點が前に擧げた鉤掛の占ひが、末には鉤曳の神事と化したのと同じく、又薙鎌を打つべき御頭の木が先づ定まつて、次には七年に一度又は毎年、境の木だけには繰返して鎌を立てる樣になつたのと同一の經過で、釘を社の樹に打つことなどは、以前五?成就と村内安全とを專らとした祭には、恐らく丸々入用の無いことであつた。時の順序からいふと一番始めに固定したのは祭場で、次に神主を勤める家がきまり、次にはそれに托して各自の祈願を申し得ない者が、思ひ／＼の心を抱いて祭の日に詣ることゝなり、更に進んでは其期日にも構はずに、いつでも危急のある際に自分だけの臨時祭を營むやうになつて、愈々日本の神社の性質は變つたのである。信州の境の村の小さな出來事、或時老樹(257)を伐つたら奇形の鎌が出て來たといふ事實は、單に其土地の諏訪信仰が古かつたことを語るのみならず、尚一國全般に向つて、神道の大いなる變遷を立證せんとして居る點に價値があるのである。郷土の知識を本當に學問の爲に用立てようとするには、我々も亦この祈釘の私祭の如き?態に、知識の割據をして居てはならぬのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　最後にこの祈釘の迷信が、もと御頭の木の薙鎌と出發點を同じくするといふ説は、其中間に矢立の神事を置いて考へると、必ずしも筆者の臆測で無いことが解るのだが、この問題は既に咋年初の「旅と傳説」に「傳説と習俗」と題して詳述して居るから、爰には再び繰返すわけには行かぬ。最近二百年前後までは、所謂矢立杉・矢立槻の類は、たゞ一箇の傳説もしくは其痕跡たる名稱に過ぎなかつた。ところが古木が枯れ倒れ又は伐採せられるたびに、其幹の中から古びたる多量の鐵鏃が出現した。其實例は列記しきれない程あるが、北の方では東津輕の一本木村の八幡の大槻の樹の空洞から幾らとも無く出で、秋田仙北郡の鑓シナイとかいふ村の杉の木から、長さ一尺餘の大雁股が出て、後三年役の勇士の手の内だらうと感歎せられ（譚海卷一）、氣仙｜矢作《やはぎ》村の的場といふ地の大欅にも、射立てた箭鏃が多く發見された（氣仙風土草下卷）。仙臺の近くでは、道祖神を以て知られた笠島の矢立杉を、船木に伐らうとして割つて見たら、無數の鏃が出たので漢學者は之を認鏃杉と呼んだ（封内風土記卷五）。北會津の一箕《ひとみの》村の八幡社の矢杉から、今も神寶と爲つて居る二つの矢（鏃だらう）の出たのは、是も亦蒲生氏郷の時代であつた（會津風土記）。九州の方では日向と豐後との境をなす梓峠に、二本の大杉があつて豐後側に在るのを日向杉、日向側に在るのを豐後杉と謂つた。その豐後杉を伐つて板に挽かうとしたところ、中は空洞で矢の根ばかり數千あつた（笈埃隨筆卷五）。日向杉の方は早く伐られて、其中からは出たといふ話も殘つて居ないが、寶暦九年といふ年にも日向の杣から出した大木の杉を、備前の岡山で挽割らうとして、三本の鏃が出たといふ話が、春湊浪話下卷には其繪圖と共に出て居り、又青栗園隨筆に(258)は肥前川上の明神社の楠からも、大きな雁股が出たので鎭西八郎の射たものとして神寶にしたと謂つて居る。

　中央部では名古屋東郊の闇の森の八幡社で、松の大木を伐つて鏃を見出したところが、それには八郎爲朝と銘が彫つてあつたとはえらい話だ（名古屋市史風俗編）。富士の裾野に於ても木樵の斧にかゝつて木の中から現はれた大きな矢の根があり、平生武人などの來る處で無いから、疑ひ無く頼朝卿卷狩の時のものといふことになつた（甲子夜話三ノ一九九頁）。飛騨では白川郷の荻ノ町の岡の麓に、大きな山ズミの樹があつて、其根から鏃が一二寸出て居たのを、昔此地に在つた古城の中から、遠矢の的にして居たと言傳へて居るが、是も其距離が八九町もあるのだから傳説であつた（飛騨國中案内）。物が出たといふことは無論昔の或る事實の證據にはなるが、必ずしも傳説が歴史であつたことを裏書はしない。信州に一つある例は此點にかけてもよい參考である。木曾から飯田へ越える路といふから、多分大平の舊道であつたらう。捻木澤《ねぢきざは》といふ處があつて、路傍に老いたる檜木の形最も奇なるものがあつた。元文三年の三月十三日、雷が落ちて此樹が燒け、それを摧いて薪にしようとすると、幹の中から六七本の古矢の根が出て來た。此邊で戰のあつたのは天正十二年に伊那の軍勢が妻籠を攻めに來て負けて退いたのを、山村良勝が伏兵を設けて追ひ落したことがある。其時より他には戰が無いから其時のものだらうと、木曾路名所圖會に記して居るは、宛として當今の郷土史家なるものゝ口吻である。折角の伏兵が樹などを射るやうでは勝てるわけが無い。しかも山中路傍の捻れ樹は、如何なる場合にも山の神の神木であつたのである。

　所謂矢立木の傳説には二つの種類があつて、其一つは考古學によつて旁證せられる見込があるが、他の一つは永久に其望みが無い。前者は次の曾我物語の文に出て居る箱根湯本の矢立杉の如く、旅人が祈願を籠めつゝ上ざしの箭をまゐらせたといふ靈木の場合で、

　　……やたての杉と申すなり。門出めでたき杉とて、上下旅人心あるも無きも、此木に上矢をまゐらせぬは無し。況や我等思ふ所ありて行く者ぞかし。いかでかうは矢をまゐらせざらんとて、十郎一の枝を射とゞむ。五郎二の(259)枝をぞ射立てける。何と無く射けれども、十郎は宵に打たれ、五郎はあしたに斬られけり。

　斯ういふ語りごとは偶然には起り得なかつた。獨り峠の山口や嶺境ひに、名を矢立と謂ふ大木の杉などが、旅行く者の注意を惹いただけで無く、是に向つて箭を射ることを、神を崇むる所業と考へ、僅か數歩を隔てゝ釘を打つのと幾らも違はぬ射藝をすら、なほ占方の心持を以て解して居たらしいのである。奧州笠島の矢立の杉なども、秀衡が都上りに射て通つたといふ傳説は前からあつた。ところが伐つて見ると澤山の鏃が出たのである。それを證據として秀衡だの曾我兄弟だのといふ點まで、此序に確認させようとするのも土地の人の情かは知らぬが、證明せられたのはたゞ樹に向つて箭を射向ける習はしが、古くからあつたといふことばかりである。さうして其方がずつと意味が深いと思ふ。

　今一つの傳説といふのは、武將が城を築きもしくは鎭守の社を建立せんとして、箭を放つて其地を相したといふことであるが、是にも往々にして其箭地に立つて成長して神木となつたと奇瑞譚を伴なうて居る。併し卜法として箭を射放して、その落つる所を見るといふことは、多數の凡人にも必要なことであつた。たとへば山村の埋葬地を、死者ある毎に決定した處などでは、つい近世まで弓箭を持つ者が葬列の先に立つた。住宅の棟上祭に柱の頂點に箭を飾ることなども、やはり祭地を見立てる方法の祈釘のやうに、豫め本人の注文に妥協し、望みの方角を指示したものと思はれる。たゞ異常の大事件の記念すべきものだけは、永く傳説となつて神�ｺの深く厚かつたことを語らうとする故に、自然に其啓示の跡を以て靈場と解して、後漸く之を改定するに及ばぬといふことになり、乃ち杖や箭が根を生じたといふ口碑にもなつたらしいのである。これと同樣に弓を射た人が必ず土地一流の英雄豪傑であつたといふのも、それが只平凡なる個人の私祭では無くて、當然に神によつて指定せられるに足るだけの、強く優れて且つ信心深い人といふ意味であつたらうが、人が追々に自分を重々しく見るやうになると、是もしまひには祈釘同樣の、願掛方式の前例のやうに見られたかも知れないのである。

(260)　之を要するに弓矢の神事は、世の中の進みと共に日本では非常に發逢して、一方には歩射・流鏑馬・犬追物、その他色々の弓祈?となつて、單に各部落の神の恩寵の厚薄を卜する手段、もしくはたゞ武藝の激勵のやうにもなり、他の一方には征箭を願文に副へて神前に獻ずるやうな儀式にもなつて居るが、根原は今一段と神秘な境に在つた。即ち最初は神樣が何れの地、何れの樹の本に降つて祭を御享けにならうとするかを、無心に問ひ試みんとする方法であつたのが、後には其場處が先づ定まり、次には祭に仕へんとする者の、自ら薦むるの手續きとさへなつたのである。舞の本の山路《さんろ》の物語を見ると、朝廷は宇佐の放生會《はうじやうゑ》を取行はんとして眞野長者の家の前に榊を立てる。「折節長者は出させたまひ、これは何と申したる事にて候ぞ」と訝り尋ねたと言つて居る。又多くの人身御供の昔話でも、美しい娘をもつ舊家の屋の棟に、何處よりとも知らず白羽の箭が立つて居たとある。最初は此通り、當の本人の思ひも掛けぬところに、突如として來て立つやうな頭屋の徽章が、今では村内に場所までも定まつて、大きな幟や吹流しを添へて、毎年同じところに建てられるやうになつたのである。即ち信者が崇敬の餘りに私では如何ですかと問ひ試み、更に今一歩を進めて何でもかでも私が祭主ときめてかゝり、射藝で一生懸命に當りを希ふばかりか、終には夜更に人に隱れて、釘を神木に打附けるまでになつたのは、正しく民族心意の著しき展開であつた。それ故に神社により又郷土の環境如何によつて、其過程のそれ／”＼の段階が、今尚この文明國内に併存して居るのである。

　異なる近傍の民族に於ても、往々にして類似の現象が認められて居る。それは固より同一の本原、同一の自然觀に指導せられて、斯うなつたものとは限らないが、その不可思議の解釋に向つては、少なくとも日本の事例は有力なる參考である。外國には隨分湛念な學者も多いが、日本人自身が心付かぬ位だから、恐らくまだ當分は之を參考とせずに、賽河原の如く色々の假定説を、積上げては突崩して行くことであらう。自分達の知人の中では露西亞のネフスキー教授がやゝこの雙方の關係を知つて居る。さうしてフレエザア先生の名著「ゴールデン・バウ」にも、オスチアック人の中に路傍の靈樹に箭を射立てゝ、神を敬ふ作法として居る例が、注意せられて居ることを教へてくれた（呪術(261)篇下卷十一頁）。この方面にも又支那・朝鮮にも、無論捜したらまだ幾つかの類型が見つかることゝ思ふが、たゞ我々の研究がまだ今日の　　状態にある間は、直ちに國外の比較に進出して見てもしやうが無い。私は何よりも先づ信州の學徒の、興味を此問題に引付ける必要を感ずる故に、今度は又次のやうなことを尋ねて見たいのである。

　一、樹を伐つて居て鎌釘又は鐡の鏃などの出て來た例が他にもあるか。

　二、御頭の木といふ名を持つ老樹、或は諏訪神社の信仰と關係をもつ樹があるか。

　三、もしあるならばそれはどういふ場所に、如何なる言傳へを持つて居るか。又何か其樹を中心とする舊慣行事があるか。

　

　（附記）　三村竹浦君の「本の話」に、大阪圓珠庵の契沖法師の墓の近くにも、何の木か知らず、大木に鎌を數多く打込んだ樹があり、其樹の下に八幡の祠があつて、鎌八幡といふ方が庵の名よりもよく知られて居ることを記して居る。今は諏訪社とは言はぬのであるが、夙く薙鎌の信仰が、爰にも及んで居た痕跡かと思はれる。同じ風習の遠く分布して、却つて信濃の本社には絶えて居るのは、乃ち此御神の信仰の歴世の變遷を語るものであらう。

　

(262)　　　　　矢立の木（傳説と習俗）

　

　　　　　　　二つの要素

　

　傳説に耳からと眼からの二つの種類があるといふことは、又斯ういふ風にも考へられるかと思ふ。我々の傳説を今有る形にまで持つて來るには、始終二通りの原因が入交つて働いて居た。其一つは繋ぐ力、即ち最初の自然に近い印象を、成るだけ壞さずに殘さうとする人の念慮、草木でいふならば根を中心とした地下の培養である。他の一つは伸ばす力、即ち時代環境に適應して、少しでも多くの效果を擧げる爲に、是も殆と無意識に受入れられる外部の誘導、例へば花の色や蔓の長さに該當する變化である。この兩者が其一つを全く缺くといふことは無いが、特に何れかの一方の力が、餘分に働くといふ場合は多かつたわけで、それが永い間に積り重なつて、追々に二種の相異を著しくしたことは想像に難くない。「白米城」の例でいふと、死靈のいつまでも解脱し得ない執念といふことは蔭になり、米を流して敵を欺かうとした奇策のみが、後には忘るべからざる印象となつて居る。岩代｜苅田《かつた》の宮の周圍に在る口碑なども、もとは白鳥の崇敬と神子羽化の信仰とを骨子として居たのであらうが、それが用明天皇御妻覓めの物語から、更に進んでは日本武皇子の事蹟に附會せらるゝに至つて、何よりも大切であつた兒投川《こなげがは》の地名の由來は、もう説明の外に置かれるやうになつた。しかも故意の虚構を企てる者が無い限りは、是だけ大きな變化の中からでも、まだ昔の約束の(263)殘つて居るものを見出し得るので、傳説が決して自由なる空想の産物で無く、從うて是を我々の前代研究の足場に利用し得ることは、こんな幽かな痕跡を比較して行つても、尚其證明が必ずしも不可能で無い。ましてや此以外に、別に根柢の可なり確乎とした、新たに多分の解釋を附加へる餘地の無いものが幾らもあるのである。近頃自分の問題にして居る十三塚なども其一つであるが、矢立の傳説は亦確かに適切な一例といふことが出來る。強ひて面倒くさく細かな穿鑿をするのは道樂のやうだが、若し幸ひにこの考へ方を推し擴めて、次々に他の多くの種類の傳説を消化して行けるものならば旅行者の興味が同時に學問の快樂となるやうな、うれしい時代も來ないとは限らぬ。先づ其つもりで少しばかり話を進めて見たいのである。

　

　　　　　　　地名と傳説

　

　傳説の變化を牽制した最も大きな力は、やはり習俗と其背後の信仰とであつたらうと思ふ。この二つの物が少しの喰ひちがひも無くぴたりと重なり合つて居れば、新しい傳説の入り込む餘地は無い筈であるが、そんな時代は夙く過ぎて、行事だけが後へ殘り、それも段々と端から崩れ又は省略せられて來る故に、不審は多くなり解説は區々になつたのである。併し少なくとも其問題の元になる或る事實だけは殘つて居て、それが無くなつてしまへば傳説も消えたのである。現在尚知られて居る珍しい樹の名・巖の名、若しくは其所在を表示する地名は、辛うじて多くの消えなんとするものを支持すると共に、是が勝手放題なる傳説の變化を、防制した力も大きなものであつた。其中でも地名は別に色々の用途があつて、止めたり取替へたりすることが存外に容易で無い爲に、偶然に古い言傳への保存に役立つて居る。弓矢の信仰から發達した日本の多數の傳説なども、若しこの地名の記憶せられるものが無かつたら、實は今頃はどこ迄變つて居たかも測り難いのであるが、僅か是ばかりの最後の殘り物のある御蔭に、今はまだ是に由つて前(264)代信仰の片端を跡づけることが出來るのである。

　そこで其實例として、第一に矢立といふ地名の由來を考へて見るが、此地名の在り處は全國に亙つて大よそきまつて居る。有名なる靈山の登り路にあるものは、紀州高野山の五十九丁目に矢立の辻、花坂細川二村の境の地で地藏堂があり、もとは其前に矢立松の名木があつた。次には出羽の羽黒山の參道に矢立の杉、古くは義經記にも見えて居るが、莊内物語に依れば丁度莊内領と新庄領との境の、古口といふ處であつたさうである。南部の恐山の山口にも、矢立地藏の堂があつた。此頃評判の高い菅江眞澄の紀行「牧の冬枯」を見ると、この矢立の矢は弓箭とは關係の無いことで、杣が木を伐る時に使ふ道具を此地に立てるから矢立と謂ふのだと書いて居る。當時の檜木山の山小屋の人々は、さういふ解釋を信じて居たのであらうが、其説は固より他の地方の矢立には通用しない。伊勢の神宮から志州の磯部の宮へ行く路、ちやうど兩國の堺を爲す合坂山の麓には、家立茶屋《やたてのちやや》といふ昔からの茶屋があつた。參宮名所圖會には其處の繪を掲げて、猿田彦大神此地を開き、家を立て始めたまひし故に、家立の茶屋といふと記して居る。だから此家の表戸は一枚を蓆として今に改めず、竈は別間にあつて三つ石の上に土釜をすゑ、家には佛事を營まずとあつて然れども慥かなる書には見えずと斷つて居る。なるほど茶屋があればこそ此樣な傳説も成立ち得るだらうが、是では到底他の多くの山中の矢立といふ名稱は説明し得ない。

　

　　　　　　　峠と上の杉

　

　奇異なる地名が殘つて、其意味が不明になると、土地それ／”＼の解釋が出て來るのは自然であるが、それだけでは容易に公認せられるもので無く、從うて縁起にはなり得ても傳説とまでは固定しない。備後の宇治島の矢立といふ土地には、尊氏將軍が矢に歌を添へて立てたからといふ傳へのあつたことが福山志料に見え、陸前栗原郡有賀村の御賀(265)八幡宮では、八幡太郎が弓矢を獻上したと稱して、しかも社頭に矢立弓立の二本の大杉があつたことを、封内風土記には記して居る。是に似た例は他にもまだ幾らも有らうと思ふが、單に獻上しただけで矢立といふとあるのは、やはり後からの想像か、さうで無ければ説明の一部が落ちて居るのである。

　神の社に上指《うはざし》の箭をまゐらするといふことは、中世の軍記によく見えて居ることであるが、其方式は今はまだ明らかになつては居ない。自分の推測では、それは神木に向つて其箭を射立てることを意味したので、それで矢立といふ地名が始まつたのでは無いかと思ふ。それを言ふ前に尚矢立といふ地名のある處を尋ねて見なければならぬが、矢立は上州の榛名神社を始め、多くの社頭の神杉の名であると同時に、東日本では境の山、峠の名前になつて居る例が少なくない。其中でも秋田縣は殊に矢立峠の多い地方で、その最も有名なのが津輕領との堺で、度々問題になつた陣場碇ヶ關兩停車場の間に在るそれである。此矢立峠が山頂の二本の杉の名に基くことは、人がよく知つて居る。此以外にも峠の名とまではなつて居なくとも、山路の最も重要なる地點に、此名の杉の老木があつた例は中々多い。それを自分は偶然の一致で無いと言ふのである。

　先づ一番手近かな處では、秋田縣から山形縣へ越えて來る、是も今日の大隧道の上の峠を、以前は及位峠《のぞきたうげ》一名杉峠と謂つて、是にも大なる矢立杉があり、旅人の道中平安を?る地であつた。東京から西では甲州の笹子峠に、亦有名なる矢立杉がある。北都留郡笹子村大字黒野田字笹子千九百八十二番地の一、高さ約二百尺目通り周三十三尺、明治四十年の大水に山崩れ、根元の半面を埋め樹皮痛みたりと郡誌にはあり、昔岩殿城在番の甲府の武士たちが、

　　　岩殿山で國見れば、國戀し、矢たての杉が見え候

と歌つたのも、同じこの大杉であつたと甲斐國志にはある。近くに狩屋野といふ地名がある爲に、こゝも頼朝公富士の卷狩の獵區であつて、其際射た箭が此木に立つたのを、記念した名稱かといふ想像を逞しうした人もあるから、やがては亦是が此土地だけの傳説にならうも知れぬ。しかし矢立杉があるばかりに頼朝公を説き得べくんば、嶺を南に(266)越えて箱根の山中などには、既に三箇處までの矢立杉が知られて居るのである。其一つは今日電車の走つて居る湯本村字山崎、是は早くから枯株も無くなつて居るが、曾我物語にはちやんと見えて居て、昔六孫王經基が關東の軍勢を引連れて都に上る時、武運を此木に祈念するに一人も射損じた者が無かつたとあるのを見ると、是も試みの箭を射立てた杉であつた。乃ち其前例に依つて、いかでか上矢《うはや》を參らせざらんやとて、十郎は一の枝、五郎は二の枝にぞ射たりけると、曾我の物語には見えて居る。それから蘆の湖の南の岸、箱根宿と元箱根のちやうど堺、漕入山の下にも矢立杉があつた。周は三四尺高さ纔かに四間餘と新編風土記には誌して居るが、今どうなつて居るかを知らぬ。箱根權現の縁起に依れば、是は前の者よりも更に古く、田村將軍が蝦夷征討の際に、既に表矢《うはや》を獻じたほどの大杉であつたのだが、近世に入つてから枯れてしまつたので、更に伊豆の山中新田にある矢立杉の實生を持つて來て栽ゑたのだといふ。その山中の矢立杉といふのも、同じく亦箱根の峠路の中腹であつた。宗祇の名所方角抄には、矢立杉までは伊豆なりとあるから、是も二國の堺であつたらしく、軍陣へ出づる武士ども、此木に矢を射立てゝ吉凶を見侍ると、文明十八年の囘國雜記にも載せてあるのを見れば、是も相應に古くからの木であつた。後にはやはり枯れてしまつて、大枯木小枯木といふ地名になつて殘つて居たといふが、大田蜀山の改元紀行（享和元年）には、其頃の箱根山道の伊豆と相模の國堺には、二本の杉の木があつたともあつて、恐らくは再び又栽ゑたらしいのである。

　箱根や笹子のやうに有名で無い峠にも、また類例は多からうと思ふが、たゞ是だけの事實から考へて見ても、矢立杉の名稱が或る計畫の下に發生したといふことは言へるだらう。所謂「二本ある杉」を老樹名木とする爲には、積極消極の人の意思が必要であつた。從うて枯れても地名と故蹟は遺り、傳説も亦更に纏綿して、永く行人の心を引かずには居なかつたのである。信州鳥居峠の矢立坂矢立清水からは、木曾の御嶽を拜むことが出來た。爰では木曾義仲が北國出陣の日に、大夫坊覺明が此水を掬んで願文を書いたと傳へ、どうやら矢立を懷中硯のことに持つて行かうとする形勢が見えるが、是とても杉の木が久しく枯れて居たか、もしくは栽繼ぎが間に合はなかつた時代の、旅の人たち(267)の評定でなかつたとは斷定し得られまい。地名が斯ういふ只一囘の出來事によつて、永く將來を拘束することは一寸六つかしい。即ち先づ矢立といふ習俗の、どれ迄分布して居たかを考へて見なければならぬ所以である。

　

　　　　　　　矢立と矢止

　

　信州でも地堺の標木は、矢立といふ名のある例は幾つかあつた。例へば飯田の白山權現社の別當、岩戸山白山寺の寛文十二年の書上にも、社邊の矢立木を横廻りに見通して、上の分は社木茂り立ち、矢立木から虚空藏山までの内は、百姓薪柴草山だとある。高遠の少林寺の境内にも矢立木といふ槻の古木があつた事は、木の下蔭といふ地誌に見えて居る。それに箭を射立てることが元は祭の式であつて、斯ういふ名前も出來たのであらうが、それが路傍であると道の序に其祭をするので、勢ひ名將勇士ばかりの逸話の如くに傳へられる。それといふのが常人は鐵砲は打つても、弓箭を手がけない新時代が永く續いて、自然に此信仰の衰微を見た結果であらうと思ふ。岩崎清美君の「傳説の下伊那」には、郡内大鹿村の矢立木は、昔殿樣が江戸詰めで出かける時、そこを通つて矢を一筋づゝ、其木に射立てゝ行くのが常例であつたと記して居る。常例といふからには殿樣ばかりで無く、又恐らくは江戸詰め時代以後でも無かつたらうが、平穩なる山村では斯ういふ古い記憶が、どうかするとまだ保存せられて居るのである。

　將軍頼朝又は八幡太郎が、試みの矢を射たら命中したといふ矢立の木は、古い記憶に根據のある岩手縣の一例を、前にも既に引用して置いたが、これを毎年の祭の式として、永く試みて居た例も同じ地方にある。南部叢書の二郡見聞私記に、稗貫郡上根子村熊野堂の矢立木、例年三月三日の日の祭に、村肝煎と別當とが前に立つて行列あり、五尺の大的を此杉の樹に掛けて、桑の弓｜蓬《よもぎ》の矢を以て之を射て、其年の吉凶を卜した。式終れば其弓矢を此木の下に埋めて歸る。享和年中に御用材として此杉を伐つたところが、中が空洞で御用に立たなかつた。其株穴に又小さな杉を栽(268)ゑて、之を矢立杉と稱すとあるから、今は又大きくなつて居ることであらう。

　兎に角にこの年々の行事が衰へかゝると、傳説は即ち是に轉比例して、面白くも又奇拔にも進化し得たらしいのである。越中東｜礪波《となみ》郡｜矢木《やぎ》村の千年木といふ榎なども、諏訪明神の森に在る神木であつたが、里人の傳へには大昔大伴家持在國の頃、春の日野に出でゝ雉を狩するに、其矢雉には當らずして幾度でも此榎に立つた。仍て村の名を矢木といふ云々とある。しかも元禄の頃から、此木の枝などを魔除けに採つて來る風習が始まつたと、越の下草には記して居る。飛騨國中案内には白川郷の下流｜荻町《をぎのまち》に、山の麓に近く一本のヤマズミの老木があつて、是から八九町も離れた此村の城山から、以前は此木を的に遠矢を射たといふ話のあることを載せ、なる程其木には矢の痕確かにあり、又矢の根の一二寸も現はれて居るものもあると記して居るが、實は是だけではまだ遠夫を射た證據にはならぬのであつた。

　

　　　　　　　樹の幹から鏃

　

　この種の半出來の傳説は、まだ幾つかの變化を列記することも容易であるが、それを詳しく述べて居ると肝腎の點が御留守になる虞れがある。故に今囘は土地の人たちが、今でも傳説の動かぬ證據の如く考へて居る矢の根のことを、主として注意することにしようと思ふ。陸中高水寺の放迹と傳ふる古館村走湯權現社の矢立の槻にも、昔の矢の根が根株の中から現はれたことは既に他の文章にも述べて置いたが、是と同じ話は意外に多く耳にする。例へば鎭西八郎が盲人を助手として、大蛇を退治したといふ肥前の川上明神の社でも爲朝の箭が大蛇を射貫いて、森の楠樹に立つたといふ傳説があつた。或る年此社頭の大楠の枝が折れて、其中から一本の大狩股の鏃が出たことがある。股の一方は八九寸もあり、中子《なかご》は一尺にも餘るべしと思はれた。是正しく鎭西殿の箭なるべしとて、永く社寶としたといふ評判が殘つて居る。尾張名古屋でも古渡《ふると》橋筋の北側、闇の森の八幡宮は爲朝を合祀すといふ社傳があるが、是も其森の大(269)きな松の樹を伐ると、中から矢の根が出て來てそれに八郎爲朝といふ銘があつたので、それを社殿に籠めて重ねて此勇士を祀つたといふ。合祀の社傳は恐らく此際から確定したのであらう。

　鏃に使用者の名が切込んであれば、是ほど確かな證據は無いのだが、そんな事は到底信じ得られない。ところが實際鎭西八郎爲朝ででも無いと、これを常用することが出來なかつたらうと思ふ大矢の根が、折々老木の幹から出ることがある。しかもそれを爲朝の箭だとすると、實は名人が射損じたといふことに、歸著するのだから困つてしまふ。

　百五十年ばかり以前に富士の裾野の或る密林の奧で、木を伐つて居た樵夫が木の中から發見した鏃なども、長さ八寸近くもある見事なる鏑矢であつた。常は人の來る場處でも無いから、多分は頼朝の卷狩の時に、誰かゞ射込んだものだらうといふ鑑定であつたが（甲子夜話）、獵に其樣な大鏑矢を使ふものが果してあつたらうか。秋田の神宮寺領の鑓見内《やりみない》といふ村で、同じ頃に伐り倒した大杉の幹からやはり、長さ一尺餘幅七寸ばかりの、鑓の穗先のやうな雁股の矢の根が出た（譚海卷一）。此邊は昔の後三年役の戰場だつたから、其當時は是を射るほどの大力の射手が居たものと見えると、著者大いに感歎して居るが、是も寧ろ箭を見てから爰を古戰場と推定した迄で、それを戰爭の名殘りときめるだけの證據は無いのであつた。

　信州では木曾の妻籠から飯田へ越える山路、捻木澤《ねぢきざは》といふ處に捻れて輪の如くなる老木の檜があつた。元文三年の三月十三日、雷が落ちて此木が燒けたので、村民之を摧いて薪にしようとすると、其中から古い鏃が六七本も出て來た。此地で戰のあつたのはそれから二百年ほど前の天文十二年に、山村良勝が伊那勢を待伏せして勝利を得たことがあるだけだから、其時の矢の根であらうといふことになつて居る。併し敵を射ようとして何本も木に射込むなどは、よつぽどどうかして居るのみならず、捻ぢられた山中の樹は、今でも多くの土地で山の神として拜まれて居る。單なる流れ矢とは推定するわけに行かぬのである。それで我々の第二の想像、何か信仰の行爲としで樹を射た習俗が、あ　つたのでは無いかといふ説が少しづゝ有力になつて來る。此方の例としては東北では東津輕の一本木村の八幡社の槻(270)の木、是も近世になつてから其古木の空洞の中より、朽ちたる矢の根が幾つとも無く現出した。次には北會津の一箕村の八幡宮、八幡太郎の創建と傳へられて、毎年九月十九日に流鏑馬の式のある社であるが、文禄年中蒲生氏郷の領知の頃、社の側の二本杉を伐らしめると其根もとから二本の鏃が出た。仍て矢杉と稱すと謂つて、現在も一丈八尺周りもある大木があるのは（大日本老樹名木誌）、栽繼ぎでは無くして多分伐倒さずにしまつたものであらう。氣仙の矢作《やはぎ》村では　　字｜生出《おいで》の的場の洞穴といふ鍾乳洞の側に、古木の槻の木があつて鏃が多く出て來た。是などは的場といふ地名もある爲に、狩だ合戰だといふ傳説を産する餘地も無く、樹に向つて矢を射る習俗が此田舍にもあつたのであらうと、土地の學者も認めざるを得なかつたのである（氣仙風土草）。

　矢の根の樹の中に在るのも、大よそは年限のあることゝ思ふ。從うて是が多く出る土地は比較的近い頃まで樹を射る習俗の尚殘り、若い傳説しか附いて居ない地方と見て差支へが無いやうである。矢立杉などの名稱も氣を付けて見ると、やはり東北九州の端れに行くほど、より強き力を以て人心を支配しようとして居る。宮城縣では柴田郡｜支倉小野《はせくらをの》の矢立杉にも、澤山の箭の跡があつたが、是は八幡太郎が仙北金澤柵へ發向の際に、近習の若侍と共に、弓勢を試みたまひし杉などゝいふ傳説がもう出來て居た（　　嚢塵埃拾録）。道祖神を以て著名なる名取郡笠島村の矢立杉なども、やはり其名稱に基いて箱根のそれと同樣に、昔秀衡將軍が都に上る時、路の傍なる杉に矢を射立てゝ首途を祝し、從臣も其例に倣うて各々鋒鏑を參らす、などゝいふ言傳へが出來て居たらしい。ところが明暦以後の或る年に、此木を伐つて船に造らうとしたら、幹の中から無數の鏃が出て來たので、成程舊説は根據があるといふことを知つたとあるから（封内風土記）、祭の式は此頃既に絶えて居たのである。しかもそれから後色々の奇恠があり、久しからずして其船も亦破壞したといふのは、原の信仰のまだ全く消えてしまはなかつた證據である。九州の方でも豐後から日向へ越える梓峠といふ路の大杉から、近世數多の鐵鏃を出した話がある。それより少し前の寶暦九年と云ふ年にも、日向の杣が伐り出して備前岡山に持來り、船木に挽かうとした杉材の中から箆入《のいり》五寸もあつて尖の折れた偉大なる三箇の鏃(271)を出したごとがあつたが（春湊浪話）、それは何れの山の木とも知れなかつた。ところがこの梓峠の梓明神の祠の近くで伐つた木は、土地は日向の側でありながら豐後杉といふ木であつたが、山で板を挽いて持下さうとすると内が空洞になつて中には數千の鏃があるばかりで、何の益も無いので止めたと謂つて居る（笈埃隨筆）。是なども明白に矢立の杉であつたらうと思ふが、此地方では唯學者が之を奇異としたのみで、新たに傳説の考へ出される機會にもならなかつたやうである。傳説には察する所發生の潮時の如きものがあつて、それは信仰のやゝ衰へ、習俗の尚守られて居る際即ち新古生活の一つの堺目の峠が、特にこの「矢立の木」の聳え立つ場處になつて居たやうに、自分たちには想像せられるのである。

　

(272)　　　　　青へぼの木

　

　　　　　　　　　　一

　

　毎年春の彼岸が近くなると、一つ隣の停留場の脇の空地に、植木の市が立つことになつて居る。この邊の半分百姓、半分植木屋の使ふ日本語には珍しいものが多い。モドキが梅もどきで、ジツコが百日紅の略語であることなどはすぐ判つたが、前から不審に思つて居たのは「青へぼ」と鉛筆で書いて、ぶら下げてある木が接骨木《にはとこ》であることである。勿論辭典にも、又何處の方言集にも出て居ない。ニハトコは元來地方名の多い木で、それが又大抵は意味不明である。たとへば鹿兒島縣などは一般に是をタツの木と謂ふが、薩摩の一部にはデの木といふ者もある。備前の邑久郡などもタズと報告せられて居る。上總の東部ではクサンヅキ、本草啓蒙には同地でクサジキと謂ふとあるが、デの木の例もあるから、突いて中から髓を出す木といふことかと想像せられる。肥前ではヤマトウシン（山燈蕊）、加賀でシヤクヲシの木と謂ふと啓蒙にもあつて、此木の蕊は利用せられて居たのだが、今は尋ねて見ても命名の理由はもうわかるまい。現在標準語となつて居るニハトコとても、其由來は實は不明である。言海には庭に常に在るから庭常かと謂つて居る。そんなことを言へばどの木も皆ニハトコぢやないか。

　ところがこの青ヘボの木の方は、却つて存外に早くわけが判つたのである。北多摩郡の各村の正月行事には、此木を削つてアヲヘボといふものを作り、ツクテバ即ち堆肥置場の上に刺して置くことがある。さうして殆と是たゞ一つ(273)の容途に、此木を屋敷の片隅に栽ゑて居る家が多いのである。アヲヘボは勿論粟穗稗穗であるが、其心持までは傳へて居らぬ者があつたと見えて、之を訛つてアヲヒボといふ處もあり、東京から東の江戸川左岸の村などでは、アブヒボとさへ謂つて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　信州は是等に比べると、先づ粟穗稗穗習俗の本場と稱してもよい。たゞ是に使用する材料の木がヌルデであつて、又樣式も僅かづゝちがつて居る爲に、接骨木を「青ヘボ」と聽くと、一應面くらふことは私たちと同じだらうと思ふ。斯うした行事は本に復る見込は無い。早晩忘れたりまちがへたりするにきまつて居る。又罷めるにしても一通り其動機を知つてからにした方がよい。それには形のまだあるうちに、記録だけは確かにして置かなければならぬと考へる。信州といつても弘いから、場所毎に所作も説明も少しづゝの差異はあらう。天龍下流の實例にはまだ接しないが、南北安曇のがやゝ詳しいから、それを土臺にして話を進めて見よう。材料は普通正月十一日の若木迎への日に伐つて置くが、こしらへるのは十四日の朝のうち、又は手まはしよく十三日の夜作る家もある。何れも勝軍木《ぬるで》を三四寸の長さに挽いて、皮を剥いた白いのを粟の穗に、剥かぬものを稗の穗になぞらへる。是を細い割竹のさきに刺したのを幾本かづゝ、やはり堆肥場の上に立てゝ、穗の重みで頭が垂れるやうにしたのは、簡單ながらしをらしい寫實であつた。小縣郡南部の村などは、數は各々六本と定めて、是を新藁の繩の南端に分けて結はへ、外には立てずに家のカリカケに下げて置くことになつて居る。苅掛けといふ風習は關東にもあるが、毎年中秋に新稻の拔穗をして、祝ひに其穗を掛けて飾る場所である。そこに其粟穗稗穗を翌年の正月までつるして置き、新しいものを作ると同じ日の十三日にそれを月順に爐の中に立てゝ、陽氣占ひをすることになつて居た。水の滲み出す分は其月を雨と判じて、其つもりで作物の加減をするのださうである。

(274)　ところがこの東京郊外の田舍では、名は一つでも粟稗の穗だけでなく、大根やニンジンゴボウのやうな農作物の形までもこしらへる。それを神棚にも上げ、又ツクテ場にも立てるのである。信州に接近した武藏上野の山村のアハボといふのは、たゞ割竹のさきに團子をつけたものだといふ。竹は私の近所でも、又下伊那の方でも使ふやうだが、果して皆穗の垂れた形までを擬するかどうか。寫眞に取つて見ないと確かなことは言へない。遠州の大井川流域に行くと、アーボと謂ふのは繭玉のことだといふが、別にアーッポと稱して信州のに似たものを製し、皮を剥かない方はやはりへーボと謂つて居る。上流川根地方は小縣郡も同樣に、各々六本を用意するさうだが、立てるのは粟稗各々一本を組にして、飾り松に添へで立てるやうである。こゝのも材料はヌルデかと思はれる。伊豆賀茂郡のはカツの木を削つて作るといふから、乃ち同じ木である。是も削らぬ方がヘーボーだが、尖端に團子をつけて神に供へるとあるのみで、竹に刺すかどうかは報告せられて居ない。

　

　　　　　　　　　　三

　

　この正月風俗がどれだけの區域に及び、又その中での名稱方式の一致が、どう云ふ風になつて居るだらうかといふことは、信州人にとつても興味の無いことではない。私が今知つて居るだけを言つて見ると伊豆でも大島にはアハンボ・ヒエンボがある。是も年の始めに鎭守の境内に在る家々の地神の祠を新たにして、其前に是を立てゝ居る。材料はカマノキとアメンボ、紫陽花と接骨木のことかと、海島民俗誌には謂つて居る。それを三寸位に切つて割竹のさきに刺すので、かはつて居るのは上下を矢の根形に刻むことだとある。矢の根形といふのは不明だが、或は矢筈に切れ目を入れることかも知れぬ。次に千葉縣へ渡つて、君津郡誌には正月十四日のアーボウといふものがあるが、どんな形か又稗穗を伴なふかどうか。まだ私は確かめることが出來ない。それからずつと北に飛んで、青森縣の八戸市附近だが、稗の栽培のかなり盛んな地方であるに拘らず、爰では粟穗米穗と謂つて、一枚五合ほどの大きな餅である。そ(275)れを粟は二枚米は三枚、櫃の蓋の形に作ると云ふから東京の熨斗餅のやうに長方形なのであらう。それを繩を以つて竹につるしてさし、翌十五日には直ぐに繩を切つてしまつて置くのを粟刈といふ。村によつては、粟刈を十八日にする所もある。餅がそれ迄に拔け落ちたり竹が折れたりすると、穗が大きくなると謂つて悦び、或は鎌をもつて大袈裟に刈る眞似をして、半分刈ると休んで煙草をのみ、晩《おそ》い方もよく出來たなどゝ言ひつゝ、殘りを又刈つてしまふ家もある。この粟刈の終る日まで、女に鐵漿を附けさせない風習も以前はあつた。其禁を犯すと粟に黒黴が出來ると謂つて居た。餅はもと直接に箭竹に插して居たものらしく、其竹は粟穗竹と稱して、庭上に棒を横たへて之をもたせかけるのが例であつたが、近年は苅積みすると謂つて、竹だけを庭に立て、餅は別に膳の上に置くやうになつた。落ちたり轉んだりするのが、祝つては見てもやつぱり好ましくはなかつたのであらう。

　粟刈といふ日は、他の多くの土地では二十日正月のことであつた。同じ南部領のうちでも紫波稗貫二郡の村々などは、二十日に小正月の飾り物一切、繭玉から粟穗までを卸して食べてしまふのだが、是を總括して粟刈と謂ふのである。江刺上閉伊等の郡では、是を粟コナシ又は粟穗コナシと謂ふ。コナスといふのも收納の意である。信州でも大河原の山村などには、二十日の年取りを稻刈粟刈と謂ふ例がある。さうすると今では勝軍木を削つて作る粟穗稗穗も、曾ては東北同樣に、又繭玉と等しく、餅で作つて居たことがあるのかも知れぬ。或は又初春の食物を片付ける事務以外に、別にこの木製の粟穂を、演技的に刈取る儀式が行はれて居たのかも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　正月に一年中の重要なる農事を、一度形だけ行なつて見るといふ習俗は、起原の頗る古かつたものゝやうに思はれる。東西府縣の古い御社、東京の近くでも豐島區の赤塚�ｺ丸、及び都筑郡の杉山村などに、永く傳はつて居た田遊びといふものは其名殘りで、此等は信仰に支持せられて、其全形を保存して居たのだが、自由な各民家の生活行事の中(276)にも、切れぎれにならば尚傳はつて居る。鳥追ひ土鼠打ちなども其一例で、眼の前へさういふ動物が荒しに來て居るのでは無いが、一年の最もめでたい重要な日に一應是を追ふ手續きを履んで置けば、效果は却つて必要に迫られた只の日よりも、大きいだらうと思つて居た點は一つである。北信一帶で謂ふ萬物作りは、北陸地方ではサツキといひ、もつと北へ行くと田植正月、もしくはシツケなどゝ謂ふも同じことで、物作りは即ち耕作を意味する。正月十四日の日の入りから、翌日同刻に至る若年越の日に、奧羽は今でも白雪の上に畝を起して、松の葉や切藁を苗にして田植をする。或はヒジロを苗代と見立てゝ、此日は足を入れると鴨に荒されると謂つて、非常に嫌ふ者もある。粟穗稗穗の如きも、要するにその呪術演技の一部分であつた。繭玉といふ新しい名稱が入つて來た頃から、是等がそろ／＼と只の正月の飾り物に化して來たのである。

　養蠶が山道の諸國に勃興したのは、江戸期も半ばを過ぎて後のことのやうに思はれる。それ迄は唐絲と稱して、絹絲は寧ろ長崎から供給せられて居た。山野に繁茂して居た桑の葉を摘み採つて、自在にこの柔かで光澤あるものを生産する技術が、蠶種と共に入つて來た時代の、農民の春には新たなる悦樂があつたらう。乃ち年の日の作り物の一つに、繭の形をした飾り餅を加へで、更に之に伴なふ繭掻き繭ねりの儀式さへ設定したのである。養蠶の業が始まるより前から、繭玉といふものがあつた氣遣ひは無い。しかも一方には稻の豐饒を祝する飾り物は、必ず古くからあつた筈だが、よく見ると其分を繭が蠶食して居るらしいのである。奧州八戸の粟穗米穗のことは前に述べた。同じ南部領でも上北郡に行くと其代りとして粟穗稻穗があつた。粟穗は五本の細い竹のさきに、粟餅を一つづゝ插したもの、稻穗といふのは七本の藁を一束とし、一本に米餅十づゝを附けたものであり、別に豆と稱して柳の枝三本に、團子粒ほどの餅を數多く附けたものと、三種を臺所の檐下に掛けて、ことしは豐作と祝するのが作法であつた。鹿角地方に於ては此頃は斯ういふ細かな作り分けは無く、たゞ柳の枝に飾り立てた餅花を總稱して、アハボイナボと呼んで居るだけである。信州でも北安曇の奧の方には、小正月の飾りの全體を總括して稻の花などゝいふ村があるが、上伊那あた(277)りの稻穗は割竹を又細く三つに割つて、其さきと中程とに餅をならせたものゝことで、是を粟穗稻穗と組合せて、歳神ホンダル樣又家の内外の神々に上げて居る。甲州の方の稻穗には餅は無い。たゞ川楊などの細かな枝の多いものを伐つて來て、若年になつてから門松の傍などに立て添へるのださうで、「甲斐の落葉」にはその見取圖が出て居る。しかし家の中には又別の飾り樣があるのかと思ふ。兎に角名前や方式の相違はあつても、信州農家の萬物作りと、奧州の御作立てとは、寫眞で見るとかなりよく似て居る。さうして其主要部の特に美しい枝の多い飾り物は、共にもと稻の穗を代表して居たのである。町や城下に入つて住む家々でも、この正月の美しさとは別れるに忍びなかつた。年始の祝賀の中心を三箇日に置いた家でも、暮の餅搗きの日に必ずこの形の飾りをこしらへて居る。しだれ柳の枝を使ふことになつて、殊に座敷と調和した清い飾りになつた。たゞ殘念なことには是が稻穗であることを忘れ、次第に餅花だの吉兆だの、又繭玉だのといふやうになつたのである。餅でこしらへた色々の作り物は、越後などでは町屋へ來て買ふ者が多くなつた。あまり此點に空想を走らせて居た爲に、終に繭玉を主とするやうになつたのも、實は米を作らぬ町の人々の感化であつて、何とやらん皮肉に今日の農村變化を、豫言して居たやうにも考へられるのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　粟穗稗穗の名は關西の方には無からうと思つて居ると、愛媛縣の浮穴村に一つの例を見つけた。但し是はたゞ立てて置くのではなくて、正月十五日の節供の遊びに、子供たちが手に持つて色々の物を打つてあるく棒である。棒だからもうアハンボウと呼んで居るが、材料がフシの木即ちやはり勝軍木、それを短かく切つて割竹のさきに附けたことは、信州の粟穗と製作が同じである。諸國に無數の例ある上元の祝ひ棒や子孕み棒の類と、下元の日によく出て來るヰノコヅチ又は十日夜《とをかんや》の藁鐵砲との、ちやうど中間に立つものとして私たちには興味がある。九州北部の田舍は一般に、この正月行事の今ある型はやゝ崩れて居る。たとへば土鼠打ちといふ名はなほ存しても、子供が此棒を持つて地(278)を打ちつゝ唱へる詞は、千なれ萬なれといふ果實の豐産を念ずる語であつた。さうして翌朝は此棒のさきを折り曲げて、果樹に立てかけて置く風は粟穗稗穗に近いのみならず、其こしらへ方もさきを藁にしただけで、亦右の愛媛縣のアハンボウと似て居るのである。それから推して考へると、ニハトコ又はヌルデの木を切つて、割竹のさきに插すといふ約束にも、別に何か隱れたる呪物的の意味があつて、それが飛び／＼に各地に傳はつて居るのかも知れない。宮崎縣北部の七ツ山などの山村でも、信州の粟穗稗穗のやうに、木を削つて作つた穗　　状のものを、竹のさきに插して屋敷や畠の隅、又は墓場の花筒にも立て、同時にその大型のものを果樹にも立て掛ける風がある。是をホダラ木と謂ふのは下の方を削り掛けにしてあるからであらう。ホダレ又ホンダレといふ語は信州にも弘く行はれて居る。是も若歳の物作りの際に、楊その他の白い木を削つて、花房のやうに垂らしたもので、普通には是を家の入口に貼り付けるが、又色々の木の細工品に取添へて、神に供へることもあるらしい。上伊那地方のホンダル樣には、別にさういふものは無いといふが、私の想像では此時立てる粥かき棒の一端に、もとは削り掛けをしたのだらうと思ふ。靜岡附近の十四日の粥掻きには必ず削り掛けを作つて添へ、同時に粟穗稗穗も其木の一端を削り掛けにして居た。此日を花かきの日と謂ふことはあの邊だけでは無い。上州新田郡でも削り掛けを花かき、武州熊谷でも是をかき花、信州でも物作りを花作りといふ處がある。つまりは形が似て居るから花と謂つてもよいので、「掻く」は鰹節などには今でも謂ふやうに、細く美しく花のやうに削ることである。此技術は段々に退歩したかと思はれる。原因は主として紙とか麻とかの代用品が普及した爲だらうが、福岡縣などでは此日神供に添へ、又各自の膳を飾るものは、ホダレ菜と稱して葉の附いた小さな大根であるといふ。神馬藻をホンダワラといふ語は東京にもあるが、是も穗垂れの代用品の一つかと考へる。技術といはうよりも斯ういふものを湛念に削り出す、根氣と熱心とが衰へてしまつたのである。紙を綺麗に剪つて注連などに下げたものを、カイダレといふのも別の語ではない。正月の祭具や祭場を標識して、是が特殊に神聖なものだといふことを示すべく、紙の文化に惠まれなかつた我々の祖先が、久しく用ゐて居た方式は、この掻垂れの他には(279)無かつたと思ふ。それを花と名づけたのは、形が似て居る爲ばかりでは無かつたかも知れぬ。穗垂れといふ語が示して居るやうに、本來は稻粟稗などの穗が豐熟した有樣を、一度初春に演じ出してその呪法の效果を收めようとするのが、昔の正月行事の根幹であつた爲で、接骨木・勝軍木のやうな柔かな白木が是に用ゐられたのは、掻いて美しい穗垂れとすることが、比較的容易であつたからだらう。同じ五穀といふ中でも稻と粟稗のみが、この物作りの主要なる部分を占め、大小麥や蕎麥や黍が是に參與しなかつたことも、何か經濟史上の意義があるやうに私には考へられる。

　

(280)　　　　　地梨と精靈

　

　　　　　　　　　　一

　

　此問題は最初枝垂櫻のことを書くときから、私の殊に心を潜めて居た所であつたが、一年も經つうちにはもう少し成長するであらうと思つて、今まで發表を延引して居たのである。植物の話も是で一應は終らうと思ふので、不完全ながら只今の假定だけを述べて置き、あとは地方の同志の補訂を仰ぐことにする。

　前年東筑摩郡の盆正月行事の報告を整理する際に、ふと氣にかゝり出したのは、此郡各村の精靈棚に、必ず林檎の實を絲に結はへて引掛けることであつた。此果物の我邦に渡つて來たのは、以前のコリンゴにしたところでさう古いことでは無い筈である。書物の上に現はれたのを目安にすれば、京都で其名を知つて居た時代は尋ねられるが、それを信州に持込んだのは、又若干年月の後と見なければならぬ。さうすれば盆の棚飾りは、後世に此物を採用したことになるのだが、その動機は果して何處に在つて、今は斯くまでの普遍性を具ふるに至つたか。さう言へば隱元豆も玉蜀黍も、皆一度は其經歴を同じくして居るやうだが、單に畠作の珍しい食物を、有る限り集めて供物にしようとしたのと、是は少しばかり事情が違ふやうに思はれる。それで私は信州の人に逢ふたびに、いつも此間題を出して解決の手掛りを求めて居た。多くの諸君はまだ私が想像して居るほどに、大切な暗示だとは認められぬであらうが、假に私の想像ははづれて居ようとも、斯ういふ今まで注意せられなかつた社會現象には、少なくとも何等かの學問上の意味(281)が有る。當事者の感覺が尚活きて居るうちに、考へられかだけは考へて置いた方がよくは無いかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　現在の苹果が信州人に愛用せられるやうになつたのは、盆の慣習なども漸く簡略になりかけた明治の末頃からでは無かつたか。私は日露戰爭の終りの年、名古屋の旅館で茶代の返しに此物を貰つて迷惑したことを記憶して居る。置いて行かうとしたのを縣廳の人が惜しがつて、三河の山村を下げてあるいてくれた。路を通る者が皆珍しさうに目を注ぐ。あれは何だか知つとるか、いや知らぬ。あれは北海道のだい／＼ぢやがい、といふやうな問答を聽いてあるいたものだつた。小林檎は有つたにしても、どの土地にもさう普通といふ迄には無かつたのである。

　本草啓蒙を見ると卷廿六に「奈、ナイ、リンキン、アカリンゴ、ベニリンゴ、加州、ベニココ、リンキ、羽州」などとあつて其記事に「寒國に生ず、故に加信奧羽に多し。他所に移し栽うるも活きず、形?林檎に似て葉細長し。花は林檎に同じ。熟して内外とも深紅にして柔軟なり云々」と出て居る。今日の苹果の普及する以前、信州の盆に魂棚を彩どつて居たのは、恐らくは是であつたらうが、其種は今何れに傳はり、もしくは曾て何人によつて作られて居たらうか。是が各戸に栽ゑられる程で無かつたとすれば、如何にして分配せられ、又それを手に入れ得ない場合に、何を以て代用としたか。今のうちに之を老人たちに尋ねて置くことは、別に六つかしい質問でも無いやうである。

　小野氏の啓蒙の記文中、私の重きを置くのは此赤林檎が中まで赤かつたといふ點である。柿はまだ早く苺は既に遲かつた初秋の宵に、定めて此果子のみは異彩を放つたであらうが、果して斯ういふ物を新たに盆の行事に織り込むことが、たゞの思ひ付きのみで出來たであらうか。それが先づ問題になつて來るのである。赤い果物を盆の精靈に供へる習慣は、氣を付けて居ると他の地方にも有るやうだ。たとへば「旅と傳説」四卷八號、早川君の津輕紀行の中にも、小泊の村などでは?瑰《はまなす》の實を絲に貫いて、精靈棚に供へるとある。?瑰をハマナスといふのは標準語であるが、北の(282)方にばかり産するものだから、事によるとハマナシ〔傍点〕が元であつたかも知れぬ。奧州の土語では之を一般にヘエダマと呼んで居る。南部領の方にも同じ習慣があるから、このヘエダマも名の起りは之に關係があつたので無いか。八戸市の奧南新報（昭和六、八、一六）に、小井川潤次郎氏が斯ういふことを書いて居る。「今年は林檎が赤くならず、?瑰の果を絲で繋いで、精靈棚を飾つた。其果もまだ悉く上向いてござる。ひつくりかへせばいゝ云々」と。それから又そのまだ赤くならぬ林檎といふのが、今の青森縣名産の苹果とは別物だとも記して居る。是だけの記事でも大よそ察せられることは、?瑰のヘエダマを盆棚に上げる動機は、色が赤くて實が下を向いて熟する爲かといふことである。しかも此植物は海近くの岡や砂濱で無いと生ぜぬから、假に此物が最も盆の供物に適したとしても、他では?々代用品を必要としたことも亦察せられる。從うて信州の盆の林檎が、今日南部八戸の赤林檎と共通の用途をもつて居るのは、直接に其慣習が一方から他方へ流傳した爲では無くて、何か其背後に今一つ、起原のもつと古い自然觀の如きものがあつて、次第に慣習を此一致に導いたのでは無いか、と又例の大袈裟なる物の考へ方がして見たくなる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　さうなると私たちの聯想に先づ浮んで來るのは、今日殆と全國的に行はれて居る盆の供物、即ち子供たちに最も親しみの深い酸漿《ほゝづき》のことである。書紀のアカカガチも酸漿とあるから同じ物らしく、是は八岐大蛇と猿田彦大神との眼にたとへたのが、唯一の文獻だから心もとないが、兎に角此物の古くから、國産であつたことだけは想像し得る。是が他の多くの食品の間にまじつて、精靈に供へられたことに就いては歴史には見えぬが、今は何の意味も無いだけに、隱れたる意味が有りさうに考へられる。見馴れて我々はたゞ看過して居るのみで、この特色に富んだ一種の草が園に栽ゑられ、習俗に取入れられるには理由が無くてはならない。それがどうやら北の國のハマナスと、一線の脈絡を持つて居るのも、私には偶然とは思はれぬのである。

(283)　カガチは和訓栞に燭皿の意かと言つて居る他、流石の語原家たちも口を閉ぢて居るが、兎に角に蛇のヤマカガチと、音を同じくするのは注意してよからう。是は中元の行事では無いけれども、昨年の岡山文化資料三卷一號の中には斯んな話も見えて居る。蛇苺《へびいちご》といふものは蛇の食するものとして人は之を採らぬが、たゞ五月節供の日の朝に限つて、あの地方の人には是を數粒食用とする風習があると。節供は既に明らかになつて居る如く、特定の食物を設けて神靈と人との共に食ふ日であるから、是も尋ねて見たらこの赤い實を、神樣や先祖に供へて居る事實が見つかるかも知れない。苺は元來その色によつて小鳥を誘ふもので、それを狙つて蛇がよく其附近に潜むといふことは、川口君の「飛騨の鳥」にも觀察せられて居る。酸漿と蛇との關係も、或はそれが自然の播種に委ねられて居た頃には、是に近いことが古人によつて經驗せられて居たので、カガチといふ名が起つたのでは無いか。動植物の生態と習性に就いては、書いて本にして殘さうとはしなかつただけで、古人の方が確かに念入りの觀察者であつた。新しい教育にいそしむ者は之を怠り、又他人のさうした報告を無視するが、まだ幸ひに其知識は民間から消え盡しては居ない。國にもよるけれども日本の如く、急激に新文化を接受して、其浸潤の弘く及ばぬ民族では、二種の經驗は肩を並べて近く相鑑みることが出來る。無暗に鄰嫗の説く所を嘲り退けぬのが肝要である。但しこの古風の科學には、推理が一般に甚だしく單純であつて、しかも古く教へられた根本義の拘束が強かつた。たとへば鳥が遠い空から來るのを見ると、常世の國の音信を齎らすと察したり、蛇が土中を往來することを知つて、端的に地下に埋められて居る者の使命を帶びて居るやうにも思つたりした。この結論の容易に信じられぬことによつて、彼等の親しく見聞した事實までを侮ることは不利益だ。それと同時に我々の如く、昔の人たちがどういふことを考へ又信じて居たかを知らうとする者にも、斯ういふ古い知識と是に伴なふ色々の仕來りが、書物無き場合の唯一つのよい資料なのである。我々の學問の目標として便利であるのは、毎年日を定めて必ず守り、之を缺くことを不安とした幾つかの式行事である。節の日に赤い木草の實を供物とし、それを特色のある名を以て呼んで居たといふ事實などは、即ち新しい文化の側に立つ人々が、古人への(284)御禮として此方から新たに觀察し、且つ彼等の爲に考へてやるべき問題の一つであつたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　しかも林檎を盆棚に飾るといふのが、それ程意味のある文化史の一史料であることは、比較をして見なければ早速には氣が付かない。信州の諸君は我郷土を詳かに知る爲に、やはり異郷の人と助け合ふ必要があつたのである。苹果で無い在來の林檎を、供へる例は青森縣にあつたのだが、それも日本固有のもので無いとすると、林檎を知らぬ前には何物を用ゐて居たらうか。是には更に轉じて「林檎」の無い府縣の、慣習を問合せるより他に途は無い。京都では以前鹿梨「ヤマナシ」といふものゝ實を、中元の佛に供へて居たことが本草啓蒙に出て居る。是が信州にも多い樹かどうかは知らぬが、飛騨では上小鳥の山路などに山梨といふ木の大木があつたのを私も見て居る。樹陰が夏の日の休所になり、其實も少しづゝは往來の者が採つて食つたといふ。京都にある慣習だから、古いとは勿論言得ない。彼も是も共に今一つ元のものから、變化して居るのかも知れぬからである。確かめて見なければならぬのは、土地に此樣な慣習を支持し得るだけの、品物の供給が果して有つたか否かである。林檎が買つてなり又家々に栽培してなり、この全般の需要に應じ得るやうになる迄、果して信州の鹿梨が今日のカンバの樹皮などゝ同じく、すべての盆棚に行渡るほど多かつたらうか。若しそれが不可能だつたとすると、何を其代りに用ゐて居たであらうか。是を考へて見ることが當然の順序のやうに私には思はれる。

