　少年の頃から私は歴史が好きだつたので、是に何とかして民俗學の方法を結び付けたいと思つて、色々と世話を燒き、又時々は批評がましいことも言つて居る。斯ういふ話は十分に氣永に、なだめ誘ふやうな態度で無ければ、效果を擧げ得ぬことは知つて居るのだが、筆を執るとやゝ改まつて、よそ行きの文句が出て來るばかりか、蔭で何だかだと言つて居るのが、少しづゝは聽えぬことも無いので、それにも此ついでを以て答へて置かうとして、?々この樣な堅苦しい文章になつてしまふのは、甚だ修養の足りないことであつた。是を幾分かでも和げる意味で、ちやうどこの「國史と民俗學」の前後に、二三の機會に於て話をした、筆記のやうなものを添へることにしたが、説き方や擧例に若干の重複が有るのは已むを得ぬとしても、或はまだ何處かに齟齬の點が、見つかりはすまいかと危んで居る。大體に後で言つたことの方が私としては進んで居ると言つてよいが、是からもなほ改良して行かうと念じて居る。綿密なる讀者の指摘に期待するの他は無い。

　但しそのうちにたゞ一箇所、豫め言ひわけをして置きたいのは、十四五年以前、「郷土研究の將來」を公表した頃には、私は民俗學と民族學と、この二つの學問の接續はもつと容易なことの樣に樂觀して居た。ところが實際は寧ろ距離が遠くなり、一方は一つの民族の内部の生活に、次から次へと興味ある問題が發見せられるのに釣込まれて、外へ出て働く餘裕を缺き、他の一方は又日本以外の諸民族に、學ばねばならぬことが餘りに多くなつたので、それを確實にする必要から、今はまだ内外彼此の比較綜合を後まはしにして居る。完全なる分業はなほ續いて居る。しかも兩者は耳で聽けば同じ言葉、印刷所は當然のやうに誤植をするのである。斯ういふ?態が來ようとは私は思はなかつたので、二つを文字まで同じ語にして、一方を一國民俗學、他方を比較民俗學と、呼べば(4)よからう位にきめ込んで居たのである。新しい學問の名稱などは、もと／＼符號だからどうきめてもよく又話し合ひで變へられるのであつた。然るに一方の民族學には官立の研究所、公認の學會も出來た上は、羽翼すでに成る、もう動かすことは不可能であらうし、こちらは又別なのだから別の名をもたねばならぬが、是もさう簡單には適當な名稱が見つからない上に、我々はまだ將來の希望を棄てずに居るのである。それで臨機の處置としては、假に最初の文章に民俗學と書いたのを、民族學と改めることにしたのである。是のみは決して誤植では無いのだが、ただ其中には今日謂ふ所の日本民俗學、即ち世界の諸民族を連ねて、文化の展開を推究する場合に、その學者の屬する一國の經歴を中心として、それから出發しようといふ私たちの事業が、包容せられるものと解して貰はぬとやゝ解りにくいかも知れない。大東亞圏内の大小の國々は、歴史は古いけれども記録は新しく、中には今日になるまで、まだ史料といふものゝ無い民族すらも多い。彼等の指導に任ずる人々が、正確なる彼等の歴史を書かうといふ場合にも、我々の學問の態度と方法とは、何等の但書も無く又もつと有效に、役立つであらうと私は信じて居る。

　飜つて一方地方の實?を推察するに、この國史教育の大變革に對處して、正しい覺悟を持して微動だもせざる者以外に、恐らくは三つ三通りの迷ひ方があることゝ思ふ。その一つは今まで甚だしく限定せられて居た教授要項だけでは、次代國民の生活要求に、應じ切れないことは知つて居て、さて最初の擴張をどの方面へ、向けて行けばよからうかを決し得ない人々で、勿論その數は一ばん多いであらう。次には幾分か自己本位に、折角今まで大きな力を費して、準備し來つた素養がむだにならぬやうに、どうしたら今度の改定を最少限度にくひ止め得ら(6)れようかに思ひ惱む者で、斯ういふ人たちの眼には、取分けて民俗學の提案の弱點が恕し難く見えるらしぐ、正面からではないが我々もその風當りを感じて居る。之に對して今一つ、民俗學の同志と呼んでよい人の數は、少ないながらすでに全國の各地に散在し、何とかしてこの研究の成果を教育の實際に利用せんと念じつゝ、しかもまだみんなを説き落すだけの方法が無いのに惱んで居る。わかり切つたことを言ふやうだが、如何なる場合にも學問は宗教でない。殊に新たに生れて世に行はれようとする民俗學には、通説といつてよいものが殆と無い。信じて疑はずなどと澄まし込んで居たのでは、相手がさうかと言はぬのは當り前である。問はれて返答にこまつてしまふといふことは、即ち又めい／＼の疑問の追加である。もしも單獨の力でそれを解くことが出來ないならば、なぜに同志に向つてそれを投げ掛けなかつたらうかといふことが私には不滿である。それが今までの學風であり、又日本人のよくない癖だといふやうな有りふれた批判も成り立つか知らぬが、又一つには中央に研究の機關の、代つて其勞苦に任ずるものが無く、且つ論議の目標に立てゝもいゝやうな、思ひ切つた文章が少なかつたといふことも有るのである。ところが機運はいよ／＼到來して、よく働く研究所も新たに出來れば、この本も再版が世に出ることになつた。假に言ひ過ぎがあつて除外例を認めさせられたり、又證據が足りなくて其補充を要求せられたり、その他穴だらけだといふ判定を受けることにならうとも、それを畏れるやうな氣持は私には無い。むしろ諸君と一緒になつて、いけない部分を排除して見たいとさへ思つて居る。是までの久しい間の經驗によれば黙殺といふことが一ばん閉口であつた。是からはもう斷じてさういふことは許されず、反對の無い部分ならば、やがては實行に移されずには居ないといふことがほゞ明らかになつた。乃ちこの一卷の書が不必要になるといふことは、新たにより良きものゝ世に出たことを意味する。我等一同は共々にそれを喜んでよいのである。

　單に開始が古かつたといふだけの學問ならば、捜せばこの他にもまだ擧げられるであらう。しかしその或者は既に用を果たし、もしくは世が變つて丸々面貌を改めて居る。さうで無いまでもこの久しい歳月を通じて、斯ばかり社會(8)の信望と敬愛とを、保ち續けて居るものは一つだつて無い。たとへば支那で仙人の道を説いた學問などは、史學ほどには長命でないといふのみで、或時代に於ては文獻の豐富、是に携はる學者の優秀を以て、歴史以上に尊ばれたこともあつたけれども、今は追求する人も絶え／”＼で、僅かに存在の痕を後者の片庇に寄せて居るばかりである。本草や錬金の原理法則も、結局は亦歴史のかゝり人になつてしまつて、自ら其相續者と名のつて居る新學が、却つて誰よりも先に之を愚弄しようとする。是等に比べると、史學は亭々たる喬木であつた。啻に數千年の老樹であるのみか、其枝は常緑である。朝夕其蔭に立つて高く見上げて居る連中には、格別心づかれなかつたのも無理はないが、それが風土の許す限り、どこ迄も成長しようとして居るのである。綜合せられたる世界歴史の、中々容易には望み得ない理由は、持主によつて之を盆栽風に仕立て、又は多くの庭師を頼んで、摘んで撓めて枝振りを好くしようとし、或は又出來るだけ天然の姿を、眺めて見ようとする者があるからである。時代と國柄との影響は誠に區々であつた。しかも根本に於て歴史が伸び行く學問で無かつたならば、此樣な細工も實は施し難かつたので、單に發芽の昔が悠久であつたといふ以上に、その殆と無限に近い成長力こそは、何人にも疑はれない第一の特色であり、同時に又近代の若々しい諸科學と、肩を併べて行かれる根據でもあつた。

　但し史學の伸展性を以て、悉く時代が新しい史實を次々加へて行つてくれる御蔭と解しては無論誤つて居る。我々の最近世史は煩瑣を加へたことは確かだが、明確にはまだ何分にも心もとない。ましてや是を萬人の學び得る知識に、要約する仕事は未來に轉嫁せられて居る。時論が簇出して正しい判斷を曇らせる點は、學問としては寧ろ停頓である。この一時的の混亂が、間接に我々の光明を呼ぶ聲に、又はじつと到達地を念じて豫定の途を踏む足取りに、力を添へたといふまでは信じてよいが、成長はまだ此方面には見られぬのである。我々の實驗が證明し得たのは、却つて眼前とは縁の遠い上代生活の探求法であつた。人が記憶と其補助手段とのみを以て、歴史の唯一の根據として居る限りは、時の進みは當然に過去を稀薄ならしめるの他は無いのだが、上古史には却つてその反對の事實が現れて居る。發見と(9)稱すいる新たに起つた事件、もしくは注意再檢討といふ現在の行爲が、別れて數千年を經た大昔の人の生活を、より詳しく知る力になるといふ實驗、それが成長で無くて何であらうか。書物に傳へられた往古は限られて居る。それより向ふのことは尋ねても無益と、全くあきらめて居た期間は隨分と永かつた。其制縛が今日はもう解けてしまつて、如何なる疑問でも有るならば出してよい時代になつただけで無く、其解答を求むる道が隱れて我々の内に在つたこと、過去が黙して告げなかつたものを、未來が談つて聽かせてくれるかも知れぬといふ希望が明らかになつて、一朝にして史學の地平線は展開したのである。この經驗はほんの少しの類推によつて、愈々其意義を大いならしめる。私たちに取つて特に重要と思はれる點は二つ、既に所謂有史以前の遼遠すらも、新たなる方法の來り援くるによつて、目に見えて視野が擴げられ得たとすれば、それよりもずつと手近に在る無歴史區域、或は名づけて有史以外ともいふべき人生にも、史學の働き得る未開地がもつと有る筈だといふことが其一つである。第二には歴史が之を後代に傳へんとする意圖の有無に拘らず、今在る眼前の殘りの形、大よそ我々の知り且つ認むるものゝ姿に據つて、それが映し出して居る限りの前代生活を正しく解説する學問だとすれば、他にも必ず利用せらるべくして未だ利用せられざる史料が、現在はまだ餘りにも多過ぎるといふことが考へられる。我々の行住坐臥飲食衣履言語社交等の萬般相は、概ね顯著なる近代史跡であるが、往々に其間に伍してわけの判らぬといふ行事習慣が目撃せられる。其片端の最も小さなものでも、何の來由も無く又非日本的に、孤存突發する筈の無いことは、地下數尺の底に横たはる石器土器片よりも確かであるが、其歴史の大半は埋もれたまゝで、しかも消滅の危險は後者よりも多い。つまりは採集と整理の方法が、今はまだ此部門に及ばぬのである。史學が與へられたる前線を守つて、自ら我活動を限局しようとせぬ以上、いつかは其關心の遲かつたことを悔いる時が來るだらう。是が學問成長の自然の進みでもあれば、同時に又私が豫め他日の計を講ぜんとする動機である。或は歴史には別に大きな問題がある、そんな些々たる民間の事實は省みるに足らぬと、教へて居る學者も有るらしいが、問題の大小輕重の如きは、二人や三人の判斷では決しられない。人間の力で出來ぬこ(10)とは是非も無いが、抱負は少なくともあらゆる今後の疑問、いやしくもこの一國人生の過去に就て、人の知らんと欲することは皆知れるといふ究竟地を目ざさねばならぬ。この普遍性の有る無しは實は科學と非科學との分れ目のやうである。さうして史學は少なくとも其可能性を危ぶまれては居ないのである。

　次に此學問の第二の特徴として、人からもほゞ認められ、自らもさう信じて居る社會上の指導權がある。現時の教育法令は商山の四皓の如く、萬全に歴史の優越地位を擁護することになつたけれども、其羽翼のすでに成つたのは、是も亦遠い太古の世に在るのである。孤立した村の經驗も同じやうに、小さな平和な平等の社會に於ては、現在の出來事は萬人が共に知つて居る。教へてもらふ必要は全く無い。忘れたり老いたり生き殘つたりして、知つて居る者と知らぬ者とが兩立し得る區域は、過去の知識の他には無かつたのである。それが生存の光明であり又慰安であることがわかつて、教へられる者の尊敬は加はり、教へる者の立場は高まつたことは、武力が一群を庇護する場合ともよく似て居る。どんな蒙昧な種族の中でも、猛威のみでは頭目の資格は成立たない。長者は必ずより多く物を知つて居るが、それは必ず過去に屬する知識であつた。考へて見ると是は一面には困つたことでもあつた。さういふ昔語りは悉く歴史では無く、夢も誤解もあり又只の作り事もあつて、知ると知らぬとが是ぞといふ效果の差にもならぬものが、若干は其中に交つて居た樣に思はれるが、奈何せん聽く者には選擇の力が無く、又それが一樣に珍しく且つ興味があつたのである。その無知の從順と無判別の信奉、知識欲とも言へない好奇心は、まだしをらしく當世の片隅にも遺傳して居る。宗教は教とはいふけれども、實は後から出て歴史の教へ方を借りて居た。呪術技藝は子孫に私せしめようといふ念慮から、之を知る者が?々教へ吝む形跡があつたに反して、過去が斯うあつたといふ知識のみは、寧ろ統一(11)の爲に出來るだけ弘く、之を公けにしようとする努力が試みられた。さうして一方には欣んで之を學ぶ者が多かつたのである。歴史教育の所謂社會的基礎は、淵源する所遙かに又深いと言ふことが出來る。

　しかも歴史家の發生は、それよりも又更に前であり、もしくは異なつた根ざしを持つやうである。少なくとも教育の需要が之を促したものとは私などは觀て居ない。我邦の上代史と最も緊要なる交渉をもつ稗田阿禮、あれと同質の女性はアイヌを始めとし、文字無き遠近の民族の中に今でも數多く見出される。偶然でなからうと思はれる通有性は、さういふ暗記に優れ又人に説く才藻を具へた婦女が、大抵は名門舊家の血を引き、しかも其族黨の聊か衰へかゝつた際に出て來ることである。是とよく似てやゝ小規模なる經驗は、我々の仲間にも稀では無からうと思ふ。母や叔母姉の家復興を至願とする者が、之によつて子弟を激勵し、乃至は有形無形の外部の侵略を、防禦しようとした言動は本性に出でて、勞苦では無くして快樂ではないかと、思はれる位の熱心さを示して居た。或は傾き聽く人が漸く少なくなつて、却つて其努力が目に立つて來るといふこともあつたらうが、もと／＼さう謂つた家には語るべき過去が多かつたのである。それが時めき富み榮えて居た頃には、聽いて口々に受け傳へる者があつて、どこに中心があるかを究めることが六つかしかつたけれども、是にもやはり家々の特に聰慧なる者が、内に在つて古傳を保管し、且つその適當なる承繼によつて、異説の紛亂を防いで居たらしいのである。それが主として女の役目であつたか、又は男ばかりが之に任じて居たかは、無論國柄により又民族の文化程度によつて、區々であつたに相違ないが、兎も角も上世の歴史家は、出處が大よそきまつて居た。たとへば素質がよく記憶が確かで、今なら十分にさうした物識りとして立つて行かれる者でも、生れが惡ければ何にもならない。もしも凡庸無力な寄寓者などの家庭であつたなら、其天分は恐らく永遠に埋もれてしまつたであらう。或は一門の功績と榮譽を主張しなければならぬ必要が、特に此種の智能を其家に發達させたのかも知れぬし、又或は最初から、過去を鮮明に談り得る者が、推されて自然に社會の宗源を爲すこと、恰かも風貌體力の絶倫が、酋長の資格であつたのと同一の事情とも解し得られる。其遺傳の美質が漸く薄れる頃には、(12)氏族の團結はもう強化して居て、必ずしも嫡流の末から自ら説く者を出すに及ばず、欣んで本家の言ひ傳へを、支持し敷衍せんとする人々があつたらうのみならず、後には更に奴婢郎從の中からでも最も優秀なる語り部を選拔して、之を重用することが出來たかと思はれる。是が史官と稱する制度の二葉であつたことは、今日の比較研究法に由つて、恐らくは十分證明し得られる。各國諸民族の上代史が、今まで例外もなく其力を系圖と英傑の事蹟とに傾け、經濟藝術はた信仰の如き、直接凡人大衆の生存と交渉した問題ですらも、尚且つ僅々若干名士の傳記を繋ぎ合せたものが、即ち其歴史であるかのやうに感ずる習癖は、現代までも持ち越されて居る。其原因の可なり大きな一つは爰に在つたやうである。

