定本柳田國男集　第二十三卷（新装版）、筑摩書房、1970､4､20（1971.3.10.2刷）

　

(1)　　　退讀書歴

　

　

(3)　　　　　自序

　

　批評家としては、此本の著者などはまあ無能の方であらう。いつでも紹介するのは讀まれさうも無いものばかり、結果から見れば書物を賣れなくする爲に序文を書いた樣な形にもなつて居る。誰の參考になり相談相手になつたといふ心當りは一向に無いのである。しかし、本屋は或は聽くことを欲しないかも知らぬが、本は元來手分けをして讀むべきものである。殊にこの節の如く出るものが多くなつては、人の讀む本ばかりを追掛けて居たら、片隅に讀まれぬ本が殘つて仕方が無い。此意味に於ては私のやうに、退いてやゝ普通で無い一つの持場を、擔任する者のあることも必要であつた。乃ち新時代の文運の總清算の爲に、斯ういふ讀書の記録を遺して置くことが、必ずしも徒勞で無いと思はれる所以である。

　後世百年の珍書奇籍は、事によると今私たちの歎賞し愛撫し、時としては切に其作者と共に、知遇の當代に得難いことを、悲しんで居るものゝ中から出て行くのかも知れない。現在の多くの蒐集家が、人や偶然の力で珍奇になつたものを、聞知り見つけることにばかり苦勞して居るに反して、私は少なくとも其原因に參加して居た。書物が賣れまいといふたつた一つの理由の爲に、日の光を見ないのは國の恥だと思つた。目前讀み解く者が無いといふだけの根據を以て人間の創意を没却するのは不法だと私は考へた。二十年前の『甲寅叢書』、それに續いて出た五十卷の『爐邊叢書』などは共に此見解を世に問はうとした我々の運動であつて、方法は如何にも拙だつたらしいが、趣旨だけは既に宣明せられて居る。『諸國叢書』の計畫も今は頓挫して居るけれども、曾ては亦私の書齋の一事業であつた。全國の邊土に生死した無名の篤學の、最も世に知られない著述を複寫して、集めて供養をしようといふのが、此叢書の立願であつたが、歳月を經る間に徐々としてそれが有名になり、斯うして殘し(4)て置く必要がもはや無くなつて、悦び且つがつかりした場合も幾度かある。書物を有りふれたものとする機關は、今日は完く備はつて居る。獨り大都の大量生産者が、過剰の圓本を市に曝したのみならず、個々の蒐集者も亦競うて其所得を披露し、しかも丁寧に其内容を説き立てて、讀まずとも大抵用が足るやうに骨折つて居る。もしも此間に於て新らたに事を好み、強ひて今まで省みられざりしものを省み存在し難きものを存在せしめんとする企てが無かつたならば、行く／＼珍奇の種は或は此世から消えてしまつたかも知れない。少なくとも自分だけはさういふ風に考へて、わざと時流に背いて片脇の小路ばかりをあるいて居たのである。

　今となつてしみ／”＼と感ずることは、書物は一生かゝつても、案外に僅かしか讀めぬものだといふことである。私は一族兄弟の間で、誰よりも多くの暇を持ち、又幼少の時から本は好きであつた。それで居てなほ世人の爲に談り得る所は、寄せ集めてたゞ是ばかりしか無いのである。將來の讀書子が歩み入る文の林は、甞て私たちの跋渉したものよりも、遙かに廣漠たる樹海でなければならぬ。そこに一條の正しい道を切りあけようとするには、迷うて戻つて來た柴人の言も栞である。素より群衆のどや／＼と行く大通りは別にあるが、私はなほ佇立して鳥語幽かなる、羊腸の徑を指さゝうとして居るのである。

　

(5)　　　　　批評集

　

(6)　　　　　金田一京助著『アイヌ研究』

　

　金田一君は最初專ら言語の研究の爲に、アイヌたちの部落に近づかうとした窮屈な旅行者であつたが、素直にして虚言を云ふことの出來ぬ彼等から、活きた言葉の意味を聽いて居るうちに、いつの間にかアイヌの感じを感じ得る人になつて居た。澤山の友人が殊に日高と東樺太の荒濱とに出來た。旅行に出られない季節には、種々のアイヌが入りかはり立ちかはり、金田一氏の東京の書齋へ、御客になつてやつて來て、何時でもまだ居ますかと驚くほど、永逗留をして行つた。彼等の多くは蝦夷の名門舊家の出で、もちろん皆同情すべき保守黨であつた。今の生活の味氣無さを、美しい歌と物語の記憶に由つて紛らさうとする人々であつた。故郷へ還つて程無く死んだと云ふ者も、若き老いたる何人かゞ有つたのである。それが至つて自然なる度々の會話の序《ついで》に、時としては又思ひ遣りの深い好奇心に導かれて、かうして篤學なる學徒の手に、空しく亡びてはならぬ若干の前代文化を、記録せしむる結果と成つたのは、學問の方から言つても誠に無上の機會であつて、また此書物が『アイヌ語の研究』に先だつて、世に現れた事情の一つでもあつた。

　アイヌ種族の最も大なる朋友、バチェラー老師の五十年の辛勞に對しては、我々の感激はまだ／＼十分とは云はれないが、幸ひにして其功績は、英語を讀み得る國々の學者からも、また彼の教への神樣からも認められて居る。しかもなほ金田一君のやうに、必ずしも酬いられんことを期せざる研究者によつて、考へて置いてもらはねばならぬ問題は殘つて居た。太平洋上の何れの島においても、同じ經驗は既に幾度かくり返されて居る。どんな慈愛に充ちたる傳(7)道者の眼光を以てするも、なほ入りとほることのならぬ心の隈を、所謂土人は澤山に有つて居るのである。無始の大昔からの幸不幸の標準、生死に對する考へ方などの、丸々西の人と違つて居た結果が是であつて、憚るとか隱すとか云ふ故意は無くとも、自分でもどう思つて居るのかゞ、實ははつきりとは判らぬのである。バチェラーさんの道が益々行はれると、此方は次第に幽かになつて行き、移り變りの時代にはそれがたゞ地下の泉の如く、靜かな心細さになつて流れて居る。金田一君は後の民族心理を學ぶ人の爲に、來つて之を掬まうとしたのであつた。

　アイヌは見た所至つて寡黙な民族であるが、不思議に豐富なる語言を有し、それがまた時代と外界に動かされて從順に變化した。文字の無い人たち程氣の毒なものは無い。隣を接した我々の切れ／”＼の記録の他には、あれだけさきさかえた當年の榮華が、僅かに老翁老女の傳承の中に遺留して、年と共に消え去らうとして居るので、其上に彼等にはまた大に忘れ、大に新らしくなるべき必要が迫つて居た。何か話は無いかと云ふ類の、同情の乏しい問ひやうでは、面食らふ者は決して彼等のみでは無い。我々の故郷の長老たちなども、之によつて次第に若い時代に迎合するやうになつた。さうして歴史の書物までが、強い時代の香を帶びるやうになつてしまつたのである。金田一君が單にアイヌの古語を知る爲に、忘れ殘りのオイナユカラを採集し、其辭句の意味を尋ねてゐるうちに、偶然に彼等の生活の全體にしみ通つてゐる昔の信仰を見付けたのであつたとしても、久しく其隣に住んでゐた我々の先祖の心持が、之を有力なる參考にして、段々解つて行くのは其お蔭である。いはんやこの人間愛から發足した辛抱強い研究の態度は、疑ひも無く著者の性情に基づくものであつたとすれば、しばらく日本と云ふ國に缺けてゐたヒュウマニストの學問の再興の兆として、殊に我々をして悦び望ましむる所が多いのである。

　此書物の特色はなほ幾つかある。中代以降の文獻の整理判別にも周到なる力が用ゐてある。之によつて利益する者は獨り未來のアイヌ語研究者のみで無い。例へば近頃の成吉思汗義經説の如きも、もう早くから無用の勞であつたことが、此書において明かに示されて居る。十七年來の論文集とはあるけれども、生活誌から文學へ、詩歌から神話へ(8)と説明が順序をおひ、其傳承に由つて本來の宗教生活を明かにしようとする點まで、首尾聯絡があつて其間に重複と矛盾を見ぬやうに注意して書き改めてあるのは、我々に對しても又親切な用意であつた。

　

(9)　　　　　中田千畝著『和尚と小僧』

　

　昔々ある山寺に、和尚さんとお小僧とが住んでをりました。

　かういふ文句を以て始まるべき民間の話が、古今に渡つて百數十章集めてあり、それがまだ日本國内の調査の、ほんの片端に過ぎないといつて居る。

　私がこの本を一讀して、驚きかつ歎じた點が七つばかりある。この欄の行數の許す限り、その印象を書いて見ようと思ふ。

　第一にはよくもまあこの種の珍らしい題目に注意を拂ひ始めてから、何年間もこつこつと黙つて捜索が續けて居られたといふことである。私ならとつくの昔に騷いでしまつて、もうまた青くしてしなびたものにして居たかも知れぬ。しかるにこの本の如きは正しくよく熟して落ちた果實である。

　第二には書店といふからには損失を祈願する氣遣ひはないのだが、篤志にもせよ敢然としてこれを世に問ふに至つたのは、明かに時代の力である。『和尚と小僧』すら本になつた。吾徒はもう安心してよろしい。これが愉快なる今囘の新發見の一つであつた。

　第三には我々の生がいの最も個人的な部分、即ち祖母に抱かれて一隅に寢た時代の夢まぼろしが、これほどまでに萬民公共の重大事件であつたとは、全く話し合つて見なければ分らぬことであつた。中田君無かりせば我々の童幼ばかりが、獨り僅かに保存し得た大切な昔が、無益の物恥ぢの爲に永く埋没してしまつたかも知れぬ。時世は誠に一個(10)の山寺の和尚である。明敏なる小僧によつて看破――啓發せらるべき事柄は、これから後もなほ多々であるに相違ない。

　第四に我々の殊に感動を新たにするのは、この民族の千古を一貫した、笑ひの繼承とも名づくべきものである。例へば三百年前に安樂庵の策傳大�ｺが、ある和尚の弱點や、小僧の機智として書き殘した話は、これを現代語に譯して話して聽かせれば、昭和の少年もやはり高笑ひをする。しかもその樣式たるや、たゞ少しの變更を以て、更に悠遠の大過去から引續いて無邪氣で元氣に充ちた少年の耳を樂しましめ來つたものである。

　話の根本が本當の昔々であつて、決して中古の文藝の所産でなかつたことは、單に何物を以て滑稽の犠牲として居たかを、考察して見ても明らかなことである。人には衰老がありまた次々の代謝がある。曾て優越の地位を獲得した大和尚でも、忽ちにして、黄金の小枝を携へて闘ひを挑みに來る者を迎へねばならぬ。師弟長幼の倫理法則は、もちろん大に彼を援護したらうが、しかも單純なる客觀者の眼には、それを飛花落葉の自然の推移と同じく、樂しく快く眺めて居ることの出來た時代もあつたのである。舌切花咲の童話で、愚者が簡單に滅び、二人椋助の物語で智ある者が無條件に勝つた如く「然れど氣の毒だ」といふ言葉をまだ知らなかつた時代から、和尚は小僧と戰ひつゝ笑はれつゝ、我々の兒童に取圍まれて、中田千畝氏が本を書く時代を待つて居たのである。

　

(11)　　　　　文野白駒著『加無波良夜譚』

　

　越後は民間説話のきつと多かりさうな土地だが、今までは採集がまだ一向進んで居ない。私の知る限りでは、石原享氏の『越佐傳説夢を買ふ話』、中野城水氏の『傳説の越後と佐渡』が、共に若干の昔話をその中に混入して居るが、その分界も明かならず、又幾分か修飾せられて、原形を認め難い憾みがある。外山暦郎君の『越後三條南郷談』に七つ八つ、石井研堂氏の『國民童話』に一つ、「旅と傳説」の昔話號に出た十ほどのものが、「昔々ある所に」の形をほゞ保存して居るが、こればかりでは如何にも物足りない。と思つて居る際にちやうどこの集が出た。どうかもう少し流行してくれゝばよいと思ふ。

　『加無波良夜譚』などと妙に氣取つた名をつけて、まづ少し損をして居る。これは率直に南蒲原郡昔話集と題すべき本であつた。この郡葛卷村に八十三年ほど住んで居る一老女、親子代々昔話が好きであつたといふ傳承者の、思ひ出を直接に書き取つた一册子で、卷頭にはそのお婆さんの寫眞が載せてある。

　紹介はこれでもう十分かも知れぬが、私には自分の實驗に基づいて、もう二つ三つ書添へて置きたい所感がある。その一つは速記術がこの採集には利用せられたといふ事、これは多分始めての試みと思ふが、その利益はたゞ精確といふことだけでなかつた。速記だから文句をかへることが出來ず、又文章を書く必要の無かつた上になほ土地の言葉が多く現れて、如何にも越後の老女らしい心持が出て居る。その方言にはそれ／”＼解釋がついて居るから、方言集としてもたゞの單語篇よりは面白い。さうしてその解釋が可なり適切で、一見したところ土地の人の手になつた樣な感(12)がある。これもまた速記の賜であつた。

　第二の所感は南蒲原の昔話が、どうやらもう收穫期をおくれて居るらしい事である。一百二つの昔話の中には、「歌をうたふ龜」や「婆皮」や「鷺の法華經」のやうに、他ではこはれたものが此地ではやゝ原形を存して居る例もあるが、一方には磨滅省略の度のやゝ強いものも多い。其上にたゞの破片となつて記憶せられて居るのが、惜しいかな他にまだ數十も有つた。それでも痕跡が有れば分布だけは少なくとも認められるので、この集では丹念にそれを列擧して居る。これが將來全國的結集の行はるゝ場合には、やはり有力なる一つの參考になるので、この點でも本書は忠實細心のよい手本と評し得られる。

　第三には採集の方法も私には賛成が出來る。場所はその老女の娘の家で、時は大抵夜分、周圍には話好きの中年の男女が數人居て、程よく相づちを打つて面白がつて聽き、折々は「私の方では斯うなつて居る」などと、同じ郡内でも村により家によつて、傳への變つて居ることを語つて、細かな點の異同を注意したさうである。これが多くの採集者には望み難いことで、時には却て身内の者などが笑止がつて、思ふ存分にしやべらせぬこともあり、年をとり髭などのある自分たちは、まづ昔話だけは斷念して居たものであつた。今後は計畫的にこの方法を眞似てもよいと思ふ。

　第四に昔話には方式が重要であつたこと、普通の老女などには、たゞ内容だけをかいつまんで、傳説などのやうに話して聽かせることの出來なかつた事、これも今度の採集でいよ／＼明かになつた。越後では昔話の發端は「むかし有つたてんがのし」等で始まり、終りは普通「いちやぽーんとさげた」などとなつて居る。中間の區切りには聽く者が「はーい」といつたり、以前は又「さーんすけ」といつたりしたさうである。さういふ要件が伴なはぬと、話す者も昔話の氣分になれない。それで雜談が説話に遷る場合などに、「昔あつたてんがので話させてもらひます」とことわつて、たび／＼話し方を改めたといふことである。他の府縣においても説話の採集者だけは、前以てこの形を學んで、こちらもそれで誘ひだす樣にすべきだと思ふ。

(13)　『加無波良夜譯』の採集者文野白駒は多分越後出身の人で、常は東京にでも出て居る人だらうと私は思つて居た。ところが後になつて聞いて驚いたのは、これが私の古くからの知人、鹿兒島縣喜界島の岩倉市郎といふ青年であつた。喜界は素より昔話に滿ちたる島で、岩倉はその優秀なる一傳承者ではあるが、それが五百里も北に隔たつた越後の雪國に來て、僅か二月徐の滯在の期間に、この周到なる記録を世に遺すことになつたのは、單に同人の篤志と熱情、乃至は南蒲原人の隔意なき態度のみが、能く然らしむることを得なかつたらう。これには昭和文化の我々に許す技術と言語交通、此種の採集を意義づけた學問等、あらゆる好條件が來り參加しなければならなかつたと思ふ。さうすると本書は決してわが岩倉君一人の記念物ではなかつたので、これを五百部の限定版などにしたことは間違つて居る。

　

(14)　　　　　岡田蒼溟著『動物界靈異誌』

　

　この書の著者岡田蒼溟氏は、いつでも故井上圓了氏と論判をする樣な態度で物を書いて居る。井上博士がもし自然科學に對する章魚配當の要求者ならば、岡田さんは則ちその第一囘の預金取付人である。しかも我々の知識の未拂込株式が、如何に大切なる債權であるかを、省みなかつた點は御兩人共通である。

　西洋でも神靈學會の人々には、最初から理學の力を見放して居る者が多い。さうして居ながら可なり敏感に、いはゆる唯物論者の批判を氣にかけて居るのである。そんな風だから餘計に論證があり主張がある。しかし自分等の知る限り、今だけの人間の知識であらゆる世の中の不思議が説明し得られると、公言した學者は一人も無く、單に素人の中にさう過信する者が時々あるだけである。そんな連中は最初から構ひ付けぬ方がよかつたのである。

　ところが日本はほとんど意地惡くと形容してもよいほどに、無數の新たなる不可解現象がその素人たちの周圍に發生する。滅多にそんな事件に遭遇せぬ歐米人に比べると、どうしてもその觀測が粗末であり、取扱ひが冷淡であつた。眞摯なる岡田氏はこの態度を公憤して居るうちに、自身いち早く靈魂信者となつた。さうして甚だ愚劣にしてまた手剛い假設敵と、際限も無く闘つて居るのである。

　昨年周防の天行居から、幽冥界研究資料の第二卷として刊行した『靈怪談淵』は文字通りの驚くべき書であつて、私は泉鏡花君等と共に頻りにこれを愛讀した。今一つ『動物界靈異誌』といふすばらしい奇書がある。ガマに蛇、きつねにたぬき、それから河童および外道といふ半分は動物、半分は怪物といつてよいものゝ事業習性の實例、各數十(15)篇づつを集めたものだといふ話を聽いて、我々はその出版を慶賀し期待し、かつ同時にかういふ忠言をした。

　けしからぬ者は通例事實をよく知らぬ人の中に多い。前から先生の論法を豫期して、さうだと直ぐいふ者にはこれ程の證據は無用である。同派引導と異派退治とを、一つの本で片づけるのは混亂に陷り易い。まづ事實をもつて未信者を動かし、説明は尋ねてくるまでお待ちなさるやうにといつたところが、餘程その意見を容れて、今度は「これでもか」といふやうな證據だけをまづ例示して、心靈理學はほんの少しばかり、片端の方に説いてある。さうして我々凡俗の徒に取つては、岡田氏が固くかう信ずるといふことも、やはり確乎たる現在の事實の一である。

　事案は、もちろん常に非常に貴いが、その中には力の階段といふやうなものが存在する。たつた一人でも虚言だらうといひ得る材料は、決して採用せられてはをらぬが、その殘りの中でも岡田さんが自身で見たもの、見た人から直接聽いたもの、見たといふ話の傳はつて居るだけのものがある。記録にある分は記録者の境遇次第で、念が入つたり粗忽であつたりする。こんな色々の實例は、五つ合せても必ずしも五にはならない。

　西洋では不思議話を法廷と同じ樣に、二人以上が見たといへば信ずべしとするが、日本の靈異は今もつて共同の視察を通例として居る。たぬきの馬鹿ばやしの類は多人數で聽く時に、始めて奇怪として存在するのである。從つて多勢でもやはり幻覺であり得る。次には人の話といふものも存外に變つてゆくものだ。三人も人を通るともう元のまゝで無いものと、推定した方が寧ろ安全である。

　といふ實例の一つとして、私ならば擧げ得る話がある。靈異誌の一八七頁にねこが物をいうたと稱する「柳田國男氏の話」が出て居る。

　氏の母堂が若い時に、信州飯田の某方のかひねこが「ゴマメくれ」といつたといふ。

　これは確に私が自分の書齋で、今から一年餘り前にした話の變化であるが、心あつての改造で無い證據には、私自身の話の方が今少しく面白い。それを今一應比較のためにくり返すと、話者は私の祖母であつて、それも又聞きらし(16)いから年代が大分古くなる。土地は飯田の町の事らしいが、あるひは近在の百姓家かも知らぬ。

　春のいゝ天氣の日に、おもてをゴマメ賣りがゴマメ／＼と呼びながら通つた。そのあとで障子の外に、だれだか小さな聲でゴマメ、ゴマメといふ者がある。をかしいと思つて開けて見ると、一人も人の影は無くて、縁側に家のねこが居るだけであつた。いつもゴマメ賣りが來て買ふときには、一尾か二尾くれることになつて居るので、欲しさの餘りこんな聲をだしたのかと評刺した。

　話には根がある以上、寧ろ成長して花がさく方が自然である。但しその事實の觀察の機會は存外に少ないのだ。岡田氏の著述は澤山の爭ふべからざる事實を含み、行く行くこれを支配する法則が、この中から發見せられる希望を我々に與へる。それを著者自身だけが理學に對する果し?の如く考へて居ることは、これもまた事實であるが、悲しむべき事實である。

　

(17)　　　　　中山太郎著『日本巫女史』

　

　女と歴史、個々の國民の進運に寄與した婦人の役目、美色と愛情以外の男性統御、要するに單なる「女ながら」ではなく、女でなくては出來なかつた大きな精神事業が、不思議に今までは同性の人達にさへ省みられてゐなかつた。今までは普通に隱れたる母の力、妹の力として、たゞ幽かなる暗示を投げられるまでであつたが、實際は格別隱れても何もゐないのであつた。近代は無論新しい轉囘を遂げんとしてゐるが、その以前とてもやゝ異なる曲折を經たといふのみで、何等かの形を以てこの大きな力が、行はれてゐなかつた社會はないといつてもよい。東洋では久しい間、宗教が彼等の舞臺であつた。イシス・アフロディテ乃至は西王母の中間に、まだ我々の説き盡さゞる無數の女神があつた。それを末世と繋ぎ附けようとする試みにも、常にまた女人が有力な中心であつた。その實例はあるひは偶然かも知れぬが、日本においても驚くほど顯著であり、且つ島國獨特の發達の跡を留めてゐる。中山氏の『日本巫女史』は、新たにこの問題を顧念せしめんとするの一著である。

　日本の社會を現在の實?まで持つて來るために、固有の信仰と優雅なるその管理者の意思感情が、どの分量にまで參加してゐるか。それが後にどういふ風に推移り、または抑制せられようとしてゐたか。一言でいふならば日本の女性の能力は主として今までは何れの方面に向けられてゐたか。これを事實に由つて説明したのが、この書物の最少限度の價値である。

　日本最近の二つの宗教運動、二つの民間信仰團の根柢に、たゞの二人の老女の異常心理が働いてゐたことは誰でも(18)知つてゐる。それが突發とはいひながらも、やはり日本の村の婆であつた故に、かういふ現象も起つたのだといふまでは、認めない人は無いのであるがさて然らばその徑路はと考へて見ると、これに答へるだけの材料は中山君しか持合せてゐない。我々の巫女は後には職業となり、また幾分か別扱ひの人間になつてゐたけれども、以前は大小の群の中から、自然に自ら指定して現はれ出づべきものであつた。尋常の家婦家娘が、因縁あつて靈を宿し、その不思議の言語をもつて男たちの行動を導き、もしくは迷ひを去り希望を抱かしめることは、近代少しづゝ稀になつて來たといふのみで、決して絶對の意外では無いのである。歴史は唯物派の手に移つてから、忌みてこれを記述せず、驚く者必ずしも傳ふるの力ある者で無かつた故に、彼等の活動は次第に小さなまじなひ、うらなひに落ちぶれてしまつたが、最初は一國の政治文學まで、共に皆その影響を免れ得なかつたのである。

　佐喜眞興英君の『女人政治考』は、はじめて琉球の歴史について、この間題を考究しようとしたものであつたが、當時中山君のやうに潤澤なる史料を抱持する友人が無かつたために、その著はたゞ外國學者の假定説に一つの傍證を附加した位にしか受取られなかつた。學問にもたしかに機會があり、今がちやうどその機會である樣にも思はれる。

　中山氏の前著『賣笑三千年史』は、巫女史と同一の意圖の下に著はされた姉妹篇ともいふべきものだが、不幸にして在來の遊蕩文學の聯想があるために、讀まれた割合には婦人問題の研究者からは、疎遠なる待遇を受けてゐた。今度の巫女史の方は交渉がずつと廣い。獨り女の力といふことを知りたいと思ふ者のみでなく、日本の神道の元の姿、少なくとも官府の眼を離れた村々の信仰が、起りまた衰へた原因を考へてゐる人にも、興味豐かなる讀物になると思ふ。

　もし缺點をいふならば讀んで餘りに面白いこと、もしくは史料が雜駁に過ぎて、強ひて價値不同の事實を繼合せて、急いで堂々たる體系を備へようとした點であらうが、これはむしろ後にこの書を利用する人々に、更により簡潔なる名著を作らしむべく、大いなる張合ひをもたせるに足るものである。社會は單に珍奇なる民俗資料の索引としてだけ(19)でも、大いにこの書を歡迎する理由があると思ふ。

　

(20)　　　　　鷹野彌三郎著『山窩の生活』

　

　サンカは確かに今の警察官吏の目の敵である。此方面の人々の手帳には、憎らしいサンカ、警戒すべきサンカの現在の生活ばかりが書込まれてあつて、我々との間の久しい交渉、詩趣に富んだ彼等の過去などは、顧みられて居らぬことは事實である。しかも鷹野彌三郎君は新聞記者として、特殊の立脚地から、この漂泊民族を觀察して居た人である。一言で謂へばサンカの友であらうと、我々は信じて居た。故に今度の本を見ると、好奇心は滿足せられたが、失望は新たに生じた。折角此樣な興味の深い社會問題を提供した人としては、何か用意の足らぬ所があつたやうに思はれる。

　主たる抗議としては、材料蒐集の一方に偏して居たことである。此小册子の附録に載せられたやうな普通の地方住民の報道を、今少し熱心に集められたら、著者の斷案は必ず變化したらうと思ふと惜しい感じがする。サンカは幸か不幸か本を買つて讀むことが少ないから、鷹野氏が何と言つたかを知るまいが、もし彼等は盗賊詐僞で生活する人民の群だと云ふ定義を下されたことを聞いたら、きつと非常に怨むことであらう。そんな窮屈な職業で何百年も生活の出來る筈が無い。近頃彼等の中に惡性犯罪の増加して行くことは事實かも知れぬが、それには必ず社會的原因がある筈である。之を見現さなければ「サンカの生活」では無い。

　又サンカに贋物多しと説いてあるが、是は範圍のきめ方があまり狹い故に、殊にさう言はねばならなくなるのである。此漂泊民は今まで寧ろ人に接するのを商賣として居つた。さうすれば血液の混同、もしくは部外の民の新加入を(21)免れる道理が無い。古來純血なサンカなどは自分には一寸想像がしにくい位である。從つて無籍者だけに限るとは勿論謂はれないのである。同じやうな漂泊を爲し、同じやうな假天幕に住み、且つ互にサンカの交際をして居る以上は、之を區分することは出來ぬ。さうして一代目のサンカが、舊サンカと一所に漂浪し、又は土着して居た例も自分は二三知つて居る。

　全國に散亂するサンカの數が、七八百人ぐらゐだらうとあるのには喫驚した。誤植でもあるのではないか。こんな僅かなものならば、何も社會問題と迄謂ふには及ばぬのだが、實際は惡いことをして警察から睨まるべき者でも、そんな小さなものでは無い樣だ。此頃では警察が新らしくなり、又サンカの變化が複雜になつて、所謂件數は減じたかも知らぬが、十年廿年前に巡査の手で追はれてゐたサンカは、一縣の境だけでも年に千を以て算へてゐたと聞いて居る。死に絶えない以上は今もどこかに居るので、自分などの感じでは、大阪の周圍、或は名古屋附近でも、各々萬に近いものが動いて居ることゝ想像して居る。水掛論になるか知らぬが餘り開きがあるから一言申して置く。

　サンカの族には珍奇なる話が多く附纏つて居る。殊に我々の造つた道路を忌避し、彼等だけの眼に見えぬ天下の大道があるのは面白いと思ふ。夫婦親子の慣習などにも、まだ我々と異なつた所が多いやうだが、今の内に同情の耳を以て、何とかも少し彼等の話を聽取つて置きたいものと思ふ。其點に關しては互ひに敵意ある者の接觸の記録は、眞に價値が少い。

　鷹野君の著述には又文獻上の研究が足りない。假に種々の舊書に散見して居る斷片的記事を漁ることは六つかしくとも、もし之を大體に綜合比較して或斷定を下した自分の論文を見られたなら、少なくとも其説の誤りを正した後でなければ、サンカは犯罪團體なりなどゝ云ふ大膽な斷案は下されなかつたらう。自分の論文は鷹野君の研究が始まつた後に、『人類學雜誌』に四五箇月も續いて出たもので、多くの人の目に觸れて居る。

　序に一言するが、サンカとは別種の漂泊民で木地屋といふ者のあることは書いてあるが、彼等の共通の苗字は椋木《くらき》(22)といふとあるは小椋《をぐら》の誤りである。さうして著者の所謂贋サンカの中に、小椋某と云ふ名の者があつたとある記事は、私としては大變に興味を惹いた。勿論別種ながら、此二種族の間に何かの交渉が有るものと考へさせられたからである。大體に於て斯ういふ切れ／”＼の報告には有益な資料が多い。それが新奇なる問題を學界に提出せられた功勞と共に、著者に向つて感謝すべき點である。

　

(23)　　　　　『東側の窓』

　　　　　　　　　Eastern Windows；by Miss E.Keith（Hutchinson,London）

　

　キースさんとお友だちであつた子供は、この東京にも澤山居る。私の宅などでも、始終子供はキースさんの話をして居た。その友人等が段々大きくなつて行く間、始終キースさんは極東の大陸と、諸島とを往つたり來たりして居たので、『東側の窓』はその一人旅のスケッチである。東京、京都、鎌倉の假住居から、あるひは北海道の平取から、また京城、北平や楊子江岸の諸都市、南支那の大きな港、さてはモロ・フイリピノの住む南の島々から、今は英國の田舍に還つて居る姉さんとその夫のロバートソン・スコットへ、絶えず送つて居た手紙を整理したものである。これにあの頃から既に評判になつて居た自製の日本式版畫十枚と、二つの水彩人物畫がいれてある。その一つはアイヌの老翁の座像、今一つは年取つた僧の法衣を纏うて居る所、二つとも前に一度見せてもらつて、よく覺えで居る畫であつた。

　朝鮮半島には殊に何囘も長く遊んで居て、深い感動を受けたらしいことは、日記風の僅かな記事からでも察することが出來る。政治の方面には女らしくわざと觸れまいとしてゐるが、あの古風な沈んだ美しい單色の調和から、靜かに酌上げようとして居る過去文北の哀愁のうちには、大きな論文でも述べ切れないやうな、込入つた問題の片端がうかゞはれるやうに感じられる。然し讀者の空想を釣り込むのは、何といつてもまだ知られて居ない熱帶の島々の生活であらう。我々はかうして西洋の一女性に視られて、始めて千年の隣人の心持を知つたといふわけである。

(24)　著者はミス・キースなどゝいふよりも、寧ろお孃さんといひたいやうなしをらしい婦人であつたが、旅行と美しいものを求める態度にかけては、竝以上に勇敢であつたと見えて、その見聞の一部には可なり獵奇的な興味もある。それを話ずきが是非話して聽かせようとする氣持で、至つて家族的におしやべりをして居るのは、どうしても旅行國の國民だけのことはあると思つた。著者の御母さんや兄弟たちも、私はあちらへ行つて皆知つて居る。世間の讀者が感心させられるよりも前に、さぞあゝいふ身内の人たちが、寄り合つて樂しんでこの手紙を讀んだらうと思ふと、私は徽笑を禁じ得ないのである。

　たとへば蘇州城内の風景は、京都の竹内栖鳳さんが、人間味に富んでゐるといつて賞めて下すつたなどゝ報じてゐる。栖鳳先生の蘇州小景には、遠い昔の文化の奧ゆかしい姿がよく現れて、感歎の言葉も知らぬ程であつた。かういふ優れた名匠に賞められたのだからうれしいとも書いてある。曾てゴルデン・バウの著者のフレエザー教授にお目にかゝつた時と、同じやうな感動であつたとも記してある。藝術家又旅人としての娘らしさ、それが殊に自分等には珍らしいのである。

　以前スコット君の「新東洋」といふ雜誌に、この著者が折々スケッチを載せて居た時には、あなたの描く日本人はあまり眼が釣り過ぎて居ていけない。もうあなたの畫は決してほめてあげないなどゝ、私はよく冗談をいつたものであつた。それでも私にはかうしか見えないのだからと、毎度彼女はいひわけをして居たのであつたが、今囘の『東側の窓』を見ると、そんな眼をした東洋人はあまり出て居ない。永い間には多分我々と同じ樣に見えて來たのであらう。全體西洋人はいつも自分の家の東の窓を明けて我々を見ようとする。ところがこの本ばかりは、實は我々の家の西側の窓の外から、にこ／＼笑ひながらのぞいて見て居るのである。

　

(25)　　　　　矢部鴨北著『千葉縣郷土誌』

　

　前代の地誌の中では、太田頼資の能登國名跡志などが、樣式においてやゝこの書と近いかと思ふ。この一つ／＼町村を見てあるくやうな態度が、實際は私撰の郷土誌の有難い特色の一つで、筆者は一人で各町村を知つて居るのみならず、書かうとするに臨んで以前の印象を呼び起し、どこか坂の上とか橋のたもととかいふ自然の地點から、もう一度その土地を見直すやうな氣持になるので、平板なる記述にも幾分の紀行味ともいふべきものを付與するらしいのである。官府團體の事業にはそれが望めない。縣誌郡誌の堂々たるものは近來大分出て居るが、大抵は部門を立てあまりに體裁を整へて居るために、却てこれを讀みながら、旅行をするなどゝいふわけにはゆかぬのである。

　この書物は安房の湊村の一角に足を入れて、それから略々路順に次々の町村に移り、終りに千葉の市へ還り付くところが、如何にも一覽記風に自然に出來て居る。縣人が我居村の條を讀み始めると、知らず／＼隣からその隣へと、見て行くやうに書いてあるのは面白いと思ふ。前年刊行せられた『房總叢書』などを見ると、この地方にも私撰の地誌は少ないとはいはれぬが、多くは著者の住地を中心にした小さな圏内に詳しく、遠くへゆくほどいつの間にか傳聞や抄録になつてしまふ傾きがあつた。これは人間の根氣にも限りがあるから、まづやむを得ぬことと自分などは見て居るが、近年出てくる案内記類に至つては、故意に一地のみを力説しようとする結果、寧ろ周圍を閑却して反感を抱かせて居るものさへある。それでは折角の郷土誌の效果が、少なくとも一つは消えてしまふのである。

　多くの縣では公共生活の統一のために、別に縣誌を要約した何々縣概覽といふ類の、手頃の讀物を出して居る樣だ(26)が、その本が入用のありさうな人の手に開かれて居るのを、私などはまだつひぞ見たことが無い。それが少しでも縣民の結合に役立つのは、なほ澤山の改良の後でなければならぬわけである。その中でも千葉などは元來が大小諸領の寄合ひである上に、東京には近くかつ出入口は多いから、今までは實に單なる一行政區畫といふに過ぎなかつた。もつとも郡は役所が無くなつても、何だかまだ一體といふ感じが殘つて居る。しかし隣の郡となると丸々の別天地で、相變らず村の名も正しくは讀めず、ましてやどの邊にあり何をして居る村かといふことは、互に少しも知らぬ人たちが多いらしいのである。それをせめては東京の名所ぐらゐに、親しくさせることが自治の第一次の準備であるが、さういふ事業には今まではまだ進んで居なかつた。千葉縣郷土誌は青年の讀み物にはやゝ六つかしく、古風な地名の考證に餘分の力を割き、地形や交通の解説には物足らぬ點もあるが、兎に角に縣を一つの研究物として、まとめて取扱つて見ようとした態度だけはよく見えて居る。かういふ樣式の温かみある郷土誌は、今少し流行させ又改良して行く必要があると思ふ。

　我々縣外の者の手をつけられぬ部分が幾らもある。風土山川は昔のまゝとはいひながら、明治以來の發展は偉大であつた。産業は急に進み人物は輩出して居る。これを土地人の素直な感情をもつて、語つてゆくことは大きな事業であつた。私は細かにこの一册の本を讀んで居るうちに、始めてこの縣が國の重要なる一區域であることを解したのである。著者の矢部鴨北翁はこの縣の古い教育者で、三十幾年かの昔から地誌を書く志を抱いて、村々を見て歩いたといつて居る。それだけの根氣とまた經歴とがあれば、當然にこの一書が成つてよいわけであるが、なほ我々が技能以上、努力以上に推服しなければならぬのは、その縣人として縣を愛して居る態度である。矢部氏の生地は東金の近在であり、今の住地は利根の河畔の笹川であるといふが、さういふ事實は少しでも記述の上には現れて居らず、どこもかしこも平ら一樣に、すべて千葉縣の一部として書いてあるのは、何でも無い樣だが我々には一寸出來ないことで、この公平な態度が全卷に行渡つて居て、十分に總體の效果を高めて居る。例へばごく近年に始まつた義家頼朝の傳説(27)とか、殊には何天皇の御遺跡とかいふ類は、著者自身が怪しいものだと思つて居ても、直言すると怒る人がまだ居るので、さも歴史のやうに書いてのける者も多く、中にはそのために特別の勉強をした場合もあつて、これが今までの地方誌の病と認められて居たのだが、そんな點にはこの郷土誌はごく無頓着で、うそかも知れないと平氣で言つて居る。かういふ舊跡の爭奪にばかり、妙に肩を入れて居た今までの地方人氣質をさらりと棄てさせるためにもこの本は有益であると思ふ。私は文化の地方分權のために、この類の學問の眞價が今少しく有識者に認められ、府縣はまた金さへあれば何でも出來るといふ風な考へを改めて、今少しく個々の民間篤志家の功績に期待するやうになることを、かういふ書物を見るにつけて、殊に痛切に希望せざるを得ない。

　

(28)　　　　　木戸忠太郎著『達磨と其諸相』

　

　木戸忠太郎氏のダルマ採集は二十五年前に始まつて居る。その京都の自邸に達磨堂が建つてからも、十年は確に經過した。少しこの本の世に出るのが遲いなと思つて居ると、それはそのはずだといはせる以上に、途法も無い一大雄篇が準備せられて居たのである。著者の研究心には止めどが無かつた。それがもうよからうといつて出すのだから、びつくりさせられるのは致し方が無い。古來の何々大全といふ書物は、大抵はこれよりもずつと不完全である。

　其代りには同時に色々の種類の讀者を捉へることが困難かとも思はれる。たとへば菩提達磨の佛教上の地位、それが支那に渡り日本に來てから、新たに結び成した傳説と信仰とが何であつたかを、これ位要領よく編述したものも少ないのだが、それを通覽して利益を受ける人たちは必ずしも童戯玩具の精細なる記述に感激を寄せる者では無い。又畫材としての達磨大師の流行と不易、あしの葉に乘つて江を渡るといふ類の聯想が、如何に深く島國人の渇仰を誘つたかといふことも、この書によつて始めて心付く人は多いのだが、その序をもつて日本に張子のダルマの市が二百二十八ヶ所立ち、看板に少なくとも六百三十二、屋號に四百〇五以上、商標に二百八十何種のダルマ樣が、現在利用せられて居ることを知つて置かうとする者はまづ少なからう。著者が卷末に件名索引をつけようとして、中途で斷念したのももつともなことであつた。實際この本は三種以上のサイクロペヂアを、合册にしたやうな姿がある。

　私の知つて居る限りにおいては、木戸さんは若い頃から既にダルマが好きであつた。採集の慾は年とつて強くなつたのかも知らぬが、因縁は却て西芳韮山人などよりも深かつた。どんな小さな一つの研究でも、その執心が一生涯續(29)くやうなら誇つてよい。それを何だか「おもちや」の類別に全力を擧げたといふのを、世間に對して相濟まぬやうに感じ、進んで達磨の教學的方面のみならず、更に一方にはこの名稱のあらゆる轉用、いやしくもダルマと名がつけば高橋是清翁の逸話まで、知つて居ないことは無いといふ迄に漕ぎつけられたことは、多忙な著者としては誠に由も無い捨身の修行であつた。無職渡世の私たち少數の者以外、誰も同情しさうにも無い忍苦の生活であつた。しかも萬卷の書を讀破して、漸くまとめあげられた達磨の正史的部門よりも、後半の達磨民俗誌の方が遙に光つてゐる。

　これは要するに記事の内容が其ほとんど全部、第一次の知識であるがためで、我々はいづれも生れて育つた土地の小事實だけは知つて居るが、これが日本全國に斯樣な一致と異同とを以て行き渡つて居るといふ總現象は、この書の出る迄は著者以外に一人としてこれを知る者は無かつたのである。この區域においては木戸氏はコロムブスである。我々民衆の日常の生活の中にも、まだこれだけの未知の大陸があつたことが、同氏によつて發見せられたのである。一つの趨勢として見渡すときには、玩具も決して又小さな物では無い。

　日本人は一般に小細工に長じ模倣が巧だとの評を受けて居るが、それよりもよく働いて居たのは新しい意匠である。たつた一種の不倒翁の「おもちや」が、百年もたたぬうちに北と南、關東と西國とのそれ／”＼の地方色を出して、集めて見れば見る程、變化の奇に驚かされるといふことは、如何なことがあつても各民族の通例では無い。流行に幾つかの關門があり審査があつて、近代の大量生産主義の如く、耳を垂れて中央の統一の前に雌伏して居なかつた事實が、巧に排列せられた木戸さんの寫眞によつて、可なり興味深く我々の前に立證せられて居るのである。之は疑ふべくも無く、採集家の陶醉境であつた。あまり遠慮をせずに開け放してそれを見せることが、實際は又讀者の大いなる休養にもなるのである。この點にかけてはただ部分的に、『達磨と其諸相』は成功して居る。

　達磨が日本に來てからの進化と成長、これは又一つの面白い題目であつた。座禅の宗門がどうかして彼を獨占しようとするに對して、一方に我邦固有の太子神は、ちやうど牛若丸が辨慶をつれてあるくやうに、この印度僧を手下と(30)して離さなかつた。その結果の永く殘つて居るものに、たとへば猿引の太夫等の達磨忌があり、または目無しダルマの俗信があつた。私も實はこの諸國の實例が知りたい爲に、木戸氏のダルマ通と接觸しなければならなかつたのである。

　顧みれば明治二十六年の第一高等學枚寄宿舍以來、我々兩名の馬合ひであつた理由は幾つかあるが、それは概ね私事だからこんな際には述べない。たつた一つ面白くていはずには居られぬことは、本をこしらへて圖書館の分類係りに御迷惑をかけること、こんな點までが木戸さんは私の同志だ。僅かに標題だけによつてこの本を宗教の部にいれたら、これだけ周到なる玩具製作史の研究が、抹香の煙の陰に埋もれてしまふだらう。さうかといつてこれを工業の部に置いたり、乃至はまた兒童教育の端の方につけて置くと、文藝繪畫彫刻などの交渉が、これほど詳しく述べてあるのを無駄にせぬとも限らぬ。たつた一つの問題を深く取扱つて居る以上は、類書ともいへまいし隨筆とは尚更認められまい。さうすれば著者の大骨折に免じて、これだけは特別に五枚も六枚もカードを作り、何ヶ所にもその書名を掲げたものかどうか、それが氣になる故に私はもつと詳しい内容の紹介がしたかつたのである。

　

(31)　　　　　野口恆重複刻『【箋註】倭名類聚抄』

　

　繪師が繪をかくのと同じ樣な氣持で、著述をしてゐたらしい學者がもとは多かつた。狩谷?齋翁の『和名抄箋註』などもその一つで、これが版になつてどうすれば世にひろまるかといふことは、恐らく著者の計畫の内には含まれて居なかつた。少なくともかういふ書物が活版でだせるものとは、百年以前の人は想像して居なかつたのである。

　ところが明治初頭に政府が自ら印刷局を設置して、他の幾つかの珍らしい事業にさし加へて、この書の開版を企てたといふのには意味があつた。一方には新しい文化が連れ込んだ工藝の能力を、世に示さうといふ趣旨も無論あつたらうが、一つには又これを機會として活字の準備を豐富にし、當時萬能と認められて居た漢語教育を基礎づけようといふ腹もあつたのである。しかもその印刷局すらも、流石にこの大著述には閉口したのであつた。刻本の凡例を讀んで見ると、狩谷先生が心血を注いで精確にした多數の古體異體の文字は、論旨に影響の無い限り、當世の字體にさし替へたと斷つて居る。主として校正に參與した森立之といふ人は、?齋門下の遺老であつたが、この人の意見で先生の定本を改訂した個所が若干あると傳へられるのは、これにも或はまた機械工業の實際との妥協があつたのでは無いかと思ふ。何にもせよ漢式文運の隆盛を極めた社會ですらも、なほ原形のまゝを複製することがむつかしいほどに、細密でまた雄大な研究であつたのである。

　それを今日のやうな漢字制限時代、人の名前と地名だけを後に取殘して、その他は千何百字とかを知つて居ればよいことにしようといふ世の中に、もう一度くり返して見た人があるのだから驚かされる。これを企てた野口恆重氏の(32)動機は、詳しく聽いても私にはのみ込めなかつたが、少なくともその實驗の成績だけは好い參考であつた。同氏は一方に本の生産費を小さくするために、八ポイントといふ厄介な字型を擇び、三分アキといふ新しい字詰を採用した。日本現存の活字中、『箋註和名抄』に使用し得た數が八千字、それから若干の不便を辛抱して、サク字と稱する二つ割の組合せをしたものが千何百とか有つた外に、更に一萬二千個の木活字を新刻させて、補充しなければならなかつたさうである。木活紙型の流し込みは、さういはれて見てやつと心づく位に無難に出來て居るが、その代りには校正の面倒であつた事は想像に餘りがある。百ペーヂばかりも進むと忽ち活版所が降參し、八箇所の印刷業者から斷られて、九軒目の手で漸くのことに二卷千二百ペーヂほどの四六判が出來上つた。その期間は二年と數箇月、帳面は當然に今日流行の赤字であつたといふ。根氣にもせよ片意地にもせよ、日本で無くてはちよつと出現せぬ奇觀だと思ふ。

　この頃仲が惡くなつたからいふわけで無いが、全くこの漢字といふものでは我々は餘計な苦勞をして居る。最初便利だと思つて借用をした際には、豫想しなかつた事ばかり起つて居る。歸化人同樣の優秀なる少數模倣家を除く外、國民は全體として決して外國語の利用に巧でなかつたことは、歴代の古文を囘顧して見る者の、だれでも感ぜずにはをられぬ所であるが、それでも手を着けたからには中途から戻れない。それで一千年の辛勞を積重ねて、やつと到達して見たのが狩谷翁などの境地であつた。さうするともう歡迎會と送別會とを一緒に開かうとして居るのである。明治の教育なども澤山の外國語音の二音節を、やつと耳で聽いてもわかり、自分でも使へるやうにしたかと思ふと、はや背後には新語辭典の、片假名の暗記に忙殺される時代が迫つて來た。いはゆる活版文明の展開は、目ざましいけれども丸で花火のやうだ。

　殘るはたゞこの刻苦精勵の記念碑だけであらう。?齋先生の箋註は内閣の文庫に、その二通りの稿本が、今も保存せられてある。その一つは初稿本とおぼしく、いはゆる朱紫縱横で、原紙を没する程のはり紙がある。第二はその淨寫本であるが、これも再び眞黒になる位の補修改訂があつた。學者の精力がこれほどまで、一つの事業に集注して居(33)るのは貴とい。私はめつたに座右の印刷局本も、開いて見ぬやうな惰け者であるが、なほかの原稿本を思ふたびに、奮ひ起つやうな感激があり、從うてまたこの本にも名畫の寫眞のやうな懷かしさがある。殊に永いなじみの漢字との別れに臨んで、かういふ念入の覆刻本が現はれたといふことは、何か當事者も説く能はざる大きな意義があるやうな氣がする。

　

(35)　　　　　序跋集

　

(36)　　　　　佐喜眞興英著『女人政治考』

　

　佐喜眞興英君の著述は、我々が久しく怠つて居た大事業の端緒であつた。學界の睡を驚かす警鐘の如きものであつた。この大なる功勞者をして、自ら之を完成せしめ得なかつたのは、此上も無い遺憾であるけれども、先驅の榮譽は永く同君と之を爭ふ者は無い。家族友人等はせめてこの小さき記念物に由つて、深き悲みを慰むべきである。

　我々が近年始めて、南方諸島の神道の片端を窺ひ、女性指導の力がなほ甚だしく衰へざることを知るや、顧みて既に湮滅に歸せんとする日本の固有宗教の中にも、曾ては巫女の任務の最も重要なりし時代があつて、彼と是とは固より根源を共にし、その細心なる比較と類推とに基づいて、始めて前期社會の眞相を明らめ得べきことを感じたのみならず、史學今日の興隆を以てして、なほ透徹を期し難かつた國初の民族生活、部曲家門の特殊組織、及び必ず之に起因したかと思ふ若干の事實が、例へは沖繩の古史の序を追うて近頃漸く闡明せられた如く、やがては亦此方面の研究に由つて、再び鮮かに國民の知識に蘇へるの日あるべきことを望んだのであつた。しかも些々たる眼前の成績に自得して、學問進展の餘地を信じようと欲せぬ人々に向つて、未拓の沃野今なほ此の如く廣大なることを立證する爲には、相應の用意が必要であつた。少なくとも二三外國の篤學者が、此よりも遙かに乏しく且つ埋もれたる資料を捜査蓄積し、刻苦して僅かに齎らし得たる論斷が、偶々我々の坐して採り、招かずして迎へ得たる豐富なる收穫と、歸する所乃ち一なることを開示しなければならなかつた。其準備の困難を憚かり、決行の勇氣を缺いた我々は、所謂薄志の評を免かれ得ざる者であつた。

(37)　故に佐喜眞君十餘年來の業蹟に對しては、其方法の適否を批判するの資格は、未だ何人も之を持たぬのである。今は單に此書が世に問はれて後、故人の意圖果して弘く認められ、?爾たる洋中の孤島にも、書傳の未だ録せざる莫大の新史料、文字以上の精彩ある記録が、充ち溢れて學徒の考察を待つことを覺える者、もしくは自分の過去に關して何等の觀照も無く、空疎に異國の言説を敷衍することの、殆と無益の勞なるを感じ得る者が、相繼いで現れ來るの時を想望するの他は無いのである。

　佐喜眞君は多識多讀、之に加ふるに平民生活に對する豐かなる同情と、慧敏なる理解とは共に天稟であつて、優に此方面の學者として、大成すべき條件を具備して居たのだが、悲しいかな境遇が之を許さなかつた。仕官の爲に東西に流寓して、學友の甚だ乏しかつたことも、亦恐らくは忍び難い寂寞であつた。たゞ此書の漸く刊行せられんとするに臨み、改めて故人に代つて追懷と感謝とを禁じ得ないのは、一二最も親切なる先輩の聲援である。自分が始めて佐喜眞君に逢つて、其研究の一端を聽くことを得たのは、故穗積陳重先生の書齋であつた。先生は夙にこの一箇沖繩青年の學問が、他日祖國の文化に貢獻する所大なるべきを認め、彼を激勵して五たび其稿を改めしめる迄の自信を與へられ、更に又其知識を我々に紹介して、後進と共に道を究めようと企てられたのみならず、今又深く將來ある佐喜眞君の天折を嗟嘆して、此遺文の爲に龍門原上の辭を題せんことを的せられたのであつたが、それは終に希望すべからざるものとなつた。

　佐喜眞君の知音としては、なほ舊師清水駿太郎氏があつた。濟々たる沖繩第二中學の出身生の中に、此人あることを自分が知つたのは、全く清水校長が慈父の如き情熱を以て、彼の多病を憂ひ、彼の完成を祈念した切々の言葉からであつた。今に於ては先生は寧ろ、此非凡の才能を見出すの明無くして、彼をして自ら知らず、遂げざる大抱負の爲に空しく奮起せず、故郷の島に留まつて、安らかな讀書子の生涯を、送らしめなかつたことを悔いて居られるかも知れぬ。果して然りとするも、それも亦自然なる人間の私情ではあるが、なほ我々は新日本の國學の爲に、清水氏の推(38)奨と刺激とを多謝すべき理由を有する。

　實はこの人生の二つの用途に付ては、我々も常に取捨に迷ふのであつたが、獨り佐喜眞君夫妻に在つては、夙に毅然として決する所があつたらしい。夫人松代子が隱れたる學者の眞價を疑はず、その愛と感化とを受けて、終始從順なる助手を以て自ら任じ、筆寫整頓の一切の煩務を引受けた上に、今又此書を公表したる後、更に之に基づいて自分も同じ學問に進まんとして居るのは、誠にいさぎよい日本女性の一例であると思ふ。新たに提出せられたる本書の興味ある題目が、是と一脈の下に通ふものあるを感ぜざるを得ない。

　佐喜眞君はその精進の生涯から、なほ二つの有益なる小著を我々に供與して居る。其一つは『南島説話』であつて、純眞なる沖繩の口碑集、昔話採録の好典型を示し、第二は『シマの話』で、宜野灣新城の故郷の村組織に於て、太古以來の共有制の面影を見出した。共に『爐邊叢書』の一册として刊行せられ、後者は易簀の前數日、辛うじて世に出たものである。自分が同君の著に序せんとした動機には、叢書編者としての忘るべからざる感謝が、大に加はつて居るのは勿論である。

　

(39)　　　　　高木敏雄著『日本神話傳説の研究』

　

　高木君とは一年半ほどの間、殆と毎日のやうに往來して居たことがあつた。其頃はまだ同君の學問が、現今の如く盛に行はれぬ時節であつて、書物や資料の蒐集に色々の不自由が有つたのみで無く、一般に外部の事情には、慷慨せねばならぬやうなことが多かつた。又直接研究と關係の無い仕事に、大切な時間を割く必要も有つた。其上に高木君の氣質にも、ぢつと書齋の忍耐を續けて行けるだらうかを、危ぶましめるものが實はあつた。その變化の多い、寧ろ氣ぜはしない生涯から、此だけ立派な多量の製作を遺して往つたと云ふのは、如何にも羨むべき天分であつたと思ふ。

　私は外國に旅して居て、高木君が遣つて來ると云ふ噂と殆と同時に、其突然の訃音に接したのであつた。其時もしみ／”＼と、想ひ起したことであるが、同君は曾て友人に向つて、自分の生活には七年ほどづゝの周期があるやうだと謂つた。研究の興味が頂點に達したと思ふ頃に、内からか又外からか、新たな原因が現はれて、其爲に學問を中絶すると謂つた。さうして又自ら其天分を理解して居たのだから、恐らくは煩悶の生活であつたらうと思ふ。十分に長生して、世上が其功績を認めるのを見ることの出來なかつたのが、殊に痛はしく思はれる。

　今でこそ我々は、神代卷の或記事を神話と見ることを許され、所謂田夫野人の日常行事の中から、古日本人の思想と宇宙觀とを發見しようとする態度を嘲笑せられずに居られるが、高木君の初期にはそれは無謀なる大膽であつた。そればかりか西洋の古典派の中にも Mythos と云ふ語を遠東有色人の昔話などに應用することには、大なる故障があつた。

(40)　高木君の新らし過ぎた學問は、恰かも新らし過ぎた葡萄酒の如くに、舶來品歡迎者にすらも、なほ賞玩せられなかつた。其學問が年を經て正に大に熟し、友を會し盃を擧げて、陶然として醉うてもよい時になると、もう高木君は遠く辭し去つて、この知識の饗宴に參與することを得ないのである。ほんの僅かの年代の喰ひ違ひが、此の如き不遇の原因となり、言ふにも足らざる平凡なる妨害が、常に人間の事業を完成せしめまいとして居るのは、眞に悲しむべき世の習ひであつて、骨肉縁者の永く哀慕の情を抱く者は勿論、兼て高木氏の劃時代的學風に向つて、感謝し推服する我々としても、本書に由つて其研究の殆と全部が、散佚を免れ得たことは大なる悦びであり、又大なる慰藉である。

　假にこの遺篇が概ね十餘年前の舊著である爲に、既に解決せられた問題であり、もしくは未了の斷片であつたにしても、その記念としての價値には増減が無いのであるが、しかも事實は今日の學界に於て、不幸か幸か本書の公刊を、不必要とするに足るだけの事由がまだ寸毫も無いのである。

　比較神話學が高木君最初の力作であり、日本傳説集が明治末葉の大蒐集であつて、共に最近に覆刻せられたことは既に人が知つて居る。此以外には若干の童話集などがあつた。今までの話の本は何れも話し方がよく無い。無用に小兒の智力を誅求し、且つ前代と異國とに對する同情を變壓する。之を改良して見るのだと云ふことを、書物の出るたびに聲明して居られた。しかも其等の本は早く世に隱れて、話し方の改良はまだ十分に行はれて居ないが、あの時分の愛讀者は今や成長して、恐らくは各自の美しい囘想の綾に高木君を織込み、更に縁あらば此遺稿を讀むことに由つて、著者の親切をなほ一つ上流の泉から、掬み上げることが出來るであらう。自分の追懷もやはり本書中の一篇、「驢馬の耳」と結び付いて居る。東方に於ては新羅第四十代の君主、景文王の物語として傳へられるのが、是亦幽怪微妙なるミダス王の旅の姿の一つであつた。黄金も威力も今は廢墟の土に歸して、獨り其耳の途方も無く長かつたと云ふことばかりが、若蘆の葉に風の吹く毎に、百千年を經てなほ我々の耳に響くのは、やがてはフオクロアの學問の、情味と眞實とを意味するものでは無からうかと、語り合うては　　屡々微笑した、その高木君も今はもう居らぬのである。

　

(41)　　　　　土橋里木著『甲斐昔話集』

　

　　　　　　　　　　一

　

　先だつて富士北麓の上九一色といふ村から、百數十篇の民間説話を集めて見たといつて、土橋里木君がその出版の相談に出て來られた。暮に亡くなつた祖母の話が、その中に八十以上もあるので、記念のために一册の本にして置きたいといふことで、私は孫なる筆記者と二人で取つた、そのおばあさんの寫眞も見た。

　採集者の中には、久しく方々を尋ねあるいて、一つづつ昔話を貯へて行く人もあるらしいが、その勞苦の大なる割合には、效果は却つて斯ういふ一人の管理者から、引繼いだものに劣るやうである。前年我々が世に紹介した『紫波郡昔話』なども、岩手山の麓に近い煙山村の小笠原謙吉君の祖母が、又その祖母から聽いたといふ話を書取つたもので、この方は數が百を越えてゐた。同じく岩手縣で、上閉伊郡の、辷石たにえといふ老女は、一人で約三百ほどの昔話を知つて居た。佐々木君の『老嫗夜譚』はその三分の一ばかりを本にしたもので、これなどが先づ今までのレコードである。

　一番感心するのは、昔話の登場人物などは正直不正直の二人の翁、和尚と小僧、難儀する美しい繼娘、大力、智慧者、運の好い貧乏人等の、至つて僅かなる人數に限られ、さうで無ければ天狗とか狐狸猫鼠、舞臺も廣い野の一軒家だの、荒れはてたる山寺だのと、大よそ八つか九つにきまつて居るのに、よくもそれ／”＼の話の筋を別々に、語りわ(42)けることが出來たものだといふことである。その代りにさうした物覺えのよい老人は、決してどの村にも一人づゝ居るといふ程に澤山は無かつたのである。以前も稀有であつたが今日は更に減少せんとして居る。それだけの能力のある人ならば、必ず何か新らしい方面に、その長所を發揮して居るからである。

　昔話を聽く人の群といふものは、國により又時代によつて、著しい構成の相異があつたやうである。現在のところでは、まづ第一には人に話をさせながら、すや／＼と睡つてしまふやうな幼ない者、それ程で無くとも小學校に行く前の、何もする事の無い二三人が普通の聽衆で、從うて昔話の童話化は完成し、同時にその文藝は各家庭の私有に屬することになつたが、無論これは最近代の變遷である。以前とても兒童は無論傍聽者、又往々にして次の時代への運搬者であつたらうが、少くとも聽き手は彼等のみで無く、又その連中も多かつた故に、昔話にはなほ幾つかの「子供のためによくない」點が殘り、又同じ話が廣く公共の傳承になつて居たのである。

　これが民間説話の時代毎に、又各民族毎に、それ／”＼別の用意をもつて、解説せられなければならぬ理由である。日本の昭和時代が、特に外國學者の研究を取次ぎして居ればよいといふ人々を、謝絶しなければならぬ所以である。今日の成人は童話の細部を聽き分けることを面倒がり、單に標目と自家一流の幼時の暗記とによつて、國と國との數千年前の一致をさへ論じようとして居る。ところが一箇の猿壻入の話にすら、よく見ると喜劇から悲劇までがある。おしまひは同じ「市が榮えた」に歸着する話ですらも、一つの郡村に在つてなほ家々の話し方の差異は、今まで氣づかなかつたといふのみで、隨分著しいものがあるのである。これが果して親切なお婆さんの、手料理の鹽加減だけに基づくものかどうか。それがまづ問題になるのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　どうせ子供にして聽かせる昔話だから、何とあらうとも構はぬと思ふ人が今は多いが、思ひの外出たらめは少ない(43)ものである。それが全國的に根幹は一致して、細部は一つ村でも時々變つて居るといふのは、意味のあることで無くてはならぬ。考へて見ると日本のお婆さんは、百の八十人までがその家で育つた人で無い。嫁に來てから覺えた話もたまにはあらうが、嫁には屈託があつてそんな事にかゝつて居られない。だから大部分は箪笥長持と共に、親里から運んで來たものである。即ち昔話もまた隣村隣郡と縁組をして居たのである。

　我々の實驗によると、話の好きは一つの天性であつて、中には年とつて孫たちが眼を圓くする頃まで待つて居られず、聽いて間も無く之を誰かに傳へようとする乳母女中姉さん叔母さんなどがある。母にも若いうちから昔話をしてくれるやうな善い母が、以前はしば／＼あつたのであるが、これはその志があつても機會はさう多くなかつた。第一によほど話をせがむ兒が居ないと、釣り出すことがまづむつかしかつた。例へば人でも來るとすぐに止めてしまつて、他の事を考へるのが若い女性の常である。これに反して老人には更に懷古といふものがある。記傳性とも名づくべきものが、世の別れに近づくほど盛んになつて來る。殊に心理學者に考へてもらひたい現象は、愛に堪へない孫たちが膝の上に來ると、忽ち各自のその齡であつた頃の記憶が、可なり鮮明に蘇つて來るらしきことである。老の物忘れの霞のやうなものゝ中から、昔話の面白さだけが青々と日に照る故に、手に摘んでこれを示さゞるを得なくなるらしいことである。

　これが民間説話の流布形態の上に、大なる影響を與へるのは恐らく議論の無いことであらう。それをやゝ詳しくいふと、昭和五年の小兒は、大體において明治の始の頃に子供であつた人の話を聽き、現在の説話愛好者たちは、弘化嘉永の際に、安永天明頃に生れた人の記憶を、復活させて居たものを、引繼いで居たわけになるのであつて、巖谷小波氏等の事業がもし幼なき民心を動かして居たとすれば、それが效果を生ずるのは今から廿年ばかり後と、又それから四五十年の後と、二囘位のものだらうといふことにもなるのである。だから家々の昔話の特殊性は、又斯ういふ點からも説明することが出來る。

(44)　ところが今日の如き聽衆と、今日の如き辯士が會同して、説話を民間に受け纏いで居た時代が、果してどれだけ續いて居たかといふ事が、また一つの問題となるのである。一人の祖母又は祖父より、二三の兒童へ氣安く授受するだけならば、今少し新らしい話の種も加はつたであらうし、又一つの話がこれほどまで遠くあるく理由はない。桃太郎猿蟹の如き本になつたものは別として、又草木や鳥獣の物を言つたといふやうな、大昔から流布して居るといふものは取除いて、我々の國語を使ひ近世の生活に浸つて居なければ、聽いても更にをかしくないといふ笑ひ話、たとへば團子の名を知らなかつたおろか壻、馬の尻にも十三佛の御札を貼りなさいと言つた話などが、北は津輕の突端から、南は九州の山の中の村まで、聽いてにやりとせぬ青年が無いまでに、廣く行渡つて居るのは何故か。日本人はよく／＼入交つて一つになつた種族だといはれるが、まだ我々の婚姻の方は、今でもそれ程までは發達して居ない。乃ち説話の運搬者は、以前は家庭の爺婆以外に、別にその機關があつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　日本前代の説話輸送業者のうちで、特に歴史的なるものは座頭であつた。記録にもその痕跡はほゞ認められるが、なほ自分は別に説話それ自體からも、この事實を證出することが出來ると思つて居る。昔我邦が盲人のむやみに多い國として知られて居たのは、ひとり衛生　　状態の然らしめたといふだけで無く、寧ろ盲でも永く生存することを得た結果であつた。彼等は按摩を業とし又音曲をもつて世を渡る以前から、既に身に適した職分があつて、師匠と弟子の關係を以てこれを傳へて居たのである。大名小名の同朋衆又は御伽の者といふ群で、純然たる口と耳との奉公をして居た者は彼等のみであつた。盲が旅行を盛んにすることも、また日本だけの特徴といふべきで、戰國時代にはしば／＼これを探偵細作の役に利用して居たといふのも、つまりはこの連中が耳も至つて鋭く、聽いた話は必ずその急所をつかんで、他日人に語ることを能くしたからであつた。彼等の集つて來る中心は方々にあつたらうが、少なくとも京都(45)には何ヶ所かの、昔話交換所があつた。人の機嫌に應じて作り換へ敷衍することもまた彼等のお手の物であつた。だから我々の昔話には、特に旨目を主人公にしたものが多いのである。眞面目な例では平家後日談ともいふべき日向の景清、これは後つひにこの徒の祖師の如くにもなつた。峠の辻堂に泊つて化物に逢つたといふ話も二通りあり、盲がふざけもしくはしくじつたといふ道化話に至つては無數である。彼等自らで無ければ、何人がそんな物ずきな話を傳へようか。

　それといふのも成人に熱心な聽衆があつたからで、今日のやうに兒童ばかりが相手であつたら、到底これだけの運搬は望めないのである。盲こそは日本の珍らしい特色であるが、その他の旅人の見ず知らずの田舍に入つて、大家の座敷で一飯の恩に有りつき、又は一夜の宿を借る者にとつても、これが愛嬌といふ以上に、最も簡便なる宿賃であつたことは、どの國でも一樣の慣ひといつてよい。西洋の學者も女性は民話の保管者に過ぎず、男子が常にその流布者であつたことを認めて居る。或は帆船時代の風待の滯在を、特に話の傳はる機會の如くいふ人もあつたが、港の輸入だけでは農村の事實は説明が出來ない。グリムの愛讀者などは早く心づいて居るだらうが、あの話に出てくる仕立屋靴屋などが、何故にその職業であつたかは話だけではわからぬ。即ちこれもまた曾て話をした者が、旅をしてあるくさういふ人たちであつた事を、語るものと見る他は無いのである。日本では牛方、馬方、染屋、桶屋などが昔話によく出て來る。もちろん旅する職人は他にも色々あつたが、中でもこの連中が特に昔話がすき、又は上手であつたのである。

　短い言葉でいふと、昔話の現存には三つの力の結合が必要であつた。一つには保管者としての女性、二つには輸送者たる諸種の職人、三つにはその機會を作つた成人の群であつた。昔話はなんぼ昔であつても、路傍の立話などで出來るもので無い。必ず夜分であり、冬の長夜であり、また庚申や日待の如く、いはゆる伽をして起き明す夜であつたのである。女は遠慮深い者であらうとも、さういふ機會まで家々の兒量と共に、忘れずに話を受持して居る役目だけ(46)は盡して居た。甲州の九一色はもとは工一色で、古くは職人を出して貢租に換へた村であることは、前に『都市と農村』の中にも書いて置いた。故に近世に入つてまで、其村民の大半は旅商人であつた。それが故郷に戻つて來て老人となり、靜かに村の夜話の夜を樂しんだ有樣が、僅かにこの一卷の昔話集によつて忍ばれるとすれば、この學問も決して今日の童話協會ばかりには、任せて置かれないといふことになるであらう。

　

(47)　　　　　佐々木喜善著『聽耳草紙』

　

　佐々木善善君のこれ迄の蒐集は、本になつたゞけでもすでに三つある。その三つの中一番古いのは『江刺郡昔話』であつて、これは我々の仲間では記念の多い書物である。二十二年程前、初めて佐々木君が遠野の話をした時分には、昔話はさ程同君の興味を惹いてゐなかつた。遠野物語の中には、所謂「むかしむかし」が二つ出てゐるが、二つとも未だ採集の體裁をなしてゐなかつた。それが貴重な古い口頭記録の斷片であるといふことは、ずつと後になつて初めて我々が心づいたのである。それから十年餘りしてから、我々は松本君と三人で、東北の海岸を暫らく一緒に歩いたことがある。その時に丁度佐々木君は江刺郡から來てゐる炭燒と懇意になつて、しば／＼山小屋へ出掛けて、いくつかの昔話を筆記して來たといふ話を私にした。それは非常に面白いから、出來るだけもとの形に近いものを公けにする方がいゝといふことを、同君に勸誘したのもその時である。

　それから二年過ぎて、私が外國に遊んでゐる間に、『江刺郡昔話』が出版せられたのである。今度新たにその本を取出して讀んでみると、佐々木君が先づ第一に、聞いた話の分類に迷つてゐる事がよくわかる。口碑と言つてゐる中には、社寺や舊家の歴史の破片と共に、昔話から變形したものもまじつてゐるのだから、今の言葉で言へば傳説にあたるものである。

　それから民話と云つてゐる部分は、近頃何人かゞ實見した話として傳へられてゐるのだから、直接「むかし／＼」の中に入れられないのは當然だが、これとても内容の一致があつて、何人かゞ「むかし／＼」から、これへ移入した(48)といふ事が想像出來る。

　さうしてこれが今我々が興味を以て、考へようとしてゐる世間話といふものである。現代の世間話は新聞などの力で、事實と非常に近くなつたけれども、以前は交通が不便で、さう／＼は其世間話の種もないから、勢ひ古くからの文藝が、その中へまぎれこんで居たのである。東北といふ地方は、何時までも昔話を子供の世界へ引渡さずに、大人も參加して樂しんでゐた結果、昔話がより多く近代的な發達を經て居るのだが、この事實が又この本で可なりはつきり證明されてゐた。話の分布に最も多く參加した盲法師、すなはち奧州でボサマと言つてゐるものの活動の痕を、跡づけてみようと私が思つた、大なる動機は茲にある。

　ボサマの歴史は近頃になつてから、全く別の方面からもおひ／＼知られて來たけれども、純粹なフオークロアの方法によつてゞも、東北地方でならば調べることが出來る。例へば南部で言ふ「雁取爺」が、我々のお伽噺の花咲爺になつて來る迄の經過は、あちらではこれを文藝として改造した作品が、現に殘つてゐるのだから具體的にその經過を説く事が出來る。ボサマは人を喜ばせるのが職務だから、或程度までの繰返しを重ねると、今度は意外な作りかへ、もしくは後日譚の方へ出て行かうとする。眞面目であつた話をやゝ下品な滑稽へ持つて行かうとする。從つて話題が發達して來る。同時にこれを聽く者の態度も、幼少な子供等とは違つて、昔ならそんな事があつたかも知れぬといふやうな信仰は少しも持たずに、これを純空想の作品として受け入れようとする。即ち之に由つて今日の落語なり滑稽文學なりの、文字以前の基礎を造つてしまつたのである。大げさに言ふなら、今日の文藝との間に橋をかけたやうなものだとも言へる。半分以上類似したやうな話でも、この意味から我々が出來るだけ多く集めてみようとする理由が、初めて此處に生じた。それにはちやうど佐々木君のやうな、飽きずにいつまでも集められる蒐集家が非常に役立つた。佐々木君も初めは多くの東北人のやうに、夢の多い、鋭敏といふ程度に感覺の發達した人として、當然餘り下品な部分を切り捨てたり、我意に從つて取捨を行つたりする傾向の見えた人であつた。それが殆と自分の性癖を抑へきつて、(49)僅かばかりしかない將來の研究者のために、斯ういふ客觀の記録を殘す氣になつたのは、決して自然の傾向ではなく、大變な努力の結果なのである。

　これまで普通に郷里を語らうとしてゐた者の、しば／＼陷り易い文飾といふものを、殊にこの方面に趣味の發達した人が、己を空しくして捨て去つたといふことは、可なり大きな努力であつたと思はれる。問題は將來の研究者が、斯ういふ特殊の苦心をどの程度まで、感謝し又利用する事が出來るかといふ點にある。私は以前『紫波郡昔話』『老媼夜譚』が出來た時にも、常に佐々木君のこの人知れぬ辛苦に同情しつゝ、他方では同君自身の文藝になつてしまひはせぬかと警戒する役に廻つてゐたが、もう現在ではその必要は殆と無からうと思ふ。能ふべくんば今後この採集者に若干の餘裕を與へて、自分がこれほど骨折つて集めて來たものを、先づ自分で味ふやうにさせたいものである。それには單純な共鳴者が此處彼處に起るだけでなく、この人とほゞ同じやうな態度と熱情とを以て、將來自分の地方の「むかしむかし」を出來るだけ數多く集めてみる人々が、次々に現はれて來ることが必要である。

　

(50)　　　　　高田十郎編『大和の傳説』

　

　大和の人々に

　日本で一ばん古い國、大和の傳説が今はどうなつて居るか。都が北に遷つて後の千百年間に、大和の住民はその傳説をどれだけ殖やし、はた又以前からあつたものをどういふ風に改良して來たか。何を忘れ何をまちがへ、又如何なる話を身を入れて聽いて覺えて居たか。それを知りたい爲にもこの本の出るのを待ち兼ねます。

　又皆さんがどういふ人たちから、特に傳説を聞き出さうとなされたかも、私たちは知りたくてたまらぬことです。學問のある先輩から、教へられた話はきつと學者くさい。字もよく知らぬやうな小さな家の年寄が記憶して居た口碑には、書物に書いて無いことが含まれて居ます。誰から聽いても傳説なら同じだらうと、うつかり思つて居て私たちは失敗しました。あれ程色々の記録を持つ百帝の都の國から、もし大昔にも口から耳へ、たゞ語り傳へて居た信仰の殘片が、僅かなりとも拾ひ集め得られたのだつたら、我々は必ず驚嘆し、又狂喜しなければならぬであらうと思ひます。

　高田さんの話では、今度の蒐集は一先づ市郡別に、近い處のものから排列せられるのださうですが、これは行く行くはもつと増加して、改めて問題毎に、又は似た話によつて分類せられる準備であらうと思ひます。もつと數多くの似よつた傳説が、後から出て來ることを豫測しての計畫でありませう。それが又私には何よりも樂しみです。町と村とでは人の心持ちがちがひます。同じ昔の一つの不思議を、見やう考へやうによつて色々と語りかへて居ることは、(51)比較によつて始めて明かになるので、是には更に一度も英雄の足跡を戴かなかつた、遠い府縣の傳説と竝ぺて見ることが、又大いなる參考であります。日本では既に九州でも奧羽でも、それ／”＼自分の土地の言ひ傳へを採集して、大和の傳説の本になつて出ることを、もう餘程前から待つて居たのであります。

　『大和叢書』の發刊に對しては、私は數年來の熱烈な主張者の一人でありました。他の地方では中々活版が容易で無くて、今でも篤志家が大切な時を割いて、謄寫版で僅かな部數を、同志の間のみに分けて居るのであります。其爲に自身の採集と研究が妨げられるのみならず、最初から珍本であり、程無く稀覯本となつて、後々の利用者の手には屆きませんが、この叢書だけは奈良に旅をする人だけには、必ず目に觸れ手に取られ、國の隅々まで持つて行かれることになるでせう。それだけでもこの學問の大いなる飛躍であります。私は日本の平民史學の爲に、是非とも此叢書の數十版を重ねることを希望します。

　

(52)　　　　　青木純二者『山の傳説』

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本の山の傳説では、三山の爭ひといふのが古くから知られて居る。曾て大和國で有名であつたものは、今はたゞ萬葉集の歌であるが、奧州では北上川の上流などに、岩手山と早池峯《はやちね》との仲の惡い理由として、同じ語り草がまだ生きて行はれて居る。或は是も單純なる高さくらべの話から、後々面白く成長したのかも知れぬが、それにしても其中に立つ美しい山の名が、誰謂ふとも無く昔から姫神山である。どうして此樣な素朴なる物珍らしさが、久しい人間の世代に亙つて、飽きられもせずに傳はつて來たものか。それが先づ我々の不思議の一つである。

　しかも是よりも今一段と短い話、單に二つの山が喧嘩をしたといふだけの話ならば、殆と無い府縣は無いといふ程に數多い。さうして今でもまだ成長して行かうとして居るのである。是がもし作者のある文藝であつたら、又かと言はぬ者は無かつたことゝ思ふが、此方は既に何十世紀の間、引續いていつも同じやうなことを繰返して居たのである。例へば筑波は富士よりも遙かに低い山であるが、天の大神の恩寵を受けたことは、彼に比べて何倍か豐かであつた。といふ由來を詳かに、又人間らしく敍述したものは、是も奈良朝期の常陸風土記であつた。近世各地に行はれた同種の傳説は多いけれども、概して是よりも簡単であり且つ更に子供らしく、故人が豫め次の時代の爲に、布衍修飾合理化の勞を、執つてくれたかの觀あるも一奇である。但し私は此點に關して、多分正しからうと思ふ一つの解釋を持つ(53)て居る。私の解する所では、傳説には夙くから二通りの鑑賞家があつて、文字無き凡人大衆は一つの群を爲し、所謂詞人墨客は他の一つに屬して居た。記録は素より第二の者の管掌する所であつた故に、何が傳ふるに足るかの判別に關しては、彼等の趣味と知識とが獨り働き、一方は單に之を文學として尊敬するばかりで、傳説として受入れぬものが多かつたのである。以前はこの二つの群の間に、可なり著しい階段があつたから、或は理解の能力もちがつて居たかも知れぬが、主としては信じようとする態度の差、もしくは古い形を愛する心持の有無であつた。耳から承け繼いだもので無ければ、口から傳へようとしなかつた凡人の數が多く、それが又文士によつて輕しめられ、齡せられなかつたといふことが、偶然にも記録以前の傳説を、色々と民間に保存して居てくれたのである。青木純二君の新たなる書物が、古い記録の最後のもので無かつたか否かは、言はゞ同君が右二通りの鑑賞家の、どちらの側の人であつたかによつて決せられるわけである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　次に此書物を讀んで行くうちに、必ず出くはすであらうと思ふ今一つの不思議は、この所謂日本アルプスの山國に、記録最古の「三山の爭ひ」のみならず、更に今一段と平凡なる二つの山の高さくらべまでが、まだ一向に發達して居らぬことである。著名な一萬尺が嶺を連ね、山といへば誰でも先づ思ふ中部日本の高山幽谷に、是が缺けて居るのは奇怪のやうにも考へられる。しかしこの點も私には大よそ説明が付くやうな氣がする。それは一言でいふならば傳説が主として平野の産物であるからであつた。山が自ら語つたもので無いからであつた。我々の信仰が傳説に化して、末には國擧つて之を説き、千年を過ぎてほぼ當初の若々しさを保存し得たといふのも、要するに之を聽く人があり、且つ多數であつたからである。ところが山國はもと却つて其要件を缺いて居た。だから話頭は常に山を望む人々によつて提起せられたのみならず、恐らくは同時に雙方の山を望み得るやうな地點に於て、高さ競べや妻爭ひの物語は、(54)夢み始められたと思はれるのである。大和の三山は布留《ふる》纏向《まきむく》の東の高みから、殊に夕の空が其輪廓を際だたせ、又は川霧の上に峯ばかり浮んで見えた時に、最もその傳説の印象が鮮かであつたらう。今日行はれて居る多武峯《たふのみね》と高見山の高さ比べなどは、それからずつと南の、紀の川中流の村里まで行かぬと、あゝいふ空想は抱かれさうにも無い故に、後になつて追々と發達したのである。勿論富士と淺間や鳥海山とのやうに、一度に二つの山を見ることの出來ぬ例も多いが、是は所謂遠近人が見て過ぐるやうになつてから、旅の話として次々に承け傳へたものと見られる。山の神秘の久しく閉されて居た土地に、新たに村を開き小屋を掛け、多くの旅人が來り宿るやうになつてから、始めて發生し進化した傳説が、更に別種の興味ある地方色を呈することは、此書が恐らくは始めて之を證明して居るので、民族の古い傳説を知りたいとならば、寧ろ都府四周の年久しい耕地の間に、之を尋ね求むべきものであつたのである。

　だから又記録の古さといふことゝ、傳説其ものゝ古さとの間には、普通に想像されて居る程の深い關係は無かつたのである。例を山々の爭ひに取つて言ふならば、香山《かぐやま》耳成山の妻爭ひが萬葉の歌人に詠ぜられた頃には、あの傳説は既にあれだけの略筆を許すまでに、當時の人々には知れ渡つて居たのであるが、しかもその原形であり元であつたかとも思ふ簡單なる口碑は、今でも數限りも無く國々の低地に、歌にもならずにまだ流布して居るのである。さうして傳説の流布と、その發生とは又二つのものであつた。單に記録に保存せられて居るといふことが、少しでもその傳説の先行を證明するもので無いことは、比較によつて段々に之を知ることが出來る。記録はたゞ自分の時代よりも前に、既にその一つの口碑があつたといふことを語るだけで、少しでも他の口碑の古さを極める力は持つて居ない。さうして實際に又澤山の古く粗野なる民間傳承が、丸々記録の干渉を受けぬ自由なる生活を、つい近頃まではして居たのである。地方の文學の新たなる興隆と、旅を樂しむ人々の親切とが、必ず或一定の條件の下に歡迎せられねばならぬのは其結果である。もし幸ひにして其條件が充されてあるならば、『山の傳説』は何よりも大なる學問への貢獻であり、さうでなかつたならばたゞの讀物の一つの追加に止まる。故に私は先づ其差別を明かにする必要を感ずるのである。

　

(55)　　　　　　　　　　三

　

　山國が傳説の採集地として、特に大切なる理由は三つ以上ある。其一つは山に限り、山中の人の集團で無ければ、發生し得なかつた傳説が必ずあつたこと。是は交通が平野に偏して居た結果、恐らくは今まで比較的省みる者が少なく、從うて高山植物のやうな懷かしさが今もあるので、どれが山地の特産であるかといふことは、固より一通りの平野の知識を持つ人のみが、靜かに觀察した上で知れることであるから、其樂しみは一段と奧深いものである。それが人間の定住のおくれて始まつたといふことから、假に新しい發生だと推定せられるにしても、寧ろ其種となつた何物かの、久しい發芽力の保存に驚歎すべき場合が多いことゝ思ふ。第二には雲より下に在る都邑の傳説が、流布して山に入つて如何なる形を取り、この特殊の環境と相觸れて、果して如何樣の調節を遂げたかといふことが、山に來て見なければ知る由の無いことである。低地の傳説は縁起により、又は切れ／”＼の歴史の知識により、更に進んでは各時代の好尚や迷信によつて、屡々原形の尋ね難いまでに、切り繼ぎ捻ぢ曲げ水や砂糖を交へ加へられてある間に、山には格別の文學の要求も無くて、あれば有るなりに元々信じた樣に、其儘傳はつて居た場合の多いこと、是が即ち第三の理由であつた。細かく考へて行くと其他にも、まだ幾つかの特色は擧げ得られる。たとへば山の人の一樣に寡黙で、話術の拙劣を自識して居ることも、問へば答へるといふ程度に山の話を簡明にして居る。土地を著名にし掛茶屋を繁昌せしめようといふ計畫が、底に潜んで居なかつたのは勿論、單に聽く人の眼の色を讀んで、もつと面白がらせようといふ當座の野心すらも、此方には常に缺けて居たのである。正直な記録ならば此特徴は、恐らく讀む人の胸にも到達せずには居なかつたらうと思ふ。

　

(56)　　　　　　　　　　四

　

　そこで最後になほ一つの、新たなる要件が認められなければならぬのである。低地の傳説には、語る者の種類によつて、效果の差等といふものがさう顯著には現れないが、『山の傳説』は最終に之を傳へた者が文士であり、讀書家であり、乃至谷底に住む當の本人であることによつて、幾通りにも味が變るばかりか、時としては正味が稀薄にもなり、又逸散することすらも想像し難くない。短く切れ／”＼に又口不調法に殘つたものゝ中から、我々の知識の饗宴に取入れる材料は、殊に珍重して之を輸送する必要があつたのである。同じ山中の住民といふ中にも、下に降ることを職業とする者と、嶺に往來して生計の道を立てて居る者とには、近代は一層二色の趣味が對立しようとする姿が見える。誰から聽いても山の話は一つといふことが、今は殆と成立たなくなつて居るのである。それだから山と漁村とに於ては、どんな人が話したかゞ一段と重要になり、又如何なる時と場合に、其話が持出されたかも、同じく附記して置く必要を生ずるのである。私は最近に此一文を草する爲に、思ひ出して本棚の隅から、六年前に買つて來てあつた、セルソールといふ人の『西部アルプスの口碑集』を出して讀んで見た。瑞西のヴオーといふ州の村民の昔語りを、土地の僧侶かと思ふ人の集めたものである。私は久しい間かの山地を旅行して、書中の村の名などは殆と皆知つて居るが、悲しいかなそれは電車や自動車の中から見たゞけで、しかもこの話は大部分土地の方言で話されて居るものであつた。斯ういふ驚きと歎息とは、まだ我國の内でも?々くり返さねばならぬことゝ思ふ。本物のアルプスでは人も知る如く、山の上遙かに、大いなる夏の小屋があつて、村の男子の大多數は牧牛の群を連れて、年の半分はそこに行つて泊るのである。後には少しづゝの耕作が其周圍に行はれ、淋しい小さな部落が出來て居る處もある。天然の威壓が殊に烈しい爲に、平地で得られない一人々々の實驗も多く、それを又生涯牢記して、聽かれたら語らうとする老人が少なくなかつた。口碑は數百年の間、かゝる人々によつて保管せられ、シヤレェ（山舍）は即ち又其交換所であつた。(57)日本の農民はいづれの民族よりも、殊に群住を愛する傾きがあつたやうであるが、それでも猶奧山家には此類の孤獨があり、又別に獵人などの隣を欲せざる一つ家の生活があつた。それが悉く現代の交通革命に由つて、急速に消え去らんとして居ることは、アルプスの酪農國よりも更に甚だしいものがある。『山の傳説』の新たなる喜悦を知つた者は、すぐに急いでこの失はれ行くものを取留めなければならぬ。それには又この著者の採集法に對して、或は　　稍々嚴峻に過ぎたる批判を下す必要もあるかと思ふ。私の現在興味を感じて居る問題は、山の一つの脅威たる山人の存在と、里で夙くより説話化した巨神譚とが、境も紛はしく混亂しようとして居ることである。サヴォアやスイスに於てガルガンチュアと謂つて居る大人も、やはりこの二種新舊の經驗が、誤まつて同じ起原の如く語られて居るものゝやうであるが、大きいと謂つても大きさが實は非常に違つて居た。それから今一つは黄金の?、山で夜中に時を告げる聲を聽くといふ話も、亦本家のアルプスの方にあつては、明かに?を生きながら山に埋める信仰が原因のやうに言つて居る。日本では今は里中の塚城址にも流布して居るが、是などば本來多分は山の傳説であつたといへる。さうして國を隔てたこの一致が見出さるゝ以上は、假に發生は人が住むやうになつて後であらうとも、種は潜んで遠き我々の神世からあつたのである。傳説の他の多くの昔話と異なる點は、それが少なくとも或昔に、確かに有つた事として信ぜられて居たことである。さうしてその最も信じ難きものから、次々に之を遠い神世に押送つて居たことである。一度はあつた事であるが故に、理由があり又法則があり、更に又計畫があつたと考へられたことである。

　　　神世よりかくなるらし、古へもしかなれこそ

　　　うつせみも妻を爭ふらしき

　斯ういふ風に我々は嗟歎して、その有り得べからざるものを聽かうとしたのであつた。今日我々の知りたいと思ふのは、傳説そのものゝ珍らしさでは無い。傳説はほんの僅かばかり諸國の例を見て行けば、直ぐに人はその型の一致し一定して、特に例外の少ないことを見出すのである。それを我々の如く貪つてなほ集めて見ようとするのは、多く(58)の比較によつて始めて「之に對した古人の心」がわかるからである。故にさういふ資料として精確なるものを供給することが、もし採集の目的であつたならば、それこそ多々益々辨ずである。青木君の『山の傳説』が大に人に讀まれ、此上にも更に數篇を重ね行かんことは、自分はたゞ此條件の下に歡迎するのである。

　　　　　　　　　　（昭和五年六月二十八日箱根小涌谷に於て）

　

(59)　　　　　早川孝太郎編『能美郡民謠集』

　

　能美郡民謠集は編者の言にも見ゆる如く、採集と謂はんよりも寧ろ發見であつた。この茫漠たる大都の塵の裡に、土の香のまだ新しい數百篇の村の歌が、匿れ潜んで聽く者を求めてをらうとは、如何に熱心なる我々の同志と雖も、會て想像する能はざりし所であつた。從つて殆と不思議に近い此頃の遭遇を、再び今後に期待することは無理かも知れぬが、少なくとも之に由つて我々の經驗し得たことは、所謂「京に田舍あり」の古い諺は、現在に於て殊に眞であつて、無限に生長して行く東京の町の一隅は、必ずしも故郷の傳銃を斷ち切つて、流れ込んだ新らしい人のみを以て、構成せられては居なかつたと云ふことである。諸國さま／”＼の昔風が、汽車に積まれて、此中へも大分入つて居るらしいことである。但しこれと同時に、愈々痛切に感じられるのは埋没の危險である。例へば我が早川君の如き親切なる蒐集者が夜分少しく閑あつて家に居る時節に、恰も其隣屋敷へ新たに地方から、物覺えのよい寂しい一女性が越して來て、話相手を求めて居たと云ふ如き場合は、決して?々繰返され得べき偶然では無いのである。しかも今更心付いて見ると、此類の人々とても家庭の事情があり、其他何等かの外部の促迫を受けて、追々にこの混沌たる新群衆の中に入來り、忙しい爲に以前の生活を忘れ、程無く同化せられ無視せられて、只の都人になつてしまふ例は多いので、必ずしも生れた村を愛し、祖先の永く思慕せられることを希ふ人なるが故に、強ひて本居の土に踏止まり、どこまでも傳承に忠誠で居ることの、出來る世の中ではもう無いのである。

　書物が多くして良書の至つて乏しいと同じく、暗記と饒舌とは必ずしも六つかしい技藝で無いにも拘らず、眞に忠(60)實に我々の爲に昔を説き得る者は、思ひの外尠ないものである。以前の田舍に於ても、此資格を具へた人は決して多くは無かつた。うつかりと暮して居ても人間はすぐに年寄りになる。徒に眉の白く杖の藜なる者は幾らも居る。老翁なるが故に物識りなるべしと速斷するときは、往々にして思はぬ失望をすることがある。相州の佐野川には二代がかりで、村を日本武尊御通路の遺蹟にしようと、努力して居る老人さへあると謂ふ。なま中僅かの歴史の學問がある爲に、我が豫斷を立證し得べき材料のみの蒐集に骨を折り、其他を故意に湮滅せしめようとする企ても、隨分無かつたと言はれぬのである。故に彼等には多分の空想があつてはならぬ。精確なる感受力と共に、其印象を或期間に運搬する爲には、舊い事物に對する渇仰咏歎の情が、寧ろ宗教的とも言ふ位に、濃厚で無ければならぬ。要するに最も見聞に忠であつて、單に我が趣味常識を以て判別取捨を敢てせぬのみならず、看た以上聽いた以上は之を何人かに語らずには置かれぬと言うたゞけの、素直な心持が必要である。近代人の社會に於ては、それは如何にも六つかしい注文のやうに見えるが、尠なくなつたと云ふばかりで、今でも其型の人は慥かに居る。古風な國の色々の制度が、著しい變更無しに永く續いて居るのを見ても分るが、もとは此の如き態度を以て公道�ｺの理想とした時代があつたので、世中が斯うなると其樣な人を見出すことが、次第に困難になるといふ迄である。リバース博士の如きは、此類の説話者を呼ぶに。“The old man”の名を以てせんと主張した。國語に譯して見れば、やはり「故老」と謂ふ外はあるまい。さうして早川孝太郎君自身は、年がまだ若いから氣の毒ながら、正しく一人の「故老」であつたことは、『おとら狐の話』『三州横山話』が之を證據立てゝ居る。そこへもつて來て�ｺは孤ならず、明治初年のざんぎり文明の空氣に生れた一婦人が、純眞なる第二の故老となつて出現したといふことは、單に稀有なる邂逅として珍重すべきのみならず、我徒に取つては如何にも心強い新發見と言はねばならぬ。

　集中二三の長篇の中に、空行を存せねばならなんだ記憶の脱落は、惜しいとは言ふものゝ却つて説話者の人柄を床しくする。歌の章句には、手筒な語法や言ひ廻しが少なからずあるけれども、それは聊かも最後の歌ひ手が作爲を加(61)へたものでは無くて、ともかくも曾て或時或地方に於て、多數の老若男女が一同に、斯う聽いたものであることが、之に由つて始めて信ぜられるのである。さうすると引續いて起るべき問題は、作者は何人かと云ふことである。作者に何樣の力があつて、此の如き文句をはやらせたと云ふ以上に、永く忠實に遵守させ得たかと云ふ疑ひである。近わたりの村の名、家の名を題材とした短篇は別にして、クドキと云ふ類の踊歌などは明白に遠い旅をして居る。例へばお杉が寺に詣でて和尚を挑む物語の如きは、四十年前にたしかに自分の郷里、播州中部の農村の盆踊に、最も人望を博した一曲であつたが、自分の記憶する限り筋は同じで、文句は丸で異なつて居る。お夏清十郎の變化かと思はれる一篇の如きも、何れの一節にも京大阪の地に始まつたらしい句法が見えぬ。即ち多くの地方に行はるゝものを歌ひ比べて見たら、恐らくは曲節の相違からも容易に發見し得べき如く、邊卑の田舍へ持運ばれたのは、ほんの要點ばかりの輕荷であつて、之を仕立てゝ新たに一篇の詞章とし、土地相應の物の哀れを語つたのは、やはり地方の無名詩人、と云ふよりも寧ろ此の如き讀人不知を出すべき、村々の空氣であつたと思ふ。從つて近代漸く盛んなる地方の流行唄の如き、假令一方で既に廢れて後に、他の一方で新たに行はれたとしても、なほこれと民謠との間には、明瞭なる一線を劃し得るやうである。

　奧淨瑠璃の義經記は、土地の座頭の語音を以て、武藏坊の勇猛を説いて居る。他郷の土を踏んだことも無い南部津輕のイタコたちも、豐後の滿能長者を我が歌にして、炭燒の立身を語るのみならず、更に其感動を深くせんが爲に、地方々々の靈泉の奇瑞、乃至は神佛の功�ｺに結び附けたと見えて、之を己が村の史實と信ずる者が、今なほ東北だけにも數ヶ所ある。さうして不思議は里人を驚かした物語の内容よりも、寧ろ是程に自由なる土地の歌人の技巧が、何故に跼蹐として古來の型に追隨し、別に各自の空想に基づいて、新らしい趣向を立てゝ見ようともしなかつたかと云ふことである。察する所民謠の作者は、一個獨立の詩人と謂ふよりも、言はゞ民衆の耳であり口であつて、彼等が聽かんと欲し言はんと欲する所のものを、暗黙の間に命ぜられて歌つたゞけで、しかも民衆自身には古い昔から、實際(62)有つた事で無ければ聽くに足らぬ、歌にする値が無いと云ふ考へが、確乎として存して居たのであらう。ところが飢饉とか戰亂とか、人生には異變が多く、歌を忘れる不幸の年が?々あつた上に、たまには殘つて居ても、古びて用ゐられないものが次第に出來て來た爲に、世が安樂になると若い者がまづ淋しがり、有る限りの郷黨の話の種を、歌に作らせて歌つて見るが、それでもなほ足らぬ分は僅かの便宜を求めて、斯うした遠方からも取寄せて見たのであらう。

　此關係は或は又、海苔と麁朶との因縁を以て譬へて見ることが出來ると思ふ。我々が求むる所は香の高い紫色の植物であつて、ひゞは素より海苔の樹では無いのであるが、今もし村人が小舟を漕ぎ出して、これを我浦の沖に立てゝくれなかつたら、かの草も成長せず、目も留らぬ大海の塵と爲つて、永く我々の知識の外に浮遊してしまふかも知れぬ。しかも幸ひにして人間歌を欲するの情は、葉山繁山の樹の枝よりも繁かつたが故に、殊には歌を以て引纏めた踊りや木遣り、其他色々の共同作業の基調には、萬人に適用する力強い法則、即ち生存と戀との二人祈願が潜んで居た故に、生きて行くあわたゞしい人生の繰返しが、能く是だけの痕跡を民謠の上に遺すことを得たのである。大近松出現の更に以前から、普通の原因で死なゝかつた人の生涯は、是非とも物語にして語つてやらねばならぬと云ふ、世間からの要求があつた。しかも事實は十行か十五行の三面記事である爲に、之を一篇として咏歎するには、大阪の心中は大阪らしく、江戸の仇討は江戸らしく、大略は土地の者の豫期する如くに潤色するのが作者の役であつて、近くは明治大正の自傳派とも稱すべき文人たち迄、必ずしも斯うした趣向の束縛に對して、腹から反抗する者ばかりでは無いやうであるが、是が田舍であり古代である程、一層其拘束が強くなつて、結局作者は永遠の無名氏でも、人でも神でも構はぬと云ふ所まで溯つてしまふことになるのである。

　だから口寫しの文藝には、模倣剽竊の沙汰も無く、版權の問題はなほ無かつた。一囘の印象は即ち一囘の印行であつて、其度毎に自由なる改訂増補があり、いつも時代と共に成長して行く力があつた。外題が變り新人物が附加はつても、依然として同じ奇蹟に驚き、同じ悲歎と悦樂との間をさまようて居た故に、言はゞ一個の民族を主人公とした(63)一篇の大戯曲を、爰に切り彼處に繼合せて、横から縱から色々にして賞翫して居たやうな感があるのである。この羨むべき藝術自由を、窮屈なる今日の割據主義に變形させ、徒らに若干の才子の名を成すの具に供したのは、やはり又文字の災禍の一つと言つてよからう。讀賣瓦版の小技巧は、最初から其力の限りあることを自覺して居つた。之に反して當世の出版事業は不朽を理想とし、天下後世の青年をして、書籍に由つてのみ所謂文學を解せしむることを期して居る。此威勢に面して滅び壞れざるものは少ないであらう。例へば　　　叢爾たる一卷の民謠集でも、これが出てしまへばはや三百章の村の歌は古曲と爲つて固定する。歌を好むこと飲食よりも切に、之に頼つて心靈の孤獨を忘れてゐた優美なる一個の生存が、名畫の繪姿の夜が明けて壁に復つて行く如く、忽ち數十年來の足踏み手拍子、乃至は之に纏綿した色々の情緒、なげきほゝゑみ眼の光を以て、僅かに表現し得たやうな遠い世の記憶と、一切の縁を絶ち切つて過去と我々との間に、只平板なるスクリーンと爲つて殘らねばならぬ。此結果を十分に豫期しながら、なほ我々の保存事業が、一日を空しうすることの出來ぬのは、要するに時勢である。如何ともする能はざる世中の力である。

　是は意外の長談義をしてしまうたが、畢竟する所自分は此小册子の公表に由つて、地方々々の民謠の背後に、埋もれ果てたる古い大きな文藝の、横たはつて居ることを信じ得たのである。さうして文庫の中だけの勉強が、愈々昔の人たちの心持から、我々を隔離する手段であつたことに心づき、力及ばぬ迄も出來る限り之を喚び近づけんとする一二の篤志者の辛勞に、深い感謝を表白せんとするのである。之に附隨しての小さい發見は、今一度よく見た上で無いと、詳しく述べることが出來ぬ。例へば早川君の分類は、何か感じの上から斯うして見ずには居られなかつたのであらうが、現に各部の特質に就いて、適當な名稱が下し得なかつたのを見ても、是が果して常に採用すべき區分法であるか否かの疑はしいこと、多くの民謠は少しづゝの變形を以て、色々の場合に轉用せられて居るらしいので、文部省の俚謠集の如く、籾摺歌草取歌などゝ、一々に排列したのは亦失敗であつたこと、竝びに歌と唱へ言との中間にあるやうな、童兒の遊戯に殘つて居る文句は、やはり此本の如く附録として添へて置く他はあるまいが、手毬唄と手玉唄、(64)鳥の唄と螢を呼ぶ詞の類は、單に文句の長短ばかりで、歌と否とを區別することも六つかしいと思ふことなどは、他日多くの讀者の説を聽いて後に、最も自然に近いものに從つて、今の疑惑を決したいと思ふ。

　

(65)　　　　　三上永人編『東石見田唄集』

　

　文部省の俚謠集は記念すべき好事業であつた。三十幾つの道府縣に亙つて、百餘の歌の種類を網羅し、詞章の存録せらるゝもの三千を越えてゐる。之を一見して先づ日本の民間文藝が、今もなほ甚だ豐富なることを感ずる者は多いのである。しかも此書に於て何人も未だ心付かざる一事は、その三十六頁の目次のたつた二行、即ち島根と廣島の二縣の田植歌が、量に於て全篇の約六分一を占めて居ることである。鳥取縣は俚謠集の報告に漏れて居るが、他の岡山、愛媛、山口の三縣も事情はほゞ似て居る。關東奧羽などの諸地方に比較して、最も著しい相異は情緒の變化である。後者の田植唄には勞を忍び飢と疲を語るもの多く、然らざれば男女諧謔の辭を以て、快活の笑を催すを常とするに反して、中國の唄には所謂田祭の行事を讃歎したものが多かつた。是は固より信仰と風習の濃淡に關聯するものであり、更に溯つては當初の土着方法、乃至は部曲組織の同異に基づいて居るのかも知れぬが、しかも近畿の農村の如き、事情は西に近かるべくして、歌の風は却つて東に似て居るものがあるのを見ると、或は未だ究められざる何等かの原因が、曾て我々の祖先の一樣に抱いて居た微妙なる感情を、此には消滅せしめ彼には偶然に保存させて居たとも解し得るので、その興味ある一問題を決定する爲には、この數百の歌謠以外に、別に是ぞといふ資料はもう無いのである。

　數ある民謠の中でも、田植唄には取分けて保存の困難な事情があつた。所謂農事改良の勸説せられてから、既に農夫一代の歳月を經過して居る。同じ中國でも平地部の村落に於ては、正條植の新作業法は、勢ひ早乙女の歌を不必要にし又不可能にした。それにも拘らず神の田と舊家の田に限つて、悠揚たる古風を以て之を植ゑることは、今となつ(66)ては又新たなる意思の力でなければならぬ。從つて此種の田唄がなほ民謠として行はれて居ることは、實は我々の安じて期待し能はざる所であつた。然るに『東石見田唄集』の新たに世に出るに及んで、始めて其悲觀の無益に近かつたことを、發見することが得たのである。少なくとも石州の東南隅、安藝と備後の境の山に接した、邑智郡口羽村の一盆地に於ては、現に大正十五年の今日に至る迄、なほ此田唄の大部分が、尋常の田人に由つて歌はれて居ることが、歴然として立證せられたのである。中國山脈の諸處の谷合には、事情の同一なる村が勿論まだ多いのであらうが、熱心なる採録者を缺く場合には、學問に取つては其消滅の遲速は問題で無い。乃ち編者三上君の辛勞を多とし、永くその郷里の名に繋けて、希有の遭遇を記念せんとする所以である。

　口羽は江（ノ）川の一支流、出羽川の岸に臨んだ面積二平方里餘の一村である。家の數は約六百、十六の小部落に分れて居る。村の口碑に依れば山城の京の始め頃に、今の氏神樣宮尾八幡宮の御伴をして、三上與七太夫といふ人が近江國から下り、下口羽の根布といふ處に來て住んだ。其子孫の連綿として此土の穀を食み、春秋の神を迎へ送り、時鳥の啼く月となる毎に、眷族打群れて田に立ち苗を採つたのが、やがては此集の編者をして今日あらしめた因縁である。たとへば多くの田唄が當初野を越え谷に沿ひ、次々に渡つて來たものであつて、此家の祖先は聊かも其製作に携はらなかつたにしても、此一筋の血の流れこそは、永い年代に亙つて最も數多く、清く朗かなる歌の節に由つて、さゝら浪だつたる流れであつた。三上君が少年にして都府に遊學し、還る日は極めて稀にして、未だ曾て其袂を泥にし、白き手を山田の澁に染めなかつたらしいにも拘らず、なほ久しい勞苦を積んで手帳の富を貯へ、更に故老に問ひ新古の寫本に對照して、記載の正確を期した上に、自身も亦田植唄の名人として同學の友を驚かし得たのは、勿論單なる古詞愛惜の情ばかりからでは無かつた。

　雜誌『民族』の讀者は或は記憶せらるゝかと思ふが、最近我々の愉快なる發見は、此集中の至つて古風なる十數章の歌詞が、現在なほ用ゐられて居るといふことであつた。口羽小學枚の上級生の書いたものに、彼等が必ず耳で學ん(67)だらうと思ふ田植唄が出て居るが、それは悉く田の神の神話とも名づくべき、奇異且つ重要なる諸篇のみであつた。當世の教育乃至は體驗と、併立を望み難き此類の傳承が、今まで斯うして保存せられたのは寧ろ意外と名づけてもよい。故に少なくとも我々の同志者のみは、之を過去記録の高い本棚に上げる前に、如何にして此樣な信仰が歌となり儀式と爲つて、中國農村の一部に永く行はるゝに至つたかを、考へて置く必要がある。俚謠集の各地の實例を比較して見ると、根本には固より一貫した感情は流れて居るが、表出の方法には若干の異同がある。例へば田の神降しと稱する朝の間の歌でも、甲に在つては之を直接に田の神の御出と歌ひ、乙では「たあらひ」と謂ひ、丙では「さんばい樣」と呼掛けて居る他に、或は又神の使ひ女たる「おなり人」「おなり衆」を以て、之を表さうとして居る處もあるのである。從つて統一した信仰の原の形を知らうとするには、此篇の如く一定の部落を中心として、それから動いて出る次々の波紋を觀なければならぬ。此目的に向つては俚謠集の蒐集は、幾分か廣汎に失してゐた。其上に若干の脱落を免れず、又個々の詞章に本來の時と順位があつて、田人の新意を以て變更し得なかつたことも、まだ十分に認められて居なかつたのである。それを整頓して始めて完全なる一機の織物の如くしたことは、先づ感謝せらるべき此集の功績であると思ふ。

　

(68)　　　　　澤田四郎作編『ふるさと』

　

　此本の初に何か書くやうにと望まれて、ふと私は母子草のことを思ひ出した。私たちの在所では、此草の名はホーコとばかり謂つて居て、それが『文�ｺ實録』にも出てゐるといふ母子草のことであらうとは、大きくなるまで知らなかつた。十三四年前に『赤子塚の話』を書いて見ようとして、始めて攝州有馬郡母子村の舊傳に、通幻禅師が未生以前の母を慕ひ、此草を摘んで三月節供の餅を製したといふ、物語のあることを知つて哀れを催した。私の子供の頃には、草餅は蓬を入れるのがもう普通になつて居て、ホーコを用ゐる家は至つて少なかつた。最初は餅の緑色を鮮かにする爲に、次には蓬の高い香氣を愛して、民間の趣味も次第に今の風に移つたのださうである。

　それにも拘らず、幼ない者は、籠を持つて野に出ると、やはり昔風に此草も摘んで來た。うちでは用はないのにと母に言はれて、失望して棄てたことなども私は記憶してゐる。土手の菫や雀の毛鎗に交つて、ホーコの黄色な花がつゝましやかに咲いて居るのを見るたびに、今でも折々はこの草が人間と縁の薄くなつたことを、氣の毒に思ふやうな感じがする。記録や本名をまるで知らぬ者でも、實際摘んで行きたくなるやうな初春の草であつた。蓬の若葉も美しい色であるが、此方はもう一層子供たちの眼につき易い姿形をして居る。多分は大昔もさういふことから、是が食用になり始めたのであらう。さうして我々がいつ迄も之を摘んで居たのも、隱れたる意欲の遺傳であらう。

　採集の用無用といふことは、?々我々の學問に於ても考へられる。澤田四郎作君は自分の知る限りに於ては、多くの外國の珍書を貪り讀み、既に新知識の滋味を滿喫した人である上に、自身も亦料理の才能があつて、我々に向つて(69)幾多の香氣高く、色鮮明なる心の食品を供與して居る人だ。其人が再び故郷の田園に遊んで、斯ういふ昔ながらの野の草を籠に摘み、殆とそれが何にして食ふものかを考へもせぬやうな顔をして戻つて來られたことは、矛盾であつたにしても誠になつかしい矛盾である。私には是も一種の母子草の魅力と名づけてもよいやうに感じられる。芹や嫁菜や土筆なども同じことで、如何に色々の珍らしい西洋蔬菜が作られるやうになつても、季節が來る毎に此味を思ひ出さずには居られない。それは故郷と先祖との大きな記録といふ以上に、更に又我々の無邪氣であつた日の、僅かに殘つた記念でもあつたからである。之を忘れて通り過ぎるやうでは、人生は餘りにも寂寞なものだと言はなければならぬ。

　澤田君の母堂には御目にかゝつたことは無いが、生んで育てゝ教へられた末の子が、我が澤田君であることによつて、十分に其風格を想望することが出來る。獨り一卷の書に集められた前代の事實だけで無く、この常人生活に對する理解と愛着、殊に何物をも輕微とせず、必ず精確に之を語り繼がうとする態度までを、我子に傳へて置くことが出來たといふのは、女性の事業としては完成と言つてもよい。實は私も非常に物覺えのよい親切な母をもつて居たが、亡くなつてからもう三十五年にもなる。さうして澤田君のやうに、ぢつとして話を聽いて居る時が誠に少なかつた。親の愛と學問の喜びとを、一緒に味はふことの出來る者は、さう澤山には此世には居ないのであつた。此本を世に遺さうとする編者の心境は別として、とにかくに是は澤田君の、稀有の幸福を記念するの書である。

　

(70)　　　　　伊能嘉矩著『遠野方言誌』

　

　伊能先生を深く追慕する人々が、今度先生の名を記念する爲に、地方研究の小團體を作り、此初秋の一周忌に先だつて、發會式を擧げようとして居る。先生の遺業を後代に傳ふる方法としては、是に優るものは他に有るまいと思ふ。諸君の知る如く、先生は東奧遠野のみの恩人では無かつた。日本一國の學者の態度を以て其郷土を研究し、又其郷土愛に立脚して、弘く内外の事相を學ばれた。假令學問は奧遠く、人の生涯はよし短くとも、其志は永く諸君の間に活き且つ成長することであらう。

　『遠野方言誌』は實は未完の遺稿である。謙抑なる伊能氏は、必ず若干の増訂を加へた後で無ければ、是が公刊を容されなかつたことゝ思ふ。しかも先生はもう既に之を拒み得ぬ人となられた。悲しむべき記念である。

　『爐邊叢書』の編者は、懇切に故友諸君に希望する。願はくは?々此書を飜へし、獨り之に由つて伊能氏を思慕し憶念するのみならず、更に新たなる見聞と發明とを、此書の餘白に注記して、行く／＼は最も完全なる遠野地方の文化研究を以て、現時甚だ振はざる我邦の言語學に、貢獻することを力めたまへ。是やがてこの篤學なる先輩の名を、不朽に傳ふべき所以である。

　

(71)　　　　　荒垣秀雄著『北飛騨の方言』

　

　飛騨の方言は、享保年中に初稿成ると傳へてゐる『飛騨志』が、先づ之に注意して居る。明治に入つてから、各郡の教育會はその志を受繼ぎ、既に數種の調査書を公けにしてゐる。自分の見たものでは、『大野郡の方言調査書』『益田郡志』『吉城郡袖川村誌』がある。『飛騨史壇』にも若干の方言採集があり、又梶田誠君の如き年頃方言の調査に精進してゐる人も少なくないといふことを聞いてゐる。しかし荒垣彦兵衛氏の遺稿の存在するといふことだけは、近年朝日新聞社に入つて、令息の秀雄君と机を竝べるまではまるで知らなかつた。前年の旅行の際にも會つた事がなく、又自分が飛騨に持つてゐる多くの友人もこれを語らなかつた。ところが丁度我々が言語誌叢刊の仕事に着手した際に、偶々秀雄君が亡父の事業を完成しようといふ孝行な志を立てたことは、何か因縁のあることのやうな感じさへ起る。自分の知つてゐる限りに於ては、小荒垣君は斷じて暇人ではない。幾多の同僚の中でも特に敏活に飛廻つてゐる所謂少壯記者である。それが一言も私から勸めたのではなくて、この辛氣臭い事業を新たに企て、數量に於て遺稿の約三分の一を増補したといふことは、私にとつて深い感動であつた。かういふ事業こそ、少しでも早く繼いで起るものを誘導したいものである。いふまでもないことであるが、方言の蒐集が既にあるといふことは、少しでも第二の熱心な事業を不必要にするものではない。殊にこの小さな山國では、位山の分水嶺により南北に著しい言語現象を異にしてゐるのみならず、下流には越中との交渉が非常に錯雜で、時には耳を信じ得ないやうな珍らしい言語現象が殘つてゐる。その理由は至つて單純である。富山縣の海沿ひの平原は、内外の旅人によつて東西に踏破せられ、非常に多くの(72)新らしいものを遠方から運んでゐるにもかゝはらず、その山間部には以前からの古い生活を湛へて、川上なる飛騨の國の一部と共有してゐたのである。我々の如き間接に書册から言語の資料を得てゐる者は、かういふ地方に臨むと常に大きな疑惑を持つ。さうして出來ることならば、三つでも四つでも全然關係の無い人たちの採集を比べて見る必要を感ずる。その意味に於て荒垣父子の方言集が、その一つ／＼を自分の耳から採集してをつたといふことは、大いなる價値のあることである。それにつけても久しい聞知間を世上に求めず、ひたすらその學問の志を血脈の間に傳へようとした、荒垣彦兵衛氏の人柄を床しく思ふ。

　

(73)　　　　　大田榮太郎編『滋賀縣方言集』

　

　明治三十年の十月に、東京帝國大學文科大學では滋賀縣廳に方言の調査を依頼した。藤岡・新村・保科の諸氏の卒業の前の話で、それには坪井九馬三氏が關與してゐる。他の諸縣に向つても同樣の交渉があつたらしいが、その結果は今わかつてゐない。滋賀縣の方では、この希望に應じて各郡に命じ、新たに蒐集せしめた報告書が偶然にも今日まで殘つてゐた。現在の所有者は朝日新聞の同僚中神利人君である。中神君は新聞資料の蒐集家だが、故郷のことゝは云ひながら、こんな問題にまで注意が及んでゐようとは思はなかつた。自分が何とかして之を世の中に傳へておきたいといふ希望をもらした時、君は快く原書を自分の自由處分に委ねられた。がよく見ると各郡の蒐集に可なりの重複があり、原形のまゝでは何分にも公表することが出來ない。それで當時地方の方言を各縣別に分けて見ようとしてゐた大田榮太郎君に話したところ、この縣はまだ手をつけて居らぬとのことだつたので、その整理を引うけてもらつた。全體に滋賀縣は言語誌上重要な地域であるにもかゝはらず、これまで一向に調査の成績が進んでゐない。であるからこの機會に、もう少し廣く斷片的材料をも集め、追加として附加へては如何と自分が云つて見たが、それも大田君は即座に同意して、面倒を厭はず各村役場小學校等に方言調査の?況を聞合せたのだつた。しかし報告に接したのは極めて僅少で、計畫通りこの蒐集に追加することが出來たのは、僅かに『油日郷土誌』、『堅田調査書』、『余呉報告書』等の數箇所のみである。これまでに自分の知つてゐる滋賀縣の方言集は、曾て拓殖大學内の滋賀縣人會が、謄寫版にして二囘程僅かばかりの地方語を集めて出したものと、大津の高等女學校が、生徒の訛語を矯正するために、小册子(74)を活版にしたものとの二つに過ぎなかつた。その以外には四十年前の『人類學雜誌』に二度ほどと、『風俗畫報』に一兩度、旅人が町の宿屋ででも拾つて來たやうな粗末な報告があつたゞけである。大田君は無論それらをも見逃さなかつたのみならず、更に『甲賀郡史』と『滋賀縣地方方言集』との二つの資料をも發見し、なほ靜岡縣警察部で作つた『全國方言集』、『樹木方言集』や『狩獵鳥類方言集』の中からまで、近江に關するものを拔出すことを忘れなかつた。この骨折は深く感謝しなければならぬ。

　しかしその結果として、愈々もつてこの編輯物の本質が複雜になり、實地に就いて採訪した正確な記録の出來るまでの、間に合せといふほどのものになつてしまつた。我々がぶつかつた一番大きな問題は、採集時期の三四十年間の喰違ひ以上に、表記法の各地區々になつてゐることである。本篇の中堅をなしてゐる明治三十年より三十一年に至る各郡の調査は、當時のこと故大體歴史假名遣で、正確に當時の音韻?態を知ることが出來ない。多分かうであつたらうといふ想像までは出來るが、さりとてそれに基づいて今更改めることは無論危險である。それで不統一は覺悟の上で、各資料の出所を明記して全部原本のまゝ寫し出すことにした。この點が甚だ自分たちの本意に反するところである。近江の郷土研究者たちはどうか之に向つて愼重なる批評非難を加へると共に、一方ではこれを臺帳とし、もう一度實地に就いて同じ語の今も存するや否やを檢し、同時に最近の知識に基づいて、表記法を統一して貰ひたいものである。さうして縣外の熱心家が餘計な手出をしたことは、深く咎められないやう切望する次第である。

　我々は一般に地方語の消滅に先だち、これを記録して後代に殘すことを願つてゐるが、その中でも滋賀縣は殊に自然の經過を坐視することの出來ぬ重要性を持つてゐる。近江は一縣が一國で、全國中でも小さい方の行政區域に屬し、且つ交通が非常に發達してゐるから、言語の?態はその一部一端を以て類推することが出來るやうに想像せられてゐるかも知れぬが、事實はこれと正反對である。以前私は玉蜀黍の地方名を調べようとする際に、この現實に接して愕然と驚いたことだが、國境に大小四十二の通路を持つてゐるためか、中間に巨大な水面をひかへてゐるためか、とに(75)かくに單に湖北湖南といはず、東も西も隅々まで、それぞれ各隣縣の影響を受けて居る。玉蜀黍でいふならば、西からは近畿のナンバが來て、東海道及び中仙道を傳つてやゝ進行してゐるのに、美濃に接した方面は尾張平野のコウライを用ゐてゐるし、北には北國と共にハチボクといふ言葉が入つてゐる。ひとりこの一語のみならず、他の形容詞動詞にも、語法にも音韻にも、同じ對立?勢の頗る著しいものがあるやに思はれる。かく見て來ると、この狹い縣内の何處かに必ず交叉地點、私たちの邊疆現象と謂ふものがある筈である。これが國語の成長の法則を示すために、非常に重要な材料となることは既に一般に認められてゐる。從つて近江人は單に父祖の生活が如何やうであつたかを、是から窺ひ得るといふにとゞまらず、更に第二の重要なる本務、即ち日本語の新たなる檢討に對して、豐富な資料を示すべき役割にはまつてゐるのである。それを今日の如き亂雜な　　状態に放置して、偶々他郷の者に不完全な編輯をするやうな必要に迫らしめたといふことは、心ある者の悲しみとすべきところである。この意味に於て、私は大田君の如き、全國の方言の比較を自身の事業とする、若き學徒の出現を喜び迎へると共に、一個近江人たる中神利人君が、三十年の久しきに亙つて、この貴重なる文獻を保存してをられた勞力に感謝しなければならぬと思ふ。

　

(76)　　　　　桂又三郎著『岡山動植物方言圖譜』

　

　今までもいゝ加減忙しかつた桂君に、斯んな骨折な仕事を勸めたのは私であつた故に、此書の門出には一言を餞すべき義理がある。桂君は都市に住し文筆に長じ、しかも「中國民俗研究」の最も熱心なる鼓吹者である所から、どうかすると不利の臆測を受けさうな人である。人には一生懸命に材料を拾はせて置きながら、自分はたゞそれを紹介し又利用することによつて、名を成し業を安くする下心でもあるかの如く、疑はれるかも知れないいやな地位に居る。實際其通りの人も世間には有るのだから、爰では何としても倍だけ働いて、決してさうでは無かつたことを反證する必要を、自分でもとくに感じて居るのである。それには此方言圖譜の如き採集事業が、最も適切な手段であつたことは確かだが、或は適切以上では無かつたかと私は虞れる。どうか健康を破らぬ程度に、やゝ氣永に完成に向つて進んで貰ひたい。

　採集といふ語は、今日は少し濫用せられて居る。徒らに分量を貪つて整理を怠り、もしくは珍奇を專らとして脱漏を意としないなどは、それでもまだ自ら働くのだからよい方だが、中には又聞きそこなひや誇張を、平氣で振りまはして採集と思つて居る者さへ有る。我々の今求めて居る民俗の知識は、その直接の保管者は大抵は常人であつた。彼等は動植物の羅甸名などは知らぬのみか、それが學者の日本語で何と謂ひ、又何と教科書に書いてあるものと同じいかを少しも心得ずに、自分の知識だけを牢く記憶して居る。だから一人で雙方の言語に通じた者が行き合さぬ限りは、ゴリやドンコの問題は永遠に繰返されなければならぬのであつた。最も的確なる方法は實物を持ちあるくこと、それ(77)が不可能ならば寫生が第二の手段であつた。量は少なくとも是まで進めば安全で、乃ち信頼度の區々なる雜駁なる集積と、優に其效果を拮抗することが出來るのである。佐藤清明君が常に其報告を豫報と言はれるのも其意味で、豫報はたゞ分布を暗示し、次の確認の再調査を、誘導するものに過ぎなかつたのである。之に比べるとこの採集の如きは、事微少なりと雖亦一つの結論であつた。是が將來の綜合を基礎づけるは素より、更に一歩を進めて他の多くの無形文化、禁忌と謂ひ俗信といふ類の寫生し難き民俗資料に於ても、何等か之に代るべき採集の方法あるべきことを類推せしめ、結局は所謂「物と言葉と」の分割隔離すべからざるものが、今まで分割隔離せられて居た弊風に心付かせ、新たに第二のより重要なる立場から、もう一度國語現象の見直しをする心掛を、普く國内の有識階級に植付けることにもなると思ふ。さうすれば桂君の辛勞も、誠に張合ひの有るものだと言ふことが出來るのである。

　この瀬戸内海の美しい潮の中には、單に我々の産湯の水が流れ込んで居るといふ以上に、遠く數千年の大昔以來、是が日本へ入つて來たすべてのものゝ、殆とたゞ一つの大通りであつた。廣い平原ならば一方に吹寄せられるだけの文化が、海であるが爲に一つ一つの小島、處々の岬の陰に、時々の形を以て漂ひ付いて隱れて居る。人の生活にも亦色々の樣式が、目近く岸を對して變化の多い比較を提供して居る。その僅かな片端を手にして仔細に看るといふことが、決して地方の學問で無かつたことは、「中國民俗研究」が程無く之を立證することゝ思ふ。採集者の用意としては大きな志と、微細を粗末にせぬだけの親切とを、兼ね備へて居る必要があつた。それから今一つには外來者の好意と、永く住まうとする者の功を立てたい願ひ、是も我桂君は偶然に併せ有するのである。どうか此書物が弘く恩澤を世に與へて、人と土地との因縁をいつ迄も記念し得るやうにして見たい。さうすればこの絶大の勞苦にも悔が無く、之を勸めた私も責が輕いわけだ。

　

(78)　　　　　早川孝太郎著『花祭』

　

　早川君のこの書物には、題目の新奇と捜査の周到、觀測の精確と記述の丁寧、其他推賞せられてよい多くの特徴を具へて居るやうだが、取分けて自分として懷かしく思ふことは全篇がたとへば一本の大木の如く、さながら一つの研究の成長過程を示して居ることである。さうして又永い將來に向つて、更に此上にも大きくなつて行かうといふ勢ひを含んで居ることである。我々の仲間のたつた一つの約束は、當世風の語を假りて言へば、學問の日録化であつた。今までに獲たものは惜み無く之を人に與へ、自他共に與にそれを足場に踏んで、もう一つ前へ進んで行かうといふに在つた。其方法は往々にして心無き者を速斷に誘ひ、又は自分の見損ひを暴露するの憂ひを伴なふが、奈何せん開けた國々の民間傳承は、斯うして片端から公表して行く以外に、其保存の道は無いのである。獨り三河の花祭のみと言はず、古い慣習と其背後に潜んで居る心意の動きとは、それを究めようとする學問の進歩と、反比例以上の速度を以て消えて行くのである。それ故に私は既に何度と無く、もういゝ加減にして一旦纏めて置くことを、早川君に向つても勸説したのであつた。此書の刊行は自分たちの希望より遙かに時おくれたけれども、兎に角に是だけ豐富なる資料が、その未だ亡失消散せざるに先だつて、能く一卷の書册に結集せられたのは大幸であつた。是にまだ何等の結論の附いて居ないことは、寧ろ我々の本意とする所である。自分は何人よりも切實に、この採集者の深き用意に感謝し、且つ早川君志す所の學問の前途の爲、改めて多くの期待を抱き得るに至つたことを欣ぶ者である。

　そこで純良なる花祭フワンの一人として、此機會に少しばかり外側から、此研究題目の成長して來た順序を述べて(79)見たい。二十一年ほど前に、自分は中世日本の民間信仰が、西の島の一隅から起つて、徐々に全土を席卷したことが、何度か有つたらしきことを考へて、小さな書翰集のやうなものを公にしたことがある。今見るとそれは誠に下らぬことを騷いだものであつたが、其中の一例として、設樂神が鎭西より上つて洛に入りたまふといふ、百錬抄其他の記事を擧げて置いた。設樂の漢字の由って來る所は別として、シダラは兎に角に踊の拍子を意味する、日本語であらうと思つて居た。田樂のステテイや、坊主踊のステテコとも關係があるかも知らぬが、今でも踊子の手に執る割竹のササラを、土地によってシタラともサウラともいふのとは、確かに元は一つであって、從うて河内の讃良郡、筑前の早良郡などの地名も、基づく所は此伎藝に携はる者の居住であったのであらうと思つて居た。我々の祖先の漢字採用には、折々隱れたる一種の選擇が働いて居る。どんな文字を宛てゝも、シダラといふ日本語音は表はし得るが、特に少しでも縁のある設樂の二字を採つたのは故意であつたらしい。それ故に三河北境の廣漠たる山村が、夙く設樂の名を呼ばれて居たことを、偶然の如く看過することが出來なかつたのである。

　ところが此早川孝太郎君は、南設樂郡の人であつた。?々私の家に往來して山中人の生活を談じ、又色々の旅行の計畫などを話し合つて居るうちに、ふと同君の故郷が非常に地狂言の盛んな土地であることを知つたのは、大正十一二年の頃のことであつたかと思ふ。其時に自分はちやうど、丹後越後などの風俗問?の類を讀んで居て、たしか斯ういふことを言つたやうに記憶する。芝居の本體は元は三番叟に在つた。其あとに追々新らしい狂言が附演せられたのが、後には興味の中心となつてしまつて、三番叟から見物しようとする人は殆と無くなつたが、それは恰も槇の實の赤い小僧の部分ばかりが、目に立ち鳥に啄まれるのとよく似て居る。だから古くから地狂言の盛んな村は、曾てその「三番叟信仰」が根強く行はれて居た土地と推定しても、一應は理由があるといふやうなことを言つた。花祭といふ語を私が始めて耳にしたのは、即ち此序であつたのである。

　早川君自身の花祭研究も、大よそ其頃を發端として居ると言つてよい。同じ設樂郡のうちでも、君の郷里は鳳來寺(80)の峯よりは南で、自身此祭に携はる村では無かつた。稀に祈?の必要あるに際して、北の山あひの村から頼んで來て、舞つて貰ふのを見たといふに過ぎなかつた。それが我々の勸説に由つて、地狂言に關する小さい時からの見聞を書いて置かうといふことになつて、或は是と關係があるかも知れぬ花祭に、説き及ぼさずには居られなかつたのである。單なるうろ覺えや又聽きの程度を以て、止めて置くことの出來ない性質を、早川君といふ人は持つて居る。さうして見に行つた結果が、終に斯ういふ大變な事になつてしまつた。學界を驚倒せしむる千六百頁の大著は出現し、苟くも民間藝術を談ずるの士は、之を知らなければ恥といふまでになつた。大體に今の所では珍らしいものが殘つて居たといふことに、ほゞ世評は一致して居り、私も亦之を信ぜんとして居るが、なほ無邪氣なる感想を披瀝するならば、珍らしいのは物それ自身であるか、はた又その殘り方が珍らしいのか。實はもう少しく經つて見ないと分らぬのである。もし假に自分の想像の如く、設樂といふ郡名郷名の起る前から、既にこの山地に伎樂の定住する者があつたのならば、其歳月は優に奧地に在るものを修驗道化せしめ、一方平野往還の衝に立つものを、地狂言村芝居たらしむるに足りたのである。さうすれば更に轉じて北武藏の桐大藏、又は總州在の市川海老藏等も、是と脈絡を引いて居なかつたとも斷言は出來まい。三河は今に至るまで諸種の演奏藝術の簇生地であつて、それが如何にして斯くの如くであるかも、實はまだ決して明かになつて居ないのである。此等の問題は終局に必ず總括して答へらるべきものと思ふが、兎に角に我々の固有信仰が曲折して、なほ現代に保存せられて居る如く、古い藝術も確かに殘つて居るではあらう。只今日は僅かに其或部分の、後に新たに附加せられたものあるを知るのみで、其他の部分がどの程度にまで昔を留めて居るかといふ問題は、腰だめ以上にはまだ之を推斷する道が無いのである。「事實」が何物よりも切に入用である。從うてこの早川君の綿密なる中間報告は、少しでも早く出過ぎたと言ひ得る人は無い筈である。

　少し遲過ぎたといふことは、今でも私は言つて見たい。實は我々は今少し小束にからげて、度々にこの貴重な材料を持卸して貰ひたかつた。さうすれば餘計な假定説の爲に、心氣を勞することも少なくて濟んだらうに、自分等は何(81)か夜に入つてから牡丹餅を貰つたやうな感じがせぬでも無いのである。たゞ幸ひにしてこの隣の杵の音は、幾分か我々の消化力を刺戟して居てくれた。特に早川氏の郷里に限つたことで無く、他の地方でも仔細に觀察すれば同じ事かも知らぬが、今まで聽いて居た同君の話の中にも、驚いたり心付いたりすることは既に多かつた。たとへば同じ獅子舞でも、豐天龍二川の水域に行はれて居るものは、獅子の面を被つたまゝで、政岡に三勝にもなつて見物を泣かしめるといふ話。斯んなことは自分等の全く知らぬことであつた。獅子舞の如く近代に入つて漸く普及したものでさへ、地方によつてはもう是だけの差異を生じ、又次々の樣式と結合をして居るといふことは、古風の殘留を説かんと欲する學者の、是非とも念頭に置くべき事實であると考へさせられた。それから尚一つびつくりしたのは、淨瑠璃御前の生命の永續であつた。この長者のまな娘の一生涯は、曾て義經記の傳ふる所を以て盡きて居り、所謂十二段の册子などは、たま／＼其舊譚を復活せしめたゞけかと思つて居ると、東三河には處々に此女性の塚があり、庵室の跡があり、又之を仲次とした信仰さへもある。鳳來寺の峯の藥師の靈驗奇瑞が、この物語に由つて美しく描かれて居たことは、何人にも推測が出來るだらうが、それが現代に近づくまで、是程の勢威を昔の土地に、持つて居たことは意外であつた。それで私は爰にも或は熊野同樣の歌比丘尼が、此信仰を背景として永く住み、それが諸國を巡遊して、往々にして小野のお通とまがふ樣な才女の、美しい本地譚を物語る者を出したのかとも、想像を逞しうして居るわけである。少なくとも土地に成長し又繁榮する信仰があれば、古い「海道下り」の簡單な一曲でも、之を十二段の語り物まで發達させることが出來た。だからもし設樂郡今日の花祭伎樂が、果して全國に比類無く完備したものだとすれば、それを上代弘く存したものゝ壞れ殘りと見る前に、先づ其原因を環境の新らしい力に求め試みるのが順序である。