　此問題は一見六つかしいやうに見えるが、其實は單に我々の注意の如何によつて決する。此慣習が若し想像の通りに、古來の魂祭に伴なふものであるならば、林檎が手に入らぬからとて丸で止めてしまふものは少なからう。さうして現在の開けた土地でも、まだ隅々まで洩無く林檎を求めるといふわけにはゆくまい。信州の内外を問はず、家貧しく又は不自由で盆市に立つことの出來ぬ人たちが、どんな物を其代りに上げて居るかは、聞かずとも行つて見れば判(285)るであらう。古い簡素な時代の生活は、實際は斯ういふ人々の生活と近いものであつた。乃ち土地境遇に基く色々の變化の中に、通例は前代の形が含まれ殘つて居るものと、推測して大いなる失敗は無いと思ふ。是を比較して見てどれが最も古からうかを考へて見ることが、我徒の郷土研究では根本の方法となつて居るのである。

　それが又學問の一つの興味でもあつた。我々の假定はいつになつても證據も反證も擧がらぬやうな、勝手放題な空想では決して無い。ちやうど學校生徒の暗記カード見たやうに正しい答案は裏に書いてある。それを今までは引くり返して見なかつただけである。當れば嬉しいが違つた時は耻がましいから、さう無暗にいゝ加減なことは言へないのである。私は是でも一應の根據が有る積りであるが、尚或は案に相違するかも知れない。兎に角に今から豫言をして置くならば、林檎が流行して來て之を精靈樣に供へるやうになつた前には、地梨即ち草ぼけの實が、盆には缺くべからざる果實であつたらう。弘く他の地方を捜して見るまでも無く、信州にも今以て此物を自ら採つて來て用ゐて居る實例が、程無く方々から見付かることゝ私は思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　草ぼけは漢名櫨子、是も小野氏の啓蒙に又ノボケもしくはコボケ、肥前にてはチクウメ、奧州にはシドミと謂ふとあるが、關東も一般にシドメである。常陸でヂナシと謂ふとあるけれども、是は偶然に彼地方だけの事實が知られたといふのみで、信州でも亦其通りに呼んで居るのである。私の家には目下信州北安曇の地梨と、下總三里塚邊のシドメと、宅の近所の岡から採つて來たものと、三種を併せ栽ゑて居るが、ごく僅か花の色に濃淡が有るのみで、其他には何の相異も見えぬ。普通の農家では此樹の移植を忌み、花を摘み實を持込むことをも嫌つて居るやうだが、信州だけには其風が無いらしく、今でも秋の行樂の一つとして、地梨踏みといふことがあると聞いて居る。

　前年木曾と諏訪と兩方の人から、週刊朝日の地方色欄に報告した文章が、雙方大よそ同じであつたから、他の郡に(286)も多分その採取法が有るのであらう。秋の日に籠を持ち新しい草履をはいて、草野をあるきまはつて此物を見つけて來る。足にさはつたのを採る故に地梨踏みといふ名が有るのである。ちやうど奧羽の濱の人が濱梨を食用にするやうに、山村の住民は又地梨の鹽漬の香味を愛して居た。諏訪でクワリンといふ※［木＋温の旁］?《やまなし》の栽培が發達したのも、誘因は曾てこゝに在つたかと思はれる。舊暦の盆ではまだ少しばかり早いかも知れぬが、それでも今年はよく注意して見るのに、この郊外の庭さきではもう十分に成熟して居た。それから棄てゝ置くと自然に土の中に沈んで、其種實が翌年の若木を萌芽せしめるらしいのである。

　獨り此木が全國に普遍した固有の植物で、盆の頃に愛らしき實を結ぶといふだけで無く、或はシドメといふ語にも何等かの暗示があるのでは無いかと思ふが、それはまだ考へ得ない。佐藤功一氏は花が朱色をしたドヽメ、即ちシユドヽメの約音では無いかと云はれた。如何にも我邦の多くの野果は、ズミ乃至グミといふ語音で總括せられて居るが、花の色を直ちに實の名に付けたといふことがまだ合點し難い。埼玉縣ではシドメを又チドメとも謂つて居る。もう少し色々の地方的變化を比べて見た方がよいと思ふ。肥前のチクウメもチドメの方に稍々近いが、それよりも注意せられるのは壹岐島方言集に、?子即ち草ぼけを後生花《ごしやうばな》、或は又彼岸花とも謂ふとあることである。島では春の彼岸に此花が咲くのかも知らぬが、秋の彼岸にはもう實になつて居る筈である。從つて單に季節を以て名づけたといふ以上に、別に此木と「後生」とを結び付けて、考へなければならぬ理由があり、それが又常の日に此植物を住宅に持つて來ることを、忌み嫌ふやうな動機にもなつて居るのでは無かつたらうか。

　前に枝垂櫻の場合にも既に感じた樣に、最初人間が花木を愛し親しむに至つた動機には單なる物珍しさ以上の何物かゞ有つたのである。この自然の變化の毎年の繰返しを、つく／”＼と見まもつて居る間には、わけは解らぬなりに貴い一種の暗示を、受けずには居られなかつたかと思はれる。植物が花咲き實のり次の代の種を殘すといふことを、自分たちの一生と比べて見ようとしたことは、殊に春秋の風物に對する、我々の感動を深くしたらしく、歌にも言葉に(287)も其心持は久しく傳はつて居る。是にも各種族のそれ／”＼の癖といふべきものは有つたらうが、一般に東方諸國の宗教心には、天然の色と香とが早くから織込まれて居たやうである。花や小枝を以て祖靈を供養するといふ風習は、今では日常の飲食衣服と、一つなみに類推せられて居るが、人が此等の物の需要の幽界にも尚存し、神も靈魂も之によつて心を怡ばしめるものと、想像するに至つた理據はさう單純では無い。私は是を生者の記念の表示、即ち形は隔てられて手を執つて語らうことを得ずとも、此木此花を見るにつけて、必ず思ひ出して居るといふことを、物によつて實證したものと考へるのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　是には鹿梨よりも又今日の林檎よりも、所謂地梨は今一段と似つかはしくは無かつたらうか。シドメといふ方言の語義はまだ不明であるが、是と餘程近い語音を持つて居るものに?の實がある。?類の果子の地方名は、私の集めて見た所では、奧羽の北の端ではシダミ・シダベ又はシダメであつて、それが關東から中部地方にかけては、ジダンボだのジダングリだのと變化して居るが、その土中に入つて直ちに翌年の若芽を生ずる點、といふよりも其經過の特に人の目につき易い點が、地梨のシドメとよく似て居るのである。斷定することは出來ぬが是が名前の共通であつた理由であり、同時に又後者を盆の供物とするやうになつた動機では無かつたかと思ふ。?瑰の赤い實を絲に貫いて、精靈棚に引掛けるといふ地方で、それがまだ上を向いて居るから逆さにして吊せばよいと謂つたなども、偶然かは知らぬがシドメの特徴にもあてはまるやうである。即ち一旦土に入つて容易く再生し新たに次の代の物の花となつて、咲き榮えるものだといふ實驗が、古くこの二物のどちらかを、魂祭の日の缺くべからざる供物として居たのが、たま／＼其感動の遺傳の稍々薄れた時世に際會して、新たに流布して來た林檎のやうな珍果を以て、差替へられることになつたとも見られるのである。

(288)　花と人間との一生の類似といふことが、單なる譬喩であり推理であるならば、それまでの思ひ付きは昔の人には六つかしく、假に誰かゞ言出したにしても、成程といふ者は少なかつたかも知れぬが、この點にかけては我々の祖先は、生まれながらの詩人であつた。生物の分堺が今のやうに嚴密で無かつた以前には、人の精靈は鳥蟲草木等の間を輪廻するものと、考へられて居た時代も久しかつたのである。生きて現《うつゝ》には言葉をかはすことは出來なくとも、夢には來て語つたといふ話が幾らもあり、殊に愛する者の墓の上に生ずる植物の如きは、之を尋常非類のものとして、視ることの出來ない習はしを持つて居たのである。それが一轉して神依木《かみよりぎ》の思想となつたことは、タイラー教授などは早く説いて居られるが、日本では現に玉串捧呈の慣行となつて、其形骸だけは今日までも續いて居る。正月には吉方《ゑはう》の山の木を伐つて御松様を迎へ、盆には又必ず野外の定まつた草の花を採つて來て、祖靈を祭る棚を飾らなければならなかつたのも、目に見えぬものゝ是を假の宿りとして、遠くから訪ひ來ることを信じて居た結果である。三階五階の松の枝が、空より降る靈の梯子であつたやうに、土に生ひ立つものにもそれ／”＼の約束があつて、野邊の八千草の中からたゞ二三のものだけを選んで、盆花としたのであらうと思ふが、その一々の理由はもう説明し難くなつて居る。但し桔梗だけは形に特徴がある故に、多分タマシヒの宿り易い花と見られて居たらうといふことは前にも述べたが、酸漿に就いても亦同じことが考へられる。即ち當代の人々が色の褪めて行く寫眞によつて、死んで年を經た者を戀ひしのぶと同樣に古人は又斯ういふ自然の一片に由つて、亡者を記念する練習を積んで居たのであつた。

　何れの社會に於ても、シムボルは信仰よりも永く生きて居る。斯うした一見無意味の慣習が傳はらなかつたら、他に我々は上代の常民が、信じ思ひ且つ感動して居た何物をも知るよすがは無かつたのである。林檎は微物であるが尚人間の意思無しに、突如として盆の魂棚の上に跳り上ることは出來なかつた。しかも此行事は新たなる想像力を以て、追加増修せられるほど活?なる生活現象でも無かつた。正直のところ多數の家庭では、今まで何年と無く續けて居たことで、今年から止めるといふだけの機會も無い爲に、人のする通りに尚當分はして行くといふ程度であり、言はゞ(289)偶然に傳承が保存せられて居るのである。企てゝ人に信ぜしめようとするものよりは、この無意識の記録の方が貴い。是がもし自分の推測の通り、曾ては一般に「草ぼけ」の實を、魂祭の日の供物に用ゐて居たものであつたら、我々が地下の祖靈に對して抱いて居た期待と感謝、土を家々の末永き繁榮の爲に缺くべからざる條件として居た國民の信仰が、今なほ盆の習俗を通して、幽かながらも窺ひ得られるといふことになるのである。

　

　（附記）　右の一文は、實は地梨を盆の精靈棚に供へる實例が、直ぐにも方々から報告せらるべきことを、豫想した上での推論であつた。ところが信州からも又他の地方からも、不思議にこの事に就いては教へてくれる人が無かつた。しかも自分は尚それが此風習の皆無を意味するもので無く、寧ろ是を普通と思ひ、もしくは格別注意して居らぬ人々に、まだ此一篇が讀まれない結果と認めて居るのである。將來もし必要があれば、進んで此方から盆には何と何とを精靈樣に上げるかを、大よそ心當りのある若干の箇處に向つて、積極的に問合せて見ようと思つて居る。盆にコリンゴの手に入らぬ土地は、信州でもまだ少なくはない筈である。さういふ場合には何が此果實の地位を代り占めて居るか。何も無いといふことは恐らくあるまい。盆の七日とか十一日とかに、山野に入つて地梨を踏む習はしがあるとしたら、それも盆花迎へと同じやうに是が魂棚に飾らねばならぬ一つの品物であつたからと考へられ得るのだが、それだけではまだ完全なる證據とは自分も思つて居ない。此假定説がもし當つて居るなら、どこかにもつと具體的な記憶が、きつと遺つて居ることゝ信じて居る。

　關東では相模川の沿岸、近畿では大和の南部に、盆の精靈棚の竹には必ず今年生の若竹を使ふ風習がある。是も考へて見ると、新たに地中から出て來たものといふ所に意味があつたらしい。奧州八戸地方の盆の供物の中には、カドと謂つて河骨の地下莖が缺くべからざるものとなつて居て、之を佛樣の杖とも謂つて居る。羽後の生保内《おぼない》では野老の根を必ず供へ、陸中雫石などでは七月六日の釜飯に定まつて百合を入れ、又之を佛樣の舟と謂つて(290)供へる例もある。伊豆の北部では魂棚の水鉢に蓬の莖を入れる。是はみそ萩（蓍萩）の代りらしいが、其みそ萩の莖も何故に使ふかはまだ説明せられて居ない。やはり今年竹と同じやうな意味があつたかも知れぬのである。

　盆の供物には赤酸漿以外にも、注意すべきものが幾つかある樣だ。鹿兒島縣の寶島では、盆の墓前祭には親類の者が、必ず阿旦の實を一つづゝ持つて來て供へる。阿旦は恰かも此頃に熟するタコの木の實で、現在はもう常の食用になつて居らぬが、八重山などでは始めて此世に出現した人間の男女が、穴の中から出て最初に食つた食物だと謂つて居る。林檎の在來種は東北でもリンキと呼び、是を盆の佛に上げる風は多いが、倭名も無い位の果實だから、是が最初からのものではなく、何か前からあつたものゝ代りだらうと私は思つて居るのである。シドメ即ち地梨の花は、信州でも關東各地でも、是を家の中に持ち込むと火事を起すと謂つてきらつて居る。火事の災といふのは花の色が赤いからの聯想で、此ものを常の日に忌んだ原因は、別にあつたものと想像する。即ち其實が死者の靈を誘導する手段として、用ゐられた爲であらうと思ふ。

　

(291)　　　　　新野の盆踊

　

　　　　　　　　　　一

　

　「踊の會」と行書で三字、斜めに紅く書いた弓張提燈が三つばかり、それから少し離してバケツに清水、白い茶碗を副へて臺の上に載せてある。時々踊子が出て來てはこの水を飲むのである。

　信州｜新野《にほの》の町の盆踊は、こんな簡單な装置を中心にして、一つの場處をくる／＼と、廻つてあるく輪踊の一種である。輪とはいつても路幅が狹い故に、すぐに小判形になつてしまふ。縣道に指定せられる以前には、まだ左右に若干の空地があり、月何度の市もこゝに立つたので、今でも市神樣の小さなフクラと、制札場とが殘つてゐるが、常店が盛んになつてからそんな廣場の必要も無く、兩側の人家は町並一杯にのりだして、おまけに小溝が通してあるのだから、踊のためには如何にも窮屈になつて來た。

　もとは道路のまん中に石燈籠が一つあつて、その周圍をまはつて踊つたさうだが、それも取拂はれて、今は鎭守の森の鳥居の脇に、持つて行かれてさびしく立つてゐる。固苦しい駐在が勤務して居る年は、この頃でも交通整理だ取締りだと、やかましいことをいつて困らせるが、隣の村役場へは山坂が三里、三河とも遠州とも、立派な山脈を以てしきつてある。憚りながら日が暮れてから後まで、旅行運送に使用するやうな、そんな平凡な道路とは道路がちがふのだ。つまりは日中は縣道、夜分は踊湯として利用する樣に、天然がこれを認めて居るのである。

(292)　昔に比べて物足らぬことは、獨りこの路幅と石燈籠ばかりで無かつた。月送りといふ當節の風習は、節季を忘れたといふ口實を防ぐにはよからうが、踊る人たちには隨分と勝手が惡い。十五日だといふのにまだ青々とした夕空から、半片の月がけし飛んで山に入らうとして居る。闇の中で踊るのでは實は我々の踊で無い。それを悲しむ情が暗々裡に動機となつたものか、この閑靜な山の宿には、少し似合しからぬアーク燈が、光々として高く輝いて居る。こんな山家ですが電氣だけはと、自慢の樣にいつては見るものゝ、これは調和で無く、寧ろ妥協と名づくべきものであつた。

　繪にあるやうな菅笠や頬冠りが、この新しい光に照されてはならぬことは知れきつた話である。娘だけにはせめて手拭でもと思ふやうだが、それさへ西班牙風の大きなセルロイドの髪飾などを、きら／＼と光らせて踊つて居る。男の頭も半數はむきだしで、他の半分が鳥打か麥わら帽である。不思議に書生らしい物腰の青年が多いのは、一般に讀書が盛んであるのと、今一つは近年のテニスの流行が、無意識に影響して居るのであつた。

　踊の會といつたところで、別にその樣な團體を設けてあるわけでは無く、單に世話人等の新しい趣味である。大凡この山奧の一盆地に生を樂しむ人の限り、それこそ文字通りの老若男女で、小は小學校へ上つたばかりの少年少女から、兄姉叔父叔母は申すに及ばず親か祖父かと思ふ年輩の者まで、仲よく同じ輪を作つてしみ／”＼と踊つて居る。家々の吉凶、産土の祭、田植とか稻苅とか、春秋の行事も數多いが、これだけ完全なる共同の作業は、恐らくこの土地でも他にはもう例があるまい、また新規に始めようとしても始まるもので無い。何か知らぬがよほど大きな隱れた力が、この久しい仕來りを保存したばかりか更に是を尋常化してしまつて、寧ろ踊らぬ者を怪しましめるばかりになつてゐる。他所から來た嫁と年とつた女だけが、普通は踊の仲間に加はつて居ないのを、近世の變化の如く説明した人もあつたが、必ずしもさうは信じられない。

　　　盆の十六日踊らぬやつは、ねこかしやくしか花嫁か

といふ歌も方々にあつたり、

(293)　　　子持ち女も出てをどれ

と歌ふ村々も多いのを見ると、母とか嫁とか名のつく者には、踊らぬ理由が昔からあつたのかも知れぬ。何れにしても彼等も輪の中に入らぬといふのみで、決して單なる見物人ではなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　新野の盆踊の目立つた特色は、扇を盛んに使ふことゝ、太鼓その他の樂器類を、ちつとも用ゐないことであつた。私などの郷里の村では、日が暮れるともうぢつとして居られぬ樣な、ドオン／＼といふ音が始まり、それが夜の更けるに從つて一段と高く響いて來るので、何村ではまだ踊つて居ると、よく年寄のつぶやくのを聽いたものだが、こゝでは人よせの必要などは少しも無く、太鼓は無くとも宵のうちから、町中が踊になりきつて、聽えるものは唯集つてくる人のさゞめきばかり、歌は隨分高い聲で歌はれても、案外に遠くまでは屆かぬもので、寧ろ家々の常の夕方よりも、森閑としたものであつた。

　しかもさういふ靜かなる夜色を帶びながら、不思議な位に誰も彼も興奮して居る。いゝ踊になりました。珍しい大きな踊だ。もうこちらは橋まで來て居る。向ふは伊豆本の前まで行つたなどゝ、口々にそんな話をして小判形の輪の成長を悦んで居る。さうしてついと物かげへ消えてしまふのは、大抵は踊らうといふ人々である。自分たちは出來るだけこの空氣をかき亂さずに、踊る人の氣持といふものに觸れて見たいと思つて、殆と拔き足をして輪の外をあるいて見た。江戸で昔見物左衛門などゝ名づけたのは、恐らく我々の如き遠慮深いものではなかつたらう。我々は批評どころか、他所者だといふ顔もしなかつた積りだが、それでも視線の出逢ふたびに、はつとするような眼を時々見たのは、是非も無い近代人の敏感であつた。そこへ行くと小兒だけは單純なもので、うま味は無くとも覺えた通りの型で、一生懸命に足を踏み扇をかへして居る。裾短かの筒袖に三尺帶を垂れた後つきが、この踊の爲に改良せられたかと、(294)思ふほどよく似合つて居た。よく見るとその中にもやゝ巧者なのと不細工なのとがあつて、折角新しいポツクリなどを買つてもらつても歌とは筋かひに足を出したりする兒がある。そんな時には必ず母親らしいのが後に來て居て、氣をもんで色々と世話を燒く。さうかと思ふと二人か三人扇を固く握り、圓い眼をして同じ年頃の子供仲間がまはつて來たら、今度は入らうと身横へて待つて居るのがある。これが先づなつかしい見ものであつた。

　全體に踊の輪は、踊子の年齡によつて區切られて居るやうであつた。踊子と呼ぶのもをかしい位な親爺までが、やはり古くからの仲間があると見えて、知つた者同士でかたまつて踊らうとする。若い人たちは尚更のことで、よつぽど頓狂なのが笑ひながらにでも、一人異性の中にまじるといふことは少ないやうであつた。そればかりか帶の恰好や衣類までも大よそ同じ樣なのが一所に並んで居る。揃ひの衣裳では無いけれども、白の浴衣の一隊の間には、自然に黒を着た者はまじつて居ない。それがまた向合つて互に目を悦ばしめる彩色ともなれば、音頭と附け歌との面白い波動を作るかとも思はれた。

　年をとつた人たちはいづれもちとばかり飲んで居る樣子である。なるほど輪の出來かけには僅かな決斷力が入用らしいが、それから後の成長に至つては何でも無い。最初はまづ子供達がどや／＼と入つて來たと思ふと、それに紛れてもうそちこちに美しい色どりが花などの如く咲いて居る。おくれて來たか又は心のおくれた者が、扇などは深く懷に隱してさも見物の如き顔をして立つて居ると、どこの地方でもよくある樣に、前を通る友だちがそれは／＼亂暴に、袖などを持つてぐいと引く。引かれてよろ／＼として輪の中へ轉げ込んだと思ふと、その次の足ではもう笑つて踊つて居るのである。

　また踊らずには居られる道理が無い。僅か三晩の休に五里七里さきの工場から、日和下駄で戻つて來る人があるのである。昨日の夕方も落合橋を渡つて、赤や桃色のメリンスが急いで行く、隣の村の見物かと思つて、近よるのを見ると土ぼこりが汗を染めて居た。風呂敷包に二本も洋傘を結はへた娘がある。こんなに苦勞をしてまで、盆には踊り(295)に還つて來ねばならなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　歌で踊の甲乙を談らうとするのは、大砲の音で戰ひの勝負を判斷するよりも、尚一段と適切で無いと思つた。新野などでは太鼓が無いために、歌を止めては拍子を取ることが出來ず、始終誰かゞ大きな聲を出しては居るが、あまり澤山にその方へ注意をひかれることを欲しないのは、歌の平凡で數が少ないのを見ても察せられる。それを何べんでも飽きずにくり返して居るのは、即ち目的の文學以外に在つた證據である。土地で出來たかと思ふ歌は新しくてまづく、

　　　三州振草安いもな煙草、一分百出しや五把くれる

などゝいふ古風なのは、もう歌ひだす者も無くなつて居る。

　踊子の興味は文句よりも囃しの方にあるらしく、同じ囃しを繰返すときに、却つて活々とした感動が現はれる。そんなら奧南部の盆踊の、

　　　なにャとやれ

　　　なにャとなァされの

のやうに、夜どほし一つ文句を唱へて居てもよろしいかといふと、それでも差支へるのは個々の踊歌に、別に一種の號令約束の如きものが、自然に具はつて居るからである。始めてこゝへ來て知つたことは、踊の始まり又は中程でも、何だか調子が亂れて統一の保たれぬ懸念がある時は、それしつかりなどゝいふ代りに、

　　　そろたそろたよ踊子がそろた、稻の出穗よりまだそろた

を歌ふのである。つまりは是が巧妙なる暗示であつて、特にこの一首を名吟と感じた爲で無く、初夜には兎角この歌(296)の必要を生ずるのであつた。

　また一廉の聲自慢が、妙にもぢ／＼として歌ひ出さぬ時がある。さうすれば勢ひ他の者も遠慮がちになつて、少し間の拔けやうとすることも無いではない。こんな場合の通例の氣轉は、

　　　歌の切れまにちよいと出せ女子

といふのを歌ふことにきまつて居る。この歌の本來の下の句は、恐らく大分穩當でないものだつたらうと思ふが、今では文學的に改作せられて、

　　　はやる吉田の女郎ぶしを

といふことになつて居る。そんな歴史には一切頓着せずに、その所謂をなごたちが一緒になつて、つゝましく歌つて居るのを見ると、却つて簡明なる一卷の盆踊沿革誌を讀むの思ひがあつた。

　輪踊の始めと終りとを、こゝの人々は踊が出來る、又はこはれるといつて居る。それ程自然に踊の輪は成長し、又崩れて行くのである。所謂歌の切れ間があまり續くと、踊りにくゝなつて端から退くこともあるが、大抵は少しづゝ輪が細つて、末には淋しくなつて立止まつてしまふ。二つの輪が同時に出來て、ちがふ踊をして居ることもある。誰しも大きな群になつて踊りたいから、結局は聲のさえた方が歌ひ勝つことになるのである。

　踊にはそれ／”＼名前があり元歌がある。高い山と稱する上方の伊勢音頭に近いのもよく踊るが、一番人望のあるのは、コラセといふはやしで結ぶ音頭踊であつた。あれは何の、三十年ばかりも前から、流行つて來た踊です。折角遠方から見物においでた人に、もつと色々の踊をお目にかけなくてはと、我々が辭退するのも聽かず、親切にあるきまはつて相談をしてくれる人がある。おれは忘れたなどゝ尻込する者を促がし、とにかくに最初は五七人で小體に踊りだしたのは大努力であつた。しかし同じく流行おくれといふ中にも、著しい階段があつた。大した勸誘を要せずに見る／＼同志者の加入するのもある。あら何とかを踊つて居るよと、寧ろ珍しがつてどや／＼と入つて來るのがある。(297)こら／＼子供たちは入らずに置いてくれ。これは標本なのだからな、などゝ言つて居るうちに、たうとう百人にも近い大輪になつて、いつそのこと踊つてしまつたのもある。さうするとまたその中から拔けだして、どうかこちらでなどゝ謂つて、その次の踊を見せてくれようとする。それが次第に評定が長引き、打合せに於て意見が二三に分れ、しかも僅かな連中にも氣の無い顔をする者があり、それを又やつきとなつて慨歎する者も現はれる。やたらに古い事を尋ねようとするのも、無理な願ひであるなと考へずには居られなかつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　こりや何といふ踊だえといふ者が出て來る。あれを御覽。むかァしの踊だと。ふん、おぢいばかりで踊つて居る。こんな勝手な觀察がそちこちに行はれて居る。それには構はず何度でも踊を中止して、手がちがふの足がちがふのと論辯する者がある。ソレ能登はァ居よいかァ住みよいかァと、すこぶる誇張して振を示さうとする者がある。これがもし確實なら新野の元の踊は、祐信師宣の時代などはずんと通り越して、寧ろ南大陸のコルロボレに近いものといはねばならぬ。一人の老翁は醉つてゐて元氣むやみによろしく、何でもいゝから早く踊らうとして、幾度となく歌ひだしては、またすぐ止めてしまふ。

　あれはなァに、飲んでゐて騷ぐだけで、前から踊り手でも何でもなかつたのです。こんな事を自分の側に來て、説明をしてくれる人があつた。これも老人で孫の手を引いて居る。それよりもあの白髪のおぢいは七十二ですが、以前はよく踊りました。もう四十年近くも踊るのを見たことがなかつたに、今晩は出て來ました。こちらのずんぐりした人は何兵衛さんといふので、これは年がもつと若い。わし位だ。あの腰つきを御覽なさい。昔は評判の音頭だしでしたなどゝいふ。この邊では音頭取りとはいはずに、音頭出しと謂つて居るのである。

　色の黒い老女が一人、工場に居たらしい娘と共に見物してゐる。そつと横から見て居ると、圓い顔から一枚齒を出(298)して、さも他念無く笑つて居るところは、何とか正宗の商標の上下を着た翁の如くであつた。あの踊は知つて居る者が少なうなつた。面白い踊ぢやつたと話して居る。踊よりも踊つた時代が、婆さんにはなつかしかつたのである。おばあさん踊つて見ちやどうかね、皆あゝして踊つて居るにといふと、却つて後へ下つて腰をかけてしまつた。

　さうかうして居るうちに十二時に近くなる。子供も大分歸つたが、老人の方が餘計見えなくなつたやうだ。さうかと思ふとあの人は踊るまいと思ふのが、いつの間にか加入して居て、禿げた頭が時折電燈の光の下へ來る。宵には忙しかつた附近の新盆の家から、一心に見て居る顔の數が多くなる。もうそろた／＼を歌はなくとも、さらり／＼と足拍子はよく合つて居る。踊はしゆんで來た。一年の内のもつとも平和な時刻だ。邪魔をしないでもう歸つて寢ようぢやないかといつて居ると、オイ踊らないかとだしぬけに、我々の一人へ聲をかけた者がある。色の白い横顔に、眼鏡をきらりとさせて、先へ／＼と踊つて行つた。

　あれはさつき飯田から來た青年です。今までそこいらをうろ／＼として居たにもう踊つて居ると驚いて見て居る。この樣子では駐在所はどうか知らぬが、學校の先生はきつとこの中で踊つて居るね。教へてもらふと何だかいやに面倒なやうでも、入つてさへしまへばどうにか踊れるのだ。さうして子供でさへ夢中になつてるから、きつと醉ふやうな氣持のものに相違ない。たゞ見物をして居るなどは本當につまらないと、獨り竊かに慨歎をして居るとも知らず、村の中にもやはり醒めたる人があつて、批判をして見たり解説したり、寧ろ好奇心を以て我々の印象を探らうとする。幾ら山奧でも世の中はとくに近代だ。この古風の遺物と化するのも、もう遠いことでは無いだらう。

　しかし流石に青年等は皆踊つて居る。昨日袴をはいて山路へ出てくれた代表者たちも踊つて居る。踊の會の主任見たやうに、色々世話を燒いて居た元氣な若者も、今は自分の踊だけに全力を注いで居る。帶を一尺も下へ落して、愉快な腰付をして踊つて居る。たゞ今晩はお客があるといふことを、丸きり忘れてしまへぬのが如何にしても氣の毒だ。我々の前へ廻つて來るたんびに、へゝ大いに遣つて居りますといふのもあれば、あるひはもつと思ひきつて、如何で(299)す先生も一つなどゝ、何か言葉をかけて通る者が多い。サアサアもう歸らう。さうでないと本當の踊が出來ないから。

　

　　　　　　　　　　五

　

　ほんたうの踊は十六日の晩だからと頻りに引留める人もあつたが、思ひきつて精靈よりさきに還つて來た。踊の三日目は完成であると同時に、また大歡喜との別れでもあつた。この夜の未明に踊神を送つてから後は、もう一切踊ることは出來ぬので、また一ヶ年を待たねばならぬことは、天の川も同じであつた。今では二十日盆にもちとばかり踊るといふが、それは古法には反して居る。本來踊といふものが亡魂を送るために、催されるものであつたからである。

　さていよ／＼東が白むといふ時刻になつて、さアもう送らにやと長老たちが言出すと、どうか今一區切りだけ踊らせてくれと、若い人たちが頼むのださうである。送られるといふのはこの一年の新佛で、その家々に在つて歎く者も逝く者も、名殘りを惜しむの情は一致して居た。しかし限りがあるから終りに輪踊をきりあげて、まづ市神樣に一踊り、次には太子堂の前の橋のたもとに來て、庭踊といふ類の踊がある。昔風の章句が口傳へに殘つて居る。それから引返して大村といふ字の境まで、この折は鉦を叩き、ナンマンダーボを足拍子にして、踊りながら押して行くのである。行き着いた時には何發かの鐵砲を放すことになつて居る。

　これが佛法以前からの亡靈祭却の古式であることは、この土地だけでは多くの論辯を要しないやうであつた。新盆の家では方々から贈つてきた色々の盆提灯をともす外に、特に切子といふ紙燈籠を製して、佛前に掲げておく。踊神送りの群はこの切子を託せられて、境に持出して燒棄てることになつて居るが、それに先だつて嚴重な式があり、九字を切り唱へごとをして、刀を拔いてこれを二つに斬るのださうである。斬口の如何によつて年の吉凶を占ふ習ひがある。刀の役にも家筋のやうなものがあり、唱へごとも久しく口傳であつたが、それはたゞ四句の光明眞言の少しばかり崩れたものであつた。同じ手續きは大村の方でも繰返される。一方の境の神送りが到着して、切子を燒く火が燃(300)えあがるを見るとひとしく、こちらも踊り出して外境の林の中まで、宿次の樣にして送つて行くのである。

　或は昔の人には斯うして送られて去るものゝ姿が、あり／＼と目に見えたのかも知れぬ。それにしたところで佛道の新しい教が殆と魂祭の解説を一變してしまつた後まで、新野のやうに古くからの方式を保存して居た例も珍しい。それといふのも山家の生活の心元なさが、殊に疫病その他の外來の災厄に對して痛切であつた結果であらう。定期の神送りは秋の末にも正月にも、また夏のかゝりにも色々あつて、今では一つ／＼異なつた説明が生まれて居るが、よく見ると目的には格別の相違が無かつた。隱れた世界の生活の自由は、現世に住む者の爲には往々にして害であつた故に、斯うして時々は分堺を明らかにする必要があつたのである。香花飲食の供養を豐かにし、怖れて追拂はうとする者に向つて、また來年もござれなどゝ、泣いて別れを惜しむのは諂ひの如く見えるが、如何なるわけかは知らず大昔の世から、多くの民族の間に同じ風習があり、中には自然にこの世を去つた靈魂のみならず、例へばアイヌのクマ祭や、もしくは我々の子供の蛙のおとむらひの樣に、わざ／＼亡靈を製造して置きながら、やはりこのラメンテーションの式を行なつた例も多いのである。

　新野でも今は十五日の眞夜中に、別に新盆の家々の魂送りをする。どうです御覽になりますかと謂つて起されたから出て見ると、早稻の葉にさわ／＼と夜風が吹いて、爪先さがりの田の路は眞暗だ。小さな流の岸に人が集つて美しい岐阜提燈を燃して居る。こゝでも念佛を申し刀を揮つて、切子行燈を二つに斬り、散米をして足早に戻つて來る。以前ならば初秋の滿月に、空は照り山の木などもよくわかつて、今還つて行くなと思ふ心も明るかつたであらうが、今では里にばかり澤山の火が見えて、我々の信仰までが、もう方角のつかぬものになつてしまつた。

　

　（附記）　新野でもう忘れかけて居る古風の踊の一つに、スクイサといふのが特に注意せられる。此踊の名の起りは、

(301)　　ひだるけりやこそスクイサに來たに、入れてたもれよ一すくひといふ踊歌に在ることは明らかだが、さて如何にして斯樣な詞が、踊の歌になつたかはちよつと合點が行かない。南信以外の地に此名の踊のあることはまだ聽き出さぬが、平谷では下の句が、

　　たんと溜れよ一掬ひ

となつて傳はつて居ることが、下伊那郷土民謠集に見えて居る。歌の正面から解釋すると他には意味の取りやうもない。スクイサは飢饉年の救助小屋のことゝしか思はれぬのである。それがこの踊の歌として永く行はれた理由は、或は此土地でならばまだ尋ねて見ることが出來るかとも思ふが、私の想像では、天明とか天保とかいふ悲慘なる凶年の後に、數多の亡靈を慰め兼ねて生殘者の心の不安を散ずる爲に、斯ういふ悲しい歌詞の盆踊が始まつて、それが此あたり迄も流行つて來たのを、無邪氣に後々の人が記憶して居るのではないかと思ふ。前に海南小記の中にも掲げて置いたが、奄美大島でも昔怖ろしい大飢饉があつて、幼い姉弟がいちご山に入り、山苺を探しまはつて居て餓死したことがある。その二人の亡靈が哀れな聲で、永く歌つて居たといふ歌詞が記録せられて居るのは、是も亦多分踊歌かと思はれる。乃ち踊はもとさういふ宙宇に迷ふものを、送り出す作業であつたのだけれども、それには慰撫と同情とが必要であつた爲に、?々其所作には此類の「わざをぎ」を伴なうて居たらしいのである。國堺の邑落の、嶺を隔てゝ生活事情を異にする處では、殊に外から來るものに對する警戒は密でなければならなかつた。新野に盆の踊の昔風が保存せられて居たことは、私たちには不思議で無いやうな氣がする。

　

(302)　　　　　信州の出口入口

　

　信州からの出口を、鐵道以外に十一ほど私は知つて居る。茲には記念の爲に、場處だけでも列記して見たいと思ふ。通つた時日はもう自分でも、忘れて居るものが多いのである。

　一、下伊那の平谷から、矢矧の流れについて、惠那の上村小田子へ下る路。是は昭和十年の秋、乘合自動車で新道を通つて見た。最も新しい經驗である。

　二、次にはその平谷を南北に貫ぬいた三州街道。古い浪合記の傳説を管理する、有名なる岡船の航路である。但し私は北設樂の津具の方へ出てしまつたから、根羽と武節との間の三里ほどは知らない。稻橋までは足助の方から入つて見たことがある。

　三、次には盆踊を見物した旦開《あさげ》村の新野から、所謂三州振草へ越えて行く路。是もこの頃は乘合が通つて稍々著名になつた。

　四、次に天龍川東の小川路峠を越えて、遠山奧山を過ぎて行く秋葉街道。こゝを通つたのはたしか大正四年の紅葉の頃であつた。途中和田と山住とに一泊して、秋葉山の後へ出た。

　五、それからずつと東へまはつて、南佐久の念湯原から、八ヶ岳の裾野を若神子《わかみこ》へ下つて行く甲州街道、平賀源心の虜になつて行つた路である。私が通つたのは昭和五年の、蓮華躑躅と郭公の季節であつた。國界の茶店では三年生の女の兒に、鹿に逢つた話を聽いて感動したことであつたが、今はもう其近くを汽車が走つて居る。

(303)　六、北佐久では志賀から上州の西牧へ越える、志賀越といふのを一つだけ知つて居る。是は何でもまだ若い頃のことであつた。こゝと併行する五つか六つの峠を、皆越えて見ようと決心したものだが、その計畫はまだ實行せられて居ない。

　七、小縣郡では或る年鹿澤の温泉に遊びに行つて居て、偶然に上州の嬬戀村へ越えてしまつた。碓水以外にまだ重要なる山間の交通路が、幾つか有るといふことに心づいたのは此時からであつた。

　八、越後との境も、まだ二つより外は經驗して居ない。その一つは中魚沼郡の片端を縫うて、松之山温泉に出る急傾斜の山路だが、是も昭和七年の紅葉の頃に、車で越えて見たが嶺上は薄雪であつた。

　九、頸城で松本街道といふ糸魚川街道も、二十年ほど前に人力車で通つて居る。

　一〇、飛騨は船津から平場の温泉に入つて居て、阿保峠を徒歩で越え、初めて上高地の晩秋の山を見た。是は松本から直線に還つて來たといふ、船津の若い按摩の話に激勵せられたので、私の爲には多分最終の登攀だらうと思ふ。

　一一、それから尚一つ、飛騨へは木曾王瀧川の上流から、益田郡の南部三厩といふ村へ越えて居る。是は明治四十年の初夏のことで、其時の紀行は既に本になつて出て居る。

　この十一箇處の山越えの中で、八から一〇までの三つだけは、旅程の都合があつて外から信州へ入つて見たのであるが、それでもやはり入ると出るとでは、心持に大きなちがひのあることを感じて居る。まして久しく信州の内側に住んで、來ると還るとの差別に馴らされた者に、この二樣の經驗の厚薄は、有る方が寧ろ當然である。しかも郷土を視る眼を新たにする爲には、先づその當然を認めて、更に或ものを附加へる練習をしなければならなかつた。記録は大體に入つて來たものに忠實であつて、端からこぼれて行くものはいつの世にも見落され、人も亦特に尋常の群の中に、まじつて異色のあるものゝみに注意しようとする。何も與へずして只穫られた氣遣ひは無いのであるが、實は其分は此方には不用であつた故に、無くしでも氣が付かなかつたのである。同じ一つの峠を越える場合でも、僅か百歩(304)の差で前へ行く者の、後影をも望むことが出來ぬに反して、向ふから來る者は片端から行逢うて顔を見る。是と似たことが大抵の郷土史研究にもあつたと思ふ。入口が即ち出口であつたこと、山の彼方にも古い信州が脈打つて流れて居ることを、氣づかぬ割據ほど笑止なものは無い。だからいつ迄もわかりきつたことか、用でも無いことばかりを問題にして居るのである。

　汽車が專ら平原の都邑を訪れるやうになつて、愈々山かひの生活は顧みられぬことになつたが、是は信州のやうな國では隨分損なことである。碓水や蒜神《ひるかみ》は日本武皇子の昔から、既に一國の幹線であつた如く傳へられるが、豫ねて堺の人々が踏みあけた徑が無かつたら、誰がこの山奧に貴人を導いて來よう。乃ち彼等の探險は又一時代古いといふことになるのである。しかも世に隱れてつい此頃まで、この息づきは尚續いて居た。信州四邊の村々はどこへ行つても、必ず嶺一つ隔てた鄰縣の民が、若干は來てまじり住んで居る。人は此事實を見て信州が海に遠く、遲れて拓かれた國だからと想像するかも知らぬが、それは少しでも宛てになる話でない。山の向ふへ此方からも出て居る者が、有るやら無いやらが知られては居ないからである。高きに登つて國見をした古への世ならば、大體に堺の兩側の平野の多少が、人の流れの水筋をきめたであらうが、後々希望と長處との複雜な差等が現はれると、進路は互ひに行きちがつたのかも知れぬのである。其上に人には未知の世界をゆかしがり、新たに身の力を試みようとする夢があつた。始めて戸を敲いた者が何方だつたかは別として、開けば必ず兩方で、之を使はずには居なかつたと思ふ。しかも渡り鳥の習性にも見られるやうに、越えて直ちに麓の野に足を休め、そこに新たなる止住の地を求めるか、或は又長い旅路を續けて、なほ次々の機會を比べて行くかは、個々の地形により、且つ移動者の素質能力によつて、方面毎にそれ／”＼に異なる結果を見たやうだが、信州は大體に出る者が遠く行き、入つて來る者が近く留まる傾きがあつた爲に、愈々外部からの感化ばかりに、搖蕩せられて居たかの如き印象を與へるのかも知れない。

　或る種の習俗慣行や言語藝術、それを裏打して居る信仰なり自然觀なりが、遠近ほんの僅かづゝの變化を以て、弘(305)く日本の端々までの一致を見るといふことは、文化史の學徒としては輕視すべき小事でない。是をたゞ簡單に等しく日本民族であるが故に、同じものを持つて居るのだと説明しようとすると、曾て我々の祖先が中央の一箇處に、小さな社會を爲して群がつて居た頃から、それがあつたといふことを認めなければならぬ。しかも必要の多くは後になつて、新たに生じて居るのである。今は埋もれきつて居る數十の峠路の交通以外に、この傳播を迹づけるものゝ無いことは明らかだが、それも境外から移し入れたものばかりだとすると、信州の古人は白紙の生活をして居たか、但しは又悉く固有のものを、忘れ擲つて顧みなかつたといふことになるのである。さういふことは兩つながら有り得ない。だから今あるさま／”＼の生活樣式の、國の隅々と共通して居るものゝ中には、多くの學んだものと若干の教へたものとが、入りまじつて併び存して居るのである。遠い將來に向つて何を與へ、何を取るべきかを考へなければならぬ人たちが、歴史はどうなつて居るかを知つて置かうとしなかつたのは、恐らく其方法が無いと思つた、素朴なるあきらめからであらう。確乎不拔とまでは言はれぬかも知らぬが、方法はともかくも既に立つて居るのである。即ち限りある書傳の文字を離れて、直接に生活の樣相の上に、遺り留まつて居る前代の姿を味ひ又知ることがそれであつて、其爲には國人の理解がまさに熟して居るのみならず、交詢比較の機關も亦ほゞ備はつて居るのである。山の彼方にも又其向ふにも郷土の研究があり痛切なる郷土の疑問があつて、互ひに他の一方に在るものが答であることを、知らずに居る場合がまだ多いかと思はれる。汽車は附近の山路の若干を無用にしたけれども、知識の交通は此爲に更に繁くなつた。だから一日も早くこの一方の無形の峠に攀ぢ登つて、眉に手を翳して遙々と國見をすることが出來るならば信州の文化は再び復、大いなる前途を約束せられるであらう。

　

(307)　　　孤猿隨筆

　

(309)　　　　　自序

　

　何度か幼い者に就いて試みたことであるが、彼等が獣の話に興味をもつのは殆と天性に近いものが有るやうである。國語利用の隱れた半面、話術と相對する聽術とも名づくべきものが、是に由つて日毎に練磨せられて行く實?は、明らかにしようと思へば今でも其方法は有るのである。たとへば泣いて居る子の爲に犬を喚び、猫を指ざすとすぐに氣を取られて、次にどういふ話が出るかを待たうとする。猿や兎といふやうな語を發して見ると、一度はだゝをこねるのを中止して、それがどうしたかを聽かうとし、話が古臭かつたりつまらなかつたりすると、改めて又あばれ出すのである。或は御伽話に色々の動物が活躍する故に、それで親しみをもつて此話を愛するものゝやうに、謂つて居る人も有るか知らぬが、私などは順序がちやうど逆だと思つて居る。即ち元來子供が多くの關心をもつ故に、自然に獣を説話の主人公に、迎へて來ることにもなつたので、其證據には型にはまつた童話にはすぐ飽きて、たゞ獣類の新しい消息を、いつも珍しがり又注意するのである。我々の幼年期には繪本が少なく、話題の動物も多くは平凡であつたが、それでも他には代りになるものも無かつた爲か、之を喜び聽かうとする念慮は小學校までも續いて居た。ちやうど初冬の此頃のやうな晴れた日に、筒袖の子供が十四五人、窓の外の日當りに竝んで居て、獣の話に時の鐘の早きを恨んだことを、今でもあり／＼と覺えて居る。たまにはおしやべりが狐は騙すもの、狼は人を送つて來るといふやうな、原則風な話を持出すこともあるが、それにも必ず近頃の實例が附いて出て歡迎せられる。さうして山の在所の素樸な少年が、昨日見たとか聽いたとかいふ話をすると、そんな有名な型にはまつたものは、忽ち引込んでしまつて皆この新しい話の方へ顔を向ける。我々が獣のニュウスを求めて居たのだといふことは是からでもよくわかる。親々の談話には世上の風聞、事件の?末や人の噂とい(310)ふやうな、新たな材料が際限も無く加はつて、自然に子供の理解の外へ出ることになつたが、以前の平明簡易なる人生に於ては、是が老幼共同のたつた一つの話題であつた時代があつて、それ故に又特に兒童をして、斯んなに深い興味を抱かしめる樣になつたのかと思ふ。

　或は今はまだ之を空想だと評する人があるかも知れぬが、自分だけはこの小兒が獣の話を愛する癖を、狩小屋以前からの遺物かと思つて居る。茫漠として威壓する無限の山野、是に直面して我々と共に活き、或は敵として又は友邦として、鄰を接して居た幾つかの獣の社會を、知らず窺はずに過すことの出來なかつた時代が會ては有つて、その鋭敏なる關心が一部小兒の群にはまだ保存せられて居るのである。今となつては何の意義も無い殘留とも見られるが、しかも是あるが爲に長者の言葉に留意し、彼等と共に感じ且つ考へる習はしを養ふことが出來て、夙く國語の價値を高めて居たことは、新たなる教育法の結果と引き比べて、私などの心付かずには居られぬ所である。大きな生徒には勉強といふことがあつて、心に染まぬことでも骨を折つて覺える。小さな子供は此點は自由だから、氣に入つたことでないと言はうともわからうともしない。それだから何でも目を丸くし耳を尖らせる樣な話が必要だつたのである。私などは今でも獣の話をすると、小さな頃を思ひ出して樂しくなる。諸國の友人と逢つた際に氣を付けて見ても、やはり斯ういふ話を聽くと莞爾とする人が多いやうである。思ふに彼等も亦幼い日の思ひ出があるのであらう。さうして之を説くことをやはり子供らしいと考へて、大抵は黙つて辛抱して居るのであらう。

　孤猿隨筆が何の動機も無く、何の下心も無い文章の集であつても、之を公表し得たことを私は幸福と感じなければならぬ。今まで子供の頃から聽いた獣の話ばかりを、本にしてもらつた人は少ないからである。世間に此類の話を耳にして、幼時をなつかしむ人の存外に多いものだといふことを、まだ知らずに居る者もあるからである。私はゆくりなく此兩面の悦びを味ふことを許されたのみならず、更に之によつて或る一つの小さな眞實を、説き(311)且つ證明する機會を與へらたのである。獣を人と比べるのはひどい話だが、歴史の存在を無視せられて居た者のあることは雙方似て居る。記憶の無い所にも歴史があるといふこと、文書が聊かも傳へようとしなかつた生活にも、なほ時代の重要なる變遷はあつて、尋ね知らうと思へば之を知る途は確かにあるといふこと、この二つは日本民俗學の出發點であつた。もし獣類にもそれが安全に斷言し得られるとすれば、まして人をやといふ推論を下すことも容易であらう。さういふ豫想がある故に、實は私の話は一段と樂しいのである。

　この本以前にも自分は幾つかの獣の話を發表して居る。たとへば「一目小僧その他」の中の、鹿の生牲の話と熊谷彌三左衝門といふ狐の話、「山の人生」中の狸和尚の書畫の話、又は「おとら狐の話」に附載した人に憑く狐の話などはそれであるが、まだ其頃には此等の獣の歴史が、さう大きな變遷を重ねて居るとも私は心付かなかつた。古今一貫した性質を具へたものとして、彼等の行動の跡を批判することは、相手が獣類である場合にもなほ不當なことだと思ふやうになつた。時が許すならばこの分も今一度見なほさなければならぬ。

　　　昭和十四年十一月

　

(313)　　　　　猿の皮

　

　　　　　　　　　　一

　

　猿の皮などゝいふと、何かお伽噺でゝもあるやうに聽えるかも知れぬが、是は全く實際にあつた話、しかも私が自分で聽いて來て、今でも考へて居る問題である。決してうその皮では無いのである。

　能の狂言の中に、靭猿《うつぼざる》といふ有名な一曲がある。もう御承知の人も多いであらうが其あらましを言ふと、ある物のわからぬ大名が途中で猿舞しに出逢ひ、その猿をおれにくれ、皮を剥いて靱に張るからと謂つて、大へんに猿舞しを困らせる話である。そこで猿舞しは色々とわびことをして、漸くのことで勘辨をしてもらひ、その御禮に猿の藝を見せるといふので、終りの段が面白い舞と歌とになつて居る。

　この靱といふのは、弓の箭《や》を入れて置く器である。めつたに今は見ることも無いが、瓢箪をやゝ大きく又引伸ばしたやうな形で、中が空洞になつて居る故にウツボと呼んだやうである。中世の武士が旅行の時に持つてあるく靱には、色々の獣の皮を張つて居て、其中に猿皮靱といふのもあつたのである。このをかしな物語のもとは隨分と古いものゝやうである。何か最初は猿の皮を靱に張るといふことに、深い意味あひが有つたのではないかと思ふが、それがまだどうしても我々には解らぬのである。

　

(314)　　　　　　　　　　二

　

　全體猿の皮などゝいふものは、美しいものでも何でも無い。毛の色も何色かときかれて、さあと言つてちよつと返事に困るほどの、わけの分らぬ色あひなのである。鼠色とも言へず、狐色ではなほさら無い。やつぱり強ひて言へば猿色とでもして置くの他は無い、ごくつまらぬ毛色である。何だつて又斯んな皮を、大名などが珍重して旅行用の靱の皮に張りたがつたのであらうか。それが私には不思議でならぬのである。私はこの流行又は趣味ともいふべきものの、根原を尋ねて見ようとして居る。御笑ひを受けては當惑するが、實は私は是でも十數年來の猿の皮の研究者なのである。

　ところが誠に偶然な事から、意外な一つの暗示を與へられた。是ももうよほど以前の話であるが、富山縣に旅行をして黒部川のずつと上流、鐘釣といふ温泉場に行く途中で、山の陰の一軒屋に休んで、茶をもらつて飲んだことがある。其時にむさくろしい座蒲團の上へ、新しい綺麗な毛皮を出して敷いてくれた。お爺さん見ごとな皮だねエ、是は何の毛かねと尋ねると、これですか、こりや猿でござります。此春わしがあの澤の、何とか岩の後でぶちましたと謂ふ。つまりは若い猿の、至つて榮養の好い猿の皮であつたのだ。長い柔かな絹絲のやうな細い毛であつて、さきの方は少し茶のまじつた鼠色の縞になつて居るが、毛を分けて見ると中は銀水色とでもいふか、薄い青がゝつた何とも言へない佳い色艶をして居る。

　このついでにちよつと脇路するが、猿はよく仲間の小猿をそばへ引付けて、此毛を分けて何か捜しものをするやうな手つきをして居る。猿が蚤を取つて居るなどゝよく人は言ふけれども、事實無根である。あれは何かフケのやうなものを見つけて、慰みにそれを取つて食べるのださうだが、又一つはこの友人の美しい毛を鑑賞するらしいので、つまり猿どもに取つては一種の趣味である。犬の子などは退屈な時は、よく集まつて咬み合ひの練習などをして居るが、(315)これに比べると此方は一段と高尚なる遊戯であつた。人間の方でもつい近い頃まで、田舍の冬の日の樂しみの一つは日なたぼつこであつたが、其場合にももう話にも飽きると、よく互ひに相手の髪の毛を、慰みに撫でたり分けて見たりして居る。決して猿ばかりの趣味ではなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　私が黒部川の茶屋の猿の毛皮を見て始めて心づいたことは、いつも我々が何だかきたならしい毛だと思つて居たのは、あれは當節の猿舞しなどの連れあるいて居る孤兒の猿、少しく神經質の、よく言へば教養ある猿だけの話であつた。山の中に行けば別に斯ういふ立派な毛皮の、猿が居るのだといふことがわかつた。但し幾ら榮養の良い堂々たる猿でも、打たれて敷皮になつたのでは勿論何にもならない。

　めつたに斯んな猿は取れるもので無いさうである。全體に猿を打つのは容易でないとこの老人は言つた。十匹十五匹の猿の群が、たゞ多勢できやアきやアと騷ぎまはつて居るやうでも、其中に一匹だけは、必ず何もせずに高い處に居て張番をして居る猿があつて、ちつとでも危險の虞れあるものが近よると、すぐに仲間に合圖をする。さうすると一同は忽ち影を潜めて、遁げてしまふから始末におへないとも老人は言つて居た。

　ところが猿も斯ういふ群の中にばかりくつゝいてあるいて居ると、多勢で爭うて食ふから僅かな食べ物はすぐに無くなり、遠慮して居るとろく／＼分け前にもあづかり得ず、それに強い親猿や兄猿がすぐにいぢめるので、おち／＼と腹一杯の物を食べることも出來ぬことが多い。そこで猿にもやはり經驗といふものがあつて、わざと仲間から少しさきへ進み、又はわざと後に殘つて、獨りで食料を見つけようとする者が稀にはあるものだと言ふ。勿論そんなのは仲間から憎まれる。折々はひどく折檻せられる。?などの群を見て居ても、時にはさういふのが交つて居るが、猿にも一旦此癖がつくと、憎まれるからなほ仲間がいやになり、多くは改心をする折が無く、次第々々に仲間はづれの傾(316)きが強くなり、言はゞ好んでこのまぐれ猿になるのださうである。

　さういふ猿は通例よく太り、色つやが好いから皮にしてもねうちが有る。それが獨りで夢中になつて何か食べて居る所を、狩人たちは狙ふのださうである。人間の方の言葉でいふと、一匹猿は即ち自己の危險に於て、その獨立不覊の生活を導くのであつて、もし幸運にして是がズドンと打たれずに成長すると、後にはその養はれた力を以て、或は再び元の猿の群に戻り、又は自ら新たに仲間を組織して之を統御することにもなるのではないかと思ふが、其實驗だけは遺憾ながらまだ出來ない。

　

　　　　　　　　　　四

　

　ともかくもこの話を聽いて教へられたことは、先づ第一には大よそ猿の皮の批評をしようとする者は、豫め色々の境遇に在る猿の生活を、知つてかゝる必要があるといふこと、第二には我々人間の過ぎて行く道にも、僅かばかり似通うた所があるといふことであつた。猿が偶然の幾つかの經驗に基いて、自分一人の力と智慧とを以て、活きて行く方がよいと考へるやうになるのを、人間の方では此頃ごく大雜把に、個人主義などゝ呼んで居るが、素より主義といふほどの系統立つた考へ方に據つて居らぬ者が多い。個人に對する對稱は社會であらうが、社會主義とはもう言へないから先づ團體主義、是とてもたゞ年久しい仕來りの累積といふまでゞ、境も法則も實はまだはつきりとして居ないのである。