　歴史が國家の最も樞要なる學問であつたわけ、もつと具體的に言ふと、是が王者の教育法であり、又名相賢臣の缺くべからざる素養であつた理由も、やはり此側面から之を見出すべきものと私は信じて居る。だから歴史といふ知識は既に發端の際に於て、行く／＼政治史を以て其主流とすべき傾向を具へて居た。或一つの郷土が特に神に惠まれ、そこに導かれて入つて住んだことが、久しき平和と繁榮の基礎であるといふことは、今でも村々の居民が夢みてでも信じたがつて居る傳説である樣に、大よそ群の組織を持つ程の人類にして、此意味の開闢史を記憶せぬものは無いと言つてもよい。ところが歳月には速かなる經過があり、幸福には波瀾がある。あらゆる逆運を凌いでこらへた者だけが、無論活き續けて居るのだが、彼等現實の經驗は少しづゝ其古傳を補正しなければならない。乃ち新たなる法則が追々に意識せられて、最も敬虔に是に順應した者が、次の安寧を引寄せる主力であつたといふ、解釋は下るのである。是が益々擴充せられて、終に萬國無比の雄麗なる傳統が確立したことは、餘りにも長いから愼みて爰には言擧げをせぬ。小さな島々や引込んだ古風の村方には、今でも村長と神に仕ふる者とが一家で、分れて對立して居らぬ例は稀で無く、それが又生活の自然の中心とさへ認められて居た。祈願感謝の式典の色々の手落ち、乃至は仲間に對する不親切な心掛けなどが、幾分か内端に押包んで傳へられ、又は辯疏の辭を添へで敍述せられる嫌ひはあつたかも知らぬが、(13)兎も角もさういふ家々が現に榮えて居る以上は、手柄が多くて過ちの方は少なかつたものといふ證據になり得たのは當然と見るの他は無い。人を代表とし又指導者とする社會が續く間は、何と言つても政治史だけは個人傳記の集録になり勝ちであり、惡くすると頌德表の連續のやうにならぬとも限らぬ。自分たちで押立てた議員や大臣を、のつけから輕蔑したり疑つたりする風は、有るのが變態で、無いのが竝みである。さういふ中でも支那といふ隣の一大國のみは、所謂天命が?々革まり、割據が久しく續き、互ひに利害が無いといふよりも、寧ろその相反する者がよその歴史を説いて居た。即ち失敗して亡びた人々の過去が傳はつた。是は主として文字の力であらうと思ふ。家々の歴史係りが浩歎して筆を投じた後も、尚跡を竹帛に垂れる者があつた。趙盾その君を弑すといふが如き、最後の直言も稍々認められたらうが、後世東方の史論を特色づけた春秋の客觀なるものは、時とあの國の政情とが作り上げた、一種の安全地帶から生れた方法である。是が日本を感化したのは、單なる歴史的偶然の一つに過ぎない。しかも其效果は頗る良で、是によつて我々の史學は、たしかに一段の健全なる成長を遂げたのである。無論或程度までの話には相違ないが、國史をある一つの國の歴史として學び、教へ又批判する態度の、我邦へ入つて來たのはすでに愚管抄や神皇正統記の頃からのことで、必ずしも德川後半期の經學普及時代に始まつたのでない。それが次々新たに歴史を作爲する人々に、暗々裡の牽制を與へたことは別問題としても、少なくとも讀史の興味は之によつて深くなり、同時に之によつて教育せられる者の範圍が擴張したことは爭へない。近世の多くの編輯國史は、言はゞ此需要に應じて現れたものであり、維新前後の人物輩出は即ちこの成長した學問の收穫であつた。もしも地方が今日の郷土誌のやうに、各々割據して形勝を誇り、名士を禮讃するだけに自得して居たならば、假令堂々たる上代の正史は有らうとも、其力だけでは到底是ほどの國家意識を、全國に漲ぎらせることは出來なかつたらう。だから半世紀前の制令者等が、自分たちの素養經歴に鑑みて、歴史の學習を普通教育の樞軸に加へたことは、主義としては少しでも誤つて居ない。たつた一つの殘念な事といへば、教へる内容が政治と戰闘、以前記録を持ち得た家々の、自ら説かうと努めて居た過去知識に偏し(14)て居て、必ずしも一般民衆の需要に基づいた選擇が行はれて居なかつたことである。乃ち教材は片よりがちであつた。史學は是だけで澤山だといふ御意見があれば格別、もしも方法が無いから是非に及ばぬといふ次第ならば、將來の史學は更に其方法の發見の方へ、進んで行かなければならぬことにどうしてもなる。

　そこで問題は史料の種類を、限定することの當否に向はねばならぬ。在來の專門家は永い慣行によつて、歴史は文字で書いたものに依るの他、知ることの出來ぬ知識だと思ひ込み、又さういふ定義を掲げて居る人も幾らも有るやうだが、之に對しては然らば文字以外の證跡に基づいて、探り究められた過去の事實は何だときいてもよし、或は又現在も眼に一丁字無く、文字の有る旅人にも訪はれなかつた土地の住民には、歴史が無いと言へるかと尋ねてもよいのだが、そんな憎らしい詰問をする迄も無く、是は明らかに誤つて居るのである。史學は往古にも現代にも、決してしかく窮屈なる埒内に籠つては居ない。單に相應に久しい年月の間、主として此手段に由つて仕事をしつけて居り、それで別段の不便を感じなかつたといふ迄で、必要が少しでも生ずると、意識して又は無意識に、どし／＼外へ出て證據を求めて居るのである。日本の手近な例を擧げるならば、我々の維新史料は牛に汗し、棟木を突き折るほど既に集まつて、人が忘れる頃まで其整理に掛つて居るが、それにも拘らず老衰した人々を諸方から喚び寄せて、なほ彼等の口から何事かを得ようとしたのである。無論其談話も記録には變形するが、誤植が有つても其方を採るといふ迄に文書主義では無い。江戸時代の初期に流行した聞書覺書も之に類し、事實其ものゝあつた時から、既に實驗者の半生涯を經過し、時としては幼年の頃の又聽きさへも交り、中途の誤傳は幾らでも想像し得られるのだが、他にはその一つの問題に關して、何等の手掛りも得られさうに無い故に、已むを得ず之に據るといふに過ぎなかつた。だから幸ひに(15)もし其他の文字史料の、是と喰ひ違つたものが見つかつた場合には、それ等を對質させて自由な取捨をするは勿論、時には各人の計算推理、甚だしきは漠たる常識を以てすらも、たつた一つしか無い文書の内容を刪定する。是などは現代人の經驗と智能を以て、史料に供するものでなくて何であらう。證據を必ず文字の跡あるものに限るかの如く思つて居るのは、少なくとも今日の史學に於ては迷信である。

　但し此方法は漸を以て浸潤して來たもので、顧みていつを堺に斯うなつたとは言はれない。今でも三四の神聖なる記録に對しては、誤寫を指示することさへ快しとせぬ感覺が我々に在ると同時に、昔も家々の家文などの、あまりに身びいきに過ぎ又は傳承の心もとなしと看做されたものは、特に疑を存し或はより正しいものとさし替へられて居る。その最も顯著なる例は中世以來、久しく保存せられてある訴陳兩?、もしくは歎願の目安の類で、是等は作成の當初から、利害に繋がる一族徒黨以外に、殆と一人としてその全部の史料價値を認める者は無かつたのである。多くの贋系圖僞證文に至つては、其存在こそは我々に取つて、誠に興味の多き事實であるが、内容其ものに是ぞといふ正しい知識の種があつたのでは無い。即ち歴史は其文字の表面には無くて、寧ろ全然筆を下されない裏面が、人を教へ又考へさせるのである。是をしもなほ史學が文書を依據とする例に引かねばならぬ程度に、實際の研究方法は成長して居る。しかし大體に於て、此種の濫用が盛んに行はれたのも、文字の證據力が以前は強かつた結果といふことだけは爭はれないであらう。殊に上代は紙墨が貴く、字を識る人の數が至つて少なかつたのだからそんな重苦しい手段を用ゐてまで、私を營む必要は先づ無かつた。よく／＼大切な、又主觀的に價値のある知識のみを、書いて傳へようとする念慮は行渡つて居た。だから佛法の經典などは、ばら／＼と開いただけでも功德になり、弘法大師の硯の水の遺跡は、永く眼病を治し疣を治し、いろはにほへとまでが山臥の呪文であつた。悉く書を信ずる氣風は戒められつゝも、終に圓本洪水後の今日までも殘つて居る。最初嚴肅に一字を苟くもすまいとした人々の親切が、時過ぐれば却つて其流弊の堪へ難きものを見たのである。しかもさういふ確固たる信條の間に於て、たとへ徐々にもせよ、近世のやうな史料(16)の判別法を養ひ得たといふことは、即ち日本が學問成長の頼もしい一沃土であつた證據で、獨り支那風の讀史術が、夙に習得せられた爲のみではなかつたらう。一つには又際限も無い書物の増産、分けても露骨なる贋物や作り話が、後から後からと競ひ起つて、到底取捨無しには其全部を鵜呑みにしきれなくなつた御蔭といふやうなものも考へられるのである。初期の軍物語や演義體の讀み本には、誇張を格別の惡事とは認めず、寧ろ肝要で無い部分には虚僞を加味して、面白く説くことを義務とさへ感じて居たらしい跡がある。それでも眞實がまじり且つ時代が稍々遠ざかれば、地理風俗にうとい者は是に寫實味を味はつて、歴史としてどし／＼受入れて居た。舊事大成經一流の僞書すら、或時代には學者の斷案を左右し、駿河の某神主が拵へたとかいふ蟲喰ひの總國風土記は、久しい間國々の考古家に援用せられて居た。廣益俗説辨の著者の如きは、今見ると笑止な程眞劍になつて、淨瑠璃や御伽草子の内容の誤りと闘つて居る。即ち是を正傳と信ぜんとした者が、まだあの頃までは讀書人中に多かつた證據である。それが百年に餘る歳月を費して、漸く少しづゝ各書卷の持つて居る本來の意味、歴史に入用な部分を見極めて、それ／”＼の箱に仕分けることが出來るやうになつた所である。只漠然と文獻の豐富に陶醉して、是なら籠城の糧は充分だとばかり、古い方法の中に納まり返つて居られる時代とは、今はもう時代が違ふのである。

　此點を確かめる爲には、一應現存の文書史料の、時と處と問題とに對する、分布?態に當つて見る必要がある。近年の採訪發見の成績は、如何にも目醒ましいものがあるけれども、是が取扱つて居る題目は略々限られて居る。丹念な書目家ならば、統計によつて其偏倚性を示すことが出來るであらう。燒けた失せたは勘定の外に置いても、文書に書き殘さるべき要件は最初からきまつて居た。記録者もしくは其四周の者が判斷して、或は傳ふるに足ると認め、又傳へざるべからずとしたもの以外に、何も傳はつて居ないのは當り前である。讀者の側からすると、その有る限りのものを信受してまた他を省みないのが、前にも言ふ通り上代の史學であつた。問題の選定權は全部古人に在る。如何に彼等の素志が親切であらうとも、千年以後の子孫の疑問までを、豫想し得られよう筈は無い。其上に多くの筆者に(17)は私心さへあつたのである。御寺が吾佛を尊しとしたと同じく、家々には守るべき利害があり、又高く掲ぐべき先祖の譽れがあつた。たま／＼周圍の見聞に及ぶものがあるにしても、それにも何等かの動機を伴なうて居る。さうして期待せられて居た讀者の範圍は狹く、從うて共同の興味も限られたものであつた。假に一つの散佚も無く、それ等の文獻が世に傳はつて居たとても、やはり大小の政變と戰闘、是に用ゐられた若干の傑物の、智謀武勇と其收穫ぐらゐより外へ、多く喰み出して居ないにきまつて居る。それがおまけに片端しか殘つて居ないのである。時代の片寄りも可なり著しいが、それよりも目に立つのは地圖の上の疎密である。書いて書いて書きまくられて居る土地があるかと思ふと、他の一方には京畿近くの在所、又は關八州の榮える平原の中ですら、曾て一度も中古の軍談にも、獨りよがりの紀行にも、其名を呼ばれて居ない町村が幾らあるか知れない。邊鄙の片田舍は今でさへ物を書く人は訪れぬ。それが文字の歴史から見落されて居るのは申す迄も無いことである。斯ういふ無記録地域の住民は、假に非凡の技能や行爲を輝かしつゞけて居たとしても、其痕を書册の上に留めることが出來ない。ましてや平常無事の間に、いつとなく其生活が推移したのだとすると、それを今日のやうな記録の方法で傳へ得なかつたのは當り前である。だから彼等は國史の教育を以て最初から自分等の存在と交渉あるものと思ふことが出來ないのである。單に連綿たる大御門の世々の御跡を仰ぎ慕ひ、おのれも亦｜蒼人草《あをひとくさ》の一つのかき葉であつたことを會得する以外には、たゞ興味を追うて勝利や遠征の、花やかなる事件のみに印象づけられるのである。歴史を面白い學問とすることは結構だが、是がめい／＼の生活の指導にも參考にもならぬ樣では、普通教育には或は不向きである。

　近頃流行の所謂郷土教育、殊にそれを目標とした郷土研究の着手は、幸ひにして新たに又此點を考へさせてくれる。如何に天さかる鄙のあがたでも、捜せば多少の書いたものは殘つて居る。社寺には縁起があり棟札があり、名主が没落しなければ、帳面はまだ反古にはなつて居ない。殿樣の御家には無論記録があつて、時には婢妾が何々院であつたことまでも判つて居る。問題は只それを寄せ集めて、果してどういふ過去が明らかになるであらうか。たとへば我々(18)のやうに、或土地の昔は榮え今は衰微の自意識が隅々まで弛み徹つて居るといふ原因は何かと考へて見る者に、この現存の文獻が少しは解説に近いことを示すだらうか。漁民も山に樵る者も甲乙はないが、農民は特に數も多く又年處も古い。是がどうして暮らし、且つその如何なる部分が、當みて滿足して子孫を永續させたのかは、自他ともに是非知りたいといふ者が少なくあるまい。然るに今現はれて居る農民史はどうか。農民は自分も文章が不得手なのみか、相手にも讀んでくれる人が殆と無い。その相互の知識授受に、記録を雇ふべき必要は無かつたのである。だから村に關しては部外の者しか書かない。それも平常事は録するに値せずとして、獨り自分の責任を逃れ立場を疏明すべき凶變にのみ綿密であつた。愛すべき我邦の農民の歴史を、たゞ一揆嗷訴と風水蟲害等の連續の如くしてしまつたのは、遠慮なく言ふならば記録文書主義の罪である。

　この批難を意外に感ずる者は、もう段々に少なくならうとして居る。たゞ古來の制約の外へ出て行つて、強ひて不安なる新種の史料の、處置と識別とに苦勞をせずとも、久しく扱ひ馴れて居る大小の文書だけから、捜れば明らかにし得る重要な問題が、まだ／＼何程でも殘つて居るからと、自分たちのみは掛構ひの無い研究が續けられるやうに、思つて居る人が多くなつて來たのだが、其實彼等にも時代の影響はあつて、決して今までの如き窮屈なる解釋主義に、囚はれてばかりは居なかつたのである。近年世に送られる多くの論文を見てもわかる樣に、學者ほど機敏に新たな問題を見つけ、又觀察に前人未發を競はうとする者は他に無い。それが甘んじて限りある在來の史料と方法との中に、跼蹐して居られる筈は無いのである。古人が是だけは心得置くべしと、選んで置いてくれた過去の知識のみを、たゞ受け繼いで史心を浦足させることは、素人にも今は既に望まれない。寧ろ眞向から斯うだと教へようとする家々の故(19)老の強ひ語りは、一應は危ぶみ又疑念を插んで、何か其以外に眞相を傳へたものは無いかと、所謂某事件の裏面だの、異説日本史だのが、半世紀も前から段々に流行して居る有樣である。永い由緒をもつた我々の記傳學は、外圍ひは元のまゝでも内側の造作は改まつた。林家の通鑑と水戸の修史とを比べて見ても、この證據の採り方の擴張は可なりよく判る。さうして先輩は之を方法の進歩と解して居るのである。大學の史料は固より史料であつて、其まゝを國史の實情と判じ、直ちに教育の上に移さうとするもので無いにきまつて居るが、その博引旁證の自由さは、又驚くに堪へたるものがある。一つの記録の目的が全く他に在り、時としてはむしろ反對の效果を與へんとした場合でも、その意を經ざる筆のすべりが何物かを暗示し、所謂問ふに落ちずして談るに落ちるものは、引捉へて決して放さない。或は又文藝遊戯の閑文字の中にも、偶然に或一事件の存在を推測せしめるものがあれば、是を傳承として存録するのみか、却つてうそはつくまいといふ安心を以て迎へて居る。此傾向は面白がつて助長する者が多い。實際又計畫した本物の記録の無い人生で、現に俳諧だの浮世草子だの、乃至は浮世風呂八笑人などの中に、多分は寫生であらうと思ふ筆つきを以て、精彩に描出せられて居るものは相應にたくさん有る。それを無視して置いて無い／＼と空の本箱の底ばかり敲いて居ることは、竝の人々に出來ない方が當然である。そこへ捜しに出ることは手柄でこそあれ、心得ちがひでは決してない。たゞ私たちの言ひたいのは、それが以前の歴史家の、記録と認めて居たもので無いといふ點だけは、考古學の發掘品も、又我々の目で視、耳で聽き、心に感得して還つて來る民間傳承も、異なる所は無いといふことである。文字の形を假りて現存して居ると否との間に、何で又其樣な太い堺線を引いたものやら、率直な者なら不審を抱かずには居られぬ所であらうが、是にはたゞ永年の惰性といふ以上に、今一つは個々單獨の史料に、あまり強大なる證據力をもたせて居た習はしが、斯んな切れ／”＼の文獻を重んぜしめ、しかも到底此頃もてはやされる各地の傳説口碑の類までに、推し及ぼすことを許さぬ故であらうと思ふ。それは殆と言ふ迄も無いことで、計畫して後人に告げようとした記録なればこそ、眞か僞かを鑑定して眞なればすぐにも採れるが、その他の事實の如きは要するに暗示で(20)ある。飛んだ間ちがひかもしれず、ほんの異例かも知れない。念には念を入れてそれが無責任な風聞でも無く、又至つて通例のものゝ片端であることを確かめなければならない。即ち是非とも史料としての取扱ひ方を別にすべきことは、常識に照しても明らかだ。しかし其點では今日盛んに援用せられる所謂偶然記録も同じことである。從つてたゞ文字の存否のみによつて、堺を立てることはやつぱりをかしい。