　確信は素より事實を知つてから後のことであるが、更に是以外に第二の假定も亦成立ち得る。現在の花祭地域なるものが、水筋からいへば天龍流域、嶺でいふならば鳳來田嶺の一方の側面に、限られて居るといふのも偶然で無いかも知れぬ。信仰行事の神秘に參與する者が、靈山背後の盆地に隱れ住むといふことは、現に類例もあり又理由もあり(82)さうに思はれる。記録傳はらず口碑は證言する無くとも、附近の古くからの大きな信仰と、住民の今も持ち傳へて居る藝術との間に、曾て關係が有つたのでは無いかどうかは、一應は考へて置いてよいことである。

　其次にもう一つ自分が此書を細讀する前に、多少冒險の心持を以て、試みに述べて置きたいと思ふ假想は、この東三河の二つの山の宗教業者が、もと熊野の三山に仕へて、諸國を歴遊して居た人々と、海上の交通があつたのでは無いかといふことである。熊野の古傳は今は甚だしく散亂し、又頗る改造せられて居る。その古來の事實と稱するものとても、警戒無しに受入れることは到底出來ないが、少なくとも是が内陸各處の固有信仰と比べて、幾つかの異色の目に立つものを有つことだけは確かである。從うてそれが三河方面にも入つて居たか否かは、絶對に證明し得られぬ問題では無からう。さうして此神々の始めて熊野に飛來せられたのも、それから其信仰の更に東方に向つて流布したのも、共に其輸送は最初には皆船からで、しかも一旦上陸して後は、隨分險岨なる山の上まで、持運んで行くことを厭はなかつた。海より往來する者は皆平地人であるやうに、今日は想像せられ易いが、事實は寧ろ其反對であつたことは、海部移住の跡を見たゞけでもよく判る。だから證據は今後の早川君、及び其同志の手を煩はすの他はあるまいが、行く／＼或は三河山村の花祭も、遠く岸邊傳ひに遙かなる島山陰から、人知れず入つて來て爰に保存せられ、又進化改良したものであることが、判明して來ぬものとも斷言は出來ぬのである。中世以降の熊野移民は、確かにこの三河北境の山地にも來て居た。江戸の御家人の鈴木主水、其他多くの鈴木家は其後裔であつた。南朝に忠を盡し笠置赤阪で戰つたといふ足助氏も、亦其一派であつたと言はれて居る。續群書類從に採録せられて居る足助八幡宮の縁起を讀んだ者は、一人として是が熊野の系統に、屬することを否み得ないだらう。後に行はれた熊野人移住に由つて、直ちに其前にも移住があつたことを、類推することは粗忽かも知らぬが、兎に角に設樂は熊野信仰の入込み得ない土地では無かつた。

　私は始めてこの花祭の存在を聽き知つた時から、實は先づ天龍の大川の水の、今よりもより豐かに流れて居た時代(83)を胸に浮べて居た。後に地圖を開いて親しく早川君の口から、此伎藝の流布?態を説き示された際にも、特に大入川の水域と振草川の水域との間に、何か著しい互ひの相異、又それ／”＼の内の一致が無いか否かを、今後注意して貰ふやうに頼んだのであつた。さうした所が此書物にも詳しく述べられて居るやうに、果してその外の差別、内の一致が大いに有つたのである。何が其中の最も主要なる部分であつたかは、私も是から細心に學び、之によつて改めて此假定説の運命を決しようと思ふ。何人も容易に認め得る如く北設樂郡の居住適地は、殆と此二川に由つて作られ又支配せられて居るが、それが天龍の川合に到達する前、一里ほど上手に於て合流し、それから各河内に分れて行くのである。然るにちやうど其分岐點に近い僅かなる急傾斜面に、花山といふ古い一部落がある。地形から云つても又村の名から考へても、我々の研究には重要な關係があらうと思ふが、現在の村の人は專ら其注意力を華山法皇御遺跡といふ方に引かれて居て、頓と此相談に乘つてくれず、又實際さういふ材料も無いらしいのである。假に此花山のハナと花祭のハナと、何の因縁も無いものと決しても、二つに分れたものゝ本は一つであつたことのみは、天龍大川の流を見ただけでも大よそは考へられる。多分の論辯を費すことは、我々の學問には禁物であるが、大體に於て今日問題となつて居るのは、此舊慣は曾て或時代の國民の間に、到る處一樣に行はれて居たものが、希有に此山地にばかり消え殘つたと見るか、はた又最初から是は限られたる二三の部曲のみに行はれて居たものが、筋を引いて爰に來て落着いたものとするか。この二つが花祭起原論の、分れ目になつて居るやうである。さうして私は他日或名説によつて説服せられる迄は、今は兎に角に後の方の意見に傾いて居るのである。農法とか婚姻元服の手續きとか、人がまだ小さな群であつた頃から、持續けて居なければならぬ慣習ならば、或は他の地方には見當らぬといふ事實を、忘れた落した棄てたと解してもよからうが、技藝には殆と初發以來、深秘口傳もあれば特殊の習練もあつて、家が世襲せぬまでも部曲としては獨占して居たのである。假に地方毎に同じ目的の行事はあつたとしても、各箇の所傳は起りから別であつたかも知れない。ましてや後代に入つて、變へなければならぬ原因は幾らでも現はれて居る。之を直接に上代の一般(84)的なる信仰生活を、反映するものと考へてかゝることは、如何にも不安全なる前提である。もしやさういふ心持に基づいて、この花祭の遺習を尊敬して居る人があるとすると、末の興さめ又は反動的冷淡を豫防する爲に、特に聲高に自分のやうな假定説の、成立ち得ることを唱へて置かなければならぬ。

　自分たちは假に花祭が熊野傳來のものと決定しても、其爲に古式のなつかしさを些しでも割引することは無いつもりである。各地それ／”＼に成長した技藝の中に、どこにも行渡つて曾てはあつたもの、さうして今は大方埋没し盡さんとして居るものが、幸ひにしてこの花祭地域にはまだあつたからである。概括して或は中世心とも名づけてよいもの、無論其中には多分の古代分子を含むものが、心から面白い眞冬の祭がまだ殘つて居た御蔭に、たとへ髣髴にでも之を窺ふことを得たからである。歌舞に携はる者と見衆の大半が、共通に今でも持つて居る物忌み愼みの心、個人的では無い公の信心、日常心理を以て解釋し難い昂奮と感動、其他にも何と無く失はずに持傳へて居た色々の情緒の、言葉で寫し得ずとも居合はす者には感じ得られるものは多かつた。それを早川君の此記述は、始めて文字によつて出來る限り、之を客觀の人に知らせようとして居るのである。藝術發生の宗教的起原なるものは、外國の學者には實は資料を獲ることが一難事であつた。日本は珍らしい國であつて、都市の最も開けた芝居の中にすら、僅か注意をすればなほ其痕跡だけは見出される。しかも花祭のやうに濃厚に今も演技の呪術價値を認めて居る例はもう澤山には無い。さうして又此一筋の道を通つて行く以外に、所謂凡人大衆の遠い祖先の生活に、近よつて見る道は無いのであつた。

　神祇の歴史が記録を唯一の典據とし、訓詁註釋の學風が社務社職の人々を統御するやうになると、早くも之に拮抗して實驗派の神道は起らざるを得なかつた。行者の説教には多分の我見獨斷と、雜駁の哲理とが織込まれて居るだらうが、その主要なる威力は却つて彼等の直覺裡より得たものに在つた。それも恐らくは貴重なる傳統だらうと思ふが、悲しい哉彼等は之を外聞の者に、傳へる道を知つて居ない。學問は到底何物をも是に期待することが出來ぬのである。それと同時に他の一方に於ては、白人土俗誌家の異民族、殊に彼等が憐れみ見んとする黒人赤人に對して、今まで取(85)り來つた態度を模倣して、僅かなる接觸面から知覺に上るものだけを拾はうとすれば、如何に記述は精細であらうとも、其及ぶ所の求むるものと遠いことは、知れ切つた話である。自分等は今ちやうど新舊文化の境目に立つて、眼の前に昔の退き去らんとする後影を見送り、なほ時としては顧望し低徊する者の淋しい面ざしにも接して居るのである。是を同胞の親しみと理解とに寫し取り、後に來る人々に見せることは、測らずも今の時代に生れ合せた者の、當然の一つの役目である。さうして將來この事業によつて利益する者は、斷じて又一國境内の學問ばかりでは無いのである。

　斯ういふ機會は誠に得易く無い。國を同じうし郷土を共にする者の間に、記述者と記述せられる生活とが相隣し、しかも隔意無き平等の交りを許さるゝ?態は、さう永くは續いて居ることが出來ない。この關東の平原などにも、つい近い頃までは村々の神事舞なるものが有つた。氏子は其全部を擧げて祭毎に出でゝ是に仕へ、役者と見者との差別は單に年々の分擔に過ぎず、過去と將來の役者こそは、寧ろ現在の最も熱心なる見者であつた。それが都邑の人多き土地を始めに、瞬くうちに一方を藝人とし、他の一万を棧敷の人としてしまつて、曾て雙方の間に通うて居た信心の痕は埋もれ、之に代つた新らしい藝術の約束のみが段々に繁くなつた。所謂醒めたる人の微笑又は懷手が、かの古風なる感興の統一を妨げたことは言ふまでも無いが、それが假令同情ある研究者であり、もしくは熱烈なるフワンであらうとも、神でも靈でも無い者に、外から見られて居るといふ心持は同じである。やがて純然たる見る物になつて行く道筋が、開けたといふことは同じである。勿論そつとして置いた所で、古風なものは消えてしまはずには居るまい。たゞ許さるゝことならば自分たちの手で以て、このいつの世からとも知れぬ不斷火は消したくない。單なる一個の記念塔を立てる爲に、この年久しい泉の源を掘りかへしてしまふのは惜しいといふこと、是が今日の郷土研究者の、等しく抱いて居る自家撞着であつた。進んで行く國の民俗學が、斯ういふ客觀の學問でありながら、常に一味の哀愁を帶びざるを得なかつた所以である。早川君の著述が此意味に於て、一方に保存の大功を立てると共に、他の一方に幾つかの高價なる無意識を、切りほどき打ち散らしたことは誠に是非に及ばぬ。自分はせめて其批判が至つて乏しく、(86)解説の甚だしく臆病であつたことを、一つの慰安とさへ考へて居るのである。

　果してこの用心深き、寧ろ思ひ切りの惡い態度が、他に何人ばかりの讃歎者を、得るであらうかを私は知らない。しかし少なくとも現代の文化史學は、斯ういふ中立透明の資料を要求するのである。まだ日本の國内にどれ程の同系異種、はた又異系類種の藝術が分散して居るかも分らず、土地と四境の往來とが、千年の間にどれだけ迄の影響を、是に及ぼしたかを察し得ない限りは、其由來に關してたゞ一個の假定説のみを掲げることも不可である。ましてやそれに若干の感激を附け添へて、人を宗教風なる一種の確信に、導かんとすることは猶惡い。假にさういふ傾向が世に生じたとすれば、之に對する方策はたゞ一つ、即ち裸なる多くの事實、其眞僞の簡單に確かめ得るものを、排列して置くより外は無いのである。私はもと歌舞の道に暗く、殊に今までに諸種の實例を、目で見て比較するだけの餘暇を持たなかつた。從つて此手は世に稀なりと稱し、此節此拍子は古今たゞ花祭あるのみと教へられて、假にそれが虚僞であらうとも、黙つて騙されて居なければならぬ者である。しかし幸ひなことには是に伴なふ所の歌詞説話、及び之を構成する語辭に付いては、三四全く此地方と縁の無いものを集めかけて居る。早川君は能く我々將來の講學者の爲に、今用ゐらるゝ限りの歌ぐらと語りごと、それから文書に載せられて人の既に忘れて居る若干をも蒐集してくれた。其中に果して古代の日本語を材料として、設樂の山奧に於て單獨に組み立てたもの、乃至は世上の詞章が足利期以後の所産なるに對立して、こゝばかりもつと古くからのものを、保存して居たといふ例があらうか。少なくとも以前自分等の窺ひ知る範圍に於ては、句形其他の表現の樣式と云ひ、又は構想と云ひ要旨と云ひ、何れも遠近の諸國に於て容易に類型を求め得るもののみで、一として此山間に在つて自然に?酵し、聊かも旅途の風塵に浴しなかつたといふものを、見出すことは出來なかつたのである。設樂は如何にも僻陬の山地には相違無いが、長い歳月の間には樣々の落人も來り隱れ、四方の漂泊者も入込んで足を駐めて居る。現に私が前に公表した江州愛知郡の木地屋などは、既に數百年の昔から多數に此地方に入込み、津具の盆地を一つの中心として、彼等の林間文化を發達させて居るのである(87)が、其進路はやはり振草川の流であつたらうと思はれる。時降つては天龍の筏師等、?々江戸大阪の材木師を誘ひ來り、又は尾州津島の師職たちも、例の彌五郎殿の信仰を持込んで、それが浪合記の文學を成長せしめたことも、阪部熊谷家の舊記などを見れば察せられる。此等の人々の將來した特殊なる生活方法は、勿論一隅を占據したばかりで、完全なる融合を見るには遠かつたであらうが、さりとて相互に何の接觸感化を見る無くして、獨り文藝の上のみに、是だけ顯著なる混同を見て居るものとは考へられぬ。其上に諸種の因縁は未だ悉く我々の觀察に上つて居るのでは無い。奧羽九州の邊土は申すに及ばず、嶺を連ね一つの水系を以て結ばれたる山地すらも、まだ／＼學問の斧斤は入つて居らぬのである。早川君の捜査は現在のところ、北は未だ木曾惠那の谷々に及ばず、東は氣多大井の流域にも擴張せられて居ないが、此方面に於ける痕跡は、幾分か既に微弱であるらしき上に、さしもの熱烈なる知識欲も、今はまだそれに分つだけの餘裕が無いのであつた。しかし兎に角にこの豐富な資料が、恰かも好し世上の向學心が漸く目ざめ、必ずしも新奇痛快の説に陶醉して、容易に自得してある能はざる?態に在るに際して、突如として我々に供給せられたのは慶賀すべきである。民間傳承の學は之に由つて、改めて大いに興るであらう。何よりも嬉しい自分たちの希望は、結論が今はまだ下されて居らぬといふことである。

　

(88)　　　　　宮良當壯編『沖繩の人形芝居』

　

　行者（アンジャ）と稱する妻帶の毛坊主は、芝の増上寺に從屬した三戸の田中氏が有名であつた。しかし勿論淨土宗だけに限つた部曲で無いのみならず、寧ろ其名前から、本來は禅家のものであつたことを推測せしめる。『滿濟准后日記』の應永三十四年正月十九日の條にも、建仁寺の行者下部竝に祇園大路の地下人等が、細川右馬助の内の者と、湯屋で大喧嘩をしたことが見えて居る。此名稱はつまりは中世の採用であつて、語と共に其樣な階級が始まつたのでは無いのである。文政十三年七月二日の京都大地震には、深草の寶塔寺では菴者住居と、雪隱二箇所とが潰れたと云ふこと、住職の手紙に記されて『浮世の有樣』と云ふ日記にあり、法華宗にもそんな者が居たことが知れる。古くから行はれた太秦の廣隆寺の、九月十二日の牛祭の祭文讀みの役も、寺中の行者が紙衣を着て之を勤めると、『日次記事』には書いて居る。つまりは古く寺賤とも名づけた寺々の世襲の下役人の如き者を、或時代にアンジャと呼ぶことが流行したのである。首里のアンニャが海を越えての移住も、之に由つて凡そ其年月を算へることが出來よう。此系統の所謂職人にして、元の寺には住みあまり、世間に出て生活のよすがを求めた者は色々有つたが、中にも院内と云ふ者が、最も沖繩の京太良に似た所が多い。此徒の主たる職分は萬歳の祝言であつた。九州では筑前の某々寺に縁故の深かつた寺中と謂ふ民が、人形を舞はして里々を巡つた。寺中も院内も語の意味は一つである。機會の許す毎に、僅かばかりの宗教を利用して居たことも、亦彼等に共通な特性であつた。人形舞はしの職業化は、からくり〔四字傍点〕とはりこ〔三字傍点〕細工との輸入を以て一時期を劃して居るが、南の島の同業はまだ其恩惠に浴する以前に、遠く斯うした地平線の外ま(89)で、漂泊したものであるらしい。是も一つの消極面の史料である。

　京太良の章句のうちで、鳥刺し舞の一曲は明白に大倭から携へたものである。自分は會て何かの書で、其詞を見たやうに思ふが、どうしても今之を見出して比較をすることが出來ぬ。しかし少なくとも此推測の空で無いことだけは、盛衰記の淨瑠璃の布引の瀧の一齣からでも、證明することが難くないのである。之と對立して馬の舞の一篇は、新なる島地の産で無いかと思ふ。もし此推測が誤り無くば、此類の遊藝人の移住力と共に、どの位までの同化性を具へて居たかと云ふ點を、窺ひ知る便宜にはなるので、宮良君のたつた二日の骨折が、意外に豐かに酬いられたことは、もう慶賀してもよさゝうに思はれる。

　此篇の附録には、伊波普猷氏の文庫に在つた京太良詞曲集を掲げて置く。さまで古い時代の採集では無いと見えるにも拘らず、是と宮良君が最後のアンニャから、直接に聽取つたものとの間には、著しい相違が見出される。文字の無い傳承者は、往々にして此の如く、興味と心持とのみに忠實であつて、結局は時代と環境とに雇はれて、古い物を作り替へる役を勤めて居たらしいことが、之に由つて推測せられるのみならず、他の一方には久しく我々の抱いて居る疑ひ、即ち此民族の言語が、特に生活と心情の影響に敏活で、從つて方言の變化を來たし易い性質を、もつて居るのではないかと云ふ問題を、或程度まで答へて居るやうに思ふのである。沖繩でも大倭でも、古來學問は中央少數の惠まれたる階級の獨占であつた。先づこの無用の垣根を倒して、自由なる立場から物を觀る人の數を増加しなければ、一箇の民族の運命は之を説くことが難いのである。首里の郊外の藪陰に、淋しく殘つて居た三戸の民が、もし我々をして人間の智慧にはむら〔二字傍点〕と隈の多いことゝ、此世にはまだ知らねばならぬことの澤山に打棄てられてあることを、覺らしめ得たとするならば、それこそは佛菩薩の因縁の、永く彼等に繋がつて居た證據である。

　

(90)　　　　　白野夏雲作『十島圖譜』

　

　白野夏雲翁の生涯については、既に龜田次郎氏の調査によつて、其大要を知ることを得たのであるが、自分はなほ四十年來の一つの空想を棄てることが出來ない。斯翁の出所進退にはたしかに若干の故意の韜晦があつた。さうして珍らしい其氏名は、どうやらその全部が後年の製作に係るらしいのである。幕末維新の人物中には、一時の變名を以て世に出てしまつた者が折々は有る。白野といふ苗字は有つてもよい苗字だけれども、江戸でも甲州でも又他の地方でも、つひぞ耳にしたことのない家名であり、しかも餘りによく夏雲の號と調和し、且つ兩者を一貫して、餘りに適切に其持主の事業と經歴とを表現して居るやうに思ふ。自分は弱冠の頃に、?々此人の文章を讀んで、いつも斯ういふ氏名を名のる氣になつた筆者の心境を、譬へ樣も無くゆかしく懷つたことであつた。

　翁が晩年に還つて奉仕したといふ札幌神社、又は鹿兒島縣廳の舊記録を捜したならば、履歴書に其出生地だけは出て居ることであらう。それを手掛りにして尋ねて行けば、古い事では無いからまだ少しは明らかになる點も加つて來るかも知れぬ。しかし私たちの實驗に依れば、傳記は通例は用も無い部分のみが多く現はれ、却つて色々の臆測を誘導するに過ぎない。殊に先生の學問に師傅が無く、單に時代の變化に先づ目ざめて、覊旅の間に在つて感發し味得したものを、積んで大きくして行つたばかりだとすれば、その刻々の企畫と念願とは、恐らくは日記にも之を言ひ現はすことは難かつたらう。まして後人の察し知ることは、此方面からは望めないのが當り前である。學者を知らうとするには其著作に據るの他は無い。さうして幸ひに爰に最も肝要なる幾つかゞ、我々の間に保存せられて居たのである。(91)永井龍一君が曩に『七島問答』の正續二篇を複製して世に頒ち、今又この『十島圖譜』の自筆本を、ほゞ原圖の通りに映印して、心有る者の手に留めようとせられることは、獨り南方の荒海の上に孤存する道の島々の住民を欣喜せしむるのみでは無く、兼て又一人の忘られんとする學徒に對する何よりの供養でもあつた。白野夏雲といふ人はどんな人であつたか。西洋の文化の新らしい色と香とが、殆と一世を陶醉せしめようとした時代に、前には北邊の曠野に在つて夷人を友とし、更に身を飜へして南島の離れ小島の、一つ／＼を訪ひ寄つた彼の志は何れに存したか。是に答へ得る者といへば、今はたゞこの數卷あるのみである。遭遇は假に運でありはた偶然であるとしても、なほ人間の力の是に干與し得るものであることを、お蔭で私たちも經驗することが出來たのである。

　十島は久しい間、たゞ地圖の上の一奇現象であつた。單に其島影を望んで馳せ過ぐる者は、年に何千といふ船の數であつたが、親しく足を其土に踏み立てた者は誠に尠なく、島人がこの壺中の天地に於て、如何に生死し盛衰しつゝあるかを、省みる者は愈々稀であつた。我々の知る限りに於ては、この白野翁の外に、前には田代安定氏あり又中田直慈氏あつて、島を視察して其報告を世に傳へてゐる。最近には故岸上鎌吉博士が、魚族調査の爲に數週を各島の間に過し、歸途車中に於て半日の見聞談をせられたことは、自分に取つては意外なる好記念であつたが、多分其折の紀行は留められて居らぬことゝ思ふ。永井君が隣島奄美大島の出であつて、頻繁に是と往來するの機會はもたなかつたにも拘らず、終始十島と其憂喜を分ち、更に島人をして少しなりとも知らるゝ者の悦びを味ひ得しめんが爲に、此書を公刊して之を島々に配布せんとせられることは、天界の白野夏雲翁もし知るあらば、必ず莞爾として點頭せずには居らぬであらうと思ふ。

　

　（追記）　翁の官歴と生歿年次とは文書に據つて是を明確にすることが出來た。翁の前名は今泉耕作、中ごろ其故郷の村の名を採つて白野の姓を設けた。幾つの年の事であつたか知らぬが、翁は甲府に出て行つて或幕臣の家に仕へ(92)た。後九州に行き、それから東國に還つて來て暫くは駿河にも居住した跡がある。多分明治のごく初めに、�ｺ川氏の遺臣と共に十島國に移住し、同五年に開拓使の微職に就いた。白野は甲州路の一驛であつて、今は笹子村大字になつて居る。

　

(93)　　　　　伊能嘉矩著『臺灣文化志』

　

　最終に伊能氏と會談したのは、七年以前の新秋のある夕である。遠野の旅館の打開いた二階から、暮れ行く周圍の山野を指點しつゝ、昔今の物語は盡きなかつたが、特に自分の尋ねて見ようとしたのは、此地方の學問の由來であつた。何物の機縁が當代の文運に際會して、かゝる山間の一盆地に我伊能氏の如き、希有の篤學者を産するに至つたかといふことは、實は不審と名づけてもよい程の内心の驚愕であつたからである。

　先生の答は此問に對して、必ずしも明辯周到でなかつた。試みに其日の手帖を取出して見ると、遠野の教育は案外に歴史が淺く、且つ概ね異郷偶遊の客に負ふ所多しと言はれて居る。元文の末年とかに、久子小五郎號を翠峰といふ者、遠く來つて始めて經學を此邑の子弟に授けた。次いで飯田勘助といふ一浪士あつて、書堂を聞いて講習の業に從ひ、就いて學ぶ者漸く多かつた。二士は共に故あつて世を避くる者の如く、曾て精細に其出自を述べたことがなかつた。傳ふる所の名字も、亦果して其本有なりや否やを決し難いといふ話であつた。如何にも二百年前の奧州の小都市は、世途に望みある者の安じて久しく住すべき地ではなかつたらう。所謂失意流離して寧ろ埋没を甘なふの輩が、たま／＼其餘生を邊隅に營むことに由つて、測らずも種を未墾の沃土に留めた例は少なくないのかも知れぬ。しかも喬木の質を二葉の日に卜し、歴世愛護して終にこの亭々として仰ぐに堪へたるものを大成した力に至つては、之を客寓の士に期待することは難かつたことゝ思はれる。伊能氏と遠野の郷土との因縁は、板澤君の文能く之を説き盡して居るが、自分は今に於て儼乎たる傳統の、寧ろ先生が家に保持せられて居たことを知るのである。

(94)　伊能氏の「家の風」は、學問と名利と、半點も相交渉しなかつたことが、その大なる特徴の一つに算へられる。最近の所謂史學隆興の眞只中に於てすらも、少なくとも臺灣文化の研究は獨歩であつた。先生にしてもし其功に居らんとしたならば、何人か能く之を爭ふことを得たであらうか。しかも終生刻苦して自らは其完備を認めず、僅かに遺編を以て志を後代に留めんとするものである。かの倉皇たる世上幾多の士、付託?々背き聲譽先づ馳する者、之に對して眉を伏せ、面を掩ふべきは固よりながら、更に飜つて統治三十年の久しきに亙り、天朝の爲めに異民を子育し、その文化を指導するの任に在る者が、幾たびか篤學の士の求むる所薄きに乘じて、供給勗めず勞苦必ずしも報いず、今はた安然として其成果の豐かなるに就くが如きは、是を現代の通勢と名づけ得べしとするも、なほ且つ我々は矜恃ある極東の一民族の爲に、憮然として愧ぢまた悲まざるを得ないのである。

　或は環境の力、時代の感化に對して、人は既に隱然として負ふ所あるかの如く、考へて居る者があるかも知らぬ。然らば學者は果樹園の桃李と同樣に、欣んで其所産を呈すべき義務ありとも見えるが、少なくとも我伊能氏の場合に於ては、明瞭に其見の非なるを知るのである。伊能氏が壯志を抱いて、出でゝ首都の客となつた頃に、新らしかつた學問は故坪井教授の人類學である。雋敏なる一讀書子の忽ち其眞義を會得して、耳を講説に傾けんとしなかつたならば却つて不思議である。しかも學業を單なる祖述布衍に止めず、之を同胞眼前の實生活に適用し、更に進んでは南方新附の民族の爲に、記録を有せざる者もなほその過去世を闡明し得べきことを、確めんとしたのは何人であつたか。先生は啻に其首唱であつたのみならず、暫らくは之に呼應して繼いで起る者すらも無かつたのである。伊能氏の志がもと修史にあつたことは、この文化志の雄篇が充分に之を立證する。しかも人類學は之に供與するに、一箇剴切なる人間研究の新方法を以でしたゞけでは無い。却つて其因縁に基づいて意外なる幾多の刺戟を受け、又無限の資料を此方面から逆輸入して居たのであつた。それが先生の臺灣調査の餘材であつて、且つ學會は?々之に頼つて、その沈滯の日を支持して居たのを見れば、大に負ふ所ある者は寧ろ我伊能氏でなかつたと言ひ得るかと思ふ。

(95)　少なくとも先生は常に與へんと欲する人であつた。殊に嶽藝の廣衢に立つて、夢寐にも故山隴畝の人を忘れず、飜つてその南窓歸臥の日に在つて、未だ曾て四海の志を矢はざるに至つては、尋常世を慨き自ら高うするの士の到底企て及ぶ所で無い。東北の人材雲の如くなりと雖、先生に由つて始めて學者の郷土愛なるものゝ、別樣に深切なることを體驗し得た者は多かつたのである。蓋し先生生涯の學問を一貫して、特に精力の傾注せられたのは常民の歴史であつた。微々たる散在の舊記録に依據して、地方前代の文化を究めようとしたならば、其結果の少數土豪の盛衰を説くに止るべかりしことは、東北も亦支那海の一孤島と同じであつた。しかも志を中原の角逐に絶ち、限りある既存の知見に閉籠つて、夜郎の俊傑を以て自ら任ぜんとした場合に、其術の行はれ易かつたことは、前者は却つて科擧の邦に超ゆるものがあつた。然るに獨り先生あつて、夙に此流風に安ずる能はず、出でて國内の殊に省みられざる者に就いて、敢然として事業の最も完成し難きものを試みんとしたのである。其意の存する所恐らくは一臺灣でなかつた。

　日本の學問の中央に偏重にして、單に京華の文運を修飾するに過ぎなかつたことは、必ずしも近年の傾向といふことが出來ぬ。此頃漸くにして大學は地方に興つたけれども、少なくとも其規模先例に於て、一として之を首都に仰がざるもの無きかの如く見える。若しそれ奧羽の曠野に家居して、寂寞として書を草莱の裡に講ずる者に至つては、假に祖國民人を顧念するの情に於て厚く又切なるものありとしても、なほ且つ大志逸才の士の來り導くを待つの他無かつたのである。むべなる哉先生出でてより、一郷先づ化し、次で比隣の苟くも其名を聞く者は、翕然として學問を未拓の地に期待するやうになつた。田村將軍以來、悠々たる一千餘年の間、無名沈淪してしかも往古の傳承に忠實なりし人々、爰に始めて知られ訪らはるゝのみならず、時あつて更に古意の中州に忘失せられたものを、補充することを得るに至つたのである。故に『臺灣文化志』の最後の原稿が、陸中遠野に於て完結したといふことは、之を單なる一奇遇と解することは自分には許されぬ。是は正しく著者が其故郷の爲に、一大精進を以て建立したる記念碑、人間の歴史を基礎から觀察しようといふ地方學問の獨立宣言として、永く題目の外に在る人々からも、共に與に仰ぎ望まる(96)べきものであると思ふ。しかも先生長く逝いて血食嗣がず、その業半ばにして或は散佚の虞を抱かざるを得ぬのである。今この遺篇の辛うじて世に公にせらるゝに臨んで、且つは暗愁の胸に迫るを感ずるのは、必ずしも故人を思慕する者の私情で無い。先生は是に學者の典型であつたが、既に我々は之を喪うたのである。獨り北邊南陬の一地方のみと言はず、けだし昭代文運の前途は、總括して之に倣ふ者多きや否やに係つて居る。而うして自分はなほ心竊かに危ぶむ所があるのである。

　

(97)　　　　　江川俊治著『ハルマヘイラ島生活』

　

　この十何年の間を通じて、江川君の生活は誰が見ても冒險家であつたが、自分の嬉しいと思ふのは、彼には冒險家一流の臭氣がちつとも無い。功名心の刺戟が無くて、事業の艱難と闘ふことは、俊傑の士と雖猶容易では無いのに、彼はいつでも獨りで、些しづつの成績を樂しんで居た。取りたい儲けたいは殆と此世紀の病であるが、それにも天性が丈夫であつた爲か、ひどい流行地に出入しながら感染をした樣子が無い。せめて旨い酒でも折々は飲まなければ、汗水を垂らして働く張合ひが無いなどと、さも當然の樣に人はよく謂ふけれども、江川君は酒が嫌ひである。或は損な話であつたかも知れぬ。しかし其代りにはまだ荒びない青年の感情を持つて居る。

　ハルマヘイラは熱帶にしてはじみな島だ。茫洋たる千古の樹海の中に、僅かの土人が安逸な生活をして居る。其以外には象も居らず、虎も居らず、?も蟒蛇も皆無害で、たつた一つの怖ろしい物と謂へば、熱でも無ければ熱病でも無い、明るい緑色の寂寞である。即ち世間普通の冒險家の、何でも行かねばならぬと云ふ程の島では無い。要するに話にならぬ島だ。そんな島の生活を書いて、面白い書物が出來たと謂ふならば、それは全く江川君の技倆で無くて器量である。日記を忠實につけたと謂ふよりも、其日記の種に爲る生活を、精確に導いて居たからである。此一團のやうに單純で且つ熱心な生活をするならば、我々の日記でもきつと面白いのだが、遺憾ながら今の日本ではそんな生活をさせてくれない。

　江川君がたまに島から戻つて來て、頭を掻きながらさも面白さうに、失敗の經驗談などをするのを聽くと、自分は(98)どうかして早く或程度の成功をさせて見たいと思ふ。彼の如く成功を最終の目的にしてゐる人、事業を以て手段とは考へて居らぬ人でも、やはり拍手や金銀の音などを聞くと、一遍はごろりと休息をして見たくなるものか、はた又一つ完成すればすぐに次の仕事を尋ねて、新らしい艱難の興味の中になほ奮闘三昧の精進を續けるであらうか。それを實驗させるやうな先例が、今迄は無かつたからである。

　しかも自分が常にこの仲間に向つて謂つて居るやうに、諸君は勿論羅馬の國技館に於て、獅子と關はしめられたグラヂヤトルでは無い。假に不幸にして意外な行詰りに出遭つても、無理を押切つてまで終局を見る必要は無い。平然として還つて來て、靜かに蹉跌の原因を考へて見るがよい。如何に計畫が尻切蜻蛉に終らうとも、乃至は花々しい好成績を擧げようとも、眞面目な生活ならば其記録の價値には増減が無い筈だ。それのみならず、諸君は嗣いで興る日本の青年に、自然の途を歩んで見せなければならぬ。萬に一つを僥倖するやうな人間味の乏しい冒險は、もうこの愛すべき者に教へてはならぬ。この意味に於ける安全なる成功を、我江川團の爲に私は期して居る。其曉には定めて又ずつと面白い日記が、發表せられることになるであらう。

　　　　　　　　　　　　　　　（大正十年五月渡歐の前夜）

　

(99)　　　　　鈴木覺馬編『嶽南史』

　

　鈴木覺馬翁の境涯には、同じやうな學問に携はる者の、慶賀し且つ羨まなければならぬ樣な特長が幾つも有る。其一つは三十何年前に、志を一つの事業に起して以來、世情と好尚は此通り推移したにも拘らず、終始その遂行に精進して、未だ會て他を顧念しなかつたといふことである。是は勿論大なる意思の力ではあるが、しかも題目の選定がもし當を失して居たならば、その意志も結局は寂寞を以て酬いられなければならなかつたのである。『嶽南史』の一著が有るべくして久しく現はれず、偶々我鈴木翁の如き操持堅固の士によつて企劃せられたといふことは、乃ち亦一つの遭遇と稱すべきである。

　第二に稀有なるは此翁の長壽、老いて愈々旺盛なる氣魄、及び之に伴なふ安靜の心境が、終に一人の手を以て能く是ほどの大著を完成したといふ點である。この種の事業の往々にして半琢の玉の如くなるものが遺り傳はるのは、必ずしも人生の失意悲傷、もしくは貧窮が之を挫折せしめたのみで無い。餘りに華々しく又得意なる者も、なほ?々其意志を未了ならしめてゐる。ましてや人間の一代は、兩者何れの爲にも十分に長いとは言ひ難く、此の如き博覽廣捜は之に對して、實は幾分か大に過ぎたる事業でもあつた。然るに我鈴木翁は、一方には許多の人生の波瀾曲折を經過しつゝ、なほ且つ其著の全備して堂々として世に出づるの日を迎へ見ることを得たのである。この餘裕と清福とを羨まなければならぬ者は、今も昔も餘りにも其數が多かつた。

　第三の特長も亦大に誇つてよいものである。此種の浩瀚なる書物は、現代の印刷文化を以てするも、通例はさう容(100)易に世に公けにし得るもので無いときまつて居た。それは事業の世を益すべきと否とに論無く、扶けて之を行はんとする者を糾合するの途が無かつたからである。鈴木翁はそも／＼如何なる�ｺ望、如何なる熱情の人を動かすものがあつたのであるか。一朝にして斯くも多數の郷人舊知等の、躍進し來つて之を支持する者を得たのである。此事實は少くとも半生を書齋裡に没頭して居た者が、尋常其郷人舊知等に豫期し得る所では無かつた。此著の價値の大小は後世に至らずんば實は決定し難い。しかも今日の同志諸君の大部分が、何れも豫期せられし讀者であり又利用者であることを考へると、兎に角にその一旦の目的は達したのである。この眼前の效果を實驗して、欣々然として抃舞せざる者は無い筈である。鈴木覺馬翁は誠に幸福なる學徒と言ふべきである。

　翁はなほ恐らくは此書が郷黨の間に流布して、着々として其用途を明にするの?をも目撃することが出來るであらう。今日は恰かも郷土研究といふ言葉が、文部省の官吏にまで口にせられる世の中である。地方は素より此聲の夙に揚がらんことを望んで居た。乃ち其研究方法の競うて進められるべき秋なのである。普通從來の順序として考へられて居たものは、力の及ぶ限り郷土の古書を集積して、之を心有る者の閲讀に供することであつたが、集積は既に難く閲讀は更に多數者に期し難かつた。『嶽南史』は即ち或一人の篤學者が、その三十何年の貴重なる時を割いて、博く郷土に代つて萬卷を讀破した報告である。之を年代に序で事項を標出したのは、悉く後進の爲に豫め捜索の勞を濟うたものである。故に將來の利用者は唯其記述の各自の土地に關し、各自の家門に關する部分に栞を挾んで、多くの子弟をして其前後の之に伴なふ事實を熟讀し且つ考慮せしむれば足るのである。古書の記述は勿論一方に偏して居る。多數庶民の現實の疑惑に對しては、答へんとして答へ能はざるものが少なくない。しかも其疑惑を率直に表白し得る者は、先づ以て此種の成書によつて、前代の記述が果して何れの程度にまで、豫め大衆の問はんとする所に備へて居たかを明らかにする必要があるのである。

　幸ひにして其疑惑がもし眞劍のものならば、第二第三の鈴木翁も亦蹶起すべく、嶽南の史學は永く今日の?に停ま(101)つて居ないことゝ信ずる。

　

(102)　　　　　鈴木皷村著『耳の趣味』

　

　社會生活の歩みには一定のリズムが有ることを信じて、其研究の爲に半生を費したといふ飯沼一雄氏の事を、一夕自分の家に來て話したのは琴彈きの鈴木皷村君である。然るに右の鈴木君の家の歴史は、正しく此研究に向つての屈強なる材料であつた。社會の潮流と時代の異動につれて、舊い家が遭遇せねはならなんだ日和と嵐とを盡く經歴して來てゐる。自分は生物學者が卵から次の代の卵へと、鳥の一生を觀察して行くやうな趣味を以て、この一箇の社會現象を分析して見たいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一

　

　諸國の鈴木氏が、戰闘の方面より地方の一勢力と成つたのは、少なくも南北朝以前からである故に隨分久しいことであるが、自分は此族の植民は本來宗教的のもの、即ち熊野信仰の普及に基づくものと思ふ。明治二十四年頃の史學會雜誌に、鈴木氏を研究した人があつたさうであるが、自分は未だ其結論を知らぬ。兎に角に奧羽地方に於ける熊野の信仰は、今日も猶盛ではあるが起源の頗る古いもので、宗像信仰の衰へた後、八幡信仰の傳播よりは却つて前かとも想像して居る。

　皷村君の家は、磐城亘理郡亘理町舊稱を小皷と言つた村に、知らぬ昔からあつた家である。家の傳説では、義經に奉公して衣川で戰死をした鈴木重家の末であると云ふ。形の如き口碑ではあるが、是は一種の義經記影響とでも名づ(103)くべきものである。村の勝孝院と云ふ眞言宗の寺内には、此家が主となつて祭事を勤める熊野權現（オクマノサン）がある。勝孝院は修驗道であつたらしい。此社は又其寺よりも古いとも云はれてをる。鈴木氏の女衆が歸依し大檀那となつて建立した專念寺と云ふ時宗の寺にも、後年に勸請した熊野堂がある。山中處々にある古塚は多くは鈴木家の祖先のだと云はれて居て、今の菩提寺の管理して居るものは三四百年來の過去帳のみである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　家の記録のある限りでは、鈴木氏は亘理家の被管であつた。亘理氏は亘理郡の名主で海道の舊家である。亘理氏が伊達氏と和睦をして、其最後の主人玄菴齋基宗が、御一門格を以て知行を遠田郡の湧谷に移され、愈々其舊土を去らねばならなんだ時に、鈴木氏は家を二つに分けて、弟の鈴木三郎右衛門は湧谷へ隨つて行つて純然たる藩士となつた。久しく遠田郡長をして居つた鈴木純之進氏は其家で、新華族の鈴木大亮氏は又それから分れた家の末である。�ｺ川氏初期の最も重要なる政策は、全國一般に所謂地侍の歴壓であつた。譜代の因みの無い新大名は、到底多數の郷士を昔のまゝに、鎗鐵砲で其名字の地に捨てゝ置くことが出來なかつた。武器を返すか出て奉公をするか、二つに一つを取れと云ふ難題は何れの家をも惱ませた。鹿兒島領では近世郷の名を家名として居る郷士の數は多かつたが、一人として名字の地に住んでゐる者は無い。地方に由つては領主に親しみがなく、村民からは袖に縋られた爲に、刀を捨てゝ只の名主に成つた家もあるが、多くの舊家では兄弟のある限りは、此際に家を二つに分けて、一人は武器の誇りを保存し、他の一人は留まつて土地の利益を守つた。所謂兵農分立と云ふことが、もし有つたとすれば此時である。諸侯には度々の國替があつて、刀をさした方の家は日本國内を流轉してあるいたけれども、常に本家との聯絡を保ち、何代になつても出所を忘れることは無かつた。

　實際三百年前の感情では、戰爭に出られぬ農業者は、如何に大きくても、下賤の者に等しいと見たのである。せめ(104)ては我家からも一人は武家に奉公して居る者があるといふ慰安を得る爲に、此の如く遠方に在る古い分家を大事にしたのである。友人上山君の先祖の若い兄弟が、圍爐裏の側で系圖を開いて見て居たのを、母親が奪取つて火の中へ投込んだと云ふのも此時代である。覇氣の無い老人の考へでは、名譽よりも大事なのは家の存續である。家所を離れてしまへば個人の名譽心は滿足しても家の記憶が滅亡する。多くの門閥家はそれが恐ろしさに、涙を呑んで飛道具を返上し、唯の百姓になり下つたのである。

　鈴木君の家の事情は之とは些しく形式が違ふ。領主の壓迫は必ずしも強くなかつたらしいが、やはり又土地に離れるのを厭つて故主に分れ、城下の武家となることを斷念したのである。�ｺ川氏が佐竹氏を秋田へやり、秋田氏を二本松へ移し、さては筑後の秋月氏を日向へ封じたのも、伊達氏の涌谷政策と同樣に、地侍の土地を愛惜する弱點を利用して、それと舊藩主との連絡を引離したものであらう。

　

　　　　　　　　　　三

　

　鈴木氏では弟の三郎右が涌谷へ分家する前に、兄の九郎左衛門は既に伊達家との取合ひで、相馬郡の小豆畑と云ふ處で討死をして居つた。此の如く分家はする、故主の保護には離れる、當主の新屋形に弓を引いて討死した者の子であつたけれども、其爲に家運が聊かも傾かなかつたのは、一門の中でも最も有力な伊達成實の一家が次の領主となつて、此家を庇護したからであつた。此地は阿武隈の川口を控へた海道の咽首で重要なる地點であるが、其土地は決して豐饒では無かつた。亘理三萬石とは云ひながら、平地の半分はヤチであり、海添の新地もまだ其頃は少なかつたのである。

　明治十七年に九十六歳で死んだ皷村君の祖母が、十五で京から嫁に來た頃は、村の一本松のあたりで浪が打つて居た。今は大根畠の眞中で、それから海岸迄は小一里もある。すべて阿武隈川が近年吐出した土である。

(105)　此の如き瘠士を預けられた亘理の伊達家では、夙くから財政の苦を經驗せねばならなんだ。領内に當裕な舊家のあることは何かに便宜が多かつた爲に、出來る限りの優遇をしたものらしく、此家が又狹い領内では唯一の長者で有つたらしい。此家では手廣く耕作の利益を收めたのみならず、手代を置いて盛んに商賣をさせ、紅花の取引を一手に占めて、手船を上方に往來させるなど、宛然たる貨殖傳中の人物であつた。しかも一方には家を出れば鎗を立てさせ、三萬石の中に住みながら、此一軒のみは、毎年拜禮を仙臺の本藩に勤めて、屋形直屬の郷士とも云ふべき者で有つた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　此家には數十戸の分家がある外に、昔から扶持介抱を受くる眷屬が甚だ多かつた。又折々此家の勝手口に來て食物を貰ふ者も、何れの代にも絶えたことが無かつた。百年ばかり前に、其中に一人の異人があつた。荒布のやうな着物を着て何處からとも無く出て來る老人である。其歸路を附けて見た者もあつたが、山の中ですぐに追付けなくなる。七日も十日も連日來るかと思ふと、二月も三月も姿を見せぬ時もある。常に一斗も入るかとおもふ大瓢箪を持つて來て、其中へ酒を入れて貰つて行く故に、人は之を仙人と呼んで居た。或年朝起きて見たら、玄關の柱に此大瓢箪がくゝりつけてあつて、其時以後再び來なかつたさうである。年來の謝禮に呉れて行つたのだらうと云つた。佳い色の瓢箪で口の金は黄金である。世間では之を金のふくべとも云ひ又は天狗に貰つたとも傳へて居る。今でも家の寶物として大事にはして居るが、實は此品の手に入つた頃から家道が少しづゝ傾いた。其頃に磐城平の沖で持船が三ばい沈んだ。天明度の大飢饉には領分境の坂元の口と、藤葉稻葉の二箇所の渡船場と、村の兩端とに、五つの救ひ小屋を立て、倉の米を施したが、追々と世の中の變動を感ずるやうになり、維新の戰爭の際は、長い間、家が陣營に點ぜられて什具が散亂した。代々の用立金は價の無い藩札を以て土藏に一杯返される。眷屬の繋累は昔の儘であるので、生計の規模を縮小することが不能であつた。

(106)　皷村君の長兄は家の負擔を一身に引受けて、青雲の望を起さずに村長などをして父に先だつて死に、當主はまだ若い。兄弟は追々に他國に出た。

　

　　　　　　　　　　五

　

　鈴木君の祖父は伯父の續き合ひである。通稱は十郎右衝門、號を左竹と云ふ有名な俳人であつた。若い頃からあの時代の風流の道に打込んで居た爲に、家業を煩ひとして弟の十三郎に家を讓つてしまつた。此家では二つの通り名を一代置きに用ゐてゐる。左竹は長命な人であつたが始終諸國を旅行して、生涯を通じて二十三年の間家にゐなかつた。京都との交通が昔よりも一層盛んになつて、祖母を京都の家柄から貰つたりした爲に、舊時代末の京都趣味は滔々として此家庭へ流れ込んだ。皷村の母は近國の生れであるが、亦京都で教育せられた人である。此里方も同じやうな趣味ある歴史をもつて居る。福島縣伊達郡梁川町に中木といふ舊家がそれである。伯父の中木篁洞と云ふ老人は詩人で、長く京畿中國を旅行した人である。今でもかの地方には却つて澤山の墨跡があると云ふ。此人の妹であつた母は、老後に歌や國文を近隣の娘たちに教へて居た。琴は祖母の方は生田流であるのに、母は却つて古い八橋流を傳へて居た。

　皷村君の琴は、六つ七つの頃に母から學んだのが始めである。此偉丈夫の傳は、彼が大に老いてから書くべしであるが、兎に角に二十四貫もあるかと思ふ大男の、風貌にも經歴にもひたと連結して居らぬのは、琴に堪能と云ふ一事である。しかしそれも三百年の家の歴史を訊ねると、漸く自然に近く聞えるのは妙では無いか。此人は慥かにローマンスの破片を、身内の處々にくつ附けて居る近代人、即ち我々の仲間であるが、家の舊榮華を語つて哀歌するやうな弱蟲では無いから、安心して此あとを聞いて貰ひたい。

　

(107)　　　　　　　　　　六

　

　鈴木君の父は兄弟十二人、鈴木君の兄弟も同じく十二人あつた、世の中の變り目から此多勢の者が、有らん限り變化のある生活をした。自分の兄弟も、殆と奇を好むと言はるゝ位に職業を分化して見たが、なほ鈴木家の方が面白い。叔父さんの中には維新の戰爭に一人、會津の城で朝敵になつて戰死した。あの家には琴の趣味の外に、討死趣味の遺傳もあるらしい。其外に東京へ出て穀物商をやり財産を作つた人もある。次の代の兄弟も職業は甚だ區々である。君のやうに大きな人が外にもありますかと聞いたら、一人も無いのみならず、氣性もちつとも合はないと云ふことである。其原因として本人は斯んな事を云ふ、多くの兄弟は里子に遣つて育てられ、自分ばかりは領主の家に子が育たぬ爲に家へ預けて置かれたので、此若殿と一所に母の側で成長した。其せゐであらうと云ふことである。是も看過することは出來ぬが、猶一つは受けた血の種類である。世にはあまり本も讀まぬのに、頻りに祖先の生活に纏綿したがる人がある。又昔風な人だと言はれる人がある。當人は一向意識もせずに、父祖が踏んで行つた道筋を歩みたがる。之と反對にそれこそ木の俣から生れたやうに、自分のことばかり考へて居る人も中々多い。傳説の束縛があまりに煩はしかつた舊時代には、一種の反動的作用として此の如き人格を尊み、之を御先祖になるべき人と云つたものである。今は又此類の人の多きにたへない。國風の變る虞がある。

　鈴木君の家が如法の千年家でありながら、今以て鼠算で繁殖するのを見ても、所謂家の死滅は決して其屬員の死に絶えるのを意味しないことがわかる。然らば家は如何にして老い且つ死ぬるかといへば、段々に系圖を失つた家と血を交へて、傳説を忘却するやうな分子を増し、先祖の血の中で躍つてゐた細胞が弱くなつて、分?を怠る樣になることであらう。此點から見れば家にも確かに壽命がある。長くとも三百年を以て古稀と稱せねばなるまい。

　

(108)　　　　　自編『郷土會記録』

　

　郷土會の創立は明治四十三年の秋であつたと思ふ。郷土會と云ふ名稱は、最初からのもので無かつたが、假にさう呼んで居るうちに、次第に親しい言葉になつてしまつた。自分の處には第四十囘頃までの記録しか存して居らぬが、少なくとも大正八年の末までは續いて居た筈である。其八月に大擧して、津久井の内郷村へ研究旅行に出かけたのが、たしか第六十何囘かの催しであり、後に又其報告の會があつたことも記憶して居る。

　新渡戸博士が大戰爭の終頃に、外國へ出て行かれたことが、會の中絶した主たる原因であつた。と謂ふのは博士がその靜かにして清らかな住居を、いつも會の爲に提供せられたのみでは無く、又至つて注意深く參集者の世話を燒かれたので、誰も彼も少しでも早く、次の會日の來ることを願つて居たのが、もうさう云ふことが無くなつたからである。他の會員の家などで開かれた場合には、とてもあの樣な行屆いた亭主役は勤められなかつた。例へば會の食事なども、いろ／＼皆の悦ぶやうな用意をして置いて、先生は我々が意を安じて食べるやうに、わざと名ばかりの會費を徴せられた。又成るたけ話がはずむやうに、色々の珍客を臨時に招いて置いて、至つて自然に新らしい刺戟を與へられた。此會の幸福だけから言ふと、博士が色々他の方面に於ても、大切な人で無い方がよかつたのである。

　臨時一時の來會者の中にも、忘れてしまつてはならぬ人が多かつた。其半數ほどは此記録に名が出て居るが、他の半分の人々は來去の年月が不明である。さうしてもう此書物を見ることの出來ぬ世界に、往つてしまつた人も少しは有る。過去の生存を考へて見ようとした我々の生存の、一部は亦既に過去のものになつた。一部分なりとも其痕跡を(109)保存して見たいと思ふ所以である。

　大正二年から六年の春まで、自分は一つの雜誌の編纂に與つて居た。その偶然の結果が、是だけの記録の保存であつた。只殘念なことには、時々の都合で自分の筆記が、或は簡約に失し或ものは稍々完全に近く遺つて居る。今再び之を校訂するに當つて、いろ／＼當時の印象の、よみがへつて來るものも有るが、固より増補を試みるべき性質のもので無い。又講演が此記録の前後に屬し、或は他に理由が有つて、全然筆記することの出來なかつたものゝ多いのは、如何にしても不本意な次第である。

　精勵なる會員の中には、木村修三君、正木助次郎君、牧口常三郎君、小野武夫君などがあつた。三宅驥一博士なども、中途加入以後最も熱心に出席せられた。その人々の名前が、一度も此記録の中に現れて來ぬのは、寧ろ不思議とも謂ふべき偶然である。殊に木村君の諏訪の畠作灌漑の話などは、新らしい興味ある一研究であつた。さう云ふ類の逸品が、多く逸し去つたのである。拙く且つ誤脱あり得べき自分の此筆記が、決して郷土會の全幅の事業を傳へたもので無いことは、會の面目の爲に繰返して聲明して置きたいと思ふ。

　次の頁以下の記文は、悉く皆集會の直後に作成したものである。誤字を正し、些しく體裁を改めた外には、何の變更をも加へて居らぬ。なほ若干の地圖も、力めて其年代のものを採用して添へて置くことにした。

　新渡戸博士が久しぶりに、日本に還られることになつて、今ちやうど印度洋の船の中だといふ新聞を見て、すぐに自分は此記録の編纂に取かゝつたのであつたが、博士の日本滯在があまりに短くして、此本が出來上つたところで今一度、舊郷土會員の集會をしようとした我々の計畫は成就しなかつた。出版の上はジュネーヴの先生の寓居へ、早速此本を送らうと思ふ。

　

(111)　　　讀書雜記

　

(112)　　　　　偶讀書抄

　

　正月になつて讀んで見た本の中で、もつとも心を動かされたのは考古學會の『造像銘記』であつた。自分などは專門家で無いために、殊に印象が新らしく又鮮かであつた。

　最初は『古京遺文』などの如く、銘文だけを保存して置く計畫であつたのが、後に匿名の篤志家が數千圓の費用を出してくれたので、一々寫眞を副へて印刷することになつたといふ。さうすると標題は當らぬかも知れぬが、效果は十倍も加はつて居るのである。

　以前に出た『紀年鑑鏡圖譜』などと同じ趣旨で、金石木像に伴なふ銘文に由つて、的確に作品の年代を知り、他の多くの無銘像の出來た時を推定する尺度にするといふのである。

　その理由で足利期の終まで、いやしくも文字の殘つて居る限りは皆集めたから、選擇の標準は技藝の優劣では無かつた。中にはひどく破損し又良い寫眞の得られなかつたのもあるが、百六七十ある中の半以上は、同時に立派な藝術作品であり、殊に七つか八つかは、いつまでもぢつと眺めて居たいほど美しいものがある。今はボストンにいつてしまつた興福寺の「みろくぼさつ」なども、始めて惜いものだつたことがよく分つた。膳所の圓福院の釋迦如來の光背の如きも、フラ・アンゼリコのもつとも完全した曲線を思はしめるほどのものであつた。

　尊い多くの御正體御本尊も出て居る。これを透して古代人の信仰の一部分が、知るといへなくとも少なくとも感じられる。考古家の羅拜する推古天平の古像はもちろんであるが、世降つて佛師の藝のやゝ職業北した時代のものでも、(113)かうして幾つかを比べて見るうちに、色々の事を教へてくれる。一概に豐麗などと形容して居た圓顔の中にも、少しづゝの特徴のかはつて來るのを見ると、無意識にかも知らぬが、やはり時代々々の美しい姿容が、いつとなく寫生せられて居たのである。この中には我々のゆかしく思ふ昔の人の顔が、なほ偶然に活きて居るかと思はれた。

　

(114)　　　　　『耳袋』とその著者

　

　日本藝林叢書の中には感謝すべき採録が多い。殊に喜ばしいのは『嬉遊笑覽』の善本が出たことゝ、もつとも引つけられるのは馬琴翁老後の書簡集であるが、兩方とも讀むのに中々肩が張る。それよりも私に取つて興味の盡きざるものあるを感ずるのは、江戸の町奉行をして居た根岸肥前守の雜談集『耳袋』といふ書物のごく素性の確かな六卷本が、今度始めて活字になつて出たことである。

　自分でもどうかしてこの書を版にして見たいと、思つて居たわけが三つほどある。第一にはこれが標題の示す通り、全部耳から聽いた話ばかりで、少しでも書齋の臭氣の無いことである。津村正恭の『譚海』などがやゝこれに近いが、本を書かうといふ位の人には、どうかすると持合せの博識が頭を出して、やたらに人に教へたがつていけない。さうして折々は時代と社會とを混亂させる。うぶな時代相は、かういふ一定の横斷面からで無くては見ることが出來ない。地方にもしこんな筆記ものが有つたらきつと面白いのであるが、今日知られて居るものは甚だ少なく、本になるどころか大抵は屏風の下ばりか何かになつてしまつて居る。幸ひにこの書は筆者が名士であつたゞけに、早くから寫し傳へた人が折々はあつたのである。

　これまで自分などの眼に觸れた『耳袋』は、をかしい程異本が多かつた。恐らくは著者一生に伴なつた事業であつて、まだ完成せぬうちに人が借りて行つて寫して居たのであらう。中には寫す人の好みで抄録したかと思はれて、一册二册にまとまつて同じ標題を付したものもある。明治三十二年に集めた隨筆襍誌の中へ入れて印刷したものも其一(115)種である。私の家の藏書も六册本であるが、藝林叢書と比べると始からちがつて居る。半分ばかりは同じ記事らしいが、順序は一向に一致してゐない。一々當つては見ないけれども、私の本の方が話は少なく、しかも今度の集にはもれてゐる珍な話もある。事によるとこの新活字本を基礎として、まだ若干の増補が出來る。他日愛讀者が多くなれば、分類や索引を企てゝ見るのも面白からうと思ふ。

　よくもこんな話が、御奉行の御隱居の耳に入つたと思ふ樣なものが少なくない。旗本としては類の少ない一代立身で、いはゆる下情には通じ切つた人らしいが、傳を讀んで見ると、如何にも謹嚴な、かつ行屆いた紳士であり、身分年齡から考へても道樂の友人などは無ささうな人である。それが御話相手に出入をするわづかな社交人の口から聽いて、家來に寫させて置いたりしたといふ話で、よくもこれだけの分量を績み貯へたものである。驚くべき根氣である。夜話といふものゝ興味を昔風に、かつ潤澤に有つて居た人でなければ、たゞ丹念といふだけではこの仕事は出來ない。奇事異聞の間々にさしはさんで、いや火傷の妙藥とか百足の出ぬまじなひといふやうな民間知識が、幾らとも無く書留められて居るのを見ても、老人の人柄までが眼に見えるやうな感じがある。

　私のこの著者に對して深い親しみを抱く今一つの理由は、早くから彼の郷里を知つて居たことである。根岸肥前守の實父安生太左衛門は、もと相州若柳村の農民であつた。後に多分御徒の株を買つてその組に入り、組頭から追々に働き上げて、未には御代官までになつた人である。著者はその三男坊で、養子先の根岸家は素より歴とした御譜代の幕臣ではあつたが、その少年の日の生活は想像せられる。若柳は中央線與瀬の停車場から、桂川を隔てた南の方の、以前は型の如き奧在所であつた。八年ばかり前に自分はこの村へ遊びに行つて、土地の人からこゝが根岸肥前守の生れた村ですよといふ話を何度も聽いた。津久井一帶の山村には、戰國亂後の浪人が多く土着し、機會ある度に出て社會に働いて居る。根岸氏などはその最後の一人であつた。氣力からいつても情味からいつても、さびしい田舍の地のみで保存されて居た中世日本人の特徴が、まれには斯うして發揮せられることもあつたので、ひとり江戸文化に漂蕩(116)されて居た官場生活の中において、優に頭角をぬきんづることを得たのみで無く、一方にはまた久しく持傳へた山居の武士の好尚と熱情とを、かくして容易に新らしい社會に應用することを得たのである。

　根岸肥前守藤原｜鎭衛《やすもり》前名を九郎左衛門、その前には通稱を鐵藏といつたさうである。藝林本の末文に別號守臣翁とあるのはあるひは誤りではあるまいか。私は守臣は守信であつて、晩年の名乘だと心得て居る。この一點の疑念を除いては、全部原本の所藏者で、またこの版の校訂者たる三村竹清君の用意に推服してゐる。

　

(117)　　　　　百年前の散歩紀行

　

　今から丁度百年程前、清水家の御廣敷番に村尾正靖といふ六十ばかりの老人があつた。この老人は頗る旅行好きで風流な人であつたが、勤めが忙がしいので長旅の出來ない處から、いつも休みの日には日歸りの旅行を試みた。施行などゝ大袈裟に云ふよりも、草鞋履きの遠足と云つた方がいゝだらう。『嘉陵紀行』二十卷は即ちその日歸りの旅行記なのである。

　何しろ江戸を中心とした日歸りのことだから、行く所と云つても大抵高は知れてゐるが、それでも足の達者な人で、時によつては一日に十五六里も歩く。同じ場所へ三度も四度も遊んだ紀行文もある。八十餘歳の高齡にまで達した人だが、亡くなる近くまで年々春秋の紀行がある。その中でも面白いのは、春の初めに府中へ行つて甲州境の連山の雪を望み、山中の生活を懷かしがつた一文である。そこには鼻紙に書いた見取圖を本の中へ寫し出してある。

　この人は周防の岩國の産で若い時から江戸に來てゐて、初め濱町に住んでゐたのが後に三番町へ轉じたゞけで、別に遠國へ旅行した經驗もなかつた。一度淺間山の煙が見たいと思つてゐた處、或人の話に中仙道の桶川まで行けば見えるとの事なので、わざ／＼そこまで出掛けて行つた。をりしも秋の初めつ方、樹の葉が繁くてどこからも山が見えない。こりやその男が嘘をついたのかと思ひ／＼、段々と歩いて上尾の宿を外れた畠の中の塚の上まで來ると始めて淺間の煙が見えた。所が歸りに蕨から川口の方へ來る途中、畦路に立つて後ろを振返つて見たら、既にこゝからも淺間の見えることが分つた。

(118)　その頃川口の町の南北はまだ廣い原野であつて、一里も雜木林の中へ入らうものなら、鹿などが住んでゐたと書いてある。その川口町の近村なる新曾の妙顯寺に子安の釋迦堂といふのがあつた。この老人は早く男の子に逝かれて了ひ、末の娘は二人共他へ縁付いてゐた。娘が始めて産をする時に、立願の爲に釋迦堂に參詣した紀行などもある。

　或年の秋の末に一僕を伴つて新井の藥師の北を歩いたをりの文章がある。江古田の村には金滿家が多い。靜かなひつそりした村で、路傍の草叢には蟋蟀が鳴いてゐる。村の中程に茶店があつた。そこに休んで雜談をしてゐると、主人の老婆が老人の持つてゐる椰子の實の水筒をひどく稀らしがり、自分でわざ／＼酒を買つて來て、先づ老人からその盃で一つ乾した後自分にも飲ましてくれと望んだ。

　或年の春、江戸の近郊の寺々の花を觀て歩いたことがある。今の早稻田から大久保邊にかけては廣い原續きであつた。澁谷から目黒を過ぎ、白金を經て高輪の某寺まで來た。本堂の縁に腰を掛けて靜に花を觀てゐると、跡から自分よりは稍々年下の老人がやつて來て、色々と話をしかけた。この老人は信州松代在の人で、子と孫が合せて數十人ある、至つて仕合せな人であつた。總領が家に在つて豐かに農事を營んでゐる外に、息子の中には高名な和尚もあれば、江戸に出て立派な金持になつてゐる者もある。旅行でもして氣樂に餘生を送らうといふ人であつた。

　この信州の老人は、田舍者が何といふことなしに江戸の町をぶら／＼歩くのは、目立つて可かぬと思つたので、駒込の花を見て淺草へ行くのに、一荷の干大根を買ひ込んで、それを路々賣りながら歩いた。淺草に着いた頃、大根は皆賣れて五百文ばかりの金になつたのを、寺内の乞食共に分けてやつて來たと云ふ。

　嘉陵の紀行はその數が四十程ある。見て歩いた寺々の花も今は多く枯れてしまつた。櫻を植ゑたり、牡丹を栽培したり、立派な泉水を造つたりして、江戸の風雅人を喜ばしてゐた近在の舊家は、大抵は見る影もなく衰へ果てゝ居るやうである。『嘉陵紀行』を讀んで自分の見聞した所と比べて見ると、僅か百年の間に江戸は勿論、近郊の靜な田舍までが、驚くべき變遷をしたといふことが分る。

　

(119)　　　　　一青年の旅行記

　

　先日御成道の文行堂から、二十錢で買つて來た美濃判半切五十六枚の、道中日記帳と題する横本は、恐らく世上最廉價の著者自筆本である。さうして外に複本の無いことも亦ほゞ疑が無い。どう云ふ人の手を經て來たのか知らぬが、兎に角に今日迄、八十二箇年ほど保存せられて居たのである。此から後はどう成るのであらう。自分は偶然にも不朽と云ふ問題に一寸出くはせた。そこで供養の爲に其内容を書き遺して、我「同人」に結縁させたいと思ふ。

　此日記は天保七年の六月二日に、東上總の一村を出立した青年の、江戸から東海道を上つて伊勢熊野和歌（ノ）浦を巡歴して大和に入り、其から京大阪近江八景などを見物して、明石高砂名所の松も殘さず、備前から船に乘つて金比羅嚴島、周防の錦帶橋を西の止りとして、山陰道に立越えて出雲大社にも參拜し、天（ノ）橋立から再び近江に出で中仙道を歸つて來た、丁度百日の大旅行の記録である。

　筆者の名は中村軍治郎、歳二十歳時と本の終に書いてある。即ち文化十四丑年の生れで、今は少くとも孫の代になつて居る筈である。在所は上總埴生郡下水吉村と有つて、今の長生郡鶴枝村の大字である。茂原の町から二十丁ばかり南の岡の蔭である。自分は以前何度か此村に遊びに行つたことがある。あの同じ樣な閑靜な生垣の、何れが此青年の老い且つ死んだ家であらうか。折も有らば尋ねて見たいと思つて居る。

　さても六月炎天の菅の小笠、ましてや村では田の草池の水の營みた有るべき時節に、何として若い者が遙かの旅には思ひ立つたのであらうか。是は一つの不思議である。日記の中には連れの有つたらしい記事は少しも見えぬが、帳(120)の端に小さな字で同行四人也、林峰松早野村齋田周次郎同順次郎と書いてある。京の知恩院の門の前で、松藏千代吉政次郎、此三人の者に行きあうたとも書いてある。さすれば此時代には東國の農家で、子弟に世間を見せる良い風習の有つたものであらうか。兎も角も一身の不首尾などの家出では無く、氣樂な旅であつたことだけは窺はれる。

　然るに又一つの不思議は、知らぬ他國の百日の草枕に、山も越えた、海も渡つたのに、嬉しい寂しい面白いと云ふ文句が、只の一箇處も見えぬことである。大體此書物の特色は、後に行く人のために書き殘したやうな點に在る。飛脚が頼まれて廣告をするかと思はれる樣な道中記などゝは事かはり、例へば名所舊跡の簡單な記述にも、水晶の如き此若者の頭腦を通して、當時の社會相とも云ふべき案内者の口付きが窺はれる。同じ旅店の何屋何左衛門でも、土地の風に由つて宿賃の取り方が違つて居たことが記してある。關西の宿屋では辨當附きで料金がきめてあつた。晝食には茶店で菜を買へば、茶代に拂ふ錢が少くてすんだ。社寺の門前では米代と木錢で泊める家が有つた。木錢と云つては五文か十文であつたが、米は必ず一升の價を取るから結局費用は同じであつた。斯ることも分るのである。讃州丸龜から宮島岩國迄の船賃が、雜用を込めて一分と七十五文であつた。尾州の佐屋から桑名への川舟は此頃は七十二文であつた。わらぢの値段なども土地につれて大きな相異が有つた。甲州駿河邊りは十六文、西へ行くほど安くなつて熊野などは八文から十文、京でも北國でも十二三文より高くはなかつた。其が木曾に入ると又十六文である。是は多分米作の多少と關係して居たことであらうと思ふ。

　凡そ此若い旅人などは、物堅く心懸けの良い、恐らくは昔の時代の理想的青年であつたことゝ思ふ。この長い道中に一切の入用を手帳に付けであるいたのすら奇特であるのに、買つた物はわらぢに鼻紙に晝食の菜の外は、甘い物一つ求めた樣子も無い。小づかひ二十文などゝ記してある日にはわらぢの代を付けて居らぬ。多分は家に歸つて〆上げて見たときに、帳面通りの殘金が財布の底から轉げ出したことと思ふ。但しこれと同時に旅人として理想的であつたか否かは實は些し疑はしい。此旅行が單純な官道の上り下りで無かつたことは前に言つた通りである。山坂の迂り路(121)をして大山にも身延にも富士にも秋葉にも參つて居る。京大和では人のあまり行かぬ山寺までも見盡して居る。其にも拘らず益軒の諸州巡りに見える樣な批判と云ふものが些しも無い。偶々或海邊の好風景に對してひどく感動したらしい處に、「此ところ景色よろしく申候」などゝ書いて居る。

　思ふに此點に於でも亦彼は昔の理想的青年であつて、腹の中に在る物の八分の一以内を發表するのが文章だ位に考へて居たのかも知れぬ。皆の人の同じ場合に言つたり感じたりする範圍から、逸出するのは惡い事と思つて居たのかも知れぬ。

　しかし彼は普通人のしさうな事の中の、最も情味の有る事をやつて居る。歸路に木曾の奈良井を立つ朝、七十二文出して櫛を買つて居る。又七百五十文で重箱を求めて居る。諏訪に來ては合羽と足袋とを買つた。上州高崎に來て巾着を買つて居る。九月十一日江戸に着いた翌日、一分一朱を投じて袷をこしらへた外に、二朱と八百文で風呂敷を調へたとあるのは、自用の一枚だけでは無くて、是もやはり在所への土産物であつたらう。下永苦で尋ねて見たら、今でも其重箱ぐらゐは殘つて居るかも知れぬ。京の知恩院の門の前で、郷里の知人に往き合せたと云ふのは、誠に奇遇と言はねばならぬが、此處にも亦嬉しかつたとも何とも記して無い。只其日の條下に「酒代十三文」とだけ書いてある。此旅行中、後にも先にもたつた一度の保養であつた。乃ち淡く酌んで袂を分つたことであらうと思ふ。而うして其人々も、終に皆居なくなつてしまつた。

　

(122)　　　　　霜夜談

　

　　　　　我が燈火

　

　小さな窓から外は完全に眞暗だ。儘かな書物が或一人を取卷いて居る。そのさま／”＼な文化の遊歴者の中には、長い難儀な旅行から戻つて來て、今は靜かに休息をして居るのだと、言つたやうな顔付も見える。諸君の感想は成程諸君の時代であり、又氣質であり境遇であつたかも知れぬ。新たに出かけて行く者を、再び案内して貰ひたいといふので無い。少なくとも何が諸君を誘ひ又は引留めて、さういふ根氣のよい旅人にしてしまつたかを話してくれ、と尋ねる言葉も亦獨り言であつた。わかるものかといふのか忘れたといふのか、書物はまじ／＼と黙つて私を見て居る。外は全く風が無く又もう騷ぐ木の葉も無い。今夜もうんと霜が降るだらう。

　

　　　　　菅江眞澄

　

　眞澄翁の五十年間の紀行のうちで、約四十種が今日まで殘つて居る。南部領に關する六七卷は、昨年の秋『南部叢書』に採録せられて世の中へ出た。秋田でも今年は『秋田叢書』の計畫があるから、必ず其中へ加へずには居らぬだ(123)らう。津輕も勿論負けて居まいと思ふ。さうすると莊内の一册と松前の四五册と信州の二册が寫本で殘る事になる丈だ。翁の郷里の東三河の人々は、是で始めて斯んな先輩が我地にあつたことを知るのである。

　十七八年以前に、自分が始めて『眞澄遊覽記』なるものを讀んで、何とかしてこの感激を友に分ちたいと思つた時から、二つの殘念な故障が附いて廻つて居た。其一つは挿畫が餘りに美しく且つ精彩を帶びて居る故に、添へると印刷が六つかしく、取れば後が淋しくなることであつた。其中でも今の内閣文庫の本は佐竹家へ獻上したものらしく、特に畫工に托して自作の寫生を描き改めさせて居る。さうして眼に見るやうな印象を、半ばこの彩色の鮮明に手傳はせて居るのである。第二には文體と文字、是が亦尠からず新らしい讀者を遠ざけようとして居る。眞澄は歌文と學問とを資糧として永年の遊歴を續けた人であるが、今は却つて其二つの武器が無かつたらばとさへ思はれるのである。さうすれば差引して後に何が殘るといふ人もあらうが、實際非常に大切なるものが、色々と其外に保存せられて居るのである。此人の物を見又心付く力は、本當にいつの間に歌などを考へるかと思ふばかりである。全體に聡明で且つ感情の極めて豐富な人らしく思はれる。家を出てしまつた理由は今に不明であるが、漫遊文人の生活方法として、交遊を上流裕福の人に求めなければならなかつたに拘らず、途上に心を引かれて居たのは、常に小さな人々の笑や悲みであつた。さうして相應によく理解し、しばらく彼等の側に立つて反抗を試みて居るのは、何か共通の不滿があつたのかもしれぬ。故郷を棄て去つた天明三年から、羽後の角館で客死した文政十二年まで、この約五十年は、江戸京都の學問の可なり著しく進展した時代であるが、彼の雲浮草の移り動く生活に於て、しかも奧羽の片田舍をあるきながら、何の手段があつてか　　略々世の歩みにおくれなかつた。それが一つの自信でもあつたと見えて、往々にして之を文章の縱横によつて證明しようとして居るのである。即ち觀察はよしや周到を極めたとしても、もし筆の自由が彼だけで無かつたら、記して我々に傳へようといふ勇氣が起らなかつたかも知れぬ。さうして書かない旅人ならば昔から東北には隨分多かつた。

　

(124)　　　　　鶴啼く秋

　

　故に偶然でもあらうが此人の紀行には、他の如何なる書卷にも書いて無いことが多くある。世の最も倨傲なる者が、なほ感謝すべき新らしい知識を湛へて居る。殊に北端三縣の住民として大切なることは、彼等が他日ふりかへつて我昔を知らんとする場合に、如何に骨折つても是以外に尋ね寄る方角が無い。獨り百數十年前の或土地の舊事が、眞澄のみによつて記要せられて居るといふだけで無い。眼前にしかく變化した漁農の生活の、もと何樣であつたかを説かうとする際にも、恐らく具體的記述として是より古いものは無く、是だけに例示的な、正しく他の部分を類推し得る材料もあるまい。といふ理由は最も簡單で、つまり極端に有りふれた凡人のしがない生活に、この不遇の旅の歌人の如く、好奇心と同情とを拂つた者が他に無いからである。あつたかも知れぬが書いて置かぬからである。今でも雪國の秋から春と言ふものは、誰も彼もが皆能因法師である。俳諧は必ず旅三昧の副産と見られて居るが、それですら南部津輕を、伊勢近江の海邊山家のやうに、取扱ひ得る者は一人もなかつた。名所歌枕を訪ひ寄ることは、雀になつた實方中將も同じであつた。御奉行は街道をしづ／＼と練り通つて、單に旅宿の屏風の陰から、罷り出づる者に向つて江戸の問ひをかけて居る。詩文も亦概念であつた。ところが眞澄翁だけは雪の中に立つて見て居た。永い冬の四十何囘かを、誰かの家の爐の側に坐して、用の無い滯在客として靜かに過ごして居たのである。

　北地の秋が早く暮れて、盆が終るともう西日が寒く、林が色づく後からもう霰霙が來ることを、暖國の人だけに驚いて何度も書いて居る。しかし其間にも外に出て色々の鳥の聲を聽き姿を見た。夜が更けると鶴が群れて啼いて行く事が多かつた。親を思ふといふ歌が、さういふ折にはよく詠ぜられて居るが、それが月竝の聯想とのみは思はれない。晴れたる日に空を見て居ると、雁が來て又鶴の群と入り亂れた。やがて雁金は遠くへ渡り、鶴は横にそれて暫らく舞(125)つて居たとも書いてある。濱に出て見ると千鳥の足跡があつた。岡の陰では兎の行くのを見た。鹿の今通つたらしい跡も、折々は雪の上に見たと記して居る。

　

　　　　　雪の野のまぼろし

　

　寛政四年には蝦夷から十月の始に還つて來て、下北半島のオコッペ（奧戸）といふ港に上陸した。普通の旅人ならば急いで南の故郷へ向ふべきであるのに、彼は其儘この海角の村々を漫遊し始めて、忽ち雪の中に閉ぢ籠められてしまつた。それが見ず知らずの土地であつたのである。勿論風流の友は段々に出來たが、何度か旅支度をとゝのへて又新たなる國へ行かうとして居たのは、やはり安住する事を得なかつたものと思はれる。それで居て到頭外南部の深い雪の底に、三囘まで正月を迎へて居るのである。殆と凄愴と言つてもよいのは、二年目の十二月の寒い一日に、昔の尾駁《をぶち》の牧の趾を見て國に還ると謂つて、多くの送別の詩歌を貰つて田名部の町を立つた。無理な旅だといふ人も多かつたが、果して太平洋の荒濱に於て雪車も通らぬほどの大吹雪に遭つた。さうして牛の背に飢ゑ凍えつゝ、再び舊友の家に戻つて來たのが年の境であつた。及部《およべ》白糠から平沼へかけての一帶は、知つて居る人もあらうが、今でも滿足な旅籠などは得られぬ土地である。ましてや冬のさ中に一人行くなどは、世の常の風流としては少し烈し過ぎる。全體に幾らか身を投げ出したやうな形があつた。年は此頃は四十すこし前で、他人の記す所によれば常に旅刀を帶び、國學者だから無論僧形ではなかつた。

　恐山へは嚴冬の雪の中にも登つて居る。寺は森閑として留守の僧が夢の如く獨り住んで居た。山の湯の末の池には、人を怖れぬ鴨が浮び、夜はむさゝびが入つて來て、鼠を追ひまはして騷いだと書いてある。

　雪の野の寂寞は土地の人は顧みない者が多かつた。家庭も無く友も少ない他國の者が、獨りでしみ／”＼と之を感じ(126)て居たらしいのである。眞澄の早くから興味を感じて居たのは、冬の最も靜かなる季節に、諸處の山野に出現する蜃氣樓の景であつた。今は立派な邑になつたが、三本木平の廣野にも二月の頃にはそれが眺められた。土地の人々は之を狐が柵をふると謂つた。秋田でも森吉山の麓から、八郎潟の岸近くにかけて、野道を行くものが折々之に出逢ふのを、此方面では狐森と呼んで居た。陸中でも和賀郡後藤野のあたりでは、周圍の村々の人が今でも之をよく話する。眞澄の頃には狐の館と謂つて居たが、此頃は狐の御作立てと名づけて居る。オサクタテは正月の農祭の飾りで、信州で物作り、東京近くで餅花といふのも同じである。春の初めに此野を遠く望むと、多くの人影が動いて土を持ち又は木を立てる樣子が見える。誠に雪に倦みきつた人々の心が春に蘇つた時に、ちやうど見たいと思ふやうな幻しであつて、東北の農民は狐が最も巧みに人の意を迎へて、斯ういふ光景を見せてくれるものと、つい此頃までも想像して居たのである。

　

　

(127)　　　　　讀書懺悔

　

　圖書館の三つの事業のうち、實際日本に發達したのは二つだけで、一つは少しも顧られてゐない。何人も發見蒐集し保存さへして居れば、それで能事をはれりとする。理想的司書でも皆さう思つてゐるが、今日の如く本の多すぎる時代には、指導が必要である、選擇が必要である。指導といつたところでたゞ本屋の手先の如く、徒らに新しい名前を、いゝ加減好奇心の多い讀者に教へればいゝわけでない。一方には讀むに及ばぬことを教へねばならぬ。もしくは是非讀むものを教へねばならぬ。大體、近代の傾向は責任を讀者の方に持たせて、何處にでも歩きさへすればよいやうにしてゐるが、それは成熟した人の話で、初めて世の中に眼をあける人にはそれだけでは足らない。これが學校の爲とか村の爲とかいふ小規模の社會事業、土地の人のために開かれてゐる圖書館の特殊な任務である。理想を上野の帝國圖書館においてはいかぬ。もつと考へねばならぬ。

　自分の子供がちやうど讀書力が出來て來たので、私には今さかんに自分の少年時代の記憶が蘇つてゐる。明治中期でも實は書物が非常に多くて、田舍に住む者にも、とても一生に讀みきれぬ程であつた。どれと／＼を讀まうかといふやうな考へを持ちはじめてゐた。江戸や京都の讀書子は、それより約百年も以前から實際選擇難に苦しんでゐた。指導に關する書もいろ／＼あり、各學派毎に讀書指導といふのがあつたやうだが、吉益東洞の讀書矩といふものがあつた。私の曾祖父は所謂古流の醫學生で、若い時に吉益門下に居つた關係からだと思ふが、家には少しばかり此學風が入つて居た。父が少年の時に寫してだん／＼に書入をしていつた一册があつた。三段に書物の種類を分けて、經義、(128)皇道、格知として讀む順序が書いてあつた。それを見ると、なるほど子供心にもこの順序で書物を讀めば偉くなるだらうと思ふほどだつたが、如何にせん私の家にはその中のとび／＼にしか本はない。書物のすきな少年なら、押入に一ぱい位の本はすぐ讀んでしまふ。順序などといふことは考へて居られない。從つて私の家では、田舍であり貧乏であつたために、親も子も已に十分に選擇の必要を感じて居りながら、選擇をすることが出來なかつた。極端な雜書亂讀の惡癖はその頃から附いて、たうとう一生を煩はすやうになつてしまつた。だから痛切に今日になつて子弟の爲に圖書館の完全なるものを必要と感ずる。

　子弟が今何を讀んでゐるか、何に興味を持つてゐるかといふことだけは、どうしても先輩がそつと目立たぬやうに注意しておかねばならぬ。そんなに骨の折れることではないと思ふ。普通の家庭のやうに机にさへ向つて居ればそれでよいやうな風に考へては、學問は二葉から蝕まれる。自分などは、例へば本の鑑定がはやく出來るとか、退屈な本を思ひ切つて見捨てるとかいふ風の利益も亂讀から得たとは認めるけれども、全體を綜合すると惡結果になやまされる方が確に多い。例へば、青年期の最も感受性の強い數年間を、次から次へと文學の本を讀み、讀んで感動するだけでも精力の浪費であつた。模倣して何かやつて見ようとさへ思つた位である。たしかに目的を以て學問をする者の警戒せねばならぬ陷穽におちたものである。周圍を見まはすと、かういふ私みたいな仲間が可なり多い。さうでなかつた方が却つて少ない。これだけの年數をかけながら日本の學問が少しも進んでゐない主たる原因はこゝにあると思ふ。改良しなければならぬものは學校の教授法ではないかと思ふ。學校は種々なる傾向の少年を寄集めて大體を教へる所であるから、作れば優良な凡人しか出來ない。一派の研究に秀でた人を作るためには、彼等のうちの優れたものを教へ込むといふことを忘れてはならない。

　實際をかしいくらゐ自分の讀書生涯は亂雜なものであつた。今思ひだして見ると一人で興味を感ずる位である。私は少年の時には、あんまりいたづらがひどいので、何處かにやつて本を讀ませねばならぬといふので、幸ひに父の友(129)人に中井竹山の門流に屬する藏書家があつて、先代は若死した人だが、短い間に大へん書物を集藏して居たので、そこにわけを話して一年程托されたことがある。今行つてみると家はまだ殘つてゐるが、家の後に土藏風の建物を造つて下を老人の隱居所にし、二階の八疊二間に本を一ぱいおいてあつた。少年だから私だけ、自由にその部屋に入ることを許された。朝入ると晝まで、晝入ると晩まで、呼ばれなければおりて來ない。小さな窓があつて、その窓の下の長持にもたれて立つて本を讀んでゐた。文庫は大部分中井氏の系統の實學風の經濟や文學書であつたけれども、その中に氣まぐれなものが澤山入つてゐる。例へば江戸の合卷草紙が何百册と入つてゐる。極く通俗な隨筆類とか、それから歌謠類とか、非常に完全な謠曲集などもあつた。それを少しも指導者なしにでたらめに讀んでゐる。時々主人が來て、また小説を讀んでゐるのではないかなといふが、そんな時には大てい小説を讀んでゐる。そんなことでは二階には上らせないと言はれたが、あんなに色々な本の中に一人おかれたのでは、目うつりしてそんなものゝ他讀めるものでない。儒書とか經書とかは長持にもたれながらは讀めない。わづか一年ばかりの間であつたが、一生煩はされてゐる雜學風の基礎はその間に作られてしまつた。

　ところが滑稽なことには、同じやうな機會が、またやつて來た。それから一ぺん家に歸つてゐたが、十三の秋に兄につれられて茨城縣に移住してしまつた。兄も醫者で、極く邊鄙なある農村の、主人の若死した醫者の家を借宅して開業した。當主は當時は中學生で家に居らず、婆さんが一人小さい孫を世話して留守番をしてゐた。これは家をたてゝから四代目といふことであつたが、先代は珍らしい藏書家で、土藏の二階が悉く本であつた。どんな風に話合ひをつけたのだつたか忘れたけれども、土用干の手傳か何かをしたのが初めで、後には藏の中へ、藏さへ開いてゐれば何時でも入ることを公認されてゐた。いたづらさへしなければ捨てつぽかしにされてゐたが、こゝには蒐集者が儒者でなかつたゝめに、非常に雜駁な、また少年のためによくない書物も交つてゐた。それから格別學問の盛でもない田舍であつたのに、をかしなことには近くにもう一軒、書物の多くある家があつた。此處にも時々行つて本を讀むことを(130)許されてゐたが、そこには少年に惡い本が可なりあつた。大へん不必要な、世間とは縁のうすい知識をこの時得てしまつた。一つには自分の體が弱くて正式の學校に行かれなかつたので、時間の餘裕が可なりあつた點もある。兄は正式に學問させようといふことを遲蒔ながら心づいて、國學の本などを東京から順序だてゝ買つてくれたが、それも讀むがあれも讀むといふ風で、完全な圖書館が出來て居れば陷らずにすむ邪道に入つてしまつたのである。

　ずつと後年になつて今の内閣文庫を整理したことがあるが、それをやりながら時々笑ふやうなことがあつた。その時には本の種類も大體わかり、青年のためには本は五段位に分けねばならぬと思つてゐたが、あの文庫もよく／＼雜駁なもので、無いのは人情本だけといふやうな風であつたので、自分の經路を再び眼の前に見せられるやうな氣がして、微笑を感じないわけにはゆかなかつた。

　ところが、をかしいことには、私のやうな人が明治から昭和にわたる時代には非常に多い。これは確にあの時代の風習で、同時に今日の通弊と言つてもよい。折角他にこれといふ長所がなくて、讀書と理解だけには調練を經てゐる人間を、言はゞ反故にしてしまつたのが明治の文化である。專門をやつてゐる人は、却つてどちらかと言へば鈍い人である。鈍いから横目をふらない。然るにこちらは盛にいろ／＼のことに氣がつく、英語でいふ vivacious な人間である。そのヴィヴァシアスな人は皆をかしな人になつてゐる。もうこれからは此弊をくりかへしてはならない。又そんなものを博覽強記などといつてよいことのやうに思ふのは止めねばならぬ。それにはやたらに本の出るのもいかぬが、讀書術といふものを學課の一つに加へねばならぬ。

　第一に家庭において、親ことに母親が、書物の價値には非常に差等のあることを知らねばならぬ。單に客觀的に書物に善惡のあるばかりでなく、少年青年の境遇や將來に應じて、良書もたちまち有害の書となることを知らねばならぬ。文字は即ち尊いといふ數世紀前の考へから脱却せねばならない。此頃のやうに馬鹿々々しく本の出る時代に、本で生活しようとする時代に、その本の選擇力のないのは野蠻國に普選を布いたやうなものであるから、文化の惡くな(131)るのは分つてゐる。

　講談社流の俗惡書はいくら呪つても足りないが、しかしそのために彼等をせめてはいけない。この多數の圖書館を造つて居りながら、その圖書館は册數の報告ばかり、閲讀者數の報告ばかりである。大きな圖書館は成人が行くところであつて仕方もあるまいが、しかし範をそんなものにとつて村の文庫を經營する、學校の圖書館を管理するのは甚しい誤である。内容の分らぬ本を生徒に讀ませる。人殺である、實際人殺である。故に讀書運動は惡いことではないが、分量の促進を成功の標準とするのは惡い。豆を背負つてわざ／＼論語を讀みに行つた時と時が違ふ。多すぎて大きすぎて困つてゐる、いゝ本を詳しく讀めなくて困つてゐるのであるから。これに對しては學校が自ら苦心すると共に、家庭を導いてやらねばならぬ。ちやうど運動の目的は漢字廢止運動などと似てゐる。一種の少年保護運動である。

　大人に對しては下手な讀書慾の刺激よりは、却つて現在のやうな漠然たる傾向に於て、自ら警戒せしめたらいゝかも知れないが、子供にはさうはゆかない。あんまり禁ずると盗見するやうになるから、私の考へでは、公園に子供の區域を作るやうに、この中には入つてもよいといふものを作つてやり、聞かれたら答へてやるやうにしてやりたいと思つてゐるが、何よりも大切なのは指導者の親切で、これが無かつたら圖書館をこしらへた効はない。

　大學の圖書館も何とかせねばならぬと思つてゐる。人手が少ない。それだのに金があると本を買つてしまふ。爲に學生はいよ／＼本をさがすのに多くの時間を費さねばならなくなる。五六年前にプリンストンの大學に行つて見たことがある。あの大學は、本當に學問するためにたてた贅澤な學校であるが、ある日本の青年が、私に其處の圖書館を見せようといふので共に歩いてゐると、後から小さな聲で呼ぶ人がある。ふりかへつて見ると、そこに雇はれてゐる若い婦人で、「先日あなたの頼まれた石油の本がまた二册見つかりました。」といふ。こゝにはそんな婦人を何人か置いて、見る人のためにはかつてゐるのである。學生が何か論文を書かうとする時にはそこに行つて、私はこんな論文を書くつもりだと言つておく。さうすると暇にあかして、それに必要な論文や統計のある箇所に紙をはさんでおいた(132)りしてくれる。一ぺんや二へんきりではない。私を案内した青年などは三べん目か四へん目だと言つてゐた。カードでも作つておくものと見える。大きなものになればなるほどそれが必要である。

　それに向の方では、本の索引がずうつと出來てゐるが、日本の圖書館にはそれがない。例へば、古記録の中から亥子《ゐのこ》のことをしらぺて見ようとなると、何から何までみなさがして見ねばならぬ。しかし亥子なら十月といふ時が定つてゐるからいゝが、これがもし婚姻などといふ臨時のものを、急いで引いて見ねばならぬといふやうな時には困つてしまふ。上野の圖書館などに行くと、自分の體がかくれるほど本を積みあげてゐる人がある。一生の間に二年とか三年とかしか本を讀まない人間に亂讀させてどうなるか。結果は分りきつてゐる。よくなりはしないと思ふ。自分は經驗に鑑みて、普通の出版業者の喜ぶやうな讀書運動といふものに對しては寸毫も同情はない。或はやつてくれない方がいゝとさへ思つてゐる。まづ以て指導者の講習會、もしくは指導者養成の事を始めねばならぬ。

　これが私の遠慮のない意見である。

　

(133)　　　　　讀書術雜談

　

　　　　　　　　　　一

　

　一代前の讀書子は氣樂なものであつた。學問が大體に共通で、人の讀みさうなものを勉強して、殘らず讀んで置けばそれでよかつたのである。吉益東洞先生から制定せられた讀書矩といふ書目が、自分の家などでは標準であつた。經學が中心でこれに加ふるに日本の古い史籍を以てし、なほ餘力が有るなら博物の書を見よといふ方針で、約三百ほどの著名の本を擧げてあつた。それが都會でならば手に入れ得るものばかりではあつたが、しかも新著に對しては、概括的の不信用で、外史や國史略の類は、顧みないでよいことになつて居た。

　しかし時代にはやはり流行があつた故に、人が讀めば之を讀まぬわけに行かぬ。そこで先づ書生は大なる苦勞をしなければならなかつたのである。殊に明治を境にして、新らしいもので無ければ學問で無いと思ふやうな氣風が増長し、終に今日の如き本の洪水が襲うて來たのである。かういふ時代に在つて新らしい讀書法が、打立てられなかつたら嘘である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　慰みに本を讀むといふことは、昔は御殿女中か隱居かの話であつたが、この節は十人の九人まで、若い男たちの讀(134)書がそれだ。時事新報では本に索引を付けよと主張して居るが、それの入用な人は實は少ない爲に、多數の新刊物はいつまでも標題と體裁のみに力を入れて居るのである。これに對抗する策としては、つまらぬものを讀まされぬ用心に、中途で放棄する習慣をもつと養つて置く必要が寧ろ有る。ところが古い癖がなほ家庭には殘つて居て、買つた以上は少しでも利用しようとする爲に、またしても良著に接近する機會をこれに因つて奪はれる。自分なども思ひ切りが惡く、若い時から机の上に、いつもまん中に栞をはさんだ本が、十種以上も積んであり、人に笑はれ、さうして慢性の神經衰弱になつて居た。慰安が主なる目的なら、このくらゐ馬鹿げた本屋の奴隷は無い。斷じて人には勸められない方法である。

　しかし書物に由つて學問をせねばならぬ者の境遇はまた別だ。西洋の本が際限なく入つて來てから、學者の苦しみはおそろしいものになつた。ちつとやそつとの索引では追つかぬ。これを巧妙に處理して、早く本の内容を知り、用のあるときに樂に出せるやうにするのは技術である。大體においてそれが上手な人が、世の中には重んじられて居る。故に我々は何とかして彼等の口傳を探るべきである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　自分などは今以て表紙や序文で本の良否を鑑定する能力が無く、殊に西洋の本はどうしても、通して見ないと身にならぬやうに感ずる。だから書齋の生活は不斷の苦行であり、自分がさうだから日本の爲にも、何とか早く便宜な方法を立てしめたいと考へて居る。

　けれどもまだこの方面は、今にこのまゝでは置かれぬ事を、感ずる人の多くなつて來る見込がある。それよりも遙に大切なことは、自國の本の始末である。近年の覆刻事業の傾向を見ても、慰みに讀む人々の注文は容れられるが、一段眞面目な本は讀むもので無いやうに考へられて居る。古い學者の心境との間には印字式の變化が完全な障壁を造(135)つてしまつた。古書といつて珍重するものゝ今一つ奧に、世に忘れられた多大の知識がある。この絶縁の危險を救濟することは、眞の讀書子の本分であるが、もはやこれを説く人が滅多に無い。自分は早くから因縁があつて、國の大きな文庫の中で數年間はたらき、偶然に早く本を見分ける練習をした。その後雜書を色々と讀む學問をして居る爲に、たれよりも讀書術の必要を感ずることが多い。格別參考にはならぬかも知れぬが、これから折々問題を提出して、同志の先輩の意見をたゝいて見ようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　先づ第一に言ひたいことは、書目の學問の日本では根つから當てにならぬことである。古書の新發見といふことが、これからもなほ續くらしいことである。天下に一つしか無い書物が幾らでもあつて、その中には良書と愚書との相混じて居ることである。題目をきいて見ただけでは、いつになつても本の學問上の價の定め得られぬことである。年代が古いといふことは珍本の資格を爲すだけで、その保存は大抵骨董家の領分に屬することである。即ち新古を分つこと無く、常に本を手にして暫く考慮しないと、讀んでよいか否かゞ分らぬことである。これはいはゆる讀書家の樂みであると共に、短い一生に何かしようとする人の、大いなる關所と言はねばならぬ。故に讀書術の第一歩は、鑑別から踏出さねばならぬのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　考へられねばならぬ一つの問題は、民間の讀書子に有用な學問をさせる爲、何等か一國として公けに、援助を與へる必要が無いかどうかである。圖書館が八百屋で、机を借りに來る人でいつも充滿し、一部しか無い書物は中々大切で、燒いてしまふまでは名も聞かせないといふ今の?態では、別に方法を立てる必要が正しく有ると思ふ。

(136)　古書飜刻を算盤に任せて置くと末には好色本を出して繁榮を謀つたり、少しの入用の爲に餘計な凡書を買はせたり、二十年間に源氏物語の活字本を、二十種以上も出すことになつたりする。言ふにや及ぶの話だが、書物が我々のたつた一つの、古人との聯絡手段であるのに、たま／＼萬人向きの題目で無く、しかもあまり丹念で册數の多いのを書き殘すと、折角縁のある者も近よる機會が無く、一生同じ都會に背中合せで、住んでしまはなければならぬことになる。もし著作者に妄執といふものが有るなら、化けて恨んでも追付かぬ位なものである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　實際かうして埋没して居る古書が、まだ幾ら有るものか分らぬ國である。それを片端から版にしてくれとまでは言はぬ。せめては何人かゞ一度ぐらゐは讀んでから、燒くなら燒くやうに用意するだけは公けの義務である。小鳥の少ない東京大阪の町などでは、本を食料にする羽蟲が最も繁殖する。蟲干が不可能で水分を含むから、一層食べてうまいらしい。大地震はもう無くとも、遠からず塵になる見込ばかりは確かにある。そんな事には責を負はぬ番人が、たゞ固苦しく今は之を管理して居る。

　だから早く寫本法を設けて、第一には速かに所在を登録し、第二には一定の條件を備へた者には樂に見させ、第三には内容を判別して、あるものは副本を作らせ、他の若干はむしろこちらから力を入れて、短い期間に利用させてしまふことにせぬと、以前は有つたといふだけでは學問にも何にも没交渉なことに歸してしまふ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　さうした仕事は到底個人の企て得る所でない。えらい先生はよくけち〔二字傍点〕を付けるが、佐村八郎氏ほどの辛勞でも、今日たれが出て志願をしようか。實際『國書解題』の在るおかげで、讀まずともよい本を讀まなかつた、時間の節約は偉(137)大なる恩澤であつた。強ひて不足を言ふなら、あの仁が長命して、續篇を出し得なかつたのが惜しいとは思つて居る。

　目的がちがつたのだから是非も無いが、實は解題の最も必要なものはあのほかにあつた。日本人の一つの癖で、とても内容を暗示し得ないやうな、氣取つた書名がよく採用せられる。その中でも我々を惱ますのは隨筆といふ曲者であつた。當節の隨筆は第一に才人の事務であり、殊に印刷になつてから初めて名を知るから、少なくとも出版屋の、安心し得た程度の本といふことが知れるが、昔のは一律に外形上の珍書だから判別に困る。天寛化政といつた太平の世に、紙は安く豪放な遊戯は費に堪へぬので、江戸でならば無役の御家人や法師、地方でならば御隱居さんといふ階級が、ほとんと後世の本好きをからかはん爲かと思ふやうに、競うてそんなものを殘してくれた。春風堂とか秋月樓とか、よつぽど考へて付けたやうな家號の下に、隨筆と書いた本を八十卷も百卷も殘してくれた。

　昔も本好きは筆まめだつたと見えて、今ならアンダーラインといふ程の感興を、すぐに書拔いて我隨筆にしたものが多い。短篇の小説といふ知惠も便宜も無い時代だから、これが先づ最も手輕なかつ無害なる著述であつた。中には『用捨箱』とか『玄同放言』とかいふ刊本の隨筆を、根氣よく十枚も二十枚も寫すのだから閉口する。

　伊勢貞丈などの著述は一番多く書拔かれて居る。明治の初年に何處からとも無く、そんな氣樂な隨筆が幾組も出た。それに勝手な好い標題をつけて、とぼけて賣込むことが古本商の流行であつたらしい。だから、うつかりと本の名を聞いて飛付くことは出來ぬ。しかも全部が始めからしまひまでそんな愚なものなら見切つてもよいが、大抵はその合間合間に、耳で聽いた珍らしい話とか、たま／＼知つて居る特殊の知識などが、何の斷りも無しにはさまつて居たり、あるひは同じほどの無名氏でも、心がけがよく久しい間、傳ふるに足るものばかりを、選んで書いて居るのだから、何とも以て始末がよくない。我々仲間の出來さうも無い企てゞは、第一着にかういふ雜駁な古い寫本の中から、殘す價のある分を選り分けようとして居るのだが、果して思ふ通りの途が開けるかどうか。活版になれてしまつたこの頃の人に、書き本を讀んでもらふことが、もう大分困難になつて居る。

　

(138)　　　　　新傾向

　

　近年の禁書政策が、寧ろ一種類型ある文籍の流行を促す嫌ひありしことは、今より振返つて見ればほとんと否む能はざる事實であつた。一部の新言論の抑制せらるゝといふことは、往々にして讀書子の注意をその方面に引つけ、やゝ不正確なる模造品の必ずこれに代つて續出するものを見たのである。それと同時に健全なる指導者と稱する者が、力に限りあつて全般に眼が屆かず、主として平凡をもつて安心の極意とせんとした結果もまた現れて居る。機敏なる出版業者等がその將來の計畫を立てるために、右二つの傾向を利用したのはやむを得ぬことであつた。

　數量の一點においてこそ、日本現代の刊行物はあるひは世界に誇示することも出來るであらうが、その種類の乏しくまた偏して居ることは話にならぬといふ程度のものであつた。讀書子の選擇は結果において、常に必ずしも自由とはいはれなかつた。ところが兩三年來の大量生産組織は、意外に速かなる進展の極度に到達して、もはや有るだけの舊書凡書を世の中に送り盡し、この上は何を試みてよいかの思案に惱んで居る姿が見えて來た。讀書界の天氣豫報は、新たに探り求められんとして居る。この田舍の隅々にまで行渡つた愛書熱、如何なる小家庭にも本を必要的備品とし、これ無しには日を過ごし得ぬ風習だけを遺して、古い新刊のどし／＼と古くなつて來たことは、結構なる實?といつてよい。我々は是非ともかういふ際において、單に在來の何を購ふべきかの問題から、更に今一歩を進めて考へなければならぬ。

　いはゆる圓本洪水の一つの大いなる功�ｺは、何よりもこの飽滿の不滿足を味はせてくれたことであらう。今までは(139)これ程多量なる出版物ならば、ほゞ一代の必要なる知識、一切の學問は漏れ無く包容して居るだらうと思はれて居た。如何なる種類の書卷であれ、これを手にする者は心がけよき青年であり、末には名を揚げ身を起す者と、昔風の人々は考へて居たのであつたが、それが不可能なることは簡單に實驗せられた。第一に人にはそれだけの時間が無い。趣味や境遇の種々なる變化はあらうが、たれにも適用せられる共通の眞實は、讀むことの出來ない書物ほど、無益な邪魔ものは無いといふことであるが、それが今までは經驗して見ることを得なかつたのである。

　然るに平易を極めたる供給法が行はれて、久しからずして戸々の小文庫は充溢した。多くの公立圖書館の人知れぬ惱み、如何にして將來の餘席を作るべく、何を無用の書として棄却すべきかを一考しなければならぬ場合に立至つたのである。この讀書家としての眞の自由なる選擇は、監督官廳の干渉にもよらず、また粗略なる指導者の方針にも基づかずして、各自の主觀をもつて出來るだけ必要なるものに限定することにならうとして居る。その萬人區々の好尚が、自然に需要となつて出版業界に反映することになれば、僅かな年數の間にも、日本の文献は一大革新を見ずには置かぬだらうと思ふ。

　從順なる新刊書の購入者等が、書店の便宜によつて支配せられる時代は、幸ひにして長く續かなかつた。如何に有力なる販賣業者の組合があつて、その團結をもつて無競爭の利益を維持しようとも、讀者にはまた買ふと買はぬとの選擇の自由がある。讀みもせぬものを流行に誘はれて、さういつまでも貯へて行かれるわけが無い。最近やゝ顯著に認められて來た出版物の特殊化、意義あり奧ゆきある研究に向つて、各自手分けをして進んで行かうとする傾向こそは、恐らくは迷へる今日の出版業のために、やがて第二次の運命を決するのみならず、更に昭和新時代の藝術と學問とを、今少しく特色あるものにして遺すことであらう。

　

(140)　　　　　讀物の地方色

　

　町に入つて一番うれしいのは、ちやうど其日が市の日に當つて居たときである。靜かな小都會などに於ては、常は旅人は見る人よりも、寧ろ見られる人になりがちで、馴れて居ても落付かぬ感じのするものであるが、市日ばかりは外に氣を取られることが多いので、町では旅の者などには構つて居られず、心置き無く其生活を見せてくれる。遠い近い人間の色々の交通が、商品に由つてよく窺はれる。東京と云ふものゝ隱れた勢力は、却つてこんな中へ來て氣付く場合が多い。例へば廣告でも陳列でも、曾て見たことも無いやうな雜貨類が、そつとやつて來て幅を利かせて居る。入用が有ればこそ來てゐるのだ。君等の知つた事で無いと云ふ顔をしながらも、じつと見て居ると鼻じろむと謂ふか、見られるのを氣にして居るやうな感じのする品物が多い。

　處が奇妙なことには、石鹸や水白粉、さては切地や文房具と云ふ類は、どの地方に往つても大よそ店先へ出しやばつて、先づ買はれたがつて居る品が、大抵一樣であるに反して、書物ばかりは如何にもきつかりとした地方色がある。本屋は旅人には最も遠慮の無い立寄場で、或は繪葉書を捜しに、又は案内記類の有無を尋ねるに託して、自由に入つて見て土地の好みを知ることも出來て、必ずしも市の日の雜沓を利用するの要は無いのみならず、もし單に其地方の讀書家の心持を、想像して見ようとするだけならば、少し練習して見ると通りすがりにも、或は車の上からでも、ちらと一目で感じ得られる程の、濃厚な特色が現れて居るやうに思ふ。

　近頃のことでは無かつたが、いやに法律の通俗略解と云ふ類の紙表紙ばかりが、往來近くに飛出して居る町もあつ(141)た。又は學校の教科書類の半紙本以外には、玩具との中間に位する幼年雜誌が、濁り目に立つ店もあつた。雜誌類の色なぞも、澤山を集めて見ると自然に一定の調子があつて、愛用者の成長するに從つて、配合がじみになることは、園中の花木が春闌け夏に入るにつれて、桃色から黄になり白になつて行くのと、同じやうな趣きであつた。

　又秋の終りに林の奧に入つて見る時のやうな、深い赭《あか》に交つた青緑、或は其葉隱れに木通《あけび》の實などの、重くるしい紫色が覗いて居るのは、一時淺草物などと呼ばれた探偵小説や講談物、武勇譚の類の石版繪の表紙で、昔話はすきでももう語り手を失つた冬の村に於で、新たに物識りを産出しようとする傾向を物語るものであつたと思ふ。

　書物の装釘に國風と云ふものがあつて、例へば佛蘭西のやうに何でもかでも、黄紙の假綴りで先づ出して置くやうであつたら、こんな經驗も六つかしかつたことゝ思ふが、幸ひに日本では本の形がいつも迷つて居た。背皮金文字が良書の看板であつた時代は短かつた。有島君の本が賣れた頃から、白つぽい色合が考へさせられる本の群を意味するやうになつた。淺黄ならば親切に導くものとか、鼠ならば謙遜に訴へるものとか、細かな差別があつたやうだが、大體に於て店が明るくなり、色合があつさりと、夏の衣類に近くなるに伴つて、讀む人の心もちも既に熟して行くらしく思はれた。年を隔てゝ再び訪ふ町の書物の色が、變り變らぬのを見てあるくことは興味のある經驗であつた。

　處が此節では、何でもかでも本は茶色のボール箱に押込んで置くことになつて、少なからず觀光者をまごつかせる。日本では茶は尤もらしい色と、百年も昔からきまつて居るやうで、いか物の素性を隱すにはよい方便だが、一々見別けることは買ふ者にも面倒である。今にきつと此色はたわいも無い濫作に押領せられて、自信のある著述は、又別の表現を採用することになり、次にはこの茶の氣の濃淡に由つて、遠方から地方の文運を鑑別する時が來ることであらうと思ふ。

　

(142)　　　　　愛書家の立場から

　

　出版界としては此一年間に、正しく復興以上の仕事をして居る。但しそれがどの程度に迄、新らしい生活の力になるかは、別によく考へて見ねばならぬ。我々が劫火の厄難に震駭する餘りに、幾分か書籍に對する古い迷信を喚戻したに乘じて、時として無用の廢紙が、再び塵芥の中から顔を出したやうに、外貌ばかりが如何にも名著らしき種々の四角な物が、おれを大切にせよとのさばり出て、しかも其實價値の有るものと、御得意の取合ひをして居るやうな懸念がある。勿論廣告だけでは少しも判別が付かぬ。何にしても分量が多過ぎる。考へて見れば我々は、僅に地震の災から遁れた處で、又書物の大洪水の、門外に迫り來るのを見るのである。早く堤防を設けねばならぬ。

　一種在來の愛書家の中には、兎も角本ならば大事にしてよろしいと、きめて居た者があつた。さうしてその人たちも、もう堪忍の緒が切れようとした矢先に、今度のやうな不慮の事が折々起つては、後には得難い物になるかも知れぬと、思ひ直すことになつたのは不幸であつた。正倉院の文書を見よ。千餘年を過ぐれば反古までが寶である。塙總檢校が蒐集でも、一半は昔の人の愚直な物惜みの名殘では無いか。どんな馬鹿々々しいこんにやく本や婬書でも、今では其時世を知る唯一の資料だと、云ふやうな心持が集積して、今以て無益の出版事業を支持するやうである。しかし保存は凡ての出版の目的では無い上に、それだけの手數を要する變つた品は、今は却つて何人も顧みんとはせぬのである。

　或は又讀書子の要求の變化を説く者がある。多くの若者は疲れて居る。彼等が書物に期待する所は慰安である。怡(143)悦である。輕くても甘くても、時としては愚劣であつても差支が無いと云ふのである。成るほど彼等には其欲する者を與へねばならぬ。しかも此の如く情を矯めて難きに就くの意なき人々の爲には、一層其效果の適切ならざるものを排斥して、例へば輕味甘味乃至は愚劣味の純一なるものを供與するの必要がある。何れにしても嚴重なる選擇なしに、この出版界の機運に面することは出來なくなつてしまつたのである。

　又或はこんな辯護も認められて居る。無用無益は人間の業として已むを得ぬ。有害でさへ無ければよいでは無いかと言ふのである。ところが我々の本を買ふ力、我々の家庭で本を置く場處、殊には百廿五歳は六つかしい人間の一生で、始末し得る分量には必ず限りが有る。外形ばかりの無用の書に由つて、占領せられた部分だけは、我々を良書から遮斷する。日本一の大きな圖書館でも、自然の保存所に役立つ大家の文庫でも、見る／＼充溢して秦の始皇を學ぶの他は無い。況や我々が鑑別なしに、單に印刷物を愛惜することは、やがてはその書籍を放逐することに歸するのである。愛書家にして殊に嚴正なる批評を歡迎せねばならぬ所以である。

　本の装釘の我々を魅すると同じく、書名標題の氣の利いて居るのは閉口の他は無い。此爲に一寸手に取つて、面白さうな本だなと、思ふことなどはもう出來なくなつた。一番困るのは飜譯である。兼て西洋で評判の本だ、よく出たなと急いで買つて見ると、わざとかと思ふ程憎らしいうそが有る。本屋は固より知らぬ顔で、譯者は廣告だけの名士だから、責任の負はせやうも無い。出た書物をいぢめるより、外に手段は無いのである。昔の所謂何々先生校閲や、お名前拜借にも弱らされたが、是には假令一人でも、責めると苦しがる人が居た。實際は恥を知らぬしれ者が、何かの都合で一時篤學と稱せられ、或は天才の肩書を帶びて出て來るのはもつと始末が惡い。しかも之に懲りて餘りに新顔に警戒すると、往々にして本物の世に出るのを苦しめる。さうで無くても流行外の題目、全然豫期せられざる研究は、出版者が無諒解で二の足を踏む。從つて是ほど多い新刊が、兎角どの一隅かへ片寄つてしまふ。全體に書籍を精神の糧などと言つて居る我々が、いつも出來合ひの食事で腹を充さうとするのがよく無かつた。何でも寄合つて今少(144)し料理の方から、獻立の研究をして置く必要があつたのである。

　

(145)　　　　　半暴露文學

　

　粉本廢れて新らしい寫生の必要になつたことは、畫も芝居も小説も同じである。この文學隆盛の時代において、モデルがもし問題にならず、あるひは經濟の生活と、何等の交渉を持たぬやうであつたら、その方が寧ろ不思議といつてよい。然るに一部の藝術にあつては、モデルは既に完全に職業化し、從つて惡競爭の弊害さへ生じて居るのに、獨り文藝の一種だけが、今なほ自給自足の安きに止まり、乃至は原始的採取の?態を以て、兎に角に渡世を續けられたのは自然でなかつた。

　いはゆる身邊雜事小説の久しい間あきられなかつたのは、一つには盲目なる愛讀者の、やゝ過分なる寛容も與かつて力があつたが、他方筆者自身もまた、相應の苦勞はして居たやうである。彼等は昔能因法師が、秋風白河の關の名吟を活用すべく、わざと窓から面をだして日に燒けた如く、幾分か故意にその身邊の雜事なるものを複雜にして、種を新たに求めようと努めた形跡がある。多くの放縱なる道義觀の、かゝる身勝手の職業意識から出發してゐることは事實であつて、世上若干の凡庸青年が、その製作の技においては到底企て及ばざるを知りながら、單にこの點のみを模倣して、得々としてゐたのも悲慘の極であるが、當の本人といへどもそれで飯を食ふことは、實はもう餘程大儀になつてゐるのである。

　だからモデルが有りふれたる糟糠の妻や、二三の女友との閑葛藤から進出して、徐々にその採用圏を廣めて來た事は、當然の經過といふべきであつた。ひいきの看客はもちろん一通りの好奇心はもつて居る。曾て山東京傳が未來記(146)に豫言した如き、市川白猿住居の場といふ類の一幕物も、興味をもつて讀んでくれる人はあつたであらうが、それを永續させる事は最初から無理であつた。讀者は假に從順で進んでその要求はせぬまでも、見せてくれるならば少しでも新らしい世界を、これが有りのまゝだと稱して鮮明に紹介してくれることを、歡迎せぬはずは無いのである。寫生文學の唱道以來、世人は如何なる人生の片隅といへども、寫すべからず讀むべからざるものが無いことを學んで居る。ましてや菊池寛といふが如き境涯にある名士の、美醜交錯した生活斷片を手に取るやうに見るといふことは、兎に角に一つの御馳走といつてよかつたのである。だから最近のいはゆる暴露文學の如きは、よしや作者の側に何の下心が無くとも、當世の讀書界には打つてつけの事業であり、幸ひに藝術第一主義の論を超脱して、物の價を評定することが許さるゝならば、これは少なくとも今と將來との社會に對して、新らしい知識の供給ではあつたのである。單に作者が感謝せられ豐かに酬いられるのみならず、更になほ一團の大いに滿足する階級さへあるのである。

　しかもモデルが何等の代償を拂はれずして、勝手に描かれるといふ不平は生産費の問題であつて、讀者の意に介すべき事柄で無いのみならず、更にその描寫が眞相と遠いか近いかも、實はその技能の下手上手ほどに、氣にかけなければならぬ問題では無いのであつた。モデル問題の提出はいつの場合においても、その作品を不當に有名ならしめ、世上の好奇心を倍加せしめ、さうしてその出版業者を滿足せしめて居る。文壇にはゴシップのお蔭をもつて何だかえらさうになつて來た者も若干あり、自身流言の散布に苦心する者さへあるといふことである。寧ろ色々の隨伴事件が多く起つて、結局事實を精確にすることが出來た方が、無用の迷信を後代に遺さぬだけでも得である。

　現代文人たちの生活研究が、從來あまりにも狹隘なる前面を採つて居たことは、自他のために悲しむべきことであつた。故に折角暴露文學の機運が躍進せんとするに際して、不可解なる情誼論をもつてその前途をはゞまうとするはよろしくない。吾人の怖るゝところは寧ろその態度の不徹底であつて、あるひはモデルの用途を限定し、もしくは舊式なる社交法によつて、その必然に暴露すべきものゝ半分を殘すことである。現在の暴露文學の急激なる隆興は、實(147)際は趣味の變遷でもなく、また藝術の進歩では尚更無い。如何に熱烈に眞理の所在を追隨して、これを書き盡すを使命と感ずるものがあらうとも、彼を支援しかつ利用せんとする出版資本團が無く、一方彼等に利用せられることを甘んじて、自家の地をなさんとする意圖が作家に無かつたら、世人の好奇心はこれほどまでに迎合せられず、その弱點はこれほどまでに乘ぜられなかつたらう。ところがこれ等の資本團は、必要とあらばエロにも行き、利益とあらばグロにも行く。決してある限られたる眞理暴露のために、その全力を傾けては居ないのである。近世讀書界の表裏に通曉し、自身また百パーセントにこれを利用し得た人が、忽然として僅か一つのモデル問題のために、拳骨をふりまはしたところで始まらない。それよりももつと讀者を改良して、食はねばならぬ文學者の、襟首をつかまへて書かされるやうな、みじめな現?を改良する方が順序である。それには暴露文學の必要が、殊にこの連中のために痛切に感じられる。

　

(148)　　　　　婦人雜誌のこと

　

　讀物の確かな選擇が出來る人に取つては、如何に大量生産で安い大きいと言つても、雜誌ほど高くつく讀物は實は無いのであるが、氣が散つて何にでも少しづゝの興味の持てる人たちには、一番強い誘惑は題目が雜多で、總分量の夥だしいといふことであらう。婦人雜誌の記事墮落の、最も救濟し難い點は即ちそれが雜誌であり、又讀者が婦人であるといふことに在ると認めなければならぬ。

　しかし他の一方から見て、この二つの難點は同時に又之を治療の道に利用し得るものであると思ふ。何となれば雜誌は次々に世の中の流行に呼應して、いつの間にか方針をかへて行くことが可能である上に、婦人は又至つて微細なる風潮にも敏感な者で、少しでも「あんなもの」を讀んで居ることが、嘲られ賤しめられるといふことを知つたら、單なる見え坊からでもそれを手にすることを我慢するからである。別の言葉でいふと、私は先輩指導者又は若い女性から敬愛せられる人たちが、この種の雜誌に對する輕蔑の情を表白する態度がまた不十分であると思ふ。

　私等の知つて居る限りの可なり廣い社會では、よほど久しい前から内々はどうか知らぬが、少なくとも人の居る中で婦人雜誌類を讀まうとする娘は見たことが無い。といふわけは是は惡い傾向だと心づいた頃から、買つたり寄稿したりしないのは勿論、努めて子供等の見る前で之を賤しむ態度を示し、たま／＼寄贈を受けることがあつても、封を切らず若くは切つてからすぐに、疊の端の方へ投げ出して舌打ちなどをする。それが自然に制裁となつて居るのである。そんなことをして損をする樣な新らしい記事は今の雜誌には有りもせず、稀にはあらうともそれが爲に醜劣なる(149)讀物を寛容しないのである。

　ところが一部の女流大家たちの中には、雜誌は無くではならぬから何とかして改良しようといふやうな考へからか、如何なる見苦しい取り處の無い記事を載せた雜誌にでも、頼まれると喜んで自分の原稿を送り、今日有害だと認めて居る讀物と伍を爲し肩を竝べることを厭はない人がある。さうすると自分の最も大切な讀者に、讀ませたくないものを讀ませることになつて、即ち間接には「あんなもの」を承認し、もしくは推薦する結果にもなつたのである。さうして今頃になつてから發行者の戸を叩いて、惡い記事の中止を懇願しようなどゝ言つて居るのである。

　そんなことをすれば、さては雜誌社に來て頼むより以外には、抑制する手段も無い位強烈な慾望だなと早合點をして、却つて益々力を此方面に集注するかも知れない。彼等は資本經營者だから利にまはると見れば、泣いて拜んでもやはり出すと同時に、もと／＼惡い主義の宣傳をする氣は無いのだから、少しでも顧みる者が減ずると見れば、どし／＼他の方面へ進出するに相違ない。つまり改良をすべきものは讀者側の趣味であつて、彼等の與り知る所では無いのである。讀者はばら／＼で統一も何も無い。之を糾合することは難事の樣に思はれるかも知らぬが、元々こんな流行とても企てゝ作つた人は無かつたと同じく、僅かな端緒からでも一般の氣風はかはつて行く。自分等は寧ろこの重要でしかも急迫でなかつた婦人讀物の問題が、此好機會を得て共同の討議に付せらるゝに至つたことを悦んで居るものである。

　婦人が特に讀物の選擇に不得手で、人のすることばかり模倣したがることは辯護し得ない事實であらう。しかしそれをいへば圓本に狂奔した多數男子とても同じことで、たゞ彼等は逍遥する花苑が廣く且つ自由であつた爲に、同じ盲探りの中からでも、幾分か身に適したものに遭遇し得たといふのみでは無いか。だから讀書力のある女性に向つて、彼等の選擇の愚かであつたことを責めようとするならば、必ず別に今一層すぐれた讀物を多く且つ新らしく供給せねばならぬ。そんなら何を讀みませうかと反問せられた時に、忽ち返事に困るやうな?態にして置いて、あれは無益な(150)ものだから見るなとばかりいふのでは、其效果の乏しいことは知れきつた話である。

　私等は婦人專用の讀物といふものが、もし多種多樣で有り得るならば、それをも妨げようといふ者では無いが、今日の如き良書の乏しい時代に際して、讀者によつて讀物の類別限界を立てようとするのが間違つて居ると思ふ。子供だけは別だ。彼等は讀みたくても今の國語では六つかしいものが讀めぬのだから、彼等特別の繪本などを買ふのも是非が無いが、其他の部分では、本を見るのは人竝になつたことを意味するのである。あなたは娘だから是がよからうと指定しようとしたから「あんなもの」が出來た。此點は青年とても同じことで、よく人は青年讀物などと謂つて、何か特殊のものを作つて與へねはならぬやうなことをいふが、もしそんな流行が一般的になつたら、弊害はやはり同じ歸結を見たことであらう。唯幸ひなことには彼等の讀書慾は、積極的にすぐ其垣根を越えて行くから、今では寧ろ出版物の大部分が、餘りに彼等ばかりの爲に計畫せられることを、氣遣はねばならぬやうになつたのである。

　だから我々は若干の婦人著述家には氣の毒ながら、成るべく婦人だけに讀ませようといふ狹い目的の著述を差控へて、この比較的つゝましい讀者の周圍に、無用の垣根を結ぶことを避けたいと思ふ。さうして置いても、おのづから男女の好みは分れるか知らぬが、科學文學何れの方面に於ても、特に男子だけに讀ませるといふ書物は無いのである。雜誌の雜讀がもし一朝にして制止し難いならば、せめて男も女も共に讀み得る樣な雜誌を以て、遁げても遁げても性的記事に打突かるやうな、今日の雜誌の拘束から脱出し得るだけにはして遣りたい。

　世間周知の事實は、今日の婦人雜誌の幾つかは、もう何年と無くいつも小さな圓周の中をうろついて、珍らしい新らしいといふ知識が實は至つて少ない。單に舊讀者が嫁に行き親になり段々に代つて來る新人であるが爲に、さうして古い號がどこへか姿を隱す爲に、月々新らしいものとして迎へられるだけである。折角小學校で骨を折つて文字を解する力を授け、しかも人生に最も意義ある大切な時間を、「あんなもの」に費やさせて置くには、餘りにも此世は多事である。一歩を踏出せば何れの方面にも新興味は溢れて居る。それをたゞ少しの勞を省いて、今まで指示すること(151)を怠つて居たのは、出版者といふよりも寧ろ文筆の人の責であつた。もつと面白い且つ爲になる題目が他に幾らでもあることを信じ得る人々は、先づ自ら起つてこの至つて容易なる競爭に勝つべきであつた。我々は必ずしも人間の弱點のあらゆるものに勝たうといふので無い。内證ではこそ／＼とあんな知識をあさる者はあらうとも、少なくとも公然と之を青年女子が、讀んで差支の無いものだと思ふやうな氣風だけを、先づ第一段には抑制すればよいのである。それだけの判別選擇さへ立つならば、今風の編輯ぶりを續けて行く婦人雜誌は、恐らくは皆破産してしまふだらうと思ふ。

　但したゞ一つだけ、優良なる讀物の供給者に注意したい事は、現在の讀者の要求の新らしいものであるといふ點である。婦人雜誌の最も重きを置く讀者は、決して修養のために所謂勉強して書を學ぶといふ人では無い。工場から出て休み畠から還つて休むといふ人たちの、僅かな時間の樂しみに、何か心安く且つ面白いものをと捜して居るものが買つて居るので、さうした慰安の要求に向つて、斯んな結構なものがあるのになぜ讀まぬかと、ひまな年長者の教誡談を押付けようとするのは、是も亦一種の「魚を乞ふ者に蝎」である。勿論この人たちとても志を振起して、力めて心の養ひになる書物を見なければならぬが、少なくともこの場合の注文はそれで無いので、取つて代ることの不可能なるは固より、却つて時としては彼等自身の新らしい境地の開拓を阻碍することにならうも知れぬ。

　讀書が自由の選擇に出發せず、心持のちがつた者の判斷を押付けることは、寧ろ禁果の味を微妙ならしめる懸念があるのだから、「家の光」などがもし醜惡讀物を征服しようといふ志があるならば、最も讀者自身の選擇の範圍を廣くし、徐々として改善せられたる彼等の趣味に、應ずるの策を立てるのが第一である。其方法は必ずしも少なきに苦しまぬが、自分は寧ろ彼等をして、より多く述べ語らしめるのを可なりと考へて居る。日本近世の青年男子の文學には、弊害もあるだらうが活々とした點が認められる。それは何と言つても或時代の投書主義、即ち讀者をして互ひに其好尚を批判せしめたのが、原因になつて居るかと思ふ。さうした婦人雜誌の編輯も、最初は同じことを試みて讀者を引(152)付けたのだが、何分にも編者の趣味が狹隘で且つ低級であつた爲に、終には從順なる多くの女性を、たつた一つの馬鹿げたる題目に閉ぢこめてしまふ迄の、情けない?態に立至つたのである。

　

(153)　　　　　煕譚書屋�陂b

　

　　　　　　　　　　一

　

　いつも斯うして催促を受けて物を書くたびに、僅か五十年ほどの間に一變してしまつた、文筆者流の態度といふものを考へずには居られない。以前は如何にも印刷といふことが容易で無いから、それを斷念して居た人の多かつたのは不思議で無いが、中には我著述のもう一部複寫されて、世に弘まることをさへ豫期しなかつた者がある。大震災の際に大學の書庫で燒けたものゝ中にも、さういふ珍書が幾つかあつたといふ話だ。何月何日の何の刻、一天かき曇つて空より馬の毛の如きもの降ると録して、其下に小さな紙袋を貼り付け、所謂馬毛樣の物が少しばかり入れてある。關取何某は無類の大男とある條には、當人が頼まれてちやんと手の形を押して居る。斯ういふことが寧ろ或時代の流行でもあつた。よほど我々とは本をこしらへるといふ氣持が違つて居たのである。

　その癖標題だけを見ると、賣らうといふ書物もさう格別な相異は無い。と言はうよりも今の人が眞似て見たくなるほど氣の利いた書名が色々と考案せられて居る。此點にかけては全く古人は苦勞性であつた。ちやうど二階を建てゝ何々樓の額がほしくなるやうに、又其文字に若干の風懷を托せんとしたやうに、何を書き誰に讀まれるかを外側からきめてかゝつた形さへあつた。漠然とはして居るが標題は全く人を引付ける。是が爲に今までの本道樂が、どのくらゐ無用な刺戟を受けて居るか知れぬのである。

(154)　所謂隨筆漫録の興味は、日本人ほど能く之を理解し、しかも日本人ほど貧しい供給に甘んじて居る者も稀だらうと思ふ。人生の慰問を讀書に期待する人々が、釣られて引掛かつて苦い經驗をしてしまふのは、罪は素よりにせ物の跳梁にも在らうが、一つには斯ういふ内容を明示せぬ好書名が、久しく此方面には流行して居たからで、しかもその最初の使用者には、必ずしも次の世紀の讀書子の趣味などに、妥協しようとせぬ者が多かつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　同じ「心の糧」でも、當世の餅菓子ごもく飯に比べて、古書には栗や里芋の如く、剥いだり洗つたりしなければならぬものゝ、多いのは確かに事實である。江戸期の雜著類が落葉籠だの竹抓子だのといふ標題を好んだのは、必ずしも謙遜の�ｺばかりでは無かつた。どうせ出版といふことは思ひ絶えて居るのだから、筆の力に任せて何でもかき集めて置かうと、いふ氣になつたのも自然であり、一つには又蒐集者の普通の心理に從うて、册數の積もつて行くのを長命の記念として悦んだのである。

　是に一つのやゝ奇拔なる特例ではあるが、懇意の老人に大變な分量の、「かき物」をして居る者があつた。始めてからもう三十年にもなるといふので、ゆかしく思つて借り出して見ると全部が新聞の又寫しばかりであつた。新聞の記事だとても無論馬鹿にはならない。一方では之を見る者が片端から忘れてしまふし、それを除外して居れば現代の社會史は成立たない。たゞ問題になるのは之を公然と書寫して置くことが、果して我々のいふ書籍といふものの定義に、包容せられようかどうかである。

　ところが新聞と名の付くものが、未だこの世の中に現出しなかつた時代には、實質の略々これと同じいものが、最も主要なる著述の題材であつた。文藝や論策は時過ぐれば忽ち無用に歸する。後世から振りかへつて見て何よりも意義のある文獻は、會て生活した者の踏みしめた足跡ばかりで、如何に訓へられても其當時の讀者と、同じ心持に感動(155)したり、威壓せられたりすることは我々には出來ない。結局はそれが何等かの遠い昔の事實を、映出して居るといふ點に價値を見出すの他は無いとすれば、直接にそれを有りのまゝに記述して置いてくれた方が、有難かつたといふことにならざるを得ぬのである。明治以來の新聞を書寫した人は愚であつたかも知らぬが、古い時代の著書では、さういふものが次第に勝利を得ようとして居る。

　

　　　　　　　　　　三

　

　水戸で國史を編纂した時代と、今の大學などゝは古書の取扱ひ方がもう大分變つて居る。同じ書いたものを根據とする歴史でも、一方は誰かの書き傳へようとしたものに重きを置いたに反して、此頃ではもう偶然の記録の中に、出來るだけ多くの暗示を求めて、寧ろ其方から眞相に近よらうと企てゝ居るやうに見える。我々の知りたいと思ふ題目が増加して、それには豫め計畫せられた史料が得られないからでもあらうが、一つには又中間に餘計な解説者を立たせずに、自分で親しく知らうといふ念慮が、追々に萌して來た爲でもある。それには今日の所謂ジャーナリズム、何が目的でさう色々の事を書いて置かうとしたかを、察するに苦しむやうな前代の健筆家が、單に事實の新らしさ珍らしさの興味から、思はず知らず書いて見たといふ寫本類が、餘りにも我々と縁の遠い片隅で、次第に滅びて行かうとして居るのを、患へなければならぬ理由があると思ふ。