　猿の團體でも、十匹二十匹に向つて栗の樹が一本しか無いとか、腰掛の都合のよい枝が五ヶ所しか無いとかすると、弱い猿は我慢させられて、木の下からきい／＼と言つて見て居なければならぬことがよくある。其代りには身が安全だとは言ひ得るが、決して好い事ばかりは無い。だから今日は大抵は瘠せて居るのである。動物の國も追々狹く、食物ももう豐富とは言はれなくなつた。少しく自信のある猿が群から離れて、孤立獨行したくなるのも自然である。但(317)し斯う言ふのは淋しいにきまつて居る。それに少しも豫測の出來ぬ危險と困難とがある。たゞ先づ今日の流行語の「充實した生活」を導くことが出來て、本人にとつては有難いことでないとしても、とにかくに見ごとな柔かな、ふさ／＼とした毛皮を後世に殘すことになるのである。虎は死して皮を留むといふ古い諺もあつて、是もたしかに意義ある生活には相違ないが、なほそのすぐれて立派なるものゝ陰には、ちやうど近代の個人主義の藝術も同じやうに、談られずに終つたさま／”＼の苦惱と寂寞とが絲を引いて居るのである。勿論我々の方ではいつも鐵砲で狙はれて居るといふやうな、そんな無闇な危險はもう無くなつて居る。從つて又仲間にくつゝいて居るといふ有難味もやゝ少なく、一方には團體の約束といふものゝ中に、理由の不明なものも段々と目に立つて來る。少なくとも古い結合からは別れて行かうとする者が追々と多くなり、是を此まゝにして置いてよいかどうか、何か新しい代りのものを、設けて括りなほす必要が無いかどうかを、考へ且つ迷つて居る國さへあるのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　自分たちの案件として見ると、是はなるほどむつかしい問題だ。利害得失が途法も無く錯綜して居る。しかし試みに猿の過去、猿の未來に就いて考へて見ると、此?態が最初からの自然であつたとも、又最終までの當然であるとも思はれない。最初は遊びあるく森林溪谷が、今よりも遙かに廣く、栗・はしばみ・椎や楢の實、さては水流に捕る蜷や小蟹が幾らでも生産せられ、一團の猿は爭はずして皆肥えて居たかも知れぬ。さうして御互ひに毛皮を撫で合つて居ることが出來たかも知れぬ。是と同樣に後世になれば、又賢明なる彼等の長老たちが、どうも虎や狐のやうに一人でばかりあるいて居てはつまらぬ。何とか猿は猿らしく群をなして、仲よく食物を分けるやうにしようと謂つて、靜かにして且つ豐かなる山の方へ、同胞を導いて行くやうな時代が戻つて來ぬとも限らぬのである。が現在は殘念ながら、彼等にそれまでの經驗も無く、又思慮も無く、學問は尚更無くして、まだその新しい方法が立たぬだけである。

(318)　能の狂言の靱猿の時代までは、全國山中の猿の皮はすべて皆毛竝が美しかつたかと思はれる。然るに後世の猿舞しの猿などが、世間の苦勞をして、もういやな汚ない毛皮になつて居ることも考へず、愚かな大名が強ひて之を靱の皮に所望するといふ所に、或は我々のまだ心づかぬ諷刺があつて、それを昔の人たちは笑つて居たのでは無かつたか。もしさうだとすると今日の山の猿は、どれも是も痩せこけて居て、皮を剥ぐだけの張合ひも無いのである。是では猿皮靱の古い由來が、不明に歸したのも誠に已むを得ないことゝ思ふ。

　もしも私が越中の山奧で聽いて來たやうに、猿の毛皮の至つて美しいものが、斯ういふ孤立獨行のまぐれ猿からで無いと得られぬときまれば、或は猿の個人主義だけは結構なものと、言はなければならぬかも知れぬが、幸ひになほ別に新しい山林のまだ發見せられぬものがあつて、そこでは一切の猿がすべて悠々と生活し、豐かな食物によつて綺麗な猿になり得る見込があるとすれば、私は何とかして彼等を群のまゝに、其方面に向つて進ませて見たいと思ふ。少なくとも昔の或る時代には、それが不可能で無かつたことは、この猿皮靱の記録が之を證明する。今のやうな汚ない何でも無い皮だつたら、誰も是を旅行用の靱の表に張る氣にはならなかつた筈である。それ故にこの猿の皮の問題は、もつと歴史的に之を研究して見なければならぬのである。是がもしわかれば或る程度までは、人間の參考にもなるのである。

　

　（附記）　「一つ猿」の皮の中には、隨分きたないのもあるといふことが追々にわかつて來て、たつた一枚や二枚の遺物によつて、あんまり早めに感心したことを私は今悔いて居る。それといふのが猿の孤立獨行するに至つた原因のすべてが、まだ我々には知られて居なかつたからである。是からも發見せられることゝ思ふが斯ういふ場合もある。猿の群の中には最初から仲間に憎まれて居りにくゝなつて出て行くものがある。それには生まれつき愛嬌が乏しく、又はねぢくれた氣質の者もあるかと思ふが、それもよく見るとさうなつて行く事情はきつと有る。(319)たとへば是は猿では無いが、子供の頃私の飼つて居た?の一腹の中に、嘴の曲つてくひ合はぬのが一羽居た。穀粒を撒いて與へるとこれだけは早く拾ふことが出來ないので、あせつて必ず兄弟の首筋や背をつゝつく癖を生じ、後にはこれが來ると他の?はついと退いてしまひ、いつでも獨りで寂しくあるいて居た。鳥獣にはこの原因までを考へて、同情するだけの雅量は無いやうである。猿の子供なども小さい頃には、非常に飢ゑ易いものであつた。その母猿も生理的に嫩燭になつて居るが、中々身輕な仲間のやうには、二人前の食物を得ることが出來ない。それで他の弱さうなやつの既に持つて居るものを、其手から奪ひ取らうとする。斯ういふことは當の被害者はもとより、近くに居る猿も叫び罵らずには居らぬものらしい。そのたびに敵が多くなつて、しまひには群から追はれる。さうして母ひとりが遠くさまようて、仔猿は却つて群の中に殘つてしまふといふのは哀れである。

　それから又一つ、これは猿の社會だけの風習らしいが、彼等は同類の衣裳身のまはりに、特別の興味をもつて居る。蚤を取つて居るなどゝ人が評するを見てもわかるやうに、ひまさへあれば互ひの毛皮を撫摩して、少しの異?があつても念入りに見屆けようとする。何かの原因から、といつても多くは狩人の災ひだが、疵でも出來ると一層珍しがつて、かはる／”＼近よつて來てはそこを檢査しようとする。是が遠目には猿の同情とも見えるのだが、實は醫術の心得も何も無いのだから、毎度の事では當人には可なり煩はしく不愉快で、又痛いものらしい。それがいやさに常に少しづゝ離れて居る癖が、次第に孤獨の寂寥に馴れさせて、いつとなく落伍者にしてしまふかと思はれる。とにかくに一つ猿を射落して見ると、毎度瘢痕が有り又は指などの缺けて居るものに出逢ふといふことは、老いたる狩人の話にはよく聽く所である。斯ういふ毛皮のさう結構なもので無いことは想像せられる。

　猿の群中には可なり年をとつた大猿が、指揮指導の任に當り仲間から大切にせられて居ることは、多くの土地に於て觀察した話が傳はつて居る。信遠の境などでは是を猿サキヤマと謂ふ。サキヤマは即ち所謂先達で、山小屋に於ても杣頭《そまがしら》を其名で呼んで居るから一つの應用である。長尾君の山郷風物誌に依れば其老頭目の老いて退職(320)したものがあつて、やはり一つ猿になつて山中をうろついて居るといふことである。私は是も年齡の致すところ、子猿を増殖しようといふ願ひが淡くなり、それと牽聯した政治上の興味も減退して、自然に隱居の生活に入つて行くものと考へて見たが、或はこゝにも亦古疵を見られるといふうるさゝが、手傳つて居ないとは言はれぬ。猿サキヤマが段々年をとつて行くうちには、彼は聊かも衰へなくとも、別に第二第三の強豪を作り出すだけの時間がある。仲間がそれに附けばこちらはおのづから獨りにもなるわけだが、それよりも手近な理由は猿には禮儀が無く、時には頭目の毛皮でもかき分けて視ようとする者があるので、痛いから追々と遠ざかつたのであらう。斯ういふ偉大な一つ猿も、大抵はけがをして居るのが遠くから見てもわかるといふ。首領であつたゞけに若い時から何度も闘ひ、疵を受ける機會も多かつたのは當り前である。それが只其古疵だけを記念にもつて、ひとりで引込んで行くといふことは、兒に別れた母猿よりも、今一段と大きく哀れである。

　だから我々も「靭猿」の大名のやうに、むやみに「一つ猿」の毛皮を珍重することは止めなければならぬ。猿の立場から考へて見ても、幾ら自慢の毛皮でも剥がれてはたまらない。寧ろひとりきりで山の山の奧を、寂しく人に知られずにさまよふ方が、まだ幾らましであるか知れないのである。ところがこの猿が毎度人里近くに出て來る。風采ばかりは竝の猿の倍ほどもあつて、悠揚として蜜柑畠の中などに遊んで居る。狒々といふ動物は日本には居らぬ筈なのに、之を現在まで狒々といふ人が多い。岩見重太郎なども是と戰つたことになつて居るが、此頃之を騷ぐのは靜岡縣下が主であつて、私が氣をつけ出してからも、新聞に出た話が十件以上もあり、打取つたといふ通信さへ二つ三つはあつた。山男といふ話の中にも、之を誇張したに相違ないものがあつて、やはり大井｜藁科《わらしな》の水源地帶に多いのだから、この生存樣式にも傳統はあり、それが又柑橘栽培時代よりは古くからのものであつた。斯ういふ記録を出來る限り精確に殘して置くことが、人間の方にも若干の參考にはなる。猿眞似でもなからうが、やはり人間と似た點が少なくは無いのである。

　

(321)　　　　　松島の狐

　

　　　　　　　　　　一

　

　三度目に來て見るまで知らなかつたのは、鰻が松島の名物であるといふことだ。最初は御寺の殺生禁斷、それから行政廳の世話も行屆いたのではあらうが、鰻の方でも大きな奮發で、永年の淡水生活を振棄てゝ、こんな荒潮の中に踏止まつて、ハモやアナゴと雜居して居る。彼等にもし言語學の興味が少しでもあつたら、アナゴとウナギと、語原の一つであることなどを説いて、互ひの親和を謀つたことであらうが、現在はまだそんな樣子もなく、たゞ無暗に捕へられて居る。よもやと思ふやうな島の向ふの海上まで、竹を立てウケとかドウとかいふ籠が置いてある。その竹の數はほゞ島々の松の數ほどもあつて、松島が公園ばかりで立ち行くのでは無いことを、暗示して居るやうにも見えた。

　だから何も提燈をもつわけでは無いが、繪葉書や案内書ばかりで遊覽をすませることは出來ない。本には風雅で無い事を、兎角書きたがらぬ癖が以前からあつたからである。鹽松勝譜は二十卷の大著述であるけれども、鰻についてはたつた一行に、「鹽浦松島共に多く有り」と片づけてしまつて居る。桃の花咲く瀬戸内海の御手洗《みたらひ》なども、自分の知る限りに於ては殊になまめかしい歴史に富み、人情の曲折した島港であつて、頼杏坪先生は何度となく、來て飲んだといふにも拘らず、藝藩通志にはたつた六字、「繁花の地なり」としか記して無いのである。

　旅をすると色々のなつかしいものに出逢ふが、いひ合せたやうに旅人の日記は鹿つめらしい。紀平州の遊松島記に(322)は、群姫鬱々して霧の中にたゝずみ、また三日の歡を惜むが如しなどゝあるが、それは美しい島の姿の形容であつた。群姫は少しく甘過ぎるかと思ふけれども、島は必ずしも松と岩との武骨なものばかりで無い。岸には水草が柔かく、物陰には百合なども白く咲いて居るし、少し大きい島には泉があり人の住んで居るのを見ると、風景までが活きて居るやうに感ぜられる。宮戸島では近年石器時代の遺跡が發見せられ、風流は解しなかつたらしい澤山の人の骨が出て來た。さうして今も千年以來の海人の子が水を潜つて居る。

　狐の生活もやはりこの微妙なる天然と交錯して居たのである。觀瀾亭の廣縁に坐つて沖を見て居ると、袴をはいた管理者が色々の話をしてくれる。多分は燒島だと思ふ、あまり遠くない一つを指して、近年あの島に樺太の狐を三匹放しました。もう今は居ませんがといふ。狐の名は太郎に次郎にあやめ、一説には牝狐が二頭で、あやめとさつきだつたともいふ。專倍煙草の可笑しな聯想を催したことであつた。兎に角に太郎といふ名が一番呼びよいので、舟でその下を通る者が、いつも太郎に聲を掛けた。さうすると直ぐに顔を出して、後には大分に馴れて居たが、何にしても食ふ物が乏しいので、夜分の引潮時に次々に陸近い島に渡つたものか、終に三匹ともあの島には居なくなつてしまつたといふことである。

　遺傳研究などはむつかしかるべき筈だ。狐見たやうな階級にまで、もう宮城縣では異種族の血が混つて居る虞れが有る。今後は化けるにしても憑くにしても、追々に手口が變つて來まいものでも無い。東京では以前染井の岩崎の庭に、首に白い輪のある朝鮮雉を放し飼ひにしたことがある。それへ武藏野の雉が遊びに來る。此方からも追々出て行つて、新たに又高麗種の歸化が行はれ、次第にこの附近の地方色を一變しようとして居る。それを今假住して居る外務大臣などほ、まだ知らぬらしいのである。

　

(323)　　　　　　　　　　二

　

　この頃友人の川口孫治郎君は、肥前の五島へ遊びに行つて居るが、幾度か通信をくれて到る所の島々で、年とつた狩人から鹿狩猪狩の話を聽いたと報じて來る。あの樣な沖の島に野獣の住むといふのは意外だらうが、人が濱邊に滿ちて彼等を追ひまくつた以前から、曾ては陸橋があつてちやんと渡つて居たのである。鹿の方はそれでも少しは泳げるが、他の一方の先生は到底水に入つてはだめなのである。

　しかも沖繩の本島を始めとして、これから南へ進んで天然の豚の居なかつた島は少ない。對馬などでも元はうんと居たのを、二百年ほど前に方法を立てゝ狩り盡した。さうするともう再びは湧かず、その代りには野鼠が時を得顔に荒れまはるやうになつた。東の方では暫く島の猪といふことを忘れて居たが、なほ稀には氣まぐれに、新たな移住を企てたものがあつた。小栗風葉君がよく笑ひながら話したが、明治の初年に飼兎の流行が廢れて後、一時豚を飼ふのがよいと云つて騷いだことがあつた。この節の緬羊などよりは今少し罪が深く、緋豚が生まれると一頭千兩に賣れるなどゝ欺いて、種を賣付けた商人があつた。忽ち繁殖して食はせるものが無くなり、酒二升を添へてくれようなどゝ言つても、引受けて食つてしまふだけの才覺ある者すら無かつた。尾張ではたしか日間賀島の近くの小島へ、其豚をそつと連れて行つて棄てた人があつた。僅かな間に草木を食ひ盡したと見えて、島の色が赤くなつたさうである。舟でその近くを通つて見ると、疲れてひよろ／＼とした大きな豚が、岩の鼻などに出て居ることがあつた。それが暫く經つと死に絶えてしまつて、いやなくらゐ白骨が散亂して居たといふ。

　鹿なども諸國に鹿島といふ島が今でもあつて、殘つて居るのは嚴島金華山のみでは無いが、まづ大抵は絶滅させてから、そろ／＼其保護に取りかゝらうとする嫌ひがあつた。或は皮肉に聞えるか知らぬけれども、島から鹿を驅逐してしまつて、その跡へ馬を放すのが古くからの仕來りであつた。牝馬ばかりを放して置くと、海から龍が上つて來て、(324)駿馬を生ましめるとも信じて居た。さうして千松島の海にも、亦その一例があつたのである。

　狐の如く無用もしくは不安心なものを、日本三景の一に配することは、少なくとも古人の志ではなかつたと思ふ。虎を山に放つが如しといふ類のことわざは、松島の狐に就いては發生して居なかつた。然るにも拘らず、記憶以前の昔から、ちやんと根據を構へて相應に威を振つた狐が、この方面にも居たのである。それをも知らずに遙々の寒國から、折角渡航を許された太郎あやめ等は、困つて逃げ出してしまつたので、今となつては彼等の參考にもならぬか知らぬが、敢て他日のために若干の歴史を保存して置きたいと思ふ。

　その一つの例は富山《とみやま》の麓に近く、夜鳥島《よどりじま》の東北面に接してこもり堂島、あるひは狐守とも書いてこもり堂と訓ませ、島上には狐の穴が多かつた。何匹居たかまでは記録に傳はらぬけれども、頭目の老狐はその名お夏であつた。漁船の島の陰を過るときは、必ず人間の赤兒の啼く聲がきこえた。それに脅かされたといふわけでも無からうが、捕へて來た魚の初穗を獻上して通り、さうしないと騙されると信じて居た。狐としては如何にも要領を得た、且つ手輕なる生活方法であつて、太郎等はまだ之を學ぶことを得なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　雄島は最も明るい且つ美しい有名な島で、舐めたほど綺麗に掃除がしてあり、幾ら凡眼に見えないものでも、隱れて居りさうな片陰も無いのだが、それでも百年前には新右衛門樣といふ靈狐が住んで居て、こもり堂島のお夏よりは今一段と巧妙に、自在に人間を使役したといふ話が傳はつて居る。

　天明年間のことであつた。石の卷の親船が江戸に遣つて來て、もう荷役も終つて漕ぎ出さうとして居る際に、一人の男が來て私は松島の新右衛門といふ者だ。久しく江戸に出て今歸るところだが、どうか便船を頼むと言つて乘つた。それから順風三日にして海上心安く、いよ／＼此灣に入つて寒風澤の瀬戸にかゝり、端舟をおろしてこの男を送り屆(325)けようとすると、常の船場へは行かずに雄島に着けてくれといふので、其通りにしたところ忽ち姿が見えなくなつた。誰に尋ねても松島にはそんな名の人は無い。ぼんやりとして戻つて來ようとするとこの島の上で、こん／＼と嬉しさうな聲が聽えたので、さては物だなといふことになつた。

　石の卷へ歸つて見ると、果して同じ頃に江戸を立つた仲間の船が、五艘が五艘まで海上で風波に遭ひ、人も荷物も助からなかつた。新右衛門樣が御名ざしで便船して下さつた御蔭に、自分ばかりは無難であつたのだと、善人たちだから固く信じて、稻荷の社を建立して多勢の者まで參詣するやうになつたのは、どう考へても今風の推理法では無かつた。

　奧州の狐が江戸に出て來て、永らく滯在すべかりし理由は、是もまた不可解である。伏見ならば兎に角、江戸では見物も買物も、狐には用の無い話であつた。然るに其狐なら少し心當りが有るといふやうなことを、言ひ出した人が又あつた。右の一件が報ぜられるよりも大分前から、隅田川上流に臨んだ眞崎明神の境内に、狐を飼つて居るので評判の高い茶店があつた。飼つて居るのでは無く、小さな稻荷があつてその中に住んで居たので、茶店の婆さんに食物で懷柔せられ、喚ぶと出て來るといふ詩経者であつたから、わざ／＼見に來てお茶菓子などを投げて遣る人も多く、御蔭で婆の店も繁昌をした。その狐が後に居なくなつたが、どうも仙臺者らしかつたといふのである。

　もちろん必ず本當だとは自分なども保證はしない。居なくなる前に婆さんの所へ其狐が遣つて來て、人間の通りに物を言つたと傳へられる。永らく一方ならぬお世話になりましたが、手前は奧州の者で、もう近々還らなければなりません。いつまたお目に掛れるかも知れぬ故に、何か御禮をしたいのだが、これはほんの志ばかりといつて、歌を書いた一枚の短册を、殘して去つたといふことになつてゐる。兩國の萱町に、三右衛門といふ物好きな金持があつて、十何年も經つてからふとこの話を聞き傳へ、色々手を盡して高い金で、その短册を買受けた。見ごとな筆蹟で中々並の狐の書いたものゝやうで無い。仙臺の平賀源内ともいふべき工藤平助、即ち馬琴と交遊のあつた只野眞葛女の父親(326)などは、其頃江戸の町宅に住んで三右衛門と心安かつた故に、早速これを借りて來て、伊達家の殿樣のお目にかけた。伺候の面々打寄つて其歌を拜見すると、

　　　月は露露は草葉に宿かりてそれからそれと宮城野の原

　何だこれなら昔から有名な宮千代ちごの歌では無いか。おまけに假字が三つばかり間違つて居るといふことになつた。やつぱり狐は狐の性で、そんな事をして婆を騙したのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　狐が盗んだといふ宮千代童子の歌は、松島の人ならば大抵は今でも知つて居る。宮千代は雄島を開いた名僧見佛上人の侍童であつて、其墓は各地にあるが五大堂の西北、天童庵にあるものも確かにさうだと傳へて居る。大白星の化身だつたと稱して、色々の奇瑞を語つて居るのだが、別に一方には雨月物語にでもありさうな、執着の昔話を留めて居る。ある時この少童、

　　　月は露露は草葉に宿かりて

といふ上の句だけが出來て、何とかしてこれに相應するやうな好い下の句を付けようと思ひ、案じ煩ふうちにそれが病のもとになつて死んだ。それからといふものは墓の脇を通ると、いつでも悲しい聲で土の中から月は露の上の句を吟じ、そのあとで大いに泣くので、怖ろしくて仕方が無い。どうにかならぬものかと土地の人が困つて居ると、松島寺の徹翁和尚がやつて來ていとも無造作に、

　　　それこそそれよ宮城野の原

と下の句をつけた。幽靈はこれに由つて頓悟し、その怪乃ち止むとあつて、正しく禅門獨得の法話の資料である。少し記憶のいゝ雲水ならば、書物でなり人の話でなり、似たる實例の幾つかを聽いて居て、寧ろ斯ういふ方面から、昔(327)の師家の活機略を學び得るのだが、以前は東北では狐までが純朴であつたものか、婆さんなら知りはすまいと高をくくつて、平氣で是を燒き直して澄まして居た。すると一方ではそれをまた承知しながら、あの歌を書いた以上は奧州といふのもうそでは無かつたらうなどゝ、折角還つて來て稻荷にでもならうといふ新右衛門を、江戸の場末の横着な食客狐の後身でゞもあるかの如く、論辯しようとした學者があつた。人が好いといふ程度を通り越して、寧ろ悲しむべき一種の中央崇拜の現はれであつたと思ふ。

　今まで氣をつけて見て居るのに、あの方面の狐は全體に術藝が古拙であつて、安部保名の細君といふが如き、惡どい化けやうはしなかつたかと思はれる。例へば上谷澤の村に居た狐などは、溝に降りて雜魚小海老をあさるのに夢中になつて、平田五郎にあべこべに脅かされ、大事の玉を取落して逃げ散つた。後に婦人に化けて來て哀訴歎願して返してもらひ、その御禮に百人力を授けて行つたなどゝ傳へられる。中部以西の狐ならば、斯ういふ場合には必ず仇を復し、また玉を忘れるやうなぶまなこともしない。人と狐との間柄も、東北などでは必ずしも敵對をもつて終始しなかつた。從つて近年燒島の例の如き、興味ある地方色をその生活の間から、見出すことが出來たのである。僅かな人々の書物を過重する考へから、化物の如きものまで中央に有るだけは、地方にも一通り備へて置きたいと心掛けたのは、考へて見ると實は不必要なる統一主義であつた。

　又さうしたからとて急に千年の地方生活の痕跡が、消え去つてしまふ心配も無い。自分たちはなは暫くの間、湛念にこのとぢ絲の切れかゝつた人間の大記録を、飜へして見ようと思ふ。谷底の村と沖の小島とには、曾て色々の獣を追込んだ如く、意外な古風が閉ぢ籠めてあつて、何かの折には突如として再現する。文化史の研究に向つては、それが又無く貴重なのである。

　前年私がこの地方を通つた時、田代といふ島は猫の島だといふ話を聞いたことがある。猫がどうしてこの島に住み始めたかは、もう話してくれる者も無かつたが、近い頃にも小學枚の休み日の日中に、宿直室に寢轉んで居た人がふ(328)いと起きて見ると、窓の外に窓一杯の顔をした大猫が來てうづくまつて居たといふ。宅の子供までも笑つて信じなかつたほどの話であるが、この島に住んで居るとそんな猫の顔も見得たのである。さうして古來の書物には説明は勿論、その事實を記して置かうとしたものすら無いのである。

　

　（附記）　この雄鳥の新右衛門稻荷の由來記は、何で見たのか本の名を忘れて居るが、さう得難いやうな珍書からではないから、今に又見つかることゝ思ふ。狐が宮千代童子の歌を借用した話は、耳袋にも譚海にも大體同じ筋を傳へて居る。たゞ一方は天明年間の出來事とあつて、乃ちかの新右衛門狐の歸國の時と合致するに反し、後者では更に數年の後、寛政四年に始めて此事實を發見したやうに話して居る。眞崎稻荷の最も繁昌したのは明和安永の頃であつた。茶屋の婆がおいで／＼と呼べば、どんなに見物が多勢であつても恐れずに出て來るので、御出狐と名づけて評判にしたといふことは、武江年表の安永年間記事にもあり、又半日閑話卷十三、安永五年三月四月の條、その他いろ／＼の書に見えて居る。同六年出版の「くだ卷」といふ笑話集には、例の御出々々を、落語にしたものが三つも出て居るから、此時分がまあ世盛りであつたのだらう。それが段々と古くなつて、終には月は露の短册をかたみに殘して、歸省したと見ても話のつば目は合ふが、寛政四年では此間が十六年、茶屋の婆とても代替りがして居たかも知れぬ。或は萱町の好事家冬木三右衛門が、所望して讓り受けた以前から、もう此歌の話は十分に有名になつて居て、從うて狐の便乘といふ不思議にも、思ひ當るふしがあつたのでは無からうか。この前後がもつとはつきりとせぬと、是以上に風説といふものゝ面白味を味はつて見ることが出來ない。それよりも珍しいことはこの狐の手跡といふものが考究せられ、いはゆるお里が顯はれてしまつてから又八九年後、享和年間にも同じ眞崎神社の境内に、御出狐が出たといふことが續飛鳥川の頭註に書いてある（　　新燕石十種本）。狐が少なくとも二代以上、あつたといふことは是でわかる。十方菴の遊歴雜記には文化の終りに近く、此社に參詣(329)した序に御出狐を見たことを敍して居る。是は本社から一町ばかり西北の神明社の森で、眞崎稻荷の奧の院などと謂つて居たが、喚び出すのは茶屋の嫗ではなくて神主であつた。志願ある者狐の食物を用意して穴の口に近づき、神主手をうつて御出で／＼と呼べば、狐が出て來て之を食べた。願のかなはぬ者の供物は食べなかつたとはよい説明で、つまりこの何代目かは、歌を能くした宮城出身の狐ほどに、人馴れては居なかつたのである。山中笑翁の話して居られた橋場の御出稻荷は、いつ頃のことか知らぬが場所もちがひ、又管理者も別であつた。こゝは六助番所と謂つて六助といふ者が傍に住んで居た。油揚を楊の枝に刺しておいで／＼と呼べば、社殿の下から狐が出て來て喰つたといふ。此程度の人と狐との交際ならば、最近の穴守稻荷でも恐らくはなほ見られ又其他にも例は稀で無からう。たゞ狐こそ油斷のならぬもの、之を飼ひ馴らすは黒い技術と認められるやうになつて、次第に彼等の親しみは薄く、從つて又古い物語の歌を加工して示すといふやうな、ユウモアは絶えてしまつたのである。其角が三圍の稻荷に獻詠したといふ今一つの句に、

　　早稻酒や稻荷《たうか》呼び出す姥がもと

といふのがある。是は焦尾琴にも出て居るから、元禄末年より後の作では無い。秋の收納がすんでから今年酒を釀して、狐を呼び出して饗したといふのは感謝の祭らしく、頗る近畿周圍でいふ稻荷下げ、寒施行なるものを思ひ合さしめるのであるが、「史蹟と傳説」といふ書には何に據つたものか、當時この三圍には老夫婦が住んで居て、その婆が田圃の方に向つて拍手を打つと、白狐が飛んで來て參詣人の願ひごとを婆の口から聽いた。婆の死後は誰が手を敲いても出て來なくなつた。里人この老夫婦の像を石に彫つて、三圍社の境内に安置したといふことを載せて居る。是がもし其通りであつたとすれば、對岸の眞崎稻荷の茶屋へ、いつの間にかこの口傳は移つて居たのである。狐がどういふ手つきで月は露の短册を書いたかは、色々のをかしな想像の浮ぶ點だが、耳袋の記事では茶店の娘十二歳、賤の子なれば一の字も引くことの出來ぬ者なのに、忽ち狐が憑いて年頃の恩誼を謝し、別離(330)の言葉を述べて後に此歌を書いてさし出した。手蹟も拙なからずとあるのだが、たゞ爰には短册とは無くて傍にあつた扇子にとあり、それを無心して買取つて去つた人も、冬木三右衛門では無くて仙臺の藩士、齋藤所平といふ人だつたといふことになつて居る。然らばその狐の手蹟といふのも、兼々何通か用意してあつたものか。其邊のところは至極茫々として居るが、とにかくにこの位にも平和な、又少しも災ひを伴なはない交通が、曾ては人と狐との間にもあつたのである。

　

(331)　　　　　狐飛脚の話

　

　　　　　　　　　　一

　

　狐と人間との交際、といふ言葉が穩かでないならば兩者の間柄は、、永い年月の間に幾度かの變化をして居る。その變遷の歴史なども、やはり私は明らかにして置く必要があると思つて居るのである。普通の考へ方から言ふと、是は主として人間の態度、又は狐に關する常識ともいふべきものが改まつたので、相手方は全然與かり知らぬことのやうにも見えるが、實際には少なくとも其影響の下に、狐の生活にも段々の革新が現はれて居るのである。さう多くの例證を擧げるにも及ぶまいが、たとへば彼等の食性、即ち何を食つて活きて行くかといふことなどは、獣としては特に大切な要件なのであるが、それが我々の供給によつて變つて來て居る。どうして其樣なことを言ひ始めたかは、別に一つの問題として考へて見るとして、ともかくも狐は小豆飯、揚豆腐のやうなものが好きだといふことになつて、人がさういふ物を穴の口へ運んで行く風も大昔からでは無い。それを狐が果して食ふか否かは私はまだ確かめたことは無いが、穴守稻荷などでもいふから多分事實であらう。小豆飯は又山村では狼の産屋見舞にも、時としては送り狼への御禮にも之を炊いて與へたといふ話がある。さうして狐や狼が原始から、此類の食物を欲しがつたであらうことは、動物學では先づ想像して居ないのである。家畜に於ては是は殆と明白なる變化で、多くの仔犬は味檜汁で育ち、私の知つて居る老猫には、奈良漬の瓜をよく食つたのさへあるが、野獣も此の如く、知らぬ間に祖先のせぬことをするや(332)うになつて居るのである。豆腐の油揚げは申すに及ばず、小豆の飯とても中古に採用せられた人間の文化なのであるが、それが擴張せられると終には狐狼の生活樣式までも、一變させずには居らぬといふことは、深く考へて見るべきことだと思ふ。多くの自然觀察には、外國人の記述を移して、めい／＼の經驗となし得るかの如き豫斷を以て、各自の骨折りを省略しようとする傾向が見られるが、斯ういふ一つの島限り、民族限りの偶然の變遷が、幾度かあつたことを考へると、其方法は決して安全だといふことが出來ない。それと同樣に現在の特色だけを見て、大昔も此通りであつたとして、國固有のものを想定しようとするのも、歴史に目をつぶつた無謀の學と評するの他は無い。是は狐以上にもつと重要な、精神文化の現象にも適用し得ることだが、私は先づ狐に於て豫習して見るがよいと思つて居る。狐が飛脚使ひをしたといふ話を考究する前に、順序として上代の狐が、人に對して一般に今よりも多くの好意をもち、もつと平和な交渉を保つて居たらしい、といふことを説いて見たいのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　出來るだけ今まで省みられずにあつた事實から、入つて行くやうにするのは印象を深める爲である。蜃氣樓といふ現象は、日本のやうな風土では多いのが當り前であるが、伊勢の辛洲《からす》が古書に見え、越中の魚津が近年やゝ有名になつた以外、案外に互ひに他の土地には知られて居ない。大きな蛤の貝の中から、宮殿樓閣の姿を吐いて居る所は折々繪にあるが、是は支那から輸入した考へ方かと思はれ、民間には之を説く者があまり多くない。舶乘りが最も多く之を見て居たであらうに、彼等の談話といふものは我邦では、淋しいほど文字に録せられて居ないのである。九州の或地方では、之を和多理賀以《わたりがい》と謂つたといふことが傳はつて居る。ワタリは海洋の義であらうから、このカイだけは多分「貝」であらう。しかし其他の土地では　蜃《おほはまぐり》が氣を吐くといふやうな名稱はまだ耳にして居ない。土佐の幡多郡では蹉?《あしずり》から室戸崎にかけて、海上に長橋の如きものゝ顯はれるのを、神の遊びと呼んで居ることが、土佐海卷四に(333)ある。越後糸魚川地方で遙かの沖合ひに、時々山の形を見るのを、漁民は鹽の山といふと越後野志卷十九に見え、又南谿の東遊記にも聽いて録して居るが、是等は一地域に限られて居たと見えて、他ではまだ同じ名が採集せられた例は無く、是を狐の森又は狐の館《たて》といふ地方は、之に反して相應に弘いのである。

　狐が森立てるといふ語は、日本海の北部にも行はれ、又伊勢の桑名邊でも狐の森と謂ふさうである。越後では又狐の松原ともいふと、慊堂日歴（天保十二・十一・十七）に記して居るが、それはどの邊でのことかまだ突き留められない。秋田縣の八郎潟周邊では、以前は之を狐のタテと謂つて居た。多分は今でもさういふ名を知つて居る者があることゝ思ふ。菅江眞澄の「氷魚《ひを》の村君」といふ日記に、文化七年の舊正月十八日、二度までこの狐の楯を見たといふ記事があつて、精密な見取圖を留めて居る。是は二つとも海の方を背にして、湖水を隔てた東岸の山々の前に現はれた。始めは人が多勢列をなして、橇で積肥を田に曳いて行く、此地方の雪中行事のやうに見え、其形が後は段々と變つて來て、松の木の如く又龍蛇のやうな姿になつたといふのは寫實かと思はれる。この筆者は無類の大旅行家であつて、幾度かこの前後にも同じ光景に接したといひ、又さういふ話を聽いては書いて居る。松前の海岸や下北半島の一角に立つて、洋上遙かに望み見たといふのは、越中魚津の例などゝよく似て居るが、東北にはなほこの以外に、廣い野原のまん中へ現はれるといふ場所が妙に多い。大抵は舊歴二月のなかば過ぎ、雪のそろ／＼と融け始める頃が季節で、土地では是をも狐館、又は狐が柵をふると謂つて、見ものゝ一つに數へて居たといふことである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　此等の名稱がもとは陸上に起つたことは想像し得られるが、土地が賑かに開け盡した爲か、又は他の何等かの理由でか、關東以西ではもう是に似た例を見つけることが出來ない。奧羽の方でも此話のあるのは多くは北の方に寄つて居る。たとへば汽車の線からも近い上北郡の影沼岱《かげぬまだい》などは、春の野の雪の霞む頃になると、人や馬の數多く行來する(334)かと思ふやうな影が遠くから望み見られたといふから、地名は疑ひも無く是に基いて生まれたのである。今では大部分が開墾せられて居る三本木｜平《だひら》なども、以前は二月の殘雪の頃に、狐が柵をふるので有名であつた。人のたけよりはずつと高く、幡《はた》を附けた鉾が二列に立ちならぶことがある。狐は人の影を借りて、斯く戯れ遊ぶ也と眞澄の紀行には見え、伴蒿溪の閑田耕筆にも、他の行脚の人から聽き傳へて、既に之を京都の話題として居る。是も大よそ同じ頃の著述であるが、是には其文字を狐隊と書いて、明らかに狐のわざのやうに説明して居る。毎年二月の末に近く、日は一定せぬが薄曇りの日で、あらかじめ氣を付けて居ると、狐どもの出て飛びあるく容子があれば必ず其日で、附近の人たちはさゝえなどを用意して、是を見物に行くことにして居た。最初は二三十匹の狐が出てあるくのを、一同高聲に譽め立てると、やがて二丁ばかりの距離に城郭の形が現はれ、又は大名の行列になつて通る。掛け聲繁ければ人數も花々しく見ゆともある。少なくとも斯んな評判が、當時此地方にはあつたのである。この城郭陣立のさま、厨屋川の昔をまねぶか。此野の狐はそれより外には見知るまじければなりなどゝあるのは、誠に通用し難い推理法であるが、狐が前代の合戰を實演して人に見せるといふことは、他の土地でもよく聽く話であつた。是には必ず何か隱れたる理由のあることゝ思ふが、とにかくにさういふ信用ももう今日の狐には無くなつて居る。

　それからなほ一箇處、もつと有名なのは陸中の後藤野《ごとうの》、即ち省線黒澤尻の驛から西々北、所謂横黒線に接近した平原であつて、是は現在でもまだあることだと謂つて、百何十年來其話は絶えないのだが、自分の聽いて居るだけでもどうも人のいふことが一致しない。いづれ空中の現象だから是もしかたが無いのかも知れぬが、其季節が第一に區々に傳へられる。眞澄紀行その他には正月末から二月にかけての或一日、やゝ融け始めた雪の野に之を見るといふに反し、二郡見聞私記などにはいつも五月六月の間の晴れたる日、周圍の村によつては朝の四つ前に、又或村では日中に之を見ると書いて居る。城郭大伽藍又は神の御社の體、海邊湊に大船の通行する有樣、さては唐土の城や市中の光景などが、霧か雲かと思ふものゝ中に薄黒く現はれるといふのである。さうして是は文政天保の頃の記述と見えるが、(335)是が果して狐の所作であるか否かといふことについては、もうあの時代から疑ふ人があつたといふのを見ると、乃ち先づ一般にはそれを信じて居たのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　狐舘といふ名稱は後藤野でも認められて居た。しかし直接に土地の人から聽くと、是を「狐の御作立《おさくだて》」といふ者も多いやうである。オサクダテといふのは正月十四日即ち小正月の宵に、農家で飾り立てる色々の作り物のことで、信州で「よろづ物作り」、越後で「なりはひ木」、又他の多くの土地で餅花などゝいふのも同じものである。東北のは是が至極念入りで、餅を藁の莖に貫き樹の枝にならせる外、あらゆる一年の農作物の形を作つて、その豐産を豫祝する式となつて居る。それを野中のまぼろし〔四字傍点〕の名にして居たのを見ると、夏のなかばにも別にさういふ現象の起ることがあつたにしても、主たる期日は一年の初頭の、雪氷が漸く弛み、人が正月氣分に浸つて居る間に在つたものと想像してよい。大正三年六月の農業國といふ雜誌に、この附近の青年が寄稿した後藤野の狐の御作だての記事は、こゝに紹介して置く價値があると思ふ。其場所は野路の十文字のあたり、稻荷の小さな祠があつて、そこを中心としてこの話は言ひ傳へられる。時は新暦三月の或日、夜の十一時頃から天明までの間に行はれるといふから、此點が又今迄の話ともちがつて居る。必ず豐作の年にあつて、是が見られぬ年は凶年である。最初は提灯の行列が現はれて、圓になり又鍵形になるといふのは、所謂狐の嫁入も同じである。次には農夫が米俵を擔いで運ぶところが見られ、最後には白狐の弓矢合戰がある。東か西か勝つた方の村々がよいといふことになつて居るが、大抵は勝負の付かぬうちに夜が明けてしまふのでそれは見られぬと謂つて居る。もつと詳細に自分でも行つて聽いて見ようと思ふうちに、段々と年が過ぎてしまつた。他の月の他の時刻にも折々は之に似たことがあるのか、但しは現今は夜分しか見られぬことにもうなつて居るのか。とにかく現はれる時や方式は全くちがつてしまつて、狐がそれを見せるといふことばかりが、一貫(336)して今でも傳はつて居る。ちよつと珍しい變化であると思ふ。

　所謂奇火神火の現象は、文字通り日本には充滿して居る。姥とか坊主とかの亡魂だと謂つて、一つ火が夜飛ぶなどは問題がまだ小さい。毎年定まつた日の暮方から、高山の靈地を目ざして無數の火が集まり、又は神木の頂上にあり／＼と燈明を掲げるといふ類は、昭和の今日でもまだ傳はつて評判せられて居る。どこまでが目の迷ひ人の思ひなしで、どこから先が天然の事實であるかは、就いて調べて見れば判ることゝ思ふが、平和な時代にすらも人は斯ういふことに氣を取られようとはしなかつた。筑紫の不知火ばかりがむやみに騷がれて居たやうだが、それだつてまだ正體が不知火のまゝなのである。それを此ついでに説いて見ることは出來ぬが、少なくとも狐火だけに關しては、現象そのものよりも之に對する人の考へ方が、次々に變つて來て居るといふことは言へる。たとへば都會に生まれた子供でも、名だけはまだおぼえて居る狐の嫁入、是が曾ては一列の松火の、夜更けて野を行くものをさう呼んで居たことは、もう我々さへ忘れようとして居る。雨がばら／＼と降つて片日のさす天氣を、狐の嫁入と謂つたのは、其異常を恠しんだ者の轉用かと思はれる。私たちは小さい頃に、赤い小石を剥して見ると其下を狐の行列が通るのが見えると言つたり、又は指を組んで狐窓といふものをこしらへ、其方角を穴から覗くと、狐がかみしも〔四字傍点〕を着て行くのが見えると言つたりしたが、固よりさういふことを信ずる者は小兒の中にすらも無かつた。しかも突如として新たに言ひ始めても、廣く通用する筈は無かつたのだから、曾ては陸中後藤野の附近の住民のやうに、少なくとも半信半疑の感覺を以て、この狐松明の行列に對して居た時代があり、それが追々と輕んぜられて、末には笑つて聽くやうな戯れの言葉に、なつたといふことも考へられるのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　もとは人間の嫁入でも、日暮れて火をともして行くものときまつて居たのである。狐ばかりが眞晝間に行列を作る(337)といふことは、狐であるだけに殊に想像がしにくかつたらうと思ふ。嫁入といふ語それ自身が、決して古くからあつたもので無いが、深夜にどこから出たとも知れない一列の松明が、遙々と野路を行くのを見て、それを狐の嫁入と名づけたのには、常々印象づけられて居た一方の記憶が、手傳つて居ることは疑ひが無い。勿論是にも若干の道化味は加はつて居る。しかし少なくとも聯想を人間の最もめでたい又華やかな行事に、向けたといふことには意味がなければならぬ。即ちこの所謂狐の嫁入の火は、怖いものでも氣味の惡いものでも最初から無かつたのである。

　人が狐のしわざだと思つて居たものゝ中に、斯ういふ平和な又明朗な部分があつたといふことは、埋没に委ねたくない大切な狐の歴史である。狐の嫁入などゝいふやゝおどけた名稱の考案せられる以前、我々は果してどういふ態度を以て、この一種の天然現象に對して居たであらうか。丸々無頓着又は不注意に過ぎたとは到底思はれないが、それを狐の意思に歸し、もしくは狐と結び付けて考へて居たか否かゞ問題になるのである。前年雜誌「民族」を編輯して居た際に、私は越後の北蒲原と、上州の桐生附近とから二つの報告を受けた。前者は或老女の花嫁の頃の經驗談であつた。或時ぶら／＼病にかゝつて巫女に見てもらふと、いつか山畠に働いて居て畠の石を投げ棄てたのが、産後の狐を驚かして其爲に母狐と兒狐とが死んだ。それで寡夫になつた男狐が怨んで居るのだといふ。某村の稻荷には澤山のよい娘がある。そこへ十分なお供へ物をして、どうか其一人をこちらへ嫁に遣るやうに願をかけてくれ。其願ひが叶ふならば病人もきつと全快する。結果は近いうちに狐の嫁入があるからわかるとのことであつた。その言ふ通りに一生懸命に願掛けをしてさて氣を付けて居ると、果して或日の夜が更けてから、向ひの山の下に無數の松明の行列があつた。本人はそれを見てから元氣になり、今でも丈夫で毎度この話をして居るといふ。今一つの上州の方の話は、出來事では無くで一般に古風な家では守つて居る慣例である。嫁取の晩に、もしも狐の行列の火を見れば、早速祝言の式を中止して謹愼する。同じ刻限に人間が婚禮をするのは、狐に對して非禮の行爲であるから、必ず何等かの災ひを受ける。それ故に物固い人たちは愈々嫁入の日がきまると、十日も前から野山へ食物を持つて出て狐を祭り、同じ日(338)に狐の方の嫁入が無いやうに、もしくは時刻をくり合せてもらふやうに祈念するのだといふが、いつ頃までさういふ作法が守られて居たことか。今はもう話になつて幽かに記憶せられて居る位なものであらう。

　

　　　　　　　　　　六

　

　狼の産見舞のことは前にもちよつと述べたが、狐狼が妻を迎へようと兒を儲けようと、そんな事は何でも無いやうに今ならば考へる所だが、以前の人たちは此程度にまで注意を拂つて居た。現に他の種の動物については一向にさういふことも言はぬのに、この二つの獣のみに對しては、人間どうしの中でも見られぬやうな心遣ひをして居るのは、或はもと是が一つの信仰であつた名殘かと私は思つて居る。狼の家庭に悦ぶ事のあつたしるしは、前夜に山中で異樣の鳴き聲を立てるので是を知ると、秩父の三峯などでは言ひ傳へて居た。狐の祝言の方はたゞ松明の火の行列を遠望するだけで、其他の消息は何も無いのだから、つまりは人間獨自の想像力と、巫覡の言葉とを以て作り上げた解釋であるが、實をいふとこの二つの記念すべき生涯の出來事こそは、獨り日本のみと言はず、多くの民族の固有宗教に於て、人と神靈とを結び繋ぐ、最も大切な鏈鎖だつたらしいのである。それが或邦では極端まで理想化せられ、又或邦では追々に神道の本筋からは排除せられて、僅かに斯ういふ荒唐無稽の圏内に、幽かなる舊形を遺留して居るのだとすれば、笑ひ嘲つてたゞ其消滅を待つて居るわけには行かない。或はこの當て推量ははづれるかも知れぬが、とにかくに一通りは變化の跡を見究めた上でなければ、どんな結論も實は得られぬのである。

　但し今日大よそわかつて居る所では、松明を美々しくともし列ねて、花嫁を送つて行く慣行は古くからでは無い。狐の嫁入ばかりが其以前に、人に知られて居た筈も無く、しかもこの名を以て呼ばれる現象が、新たに始まつたものでないことも明らかである。さうすると所謂野邊の狐火を、人が多大の關心を以て眺めて居た習はしが既にあつて、後々人の嫁入が盛んに松明の火をともして行くことになつてから、是をも同じ列に解し始めたものと見られる。狐の(339)婚姻は信太の森だけが文學になつて有名だが、少しづゝ形をかへで全國に似た話がある。大抵は皆恩に感じ又は若者の善行をめでゝ、人の姿を假りて嫁に來て子を産み、農事を助け家を富ませたことになつて居るので、今でも田舍では折々聽く笑ひ話に、人の嫁入の一行が狐に騙されて、夜通し野中をうろついて居た話、又は狐がそれに化けて先まはりをして來て御馳走を食べたとか、花嫁仲人親類が二組現はれて、どちらが本ものか見分けが付かなかつたとかいふ話は、零落の姿には相違ないが寧ろ其系統に屬するものであり、所謂狐火の方は單にそれと思ひ合せて後にさういふ名稱が受入れられ、又通用し易かつただけかと私などは思つて居る。

　

　　　　　　　　　　七

　

　大きな又興味の深い問題ではあるが、手短かには始末が出來ぬから、狐の嫁入は先づこの位にして置いて、今度は主として狐火のことを考へて見る。人が燃したのでない天然の火、もしくは只共同の幻覺であつたものを、どうして多くの土地では狐のわざと認めて居たか。狐の吐く息は夜陰にはやゝ光るとか、又は牛馬の骨を口にくはへてあるくとかいふ説を、批判して見ようといふやうな氣持は私には無い。其樣にしてまでも此事實を、まこと此世の中に存在するものと、見なければ氣が濟まぬといふ所に歴史があるのである。話は再び陸中後藤野の、狐の御作だてに戻つて行くが、彼處では日中雲霧の影の如く去來するものも、夜更けて松の火の冉々《ぜん／＼》として動くものも、大よそ同じやうな意味を以て人が之を眺めて居た。東北の農家などは春の初め毎に、松の葉を若苗に擬して、庭の雪に畝を立てゝ田植をして見たり、又は沓や槌の子をぶら下げた繩を引渡して、瓜夕顔の豐熟のさまを作つたり、さては大きな聲を揚げて、錢も金も飛んで來いだの、古酒の涌く香がするだのと、自分自らが演じてゞも、めでたい心地よい正月らしい感覺を體驗したがつて居たのである。それを昔ながらの慣例によつて、別に頼みもせぬのに米俵を運んであるくところ、馬に荷を負はせて市町を出入するところ、殊に澤山の人が列を爲して、一齊に行動するなどゝいふところを、ありあ(340)りと見せてくれるものが狐だつたのである。元は好意をもち、必ずしも凄く氣味の惡い獣類だと思つては居なかつただけは是で明らかである。西洋の昔話でいふミルクメェドのやうな空想力は、東北の農民はまだ養はれては居なかつた。目で視たり耳で聽いたりする何物かゞ無いと、其境涯に身を置くことは出來なかつたやうだが、其代りにはぼんやりとしたものに形を殘し、意味の無いものに自分たちの意味を與へる能力は、或は我々よりも純一であつただけに、豐かに具へて居たかとも思はれる。山に消え殘つた殘雪の形を見て居て、種蒔き爺が出ると苗代に取かゝり、兎の眼が見えると豆を刺すといふ類は、暦に代るだけのよい經驗でもあつたが、それと全く同じ態度を以て、狐火の中からでも多くの暗示を得て居た。さういふ素朴な風習の痕跡が、まだ我々の時代まで殘つて居るのである。

　蜃氣樓の方ではたゞ東日本の一角に、狐の何々といふ名が傳はつて居るのみで、是とても季節がちやうど正月の雪の上に、一年の吉兆を見ようとする頃に際會する故に、注意する習はしが續いて居たものと思ふのだが、その證據はまだ薄弱だとも言ひ得る。しかし他の一方の夜の火の方は、たしかに之を豐凶の占ひにして居た例が、奧州だけでは無く東京の地にもあつて、それが狐の嫁入よりは前のことゝ思はれるのである。柳亭記に載せて居る王子稻荷の狐火などは、既に延寶年間から有名であつた。毎年十二月晦日の夜、關八州の狐此社の前に集まつて狐火をともす。所の人々この火の通行の樣を見て、田畠の良し惡しを考へ知つたといふことが、江戸｜鹿子《がのこ》にも記されてあるといふ。昔は實際に狐の集まつたこともあるのか知らぬが、後にはたゞ人が松明の行列によつて狐火のまねびをしたと謂つて、装束榎といふ神木が其遺跡として知られて居た。狐が暦を知り必ず一定の日を以て集まるといふことは、愈々以て信じにくい話だが、是は不知火にも又諸國の龍神獻燈にもあることで、強ひて合理的の解釋を下さうとすれば、此日ばかり人が注意して出て見るからで、實は其前後にも起り得ることだつたとも考へられる。事實のどうであつたかにはよらず、とにかくに此日の恠し火を狐の所業とし、それも農民に年の豐凶を豫知せしめる爲の、示現であるやうに信じて居た人があつたのである。さうして恐らくは其不思議の力と好意とに感謝した人々が、王子でも又陸中の後藤野で(341)も、稻荷の御社は祭り始めたものであらう。

　

　　　　　　　　　　八

　

　どんな小さな片隅の御社でも、今まで無かつた處に新たに之を建てゝ、それから年々の祭を營まうといふには、何かよく／＼の強い動機があつた筈であるが、それを此頃は考へて見ようとする人が少なくなつた。さういふ中でも稻荷はあまりにも數多い爲に、單なる流行や模倣に成つたものも、折々はあるかの如く見られがちであるが、そんな餘裕をもつ者は、昔は殊に稀であつた。中頃に子孫がやゝ冷淡になつて、どうして祭り始めたかをもう忘れてしまつたといふ者があるばかりで、起原がもしまだ記憶せられて居れば、そこには大か小か必ず一つの奇蹟があつた。古い重々しい二三の大社だけは全く別であるが、他の大多數のものは記録により、もしくは直接奉仕して居る人々の言に從へば、明々白々に狐の靈を祀つて居るのである。狐なんかを神に祀るといふことは外聞の惡い話だと、匿したり曲解したりしようとするのは、一應は尤もなことかも知らぬが、それは其最初に於て、どうしても祭らずには居られなかつた事情を、大よそは知つて置いて後の事にしても遲くはない。祭つて居た人の側に立つて代辯すれば、固よりそこらに居る尋常の野狐をつれて來て、神と崇めたわけでは無かつたのである。名は同じく形も略々似て居ても異相があり、且つ隱顯自在であつて、多くの場合には動物學の知識を超越した長壽を保つて居ることを、何等かの方式を以て證明する。さうして人間の力を以てしても爲し得ないことを爲し遂げ、それが以前には我々の悦ぶやうなことばかりであつた。たとへば年の初めの或日を約して、一年の豐凶月々の晴雨、その他豫め生産の企畫に參考となるやうなことを、告げ知らせて居たのだから感謝せられたのである。常民にこの眼の前の不安が有る限り、さうして他には之を消すやうな有效の方法が供與せられない限り、どうかと思ひつゝもこの古くからの仕來りに、心を傾けずには生活し得なかつたのである。

(342)　それよりも寧ろ大いに恠しまなければならぬのは、近世狐に對する此類の信頼が全く無くなつて、惡意に滿ちたいたづらしかせぬ獣のやうに考へられ、一方には人に未來を測定する色々の智惠が働くやうになつてからも、なほ昔からの仕來りに準據して、少しづゝ身勝手に之を變へ、窃かにこの狐神を念ずる者が依然として多いことである。たとへば最愛の娘女房に憑いて、わめいたり無暗やたらに食つたりする。祠に祀つて正一位を乞ひ受けてやるからどうぞ退いてくれ。斯んなのは元はあつたとも思へない。或は自分限りの内々の願ひごとを叶へでくださるなら、御禮參りに朱の鳥居を建てます。斯ういふのも稀には中古の例はあらうが、少なくとも村々で祭つて居る稻荷社の由來では無かつた。神の威�ｺをさへ獨占しようとする風は、抑へられない一般の念慮だつたとはいへ、日本は少なくとも共同の祈願を原則とした御社を持つて居る國なのである。それが片端は崩れて種々なる所謂淫祀の數を多くして行くのは、つまりは事情も察してやらない正面の抑制が、人の信仰を暗い隅に押し付けて、心の正しくない者の濫用に委ねたからである。魔術の衰頽などゝも經路はよく似て居る。いづれしまひには滅びてしまふであらうが、今の有樣ではこの不愉快なる過渡期が、この有樣だとまだ當分は續かなければならぬと思ふ。

　

　　　　　　　　　　九

　

　斯んな有難くも無い?態から脱出する爲にも、やはり我々は沿革を明らかにしなければならぬ。あの狡猾で惡意に滿ちて居ると認められる獣を、たゞ私慾や恐怖から媚びて祭つて居るとあつては、愈々我々の不名譽は大きい。少なくとも以前の動機は別であつて、それが頽廢して居るのだといふことを、知つて置くまでは必要である。朗かな話はまだ幾つでも殘つて居る。たとへば楓軒偶記といふ隨筆に、塙保己一が曾て大笑ひをして語つたといふ一話がある。江戸の本屋の主人で菅大助といふ者、自身も相應な學問があり、殊に國史を研究して居たが、家の祖先を知りたいと思つたのであらう。菅原天神の御子二十四人とあつて、其うち五人しか名が判つて居らぬのを歎いて、それを狐に質(343)問して教へてもらつたと云つて居る。即ち狐に憑かれて居る人の處へ行つて、まじめに斯ういふことを聽かうとする者が、笑はれながらもまだ江戸の町に住んで居たのである。近頃の狐憑きは周圍の者がたゞ氣を揉んで、何處から來たか、なぜ取憑いたか、又はどうすれば退いてくれるかばかりを尋ねようとするのだが、それでも合間を見ては折々人が驚くやうなことを言ひ當てゝ、耳を傾けさせるやうな不思議を談ずる。何かよく／＼不審なことがあれば、元は斯ういふ中でも僅かな機會を利用して、單なる好奇心又は知識欲を充さうとする者があつたやうである。近畿と其周圍で狐の寒施行などゝいふものには、わざ／＼其爲に憑かうともせぬ狐を喚び迎へ、話を聽くといふ方式がまだ殘つて居る。今でこそ誤解だつたと言ひ得るやうにはなつたが、とにかく人間の知らぬことを知つて居て、頼めば教へてくれるといふ信仰が下に有つて、感謝も尊敬もそれから出て居るのだから、この饗應をしなかつたら寧ろ義理が惡いのである。

　越後その他の北國の山村には、村の狐といふ言ひ傳へが、傳説の形になつて今も時々は注意せられる。無論今日はもう續けては居らぬのだが、昔は大抵小正月の晩とか除夜とかの神聖なる時刻に、谷の奧から大きな聲を揚げて、來るべき一年の吉凶を住民に告げ教へ、或はその一人のよくない者の、隱し事などもすつぱ拔いたといふ話さへある。是は我々の共同生活の古い要件で、他の多くの土地では村人が神に扮し、夜更けに戸を叩いて祝福の語を傳へてあるく風が、今も痕跡ばかり殘つて居るのだが、村によつては此役目を、年經た老狐に委ねて居たわけである。私たちが意味深く感ずることは、斯ういふ場合にも大抵は祠は無く、又初午といふやうな今風の祭典は行はれない。稀に山中に入つて大きな白い毛の狐を見たとか、又遠くから樹上に登つて居るのが見られたとか言つて、人が敬語を以て之を呼んで居る程度で、兩者の交渉は頗る今日の告げ烏、鼬の二つ鳴き、さては鷄の宵啼きや犬の遠吠えなどに似て居ることである。それを物々しく神に祀り、到る處に朱色の鳥居などを見かけるやうになつたのは、是も亦中間にこの信仰によつて、衣食を得ようとする職業の者が、發生して來てから後の現象であつたかも知れぬのである。

　

(344)　　　　　　　　　一〇

　