　前に私が史心と謂つた言葉は、日本でも誰か用ゐて居る人がある樣に思ふが、之に對立させて私は更に史力とも名づくべきものを想像して居る。二者は畢竟相應せずには居ないが、短い或期間だけはいづれかが先づ進むことがある。熱帶の森の奧に住む裸形の人たちが、神代を餘りに長く、人の世界を餘りに程無く考へて、それすら尚はつきりと年立てすることが出來ないのは哀れだが、もと／＼彼等には過去に關して、さう澤山の不審が無かつたのである。彼等の物識りは我々の眼から見れば、貧弱を極めた者だけれども、それでも集落の知識欲一ぱいだけは教へることが出來て、仲間からは尊敬せられて居る。不倫な比較をするやうだが日本などは、斯う見えても常に歴史力の方が前へ出て居つて、今までは絶えず國人の歴史心を引立てる役にまはつて居た、其代りには幾分か我儘勝手で、何を教へてやつても相手が欣ぶといふ獨りぎめが多かつたかも知れぬ。歴史家は必ずしも一言居士では無いが、あんまり色々の事を知つて居るので、何か問題がある毎に、あなたに聞けば判るだらうがと前置きして、鼻じろむ樣な質疑を持掛けられた經驗は皆持つて居る。この大きな信頼には辜負してはならぬ。國を賢くする爲には是非利用すべき機會であるが、實際はさう今日に入用な解答が、おいそれと出して與へられるもので無い。隨筆に索引までもある便利な世の中にはなつたが、種が一つでしかも偏つて居るのだから、このまゝではやはり判ることしか判らず、科學としての普遍性を具足することが望めさうに無い。さういふ中でも特に氣になるのは、近世最も盛んであつた起原論の濫用が、今に歴史家の所領の如く看做されて居ることである。事物の始まりが古いと聽いて、それなら大丈夫ともう安心してしまひ、中途の變化をも尋ねず又は名と實との?離を氣にかけようともせぬ風は、たゞに時代の考察に疎漫だといふだけで無(21)く、起原そのものゝ理解にも不親切なことであるが、初期の史學は前にも述べた如く、斯ういふ點ばかりに力を注ぐ嫌ひがあつた。それが由緒を重んずる國風に扶けられて、意外にいつ迄も跡を引いて居るのである。足利期も末になると、弊害はやゝ目に剰るまでになつた。しかも狂言記の酢薑《すはじかみ》や膏藥練り等は、可なり皮肉に之を諷刺して居るにも拘らず、江戸幕府の簡略主義は、なほ座頭勾當に雨夜皇子の開祖を認め、木地屋に惟喬親王の綸旨を主張させる樣なことを平氣でやつて居る。それが眞實であつてすら、今ある理由には不十分と思ふのだが、是は恐らく統御の便法として、假に彼等の言ふまゝに任せたので、即ち歴史家の知つたことでは無いのである。ところが明治の革新後になつても、酒とか遊女制度とかの擁護に立つ者が、やつぱり同じ論法を以て古いといふことを味方にしようとする。よく／＼此點には根の深い迷のもとがあるのである。改めて學者のとくと考へて見なければならぬ現象だと思ふ。

　之に比べると、支那は流石に客觀の歴史の、早く起つた國だけあつて、社會事物の存在を解説する方法は別に具はつて居た。問題を現在に起し、史料は現在の知識に據つて之を今ある?態まで導いて來たところの、過去の沿革を求めようとして居る。傳記が個人の人柄を主眼としたやうに、是には時を中軸にしてそれが與へたる變動を鼓して居る。其中でも史記の貨殖傳などは、之を愛讀した青年は多いのであるが、その骨法は我々には學び難かつた。日本に此意味の記事本末體が行はれたのは、新しくもあれば又稀でもあつた。最初に心づくのは、たゞ史料の排列だけではあるが、朝廷の公事を編纂したものが稍々之に近い。即ち通例何々部類と呼ばれて居るものがそれである。臨時恒例の宮中行事は、殆と朝臣の第一の職分であれば、各人體得して有るべき型を履めばよいのだが、それにも時世の損益があり、又時折の斟酌を要することに心づいて、中比家々の日記に詳密に之を書き殘す風が始まつたのである。それを次々に取重ねて見ると、社會はこの保守國の最も愼重なる儀禮をさへも、?況に應じては改訂せしめる力があつたことが明らかになつて、その訓育的效果は個々の所謂計畫記録に數倍した。もしも要約して其大綱を知ることが出來たならば、是によつて皇室の御事業を學び得る者が、又どの位増加したか知れぬのである。しかし此仕事は考へて見れば(22)容易なものだつた。日記は家々に確かな自筆本があり、項目はまとまつて居り、寫す人にも若干の豫備知識がある。根氣さへよければ時と紙筆とが完成させてくれたらう。其他の問題になるとさう簡單には行かない。たとへば有識故實の學が民間布衣の徒の手に移つてから、前代士人の生活諸相を明らかにすべく、右の部類ものに擬して、何々圖説といふ編著が多く起つた。主として中古の書に散見する甲冒武具其他の名稱を具象化し、同時に各年代の變遷を知らうとする、非常に學問的な企てであるが、實物は多くは新しくて、どの部分が元の形を保存して居るかを見分け難く、繪卷や古畫の資料は偏よつて居て數が乏しく、且つ注文通りの品ばかり揃つては居なかつた。さうして少しづゝの發見は此頃までも尚續いて居て、頗る「前賢故實」たゞ一部を種本とするやうな人々をまごつかせたのである。しかもこの一つの試みの未完成こそは、自分等に取つての大きな參考であつた。是によつて漸く明らかになつたことが三つ以上もある。其一つは昔なら誰でも知つて居るやうな、言葉でいへば直ぐに胸にゑがくことの出來る位の平凡事が、今はもう六つかしい知識になつて居ることである。次にはそれ故に、本を讀むだけでは判らぬ事が多いといふことが二つ、第三には歴史は必ずしも即席には答へ得ず、時と共に明らかになつて來るものだ、それ故に史學も亦近世のすべての科學と同樣に、常に疑問を把へつゝ進んで行かなければならぬといふことである。

　西洋でも十九世紀は歴史の世紀であつた。如何なる問題にも先づ其過去を問はねば承知をせぬといふ位に、國民の史心の勃興した時代だと言ほれて居る。我邦でもやゝおくれて此傾向を逐ひ、あらゆる論文には殆と皆史的考察の第一章を設けたのみならず、別に何々史といふ獨立の編述が、數限りも無く新古の書肆を賑はして居るやうだが、それが悉く教へる書であり、且つ文字記録の編集であつた。過去は終了した知識だから、新たに知られて來る事實は有るわけが無いといふ、立前から出立したものばかりであつた。歴史家は一種の忘れつぽい神樣の如く考へられて居る。名前を擧げるのも少々痛々しいが、曾て官府が莫大の金と人の手とを掛けて、美々しく世に送つた租税貨幣田制農務等の歴史といふものを見るのに、何れも正史が國に有つた上代だけは、其中から關係のある記事を拔いて並べ、それ(23)から數百年を一飛びにして、今度は江戸後期の記録煩多な時代だけに、又同じやうな抄録をして居る。日本を今見るやうな社會相に、持運んで來た主要なる動力の、もしや半分でもこの中間の闇黒時代にあるとするならば、是は兎に角文字通りの記事本末では無かつたのである。公事の部類のやうに、人が全部を書留めようとした事項でも、世が降れば若干の散佚は免れない。況んや我々の新たに知らうとする問題は、多くは其提出をさへ豫期せられなかつたものである。たとへば史學の成長といふことが、昭和十年になつて評論の目標となるだらうと思つて、誰が前方に其資料を調へて置いてくれる人があらう。だから史學史は文書によつては學べないのである。知らずに濟ますまいとすれば、別途の證明法を求めるの他は無い。それが面倒であり又容易に結論に達しないことはわかつて居る。其代りには迷へる我々にとつては、是は大きな刺戟であり、又新たなる希望でもある。史學の健全なる成長の爲には、先づ以てこの記録書傳外の史學史を、究めようとしなければならぬのである。

　歴史がたつた一度しか起らなかつた事件だけを、書き殘し又讀み傳へる仕事だといふことは、是も亦今日の實際とは反するが、至つて古くからの我々の信條であつた故に、依然としてそれで宜しいかの如く、思つて居る若干の學者を世に留める。一つの特權とも言はゞ言はれる點である。私たちから見ると、是は單に幼な兒が一つ身の衣を着るやうなもので、確かに歴史の起りではあるが、又決してその成長した姿ではない。古い記録が稀有の大事件を列記して、其任務を果したと信じて居た理由は明白である。獨り其力がさう／＼は細微な項目にまで、及び得ないからといふ節約では無くして、別にこの以外のことは平凡にして傳ふるに足らずとする、誤つたる判斷があつたからである。現代のやうな有爲轉變の目まぐるしい社會でも、なほ我々は幾つと無き世間竝、もしくは普通有りふれたといふものを持(24)つて居て、それが翌の日にも改まつてしまふべきを忘れて居るのである。まして氷河の如き遲々とした歩みを以て、ぢり／＼と移り動いて居た時の流れの岸に立つて、末終に甑《こしき》で飯を炊ぎ、瓠《ひさご》で水を掬むといふやうな毎日の生活までが、不明に歸し去つて歴史として尋ねられ、もしくは靱《うつぼ》と箙《えびら》との區別が、故實の學者に問はなければ判らぬといふ時代が、到來することを思はなかつたのは無理も無い。たゞ其爲に後世の歴史心が、制限せられて居るわけに行かぬだけである。上古の平々凡事は今日は大抵皆珍奇である、僅かに片鱗を窺ひ得ても、鬼の首を取つたやうに我々は騷ぐ。古人が吝んで其知識を書き傳へなかつたのは、必ずしも我族我郷土の譽れを掲げるのみに急だつたからとは言はれない。讀者も亦最初はさういふものを、讀書によつて學ばうとは思つて居なかつたのである。名山石室に書を藏して、是非を百代の後昆に問はうなどと言ふ人でも、もと／＼自分と同じ程度の、經驗常識ある者を目標として居た。だから世が改まれば其親切は遠く及ぼし得ないのである。數多い江戸期の著述の中には、「後は昔」といひ、「後の爲の記」と謂つた態度のものも多少あるが、其比較の對象としたものまでが、既に我々と縁遠くなつてしまふと、興味は到底直接の子や孫が、感じた程度には濃かであり得無い。見原益軒や大田蜀山の如き、全部他人を益するが爲に見聞したかと思ふ筆豆の紀行でも、是をケムペルやジイボルト等の、護送同樣な旅の日記と比べて、前代驛路の活況を詳かにする點に於て、なほ遙かに劣つて居るやうに見えるのは、前者があの當時當り前と思つて注意しなかつた點が、今日は既に紅毛風に變つて居るからである。史學を世と共に成長する學問としたい人々は、古い事なら何でも本に書いてあるといふ、一大迷信を棄てなければならない。

　自分は正直に物を言ふならば、風俗に安土桃山等の區切りのあることをちつとも信じない。是が單なる説明の便宜、或は囘顧の目標といふならば格別、もしも秀吉が出てから乃至基經が關白になつてから、忽然として異なる形の世相が出現した樣に教へようとする者があつたら無法である。假に其樣な法則が隱れてあるならば、現在も國民の生活ぶりは共通して居なければならぬと思ふが、今日は正に其反對が認められて居る。ラジオや乘合自動車がよく／＼行渡(25)つた最近まで、開けたといふ土地にすら色々の段階がある。水色ペンキで塗り立てることを、新文化と心得て居るやうな土地でも、背戸へ廻つて見ると萱の穗で屋根を葺き、祭の醴酒と安珈琲と、どつちが甘いといふ類の暮しをして居る。衣装は外形で最も模倣が容易なものとしてあるが、脱がせて見れば下は越中、或は灸の痕があり、又うぶ神樣に捻ねられたといふ痣をもつた子供も居る。それから更にもう一重の皮の下に、動き流れて居るものゝ働きなどは、人毎に皆生れがあつて、各々其類につれて異なる方角に向はうとして居る。誰がこの全體を以て時代精神なるものゝ産物と、解することを許されるだらうか。一家一郷の行き通うて居る間でも、何か變つた機會には意外な行動や心持が頭を出して、旁なる者にさへ説明を困難にする。ましてや二つのかけ離れた土地の間に、互に視て駭くやうな樣式の相異のあることは、寧ろ是から漸く明らかにならうとして居るので、たとへば稗粟を主食とする東北の部落へ米の郷倉を建てゝやつて、始めてそれが彼等に迷惑だつたことを知つたといふ話なども、つい近頃の奇拔な經驗であつた。是が或變人の氣まぐれな思ひ付きでない證據には、島や山間ならば遠方にも一致があり、又必ず隣近所だけの共通がある。便宜必要の促迫するものが無ければ、欲望も必ずしも外部からは浸潤せず、別に熟慮の上の選擇では無くして、たゞ古くからの?態に居殘つたといふだけのものも多いのである。日本は地形と交通關係の致すところ、殊にこの幾つかの階段が、地域的に縞をなして居る。政令制度の如き全國均齊を期したものでも、出來る限りは各自の立場、今までの仕來りと調和されようとし、それが出來なければ上邊ばかり、從うた形にして置かうとして、破綻を生じた實例にも毎度遭遇する。ましてや銘々が勝手に生きてよい部分に、指導や統一の無いのは當然と言つてよい。それを國中に一人の英傑現れ、もしくは一大事件が生ずる毎に、廻り舞臺の如く世相は轉囘するものと、解するに至つた動機こそは不思議である。

　察する所是は文藝技術の中部都市帶に於ける成績を以て、直ちに全國の記念碑の如くに速斷したことが一つの原因を爲して居る。ある少數の所謂歴史上の人物が、富を得勢力を養へば此方面の才能は保護せられ又引立てられる。同(26)じ趣味は學ばれ其系統は慕はれて、行く／＼弘い區域を風靡することも事實だが、それは年處を重ねた後であり、又多くはやゝ落ちぶれかゝつた末流の作用である。もしも花やかなる當初の記録と作品に眩惑せられなかつたならば、別に是と併行した舊來の流れが、幽かながらも尚きらめきせゝらいで居ることを認めたであらうが、一方は多くの禮讃者と個人傳記とに圍繞せられ、片方の昔ながらのものはそれに押されて次第に弱り衰へた故に、言はゞ成功した者の世の中となり切つたのである。しかも國民を導いて今日あらしめた生活技術は、この種高級の藝能以外に、まだ／＼幾百とも無くあつて、それは必ずしも中央の號令によつては進まなかつた。僅か三つか五つの特に文書に惠まれたる都市藝術の華なるものを雇うて、全國の文化を代表せしめる企ては誤まつて居ると思ふ。さうでもしなければ、限られたる今日の史學の方法を以て、すべての新しい疑問に應じられぬといふ、窮餘の一策でもあつたのではないか、萬一さうならば人の惡い話である。しかも英雄が時世を作るといひ、事變が人心を新たにするといふなどは、之に比べると又一層空なことであつて、誰もが詩人のやうに慨然と之に共鳴する間は格別、もしも無邪氣にどういふ手順を經てと、問ひ返す者があつた場合、私は教育の役目をもつ人々が、如何なる語辭を以て是に答へ得るかを知らない。

　歴史は本來誰でも知る通り、毎一囘の出來事を精確にする爲に、教へ又學ぶを目的として世に生れた。其眞實は書傳に誤謬が無く、筆執る者の心が正しい限り、なほ萬年も永續することであらう。たゞ一たびその指定の區域を出でて、曾て企てられなかつた周圍の空氣、乃至は時代の趨向を詳かにしようとすれば、如何なる緻密の文書學も、往々にして蹉跌を免れないことは、なほ石斧の一片にコロボックルの昔を談らしめる樣なものである。當代史學の峻嚴主義が、個々の史料の素性を究追して、書字を重んじ、耳を經又は噂を通つて來たものを危ぶむのは、一つの目的の爲には安全なる用意と言つてよいが、もしも一方の證據力の餘りを、第二の道即ち書いても無いことの上にも及ぼさうといふ下心ならば、冒險は却つて我々のものより大きい。我々が知りたがつて居る歴史には一囘性は無い。過去民衆の生活は集合的の現象であり、之を改めるのも群の力によつて居る。それをたゞ一つの正しい證據によつて、無闇に(27)代表させられては心もとなくて仕方が無い。斯んな問題こそは實例を重ねて訂なければならぬ。古く傳へた記録が無ければ、現に殘つて居る事實の中を探さなければならぬ。さうして澤山の痕跡を比較して、變遷の道筋を辿るやうな方法を設定すべきである。以前の記事本末體は起原論に偏して居たのみならず、文獻を重んじた結果、少なくともそれから以後の變遷を解説する力が無い。曾て史學會で公表した拙文も殘つて居るが、たとへば今日も六つかしい問題となつてゐる婚姻の制度などは、往古の記録としては上流の儀式しか殘つて居らず、たま／＼中世以降の文學の間に、散見して居る敍述を集拾しても、なほその今日に至つた過程ははつきりしない。しかも人が社會をなす以上は一度は經歴した重要印象なるが故に、現在の統一傾向の中に於ても、なほ各地の殘留古風を竝べて見ることに依つて、以前の?態がわかり、それが亦意外に遠くまで遡れるのである。埋葬の風習については、只古墳が遺物として存し、又若干の上流記録がある。是によつてもし萬人この通りであつたといふ歴史を書くならば、書く人自らが信じ得ないものが出來るだらう。しかも今日は幽かながらも、あらゆる屍體處理の方法がまだ傳はつて居る。即ち曾ては或年月の後に全く跡を留めなくなる葬法が大衆の間に行はれ、それが最近になつてこちたき石塔制度に改まつたのである。斯ういふ問題には、今ある嚴格なる單獨立證法は役に立たない。文書は元から少なく又早く亡失して、殘つたものゝ代表力はいよ／＼覺束なくなるからである。繪卷物の多くを展觀して、結び燈臺といふ類の畫を集めて、日本燈火史といふやうな本を書いた人もきつと失敗する。何となれば其中には、今でも山村に傳はつて居る松焚きの石皿を見落し、又爐の火だけで顔を見合つて居た者の生活を忘れて居るからである。