　日本人の話ずきは、近年流行の座談會などにもよく現はれて居るが、その一つ前にも趣味の話、個々の專門家の追懷談といふやうな形で、普通に知られなかつた事實が傳へられて居る。肩が凝らないでしかも印象が永く殘り、二度讀んで見てもやはり面白いものが多く、正直なところ明治以來の文獻としては、是ほど多數の人に愛好せられたものは無いのだが、惜しいことにはその僅か一少部分の他は、新聞や雜誌に出たきりで、もう其年月も多くは不詳になつて居る。しかし此分は兎に角人に見られ、少しは記憶されて世にも傳はり、捜せば又何處かに有るかも知れぬが、ひ(156)どくなつてしまつたのは祖父以前の談話である。雜書がまだ少なく燈火がまだ暗く、夜の時間がたつぷりとあつて、人が律義で作り話を好まなかつた時代に、あれほど熱心に聽いたり聽かせたりして居た話が、散つて悉く空中に消え去つたといふことは、當り前だとは思へない文筆事業の一失敗であつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　稀には古人の中にも、此點に用意を施した人もあつた。たとへば津村正恭は百年以前の富家翁の中でも、殊に驚くべき筆豆であつて、その集録にかゝる片玉集の如きは、一人では所藏も困難な程の大叢書であつたが、別に耳聞を手記した『譚海』を存して居た爲に、近年活刷になつて是だけは弘く讀まれて居る。依田學海にも同じ名の著があつて、それが世に出た當時は此方ばかり評判になつたが、是は漢文であり又都市の事を主とする爲に、今讀んで見ての面白さは、到底｜圓《つぶら》氏の『譚海』には及ぶべくも無いのである。江戸人の筆記には鈴木桃野の『反古の裏書』といつたやうな、噂や出來事を書き留めたものも若干はあつても、世間が狹いので受賣の重複が多く、又蔭口や人物評などの、皮肉なものが珍重せられ易かつたに反して、此書は著者と縁の深い秋田領の話を始め、成るべく旅をした人の遠方の話ばかりを集めようとしたのは、心有つての所業かと思はれる。町の讀書子等の田舍の事物をゆかしがることは、あの頃は今より一層痛切であつたのだが、聽き上手が居なかつたか、話す者が斟酌をしたか、いつも少しばかり變な話のみが傳はつて、却つて段々に地方の概念を引き歪めてしまつたのは、現在の新聞通信も同じであつた。

　だから書物を當てにして、古い事でも探つて見ようとする者は、よほど氣を付けぬと町ばかりの通になつて、村の生活興味などは御留守になつてしまふ。少し大きな圖書館で分類をして見れば直ぐにわかることだが、著述の中央集權は今に始まつたことで無く、しかも版にして世に弘めようとする努力が、主として遊里とか劇場とかに關聯する題目へ傾けられて居た時代さへ永く續いたのである。數の上から言つても文筆に携はる者が、田舍は都會よりも少なか(157)つたであらうが、其上に彼等の一半は意味も無く町の人の好尚に追隨し、又他の一半は全然流布といふことを念頭に置かずに、?々としてその書寫の業を續けて居たのである。それが今日の樣な目録捜索、本は面白いものなら自然に誰かゞ讀んで、知らせてくれるだらうと待つて居る樣な世の中になつて、隱れて滅びて行つたのも不思議は無い。私たちも愈々此方面に斷念して、別に何等かの手段を講じなければならぬと考へ付くまでには、本の爲には相應な苦勞をして居る。地方を文獻の埒の外に置くまいと思つて、色々の計畫を立てゝ見たことがある。それはちつとも成功はしなかつたが、まだ今日でも丸で中止はして居ない。此次には折があつたら其實驗を、もう少し話して見たいと思ふ。

　

(158)　　　　　雜記

　

　オデオンの向ひのリュキサンブール苑の下の角のフラマリオンの小賣店を訪れて、始めて佛蘭西人が本を愛する國民なることを知つた。文學は畢竟する所香爐であり絹の褥であるのに、微々たるショコラをさへ銀紙に包まうといふ國から、濡れたら融けさうな漉返しに印刷したものが持運ばれる。如何に撫でたり摩つたりして見ても、作者の心持が安々と受取れよう筈がない。それをあわてゝ飜譯して賣つて、夢ほども元のかをりが留まつて居たら奇跡である。私も實はこの淺草紙のアナトール・フランスなどを讀んで、彼の解脱ぶりのあまりにも徹底したのを訝つた者だが、心付いて見ると我々の味はつて居たのは糟であつた。水に映した影よりも遠いものであつた。作者が悦んで世の中に留めようとしたものは、別に何百かのそれは美しい、さうして高い本があつたのである。勿論金があつてもそんな物は買ふ氣はないが、自分は兎に角に藝術の書物には、計畫せられた最初の形態のあるものだといふことを知り、かつは今まで我々の文庫が念掛けて集めて居たのは、相撲を新聞で見る程度の享樂であつたことを覺つて、却つて安心をしたことであつた。

　そんなことを言ふわけは外でも無いが、書物の道樂だけは各々國風を守つて、無茶な國際主義に荒させたくないからである。以前此方面に人眞似の盛んであつた時代には、我々も出稼人やマドロスの連坐を食つて、書籍の殘酷なあてがひ扶持を忍ばなければならなかつた。所謂植民地版の惡趣味は、他に比較すべきものが無いために有難がられた。今では注文を出して彼等の案外とするものも多く買ふが、それでも外國へ出て行く本は凡そきまつて居る。自分等の(159)家などは話にならぬが、一廉嗜みのよい人の蒐集でも、をかしな不調和が多くていつになつても本棚が落付かない。量を食る古本商の店でも、斯うは無からうと思ふ亂雜さがある。それでも形をきめ製本をして渡す國のはまだ我慢が出來るが、その間に挾まつて黄や青のぺら／＼した佛蘭西の紙表紙本が、いつ迄も埃を白粉にして氣取つて居るのはうんざりさせられる。永い未來の書齋の平和の爲早くこんな物を始末する習慣と、之を一括して保管する高野山の骨堂のやうなものがほしい。さうして一方には單に整理の便宜とは言はず、進んでは著者との精神交通を圓滑ならしむべく、もつと多くの要求を自國の出版業者に向つて提出しなければならぬと思ふ。現在でも中味も外形も一切が彼方任せで、買へと命ぜられると謹んで買つて居る。幾ら出來合ひが原則の商賣でも、菓子屋だつたらとてもこれでは成立つまい。

　

(160)　　　　　『日本志篇』に題す

　

　日本のやうに文獻の中央統一が、完全に行はれて居る國もちよつと類が無い。それが今日の從順なる購讀者と、都人の講説なら何でも受入れようといふ氣風の、根源であると迄は斷言し難いか知らぬが、少なくとも地方の著述、それを張合ひにして活動すべかりし地方の學問が、お蔭で埋没したことだけは確かである。私はそれが不平であつて、しかも匡救の手段を知らぬ故にたゞ黙つて不平であつた。どうかして此本に似たやうな目録を作つて見ようとして、失敗したことも何度かあつた。實際また私ほど、地方の刊行物を利用して多くの恩惠を受けた者も尠ないのであつた。ところが巖松堂の主人はいつの間にかこの實情を知つて居る。さうして組版の元刷を見せて序文を書けといふ。その位慧眼ならば此本の刊行も必ず時を得て居るであらう。

　以前私は何度と無く、本道樂が古本屋を開業するのと、本屋が本道樂になるのと、何れがより多く世の中の爲になるだらうかを考へて見たことがある。どちらも大したことは無いと言ひ切る人はあるまいが、一方は『觀潮棲偶記』にある巴里の學士院門前のアシェンドル先生の如く、追々貧乏して小さくなつて行くことはほゞ疑ひが無い。之に比べると巖松堂主人なる者の近年の進況はどうであるか。彼はつい此間まで、法律經濟界の都人の著の、ハシリにばかり目を耀かして居る出版家であつた。それが系統を立てゝ微細無力なる地方の古本を分類した此樣な所藏目録を、世に誇り示すだけの腕になつたのである。もし國内の古本業者が、みんな波多野君たるを得るものとしたならば、以前の私の比較研究などは、甚だ目先の見えぬ話であつたといふべきだが、負惜みをいふならば此人には、やはり獨特の(161)技能と餘分の親切とがあるからであらう。

　其上に彼は又地の利を得て居る。既に一廉の新刊書肆として門戸を張つて居ることも其一つであれば、何時賣れるといふ當ても無い雜書どもを、近い郷里の土藏に運んでしまつて置けるといふ事も一得であつた。斯ういふ大掛りを以てすれば、勿論國中の本好き等を煙に卷き、行く／＼成るべくは此店へ來て買ひ、來て賣るといふ人を引付けることも出來るわけで、それが又我々素人目録家どもの、匙を投げなければならぬ長處であると思ふ。私は前年或大文庫を整理する際に、大體此書目と同じやうな順序で、地誌其他の地方刊行物の分類をして見たことがある。古い頃だから數量も遙かに是より少なく、第一つまらないと思つたのは、斯うして置いても自分以外に、誰がいつ取出して見てくれようかといふことであつた。自分しか利用せぬとすれば、もう早掲載したくも無いものが色々と現れて來る。つまりは溜り水だからすぐに停滯を感ずるのである。之に反して本屋の目録はさら／＼と流れる川である。從つて古臭いものにも新らしい光を與へることが出來る。さうして假に今買ふことが出來ぬとしても、讀者は斯ういふ書物が手の屆く所にあるといふ心安さを以て、始終其紹介者に對する親しみを持つのである。勿論其中には本道樂の本性から、實は永く置きたいものも若干はあらうが、どうか折角見付けたものだからといふ愛惜の餘りに、あまりに高い賣價を付けて、事實上の親引きをしないやうにして貰ひたい。お客も嬉しがるのみならず、それが結局は又店繁昌の基であらうから。

　

(162)　　　　　古書保存と郷土

　

　古書保存會に對する人々の期待要望は、固より萬人一樣では有るまい。從つてもし不幸にして會の資力に限りが有るとすれば、則ち緩急先後の問題がやかましいことであらうと思ふ。自分一箇の注文を言ふならば、會の事業は成るべく普遍的であつてほしい。則ち二三の珍籍の完全なる保存、或は頗る原形に近い複製などを企てる前に、先づ以て弘く古書の所在目録を編纂して貰ひたいものだ。勿論其第一着手としては、古書の中で保存の必要有るものと無きものとを區別せねばならぬ。是が中々の大事業である。其分堺線については必ず紛々の説があることだらうが、自分などの考へは簡單である。保存と云ふからには放任して置けば亡くなつてしまふ虞のあること、是が一つ、亡くなつては困ると云ふこと、是が二つ、此二つの外に標準は無いやうに思ふ。尤も右の第二の點は人によつて見込が違ふだらうが、幸ひに會であるから會員の多數で極めてしまひ、其他は個人の勝手に任せてよからう。此春出た書物でも古本屋に列べば古書だ。しかし古本屋にある位のものなら、其保存に會の力を須たぬ者が多いであらう。刊本は近世のものは先づ以て我々の會と交渉が無い。所謂古版物と稱する部分に對しても自分は稍々氣樂なる觀察をして居る。仔細あつて絶版となつたやうな僅少の例外はさて置き、其他は假令五十部でも七十部でも、複製し頒布せられたことは確かである。即ち人こそ知らね亡失の虞の比較的少ないものだ。次には偏見か知らぬが前代の刊本には、其當時既に著述の目的を達してしまつたものが隨分多いやうだ。亡くなつても困らぬとは決して申さぬが、先づ／＼差當りは他の古物保存會に御任せして置く位で宜しいかと思ふ。即ち古版物は既にその方面で十分貴重視せられて居るやうだから(163)安心である。

　斯く説き來れば、我々の會が世話を燒かねばならぬものは、主として寫本と云ふことに歸するが、是にも亦我々の分別を要とするやうである。同じ寫本の中でも、所謂稿本と傳寫本とは、到底二通りの取扱をせねばならぬ。後者は言はゞ出版の代りであつて、中には江戸期の地方物などの如く、何か公刊し能はざる理由があつて書き本のみを用ゐたが、流布の程度に於ては却つて尋常印刷本よりも遙かに盛なものがある。人の手の廉價であつた時代には、塙氏で續類從の寫本を出したやうな例は何程もあつたらしい。古書新刻の事業が追々起るにつれて迷惑をしたものは此方面に多いやうだ。尤も紙や筆が大いに古い爲に、堂々たる版本が行はれて後も、敢て國寶的威嚴を失墜せぬ者も少ないとは言はぬ。宮内省などは今でも熱心に『六國史』の異本を採訪して居る。新たに一古寫本が現れたとすれば、いつの世にも遼東の豕として輕ぜられはすまい。それに學問が近頃飛んだ精確になつた。分り切つた箇條でも異本の對照を怠つて置くと尻が來さうでならぬ。さうして活字本には言譯の立たぬ誤植が有つて困る。殊に字體書風などの研究に勞苦する人に取つては、古い物には平凡と云ふことが無いと云ひ得る。但し單に稀少と云ふ點が珍重の理由であるならば、是亦古物保存の領分である。

　次に稿本又は未刊本と云ふ部分に於ても、我々の熟慮を要するものがある。此には先づ著述と云ふ語の定義を明かにして掛らねばならぬ面倒があるが、文字は同じでも「書物」と「書き物」とは範圍が別で無ければならぬのに、總體日本では「書き物」が書物に早く成り過ぎる。既に一部の書物と言ふからは、それには統一が無ければならぬ筈である。果しも無く書き續けて居る中に、どの點で筆を中止しても、「へえ書物」と云ふわけには行くまいと思ふ。少なくとも著者又は編者の志に、纏める整理すると云ふ要素が無ければ、帳面に表紙を附け、反故を綴ぢ合せたものと區別することが出來ぬ。然るに此約束を夙にぶち毀したものは、近代の所謂隨筆であつた。隨筆は恐らく昔流行した謙遜なる書名の一種で、相應の見解あり主張ある書物も、是は例のそこはかと無く根無し言を書き列ねたのだと卑下した(164)意味であつたのを、後には文字通りの無責任なものを差出しても好いやうに考へる名聞家も出れば、金のあるまゝにそれを出版した者さへある。殊に我々に取つて迷惑千萬なことは、其隨筆の二字の上に何々樓とか何齋とか氣の利いた雅號をくつ附け、開いて見ると帳面よりもつまらぬものがあることである。帳面ならば凡そ系統があり、其中から一貫した題目を把へることが出來るが、手當り次第に新古の書物を拔書きして、何々隨筆などゝしてあるには誠に困る。自分は曾て内閣文庫を整理する際に、此類の雜抄ものを普通の著述から區分するにえらい骨折をした。保存會の幹部諸君に於ても、何とぞ題箋に絆されぬ用心をせられたい。

　全體隨筆と云ふ者には概して保存の價値あるものが少ない。『松屋筆記』のやうな有名なものでも、自分の文庫の藏本に由つて何卷何丁目を掲げた抄録が多い。分類もして無ければ綜合もして無い。徒らに我々孫引學者に調寶がられる迄である。況や碌な本も無い田舍に居て、『井蛙抄』などゝ云ふやうな本を遺した人は、實に古書保存家の御迷惑である。兎園會時代の隨筆家なども、概ね一箇の珍聞を各自の筆記に持込んで、終に今日の汗牛充棟を促進したものである。自分は羮に懲りた結果か、在江戸老人の傳などに筆録百何十卷あり家に藏すなどあるを見る度に、しみ／”＼と保存の難事であることを感ずるのである。此種の弊は察する所、東都に於て最も顯著であつたらしい。其所以は此地方に住んだ人が、書き物を爲すべく最も閑で、之を尊重すべく最も物好きであつたからである。田舍は廣い割には文字の人が少なく、又書くべき題目が區々であつた。それ故に今なら新聞の三面のやうな記事を、多人數引張り合うて重複させるやうな虞が少なかつた。成書の抄録を事とした只の筆豆は別として、苟も志あつて書を作る段になると、常套に追隨するの批難を受くるものが少ない。尤も都會に居る人でも、例へば津村正恭の『譚海』とか、伊藤東涯の『?軒小録』などのやうに、特に人の談話を聞書するに力めたものは、多くの場合には新味がある。これが外に同趣味の者も居らぬ村住で、右樣の心掛を以て筆を執つて居たとすれば、假令時々の筆のまに／＼であつたとしても、必ず獨立して保存を要求する理由がある。況や郷土の狹い區域に於て舊事を探討し、又は天然の事物生活の方法等に(165)思を凝し、一部の書を纏めるの志を以て永い年月を費したとすれば、其書の價値は小さいと言はれぬ。然るに此類の田舍學者の著述は、古書の中でも最も湮滅し易いものである。子孫又は周邊の人に同じ志の者が繼いで起りにくいこと、當時も歿後も外界と交通の少ないことなどが主たる理由で、單に生涯の辛勞が長持の底に沈淪するのみならず、中には其人有りきとも傳へられぬものが多い。舊家門閥は近年比々として退轉する。若い人の考へは保守で無くなつた。此間に僅かに遺つて居る無名の學者の著述である。我が古書保存會ででも世話を燒かねば、誰か又昔を訪ふ者があらうぞ。自分は必ずしも會の力を此點に專にし玉へとは言はぬが、もし假に限り有る力を先づ施す途を擇ばるゝとすれば、何とぞ今まで所在の知れぬ古書の所在目録、殊には一つしか無い稿本の行く／＼亡び去らんとする者を取留める方に掛つて貰ひ申したい。複本の作製も勿論急務である。刊行會の手に合はぬ一地方の著書などは、筆工を以て版工に代へねばならぬかも知れぬ。自筆本で無ければ大切で無いと云ふやうな骨董癖は斷念すべきものであらう。しかし複製の事業は中々急に普及しさうも無い。是は會員中の篤志者にも分擔せしめられて宜しからう。自分なども先年來『諸國叢書』と云ふものを始めて居る。即ち地方無名氏の遺著の稿本で傳寫の少なさうなものを、一部づつ寫して行く仕事である。もう早三四十部は出來た。其目録は機會あらば本誌に出しませう。幸ひに諸君援助の下にほゞ全國の各部に亙つて周到なる蒐集が出來たら、或は古書保存會の一員たるに恥ぢぬことになるであらう。

　

(166)　　　　　郷土叢書の話

　

　　　　　　　　　　一

　

　此夏は遠野に出かけて、伊能先生の記念學會に參列した際、縣教育會の折角の御招きを受けて、自分等の學問上の意見計畫をお話し申す機會を得たのだが、毎日朝が早いので大分疲れ、其上に支度が足りなかつた爲に、十分の感興を以て東北研究の未來に對する希望と樂觀とを談ずることを得なかつた。いつか折があつたら改めて思ふ所を書いて見たいと、二三の友人にも話して置きながら、餘り問題が多岐である爲に、漫筆にもせよ何れを先にしてよいかに迷うて居た。ところが今度又岩手毎日に、小原敏丸君の珍らしい寄稿を掲載したのを見て、それならば一つ目下計畫中の『南部叢書』に關聯して、自分が千代田文庫整理以來の經驗を語り、殊には地方に久しく埋もれたる篤學者の遺業を、どうすれば最も滿足に顯揚することが出來ようかといふことを、志あり且つ同情ある諸君と共に考へて見ようといふ氣になつた。右叢書の事業に、今更提灯持の必要なきことは誰でも知つて居る。自分などは寧ろ岩手縣の愛郷心が無用に鼓舞せられ、或は記念碑式光榮に熱中する餘りに、公平に古書の價値を鑑別すること能はず、乃至は保存の眞趣旨を閑却する人の多かるべきを懸念し、この際若干の苦言を呈して、關係者の省察を願はうとさへ考へて居るので、たゞ之に對する民間學徒としての自分の立場が、頗る岩手毎日子等の是認するらしき小原君のそれと、相異して居るといふのみである。

　

(167)　　　　　　　　　　二

　

　叢書覆刻の事業は、過去既に數十年、將來に向つてもなほ當分の間、可なり大切なる日本の文化運動の一つとして續くと思ふ。東西國情の差異はこんな點にも窺はれるのだが、米合衆國の如きは勿論の話、歐洲の諸舊邦に於てすら、ちつとも此の如き問題を討究する必要は無かつた。史學が追々にあたらしい方面を拓いて、いはゆる文書記録類の利用は盛んになり、今までは單に骨董的珍寶として、村々家々に保存しただけのもの迄、それ／”＼學問上の意義を認めて、精細なる研究に没頭して行く者が多く、殊に寫眞と製版技藝の發逢した結果、日本などではまだ困つてゐる原形複製、例へば裏にも入用な文書があつてまぎらはしいもの、削つて再用した羊皮紙などの、前の記録も幸ひにして薄々と殘つて居るものなどが、もう至つて容易に何れの大學文庫でも、見ようと思へば見られる樣になつた。さうして其數量の如きは各國とも、日本の何倍何十倍といふくらゐに多い。それは主たる原因が文字を解する法師たちの、夙に村落の俗務に干與して居た爲で、我邦では人別帳は近年のものばかり、水帳取帳の類も江戸期以來のものが稀に傳はるばかりで、日記などの古いものゝ非常に少ないのは、戰亂火事洪水の爲もあらうが、一つには事態が外國とは反對であつたからだ。

　しかし是は主として帳面證文といふやうな、せまい意味の古文書だけの話で、寫本即ち書籍として殘す目的の下に著述又は編纂せられたもの、最初から學問のため智識のため、後世人の判讀を豫期して居たものに至つては、恐らく日本の如く豐富な國はどこにもない。それ故にこそ此間題が、我々學徒の中に大切であつたのである。日本を知る爲には、少しくその事情を考へて見る必要がある。西洋でも僧院の奧などに引き籠つて、生涯を經典の註釋に費した人の中には、一部しか無い大量の寫本を遺して去つた者も往々にしてあつたが、是とても信徒の力で、死後次々に版にしてしまつた。今頃まで地方の片隅に、無名の寫本として僅かに傳はり、湮滅の危險に瀕して居るものなどは甚だ少(168)ないのである。是には中世の製紙技術が、東アジアから教へられたといふ位で、用紙の無暗に貴重であつたことも關係して居るだらうし、印刷に活字の便法が早く發明せられて居た爲もあらうが、又一つには學問が久しく民間に入らず、著述といへば非常に重々しく考へられ、其完成と流布といふものを、二つに分けて想像することの出來なかつた氣風に基づくもので、今日に至るまで、西洋人の中には我々の樣に、字を書いた紙を綴ぢて置けば即ち本だといふ如き、無造作な考へ方はまだ無いのである。衣食住日常の生活にも、この東西の相異は一貫して認められる。淡泊無慾と謂ひ、知足安分などゝいふのも、其一箇の表現に過ぎぬ。勿論深思熟慮の後でないと、どちらがよいかは決定し得られぬが、少なくとも右の東洋風は成行きであつて選擇の結果ではなかつた。書物の一點に付いて考へて見るならば、始めから出版を斷念しても著述をする者が多かつた故に、西洋の如く學問が古典と中央文學のみに集注せず、地方の學者の辛苦の收穫が、或程度まで世に傳はり同胞を益し得た。が又それと同時に、書籍の價値優劣の判斷が非常に必要なこと、今日の大量生産の廣告販賣時代と異なる所なく、單に寫本だから古いからと謂つて、うつかり隨喜することは出來なかつたのである。現に帝國圖書館の如きも、無益嵩高の寫本の爲に苦しめられて居る有樣だ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　本は勿論出版をして置かぬと、恩惠も汎く及ばず、著者の功勞も世に認められない。誰しも自信ある文章を書き殘す以上は、之を上木することを希はぬ者は無い筈だが、さて我々の祖先はあきらめも早かつたのである。以前の出版の困難は、單に多量の山櫻の老木を伐り倒して、其材としなければならなかつた爲のみでは無い。此材が如何にも柔らかで百部も刷つてゐるうちには、もう最初のものゝやうに鮮明な氣持ちのよい本は出來なくなる。塙保己一の頃には大分其技術も進んだのだが、之でも獻上した紅葉山文庫の初刷と、町に出てくるものとを比べると非常な相違である。それでゐて精々五六百も刷ると、もう彫り直しを試みなければならぬ。其上に頒布の方法が今のやうでないから、(169)僅かな部數でもすぐに賣れ殘り、資本事業としての危險は却つて多かつたので、到底地方に住む著述家たちの、相談相手でもなんでも無かつた。

　さういふうちにも都會の趣味は次第に流行して來て、自費を以て出版しようとする道樂者が現はれた。門人や知友の尊敬を拂ふ人々が、進んで其損失を分擔したなどは、實になつかしい好記念であるが、情無い話には越後などの富家翁には、人に頼んで代筆をさせたものさへある。併しこのお蔭で現存の文獻の、方面と種類とを變化させ、豐富にしたことは爭はれぬ。殊に中以下の諸侯家に此趣味が入つて、各藩競爭して美本善本を刊行させたのは結構であつた。藩はむかしの學問と好尚との一中心だつた故に、其批判選定も概して正當であり、お蔭で有用無用の目標も立ち、學者の奮發心を刺戟したことは確かだが、奈何せん縁故の乏しい田舍に住んで、おまけに根氣と物ずき以外に、自ら頼む所の少なかつた人々には、時流に迎合する樣な方法も無く、又試みようともせず、其上に自費刊行流行の結果、まじめなものは?々營利書肆との對談が企てがたくなつて、寧ろ例の東洋流の思ひ切りを以て、最初からそんなことを考へず、漠然たる未來の中に、今日の如き文運の興隆を期待するのほかは無かつたのである。幸ひにして紙は近代の地方産物で産地だけは價も低く、時間だけは社會組織の然らしむる所、彼等の多數者には存外に豐富であつた。我々の所謂筆豆な篤志家は、つまり斯ういふ　　状勢のもとに、日本には輩出したのであつた。

　

　　　　　　　　　　四

　

　但し學問の普及と智識愛、力ある者は世を益すべしとする理想が、文字階級の間に成長しなかつたならば、とても此種の目前の報償なき勞作に、費される生命は多かるまじき道理である。之に向つては背後に在つて著者を尊重し推服し、其志を遂げしめたる凡人の貢獻をも認めなければならぬ。そこで自分たちは先づ第一に、斯ういふ篤志事業の地方的分布といふことを考へて見たのであるが、京畿地方の如き交通の衝にして、學問のあれほど自由であつた土地(170)が、其割に遺跡に豐富でなかつたといふことは、必ずしも容易なる刊行機關が具はつて居て、之を無用にしたからだとも言はれぬやうに思ふ。と言ふのは江戸では上方に比べて書物は一層よく賣れたし、愚劣な小册子の版になることも日本一であつたが、なほ秦の始皇をして?然たらしむるほどの寫本類の分量が、維新に瓦解した澤山の舊家から流れ出し、それが震災直前までは市中にも溢れて居た。惜しいやうだが其半ば以上は紙の質がよいといふだけで珍重され、屏風から襖などの下張りに隱れてしまつた。勿論其前に玄人たちの鑑別は經たので、少しでも價値のあるものゝそつと棄てられたものは多く無かつた。即ち此方面に於ては寫本の流行がやゝ過度であつて、例へば旗本の隱居とか、かの『春の日』の連句にある、

　　　表町讓りて二人髪剃らん

といふ類の、飯米には事を缺かず、さりとて無暗に出あるいては物がかゝる。まア書き物などが無難な御道樂と認められた人が、何等の天分も無く又識見は無くとも、人竝世間竝に家の隨筆の、册數のふえて行くのを喜んで居た結果であつた。

　内閣文庫なども、以前豫算の潤澤であつた時代には、つい買ひ過ぎるのでよほど警戒をしてゐても、又しても無用の寫本を背負払込んだものらしい。それには古本商の不正直も手傳つてゐたと謂つてよい。標題ばかり堂々とした美辭をかゝげ、中は全部有りふれた軍書聞書から、出處を示さずに抄出したものも多かつた。或は同本の始めの三四枚をわざと除いて、あらたに別の標題を附したのもある。此方は買ふ者の不注意としてよいが、中には大部の書の二節三節を繼ぎ合せ、又は書き續けて見たものもあつて、それを發見するには記憶のよい專門家を必要とする。近世の隨筆類を拔き書きしたものなどはわたしにもわかつたが、前任者たちの最も閉口したのは、古いところでは天野信景の『鹽尻』、それから下つては江戸武人の最も尊敬した伊勢貞丈の隨筆などである。この二種の書に異本と稱する者の多いのは、全く斯ういふ事由からであつて、飛んでも無い中程から勝手に寫してあつては、假に麗々と著者の名を書い(171)てあつても、それが重複であるか否かは原本の全部と比べて見なければ分らぬ。況んやそれを隱して筆者の雅號ばかりを出しておくと、受け賣りとも燒き直しとも、馴れぬうちは氣が付かぬのである。其癖に江戸では本を大切にし、例へば花柳界の微細な生活まで、古いといへば大人名士等が之を寫し取り、終には近年刊行した『燕石十種』の如く、何人にも見られる程度に流布させて居るのだが、しかも一方には大いなる決心を以て反古の部に突込まねばならぬ寫本がうんとあつたのだ。最初から高をくゝれるとそれでもまだ仕末がよいが、玉石は常に混じ、無意味な抄録の間に、稀には得がたい新材料が挾まつてゐるので、うつかりとは出來ぬ。要するに日本のやうな寫本國の讀書生が、餘計な辛勞を甞めさせられることは、地方といへども變りはあるまい。それが叢書刊行事業の、今に於て非常に有效なる一理由である。

　

　　　　　　　　　　五

　

　それでも地方の寫本には、比較的簡便な判別方法がある。即ち非常に中央の學風にかぶれて、所謂伊勢貞丈・大塚嘉樹などを珍重して居る人は、概して土地の現象に冷淡である。彼等の多くは御定府即ち江戸詰であり、町人ならば所謂ハイカラだ。さうでなくとも及び腰の研究では、今日の輸入教授も同じやうに、本元よりも劣つて居たにきまつて居る。地方に在つて地方の事に觸れぬやうな寫本ならば、大體に於て安く其價を見積つても失敗は無い。それが私たちの今までの尺度であり、又其裏から地方學者の地方研究を輕んじなかつた理由でもあつた。

　そんなら各府縣に於て古くからある寫本類の、筆者周圍の問題を扱つたものが、何れも一樣に貴といかといふと、それにも更に一段の顯著なる差等があつた。それを詳しく説くには又編述の動機、目的にまで入つて見なければならぬが、それは別にしても、本でも書き殘さうかといふ人の數が、個々の地方に於ても分布の平均せぬことは、全國から見て江戸に閑人の群集してゐるのと同じであつた。文筆は何としても都會のものだから、城下藩中の瑣事までも絮(172)説する者多く、農村の生活を顧みる人がどこでも少ない。殊に年老いたる律義者には、何々院樣御治世中にといふ類の、懷舊談は普通の癖であつて、さう澤山に逸話の種はないから、こゝでも亦前から傳はつたものを繰り返して、又寫しをする場合が稀でなかつた。故に未刊本の眞價を秤量するには、勿論精讀し比較するに越したことは無いけれども、少し馴れると數箇所を開いて見て、凡そどれほどの交渉を現代の學問との間に持つて居るものかを、察することはむつかしく無いのである。

　素より編述者の態度としては淡々水の如く、書きたいから自分は書いて置く、役に立つなら役立てるがよいといふ心持ちの人が多かつたらう。此點は却つて刊本の賣らんかなよりは快く感ぜられるが、一たび之を紹介して世上の公器としようとするからには、永く後代の讀書生の爲に、無用の煩勞を省くべく、むしろ選拔の稍々嚴に失するを力むべきである。人の壽命は必ずしも常に事業學問と併行せず、又故人の心情は今よりも悠長であつたために、寫本には?々未完成のものがある。明瞭に改訂増補を企圖してゐたものがある。其遺志を無にする事は時としては殘忍である。渡邊政香の『參河志』の如きは其一例で、卷次五十卷に近い厖然たる大部册であつたばかりに、誤つて之を成書と信じ、郷里の郡教育會は少なからぬ經費を支出して之を刊行したが、其三分の一は實は荒筋計畫といふまでにとどまり、偶々書き込んだ個條も他書の抄出に過ぎなかつた。大體にまとまつて居る部分のみを先づ出すか、然らざれば之を補正してやる方がよかつたのである。佐久間洞巖の『奧羽觀迹聞老志』等も幾分か其嫌ひがある。故人の篤學を嘆美し、且つ其埋没を惜むのは郷黨の情でもあらうが、著者すら自ら安んずる能はざるべきものを、強ひて引出して他の優秀なる諸篇と伍せしむることは、獨り彼等の本志に反すといふのみに非ず、時としては世の青年諸君を誤らしめ、又他の一方には既に完備したる良書の、眞價を紛亂せしめることになるのである。即ち叢書の計畫を以て、單なる保存の事業の如く看なすべからざる所以である。保存が若し唯一の目的ならば、特に小原君等の主義に反對して、その簡便なる虫難盗難の防止方法を、攪亂する必要は無いのである。

　

(173)　　　　　　　　　　六

　

　ところが各地從來の叢書事業には、辛苦して數量の厖大を企圖し、結局其全部を擧げて對社會の效果を稀薄ならしめたものが多かつた。是には當世の所謂豫約出版の風潮にかぶれたといふ弊もあらう。前年堂々たる朝野の先輩を後援者として貝原益軒の全集が出ようとした時に、自分は既に憚かる所なく直言した。益軒翁は江戸期の儒流の中で、最初に其文を平易にし其説を通俗にして、多數民衆の間に學問の恩澤を分たうと志した人であつた。之を今更綜合して無用なる漢詩文集などゝ一括し、中流以下の學力にも資力にも、不適當なる形に變化せしめることが、果して著者の志をなすの途であるかと痛論した。それから以後、此傾向は年を追うて増長し、讀む者は買へず、買ふ者は讀まぬといふ類の叢書ばかりが、單に商人の資本利用手段として、無益に材料を消耗して居るのである。あらゆる好意と忍耐とを以て、僅かに實行せられんとする郷土文獻の蒐集には、少しなりとも右樣の仕來りに、捉はれねばならぬ理由は無いのであつた。

　しかし原因はそれのみではない。久しく我々の寫本家が樂しんで居たやうに、あつめるといふ以上はなんでもかでも、多々益々辨ずと掻き寄せるのが、實は免れがたい道樂人の心理であつた。支那でも叢書といふ道樂は近世は中々盛んで、不幸にして近傍に同じ蒐集を企てる者でもあれば、如何なる無理をしても先づ數量の競爭をした。しかも之を刊刻することになると、又別箇の問題が加はるのであるが、やはり一種の騎虎の勢ひの如きものがあつて、或は産を傾けてまで出さうとした者があるらしい。是などは言はゞ蒐集熱の行き止まりで、出版は其手段に過ぎぬのだが、最初から刊行を目的とした蒐集でも、やはり幾分か同じ弱點を帶びざるを得なかつた。塙氏の『群書類從』なども事實は官業であり、當時競うて好書を刊行した各藩の上に立たうとすれば、幕府の體面からでも斯うなければならなかつたか知らぬが、この蒐集には單なる學問のためといふよりも、幾分か一切經藏の建立などに近い宗教的熱情があつ(174)た。今となつては無益の努力なるのみならず、圖書館利用の乏しい日本の現?に於ては、往々にして知識の普及に有害なりしことは、大火以前に東京人のみの特權として、町の古本屋から一種二種の類似の零册を選り買ひし得た、幸福感を考へて見てもわかることである。何の爲に寫本は版にして置くべきであるか。それさへ靜かに考へて見ることが出來たら、いやしくも叢書といふ以上は、あらゆるものをかき集めねばならぬ樣に、早合點することの誤りは分つた筈である。但し『南部叢書』にそんな懸念の無いことは、自分はもう知つて居る。僅か十七八歳で亡くなられた殿樣の歌の集、代毎に型の定まつて居た表向きの沙汰手續き、特旨敍位式に事實と反した屆書までも採録して、藩史家史の任務を兼ねなければならなかつた隣縣の大叢書を見てから、今更之を模倣して見ようといふ考へは大抵起るまいと思ふからである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　理窟はあまり言はぬつもりであつた。今少しく話しを敍述的にして見よう。地方によつて文獻の富は、非常に著しく違ふやうである。江戸は別として大體は中央に遠ざかるほどづゝ、寫本の殘つて居る量が多くなるやうだが、なほ色々の原因が加はつて、其中にも厚薄を生じて居る。例へば同じ大藩でも、薩摩と土佐とは非常な違ひで、前者に在つては所謂士風が筆の多辯をさへも是認しなかつたらしく、頗る現今の土佐人鹿兒島人の社交態度の差異が、由來する所遠きを感ぜしめる。土佐では宮地堅磐といふ近年の學者が、たしか五十前で死んだのに、十數種の著述以外に、非常に綿密な大部の見聞録を自寫してゐるのを見たことがある。畫なども澤山入れて一々彩色がしてあり、到底複製の見込みのない珍書であつた。是などはほんの一例で、土佐にはむかしからこの種の筆豆がうんと居たらしい。吉村春峯といふ明治初年の學者は土佐人で、内閣文庫の爲に『土佐國群書類從』一千餘卷を、人を督して筆寫校訂して居る。土佐一國の學者の二百年來の編著は遙かに是以上あるので、現に自分の名を聽いたものでも、まだ此外に幾らも(175)あり、殊に塙氏の方針に從ひあまり卷數の多いものは、類從からわざと除いてある。しかもそれが土佐の近代の生活と、交渉あるものを主として居るのである。教育が早く藩士の間に普遍したこと、有數なる學者が出て指導した事も原因だが、一つには生活に餘裕があり、郷士の公務が簡であつて、武藝一方ではかれ等の活力を使ひ盡すことが出來なかつた故である。

　東北の方では、出羽の莊内三郡が中々寫本の多い地方であつた。十餘年前まで存命であつた羽柴雄輔翁は、ちやうど土佐の吉村氏に匹敵すべき精力家で、自身謄寫した故郷の著述類で、その東京の住居は身うごきも出來ぬ位であつた。大部分は今慶應大學の圖書館に在るかと思ふ。土佐ではあまり多いために却つて出版の計畫などが立ち兼るやうだが、莊内の方では古く『大泉叢書』近年は又『莊内史料』といふ名でも刊行が企てられた。殘念ながら中々其内の眼ぼしいのだけでも出てはしまはなかつたやうである。是も一箇の壺中天地で、土との親しみが深い爲に、此の如く昔なつかしい好書が多かつたのである。鶴ヶ岡の安部某老人の見聞記などは、明治に入つてから迄書き續けられて居たやうである。

　南部領などは、廣さは土佐に超え、著述の數量は莊内よりも稍々少ないかと思ふ。さう言ふと直ぐ競爭心が燃えて、無理にも目録をふやしたいのは人情だが、少ない方が寧ろ通例で、最上でも秋田でも、現在知られた限りでは、よいにもわるいにもさう澤山の本は出來なかつたらしい。但し速斷は固より危險である。特に尋ねて見たので無しに、以前から世人が名を知つて居るといふのは、何かよく／＼因縁のあつたものばかりである。謙遜なる著者もしくは只堅くるしい子孫であつて、自慢らしく人に吹聽せず、年を經るまゝに愈々十襲珍藏して、寂然として今に至つたものは多からうと思ふ。現に最近には『青森縣史』の編者中道等君は、根氣強く津輕と奧南部とを巡歴して、少なくとも三千件以上の文書記録を觸目したと稱して居る。勿論其大部は本では無かつたらうが、それにしても今日其儘世に傳へて可なる年代記日記類隨筆見聞録の類の、永く其名を記憶すべきものも少々では無かつた。自分の經驗では郷土資料(176)の展覽會などを開くと、意外な寫本が?々出現する。東京近くでは相州の田舍、京都府下では丹後などの、通例さまで望を抱かれぬ地方に、やはり人知れず書物を遣さうとして居た誠實な學界の使徒があつたことを發見して、愉快の情を抑へ得なかつたこともある。縣の圖書館などを訪問して見ても、自分はまだ一度でも失望して還つたことはなかつた。

　

　　　　　　　　　　八

　

　只今自分の机の上に、『出石騷動記』といふ一書が到着して居る。此本の著者たる八十六歳の櫻井勉翁は、感謝すべき地方文獻の功勞者であつた。四十餘年以前、此人が内務の地誌局長であつた時に、始めて全日本に亙つて風土記の編述が企てられた。和銅延長の遠い昔の蹟を繼ぎ、更に明清の『一統志』と肩をならべんとする抱負であつた。現に各縣廳には其際の指令に基づいて、作り上げた大部の稿本が傳はつて居る。其以外に中央の參考書として、藩時代の地誌紀行類の書目を上申せしめ、一册にまとめて之を印刷したのみならず、其中の主要なものはそれ／”＼複本をとつて官庫に藏してある。それが大部分櫻井氏の仕事であつた。但しあの時代の地誌といふものは、もつぱら山川湖沼の位置名稱、其あひだに分散した邑里の境域等を明かにせんとし、住民の生活殊に内にうごく精神感情の觀察の如きは、假に他の地方との變化などを知り得るとしても、これを調査の範圍に入れるまでには、まだ當時の學問は成長してゐなかつた。それ故に材料としての寫本類なども、直接土地の表面を記載したものにかぎらんとし、平民の歴史までには手をのばしては居なかつたのである。

　しかし幸ひにして地誌と併行し國史編修の企てが始まり、それが持續して今日に及んだ爲に、此方面に於て採訪せられた古書類の數は年と共に非常に集積した。現今東京大學に附屬する史料官たちは、目録を公表することを好まぬらしいが、彼處に管理せられる敷萬册の中には、單なる證文帳簿以外に、大小の學者の計畫になつた書籍と稱してよ(177)いものも澤山にある。つまりは右の二口の蒐集寫本が、今日國民の公有に移つた地方學者の遺業である。

　此うちには原本が國に歸し、又は其所在が不明になつて、地方研究の資料を却つて中央に求める場合も少なくないが、是だけで安心しては居られぬわけは、捜せばまだ／＼出て來るらしい形勢が、次々に實驗せられたからである。京都附近のやうなよく開けた地方でも、此頃になつて東山の御文庫を始めとし、こんなものがあつたといふ實例は幾らもある。殊に史料と我々が謂つて居るのは、最初から國史、即ち日本全體の政治生活を中心とした編年記が目的で、朝家將軍家有力の武臣等の家の盛衰と、直接何等の交渉無き常人の衣食住の如きは、又別に調べられねばならなかつたから、ごく古いもので無い限りは、假りに其方の參考書があることを知つても、手を着けられなかつたかも知れぬ。一例をいふと慶安年中の日記、榎本氏覺書といふ自筆の寫本は、武州川越の鹽問屋の隱居の手になり、鹽の相場と關係の深い毎日の天候、其他親類知人とのわたくしの交際について、入間地方の三百年前を見るにはよい資料だが、最初之を手に入れた用途は、丸橋忠彌の若い息子が、此地の寺で腹を切らされた一條があつた爲に、偶然に今まで保存せられたのである。或は仙臺の中村氏記録は、たしか其中に赤穗義士夜討ちに就いての短かい新消息がある爲に必要を認められて居た。即ち何か國史として入用な記事が紛れ込んで居なかつたら、實は中央の政府では顧みなかつたかも知れぬのであつた。今後改めて自分々々の生活の經過を考察しようとする地方の學徒が、是だけに依頼して居られないのは確かで、其點から見れば叢書の事業には一通りならぬ責務がある。單に古いから人が知らぬから、此地方の人の仕事だから、皆殘して置くといふやうな輕い心持からそんな試みをなされたら、必ず今にやりなほしの必要が起るだらう。

　

　　　　　　　　　　九

　

　そこで少しばかり、歴史の學問と書物との關係を、考へて見る必要が起つて來る。歴史は現在の日本では、小學校(178)の中まで入込んだ、所謂普通教育の主要科目であるが、果して今迄のやうに本で調べてわかつたことだけを教へて、是が歴史だと云つて人が滿足してゐる時代が、いつ迄續くかは大疑問である。他の學科は力めて兒童の心中に好奇心を起させ、知識慾を刺戟して其要求に應ずるを以て、有效の手段としてゐるに反し、獨りこの一隅のみは、詰込み以上に能事なく、眞率なる少年が先生に向つて發する質疑は、大抵は答へ難いことばかりであるのを、如何とも致し方のないものとあきらめて、良心ある人々までが、脇を向いては彼等の尋ねない事のみを教へてゐる。歴史を以て我が知識と考へず、一生往くことも無いらしい外國の地理などゝ、同じ列に置いて眺めようとする者があつても、之を戒告する資格は無いわけである。

　だから其少年が愈々成長して、實際生活の苦難と直面する場合にも、自然に湧起する疑問の解決法として、先づ求むべき手段を求めようとはしないのである。目の覺めた多數國民にとつて、幾ら働いても困窮は免れず、どんなに儉約をしても金が殘らぬといふことは非常な大事件に相違無い。そんなら親の代、祖父の頃にはどうであつたか。又彼等はどうして居たか。以前はさも無くして此頃更に苦しくなつたとすれば、其間にはなんの差異があるのか。不幸の新たな原因に人間の誤謬失錯があるとすれば、それが社會のものであれ、はた各人の心得ちがひであれ、之を探究するのが史學で無くてなんであらう。然るに月の世界の事まで問へば教へる人が、此點だけは黙して言はぬのである。人が歴史を實用の學問とは認めぬやうになつても仕方はあるまい。其結果は與へられた政治の力を以て、兎に角世を改良して見ようとおもひ、又知識より他には我々を指導する者の無いことを、たゞ漠然と理解して居る者が、西洋人の書いた貧乏原因論、乃至は獨斷の多い或一派の宣傳文書を讀んで、假に自分の實際には當てはまらぬ點が多くとも、單に感情の上からも之にうごかされ、又導かれることになるのである。

　歴史を今少しく同情のある學問とせねばならぬ。さうして各人の生活の周邊から、自分で開いて行かれる知識としなければ、教へて却つて粗末にせられる虞れがある。それには方法はまさしくあつたのだが、今までは顧みられなか(179)つた。寧ろ餘りに在來の歴史を重んじ過ぎた結果である。在來の歴史は人もよく知る如く、朝廷の歴史であり中央の政治史であり、貴族武將社寺の歴史であつた。と言ふのが文字を利用して書き又は讀み得る者が、此方面にしか居なかつたに拘らず、記録文書書籍だけによつて古い事を尋ねるのが即ち史學だと考へる風を改めず、故にたま／＼時代が進んで、右に列擧した以外の問題を討究することになつても、一旦安心した昔の方法の外には出られず、どうせわからぬからと大ざつぱにあきらめて居たのである。それでは承知をせぬ者が、段々増加して來るのは當り前の話だ。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　鳥居龍藏君などの一派の學者は、好んで有史以前といふ語を用ゐてゐるが、もし有史といふことが書いたものゝのこつてゐるといふことを意味するならば、岩手縣などの多くの農村は、現在なほ有史以前である。土鉢土瓶の紋樣の比較だけで、彼等の生活を知り得ざるは明白なことである。もし又全國のいづれかの部分に、最古の記録の現はれた時代、又は其中にすこしでも年數の算へてある時代からが有史以後ならば、それは耳をとつてはなをかむと云ふものである。そんな風だから幾ら古い事の好きな人が多くなつても、地方の人には歴史は夢のやうだといふ感じを無くすることが出來ぬのである。

　是は寧ろ有史以外と名づくべきものである。如何なる小民でも先祖の無いものは無い。先祖も人ならば人だけの生活、といふよりも最も我々と近い生活を續けて居たに相違ない。彼等の方が今よりも幸福であつたか、はた又我慢がよかつたか、もしくはやはり憂愁の中から、非常の忍苦を以てすこしづゝの改良を企てたのか。それを確かめた上でないと今後の計畫も立たぬのだが、或明瞭なる理由があつて、久しい間彼等の記録は絶無であつた。即ち今日に及んでまごつかねばならぬやうに、最初から出來て居たのである。

　殊に東北には二十年近くも前から、東北振興會などゝいふものさへ出來てゐて、是非とも研究せらるべき特殊の困(180)窮原因が、存在することのみは認められて居た。しかし大小の名士之に參與し、隨分の公費も之に向つて支出されたが、なんといふ事もなくて今ちやうどつぶれようとしてゐる。そんな騷ぎをせずとも、なんぼ東北でも或名士は既に金持ちだ。或實業家は既に着々として成功して居る。問題は凶年でも無いのに栃の實などを食つて居る人、少しく作柄が惡いとすぐに營養不良になる子供、病人でも續くと忽ち竈を覆へすやうな百姓が、何故に東北にばかり殊に多かつたかといふ點に在つたのである。なるほどこれは六つかしい問題で、寒氣の爲といへば北海道はどうだと言はれる。さうで無くとも土地をあけて立ち退くわけにも行かない。教育の不振といつても學校はちやんとあり、教案は世間なみに出來て居る。やはりそれよりも實地の生活を自ら觀察し考慮する者の爲に、大切な指導者たるべき歴史の科目が空である故に、結局事情の大いに違つた中央部日本の尻ばかり、追つて居たのでは無いかといふことになる。

　世間ではよく東北六縣などゝいふけれども、わたしの見た所では、これを一括して考へ得る東北人は一人も無い。福島でも仙臺でもはた盛岡でも、人の顔は常に東京方面をのみ向いて居る。奧地を別扱ひにして自分たちばかり中央化しようとする風は、野邊地田名部あたりにも及んで居る。しかも濃淡の差は少しあつても、奧羽の開發せられた事情はほゞ一であつた。それが中央に見られぬ特色を痕づけるものとすれば、其研究の利害興味は弘い區域に共通であるわけだが、悲しむべし割據分立、物知らぬ外部の人に頼まなければ、東北振興會は出來なかつたのである。新らしい學問の聯合の、特に此地方に起らねばならぬ事情は、今や眼前に迫つて居る。萬一其急務に向つて貢獻することも出來ないやうだつたら、『南部叢書』も亦一箇の「東北振興會」に過ぎぬだらう。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　新らしい學問とは、勿論有りもせぬ書物を鉦太鼓で探すことなどは意味しないが、確かな資料だけを手に入り易い形にして遠近の同志に頗ち、一日も早く現在の史學攻究法の弱點、即ち地方生活の調査には、文字記録よりする知識(181)の供給に限度のあることを覺悟せしむることは大必要である。是は必ずしも東北六縣だけに限るといふので無いが、斯ういふ種類の材料の一端に偏して居ることは驚くに絶えたるものがある。證文軍忠?といふ類は大切に保存せられて、南北朝からのが殘つて居るは結構と思ふが、其數は知れたものである。記録といふ類になると、早ずつと後の時代の、しかも覺束ないものばかり多い。學者が名を署し責任を負うて、我が信ずる知識を後代に遠さうとしたのは、二百年來と言ひたいがそれよりなほ後のことである。其うちの最も誠實な人が、土地の昔を説く爲に現場を踏み、又は親しく物知りの言を聽き取つたので、其記録は勿論貴といが、必ずしも全區域に亙らぬものが多く、幸ひにして十分に周到であつた場合にも、是から我々の實行せんとする同種の調査と、古今の差を比較し得る時の隔たりは、二世紀にも足りない短かいものである。

　尤もこの最近の百年ばかりは、非常な大變化の百年であり、舊い物の片端から破碎した百年であつて、しかも老人の中にすら、最早其變化のあつたといふ事實をさへ、折々は忘れんとする者がある。從つて確實なる當年の見聞録が殘つてゐるといふことは、どの位我々の推理の勞を省き、又新たなる研究の結果を確かめさせるか知れぬのである。是がせめて今三四百年も前から此通りであつたら、未定不可解といふ問題がずつと減少し、單なる成績の興味からでも、地方の史學はもつと繁昌したのだが、遺憾ながらさういふわけには行かなかつた。其上に秘藏の古文書などの一覽を望み難かつたことは、むかしは今よりもなほ更であつた故に、滅多にさういふ二種以上の史料の、互ひに相容れざるものを比較して、當否取捨を決し得た者がなかつたのである。即ち各人は自己の利害と關係の無い場合にも、互ひに異なることを知り且つ信じて、それが突き合されると必ず爭つてゐた。書物さへ讀んで居れば學問が進むと信ずることの、時として迷信に近いのは此爲である。舊家の持ち傳へた寫本などはどの樣に多くとも、第一に無益な手習の如きものが澤山にまじつて居る。第二には時代と方面とが甚だしく偏してゐる。第三には或記録は最初からせまい目的があつて、注意しなければ人を誤りに導かうとする。さういふ中で公平且つ理解ある選定をなし遂げ、地方研究(182)の肝要なる用途の爲に、少しなりとも是を役立たせようとすることは一事業である。しかも叢書の計畫の爲などに、辛苦して諸方面を渉獵する人々にして、始めて到達し得るやうな實驗も少なからず、貴重なる文獻學の知識は、通例其副産物として地方に殘るのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　古くからの文書集や記録類の清書をして、其儘書籍と化せしめることの出來ぬのは、それ等に餘り狹隘なる目的があるからである。舞や謠や歌物語り其他若干の讀み本類が、人を樂しましめるといふ目的の爲に、?々虚僞作爲をも避けなかつたことは、人が知つて居るから用心をする。之と比べるのはやゝ氣の毒かも知らぬが、他の少なくとも自分は眞なりと信じた舊記と雖、特にさうして殘して來た動機を考へて見ると、その本來の目的通りに無造作に之を利用する危險は同樣である。早い話が家々の感?とか催促?の類でも、單純に名譽の記念といふにとゞまらず、大抵は所領安堵の根據として用立つて居た。訴訟の目安沙汰文の如きは、いつでも勝訴の家に保存せられ、相手のために不利の記事をふくまぬものはない。系圖は即ち權利繼承の過程を立證したもので、如何に烈しきお家騷動のあつた場合でも、現在の當主が持つ系圖は平穩無事である。津輕の人たちが津輕に在る系圖を證據とする限りは、いつの世が來ても史論の決着することはない。或は又既に論爭が始まつて、中々相手が承伏せぬために、發奮して書いたといふ類の家記もある。さうでなくとも先祖の名を顯はし、子孫を激勵する趣意の書には、少なくともよい事だけが拾つて書いてあり、其都合によつては敵方をわるく卑怯に書き、もしくはさう誤解して居らぬとも謂はれぬ。要するに之を反面的に客觀の敍述と受け取つては間違ふのである。しかもさういふ實記が雙方三方に存在する場合はよいが、他は埋没して一つだけのこり止まり、思はぬ好い兒になることも無いとは言はれぬ。それへ加へて時代が稍々遠ざかると、豪傑勇士を愛する人情から、頼まれもせぬのに無用の誇張をしたり、或は話のあまりに手短かなのを不本意として、(183)有つてもよいと思ふ挿話を發明する。虚言といへば惡意に聞こえるが、是もむかしを愛する年寄などの趣味から、話が成長する如く書いたものも成長して、年代がたつほど詳しくなつて來たといふ、源平盛衰記の如き滑稽も現はれる。うつかりと古いめづらしいといふだけでは、學問上の價値を推定してしまふことが出來ないのである。

　井澤長秀の『廣益俗説辨』などを讀んでみると、あの時代は實學が既に起り、一方には益軒とか白石とかいふ類の學者が出てゐたにもかゝはらず、俗間にはまだ文字の絶對價値の如きものを認め、書いたものならば何でも信じようとして、歴史と小説との差を明確にせぬ人が多かつたらしい。假へば『前太平記』とか『北條九代記』といふ類の所謂演義體の物語、或は謠曲や舞の本の如き册子を指摘して、此點は信ずべからずなどゝ堂々と論破を試みてゐるのは、今日の眼から見ると不思議なやうである。つまりは狹隘なる一定の目的を抱いて筆を執つた人の、非常に働き易く成功し易い時代が、近い頃までも及んでゐたのである。

　それには輕信した者の方に責がある場合も多いが、一方にはさも眞實らしく虚僞を述べた例も少なくない。最も極端なものは水戸の鵜飼信興といふ名前で出版した『日本珍書考』其他の二三種で、有りもしない和漢の書名を、卷數頁數まで麗々と記載して、如何にも大藩の秘庫などを渉獵した如く見せかけ、口から出まかせの虚誕を列記し、今日見ても腹の立つ本である。地方研究の方面では、靜岡で出來たと言はれる『總國風土記』の斷簡と稱する者などは、久しい間騙されて之を引用する學者があつた。潮音の『舊事大成經』や、近江の某の『江源武鑑』の類は、幸ひにして早く看破せられたが、實にけしからぬ心得方の本である。地方によつては未だ顯著ならずして人のまだ警戒せざる僞書、もしくは之を信じて引用し編纂した書物が、決して絶無とは安心しがたいのである。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　叢書の編輯者が書史の全般に通曉し、記事の内容に關してまで保障の責任を負ふといふことは、勿論不可能でもあ(184)り又今日は不必要でもある。たゞ此際の任務としては、所謂汗牛充棟の現?に於ても、なほ實際の生活研究のためには、文書の資料が甚だしく有限であることゝ、記録當初の狹隘なる目的のみに追隨して居たのでは、永く故郷の學問を快活又有用のものにする見込が無いことを、明白にしてもらひたいと思ふ。それには小原敏丸君のやうな物の見方をする人が、一方に有るのも却つて便利かも知れぬ。

　著述家寫本家が家本位の古い型に囚はれず、自在に知識のための知識を集めて見ようとしたことは、註釋考證の學問が稍々進んでから後の事で、殊に地方に於では存外に新らしい出來事であつた。他の大多數は讀者を劣扱者中に豫期し、言はゞ教訓教育のつもりだから、自分の理想通り人を導かざればやまなかつた。而うして百年二百年前の注文に應じて、我々の見解を左右させては居られない世の中はもう來て居る。社會には新らしい疑問が無數に發生して、それを自ら釋かうと努力する青年が、全日本にみち溢れて居る。即ち今や學問興隆の秋なのである。辛苦と好意の結晶とも認むべき前代學徒の遺業は、如何に微細なものでも出來る限り、其效果を發揮せしめる必要があるのである。

　だから日本史學の如き保守的の學科に於てすらも、もう相應に久しい以前から、古書の利用を筆者當初の目的内に制限するやうな愚なことはしない。如何なる手前勝手な計畫になつた記録でも、少なくとも出來た時代の空氣だけは映じてゐる。著者の意識しなかつた境遇だけは、正直に語つてゐる。例へば『古語拾遺』は齋部氏の不平家が、時世の不公平を憤るために書かれ、『日本靈異記』は物部守屋式の頑固連を、佛法信仰に引き入れるために集成せられたとしても、大和朝の末期の社會相を詳かにするには、是だけの材料は他に殘つてはゐない。『神道五部書』などは伊勢人のひがごとだとしても、あれを僞作しなければならなかつた中古の神部等が地位と學力とは、これ等の書物の裏面から始めて推測し得られ、從つてそれを圍繞した我々の祖先の生活を考へるにも、之を無視することは出來ぬやうに、成心あり假託ある述作すらも、我々の態度如何によつては立派な判斷の足場になる。況んや今一段と鷹揚なる文學事業ならば、よしや其計劃の全體には共鳴しがたくとも、部分的には有用なる昔の消息が、幾らでも掬みあげられる途(185)があるのだ。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　江戸では山東京傳柳亭種彦の如き、第二三流の所謂市井の戯作者が、却つて一方に於てこの新らしい學風の祖であつた。彼等が好事癖は前代の浮世草子、乃至は俳諧の連句集の如き、人のあまり心付かぬ書物から、偶然に保存せられたむかしの生活のあとを見出さうとした。殊に推服に値するのは、『嬉遊笑覽』や『畫證録』等の著者喜多村節信と其一群であつた。今まで官府の學者が鄙俗として顧みなかつた平民の社會、普通選擧の第二十世紀に入つて、始めて我々が無視する能はずと考へ出した多數公衆の、最も通例なる日常の衣食住に注意し、それが時勢と外間との感化によつて、寸刻もやすまずに變遷しつゝあつたことを、兎に角に明白なる文字の證據に由つて、我々に告げ教へたのは此人たちが最初であつた。其爲には報いられざる辛苦があり、又忍耐すべき世間の輕蔑があつたが、今となつては是は皆貴ぶべき物ずきであつた。尤も彼等の研究が江戸に偏し、且つ又往々にして狹斜の巷のみに深入りした非難はある。しかも堂々たる史學者が眞僞區々たる舊記類の羅列と輕信とを以て、是れ修史なりと考へつゝ、竊かに其矛盾になやんで居たのが、漸く史料批判の一隻眼を養ひ、兼て若干の旁證を古文獻の偶然の記述に索めようとしたのは、彼等よりも遙かに後れた、つい近頃からの改良であつたのだ。

　前にも言ふ如く歴史が中央の大事記であ。、政治と戰爭との交錯に止まるものなら、それだけの改良でも滿足してよいか知らぬが、實はこの學問に向つて世間の今日要求して居るのは、そんな狹い範圍では無いので、むしろ喜多村氏が注意したやうな、通例人の通例の生活の、如何にして今日に至つたかである。文字を支配した階級の度外視した、微々たる存在の三千年である。それには記録が特段に乏少であつた。別に資料をたづね方法を講じなければならぬことは當然である。考古學と稱するものゝ出て行かうとした方面もそこに在つた。しかも遺物遺跡といふ語が、竪穴貝(186)塚土器石器、些々たる骨片に限られて居る間は、假に太古時代は白晝の如く明るくなるとも、我々の祖父曾祖父の世界はなほ薄暮である。遺跡をもとめるなら日本といふ島々、就中めい／＼のすんで居る村と屋敷、これほど確かなる日本人の遺跡はなく、遺物が欲しいとならば我々の生活の周圖に在る事物の大半は皆それである。單にそれのみか現に御互ひのもつ身體でも外貌でも、一つとして古い由緒の具はらず、出處の不明なものは無い上に、彼等の交換する語音と事物の名、之によつて運搬する感情と思想とには、突發的のものなどは一つも無く、歌ひ語る所は文藝であり、黙して賛否取捨する所の判斷は、悉く世襲の道義律と信仰にもとづいてゐる。其上に人には意識し又は意識せざる記憶があり、之を尊敬する共同の氣風の、名づけて慣例と謂ひ、世間竝と稱するものがあるのである。此等の郷土の諸材料の、未だかつて記載し比較せられざるものを、消滅と放散とに一任して、ひたすらに古書の文字に頼つて過去を知らんとする誤りが、多少の新日本人の民族自覺を、悲しむべく稀薄ならしめて居たことは、今更繰り返したくない經驗である。

　そんなら書物は全然不用かといふと、實際は正に其反對で、地方圖書の眞價値が發揮せられるのは、地方人の多くが自己の學問を心がけ始めて後の事である。二三の篤志家のみが珍書の中に籠城して、尾を見せ鰭をちら／＼とさせて、何かそこに凡人の窺ふべからざる秘事でもあるかの如く、徒らに幸福なる博識を誇り得る間は、史學などは實は一私人の道樂だ。これを公器として萬人が自由に捜索し、一方には始終これを栞として次々に未開の野に分け入り、他の一方には直接に故人の眞率なる感動と相觸れて、われ知らず昔をなつかしみ、又郷人を愛するの情を起すのでなければ、まだ／＼地方の學問を盛大ならしめることは六つかしいのである。故に自分等は將來の東北のために、深く『南部叢書』計畫者の精進に期待するのである。

　

(187)　　　　　　　　　　一五

　

　『南部叢書』が從前の同種事業の方針と背馳して、必ずしも數量の豐富を念とせず、十分に著作の性質を吟味して、惜しげもなく既にあつまつた材料を取捨し、殊に異本を照合して、努めて第一次の寫本に就かんとする態度は當を得てゐる。此上は校訂と比較とを嚴にし、悉く類書を對立せしめて、讀者をして自然に古本の滋養分の、今は何れの邊にあるかを見出さしむべきである。是れ言ふべくして行はれ難い事のやうなれども、既に新史學の本旨を理解し、書物は單に學問の案内者、乃至は山口の栞に過ぎざることを認むる人々とならば、相顧みてうなづき合ふことが出來ると思ふ。

　そこで自分の長話も終はらうとするのであるが、なほ一二點だけは序を以て申したいことがある。自分の目的は初めにも述べた如く、第一には此地方の諸君と共に、今後の地方研究と書物との關係を考へて見ようとした。第二の目的は目下計畫中の『南部叢書』が、如何なる用意を以て實現せられてよいかを説きたかつたので、その二つはほゞ趣旨を盡した。殘るは第三の點の小原敏丸君の所見を批評することで、不必要かも知れぬが、自分の名も引用せられた縁故により、立ち場の相違を明白にして置くのである。全體和賀郡黒岩の小田島氏といふ舊家に、地方前代に關する多量の寫本が藏せられて居ることは、他の人から聽き知つたのでも無いのである。今から六年餘り以前に私の家へ、小原敏丸君が來訪せられて、物の序にしみ／”＼と其話をしたのである。書物の名もよくは記憶せず、況んや如何なる性質のものかも知る筈は無いのだが、どうも連綿たる名門であり、又先代に好學の士もあつたらしいから、恐らく其中には此家だけに傳はつた注意すべき記録もあるだらうと考へ、永く世に埋もれさせることの不本意さを語り、小原君も同感だつたやうに思つた。しかし其頃はまだ『南部叢書』などを計劃する人も無かつたので、折々故伊能翁や佐佐木喜善君と逢ふと此事を談じ、何とか利用の途は開けぬものかと歎息をしたことであつた。永い年月の間には、自(188)分は何度ともなく同じ經驗をして居る。例へば『遠野物語』が出たよりもなほ一二年前に、水野葉舟君が東北旅行から還つて來て、花卷の某氏が非常に多量の寫本を所藏して居り、其内の二三は水野君も讀んだと語つたが、主人があまり評判になるのを厭うて居るといふので、今にわかると思つて其氏名を聽いて置かなかつた。此事も幾度か友人に話をして、現に最近には太田夢庵君の如きは、種々の手數をかけて物色したやうだが、果して今も黙つて所藏するのか、又は既に主を換へたか、それだけの事すら突き留めることが出來なかつた。現在に於ては公表の能不能よりも、自分は其書の保存の爲に憂へてゐる。

　書物はよほど亡失し易いものであるらしい。又因縁の如きものがあつて、今迄はさう容易に讀むことが望まれなかつた。明治二十何年かに仙臺の學者たちが、郷土文學の展覽會を催した目録が版になつてゐる。それには一々所有主の氏名がかゝげてあるが、二十餘年をへだてゝ再び之を歴訪して見ると、依然として故の家に持傳へたものは十の三にも達しなかつたと、『仙臺叢書』の發起者の一人常盤君が私に話した。私の實家松岡氏なども、本家の土藏に長持入りの古文書があつた。篤學なる父は久しい間一度見せよと本家の主人に頼んだが、老人はわしは養子だからといふ理由で頑として見せなかつた。其うちに父は東京に移つて歿し、本家の主人は勿論、今に見せてやると約した其子も老いて死に、村にかへつて見れば若い孫は醫者になり、改築してもう土藏其ものが無くなつてゐる。單なる保存といふことさへ今日は必ずしも容易でない。況んや之を學問の利用に供するなどは、望みがたいのがむしろ普通であらう。

　

　　　　　　　　　　一六

　

　ところが最近になつて、その小原君が再び自分の家を來訪せられ、六年以前と同一の熱心を以て、再び親族小田島家の藏書の事を詳説した。私は此君が記者であり、又新人であることを知る故に、話の動機が自分と同じく、篤厚なる故人の遺業が、寸分も世を益する所なくして、空しく寡婦孤兒の手に守られてゐることを憂ひ歎く以外には、何か(189)在るといふことを想像し得なかつた。しかもその六箇年餘の歳月は永いけれども、人生は必ずしも如意で無い。うつくしい志は有つて力の施すべきもの無き場合は、自分なども何度となく經驗して居る。寧ろ何等の悔恨すべき出來事も起らずして、其六年が平和に過ぎ去つたことを慶するのほかはなかつたのである。

　此の如き奇縁に直面して、もし自分が『南部叢書』の計畫あることを語らず、又此機會に際して一部分なりともこれ等の古書を世に公にすべく、努力せんことを勸誘しなかつたならば、自分は地方人の學問に同情なく、前代生活誌の開明に熱心ならず、從つて北方文明研究のために音頭を取るの資格なきものと評せられても一言は無いわけだ。それ故に關係者以上の熱情を以て、叢書の眞趣旨を説いたつもりである。ところが小原君はもう既に『南部叢書』の事を知つて居て、わたしの説明は不必要なやうであつた。其折にも二度まで岩手毎日が掲載した通りの、亂暴な古文書取扱ひの苦情をくはしく聽いたが、それは貸借承諾の條件を説くものとは受けとれず、むしろ小田島氏藏書出納の全權が、一に同君の手に在るといふことだけが、自分の新たに得た印象であつた。

　しかし其當時自分の竊かに憂へたことは、各地の舊家に於て往々其例を見る如く、小田島氏の圖書は書籍といふよりも、一門の自尊心が籠つた家寶の如きものであるから、之を叢書として自由に取捨し、此書はあたらしいが學問上有益だ、これは珍らしいが急いで出すにも及ばぬなどゝ、客觀的に價値を決定することが六つかしさうだといふ點であつた。少なくとも彼家の昔に關する若干種だけは、今少しく世間の學問の進むまで、待つのがよからうとも考へて居た。それよりも家では比較的重きを置かぬ吾妻昔物語などの聞書類、もしくは軍記類のよい異本をさがし出して、校訂し得たならば幸ひだらうと考へて居た。書名も碌々に知らずに、必ず珍藏の家傳を『南部叢書』中に入れよと勸説したかの如く傳へられては、拙者平生の持論と一致せぬことになるから、先づ之を訂正したい。

　率直なるわたしの希望は、自由にかの家の文庫をさがして、學問本位の價値批判をなし、二三有益のものを利用したいのであつたが、それは往々にして舊家の自尊心を傷けるものだといふことを經驗して居るから、先づ斷念のほか(190)はあるまいと感じてゐた。故に小原氏が自費刊行を聲明して、協同を拒絶せられるのも意外で無い。たゞ進んで若干未檢の書が、悉く世用疑ひ無きものであるかの如く、又之を缺くときは則ち『南部叢書』は完全ならざるが如く、人を信ぜしめんとするのは正しくない。叢書は最初から有る限りの古書を網羅せんとは言はず、寧ろ先づ有益有意義のものから刊行を企てゝ居るのでは無いか。もしよく／＼世を益し學問に意義ありとの確信があるなら、そんなら何故に早い機會を捉へて、地方に流布せぬかといふことになるだらう。何となればそのやがてといふ自費出版の如きは、實は單なる保存行爲に過ぎぬからである。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　書物を愛惜する持主の情には、微妙複雜なる色々の分子がある。近來は非常に減じたけれども、無くなるのよごすのと表向きはいひながら、寫しを取られて天下二品となることを、厭ふ者さへあるのである。天平の古經を二つ三つにきつて、兄弟でわけたりしたのは此連中で、つまり書物として見ることが出來ない人である。自分の近隣に住む人に、此癖の既に病となつた者が一人居る。何の科目であれ自分は讀み得ない本でも、苟くも日本に一部しかないと決すると、高金を拂つて買込んでしまつて置き、一番多くの涎を垂らしさうな其方面の專門家にちよいと見せる。さうして借覽又は熟讀を求めると、或は綴ぢ直しにやつてあり、或は他の本の下績みになつて一寸見えないことにきまつて居た。但し幸ひにして多くは戯作者の自筆稿本などであつたから、私は少しも困らなかつたが、此頃は我々の方面の入用品も、斯うして追々に侵略されるので弱つて居る。又今一段とたちの惡いのは、自分が久しく地方誌や地方學者の隨筆を食り讀んで居ることを熟知して、顔さへ見ると斯ういふ本を見たが面白かつたといふ話をする。それに動かされて貸せといふと、快く承諾はするが一度でも見せたことが無く、尋ねて見るとあつたことだけは事實でも、とくのむかしに古本屋に賣つてしまつて居る。是などは愛書病以上の偏つた優越慾だが、それもこれも所有權の現法制(191)の下に於てはあきらめねばならぬ事で、例へば眼前へ持つて來て引き破つて燒かれても、之を爭ふ手段は無いやうな時代だ。しかし小原敏丸君が二度までも私の家へ來て、同じ寫本の話をした動機に至つては、何としても此から類推することの出來ぬ初經驗であつた。何となれば同君は、自身が此書物の所有者でも何でも無く、單に古書が世の中の役に立つことを、邪魔し得るといふだけの力しか持たぬからである。

　人の大切な古書籍を借りて置きながら、それを不注意に汚したり破つたりすることの、惡�ｺなることを認めぬ者は一人もあるまい。況んや證據がなく又は相手の遠慮深きを利用して、其まゝ横領しようといふやつは人ではない。一郷一縣の中堅に在る者が、其地位を挾んで押し借強奪をしたとすれば、自分たちはむしろ鼓を鳴らして其罪を問はず、因循として憤りを忍ぶ者をさへ輕蔑したいと思ふのである。しかし其罪惡と、書物を學問の用に供することゝは二つの問題である。自分は果してそれが何の關係があるかと問うて見たい。

　日本に唯一つの國立圖書館、しかも帝都の大公園と併存する圖書館の中にも、驅除し難い惡者が折々潜入し、珍書を借りて藏書印を切とつたり、又アート版の一枚を破つて持ち歸つたりする。それは國人共同の恥でもあり、同時に學問其ものゝ不名譽でもあるが、之を防ぐの方策が他に無いからとて、貸出し中止の窮手段は誰も講じようとはせぬ。勿論圖書館は貸すが役目、個人の家には貸さねばならぬ義務は無いが、張三が酒を飲み李四が錢を拂ふべしとする筋ちがひは一つである。それとも天下の古書を愛重する人々は、必ず無智の小吏等と行動を一にし、借りた以上は破るべし汚すべしと斷定する理由でもあるのか。穩かならぬ類推法ではある。

　

　　　　　　　　　　一八

　

　長くなつたが今少しく、自分の記憶する逸話を試みよう。明治四十三年、始めて内閣文庫の管理を命ぜられた時に、自分は前任者の江木翼君から、實に厄介千萬なる事件を一つ引繼いだ。それはちやうど東京輕濟雜誌社で、塙氏の(192)『續群書類從』の豫約刊行をして居る際であつたが、其原本を内閣文庫から借りて、それを其儘活版の原稿にしたばかりか、實に惡筆で異本を校合し、中には鉛筆で符號などを附けて、墨だらけにして綴絲をほごしたまゝ返して來たので、さア江木先生が承知せず、斷乎としてもう貸さぬと言ひ切り、社からは社員が日參をしてゐる最中であつた。將來は勿論改めると云ふので、何とかして話をつけてやらうと思つてゐると、事件の發頭人たる黒板勝美君がやつて來た。其態度が又如何にも無邪氣なもので、是はネ君、非常にわるい本で、時々二三行もぶつとばして寫してあるのですよ。今度のうちの活版本が出さへすれば、忽ち反故にしてよい本なんですよ。宮内省とかにはもつと善い寫しもあつて、ちつとも惜しいことは無い書物だと力説する。しかし江木君のおこつてゐるのは又別の理由からであつて、之を聽かせたらもつと怒ることゝは思つたが、私は腹の底では是にも一理があると考へた。青砥藤綱などとは正反對だが、天下の公用から見れば、損よりも益の方が大きいのである。しかも黒板君の計劃は經濟變化の爲に中途に停止し、過去の損害だけは永く殘つたのだから、借りた方でそんな太平樂を言ふのはよくないが、書物などは書畫とは目的がちがひ、世人に讀ませる爲には、時としては兎が身の毛をむしつて巣を作るやうに、次の代の爲殊に學問のためには、損失を厭ふに及ばぬ場合さへある。要は效用の如何を以て決してよいと思ふ。

　自分は今金田一京助君などゝ協力して、實は『蝦夷叢書』の刊行に奔走してゐるが、最近に北海道の方面で一つの興味ある經驗をした。日高と根室と二ヶ所の有名な佛寺に、何れも一本しか無い日記の古いのが遺つてゐる。其寫しを取らうとして北海道大學の一教授が交渉せられたが、一方の寺では前年�ｺ富蘇峰氏が來て一見し、こんな珍らしいものは少ないと言はれたのを、誤解か正解か高く賣れると解釋し、賣れるならば寫しがない方がよいといふ考へで、複製は御免と謝絶をする。他の一方の寺では返答が丸で別であつた。住僧などゝいふ者は折々交代する。それほど大切なものなら、其都度亡失を患へるのも難儀だ。單にこの寺に傳へてあつたと、書き添へて置いてくださればそれでよろしい。原本を持つて行つて、費用があるなら寫しを一部、寺の方には置くことにしてくれと謂つたので、同じ僧(193)侶にも色々な考へ方があるものと、今も專ら其噂をしてゐる。

　

　　　　　　　　　　一九

　

　我々は決して禅僧の如き思ひ切りを、執着多き凡人に要求する者では無いが、せめては世間尋常の情理を以て、書物の利用の如き大切な問題には、臨んで貰ひたいと云ふのである。獨り一個の小原氏のみならず、もし同じやうな感情に由つて、或は叢書事業の不成功を希求する人があるなら、反省して貰ひたいと思つてゐる。故人が心血をそゝいであらはし又は寫し取つたものを、假に無智にもせよ粗末に取あつかつて、其子孫に不快の念を起させる如き不道�ｺは、今後如何なる方法を用ゐても制裁し、撲滅せねばならぬのは當然だが、其理由のみで惜しみ又は隱し、世にあれども無いと同然の?態に置くことは、第一に先祖の素志を空しくするものである。石室に書を藏すといふ支那の故事は、小原氏も一寸引用したが、あれは佛法でいふなら末世の兵亂を免れる手段、儒教の方では是非を百年の後昆に問ふなどゝ謂つて、目前の世の中では話にならぬ故に、そつと保存をして置いて時期を待たうといふ趣旨である。而うして日本の聖代に於ては、その時期が今正に到來してをるのである。斯んな時期をむなしく保存して置いて、さて何れの日を待つといふのであらうか。際限も無くたゞ保存してゐるうちに、地方の青年が最早前代に興味を抱かず、見たこともない外國の飜譯書のみによつて、人生の問題を解決する風がさかんになつたら、再び單なる亡失を防ぐために、又靈山石室を求めて辛苦することになるではないか。それを書き殘した人が希望するとおもふのは誤りである。

　他の一方對社會の關係から言つても、やはり先人の�ｺを累はすことは一である。具體的に引例をするならば、もし小田島氏の主人が古文書をよごされたことを憤つて、他日今一度黒岩村の漁業權、所謂横止堰の利益が奪はれんとする場合に、頑として證據文書を貸與しなかつたとしたならどうか。北上川の流れと約五百年の因縁をもち、草木土石の微に至るまで、一として祖先の友だちでないものはなかつたといふ名門が、假に以前と同じ辯護士や村吏が出て來(194)て借用を申込んだにしても、所有權を楯に之を拒絶して、見す／＼郷里の損失を忍び得るものと、小原君などは考へてゐるのであるか。

　效果世用の大小から言へば、好書の恩澤の及ぶ所は僅に一古碑文の村の權利を擁護するやうな比ではない。單に家寶として珍重すべく、地方の學問には大した參考にもならぬとならば又別の話だが、假にもせよ樂觀にもせよ、正しく陸中の舊事を探るが爲に、必須缺くべからずとする信仰があるなら、汚れ破れ貼紙せられる位の危險を悲しんで、之を押さへて置くべき理由は無い。況んや豫め之を防ぐ位は一擧手一投足の勞であり、しかも其不安は根據なき不安であるのだ。あまりに根據なき心配をすると、人が之を一種の口實なりと誤解する懸念もある。返す／”＼も舊家小田島氏の信望の爲に、忠實過度なる管理人を選定したことを惜しまざるを得ない。

　なほ自分には關係のないことだが、此ついでに一言して置きたいのは、以前書物を人に貸して、汚した損じたといふ世間話などは、實は書物の話でさへもなく、況んや『南部叢書』の計劃とは没交渉である。それに「南部叢書に就いて」といふ見出しを附したのは、不當なことゝ考へる。それを其儘に掲載して内容との比較をしなかつた岩手毎日子も、一分の責を分つべしと信ずる。

　以上で私の言ひたいことはもう盡きた。其うちで他人の行動を批判した部分には、或は異説もあることゝ思ふ。謹んで私は岩手日報の讀者に要求する。願はくばこの一文のみを以て速斷せられることなく、之に對する反對意見の出てしまふのを待つて、徐ろに自ら是非の判定を下されたい。それが自分などの年來東北人の爲に希望してゐる研究の自主で、又學問の獨立である。中央から遠くなるほどづゝ、地方人自身の囚はれざる思慮が、人生幸福の爲に大切になつて來るのである。

　

(195)　　　老讀書歴

　

(197)　　　　　自序

　

　書物のすきな人はたくさん有る。實によく讀むと私が感服して居る人も、何十人といふ數であつて、とても背くらべなんか出來るものでないが、さういふ中でたつた一つ、自分でも驚くやうなをかしい特徴は、この二十幾年の退老期間に、めつた無性に書いて來た私の序文が、斯んなにまでたまつてしまつたことである。是だけはたしかに本を讀む時間を侵食して居る。少しはこの序文を書く必要の爲に、氣を付けて細かく味はふといふ利益はあつたか知らぬが、それも結局は大した事でない。しかも一方世の中が是に由つて、何ほどの寄與を受けるかといふことになると、今はまだ當人以外に、それを考へて見ようとする者さへ無いらしいのである。

　近世四百年の歴史をふり返つて見るのに、書物は出た當座少しばかりの人に騷がれて、やがて一旦の休眠期に、入つて行くのが常の習ひであつた。現在は活版の普及力が強く、人氣の厚薄の差が著しくなつて居るが、是とても瞬く間ばかりで、一たび流行のぼかしの外に出てしまへば、淺い埋没は共通の運命であつたことは、不如歸や食道樂などの前例を引くまでもあるまい。その雜然たる大堆積の中から、後世の過去を愛惜する人たちが、辛苦して各々その望むものを、捜し求めようとするわけである。以前書籍の分量のまだ今日の百分の一にも達しなかつた時代には、學問の傳統はなほ存して、ともかく私たちの選擇を導かうとして居た。それが世紀の嵐に吹きまくられて、あらゆる道標は倒れ伏し、岐路は日に多く、新たに鑿開せられた道はどこへ行くのやら、誰もまだはつきり語り得る人が無い。この澎湃たる俗書愚書の氾濫に當面して、果して今でもなほ讀書を人生の至樂、最善の生活利用法などといふことが言へるものかどうか。否と答へる人はもちろん多いのだが、そんなら何とするかといふ段になると、をかしいほど世の中は沈黙して居る。

(198)　國會圖書館の新機運は、恐らく遠からず、この問題を處理してくれるであらうが、少なくとも私たちは皆惱んで來た。折角自由な探求を許されても、是では殆と手の付けやうが無い。自分一人の爲ならば勘のやうなもので、毛ぎらひをしてもよし、人眞似をして居てもよい。早目に見切りをつける習慣さへ養つて置けば、時間の損失も少なくてすむかもしれない。たゞ新たにこの道に入つて來る人たちと、怖ろしい毎月の本の増加と、それからもう一つ、著者の古風な希望とを考へ合せると、どうも今のまんまでは抛つて置けないのである。書物に百年の後の讀者を期するなどは、素より現代の趣味では無い。殘るか殘らぬかは思つても見ずに、筆を執る人はすでに多い。偶然が貴重なものを烏有に歸せしめると同樣に、願ひもせぬものがひよつくり傳はつて、珍重せられるといふ例も折々は有るだらうが、さうかといつて一視同仁に、紙に字を書いたものなら何でもかでも、保存しようとするのは愚であるのみならず、社會的にも宥されない害惡である。必要の有無は分類せられねばならぬ。更に出來るならば精確に、その必要の程度と方向、主として後世のどういふ人たちが、讀めば興味をもち又利益を得るであらうかを、豫め測定して置くまでの用意は、片端から圖書を保管しようとする人々の遁れられぬ責務だと思ふ。私なんかの判斷は?々誤まつて居るかもしれぬが、ともかくも單なる廣告文、又は出版祝賀會の挨拶のやうな、社交式序文は一つも書いて居ない。碌な索引も解題書も無くて、當てもなく一生捜しまはり、御蔭で研究が脇路に逸しやすく、間口ばかりが徒らに廣くなつて、まとまつた仕事が一つも出來なかつた罪滅ぼしに、せめては少しばかり斯ういふ序文を書く風を、他の色々な學科の上にも、はやらせて見たいといふのが念願であつた。果して其結果はどうであらうか。本を書くやうな私の知友中には、名を知られずして世を去つた人が多く、又は外部の故障のために、中途で學業を廢した者も稀で無い。斯ういふ人たちの著述は殊に埋没しやすい。第一に自分のこの本なども、果していつまで殘つて居るか、おぼつかない限りではあるけれども、ともかく今度の戰爭になる以前、一度は日本の文運が、斯ういふ方向に進まうとした時代もあるといふことを、近い未來の讀者たちに(199)傳へることまでは出來ると思ふ。是を今少し續けて見ることにしてはどうであらうか。單なる毎日の讃書日記よりは、この方が身が入つて面白くはあるまいか。

　　　　　昭和二十四年三月

　

(201)　　　批評集

　

(202)　　　　　鷹野つぎ著『子供と四季』

　

　何か心を靜かにするやうな本が讀みたいといふ人に、鷹野さんの『子供と四季』などはどうであらうか。この本の微笑ましい思ひ付きは、遲生れの女の兒の八つの年、ちやうど母の膝から離れて、廣い大きな學校に入つて行く後先の、何もかも印象の鮮かだつた一年を、御正月から順々に思ひ出すまゝに書いて見た點である。これに年を取つてからの咏歎が添へられると、平凡にもなれば又人くさくならずにも居なかつたらうが、筆者は女性にも珍らしいほどのつゝましさを以て、有りのまゝのものを取出して、讀者と共に眺めようとして居る。多分はそれから後の三十幾年かの生活變化が垣になつて、自分でも隣の園を見るやうなよい感じがしたからであらう。濱松が今見る目まぐるしい工業都市となる爲に忘れてしまはなければならぬ者は多かつたことゝ思ふ。それをよいことだ、是非ないことだと思つて居る人でも、僅か半世紀以内に同じ土地に、斯うもちがつた二つの生活面が存在し得るといふことを、示されるだけなら興味を持つであらう。さういふ歴史の説き方が一般にやゝ衰へて居るのである。見たところ何の目的も無い昔話でも、鷹野さんのやうな態度でするならば意義のある試みだと言へる。女はいつでも子の時代、孫の時代の爲に考へて居るのだが、實は今までは餘りにも考へる材料が乏しかつたのである。

　

(203)　　　　　中西悟堂著『野禽の中に』

　

　中西氏の探鳥紀行には、眞似られない幾つもの特色がある。第一に場所が珍らしく、方法が又奇拔で、觀察の爲には勞苦をちつとも省みない。それに加ふるに詩人風な物の感じ方、自然に對する通俗以上の同情が、忽ちにして讀者を現世の外の悦樂に誘引する。殊に羨ましいのは澤山の鳥ばかりか、草でも蟲でもみんな名を知つて居ることで、もとより永い歳月の修練がかゝつて居るからでもあらうが、是ぢや成るほど面白いはずだと、誰にでもすぐ考へさせる。しかもその面白さを出來るだけ手輕に、我々に分たうとする用意が、この本などにはよく窺はれる。鳥の言葉と擧動とを、精確に且つ覺えやすく、書き止めて置かうとした努力が、恐らくは『野禽の中に』の、最も有難い素人向きであらう。御蔭で我々はもう幾つかの鳥を友だちにし、時たま庭の樹に來ればあゝ來たなと、思ふことが出來るやうになつた。鳥が少なくなり又せか／＼するやうになつたことも事實だが、それよりも今まで氣が付かずに居た方がもつと淋しかつたのである。御藏島《みくらじま》のあちら側とか、陸前足島の無人島などこそ、然らば行つて見ようといふわけにも行くまいが、近くは東京大阪の郊外の、日返りでゆつくり出かけられる海邊や田圃中にも、中西君が心ゆくばかり樂しんで來た、鳥の世界はまだ廣々として居るのであつた。ブラインドを背負つて林の中に一日立ち盡すといふまでの辛抱は出來なくとも、せめては三歩か五歩山路で足を緩め、又は始めからがや／＼とした仲間に加はらずにあるいて見る氣にさへなれば、ハイキングにも又新らしい意味が生ずる、といふやうなことを、この本は強く暗示しようとして居る。在來の鳥好き達ばかりに、讀ませて置くのには全く惜しいと思はれる本である。

　

(204)　　　　　山階芳麿著『日本の鳥類と其生態』

　

　完備した體系に由つて、我邦鳥學の最近の到達點までを記述したもの、解説は平明で懇切、數百の寫眞と彩畫の中にも、印象の深いものが甚だ多い。全編は五卷、今度新たに出た第二卷は千頁を超える大册である。昭和九年に始めて第一卷の出たときにも、我々は既にその竝々ならぬ努力に推服したのだが、今日の時勢に於てなほ着々と同じ道を前進し、更に斯ういふ行屆いた續卷を公けにせられたといふことは、殆と奇蹟にも近い事業であつて、どの點から見ても山階侯爵なればこそといふ感を抱かずには居られぬ。戰時日本の文化學藝を、後世から囘顧した場合の最も耀かしい目標であり、同時に又科學の研鑽に全力を打入れる人々に取つて、是に心強い御手本を示されたものといふべきである。殊に貴とく思はれるのは、一つの學問に對する熱意と忍耐、如何なる片隅の小さな記録をも見落さず、それ／”＼報告者の名を揚げて其功績を録し、しかも獨自の判斷を以て取捨を決して居られる態度で、是が地方の埋もれたる研究者への、大きな奨勵であり又慰籍であることは恐らくは著者の想像を超えるものがある。たつた一つ殘念な點はこの書物があまりに貴重であり又部數が限られて居る爲に、あまねく普通讀書人の間に流布し得ぬことであるが、斯ういふ出版物こそは圖書館が仲介の任に當つて、徒らに好事家の襲藏に没し去ることを防がねばならぬ。華冑界の學者は概ね名利に淡く、從つて著作が如何に有效に頒布せられ讀むべき人の手に屆いて居るかどうかといふことを顧念せざる嫌ひがあつたが、一方世間の多數者もたゞ評判を聽き、詳しく讀んで見る折が無い爲に、いづれさういふ御方ならば澤山の助手を使ひ、たゞ指圖をして代筆せしめられたものゝ如く、速斷してしまふ傾きがあるかと思ふ。そ(205)れは事實で無いのみか、この一書に至つては明白なる反證がある。著者侯爵の精緻なる感覺は、文章の端々に流露して居る上に、挿入の寫眞は大部分が自作であり、十數葉の彩畫は、すべて侯爵夫人が自ら版下を描いて居られる。是が又小さからぬ感動を讀者には與へる。

　

(206)　　　　　小寺融吉著『郷土民謠舞踊辭典』

　

　いはゆる民謠を我々の祖先が、どれほどまで珍重して居たかといふことは、單に名稱の側からでも考へて行くことが出來る。是はよその國々と是非比較して確かめて見たい問題だが、日本では今でもまだ民謠を意味する總稱の語は無くて、しかも一方に一つ／＼のウタに皆名が出來て居る。信頼し得るやうな簡明な辭典が、何よりも必要であつた理由である。小寺君の編述には、少なくとも其要望に合すべく、非常な勞苦が重ねられて居る。五百頁四千以上の語彙は、もちろん其數だけの獨立した音曲詞章が、竝び行はれて居たことを意味しないが、我々の保存と傳播、採擇と應用と加工とには、必ずそれにふさはしい名が設けられて、決して丸呑にはして居なかつたといふことが是でわかるのである。この相互の脈絡と系統を明かにすることは、民謠研究の骨子と謂つてもよい。獨り前代人の感情の中に釀された旋律が、幽かな線を引いて今日に繋がつて居るのみでなく、歌の文句の完全なる新語化方言化の底からでも、なほ時々は千年以前の人の、やさしい心持が掬み出される。横にこれほど足早く移つて行く流行歌があつて、竪には忘却と失念としか無いといふことは考へられない。たゞ是を比べ合せ尋ね究めて見ようといふ小寺君の如き人が今までは得られなかつただけである。その大きな事業の手始めとして、斯ういふ辭典の入用なことは明かである。それが熱心な改訂を重ねて、まだ完備とまでは言へないといふのも、我々にとつては寧ろ樂しみである。書物の名としては、以前の『日本民謠辭典』の方が、私は適切だと思ふ。舞踊は又別途の研究法があり、且つ資料もまだ出揃つたとは言へぬからである。それから今一つは野口西條等の文人の、小唄と稱する民謠風の作歌を數多くまじへて、辭書の目的(207)を煩雜にしたのは不利であつた。それだけは別に一册にして居たら、重寶がる人が或は多かつたらうと思ふ。

　

(208)　　　　　【福永恭助・岩倉具實】共著『口語辭典』

　

　今までの字引ではかつてしなかつたことだ。この本は人を諫め、又深く考へさせようとして居る。文章を讀んで聽かせて、女や子供にも皆合點が行くやうに、すべて常日頃の言葉で書かせようといふのだから望みは大きい。從つてむつかしい仕事だ。半分でも當つて居たら御祝ひをしていゝ。

　第一に今日多數の原稿書きが、いま自分の試みて居るやうに、一々口語辭典で忠告して居る語をさけて、おとなしく書くかどうかが疑問である。現に今日はイマドキ、多數はオホク、原稿はシタガキ、忠告はイサメル、疑問はウタガヒなどゝ、なほすにも及ばぬぢやないかと私なども思つて居る。もう少しゆるやかであつてもよい。明治は無茶に漢語をはやらせた時代であつたが、それでも日本人は慧しい國民なるが故に、差支の無いものだけは追々に話言葉にして使つて居る、それをも捲き上げようといふのはちとちよん髷が過ぎる。

　英和、和佛などの例にならふと、この本は文口辭典と呼ばるべきものである。別に今一つの口文辭典、もしくは本當の口語辭典が我々は欲しい。それによつて第二千六百年の話言葉はもう可なり豐かで、多くの造り言葉は無用だつた事を思ひ知らせると共に、名詞ばかりが多くて動詞形容詞などが乏しいことを明かにし、早く我々の忘れたものを取戻す願ひを抱かせるやうにしたい。むやみな言葉直しはたゞ試みにしても人に嫌はれやすい。だから私たちの集めようとして居る國々の方言の中から、既に本物の話言葉になつて居るものを拾ひ出して、大いに使はせようとするのも、きつと岩倉、福永二君のやうな人であらうと思ふ。

(209)　何れにしてもこの二人の「編み手」の意氣込が、シゾコナヒ（失敗）によつて、貴といアヂ（經驗）を得られんことをアテニスル（期待する）。

　

(210)　　　　　東條操著『方言と方言學』

　

　此書物の標題及び世に知られた著者の名、これだけが既に内容を説明する。此本くらゐ紹介の不必要な、さうして又批判の必要な本は他には少いと思ふ。私は友人だから却つて禮讃が出來ない。僅に最少限度の價値を明かにして新たな讀者の豫想を保障するまでである。第一に日本の方言研究の現　　状、その今日に到達した經過と左顧右眄、それを詳かに知ることはこれ一册で十分だと言ひ得る。著者がその殆と全部に參與してゐるからである。

　時代が冷淡でありもしくは早呑込であつて、まだ／＼將來の發奮を期すべき事業ばかり無數に取殘して居ると謂つても、これは少しでも東條氏の責では無い。誰よりも多く辛苦し、しかも尚この學問の意義と興味とを、熱心に説いて止まないのが彼だからである。第二には言語地理學といふ事新らしい名稱は、日本で活字になつてから十數年にしかならぬが、著者は三十年以上、ずつと續けてその實質を講究して居る。飜譯はよその事だから參考にしかならない。

　是を日本の言語にあてはめて見ようとする人は、今までは何れもをかしい程めい／＼の猫の額を引伸ばさうとして居た。その樣な片隅の小さな事實が、言語地理學である氣づかひは無い。ところが今度の東條君の著述で、始めて全國各地の方言の比較が出來、いよ／＼その地方毎の變化にも、隱れた法則があつたといふことが明かになつたのである。此書の説明は十分に要を得て居る。

　誰でも之を讀むと、どうして國語が斯うなつたかを考へずに居られない。或意味からいふと學問の夜明けである。

　第三に國語の歴代の變遷が、今ある各地方の言葉の相異と無關係でないことは明かで、その事實と文獻の二つの方(211)面から見て行くことが、我々の知識を正確にすることも亦疑ひが無い。所謂方言文學に對する東條氏の着眼は鋭く、其取扱ひ方も親切で要を得て居る。慾を申せば是以上に、方言でない文學もやはり斯うして研究すべきものであること、次には方言の文學などは實はぽつちりで、是ばかりを穿鑿して居ると道樂に陷りやすくたゞ珍本屋の御客になつてしまつて、大した成績の擧がるもので無いことを注意して置いて貰ひたかつた。

　方言といふものゝ範圍、及び方言區域の存在に付いては、東條氏は私と反對の意見を持して居られる。前者は用語の問題だから何とでも折合がつく、後者は判斷の問題だから、必ずどちらかの一つに決しなければならぬ。さうして方言區域説の理由づけは、今はまだ後の御樂しみに殘されてゐるのである。

　

(212)　　　　　小谷方明著『大阪府民具圖録』

　

　農具は金屬を使用する部分があるので、夙くから商人の手にかゝつたものが多かつた。專ら土地の生産物を材料とした容器運搬具などと比べて、地方性の少ないのは誠に已むを得ない。それにも拘らず、今まで知られて居るだけの品目、又同じ名をもつものゝ形　　状大小にも、既に驚くほどの變化が見られるといふことは、たしかに日本の農民の改良に遲鈍でなかつた證據であつて、同時に又近世三百年の埋もれたる文化史の史蹟でもあると思はれる。私たちの想像では、江戸期の平和時代が急劇に此改良を爲し遂げたと同じく、京畿周圍の繁昌した農村地帶が、事實に於て此等の新工夫の試驗場であつたらしい。それが今後も亦率先して、次の新考案の採用に進まうとして居るのだから、急いで今のうちに詳しく此方面の足跡を尋ね、且つ之を記述して置かなければならぬわけである。私が京阪方面の有識者たちに向つて、他にも試みたがつて居る新事業が多いのを知りながらも、なほ何よりも先にその農村の傳承蒐集を、勸めようとした動機は爰に在つたのである。

　澁澤氏の研究所で前年出された民具問答集のやうな標準圖録が、ほゞ全體に亙つて示されて居ると大へん都合がよいのだが、曾て農商務省でも之を企てゝ、まだ印刷にならぬうちにたしか大震災で燒いてしまつたかと思ふ。已むなくんば古い和漢三才圖會などで辛抱してもよい。とにかく動植物でいへば分類標目のやうに、一つの臺本があつてそれだけは誰でも見ることが出來、地方では各自それと異なる種類の農具、形の差異、鍬でいふならば角度とか長さ幅とか、もしくは名稱及び之を使用する場合の、ちがつて居るものだけを精確に報ずるやうにしなければ、讀者がたび(213)／＼同じ事をくり返して教へられる迷惑はさておき、第一に土地毎に親切で閑のある人が有るわけでも無いのだから、いつ迄たつても國全體の實情はわからず、又或一つの土地の報告が、どれほど價値のあるものやらも知る折は無いのである。さうして千差萬別の民間の大小用具が、假に片端から明白になる日が來るものとしても、時が人間の二代も三代もかゝるやうでは、其間に又變遷があつて比較の利益が少ないのである。

　だから最初によく考へてかゝるべきことは、何を目的に我々が斯ういふ蒐集をしなければならぬかといふことである。私は是を簡單に日本人の智能、新しい必要と環境とに適應して、どし／＼と今まで具はつたものを改良して行かうとする意氣込、手馴れたものでも思ひ切つて棄てゝ、よそにより良きものがあつたらそれを採用しようとする研究心が、どういふ風に農事の方面に現れて居るかといふこと、是を外側から見れば日本は狹い國だが、行く先々の天然の事情がちがつて、たとへば鍬一つでいへば火山灰地と砂地、谷と沼跡とでは同じ物が使へないといふ場合に、人はどれだけ新しいものを案出し、又どの程度まで古い民族的一致を忍ばうとしたか、即ち生活技術の進み歩んで來た道筋を究めることに、我々の目標は置かなければならぬと思ふ。中央から離れた田舍の悠長な農民の中にでも、斯ういふ判別と改良とを斷念して、我慢して親讓りの仕來りに取附いて居る者はもうよほど少ない。ましてや競爭も刺戟も多い近畿の平野で、何代と無くこの努力がくりかへされて居たとすれば、其痕跡は必ず鮮かに殘つて居る筈である。私たちが是非とも知りたいのはそれである。個人の努力が學問であるか、はた單なる物ずきであるかの別れ目は、それを見る人に新たに何等かの知見を開かせるか否かに在ると思ふ。是が人間の勤勉と辛苦、殊に環境に打克たうとする力限りの考案の跡を、見究めさせる資料にもし役だち得るとすれば、農具の蒐集圖解といふやうな小さい仕事でも、決して無意味な道樂だとは評することが出來ない。たゞ其爲にはどこが改良であり、又どこが必要なる變化であつたかを、説明し得るもので無くではならぬと思ふ。

　

(216)　　　　　田中喜多美著『山村民俗誌』

　

　此書の著者が考へて居るやうに、山が我々の村生活の、約半分であつたことは事實である。たゞ其山から莫大な土が流れて、廣々とした平地の村を築き上げ、一方には又盛んに市人が去來して、往いて自ら採ることを必要としなくなつた爲に、國土は次第にその外貌を改め、後にはさういふ新たなる邑居が、日本の農村を代表する迄になつたのである。村の古代の結合組織が、今尚山地に據つて生を營む村だけに、僅かに保存せられて居る理由は爰に在つた。それを我々はもう忘れてしまはうとして居るのである。

　九州の南部では、狩獵の團體の名が昔通りにカクラであり、同時に其カクラは又小部落をも意味して居る。それが私たちには不思議でならなかつたが考へて見ると寧ろ當然の事である。村は神祭りや婚姻の便宜といふ點を除けば、主として此類の山の作業の爲に、協同することが最初からの目的であつたのである。以前私などが山民の心理といふことを説いて、力を山間の一つ家の生活に、傾けようとしたのは思ひ違ひであつた。さういふ生活も今は滅びかゝつて居るけれども、是は中代の武士の没落、さては火術の普及などに伴なうて、新たに始まつた樣式であつて、多くの山村は又別個の起原を遠い過去に持つて居るからである。

　田中喜多美君の舊著『山の生活』は、曾て私の愛讀書だつたのみならず、其頃書齋を訪れた程の人は、何れも勸められて一度はあの書を見て居る。どうして其樣に我々が是に心を惹かれたかは、細かに分析して見ないと今でも其原因を知り難いが、一つには著者が實驗といふ以上に、自身此事實の中に生れ且つ活きた人であること、それが民間傳(217)承學の黎明に目覺めて、始めて自ら識らうとした内容の記録だといふことが、この萬卷の古書新書の堆積裡に在つて、尚且つ一道の微光を放つて、人の眼を引寄せた力であらうと思ふ。それから今一つ著者が豫言者でも無く、又達識の士を以て目すべき人でも無いのに、その諄々として説く所が、偶然にも國内の既に知られて居るものと合致し、更に隔絶した府縣の隅々に於て、新たに觀測せられ、又採録せられようとして居るものと、一々に相呼應し映發するらしいことが、少なからず我々を驚歎せしめる。是は日本人が一つの種族、一つの文化團の屬員である以上は、何等の奇妙で無いと言へば言はれるが、少なくとも現在この事業に携はるほどの者は、大概は是をさういふ風には思つて居ない。それ程にも知識は個々の邊陬に眠つて、辛うじて孤立の篤學者のみを自得せしめて居たのである。天下萬人の生活觀測者が各々その遼東の豕を抱いて還るに及んで、始めて我々の學問は完成するのであるが、それは末遙かなる未來である。今は單に前代の尋常平凡事が、既に我々の間に珍重すべきものとなつて居たことを、心付いただけを以て滿足すべきである。

　地方の熱心な多くの採集家は、最初は歡迎せられ又大いに利用せられ、後いつと無く見失はれて居る。是は甚だ不本意なことであるが、さういつ迄も一區域の調査を、同じ方法と態度とを以て、續けて行くことは出來ぬ故に、後には外部との交渉が絶えてしまふのである。田中喜多美君は壯齡にして氣魄に富み、しかも此仕事は一旦是で片づいた。此次にどう出て行くかは我々全體の問題でなければならぬ。今まで見て來た現象の意味を問ふ爲に、弘く他の地方との異同を比較して、文化展開の經路を明かにするか、はた又我脚下を一段と深く掘り下げて、旅人にはわからぬ趣味と批判、その他あらゆる心意上の事實にまで入つて行くか、何れを擇ぶにしても其途は既に具はり、其資格も亦たしかに有る。要は唯永く一處に掩滯しなければよいのである。學問の漸く熾んならんとする時世に生れ合はせ、事業は認められ辛苦は酬いられ、しかも郷土の爲に傳ふべきものを傳へて、大いなる激勵を嗣いで起つ者に與へ得たといふことは、誠に爽快なる一成功に相異ないが、しかも丈夫の生涯の企畫としては、是はまだ僅かなる一つの段階に過ぎ(218)ない。私は寧ろこの著者の餘力の尚豐かである點を羨みたいのである。

　

(219)　　　　　山口貞夫著『地理と民俗』

　

　風土が人間の現世相を説明し、更にその知識を足場として、國家將來の計畫を正導することも出來るといふことは、決して新たに生れたる學問の希望では無い。自分などが物を覺えてからの五十餘年、いはゆる人文地理學の進路は、いつでもこの希望を確實にする方向を指さして居た。さうして古人のあまりにも大まかな、少しは身勝手の加はつた推斷がどこまで當つて居たかを見究めることを怠らなかつた。豫言はどの樣にも人を樂しませることができるものだらうが、當ると信じさせなければ安心にはならない。故に先づ目前の既に現はれて居る事實に就て、我々の法則の一般に眞なることを證出する必要があるので、人國記一流の空漠なる知識の上に、打立てられた理論などはあぷないものである。地理が人生の多くの疑問を、釋いてくれるであらうといふ山口貞夫君の確信は、時代の何人にも讓らなかつたと思はれるが、私がそれに大いなる望みを寄せることが出來たのは、全くその飽くことを知らぬ知識慾の爲であつた。如何なる小さな事實でも、行つて自ら確かめるか、少なくとも無數の類例の比照に由つて、その存在を明かにしなければ論據にはしなかつた。それが學問の資料のまだ十分に豐富にならぬうちに、僅かに言ひ得ることだけを言つて過ぎ去つてしまつたといふことは、いかに嘆いても嘆ききれぬ悲しみである。

　大小の離れ島に離れて住む者の、淋しい生活を觀察しなければ、國土環境の深い惠みを會得することが出來ぬといふのが、山口君と自分等との一致した考へ方であつた。たつた二年しか續かなかつたけれども、其爲に我々は「島」といふ雜誌を經營して居た。さうして其間に於て最も多くの島々を、純一なる學徒の眼を以て見てまはり、幾多の清(220)新なる印象を記録したのは彼である。全國五十の特に世に知られざる山村に、同時採訪の計畫が實現した際にも、山口君は羽前の安樂城、豐前の伊良原、次で伯耆の中津等の調査を分擔して、それ／”＼綿密なる手帖を留めて居たのだが、その資料は自身にも十分の利用が出來なくて、たゞ問題の興味を同志の間に引繼いで居るに過ぎない。この書を讀む人の直ちに心づくであらう如く、山口君は勇敢なる旅客であると同時に、最も精勵なる書齋の闘士であつた。人と會するの日は耳を、途を行くときは目を主力として、多く知り少しく談り、内に生命の促迫を感じつゝも、強ひて功程を急がうとする風が見えなかつた。恐らくは學問の歸趨が彼には夙に明かであつて、前人後人が此の如く相助け、積み上げ、ゆりならした基礎の上に建つものが、まことの完成であることを信じて居たからであらう。どうか我々もその素直な信頼に、背かぬやうにしたいものと念じて居る。

　太平洋戰爭の起るより數年も前、山口君は好い機會を把へて、弘く南方の國土を歴訪して來た。其日の感激は深いものであつたらしく、君が生活觀照の態度にも若干の影響は看取せられ、讀書の傾向は著しく進展した。しかもこの方面の完成は愈々末遠く、かの杳溟の果に散らばつて住む人々と、之を指導し聲援して行かうとする先進國の住民とを、均しく支配する天地間の法則が、是だと明示せられるまでにはまだよほどの年月がかゝり、たとへ我々が武内宿禰ほどの長壽を保つても、すつかり結末を見ることは六つかしいであらう。必要なるものは希望である。必ず斯うなるといふ確信の根據である。山口貞夫君は壯齡にして世を去つたけれども、永く安全な希望を我々に遺して居る。

　

(221)　　　　　楢木範行著『日向馬關田の傳承』

　

　昨年は春と秋と、兩度までも鹿兒島を訪れたのに、楢木氏の大人には一囘は不在の爲、一囘は私の僅かな遠慮から、終に面會を求めずして還つて來た。今この書物の世に出て行くのを見るにつけて、何か寂しい心殘りを感ぜずには居られぬのである。故人はやはり自分等が想像してゐた如く、一種新しい型に屬する傳承者であつた。明治初頭の進取時代に人となつて、まともに世の中の移り替りを見て來た人たちには、新舊二つの生活樣式の兩立し難いことが、幾分か過當に印象づけられてゐる。父祖傳來の經驗に忠實な者、繼いで起るべき變遷に對して、若干の危倶を抱く者が、寧ろ一段と熱心に所謂開化の本質を捉へんとした。さういつ迄も過去の事物の咏歎に、耽つてばかりは居られぬといふ氣風が、多くの有識者を支配するやうになつた。この警戒は時として、やゝ反感に近いものとさへなつて居る。昔を尋ねられることを當世と交渉無き者と、認められたかの如く憤る人さへあつた。そんな事を聽いて何になさると、叱られたことも私は覺えてゐる。私の師事した田尻稻次郎先生などは學問を以て愛國の一大事業と認め、人生の福祉以外に研究の目的は無いといふことを、確信して居られた學者であつたが、それでもなほ私等が地方の旅から戻つて來て、前代の事物の埋もれて居たものを報告すると、耳を傾けてその話を聽きながらも、必ず最後には今はもうその樣な問題を、穿鑿して居るべき時期ぢやない、といふやうな批評を加へられた。一國の要衝に立つ人々にすら、現在まだこの考へ方が幾分か痕を引いて居る。まして經濟の中樞を遠く離れて、ともすれば全體の進歩から、後に取殘されてしまひはせぬかといふ、漠たる不安を抱きがちな者が、所謂舊弊を危險視して、自分はとにかく愛する子孫まで(222)が、徒らに往きて返らざるものに憧憬して、現世と疎隔し將來の適應性を失はんことを憂ひたのは、極めて自然なる人間の情と言ふべきである。以前一つの民族の個々の群の中に、必然的に備はつて居た故老といふ者、即ち明確なる記憶と周到なる理解力とをもつて、しかも生前に少くとも一人、頼もしい傳承者を見つけて之を語り、之を引繼いで置かなければ死ねないといふ、教育の使命を意識してゐた者が、もしも斯ういふ過渡期の通念に囚はれてゐたとすればその内部の煩悶は果してどんなであつたらうか。楢木君は幸ひにして夙に傳承の學に携はり、新たなる人生の觀方を試みんとする人であつた故に、學問と恩愛との二つの熱を以て、徐ろにこの一旦冷え固まつた表面を、融解することに成功したことゝ思はれるが、子供には到底親の死ぬことなどは豫期せられるものでない。忽ち不慮の永訣に遭遇して、今更に聽き漏した題目の數多きを歎いて居るのは、親子雙方に對して、まことに同情すべき悔恨と言はなければならぬ。自分は齡も故人と近く、心境も亦少なからず相似てゐる。もしも會面してこの時代の推移を語り、反動が?々無意味なる斷絶を引起さうとした歴史を説くことが出來たならば、故人も或は今少しく意を安んじて、自ら進んで問はれない事までも、語り殘して置かうとせられたかも知れない。しかし畢竟する所、學問もまた一つの縁である。機運が到來しなければどんなに奮闘して見ても、個人の力では一代の研究心を、新たな方面に向けかへることは出來ない。さうして私も又楢木君と同じに、斯んなに早急にこの大切な故老が、語らぬ人にならうとは思はなかつたのである。此經驗は利用しなければならない。私等の知る限りでは、學問の趣味にはたしかに遺傳がある。古い生き方や考へ方を、詳しく知つて居りたいと思ふ人の周邊を探つて見ると、必ず血筋のどこかには、昔をよく知つて語り殘したがつて居る人がある。しかもその多くは新時代に遠慮をして、鬱々として陳ぶる所無く、豐富なる我々の爲の新知識を胸に抱いたまゝで、遠く永く旅立つてしまふのである。この肉身の至情を全社會の賢明に役立たしめる爲には、少しでも早く日本民俗學の意義の、弘く民間に普遍することを希望しなければならぬと思ふ。

　

(223)　　　　　江馬三枝子著『飛騨の女たち』

　

　飛騨の白川を私が見てあるいたのは、明治四十年の六月、多分あなたがまだ小學校へ入られる前でありませう。前にも武陵桃源のやうなうはさ話を、語り傳へて居た者がありましたが、實地にこの溪谷を旅行した人の文章は、たゞ二つだけしか讀んで居なかつたのです。現在一向に世に知られて居ないといふこと、それだけが我々に對しての大きな誘惑で、果してこの中から、新たにどういふ寶を見つけて還るのがよいかといふことも、まだ考へる力が無かつたやうに思はれるのであります。土地の人たちの方でも、何を見に來るのか何が知りたいのかを全く知らぬ風でありました。たま／＼物を尋ねてもたゞ一こと答へをするだけで、伏目にさつさと行き過ぎてしまひます。それが三十何年の後になつて、是ほど色々の考へなければならぬことを、弘く日本の女性に語り得る土地になるだらうと、私で無くても誰が想像しませう。

　この御本を拜見して、しみ／”＼と思ひ出すことが幾つも有ります。何よりも忘られないことは、それは／＼寂しい旅でありました。ちやうど郭公のよく鳴く六月なかばで、村の人たちは皆山畑に登つて働いて居たのか、どの家も森閑として居りました。細い街道の曲り目の端まで、誰もあるいて居ないといふ處が何度もありました。さうして雨が折々降つて來たのであります。兩側の緑の山に雲がかかると、一谷はたゞ流れの音だけになり、幽かに山の蟇の聲が聽えて來たりしました。

　飯島で見つけた越中のボッカに荷物を引繼いで、高山の案内者は天生《あもふ》を越えて歸つて行き、私は一人になつてしま(224)ひました。も一度友をさそつて來て見たらどうだらうといふことを、考へずには居られませんでした。

　　　有りとある物みな濡るゝさみだれに飛騨の山川かちわたりせし

さういつた山あひの濁つた小流れも、せめてもの結縁として振りかへり望みつゝ、私は五箇山の方へ下つて來たのであります。

　それから五年七年とたつうちに、故友川口孫次郎君がよくこの邊の山をあるいて、時々東京へ來ては白川の話をしました。川口氏には一册の著述さへあります。今の木曜會の同人の橋浦君や瀬川さんが、この山村に入つたのも同じ頃であります。それでもまだあなたの樣な理解ある批評者が、親しく白川の女たちと、何度でも心を語りかはす機會などが、やがて來ようとは思つて居りませんでした。世の中の移り變つて行くといふことは、何かにつけて不安ではありますが、それが無かつたならばこの本も歡んで迎へられず、第一にあなたの日和下駄の音が、この深い谷底に響くやうなことも無かつたでせう。三十何年前には私などが、求める途すらも知らなかつたものを、もうあなたは見つけ出し、人に示さうとして居られるのであります。

　前の旅の終り方には、私は伏木の港を訪れて、飛騨から流れて出る材木などを見ました。其頃の伏木はまだ靜かなもので、埋立ての草原には、はた／＼ばかり澤山に飛んで居ましたが、年を隔てゝ再び往つて見ると、そこには見霞むほどの上屋が建ち竝び、工場の煙は繁く、川は其間に力強く流れて海に注ぎ續けて居るのであります。同行の大間知山口の二君は、ゆくりなく爰で白川の話を私から聽いて、次の日は水源庄川の谷を、高山の方へ拔けて還つて來ました。山口君はこの夏なくなつてしまひ、大間知君は今新京に行つて働いて居ますが、多分この二人は私以上の深い關心を以て、あなたが「ひだびと」に連載なされた木谷七戸の聞書を、愛讀して居たことであらうと思ひます。それで記念の爲に、私があの伏木の町の旅宿で、書いて二者に示した歌を殘して置きます。年とつた者の癖です。実つてはいけません。

(225)　　　我はこの射水の川のみなかみの細き流れをかつて見たりき

　

(226)　　　　　瀬川清子著『海女記』

　

　この一册の本を讀んで見て、女でなくては出來ない仕事といふものが、まだ學問の方にも色々とあることに、心づく人はきつと多いであらう。同じ前代の生活事實でも、文字に書き留められ記録に殘つて居るものだけは、よく讀みよく考へて覺えて居る老人が男の中にも多いが、彼等は明治初年の最も忙しい時代に育つたので、たゞの記憶の方までは中々手がまはらず、其分は自然に女の特に慧しい者に、委ねて置く姿があつた。ところがこの人たちは遠慮深く、さうたやすくは始めての訪問者に、知つて居ることを語らうとしない。いつでも爐の火の向ふで手の甲を温めてばかり居る。殊に私たちにはちよつと尋ねることの出來ぬ問題が、女性の生活を繞つて幾つとも無く殘つて居るのである。たま／＼同情を以て之を察し得たやうに思つても、男が之を傳へるとなほ心もとなく、又はいやみに聽える。女性の社會觀と人生觀、中でも男女の仲らひなどはまさしくその一つで、たとへば芝居の御姫樣などは、男の注文通りに出來て居るといふやうな批評を、昔も女の人の口からよく聽くことであつた。それを參考にするしないは第二の問題として、ともかくも一方の立場を省みない觀察は、眞相でないとまでは言へると思ふ。女の學問が土佐日記の序文のやうに、男に出來るだけを目標として居る限り、斯ういふことは話にも希望にもならなかつたのである。それが今度はこの瀬川さんの實例によつて、新たに開拓の端緒を得たのみならず、又大切な若干の指針を示されたといふことは、今日の御時世としては特に悦ばしい。つまり女性がその持前の長所を發揮して、國の文化に貢獻せんが爲には、是非とも先づこの人のやうに、眞劍であり又無私でなければならなかつたのである。

(227)　自分の知つて居る限り、獨りで瀬川さんのやうに、全國をあるきまはつた婦人も少ない。それが何れも珍らしい土地であり、又苦しい旅であつて、一時は健康にもどうかと危んだ位であつたが、御蔭で我々のもらつた家苞は、皆第一次の記録、即ち今まで一ぺんも文字の形で、此世に傳へられたことの無い事實ばかりである。有りといふことを聞いて居ただけの、至つてつゝましい人々の生活が、誇りも咏歎もなしに、すなほに内側から映し出されることになつた。女にもと言はうよりも女であるが故に、しようと思へば斯ういふ仕事が出來たのである。小さいかは知らぬが心強い立證であつたと思ふ。文章が明快でむだの少ないのも私たちにはうれしい。つまりは女に有りがちな餘計な辭令は取りかはさず、聽くべきことだけは皆聽いて、ちやんと覺えて還つて來たので、よつぽど物の問ひ方が上手であつたらうことは、その答への言葉の中からでも推測し得られる。練習といふことも勿論あらうが、是はやはり又態度と意氣込、更にいふならば精進の力であつたと思ふ。

　たゞしこの樣にも辛苦しなければ、前代女性文化の眞相は把握することが出來ぬたのかと、思つてしまふのはまちがつて居る。この書の著者に向つて我々の感謝して居るのは、單に無人の野を拓き、うばらからたちを伐りあけて、青空の日影を逆へ入れたことであつて、もう世の中はずつと明るくなつて居るのである。還つて來て見れば家の中にも垣根のまはりにも、今まで心を留めずに居た色々の民間傳承が、僅かなものに覆はれて埋もれ居たのだつたといふことを、瀬川さん自らが此頃になつて、心づき始めて居るのである。如何なる境涯でも心掛け一つ、我身に傳はる力を世の爲に、役立てようといふ念慮さへあれば、仕事はまだ幾らでも殘つて居るといふことが、言はゞあの骨折な修學旅行を縁として、追々に知れ渡らうとして居るのである。素より是も亦一つの機運であらう。現に女性叢書の次々の卷にも見られるやうに、今まで各地方に立ち別れて、靜かに常民の生活を觀察し、それを記述して世に送らうとする人々の態度は、期せずして大よそは一致して居る。しかも一方には劍を執つて前線に立つことを得ぬ者が、どうすれば學業を以て國に盡すことが出來ようかといふ深い惱みが無く、更に他の一方には新たに友となつたさま／”＼の民(228)族を理解すべく、改めて今一度、親々の歩んで來た道筋を見なほしたいといふ、切なる願ひが起つて居なかつたら、斯ういふ折角の御手本も、たゞ單なる物珍らしさの讀みものとして、やがては又忘れられてしまつたかも知れぬのである。さうはさせないのも時勢の力と言つてよからう。歴史の學問の一生面が、新たに女性の手によつて、育てはぐゝまるべき兆候は既に見えて居る。『海女記』は亦一つの記念の書として、恐らくは後の世に傳はるであらう。

　

(229)　　　　　能田多代子著『村の女性』

　

　この一卷の文章の中では、特に農村採訪記以下の諸篇から、樂しい印象を私は受けて居る。是まで一ぺんも採訪といふことの、無かつた村々であるといふだけなら他にも例は多いが、年頃同情をもつ著者のやうな人が、村に生れた若い女性を道案内につれて、ちやうど野山は紅葉尾花、里は苅入れ時の活き／＼とした秋なかばに、澤を渡り、長根の路を登り降り、次々とゆかりの家々を訪れて行くといふ情景は珍らしいもので、單なる學問の道行振といふ以上に、何か新らしい文化映畫でも見るやうな、意外な悦びを人に與へて居る。おまけに其中には程よいところ／”＼に、逢つて話をした老人や女房たちの、素朴な思ひ入つた面ざしと物いひが、大寫しのやうにして挿み込んであるなどは、以前は言ふも及ばず後にも恐らくはさう多くは類があるまい。曾ては斯ういふ人生の現實も片隅に有つたといふことを、しみ／”＼と考へて見る人の爲に、是はまことに親切な贈りものであつた。失禮な話かも知れぬが、企てゝは却つてこの樣には書けなかつたらう。すなほな物を感じる力といふものが、案外に大きな仕事をするといふことを、改めて私も經驗したのである。

　今までこの五戸といふ地方へ、足を踏入れたことの無い我々にも、是で一通りは土地に住む人の氣持が、窺はれたやうな感じがするのだが、しかし細かく見て行くと、まだ色々の註釋の欲しい點が見つかつて來る。もしくは唯すら／＼と通り過ぎてしまふものゝ中に、立ちどまつて更によく見て置くべきものが、殘つて居るやうななごり惜しさが多い。それで折にふれてそちこちの雜誌に、書いて置かれた同じ土地の生活誌のやうなものを、出來るだけ多く拾ひ(230)出して、一册の本に纏めて見てはどうかといふことを、勸めたのも實は私であつた。斯ういふわざとでない幾つかの敍述を繋ぎ合せ、自然の綜合によつて徐ろに眞相に近づいて行くといふことは、讀書家にとつても樂しみな仕事であり、又最も穩當且つ公平な判斷を、導いて來る道でもあらうかと思つたからである。最近の歴史に於ては、廣い全國の中でも東北は殊に、その將來の展開に就いて、多くの外部の人たちの關心を引付けて居るが、其割合には近よつて詳しく知らうとする者が少なかつた爲に、今まではとかく簡單な概念によつて、一括した推論が下されやすかつた。さういふ場合にいつも迷惑をするのは、五戸郷などのやうに比較的早く開け、しかも何等かの事情によつて、その古い頃の文化組織から、そつくり脱け出して來ることが出來ずに居る土地である。勿論さう謂つた土地も少なくなつて行く一方で、その變遷經過の究め難いことが、言はゞ近頃の東北問題を六つかしいものにして居たのである。能田多代子さんの生活描寫が、單なる昔を愛する者の心ゆかしであり、又はたゞ御國自慢の一種であつたとしても、なほその數々の言葉の下に、隱れて流るゝものを掬み味はつて見なければならぬ。ましてこの人は久しく民間傳承の會に携はつて、既に我々の知識の渇きを知つて居る。是が東北の理解の上に、新たに若干のものを寄與することは、素よりその志であり、さうして又目的はほゞ達して居るやうにも思ふ。

　しかし自分にも經驗のあることだが、書物の實際の效果といふものは、書いて居る當人には豫測し得られるもので無い。寧ろ後々の良い讀者によつて、時過ぎてから新たに發見せられるものが、幾つか殘つて居る位なのをしあはせとしなければならぬ。この本の中にももう少し説明のあつてよい處、或は五戸といふ郷土の特色がやゝ知られて居たならば、更に一段と興味が深かつたらうと、思はれるふしも無いとは言へぬが、そんなことに氣をもんでうつかりと口を出すと、却つて提灯持ちの嫌ひがあつて、何か新らしいものを此中から見つけ出さうとする熱心を、殺ぐこととなつてもつまらない。それよりも將來この女性叢書のやうな事業に參加して、一つの方面を分擔して見ようといふ志のある人たちに、少しは役に立ちさうな二三の心付きを、聊か無遠慮に書添へて置いた方がよいかと思ふ。その一つ(231)としては女の修養といふこと、是はやつぱり少女の頃から、おとなに成つて行くまでの間に身に附いたものが、深く力強く生涯を指導して行くやうに、最初から定まつて居るのでは無いかといふことが感じられる。能田さんは國でも決して古い型の女性で無く、それから東京に出て來てさま／”＼の世相を學んだ上に、更に九州の一角に移り住んで、最も思ひ出の深い結婚生活を送つて居られた。主人はすぐれた民俗學の學徒であつて、あらゆる生活の觀察をするのに誰よりも自由な境遇に居つた人である。しかも奧州五戸郷の生活を説く段になると、私たちが期待して居たやうな南北の比較が、まだちつとでも試みられては居ないのである。恐らくは此次に肥後の玉名郡の見聞記を書かうとする場合に、それが想像以上に豐富に出て來るのかも知れぬが、ともかくも婦人としては至つて得難い經歴、國の兩端の、しかも農民の常の日の生活を熟知して居るといふ特長を、ここでは十分に利用することが出來なかつたのは、必ずしも同情の深さ淺さにはよらず、寧ろ常識とも名づけらるべき體驗の濃さ淡さ、もしくは成長の盛りの日の印象といふものが、たとへば入墨などの如く、身になり肉になつてしまつた結果であらう。教育者に聞かせると是は大きな參考になるが、そんなことまでは我々の掛りで無い。それよりも日本の昔の心を尋ねて行くのに、この點を各自の足場とし、從つて又やたらにめい／＼の常識に照して、異なる境遇に養はれた者の心持ちを、批判しようとする傾きを、戒めなければならぬことだけは考へられるのである。

　さうすると話は結局、どういふ人に向つてするつもりで書くのが、一ばん效果が有るかといふことが第二段の問題になつて來る。この本には限らず、女の人の書かれるものにはいつも其惱みが窺はれ、女で無いけれども自分なども始終苦しんで居る。理窟は勝手なものだから、一人も聽く人が無いと思つてもしやべれるが、一たび見た感じたといふ事實を談る段になると、是には立聽き傍聽といふ樣な、知らぬ聽手までが豫想せられるのである。この能田さんの筆の跡にも、處々に書きにくかつたらうと思はれる部分が見られるのは、私には無理も無いと同感せられる。一方には殆と何も知つて居ない奧州以外の讀者があつて、さういふ人にもうんと聽かせたし、他の一方には故郷の知人の、(232)そんな當り前なことをと思つて居るのが、背後には又多く控へて居るのである。是をどうしたら雙方共に、讀んでほゝ笑むやうな樂しい滿足を與へられようかといふことは、言はず語らずの間に誰でも迷うて居る。後來も必ず問題になるだらうが、是は私などは自分に聽かせて居るやうに、もしくは愛する人々が眼の前に居て耳を傾けて居るやうに、空想を描いて語るより他は無いと思つて居る。昔の家刀自の膝の傍に寄つて來た者は、知らぬやうに見えてもまだ色々の事を知つて居た。從つて話は簡單でもよく、又寧ろ短く強い言葉で、要約してやつた方が效果が多かつたのである。是に反して現在の知るべき人々は、大抵は成長期の境遇を異にし、斯んな事すら知らなかつたのかと、驚くやうな場合が常に多い。ましてや其愛情を更に推し擴げて、百年二百年の後代に及ぼすことを考へると、冗長は無論いけないが、少なくともさきで判るまいと思ふことを書き殘すべきで無い。背後の少數の書かれて居る人たちの思はくなどは、斯ういふ意味に於てなだめて置けばよい。即ち彼等も亦我々の筆を通して、始めて後世に向つて語ることが出來るのである。

　それから今一つ、是まで自分が知り拔いて居ると思ふことでも、改めて人に語らうとすると、又新たなる疑問の種になることが?々ある。私たちはそれを事實と學問との繋ぎと考へて、出來る限り粗末にせぬやうにして居るが、馴れないうちは是が氣になつて、思ふやうに話を進められなかつた經驗を持つて居る。この世に理由の無いことの存在しよう筈は無いのだが、それがまだ明かになつて居ない場合は至つて多い。どうしてさういふ事實が有るだらうかといふ疑ひは、言葉通りに受取つてこちらも共々に、考へて見るべきものであるが、女の人たちにはそれを有り得ないことだ、又は何かのまちがひであらうと、言はれたのと同じに取つて氣にかける人が折々はあり、私などもよほど受答へに用心をして居る。能田さんはもう馴れて居るので、決してさういふことには頓着はしないが、それでも時々は事實の前に立留まつて、果して説明が無くても人が之を信ずるだらうかと、自問自答するまでの心づかひだけは持つて居られる。さういふ場合に時々は私の名を引いて、柳田も斯う謂つて居るからと、御手本に喚ばれて居るのは迷惑(233)な話であつた。私は前にも述べた通り、まだ五戸郷には足を入れたことが無く、今まで他の方面の僅かな見聞に據つて、斯ういふわけでは無いかと推定して居ることが、ひつくり返りはせぬかとびく／＼として居る者である。爰の又一つの新らしい事實が、この推定を支へてくれゝば仕合せといふまでで、それを解説する力などは持つて居る筈が無いのである。だから此點は斯ういふわけかも知れぬと、謂つて居る人が有るといふ程度に、引下げて讀んで貰はぬと甚だ困るのである。しかしさう謂つて居るうちにも追々と採訪が進み、殊に東北のあちこちの土地から、斯ういふ精密な且つ同情に富んだ記載が、更に三つも五つも出て來ることになつて、それが偶然で無い數々の一致を示すやうになつたら、そんなつまらぬ苦勞はする必要も無くなつて來るにちがひない。どうかさういふ證據を安々と利用して、村々の女性の隱れた功績が、誰にでも考へられるやうになつて後、改めてもう一度、この先發者の御手本に禮をいふ時代が、早く到來せんことを私も切に念じて居る。

　

(234)　　　　　大藤ゆき著『兒やらひ』

　

　　　　　　　四鳥の別れ

　

　序文はもう書かぬ事にきめましたから、たゞ心に浮んだことを言つて見ます。少年の頃近松だつたか馬琴だつたかを讀んで居て、四鳥の別れといふのは何の事ですかと、父に尋ねて見たことがありました。父の話には、それは孔子家語といふ本に、かつて孔子が衛の國に居られた時、人の泣く聲の甚だ哀しきを聽いて、顔囘を顧みてあれは生別をする者の聲である。昔恆山の鳥四子を生む。羽翼既に成つて將に四つの海に分れ飛ばんとす。其母悲鳴して之を送る。その往いて返らざるが爲なり。竊かに音の壘するを以て之を知ると言はれたとあるのに、據つたものだといふことでありました。父が亡くなつて十年もしてから後に、文部省の展覽會でこの四鳥の別れを、大きな繪に描いたのを觀たことがあります。崖に臨んだ喬木の梢から、二羽の大鷲が四つの雛の飛んで行くのをながめて居るところを、心を籠めて寫し出したのを見まして、この畫家も亦人の親だなと、しみ／”＼と感じたことでありました。