　人が相互の間にまだ十分の信用を持てなかつた時代に、寧ろ日頃目馴れたる鳥獣草木を友として、彼等のやゝ異常なる表現を以て、隱れたる睿智の指導と解し、豫報警告の好意を期待したのは自然であつた。其中には永年の經驗に據つて、科學と精確を競ふほどの知識となつたものも有るが、他の多くの法則と認めて居たものは、追々の教養によつて自分でも、思ひちがひであつたと心付かずには居られなかつたのである。だからもし狐にも修驗とか法印とかいふ者が干與せず、仲に立つて説明するやうな人が居なかつたら、是も烏や鼬と同樣に段々と輕く視られ、末には女子供のみが半分は話のやうに、笑つて人に説く位の俗信と化して居たかも知れない。稻荷を永續させたのは無智といふよりも、寧ろ學問であり書册の知識であり、もしくは外來の經典であつたやうである。それも中途半端の干渉であつたが故に、今なほ片隅では古いをかしな信仰の尻押しとなつて居るのみか、時としては時代の傾向と妥協して、個人主義風な新しい信仰をさへ守立てゝ居るのである。是が果して狐の爲に、幸福なことかどうかにも問題がある。人にとつては全く餘計の紛亂が、それだけ又追加せられたのだから、有難くないことは無論である。

　御蔭で非常に澤山の狐話を、全國から集めて來て丹念に整理して見なければ、人と彼との交渉史は詳かにし難くなつてしまつた。私の述べて置きたいと思ふのはたゞ方針だけであつて、とてもまだ一目瞭然といふ所までは行かぬが、大體にごく小さな專門の管理者も無いやうな祠では、狐を崇敬する御利益も目立たぬものであつた。たとへば盗賊の近よつて來たかと思ふ晩には、大きな物音をさせて家人の目を覺まし、又はせい／”＼二聲三聲狐の聲で鳴いて、火の用心をさせるといふ程度で、信心深い老人でも無ければ、之をもう御知らせとも解しては居ない。最初には固よりもつと大きな奇瑞が有つたといふのだが、それも傳説となつて關係者だけが記憶し、世間は其通りの事が有つたとも信じて居ない。折角斯ういふ風に少しづゝ遠く淡く、いはゆる古色を帶びかゝつて居るものを、脇に特別の利害をもつ(345)人が居で曲解し誇張し。もしくは五十人三十人の口を傳はつて來た噂話を、さも／＼自分がまのあたり見聞して居たかの如く、調子を付けて談るから困るのである。しかしさういふ話の中からでも、氣をつけて居るとなほ沿革はわかる。人がわざ／＼狐を喚び寄せて、豫言や判斷を聽かうとする風習は、一般にはもうよほど以前から中絶して居たのである。だからこちらで前以て狐の靈智を認め、進んで其教を乞ふ場合であつたならば、證明するにも及ばぬことを證明しようとして居る。よくある話は身元のわからぬ上品な老人があつて折々遊びに來る。いよ／＼もう御別れだといふ晩に、實は私は狐でござる。日頃の御懇志に報いる爲に、古い話をして御聽かせ申さうと言つて、一ノ谷屋島の合戰を談り、又時としては其實況を演出して見せてくれる。そんな幻術まで示したといふのはよほど變だが、とにかくそれほどまで長命であつて、昔の事ならよく知つて居るといふしるしであつたらしく、しかも實際には盛衰記とか義經記とか、ほゞ民間に普及した文籍の範圍に限られ、稀にも其他の時代に逸出したことが無いのは、乃ち又學問が斯ういふ世間話にまで、干與して居たことを察せしめる。人は之を聽いて勿論大いに驚き、如何にも六百歳の老狐といふのは、僞りでは無かつたらしいと言ふのだが、實は此話はあまりに類があり、且つ直接に之に接したといふ人から、あまり數多くの仲次を經て居る。本當にそんな話をした狐があつたかどうかは、今となつてはやはり確かで無く、たゞ狐がさういふことの出來るものゝやうに、曾ては考へられて居たといふ證據になる迄である。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　近世の隨筆類には幾らでも筆録せられて居るが、斯ういふ場合の人と狐との問答は、大抵は題目がきまつて居た。格別重要な身の上の相談などを掛けようとする者はもう無くなつて、誰でも先づ訊かうとするには何故に人に憑くか、時には何の意趣も無いのに女子供の身に入つて、食物を貪り體を弱らせ、しまひに命を奪つたりするのはどうしたわけかといふことで、此問ひには相應に困るらしいが、之に對する答へもほゞ定まつて居た。狐には種類又は幾つもの(346)階級がある。通力のある狐はそんな事はしない。惡戯をするのは皆野狐だと云つて、何だか罪を他に嫁する嫌ひもあるが、實際さういふ風に解した人も多かつたのだから、是も亦時代の思想の反映であつた。以前は田舍にも狐を統御する力があると認められて居た山伏神主が多く、それが弟子も子孫も無くてぽくりと死んだとすると、忽ちあの狐どもはどうしたらうといふ不安が起つた。それが飢ゑ且つ散亂して勝手放題に食を求めるとなると、附近に惡性の狐憑きの?々現はれるのは、遁れ難い災難のやうに考へられ、現に九州各縣ではさういふ害意に充ちた狐を今でも特にヤコと呼んで居るのである。江戸の世間話のやゝ小説化したものにも、貧乏な夫婦が家に狐憑きの出たのを是幸ひと、追ひ出すどころか欲しいとも言はぬ御馳走までとゝのへて一生懸命に機嫌を取る。狐の方で少々氣味を惡がり、どうして此樣に歡待してくれるのかと尋ねる。實は貧苦に堪へないから御力を借りたいのだと答へると、それは狐がちがふ。自分は其樣な能力の有る狐では無いと言つて、多分作り話であらうが居づらがつて早々に立退いて去つた、といふやうな話もある。斯ういふ分類がもし可能ならば、祭るにも迷ひが無く退治するにも始末がよいのだが、實はいつの間にか甲類の善狐の方は、其數が非常に少なくなつて居る。

　其上なほ厄介なことには其野狐の中にも、まだ若干の通力奇瑞があつて、やはり折々は人を驚かせて居るので、兩者の見分けが正確に出來ないのである。狐の詫證文といふものは少ないと私は言つたが、捜して見れば全く無いことも無い。たとへば宇都宮の成高寺にあつたのは、元禄十四年六月七日の日附で、是は所化《しよけ》の覺道に憑いて、祈　　　祷によつて追はれたのだから明らかに野狐であつた。今後決して寺中に災ひをせぬと誓つて居るが、斯ういふ狐でも立派な文字を書いて居る。しかも現在なほ保存せられてある狐の書畫、彼等が人以上の能力を發揮したといふ數十件の證跡は、何れも前にいふ天狐空狐の類の手になつたもので、其中にも極めてへたくそなのがあり、兩者決して甲乙は無いのである。人が五百人に一人も字を書く者の無かつた時代には、例の源平合戰や川中島の話と同樣に、是を見せただけでもう竝々の動物で無いことを信用せしめるに足りた。さうしてわざ／＼斯んなことをして見せなければ、もう普(347)通の人は注意をしないやうになりかけても居たのである。狐の信仰ばかりはどうも中間に立つ人が、事を好み又強ひて流行させようとした形跡が可なり露はである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　前にこの話は「山の人生」の中にも、多くの實例を擧げて説いたことがあるから、其後も幾つか數は殖えたがもう追加をしない。狐以外には狸だけが時々同じ方法を以て、人に近づいたことになつて居るが、其傳授の系統はまだはつきりとしない。由緒のある舊家や大きな寺院に、不思議の老人が居り又は往來するといふ迄は寒山拾得などゝ似て居て、それが最後に自ら狐又は狸であつたことを告白し、もしくは犬に喰はれて始めて正體が明らかになつた、といふ話と其書畫といふものとだけが殘つて居るのである。其中でも關東から中部地方にかけて、最も多いのは鎌倉建長寺の役僧と稱して、山門の再建とかに寄進を集めたといふもの、是は大抵は狸であつた。果して喜捨の金が本山に屆いたか否かは明らかで無くて、しかもこゝ迄來て犬に咬まれて死んだといふ故跡ばかりが、到底兩立し得ないほど數多いのである。狐の方でも耳が動いたとか、膳の上へ食物をぶちまけて俯いて食べたとか、風呂に入れたらたゞ尻尾で湯を打つて居たとかいふ、をかしな話が若干は傳はつても居るが、多くの場合には悲慘なる最後を見るまで、もしくは自分で素姓を打明けるまで、相手が全く氣付かずに居るのであつた。さうして人を苦しめることはしなかつたのみか、他には格別是といふ奇瑞も留めて居ない。私が之を以て狐信仰の末期現象と見ようとするのは、相應な根據のあることなのである。もしも近世の迷信の導師が、新たに人情の弱點に結び付けようとする試みをしなかつたら、今ある氣味の惡い五種か七種の狐話は生まれて來ないで、それだけ我々の爐端は淋しかつたらう代りに、古い言ひ傳へは段々と影繪のやうに、又は西洋でいふフェエやコボルトの如く、輕い安らかな足取りを以て、もう此頃ではすべて我々の民間文藝の中に、入り交つて踊つて居たかも知れない。餘計な細工をして惜しい樂しみを取逃がしたものだと(348)思ふ。

　馴れつこになつてもう誰も不審を抱かないが、實際に日本の狐話ほど、不揃ひな混同をして居るものも少ない。人間は狐に比べて何十倍か複雜なものだが、それですら此樣に矛盾した列傳は留めて居らぬ。つまりは時代によつて我々の狐概念がたび／＼變り、それがどれも是も眞相を得て居なかつたのである。騙すが本業ときまれば又警戒のし樣もあるのだが、始めからしまひ迄言ふことは正直で、しかも無遠慮に利己主義で、たゞ食ひものばかりを狙つて人に憑かうとするものもある。さうかと思ふと一方には木曾の蛻菴《ぜいあん》、美濃の梅庵や京都妙心寺の宗丹の如く、柔和で上品で教養があつて又義理固く、其くせ格別世の中の爲になることもせぬといふ、普通の紳士のやうな狐も居た。いくら境遇經歴のちがひだと説明しても、斯ういふのが類を同じくして一つの時代には住めない。特に長命だといふことを名のるのも其爲かも知れないが、さりとて是が又我邦の稻荷の、最も古風な信仰とも見られないのは、是だけではやはり神として祭るだけの、大きな感動を促すには足りないからである。人がたゞ無意味に動物を崇拜するといふやうな、無法な臆測を下さうとせぬ限り、どうしても是の今一段と古い形、もつとまじめで又親切な、狐と人との交渉を見つけ出さなければなるまいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　最初からの目的であつた狐飛脚の話が、段々と遲くなるばかりだから、もういゝ加減に切上げよう。私の意見を要約すれば、社や祠はどんな小さなものでも、必ず過去の或時期に於ける人間の深い感動の痕跡でなければならぬ。是に新舊の細かな段階があるとすると、その一々の由來談を尋ねて見ることによつて、一通りは信仰の推移を明らかにし得るであらうといふことに歸する。稻荷はさういふ中でも近年に無數の増加があり、中には人眞似や體裁に基くとも考へられ、又はたゞ何と無く在るから祀るといふのみで、既に建立の事情を忘却して居るものも多いのだが、それ(349)等を取除けて見るとなほ幾つかの偶然の一致、地を隔てゝ大よそ同種の事蹟を談り、しかも今日の所謂常識からは解説のやゝ困難なものがある。さういふのが我々の消ゆるを惜しと思ふフォクロアといふものなのである。

　狐飛脚はその多くのものゝ一つであつた。旅行の好きな人ならば誰でももう氣づいて居るが、全國の古城址の公園となつて居る處には、大抵はどこかの隅に一つの稻荷社がある。さうして普通の民家邸内のものよりは立派である故に、弘く拜まれ又?々信心せられて居る。會て大名が狐神を敬し、且つ其臣下をして共同に祭に仕へしめて居たといふ史料であるといふ以上に、本來その如何なる神�ｺを記念し又感謝して居たかを傳へたものが多く、それには注意すべき東西の類似があるのである。この狐は勿論惡戯をせず、めつたに憑いたり祟つたりもしない。常の日は空寂として有れども無きが如く、たゞ御家の一大事といふ時にのみ、出現して人の出來ない働きをする。其任務といふのが多くの場合に飛脚であつた。江戸と十數日の旅程を二三日で往復したり、又大切な書?品物を屆ける。それも始めのうちは何者の手柄とも知れなかつたのが、やはり建長寺の狸僧などゝ同じく、茶屋の犬に喰ひ殺され、もしくは畜類の悲しさには鼠のフライに釣られて穽にかゝつて死に、さては御狐だつたかといふことになつたといふ話ばかり多いのである。現代の交通文化に惠まれた人々には、もう想像もつかぬことになつてしまつたが、人が我能力の不足を最も痛切に意識するのは此點であつた。土地を異にするばかりに是ほどの出來事を、知らずに居るかと思ふとなさけないやうな時が多かつた。さういふ經驗はどんな凡人にも、必ず一生に二度三度はある。だから又電氣通信の是ほど自由な世にも、まだ蟲が知らせるなどゝいふ話が殘つて居るのである。時間の隔絶に對しては歴史があり、又口寄せの言葉があつて過去を語り、或は必ず現はるべき未來を豫言する者があつて、其力を借りなければならぬと考へられて居た。さうして狐にもどうやらそれが出來るものと、認めた人が元は多かつたのである。距離の方だけはもう我々が克服してしまつて、狐を頼んだといふことが馬鹿らしく聞えるが、時間も空間も本來は兩者同樣の不便で、寧ろ毎日の入用は走り使ひの方に多かつたのである。今昔物語の利仁將軍薯粥の記事を見ると、不時の御客があることを奧方に(350)知らせる爲に、途で野狐を捕へて其通報の役を命ずると、早速飛んで行つて奧方に憑いて、待受けの支度をさせたといふことが、さも當り前のやうに記してある。是と同じやうな考へ方が、なほ六七百年の間は日本に續いて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　自分が今知つて居る近世の實例を竝べて見ると、先づ東北では秋田市公園の與次郎狐、是なども繁昌の稻荷であるが、早く新庄の附近とかで惡獵師に殺されたと傳へ、現在はたゞ其靈を祀つて居るのである。其時所持して居た書面等の寫眞が、今でも佐竹家には保存せられて居るといふ噂である。其次には米澤領の長井の御城代屋敷にあつた稻荷、是は城代の岩井大膳といふ老臣が、飯綱《いづな》の法を修して使つて居た、右近左近といふ二匹の狐であつた。米澤地名選に出て居る創立由來は可なりの奇談である。或年幕府へ出す手紙を?箱に入れるのに、誤つて下書の方を封じて差立ててしまつた。後に心付いて大騷ぎとなり、もはや人力に及ばずとて大膳をして狐を喚ばしめ、頸に第二の?箱を括りつけて遣ると、一晝夜にして還つて來て倒れ死んだといふのは、右近の方か左近の方か明らかで無い。後で調べて見ると本物の飛脚二人は、そんなことに少しも心付かず、いよ／＼江戸に近づいて古河《こが》附近の松原を走つて居ると、頻りに睡くなつたので路傍に休み、二人ともちよつと假睡したが、何やら首にはたと當る音がする。驚いて目を醒まして見ると御?箱には何の異?も無かつた。さてはあの時に取替へられたのかといふことで、兎にかく内證の下書などを幕府へ提出せずに濟んだ。さういふ功があつたのでこの狐も稻荷に祀られて居るのである。

　此事件は江戸時代の初期のやうにいふが、同じ種類の奇跡はもつと早くからくり返されて居たらしい。たとへば鎌倉志に出て居る志一稻荷、是は現在はもう無くなつて居るかも知れない。昔筑紫の僧志一なる者、訴訟によつて鎌倉に來て居た時といふから、北條氏執權の頃のことゝ思はれる。仕へて居る老狐に文書を持たせて、一夜のうちに九州(351)に往復させたら、老狐は長途に疲れて還つて來て死んだ。それを憐んで社に祀つたのがこの志一稻荷だと謂つて居る。志一は察するところ旨法師であつたらう。斯ういふ人たちはいつ迄も古い話を、覺えて居て上手に話したものである。

　信州松本の殿樣も、家來に狐があつて、江戸への御使には是が三日で間に合つたので、非常に大事にせられたといふ話が今も其舊領に殘つて居る。但し城内に稻荷として祭つて居るかどうかは確かでない。この御飛脚はいつも道中の茶屋に休んで、勘定を忘れて立つので跡を追掛けて拂つてもらつた。もしや狐ぢやないかと試みに鼠の油揚げを片隅に置いて見ると、それに喰ひ付いたので寄つてたかつて打殺した。ところが殿樣の御墨附を其狐が所持して居たので、あとで一同が恐縮したと言ひ傳へられる。松本から江戸へ三日といふのは早い方では無い。因州鳥取の御城山の經藏坊狐などは、江戸へ二百里の路を二三日で往復した。是も播州路で燒鼠の罠にかゝつて死んだといふことが、後になつて法印の占ひの表にあらはれた。それから城内に祠を立てゝ、今では誰知らぬ者もない稻荷樣である。經藏坊といふのは或は之を紹介した法印の名かと思ふが、とにかく狐も是くらゐ老功な者になると名があつた。雲州松江城では新左衛門新八、是も大よそ同じやうな話だつたと記憶する。諸國里人談を始め、數々の舊記に名を知られた大和の源九郎狐、是も飛脚であつたと見えて、小夜の中山で犬に咬まれて死んだといふ話になつて居る。無論何かのまちがひではあらうが、とにかく或時代に於ては彼等の援助が、先づ此程度にまで宛てにせられて居たのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　城と狐との關係が此樣に深かつた原因は、一つには地勢であらう。斯ういふ人少なの場處では彼等の生活もあまり促迫を受けず、比較的自由な擧動を觀察する折が多く、從うて古い空想は蘇へりやすかつたのであらう。狩場や野路の逃げ走る狐とはちがつて、立止まり振囘り又はぢつと人の顔を見たりすると、賢こい獣だといふことが先づ感じられ、次には雙方に害意の無いことが、自然に無言の契約を成立させたものと思はれる。白鼠や青大將が家屋敷の守護(352)と解せられたやうに、多くの地主神の信仰も基く所は爰に在つて、必ずしも一種の動物を崇拜したのでは無く、或者は之を神の使はしめとも視れば、又或者は神がさういふものゝ形を假りて人に見えたまふものとも想像したので、其二つの考へ方の間には、實は明白な境目が立つて居なかつたやうである。

　この漠然たる接觸がやゝ暫くの間つゞいて、それから愈々稻荷を祭るといふ時が來るのである。是はもう心付いて居る人も多いことゝ思ふが、社や祠の建立は決して信仰の發端でない。今までも尊み敬ひ且つ畏れて居た神靈を、是から改めて毎年必ず一度以上、場所を定めて御迎へ申さうといふ決意があつて、始めて鎭座といふことが行はれたので、是には容易ならぬ事件に伴なふ人心の動搖があり、又多くの場合には特別の仲介者、先達とも行者ともいふべき者の活躍を必要としたことゝ思はれる。新たなる奇跡の衆人の目に觸れるものが、此際に出現したことも昔ならば有り得るが、實際今日に傳へられて居るものは、社の創設よりも古い頃の出來事であつて、それを思ひ出し語りかはし、強調し又は解説したもので、信者は既に用意がある故に、たやすく其全部を承認し得たのである。例を擧げるならば佐倉宗五郎の刑に遭うた日と、今の御堂が始めて創建せられた日との間には、なんにも話の無い百數十年が經過して居る。天神樣でも太宰府の悲報が傳はつてから、北野の御社が建つまでには數十年の雜説時代がある。羽前長井の御城代屋敷、又は鳥取城内の稻荷社なども、多分は祭るべきものだと決するまでに、確かな話ですらも少しづゝは變つて傳はるほどの、時間の餘裕はあつたことであらう。さうで無ければ到底結び合せることの出來ぬやうな、珍しい話がまだ色々と城の狐に就いては流布して居るのである。

　たとへば肥前大村の玖島《くしま》稻荷、是も大村侯の居城三條城の山内に、古くから住んで居た白狐といふ狐を祭るといふが、或時強敵が押寄せて來て、やがて一戰も交へずに遁げ退いてしまつた。其晩白髪の老人が現はれて、あれは自分が此山の萱小松を軍勢と見せ、高い松杉を旗さし物と見せたによつて、敵が恐れをなして引いたのだと告げた。多分は殿樣の夢にといふのであらうが、果して事實なりや否やを確かめようとすれば、是などほよほど手數のかゝる話で(353)あつた。武州熊谷の彌三《やさう》左衛門稻荷などは、或日の合戰に見たことの無い一人の武士が出て大いに働いた。是は徒然草の土大根と同樣に、自ら御家の狐だといつて名を名のり、是からも危急の場合には彌三左出よと御呼び下さいと告げて去つた。さういふ話が近世の縁起になつて居るのである。藝州廣島の泉邸に祀つてある白狐は手柄が又別で、或時君公の前に出て自ら千年の壽を保つと名のり、まのあたり源平の合戰を見て居たと稱して、仲間を集めて盛衰記にある通りを實演して御目にかけた。是などは殊に話がをかしいので、たとへ自分だけは長命で記憶があらうとも、配下の若造どもを指圖して、芝居をさせるまでの教練をして居たといふのはどうかと思ふ。しかも念入りなことには其千年の壽命ももう五日で滿期となり、いよ／＼備前侯の狩場で箭先にかゝると告げて去つたので、急いで命乞ひの使者を發せられたが、惜しや間に合はずして空しく拜領の紋服と、白狐が所持して居た殿の御墨附とだけを、持つて戻つて來たなどゝいふ話もある。誰の細工か知らぬが是などは手際がまづい。さうで無くてももう是くらゐの話では、祠を建てようとはせぬまでに民間の感激は淡くなつて居たのである。徒らに狐や狸の書畫といふものばかりを珍藏して、あの村この村で犬に喰はれて死んだといふ話があつても、又かといつて笑ふ者が多くなつて居る。つまりは我々の狐神信仰は、少なくとも公共團體の中に在つては、とつくに過去のものとなつて、人はもう有りふれた奇談には感動せず、しかも思はぬ方面にその餘勢を展開せしめて居るのである。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　結論として私の思つて居ることを略説すると、狐はあの意味ありげな眼つきと擧動とによつて、昔はむしろ親切に人を警告するものと信用せられて居た。無論惡いことをする狐も時々はあるので、いつと無く善惡の差等が想定せられ、村と縁故の深い老狐だけは、頼めば豫言もし知らない過去も談り、其他我々に出來ない任務を助けてしてくれるといふことになつて、後には之を小さな社にも祭るやうになつた。是を稻荷と呼ぶのは指導者の學説であつたと思ふ。(354)少なくとも狐屬の知つたことでは無いのである。仲介をする人がどうしても入用になつたのは、靈狐が進んで自ら教へようとするを待たずに、こちらから特に招いて聽かうといふことになつた爲で、其結果靈媒の技能は大いに進んだかも知れぬが、又濫用もせられがちだつたことは色々と記録にも見えて居る。さういふ人さへ無ければ、村では是を天然と結び付けて、たゞ一定の吉日を期して、特に狐の供與するかと思ふ暗示に、注意する位で止まつて居つたらう。さうすれば追々にあてにならぬといふ經驗が重なつて、末には冷淡になつたであらうものを、餘計な通辯が仲に立つたばかりに、今なほ身勝手な若干の個人だけが、所謂信教の自由を極限まで濫用することになつたのである。

　しかしながら古い風習といふものは、さう全面的に革《あらた》まつてしまふものでは無い。火山國の地層で殊によく見られるやうに、幾つもの新舊階段は入組んで表に現はれ、その混同がやゝ見分けにくゝなることは、ちやうど又川原の小石や砂の中に、色々の地質の破片がまじつて居るも同じである。是を整理して行くことは今とても希望がある。一國民俗學がほんの今二三歩、前へ出て働く世の中が來ればよいのである。少し考へて見たら判りさうな事が色々ある。たとへば狐の豫言を聽く期日、是は氣まぐれに人に憑くといふ場合は勿論、此方から招いて聽くといふ場合にも、其必要は臨時で無ければならぬのだが、京阪地方で今も行はれて居る稻荷降し、俗に狐の寒施行といふものは、舊正月前後の寒い頃ときまつて居る。是が奧州の曠野に狐の御作立ての現はるゝ時期、又は越後の山村などに於て、白狐が一年の吉凶を告知したと傳へて居る日と、大よそ一致して居るのは偶然では無さゝうである。中央部の田舍では師走狐などゝ稱して、狐は此月に入るとコンコンと少しちがつた聲で、頻りに鳴くものだといふ話をよく聽くが、或は繁殖の季節だからかと私などは想像して居る。普通の説明は寒いから、もしくは食物が乏しいからといふことになつて居て、乃ち大擧して小豆飯のむすび、或は油揚げ等の御馳走を携へて、夜陰に森や野のほとりを廻つて、彼等の攝待にあるくのである。此頃はたゞ狐の出さうな場處に、それを置いて來るだけになつて居るかも知れぬが、自分などの知つて居るのは、是にも必ず稻荷おろしといふ行者を同行した。さうして中途の堂宮又は行者の家に集まつて、先づ(355)必ず狐の言葉を聽かうとする。中には面白半分に參加する者もあるといふだけで、勘定高い人々が是までの費用を負擔するのだから、何か之に由つて得んとするものがあるのであつた。其問答の記録は遺憾ながら多く傳はらないが、元は狐を祭つて其指導を受けようとした信心の業であつたことは、ともかくも痕跡がまだ明白である。つまりは一歳の新たに始まらうとする際を期して、特に靈あるものゝ示現を受けようとした信仰は、斯んな魔法じみた零落の?態に陷るまで、なほ片端は原形を保存して居たのである。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　東日本の方に來ると、事情は又上方とは少し異なつて居る。曾て狐を供養した祭壇かと思はれる狐塚といふ塚は、今も非常に數多く殘つて居るに拘らず、稀に其塚の上に食物を供へたといふ話を記憶するのみで、吉凶の豫言を聽かうとした風習は、もう痕形も無くなつて居る。一つには仲介を職業とする者の數が尠なく、又一つには農民の實驗では、害ばかり段々多くなつて、御利益が一向に空なものであつたからであらう。春の始め頃に色々の食物をこの塚へ持參して、狼にも狐狸にも、成るだけわるさをしないやうに頼み込む習ひがあつたことは、那須地方の郷土史話にも見えて居る。塚が狐塚なのだから他の獣はその序に一括したものと思はれる。是が東京と其附近の、二月初午の日稻荷社を祭る慣行と、近い聯絡のあることも亦推定してよからう。

　初午は舊暦二月の上旬に、農作の成功を祈願する日で、今ある公けの祈年祭と、同じ趣旨のものだつたらしい。それを必ず午の日ときめた理由は、文書ばかりではまだ説明が付かぬが、三河から美濃へかけての山村一帶では、この日農馬を牽いて山に登り、靈地の笹や草の葉を刈取つて、厩に保存して置く風習がある。或は馬の爲の祈願が主であつた故に、午の日を選んだのかとも思ふ。その以外にも麥の爲、又は蠶の爲に大切な日として居る土地もあつて、少なくとも狐ばかりの祭日でなかつたことは、全國の事實を比べて見れば誰にでもさう言へる。たゞ京の稻荷山の登拜(356)が昔から此日であり、江戸には又やたらに稻荷の祠を建てた故に、次第に文化の表面を統一したやうな觀を呈するのである。狐と農業とは段々と縁が薄くなつて行くが、既に文學に化してしまつた信太妻の一例だけを除けば、今でも地方に分布して居る狐女房の昔話は、必ずといふ位に其家の稻作を豐産ならしめて居る。能登の萬行《まんぎやう》や信州の重柳《しげやなぎ》で、「穗に出えでつゝ孕め」と謂つて狐が還りがけに祝して行つたら、稔りは十分にあつて表面には顯はれず、年貢は取られずに濟んだといふやうな、近世式な言ひ傳へも方々に殘り、或は又、

　　　しだのなべ子が田こ作る

　　　打たず掻かずにジキ（肥）もせず

　　　からは八尺穗は五尺

　　　如何な駒でも八穗つけぬ

　　　八穗の米こは七斗五升

　　　しだのなべ子は有難や

などゝいふ古風な物語歌が、今でもまだその信太妻の功勞を記念して居た例も津輕にはある。稻荷を農作の神と解すべき根據は、もとは十二分にあつたのである。

　それが格別の助勢を農民に與へようともせず、たゞ時々やつて來て鷄を盗んだり、路の辻に待伏せして醉人の藁苞《わらづと》を狙つたり、さては招きもせぬのにか弱い女どもに取憑いて、家の平和を紊したりすると、罵られるやうになつたのも時世である。時世といふことは人が多く野山が少なく、悠々として狐の自然に遊び得なくなつたことで、原始以來斯うであつた筈は無いのだが、今では村居に近く僅かな便宜によつて、社寺や大きな邸宅の中に群居する外には、安住の地も得られぬやうになつた。ちやうど人間でいふならば都市集注と同じ　　状勢で、狐も田園の孤立から、交易生活に移つたわけだが、少なくとも彼等自身の立場からは、之を文化の進みとは認めては居ないだらうと思ふ。

　

(357)　　　　　　　　　　一八

　

　是は大きな宗教學上の問題であるが、もしも教育のある專門の行者といふものが、衣食を目的として信仰に參與しなかつたら、所謂自然宗教は又全く別な方向へ進展して居たらうといふことを、例證してくれるものが狐であつた。書物や説教によつて指導せられる望み無き者は、どこの民族でも經驗にたよるの他は無かつた。其經驗は我々も經驗して居るやうに、刻々に増補せられ訂正せられるものであつて、生活に必要が無くなるとどし／＼と忘れられて居る。もしやと半信半疑で記憶して居る人々のやうに、迷ひ込む機會は寧ろ少なかつたのである。をかしくてたまらぬことは、素朴とか愚直とか謂つて輕しめられて居る田舍者の大半が、もうとつくに狐なんか馬鹿にして居るのに、大きな何稻荷の前に額づき?る者は、相場師とか請負師とか茶屋のおかみさんとか、それこそ活馬の眼も拔きかねない鋭どい人ばかりである。人はともあれ自分ばかり、狐の惡賢こさに媚びてゞも、目立たぬ御利益を受けようとする類の信仰は、絶無とも言へまいが以前の世の普通では無かつた。我々は殿樣と共々に、又は村全體として公然と、靈獣の力を讃歎して居たのであつた。さういふ經驗は既に昔となつて、傳説は今や笑つて聽く話になりかけて居る。あまり狐を輕蔑してはいけないといふ、教訓の昔話もなほ行はれては居るが、寧ろ怖るゝに足らずといふ勝利譚の方が優勢である。少なくとも曠野の外に於ては、町で見るやうな完全な屈從は既に見られない。僅かに殘つた歳の境の狐祭までを、施行といふやうな見下げた名で呼んで居る。

　それから今一つ注意して置いてよいことは、この奇拔なる狐施行の風習に接觸して、京都兵庫の二府縣の北部から、若狹と因幡との可なり弘い地域にかけて、主として農村に行はれて居る狐狩といふ行事がある。是も期日は舊正月十四日の晩、即ち昔の歳越の宵であつて、以前は必ず一年の兆候を謹聽する爲に、狐を款待した記念の日であつたらうと思ふのに、今はとにかくに狐狩と謂つて居るのである。正月を大切に守つて居る人たちの考へ方では、如何なる式(358)でも此日行うて置くのが最も有效だとして居たので、鳥追ひ土鼠追ひから病魔睡魔、時としては押賣り旅商人の類まで、何でもいやなものは皆追拂つて置かうとしたのだが、狐を其リストに入れて居るのは此地方ばかりで、しかも面白いと思ふことは、其折の唱へごとには若干の遊戯分子があつて、さう古くから嚴重に、踏襲して居た式で無いやうに思はれる。たとへば福井縣の西境の村で、

　　　狐のすしは七桶ながら

　　　八桶に足らぬとて狐狩するよ

などゝいふのは、粗野ではあるけれどもやはり小さな笑ひの文藝であつた。或は又、

　　　狐を喰つたらうまかつた

　　　まんだ齒ぐきに挾まつてる

といふ露骨なものもあるが、是などは最も簡明な示威運動で、現に又狐の出さうな山陰などを通るときに、臨時に之を唱へる例も他の地方にはあつた。つまりはもう此獣の恩惠などは期待しなくなつて、しかも多年の親しみはまだ全く消えてしまはずに、僅かな交渉を保つて居た時代の産物であつて、それを小正月の夜の行事として居るのも、一方の狐の寒施行と何か脈絡が有りさうに思はれる。村には狐祭の先達も今は少なく、又特別の豫言を必要とするやうな個人の利害も無い故に、自然に任せて置くと段々と招くよりも追拂ふ方に傾いて行つたので、此點から見れば繁華の地の方が、却つて狐神信仰の殘壘だつたのである。

　私の郷里などでは、もとはこの狐狩をオロロ追ひと呼んで居た。オロロの何物であるかは實はよく知らなかつたのだが、何でも此晩は兒童が群をなして、オロロヤオロロと唱へつゝ村の路を押しあるいた。此方が多分は一つ前の名で、オロロは物を捜しまはる時の掛聲かと思ふ。私は音律のことにうといが、釣狐や安倍保名の芝居の囃しでも、又一方には迷ひ兒を尋ねる時の鉦の調子でも、何れもコンコンテキチ・コンチキチといふやうな一定の節があつて、そ(359)れがこのオロロヤオロロとも似て居たやうな感じがする。他日或は此方面から、以前は狐を狩るのでは無く、寧ろ其ありかを見つけ出して、年の始めのめでたい祝言を聽かうとした式であつたこと、又それ程にも人と狐との間柄が親しいものだつたといふことを知る時が來ようかと思ふ。少なくとも狐の歴史が昔も近世の如く、慘澹たるものだつたと考へることは、人はともあれ狐に對しては氣の毒である。

　

　（附記）　秋田城内の與次郎狐は、佐竹家に附屬した代々の狐だつたといふことが、常陸國志に見えて居る。水戸では之を籾藏《もみぐら》與次郎と呼び、或年京へ使ひに行つて途で殺されたと傳へ、又佐竹家國替の時、羽州へ附いて行つたといふ話も常陸の方にも殘つて居る。

　

(360)　　　　　坂川彦左衛門

　

　　　　　　　　　　一

　

　因州鳥取の藩士坂川彦左衛門、ある日鐵砲を肩にして雉子を打ちに野をあるいて居ると、松林の中から出て來て、御獵でござりまするかと聲を掛けた者がある。身なりは家僕の通りで顔は狐であつた。私も御伴を致しませう。今日は奧方にも御許しを得て參りましたと謂ふ。それはよく來た、然らば是を持つてくれいと鐵砲を渡せば、かしこまりましたと擔いで後からついてくる。とある一軒の農家の前に來たとき、暫く休むから其邊の鳥の樣子を見て參れと、自分ばかりさきに入つて腰を掛け、今をかしいものが來るが決して笑ふなよと、家の者によくさう言つて待つて居ると、やがて暫くしてからその狐の下郎が、鐵砲をかついでのこ／＼とやつて來て、どうも雉子は見えませぬといふ。さうか草臥れたらう、先づ休めといふと臺所の端に腰をおろす。家の人々も敢て笑はず、茶を汲んでさし出すと茶よりも水を下されといふので、大きなうつは物に水を盛つて盆に載せて與へた。それを手に取らうとしたまでは化けたつもりで居た狐、水に映つた我顔を見てはつと驚き、椀も盆も取落して飛び上つて遁げてしまひ、あとは一同が腹一ぱい笑ひこけたといふ。

　此話は江戸の一無名氏の隨筆、寓意草といふ書にむつかしい和文で書いてある。寶暦明和頃のものかと思はれるが、筆者は鳥取に行つたことの無い人で、素よりこの一話は何段かの又聽きであつた。しかし近年活字になつた因府夜話、(361)雪夜清談の類を讀んで見るのに、この地方は雪國であるだけに夜咄しが盛んであり、其中には又妙に狩獵に出た人の、見聞にかゝるといふ奇談が多く、坂川彦左衛門といふ名も別に何かに出て居たやうな氣がする。所謂雜談にも土地土地の好み流行があり、或は又中心人物が有つたのではないかと思ふ。この話を事實と認めた人は昔も多分無かつたらうが、さうすると誰が一體斯ういふ上品な根無し草の、種を播いたかといふことが又問題になるのである。しかし私が興味を抱いて居るのは、今は少なくとも此點で無く、寧ろ此後に附いて居る若干の後日譚に在るのである。同じ寓意草にはつゞけて又斯ういふことが書いてある。その坂川彦左衛門、翌日も又雉子打ちに出かけ、小松の中を押し分けてあるいて居ると、近くの草むらから彦左衛門と呼ぶ者がある。誰ぞと問うても返事が無く、又姿も見えず、「きのふはをかしかつた」とたつた一言、言ひ放して何處かへ行つてしまつた。乃ちかの狐なるべしといふ想像は尤もであるが、合點のいかぬのは化けそこなひの大失敗、さうで無くでも世間ではきつと評判するであらう出來ごとを、進んで當の本人がをかしいと承認した心持である。曾て鎌倉の北條泰時の所へ、訴訟に出て來た或寺の坊さんは、段々と相手の述べ立てることを聽いて居て、やがて手を叩いて「あら負けや」と、謂つて譽められたといふ話が殘つて居る。果して狐にも其通り率直で律儀なのがあつて、人と共に自分の不調法を、笑つてしまはうとしたものと考へられて居たのであらうか。もしさうだとすると今日の人とはよほど氣風がちがつて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　實は私たちの聽いて居る諸國の狐退治話に、是と半分似通うたものが可なり多いのである。關西の方にも有つたやうに思ふが、今ちよつと思ひ出せない。昔話の狐は、大抵は人を騙すつもりで、娘や婆に化けて來て馬に乘せてもらひ、鞍に括り付けられてそつくりと生捕られる。南部の小輕米《こかるまい》のバッタリ澤の狐などは、寺澤の別當といふ法印につかまつて、散々に尻の毛を燒かれた。さうして遁げて行く時に、

(362)　　　寺澤別當、ばか別當

　　　ひつぱり炙りの大名人

　　　ゴクヮン、ゴクヮン

と啼いて飛び去つたと謂つて、その口拍子のよい文句が今でも記憶せられて居る（　　九戸郡誌）。或は叺狐《かますぎつね》と稱して、あべこべに騙されて叺に入れられ、又は叺の鹽を一つかみ、口の中へ捻ぢ込まれたなどゝいふ話も多い。三戸郡の館の腰といふ長根の狐は、三日ほどしてから其親爺が又そこを通ると、曲つた松の樹の上にあがつて居て、

　　　新井田《にゐた》のしよつぱこ爺やい

と聲を掛けたといふ話があり、遠野物語の中にも狐に鹽を食はせた男が、次の日に同じ山路をやつて來ると、狐が山の上から大きな聲で、「鹽へしり鹽へしり」とどなつたといふ話が出て居る。どうせ話だから、少しでも勝利の痛快味を濃くする爲に、座頭どもの取添へた趣向だつたとも見られるが、それにしたところでわざ／＼其狐に、出て來て是だけのことを言はせるといふことが、單なる近頃の思ひ付きだつたら、かほどまで弘い各地の一致はあり得ない。何か隱れたる由緒があるものゝ樣に、私などは考へて居るのである。

　或は是が加藤清正を、鬼上官と稱して韓人が怖れたといふ話、更に大昔に溯れば、若くすぐれたまふ貴き皇子に、誅戮せられし熊襲の酋長が、新たなる御名を獻じて死んだといふ話などから、幽かに筋を曳いたもので無いとは、何人もまだ斷言は出來ぬだらう。尋常平凡の生活に於ては、證人は必ず味方から出るものときまつて居る。出來ることならばそんな事は、忘れてしまつて貰ひたいと念ずる者の側から、斯ういふ記念の言葉が傳はつたといふ所に、深い印象の力があつた點だけは、少なくとも古今に共通して居るからである。同じ狐の話は氣をつけて捜したら、東京近くの田舍にもまだ幾つか有ることゝ思ふが、甲州鶯宿村の長右衛門といふ馬方なども、今から七八十年前に鶯宿峠の山路で、村の長�ｺ寺の小僧に化けて出た貉を、だましすかして馬の鞍に結はへ付け、うんと火じろに火を焚いて、嚊(363)と二人で押へて居てあぶつた。毛も何もすつかり焦げ縮れてしまつた貉は、散々わめいてあやまつて、やつと宥してもらつて歸つて行つたが、それから六日ばかりの間は毎晩のやうに、裏の山の上へ來て村中に響くほどの聲で、

　　　長右衛門のけつ灸り

　　　長右衛門のけつあぶり

とくり返し／＼どなつて行く者があつたので、終には村での評判となり、又この親爺の綽名にもなつたと傳へられて居る（續甲斐昔話集）。坂川彦左衛門などはたつた一度、自分で聽いて來て人に話したのだから、まだ何となくうそらしくも聞える。是を世の嗣々の語りごとゝする爲には、狐や貉狸の小さな話でも、やはり斯ういふたしかな定まつた形式を、具足しなければならなかつたのかと私は思ふ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　昔の人たちが今よりも輕々しく、物を信ずる傾きをもつて居たといふことは、もと／＼同情の足りない外國の觀察者が言ひ始めたことで、まださう簡單に斷定し得べきもので無い。經驗と常識とはいつの世にもあつて、之に背反するものを驚き恠しみ訝かり危ぶむの情は、寧ろ幼い文化に居る者の方が強いことは、幾たびか既に論じられて居るのである。たゞ彼等の證明方法の中に、世降つては最早認められなくなつたものが一つならずあるのである。人の背後には隱れたる大きな力があつて、如何なる種類の秘密でも、一度は自ら語らしめずには置かぬものだといふ考へ方が、所謂巫覡の言ともなり、後には又文藝に對する特殊なる尊敬ともなつたのかと私は考へて居るが、さういふ中でも身に取つて悦びにも誇りにもならぬことを、大聲で人に説かうとするなどは、常人は敢てせぬ故に愈々眞であらう、といふ風な推理のし方も不自然ではない。上代の記録に於ても俳優の民なるものがあつて、走り廻り腰を捫《よ》ぢり、手を擧げ掌を瓢かして溺れ苦しむの?をまねび、曾て其祖先が風波の難に遭うて、神の�ｺによつて救ひ活かされたことを、(364)語り傳へて居たといふなどは一つの例である。嚴肅なる祭の庭に於て、特に嘲けられ笑はれる者をして身の昔を語らしめたといふのも、言はゞ敗者の承認を以て一段と有效なる證明としたからであつて、さういふ式作法ならばやゝ形をかへて、今も諸國の神事には數多く殘つて居るのである。

　但し狐狸がこの人間の節度に服し、罷り出でゝ我々の勝利を裏書するといふことは、又一つの新たなる曲折であつた。彼等が人のやうな言葉と感情とを以て、我々に接近しようとすることは、現在もまだ稀々に信じて居る者があるが、以前の平和な田園の生活では、是が殆と唯一の敵であつた時代もある。多くの昔話は之に對する人間の自信を養ふ爲に、勇士が化物の正體を見破つたり、もしくは智慧を揮つてあべこべに彼等を欺き、寶物を捲き揚げて來たといふ類の趣向を採用して居るが、それはたゞさうあつたら愉快だらうといふ一種のローマンスで、現實には寧ろ人間の方がしてやられ、從つて其失敗を白?したといふやうな世間話ばかりが、數多く流布して居るのである。うそを承知で笑つて聽く話でもなければ、めつたに狐狸が尾を卷いて降參したといふ如き、氣持のよい經驗は得られなかつたのである。彼等が近世の教育の進みに伴なうて、少しづゝ實力を失ひ始め、たとへば因幡の鳥取の場合のように、人を騙さうとして成功しなかつたといふ話が傳はつても、よつぽど確かな證據が無くては、少なくとも最初のうちは、安心して之を信ずることが出來なかつたのである。地方の口碑には天狗の詫證文、又は川童の怠?などゝ稱して、或方面では妙に書いたものを殘したといふ點に、力を入れて話をする者があつた。それも大抵は既に紛失し、たとへまだ有つたところで我々から見れば、誰が書いたのやら分らぬ紙片であるが、單にさういふ言ひ傳へがあるだけでも、もう關係者はよほど心強くなつて居たのである。狐狸にも字を書き繪をかいたといふ話があつて、丸々無筆ではないらしいにも拘はらず、彼等だけは相手方が素朴で、證文などを當てにせぬのを見込んでか、多くは口約束、もしくは前に擧げたやうな一方的宣言によつて、其屈服と讓歩とを認めようとして居るのである。人と人との交渉の方式と比べて見ても、此方が一段と古風なものであつたことはほゞ確かである。

　

(365)　　　　　　　　　　四

　

　今日の考へ方からいふと、狐がたとへどの樣にはつきりと物を言はうとも、それは證據でも何でも無い。もしも自分が聽けば慌てゝ醫者に相談し、人が聽いたと言ふならばどうかして居ると思ふか、もしくはうそをつくと思つたことであらう。しかし斯ういふうそこそは眞顔では到底つけない。昔の人とてもこんな話を、決して單獨に信ずる筈は無いのだが、少なくともその相手の裏書を添へて話されると、とにかく語り傳への條件だけは具へて居ると認めたのである。さうして強ひて即座には眞僞は決裁せずに、之を後代へ引繼がうとしたことゝ思ふ。誠にたわいも無い空論のやうではあるが、私たちは是によつて社會といふものゝ眼にも見えぬ移り變りを知り、更に又傳説の根強いもとの力を感ずるのである。問題は必ずしも小さ過ぎるとは言へない。古い言ひ傳へは是非とも定まつた或種の人の口を假りて説かれなければ、聽いて覺えて置く甲斐が無いといふ心持、是が今でも案外に弘く行渡つて居るのみならず、不必要に早期に我々の間に、説話を運搬してあるく職業を發逢させて居る。彼等ばかりが平氣で色々のこしらへごとや、燒直しをしたのも其爲であつた。即ち後世の作家といふものゝ起りである。是が無かつたらもう少し純粹に、古い日本人の信仰の痕が、忘れながらも片端は殘つて居たかも知れない。さうして何でも頓狂に人を笑せてしまふやうな、所謂茶にした話ばかりが流行する時代も來なかつたらう。今は幸ひにして昔を粗末にしない世の中にはなつて居るが、それへ出て來るのは只かみしも〔四字傍点〕を着たやうな人ばかりで、多數の純朴な者の心を捉へて居た、悠々たる美しい夢は既に皆、こな／”＼に碎けてしまつた後なのだから淋しい。

　しかし斯ういふ中からでもまだ幽かにわかることは、故事を必ず之に關與した人の言葉から、聽いて安心して信じたいといふ念慮である。其人が既に去つて此世に居なくなつても、なほ折々は立戻つて來て、活きた人の口を借りて言ひ殘したことを言はうとするものと、久しい經驗によつて我々の祖先は信じて居た。是に煩はしい方式が必要とな(366)り、又は其意向も無い靈から強ひて聽かうとする風が始まつて、いはゆる口寄せの役は次第に專業となつたが、それでも尚「みこ」といふ名が示すやうに、血筋の續いた者が取次ぐことを原則にして居たのである。さういふ血筋の人の得られない場合に於て、指定せられる者も亦最初から定まつて居たかと思はれる。第一には利害の相反する者、寧ろ本人としては語りたくも無い者が、靈に命ぜられて隱さずに告白したとすれば、今日の推理でもなほ信じ易かつたわけである。それがまだ少しづゝ我々の社會にも殘り傳はつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　狐や狸が人に憑くといふ場合には、大抵は其者に恨みがあり、もしくは堪忍ならぬ無禮を働いたからといふことを口走る。それ故に後々は一種の復讎方法と認められ、しまひには生命さへ奪つて行くと怖れるやうにもなつたが、そんな小さな私情が動機であつたら、彼等を神に祭るやうな信仰は始まらなかつたであらう。さうして實際に於ても其目的とは關係の無い數々の不思議を現じ、殊に又色々の別な語りごとをして居る。前年私の紹介した三州のおとら狐が、しば／＼長篠合戰の話をして聽かせたなどは其例で、つまりは聽く者をしてうそでは無からうと思はせる爲には、寧ろ今まで相嘲けり憎んで居たやうな人間をして、言はせるところに大いなる效果があつたのである。靈に憑かれることを迷惑に感ずる氣風は、一部には可なり早くから始まつて居る。從つて修驗とか法印とかはそれを退去させることに全力を用ゐ、彼等を惡者と稱してそれで飯を食つて居たが、懲罰復仇がもし本意ならば、人に取憑くなどは迂遠の手段で、他に手輕な方法は幾らもあるのみならず、一方には又憑かれることが名譽でも幸福でもあつた場合もある。それでは一つの憑くといふ語が、まるでちがつた善惡二つの意味を、持つことになるからをかしいのである。

　散々理窟を言つたから、もうこの後は實例だけで話を結ぶことにしよう。�ｺ島縣などは昔は犬神、今は狸の非常に跳梁跋扈する地方で、之をなだめる爲の狸の祠は數多く、又狸を發見し且つ退散せしめる職務で、生活して居る者も(367)隱れては大分居る。半分以上の場合は何とも知れない精神病を、寄つてたかつて狸憑きにしてしまふのだが、それといふのも民衆の中に、狸は人の口を傭うて誰も知らない昔の事を語つてくれるものといふ信用があるからであつた。さうして爰には又讃州屋島の禿狸が攻め寄せて來たなどゝいふ、途轍も無い狸合戰の話が、ちつとも祟りや憑きものとは關係無しに、彼等の口から傳はつて居るのである。詳しいことは笠井新也君の「阿波の狸の話」にあるからその受賣はしない。たゞ一つ何であつたか別な本で讀んで、今でも記憶して居る斯んな話がある。或家の下男が餅の重箱を進物に持つて行く途中、和田島の二又松の下で休んでついその餅を出して食つた。どうしても其まゝは持つて行かれないほど數が不足したので、惡いことを考へ出して主家に引返し、此松原で狸に騙されて餅を取られてしまつたと報告し、主人をして多くの狸を狩り殺さしめた。それで何事も無く濟んで居たのに、次の年の餅の季節にこゝを通つて、闇に光る狸の目を見、夥しく石を投げられて遁げて還り、一切の餅の秘密を自らすつぱ拔いたゞけで無く、それから後も何かの折には、不意に物狂ひになつて人中でこの餅の話だけをするやうになつたといふことである。盗みの罪を狸にかづけようとする程に惡智惠の働く男が、なほ一方にはどこか心の底に、狸はさういふ失禮なことをする者に、制裁するだけの力を持つて居るといふ、信仰をまだ抱いて居たのである。此點は普通の氣の弱い、狸に憑かれるやうな姥女房とも共通のものがある。雙方ともに拒み難き靈の力によつて、身の恥になることをも語るのである。問題が餅であり狸がさう言はせたとあればこそ人は笑ふが、此風習は斷じて狐や狸の始めたものではないのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　そこで最後にはもう一つ、特に懸け離れた方角から例を引いて來る。宮古八重山の二つの群島の中間に、多良間《たらま》といふ孤島のあることは人も知つて居るが、此島にもあはれなる美女の昔語りが、アヤゴといふ諷ひものになつて久しく傳はつて居た。むかし宮古島の豐見親（頭目）仲屋金盛、侫人の讒によつて誅戮せられ、一家眷屬こと／”＼く首里(368)の王廷に奴婢となつて召使はれた中に、妹のまぼなりは容顔花の如く、君の恩寵を受けて後終に罪を宥され、故郷の島へ船出することになつた。然るに其船は洋中に逆風に遭つて、この多良間の島に漂流し、高干瀬《たかびせ》といふ珊瑚礁で船は破れ、乘組の人數は散亂し、まぼなりは一人萬死一生の體で寄り揚がつた。それを鹽川の仲井わかんといふ者が、通りかゝつて抱き登せたのはよいが、餘り美麗なる姿を見て忍び難く、手荒な振舞をしたので姫は其場で息絶えてしまつた。同じ鹽川村のやらぼ立世主といふ者、後から來て其亡骸を見つけ涙を流し、急ぎ自身の着たものを脱いで覆ひ隱し、多くの人を集めて新たな衣裳を縫ひ調へ、鄭重の式を以て之を二つ瀬といふ處に葬つた。其遺跡は林になり、今なほ御嶽として崇敬せられて居る。其善行の報いであらうか、やらぼ立世主の子孫は末永く榮えて居るが、之に反して一方の仲井わかんの後裔は、「衰微に及び狂亂仕り、まぼなりのアヤゴを以て雨中と云ひ暗夜と云ひ、起き通しにて道路辻々唱へありき申候。かやうの狂亂にて四五代は相續致候」と、今から百八十何年か前の宮古島由來記には書いてある。さまで古い頃の事件では無いから、是は多分實際の記憶であらう。

　普通の想像では、斯ういふ歌物語を保管する者は、善行の報いによつて繁昌した、やらぼ立世主の家であるべきだが、多良間の實例は其反對に、悔い恨むべき惡人の子孫が、恥を忘れて之を公衆の前に語つて居るのである。我より以外の力が其傳承に、參加して居たことを推測せざるを得ない。村田春海の竺志船物語といふものは、青年の頃に私も讀んだことがあるが、是と同じ筋の昔語りは太平記以來、瀬戸内海の沿海には數多く流布して居て、其中でも撫養《むや》の尼塚の清少納言傳説などは、思ひ切つて粗野なものである。無論その惡行に參加した者の後裔が殘り榮えて居る場合は有り得ないが、少なくとも此記憶の永續には、群を代表して自ら責める者の心が働いて居たかと思ふ。旅の六部や落人を殺して財寶を奪つたといふ話、もしくは山伏と爭論して斬り棄てたといふ故跡など、少しでも土地と舊家との誇りにもならぬことが、多くの山間の村に傳はつて居るのも、是を戰國の世の姿を反映するものゝ如く解するのは速斷で、さういふ史實の有る無しには拘らず、寧ろ人間が自分に不利なることを聲明するのは、何かよく／＼の眞實(369)があるからだといふ考へ方が、特に印象を深くし、從うて記憶を容易ならしめた原因であるかと思ふ。人が物狂ひの言葉を謹み聽いて、單なる健康の故障としては視なかつた以前の習はしも、乃ち又是と相表裏するものであつたらしく、自分には想像せられるのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　大昔以來の文藝の趣向が日本ほど系統立つて保存せられて居る國は少い。それを運搬して衣食した人々が切り取り繼ぎはぎ混亂させたことも事實だが、なほ比較によつてこの國民の是に期待した感動が、さう／＼多種多樣のもので無かつたことだけは窺はれるのである。然るに歴史として之を研究しようとする人々は多過るほど居るに拘らず、いつでも作者により年代に別けて似たやうな解説ばかりを繰返して居るのは誠に氣の利かない分類法であつた。たつた一つの古來のモチーフを擧げて見ても、たとへば物狂ひの道行きぶりといふことは、今の謠曲の文句の生れる以前からあつてそれが淨瑠璃にもレビュウにも續いて居る。さうして女が狂亂する元の起りはきまつて居たのである。最初は恐らく凡俗の眼には許されない貴い神の御姿を見たと説くのであつたらうが、後には稚兒を尋ね別れた夫を慕うて、忘れ難い或日の歡喜を説くといふ以上には出たものがない。班女・花筐の古曲は申すに及ばず、お夏の狂亂でもオッフェリヤとは大分行き方がちがつて居る。彼女の語らうとしたのはみそかごと〔五字傍点〕であつた。お夏が語らなければ火のやうな清十郎の戀、花にも錦にもたとふべき深閨の情熱は終に永世に知る者が無かつたのである。たま／＼常人の間に之を説く者があるとしても、仲間が第一にまことゝして共鳴することが出來なかつたらう。人の想像力は文藝によつて、養れたといふ迄は認めずばなるまいが、之を養ふ力は無論もと外に在つたのである。此點にかけては奧州や中國の狐どもが、人語して我敗北を承認したといふ言傳へもよく似て居る。たゞ之を成立せしめるには、中間に坂川彦左衛門のやうな人の介在を必要とした。だから世の多くの坂川氏の功勞も全然無視してしまふことは出來ないのである。

　

(370)　　　　　サン・セバスチヤン

　

　　　　　　　　　　一

　

　先だつて松島灣の燒島の養殖狐が、不意に三匹づれで何れへか立退いたといふことを、ちよつと朝日新聞に報じて置いたら、其頃信州を旅行中の土井晩翠さんから、自分は仙臺人だがまだ知らなかつた。松島の狐は水が泳げると見えますね、呵々などゝ書いた葉書が遣つて來た。

　ところがそれは取違へであつて、あの邊の海では泳ぐ必要は無いのだ。干潟の砂の上をぴちや／＼とあるいて來ればよいので、そんな事は豚にでも出來るのである。其上に松島とは限らず、狐を泳がざる動物ときめて置くことは、未だ必ずしも安全ならざる知識である。見たことが無いからと若し言ふならば、全體何度ばかり、狐その物を見たかと問はれることになるのである。

　實は東京などにはうんと狐の話を知つて居りながら、まだ繪畫以外の狐を見たことの無い者が居る。私なども田舍に育つたのだけれども、正直の話見たのはたつた六匹だ。其内四匹は動物園の檻の中であり、他の二つは一處に居たのだから、つまり一度しか本物は見ないわけである。それが水上に出でゝ且つ泳ぐのを、折よく觀察し得たといふ人が無かつたといふだけを以て、天然を判定するわけには行かぬ。世の常識と謂ひ又通説と名づくるもの、概ね皆斯くの如きのみか。

(371)　但し獣は人間の若い者のやうに、海水浴などに出かけぬと云ふだけである。必要に迫られなければ泳がぬといふ點が、異なつて居るだけである。而うして必要はさう度々は迫らなかつた。故に島の狐を如何にもよんどころ無き境遇に置き、それを傍からぢつと觀て居た上でないと、彼等遊泳術を解せずといふ報告をすることは出來ぬ。其面倒を今までの人はして居なかつたのである。

　獣類を島に放して置いて、土手や竹矢來の入費を儉約し得たと悦んで居た者は、樂觀と言はんよりも寧ろ無識である。相手の方では人が來なくて是は氣樂でいゝと、大きに滿足して安住して居るのかも知れない。都合上彼等が飛び出さぬのを、うまく制御して籠絡してやつたと思つて得意になつて居る。さうして其儘で年が幾らでもたつてしまふのである。斯んなことが我々の生活にも隨分ある。天下泰平とはどうもさういふ?態を形容した言葉らしい。