　史學の如く由緒のある大きな學問、又是ほど多く事功を爲し遂げて來たものに、今更らしく辯護などは無用である。(28)私たちが一ばん片腹痛く思ふことは、歴史は時代を動かすほどの偉大な人物、又世相を一變せしめる位の樞要なる事件を、出來るだけ精確に傳へればそれでよいので、其他の項末な社會事象は、手を着けるにも及ばぬといふ説である。是は假に否然らずといふ反對説が克つた場合に、そんならと謂つて取出す第二の手段があつたときに、始めて男らしく聞える説であつて、現在の如きはさうであつても無くても、先づ此部分より他には明らかにする事は出來ないのである。時代が人によつて動くのやら、社會の面貌が事變と共に果して改まつたのやら、それすらも我々は立證せられた樣な氣がしない。又問題の何れが小さく何れが大きいかは、現在に於てもさう簡單には決しられない。況んや曾ては小さくして後世何物よりも重要になつた例は、未來はさし置いても我々は既に十二分に實驗して居るのである。出來ない事は出來ぬと言ふがよろしく、又人が可能の如く希望して居るものを打毀すにも及ばぬ。私たちにはそんな大小を測る尺度などは無いが、兎に角に今日史學の領分と目せられて居る過去の人生に就て、誰かが疑ふかも知れぬことは皆答へられるやうに、なつてしまはなければ完成で無いと思つてゐる。さうしてそれに行く途のたつた一つが、假に日本民俗學の名を以て、此頃漸く成立たうとして居る一系統の知識なのである。或は之を補助學と謂つた人もあるが、其資格はどうあつてもよい。補助學といふ語は史學だけには少しばかり用法が變つて居て、時としては頭と額との堺を論ずるやうな嫌ひもあるが、結局は今日通用の方法だけでは今の時代の史心に應ずるには足りなくなつたといふことが、認められたのを以て滿足すべきである。

　史料採擇の範圍は現實に既に擴められて居る。史家は?々記録無き區域に口を出し、又現代に對する過去の支配力を、綜括的に主張しようとして居る。さうすれば疑問は新たに起るにきまつて居るのである。此兆候は我々の手を?にして欣び迎へる所であるが、之に伴なふ一つの懸念、殊に過渡期に在つて警戒しなければならぬことは、前に私の述べた單獨立證法の餘弊である。古人が意識して後代に語りかけた記録ならば、信ずべきか否かを判ずるのは造作は無い。一つの旁證が無くとも正史は即ち正しく、假初にも之を訝らうとすれば、莫大の辯證を要するのである。之に(29)反して記録は記録でも、一つの採集記録はその一つの事實しか表明して居ない。其點に何の誤りは無くても、正確の範圍は知れたものである。ところが近頃の縣史郡誌の、上代史の詳しいことはどうだ。あの連中は單に或地に土器の破片が落ちて居たといふ類の事實を以て、所謂有史以前の社會を報告したものゝ如く見たがるのである。是と同樣なことはずつと其以前から、偶然記録に就ても行はれて居る。本來は僅かに斯ういふ事も時にはあつたらしいといふ迄の一節を、意外な古書の中から發見した者は、うれし紛れか大抵は其書證を濫用しようとする。是は無學の者が呪文を尊奉したのと、五十歩百歩の思ひちがひで、つまりは昔時筆札の無上に有難かつた時代の遺風を取傳へて居るのである。是をさういふ事實の全國普通であつた證據に、使ふといふのが既に甚だ覺束ない。況んや所謂記録初見を以て、發端起原の如く説くに至つては、幾ら先例があつても無茶な仕事である。

　しかも此弊害は史料の博捜が、進むに從つて愈々加はるべき虞れがある。我々の民間傳承などは、採集が今尚全日本の三が一にも及ばず、興味は狹く偏より、記述は必ずしも精細で無いにも拘らず、早くも其一片を採つて古史を論斷しようとする者を生じて居る。此態度を愼み避けない以上は、民俗學を以て無責任なひやかしの隨筆の如く、批評する者を制することが出來ぬと思つて居るが、是にも一方に外部からの期待、殊に史料の乏しい地方又は問題に入つて行く歴史家の、所謂故老の説に聽かうとした態度が、幾分かこの無益の暗示を誘導した嫌ひはあつたのである。彼等は我々の記憶經驗を目して、齊東野人の語だの蒭蕘の言だのと輕しめて置きながら、自分に都合がよい時のみは、以て史書の闕を補ふべしなどと、無造作にたつた一つの口碑を採用して居る。そんなことをするから國史の知識は紛亂するのである。最近に東西數十箇所の郷土に、同時に出現して居る長慶天皇の御遺跡などは、誠によい見せしめであつた。私は是が歴史の大きい問題か否かは知らない。たゞ少なくとも土地に居て之を否認しようとすれば、忽ち郷土愛の缺乏を難ぜられ、事によるともつと大きな不道德のやうにも言はうとする。後世の人はきつと笑ふであらう。如何にもさういふ貴い御方の、御在所と知りつゝ之を無視するのはけしからぬであらうが、さうでは無いといふこと(30)が何で惡いか、實際又其樣に數多く、御所や御陵のあるわけは無いから、つまり國民の全部はどこかでさうした否認を是非しなければならぬのである。私などの見る所では、この多數の自稱聖跡の競立、即ち同種傳説の併存といふことほど、興味の深い現象は無く、是を相持して讓らぬ土地人の感情の如きも、必ず其原由を前代にもつて居る、未だ討究せられざる社會事實である。是が何物かに對する大切なる史料で無い筈は無いのだが、一國の全史しか説かうとせぬ學者までが、未だ之を利用した跡は無いのである。比較によらなければこの史料の本質が判らぬ爲かと思ふ。信州の天龍川流域には、明治の初期から大いに問題になつて居る尹良親王御舊蹟なるものがある。南朝の御系圖にさういふ方の名は無いのだけれども、浪合記の一書があつて此事を書き記し、南境波合村の某寺にある古塚が、ほゞ其墓所ときまつて碑が建ち保存せられて居る。この史實の存否は、專ら浪合記が僞書で無いか否かによつて決する。その事件があつたといふ時から二百數十年の後に、美濃の南部に於て發見したといふ書であるが、それよりも心もとないのは其後の異本が多く、本毎に内容の可なり肝要な點が違つて居る。土地に今ある一本は文化年間に持つて來たもので、是が今日の傳説の所據となつて居るが、舊記は素より區々である上に、別に地方の住民の口で傳へて居るものも、亦到底是と一致しない。第一には皇子陣歿の日といふものが二通り、場所に就ても色々の主張がある。第二にはこの一篇の哀史の主題歌ともいふべき一首の吟詠、

といふのを、普通には御辭世の樣に傳へて居るに反して、此一本のみは後に今一度、親王の御子良王君同じ土地に來て同じ野武士の倅どもと合戰し、此時は安全に三河から尾張の津島へ落ちられた。其際忠死をした桃井某といふ武士の腹切るときに詠んだ歌となつて居る。此點が可なり不審であるが、それよりも更に目につくのは、尹良王といふ名前である。浪合記以前には此文字は無かつた。土地では今以て一人殘らずユキヨシ樣と稱して、大小の傳説はすべてユキヨシ樣に附いて居る。ところが南朝の皇子の良はナガと訓むことがわかつて來てから、歴史にしようとする人が(31)タダナガなどと謂つて居る樣だが、さうなると土地には全く縁の無い名稱になつてしまひ、別にユキヨシ樣の御陰に猫が蚤に苦しまず、又は草鞋を差上げなかつた罰によつて、代々足を病む家があるといふ類の口碑のみが、又再び浮遊することになるのである。大河原山村の舊記には、行義は足利直義の庶子で、母と共に此地に住んで居て、後に仇家の爲に害せられたといふ傳へもあつた。南朝王孫の物語が時を得れば、是は勿論片隅に押込められるが、ユキヨシは本來此山間の通路の處々に祀られて居た神の名かと思はれて、今でも浪合記の覆ひ得ない東筑摩郡あたりの三州街道にも、ユキヨシと稱する地名が分布して居る。渡合はもと／＼斯ういふ名の神を祭るのに、最も似つかはしい谿通りの小盆地であつた。山合ひに似合はぬ地名がもとゝなつて、右に擧げたやうな手筒な歌の生れたのが、あの物語よりは今一段と古かつたのだが、世良田桃井氏の昔を慕ふ海道の舊家どもが、爭うて自分の祖先の名を、王子の隨從者の中に見出さうとしたことが、僅かの期間に澤山の異傳を簇發せしめた原因かと私は思つて居る。

　この尹良親王の問題を論定するには、是だけの簡單な文句では不十分なことは判つて居るが、それは私の志す所では無い。是で説明したいのは傳説の固有名詞が、時代の國史知識より前に出來たもので無いといふことである。平家や義經記が一通り普及してからでなければ、不意に牛若とか辨慶とか謂つたところで、何等の印象をも住民には與へないだらう。しかも斯ういふ書物の學問は、醫者とか寺の僧とか又旅人とか、一部の者だけが先づ具へて居て、外部から教へなければ村の者は知らない。傳説がもし此時始めて出來たのでなければ、以前はある一人の貴い都の御方がとか、何でも非常に法力のすぐれた坊樣がとかいふ形を以て、信じて居た時代が有るに相違ない。それを弘法大師より外にそんな高僧はあり得ないとか、此土地ならば日本武尊がお出でになつたのだらうとか、謂つて聽かせたものは歴史家でなければならぬ。それに反對すべき理由はまだ一つもなかつたのみならず、時代や人名がはつきりとして來たことを、悦ばぬ者は、恐らく一人も無かつたのである。即ち傳説は大昔以來、いつでも些しづゝ歴史化する自然の傾向をもつて居たのである。其中でも越後東蒲原の山中の古墳は、多分木地挽き等の首唱で、高倉天皇の御陵といふ(32)ことになつてゐたのが、後に地方の學者が干與して、高倉宮以仁王の御墓としたなどは合理化に近い。陸前田邑の白鳥社古傳は、神主が京都に頼んで作成した縁起には、日本武尊の御事跡に改まつて居るが、社僧側は尚久しく用明天皇説を固執して居ると、封内風土記には録してある。無論前者の方が正しい樣に見えるが、しかも此地方に美しい王妃と御子の話、ことに山路の笛の竹の遺跡が記憶せられて居る限りは、此合理化は成功で無い。用明天皇は御在世が短かかつたにも拘らず、賢き太子の御父といふ點から、西は豐後にも又周防にも行幸なされたやうに傳へられ、東北にも處々に此物語は流布して居る。要點は土地に稀世の美女があり、召されて宮中に仕へて王子を生むといふ部分にあつたのである。鹿角の小豆澤の五社王子を始めとし、奧州では通例母子のみ土地に留つて、永く神として齋はれたことになつて居るのだが、所在が僻遠であるだけに、至尊流寓の記録を確立することが寔に難かつたのである。越前は謠曲の花筐以來、幸ひに大迹皇子の潜邸の日に託するを得たのだが、土佐と大隅薩摩の南の海岸に天智天皇を祀つて、茲に木丸殿の聖跡を打立てんとして居るなどは、隣國の者には合點の行かぬことだつたらう。上總望陀地方の弘文天皇御遺蹤は、近頃の新説ながら、實はまだ國民の同情の上に、少分の支持を期待することが出來たかも知れぬ。三河その他の華山天皇の口碑なども、御讓位の後の歳月が永かつたから、まださういふ想像の餘地があつたらうと思ふが、更に數歩を進めて宇多天皇を美濃に、孝謙天皇を甲州の奈良田に、文武天皇を東海道の田舍に、安閑天皇を國々の山奧に、迎へ奉らんとするやうな郷土史は、國史の教育がいつ迄も之を賛翼して行かう筈は無いのである。多くの地方學者の主張の根據には、たしかに若干の同種事實の無識と比較の不足とがあり、又單獨立證主義の餘弊がある。それよりも更に缺けて居ることは、自分のたゞ一つの場合を除く外、他は悉く虚誕妄想、愚にもつかぬ拵へごとゝ見縊つてかゝることである。誤解にもせよ其土地では皆信じて居る。その割據的確信といふ事實の全國に亙つた一致が、何等の意味を持たぬわけが無い。獨り海内擧つての皇室に對する渇仰が、古來連綿として絶えなかつたといふのみでない。地方の信仰は一樣に、その長者の家のまな娘によつて、遠く現はれたまふ顯つ神を款待し、且つ永く其光榮と

　歴史と信仰との交渉といふことは、假初にも國史の教育の爲に働かうとする者の、思ひを潜めずには居られぬ重要な先決問題である。史學は大昔とても決して宗教ではなかつたが、其知識を掬む泉は偶然に下に行き通うて居た。村の長老の賢明なる者ですら、既に色々の大切な古い事を知つて居る。ましてや神樣ならば必ず尚一段と遠い過去の事を、知り悉して居られるに相違ない。人が好意を以て一門子弟の爲に、告げ教へるものが精確ならば、神の言葉は更にそれ以上に誤りの無いものでなければならぬ。斯ういふ樣な信頼は今の我々には往々にして缺けて居る。神の御言葉はモーゼが沙漠の聲に聽いたやうな例もあるが、我邦では主として靈媒を介して居た。だから冷かなる批判の眼から見れば、巫覡の夢みた事が嚴正なる史實と、交錯して編をなすとも解せられるのである。我々が古事記傳著者の態度に感激させられるのは、未だ曾て久米邦武氏等の如く、史文は寓言であり暗示であるとして、その背後に隱約するものを掬むべしとは教へなかつたことである。漢心を以て舊書を讀むなと本居翁は戒めた。古事はその記された通りの事が、まさしく有つたものと解するの他は無いと、嚴然と言ひ切つて居る。昭和の世になつても、國中を廣く?めたら、さう信じて居る人を見出すことはさして困難であるまい。只是までの推理法と自然の知識とによつて、もしも腹の底から古記の或部分を其まゝに承け得ない場合に、果してどういふ心掛けを持つのが正しいかを、問題とするばかりである。私一個としては記録の當時、しか信じて疑はなかつた者があつたといふことが、何よりも大切な事實だ(34)と思つて居る。それが或形態を以て出現し、且つ千餘年の久しきを經て、傳へて今日に至つたことが、更に第二のもつと重要なる史料だと言つてもよいかも知れぬ。單に筆者の公明なる意圖を詳かにするだけで無く、之によつて讀者受教育者の過去をも推測することが出來るからである。此點にかけては現在各地に分布する傳説も變る所は無い。史料は結局古いから尊いのでは無く、現に目前の事實として存在するが故に、是に由つて生きた我々の問題が解釋せられるのである。是を觀察と名づけはた實驗と呼んでも、用語法は誤つて居らぬと思ふ。この現實の觀察を進めて行くと、我々の千代の古道の、頗る紆餘曲折を極めたものであることを見出すであらう。一つの珍しい國柄としては、神に託を受けて神話を宣するの任務が、往々に定まつた或家の女性に相續せられて居たことである。家は他の原因からも盛え又は衰へる。さうして是が活計の主たるたつきになると、無意識にもせよ少しづゝは世に媚びざるを得なくなるのである。たとへば伊勢で天鈿女命と猿田彦との婚姻によつて、始まつたといふ宇治土公氏、その同族で女を主にしたらしき猿女君氏などは、幾分かその語りごとに滑稽可笑の分子が多過ぎた。是が後々地方に分散して行くと、次第に其方面に潤色する所が多くなり、歴史は少しづゝ文藝化せざるを得なかつたかと思はれる。一つの混亂は聽く者が素朴で、この語りの全部を過去の眞實と解し、一方語る者は技術として之を練修し又傳受する場合に起る。我々の中古の傳説が、大體に民衆のさうであれかしと望んで居る通りに展開しつゝ、しかも歴史として土地の者に信ぜられて居た原因は、言はゞ職業的傳承者の巡歴生活、即ち智能のやゝ異なる者との接觸に在つたらしいのである。

　諸國の大社靈場の起り、又は是とその近くの名門との關係などに就て、語り傳へて居る昔語に驚くほどの一致があるのも同じ事情からで、單なる模倣とはいふことが出來ない。たとへば貴き御血筋の若御子を迎へ申して、土地を拓き事業を起したといふ歴史の如きは、神代以來ともいふべき斯邦の最も誇らしい普通であつて、渡來の外國宗教までが、其例を襲はずには居られなかつた。越前に金碗皇子、但馬に表米親王の來住を説く如く、出羽の三山に蜂子王子、攝津の勝尾寺に開成太子等、皇子皇女を以て開祖と傳へて居るものは至つて多く、時衆や空也派のやうな民間の念佛(35)團までが、尚且つ皇族の來つて參加せられた事跡を主張して居る。獨り盲人や轆轤師の文書が、雨夜尊又小野宮の御名を、借りて居るだけでは無いのである。しかし此類の簡單な由緒書ならば、作者が方便を認める人々であるだけに、虚構とも假託とも疑ふ餘地はあるだらうが、神社と是に仕ふる家々の所傳に至つては、多くは又一段と複雜になつて居て、大抵はその貴人を繞つて優雅なる一場の戀物語が展開して居る。今日もてはやされて居る大衆小説の如きも、何かといふと英雄と佳人で、殆と皆其フォルミュールを是から採つて居るのである。私はこの歴史の文藝化の、踏固められたる路とも名づくべきものを、前代女性が神語に參與した名殘だらうと思つて居る。其形式は煎じつめると、僅かに三種か四種を出でない。その一つは立烏帽子もしくは葛の葉式ともいふべきもので、人間の男の勇武又は秀麗なる者に、靈界の女性の來り昵ぶものであるが、此分だけは或は別系統として取扱ふ方がよいかも知れぬ。其他の殆とすべては舞ふ者は人間の清き乙女であり、是に戀ひ慕はるゝ相手方は、必ず旅人にして又素性を包み隱した貴人といふ形になつてゐる。それに少しづゝの趣向と模樣替へをしたものが、近代の淨瑠璃の册子であつたと同じく、一方に物々しい記録知識の衣裳を着せかけたものが、即ち信州波合などの合戰記であつたかも知れぬのである。少なくとも竹の園生の御末であつたことを説くものは、力を此點に注いで他の部分は省略するが、其他は八幡太郎であれ利仁將軍であれ、多くは行途に戀をして、その別離の悲みを詞曲の上に留めて居る。其中には大磯の虎や靜御前のやうに、泣いてすご／＼と故郷に還つたといふもあり、又は會津の皆鶴姫の如く、狂うて淵沼に身を投げたといふのもあるが、その全體に通じたものは切なる思慕であり、又歡喜の日の追憶であつた。能の多くの物狂ひの舞などは、此感情を手ぶり足取りによつて傳へ、一方傳説はたゞ其事件の輸廓を記憶し且つ信ずるのみであるが、二つの者の傳ふる所は、固有名詞に於てちがひ、實質に於て往々一致して居る。以前神の祭の日に昔を語つた者が女性であり、其方法が又發達して止まざる技藝で無かつたならば、斯ういふ奇異なる根本の共通を、現在まで持ち運んで來ることは出來なかつたらうと思ふ。歴史がいつとなく小説になつて行く傾き、又は面白く興あるものを歴史として信じたがる癖は、全く(36)之に對する大衆の史心の立ちおくれに基づいて居る。それに加ふるに名を靈界の指導に託しつゝ、努力して現世人の悦び聽かうとする方角に、敍説を詳かにした人々が居たのである。正面の史料の片より且つ乏しく、辛苦して稍々間接の事實の中から、各自の知りたいことを綜合しなければならぬのも復已むを得ない。此樣な?態は或は今暫くは續くのでは無いかと思ふ。たとへば信仰を溝渠としての、文藝の横溢は堰き留め得たにしても、時の政治が文化の全面を蔽ひ包んで居るといふ樣な考へ方を、たゞの人民にも抱く者が尚多く、何か事があれば政府を鞭韃し、又は其功績を謳歌する。斯ういふ空氣の間に出來上る教科書と、若者等の好奇心とは喰ひちがふことが毎度であらう。單に記録を内容によつて受入れてよいものと否とに分類する以上に、進んで第二次の利用方法、即ちさういふ歴史のみを選んで、此世に供與しようとした動機なり事情なりを、亦一つの現在事實として、觀察する風を養つて置くがよいと思ふ。