　近ごろ飜譯せられたバイコフの『森の王』の中にも、たしか虎のお母さんが、仔虎の食物に夢中になつて居る隙を見て、そつと往つてしまふことが書いてありましたが、日本でも熊は仔熊を三歳までは連れあるくことがあつて、四歳の春の雪解けに穴を出るとき、その子と別れることになつて居ます。その方法は北滿の虎よりも素朴で、大抵はこ(235)はい顔をして咬むのださうであります。越後から會津にかけての山地ではそれをヤラヒと謂ひ、さうして母と別れた子をヤンゴ又はヤラヒゴといふことは、私と倉田君とで集めた分類山村語彙にも出て居ります。それとこの本の『兒やらひ』とが、別の言葉で無いといふだけは、著者としても認めて居られることゝ思ひます。

　ヤラフは神代卷の素盞嗚尊の條にも見えて、日本では最も古い言葉の一つであります。それが「遣る」といふ動詞の第二形で、行爲の持續を意味して居たことは、前代の語學者も認めて居るに拘らず、どういふ理由からか文獻の上では、鬼やらひとか儺やらひとか、妙に好ましくないものを追ひ立てる場合にしか使はれて居らず、たま／＼中國と四國との片隅だけに、子やらひ又は孫やらひといふ言葉が、方言として僅かに傳はつて居たのであります。以前我々平民の口語の中に、是が全國普通のものであつたか否かゞ、大きな且つ意義のある問題とならずには居りません。といふわけは、ヤラヒは少なくとも後から追ひ立て又突き出すことでありまして、ちやうど今日の教育といふものゝ、前に立つて引張つて行かうとするのとは、まるで正反對の方法であつたと思はれるからであります。人を人竝にして人生へ送り出す期限は、もとは御承知の通り思ひ切つて早いものでした。男も娘の子も十五になると、もうそれ／”＼の群に加はつて、仲間どうしの切瑳琢磨をしたことは、話に殘つて居るだけで無く、今もまだ續いて居る土地も少なくはありません。當世のお母樣は眼を圓くしてしまふでせうが、人を成人にする大切な知識の中には、家では與へることの出來ぬものが實は幾つもありました。さういふ點については世間が教育し、又本人が自分の責任で修養したのであります。ヤラフといふのは何か苛酷のやうにも聞えますが、どこかに區切りをつけぬと、いつまでも一人立ちが出來ぬのみならず、親より倍優りな者を作り上げることも出來なかつたのであります。それも世の中がたゞ少しづゝ、水河のやうに移つて行く場合ならば、大體に親の經驗を相續し、親の歩んだ足跡を踏んで居ても、同じ結果になつたかも知れませんが、是からはもうさうは參りません。子供には別に彼等の時代があり、又彼等の活き拔かねばならぬ人生があつて、それは?々我々の想像を超越したものであり得るのであります。丈夫な逞ましい、人にもたれかゝら(236)うとせぬ若者を、育てゝ送り出すことは國の爲であり、同時に又彼等の安全なる道でもあります。さうして又これが古くからの約束では無かつたかと思ひます。鷲だの熊だのゝ眞似をするのでは萬々ありません。彼等には自分の勝手もあり、又別離の強い悲みも忘れてしまふらしいに反して、人は兒やらひの爲にみな窶れてしまひますが、その代りには恩愛のきづなは永く絶えません。たゞそれと次の代の新鮮なる生活計畫とを、一緒にしてしまふことを避けさへすればよいのであります。私のやうに年をとつてしまつた者で無いと、今日の孝道には色々の流弊があるといふことを、注意することは出來ぬのであります。

　あなた方は『兒やらひ』などゝいふ本を書きながら、果して或時が來たらヤラフことが出來ると思ひますか。出來なくとも私はちつとも怪しみません。それにしても是だけの古今の差、もしくは公社會に對する親の役目の、右と左との考へ方の差があることを、似たる境涯の人たちに心付かせることまでは、出來るから結構だと思ひます。未來永々の子や孫たちに向つて、この本が大きな記念の書であることは申すに及ばず、更に輝かしく展開する聖代の文運に、日本民俗學といふ學問を繋ぎ付ける爲にも、『兒やらひ』といふ標題は殊に適切でありました。以前はどういふ風にして居たらうか。といふ疑問を抱くことを、多くの今日のお母樣は怠つて居るやうに見えます。未來を愛するといふ心持が、新たにこの本によつて湧き起ることは、たゞ單なる復古ではありません。特に今日の國情が之を要求して居ります。

　

(237)　　　　　女性民俗學研究會編『女の本』

　

　女の本、と題してもよい樣な本を、何とかして今一册は殘したいといふ念願を、久しい以前から私は抱いて居た。さういふ餘計な御世話を、もう燒くには及ばぬと知つたことが、この書物を世に送るに當つての、まづ大きな一つの悦びである。

　學問に心ざす今日の女性には、二つ二通りの態度が今でもなほ見られる。その一つは男に負けるものか、男に出來ることなら何だつて女にも出來る。差別を立てるのがそも／＼惡いといふ氣持、是はけなげなことだが永く續かぬ勇氣で、實際はたゞ男の中の、やゝ平凡な者だけに勝つて滿足して居る。

　第二のものは女の特長を活かしたいといふ志望、女でなくては出來ない仕事、又女が携はれば今一段と進むにちがひない研究を、選み出してそれへ力を入れようとするもの、歴史などはもし女の感覺を頼むことにしたら、是からさきどの位多くの新らしいことが判つて來るか知れない。是まではとかく猿蟹合戰の猿のやうに、へただの種だのばかりを女に分けてやる形があつた故に、つまらながつてよく働かうとしなかつたのである。

　其分業を改めるやうにするのには、今日は誠に好い機會である。私はもう大戰の初頭から、特に女性に適した學問がある筈といふことを、男の癖にと言はれさうなほど力説して居た。さうして最も深くけだかい精神的分野でも、曾て尋常の婦人までが、大いに働いて居た事蹟の有ることを、『妹の力』などに於て證明しようと試みたのであつた。

　しかし昔はどうであらうとも、今はもう變化し切つて居るのかも知れない。新たに優れた女性の寄與し得べき事業(238)が、この方面に在るといふことを一般に認めさせる爲には、やはり改めてその證據を示さなければならない。この一卷の合著に携はつて居る人々は、修養素質二つながら、たしかにそれを爲し得る人だと私は信ずるが、女は總體に藝度胸といふやうなものが足りない。果してこの第一囘の試みから、その能力を十分に發揮して居るかどうか。それだけを少し私は氣づかつて居る。しかし現代の多數讀者の中には、年を取つた男子の私などよりは、もつと敏感にこの本の言はうとして居ることを理解して、共々に同じ方向を目ざして、もつと前進しようとする人がきつと有る。それが我々の樂しい豫想であり、同時に筆者たちの第一次の目的でもあると思ふ。

　

(239)　　　　　高田十郎著『隨筆民話』

　

　　　　　　　　　　一

　

　高田君の文章は、大正五六年以來、見かけると必ず讀み、讀めば必ずしまひまで、讀み通さずには置かぬといふ、習癖のやうなものを、私は持つて居る。今度の本は殊に自分の勸誘がもとで、世に出ることになつたかとも感じられるので、出るのが待ち切れなくて、原稿ですつかり拜見した。譽められることは第一に著者が嫌ひのやうであり、この序文の筆者も格別すきの方ではなく、それよりも是から愛讀しようといふ人たちに干渉がましくて失禮だから、是は先づさし控へることゝし、茲にはたゞ之を話題とした世間話のやうなものを二つ三つ竝べて、この本を將來の學界と結び付け、かつは年久しい我々の交遊を記念しようと思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　多くの友人がもう知つて居るであらうことは、高田君は名代の筆豆であつて、しかも發表慾の少しく淡い人である。奈良を第二の故郷としてから三十何年、『奈良雜筆』といふものを書き續けて居るのは有名な話で、昨今はもう三百卷も越して居るさうだのに、何のかのと言つて一向に弘く見せてくれようともしない。もう十七八年前のことに、それを色々と勸めてやつと一册だけ、其中から選み出したものを本にする約束をしてもらつて、大急ぎで『爐邊叢書』の(240)近刊に豫告したのだつたが、雙方支度がひまどつて居るうちに、惜しくもふい〔二字傍点〕になつてしまつた。今囘出る本は、定めて新たなる思ひ立ちであらうが、あの昔の約束の氣がかりが幾分か背をつゝいて居らぬとも限らぬのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　全體、高田君自らがまだ心づいて居られぬらしいが、日本で隨筆といふ本は千近くも既に出て居るに拘らず、目で視、耳で聽いた話を其まゝ書き留めて居るものは存外に少なく大抵は一ぺん學問の吹革にかゝつて居る。もつとはつきり言ふと、採録者がえらい人であるが爲に讀まれて居る。純なる客觀の記述といふものは、日記や紀行の中から捜し出すよりも、まだ捜し出しにくいのである。私の今覺えて居るのは、津村正恭の『譚海』などがその希有な例の一であつた。近年になつては山中共古翁の『共古日録』、是が分量に於ても『奈良隨筆』に近いものであつたが、翁の歿後誰かゞ私藏してしまつて、ちつとも世の中に役には立つて居らぬ。勿論どのやうに筆豆であらうとも、一人の力ではさう〔二字傍点〕大きな仕事は出來ぬかも知れない。私の目的は寧ろ斯ういふ流儀が、決して物好きや道樂でないことを例示して、後を嗣ぐ人の數を多くしたかつたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　民話といふ言葉は、氣の利いた名だと私も思つて居る。曾ては佐々木喜善君の『江刺郡昔話』などでも、さういふ一項を設けて、或種の説話だけを其中に排列したことがある。たゞ自分たちの仲間に於ては、昔話が西洋で民間説話と呼ばれ、それを省略して民譚とも民話とも譯して居る習慣を知つて居る故に、今以て其採用をためらうて居るのである。それで現在は假に世間話といふ名を以て、この高田君の謂ふ民話に宛てゝ居るのであるが、固より評定の餘地はあり、是に限るとまで思つて居るわけではない。「世間話」は世間でもよく使はれる言葉で、人によつて心持もや(241)ゝ變り、第一に我々の最も重きを置く「民衆の間に行はるゝもの」といふ意味が、省みられない懸念もあるのである。しかし今のところでは、ともかくもまだ一定しては居らず、從つて民話の範圍と限界、殊にその文化史上の意義といふものは定まつて居ない。我々の待ち焦がれて居る永遠の平和が、幸ひにして確立した曉、ふりかへつて今日の受難時代を仔細に考察し且つ咏歎するやうな世の中になつたならば、或はこの高田君の一著などは、その外形の花々しくないに似もやらず、最初の民話の集録として、可なり大きな歴史的意義をもち、意外な珍本として捜し求められるといふやうな、奇しき運命を擔はぬとも限らない。

　

　　　　　　　　　　五

　

　さう思つてもよい理由は、私には簡單に説明することが出來る。今次の大戰役が、國運の大變化を促したと同樣に、民話もしくは世間話といふ一種の説話の上にも、是が亦過去に比類を見ぬほどの、大いなる展開の機會であつた。我子我夫を戰場に送り出した者は言ふに及ばず、それに連なる家々までが、鋭敏に朝夕聽耳を立てゝ居る世間の話といふものが、事實は大半は此中に算へらるべきものであるだけでなく、海の外には又恐らくは何十倍、或は何百倍もの同じ類の話が、語りかはされ又散らばつて行つて居るのである。北はアレウトの雪氷の島籠り、南はソロモンの果無し林の片蔭、それを繋いだ雲山萬里の間には、數限りも無い日本の若い人たちの、各々生れ故郷と經歴を異にしたものが、寄り合つて夜營をして居る。身うち友垣の音信は稀であり、張りつめた晝間の心持も、時あつて轉囘の必要を見ることがある。爰で毎晩の話の種になつて居るものは、恐らくは銃後の村里とも又別であつて、必ずしも戰闘の壯烈な場面ばかりではあるまい。勇士もその寂寞無事の日に於ては、やはりこの高田氏の本に竝べてあるやうな、素朴單純で且つ變つて居る話、寧ろ日々の生活とは懸け離れた題目を提供することによつて、人を怡ばしめ又自ら樂しまうとする場合が?々有るであらうと察せられる。さうして又其日の印象は、大なり小なり形を留めずには過ぎ去つて(242)しまはぬことゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　昔も人間の話好きもしくは話上手と言はれるものは、是とやゝ似たる境遇に在つて、段々と養成せられて來たのでは無かつたかと思ふ。同じ一つの郷土に成長し、朝晩の見聞を共にする人々の間では、話して聽かせるといふ必要が起らぬのだから、當然に無口にならざるを得ない。たま／＼我獨り知つて居るといふ話があつても、數が乏しい故に忽ち一つ話となり、又あれかと言はれては閉口する。それを避けんが爲に人の噂や蔭口、又は何でもないことを事々しく、いつ迄も話して居ることが流行して居たが、もう是からは、さういふ心細い必要が無くなるのである。戰爭が國民の話題を豐富にするものであることは、小規模ながらも日清役以來、既に經驗せられて居る。是まで豫想もしなかつた異國情調といふものが、最初の刺戟であつたことは認められるが、しかも若干の歳月を經て振り囘つて見ると、その主要なものは記録になり又常識になり、ほら〔二字傍点〕や作りごとは皆消されてしまつて、後に殘るはたゞ話を聽くことの興味と、何か變つた珍らしいものが、もつと／＼世間には有る筈といふ期待、つまりは我々の民話と名づけ、又は世間話と呼ばうとするものの、段々と複雜且つ重要になつて行く傾向だけである。文字が國民の口を以て傳へんとするものを、片つ端から無用にして行くといふ推定が、誤つて居たことも追々とわかつて來る。今度のやうに文士がよく働き、如何なる一隅の小さな出來事でも書いて殘さずには止まぬといふ意氣込の、發露して居る戰役は未だ曾て無かつたが、しかも其中には今までの日本人が、「話」と思つて居るものゝ大多數は入つて居ないのである。ちやうど名士の詳しい傳記が世に出ると、却つて色々の逸話が後から發見せられて來るやうに、話には又記録に對するとは別の要求があつたのである。たとへばどの樣に短くとも、それ自身に一つの纏まりがあつて、長い物語の一節とはちがふこと、即ちどこかにそいつ〔三字傍点〕は面白いとか、又はそんな事も有るかといふやうな中心の尖つた點があつて、それを目標に(243)聽いた人も記憶して行かうとする。是が大昔以來の話といふものゝ要件であつて、今も其形のまゝで、恐らく前線にも又は内地にも、急激に流布して居るのである。

　素より其中にはまちがひ〔四字傍点〕やこしらへごと、話者が一番さきに忘れてしまひさうなもの、或は下品でいはゆる御話にならぬものも、數多くまじつては居るだらう。さうで無くとも次の大きな感動の爲に、拭ふが如く記憶から消え去り、又は聽手の能力境遇もあつて、そつくり其まゝを故郷に持還り、何ぞの折まで藏つて置くといふものが、百に一つも無いだらうことはわかつて居る。しかし少なくとも、話が常に珍らしく、たとへば少年が始めて爺婆の昔語を聽いたやうに、之によつて夜を忘れ又一生の無明を驅逐するほどの、明るい快活な力をもつことは體驗せられたのである。それのみならず是が一たび意識の底に沈潜して、いつかは又再び空想の色模樣の中に織り込まれ、人の文藝を花やかに又潤ひの多いものに、するであらうことも考へられぬことは無い。さういふ實驗は是からならば企てられるのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　高田君の一著を精讀して、私の心付いたことも二つや三つではないのだが、それを説き立てゝ居ると愈々序文のやうでなくなる。何にもせよ是くらゐ簡明率直で、話者も知つて居るだけを皆談り、聽手も聽いたこと以外には一言も加へぬといふ記録であつても、なほ其間には國の文化の伏流の、遠く久しいものが掬み上げられるので、是に參與して居るものがまだ澤山に、背後に控へて居ることが感じられるのである。以前國内の不完全な交通?態に於ても、世間話は存外に遠い旅行をするものであつたことは、幾つとない證據が擧げられて居る。ましてやこの絶大の新棟會に際して、一度は萬里の海の外をあるきまはつたものが、多少の變質を經、又は自然の加工を受けて、再び日本の、しかも出た處とは異なる故郷へ、續々と戻つて來るといふことは、たとへ私達の想像するやうな莫大な數でなかつたに(244)しても、なほ斯邦の説話世界の、大きな變貌をもたらす〔四字傍点〕であらうことは疑はれぬので、私などはもうそれを樂しみ味はうことも出來ないであらうが、心竊かに將來の明朗なる新天地を想望し、且つ祝福せざるを得ないのである。

　高田君の隨筆民話は、ちやうどこの大きな境界線の縁に立つ記録として、後世人の目からは大切に視られるにきまつて居る。殊に偶然では無いのかも知らぬが、奈良の最近の三十年が、主たる舞臺であるといふことも意義が深い。近い頃までまだ丁髷が何人か居たと書いてあるのを見ても判るやうに、こゝは色々の生活樣式が、比較的抵觸せずに併立し得られた土地であり、又は靜かなインテリが、黙々として世の中の推移を、眺めて居られる高みでもあつた。原因は多分諸國の人間が、入込んで雜居して居れたことであらう。國の文化の烈しい變遷を、代表して居るとまでは言ふことが出來まいが、少なくともその組紐の一端の、少しほぐれた〔四字傍点〕ところを見せて居るやうな感じはある。隨つてこの本は『多聞院日記』を讀んで私たちの抱くやうな興味を、三百年までは待たずとも、百年後の人にでも與へるにきまつて居る。だから是から出し惜みなどはせずに、もつとどし／＼と是と似たやうな本を、次々公けにしてくれられるとよいと思ふのだが、それには中間に出版業者、又はさま／”＼の統制機關があつて、著者よりも寧ろ讀者が力である。譽めないとは言つて置いたが、やはり少々の提灯持を、せずには居られない正直な理由が茲に在る。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこで終りにごく遠慮がちに、此本の長處殊に私などの悦んで居る點を擧げると、第一には文體である。斯ういふすなほな飾りのない文章でないと、自分の感じたまゝを人に傳へることは出來ない。現に私などは毎度よそ行きの文句で苦しんで居る。高田君ばかりは文章と書翰と談話、この三つのものが互ひに相近く、後日になつてその何れによつて教へられたのであつたかを、憶ひ出せないやうな場合が私には多い。それだから又口や手紙以上に、何でも細々と書いて置くことが出來たので、或はたゞ單なる癖、持前のやうなものだつたかも知れぬが、それにしたところで世(245)を益することは一つである。私は現代の國語活用のさま／”＼な束縛、殊に記述の文章の窮屈さを歎ずるたび毎に、ちやうど好い人に好い持前の具はつて居たことを感謝せずには居られぬのである。

　第二に悦ぶことは、幾分か私事に近いが、高田君の感受性の鋭く且つ汎くて、何だか前以て自分等の聽いて有難がることを知り拔いて捜して居られたやうに感じられることである。さういふ氣遣ひは無いのだがと、いさゝか私は不審にさへ思つて居る。高田氏の專門は第一には歴史考古學、其他も趣味が多いから、少しづゝは四隣へ進出して居られるが、私達の仲間のうき身を窶して居る民間傳承、殊に凡俗階級の迷信俗信に至つては、どちらかといふとやゝ理解が足らず、とかく白眼で視て居られるかの嫌ひがあつた。それが此本の中にだけは、一つ柳田に聽かせて眼を圓くさせてやれと、思つて載せられたかとも推せられるやうな世間話が、一つならずまじつて居るのである。たとへばタタリ田と謂つて、作り主に災ひすと怖れられる田地が、奈良の郊外にもちやん〔三字傍点〕とあつたこと、奈良だから殊に我々には意味が深い。或はフク子と稱して白痴者の生れることを、家繁昌の瑞相と見る風習、是も大阪には二三の例のあつたことを聽いて居るが、どこから運んで來たものか、神戸のやうな新開の市に有るといふことは、特別の事情が考へられる。少なくとも單なる古い惰性の名殘とは言ひ得ず、我々の語でいふとまだ活きて居るのだから、是からの實驗も可能なのである。

　次にもう一つ、是は久しく我々の間で騷いで居るので、或は薄々は耳に入つて居るのかとも思ふが、今まで東日本の一隅だけに、ちよい／＼有ると言はれた男のツハリ、即ち女房に母となる兆候が見え始めると、忽ち亭主の方がぶら／＼病ひになつてしまふといふ妙な實例で、勿論アジアの諸民族中にも見られる擬娩といふものゝ同系とは察しられるが、こちらのは主として産前の變兆であり、向ふのは兒が生れてから父が寢るのである。事によると兩々相照らして、今日なほ神秘の如く見られて居るこの一つの心理現象が、そつくり解釋し得られる端緒にもなりさうである。それが關西のよく開けて居る都市に、此頃まであつたといふのは重要なことで、大袈裟なことを言ふならば、一つ奈(246)良に向つて探檢隊でも出して見たい氣持である。考古學の發見とは事かはり、民俗學の資料は孤立しない。一つ見付かつたといふことは松茸などの如く、もつと附近を捜せといふ忠告にもなるので斯ういふ親切は私たちの爲といふわけではあるまい。本來この種の人生の事實にも、決して冷々たる人ではないのだけれども、それ迄は手を伸べずに居らうと自ら制して居られたのか、さうで無ければ大よそ將來の人文科學に於て、必ず日本人が率先して解明の任に當らなければならぬ課題が、何と何とであるかを見究めるだけの、鑑別力を具へて居られるのか、二つの何れであつても我々は御禮を述べずには居られぬ。

　其上に弘く我邦の民話又は世間話の爲に、國の中央部に於ける最近の發展?態を、最もわかり易く實例を以て示されたのが此書である。著者は或は不承知であらうとも、なほ我々は之をこの記念すべき大御代の、民俗學文獻の主要なる一つに算へ込まずには居られぬのである。

　

(247)　　　　　別所梅之助著『地を拓く』

　

　別所さんの著述を愛讀して、大きな感動を受けて居た者が、以前は私などの仲間にも幾人かあつたのだが、みんな年をとり離散してしまつて、もう大分久しい間、集まつて先生の文章を談り合ふ折が無くなつてゐる。人と表現との奧深い繋がり、技術としては説くことの出來ない心の持ち方といふやうなものに就て、實地に我々の教へられて居ることは數多く、單なる懷舊の情としても、それを今一度敍べて見たいのだが、さういふことをすれば迷惑せられるにきまつて居る。故に今はたゞこの一卷の書の、新たに世に出るのを待ちかねて居た者が、茲にも一人あるといふことを告知するだけに止めようと思ふ。

　別所さんの以前の文集は、多くは絶版になつて年久しいから、合せて讀んだといふ人も少なからうが、外貌に於てちよつと珍らしい一つの特色を具へて居る。それは幾つかの異なる題目が、多分は發表の時の順序に、一卷の中に排列せられてゐて、中心といふべきものゝ無い場合が多いことである。聖書民俗考の如き纏まつた研究は別として、其他は主題は掲げてあつても、之に由つて内容を測定し、刊行の意圖を察知し難いのを常としてゐる。是は日々の覺書の、單なる保存といふやうな謙遜な心持ちからでもあらうが、其爲に知れば喜ぶべき人々の、まだ心付かずに過ぎて居るものが多いのである。勿論すべての文章が敬虔なる信者生活の中から産れたものといふ點では統一して居るのであるが、さういふうちにも却つて我々のやうな信仰圏外に生息する者に、先づ大きな感化を與へるやうな文章が、幾らとも無く含まれて居たのである。

(248)　後日の研究者の爲にごく大體を説いて置くが、その第一には同情に充ちたる自然の觀察、是にも小さな庭上の草の花に佇立したといふやうな身近な記事から、遠く溯つて深山幽谷の、雲霧の間を踏破した記録まで、何れも孤獨の體驗である故に、今の登山群には見られぬやうな内省を以つて充ちて居る。第二には日本の文藝を、樂しく彩どつて居る色々の言葉、是にも先生は今後の利用を有效ならしめようとして、先づ古人の心の緒に響いたものを尋ねんとして居られる。別所さんの古文學の味ひ方には、傳へなければならぬ異色があるのである。第三の更に重要な題目は、先生は都府に生れ、都府に半生を送つた人なるにも拘らず、土に營む者の幽かなる生活に、無限の親しみを寄せて居られる。さうして是にも亦彼等の一憂一喜の水源として、曾て身の力を傾けて同胞の爲に働いた人たちの事業を詳らかにせんとして居られるのである。今日の日本國民を作り上げた、最も大いなる力の一つとして、此頃漸う省みられるやうになつて來た近世の歴史の中でも、この部分は殊に史料が偏し易い。どれだけ多くの將に埋没しようとして居たものが、別所さんの勞苦によつて顯れて來たかといふことは、今度の一卷を讀む者のほゞ想像し得ることであると思ふ。

　それ故に假に此等數種の題目が、たゞの道樂の餘業であつたにしても、なほ我々は學者の移り氣といふものに、感謝しなければならぬ理由をもつて居るのだが、別所さんの場合は明かにそれではなかつた。ちやうど先生が信仰の清らかな悦びの中に浸りつゝも、常に思をその由つて來たる所、永い世代に亙つて之をはぐくんで來た人間の文化に致されたのと同じやうに、自然藝術生産のどの方面に於ても、必ず眼前の問題をその背後に消え隱れようとするものと共に、根ごと土ながら之を我々の智慧の苑に、移し栽ゑんとせられる態度には變りはなかつた。乃ちその一貫した研究の方法によつて、學問を一つの大いなる完成へ、綜合して行かうといふ志は窺はれるのである。しかし現世の指導者としては、この樣式はやはり損ではないかと私などは感じて居た。舊知門下の限りある人々に、眞摯なる學者の生涯を思慕せしめ、殊にその事業の微妙なる調和を味はしめるには、之にまさる記念物は無いのであるが、いつの世に(249)なつても人よりは仕事が後に殘る。さうして一般の讀書子は我儘至極な者で、たゞめい／＼の好む道から、進んで行くことを當り前のやうに心得て居る。彼等の選擇は許容しなければならぬのである。一昨年の初め『朝のおもひ』の一卷が世に出た際に、私は人に向つて斯ういぶ話をしたことがある。別所さんの文集にはもう何としても手に入らぬものが幾つも出來て居る。今度はあれを皆問題別の選集にして、成るだけ多くの人に讀ませたいものだと謂つたのである。ところが幸ひなことに、先生にもちやうど其考へが動いて、土を拓いた人たちの話ならば、一つに纏めて出して見てもよいと言はれたさうで、私は其實現の日を今か今かと待つて居たのである。このたびの大事變に伴なうて、日本は再び又新らしい國にならうとして居る。未開と名づけてもよい宏大な土地が、新たに我々の行く手に延び擴がつて來た。心ある若い愛國者が、斯ういふ書物を讀んで靜かに考へて見るべき時が、折もよく廻り合せて來たのである。此本の弘く行はれることは疑ひが無いのみならず、私などの經驗によれば、更に第二第三の選集に對する渇望を誘ひ、多數の我々のやうな愛讀者を作らずには已まぬだらうと思ふ。さうした曉には又再び最初の形を以て、別に以前の文集の一つ一つを覆刻して、別所先生の本來の態度を明かにすることも不可能では無いと思つて居る。

　

(250)　　　　　福原信三編『武藏野風物』

　

　この寫眞帖の中で、殊に自分などのなつかしいと思ふのは、近年目ざましい變化を遂げた大川とその支流の水筋に、今もまだところどころ、昔の小さな破片が落ちこぼれて居たことである。私は書生の頃、當時下總に住んで居た二親に逢ひに、毎度學校の休みには此あたりを往來した。濱街道の方を行くと家までは十二里弱、汽車も乘合バスも全く無い時代だから、袴に草鞋がけで未明に本郷の下宿を立ち、又は夜に入つてからこちらへ還つて來た。それでこの特色の多い東葛飾の農村の、朝や夕方の光景をよく記憶して居るのである。今日はもはやその昔の片影も殘るまいと思つて居ると、稀にはまだ敏感なる技術家に見出されて後の世に傳へられるやうな、しをらしい場面もあつたといふことを知つたのである。私の今住んで居る西南郊外の丘陵地などは、ちやうど同じ大きな變化がまさに始まつて、すばらしい勢でそれが進行してゐる。一週に一度ぐらゐは必ずこの間をあるきまはつて居るので、却つて以前とのちがひに心づくことが少ないが、靜かに考へて見ると、今あるいて居るのは皆新道で、それが兩側の石垣生垣と共に、僅かな歳月のうちに尤もらしく落ついてしまひ、一方にはそれと併行する榛の竝木の細路が、段々に崩れてたゞの畔みたやうにならうとして居る。林が茂つて居たうちは必要であつた多くの路しるべの石塔も拓かれて畠となつて見とほしがきくやうになれば、もはや不用だから知らぬ間に片付けられる。それよりも大きな變化は日本國中、たゞこの武藏野の一角にしか無からうと思つた四谷丸太の滅法に背の高い杉林、飯炊く竈の煙がかゝらぬと育たぬなどゝ謂つて、必ず人家の片脇にあるものときまつて居て、よそには見られぬやうな樹色と空線とを以て、散歩者の樂しい目標とな(251)つて居た細い杉の木の密林、あれなどもいつの間にか、もう工場の煙突の數よりも少なくならうとして居る。朝晩眼に馴れ氣にも留めずに居るものが、黙つてこの樣な有爲轉變を重ね、今となつては却つて我々をびつくりさせるのである。

　大震災の直後に世に公にした『郷土會記録』といふ本を出して見ると、あの中には那須博士の書かれた『代々木の今昔』、有馬伯爵の『汐入村の變遷』などがあつて、共に其頃から又十年ほど前の大きな變り方を説いて居られるのだが、それが出版の際にはもう又遠い過去の事實となつてしまつたことを、筆者自らが誰よりも深く感動して居られる。ところがこの兩地の現在の姿は又どうであるか。代々木は帝都の最もよく整うた一區劃となつたが、それでもまだ歩いて見ると爰があれ、是が何の跡といふことは出來る。汐入の靜かな川沿ひの村に至つては、たま／＼電車の中から首を出して見ても、もう境もなく目じるしも無くなつて居るのである。社會生活の萬花鏡に比べると、書籍は保守的であり又壽命が長い。他日この畫集が若い後代の人々に繙かれ、之を一括して昭和文化の精彩を放つものと、讃歎せられるといふ時が來ようとも、なほこの複雜なる表現の中に、幾階段とも無い昔が包容せられ、先づ行くものを惜み慕ひ、辛うじて殘るものをなつかしむ切々の情が、盈ち溢れて居ることだけは看取せられるであらう。今日年をとつた多くの閑人が、?々想ひ起し又話題とするあの杉の屋敷林、雲を突くやうな欅の大木、槇の生垣や榛の木の竝木、さては道端の道禄神や渡し場の細い棧橋、辻堂の張子の達磨や杉の葉の酒ばやしといふやうなものも、昔とはいひながら何れも年代があつて、大抵は江戸がよく開けて、町から外へ出る者が多くなつてからの、新らしい愉快な變化だつた。その一つ以前の寂寞の武藏野にも、やつぱり人が住んで次々の開發はあつた筈だが、さういふものはもう埋もれ切つて居る。昔も諸君のやうな同情に富む觀察者と、斯ういふ精巧な技藝とがあつたならば、どの位有難かつたらうと思はずには居られない。

　しかし其中でも此頃の變り方は、大分又以前とはちがつて居る。故跡は廢墟とはならずに、思ひ切つて新らしいも(252)のが其上に造り上げられる。さうして又今まであつたものを、記念しようといふ氣持は薄らいで居る。國の運勢の大飛躍する時代としては、是は少しでも不思議は無いのだが、この點を知つて居ないと、本當は歴史は書けない。第一に今まではどうだつたかを示し得ることが、實は今の新らしさと悦ばしさを、説いたり論じたりする者の資格なのである。以前は寫眞のやうな親切な技術はまだ無かつた。是を自由に利用することは、明かに現代の幸福である。この恩澤を次に來る人々と分たんが爲に、少しでも文化の變遷の上に注意するといふことは、是も亦今までの世には無いことであつた。この書の出現によつて、更に世の中は新らしくなることゝ私は信ずる。

　

(253)　　　　　川崎隆章編『岳』

　

　山に大きな愛情を寄せて居る我々が、一生かゝつても氣づかずにしまひさうなことが、この本を讀んで居ると次々と考へられて來る。先づ第一には山を知り山に親しみ、それを又心有る者に語り傳へようとする人が、是ほどにも日本には多かつたといふこと、是が少なくとも私には發見である。編纂者の川崎君などは、定めて以前から是をよく知つて居て、それで斯ういふ新らしい計畫を立てられたのであらうが、他には恐らくは私と同じやうに、今まで或一つの境涯に立つて、感じ又思つて居たことを、めい／＼の仲間だけに分つのに專らで、よそにはまだ色々の變つた話題があり、しかも結局は大きな歸一、自然の聯絡に導いて居ることを、考へる機會をもたなかつた方々も少なくは無かつたらう。衆人の力を集めて見るといふことは、いつの場合にも重要な經驗だと思ふ。

　私は久しく山の中の小路、人の隱れたる交通といふことに心を傾けて居た者である故に、何かといふと直ぐにさういふ方へ持つて行かうとするが、いかに幽かな草に埋もれた山路でも、あたりに住む者の誰かは知つて居る。知つて居たればこそ踏んだ跡が道となり、中にはその跡は既に絶えて、有るといふことのみがなほ認められて居るものさへ多いのである。天下を一貫した公道といふものに、必ず他の一方の端が繋がつて居ることを考へると、たとへ身親しく其土の上を、歩むことが出來なかつたにしても、是まで輕々しく人跡未到などと、たゞ傳へられて居た岳の陰谷の底まで、すべてこの微妙なる千古の綾の絲に、かゞり縫ひ取られて居たといふことを、心づくだけでも學問であると思ふ。

(254)　この本によつて始めて知つたものも多いが、現代の學者文人は、實によく新らしい山の路を越えて、それを又熱情を以て人に説かうとして居られる。百花絢爛ともいふべきさま／”＼の文章詩篇を、順序よく排列した編纂者の技能も鮮かだが、私などの更に深く欣ぶのは、是を見て行くにつれて知らずに居たもの、もつと知らねばならぬと思ふことが、却つて段々と多く又適切になつて來る點である。或は將來の風潮の爲に、豫め餘地を留めようとした用意かも知れぬが、今まで各種の山の報告を讀んで、是で十分だと思ひ、又やゝ重複の嫌ひがあるとさへ感じて居たとは反對に、爰には明らかに滿たされぬ願ひが涌いて來る。關東以北にもまだ幾つかの名山が談り殘されて居るかと思ふが、西の方へ行くと吉野熊野の群嶺、それから中國では大山や三瓶山のやうに、旅人が遠く山の姿を望んで、どんな僅かな消息にも耳を傾けずには居られない岳は多い。四國では又劍山石鎚の山彙、九州は阿蘇から霧島まで、もしくは市房高隈の如き秀でたる山々は、昔から人も行通ひ、又當世の登山者も常に狙つて居る。是等を同列に説くに値せずとして、すべて省略したと解する者などは一人も無い。ましてこの以外の尋常無名なるものに、却つて物深い神秘が藏せられて居ることは、この本の中にも幾度か例示せられて居るのである。察するところ現在幾分か抑制せられて居る知識慾、山を愛する人々のやゝ偏したる趣味を、斯うした方式を以て出來るだけ均等に、刺戟して見たいといふ計畫なのであらう。もし想像の如しとすれば、この手段は確かに成功して居る。山と日本人といふ問題は是によつて、綱や鳶口を携へてあるかぬ人々の間にも、普及せずには居ないからである。

　獨り山岳の問題には限らず、汎く日本の同胞の爲に心付かせなければならぬことは、此世には今日まで知らずに居ることが、莫大に多いといふことである。學ぶに方法を以てすれば、知ることは必ずしも困難で無いのみならず、既にはつきりと一部の人だけは知つて居て、是をたゞ他の知らんと願ふ者に、傳へ覺らしめる道の無かつたものも多いことである。無かつたと言はうよりも、寧ろ求めなかつたといふ方が當つて居る。それがこの一卷の書の因縁によつて、先づ山々の埋もれたる古道から、次第に明らかになつて行くのは羨しいことである。我々の生活は刻々に改まつ(255)て居る。昔私などの山と親しんで居た時代には、今謂ふ雪山も無く、岩壁登攀もまだ起らなかつた。巖に鐡の鏈を垂れた山は多かつたけれども、それに鎚つて行く者は、主として精進をした信徒であつた。頂上を究めた心の悦びは古今同じでも、そこで行逢ふ人々の心願は全く別であつた。さうして一方には歩荷人足の交通はやゝ廢れて、その代りには私たちのやうに、ひたすら嶺の向ふに出て見たいといふやうな、新らしい旅客が寄つて來ようとして居たのである。新たな文物が我々の見聞を弘めて居たと共に、過去に向つても知るべきものが段々と展開して、元は何でも無い通常の事が、歴史の珍奇とさへならうとして居るのである。割據の悲しむべく不利なることは、恐らくは今は昔に數十倍して居る。さういふ時節に際して、まだ新らしいものゝ統一が完成してしまはぬうちに、あらゆる境涯の知識と經驗とを、比べて明らかにしてさて大いに考へようといふ氣風が、起つて來たといふことは國のしあはせであつた。さういふ意味に於て私は、『岳』の一書の出現を慶賀するのである。

　それから今一つ、是も私には小さくない樂しみであつたのは、是ほど異なつた立場に居られる人たちの文體が、山に關する限りはいつの間にか非常によく接近して居て、もう昭和十八年の文章と名づけてもよいものを、作り上げて居るといふ一事である。私は特に川崎君に依頼して、この本の校正刷を讀ませてもらひ、彼を除いては最初の愛讀者となつたのだが、幸ひに是によつて今まで考へて居た如く、現時の文體の亂雜を極めて、この先どうなつてしまふかといふやうな、心配を除き去ることが出來た。是だけは計畫の外であつたかも知れないが、斯ういふ數十人の道の長者の、文章を併せ讀むことによつて、我々の受け得る感化は大きいものであらう。さうして此序文の筆者などの、苦しみ拔いて居る文體などは、あはれや亦一つの過去のものになつてしまふことであらう。

　

(256)　　　　　松木時彦著『神都百物語』

　

　初版『神都百物語』は、私が多分最終の讀者であつたと思ふが、今度の増補擴大版では、必ず最初の愛讀者にならうと念じて居る。以前の物語は新聞の連載だから、幾分か目先きをかへる爲に、題目が早瀬の流れの應接に遑無きが如くであつた。今度こそは深く清く湛へたるものから、掬むことが出來るであらうと信ずる。松木翁の學問に向つては、日頃私などは松蔭の泉の音を聽くやうな懷かしみを抱いて居る。豐富なる神都古典籍の渉獵には、今後も或は少壯の學徒の、精勵を翁と競はうとする者が出て來るかも知らぬが、是に加味するに新御代の隆運に對する大いなる感激と、六十餘年の世相變化の批判と、悠久なる家の昔に結ばれた無數の思ひ出とを以てし、それを一つの學究生涯に組み上げるといふ樣な機會は、望んでももう得られさうに無い。その稀有なる體驗と蘊蓄とが、幸ひに翁の壯志に由つて、十分に整理せられて永く世に傳はるといふことは、獨り此土地此時代のみの、大切な記念といふに止らぬのである。我々などの見た處では、此事業には今一つの新らしい意義がある。出口延佳翁以來、伊勢の學者の弘く社會の爲に講説した人たちは、他の同僚からは却つて幾分か疎外せられて居たやうな姿が見える。つまりは一般の意向が、餘りに内輪のことを語り過ぎることを欲しなかつたのである。ところが松木翁の場合は之と異なり、世は既に改まり人の出入は繁く、今や翁は殆と唯一の代表的故老である。神宮の故事新事を語り傳ふべく、最適任なる文字通りの御内人である。松木翁がもし語らなかつたならば、或は後代の日本人が、永遠に知らずして終るものが有りはせぬかゞ氣遣はれるのである。それで私はまだ見ぬ『神都百物語』が、最も多くの同胞に讀まれると同時に、更に最も多くの(257)前代事實を、網羅して居ることを祈願して居るのである。

　

(258)　　　　　辻本好孝著『和州祭禮記』

　

　本書の一小部分が、雜誌『磯城』に連載せられ始めてから、もう六七年になるかと思ふが、私は其頃以來のよき讀者の一人であつた。父が神官をして居て始終神樣の話を聽き、又神書にも若干の親しみを持つて居たつもりだけれども、この中に書いてあるのは痛切なる新らしい事實ばかりであつた。祭は改めて今一度、根本から見なほして行くべきものであるといふことに、やゝ遲蒔きながら氣づいたのもこの御蔭と言つてよい。序文を書く位はいと安い小さな報謝のわざである。しかしそれにしても、大和にはまだどれほどの資料が殘り傳はつて居ることか。是だけの年數をかけて、出たのは僅かに磯城の一郡の、それも主要なるものに止まつて居る。まだこの周圍には世に隱れ人に省みられざる、律儀な古風な山間の村々が、數多く控へて居るのである。彼等が昔の事を忘れてしまふのと、斯ういふ記録のすべて備はるのと、どちらが早いであらうか。私は筆者辻本君の壯志いさゝかも撓まず根氣と體力の永く續かんことを期すると共に、更にその感化の次々の同時代人に、波及せんことを念ぜずには居られない。

　奈良縣の識者たちに告げたいことは、第一には此書の刺戟によつて、新たに前代文化を見なほさうといふ眼を開く者は、決して私一人だけで無く、寧ろ却つてこの一區域の中よりも、縣外に多いだらうといふことである。都府には祭禮と言へばたゞ御輿をかつぎ、屋臺を曳き挑燈をぶら下げ、わつしよいどんちやかを以て終始するものゝ如く、きめ込んで居る者が比々として皆是であつた。斯ういふ報告を其輩が讀んだならば、どれだけ喫驚し又深思するであらうか。當路の指導者たちは、今までは敬神を以て唯一の道�ｺと認め、祈願成就の歡喜と、神�ｺ體驗の感動に向つては、(259)わざとかと思ふほど共鳴をさし控へて居た。從つて役所と交渉のある大祭とその他のもの、所謂公祭と私祭とのけぢめは年を追うて著しくなつたが、斯うして祭を奉仕する人々の側から見れば、何一つとして差別の點は無いのだつたといふこと、是が又この書物によつて、いとも無造作にわかつて來るのである。神に頼らうとする信心の出來るだけ薄い人たちに、神社行政を取扱はせようとした方針は近頃はもう改まつて居るかと思はれる。今まで神職ほど本を讀まぬ者は無いといふ評判が高かつたのも、實は疑問がまだ目の前のものでなかつたからであつた。ところが今度といふ今度こそは、考へ明らめずには居られぬことが多い。この千古を曠しうする大戰役に直面して、心の奧底から國民の祈願することが、成ると確信せられるのも又せられないのも、繋るところは祭たゞ一つの他には無い。その祭の法式が人により環境によつて、各地まち／＼になつて居るとすれば、何がそのあらゆる變化を一貫して、大昔以來の精神を傳へて居るかを、見究めるといふことが先づ大切である。よそはどうしてゐるかを問はずには居られぬといふうちにも、少しでも古い時代の慣行を保持して居る地方ならば、自分から進んで語つてくれなくてはこまるのである。『和州祭禮記』はその要求の片端は充たして居るが、地域が狹いばかりか説明もなほ十分とは言へない。其動機を擴大し又補強する意味に於て、私は心ある大和の讀書人に、この書の精讀を勸めんと欲する者である。

　それで茲にはごく簡單に、我々縣外の者が如何にこの辻本氏の勞作を利用して、學問上の效果を擧げようとして居るかを述べて、かつは推薦者の責を果たし、かつは又今後同種の企てが延長して、更に磯城以外の各郡に試みられる日の、參考に供したいと思ふ。それが同一著者の精力の持續となつて現はれるのか、但しは又新らしい共鳴者の呼應して起つ者があるか、何れにしたところで樂しみには變りは無いのである。第一に素人連の問題になりさうな點は、たつた一つの郡だけの記事が、斯んな大きな本になるやうでは、しまひにはどうするかといふことであるが、さういふ事は些しでも苦にはならぬ。今まで多數の者の知らずに居た事實、殊に神國の神を祭り申す事實に、知らせるには及ばぬといふ部分が有らう道理は無い。寧ろこの樣に詳しく説く必要があつたのは、餘りにも知らぬ者の多過ぎた證(260)據なのである。行く／＼之をはつきりとした常識にする方策さへ講じたら、幾らでも重複を避けて、もつと印象を強くすることは出來るのである。大和は平民に早く文字の教育が進んで、村々の祭には舊記證文の類が多く、其年代は三百年の長きに亙つて居る。倦むことを知らざる辻本君が、見かけた以上は悉く、之を載録せずには居なかつたのも尤か知らぬが、斯ういふ文章には振假名も句讀點も無く、おまけに文字の使ひ方にも無理があつて、其まゝ本文の中に挾み込むといふことは、無駄では決して無いが幾分か消化を害する。それ故に私一流の讀書法として、最初この古文書だけには紅インキで鉤をかけて置いて、茲には何十年前の史料が具はつて、參考になるといふだけを明かにして置いて、先づ其殘りの現實のものだけに眼を通し、是は大切だといふことを心づいた點だけに就いて、記録はどう書いて居るかを骨折つて見なほすのである。記録の精確さはいつの場合にも記憶を超越するが、なほ現在の事實のやうに、あらゆる實驗を以て之を確かめることが出來ない。國民の慣行が時と共に移り改まることを知るには何より有力な證據であるが、しかも今日以後に起るべき問題を豫想し、又その解決を指導するまでの任務はもつて居ない。だから我々が先づ活きた事實に關心を寄せ、古い文書はたゞその理解に必要な程度に於て、後から追々と役に立てるといふ方法は誤つて居らぬと思ふ。

　それから第二には索引の問題があるが、是は今までの經驗に依ると、讀者が讀みながら作つて行くものが、一番に效果は多いかと思はれる。著者の手に成つた索引は親切で隅々に行屆いて居るが、通例は詳し過ぎ、又項目の重要性を差等づけることが出來ぬ爲に、骨の折れた割には存外に利用する人が少ないやうである。自身通讀の印象にまかせて、他日もう一度拾つて讀みたいと、思ふ點だけを爪じるしすることは、何でも無い勞力であるばかりか、寧ろ書物との親しみを一段と深くする。さうして『和州祭禮記』の如き性質の本ならば、表紙か扉の裏の僅か一頁程の餘白でも、相應に便利な見出しが出來るのである。自分などの流儀では、大體に注意すべき事實を三つに分ける。第一には今迄全く知らずに居たこと、それは必ず將來の新たなる知識の端緒だから、忘れぬやうにしなければならない。第二(261)には此地方に限つて特に數多く遭遇する現象で、しかも村毎に少しづゝの形のちがひが有り、それを繋いで見ると昔から今の世への、推移の跡が辿られるかと思ふもの、即ち亦本書の最も力を傾けて居る部分である。しかし我々の側からいふと、その以外にもなほ一つ、土地ではさほどにも氣を止めて居らぬことで、よそと比べて見て始めて意味がわかり、又は解釋のよい手掛りを得ることがある。日本民俗學の全國協同が始まるまでは、各地の郷土誌家は大むね孤立して、この同志を裨益し得たといふ滿足を、味はふことが出來なかつた。辻本君の事業は之に反して、出ないうちからもう眼を圓くして世間が待つて居る。さうしてこの上まだどの位利用の方面が擴がつて行くか判らぬのである。殊に國固有の信仰の實?に對して、朝野の關心が集注せられんとする潮時に、斯ういふ書物を世に送り出すといふことは、よつぽど羨まれてもよい篤學の報いであらう。

　例は幾つでも擧げられるが、さうすると序文が餘り長くなる。茲にはたゞ一つづゝ、自分の索引にはどんな項目が注意せられて居るかを述べて、今後の採訪と觀察の參考にしよう。先づ第一には宮座の組織、其中から選び出す頭人その他の所役、是などは本書の狙ひだから、勿論第二種の知識であらうが、斯う雜然と竝んで居ただけでは、一讀したのみでは腹に入らない。改めて各村々の細々とした差異を比較して見るには、表にでもして置くの他はあるまい。古例の食物も段々と手に入りにくゝなつて、中には集まつてカシハを食ふといふ樣な、驚く改良も出現して居るが、大體にはまだ前代の食制が保存せられ、殊にいはゆる清の飯の調製には、心力を傾けて居るのが尊とい。是は他の地方に今も稀々に傳はる同種の作法を併せ考へて、今日公定せられて居る一般の祭式の、頗る異國風なものであることに、心付かせる手段となるであらう。それから潔齋物忌の一般にやゝ衰頽した中にも、土地によつてはなほ嚴肅に守られて居る例がある。是と社交の進歩に伴なふ喪の穢れの不安とは、實際どういふ風に調和させて居ることか。是などは現今頻りに論議せられる公葬神式の採用に先だつて、是非とも詳かにして置かねばならぬ事實である。佛教が民間に入り込んだ一つの機縁は、斯ういふ忌のかゝる任務を一手に引受けてくれて、心置きなく年々の公けの祭を續け(262)て行かせたといふ便宜があつたからではないか。穢れた火を以て神の供物を調進しないといふこと、神に奉仕する者が喪に近よらぬといふことを、單なる迷信の一つに算へてしまふことは、少なくとも大和の頭屋たちの承服せざる所かと私には感じられる。

　次に第一種の、この地方だけにしか見られぬといふものは、捜せば出て來るかと思ふが大きなものはまだ心付いて居らぬ。ちよつと喫驚したのは湯立の時などに出て舞ふ巫女をソネッタンと謂つて居ることで、どうしてさういふかは今以て見當がつかぬ。其後井上頼壽氏の京都古習志が出て、山城南部の神社にも園市といふ者の奉仕することを知り、それが發音でソネッタンと聽えるのだといふまでは合點したが、どうして園《その》を附けるのかはやはり不審である。今日の文法には斯ういふ指示の例は無いけれども或は一定の人以外には勤めることの出來ぬ役といふ意味で、『其』を添へて呼ぶ風が有つたのでは無いか。沖繩諸島の靈地で園ヒヤブと謂つたものが幾つかある。單なる國語史の史料としてで無く、更に巫女そのものゝ以前の地位も、是から少しづゝ推し測られるやうな氣がする。

　最後に第三種の、外部研究者の參考となるべき知識、是は書いて居る人の豫想以上に多く、又大抵は大切な事柄のみである。たとへば頭屋の標職として其家の表口に立てられるオハケサンといふもの、是は原田敏明氏さへも由來まだ明かでないと言はれ、其名義に關しても依るべき説は無いが、ともかくも西は中國の一帶から、東は北陸關東の村々にまで分布して居て、名を同じくして形の相異があると共に、異なる名の下によく似た形のものも多い。近畿地方は幸ひにして實例に滿ちて居るから、注意して行けば少なくも之を設ける樣式と趣旨とまでは明かにし得るだらう。名稱の分布の是だけ廣いのは、一度は京師の標準語であつたことを意味し、古い記録の中にどうしても見付からぬとしたら、中世以後に於て出來た言葉かも知れぬが、物までが新たに始まつたものとは私には考へられない。他にも同種の場合同じ場處に、やゝ異なる形とちがつた名とを以て、木を立てるといふ習はしは弘く且つ久しいからである。何か斯ういふものだけに別の名を付ける必要があつたことは、祭の幟《のぼり》なども同じかと見られる。多くの實例に就いて、(263)このオハケサンの特徴を見究める必要があり、從つて『和州祭禮記』の記述は有力な資料であると共に、是ばかりで井底の蛙の判斷を下すことも出來ぬのである。近世以降の神道書を見ても明かなやうに、幣串の制式と觀念には大きな變遷があつた。大體に形が小さくなり又移動の盛んになつたのは、教義の進展に伴なふものとおぼしく、その爲に寧ろ舊來の態樣を守り、古い法則に依つたものが、次第に別途の取扱を受けることになつた場合も有り得る。本書の中にも頻々と出て來るいはゆる幣ふぐりの如きも、今日はそんな粗野なる名稱を認める人も無からうが、私たちには見過し難い大きな暗示がある。白紙に清淨なる洗ひ米を包んで下げることは、九州の方ではオトビともトビの米とも謂ひ、中央では又オヒネリとも謂つて、神參りに缺くべからざる捧物であるのみか、正月は特に一家の重要なる器具に一つづつ附けて置く習はしもある。斷定することはまだ愼しまねばならぬが、是が一つ一つの物體に魂を入れ、おしやうねを付ける方式であり、串を神聖なるものとする唯一の條件であつたやうに私は思ふ。祭の幟の端にも今では括り猿のやうな形になつても、斯ういふ袋を下げた例が多く、又正月望の火祭の柱にも、穀物を入れた袋を下げる處は多い。幣にふぐりを添へることをまだ忘れて居ない地方ならば、何かオハケサンの方にも之に似た特色あるものは附けなかつたらうか。まだ注意した人が無いならば、是からも注意して見たい。

　話が意外に長くなつたが、終りに一言だけ、著者に向つて言つて置きたいことがある。戰時の新聞記者といふ繁劇なる職に在る辻本君が、なほ寸暇を割き寢食を忘れて、斯ういふ人からは好事と看られがちな著述を繼續して來たといふことは、恐らくは深く心に期する所があるのであらう。國の文化史が之によつて進み、一般國民の神と祭に對する考へ方が、之によつて又大いに改まるべきを信じなかつたならば、たゞ道樂を樂しみ博聞を誇る爲ならば、他に之よりも遙かに平易なものが有るからである。果して私の察する如しとすれば、著者はこの上にもなほ働かねばならぬ。といふわけは正直な話、此本はまだ決して完全とは言へず、又他人に説く方法としては、必ずしも十分に簡單明瞭だとは言へないからである。獨力でそれがもし爲し遂げられぬとすれば、願はくは其熱意を心ある同郷の人々に傳へて、(264)少なくとも之を最終のものとせざることを切望する。

　

(265)　　　　　【須山計一・諸田益男】共著『信濃の祭』

　

　祭の美しさ、祭の空氣にこもる柔かな古風な感じといふものは、言葉には寫し難く、寫眞にも容易に傳へられぬものといふことは、夙くから自分も知つて居たが、今度、長野縣農業會の畫集を見るに及んで、其以上に更に村々の祭が、微妙な點に於て村毎に少しづつ、ちがひを持つて居るといふことを教へられた。各郡一箇所の、やゝ知られたものだけを拾つて見ても、もう是ほどの特色といふものが目に立つ。是をたゞ一つの概念に基づき、もしくは各自の故郷の例から類推して、日本全國皆同じと思つてゐたら、遠い昔の世の文化を理解する上に於て、どの位大きな損害であつたか知れない。私などの知る限りでは、神祭りの行事は中世以來、次々と改變せられて居る。殊に都會の流行が手本となつて、新らしい催しものが幾つでも附加はつて居る。さういふ中に於て國の端々に、是ほどにもまだ多くの古例が殘つてゐたといふことは、今日の時勢としては言はう樣も無い心強さであり、又是からの學問の大切な足掛りでもある。須山計一君の如き氣持の人は、是からもなほ大いに辛苦しなければならない。さうして我を空しうして多くの同志を集めなければならない。長野縣農業會の文化部の諸君は、たゞ一國の好事業に率先し得たといふことに滿足するのみで無く、更に此感銘を國内の今なほ迷ふ者に、傳達しなければならない。問題はたゞ郷土の誇りといふやうな小規模のもので無いのである。日本の隅々には、斯ういふ素朴な美しさを抱へながら、まだその民族的な深い意義に、心付かずに居る者が多かりさうに思ふ。どうか成るたけ弘く此一卷の書が、遠近各地の愛國者の手に頒たれんことを、心から私は祈念して止まない。

　

(266)　　　　　【中山�ｺ太郎・青木重孝】共編『佐渡年中行事』

　

　久しく期待して居た佐渡の年中行事が、今度いよ／＼公刊せられることになつたので、先づ校正刷りを借りて一通り讀んで見た。ちやうど自分も今『歳時習俗語彙』の整理に取掛かり、九月節供のところまで來て一休みして居る。この一卷の書に對する感謝と興味とは、恐らくは何人よりも深い。それを片端でも書留めて置くことは、必ずしも島外の愛讀者のみとは言はず、佐渡で直接に此行事に携はつて居る諸君にも、亦若干の參考になるかと思ふ。

　我々にとつて大切な發見は、節供年取り等の期日は島中一樣であつて、其日の慣例には村毎に又は部落毎に、可なり著しい變化があることである。今までたゞ一箇處の事實を聽き知つて、佐渡では斯うして居るなどゝ謂つて居た者に、是は誠に意外なことであるは勿論、島に年久しく共に住む人たちでも、斯うして比べて見て始めて隣とのちがひに心付き、改めて土地の風習といふものゝ意義を考へる人が少なくはないであらう。この風習の異同には幾つもの原因が有り得る。たとへば他所に年月を送つて居た者が、感心して持つて還つて來た小改良もあらうし、又それとは正反對に、律義なる舊家の家風を固守する者があつて、一門配下を統制して居たといふこともあらう。相川などには越後を素通りした、江戸直輸入の文化もあつたと言はれて居る。新らしい御手本ならば、色々と手近にも有つたわけである。しかも一邑一郷黨が、擧つて遵奉する方式となるには、相應に根強い力が無くてはならぬ。流行と模倣とは變化の一つの理由ではあらうが、結局はやはり前々から斯うして居たといふ人の意志、即ち爰へ入つて來た家々の歴史が、今でもまだ痕跡を留めて居るのである。佐渡が男女各一人の漂着者の婚姻によつて、始まつたといふ傳説はもう(267)信じなくともよいであらう。

　時代と條件とを異にした幾つかの移住層、それの相互ひの交渉と調和とは、島を郷土とする者の殊に關心を持たずには居られない歴史であるが、是まではまだそれを尋ねて見る手掛かりすらも無かつた。今囘はとにかく諸君の骨折によつて、疑問の種が提供せられたのである。此世に因縁といふものがもし有るならば、是に答へ得る人も行く行くは、諸君の中から出ることゝ私は思ふ。順序として先づ知らねばならぬことは、島では相互ひに是ほどちがつて居ることが、それ／”＼に遠く隔たつた土地に於て、何人も氣付かない一致を持つて居るといふことである。だからそちらの方から引越して來たと、速斷することは無論出來ない。偶然かも知れぬしこちらから行つたのかも知れぬし、又は古くは一般であつたものが、飛び飛びに消え殘つて居るのかも知れぬからである。しかしとにかくにさういふ他處の類似を、少しも考へないでは何の結論も下されない。さうして京都とは全くちがつて居て、遠い田舍どうしよく／＼似た行事を守つて居る場合も中々多いのである。京都の風俗は既に三百年も前に、黒川道祐の日次紀事などが出て居るので、之を動かぬ標準のやうに見る氣風が、本を讀む人の間には生じて居るが、是も中世以後に田舍から、持つて登つたものが實は多いのであつた。歳時習俗の根源を農圃の間に求めることは、少しでも不自然な所業でない。さういふ中でも後々の改作の少なかつたかと思はれる境地の生活などは我々には頼もしいのである。佐渡の郷土史が是を貴重な資料としなければならぬと同時に、諸君は更に一歩を進めて、之を日本國内の他の有縁の土地の人々に、利用せしめるやうに心掛ける義務がある。

　此書が佐渡人の專有に屬してはならぬ理由を、小さな二三の實例で説明するならば、正月十五日の前の晩に、餅や團子の類を挿して飾る木は、ほんの五六種しか無いが、地方によつてちがつて居る。信越關東から東北にかけて、最も多く用ゐられるのはミヅキ、又ミヅフサともカギの木ともいふものが、其間にまじつて稻藁に餅を小さく附けるものもある。關西の餅花は除夜の行事になつた處も多いが、是は美觀を愛したか又は稻穗から轉じたか、現在はしだれ(268)柳の枝を垂れたものが多い。佐渡で榎木の枝を是に使ふといふ例は、絶無でもあるまいが東日本によほど類が少なく、之に反して九州も南の三縣に行くと、所謂メダマの餅は今でも榎の枝に挿すのが普通である。榎は小枝が美しく又繁く、其上に燃して火の色が花やかだといふ二つの特性をもつので、塚や祠や路傍の木として大木が存するのみか、春は若芽の色を見て農事の時を知り、年の豐凶を卜する風も多く、其名のエノキも吉木の義だらうと私たちは想像して居る。奧羽の方面でも初山の日のぬさ掛けには、大抵は注連繩を屋敷まはりの榎の木の枝に引掛け、代りに其小枝を少し伐つて來て竈に燒くので、何處へ行つても此木だけは變つた形をして居る。是ほど人生とは親しみの深い木が、現在は既に餅花の木として用ゐられない土地が多いのは、一應は習俗の改定と見て置いてよからうかと私は思つて居る。もしさうだつたら佐渡には古い形が、まだ片端には殘つて居るのである。

　この習俗の一般的なる改定といふことも、想像して見れば原因はあるのである。ミヅキは冬に入ると小枝の色が紅く美しくなるので、最初から此木を餅花の木に好んだ者もあつたか知れぬが、他の一つの特徴は此木の名、即ち水木といふ名が附けられた位に、早期から樹液をよく吸上げる木であつた故に、後追々と是に火防せの力を感ずるやうになつたのかと思ふ。飛騨の山村ではミヅフサ三尺などと稱して、わざ／”＼此木のそぎ板を屋根の一部に、葺くといふ習慣も私は目撃して居る。爐の鉤にする木は一々當つても見ぬが、今でも大抵は此木を用ゐるらしい。素より此木の水が現實に火を消す力は無く、理由を尋ねて見れば枝裂けがせぬからなどゝ、説明する者も出來て居るだらうが、なほ其動機には言葉の力、即ち水といふ語の價値が相當以上に重視せられたといふことが窺はれる。火災の經驗と不安は世と共に加はつて居る。單なる常識でも斯ういふ呪法は考へ出せなくも無いが、なほ一方には五行の教理に通じた人の、暗示指導といふことが想像せられるのである。

　所謂??陰陽の歴史は、近世は殊に埋没しきつて居るが、是が田舍の精神生活に、多大の影響を與へて居ることだけは爭へない。博士と名のつく者は大抵は門附け物よしの類に墮落しても、其知識のきれ／”＼になつたものだけは、(269)山伏も學び神主も學び、僧侶も一通りは心得て居る者が多かつた。年中行事はもとより、其他の生活上重要な作法で、明かに彼等から教へられて、固有の仕來りを棄てゝ居るものは、決して小正月の餅の木だけでは無い。今日流行して居る都鄙の俗信は、言はゞ安倍晴明の足の垢のやうなものが多いのである。それが相應に古くから入つて居たことは、佐渡にも痕跡があるので、私はいつもこの外來の異分子が、容易に見分けられる形で殘つて居ることを喜んで居る。一つの例を拾へば五月節供のチマキを食ふときに、こたん太夫の首取つたと唱へ、又は六月朔日の齒固めの餅を、こたん大王の骨を?むといふ類は、他の多くの土地で鬼の首、もしくは鬼の骨といふ代りの名で、類例は有るかも知らぬがまだ記憶して居ない。コタンは明かに蘇民將來に對する巨旦將來のことで、既に釋日本紀の中にも備後風土記なるものゝ逸文として傳へられ、尤も陰陽家の珍重する所の、武塔天神の由來譚であつた。弟の蘇民が貧にして恭謹なりしに對して、兄の巨旦は貪慾で神を禮せざりしによつて罰せられたことは、古い日本の神話とも合するが、たゞこの固有名詞だけがこの一派のものであつた。それを此島の一隅に於ては鬼の名前として記憶して居たのである。節供の色々の行事の目的を、片端から惡靈の防衛であるやうに、解説することが既に新たなる學識であつた。白虎通とか風俗通とか、日本では見たこともないやうな本がいつも引用せられる。それを受賣する人が、もう斯んな處にも來て居たのである。即ち爰でも習俗はやはり變れるだけは變らうとして居る。

　或は斯うした外來の異分子を一つ一つ取退けて見て、やつと國固有な純な姿が見出さるゝものとすれば、是は容易ならぬ大仕事であると、勇氣を挫く人も無いとは限らぬが、自分等はさういふ考へ方はして居ない。國民を理解する爲に大切なのは、根源よりも寧ろ經過である。中古に我々が異教の感化を受けて、年中行事の一部を改めたといふことも、それ自身かなり大きな歴史であり、それに置換へられた今一つの形が、有つたといふことが判るだけでも、それだけは祖先の生活が正確になるのである。その以前の形といふのがどんなもの、乃至はどうして始まつたかを詳かにすることは、今はまだ少し面倒のやうだが、是とても方法は既に備はつて居る。たゞ幾分か氣を長く、比較の結果(270)を待つて居ればよいのである。大體に事物の名稱樣式、もしくは人の記憶や記録の證據によつて、新たな借り物といふことの判つて居るものを除き、殘りは一應は全部昔から持傳へて來たものと、見て掛かるのが安全かと私たちは思つて居る。さういふ中でも僅かに比較によつて、あれと是とはどちらが前からであらうといふことの、ほゞ見當が付くものが幾らでも現はれて來る。斯うして變遷の歴史を現實の基礎の上に組立てることが、實は根源に近づいて行く、最も間違ひの少ない途だつたのである。事は小さいけれどもやはり此本から例を取る方が話がしやすい。佐渡の正月の羽子板遊びには、伊豆七島と同じに竹製の羽根を突く村が今でもある。是と木?子の黒い實に羽毛を附けて、戞々と好い吾を立てるものとどちらが古く、どちらが改良であるかは大よそ明かで、雙方竝び行はれたといふことも考へにくい。木?子が山野自生の木でも無く、又和名も知らぬやうな外來の品であること、京都の室町期の上流生活に於て、頻りに胡鬼子胡鬼板の贈遣が歳端に行はれて居たことなどを思ひ合せると、是が流行の經路はほゞ推測せられる。しかも全く木?子を知らぬ外國にも、此遊戯は相應に弘く行はれ、是を新年の信仰行事のやうに考へて居る處は、伊豆の島々にも有るらしいのである。彼地の方言はたしかハギイと謂つて居る。佐渡では現在何と謂ふか知らぬが、ハゴもコキノコも共に不可解な名である。或はこのハギイを中に置いて段々に由來がわかつて來るので無いかと思ふ。少なくとも將來懸離れた若干の土地に於て、同じ問題を尋ねて見る機會があるとしたら、或は改良以前の?態が存外にまだ殘つて居て、佐渡がその一つの例であつたことを、確認することが出來るかも知れない。

　島々の習俗の遠方の一致といふことは、恐らく世界中で日本のみが、實驗し得られる學問上の機會である。自分は前に方言の類似に就いて、一二の例を拾つて見たことがあるが、今度の佐渡年中行事の忌の日の問題は殊に新らしい。忌は山城のイゴモリ、安房のミカリ等に於て、村の大祭の重要なる一部を爲すものが、若干は世に知られても居るが、その祭典の部分が既に變化して、家々の小規模な儀式となつた後まで、なほその忌だけが獨立して、嚴守せられて居る事實は島だけにしかまだ報告せられて居らぬ。佐渡の忌の日は正月と十一月の二十九日が最も多く、是に二月の三(271)日とか十二月の卯の日とかいふものが附加せられて大體に忌の終期を推定せしめる。是にやゝ似た例は壹岐の島に有つて、こゝでは六月の二十九日、即ち夏越の祓の前の晩が忌である。隱岐や對馬も常民の信仰が、相應に強烈な處のやうに思ふが、そこでは此仕來りがどういふ形に變らうとして居るか、早く此ついでに尋ねて記録して置きたい。沖繩群島にも我々のまだ理解し得ない幾つかの古い村祭がある。或はそれ等の儀禮の背後にも忌の日と近い感覺が潜んで居て、島の人たちはまだ之を表示して居ないのではあるまいか。伊豆の七島でも月忌といひ、もしくはキの日といふ日があるが、是は共通して正月の二十四日の晩、もしくは其前後の數日を謂つて居る。島と島との往來が制限せられて居た爲に、この方面の傳承には近世の變化が多く、之を比べて見ることは爰だけでも大きな興味であるが、なほ今まで全く相知らなかつた遠方の土地と、併せて觀察したならば發見が殊に多いことゝ思ふ。忌の形態の把握し難い所以は、それが不行爲であり又内部の經驗であつて、外から來た者の耳や眼に、映ずるものが何も無いからである。是ほど土地の學徒の實驗の集積と、又親切なる理解とが必要であり、更に精確且つ鮮明なる記録の欲求せられて居るものは他には無いのであるが、果してそれ程まで大きな意義のあるものだといふことを、佐渡の諸君は知つて居るのかどうか。今はまだ少しく心もとない。

　是まで多くの地方で公表せられた年中行事は、何れも言ひ合せた樣に盆と正月との慣例に力を集注し、殘りの三百四十餘日に對しては、ほんの一割内外の面積しか與へて居ない。世間に出て住む人の故郷を懷ふ機會が、どうしてもこの二度の休みの日に多く、其他は追々と幼時少時の印象が薄くなるからであらうと思ふ。實際都會には日曜も無い人があり、節供も大抵は常の通りに働く日になつて居る。町でこしらへたその年中行事の概念に、地方の人々が引込まれがちなのである。私たちが今でもまだ不審に思つて居るのは朔日二十八日といふ二つの日を、昔は月毎に重く視て居たことである。或は是も忌の日の研究によつて明かになつて來るかも知らぬが、とにかく現在はまだ二十八日を、どうして大事にしたかを説いてくれる人が無いのである。さういふ中でも五月二十八日などは、伊勢でも住吉でも御(272)田植の日であつて、曾我の仇計や或宗派の祖師の命日から、始まつたもので無いことは確かなのだが、多くの土地では既に休日の目録から除かれ、何もして居ない故に傳へられることも無い。佐渡ではまだ少しばかりの痕跡が殘つて居るやうに思ふ。是などももう少し力を入れて、是から先の調査を續けることが必要であらう。小さい題目に就いてはまだ色々述べて見たいこともあるが、段々纏まりが惡くなるからもう是で切上げる。たゞ終りに今一度くり返して置くのは、佐渡の習俗は島限りで、一つの孤立した複合體をなし、是を細かく見て行くと、大よそは島の開けて來た順序がわかるかと思ふことである。無論その爲には遠近の比較を遂げなければならぬが、それも語彙の整理によつて、手輕に出來る日がやがて來る筈である。佐渡が對岸の越後と似ない點の多いことは、早くから注意せられて居るやうだが、現在は向ふがまだ詳しくはわかつて居ないのだから、うつかりしたことは言へない。しかも岩船郡以北、莊内秋田へかけての弘い地域に行はれて居る行事と、可なり近いものが佐渡にもある。此中には稀には彼方から持つて來たといふものもあらう。たとへば河原田の七夕の晩に、?燭出せ出せ、出さぬとかつちやぐぞといふのなどは、北は北海道の旭川の附近まで、又日本海側には處々で流行つて居る。よほど子供には痛快な言葉のやうだが、カッチャグといふ動詞は此島ではあまり聽かず、又?燭といふ商品よりも古くから、此風習があつた氣遣ひは無いから、多分は船頭か誰かに傳授してもらつたものである。次には近世に一度こゝを通つて、北に向つて進んだかと思ふものもある。彼岸の團子を作るのを怠つて、忙しく稻刈りをして居る傍を、二人の婆さんが話しながら通る。「あんまり腹が立つから出がけに子供を一人、爐の中へ蹴込んで來た」といふので、どきりとして歸つて見たら我兒が燒け死んで居たといふ話。この彩色には新らしい染料が入つて居るが、是も東北と西南とに於て何箇處と無く採集せられて居る。しかしさういふ運搬の跡の顯著なものがあるに拘らず、私はなほ古くから、何處を原産地とも無く傳はつたものが、偶然に爰と北南の一隅だけに消え殘つて居た場合の多いことを信じて居るのである。八朔や亥子は是とは反對に、東日本には一般に殆と名も知られず、近畿以西に在つては今でもこの二つの日は重く取扱はれて居る。佐渡だけは附近の例(273)とちがつて、關西と同じに八朔を祝ひ、亥子の日を休んで居るが、然らば此風だけは西の方から、ぼつんと運んで來たかといふと、何人にも然りとは言へまい。要するに古い習俗には消えたり廢せられたりする機會が多く、それが大抵はとび／＼に、斑になつて改まるのである。さうして島には何等かの餘裕があつて、其變化の起り方が鈍いのである。即ち古い慣例は保存せられやすいのてある。

　一度何かの縁につれて入つて來たものは、前からあるものとうまく折合つて、共に止まり村々の細かな變化を呈し、又新舊の層を見せるのである。他の島々でも恐らくは大よそ同じだつたといふことが、遠からず一般に認められる日が來るのであらう。佐渡年中行事の功績は、島が大いに研究すべきものであることを、我々に心づかしめた點に在ると思ふ。單に一郷土の過去文化の爲に、好個の記念塔を打立てたといふに止まらず、同時に總國の學問に向つて、是まで利用せられなかつた一つの進路を指示してくれたといふことは、たとへ無意識なる結果であるにしても、永く後代の感謝する所となるであらう。佐渡の舊友の一人として、何よりもそれが自分にはうれしい。

　

(274)　　　　　日本放送協會編『日本民謠大觀關東篇』

　

　民謠の採訪は、歌詞の方面ではもう五十年も前から始まつて居る。政府の事業としては大正三年の文部省の俚謠集が、全國四分の三以上の地方から、同時に提出せられた資料を整頓して、見ごとな記録を世に傳へて居る外に、一方民間に於ても、前には大和田建樹、前田林外、大島寶水等の諸氏があつて、各々その廣汎なる蒐集を公けにし、近くは白鳥省吾、北原白秋といふが如き知名の文士諸君の熱心な首唱によつて、新たに各地の同志の手で集められたものも多く、其一部は既に我々の利用に供せられて居る。個々の小地域内の獨立した採録に至つては、素よりその數量を究むべくも無いが、現に自分などの目に觸れた、書卷の形體を具へたものだけでも、大よそ百種には近からうかと思はれる。是等のすべてを統合比較して、この歴史ある一個の古文藝の、流れ傳はつて現代に到達した姿と足取り、殊に國民の内部生活との接觸面を明かにしようといふことは、今となつては容易ならぬ大きな仕事になつて居るのである。

　歌詞によつて民謠の社會的意義を考へて見ようとする者の、最初に當面する一つの疑問は、是がたゞ懷かしい過去文化の遺物であるのか、但しは又現實の一要素であつて、活きて活き拔かうとする同胞國民の多數の、生存の一部を構成して居るものであるか、短く言ふならば活きて居るのか化石かといふことである。新時代人の行動には、新たな間拍子が幾つとも無く加はつて、黙つて働く勞働といふものが多くなつて來た。乃ち民謠は既に亡びたのだ。まさに消滅の崖の端に立つて居るのだといふ説が、外國ではくり返し唱へられて居たのみならず、我邦の採集の中に於ても、(275)明かに歌の文句を年寄の記憶に聽いて録し、又は前人の書留めの中から寫し取つたものさへある。昔歌はれたことが有るといふ、甚だ心細い推測の下に、歴史としてこの莫大な記録を、受取らなければならぬかと、思つて居た者も實はあつたのである。然るに今囘の日本民謠大觀が世に出るに及んで、日本は少なくともさうで無かつたといふ、悦ぶべき事實が立證せられることになつた。たとへその中には全郷土の住民が、擧つて合唱し得るものが半數にも充たず、僅かに二三の老翁老婆のみが覺えて居て、もう二十年も歌つたことが無いと謂つたり、又は祝ひごとや酒宴の餘興に、名をさし所望してやつと聽けるやうになつて居て、從つて艶の有る澄み切つた聲を以て、我々の耳を悦ばしめ得なかつたりするものが、若干はまじつて居らうとも、ともかくも曲はなほ活きて居たのである。さうして今度の日本放送協會の企劃によつて、辛うじて我々はさういふものまでも、相續することが出來たのである。しかもその以外になほ活?なる壯齡の姿に在るもの、たとへ十年二十年は採集がおくれても、滅びる心配は少しも無いものでも、是を一國の公有とする爲に、且つ民謠の盛りの姿を知る爲に、手の屆く限りは共に集めてあるのだから、單なる保存事業では決して無い。今まで自分などが氣付かずに居たことは、節と歌ひ方の土地毎の變化であつた。歌詞のすぐれたものには轉用流用が多く、同時に又弘い地域に共用せられても居る。文句だけから見るとたゞ一つにしか算へられない田植唄や臼唄が、各地著しい曲のちがひの爲に、竝べて幾つでも比較をして見る必要があり、或は又新たに一つの項目を設けなければならぬ場合もある。言葉の民謠が既に日本には非常に多いのだが、異なる曲の數は又それよりも遙かに多かつたことは、本書の目録を俚謠集などの分類と比べて見て、誰にでも容易に認め得ることで、是だけは全く豫期せざる發見の喜びである。

　民謠研究者の抱いて居る第二の疑問は、今ある大多數の歌の文句は、何れも近世語であり、且つ現在の地方語をまじへて居る。樂器の新らしい輸入と普及とに伴なうて、新規に始められたものばかりが此中には多く、上代我々の祖先の心を樂しましめ、鬱結した情緒を暢べほぐして居たものとは、一旦絶縁して系統を異にして居るのでは無からう(276)かといふことである。永い歳月に亙つた外來音樂の感化といふことが、全く無かつたといふことは想像し難いが、もしかして其根柢基調をなすものにまで、それほど大きな古今の變革があつたとすると、之によつて國の本來の姿を探らうとする、我々の心構へは改められねばならぬのだが、よもやさういふことは有るまいと、密に私などは今も考へて居る。官府の計畫によつて、組織立つた採用の行はれた樂部の音樂ならば別だが、誰の指導もなく自然に民衆の間に展開して來たものが、或時期を劃して全く原則を異にしたものに、乘替へるといふことは想像しにくいだけでなく、寧ろその反對に古い固有の約束を守らなければ、效果が生じないといふ考へ方が、祭や儀式の歌については、つい近頃まで消えずに居たのである。然らばどういふわけで民謠の歌詞が、此樣に皆新らしいのかといふ疑ひは誰にでも起らうが、それは全く民謠の性質が、歌手は元より聽手の耳にまで、不可解なる言葉のまじることを許さなかつたからで、一種の現代譯と替歌の新作が、小さな民間の小天才の口によつて、毎日毎夜のやうに試みられて居たのである。無論その中には澤山の失敗と落第もあり、もしくは仲間の輕々しい雷同附和もあつて、其爲に文藝としての著しい價値の高下、玉石混合のまゝで持傳へたものも多からうが、とにかくに即興歌詞の簇出といふことは、寧ろ古くからの曲譜の尊重から、出發して居るものと私などは考へて居る。さういふ考へ方の正しかつたかどうかは、今度は　　愈々この民謠大觀の公刊によつて、精密に試驗せらるべき端緒を得たわけである。西洋で考案せられた五線譜の採譜法が、果してこの民間音樂の眞實を描寫し得るかどうか、といふ不安が有ることは?々聽いて居るが、私はこの方面には全くの無識だから、何と一言も口を出すことは出來ない。たゞ素人ながらも見當を付けて居るのは、たとへこの譜によつてもう一度、農民漁民の通りに歌ひ出すことは出來なくとも、一つの法則に依つて表示したものならば、少なくとも全體の傾向は見られるであらう。即ち甲乙丙丁のどの部分に類似があり差異があり、しかもその各篇を一貫して居る特徴がどんなものであり、それが大陸からの貢ぎものであつたのか、はた又純乎として純なる日本的なるものか、乃至は遠く久しく東亞の諸民族の間に、おのづから相通じて居た何物かを潜ませて居るか等を、假に即座では無くと(277)も、漸次に明かにして行く足場にはたしかになるだらうと思ふ。問題は寧ろ是だけ多くの集積に就いて、一々丹念に比べて行かうとするやうな、意欲と精力とを兼ね備へた人が、すぐにも此事業に目を留めてくれられるか否かに在る。目今我々が想像して居る如く、もしも我が國の民間音樂が、一つの大いなる革新期に臨んで居るといふことが事實ならば、この根本資料の集積を度外に置いて、前途を計畫することは先づ不可能と言つてよいだらう。

　終りになほ一言、簡單に此事業の成立を説くならば、本集に整頓せられた資料は、ほゞ三つの部分から成つて居る。その一は日本放送協會が過去二十餘年の努力を以て、採集保存して來た民謠の録音盤で、分量に於ては是が最も多い。次には委員の一人たる町田嘉章君が、前後數ヶ年に亙つて全國を行脚し、自身採録して還つて來たもの、是は曾てその一小部分を公けにしたこともあるが、頒布が弘くないので今度再び此集の中に入れることにした。第三には新たになほ一囘、細かに地方を捜索して特に録音して來たもの、關東地方に於ては、この部分が相應の量に達して居る。以上三つの材料を合せて地方別に曲目歌詞を按配し、本書に見るが如き體裁をとゝのへたものであるが、編輯の勞は町田君專ら之に當り、採譜の最も六つかしい仕事は、藤井清水君が主として之を引受けられた。日本放送協會が、この征戰多事の日に於て、なほ且つ事業の文化的意義を確認し、倦まざる努力を以てその急速の實現を期したことは、必ず後世の感謝して止まざる所であらうし、之に次では町田、藤井の二君の辛苦經營も没却すべからざるものであるが、自分も樂屋に出入して居る爲に、思ひ切つて褒め立てることが出來ず、又斯ういふ立派な本が出て行く以上は、その必要もなく、寧ろ褒められたよりなほ嬉しからう。たゞこの關東地方の一卷の次に、引續いて奧羽の卷を公けにし、更に進んでは帝國の全版圖に及ばうといふ企てが有るのだから、出來ることならば世上の好反響を以て、是等の關係者諸君を鼓舞激勵し、更に新たなる張合ひを以て、働きつゞけてくれられるやうにしたいものだとは念じて居る。

　

(278)　　　　　小笠原謙吉著『紫波郡昔話集』

　

　筆者のおばあ樣が、又その祖母の話を聽いて覺えて居たのを、わざ／＼孫の爲にかたつて筆記させたといふことは、岩手縣の農村ででも無いときかれぬやうな古風な話で、日本の民間説話の歴史を知らうとしてゐるものには、まことに樂しみの多い史料であつた。故佐々木喜善君が今から二十何年前に、是を『紫波郡昔話』として爐邊叢書の中へ入れた時にも、此點ははつきりと述べて居るのであるが、どういふわけでか同君は、二三別の人のした話を其中にまじへ、又僅かながら筆記とちがふことを書き込んで居るさうである。それを小笠原氏がいやがつて居られるといふことを、何度か岩手の人から私は聽いて氣に病んで居た。好い機會も無くて歳月が過ぎて居たが、今度三省堂から全國昔話記録を續刊する計畫が成り立つたので、早速私は原筆者に手紙を出し、分量は是くらゐにして、其點を思ひ通りに竝べて御覽なさいと言つてやつたところ、自分は不平を人に洩らした記憶は無いが、もう一度整理して見たいとちやうど思つて居た際だから、出してもらへるなら有難いといふ返事で、それから二三囘延引のことわりが來た後に、いよ／＼此原稿が私の手に屆いたのは、本年の五月十一日付であり、それから五日後の十六日發の葉書も、まだ私の机の上に置いてある。その小笠原君が同じ月二十一日の早朝に、腦溢血で突然亡くなられたのである。

　この書を印刷に付するに際し、是非とも言つて置きたいことは、是が原稿には紫波郡昔話選集と題せられて居たことである。筆者は我々の計畫に應ずる爲に、その記憶の中から先づ書きやすい是だけを整頓して、出したものと思はれる。前の『紫波郡昔話』と比べても、此方が少しく數を減じ、且つ幾つかの前には無かつたものを加へてある。事(279)によるとまだ若干の手控へを遺して居られるのかも知れぬ。既に文章になつて居るのなら其まゝを、まだ書いて無いやうなら題目だけなりと、他日私版としてでも世に出して見たいと思ふ。東北各地の昔話は佐々木君の老媼夜譚や聽耳草紙、即ち上閉伊郡の採集を始めとし、次々整理して置きたいものがまだ幾つもあるが、各郡各家に傳はつて居たものは、興味ある敍述のちがひはあつても、話の題目はおほむね共通して居る。それ故に同じ一人の話者の記憶に、數多く保存せられて居たといふものが、たとへ破片であり殘缺であつても尊といのである。さういふ中には最近の一世紀間に、何かの理由があつて消え去つたものが、曾ての存在だけを痕づけさせてくれるかも知れぬからである。たとへば喜多村民の嬉遊笑覽の中に、江戸にも古く存したと記して居る蟹と老爺との話の如きも、東北には今三箇處ほどに毀れて殘つて居るので、是が古い頃の人望ある一話であつたことだけはわかる。或は又藤原相之助翁が、故郷の生保内にあつたと報ぜられた錦長者の話なども、今ある瓜子姫子よりは形が古く、粗野な部分もあるが結末は美しい。是などは山母と山梨の實の話として、又佐々木君の採集中にも其片影を覗かせて居る。小笠原氏が後まはしにせられた昔話の中には、或はこの類のまだ我々の知らぬものが、少なくとも曾てあつたといふことを語るものがあるのではないかと思ふ。

　私は大正三年の始め頃から、書物では折々小笠原氏と交通して居た。岩手縣に旅行したことも五度や六度では無かつたが、いつかは逢つて語る折が有ることゝ思つて居たばかりで、終に一ぺんも話を聽くこと無しに永別してしまつた。世の中は既に改まつて來たから、もう此人のやうな靜かな落着いた、昔の東北人らしい風格の人を、見つけて友だちになることは私には出來ないかも知れぬ。それを考へると今少しこちらから進み近づいて、この舊家の傳承を尋ねて置かなかつたことが殘念である。せめては後に留まつて居る日記手記の類を散佚させず、又誰か後の人に利用させることを、嗣子秀夫君に向つて希望せざるを得ない。

　

(280)　　　　　島袋盛敏譯『遺老説傳』

　

　遺老説傳に對する私の愛着は、人に談つても信じられまいと思ふほど深い。今から二十年ばかり前に、金澤博士秘藏の本を借用して、井上といふ老人に寫してもらつてから、四度は少なくとも朱筆を手に持つて精讀した。讀んでしまつても尚しばらくの間は、机の上に留めて置く必要が毎度あつた上に、惜しみつゝもしば／＼知友に貸して讀ませもした。半歳と續けて書棚に休息して居たことの無い、私の文庫の中では最もよく働いてくれた本の一つである。伊波氏の『古琉球』によつて、南島の學問に目を開いた私は、更に遺老説傳によつて沖繩が好きになつた。大正十年の春の旅行は、實は此書に勸められ又誘はれたと言つてもよい。さうして島に行つて得た友だち又親切なる指導者が、比嘉島袋の二君であつたのである。その二君は今や遺老説傳を校訂和訓して、始めて之を世に公けにしようと企てられる。私がもし一言を是に題しなかつたならば、寧ろ不自然であつたかも知れない。

　そこで改めてもう一度、何が此書物の盡きざる怡悦であり、人を把へて離さない魅力であつたかを考へて見るのに、それは必ずしも事實の奇、もしくは敍述の巧みといふやうな表面のものではなくて、寧ろこの一篇の成立した時代環境、花に譬ふれば之を咲かせた土と水、空氣と日の光のやうなものが尋常で無かつたのである。我々讀者は半ば無意識に、この單なる文字の排列を透して、背後に動くものに觸れ且つ樂しんで居たのであつた。故郷の歴史を熱愛する二君の努力は、恐らくは之を紹介して十分であらうと思ふが、自分も亦一側面の觀察を附記して、試みにその解の合致するか否かを檢して見たい。この島の漢學は、ちやうど近世の洋學と同じやうに、至つて短い期間に勃興した形跡(281)がある。才能ある少數の士人が、自在に異國の文章を驅使して、生活の一部を表白し得た頃には、夙くも周圍には其意圖に共鳴し、其技術に讃歎する多數が輩出して居て、可なり容易にこの新しい好尚に風靡せられたかと思はれる。しかも其變化は急劇であつた爲に、是と伴うて一般の生活觀照、思惟の方式までを推移せしめる遑が無かつた。此點は頗る京江戸の漢學の、最初から經義儒道と相提携した場合とはちがつて、寧ろ今日の所謂語學者流の學問とよく似て居る。だから沖繩の文章には奈良朝の風土記にあるやうな蒼々たる古色が窺はれるのである。教養ある故老の切實なる生活興味も、子弟郷黨の均しく耳を傾けんとした事蹟も、悉く前代信仰の埒外には逸して居ない。漢文はたゞ是を表出する簡便なる外形に過ぎなかつたのである。この新舊の文化複合は、本土住民等の久しく經驗し得ざるものであつた。本居大人のいはれた和魂漢才は、こゝに奇拔なる一實例を留めて居る。新たなる革袋は極めて芳醇なる古い酒を盛つて居たのである。

　遺老説傳の一書は、二百年前の沖繩人の欣んで聽かんとした物語が、如何なる種類のものであつたかを我々に教へる。當時島々の交通は既に繁く、海上の好奇心は盛んに燃え立つて、人が多くの古傳を平凡視したらうことは察せられるにも拘らず、その話柄は大別して三四の類を出でず、それもすべて皆彼等の書契以前に、系統を尋ね得られるものであつた。島に久しく住む多くの民族も同じやうに、彼等は此上も無く物の起源を重視し、それが甚だしく古いと知つて滿足する。その傳説が土地に屬すれば其土地は拜所となり、家に屬すれば名門となり、利害に繋がる者が漸く衰へると、口碑の特に耳を驚かすに足る部分が、更に誇張せられて流傳しようとする。即ち我々のいふ昔話の起りである。この變化の順序はどこに行つても、大よそは同じ事のやうであるが、たゞ南島に於てはこの一篇の説傳あるが爲に、他の何れの場合よりも具體的に、以前の民間傳承の有りのまゝを、動かぬ形を以て保存して居るのである。

　殊に昔話の研究者の爲に、大切なる資料と言つてよいものは、現在日本の各地に飛び離れて、今でも口から耳へ語り傳へられて居るものが、幾つとなくこの前々世紀の遺書の中に録せられて居ることである。私は以前に一二の著書(282)の中に、既にその大部分を採用して居るから、爰にはたゞ其項目だけを擧げるが、（一）睡蟲の次良が長者の聟になつた話は、隣の寢太郎の名で私なども子供の頃から聽いて居る。（二）繼母が繼子を殺さうとして、誤つて實の子を崖から落した話も、中國九州の諸處でいふ話である。（三）神が生れ兒の運勢を定めるのを、其父が假宿して立聽きしたといふ話などは、西には却つて少なくて關東奧羽に類例が多い。（四）十三の少女が、父無くして身ごもり、後に其子と共に神になつた話などは、遠くは賀茂三輪の神傳以來、少しづゝ形をかへて今日まで府縣に普及して居り、（五）その神秘の父が蛇形の神であつたといふ形は、内地でも半分はまだ傳説として信じられて居る。（六）それから屁を落したが爲に追出された母を、後に其子の賢しい言葉によつて、再び元の地位に喚び戻したといふ話も、奧州まで分布して居るが沖繩のは古い形を存して居る。其他（七）大力が力競べにやつて來て、嚇かされて還つた話とか、（八）寶の壺を粗末にしたら、白い鳥になつて飛去つた話とか、またこの以外にも幾つかの一致が見られる。後に此書物を見て我々が學んだと言はぬ限り、當時既に存して又是だけの弘い分布があつたことを證するものである。詳しい比較は讀者を煩はすより他は無いが、自分たちの最も珍らしく思ふ一事は、是等の昔話の大半が、更に南の小島の宮古島で採集せられて居ることである。是には何等かの偶然の理由があつたのかも知れぬが、又一つに傳承の樣式に、宮古だけは著しい特色があつたのである。仲宗根氏の家に傳はつたといふ宮古島舊史を見ると、島の口碑は悉くアヤゴと稱する律語によつて暗誦せられて居た。さうして多くの昔話までが、こゝではアヤゴになつて傳はつて居たらしいのである。『民族』といふ雜誌には、ニコライ・ネフスキイ君の最近の採集があり、又新たに作られたアヤゴも載つて居るが、是と昔話との關係は今はまだ精確には知られて居ない。將來我々が實地に就いて、もう一度此問題を調査しようといふ場合には、遺老説傳がやはり最も有力な參考書である。

　

(283)　　　　　水原岩太郎著『備中土面子の圖』

　

　五十年以前には私も熱心なメンコ黨の一人であつたが、この水原君の好事無雙の著に接するまでは、殆と一度も是を思ひ出して見ることが無かつた。さうして新たなる感興の下には、可なり鮮明に記憶は蘇へるものだといふことを、今度は又實驗することが出來たのである。私の育つた中部播磨の一村では、メンコといふ名も知らぬことは無いが、是をメントクといふ子供の方が多かつた。古いのは素燒の淡彩のものであつて、價もたしか一厘に七八つ位のものゝやうに覺えで居る。それが光澤のある濃いゝ手のこんだ彩色のものになつて價が高く、子供の間にも換算率が出來て取遣りが甚だ面倒になり、次で追々大形のものが現はれて來るに及んで、是を用ゐる遊戯は衰へた。明治二十年に關東の田舍に來て見ると、既に今でもある紙メンコが流行し始めて居て、土製のものは有つても之を顧みる者が無かつたのである。二種のメンコは遊び方が丸でちがつて居る。土のメントクの遊戯は數種あつたが、其中で自分が本來のものゝやうに思つて居たのは、參加者から各二個三個のメンコを出させ、それを親になつた年かさの兒童が手の内でがら／＼振つて地面の上に撒く。其中の裏を見せたものは脇へのけ表を見せたものだけを又振つて、最後にたつた一つ殘つたメンコの主が勝つて、他のメンコを皆收得する。少しづゝ違つた規則で試みることもあつたが、やはり面白いと思つたのはこの單純な遊び方であつた。親になる子供によつては、いつ迄も思はせぶりに振つて居て仲々明けない。他の兒童は一人も殘らずその間口々に自分の出したメントクの名を喚びつゞけるので、その騷々しさは一通りで無く、家によつては縁端で此遊びをすることを許さなかつた。よその村々を通つて居ると、そこにもこゝにも三人四(284)人の少年少女が路傍に蹲まつて此遊びに耽り、頻りにメンコの名を喚んで居るのが、私たちには強い印象であつた。メンコに數十の種類があり、且つそれ／”＼に名前のあつたのも、他の種の遊びには必要で無かつた故に、私は是を元の遊びだらうと思つたのである。子供たちは其名の一つ一つを知つて居るだけで無く、同じ種類でも我がものと人のとを差別する爲に、もしくは縁喜や色々の行掛りから、それ／”＼に特殊の綽名を付けて喚んだ。其中にも妙によく勝つのと負け易いのとがあり、又は持主の愛憎もあつて、負けても代りを出してその大事なメンコは持續けて居たが、中には意地惡く代りを許さぬといふ勝負もあつて、久しく愛して居た好選手を奪はれ、力を落したことなども覺えて居る。此集のメンコは産地も別であらうし、又畫が上手でも無いから違つたやうに見えるのも有るらしいが、それでも見て行くうちに昔を思ひ出すものが多い。第二の翁といふ名は私の在所には無かつたが、是とよく似た顔をしたものは見馴れて居る。エビスサマでは無かつたかと思ふ。第四のオタフクは無論あつた。第五第六の武者といふのは私の村にもあつたが、形が不明で人望が無く、名も何と謂つたか忘れた。十二以下の猿は面白い形だが私たちは使つたことが無い。十九・二十の蝉はよく覺えて居る。帳に算盤に桝又は扇とか劍とかいふ類は、後に入つて來て珍重せられたやうであつた。全體としてこの備中のは數がたしかに多く、始めて見るものが幾つもあるが、どうも此以外に、私たちの仲間にはあつて、茲に見えないものが大分有るやうで、それをもう一つづゝはつきりと想ひ出すことが出來ぬのが、何とも言へず寂しく感じられる。子供の生活に取つては、遊戯は大人の政治よりも大事件であつた。從つて過去も無く又將來も無く、是を昔からの現實の全部の如く、其當時は思つて居たのであるが、今考へて見るとメンコの歴史は短く且つ地方的にも色々の變化があり、又特殊なる沿革があつたやうである。振りメンコの方法が賽の遊びの新意匠であつたことは疑ひが無い。今一つの是も非常に面白かつた遊び方、其名は忘れたが土の上に線を劃し互ひに其中に自分のメンコを投入れて先に入つたものに打ちあて、もしくは其から指の長さだけ近寄せて食ふと稱して相手のものを取る勝負なども、たしかに穴一から出て居る。親たちの批判は以前とても可なり嚴峻なものであつた。あ(285)れはよくない遊びだ、感心せぬ流行だといふ言葉を、私等は?々耳にしたものである。彼等が今日の幼稚園の先生の如く自分で案出したものを授けるやうなことは無かつたとすれば、兒童の自營力も以前は旺盛だつたと見なければならぬ。それを現代の教育方法と比べて見れば、是ほど著しい變遷は無いと言つてよいのだが、さて其問題を少しでも取扱つた歴史があるだらうか。所謂郷土玩具は蒐集せられて居るが、此方は既に最も其必要の無い人々の玩具と化し、しかも何故に昔は斯んなものを要したかを、考へて見ようとする者も無いのである。水原岩太郎氏の篤志と精力は、從來は幾分ちがつた方面に銷費せられて居たらしいが、私は今度の小事業を機縁として、氏自らも大切なる過去の記憶を復活し、同時に黙々として幼時を追懷して居る村々の老人たちに、各々心置きなく知つて居ることを語らせて、是を永世の學問の爲に存録せられんことを熱望して止まない。

　

(286)　　　　　石川縣圖書館協會編『町村誌編纂の栞』

　

　現今の歴史教育に、まだ私どもが十分に滿足して居ないわけは、その項目があまりにも限定せられ、且つ少しも伸長力が無いことである。誰でも認める通り、是は國民が最初に學ぶべき大切な事柄ばかりであり、その教へ方も確かに進んでは居るのだが、人の一生の間に知つて置かなければならぬことが、是でもう澤山といふ筈も無いのである。何にせよ永い年代に、世の中は變れるだけ變つて居る。變つて又變り、元が判らなくなりかけて居るものさへある。それを複雜な、又身勝手の者の多い社會の中に居て、大體に誤りの無い見通しを付け、且つ其知識をめい／＼の判斷に利用させようといふには、少しは其方面の指導も豫めして置いてやらねばならなかつたのである。歴史を學ぶ法、是が今日の普通教育には缺けて居る。だから暗記となり、從つて又忘れる懸念が大きいのである。以前は歴史ほど、學べば又さきが知りたくなる學問は他には無かつた。どんな問題でも歴史家に聽けば判るといふ信用は、或は過當であつたかも知れぬが、とにかくに人は過去に對する色々の疑問をもつて居た。今日はこれで一通りは、知つたといふ自信のみが強くなつて、この學問に對する期待が非常に薄くなつた。それといふのがこちらの知りたいといふことは教へてくれないで、自分の知つて居ることばかりを押付けようとするからである。進んで歴史家に要望する所が、段々に減縮して來たからである。多くの郷土誌が郷土には讀者を得ず、折角の勞苦は埋没して、しば／＼餘計な道樂の如くに世間から評せられるのも、其原因はほゞ突留めることが出來る。つまり歴史の教育は此通り普及しつゝ、其利用の途は却つて昔よりは狹くなつて居るからである。是を學問の衰微といふ人があつても、必ずしも反對することは(287)出來ない。

　郷土を郷土教育の爲に研究しなければならぬと言つた人が、現在は最も惱んで居る。此説が唱へられて既に二十年、何百萬人の兒童はどし／＼と大きくなつたけれども、事業はまだちつとも成功して居ないからである。失はれた信用を取戻す爲には、人が信用するだけの力を示すことが、必要であるのは勿論の話だが、それには先づ以て少しばかり、歴史教育の目途を擴めなければならぬ。どんな小さな問題でも疑ひがあれば、自由に尋ねるといふだけの勇氣を、抑制する樣な傾向を見棄てない限り、伸びるものが伸びずにしまふだらう。一國共有の歴史知識は、實は近年になつて可なり進んで居る。少なくとも知らうと思へば知る方法が具はつて居る。必ずしも何もかも解らぬことだらけでは無い。それは簡單なる僅かな要項以外、わざと教へまい又尋ねさせまいとして居たのである。他のあらゆる學科では疑問を誘導し、疑ふ力も無い者に代つて疑つてやる樣にさへして居るのに、この方面ばかりは知識を限定して居た。限定は精選かも知れぬが、他面から見れば一部の閉鎖である。斯んなことをして置くから實際の生活に出て行つて、忽ち準備の不足を感じ、顧みて學校教育の無力を非難して、次々に子弟のこの科目に對する熱情を、冷却させる結果にもなるのである。兒童が始めて過去といふ概念を把握し、歴史の存在を知つた時に、先づ起すべき疑問は大よそは定まつて居る。最も自然なる知識慾は周圍の生活、即ち關心の深い事物が、むかしも此通りであつたかどうかに集中する。時代に大きな變化のあつたことは、漠然と多くの者は感じて居る。衣食や勞働の古今の差などは、親々の話を横から聽いてゞも、學校に出る前からも少しは知つて居る。靴は昔もあつたか乘物はどうであつたか。それがどう變り又何故に變らなければならなかつたか、斯ういふ類の話なら皆悦んで聽き、又其次の子供らしい問を出すのである。假に能力が無く又萎縮して、大膽に疑ふことが出來ない者があつても、親切な教師ならば之を迎へて答へることも容易である。時が人生に與へて居る變化、今が昔で無いといふこと位、大切な歴史知識は他には無い。殊に我々の時代に於ては、如何なる事物でも大抵は皆良くなつて居る。少なくとも有形の文化に於ては、一つとして大御世の惠澤を(288)感謝せずに居られるものは無いのである。それを具體的に解説してやることは、百の談理よりも立ちまさつて、憂國勤王の心を養ふに有效な筈である。しかも場合は土地毎に變り、實例は眼前のもので無いと、聽く者を動かす力が弱い。如何に巧妙に説いても國總體に通用する言葉は見出し難い。郷土誌の最も力を揮ひやすく、又收穫を擧げ易い點は爰に在つた。それを省みずして、徒らに人を退屈させるやうな固有名詞の羅列を事として居たのが、もしも世の教育者の企てゞあつたとすれば、是ほど見當ちがひの骨折は、先づ稀だと言つてよいのである。

　今日のやうな多事多難なる御時世で無くとも、又直接に子弟を薫陶する任に當る人で無くとも、いやしくも郷土誌を郷土に遺さうといふ志のある者ならば、今後は少なくとももつと明確なる目的をもち、且つもつと親切なる用意を以て、其仕事に臨まなければならぬと思ふ。單に世間が其積りで待つて居るといふだけで無く、是が又歴史といふものゝ最初からの、たつた一つの任務だつたからである。誰に如何なる場合に入用かといふ目當も無く、たゞひたすらに人の知らぬこと、もしくは自分だけが知つて居ると思ふことを、書立てさへすればよいと思ふ人たちも氣樂だが、一方にはその雜然たる博識を尊敬して、支持を惜まなかつた側にも責任がある。しかも是では困ると薄々は感じて居る人はあつても、さて其展開の機運を作るといふことは、必ずしも容易で無かつたらしいのである。今囘の石川縣の計畫に對して、我々が兩手を擧げて賛同の意を表したのは、是が久しく待ちに待つて居た革新の一端緒だからである。勿論勇敢なる試みといふ迄であらうが、斷じて失敗の前例は作らせたくない。大藤、大間知の二君は慎重を期する餘り、殊に周到熱心な解説を下さうとした結果、或は聽衆乃至は讀者に、面倒なる仕事だといふ印象を與へたかも知れぬ。結構な企てには萬々相違無いが、是ではうつかり始められぬといふやうな、引込思案を起させはしなかつたか。私一箇としてはそれを非常に恐れる。是非とも附加して置きたいと思ふことは、兩者理想とする所の完全なる町村誌は、竪にも横にも又斜にも、小さな部分に解き分けることが出來、是を一切れづゝ多くの人、多くの時期に分擔することが出來るといふことである。簡單なる終局の目標さへ合致して居れば、寧ろ出來るだけ多くの同志が、協力する(289)方が望ましく、さうすれば又勞力なり出版の費用などに、厄介な問題を起さずにすむと思ふひ　いよ／＼實行に入るに際して、この點を指導者各位が、是非とも考慮して頂きたい。

　調査は必然に難易の差があり、利用者の關心にも濃淡の段階があらう。出來ることならば最も記述し易く、且つ人の興味を引きやすい部分を先にして、もつと斯ういふものをといふ御註文が、向ふから出るやうにしたら張合ひが多からう。今までの町村誌とは行き方が丸でちがふが、自分などの仕事のこつ〔二字傍点〕を打明けるならば、一番最初には先づ多數の知りたがつて居る問題を探る。相手を青少年にとつて言へば、中には斯んなことを尋ねて笑はれると思ふ者が有り得るが、試みにその中の最も率直なる者に説いて、何でも問はせるやうにしてその問を整理分類してもよし、又平生の言行から察知することも不可能でない。或は此方から進んで二三の事實、たとへば衣類の變り、食品の新舊等、至つて有りふれたしかも彼等には意外なことを、取出して知らせて見るもよい。彼等の好奇心は必ず刺戟せられ、そんなら是はときく樣になること受合ひである。私等の年輩の者から見ると、存外な事が既に忘却せられて居る。今はもう昔で無いと百も承知して居りながら、そんなら何が改まつたかと言はせて見ると、實例は一向に列擧し得ない者は、必ずしも兒童のみでは無からう。ところが是を教へたがつて居る老人が、つい目の先に居るのである。郷士研究の第一歩は、むつかしい語で言へば文化の概念、又は時代の力といふものゝ認識である。何でも無いことのやうだが是を昔からと思ひ、昔も此通りだときめきつて居る所に、幾つかの誤つたる推斷が芽ぐまれる。それをさせまいとして、歴史は普通教育の一科目となつて居るのである。故にたゞ單に眼の前の事物の變化、今は無くして昔は著しかつたもの、昔は全く無くて新たに生れた事物を、亂難なる話の種としてで無しに、系統立てゝ知らせるやうにすることも、立派に郷土誌の一つの事業になるのである。

　しかし若い人々の知識慾が、此程度で充足し得るもので無いことも亦明かである。子供は殊になぜといふ問をよく發する。變化に原因が無く理由の無いものは有り得ないから、問ひ疑ふ方が正しく又自然である。ところが是に對す(290)る答へとして、賛成し難いものが今までには二つあつた。其一は古くからのもので、知らぬとは言はず、世の中はさういふものなのだと、概括的に承認せしめようとする風である。昔はそれで承知し今日は大抵承知しない。さうしてそんなことをいふ老人を輕んじようとする。之に對して一方の極端は、何とかこじつけで一通り尤もらしいことを述べることで、是は信用せられるがいつかは聽手を失望させる。害は却つて前者より大きい。こゝで私たちの提唱したいことは、人間のすることなら誰にでも説明が出來る、といふ考へ方が間違ひであるといふことである。そしてこれを氣づかせることが私たちの願ひである。先生なら何でも説明し得る者と、相手に思はせて置くことは危險な話である。本に書く場合も是と同じことで、事實の存在をそれほどよく知つて居る以上、理由も知つて居るだらうと人が想像し、自分もその氣になつてついいゝ加減なことをいふ。もしくは判斷もせずに他人の説を受賣する。この風を是からは改める必要があると思ふ。勿論理由は必ず有る筈だが、何しろ永い年月の間に、この多數の人間が合同して、複雜に複雜を重ねて居る事情を、明かにするといふことは容易でない。たつた一つの郷土限りで、説明を付けようとすることは無理である。我々の計畫は全國の同種又は類似の事實を、出來るだけ數多く集めて、細かくそれを比べて變つて行く順序を見定めて行かうとするのであるが、それとてもまだ一つの假定である。是が各自の場合に當てゝ見て、果して其通りであるか否かを、何度も試驗した上で始めてやゝ安心が出來るだけである。從つてそれが追々に明らかになる迄の間、少しは待つて居る樣な心持を養はなければならぬ。さうして一つの縣内は言ふに及ばず、遠い地方の同志の人々との間にも、出來る限り調査の聯絡を取り、知識の交換が行はれる樣に努めなければならぬと思つて居る。孤立と競爭とだけでは郷土研究は決して完成しない。日本は幸ひにどこに行つても、生活の樣式には似よつた點が多いらしいから、この相互の援助を押進めるならば、末には一つの郷土の綿密なる研究が、弘く全國の文化の成長を、代表的に説明するやうな時が來るかも知れない。この點に就いては二人の講師の、反覆して敍述せられたところが、私の意見と同じであつて更に精確である。もう此以上に言ふ必要はあるまい。

(291)　我々がこの石川縣の新計劃に對して、最も多く期待するものは進歩である。最初から一世に誇示する業績を擧げようとして、空しく時日を經過することは寧ろ危惧の種である。願はくは第一次に、忍んでやゝ卑近なる眼前の變遷を記録し、それに基づいて多數の新疑問を誘導して、徐々として是が解答の道を講じて行かれるならば、其次に來るものは恐らくはまだ何人にも知られない幾つかの發見であらう。發見は寔に學業の花であり芳香であつて、是あるが爲に我々は營々たる勞作の苦を忘れる。而うして時代は正にこの偶然なる啓發によつて、夢を醒し曉闇を破らんことを要求して居るのである。國家の康寧といひ人生の福祉といふものも、一として天の甘露の如く、突如として降つて來るものは無い。何れも一歩々々の確かな歩み、ほんの目に立たぬ人間の小さな體驗を績み重ねて、今はこの現在の?態にまで進んで來たのである。正しい意味に於て我々はもつと賢こくならねばならぬ。知れば避けることの出來る災害と失敗だけは、悉く避け得る所まで行かなければならぬ。それには學問を心から信頼して、國民が一致協同して、常に其成長の道を講ずる樣に、又其信頼に値するやうに、教育の效果を擧げることが急務である。時が非常時なるが爲に遠慮をしたり、少しは差控へなければならぬやうな學問は、平時に於ても格別に尊重すべきものでなかつたといふことが出來るだらう。この昭和十三年の記念すべき年に際して、新たに作り出されたる一つの機運こそは、やがて又次の大なる平和時代に入つて、いよ／＼その輝かしい使命を果すべきものと信ずる。遠く前途を望めば此事業は決して小さくない。

　

(292)　　　　　【岩手縣教育會九戸郡部會】編『九戸郡誌』

　

　九戸郡の諸君は或はまだ氣づいて居られぬかと思ふが、最近の國内の文化史學徒の、この方面に對する關心は著しく深くなつて來て居る。是は獨り目前の一大問題たる東北振興の叫び聲が、何かその基づく所を風土と慣行、即ち地人交渉の特異性に、潜在せしめて居るらしき推測だけからでは無い。我々が弘く國總體の爲に、この急激なる百年二百年の變遷を囘顧しようといふ場合にも、今ではもう九戸地方にでも求めないと、的確なる前代の照準を見出すことが難いからである。近世の文化の北上して行つた經路は、汽車の無かつた頃にもやはり裏と表の二線があつた。裏の日本海側は開始のやゝ遲かつたらしきにも拘はらず、距離が短かく且つ水路の援助を得やすかつた御蔭に、幾分か早く終點に達して居る。湊を近くに持たない南部領の一隅は、勢ひ袋の底のやうな地位を占めざるを得なかつたのである。古い色々の生活ぶりは殘り留まつて、時としては入替が容易でない。土地の新人は其爲に苦惱するであらうが、一方には又この調和せざる對立に由つて、簡明に舊物舊制の存在を認め得られるのである。自分等が草鞋の旅をして居た時分までは、まだ到る處に斯ういふ機會があつた。例へば東京近傍では、伊豆の七島などには幾つともなき室町期の社會相が、あからさまに傳はつて居た。汽船が盛んに往來の人を運ぶやうになると、一朝にしてそれが破碎せられ、又埋没して見分け難くなるのである。捜せば勿論都府の中心にも、昔の名殘は無意識に保持せられて居る。たゞそれを尋常とし水空氣として、安んじて其間に生活する場合を見ようとすれば、遠く南北兩端の同胞を訪はなければならぬのである。其生活が果して平和幸福なものであるか、但しは又急いで蝉脱し逃避すべきものであるかは、少な(293)くとも史學の管轄する問題でない。しかも何人も爭ふ能はざる事實は、今やこの?態は愈々終末に近づき、恰も孤燈の消えなんとして一度光を放つが如き、印象を與へつゝあることである。九戸郡誌の編修が是も亦やゝ一般の風潮から立ち遲れて、ちやうどこの全國文運の一つの過渡期ともいふべき際に、異常の辛苦を重ねて漸く世に出るといふことは、實は豫期以上に適切なる意義があるのである。明治大正の御代替りの頃から、郡制廢止の前後にかけて、同種標題の著述はもう三百ばかりも刊行せられては居るが、彼等と是との間には大いなる目途の差がある。讀む者も書く者も共に新たなる用意を以て、之に向はなければならなかつたのである。だから此書の後世に對する價値をほゞ理解した上でないと、適當な批評も出來ず、又十分に編者たちの辛苦を感謝することも出來ぬだらうと思ふ。

　今までの數百の郡誌村誌を見渡すと、執筆者の心に描いて居る豫定讀者とも名づくべきものは、主として管内の同時代人であつた。其爲に強ひて市場を求めず、所謂關係者と附近の學校ぐらゐに頒布して、記念として之を藏置せしめようとした形跡が見える。然るに現實の用途はどうだつたかといふと、地方では之を讀破したらしい人が少しも無く、名を忘れ所在を失した例の比々として多きに反して、中央の古書肆街に於ては、常に驚くやうな高價を喚んで居る。素より印刷部數の極度に制限せられた爲もあるが、一つには是が正しい利用者の所有に屬さなかつた爲に、用が無くなつても一向に巡環しないのである。著名なる若干の學校と圖書館とでは、經費を惜まずに今でも買集めて居るが、個人の文庫では第一に置場にも難儀する。僅か數十頁の有用なる記事を讀む爲に、厖大なる各一册の郡誌を竝べて置くといふことは、容易で無い故に大抵は無くて我慢をする。つまりは郡内の當時の人でないと、見ても興味のない事に餘りなる勞費を拂ひ、其爲に出版を困難ならしめたのみか、更に窮極の利用者を失望せしめて居るのである。それも軒竝び何等の特色もなく、たゞ有りふれたことしか目に映らぬ平野地方などは、一つを手に入れたら隣は略してもよい樣なものだが、なほ編輯の時と人とが違ふと、意外なる記事の精粗があるものである。ましてあの郡の郡誌なら是非見ようといふ外部の者に、かゝる重課を負はしめる必要などは更に無く、いやしくも文筆を以て世に盡さう(294)とする者の、それが本意でないことも亦明かである。九戸は最後に來つてこのあらゆる過去の經驗を利用し得た上に、其郡内の事物は世に知られず、且つ世の知らんと欲するものを以て充ち滿ちて居る。從つて郡誌はその全編が既に價値あるものであらうが、なほ能ふべくば北隣の三戸郡誌、もしくは備前の邑久郡誌などの如く、需要の方向又は階段に應じて、各部を分册して印刷の數量を増減し、今少しく自由に他府縣の講學者に、それぞれ入用の知識を供與するの途が立てたかつた。それが九戸郡に取つても亦決して小さい事業ではなかつたのである。

　私は大正九年の八月末、二人の友人と共に下閉伊の海岸地方を旅行して、普代安家を經て此郡にはいつて來た。野田と小子内の濱の宿と、僅か二夜の因縁しかもつて居らぬが、時しも蕭條たる秋風の日であつた故に、印象は今に鮮明に活きて居る。其の後福岡の木村君、仙臺の中川君、駒場の綿織君その他の教授たちが、それ／”＼の計畫を立て多くの學生を連れて、處々の村里舊家を訪ひ、調査せられた結果は公表せられ、又私などもその話を聽いて居る。最近には又同人の大間知君が、山形村に入つて前後三週日を觀測の爲に費して居る。是等の見聞談を綜合して見ても、我々はたゞ此地方の日常の生活中に、尚進んで學び知らなければならぬ許多の昔風が傳はつて居ることを知るのみで、郷土の諸君に代つて解決し得たといふ樣な問題は殆と無いが、少なくとも外から見に來て何を感じ、何を珍重したかといふことを知るだけは參考になる。勿論その説く所にも思ひちがへはあり、又氣に食はぬ事はあらうが、それを吟味し又是正することも、實は國家に對する大切な奉公であつて、それを爲し得るのは主として九戸の人、又九戸郡誌を讀んだ人でなければならぬ。此卷の初頭に私をして數言を題せしめようとせられる動機が、那邊に在るかは察しにくいが、自分として斯ういふ所を利用して、讀者に談りたいと思ふことがあるのである。第一には此郡で或は通例と認められ、乃至は平凡にして説くに値せずとせられて居る生活諸相の中に、今はまだ學界の兼て知らうとして居る事項が、色々と殘つて居るといふことである。第二には郷人をして我郷土を解し又愛せしめるが爲には、寧ろ利害を超越した外部からの物の見方に、倣はなければならぬ場合が多いといふことである。人を教へることは同時に又自ら學(295)ぶの道である。一方にこの眼前の現實を直寫することが、其儘一國の學界に貢獻し得るとすれば、それは既に砂を化して金と成すの奇瑞であつた。その上に更に内外の協力によつて、徐々に我立場を知り成行きを會得し、多くの異なる郷土の經驗を參酌して、最も賢明に新時代の文化と、調和して行く方策が立てられるならば、今まで遲れて居たことは寧ろ損でなかつたのである。今度の九戸郡誌は非常なる勞苦をかけて、漸く完成した一大雄篇ではあるが、將來ふり返つて是を舊式地誌の最後のものと謂ひ、もしくは東北研究の入門の書と評する者があつても、誰も反對をせぬ時代が多分は到來するであらう。さうなつた曉は九戸郡は功勞者であり、又指導者でさへもある。徒らに一世の同情を集注して自ら慰めて居る如き?態とは、全然手を切つた朗かなる郷土になつて居ることゝ思ふ。それが又學問の理想である。

　

(296)　　　　　富木友治編『百穗手翰』

　

　百穗君世を去つて十年の後、私は始めて角館の靜かな町をおとづれ、平福氏の故宅新邸の地を一覽してから、更に富木庄助翁一家の好意を受けて、その神代村の田莊に行き宿した。百穗君の遺墨遺稿は數多く爰に藏せられて居る。それをなつかしき一夜の伴侶としてくり返し私は往時を追懷したことであつたが、殊に一行十餘人の仙巖越えなどは、單なる故郷に錦といふ以上に、壯快極り無き好記念として、今も印象が鮮かに殘つて居る。さうしてこの百穗手翰の計畫が有ることを知つたのも、亦その際のことであつた。

　それから後二年、漸く一卷の書が公表せられんとするに臨んで、こゝに又一囘の人生觀照の機會を得たことは幸ひと云ふべきである。始めて私が百穗君と相識つたのは、明治三十八年の秋のことであつたと思ふ。内務省の諸君を中心とした報�ｺ會といふ團體が其頃組織せられ、平福君はその依囑を受けて、雜誌斯民に畫筆を揮つた他に、毎月の會合にも必ず出席して居たやうである。私は少年の日、繪畫叢誌の愛讀者であつた故に、あの誌上を通して穗菴先生を熟知して居た。それが恐らくは互ひに有力なる紹介の名刺となつたのである。次で翌三十九年八月の初め、報�ｺ會の全國大會が三日に亙つて、相州小田原に開かれた際にも、平福君は出て來て會の爲に大いに働いて居た。會の終つた次の日の午前、私は後から來た兩親と妻に同行して、人力車を傭つて箱根に入つたのであるが、其途中で又百穗君の、一友と共に靴ばきで登つて來るのに、何囘となく巡り會つたのであつた。あの頃は勿論電車は無く、人力の速力は徒歩よりも遲い處が多く、さうして又?々休憩した。一旦帽子を取つてさようならを言つて別れても、次の茶店や曲り(297)角で又顔を合せる。しまひには父も母もすつかり懇意になつて、色々な話をして居たやうである。斯ういふことがたしか二日續いて、それから又暫らくの間、會でも百穗君とは出會ふ折が無かつたのである。

　我等兩人の一生の交渉も、何かこの箱根山中の旅と似たものがあつた。大正三年の春、自分が貴族院の事務局に入つた頃、平福君はまだ國民新聞の記者で、毎日議會の記者席へ來ては、遠くから私の方を見て居た。二度ほど新聞に苦笑するやうな漫畫を出されたことを記憶する。そのうちに何か用事があつて、訪ねて來られたので共に茶を飲んだ。あの有名な二葉より手くれ水くれの歌の話を、直接に聽いたのも此時のことであつた。隊長の黒板某が黒板勝美君の祖父であることを、まだ心づいて居られなかつたやうに思ふがどうであらうか。

　ちやうど其時分、郷土研究といふ雜誌を私は編輯して居た。是には表紙畫に二色刷の農村風景を、鉢卷のやうにして出して居たのだが、今まで松岡映丘に描いてもらつたのを、取替へて見たくなつて居た。それを百穗君に相談したのも、やはり斯ういふ公務の序であつて、特に門を敲いて依頼したのではなかつたが、同君は快く之を引受けて、次から次とたしか三度ほど、面白い版下を郵送してくれられた。それが何れも五六號づゝ、この雜誌を飾つて居るのは、私に取つてはうれしい記念である。

　それから又十年ほども間を置いて、民族といふ四季刊誌を出した際にも、やはり雙方がこの日の事を覺えて居て、今度は毎號一つづゝ、何か一本の老樹を描いてもらふことにしたが、是にも百穗君は非常に面白い川楊と野梅とを畫にしてくれられた。この原稿は多分出版者の手に、今でも珍藏せられて居ることゝ思ふ。百穗君の畫業が大飛躍して、世を擧つて禮讃隨喜の聲を放つたのも、ちやうどこの中間の十幾年であつたが、私一人は境涯が變動して、旅行にばかり日を送ることになつて居たので、段々と接觸の面が狹くなり、たゞ遠方から評判を聽くのみで、顔を見るやうな場合は全く無くなつて居た。しかし此間にいつの事であつたらうか、歌集が世に出たことがあつて、是は確かに贈つて貰つて讀んだ。

(298)　さうかうするうちに金鈴社が始まり、次で又伊太利旅行があり、自分の弟もこの二つに參加して居た爲に、次第に噂の傳はることが繁くなり、又歐洲の單獨旅行からは、折々なつかしい繪葉書をもらつたので、絶え／”＼ながらも交際はなは續いて居たのである。

　文學美術の方面の人たちと私とのつき合ひは、この十何年間を境目にして、あらまし中絶して居たのであるが、さういふ中に於て百穗君の場合のみは、不思議に又返り咲きをしたのであつた。日は日記を捜さぬとちよつと思ひ出せない。珍らしくこの郊外の書屋へ、百穗君初度の來訪を忝うしたことがある。赤川菊村君が菅江眞澄の畫集複製を企畫して、それを多くの人に説いて居た頃で、何の前觸れも無しに、ふいと遣つて來られたのである。此事は私の著書にもざつと書いて置いたが、つまりは我々二人がもつと力を入れぬと、此事業は成立たぬかも知れぬといふことを言ひに來られ、其爲に色々の實行案を示されたのである。私が菅江眞澄の顯彰に力を入れて居ることは、自他ともに許す所であるが、平福氏が是だけまで熱心だつたといふことは發見であり、又大きな激勵でもあつた。それで早速男鹿の五風を先づ出すことに打合せをしたのであつたが、何かの故障があつて取掛かれなかつたばかりで無く、是が又同君との最終の會談ともなつてしまつた。

　本集に載つて居るやうな好い手紙は、一通も私は持つて居ないが、是を見て行くうちに自然とあの日の訪問の深い動機を、會得したやうな氣がする。是は好い事だと思ふと百穗君は、すぐに全力を擧げてかゝる人だつたのである。殊に有難いことには私などの蔭の努力に就いて、夙くから深い理解をもち、自身も亦斯ういふ方面に始終注意を向けて居られたので、それが自然に周圍の人々の趣味にも浸染して居たことである。白田塾から出た人の中では、この集にも名の出て居る吉田白流君、又野口義惠女史などが、我々の仲間の仕事を助けて居られる。さうして何かにつけて談故人に及ぶことが今でも多いのである。

　それからもう一つ最近になつてから、私は圖らずも平福一郎君を識ることが出來た。是も老人らしくくどい話をす(299)るならば、一郎君は自分の末女の婿、太田といふ者の親友であつて、彼が南方戰線に出陣する前後、兄のやうな懇ろな支援を與へられた。さうして同時に又、自分の老友關屋貞三郎君の女婿でもあつたのである。一郎君は風貌も父に似、又性情もよく似た處が有るやうに思はれる。勿論もう時代もちがつたから、幾ら保存をする人が無いと知つても、もう此樣なアンチームな手紙は書かうとはせられぬであらう。それがよいとか惡いとかの問題では決して無い。殊に百穗君の如きは、率直といふことに誇りを持ち、又私的打算の少しもまじつて居ないといふことに誇りをもち、構ふものかと生前でも平氣であの微笑を湛へて居たかも知れない。現に自分の兄などもさう言つた氣質で、寧ろ心の隅々を疊んでは置けないやうな傾きが見えた。之に比べると私などはやゝ見え坊で、日記を書くにも手紙にも、いつも誰かゞ背後から、覗いて居るやうな氣がした上に、若い頃には相應にそんな手紙も出してあるので、何處からか現はれて來はしないかと、今以て意氣地なくびくついて居る。だから是からはもうルソウの懺悔録のやうな、人の一生の立體寫眞のとれる樣な、又時代を知るやうな手翰集などは、先づ出て來なくなるものと見てよからう。

　百穗手翰の編纂者は、どこまでが公けの事件、どれからさきが私事か、分堺線を引くのに迷つたと言つて居るが、それは迷ふべき問題でも無いと思ふ。自信ある生活をした者ならば、世を去つてしまへばもう私といふものが無いから、その遺物の全部が公事である。明治の中頃から、太平洋戰爭勃發の前にかけて、斯ういふ手紙を書くやうな必要が日本に有つたといふことは、埋没してはならぬ歴史上の事實である。だから此本をたゞ縁故ある人々の文庫の中だけに、大事に藏つて置かうといふ考へであるなら、その點のみは誤りであらう。私は却つてさういふ私藏者の方を制限し、又頒布を郷土の周圍に止めることなく、汎く平福百穗の藝術を認識する人々に、又それをすら能くせざる後代の人々に、縁が有るならば讀み且つ味ひ得るやうな公けの機關に、この卷を保存させることに努めてもらひたい。ただ製作の都合によつて、この手紙の中にあつた澤山の草畫が、傳はらずにしまふことは私たちには惜しい。世の中がもつとくつろいだならば、それをもう一度寫眞版にとつて、古い知友や親族の間だけに頒つて、保存せられるのもよ(300)いことであらうと思ふ。

　

(301)　　　　　佐藤氏日記『菻澤歳時記』

　

　この半世紀を覆ふ大記録、千人に近いかと思ふ登場人物の中で、私の知つて居るのは大曲の田口謙藏君、六郷の故高橋軍平君、この頃隣村に住む坂本龍太郎君、及びこの編輯をした赤川菊村君くらゐなもので、故人平福百穗・安藤和風・下岡忠治・深澤多市等の諸氏の名も出て來るが、是とても爰では微々たる端役しか演じて居ない。大曲と横手とは少しばかり覺えて居るが、その他の土地と來ては菻澤は言ふにや及ぶ、角間川も六郷もまだ行つて見たことが無い。一言でいふならば私は他處の人だ。何だつて又斯んな他處の人に、序文を書かせて見る氣になつたのだらう。もしも輕はずみに私が承知をして、勝手放題な事を書いたらどうする積りであつたか。實に赤川菊村といふ人は無茶なことを考へる人だと、蔭で散々私は惡く言つたものである。

　然るに結果に於て、私は菻澤歳時記をすつかり讀み通し、さうしてこの長々しい讀後感を書くことになつたのだから、流石新聞記者の方寸は怖ろしい位のものであつた。最初この本の初刷が表紙も扉も附けず、假綴のまゝで郵送せられて來た時には、少しは變だと思はぬでもなかつたが、まさか序文をと言はれようとは氣が付かぬからつい讀んだ。ちやうど折あしくか又は折よくか、防空演習や何かで書くべきものも書けず、やたらに本ばかり讀んで居た際なので、うつかり釣り込まれて皆讀んだばかりか、うちへ來る人たちに飛び／＼にでも見せたいと思つて、赤インキを以て線を引き書き入れをして、もう返せと言つて來ても返せなくなつて居た。其頃を見すまして、序文を書いてくれといふ赤川君の手紙が、到着するやうに仕組まれて居たのである。それは偶然のしあはせなどゝ、微癸するにきまつて居る(302)が、私のみはさうは思へない理由をもつて居る。前年大曲の文化協會が、彼を介して講演を頼みに來たときに、私は酢だの蒟蒻だのと言つて中々承引しなかつた。さうすると赤川君は忽ち話頭を轉じて、此頃は仙北地方は山の青物が多いといふことを言ひ出した。いやシホデコだシドケだアイだホナだ、あれはどうして食ふのが一番うまいなど、丸で私が初物道樂であることを、見拔いたやうな懸け引きであつて、内心癪にさはりつゝも、そんなら行くよと謂つておめ／＼と引張つて來られた。つまりは今度もまた遣られたのである。斯ういふ人が居るから秋田も輕んずることが出來ない。負けてしまつてから片意地を張つても、さう器量は好くならない。よろしいもう一ぺんだけ、彼の術中に陷つてやれ、といふ心持を以てこの序文は書くのである。其代りどんな事を書いてしまふかわからないといふ、覺悟だけはして居なければなるまい。

　私は自分の家が秀郷流の藤原氏である爲に、夙くから東北の佐藤族の分布に注意して居たが、この雄物川中流の平野に、斯んな活氣の盈ち溢れた一まきが、土着して居たことは始めて知つた。家の繁昌と歴史の古さとは勿論關係が無い。寧ろ久しく雌伏して居たればこそ、新たに大いに顯れることも出來たので、現に平泉や信夫の總本家は、絶えて夏草の夢の跡となつて居るのである。しかし兎に角に何十代かの遠い縁つゞき、同じ龍宮の俵の米を食べて、育つた子供等の末の末に、まだ是だけの發展性が殘つて居たといふことは、自分の家に取つても心強い實例であつて、それが何等の特殊なる幸運に基づかず、單に普通の人間の具へ得べき幾つかの好條件の組合せを以て、いつと無くこの立派な親方衆をこしらへ上げたといふのだから、愈々以て我々の前途は頼もしいのである。

　或は是を以て東北だから、近世急激に文化の恩惠に霑はうた地方だから、たま／＼斯うなつたのだと見る人もあるか知らぬが、假にさうだつたと決すれば、それも亦明るい希望である。現今の東北は一般に、人が自ら憐むの念ばかり強く、理由も無く環境の力を見縊つて、拔驅けして我獨り都府の利害に迎合するより他に、出て行く途は無いかの如く思ふ者が増加しようとして居る。そんな事をしなくても平氣で活きて行かれるといふ近頃の例が、もし一つでも(303)二つでも眼の前に有るとすれば、少なくとも我々は別の活き方を考案することが出來るのである。眞似をして見たところが始まらぬことは判つて居る。是が好い御手本かどうかは後にきまる問題だが、とにかくにもつと事實を明確に知るといふことが、根本の經濟教育であるといふことを、心付かせる材料としては、斯ういふものが必要なのである。佐藤家の後裔がたゞ父祖の恩�ｺを尊び、永く追慕の情を繋がうといふ志だけならば、この日記の如きは綺麗に複寫して、めい／＼の家の御佛壇の隅に置いても濟む。それを此通り活字に組み本に仕立て、遠い遠縁の自分如き者までが、讀める樣にこしらへて居るのは、恐らくは別に第二段の利用者があつて、其方が却つて重要であることを意識して居るからであらう。果してさうならば、この一門の拮据輕營を觀望すること、恰かも野山の一本の樹木の、歳を重ねて高く伸び行くのに對する如く、家と世の中とを絡んだ義理や人情、さしもに皆さんの胸を浪打たせた人生の喜怒哀樂を、まるで蔦かづらの紅葉か苔の緑、鳥の聲か雲の影、さては嵐や霜雪の風情をもてはやすやうに、靜かな態度を以て眺めて居る者があつたとても、冷淡だなどゝ怒つてはいけない。斯うして始めて我々の生存は次に來る者の爲に意義が有るのである。