　鹿兒島縣の屋久島は、アイヌ語で鹿の島の意味だらうといふ説がある。さうして今でも鹿が非常に澤山生息して居る。アイヌ語ではユクと謂つて居るから、ヤクも鹿だと考へたのかも知れぬ。若しそれでよろしいならば、かの奧州松島のヤキ島なども、今では經典を持出して燒いたからと傳へて居るが、或は鹿か山羊か、狐では無くとも何かの獣が、もと住んで居た故の名稱とも解せられる。それには此島に限つて谷あひがあり少々の清水があり、草の青い低地がある。さうして鹿の古くからまだ住んで居る島は、獨り牡鹿《をじか》半島の岬端に面する金華山ばかりでは無いのである。安藝の宮島があまりに有名だといふならば、自分の故郷に近い備前和氣郡の鹿久居島《かくゐじま》なども亦隱れたる一つの例である。

　もし／＼、鹿の話は大いに結構かも知れぬが、それとサン・セバスチャンとは全體何の關係がありますか。と云ふ類の横槍がどこからか入つて來ることを、内心豫期しながら實は今此話を書いて居る。少々御待ちを乞ふ。

　

(372)　　　　　　　　　　二

　

　さうしてやはり鹿久居島の話を續けるのである。鹿久居島では鹿が折々泳がせられた。安藝の宮島に比べて、周囘がたつた三｜尋《ひろ》だけ足りなかつたなどゝ謂ふが、實はそれ程大きな島で無い。備前の殿樣が家來を引連れて獵に來ると、鹿もぢつとして捕られて居るわけには行かぬから、一同ばら／＼と海へ飛込んだ。或は家の鼠が火災を前知する如く、不思議な感覺に由つて兼て危難を避けるのだと、信じて居る人もあつた。例へば二十年近く前の大演習の行幸に先だつて、何とぞして一頭の生きた鹿を獻上したいものと、村の役場で評定をして居ると、もう早此島には影も形も見えなくなつた。鹿は悉く對岸の本土へ渡つてしまつたものと考へられたのである。それが近年は又ぽつ／＼と、戻つて來て大切に保護せられて居る。

　天然記念物の保存もよいが、斯ういふ珍しい推理法なども、粗末にしたくないものである。日本には鹿島といふ郡が二つもあつて、その地名の由來は一つであつた。常陸の方では鹿は明白に神の眷屬で、住民は其擧動を見て、神鬼兩軍の戰況を知つたといふ話もある。神が大和の春日山に御遷りなされた時にも、御乘物は鹿であつた。それ故にこそ今も奈良の芝生に、ごろ／＼として居ることを公認せられて居るのである。

　それは併し我々の問題の要點で無い。島の鹿は人が來て島に名を附けるよりも前から、もう來て住んで面白く遊んで居た。自然に湧いたのでは無く、多分は泳いで行つたのである。食ひ盡されもせずに今まで殘つて居たのを見ると、我々の忘れてしまつた何等かの心持が、蔭ながらやはり之を擁護したものらしい。鹿のまだ居る鹿島も方々にある。阿波の勝浦郡にも一つ、伊豫の北海岸に在るのは汽車の鼻先に見える小さな島で、引潮の時には徒渉して見に行くことが出來る。

　土佐西南端の海上に在る鹿島などは、岸から二三里も離れて居るのだが、今でもまだ居るかどうかは覺束ない。私(373)が二十年ばかり前にあの邊をあるいた時には、鹿島へ鹿を打ちに行くほど面白いことは世の中に無いと、謂つて聽かせてくれた人があつたのである。小舟で此島に上陸してわい／＼と騷ぐと、鹿がびつくりして皆海へ飛込んでしまふが、近所に避難の陸地も無いので、やがて泳ぎ疲れて戻つて來る。それを狙つて居て撃つのだといふ。鹿に取つては氣の毒千萬な話であつた。

　

　　　　　　　　　　三

　

　これも一見したところ、サン・セバスチャンとは無關係の樣に見える話だが、やはり大分以前に勘察加《カムチヤツカ》から還つて來た人に、熊狩の實驗と稱するものを聽いたことがある。海岸近くに居るのを水へ追込んで、いつ迄も鐵砲で打ちつゞける。さう急に命中しなくともよいのださうな。後には熊が弱つてしまつて、まご／＼するから結局は捕られる。苦しがつて口から白い鞠のやうなものを吐き出した。後に拾つて見たら鴨の毛のかたまりだつた、などゝいふ話も聽いたやうに記憶する。

　泳ぐとは謂つてもあの恰好では、さぞ下手だらうと思ふ人が多からうが、存外にさうで無い證據もある。是は札幌の八田教授の話であつた。曾て天鹽《てしほ》の山が十敷里に亙つて燒けた時に、その火に脅されて遁げ出したものと見えて、天賣《てうり》燒尻《やきしり》の島近く通る船が、親子三頭の熊の、海を泳いで居るのを發見した。それを色々と追廻して、たうとう牡は仕留めたが、母と子の二匹は燒尻の島へ上つて見えなくなつた。だから將來はあの島に熊が居ることになるだらうといふわけである。

　野邊地《のへち》田名部《たなぶ》の間を走る青森灣東の鐵道に、最も寂寞たる一箇の横濱驛がある。それから少し離れた縣道の茶店で、自分は眞黒な大きな熊の手が一つ、燕の巣などの如く軒先の棚に載せてあるのを見た。此邊では山も高さが三百尺を越えず、只淋しいばかりで至つて淺いのだが、是は正しく北海道の羆であつた。此春雪解けの頃についそこで取りま(374)したと、茶屋の亭主の謂ふのは本當だらうが、何しろあの流れの早い津輕海峽が横たはつて居る爲に、さう手輕には熊の泳ぐことを、承認することが出來なかつた。併し是も八田さんの説では、疑ふ程のことは無いさうである。但し最初から、奧南部へ渡らうと志して、泳ぎ出したわけでも無からう。多分は氷の上に出て食物捜しに夢中になつて居るうちに、其氷と共に言はゞ漂流して、後には日本内地へ泳ぎ著くことになつたものと解せられる。何れにした處が必要次第、熊も亦大いに泳ぎ得たのである。

　猪だけはどんな事があつても、泳ぐといふ保障はしにくいやうであるが、しかも日本以南の大海の島々に、意外に弘く行渡つて住んで居る。然らば大昔まだ大陸の間が地續きであつた時に、そつと渡つて來て黙つて繁殖して居たとするか。人が放したとは想像しにくいやうな、しかも遠くの孤島に迄分布して居るのは、泳ぐ以上の神秘である。元は日本人は猪の肉はあまり食はなかつた。それが近世に入つて却つて猪害を騷ぐやうになつたのは、つまり島國の文化の充溢、惡く言へば天然の行詰まりである。對馬の近世の野猪殲滅記事などを見ると、責めて熊ほども彼等が泳げたら、又何等かの新生面を開いたらうにと、惆悵《ちうちやう》之を久しうせざるを得ないのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　そんな事を言つて居ると話がいよ／＼埒が明かぬ。元來私の説かうとして居たのは、ミユンヘンのピナコテックに二つの古畫があるといふ話であつた。其畫の前に私が一時間ばかり、立つて見て居たといふ話であつた。

　古拙愛すべき鹿獵の圖である。先づまん丸な大きな池がある。其中に樹の茂つた島があつてそれも丸い。御大名と多數の家來とが、弓を執つて池の周圍、島の中にも一杯に立つて居り、鹿は悉く水の中に入つて、泳ぎ若しくは射られて居る。二つとも同じ趣向であるのは、此畫が偶然の空想に成つたもので無いことを意味する。

　斯うして富を樂しみ又人生を味つた時代が曾てあつたのだ。日本には尚古を説き保守を論ずる者が至つて多いが、(375)以前あつた色々の物を、根こそげ忘れてしまつてからそんな事を謂ふのだから價値が低い。此繪の寫眞でも持つて還つて見せたら、亦必ず昔獨逸ではなどゝ、遠い異國の話のやうにしてしまふのだらうが、我々日本人も曾ては一度亦同じやうな行樂をして居たのだ。後鳥羽院上皇などは御痛はしい。今少しく自由な時代に御住ませ申したかつたと思ふ英邁の君主だが、それでもこの我々の忘れてしまつた壯快な實驗を、あの御身分を以てなされて居るのである。大變に闊達な且つ武勇な御方であつたことは、著聞集にも書いてあつて人が知つて居るが、明月記の中には又、或日の水無瀬《みなせ》の宮の鹿獵の光景を、目に見るやうに鮮明に描いてある。

　汽車で京都から大阪へ走る場合に、何度でも私は思ひ出した。多分は今の山崎停車場より少し上流と思ふ。御所から川の岸まで廊下が出來て居て、水に臨んだ屋形には常に多くの御船が繋いであつたらしい。數十人の役夫を後の山に入れて、一齊に鹿の群を追ひおろさしめると、それが悉く飛んで淀川の流に入つて泳いだ。八方から數多の舟を漕いで其鹿を射る時の勇ましさは、何とかいふ盗賊を川の中で捕へさせられたといふ時に比べて、何倍かの胸のときめきであつたらうと思ふ。それからまだ三百年も過ぎて後に、獨逸の田舍の大庄屋などが、屋敷山の端の方に池を掘つて、大いに鹿の子を飼つて置いて、折々人を集めて狩して見たところが、言はゞそれは釣堀程度の樂しみで、あれとは比べものにならなかつたのである。

　以前の日本には幾らほど鹿が居たか知れなかつた。京都の近くの野にも無暗に居て、折々は紛れて禁中にさへ入つて來た。いつかあの事を一度詳しく書いて見よう。水無瀬の行宮では或時は白い鹿が出たこともある。それを京へ送つて神泉苑に放さしめたまふといふことが、同じく明月記の中にたしかあつた。外國の都府は山が遠く鹿が乏しいから、天竺の王樣の何とか苑の如く、まあ馴らして飼つたのを少しづゝ見るだけで、言はゞ硝子鉢の金魚の類だつたらう。こんなことを獨り考へつゝ、滯歐當時の私の愛國心は、此比較によつて少しばかり滿足したのであつた。

　

(376)　　　　　　　　　　五

　

　和蘭では所謂｜海牙《ハーグ》の府が、彼地の方言で鹿野苑《ろくやをん》を意味し、今も公園の草原に溝を穿つて、おしるしだけの鹿の群を養つて居る。低地の國では勿論王者のみに限られた贅澤で、普通の武家は望みが是よりも遙かに小さかつた。彼等が若し去つてミュンヘンの狩の畫を見たならば、きつと眼を圓くし又は溜息をつき、止めども無く之を羨んだであらうが、いづくんぞ知らん其頃の日本では、卷狩などは如何な田舍でも御茶の子であつた。けれども世間を見ないから和蘭の貴族たちは、畫家に頼む場合はきまつて猪が一匹か二匹、牙をむいて犬に吠付かれて居る處を描いてもらつて、それを壯快がつて居たやうである。さうで無ければ臺所の隅などに腹を裂いてからの鹿を逆さまにつるして、玉葱や薯と雜居した處を、面白さうに畫いてもらつて居る。どうして又あんなものを畫にする氣になつたものか。之を不思議がらぬのは、よつぽど畫の無い國、さうして舶來品を羅拜する國の人々でなければならぬ。

　上手とか下手とかいふ問題を離れて、始めて斯んな畫が入用になつた世の中といふものを、考へて見れば隨分とをかしい。信心深い人たちが神を見、聖者の姿を幻に思ひ浮べた場合に次いで、何が一番一生涯の間に、身に沁みて忘れ難い出來事であつたかといふことが、初期の畫題といふものゝ中から、推測し得られるのではあるまいか。さう考へて見ると日本でも西洋でも、古いものは大抵題材がきまつて居る。又國によつて御箱ともいふべきものが必ずある。我々の中世に狩の繪の少ないのは、主として之に携はつた階級が、畫事には久しく眼が開かなかつた爲らしい。繪卷物の最初の畫題は神事に法會、託宣や夢想の宗教的分子を除けば、戀と戰と音樂の遊びなどであつた。野山の景色の美しさを賞し姶めたのも、社寺宮殿の周圍で無ければ、花見月見の靜かなる逍遙からであつたが、西の國の風景畫はその淵源を尋ねて見ると、ジョセフ一家の埃及落ちで無い場合には、多くは狩の日の追懷の中に、織り込まれて居た荒々しい山林の趣であつたやうで、此點は稍々又支那で謂ふ織耕圖などが、次第に田園を畫材とする風習を養つたの(377)と近いやうに思ふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　それはやゝこじつけに近いやうだから、反對が出るならすぐに引込めるつもりだが、例のサン・セバスチャンだけはまだ固く私は信じて居る。日本の西洋見物人がだまつて驚いて居ることの一つ、笑はれぬときまれば必ず白?する疑惑は、どこの博物館でも平均して二つ以上、必ず陳列してある若い裸の聖者の繪だ。多くはよく太つて色が白く、後ろ手に樹に縛られた腕やら胸腹に箆《の》深く箭を射付けられて、それが折れて血を流して居る。何だつて基督教の國では、斯んないまはしい殘忍な繪ばかり、高く掲げて賞美して居るのであらうか。

　十字架のイエスなども考へて見れば同じことで、繪像の莊嚴と和樂の爲に、金だ緑青だとうき身を窶した東洋人には、あの脛あの肋《あばら》あの額の八の字などは、全く愛の宗教の氣の毒な割引の如く思はれるが、それでもあれにはまだ約束があり意味が有ること、例へば栗のいがや牡蠣の殻の醜さから、却つて内容のうま味を戀ひ慕はしめるが如くであるが、サン・セバスチャンに至つてはたゞの物語繪で無いか。特に此場面を斯う描くことが、是だけ途法も無く流行したといふのは、つまり弘い世の中の注文であり好みであつたのだ。それが多分は支那・和蘭の御馳走畫、群犬の野猪を?み殺す圖、今一つ古くは鹿の子を水中に追込んで、ぶつ／＼と射るところなどゝ同じく、人を單一無邪氣なる　　状態に置くときは、自然に鬱勃として蘇つて來る祖先傳來の大感激の、正直な影で無からうかと私は思つた。

　我々の藝術の中にも、少し捜して見れば何程も例がある。銀の花簪を黒髪一ぱいに飾つた姫君の首が、鷲塚金藤次といふやうなやつの刀の先にころりと飛ぶ。いたいけな健氣な色の白い小さな忠臣が、八汐の懷劔で一突きに刺殺される。若葉の内侍と六代とが高手小手にくゝられて、素足になつて遣つて來る。それを結構な事とは一人として思はぬのに、なほ息が詰まるほどの興味を以て、見物は引付けられたのである。誰が書いたか知らぬが聚樂物語といふ本(378)などは、是より外には別の目的も無い物語だつた。豐臣秀次の三十三人の女房が、一人づゝ鴨の川原に引出されて頸を斬られる。誰は二十何歳の花の如き美人で、斯ういふ姿をして殺された。誰それはまだ十五の初々しい眼ざしをして、夢を見るやうに死んで行つたといふ風に、一つ／＼詳しく説いて、それで話はおしまひになつて居る。又狩人の口から傳はつたかと思ふ話も、今昔物語などには幾つかある。彼等は殊に我を忘れる境に入り易かつたと見えて、尋常で無い感激に?々遭遇して居る。夜深く林を過ぎて恠物に喚ばれたり、或時には大慈悲を以て、物の命に代らんとした上人の眼を叢の奧に見出したりした。三尊來迎の貴い光景を紫の雲の中に眺めつゝ、弓を引きしぼつて之を射た男もある。さうすると實は狸か何かの化けたのであつたなどゝも謂ふ。

　日本の法師たちはよく讃佛乘の縁といふことを言つて居る。斯ういふしどけない信ずることも出來ぬ物語が、尚宗教生活の爲に何程か有名だといふことは、如何にも強辯の如く聞えるのであるが、實は現世とはやゝかけ離れた、しかも濃厚なる興味を以て、人の情感を統一し單純化させることは、我々の解脱の爲に必要なる準備であつた。と言ふよりも人間が小賢しくこま／”＼と八方へ氣の散ることは、決して清く高いものを見る途で無かつた故に、前代の人は寧ろ我々が眉を顰《ひそ》める類の、粗野なる手段を使つて迄も、彼等の靈なる力の集中と活躍とを促さうとしたのである。所謂淫祀邪教の羨まれていゝ理由もそこに在り、我々が寧ろ宗教とは別れて、靜かに人生を味ひたいと考へる理由も是に存する。それをサン・セバスチャンが我々に向つて、明白に教化してくれるのである。

　うそだと思ふ人には、今一つの例證が出して見せられる。希臘の大きな石棺の彫刻に、最も多く寫し出されたものは何かといふと、第一には神の前に生贄を導いて來る處、それは祭の日の思出とも見られるであらうが、次に多いのは戰であり、殊にアマゾンとの闘ひでは無いか。美しい女性がたけなす髪を亂し、裸體で馬に乘り劔を拔いて突き進んで來る。其美女が箭に射られ傷けられ、馬より落ち又｜屠《ほふ》られて居る。それが轉生の神聖なる記念と、果して何樣の關係があつたらうか。問題は決して手輕なもので無い。修養を積み重ねた近代人の感情では、到底受入れ難い原始的(379)の壯快味だ。我々の想像を超越して、強烈に又純一な感情だ。宗教は乃ち其器に盛られて、始めてしつくりと調和したこと、譬へば碧玉の大なる皿に、西王母の桃の實を載せたやうなものでは無かつたらうか。さうでも無ければ優れた藝術の最初の二葉が、土に芽ぐんだ根本の理法を、人間的に解して見ることは絶對に不可能である。

　成程それは數千年の過去ではあつた。しかも尚幼い者の心には、今も時あつて痕跡を見出すことがある。例へば蛇に對する極端なる憎惡、若しくは趣意も無い殺戮の如きは、初期の物狂ほしい迄の人蛇闘爭を、背景として考へて見ない限りは、他に説明のしやうも無い。姿なり彩色なり、今の我々の標準に照せば、蛇くらゐ優美なものは少ないのである。山に入つて鳥の巣を探り野獣を逐ひ、其他色々の天然物を、數多く採集した折の心地よさなども、田舍に育つた者ならば死ぬ迄は記憶して居る。單に子供らしいと思つてやたらに人に説かぬだけである。私が、熊や鹿の罪なくして滅される悲痛なる昔語を、どうにかして諸君と話して見たいと願ふのも、或は亦彌勒出世に向つての漠然たるあこがれであり、乃至は更に大いに成長すべき將來の藝術に對して、不知不識に抱いて居る所の、ゆかしさ待遠しさ心元無さの影かも知れぬ。兎にも角にも人の自然の感情と、時の進みに伴なふ變化とを無視し、たゞ或時代の一つの横斷面のみに由つて、美を論じ宗教を解説するやうな人たちからは、我々は成るべく遁げまはつて居る方がよいといふことを、裸のサン・セバスチャンが教へて居るやうに思ふ。

　

(380)　　　　　對州の猪

　

　　　　　　　　　　一

　

　以前渡瀬教授が動物學雜誌に載せられた、對馬殲猪事蹟の一文を讀んで、初めて陶山庄右衛門存といふ偉人の名を、覺えた人は多からうと思ふ。自分などもまさに其一人であつて、あれから色々の對馬の歴史を知り、又陶山翁の著述が經濟叢書の一卷となつて出たのを、大よそは讀んで居るに拘らず、なほこの人の名を耳にすれば、必ず先づ是が聯想に浮び、時としては對馬といふ一言を聽いただけで、もう猪のことを思ひ出す場合さへあつた。つまりは事件が驚くべく奇拔であり、且つ問題が前へも未來へも、際限も無く伸びて行くものである爲に、一ぺん聽くとどうしても忘れることが出來ないのである。斯ういふ印象の片よりは、歴史の學問には殊に多いかと思はれる。

　柵に追ひ詰めて島中の猪鹿を捕り盡さうといふ計畫、是が第一に對馬ほどの島でなくては考へも及ばぬことである。さうして又島ならば至つて自然に、誰にでも思ひ付きさうなことでもある。陶山翁の事業は幸ひに確實な記録があつて、傳へられて居るものでも數は多い。彼が久しく其識見を試みるの地位に在つた爲に、島の文物は全面的に革まつて居る。野猪の撲滅は十六歳の時から、考へて居たことだといふ説もあるが、要するにその多くの業績の一つに過ぎず、しかも必ずしも成功の部に屬しなかつたことは、三年の豫定が九年かゝつて、繁殖させてから退治した形になつて居るのを見てもわかる。あの島だけでは少なくとも稍々異なつた角度から、先生の�ｺ澤をたゝへて居た者があつて(381)もよいと思ふが、それが今日往つて見ると、やつぱり我々と同樣に、このたゞ一件を重々しく記念して、猪と因みのある話ばかりが多いのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　いつ頃からの言ひ傳へか知らぬが、二三の舊記には載せてあり、又昭和二年の頌�ｺ碑にも掲げてある。陶山先生が愈々猪退治の決意を固めて、先輩の賀島兵助といふ人の賛同を求められたときに、それは確かに效果のある方策だが、とにかくに生物の種を根絶やしにするといふのは天道の理に反する。子孫が應報を受けるかも知れぬから、思ひ止まるがよいといふ説が出た。先生は容を正して、たとへ天道の自然であつても、國に害があれば之を除くのが至當である。「丈夫國の爲に害を除く、何ぞ子孫を問はんや」と答へられたといふことになつて居る。是は歴代の學者が考へあぐみ、しかも今以て決しかねて居る大きな問題ではあるが、あの時代の誠忠の士、殊に先生のやうな學問をした人ならば、率直にさう信じて居られたとしても不思議は無い。事實さういふ問答があつたものと見てよからう。しかしながら先生の政治的活躍は猪から後なほ二十年も續いて居る。數知れぬ獣替が其間に行はれて、それが功績を留め、もしくは又再び覆つたものも多いのである。何れにしてもこの唯一つの目ざましい事件によつて、この人を記念することは誤つて居る。先生の傳記を讀む者の常に感動し、且つ嗟嘆せずに居られぬ事は、島の消費に關する先生の主張であつた。對馬には田が乏しくて、麥を以て神々をさへ御祭り申して居る。麥しか取れないから麥を食べる。是は當り前の事だと謂つて先生は麥ばかりを食つて居られた。是などはたしかに猪殲滅とは反對に、自然の制約を無視すまいとせられた例である。然るに藩では全日本の風習に遵うて、依然として廩米を以つて俸禄として居た。さうして其不足の大部分を朝鮮に仰ぐ仕來りを、終に改廢することが出來なかつたのである。島が島外の供給に依存する場合には、先づその必要の幾つかの段階を、辨別しなければならなかつたのである。それが因習により又流行に誘はれ、も(382)しくは單なる無爲によつて、偉人の力ですらも改められぬ?態を作り出したといふことは、對馬内外の島々の住民には大切な教訓であつた。しかも問題が注意せられ痛感せられたといふのみで、空しく過ぎ去つた故に歴史ともならず、些々たる猪のやうな臨時の解決だけ、恰かも或時代を代表するかの如く喧傳せられるといふことは、古今普通の現象とはいひながらも歎息に値する。猪の話にも興味は十分にあるのだが、是を考へると斯んな問題にばかり、陶山氏を引合ひに出すことが私は氣が咎める。

　

　　　　　　　　　　三

　

　享保十七年の六月二十四日、七十六歳の壽を以て終られた先生には子が無かつた。親類の中から跡目を嗣いだ人があつたが、もう其家も久しく絶えて居る。先生果して後無しといふやうなことを、口にした者も稀にはあつたやうだが、少なくとも其原因が生物の種を絶やした點に無かつたことは、是亦ほゞ明らかなる證據があるのである。曾て賀島氏との問答に於て、さもいさぎよく決心のほどを言ひ放たれたとあるにも拘らず、先生もやはり常民の心理に及ぼすべき影響を氣づかはれたものか、最後に牝牡五組ばかりの猪鹿を舟に載せて、生きながら之を絶影島に放たしめたといふ話が傳はつて居る。名前こそ絶影島だが、是は對馬の如き離れ島では無い。だから其後裔は海を渡つて、大陸の片端にも入つて居るであらう。さうして其故郷の對州の島にも、實はまだ少々は殘り止まつて居たのである。津島記事といふ書は、敷十年も後に出來たものだが、此島南端の豆酘郷《つゝがう》の條には、産物として野猪を擧げ、稀々には今でも居ると書いてある。著名なる洲藻の八丁角、及び西｜龍良《たつら》の磐境なるものを始として、島には大小數多くのシゲといふ靈地があつて、凡俗の立入りを禁戒して居たことは、沖繩諸島の御嶽も同じであつた。猪鹿追詰の折には神々に祭文を捧げ、一方には又公の役目である故に、畏るゝ所無くシゲでも狩るやうにといふ諭告が出て居るのだが、今でも殘つて居るほどの永年の崇敬であつた故に、やはり此方面には僅少の見落しがあり得たので、つまりは只この大狩獵(383)以前と比べて、三萬頭に近い猪の數が減少したといふだけの結果であつた。種を絶やしたのでも何でもなく、實際又他の多くの島々に於ても、長い歳月の間には自然に皆同じ結果になつて居るのである。是を稍々性急に爲し遂げたといふだけで、首唱者一人が應報を受けるものゝ如く、想像するといふことの方が、寧ろ何ものかの祟りのやうにも私には思はれる。

　精靈が災ひをするといふ古い考へ方は、まだどこかの隅つこに潜み傳はつて居たのである。さうして此樣な大規模な、短期の眼の前の殺戮が行はれた際のみに、其光景によつて印象づけられて、それが表面に現はれて人心を動搖させることもあるかと思はれる。對馬では現在はもう跡万もあるまいが、前には陶山氏の忌日にはよく雨が降るといふ者があつた。新暦の六月下旬は梅雨だから愈々降る。此頃は四月二十四日を記念の日として、法會を營むことにして居るのだが、其日もやつぱり不思議に降ると云つて居る。そんな理由が有らうとは誰一人思つて居る者は無いけれども、現に降るのだから其話だけは止まない。大體に雨の多い島であつて、此日に降ることだけが特に注意せられるのか。もしさうだとすれば是も亦歴史の教へ方が、あまりに異常事件に偏して居た結果とも言へるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　自分が嚴原《いつはら》に上陸したのは、偶然にちやうどこの祭典の日の前々夜であつた。翌朝は空が青く、兩側の樟の若葉が日に照つて花のやうに美しかつた。通りは眞直ぐな爪先上りで、石塀を取繞らした人家が多く、どこかに南島の舊都と似通うたところがあると思つた。八幡宮の社頭には、かの新しい大きな記念碑が建つて居る。自分は其文を讀んで見て改めて陶山氏の人となりを懷ひ、さうしてやはり又猪のことを考へながら路をあるいて居た。對馬には今でもまだ珍しい幾つかの動物が殘つて居る。繪でも見たことが無い對馬山猫、それから綿帽子被りとも呼ばるゝ對馬貂なども、爰になら標本は有らうと思つて、對馬中學校に行つて見た。出しぬけの訪問であつたが教師たちは悦んで、島で(384)は旅人をつかまへなければ、新しい話を聽く機會が無い。何か一つ少年の爲にと熱心に勸められる。それは結構なことだが古い話より他は私は持つて居ない。ゐのしゝの話でもよければして見ませうかと謂つて、用意は無かつたけれどもざつと斯ういふ風なことを説いて見た。あの日の聽衆は皆もう世に出て居る。或は自分よりももつと要領よく、覺えて居てくれる人がありはせぬかと思ふ。

　私の話は猪といふ題である。諸君が尊敬して居られる對馬聖人は、二百何十年も前に此島の爲に働いて、色々の良い氣風を養ひ、良い慣例を開き、又貴い幾つかの問題を殘して行かれた。誰でも知つて居る猪なども、其問題の一つである。諸君はどうして對州には猪が居なくなつたかを知ると共に、是非又どうして猪が其樣に多く、此島には居たかを尋ねて見なければならぬ。第一には猪は泳ぐか。もし泳ぐとすればどの位泳げるか。是がまだ少しも明らかになつては居ない。猪の居る島は本土と九州と四國、是は大きいので問題にする人も無いが、是だつて自然にわくものと考へなければ、いつの世にか泳ぎついたか、又は大昔陸橋といふものがあつた時代に、それを渡つて順次ぎに入つて來たのである。その陸橋といふものがどう架つて居たかは、是も今はまだ至つて空な話で、海の深さが段々と詳しくわかるにつれて、果して猪の移住に用立つことが、出來たかどうかゞ疑はしくなつて居る。島に住む人でなければ斯ういふ事に興味をもち、是から深く考へて見ようとする者は無いかも知れない。おまけに諸君には因縁があるのではないか。猪がもし泳がうと思へば幾らでも泳げるものだつたら、一つの島ばかりで十年の月日、三十萬人もの人夫をかけて、取り盡さうとしたことがむだだつたといふことにならぬともいへない。猪には行く先の心當りといふものが無い。だから又計畫した引越しもあるまいが、さういふ移動は人だつて元はして居たのである。たゞ海を泳いで渡らうといふのはよく／＼のことゝ思はれる故に、それを押し出す力又は海の上の路の、今はもう無いものが曾てあつたかどうかを、突き止めて見なければならぬのである。是を博物といふか歴史といふかは私は知らないが、とにかくに諸君の學問といふものゝ、これが一つであることだけは明言してよい。先づざつと斯ういぶ話をぽつ／＼としたのを、(385)目を圓くして彼等は聽いて居た。

　

　　　　　　　　　　五

　

　それから方々の猪の住む島の話をしたのだが、その幾つかは自分でも今は忘れてしまつた。近いところでは肥前の五島、あの島々には今でも獵人が居て猪鹿を打つて生計を立てゝ居る。この島々はそれ自身が細長い橋のやうな形をして居るが、切れた處では水の上も渡つて行くのである。屋久の島は鹿の島だといふ説もあつて、鹿も猪もよほど居るらしい。山が深いからこゝはまだ永く殘るであらう。沖繩では猿はもう昔話となり、鹿も慶良間《けらま》の小離れにしか居ないが、猪だけは國頭《くにがみ》の山に居て、猪垣もなほ殘り、犬引といふ狩も近い頃までは行はれて居た。八重山群島では西表《いりおもて》の島で、取つて居るといふ話を聞いたゞけだが、石垣の島でも萬年青嶽《おもとだけ》の神話に、山神が猪の姿に現じて不信者を罰したとあるから、曾ては目に觸れたものであることが察せられる。居たといふまでの記録ならば、氣をつけて居たらまだ／＼多くの島にあらうかと思ふ。たゞそれが先祖を一つにした全く同じ種類なのか、但しは地域によつて人類の白黒ぐらゐの變化があつたのか。猪が斯う少なくなつては知り難いのが遺憾である。以前は我邦にも猪飼《ゐかひ》といふ職業はあつた。是は野山に居るものを捕へて來て繋ぐのみで、家で繁殖したかどうかは確かでない。沖繩は近世の輸入によつて、若干の改良を加へたといふが、なほ在來の豕があつて野猪の末であつた。さうして是を式の日の食饌に上す風は、寧ろ南九州の狩の作法の方に近いかと思ふ。たゞ一方は入用に臨んで捕つて來る。こちらは日頃から飼つて置くといふだけの差であつた。斯ういふ飼育方法は至つて古いものであるらしい。たとへばニュウギニヤの密林の中に住む土民も猪の子を飼つて居る。是から東の方に散布する大小の島々には、居らぬといふのが珍しいといふほどに、どこにもこゝにも野猪が居る。椰子の栽培業の最初の害敵は、彼等が群をなして苗圃に來襲し、又は栽ゑて芽が出たばかりの椰子の實を食ひ散らすことだといふことを、私は色々の紀行類で讀んで覺えて居る。樹の實その他の山中の(386)食物は、農作以上に著しい豐凶の差がある。たとへば竹は六十年目に一度、實がなると非常に鼠がふえる。其翌年は忽ち食料が缺乏して、島では鼠があらゆる青いものを食ひ盡し、島限りの大飢饉を引起すのである。對馬の猪害の特に忍び難かつたのも、隱れて或は斯ういふ法則が働いて居たので、一方沖繩はそれを偶然に、別な方法で處理して居て助かつたのかも知れない。日本人が一般に宍《しゝ》喰ひを疎んじ、猪飼の技術が衰へ切つて居た際に、折惡しくこの變化が起つたことが不幸であつた。鼠では何ともはや致し方が無いが、猪は今ならば立派な産物である。それが僅かな年代の早い遲いの爲に、之を島人の榮養にも、又は生産組織の改定にも利用することが出來ず、たゞ十年に近い辛苦艱難を重ねて、漸う其害を切拔けて通つて來ただけといふのは、今から考へると寧ろ淋しい歴史である。古人に感謝すべきは世を濟《すく》はうとする志であつた。その計畫にはしば／＼時世の干渉がある。常に正しいとばかりは言へない、といふやうな考へを下に持つて、自分はこの對州の猪の話をして居たのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　どうして又此樣に、猪の問題に身を入れたかといふと、實は少しばかり行掛りがあるのであつた。自分は前年「松島の狐」といふ一文を新聞に書いたときに、鹿は水を泳ぐだらうが、野猪はあのかつこうでは泳げさうにも無いなどと、餘計なことを言つた爲に大分方々から非難を受けた。事實を確かめても見ないくせに、あゝいふことを書くのはよろしくない。是は後になつて想ひ出したことだが、子供の頃によく見た北齋漫畫の中にも、猪が大海かとも思はれる深い淵の水を、浪を立てゝ泳いで居る所が出て居た。單なる繪そらごとでは無さゝうに思はれる。一つでも斯ういふ例があればもう私の説は覆つてしまふ。心細いことだと思つて色々の人に聽いて見ると、川口孫治郎君などは至つて無造作に、泳げない獣なんか有るだらうかと謂つて、蘭領東印度のセレベスの島で、猪が海上に出て鰐と闘ふといふ話などをして歸つた。さうして其次の旅行には日向の都井岬《とゐざき》から、正月の二日に猪が三頭、海上でレフシに捕られ(387)たといふ珍事を、漁師ですよとわざ／＼註を加へて知らせて來た。是は對岸大隅の内之浦で、森林の大伐採があつたから、遁げて出たのだらうといふ衆評であつたさうだが、更に尋ねて見ると數年前にも泳いで來たことがあつて、この方は無事に上陸したとも謂つて居る。これで先づ／＼猪は泳ぐものと確定し、もう何も言ふことは無くなつてしまつた。土佐の西海の沖ノ島の實例は、それから又後になつて聞いたのだが、爰では大正九年の洪水の時に、四國から猪が渡つて來た。始は豚かと思つて居たが、やはり野猪であつた。それが子持ちの猪であつたか、又は他にも幾つか入つて來たものか、忽ちのうちに繁殖して今日は全く猪の世界になり、年に少なくとも八九頭づゝは捕れるやうになつた。一匹打つて來ると奨勵金が五圓、年によつては十圓のこともあつた。根絶やしにした者には七百五十圓の懸賞が附いて居るのだが、全島炭に燒くウバメ?が茂つて居るので、其林に入つてしまふと中々捕れない。さうして出て來ては薯畠を荒すので弱りきつてゐる。但し此猪は朝鮮猪に似て居て肉の味はよくないといふ。誰でも知つて居ることだが九州でも四國でも、猪には二種類あつて一方は臭く又味が劣つて居る。さうして此方が群をなして遠くまで移るかと思ふが、又しくじるといけないから此點は斷言しない。

　沖ノ島は柏島あたりの、最も近い鼻からでも二里はある。大隅内之浦の樹林地から日向の都井岬までは、直線に泳いでも五里は十分ある。何か必要があれば是くらゐは移つて行くことが出來るのであつた。さうすると島の陸地を數列の木柵を以て斷ち切り、端から順次ぎに猪を追ひつめて、取つてしまはうとした手配にも手拔かりが無いとは言へない。山で大騷ぎをして居る間だけ海へ出て居て、そつと後からまはつてもう狩立ての濟んだ場處へ、上陸することも出來たらうからである。島を馬牧にして居た大名も元は多かつた。是で墻や矢來の節約をしたやうに思つて居ても、實際はたゞ住みよいから、ぢつとして居ただけであつたのかも知れない。ともかくも私と同樣に、猪は泳がぬものと思つて居た人は外にもあつたのである。泳ぐとすればどの位泳ぎ、又はどういふ場合に泳ぎ出すかといふことは、小さな問題ではあらうが現在はまだ答へ得る者は無い。新たに勉強して收獲すべき知識が、まだ幾らでもあるといふこ(388)とを、若い人たちに感じさせるには、是は誠に手頃な又好奇心を誘ふに足る實例であつた。さうして現在は斯ういふ刺戟が殊に缺けて居るのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　前置きばかりだら／＼と長くなつたが、實は自分が記録を留めたいと思ふことが、この後に一つあつたのである。昭和六年の四月二十四日は、陶山先生の御祭の日で、月こそかはつて居るがちやうど又二百年目の忌辰でもあつた。この日もやはり大雨が降つて、溝小川の水は瀧と流れて居る。私は袴をはき傘と足駄を借りて修善庵に詣で、先づ先生の御墓を拜した。本堂ではもう讀誦が始まつて、昔を慕ふ嚴原の學者たちが、ひし／＼と集まつて居られる。さういふ中でも川本達翁は一島の耆宿であつて、しかも明辯強記、まさに壯者を凌ぐの概があつた。式終つて茶と雜談に移つた時、突如として時に柳田君、小茂田の濱へゐのしゝが流れ着いたことを聞かれたかと話しかけられる。柳田は思はずぎよつとして、さては御老人、もう昨日の講演を誰からか聞かれたなと、氣をまはして返答を澁つて居ると、さうで無かつたことがやがてわかつた。それは珍しい話でござります。こゝから幾らも無い西海岸へ、猪が揚つたといふことは折々はあるのでせうか。生きてつかまつたのか、死んで腐りかけてゞも居たものか。朝鮮から來たものか國地から渡つたか。さては又島うちの山からでも飛び出して海へ入つたといふものか。?況によつて話は大分ちがつて來るのですが、わかりませんかと問ひ返して見たけれども、さあといふばかりで知つて居る人が誰も無い。何しろ半月前のことで、人の噂だから詳しいことは聽いて居ない。わざ／＼行つて見てももうとつくに始末をしてしまつたらう。聞合せて置いてあげようといふことになつて、それで一先づ此話はすんだ。

　島の人情の懇切なことは、斯んな私ばかりが執心するやうな約束でも、永く打棄てゝは置かなかつた。川本さん始め多くの人の通信が、壹岐へも屆いて來れば又東京の家へも來て居た。對馬島誌の著者日野清三郎翁の報告が最も詳(389)細であつたが、其他の數通にも一致せぬ點は一つも無かつた。要を摘んで確かだと思ふ箇條を竝べて見ると、（一）場所は下縣郡佐須村大字小茂田の海岸、（二）發見の時は昭和六年四月六日の午後三時頃、（三）此日風浪の爲に打寄せられ海藻の中にくるまつて居たのを、藻草採取に出た者が拾得した。（四）死んでから約八九時間、十時間とはたつまいと思はれる死體であつた。腹を開いた村人の談によれば、鮮血がどろ／＼として居て、まだぬくもりが有りはせぬかと思ふやうであつたといふ。（五）此日午後三時までの風位は、測候所の記録には北々西、且つ風雨とある。（六）小茂田の濱から朝鮮の山までは最近の距離二十四五里である。（七）この猪は相當の距離を泳いで後に溺死したものと思はれ、水はあんまり飲んでは居なかつた。（八）前年も同じ濱に猪が漂着したことがあり、又久根村にも漂着したといふ老人があるが、それはもう確かでない。（九）今度の猪は朝鮮から、渡つて來たらうと土地の者は謂つてゐる。島へ來て居る朝鮮人の話に、猪は虎ほどでは無いが可なりよく泳ぐ。牛馬のやうな下手なものでは無いといふ。日野翁はなほ是に附け加へて、陶山氏の猪狩の仕切牆も、浦から浦へとすれば近くてすむのに、わざ／＼崎から崎と仕切らせたのは、猪は泳ぐといふことを知つて居られた證據だと言はれる。さうであつたとすれば、愈々此猪の島外の種であつたことが考へ易くなる。ともかく是だけの事實によつて、次の斷定を下すことはほゞ安全であらうと私は思ふ。曰く、對馬の附近に住む野猪は泳ぐと。

　

(390)　　　　　猫の島

　

　　　　　　　　　　一

　

　陸前田代島の猫の話は、あれからもまだ幾つか聽いたが、もう「窓一ぱいの猫の顔」といふやうな、奇拔な新鮮味のある空想には出くはすことができなかつた。たとへば村長さんが祝宴の歸りに、夜どほし島の中をあるきまはつて、すつかり土産の折詰を食べられてしまつたとか、又は渡し舟に立派な身なりの旅人が乘つて來て、後で舟賃をしらべたら木の葉があつたとかいふ類の風説は、型が前からあつてどうやら他所の話の借物とも見られる。さうして島人も眞顔に合槌を打つ者が無くなりかけて居るのである。

　そんな中でたゞ一つ、是は古くから謂はれたことらしいが、田代は猫の島だから犬を入れない。犬を連れて渡ると祟りがあるといふのが、私などには注意せずには居られぬ。最近の島の話では、猫は害あるもの、少なくとも島の不安の種であつて、たま／＼見たといへば怖ろしいと感ずる人ばかりが多い。寧ろ盛んに猛犬を放つて、警邏させたらよからうと思ふやうな?態に在るのである。そこに此樣な俗信がまだ殘つて居るとすれば、猫に對する考へ方の以前は又別であつたことを、推測せしめることは言ふに及ばず、もしも到底有り得ない事だと決するやうであつたら、どうして又色々の猫の恠談が、特にこの島にのみ信じられることになつたかの原因を、逆に尋ねて行く手掛りにならうも知れぬのである。

(391)　犬を上陸させてはならぬといふ戒めは、又伊豆の式根島にもあつたと聞いて居る。此島はたしか今から四五十年前までは、全くの無人島であつた。僅かな畠地があつて隣の島から、時々耕作や木草を苅りに渡るだけだつたといふのに、やはり猫が住んで居る爲に犬の行くことを忌むのだと説明して居た。人家が無いのに猫の居るのも恠しく、それに遠慮をして犬を連れ込まぬといふのはなほ更合點が行かない。是などは或は犬をきらふといふ方が元で、其理由を知る者が少なくなつた結果、新たに斯んな單純な想像が生まれたのかとも考へられる。

　犬を連れて渡つてはならぬといふ島は、尋ねたらまだ他にもあらうと思ふ。一つの例は譚海の卷六に、安藝の嚴島の別島に黒髪といふ所あり、そのかみ明神のましませし所にて、今に社頭鳥居など殘りてあり。此島に犬無し。犬の吠ゆる聲を憎ませたまふ故といへりとある。それはたゞ一つの噂といふまでゞ、現實には之を試みる折も無かつたのであらう。藝藩通志などには何の記述もないが、大小二つの黒神といふ島の名は擧げて居る。大黒神島は周りが二里十六町あつて能美島の西岸に近く、是にはあの頃既に人家が二軒あつた。小黒神はずつと小さくて周り二十八町、沖のと中に在つて居民無しとあるから、問題になつたのは多分この方であらう。今でも果して犬を忌むといふ傳へが殘つて居るかどうか。何とかして實地に當つて見たいものと思つて居る。

　まだ十分な根據があるとは言はれぬが、自分の推測では犬を寄せ付けなかつた最初の理由は、島を葬地とする慣習があつたからだらうと思ふ。以前の葬法は柩を地上に置いて、亡骸の自然に消えて行くのを待つたものらしく、從つて獣類の之に近よることを防いだ形跡は、色々と今も殘つて居る。物忌の嚴重な宮島のやうな土地で無くとも、海上に頃合の離れ小島があれば、それをはふり〔三字傍点〕の場處としたのは自然であつて、又現に其實例は幾つかある。たゞ多くの都邑に在つてはそれが望めない故に、人が喪屋の守りに堪へず、又感覺のやさしくなるにつれて、土葬火葬の新方式が、次々に考案せられたのである。犬を特に忌み嫌つた理由は、必ずしも其害が狼狐より大きかつた爲で無く、寧ろ犬が平氣で人里に往來するからであつたことは、所謂五體不具の穢れといふ記事が、頻々として中世の記録に見えて(392)居るのでもわかるのだが、そんな陰氣な話はもう忘れた方がよいのだから、是以上に詳しくは説いて見ようと思はない。

　

　　　　　　　　　　二

　

　とにかく犬を牽いて渡つてはならぬといふ戒めの方が前にあつて、其理由がやゝ不明になつて後に、犬を敵とするものが島には居る、それは猫だといふ説が起り、其猫には又違反を罰するだけの、畏るべき威力があるやうに考へたのが、乃ち田代の島の前史でもあつたかと思ふ。島を開きに後から入つて來る人々は、勿論こゝをトオテンインゼルとする風習の、曾てはあつたといふことをさへ知らぬ者が多からうが、中には奄美群島の小さな島々のやうに、一方の側面には平和なる村が起り、他の一側の斷崖の下へは、互ひに人知れずはふりを送つて居た例もあるのである。犬を入れては惡いといふ俗信は、寧ろ來歴を説明し難くなつて後に、却つて其神秘性を全島に擴げることになつたのかも知れない。

　犬と猫との仲の惡いことは、日本では殊に評判が高く、枕の草子には既にその一つの記録があるが、そればかりでは犬を憎むといふ島が、忽ち猫の島に變ずる理由にはなり兼ねるやうに疑ふ人も或は無いとは言はれぬ。しかし人を其樣な空想に導く事情は、私たちから見ればまだ此以外にもあつたのである。多くの家畜の中では猫ばかり、毎々主人に背いて自分等の社會を作つて住むといふことが、第一には昔話の昔からの話題であつた。九州では阿蘇郡の猫嶽を始とし、東北は南部鹿角郡の猫山の話まで、いゝぐあひに散布して全國に行はれて居るのほ、旅人が道に迷うて猫の國に入り込み、怖ろしい目に遭うて還つて來たといふ奇譚であつた。猫嶽では猫が人間の女のやうな姿をして、多勢來聚つて大きな屋敷に住み、あべこべに人を風呂の中に入れて猫にする。氣づいて遁げて出る所を後から追ひかけて、桶の湯をざぶりとかけたらそこだけに猫の毛が生えたといふ話もあつて、支那で有名な板橋の三娘子、又は今昔物語(393)の四國邊地を通る僧、知らぬ所に行きて馬に打成さるゝ語、さては泉鏡花の高野聖の如き、我々がよくいふ旅人馬の昔話を、改造したものとも考へられぬことは無いが、それには見られない特徴も亦有るのである。

　中國方面で折々採集せられる例では、この猫の國の澤山の女たちの中に、一人だけ片眼の潰れた女が居た。それが夜中にそつと入つて來て、私は以前御宅に居たトラといふ猫です。爰に居ると命があぶないから、早くお遁げなさいと教へてくれる。成るほど思ひ出すと其猫を折檻して、左の眼を傷けたらそれつきり居なくなつた。それが斯うして子飼ひの恩を返したのだといふのもあれば、或は無慈悲な婆が爺の優遇せられて來たのを羨んで、のこ／＼尋ねて行つて食はれてしまつたといふ、舌切雀式な話し方もある。何れにしても是に專屬して居る趣向といふものが無いのを見ると、起源はたゞさういふ傳説の破片に、強ひて昔話の衣裳を着けさせて、其不思議を珍重したものとしか思はれない。つまりは猫が必ずしも人類の節度に服せず、ともすれば逸脱して獨自の社會を作らうとするものだといふことを、稍々アニミスチックに解釋して居た名殘とも認められるのである。

　猫の尻尾といふことは興味ある一つのテーマであるが、之を論述するにはまだ私の資料は整はない。とにかくに日本だけでは、尻尾の完全なる猫は化けるといふ人がある。或はたゞ單に猫は一貫目より大きくなると、油斷がならぬといふ話もあつて、化けた踊つた人語したといふ奇譚ならば、掃くほども國内に散らばつて居るのである。東京などでもよく言ふことらしいが、猫は飼ふ始めに年期を言ひ渡すべきもので、さうすると其期限が來れば居なくなるともいふ。伊豆北部の或村での話に、三年の約束で飼つて居た猫が、どこへ行くだらうかと跡を付けて見ると、谷の入りをどこまでも行つて、或洞穴の中で狐と一しよに踊つて居たといふ。あんまり早速な話で有つた事とも思へないが、少なくとも年期が終ると出て行くといふのが、此地方の常識であつたことだけは考へられる。狐と猫との交際といふことも、奇妙な話だが爰ばかりで無く、弘く東西の府縣にも言ひ傳へられて居る。よく聽く話は狐が人の目を騙す爲に、可愛い小猫に化けて入つて來たといひ、或は月夜に垣根の外を覗くと、猫が狐の踊るふりを見て居て、自分も後(394)足で立つて同じ樣に踊つたといひ、又は伊豆にもあつたやうに、二種の獣が入り交つて盛んに踊つて居たといふのも、二つや三つの本だけの稀有なる記録では無いのである。どうして狐と特別の關係があつたものか、私などには無論答へることが出來ぬが、ともかくも猫の信用は犬よりは一般にやゝ低く、機會が有るならば獨立もしかねぬものゝやうに、曾て警戒せられて居たことはあつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　能登半島の遙かなる沖に、猫の島といふ島があることは、やはり今昔物語の中に二度まで記してあるが、是は鮑の貝の夥しく取れる處といふのみで、島の名の起りは一言も説明せられて居ない。もはや尋ねて見る方法は無いかも知れぬが、或はずつと以前に猫だけが集まつて住む島が有るやうに、想像して居た名殘ではないかと思つて居る。それから今一つ、常陸の猫島は筑波山の西麓で、是は島でも何でも無い平野の村であるが、奇妙に安倍晴明の物語の中に入つて、夙くから其名を知られて居た。土地にも色々と晴明の遺跡があつて、曾ては陰陽師の居住する村であつたことだけは考へられるが、やはり猫島の地名の由來を明らかにすることが出來ない。たゞ爰でも狐女房の狐の話に附隨して、曾ては猫の不思議を説く者が、有つたのでは無いかと思ふばかりである。

　猫が人間を離れて猫だけで一つの島を占據するといふことは、現實には有り得べきことではない。彼等には舟楫も無く、又希望も計畫も無いからである。しかし島人には現代に入つて後まで、鼠の大群が島に押渡つて、士民の食物を奪ひ盡し、暴威を振つた物すごい經驗を重ねて居る爲に、猫にも時あつてさういふ歴史があつたやうに、想像することが出來たものらしい。八犬傳に出て來る赤岩一角、上州庚申山の猫の恠といふ類の話は、いくら例があつても要するに空想の踏襲に過ぎない。猫嶽猫山の昔話とても、昔々だからそんな事も有つたらうといふ程度にしか、之を承認する者はもう無いのである。ところが少なくとも島地だけでは、今でもまだ若干の形跡が、現實に住民の目に觸れ(395)て居るのである。猫ならそれ位なことはするかも知れない。猫の島といふのがどこかの海上に、有るといふのもうそでなからうと、思ふやうな心當りは島にはある。南島雜話は今から百年餘り前の、奄美大島の滯在者記録であるが、其中には次のやうな一條がある。曰く又こゝに一つの奇事あり。雄猫は成長すればすべて山に入りて、山中猫多きものといふ。其猫雌猫を戀ふるときは里に出でゝ徘徊す云々とあつて、それでも山に入つたまゝ出て來ぬ雄猫も多いので、此島の雌猫は往々にして仔を生まぬものがあると謂つて居る。山に入つて行くのが悉く雄のみだといふ觀察は、必ずしも精確を期せられない。男性に限つてそんな思ひ切つたことをするといふのは、或は人間からの類推であつて、實際は山でも時々は配偶が得られ、從つて又繁榮もしたのではないかと思ふ。

　隠岐は島後でも又島前の島々でも、飼猫の山に入つてしまふことを説く者が今も多いが、爰では雌雄の習慣の差は無いやうである。猫の屋外の食料は動物ばかりで、家でもらふものよりはたしかに養分が豐かである。それ故に家々の猫が是を始めると見る／＼太り、さうして段々と寄り付かなくなつて來るのである。面白いことには此島には狐狸が居らぬ爲か、彼等のすることはすべてこの猫がして居る。淋しい山路や森の陰には、必ず著名な猫が住んで關所を設けて居る。魚賣が脅かされて籠の荷をしてやられ、又は祝宴の歸りの醉うた客人が、夜途を引廻されて家苞や?燭を奪はれたといふだけで無く、化けた騙した相撲を挑んだといふ類の、他の地方では川童や芝天狗のしさうな惡戯までを、隱岐では悉く猫がすることになつて居るのである。人がさういふ特殊の名譽を、次々に山中の猫に付與したのでなかつたら、彼等獨自の力では是までは進化しさうもない。乃ち陸前田代島の恠談なども、單に我々の統御に服せざる猫が居るといふ風説から、成長したことが類推せられて來るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　犬と猫との相異は斯ういふ所にもあるかと思ふ。犬には折々は乞食を主人と頼むものも居るが、猫の方はよつぽど(396)うまい物をくれないと、ふいと出て行つてもう還つて來ない。東京のまん中でも空地へ出てバッタを押へたり、トカゲをくはへて來て食つて居るのがある。あら氣味が惡いと謂つて見たところで、もと／＼鼠を給料のつもりで、飼つて居るやうな主人である。あまり美食をさせると鼠を捕らなくなるからいけないなどゝ、氣まづいことを考へて居る主人である。いづくんぞ知らん猫たちの腹では、ヘンこの家には鼠が多いから居てやるのだと、つぶやいて居るかも知れぬのである。

　さういふ中でもいやに長火鉢の傍などを好み、尾を立て喉を鳴らして媚を賣らうとする者と、子供でも來るとついと立退いて、半日一夜どこに行つたか、何を食つて居るかもわからぬ者とがある。是は勿論氣力の差、もしくは依頼心の程度でもあらうが、一つには又各自の經驗の多少にも由ることで、田舍は大抵の町のまん中よりも、其經驗をする機會が多かつたわけである。娘や少年の客の前に出たがらぬ者を、關東の村々では天井猫と謂ひ、或はツシ猫などと戯れて呼ぶ例も多いが、是は猫たちが屋根裏に隱れて何をして居るかを、考へない人々の誤つた譬喩である。人間のツシ猫は決して之によつて、獨立獨歩の精神を養はうとはせぬのに、猫は是から段々と一本立ちになるからである。猫の方の人嫌ひは、我家が狹ければ他家の天井にも上り縁の下にも潜み、人が見なければ戸棚の中の物をさへ狙はうとする。さうすると忽ちのら猫となり又泥棒猫と罵られるのだが、さういふことは絶對に人間の娘少年には出來ない。

　のら猫といふ言葉は歌にも詠まれて居るから、中世にも既に觀察せられたのである。是を妻問ひうかれあるく頃の、猫に限ると思つたのは貴族的で、以前は野らにも彼等の自活する資料が、今よりは遙かに多かつたことを知らぬのである。野らの全く無い都會の地に於ては、今はどら猫と呼んで一段と忌み憎んで居るやうだが、ドラとノラと、言葉の系圖だけは少なくとも連綿して居る。話は再び島の猫に戻つて來る。肥前五島の島々でムダ猫と謂ふのが、やはり家出をしたうかれ猫であつた。ムダは野らよりも更に原始的な沮洳地のことで、そこに食物をあさつて戻つて來ようとせぬやつが、一つの名を爲すほども此島には居たのである。大抵は家の飼猫よりも太く逞ましく、人が喚んでも見(397)向きもしないのは同じだが、尋常の野ら猫・山猫の輩が、物陰に陰險な眼を光らせて居るに反して、是は白日の下に闊歩して、遠くから誰にでも見られ、平氣で居た點が殊に痛快である。さうして島に限つてさういふ猫が居たといふことは、私はやつぱり犬が少なかつた爲だらうと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　是に關聯して言つて見たくなつたことは、ほんの近年の出來事ではあるが、薩摩の西北隅の阿久根《あくね》といふ附近の海岸に、鶴類の渡來地として急に有名になつた一區劃の水田地帶がある。所謂天然記念物として是を保護することになつて、最初に先づ村々に犬を置くことを禁じた。勿論禁獵區だから他からつれて來ることも無い。さうすると鶴ばかりか鴨に鴫、その他大小色々の水禽が皆集まつて來て、其恩惠に均霑することになり、ちつとは農民の迷惑にもなつた樣子である。ところが第二の變化には近隣の猫ども、忽ち家を出て行つてかの五島で謂ふムダ猫となり、太つて活?になつて遠征を好むやうになつた。鶴には齒が立つまいから御規則を破ることにはならない。春過ぎ鴨類が故郷に還つた後に、再び舊主の家に還つて來てげつそりと痩せてしまふといふのは、本たうに話のやうな事實である。

　四國にはもと狐が居なかつた。さうして狸が徒黨を組んで人に取付き、又仲間でも合戰などをした。佐渡にも同樣に狐は影を見せず、其代りには二つ山の團三郎といふ狸が長者となつて居る。隱岐でも最近に人狐が渡つたといふ噂はあるが、やはり化ける役は猫に引受けさせて居たのは、言はゞ本職の拂底とも考へられる。それよりも一層確かなことは、犬の少なかつたことだと思ふ。丸々居らぬといふ程で無くとも、わざ／＼大海を越えてつれて行つた人もあるまいから、其繁殖は他の地方と比べて、必ず少なかつたからさうなつたのだらうと思ふ。島に猫の恠を絶たんと欲すれば、犬の輸入に奨勵金を出すといふ一策もある。狐を招待すれば猫の方は化けるのを止めるかも知れぬが、是は蓄犬税よりも今一段と愚策である。