　此問題はもう少し詳しく説いて見たいのだが、さきを急ぐので長くなることを避ける。私の言はうとしたのは、傳説の内容如何よりも、それが今日のやうに歴史の根柢を搖がすに至つた事情の方が、重要な意味を持つて居るらしいといふことである。國史と民俗學とは、現在の所では二筋別々の途を歩んで居る。是によつて我々の學ぶことも異なり、方法と働き手も共に左右に對立して居る。しかし幸ひにして私たちの信ずる樣に、雙方が共に成長して行く學問であつたならば、彼岸の到達境に於ては無論のこと、その途中に於てすらも、斯ういふ疎遠の?態をいつ迄も續けるわけには行くまいと思ふ。一方の教へ方も、既に新たなる不審を促すやうに仕向けられて居るが、他の一方の新しい書外史料に至つては、もと／＼疑問と好奇心とだけから、誘導せられて起つたと言つてもよい調査なのである。假に謙遜して卑近と平凡との間に、その行動の範圍を限るにしても尚幾度と無く前代の側面觀察の旁證によつて、今の假(37)定の當れりや否やを、檢定すべき必要を生ずるのである。而うして何人も即座に心づく一事は、是ほど豐富を通り越して居る日本の文獻が、よくも／＼思ひ切つて其記述を中堅の至つて小さな區劃に集注し、其他の廣い世の中には眼をつぶり耳を押へて居られたといふことである。その顯著なる事實の原由を、尋ねて見ようとせぬ者は無いのが當り前である。史學そのものゝ今日の　　状を呈するに至つた歴史が、内では格別の問題とならず、却つて門外漢どもの大いなる疑ひの種となつたのは此理由からである。

　關東では水戸黄門、西では備前の新太郎少將の逸事として、本に誌されて居る作り話が一つある。むかし或田舍の男が親を殺した。召捕へて鞠問すると、昂然として罪に伏しない。自分の親を自分で殺すのが何故に惡いかと謂つた。そこで暫く刑を延期して、獄中で大學とか孝經とかを三年教へた。さうすると始めて飜然として開悟して、自分から進んで甘んじて刑を受けたといふのである。斯ういふ書物の記事は傳説よりも害がひどい。何となれば何人も信じ得ざることを傳へるからである。王仁阿直岐の歸化以前は固より、眼に一丁字無しといふ者は近世までもあつた。經書の講説を聽かぬ爲に、稀にも此樣な物騷な人生觀を抱く者が出るとすると、社會が今日迄存續した道理は無いのである。しかし假にも信じようとする人があればこそ噂は生れて來る。このべら棒な話は論外としても、大體に道德が書卷と共に舶載せられたものゝ如く考へることは、國語を更改し過ぎた國の常弊であつた。漢字使用に先だつ我々の心意用語は埋没して居る。その或ものは夙に忘却し、又他の多くは茫漠として未だ分化して居なかつたらしいことは、古典の傍訓などを見ても察せられるが、しかも斯邦の住民のやうに、批判の嚴しかつた律儀者も少ないのである。外から來る未知の者には概括的の不信用があり、群に屬する者は内側の耳目によつて、終始その行動を制御せられる風は、今とても實はまだ窮屈と言つてよい位である。其規律のすべて正しいか否かは別として、是が道德で無かつた氣遣ひは無い。つまりは互ひに内に在るものを感じ合つて居た爲に、是を言葉に表はす必要が少なく、必ず二つづゝ繋がつた漢字を以て言はうとすると、却つて當らぬ場合が多いのを感ずるのである。五の數八の排列を以て方式的に、(38)一切の倫理の約束を説き盡す習はしこそは、却つて若干の古來有つたものを脱落せしめる。文筆を通して是非とも過去を學ばなければならぬときめたことは、或は一部の貴重なるものを無視するの結果に、歸するかも知れぬ懸念がある。堂々たる最近の精神文化研究熱に、全部の史學者が感染してしまふことは、私たちには一向有難いことでは無い。所謂舊弊な無學な連中の、まだ少しでも殘つて居る土地で、古風な雷同附和がなほ傍觀者の眉顰めさせて居るうちに、寧ろ我々は急いで今までの經過を、文字以外の痕跡から尋ね出す必要を認めるのである。都會は以前の市《いち》の大きくなつたもので、今以て冷淡なる異郷人の臨時の集合處たる?態を拔けきれないが、村落の結合には薄れつゝもまだ古いセメントが殘つて居る。大體に今は家庭の生活の要求が強く主張せられ、學校は久しく一國民としての教育に力を專らにし、この兩者の中間に在る郷黨の同化力は、支持者が弱つて衰へて行く姿はあるが、それでも古い生活樣式の續いて居る部分、たとへば配偶の選定とか、是に伴なふ家と家との新たなる提携とかに際しては、可なり明確に昔の制裁を保存して居る。我々の先祖が正しき人、乃至は尋常なよい息子などと謂つて、期待しもしくは忍耐した限度や如何。素より土地限りの偏見もまじり、又時勢の推移も少しづゝは有つたらうが、斯樣な空漠たる言葉でも通ずる以上は、兼ての合意が仲間には必ず有つた筈である。記録に是を解明するものが丸で無いとすれば、實地に當つて之を知るの他には、知らずに居るといふやせ我慢が、たつた一つの殘された途である。

　私たちの郷土研究は、此種の觀察の機會を出來るだけ多くし、調査を有效ならしめよう爲の分業であつて、異種の民族に探險する殊俗誌と、辨別せらるべき分界も茲に在ると同樣に、一つ國内でも、平生の用語をちがへて居る者が、ともすれば見落し捉へそこなふべき要點を、たゞ同郷住民の相互の感覺によつて會得しようといふのである。それが最後に於て綜合せられ又比較せられなければ、一般の知識とならぬのは言ふ迄も無い。個々の郷土が自分だけの收穫によつて、自ら養ふことは先づ覺束ないのだが、さういふ早合點が多いので困つて居る。しかし其中でも資料によつては、今はもう蒐集が稍々積り、各地協力して若干の難問題の解決に進まうとして來て居る。村の道德の支持推進の(39)方法なども、或はその一つに算へることが出來るのでは無いかと思ふ。是も正面からの探求は概ね徒勞であり、又時には生物識りの獨斷によつて、誤まられる危險さへあるのであるが、幸ひにも人は日常不用意の言葉の裡に、幾らとも無く親代々の切なる感情を取傳へて居る。歌謠その他の民間文藝の、多くの聽衆と暗記者とを持つて居るものは、それ自身が自然の共鳴者を集めるまでに、巧みに言ひ現はされて居る證據と認めてよい。是にも理が詰むとか情が映るとかいふ類の、當らぬ漢語を以て讃歎する者が出來て居るが、其實は萬人の言はんとして能はざりし心理を、最も適切に表白した言葉が行はれるのである。さういふ中でも郷黨教育の動機の、殊に著しく窺はるゝのは諺、日本で通例「たとへごと」と謂つて居るものであらう。私などの意見では、この文藝の初期の用途は、武器と併用して敵を攻むる手段であり、近世に入つては人を説く術となり、もしくは單なる暗記の便にも供せられて居るが、さうなつて來る段階には可なり久しい期間、是を部内の教育具として、盛んに利用した時代が介在するのである。我々の同胞民族の一つの特色は、笑ひといふものゝ最も古風な機能を、毎日の生活に體驗して居たことであつた。既に多數の學者が説き立てゝ居る通り、笑ひは笑ふ者に取つては權利であり、又一種の快樂でもあるが、たゞ其原因になつた一人だけには、何の面白くも無いばかりか、大抵の場合には苦痛をさへ與へる。赤兒が人の高笑ひの聲を聽いて、何のかゝはりも無いのに啼き出すのを見てもわかる樣に、本來は是が優者の勝ち誇つた威壓の聲であつた故に、他の一方の笑ひ得ぬ者を劫かすらしいのである。敵陣に對して此聲を擧げなくなつてから、仲間の批評に之を利用する風が普及した。殊に多數が氣を揃へて共に笑ふときに、孤獨なる一人の笑はれて居る苦しみは、少なくとも村里の生活に在つては、武器の打撃にも超ゆるものがあつたやうに思はれる。我々の熟知して居る多數のたとへごとが、啻に機智に富みたる短句形を以て印象を強め、絮々の談義を節約するだけで無く、更に突然な比較や口拍子によつて、聽く者の笑ひを催さずには止むまいとして居るのは、恐らくは一種の意識したる訓誡法であつた。勿論之を利用する群の長者などの、根本の動機は親切であり、又個人に向つてはすこし殘忍のやうでもあるが、一度其場に在つて聽き且つ笑つた者は、(40)備さに其始末を經驗して、自分だけは他日その不愉快な役割を避けるやうに警戒したであらうことは疑ひが無い。即ち一つ／＼の妥當なる倫理用語は設けられずとも、爲すべく爲すべからざることの學習には十分であつた。俚諺の演奏者が普通には故老中老であり、聽いて笑つたり笑はれたりする者が、主として未婚の男女であることを考へると、是は最も重要なる口頭傳承の一つであつた。若者たちは是を當座の修養とした上に、更に暗記によつて又次の代に其術を施して來たのである。意外な發見は尚續くであらうが、現在集まつて居る田舍のたとへごとも、もう大分の數になつて居る。其中には單なる諧謔、もしくは知識の保存のみに設けられた諺もあるが、それ等を除いて殘りを分類して見ると、大よそ我々が共に住み、共に働く人々の態度行爲に、如何なるものを望み又如何なるものを忌んだかゞ略々窺はれる。時代が少しづゝ細則を附け添へて來たことも、用語句形の上からわかると共に、又一方には全日本の隅々にかけて、さう著しい地方差も無く、共通した項目の多いといふことは心強い。人を殺すな盗をするなといふ類の、大きな箇條の無いのも不思議で無い。大體に毎日の課程として、嘲り憎まれるのは骨惜みと身勝手、臆病や間拔けが口汚なく笑はれて居るが、是も反面から役割は精確に、機敏で注意深くて衆の爲に身を勞し、勇敢に任務を斷行し得る者を、よき若者と認めて居たことを推測せしめるのである。その有力なる實地の資料も未だ省みられぬうちに、下品と謂つて排除せられる世になつてしまつた。曾て「目くそが鼻くそを笑ふ」といふ諺を、議會で使つて懲罰にかかつた議員もある。斯ういふ事實までが私等にとつては、今なほ感慨の多い國史の跡である。

　我々の道德に通當な唐樣の名が無いといふことは、囘顧の遠望を妨げる不便はあるが耻がましいことでは決してない。寧ろ中世に招じ入れた外國語の範疇から、何一つ喰み出すものが無かつたらをかしいのである。それよりも更に(41)用心を要することは、自分で勝手に當らぬ漢名を附けて置きながら、後に却つて其字義に拘泥し、本來具有のものゝ理解に迷はねばならぬことである。人情といふ語は和製では無いが、向ふでも用法が時々かはり、又我々の意味とも一致しては居ないやうに思はれる。近來の文章では外國文の影響から、又新たなる内容が加はつて、愈々誤解の種にならうとして居るらしいが、口の日本語としてはまだ全國一樣に、略々以前からの心持ちを保存して居る。是がどうして何時頃から日本には生れ、又何に由つて永くその活力を支へて居るかといふ問題は、專らその實質に就て答へらるべきものである。我々の人情は義理と連繋して唱へられることが多い。或は一方の如く強い迫力が無く、義理には固いと謂ひ人情には篤いといふだけの、程度の差が有るのかも知れぬが、現に不人情といふ背反を責むる語もある以上は、趣味とか傾向とかいふ一方の自由になる行爲では無くて、弱いながらも拘束力のある法則であつた。義理は今日ではもう漢語の「義」といふものと、全く同じい樣に思ふ者が多くなつて居る。果して最初から其通りであつたかどうか。日本にこの言葉が確定した時から、始めて認められた道德では無いにきまつて居るが、以前もやはり其限界を「義」と同じくして居たらうか、容易に然りとは答へられぬ問題である。是が現代社會の可なり有力な指導力であることを考へると、その成立ちは一篇の記事本末體の歴史を煩はすだけの價値がある。さうして其記録は偶然のものすらまだ無いのである。

　言語現象の觀察は、斯ういふ場合に臨んで缺くべからざるものになつて來る。物識りに考へて物を言はせたら、定めし勝手なことを言ふだらうが、それは感想であつて證據では無い。今まで日本人がどういふ意味に、この二つの語を使つて居たかは、何と言つても現實の用例を比べて見るの他は無い。中には新しい氣持で使ふ人もあらうが、少なくとも一部は昔ながらの、義理人情をさして居るだらうし、それにも推移の段階が現はれて居ることゝ思ふ。東京は此語の本場の一つであつたやうで、今でもやたらに使ふ人が居るから、比較の便宜は手近に有る。私などの實驗では、大體に人が自然の情感を矯めて、自らを指揮して別の道を行くときに、義理といふ語がよく用ゐられて居る。最も卑(42)近な例は喪を弔ふこと、人の憂ひを慰めに行くこと、もしくは生計を割いて贈遺をすることなどの、社會上の義務ともいふべきものを意味し、いやだけれどもの前書きを持つた義理は多い。單なる道德律とも解し難く、一つの制度のやうにも見られるのである。支那でも「義」といふ語には自然で無いもの、勉強して從事するといふ意味はあるらしいが、それと仁義禮智信の義との關係は、我々素人にはちよつと判明しない。我々の間に最も多く使はれるのは義理の兄弟、義理の親子といふ變つた形容語だが、是は今日では婚姻によつて出來るものに、ほゞ限られようとして居る。以前は此以外にもまだ色々の義父義兄弟が我邦にはあつたのだが、その根本の慣行が土地によつて既に消滅したのである。中古以來の家々の系圖に、猶子といふ名目は多く見え、養子も今いふ聟養子もしくは一跡ともいふ跡取養子の他に、單に數ある子の列にさし加へるといふだけのがあつて、現民法はもう之を認めて居ないが、地方には戸籍とは没交渉に、今もなほ持續して居る例が頗る多種である。義理の親子といふ名はもうあまり使はぬが、この兩者の間に必ず存在するものは義理である。義理そのものゝ本源を究めるのに、此慣習の今ある形を、集めて比較することを怠るわけに行かない。私は近頃になつてから、少しづゝ其種類を拾つて見て居るが、現に知られて居るだけでも相應な數に達して居る。義理の親の最も重要なものは、今でも元服の年頃になつて、生みの親が我子の爲に之を選定するのを例とする。烏帽子親の名は稀に殘るのみで、多くは之に代るにフンドシ親、又はヘコ親等の卑近なる名を以てして居る。是は男兒が少年の群を出でゝ若い衆の仲間に入り、其勞力が一人前として計算せられる時で、民法の成年よりも五六年は早く、小學校卒業期が偶然是と一致する。女の方は齒黒めをしなくなつた今日まで、なほ鐵漿親の名を襲用し、是に對してはカナ娘、又は筆娘などの語がある。山梨長野等の諸縣では、其カネ親の意味がもう不明になつたものか、?々ハネ親と言ひかへて、男女兩方ともの親分に用ゐて居る。ハネ親の役目の主たるものは、婚禮の席に列することであり、從つて又其式の日に近づいて之を決定する者が多い。此點が以前諸大名の嫁入に、わざ／＼將軍の御猶子にして貰つた風習と、偶然とは思はれない共通性があるのである。

(43)　このハネ親は勿論仲人とは別である。媒は昔は必要も無く、有つても甚だ低い役であつた。婚姻が家と家との結合を重視するやうになると、追々成立の困難な場合が多くなつて、仲人親といふ新しい名は起つたらしい。事實橋渡しをして禮を貰ふ者の他に、別にさういふ顔役の引受人が出來て、澁る親たちをも承知させるのである。若者宿や娘宿の制度のなほ行ほれて居る村方では、さういふ任務には宿親が當つて居た。宿親は種々なる義理の親の中でも、最も起原の古い又重要なる親であつたらうと思ふ。宿に朝夕を共にする同輩を、普通には宿兄弟と呼んで居た。家庭では付與することの出來ない教育、ことに眞面目な意味での性教育は、宿を以てその唯一の學校として居た。新入の若者等は、黙つて義理の兄や宿の二親の話を聽いて、次第に配偶の正しい選び方を會得したので、是が婚姻の成立に參與したのも、至つて自然なる管轄といつてよかつた。だから宿親宿子の關係のまだ認められて居る漁村などでは、仲人親は勿論、カネ親ヘコ親なども別に其必要を見なかつたのである。