　そんなことを言つても讀む人が無いだらう。讀んでこの底に流れて居る何物かを、掬み上げ味はひ取ることは出來まいと、思つて居る人があるか知らぬが、もしそれを誘ふことが出來ぬやうだつたら、赤川君などは腕が無いのであり、實際又私といふ一人だけは、たうとう取つかまつて讀まされてしまつたのである。私は誠にそゝつかしい讀書子であるが、それでもこの一卷の記録によつて、人が長者になる法則をちよつくらと學ぶことが出來た。少なくとも明治の後半、秋田縣中部の低地でならば、斯うすればきつと家が榮えたといふことが、かなり簡明に此日記の中には書いてある。菻澤の佐藤氏の歴史には、むかしむかしの長者話のやうな、奇跡といふものは塵ほども無い。誰にも捉へ得られた一つの機會を、この家の祖翁は殊に安々と捉へただけである。翁の率直なる日記は其まゝが秘傳であつた。明治十五六年の交には、米の値は河岸渡し百俵が百二十圓であつた。此邊は三斗俵らしいから、一升四錢ほどの米で(304)ある。それが年増しに少しづゝ高くなつて、昭和十年頃には石千圓を上下して居る。汽車が近くを通つて搬出も容易になつて居るのである。假に産額が以前の通りであつても、他の物價は十倍にまでは昂つて居ないから、幾分かは殘る筈であるのに、此家では夙に耕地増加の方針を立てゝ、少しの無理な計略も無しに、いとも自然に持高を買ひ添へて行つたのである。逸話として傳へてもよいのは、主人の篤實と精勵とが信用であつたと見えて、大曲その他の知友から、土地を買ふ金の融通を受けて居たらしいが、月一分の金が借りられるので、誠に好都合だといふ述懷がどこかに見えて居る。幾ら東北でもさういふ高い金利は、久しくは續いて居なかつた筈である。さうすると年一割二分の利廻りで購入した土地から、いつまでも同じ勘定の收益を得られることになるので、是も亦小さくない私經濟のくつろぎであつた。斯ういふ豫期せざる餘得は都會の地主にも、又前々からの大農にもあつたので、決してこの家だけがうまい事をしたのでは無いが、なほ新たにさういふ好條件に惠まれたといふことは、計畫者に取つては恐らくは大いなる幸福感であり、それが轉じては又第二第三の事業に進出する、鋭氣ともなつたことは想像し得られる。

　但しこの樣な金錢の勘定が、全部の説明にならぬのは勿論である。誰でも此日記を讀んで感ぜずに居られぬだらうことは、大よそ一軒の家の大きくなつて行く際に、必ず附いてまはるべき幾つかの條件が、偶然ではあらうが殆と皆備はり、しかもわざ／＼さうしようと努力したやうな痕跡の無いことである。是を列記して置くといゝ參考になるのだが、あまりこま／”＼としたことは私には書けない。たゞ一ばん大切のやうに思ふことは各員の生活力、親も子どもも毎々病氣をして、醫者や看護の勞を掛けるが、程なく又よくなつて元の通りに活動して居る。是は健康とか養生とかの問題とは別に、もつと根本の組織の、外からの壓迫に堪へるものがある爲では無いか。章君はあの通りの立派な最期、宮之助氏にも何か特別な事情があつたかと思ふがこの二人を除いては他は皆丈夫で、單なる長壽といふ以上に、年とつてまで氣力が衰へて居ない。是は何代と無く激しい勤務に鍛へられて、寒い雪國で活き拔いた家の餘得と思はれ、今まで計算に入れられなかつた東北人の一つの財産である。是を傷つけ損ふやうな新文化は、最も警戒して避け(305)なければならぬのだが、知らずに居る位だから誰も粗末にして居る。たま／＼この家のやうな顯著な例に逢ふと、我々は驚かずに居られぬのである。

　之と關聯して第二にはよく働くことである。金重翁などの勞働はもう習性になつて居た。越後地方に行けばもう帳場にも出ぬほどな境涯年齡で、田植には小苗打ち、稻苅には稻まるき乳穗《にほ》積みまで、下人と一つになつて働いて居る。それが或は樂しみでもあつたのでは無いか。日記の中には詳しく共に働いた人の名を掲げ、その仕事の品目だけでも二十種に近いものが算へられるのである。私の推測では、是は或一人の篤農の心掛けのよさでは無く、寧ろ此地方の旦那衆の古くからの趣味であり、又常の日の生活であつて、それをこの家でも何と無く續けて居ただけであらう。中世の郷士といひ地侍といはれた人たちでも、戰に出なければ狩でもして暮して居たやうに、思ふ人があつたらそれは大ちがひである。そんな事をして居れば鳥獣は根絶やしになり、それよりも第一米が作れやしない。主人が自ら出て働かねばならぬほど、手不足であつた氣遣ひは萬々無いが、是は米が大切な作物であつて、たゞ協同の空氣の中にのみ、成育するものと考へられて居たのである。多くの田植歌に田主の富貴をたゝへ、又田主の嫁娘が、花のやうな化粧をして田に立つことを詠じて居るやうに、あらゆる人の力が集まらなければ、君と神とに奉るべき田の力は生れなかつたのである。如何なる農耕の畫卷を展げて見ても、一人で山の蔭に淋しく植ゑて居るものなどは無い。老女も緑兒も皆田の畔に寄りつどひ、子供は大きくなつて、早くあの中にまじつて働きたいと念じて居た。それが勞働自由の世になつて、先づ解放せられた者は當然に主翁であつた。曾てたちつけ袴に長い杖などを突いて、働く田人等を褒めて居た彼等が、一ばん閑だと見られて公務に引出され、もしくはもつと重要なる國事に奔走した。主翁が出なくなれば嫁娘等も次第に辭職する。さうして地主は農民なりやといふ樣な、問題が論議せられるまでになつたのである。さういふ中に在つても佐藤家の家風は、謹嚴なる菰渚翁の保守主義によつて、なほ暫らくは續いて居たかと思はれる。たとへば元氣のよい青年男女が、スキイや山登りで草臥れることを運動として居る傍に、あの忙がしい當主が僅かの(306)時間を見つけて、長男を相手に歳の暮の障子貼りをするなどは、昔なつかしく又ほゝゑましい好情景であつたが、それが果してもう何年ほどもくり返されるものであらうか。地主の將來と共に、我々の關心せざるを得ない問題である。

　日記には數字を示されて居ないが、この家の手作も少しづゝ縮小して居るかと想像せられる。それに一方の田地持添の方針はなほ續いて居るらしく、毎年の正月禮に集まつて來る作子の數が、ふえる一方で此頃はもう二百人に近くなつて居る。この人たちが純良にして常例を重んずることも、たしかに親方家の安泰を支持しては居るが、其待遇に就いても懇ろな考慮が拂はれて居る。或は斯ういふのが此地方の普通の振合ひであつたかも知れぬが、とにかくに是は床次氏等が唱へ始めた、所謂温情主義の産物で無く、父祖三代に亙つて守り續けて居た慣行かとも思はれる。さういふ中でも遠近によつてやゝ等差があり、特に部落を同じうする小作人に厚いのを見ると、事によると是は、この家がまだ大きくなかつた頃からの交際を、わざと改革せずに居るのではないかと思ふ。主婦が字内三十何戸の盆禮に、片端からまはつてあるいたといふなども、他の地方では聞いたことも無い謙抑な態度であつた。地主の人望が?々地元から崩れることを考へると、是は無意識にもせよ一つの統御のこつ〔二字傍点〕であつた。

　それから親戚故舊の附合ひが行屆き、出入といふべき人々のよくあしらはれて居ることは、よそ目にも樂しい富家の光景であつて、是が主人夫婦の隱れたる氣苦勞の種であると同時に、家に活氣を與へて、快く人を働かせる間接の力ともなつて居ることは、特に私たちの興味をもつ問題であるが、それまで話して居るとあまり長くなる。たゞ一言だけどうしても言つて見たいのは、本家分家の組織の目に見えぬ變遷である。佐藤金重翁壯年の頃の手記に、安政から慶應への九年間に、二軒まで分家を立てたことは、申すばかり無き本家の迷惑であつた。晝夜辛苦艱難するものに候間、堅く分地立てざる樣に致すべきもの也とあるのは、よく／＼の苦しい經驗だつたらうと思はれるが、それにも拘らず家が段々とよくなり、又その必要の新たに生ずるに伴なうて、次々と更に五六軒の分家を出して居る。是は一家に取つてはたゞ繁榮の悦ばしい記念に過ぎぬかも知らぬが、社會史研究の上からは見過がすべからざる時代相、も(307)しくは昔と今との大きなちがひを示して居る。同じ一つの名稱を以て呼ばれて居ても、この新舊二通りの分家は、目的が始めから異なり、從つて又性質もよほどかはつて居る。古い方の分地は文字通り、小分の土地を付與して出來るだけ近くに住まはせ、本家の生業に對する協力を豫期して居た。ヲヂヲバと奉公人分家の差はあつたらうが、共に最初から小農を仕立てる覺悟であつた。是に反して他の一方は、獨立して第二の大屋となることを計畫して居るから、近くに住んで居ると却つて競爭などの氣まづいことが多い。親類の義理は缺かさぬまでも、經濟の鏈鎖は弱いものであつた。地方によつてはこの二つのものを、別々の名で呼んで居る位に、本家との關係が大きくちがつて居るのだが、何處でもまだ經驗が十分でない爲に、是をはつきりと考へ分けることが出來ずに居る。今日は言はゞこの過渡期の混亂を、何とか處理しなければならぬ時代であるが、佐藤家歴代の主人の見透しは、この問題に就いてもほゞ適中して居たやうである。この家では明治十七年の嘉市君の家を最後として、もう舊式の分家百姓を立てることを罷めた。それから後々のものは分配を豐かにして、しかも其協力を當てにせず、寧ろ出來るだけ本家から引離して、將來對立の弊を避けようとして居る。恐らくは單なる骨肉の愛に絆されて、兒孫の膝を繞る幸福を味ははうとした人が、しば／＼門黨の不和を豫知し得なかつた不幸に鑑みたものであらう。しかも一方には是がワカゼ共の頻々たる出替りとなり、又農場勞力の供給難となつて、結局は手作の縮小に歸すべきことは判つて居ても、もうそれを避けることが出來なかつたのは時世である。

　菻澤歳時記は感慨の書でも無く、又咏歎の記録でもないに拘らず、なほ後代の讀者に向つて、深い興味を約束する所以のものは、是が我邦多數の純良なる地主諸君の、新らしい時世に對處する分別と苦心との一例だからである。今は何處にも在る話で珍らしくなく、從つてよほど子孫の爲に親切な者でないと、筆にして殘さうとせぬであらうが、何しろ今のこの時代が平凡で無いのだから、永く傳はればきつと大きな參考になる。我々は寧ろ未來の史學者の理解を扶けるやうに、出來るだけ公平な仲介をして置く必要があるかと思ふ。東北農業の特色は、一般にやゝ誇張せられ(308)て居るかと思ふが、この日記などを讀んで見ると、業主は必ずしもそれを意識せず、終始全國の同じ地位境涯に在る人々と、相似たる行動に出ようと努力して居る。それが又明治以降の統一國家の、根本の政策にも合して居たのである。風土環境の現實の差異は、果してこの新たなる生活體系に對して、どの位までの影響を與ふべきものであつたか。土地が東北であり雪深き島海山彙の向ふ側であるが爲に、今までどれだけの制約を受け、もしくはどれだけ餘分の利便を許されて居たか。この一個の最も具體的なる實例によつて、我々の導き得る教訓は小さくない。私は最近に菅江眞澄の年譜を編まうとして、秋田叢書によつてもう一度、『月の出羽路』の全卷を通讀して見た。佐竹侯の入部を堺にして、この地方の開發は大飛躍をして居る。村々の舊家と稱する者の先祖は、多くは若干の智能資力を携へて、新たに山阪を越えて入つて來た人々である。それが尋常の商人地主とちがふのは、彼等自らも亦子弟僕從と共に、ひどい忍苦を以て草莱と闘ひ續けて居る。手足の爪先から腹の底まで、農夫になりきれぬ者は住んで居ることが出來なかつた。しかも他の一方にはたゞ單純なる勞働ばかりでは、突き破り得ない難關も、始めから聳えて居たのである。菻澤新田がたつた一つの例外で無からうと思ふが、爰には家畜を立てるだけの草野が無く、麥大豆を作るまでの乾田もなく、その上に更に燃料が足りなかつた。僅かなカクマを苅り杉葉を集める外は、正式の煮物ふかし物にはすべて買入れの薪を使つて居る。器具建築の資材などの、外部の供給が當てであつたことは言ふまでも無い。即ち最初から自給經濟は思ひ切つて、いはゆる町立ちが生活の一部に織込まれて居た土地である。雄物の水運が沈黙の援助者であつて、暮には何俵かのカドやハタハタが、ひとりでに爐端に屆くものゝ如く、思つて居た者もあるか知らぬが、是と米一色の農業とを結び付けたのは、やはり隱れたる村人の商才であつた。思慮に長じた若干が此間に崛起して、夙に優勝の地位を占めたのも已むを得なかつた。言はゞ中央部の年久しい農部落よりも、一段と競爭の激しい土地だつたのである。東北の自然に培はれた平和主義、乃至は固有の運命觀と、この新たなる文化の刺戟とは、今もまだ完全には調和して居ない。如何にそれを導いたら、樂々と次の樂土に入つて行けるであらうか。御互ひに取つては誠に苦しい課題(309)であるが、しかも一面にはこの新舊感覺の交錯、古風と改革との繼合せの中からも、なほ幾多の詩趣史情を、掬み上げずには居られない。何の衒ふところも無いたゞ一軒の家の記録ではあるが、今ある東北の生活相が、之を透して或程度までは窺はるゝのみならず、見樣によつて是が又、大きな日本の縮圖とも言はれぬことは無いのである。

　さて少しく勝手なことを言ひ過ぎ、何やら人の牛蒡で法事をしたやうな嫌ひがある。今度は尋常に此書物の面白かつた點を列擧して、御挨拶の言葉に代へようと思ふ。一ばんこの地方で重要な問題は水利であらう。其爲に發達した制度慣例は、古く開けた地方にも手本になるほど、綿密で又嚴重なものらしいが、さうなつた原因は山の樹を伐り過ぎて、水の手が細くなつただけで無く、一つには惰性に曳かれた際限も無い水田の擴張からだと思ふ。利害を超越した菊池喜榮治君のやうな人の研究が、早く綜合せられることを私たちは待つて居るが、その結論を實地に移すとなると、又きつと其次の間題に打付かるであらう。佐藤家歴世の日記の中には、當然に之に對する憂慮と畫策の記事が多い。さうして?々又一部の解決には成功して居るやうである。數字ばかりを氣にした官邊の報告類よりも、斯ういふ小さな消息が將來のよい資料になるのだが、如何にも東北的だと私などが感ずるのは、この辯護士にも呑込めぬ樣な、細密極まる規約と併行して、別に雨乞と御果たしとの行事が、いつも盛大にくり返されて居ることである。雨さへ降つてしまへば問題はたしかに片付くが、其代りには翌年も亦雨乞を企てなければならぬ。さうして山の龍王の信仰は年と共に少しづゝ後退して行かうとして居るのである。

　しかもこの信仰の強みのまだ殘つて居るといふことは、どのくらゐ人心の萎縮を防いで居るか、測定も出來ないほど大きいものだつた。定義も範圍もきめないで迷信を打破しようとしたり、さうで無いまでも白眼に人の所行を眺める者が多くなつて、今や農民の心理は動搖し始めて居る。ところがこの地方の信仰生活は、さう強烈なもので無かつた代りに、いはゆるインテリ層の除外例が今までは無かつた。年が少しでも好ければ率先して、踊を催したり梵天を奉納したりしたことが、日記の中には何度でも見えて居る。まことになつかしい仕來りだと思ふ。御寺との附合ひな(310)ども、幾分か他の地方とはちがつて居るやうである。いつ頃から入込んだ眞宗か知らぬが、本山の方では格別力も盡さぬのに、土地からの歸依は純一なもので、京參りを一生の願望として居る樣子はしをらしい。寺へ元日に禮に行くことも、私などには始めての例だし、御師隨と稱して法事に招いた僧を、送つて行く作法も珍らしい。東北地方の眞宗門徒には、是が弘く行はれて居るものであらうか。斯ういふ序を以て知つて置きたいと思ふ。

　恐らく此家だけの家風といふのは少ないであらうが、年中行事の中にも私などには注意せられるものがある。たとへば田植の終りに村一同で休む大サノボリに對して、家限りで催す祝宴を此邊ではヨテナメと謂ふ。是は地方によつては家サノボリといふものに該當し、多分はヨテ田植の發音變化であらう。冬は新暦十二月の始め頃に、荷繩はづしといふ働き人への饗應があるが、この荷繩は人の背に用ゐるもので、乃ち苅稻搬入を以て、農作勞務の終りとした古い習はしに基づく名であつた。しかも是から北の方へ行くと、春の雪解け後に田を打つのが普通であるに反して、このあたりでは稻苅直後の秋田打ちがある。盆の煤掃きといふことも常例の一つになつて居るが、關東以南の土地では少ないやうで、多分は春遲くまで爐の火を焚くことゝ關係があるだらう。それよりも我々に珍らしいのは盆の獅子舞、是も東北の人はあたり前だといふだらうが、實際には此伎藝の由來を明かにする上に、可なり大事な資料なのである。新年の行事の比較的簡略なのは、或は維新の動亂などの際に、既に取罷めになつたものが多い爲であらうか。とにかく爰には小正月の皐月祝の稻穗飾りも無く、カセドリ・シヨトメが遣つて來た記事も無く、又初山の日のヌサ掛け鴉喚びの行事も見えない。或はあつても無視せられて居るのかも知れぬが、鎌倉燒きだけは毎年必ず、大きな木を伐つて來て立てたことが書いてある。乃ち町で見るやうな雪室が中心では無くて、よほど又中央部のトンドや左義長と近いのである。

　この日記の中の大事件としては、明治二十年の優曇華の奇瑞、又は石打ちの怪談などもあるが、それも是も時代と土地との空氣、それにとつぷりと浸されて居た家族群の生活を透して、始めて其感動の深さが窺はれる。殊に數篇の(311)旅行記の面白さは、世間をこの平和な一家庭と繋ぎ合せた、美しい飾り紐のやうな役をして居る。あの頃の日本は斯うであつたといふよりも、斯ういふ人たちも旅をして、深い印象を得て居たといふ點に、一段と新鮮なる歴史の興味がある。私は少年の頃下谷に居て、しば／＼街上に出て東北の旅客の赤毛布を纏うて、三々五々と過ぎて行くのを見た。國はどこだらう、故郷はどんな土地かと、空想を馳せたこともまだ覺えて居る。それが突如としてこの日記の中から、あれは私だよと近づいて來られたやうな、昔なつかしさを感ぜずには居られぬ。爪じるしをした箇條も幾つかあるがあまり長くなるからたゞ一つだけを擧げると、平治翁の若い頃の旅日記に、箱根を越える路で足柄山はどの方角かと、頻りに案内者に聞いたとある。どうしてそれを尋ねたのかと不審に思つて居ると、後の追憶記の三瀬宿《さんぜじゆく》の條を讀んで、はつきりとその氣持がわかつたのである。翁の生父長左衝門君が二十一、母君が齡僅か十五の年に、今なら新婚旅行といふべき伊勢參宮の行戻りに、ひどい難儀な目に遭ひつゞけたことがあつた。足柄山はまさに其序幕であつたのである。それからさきもなほ數々のうき苦勞を重ねて、漸う莊内領まで辿り付いたのが、もう冬のかゝりであつた。ちやうどこの三瀬の路ばたの家に休むと、其家の老母が話を聽き、同情の餘りに我息子にいひ付けて、惱める若妻を背に負うで、山阪を越えて故郷の家まで送らせてくれた。其日のうれしさが忘れられなかつたのであらう。二十何年かの後に湯温海の湯治を兼ねて、この三瀬の家を訪ねて禮を述べた。老女は既に世を去つて、その時の若者が爺になつて居たとあるから、昔の思ひ出話の盡きなかつたことも想像せられる。それを年少の菰渚翁は、傍に居てぢつと聽いて居たのである。斯ういふ小説よりも美しい情味は、あの時代のものであり、又東北特有のものでもあつたかと思ふ。私などはたつた一つのこの樣なしをらしい話を感受する爲にも、之を發生させ又保存して居た土地と家との長々しい記録を、讀み通した甲斐が有るやうに思つて居る。

　いさゝか事を好んだ赤川君の介助によつて、私だけは偶然にこの一卷の家記に親しむことが出來たが、さて世間の多くの人が、今後之を讀んで同じやうな感激を、受けるかどうかは疑問である。しかしもし之を單なる一族の懷舊追(312)憶の書たるに止まらしめず、少しでも人生社會の用に立てようといふ志をもつ人があるならば、菻澤歳時記には必ず索引を添へなければなるまい。さうしてなほ出來ることならば、この中に出て來る若干の大小人物の、時々の風貌擧措を想び起させるやうな、よそ行きでない寫眞を挿んで置きたいものである。私の序文の如きは、是も自分だけの日記見たやうなもので、格別この本の利用には役に立たぬであらうが、やはり我家だけにはいつ迄も殘して置きたいと念じて居る。

　

(313)　　　　　川口孫治郎著『日本鳥類生態學資料』

　

　近年川口君は頻りに仕事を急ぎ、家に十日とは停まつて休息することも無く、文字どほりの北馬南船にも、いつも東京は素通りして、歸りには寄らうといふ便りだけはあつて、後に失望するのが常例のやうになつて居た。書面にしたゝめて出す樣な用件でも無い爲に逢つたら澁茶でも啜りながら、ゆつくり話して見ようと思つて居たことがあつて、實はさういふ日の到來を期して居たのである。先づ第一には川口君の學問の風が、ほゞ世上に其意義を認められ、感化は既に同君の豫測しなかつた區域、たとへば私たちの携はつて居る文化史の研究などにも及んで居ることを告げて、だからもう少しは憩はれてもよいと、いふことが説いて見たかつた。それから今一つは如何に境涯に惠まれた人でも、あらゆる種類の鳥獣の生活を、觀察し盡すといふことは一生のうちには望まれない。それよりも大切なのは同じ心の日本人を多くすること、この態度と方法とを詳しく解説して、事業を永續するものにした方が得だといふことを、自他の爲に賛成してもらひたかつたのである。是に對する川口氏の返答も、一應は想像できぬことは無い。そんなことを言つた所で、自分と均しい熱情を以て、この仕事を分擔しようといふ人が、有るやら無いやらは不定である。さういふうちにも鳥は居なくなり、獣は現に足跡も稀になつて居る。居つても生き方が元の通りで無いかも知れない。機會がある以上はそれを逸して、宛て無しに人に任せては置けぬ、といふ氣持は慥かに有つたらしい上に、内心に或はなに其位の仕事なら、一生かゝれば爲し遂げられぬとも限らぬといふ、樂觀があつたのかも知れぬ。少なくも外部の者からは、さうも取れるほどの活躍ぶりであつた。それがやつぱり無理であつたといふことは、此頃になつて漸く判(314)明したけれども、今ではもう參考にも何にもならない。

　獵や農藝の如き昔からの勞作でも、專心に之に携はる者には「はずみ」があり、調子があり、又忘我の境とも名づくべきものがあつた。疲れと倦怠とが區切りを付けぬ限り、中途で向きを替へて別の用を、片づける氣にはなれるもので無い、まして學者が新たなる野外の作業にはまり込んだ場合、興味は次から次へ止めども無く誘引しようとする。それをはたから思ふ樣に、自由に加減し得なかつたのに不思議はない。さうして川口君は實によく働いたけれども、まだ些しでも疲勞といふものは感じて居なかつた。たゞ人生の暮色が餘りにも速かに、蒼然と押迫つて來たゞけである。是に對しての内心の慌たゞしさは、經驗して居る者が世間には多いことゝ思ふ。私は必ずしも川口君に向つて、退いて靜かに書を著はしたまへと、勸説したことはないつもりだが、以前は稀に出逢ふとよく著述の話が出た。御互に此間題の未解決が、日増しに氣になつて來る年齡に逢して居たからである。川口氏の計畫は可なり大がゝりなものであつた。しかも其完成にはあの點この點、もう一度詳しく觀測して來なければならぬ部分がまだ幾つかあると聽いて、私は竊かに歎思したのである。古來さういふ深切な志を懷きながら、年頃の收穫を一つも同胞に頒ち得ずに、去つた人が多いからである。現に我々の目前にも、生涯の刻苦精勵を空な未知數に、還元しようとする學者が幾人もある。惜んで間に合ふうちに惜まなければうそだと思つた。假に時代を提撕する樣な總論要約の書は書けなくとも、少なくともこの自然觀察の態度と方法順序、殊にこの熱情は世に傳へなければならぬのだが、是が結局は又有りふれたる人生の不可能事に歸して、たゞ徒らに一部の世を同じうする者の、禮讃の聲となつて終るのではないか、といふ樣な懸念が私には制しきれなかつた。

　本書の出現は、まさしく其懸念が一個の杞憂に過ぎなかつたことを證明する。著者の思ひがけぬ病氣は悲しいけれども、ちやんと是だけの大著がもう準備せられて居たのであつたら、別に何も言ふ所は無かつたのである。あの忙がしい旅行生活に於て、いつの間にこの支度が出來たのかと、一應は誰しも驚かずには居られぬが、實は川口君には私(315)たちもよく知つて居る、非常に結構な慣習が一つあつたのである。どんな疲れた晩の眞夜中でも、寢る前には必ず其日の見聞を筆記して、旅先ならばすぐに郵便で家へ送り付ける。それが音信ともなれば又綴ぢ合せて本にもなる樣に、久しい間同じ型の紙を用ゐて居た。前年私が訪ねて行つた頃にも、是が財産だと言つてもう數十册はたまつて居た。あれから又大旅行が續いたので、きつと數倍に増加して居ることゝ思ふ。讀みたければ持つて行けとも言はれたが、紛失が怖くて借りて來る氣にはなれなかつた。さうして唯その一部分を櫻田勝�ｺ君が福岡から通つて讀み、私に代つて抄録してくれられたゞけであつた。日記は家のものだから無論世に傳へることは出來ない。又其中より入用な知識を整理することも、外部の者にはちよつと望み難いことである。筆者自身の根氣が正確な索引となつて、此樣にも簡明に又むだ少なく、讀み易い形になつて公表せられるといふことは、學界に取つても亦偶然ならぬ幸運で、我々は先づこの周到なる學究平日の用意を、感謝し又手本にしなければならぬのである。

　但し私一個の關する限り、川口君に依つて學び又覺り得たことは、この外にもまだ色々とある。是も此序に片端だけを書き留めて見ると、大正の初年の中央公論に、かの「杜鵑の研究」が寄せられた頃には、同君は既に鳥に關する古今の文獻を渉獵し、しかも古人が出たら目を筆にせず、又その觀察の今よりも遙かに湛念であつたことを信じたにも拘はらず、果して鶯のかひこの中に、今でも時鳥が我子を托するかどうかを、もう一度自分で確かめて見ようとして、毎日握飯を持つて叡山の奧の林へ入り、樹の梢を見つめて居た。さうして愈々其事情と結末とを、なる程と言ひ得るまでに突き止めて還つて來たのである。過去千有餘年間の歌に俳諧に、あれだけよく注意せられた二種の野島の生き方にも、まだ／＼此際まで人の知らずに居た、幾つかの特徴のあることが、是と共に明かになつたのである。常人の一生には鳥ほども記録が無く、且つ何千倍か複雜に變化して居る。改めて見なほす必要があるとすれば、眞似するどころか此方にこそ、もつとよく働く川口君を、多數に揃へなければならぬのだと、考へ始めたのは此時からであつた。さうして此御手本が倦むことを知らなかつた御蔭に、この刺戟も亦ずつと今日まで續いて居る。

(316)　それから『飛騨の鳥』といふ書物が出ることになつて、自分たちの經營する爐邊叢書の中に、乞ひ受けてそれを編入した。私は其一册を携へて西洋に渡り、レマン湖畔の林の陰の旅宿で、日課の樣にして獨りで讀んで居た。そこへ跡を追うて續飛騨の鳥の一卷が屆いたのは、たしかサレブの山の裾野に、郭公の啼いて居る季節だつたと思ふ。飛騨の山國の雉鳩雀類は、總體に近畿などの鳥よりは呑氣だと書いてある。歐羅巴でも野鳥と人との間柄が、故國で見た樣に急迫して居らぬことは私も感じて居たのである。日本の黒鶫はめつたに喬木から降りて來ぬが、こゝでは毎日芝生の蟲を引出して食つて居る。足を爪立てると中の見えるほどの下枝に、羽色の極めて美しい鶸《ひは》の一種が巣をかけて居る。西洋の雀も人に親しみ、人を窺ふ擧動は全く雀だが、鳴聲にはチチといふ音がまじり、衣裳も同樣によほど我邦の青鵐と似て居て、第一に昔話の種になつた頼べたのおはぐろの痕などは無い。環境が假に此等の異同を馴致したものとすれば、鳥にも亦書かれざる國史があつたので、人には任せて置けない日本の鳥の生活を、一々觀察しようとする川口氏の勞作が、愈々貴重なものに私には感じられたのである。

　羨ましいことには動物生態の方面などでは、一地一時代の代表的な事例が一つ見つかると、比較的安全に他の多數を類推することが許されるらしいが、我々の社會には個體の變化がひどくて、幾多の實驗を重ねても容易には綜合の途が立たず、時と勞力とを費して居る割には、應用の效果がまだ十分に擧がつて居ない。それにつけても本書の如き先行の事業が、着々と自證再檢討の領域を押擴めて、改めて古傳の寔に誤まつて居なかつたことを確認し、更に一歩を進めては前人の未だ心づかず、もしくは簡單なる解説を以て滿足して居た點を補充して、國の知識の水準を高めることに成功したのは、我々にとつては何よりも力強い激勵であり希望である。この一編の構造がやゝ在來の類書と異なり、排列を隨意の話題式とし、記述に當初の日録風を保存して居るのは、獨り親近故舊の爲になつかしい好記念たるのみならず、弘く後代の讀者に向つても、この誠實なる生活觀察の態度方法が行く／＼尚大いに成長し、更に宏汎なる收穫を擧ぐべきものなりしことを示して居る。乃ち志を同じうする國中の小壯學徒は、自由にこの事業の後を繼(317)ぐことを招請せられて居るのである。川口君自身も亦、幸ひにして宿痾全く治したならば、急いで再び是が増補改訂の爲に、勇躍せずには居られぬことゝ信ずる。

　

(318)　　　　　小林保祥著『高砂族パイワヌの民藝』

　

　蕃族慣習調査會の大きな報告書が、二十册近くも續刊せられたのは、既に四十年前の事である。自分も其際は壯年學徒の熱情を以て、片端からそれを讀み通した者であるが、あの時ほど強く烈しく、興國の機運といふものに感銘したことは無かつた。我々内地人の隅々の生活に就いては、まだ一卷の調査報告書も出て居らぬだけで無く、めい／＼の生れ在所の生活だけはよく知つて居るつもりでも、反省して見ると是と匹敵するやうな精密な見聞は、實は持合せて居る者が少ない。然るに國家が?爾たる新附の小民族の爲に、是だけ周到なる觀察の記録を作つてやるといふことは、尊とい雅量であることは言ふに及ばぬが、同時に又始めて眼前に展開した廣い珍らしい世界への、至つて人間的な氣取らない知識欲の收穫でもあつたのである。私は之を劃然たる一時期として、日本の社會人類學は忽ち大躍進を遂げるであらうと、心の奧底から信じたのであつた。その期待は必ずしも裏切られては居ない。たゞ是には最も利用に適した索引を添付し、いつでも誰でも見たいと思ふ者が見られるやうに、全國に配つて置けばそれでよいと考へたのが、今はまだ其通りには行はれず、本が少しづゝ古く又稀になつて來るのを悲しむのみである。斯ういふ急ぎの事業には誤りが有り缺漏があり、後々多數者の力を以て少しづゝ、補正し完備する必要があることは最初から一般に認められ、其希望も亦次々と充されて居る。たゞそれが今日はなほ小さな研究室内の勞作に限られて、未だ一般の常識と交渉をもつに至らず、依然として民族學を以て、洋書購讀の仕事であるかの如く、誤解する者の數を少なくして居らぬだけは遺憾である。北に千年の誼みを傳へた純朴の一異民と對立して、この南の島の山人こそは新たなる我々の(319)善知識であつた。それをまだはつきりと心付かぬうちに、今度は又更に雄大なる語族共榮の時代に入つて來たといふことは、恐らく今日を豫期して居たであらう先輩の士に對して、何か少しばかりすまぬやうな氣がする。

　しかし年を取つてから、私にも段々と心付かれたことは、事實を精確に書き誌して世に遺すといふことゝ、知つて身に沁み思ひを深めるといふことゝは、もと／＼二つの事であつて、稀にしか提携合致するものでなかつた。殊に官府の事業は人の交代が繁く、勢ひ印刷を以て完成と看られやすく、厖大なる少部數の調査書は、しば／＼用の無い文庫に埋れてしまつて、讀まうといふ人々とは隔離せられがちである。中間に若干の親切な解説者があつて、之を手の屆く處まで持つて來てくれぬ限りは、折角の雄篇が忽ち過去のものになるのも已むを得ない。それから今一つ、國内の學問でもよく經驗することは、意外なそちこちの隅からの小さな發言、時々の話題の彼を想ひ起させるやうなものが、せめては一年に一度か二度出て來ぬやうでは、俗人はすぐに問題が古くなつたと言つてしまふ。殊に一方の平和冷靜なる記述に對して、鋭どく情の籠つた個人の體驗は必要な補給であつて、從つてさういふ具體的な新らしい見聞が公けにせられる毎に、多くの學問はいつも若やぐのであつた。私などの携はつて居る國内の民俗學には、さういふ機會が幸運に多いが、考へて見ると異種族の生活誌にはそれが稍々足りなかつた。今囘の大戰の副産物としては恐らくは今に應接に遑ないほども、それが現はれて來て我々を刺戟することであらう。さうして同胞の誰彼はその感激に基づいて、更に一國の文化を高めて行く學問に、貢獻しようといふ素志を以て、是からは大いに語ることであらう。僅か十年二十年の後から囘顧しても、現在はまだこの本のやうな前驅者的小著述の不思議なほども少ない時代と評せられるであらう。其機運を一轉する爲に、實は私たちはもう大分前から、色々と此出版には苦慮して居たのであつた。

　小林保祥君の寫眞集は、今から七八年も前にすでに纏まつて居た。言はゞ耀かしい東亞文化の東雲に先だつものであつた。しかも南臺灣の山地民の生活は、最近の經濟變動に伴うて急激に變化しようとして居る。或は是が後代に遺さるゝ唯一の資料となるかも知れず、さうで無いまでも同じ機會は殆と又來ない。誰からも頼まれずに十七年の間、(320)たつた二つの蕃社に春秋を送つて、彼等の社會を理解し同情し、更に其記念を後代に留めようとして居たといふことは、今後といへどもなほさら容易には望まれぬ條件であつた。小林君には日記も有るらしいが、文筆は本職でないから本にして出さうといふ氣にはなれぬかも知れぬし、又是だけ數多くの寫眞をとつて居るのだから、説明をそれに托したものがきつと多いことであらう。元來が寡黙な人で知友に向つても詳しくは説かないが、畫業に關しては動かざる一つの主張をもつて居る。中世以往の名工が信仰の爲に、その全能力を傾けて居た時代が去つて、始めて藝術の爲の藝術は高く叫ばれて居たけれども、實はその間にはなほ一白の空隙がある。今より後遠き未來にかけて、其空白を充たすべきものは知惠であり知識であり、之を系統立つべき學問であるといふことを、寧ろ時流に抗してでも、認めつづけて居たのは彼であつた。即ち我々は期せずして、こゝに文化人類學の心強い一人の友を見出したのである。愛すべきパイワヌの常の生活を描いた作品は、自分の知つて居るだけでも既に大小十數點を算へる。それを此上にもなほ豐富ならしめんとして、今も大いなる精進を續けて居るのである。

　小林氏が十七年の異郷生活に於て、寫し貯へて來た寫眞は驚くべき數であつた。是はその數から言つても又内容から見ても明かなやうに、言はゞ第二の事業であつて必ずしも繪の材料として集めたものでは無い。彼の作畫が世に出てしまへば、用が無くなるといふ性質のもので無く、それとは獨立して特に我々の學問の爲に、其まゝ利用しなければならぬものばかりである。殘念なことには深い事情があつて、山から種板を携へて來ることが出來ず、たつた一枚の密着が殘つて居るだけで、それも年月と共に色が替らうとして居る。永くもつものならば今少しく資料の豐富な世になつて、もつと手際よく印刷にしたいのは山々だが、一方には研究者の需要も日に加はるので、強ひて作者と書肆とに懇請して、少しでも早く之を世に公けにせんとするのである。大體に目的物の種類によつて分ち、最初には現今やゝ問題になりかけて居る高砂工藝の特色を、示すものを以て第一册を作ることにした。この後には信仰の諸行事、生産衣食に關する習慣等、各一册とする計畫になつて居る。小さな器械によつたやゝ素人くさい作品もまじつて居る(321)だらうが、是でも短期の旅客には今ではもう企てることの出來ないものが多いことを思ひ、少なくとも廣い土地と遠い時代との讀者に向つては、適切なる保存事業であらうと私は信じて居る。

　

(322)　　　　　柳田國男編『沖繩文化叢説』

　

　このたびの戰亂によつて、中斷せられた學問の中でも、殊に再興のむつかしい一つは、南の島々の文化史の研究であらう。其理由は幾つもあるが、我々の一部がすでに甚だしく年を取り、しかもまだ今までの成績を、有效にまとめ上げて居なかつた爲に、嗣いで起つ人々との連絡が取りにくゝ、あたら熱情を抱いた若い學徒をして、再び最初からの勞苦をくり返さしめる懸念のあることが、特に我々の心を淋しくする。曾てあれほどにも大事にせられて居た沖繩諸島の遺物典籍が、一朝の劫火に遭つて散佚し去つた事實と共に、是はたゞ手を拱ぬき永く歎息して、さて止むべきものでは無いと思ふ。固より私たちはまだ微力であつて、何ほどかこの恢復の事業に、寄與し得るといふ自信も無いが、せめては諸家の研究が如何なる方向に進み、如何なる段階に於て今は停滯して居るかといふことを世上に紹介して、かつは一般の關心を高め、かつは又後代の同志の爲に、離島の文化の必ずしも孤獨ではないことを、夙に我々も亦立證せんとしたことを談りたいのである。この書の出現に關しては、隱れたる數々の好意がある。

　我邦の上世記録は、その成立ちが中央の狹い地域に限られて居た。國民總體の生活が、今日の如くになつて居る理由を、是によつて解説しようとすると、いつの世に於ても無理は免かれない。史料の補充とその採集區域の擴張とは、夙くから必要を認められて居たのである。所謂三十六島の古來の住民が、大和島根の人々と根元に於て一つだといふことが決定しないと、種々なる推論は前提を缺くことになるのだが、この點は既に久しく心づかれ、又八九分通りまではもう證明せられても居る。我々はこの大よそ確かなる假定に基づいて、正史に書き盡されなかつたさま／”＼の變(323)化と、あらゆる可能性とを見つけて行かうとして居たので、必ずしも外から島々に國を立てゝ居た人たちの文化を、味はひ又は批評しようといふが如き、氣輕な知識慾で無かつたことは、恐らくは彼方の側に於ても亦同じだらうと思ふ。この相互の暗示啓發、古い概念からの共同の離脱といふことは、雙方に一致したまことに樂しい經驗であつた。たとへば固有信仰の展開した過程などは、あまりに幽玄である爲に、まだ定説に達することが望まれなかつたが、言語の問題に至つてはすでに著しく、世の常識といふものを改めて居る。同じ一つの國語でもとはあつたものが、時と環境のさま／”＼の條件、時としては單なる偶然の刺戟によつてでも、なほこの樣に大きな變異を來すものだといふことを、同時に學び知り又是を將來の交通の上に、試み行ひ得るまでになつて居たのである。機會が幸ひにしてもし許すならば、兩地の學問の協力は、少しでも早く之を恢復することが、人類全體の幸福であると我々は信じ切つて居る。

　この小さな私の計畫に對して豫期以上の大いなる支持があつた。今度は書けないが此次の一册には、必ず今までの研究の經過の大要を、報告してくれられると思ふ諸君が非常に多い。さうして何れもこの著作の收入を以て、新たなる沖繩文庫の準備の資に、供したいといふ希望をも是認せられたのはうれしい。殊に感銘するのは南島出身の同志諸君が、故土の現?と是からの經過とに就いて、無限の憂愁に閉されつゝも、なほ且つ勇を鼓して學問の前途を押開き更に餘力を以てこの新らしい研究の興味を、一般に頒たうとせられることである。比嘉春潮・島袋源七の二君は、最初からの援助者であつた。と言はうよりも私は寧ろ、この二人の沖繩衆の爲に、働かされたやうな氣持である。文章の排列は大體に筆者の年齡順によることにして見た。但し最後の二人だけは例外である。

　

(324)　　　　　太田陸郎著『支那習俗』

　

　この類の書物はもう大分出て居て、珍らしくも無いやうに思ふ人の爲に、敢て二三の特長を述べて置くことは舊友の義務である。

　此著が細心なる實地の觀察に基づき、しかも色とり／”＼の都府の風流には目を假さず、大むねくすみ切つた片田舍の、貧しい生産者たちの毎日の營みを、倦まず輕んぜず竪からも横からも、見て取り寫して殘さうとしたことに、先づ我々は一つの價値を認めて居る。大抵の旅人は、急いで斯ういふ方面は通り過ぎるのがきまりで、たま／＼瞥見の切れ／”＼の印象が、背後に潜むものを推測せしむるに止まつて居る。土地に年久しい文章の家があつたとしても、よほどの因縁が無い限り、注意を此樣な生活には傾けようとはしなかつたらう。それが何等の綜合を要せず、其まゝに或地或年代の現實の事相として、永く後世に傳はるやうになつたといふことは、獨り日本語の領域だけの收穫では無いと思ふ。他日若干の固有名詞が、憚る所無く示されるやうになれば、無論この記事の興味は又具體化するだらうが、さうで無くとも長江中流の、水から遠くない古風な邑里に於て、全く我々の知らなかつた、斯んな一つの人生といふものがあつたのである。それを兵馬の暇ある毎に、いつも學究のやうなつゝましい態度を以て、ぢつと見つめて居ようとした一人の武士が有つたのである。

　捜しても他には似たものが無からうと思ふ一事は、此書が日本の民俗學の學徒によつて、專心に書き綴られたといふ點であらう。我々の同志は幾人か御國の爲に働いて居るが、或者は各處に轉戰し、又は繁劇な公務に煩はされて、(325)土地の住民と接觸する折が少ないらしい。ところがこの本の著者のみは、珍らしいほどに永い間、或限られたる土地の守備に任じ、少しづゝは土語を學び又何人かの顔なじみをこしらへて居る。手眞似まじりのほゝゑましい對談が、眼に浮ぶやうな場面も色々有る。太田君は出征の前夜まで、忙がしい本務の隙を利用して、日本の文化史を明かにする研究を續けて居た。十數年の勞作が積り積つて、近畿地方の傳承は明かになつたものが多く、愈々その知識の整頓に着手しようといふ、ちやうど油の乘りきつた箭先に、一應は之を中斷しなければならぬ境涯に置かれたのである。未練といふ程では無くても、普通の人ならば、ちよつとまごついてもよい所なのに、船の中で十分に腹をきめられたものか、上陸最初の日からもう脇目もふらず、中華民國人の生活を觀察し始めて居る。さうして次々と行くさき／”＼の見聞を、故國の知友に通信したのみならず、更に持つて還ればすぐに一卷の書を成すまでに、五年有半の成績が纏めてあつたといふ話である。自分等の想像では、日本に戻れば又すぐに、日本の仕事に取掛れるやうに、身を輕くしようとして居たのかとも取れる。それがこの記念すべき外國の經驗を、どんな風に役立たせるであらうかは、今まではまだ試みる機會が無かつたのである。愚かしい繰言ではあるけれども、どうして又還つて來ずにしまつたのかと、際限も無く歎息せられる。

　民間傳承の會の同志の中でも、太田君が古書を愛して、珍らしい多くの事實を知つて居ることゝ、その天然の觀察に於て、人に優れた鋭どい感覺をもつて居ることゝはよく知られて居た。その二つの長處は本書の行文のうちにも顯はれて居るが、さういふ中でも私に取つて、殊に思ひ出の深いのは樹木についての逸話である。故南方熊楠先生の最後の手簡といふものゝ中に、太田君が中支の丘陵地帶をあるいて居て、峠の路にはコノテガシハの樹を見ることが多いのは、古書の記述に合ふから人が之を栽ゑて、指標としたのではないかと通信したのを、軍陣の間に於てよくも氣がついたものと、賞讃せられた一節があつた。或は江南に何故か、今は梅花が少ないと報じたのも、春に先だつて常々心にかけて居たのがゆかしいとも謂つて居られる。私はちやうどその梅の盛りの頃に、或日太田君と二人で相模の(326)國府附近を逍遥したことがある。この邊は一帶に農民が梅樹を愛して、家の戸の口から又は村の小道から、眺められるやうな垣根には必ず栽ゑて居る。それに太田君が先づ興味をもつて、斯んな小さな屋敷にも梅が咲いて居る光景は、上方の方には少ないと頻りに感心した。或はこの花が特に好きだつたのかも知れないが、もう是からは此人を憶ひ出さずに、梅咲く村々を散歩することは出來まいと思つて居る。それから今一つ、中支滯陣の二年目の秋に、たしか武昌大學の竝木の實だと謂つて、二十粒ばかりのケンポナシの種子を、郵便に封して送つて來てくれたことがあつた。それを早速植木鉢に蒔いておくと、翌春は芽をふくんで何本か育つた。信州から移植した一本の大木の外に、今私の庭に在る若木は皆太田君の種で、それがもう自分の丈よりも高くなつて居る。遺兒が成長して父の跡を歩む日が來たならば、必ず一たびはこの小園に訪れ來り、東亞空前の大戰役のさなかに、心あつて中國の土から移して來たものが、どれだけ大きな立派なものになつて居るかを見ることであらう。その兒もこの小さな著述も、共に太田君の豫期した如く、末遠い人間文化の進路に於て、木高き一つの目標とならんことを、私は切に望んで居る。

　

　

(327)　　　解題集

　

(328)　　　　　帝國文庫『紀行文集』

　

　　　　　　　　　　一

　

　近世著名なる旅行家の紀行文で、自分が少年期以來再三讀し、今後も若し出來るならば又讀んで見ようと思ふもの若干を、此一編には輯録することにした。勿論是を以て主要なるものを網羅したといふわけでは無い。例へば江馬氏親の諸國行嚢抄、次いでは白井秀雄の眞澄遊覽記などは、何とかして世に傳へたいと思ふ雄篇であるが、前者は原稿を整備することが容易で無く、後者は又精密なる彩畫を伴ふものである故に、今囘は斷念するの他は無かつたのである。橘南谿の東西遊記も面白い本ではあるが、既に幾種かの活字版が出て居て、相應に普及して居るから之を省くことにした。

　大小の文庫の分類に從事した人々は、?々地理の部の紀行類は二種の全く形貌を異にした書物が、混同雜居して居ることに心付いたであらう。前期三卷の帝國文庫本などもやはり其例に洩れず、名は均しく紀行とあつても、一方は詩歌美文の排列であり、他の一方は記述を專らとし、旅人はその事實の陰に只つつましやかに自ら語るに過ぎぬものであつて、之を一架に統括することは甚しく讀者子の思索を紛亂せしめる。紀氏の土佐日記を始として、古來世に行はるゝ紀行の書なるものは、寧ろ前者の方が日本には多かつた。從つて後世新たに出現した風土觀察の書は、往々にして文學の愛好者によつて、意外な俗文として疎んじ棄てられる懸念があつたと共に、更に此種の記録を世に遺さん(329)とする者をして、無益の彫琢に苦辛せしめるやうな結果をさへ見たのである。自分等は必ずしも吟詠を敵視する者では無いが、紀行を讀む時ばかりはこの別行二三字下げの數十字を、追飛ばして進むことを習ひとして居る。さういふ筆者の時々の感興に追隨して居ると、旅を知らうとする第一の目的がお留守になるからである。明治大正の旅行記に於ては、幸ひに詩歌俳諧の技藝を併せ示さうとする風は衰へたが、しかも尚何の某といふ風流人、乃至は多感の才子が旅行をして居るのだといふことを、主題として居るものが稀で無い。それも多くは貴重の文獻であらうが、少なくとも地誌の一部として之を讀ませようとすることは、分類事業の不備であつたと言つてよい。今度の選集の一つの標準は、努めてこの自傳體とも名づくべき紀行を排除して、專ら我國土の前代生活を、如實に語り傳へようとした見聞録風のものを採るに在つた。貝原益軒翁は此意味に於て、まさしく日本民俗學の鼻祖であつた。翁が其時代の流風に抗立して、所謂文字ある者の衿恃を思ひ切りよく一擲し、終始田夫野人を讀者として、その多年の經驗を傾け盡さうとしたことは、獨り數卷の諸州巡りのみで無かつたのであるが、今日地方文化の研究が新たに起らうとするに際して、改めて其功業を追慕せらるべき理由は、特に此方面に於て深く且つ切なるものがあると思ふ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　そこで校訂者としての單純なる所感を列記して見るが、第一に貝原翁の六種の紀行は、特に元禄以後に於ける我邦の讀書界、及び旅行技術の進境を、間接に啓示して居る點に興味がある。此頃までの旅人の生涯の思出草は、都登りと江戸見物であつて、それ故に幾つかの通俗なる案内記が、相繼いで出版せられて居る。其卑近と低調とが漸く倦まれ、一方には地理と歴史が少しづゝ精確を加へて來て、注意は次第に道途田園の事物に向けられるやうになつて來たのである。益軒の紀行の中では、まづ出版せられたのが元禄九年の和州巡覽記であつて、是にはまだ幾分か京童や江戸雀の習氣が殘つて居る。著者も又幾分か凡俗の要求を意識して、用意ある筆を執つたかと思ふ形跡がある。しかし(330)其旅行は翁が齡六十三（元禄五年）、殆と最終の漫遊と言つてもよいものであつた。是が一種の清新味を供して後、世上の需要の頓に此種の紀行に向いて來たことは、引續いて其以前の日記類が、新たに整頓せられて世に出たのを見てもわかる。例へば岐蘇路之記は貞享二年、翁が五十六の年に江戸から還つて來た手帳であつたが、其前半分だけを整理して、序文を添へたのが寶永六年、既に八十の高齡に達した後である。諸州巡り正續七卷に至つては、それよりも更に四年の後、即ち翁が筑前の故郷に於て長逝した前の年に、漸く世の中には出たのである。此書の大部分は元禄二年、著者が六十の春の紀行であつて、此年は恐らく此翁の旅行生活の絶頂であつたと思はれる。閏正月の二十五日に京都を立つて、丹波若狹近江を一巡したのが西北紀行、それから引續いて二月の十日から二十三日まで、河内路を南に下つて和泉紀伊、大和を通り拔けて歸つて來たのが南遊紀行、續篇下卷の攝津巡覽は、僅かに中二日を置いて二十六日に家を出で、有馬の湯の山から東播の海岸まで出かけて居る。實に驚くべき健脚といふべきである。旅行記の體裁としても是が最もよく整ひ、觀察記述は共に獨創に富んで居るが、尚それよりも後の旅行でそれより先に出た巡覽記の人望に導かれて、漸く俗耳に入ることを得たのを見ると、此書を世に傳へた功績の半分は、讀者も亦之に參與して居るのであつた。殊に二十八年も前の岐蘇路之記の後半、近江の湖東から越前を歩いた紀行を其中に交へ、更に尚何年か前の東海道の道中記を、歿後六年の享保六年に印行したなどは、或は貝原氏の意圖で無かつたらうとも想像せられると共に、如何に民衆の間に旅行の趣味が發達し、且つ先生の感化が如何に強大であつたかを考へさせる。覊旅を一種の教科書とする習慣は、今や根強く地方住民の心に植付けられて居るが、それは必ずしも日本の固有のもので無かつた。我々の所謂世間を看る眼は、新たに此類の快活又素朴なる記述を讀むことによつて、此頃から追々に明かになつて來たのである。

　

(331)　　　　　　　　　　三

　

　旅人が其日記を家に留めようとする風習も、同時に此時代から普遍したかと思はれるが、その多くのものは不幸にして既に埋没してしまつた。道途に奇事異聞無く、筆者も亦尋常であつたものは、自ら謙抑して之を世に問ふことを敢てしなかつたからである。長久保赤水の長崎行役日記は、此意味に於て新たなる一個の好指導標であつたと思ふ。當時文藝を以て諸國を遊歴する者が、大抵は唱和應酬の雄を以て自ら任ずるに過ぎなかつた間に在つて、獨り斯翁の忽卒の記録のみが、いち早く社會の歡び迎ふる所となつたばかりか、更に後代の爲にこの有用の資料を保存し得たといふことは、一つには勿論機會も之を惠んだのであつたが、又一つには一般旅行家の態度の、既に變化して居たことを語るものである、赤水は水戸藩の學風に陶冶せられた第一期の民間學徒であると共に、兼て日本の地理學の開祖を以て目すべき人であるが、しかも間接なる前驅者の影響は、其述作の隨處に見出されるやうな氣がする。貝原氏の死なれたのは赤水生誕の前々年、ちやうど入れちがひに此世には出て來たので、雙方共に八十五歳の高齡に達するまで、孜々として民生の研究に歿頭したこと、及びその既成の聲望に據つて、多數未知の讀者を得たことが、共に不思議なほどよく一致して居る。

　赤水が常陸磯原の漂流民を受取るべく、水陸百日に近い縱斷旅行を企てたのは、彼が五十一歳の年の冬であつた。この前後に尚幾度かの遊歴はあつたらしいが、其行跡は未だ詳かにせられて居ない。寶暦十年の東奧紀行の如きも、奧羽越にかけての數月の旅であつて、その若干の逸話は東遊雜記以下の書に散見するが、我々はたゞ書名を聞知るのみであつて、果して完全に保存せられて居るか否かをも確かめ得ない。ましてや他の老後の手記などは、恐らくは郷人も之を見ることを得なかつたであらう。それから考へると此一篇の行役日記などは、事件が重要なる公務であり、目的地が異國情緒の本場であつたが爲に、たまたま之を梓に壽することが出來たのかも知れぬが、今日の讀者の感興(332)をそゝる部分は、却つてその單調に過ぎたる往復途上の見聞にあるので、久しく東國の田舍に引込んで、書齋の思索を事とした學者が、一朝この好機會を利用して飛躍勇進し、歩々に新たなる知見を拾集して行かうとした心持はよく窺はれる。殊に歎賞に値するのは斯翁の熱情と氣魄であつて、流石は長生をして多くの事業を遺し、一方には又強烈なる感化を、次の時代に與へた人だけに、その至つて無頓着な行動にも、往々にして壯者を威壓するに足るものがあつた。たとへば宮島松浦の半日の假泊中に、率先して彌山の頂を窮めたといふが如き、室津の湊の上陸の際には、急に思ひ付いて夜に入つてから書寫山に登り、曉更に船に歸つてそれから又、大阪への陸行を企てたといふが如き、或は又下關八日間の風待を利用して、漂流者の談話を筆記して安南記二卷、及び漂流海上圖を作つたといふなど、それが其種の事實を書き傳へようとした日記で無いが爲に、讀んで一段と意味深く感じられるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　古川古松軒の東西遊雜記は、橘南谿の東西遊記よりも、世に知らるゝことが僅かばかり後れて居た。從うて?々不利の混同をさへ受けて居たのであるが、假に書名は獨創を誇る能はずとしても、兩著性質の相異は一目して瞭然たるのみならず、その學術的價値に至つては、彼は遙かに是に及ばぬので、雜記の名稱は寧ろ橘氏の二記に於て適當して居るのであつた。古松軒の方には、此以前に北遊雜記の著があつた他に、更に南方紀州の山川を跋渉したこともあるのだが、どういふ理由であつたか特にこの東西の所謂雜記だけが、一對のやうになつて共に行はれて居るのである。此書を讀む人が直ちに心付くであらう如く、二種の紀行は體裁が既に同じで無い。西遊雜記は天明三年五十八歳の時に、修驗者に姿を變じて獨行したやゝ探險的の風土視察であつた。その記事は尤も暗示に富んで居るが、簡略にして推斷の言多く、且つ目的が幾分限られて居る。其上に往々日次を脱して居る爲に、季節日常の印象が淡く、ともすれば概括に流れ易い。長處は多數の見取圖を挿入したことであるが、それも傳寫を重ねて精確を期し難く、又今日の寫(333)眞時代に於ては、大半は既に遼東の豕である。肥前北岸の數日間の記録を、酉年の高水に流失してしまつたと言つて居るが、酉年は此旅行より七年の後、寛政元年の酉であつたらうと思ふ。自分の想像にして誤無くんば、是も貝原氏の諸州巡りが、和州巡覽記よりも後に出たと同じく、一方の東遊雜記が珍重せらるゝに及んで、それに激勵せられて改めて舊藏の日記を、取出して整理したものらしいのである。

　古松軒翁も其師赤水先生と同樣に、所謂草莽の間に自成した篤學者であつた故に、その社會への進出は非常に遲れて居る。東遊雜記の出來たのは天明の八年、著者が六十三の年の旅行であつた。此囘は前年の西遊とは正反對に、堂々たる幕府三巡見使の隨員として、東北の諸藩に於て送迎せられて居る。公務には忌諱多くして、?々耳目を隱蔽せられたことを歎息して居るが、其實は尋常漫遊の過客の、到底望む能はざる遭遇が多く、記事も亦悉く具體的の見聞に依つて居て、殊に新時代の研究者の爲に、有益なる資料を存して居る。全體この巡見使といふ制度は、いつの頃から始まつたものか知らぬが、風土民情の視察としては、如何にも適切なる一方法であつた。それに古川氏のやうな文筆に長じた專門家を同行したといふことは、恐らくは三人の幕吏の最も殊勝なる心掛であつたらうと思ふが、惜しい哉此先例は後々踏襲せられなかつたやうである。奧羽の天明八年はちやうど大飢饉の後を承けて、經濟組織の變動は甚だしく、人心の殊に萎微した際であつたが、偶然に之を觀察した幾つかの紀行が傳はつて居る。秋田の方面では同じ年の冬、津村正恭の經歴した「雪の古道」があり、更に我々の敬慕する白井秀雄は、是よりも約三年前に　　略々同じ道筋を、出羽の南端から津輕の方へ通つて居るのである。併しそれ等の紀行と比べて見ても、この巡見使の巡路は尚遙かに奇拔であつて、決して俗に謂ふ御奉行路では無かつた。是には夙くからの巡見箇所といふものが、わざとさういふ横筋かひの旅をする樣に、指定せられて居たことが考へられるので、自分は此制度の沿革が、今少し詳しく尋ねて見る必要のあることを、始めて此書によつて暗示せられたのである。たとへば今年プロムリーの太平洋横斷計畫によつて、漸く世人に知られた青森縣の淋代や尻勞、斯ういふ荒濱までが巡見の通路であつた。それから三（ノ）戸と鹿角(334)を繋ぐ來滿峠なども、つい近頃まで之を御雇技師のライマンが命名でもしたやうに、考へて居る日本人は多かつたのであるが、此峠の名もちやんと古川翁の日記の中に出て居る。其他鹿角の今一つの通路たる湯瀬の峠、南に下つては一（ノ）關から氣仙に越える峠なども通つて居るのみならず、往路には白川から勢至堂の峠を會津へ拔けて、今でも訪ふ人の少ない只見川の中流、所謂御庫入の村々を廻つたり、或は米澤から谷川の流について、小國の山村に往復したり、何れも測量部の五萬分一圖でも見なければ、理解も出來ない程の面倒な旅行であつた。それが精確なる記録となつて、斯うして百數十年の後の人に、當時の生活を知らしめるといふことは、全く赤水學派の功績であり、殊には地理の道を好むこと年久しと自稱する人の、老いて尚衰へざる研究心の賜であつた。

　單に著者一個の記念としてならば、或は西遊雜記の方が痛快味は多かつたかも知れぬが、讀者の側からいふと東遊雜記は完成であり、一方はたゞその熱烈なる進歩の跡であつた。思ふに九州方面の孤獨微行の旅に於ては、問はんと欲して答ふる者を得なかつた場合も、少なくはなかつたのであらう。併し大體に於ては著者の態度は一貫して居た。殊に自分の推服して居るのは、常に最下級に在る地方住民の生活と、其表現とが注意せられて居ることである。書卷に基づいて日本の國風を概論せんとする者が、專ら學者として崇敬せられて居た時代に、此旅人のみは現實に非ざれば信ぜず、しかも其記述に際しては誇張もせず斟酌もせず、專ら精確を目的として、結論の何れに歸すべきかを念としなかつた態度は、或は豫め今日の科學風の研究に、期する所があつたかとさへ思はれる位である。關係ある地方地方の讀者には或は之を見て苦笑しなければならぬやうな記事もあるが、現在既にさうで無くなつて居るといふことは、即ち進歩であり變遷であつて、この新古の比較を明かならしめた點こそは、永く我々の感謝を以て酬いられなければならぬのである。

　二書の校訂に關聯して、尚一言だけ附加へて置きたいことは、是が久しい間寫本として傳はつて居た結果、甚だしく區々の異本があることである。殊に東遊雜記の方は其種類が多いやうで、現に自分が内閣の文庫に於て、三種を比(335)較して見た時は三種とも違つて居た。定本と名づくべきものは何處にあるのか、今はまだ之を尋ね出すことを得ない。近世社會經濟叢書に採録せられたものは、廣本とは見えるが何分にも誤脱が多い。此編の底本としたのは第一高等學校の所藏にかゝるもので、此方がよほど確かなやうに考へられる。諸本を校合することの困難なる理由は、著者自身が久しく之を座右に置いて、累次の加除補刪をして居たらしいことである。それ故に個々の傳寫本は、時代毎に文章と若干の順序とを異にし、到底一を以て他を訂すことを得ないのであるが、我々は寧ろ著者の意圖を掬んで、すべての異本に共通して存する記事だけを、重要且つ確實の資料として利用することにしたならばよからうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　次に筑紫紀行を此編の中に加へた理由は、瀬戸内海の航路の記事が詳しく、たま／＼四國の一角にも觸れて居るといふことの他に、筆者が尤も凡庸なる名古屋の商人であつたといふことが、殊に興味を感ぜしめるからであつた。吉田重房通稱を菱屋平七と謂つた人の傳は、或は市史などには載つて居るかも知らぬが、わかつた所で澤山の參考にはなりさうも無い。此紀行は確かにこの富家翁の漫遊の心覺えを、多少の文才ある者に托して筆削せしめ、書肆から再び買上げて知人などに頒つたものと思ふが、それにしても某々氏等の歐米視察記などに比べると、きまり切つた路を通つて居ないのがまだ頼もしい。殊に觀察の鋭敏といふことは少しも無いけれども、見立てられて大家を嗣いだ程の人物だけに、記述は根氣よく又克明で聊かの落ちも無い。恐らく文章の相談相手が、何等かの潤飾を加へようとしても、それは斷じて承知をしなかつたであらうから、乃ち内容は此まゝを受入れてよいのである。瀬戸の航路の大小の島々の名などは、是ほど數多く書留めたものは他には無い。それから九州に入つて宇佐の八幡に參詣し、彦山に登つて筑後川の平野に下つた迄の路筋は、前の西遊雜記とも少しちがひ又遙かに綿密である。殊に山國谷の溪流に沿うた通路は、未だ耶馬溪と化せざる以前の記録だから、珍重して置かなければならぬと思ふ。長崎へ着してからの十數日(336)の日記は、前の長久保氏の行役記や、司馬江漢の紀行などと比べて、又別樣の深い興味がある。全體にこの筆者のやうに、富裕で又自由なる紀行といふものは、さう澤山には無いのが當然であつて、是も殊更に書き傳へようとしたもので無いだけに、自然に現はれて居る旅中の生活が、自分も亦一種の書中人となつて居るのである。歸途沿道の町村の記載の、茶屋あり茶屋無しの連續に過ぎぬのは煩はしいが、是も今日は既に變形して居る茶屋といふ商賣が、曾てどれ程まで重要なる旅行の機關であつたかといふことを、推測せしめる資料にはなるのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　大田蜀山の旅行文學としては、この壬戌紀行以外にも傳ふべきものが尚多い。殊に自分などの愛讀したものには、江戸郊外の巡村日記、ちやうど今住んで居る附近の事を書いたものが幾つかあるが、それは旅行といふほどの準備は無かつたものである上に、既に其全部が全集に保存せられて居る故に、爰には只其一編の、最も特色に富んだものを入れることにした。壬戌紀行は前の數書とちがつて、地位ある役人の公式旅行であつた上に、主として家庭と知友との爲に、上品なる話柄を供するを目的としたものであるが、これも蜀山獨自の氣質と修養、五十三翁の經驗に養はれた人生の觀照態度が、遺憾無く發露して居る。當時の公務旅行は勿論今よりも自由なものであつたらしいが、此行は特に先々の用意を以て、力めて道途の些事に注意を拂はうとした形跡がある。最初大阪を發足した日から、先づ川舟の中に坐して兩岸の風物を記述して居るが、其手法は至つて飄逸であつて、あの川の堤防が今よりもずつと低かつた時代の、近畿の田舍生活が、手に取つて見るやうに寫してある。それから段々東へ進んで來て、毎日々々乘物の中から、路の左右に行過ぎる物を、一つも洩さずに書いて見ようとして居る。或時は駕籠舁きの人足と語り、又或時は茶屋宿屋の亭主をつかまへて話すなど、所謂ふところ紙に矢立といふ忙はしい筆の跡であるが、それが又率直で且つ如何にも伸び／＼として居る。恐らく此時代の名文の中に算ふべきものであらう。

(337)　近頃の國文讀本は、いつも餘りに一節が短かい爲に、斯ういふ日記體のまとまつた一つの感じを、讀者に味はしめることの出來ぬのは殘念である。一日一處の記事としては何の奇も無いやうだが、全編としての妙趣は自然に人を引付けて、末には筆者と共に一悲一笑せしめる程の力を持つて居る。紀行の目的からいへば是くらゐ效果のある文章は無いと言つてよい。此中には勿論江戸の住人らしい好奇心は見える。たとへば餅酒の看板を一つ一つに書留めたなどは、質朴な地方人には無益のやうに見えるが、同時に尋常一樣の旅人の知らずに通つてしまふやうな路傍の事件まで、それ／”＼理解して居るのは優しいと思ふ。武州深谷の驛で孤兒を見た話などは、何人も彼と共に袂を濕すやうな筆の跡であつた。

　貝原益軒の感化力は、爰にも著しく其跡を見出すことが出來る。壬戌の紀行はちやうど岐蘇路の記と逆の旅であつたが、輿中に其書を載せて路次に讀んで居たらうと思ふことは?々益軒の記を引用して、今はさうで無いといふやうなことを言つて居る。如何にも百年の時を隔てると、街道も頗る近代化し、人の心も改まつて居たことであらう。それを又明白に感じ知るが爲に、新たに此紀行は思ひ立つたのかも知れぬのである。それから江戸の文化の地方を動かした力なども、前には心づかれなかつたのが、此頃は既によく眼についた。のみならず筆者彼自身が、碓氷を越えると高崎の本屋が嬉しかつたり、熊谷の店屋の看板が氣に入つたり、次第に都市人の心持へ還つて行かうとする所がよく現はれて居る。蕨から板橋となると家族親類、女や小兒までが迎へに出て來て居る。家に還つて見ると石楠堂の石楠が、まだ幸ひにして散つて居なかつたといふあたり、情趣は紙端に溢れて、それを又意識せずに書いて居るのが、殊に此旅人の人柄を懷かしく思はしめるのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　最後に今一つ、小笠原長保の甲申旅日記は、是もやはり比較の興味の爲に編入したもので、現代東京の住民の日返(338)りに遊覽する場所ばかりを、斯うして百年前には大規模な旅行をしたといふのが珍らしいのである。原本の所在が不明になつて居る爲に、誤脱があるらしいけれども十分に訂正することが出來なかつた。併し箱根の記事などは、新篇相模風土記によつて補充することは難くないと思ふ。著者の傳記は此時の下田奉行、小笠原加賀守と謂つた人といふことはわかつて居る。さうして此方は筑紫紀行とちがつて、全部自分の作であつたらうと思ふ。上手でも無い歌が多く交つて居るのは感興を妨げるが、文章は眞率でよく意を達して居り、是も半分は筆者自身の境涯が、記述の上から間接に窺れる點が、永く傳へられてよい理由になつて居る。江戸の官人などの知識といふものは、兎角一方に偏して居て、蜀山のやうな學者は誠に稀有であつた。この小笠原氏も珍らしい讀書家と見えて、萬葉から吾妻鏡までもよく見て居るが、しかも一方には富士山へ十三里と言つたり、薺の花が黄いろなどゝいふことを書いて居る。さういふ氣持の人に觀られた田舍であるから、決して何もかも書き載せられて居たとは考へられぬのである。しかも今古を通じて伊豆の突角から三崎の鼻までの海濱を、是だけ長い日數をかけて見巡つた記録といふものは、他には一つも無いので、我々の如く日本の隅々を知るが爲に、材料を漁りまはつて居る者で無くとも、斯ういふ特色のある前代人生の記録には、いつかは引付けられずには居らぬことゝ信ずる。是が又古書覆刻者の、心の底の願であつた。

　

　（附記）　益軒の「大和紀行」の刊年に就て金井寅之助氏より注意をうけた（大和文學第三輯）。同氏の意見が正しいと思ふ。

　

(339)　　　　　赤松宗旦著『利根川圖志』

　

　『利根川圖志』の著者赤松宗旦翁の一家と、此書の中心となつて居る下總の布川といふ町を、私は少年の日からよく知つて居る。此書が世に公けにせられた安政五年から、ちやうど三十年目の明治二十年の初秋に、私は遠い播州の生れ在所から出て來て、此地で醫者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になつた。さうして大いなる好奇心を以て、最初に讀んだ本がこの『利根川圖志』であつた。それから又五十年、其間に利根の風景も一變した。堤防は無闇に高くなり、幾つかの鐡橋が架つて汽車が走り、其代りには縱の水運が衰へてしまつて、松の林を行く白帆の影も消え、あれだけ多くの高瀬船が、來ては風待ちをして居た處々の川湊は、何れも川と縁を切つてしまつて、水に燈の火の映るといふ家も、坐つて川の見えるといふ二階も無くなつた。さういふ中でも布川などは、戰國以來の由緒を誇る小都會だつたが、幾分か他よりも早く農村化の兆しが現はれて居たやうである。私が覺えて居る頃にも、此本の挿畫にあるよりは堤防はずつと高く、家は屋根の瓦ばかりがきら／＼として、舊家の問屋の表先はほの暗く、少し下手へ行くと堤の外はもう畠地で、第二の荷揚げ場はその間に移されてあつた。河岸が年々の出水のたびに淺くなり、水筋が遠くなつて、段々に船を寄せ難くなつて居たからである。著者赤松翁の故居は宿《しゆく》の中ほど、この新河岸から土手を超えて、降りて出る角に在つた。思ふに利根川水運の最盛時は、此書の出るよりも又數十年の前、潮來出島の花菖蒲の民謠が、川に沿うて大江戸の町まで、運び出された頃に在るのであらう。著者が生れた文化の初年から、水災の記録は少しづつ多くなつて居る。上流の開發が進んで行くと、出る水に押出される砂土の量が加はり、川床はあがり瀬は變つて、(340)南岸の利害が相剋し易くなつて居たものかと思はれる。その動搖と未來に對する不安が、著者自らも意識せぬ此書の動機の一つであつたことは、文章の咏歎味が幽かながら之を暗示して居る。

　布川は銚子から關宿への全航程の、ほゞまん中であつたといふのみで無く、流れが兩丘の間に狹まつて、爰へ來て大いに屈曲して居る。川を隔てゝ三つ四つの船着場が、對時して居たのもここばかりである上に、僅かな枝路を以て濱街道に連なり、江戸との交通は陸上でも緊密であつた。對岸の布佐の町は新地だと言はれてゐる。その本村は元禄にはまだ岡の上に在つて、河岸は漁師の住む網代場であつた。夜の宿なまぐさしと芭蕉の紀行にも記してゐる。是に比べると此方には古いものばかり多い。勿論名門は次々に衰へて居るが、持ち傳へ又積み添へた風流には、昔なつかしいものが色々あつた。たとへば人間の樂しみは佳い水で茶を入れて、川を眺めながら飲んで居ることだと謂つた老人がある。茶には最も川の水がよいが、それも蠶養川から出た水はいけない。鬼怒川の水は岸からずつと遠く、中流よりも南を流れて居て、色が澄んで居るから誰が見てもわかる。佛事や珍客の來る日はそれを汲みに遣るので、他には用も少ない水汲み舟を、繋いで置く家もあの頃は多かつた。一茶といふ珍らしい俳人の名前を、始めて私が學んだのも『利根川圖志』であつた。

　　　ぺつたりと人のなる木や宮角力　　　　一茶

　近郷に聞えた布川の金毘羅角力では、私の時代にもやはり木に登つて見物する者が多かつた。この一句は即ち率直な寫生であつたのである。一茶が頻々と此地へ往來したのは、日記を見てゆくと文化の中頃過ぎ、即ち幼年の赤松氏が父母に伴はれて、暫らく江戸の片ほとりに出て住んで居た間などであつたが、爰には早くから幾人かの俳友があつて、消息相通じて居たらしいことは、『霞の碑』といふ句集からも窺はれる。江戸にも其名を知られた古田月船は、一茶が布川に於ける東道の主人であつた。多分は問屋の隱居であらうと、根據は無いけれども私はさう思つて居た。其想像は當つて居たが、是も代替りをして子孫はもう殘つて居ない。

(341)　一茶の紀行にも見えて居るやうに、他處から遊びに來て長く居り、又は計畫して移住した人も段々ある。それが居心地よく現在まで住付いて居るといふのも、常の田舍には見られぬ生活の餘裕があつたからかと思ふ。それを詳しく説くことは私には樂しみなのだが、餘りにも當面の題目とは縁が遠い。こゝに入用なことはこの赤松家が、やはり近世の移住者だつたことである。赤松家で通稱を宗旦と謂つた人は三代ある。『利根川圖志』の著者はその第二世であつた。父の初代宗旦は三十九の年に、多分は諸國を遍歴した後に、此地へ入つて來て醫業を開いた人である。先祖は播州の一城の主だつたといふが、生れたのは遠州の中村、醫者の修行をしたのは江戸であつた。布川に十餘年居住して五十の年に著者を儲け、五十四で再び江戸へ出て千住に住み、五十七歳で世を去つた。此人の傳記は氣を付けて居ると、少しは判つて來る見込がある。圖志の自序にも論じて居る印旛沼開發は、此時代としては珍らしい政治問題であつた。裏面に長い間の畫策と運動が行はれて、漸く實行に移されて程も無く頓挫したのが、此書の刊行よりは十五六年前のことであつた。本文には之に關する格別の記述も無くて、序文に突如として斯んなことを説くのは、何か隱れたる意味が無くてはならぬ。少なくとも著者は此事業の成立ちと内情とを、世間の人よりもよく知つて居たのである。さう想像してもよい有力な理由がある。二代宗旦は八歳の時に父に死に別れてから、母に連れられて其里方、印旛沼西岸の吉高といふ村に來て育つた。江戸とか佐倉とかに留學したのかも知れぬが、其事に就いては別に傳はつて居らず、印旛地方の事跡だけは、此本の中にも詳しく敍べて居る。さうして再び布川の町へ戻つて來たのが天保九年、三十三歳の時であつた。沼開發の着手は天保十二年だから、直接其事務に携はつて居ないことは明かだが、それで居て是ほども深い關心をもつて居るといふのは、寧ろ特殊の理由があつたことを察せしめる。印西の吉高村などは、決して布川のやうな交通の衝では無かつた。旅に半生を送つた初代の赤松宗旦氏が、其村の舊家と縁を結んだのも、或は彼自身が夙に開發事業に參與して居た爲に、?々この土地に往來した結果とも考へられる。佐藤信淵翁の書いたもの、其他この一件の記録を捜して居たら、ふいと此人の名前が出て來さうな氣がするが、家では今のところ道服と旅(342)刀が一本と、方々歩きまはつた人らしいといふ言ひ傳へとが、殘つて居るだけだと言つて居る。

　信州碓水峠の巖石を燒き崩して、東西二つの海を繋いで見たいといふ空想にも、私たちは信淵一流の新學の香を感ずるのであるが、それをこの簡略な序文の一篇から、論究しようとするのは無理であらう。問題にしてもよいのは『利根川圖志』の抱負が、元は今ある形よりも遙かに雄大であつたのを、後年生活の實情に讓歩して、忍んで計畫を縮小したのではないかといふことである。此書卷頭の全利根川圖は、遠く藤原山間の水源に筆を起して、沿岸數十里の地名を、ほゞ誤謬無く注記して居る。一部は既存の資料を綴り合せることが出來たにしても、なほ是を正確にするが爲に費を投じ人を派して、其復命を待つたと傳へて居るのは事實であらう。あの當時としては誠に容易ならぬ辛勞と言はなければならぬ。その最初の目的が何にあつたかは別として、とにかくに他日親しく其地を踏査し、此圖と匹敵するやうな地誌の書を遺さうといふ、志のあつたことだけは推察し得られる。それがいつの間にか年を取り、又新たな色々の感慨の錯綜するものがあつて、區域を川船の上下する中流以東に限り、小さな完成を急ぐことになつたのは、この何か意味ありげな序文の言葉、及び僅か四年の後に世を去つたといふことなどゝ思ひ合せて、寧ろ我々の同情せずには居られない點である。醫人は昔から學問の自由を羨まれて居たが、それも大都の中に住むものゝことで、地方に居て著述を世に留めようとすれば、其不利はやはり甚だしかつた。『北越雪譜』といふ本が時好に投じたことは、可なり赤松氏を刺戟して居るやうに見えるが、是は代作に近く、又たしかな引受人が江戸にあつたらしい。之に反して『利根川圖志』の方は、最初から素人の獨力の業であつた。版下も多分は自筆かと思はれるが其淨書に就いても相談相手は無かつたやうで、字配りや體裁にも巧者とは言へぬ個處が多い。今度細かに讀んで居て氣が付いたのは、彫師が彫りちがへた文字が珍らしく此本には多い。何としても解し難い草體が、はや序文の第一頁にも見られる。是はまだ校正といふものゝ必要を知つて居なかつたか、さうでなければ睨みが利かなくて、職人が埋字の手數を惜んだかで、固より著作者の投げ遣りでは無いと思ふ。挿畫は此種の書物には大切なものだが、是にも若干のごまかしが見(343)られる。今となつては是さへ懷かしい過去文化の痕跡であるが、當時初刷を受取つて急いで開いて見た、著者赤松翁はさぞ氣持ちが惡かつたことであらう。是も亦私たちの同情を一段と深くする。

　しかし地方篤學者の初めての著作としては、この出版は必ずしも失敗で無かつた。布川の赤松家には、今でもその際の帳簿文書を大切に所藏して居るが、是を見ると初版は六百餘部、更に若干の追刷をしたといふことである。其一半を江戸の書店に遣つて取扱はせ、殘りは利根川兩岸の村々の、地役人や重立ち衆に分配して、それ／”＼二分一朱以上の謝禮を受けて居る。江戸の勘定の方は結末が不明だが、とにかくに黒船渡來の騷ぎが起つて、幕府では此類の書物の流布をいやがり、壓迫を加へたので追刷などはむだになり、財政上では相應な損失であつた。その追刷も追々に知友の間に頒たれて、現在は家に殘つて居らぬといふことであるが、それでも私などは是を成功の中に算へて居る。前後千部に近い『利根川圖志』は、今でも關東南半の　　稍々狹い地域の、どこかに存在し、誰かに讀まれて居るからである。燒けたり流されたりしたものは已むを得ぬとして、有つたら少年にも飜へして看ずには居られぬ本だからである。襖の下張りや紙袋になつてしまふべく、餘りにも愉快な又活き／＼とした記事が目に着くからである。但し關東以外の地方では、之を知らずに居た人もまだ多い。乃ち岩波文庫への收録は又新たなる一つの機會である。

　此書の價値と情趣とを發見することは、讀者各自の樂しみに任せる方がよい。少しでも私はそれを指導しようといふ樣な考へはもつて居ない。たゞ自分が同じ郷土の空氣を呼吸して居た爲に、知つて居る二三の事實を爰に書き添へて、此書覆刻の喜びを記念するまでは、許されてもよいかと思ふ。著者の讀書と引用の豐富であることは、此書を見る者の感ぜずには居られぬ所であるが、是は必ずしも彼一人の卓越した境地では無く、當時この地方の學問の最高水準が、或はもう此點に達して居たのでは無いか、と思はれるやうな理由がある。赤松氏よりは又若千年おくれて、やはり此地へ移住して來た小川東秀といふ醫家がある。其子を東作と謂つて良醫の譽れがあつた。この父子は既に歿して、家には一倉の文庫が殘つて居た。私は偶然にこの文庫に出入することを許されて居た故に記憶がある。『利根川(344)圖志』に名を録して居る澤山の書物が、大抵は皆此中に在つたのである。或は赤松氏の藏蓄が、後に此方へ移されたかとも考へられるが、此想像には些かの根據も無い。寧ろ此時代を距ること遠からざる頃に、常總の學者の手に成り、もしくは常總の故事を檢討した著述であるが故に、土地の教養ある人士は爭うて之を求め讀み、從うて又それを自在に援用したことが、『利根川圖志』の隱れたる一魅力でもあつたのかと思ふ。

　さういふ中に唯一つ、小川氏の文庫にも無く、又『利根川圖志』に抄録せられたもの以外に、まだ見たことの無いのが『常總軍記』、或は『東國戰記』ともいふ一書である。間接に讀んで見てもよくわかるが、是は誠に愉快な本であつて、大よそ土地の人々が斯うであつたら面白からうと思ふやうなことが、皆その通りに歴史として書いてある。布川を中心として周圍十數里の村の名を、苗字にした勇士が入交つて戰をして居る。さうして其事蹟は壯烈を極めて居るのである。前にも此類の語りものは弘く地方に行はれ、軍書が其技術を承け繼いだ例も決して稀でないが、多數はなほ針小棒大とか眞僞相半ばすとかいふ境をうろついて居る。此書の如きに至つては全く思ひ切つたものであつた。是が如何なる目途の下に、どういふ人によつて書かれたかといふことは、赤松氏も大よそは知つて居たと思ふが、既に成書として世に行はれて居る以上は、書名を掲げて之を引用することも、話題を豐かにする意味でよいことゝ認めたのであらう。いやしくも傳説の耳に快いものは、必ず歴史として之を固守しようとする今日の郷土史觀と、僅かな間隔だが心持ちはよほどちがつて居る。『常總軍記』に出て來る諸葛孔明は、其名を栗林下總守義長と謂つて、是は女化《をなばけ》の原の狐女房の子だと傳へ、葛の葉とよく似た昔語りが添へられて居る。時は『日本靈異記』の昔から、土地は奧州率土ヶ濱の巣まで、遠く久しく流れて居た文藝の一つであつたが、下總北部の或村には、特に其狐の血筋を引くと傳へる孫左衛門とかいふ農民の家があつたことは、江戸で近い頃までの語り草であつた。『常總軍記』は多分その幽かな口碑を足がゝりとして、際限も無く展開させて行つた夢物語だつたのである。如何に近世までの關東の田舍が、文獻に飢ゑて居たかは是からでも推し測られる。

(345)　それから今一つ私の知つて居ることは、此書に幾つかの太閤記風の挿畫をかいて居る玉蘭齋貞秀、この人は、澤山の極彩色の武者繪を、布川の町に殘して居るが、それも板戸とか勝手の衝立とか、可なり粗末な取扱を受けて居るものが多かつた。實名は聽いてもう忘れてしまつたが、土地で調べたらまだわかるかも知れぬ。何でも屋根屋とかの職人であつたのが、器用で繪をかいて其方で生活するやうになり、それも江戸では暮しかねて、戻つて來て永く住んだ樣に謂つて居た。それが赤松翁と世を同じくし、その註文を受けて斯んな大時代な作品を掲げて居るのも面白い。是も『利根川圖志』の素人らしい特徴の一つだが、挿畫の畫工の數が甚だ多い。多分は何度にも頼んでは溜めて置いたものであらう。其中で落款の無いのは葛飾北齋だといふことであるが、水虎考略其他にも出て居る河童の繪が、やはり無名で入つて居るなどは不審である。土地の人の言つて居るのは、北齋は一時師匠の許をしくじつて、爰へ來て匿れて居たことがある。其間に描いたものだから落款を入れてないといふが、圖志の世に出るより十年も前に、九十で歿した人だから事實に反する。或はその又弟子の一人などが、中に立つて何か作略したことが、斯ういふ風に誤り傳へられたのであらう。僅かな年數のうちにも、どんな小さな問題にも、やはり傳説は出來て居る。たとへば私の兄は若い醫者で、此地では殆と最後の移住民であつたが、三代目の赤松宗旦翁とは同業の誼みで懇意であつた。僕も本姓は赤松で、御同樣に故郷は播磨などと、杯を把つて笑語して居たのをよく耳にしたことがある。それがいつの間にか兩家二人づれで、遙々と播州から移つて來たやうに話は進化して居る。是だけは事實で無いことを私が保證する。

　この三代宗旦翁は聟養子であつた。柔和な赭ら顔の好々爺で專門は産科、兄の長女の本年五十歳になる者なども、此老人の世話になつて世に現はれた。其折短册に書いて下さつた一句を私は記憶して居るから、養父に似て風流のたしなみもあつた人である。此人にはみや・きよ・みきといふ三人の娘があつた。總領のおみやさんと結婚して跡を繼いだのが資次郎氏、是が二代目宗旦の男宗造、高須の赤松家の次男で從兄妹どしであつた。茨城縣では最も功勞の多い老校長として、永く山王といふ村に住んで居り、其傳記は北相馬郡史などにも出て居る。此夫婦には三人の男の子(346)があつた。長男は始祖宗旦の實名を嗣いで惠といひ、今東京に出て働いて居る。二弟は若死したが、此三人も又その叔母たちも、共に忘れることの出來ない私の少年の日の友であつた。惠氏の子磐は今鹿島に行つて教職に就き、布川の舊居は母夫人が獨り守つて居る。家は昔のまゝで大よそ變つた所が無い。たゞ門の目標であつた一本の松の樹が見えぬのみである。

　布川は既に繁華の邑で無い故に、其家竝みなどは却つて變化して居ない。大體に五十年前の生活を保持しては居るが、たゞ關東でも珍らしい「つく舞」のある夏祭は、今はもう行はれなくなつたさうである。是と同じ行事は上總の五井にあり、又秋田の附近で蜘蛛舞と謂つたのも是らしいが、果して續けて居るかどうか心元ない。『利根川圖志』の精細を極めた敍述は、やがては得がたい記録となることであらう。それから色々の川漁の方法、又手賀沼のカハといふ水鳥獵なども、現在は何れもよほど變化したやうである。毎年千を以て算へられた上り下りの高瀬船が、來ては舟繋りをして遠くの話をしてくれなくなれば、此上流にどんな人が住むのやら、又川下には如何なる生活が有るのやら、もう少年たちには想像も出來ぬ時代が來ることであらう。それは全く著者の豫期しないことではあつたが是が爲に寧ろ『利根川圖志』の教育は、一段と貴重なものになるのである。私たちが旅を好んでした時代には、此本は餘りに大きいのでボケットに入れて行くことも出來なかつたが、其代りには人々に是をよく讀ませて、その記憶を携へてあるいたものである。思ひ出すことの一つは、最近亡くなつた末弟が十四歳の時、僅かな金をもつて夏の盛りに、利根川の堤を二人で下つて行つた。腹がへつてもうあるくのはいやだといふのを、あしか島を見せてやるからとすかし勵まして、夜路を到頭銚子の濱まで行つてしまつた。實は船賃をのけると一泊の金が無かつたからである。ところがその海鹿島には、もう『利根川圖志』のやうな海鹿は上つて居なかつた。さうして評判の遠目がねは割れて居た。是がその獣の皮だといふ毛の禿げた敷物の上で、梅干と砂糖とだけの朝飯を食べて還つて來たことがあつた。斯ういふ種類の旅行や遠足も、算へて見ると十囘は超えて居る。それが皆この『利根川圖志』を、曾て興味を以て讀み入つて(347)居た御蔭であつた。此書を仲立ちとした色々の古い記憶も、斯ういふ機會があるたびに又暫くは殘留する。書物の永く世に傳はるといふことは、決して著者ばかりの幸福ではない。

　

(348)　　　　　根岸守信編『耳袋』

　

　　　　　　　　　　一

　

　耳袋は寫本としては珍らしく流布の多い書物で、現に我々の目に觸れ又は所在を突留めたものだけでも、三十種に近い數であつた。それが殆と一つ一つ卷次を異にし、從つて又話の數と排列に著しい差を示して居る。大體に此本の卷一と卷二とだけを、數册に分つたものが多く、卷三以下は比較的少ないやうに思はれる。印刷に付せられたものは明治以後に、少なくとも四種はあるのだが、其三つまではやはり前者に屬し、獨り藝林叢書第十卷（昭和三年刊）に輯録せられたものだけが、此本の半分と、別になほ他の三卷とを合載して居る。つまり今日知られて居る限りでは、耳袋は總計で九卷あるわけで、此後なほ發見せられるものが、無いといふことは斷言できない。岩波文庫には自分所藏の一種を基本として先づこの六卷だけを刊行することにしたのだが、是がほゞ又編述の年代にも一致して居るやうだから、殘りは續編として逐次に附加して行けばよからうと思ふ。

　此書が全體で何卷あつたらうかといふことは、夙くから問題になつて居る。藝林本での卷二の奧書に、當時七十三翁の著者は斯う誌して居る。佐渡在勤の頃から書集めて置いた話が九百ヶ條になつた。今百ヶ條を書き添へたいと思ふが、忙しくもあり又年を取つて筆無精にもなつたから踟?して居る云々とある。さうしてなほ六年ばかりも在世し、且つ現に其時以後の記事を載せた一卷も有るのだから、十卷千箇條に達したといふ其頃の風聞も、決して根據の無い(349)もので無く、事によつたら更に其以上にも、書いて殘してあつたのかも知れない。今日の眼から看て不思議と感じられることは、二十數年の歳月を費して、老の限りに至つてなほ完成しなかつたかとも思はれる一つの書物が、どうして又此樣にまで世上にもて囃され、且つ色々の異本を遺して居るかといふ點であるが、是には二つ以上の前代風習の、既に忘れられたものがあるのである。其一つは寫し物の流行で、江戸には閑人が多く、耳で珍らしい話を聽きたがつたと同樣に、少し變つた本ならば寫して置かうといふ者が、賢愚を通じて數多く居たことである。最初の借出しは無論容易なことで無かつたらうが、日頃心を許して出入させて居た者の中に、特に内々を以て見せても居たらうと思ふのが、現にこの本の中にも出て來る栗原某のやうに、幾人かはあつたらしいのである。一度斯ういふ人の手に入れば、それから先の流傳は案外に速いものであつたらう。といふわけは彼等には亦別懇な人が他にもあつて、いつでもごく内々に特別を以て貸して置けば、寫し取つたに違ひないからである。今ある寫本の中には寛政年間、即ち此書がまだ半分も出來てない頃に、寫したといふものも見えて居る。是で最初の一卷二卷ばかりが、殊に數多く傳はつて居る理由もよく解るのである。第二の事情としては貸本屋の活躍といふことがあつた。都市の貸本の御得意といふ者にも、幾つと無き種類階級があつて、少し道樂がかうじると新刊の讀み本などを廿がつて、軍書や實録ものゝ寫本へ手を出し、其次には斯ういふ幾分か秘密がかつたものを珍重したのである。或は根岸氏のまだせつせと筆を執つて居る時分から、是が町奉行樣の著述だなどゝ謂つて、餘分の好奇心を動かして居たのかも知れぬ。さうで無くてもつい眼前の新聞であるが故に、追々と人氣のある讀物となつて一種の投資事業に筆耕を傭うて居たことは確かである。此類の書物には毎度貸本屋の店の判を捺したものを見かけるだけで無く、寫しが又甚だ無責任で、樂しんで讀んで居た人の仕事とは思はれず、中には飛んでもない振假字を附けたものも多い。著者が始めからそんなことをして居た筈は無いのである。一卷に百の話を載せるといふのだから、元はこの本は珍らしい大册であつた。それを程よく五卷にも十卷にも分册して、一々表紙を附け目録を分けて掲げたなどは、それが何人の細工であつたかは問はずとも明かなことであ(350)る。現代の所謂印刷文化と對立して、是はまことに特殊なる一世相であつた。其痕跡として、又百年前のインテリ層の好讀物であつた點に於て、耳袋はそれ自らの價値以外に、なほ一個の存在理由をもつものと、我々は信じて居るのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　耳袋が如何に是からの讀者を樂しませ、又教へるであらうかといふことは、我々に取つても大きな興味であるが、その未來の實驗を豫測することは、校訂者の權限を越えるから差控へる。爰にはたゞ技術的なる二三の事實の、或は見逃されるおそれのあるものを、注意して置きたいと思ふ。其一つは日本の説話界の傾向が、この天明寛政といふ頃の少し前から、新たに一つの曲折を示して居たことである。是には市井文學の影響が無論認められるが、同時になほ時世にさういふ需要が既にあつて、招き迎へられたものといふことが出來る。日本人の話好きは、古今を通じての大きな特色であり、又それが常民の修練に役立つて居たことも昔からであつたらうが、ちやうど此時代に入つて戰國直後の武邊咄が、一通り皆古くさくなり、是に追加せらるべき出來事も少なく、しかも生活の閑暇は却つて前よりも多かつた爲に、人は次第に話の種の缺乏を感じ始めて居たのである。今一度中古の御伽物語に、戻つて行くといふことは何としても出來ない。第一に逸話流行期の嚴肅な敍説法に耳馴れて、もはや「あつたさうな」といふ類の、取留めのない話し方を歡迎することが出來なかつたのである。それから今一つ、是は讀書が尊重せられた結果だらうが、以前は幾らもあつた遠い過去の話が、段々と雜談の中からは消えて行つて、いつと無く今日の新聞の記事と近くならうとして居た。乃ち人が寄合つて何か變つた話はござらぬかなどといふやうな場合に、ぽつ／＼と出て來る話題の種類が、既に江戸期の前半とは著しくちがつて居て、しかもまだ我々の時代とも大分共通でない所がある。それをこの耳袋が、或程度までは代表して居る。ごく大まかに見積つてこの六百篇の説話集の、約半分は事實談、當時は少なくと(351)も名を知られた人たちの逸話である。是だけは在來の言行録の類の趣旨を承繼いだものとも言へるが、何分にも型が小さく、又花やかな表現を含んで居ないので、假に十分に正確であらうとも、今日の所謂史料として利用せられる機會は至つて少なく、全部を綜合して或一つの時代相を感じ知る以外には、もはやゴシップとしての魅力をも持つて居ない。我々はたゞ人間の情僞、もしくは世渡りの技術とも名づくべきものが、都市では既に驚くべき精微の域に達して居て、稀に消え殘つた昔風を感嘆する態度が、寧ろ今日の人に近いといふ點に興味をそゝられる。之に反して他の半分の奇事異聞、又は雜説とも名づくべき説話の方は、少なくとも其種と構圖とに於て、可なり昭和の人々の抱へて居るものと變つて居る。是は生活の地平線が高く且つ窄まり、外から來る刺戟のまだ至つて乏しかつた時代としては已むを得ないが、是ほどまでにも話を愛し、且つ新鮮味を珍重した知識人が、遊び樂しんで居た花苑としては、如何にも小ぢんまりとし過ぎて居る。つまり日本人の好奇心といふものは、一旦目覺めてからこゝでやゝ不自然に制約せられ、それが又他日の奔放なる反動の、原因ともなつて居るらしいのである。説話研究者の立場から見れば、この過渡期の現象にも、隱れたる意義が認められることゝ思ふ。即ち新たなる説話の需要は大いに有つて、まだ供給が是に應じきれなかつたのだから、勢ひ同じ一つのものゝ傳播が遠く弘く、從つて又次々の改造も念入りであつたことは、僅か是ばかりの話集の中にも明かな證跡が得られる。たとへば飴賣土平の身元、又は淺草觀世音の御利益によつて、不思議に毒害の災難を遁れた事件などは、筆者も氣が付かずにちやんと二處に出て居て、その話し方に大分の異同がある。努めて怪力亂神を談るまいとした、篤實な老人にすら、なほ此事があつたのである。鈴木桃野の『反古の裏書』などに依ると、此時代には作り話を考案して、世間がまに受けて次から次へ、取傳へて行くのを見て樂しんで居た閑人もあつたといふことだが、さういふのは物ずきの行止まりで、素より眞似も出來ず、又度々は成功したらうとも思へない。それにも拘らず、曾て司直の官に在つて、眞僞の判別に長じて居た人の、うそは成るべく載せまいと心掛けて居た筆録の中に、なほ幾つとも無い昔話が形をかへ、場所人物を設けてさも實際にあつた事のやうに、語り繼(352)がれて居るといふのは面白いことである。話を人生の主要なる一部と見る氣風は今日もなほ續いて居るが、爰には既に新しい話題が充ち滿ちて居て、もはや大昔のかたりごとが、姿をやつして入り込む空隙は無くなつて居る。この時代の目に見えぬ變遷を感じ比べさせることが、或は耳袋の將來の役目では無からうかと私は思ふ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　日本には限らぬことであらうが、説話が近世初期の社交界に於て、割當てられて居た職分は重要なものであつた。其内容の聽く者を稗益したことは別にしても、人は是あるが爲に集まつて共に樂しみ、又互ひに懇親を結ぶことが出來たのである。耳袋の偶然なる手柄は、筆者の克明な注記によつて、大部分は話の出處が明かになつて居ることで、それを見るとほゞその循環して行つた經路が窺はれる。人と話の種類とを照し合せて見たら、必ず興味ある結果が得られると思ふが、それ迄の時間が我々には無い。とにかくに大名も旗本も、根岸氏と附合ふほどの者は皆何か話をして居り、中には隨分の話ずき又は話上手と謂つてよいのも何人かある。斯ういふ生れから良い身分の人たちが、大よそは相手の好みを解して、折と場所柄に相應した話を、次から次へと出して來るといふことは、實に大いなる時代の進歩であつた。以前は同朋とか咄の者とかいふ專門の徒があつて、殿と名の付くやうな人は只の聽衆、もしくは笑ひ手でしか無かつたからである。好きこそ物の上手といふ諺もあるが、どうすれば又是だけの話の種を貯へて、人を樂しませることが出來たかゞ先づ問題になる。耳袋の時代は、此點にかけても亦一つの過渡期であつた。根岸氏の採集はこの同僚先輩との交換以外、別に若干の供給者をもつて居る。其名が頻繁に出て來るのでほゞ見當が付くが、第一には永年頼みつけの醫者、是にも小兒料や眼科などの色々の種類がある。さして急患でも無いのに時々は御見舞申して、かの七部集の付句にもあるやうに、「呼子鳥とは何を言ふらん」などゝ、「日は暮るれども長話」をして居たことが想像せられる。それから次には鍼醫に按摩、多少の音曲を以て人の心を取る者、そここゝ旅をしては又江戸へ戻つて(353)來る俳諧師といふものも三四人あつた。何といふ藝も無い武家の隱居或は浪人で居て少しは醫業の心得もあり、占なひも呪なひも心得て居るやうな中年の男も幾人かこの家へ出入して居て、此連中の持つて來たといふ話が、大抵は奇拔で且つやゝ作爲のあるものが多い。定まつた收入になつたらうとも思へないが、悠長な時節だからあちこちと廻つて居る間に、小さな色々の便宜はあつたことゝ思はれる。多くの世間話が斯うした世間者の手を通じて、弘く運送配給せられて居たことにも歴史があつた。さうして又少なくとも明治の終りまでは、丸々跡を絶つても居なかつた。それをたゞ根岸肥前守の如く、湛念に書留めて置かうとする人が、一人も無くなつたといふだけが大きなちがひである。

　耳袋筆者の傳記は、人名辭書にも出て居て詳しく述べる必要が無い。父の代に始めて農村から出て來て、御家人の株を嗣ぎ、自身の精勵刻苦によつて、榮達して重い官職にも就いたほどの人が、一方に世俗生活に對する是だけ深い關心と、餘裕とをもつて居たといふことは寔に異數である。殊に驚歎に値するかと思ふのは、佐渡奉行の時は年もまだ四十臺で、職務も比較的閑であり、周圍に話を持つて來さうな人も多かつたらうが、此間に聽いて書留めて置いたかと思ふものは却つて少なく、それから歸つて來て御勘定奉行になつたのが天明七年の五十一歳、續いて町奉行に轉じたのが寛政十年の六十二歳の時であつて、しかも其前後に起つた出來事と稱するものが、此話集の大部分を占めて居ることである。現在の大藏次官や警視總監に、大よそ是に近い趣味が缺けて居るとしても、我々は決して之を怪みはしない。勿論心掛けも全く別ではあつたらうが、第一に時勢がちがつて居たのである。根岸氏が町奉行を退いた年は、續徳川實記を捜して見たが記されて居ないやうであつた。しかし其期間も相當に永かつたと見えて、直接法廷に於て見聞した奇談も幾つか出て居る。誰に讀ませようといふ計畫も無い覺書を、彼は少なくとも死歿の前々年の七十七歳までは止めて居なかつた。さうして多くの閑人の隱居がしたやうに、何でもかでも聽くだけは皆書いたので無く、若干の取捨選擇と批判とが是に加はつて居る。ちやうど自分は偶然に同じ時代の風聞録の類を、本書を校訂する旁に讀んで見ることが出來たが、或ものは荒誕を悦び又或ものは惡謔に傾いて、愈々この一書が根岸肥前守の説話集であ(354)り、單なる時代の反映ではないことを感じたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　終りになほ一つ、自分等が此書によつて經驗した點を報告すると、此時代は談話と文章との距離が、今よりも寧ろ大いに近かつたかと思はれる。素より現代の所謂口語體のやうに、書くものを強ひて日常の物言ひに近づけようとするのとはちがふが、それは或は不可能なことではないかと思ふ。少なくとも今日の文言一致は實は語尾だけの改作である。昔の人たちの普通の文體は、會話とは似ないが晴の口言葉、即ち改まつた外部の人たちと、物をいふ時の形とは近かつたのである。是には溯つて行けば久しい歴史がある。京都の縉紳の日記などゝいふものは、漢字ばかりを竝べてちよつと漢文のやうに見えるが、何か必要があつて委曲を盡さうとすれば、支那文の法則には背いても、めい／＼の思ふ所には忠實であつたから、氣をつけて見ればその四角なものゝ背後に、あの世の中の人の言葉が把へられる。それが時代の降りと共に、追々に寫實へ近よつて、終に最近の書翰文とはなつて居るのである。手紙の罷在や相成度の類は、無理に女文字を避けようとした手筒なる一便法で、その爲に書禮の教育を困難にした弊はあるが、同じ流儀の者の申合せを以て、漢字で國語を表示しようとした點は、萬葉集などゝ少しでも異なる所は無い。それがほゞ江戸期を限りとして通用せぬことになつたのだから、古文の解し難いことは却つて近古のものに於て甚だしいのである。耳袋の筆者は公人であつて、平生この文體に習熟し、又必ずしも漢文や女房文を模倣しようとしなかつた故に、自然にあの時代の通用文を代表して居る。所謂候文は人と往復する際に、此文體に敬語をさし加へたゞけのもので、日記や覺書の自分ばかりの用に供するものは、やたらに御の字と候の字とを挿んだか否かといふより以外に差別は無かつたことが、偶然に此記録によつて明かにせられたのである。たつた一つの此文體の缺點は、強ひて國産の文字を排斥し、見たところ漢文のやうに堅い字ばかりで書かうとした爲に、無理な宛て字やテニヲハの脱落を忍び、特に節用や(355)伊呂波字引の教育を受けた者で無いと、之に由つて互ひの言葉を運ぶことが出來ない點に在るだけで、文章であるが爲に常に言はぬ語を使ひ、素人に呑込めぬ言ひまはしをするなどゝいふことは、斯ういふ風にすれば丸々必要の無いことであつた。この方面では却つて當世の多くの文章よりも優つて居るのである。しかしさういふうちにも時代の好尚は、少しづゝこの老官吏の筆使ひにも影響して居る所はあるが、とにかくに今日の人とは正反對に、口で用ゐる言葉の選擇には細心の注意を拂ひ、それを筆にする場合は率直に之を寫すに止めて居たことが、たしかに此書物の上にはよく例示せられて居るのである。この態度は今からでも參考になるかも知らぬが、我々が之を説くにはもう時期が既に遲い。耳袋の寫本を其まゝに版にしたのでは、もう讀下せない部分がよほど多くなつて居る。抔（ナド）とか遖（アッパレ）とか與風（フト）とかいふ類の用字も、以前は極めて普通のものであつたが、今日はもうルビを要する。送り假字の省略にも、今日の讀者の理解を妨げるものが若干はある。さういふのは致し方が無いから、少しばかりは校訂者の手で附加してある。根岸氏が世を去つてから、まだ僅かに百二十五年にしかならない。他見無用などゝは誌して居るが、やはり後代の讀者を期待しては居たことであらう。それが元のまゝではもう讀めないやうになつたといふことは、我々にも考へて見なければならぬ問題である。

　

(356)　　　　　横山重編『琉球史料叢書』

　

　琉球國由來記から、大きな感化を受けて居る一人として、一言だけ禮讃の辭を述べる。

　文化といふ言葉を、毎日の御題目にして居る今の社會にも、まだこの書物ほどの熱心と周密なる用意とを以て、自國の文化を省察しようとした者は無いといつてもよい。今でも文化の定義や總括論ばかりに、うき身をやつして居る人が一方には多いのに、あちらではちやんと二百年も前に、そんな名前も知らずに、その内容になるものゝ全部を、ほゞ見究めて居る人があつたのである。日本の元禄正�ｺ、支那でいふと康煕時代の學問が、之を指導して居たやうに島の人たちは却つて思つて居るだらうが、私などはかういふ民間の小さな生活にまで、個々の發達進歩の跡を尋ねて行かうとするやうな事業に、果して隣國の御手本があつたかどうかを知らない。假に模倣だつたとしても、是はたしかに出藍の成績であつた。

　沖繩では貴族・政治家・知識人がすべて首都に住し、文章を書くものも皆中央に集まつて居た。村や離れ島にも名家は多かつたらうが、それは悉く皆被治者であつた。彼等の間だけの尋常の生活、殊に昔を忘れない信仰の感覺などが、微細に敍述せられて居るのは、國情でなければならぬ。或はめつたに土地を離れない家々の女性が、祭祀の實權を握つて居り、それが又人心を支配して居た爲とも見られるが、とにかくに是を公事の主要なる部分と認めて、録して政廳に保管したといふことは、寔に珍らしい舊思想の調和であつて、所謂外國文化の吸收に急であつた國々は、通例は寧ろ古風の價値を輕んじ、又は忘れることをさへ努力して居たのである。

(357)　琉球國由來記の編纂が、もしも經世家の遠大なる計畫、未來の學問の要求の豫想からでも無く、また偶然の好みでも無かつたとすれば、之を必須とした理由は島の社會相、わけても外部と隔絶した地理的　　状況の中に在つたのである。我々島國民が率先して自分の事として、尋ね究めて見ない限り、この一つの文化史の問題は明かになる望みはない。さうしてその有力なる資料は、漸うのことで今度始めて、我々の利用の圏内に入つて來たのである。

　沖繩島の文運は、この四つの書の成つた頃が隆盛期であつた。殊に由來記の編輯には、全群島の有識者が參加して、比較的短い時日を以て之を爲し遂げて居る。宮古・八重山の例を以て推測するのに、最初島々には先づ一段と詳細な記録が出來、それを中央に進達して統括を計つたことは、ちやうど安永年間の仙臺領の村々書上、天保初期の防長の注進案などもよく似て居るが、この取捨選定の用意に至つては、それと格別の差があつたのみならず、各地の報告も亦充分に豐富且つ活?なものであつた。其文書は往々にして別に保存せられて居るが、之と比べて見ると、どの部分を採り、どれだけ原筆者の意圖を尊重したかもよくわかる。或は始めから綿密には報告し得なかつた村々もあつたかと思はれるが、大體に關係者の述べて傳へようとしたものは、成るべく殘さうといふ方針であつたことが察せられる。

　ところが是を漢文に書き替へて、琉球國舊記を作る際には、其態度は著しく變つて居る。一つには技術上の障碍もあらうが、一切の祝詞神語を省略し、神の名や威部の名なども無理な漢字を宛てゝ居る。島より外の人々に見せるには、是くらゐでも澤山だと思つたか、もしくは斯ういふことは知らせぬ方がよいと考へたか、とにかくに内外二通りの書き分けが、無意識で無しに行はれて居る。漢文が單なる對外の文學であつて、しかも島内にも文字を以て傳へずには居られない故事歴史が、既に集積して居た時代相はよく窺はれ、二者の對照によつて島の人の心理、仲間の結合の如何に緊密で且つ親切であつたかも、興味深く理解せられるのである。探せば本州の方にも此例は見つかることゝ思ふが、利害も錯綜し材料も煩雜である故に、沖繩のやうに手輕には學べない。少なくとも先づ文籍の數少ない島で、その練習をしてかゝることが便利である。

(358)　袋中和尚の神道記を覆勘した横山重氏が、次に由來記に着目したことは、ちやうど又私などの順序とも合致する。私はその前に馬琴の弓張月を愛讀して、極度まで好奇心を刺戟せられては居たが、それが神道記の慶長年間の聞書に據つたと知るだけでは、まだ夢の國から還つて來ることが出來なかつた。それがこの由來記をくり返して讀むことによつて、僅か二百年前までの現實であつたことを知り得たのみならず、近く大和の同胞の經驗と、今なほ結んで離れないものゝあることを覺えたのである。この喜悦はたゞ讀書子のみの獨占し得るもので、しかも一生の間にさう頻繁と遭遇し得るやうな幸福では無い。この書世に傳へずんば、恐らく知らずに過ぐる人が多かつたことであらう。

　沖繩では近年幾たびか是等古典籍の校訂刊行を企てたことがあるが、それは極めて障碍の多い事業であつた。一二簡易な版式を以て世に出たものはあるが、その頒布は限られて居る。自分たちの兼て切望して居たことは、かうして東京に於て之を出版することであつたが、今までは殆と其方法が立たなかつたのである。是はたゞ單に支持者を縣外に求め、頒布を容易にするといふやうな物質的な理由からでは無い。

　靜かに通讀する人が次々に發見するであらう如く、國が總體として知つて居らねばならぬ事が、此中には數多く含まれて居るのである。近頃の歴史の常例とは反して、是は事件よりも現象を主として居る。或家或人の事蹟功業を説く代りに、個々の集團の遭遇しなければならなかつた、いはゞ運命ともいふべきものを記述した部分が多い。この經驗は代表的であり、從うて永く民族總體の參考となるべきものである。之を地方史家の手から引繼いで、國の文獻として保管し又利用すべき必要は夙くからあつて、今まではまだ之を省みる人が無かつたのである。故に單なる推奨といふ以上に、自分はこの新たなる事業に感謝するのである。

　

(359)　　　　　【田邊泰・巖谷不二雄】共著『琉球建築』

　

　沖繩の昔の祭歌オモロの中には、瓦を買ひに大和へ登るといふ有名な一章がある。土を用ゐた部分の少ないことが島の建築の一つの特徴かと思はれるが、木材も必ずしも十分に豐富ではなかつた。今日見るやうな壯麗なる宮殿樓閣を造り上げる爲には、その若干はやはり船に積んで、遙々と運び入れられたらしいのである。全體に出でゝ求めて來た文化であつたといふことが出來る。乃ち坐ながら招致した受身の交易とはちがつて、島の技藝には周密なる選擇があり、又必要の最小限度があつた。無くても濟むものは前々の方法を踏襲し、島内の智巧によつて改良し補修して居る。この新舊二通りの作品の併存は、可なり適切に離島の生活の自由と拘束の歴史を物語つて居るのである。泉を取圍んで榮えて居る村里は古い。是を神々の恩惠と仰ぎ、且は人生の怡樂の中心として、尋常個々の住屋以上に永續する工作が施されて居る。石に南の海限りの大きな特質がある如く、之を疊み築く技術にも、輸入以前のものが明かに有つた、それが一部分はなほ殘留して新たなる文化とよく調和して居るのは、さながら代々の島民の刻苦忍耐の、積み重ねに對するやうな感じである。本書の採録が都鄙新舊のどの一方にも偏せず、宮も藁屋も總括して、渾然たる一個の生活相を展開して居ることは、奧ゆかしい用意だと私は思ふ。世界の荒海のどの部分を探つて見ても、沖繩だけの經驗と到達、是に伴なふ未來の問題を、もつて居る孤島は二つと無い。世界の人々も夙くから、この現實を知りたがつて居た。我々も是によつて今一度、詳かに島の生活と藝術との交渉を考察する機會が與へられたのである。

　

(360)　　　　　館柳灣著『林園月令』

　

　「良書供養」の催しの御蔭で、良書といふものを考へて見る機會を與へられた。供養といふからには活きて働いて居る本でなくともよいのであらう。實際又近頃出たものゝ中から一つや二つの良書を名ざすことは容易なわざではない。

　私が最初に供養したいと思ふのは、林園月令二編十六册である。出版は天保辛卯（二年）、ちやうど私の父の生れた前の年に出たもので、それを又私の生れた前の年に、但馬で亡くなつた祖父の許から、遺品として私の家に屆けられたといふ、珍らしく歴史のよく判つて居る本である。

　東京へ出て來てからも始終覺えて居たが、二三度しか古本屋では目に觸れたことが無い。さまで發行部數の少なかつたものとも思はれぬが、初めから賣りさうもない人ばかりの手に頒たれ、しかも本の形が愛玩に適して居た爲に、中味を利用せぬ者までが手放す氣にならず、追々に舊家と共に消耗しつゝあるのであらう。斯ういふ本こそは供養しなければならぬと思ふ。

　私の家でも父の存生の間は、此本の置き處は大よそきまつて居た。それからの四十年はずつと土藏の中に在つた。今度この供養をするについて、田舍から取寄せて撫でつ摩りつして見ると、久しい昔の記憶しか浮んで來ない。昔私たちが本と謂つて授けられたのは、どれも是も大きなぼて／＼とした、少しは黴びた表紙の陰鬱な色をしたものゝみであつた。さういふ中に在つてたつた一つ、林園月令だけは寸法が今いふ四六判の半分までも無い。それも字引や和漢名數などの小本とはちがつて、きちんと十六册、茶がかつた白の木綿更紗の帙に入つて、是だけは祖父の特別の好(361)みらしく、帙の内側に一篇の詩を題してあり、又角製の長い「こはぜ」を以て留めてある。たまに手を掛けようとするときつと叱られた。讀めるやうになつたら見せてやる。早く大きくなつて讀めるやうになれと、母までが傍から言ふのだから、よほど良いことが書いてあるのだらう、と思はずには居られなかつたが實際は惡戯ばかりして居て、あまり私の手が汚れて居たからかも知れぬ。

　とにかくに書物をなつかしむといふ習性は、林園月令によつて養はれたと言つてもよい。今でも綺麗な本を見ると、讀まぬ前から先づ心服しようとする。それを警戒する爲に、美装の書を怖れるやうにさへなつた。それ程にも私は此書の外形に心醉したのである。近年思ひがけず、少年の日の文稿を發見して、退屈まぎれに讀んで見ると、さてもさてもかぶれて居る。ちやうど許されて此本をぼつ／＼と見た頃と、漢文の稽古を始めたのが同時だつたのである。私の生れた家などは庭が僅か五六十坪で、梅とか白桃とかゞ七八本も栽ゑてあつただけなのに、私の文章には四季の風物を咏歎したやうな文句ばかりむやみに多く、それが夢梁録とか刑楚歳時記とかいふ類の記述と似て居るのは、全くこの本を通しての模倣であつた。えらい大きな印象を與へられたものだと思ふ。

　今から考へて見ると、林園月令は少しも子供などには用の無い、寧ろ現在の自分等の境涯に似つかはしい本であつた。祖父も晩年になつて、生野銀山の川のほとりに閑居し、それから此本を愛玩して居たのであつた。それを記念であり手澤の痕が鮮かな爲に、父が珍重して塵をもすゑまいとして居たのを、私が誤解をして盗むやうにして讀み耽つたのであつた。しかしその結果は今となつては不幸ではない。私が貧家の末成りに生れつゝも、一生餘閑を求めて花の色鳥の歌を愛し、四時の移り變りに敏感で有り得たのも、言はゞ見ぬ世のおぢいさんのおかたみであつた。此頃郊外に少しの草原を圍つて、筴篷《がまづみ》や落霜紅《うめもどき》、もち、なんてん、むらさきしきぶ、かまづかなどの、小さな實のなる小木を多く栽ゑ、幸ひ禁獵地になつてやゝ集まつて來る小鳥を滯在させ、早曉に窓を開いて其聲を聽いて居たりするやうになつたのも、源を問へぽこの帙入の小本が、分外に大きな感化を穉い頭に押付けて居たからとも考へられる。やつ(362)ぱり子供には物めでの心、人が美しいといふものに感動する癖を、つけて置くのは惡く無いと思ふ。昨年の秋の或日、孫の一人が庭へ附いて出て走りまはる。おい／＼さうどこでも飛んであるかれては困るよ。この苔の上には夕日が當つて美しいやうに、おぢいさんが丹精して居るのだからねといふと、女の兒なものだからすぐにそこへしやがんで、小さな手を伸ばしてその苔莚を撫でまはした。さうすれば此兒も今に植物を愛するやうになるだらうと、私はふと昔の林園月令を想ひ起したことであつた。

　一向に自分の事ばかりを述べて本の解題を怠つて居たが、是は越後新潟の學者館柳灣の著作で、自家の園圃の月々の行事豫定を漢文で書き、その前後に支那人の文と詩との、是から聯想せられるものを數多く排列したものである。新潟とはあるが此人は江戸に出て、たしか目白の高臺のあたりに住んで居た。所謂月令は江戸西郊の風土に準據したのであらうが、範を外國に採つて、しかも地味氣候の異同を攷へようとしなかつたのは、やはりあの時代の書卷裡の文雅を脱して居ない。その文獻にも新渡の唐本をひけらかした嫌ひが少しはあるが、第二編に引用した顧鐵卿の清嘉録に至つて、その載する所の風俗、多く我邦と相似たるに心付いたと謂つて居る。もしも此方法が今少しく推し進められたならば、今日の所謂比較民俗學も、存外に早く東洋に夜明けたかも知れぬのだが、編者が老を養ふ風流の文人であり、文が漢語であり時代が又此の如く變化した爲に、遺韻は遠く傳ふることを得なかつたのである。

　此書の文字は至つて見ごとな細楷であつて、曾て森?外氏が傳を書いた伊澤蘭軒の參校となつて居るが、版下は或は御自身の筆であらう。一紙片面七行十五字、字の大さは三號活字ほど、是に丁寧な訓點が施してある。こんなにも氣の利いた上品な書物を、以前も作り出すことが出來たのかといふことを感ずる爲にも、一度は見て置いてよい本である。それから進んでは斯ういふ書物を出してもよい時代が、つい一世紀前まではあつたといふこと、是が此頃ではもう發見にならうとしてゐる。

　

(363)　　　　　讀書雜記

　

(364)　　　　　書物が多過ぎる

　

　　　　　　　讀む可き物を讀み盡されぬ淋しさ

　

　この間北京に滞在中、二時間程暇を得て武英殿の陳列場を、觀に行つた事がある。掠奪を免れた前皇室の寶物場で、この先はどうなるか分らぬが、今では民國が依托せられて管理して居ることになつて居る。事務の人に良い考古學者があると見えて陳列の仕方が惡くない。たゞ驚くのは、一個あつても優に家の名を傳へられる程の見事な七寶なり、青磁なり銅器なりが、製作年代順に分類されて何百となくズラリと列び、優良なる工人が一人で作れば、一生涯は費える程の珠玉の作り花が、百以上壁に添うて列なつて居る。その間を劍付鐵砲で警衛して居る番兵を見ると、自分は何となく魚屋の猫を聯想せざるを得なかつた。

　此日、自分はホテルへ歸つてから興業銀行の小野さんに、こんな話をした事を記憶して居る。「武英殿見物は確かに吾々には有益であつた。恐らくは新出來の富豪達のこれからそろ／＼骨董でもヒネくらうといふ者には、此陳列場を見せる事が、行き止りはこれ迄といふ事を、手つ取り早く理解させて、一種の免疫劑になるだらう」といふやうな事を話した。資力も無い癖にと、冷笑する人があるかも知れないが、少なくとも自分に取つては、蘆生の夢は醒めたのである。

　しかし、珠玉珍玩に對する自分の欲は最初から實は淡かつた。幸に山の口から引返したといふ事も、さしたる大事(365)件では無かつた。これに反して所謂文の林では、自分はどうしても浮ばれぬ亡者である。殊にこの頃になつて、しみじみと讀む可き物を讀み盡されぬといふ、自覺の淋しさを味はひ初めた。しかも、どうしてもよい程に切り上げて引返す道がなくなつて居るのである。そこで獨り靜かにその原因を考へて見ると、幾つも若い讀書家たちの參考にすべき誤謬があつたやうに思はれる。

　

　　　　　　　幼かりし日の懷しき思ひ出

　

　書物との因縁は最初から隨分深かつた。世の中に目が開いた時は、自分の家は既に澤山の書物の散ばつて居る家であつた。その時代の事を考へると、まづ心に浮ぶのは、明治の初年に專ら流行した、黒や黄色のよく光る表紙の色である。西南戰爭の前後に出來た本は一種特別の臭ひがあつた。今日書庫の奧で嗅ぎつける黴びた楮の繊維が濕つては乾いた、あのにほひでもなければ、古本屋の店先でよく感ずる埃の香でも無く、初期の洋紙に一種の印刷インキの浸み入つた、餘り快い香では無いが、年代が經つて見ると懷しい臭ひである。今になつて考へて見ると、あの頃は既に、昔に較べて非常に出版が容易になつてゐた時代であつたらしい。或商人は銅版の印刷を始めて人氣を惹いた。活字も年を逐うて氣の利いたものに變つて行つた。袖珍と稱する量の低い複刻本がドシ／＼と出たのたこの時代であつた。それをかの光つた黄や紺の表紙で装釘したものである。全體に鼠色の調子の寛政前後の書物、それよりいま一段昔の黒い調子の書物などに比べて、嫌な色だが確かに新しい感じを與へたに違ひない。幼少な自分等も、土用干しの日にこの臭ひを嗅いで、ボンヤリと學問は斯ういふ臭ひのものゝやうに感じて居たのであつた。

　小學校の子供等が讀本より他持たないのが如何にも卑しく見えて、その度毎に、自宅の土用干しの黄色い臭い本を思出して居つたから、多分分らぬなりにいろ／＼な本を開けて見て居たのであらう。何度と無く、人から本の好きな兒と云はれた事を記憶して居て、何を見たのか一つも覺えてゐないのは滑稽ではないか。

(366)　斯ういふ際にも、やはり惡戯をする餘裕はあつたと見えて、小さい家に居て弟共と盛に闘つた。そこで親たちが大に困つて明治十八年頃、半年程近村の友人の家に自分を預けたが、幸か不幸かその家といふのは郷里では有名な藏書家であつた。家の背後に、八疊二間の隱居所があつて、自分を愛して呉れた肥滿つたお媼さんがその中に居り、その二階は悉く書物であつた。

　若くて死んだお媼さんの配偶者が、中井竹山の門人で、珍らしい讀書家で、藏書の數が四萬册近くもあつた。人の手に不自由をせぬ富豪であるから非常によく整頓して居る。目録を見ては見當も附かなかつたが、獨りで二階に上つて本箱の間を歩いて居ると、半日でも一日でも出られぬやうな氣がした。

　こゝでも何を讀んだか記憶して居ないが、今頭に殘つて居るのは、やはり何處の少年でも氣の惹かれた讀み本や小説類であつた。隨筆といふ物の何であるかも此頃初めて知つて、自分の雜書道樂は斯くして十一の年から始まつたのである。

　

　　　　　　　兄を心配させた小説類の濫讀

　

　十三の時に、兄を頼つて下總の國までやつて來た。こゝでも偶然、兄の借りて居た家主が醫者で藏書が多かつた。この家の媼さんは、郷里のあの恩人とは異なつて喧ましい人であつたが、孫を欺したり、その外種々な手段を講じて、兎に角にこの土藏の本は、讀み度いと思つただけは讀んで了つた。そして惡戯をするより以外に時間の潰しやうも無くて退屈してゐる矢先、丁度隣家の主人が大怪我をして不具になり、たゞ本を讀んで暮して居た爲に、東京の友人から種々な新刊物を送らせて見てゐたから、そこへ遊びに行つてゐる間に國民の友や、硯友社の人々の作る雜誌などにも接したのであつた。

　今日と異なつて、少年が小説類を讀む事は餘程忌はしい事に考へられて居た。それ故に二番目の兄などが大に心配(367)して、幸便のある毎に歌集や國學者の隨筆などを澤山送つて來て、小説さへ讀まなければまだいくらでも貸してやるといふ傳言などもあつたが、結局はそれも讀みこれも讀みで、最も惡い濫讀の癖は腹の底まで滲み込んで了つた。

　それから若干の年數を經て後「何の爲に本を讀むか」を考へて見た時代もあつた。しかしそれは大分濫讀の爲に時間を浪費した後の事で、云はゞ神經衰弱に罹つて居たのであらうか、自分は獨りでつく／”＼と、讀書には指導者が必要な事を感じ初めた。

　また讀書と記憶といふ關係をも考へて見た事がある。これも記憶力が衰へた後の現象だつたかも知らぬが、兎に角に昔から名家の一屬性の如く見倣されて居た博覽強記といふ事は、殆と無用なものだと考へ出した。當ても無く片端から記憶して行かねばならぬやうでは、讀書は最も苦しい牢獄である。同時にまた、讀んで記憶して居らぬ位なら、讀まずともよかつたといふ本もいくらもある事を悟つた。參考書の拾ひ讀み又は捜索は、非常に巧拙のあるものである事を知つて、讀書術といふやうなものを考へずに、牧場の馬の如く矢鱈に本に手を附けた事を後悔した事もある。或時にはまた、流水の少しづゝ物を沈澱させて行くやうな部分が、十分靈魂の滋養になるのであると感じて、出來るだけ多くの本を靜かに讀まねばならぬと考へ直した事もあつた。しかし、結局東奔西走して居る内に日が暮れるだらうといふ懸念が強く強く起つたので、何の方面へでも自分の讀書慾が片寄つて呉れればいゝと念じて居た。その中に年が經つて趣味も?々變化したが、多くの場合には迷つて中途から戻つて來たかたちであつた。

　處が不思議な事が一つ起つた。少年の頃から好きであつた旅行と讀書とが、或時ふと結び付いたやうな時があつた。江戸時代の隱れたる地方學者が、心血を絞つて蒐集して置いた昔の記事が、旅行する度に面白くなるやうに感ぜられた。それを助けて呉れたのが陸地測量部の五萬分の一の地圖である。自分はこれに依つて、色鉛筆をステッキにして、暇さへあれば地圖旅行をして居た。一方には又、折角讀書の方針が附いても、今程覆刻の盛んでない十年前には、如何に書店をせびつても、歩み度い(368)道が歩めぬのが普通であつたが、第二の幸福には、自分の奉職してゐた内閣の文庫には、内務省の地理局で採集した昔の地誌類が澤山あつて、此方面ならば極めて勞少なく、自分の傾いた趣味の道を進む事が出來たのである。

　

　　　　　　　讀書の目的を限定する必要

　

　ところが八年前に、内閣の記録課長が缺員になつて、柳田なら本が好きだから喜んで働くだらうといふ評定で、自分があの文庫の主任に推薦せられた。丁度和田倉門内の古い書庫から、大手門内の新築の書庫へ引越をする時節で、それと同時に目録や配列の整理をしなければならなかつた爲に、僅かな人を使つて、自分は最も忙しい讀書をやつた。「本を早く見る練習」はその頃初めてやつて見たが、昔からこれも學者の一特長の如く傳へられて居る「五行竝び下る」といふやうな事は、練習さへすれば強ち難事ではない事がわかつた。洋書は同じやうに目に映じて閉口だが、これも西洋人にはその技能がよく發逢して居るやうだ。自分は雜書道樂の時間潰しをして來たお蔭に、斯ういふ仕事に對してあまり骨が折れるといふ感じは起さなかつた。

　全體に道樂學問である爲に、所謂勉強といふものは少しもする必要がなかつた。たゞ汗牛充棟に出會して一層深く考へた事は、讀書は早くから目的を限定しなければならぬものだといふ事である。警保局の檢閲官の如き職務柄なら格別、又一部の青年のそれの如く、煙草や菓子同然の慰安術なら格別、苟くも第一義を以て本を讀む者が、今のやうな時節に手當り次第の書籍を取上げて行けば、贏ち得る所は疲勞のみであらう。勿論四十前後になつてこの感を抱く者は、決して自分のみであるまいが、出來る事なら未だ間に合ふ間に、これから讀書しようとする人達にこの經驗を傳へて置きたいものである。

　だが、讀書の方面を限定する一つの弊害は、碌でも無い著述慾の起る事である。既に吾々も苦しんで來た書物の大波濤に、更に數勺の水を加へて後の青年を苦しめる事であらう。これは餘程警戒せぬと自他の爲に大きな損害である。

(369)　人は?々纔かばかり他人より多く知つてゐる事を發表したがるものである。もしくは他人よりより多く誤つて居る部分をも發表したがるものである。そして、長い間比較的新奇なる知識を、徒らに土の底に携へて行く事を悲しんで居る人々が、この印刷術の容易なる時勢に遭遇したのであるからたまらない。少なくとも自分だけでは、さういふ亡靈の仲間に入るまいと思つて、今日までは警戒して來たつもりである。

　

　　　　　　　内容の分らぬ氣取つた標題

　

　自分のやうに趣味で讀書するものは、年を取つても存外記憶には難儀をせぬものだが、それにも拘らず實は讀んだ書物の拔き書きをやつて居る。これは短い年月に多くの書物を讀む爲の一つの方法で、また大部の物から入用な點を利用するのにも必要な事である。勿論他人には全然無用かも知れぬ。これは長い航海中に地圖や時計を出して見るやうなもので、云はゞ自分の生活を稍々賑やかにするだけの手段かも知れぬ。自分はそれが後世完成した書物と誤られる事を懸念して、最初から離れ／”＼のカードに筆寫して置くのである。その中からよく熟した物を少しばかり本にして出すのだから、これ迄の學者のやうに手前勝手な迷惑は掛けないつもりである。

　斯うして考へて見ると、どうしても書物が多過ぎると思ふ。昔の學者も、梨棗に災ひすなどと云つて居るが、實は今日の印刷機械の災の方がそれに數百千倍して居る。しかも東洋の諸國に於ては、文字を尊敬する古い迷信が今猶殘存して居て、如何なる囈語でも活字になると蹴飛ばされない。これは一つ、焚書調査會でも作つて貰はなければならない。

　更に今一つ日本の爲に損なことは書物の標題である。西洋の本には昔へ行く程正確に又詳しく、書物の内容を表はす標題が扉に印してあるに反して、日本では半分以上も讀んで見なければ何が書いてあるか分らぬ標題が多いのに、不得要領にして且つ氣の利いた書名を掲げて、内容の愚劣を蔽はんとしてゐるのが多い。

(370)　國書解題といふ書物は誤謬もあるかも知れないが、この點では世間に利益を與へて居る。

　

　　　　　　　人生は短くして書物甚だ多し

　