(398)　伊豆の八丈では寛永十九年に、始めて國地より犬渡ると、八丈島年代記に見えて居る。年代記にも載せるほどだから、其後とてもさう平凡な出來事では無かつたのであらう。現在はどういふ計數を示して居るか知らぬが、とにかく此島には山猫が昔から、たつた一種の山の恠物であつて、今でも彼奴のしわざかといふ不思議が、取集めて見たら陸前田代島よりは多かりさうである。我々の英雄近藤富藏などは、六十年に近い流謫の間に、一度も武勇を示す折をもたずに死んだ人だが、それでも何とか谷の魔所を通つて、山猫を斫り殺したといふ譽れを傳へて居る。さうして此島には猫の大いに跋扈すべき條件は別に具はつて居たのである。小川白山の蕉齋筆記に、古川古松軒の覺書として次のやうな記事を轉載して居る。曰く此島は鼠夥しく、島人も制しかねたり。國地より猫を貰ひ歸る者、餘ほどの數なりといへども、五十匹や七十匹の猫にては中々支ふべきにあらず。鼬を數百渡さるべき三河口君の思召しなりと聞えし云々。三河口大忠は近藤富藏の島流しよりも前に、八丈島に善政を布いた伊豆御代官の一人であつた。即ち猫の島の猫は曾て政治家の問題にもなつて居たので、是には又六十年目に一度、地竹の實のなる年毎に、今なほ島人を窘《くる》しめて居る鼠の大群の繁殖といふことが、隱れた他の一つの原因として考へられるのである。

　

(399)　　　　　どら猫觀察記

　

　　　　　　　　　　一

　

　瑞西に住む友人の家では、或日語學の教師の老婦人が、變な泣顔をして遣つて來たさうである。市の畜犬税が三割とか、引上げられるといふ際であつた。私たちの生活では、とても今度のやうな税は拂ふことが出來ません。是迄は無理をして育てゝ居たけれども、もう仕方が無いから今朝役所へ連れて行きましたと謂つて、又大いに涙をこぼしたさうである。

　役所といふのは犬殺し局のことであつた。税を拂はぬ犬は東京などゝは違つて、一匹だつて存在し得る餘地が無いのである。假に殺さぬことにしたならば街頭に澤山、餓死した犬を見掛けねばならぬ。野ら犬といふ言葉がもう一寸説明の六つかしい迄に、犬の文明も進んで居るのであるが、それにしてはジュネェブなどには、町で見かける犬の數が多かつた。

　一人者が犬を飼つて居る例が多い。犬と話をして居る老人などをよく見ることがあつた。五階三階の窓から顔を出して、吠えもせずに通行人を眺めて居る犬を、幾らも見るやうな社會であつた。雨の晴間などに大急ぎで、犬の爲に散歩をして遣るといふ實　　状である。たま／＼一人で外出した時などは、まご／＼として入口で待つて居るのが、殊にふびんに思はれると謂つて居る。旅行や病氣の際には、飼犬を預けて置く下宿屋のやうなものもあるが、物入りでも(400)あり且つ心もと無いから、成るだけ旅はせぬやうにして居る。

　そんなら猫はどうあるかと氣をつけて見ると、先づ第一に蓄猫税は無い。それだのに人に飼はれて居る數が、著しく犬よりも少ないやうに思はれた。日本でも既に認められる如く、犬は人の家來であるが、猫の方は本當の家畜である。住宅の附屬物である。鍵をかけて出入をするやうになれば、猫だけを殘して家を空けることは困難である。さうして鼠を驅除するには他にも方法が新たに備はつた。一般に人間は猫を疎遠にする傾向を示して居る。

　女三の宮や命婦のおもとの有名な逸話は、程なく解し難い昔語りになつて行くかも知れぬ。我々の國でも猫を可愛がり過ぎると、鼠を捕らぬやうになるからと稱して、あはびの殻の日を重ねて空虚であることを、念頭に置かぬやうな主人も多くなつた。市中には鳶や烏の來訪が絶無となり、轢き潰された鼠の久しく横たはつて居るのを見ても、猫の食物の自由にして又豐富なることは想像せられる。猫は我々の愛護なくして、幾らでも生存し得るのである。人と猫との間柄の次第に?離《けいり》して行くのは自然である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　ヴェネチヤの水の都で、ダニエリの旅館に久しく遊んで居た頃、番頭が何處かのおばあさんに話して居るのを聽くと、此宿の地下室はどら猫の多く居るので有名ださうである。妙な事を看板にしたもので、ホテルで呉れる小册子にも、此事が興味多く記してある。御希望ならば御案内をしますとも書いて居る。ヴェネチヤの穴倉ならば、大抵どの位濕氣て居るかも想像し得られるが、その暗い處に何十代以來とも知らず、野獣の如き猫が棲息して、其數幾何なるかも分らぬといふ。しかも給仕人の話に依れば、毎日一定の食物を口元の處に置いて遣るのださうで、丸々の野ら猫でも無いが、兎に角にもう家畜のうちでは無い。

　私は此話を聽いたとき、日本の客商賣の家に、招き猫と稱して座蒲團の上などに、猫の土偶を置く風習を考へ出し(401)てをかしかつた。物々しいダニエリの廣告ぶりは、いつ頃から始まつたか知らぬが、古くあるホテルで穴倉の中に、猫の居ないものが果して幾らあらうか。食物ばかりは其邊に散らばつて、誰も可愛がつて呉れる者が無ければ、結局は地下室にでも入つて匿れて繁殖をするより他は無い。主人を恨み世をはかなんで、山林に遁世しようといふ祇王祇女の如き猫が、有らう道理は無いからである。

　冬も暖かな羅馬の古都などは、風來人の自然の隱れ家であるのみならず、同時に又宿無し猫の樂土でもあつた。此事はもう誰かの紀行に書いてあるかも知れぬが、フォラムを始めとして市に接した大小の廢址は、悉く彼等の領分であつて、倒れ横たはる聖火神殿の石柱の上にも、新たに掘り出された舊王の塚穴の中にも、いつ往つても人を見て跳り逃げる彼等の姿を、見ない日は無いのである。カピトルの岡の北の麓、今の朝家の第一世帝の記念塔の傍に、壯大な殘骸を留めたトラジャン館址の如きは、周圍が高い石壁で攀ぢ降ることが難い爲に、數十の野ら猫が常に悠々として遊んで居る。蛙とか蜥蜴とかいふものを食料として居るのだらう。何れも人間からは獨立して、自在に新たなる社會を作りつゝあるやうに見える。行く／＼此種族の共同生活が、伊太利の特殊の環境に促されて、如何樣に展開して行くものであらうか。後年或はこの間題の興味の爲のみに、所謂久遠の都府を訪ひ來る者が無いとは言はれぬ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　猫と人間との最初の交渉、はたこの動物の分布の經路等に關しては、今尚闡明せられざる歴史の隈が多い。それにも拘らず再び彼等の眼から見れば、奈何ともする能はざる偶然の原因に基づいて、その文化が激變をしようとして居る。しかも其原因が許多《あまた》の海山を隔てゝ、世界到る處この種族のすべての者に、共通であるといふことは考へさせられる。

　東京に歸つて見ると自分の家などにも、やはり依然として昔ながらの野ら猫の一家庭が、自分の家庭と併存して續(402)いて居た。白勝ちの赤毛の斑《ぶち》で、顔の至つて平めなのが特徴であつたが、今以てぶちの在り處まで略々同じ猫が、次から次へと代を重ねて居る。宅の大きい娘が生まれるよりも更に以前から、多分はこの邸内より外へ移住したことが無からう。始めてこの縁の下に來て住むやうになつた初代の牝猫にも、幽かな見覺えがある。何かの心得違ひで元の飼主から、分れて來た者に相違なかつた。それが年増しに氣が荒くなつて、横着な面をして見向きもせずに、庭前を過ぎ去るやうになつた。其癖我々が見て居る限り、寸分も油斷をして居るのでほ無かつた。さうして食物の安全なる求め方に付いては、飼猫に數倍する技術をもつて居る。

　春になるとこの牝猫が、うかれ出て大いに鳴いた。それから暫くすると何處とも知れず、子猫の小さな鳴き聲が聽え、人を避ける母猫の目が一段と除惡に見えた。二匹三匹の愛くるしい小猫が、そちこちに姿を見せる間が何箇月かあつた。何れもよく似た赤斑ばかりである。氣をつけて見ると其中にも、無暗に人を怖れておど／＼して居るのと、比較的鷹揚で立留つて人を見たり、遠くでならばうづくまつて見たり、聲を掛けるとニャアと謂つたりするのもあつた。宅の兩親が非凡な猫嫌ひで無かつたなら、徐々に懷柔して再び家の飼猫に、引上げ得る見込の確かにあるのも居た。

　それ等が悉くすぐに大きくなつて、手の付けられぬ泥棒猫になつてしまひ、さうして又次の子を育てるのである。餘り毛色がよく似て居る爲に、世代を算へて置くことは不可能であつたが、どう考へてももう十何せの後裔にはなつて居る。それが不思議なことにはさして老猫の數が増しもせず、又どうして終りを取るかも知ることが出來ぬ。併し子猫は勿論のこと、成長したのでも一見して凡そ年齡は知れるが、いつも若い猫ばかり多いのは、多分は家に飼はれるものよりも、壽命が遙かに短いからであらう。

　それで居て主人が無い爲に、非常に呑氣で且つ閑が多さうに見えた。硝子戸の中から見て居ると、一日に何度といふ數も知れず庭前を往來する。僅かな樹の枝や草の葉に近よつて、獨りでぢやれて見たりして居る。人が居ないと晝(403)寢は縁に上つてするのみならず、時々はそろりと座敷にも入つて來る。此方から聲をかけるとすぐ隱れる癖に、雨の降る日などはやはり淋しいものか、何度でもやつて來て唐紙があいて居れば中を覗き、人を見るときつと鳴くのは、虎屬の獣のやうでも無かつた。

　又一匹だけ大きくなつて迄、妙に氣の善い馴々しいのが居た。家の子供がタマと名を附けて食物を與へ、庭に出ると來て抱かれる程に親しんで居た。是だけは或は別系統のまぐれ者かとも思つて見たが、毛色の赤斑がよく似て居た處を見ると、やはり遺傳に色々の變化があつただけで、この一門のうちには相違なかつた。さうしてそれも後には亦疎遠になり、他の同類と區別がしにくゝなつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　猫が人間から離反しようとする傾向は、實は夙くより見えて居たのであつた。大體に於て兩者を結合する縁の絲は、牛馬鷄犬の如く強靭なものではなかつた。人の方でもあの眼に油斷せず、十分に心を許さなかつたのである。メエテルリンクの「青い鳥」にもあるやうに、何かと言へば恨み憤り、復讎でも考へて居るのでは無いかと、疑つてよいやうな擧動さへあつた。しかも利己一遍の人類に向つて、彼等の奉仕といへば鼠狩より他は無かつたが、それすらも頼めば却つて怠るかの如き樣子が見えた。

　第一に猫の終りといふものが、いつの場合にも我々の知解の外に在つた。犬には無いことだが猫を置くときだけは、最初から年限を言ひ渡してやるがよいと謂つた。さうすれば時滿ちて何處へか往つてしまふのである。そんな風だから老猫は化けると傳へ、又阿蘇の猫嶽の如く、深山に彼等の集合地があるものと信ずる人もあつた。祖母から曾て聽いた話に、信州で或人が久しく煩つて居ると、始終病床の周りに猫が來て離れない。實にいやな猫だ。氣味の惡い猫だ。早くよくなつたら棄てゝしまはうと、口癖のやうに謂つて居た。それがいよ／＼全快して其猫を風呂敷に包み、(404)是から棄てゝ來ると家を出て行つたが、それつきり當人もたうとう還つて來なかつたといふ。

　猫が物を言つたといふ話も多い。是も祖母から聽いたのだが、同じ山國で春に入ると、門の通りをゴマメ賣りが振れてあるく。或日靜かにして居ると障子の外で、ゴマメ／＼と謂ふ聲がするが、商人の表を呼ぶ聲よりも小さく又低いので、不思議に思つて障子をあけて見ると、街道は森閑として只縁側に猫がゐるだけであつた。多分ゴマメ賣りが來る毎にゴマメを貰ふので、其聲を覺えて居て眞似て見たのであらうといふ。

　新著聞集の中にも幾つか猫の人語した話を載せて居る。鼠を追掛けて居て梁を踏みはづし、疊の上へ落ちたときに、南無三寶と謂つたといふのは、古風なる猫言葉であつた。又和尚が風邪を引いて寢て居ると、夜更に次の間に來て聲を掛ける者がある。すると蒲團の裾の方に居た猫が、そつと起き出して外に行き、今夜は方丈樣が病氣だから、一緒に出かけることはむつかしいとさゝやいた。之を寢たふりして聽いて居た住持が、翌朝靜かに其猫に向つて、私には構はずに行きたい處へは行くがよいと言ふと、ふいと出て往つた儘それきり歸つて來なかつた。

　或は時々手拭が紛失するので氣をつけて居ると、猫がそつと口にくはへで出て行くのを見た。驚いて大聲を出したら、それきり飛出して戻つて來なかつたとも謂ふ。猫をして言はしむれば、踊る位なら人間の眞似をして、手拭なんか被るものかと云ふだらう。しかも勝手に捕へて來て家畜の中に加へて置きながら、いや尻尾がやがて二つに裂けるだらうの、尻尾の長いのは怪しいのと、常に隔意を以て彼等を遇する故に、結局離背してしかも遠くへは立退かず、人間の周圍に止まつて小さい脅威を與へることは、昔驅役せられた奴隷が成長して、次第に白人社會の難問題を爲す北米の話と、幾分か事情が似て居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　我々の中には又三毛猫の雄猫といふ問題がある。單に稀有なる故に珍重するといふ以外、いつの世から言ひ始めた(405)ことだらうか、海上風波の場合に之を龍神に捧げると難破の厄を免かるべしと稱して、高金を拂つても船頭が之を求めた。猫を犠牲に供した昔話の例は、他民族にも折々聞くことであるが、それがもし最初山奧から、此動物を連れて來た動機であつたら、化けるも不思議に非ず、背くも亦自然である。つまりは人間と猫との取引はもう結了して、今は只古來の行懸りだけが、若干の未解決を殘存せしめて居るのである。

　尻尾の無い猫といふことは、是も日本の文化史に於て、相應に重要なる一史蹟であるかと思ふ。それが猿などの如く天然にさうあるのか、はた又當節のハクニーや或る類の狗の如く、人の趣味から所謂改良をしたものか、動物學者の説を確めねばならぬが、自分などは先づ後の方だと思ふ。人爲の性質でも代を重ねるうちに、固定し遺傳する旁例は人類が最も多く持つて居る。耳たぶに穴のある人は我々の中にも多い。日本人が耳環を中止してから、少なくとも千年は經て居るのに其痕跡だけは傳はつたのである。外國人の珍しがる話としては、日本の猫には尾が無いといふことだ。有つても無くてもよいといふ譬に、猫の尻尾の諺があると聽いて、舌を卷かなかつた白人は稀なのである。それを聽いて又我々は愕然とする。大いに考へて見るべき問題では無からうか。

　私の長話も實はこの猫の尻尾だ。有つても無くてもよい樣にもあるし、又有る方が當然のやうでもある。我々の先祖とても人間である以上は、趣意の無いことはせず又言はぬ筈である。而うして猫を斯ういふ尾無しの三毛猫などにしてから、再び荒野らに放つに至つた本意や如何。果して誤解も手前勝手も無く、且つ先見の明を以て猫の幸福まで考へて居たのかどうか。忙しい紳士たちは、恐らく永久に此間題には無識であらう。

　「太陽」の記者の濱田�ｺ太郎君は、自分の知る限りに於て第一流の猫學者である。同君研究の發足點は、猫自身の心理からであるといふが、果して今猫の國の文化の未來に就いて、樂悲何れの觀想を抱いて居られるか。此序を以て教を請ひたいものである。差當り自分の疑問として居る點はもう述べ盡したと思ふが、最後に尚一つ附添へたいのは、日本の各地方の方言の不可解なる變化と一致とである。猫をヨモといふ縣があり狐をヨモといふ縣がある。鼠を「嫁(406)が君」といふのも、或はヨモの轉訛かも知れぬ。雀をヨム鳥といふ處もある。南の方の島々、殊に沖繩に於てはヨーモと謂へば猿である。言葉の感じは何れも靈物又は魔物といふに在るらしいが確かで無い。さうして琉球にはもうそのヨーモ猿は居ないのである。

　

(407)　　　　　旅二題

　

　　　　　　　一　有井堂

　

　「かの東皐にのぼれば」といふ端書があつて、

　　　花いばら古郷の路に似たる哉

といふ蕪村の句が、五車反古の中に出て居る。いつでもわたしはこの路を思ひ出すのだよ。茨の花なんかは咲いて居ないけれどもね。

　あゝ、よく夢に見る山だつた。でも以前にくらべると、松が大きくなつてずつと青々として來た。春は山行きと謂つて、斯ういふ岩の陰に茣蓙を敷いて、しちりんなどを家から持つて來て、物を食べて一日こゝで遊ぶのだ。子どもは少しだつてぢつとしては居ない。あたりは一面のつゝじだし、少し下へ行くと蕨も虎杖も生えて居る。虎杖をわたしたちはダイジと謂つて居た。つまり昔の言葉の多遲比《たちひ》なんだね。

　何べん戻つて來て見ても、おかあさんたちは食べたり笑つたり、手をたゝいて歌をうたつたりして居る。だから「歸るを忘る」といふ文章の句の意味が、子供にでも誰にでもよく解つて居たよ。山で練習がしてあるから御酒の席へ出ても、高い調子でいゝ聲で歌がうたへるのだ。實際また斯う遠くまで見える處では、遠くの方にも聽いて居る人(408)が、あるやうな感じがしたものらしいね。是が一帶に春は麥と菜種の花と、それかられんげ田とのごく彩色になつてしまふのだ。さうして雲雀の啼いて居るのが、この岡の上まで聽えて來る。見えない程に離れたところには、よその幾組かも來て山遊びをして居る。互ひに知らぬふりをして、誰と誰とが來て居るかを皆ちやんと知つて居た。

　海はあの低い山が陰をして、こゝからはちつとも見えない。でも此流れが今に海へ入つて行くといふ樣子をして居るやうには思へないかい。以前は暫らくのうち曳船が通うて居たさうだが、それよりも田が大事だから、あゝして方々に堰をして居る。渡し場もあつたが裾を少しまくり上げると、堰の下ではかち渉りが出來た。よほどの釣ずきでもないと、夏だけしか遊びには行かないが、どんな小さな木でも川原の岩でも、女や子供は皆よく覺えて居た。こゝから見て居てどこの誰さんが行くなどゝ、大よそ行く先まで言ひあてたものだつた。川原がむやみに廣いもんで、わたし等は大川と呼んで居たが、大水の時でなければいつも此通りなんだ。まるで土佐繪の六玉川ぢやないか。大川でも何でもありやしない。一尺もある鯉が一尾とれると、先づ二月ぐらゐは學校で問題にして居た。唯うつくしいといふばつかりで、一向偉人なんかの生まれさうに無い山水だねえ。

　しかしこのぐるりの山の上へ、松明をともして雨乞に人が登つて行く時ばかりは、斯んな壯觀は他には有るまいと思つたね。雨乞も祭だといふことは、だから私などは深く信じて居るのだ。稻の蟲送りの火行列も、時折は山に登つて行くが、是は大抵は田圃の中をまはるだけで、通る路もきまつて居たらしい。まだ明るいうちから支度をして鉦を叩くから、わたしたちも見に行つてよく覺えて居る。藁の馬に載せた藁の人形でね、こゝでもやつぱり實盛さんと謂つて居たよ。實盛さんが御上洛だから稻の蟲もおともせいといふのだが、歴史の本だけではわからない話であつた。

　こちらの方には又忘れられない山もゝの樹がある。この御宮の御神木にちがひないのだが、子供は年百年中木登りをして居た。それを小言をいつて祟りがあつたといふ話もある。何でも珍しく見ごとな實がなるといふことを聽いて居て、一ぺんもわたしはそれを見たことが無かつた。青くて小さいうちに片端から取つて食べてしまふのだ。私は不(409)器用で、木登りは止められても居たが、あの狛狗さんには何度も乘つて見た記憶がある。

　　うぶすなの森の山もゝこま狗はなつかしきかな物いはねども

　拜殿はその頃はまだ新しくて、それへ古い繪馬が何枚も懸けてあつた。一ばん教育になつたのは安倍の仲麿が、楊貴妃と碁を打つて居て、玄宗皇帝が御見物のところであつた。そばには神が居て、負けさうになると掻きまはさせたなどゝいふ話も聽いたが、繪は誰の筆だつたか知らない。中央の殊に大きいのは忠臣藏十五段、十五に區劃して順々に描いてあるので、此芝居にはわたしは通曉して居た。是は藤本さんといふ親の友人で、其片陰に字と畫のと二つ、小さな額があつたのが御父さんだ。わたしは其兒だといふことが見るたびにうれしかつた。

　うちの裏門はこの御社の石段と、一町とは離れずにほゞ向き合ひだつた。今は隣家に買はれて土塀に圍はれて居るが、もとは僅かな眞竹藪で、裏門といふのもをかしい竹の戸が明いて居たのだ。ちやうど此あたりが村の中程で、又一ばん安全な良い田地でもあつたが、うちと因縁のある田は一枚も無かつた。たゞあの片端に見える小さな御藥師さんが、古い峯相記《みわあひき》といふ本にも出て居る有井堂の跡だといふことを、最も熱心に説いて居たのが御父さんだつた。さうかも知れないと私もまだ思つて居る。僅かな敷地だが空井戸が一つと、其隣には大昔火の雨が降つた時に、村の人たちが匿れたといふ塚穴が一つ、小さいけれども是は古墳だつた。無論匿れたのはわたし等の先祖ぢや無い。しかし實はうちの父も、この古井戸の中に入つて居られたことがあつたさうだ。まだ私が生まれぬ前の話。ひどい神經衰弱で夜分にふいと見えなくなつた。大騷ぎをして捜しまはると此中に居て、月を見て居たと言はれたことが逸話になつて居る。

　それ以上にもあの堂は、わたしの家には縁がある。例の裏門から筋向ひで近かつた爲に、わたし等兄弟はこゝの一種の番人だつた。ちやうど其時代の村の犬に、黒といふ強い母犬が居た。それが毎歳きまつて藥師さんの堂の下で子を産んだ。それを見つけて報告するのも、案内の役もわたしがつとめた。それが二年か三年か續いたことを覺えて居(410)る。常は葬禮の道具などを置く背戸の口から入つて、埃だらけの板敷の下へ、何十何べん這ひ込んだことか。鼻は煙草によつて年増しに馬鹿になつて行くが、あの日の物の香だけはどうしても忘れることが出來ない。しかしためして見る折はちつとも無いのだから、そんなこと言つてもたゞ話だと思ふだらう。

　とにかく人間でも同じやうに、斯うして早くから知つて居れば、自然に懇意にもなり又名付親にもなる。犬の子は大抵うちへ來て食べて大きくなり、又小さな藝を教へられる。後にはどこかへ行つてしまふやうだが、一ばん大事な仔犬は繋いで置くこともあつた。犬殺しの來る日は母に頼んで、表の門をしめさせてもらつたこともある。大きなごみ取りの箱に入れて、梅の樹の枝に下げて置いたのが、轉げ落ちて啼いて居たこともある。赤い雄犬の爪の皆眞黒な、尻尾を持つて下げても啼かない強いのが居た。村の兒童は皆望みを囑して居たが、やつと青年になつた頃に殺されてしまつた。こやつを督勵して隣村の裏田圃へ、喧嘩に出た日の壯烈さは今でも思ひ出す。次の年の今一つの黒犬も、それは／＼意氣の鋭い犬だつた。是がどこかでうんとなぐられて、首を曲げて戻つて來たときは、わたしの方で泣いてしまつた。果して腦をやられて眼の色がまるで濁り、ふら／＼になつて永く活きて居た。其母親の黒も段々と年をとつた。さういふのを殘してわたしのうちは引越してしまつたのだ。今度還つて見るとカメとチンコロばかりが多くなつて、めい／＼主人を持つて家の中からばかり吠えて居る。山や川は美しく變つて行くやうだが、やつぱり昔の方がよかつたものもあるね。

　

　　　　　　　二　金剛證寺

　

　朝熊山のケェブルに乘る。眞直ぐな線路に面して少しばかり登り始めると、不意に同行者は家のことを言ひ出した。子どもはみんなまだ學校だし、親たちはあの年だしなどゝ、かなしげな顔をして居る。何だつて出しぬけにそんなこ(411)とをいふのだ。どこのケェブルだつて皆突立つて居たぢや無いか。今日は雨降りあげくの牛後だから人が來ないのだよ。二人こつきりで落ちて死んだといふ例が、どこの新聞に出て居たか。有るなら言つて見ろなどゝは言つて見たものゝ、實は自分もことの外淋しかつた。上の驛では驛長さんがぽつんと一人、物賣は店であくび、一挺は有ると聽いて來た人力車も居ない。今は秋で紅葉には少し早いから、斯んな日もたまには有るのだらうが、春のよい參宮季節には二見見物の歸りがけに、こちらへ廻らぬ人は無い位ださうだから、そんな雜踏の中へやつて來たら大變だなどゝ、確かに聞いたわけでも無いが、有りさうなことを謂つて氣休めにする。實際又關西で人の居ない遊覽地などを見ようとすると、野宿か夜中立ちか、とにかくよほど奇拔な策謀を講じなければならぬのだ。是はまことに願つても無いよい機會だ、といふことに解しようとして悠々とあるいて見る。

　それでも少しづゝ、山の住人とは見えぬ人が下つて來る。朝から御參りして居て降り籠められて居たのだらうか。五人七人と段々多く行逢ふにつれて、さきにはもう誰も居ないといふことに、なるのではないかと思ふやうな心細さを感じる。路は山の嶺だから、飛ばなければならぬ水溜りは無いが、樹の蔭へ來ると雫が落ちる。幸ひに空は青いところが多くなつて來た。豆腐屋は聽いて居たほどに古風で無く、座敷もきれいで片隅には食堂といふペンキ塗りも建つて居る。もう一度雨がふつて來たら泊つて行くまでだが、夜汽車に乘らうと思つて手拭袋まで山田に置いて來たので、一應は素通りをすることにした。やつぱり旅に出ると近所の散歩のやうに、人の居ないところを狙つてあるく氣にはなれない。時間は幾らもあるのに永く仔んで見て居ようとしなかつたので、存外に足がはかどつてもう山門へ曲らうとする、當金丹屋の少し手前の角まで來た。

　こゝだけは流石に斯ういふ日に、遣つて來てよかつたと思ふやうな好い眺めであつた。海はやゝ斜めに、山越しに見える部分が多かつたが、その又山の姿が言ひやうもない美しさであつた。たしか明日は明治節といふ二日の日であつた。近いあたりの樹だけはうつすりと色がつき、遠くの山々の梢ももう秋だ。こゝから見える限りは志摩と度會郡《わたらひぐん》(412)とのうちであらうが、その外側には熊野らしい高い峰つゞきがあつて、その左にあたつて海の日が輝いて居る。斯ういふ眺めは那智の妙法山の前から、又木曾の奧の三國峠の頂上でも見たことがあつたが、あれには海が無く、又けふのやうな水蒸氣が伴なはなかつた。山々には日が當つて沾れた色までよく見えるのに、中間には虹を粉にしたやうなものが散つて居て、それに濃淡があり、大きな後光がさして其線が動くので、まことに日輪がめぐつて居るやうに見えた。佛道で養はれた幻を、私たち二人はほんの少しゝかもつて居ないのだが、それでもこの光りと霞みとの尋常でない表現に對して、何だか自分たちが泣いて居るのでは無いかと、たび／＼目を拭つて見ずには居られぬやうであつた。

　山門に入つて行くと、果して廣庭には人の影も無い。石だゝみに附いて先づ左手の虚空藏樣から拜んで行かうとすると、白い痩せた犬が一ぴき、何處からか尾を振つて出て來る。顔をよく見るとまだ漸う子供ばなれをしたばかり、よくもこの位日本離れをした犬が、斯んな山の頂上まで登つて來たものだと、感心するほどの哀れな雜種だ。鼻もきかぬと見えて犬ざらひの夫人の、裾のまはりにばかり寄つて附いて來る。洋傘で打たうとするからおよし可愛さうに、犬だつて淋しいのだよと私は制した。物を賣る店があつたら何か買つてやらうと、來い／＼と言つて見たが石段の下までしか來ない。さうして又店屋も無かつた。それから次々の御堂をまはつてゐると、こゝで始めて巡禮に一人逢つた。年はこちらより四つ五つも下か、もう翁と言はれても怒れない年配に見えた。白衣に白頭巾で古びた笠を手に持ち、足ごしらへも本物で、信心者の常として目つきはしをらしいが、伏目に足早に黙々としてすれちがつて行つた。

　寺の後を通つて地藏さんに參る路へ出る。二町ばかりの間崖の中途を切つて、見晴しのよかるべき處だが、大きな塔婆が二重三重に列なつて、隙見もできないほどの塀になつて居る。斯うも人間は死ぬものかと、驚かずには居られない數であつた。それに何だか若い男女の、俗名行年を書入れたものばかり多い。わざ／＼追善の爲に參詣して來る者もあらうが、只の遊山にあるいて居る人たちにも、是を見ると思ひ出して供養してやりたいものが、全く無いとい(413)ふのは少ないからであらう。地藏堂の前には大きな石の香爐がある。爰にも二三人の係りの人が居るだけだつたが、それにしては大變な線香の煙で、それが吹散らされもせずに一面に霞んで居る。岡の突端は掛茶屋になつて居て、幽かに波濤の音が聽えて來る。眼の下はすぐに荒磯で、寄せては碎け散る白い花輪が、寸刻も同じ姿を止めようとしない。ぢつと見て居ると千萬言の御説教よりも、もつと身にしみて現在の無常を感じさせられる。志州の濱や岬も今少し眺めて行きたいが、何だかあの雲が又大きくなり出した。さあ／＼もう行かうよ暗くなつては困るからと、急ぎ足に引返して金剛證寺の前まで來た。あの小犬はどうしたかと見まはすと、さつきの六部が本堂の縁に上つて、笠を敷いて休んで居る。犬は其老人の膝に顋を載せて、頭を撫でられて尻尾を振つて居た。

　

(414)　　　　　モリの實驗

　

　　　　　　　　　　一

　

　三十何年かぶりに、犬を一匹置いて見て、始めて世の中は斯うも變つて來たかと、心づくやうなことが幾つもあつた。我々の文化は犬をも引きくるめて居る。彼には改良の志は無いのだけれども、全く圏外に立つて思ふまゝの生存をする力もないのである。第一に人に飼はれるといふことは、現在はもう繋がれることを意味して居る。是は牛馬に於ては久しく見馴れたことだが、犬と我々との間では新しい約束で、その爲にまだ定めて無い條項も殘つて居る。犬の一生が隅から隅まで、すつかり判つて人の同情は加はつたが、その代りには永い信頼の根であつた、若干の神秘はもう消え去らうとして居る。

　犬を私が飼つて見たくなつた動機の一つで、今でも記憶して居る斯んな話がある。以前神戸の附近に住んで居た政界の一名士、紀州熊野の奧から猟犬をもらつて來て、百方優遇して手なづけようとした。半年も過ぎたからもうよからうと思つて、山に引張つて行つて綱を解くと中々よく働き、兎だか山鳥だかを逐ひ上げて打たせてくれた。さうして置いてから峯の方へ登つて、頻りに四方を見まはして居る。何か又大きなものでも見つけようとするのだらうと思つて居ると、やがて一方の谷間へ降りて行つたまゝ、如何に喚んでもそれつきり還つて來なかつた。五六日の間は色々として附近の地を捜して見たさうである。どうしても消息が知れないのでもしやと思つて居ると、熊野の方から手(415)紙が來た。犬が戻つて來ましたがどういふわけですかとの音信であつた。驚くといふ以上に犬のしぐさが、餘りにも人間らしいのに心を打たれて、もう一度送つてほしいと言つて遣る氣は起らなかつたと謂つて居る。犬を知つて居る人たちには、是は勿論珍しい事例では無い。秋田犬なども絶對に一代一主で、遁げて東京から歸つたといふ話も、間接にならば幾つでも私は耳にして居る。單なる方向意識とか、路傍の喚覺とかの問題では無いのである。人さへ越えなづむ幾山河、トンネル鐵橋赤帽驛辨の有ることを確かめて後に、やつと思ひ立つほどの長い旅路を、どこに寢、何を食べ、はた又どういふ心持ですた／＼と還つて行くか。固より人間の拓いた道を歩むのでないことは、誰一人獨旅の犬といふものに、出逢つた者が無いのを見てもわかる。常の日はすてゝ置いてもめつたに里の外に出ず、人が行くなら何處へでも附いて行くくせに、何か異常の時のみは五日三日姿を見せず、斯んな意外な行爲を以て我々を感動せしめるといふことが、かの世界に分布する犬寺犬塚の傳説、さては泉を發見し財寶を掘り當てさせたといふ類の、多くの昔話の根源にもなつて居たのである。頸輪や繋ぎ綱の詮議が始まるやうになつては、もう彼等の社會も一變しなければならぬ。その過ぎ去つた日の痕跡は今ならば幽かにまだ殘つて居る。歴史家は西洋の葡萄酒通の如くに、とかく古くしてから賞翫しようとする傾きがあるのは、不本意なことだと私たちは思つて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　東北地方の犬子話には、ちやうど桃太郎の桃・瓜姫の瓜のやうに、小犬が短い木の株の中に入つて、川上からどんぶらこつこと流れて來たといふのが多い。椀で食はせば椀ほどおがり〔三字傍点〕、鉢で飼へば鉢ほど、盥で飼へば盥ほど、見る／＼大きくなつたといふ話し方が伴なうて居る。私の家のモリなども、後には十貫目を超える大犬になつたのだが、成るべく何も知らない卵のやうな?態から、飼はせて見たいといふ北秋田の人たちの好意で、つれて來られた時には片手の掌に乘るほどであつた。蜜柑箱に入れ三布の風呂敷に包んで下げて歸つて來たのを、犬だと心づく者も無い位(416)であつた。是をどういふ風に育てゝやらうかなどゝ、思つて居るうちにぐん／＼と大きくなつて來た。さうして彼が持前のものだけは、やはり始めから持參して來て居て、主人は遲くまでそれを心付かずに居たのである。

　先づ珍しいと思つたのは、頻りに家へ上りたがることであつた。あんまり鳴くので夜などはかはいさうに思ひ、細めに戸を明けて出て見ると、人には寄り添はうとせずにすぐに入つて來て、どこまでも驅けてあるく。私の家の板敷は低いから土間と心得たのかも知れぬが、土間に寢床をこしらへてやつても、そこにはぢつとして居らずに、又しても室中を走りまはらうとするのである。彼の故郷の村では斯ういふことが出來る筈が無いのだから不審に思つたが、後になつて考へると、是はやはり行きたい處へ行くといふだけの願ひだつたらしい。下駄などを足場にして、無理に這ひ上らうとするのを、何度押出してもすぐに又上つて來る。それを止めるとウウといつて口を開けてふりかへるのが、小さいながらに明らかに怒りの表情であつた。

　それから今一つ、是は或はこゝへ來てからの癖かとも思ふが、この犬は背を撫でられるのが非常に嫌ひで、やはり小さい頃から隨分怒つた。輕く頭を敲いて居るうちは、眼を細くして嬉しがつて居る癖に、頸から少し後へ手を伸べようとすると、ついと立退き又は口を開けて咬むぞといふやうな樣子をする。うちへ來た當座にあまり蚤がひどいので、つかまへて今津の殺蟲粉をふりかけて遣つたことが一度ある。人間なればこそ結果を知つて居て我慢をするが、それですら可なり不愉快な刺戟を受ける。ましてあの鼻の力で嗅いだのだから、打たれたより以上の印象を受けたとしても不思議は無い。しかし私の記憶では、その最初の時からもう散々にあばれて、其爲に眼や鼻にも粉が入つたらしいのだから、何れが原因か結果かたしかにはわからない。とにかくに後々は此癖がひどくなつて、人が背後にまはるのも警戒するやうになつてしまつたので、自分は是をも彼が自由を愛する天性の現はれのやうに解して居る。近所の家々の飼犬が、毎朝のやうにブラッシを掛けられて、色男のやうな顔をして通つて行くのを見ると、此一點が私には少し淋しかつた。モリは汚れて來たら汚れたまゝで、自分で舐め取らぬ限りは當分はきれいにならない。其爲にと(417)かく餘計に田舍者扱ひを受けなければならなかつたのも氣の毒であつた。今さら毛の色を賞美しても始まらぬが、彼の衣裳は濃い明るい代赭色であつた。町で柿色といふものよりもつと適切に、よく熟した柿の實の色に似て居た。さうして口のまはりと足と尾のさきだけが、眞白に際立つて居たのである。幼年期の二三ヶ月だけは、是が東北でゴマといふ、僅かに黒毛の交つた灰色であつて、春のなかばから段々に赤くなつて來た。さういふ中に何の加減でか、腰のあたりに一箇處だけ、古い毛色の替りきらぬ部分があつた。それが氣になつていつも問題にして居たのだが、何分さすらせもせぬのだから始末が惡い。さうかうして居るうちに彼にとつては、生涯の大事件といふべき災難が起つたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　犬は飼ひやう一つだと教へてくれた人があつた。或は又惡い癖を付けましたねと批評した人もある。それを私はたゞ原則として、くゝり付けて置くことゝ解して考へて見たのであつた。打擲して主人だけには臆病ならしめるといふ方法もあつたらうと思ふが、この近所にはそんな曲藝師のやうな、鞭を持つて犬を仕込まうとする風は流行して居なかつた。第一にうちの犬などは、最初からそんな方法に服しさうにも見えなかつたし、又さうしてしまふのも惜しかつた。眼や顔で叱る方法は相應にやつて見た。其場ではたしかに效果もあつたのだが、どうも新しい犬のやうに永く覺えては居らぬやうであり、又一時の激情が之を打消すほどに強かつたやうにも思はれる。もつと有效なる訓練は繋いで置いて、食物の加減を以て恩威竝び行はれることを期すればよからうが、それが出來なかつたのには又若干の理由がある。單にいくら相手が人間で無くてもそれは殘忍だ、といふやうな義侠心だけで無く、第一に先づそんな事をして居る時間が無い。降つても照つても一日に一度、犬に率かれてそこら中を歩いて來るといふことは、自分にはどうしても都合が付かない。だから當世の犬飼ひの資格は無かつたのであらうが、以前とても專門の飼役を置く家は稀(418)であり、主人が其役を兼ねられる家も多くはなかつた筈である。古風な犬だから古風に飼つてやれと、一人できめたのが災ひの元だつたやうである。

　モリと名をつけた一つの動機は、實は其頃は住宅地の初期であつて、近所にこそ泥の不安が漲ぎつて居たからであつた。家に一頭の番犬でも置かうといふほどの屋敷なら、高塀土藏で圍ひ門に貫木を鎖して、犬が出たくても出られぬやうにしてあつたといふことを、私は考へて見なかつたのである。夜分繋いで置いては番にならぬとばかりで、日暮には放してやると生垣を頭で押開いて、どこへ行つて來るのやら午前九時十時といふ頃に、のつそり還つて來て朝飯なんか食つて居る。それから縛つて置いても決して好い顔はせず、退屈をしても昂奮をしても、すぐにえらい聲で鳴き立てる。散歩には大悦びで附いて行くが、家に戻ると門口にばかり居りたがり、又は道路のまん中に坐つて、往來の人や犬を見て居るのが妙にすきであつた。まるで昔の村の犬のやうだと、私は寧ろ是を自然の育ちのやうに思つて容赦して居たが、さういふ腹の底にも、或は若干の犬自慢があつたのかも知れない。實際又誰の目にも見返らずには居られぬやうな、無邪氣で活き／＼とした若犬であつた。

　彼が猛犬の名を博したのは、是から又一年も後の話だつたが、此頃からもう少しづゝ、問題になりかけて居た。見馴れぬ男が毎日のやうに、モリを見に來ますから御用心をなさいと、知らせに來てくれた人もあれば、不意に居なくなつて二日も捜しあぐみ、やつと隣の村の湯屋の空地に、繩で縛られて居るのを見つけて連れて來たこともある。或時はちやうど頸輪を無くして居たところへ、捕犬隊が入つて來て捉まつてしまひ、三拜九拜して返してもらつたこともある。それからは勿論綱を嚴重にして、如何にわめいても放さぬことにして居たのだが、どうした拍子であつたか今以て眞相はわからない。ちよつくら出て行つて電車に轢れて歸つて來たのである。

　

(419)　　　　　　　　　　四

　

　私はモリが血だらけになつて、若い驛員の手に抱かれ、目をしよぼ／＼として來た光景を忘れることが出來ない。何でも線路でよその小犬とふざけて居て、入つて來る車に跳ね飛ばされたのださうである。幸ひにして傷は右後脚の指の尖だけだつたが、最初の二日三日は時折そこを舐るばかりで、食べ物は丸で見向きもせずに黙つて寢て居て、死ぬのではないかと思ふやうであつた。やがて元氣にはなつたが爪は二つ取れてしまひ、毛皮はすつかり剥げてよほどまだ脹れて居た。痛むと見えてよく／＼の場合で無いと、其方の足を踏み立てようとしない。可愛さうにさういふ　　状態が、半年近くも續いたのである。何度か獣醫を招いて手當をしようとしたが、何としても怒つて其脚をさはらせない。或は麻醉をかけて療治をして見たらとも言つたが、さうまでせずともよくなるだらうといふ説もあつて、ぐず／”＼して居るうちに日が經つてしまつた。其うちに體の方は益々大きくなり、性質は次第に荒くなつた。人がうつかりと惡い足の方から、近よらうとすれば直に怒り、後には傷の評議をして居るだけでも、折々人が目をそこへ遣る爲か、何だか機嫌を惡くするやうに感じられた。意氣は中々鋭く擧動も活?ではあるが、人ならスポーツといふやうな遊戯氣分は無くなつて、顔付までが急に親犬になつてしまつた。

　是くらゐなら寧ろ最初から、金網の中で育てた方がよかつたかも知れない。出來るだけの自由を與へて、素朴な擧動を見ようとしたばかりに、由なき不運を招いて彼も我も、共に生存の樂しみを切詰めなければならぬことになつた。モリを氣六つかしくした責任は全く自分に在ることを、私は世間の人たちにも、又秋田犬の保存會長に對しても、正直に告白したのであつた。しかし何が機縁になるかならぬか、まことに人智では測り難いものがある。この悲しむべき事件があつて以來、私は無意識に元に倍する注意を、彼の生活に向つて費すやうになつて居た。一方には又彼の起居が重々しくなつて、無意味な小犬一流の輕擧妄動が無くなつた御蔭に、何度か時を隔てゝ同じ一つのしぐさの、ほ(420)ゞ確かに生活に根を持つかと思ふものを、觀察することが出來たのである。普通に犬の藝といふものは、實は人間の文化である。尾を振り耳を聳かすといふ類の有りふれた犬らしさでも、やはり外からの要望と期待によつて、變化もすれば又擴大して居る。犬に獨立して入用が有り、人が知るならば寧ろ抑制したかもしれない意外な癖の中に、却つて傳統の上代史料として役立つものが、含まれて居るのでは無いかといふことを、少しづゝ私は考へ始めて居たのである。それをまだ十分に確かめることが出來ぬうちに、是非ない理由があつて別れてもう逢へないことになつたのは、彼等の歴史にとつても大きな損失であつた。後來斯うした實驗を補足することは、世とともに益々困難になつて行くことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　少しも空想を加味しないで、意味を汲み取ることを得るまでには、私の觀察は持續しなかつた。資料がファーブルのやうには豐富でなかつた。だから「どうだらうか」といふ人が有つても致し方は無いのだが、少なくも是だけの事實があつたといふ迄は知つて居てもよい。とにかく自分には姶めての、思ひがけぬ事ばかりだつたのである。第一の問題は犬の經濟、人からまだ食物を分けて貫はぬ以前、どうして活きて居たらうかといふことに關聯する。家にはやゝ廣い芝生があつて、そこへ子供が出て走りまはる。モリは?を前足の上に載せて、いつでも遠くから半眼でそれを眺めて居る。さうして何かの拍子に倒れたり寢たりすると、すぐに飛び起きてそこへ走つて來るのである。初めは子供と一緒に遊ぶ氣だらうとも思つて見たが、子供が起きてしまふと又戻つて芝の上に横になるので、單に人が轉ぶといふことだけに、興味があるのだといふことがわかつた。咬まうとも足を掛けようともするのでは無いが、それが毎度のことで時々はワンといひ、尾をふり口をあけて勢ひよく馳せ付けるので、後には少しばかり子供も親も不安になつた。送り狼が人の倒れるのを待つといふ話は、無論實驗者も無い只の風説ではあるが、何かさういふ想像をさせる(421)やうな擧動が、元は犬などに頻々と見られたのではあるまいか。捕へて殺すといふ位な小さな動物だけで無く、もつと大きなものも食ふ必要があつて、始終相手が何かの故障で無力になる際を、狙つて居るやうな習性が養はれて居たのが、スポーツの形でまだ殘つて居るのかとも思はれる。獵に利用せられた群行動の如きも、最初から集合の力を推理して、協議を遂げた結果では勿論無かつた。それよりも各自が敵の弱味を、早く見拔く能力を具へて居た結果、殊に斯ういふ機會を求めようとしたのが起りで、箭でも鐵砲でも彼等の心理によれば、單に獲物の捉はれやすいまじなひと、いふ風に解して居たかも知れぬ。それを人間の子供に試みるのは不穩當な話だが、是は眞劔では無くて小犬同士でも常にやつて居る。練習といふやうな計畫も彼等にはあるまいが、つまり斯ういふ飛躍の壯快味だけが傳はつて、特に所得の無い場合にも?々之をくり返し、それが自然に又修業ともなつたのであらう。

　第二には家族制の問題についても、今まで知らなかつた小さな事實を知つた。或一つの時期が過ぎ去つて半月餘の後、見馴れぬ變な小犬が毎日のやうにうちへ遣つて來る。モリは友人が少なく、來れば皆咬むので其食器の傍などへは近よる犬は無いのだが、このやつばかりは平氣で其中の物を食つて居る。それを又ぢつと見て知らぬ顔をして居るのがモリであつた。小犬は何とも名の付け樣も無い複雜な雜種で、形はといへば八つ合せても一方の大きさには及ばぬ程のちびであつた。性質は柔和らしいが、是でも飼ふ人があるのかと、疑ふばかりのつまらぬ犬であつた。如何なる天縁であるのやら、これがモリの女房であつたことが、後に段々とわかつて來たのである。いつから來なくなつたか自然に足が遠のき、それきりもうどこでも見かけたことは無いが、とにかく苧み犬の兆候がはつきりとする迄、來ては同じ芝生に寢そべつて何をするでも無く、實につまらなく日を送つて居た。家の人々とはちつとも親しくならない。誰かが出て見るとすぐ遁げ出して、垣根の陰などからこちらを覗いて居る。それで居て飯だけ食つて行くのはずるいといふ評もあつた。或時は試みに怕い顔をして足踏みをして追出す眞似をしたら、モリが起き上つてウウと唸つたので、いよ／＼彼のおかみさんだといふことが明らかになつたのである。是までの常識では、犬の家庭は母系制の(422)やうに考へられて居たが、人がさうしたのだつたといふことが是で證明せられたやうに思ふ。母になるべきものは力が弱つて居る。それを介抱する情愛は小鳥の父にさへ見られる。母系といふことを父の無責任と解するのは、或は社會學者の誤りだつたかも知れぬのである。この實驗は改めて之を試みることも出來るが、新種の家畜にもまだこの習性が、殘つて居るかどうかは頗る覺束ない。さうして我家のモリの如く、直に腹を立て怒りを隱さぬ犬でなければ、妻を庇護しようとする古い心持が、さう明らかには汲み取られる望みは無いだらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　モリには又占有權の思想が、妙な形で持傳へられて居た。家の裏木戸には八つ手の木が茂つて居て、其下には下水を放流する機械を置き、長い木の把手が突出して居た。こゝが北陰で土が冷えて居るので、夏になる前からよく來ては腹匐ひになつて居たが、退屈まぎれに?んで居たと見えて、その把手に無數の齒の跡が附いて居た。犬にとつては是が一種の登録であつたものか、いつと無く是を自分の物と認めるやうになつて居た。それとも知らずに土地の警官の、それも特別に彼と親しく色々世話になつた人が、下水の檢査に來て把手に手を掛けると、遠くに見て居たのがいきなり飛んで來て、怒つて吠え立てゝ手を離すまでは止めない。人から考へると實に不條理な話だが、それから後にも爰から入つて來る者が、何度か吠え付かれ中には咬まれた者もあつた。見馴れぬ人でも表玄關から來る者は黙つて通し、裏木戸を入る人だけに敵意を示す。いやな奴だといふ者も多かつたが、根原はこの八つ手の蔭を、一つの私室のやうに思つて居たのかと察せられる。

　穴を掘つて食物を匿す癖は、西洋の犬にもあつてよく非難されるが、モリなどは更にそれを監視して居るのであつた。小さい頃から土を穿つことが殊に器用であつた。始めは地鼠などを嗅ぎ出さうとするのかと思つたが、是と物を埋める癖とは關聯して居るらしい。靴をくはへてあるくので用心をして居ると、或日小兒の編み上げが見えなくなつ(423)た。庭に出て見ると彼が頻りに目を遣る箇所があるので、さてこそと行つて見ると牽牛花《あさがほ》の籬の下に、よく／＼深く埋めて紐だけが二本、まるで蔓草のやうに地上に靡いて居る。或日は畠に入ると火の附くやうに怒つて飛んで來る。又何か匿したなと強ひて掘り出して見たら、どこから持つて來たか新しいパンであつた。それを暫くすると忘れてしまつて、折々は木の下から肉屋の骨などが出て來たこともあつた。山に居る獣にも往々にしてこの風があると聽いて居る。狼の殘したものは夜分に來て持つて行くといひ、もしくはどこかに隱れて居て、番をして居るから取つてはならぬとも、鹽を代りに置いて來れば差支へ無しとも謂つて居る。まさか此流義を狼から學んだのでもあるまいが、荒い生活には是は必要であつた。單なる食ひ剰しが貯蓄となるには、勿論其前に占有といふ思想が、たとへ短期にもせよ無くてはならなかつた。是は人間の配下になつて後よりも、以前の山野の日の方が痛切であつた筈だから、モリの習癖も古いものだつたらうといふことが言へるのである。

　さう思つて氣をつけて見ると、彼が人間とでも爭はうとするものは、何れも原始以來からの必要であり、殊に食物に就いての主張が強かつたのである。猫や小犬の中にも食器に口を附けて居る間、唸りつゞけて居るのがよくあるが、是は無益とわかつて後々は止めてしまふ。モリも家の給與だけは黙つて食べるが、自分が得て來たと信じて居るものには、寸毫も他人の干渉を假借しなかつたのである。或時はどこかの子供でも落したのだらう。竹の皮包みの餅か何かをくはへて來て、又埋めようとする樣子なので、娘が心配して制止すると咬んだ。又或時は牛肉屋の店から、斷り無しに大きな骨を取つて來たといふので、餘りの不行儀を叱りつけて、強く綱を引張つたら私を咬んだ。今までも豆腐屋の小僧を咬み、煙突掃除を咬み農家の細君を咬み、其たびに謝罪に行き又狂犬病の檢査もしてもらつて、散々の苦勞はしたけれども、それでもまだ信用をして居た。主人を咬むやうではもう安心が出來ない。どうでも出してしまはうといふ決議のやうなものが成り立つて、自分だけはまだ解釋の餘地があるやうに思つたのだが、終に獣醫の仲介で濱松へ左遷せられることになつた。濱松では或養?場の番犬になつたといふ話であつた。あれのやうな剛氣と偏見(424)を以て、果してそんな役が勤まるものだらうか。危いものだと毎日噂をして居ると、案にたがはずしくじつて又東京へ戻され、どこへ行つたかもうそれからの消息が無い。多分は繋がれ通しで一生を終つたのであらう。夢には何度も見たが到頭舊主のもとには歸つて來なかつた。

　

　　　　　　　　　　七

　

　終りにもう一言、是は秋田犬の名聲の爲に、附け加へて置かなければならぬが、モリの系圖には若干の不明な點があつた。父も母も共に北秋田の地犬であり、生まれたばかりの樣子は純種とも見えたが、成長するにつれて少しづゝ異色が現はれて來た。第一に形が非常に大きく、目方も背丈も共に普通の秋田種の五割増しで、前頭が平たく耳の間隔がやゝ遠くて少し窪みがある。闘犬流行の時代に土佐の種を引いて改良して居るから、其血がまじつて隔世に出現しても不思議は無い。さうして土佐では又外國種も入れて居たのだから、この交雜は微細ながら、思つたよりも遙かに込入つて居る。それがどういふ筋を引いて、同時に狼とやゝ似た一二の習性を遺傳して居たかは、彼が居なくなつた今日、もはや永古の不審として殘らねばならぬであらう。

　電車の災難が一つの原因になつたかとも思つて居るが、彼の尻尾は終にまん丸には卷かなかつた。それを氣にして卷くやうな場合を考へ、色々と機會を作つてやつたのだが、大抵の折には棒を擔いだやうに、後の方へ高く伸びて居た。耳も四五月目の育ち盛りまでは、折々はつんと尖らせて居ることがあつた。門の前の四辻などに出て、何か遠くのものに注意を集めたときは、耳も眼も顔も足も統一して、全身が一つの指導標のやうに見えることもあつた。それがいつと無く再び端が折れて、めつたに秋田風の耳を立てることが無くなつた。それで居て意地ばかり無上に強く、やたらに近所の朋輩を追ひまはしては咬み散らし、電車以外には怖しいものは無かつたのである。電車をすら恐れる位なのだから、彼を上手に飼ひ馴らすことが出來なかつたのは、全く自分の理論の誤りだと思ふ。モリの息子といふ(425)のが大分後になるまで、近所の荒物屋だつたかに住み込んで居た。前から見るとまちがへる程似て居て、尻尾だけが馬鹿々々しく細かつた。是がどういふ氣質を受け繼いで居たかは、氣を付けて居たがわからずにしまつた。しかし咬むといふ惡評だけは全く無かつたやうである。大和田さんといふ人が私の近所へ引越して來られたが、前に大館に居てほゞモリの身元を知つて居られた。あれの母もよく怒る犬でしたといふことで、折々は咬むこともあつた樣子である。其惡癖までも土佐からといふことは無論出來ないが、以前も人喰ひ犬は大名たちの專有で、其爲に太い鎖があり又犬飼ひの役があつた。是と山野の粗樸なる自由主義者と、配合させたとすれば結果は斯うなつたかも知れぬ。とにかくに遺傳は氣まぐれで、まだ我々の意のまゝには進んで居ない。しかも丸々原因がなくて、新たな氣質といふものが生まれようとも考へられぬ。だからモリといふ一匹の犬の不幸は、必ずしも電車から始まつたものともきまらない。さう思つて私はやゝ自ら慰めて居る。

　

(426)　　　　　狼のゆくへ

　　　　　　　　　――吉野人への書信――

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本に狼がもう居なくなつたといふことは、專門家の間に却つて信ずる人が多いやうだが、是は立證の隨分六つかしい話ではないかと思ふ。成ほど方々の獵師に問ひ合せて見ても、近年は捕つた出逢つたといふ者が殆と一人も無いだらうが、今日あの仲間の技能と膽力、殊に山中で日を送る根氣などの、既に著しく衰へて居ることも考へて見なければならぬ。即ち彼等は出くはすやうな生活をして居ないのである。或は又是ほど久しい間、注意し且つ捜して居るのに何の報告も來ず、たつた一つの標本すらも研究室へ屆かぬのは、狼の既に絶滅した證據と言つてもよいのか知らぬが、實は昔とてもよほど偶然の好機會で無いと、狼現存の形跡などゝいふものは、中央の學者の耳目には觸れるものでなかつたのである。其上に數だけはとにかくに非常に減じて居る。彼等が群生活を持續し得べき外部の條件が、追々失はれて來たことも亦爭はれない。居ないと斷定して置いても反證を擧げ得る者が、先づ出て來さうにも無いことは明らかである。だからもしもそんな必要があるならば、日本に狼無しと言明しても大抵差支へは無く、事によるとそれが又眞實と合するのかも知れない。たゞ自分などはそんな斷定をする必要を少しも認めないのみならず、居らぬと言ひ切る前にもう少し、考察して見なければならぬ點が殘つて居るやうにも思つて居るのである。それに就いて(427)はいつかは訪問し、又ゆつくりと談合をして見たいと念じて居た吉野山地の諸君、私の最もゆかしく思ふ地域の郷土研究家たちが、私を狼全滅論者の一人に算へて居られるといふことは別して迷惑の至りである。私信を以て取消したところで效果は少ない。何かの折には公表し得られる形式で、一通り自分の立場を述べ、且つは歴史ある山間の有識者の、參考に供したいと思ふ所以である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　最初にきめてかゝりたいと思ふのは時の問題である。居らぬと言つて居る人々の中にも、日露戰爭の頃まではまだ居たらうと説く者と、ずつと早く明治の初年から、もう狼は絶えたやうに思つて居る者と、其中間の明治二十三四年の頃からなどゝ書いて居る人もある。勿論それも皆土地によることで、一國全體になどゝいふのはつい物のはづみに口が滑つたとしか思はれない。しかし山に御一新以前から全く居なかつたと思ふ人も無いと共に、麓をやゝ遠ざかつた平原の村里近くならば、ずつと昔から絶無であつたものと、信じて居る者も多いであらうが、事實は頗る是と反對であつて、山地必ずしも常に狼の棲息する處とは限らず、久しく昔話にしかさういふ獣の出て來なかつた地方も廣いと同時に、一方には又民居往還の傍まで、彼等が出没して居たといふ話が、近世に入つて却つて非常に數多くなつて居る事實もあるのである。私などは是をこの猛獣の歴史に取つて、最も重要な外部兆候と考へ、目下村々の之に關する記憶を集めて、比較し又鑑別して見ようとして居る。それを一應突き止めた上で無いと、居らぬ居るの論議に參加する資格も無いやうな氣がするのだが、其點はなほ後に説くとして、爰には便宜の爲に問題を出來るだけ小さく、昭和元年を境として、それより以後の日本にも、なほどこかの隅に狼といふものが、居たか或は居なかつたかといふことに限定して、解決を求めて見たいと思つて居る。さうして出來るならば是と同時に、吉野熊野その他個々の土地に就いて、最終に狼が出現したといふ報告は、大よそ何年頃のものであつたかといふことを明らかにして置いたらよか(428)らうとも考へて居る。