　是等の親分に對する子分の義理は、今でもかなり嚴密に守られて居る。或は生みの親よりも尚大切だといひ、あの世に行つてから共に住む親だとさへ謂ふ土地がある。それは或は放任して置くと粗略になり勝ちな爲に、特にさういふことを言ひ出したのかも知れぬが、兎に角に表向きの勤めは盆正月節供の禮から、吉凶の報告縁組の相談は申すに及ばず、葬式の供も一俵香奠の贈遺も、すべて實子や娘の聟と、同じことをしないと不義理と言はれる。古風な慣例としては、正月に鏡餅を持つて行く風がある。それを今日は仲人親だけに、由來はわからずになほ續けて居る所も多いのである。私たちが興味を感ずるのは、義理の起りが必ずしも世話を受けた報酬とは限らず、親になつたが爲に世話をするといふ、反對の場合も稀でないことである。たとへば家では子供の育ちが惡い爲に、長壽者の揃つた家を頼んで親になつてもらふ。是も取り親又は養ひ親と謂ふが、實際は育てるので無いから此やしなひは産養ひの意味で、人になつた最初の食物を供すること、即ち乳付け親などと同じ「養ひ」であつたらうと思ふ。或は又棄兒親拾ひ親などと名づけて、兼て打合はせの上で其門に棄てるといふこともある。斯ういふ場合にも親子の縁は結ばれ、親になつ(44)た者は其子の末々を見てやることになつて居る。千葉縣の一部で其拾ひ親を取上げ爺、及び取上げ婆といふのは面白いと思ふ。取上げ婆は通例産婆のことをいふのだが、其取上げも九州で子ずゑと謂ふのを見ると、單に抱き取るといふだけの手輕な意味では無くて、特に生れ兒を人間として存在させること、即ち生存權の支持とでもいふやうな心持があつたのかも知れない。普通の取上げ婆も鏡餅を餉られ、又其子の祝ひ事には招かれる土地がある。わしが居なかつたらあなたは斯うしてはござるまいなどと、冗談のやうにだが威張る婆は今でもあるといふ。名付け親乳付け親と呼ばれる理由も斯うしてもう一度考へて見る必要がある。赤兒に食を與へ又名を與へる行爲も、是を現世と繋ぐ一つの大いなる力であつた故に、親として一生仕へるだけの義理を生じたとも見られるからである。乳兄弟といふ關係は物語にしか今は知られて居らぬが、伊豆の新島には又守トウ守カアといふ親がある。小娘は貧富を問はず、必ずどこかの家の子守になる。兄弟の縁は是によつて結ばれるのみならず、娘の父母も亦嬰兒の親になつて、一生往來し且つよく世話をするといふことである。

　是等の親々が義理としてその子に期待するものは、必ずしも財物勞務の奉仕では無かつた。死ぬ日に枕元に來、野邊に伴して行くだけで無く、婚姻その他の一生の大事にも、同意を求め參列を乞ひに來なかつたら、やはり義理に缺けたことになるのである。固よりそれだけの親しみがある故に、作業の協力や活計の援助も求められたのであらうが、それが目的で結んだ關係で無いことだけはたしかである。日本人の義理の少なくとも一部分は、斯ういふ固有の一つの舊慣の上に打立てられたる約束であつた。他國の經義によつて説明の出來ぬのも已むを得ないことである。オヤに親といふ漢字を宛てたのも古いが、私等から言ふと當つて居たかどうかは疑問である。コといふ單語の古い用法は、弘く一切の勞働する者を包括して居た。ウミの子ウミの親と一々斷わつて居たのを見ると、オヤも骨肉の父母親子以外に、すべての敬《うや》まひ又｜禮《いや》すべき長者を、意味して居た言葉かも知れぬのである。さういふ起原論は用が無いとしても、現在でもまだこの語の延長は廣漠である。政界商界の親分子分などと呼ばるゝものは、是も一面の惰性餘習に過(45)ぎない。古風なヘコ親や拾ひ親は省みられなくなつても、之に代つて色々の、世話を目的とした新しい親は現はれる。命の親といふ語は芝居で聽くだけだが、助け親といふ名は用ゐて居る地方がある。其他仲裁親借金親財政整理親の類、殊に就職親ともいふべきものは重要になつた。それを一々に動機によつて名づけるも事々しい。一括してたゞ親分といふのは自然である。是等の親分は都市には夙く起つた。種々なる長處をもつ異郷人を收容して、それ／”＼に利用した人入れ家業が、侠客となつたのには理由がある。寄り親寄り子といふのが古い名かと思ふが、後にはあまりに宛ても無く多くの子分を抱へる故に、博徒も出れば盗賊も稀には出たのである。自己の門黨に屬せざる多數の人間を、集めて勢力を爲すには親になるより他に方法は無かつた。それを政治に適用したのが現今の選拳であらうと思ふ。義理といふ道德の起りと機能、及び其限界を明瞭にして置かぬ以上は、入費を制限しただけでは選擧は清まるまい。さうして政治は策謀の巣になるだらう。是をしも國史の重要なる問題と見ないで、なほ教育の實際化を説くのは、良心ある史學者の迷惑しなければならぬ、あまりにも古風なる學問の過信である。

　歴史を世を濟ふ學問と見ることは、或は美しい空想であつたかも知れぬ。しかし少なくとも是を迂遠な知識、人の躍進を阻止する懸念がある如く解するのは、あまりにも又現?に拘泥した批評であつて、誰かゞもしも責められなければならぬとすれば、それはさう思はせた人たちが惡いので、史學其ものゝ與り知る所では無いのである。未來の指導は成程その任務ではないが、過去に關する精確な知識を用意せずに、好い思案の浮ぶ筈は無い。もし當つたら無意識のまぐれ當りで、天祐といふより他の安全率は無いのである。國が一體として賢明で無かつた爲に、犯さずともすむ厄難を犯して居たことは、多過ぎる程の例を既に歴史が教へて居る。然らば將來の不幸も我々の努力によつて、愛(46)する子孫の爲に豫め之を防いで遣る望みが、有るといふ結論は導かれる筈である。あらゆる方法は試みられてよいと思ふ。強ひて今迄の傳統的限界を守るべしとするならば、別に埒外に民俗學等を基礎にした新たなる史學の存立を容認することになるのだが、雙方の史料は常に犬牙交錯して居る。處理の手段にも共通のものが多い。自分等は頗る其樣な割據を不利益とする者である。問題は恐らく民衆の疑問、今後起るべき實生活上の課題の増加如何に係つて居ると思ふ。即ち我々のいふ史心の發達であるが、是は教育の自然の效果として、既に顯著に擴大して來た。投げ掛けられたる不審はたまつて居る。單に歴史が與へる學問であつて、未だ答へる學問にはなり切つて居らぬばかりに、暫らく其放置と、權利無き者の勝手放題なる答辯とが、許されて居るといふだけである。代議制度の失敗の如きもよい例の一つであつた。どうも日本には國柄としてうまく行かぬらしいといふ臆説が、内にも外にも起つて居る。國柄であるか否かは歴史以外に、何の知識が之を判斷するだらうか。我々の假説は一つの假説であつても、事實に據つて居る以上は、他人が其當否を判定することも容易である。此の如き試みがくり返されて居るうちに、段々に正しい過去の認識は生れて來ると信ずる。さうして少しでも早く、又少しでも多く物を知つて貰はぬと實際困る。それには此國民の思ひ切りがよ過ぎて、本に無いことは判らぬものと、今まであきらめて居たのがいけなかつたのである。

　人類に有史無史の差別を立てるのは、單に現在の智能の未だ明らめ得ざる區域が殘つて居ることを告白するに過ぎない。しかも其未知を征略して、新たに確實な記録を世に留めたのも、好んで其語を使ふ考古學彼自身であつた。我々の今持つ史書に廣大なる空隙のあることを、始めてはつきりと教へてくれたのは民族誌、即ち私たちが混亂を防ぐ爲に、假に殊俗話と呼んで居るエスノゲラフィーであつた。此學問の起りは稍々古い。會て文筆の惠みを一たびも受けなかつた未開人の生活にも、やはり改革があり變化があつて、其外貌は無事凡庸の裡にも推移して居る。さうしてその若干の異なる環境に在るものを比較することに由つて、甲の現?は即ち乙の昨日の姿であり、或は又丙丁のやゝ遠き過去と近似することを認めるのみならず、飜つて文化の最前線にまで進んだ者の、古い經歴とも共通する點があ(47)るといふことを、明らかに我々は彼から學んだのである。ところが民族の學問には悲しむべき制限があつた。多くの發見は偶然の遭遇に待つべきものであつた。近頃計畫ある探險は漸く着手せられたけれども、是すら豫め導かるゝ所があつて、常に自由なる疑問に應ずることが出來なかつた。一つには領域が餘りにも廣く、機具が未だ整はなかつた爲でもあるが、又一つには是を普通の教育に資するといふが如き、緊迫なる社會の要望が無いからである。是に比べると一國の民俗學などは、問と答へとの距離がよほど近い。今日は互ひに其所在を知らず、いかにも暗中模索をして居る形はあるが、行く／＼資料が整頓せられて、索引によつて事實を知る時が到來したならば、利用は誠に文字通りの御手の物である。勿論是にも國によつての不便はあつて、西歐の國々などは生活の激變が夙く起り、文化の樣式に特徴は乏しくなり、元の姿を探るにも許多の辛苦を要するらしいが、日本では幸ひに觀らるゝ者が共に住み、解説は疑惑をする者の内にすら潜んで居る。今まではたゞ其内省の術を解しなかつただけである。一つの學問の新たに生れるといふことは、或は斯ういふ無形の桎梏を弛める點に於て、老いたる他の一つの永く繁茂するものよりも有力であるだらうと思ふ。

　民俗學の本來の任務は、眼前の社會の生活諸相の中から、特に異色のあるものを抽出して、其來由を究むるに在ると説く人が外國にも有るが、是は俗説辨時代の遺風であつて、やゝ狹隘に失した定義かと思はれる。必ずしも異色は無くとも、見馴れ聞きなれて我人その何が爲に存在するかを考へて見ようとしなかつたものは多い。是とても亦所謂常識以上の原因が前代に存するのである。次に一つ／＼の奇異現象の起りを説明することは、當面の問題に相異なく、それが集り積つて隅々に及ぶならば、自然に外部からの如何なる質疑にも、應答し得る結果にはなるのだが、我々の採訪には遺漏なきを期し難く、知識の須要にも綬急の差等はある。今日世上の最も思ひ惑ひ、且つ耳を欹てゝ聽かんと欲する點が、何れに在るかを知ることによつて、今後の捜索の方向を指示せられ、更に又各自の興味を深めて行くことは、妥協でも屈從でも何でも無い。寧ろ一個の氣まゝな選擇によつて、知り得たものだけを人に強ひんとするの(48)が、學問を物ずきと評せしめ、史的隨筆と嘲らしむる原因ともなるのである。國史は古今を通じて、未だ曾て超世間の學であつたことは無い。是を支持し且つ推進せしめるのは萬人の「義理」である。たま／＼民俗學の研究に携はる者が、幾分か餘計に之を授けることが出來るのみである。此新學が生れてから、人の所行は如何に卑賤輕微のものにも、動機なくして現はれ、理由なくして持續するものは無いといふことが明らかになつた。それが今日の常理で不可解ならば、原因は必ず過去に在り、不明といふことは即ち是から獲得せらるべき未然の知識が、そこに貯へられてあるといふ希望に他ならぬ。その有望なる矛盾は國にも?々見られ、又一村一家のうちにも對立し、靜かに考へて見ると一身の中にさへもある。親しき同胞の爲にする理解は、乃ち又自分に取つての内省である。この久しい年代に亙つた抛擲と輕蔑とを、片端から新知識に化し得るといふ期待が、人生の光明で無くて何であらうか。學問は弘く世の爲に、同時に我身を修むるが爲にするものだといふことは、極東に國する人々の古くからの念願であつた。それを實現するの日が漸くにして到來したのである。史學の成長は歡呼して之を迎へなければならない。

　郷土は其實質に於て故郷郷里、乃至は生れ在所といふ言葉と、格別の相異を持つて居ない。たゞ後者は使用の永い月日に於て、當初豫期しなかつた色々の聯想を蓄積して居るのである。中でも最も露骨な例は、近世始まつた藩閥といふ語などに伴なふものであるが、是は自愛といふ以上に、他のものを押伏せようとするやうな、濁つた感じをさへ伴なひがちであつた。さうで無くともお國自慢、故郷に錦などといふ印象の深い諺が、我とよその人とのけぢめを、往々にして餘りに際立たせて居たのである。ところが「郷土」は新しく起つた言葉だけに、其文字通りに萬人が萬人とも、一つづゝ持つて居るものといふ心持に、使用せられることが出來たのである。ちやうど小兒といふ語がその一(50)般的の可愛さを我々に味ははしめるやうなもので、比べて見るならば無論我兒の方が心を惹くが、さりとてこの數多のいたいけな者を、只何でも無く見過すことは不可能である。この氣持を以て御互ひが、他人の郷土を視る氣になつたのは其頃からであつた。

　郷土藝術といふ名が世上に親しまれたのは、郷土研究よりも又少しばかり前からのことである。是などは確かに誰彼の故郷といふことで無かつた。都市に成長しもしくは新たに外國から引移したものと對立して、我々の田舍の、元からあつたものといふ意味に於て、人は成るだけ弘く其全景を見渡さうとしたのである。それに次いで程無く現はれたのが郷土教育といふ名稱であつた。あの頃の教育家の議論は今でも記憶して居る者が多いが、是は言ひ換へれば教育の實際化、どこの事やら子供には解らぬ地理歴史を暗記させたり、符號同然の博物學を詰込んだりせずに、物に就き場に據つて、各自の一生に入用な知識のみを自得せしめなければならぬといふ趣旨から、學校の周圍を天然の教室とさせようとしたのであつた。其方法が正しいと言はるゝ割に成功をしなかつたのは、指導者の用意が足らぬ爲だとあつて、心有る教員は皆苦慮し始めた。この二つの「郷土」といふ稱へは、或は廣さに於て差等があつたか知れぬが、外に在つて之を説く者の思ふ所は、大よそ一つであつた。この日本が十萬二十萬の小さな郷土の集合に成ることは、判り切つた事實であつたが、實は此時まで氣付かぬ人もあつたのである。

　郷土愛といふ語はもと文藝上の新語である上に、時には寄附金などの爲に之を濫用する奴輩もあつたけれども、是とても以前の偏頗なる執着を、代表するものと迄は考へられなかつた。ちやうど見ず知らずの切なる母性愛が、よその袂を濕ほすに足りたと同じく、人が其生地を慕ふ情は認められたのである。彼等が各自の郷土を理解し、其知識を又後に來る者に引繼がうとすることが、些しでも手前勝手な所業で無いとせられたのは勿論、近年は又進んで之を稍々冷淡であつた者に勸説し、各地心を揃へてこの事業の爲に働くならば、結局は國自體も亦その利益を收め得るかの如く、漠然ながらも信じようとする人の多くなつたことは、前代には曾て見られなかつた一大進歩である。地方誌(51)の調査を政廳が訓諭したり、又は直接手を下して之を試みたりした例は、我邦にも支那にも何度かあつたが、其動機は今と別であつて、一國文華の隆盛を標識する爲で無ければ、單なる行政上の用途からであつた。だから往々にして餘りに實地に近い記述の、領外に洩れ傳はることを忌む者さへあつたのである。今日の郷土研究は之に反して割據では無かつた。とくに明らかにして居なければならぬ生活の?態を、先づ知る必要もあり能力も具はつた者に、明らかに會得せしめようとして居るのである。從つて此氣風は、遍ねく全國に及ばなければ效果が無い。異なる郷土に居る者にも其成績が役に立つて、始めて國家として之を慫慂した意義はあるのである。だからあらゆる郷土研究は、常に相互的のもので無ければならなかつた。然るに今日まだ狹義の郷土史だけが、今なほ案外に分裂孤立して、僅かに其利益を郷人の間のみに分たうとしで居るのである。

　是は近頃の歴史の學風に基づいて居るかと考へられる。今までの歴史は一言でいふと甚だしく傳記的であつた。人でいふならば特殊の偉人豪傑、もしくは十年に一度も起り得ぬやうな大事件を透して、我々に時代の推移を會得させようとした爲に、其記述はいやが上にも綿密で無ければならず、又其史料の採擇は、どこ迄も嚴格且つ決定的で無ければならなかつた。といふことは一つの新事實の發見に因つて、しぱ／＼時代觀の組立てを改める必要を生ずる程に、大いなる重點を個々の事蹟の解説の上に置いて居たのである。可なり明瞭なる三つばかりの結果が、其影響として現はれて居る。一つには歴史を讀む者が、其興味を二三の珍しい事件の劇的展開に傾注すること、是は此學問の社會的用途を立證せんとする人々に取つて、決して感謝すべき現象では無かつた。第二には世の中の要求に應じて、進んで今一段と平凡通常なる事跡を説かうとする者までが、なほ是までの史料の取扱ひ方に倣うて、たつた一つの事實に據つて其他を類推せしめんとする癖である。最も極端な例は風俗の方面などに於て、貴人上流の僅かな記録を引き、輙(52)ち全國も亦此の如しと言ふの類である。終りにもう一つ是も現在はもう普通になつて居るのは、地方の多くの郷土史家が各々その域内の事件大人物を追究して、それを著名ならしむるを以て能事了るとすることである。是などは郷土といふ言葉の起るより、少なくとも千數百年の昔から、個々の部曲が抱いて居た自然の願ひであつて、今更全國が一致して新たに之を開始する必要も無いものであつた。