　だが望むらくは、この上内容に立入つて、書物の異同重複を注意し、且つ目的別の細かな索引を作つて、少しでも後世の讀書家の勞力を節約させたいと思ふ。元來知識の分類には、時代の水平面より一歩進んだ頭腦が入用である。莫大な經費と歳月とを掛けた、大部の古事頬苑が存外學問をする人に役立たぬのも、この弱點からである。廣文庫に至つては、尋常無識の富家翁をして張瞻瞠目せしむるに足るのみである。書籍の索引は更に必要と思ふが、これを今日の篤學者の勞力に期待するのは餘りに殘酷である。彼等も亦此世に生れた甲斐には、何か一つ仕事をせねばならぬ。索引の如き樂しみの無い事業は、公費を以て俸給を拂つた人にやらせるより外無からうと思ふ。自分の差當り最も必要を感じて居る索引は、讀むのに一番骨の折れる中古以來の日記記録の部類別である。群書索引の如きは至つて散漫なもので、殆と何人をして利用せしめようとしたものか見當が付かぬ。

　吾々は如何にも不幸な時代に生れた。朝鮮からは何人も讀まなかつた寫本類が追々出て來る。支那の書物も、新らしい寫本類でこれから讀直されねばならぬ。西洋の書物はあの通りで、心當りの目録を見て居るだけでも若い者の根氣が要る。一方社會からは學問の有用だの無用だのといふ、無慈悲な議論が起つて來る。そこへ持つて來て、形や色彩で人の心を迷はすやうな新らしい書物が、買つて見なければ分るものか、といふやうな小面の憎い顔つきをして店先に列んで居る、其分量がまた莫大である。

　昔のやうな單純な心持で書物に對ふのは、殆と生命を縮める手段である。縮められなくても人の生涯は短い。警戒して進まなければならぬと思ふ。近頃二三の學者の説に依れば、今日の製紙法はまだ幼稚で、圖書館内の大部分の書籍は五六十年の後には鼠色の泥になつて了ふと云ふ事である。散々苦い經驗を甞めた吾々の耳には、これは寧ろ好音(371)

である。これを悲しむのは紙魚ばかりであらう。

　

(372)　　　　　文庫本について

　

　岩波文庫をはじめ、今日弘く行はれて居る數々の「文庫もの」に對して、我々古い人間の包みきれない不滿は、あまりにも外國の著作が多過ぎるといふ一點である。西洋は國の境がもとはさうはつきりとして居らず、學者も書物もよく旅行をして居て、最初から國際共有のものが多かつたが、それでさへ文庫の目録には國々各自の片よりがある。タウフニッツのやうな特殊の目的をもつて、原文のまゝ出して居るものは別として、私たちの見て居るものはレクラムでもゲッシェンでもペイヨオでもキャッセルでも、又は此頃の幾つかの英米の叢書類でも、日本のやうに外國ものばかりを六割七割までも出して居るものは一つも無いやうだ。出て來る飜譯を抑へるやうに、もつと少しく出すやうにと、言ふのなら無理かも知れぬが、是ほど外國物を出すことが出來る位ならば、責めては其同量くらゐは日本の本を、竝べて出すことにしてはどうかと、思はずには居られないのである。この現象は誰にでも一目に見えることで、しかも此比例數から、後世子孫又は外國の識者が、我々の時代を批判するであらうことは、文化事業の片端にでも携はつて居る者には、相應に心苦しいことである。

　是に對する辯疏も、決して耳を傾けるに足らぬものでは無い。第一に出したくても適當なものが無いのだから致し方が無い。第二に讀者が此方を求め、現に盛んに賣れるのだから出す。この二つの理由は共に今日に於ては十分成立する。自分もそれを尤もだと思へばこそ、改めて深く考へて見ようとするので、もしさういふ事情も無いのに、斯んなことをする者があつたら、そいつはもう話にならないのである。世の中の傾向といふものには、事情を聽いて尤も(373)でないものなどは一つでも有りはしない。それを一々諒として異議を挾まずに居たら、先づ新らしい社會は生れる望みが無からうではないか。

　

　　　　　　　　　　○

　

　本が日本に有り餘るほど出て居ることは、種々なる方面から立證し得られるが、斯く申す自分なども、最初には欲しいものゝ集めきれぬことを歎き、中頃は選擇の標準の示されぬを憾みとし、今は又讀まねばならぬものゝ讀み盡されぬことを悲しんで居る。つまりは一生涯、書物の豐富に苦しめられ通したのである。斯ういふ中に於て、國内には適當なるものが得られないといふことは、そも／＼何を意味するであらうか。それを先づ靜かに考へて見る必要があるやうである。我々が現代と呼んで居る期間の新著作は、誰が見ても決して數が足りないのではない。寧ろ多過ぎるが爲に選擇に均衡を期し難く、個々の發行者としては縁故ある著者に偏するの嫌ひあり、殊に店で散々賣り涸らしたものを、廢物利用するかの如く評せられるのも口惜しいので、出來るだけそれを避けようとするのも致し方が無い。問題はそれよりも以前の、古人の著作をどうしようかである。乏しい／＼と私たちが騷ぐのも其部分である。

　文庫は名の示す如く、本來は許す限りの數量を藏して置いて、隨時に何度でも取出して讀めるやうにすべきものと自分などは解して居る。今は何時でも買へる故に、言はゞ書店に預けてあるやうなものである。是に現代の新著が入り難いのは當然であらう。著作權の期間とは關係無く、又一日も早く廉價版の出るのを待つて居る者が多からうとも、書物が「文庫」に編入してよいものかどうかを決するには、どうしても若干の年月を要する。寧ろ早急にそれを取上げることが、やがて再び抹殺する結果をさへ生じたのである。しかもその前代の文獻が、日本は又決して少ない國では無かつた。帝國圖書館などはもう三四十年も前に、兩手でも持てない程の目録を發行して居た。この中からでさへも僅か是つぱかりしか文庫に採るものが無く、出しても求める人があるかどうかの見込が立たぬといふことは、果し(374)て説明無しに何人にも理解し得ることであらうか。さうして又その實際の理由を、今でもわかるやうに説明し得る人が有るだらうか。それが私などには甚だしく氣になるのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　本を讀むといふことは、大抵の場合には冒險である。それだから又冒險の魅力がある。教科書や法令の如く一讀を強ひらるゝものは僅かであると共に、廣告宣傳文以外に其内容の有益を、始から保證してくれる者は無く、實際又各人の今の境涯に、ちやうど適合するか否かは自分でしかきめられず、讀んで見なければ結局はそれも確かでない。此頃は人氣が本を讀ませ、澤山賣れるといふことが一つの指導標になつて居るらしいが、是とても我々をそれに近よらせるだけで、　　愈々讀まうか讀むまいかはやはりめい／＼が判斷する。其方法が少し無造作に過ぎることは事實である。しかし兎も角も一應は手に取つて形をながめ、それから標題を讀む。もしくは此順序を逆にする人もある。さうしてロシヤ語とかサンスクリットとか、よく／＼自分に縁の無い文字で書いてない限り、大よそどんな事が出て居るのかの見當を付ける爲に、二三枚をめくつて見る位は誰でもする。きれいな繪があつたり艶めかしい會話が目につくと、思はず釣り込まれてもつと讀んで見たくなるのとちやうど正反對に、一方にはたゞ何と無く面倒くささうで、一向に好奇心が動かず、所謂敬して遠ざけたくなるコンヂションといふものも幾つかある。私たちは戯れに一方を枝折戸、この方を垣根と呼んで居るが、古書には我邦では殊にこの垣根が高いのである。是と書物の價値とは固より關係が無い。現に十本ばかりは其中から聳え立つて、通路に枝を垂れ、又は遙々と梢の色をめでられて居る名木もあるのだが、その下草の姿とり／”＼なるものは、もう覗いて見ることさへ六つかしくなつた。さしもに咲き榮えたいにしへの文の苑も、まはりの垣根が枳殻では話にならない。古い國だと自慢はして居るものゝ、古人を友とする方法は斷ち切られようとして居る。しかも其原因は本そのもの、もしくは之を世に殘さうとする人の用意の差に在るので、たとへば文(375)庫がどのやうに誠實であらうとも、其努力だけでは乘り越えることが望まれない。我々讀者も共々に深く考へて見なければならぬ問題である。

　

　　　　　　　　　　○

　

　僅か半世紀の前と今とを比べて見ても、書物の外形がびつくりする程も變つて居る。最初に氣がつくのはその標題で、近頃は追々と中味が想像し得られるやうな名を付けるに反して、もとはたゞそれを見たゞけでは何が書いてあるのか判らなかつた。從つて讀まぬうちから本の名を、聽いて覺えて置く必要があり、學徒はやたらに本の名ばかりを、口にしたがる人間のやうに惡評もせられたのである。是とはちやうど裏表に、昔の本は外形装幀などから、大よそ性質を想像させてくれた。同じく「問はず語り」とか「よしなし草」とか何齋漫録とか何々隨筆とか題してあらうとも、本が大ぶりで表紙がくすんで居れば儒者などの著作で、やゝ固くるしい事が書いてあり、薄手の表紙の畫でも書いたやうな小本なら風雅人の見るもの、その他八文字屋本の横形から、赤本黄表紙蒟蒻本に至るまで、少しく好きになれば遠方からでも狙ひが付けられた。私たちがいかい御世話になつた美濃版の丹表紙、それから明治初年の大型の黄色な紙表紙など、何れもそれ／”＼の意匠で人の聯想を養はうとして居た。此方面では日本の出版工藝も中々進んで居た。其約束は近年までまだ殘つて居て、私などは地方の都市の書店を覗いて、書棚の色彩からほゞ其土地の文運を察知したものであつた。ところが所謂馬糞紙の箱に入れる風が始まつて、菊版四六等々の大きさ以外に、外から本の性質を見當づける途が先づ無くなり、次で文庫が始まつてどれも是も川原の小石の如く、手に取つて細字の標題を讀まなければならぬやうになつた。さうして其序を以てほんの二三頁だけはぐつて讀むので、本屋の店先は非常に植木店や半襟小切れ類を賣る店先と近い光景を呈するやうになり、口繪が重んぜられ、著者は又標題のつけ方に大きな苦心を拂ふやうになつた。必ずしも西洋の眞似では無いが、立見で見當のつくものだけが多く買はれ、書名を記憶する代りに(376)著者の名ばかりがよく通用して、人氣は一段と怖ろしいものになつたのである。心の養ひになるかならぬかゞ、そんな事をして確かめられるものでないと思ふが、其議論は今はしない方がよい。とにかくに是ほど數多い日本の古書が、僅か三十種か四十種以外へ誰にも省みられなくなつた原因は特色の没却、即ち文庫それ自身の外形の單調化に、在つたといふことまでは考へて見る必要がある。

　

　　　　　　　　　　○

　

　それから今一つ、古人が大きな損をして居る點は、文體の急激な變化といふことにも在る。是は或は普通教育の革命と謂つてもよいかと思ふが、以前の讀書人の素養は漢學に據つて居た。小さな頃から色々の字の用ゐ方に馴れて居る。從つて同じ書き下し文を書くにしても、つい六つかしい文字も使へば、送りがなも概して儉約する。何の氣なしに故事や熟語を引用する。それを學校でほんの少ししか漢文を教へられなかつた人に、讀んでもらはうとするのだから若干の故障にはなる。言葉は實際には百年前と今と、さう大きな變化はして居ない。從うて耳で讀むのを聽いて居れば大抵はわかるものでも、書き方が古風な爲に親しみを持てないことは、ちやうど行書草書がまじると寫本はもとより、親や祖父母の手紙までが讀めなくなるのと同じである。所謂口語體が奨勵せられ出してから、この障壁は一段と高くなつた。殊に書名によつて内容を察し、又はたゞ數頁をばら／＼と拾ひ讀みして、面白からうかどうかを決定する風が盛んになつては、古書は年月と共に　　益々不人望になつて行くことも已むを得ない。書物が唯一の今と過去との交通方法であることを知る人が、是を何とかしなければならぬと考へてくれるのを待つばかりである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　今までに知られて居る仲介手段としては、註を附け講釋をして聽かすといふことより他には無かつた。註釋は決し(377)て素通しの硝子のやうなもので無いことは、甲乙幾つもの註が互ひにちがつて居るのを見てもよく判り、それに又其力の及ぶ範圍が限られて居る。古書の我々に役立つものゝ數を少なくした原因は、寧ろ註釋に在ると謂つてもよい位で、何か世俗的の理由がある本ばかりに、やたらにそれをする故に他の部面が御留守になり、しかも仕事に勿體を付けようとして譽め立てゝばかり居るから、讀者は却つて自由なる取捨判別を妨げる上に、更に一つの弊は註の無いものに出て行くことを臆病にする。註に導かれて本を讀む癖を棄てないと、獨自の發見を期することは出來ぬのである。文庫の目的は少なくとも豐富なる讀みものを提供して、任意に其中からめい／＼の好みと入用に合するものを、見つけ又は擇び出させるに在るのだから、片端から註釋を附けて置くわけにも行くまいし、假に其樣な手數な事をして置いても、自分が讀み得たやうな氣はせぬであらう。

　

　　　　　　　　　　○

　

　崩した文字で書いた昔の寫本を、楷書の活字になほして印刷すると同じく、古文の書きなほしといふことも或程度までは必要かと思ふ。たとへば送りがなの數を加へ、振りがなが見苦しいとならば、そこだけはかな文字に改め、又は返り點の付くやうな文字はまつすぐに書くとかいふ類の、ほんの僅かな工作を施せば、一見した所非常に親しみやすく、且つ讀んで見てもずつと樂になる。西洋でも古い綴り字法だけは皆改めて居る。それも元の姿のまゝのを見たいといふ人には、別に保存の方法があつて、多數の讀書人は皆この讀みよい方の本を供せられて居るのである。日本のやうな綴り方の色々な國で、文庫が其整理の任に當らぬのは誤りである。それだから古書の大多數が、いはゆる高閣に束ねられてしまふのである。日本外史を書き下し文に改め、漢籍を和字文にするといふことは岩波でも始めて居る。是などは譯でも註釋でもない。漢文の讀み方には久しく定まつた樣式があつて、今ならばまだ人が忘れきつては居ないのだから、是も現代語の一部と見てよいのである。

　

(378)　　　　　　　　　　○

　

　それからもう一つ、我々が古書を疎遠にする理由は、統一の缺けたものが多いこと、何が目的で此本を世に殘したのかを、はつきりと把へられないものが多いことである。是は古今の著者氣質の大きな差で、現代はかなり問題にする讀者といふものゝ想定を、昔の人たちはごく漠然としかして居ない。中には自分の備忘録に過ぎぬと謂つたり、人に見せる積りは無いなどゝ、信じられないやうな事を謂つた人さへあつた。次には一般に著述の期間が、今の人よりは長すぎた。三十年も四十年もぽつ／＼と書きため、或は後になつて改定し、しかも其中途で既に寫し傳へられて居るものも多い。分量では�ｺ富蘇峯の國民史、中里介山の大菩薩峠の如きものはまだ無かつたが、何しろ久しい歳月を掛けて居るから態度もかはつて居る。書いてあることも色々になつて居る。辛抱をして私たちは始から終まで見通すことにはして居るが、全部すべて棄てられぬといふものは實は少なく、しかも飛び／＼には皆珍らしく又感が深いのである。話を集めた古事談とか著聞集とか沙石集とかいふ類ですら、片端から誰にでも讀ませてよいといふものばかりでない。まして近代人の隨筆日記などの、一生に一種二種しか殘さぬといふ大著などは、單に大きすぎる爲に版にもならず、いつまでも寫本で傳はつてやがて亡ぶものが幾らあるか知れない。其中には又他では求められぬ大切な知識が、偶然ならず保存せられてあることを見るのである。古書を粗末にし又は少しも利用せぬといふ惡い傾向が、斯ういふ事情に基づいて居るとすれば、それを救濟し得るものも「文庫」の外には無い。それ故に自分などは、單なる完形保存の事業の他に、別に古書を現代人と繋ぎ付ける略本といふものゝ流布を希望し、それを却つて文庫の主要なる任務だとも思つて居る。勿論略本は一方に廣本の確保と、十分に特色を發揮し得るだけの、責任ある抄録を條件とする。さうして又是によつて良書を知り、新たに未知の分野を拓くもので無ければならない。本の名前ばかり際限も無く教へられて、中味はちつとも讀んで居ないといふ人ばかり多い世の中に、折角歡迎せられた「文庫」といふもの(379})が、今の姿ではまだ本當に働いて居るとは言はれぬであらう。

　

(380)　　　　　古典の發掘

　

　古典が單なる古代の典籍、たとへば雜然たる今日の雜著が、たゞ腐朽を免れて三百年、乃至五七百年を持ちこたへて居たら、それだけでもう古典になれると、いふ樣なもので無いことはわかつて居る。そんなら何人が是を決するのかといふと問題であり、又幾らでも議論が戰はされてよい問題でもあると思ふが、結局は世俗、即ち多數の人が寄つてたかつて有名にしたものが、日本ではこの重々しい地位を取得することになるのであらう。もとより此言葉を用ゐ始めた心持ちも區々であり、中には覆刻業者の拾ひ出したものが皆古典であつたり、さうかと思ふと他の一方には、記紀と萬葉の他にはもう古典は無いかの如く信じ切つて居た人も可なりあつたが、是からは多分雙方より歩み寄つて、少なくとも名を知り、一度は讀んで見ないと氣になるやうな古書の範圍が、追々にきまつて行くのであらう。無やみに擴げて見たところで讀めもせず、覺えもせず、たゞ精力の浪費に歸するが、さりとて折角いろ／＼の好い仕事が傳はつて居るのに、變に片隅にかたまつて、満足してしまふのもそれもつまらない。大抵は自然に程よい所に落付くものとは思ふが、やはり自由な新らしい感覺をもつた人たちが、「古典發掘」見たやうな瀬踏みをしてくれることが、世の中の爲にはうれしい一つの力なのである。

　言ふまでも無いことだが、我々は古典の制約なんか少しも受けては居ない。稀には舌打ちして中途で罷めるやうな損はあつても、それは覺悟の上で讀みたいものは何でも讀む。たゞ世間にはその樣な氣樂な人ばかりは居らぬ爲に、獨りで勝手次第な判斷をされてもなられず、又その言葉に耳を傾けて聽く人があつても困るのである。今度の新著な(381)どは、發掘といふのも可笑しいほど、誰でも知つて居る有りふれた古典の陳列だが、その發掘の手法の斬新さにかけては、登呂の遺跡に優るとも劣りはしない。何よりも前に私の想像に泛ぶのは、もしも是等の文藝のそれ／”＼の作者が、出て來て斯ういふ批評解説を聽いて居るものとしたら、さぞかし奇妙な顔をしたらうといふことである。よその國々の文學變遷は全く知らないが、日本では文人は少なくとも人の爲に、又は世の中の爲に物を書いて居た。讀者多數の言はうとして言ひ得ないことを、代つて表現しようとした努力は有つたかも知れぬが、作者個人の心の中の動き、獨自の見解とか態度とかいふものを、掲げ示さなければ文藝で無いといふやうなことを、誰からも言はれなかつたのみならず、第一にいはゆる思想を持つといふことを、義務づけられて居たやうな樣子も無い。それといふのが文學は一つの技藝であり、詞華といふのはたゞ國語を有效に、最も美しく又感深く使ひこなすことであつて、それより以上のさう澤山のものを、彼等からは要求しなかつたからだと思ふ。それが不當であつたり不利益であつたりすることは、どこまでも論じてよろしいが、それは是からの話、其爲に急に中世以前のすべての文學が、古典になることは先づ無からうと思つて居る。

　しかし斯ういふものを通してゞも、もう少し我々は過ぎし世を知らなければならぬ。わざと傳へようとはしないまでも、無意識に内に在るものを表白して居ないとは限らぬ。それを粗末にしてはならぬといふことは確かに言へる。しかし其爲にはたつた一つの作品をあんまり見つめ過ぎるのは考へものだと思ふ。時代は比較によらないとほんたうはよく判らず、古くなるほどその比較が六つかしい。久米邦武さんといふ人は五十年前の新人で、毎度上代史を説くのに、出雲族の外交策とか、大和政府の財政方針とかいふ文字を使つて我々をびつくりさせたが、何と言つたところで神代は神代である。然らば是からさう心得ませうといふ者も無く、依然として世間では記紀を神書と視ることにして居たのである。古典を我々の學問に利用することゝ、單なる鑑賞とは二つ別々の仕事なのではあるまいか。さうして今囘の發掘者たちには、どうやら久米流にこの分堺を看過して、世俗に對する折角の親切を、割引して居る人が有(382)るやうである。怒るといけないから小さな聲でいふが、どうかなと思ふ點が私には二つある。近世以前の文學には受賣と燒直し、又はだまつて飜譯して居るものが幾らもあり、詞華の技藝としては、うまければそれも賞讃せられて居た。それを私小説同然の創作と心得て、むきになつて批判したらをかしいことになるだらう。第二には兵亂水火の長い歳月を重ねて、殘つて居るものにも運不運がある。時が古かつたり或少數の人が譽めたりした爲に、無やみに有名になつて感心せずには居られぬといふものも、實は相應にまじつて居る。今更削除運動も始められぬとすれば、古典は元來さういふものだと、考へてかゝる必要があつたのではないか。漱石先生が死後三十年、まだ商標にしてゞも遺兒を富ましめる力をもつといふことは、考へて見れば文運の貧しさであり、同時に又人氣の片よりやすい國柄を示して居る。之を突き破らぬと本ものゝ自由は得にくい。古典はたま／＼國民の文學能力の、頃合ひの練習場でもあつたと思ふ。だから新らしい發掘者たちも、たゞ自分の我意を通さうといふだけで無しに、少しは後に來る大いなる世俗の爲に、共々に物を考へて見ようといふ氣持ちになつてほしかつた。日本の書物は幾百萬、多數の凡書惡書がかさぶたの樣になつて、我々の感覺を斷ち切つて居ることも事實だが、中には文體や字體の爲、又は漢文の力の急激な衰微の爲に、ちよつとは近づけないものがどの位有るか知れない。今と昔との縁の薄いことは、恐らくは他國には例が無からう。古典といふやうな言葉には囚はれない若い學者が、せめては西洋の古典に對する十分の一の熱心をもつてくれたら、まだまだどれほどのものが見付かつて來るかわからぬのである。それ故にこの發掘といふ言葉に對しては、自分はどこ迄も深い興味を寄せて居る。

　

(383)　　　さゝやかなる昔

　

(385)　　　　　さゝやかなる昔

　

　　　　　　　　　　一

　

　　　海にゐてみ山戀しといふ人につげばや津具の旅寢がたりを

　

　明治三十九年の正月、興津の濱に寂しい春を迎へて、斯ういふ歌を私は詠んだ。それを繪葉書に書いて山崎家へ出したのだが、どうなつてしまつたらうか。或はとし子さんが黙つて持つて行つたのではあるまいか。何れにしても消えて空しくなつてしまひさうな昔だ。今度はよい折を得たから、その忘れ殘りを一つ取り出させていたゞかう。

　私はこの前の年の秋の終り、まだあの時代の天長節の日に、愛知縣農會の爲に長い講演をした。そのあと二人の若い案内者に導かれて、一週間ほど三河國をあるくことになつた。最初安城で汽車に分れて、明治用水を見て擧母に泊り、次の日は枝垂から足助、次の日は伊勢神峠を越えて稻橋の古橋家を訪ね、代々の主人の考へ深い仕事の痕を見せてもらつた。それから又次の日には、爰で眞黒な小さな馬を借りて、段戸山の種馬場を見學した。山の上では風が吹き空が曇り、霰が降つて來て丸帽子の縁にたまつたことを覺えて居る。どういふ路を通つたか知らぬが、もう馬を返して下りにかゝつてから雨に遭つた。東納庫の原田氏で雨を避けて居るうちに、段々と日の暮に近くなる。強ひて提灯を貸してもらつて、又一つの小さな峠を越えると、雲が切れて入方の日の影に、碁磐石山の枯れた尾花が白々と光(386)つて居て寒かつた。路が折れ曲ると上津具の一谷が見える。あれが山崎さんですといふ家が、長い二階造りの病棟であつて、此頃主人はまだ出征から還られない爲に、がらんとして居て人氣が無い。たつた一つの燈火がその廊下を通つて行くのが、遠くから見えて物寂しかつた。

　とし子さんの病を見まふのが、私のこゝへ來た用向だつたのである。東京の矢田部のお婆さんのところへ、日曜日にはよく訪ねて來たのだが、私が顔を見たのは二度か三度だつた。花を色々栽ゑた縁先に腰を掛けて、小さな孫たちと遊んで居るのを見ると、とし子さんは小柄な丸い顔で、おさげなんかにして居るものだから、子供のやうにしか私には思へなかつた。何かの拍子に頭を撫でたところが、ふいと私を見た眼がたしかに物を言つた。あゝ惡いことをした。もう女子大學に入つて居るのにと氣がついて、今度來られたら大人の話をして、うめ合せをしようと思つて居るうちに、少し加減が惡いといふことで、それつきり歸つてしまつたのである。もう夜分であつたけれども、遙々と私が來たのを悦んで、この日は起き出してランプの陰に坐つて話をした。のぼせるといつて顔が紅く、丸々として居て少しも病人のやうで無い。毎日々々どこかの海岸へ、行つて見たいと言ひ暮して居ますといふ話であつた。行けばいいのに、わけは無いことだのにと、それから私は方々の海邊の、宿屋や松原や貝を拾つた話などをしたのだが、とにかく暖かくなりお父さんでも還つて來られなければといふことになつて、九時が鳴つたからとさつさと寢てしまつた。それが私とのもうお別れだつたのである。

　次の朝は寒いので、まだ起きて來ないうちに立つてしまつた。爰でも馬を出してもらつて、鴨山の郡の植林地、山崎翁の特に熱心に計畫せられた山を見に行つて、色々珍らしい見聞をしたのであつたが、其手帖は既に紛失し、たゞ路々耳にした幾つかの雜語が、切れ／＼に殘つて居るだけである。どういふ路筋を通つたかも、一續きには覺えて居ない。たゞ田口を後にして海老の町に近づく頃に、馬の上で頻りにあの若い病人のことを、考へて居たことだけははつきりと記憶に在る。後を振り返つて見る度に、左右の山々が衿をかき合せるやうに、段々と重なつて行き、おまけ(387)に雲が來て其まん中を包むので、突き伏したいと思ふほど、悲しかつたことをよく覺えて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私は後日轆轤師の問題などを注意するやうになつて、しば／＼津具の山村を心に浮べ、之に伴なつて山崎一家の人々の事を、考へ出す折は多かつたのであるが、主翁と相逢うて語りかはしたのは、前後を通じてたゞの二度しかない。或は二度半といふのが精確なのかも知れぬと思ふほどに、始めて訪ねて行つた日には留守の人たちの話が多く、又その印象が深かつたのである。何といふ名であつたか忘れてすまないが馬の世話をして同行してくれた村のその頃の青年などは、一日中他の話の種が無いからでもあつたらうが先生の逸話ばかりを聽かせて居た。是を綜合して行つて私の胸に、自然に結ばれた肖像畫は、宛然として一箇の萬葉人であつた。きつい、思ひ切つたことをよくする人だが、同時に正しい人で、殊に小さな貧しい者の味方であつた。こはいけれどもなつかしいといふやうな印象を、間接に受けて私は選つて來た。

　日露戰役が全くすんで、東京で始めてお目にかゝつた時に、さういふ豫備知識を以て私が迎へたことを恐らくは先生は知られなかつたらう。山間に久しく住んで、都市に若干の不滿をもつた山崎氏の眼には、先づ概念の少壯官僚が映じたことであらう。實際又私は少しばかりの新知識を鼻に掛けた、片々たる一才子にしか過ぎなかつたのである。だから其眼は相應に鋭く、議論も決して柔かなことは無かつた。これは行かんと思つて再會を約して別れたのであつたが、その再會が測らずも二十何年の後兩人は既に年を取り數々の人に死に別れ、目まぐるしい世變を經歴して、英氣もほゞ衰へ盡さうとする頃までおくれたのだから、考へて見ると人生は寂しい。年は忘れたが治部阪の蓮筆躑躅も、もうすつかり散りすぎた季節であつた。私は渡合根羽を通つて、今度は信州の方から、先生に逢ひに又とし子さんの墓を拜みに、前ぶれ無しに上津具の村に入り、岡の南麓の閑居の戸を敲いた。夏目一平君や後藤兵衛君が、もう色々(388)と紹介をしてくれた後なので、親しく話をするのに序幕は無用であつた。たゞ以前は太りじしの、逞ましい容貌だと思つて居たのに、今は面長でいかり肩で、眼の光だけの依然として強いのが、どこやら亡くなつた自分の長兄と、似て居られるやうに思はれてならなかつた。山ほど話をして聽かせたいことがあると言はれたが、それを承はらぬうちに夜が更けてしまつた。聽かずともよくわかつたのは世の中の移り變り、是から日本はどうなつて行くだらうかといふこと、今のまんまで過ぎてもよからうかといふこと等、大よそ昭和十六年になると囘顧せずには居られない事ばかりだつたと思ふが、もう御互ひにそれをどうすることも出來ぬほどに、時の波濤の兩岸を打つ響が高かつたのである。私たちは歎思して永く訣れた。さうして今は黙々として讓一君等兄弟姉妹が、故人を哀慕する聲を聽いて居るのである。

　曾てこの山合ひの平和なる空氣を震動させた、木地屋騷動の記録といふのを讀んで見たときにも、私はつく／”＼と考へて見たことであつた。津具は寔に壺中の小天地ではあるが、時を目安に取つて見れば、やはり無邊大のものに續いて居る。行く手にも測り知られぬ變遷が有るやうに、過ぎこしかたにもくさ／”＼の人生錯綜があつたことは、單に地形や地名の上からでも想像し得られる。たま／＼その或一點に立つて、感激し又は悲愁した者の痕跡が、埋もれ隱れてしまふだけである。この埋没は春の花秋の鳥、自然の靜かなるくり返しに遮られて、こゝでは一段と深くならざるを得ないであらう。山崎氏一門の人たちが其間に在つて、些しでもこのすぐれた家長の言葉を、元のまゝで取留めて置かうとせられることは、私などから見れば遠く茫洋たる大洋の上に、白帆の走り行くのを望むやうな感じである。それを羨ましくもなつかしくも思ふ餘りに、序でに私のこのさゝやかなる思ひ出を、ことづけたいと思ふばかりである。

　　　　　　　　　　　　　　昭和十六年二月十日

　

(389)　　　　　萩坪翁追懷

　

　何れの時代にもクラシックに對する憧憬はある。空中飛行船を象徴とせねばならぬ樣な今日の思想界にも、歴史の細い絲につながれて、奴凧の樣に中位の處にぶら／＼する私の樣な者も居る。然し感情の向き方とか、趣味の種類とかの違ふが爲に、我々の煩悶は借り物であるやうに云ふ人がありはしまいが、もしあつたら無理である。私は生の父が神道家であつた。其上更に松浦先生から十七年間の感化を受けた。此先生はまさしく「昔」を人にした樣な、�ｺ川時代足利時代を超脱して、もつと古い處に腰をかけたやうな心行きの人であつた。君は見た事があるまいが色紙や短册に雲形《くもがた》と云つて、上の方から紫の雲が垂れ下つて居る模樣がある。松浦先生といふ人は、此雲の樣に昔から垂れ下つて居られた樣に感じられる。短い方の雲の脚が賀茂眞淵や冷泉爲恭などであるならば、最も低く明治時代まで下つて居る昔が先生である。

　私は初め歌を修業する爲に先生の門に入つたのであつたが、歌より外に露骨に云へば人生の親方と云ふやうなものをも教へられた。先生の訓に依つて日本の歌に限つて「人の心の眞より」と云ふ樣な特殊の條件のあるのを奇異とは感じなくなつた、先生の説では歌は紙に書いて人に見せての面白味よりも、所謂口吟むと云ふ興味を尚ぶべきものだと云ふことであつた。新しい言葉で説明するならば、理解の努力なしに自分の感情を傳へるのを專にすべきものだと云ふ趣旨であつた。昔の歌は所謂花晨月夕に即興を歌ひあげて座中の人と共に樂しむものであつたと云つて、よく「櫻散る木の下風は寒からで」と云ふ歌などを朗吟せられた聲が今でも耳に殘つて居る。此説は所謂桂園派のドクト(390)リンで、決して先生に始つたのではなく、景樹翁なども「歌は佛神の前に申上ぐる樣にあるべし」などゝ?々門人の詠草の奧にも書かれて居る。然かも此翁は所謂才筆爛發の人で、折々は技術の美しさに絆されては、自分の約束から逸出せられた趣があつたけれども、松浦先生は口で此説を説かるゝよりも數倍之を明白に其歌の上に示された。實際先生の家集を見ても、歌が至つてじみで、平生生活の有樣も違へば讀む所の書物も違つて居る人々には、或は一讀して深い感じを與ふる事は出來なかつたかも知れぬが、吾々少數の親しき者共は深く身に浸みてきいて居つたのである。思ふに諷詠の道は恐らくは久しからずして絶える事であらう、さうなると三十一綴ばかりの短い文句の中に、複雜なる近世人の生活を現はさうとする事の無益の努力である事を、自ら嘲る日本人も追々は現はれて來る事であらう。而して何れの世にか無用の穿鑿を事とする專門家なる者が、半ばは當れる半ばは當らざる古代思想を抽出してこれがクラシックだと自分ばかり嬉しがる事であらう。成程千年の空間を隔てゝも祖先の趣味は感得出來ぬ事はなからうが、昔の人の感情を傳ふるものは矢張り人の感じでなければならぬ、全體應仁亂後に既に絶えて了ふべきであつた日本島の古意が、幽かながらも今日まで保存せられたのは一種の奇蹟である。明治の活動時代を經て漸く湮滅するのも寧ろ自然の氣運かも知れぬ。然し心細い事である。

　松浦先生の尚古趣味は必ずしも先生が西京人であつた爲ではないらしい、西京人としては松浦家は比較的新しい家であるから、趣味の遺傳と云ふ樣な事は見出す事は出來ぬ。それよりもあの舊都の地形と復古時代の氣風との小さな結晶と見た方が却つて正しいであらう。先生が脊の高い痩せた身體に紐のゆるい袴をひきずらせて立つて歩かれるのを見ると、自分のみであつたかも知れぬが、壬生忠見とか曾禰好忠とか藤原長能とか云ふ昔の不遇歌人を聯想せずには居られなかつた。實際先生は新時代の氣風に對して、昔の歌人に似つかはしい樣な悠々たる不平を持つて居られたのである。先生は餘り上手な方ではなかつたが、篳篥を吹かれた、又琵琶も時々弄ばれたのを見た。「蟲ならばわがふく笛はくつわむしあなかしましときこしめすらし」。

(391)　先生は至孝の人であつた。九十幾歳の老嬬人を喪はれた昨年の三月から、其哀悼の爲にひどく身體を損ぜられた。此母堂と若くして失はれた父君との爲に幾度か經文を手寫せられた事がある。先生は正しき世尊寺流の血脈を傳へて居られたが、此書道の方も先生に至つて終に絶えて了つた。

　時として幽冥を談ぜられた事がある、然し意味の深い簡單な言葉であつたから私には遂に了解し得られなかつた。「かくり世」は私と貴方との間にも充滿して居る、獨りで居ても卑しい事は出來ぬなどゝ折々云はれた。先生の葬式は遺言によつて佛家に托したけれども、其同じ遺言の中に瞑目したら直に使を遣つて知らせよと云ふ處が一ヶ所あつた。私には此意味がよく解らず、且つ神秘を暴露するの恐れがあるから、あらはには云はぬがそれはある神道の耆宿の家であつた。

　亡くなられる半月ばかり前の事であつた。夕方訪ねて見ると枕許に長さ二尺にも餘る元結の樣な細い支那の線香を立てゝ獨りで聽いて居られた。其時の話に京の貴族の家々には各一つの秘傳の香があつた。香は本來衣を薫ずるの用に供したもので、其故に目的もなく香爐に焚くのを空燻と云ふのである、家々の主人が其香を衣にしめて參内をすると、遠くから人の形も見えぬ中に某殿が參られたと云ふのが解るのである、優美な事であつたなどゝ語られた。先生は萩の花が好きで家の號ともせられたが、此萩坪には秋の草を一面に植ゑて、其傍に一本の松があり、其松の枝に葛の花が咲いて居ると云ふ風で、庭と云ふよりもむしろ前栽と云ふべきもので、趣のある家であつた。其家をば當主が器量のある人なので立派に改築せられたが、新しい家の前栽が未だ充分に趣を成さぬ間に先生は亡くなられたのである。葬式の前夜二三人で通夜をして居ると、折々雨が降つて四目垣の下のあたりの叢に頻りに蟋蟀が鳴いた。田山君と私とは蟲の音が悲しいと云ふ歌をよんで互に見せあつて、二人で王朝時代の涙を零した。實際あの田山君とは先生の家で友達になつたのである。今は非常に恐ろしい事を考へて居られる樣であるけれど、萩坪の門人としては、私は只毛だらけの手を行儀よく膝の上にのせて居た田山君を知るばかりである。

(392)　昨年の八月丹波へ遊びに行つて先生と共に保津川の舟に乘つた事がある。其翌日は鴨川を渡り、吉田山の中腹にある南君と云ふ友人の家の二階から畿内の平原を遠望した。八幡山崎の丘陵を越えて茅渟の海の水の色の見える家であつたが、其日は少しく霞がかゝつて居た。京都の町も大に變化して、東には夜はイルミネーションをつける世阿彌ホテル、お菓子の樣な大極殿の模型に連なつて煙突がすく／＼と立つて居る。先生は何だかひどく疲れて片手を疊について此景色を見て居られた。私はひそかに時代の流れの音を聞く樣な心持がして、一種云ふべからざる寂寞を感じたが、これも一つの占方であつたらしい。其夕方五條の宗仙寺で亦先生に會つたが、母君の遺骨を此寺に納めて明日は東京へ歸られると云ふ處であつた。こんな歌を詠みましたと云つて口吟せられたのは、「墓守がたくや樒の夕煙、軒にかをりて秋風ぞ吹く」その翌日は汽車の中で又こんな歌をもきいた。「歸りてもかくと語らん親はなし、心淋しき旅にもあるかな」老嬬人の墓は品川の東海寺、開祖廟の後にある。汽車で此下を通る度に、先生は立上つて合掌して居られたが、遂には自分も其隣に來て眠られた。丁度山の手線と分岐する三角の突端で、明けても暮れても絶え間のない事の音は、土の中までも震動させる樣に思はれて、一しほ追懷の味を苦くする。斯くの如き冷かなる文明のアイロニーに出會しては實もつてやりきれない。

　

(393)　　　　　國木田獨歩小傳

　

　國木田獨歩本名は哲夫、今から十九年前に三十八歳の壯齡を以て世を去つた。彼の生涯が一つの時代であり、彼の事業が一つの傳統として、永く世に留まるべきものであつたことは、囘顧によつて殊に明らかになるのであるが、しかも其辛苦の果實に至つては、播ける人自ら之を收穫することを得なかつたのである。

　獨歩が物を觀る力、敏く感じ鮮やかに語るの才能は、惱み多き自身の生活をさへも、批判の外には遺さなかつた。獨歩吟客の四つの文字以上に、適切に彼が青年期の生活を、説明する名稱は無かつたのである。彼は生れながらにして既に漂遊の兒であつた。世間普通の意味における、故郷といふものは有たなかつた。國木田の家はもと淡路から出たらしい。龍野の藩士にして龍野を知らず、銚子に生れて四つといふ年に出てしまつた。友人の記憶が誤らぬとすれば、彼の父は明治の初年に、海路奧州に赴かんとして銚子の沖に於て破船した。さうして此浦に漂着して本國と音信を絶ち、土地の婦人を娶つて彼兄弟を生むまでの、因縁を結んだといふのである。父は快活にして親しみ易く、世相に對する獨自の見解を具へて居た。母は病身で幾分か幽鬱であつた。さうして獨歩は其外貌によつて判ずれば、たしかにより多くを父の筋から受繼いで居たやうである。

　しかも親子の縁は深いとは言へなかつた。少年の日に家と別れて、學校の生活に入つてから、直ちに獨歩の淋しい旅は始まつて、それが年久しく續いたのである。山口中學の同窓には、現代の名士が多い。其人々の追憶の中には、今でも精悍にしてよく反抗した美少年國木田龜吉が往來して居る。喧嘩をしてはよく人を引掻くので、がり龜といふ(394)綽名をさへ付けられた。それを江木翼君に素破拔かれて、大笑ひをしたのも亦二十何年の昔になる。短小虚弱にして意氣のみ徒らに剛なりし彼は此の如くして其孤獨を防衛しなければならなかつたのである。

　早稻田の政治科では校長排斥の運動を企てて退學させられた。さうして自ら好んで難闘生活に入つて往つたのである。幸ひにして彼が天分は夙く目ざめた。詩の感激と自然に對する愛情とは、此間に於て著しく成長し且つ彼を柔らげた。その經驗の一つ／＼が花の如く鮮麗に、彼が後年の製作の上に咲き亂れてゐることは、讀者の極めて容易に認め得る所であらう。しかも其精細なる記憶が、當時何等の豫定も無い孤獨無聊の一遊子の、偶然の觀察に出たといふことは、彼を解せざる者には奇跡である。

　獨歩は其無邪氣なる咏歎を以て、美しい多くの山水を友とし得た如く、他の一面には更に明敏なる理解を以て、能く時代の最も重要なる知識性格と接觸することが出來た。新宗教と共に齎らされた人間趣味、解放の土に芽ぐんだ活?なる政治思想、其他ある限りの新機運は、隙も無く彼を教へ且つ刺戟した。詩人も記者も農夫も代議士も、何れも彼を誘ひ又彼に適したかも知れぬが、悲しいかな生涯は限りがあつて、之をすべてのものに分つには足りなかつた。しかも此間に處して必ずしも時流と共に浮沈せず、別に一箇の獨立した立場から、弘く人生を觀て、其最も幽かなるものゝ中に、幾多の「忘れ得ぬ人々」を見出したといふことは、勿論時代が彼をして斯くせしめたのでは無かつた。即ちさういふ時代が彼の手を以て、新たに造り開かれたのであつた。

　

(395)　　　　　這箇鏡花觀

　

　誰も認めずに居られぬことは、世中が斯う云ふ大正十四年になつてくると、愈々鏡花の影がくつきりと、青葉若葉の色々の緑の中から、抽け出した樣に眼に映ずる事であるが、それがおのづからの永い盛りであつて、決して偶然に摘み殘された故苑の一枝でなかつた事は、前の代の愛讀者、たとへば自分の如きものが、いつでも出て證人に立ち得る。

　昔も今のやうに、鏡花はとかく文林の異彩であつた。世の所謂鏡花好みは、全く先生自身の創造であつて、あのと指して型に採つた、時代と云ふものがなかつたのである。即ち時代を超脱して居たが故に老いもせず、且つ其夢は自在に美しかつたので、物に譬ふれば男鹿《をが》津輕の北の山々に、春｜闌《た》けて出現すと云ふ狐館《きつねだて》などの如く、かねて一處の土に基礎を置かぬから、或時は近づいて却つて遠く、或時は飜つて今越えた岡の辻に、搖曳と靡き横たはり、永く日本の小さきドンキホーテをして、魂を消し情を傷ましめ來つたのである。是はそも何等の術、何等の天分の然らしむる所なるか。誠にロマンチックの先途も是までであつて、我が鏡花にして始めて其境を得たのである。

　仍て惟みるに鏡花はそれ時代の精、かりそめに形を塵の世に示現するものではあるまいか。凡夫我々の上代に對する思慕は、悲しいかな繋留氣球の樣なものであつた。

　現實の大地に頑丈な鐶を打つて、いつも紐の高さを忘れる事がないために、如何なる場合にも白い雲より向ふを、遊んであるくことが出來ぬ。さうして又見える限は、見たくないものまで見たのである。せめて芝居だけはと思つて(396)見ても、やはり岩藤は尾上をいぢめ、八汐は千松を疑ひ、九太夫は縁の下に匿れて人の手紙を讀み、吉備津の王藤内は四つ這になつて斬られて殺される昔の人生の醜くさほど、遣瀬無いものは無い。斯うもしたらと考へたところで、もう改良が間に合はぬからである。鏡花が世のさま／”＼の香の中から、うきも歎きも戀も憎みも、必ず澄み徹つて美しいものばかりを、尋ねて集めようとした蜜蜂の如き執着は、取りもなほさず千萬の心の底に、潜めて言葉にし得なかつた大きな願望の、凝りてたま／＼此筆と爲つた事を、證するものであるかも知れぬ。悠々たる玉依姫の神代から移り廻つて大正のひさご花に至るまで、時代は鏡花にとつてはたゞ一箇の光ある圓珠であつた。之を貫くに鮮紅の緒を以てすれば事足りぬ。必ずしも史家に隨逐して、江戸桃山安土室町なんどゝ云ふ、刻み目を問ふことを要しなかつたのである。

　しかも年代は此作者を無益に拘束し得なかつたと云ふのみではない。却つて甘んじて其節度に服して、隨所に優雅なる姿を現すを常とした。所謂蜜蜂の蜜が正に釀された後、靜かに之を味へば盧橘は初夏の朝を思はしめ、水郷六月の風情を傳ふるものとしては、?子《くちなし》忍冬《すひかづら》の香ある如くに、有る限りの愛すべき昔は次々に融け合ひ入り亂れて、その巧なる語調が、やがては又各篇の物語に、無限の新味を添へたのであつた。是の如き自由境は、恐らくは竝一通りの感覺を具へて、囘顧をもつて能事畢れりとするやうな、堅い重苦しい尚古派などには、企てもならぬ大望であつて、之を羨しいと謂ふのも世の常の語に過ぎる。斯うしてなりともせめて日本と云ふ島を、よい國住み甲斐ある世の中だと、考へて見たい我々の爲には、是をや化導の善知識と、仰ぎ歸依してもよい位なものであつた。

　實際鏡花に導かれて行くと、こんな現代にもまだ詩があるかと心付く。疲れて彳む衢の人のまぼろしにも、遠い古代の物思ひが、折々は來り通うて居ることを感ぜしめる。生活苦必ずしも凡庸ならず、流轉の歎きも時あつて散漫ならず、かのションガエの古曲が汐路山阪を越えて、海の果谷の底にも口ずさまれた如くに、次の世の人の胸に痕を留めてから、消えて行かうとするのかと思はれる。明治も大正も先生の鑑賞に從へば、たゞ一續きの漂渺たるものゝ片(397)端であつた故に、其間に浮動する無名多數の生存の如きも、心掛け次第乃至は福分次第、夢の蝴蝶のやうに醜惡から解脱して、戀でも富でも無制限にやさしく美しく、血は錦?に滴り、花はとこしへに清流に沿うて飛ぶと言ふ境涯ばかり、見て暮せると考へる者が、御蔭で少しづつは今でも居る。さうとは本人御存知なくても、當時の文化を斯程までに、豐麗ならしめたファンタジーの水上には、この鏡花の青い花が、寂寞として咲いて居たのである。

　鏡花其生涯の風流を捧げて、歴代の册子文學に囘向したことは、人の皆説く所であるが、更に御戸帳の奧に隱れて、爰に第二の供養佛あり、御名を誹諧と稱へ申す事は、往々にして忘れられて居る。所謂浪漫派のまのあたりは、之を其藝術と調和せしむべき點に於て、人知れぬ苦心を要求する。昔の現實も或は侘びしかつたかも知れぬが、それは見殘しても通つて來られる。この目前の滓と裁ち屑、淀み濁りもつれけば立つものに至つては、決して陽炎遊絲のたぐひでは無かつた。霽れたる朝も靜かな夜も、眼をふさげば耳に聽き手に觸れる。夢はゆりさましまぼろしは之をかき亂して、結局人間の只の道を、歩めとこそと責め立てるものが、殊に都の生活には充ちて居た。あれはあれ、これは是、さうもあらうが、斯うも思ふと、二つに生き分けて何の屈托も無く、折さへあれば、我々の爲に、長生不老の藥を求むべく、新たなる蓬莱の路を開かうとした餘裕も、恐らくは亦誹諧の功力であらう。斯道古來の行者たちが、勤苦の跡を踏んだものであらう。突詰めた心には平和がない。袋町へは入つて行かず、竝木は横ぎり溪川は渡つて、次々に變つて行く新しい境地から、振返つて、今迄の場面を眺めようとする習慣がいつでも少しづつ作者の氣持を、樂にして居るやうに見えるのは、天分と謂はんよりは寧ろ修行であつたと思ふ。若し然りとすれば是やがて、鏡花必ずしも花々しからず、永く澹然たる鏡裏の影に由つて、光を人間に留めんとする所以ではあるまいか。

　

(398)　　　　　花袋君の作と生き方

　

　昨晩も舊友達の寄合の席で君は田山君のどの作が一番に、頭に殘つて居ますかと島崎氏から聞かれたが、私はやはり「重右衛門の最後」と答へざるを得なかつた。花袋晩年の作の諸篇の中には、無論あれ以上の深みを持ち、又遙に痛切に、時代に喚びかけた作品もあるのであるが、これは自分達の感銘力とも名づくべきものが、既に弱つてゐるのだから致し方が無い。少なくともこの重右衛門の如く、私を驚歎せしめたものは後にも前にも無かつた。花袋を有名ならしめた中期のもつとも油の乘つた幾つかの作品に對しては、私は必ずしも雷同しなかつたのみならず、寧ろ内心の不滿を隱すのに骨が折れた。殊に「蒲團」に至つては、末にはその批評を讀むのさへいやであつた。それを當人もよく知つて居て、時々議論をしようとするが、いつでも私が説き方の拙なるを自覺して、旗を卷いて退却するのが落であつた。

　論客としては中々強がう〔二字傍点〕なる田山君であつたが、同時に自身をも完全に説き伏せる力を有つて居た。彼が極端に想像を排撃し、個々の文藝の目的計畫を否認し、後には題材の選擇をすら無用視せんとしたのは、實は自己從來の態度の改革でもあつた。單に機會を見つけて持前の信念を表白したゞけでなかつたことは、彼が前期の作品を讀んだ者の、認めずにはゐられぬことであつた。私はあの頃から人の一生が、杉の木などの一本調子よりも、梅や松見たいに枝から枝をさして、段のちがつた樹ぶりになつて行くのを、得用だと思ふやうな男であつた上に、特に田山君においては色々の「次の境がい〔二字傍点〕」が豫期せられた故に、いつも氣ぜはしなくその變化ある成長を念じたのであつた。決して成功(399)ばかりはして居ないが、常に脱出を企てゝ居る島崎君のやうな人もある。君も出て來い出て來いと、實は何囘となく無益なそゝのかしを試みたのは私であつた。田山君はその氣質として、無論必ず重い返事をした。それが追々に強く拒み、苦く不機嫌な顔を背けるやうになつて、私は時代が人を約束する力の、隱れて甚だ猛烈なることを感じたのであつた。田山君は結局自分が築城した自然主義の山頂に立て籠つて、やゝ久しく平原のあらし〔三字傍点〕を目送して居なければならなかつた。さうして今囘はまた人間の活き方が、さう幾通りもあるもので無いといふことを、しみ／”＼と私たちに實驗させてくれたのであつた。

　何だ今頃、そればかりの實驗に感動する者があるか、といつてもよい樣なものだが、これが今日になるまで自然主義そのものゝ、主要なる論點の一つでもあつた。私も既にそれにかぶれて居るのである。田山君などはこれを自分の實驗と自分でない人の實驗とに差別したのみならず、更に前者の中でも求めて得た實驗と、直ぐ前ので無いものとを取除けようとしたことさへあつた。記述を出來る限り物の眞髄に接近せしめるためには、これが安全なる方法と認めたことも事實であるが、それよりも強い理由は現代にみなぎる記録の不信用、即ちさういふ實驗をしたかどうかは疑はないとしても、果してその事實を我々に用立つやうに、又は自分が獲得したのと同じ程度に、精確かつ有效に傳達してあるか否かゞ、甚だ覺束ないからであつた。實際さうで無い證據は多々であり、原因もまた大よそは指摘し得られた。だから文藝はまづ個々の實驗者が、個々の分擔した部分をありのまゝに報告してくれる樣に、改造せられる必要があつたわけで、それが協力して新たなる人生觀を組立てるといふまでは、あるひはまだ意識せられて居なかつたかも知れぬが、兎に角に自然主義運動の、自然の論理はそこへ行かねばならなかつた。さうして今では既に豫期以上の承認を受けて居ると私は思ふ。

　ところが田山君とその同志たちは、あたかも今日の若き作家とは正反對に、文藝がその世用の大小を計量せられることを忌み嫌つた。何か對社會の使命でもある如くいはれると怒つた。終始題材を自分の近まはりの、ぢつとして居(400)ても集つてくる區域から見つけだして、しかも決してこの方が處理し易いから、またはこの方が有效に、自分の見た眞實を現し得られるからとはいはなかつた。さうして世間がその以外のものを期待する事を、心得ちがひのやうにいふのであつたが、それが私には自然主義の自分からの制限であり、一種後から理窟をつけた骨惜みであるやうに見えて仕方がなかつた。

　一方私たちの方でも、もつとも純良なる讀者の要求を代表してゐるつもりではあつたが、その實はやはり樂屋に出入する連中の、片よつた見巧者といふやうなものに囚はれて居たのかも知れない。ちやうどモデル問題などが、馬鹿々々しく論議せられて居た頃であつた。もういゝ加減に家庭などを書くのは止《よ》して、もつと遠くへ出て「重右衛門の最後」のやうな場合に、ぶつつかつて見るやうにするといいといつた。たれだつて皆相應に精透なる自己の觀察者だ。それを君だけの嚴正な用意をもつて、心のひだ〔二字傍点〕までも引きめくつて寫しださうとすれば、確實なる記録の遣ることは當り前だ。いまだ證明せられないのは、果してこの方法なり態度なりが、どこまで押しひろめて行かれるかといふ問題ぢやないかともいつて見た。あの折の氣持に戻つて見ることは出來ないが、何でも私は笑はれたやうに記憶して居る。そんな問題ならとつくの昔、もう僕は苦しんで通り越して來て居るのだ。西洋でもたれとかはもつと詳しく論じて居る。二つ以上ある題材の中から、特にこの方をと思つて取あげたのでは無い。書くべく唯一つのものが與へられたのだといふ樣なことをいつて、斷じてさうだなとは答へなかつたのであつた。

　兎に角私の説き方が拙であり、またやゝ輕薄にも聞えたことだけは今からでも想像することが出來る。あの際モデルに使はれて腹を立てた二三の人が、ほとんど申し合はせた樣に言つた言葉は、事實は違つてゐる眞相はかうであつた。それすら見拔くことも出來ないやうでは、自然描寫とやらも餘り當てにはならぬ、といつた樣な惡まれ口であつた。私は何の必要もないのに、思慮もなくそれに近いことをいつたのである。君と二人で一緒に觀た事でも、僕はかう解し君はあゝ感じて居る。態度さへ誠實ならたまの見損ひはあつたつていいといつて、構はぬから出て見よと説く(401)筈であつたのが、却つておく〔二字傍点〕病で引込んで居ることを、責めるやうにも聞えたかも知れない。何にしても三分の一程しか田山君を知らないものが、出過ぎた忠言を試みようとしたことが、却つて同君の自然の進路を、累はしたことになつて居たならば悲しいことだと思ふ。

　もちろん自分をどこまでも見つめて居ようとすること、深く掘り下げて泉に達するまで、もしくはその底にも潜り入らうとするのが、強いこの人の氣質であつたかも知れぬ。また平心に外部から觀望しても、たしかに興味多き一つの生活であつた。遺傳にもはた境遇にも幾つかの悲劇的要素は含まれて居た。しかし求めてその性情の變化展開を試みようとせぬまでも、假に僅でも自分を小説にした方がよいといふ心持が、彼の中年の平和に影響して居たとすれば、私は今少しく自由なる境地に置いて、彼を自然に成長せしめなかつたことを悔恨せざるを得ない。

　いはゆる自然主義の流行をもつて、單なる明治文學史のある一期の現象のやうに解することは、今は何よりも事實がこれを許さぬであらう。人がこの名前を喜んで名乘るか否かは別として、兎に角に文藝に趣向といふ語が、入用で無くなつたのはあれからであつた。自分で觀て來た感じて來たといふことに、大きな尊敬が支拂はれるのみならず、しば／＼その報告の精密さと眞率さが、技巧の缺乏を補ふといふよりも、寧ろ技巧そのものとして受取られる事になつたのもあれ以來のことである。新たなる人間記録はかくの如くにして、尚この上にも集積せられんとして居る。私にはこれを他の一つの門《かど》口から、持込まれた傾向とは見ることが出來ぬのである。曾ての田山君らは無論この樣に放漫なる定義に概括せられることを諾しなかつたらう。または氣六つかしく差別の見を立てたでもあらうが、あの人たちとても各自の變遷をもち、また相互の特色を具へて居た。文學は由來貨幣などとちがつて、同じだといへば却つて通用が困難になるものだ。だから能ふべくんば毎年でも、異を立てゝ前進しようとするのであるが、そのために底を流れて來た個人以上の力、もしくは共同の功績とも名づくべきものを、無視してしまふ事は不可能である。

　獨り遠くから眺めた文藝の國ばかりに、さういふ事實があるといふのでは無い。たとへば我々の携はつて居る社會(402)科學の方面でも、名士の獨斷なるものが必ずしも傾聽せられず、次第に銘々の分擔をもつて、もう一度直接に觀察しまた記述して置かうとする學風に向つて來たのは、一半は少くとも文學の自然主義の影響で無かつたとはいはれぬのである。殊に私などが題目の大きい小さいについて、丸で世間と懸け構ひの無い尺度をもち、果して現實の用途があるか否かを確めなくとも、平氣で記録を取つて遺して置くことが出來るやうになつたのは、善かれ惡かれ、とにかくに田山君の感化であつた。それを生前に話して見る機會はなかつたが、聽いたところで何とも思はなかつたかも知れぬ。今までの文士は一樣に至つて無邪氣であつた。いはゆる突つ込んだ描寫を要件とした作物が、世上に與へる恩惠について無知であつた。自ら社會の觀測と記述とを、職務として居ると稱する者が、實は技能において遙に劣つて居ることに心づかなかつた。いはゆる暴露文學の大いに起るべき素地は、早くからあつたのである。それが正直にしてかつ無理の無いものだつたならば、當然に我々を學ばしめたのであつた。しかうして我田山君の作品などは、期せずして自からそれであつたと思ふ。

　昔自然主義の過渡期に青年であつたものは、幾度か無益のき〔傍点〕憂論を聽かされて居た。人をもし單なる生物の一つとして、その生き方を見て行かうとすれば、人と人との問の情愛はどこへ行くといふ類の言葉が、もつとも沈着なる人々の口からも出たのであつた。今においてその言の當らなかつたことを、これも私は確に實驗し得たのである。田山花袋君の死はその多くの舊知によつて、大いなる樹木の倒るゝにたとへられたが、私は殊にその若き苗木の日を知り、茂り花咲いて色々の鳥の、來り息ふ光景を仰ぎ見た上に、更に落木せう〔二字傍点〕條の風の音をさへ聽いたのである。假りに本物の樹であつてもやつぱり悲壯である。ましてやこの一個の生存には、その後に色々の現實が續いて居る。六十年もかゝつてまだ生き盡し得なかつた田山君の生き方は、我々に取つていつまでも歴史で無い。

　

(403)　　　　　『東京の三十年』

　

　龍土會と田山君との關係は、蒲原有明さんが私より詳しく知つて居られる筈である。私の記憶では、番町の英國大使館の後の小さな通りに、近頃はじめた西洋料理屋が靜かでうまいものを食はせ、おまけに親ぢが文學ずきだから、あそこで會をしようぢやないかと、蒲原君がいふから一しよに行かうと、田山君が來て勸めたのが始めだつたやうに思ふ。この料理屋が後に麻布へ進出して龍土軒となり、それからもずつと續いた無名の小集が、誰がきめるとも無く龍土會と呼ばれ、さうして有名になつたのである。文士も過敏だから問題にしたかもしれぬが、どうもあの新店の主夫婦が、店の廣告に利用したらしい形跡もすこし有る。

　斯ういふ文士の會合に私がたつた一人、ぽつんとまじつて居たのにはわけがあつた。最近に正宗白鳥君の文章によつて思ひ出したのだが、この番町の何とか亭の會合が始まると同時に、それまで一年以上も續けて居た牛込加賀町の、私の家の小さな會が消滅して居る。こちらは素人の家だから、せい／”＼六七人しか集まらず、酒も食べ物も有つたり無かつたりである。ちやうどいゝうちが見付かつたから、あすこにしていま少し連中をふやさうぢやないかといふ相談がきまり、ついては私を袖にすることが出來なかつたのだらうと思ふ。しかしさういふいきさつももう一向におぼえて居ない。

　私の家の會といふのは、それほどの趣意も無く、最初は田山が友だちを引ぱつて來て、又來月も寄つて見ようぢやないかといふ程度だつたと思ふが、眉山風葉の二君はつい近所だし、島崎國木田などといふ人も折々は來るのだから、(404)互ひちがひになるよりも、日を期した方が面白からうといふ位の趣旨はあつたかもしれない。さうなると他にも少しづゝ新しい顔ぶれも加はつて來る。私の方でも少壯知識人、ことに學校仲間の誰彼を引合せて見たいといふ考へはあつたが、この方は珍らしがつて一ぺんは來るだけで二度目からは皆引下つてしまひ、文士の側でも新規に常連に加はつたのは蒲原君ぐらゐなもので、あの新會場を發見し又紹介した武林無想庵君も、又生田葵山君も、私の家の會には來ずにしまつたやうに思ふ。

　別に田山の爲といふ計畫は無くても、自然に彼を中心とした會にはなつて居たらう。彼は萩坪翁の門下で、歌の會では私の祖母や姉を識つて居り、父や母も折々逢ひ又噂をして、つまりはたゞ一人、この家の友だちであつた。殊に母はあの當時、成るたけ私に外を飲みまはらせまいといふ下心があつて、家の客を悦び又歡待したから、居心地は惡くなかつたのだらう。今から憶ふとなつかしいのは、小さな庭ながら芝生があり躑躅が咲き、大きな楓の樹が二三本もあつて、初夏の頃などは暮色がよかつた。大した佳い話などがあつた氣づかひは無いが、旅行や讀書の記憶といふやうなものが豐富で、今いふゴシップの如き後味のいやなものに、時を費して居なかつたことだけは私が受合つてよい。本たうにいゝ會だねと顔を見合つて、少々得意になつて居たのも我々の若さであつた。

　その頃田山君はよくアルフォンス・ドオデを讀み、讀むと持つて來て皆私に貸してくれた。大抵の英譯本は皆此頃のやうなザラ紙の臭い本だつたが、その中でたつた二三種、體裁をすつかり原書の上製本の通りにして、畫ももとのまゝのを入れたものがあつた。『風車小屋からの手紙』もその一つだが、『巴里の三十年』といふのが特に心を動かしたのは、日頃有難がつて居たツルゲニェフとの會談記が其中にあり、又未刊に終つた流され王の物語のことが、出て居たからでもあつた。私はこの本を撫摩しつゝ田山君に向つて、君もやがて斯ういふ風な東京の三十年を書くといゝねと謂つた。さうした後に果して『東京の三十年』といふのを書いて出したのだから、私は彼が若い日の志を失はぬ人だと思つたのである。小僧になつて京橋へ來て居た時から算へても、この頃はまだやつと二十年目位であつた。

(405)　彼の自然主義なるものに對しては、自分は寧ろ同情の足らぬ批評家であつた。ちやうどあの前後、私は役所で特赦の上奏案といふものをこしらへる役を命じられ、月に何十件といふあはれな犯罪事件の書類を見て居たのだが、さういふ中でも取分け心を打たれたものを、よく覺えて居ては彼に話し、それが作品となつて現はれたのも幾つかある。勿論注意深くそれを讀んで見るが、この誠實なる「作前讀者」とも名づくべき私に、何とも腑に落ちない補充や變更が少しづゝあることは、いつも不滿の種であつたけれども、それをいふことは出來なかつた。たま／＼何かの拍子に私の事を、モデルにしたにちがひないと思ふ作品があつたのをとつこにとつて、寫實々々と君は言ふけれども、眞相を得て居ないぢやないか、といふやうなことを論じて見たことがある。今なら斯樣な突詰めたことは、いくら親友にでも敢てしなかつたらうが、私は元來程あひを知らぬ男だつたと思はれる。之に對して田山君は、こまるといふよりもむしろ憤つた。さういふ風にしか見えなかつたのだからし方が無い。つまりは僕がまだまづいといふことを、君は遠まはしに言はうとするのだともいふので、こいつはいけないと思つて忠告は撤囘してしまつたが、今でも私は正直なところ、彼の態度が惡かつたとは思つて居ない。いはゞ感覺の錬磨が足りなかつたのである。それを時代の風とは言ひながら、酒や冶遊の間に苦悶を紛らさうとさせて、いよ／＼荒々しくしたことはどう考へても惜しい。都市の文化などゝいふものは、たゞうまい物を食はせるぐらゐの能しか無くて、三十年をかけてもまだこの田舍出の文士から、あくを拔くだけの力が無かつたのである。さういふ?態が、今だつて續いて居らぬとは言へない。

　おかげで私なんかも、のう／＼と此都で老いることが出來たのだが、岩野泡鳴君を始めとし、幾人とも知れない田舍出の素朴文人は、實にいゝ氣になつて、腹一ぱいの太平樂を吹いて居たのである。上田柳村とか平田禿木とかいふ類のいはゆる都雅の士が、避けて近よらず蔭でにやりとして居た氣持は、私だけは大よそ理解して居た。國木田獨歩なども常には江戸前文人の柔弱を輕蔑しながら、やはりこの氣持だけはよくわかつたと見えて、田山君に對してはさう神經を傷けるやうなことを言はなかつたが、露骨でしかも人の好い泡鳴等には、毎度實に皮肉なひやかしを浴せか(406)けて居た。それが何だか町の粹人たちの、代言のやうにも私には感じられたのである。

　川上眉山君は本郷の商家の生れで、純東京人の長處弱點を共に備へたやうな人だつたが、この人だけは求むる所が多かつたからか、いやな顔もせずによく田舍者とつきあつた。さうしてちつとも年長者ぶらず、人なつこく聽いたり打明けたりする樣子が、誠に人柄なゆかしい人のやうに思はれ、今に好い印象を留めて居る。それがどういふわけであつたか、私の方へは毎囘出て來たのが、所謂龍土會への切替を境に、ふつつりと顔を見せなくなつたやうに思ふ。さうして確か一年あまりのうちに、あの凄慘なる自決をしたのである。

　小山内薫君はあの時分まだ本たうの新進であつて、あらい木綿がすりの羽織を着て居た。この人は眉山とは入れちがひに、武林の友人として龍土會の方へ出席し始めた。腹は江戸つ子過ぎる位だつたかも知れぬが、私には何だかソ國から此頃出て來ましたといふ風に見えて、色々話をさせて聽くのが樂しみであつた。ところが或時食事のなかばで、小島といふ同席の青年が、怖ろしく烈しい見幕で彼を痛罵したことがある。小山内は黙つて蒼い顔をして一言も返答をしなかつた。それが何だか氣の毒でたまらぬので、私は奮然として一人立つて抗議をし、うんと小島をやつつけたつもりだつたのだが、歸りに田山君が二人切りになつてから私にさゝやいた。あれは女の事なんだよ。詳しく話を聽いたら、君なんかの同情の出來る事件ぢやないんだよと謂つた。後々作品その他からそれも少しづゝわかつて來たのだが、そんなことなどはこゝの問題ぢやない。私はあの無口な純情家の田山君が、是でも私よりは浮世のさま／”＼には通じて居る。流石は小説家だなと竊かに敬意を表したのであつた。この以外にも、聽くのがいやだと思ふやうな内側のもつれが、斯ういふ仲間には幾つかあつて、酒を飲むものだからそれが時折は一端をこの集まりに顯はした。聽けばすつかり知りたいやうな氣特が私にもあり、そんな事をして居る餘裕も無いので、自然に私はこの有名な會合から、疏遠になることを制し得られなかつた。素人の友だちなどゝいふものは、根つからたよりにならぬものだといふことを、田山も國木田も恐らくは經驗したであらうと思ふ。

　

(407)　　　　　重い足踏みの吾

　

　何だか頼まれるから強ひて言ふやうに見えるが、是でも言はずにしまつたら島崎藤村君の一面が傳はらぬことになるかも知れぬ。しかも自分の動機は公けだ。現代の人間研究の爲に、實際島崎藤村君は大切な資料である。

　島崎君は藥草の如き人だと思つた。自分などが始めて人間の花園に紛れ込んだ頃、色なり香氣なり又枝振りなりから、單簡に花の品評を下し得る以外に、別に今一段と奧に潜んで、遙かに世の中と交渉の深い若干の作用をもつものが有るのだといふことを、經驗させてくれたのは他の人では無かつた。百草を甞めて始めて醫藥ありといふ話をする度に、いつも思ひ出すのは島崎君であつた。さうして島崎君の味はにがかつた。

　國木田君は好く言へば無造作、惡く言へば無茶な男だつた。元は島崎君のことをイソギンチャクなどゝ呼んで居た。おい此頃磯巾着は何をして居るいなどゝ謂つて、島崎君の生活を床しがつたものだつた。併し此綽名には自分は賛成したことは無かつた。あんな磯巾着のやうな、醜い姿をして身をつぼめることは、島崎君には決して無かつた。物に譬へたら、やはり福壽草とか合歡木などの、外の冷氣に觸れて胸を合せるやうなもので、愼んだ面持も亦方外にやさしかつたのだ。

　自分は或必要があつて、「澄ます」といふ問題を考へて見たことがある。江戸人なんか定義がいつでも不精確なものだが、通例高慢ちきの分子さへ無ければ、靜かにして居ることだけは却つてよいとして居るらしい。少なくとも島崎君は惡く澄ました人で無かつた。何だか氣の置ける人と云ふ批評は折々聽いたが、是はわざつと置かせて居るのだか(408)ら、致し方が無いと思つた。

　今なら氣を置かぬ者の方が惡いのだが、若盛りの島崎君としては、一寸氣の毒な性質であつた。竹刀も木刀も持つて來ない手ぶらの我々に、御面御胴をつけて逢ふやうな處が折々見えた。しかもそれが生れ付きだといふことが分つて、何だか大變六つかしい書物の、序文を讀ませて貰つたやうな氣がした。

　もう大抵白?をしても大丈夫だらうが、實は自分には十分に島崎君の書いたものが解らなかつた。解つたかと訊かれたら、赤面しつゝも虚誕は答へぬつもりだつたが、そんな問を掛けるやうな島崎君で無かつた。さうして仲よく往來をして居ながら、相變らず込入つたことを一人で書いて居た。文學はやはり禅などに近いものだなと、自分は獨りで合點するやうな次第であつた。

　たしか夏草の附録のやうにして出たと思つて居る。讀賣が頼んで來て此新人に、今でいふ感想文見たいなものを書かせたことがあつた。土曜日の音樂といふ風に、一日々々話題を更へて行くので、氣の利いた思ひ付きだと自分も言つた。その日がちやうど木曜日でそれから暫くすると讀賣に、木曜日の新茶とか題した會話録が出て居る。話をしたのは正に自分だつたが、何だか食べられて消化されてしまつたやうな氣がした。此樣に物深く且つ若干訂正してしまはぬと文學にならぬのなら、作者より讀者の方がずつといゝと、考へずには居られなかつた。

　但し現實は其儘では、あんまりきたないからと云ふ斟酌は、あの時分まだ一般の風であつた。後にフランス文人などの感化で、何か藝術に寢間着よそ行きの差別が有るものかと、力み且つ實行するやうになつても、島崎君は不斷に晴着を着て居るのだから仕方が無い。鏡が癖になつた娘のやうなものであつた。そんなにまで難行精進をせずともよからうにと、涙をこぼして言つた親友もあつたやうだが、元來が「構ふものか」といふ氣になれぬ人なのだから、たゞ一人で身を苦しめるの他は無かつた。

　少しは得意になつて見ればよいのにと、思ふやうな幽鬱の日が多かつた。それで居て決して内心を押隱して居るの(409)で無かつた證據には、人と話すのを脇で聽いて居ると、低い調子でだが、「わたしなんか」とか「私などは」とかいふ言葉が幾つと無く續いて出た。つまり自惚のちやうど正反對ではあるが、傳を書いてくれる爲に來て居るのでは無い人々の前でも、とかく自分を問題とせずには居られなかつたので、曾て自分は之を評して、ウヌニクシと謂つたやうに覺えて居る。即ちウヌボレの反對である。

　實際また問題の多い生活でもあつた。あれでは快活な春の朝のやうな氣持にならぬ筈だと噂した場合も度々であつた。しかしそんな境遇から激成せられた一時性の、神經衰弱同前の習癖では勿論無かつた。寧ろ難苦を以て自ら鞭うつ?とするだけの勇氣を持ち、時としては之を味つて居るかとさへ見えた故に、或は餘りにも情を矯めて居る者のやうに、理解無き者の目には映じたのである。

　島崎君は白い肌膚と上品なカーブと、女に嫉まれる程の黒い髪を持ち、木綿は着て居ても物腰は濱町邊で育つた人であつた故に、多くの知友から江戸兒を以て遇せられたけれども、心持は最も正眞の木曾産であつた。よく考へるとそれが不調和の主たる原因で、若し果してトラジックが宿命的のものならば、確かに君などは日本近世の好適例であつた。不倫な譬喩を引くやうだが、是が若し國王とか酋長とかであつたら、一生懸命に自分の事ばかり考へ、しかも愼み深く誇りの念が無いといふことは、全社會に取つても頂上の美�ｺである。小さな山村の只一箇の名家である場合にも、それが猶通用する。つまり島崎氏の從前の境遇に對しては、是ほど似つかはしい長所は無く、恐らくは此遺傳は根原に於て、最も其價値を發揮したものであらうが、新都の人波の中に漂蕩して、文學を以て生存を試みようとする時には、何の役にも立たぬのみか、更に不必要に主人を苦惱せしめることになるのである。幸ひにして辛抱強い島崎君は、あらゆる方法を盡して追ひ立て牽き立て、此運命といふ獰猛なる家畜を、たうとう美の神の殿堂の軒の柱に繋いだけれども、固より君の天分はこんな厄介な屬性と不可分のものでは無かつた。あれが無かつたらもつと早く、もつと容易に光を放つことが出來たのだ。

(410)　だから我々が醫者であつたら、解放といふ處方を書くべきであつた。一年そこ／＼の東北學院の生活が、あの澤山の美しい詩篇、日本にも時代にも、ぴつたりと當てはまつたやうな海の歌星の歌の數々を産した時には、啼かぬ雲雀が空の雲雀に感謝するやうな心持が、青年仲間の全部を浸して居た。もう是で君の生活もよくなるであらうと思つて居るうちに、御母さんが死んだりなどして、又のこ／＼と拘束の多い東京に戻つて來た。

　それから音樂學校生徒の短かい時代などが來た。此頃になるまで動機がよくは呑込めなかつたが、要するに迷つて入つたのだから迷つて出たので、さうして相變らず苦しみつゝ自分を責めて居た。希望ばかり豐かで何かまだ頼りない時節であつた。我々ならば空談を以て日を送るべき場合であつたが、それは島崎君の趣味でも無く又境涯でも無かつた。少しは反抗をしても差支無しといふ程の重荷を負ひながら、きちんと座つて大抵は微笑しつゝ、多勢の激語を、たゞ參考の爲に聽いて居た。それで居て妙に文人たちが、此人の家に集まつて來たのである。文學界の諸君や蒲原、田山などの諸君の他に、齋藤緑雨君も河童のやうな顔をして?々やつて來た。

　宮川春汀君といふ畫家が隣に住んで居た。泣きもすれば笑ひもする情の濃かな人で、丸で島崎君の反映の爲に軒を竝べて居るかと思ふやうであつた。どうして正太夫があんなに島崎の處へ來るだらう。分つて居るぢや無いか寂しいからだよ。君炬燵わが身時雨の小袖かなといふ句があるぢや無いか。斯んなくだらぬ問答をしたところが、すぐに宮川が中村不折君に話してしまつた。君々中村君はあの話をするとね、「ヘンどつちが炬燵だか」て言つたよと、宮川が又告げに來た。不折畫伯は其頃からもう耳が遠かつたから、或は聞きそこなひがあつたかも知れぬ。兎に角に炬燵が島崎君の方だつたことは、今でも自分は疑つて居らぬ。但し此炬燵は番所炬燵で、平生は島崎君が一人で靜かにあたつて居たのだ。

　濡れた小袖は其後相州へ引越し、炬燵は信州へ去つてしまつた。小諸は色々の意味に於ての解決であり、又新しい試みでもあつたらしい。明治三十四年の初冬に、自分は髭などをはやして新らしい島崎君を訪問した。信濃毎日で山(411)路愛山君の下に働いてゐた結城桂陵が、無理に所望して自分に同行した。痩せて外套も着ない桂陵は、其頃まだ感激家であつた。無暗に澤山の若菜集の詩を暗記して居て、島崎君の顔の前で朗々と之を吟じた。幾ら改良した島崎君でも、斯んなことは容赦しなかつた。昔東京で褒められた時と、そつくりな表情をして言葉少なであつた。さうして庭の雪が寒かつた。

　後に「千曲川のスケッチ」になつた自然觀察が、朝夕の日課だと聞いたときは嬉しかつた。何日も何日も、雲のことばかり書く日があるとも言つた。斯ういふ餘裕は時間だけが許すので無い。何物をも自分に面して立つが如く見て居る間は、先づ其威壓を防ぐ必要があるから、交渉が氣ぜはしない。古城の石に夕陽のさすのを、影法師も無い地點から斜めに見るやうな態度で、願はくは一度だけでも此慧しい詩人に、我々などの心境も見て貰ひたいものだと考へた。ところが人間だけはまだ完全に自然では無いのか、破戒の小學先生の背後にはやはり寂しい昔の島崎君が、立つて苦悶して居るやうに感じられた。

　信州では良き友良い家庭に圍まれて、少なくとも休養の日はあつたらうと思ふが、東京に引還して來ると又再び、傳家の黒革威の鎧を一着して、のつしのつしと歩み出すやうな折が多くなつた。實際東京は只の三年ばかりの間に、島崎君を浦島にするだけの變化は起つて居なかつたのだが、何物をも見縊り得ない人だから盛んに警戒した。其代りに怪我も無かつたが、東京に住んで市民に爲り得ない程淋しいことは無い。至つて制限せられた交友の間でも、君の著述が出るといふこと以外に、共通の問題の少ないのに苦勞した。

　そのうちに怖ろしい不幸が、頻りに島崎家を訪れたのである。三度目の女の兒が、死なうとする枕元で、自分に書いた手紙のみは、悲痛を極めたものであつた。しかも始めて平凡なる人間の親々と、同じ立場に降つてくどき慰め合ふといふことも、藤村君の爲には一大變革であると考へて見たのであつたが、翌日往つて見ると、赤くひり／＼するやうな表情はあつたけれども、やはり絶大の意力を以て、このニオベの如き悲歎を抑へようとして居た。殆と畏ろし(412)い程の修養であつた。

　長くなつたから多くの尚言ひたいことを略する。自分は素より吹けば飛ぶやうな感傷家の横行を憎む者であるが、同時に多くの所謂私小説が、島崎君などを手本と頼んで、どの位非凡に重苦しく、如何に自分一身に凝り固まつて居る生活でも、之を湛念に自白さへすれば、直ちにこれ人間の實録なりと、威張つて出し得るやうな傾向を否認せんと欲する。通例の讀者の要求は新たに知ることであつて、知らねばならぬ事物はそんな事以外にも無限に有る。其上に我々は樂しましめらるゝ必要があるのだ。然るに多くの畸人自傳は、即ち麺包を乞ふ者に石を與へて居るでは無いか。田山君などは之に向つて、出來たのだから仕方が無い。讀む者があるのだから仕方が無いと謂ふ。出來たのだからは兎に角、讀む者があるからと言ふなら批評は要らぬ筈だ。飢ゑて居るから何でも食ふのである。もつとうまい食物を出すがよい。

　議論は止めにして、私は友人たる島崎君に、今少し氣輕な平たいありふれた人生が見せたかつた。酒などを飲んで居ると、浮世が解つて來ると謂ふがあれは虚誕だつた。鹽煎餅見たやうな御月樣が本所の埃の上にぶら下り、少しは臭いが大川の上げ潮がたぶつくと、斯うして寢轉んでると生きて死ねると、云ふやうな氣になるばかりで、旦那でも無く、色男でも無く、唯うろついて居るのがつまらなくなるものだが、島崎君はあの大川の邊でも友人を作つて、警戒しつゝ彼等と附合つて居た。さうして誠實に彼等の言を咀嚼玩味するので、内心は途方に暮れて居る弱い者もあつた。役人をして居たから明けても暮れても、ちんころの樣な男に多く接してほつとすることがある。「友だちなんて言ふものは是非一生涯附合はねばならぬことは無い」如何なるはずみであつたか、斯んなことを言つてしまつた。すると島崎君は大變長く考へて、さうだねえと一言謂つたが、それつきりでもう昔の友達の滓見たいになつてしまつた。あの調子では少なくとも、柳田を主人公にした三人稱の小説は書けまいと、今でも手前勝手に甚だ寂しく思つて居る。

　

(413)　　　　　『破戒』を評す

　

　私は丁度此小説に書いてある邊を、此時候、秋の末から冬の初めにかけて旅行したことがある者ですから、其時遭遇した四圍の情景を聯想して、藤村君の天然の描寫に就ては、非常な愉快な感じを以つて讀みました。併しそれは寧ろ紀行文の面白味で、小説の面白味ではない。小説としては十分納得出來ない點が多いのです。其一つは新平民と普通の平民との間の闘爭が餘り劇し過ぎるやうに思ふ。信州の穢多は別に研究したことはありませんが、私が他の諸地方で多少觀察した所からいへば、此樣な非道い爭ひはない。餘程事實から遠い、尤も小説の中に飯山は舊弊な處でいかぬと書いてはありますが、それにしても初めの方にある、宿屋から「大日向」を追ひ出す時に、皆で「ざまを見やがれ」といふなどは、あんなことは實際なからうかと思ふ。從つて親父の戒といふものが、若い者の心にあれほど大きなものでなからうと想像する。固より古來の習慣によつて、少しは新平民が厭だといふ考へは抱いて居ませうが、此樣な大きな葛藤の原因にはならないやうです。

　それから今一つ、お寺の樣子がどうも本當らしくない。些細なことですが、全體眞宗は�ｺ川時代――もつと前からかも知れない――穢多村に布教するを一つの主義にして居るやうで、上方地方に行きますと、上方には穢多が多いのですが、穢多村にある寺は、多くは眞宗で、穢多の救濟は眞宗に依頼《たよ》る姿がある。此小説はお寺が永く舞臺になつて居るからお寺と穢多との間に何か關係がありさうな者ですが、それがないのは何だか物足りぬ心地がする。加之私はどう考へても、此お寺の建築物の構造から、其中の家族の模樣、お勤めやお説教の具合が眞宗らしくない。

(414)　それから小學校の校長職貝を初め、郡視學などゝいふ地方の役員等の、外部に顯はれた感情が餘りに露骨過ぎて、從つて一切の事件衝突に眞面目、質素といふ氣味が少い。ですから前にも言つたことですが、此主人公のやうに、非常に向上心に富んで居るものが、外部の境遇に應じて屈曲して行く、その　　状態が今現在あつたものゝやうに思はれない爲めに苦悶の苦しさを深く感ずることが出來ぬ。

　ローマンチックな傾きを持つた小説、例へばお化に出合つたとか、仇打ちをしたとかいふやうな場合にでも、如何さま其時代には、此樣な境涯もあつたらうといふ考へを讀者に與へるから、隨分架空談でも、誘《ひ》かされて讀んで行く氣になるものがありますが、此小説にはそれが足らぬ。固より寫實小説と銘打つたのではないから、寫實すれば吾が事足れりといふ比ひのものではありますまいが、其等の不備の爲めに、藤村君が肝心書かうと思つたことを十分に顯はすことが出來なかつたと思ふ。殊に仕舞の方の所謂破戒に至る徑路や、廊下での告白の仕方が、どうも奇異に感じられる。つまり「丑松」といふ主人公は、極く普通の人物で、加ふるに穢多といふことだけではあんまり事件が單純すぎるから、全體が大袈裟に失したのでせう。隨分惡口を言ひましたが、惡口を言はなかつた所は皆好い所で、それは別に言はなくても好いでせう。特に詳細な點に至つては、應接に遑ない程面白い所があります。私は天然の敍景のみならず人事に就いても詳細な所は好いと思ふ、特に雪の夜女の泣きじやくりする所などは完全だと思ひました。それから戀の發展の仕方の、あのあくどくなく、極めて微かに、安らかに進んで行く具合などは、確かに藤村君の特待でせう。

　

(415)　　　　　蘆花君の『みみずのたはこと』

　

　蘆花君前期の友人たちの爲には『みみずのたはこと』は殊になつかしい思ひ出の一書である。この一つの物をどこまでも見つめ見送らうとする切實な態度は、或ひは彼を雄大なる作家たらしむるには不便であつたか知らぬが、少なくとも彼が青年の日から一貫して、常に無量の愛慕と推服とを、引付けてゐたものも此力であつた。

　極めて根氣のよい全集の讀者でも、尚折々は立戻つてかういふ雜記日録の篇を飜す必要を見ることであらう。作家果して如何なる氣質に惠まれ、又如何なる心境の下にあつて、これ程人を動かすの藝術を世に遺すことが出來たかを知りたくなるのは、當り前である。その自然の好奇心に對しても、最も欺かざる者は蘆花君である。かれは其小説を透してさへも、なほ　　屡々自分の境涯を讀ましめようとした。この眞情流露の文學の前に立つて見ると彫琢を常の癖とするわれ／＼の生活は誠に淋しい。

　私は近頃偶然に粕谷の隣の村に來て住んで、殊に身に沁みてこの書を讀みかへす機會を得たことを悦ぶ者である。以前このあたりはたゞ廣々とした松林薄原であつた。幾度か自分等はこの間を逍遥造しつゝ、たゞ行く雲を望み鳥の聲などに耳を傾けて、こゝがわが身のつひの住家となることさへ知らなかつた。ましてや草木の下蔭にかくれて、こんな濃かな人間生活が織込まれてゐるなどは、物の序にも考へたことがないのである。然るにこれを見ようとしてもう十九年も前に、靜かに入つて來た�ｺ富氏があつた。曾ては遁世者の後影の如く、はかなく目送して段々に遠ざかつた人の姿を、今頃漸くにしてこちらの側から、迎へて見るやうになつたのは遲いことであつた。しかも蘆花さんが歩み(416)寄り、まじつて共々に憂ひ又笑つた武藏野の人生も大半は昔になつた。多摩川一帶の野の新しい村人等は、秋はみゝずの神秘な歌を聞くたびに、永くこの大切なたゞ一つの實録を、思ひ出さずにはをられぬであらう。

　

(417)　　　　　野鳥と海洋文學

　

　もう憶ひ出せないほど古くから、吉江さんを私は識つて居る。中澤臨川君がまだ東京に住んで居た頃に、引合せてくれたのが始めかと思ふがどうだらうか。自分もそんな氣がすると吉江さんも言はれた。或は又國木田獨歩君が、芝の兼房町に住んで雜誌を出して居た時分に、あの家で皆と落ち合つたのでは無かつたらうか。とにかく我々よりはもつとよく談ずる雄辯家がそばに居た爲であらう。靜かな人だつたといふ印象しか私は持ち傳へて居ない。

　無論その後も方々で毎度顔を合せて居る。しかし家へ訪ねて行くだけの用は無く、又二人きりで話をするやうな折も無かつたので、我々の交遊は久しいけれどもやゝ淡いものであつた。ところが前に名を出した兩君以外にも、不思議に我々には共同の知音といふのが多く、何かといふと吉江さんが話に出て來るので、少なくとも始めのうちは、聲息相通ずといふ間柄であつた。其上に私は年に何囘といふほども信州に行くことがあつて、吉江氏の郷里の人たちを知り、又あの名木のあつた大きな屋敷をも見て居る。御當人にはたしか一度しか出逢つて居ないが、行くたびに聽かぬことは無かつた。さうしてそれが皆敬服し懷かしがつて居る人ばかりなのである。前に書かれた文章を思ひ出したり、又は再び取出して讀んで見るやうな機會は多かつたのである。

　さうして自分だけでは、大よそ吉江さんがどんな人であるかを、知つて居るつもりで居た。ところが今になつて振囘つて見ると、まあ私の獨りぎめが、一向に當つて居なかつたといふことになるやうである。斯ういふのが人生の、學んで又學ばなければならぬ深い意義ではないかと思ふ。故人の生涯は非常によく纏まつた、しかも清く耀かしく且(418)つ有效なるものではあつたが、少なくとも若い頃の景慕者等が、夢みて居た通りには展開して居ると言へない。念じても計畫しても、なほ一生には色々の意外がある。それが吉江さんの場合には大部分は幸福なもので、或時は樂しい自己發見となり、又或時は感激の新たな泉ともなつて、愈々このたつた一つのものを多彩ならしめたことも疑はれぬが、それはもう私などには附いてあるけなかつた世界である。だから今度の追悼號なども、自分たちには一種の探險記録のやうなもので、何が書いてあるだらうか讀んでも見ぬ前から、何と無く胸がゆらぐのである。きつと此中には數々の未知の事蹟、さういふ境地も踏破せられたのか、そんな壯快な體驗もあつたのかと、今さら驚き又は嗟歎するやうな、逸話ばかりが出て來ることゝ思つて居るが、それが同時に又努力の記録、相應に辛苦の多い路であつたことも、想像することが出來るのである。正直なことを言つてしまふと、大體に少しく働かされ過ぎたといふ感じを私は抱いて居る。

　今の經堂の閑かな住居に移つて來られてから、電車の人込みの中などではあつたが、竝んで話をして行く機會が始めて私には得られた。昔の物やはらかな氣分はまだそつくりと殘つて居た。たゞ病氣はもうさつぱりとよいと言はれたにも拘らず、吉江さんはやつれて居られた。學術協會の夜分の集まりを終つて、疲れてやゝ興奮して還つて來る途中でも、何度かしみ／”＼と散歩をすゝめ、此邊には小鳥が多いから、半日見てあるきませうといふやうな話を、せずには居られないやうな元氣の無さであつた。多辯は弄しなかつたが私の心持は、曾てあれ程にも自然を熱愛せられたあなたでは無いか。折角この草木の深い村に來て住むからには、都會の覊絆などは切るやうに切るやうに、力を入れなければいけませんよといふ積りであつた。人から其樣な事を説かれて、氣が付くやうな吉江さんで無いことは知つて居るが、私の見た所では、その分點なる利己主義の、身の養生といふやうな理由から、逃避する者と見られるのがいやだつたのであらう。又さういふ理由でしか逃避する資格の無い者が、我々始め此世には多いのである。この人だけは何といふ口實でなりとも、今暫らくは山水の間に放浪せしめて置きたかつた。

(419)　故人が聽けば必ず樂しんで答へたであらうと思ふ話題を、少なくともまだ二つは殘して別れてしまつた。前年私が野鳥の會の爲に、そちこちと同志を勸説して居た頃に、吉江さんほど快く又喜んで加入してくれた人は他には無かつた。村に少年の日を送つた者ならば、誰しも少しづゝは鳥を愛した記憶を、抱へて居らぬ者は無いであらうが、さういふ中でも鹽尻といふ處に生れた人は、鳥と特別の因縁があつたことゝ考へられる。汽車で走つて見てもすぐに氣が付くやうに、あの峠の連山の最も低いたわみである。人が二つの大川の流域から、必ず爰を越えて往來した如く、野鳥に取つても亦これが必然の道路であつた。さうして村里は細長く、この路筋に沿うて谷の奧へ入つて居り、舊い家々には又休息の喬木がある。以前は恐らくは春秋の鳥の數と種類、鳴き聲も擧動も珍らしく豐かに、觀察し得られた土地かと思ふ。だから年を取つてからまで忘れられぬ話が、この君には幾らでもあつたに相違ないが、さういふ話には山も無く趣向も無く、從つて又頃合ひの聽き手も無い故に、大抵はしまひ切りになつてしまふのである。私が聽き手だつたらきつと大いに悦び、それから又自分の故郷の山の話などを、思ひ出しては聽いてもらふことが出來たであらうに、今にそのうちにとやゝ悠長に構へて居て、あたら好い樂しみを失つたのは殘り多い。

　それからもう一つは海洋文學、是は機運が到來して愈々吉江さんが乘り出され、國の文化の一新生面が、くりひろげられる希望は十分にあつた。愉快なことだと思つて居ると、それさへ縁が薄くて中絶してしまひ、始まらなかつた前よりも却つて寂寞である。どうしてあの樣に深い關心を、海の文學に寄せられるやうになつたか。その動機も聽いて見たかつたのだが、果してどの程度まで書いたり述べたりして居られるか。私は信州鹽尻ほどでは無いが、やはり後の山の頂上まで登らぬと、海を望むことの出來ぬやうな田舍に生れた。十三になる年に東京に出ようとして、明石と須磨の間の濱に休み、始めて潮の香を喚ぎ、波と白帆との美しい光を感じたのである。さういふ新たな經驗に刺戟せられたものか、忽ち海が好きになり、醉つても醉つても船に乘つて、何度か遠近の沖の島を訪れて、そこに色々の友だちを見つけて居る。多くの小島には文學はまだ無くて、其代りには文學以前とも名づくべき、星雲のやうな情緒(420)がみなぎつて居る。それがちやうど又日本の海洋文學の、現在の姿とも似て居るかとも思はれた。それを以前の吉江孤雁君の態度を以て、靜かに味はひ又解説せられる段になると、少なくとも話の聽き手ぐらゐには私はなれたのである。何故に今十年か八年も早くから、着手する氣にはなれなかつたかと、悔んで見たところが何にもなることで無い。吉江さんが餘りにもよく人の氣持を掬み、人の企てに共鳴して之を助けようとする素直な性質を具へ、又さういふ長處の有る人が多く無かつた爲に、もしも世間がつかまへて放さず、思ふ通りの研究を妨げて居たのだとすれば、其點だけはもう一度考へて見る必要がある。人望といふものは非常に結構なものだが、それをすら學者は避けなければならぬ場合がある。是も私の見そこなひかも知れぬが、吉江さんなどはこのよい性質の爲に損をして居られる。

　

(421)　　　　　露伴をしのぶ

　　　　　　　　――大きな世界――

　

　露伴先生からのことづけを持つて、わざ／＼來てくれた飯島衛君と、昨日は二時間近くも色々と昔の話をした。その片端をここに書き留めて、哀悼の言葉としようと思ふ。

　初めて先生にお目にかゝつたのは、ちやうど五重塔が是から世に出ようといふころで、先生は谷中の墓地の酉の一隅に、小さな庵見たやうな家に住んでをられた。庭には一面に金蓮花とかいふ草が花さき、先生は青地のつむぎに黄がかつた裏を附けた袷を着て出られた。兄の使で書物を借りに行つたのだつたと思ふが、歸つて來てその話を兄にすると、あれは露伴のすきな花なんだといつた。後に果してそれを表紙の繪にした本が一册出た。それは何であつたか今覺えてゐない。

　それから七、八年も後のこと、岡山から兄の井上が上つて來て、久しぶりに私たちを連れて向島を散歩した。中の植半で晝食をしようとして、たしか幸田君の家はこの近くだ。だれか迎へに行つて來ないかといつた。すぐにやつて來られて、やあ暫らくといひながらすわつであぐらをかゝれたのが、ちやうど程よき亭主の座である。そいつはいけないと田舍者、今更まご／＼するが笑つてゐて動かうとしない。その無造作でてきぱきとした運び方には、きまりの惡さも忘れて、私などはすつかり心服してしまつた。この時の話はもう覺えてゐないが、たつた一つ江戸座の誹諧もさう馬鹿にしたものではないと、幾つか實例を擧げられた中に、

(422)　　　男のりんき手拭に出刃

といふ附句があつて、今に頭の隅に殘つてゐる。

　　　いくら食ふものか棄て置け稻雀

といふ幸堂得知翁の發句などもこの時に出て、成るほど江戸だなと私は首をかしげたのだが、とにかくに先生はもうあのころから、かういふ末流の文藝遊戯にも、若干の好意を寄せてをられた。

　この時からまた十年餘りして、漸う私は先生と對談するたつた一囘の機會を得た。この時の目的は爐邊叢書の一册に、あの感銘の深い水上語彙を、増補校訂は私がしますから、再版させて下さいといふにあつた。それは何分氣が進まぬからと、簡單に用向きは片づいたのだが、そのあと何かのはずみに七部集の話が出て面白かつた。

　誹諧の解釋などは、最初から盲蛇を豫想したやうなもので、自分の感じを僞りさへしなければよいのだが、それでも正面から異を立てるのはよろしくない。露伴先生の註が世に出る以上は、私は七部集だけは手を付けぬつもりだと飯島君に談ると、やがて傳言があつてその遠慮は無用だとある。さうして今度はまた七部集だけはやつとまとまつたが、もう續七部までは手が屆きさうも無い。飽きずに是からも續けるやうに、柳田にいつてくれといはれたのが、ついこのごろのことだつたのである。しかし柳田は、この世の先生に別れてがつかりしてゐる。早くだれかを見つけて同じやうなことを、いつて遣りたい心持で一ぱいである。露伴先生の誹諧は大きな世界であつた。八十まで活きられたけれどもなほ未完成である。總合と分析の事業が後昆に遺されてゐる。

　

(423)　　　　　南方熊楠

　

　非凡超凡といふ言葉を、此頃の人はやたらに使ひたがるが、何かちつとばかりはた者と變つて居るといふ程度の偉人ならば、むしろ今日は有りふれてゐる時代だといつてもよい。現に私なんかの仲間では、骨を折つて最も凡庸なるものを、見つけ出さうとしてゐる。ところが我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、是だけが世間竝みといふものが、ちよつと捜し出せさうにも無いのである。七十何年の一生の殆と全部が、普通の人の爲し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などは是を日本人の可能性の極限かとも思ひ、又時としては更にそれよりもなほ一つ向ふかと思ふことさへある。教育なり修養なりの或方法を以て、もう一ぺん同じ型の人を作り上げ、もしくは複雜なるチャンスの組合せによつて、いつかは再び斯ういふ學者の、又出現することを當てにして居てもよいかどうか、それが先づすでに問題になるのである。國の再興を大いなる夢として、かつ／＼生き續けて居る人々にとつては、南方熊楠は大切なる現象であり、又一つの事件でもあつた。是だけは忘れてしまふことが出來ない。

　

　　　　　　　　　　○

　

　ミナカタ、ソサイティーの第一期の事業は、先生の日本菌類圖譜を整理公刊することに在ると聽いて居る。結構な企てであることは確かだが、是が仲々の難事業で、恐らくは十年以上、惡くすれば二十年もかゝりさうだ。其間には舊知は漸く少く、南方熊楠とはどこの人か、などといふ連中が國内に充滿するだらう。それが自分などにはただ視て(424)は居られないのである。さし當つて考へられることは二つ、一つは外國で發表せられた論文を、先づ手の屆く限り集めて置くこと、もう一つは國内に於ける書簡集を、是も出來るだけ多く纏めて版にして置くことで、何れもさう六つかしい仕事では無くて、しかも先生が如何なる人であつたかが、是で大よそは判り、且つ是を我々の最少限度の常識とすることができるであらう。

　

　　　　　　　　　　○

　

　都合のよいことには、先生の論文を載せて居る雜誌が、主として二つか三つのものに限られ、捜せば日本にも保存せられて居るかも知れない。後に?々補正したとも言はれたのを見ると、或は拔刷をまだ殘して居られるかとも思ふ。此等の文章がもし大部分世に出て行つたならば、容易に發見せられるであらう今までの思ひちがひは、先生の專門を植物學、其他の研究をすべて餘技と、見ようとするやうな世上の概念である。或は熱心のあまりに自分でもさう言はれたかもしれず、又この方面のみに特に誠實なる追隨者が多かつたからでもあらうが、是は一種の遭遇といふべきもので、言はば先生が歳月の豫測を超越して、如何なる大きな課題にも取組んで行かれた、勇猛心を語るものに過ぎない。先生の家郷が紀州で無く、熊野が隱栖の地でもし無かつたならば、この精力は又どんな方向に、展開して行つたか知れたものではない。先生の常の言葉に、大よそ世の中で嫌ひなものは、學者と學會だといふことをよく聽いたが、もちろん是は一人々々の學究の勞を輕んずる意味で無く、彼等がともすれば相集まつて、時代の學問を定位し又限界づけることを憎まれたのであつた。先生はさういふ自由な人であつたけれども、尚且つ境涯の隱れたる影響には抗立することが難かつたのである。先生の採蒐檢索が本式に始まつたのは、この熊野といふ海山の間の小天地に、心の憩ひを求められてから後の事だつた。其以前の流離生活には、そんな機會も無く又誘因も無かつた。或は植物學者でもあつたと、いふことは出來るであらうが、南方氏の學問は生物學の一切を包含して、それよりも更に廣闊に、縹渺と(425)して遠く人間の過去にも及ばうとして居たのである。是を結果により又偶然の選擇に基づいて、後から名をつけるといふことはいはゆる專門の餘弊であつた。幸ひに殘り傳はつて居る若干の述作に就いて見たならば、彼が本來はどれほどの能力を具へ、又どれまでの事業しか爲し遂げ得なかつたかを、明かにすることが出來ようかと思ふ。

　

　　　　　　　　　　○

　

　私たちの名を聞いてゐるだけでも、石に巨人の足痕を留むといふ言傳へを研究した神跡考、燕の子安貝が竹取物語以前、久しく世界に流傳した俗信であることを説いた燕石考、又此頃段々と問題になつて來た指紋考などのやうに、當時すでに國々の學者の注意を喚び起し、しかもたゞ基礎知識の一部に編入せられて、忘れられかけて居る論文は幾つかある。西洋の慣習では自分の發見にかぢり附いて、それを大きく養ひ育て、しまひには本にして世に殘すといふ例が多いやうだが、南方さんなどは枝移りが繁く、おまけに國人は始めからそんな研究の有ることさへ知らず、舶來で無ければ學ではないかの如く、受賣取賣にうき身をやつして居た。この舊大陸の文化の中心が初期にはやゝ東へ偏して居たことに心づいて、西洋からわざ／＼此方の側に來て立つて、眺めようとする者が多くなつたのも、ちやうど南方さんが去つてから後の事だつた。或は先生の大づかみな豫想が的中して、斯ういふ機運を促がしたかとも考へられる。ところが我邦では萬國無比を誇りとし、他國も同じなど言はれることをひどくいやがつて、比較の學問が久しく起らなかつた。五十年も昔にブリストルの大會に出て、南方氏が講演せられた「祭と齋忌」の問題などは今やつとのことで私たちが考へて見ようとして居るのである。それを思ふと先生の滯西生活、十五年もまだ短きに過ぎ、數十卷の菌類圖譜とても先生の一代の收穫としては、まだ十分な豐作とは言へないやうな氣がする。

　

(426)　　　　　　　　　　○

　

　熊野時代の南方先生が、其後も引續いて外國の學術雜誌に寄稿し、多分はその御禮の金をまはして、どし／＼新刊の書を購讀して居られたことは、私よりもつと詳しく知つてゐる人は無いだらう。其文章が更に數十篇、大體に短いものになつて來たやうだが、この中には植物學以外の研究が多く、傾向からいふと先生自ら、説話學と名づけられたものが主であつた。それが私たちには又一つの大いなる激勵であつた。先生の一生は、たゞ活き方が奇拔だつたといふだけでなく、境遇も亦甚だしく非凡であつた。大英博物館の文庫を整理し、自由な渉獵を許されて居た時期に比べると、日本に歸つてから却つて和漢の書に不自由をせられた。大藏經の讀破と抄出とが、有名な一つ話になつて知られて居るが、其他の部分では東京居住者の、らくに見られるやうな本も見られず、手に入るものとては只近年の活字本ばかりなので、自然學問の興味が野外採集の方へ、向はざるを得なかつたものと思はれる。しかし一方には女の腹に羊をゑがく話とか、猫一匹で長者になつた話とか、この期間に外國で公表せられた文章には、珍重すべきものが甚だ多い。御蔭で民間説話の研究が、日本では急に朗らかな前途を展開したのであつた。さういふ中でも私たちのびつくりしたのは、先生の知識の綜合力、着想の奇とも名づくべきるので、若い頃まだ米國に渡られる前から、よくも斯ういふものまで讀んで居られたと思ふものを、年とつて後まではつきり記憶してゐて、それを適切な場合に片端から利用せられる、あの博覽強記に至つては、まさしく尋常の非凡を超越して居たといつてよい。

　

　　　　　　　　　　○

　

　境涯の制約といふことは、まだこの外にももつと積極的なものが一つあつた。南方さんは語彙が豐富で、聯想が最も鋭く、脇目もふらぬといふ集注力をもつてゐたので、文章の表現にかけては、かの人ほど自由自在な人は曾て見な(427)いのだが、そのかはりには少しく脱線が多過ぎ、殊に下がかつた話を、突兀として出して來るのがすきであつた。是は局面の展開に有效だつたが、同時にこゝばかり印象が濃くなつて、全體の筋をはぐらかすといふ弊も多かつた。多分は國内の初期の讀者が、まともに學問を説いて聞かすだけの、張合ひも無いやうな凡庸ばかりだつたのと、もう一つは醉後に奔放に物をいふ癖が、段々と嵩じて來た爲であらう。英國在留中にも、是が評判だつたといふ話は毎度聽くが、この特徴は文章の上には少しも現はれて居ない。話題の選擇には幾分かその傾きも、見えるけれども、辭句に至つては最も上品に、事實の醜さを押包んで居ることは、英人の書いたものも變るところが無い。是などは必ずしも國語の差ではなく、言はばこちらへ歸つてから、ちと心安だてが過ぎたのである。他日此等の文集が纏まつて世に出たならば、語學者たちの意見も聽くことが出來ようが、私だけは今でも南方氏の英文を、學問上の述作としては、上乘のものだと信じてゐる。それでゐて草稿はいつも小さな紙片に、細字を以て書き下し、どこに一つ推敲の痕などは見えない。いつの間に是だけの練習をせられたかが、先づ問題になるわけである。本を讀むのと文章を味はふのとは我々にとつては、二つのことで、たとへ味はつても其通りに書くといふことは、また第三の難關であつた。ところが先生だけは一つの本を讀み續けると、其夜はきつと其言語でばかり夢を見ると言つて居られた。それほどにも身を入れ心を取られて、讀んで居る書物の言語に、同化して行くことの出來る人だつた。さうして又際限も無く、新古さま／”＼の國の書物を、讀み通した人でもあつた。誰でも知つてゐることらしいから詳しくは説かぬが、たつた一つだけ私の聽いてゐる話をすると、シェクスピアなどは日本にも讀んだといふ人が多いが、自分の如く隅から隅まで、すつかり覺えてゐる人はあるまいと言つて、一度はラヴズ・レエバアズ・ロストの中の地口や口合ひを、數多く列擧せられたこともあつた。しかし沙翁などはまだ尋常のうちとも言へようが、この調子でさま／”＼の奇書珍書を讀み、それを又驚くほどよく記憶して居られたのである。即ち先生の名文は單なる技巧とばかりは言へない。

　

(428)　　　　　　　　　　○

　

　大きな感動を受けつゝも、終に學ぶことの出來なかつた南方さんの篤學ぶりは、ただ算へ立てて居ては片端でも日が暮れてしまふ。その全貌を世に傳へようといふには、やつぱり書翰集を出して置く他は無い。幸ひなことには先生は筆が達者で、この點でも亦超凡の手紙書きであつた。私などの交遊は明治四十三年以後、僅か六年餘りしか續かなかつたが、それでも淨寫をして十數册の量がある。まだこの他にも一丈二丈といふ長い書?を澤山にもらつて、大事にして居た人は何人もあるのだが、私の知つた限りでも、すでに世を去つた人が大分多く、永古に埋没したものがよほどあると思ふ。第一に文字が小さくて癖があり、もらつた當人で無いと一行も讀み下し得ず、從つて藏つて置くだけでは何の役にも立たない。自分は南方家の人たちが承知せられる限り、何としてでも是を世に出す考へだから、是にあることには觸れない積りだが、實によく是までと思ふほど、尋常で無いことばかりが書き列ねてある。他の人への手紙も皆さうだと思ふ。是だけの長い文章の中に、曾て一度でも同じ事をくり返されたことは無く、又辭令の語といふものが殆と無い。さうして?々夜の眞夜中、書いてしまつたら夜が明けたから、すぐに投函するといふやうなのが、日附があり、しかも幾つかは大酒の後と、いふやうなことも書いてある。全く疲れるといふことを知らなかつた人としか見えない。私は久しく斯ういふ通信だけによつて、もう南方さんがどれほど得難い人であるかを知つたつもりで居た。ところがそれ以上に、更に驚くべきことが次々と現はれて、今もまだ終りさうに無いのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　書いて殘して置きたいことがまだ幾つもあるが、この本ではさう多くの頁を取ることが出來ない。私は大正三年の春、たつた一度だけ先生を田邊に訪問したのだが、その時はちつと元氣をつけてから、話をしようとせられた酒が過(429)ぎて、何の問答をすることも出來なかつた。今一晩止まつて居たらよかつたのだが、それが出來ないので翌朝早く、立ちがけに寄つて見ると、頭から蒲團を被つてまだ寢て居られた。僕は大酒をしたあとは目が見えなくなる。顔を出しても無駄だから出さない。話だけならこゝからでも出來るといつて、掻卷の袖を少しひろげて、三十分ほど話をせられた。それが私には最終の機會だつたのである。町の人たちから色々と話を聽いて見たのだが、先生は昨年の始めの頃とかに、どういふわけでか坊ちやんと二人、暫らくの間丸坊主で居られたことがあつたといふ。其話ならば私への手紙にもあつたが、まさか實行せられようとは思はなかつた。神社合祀の政策の勵行せられた頃、先生は極力之を非難し、此上は英米の學者に檄を飛ばして連名の抗議をさせようと、在京の諸友に言つて來られたのを、白井光太郎教授が眞に受けて大いに立腹せられ、そんな心掛けの人とはもう附合ひはせぬと、可なり激しい手紙を送られたさうで、あの大豪傑がそれを見て忽ち心折れ、おれは一生の間御國の光を世に掲げるために、全力を傾けて居た男であるのに、今このやうな一言の心得ちがひから、同志のさげすみを受けたのは口惜しいことだつた。盛んなる者も終には衰へる。もう是で我世も下り阪だらうなどと、しをらしいことを細々と書いて其終りに、絶交とあるからは君から白井氏にさう傳へてくれ。南方は是を發心の因縁として、頭を圓めて無上道に歸入し、其名も法解と呼んでもらふことにする。又法師の兒は法師になるぞよきといふ故事もあるから、倅も同樣に名を法蚓と附けたなどと、さも戯れ言のやうに報じて來られたのだつたが、あまりに奇拔な行ひだつた爲に、人はこの心境を解することが出來なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　紀州の名ある學者たちにきいて見ても、先生の業績には大いなる敬意を表しつつも、其奇行には辟易して、遠くから見て居ようとする者が多かつたらしい。一年の大半を丸裸でくらし、好まぬ客が來るとへどを吐いて追返す、とい(430)ふ類の評判ばかりがあまりにも高く、そのもう一つ後に燃えて居た清い靈魂の光を、望み見る者は少なかつたやうである。今上陛下のまだ御若かつた頃に、熊野の神島の天然を御覽に入れるとて、我が南方翁が出でて嚮導の役を勤められたことがある。それからやゝ時過ぎて私の所へ、一枚の寫眞が黙つて屆けられた。あの赤裸々を名物の南方さんが、ちやんと黒紋附に袴をはいて、島の大木の下にしやがんで居る姿であつた。多分は記念の爲に後になつて寫されたものであらうが、私はそのしをらしい容子を見て、測らずも涙を墜した。酒は我が翁の一生の伴侶で、或は是あるが爲に斯人があるかと思ふほどであつたのに、或時一友人が酒を携へて訪ねて見たら、いつの間にか其酒をすつぱりと罷めて居られた。恐らくはたつた一人の子息の、疾を憂へての餘りだつたかと思はれる。その子息の疾は未だ癒えず、時世はすでに又この通りの變革を見たのである。辨慶魯智深を以て自ら任じ、青山を枯山となすといふほどのたくましい念力をもつた巨人でも、なほ且つこの樣に環境の動きに、追ひ越される場合もあつたのである。もう再び是だけの學者が、出現することは假に望まれぬとしても、その代りには社會はよつてたかつて、行く／＼はもつと大きなことを成し遂げるかもしれない。あきらめる必要は決して無いと思ふ。

　

(431)　　　　　南方熊楠先生

　　　　　　　　――その生き方と生れつき――

　

　南方熊楠先生につきましては、非常にたくさん話題のある方で、私だけでも一日くらゐ話すことはなんでもないくらゐであります。これを取纏めて一言で申しますと、日本民族の可能性、つまりポシビリティといふものをよく實現してをられることであります。ですから先生の周圍にをりましたものは、こんな人は再び日本には生れて來ないだらうといふ感じをもたずにはをられないのでありまして、私はそれに對してこゝで反省してみたいと思ひます。

　日本にも南方先生みたいな人があるといふのが正しいか、日本なればこそ南方先生のやうな人が出たといつてよいかこれはゆつくり考へたいと思ふのであります。差當りわれわれのぜひ解決したいと思ひますことは、どうしたらもう一ぺんかういふ人を日本に生れさせて、そしてより適切にわれわれのために働かせたらいゝかといふことであります。現在の世相を見てをりますと、しみ／”＼とこの點を感ぜずにはゐられないのでありまして、幸ひなことには、私は再び出て來ないといふことを考へたことはないのであります。その證據といふのもをかしいのですが、非常に程度の差をもつて、同じ傾向をもつた人が昔は日本にずゐぶんあつたと思ひます。素盞嗚尊をはじめとして、日本には小規模には現れてをるのであります。素盞嗚尊と申上げたことは極端な例でありますが、王者型、酋長型といふことで第一身體が非常に大きい。それから威力が非常に強い。それから情熱が極度に發露する。憎んでも嫌つてもウンと強く現れる。この型といふものは、昔は當然酋長になりました。必ずしも家々の傳統でなく、系圖でなくても、これが(432)群の中に現れますと、一も二もなくチーフティにしてしまふのであります。世の中がだん／＼變つて參りまして、王者の中におきましても、力よく鼎をあぐといふ人がなく、民間に散らばつて、まれではあるけれども、非常な拘束を受け、不自由な環境に生長したのであります。ですから南方先生の例を申しますと、非常に周圍のものが先生にひどく當つたやうに感じられることはありませんけれども、多くの酋長型、王者型と名づくべき人といふものは、大か小か拘束を受けて進んで來てをります。その上に近來では、これに對立するところの通常型、もつと強い言葉で申しあげるならば家來型、從者型といふものがたくさん仕事をするやうになりました。しかしもし今日私が感じてをりますやうに、日本のこの時世において、どうしてもあゝいふやうな人を、ことにその力を、學問の方にこれを向けられる時代が來たならば、恐らくわれわれ民族は救はれると感ぜざるを得ないのであります。そこで改めてわれわれは南方先生の日記の部、書簡の部といふものを精讀致しまして、今後現れてくるところの偉人に對して、いかなる期待をかけ、いかなる待遇をし、さうして結局においでは、彼らを世の中のためにどういふふうに活用したらいゝかといふことを考へて見たいのであります。

　私は明治四十二、三年ごろ縁があつて先生に接近しはじめて、後にまことに馬鹿げたことで先生からうとんじられて、その間六、七年しかお付合ひをもつてゐない人間であります。しかしそれでも經驗したことは、あれだけの大きな偉人になれるところの仕事をしてをられながら時世の然らしむるところ、環境のいろいろな制限を受けて、これだけしか仕事が出來ずに終られたと思ふと殘念でたまらないのであります。南方先生の可能性から申しましたならばこれは一番殘念なことであります。先生の一生をみますと先生が大學をやめ、アメリカへ行つて彷浪生活を始めるといつたやうな、本來の道筋でなかつたものが非常にたくさん混つてゐるのであります。殘念であると思ひますのは、なにかストライキに加入したとか、仲間を毆つたとかといふ理由でアメリカの大學を放校されたときに、もう一ぺん家の方が寛大な心をもつて金を送られたならば先生の經歴はどう變つたか、先生はこれからの六、七年の永い間を空に(433)してゐる。人間の魂が生長してゆく一番大切な壯年期を、いはば比較的無意味な仕事に暮らされてゐたといふことは、いかにも殘念であります。それから紀州へ歸つて來られてからの四十年間は刻苦精勵の四十年であつたに違ひないし、そのために恐らく日本の下級の植物研究といふものは大飛躍を遂げたらうと思ひます。たゞそれは彼をして熊野の小さな天地に閉ぢ込めたといふことは否むことは出來ないのであります。いまでも私が記憶してをることは、先生は西洋の書物を非常にたくさん讀み、西洋に原稿を送つて、その原稿料はみな本を買つた。新しい書物を讀んでをられる時、日本の書物といふものは紀州にはさうたくさんもつてゐる人はなかつたのであります。あるときは比較的完備してゐる中學校の書庫から監本とか古書刊行會その他のいろ／＼の書物を借り出して來て自由に讀んでをられた。それだけでもたいへん便利であつたのであります。が、なにか喧嘩をして貸すものかといふ結果になつて中學校から監本を借りることも出來なくなつた。この間の不便といふものは非常に大きいのであります。南方さんがさういふ書物に不自由してゐた時代が最もなつかしい古典研究の時代であつたのであります。見やうによりましては、植物學の研究が先生の專念するところとなり、先生をして植物學者のごとき印象を世の中に與へましたが、一方の文化科學のことをとくに申上げましたのは、私が問題にしてゐる南方熊楠が再び現れる見込みがありや否や、一千年に一ぺんとか五百年に一ぺんといふことでなくで、出來るだけ十年、十五年のうちに現す道がないものかどうか。可成り相互の研究を要するところの文化科學が先生の手に觸れる機會が一つもなかつたのであります。言葉を換へて申しますれば、先生をして植物學者として有名な人にしたところの原因こそは、一番悲しんでゐるところの文化科學の現在の衰へを來したものであるといふことすら考へてゐるのでありまして、かういふ會合のありますにつけても、感慨の至りに耐へない次第であります。今日の會は公けの會でありますので、徒らに愛慕景仰の意を披瀝してもしやうがない。それよりも日本の現在の?態にどうしたら南方さんのやうな方を、日本の文化科學の上にほんたうに作り得るかといふことであります。今度出ますところの南方熊楠全集といふものは、決して先生の可能性の極度を示したものでなく、かう(434)いふことの出來たかも知れない人、かういふこともやつてくれられる先生であつたかも知れないといふことを、われ／＼に考へさせるのみならず、それと同時にかういふふうにしたならば、さういふ天分をもつて生れた人をなんらの障害なく、同胞、民族のためにほんたうの意味において働き得る、働き得させることが出來るであらう研究資料にしたいからであります。私が諸君に先立つてこの書物が早く出來ればいゝと待つてゐる理由はそこにある。非常に長くて手紙は一丈くらゐのものが六年間に百五十通くらゐある。これ以外にどういふ手紙をどういふ人に出してをられるかといふことは、われわれには非常に興味がある。どのくらゐまで先生は人を驚かせるために大きなことをいはれ、猥褻なことをいはれて人の氣持をひきつけようとされたのか、どういふところまでが先生のほんたうの心の惱みであり、もしくは巨人が縛られたやうな　　状態の苦しみであつたかといふことをまづもつて知りたい。少しでも先生の身體に繩がかかつてゐるのであるならば、急いでその繩を切りにゆかなければならないのであります。今後現れてくる第二、第三の南方に對しては、初めからさういふ繩をかけないやうにしなければならない。この先生の大きさは、全集の提灯もちのやうに聞えるので心苦しいが、これを讀んで見てはじめてわかる。私の手紙の中にいくらでもさういふ問題がある。念力がどのくらゐあるか、どのくらゐ體力が續いたか、どのくらゐ情熱が高く燃えたかといふことは手紙を見ても、紀州へ歸られてからの日記と思ひますが、熊野に入つてからの日記を讀み返してみるとよく分る。そこに現れたことでは、なにか家にゴタ／＼があつて、奧さんが歸つてしまつて、弱り切つて四十日ばかり酒ばかり飲んでをられた。しまひにやうやく話が丸くまとまつて、再び安堵したときにさあ日記をつけようと一度に四十何日の日記を書いてゐる。女中が家へいつてどういふ傳言をもつて來たといふことまで書き殘してゐる。多くの手紙にはゆふべは愉快なやつがやつて來たから夜明け方まで酒を一斗二升飲んだ後でこの手紙を書くとか、十二時まで顯微鏡を見てをつたが、それからこの手紙を書いて今曉未明に投函にいつたといふやうなことが書いてある。それから俺は一つのものに集中する力は誰よりももつてゐる。一日イタリアの本を讀むと夜の夢はイタリアの夢をみる。フランス語で(435)讀むと他の夢が浮ばないと書いてゐる。この集中力はうらやましいと思ふのであります。二、三のことを申し上げると南方先生は、仲々略のある人つまりかけひきのある人でありました。勿論これは、わるい意味で言ふのではありません。例へば神社合祀の問題の時に、大阪の商人が、木のある方をつぶしてそれの拂ひ下げを願はうと運動してゐた。南方さんは、反對したけれど政府では仲々取締つてはくれない。それで南方さんはあせつて、ずゐ分ひどい手紙を各方面に出したらしいのです。その中には、白井光太郎先生も入つてゐた。白井さんは、常に、南方さんを尊敬してゐたのですけれど、この白井さんの所へきた手紙には、今の政府、役人學者が私の言ふことをきいでくれなければ、世界中の學者に手紙を出して、日本の政府にプロテストさせるといふ樣なことが書いてあつた。それで、白井さんも怒つて南方さんへ絶交?を送つてゐる。この事件について私の所へ二通手紙がきてゐるがそれが面白いのです。始めのには、外國人を利用するのは、策略のことだから、そんなに絶交されるなどとは心外であるとかいてあり、二番目のには、白井さんには、どうか是非あやまつてほしい。その爲に、自分と子供とは剃髪するからと書いてよこしてゐます。そして本當に剃髪してゐます。

　又先生は、今からいへば、舊式の人であつた。このことは、孫文との關係をみるとよく分ります。孫文は英雄であるとは言つてゐます。孫文志を得たならば、梅の名所である羅浮山を國立公園にさせて、自分をそこの園長にさせる約束なんかしてゐます。支那の革命をこんな風にみてをり、又、孫文は兵を知らないから、自分が出て行つてやるとも言つてゐます。とにかく、孫文も南方さんもこんな夢をみてゐたのです。

　とにかく人を嫌ふといふことは集中力の結果であつて、必ずしも世の中を憎んでをられたためとは考へてゐない。私も一ぺんその實例を見ましたが、いやなやつが來て歸らないと、目の前にヘドを吐かれる。ふきもしないでヘドの跡を置いてをられる。さういふ極端な人嫌ひをやられたのであります。紀州の學者達も尊敬しつゝも遠くから尊敬してゐる。私は東京にをりましたので手紙でお付合ひをしたのであります。自分では一つの話の種としていまも思ひ出(436)しますが、私は先生がどうかして酒をやめられたらよからうと思つて、しかもあの御性分では酒をやめられることはなからうと諦めてをつた。ところが不思議なことには、令息が病氣をされまして、心配の極度、パタと酒をやめた。その意思の力の強さといふものは、われわれは理解することが出來ない。ですから今となつては、昔のくり言ではあるけれども、もし先生をして思ひのまゝ仕事だけをさせるとか、もしくはもつと人を毆つたりするいろ／＼の惡癖がつきます前から、周圍のものが英才であり、三百年に一人、五百年に一人しか現れない人であるといふことを知つて、そのつもりで對處するやうな方法があつたならば、こんなふうな傳記を書かずにすんだんぢやないかと思ひます。そんな人は一人もない方がいゝ。みんなでドングリのせいくらべでいゝといつてをられる時代もいゝし、さういふ時代のくることをわれわれは心の中で願つてゐた。しかし今日はさうはゆかない。今日の日本はこゝで一大轉換をしなければならん。とにかく學問の側においては、私はまだ今日凡人には出來ない問題が非常にあることを感じ、尋常なる人のよつてたかつて成し遂げることだけに安心してまかして置けない。昔三十しかなかつたところの粘菌が百何十種に増加したことは大きなことであります。南方先生をさういふことの出來ないやうにしてしまつた、世の中は後悔していゝと思ひます。これから先もあります。徒らに悔むといふことはない。今後の英雄に對しては、初期から考へてゆかなければならない。これは英雄だといふ判斷、ニセものをつかまないやうに、將來英雄になるべきものを判斷する測定の準備は十分進んでをります。少くともこれ以上この人は大きい仕事をする人だといふことになれば、これを出來るだけ保護して學問の方にもつて來なければならない。どうもいまになつてそんなことをいふのは實にいやですけれども、他の人の後ばかり追つてゐるのが一世を支配し、外國のものをやつてゐるのが學者だといふ時代は過ぎた。永遠に南方を出せないやうな國柄であるならばやめなければなるまい。少くとも南方が出てゐる。天と地の中に一ぺんしか現れないといふことはない。さうすれば、日本の可能性は南方先生によつて證明されたものがあるのであります。今日は實は、國民の教育は全部に向つて正しい教育をしなければならんために、凡人を作ることを覺悟の上で普(437)通教育を一生懸命われわれはやつてゐる。またさうしなければならない理由は十分ある。九年の間親元から引取つて義務教育を負はせて置きながら、九年後の世の中に出ても新聞が讀めなかつたり、選擧權を行使することが出來ないといふことでは困る。義務で教育を終る人は必要であります。この必要をあまりに考へる結果として、殘りの優秀兒童を粗末に考へることはいけない。世の中にはいかなる可能性が含まれてゐるかわからない。ほんたうに適性な、これこそ偉人であるといふものを、出來るだけ早目に鑑定の出來るやうな學問を進めてゆかなければならない。偉人を養成するといふこと、正眞正銘の英傑といふものを早く發見して曲りくねる恐れのあるものは曲りくねらさないやうにする。平和な情愛の深い、千人に一つの仕事に向ひ得る人を養成する策を講じたい。恐らくは南方先生の生活を振返つて見れば見るほど、皆さんさういふ氣持におなりだらうと思ひます。

　

(438)　　　　　新佛教のことなど

　

　新佛教は、一つの雜誌の名になる以前、すでに根強い又頼もしい機運を育て上げようとして居た。高嶋君の自傳には、必ずその萌芽時代を記述して居ることゝ思ふが、私などはたゞ遠くから、驚歎の目を見はつて居たばかりだから、精確なることは何一つ書けない。しかし少なくとも今の立場からふり返つて見て、あゝいふ若々しい單純な社會運動は、その後再びは起らなかつたやうな氣がする。

　一つはあの時分の東京の學生に田舍出が多く、地主階級には佛教の信仰がまだ活きて居た爲もあらうし、又一つには僧侶專門の學校がごく少なく、寺院に資力があつて後進養成の必要を痛感し始めた際だつたからでもあらう。ともかくも私などの高等中學時代には、どの級にも必ず二三人の、音で讀まねばならぬやうな名前の青年が居り、それと附合ふやうな學生はみな無口で大人びて、考へ深さうな人ばかりであつた。

　三河の蒲郡の海岸に、海水浴を兼ねての佛教夏季講習會が、何年か續けて行はれたのも其頃のことだつた。私は貧乏で參加し得なかつたが、それから還つて來た人を見て居ると、思ひなしか皆一囘毎に賢こくなつて居るやうな氣がした。それから一方には鎌倉圓覺寺にもすぐれた師家があつて、それへ參禅するといふ噂のある青年も少ない數でなかつた。植村某といふ一級上の學生などは、私は柔道を教へてもらつて居たが、一度も物を言つたのを記憶しないほど寡黙の人だつた。この人は日清戰爭に少尉で出て行つて、記録に殘るほどの立派な戰死をしたが禅はよほど深い處まで進んで居たといふ評判であつた。この以外にも五十何年後の今日まで、自分のよく覺えて居る人は何人かあつて、(439)長命して居れば皆學者になり、又は教界の名士になつた。ただ當初我々の豫想したやうに、是が團結して更に大きな新運動を起すといふことだけは無くてすんだ。新と名のつくものがすべてさうであるやうに、僅かな年數のうちにもう古い話になり、それを記憶する者すら、やがては無くならうとして居る。考へて見てもよいことだと思ふ。

　高嶋氏は年齡が私と同じである上に、門地境涯から言つても、又「新佛教」の經營者としても必ず私の知つて居る青年佛教信者と、私以上の交遊があり、又それ／”＼の成長展開を熟知して居る筈であつた。いつか折があつたら一度、詳しい話を聽いて見たいと思つて居たのだが、其望みも達せられずにしまつた。雜誌の方は勿論評判を聽いて居たけれども、手に取つて讀むことが稀にしか無くて、後年僅かに杉村楚人冠の文章の中から、彼が縱横生の名を以て、縱横に働いて居た時代を想望するばかりであつた。杉村君は佛教の理解者であり、又豐かな知識をもつても居たが、初期の新佛教運動には恐らくは參加せず、又斯ういふ新らしい人たちを參加せしめたことが、一段と統合を困難にした理由かとも思ふ。もしさうだとすれば高嶋氏等の「新佛教」は、たとへ過ぎし日の入相の鐘でないまでも、少なくとも更に新たになる日の東雲を告ぐる響きであつた。

　是は後世の爲にも參考になる事實だが、學生は生活が單純だから、殆と無條件に團結することが出來るけれども、少し大きくなり、行く先がきまりかけると、忽ち同じ途が歩めなくなるのみならず、人のすることが直ぐに氣に入らなくなる。故に統一の爲にもし強壓が許せなければ、先づ大きな調和を計畫しなければならぬが、それが新たに世に立つ者の、何よりも苦手なのである。曉烏敏氏の眞摯な傳道でも、河上肇君を動かした伊藤證信氏の無我の愛でも、又自分などの特に景慕して居る舊友多田鼎君の教化生活でも、なほ且つ容認し難いものを、この初期の新佛教運動の中に見出したのであつた。さうして最もこの四分五裂の寂寞に堪へられぬ者が、或は文章に遊び、學藝に没頭し、又は俗僧の間に伍して、辛うじて孤立の平和を保持しようとし、再び當ても無く第二の新機運を想望して居たのである。

　どこまで高嶋君の自傳がこの體驗を告白して居るであらうか。そこの點をもう少し詳しくと尋ねて見ることも今は(440)望まれず、又それを利用する力も私には殘つて居ない。私はあの記念すべき鷄聲が窪の書店の前を、目禮して通る位の間柄で十何年を過ぎて居たが、或時偶然に妻木直良君といふ學者の仲介で、いはゆる原町會の御歴々と交際するやうになつた。是が後年の明八會なるものの母體だつたので、妙に明治八年生れの人が多いといふ關係から、多分高嶋君が首唱したのであらう。時は大正八年の八月八日、會場は向島の八百松、會費は八圓で創立會を催した。私はちやうど官海の波濤を乘り切らうとして居る最中で缺席したが、會員もたしか八人となつて居たかと思ふ。原町會の驍將中川忠順君は二つ三つ年長であつたかと記憶するが、此時はもう居られなかつた。島地大等氏は我々と同年で、是が先づ唯一の新佛教殘黨で、其他には吉川靈華結城素明長谷川基等の諸君、よくも此樣に異色を備へたものと思ふやうであつたが、是が皆米峰先生を圍繞した惑星といふべきものだつた。原町會の結構な傳統は、陰險で無いこと、面と向つて幾らでも人の批判をすることで、是にはおのづから應酬の輕快な、高嶋君を目ざしたものゝ多くなる傾向があつたらしく、それを引繼いでか明八會の次々の會同でも、うつかり眞顔になつて擔がれてはならぬといふ用心振りが、この翁の言葉の端々にも窺はれたのは淋しいと思つた。一度はしみ／”＼と過ぎ去つた若人の憶ひ出を語り、明けても暮れても念頭を去らぬ家のことや子のことを、話し合つて見たいといふ願ひは切であつたが、街から遠くに住み足もとが惡くなつて、三鷹の三年餘の籠居中にさへ、一度も訪れてさし向ひの話をすることが出來なかつたのは、今となつては大きな心殘りである。幸ひに世に出る自傳といふものを讀んで見たら、いろ／＼と悲しくなることが多いであらう。