　

　　　　　　　　　　三

　

　府縣の警察統計書には、毎年の狩獵鳥獣種別數が今でも出て居る筈で、以前は官報にも全部で無いが、各地の計數が報告せられて居た。僅かな勞を費して之を一通り當つて見ることが、一つの手掛りかと私は思つて居る。たしか昭和初年の大阪朝日新聞三重版にも、宇治山田市警察署の調査が轉載してあつて、其中に狼一頭とあつたやうに記憶して居るが、生憎その切拔を見失つて、年月日を確かめることが出來ない。是なども疑つて居る人ならば、果して狼だつたらうかと言つてしまふことであらうが、曾て大日本山林會の座談會で（山林七二號）、佐藤林學博士の詳しく述べられた、宮川上流の山小屋での話、即ち深夜に元氣のよい人夫が隊を組んで、山に入つて狼の群を追散らし、その獲物の鹿を奪ひ取つて來たといふ事件などは、佐藤氏が自身酒を賞譽にして親しく其見聞談を聽き、又その鹿の肉を賞味せられたといふのだから、光景は可なり鮮明に傳へられて居る。それが明治二十七八年の頃の事といふから、其夜の狼の後裔がまだ殘つて居るとしても、私には少しも意外には思はれない。だからもし吉野の諸君が此方面に着目して、金峯大臺ヶ原一帶を管轄する各警察署に就いて、大正以後の同種書類に目を通すだけの手數を掛けられたら、或は案外手輕に當面の問題を解く途が、見付かるかも知れぬと私は思つて居る。

　第二の私の記憶は是も昭和の四年二月頃に、能登鹿島郡餘喜村の山で、狼らしい獣を捕つたといふ記事が、同じ新聞（十二月二十日）に出て居たことである。之を實見したといふ石川縣狩獵官の矢野農學士は、間も無く栃木縣へ轉任して今もまだ宇都宮に居る。此人に尋ねて見たら何等かの資料は得られるかと思ふ。同君の談話といふのでは、何でも毛の色が茶がゝつて居たとかいふことで、或は野性に復つた里犬では無かつたかといふ疑ひも起るが、とにもかくにも獵師が山に入つて、撃ち取つたものであることだけは事實であり、又是と似た獣が其前後に、富山縣でも捕ら(429)れたことがあるといふから、土地に就いて尋ねても今少し詳しいことは判るであらう。

　

　　　　　　　　　　四

　

　狼と犬との差別は、少なくとも我邦ではまだ明瞭に境目が立つて居ない。名前から云つても東北は一般にオイヌ（御犬）又はオイノ・オインで、本を讀んだ者でないと狼といふ漢語は使はず、又オホカミといふ語も知らない。關東から西でも山犬といふ語があつて、それを狼のことだと解する者と、狼とは別種で豺といふ漢字で支那に知られて居る獣のことだらうと解する者と、單に普通の犬の山に入つて還らぬものゝことだと謂ふ者と、更にヤマイヌは即ち病犬、狂犬のことを謂ふのだとする者と、土地毎に説も解釋もちがつて居るのだから、話は豫め其點をたしかめてから聽かなければならぬ。つまりは昔は犬と狼とを、全然別の物とまでは思つて居ない人が多かつたのである。だから椿説弓張月に出て來る忠犬野風の生ひ立ちの如きも、必ずしも空想だとは言へなかつた。獵師が逞ましい獵犬を欲しい餘りに、山から狼の仔を捕つて來て育てたといふ話、又は谷奧に牝犬を繋いで置いて狼の種を引いたといふ話なども、隔絶して方々の山村に傳はつて居るから、單なるこしらへ話の流布したものとも斷定してしまふことは出來ない。さうすれば假に山中の種は全く盡きたとしても、まだ一方には其血の流れは續いて居るのであり、それが又何かの機會に人に背反して、野山に紛れ込んだ場合も有り得るわけである。或は骨格その他の比較によつて、二種は明らかに判別し得られ、且つ混同するわけは無いやうに言ふ人があつても、それはまだ多くの狼、多くの日本犬に當つて見た上の説でないのだから、是非とも信じなければならぬといふ程の義理も無いやうに私などは思つて居る。

　此點は又猫と山猫との關係もやゝ似て居る。東京のやうな建て込んだ土地でも、所謂のら猫の數は却つて飼猫よりも多いかと思はれるが、此等は食物習慣がすべて略々同じで、たゞ人間を近づけぬといふ點が、家に住み込んで居るものとちがふのみで、猫どうしの交際は普通にして居るかと思はれる。ところが隱岐の島などに行つて話を聽くと、(430)家猫の或ものは毛衣も元のまゝで、いつの間にか山に入つて山猫となり、兩者全く別々の社會をなして居るといふ。さうして一方は國地の狐などのやうに、通行人を脅し又は誑すと云つて怖れられて居る。こゝでは配偶期になつてももう困らぬだけに、山中の猫が繁殖して居るらしいのである。猫に比べると犬などは遙かに人なつこいけれども、一方にはなほ一段と野性に復りやすい境遇の自由があつた。蓄犬税の始まる前までは、田舍の犬は大半は村の犬で、定まつた主人といふものを持たず、又彼等の家庭生活には人の干渉が無かつたので、隨分と遠くの里に遊び、誰にも知られない落胤を殘すものが多かつた。火食をするとせぬとで野獣との差別は立つて居たのだが、今でもまだ生の肉を敢て辭せざる犬も少なくない。生まれによつては人との親しみも經驗する機會無しに、山の犬となつてしまふものも無かつたとは言へない。言はゞ我々の屋敷の隅の栗や椎の木と同じに、一面は人と接し、他の一面は山の同類の社會とも聯絡を取つて居たのである。狼は勿論同類では無いが、この二種の山に住む團體の間にどんな外交があつたか。今は結果を見る以外に、之を察する方法が無いぢやないかと言つてもよい。

　

　　　　　　　　　　五

　

　だからもしこの國固有の日本犬と、絶對に交渉の無かつた狼といふ獣を想定して、それが居るか居らぬかを論ずるのであつたら、問題は又少しばかりちがつて來るであらう。或地方でオイヌと呼び、又漢字の狼といふ字を宛てゝ、オホカミと謂はせて居る獣が、如何なる特徴の犬と異なるものを具へて居たかは、實はまだ一向明らかになつて居ないのである。それを外國の動物學に據つて、一つの形をきめて其存否を物色して居るのだとしたら、明治大正の交はさておき、ずつと大昔の秦大津父《はたのおほつち》の時代にも、そんなものは居なかつたといふことにならうも知れぬ。犬も數百年來の外種輸入につれて、追々と其純粹性を失つて行き、今日保存せられて居る日本犬なるものには、どれだけの部分が保存せられて居るかも疑はれるが、それでもなほ折々は外貌や習性によつて、山の生活の名殘が幽かながらも窺はれ(431)る。さうして他の一方には又野獣のオホカミに就いても、よその國土では聽かぬやうな、至つて平和なる言ひ傳へが古くから有つたのである。

　犬と狼とが比較的近かつたといふことが、日本だけでは想像することを許されるかと思ふ。前から認められて居た兩者の相異は、主要なるものが二つあつた。その一つは群生活の有無、狼は?々大群を以て去來するに反して、犬は平生は一匹づゝで暮して居る。第二には犬は狂犬以外には主無しになつても人を襲はぬが、一方は誠に怖るべきやつである。是だけを比べても根本互ひに全く縁の無いものゝやうに、考へようとする人には十分な理由であらう。が私などにはまだ少々の異議があるのである。第一には犬が孤獨の家畜となつたのは、人に飼はれてから又或期間の後、即ち獵法の改良と食物の制限の結果であつて、變化の原因は共に外部に在つたのかも知れぬ。英國の田舍の狐狩などに、犬のパックを用ゐた例を引くまでも無く、日本の犬山といふ狩でも亦多くの犬を使つて、弓箭鐵砲の代りにする方法は近頃までも殘り、又養つて置く飼料さへ豐かなれば、樺太あたりの橇犬は烏合の衆でも共によく働き、所謂先頭犬の統御は人以上に完全に行はれて居る。群の生活が不可能になつたことは、寧ろ犬の天性に反した人間側の干渉からかも知れない。第二の人を咬み害するといふ點も、必ずしも狼の固有の生き方では無かつた。支那でこそ虎狼は同列の兇猛となつて居るが、我々日本人が平和なる約款の下に、所謂大口眞神と交際して居た期間は久しいもので、其餘波はなほ現代にも及んで居る。それが近世に入つてから急に邑里を劫掠し始めたのは、新たなる一つの歴史現象であつた。或は古い時代にも同じやうな慘害があつて、たゞ之を傳へた記録が無くなつただけと、想像することも出來るやうだが、單に記録が無いといふ以上に、反對の事實が又數多く傳はつて居る。たとへば狼は?々咽に骨を立てて、之を通行の人に頼んで拔いてもらつたといひ、又は夜路を行く者を送つて、家の前まで附いて來てくれたといふ話なども、共に事實では無いにしても、有つたことゝして方々の土地で信じられて居る。さうかと思ふと一方には近い頃まで、狼の産養《うぶやしな》ひもしくは産見舞などゝ稱して、人が食物を調へて山中に持つて行く風習もあつて、此方は現に(432)自分も其行事に參加したといふ老女が、稀々ながら今でも山村には居るのだから、とにかくに斯ういふ風習のあつたことだけは確かである。假に單なる誤解や俗信であつたにしても、人を襲ひ咬むのがもし狼の常の業であつたら、斯ういふ世間話は弘く行はれる餘地がなかつたらう。少なくとも狼を山の犬と名づけ又は御犬と謂つて居た動機、即ち人間側の彼に對する態度だけは、今とは異なつたものであつたことを、證明し得る史料があるのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　山犬と狼と、二つは別種の獣だといふ説は、此意味に於て我々の注意を惹かざるを得ない。土地により又人によつて、言ふことがやゝ區々になつて居るが、大體に三十五十の群をなして押しあるくものと、たつた一匹だけで定まつた土地に住むものとがあつて、我々から見ると犬に近いのは後の方のやうに思はれる。ところが狼の最も靈あるもの、人に畏敬せられ又能く人を庇護すと云はれたものは、却つて皆この一つ狼の方であつた。信州甲州其他の山村で、?々事實のやうに信じられて傳はつて居た話は、送り狼が出て來て頻りに袖をくはへて引くので、怖ろしながらその導く方へ跟《つ》いて行つて、とある叢の陰に踞つて居ると、やがておびたゞしい足音がして旅狼の一群が奔つて通り過ぎる。さては其危難を遁れしめる爲に、引張つて行つて自分を匿してくれたのかと、心付いて感謝の念を禁じ得なかつたといふやうな話で、斯ういふ場合にもその旅狼を又山犬と謂ひ、別に雙方をちがつた種類の獣と、思つて居なかつた人たちが多い。秩父の三峯山や遠州奧山の山住社に祈請して、借りて來るといふ御犬は普通には一頭、稀に二頭で來るといふこともあるだけで、後から足音が聽えるとか、川を渡つてしまふと水を振ふ音がするとか、又は床の間の榊の葉の蔭から眼が光つたとか、無論幻だつたらうとは思ふが、信者は常に最も狼らしい狼の姿を見て居た。即ち必ずしも一つだから御犬、群を爲して現はれるのが狼とも區別せられては居ないのである。最近の百年間に各地であつた出來事として、比較的精密な記録の存するものは、例外も無くすべて孤狼の害であつた。獣阿彌の脚本鵜飼篝火や、(433)壺坂の淨瑠璃には群をなして出て來るが、實際の事件としてはさういふことはもう大分久しく無かつたやうである。一つの標本すら容易に手に入らぬといふ今日、二つ以上を比べて檢べることは望まれぬだらうが、私は到底是だけの近世の事實に據つて、二つの異なる習性をもつ狼と山犬とが、併存するものと推斷することは出來ぬと思ふ。何となれば狼の群にも既に何等かの原因があつて、犬と同樣に解體と分散とが始まつて居たのかも知れぬからである。さうしてそれが又彼等の數の減少、もしくは其絶滅を信ぜられる結果とも、なつて居るかと思はれるからである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　蘭山先生の本草啓蒙を見ると、狼は足に蹼（水掻き）あつて能く水を渉る。豺には蹼無くして水を渉ること能はずとある。是などもどうして實驗したものか訝かしいことであるが、果して日本の事實であるならば、多分は多くの野獣を捕つたといふ獵師の話といふのを傳聞したもので、強ひて信ずるにも及ばぬことのやうに私は考へて居た。ところが近頃になつて、熊野出身の絲川恭平といふ人から、始めて紀州｜太地《たいち》の灰買船の犬には、水掻きがあるといふ話を聽いたのである。或は海を遠ざかつた吉野の山村にも、此種が分布しては居ないか。否寧ろこちらの方が元で、熊野へ下つて行つて利用せられたのだといふことが、何かのはづみにもしや證明せられることになりはしないか。氣をつけて居てもらひたいといふ話を鷲家口《わしかぐち》の座談會でもした。珍しい話だから自分の聽いた通りを、筆録して殘して置きたい。一體に熊野の船乘たちは、水を泳ぐ犬を調寶してよく飼つて居る。入海に臨んだ山々に獵をする人も、犬が泳いでくれると何かにつけて便利だから、懇望して其種を太地から引いて飼つて居た。絲川君は年少の頃英國に遊學し、或時同窓の學生と獵犬の話をした序に、自分の郷里には足に蹼のある犬が居るといふことを告げたところ、笑つて一人も之を信ずる者が無かつたさうである。それが口惜しいのでわざ／＼郵船の事務長とかに依頼して、その犬を一頭熊野から倫敦へつれて來てもらつた。まだ小さな仔犬で到着後まも無く死に、それが又足の趾間の半分までしか皮膜(434)が伸びて居なかつたので、完全な證明とならずにしまつたのは殘念だつたといふが、とにかく是が僅か三十年足らず前の事なのだから、今でも手數をかけて捜したら、どこかに其血統はまだ續いて居るかも知れない。吉野の諸君も注意して居てもらひたいといふ話をすると、其座にも既にさういふ事は聽いて居るといふやうな、合槌を打つた人があつたのである。出來ることならば直接狼の存否を尋ねてあるく旁に、比較的容易なこの水掻き犬を、捜し出すことに努力していたゞきたい。是が判ると日本の狼と犬との間に、又一つの共通點が有るといふことを、見出す手掛りにもなるのである。

　それから是に附け加へてもう一つ、比較の目標にしてよい特徴は齒である。是も小野氏の啓蒙に、狼の齒は二重にして齊整、犬の齒の齊しからざるに異なりとある。然らばさういふよく整つた齒竝をした日本犬がもしか有りはしないか。飼主ならば是を一應調べて見るのもわけの無い事であらう。假にもし熊野の太地犬の如く、無いと思つて居た特徴がこゝに一つでも出て來たならば、迂遠な路筋ながら又大分狼の知識に近よつて行けるので、水掻きの問題もあることだから、此點にも私はまだ希望を捨てゝ居ない。古書は傳聞の不精確を免れぬであらうが、丸々根の無いことを書き立てる樣な場合は尠なからうと思ふ。是に概括的な不信用を表するまでは是非も無いが、たつた一つや二つの實驗に代表させて、その全部の事實を置き換へようとするのも亦危い。ましてや我邦の狼に就いては、今はまだ殆と實驗といふ程のものは無いので、ほんの少しの暗示のやうな事實でも、注意して集めて置かなければならぬ時代である。前にも疑ひを存して置いた石川縣の狼の毛色なども、日本にはさういふ毛の色をしたのが昔から決して居なかつたとは誰にも言ひ切れない。現に啓蒙には全身茶褐色微紅を帶び、尻尾だけが灰色で白毛を交へるとあり、山犬即ち豺といふ漢字を宛てた方の獣は、黄褐色又は虎斑のものもある故に、本草には色一ならずとあるのだとも説いて居る。大抵は夜分に見るのだから當てにならぬとは言ふものゝ、黒も白も又まだらの狼も、稀にはあつたやうに古記には言ひ傳へられて居る。それでは外國の標本ともちがふから、狼といふべきものでは無いと言ふ人が有りさうだが、然ら(435)ばそれは何であつたらうか。我々は其樣な獣の有無を知らうとして居るので、外國の狼を捜して居るのでは無いのである。元來オホカミを狼と書き始めたのは京都人で、見たことも送られたことも多分は無かつたらう人々の判斷である。假に和漢雙方よつぽど違つて居たにしても、それは言はゞ通譯の誤りであつて、日本の御犬乃至オホカミの、責任を負ふべき筋合のものではなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　之を要するにこの日本語でオホカミと謂つた獣ならば、私はまだ日本のどこかの山にも居るだらうといふ説である。彼等の血筋は僅かばかり、飼犬の中にも傳はり、又里の犬が何かの機會に山に復つて、彼等と混じた例も有り得ると思つて居るのだが、さりとて只の野ら犬をその狼の中に算へようとするのでは無い。野ら犬はいくら風來になつて遁げまはつて居ても、犬とは元どほりに仲間の交際をして居る。配偶期に於ては尚更のことである。之に反して山に居る猛獣は社會がまるで別であり、從うて習性も異なる發達を遂げて居て、特殊の事情が無い限り混同はして居ない筈である。さういふ純なる野獣が日本にはなほ居るか否かゞ問題になつて居るので、それを自分はまだ居りさうだと言ふのである。但し其數の非常に減じてしまつたことゝ、群で行動する習性が無くなつてしまつたことゝ、この二つだけは爭ふ餘地が無いやうである。その上更に一つの重要なる變遷は、人に對する兇暴性が、近世に入つて著しく増加して來たかと思はれる點で、私はこの三つは相互に關聯した新現象、即ち日本狼の歴史であらうと思つて居るのである。彼等の爲に同情ある歴史を書くならば、不幸の第一の原因と認むべきものは、彼等が豺狼といふ漢語に引當てゝ、文書ばかりか時々は口言葉でもさう呼ばれるに至つたことである。その爲に未だ何等の狂暴を演じない前から、人間の憎惡は次第に彼等に向つて集注したのである。ところが文字を解しなかつた常民たちは、さうした變化には一向無頓着に、依然として昔ながらの交際を續け、或は神の使者として迎へ、又は食物を贈遣して田園守護の任務を委託し、(436)殊に愼しんで彼等の憤怒を招くやうな所行を戒めて居た。素より無智の尊意とも評すれば評し得られるが、假にもし相手が近世の狼のやうに、頻りに人畜を襲撃し食婪飽くなき惡獣であつたならば、少なくとも其害を受けた者の一族知友だけは、到底眞神として之を尊敬しつゞけなかつたであらう。だから自分などは古い記録が失せて傳はらなかつたのではなくて、古くは近世のやうな無規律なる侵害を、加へようとする狼が無かつたものと思つて居る。所謂送り狼の口碑は全國に分布して居るが、各地の解釋には興味の深い幾つもの段階があつた。即ちその一つは狼は外部からの危害を防衛し、人に夜路の安全を保障する爲に送つてくれるのだといふ説、第二には轉べば食はうと思つて後から附いて來る。轉びさへしなければ大丈夫で、途中で休んだり煙草を吸つたりしてもよし、もし又轉んでもドッコイショと言つて腰を下した風をすればよろしいとさへ謂ふ者があり、さういふ場合にも家に歸り着くと、大きに御苦勞でしたと謂つてから戸を閉ぢるがよいなどゝ、丸で僞善外交と同じやうな技術を説く者がある。さうかと思ふと第三段には、狼は人を轉ばせてから食ひつかうとして、足にまつはり頭の上を飛び越し、色々のしかけをするからそれを防がなけばならぬ。乃ち帶や下帶を繋ぎ合せて、出來るだけ長くして曳いて來ると、それより中へは近よらぬから大抵はよいと謂つて、現にさうして助かつたといふ人の話も數多く殘つて居る。古い信仰の中に含まれて居た人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてあるので、是を何でも構はず出逢ひがしらにきつと咬み付くものゝやうに怖れるに至つたのは、勿論次々の經驗に基いた不信用でもあらうが、又一つには唐土の狼といふ語、及び其文字に添へて輸入し來つた惡評が、教育と共に民間に浸潤した結果かと私は思ふ。

　

　　　　　　　　　　九

　

　しかもこの累積したオホカミの不信用が、直接に彼等を絶滅に瀕せしめる原因に、なつて居るとも私は認めて居ないのである。人が見かけ次第に撃つて捕らうとする態度は、ずつと前からもあつたがそれは高の知れたものである。(437)近年の銃器は精鋭を加へたとはいへ、狼を狙はうとするやうな人の數は少なくなつて居る。棄てゝ置いても自滅するだけの原因が寧ろ彼等の内に發生して、人畜に對する兇害の如きはその第二の結果、即ち死に狂ひの一種であつたやうに私は考へて居るのである。其事情を述べて見ることが、自然に吉野の諸君の不審にも答へることになるのだが、大體に開墾に基く山地面積の縮少、之に伴なふ食料の制限の外に、やはり亦是に調和せぬ口數の増加が、却つて彼等の群の解體を促す一つの動機になつたのかと思ふ。他の動物でも皆同じかも知らぬが、狼の群生活の無意識なる目的といへば、食物獲得と配偶選擇との二つの他には無い。しかも一方は一年の或短期間に、其必要を感ずるだけであるに反して、食物の方は其數量の乏しくなるにつれて、次第に大きな群で行動することが邪魔になり、少なくとも多くの友をもつ必要を感ぜしめなくなる。是が最初に一つ狼を多くした原因であつたらしい。田舍の生活に明るい人々は、所謂肉食の普及と斃牛馬の處理方法の變化とが、著しくこの野獣の食物を制限したことを説いて居る。しかし食物が足りないといふことは、直ちに狼どもの餓死となり、又は共喰ひとなつたとは思はれない。それよりも寧ろ家畜の増殖に伴なうて、斯ういふ遁げ走らぬ食料の多くなつた際が、却つて彼等の群行動の必要を減退せしめた端緒であり、それが再び人間の防禦によつて、やゝ得にくゝなつた時代に入つて、分配の闘爭は　　　愈々彼等の離散と孤立とを、促すに至つたものとも解せられるのである。

　今でも老人などの話によく聽くことは、維新前後の地方の刑場が甚だ亂雜であつて、夜分に其附近を通ると必ず狼の唸り聲を聞いたものだといふことであるが、是は以前も戰闘の跡とか、飢饉その他の大災害のあつた土地とかには、幾度かくり返されたらうと思ふ光景で、今はもう信じ難いほどの昔の事になつて居る。それよりも更に一般的なのは埋葬法の變遷で、曾ては普通人の墓地などは、殆と狼の劫掠を防ぎ切れぬやうな、簡單な装置のものばかり多かつたのが、追々と深葬の風が普及し、石の工作は又之を保護するやうになつた。此方面に狼の害が少なくなつたといふことは、或は他の一方に今まで無かつたやうな兇暴なる襲撃の、新たに始まつた理由かとも察せられる。とにかくに記(438)録に傳はつて居る此獣の慘話は、近世百五六十年來のものだけが悉く不意打ちであり、必ず又孤狼のしわざであつた。即ち人の生活技術が改良せられた如く、狼の習性も亦變化して居るのである。主たる原因は群の協力に由つて、獲物を包圍する方法が不用になり又は不可能になり、たゞ狙撃に巧みなものだけがその孤獨の生存を持續し得た爲で、爰に至つてか始めて狼は無條件の害獣となり切つたのだと思ふ。

　だから如何なる天然記念物保存法でも、是を山野に保存して置くことは出來ない。かはいさうだとは思ふが其全部を敵と認めて、せい／”＼檻にでも入れて養ふ以外には、活かして置くわけにはもう行かない。たゞ實際に於て狼の數の激減したのは、退治の手柄では無くて増殖の停止に由來して居ると私は言ふのである。群の解體は食物の獨占には便利であつて、吼えたり唸つたりする必要が無く、人に見つからない生活を續けるにはよからうが、一旦交配期に入ると相手を見出すことが六つかしく、子持たずの牝狼が次第に多くなつて、終には最後のものゝ生存年限によつて、彼等の命脈の盡きてしまふ土地が、もう多くなつて居るのでは無からうか。同じ事情は鼠屬の僅かなものを除く外、殆とすべての獣類の人の世話を受けないものに、共通して出現して居るのでもあらうが、さういふ中でも狼のやうに、久しくパックの生活によつて繁榮を支持して來た動物に取つては、殊に顯著なる不利益を與へたことゝ思ふ。人間だけはその幸福なる智能によつて、一旦固有の群が毀れてしまつても、是を補綴し又は再組織し得るものゝやうに考へられては居るが、それすらもなほ發達の初期に在る種族では、離散によつて終に絶滅した實例が、近い歴史としても二つや三つはある。ましてやそれよりも亦遙かに思慮が足らず、其上にたゞ有期的にしか家庭の必要を感じない動物が、後代子孫の計を講ずるの力も無く、たゞ一時の便宜と安易との爲に、斯うして別れ／＼になつて淋しく衰へ亡びてしまふといふことは、幾ら猛獣であつてもやはり憫れむべきである。

　しかもこの自然の趨勢といふものは、我々の手段では左右することが出來ない。人が狼の立場に立つて、未來の生活方針を考慮してやつても、採用もしないであらうし又採用せられても困る。たゞ彼等の社會の變遷は、我々の爲に(439)も多少の參考となり、何等かの暗示を與へ得べきにも拘らず、現在のところでは事實がまだ餘りにも僅かしか知られて居らず、又このまゝ永遠に知られずに終りさうな氣もする。それだけは甚だ殘念なことだと思ふ。奧吉野を中心とした廣漠たる山地は、幾多の未知の眞實の貯藏地である。そこに活躍して居る優れた知識の獵人たちが、あれほど永い年代の問題であつた山の靈獣の行くへさへも、今まで不明のまゝで居るといふことに氣づき、居るならどうして居るか、居らぬならどうして絶えたかといふ二つの問題を、何としてでも解決しようとして居られることは、當然ながら結構な思ひ立ちである。一歩々々にでも其捜索の結果が世に報ぜられるといふことは、獨りこの一種の獣の爲と言はず、弘く全體の生類の爲に、希望すべき學問の新展開であると思ふ。

　

　（附記）　滿濟准后日記などを讀んで見ると、足利期の後半にも一つ狼が京近くの山に現はれて、少年を咬み殺したといふ話が幾つか出て居る。狼の害を十八世紀以後に限られて居たかのやうに説いたのは、私の言ひ過ぎであつたと告白しなければならぬが、是もやはり土地によつては、狼の群の崩壞する事情が早く發生して居たものと説明すれば、私の意見は別に訂正するに及ばぬやうである。なほ維新の前後刑場が狼の求食場であつたといふ慘澹たる事實は、信州の北佐久郡口碑傳説集などにも詳しく記述せられて居る。

　

(440)　　　　　狼史雜話

　

　　　　　　　　　　一

　

　先づ問題が三つある。第一には狼にも歴史が有るかどうかである。是は此世に狼といふ獣が始めて生じてから、いつでも全然同じ樣な生活をくり返して、ずつと今日まで來て居るか否かによつて決すると思ふが、實際は彼等の生活も變遷して居たのである。犬や鷄やその他の家畜のやうに、人に飼はれて追々と改良して來たものに、歴史のあることは誰でも知つて居るのだが、それを認める人々でも、なほ野外の動物だけは、原始以來千篇一律の生態を續けて居るかの如く、速斷して居る者が多かりさうである。私は今にその誤りが發見せられることを信じて居る。燕は人の家の梁に巣をかける。然らば家が建つてから燕といふ鳥は始まつたか。もしくは人家が東京のやうに、悉く硝子の戸を立てる樣になつたら、燕といふ鳥は無くなるかといふと、否と答へないわけには行くまい。魚でも小さな蟲でも多分其通りで、單に其變化に人間の計畫が無く、從つて又關心も乏しく、我々の目に顯著で無かつたといふだけで、以前と同一の活き方を續けて居ることの出來ぬのは普通であらう。さうすれば皆歴史があるのである。其中でも狼の社會はたしかに變遷して居る。何よりもまづ彼等は日本に於ては絶滅した、又は少なくとも居なくなつたと認められて居る。即ち彼等の國は亡びたのである。是が彼等の歴史でなくて何であらう。

　

(441)　　　　　　　　　　二

　

　第二の問題は狼の歴史を、調べて見る必要が有るかどうかである。是は人によつて答は區々にならうが、必要だといふ方の答が又三通りに分れるかと思ふ。其一つはそんな珍しい事ならともかくも知つて置きたいといふ純知識派、さういふ人の多いのは私はちつとも感心しない。其二はこの日本犬保存會の諸氏の如く、日本犬の固有種には狼の血が交つて居るか、又狼そのものゝ歸服し家畜化したものが有るらしき故に、是非とも彼等の歴史をも明らかにしなければならぬといふ人々、是が熱心の度に於ては今は最も前の線に出て居ると思ふが、なほ私たちは更に一段と弘い希望の下に、之を學ばうとする學徒の出現を豫期して居るのである。狼屬の衰亡は我日本の關する限り、殆と人一代の間の眼前の出來事であり、從つて又現實の不思議でもあつた。もしも隱れたる自然の大法則の、是が一つの適用であつたとするならば、例證としては最も新しく、且つ最も適切なものだと言ひ得る。普通に想像せられるのは生殖率の激減、それの原因であつた配偶交通の障碍、その又原因としての群生活の解體であるが、是は獨り狼の場合だけに、有り得べきことであつたといふに止まらず、他のあらゆる大小の生物の上にも、同じ因果の連鎖は常に働いて居たやうに思はれる。其中でも人類ばかりは、壞れかゝつた社會を再組織して、新たに繁榮を期する能力があるらしく信用せられて居るが、是とても實は五十歩百歩の差で、現に知能の稍々劣つた種族には、早く亡びたものもあり又亡びかゝつて居るものも多い。成熟した國家の複雜な世相の中でも、やはり不十分な婚姻の爲に、家が絶え血筋の保持し難かつた實例は幾らでも發見せられて居る。問題は決して犬と狼との間柄のみで無かつた。是も亦人類が知つて參考としなければならぬ一つの大切な「治亂興亡の跡」であつたやうに、私たちには考へられるのである。

　

(442)　　　　　　　　　　三

　

　第三に問題となるのは既に狼に歴史があり、又之を知ることが我々にも必要であつたとしても、それが果して明らかになる見込が有るかどうかである。史學は今までは傳へられたるものを受け繼ぐのを本務とし、どんな重要な事柄でも、傳はらぬことは是非が無いと、すぐに諦めてしまふ惡い癖をもつて居た。それでは承知することが出來ないで、何でもかでも此事だけは知らなければならぬと、疑問を先づ掲げて答を求める氣風が、つい此頃になつて現はれて來たのである。方法の有る無しは我々の知識慾の程度、つまりは狼の過去の生活を少しでも詳しく知らうといふ、要求の強さ弱さによつてきまるのである。たとへば今から百年前の、村々の小さい農民の?態などは、記憶して居る者も無く記録した書物も殆と無い。それでも是を知つた上でないと、自治の未來の爲に計畫することが出來ぬとなると、我々は百方辛苦して、少しづゝ新たなる發見を蓄積せずには居られないのである。大體に文字の資料が世に存する限りは、先づ出來るだけはそれを利用し盡し、さて愈々書いたものだけではもう學び得る何物も無いときまつて、次に他の證跡の捜索に出て行くのであるが、この日本の狼の衰亡史の如きは、まだ是でも孤島氷原の底に活き殘つて居る若干の不幸な未聞人などに比べると、比較的豐富な記録を持つて居る方である。そんな事を知つて何にするかと、言ふ人だけは致し方も無いが、知るべき必要を既に認めた以上は、方法が無いからと言つて斷念するには、實はまだ少しばかり早いのである。現在は此種の新しい史料が、可なり愉快な足取りを以て集まつて來つゝある時代である。同志諸君の健全なる好奇心に、私は多分の期待を繋けずには居られない。仍てさしあたり自分の持つて居るだけの乏しい知識を整理して置いて、少しでも早く嗣いで現はれて來る切れ／＼の事實の、利用が出來るやうに準備をして見たいのである。一二今ある材料ばかりでも、大よそ判つたやうに思ふことも有るが、それは言ふまでもなくたゞの假定である。今後の發見は續々之を訂正し、又時としては幸ひに之を確認させてくれることゝ思ふ。

　

(443)　　　　　　　　　　四

　

　狼の記録はその全部が外部記録、もしくは鄰人記録とも名づくべきものであつた。單なる噂で無いまでも多くは遠方からの觀察で、必ず眞相を究めて居るとは認めにくい。誤解もあれば誇張もあるにきまつて居る。一つ／＼の文書の其まゝに信用し難いことは、人間相互の見聞よりはより以上であるが、幸ひにして爰にはわざとで無い重複があり又偶然の合致が有る。比較によつて或程度までの確かさを加へることは出來る。誰でも最初に目を著けるのは、近世人の殘した遭遇記事であるが、是にも實は二通りの種類があつて、單に怖ろしくなつて遁げて來たといふ類の話は、大抵は立會人が少なく、從つて漠然たる記憶を尤もらしいものに固定し易かつた。之に反して狼と闘つて之を殪したといふ方の報告は、事が信じ難いだけに却つて最初から安全なる證據が求められて居る。單なる口から耳への噂話として、久しく傳はつて居るものがまだ有つたらうと思ふが、今日世に知られて居るのは多くは官公吏の干與したものだけであつた。所謂檢分の行はれた事實であつた。書いたものとしての確實性は、先づ是に超えるものは無かつたのである。

　私の集めて居る幾つかの實例の中で、最も評判の高かつたのは、信州内山村の龜松の事件であつた。是は當時の隨筆家が爭うて之を掲げて居るが、元の文書は一つであつたと見えて、事實の喰ひちがひは殆と無い。未刊隨筆百種第十六卷、「眞佐喜のかつら」といふ書にも、代官大貫治右衛門から勘定奉行に差出した報告が、原文のまゝで出て居る。時は天明八年九月二十五日の夕方、場所は信州の東の國境、南佐久郡内山村の破風山の麓、居宅から三町ほど離れた字逢目といふ處の猪追小屋で、十一歳になる普通の少年が、鎌を以て狼を斫り殺して親の危難を救ふたといふ話であるが、殘念なことには是には其狼の記述が全く無い。たゞ其擧動として此報文に現はれて居るのは、其時刻龜松少年はまだ外で草を苅り、親の惣右衛門は小屋の中で火を焚いて居る處へ、不意に後の方から來て是に喰ひつき、振りか(444)へつたら又唇から　腮へかけて喰ひつかれた。急いで狼の耳を?んで聲を立てると、それを聞きつけて龜松が飛込んで來て、手に持つ鎌を狼の口へつき入れた。さうすると鎌はかつら際（柄の附け根）から喰ひ折られ、用に立たなくなつたので親の鎌を取り上げ、再び狼の口へ捻ぢ込んで後へ押倒し、親子二人で押へ付けたけれども、親は數箇所の手傷で働くことが出來なかつた。龜松が一人で、次には石を狼の口へ入れて、折れた鎌の柄で打込み其牙を缺いたが、尚足を以て掻き散らすので、次には親指を狼の兩眼に入れて眼をくり拔き、打ち叩いて漸くに仕止めたとある。親大切に思ふ一心からではあるが、たつた十一歳の、年のわりに小柄で虚弱さうに見えたといふ童子に、斯うして殺されたといふ狼も少し弱かつた。それだから或は只の狂犬では無かつたらうかといふ想像も起るか知らぬが、信州のこの地方には明治以後までも狼は居つて、見たといふ人ならば幾らでも有るのだから、よもや小さな狂犬を狼と言つても承知する者は無かつたらう。兎に角に是は代官大貫氏が、事件があつてから四日目に其地を巡囘して、直接當人を喚び出して聽いたといふ記録だから、斯ういふ事實の有つたことだけは確かである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　一話一言（全集本）の卷七に、同じ代官報告書の後に添へて、父惣右衛門の疵所、同人の家内人別及び狼の大きさの三箇條が見えて居るが、是だけは出處が別であつたらうかと思ふ。代官の目的は、幼少の童子が孝心の餘りに、希有の勇力を示した奇特の行ひを申立てるに在つたのだから、斯ういふ附屬書類は適切で無かつた。狼の寸法の如きも精確なやうに見えて、其實は甚だ心もとないものであつた。役人が作成したものならば毛の色や形?、其他の特徴も視たことであらうが其は書いてない。それに第一「頭際尾迄三尺六寸八分」は少し長過ぎる。もし尻尾の全長を加へたのなら又少し短か過ぎる。皮横巾の二尺三寸八分と比べると、豚のやうな恰好の狼になるからである。此時代の江戸の閑人は、よく斯ういふ風説書を自製して樂しみにして居たから、この數字だけは信用しない方が安全である。五(445)弓氏の事實文編卷六十には、頼春水先生が書かれた童子龜松捕狼記事といふ漢文を載せて居る。是も大體は大貫代官の差上書に據つたと思ふが、たゞ二つの點だけ本文とちがつて居る。其一つは父が咬み付いた狼の耳を?みながら、外に居る伜に早く遠くへ遁げろと叫んだにも拘らず、龜松は却つて小屋に入つて來て狼と闘つたといふこと、今一つは石を狼の口へ捻ぢ込んだのでは無くて、それで鎌の柄の尻を敲いて、奧の方へ押し込んだのだといふことである。後の方は小さいことだから何れでもよいとして、始の點は偶然の誤聞とは思はれない。此方が勿論父子の情も強く表はれ、從うて又悲壯ではあるが、其代りに稍々突嗟の間には似つかはしからぬ理知の作用が有るのであつた。察するに是はさういふ風に此話を傳へた人もあつた結果で、作者が故意に斯くの如く、書き改めたものでは無からう。この程度の噂話の改造は、以前は殆と普通と言つてよかつた。だから書物に書いてあるといふだけでは、容易に其全部を信用することは出來ない。寧ろ其記事の何れの部分が、比較的もとの事實を保存して居るかを、辨別する練習の方が必要であつたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　しかもこの事實文編といふ書物は、特に近代の斯ういふ地方事實を、多く集めて置かうとした點で價値がある。たとへば龜松の事件があつてちやうど六十年目、同じ戊申の嘉永元年に、同じ信州の地京原といふ山村で、二女が狼を斃したといふ記事が次編十六の卷にも出て居る。地京原村は松代藩領で、今は上水内郡日里村の大字になつて居る。此村の修驗者大善院といふ者の家に、ひのといふ十七になる養女があつた。五月十九日の早天に、村から二町ばかりある欠ノ下といふ岡の陰で草を苅つて居ると、村の方から大きな狼がやつて來た。最初は何處かの見知らぬ犬だらうと思つて居たが、餘りに面つきが怖ろしいので、やつと狼といふことに心づいたとあるから、即ち犬にもよく見るやうな毛の色をして居たのである。

(446)　此記事は幸ひにして二人の人の書いた文章が共に採録せられ、二篇は何れも詳細を盡して居るので、比較によつて其内容を確かめることが出來る。一方の筆者は堤正勝、他の一方は桐山樵者とあつて、此藩のすぐれた儒者鎌原桐山先生のことである。この兩者の文を綜合して略述すると、ひのは兼てから狼は逃げると咬みつくものだと聞いて居たから、鎌を片手に持つてぢつと睨み合つて居たが、そのうちに段々近よつて來て、間六尺にもなつた所から飛びかゝつた。鎌を振りまはすいとまも無く、思はず知らず狼の兩耳をとらへ、それを押し倒して其腹の上に乘りかゝつたと話して居る。しかし鎌は右の手に耳と共に?んで居て使ふことが出來ぬので、それを取り直さうとして右手を緩めると、狼は早速起きかへつて娘の頭にかみつき、髪はほどけてしまつて顔にふりかゝつた。それにも構はずに再び兩耳にしがみついて、今度は左を下に横倒しにして、其上から押へつけて居たが、狼は怒りたけつて咬みひつ掻き、もう何箇處とも無く傷を負うた。どうかして此事を人に知らせようと思つて聲限り喚んで居ると、折よく用があつて近くを通りかゝつたのが、ひのゝ從姉にあたるしまといふ女であつた。しまは年三十七歳、村の辰吉といふ者の女房であつた。すぐに飛んで來て鎌はどこへ遣つたといつて捜し出し、押へ付けて居る狼に斬り付けようとしたが、ひのゝ臀が邪魔になつて思ふやうに手が下せない。そのうちにやつと腰のあたりを三刀、次に口を斬らうとしたが牙を一本折つたばかり、眼を狙つたけれども眼の下を突いただけであつた。それでも段々に狼は弱つて來たので、娘に耳を持つ手を放させて先へ逃がし、自分は後に殘つて更に一撃を加へ、もはや狼が殪れてしまつた頃に、漸く村の衆が隊をつくつてやつて來たと記して居る。我々に興味のあるのは、一生懸命になつた女の力、殊に十七歳の姿色ありといふ娘が、狼を押へ付けて放さなかつた勇氣である。此狼は珍しく大きな狼で、首から尾のさき迄が六尺に近く、重さ七斤十五兩、即ち十一貫八百匁あつたと桐山樵者は明記して居る。斤兩の計算は私には解し得ぬが、その十一貫餘といふのが正しいとすると、當時この地方の地犬の中にも、滅多に見られぬやうな大きな狼であつた。

　

(447)　　　　　　　　　　七

　

　それから今一つ、田頭村の女子狼を殪す事を記すといふ文章が、同じ事實文編の次編　　十二卷に出て居る。田頭村は何れの地方であるか、是は私にはまだ調べがつかぬ。筆者は菅耻庵であつて、此人の傳がわかればやがて知れることである。時は辛亥の四月とあるから、右の地京原一件より三年後の嘉永四年で無ければ、内山村一件から三年後の寛政三年である。田頭村の農民の娘、きみ女年十四歳、母と共に薪を採りに山に入つて居ると、一狼ありて突出し來り、驚いて仆れた母の上に乘りかゝつた。娘は急に一つの杙を拔いて來て、力一杯に狼の背を撃つと、狼はひつくりかへつて下の澤に轉げ込んだ。それから母を介抱して歸つて來て此話をすると、村の人々は槍を提げて、澤に入つて狼の居所をさがしまはつたが、逃げてしまつたのかどうしても見つからない。仕方が無いので戻つて來る路の傍に、何か灌木の茂つた中でかさ／＼と音がする。よく見ると脊骨を折られた狼が、蛇のやうに匐つて遁げようとして居る。早速槍で突いて退治をしてしまつたといふだけの話で、是にもやはり其狼の毛色も形も言はず、たゞ狼とある故に犬では無かつたらうと思はれるだけである。

　しかも其時代の人が驚いて評判したやうに、たつた十四歳の少女が狼を撃ち殺したといふことは、何れの點から見ても不思議と言つてよい事實であつた。それを詳しく考へて見るのは後のことゝして、私は尚此種の記録の世に傳はるものを、より多く集める必要を感じて居るのである。東北地方は人少なく山野が廣いだけに、此種の話はきつと多かつたことと思ふが、私はまだその二つしか氣づいて居ない。小野寺風谷の仙藩復讐傳の附録に、磐井郡平泉村の百姓彌治右衛門の妻阿珍、夫と共に田に出て働いて居る處へ、不意に狼が遣つて來て夫を?んだ。阿珍｜?《をの》を執つて大喝して之を斬る三度とある。さうして其?を夫に渡して、自分は狼の尻尾を引つぱり、二人して之を殺してしまつた。此狼は既に多くの人畜を害して居た惡獣であつて、それを退治したので藩から賞を賜はつたといふ話である。是は明(448)和六年の出來事で、ちやうど又信州の龜松から二十年以前の事件であつた。後に狼河原《おいぬがはら》の條でも言ふつもりであるが、狼に對する一般の崇敬は、當時奧州ではまだ少しも衰へて居なかつた。さういふ中に於て孤狼が害を爲し、人を襲ひ又人によつて制せられる例があつたといふことは、特に注意をして見なければならぬことだと思つて居る。平泉のやうな比較的開けた農村の近くにまで、出て來て人を害するといふのは狼の常の生態では無かつた。狼にも犬と同じやうな人を?む病が行はれたか。少なくとも何か特殊の原因の、新たに發生したものがあつたことだけは想像してもよい。

　

　　　　　　　　　　八

　

　是は善い狼と惡い狼との話、もしくは地のオイヌと他所のオイヌとの言ひ傳へを、考へて見ると稍々明らかになることだが、其前にもう少し、人と狼との闘つた例を述べて置かねばならぬ。東北に傳はつて居た第二の記録は、南部叢書卷九に採録せられた二郡見聞私記に、今の稗貫郡矢澤村大字矢澤、寺館の助左衛門が後妻某女、狼を殺して我兒の敵を取つた話を載せて居る。此書は天保六年の序があつて、專ら近年の見聞を録すと言つて居るから、前の平泉の話よりは又何十年か後の出來事と思はれる。助左衛門は寺館の古城址の麓に住む一軒家であつて、そこと北隣の五大堂といふ部落との間に、狼が住んで居るといふ大森山なる松山があつた。或日近所の若者たちが朝草苅りに、その下の陣が岡の邊へ行くと、子供の着物や帶が血に染まつて散らばつて居り、よく見るとそれは助走衛門が嚊息子《かゝむすこ》の衣類であつた。日が暮れたら泊つて來るやうにと言ひ含めて、五大堂の叔父の家へ使に遣り、そこでも明日歸れと引留めたのだけれども、とかく母一人を力とする連れ子であつた故に、隱れる樣にして夕方に戻つて來て、その途中で狼に喰はれたのであつた。母は知らせを聞いて急いでかけ付け、憎き狼のしわざと人々の留めるも聽かず、山に入つて見ると少しばかり草の無い處があつて、其片陰に我兒の兩足が、膝節の脛巾《はゞき》の際から喰ひ殘して置いてあつたとは悲慘(449)である。それを抱きしめて一旦は家に歸つて來たが、其夕方に再び其兩足を持ち出して大森山に登り、前に在つた處に置いて隱れて居ると、狼がそれを喰ひに又遣つて來た。直ちに飛びかゝつて狼の口へ手を突き込み、終に殺して我兒のかたきを取つた。夫の助左衛門が近所の人々を頼み、松明を振りつゝ大森山へ尋ねに行つて見ると、女房は大わらはになつて狼の死骸を引きずりながら出て來て、それを人々に見せたといふのは氣丈な女であつた。是などは前後の事情によつて全く實事の通りと思はれ、又狼も本物であつたやうに見えるが、殘念なことには大きさや毛色形?の記述が無い。只その夜を待つて再び獲物の殘りを喰ひに出る習性が、是によつて窺はれるだけである。東北の遺書にはまだそれ／”＼の著者の家に傳はつて、人にも知られず印刷にも付せられぬものが、幾らとも無く有りさうに思はれる。斯ういふ地名人名などの明らかに判つて居る例が、次々今少しく寫して示されるやうであつたら、たとへその一つ一つは簡略であつても、綜合によつて案外具體的なことが學ばれることゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　九

　

　婦女や童兒が狼と闘つた話は、武藏幡羅郡の百姓逸八後家の話を始め、前節に書き漏らしたものがまだ三つ四つはある。私の豫想では、さういふ話ならば我地方にも有ると謂つて、是がそちこちから追加せられるだらうと思つて居つたのだが、其豫想だけは稍々無理な注文であつたらしい。「日本犬」の讀者には、平生斯ういふ點まで氣をつけて居た人が、少ないといふことも一つの理由だが、それよりも此類の事件が大抵は百年近くも前のことで、直接に世間話として記憶せられるには、幾分か時が經ち過ぎて居るといふことに、考へ及ばなかつた私の誤算であつた。此上はやはり今までの如く、氣永に書いたものゝ中から史料を拾ふより外は無いと思つて居る。記録がもしあれば必ず傳聞よりは精確でもあらうし、又少なくとも其土地の人だけには、餘計な説明を添へずとも承認を受けることが困難でない。さうして今までの經驗に依ると、此類の記録は尚幾つと無く現はれて來さうなのである。たゞそれを待つて居る(450)間、少しく順序をかへて他の方面から、話を進めて行く必要があるだけである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　この狼の史學ばかりは、どうやら方法が先づ具はつて、史料が後から附いて來る形がある。さう云つた實驗は滅多には出來ない。自分の假定がはかなく覆へる危險は有るけれども、此機會を利用して一應の試論を掲げて置かうと思ふ。私の最初の計畫では、人と狼との戰闘を以て、一箇の近代現象と認めようとして居たのである。狩獵の生活は時を溯るほど、區域も廣く又濃厚であつた筈であるが、前には此類の事件が更に傳はらず、百年前後になつて急に斯ういふ話の、頻りに諸國に偶發したといふことが、何等かの意義を持つのでは無いかといふことを、考へて見たかつたのである。素より之に對しては反對の説が起り得る。以前は文筆の術が行き渡らず、有つても書くことが出來なかつたかも知れぬし、書いたものも亡失したのかも知れない。もしくは餘りにも有りふれた出來事である爲に、却つて書いて殘さうとしなかつたのだらうと云ふ人さへ出て來ようも知れぬ。併し私の見る所では、それも是も類例の數次第で、此後同種の事實が獨立して、各地澤山に發見せられた場合は勿論、今迄に擧げたものからでも、江戸時代の後期三分の一に入つて、急に斯ういふ奇聞の際立つて多くなつたらしいことだけは想像し得られる。さうして私等には是が又或程度まで、他の一面の事實に依つて、説明し得られるやうな氣もするのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　第一に考へられることは個々の狼の力の、さう大きなもので無かつたことが、近世になつて始めて暴露した點である。婦女や年齒の行かぬ少年でも、一生懸命になつて彼と爭へば、勝てぬことは無いといふのは新しい事實であつた。昔の人は全くさう思つては居なかつたのである。「古屋の漏り」といふ昔話などにも、虎狼《とらおほかみ》といふ言葉があつて、虎(451)の居ない日本では、是を獣の最も怖ろしいものに考へて居たやうだが、大きさより見ても種屬から推しても、先づ荒い犬位の強さだつたとして、意外なことは少しも無いのである。それが久しい間買ひ被られて居たのは、色々の事情があつた爲かと思ふ。今迄は人が其實驗をする折を持たなかつたものが、此時代になつて俄かに是を知ることになつたのは、單なる狼信仰の弛緩だけでは無かつた。勢ひの迫つて然らしめたものが、別に相手の側にもあつたのである。

　第二に心づくことは孤狼の出現である。いくら犬ぐらゐの強さの獣であつても、もし是が群をなして出没し、一度に人を劫かしたのならば、大抵は威壓の效を奏したであらうが、女や子供を襲うた狼は何れも一つであつた。是が狼の本來の習性で無かつたことは、大陸各地の狼害の記事などを讀んで見ても、又是と最も近い獵犬の利用法などを考へてもわかることで、彼等は即ち其弱點をさらけ出す前に、既に今までの長所の一つを失つて居つたのである。

　日本の狼には秦大津父の物語の如く、單獨行動に出でた例が古くから見えて居るが、それ等は多く此獣の靈異を説く場合に限られ、實際の遭遇談にはやはり群をなして居たといふものが多い。其群生活が近代に入つて崩壞したらしいのである。遠野物語の中に私の筆記して置いたのは、是亦百年餘り前の岩手縣の例であるが、或人が山中の夜路で、狼の大群が大地を踏み轟かして馳せ過ぐるを見、急いで樹の梢に昇つて之を避けた。それを最後として狼を此地方に見なくなつたといふのは、群が次第に存立し難くなつて、個々の狼の潜みあるくやうになつたことを意味するかと思ふ。是と同じき變遷、即ち獣の社會に於ける最も大きな歴史は、會ては狐に就いても現はれ、近くは又猿についても起らうとして居る。是が絶滅の一つの誘因になつて居ることは疑ひが無いが、其過程は相應の永い期間に亙り得る。何等の痕跡を留めずには終らなかつたであらう。

　

(452)　　　　　　　　　　一二

　

　狼に二つの種類があるといふこと、一方は山犬であつて之を豺と譯すべきだなどといふ説は弘く民間に行はれて居るが實は確かで無い。本草啓蒙のやうな實驗に據つた書物にも、日本に狼と豺とが居て、一方には趾間に水掻きが有るなどゝ記して居るが、果して今日の動物學に於て、承認し得らるゝ事であるか否か私は尚大いに疑うて居る。二種を竝べて比較をして見るといふことは既に不可能になつたけれども、少なくともどうして此樣な説が生じたかといふ迄は、多くの言ひ傳へを集めて見ることによつて是を窺ひ知ることは出來ると思ふ。三峯｜古峯《こぶ》ヶ原、遠州の山住春野山、もしくは但馬の妙見山等の眷屬の如く、神に代つて盗を防ぎ他の害獣を驅逐するものが、一方に有ることを信ずるとすれば、他方に人畜を襲ひ傷《そこな》はうとする狼を以て、是と同類とは視ることが出來ず、從つて別に兇暴なる一種のものを、認める結果にもなるか知らぬが、此信仰は支那の書物などの影響によつて、實は夙くより地方的のものとなつて居たのである。所謂豺も狼も共に至つて怖ろしいものとする人々が、尚且つ二獣を別々として居るのは、不完全ながらも其習性の觀察に基いて居るかと思ふ。だから人によつて、群を爲して行動するのが狼、孤立獨行するものが山犬だといひ、もしくは是と反對に考へて居る人もあるが、とにかくに二つに分けて居る説は多少の據りどころが有る。是だけ顯著なる生活方法の相異は、狼見たやうな野獣の上にも、何等かの變化を來たさずには居らぬであらうからである。

　或は山犬は里の犬の山に復つたものゝことだと、考へて居る人も有つたらしい。犬と狼とは既に種を分つて後にも、?々其血液を混じたといふ話があり、狼の子を養つて獵に用ゐた風習も元は實在したやうだから、さういふ場合も絶無とは謂ひ難いが、此類の獣の生存年限の短さ、及び種の持續といふことを考へると、それが一種のものとなつて山中に殘るといふことは想像しにくいのみならず、特に人間に害をする獣に、犬がたゞ一代の間に化すると迄は思はれ(453)無い。だから又ヤマイヌには二通りあり、其一つは病ひ犬で、それが咬むのだといふ説も生じたのである。病ひ犬は勿論咬むだらうが、山の獣となつてしまふことは出來ないのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　野獣の生活を跡づけて見ようといふには、一つの簡便なる目標は食物である。人の歴史に於ても何を食ひ、どうしてそれを求めるかは重要な項目であるが、是が獣の生活になると、今一つの緊切なる臨時の要求以外には、もう是だけしか問題は無いと謂つてよかつた。狼の食物として最初から豫定せられて居るのは、力のより弱い鳥獣の肉で、群の組織の如きも是を獲るが爲に發達したのであらうけれども、人が家畜を繁殖するやうになつてから、新たに其範圍は擴がり又之を獲る便宜は多くなつた。牛馬はつい近い頃迄其肉を食ふ人が至つて少なく、大抵は野外の馬棄て場と云ふ處へ持つて行つて棄てた。犬にも時として之を食ふ惡癖の有るものがあつた。狼に至つては殆と豫期せられたる其死畜の利用者と謂つてもよかつた。死人の葬法も、近世は土を深く掘つて埋めることになつたが、以前は深山の林の奧に送り、近親の喪に籠る者が、或期間之を守るだけであつた。從つて?々狼の來襲を防ぐ者の無い葬式もあつたわけである。古來此獣を靈視した俗信の起りには、或は此事實があつたので無いかとさへ思ふ。近世は割竹を土饅頭の上に伏せ刺して、之を犬防ぎ狼彈きなどと呼ぶやうになつても、なほ墓地に狼の附いたといふ話は希有でなかつた。狼群崩壞の一つの端緒は、斯ういふ容易な食料の世と共に増加し、必ずしも其獲得の爲に協力を要しなくなつた點に在つて、單なる活きた人間の壓迫では無かつたやうである。しかも後者の文化が展開して、狼の爲に食料の漸く乏しくなることを顧慮せぬやうになつたとすると、群は其間の爭奪や、又獨占の必要からでも、自然に解體せざるを得なかつたのである。是と同じ事例は猿の群に於ても認められて居る。彼等の食料は全然狼とは別であるけれども、やはり其捜索が困難になると、追々に孤猿の數を増加し、それが又匹偶を困難にし、やがては又其減少と絶滅とを促して(454)居るらしいのである。大きな問題と云はなければならぬ。

　狼の群生活の崩壞にも、その背後に潜んで頭領の威力の、衰退といふことが有つたらしいが、それはまだ確實には觀察せられて居ない。猿や二三の海獣だけに就いては、此點も可なりよく人が知つて居る。食物取得の途が容易である限りは、彼等の專念するものは母子夫婦の愛情である故に、めつたに仲間を離れて出て行かうとはせぬのであるが、それでも臨時に爭奪の必要が起ると、群の中の弱い者は必ず虐げられる。

　力の強い者が自己を統制する慣習が動物には無いからであり、又生殖の慾求ばかりは、群の外に出て充される見込が丸で無いからである。しかも此方の必要は週期的なるに反して、食物の飢餓ばかりは常在的である故に、?々或季節の寂寞を豫想する能はずして、群の節度に背いて單獨の行動に出ようとする者を生ずるのである。狼の親方が子分を指揮して、協同の作業をさせたといふことは、千匹狼といふ話の中にしか殘つて居ないが、是は自然だからさう想像して置いても誤りは無からうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　兎に角に我々が注意し始めた頃には、狼の習性は既に一部の變化を來して居た。群をなして往來するものと、孤立獨行のものと、明らかに二通りあつて其生活ぶりも同じで無かつた。是が或程度まで常民によつて認識せられて居たことは、各地互ひに連絡の無い言ひ傳への、類似共通によつて察することが出來る。私の手元に今採集せられて居るのは、中部地方の例ばかり多いが、もし是に興味を感じて尋ねて見ようといふ人が多くなつたら、今少し有力に此事實を證し得られると思ふ。信州南部の少年たちは、親や祖父母から聽いてよく斯ういふ話をする。曰く狼には善い狼と惡い狼とがある。一方は一匹づゝで里に近い處に住み、人に害をせぬのみか時には又親切を盡す。他の一方はすべて之に反し、且つ群をなして押しあるく故に怖るべきだと云つて居る。通り狼といふのが後者を意味して居たやうで(455)ある。普通には送り狼の話に伴なうて語られる。或人が夜分に山路を通つて居ると、一つの狼が送つて來て頻りに袂をくはへて曳く。怖ろしいけれども致し方なしに、引張られて叢とか藪の陰とかに入つて行つて坐ると、暫らくして大層な地響の音が聞え、何十頭とも知れぬ狼の群が、目の前を走り過ぎた。豫め通り狼の通ることを知つて、村人を庇護して其難を遁れさせてくれたのであつた。後で家の戸の口まで送つて來てくれたので、厚く禮を述べ又は小豆飯などを饋《おく》つたといふ類の話。是がたつた一度の出來事であつたならば、又別の解釋も下されようが、全然同じ話は方々に行はれて居る。つまり我邦に於ては此獣の中に、まだ／＼人間に對して好意をもつた者が居るといふ信仰が、一方に松代領内の悲劇の如きものゝ、續發した時代までなほ行はれて居たのである。