　郷土史の特長は、素より此方面に求むべきものでは無かつたのである。國の歴史が最初から解説を任務として居たに反して、此方は新たなる疑惑を抱かしめる樣に、豫め準備せられてあつたと言つてもよい。つまりは世が現代となつて初めて開かれるべく、今まで殘されて居た區域である。自然が後世の働き手を手持無沙汰にさせぬ爲に、わざと仕組んで置いたのでは無いかと思ふ事業は、必ずしも學問の方面ばかりでなく、野にも里にも幾つとなく轉がつて居るが、殊に歴史の知識に於ては、この永年の苦しい經驗を積み重ねた後で無いと、人が求める氣になり得ないものが、豐かに過ぎるほど手付かずに保留してあつた。さうして郷土研究の夜明けを待つて居たのである。最近に我々によつて新たに認められたことは、文字の技能が以前或少數の階級、且つ僅かばかりの郷土に住む者の、修養に限られて居たことである。人が自分の見聞した範圍外に、記述の筆をさし伸ばすことの出來ぬのは當然であるが、其上に彼等は(53)記録といふものゝ本來の目途に遵うて、自身書き傳ふるの價値あり、又其必要ありと信じた事實のみを、忠實に選擇して引纏いでくれたのであつた。それが中古の兵亂水火によつて、更に分量を減じたことは別にしても、少なくとも末世の我々が、あの時見て置き又考へて置いて貰ひたかつたと思ふものと、喰ひ違つて居ることだけは疑ひが無い。所謂史料が文字を以て表示したものだけでは足らぬこと、もしくは記録の外にも尚大切な史料があることは、もう大分久しい前から、專門の人が却つて之をよく知つて居たのである。

　歴史は元來或處まで達すれば、それから以上は判らなくなつてしまふのを、當然の性質として認められて居た學問であつた。たとへば太古は?たり矣、得て尋ぬべからずと言ふことは、どんな確かな研究の書にでも書いてあつた。それも強ひて知るべからざるを知るなといふ訓誡によつて、たゞ諦めて居ただけならば、時には不滿を抱く者も出て來たらうが、一般は寧ろ是だけ學んで居ればもう宜しいと心得て、別にそれより多くのものを問ひ求めようとは念じ(54)なかつたのである。好奇心は却つて發見によつて誘導せられて居る。西洋の例でいふと、基督教が歐羅巴の大陸を席卷したのは、我朝の聖德太子の御時よりも遙か後であつたに拘らず、それより以前は何を信じ、何によつて此世を道づけて居たかを、訝る者も無い時代が永く續いて居た。羅馬とそれを教へた希臘や東國の學藝が、僅かづゝ明らかになつた頃を復興期と名づけて居るが、其際は單に學べば學ばるゝといふ大きな望みを、多數の俗衆に鼓吹してくれたことが尊いので、實はそれから此方に何倍か遠い昔、何倍か大きな事蹟が見付かつて居るのである。簡單に神がさうなされたといへば合點し、世界は今から六千年ばかり前に、七日間に作られたと聽いて之を信じた人々に、新たにそれよりも又何萬年と無い古へから、人が住み且つ群を成して活きて居たことを報告する者があつて、彼等の疑惑は勿論多岐にはなつたが、同時に又何故に今ある信仰が弘く行はれ、今ある制度が衆力を以て支ふべきものになつたかを、改めて熱烈に又底深く、究めて見ようといふ者をも生じたのである。

　だから限られて居た歴史の障壁は、先づ向ふ側の古代史の堺から、取拂はれもしくは押擴められることになつたのである。今は何處に行き何種と混淆してしまつたやら、わからぬ樣な古民族の生活が、ぽつ／＼と知れて來たのである。文書記録の類に的確なる所據の無い限り、歴史は説くなかれと言つた古い教訓が、但しを爰には附けなければ濟まぬことになつた。考古學は曾ては史學の補充を旨として居たのが、忽ち得意になつて人を先史無人の地に導かうとするのみならず、更に其方法は新たに生れた人類學にも傳授せられて、頗る此あたりの繩張りを複雜なものとした。さうして國によつては人類の芽生えを以て肝要の主題とし、歴史をイの一番から説き立てることが出來るやうな、骨の折れた野望を抱く者さへ出來て來た。日本でもこの起原論の興味は、相應に深くなつて居るやうである。しかしこの切れ／”＼の地方事實が、果して嚴峻なる近代の證據主義に照して、安全に史料として採り用ゐらるゝに足るか、はた又單なる注意すべきもの、もしくは驚くべく輕んずべからざるものといふに止まるかは、寧ろ門外漢の平心に解決しなければならぬ難問題であつて、それには又一方の史料競立區域、即ち文書古記録を詮として、歴史は完備し得べ(55)しと信ぜられた時代の、書外史料といふものゝ價値如何が大なる參考となるのである。

　其上に尚一つ、神武天皇以後の日本人の事蹟ならば、既に判つて居るといふ豫斷も之を促して居る。何がわかつて居るものか。めい／＼の家でいふならば五代七代前は戒名と俗名ばかり、村でいふならば二百年か百五十年ほど昔に、誰かゞもう居たといふことを知るのみで、甚だ信じ難い傳説すらも、自分等に關するものは無いのが普通である。一言でいふならば郷土史はまた零であつた。國史は一國の最も重要なる事項に就て、二三の記述を存するといふのみを以て、そこに有史以前と以後とを劃しようとしたことが、そも／＼の大きな誤謬であつたのである。我々をして言はしめるならば、別にこの左右に大なる有史以外が有つたのであり、個々の常人から見れば、現に今朝までが有史以前であつたのでは無いか。勿論是は書いた物、文字に著はしたものを歴史とする結果で、人が省みずとも歴史は儼存し且つ進展して居る。しかも一昨年の空の虹の如く、消えて痕形も無く過ぎ去つては居ない。孫が祖父母に似、生き殘る者が友を懷ふやうに、記念は寧ろ永く故地に留まることを努めたのであるが、奈何せん我々は特に此間より獲るもの無しとして、未だ史料の整理法を講究せざる前に、片端から之を忘れて來たのであつた。だから新たなる郷土研究の必要を覺らしむる爲には、先づ其可能性を立證すべく、若干の興味ある發見をして見せなければならない。今日はそれも早無用になつて來たかも知れぬが、兎に角に考古學人類學は先づ榮え、民俗學は後れて尚とぼ／＼と歩いて居るのである。志ある者が一たび其注意を此間題に向けてもよい時期は、今頃になつて漸く到達したのである。

　いはゆる民族學の起りは、必ずしもさう新しいことでは無かつたが、是も最初のうちは遠い處の、どうあらうと格別のことは無いといふ事柄に、うき身をやつして居る道樂のやうに考へられて居た。實は其氣味も多少無いでは無かつた。是が史學と同樣に一國各自の生活の内景を、鏡に向ふ如く窺ひ知らうといふことになつたのは、ごく近い頃の進歩改良に由ると言はうよりも、是からの仕事と言つた方が却つて事實に近いのである。始めて我邦へこの未完成のまゝの新學を持つて來たのは、日本人類學の創立者たち、殊に故坪井先生の忘るべからざる功績であつた。人生を自然の現象の一つと觀るといふことは、可なり修練を要する技能であつたと見えて、まだ其頃までは我々自身の存在は、批判せられるか無視せられるか以外に、單に記述せられたといふものが至つて少なかつた。異民族に就ても長崎見聞の雜書を除けば、僅かに寺島氏の和漢三才圖會が、漢土の古い記録を丸寫しにしたのを見る位のものであつた。是が始めて世界地圖の各部分と照して、そこに今住んで居る蠻民の名と姿と特徴の若干とを、知るといふのだから新しかつたに違ひないが、實際は我々の歴史などとは、至つて縁の遠い學問であり、從うて又いゝ加減粗末に取扱はれても居た。今でも土俗學などと之を譯して、濟ませて居る人があるのは其痕跡である。土俗といふ言葉は久しい前からの漢語であつて、字面から言ふならば或郷土の習俗、土に即して古來存するものといふだけかも知らぬが、此語を用ゐる人々の心持には、卑しく鄙びた又奇怪なる所作、自分たちならさうはせぬものといふ意味があつたやうだ。是がちやうど又 Ethnographie といふ西洋語の、最初その本地に於て帶びて居た語感でもあつた。少なくとも人が此學問に期待して居た所は、聽き馴れぬ珍しい話によつて、一種微笑を伴なふ驚駭の如きものを、味ははんとしたのであつた。此類の旅語り乃至は異國趣味を世に弘めようとする者は、當節になつても決してまだ絶滅はして居ない。今後も或は斯ういふ好奇心をたよりに、次第に通俗の間には入つて行くのかも知れぬが、何にしても其樣な限られた目的に(57)遊んで居るうちは、到底まだ我々の郷土研究を、躍進せしむるには足りなかつたのである。

　學藝の發達は如何なる場合にも相關的であつた。如何に古く始まり永く重んぜられて居た史學などでも、さういつ迄も既に定まつた型を保守することは出來ない。それと同じ理由で前世紀の所謂土俗誌學なども、顯著なる衝動を他の多くの社會科學に與へたと同時に、自分も亦いつの間にか大なる感化を、隣の研究から受けて居るのであつた。殊に此種の知識は歴史地理、又は博物等の記述の學問と比べて、より速かに一旦の行止まりに到達すべき性質を有つて居た。始めて全世界の交通が開けた頃には、何を説いても人は珍しがり、雲一重彼方の國の生活ぶりは、どれ程欺いても人が之を信じ得た。中には珍奇の興味に絆されて、嘘でもよいからもつと變つたことを聽かせてくれと、冀ふ者さへ有つたのである。曲亭馬琴が書かうとした朝比奈巡島記一味の讀本は、あれより少し前頃には西洋にも流行して居た。是と今日民俗資料として、我々の持傳へて居るものとの間には、幾ら昔からでも當然の堺目はあつたわけだが、最初專ら斯ういふ話をもたらし還つた人は、老いたる船長で無ければ世間を股にかけて、行く先々に友を得んとする冒險商人の類であつた。此人々の特長は話上手、必要とあらば少しは法螺もまじへ、誇張はもとより幾らでもしようといふ傳統の主義をもつて居た。其上に記憶の誤りと觀察の粗忽は何としても免れ得なかつたが、しかも一方にはそれが知識を此上も無く活き／＼とさせて居た。今日の整理せられたるエスノグラフィーは、之に比べると遙かに面白くなくなつてゐるのである。

　大體に意外なる奇事珍聞が消え、不可測なる現象と見られたものから、もとの彩色が段々と褪めて行つた。異種族殊に白人との交際が、年と共にその甚だしきものを改めしめたのも事實だが、第二には又うそと誤解との、發覺したものも若干はあるのである。そんなに宛てにもならぬ記録なら、唾棄して資料のうちに算へなければよいと言ふ者もあらうが、さうは出來ない理由は色々ある。獨り最初の訪問者の不用意なる印象の中から、人類相互の交渉の今と著しく異なるを知り得ただけで無い。さういふ不完全極まる旅人の記録をでも手掛りとしなければ、最早あの時代の蠻(58)夷生活のどんなものであつたかを、確かめる途は無くなつて居るのである。その後幾通りも綿密なる旅行記は公表せられ、或は特に計畫せられた探險除の、調査しに行つた地方などもあるが、どれ程それが確かであつても、既に變化して居るのだから昔のものゝ代りにはならない。彼も是も遠いものも近いのも、出來るだけ數多くの資料を集めて、比較をして見た上で無いと嘘も看破れぬわけであるが、兎に角に過去四世紀半の切れ／”＼の世間話を積み重ねて、始めて我々は全然自分の史書を有たぬ憫むべき未開人にも、尚且つ彼等自身の無意識の歴史があつて、それが痛切に先づ當人等の幸不幸を支配して居たといふ、發見に到着したのである。

　今に於て囘顧すればこそ、それは當然過ぎるほどの當然だとも言へるが、僅か二三十年前の土俗誌は、ちやうど其頃の地誌も同じやうに、單なる一册の讀み本として愛讀せられる場合が多かつたのである。特に一つの土人部落を知り、乃至は一つの美しい島に好奇心を起した者が、何か其事を書いたものは無いかと言つて捜し、何だもう此頃は人を食はなくなつたのかと、本意ながる者さへ時々はあつたのである。其種の文獻が今は既に汗牛充棟になつた。愈々一般的の關心を以て、その全部に目を通すやうな人の存在は望み難くなつて居る。たゞ出版の分量だけから言ふと、政治論策や人物評の類はもつと夥しいが、是は始めから殘さう爲に書くのでは無い。文藝はあれ程にも不朽を目途としたが、實はごく少數を除いては、悉く忘れられてしまふ約束になつて居る。それと或地の或時代の記録として、一つしか無いものとは話が別で、日本は有名なる孫引國だから、格別まだ氣にも掛けぬやうだが、斯う色々の書物が、入り交りに散在して居て、それを大よそは讀んだ上でないと、何の意見も立たぬとあつては、どうにかこの資料を整理して置かぬことには、もう此以上の學問の進歩は期し難くなつて居るのである。

　すべての記述の學問の、向ふべき末の落着きは定まつて居る。最初には如何に粗末なものでも先づ問題の提起を歡(59)迎し、次には出來るだけ豐富なる記述、殊に目さきの變つたやうな事柄の、其中から幾らでも拾はれるものが喜ばれる。それからそろ／＼と法螺吹きが排斥せられ出し、認めて眞實とすべきものはどの部分といふことになるのだが、是等は何れも皆學問の峠の口、坂本の里である。此次はさてどう進んで行けばよいか。自然科學の方では既に決定したものもあり、又色々の段階に於て長々と路草を食つて居る者もある。その悠々たる態度は羨んでいゝか否かを知らぬが、所謂考古學なども兄分の史學を眞似て、個々の遺跡の寸法を取るのに一生を暮らす學者が中々多く、しかも我邦にはまだ隱れたる材料が多いから、ほと／＼團栗の池に落ちるといふ、果無し話を聽くやうな感がある。斯ういふ　　状態をすつかり通り切つて、始めて綜合の研究に進むの他は無いか。はた又今ではもう少しづゝ、二つの方法を併せ行ふことが出來るのでは無いか。一生の短きを歎き、學問に對する期待の大きい人々には、此問題は決して何れとも御自由にとは言つて居られない。

　ところが所謂土俗誌の方面だけでは、土地と種族と事項とが錯雜して、分類が甚だ面倒であつた上に、時代の變化といふものが最近は餘りに顯著だつた爲か、案外に早くその一見の行詰まりに遭遇して、是非とも次の局面を展開しなければならぬことになつた。今から四十年餘りも前に、英國では既にエスノグラフィーの合理化を唱へた學者がある。唱へただけでは無く人間生活の主要なる問題に就て、その大體の法則と傾向とを、當時尚乏しい資料に據つて立證しようと試みた名著もある。是は勿論大膽に過ぎた事業であつて、事實又其後の周到なる調査の爲に、幾らと無く反證を擧げられ改訂せられた點は有つたけれども、それが怖いからと言つて、いつ迄も只記述を續けて居る人ばかりが多かつたならば、此學問も結局は平凡なる紀行文學の列に墮ちてしまつたかも知れない。知識の進取的なる捜索といふことは、全く此等の先覺によつて指導せられて居る。今日學術が最も困難なる探險の第一次の目的となつて居るのは、知つてその知識を何に利用するかといふことが、たとへ早合點にもせよ大よその見當が付いて來たからである。地方の此頃の採集家の中には、打見たる所徒らに博く識り、多く集めたのを以て滿足する人も有るやに見えるが、實(60)はその目の附けどころだけは、追々に變つて行かうとしで居る。少なくともたゞ道樂でそんなことをする者と、是を學問と考へて求めて居る人との境は有る。さうして後の者だけは、何處かに目に見えぬ共同の中心を豫想し、他の一方は依然として割據の競爭のみを續けて居たのである。

　日本で我々が同胞國民の久しく埋もれたる歴史を尋ね、國を此　　状態まで持つて來た骨折と不可抗力、もしくは人の計畫の適中と違算とを明らかにしようとするのは、かの白人たちが傳道乃至は拓植の爲に、もつと行先地を詳しく知つて居らうとしたのと、目的の重要さに於て固より大きな差等がある。しかし其手段として是から採用しなければならぬものは、曾て土俗學の成長を助けて、その今日の隆盛を導いたものを、一つの手本とするの他には無いかと思ふ。それを飛んでも無い事だと慌てゝ反對しようとする人は、最初土俗學が純なる記述の術であり、又專ら文化の劣ると信じた者を取扱つて居たことを、餘りにいつ迄も記憶し過ぎた人であり、さうして又諸國のフオクロアといふ研究の、僅か五十年足らずの目ざましき展開に、餘りにも氣の付かなかつた人であつた。幾ら優れた國民でも、史書の著はし傳へざるものを、文字を通して知らうとすることは難い。人に新たに解かうとする疑惑、必ず原因を究めて置かうとする問題の生じた以上は、どんな英傑であらうとも、やつぱり可能なる方法を求めなければならない。今までは單に手段によつて目的を制限せられて居たのである。