　

(441)　　　　　無意識の歴史家

　

　一つの問題は、楚人冠氏のやうな正眞生粹のジヤァナリスト、豫言はきらひ、追懷にもあまり深入りせず、觀察は現在で且つ近所、批判は目前の問題從つて讀者は同時代人の中だけに限局して、ちつとも不自由をしないといふ人の文章が、どうして又永く傳はり、いつ迄も面白くうれしく讀まれるかといふことである。自分は此全集を勉強することによつて、約三十ばかりの理由を發見し得たやうな氣がするが、そのうち先づ目ぼしいものを二つ三つ列擧して見る。

　第一には君の文章、これが腹に思つて居ることゝ非常に近い。誰だつてさう願はない文士は一人も無いし、心にも無いことを書くといへば皆怒るが、實際は中々斯うは行かぬのである。一つは言葉によそ行きと不斷着とが有る時代だから已むを得ぬが、假にその點は何とかなつても、我々のやうにだらしなく、とつおいつといふ考へ方をして居たら、さて書くといふ段になつて改まり、且つ大いに苦しまなければならぬ。文章で世に立つほどの人は、最初から別に其用意があるものと思はれる。わざとで無くとも文章になるやうに感じ又は思ひ、寧ろ世の中の爲に文章になるやうな生活を楚人冠はして居る。そつと脇からその獨りごとを筆記して置いても、立派に讀める隨筆が出來るのではないかと私などは思つて居る。

　勿論腹で思つて居るよりも、書いたものゝ方がずつと短い。さうして楚人冠の省筆は、巧妙といふより以上に實に自然である。學んで得たらうとは到底思はれぬから、つまりはこの順序で心の底から出て來るのを、よいほどに切つ(442)ては竝べて居るのである。直接話をしたものなら皆知つて居るが、話にも文章と同じに順序が立ち、心持がよく繋がつて居る。どんな警句を吐いても、其爲に後先を忘れてしまふやうなことは無い。この點我々の孕み句などゝいふやつとは、丸で質を異にして居る。しやれの分類を説くのは爰は其場所で無いが、しやれで笑はせたゞけでは只の幇間に過ぎない。杉村君のは必ず之を全文章の效果に利用して居る。さうして又ひどく凡庸のしやれを輕蔑して居る。

　それで居て個々の言葉の價値を重視することも、彼に及ぶ者は他には居ない。其爲にいつも現代語を篩にかけ、幾ら流行してもいやな語は使はぬと共に、氣に入つたらどし／＼採用する。だから全集で讀むとわかるやうに、楚人冠の文章は次々に新らしくなつて居る。是はいやしくも文筆に携はる者の公義務なのだが、大抵の先輩は皆御若い頃の癖を持つてござる。乃ち文章道の正しい記録として、永くこの全集だけが役立つべき理由である、古書が我々に傳へようとする時代といふものは、ほんの或一期の盛りの姿のやうに、今までは思つて居たのであるが、氣を付けて讀んだせゐか、此集には確かに數十年の變遷が見られる。さうしていつ迄も世と共に新らしく、常に尖端の讀者と對等に會話して居るやうに見えるのは、獨り筆者が新聞人であつた爲のみでは無い。そも／＼又生活と文章とを、一致させて居る人の役�ｺとして、こゝに若返りの泉を掬むことが出來るのだと思ふ。

　それからもう一つ。世間では名物の如く認めて居る楚人冠の皮肉、是に就いても私はやゝ別な考へ方をして居る。成るほど全集の隅から隅まで、どこにも少數意見といふやうなものばかりが盈ち溢れて居るが、是を時流と逆行した隱者的態度とまでは自分などは見て居ない。もしも天性であり、修得を要せざる技能であつたら、寧ろ幸福なる生れ付きといひたい位である。凡俗を嘲笑し因習を疾視する趣味といふものは、既に明治以前から日本には頭を出して居る。赤ん坊までを勘定に入れたら或は心細い少數かも知れないが、讀書人の中では實は此方が有力の部隊なのである。それが一人々々、先生のいふことはわしにはよく解ると、膝を打つ所に文章の魅力がある。それを鋭どく感じ無造作に言つてのけるのが、言はゞ滿天下の要望であつたのである。しかもその笑はるゝ平凡、憎みさげすまれる因習など(443)といふものが、思つたより短命なもので、又誰も其爲に記録を遺さうといふ特志家は無い。我々は幸ひに杉村君の罵倒によつて、多くの明治大正の愚かさの存在を學び得るのである。歴史を書かうとせずして是が歴史、傳記をきらひながら自然に或一つの價値ある生涯を不朽にして居る。碌な意見もないくせに、是非を百年の後昆に問ふなどゝ、面白くも何ともないものをだら／＼と書いて居る連中は、急いでこの無意識の歴史家の前に脱帽するがよいのである。

　

(444)　　　　　法制局時代の上山氏

　

　　　　　　　　　　一

　

　上山氏と時を同じくして法制局に働いた人は、長官では一木男爵たつた一人、參事官では吉村源太郎君と、小生とだけが生き殘つて居る。指を折つて算へて見ると、奧田、岡野、龜井、道家、有松、鹿子木、大内、小林、下岡、早尾、岡、江木、中西、菊地、馬場、立花等の諸君は悉く泉下に歸し、その又周圍の者も既に離れ／”＼になつて居る。時が三十何年も經つたのだから是は是非も無いが、あれ程活?に又力を入れて通つて來た盛りの年が、囘顧して殆と空白に近くなつて居るのは寂しいことだと思ふ。さういふ中でも私は夙く官場を去り、又幾分か之を疎んずる心を抱いて居た爲に、殊に的確に當時の印象を持ち傳へて居ない。役人に許される最大限の自由を以て、時世を觀察し政策を批判し、如何なる小さな案件でも、文句を付けずには通すまいとし、一日として議論をせずに過ぎた日は無く、その議論の一方には大抵は上山氏が加はつて居たことを記憶するが、さて其問題は何であつたか、如何なる種類のものに特に上山氏が力を入れ、又其所見を貫徹せられたらうかといふことは考へ出せない。思ふにあの頃はまだ思想に左右無く、利害派閥の分立が少なくとも法制局内には無かつた爲に、各人の立場は問題毎に交錯して、言はゞ其日々々の正しいと思ふことを主張して相讓らなかつたまでであらう。内閣の古い書類を出して見たならば、上山氏が立案起草したものも色々と保存せられ、之に由つて想ひ起すことも多く又功績の認めらるべきものが必ず顯れて來るだらう(445)と思ふが、さういふことは今の自分としては出來ない。上山氏は筆豆な、殊に意見書をよく書く人であつた。恐らくは文章の力に自信があつたのであらう。日記も確かに詳しく付けて居たのだが、現在傳はつて居るものは僅かに前後數箇月間の斷片であつて、特に重要なる日露開戰前のものなどは亡失して居る。是は熟慮の結果廢棄せられたものと私は想像する。自分が世渡りの初期に於て、六年の久しき間尊信し又兄事した同僚に就いて、是といふ纏まつた記録も作れないのは恥ぢてよいが、斯ういふ機會が來ようとは豫期もせぬうちに、年を取つてしまつたのだから致し方が無い。吉村源太郎君にも一應は相談して見たのだが、やはり具體的な事件は覺えて居るものが無いといふことであつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　環境から見ても又年齒から考へても、明治三十七八年は君の仕事の、最も油の乘つて居た時代のやうに感じられる。法制局は其頃から既に一部二部に分たれ、上山氏の屬した第一部は内務農商務の外に、陸海軍と内閣直接の事務とを管掌して居た。宣戰布告に至るまでの用意として、合議に付し難い機密の案件が幾つかあつて、單獨に調査を命ぜられて居た樣子だつたが、確かなことは私は知らない。北部黄海の作戰が愈々進展すると共に、君は選ばれて佐世保捕獲審檢所の評定官となり、何度か東京との間を往來して居た。それが年末には又喚び寄せられて、小林、下岡の二氏と共に、重要なる財政諸法案の準備を命ぜられ、數日の深夜作業を續けて居たのを、我々少壯參事官どもは、ゆつくりとした正月休みを貰ひつゝも、心頗る平らかならず、觀望して居たことを記憶する。

　上山氏の政治的體驗にも、此間に養はれたものが多いのではないか、と想像してもよい理由が若干ある。大學を出たばかりで直ぐに官界へ送り込まれ、小さな局課の事務に何等かの成績を擧げなければならぬ者は、誰だつても皆同じことであらうが、世間を知つたと思つても交友は偏し、生活の興味は限定せられ勝ちであつた。素より讀書は怠ら(446)なかつたやうだが、それとても多くは或先覺の頭腦左透して、思ひ又は判斷するに過ぎなかつたのである。それがあの人心の大動搖期に際して丸々畠ちがひの佐世保見たやうな土地に入つて、色々の人たちと付き合ひ又共に働いたといふことは、確かに新らしい一つの機會であつた。松室致氏その他の司法部を代表した同僚からも、可なり好い印象を受けられたといふ話であつたが、この方はそれでもまだ縁がやゝ近い。今まで全く無縁であつた海軍武人の中から、上山氏が爰で幾人かの興味ある友だちを、見つけられたのは奇遇であつた。其交遊がどの位久しく續いたかは私も知らぬが、とにかく當時あの軍港に集まつて居た中堅將校には、話の最も面白い氣持のいゝ人物が幾人かあつたことは事實で、それが少しでも閑があると、互ひに引張り出しては飲んで居たのだから、機會は勿論多かつたわけである。此間の消息は、小山松吉氏などがまだ記憶して居られるであらう。自分も三十七年の晩秋に佐世保に行つて、もう上山氏が多くのおら貴樣の友だちを、盃酒の間に獲得して居ることを發見した。所謂つきあひの道では上山氏は古風であつた。一夕の歡醉を共にすれば乃ち心を許し、又相手をして心を許さしめた。私の知つて居る限りでも、彼等海軍々人の中には中々の西洋通があり、又非凡なる讀書家も居た。事實と數字とには何れも皆精確であつた。しかも實際の政治には今日の如く接觸して居なかつた故に、其批判は冷靜であり、時としては皮肉でさへあつた。上山氏がさういふ思想と見解にかぶれたといふことは、絶對に考へられないが、少なくとも斯んな物の見方もある、斯んな未来の豫測なり希望なりが有るといふことを、新たに學び知つたであらうことだけは明かで、それが上山氏の爲に、ひいては又彼を取圍んだ有力なる文官群の爲に、次の時代を用意する資料となつたことも亦爭はれない。

　

　　　　　　　　　　三

　

　全體に私などの認めて居る上山氏の美�ｺは、知識慾の旺盛であり、理解と趣味との共に廣汎なことであつた。法制局の先輩の中には、所謂聽上手が多く、何時問でもさも感心したやうに眞顔になつて、受け返事をしてくれる人も居(447)たが、後になつて、試して見ると、それは皆佛蘭西仕込みの社交術であつて、利用をしないのみか覺えてさへも居てくれなかつたことを、發見するのが毎度であつた。之に反して上山氏一人は、聽くときには殆と無表情な、興味をもつとも思へないやうな顔をして居ても、人の話のかんどころともいふべきものを捉へて、しかも自分の判斷を以て取捨して居たことは、久しからずして私にもよく判つた。といふわけは他日何かそれと關係のある話をする際には、必ず同じ相手に向つて、以前の會話を想ひ出すやうな形式を以て、説明をしようとしたからである。斯ういふ一身の問題を持出すのも恐れ入るが、私は旅行が甚だ好きであつて、田舍へ出張するといつも珍妙な、役人には縁も無いやうな見聞を携へ還り、同僚をつかまへて話したがるといふ惡い癖を持つて居た。さういふ場合に少しひやかすのも上山氏だつたが、其割にはよく覺えて居てくれられた。或は自分にもさういふ餘分のポケットのやうなものが、見えないところに有つたのではないかと、今になつかしく思つて居る。上山氏歿せられて後數月、處分せられたかと思ふ雜本の中に拙著後狩詞記なる小册子がまじつて居た。是が明治四十一年にたつた五十部だけ私が印刷させて、知友の間に頒つた珍本であって、久しく青山通りの古書店に陳列せられて居た。馬鹿げた高價を付けて居た爲に、捻くりまはしたゞけで行ってしまふ人が多く、最後に名古屋の好事家の手に歸したが、其間に私は五六人の人からあの本の扉に「上山大人に呈す、馬の御禮」と書いてあるのはどういふわけかと尋ねられたのである。それで思ひ出したのは同じ年の夏、たしか行政裁判所の用で福島縣に行かれた際に、木彫りの玩具の三春馬を、わざ／＼私の爲に求めて来て贈られたのである。私は蒐集の道楽は淡く、しかも今出來の洋紙洋紅の彩色の粗末なものだつたが、その氣持がうれしいので久しく床の間の隅に安置し、それを見ながら斯ういふ戯れの獻呈辭を書いたのが、測らずもこの本と共に永世の記念となつたのである。肝要なる公の業績に就てはもう何の記憶も存しないで、却つてこの樣な一些事が新たに追懷の涙を誘ふのも、單なる老友の氣紛れといふ以上に、或は上山氏の傳はらざる半面、どんな小さな縁の遠い題目にも興味を分たうとする心の温かみが永くこの人生の夢の跡に、殘り留まるべきものであったからではないかと思ふ。

(448)　さういふ中でも新たなる學問に對する理解は、特に等倫を抽んでたものを持つて居られた。自身は若くから世に用ゐられて、時を研究の爲に費すことが出来なかつたけれども、人が何等かの餘分の讀書をして居ることを、非常に珍らしがり又ゆかしがつて、未だ曾て無用とも道樂とも、冷評せられるやうな語氣の無かつたのは、當り前の話だがあの時代の官吏の癖とは反して居た。山林局長になつてから後も、部下に埋もれて居た所謂變り者、何か一能に秀で一つの問題に詳しい人があれば、自分も近づけて話をさせ、又我々にも紹介せられた例は多かつた。山林や農務だから效果は小さかつたが、もしも何かの都合で文部大臣にでもなつて居られたら、或は大學なども今よりはもつと元氣よく、頸に環を嵌めて置いて鮎を嚥ませられるやうな、早急な注文を受けずにすんだかも知れない。

　

　　　　　　　　　　四

　

　それは試みやうも無いむだな想像であるが、とにかくに上山氏の學問に對する温情は、既に壯年の頃から私などにはよく感じられて居た。日本人の事業としては例の少ない高砂族の古傳集録が、上山基金の力に據つて完成し、之に先だつて周防國府址の研究が、同じく上山氏の意思一つで郷土史の中に光を放つことになつたのも、人は驚いたか知らぬが私には意外で無い。もつと金があり又力があつたら、まだ／＼幾つかの仕事を爲し遂げる筈であつたのが、寧ろ其素質を十分には展開し得ずに、終つたかと思ふ憾みさへあるのである。

　境涯は?々人の功績を制約する。しかも傳記は通例その事績に依つて、書き上げられるものであるが故に、持つて生れた美しい半面の、傳はらずにしまふのも已むを得ない。上山氏が法制局に在つて重く用ゐられ、思ふ存分の働きを見せられたのは幸福なやうだが、其代りには毎度誤解せられ、人には斯ういふ物解りのよい、何にでも同情の持てる人では無いやうな印象ばかりを與へて居る。全體に理窟をこねず、容易に説き伏せられてしまふことを、意氣地無しとして賤しむやうな氣風の役所ではあつたが、さういふ中でも上山氏は議論がきつかつた。一度主張をし出すと先(449)づ大抵は折れない。仲間うちでももてあつかふことが多く、御蔭で我々はよい修行になつたが、外から來た人は難澁をした。松崎壽三氏なども漁業法案の場合に、たしか相應に手こずられた筈である。しかし内務や農商務の方面では、舊友が多いから喧嘩別れにもめつたにならなかつたが、陸海軍の若手連には癇癪を起して、どうして法制局には解散が無いのかなどゝ、いきまいた者さへあつた位である。他の參事官とてもおとなしいことは無かつたが、首魁と目ざされたのはいつも上山氏で、一時は正直なところ可なり評判が惡かつた。一つにはあの顔付きの幾分か陰氣くさく、愛想の乏しいことも原因であつたらうが、それよりも斯ういふ毎度の論爭が張合ひとなり又負けぬ氣を刺戟して、明けても暮れても調査三昧、誰よりも熱心に職務に打込んで居た爲に、時としては法規先例一點張りの、他には何の餘裕も無い人の如き、誤つた推測を受け易かつたのである。脇から觀察して居た私たちに取つて、是ほど見當ちがひな誤解は無いと思つたが、世間も程無くその見そこなひを覺り、もう以前の評判などは忘れてしまつて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　しかし法制局を出て行かれた當座といふものは、實は少々勝手がちがつた様な感じが無いでもなかつた。多分は新らしい事實の興味が、濃厚であつた爲だらうと思ふが、何だか急に話好きの、氣の軽い人になつたなと、思ふやうなことが?々有つた。あれで昔は中々やかましい人だつたと聽いて、本當かなどゝ云ふ者が段々と多くなつた。議論は相手が無いのだからしなかつたのは當然だが、理窟つぽいこともどうやらあまり言はれなくなつたらしいのは、寧ろ我々の意外とする所であつた。是を修養の力と解するには、少しばかり時間が早過ぎる。やはり天性の知識慾と聰明とが、爰では活躍すべき機會があまりに多くて、第二の長處を取出して働かせるだけの餘地が、法制局時代ほどには得られなかつた爲と、解するの他はないのである。逢つて細々と問ひ訊ねて見る折は無かつたけれども、もしもさういふ態度を以て臨んで居られたとすれば、其後の上山氏の官場生活は、恐らくは以前にも増して快適なものであつた(450)らう。新らしい事實と話の種、聽いて下さるならば幾らでも、述べて見たいと思ふ者が到る處に待ち構へて居た。しかも樂しんで其言に耳を傾けるといふことが、自然に問題を發見させ、もしくは對策を暗示しただけで無く、之を小にしては色々の人の長處が顯はれ、屈し沈んで居たものが暢び浮び、部内は悦服して競うて其所見を呈せんとするやうになる。所謂衆智を綜合した施設が、上山氏の治下に在つて行はれ易かつたのも、由来する所は遠く又興味があるのだが、なほ法制局時代の皮相なる印象に囚へられた者だけは、是を意外の變化として驚歎せずには居られなかつたらうと思ふ。日本の官吏には、壯年の頃法律の理に詳しく、論難の術に長ずと目せられた、俊秀の士は輩出して居る。上山氏は必ずしもその雄なる者で無かつたのみならず、寧ろ幾分かその才鋒機略を、露出し過ぎたかの嫌ひさへあつた。しかも彼等の或者がやゝ其能を恃んで、前途の計畫を誤り、收拾轉囘の謀に疎であつたに反して、上山氏の如きは此間に處して、いつの間にか大に自ら學んで居る。殊に雜然たる多數の論議の中から、自在に取捨判別して、正しい一つのものに就くといふ敏活なる判斷は、もし練習の期間があつたとすれば、法制局時代より他には無い筈であるが、あの一歩も引かぬやうな熱烈な主張の傍に、よくもそれだけの餘力があつたものだと思ふ。是は全く天性の探求心、あゝは見えても人の言ふことを、一言も粗末には聽き流すまいとした良い心掛けが、もうあの時から下に導いて居たものと思はれる。

　

　　　　　　　　　　六

　

　國家の爲に或一人の功臣の傳を立てようとせられる人々の企てと、我々昔の友だちの私情とは、時としては兩立しにくいものがある。殊に私は久しく草莽の間に起臥して居る爲に、曾て無限の關心を抱いて觀望して居た政界の事情にも、もう再び念頭に浮び來らぬものが多くなつた。上山氏の生涯の基礎工事として、もつと重要なる部分をこの法制局時代が、占めて居るかと思ふ節はあるのだが、それを確實に述べ盡すだけの、史料を持たぬのだから是は致し方(451)が無い。たゞ私が忘れてしまつたならば、或は永遠に傳はらぬかと思ふ二三の些事を録して、採否を編纂者に一任せんとするのみである。我々の居た頃までは、法制局は一種の研究所、乃至は學校のやうな性質を半面には具へて居た。議會が幾度か解散せられると、審議立案の事務は忽ち進行を中止する。外地の施設の如きも一般にまだ簡易であつて、懸案といふものが尠なく、暫く閑散の日の續くことも稀でなかつた。用の無い時には我々は讀書をした。もしくは調査と稱して數旬の旅行をした。旅行から還ると無論報告がある。或は特に専門の研究者を聘して、談話を聽くことなども多かつたが、何れも氣の置けない間柄であつた故に、後は雜談となつて茶を啜り笑ひ樂しみ、たま／＼來合せた外部の人々に、斯んな氣樂な所なのかと、言はせたことも二度や三度で無かつた。勝手な話をして暮すことが、嫌ひな者はあるわけが無いが、さういふ中でも上山氏は一流であつた。さうして又特に多岐複雜なる題目を貯へて居た。

　上山氏の趣味は詩書碁球、酒も竝以上に其意義を認めて居られたやうだが、分けても前代を語ることが好きであつた。今日は何か學問の一つでもあるかの如く、認められて居る郷土の知識、あれを普通の山口人よりも、ずつと豐富に又精確に、ほゞ整頓して上山氏は持つて居られた。それが私にも著しい感化を與へ、同時に私の物好きな研究に、尻押しせられた原因にもなつて居る。我々二人が仲間をそつちのけにして、折に話し合つた題目も色々あるが、其中でも今によく記憶して居るのは家の昔といふことであつた。上山氏の先祖は太平記の中に、四條畷の戰死者として上山某が名を留めて居る。どうも彼らしいと言つて生首の繪などを、畫家に描かせたものを見せられたことがある。證據は無かつたやうだが御互ひに農民の家に生れて、單に文字を利用しなかつたばかりに、僅か四五百年前の親々の名まで、思ひ出せないのは不自由な話だけれども、たとへ名前は知れなくても、子孫に我々のやうな者を出さうといふ家だつたら、何れは生活方針の確立した、戰場へ出た以上は働き抜き、首にでも何にでもなつてしまはうといふ、きもだましひの人だつたと見てよからうなどゝ、勝手な結論を下して話はすんだ。しかし此樣な一時の氣休めを以て、片付けてしまふことの出來ないほど、多くの無名の舊家が我邦には有る。その家々の先祖の功業を、少しでも具體的に(452)知つて行くには、是は何でも今までの歴史と、丸で異なつた方法を考へ出さねばならぬといふことを、實は我々は推論しないでは居られなかつたのである。

　或はもう誰かゞ此書物わ中に、もつと詳しく述べて居られるのかも知らぬが、自分も此際に聽いてよく覺えて居る。上山氏の一門は古い家筋であるが、家に傳はつた口碑は取留めも無く幽かなものであつた。無論本家の古い代の出來事であらうが、或時二人の若い兄弟が、系圖を出して來て爐の端でそれを見て居た。そこへ母親が來て其樣子を見て、いきなり系圖を取上げて圍爐裏の火に投込んでしまつた。それから以來この一門の、昔の事は判らなくなつたといふ話である。外部の人たちには、恐らく想像も及ばぬことであつたらうが、法制局といふところは理窟を捏ね、明けても暮れても議論を闘はして居る役所でも無かつた。時には用が無いと斯ういふ話が出て、感動もすれば又しんみりと考へさせられることもあつたのである。それが我々の現實の職務に、如何なる參考を供したかは説くことが出来ない。しかし少なくとも其印象は深かつた。私は今でも家の永續といふ問題に逢着する毎に、かの二人の青年の青雲の志を抑壓して、祖先の血食を絶つまいとした、無名の老夫人の非常手段を想ひ起し、飜つては又晩年の上山氏の、少しく淋しかつた家庭生活に懷を寄せて、獨り竊かに嗟歎せざるを得なかつたのである。世には家とか故郷とかいふことを、丸で念頭に置かずに一生涯、活動して居る名士も隨分ある。さういふ人たちに取つては問題は小さいかも知れぬが、上山氏の郷土愛に至つては異數であつた。如何なる繁劇の職に在り、どんな遠方の土地をあるいて居ても、いつでも喜んで故國の爲に、計畫し指導し又援助しようとせられたのも、上山氏の場合に於ては努力ではなかつた。家と土地との遠く久しい因縁が、未來もなほ永く續くべきものであることを、常から思つて居られたのが動機であつたことは、私などには少しも疑ふことが出來ない。勿論周防人の思慕と感謝との中に、この美しい愛情は活きて傳はるであらうが、是を永世の記念とする爲には別に又方法が無ければなるまい。故人が最も尊重せられた一つの學問、即ち國を今日の盛大に致した、多數無名の常民の生活を尋ね、その埋没しきつた功績を少しでも世に明かにすることが、同時に(453)又上山氏の名を不朽にする事業ではないかと私は思ふ。

　

(454)　　　　　追思録その他

　

　妻を亡くした人の文學の中で、自分が深い印象を受けて居るのは、廣瀬旭莊の追思録一卷である。旭莊は近代第一流の文章家ではあるが、この書の人を動かす力は、寧ろこの文の眞率素朴に在るかと思はれる。是は氣質の豪壯、毀譽批判に超越した逸士の風格を備へなければ出來ぬことである。日本儒林叢書などゝいふものゝ中にある故に、版にはなつて居るが讀んだ人が尠ない。今でも記憶する一節だけを抄出すると、

　十一月ノ初メ頃、醫ヨリ勸メテ毎日腰湯ヲサセタリ。余其傍ニ在テ衣ヲ?ゲタルヲ見ルニ、百體悉ク現レテ肉ハ少シモナシ。余トテモ全快ハ出来ズト心ヲ痛マシメ、胸ヲ撲テ慟哭シケレバ、文敬走リ來テ余ヲ扶ケテ臥サシメタリ。是ヨリ歿スルマデ四十餘日、日トシテ瀉泣セザルハナシ。室氏毎度笑フテ、女房ノ病氣ニ泣ク男子ガアル者カト云フ。

　室氏合原氏松子は此年が二十九歳であつた。是を見ても女は男よりも覺悟のよいことがわかる。つい近頃も或家の若い夫人が、もういけないといふことを言つて聽かされてから、靜かに子供の身のまはりのことなどを頼んで逝つた話がある。めつたに死の告知を與へられる場合はあるまいが、自分で心づいて用意をする人は多いやうに思ふ。

　寺田寅彦君の藪柑子か冬彦集であつたかに、忘れ難い一文がある。土佐の舊居の或夏の日の夕方の追憶で、庭には樹竹が多く飛石は水に沾れ、奧には人聲がして、白い浴衣の若い女性が、斜めに庭を向いて縁に腰かけて居る。それが亡くなつた前の夫人であるといふ一節、是などは次の夫人が讀んで見ても、やさしい同情を起さずには居られない(455)感懷だと思ふ。私の身内の者にも時過ぎて後に、斯ういふ歌を詠んだのがある。

　　　月見れば月にいよ／＼白かりし

　　　　　　妹がおもわぞおもかげに立つ

　日本には歌といふ都合のよいものがあるから斯ういふことも言へるが、言はずに終つたこの折々の思ひ出も、一人々々に隨分多いことであらうと思ふ。澤田君などは早い頃に二人の生活を始めて居るから、きつと誰よりも書いて殘せない話題が、數多く念頭に浮んでは消えることゝ思ふ。私の養父母は六十六年の同棲中、大きな旅行もせず仲よく暮らして居て、父が八十四の年に、母が七十九歳で先へ行き、十一箇月おくれて父も亡くなつた。其間の悲しみは日記にも何にも書いては居らぬが、孫の一人は斯ういふ話を聽いたと言つて居る。始めておばあさんを見たのは、まだ手習に通つて居る路でであつた。眞赤な頻ツぺたをして、はなを出して居たよとおぢい樣が話されたさうである。斯ういふなつかしい思ひ出は、歌にもならぬのだから致し方が無い。

　人は歎きの最も切なるとき、即ち故友の頻りに慰めに來てくれる頃に、歌に心情を留めようとするから行きつまる。少なくとも誰でもいふやうな言葉で、僅かな部分をしか表白し得ずにしまふのである。たとへ文字には掲げることを得なくとも、時經てゆくりなく思ひ浮べ、人と心境の異なるが爲に、心で味はつて外に發せずに終るものに、まだ／＼悠々たる悲しみの歌が多いことゝ思ふ。

　泉圓《いづみまどか》といふ人は北越で名を知られた歌詠みで、歌集も刊行せられて居て見たことがあるが、一首しか今私は覺えて居ない。

　　　誰か爲と思ふも悲しわぎもこが

　　　　　　櫛笥にのこるをしの思ひ羽

　鴛鴦の思ひ羽は男の愛を繋ぐ爲に、婦人が守りのやうにして持つて居るといふ俗信があつたやうだが、是がもし現(456)實にそれを亡妻の閨に見つけたので無く、又はもう年を取つて後のことだつたら、たゞ一つの趣向で興がさめると思ふ。香川景樹の『またぬ青葉』といふのは、妻の喪に籠つた間の日記だが、是にも私は胸を搏つやうな歌を記憶して居ない。たゞ一首、先年も京都で或學問上の機會に、ふと共鳴して人に語つたことだが、本たうにさういふ感じがしたらうと思ふ歌がある。桂園先生は七日々々の墓參りをして居るうち、或日ふと墓の前の新らしい土の上に、小さな雜草を見つけてうつむいて拔棄てられた。其時の歌といふのがこの歌日記の終りの方に見えて居る。

　　　千代を經ん後こそ草の原ならめ

　　　　　　かげ今よりも見え渡るかな

　

(457)　　　　　境を歩む人

　

　佐々木君が此樣に世を早うする人だつたら、止めて置けばよかつたと思ふやうな忠言を何度か私は呈して居る。この人生の無常と名づくるものが、我々の豫算を紛亂させることは非常なものだが、さりとて是を勘定に入れたのでは丸で計畫が立たない。やはり機會のある毎に、是をも一つの問題として考へて見るの他は無いのである。今でも最も氣になつて居るのは最終の伊豆中川村の調査が或は大きな影響を佐々木君の健康の上に、與へたのでは無いかといふことである。是は天城山の西南側に在る村で、徒歩の區域もさまで廣漠では無かつたのに、佐々木君は其入口の鑛泉旅館に數宿して、隣部落の人の話を筆記しただけで還つて來た。それを休養と見て置けば何でも無かつたのだが、採集だといふので私が故障を唱へた。さうして遣りなほしの方法を考へて居るうちに、今度は相談をせずに一人で又出かけて行つた。それがもう大分寒くなつてからのやうに記憶する。歸つて風を引いて寢てしまつて後まで、頻りに自分が行くから殘して置いてくれと謂つて居たのを見ると、よく／＼他の人には手を着けさせたくなかつたので、たとへ偶然の結果にもせよ、今さらそれ迄の發奮をさせる必要は無かつたものをと思ひ出すたびにいつも歎息して居る。

　しかし大體から言ふと、佐々木君は執着のやゝ淡い人であつた。逢ふたびに必ず何か新らしい話をして、それが大きな印象を殘し又結末の付かぬ場合にも、自分は忘れたかのやうに再びは其題目に觸れない。人の話に先づ興味をもつのも彼だが、少し念入りな説明が始まるともう飽きる。單なる洞察の力といふより以上に、何か外からは測り難い感覺の鋭どさがあつて、或は弱體がその累積に堪へなかつたのではないかとさへ思はれる。幸ひなことには、當人は(458)さして是を苦にして居なかつた。寧ろ時々は蜂蝶が蜜を求めるやうに、目移り枝移りする新花の多いことを、喜ぶやうな樣子さへあつた。觀察と思辨とを足場とする近代の諸學、殊に是より大いに成長すべき我々の研究に於て、この結論さへ明敏に把握すれば、過程は人に委ねて可なりとする態度ほど、害毒の多いものは無いと私は思つて居た。外國の學者の書いたもので勉強する人々、さういふ中でも大學の寵兒たちには、往々にして脱し難い癖であるが、先輩が口を開けば必ず何等かの正しいことを附加へるものと思ひ、坐して其成績を待てば、自然に人間は慧しくなるかの如く樂觀して居ると、いつかは今日のやうな途法にくれる時が來るのである。學問にも折々の逆戻り、もしくは他日の匡正に非常な手數のかゝる紛亂は生じ得る。それを全く知らぬやうな佐々木君ではなかつたけれども、やはり文化の新機運を信ずるの餘り、我と我が自然の疑ひの心を、醉はせ且つ睡らせようとして居たのである。

　いはゆる人文地理の學問の前途、是が無邊際に發育する學問であることは、私なども十分に信じて居る。しかも最近の未來百年五十年に於て、如何なる進路をとつて行くか、又行くのがよいかといふ點に就いては、無識も手傳つてではあるが、その全部がすべて私には疑ひであつた。たとへば獨逸の民俗學界で、働いて居る人の多數は地理學者で、從つて地圖を利用するやうな討査が可なり進んで居る。この一國のみの經驗から判ずれば、やがて二つの學は合同しさうにも思はれる。ところが他の三四の國はどうかと見ると、兩者は互ひに堺線の近くを避けて、援引批判する必要も無いやうな區域だけで動いて居る。物質文化の太古以來の約束には、殆と一つとして内部生活の裏附けを伴なはぬものは無いのだが、英國の如きは是を最初からフォクロアの外に置いて、その推移の跡をすら辿らうとせぬやうに見える。人の國の事には口を挿むにも及ばぬが、さて日本ではどう進んで行くのがよいか。準備練習の勞費が餘りに多いので、二つは到底兼ね學ぶことが出來ないとすればどこに雙方の境を劃し、どの點で知識の貿易をすることにすればよいか。是を疑ひ且つ究明すべき人は他にもあるが、私は先づ聽明なる佐々木君に是を期待して居たのである。さうしてこの失望は、今や永遠に慰藉すべからざるものになつてしまつた。

(459)　ドグマに我々が反抗し始めてから、今はまだ漸く馬返し、太郎坊のあたりまでしか登つて居ない。頂上はしば／＼雲霧に隱され、里の煙は顧みれば眼に近い。一歩々々の足の裏を自識しなかつたら、寧ろ空中を行く者の迅くして且つ自在なることを、羨むやうな氣になるのも是非が無いのである。それも百貳百歳の齡を重ねて、既に系統が立ち索引が備はり、たつた一枚の葉の捻ぢれ、僅かな結晶の角度の差までが、直ぐにそれ／”＼の未知の窪みを埋めて行けるやうになつて居る學問ならば、どんな小さな仕事に携はつて居ても、身は今何處に至り、何に役立つ爲に辛苦して居るのかと、刻々に知り且つ安んずることも出來るのであらうが、佐々木君が與へられて居た二つの學問は、二つながら若々しく、羽翼は未だ成らず、形體はなほ是より大いに整はんとして居たのである。それが内外の疑惑のまだ熾んなるに際して、獨り決然として最終の成果を信じ、希望をあらゆる可能性の上に繋けて居たことは、昔戰場に先驅けした若武者のやうに、見た目には誠にいさぎよい態度ではあつた。しかも是が爲にやゝ證明に冷淡であり、多くの假定の中から特にさうあつたら面白からうと思ふものを、急いで結論として採擇しようとする傾きのあつたことは、今となつて考へて見れば、或は意識せざる生命の促迫であつたかも知れぬのだが、私は夢にも其樣なことは考へぬ故に、終始その弊を恐れて反對し續けて居たのである。今やこのさゝやかなる一卷の遺文集を撫摩して、故舊諸友の胸に沸起る感想は、恐らくはもう全く改まつて居る。この豐富なる想像力と機警なる着眼點とが、僅かなる片鱗の閃めきを以て、限られたる同志學徒の、行く手を照すに過ぎぬのも時勢である。是がたゞほんの二十年、もしくは十年の後に開始せられる事業であつたら、同じ短い生涯であつても、波動はずつと大きく貢獻する所は遙かに明確であつて、從つて夢や幻想をまじへずに、本人も亦醇なる學問の快樂を味ふことが出來たであらうに、惜しいのは生れて來る時も、やはり少しく早過ぎたのである。其上に我々の努力が足らずして、いつ迄も國の學問を星雲の?態に置いて居た故に、多感なる一青年學徒は、迷ひ又惱んだのである。彼の友情を記念する人々は、もつと協力して速かに新學の眉目を明かにし、それによつて今日の悔恨を補償しなければならない。

　

(460)　　　　　三條商太郎翁事業推薦書

　

　　　　　　申込書

　

　邦樂音律の研究を完成する爲に、貴社學術奨勵金の給付を切望いたします。現在特に必要を感じますのは、年來の研究成績を整頓して、次代への記録を殘して置く經費でありますが、是も金額の多少に應じて、幾つもの腹案をもつて居りますが、すべて關係者各位の判定指示を受けて決したいと思ひます。補助は今も以前も一切他からはまだ貰つて居りません。なほ履歴と學歴、研究の大要等、及び近く出版を企てゝ居る三味線に關する一小篇を、參考として添附いたして置きます。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　右

　　　　　昭和二十四年　　　　　　　　　　　　　　　　三條商太郎

　　　　　　　八月　日　　　　　　　　　　　　　　　　　住所　　東京世田谷區新町二ノ二一九

　

(461)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　推薦者

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　日本學士院會員

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　日本藝術院會員　　　　　　柳田國男

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　日本民俗學會會長

　

　　　　　毎日新聞社

　　　　　　　　　　　　　　御中

　　　　　推薦状

　

　三條商太郎翁の邦樂音律の研究を、援助奨勵なされてよいと思ふ理由は少なくとも二つあります。

　其一つは、方法及び態度の新らしいことであります。中世以來の我邦にも、此間題に心を潜めた人はありますが、それは主として宮廷樂部に屬する人たちばかりでした。ところがこの方面には、夙く外國樂が採用せられ、理論は素(462)より術語まで、すべて中華より輸入したものを踏襲して、僅かに傳はつた古來の神樂までを、是によつて解説しようとし、他の多くの民間の固有素朴のものを、俗曲として度外に置いて居りました。近世の學者もたゞ此類のもの是のみを古典として尊重し、たま／＼稍々研究の範圍を擴大する者も、專ら異域の書を捜索するに止まり、現實に廣く世に傳はつて居るものを、比較して見ようとしなかつた爲に、いはゆる東洋音樂の分堺は未だ明かならず、時としては之を支那系と速斷し、甚だしきは日本音樂に、法則が無いとさへ公言した者が有るといふことであります。そんな斷定をする迄には、まだ我々の研究は進んで居ないと思ひます。一つには耳で識つた者は之を説く道をもたず、一方には又書册文字に依つて學んだ人々は、之を實地に就いて考へる力が無かつたのであります。三條氏は稀有の境遇に惠まれて、たま／＼二つの機會を兼ね捉へることが出來たのであります。其研究がもつと／＼未熟のものであつても、なほ之を聲援し激勵する必要がありました。ましてや數十年の人知れぬ刻苦勤勉を以て、既にこの程度の成績を擧げて居るのです。斯ういふ事業こそは、助けて一日も早く完成しなければなりません。

　第二の理由としては、この種の實證的方法は弘く文化の全分野に應用して、時世の變革に對應すべき必要があると、私等は信じて居ります。勘と傳授を以て古來の藝術を、保存し得るやうな世の中は過ぎ去らうとしてゐます。民族文化の自主性〔三字傍点〕は、單に國中の誇りと信頼とだけで、之を擁護し續けることは不可能になつて來ました。部外、殊に異種の文化人の中にも、十分にこの理解を擴張しなければなりません。幸ひなることには、現在は特に民族音樂の比較研究が、世界的に興隆しつつある時代であります。一つには圓盤の輸出が無限に自由になつた結果と思はれますが、今日のやうな氣紛れな選擇の下に、果してこの永い歴史と、複雜なる混淆の成果を、解説することを得るかどうかは疑問であります。しかも比隣の諸國と日本との差異の如きは、どんな素人の耳にも鮮明なことで、それがどうして又如何なる點に、實際にはちがつて居るのか、尋ね得る者は當然に日本人であつて、この三條氏の研究以外に、今はまだ答へが見つからぬ實?であります。問題は必然に個々の種族の、心理生理の共通と變化にまで溯つて行きます。今は(463)それを評究する最上の好機會でありまして、從つて又皆樣の御注意を、何としてでも是へ引付けねばならぬ大切な時期であります、單なる一老友の友情から、斯ういふ推薦を試みるのでは斷じてありません。

　補助の方法に就いては、當人も推薦者も、確定の案はありません。もし試みに私の一案を申してみますならば、この際日本音樂の音律の問題に關心をもち、又十分な判斷力を具へた幾人かの學者を依囑して、直接に三條翁の意見見解を聽き、又は其著述を精査して不審を匡し不備を補ひ、その記録を作つて安全なる場所に管理し、且つ是を後來の同志に引繼ぐべく、適當に保存することで、是に必要なる經費を毎日新聞社より給付せられんことを望むのであります。少壯氣鋭なる學徒の、悦んでこの事業に參加する者は多からうと思ひますが、もしも其選拔が容易でないとしますれば、他にもまだ適當な人が幾らもありませう。たとへば是も生涯を賭して、南島音樂の根原を究めんとして居る山内伶晃〔四字傍点〕君、近世邦樂の理論に精通せる町田嘉章君、音樂學校の吉川英士教授、その他颯田琴次氏田口?三郎氏等の諸學者も、もしこの研究の性質由來、殊に三條商太郎翁が頽齡孤獨の境地に在つて、なほ孜々として前人未踏の路を伐り開かうとする熱情を知られたならば、必ず一たびは彼の説に、耳を傾けようとせられることゝ信じます。その集會記録保存等の諸費が支辨し得られたならば、效果は却つて世上尋常の書肆に金を與へて、この無名難解の書を刊行せしめるよりも大きいでせう。出版費の援助は簡便なる一方法ですが、果して適當なる讀者の手に、渡るかどうかは疑問であります。學者は通例は貰つた本をよく讀みません。さうして表現は又一つの技能でありまして、判り易く且つ興味深く、思つたことが述べられるかどうかは、我々老人には自信が有りません。三條翁の前の二著は、ほんの少しの部數しか世に出て居りません。著者の手元に在つたものも、四年前の戰火に、他の多くの藏蓄と共に灰燼に歸しました。今度はもつと有效な方法を以て、是を次の代に引繼ぐやうにしたいのであります。私一箇の企劃としては、出來るならば週に一度、少なくとも月に二囘、靜かな會場に集まつて貰つて、思ふ存分に質疑解説を重ね、その誤りなき速記を保存して置く。その爲の經費が給與せられたいのであります。さうでもしなければ我々の學業は永續せず、(464)次に來る者は又新たに、第一歩から踏み出さなければなりません。この損失は今までも?々くり返されて居りました。願はくは新聞の大きな力を以て、改めて斯ういふ方面にも、社會の注意を振向けさせたいと念じます。

　なほ參考の爲に、最近出來上つた『三味線音律の研究』の原稿を添附して置きます。是が出版せられることも私等の希望ではありますが、ちやうどそれ位の經費があれば、一方に今少し適切な仕事が出來て、同時に又この本を世に出すことも、比較的容易になるのではないかと思ひます。何にもせよ三條君はすでに七十六〔三字右○〕歳、家も藏書も男の子も、戰爭によつて悉く奪はれてしまひました。名利を度外にして生涯を一事の研究に捧げた老學究を、斯ういふ寂寞たる?態に置いてはならぬ、といふことが又推薦の第三の理由であります。

　　昭和二十四年八月二十日

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　右

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　柳田國男

　毎日新聞社學藝部

　　　　　　　　　御中

　

(465)　　　　　土の香の思ひ出

　

　アナトール・フランスの隨筆集ラ・イ・リテレエルの一節に、古語はおほむね田園の香を帶びて居るのがなつかしいといふ文句のあるのに、深く心を動かされて居た頃に、ちやうど「土の香」といふ名の加賀君〔三字右○〕の雜誌が出たのは、忘れ難い一つの奇縁であつた。引續いて「土のいろ」といふよく似た形のものが遠州の方からも出るといふ時代だつたので、この選擇はほんの偶然かも知れないが、是が私たちの方言に對する情熱を、かき立てた力は小さくなかつた。さうして又「土の香」の世に遺した印象も、特にこの方面に於て濃やかであつたやうに思ふ。

　年經てこの二つの雜誌の歩んだ途を振りかへると、隣縣ながらも條件は可なりちがひ、名前の近似を以て一括して批判することは出來ない。濱松の飯尾君には始めから少數の同志があつたに對して、起町の加賀君は孤立獨往して居たやうに思ふ。又前者には僅かの資力があつて、印刷を人に托し、やゝ小ぎれいな雜誌を出して居たに反して、加賀君はどうやら、自分で謄寫版を切つて居たらしくこんな事では永く續くかなと思ふやうであつた。ところが外からの推測などは當てにならぬもので、「土の香」は出した號敷も少し多く、戰後には又いち早く再興して、私たちに非常な勇氣をもたせた。之に對して一方の「土のいろ」は仲間があつただけに、一人々々の故障が免れ難かつたらしく、最近の消息は全く知らぬが、以前のけなげさを取戻すことが、容易では無いやうに思はれる。

　私はずつと昔、町といふものゝ成立を調べたことがあるので、往つて見たことは無いけれども起《おこし》といふ町をほゞ知つて居る。たゞそこに半生を托した加賀紫水といふ人の、どういふ人物であるかをつひに詳かにし得ず、もしくは根(466)據も無い勝手な想像を描いて居た。しかしとにかくに二十何年の久しきにわたつて、飽きも疲れもせずに、同じ一つの仕事に、身を入れて來られたといふことは、儼然たる一つの現象であり、私たちのやうな物ずき仲間にも、さう澤山の類例を指折ることは出來ない。今となつてはもうそんな時間も無いが、是は一つ民俗學の前途の爲に、是非とも觀察し又研究して置くべき問題であつた。出來ることならば加賀君の新たなる知友、又は久しい交遊を續けて居る人たちに引繼いで、將來どうすれば斯ういふ特色に富める地方の學徒をして、最も多く世代の文化に寄與せしめ得るかを、考へて見てもらひたいものと思ふ。私の例でもわかるやうに、人の一生などはまたゝく間に過ぎ去り、理解し又利用する者が周圍に居ない限り、效果を次の代に殘すことは望まれないからである。

　私などの理解はまだ正鵠を得ないかもしれぬが、加賀君の特長の是からも大いに利用すべき點は、遠國の同志を求めるのに熱心だつたことではないかと思ふ。江馬君御兩人の經營に成つた、飛騨高山の「ひだびと」たゞ一つを除けば、「土の香」くらゐ弘く讀者を縣外にもつた郷土誌は無かつた。それが何れもこの編者の働きかけによつて、次々に入つて來た人ばありであつた。加賀君は尾張の方言の新舊記録の爲にはその筆豆能力を發揮しただけで無く、更に其一半を應用して實によく手紙を書いた。さうしてたとへば能田太郎君の遺稿の如き、幾つかの意外な方面の報告をこの誌上に保存し得たのである。比較研究の價値、といふよりも必要性を、今でも私は力説して止まないのだが、あの頃は殊にこの兆候の、新たに尾張方面に起つたのが嬉しく、をかしいほど熱心な提灯持ちをしてまはつたものだつた。

　ところが少しづゝ氣になり出したのは、この雜誌には反響といふものが一向に無い。もとより部數の僅かな爲もあつたらうが、誰かゞ讀んで居るのやら居ないのやら、まるで小石を池の中に落したやうで、ちやぶんといふ音すらもしない。是では第一に編集に骨を折つて居る人に、張合ひの無い話だと思つた。或は土地柄が廣々として山に遠く、雜音が際限も無く入り交り、學問が各種の遊藝から超越して、一つの特殊なるコダマを造り上げることが出來ぬのかとも考へて見た。もしさうだとすると斯ういふ時、斯ういふ環境に生れ合せた加賀君が、第一に御氣の毒である。歌(467)や俳句の雜誌が皆それであるやうに、日本は元來小さな作者ばかりやたらに多く、しんみりとした讀者の得られない國であつた。民間傳承や方言の研究のやうな全國飛び／＼に數へるほどしかない同志者を繋ぐ機關が、この大勢に卷き添へを食つたことは、單に或一人の計畫者だけの不幸では無かつた。折角新らしい機運にさきがけした「土の香」なれども、やがては極端な珍本となつてしまひ、少しも之を利用し得ない人たちが、徒らに加賀紫水君の名を記憶することに、なつてしまはないかを私は恐れて居る。出來ることならばこの一つの經驗に鑑み、せめては是からの地方大學が、孤立の又人に省みられない調査などに滿足してしまはず、國の文化を唯一つの研究目的として、協同綜合の學問を成立たしめる爲に、その半分の努力を捧げるやうにして見たい。是が現在の私の最大の念願である。

　

(468)　　　　　菅江眞澄のこと

　

　眞澄翁の年譜は私の年頃の志であつたが、時間の掛け方が少ないので、まだ色々落ちて居ることもあり、又誤りも見えるやうである。出來ることならば各地とも、南秋田郡のやうな熱心を以て、一度同じ道をあるいてくれる人があるとよいと思ふ。しかし自分の一つの動機といふのは、今でも六日入の鈴木家や小泉の奈良家の如く、以前のまゝに殘つて居る家がどれだけあるかを知り、さういふ家の日記や保存せられた書?などから、少しでも斯翁の筆録しようとしなかつたことを、見つけ出したいことであつたが、この方は先づ今のところ、斷念しなければならぬかと思つて居る。三河吉田の植田家には、義方翁の日記はどうも無いらしい。さうなると假の身元が今少し判明して來たにしても、とてもこの三十歳の白井秀雄の、家出の内情などは知ることが出來まいと思つてゐる。この點に關する好奇心は、實は可なり私を刺戟して居るが、結局は將來いつまでも、或一つの小説風な空想を以て、包んで置くの他は無いのであらう。

　しかし秋田縣としては是には關係無く、まだしなければならぬこと、又は達し得られる希望が幾つかある。ちやうど諸君が今注意し始められた秋田文化、もしくはやゝ弘く東北文化と名づくべきものが、たつた百年の間にどれほど變貌して居るかといふこと、是は何人にも知りたくてたまらぬ事なのだが、斯ういふ具體的なしかも正直な前代記録が、是だけ豐かに傳はつて居る場合は、實は他の地方にもめつたに無いのである。どこかに同じやうな好條件に惠まれて居るものが、あるかと思つて考へて見るが、一つもまだ自分は考へつかぬ。それほど大切な資料なのだから、單(469)に保存するだけで無く、多くの人が?々讀んで見るやうな、習慣をつけるやうにしなければならぬ。事によると此中から、和歌の贈答その他の個人的な記事を省き、且つもう少し讀み易い文章に書きかへて置く努力も必要なのかも知れない。私はこの分量を三分の一ぐらゐに縮めることも、さう困難でないと思つて居る。さういふ計畫の實現するまでの間、ともかくも之を讀み易く又手に入りやすい形にして置いてくれた深澤氏の秋田叢書は、獨りこの縣内のみと言はず、弘く東北一般から、感謝せられてよい文化事業であつた。

　この以外にも今一つ、時間が許すならばやつて見たいと思ふことは、一つの生活の次々の展開を、考察して見るといふことで、是にも我が眞澄翁ほど、内にも外にも澤山の公平無私の記録を留めて居る人は、少ないのである。誰しも自分一身のことだけなら、自分にはわかつて居るやうに思ふのが常だが、實際は思ひ返して見るとわからなくなつて居ることばかり多く、今もつ概念のやうなものは後に作り、それも何度と無く改訂補修せられて居る。是から生れて世の中へ出る者に、悔も遺憾も無い生涯を送らせようとすれば、たゞ或善行だけを眞似させるといふ教育では足りない。寧ろしくじつたり傷いたりした部分をもよく見せて、惜しいものだといふ感じを抱かせるやうにしなければならない。それには過去の平凡人の、自由に我々が批判し得られるやうな一生を、もつと明かにする道を講ずることが望ましい。この意味に於て菅江翁の傳記を、なほ是から後も同情の眼を以て、見て行きたいと私は思つて居るのである。この人のやうな感情の豐かな、知識慾に滿ちてしかも思慮の周密な、働けばどんな事業にも就けさうな人が、どうして一生を旅で果さうといふ氣になつて居たかといふことは、假令家出の理由とは何の關係が無くとも、やはり我々には知つて置かずには居られぬ不思議である。遊歴文人といふ一種特別の生き方が、日本には古くからあつたものかといふことを私は書いたが、あれが或は當つて居るかも知れぬ。それともまだ他に何等かの隱れた原因があつたものか。諸君の援助を受けて是からさきも、もつと自分は考へて見たいと念じて居るのである。

　菅江翁の生涯は今まで明かになつて居るだけでも、可なり他の諸名士よりも詳しく判つて居るが、この上にもなほ(470)諸君の實地踏査、又は月雪の出羽路等によつて、更に精確になし得る望みがある。秋田縣下の二十何年の間に、方々に發送した書翰だけでも、ちつとやそつとの數では無く、又さうむざ／＼と反故に付してしまはなかつたと思ふ。現在私などの知つて居るものだけでも、八澤木の大友家に殘つたものや、雄勝の佐藤家に傳へたものがあり、眞崎氏蒐集の中にも多分幾つかあることであらうし、今に又骨董商人の手から、出現して來るものも無いとは言へない。どうか丹念な人の一つの樂しみとして、文を得るに從うて整理排列し、又能ふべくんば印刷に付して置きたいものである。私は前に『雪國の春』の中に、眞澄は故郷をたつてから前後四十六七囘の正月を、一度も同じ家で迎へたことが無かつたらしいといふことを書いた。つまり是ほど永い歳月を、旅で暮らし續けた人も希有だと思つたのだが、段々と氣をつけて行くと、此間にも或はたゞかりそめの家を、持つて居たのでは無いかと思ふ時代が一度ならずある。それを詳しく説くことはまだ出來ないが、寛政五年の著の『尾駁の牧』の旅から引返して、田名部に居た時にも人の家の表の間を借りたとあるから、自炊をして居たことが察せられ、それが翌年の秋までは續いて居たらしく思はれる。その以前の松前滯留中にも、寛政四年の正月は、福山城下のこたて阪といふ處の寓居に年を迎へたと、『千島の磯』には明記してある。しかも其前後は旅にあるいて居ないから、こゝでも一年ぐらゐの借家暮らしがあつたものと見られる。それからずつと後になつて、文化三年五十三歳の夏の初めから、一年ばかりの紀行の無い期間は、能代に家を構へて教育を業として居たのでは無いかといふことを、新著の中にも私は書いて置いたが、是は多分まちがひは無いと思つて居る。もしも偶然に殘つて居る手紙か何かの中から、それがどういふ生活であり、又如何なる計畫の下に始められたかといふことが判つて來るやうだつたら、非常に私たちには大きな參考になるわけである。深澤多市氏であつたか又誰であつたか、教へてくれた人は忘れてしまつたが、私は偶然に又斯ういふことも聽いて居る。翁はごく晩年になつて、仙北郡の或村に家を持つて居られた。附近の某といふ家の出戻りの娘があつて、身のまはりの世話をして居たといふことで、當時は其家の名も聽いたのであつたが、どうした事か今はもう記憶に止まつて居ない。是は話が(471)可なり具體的だからどうも事實のやうに思はれるが、何かさういふことを他から聽き込まれた人は無いかどうか。もし果してさういふことがあつたとすると、私は一層菅江翁の淋しい一生に、深い同情を寄せることが出來るやうな氣がするのである。

　

(472)　　　　　少年讀書記

　

　自分などは昔の田舍で育つた故に、書物の選擇といふことは丸で知らなかつた。家に有るだけの本は皆讀んでしまつて、まだ常に飢を感じて居た。三十年前に亡くなつた自分の實父は、少年の讀書法に就いて可なりよく錬つた考案は持つて居ながら、我子に思ふやうな讀み物の與へられぬことを、始終苦慮して居たやうであつた。

　家には二十册と纏まつた本は一種も無かつた。文章軌範はあるが八大家文は無い。遠鏡や詞の玉の緒はあつて、肝腎の古事記傳が無い。ある時は遠方から綱鑑易知録が借りられたと謂つて、重いものを嬉しさうに下げて來たこともあつた。併し通鑑は終に手に入らなかつた。中富の岩國といふ醫師の家に、大日本史があるから借りてやらう。一緒に行けといつて連れて行かれたことがあつた。十一の年の秋である。坂を越えて二里近くの路であつた。眺望の佳い二階に通されて、酒が出る詩の話が出たが、父は遠慮がちな人で其折は言ひ出しかねて還つて來た。

　それから半月ほどの後、手紙と大きな風呂敷を持たされて、私が一人で借りに行つたが、其折は簡單に斷られた。併し格別失望をしたやうな記憶はない。寧ろ其時から、風呂敷を持つて本を借りに行く趣味を覺えた位であるが、歸つて其話をすると二親は顔を見合せて、憮然とした樣子であつた。

　それから後も本は方々から借りて讀むものとして居た。有るか無いか分らぬやうな奧の間から、出して貸してくれたりくれなかつたりするものと決めて居た。早く歸つて讀みたいといふ好奇心と、背中の重たく汗ばむことゝは、今でも自分には聯想がある。だから東京に出て始めて本屋の店に立ち、又は圖書館の目録を見たときは目が舞ふやうで(473)あつた。

　一頃私は短册の反故を小さく切つて、栞にして本の中に挾んで居たが、それに知らぬ間に父が一首の歌を書いてゐた。

　　　其玉もみがけや磨けくはしぼこちたるの國をかゞやかすまで

　即ちこの讀書童子の名が、歌の中によみ込まれて居るのである。勿論この祝福は多くの人の父の祝福と同じく、過大にして且つ不可能なものであつた。今はたゞ空しく哀々たる思慕の情を留むるのみである。

　

(474)　　　　　漱石の猫に出る名

　　　　　　　　――越智東風の由來――

　

　若い時から兄には眼上の友達が非常に少かつたやうです。仲間といへば年下の者ばかりで自然我儘が自由に通せたところから、いつも餓鬼大將といへば兄でした。

　僕等兄弟はどういふものだかみな身體が弱い方ですが、兄ばかりは人竝はづれて丈夫で、頑固な身體を持つてゐましたので、そんなことも大いに影響してゐると思ひますが、とにかく兄は先輩の感化を受けてよくなつたといふやうなことはごく少いやうに思ひます。いつも自分で考へて、自分の力で鍛へ上げた人です。しかし、森?外、賀古鶴所の二人だけは、兄も先輩として大分敬服してゐたやうで、あの喧嘩ばやい兄も、賀古とは或は一、二度やつたかも知れませんが、森?外とは恐らく一度も喧嘩もせずに仲よく、お互に敬服しあつてゐた樣に思ひます。賀古といふ人はたしか軍醫中將でおやめになつた方で、山縣公の遺言?なども筆をとつて書いた人ですが自然そんな關係から、山縣公とも兄は知り合ひになつてゐましたが、この人もやはり感服してゐた一人でせう。そのほか、青山胤通氏などもあつたやうに思ひます。

　兄の一面を語るにふさはしいユーモラスな話を色々と考へてゐるのですが、どうも、今思ひ出せませんので、餘り人の知らない兄のことを少しばかりお話して見ませう。

　明治二十二年に�ｺ富さん等がおやりになつてゐた「國民の友」の新年附録に坪内先生が「細君」といふ小説をお出し(475)になり、山田美妙齋が「胡蝶」といふ小説を書いてその口繪に當時としては破天荒な女の裸體繪を入れたのですから、警察からお小言が出るより先に、文壇の方で大變に問題にして、いろ／＼に騷いだのですから可笑しいやうな話。とにかく二つとも大層な評判になりましたが、その小説と一緒に『おもかげ』といふ當時としては非常に珍らしい翻譯の詩集が出ました。支那、ドイツ、イギリス等の詩を譯したもので、譯者の名前は一切出さずにSSSといふ假名になつてゐましたが、その三分の二は森?外さんの仕事で井上の譯したものがたしかあの中に二つか三つあるはずです。兄のほかに市村鑽次郎、落合直文さん等も出してをられますが、これまた隨分世間を刺激して非常な評判を得ました。そのころの附録としては實に思ひ切つたものをつけたものです。

　この詩集の原稿料が全部で何んでも三、四十圓――今から思ふと嘘みたいな額ですが、とにかく三四十圓の金が入りましたので、その金で森さんが主になつて新聲社から「しがらみ草紙」を發行することになりました。先のSSSはつまりこの新聲社の略字を綴つたものでした。たしか四、五年もつづいたのですが、そのうちに日清戰爭になつて、森さんが從軍されたので一時立消えの形になりましたが、そのころまでは井上もチヨイ／＼いろんなものを書いて發表してゐたやうです。

　しかしその後になつて、今度もやはり森さんが主で「めざまし草」といふのが出來て、盛んに文學熱をあふつたものです。僕などもそのお蔭でいつぱしの文學青年になり、大の森ファンの一人でチャイルド・ハロルドの長い詩の譯詩から原詩まですつかり暗記してゐたほどの熱狂ぶりで、その時分、�ｺ富さん等が主體になつて、神田の眼鏡橋邊の何んていひましたか、ある西洋料理屋でよく集會を開きました。この集會がソモソモの文壇といふ言葉の出た始まりで、文壇といふ言葉をこしらへたのはたしか�ｺ富さんだと思つてをります。

　その時分の話ですが、兄はよく越智東風《をちこち》といふ變名で歌を發表してをりました。越智東風といへば夏目さんの「猫」に出て來る人物の名で、夏目さんはかすかな記憶でその名を「猫」に使つたのですが、その本人が井上とは死ぬ(476)までも知らず、井上もまた自分の名が「猫」に使はれてゐるとは恐らく未だに知らないでゐるでせう。越智といふのは兄の本名で、その越智に東風とつけたのは正しくいゝ名前で、これについて今一つ面白い話があります。

　やはりそのころの仲間に酒ばかりのんでゐたひとりよがりの新體詩を作つてゐた中西梅花といふ人がありました。その人も越智東風が井上とは少しも知らず、二人逢へば喧嘩をするやうな間柄でしたが、井上が中西の書いた詩に何か關係した歌をよんで雜誌にのせたのです。すると中西はすぐにまた越智東風氏に寄せるとか何とか書いてまた詩を發表したものです。越智東風が井上と知れば無論こんなことはしなかつたでせうが、そこは知らぬが佛で盛んにやつてゐたものです。すると、たしか落合直文だと思びますが、

　　　越智東風を狸は知らずなまなかに怖れ氣なくも歌きどりかな

といふ三十六歌仙の中の歌のかへ歌を發表してからかつたのです。狸とは中西の綽名で、眼の丸いところからつけられてゐたのです。氣むづかしい一面に、かうしたからかひ氣分といふか、いたづらを存外平氣でやる兄の一面がよく表はれてゐると思ひます。

　僕が兄を最も尊敬する點は四十を越してから、道樂でなしに本當の勉強を始めたことで、今年六十九になりますが、未だに非常な勉強ぶりで、また五十を越してからの方が、研究もずつと深いところへ進んでをるやうです。

　

(477)　　　　　童心畫卷

　

　　久しぶりに唐詩選を讀むと、少年の日の記憶があり／＼と蘇へつて來る。誰も知らない事だから、話の種に一つ、書留めて見ようかと思ふ。私たちの生れた家には、子供の管理に屬し、よつぽど粗末に取扱つても叱られない一抱への本があつた。八犬傳の第六編が八九册、庚申山の化猫退治だの、雛衣が門に立つて泣いて居る所だのを含む部分、これは或貸本屋が不義理なことをして取りに來ずにしまつたものといふことだつた。次には蒙求諺解とかいふ繪入和譯本でこれも端本。それから耕職圖などゝ合本になつて居る女大學、表紙が半分しか無いので何といふ本なのか名を知らない。一ぺん讀んだらもう少しも面白くない童兒教、實話教などもあつて虐遇せられて居た。さういふ中にまじつて、大半紙二つ切りを綴ぢた筆寫の繪本が四五册、これは私たちの父が少年の頃に、描いたといふ點で先づ興味があつた。それだけはあまり手荒に扱つたりすると、毎度同じことを謂つて母が戒めるのでよく覺えて居た。トウシセンといふ固有名詞は、實は我々は之に由つて學んだのである。

　この繪本は唐詩選の七言絶句を、多分あの順序で且つ飛び／＼に、一つの見聞きに一首づゝ、書いてその心を繪にしたものであつた。字は御清書のやうに可なり丁寧に大きく書いて、おまけに返り點が打つてある。子供にしてはうまいなと思つた。私は筆劃を誤る名人であつて、今でも其癖はまだ殘つて居るが、其兒の父としては感心に一つもうそ字が無い。僅か間違つても呉粉を塗つて上に書改めてある。たゞ字配りが無細工で、畫との釣合ひはちつとも取れて居ないやうだつた。最初には何か御手本があつて、それを借りて寫したのかと想像して居たが、今以てどこでもそ(478)れかと思はれる書物を見たことが無いのみか、第一私の家の筆寫本には彩色がしてある。たとへば醉別江樓橘柚香だの、但使主人能醉客だのといふ、酒とか醉とかの字のある詩では、必ず人の顔が赭く色どられて居る。そんなお手本といふものが、あの頃あの田舍にあつた氣づかひは無いのである。

　母から聽いた所では、父が疱瘡をしたのは十一歳の年で、至つて輕かつたさうである。その病中に親類の何とかいふ人から、五六種の簡單な棒繪具を見舞にもらつた。それが嬉しくて全快の後に、斯ういふ繪を描き始めたのださうである。それにしては少なくとも此文字はうま過ぎるが、實は親一人子一人の寂しい家庭であつて、祖母が幾分か奨勵しすぎたかと思はれ、此方面だけでは父は珍らしく早熟であつた。十一の年では無いまでも十二か十三か。この二三年のうちであつたことは疑ひが無い。といふわけは十四歳の時はもう家を出て、明石近在の安田といふ御醫者の處へ、修業にやられて居たからである。それから今一つ、ちよつと今日からは想像しにくいことは、唐詩選が私などの村の、あの頃の流行だつたことである。祖母が開いて居た小さな寺子屋に、やゝ長い間通うて居たといふ三四名の婦人は、少しばかり漢籍をかぢつて居て、それが可なり目に立つた。正月にも百人首などはつまらぬと謂つて、唐詩選のかるたを取つて居たといふ評判であつた。まさかと思つて居たところが、祖母の歿後十年もしてから、古箪笥の隅からその御手製の骨牌が、五六十枚も出て來た。それがやはり七言絶句を、上下二句づゝに分けて書いたものだつたのである。

　私たち少年も亦日本外史などゝ一緒に、家に前からあつた唐詩選掌故といふ本で、この詩集を讀むことを教へてもらつた。それは五言の主人不相識から始めるのであつたが、程なく七言の方へ進んで行つた。さうして改めて父の畫卷を出して見ると、面白いくらゐ忠實に詩の心が寫してある。今でもよく覺えて居るのは、

　　　黄河遠く上る白雲の間

　　　一片の孤城萬仞の山

(479)といふあの有各な一首では、左の上の隅に山と城とを小さく描き、其下から手前へ川が流れて居る外に、雲だと謂つてよいものが、やゝ拙なく少しばかりかいてある。又、

　　　髑髏は盡く是れ長城の卒

　　　日暮沙場に飛んで灰となる

といふのなどは、鎧を着た武人の前に、大きなしやれかうべが二つほど轉がつて居り、其周りに無數の點々を打つて、飛んで灰となる有樣を現はしてあつた。

　さうして感心して見て居るうちに、是は少しをかしいと思ふものが出て來た。父には何だか氣の毒なやうな氣がして言はなかつたが、たとへば、

　　　猿啼き客散ず暮江の頭

　　　人は自ら心を傷ましめ水は自ら流る

といふ詩に、川の向ふ岸を猿が後脚で立つて右の手の甲を顔に横たへて、恰も私たちが泣く時のやうな手つきであるいて居る。猿が斯んな恰好をして啼く筈は無いと思つた。それから今一つ、

　　　日暮漢宮?燭を傳ふ

　　　青煙は散じて入る五侯の家

といふのでは、正面に櫺子窓の附いた廻廓が描き出され、その中を衣冠の官人が、裸?燭に火を點じたのを一本、手に持つてあるいて行く。この「傳ふ」といふ字は、實は今でも私たちにははつきりと意味が取れない。それを先づ斯んな風に解して居たのである。もつと奇拔なのは、

　　　紅粉爐に當つて弱柳垂る

　　　金花の臘酒??を解く

(480)云々といふ滅法六つかしい一首に於ては、鼎かとも見紛ふ樣な大きな香爐を前面に描いて、その向ふには筆者能力の許す限りの美人が、二本の手を揃へて火の上にさし翳して居る。是などは何度考へ出しても微笑を催さずには居られない。つまり爐にあたるを、我々が炬燵にあたるなどのアタルだと思つたのである。斯ういふまちがひを示した御手本は恐らくは何處を捜したつて有るまい。それで城とか美人とかは、何かに依つて模倣したにしても、構圖は少なくとも父といふ一少年の、獨創だつたらうと私は思ふのである。

　二十年餘りも共に暮らしたけれども、たうとう此間題を父と話し合つて、一緒に笑ふやうな機會は得ずにしまつた。播州から移住して來た際にも、他のさま／”＼の雜書は處分せられて、この數册の畫卷だけは、遙々と關東の田舍まで隨從して來た。たゞ我々が大きくなつて、英語だの地理だのといふ新らしい學課に氣を取られ、そこに在つても省みようとしなかつたゞけである。さうして居るうちに、何時の間にか其本が見えなくなつた。ちやうど父が自分の今の年ぐらゐの事だつたと思ふ。東京から還つて見て喫驚したのは、若い頃から熱心に書き溜めてあつた、何册かの詩文集が塵はたきになつて居た。母が止めようとした時には、もう間に合はなかつたさうである。殘してよい分だけは別に寫してあると言つて居た。トウシセンはどうなりましたと尋ねたと思ふが、何といふ答へを得たかもう覺えて居ない。とにかく我々兄弟の眼からは其時限りに消えてしまつたのである。著述を棄てる程だから、あれなどは殘つて居るわけが無いと、いふ樣なあきらめが先に立つて居るが、しかし祖母の詩骨牌のやうに、思ひがけない時に出て來るかも知れぬといふ、幽かな望みがまだ絲筋ほど繋がつて居る。

　今度讀んで居る唐詩選は岩波文庫だけれども、私にはこの小本の下に重なつて、昔の彩色の畫卷が見えてし方が無い。あの句この句と算へ出すと際限が無いが、今でも眼に沁み入るやうに感ずるのは、

　　　江邊楓落ちて菊花黄なり

　　　少長高きに登つて一に郷を望む

(481)といふ菊花の黄、或は又、

　　　青草湖邊に日色低く

　　　黄茅瘴裏に鷓鴣啼く

といふ草と鳥の羽がひの、無造作な青や茶色である。父は中年まで自己流によく小さな畫を描いてくれたが、奇妙なことは人物より外のものはかゝず、それも右向きは六つかしいとか、女は髪がかけないとか云つて、いつもきまつたものだけしか出來なかつた。多分は草双紙か何かで見て覺えたので、無器用でもあつたらうが、習ふ暇も無かつたのである。さういふ人でも子供であり無心であるうちは、繪具でも貰へば是だけの大きな作を爲し得たのである。ちやうど今日の競技界も同じやうに、大きな選手を作り立てる必要から、多數は寧ろ持つて生れた能力までも、抑制せられて居たのでは無いだらうか。少なくとも私たちの父などは、あの畫卷がたつた一つの作品であつた。さうして是を記憶する者は一人しか居ない。

　

(482)　　　　　予が出版事業

　

　人を笑はせるつもりで私はこの見出しを付ける。さて素人にしてふいと本を出して見たくなる者は幾らもあるが、私のは業と名づけてもよい程に出版道樂が年久しく、又悔いるといふことを知らない。さうして世間ではあまり構ひ付けぬのだから、自傳を書く價値があると思ふ。尤も西には正宗敦夫君といふ巨頭が居ることは承知だが、彼は同時に印刷に興味をもち、職工も大抵は自分一人きりだつたらしく、とにかくに蟲眼鏡で見出すほどの工場は一つ持つて居た。之に對して小生は純なる Publisher であつた。大よそ此名で呼ばれて居る人たちの味ふべき夢と憂ひと滿足とは皆味つて居る。其上に年もやゝ多いから御先に失禮して談らせてもらふ。

　

　　　　　　　竹馬餘事

　

　小さな時から紙さへあれば帳面を綴ぢて、其上に標題を付けることが好きであつた。いらぬ事ばかり書いてあるので反故になつてしまつたが、其中にたつた一つ、五十年後になつて發見せられたものがある。明治二十年の九月、東京へ遊學する間際にこしらへて殘して來たもので、標題は亡父の筆だから、多分相談をして付けたのかと思ふ。半紙半分の横綴五六十枚のもので、竹馬奔走の傍書き溜めた文章や漢詩などが竝べ載せてある。間も無く死んだら無論限定出版ものだつたらうが、幸ひなことに其必要が無くてすんだ。しかし今になるとやつぱり棄てられない。天下一品(483)の著者自筆本だからである。東京へ出てからも此癖は止まなかつた。多くは表紙ばかりが本らしくて、中味は三分二以上も白紙だつたから、却つてそこいらに散つて殘つて居る。無論何れも皆永遠の「近刊」である。

　

　　　　　　　萩の古枝

　

　明治三十七年の戰役なかばに、田山花袋君と協力して此本を出した。是は我々の歌道の師松浦萩坪先生の歌の集で、先生還暦の記念として門下一同に買はせたものである。部數は確か五百で、其一部分が近年まで殘つて居た。此本ではうんと私は苦勞をした。體裁組方等は殆と皆自分の考案で、表紙の萩の繪は弟の松岡映丘に描かせ、序文は盲蛇に私一人で書いた。それを先生にも見せずに刷つてしまつたと謂つて、後でうんと叱られ、又少しも譽められなかつた事を憶えて居る。併し今取出して見ても、本の形などは決して惡くない。只どうしたわけか少しも古本街には顔を出さない。

　この一年前の明治三十六年にも、私はなほ山路の菊といふ本を出版してゐる。是は外祖母の安東菊子の歌集で、同時に出資者も其おばあ樣であつた。歌も格別おもしろく無いので、私は之を自分の仕事の中には入れて居ない。

　

　　　　　　　後狩詞記

　

　この本は現在むやみに景氣がいゝが、實は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書寫、それに或舊家の獵の傳書を添へて、やゝ長い序文だけを私が書いたもの、出したのは明治四十一年の冬だが、當の作者がまだ高齡で今も彼地に生きて居る。たゞ此書を珍本にした技術に至つては、或は私のものといふことが出來るかも知れぬ。こ(484)の年の五月の末に、私は東京を發して九州の南半を一巡し、廣島まで還つて來てから電命で又土佐へ渡り、百餘日を累ねてへと／＼に疲れて戻つて來た。さうして病床に就いて退屈な日を送つて居た際、氣がついて見ると旅費が二十何圓か剰つて居る。是であれを本にしてやれと思つて、積らせて見たところが丁度五十部だけ出來るといふ。本に番號を打つといふことはあの頃としては大きな氣取であつた。終りの數册だけはつまらなく散らしたが、其他は悉く行先を控へて著者關係者、及び其當時自分の尊奉する限りの先輩へ、多くは手紙まで添へて拜呈したのであつた。あんな百二十頁のちつぽけな本に、�ｺ富山路等の一流文士の批評が出て、其時から既に好事家に狙はれて居たのである。中に書いてある事實が當時としては皆耳新らしく、其上に序文と頭註で、是は將來研究しなければならぬ問題だといひ、實際又少しづゝ、我々の學問も之を明かにする方へ向いて行つたので、次第に客觀的にも重要になつて來たのである。岩波といつたやうな大出版者には經驗の無いことだらうが、自分にはこの發行總敷の半分までは所在が判つて居る。中には二度三度主を替へて、まだ系統の辿られるものさへあるのである。しかも滑稽なことにはこの事の題名を、正しく讀んでくれた人も半分しか居ない。私は實は多賀豐後守の狩詞記を讀んで居て、斯ういふ名の本が出して見たくなつたのである。この興味が無かつたなら、或は出版はまだ延期せられたかも知れない。

　

　　　　　　　遠野物語

　

　是も精確には私の著書といふことが出來ない。再版になつてから便宜のために、著といふ語を掲げた者があるといふのみである。少なくとも始めてこれを世に出した時に、私以上に滿悦して居た人があるのである。しかもこの人のうれしがるといふ外に、私の心の中には出版者心理が働いて居た。西南の生活を寫した後狩詞記が出たからには、東北でも亦一つは出してよい。三百數十里を隔てた兩地の人々に、互ひに希風殊俗といふものは無いといふことを、心(485)付かせたいといふやうな望みもあつた。幸ひにこの比較研究法は、是が端緒となつて段々と發達して居る。それから今一つは前々年の經驗、味をしめたと謂つては下品にも聽えるが、人には斯ういふ報告にも耳を傾ける能力があるといふことは、あの時代としては一つの發見であつた。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品以外に、若い人たちの知りたがる地方事實が増加したのである。此本の出版はたしかに企業であつた。信用はあつたけれども私に資本は無かつた。損をしたら?めようといふ内々の心構へをして、恐る／＼五十錢といふ定價を付けて見た。知友に頒つのは二百部でも十分なのを、思ひ切つて三百五十刷らせて見た。印刷所の支配人が書店を兼ねて居て、よく面倒を見てくれた。半歳ほどしてから番號順の購讀者名簿と、三十何圓かの現金を屆けてくれる。是は何かと問ふと遠野物語の純益だと答へる。是は大成功と得意になつて見たものの、御蔭で將來いつまでも素人本屋を續けなければならぬ運命を括り付けられたわけである。

　此序に一言したいのは石神問答のことである。是も同じ親切な出版所の作業に成つたものだが、此方は全く向ふの出版であつた。たゞ經驗の少ない新店であつただけに、著者の注文はすべて受け入れられ、本の恰好から繪の入れ方、表紙は映丘に扉の文字は岡山君といふ書家に書かせるなど、一切が設計の通りで丸でこちらの出版のやうであつた。自分ならあゝはしないのにと思つた點はほんの一つしかない。廣告もしたのだがこの本が一向に賣れて居ない。暫くしてから欲しいといふ人が多くなつたのに、何處を捜させても一册も無い。たしか千五百刷つた筈で、印を捺したのが九百だ。あとは印無しでよいから製本するやうにと云つて遣ると、やがて店の者がいひわけに來た。實はもう賣れぬとあきらめて包紙に使つた云々。なるほど引きの強い良い紙だつたから、包装用にはもつて來いだつたらう。

　

(486)　　　　　　　郷土研究

　

　遠野物語の出た頃から、高木敏雄君と懇意になつた。先生も金は無いのだが、私の眞似をして傳説集の自費出版をする。それから昂奮を經驗して、今度は月刊雜誌の計畫を私に持掛けて來た。私は是に答へて、好い仕事だが何れ損をすることであらう。ともかくも自分として一年十二囘分の印刷費だけを用意しよう。損が半分ですめば是で二年、三分の二の囘収が可能だつたら三年だけ續けて、止めることにしようと謂つて始めたのが大正二年、是が今でも多勢の人に讀まれて居る「郷土研究」といふ雜誌で、郷土研究社といふ素人くさい出版屋は此時に出來たのである。ところが一年と二箇月で高木君は氣が變つて退いてしまひ、資金はまだ少し殘つて居た。意地も手傳つて私が一人で之を支へたのだが、どうやら四年間は中でたつた一月、御大禮のあつた月を休んだばかりで、發行日も一週間とおくれると、腹が立つて睡られぬほど騷いだ。人には内々だつたが官舍の二階で校正もすれば發送の宛名をさへ書いた。時には原稿に手を入れて行數の勘定がしにくいので、大部分を我手で書き寫したこともある。天性が發行事務といふものに向いて居なかつたら、幾ら學問に熱心でも斯んなことまでは出來なかつたらう。御蔭で人の書いた報告まで自分の仕事のやうになつて、今でも何處に何が在つたかをよく覺えて居る。しかも評判があまりに高く問題になりさうなので、口實を設けて中止することにした。實は財政の方でもとつくに豫算を超えて、可なり心もと無い　　状態に陷つて居たのである。この雜誌は中間十年ばかりを隔てゝ、五卷以下を再興しかゝつたことがある。それには全く自分は携はらなかつたが、最初の編輯方針がなほ若干は踏襲せられて居り、今取出して見るとこれも共々に懷しく感じられる。

　

(487)　　　　　　　甲寅叢書

　

　「郷土研究」を出して居た片手間に、私は又一つの叢書を計畫した。是は内閣の文庫を整理して居て、始めて氣が付いたことであつたが、丁度三十七八年の戰役を境目として、日本の出版文化は面貌を一變して居たのである。何がこの大きな變革の原因かと考へると、先づ書籍の廣告費といふものが、此頃から急に激増して居る。次には所謂印税の制度、發行の部數に應じて著者の收入が累加するといふ組織が一般化して來た。この二つは關聯して居るかと思ふが、とにかくに多く賣れる本が次第に著述を職業たらしめた。以前印刷費に菜大根と同じほどの口錢を掛けて、澤山竝べて居た小册子といふものが、徐々として影をびそめてしまつた。五錢や八錢の新刊は、今のやうに何萬と出る見込は無いのだから、とても宣傳費を背負ふ力が無く、從つてどんなくだらぬものでも體裁をつけ分量を大きくする。本が此頃から著しく高くなり、同時に無名氏が論策や研究によつて、世に認められようといふ機會は遮斷せられた。今日は專門の雜誌があつてやゝ長い論文でも出してくれるが、そんなのはまだ殆と一つも無かつた。昔の和本でいふなら三卷か五卷、今の四百字原稿で百枚から百五十枚ほどの、ちやうど頃合の新著といふものが、よほどえらい人の書いたのでも、日の目を見ることが出來なくなつて居た。單純なる自分は、愚書の世に溢れて居る原因を、專らこゝに在る如くに解して居たのである。或日同僚の西園寺といふ貴公子に、慨然としてこの不滿を洩すと、至つて容易に共鳴して援助を約してくれた。二三日してから倶樂部仲間の赤星といふ實業家と相談したと言つて、兩人の名前で相應な金額を屆けてくれた。私の責任は忽ちにして重いものになつた。それで早速六人の友人を説きまはつて、甲寅叢書といふものの計畫を立てた。甲寅は即ち大正三年である。此時の檄文は私が突嗟の間に筆を執つたもので、今日では人に讀まれても顔を赤めるほどの高調子なものだつたが、本の後に麗々と載つて居るのだから致し方が無い。發起人は(488)參加の順序でいふと三浦新村長谷川石橋、他の二人はもう故人になつて居る。

　何よりも大切な原則は自薦の原稿を警戒すること、しかもぢつとして居ては有つても知ることが出來ないので、自分が主とし騷け廻つて、よい著述を持つ人を見つけて勸説し、それを又同人に告げて承認してもらつた。自分等ばかりは何でも最も力の籠つたものを一つづゝ、出さうといふことまで約束したのだが、さてそれが中々出て來ない。始めは催促し中頃はやゝ樣子を窺ひ、終りには又嚴しく談じたのだが、結局誰も書かぬので少しうんざりした。第六編の『王朝時代の陰陽道』などは、今日は大へん人望ある好著となつて居るが、實は原則を綬めて頼まれて遺稿を出すことにしたのである。山島民譚集だけは卷二以下もちやんと出來て居たのだが、自分のものを出すのはいさぎよくないからさし控へた。さし控へてよいことをしたと思つて居る。要するにこの元氣のよい企ては頓挫したのである。今時珍らしい話だが金だけが剰つて、それを使つてくれる人が無くて私は大いに弱つたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　さて此話も案外に長くなつて、十枚ばかりといふ約束をこれだけでもう越えてしまつた。この先まだちよつと珍らしい話があるのだが又頼まれた時迄取つて置くにしよう。

　

(489)　　　　　芳賀郡と柳田氏

　

　　　　　　　　　　一

　

　鹽谷郡泉村の方言集を讀んで居て、ふと斯ういふ題目の一文が書いて見たくなつた。私は二十七歳の秋に、産業組合視察といふ命令を承けて、御役人としての姶めての旅を栃木縣へした。矢板に一泊して泉村の信用組合の人たちを招いたところが、出て來た四人か五人かの理事監事が、全部柳田君であつたのには喫驚した。尤も自分の家が此地方から出たといふことは知つて居たが、此時の話で始めて縣内十數箇處の町村に、柳田氏の群があることを教へて貰つたのである。私にとつては大きな發見であつた。併し是を手がかりに其後尋ねて見た結果は、豫想して居た程には古い事は判らなかつた。さうして結局は私以上に熱心に此間題を考へて居る人が無いといふことがわかつた。我々柳田族の分散の痕跡などは、實は是でもまだよく殘つて居る方である。之に加ふるに私の如き物ずきな穿鑿者も居る。しかも三十年もかかつて明かになつたのは僅かなものだ。是は何でも今一層適切な方法を工夫すること、それよりも先づ第一に調査して何が面白いといふことを、説明する必要があると思つて居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　柳田といふ家名は福島縣にもあり、又播磨にもあり薩摩にさへもあるが、是は栃木縣の柳田氏とは全く別の家だ。(490)羽後にも能登にも柳田といふ村があるから、尋ねたらあの地方からも出て來るか知れない。野州の柳田はさう大した名門でも無いが、兎に角久しく此地方に住み、又不思議な位よく分散して居る。斯ういふ數の無い名字は通例は早く衰へるものだが、何かまだ發見せられぬ理由があつて、此一族だけは改稱したり合併したりせず、且つ異常に繁榮して居たのであつた。結城落城の際の首帳といふものを見たことがあるが、其中には柳田某といふ者の首が數級見えて居る。當時此地方には既に相應の地侍で柳田を名乘り、春王安王殿に頼まれて命を捨て、家を覆へした者があつたのである。それにも拘らず一族は決して衰へなかつた。宇都宮家最後の主國綱が、豐臣氏の朝鮮征伐に先だつて兵を檢した陣揃への記録は、井上寓岩齋の宇陽叢書の中にも載つて居るが、是にも物頭として柳田杢助其他二三の柳田某の名が見えて居たことを記憶する。兎に角に今から三百四五十年も前に、もう此地方で人に知られた苗字ではあつた。

　

　　　　　　　　　　三

　

　さうして家の數も可なりに分れて居たやうに見える。其中には宇都宮氏の家來になつて居た者と、さうで無い者とが確かにあつて、私の家は前の方であつた。それで最初に何か宇都宮氏と關係のある家では無いかと思つて、此方の系圖に當つて見た。ところが直接に其筋を引いては居ないけれども、此家と最も縁が深く且つ野州以北に確乎たる根を張つて居た佐藤族、即ち小山結城佐野阿曾沼といふ樣な大名たちとは、幽かながらも血の續きはあるらしく思はれた。即ち柳田氏も亦田原系、所謂秀郷流の藤原氏の端くれではあつたのである。私の家の系圖などは江戸期に書いたもので、信が置けないと言へばそれ迄だが、別に作りごとをする必要も無ささうなことが書いてある。此家では十何代か前に、或は河村といふ名字を用ゐたことがあり、それは先祖が河村秀高といふ人であつたからだと云つて居る。河村は野州の田原族とは寧ろ縁の遠い相州の武士であつた。今の東海道線の山北といふ驛の附近が河村といふ地で、そこを領して家名にして居た。直接の本家は波多野であり、其隣の松田とは兄弟の間柄であつた。田原藤太秀郷は人(491)も知る如く、最初近江の田原から出た士であるが、中頃其子孫が相州に土着して多くの村を開發し、それから又岐れて下野には入り込んだので、小山や結城に取つては相模は第二の故郷であつたとは云へるが、そこから出て來た遠い親類だと云つて見たところで、格別幅が利くわけでも無かつたらう。作り事をするならもう少し適切なことを云ふ筈である。だから私は事實後代に入つて同族のよしみを頼り、相州の方から移住して來た河村氏の後裔であつたらうと思つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　舊家には通例名字の地といふものがあつた。壬生氏の壬生を領し益子家の益子の地頭であつた如く、今の家號を用ゐ始めた理由といふものが有るわけである。ところが野州の柳田に限つて、最初どこの柳田村に居たものか、この近所には柳田といふ地名が無い。吉田東伍氏の地名辭書を見ると、相州の方にも今はもうさういふ村は無いが、大磯の西に接した國府村の六所神社は、古くは柳田大神と唱へたこともあり、又此社の古文書には柳田郷といふ地名が見えてゐて、鎌倉時代に此邊が柳田郷であつた證跡はあるといふ。佐藤の元祖は何代かこの相模國の地方官で、國府の附近には勢力を扶植して居たから、其分家に此邊を開墾して、柳田を名のつた者があることを想像し得るのだが、それなら系圖の類にも少しは書き殘されて居てもよいのに、其がまた見附からない。第一氣になるのは私の家に傳へて居る足柄郡の河村郷と、此附近とでは餘りに距離があつて、下野が名字の地だとすると、河村から出たといふことが信じ難くなり、從うて相州から來たといふ假定の基礎も無くなる。そこで私は方面をかへて、もう一度宇都宮の周圍に、柳田といふ地名が無いかどうかを、地圖に就いて調べて見たのである。ところがそれが正に有つたのだから、私はすつかり嬉しくならざるを得なかつた。しかも、市に接した河内郡の平石村に、柳田といふ大字がある。尋ねて行つて見ると川の岸で、どうも樣子が少し變だ。最初に村の中程にあるさまで古くも無い觀音堂に入つて見ると、堂守の道(492)心坊が一人居た。さては貴方は爰の御領主の御子孫で、といふやうなことを云ふものだから、いゝ氣になつて金などを遣つて出て來たが、役場へ行つて聞いて見ると何の事だ。實はあれは近年まで柳原新田と謂つて居りました。新田では幅がきかぬといふので、後先の文字を殘して柳田と改めましたといふ話で、斷然しよげ返つてしまつたことがある。まづ斯んな滑稽な逸話まで製造しつつ、私は方々をうろつきあるいたものであつた。

　

　　　　　　　　　　五

　

　但し私の家の、或時代に宇都宮殿の家來であつたことだけは、略々確實な證據がある。家で大切にして居るたつた一通の古文書は、宇都宮最後の主たる國綱公の感?であつた。牛込の宅に藏つてあるから一寸出して見られぬが、年號は天正であつたと記憶する。何とか阪の働き比類無く、滿足に思ふといふやうな文字があつて、宛名は柳田監物となつて居る。此人が私の家の系圖に於て、生死年月のわかつて居る最初の人だから、先づ自分としては元祖と心得て居る。墓は烏山の善念寺といふ淨土寺に、つい近年まで可なり立派なものが殘つて居た。それを亦私が行つて發見したのである。この柳田氏は後の主人堀美作守親昌に隨うて、寛文十二年の閏六月に、烏山から信州の飯田に轉住し、それから今日までずつと本籍を飯田に置いて居る。それが斯く申す自分の家であつた。始祖の監物は七十何歳まで長命したが、此時は無論もう死んで居た。それと若干の族人の墓を、烏山の名門であつた青木といふ家に托して去つたのであるが、後にこの青木も衰微し、私の家にも色々の事件があつた爲に交通が絶えて久しく埋没して居たのである。それが二三基の墓石の發見と寺の燒け殘りの過去帳によつて、一々家にある位牌と引合せることが出來、愈々西暦一六七一年以前の數十年間、私の家が烏山に在つたといふことが確かめられたのである。それで問題になつて來たのは、慶長二年宇都宮家の退轉以來、堀家の家來として召し抱へられるまでの間、何をして食つて居たかを見ると、寛永四年に烏山の地に封ぜられ、二萬八千石餘を領することになつたのだが、其前に、慶長十一年から二十年餘りの間、眞(493)岡を領して知行高は一萬石ばかりであつた。それが或わけがあつて急に倍以上の加増を受けて轉封したのである。柳田監物の倅の召し抱へられたのは、慶長十一年初度の入國の際か、さうで無ければ寛永四年の烏山轉住の時であつたらう（是は宅に書類があるから調べるとわかるが）。即ち烏山でよりも眞岡の方に於て、抱へられたものと考へられ易いので、私はその以前の身元を尋ねる爲に、主として芳賀郡に居殘つて居る柳田氏を物色しようとしたのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　ところが芳賀郡には案外に同じ名字の家が多くない。眞岡の柳田氏などは屋敷構へも古風なり、土地でも舊家のうちに算へられて居るが、中頃に何か故障でも有つたものか、やはり私の家同樣に一門が繁延して居らず、又人に頼んで度々問ひ合はせたが、格別の文書も口碑も無いらしい返答であつた。上三川の万にも以前は相應の舊家があつたといふので、私は久しく望みを掛けて居た。是も行つて見ると住所も職業もかはり、生活ぶりが展開して傳統はとくに絶えて居るやうに感じられた。那須の千本には可なりしつかりとした柳田の一團が有ると教へられたが、是はまだ尋ねて行つて見ない。散らばつて居る家の數からいふと、鹽谷那須の二郡の方が、今ではずつと南部より多いので一寸考へるとあの方面を中心としなければならぬやうだが、私は尚芳賀を以つて自分たちの本の巣だと感じて居る。それには色々の細かな事情があるのである。

　今から二十年近くも前の話であつた。私は偶然に柳田健といふ大學生の訪問を受けた。此人は今では立派な官吏になつて居る。播州姫路の出身だといふので或は赤穗の歌人で幾つかの名歌を殘して居る柳田美郷の親族では無いかと思つて聞いて見ると、意外にも是は上州の柳田であつた。姫路の酒井侯は其前に上州の前橋を領して居て、其時取立てられた家が、殿樣に附いて播磨へは移住して來たのであつた。さういふ家はまだ他にも多く、生方《うぶかた》なども其一つである。柳田の在所は赤城山下の勢多郡｜桂萱《かいがや》村で、墓も親類もそこに在つて交通して居るといふ話であつた。此人の叔(494)父には裁判官があつて、私の養父も判事だつたから互に名を知つて居たかさうしてそれが遠い同族であらうといふことは、此時までまだ想像もしなかつたのである。

　私が世の中に働いて居た頃には、人が始めて逢ふと必ず「お國はどちらで」と聞くのが作法のやうになつて居た。私が信州でございますと言ふと、はあそんなら自分も知つて居るのが一軒あると、言ふ人が折々あつた。ところが私の家には分家も何も無い。どこだらうと思つて問ひ返して見ると、それは必ず小諸の柳田茂十郎氏のことだつた。小諸は北信で私の故郷からは三十里も隔たつて居る。さうして何の續き合ひも無く、彼方は獨立した資産家の、町に古くから住んで居るものであつた。併し其時にも私は、もしや是も自分の家とは別の道を通つて、栃木縣の方から移つて來た家では無いかと思つたが、どうも此想像は當つて居るらしいのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　人が野州の柳田といふとよく聯想するのは、足利市の附近に在る柳田伊豆守夫婦の墓といふものである。伊豆守といふからには相應の武家であらうが、私にはまだ一向智識が無い。試みに二千五百頁ある足利市史を飜へして見たが、其中にもまだ記載しては居ないやうで、僅かに天正十三年の足利長尾分限帳の中に、五箇村の柳田平内、永七十貫文といふのが見えて居るだけである。天正十三年といへば私の家の監物翁が、宇都宮で働いて居る頃だから、少なくとも私の家とは關係が無いのである。しかも私として注意せられるのは、もう此時代から足利郡にも柳田といふ家があつたことである。たしか近年の足利町長にも、柳田さんといふ人があつた。それから引續いて此地方には絶えなかつた名字であることだけは知れる。

　それから今一箇所、是も群馬縣北部の中之條の町長が、久しい間柳田氏であつた。土地では目ぼしい門地の一つであつたやうに聞いて居る。そこで足利と赤城山麓の桂萱村と、吾妻上流の中之條と、山を越えて信州の小諸とを繋い(495)で見、それから先にはもう氏家號の無いことを考へると、是が或は我族の一分派の、移動の跡であるやうにも推量せられぬことは無いのである。勿論推量までの話ではあるが、上州の山奧を耕して居た者が、越えて交易を試みるとすれば、少なくとも裏門ぐらゐの役はして居る。聞いては見ないが小諸の柳田家なども、此山阪を行き盡して、その新らしい故郷を發見することになつたのであらう。人口が剰り土地が不足すると、段々と奧へ水上へ、入つて行くのは古來の拓殖の常の法則であつた。下流には既に占有者があるだけで無く、多くの移住民は落人や渡り者で、目立たずに働いて居たかつたからである。上州勢多から吾妻へも、此意味に於て順路であり、足利から赤城への笠懸野の横斷も漂泊者の冒險には似つかはしかつた。それ故に私は、將來右四つの地點を繋ぐ線上に、尚若干の柳田氏の散布を見出すであらうことを豫想して居る。

　

　　　　　　　　　　八

　

　那須鹽谷二郡の同名字が、芳賀を本據にして居たらうといふ想像も、人が川上の方へ又競爭者の比較的少ない方面へ、水とは逆に流れて行くとすれば、丸々根據の無いものでは無かつた。殊に東南の一隅は結城氏が雌伏してから、多くの他國の武家の入り込む土地となつて、今まで居たものには居りにくく、又壓迫を感じ易かつたであらうから、永く留まる者の少なかつたのも不思議は無い。大體に戰國時代の動亂といふものは、人を其「名字の地」と引離したのが、最も具體的な結果であつた。今日尚故土に住する家などは稀にしか無い。だからもし私が偶然に氣附いたやうな移住線が、將來北でも東北の方でも跡づけられたならば、それらの諸線の湊合する地域こそ、たとへ今日一戸の柳田が住んで居なくとも、是を我々の發祥地と推定してよからうと思ふ。

　過去三十年に近い私の穿鑿は、家の歴史としては教ふる所が誠に乏少であつたが、其代りには新たに色々の興味ある問題を私に授けた。一つの門黨が戰亂の世を經過して永く絶滅せず、さきざき村を開き小家の數を増して來たのに(496)は、一種天運といふべきものも無論惠んだのであらうが、別に其以外に自分の力、有利なる生活方法の之を導くものがあつたことを想像せしめる。然らばその柳田族の傳統は何であつたらうか。私は之を以つて田園の愛着、もつと平たく言ふと百姓が好きであり、從うて畠のわざが上手で、或は又戰爭が不得手であつたことでは無いかと思ふ。烏山に墓のある私の家の元祖は、親兄弟とも離れてぽつんと新たな寺に埋まつて居るのを見ると、きつと何れかの家の次男坊、此邊で所謂ヲンヂであつたらう。系圖を持つほどの村々の舊家では、江戸幕府の世の中になつて、武士になるか百姓を續けるか、二つに一つを擇ばなければならなかつた際に、絶領が出でて主取りして庶流を故郷に殘したものと、自身は槍鐡砲を斷念して農民になり切り、弟や末の子を武家奉公させた者と、流義が二通りに分れて居たやうであるが、柳田の家風はその第二の方では無かつたかと思ふ。しかもその次男三男も全部が皆侍にならうとせず、中には新地に移住して所謂草分けの農家にさへなつて居るのは、よく／＼結城の落城に澤山の首を取られた經驗に、懲りて居たのでは無いかとさへ思はれるのである。さして世に時めくといふ程の名家では無かつたのが、言はば此一門の壽命を永くして居た原因だといふことは、それが結構なことか否かとは關係無く、兎に角事實として認めなければならぬ樣である。

　私は時々來てこの邊の田舍をあるいて見る毎に、いつも柳田監物といふ五十恰好の宇都宮浪人が、芳賀郡の故郷に戻つて身寄りの家に厄介になつて居た頃の光景を、空想に描いて見ぬこととて無かつた。當時此老には女房と子が二人かあり、男の子は屈強な若者であつたらしい。斯う時世が變つて成上りの新大名ばかり威張るやうでは馬鹿げてゐる。思ふやうな功名立身も出來はすまい。いつそ親類の中に住んで靜かに農作をしてはどうかと、勸めた人も多かつたらうが、恐らくは其息子が承知しなかつたか、もしくは親たちも内心は一人子に同情して、ちやうど新たに入つて來た堀殿といふ領主に、見參をすることになつたのでは無いかと思ふ。兎に角に倅の興兵衛が召し出された際には、父監物は既に隱者であつた。此人が出でて二君に仕へたわけでは無いのである。

　

(497)　　　　　　　　　　九

　

　烏山の青木といふ町年寄の家に關しても、考へて見たことは色々あるがそれは芳賀郡とは縁が薄いから今は省略する。が少なくとも私の家が信州へ引移る際に、親の墓地を他姓の者に托して行つたことは爰が郷里で無かつた一つの證跡であつた。さうすれば多分堀侯のもとの領地、眞岡の方面に隱れて居たのであらうし、そこへ引込んだのは以前の縁故であつたらうと思ふ。私には他の何れの點よりも先に監物又は彦兵衛といふ我家の始祖の、生れた家が知りたかつたのである。しかも系圖を貸して見せてやつた爲に、本家分家の關係があべこべになつたなどといふ話は、以前には毎度あり、明治以後にも折々はそんな爭ひが起つた。さうで無ければうその因縁を附けられ、迷惑が掛かつて來ることも稀にはあつたので、他人に自慢して見せるやうな古文書も、却つて同族の間には警戒する風があつた。隨うて私のやうな心持を以つて、先祖を野州の柳田諸家の間に、尋ねようとするのは無理だといふこともわかつた。けれどもそれとは別途にこの顯著なる社會事實、曾て是といふ程の英傑をも出さなかつた或一群の家が、四百年も前から一つの縣の一隅に根を下し、段々榮えて同名字の數を是ほど迄多くすることが出來たといふこと、この現象は何とかして説明せられねばならぬ。もう今日はさういふ念慮を以て、共同して我々自身の生活を、考へて見てもよい時代では無いかと思ふ。

　それには柳田といふ名字がいゝ加減珍らしく、又適度に分布して居るのも好都合であつた。是が木村とか中村とかいふ類の何處にもある家號であつたら、志はあつても一寸は手が下せず高橋や小林のやうな大よそ出自のわかつてゐるものでも、數が餘りに多いと系統を分けるのに骨が折れるが、柳田ならまだ分布目録を作り、又地圖を作つても其動きを辿ることが出來る。たゞ必要なのはもう二三人、私よりも暇と元氣とがあつて、且つ農民の家の歴史を此方面から調べて見ようといふ人が、是から此地方に現はれて來ることである。それには芳賀郡の郷土研究が、今後尚一層(498)の普及を見んことを切望せざるを得ない。

　

(499)　　　　　私の信條

　

　今まで人に問はれたことも無く、又自分でも考へて見る機會がなかつたけれども、もう久しいこと私の生活を導いて居る物の考へ方だから、是を信條と言つても先づ通用するであらう。ほんの一つ書き風に、それを書き留めて置かうとすると、我ながらよつぽど子供らしいものになるが、是非に及ばぬ。

　先づ第一に年少の頃から、出來るだけ人の讀まない本を讀み、人の知らない事を知らうといふ、野心を以て學問を始めたこと、是は今から考へて見ると、江戸後期に始まつた隨筆流行、よく言へば考證學風の目に見えぬ感化だつたらしい。もしも職業や財産の束縛によつて、生れた在所の生活を續けて居たら、今頃は定めてたゞ知つたか振りの、いい氣な伯父さんになつて居たであらうが、私の場合は偶然のしあはせで、夙くから都會の中に流れ込んで、ちやうどあの時代の無數の整理しきれない新事實に直面し、一方には色々のすぐれた人たちの、言葉や働きに接する機會が多かつた御蔭に、まごついたり、しよげたり、あせつたり、何度でも苦しい行詰りには出くはしたけれども、もう爰まで來ればといふやうな安心はせずにしまつた。

　さうして人間の知らずに居たことが、よくもまあ此樣にどつさり有ると、感歎せずに居られない經驗を、何遍か重ねて居る。勿論若い人が斯んなことを言へば、笑はれるにきまつて居るが、私は何しろ年を取り、活きる力も殘り少なになつてから、遲まきに氣が付いたのだから容易なことで無く、從つて又後々の參考にもなるのである。實はもう二十年以上も前から、うす／＼是が心配になり出して、少しづつ知識慾を制限しようと試みた。何でも知つて居らう(500)とするやうな望みは先づ棄てて、たゞ自分の生活から、必然に起つて來る疑問だけに、答へを求める方へ力を傾けようとした。ところがさうなると又意地惡く、今まで何とも思はなかつたものに興味が動き、垣根の外を覗くやうな好奇心が、際限も無く自分を引張り付けて、しまひには生活圏をいびつにしさうな虞れがあつた。そこで對策として先づ活き方を單純にし、元來素人であつた藝事や勝負事と縁を切り、幾つかの觀覽物を次々に斷念して時間を作り、後には氣休めの理窟をこしらへて色々の社交から遠ざかり、一方には又職業といふものを持たずに、どうにか活きて行かれる工夫をしたのは、相應な辛苦であつた。

　しかも斯んなにまでして見ても、問題の數は中々少なくはならない。ぢつと一つの事に考へ込む餘裕は無く、知らぬ間に全く別な事に心を取られて居る。もともと雜然たる知識を抱へ込んで、それをたゞ片端から落して來たばかりであり、それにやゝ移り氣な性質でもあつた爲か、昔今の賢哲のやうに、思ひを一つの點に集注することが出來ず、甲が少しも片付かぬうちに、又新たに乙丙丁が現はれて來るといふ混亂ぶりで、疲れるばかりで一向に效果が現はれない。そこで再び意を決して、たとへば自分にとつて眞劍な問題でも、他に同じ事を考へて居る人が有ると知つたら、暫らく其進行を待つて居て、結果を見た上で判斷を下すことにしよう、其方がよつぽど時間の儉約だと思ふやうになり、それからは一種の他力宗になつて、國の學問の一般の進歩を、冷淡には看過すことが出來なくなつたと共に、自分より他には誰もまだ手を着けて居らぬと思ふ研究に就いては、しみ／”＼と責任を感じ始めたのである。專門といふ言葉は、日本では世間の用途、外部の要望に根ざしたもので、從つて限界管轄の爭ひの種にもなりやすいが、それは私などの境遇とは交渉の無いことである。たゞ現在の有爲なる多くの學者の、一人もまだ手を下して居ない區域に於て、偶然にこちらだけが朝な夕な、念頭を去らずに持ち抱へて居た問題といふと、落ち付くところはやはり「どうして日本は斯うなつたか」、「何故に眼前我々が思ひ惱む如き、烈しい世相のくさぐさは出現したのか」等々で、因由はすべて今日以前に在り、しかも主としてこの國土の中に求むべきだとなると、誰が何と言はうとも是は日本の歴史で(501)あり、もしそんな史學は今までは無かつたといふ人があるならば、新たにそれが生れるのだ、自分たちがやつて見るのだと、事實によつて答へるの他はあるまいと思つた。

　既往は追ふべからず、過ぎ去つたことは致し方が無いといふ類のことわざはあるが、さうかと言つて毎日の生活に自然に起つて來るめいめいの疑惑を、抑へ終ほせた者はめつたに無い。たまたま有るならばあきらめ〔四字傍点〕に過ぎぬことは、小さな兒が決してそれをしないのを見ても判る。文書記録がたゞ一小部分の説明しか爲し得ないときまれば、何は置いても是に代るべき手段方法を捜すのが至當であり、又現に第二第三の途筋によつて、結構答へ得られた先例も多いのである。ここで私の信條と言つてもよいのは、學問は必ず人間の疑惑から、出發すべきものだといふことである。湯川秀樹さんの例などを引くまでも無く、多數の常人がまだちつとも問題にしなかつた知識でも、眞實であり又必要であるならば、先を越してどしどしと發見せられて居る。まして是ほどにも公けの疑惑となり、どうしたわけだらうとそこでもここでも、顔を見合せて居る問題を、到底わからぬの、調べやうが無いのとは、今くらゐの勉強ぶりでは言へた義理でない。樂觀とも評せられようが、私だけはいつかはつきりと説明し得ると信じ、又必ず説明しなければならぬとも思つて居る。或は若干の年月がかかるにしても、ともかくも學問はこの期待に背かず、この信頼に應へるやうに、進んで行くのがたゞ一つの途だと思ふ。其點が或は是を職業として居るいはゆる專門の人とはちがふかも知れない。

　私は自分の周邊にも、可なり廣汎な生活興味をかかへて居る。それをこつこつとつついて居ても、うき世を忘れて暮らして行けぬことは無い。しかし斯ういふ混亂の時代に生れ合せ、とても一生を掛けても處理しきれない問題の多端に苦しむとなると、やはり其中から緩急輕重の差を認めて、出來るだけ外間の多數の人々と、共通なものを取上げるやうに努めるの他はない。本で外國の理論を讀むことも參考にはなるが、それが果して我々の場合に、きつちりと當てはまるかどうかは又一つの問題である。殊に政策の模倣といふことは、日本の新文化の最も醜陋なる一側面であ(502)つて、近い過去の經驗を囘顧して見ても、まぐれ當りにも當つたものが半分には足りない。どうして其他の半ば以上が脆くも挫折し去り、又は流弊ばかりを後に遺して居るかといふと、言はば輸入學説の適用が精確でなかつたからで、本當は眞似がうはべばかりの猿眞似だつたからである。假にも文明國と名のつく國で、日本ほど自ら知らなかつた國は少ないだらう。政治家は田舍から出て來たことを楯にとつて、大抵は自分の概念によつて、全國の實?を類推しようとするが、私たちが知つて居るだけでも、地方は最初から、又は近世に入つてから、特に生活の行掛りを區々にして居る。古い新らしい幾つかの共通點は、有るにはちがひないが見つけるのに骨が折れるのみか、其變化の理由すらも、まだ明かになつて居ないものが多いのである。以前は小さな片隅の利害などは、一切無視するといふ態度で進んだから始末が付いた。今日は個人の自由だの平等だのを説きながら、なほ依然として實地を省みない概括論を押通さうとするのである。やがて馬脚を露はすにきまつて居る。如何にすれば再び見苦しい失敗の破綻を見ることが避けられるか、反動反々動の際限も無いくり返しを、安らかに打切るべき方法はあるかどうか。是は誰よりも先づ我邦の選擧人の多數と、直接に相談して見るべき問題であると思ふ。

　但しそれには一つ困つたことがある。歴史の學者たちは昔から今日まで、何か少しばかり人の知らぬことを知つて居ると、すぐに其いはゆる權威によつて、民衆を指導したがる。廣汎なる過去の文化に對して、ろくな解説も出來て居ない現在の實?で、そんな失禮なことは許される筈が無く、又現に他の新らしい學問ではあまりやつて居ないのだが、史學だけは古くから、王者の師といふやうな人が是に携はつた爲に、斯樣な惡い癖が始まつたのである。國民が自ら將來の行動を企畫するには、參酌しなければならぬ條件が他にも幾つかある。單に過ぎ去つた事實の穿鑿に名を知られたといふ者に、指導なんかせられてたまるものでない。だから私たちの仲間では、專ら是だけの事があつたのは確かだ、といふ證明に力を入れ、それから後は各人の判斷に依り、誰の指導も受けさせまいとして居るのである。ところが又一つ困つたことに、今はその一般大衆の列斷力が、まだぽつちりしか養成せられて居ない。日本人の大多(503)數は、まるで魚か渡り鳥の群のやうに、みんなのする通りに行動するのが、最も安全なる活き方だと、信じて居るかと思ふやうな、個性の没却が常の習ひになつて居る。是には我々のまだ知らない深い原因があり、之によつてこの奇拔な風土に適應し、種の保存には成功し、?々繁榮の機會をつかみ得たのかもしれないが、其代りには背後には血と涙と汗と、少なく流れるを喜ぶべき液體が多量に流れる。デマゴーグの最も效を奏しやすい國であり、普通選擧の根つから張り合ひの無い國でもあつたのである。獨り今度の屈辱に懲りてからさう思ふのでは無く、假に幸ひに平和に進んで居ても、是は誰かがもつと早くもつとはつきりと、心づいて居なければならぬ問題であつて、考へて見れば我々にも、胸をつんざく程の責任がある。是では何の爲に學問をしたのか、判らなくなるからである。

　常識といふ文字が、今ほど茫漠と用ゐられ、又ちつとも進展しない社會も珍らしいと思ふ。自分等ばかり偉いやうな顔をして、同胞の多くを土人のやうに、遠く見て居たのが學者たちであつた。私たちは其罪滅しの爲に、自分の得たものを速かに常識に引渡すだけで無く、更に出來るならば久しい年月の間に、少しづつ積み重ねて來た經驗を整理して、それを安全なる記録として後に殘し、嗣いで出て來る人たちに二重の勞作を節約させ、其餘裕を以て全く新たなる方面の開發に專心せしめたいと念じて居る。是とても勿論大した手柄では無く、自然科學の方面では夙くから、當り前の事としてそれを續けて居り、たゞ所謂今日の文化科學のみが、いい氣な顔をして受賣り、燒直し、半分以上も人と同じものを書いて、古來まことに無駄な時間を潰して居たのである。是に氣が付いただけでも、もう大きな前進の機會だつたと思ふ。

　第二の努力は表現の改良、人の理解を平易にすることに費されなくてはならぬ。今までの國語教育などは、形式主義の極端なものであつた。言葉は斯う使ふべきものといふことだけを教へて、それが思つて居ること感じて居ることと、一致して居るかどうかを問はうとしなかつた。其上に文章にはわかりにくいことを書き、演説にはむつかしいことを言ふのが、えらい人の特徴のやうになつた。理解の出來ぬのはこちらが愚かな爲と、身を責めるやうな考へ方が、(504)情けなく一世に瀰漫するやうになつたのも、素讀教育の弊であつた。この風を撲滅しなければ人間の判斷力は目を醒さない。此點にかけては古い世の家庭教育、郷黨教育の方がよほど長所が多く、現在はそれを無くした爲に、殊に口先だけの口きゝが幅を利かせ、人の判斷を鈍らせて居ると思ふのだが、それを確かめさせる爲にも、なほ今少しく前代の生活を明かにする必要があり、我々の仲間はなかなか多忙なのである。さうして教育はいはゆる私の專門の外だから、先づ是に携はる人たちの、心の改革を要求する理由があると思つて居る。老翁に「私の信條」を説かせようとすると、餘計な事まで言ふから話が長くなつていけない。

　

(505)　　　　　柳田國男自傳

　

　明治八年七月三十一日の夜、兵庫縣神崎郡田原村の辻川といふ處で私は生れた。今の播但線の福崎といふ停車場から、市川を隔てゝ東へ十町餘り、僅かな岡の裾の國道に面した小家であつた。家の背後に在る藥師堂を有井堂と稱し、峰相記といふ舊記に出て居る有井は是だらうといふことであつた。兎に角に古井の跡を存し、又火の雨の降る時に遁げ込んだといふ塚穴などもあつて、相應に古い村だといふことは地形からも察せられた。但し今居る住民の家は、殆と全部が戰國終り頃からの土着であつた。私の家は其中でも新らしい隱居分家で、しかも早くから持地を手離し、村と農業によつて結び付けられない半漂泊民であつた。

　父の名は松岡操、人は約齋先生と呼んで居た。一旦醫を業とし後に之を見切つて、姫路の町學校の熊川舍といふに聘せられ、漢學の師匠となつて盛りの年を過した。さうして其間に本居平田兩大人の學問に、引寄せられて行つた人である。私の生れた頃には、そちこちの御社の神官をして居た。若い時には祖母に勸められて、盛んに法華經などを書寫したこともあつたが、親の死後、私の生れる前年それを佛具と共に悉く市川に流して、神道に復したと言つて居た。この稍々移り氣な氣質は私にも遺傳して居る。併しその御蔭に一生を幾つにも折つて、常に新らしく使ふことの出來たのは、感謝しなければならぬと思つて居る。

　村の小學校では、私はあまり人望が無かつた。いつも虚弱なのと鷹揚で無いのとで、同級の子供からヲシラカサレて居た。十歳の秋に家屋敷を賣ることになつて、暫らく二里ほど東の北條といふ町に移つて住んで居た。北條は母の(506)在所であつたが、もう其頃には近い親族は居なかつた。母は衰微した舊家の出で、又可なり嚴肅なる世相の批判者でもあつた。父が單純なる幼年型の傳承者であつたと反對に、母の方は稍々咏歎味を帶びたる前代生活の記述者であつた。幸か不幸か私は此傾向を餘分に受け繼いで居る。

　私の家庭教育は完全なものといふことが出來なかつた。十一歳の春にはもう二親の手元を離れて、生れた村の三木といふ豪家に預けられた。多分家が乏しくて育てにくかつた爲であらうと思ふ。三木氏には先代に學者があつて、近郷にも珍らしい澤山の書物を藏して居た。それをこの幼少なる食客は、自由に出して讀むことを許されて居たのである。しかし濫讀の惡い習癖は、原因する所が今少しく遠かつた。父は本が買へないので始終方々から借りて來て讀んで居た。さうして其たびに悦んで本の有難さを説くので、解りもせぬくせに私も、それを見ようといふ氣になつたのである。小兒に讀ませて惡い本だけは、それでも家に居る間は高い棚に載せて置かれたが、三木の家では選擇を私自らがしたのであつた。さうして豫定せられて居た漢籍を出しに行つた序に、うす暗い書庫の窓に凭れて、うかうかと合卷の草子などを、半日も讀んで居たことが?々あつた。また國男さんは惡い本を見てぢやなと、下から聲を掛けられたことも二度や三度では無かつた。

　ところが斯ういふ機會が、不思議に私にはくり返された。十三の歳の九月始に、二番目の兄に連れられて東京へ出て來て、それから直ぐに又茨城縣北相馬郡の、長兄の家に送り付けられた。大利根川左岸の布川といふ町は臺畑の崖の下の家であつた。家主の小川といふ醫者が又珍らしい藏書家で、主人は外に出て居て老母と小さな孫とが其番をして居た。翌年の土用ぼしに行き合せて見ると、土藏が三分の二ほども書物であつたので、手傳ふやうな風をして盛んにそれをひつくり返したのみか、時々は孫をそゝのかしてわざと此土藏で隱れん坊をした。近所に斯ういつた家が今一軒あつて、そこの息子も書物の爲に歡心を買はれて居た。それから約二十年ほども經つて、今度も偶然に私は内閣の記録課長を命ぜられたが、それがちやうど又あの大きな内閣文庫を、今在る所へ引移す時に際して居た。明治四十(507)三年の夏などは、夏休みといふものを私は取らなかつた。さうして暗くなる迄へと／＼になつて蟲ばんだ本を讀み散らし、うまいことをした氣で歸つて來たのは、今考へて見ると一つの病であつたやうだ。

　だから役人をしたことは、少しも損であつたとは思つて居ない。私は一體三つの歳までごく壯健であつたのが、惡い田舍の種痘が祟つて、おできだらけになつて其時から蟲持ちになつた。滿足に大きくなつてくれゝばよいがといふひそ／＼話を、毎度のやうに小耳に挾んで居た。當分は野育てにして見ようとあつて、中學校へもやられなかつた。旅行でもしたらよかつたのかも知らぬが、家に其餘裕は乏しかつた。官費の商船學校に入つて、船長になつて見ようと言つたが止められた。親を失つた當座は心持が丸で變つて、山林の技師になつて山で暮さうと企てたこともあつたが、此方は數學が不得手な爲に自分で斷念した。しかも船長よりも山林技師よりも、もつと勝手な旅行が出來たのは官吏になつた御蔭であつた。といふよりもあの頃の議會がよく解散して、急に中央の人間が手の明くことになつた爲であつた。何にもせよ草鞋で飛んでも無い山の中などをあるくうちに、次第に少しづゝ丈夫になり、又是から先何をしようかといふ考もきまつた。碌な功績も無いくせにいつも月給以上の過分な恩惠を蒙つて居る。

　明治三十三年に法學士といふものになつてから、直ぐに農商務省に入つて田舍をあるく役人になつた。三十四年には春と冬と二度、關東と中部とを可なり長く旅して居る。それから十年餘りは無理をして迄も出あるいたが、其中でも長い旅は四十一年の夏から秋にかけて、九州四國を三月以上經廻つた時である。後狩詞記といふ小編は其時に材料を手に入れ、それが因縁で日本の特徴たる、山村といふものを考へることになり、又山の神の信仰の我々の文化に對して、大きな力をもつことを人に説くやうになつた。併し流石に大きな海を越えて、日限不定の島の旅をすることはむつかしかつたので、言はゞそれを樂しみに官界から退く氣にもなつたのである。『海南小記』は大正九年の冬から、翌春二月へかけての痛快な海上生活の記録である。其以前にも佐渡を一周した氣樂な旅行があるが、それはつい障りが起つてまだ豆手帖を整頓して居ない。

(508)　旅行は幾分か氣むつかしい私の氣質を和らげてくれたやうである。こんな人も居る、あんな生活もあるといふことを少しづゝ知つて、思ふ通りに世の中がならなくても、喫驚をしなくなつたのは有難い。日本人は最初赤い顔をしたのが惡人、もしくは惡人は赤い顔をして、是非出て來るといふ芝居ばかり見馴れて居た。それが實際では必ずしもさうで無く、何が何だかと時々考へるやうになつて、急に出來るだけ多くの實例を知つて見ようといふことになつたのである。外國文學への心醉は半開國見たいでをかしいが、是は我々が人生を現象として見る爲に必要であつた。幾ら愛するものでも、一度は之を天然の事實として觀察しなければ、本當はその未來の幸福を講じて遣ることが出來ない。其技術の練修の爲にも、先づ極端に縁の遠いものゝ生活を、知つて置く氣になつたのが元である。文藝の自由主義なるものゝ理論は、私にはよく呑み込めることばかりでは無かつたが、私は兎に角に旅行をするやうな氣持で、諸君の尻に附いて西洋の散文劇の、ひどく勝手のちがふものをぽつぽつと讀んで行つた。

　其うちに一二の外國人が私の書齋に入つて來て、斯ういふ書棚の本を見て笑つた。之を讀まうといふ君の氣持はわかるが、如何に西洋だつても文藝と生活とは別だ。やつぱり自分で見た方がよいと言つて、連れ立つて内地を旅行したこともあつた。彼等の驚きは又私たちのと別であつた。それから自分でも向ふへ行つて、常人の暮しをして見ることになつて、始めてあちらにも平凡な愚人惡人、いやな奴哀れな人たちの拂底で無いことを知ると共に、問題の意外に我々と共通なものが多いことを感じたのであつた。ヒストリーを望むにはエスノグラフィーの樹蔭がよく、しかも其森の中のたゞ一筋の小路を辿らなければ、フオクロアの我家には還つて來られぬことを是も偶然に學ばざるを得なかつたのである。

　自分の尊敬する友人の中には、なまじひに秀才であつた故に紙鳶や竹馬の經驗を、殆と記憶しないといふ人も少なくないが、私は是とは正反對に、あまりにいつ迄も子供らしさの好奇心が續いて居る。一つの仕事にぢつと永く附いて居られぬ爲に、どれも是も纏まつた成績を遺して置くことが出來ぬ。しかし其代りには年中氣ぜはしなくて、飽き(509)て欠伸をするといふやうな不幸には、一度も出逢はなかつた。此點は深く我が約齋先生に向つて、遺傳の恩を謝すべきだと思つてゐる。一方母から承け繼いだ片意地と潔癖なども、世渡りの上には少しは不便であつたが、是とても子孫が似てくれないことを願ふほど、惡いものとは思つて居ない。第一に私は常に友人を信じ、且つ之に依つて扶け導かれて居る。是は敬慕することの出來る人で無いと、最初から友人にしなかつたからである。弘い世間に無數の知合ひを作ることの出來たのも、各々其長處を見分けて其側面とばかり、接觸することを心掛けた結果で、是がもし自分自身に對するやうに、好くても惡くても不可分につきあつて行かねばならぬのであつたら、とても今知つて居る十分の一も、人の美點を實驗する機會を得なかつたらう。私は確かによく人を憎むが、一方には誰よりも多く愛する者をもつて居る。殊に欺き僞らざる少年が好きだ。さうして自分の久しく子供らしかつたことを、今以て後悔する氣にならない。それだから又下らぬことばかりして來たと思ひつゝも、案外元氣よく活き續けて居られるのであらう。

　

(513)　　　　　松浦辰男著『芳宜乃古枝』序

　

　前つ年頒ちたまひし萩の下葉は既に殘なくなりぬ、其後よみ出でたまへる歌もはた數多あれば、こたび還暦の御よろこびにつけて、すゝめまゐらせて更に此卷を世に公にす、前の集に出でたる歌にして、此度は刪りすてたまへるが多きはいとも惜しきことなれど、前にもめでたしと承りし歌の、猶さまざまに思ひ直しよみ改めたまへるがあまたあるは、まのあたり御をしへを聽くにもまさりて、程遠き處に住める人々の爲には殊によろこばしきことなり、

　さて此卷の名を萩の古枝といふは、かの古今集のもとの心は忘れざりけりといふ歌の心を思ひよせたまへるなり、大人のたまへらく、いにしへは筆をもて歌をよむといふことはなかりき、旅に家に獨在るときはさら也、花の晨月の夕、うから友どち打集ひてこゝろ動き興催すにつけても、思ふことをさながらに口すさびて、人も亦口より耳に聞傳へ歌ひつたへけん、されば詞は安らかに感はおのづから聞く人の胸に應じて、其理つひに字句をもて推すべからず後世題を設け想を構へ眼前ならぬ境をも歌によみ出づるならはしとなりても、猶常にこの心しらびはあるべきなりとて、此頃はことに歌詠ずるわざを人にも説き自も亦試みたまへり、近年歌の論日に盛にして新しき風は頻に起れりといへども、其よしあしはさておきぬ、唯流行は移りて止まず、智ある者は惑もまた多し、源に還るはやがて新しき世に立つの道なれば、此集をよみて大人の訓をよろこぶ者、獨おのれ等のみにはあらざるべしと思ふなり、

　思ふにこの世の中の遷り易り、大人がまのあたり見聞きたまひしこともそも幾何ぞや、ためし無き　大御代の榮はかくるもかしこし、學問藝術の開けたる、人情風俗の改まりたる、あるは眼近き人の上、自の世渡につけても、凡そ(514)西の京の昔より東の都の今の世まで、六十あまりの年頃には、めづらしともよろこばしともはたうれはしともかなしとも思ひたまひしこと、如何ばかりか多かりけん、さて其折々の情と感とを、さながらによみ出でうたひ上げたまへるが大人の歌なれば、此集はやがて大人が眞の日記にして、家に傳へて子孫の寶としたまふべきはいふもさらなり、世の中にもおのづから語り次ぎて、遠き後の世の人の爲にも、本の心をたどるべき道の栞ともなるべきものなり、

　此集の成りたるは明治三十八年の七月、海陸の御軍遠く出でゝ仇を攻め既に年月を重ぬれども、國の内はいと靜かにして、人々と共にこの太平の歡びをつくすことを得たるは、ひとへに　大御代の御惠なり、

　

(515)　　　　　飯島花月著『花月隨筆』序

　

　古來博雅の士は多く陶朱の家に出で、その鷹揚なる才分を以て、促迫無き學問に寄與した例は珍しく無いが、大抵は一代に産を傾け、さうで無ければ若隱居などをして門統から引離され、晩年は淋しく、子孫の其志を繼ぐ者も無い方が普通になつて居る。獨り我が飯島翁の場合のみは之と異なり、讀書は寧ろこの事業家の人柄を美しく且つ有利にし、研究はこの地方財界の功勞者に對しては、終始完全に餘技であつた。しかも翁の文章生活も、考へて見ると久しいものであつた。自分は少年の頃多病柔弱で、絶えて童兒の遊戯といふものに親しまず、稗史戯文のやうなものを讀んで日を送つて居たが、たまたま兄の家の玄關に、渡邊某といふ風流な書生が居て、あの表紙に三味線の撥と、猫の首輪とを描いた親釜集なるものを購讀して居た。讀んで本當は判らう筈も無いのだが、大人が面白がるものだからいつも手に取つて、隅から隅まで目を通して居た。さうして其中には既に上田花月の名があつたのである。四十何年かを隔てゝ上田に遊び、たつた一度だけの對顔をする前にも、是が果してあの花月翁かと、何囘か念を押して、人に尋ねなければならぬ樣であつた。思ふに親釜集の時代は、まだ三十歳には大分間がある年頃であつたらう。當時の寄稿家は何れも時代相應のインテリであり、且つ皆歴とした旦那衆であつたらうが、今日私でございと名乘り出る者が幾人あらうか。今でも知られて居るのは鶯亭金升氏位なものである。此中に於て我が花月翁だけは、地位の支援もあつたらうが間斷無き存在を示して居た。しかも單なる古い形の保存で無く、其努力と好尚とは、いつも環境に應じて移り動いて居たのである。此點を私などは何ものよりも推服する。信州の學藝は近代非常なる速度を以て躍進した。も(516)しも四十年前に高名になつたものを守り續けようとしたら、如何なる門地の力を以てするも、翁は尚埋没したであらうと思ふ。

　けだし天性の知聞慾、學問進化の認識といふものが、翁に幸ひしたことは疑ひが無い。其上に博覽強記の素質が、老に至るまで羨むべく衰へなかつたと思はれる。私が初對面の數刻の間に、主として話題にしたのは「甲賀三郎」であつた。所謂諏訪大明神御縁起の寫本は、同席の花岡茂三郎君其一本を藏し、又翁の手に屬した他の一本を以て校訂をして見たと謂はれた。私は是に興味を動かされて、現在知られて居る異本異傳が二十種に近く、安居院神道集はその最古のものなることを述べ立てたやうな記憶がある。其折には翁は淡々如として黙して之を聽いて居られたが、いつの間にか本書に録せられるが如き、精透周密なる一編が成つたのである。雜誌「郷土研究」の如きも、翁は又私等の豫想せざる熱心な讀者であつたかと思はれる。信州に一種別派の郷土研究なるものが起ると、乃ち一篇の上田城史が筆録して世に問はれた。さうして何人もその細心博捜に於て、翁の右に出でんことは難くなつた。「郷土」が此縣の向學青年の手によつて經營されるや、問題が新たに生れて之を決することが彼等には六つかしかつた。一度飯島さんに聞いて見たらどうかといふやうな場合は多く、翁も亦書札や人傳を以て、折々は其見聞を報ぜられた。それが多くは又決定的のもので、もう是以上に調べて見る餘地の無いものであつた。人が大切に藏つて置く物の中で、知識くらゐ早く古びるものも他には無い。それをこの長い一生の終りまで、いつでも時代の學問に用立てることが、出來たといふのは珍らしい例と言はねばならぬ。

　しかも今靜かにこの一卷の遺文の、未來の功績といふものを考へて見ると、最も大なるものは依然として翁の本領、即ち若い頃から手掛けて居られた部分に在るやうである。川柳の書物の數百種を取揃へて、樂しんで居る人は捜せばまだ有らうが、是を飯島翁の如く精しく讀み、細かく分類して後世の知らんと欲するものを、明確に拔出し又解説するだけの、根氣と熱情とを兼ね備へた者は、恐らくは之を見出し得まい。川柳は江戸期の社會事情に養はれた一種奇(517)異の文學現象である。今から改めて此樣なものゝ製作に力癌を入れる者の有るまじきは勿論、是を史實として前代の文化を探らうとする者も、資料が過剰なだけに追々と匙を投げ、稀々に是から拜借して、さも自分達が心付いたやうに、短かい隨筆でも書く位が落ちであらう。多忙なる後世の若い學徒が、川柳といふものに就いて知らなければならぬことは、大よそこの半册の川柳隨筆に盡きて居る。もしも是に由つてかの厖大なる特殊の古文獻を、無用の骨董品と化し去ることが出來たとすれば、それは救濟であり又痛快なる富家翁の貢獻でもあると思ふ。其意味に於て私は此遺稿が、單なる記念出版物として近親故友の間に頒たるゝだけで無く、弘く一世に流布して必要ある者の文庫に珍重せられんことを希ふと同時に、子孫門統の人々も亦祖翁の志を解して、求むる所無きの書が、却つて�ｺ澤を百年の末に施くものなることを、經驗せられんことを切望して止まない。

　　　　　昭和八年七月

　

(518)　　　　　『農村信仰誌』序

　