　私は是を新舊二つの見聞の、組合せから成るものと見ようとして居る。即ち孤狼の山野をさまよふものを、見かけることは段々と多くなつたけれども、まだ人畜に對する作害を實驗して、古くからの信用を訂正する迄に至らぬ時代が、相應に永く續いて居たらしいのである。ところが狼の方では、人間が何と思つて居るかには頓着せずに、追々と機會を狙つて食物獲得の仕事場を擴張して來た。狼の害は世と共に少しづゝ増加して來た。それで彼等の中にも惡いやつ、乃至は無法なやつが有ることを認めて、それを人間同樣に地の者と旅の渡り者との差に、解釋しようとして居たやうに思はれる。狼に救はれたといふ説話は、文藝としても形が整ひ、又古くからの傳統もあつた。怖ろしいと思つて居た擧動が實は親切で、あんな者にも善い心が下に潜んで存在した。人間はよく誤解をして無益に天然を危ぶまうとするものだといふ點が、話の種として人望を博して居たのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　しかし信仰は結局より精密なる經驗によつて、次々に修正せられなければならぬものである。大昔狼は神獣であり、理由が無ければ決して人を侵さぬものであると、獨りぎめをして居られた?態は、彼等の生態の變化によつて現實に(456)覆へつたのである。さういふ場合に讀書などの力により、丸々古來の信條の外に飛び出してしまふ者と、たゞ最少限度に根據の無いと思ふ部分だけを改刪するものと、二通りの態度が有るわけだが、今迄の平民は大抵は後の方に屬して居た。滅多に語り傳へを棄てなかつた故に、往々にして新舊の繼ぎ合せがあるのである。

　所謂送り狼に關する世間話は、形は新聞記事などのやうで、實は古い信仰の沈澱物であつた。何の某が何處から歸つて來る途でと、實際有つた事の樣に傳へられるにも拘らず、同じ話は到る處に分布して居る。是が狼に關して殊に著しいのは、何か理由の有ることだらうと私は思ふ。しかもその數多い例を比べ合せて見ると、是にも改訂の幾つかの段階があつて、徐々として移り動いて來た過程が跡づけられるのである。

　一番新しからうと思ふ形では、人を害するつもりで後から附いて來るのだが、それでも尚此方が轉び倒れぬ限りは、やたらに飛び掛らぬものと言はれて居る。煙草に火を點じ又は松明を振れば、其光の屆く處から内へは入つて來ない。或は帶などのやうな長いものを垂らして引摺つて來れば、それより近くへは寄らぬとも謂つて居た。假に誤まつて轉ぶことがあつても、どつこいと聲をかけて起き上れば害をせぬと謂ひ、或は寧ろ地上に腰を下して動かずに居れば、立退いて見て居るものだとさへ謂つた。是がたゞ單なる害獣の擧動で無かつたことは明らかである。さうかと思ふと何處の迷ひ犬かと思ふやうな足音で、いつ迄も後から附いて來る。家へ戻つてよく／＼考へて見ると、あれが送り狼といふものであつたらしい、といふ程度の話もある。氣味が惡いに相違は無いが、人は必ずしも是を敵とまでは考へて居なかつた。關東では?々秩父の三峯樣の御犬を、狐憑きを落す爲などに迎へて來るといふことがあつた。斯ういふ場合にも決して後を見返つてはならぬとか、もしくは轉ぶと御犬樣に食はれてしまふとさへ謂つて居た。川を渡るとぶる／＼と身を振はせて、水を切る音が聞える。其しぶきがかゝるのを感じたなどといふ細かな敍述もあつて、果して現實であるのやら、もしくは又信ずる者の幻であるのやら、其境目ははつきりとせぬが、何にもせよ是と普通の送り狼とは、印象が互ひによく似て居たのである。

(457)　私などの故郷では、送り狼も人に害をする爲に、附いて來るものでは無いといふ言ひ傳への方が多かつたやうに思ふ。そんなら何の爲に來るかといふ説明はもう出來ぬやうであつたが、其點は古風な妖怪も同じことで、此方が迷惑に思ふと否とに拘らず、本來人を送るものだから送るのだといふことを、承認させるのが趣意であつたやうにも見える。だから我家まで歸り着いて、やれ／＼と云つて戸の内に入る際にも、一應は外の暗闇に向つて感謝の辭を述べなければならぬとも謂つて居た。それを怠つた爲に終夜家のまはりを吼えまはり、惡戯をして去つたといふ話などもあつた。信州甲州の例はもい一層念入りで、早速小豆飯を炊いて家の外に出して食はせる。或は牡丹餅をこしらへて食はせて還すとも謂つた。小豆などはさう早く煮えるもので無いから、たゞの野獣ならば便々と待つて居る筈は無かつたのである。斯ういふ色々の例を知つて後に、里近い狼が人の袖を曳いて、通り狼の難を遁れさせてくれたといふ話を見ると、我々が狼に對する態度の、昔は外國と全く異なるものがあり、今ある送り狼の話はその幽かな痕跡であることが判るので、それが追々と危險な遭遇と感ぜられるに至つたのは、即ち又狼の社會の變遷を反映して居るものと解し得るのである。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　最近ラヂオで再演出せられた河竹黙阿彌の戀闇鵜飼篝火などは、既に今日の人には其動機が不可解になつたことゝ思ふが、僅か五十年の前までも、まだ我邦では狼は惡人しか食はないといふ信用が有つたのである。是は人の好い過信のやうであるが、沖繩でもつい此頃まで、ハブは祭の日を守らぬ者、其他心掛けのよくない者のみを咬むものと認められて居た。内地のマムシも元は恐らくさうであつたらう。支那でも雷が打つ者はよくない人だけであると言つて居た。雷などは昔も今も、同じやうな選擇しかしなかつたらうに、それですら數が稀だと斯ういふ想像が起り得たのである。ましてや動物の方には環境の指導があつて、習性は少しづゝ變つて居たのである。以前食料が豐かで人と直(458)接に爭ふ必要の少なかつた場合に、實際無害であり又時としては有益でさへあつた獣が、後には段々と荒れ出したとすれば、斯う見られるのも自然であつた。宮城縣｜登米《とよま》郡の狼河原《おいぬがはら》は、古くは多葉粉の産地として江戸までも地名を知られて居た。狼が數多く居たので、此樣な地名が出來たのださうである。今から百二三十年前の東遊雜記を見ると、此邊の人はまだ其頃まで、上方中國の樣には狼を怖れず、寧ろ鹿が出て田畠を荒らすのを防いで貰はうとして居た。だから夜路で狼に行逢ふことがあつても、「オイヌ殿どうか油斷無く鹿を追うて下され」と、慇懃に挨拶をして通る習ひであつたといふ。實際又狼の方でも鹿を捕つて居て人に喜ばれるやうなら、何もすき好んで面倒な仕事はしなかつたらう。それに此地方では、當時まだ狼の群は壞れて居なかつたやうである。

　ところが一方日本海の側では、ちやうど是と略々同じ頃に、もう狼の害がかなり怖るべきものになつて居たことが、橘氏の東遊記續編に見えて居る。莊内西田川郡の海沿ひの往還では、鬼が出ると謂つて騷いで居たと記してある。此オニも亦恐らくオイヌの轉訛音であらうと私は思ふが、實際鬼と解しても差支が無いほど、人間を目の敵きにして居たのである。斯ういふ地方的な事情の相違も、尋ねたら必ず原因は有るので、是を古今一貫の狼の習性として見るときは、到底滿足な説明は付かない。だから私などは狼の國にも、亦歴史が有つたといふので、たゞそれが人類文化の歸趨と同樣に、遲かれ早かれ行くべき所に行き、末には同じ一つの法則の支配を受けるやうになると考へることが、まだ出來ぬといふ迄である。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　所謂大口の眞神の信仰などは、すべての自然物崇拜が衰へて來た經路を、幾分か時おくれて辿つて來たやうである。狼の兇暴は近代に入つて愈々烈しくなつたけれども、それは却つて彼等の弱點、實際は無力なることを暴露する結果に歸して居る。餓ゑたる孤狼が婦女や小兒、即ち特に人間の小型なるものを狙つて襲撃を試み、しかも時々は尚撃退(459)されたといふことは、端的に彼等の威力の覆没を意味して居た。是がもし中古以前からも稀には有ることであつたら、斷じて明治の世まで其種族を續けて居ることは出來なかつたらう。狼の社會を保護したものは人間の無智であり、之を内部から破壞したものは、食料に比例せぬ口數の増加、もしくは計畫の無い消費であつた。微々たる一箇獣類の歴史ではあるけれども、よく見れば我々の參考にならぬことも無い。

　殊に興味の多いのは、是が地底の上代史料などゝは違つて、眼前にその推移の跡を展開してくれることであつた。近い頃までの日本人は、この狼の少しづつ貪慾になつて來たことを、尚暫らくの間は自分たちの信仰によつて、善意に解釋しようとして居たのであつた。たとへば下野の那須地方では、春の始に狐塚の上で祭を營み、それを産衣祝《うぷぎいはひ》などゝ謂つて居た。斯うして機嫌を取つて置けば種々の獣、就中狼の惡戯を、止めて貰ふことが出來ると思つて居たのである。或は又狼の産見舞などゝ稱して、秋の末に赤飯を炊いて、山に持つて行つて狼に贈る風も弘く行はれて居た。それから又此獣の害が急に激しくなると、誰か狼の巣を荒らしたものがあるだらうと謂つて、彼等の爲に安産の祝宴を催したといふ例もあり、さういふことをすれば狼が喜ぶものと思つて居た。三峯山中の御子立《おこだ》ての神事といふのも、やはり亦｜産養《うぶやしな》ひの作法であつた。斯うして何かといふと人間の誕生と同じ祝ひをしたのは、多分山の神の信仰に基くものであらうが、一つには又此野獣が、特に産育の際になつて食物を求めに、里を荒らしに來ることを經驗して居たからでもあらう。しかも其兇暴が漸く募つて來て、祭をしても尚あばれ、何の罪も無い女子供にまで、害を加へようとするに至つて妥協は破れた。さうして僅かな期間に狼は狩り盡され、又は繁殖の機會も無しに老いて死に、今や此邦には種が絶えたといふ説が、證據も無しに承認せられる迄になつた。人間には再組織の能力を具へたものが多いが、鳥獣には概して其資格が無い。是がその歴史の比較にならぬほど單純なる所以であらうと思ふ。

　

　（附記）　第六節の信州松代領内の狼害記事に、地京原村とあるのは上水内郡日里村の一部落で、同地には今も狼(460)と闘つた娘の友人が生きて居ると、久保田珍儀君は報ぜられた。桐山樵者の鎌原桐山翁であることも、亦同氏の教へである。桐山先生の文集中には、狼が人を殺した話が、他にも尚二三編あるといふ。太平喜間多君はその一つを寫して私に示された。ひの女の話よりもややおくれたる天保終り頃の出來事である。

　

(463)　　　「黒」を憶ふ

　

　故郷の話といふと、誰だつて少しは自慢をする。だから本當にしてくれぬ人が有るかも知れないが私の生まれた在所などは、先づ四神相應の地といふべき土地であつた。東は高原で北は山、西を大川が流れて南は濱に續く廣々とした田圃であつた。だから私が生まれたと、言つて見たいのは山々だが、それには殘念ながら少しばかり規模が小さかつた。家の數はたつた八十軒、それが東の岡から西の舟場へ下りて行く路の兩側に出て竝んで居る。何れも農家であつたが北側と南側と、屋敷の感じが丸で違つて居た。一方は背戸の日當りのよい物乾しの庭があつて、明るく廣々として花や果樹が多く、他の一方は表の廣場が道路の取擴げに取られて、後が窮屈でおまけに風よけの竹藪などがあつた。私はその北側の或一戸の兒であつた。

　それでも子供は道路に出て、道を通るものを見ながら遊びたがるので、自然に南を向いた門口縁先によく集まり、從つて北側の家の兒が亭主になり、又指圖役になる場合が多かつた。其上偶然に近所に年上の子が少なかつた爲に、何年かの間私の家が、所謂餓鬼大將の本營になつて居た。この大將の威望名聲に關しては、もはや是といふ記録も殘つて居ないが、今でも何かといふと其頃の事ばかり想ひ出すのを見ると或は相應の得意であつたのかも知れない。

　しかも必ずしも得意でなかつた一事は、私の家ばかりが後の竹藪を夙く隣の酒屋の庫に賣つてしまつて、家を通り拔けて山道へ出て行かれなかつたことである。秋になると鵯鳥の來て啼く大木が無く榎の實や南天の實がこぼれて、次の年の春は芽を出すといふ樂しみの無かつたことである。それよりもいやであつたのは、自分の家だけが裏門が無(464)くて、村の後の藥師堂の狗の子を見に行くのに、大まはりをしなければならなかつたことである。

　この藥師堂は村では有井堂と謂つて、峯相記といふ古い書物にも其名が出て居る。村が街道の兩側に移る以前の、歴史を語つて居る唯一つの遺跡であつた。家のすぐ後に在るといふ以上に、私の家とは色々の因縁があつた。父が若い頃にひどい神經衰弱にかゝつて、月の明るい或夕方に、突然居なくなつたことがある。大騷ぎをして川原や山を捜して見たが居ない。それがこの御堂の脇の空井戸の中から、月を見ながら考へごとをして居たと言つて出て來たこともあつた。此頃還つて見るともう無くなつたやうだが、この古井の上には口の開いた塚があつた。大昔火の雨が降つた時に、人が隱れた穴だといふことを誰かゞ教へてくれて自分も何囘か入つて見たことがある。昔といふものゝ不思議さを考へさせられた塚穴であつた。

　御堂に詣つて來る者は遠方の人ばかり多かつた。常は入用の無い葬式の村道具などが、堂の後の方には藏つてあつて、其入口の戸には錠が無かつた。春は一囘づゝ熊といふ村の狗が、仔犬を此堂の下で生むことにきまつて居た。私は其管理者であつたが爲に、?々この有井堂に往來する必要を感じたのである。妙な事ばかり永く記憶して居るやうだが、熊が二三日、姿を見せぬと思つて居ると、必ず誰かゞ私の所へ知らせて來る。それと言つて直ぐに飛んで行く時の氣持は、今に何としても忘れてしまふことが出來ない。代々の村の年寄たちは、口が重いから斯んなつまらぬ話はしなかつたが、恐らくは笑つて此樣子を見るから、彼等も自分々々の幼い頃を、戀しがつて居たことであらう。考へて見ると子供の役目も多かつた。乞食も巣食はぬやうな亂雜な堂の牀下へ、眞先に潜り込むのがいつでも我々であつた。さうすると一種の臭氣、あのにほひといふ以上に名前の付け樣も無い特別な香が、恰も香爐の煙の如く、子供の心を專念ならしめたのである。私の家では近頃羽後の大館から、赤い仔犬を貰つて來て育てゝ居る。こやつが行水が嫌ひで怒るから洗はずに置くと、時々かの五十年前の、有井堂の光景を髣髴たらしめる何物かを發散する。さうすると簡單に是は犬の臭ひといふことになるのだが、まだ私にはそれだけでは無かつたやうな氣がする。

(465)　熊は正しく我部落の板額であつた。如何に評判の高い人界の勇婦でも、未だ彼女の如く沈勇なる者は無かつた。我々は熊の武名を隆々たらしめんが爲に、實は幾度か隣郷に向つて、無名の帥を動かしたことを白?する。それが年を取り子を愛し、日當りに睡ることを好むやうになつて、我々は後繼者を思はざるを得なかつたのである。動物學上の眞實か否かは知らぬが尻尾は左卷き爪は皆黒いのが、強い犬の特徴と認められて居た。それから生まれたばかりに尻尾を持つて吊り上げて見て、キヤンとかクウとかいふやつは見込が無いとなつて居た。其鑑別は是も亦少年の職務であつて、幾つかの仔犬は我々の試驗を及第した。併し全體に毛色のちがつたのは信用が乏しく負けたり嫌はれたりして追々に野良犬になつてしまつたが、其内にたつた一匹すばらしい黒の牡犬が生まれて來た。それが犬といふ一語を耳にする毎に、今でも必ず思ひ出す私の「黒」であつた。

　其頃よく聽いた犬寺の昔話に、惡い家來の弓の弦を咬み切つて、殿樣の危急を救つたといふ黒犬なども、斯んなのが大きくなつたのであらうと私たちは思つて居た。毛並や耳の形は母親の通りで、姿は若いだけに幾分か輕快であり、眼の色が澄み透つて凛々しかつた。今に好い犬になると往來の人が、ほめて行くのを何度でも聽いた。村の犬には主人といふ者が無いから、打つたり蹴られたりすることも少ない代りに、滿足な保護者といふ者も無かつた。併し盗まれて歸つて來られぬやうな黒ではないから、其點は安心して居たのであるが、犬殺しの心配だけは始終あつた。丁度その時分に街道が盛んになつて、見馴れぬ風體の人が毎日通ると、自然に吠えた咬んだといふ問題が起り、警察も必要上黙許することになつたものか、皮商賣の人々が急に活躍し始めた。飢ゑたるのら犬がそちこちでマチンを食つて死ぬ。熊の親子はそんな物では釣られないが、其代りに彼等を敵視することは、誰よりも激しく、夜分や早天にこの兩名のひどく憤慨して居る聲を聽くと、我々までが小さい胸を痛めて居たのであつた。

　私の家の表口には古い一本の梅の樹があつて、丈夫な片枝が片脇へ出て居た。それへ何處からか大きな塵取を持つて來て、其中に四匹の仔犬を入れて、吊り下げて置いて學校へ行つたことを記憶する。仔犬はそんな處にぢつとして(466)居る弭が無い。一時間もせぬうちに皆おつこちて鳴いて居たさうである。犬殺しが斯んな小さな物に目をつけないことも、私たちは知らなかつた。たゞ何と無く愛する者が奪はれるのだと感じて居たのであつた。其内に或日歸つて來て見ると大變な事件が起つて居る。同じ梅の樹の根元に若い我々の「黒」が倒れて死にかゝつて居る。其頃は無理に家の母を頼んで門の扉をしめて貰つて居たのだが、黒は垣根をくゞつて飛出して行つて大いに吠えた。さうして太い棒でなぐられて、戻つて來て爰に横たはつたのである。とてももう助かるまいと老人たちが謂つた。私などは之を聽いて慟哭したのであつた。

　ところがその黒が助かつて、やがて起き出して來た。併し其れから以後は走ることも出來ぬ犬になり始終首ばかりことん／＼と動かして居た。漸く物をいふ位になつた私の末の弟は、いつでも此犬を見るたびに高笑ひをした。さうして自分一人で彼をゴメンナオイデナと命名して居た。お辭儀をする犬といふ意味である。これを近所の年とつた人たち迄が、面白がつて一緒になつて笑つた。「黒」の前途に色々の夢を描いて居た我々は、之をきくたびに何とも言へない氣特がしたのであつた。

　其後私の家は都合があつて他の土地に移り、二年ほど經つてから私ばかり、村に還つて人の家に居たことがあつた。村にはもう新しい色々の犬が生まれて居る。それを世話する少年も、もう私の舊友では無かつた。熊は老いくちて此間に死んで居た。さうして曾て我々があれ程まで大事にした「黒」がまだ活きて居るといふのは名ばかりで、實にきたなくなつて依然として首を動かしながらあるいて居た。勿論私を見ても尻尾などは振らなかつたのである。

　私がナサケナイといふ日本語の意味を、最も精確に理解したのは、此時からであつたやうな氣がする。

　

(467)　　　狸とデモノロジー

　

　　　　　　　　　　一

　

　私は十三から十七位迄の間利根の河口から十七八里上つた處の下總國の相馬郡に居た事がある。そこには狸の話は無いが貉の居た話はある。私の郷里は播州姫路だが、姫路邊では能く狸が人に憑くといふ。けれども此相馬郡の貉には全然左樣いふ話は無い。只人を馬鹿した誑したといふ話のみだ。一體私の考ふる所では、狸のみに限らず、凡てのデモノロジーは世の文明の進歩に從つて三期を劃して居ると思ふ。第一期は人に憑く。第二期は人を誑す。第三期は人を驚かす。究竟デモノロジーの方は文明の進歩に逆比して退歩しつゝあるのだ。此考からすると相馬郡の貉が第二期若しくは第三期に退歩しつゝあるものだ。かの邊は水害の甚だしい地で河原が非常に廣い。二里も三里も地形に何等の起伏なき極めて平坦な處である。その通路に一つの魔所がある。即ち附近に人家の少し途切れた所で、能くは覺えぬけれども、その高さ一丈五尺程であらうか、樹も樫か知れぬ。何でも下枝が無く、その半分許りの處から上がコムモリと生ひ茂つて居る。而かも孑然孤立で、四周には何等目を遮るものもない。其處を夜分通り縋ると必ず梢からバラ／＼と音をさせて砂が降る。それで魔所と名づけて人に怖れられて居るのだが、是は貉の仕業と定められて居た。現にそれを認めたものもあると云ふ。月明の夜或る者が件の利根川堤をブラリ／＼と歩いて來た處が、堤防の外の砂原を横ぎつて此方に向ひ馳せ來る一個の黒影がある。晝を欺く月明りだから能く分る。怪しみて見｜戍《まも》りつゝ行くと、(468)忽ち樫の大木に飛び移つてスル／＼と上つた。ハハア猫であつたかと想つて通ると何んぞ圖らん忽ち頭上にバラ／＼と砂が降つたそれで貉の仕業と知れた。多分貉が利根の河水で一浴浴びて出て砂原に轉がり、己が身を宛ら安部川餅にして其の儘樹に攀ぢ、身を震はして砂を撒くのであらうと云ふ。此樣な話もあつて、砂撒きの惡戯のエジェントは貉に極印を打たれて居た。その砂原は今こそ河川改修と共に無くなつたが、その前までは廣いものがあつたのだ。私なども此堤を十四位の時に通つた事がある。女の子程に神經は微弱でないから彼等の樣に怖れせなかつたけれども、併し長く記憶に存して、遂近頃までも或は本當の話ぢやないかと思つた事もあつた。がその時分からして貉の木登りと云ふ事には、一種の疑ひを存して居た。存し乍らも猶色々の話を耳にする儘に受け入れ、如何にも貉と云ふものはミスチヴァスな、併し極めて淺薄な、直に證據の上り易い化け方をするものだと思つて居た。能く貉が汽車に化けて軌道を走り、そして本當の汽車に轢かれて往生したなどといふ話をも聽き、下らぬ惡戯をする滑稽な動物だと、實は遂近頃迄も思つて居たのだ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　けれども段々注意して見ると、砂を降らす怪談は其處ばかりでなく、山道の角とか若しくは藪とかいふ所に能く何者かが砂を降らすといふ話があり、それが又必ずしも、狸の所業とのみも定められて居ない。所によつて色々に變る。事柄は同じでも其エジェントは土地々々で皆變る。只其中に所々狸の所業とされる迄に止まつて居る。それで是が全く根本から嘘といふ事が知れる。狸の文明には交通機關が無い筈だ。然るに甲地で砂を播き更に隔絶した乙地に移つて砂を撒くといふ事もあるまい。人間なら隨分九州で詐欺し、又東京でも詐欺するといふ事もあらうが、狸を此例で推す事は難い。要するに是は日本には限らぬが古來何處にも存する道の神の思想の變形したもの、即ちその思想の頽敗したものと思ふ。先づ近世の形式ならば之を追剥とでも言つて然るべき部類に屬するものだが、昔は之を神樣に歸(469)した。神樣が要所を固め居り、人が其處を通ると色々の危害を加へ怪我をさする、石を轉がしなどする。究竟本所の七不思議に在るおいてけぼり即ち人が通ると何者とも知らず聲があつて、「置いてけ／＼」といふ怪談もそれに屬するべきものだ。貉の砂播きとなると餘程惡戯化し、人にかくも滑稽視されて不面目なものになるが、古い形式は左樣でなく、中世頃までは人々によつて、頗る眞面目に取扱はれたものだ。現在其樣子が今日なほ記録に殘つて居る。例へば或る場所を通る際に過つて轉がれば其年内に必ず死ぬとか。又或る所で轉がる時には是非着物の片袖を棄てゝ往かねば禍があるとか。若しくは影を奪ふ池といふがあつて、人ありその堤を通るに自分の影を全く失ふ事がある。それは池の中の主が影を奪つたので、その人は間もなく死ぬとかいふの類がある。貉の砂播きの話も段々辿り辿つて源頭に溯ると、これ等とも一脈の系統を引いて居ると思ふが、是等に對して人々何れも眞面目に恐怖心を抱いて居た。それ故その後念佛が盛んに國内に行はるゝに至つてからは、此等の妖魔を悉く念佛の力で拒ぐ事となり、所在に供養塔を建てゝ災禍を避けたが、其の一方に理智の力が進むに從ひ、此の如き妖怪談を段々信ぜぬ事ともなつた。時代は漸次に推移して、初は年寄り、子供に怖れられたものも、後には只子供のみ信ずる事となり、その子供も何時しか信ぜず怖れぬ事となつて、今度は只爺樣婆樣の子供に語り聽かす面白可笑しい御伽話となり變り、僅に餘命を存する迄となつた。前にも言つた如く此の如きは獨り狸に就いてのみではなく、凡てのデモノロジーが皆運命を同じうして居るので、狐の如きも亦左樣である。狐も或る所では神に祭られて居るが、其盛んに祭らるゝ間は威力も強く、能く人の身體にも憑くけれど、餘り祭られぬ樣になると退化して人を誑す。それすら出來なくなると一層退化して今度は唯無暗に人を驚かす。斯う云ふと狐狸の威力の衰微しつゝある樣だが、要するに狐狸そのものの威力の衰微ではなく、それが人を威嚇する威力の衰微なのだ。何だか話が大分六ヶ敷なつた樣だが、つまり狐狸の主觀的威力の衰微でなく、我等から見る客觀的威力の衰微である。狐狸は昔ながらの狐狸で其本體は何等他と異なることなき平凡の動物に過ぎぬが、それを人間から見て客觀的に色々の怖ろしい味を附けた迄だ。が狸にかゝる妖怪談の著しい事は比較的近世で(470)あらうと信ずる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　何故かと云ふに狐を狸に比べれば一層その魔力に怖ろしい所がある。最も例外もあるだらうけれど、概して言へば狸の方が怖ろしい所が少い。人に憑くといふ事が左樣ない。それ故彼等のデモノロジーを假に事業と名づけ得るならば、狸のそれは先づ第二期の事業が始まるといつて宜しい。抑もその事業の因つて來る根本は何處からかといふに、私は矢張戸川殘花さんの話される如く、カチ／＼山のお伽噺が元かも知れぬと思ふ。而かも此お伽噺は五大お伽噺の中にも一兩年か若相だ。由來それ等のお伽噺には必ず極端の惡人が一人と極端の善人が一人とある。舌切雀でも、花咲爺でもそれだ。花咲爺は隣同士で、甲の爺さんは非常の善人なるに反し、乙の爺さんは非常の惡人になつて居る。それが舌切雀になると、一つ家の内に善惡兩樣の人間が居る。即ち爺さんが善くて婆さんが惡いか、此種類の脚本は日本のみでなく世界のお伽噺に共通のもので、クライストのポピュラーテールス・オブ・フィクションなどの中にあるものも多くこの種類に屬する、紅葉山人の譯出した二人椋助の如き。その中のビッグ・クラウス、リトル・クラウスも一つは善人なるに對して他の一つは惡人である。即ち言ひ換へれば所謂｜善魂《ぜんだま》惡魂《あくだま》である。此善魂、惡魂は實に世界のお伽噺に共通のもので、カチ／＼山の如きも亦一變形なるに過ぎぬ。支那にある西施、東施の話の如きもそれだ。惡人が心計を凝して成功せんとしても必ず皆失敗に了る。即ち西施の一聲無限の媚を生ずるを羨んで、東施が之に倣ふと醜更に醜を加へ、至る處盡く嫌忌されるといふ類だ。カチ／＼山も木舟が殘つて土舟が沈む。その土舟には狸惡黒が乘つて居るのだが、是は古來の善魂、惡魂の話の崩れた形である。此お伽噺に於て惡形に使はれたが因果で、狸は爾來永劫浮ぶ瀬なく、今以て世間に憎まれるに至つた事と信ずる。尤もそれのみではない。今一つ狸はその相貌少しく狐に似、其上能く家の周りに迂路つくからだと想ふ。狐の方の話は古くからある。そこで狸の惡黨化された頃は(471)餘程世が未開なり、凡てのデモノロジーの第二期に入つた時分であるが爲に、自然に狐程深刻でなく、至つて淺薄な、直に馬脚を露出する樣な化け方をする事となつたと信ずる。つまり抽象的に化道の方からいふと、狸の化け方はその衰微期に入つた事を立證するものとする。狐、狸のみぢやない。川童もさうだ。九州の川童は今以て人に憑くが東北の川童は惡戯するのみで人には憑かぬ。九州の川童は隱れる事が上手で決して姿を人間に示さぬが、東北の川童はそれが下手で直ちにヒヨツコリ水中から出る。これにも一期二期の差が劃せられる。お化お化けと一口に言ふが、仔細に考察すると此の如く時勢と共に變化しつゝ已まざるものだ。例へば百鬼夜行圖を見ても分る。等しく百鬼夜行圖であつても昔と近代とでは書き方が大いに變る。百鬼そのものに變りはないが、扨て一つ一つのそれを見ると著しく變つて居る。分り易く言へばお化けの中隊、お化けの大隊の編制には變りはないが、それを組成するお化けそのものが痛く變つて居る。又子供等にお化話を試みしめても直に知れる。今の子供の語る所のお化けは�ｺ川中世のそれとは著しい變化がある。即ち政治上の變化と同樣お化内閣も亦初中終更迭を重ねつゝ來て居るのだ。而して狸は其お化黨中の最も新黨なるものだ。此の話は狸を愛護せんと欲する側には頗る有力の事と思ふ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　なほこれに關係した事ながら、狸の化け方に就いて今少し話して見よう。元來人を誑すに目を欺くと耳を欺くとの兩種あるが、狸は主に耳の方である。狸は好んで音の眞似をする。けれども化け方としては目の方が術の優つたものである。何となれば眼の認識力は耳の認識力に比べてもつと強いからだ。それだけ目を欺くは耳を欺くよりも遙に難い。狐になるとそれを欺くが狸は力及ばぬらしい。狸は能く人に化けて酒買に往く。が、お臀《しり》から尾を出し、目も本具《ほんぐ》のクル／＼した奴を剥き出して居る。頗る化け方が下手である。只狸は耳を欺くに巧だ。が、耳の錯覺は目よりは起り易い。往來を駈くる自動車の響に、空際を仰いで飛行機かと誤り得るが如きが之を證する。然るに狸は好んでこ(472)の方面に化け試みるを以つてしても其術の拙き所以が知れる。狸が酒藏に棲み、造酒の時ならぬのに董事の造酒の歌を謠つて人を驚かしたなどゝいふ話もある。私の親戚の家に奉公した男に醤油屋をして居たものが居つたが、その醤油庫は昔村の繁昌の時に作つた芝居小屋の後であつた。そこに狸が潜んで夜な／＼三味を彈くやら義太夫を謠ふやら、宛も芝居でする樗蒲《ちよぼ》といふ樣な事をしたといふ話であつた。東海道の鐵道沿線には狸が能く汽車の眞似をする。先づ遠くに赤い燈光が見えると思ふと次第にガー／＼と凄じい音響が加はるので何であらう、貨物列車も通る時間ぢやないと思うて間近くなるや、燈光は車輪の響と共にバツタリ跡方もなく消え失せる、是は狸の仕業だといふ話もある。又常陸の霞浦附近、即ち土浦邊では能く狸が河蒸汽の眞似をして、ポーポーツと威勢能く入つて來る。今夜は常よりも少し早く入つて來たなと思つて岸に出て見ると何の影もないと云ふ話も聽いた。之等は多少目の方も混じて居るけれども、總じて耳を欺くに傾いて居る。が是とても狸のみに限つた譯ではない。前に咄した本所のおいてけぼりも矢張り耳を欺くものだ。此の類の咄は何處にもある。土佐にも廣島にもある。窓先に煤掃く樣に聲がする、誰だらうとて急いで開けて見ると何も居ない。耳を澄ますと前の聲が一丁ばかり遠い處になつて矢張り幽かに聞え渡るなどとも言ふ。紫宸殿の怪物の「その聲鵺に似たりけり」などあるも此類だ。越後にも小豆洗ひといふ化物がある。多く水邊で、深夜耳を峙てゝ聞けば、ザク／＼と丁度穀類を磨ぐやうな聲がすると云ふ。何うしてそれを小豆磨ぐ聲と聞き定めたかそれは分らぬが、是も矢張り耳を欺く化物だ。又木挽坊といふものもある。これは深山大澤の中で木挽の木を挽く眞似をするのだ。次には天狗倒しといひ、樵夫が幽谷に入ると、忽ち幾抱へもある大木の倒れる如き音がして吃驚させる。而かもその音は全く空音で何等の形の認むべきものがないといふの類だ。此の如きは日本の至る所に聞く妖怪談でつまり國民的のお化けといつて宜しい。大體説明の付け得ぬ音響がすると直ちに不思議として、或は之を狸の仕業に歸するのだが、果してそれが狸の所業であるといふ事に就いては確證がない。前の汽車の話にした處が、狸自身が私が致しましたと名乘りて出たものなら間違ひが無からうが、そんな事の出來る筈もなければ、只人間が勝手(473)に是は不思議だ、必定狸の惡戯であらうといふに止まるのだ。砂播きも同じ事で矢張り狸の自白した譯でもない。一體誰でも道を歩くと、耳の錯覺からか、何等か一種砂播く樣な聲を耳にする事があるものだ。定かにそれとは分らぬ乍ら、それかと思へばそれとも聞き取らるゝ事がある。その時日頃心に描き居る憎い狸を引出して、それの所行に人間の方から定めて仕舞ふ迄の事だ。丁度新聞記事などに惡い事が見えると、是は誰が書いたのだらう。彼奴だらう。いや此奴であらうと種々邪推の結果、最後に屹度誰々だと、平素一番憎く思つて居るものをそれに擬して定めて仕舞ふ樣なものだ。播州の私の郷里から二里隔つた所に寺の樣な建築があつて其處に父が塾生を置きなどしたが、庭の一部分は荒廢して其處に用ゐられぬ茶室があつた。誰いふとなく狸が棲むといふ話が傳へられたが、夜寢ると母堂が必ず魘《うな》される。それを狸の所業だといつて居たが、母堂のヒステリーにもとづくので何も狸の知つた事ではなかつたであらう。又東京へ來て下谷の御徒町に住まつた時に、兄が如何した事か夜な／＼魘されて仕方ない。兄はそれを氣にして居たが、一日何處で聞いて來た事か知らぬけれども、其家は狸屋敷だと話したものがあつた相で、それから兄は、警戒し始め、何か庭先を通る音でもすると直ぐに是は狸ぢやないかと言ふ始末、其の時分兄は大きな八角の樫の棒を持つて居たが、或る夜更けに端なく雨戸を敲く音がした。素破といふので雨戸を開け放つて見ると何の事だ大きな猫であつた。此の如きも狸の怪談の信用ならぬ證據であらう。目に訴へた感覺にも是に類した話は幾らもある。先づ朧氣なる感覺を強ひて誤り易い方の或るエジェントに歸して仕舞ふのである。日本全國到る所にお化話はあるが皆是である。まあイリュージョン・オブ・オバケと云ふ解釋からすると斯うだ、いや此の如きはお化けに取つてイヴォリユーションか、ディヴォリユーションか分らぬ。

　

(474)　　　狸とムジナ

　

　　　　　　　　　　一

　

　すこしのんきな話をして見よう。本年五月の末、十數名の元氣のいゝ文士の一行に加はつて、北海道へ海上の旅をした。船は滿員で皆入込のごろ寢をした中で、長谷川如是閑と自分と二人だけは、老人といふかどを以て好い船室を與へられ、自由に起臥して居たのが問題になつたものか、みんなが集まつてがや／＼して居る中へふいと顔を出すと、あゝ今あなたに聽いて見たらと言つて居たところです。狸とムジナとは何處がちがひますかと、藪から棒の質問であつた。そりや違ひますよ。第一に狸は尻尾が太く、ムジナの尻尾は細い。第二には狸の毛は筆になり、ムジナの毛はならない。第三に狸は樹に登ることが出來ないが、ムジナは木のぼりをして、小柿などをよく食ふものだ。うそだと思ふなら兩人を喚んで調べて御覽なさい、とまでは言はなかつたが、先づこの程度の答へをして置いて、まちがつて居たら後で訂正すればいゝと高を括つて居た。

　ところが偶然なことには、六月中旬に旅から還つて來て見ると、留守中に動物文學といふ雜誌が屆いて居て、是には平岩米吉君といふこの方面の研究者が、狸とムジナは同じ動物の二つの名だと、少しの但書も添へずに、明白に斷定した一文を掲げて居る。二つの意見は對決しなければならぬことになつた。がしかし私はまだ少しもまごつかないのである。

(475)　同じ問題は今から約二十年前、たしか栃木縣で裁判事件となり、東京まで持つて來てしかも片付かずにしまつたことがある。其　　?末を要約すると、縣令で狸を捕つた者は罰するといふ禁止令が出て居るのに、ムジナはよからうと公然之を打つた者が告發せられたのである。川瀬林學博士が鑑定人として控訴審に招かれ、やはり平岩君と同じに、狸貉同一説を主張せられたが、判決は結局無罪であつたやうに記憶する。といふわけは此地方にはタヌキといふ言葉は無く、狸といふ文字は知つて居ても、それが土地でムジナといふ獣のことだといふことを、まだ誰からも教へられて居なかつたからである。捕殺を禁止しようとするならば、ムジナと譯して書くか、少なくとも狸即ちこゝでムジナといふ獣と、明示する必要があつた。それをしなかつたのだから落度は立法の方に在つたのである。

　ムジナは即ち狸なりといふ平岩説は、この地方では適用するが、さう遠くまでは行くことが出來ない。まして狸もムジナも同じものだといふことは、土地としても正しいとは言へない。何となれば爰にはてんからタヌキといふ獣が居ないからである。二つの名前を考へ出したのは人間であり、それを或獣に割り當てたのも人間である以上、時々取りちがへるのも無理とは言へず、ましてや狸の側の責任とは言はれないのである。

　日本最古の文獻には、ムジナといふ語もあればタヌキといふ語もある。たゞ其記事が二つ離れた場處に出て居るので、同物異名とも見られぬことはないが、倭名鈔では少なくとも、兩者を二種の獣として居る。現在の日本語としても、二つの名詞の昔から有つた處ならば、それを同じものだといふ人は先づ無いであらう。物を見てから始めて名をおぼえた場合と、本や噂で久しく名を知つて居て、それはどんなものかと尋ねる場合との、大きなちがひは茲に在るので、しかも今日は名前だけは早く知り、本物は一生涯、見ずにしまふといふ人が段々多くなつて居るのである。狸と貉と兩名が名刺を携へて、自ら出頭するのを待つて居るわけにも行かぬとすれば、やはり出來るだけ多くの見た人の言葉を突き合せて、まちがひの元を尋ねて見るの他は無い。私は實は今それを遣つて居るのである。

　

(476)　　　　　　　　　　二

　

　東京は少しく事情を異にするが、東日本は一帶に、もとはタヌキといふ語の無い地方だつたらしい。其爲に形と習性とのやゝ似よつた二つ以上の野獣を、共にムジナと呼ぶ人が、關東などには多かつたのであつて、この區域だけでは川瀬平岩二氏の説も、精確では無いといふのみで、誤つて居るとまでは言へない。といふわけは本物の所謂タヌキも、こちらではたしかにムジナの一種だからである。私は斯う見えても少年の頃、たつた三四日だが其ムジナを飼つて居たことがある。場處は利根川の沿岸の丘陵の村で、其ムジナはまちがひ無く、繪にある通りの狸であつた。別に是以外に第二のムジナあることを知らず、又二つの獣が名を異にして併存する他處の例を聽いて居なかつたら、或はこれを狸の方言ぐらゐに心得て、暮らして居たかも知れない。方言とは何ぞやといふことは、今でも六つかしい問題であるが、少なくともこの二つの語は京都にもあり、古書にも載つて居るのだから方言では無い。たゞ一部地方の住民が其意味を取りちがへ、忘れもしくは誤つて適用して居たといふ事實が有るばかりである。それを明らかにすることは國語の爲であり、又教育の上にも必要なのだが、他に其任務を引受ける學者が無ければ、やはり民俗學の人々がこれを試みるの他あるまい。

　現在知られて居る二つ三つの資料を並べて見ただけで、この問題は大よそ釋けるかと思ふ。群馬縣では利根郡の赤城根村などで、ムジナには二つの種類があると謂つて居る。その一つはササムジ、この方が狸とよそで謂つて居るものだ、といふ人もあるさうだがそれはまちがひで、もう一つの本ムジといふのが、一名を十字ムジとも謂つて、背なかに十文字の斑が拔けて居るといふから、この方が多分本ものの狸である。

　新潟縣では彌彦山の背後、海に臨んだ間瀬《ませ》といふ村で、狸を飼ふ人から橋浦君の聽いて來た話は詳しい。この地方にもタヌキといふ語は無く、一般にムジと謂つて居る。ムジに二種あり、一はヤチムジ、他の一はマミムジ、ヤチム(477)ジは他の地方でいふ狸のことであり、マミムジは穴熊又はササクマ、�ｺ島縣の山村などでクマダヌキといふものゝことである。外貌は似て居るが二つは全然別種で、最も著しい差異は後趾の指の數が、ヤチムジは四本で他の一本は上の方に附いて居るに反して、マミムジは五本竝び揃ひ、それも長くして猿に似て居る。其爲でもあらうかマミムジは穴を掘ることが早く、且つ木にもよく登る。ヤチムジも穴は掘るが下手であり、木登りはしない。今一つの特徴にはヤチムジは一名を十文字又八モヂとも謂つて、頭から背にかけてさし毛の斑紋があり、その斑が頭部で八の字、背では十の字に見えるからさういふのだが、このモヂも多分はムジであつて、文字などゝ解したのは後の好みかと思はれる。乃ちあの方面にはタヌキの語は全く無く、本物の狸も亦ムジの一種と認められ、モヂは即ちムジと同系の語らしいから、爰でも川瀬平岩説は成立する。たゞしかしムジナの全部がすべて狸なりとし、もしくは狸より他にはムジナと呼ばるゝもの無しと言はうとすると、他の地方は言ふに及ばず、上州越後でもやはりまちがつたことになるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　是をもう少し精確に表示しようとすれば、やはり今日世に行はれて居る動物圖鑑のやうに、記述するより他は無い。同書には曰く、タヌキ一名ムジナ、犬科。前肢の爪アナグマに比し短し。又曰く、アナグマ一名ムジナ、鼬科。狸に似たる黒色のものあり、地方によりてはムジナと稱し狸と混同す。是だと大抵はまちがひでないが、たゞ一方には「地方によりては」が無いのと、一名といふ日本語が學問的でない爲に、AがBでありCが又Bならば、AとCとは同じだらうといふ、そゝつかしい推定も起りさうな虞れがある。何處かで誰かゞさう謂つて居るといふことには、幾つかの原因が考へ得られる。たとへばタヌキといふ單語を知つて居る者が、或地域には一人も無かつたといふなども其一つである。單語は丸つきり學ばなかつた場合もあり、知つて居たが忘れて傳へなかつたといふ場合もあり得る。(478)東國のタヌキもその一例であるが、西國に於ては其反對に、ムジナといふ語を使はぬ處もあるかと思ふ。二つの言葉の内容の異同を明らかにしようと思へば、何としてもその二つのものゝ共に存する場所に就いて調べなければならぬ。一方は本で又は小學校で教へられた語、一方は村で親たちが使ふ語といふのでは、第一に比較の條件が備はらぬのであつた。

　タヌキ・ムジナの二つの名が、共に民間に傳はつて居る土地も決して少なくは無い。そこへ行つて二つはどうちがふかと尋ねて見たら、いや全く同じだといふ者は恐らく無いであらう。自分は氣を付けて各地の話を聽いて居たのだが、遠州の氣多《けた》の山村などでは、ムジナは狸のこふ經たものだといふさうである。是は寧ろムジナといふ名だけは知つて居て、それが土地に居るどの獣のことになるかをまだ突留めて居ないからで、ちやうど關東のタヌキと正反對の場合であらう。信州の東筑摩郡などには、兩方の獣の名を共に知り、その聲を聽いただけでも區別し得られると言ふ人があつた。夜分小柿の木に昇つて鳴くのはムジナ、といふ話を聽いたのは松本であつた。三河の豐川の上流地方の獵師なども、よく似た二つの獣のあることは知つて居て、その一方の、毛も皮も共に無價値なものを、だまつて軒先にぶら下げて置いて、旅人に値を付けさせて賣つたといふ横着な話も聽いたことがあるが、そこではなほそれをムジナと謂つて居たか否かは不明である。美濃の揖斐川上流の�ｺ山村でも、居らぬ筈は無いのだがムジナといふ名は知らない。さうして狸とはどういふものかと問ふと、背に八文字の斑毛があり、さし毛を以て筆を結ひ、綿毛の附いた皮は其まゝ吹革《ふいご》の用に供するといふから、乃ち上州赤城根などでいふ本ムジのことであつた。

　三重縣中部山地の飯南郡森村あたりに行くと、ムジナとタヌキの二つの名は共に知られ、狩人ならば其ちがひを明らかに説くことが出來る。狸には八文字があり、毛は軟かで爪はころ／＼として居る。ムジナは之に反して爪長く熊の如く、毛は粗くして綿毛が少ない。即ち筆にも吹革にも向かず、いはゆる皮算用の出來ぬしろものである。私の生まれた播州の中部などでも、狸とムジナと同じものだと言つたら、子供でも笑ふ位まちがつた話なのだが、實際はど(479)ちらも見たといふ者がもう少なく、狸は繪で見るが一方には丸で馴染が無かつた。たゞ誰に教へられたとも無く、ムジナはもう少し長い顔をして居るものと私などは思つて居た。狸は此地方でもよく人を騙し、殊に四國の方からの影響でもあるか、?々人に憑き、現に私の親しかつた一女性も、それに惱まされて尼になつてしまつた。ムジナも油斷のならぬ夜の獣とは見られて居るが、まだ關東のやうに人をばかすといふ話は聽かない。たゞ大きな酒藏の奧などに居て、昨夜も酒造りの歌の眞似をして居た、といふ類の話をよく耳にしたのみである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　斯ういふ實地の話をもつと數多く集めて、比較を進めて見ないときまらぬことだが、このタヌキ及びムジナといふ二つの單語は、時を異にし又?況を異にして、それ／”＼の土地へは入つて來たものゝやうに思はれる。その爲に今でも一方をよく知り、他の一方は甚だうろんにしか知らない人が時々はあり、又稀には一つの語が、二つちがつたものの總名にもなつて居るのである。さういふ中でも眼で知つた言葉、文字で覺えた名稱は信用が置けない。狸といふ漢語などは、向ふではネコのことだといふ人さへあり、果して日本でタヌキといふ獣に、之を宛てゝよいかどうかも確かには答へられない。現に地名辭書にあたつて見ても、狸森と書いてムジナモリといふ部落が關東奧羽には幾つもあり、東京では又麻布の狸穴がマミアナである。さういふ字を書いた者がもし誤つて居なかつたならば、狸をムジナのことゝ解し、又はマミの漢譯であらうと思つた人が、かつて此土地に住んで居たのである。其爲に二つの獣が同じものになるわけには行かない。名は實の賓といふのは斯ういふ意味である。

　つまりは難波の葦は伊勢の濱荻といつた如く、中部のタヌキは關東のムジナなので、タヌキ又の名がムジナだつたのでは無い。九州四國の實例は是から尋ねて見たいが、大體にあの方面はタヌキが多く行はれ、ムジナといふ語はあまり聽かぬやうだから、事によると雙方を共にタヌキといふか、或は何か又別の名が出來て居るのかも知れない。鹿(480)兒島縣などでは、ダンザといふのがタヌキのことださうなが、遠く離れて佐渡にも團三郎狸といふのが有名であつた。他にも斯ういふ異名が多いやうだから、うつかり名に基いてムジナは居ないだの、タヌキは棲息せずだのといふことは出來ない。

　マミは古い書物にも又近頃の國語にも、又別種の第三の野獣のやうに記して居るが、私などの郷里では見た者が無く、往々にして人は是をマメダヌキ又は豆太と謂ひ、狸の小さいのゝやうに思つて居た。さうして一方には又越後間瀬の如く、普通にアナグマといふものを、マミムジといふ處もあるのである。新潟縣天産誌を見ると、同じ縣内にもヤジといふ語があつて、タヌキ又はムジナのことだと解説せられて居る。是は恐らくは間瀬などのヤチムジの下を略したものであらうから、マミムジの方も是に對して、たゞマミとばかり謂つて居るのかも知れない。さうしてもしそんな人が多くなると、末には二つの獣は別々のものとなり、新たに入つて來たタヌキは勿論、ムジナといふ語さへ、その何れか一方にやつてしまふことが無いとは限らぬ。東京周圍の農村などで、假にあのタヌキだけを、ムジナだと心得て居る人が有るとすれば、それは多分斯ういふ順序を經たもので、其爲にタヌキしかムジナと名のれないとなつては、今までのムジナが非常に迷惑する。

　

　　　　　　　　　　五

　

　そこで是からの國語教育に携はる人たちに、參考になるやうな小さな結論をいふと、タヌキは標準語、即ち動物學でも認められた名であるのみか、用ゐない土地はあるが知らぬ子供は先づ無からうし、その對象も一定して居るに反して、ムジナはいはゆる學名でない上に、行く先々で物がちがひ、折々人をしくじらせるから、是からはあまりはやらせぬ樣にした方が便利である。しかし親代々さう言つて居るものを、急に止めさせることも出來まいから、もし親切があるなら爰でいふムジナのことだなどゝ、附加へるのもよいかと思ふ。穴熊の方は狸にくらべて一層普及せず又(481)澤山の地方名があるから、是も即ち利根郡でササムジといふものとか、この邊でマミムジ又はマミといふのがそれだと説明すべきであり、殊にこの邊でいふムジナのことだと、言ふべき場合が多からうと思ふ。手數のやうだが物に二つ以上の名が有ることを知るのは、若い人たちには面白く、自然に又國語の改良に、興味をもたせることにもなるであらう。

　斯ういふめつたに見ることの無い生物については、正しい繪畫の教育といふことは大いに考へられてよい。問題のタヌキムジナなどでも、まだ日本にはこの二つの語の、全く行はれて居ない土地がそちこちにあるのである。たとへば青森縣などでも南部地方では、マミ、マミコといふ獣が居て、それがアナグマであることは先生たちだけが知り、又クサイ又はヤチグサイといふ獣が居て、よく夜路で人を騙すなどゝ言はれて居るが、是は大抵越後でいふヤチムジ又はヤジ、即ち本ものゝタヌキのことだらうと考へられて居るが、果して背に八文字十文字の斑毛があるかどうかゞまだ確かめられて居ない。その他にもなほ秋田附近のマスチヤ、紀州有田郡のシバハシリ、信州小谷などでいふバンブク等、方言集にはたゞ狸の一種と説明して居るものが色々ある。狸の一種では話にならない。小さなことのやうだが、ともかくも我々はなほ無知なのである。無知は何としてゞも次々に知にしなければならない。

　

(483)　第二十二卷　内容細目

　

野草雜記〔「野草雜記・野鳥雑記」1940年11月、甲鳥書林刊行〕

　記念の言葉

　野草雜記（昭和十一年四月、短歌研究五ノ四）…………………………………九

　蒲公英（原題、野草雜記）（昭和五年二月〜五月、ごぎよう九ノ二〜五）…一九

　虎杖及び土筆（昭和三年七月、民族三ノ五）

　　方言量の多少……………………………………………………………………二七

　　理由ある新語作製………………………………………………………………二八

　　舊語保存…………………………………………………………………………三二

　　國の兩端の方言…………………………………………………………………三五

　　中間地帶の混合…………………………………………………………………三八

　　複合形と語義……………………………………………………………………四〇

　　語義の推移と感化………………………………………………………………四三

　　隔地共通の例……………………………………………………………………四七

　　方言區域の論……………………………………………………………………五二

　菫の方言など（昭和二年七月、地上樂園二ノ七）……………………………五六

　草の名と子供（昭和十四年五月〜十月、愛育五ノ一〜五ノ一〇）

　　緒言………………………………………………………………………………六三

(484)　　雪の下…………………………………………………………………………六四

　　兎の耳……………………………………………………………………………六五

　　馬の砂糖…………………………………………………………………………六七

　　雀の袴……………………………………………………………………………六九

　　猫の枕……………………………………………………………………………七一

　　狐の剃刀…………………………………………………………………………七一

　　ぺんぺん草………………………………………………………………………七四

　　繪具花……………………………………………………………………………七六

　　ハゴジヤ…………………………………………………………………………七九

　　山の筆……………………………………………………………………………八一

　　爪紅草……………………………………………………………………………八三

　　桝割草……………………………………………………………………………八六

　　目はりごんぼ……………………………………………………………………八七

　

野鳥雑記

　野鳥雑記（昭和三年八月〜十月、アルト四〜六）……………………………九一

　鳥の名と昔話（昭和九年六月、野鳥一ノ二）

　　一　水こび鳥…………………………………………………………………一〇八

　　二　行々子……………………………………………………………………一一四

　梟の啼聲（昭和二年八月、家の光三ノ八）…………………………………一二〇

　九州の鳥（昭和五年十月、九州民俗學特輯號）……………………………一二六

(485)　翡翠の歎き（大正十五年五月、郊外六ノ六）…………………………一三七

　繪になる鳥（原題、野鳥雑記）（昭和五年七月、短歌月刊二ノ七）　　　　　　　　　　　　一四三

　烏勸請の事（昭和九年五月、東京朝日新聞）………………………………一四七

　初烏のことなど（昭和五年一月、大阪朝日新聞）…………………………一五五

　鳶の別れ（原題、市隱談片）（大正十五年六月、經濟往來一ノ四）………一五九

　村の鳥（昭和九年一月、きぬた）……………………………………………一六二

　六月の鳥（昭和八年七月、文体一號）………………………………………一六八

　須走から（原題、小河原鶸のこと）（昭和九年八月、野鳥一ノ四）………一七一

　雀をクラといふこと（昭和三年五月、南島研究）…………………………一七三

　談雀（昭和十四年二月、俳句研究六ノ二）

　　雀の郷里………………………………………………………………………一八八

　　雀の顔…………………………………………………………………………一八九

　　雀の家庭………………………………………………………………………一九一

　　雀の引越し……………………………………………………………………一九三

　　雀の國語………………………………………………………………………一九六

　

信州随筆〔1936年10月、山村書院刊行〕

　自序

　信濃柿のことなど（昭和七年十一月八日、長野放送局放送）……………二〇五

　しだれ櫻の問題（昭和五年十月、郷土一ノ一）……………………………二一三

　信濃櫻の話（「山宮考」――昭和二十二年六月――所收）………………二二〇

(486)　なんぢやもんぢやの樹（昭和六年三月、郷土一ノ二）………………二二八

　御頭の木（同年七月、郷土一ノ三）………………………………………二四二

　矢立の木（原題、傳説と習俗）（昭和五年二月、旅と傳説三ノ二）

　　二つの要素…………………………………………………………………二六二

　　地名と傳説………………………………………‥………………………二六三

　　峠と上の杉…………………………………………………………………二六四

　　矢立と矢止…………………………………………………………………二六七

　　樹の幹から鉄‥……………………………………………………………二六八

　青へぼの木（原題、信州隨筆）（昭和十年五月、山邨二ノ一）………二七二

　地梨と精靈（昭和六年十一月、郷土一ノ四）……………………………二八〇

　新野の盆踊（原題、誦の會）（大正十五年八月二十五日〜九月一日、東京朝日新聞）………………………………………………………………………………………二九一

　信州の出口入口（昭和十一年八月）………………………………………三〇二

　

孤猿隨筆〔1939年12月、創元社刊行〕

　自序

　猿の皮（大正十五年三月二十五日、放送）………………………………三一三

　松島の狐（同年八月、東京朝日新聞）……………………………………三二一

　狐飛脚の話（昭和十四年十一月、動物文學六ノ十一）…………………三三一

　坂川彦左衛門（同年九月、改造二十一ノ一〇）…………………………三六〇

　サン・セバスチャン（昭和二年二月、隨筆二ノ二）……………………三七〇

　對州の猪（昭和十四年九月、文藝春秋十七ノ九）………………………三八〇

(487)　猫の島（昭和十四年十月）……………………………………………三九〇

　どら猫觀察記（大正十五年五月、隨筆一ノ一）…………………………三九九

　旅二題（昭和十四年九月、俳句研究六ノ一〇）

　　一　有井堂…………………………………………………………………四〇七

　　二　金剛證寺………………………………………………………………四一〇

　モリの實驗（同年十月）……………………………………………………四一四

　狼のゆくへ（吉野人への書信）（昭和八年十一月）………………………四二六

　狼史雜話（昭和七年九月、同八年十一月、日本犬一ノ二、二ノ二）…四四〇

　

「黒」を憶ふ（昭和五年四月、文藝春秋八ノ四）…………………………四六三

　

狸とデモノロジー（大正七年九月、「たぬき」）……………………………四六七

　

狸とムジナ（昭和二十三年八月、「上毛の民俗」）…………………………四七四

〔2014年12月27日（土）午後五時25分、入力終了〕