　農村信仰誌といふ標題を掲げることは、何か國内に二つ以上の系統のものを、認めんとするかの如き疑惑を受けるかも知れぬが、少なくとも今日、我々の觀察の表面に浮んで居る形相は、地域によつて是ほどにも著しいちがひが有るのである。現在の都市人の大部分が、至つて近い頃の地方からの移住者であり、その又過半が村に生れた人であるといふ、誰にも爭ふことの出來ない事實を考へ合せると、或は農村と言はんよりも、寧ろ前代信仰誌と呼ぶ方が當つて居るかも知れない。それを我々は是から尋ね究めて見ようとして居るのである。今見る都市の生活を作り上げた文化は、同時に又この本に記述するやうな諸現象を、退け押し隱さうとする力でもあつたかと想像せられる。たとへばたゞ一囘の道路の取擴げがあつても、先づ片付けてしまはれるものは、斯ういふ路傍の石像の類であつた。新たに東京市に編入せられた郊外の村里なども、以前は石地藏や庚申塔の珍らしく多い土地であり、道祖神や二十三夜塔はやや少なかつたが、その代りには馬頭觀音の、明治以後のものがまだ幾つでも見かけられた。それが最近の二十年足らずの間に、殆と自分の記憶を危むほど、散歩のたび毎に影を潜めて居るのである。かつて是等の石體の建立に參加した家々は、今も必ずしも退轉してしまはず、朝夕是を見馴れて成長した人たちも、きつと此附近にはまだ住んで居ることと思はれるのだが、もう彼等には集まつて之を支持し、もしくは補充するまでの因縁が具足して居ないのである。江戸名所記の類を讀んで見ると、もとは町中にも處々の空地があり、この種の信仰上の小さな記念物が、そちこちに奇特な語り草を留めて居た。それも恐らくは同じやうな順序を經て、たゞ幾分か郊外の新住宅地よりは早く、いつと(519)も無しに印象の外に消え去つたものと思ふ。

　始めて東筑摩郡の道神圖繪が世に公けにせられたのは、今からやつと十一二年の前であつたが、爰にはどの樣な氣樂な旅人でも、たとへば土地の言葉のわからぬ異國の觀察者たちでも、なほ立ち止まつて視て行かずには居られぬやうな、新古さま／”＼の石の塔が、村の辻や橋の袂に無數に立つて居た。それが如何なる人の心の動きによつて、斯くまで數を添へ又大切に守られて來たかは、實は今とてもまだ明瞭に判つたとは言へず、殊にその頃はたゞ一つの奇觀といふに過ぎなかつたかも知れぬが、ともかくも郡の有識者たちが是に注意し、又その由來を究めずには濟まされぬやうな氣持を以て、出來るだけ精確に記録を殘して置かうとしたことは、爭ふべくも無い一つの學問の萌芽であつて、獨り此郡を故郷とする後來の學徒のみといはず、弘く總國の爲にも囘顧すべき好事業であつた。是をたゞ單なる興味ある話柄として、語り交すだけならば誰でもして居る。どんな旅行家でも二つや三つ、珍らしい實例を擧げることは出來る。たゞさう言つて居るうちに段々と、眼の前の事實の消え薄れて行つた經驗に照らして見て、この教育會が一旦捉へたものは離さず、根強い信州らしき協力を以て、たうとう是だけのものにしたことは尊といのである。殊にあれからの十幾年に、村も道路も又人の心も、改まらずには居なかつた中に於て、なほこの程度にまで變動を喰ひ止め得たといふことは、全く諸君の關心が孤立で無く、集合的のものであつた御蔭である。どうか將來もこの力を、自他の學問の上に利用するやうにしたいものである。

　自分は旅を樂しむ者の一人として、夙くから道の神の信仰には注意して居ただけで無く、實は東筑の教育家諸君に、この問題の小さいもので無いことを、請け合つた因縁をさへ持つて居る者であるが、今から考へて見ると、幾つかのまちがつた物の見方をして居たばかりか、其後も格別の改良をしたとは言へない。元來が非常に奧深い、從つて幾らでも成長し得る研究事項であつたのに、是を十分に培ふほどの、時と力とが私たちには無かつたのである。たゞ幸ひなことにはこの大切な問題の種子の爲に、この郡はまことに肥沃なる土地であつたらしく、其根は枯れぬのみか、次(520)々と繁茂の兆を示して居る。

　さうして今ちやうど國民の精神生活の底に潜むもの、文書記録の曾て解説を試みようとしなかつた部分に、改めて討査の歩を進むべき時運に遭遇したのである。固より是はたゞ農村信仰誌の一部面であり、もしくは其片端とか手掛りとかいふべきもので、全體の理解を導くにはなほ遙かなるものかも知れぬが、ともかくもこの知識の新鮮にして、又第一次のものであつたといふことは爭はれない。少なくとも是を眼中に置かずして、今まで公表せられて居る諸家の意見は、この記述と引合せてもう一度、檢討せらるべき必要を生じたのである。國の學問の進況を表示すべく、是が又一つの道標であるとまでは言つてよからう。

　この書が一郡の事實を精確にすることに、全力を傾けて居る態度には推服する。うつかり土地限りの結論などを添へて置かうとすれば、やがて訂正せられ補修せらるべきものの、多きに堪へないであらうからである。しかし此中には如何なる問題を含み、もしくは將來この資料の利用によつて、どういふ過去の文化が明かになつて來るだらうかといふ見込だけは、讀者として又は採録者の勞に酬いる方法として、身の分に應じて之を考へて見るのがよいかと思ふ。それには勿論全國の諸郡に、次々同種の計畫が起るのを待つ方が、安全であるには相違ないが、そんな氣の永いことは言つて居られぬ者も居るのである。大膽かも知らぬが二つか三つ、讀んで心付いたことを書き列ねで、現在すでに此學問の前途に就いて、是だけの希望を繋けて居る者が、あるといふことだけでも明示して置きたい。

　一つの大切な問題は信仰の起原、石に色々の工作を施した記念物と、是を建立せしめた信仰との關係は、どうなつて居るかといふことである。家々の先祖の石碑でも同じだらうが、古いと謂つたところで萬治寛文、江戸期の初頭までも溯り得るものは、大抵の土地では至つて稀であつて、たゞ關東平野などのいはゆる板碑だけが、最も顯著なる例外を示して居るのみである。是は一言でいふならば石工の普及、石を形に斫つて遠くから運び、乃至はその表面に鋭利な鑿を以て圖像文字を彫る技能の、具はつて居たことを意味するのみならず、更に進んでは由緒來歴、我名と人の(521)名を文字から讀み取ることの出來る者が、或數に達して居たことを條件として居る。それが此信仰の開始では無かつたらうことは、何人にも想像し得られるのである。さうするとその一つ前、石屋も入つて來ず、石を彫刻する刃物も得難かつた頃は、どうして同じ一つの信仰を表現して居たかが、問題にならずには居ないのだが、是も今日ならばまだ答へることが出來るかと、私などは思つて居る。東日本には殊に多く、つい近年まで殘つて居り、今でも記憶となり又は地名となつて、弘く分布して居る古塚はその一つの場合と考へられる。是ならばたゞの農民の衆力を集めて、容易に現在の石塔類と同じやうな、眼に着くものが作り上げられる。さうして又事實この塚の前に於て、似たる信仰行事の行はれた例も多いのである。塚を築かうか石を刻んで立てようかは、曾ては選擇であり、又勞力と資財との、換算の問題でもあつたやうに思はれる。その上になほ一つ、土地の使用といふことが、次第に重々しい要件となつて來たのであつた。封土即ち土を盛り上げて塚とする風習は、我邦でも至つて古くからあつたらしいが、その目的は今まで尋常の用に供して居た土地を、改めて清い土地とする爲に、人に踏まれたことの無い土を運んで來て、一定の區劃を新らしくするに在つたので、ちやうど神木の移植と同じく、場所の選定が人間にも、許されてから後の事であつた。從つてそのもう一つ以前には、自然に確定した昔からの靈地、又は新たなる示現によつて、神に指示せられた動かし難いものが、今ある庚申塚庚申塔などの地位を占めて居た時代があつた筈である。それが交通の伸び擴がり、邑里の開發が進むと共に、爰にはどうしても一つの祭場が無くてはならぬといふ願ひが先づ起り、最初は恐らくは最も嚴格なる方式を以て、神の御許しを受けて新たに區劃した土地が、今ある多くの社の森であり又塚であり、或は小さな草の葉まで、取つては祟りが有るといふ神藪の類であつたらうかと思ふ。いつの昔からとも無く、定まつて居る靈地は言ふに及ばず、新たに土を盛つて築き上げた塚處でも、之を設ける手續きは簡單である代りに通例は人を近づけない區域が廣きに過ぎる。村にたゞ一つの重々しい御社は別として、僅かな住民の集まつて拜む神、殊に路の傍や民居の間に在つて、是ぞといふ神事も無い小さな神々には、出來ることならばさう大きな土地をかこはずに、何か他の(522)方法を以て其存在を明かにしようと、企てる者の多くなつたのは自然である。是が技術と入費との許す限りに於て、急いで斯ういふ石の工作物を、採用するやうになつた原因であり、土地の世俗的の用途の繁かつた地方に、立石が多く塚の少ない理由をも説明するかと思ふ。二つは系統が別なものの樣に、其地の人までが今は解して居るだらうが、さうすると多くの古塚は何の爲に出來たかがわからぬのみならず、一方には今ある石の神が、元はどういふ樣式を以て信仰せられて居たかが、考へられなくなるのである。

　第二の今少し手近な問題、是等路のほとりの色々の石體は、單なる祭場の標示であるのか、但しは又拜まるゝもの、即ち信仰の對象であるかといふことは、案外簡單には答へられぬやうである。石の地藏だけなら何の疑ひも無いかも知れぬが、それと形の近い九州南部の田の神になると、もうさう早速には斷定してしまはれない。殊に青面金剛や子安の像などは、御姿はたしかに床の間の掛軸の繪と同じでも、大抵は其脇に石を立てた人の名や年月日が彫り付けてあり、又?々或大きな供養の日を記念する爲といふやうな文字が有る。

　關東の平野に數多い馬櫪神、又は馬頭觀音の石像などは、馬が途中で斃れて死んだ場處に、馬主が建立する習はしであつたことは、寧ろ我々の墓地の石と近い。東京市内でも近年の親子地藏、又は五人地藏といふ類の路ばたの石像は、すべて新聞にも出たほどの悲惨なる殺人事件の後、人が亡靈の苦難を憫れんで、その追善の爲に立てたものばかりである。是にも佛者の方には相應な説明が有るのだらうが、とにかくに外形は他のすべての塚や石塔と同じに、或日或一つの感動すべき出來事の爲に、記念として永く傳へようとしたもので、後人の來つて是に祈念することは、豫期したかも知れぬが計畫の内では無かつた。だから其中のたゞ僅かなもののみが、汎く一般人の信仰を受け、他の多數は其建立に參與した者以外に、省みる者が無いのである。自分の解釋は誤つて居らぬとも限らぬが、是はこの立石を一つの幣串、又一本の旗竿のやうに、もとは一囘の大きな祭の爲に立てたのが、石である爲に永く保存せられる結果となつたもので、ちやうど家々の屋敷神の祠が、新藁で作れば一年毎の假屋であり、石でこしらへるとやがて常設(523)のものになるのと、異なる所は無いと思つて居る。しかも其場處は定まつた祭場である故に、後々の祭も自然にこの石の前に行はれ、之を神々の常の坐所の如く感じて、或は香花を捧げ願掛けをする者が出來て來て、繪像を刻する者が多くなり、二十三夜塔とか地神塔とかの、たゞ文字ばかりを彫り付けたものを、何か略式のやうにも思ふことになつたのである。道祖神の信仰などには今もまだ傳はつて居るが、前代の靈地思想といふものは、たゞ我々の心の中の存在であつた。住民は常から其場處をよく知つて、之に對して非禮の振舞をしなかつたが、祭の日にでもならぬと外の人にはわからず、從つて折々は之を犯して罰を受けるかも知れぬといふ不安があり、それを又土地の境の防衛の爲に、利用しても居たやうである。山の神の祭場なども、普通には山主以外の者には知られて居なかつた。そこに御幣を刺し供物を上げる日になつて、始めて其地點が明かになる。それで多くは少年を同行して、其記憶を相續せしめようとしたのであつた。塚や森のやうに地形に特徴があり、遠く望んで何人にもそれと判るやうな場合でも、やはり祭の日には改めてそこに幣串を立て、又は旗鉾を列ねることになつて居たのを見ると、其地を毎年の定まつた期日に、改めて正式に認識するといふことが、國土が林叢を以て蔽はれて居た時代からの、古い習はしであつたことが察せられる。それが技藝と經濟事情の進展に伴なうて、斯ういふ半永久の工作物に置き換へられるやうになると、もうそれだけでも信仰の態樣は變り、外來教理との融合が可能になつて來るのである。故に將來安全なる立證方法を以て、せめては今一つ以前の　　状態だけでも、大體は明かにした上でないと、迂闊には農村信仰の本質を説くことが出來ない。殊に大東亞圏内の諸民族の間に、不思議な共通點を認められて居る靈地思想の問題に於て、この復原の試みは必要であり、それには又この書が集録したやうな資料は、比較用として大いなる價値をもつのである。

　終りになほ一つ、是も多分はまだ容易に賛成者の得難からうと思ふことは、土地毎に色々と異なる辻の神は、根原恐らくは一つのもので、種類はたゞ年代の前後、もしくは外から其信仰に干渉した、道佛二教の解説の差に基づくのでは無いかといふことである。現在の講の數は、土地によつては十種以上にも及び、名が異なり唱へごとがちがへば、(524)勿論それ／”＼に對立して併合するやうなことは無いであらうが、しかも組織と行動の樣式とに於ては、甲乙殆とかはるところの無いものが多いのである。講に共通した特色といふものは幾つもあるが、第一には定まつた導師が無く、毎囘順まはりの頭屋を以て、祭の場所として居ることで、この點は更に村總體の神祭りとも一致して居る。是も今後の證明を要することだが、氏神の祭はもと家々の本家だけで行つて居たのだから、是が近世の頭屋制度に改まつたのは、寧ろ他の一方の講の組織から學んだもの、即ち今日の庚申講などの協同の方が、一つ前からのものと言ふことが出來ると思ふ。講の指導者は故參順で、ちやうど宮座の廻り神主も同じやうに、年臈によつてきまつて居たことは、自治の本旨にも合して居たけれども、其代りに各員の智能力倆に、差等が無く、往々にして外から招いて來た師匠役によつて、引廻はされる危險があつた。是が又資質はどの團體も大きなちがひは無いのに、ただ唱へごとや繪像などの、二三の形式だけが全く別になり、從つて後々幾つもの種類に立ち分れた原因にもなつたものらしい。さういふ中でも中世以來、久しくこの團體の力を利用して居たものは、合同念佛の傳道であつた。今でも念佛の講は數に於て最も多く、それが又何かの記念に、塚を築き石塔を建てる風は弘く行はれたのみならず、ちがつた名を持つ色々の講でも、念佛を行事の中心として居るものはまだ少なくは無い。信州も此郡などにはもう盛んでは無いが、毎月二十三日の夜を會期とした二十三夜講といふのが、國の南北兩端にかけて、非常に汎く分布して居る。是が或は民間念佛の流布以前からの、我々の講の一つの形では無かつたかと思ふ。次には子安講、關東の各地では十九夜講とも謂つて、主として子を育てる年齡の婦人によつて支持せられるもの、是なども後々は觀音や地藏の信仰と結合して、繼目が判らぬやうにはなつて居るが、注意して見るとその結合の動機に、何かまだ固有のものが殘つて居るやうで、是も亦大きな祭の機會には石塔を建て供養して、群の感動を統一しようとして居る。それよりも更に佛法と縁の遠いものには、單に御日待の名を以て呼ばれる定期の集合で、是にも他と同樣の講の組織をもつものは多いのだが、此方は神社の頭祭に近いだけに、石を立てる風習が普通には見られなくなり、從つてやゝ別系統のものの如くにも見られて居た。し(525)かし是等のすべてのものを通じて、祭は必ず夜分の御籠によつて行はれるといふ點は一致して居る。さうしてマチといふ言葉には色々の解釋も有るが、兎に角に夜を徹して起き明すといふまでは皆同じであり、その中では庚申待の物忌などが、殊に嚴重を極めたものであつた。庚申の由來に就ては拾芥抄以來、支那から輸入した學説が弘く行はれ、學問をした者だけは之を信じて居たが、實際その行事に携はる多數は其仲間で無く、彼等には又別途の感覺があつたことは、本書に現はれて居る外部の形相の、複雜を極めて居るのを見ても察せられるであらう。マチと祭りとの根本の關係を、或程度まで明かにした上で無いと、斷定は勿論許されぬことだが、少なくとも日本の農村信仰に、時代の變遷があり又地方毎のちがつた方向があつて、その末端の姿だけを捉へると、殆と綜合し難い亂雜さしか無いやうに見えても、比較を重ねて行くうちには、段々と全國の一致、古今を貫流する國民の心願といふものが、たゞ此中からのみ掬み取られるといふことまでは、今でも保障して差支が無いと思ふ。

　この書の爲に、個々の材料を蒐集し報告せられた多數の教育者諸君は、著者であると同時に、恐らくは最も熱心な愛讀者でもあるであらう。私がその人々に期待することは、先づ第一には是を以て或一つの事業の完成と見ないことである。この中からめい／＼が、最も興味のある疑問を拾ひ上げて、たとへ明確なる答へを此次の著作に寄與し得ないまでも、之を大きくし又一段と興味深いものにして、どうでも解決をせずには置かれぬやうにすることである。郷土研究がたゞ一つの郷土の事蹟を明かにすることを以て、滿足すべきもので無いことはもう決定して居るが、農村信仰誌の如きは、その小さな目的すらも、是だけでは到底達することが出來ぬ。郡外は申すに及ばず、弘く他の端々の地に居る同志と助け合つて、始めて國の昔も明かになり、同時に又郷土人としての新たな悟りを得ることにもなるのである。雜然たる村の辻々の各種の立石も、單なる過去の俗信の痕跡では無くて、今でもまだ活きて居るのだつたといふことは、御蔭を以てほゞ判つて來た。しかもその背後のものは次第に力弱く、今や消滅の一歩手前を歩んで居て、もしかこの採集が僅か十年もおくれたならば、どんなよい加減な臆測でも成り立ち得るといふ、際どい境目に臨んで(526)居るのだつたといふことを、本書のやうに鮮かに述べ盡した本も他には無いが、それよりも國内にはもう是がたゞの遺物となり、更に其遺物さへも一つづゝ影を隱さうとして居る地方も弘いのである。先づ／＼間に合つてよかつたといふ大きな悦びも包むことは出來ないが、それを心の底から表白する以前に、ともかくも此書の縣外の同志の手に、次々と渡つて行くことを祈念せずには居られない。さうして幸ひに現在まだ爰と同じやうな　　状況に在る土地に於て、たとへ一箇所でも同じ計畫を實行するものが出來てくれば、この資料の價値は又ずつと高くなるのである。學問が成長して新たに色々の大切な問題を生み出すこと、國として今まで心付かずに居たことに心づくやうになること、是が諸君の年來の勞苦に對する、何よりも有效なる御禮になるであらうと私は思つて居る。

　　　　　昭和十八年五月

　

(527)　　　　　井上通泰翁歌集『南天莊集』序

　

　南天莊の翁、井上通泰の大人、身まかりて早くも二歳の日は近づきぬ。我等その遺業の散佚せんことを憂ふる者、志を合せて集拾校訂し、まづ茲にこの歌の卷を世に公にす。次ぎてなほ力あらは、くさ／”＼の文章のいまだ顯はれざるものを整理して、更に一書を成さんと欲す。此集に載せたる歌の數は二千五百九十四、其うち昭和十一年以前のものは、曾て詠草又歌稿等の名を題して自ら選定し、之を印刷に付して知友の間に頒ちたることありき。其後の五年の間に詠み出でたる五百九十七首に至りては、終に故人の筆刪を經ることを得ず、もはら南天莊月報の掲ぐる所に據りて、新たにほゞ年次を序でたるに過ぎず。故人はもと寡作なり。殊に少壯の日の歌は傳へざるもの多く、僅かに本務の暇に、折にふれて興を寄せ情懷を敍べて、人に示し又自ら怡びしものを存するのみ。中ごろ歌を以て、大内に仕へまつり、又かたはら道の友垣を結びて、耀く大御代の手ぶりといふものを説きかはすに至りて、漸うにして題詠の歌の數は加はれり。素より是はたゞ錬磨のわざなるべければ、さながらに之を後代に留めんことは、作者の本意にかなへりや否やも測り難しといへども、今に及びてははた如何にかせむ。故人は歌を學問の一つなりとし、學びて必ず到るべき道と信じて、自らも博く尋ね深く思ひ、人に語ることも亦極めて懇切なりしかども、その言説は大むね對話を期して、之を筆紙の上に表はし傳へんとしたるもの稀なり。假に將來斯人の歌道といふものに、果して幾ばくの新意創見ありやと知らんとする者出づとすれば、歌風に依らずしては眞相を探ること難かるべく、まして身親しく南天莊の園の内に遊びて、主翁のそゞろ語りに耳を傾けたりし人々の、此集を繙きて再び想ひ起し、又は新たに心づきて、(528)自らの道の行くてを考へ定めんとするものは、今はなほ國中に數多きなり。故人の志は遂げたりとは言ひ難けれども、幸ひにして此書之によつて世に傳はり、おのづから花さき實なるべき機縁ともならば、我等の企つる所は徒爾ならずと言ひつべし。國の文藝の歴史を囘顧するに、倭歌は殊に時代の變遷を累ねたり。世を隔て時を異にして、人の好尚はあまたたび推し移り、古き世必ずしも疎んぜられず、近き世必ずしも許されず、更にその中間の最も省みられざりし世に就きて、今は又新たに隱れたる名手を見出でたりと説く者あり。あすの日は誠に定め難し。誰か百年の鑑賞を期する者あらむ。たゞ此集の作者の如きは、念々君國を去らず、物に對して思を述べ、題に應じて意を表せんとするに當り、未だ曾て平生の所懷を欺くことなかりき。この態度も或は、亦後世の批判を免れざるものならん。たゞ故舊骨肉の私の情としては、是を一篇の日記に向ふが如く、撫摩し誦吟して永く卷を掩ふに忍びざるの感を抱くのみ。

　　　　　昭和十八年八月

　

(529)　　　　　『いたどり』第四卷別册附録　歌及び序

　

　この本は發行部數がたつた五六十、出た當座からほしい人も買へず、すこしく珍本すぎる嫌ひがあるが、自分のみはうま／＼と仲間に入れてもらつて、ともかくも是からどんな風にも利用することが出來る。慾をいふならば他日もう一度、ちがつた形で之を再製して、遠く九州四國の方に住む學徒にもうれしがられるやうなものを出して行くことにしたい。奧南新報がまだ盛んに活動して居た頃から、私が頻りに「村の話」の本になることを念じて居たわけは、あれを上手に排列して小さな本にして置くと、よい御手本が出來、從つて今までの村誌のつまらぬ因習、馬が何匹居り小豆が何十石とれ、村會議員はどんな顔をして居たか等々、役場に一卷だけ保存してあればそれで十分なものまで出版したがる爲に、徒らに大きく讀みにくゝ、しかも費用がかさんで出しにくゝなる。其傾きを打切つてしまひ、たとへ少しでも新らしく又心を動かすことを、又この土地をいつまでも忘れ難くするやうなことを、書いて手輕に世に殘す流行の、元祖に八戸人をしたかつた爲であつた。紙や其他の事情がそれを許すならば、今もさういふ勸告をつゞけたい所だが、それをこの御時世に説いて見るのも愚痴な話、まづ／＼是で結構と快く滿足をして、其序を以て僅かばかり、勝手なことを言つて置くのもよからう。人生の咏歎者として、私の竊かに感じて居たことは、八戸人はそれ／”＼に興味の深い個性を備へて居る。中でもその頭取じみた或一人の如きは、ちよつと込入つた趣味があり意地があり、又數奇といつてもよい境遇の變遷がある。さういふ人々が各々思ふ存分のことをいひ、長短自在な題目を拾つて、自在に書きたてゝ居るのだから、それを人別に又題目別に、小さく纏めて見れば面白いにきまつて居る。たゞ一つだけ(530)外の者の注文を附け加へるなら、それは成るたけ遠くの者にもわかるやうな、少なくとも同じ日本に住み、同じ時代の苦惱に堪へて居る者に、共通の關心事となるやうなことを先にしてもらひたかつた。勿論それにも人は人、私は私の好みも有らうが、とにかくに斯ういふ人生、それと對面する斯ういふ世の中の一片もあるといふことが、どの位多く爰で發見せられて居るか、御當人たちは却つて知らずに居る場合もあるのである。たとへば今も達者で居るかどうか、頗る心もとない或村の老翁などは、話にまとまりが付かぬとほんの僅かづゝ、自分でこしらへて充?をして居るやうだつたが、その資材といふのがごく手近な、何れも自分の周邊から無意識に採取したものゝみなので、出來るものなら一夕酒でも飲ませて、思ふ存分にうそをつかせて、聽いて見たいといふをかしな志望をさへ私に抱かせた。うそだつて學問だつて、すべて皆人生の一事業である。それに人柄が映發するといふのは、私だけはうれしいことだと思つて居る。小井川靜夫君は根氣のよい、又やさしい心掛けの人らしいから、是からもまだうんと働くつもりなのだらうが、もし何か外からの故障によつて、遣りたい仕事の全部はやりおほせぬのだつたら、いさゝか順序を考へてこの「袰子の話」のやうな、一つの小さな區域を一人の力で、ぢつと見て居るといふやうな記述作品を、まづ出してしまはうといふ氣持になるといゝと思ふ。それから又無理かも知れないが、後世といふものが何を待ち、何を戰後の落寞たる日本文化から、捜し出さうとするかを想像してもらひたいと思ふ。君の親ぢさんなどは、自然とその中の小さな人生に對して珍らしくゆたかな愛情をもつた人だが、惡い一つの癖は孤立獨行したがる。知識の樂しみも片隅のもの、愁ひも悲みもおのれ一人のものゝやうに思つて、たゞ黙つて身を痛めて居る。そんな事があるものかと私は言ふのだが中々聽かない。その癖一方には技術と情愛とを兼ね備へた一人の息子を持つて居るといふことは、さう有りふれた平凡なる幸福で無いのだが、其點にはまだ心付かぬらしい。あれはたしかにをかしいことですね。

　　　世にふればなげきは滋し木がくれの花の色香も忘るばかりに

　

(531)　　　　　『拾椎雜語　稚狹考』序

　　　　　　　　　――縣外一讀者の喜びと願ひ――

　

　南から北への文化移動が、中世には水陸ともに、主として日本海岸の線を沿うて進んで居たことは、到る處に證跡を存し、是に心づいた人もすでに多い。いはゆる民間文藝の方面などには、思ひもかけぬ野中の水溜りを繋いで、以前の川筋を見つけて行くやうな樂しみが、次から次へと我々の仲間の、若い旅人たちに約束せられて居た。しかしたつた一つの不幸と言つてもよいのは、今までの學者には、別に明かな根據も無いのに、この移動の起りを平安朝期、今の山城の京が創建せられて後に、そこを水源として流れて出たものゝ如く、きめてかゝつて居た者が多かつたことである。今度新たに稻作農業の傳來を、推究して見ようとする機運があらはれて、この上代文化の通路を今一つ外側へ、少なくとも高千穗の降臨よりも古かつたと信ぜられた出雲の神々の國まで、出來るならばそれから更に南西に遠く、もつと自然にこの穀物の繁茂した全地域まで、繋ぎ續けて行かうとする希望が芽ぐみ始めて來た。平心に且つ忍耐して、確かな事實を撰り別ける爲に、若い人たちは先づめい／＼の判斷力を養はなければならない。

　北國といふ言葉は誰が付けたか。もとは單なる方角の名であつたらうのに、いつと無く暗い冷かな感じばかりを與へる。五月六月の田の水のせゝらぎ、白や黄色の野の花の咲きみちた村々をあるいて、あれはうそだつたと何度でも、私は獨り言をいつたことがある。裏日本といふのは新語にちがひないが、この爲に人を飛出しやすく、歸りにくゝした力も大きい。冬の靜かな日に本を讀み、又はもう少し物を考へて見る風が、この爲に一段と養はれにくかつたとす(532)れば、是は有害なる新語であつた。大昔の開拓者は辛苦も大きかつたらうが、氣を長く經驗を積重ねて、次第に自然との適應力を増し、人が繁榮してやゝ多くなり過ぎると、弟妹たちを激勵して少しづつ前面へ進出させ、月日をかけて追々と擴がつて來たものらしく、素より遠征でも無く又強制移住でも無い故に、領分境の問題はまだ起らず、言はゞ植物の取り木呼び繼ぎのやうに、初期にはなほ本家の榮養義を當てにするといふ、出村むつ地〔三字傍点〕に似た關係が、暫らくは續いて居たやうである。いはゆる表日本の中部にも、是とやゝ近い集團の成長は折々見られるが、日本海側は山が迫つて平地の幅の狹いものが多く、一方には海を相手とした勞働の必要がなほあつた爲に、この沿岸の土着は存外に早く進行して、それが追々に川上に向つて、やゝ大規模な開拓を、企てなければならぬ時代はやゝ後になつて來たものかと、私などは想像して居る。勿論是はなほ個々の實地に就いて、確かめて見るべき假定説ではあるが、ともかくも中央の脊梁山脈は高く又深く、たま／＼貫流する川はあつても、多くは懸崖を以て隔離せられて居て、雙方の奧地には今でも空閑が多く、わざわざ農具を負ひ種籾を携へて、こちらの田を作りに移住して來る者は始めは少なかつたと思はれる。農に伴なふ數々の信仰行事、同じ一つの原種を育成改良して、つひに今ある收穫率に持つて來るまでの技術には、偶然とは言へない多くの一致を示しつゝも、なほどこやらに互ひの特徴ともいふべきものが見落し得ないのは、基づく所はこの移住の系統の差、言はゞ北國人の多く苦しみ、多く經驗し得た結果では無いかどうか。私などは海を南に控へた地方の生れであるが故に、氣の付き方も甚だ遲かつたが、諸君の先人たちはとくの昔に、もう大よそは感じて居たのかも知れない。本を讀み又弘く旅人と交はつて、知識を貯へて居た土地の學者たちには、もつと適切にこの差異に心づいて、實着なる言葉を以て之を表示しようとした者が多かつたことであらう。郷土史の一つの目的は、むやみに通説の跡ばかりを追はうとせず、寧ろこの種のやゝ漠然とした懸念を、後から來る者に語り殘して置くことで、弘く一國の上から考へて見ようとする者の爲にも、他では得られぬ注意である故に、又と無くそれが大切なのである。

(533)　最近に私は偶然のしあはせで、東北二縣の二つの山間部落、いはゆる水没山村の民俗諷査書を、續けて讀んで見て始めて心づいたことがある。一つは山形縣莊内の西南隅、大寶寺川の支流の奧にある八久和といふ部落、今一つは青森縣津輕の岩木山の東麓に在つて、砂子瀬といふ名で呼ばるゝ小さな邑で、共に今囘水力電氣の爲に潰されるやうな場處ではあるが、起立の年代もちがひ中間の距離も遠く、互ひに縁故は全く無いにも拘らず、兩者に共通した最もはつきりした特徴は、農を營むだけの土地があつて、作物は稻一色、冬作の穀物は少しも無いといふ點であつた。少し考へて見れば是は不思議でも何でもない。冬は村丸ごと雪氷の下に埋もれて、やう／＼種漬けに間に合ふ位だから、此期間の作物はしつけられなかつたので、むしろ意外なのは稻成長期の日射が、こんな山の中に在つても相應に強いことで、是が又日本海側の一般の恩惠でもあつたかと私は思ふ。今からもう三十何年かの昔、私は英國からやつて來た夫婦の學者を同行して、會津の只見川の今日の水電地帶を、夏の日盛りに通つて見たことがあつた。汗を拭きながらその二人の外人が、全く熱帶的だと言つたのではつと心づいた。是で無かつたら稻作の文化は北進し得なかつたらうと思ふ。稻作を津輕の突端から、對岸蝦夷地の一角にまで持込んだのは、恐らくは年久しい北國人の體驗であつた。緯度や年平均の温度表などで、机の上で不可能を論じたのは、却つて無謀だつたと評してもよい。日露戰爭の直後に私が北海道に行つた頃にも、石狩平野の一部には既に美田が開かれて居たにも拘らず、なは能不能の論が闘はされて居り、一方には又米二百萬石期成同盟會といふ運動まであつた。ところがそれから又二十年餘りして行つて見ると、旭川周邊の低地は廣々と田になつて、二百萬はとくに越えたので、あの期成同盟などは、もう記憶する者も無くなつて居た。

　

　さて斯んな長話は、序文に向かぬことは自分にも氣が付いたが、こゝにもう一言だけ、添へて置かぬと尻が結べない。北國の稻作が豫期以上の成果を擧げたとなると、新たに又大きな問題になつて來るのは、冬はどうして過すかと(534)いふことである。いくら昔でも、さう悠長な火の端の生活を續けた者ばかりはなかつたらうが、人が多く土地の割當てが少なく、冬場食物の用意が十分と言へなくなると共に、一方には今まで豫測しなかつた刺激と誘惑とが、次々と追加せられて來て、今日は未來の安全な計畫が立てにくゝ、其收入の補充を探しまはる爲にやゝ複雜なる社會相を現出しようとして居る。郷土史の研究が直接に指導解決の力にならうとも考へられぬが、少なくとも是は他所から來る者の一般の常識だけでは、見究めることの出來ない地方事情であつた。古人が今までにどれ程の經驗を積み、それを後に生れる者にどの樣に語り繼がうとして居たかを、一通りは知つて置くことが、此方面の永住者には特別に必要であつた。たとへば越の國人が海から入つて來て、稻を育てゝ行く傍らに、なほ海に出て働く生活を續けて居たらしいことは、記録の乏しい上代に於てすらも、ほゞ其足跡を尋ねて行くことが出來る。殊にこの福井縣などは遠い昔から、天然の良い船着場を三つ以上も持つて居た。陸に居る人の記録は、とかく外から入つて來たものばかり珍重するが、三韓の寄寓者でも、渤海國の使船でも、たゞ宛ても無くこの邊に漂着したものとは思はれない。やはり諸君等の先祖が海に出て、直接にか又は間接にか、彼等に日本海上の消息を供して居たのである。角鹿の笥飯の行宮から三月ほどかゝつて、長門の豐浦に御着きなされたといふ貴人の御船路なども、恐らくはあの頃すでに安全なる熟路であつたらう。

　然るに風や大小の潮流は昔のまゝでも、人間の事情ばかりは次々と變り改まつて來た。最初には先づ帆を操り星を見定める技術が進んで、沖を急いで通る船が多くなると、沿海の貿易は割據に傾き、風待ち荷待ちの船ばかりを大事にすれば、港の設備も次々と改まつて來て、一種小天地の民謠情調を釀し出した時代もあつたが、存外にそれも永く續かず、終には今日のやうな機力推進、縱横自在の汽船油船の世の中になつてしまふと、船主も船員も次々と專業化して、航海は先づ季節とは何の關係の無いものになつた。以前の世の舟運は、この點がよほど農業に近く、遠方の船路は大小ともに年にたゞ一囘、距離や方角や積荷の加減によつて、一部は少なくともこの二種類の勞働を結び合せて、(535)故郷を守り續けることも出來たかと思ふ。それが近世北海の漁場稼ぎのやうに、夏の田仕事の盛りをはづしても、金を取つて來るといふ風潮に、進んで來たのも時勢ではあらうが、ともかくも此人たちがよく出てはよく還り、努めて故舊縁類との結合を絶つまいとする傾きの見えるのは、基づく所が有るやうに自分には感じられる。若州小濱の二人の篤學者の筆記には、さういふ特色がどの程度まで窺はれるであらうか。國の内外の往來に多くの制限が出來てからの、しかも移住者の子孫ではあるが、此時代ならば、又斯ういふ親切な觀察者ならば、なほこの中からでも若干の消息は窺へるかも知れない。一方には現在の敦賀や三國なども、共に非常な變化を經ては居るが、まだこの種の前代世相を語り傳へた書物が、どこかの片隅に保存せられて居るのではあるまいか。私はそれを樂しみにして福井縣郷土叢書の第二集以下の續出を待ち受けようと思ふ。

　今からもう四十何年も前に、私はこの縣を東西南北に、二度までも細かく見てあるいたことがあり、それから東京に歸つて未刊地方誌の書目といふものを集めて、郷土研究といふ月刊誌に連載したこともある。學者が一生をかけて書き積んだ研究ものなどは、却つて未完成のまゝで死後に殘るものであるが、拾椎、稚狹の二書などもあの頃以前から、毎度刊行を企てられながら機會が捉へられなくて、終に今日のやうな漢字制限の時代に遭つたことは不幸な話だつた。しかしこの爲に前代を知らうとする青年の知識慾を、冷殺し去つたものとまでは私は考へて居ない。好事有閑の我々階級が、やれなつかしやと取附くのも結構なことだが、出來ることならばこの中の最も興味あり意義ある數十箇條を拔出して、少しは字體や文體を改めてゞも、志ある若い讀者の眼に觸れるやうにして置きたい。それが因縁となつて昔の篤學者の學問が世に知られ、もう忘れてしまはうとして居る此地方の古來の實情が、片端は今の同郷人の

知識の渇きを潤ほすことになつたら、編者諸君の永い辛勞も報いられ、又圖書館の目的も達しられるのでないかと思ふ。年を取つてもう久しく文章を書かぬ爲に、長たらしいばかりで、まだ言つて置きたいことが澤山に殘つた。

(536)　　　　　昭和二十九年五月子供の日

　

(537)　　　　　大里武八郎著『鹿角方言考』小序

　

　言葉には一語毎に、それ／”＼の年齡と履歴とがあつて、もしも比較によつて其變化と存續の跡が究められるならば、獨り一地方の文化史のみといはず、國と郷土との年久しい因縁も、次第に明かになつて行くにちがひない。是が國語史の意義の大きな一つである。

　鹿角郡の學を好む青年たちは、幾つかの點に於て惠まれて居る。東北の方言現象は過去五十年の間に、かなり詳しく調査採集せられ、この縣教育會の事業であつた「秋田方言」を始めとし、大小さま／”＼の各地の方言集が世に公にせられて居て、是を地圖に取り表にこしらへて比べて見るならば、東北六縣住民の知識情操が、如何に互ひに繋がり合ひつゝ、發達して來たかゞ窺はれるのみならず、同時に一地限りの判斷の誤りがちであることを、反省する機會が與へられるであらうことが其一つである。

　この米代川の上流一帶が、不思議に有形無形の前代遺跡に富み、殊に三つの領分の中間に介在して、古來の交通の繁かつたことが推定せられるにも拘はらず、文獻の之を書き傳へようとしたものゝ少ないこと、是が亦一つの好條件と言つてよい。文書の多くのものには限られたる目的があり、それを重視すれば自然に他の部面に疎くなる。言葉が全體に行渡つて均等に過去生活の名殘を保存し得た力に、比ぶべくも無いのである。

　第三の利點としては、大里さんのやうな郷土の先輩が、五十餘年の外遊の後に還つて來られて、以前に優るほどの強健なる好學心と愛郷心とを以て、先づこの大切な言語現象の問題に、研究の歩を進められたことを擧げなければな(538)らぬ。全國を通計して今は千種を超えるかと思はれる方言集の中でも、斯んな奇特な實例はもう他にはあるまい。

　私は國語史の一學徒として深い關心をこの書の成功に寄せて居る以上に、なほさま／”＼の因縁を以て、鹿角の地と人と言葉とに繋がれて居る。第一には湖南先生以來、十何人もの鹿角人と交を結び、今もなほ互に助け合つて居る者がある。さういふ中に於ても最も古いのがこの書の大里氏であつた。中途久しい間消息を通じ得なかつたけれども、日清戰爭の時代には、兩人は共に第一高等學校の生徒であり、私は一級下であつた。大里氏は其頃新たに生れた雅樂協會といふ團體に參加して、或日の祝賀會に學校の庭に設けられた舞臺の上で、新作の古代舞を舞はれたことがある。その舞の美しさは今でも眼に殘つて居るが、殊に忘れ難いのは其日の歌詞の一つに、私の拙作の採用せられたものがあることである。明治二十七年秋頃の校友會雜誌が何處かに殘つて居るならば、借り出してもう一度讀んで見たいやうな氣がする。斯ういふ古い思ひ出を書殘して見たい爲に、辭退もせずにこの序文を書く次第である。

　　　　　昭和二十八年五月一日加賀山代温泉にて

　

(539)　　　　　木曾教育部會『木曾民謠集』

　

　　　　　　　　　　一

　

　民間傳承の會の會報に、近頃私が提出して置いた民謠の分類案を、最も早く採用したのが木曾民謠集である。それに序文を書くといふことは、自分にとつても好個の記念になる。

　民謠などを集めて何にするかといふ疑問は、今でも折々聽き、又さう簡單には答へ得られない難問だが、木曾の生活に體驗ある人々だけには、必要は既に討議の域を超えて居る。歌に依らなければもう知ることの出來ぬ昔が、年と共に多くなり、それも汽車自動車や電車の速力を以て、見る／＼逸散し又變化しようとして居るからである。理由は此本を讀みながら、もう一度靜かに考へて見ることゝして、先づ無くなるものを取留めて置かうといふ、この率直なる態度にも同感をもつことが出來る。私の見る所も正しいか否かは知らぬが、とにかくに他日の讀者と共に、有る限りの多くの利用價値を、この中から見つけ出さうといふ趣旨の下に、茲に若干のやゝ新らしい解釋を試みる。さうして是が又編纂者の辛苦に對しての、殊に適切なる感謝の方法だとも思つて居るのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　木曾は何人も知る如く、珍らしく大きな天然の渡り廊下であつた。國のまん中といふ語が是くらゐ精確に、當つて(540)居る土地も他にさう多くない。風・渡り鳥・水の流れ以上に、遙かに雄大な文化と名づくるものが、古來たゞ此一筋を貫ぬいて南し又北して居たのである。眼に見る形としては明け暮れの旅人、或は馬駕籠などの雜然たる繋がりに過ぎなかつたけれども、それが暗々裡に負搬して來たものは、系統があり層があり又時代色があつた。廊下である故に永く一處に止住せず、しかも大海の航路や曠野の足跡とはちがつて、常に左右に在るものと、何等かの交渉をもたずには行かなかつたのである。氷河が雪を運び寒さを移し、且つ色々の山の小石を持つて來るやうに、隱れて殘り留まるものも捜すならば必ず見つかる。現に古きを誇りとする村々の寺でも名家でも、何れも或時代のデブリスでないものは無かつたのである。

　あらゆる一國の文化の中でも、歌謠は脚あつて衢を走る如く、流行の特に速かなるものと考へられて居る。新らしい音律と言葉は忽ちに古い好みを壓して、背後に押し遣り忘れ去ることは、今日の常の法則とさへなつて居る。しかも我々は前代の木曾の驛路に、森閑とした夏の眞晝があり、更に又長い淋しい冬の爐端の夜が、あつたことを考へて見なければならぬ。天下に名を知られた谷底ではあるが、木曾の住民の大半は旅と關係が無く、世間をたゞ側面から眺めて、何處へも動かない産業に携はり、彼等は彼等だけの生活興味をもち、又獨自の歌の需要をもつて居た。さういふ人たちが時あつて町に下り、もしくは草苅り畠打つ手を休めて、目を留め耳を傾けて居たさま／”＼の世の音なひの中から、或ものは笑うてやがて忘れ、又或ものは覺えて來て、永く家々の語り草として居たとすれば、是も亦一種眼に見えぬ木曾の關だつたのである。その選擇の間からでも窺ひ知ることが出來るのは、諸君御先祖の立場であり、乃至は趣味であり情操であつた、といふことは果して強辯であらうか。仲仙道の人通りがどの樣に肩摩轂撃であらうとも、こゝに住む民に歌を愛するの癖が無く、且つそれを自由に活用するだけの才能が無かつたならば、斯くまで充實した木曾民謠集を、今頃集めて世に傳へるなどゝいふことは、まづ不可能であつたらうと私は思つて居る。

　

(541)　　　　　　　　　　三

　

　汎く日本の民謠史を考へて見ようとする者の爲にも、此書は偶然に大切なる資料を供して居る。木曾の一水域には限らず、異郷人との接觸の多い土地では、別に民謠の新たなる用途が、二つは少なくとも附加へられるのを常として居た。一國全體としての發達の上にも、此傾向は可なり明かに看取せられるが、その一つは踊り歌で、是は眼に見えぬ邪靈を追却する爲に、人の元氣を統一する必要から、段々と數多く又面白くなつて來たらしく、他の今一つは酒盛り歌で、此方は見知らぬ人と親しみ、互ひに心を置かぬ盃を取り交す爲に、持つて居らねばならぬ勸酒用のものであつた。勿論後々は歌そのものゝ面白さに絆されて、用も無いのに鼻唄に之をうたひ、もしくはわざ／＼其機會を設けもしたが、本原に溯つて見ると、木曾が東西交通の衝であつたといふことが、夙にこの二種の民謠の必要を認めさせ、又此頃のやうに之を盛んならしめたのである。今でも信州人がよく酒を飲むのを、寒いからだと無造作に言つてのける人もあるが、もつと寒い土地でも一向に飲まない處もある。つまりは木曾の衆が踊りを自慢にすると同じく、寧ろ面白かつたから流行つたといふ方が自然で、是を面白くしたのは乃ち又歌の力であつた。利害得失は教育者に決してもらへばよい。とにかくに是が郷土の現實の歴史と、深い交渉をもつて居たといふだけは、斷言して妨げが無いやうである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　それから今一つ、民謠が女性に與へて居た感化の、重要なものであつたことが考へられる。踊りにも酒盛りにも、婦人は未だ曾て發起人となつたことはないけれども、彼等が歌を愛し又之を理解する慧しさに至つては、恐らく男子にも立ち優るものがあつた。さうして彼等の智能が弘く、感情が豐富となるにつれて、次第に美しく且つ含蓄の多い(542)民謠が生れて來たのである。新らしい歌の作者なり取次人なりは、多くの湯合には男であつたらうが、其背後には黙つて聽いて居た異性の選擇が、可なり敏活に指導して居たことは、小鳥や鳴く蟲の社會も同じだつた樣に思はれる。この進歩の段階が、土地毎に後れ先だつて居たのである。さうして又個々の民謠集の中から、大よそは其歴史の古さ新らしさをも察することが出來るのである。たとへば外來の流行唄に心醉して、不斷にもよそ行きにも、仕事唄にも又鼻唄にも、すべてさういふ新らしいものばかりを、採用しようとするのも一つの時期である。さうかと思ふと踊りや酒盛りの面白かつた歌を記憶して、ちがつた場合にも歌つて見ようとするだけの才覺は示しつゝ、なほ一方に土地に生れた昔風の歌でも、好いと思つたものは何時でも取出して、しみ／”＼味はつて見るまでの餘裕と同情とが、備はつて居る郷土も稀なりとしない。木曾などは多分、その第二の方の例であらうと思ふ。斯うしたやゝ亂雜にも近い新舊の交錯こそは、祖先の心意を探り求める、大切な一つの手掛りであつたのである。折角苦勞をして是だけのものを集めて置きながら、これを無意味の偶然ででもあるかの如く、見過してしまふのは惜しいことである。

　現代の世相は歌が職業となり、歌はぬ女性といふものが日に増して多くならうとして居る。彼等をもう一度聲高く、歌はしめることは、いくら靜かな木曾の谷でも、恐らくはもう望み難いことであらうが、是が爲に以前我邦の民間文藝に參與して居た人々の、優雅なる心しらひまでを、跡も無く忘れてしまひたくはないものである。私などの見た所では、民謠集の使命として、是以上に意義の大きなものは他には無いと思ふ。如何なる記録の上にも書いてない昔、しかも切々として我人の共に知らんと欲する祖先の生活が、僅かながらも此中からは窺はれる。もしも此點に讀者を心づかしめ得なかつたならば、勞多かりし三年有半の採集事業も、必ずしも成功とは言はれまいと思ふ。

　

(543)　　　　　長尾宏也著『山郷風物誌』

　

　　　　　　　　　　一

　

　野獣の生活に興味をもつて居る人は、信州にも八木貞助君等がある。鳥の生態觀測を以て學界に大きな貢獻をして居る川口孫治郎君も、その日記を見せてもらふと、獣の話の聞き書が鳥類の記事と半々にもなつて居る。かく申す自分なども、動物園以外で見たのは狐と兎だけといふ程度の平地人であるに拘らず、小學校時代に山の部落から來る三四人の少年の、鹿や猪の話をよくする者があつた御蔭に、知らぬ間に可なりな野獣黨になつて居る。獣の話をする御客はいつでも私の家では長く引留められ、次には必ず本を書くやうに勸められる。早川孝太郎君の『猪・鹿・狸』は、少數ながら非常に良い讀者を獲得した一書であるが、是も最初は朝日新聞に載せてもらふ計畫をして、それが中止になつて單行本が出來たのである。同君の『三州横山話』、小池直太郎君の『小谷口碑集』のやうに、力を入れて獣の記事を録したものが他にも有るが、純乎たる獵人の話柄のみを以て、一卷の書を成した早川君の例は空前であつたらうと思ふ。長尾宏也君の『山郷風物誌』はその第二の企てゞあるが、是もやはり自分の勸説によつて、纏めて見る氣になつたと筆者は謂つて居る。はつきりとした記憶は私には無いが、是だけの資料の存在を知つて、勸めずに居られた氣づかひは無いから、其通りであらうと思つて居る。

　

(544)　　　　　　　　　　二

　

　長尾君とは逢つて話をした機會が甚だ少ない。其爲に書中に述べてある事實に、初耳の種が多く、たゞの讀者になつて之を樂しむことが出來るのは、何が仕合せになるか知れぬものである。其中でも殊に愉快な部分、一人で知つて置くには餘りに奇拔な事實は、信州遠山の境の幽谷では、秋に入つて猿の食物が分外に豐富なところから、參河と遠江と甲州との猿の群が、こゝへ遊びに來て長逗留をして行くといふ一條である。猿の言葉にも國々の方言があつて、土地にはどうやら是を聽き分けられるといふ人が居るらしい。少なくとも信州の猿どもの、アイエー・アイエーと啼くのは「敵が來た、用心せよ」を意味し、モアー、モアーといふ聲は大丈夫、安心をするがよいといふ親猿の表現であるといふ。平野の我々には想像も出來ない知識である。

　信州は昔から、不思議に猿の逸話を多く知つて居る國だつた。たとへば私たちの小學時代の科外讀本に、夜深く子猿が獵師の家に忍び入つて、爐の火で手を温めて死んだ母猿の疵を撫でゝ居る。その光景を隙見して、感動して狩の業を罷めたといふ話なども、たしか下伊那郡での出來事として傳へられて居た。猿が命を救つてくれた恩人の兒を囮にして、大鷲を捕へ殺して其羽を禮物に贈呈したといふ、親に取つては誠に有難迷惑な報恩譚、それから又烏を蔓で縛つて谷川にはふり込み、鵜飼ひの眞似をしたといふ滑稽な話なども、他では折々は聽くが、やはりその昔信濃國で、誰かゞ遭遇した實驗の樣に、談つて居る者が多かつたのである。甲信參遠の猿の群の往來などは、是等と比べて見るとずつと新らしく、又勿論實在性も多いやうであるが、それが世間話として現代に到達した、過程に於ては異なる所が無ささうに思ふ。即ちさういふ知識の存在は、可なり込入つた社會的現象であつて、之を單なる動物學上の事實として取捨鑑別することは、自分たちにはもう出來なくなつて居るのである。

　伊那の遠山では猿の聲を聽いて、此話を胸に浮べる者は今でもまだ少なくないであらうが、さて最初に誰が猿の方(545)言の差異を確かめたらうかといふと、多分はもう苔の下に睡つて年久しい話ずきの老翁などが、責任を負はねばならぬことになるのであらう。しかも山の獣の折々の擧動に、無關心であり得ない心持、それから雪降る冬の夜が長く、ヒジロの周りの明るさ暖かさが嬉しくて、新聞や歸郷兵士が如何に珍らしい世界の話柄を持込んで來ようとも、尚それのみでは彼等の夜話は完成せず、一度は鹿猿熊狸等の不思議なる生活ぶりに、問題を向けなければ氣が濟まなかつた、大昔以來の古い習はしだけが、まだ此あたりには殘つて居たのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　自分などの想像では、斯ういふ世間話も現代のニウスと同樣に、足無くして遠く走り、巧みを施さずしておのづから僞るが故に、是が平凡化と誤聞とを防がうとすれば、絶えず新らしい觀測を以て、次々の種を補給する必要があつた。それが出來なくなつて山の話の零落したことは、神話が今日の童話になつた事情とも稍々似て居る。信州は如法の山國であつたけれども、人が賢こい爲にこの環の輪は存外に早く切れた。僅かに最も靜寂なる片隅の山小屋に、上代教育法の痕跡を遺留して居たのである。近頃少しばかり入用があつて、猿に關する此地方の少年の知識を、集めて見て貰はうとしたことがある。ところが精確に今から五十年以前、百五六十里を隔てた田舍の小學校の日なたぼつこで、もしくは貧しい家の夜の炬燵で、幼ない自分が耳を傾けて聽いた話が、さも／＼それから以後に突發した事件のやうに、山近き甲信の村里でも語られて居たのである。たとへば闇夜に路傍の樹の蔭で、二人の旅人が休んで煙草を吸つて居る。火を一つ御貸しなすつてと、煙草をつめながら近よつて行くと、うううと唸つたので御犬であつたことが判り、足を空にして逃げて來たといふ話。又は一匹の送り犬に袖を咬へられ、怖ろしかつたけれども岩の後に引かれて行くと、やがてえらい足音をさせて、旅狼の大きな群が通つた。それで始めて危難を救うてくれたことを知るといふ話。是などは共に八つ九つの頃から自分も聽いて居る。狼の御産に産屋見舞《うぶやみまひ》に出かけたといふ話は、奇拔だと思(546)つて注意し始めたが、やはり中部から關東にかけて、谷間に在る村ならどこでも之を説き、しかも何村の何某の家でと、歴史として傳へて居る例も三つや五つでない。喉に骨を立てゝ通行人に頼んで拔いて貰つた狼の話に至つては、分布も更に弘く、起原は遙かに一千年外に遡つて居る。又村々の神主は白衣《びやくえ》の左の袂に、小さな鈴を入れて墓に葬る習はしがあつた。深更に家の外の阪路に鈴の音がするので、不審に思つて戸の隙から覗くと、狼がその死骸を掘出して、山の方へ曳いて行く所であつたといふやうな話すら、信州で聽く以前に武藏秩父、それから備中の或地方にも、寸分ちがはぬ口碑のあることを私は知つて居た。同じ土地では又かといふ樣な話でも、新たに持込まれると聽く者は身ぶるひする。又は面白くて當分は受賣する。その隔絶があるばかりに、古臭くなるまで獣の話は流布したのである。さういふ中に在つて續々と新らしい事案を見つけ、少しでも人のまだ知らない世間話を世に供與しようとしたとすると、其態度は我々の學者教授も異なる所は無い。以前の信州は人に知られずに、片隅にさういふ教育機關を持つて居たのである。どうせ人間だもの、折々は最初から見そこなひもする。それは其次に出る世間話で訂正すればよろしい。兎に角にその源頭の泉の水が、全く涸れ盡してしまはうとするのは惜しい。

　

　　　　　　　　　　四

　

　をかしく又は物凄ければ、うそでも語らうといふ心がけは排斥すべきだが、之に反してたとへ間ちがへだらけでも、眞實を説かうとする志しさへあれば十分だと思ふ。それが結論とはならぬまでも、暗示としては役立つからである。けだし野獣の社會には、大きなフオレルやフアブルはまだ現はれて居ない。無識な山郷人だけの知つて居る雜話中にも、行く／＼爭ふことの出來ぬ自然の法則を、見出し得ないとは誰が斷言しよう。又しても猿の話に戻つて來るが、彼等の群の中に立派な首領の有ることは、可なり古くから我々の間には知られて居た。それが近頃になつて本土の最北端、下北半島の山地に於ても、今尚現實であることを聽いて來た者があり、又東京に近い筑波山の峯續きにも、似(547)たる話の殘つて居るのを報告した人も有る。信州南境の山地に類例を存するのは怪しむにも及ばぬ樣なものだが、唯こゝの話だけは一段と具體化して居る。猿の頭目をサキヤマと謂ひ、その次の有力者をソヘサキと謂ふことは、自分たちには非常に面白い。サキヤマは本來樵夫の親分のことであつた。不安多き山子等の先頭に立つて、神を祀り又方向を卜しつゝ進んで行く役であつた爲に、此名が出來たかと思ふが、林業辭典などを見ると、今では至つて輕い意味に、たとへば渡し場の船頭と謂つたり、小角力を關取と呼びかけたりする樣な濫用が行はれて居る。その本來の内容が、却つて猿の社會に於て保存せられてあつたのである。猿のサキヤマには時あつて牝も居るといふ點は、群の生活を研究せんとする者には、頗る小さくない事實であつた。單なる體力の偶然なる優越が、或一頭にサキヤマの地位を獲せしめたか。はた又配偶期に於ける盲目な爭關が、自然に族長のやうなものを發生せしめるに至つたか。威壓が萬能であつたか但しは又、生みの親の愛情なり老齡の經驗なりが、彼等の指導者としての適否を決したのであるか。原因は一つか又は複合であつたか。少なくとも日本の猿については、今日はまだ些しも明かになつて居らぬのである。信州の猿サキヤマは、群を代表して他の群の代表者と戰ひ、失敗すると其地位を逐はれると謂はれて居る。たゞ是だけを聽くと、膂力が唯一の資格のやうにも思はれるが、猿に自ら語らせて見ぬ以上は、さう容易には退職の理由をきめられまい。疵痕の多い老いたる孤猿が、淋しくさまようてあるくのを見て、或は人間らしいローマンスを空想して見たかも知れぬので、彼等はたゞ老いて夫婦生活の熱情を失ひ、乃至は組織統制に對する政治的興味が淡くなつて、斯うして終りを取る習性を持つて居るものとも、想像し得られぬことは無いのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　所謂一つ猿の心細い生活の起りに關しては、私も前に放送などに於て、説いて見たことがある。彼等の社會に於ては食物の爭奪が、人間よりも一段と險惡である故に、たま／＼分配無き生活の氣樂さを體驗した者が、其他の危險を(548)忘れて拔驅けの功名を志し、末には仲間に憎まれて愈々群に遠ざかり、一人でよく太つて、又よく撃たれる。さういふ話は越中などでも私は聽いて來て居たが、伊那の遠山あたりの同情深い觀察によると、原因はまだこの他にも有つた。理由はともあれ曾て一たびはサキヤマの威風を輝かして居たものが弱つて其地位を去つて孤居する例もあつた。或は母猿が我仔の飢を見るに忍びず、仲間の仔猿の食を奪つて遣ることがある。それが見つかると甚だしくいぢめられる。さうして群の中にその仔は殘されて、一人で逐はれて行く場合も折々は有るといふことである。現實の見聞で無ければ、斯ういふ點までは知られて居るわけが無いと思ふ。

　しかも此類の母性愛の實例が、一つの世間話として流布しようとする傾向には、早くも誇張と修正との警戒すべき危險性が含まれて居るのである。小猿が夜更に獵人の家に忍んで來て、爐の火の温みで母を煖めたといふ話なども、虚構の小説としては趣向も乏しく、噂の成長ならば元は此まゝであつた氣遣ひが無い。阿曾沼の鴛鴦の話も同じことだが、人は鳥獣と同質の精靈を持つて居らぬことを知り切つて後まで、尚後者の荒々しい生存の中から、何とかして人生の哀話を讀まうとして居たのである。熊が大力で、千斤の岩を押上げ、澤蟹を仔熊にあさらしめるといふ話があると、次には狩人を見かけて思はず其手を放し、岩の下敷きになつて其子が潰されたといふ事件も傳へられ、或は銃丸で打拔かれて死んでしまふ迄、岩を支へた手を放さなかつたといふうそらしい出來事も傳はつて居る。彼等の穴籠りは此書にもある樣に、冬の三月の間何も食はずに睡り通すのだが、それは出來ない事と考へた者が、蟻を掌にすり潰して是を甞めて暮すといふと、早くも熊の穴に落ちて其掌を甞めさせてもらひ、命が助かつたといふ人間も現はれて來れば、そこに家庭が生じて熊太郎といふ毛だらけの子が有つたりする。長くもて囃して居ると何になるか判つたもので無い。山で發生した話も筍や山獨活のやうに、少しでも若いうちに賞玩するのが何よりである。ところが一つ家や狩人は以前は今よりも多かつたけれども、そこへ訪ねて行く者が始めから奇談を所望して居た。あまり有りさうな話は亭主も遠慮して、之を珍客に進めないのが普通であつた。やつと此頃になつてそれを大切にする者が多くなる(549)と、惜むぺしそれは早殘り少なである。幸ひにこの近より難い僅かな山地だけには、前に掲げた一二の成書以外、上伊那では「蕗原」北參河では「設樂」といふ小さな雜誌があつて、我々の知友が別々に山の住民をして語らしめて居る。是が同一事件の流傳で無いことを確かめ得る間に、私は寧ろその若干の齟齬の中から、背後に隱れて居るものを概括して見たいと思つて居るのである。此意味に於てはたつた一つの土地に記憶せられ、他ではまだ聽いたことが無いといふ話に、却つて力強い暗示が有るとも言へる。たとへば盲人を雇うてマセ棒を敲かせ、夜どほしタン／＼と山の猪鹿を逐はせたといふなどは、寧ろ有りふれた事實であつた爲に、之を説く者が無かつただけで、或土地一囘限りの歴史ではあるまいと思ふ。按摩も用が無く音曲では尚更食ふことが出來ず、しかも目くらでもやはり活きなければならぬとすれば、安壽津志王の母で無くとも、斯ういふのがせめて似つかはしい彼等の職業であつたらう。今まで氣づかずに居たが哀れな話である。

　

　　　　　　　　　　六

　

　曾て人生の最も平凡であつたものが、僅かな期間を隔てゝ囘顧して見ると、もう珍らしく且つ胸を拊つやうになつて居る例は、現代は殊にその繁きに堪へない。あらゆる人間の隱れ埋もれて行く生活は、如何に微々たるものでも皆傳へなければならぬといふ考へが、郷土の隅々にまで行渡つたのも自然である。但し長尾宏也君の一著のみは、さういふ種類の最初の記録と言はうよりも、むしろ記録せらるべき最後のものゝ如き感じがする。著述といふやうな我々の側の事業では無くて、寧ろ表現とか主張とか名づくべき、向ふ側のしぐさが元になつて、出て來たやうな印象を與へる。筆者が都の方から入つて來た旅人であるにも拘らず、山に身を置き山人の心持に、同化しきつて居る結果だと私は思ふ。在來の書物に其類を求めるならば、宿屋温泉などに頼まれた案内記、もしくは村方の歎願書といふもの以外に、實はあまり多くの例は無いのである。そんなものと同視するのは勿論ひどい話だが、郷土に代つて一代の人を(550)樂しませ、又は賢こくしようとしたやうな記述は、實は今までは絶無なのだから致し方が無い。其上にこの書が亦彼等と共通な缺點も持つて居るのである。百年後世の批判を待つまでも無く、我々友人が見ても氣のつく點は、長尾君が南は臺灣の蕃地から、北はオホツクの海の邊まで、山といふ山は巡り視て居るにも拘らず、未だ風土の變化に十分の認識を下し得ず、熊や猪狼はどこの山間に行つても、全國均一の生活ぶりをして居るとでも思つたものか、?々場處を記入せぬ描寫を試みて居ることは、ちやうど田舍者が我居住地の歴史を以て、日本全農村の事情と斷ずるのとよく似て居る。今一つの弱點は、話があまりに面白く文章に熱があつて、幾分か人を動かし過ぎること、是なども一つ家の爐側に昂然と眉を聳かして、兒女や若者等の愉悦して耳を傾ける有樣に、無上の滿足を感じて居た老翁の態度などゝ近くはなかつたらうか。さうした方が聽く者はよく覺えてくれ、又行く先々で受賣もしてくれるであらう。其代りには誇張せられ曲解せられて、後には間ちがつた話になる危險も警戒しなければならぬのである。出來るだけ良い讀者を捜すこと、それから又同じ種類の報告書の、各地獨立に數多く現はるゝを期すること、是より以外にはそれを防ぐ途は無い。缺點の無い書物などは永遠に此世に出ては來ぬ。そんなものを待つて居たら、知らぬ間に山の生活は、平地と同じになつてしまふかも知れぬ。

　

(551)　　　　　新日本風物誌

　

　日本交通公社が、斯ういふ名の叢書を十數册、つゞけて出してくれる世の中になつたといふことが、先づ私たちの心を明るくする。筆者はそれ／”＼に文章にすぐれた人、自由に書きたいことを書くといふ仕組らしいから、今のうちならば或は少しづゝの注文が付けられるかと思ふ。出て居るのはまだ二つだけで、『北陸路』一册しか私は讀んで居らぬ。

　是から次々に出て來る分には、出來ることならばもう少し話題を多くしてもらひたい。新らしい時代の讀者を考へて、書いたものからの引用をもつと省き、實地の記述を多くしてもらひたい。感想や異國の經歴談などは、この場合には聊か不向きなやうに思ふ。

　「北陸路」に生れ成長した人にしては、冬の生活があまりにも片端しか描かれて居ない。それから雪から蘇る春の強烈な悦びが、まるで閑却せられて居るのもうれしくない。二十九の文章のうち、「コブシの花」といふのが最も新らしい印象を與へる。斯ういふ話をなほ幾つか加へてあつたら、もつと風土誌らしく讀まれたことだらう。

　

(552)　　　　　二つの新しい用途

　

　すでに三十年も前から、方言辭典を世に殘す抱負と、又その資格とを東條操君は持つて居られた。其實現のおくれて今日に至つたことが、少しでも君の責任ではないことを、保證し得る者は私一人では無い。しかもこの歳久しい忍耐の間に、方言の蒐集は　　愈々豐富と精確とを加へたのみならず、社會の之を利用しなければならぬ必要は、更に一段と痛切になつて來て居る。是からの日本語をもつと美しく且つ自由にする爲に、方言を史料とした國語史の研究が、大きな期待をもたれるやうになつたことが一つである。第二には我々の民俗學が、地方の言語現象を重要なる民間傳承として、その埋もれたる文化史上の意義を、この中から發掘しようとすること、是も亦新たなる用途である。どんな珍奇な方言でも、小さな一區域の發見では、茶飲み話の種にしかならない。それと國語の總體との交渉は、この辭典の活用によつて、始めて可能になるのである。

　

(553)　　　　　清棲幸保著『鳥類圖鑑』

　

　清棲さんの鳥旅行は、私の知つた限りでも二十年以上は續いて居るが、その公けの利益は年と共に擴大するばかりである。

　私たち普通の探鳥家のすることは、時が足らず、つればつかり多く、靜かに／＼などと言ひながら、鳥を遠くへ遁がしてしまひ、あきてはすぐに次へ行くから、けふは何十何種見て來たと、言つたところで雀に鴉、あとは時々ごつちやになつて、覺えて居るのは名まへだけと、いふ場合も稀ではない。うちの庭へ來る小鳥の類でも、以前は一つの枝にこつちを向いて、暫らく鳴いて居ることが折々はあつたが、此頃はみんな飛行機のやうで、子どもなんかに注意させる折が無い。さうで無くても鳥類には樂屋が大きく、一ぺん別れるともうそれから先はあの世も同然である。たとへば昔はアトリが空一ぱいの大群で、飛んで來たといふ歴史の記事が何度もあるが、彼等がどこで育ち、どこで大きな集團を作り、又しまひにはどうなつてしまふのか。人間には全く知られて居なかつた。さういふ未知世界を片端づつでも、あの親切な寫眞を以て教へていたゞけたら幸ひだがと、兼てから私たちは念じて居た。今度はそれが最も周到な、且つ精確な形で纏められるといふ話を聽く。其悦びは決して少數の愛鳥家だけのものではあるまい。過去六年餘りの間、斯ういふ豐かなる文化作業は、まだ耳にしたことも無かつた。日本の自然がもう一度新たなる愛情を以て見なほされる時代が、是でどうやら始まつたやうに感じられる。ゆつくりあるいて居られたが、やつぱり清棲さんは前驅者だつた。

　

(554)　　　　　爐邊叢書解題

　

　　　　　　　爐邊叢書序

　

　此叢書の一つの價値は、寸分も作り話の無いことです。敢て有益とは言ひませぬ。面白ければ其で結構です。何となれば、現實にして且面白ければ、是ほど結構な人生は無いからです。爐邊とは有りますが、爐の無い家では火鉢の側でもよろしい。又炬燵の上でも宜しい。夏は涼しい處で讀んで下さい。みんなの中で、一番やさしい、聲の佳い人に讀んでもらつて下さい。但し「あかり」だけは、?燭見たやうな昔風のものではいけませぬ。新しい光で讀んでもらひたいのです。

　

　　　　　　　爐邊叢書刊行趣旨

　

　爐邊叢書は其前身を甲寅叢書と謂つて、大正三年以來の繼續事業である。最初からの唯一つの目的は、我々が後の日本の爲に、是非とも保存して置かねばならぬ色々の著作の中、現在の出版界の經濟組織では、どうしても本屋の顧みることの出來ぬものを、一册なりとも多く印刷して殘したいと言ふに在つた。一二の篤志家が此企てに同情して無(555)條件に提供してくれた資金などもあつたが、勿論それのみでは充分では無いので、尚若干の手段を講ずる必要があつた。其手段を打明けて申せば、一つにはなるべく多數の小册子に分けて頒布を容易にし、其相互廣告の作用に由つて、此方面に使ふべき經費を極度に節約することゝ、今一つは普通の出版業者でも喜んで引受けるやうな知名の大家に依頼して、其著述を此叢書の中に出してもらひ、自然に其信望を利用して讀者の注意を引かうと言ふのであつたが、二策ともに未だ十分の效を奏せぬ前に、世界に大戰亂が起つて事情は變化してしまつた。其代りには又自分は官を去つて、境遇がよほど自由になつた。少くとも自由な時間が非常に多くなつたやうな感じがした。そこで一旦中絶して居た叢書の、名稱と體裁とを變更して、永く繼續して見ようと云ふ決心をしたのである。其には協力者たる岡村君の熱心が、終始不變であつたことは此上も無き幸であつた。我々兩人の評定では、何分事業が大なる割に、之に充てらるべき資力が甚だ小さい。どうせ全體に手が及ばぬ位ならば、寧ろ我々自身に最も樂みの多い部分に力を專にして、同時に其恩澤を受けようでは無いかと云ふことになつた。而して兩人の者が一致して、益々研究して見たいと思ふ方面は、變らうとして未だ全く變つてしまはぬ村々の簡易な生活、其間からちらり／＼と窺ひ得らるゝ昔の人の信仰と心持、美しい物を愛する情、樂しく生きようとする切なる願、其他血を分けた我々として、知れば輕ずることの出來ない色々の微細なる事蹟を、成るべく地方々々で詳しく調べ、其比較と排列の中から、何か今一層大きく又大切な智慧を、引出して見ようとする新しい種類の史學であつた。此事業の過去に心細い經驗があり、前途には又若干の艱難を豫測し得たにも拘らず、隨分の元氣と氣輕さを以て、爐邊と云ふ文字を新叢書に採用することに決したのも此爲である。

　

　爐邊叢書は前に玄文社の手で刊行した四册を除いても、もう既に十六卷を重ねて居る。此次に準備して居るもの、約束あり交渉あるもの迄算へると、更に三十餘種の新しい著述が續かうとして居り、而もそれだけで盡きるやうな樣子は無い。そこで發起人側の深く責任を感ずる所は、一方には閑靜な田舍に住んで、書を讀み物を觀察し、會て自分(556)は著述などをする考の無かつた人々を、刺戟し勸誘して大切な時を割かしめ、書物を世に遺す辛勞をさせて居る向が幾つもある。其辛勞を徒勞に歸せしめまいとすれば、單に此事務を繼續させるだけで無く、又之を繁榮せしめねばならぬ。然るに尚他の一方では、我々は又世間に對して、良書の後に傳ふるに足るものであるが故に、此樣にして保存するのだと云ふことを、實物を以て立證するの義務がある。この二つの餘分の理由から、我々は既に久しい間、普通の書肆の支配人が、敢て當るを要とせざる苦しい任務にも服して居り、更に又此事業を世間に訴へて、未知の同志の賛助を求めてもよろしいと信じて居る。此解題書は此趣旨に基いて、單純なる各篇の紹介をする爲に書いて見た。假に讀者を釣るが如き誇張が有るとしたら、其爲に永い將來に向つて叢書の信用を損じ、先づ迷惑をするのは我々であるから、其點は最も警戒をして居るわけである。希ふ所は國内有縁の諸君、親しく各篇に就て著者の辛苦と、刊行者の用意の存する點を理解し、猶同種の好著述にして未だ我々の知らざるもの、或は埋没の免るべからざるを感じて、寧ろ著述に力めんとせざる篤學者を發見せられ、相共に叢書本來の目的を助成し、以て大正昭代の文運をして、今よりも更に重厚温雅なるものたらしめんことである。

　　　　　大正十三年十一月

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　郷士研究社に於て

　

(557)　　　　　　　飛騨の鳥　　　　　川口孫治郎

　

　鳥類に對する川口氏の同情は、多くの社會研究者が人類に對して抱いて居る同情よりも、もつと暖かいものであつた。之に基いた理解であつた故に、?々鳥學の爲に、新しい知識を貢獻することが出來たのである。而して其模範的な自然觀察者の生活の中でも、飛騨の中學校長としての丸三年は、殊に我々に取つて意味の深いものだつたことは、日誌風に書かれたこの一部の觀察記からもよく證せられる。此書を讀んでの最初の感じは、山國では鳥までが質朴で悠長だと云ふことである。而も人間と違つて鳥は交通往來が自由だから、勿論是を飛騨に特殊の氣風とは見られぬ。察する所以前は一般に此通りであつたのを、人と鳥銃とが多く且つ精巧になるにつれて、端から追々と生活改良をして行くので、即ち此類の地方記録は、兼て亦鳥類一般の社會史と見てよいのであらう。著者は主として人文と交渉ある方面から、鳥の生活を明かにしようとして居る。古來多くの鳥の俚諺又は小兒の言葉などが、彼等と人との間の重要な外交文書であつたことは、飛騨の昔風の鳥が、只川口氏のみを通じて語つてゐる。

　

(558)　　　　　　　三州横山話　　　　早川孝太郎

　

　横山は豐川鐵道の終點に近く、長篠の古戰場から寒峽川の流を隔てゝ、丘陵の側面に成長した僅ばかりの部落である。中から觀ても外から望んでも、近傍幾多の農村と比較して、別に是と云ふ特色は無いのであるが、著者早川君が此村に生れたと云ふ唯一つの理由で、文字以外の非常に豐富なる史料が、談話と爲つて充ち溢れて居る土地であることが世に知られた。さうして之に準じて此地方一帶の平凡生活が、如何なるやさしみを持ち、又如何なる美しさを味ひつゝあつたかを、一言の形容詞を傭はずに、あらかた感得することが出來るのである。里の人は野獣の話に殊に興味をもつ。併し微々たる一蟲一魚も亦、彼等の注意を逸することは無かつた。況や森である老木である。若くは其等よりも更に不可思議なる人の家の繁榮と衰微、どこからか來た人、どこへか行つた人、此等の見聞を語らず説かざる者は、田舍には先づ無いと謂つてよい。而して早川君は熱心に久しく之を記憶して居つた。同君の本業が畫家であつて、最も其感覺に忠であつたことは、殊に此書の幸福である。

　

(559)　　　　　　　古琉球の政治　　　　　伊波普猷

　

　沖繩には島の人の最も大切にして居る美しい過去がある。それが大和の神代に比べると、ずつと我々の時に近いもので、從つて其印象は今尚鮮明であるのみならず、更に未だ全く形を失はざる其世の名殘がある。御嶽と稱する村々の靈地、舊家に齋き祀る家の神、及び其祭に仕ふる家刀自と其祭の詞である。而して巫女には明白なる上下の屬制があつて、其首領は曾ては信仰の力を以て其族人を指導して居たらしい。第三尚氏が全島の統一を完成して後、愈々國家の近世化に着手した際にも、民族に根ざした宗教の組織は一朝に之を變更すること能はず、力の限り巫女の威力を調節し利用して、寧ろ一旦は之に頼つて中央集權の實を擧げんとした。從つて女性を通じて神の力が政治の上に加はつた時代がある。本州の古代史に所謂祭政一致の本の形は、略々是と同じもので、我々の民族の信仰が原來此の如き經路を取つて進展すべきものでは無かつたかと思はれる。著者伊波君は最近の沖繩研究に新しい光を投じてくれた島隨一の學徒であつて、此書の教ふる所は決して單に此一點のみでは無い。

　

(560)　　　　　　　郷土誌論　　　　　柳田國男

　

　一村一郷黨の前代生活を探究するに當つて、國の政治史を學ぶのと、同じやうな態度を持するは誤である。文字の恩惠は朝廷と之に接近する若干の家族、竝に大社大寺のみの獨占する所であつた時代は久しく續き、而も我々の祖先は其間にも、平民として尚生存して居たのである。若し記録文書の據つて證とすべきもの無くんば、村の昔は得て尋ぬべからずとするならば、多數の郷土誌は則ち徒勞である。然らば此以外に何の材料を採り、如何なる態度を以て之に臨まんかと謂はゞ、爰に人間と謂ひ、其言語歌謠と謂ひ、其慣習信仰と謂ひ、其生活樣式と謂ふ絶大普遍の遺物あつて、到る處の里閭に充滿し、兼て巧むこと無き故に端的に父祖の古い生活と其心持とを語つて居る。之を批判する從前の學者の眼は偏頗であつた。殊に多くの誤を導いたのは、年代と固有人名に對する執着であつたが、そんなものは重要な點でも無く、又作爲が多い。我々を助けるのは唯内外の比較研究と、人は無意味なことを行ひ又は言ふものに非ずと云ふ、至つて簡單な前提とである。

　

(561)　　　　　　　南島説話　　　　　佐喜眞興英

　

　現代の沖繩人が、口で傳へて居る話ばかり百篇を採録したものである。佐喜眞氏は最も意を説話者の種類性質に注ぎ、些しでも自分の空想を以て補訂したかの疑あるものは、警戒して之を近づけなかつた上に、尚遺老説傳其他の記録に類型のあるものは、單に其理由ばかりから之を排除したと謂つて居る。然るにも拘らず、全然文字と縁の無い此等の口碑の中に、尚驚くべき内地との類似を見出すのは、大なる學問上の興味である。例へは今昔物語は曾て彼島の民衆には傳はつて居なかつたのに、其中の説話と要素のみを同じくし、筋は純然たる沖繩式のものが數件ある。假に一旦は讀書裡から生れたにしても、何人が大海を航して之を運んだかは不思議の極である。況んや多くの小さい俗信或は現在重きを爲して居らぬ話の端々に、數百千里を隔てた東北の田舍などで、是亦書傳を超脱した階級の人々が、語り傳へた所と一致するものがあるのは、少くとも今だけの學問では説明が出來ぬ。著者は沖繩出身の青年法學士である。其篤學は他日必ず自ら此間題の解説に成功することであらう。

　

(562)　　　　　　　小谷口碑集　　　　　小池直太郎

　

　小谷はヲタリと讀む。長野縣西北の一隅、白馬山彙の東面、越後姫川の水域に屬する五夕村の總稱である。物深い山村ではあるが、水流に沿うて、昔から南北の交通はあつた。乃ち諏訪の信仰の一筋の出口であつて、薙鎌と稱して靈木に鎌を打込む古い慣習などが、最も鮮明に其痕跡を印して居る。謠曲文學の山姥なども此地方を空想の舞臺にして居るのだが、而も土地に傳はつて居る山姥の信仰は、全く書册の影響から超越して居る。男性の方の山靈は、普通には善鬼樣《ぜんきさま》と呼んで居る。明白に戸隱山の崇拜と關聯して居つて、而も却つて此方が樣式の近世化を免れて居るやうに思ふ。小池君は氣力ある若き研究者であるが、其熱心に先づ動かされて、材料蒐集の任に當つたのは、山間の各部落に働いて居る分教場の教師たちであつた。多くの古傳説の外に、現行の行事儀式、生活技術から、歌謠、童話、謎々方言の類に至る迄、有る限の無形遺物を遺すまいとして居る努力は、慥かに尋常好事の徒の企及する所で無い。他の諸國の山村の調査にも、應用させて見たい方法が多く見える。

　

(563)　　　　　　　江刺郡昔話　　　　　佐々木喜善

　

　江刺は岩手縣南の小さな一郡で、編者が郷里からは所謂山一つあなたであつた。古くは領主を異にして時あつて相競ひ、一半の異郷味の採集家の好奇心を刺戟するものがあつた。こんな好形勝の地位に在る佐々木君は、更に村の山に來つて炭を燒く江刺人の中から、純眞なる傳承者を見出すことが出來た。此集の大部分は其説話者と筆者と、只二人きりの落付いた會合の幾囘かを以て成つたもので、其落付きが話の隅々に迄行渡つて居ることは、即ち此書物の大なる價値である。研究者の興味を惹く題目は、幾つと無く此中に見出される。例へば我々の花咲爺と、宇治拾遺以來の瘤取りの話との間には、奧州の多くの傳承を得て、始めて確かなる脈絡のあつたことが知り得られる。里神樂の舞の醜い面の、ヒョットコは即ち火男であることは、家々の竈の神の變な容貌と其由來を傳へた色々の話から想像せられ、既に安居院の神道集にもあると謂ひ、又琉球の島々でも傳へて居る不運の前夫を竈の側に?めた話が、次第に明るい色に塗替へられたことを知るの類は、凡て此蒐集に負ふべきものである。

　

(564)　　　　　　　祭禮と世間　　　　　柳田國男

　

　日本の神樣を、信仰の對象と考へることを欲せず、從つて神の惠み、又は神の罰と云ふことを丸で度外視しながら、而も尚神社を中心として、郷黨の思想感情を統一して見ようとする、今日の所謂有識階級の態度を批判する爲に、公表せられたる一論文である。此人々は不幸なる時代の空氣の中に成長した爲に、親や祖父母の心持までがよく分らず、何の爲に村に鎭守があり、何故に自分たちが其氏子であつたのかも知らうとしなかつた。其爲に色々の複雜な感情衝突があつて、時々は其結果が政治の上にも現れる。之を避けんとすれば今少しく以前の生活を諒解して、其から方法を案ずるがよいと云ふことを、澤山の實例を引いて説明しようとした本である。ちやうど其頃或地方の祭禮に、御輿が非常に荒れて警察の人を怒らせてしまつた。此を一人の大學教授が、物理學の法則で辯明しようとした。其無邪氣な議論が如何にも當世流の標本のやうに思はれた爲に、それに興味を感じて雜談風に、なるだけ反對者を不愉快がらせぬやうに、ごく平たく書いたものである。

　

(565)　　　　　　　續飛騨の鳥　　　　　川口孫治郎

　

　前編には雀鳩鳶烏其他、二十種ほどの鳥の生活が觀察せられて居り、この續編の方には又、鶯燕頬白鵯鶺鴒千鳥を始め、名ばかり聞いて居る珍しい鳥の慣習が、親切に記載せられてある。著者は同時に古來の文獻にも冷淡では無かつたが、通例の記述家のやうに書物のまゝ之を傳へようとせずに、採録に先だつて一々實驗を以て之を確かめて居る。例へば多くの小鳥の啼聲の如きは、地方に由つて色々の聞きやうがあつて、川口氏の客觀的の鳥語譜を見て後に、仔細に其比較を試みると一段の興味がある。而も其一つ／＼の小材料は、何れも久しい忍耐と、倦まざる注意との最後の收穫であつたのである。飛騨の人は又色々の鳥の話を川口氏にして聞かせた。鳥を捕る方法と慣習、作物の爲に鳥の害を防ぐ色々の手段、それから鳥の擧動と聲とに由つて、大小の人事を占ふ風俗などには、其樣式及び他民族との類似に由つて判ずれば、多分は數千年の昔から、殆と變更無しに傳はり來つたもので、今將に忘却の瀬戸際に臨んで、辛うじて此書に依つて存録せられたものが多いのである。

　

(566)　　　　　　　熊野民謠集　　　　　松本芳夫

　

　この三百餘章の民謠の採集地は、主として東牟婁郡太田川の河内であつて、熊野とは謂つても、三山の信仰とは、比較的因縁の淺い地域である。熊野は曾て全國の民謠を一變したと迄思はるゝ所謂歌比丘尼の故郷ではあるが、一體に當時の文獻の今に傳はるものが豐かで無く、最早あの時代の遺響を覓め出すことが難くなつた。從つて本來特殊の意義あるべき此地方の民謠蒐集であるが、其表層に現はれてゐるものは、却つて近世の交通に基いた新しい他郷の感化のみが著しいやうである。年代から考へ又順路から謂つて、大略之を三つに分けて見ることが出來る。第一は童兒の遊戯に伴ふ章句、之にも新舊の差はあらうが、多くは土着して年久しいものらしい。松本君の蒐集は此部分殊には手毬唄に最も豐富である。第二は海から入つて來た港の戀の歌の類、此には以前熊野に發したらしいなげ節の情緒が、廻り廻つて再び故郷の村を訪ひ來つたのを珍とする。第三には山を越えて來たかと思ふ物語風の長篇である。此には海近い盆の月夜の美しさにあこがれて、樹蔭づたひに踊つて來た若い人々の足踏みの音を伴つて居るやうに感ぜられる。

　

(567)　　　　　　　アイヌ神謠集　　　　　知里幸惠女

　

　我が北境の舊種族の中に、最も大切に保存せられてあつた十幾篇の神謠を傳承して、之を精確なる日本の語に譯した知里幸惠子は、自身も亦アイヌの中の最も貴重なる一メノコであつた。此女性の清くして且つ薄命な生涯は、金田一京助君の文が永く之を傳へ、我々をして尚多くの惜むべきものが、共に黄土に委したことを嗟歎せしめる。此小册子は實に其全部の記念である。アイヌの信仰生活に至つては、歌は即ち神の自ら説く詞であつた。從つて此集に於ても、森や沼の小さい色々の神、即ち梟や狐や兎や蛙までが、悉く自分の幽怪なる擧動と、それが意味して居る深い神秘を説き示すので、人間は單に忠實に之を記憶して、互の間に語り傳へるだけのものと考へられて居る。此珍しい自然觀照は、今や同化に由つて次第に彼等の間にも珍しくなつて來た。幸惠女は又自ら斯うも謂つて居る。「愛する私たちの先祖が起伏する日頃、相互に意を通ずる爲め用ゐた多くの言語、言ひ古し殘し傳へた多くの美しい言葉、それ等のものもみんなはかなく、亡び行く弱き者と共に、消失せてしまふのでせうか。おゝそれはあまりに痛ましい名殘惜しいことでございます」と。

　

(568)　　　　　　　八重山島民謠誌　　　　　喜舍場永�c

　

　珊瑚緑に映ずる南の海の島々の中でも、殊に八重山の一群は、リリックの國として其名が高い。三線と琴とは近世に入つてから、沖繩より取寄せたことが明かであるのに、後には島の材を以て、歌人自ら優秀な樂器を製作し、音律の精しさはこんな離れ島とも思はれぬ程である。而も珍しいことには聲曲に携はる者は、悉く士族の男子であつて、代々の作者も亦すべて此中から出て居た。此と隨伴して平民の女性、わけても髪長く眼の涼しい少女ばかりが、舞の役を課せられ、村には必ず公費を以て調へた舞の衣裳が具はつて居た。從つて多くの戀の歌は自然に又は強要して、この異階級の異性の間の、情の交錯を敍べんとしたものであつた。つまりは朝香山の采女の歌が、此島征服以後の五百年の間、連綿としてやるせない社會史を語つて居るのである。著者は島の學者で、此等多くの小さき橘諸兄の事蹟を知つて居る。萬頃の波濤に包まれた小天地の太平が、終に如何なる文明を産し得たかを語るべく、此書は同時に亦唯一の八重山群島の史書である。

　

(569)　　　　　　　筑紫野民譚集　　　　　及川儀右衛門

　

　著者が久留米の學校に教へて居た二年間に、見たり聞いたりした附近の傳説と風俗とを採録したもので、其境域は筑豐の四國及び肥前の南半に亙り、假に之を筑紫野とは名づけたのである。此集の特色は著者が讀書の人であつた故に、文庫内の作業が多く加はつて居り、而も常に重きを眼前の野外採集に置いて、必ずしも前の學者の臆斷に捕はれて居らぬことである。村々の神の祭、或は各地の季節行事の類は、嚴格に言へば民譚の範圍を逸したものであるが、言語以外の方法を以て、過去の住民の心意と信仰とを語る點に於ては、少くとも之に直面した人々に對しては、其印象は却つて説話よりも鮮明である。殊に北九州の民間神道には、京畿以東の習俗と差別し得るかと思ふ或種の特質が見出さるゝやうであるが、此記録は亦之に向つて、若干の材料を提供して居る。所謂河童の形式を以て現れた水の神の信仰は、著者の最も親んで居た筑後川の流域が正しく一箇の中心地であつた。宇佐を圍繞した古神話の破片、殊には豐後の長者の華やかなる物語も、此書に由つて其最近の流傳?態を知ることが出來る。

　

(570)　　　　　　　相州内郷村話　　　　　鈴木重光

　

　津久井の山村の中でも、もと奧三保と呼ばれた内郷一帶の高地は、殊に社會史の興味の多い地方である。村内に石器使用者の遺跡が非常に多くて、國司時代の文化は却つて其影響の痕を留めず、近世に爲る迄甲相二國の中間地帶として荒れて居た。鈴木君の祖先は多くの榎本氏と共に、若柳の熊野權現に隨從して、入つて來たものでは無いかと思ふ。今も持傳へて居る一區劃の屋敷地は、山を負ひ桂川の懸崖に臨み、儼然たる一城砦の觀を爲して、最も變化に富んだ家の歴史を持つて居るが、それは殘念ながら此一書には語られて居らぬ。此集に見る所は要するに時勢の力、小佛山彙に大道路を貫通した江戸の繁盛が、能く平野の明るい文物を、樅栂松杉の奧の里に運び來り、多くの山神と野獣とを驅逐し、人間を温和にし生活を關東の田舍風に同化した三百餘年間の經歴である。而も冬寒く榾の火を擁して、長夜を語り明した山民の趣味だけは此書成るの時迄遺傳して居る。更に流を溯つて今一つ山奧の村々と、比較することが出來たならば、所謂國境文明の特色は、一層鮮明に我々の眼に映ずることと思ふ。

　

(571)　　　　　　　能美郡民謠集　　　　　早川孝太郎

　

　加賀の金澤から西に往つて、美川と動橋の二驛の間、北陸線の左手に散布する若干の村落に行はれて居る最近までの民謠を集めたものである。白山崇拜者の往還からは少し入込んで、あまり其影響は受けない古くからの土着であるらしい。一般に勞働の激しい地方で、住民は蓆を編み又は岡に攀ぢて石を斫出して生計を補つた。從つて盆正月の休が何よりも樂しく、歌を唯一の慰籍として、年月を送つた人が多かつたことは、此集の諸篇の中からもよく想像することが出來る。早川君は最も注意深く、文部省の俚謠集其他の類聚と比較して、重複せぬものゝみを撰り出した結果、此集に殘されるものは、多くは附近の地名人名などを咏じたもので、其作者が歌ふ人のすぐ傍に、生活して居たことが一見してわかる。踊や木遣りにつれて歌つたらしい長篇の口説も、遠い國々の戀物語を題材として居るが、是亦一旦土地の人の解する言語、土地の趣味に譯されたもので、結局は殆と全部が此片田舍に發生し、若し此採集が無かつたら、やがて又其地で湮滅してしまふべきものであつた。偶然の好機會に之を東京の眞中で拾ひ上げたのは、我々に取つての驚くべき幸である。

　

(572)　　　　　　　沖繩の人形芝居　　　　　宮良當壯

　

　以前沖繩の村々を過つて、人形舞しを渡世として居たチョンダラーと謂ふ部曲に、今は農民と爲つて首里の城外に住んで居る者がある。宮良君は此人々を訪問して其舊傳を聽き、又彼等の口から長短十一篇の詞曲を採集して戻つて來た。チョンダラーは即ち京太良であつて、其名稱が既に彼等の内地から渡つたことを語つて居る上に、念佛法門と結合した漂泊歌謠者の活躍ぶりが、生活事情のまるで違つた南海の果に往つても、相變らず自由自在であつたことは、此等の半和半琉の章句からも、かなり鮮明に立證せられるので、つまりは此島の民間文藝には、別に士人の參與しなかつた一脈の源流があつたことを思はしめる。而して其交通の年代と順路、乃至は方法や便宜に付ては、土佐や南九州の中世生活が、まだ些しも研究せられて居らぬ今日では、之を明白に知ることは　　稍々六つかしいが、少くとも此集の言語學的研究は、遠からず島々の方言の發生と變化に關する何等かの法則を發見せしむるものであらう。宮良君は八重山出身の篤學著で、學士院の補助の下に、南島言語の研究旅行をした人である。

　

(573)　　　　　『島』を公けにする趣意

　

　島の生活の現實相を敍述して、弘く世上に告げ傳へるといふことは、何人にも承認せらるべき意義ある企てに相違ないが、まだそれのみでは我々の仕事は終つたと思はない。島には尚さま／”＼の明かにすべきものが殘つて居る。第一に島に生れた人たちも、必ずしもあらゆる事實を知つては居ない。外部がどういふ風に自分の島を理解し、又は觀察して居るかを知らうとしてまだ知らずに居る。同じ帝國に屬する二千有餘の島々が、どこ迄同じ平和を味ひ、どこまで相似たる不安を感じて居るかに至つては、曾て之を考へて見た者も少ないのである。彼等の遠望する海外は限られて居た。さうして?々不備なる類推法を働かせて居る。所謂外部の人たちも、今はまだ多くの知識に飢ゑて居る。故に單なる異郷の興味と、限られたる比較とを以て滿足することなく、一方には是だけ久しく離れ住む同胞の間にも、尚若干の絶ち切れない鏈鎖があり、否むべからざる強味弱味の共通點あることを悟り、行く／＼は自分たちも亦一個の大なる島の島人であつたことを、意識するに至つて已むべきである。我々の記録は僅かにこの大なる人生の學問の、一部の材料をしか供與し得ないであらうが、此志は必ず繼ぐ者があると信じてゐる。それは日本が世界に類の無い大島國であるが故に。又眞實を愛する國なるが故に。

　

(574)　　　　　『方言と昔他』解題

　

　　　　　　　『方言と昔』

　

　昭和二年のアサヒグラフに、半年以上にわたつて連載したもの。見出しは聊か大げさだつたが此頃はまだ方言などといふものに、一般讀者の關心が今ほどには向いて居なかつたので、斯ういつた言葉が受けたわけである。私の想定して居たグラフの購讀者には、郷里を離れてからさう永い年月を經ず、始終憶ひ出す所があつて、しかもうつかりとしやべらないといふやうな人がきつと多く、續けて讀んでくれるであらうと私は思つた。うれしかつたのは社内にも十人以上、熱心な讀者があり、中にはわざわざ文章に書いて、自分の村の類例を知らせてくれるなど、一時はそちこちのテーブルの話題になつて居たこともあつた。今から思ふと氣樂な時代もあつたものだ。私は社の紙をもらひ社の印刷に頼んで、更に幾つかの知りたいと思ふ言葉を列擧した問ひ合せ?を離島や山間の小學校へ、千通あまりも發送したことがある。無論、新聞社の希望からであつたが、之に對する返信は三分の二以上も集まつて來て、それを今でもまだ資料として私は利用して居る。一篇の『方言と昔』は、言はゞその發端ともいふべきものであつた。學問上の仕事としては、さう大きなものでは決して無い。題目の竝ぺ方も我儘で、何を言ひ出さうとどんな處に低徊しようと、又どこで打切らうと、委細構はずに勝手なことを言つて居るが、之を許したのは編輯者の雅量といふよりも、寧ろあ(575)の頃の讀書界の空氣だつたと思はれ、それが又言ひやうも無くなつかしいのである。楚人冠の出現なども、たしかにこの世代の好尚を反映して居る。私は彼に瀬踏みをさせて、その跡を行つたやうな感じをまだ抱いて居るが、杉村君は佛教の方から進出した學者だけに、誰にも讓らない斷定の強さがあつた。私は之に反して自信が足らず、たゞ問題だけを路の上に出して置いて、そつと片陰に隱れて見て居るやうな嫌ひがあつた。それをたゞちらりと一目見ただけで、後から來る人はみんな行き過ぎてしまつたのである。命めでたく生き長らへて、是をぼつ／＼と始末することが出來るのは、本當にしあはせであつたと思ふ。さうでもしなかつたら、斯んなものはすべて塵泥と化し去つたことであらう。人の最も無力なる者は小兒であるが、それが無意識にでも結合すれば、なほ國語成長の進路を支配し得るといふこと、是などは確かに將來の國語教育に、大切な一つの定理を提供するものであるが、いはゆる方言と昔の問題に心を潜めない人たちには、發見が又何十年かおくれなければならなかつた。果して今はまだこの説の正しいか否かを、批判しようとする者すらも無いのである。往いて還らぬ人々の心の跡は、たゞ言葉だけに殘り留まる、と思つて居る人は幾らも有つたらうが、それを文筆の上に限るものゝやうに、何の理由も無く今までは速斷して、其爲にへぼ句へぼ歌が、何千萬といふほども世に氾濫した。是くらゐむだな話はちよつと類が無いと思ふ。せめて其勢力の半分だけなりとも日常の言葉を確實に口先ばかりで無く腹の底から、出すといふ方に向けさせたら、人は世を隔ててなほ多くを語りかはすことが出來たであらうが、それには我々の言葉を味はう力が、今は著しく弱つて居ることに心付かれるのである。諸原の穿鑿は方言にこそ必要であつた。人が無意味な音聲を口にするもので無いことを信ずる限り、隱れ埋もれてまだ國民の知識とならぬものが、寧ろこの方面に多いのである。數を集めようとする人たちには、どうして斯ういふ語が生れたのかを考へず、たゞ前々から何と無く、さうしか言はなかつたと思つて居る人が多いらしいが、是では集めて見ても何の役にも立たない。裏に一つ一つの持つて居る心持を尋ねてこそ、始めて其語の必要と否とが決する。はつきりと判つて來たことは私などにも少ないが、それでも疑問をかゝへて辛棒して居た御蔭に、方言(576)と昔の僅かづつを、民俗學の知識とすることが出來た。この一文の中から例を採ると、九州西部に面した二三の島々に於て、夜分に別れる人たちの挨拶の言葉として、ダッチョナ又はダッチョといふのがあり、其意味がどうしても判らなかつた。それから氣をつけて壹岐や對馬の例を數多く見て行くと、そこで同じ場合にオイザトナ或はイザトバイなど謂ふのが、一つの語であり且つ一段と古いことがほゞ明かになつた。イザトイは睡りの醒めやすいことで、老人や幼兒には困つたことゝして、笑止がる者が他の地方では多いのに、この西海の島々ばかりでは、それをオヤスミナサイの代りとして居るのである。今でもさう謂つてなほ戒める必要があるのか、但しは又すでに安全なる警察時代に入りながらも、なほ口癖になつてさういふ言葉を意味は考へずに使つて居るものか、それは又別の問題になるのだが、とにかくにこの辭令の始まつた時代には、人はぐつすりと寢込んでしまふことを決して幸福とは考へて居なかつたといふことがこの一つの言葉からでもわかつて來る。信州隨筆の眠流し考といふ一節に、やゝ詳しく説明を試みたが、それが出來たのは十何年も後のことであつた。私の好奇心は子供のやうにあんまり早くから發表しすぎる嫌ひがあるが、其代りには問題も亦大きくなり、少しづつ成熟に向はうとして居る。

　

　　　　　　　『民謠の國』

　

　是は『方言と昔』の前の年、大正十五年の一月から、やはりアサヒグラフに連載した民謠談であつた。意外な人氣があつて方々から、止めてはいけないといふ葉書が來るので、しかた無しに約一年續けたが、實は種が乏しくなつて少しばかり難儀をした。主たる種本を白　　状をすると、十年あまり前に出た文部省の俚謠集であつた。あまり大册なので、持つて居る人でも、たゞ所々を拾ひ讀みするに過ぎない。それを私だけは書き拔いたり表を作つて見たり、本の背革のこはれてしまふまで、何度でも讀み返して居たのである。さうして居るうちに諸方から、新らしい民謠集が集(577)まつて來た。爐邊叢書といふ小さなセリイズの中に、自分が編修して出したものだけでも、加賀・石見・備中・熊野等の數册があり、又向ふで謄寫版などにして、送つて來たものもこの何倍かある。あの頃流行の郡誌村誌の中にも、民謠を載せるのが普通になつて居た。それを悦んで比べて見て行く間に、少しづつ氣がついたのは文藝の旅、いづれ何處かの片隅の、微々たる人々の製作に成つたものばかりであらうが、文句がすぐれて居ると感動して遠くまで持ち運び、時には僅かな改造を加へて、全くちがつた目途にも轉用するものが多いことで、はやり歌なるものゝ根原が年久しく、又その效果の存外に汎く且つ大きかつたことが考へられ、愈々この事業が少數好事者の愛玩に、委ぬべきものでないことが判つて來たのである。和歌は今日ではもう堂々たる國民文學の一つになり切つては居るが、是が往古の無文無筆の人の口から、次第に人丸・貫之・俊頼・西行等の手まで、移り動いて來た道筋はほゞ文獻の上にも窺はれるのみならず、その幽かなる併行線ともいふべきものが、幸ひにして今なほ庶民の生活に跡づけ得られる、といふ風なことを私は空想して居たのである。それで有名な「咲いた櫻に」や「笠を忘れた敦賀の茶屋」などの、分布を調べるのは後まはしとして、先づ花ならば蕾の方に、小さな土地だけの好い歌を見つけ出す方に、最初の注意を向けようとしたのだが、其成績はまだ擧がつても居ない。民謠採集手帳などは案ばかりで、本にもならぬうちに古い歌は多く消え、無數の新作が全國に普及して、それは悉く洋調を帶びることになつた。つまりこの一つの民謠の國は亡びたのである。町田・藤井・小寺の三君が、夙くから計畫せられた各地方の曲譜集は、幸ひにして世に傳はつたけれども、それを美しく又身に沁むものにした背後の文藝に至つては、年と共に記憶を拔け去り、殊に一つの土地に生れて、まだ流行の波に乘らなかつたものなどは、大抵は書き留められずにしまつたらうと思ふ。耳で受取る言葉の感じといふものが、今ほど粗末にせられる時代は珍らしい。もとは決してそんな國ではなかつたといふことが、私はたゞ斯ういふ方面から説明し得られるやうに考へて居る。その仕事が實は甚だ未熟だつたのである。前に一ぺん『民謠の今と昔』といふ小册子で同じ趣旨のことを説いて見たことがある。それから創元選書の『民謠覺書』には、この一文も載(578)録してあるのだが、讀まれて居るのかどうか、是といふ反響を聽いたことがない。ちやうど好い機會だからもう一度、斯んな話題を提出して見るのもよいかと思つた。

　

　　　　　　　『秋風帖』

　

　是は大正九年の三つの旅行のうち、一ばん省みられなかつた第二の紀行、ちやうどこの年の十月から十一年にかけて、朝日に連載したものゝ再録である。東海道を汽車で走つて居て、大井と天龍との間がいつでも私には問題になつた。それは主として山々のたゝずまひからであつたらうが、どういふ生活があの中にはあるのかと、考へずに居られぬのは自分だけの癖では無いやうである。司馬江漢の西遊旅譚が、活字になつて出たのは後のことだつたが、あの中にも印象深く、秋葉路の素朴な人々が描寫せられてあつた。それから今一つ江戸人の日記で、この地方を見てあるいたものがあつたが、それはもう書名を忘れて居る。遠山奇談が全篇愚劣なる作り話であることは近頃も或雜誌に書いて置いたが、他にもこの地方を舞臺にしたロマンスが次々と出て居るのは、やはり京丸の牡丹以來の空想で、それが釀し出さるゝ酵母のやうなものが、何かこの山間にはあるのである。遠江風土記傳といふ本などは、他の同時代の地方誌とやゝ異なつた、奇異なるアトモスフェアを感じさせる。折口信夫氏なども、曾て珍らしい路筋をとつてこの山地をあるいて居られるが、やはり同じやうな暗示の導きかもしれない。私は古く明治三十九年の秋の末に、三河の八名郡から遠州の引佐・井伊谷にかけて、谷底を下に見るやうな山道を一日あるいたことがある。それから大正三年のやはり十一月に、信州飯田から秋葉路に入つて、小野路・青崩の二つの峠を越え、遠山・奧山・氣多の盆地を高い處から見て通つたことがある。どうかして今一度少し緩やかに此地方を跋渉して見ようと、念がけて久しかつたのが、ついこの一篇の秋風帖となつたのである。新聞だとトピックを捉へなければならぬから、親切な案内記にはなりにく(579)いが、當人には是でも永く全景の印象を保存することになるのである。もちろん系統を立てゝ、誰にでも理解し得るだけの記述をする必要があり、又證明の義務もあるのだらうが、私の見たところを概括すると、この山地の土着は案外に古く始まり、それが地形の制約によつて、大きく成育し又は遠く伸展し得ず、しかも次に來る者によつて排除せられる危險も無かつた爲に、比較的古いまゝの生活を保ち續け、偶然に荒い中世の社會の片端を、標本のやうに殘すことになつて、それが言葉の力以上に、我々を魅惑するのでないかと思ふ。固より批判も無く是を前代生活の痕として援用することは出來ないけれども、少なくとも遠い偏土や離島に渡つて行かぬと、もう日本のフォクロアは見付らぬかのやうに、早合點をする者を戒めることは出來る。さうして私は自分でも氣がつかずに居るが、誰が何と言はうとも日本人の素質の美しさを疑はず、何とぞして是を誰にでもわかる形に、ゑがき出して世に遺したいといふ熱情は、やはり斯ういふ旅行によつて養はれて居るのであつた。そんなら見に行かうとどやどやと入り込まれては困るが、出來るならばこの山々の間に住み、又は年頃の因縁をもつ人たちに、もう一度むらをこまごまと、哀れみ輕しめる氣特で無く、觀察し且つ記述してもらひたいと思つて居る。日本は、斯ういふ細長い島である故に、大きな旅をする人は東から西へ、どうしても急いで通り過ぎやすい。おまけに脊梁の山脈があり、それが飛び／＼に汽車で開かれて居るので、是から後は次々と、斯ういふ眼に立たぬ人生の島が出來て來るだらう。數が物をいふ世の中になつてしまひ、さうして、よその事は構ひつけず、互ひに知らうとする氣風が衰へ、しかも今日の如き交通政策が續くならば、斯ういふ山地の淋しさは、恐らくは沖の小島以上であらう。それまでを想像して書いて見た紀行では無いけれども、今度改めてあの旅の日の憶ひ出を讀んで見ると、まことに秋風帖の名にふさはしいやうな感じがする。多分あの頃からすでに私には不平が多かつた爲であらう。

　

(580)　　　　　　　『祭禮と世間』

　

　是はまだ朝日に入らぬ以前、大正八年の夏の寄書であつた。あの頃は新聞が伸び／＼として居て、斯んな氣樂千萬な問題でも、毎日續けて讀まうといふ人が多かつたのである。日下部さんといふ物理の教授も、後で聞くと至極快活なのんきな人だつたらしく、あまり私が力瘤を入れて、神輿の異變などは物理學によつて解説すべきものでないと言ふのを、少しひやかして笑ひに紛らさうとせられたのだが、それが又癇にさはつて、一つ本にして出さうといふ氣になつた。爐邊叢書の一册で部數は僅か八百部、しかも編修者は折口氏であつたので、またたく間に珍本になつてしまひ、今でも捜したり寫したりして居る人が多い。今讀んで見ると内容はさして大きな價値が無い。今だつて信仰民俗の資料は豐かとは言へぬが、此頃はまだ私は書册の知識しか貯へて居なかつた。さうして諷刺がいやにまはりくどく厭味である。たゞあの時代の官僚式合理解釋なるものが、何か僞善のやうに思はれてたまらず、いはゆる無智蒙昧の輩の爲に、１言の群を費したかつただけである。しかし幸ひに是が一つの言質になつて、少しづつ我邦の固有信仰の問題に、注意を集めなければならぬやうになつた。さうして是から以後の三十年が、神道にとつても實に空前絶後といつてよい大變遷だつたのである。少なくとも一種路の辻の標木のやうな、記念の意味は此本にはあると思ふ。『祭禮と世間』とを書いた際はまだ知らなかつたが、世間といふものも非常に變つて居る。第一にあゝいふ神輿は中世からのものであり、之をかつぐ人々の構成組織も元は無かつた。從つてこのやうな物理的現象も、昔は實驗することは出來なかつた。たゞこの運動に參加した力に、新舊内外の數限りも無い複合があつて、是を分析して見ることはあの當時は素より、今とても決して平易でない。それをたつた一つの表面に見える原因に、歸し去らうとしたことの誤りだけは、言はば物理學者の不朽の過失だつたのである。斯うした意見の世俗的效果が、存外に偉大なことは今も變り(581)が無い。といふよりも今の方が恐ろしい。たゞ之と抗爭する方法に至つては、私の採用したものは不完全に相違ないが、やはりこの道を進んで行くの他はないと、今でもまだ思つて居る。或はあまりにまだるつこい、氣樂に過ぎるといふ人もあらうが、出來るだけ精確な事實を多く、つとめて興味のあるやうに覺え込ませ、それを各自が自分の力で綜合して、まちがひの無い判斷を下すやうに、仕向けることが唯一の道だと思ふ。勿論そんな事は昔からして居るのだが、此節は問題の種が多く、與へらるゝ事實が多端である爲に、外からの飛切り新らしいものに押されて、古い常識は一般に可なり低下して居る。すぐれた人ならば何としてでも其缺漏を補充し得るだらう。しかし多數の有權者に及ぼさうとすると、我々は是を今よりももつと知りやすく覺えやすいものにする必要があるのである。私たちの學業にはいつも表現の問題が附きまとうて居る。この文章などは、如何にひいき目に見ても失敗だつたが、新聞に斯ういふ多數民衆と交渉ある問題を取上げてもらふことは、國語の改良の上からも非常に有難いことだと思つて居る。話題の貧弱といふことは、見るに忍びざる戰敗國の慘?の一つである。

　

(582)　　　　　　　『祭禮と世間』小序

　

　既に專門の研究に徹底した學者が、出でゝ大に社會諸學の爲に活動する風は、森林太郎さんの近世傳記、中山平次郎さんの古代工藝論等、醫科の博士方だけの特色のやうにも考へられたが、やはり決してそんな筈は無かつたのである。東京では植物學者の松村教授が、この十何年の間、日本語の語原を説いて倦むことを知らず、到頭自ら號して觀照と名乘られた。東北大學の日下部氏の如きも、根氣と親切とに於てほんの些し之に讓るが、新たに信仰物理學と謂ふ部門を立てゝ、田舍の青年を化導せんとせられたのは、もう久しい以前からのことである。社會が此傾向を歡迎する理由は、單に有能の士に二人前働かせたと云ふ滿足ばかりでは無い。前に一つの學問に於て、十二分に鍛へた觀察力と證明方法が、いと容易く第二の研究に應用せられて、此方面には有勝ちな拘泥と獨斷とを、取除く見込が多いからである。殊に日下部博士の鹽竈論が出ると聞いた時などは、我々は待つ船が着いた朝のやうな氣持がした。此論文は實に其氣持を以て、筆を執つた所の、一種の歡迎辭である。さうして Folk-Lore の學問も、御蔭を以て其頃から、めき／＼として都鄙の間に盛になり、終に此叢書なども要求せられるやうになつた。一體今迄の日本は、學術上の割據時代であつた。苟くも一派の親方と認められる人々は、我が繩張を荒らされるを憎みつゝ而も、其説の最も緊要な點で、却て議論を面倒臭がり、妙に言葉少なになつて、「余を信ぜよ」と云ふ顔をする。此癖を破らなければ、民間布衣の學は興るまいと思ふ。故に我々は、今後日下部氏等の例に倣ひ、勇氣を振ひ道樂を去り、率直に所信と疑惑とを表明して、自由に前説を批判し之に關して責任の有る學者の答辯を氣永に待つが善いのである。『祭禮と世間』の一(583)篇は、其題目が普遍的の興味を具ふるものである上に、右申す如き新學者の新學風を記念する點からも、之を出板する價値が有る。我々は多分此因縁に基いて、單に所謂信仰物理に於てより多くを學び得るのみならず、學者の良心の常に極めて鋭敏なることと、大學の先生の專門外の論議と云ふものは、決して陸海軍の閣下たちが、大靈道の保證人と爲るやうな、筋違ひのもので無いことを、體驗するの機會を得ることであらう。

　　　　　大正十一年五月六日再度渡歐の前夜

　

(584)　　　　　『菅江眞澄』再版に際して

　

一、文化七年男鹿半島の大地震は（二四〇頁）、原本にも九月二十七日となつて居るが、是は明かに八月二十七日の誤りであるから、今村明恒博士の注意によつて訂正する。次の十月初は九月でないやうだ。此間一月餘、日記が中絶して居るのである。

一、白井秀雄の松前上陸に關しては、幸ひにして當時の記録が殘つて居た。函館圖書館長岡田健藏氏が『廣時日記』といふものから抄出して居られたのを、寫して送られたから欣んで轉載する。なほ『松風夷談』といふのはこの岡田氏の抄録本の題名であつて、之を舊記の名かと思つたのは（一七四頁）私の誤りであつた。

　

　　　　　　　松風夷談抄録

　

　天明八年、月日ハ忘レタリ、三河國ヨリ白井英治秀雄ト云ヒケル人、松前ヘ渡リヌ。當港ハ旅人ヲ改メ、猥リニ人ルコトヲ免サズ。是蝦夷人ニ他ヨリ來レルモノヲナレサセザル國禁ナリ。是御代々御朱印ニ、領主ニ屆ケズ蝦夷人ト交易ヲ不赦ノ大禁也。此故ニ旅人ヲ沖ノ口番所ト云ニテ改ルナリ。秀雄モ稼方商人ト見エザル故、先般問屋ヘ揚ゲ置、津輕地ヘ出帆ノ船足アラバ歸國スベシト、沖ノ口番所ヨリ申含メラレシトゾ。秀雄、羽州秋田ノ知ル人ヨリ、松前ニ住居シケル澤田利八ト云フ者方ヘ、澤太夫ト云フ添　　状ヲモラヒ來リシ故、同人ノ方ニ居ケル。利八ハ侍醫吉田直江一元ト云フト、日頃心易ク出入ケル故、秀雄ヨミケル和歌ヲ、吉田氏ノ方ヘ持行キ、秀雄松(585)前逗留ノ事モ叶ハザルヨリ、近キウチ歸帆スベシ。ヨミ歌モ不便ノコトナリトテ見セケルニ、吉田氏開キ見シニ、

　　　　思ヒキヤタヨリモ波ノ捨小舟沖ニタユタフ心ツクシヲ

　ト｜ナリ《（アカ）》ケレバ、吉田氏深クコレヲ感ジ、或夜道廣公ノ御伽トシテ相詰ケル節、此歌ノコト申出シ、沖ノ口番所ヨリ歸國申付ラレシ趣ヲ御話ニ申セシカバ、道廣公モカンジ思召レ、其秀雄ト申者、心ノマヽ松前ニ逗留申付ベクト御渡サレ、其後御繼母自正院文子ト云ニモ、折々召出シ和歌ノ物語リヲ承ルベシトゾ御《（仰カ）》付ラレケル。是ヨリ秀雄、藩中ノ和歌ノ會ニモ出ルヤウニ成リタリ。年經テ寛政四年マデ、松前ニ逗留シテ歸リヌ。後チ羽州秋田ニ居リテ、名ニ憚ルコト有リケルトテ、菅江眞澄ト改メケル。予梁川ヘ引越シテ後、文化十四年二至リ、秋田ヨリノ文通アリヌ。

　本文追記中に、松前家家臣の手録と謂つたのも（一四〇頁、一五六頁）この『廣時日記』の一節のことであつた。前にも一度岡田氏から寫し示されたのを、紛失して利用することが出來なかつたのである。

一、信州洗馬の釜井庵から出た畫像は（一二〇頁）、少なくとも丹羽花逕のでは無いことがほゞ明かになつた。土地の老人の古い話を記憶する者の言に、丹羽氏はひどく見にくい顔をした人だつたさうで、若い頃に肖像などを描かせるやうな境涯では無かつたといふ。この人が夙く仕官の途を斷念し、江戸にも住み難くかゝる山間の村に隱れたのも、原因はその惡い疾からと言ひ傳へられて居る。澤邊雲夢の後裔は、今二人の女性が殘つて居るが、持ち傳へた文書も多からず、日記や書翰も無いらしいから、丹羽氏がこの畫人と交遊があつたか否かを、確かめることは先づ不可能かと思はれる。

一、眞澄翁が後年秋田の地に於て會談したといふ、越後の學者橘?守といふのは（一五〇頁）、良寛上人の弟山本由之のことであると、奈良の川瀬英夫氏が教示せられた。良寛上人のことはまだ眞澄の著録には見當らぬが、國仙和尚以來、因縁は絶えず絆はつて居たのである。

　

　

　　(586)一、石井忠利翁が平福百穗君と前後して世を去られたやうに書いたのは（三九頁）、大へんなしくじりであつた。ちやうど此本の初版が出た十日後に、秋田縣人が集まつて此翁の八十の賀宴を張つて居る。斯ういふ誤謬は文字の訂正だけではすまない。あやまりに行かなければならぬと思つて居る。

　　　　　昭和十七年六月

　

(587)　　第二十三卷　内容細目

　

退讀書歴〔1933年7月、書物展望社、初版發行、1949年4月、實業之日本社、再刊〕

　自序

　批評集

　　金田一京助著『アイヌ研究』（大正十四年三月十六日、東京朝日新聞）（原題、「人情の學問」）……六

　　中田千畝著『和尚と小僧』（昭和二年五月十二日、報知新聞）九

　　文野白駒著『加無波良夜譚』（昭和七年三月十八日、東京朝日新聞）（原題、「貴い越後の民話集」）…………一一

　　岡田蒼溟著『動物界靈異誌』（昭和二年五月十三日、東京朝日新聞）一四

　　中山太郎著『日本巫女史』（昭和五年五月二十七日、大阪朝日新聞）一七

　　鷹野彌三郎著『山窩の生活』（大正十三年十一月十日、東京朝日新聞）…………二〇

　　E・キース著『東側の窓』（昭和四年十二月十二日、東京朝日新聞）……………二三

　　矢部鴨北署『千葉縣郷土誌』（昭和四年四月五日、東京朝日新聞）（原題、「千葉縣郷土誌を讀む」）………………二五

　　木戸忠太郎著『達磨と其諸相』（昭和八年三月十七日、東京朝日新聞）…………二八

　　野口恒重複刻『箋註倭名類聚抄』（昭和六年十月三十日、東京朝日新聞）………三一

序跋集

(588)　佐喜眞興英著『女人政治考』（大正十五年六月、岡書院）……三六

　高木敏雄著『日本神話傳説の研究』（大正十四年五月、岡書院）…三九

　土橋里木著『甲斐昔話集』（昭和五年六月、郷土研究社）（原題、「昔話の運搬と整理」）………………四一

　佐々木喜善著『聽耳草紙』（昭和六年一月、三元社）………………………………………………………四七

　高田十郎編『大和の傳説』（昭和八年一月、大阪史蹟研究會）……五〇

　青木純二著『山の傳説』（昭和五年七月、丁未出版社）…………五二

　早川孝太郎編『能美郡民謠集』（大正十三年十一月、郷土研究社）五九

　三上永人絹『東石見田唄集』（大正十五年七月、郷土研究社）……六五

　澤田四郎作編『ふるさと』（昭和六年二月、澤田四郎作）…………六八

　伊能嘉矩著『遠野方言誌』（大正十五年六月、郷土研究社）………七〇

　荒垣秀雄著『北飛騨の方言』（昭和七年三月、刀江書院）…………七一

　大田柴太郎編『滋賀縣方言集』（昭和七年三月、刀江書院）………七三

　桂又三郎著『岡山動植物方言圖譜』（昭和七年三月、中國民俗學會）七六

　早川孝太郎著『花祭』（昭和五年四月、岡書院）…七八

　宮良當壯編『沖繩の人形芝居』（大正十四年一月、郷土研究社）…八八

　白野夏雲作『十島圖譜』（昭和八年六月、單美社）………………九〇

　伊能嘉矩著『臺灣文化志』（昭和三年十月、刀江書院）……九三

　江川俊治著『ハルマヘイラ島生活』（大正十年六月、南洋協會）…九七

　鈴木覺馬編『嶽南史』（昭和六年一月、嶽南史刊行會）…………九九

　鈴木皷村著『耳の趣味』（大正二年六月、佐久良書房）…………一〇二

　自編『郷土會記録』（大正十四年四月、大岡山書店）…………一〇八

(589)讀書雜記

　偶讀書抄（昭和二年一月、讀書標6）……………………………一一二

　『耳袋』とその著者（昭和四年三月、讀書標29）（原題、「偶讀書抄」）…一一四

　百年前の散歩紀行（明治四十三年四月、文章世界五卷五號）（原題、「百年前の近郊遠足家」）…………………………………………………………………一一七

　一青年の旅行記（大正七年三月、同人二十一號）……………一一九

　霜夜談（昭和三年三月、農民二卷三號）………………………一二二

　讀書懺悔（昭和二年十二月、全人十七號）（原題、「濫讀の弊」）…一二七

　讀書術雜談（大正十四年十月十一日、十八日、東京朝日新聞）…一三三

　新傾向（昭和四年十月八日、東京朝日新聞）（原題、「讀書界の新傾向」）…一三八

　讀物の地方色（大正十三年十月二十日、東京朝日新聞）………一四〇

　愛書家の立場から（大正十三年九月八日、東京朝日新聞）……一四二

　半暴露文学（昭和五年八月二十二日、東京朝日新聞）…………一四五

　婦人雜誌のこと（昭和三年十月、家の光四卷十號）（原題、「改良は困難ではない」）…………一四八

　煕譚書屋�陂b（昭和六年十二月、書物展望一卷六號）…………一五三

　雜記（昭和二年十二月、同三年三月、文車一號、二號）（原題、「煕譚書屋雜記」）…………………一五八

　『日本志篇』に題す（昭和三年九月、巖松堂圖書目録）………一六〇

　古書保存と郷土（大正四年五月、典籍一號）……………………一六二

　郷土叢書の話（大正十五年九月、岩手日報一――十九）………一六六

　

(590)老讀書歴〔1950年1月、實業之日本社刊行〕

　自序

　批評集

　　鷹野つぎ著『子供と四季』………………………‥……………二〇二

　　中西悟堂著『野禽の中に』（昭和十六年九月二十九日、東京朝日新聞）…二〇三

　　山階芳麿著『日本の鳥類と其生態』（昭和十六年八月十一日、東京朝日新聞）（原題、「山階侯爵の業績」）……………………………………………………二〇四

　　小寺融吉著『郷土民謠舞踊辭典』（昭和十六年九月八日、東京朝日新聞）…二〇六

　　福永恭助・岩倉具實共著『口語辭典』（昭和十五年二月十四日、東京朝日新聞）………二〇八

　　東條操著『方言と方言學』（昭和十三年八月十日、大阪朝日新聞）…二一〇

　　小谷方明著『大阪府民具圖録』（昭和十四年五月、和泉郷土文庫）（原題、「農具の話」）……………二一二

　序跋集

　　田中喜多美著『山村民俗誌』（昭和八年十一月、一誠社）……………二一六

　　山口貞夫著『地理と民俗』（昭和十九年八月、生活社）………………二一九

　　楢木範行著『日向馬關田の傳承』（昭和十二年十二月、鹿兒島民俗研究會）…二二一

　　江馬三枝子著『飛騨の女たち』（昭和十七年十二月、三國書房）……二二三

　　瀬川清子著『海女記』（昭和十七年十一月、三國書房）………………二二六

　　能田多代子著『村の女性』（昭和十八年三月、三國書房）……………二二九

　　大藤ゆき著『兒やらひ』（昭和十九年五月、三國書房）（原題、「四鳥の別れ」）………………………二三四

(591)　　女性民俗學研究會編『女の本』（昭和二十一年九月、朝日新聞社）…二三七

　　高田十郎著『隨筆民話』（昭和十八年三月、桑名文星堂）……………二三九

　　別所梅之助著『地を拓く』（昭和十七年十月、警醒社）………………二四七

　　福原信三編『武藏野風物』（昭和十八年一月、靖文社）………………二五〇

　　川崎隆章編『岳』（昭和十八年八月、山と渓谷社）……………………二五三

　　松木時彦著『神都百物語』（昭和七年五月）（原題、「二つの新しい意義がある」）………………………二五六

　　辻本好孝著『和州祭禮記』（昭和十九年三月、天理時報社）…………二五八

　　須山計一・諸田益男共著『信濃の祭』（昭和二十二年九月、長野縣農業會）…二六五

　　中山�ｺ太郎・青木重孝共編『佐渡年中行事』（昭和十三年九月、民間傳承の會）…………………二六六

　　日本放送協會編『日本民謠大觀關東篇』（昭和十八年二月、日本放送協會）…二七四

　　小笠原謙吉著『紫波郡昔話集』（昭和十七年十二月、三省堂）…………二七八

　　島袋盛敏譯『遺老説傳』（昭和十年二月、學藝社）………………………二八〇

　　水原岩大部署『備中土面子の圖』（昭和八年十二月）……………………二八三

　　石川縣圖書館協會編『町村誌編纂の栞』（昭和十三年七月、石川縣圖書館協會）………………二八六

　　岩手縣教育會九戸郡部會編『九戸郡誌』（昭和十一年十一月、岩手縣教育會九戸郡部會）…………二九二

　　富木友治編『百穗手翰』（昭和二十年四月、言靈書房）（原題、「平福百穗君と時代」）……………二九六

　　佐藤氏日記『菻澤歳時記』（昭和十七年一月）………………………………三〇一

　　川口孫治郎著『日本鳥類生態學資料』（昭和十二年二月、巣林書房）……三一三

　　小林保祥著『高砂族パイワヌの民藝』（昭和十九年四月、三國書房）……三一八

　　柳田國男編『沖繩文化叢説』（昭和二十二年十二月、中央公論社）………三二二

　　太田陸郎著『支那習俗』（昭和十八年十月、三國書房）……………………三二四

(592)解題集

　　帝國文庫『紀行文集』（昭和五年十月、博文館）……………………………三二八

　　赤松宗旦著『利根川圖志』（昭和十三年十一月、岩波書店）………………三三九

　　根岸守信編『耳袋』（昭和十四年五月、岩波書店）…………………………三四八

　　横山重編『琉球史料叢書』（昭和十五年八月、名取書店、内容見本）（原題、「文化史料としての價値」）……………………三五六

　　田邊泰・巖谷不二雄共著『琉球建築』（昭和十二年八月、座右寶刊行會内容見本）…………………三五九

　　館柳灣著『林園月令』（昭和十五年四月、形成五號）（原題、「良書供養」）…三六〇

讀書雜記

　　書物が多過ぎる（大正六年十一月、中學世界二十卷十四號）………………三六四

　　文庫本について（昭和十年六月十五日、書物新潮一四〇號）（原題、「書物を愛する道」）…………三七二

　　古典の發掘（昭和二十二年十月、綜合文化一卷四號）………………………三八〇

　

さゝやかなる昔

　　さゝやかなる昔（昭和十六年二月、山崎�a平昔談）…………………………三八五

　　萩坪翁追懷（明治四十二年十二月十二日、讀賣新聞）………………………三八九

　　國木田獨歩小傳（昭和二年四月、現代日本文學全集1、改造社）…………三九三

　　這箇鏡花觀（大正十四年五月、新小説三十卷五號）…………………………三九五

　　花袋君の作と生き方（昭和五年五月十九日、二十日、二十一日、東京朝日新聞）………………………三九八

　　『東京の三十年』（昭和二十二年五月、藝林間歩二卷五號）………………四〇三

(593)　　重い足踏みの音……………………………………………………………四〇七

　　『破戒』を評す（明治三十九年五月、早稻田文學五）………………………四一三

　　蘆花君の『みみずのたはこと』（昭和三年十月八日、大阪朝日新聞）（原題、「蚯蚓の神秘な歌を聽く度に忘れられぬ唯一つの實録」）……………………………………四一五

　　野鳥と海洋文學（昭和十五年九月、明治文學九號）…………………………四一七

　　露伴をしのぶ（昭和二十二年七月三十一日、東京朝日新聞）………………四二一

　　南方熊楠（昭和二十五年六月、辰野隆編「近代日本の教養人」、實業之曰本社）……………四二三

　　南方熊楠先生（昭和二十六年七月、展望六十七號）…………………………四三一

　　新佛教のことなど（昭和二十五年十一月、「高嶋米峰自敍傳」、學風書院）…四三八

　　無意識の歴史家（昭和十三年五月、楚人冠全集月報十二）…………………四四一

　　法制局時代の上山氏（昭和十六年十二月、「上山滿之進」上卷、成武堂）…四四四

　　追思録その他（昭和十四年六月、「手向草」澤田四郎作）……………………四五四

　　境を歩む人（昭和十三年四月、「佐々木彦一郎遺稿と追憶」、白猫社）……四五七

　　三條商太郎翁事業推薦書…………………………………………………………四六〇

　　土の香の思ひ出（昭和二十六年六月、加賀紫水翁記念誌）…………………四六五

　　菅江眞澄のこと（昭和十七年九月）……………………………………………四六八

　　少年讀書記（昭和二年十一月、中央公論四十二卷十一號）（原題、「童時讀書」）……………………四七三

　　漱石の猫に出る名（昭和九年三月、週刊朝日二十五卷十二號）……………四七四

　　童心畫卷（昭和十二年四月、南畫鑑賞六卷四號）……………………………四七七

　　予が出版事業（昭和十四年十二月、圖書四十七號）…………………………四八二

　　芳賀郡と柳田氏（昭和六年四月、芳賀郡土俗研究會報二卷三號）…………四八九

　　私の信條（昭和二十六年二月、世界六十二號）…………四九九

(594)　　柳田國男自傳………………………………………………………………五〇五

　

序跋・批評・自序集

　　松浦辰男著『芳宜乃古枝』序（明治三十八年七月、秀美舍工場）…………五一三

　　　飯島花月著『花月隨筆』序（昭和八年九月、冨山房）……………………五一五

　　『農村信仰誌』序（昭和十八年七月、六人社）………………………………五一八

　　　井上通泰翁歌集『南天莊集』序（昭和十八年八月、三國書房）…………五二七

　　『いたどり』第四卷別册附銀「歌及び序」（昭和二十二年十月）……………五二九

　　『拾椎雜話　稚狹考』序（昭和二十九年三月、福井縣立圖書館郷土誌懇談會）………………………五三一

　　大里武八郎著『鹿角方言考』小序（昭和二十八年六月、鹿角方言考刊行會）…五三七

　　木曾教育部會『木曾民謠集』（昭和十一年九月、信濃教育會木曾部會）……五三九

　　長尾宏也著『山郷風物誌』（昭和九年六月、竹村書店）………………………五四三

　　新日本風物誌（昭和二十三年、「北陸路」推薦文）……………………………五五一

　　二つの新しい用途（昭和二十六年十一月、東條操著「全國方言辭典」東京堂内容見本）………………五五二

　　清棲幸保著『鳥類圖鑑』（昭和二十六年十二月、講談社推薦文）……………五五三

　　爐邊叢書解題（大正十四年七月、郷土研究社）…………………………………五五四

　　『島』を公けにする趣意（昭和八年、「『島』月刊の計畫及び動機」）………五七三

　　『方言と昔他』解題（昭和二十五年一月、朝日新聞社）………………………五七四

　　『祭禮と世間』小序（大正十一年三月、郷土研究社）…………………………五八二

　　『菅江眞澄』再版に際して（昭和十七年七月、「菅江眞澄」再版本、創元社）………………………五八四

〔2015年1月26日（月）午後5時8分、入力終了〕