　我々はいつも飜譯の爲に惱まされて居る。一度氣まぐれにきめてしまつた用語が、却つて後々の理解を妨げて居る例は、土俗學でも考古學でも皆さうのやうである。フオクロアといふ語なども、當初英國の二三子に由つて採用せられた時の意味と、現在の心持とは餘程變つて居るのみならず、其中間にも亦何度かの推移があつた故に、下手に通辯すればどれかを取落す懸念があるので、どこの國でも今に原の語を使つて居る。私は是がエスノロジーの土俗學と合(61)體して、一つの學問となる時まで、それも格別遠い未來でも無いらしいから、先づ此儘にして置く方が便利だらうと思つて居るが、人によつては之を俚傳學と謂つたり、又は實質に基づいて民間傳承學とも言つたりする。實際はまだ獨立した一派の學では無いのである。始めて此名の學會が英國に起り、次いで歐大陸の各邦に普及した頃には、是も土俗誌と全く同じに、單なる記述を以て共同の目的として居たのであつた。兩者の異なる所は一方は異種民族、殊に西洋の文明と縁の遠かつた者の生活、他方は又國内古風な人々の間に、今尚現存して居る事實を見付けて、それを珍重して記録して置かうとしたのであつた。フオクといふ英語はこの限られたる範圍には當つて居る。單に氣の置けない尋常の人たちといふ以上に、或は無知なる開けない連中、 backward people のことだと説明をした者もあつた。それで家々の年とつた僕婢に注意して見たり、又は偏卑の村里まで、わざ／＼採集に入込まうとした人も多く、始めはたゞ好意ある有閑階級の物珍しがりを集めた迄であつたが、僅かな年月に會員の種類は變つて、もはやさういふ人たちでは維持し難い團體となつた。佛蘭西の方でもこの隣國の新語を避けて、成るべくは民間の傳承といふ語を用ゐんとした人までが、やはりその民間 populaire は上流 superieure に對する語だなどと謂つて居る。しかし傳承はもと各個人の氣質習性によるもので、必ずしも身分境遇貧富の度、乃至は居住地の相異によつて、概括して其分布を豫測することは出來ない。新しい職業と是を準備する教育とは、勿論人々の注意を外に誘ひ、從うて發露の機會を減じ記憶を薄くする結果を見るが、是とても人により又場合次第で、さう簡單に古風と絶縁して居たもので無いことが、其後段々に認められることになつて、乃ちフオクロアの概念は少しづゝ變つて來たのである。

　近代の社會諸科學は、此方面に於ても互ひに相啓發しつゝ進んで行つた。最初白人たちは自分の國の民間傳承と、未開蒙昧と稱せらるゝ有色人種の土俗との間に、果して必然の一致があるべきことを豫期しても居なかつた。併し一方に人の生ひ立ち、群れて榮え行く法則に彼此の差の無いことが、安全に證明し得られた頃には、もう此方にも幾つかの動かすべからざる生活技術の共通が見出された上に、更に前代の最もさかしい人種、完全に近い古文化の創設者(62)として、久しく渇仰して居た埃及希臘の住民にも、彼等の背後には亦遼遠なる昔の野蠻時代があつて、しかも其痕跡は永く次々の社會に迄傳はつて居たことが判つて來たのである。この三つの發見の照合は、各自の學問にとつて可なり痛切な刺戟であつた。人は環境のそれ／”＼に異なる中に生息しつゝも、尚案外に似寄りの方角を向いて、後れ先だつ歩を進めて居た。蠢爾としで動かざるが如く見えた者の生活にも、なほ百年前の面影は尋ねて漸くにして之を知るまでになつて居ると同樣に、所謂二十世紀の文明とても、さう完全には新しくは成切つて居ない。たゞ後者は其殘留が特に切れ／”＼であつて、又比較的他との關係が薄く、たとへば北の屋陰にのみ雪が消え殘るやうなものである故に、それを史料として前代の社會の、次第に面目を改めて來た道筋を突留めようとするには、弘く其比較を在來の歴史圏外に及ぼし、又新たに其方法を打立てる必要があるのである。

　日本はその特殊なる國情を以て、今まで無意識ながらもこのフオクロアと土俗誌との提携に、よほど重要なる媒介の役を勤めて居る。二つの研究の實質的差別は、もはや今日では無いわけになつて居るのであるが、それでも一方は外來の智者、文字を利用し得る白人の手を借りなければ、記録して之を學問の資料に供することが出來ず、獨り他の一方の所謂民間傳承のみが、僅かに自國人の親切と理解力、又國の前代事情を明らかにしたいといふ熱心を以て、直接に之を我學問に用立て得るものと認められて居た。其代りには後者の收穫は、通例は甚だ乏少なるもので、大きな根氣を以て少しづゝの異聞を拾ひ集め、それを何等かの斷定まで持つて行くには、?々推測の假橋を證據の割れ目の上に、架けなければならぬ弱點があつた。ところが我々の社會は、今ちやうど改まつて行かうとする堺目に在つて、古い風は尚豐かに存し、それに新しいものが稍々交つて、寧ろ反映を顯著にして居る。産業革命後の百年を經過し、六七代の兒童を引續いて親にした小學校教育の徹底した諸國とは、外貌に於て既に異なる所があるのである。だから我邦のフオクロアだけは、いと容易に民族學の實力を具へ得て、之に立脚して歴史の埋もれて居る人々の爲に、彼等の語らんとする所を語らしめることが出來さうなのである。

　この今まで別々に育つて來た二つの學問が、單に手を組んで共に働くだけでも大きな事であるのに、日本ではそれが重なつて一つのものにならうとしでゐる。西洋でも早晩は必ずさうなるものと豫期して居る學者は多いやうだが、その實驗にはまだ色々の支障がある。獨逸などは理論のやかましい國だから、夙くから一方を比較民族誌學 Voelkr-kunde, 他の一方のフオクロアを一國民族誌學 Voelkskunde と命名して、出來るだけ雙方を近づけ又行き通はせようとして居るが、何分にも久しい間の仕事の相違、殊に其對象となつて居る生活に、遠近寒暑の差などが甚だしい爲に、もつと整理を重ねなければ、問題を共通にすることが六つかしさうである。大體からいふと、白人文明國の民間傳承は、或は　稍々採集の時期が遲過ぎて居たやうだ。從うて是に對する方法も細かく、又幾分か餘分のもの迄を掻き寄せて、あとで仕分けをするといふやうな手數なことをして居る。だから片端から興味のある事實を、たゞ採録して讀んで居るうちはよいが、それがもう隅々まで一わたり濟んで、さあ整頓といふ段になると、非常に骨折な仕事となつて來るので、此點が自由で又自然であつた異人種の生活觀測と、歩調を揃へ難かつた理由である。ところが我々の今日迄の習俗趣味信仰などは、この手あひの眼から見ればエスノグラフィー其ものであつた。それを當の國民が自ら觀、自ら理解しようといふのが日本の今後の郷土研究である。他日中華民國を始め安南暹羅緬甸爪哇等の諸國等に、さういふ學者が嗣いで起る日が來るかは知らぬが、少なくとも現在は我々以外に、斯んな形勝の地位に立つ者は先づ無いと言つてよからう。

　たつた一つの必要な條件は、折角自分たちの眼の前に豐かに繁つて居るものを採り用ゐるのに、遠い西洋人の及び腰の觀察法を眞似たり、又は古風な道樂研究の跡を追うて、之を土人野人の生活ぶりを見て遣るのだなどと、いゝ氣になつてしまはぬことである。無智で教養の缺けた人たちの間で無ければ、前代の共同社會の痕跡は殘らぬものと考(64)へたのは、耶蘇教國の年久しい宗旨かたぎで、それが爲に心に古い事を多く記憶する者が、耻ぢて採集を避けていよ／＼彼等の資料を乏しくした。日本などでは事實は寧ろ反對で、貧しい其日暮らしのやうな境遇に居た人は、以前も何かといふと傳統の拘束を破つて、新しい時代の風にどし／＼と加はり、たとへ文字の教育には疎くとも、思慮あり感慨あり又若干の指導の能力を具へ、且つ幾分の餘裕のあつた男女が、主として今までは古い慣行を守つて來たのである。從うて多くの優秀なる傳承者、即ち聽く人が有るなら語りたいと思ふ者も其中に居た。是が急激に新たな世界文化を受入れようとする時代に入つて、もしも誤つてそんな事を知つて居る者は下等だといふやうな感じを抱いたとしたら、其結果はまた略々明白である。是も事によると歐羅巴諸國の失敗を眞似て、わざ／＼よい種を絶滅させて後に、時おくれて捜査の苦しみを嘗めることにならうも知れぬ。

　範を外國に採るといふことは、通例は今は受賣の申しわけになつて居るが、それをする位ならば是非とも多くの意見の最後に決した所を見て、少なくとも失敗の模倣だけはせぬ方がよい。土俗學とフオクロアと、この二つの學問は日本でならば簡單に提携し得るが、それも雙方の長處と弱點が、今までの經驗によつて大よそ明白になつてから後のことである。さうして第二のものゝ他の國々での弱味は、求め方が惡い爲に獲るより前に消えて行くことであつた。此點こそ殊に我々の參考にしなければならぬものである。一般に時が遲かつたといふ憾みは何にもあるが、それよりも研究者が自ら傳ふる者の心になり得ずして、いつも高い處に乘つて別世界の事物を觀るやうな、いやに他人行儀な關係を保つて居たからであつた。歴史が是だけ進んだ比較民族學の成績を、まだ何としても利用し得ないで居るのも、やはり亦この惡因縁の絆しであり、日本でフオクロアがともすれば道樂者の天國と看做されるのも、言はゞ單なる先例のはき違へであつた。

　こゝで一つの譬へを引くことが許されると、幾分か私の話はし易くなる。民族學とフオクロアの二つの學問の對立は、金礦と砂金との關係によく似て居る。雙方尋ね求めて居る目的には異なる所無いのだが、國によつて其存在の?(65)態が別である故に、是まではちがつた採集法を試みなければならなかつたのである。一方は知識が一つの層を爲し、脈を辿つて順々に掘り下げて行くことが出來たに反して、他の一方も場處だけは大よそ定まつて居るとは言へ、しば／＼時の力によつて、下流に押流され、且つ埋没して大部分は知られずに居る。或時はクロンダイクのやうに急に出盛つて、計畫を立てゝ取る樣な場合もあるが、永くは續かぬのが普通であつて、其後はたゞ常住の注意を拂ふ者のみが、稀に意外な福運に打當ることが有るだけである。さうして此方にはもと／＼分布が稀薄なのだから無益な勞力がどうしても多く費されがちである。礦山の技術は此頃になつて進んだ。一旦其所在に取附きさへすれば、元々物が有るのだから計畫は幾らでも立つのだが、それでも尚天然の事情によつて、現に有りとは知りつゝどうしても手の屆かぬものがまだ殘つて居る。ところが或土地の砂金取りたちは今まで相應の獲物があるので、ついうか／＼と表面の採集を續け、やたらに土石を掻き上げて踏み付けて居たが、やがて失業も程近くなつた頃、そこが金山の一つの露頭の手附かずにあつたものだといふことが知れたとすればどうであらう。誰だつて一方で無駄にしようとして居た根氣と慾とを、此方へ振向けるのが自然では無いか。と先づ是まで譬喩を持つて來て置いて、此次は雙方の採集手段の、長處と短處とをもう少し詳しく考へて見たいと思つて居る。

　高木敏雄君は、十年ほど前に物故せられたから、もう其説を聽くことは出來ぬが、その書かれたものは色々と殘つて居る。大よそ私の今言ふ所と、違つては居ないやうである。我々の郷土研究の、他の多くの人のもつ解釋と異なるところは、少なくとも二つの可なり大切な點に存する。其一つは、我々は郷土を研究の對象として居たのでは無かつた。是に反して多くの諸君は郷土を研究すると言つて居られる。これは漢語といふものゝやゝ不備な點であるが、今となつては私たちの用語法の、或はあまり我儘であつたことを責める人もあるだらう。此頃普通の用法では、米價研究は米の價の昂下を研究することであり、「自治研究」といふ雜誌は、自治制度を論議の主題として居る。だから亦「郷土研究」も、郷土を研究して居たのだらうと言はれるかは知らぬが、事實さうで無かつたのだから致し方が無い。私たちはさういふ意味で郷土研究といふ語を使用したのではなかつた。郷土を〔傍点〕研究しようとしたので無く、郷土で〔傍点〕或ものを研究しようとして居たのであつた。その「或もの」とは何であるかと言へば、日本人の生活、殊にこの民族の一團としての過去の經歴であつた。それを各自の郷土に於て、もしくは郷土人の意識感覺を透して、新たに學び識らうとするのが我々どもの計畫であつた。勿論問題は當然に各自個々の郷土の小さな現象に觸れざるを得ない。それに關する疑問が先づ起り、それを釋かないと前へは進めないことが多からう。しかしそれは決して究竟の到達點では無(68)かつた。單に比較と綜合の順序、手近の好い資料といふに止まつて居たのである。

　本日の會合者は御見受申すところ、大半は其方面の諸君かと思はれる。諸君がもし斯くの如き希望は抱き得べからざるものならば、この忙しい職務の餘暇を割いて、何の道樂に斯樣な研究に勞苦せんやと、一時に袂を連ねて脱退せられるやうでは、それは大變なことである故に、私もよほど氣を付けて物を言はねばならぬが、さりとて徒らに空な望みを以て、人を釣つて置く結果になつてはならぬ。しかしこの一つの道を進んで行く諸君の方でも、行く手の大川に橋が架つて居り、もしくは渡し場が有ることを確信してこそ、汗を拭き／＼道を急いで居られるのであらう。其途中に於てたとへ一人でも、橋は落ちてしまつた、又は渡し場には舟がないといふ噂をして居るものがあつたとすれば、當然それを聞き棄てにして尚進んで行くといふわけには行くまい。必ず立ちどまつて是に近より、それは一體本當のことですかと、問ひたゞさずには居られぬことゝ思ふ。さうして今日は斯く申す小生が、わざと諸君に聞えるやうに、さういふ噂を致して居るのである。誤解をせられてはこまるのは、是が少しでも郷土教育の不必要、もしくは諸君のその最終の目的が、何でも無いものだといふことを意味しては居ないのである。私は寧ろ誰よりも前に、今日の所謂小學教育實際化の聲が、遲きに過(70)ぎたことを痛感して居る。この六十年來の全國統一主義にも一面の弊があり、農漁山村の子弟に町の教育を與へ、彼等をたゞ書記や手代の適任者としたことを悔んで居る者である。出來るものならば方法の改善を以て、國の良民を作るに先だつて、村のもう少し良い住民を仕立て上げることを、急務と爲すべきだと信じて居る者である（といふわけは其方がより頻繁に、内からも外からも要求せられて居るからである）。但しこの急務に應ずべく、現今樂觀せられて居るところの手段が、必ず適當して居るとは信じることが出來ない。此點が又明らかなる見解の相異である。個々の郷土に於て蒐集せられた事實、その割據的の觀察者によつて、理解せられて居る限りの知識が、比較も綜合も無く、又各地相互の啓發も無しに、其まゝ郷土教育に利用して、效果を擧げ得るか否かを私は知らぬのであつた。且つ今でも深く之を危ぶんで居るのである。

　但し自分共の抱いて居る疑惑は、斯樣な消極的な成績の有無などを根據にしては居ない。それよりはもう一段と具體的に、今ほどの郷土研究では、郷土教育の手段になるまいと思ふ理由をもつて居るのである。其一つは現在得られただけの郷土資料が、實際少年少女等の無意識の要求に、ちやうど當て嵌まつたものでは無いやうだといふ點であるが、是は恐らくは又諸君等の内部の不安でもあつたらうと思ふ。以前行はれた郷土科の教育に於ては、目的はたゞ單に彼等の注意力觀察力の長養、もつと巧妙にいふと生活興味の増進のため、もしくは郷土愛の鼓吹のためだと言つて居たらしいが、それならば當り前の話で、小學教育の本旨の外に出でない。それを怠つて居た普通教育が、曾て存在したとも思はれぬことであると共に、わざ／＼其爲に郷土研究をする迄も無いことであつた。それよりも更に一歩を進めて郷土生活の眞實相を發見して、兒童に説き聽かさうといふに至つて、問題は新たに起るのである。

　日本人がこの日本といふ大郷土を、研究する場合にも同じ結果はよく起るが、各人は?々自分の郷土を、實際よりもよく感じてその結構なことのみが目につき、同時に自家撞着のやうではあるが、一方に有難くないことばかりを誇張して觀察しようとする。知らずに其樣な矛盾に陷るのみならず、時としては自ら意識して、斯樣な兩極端の事實にのみ注意し、却つてその中間の良くもあり惡くもあること、又は良いとも惡いとも言ひ切れないことを看過しようとして居る。斯ういつた場合に、兒童には果してこの三つの部分の、どれ迄を知らせて置くのが教育であるかは直ぐに問題となる。幾ら愛郷心の長養の爲とあつても、所謂郷土の誇りだけを教へて、其他を黙つて居たのではウソになる。それが子供の大きくなつてからの失望となり、又皮肉なる事物の觀方となつて困つたことは、我々の痛切なる最近の實驗では無かつたか。社會の裏面は子供には説かぬがよいと言つて、其實彼等をして多量の好奇心を、特にこの面白からぬ方面にのみ集注せしめる結果を招いて居たのでは無かつたか。

(72)　それから研究の地域を小さく分けて見ると、同じ日本人の郷土にも利不利幸不幸の無數の差等があつて、詳しく知つたなら泣かなければならぬ土地も有ると共に、まだ／＼如何にして今までは存在し、是からも安らかに生活し得るかの、解説し得られない土地も多い。所謂環境の條件は必ずしも容易に、各一個の説明と適應策とを提示して居るとはきまらない。もつと露骨に言ふと、知つていやになる土地も有る。勤勉節儉奮闘更生等の好文字のみを以て、處理し得ない人生だつて幾らも有る。それがもし文部省注文の通り全國一つ殘らず、郷土研究を基礎とした郷土教育を施すことになつたら、其結末はどうなるか。成人もなぼ惱んで居る對社會態度もしくは生活技術上の疑惑を、柔かな頭に其まゝ栽ゑ付けることになるか、さうで無ければ假りに一時の氣休めを付與して、失望は學校を出てからせよといふ結果にならうも知れぬ。是は共に責任ある教育とは言はれない。果してこの地方などの個々の郷土研究者は、自分も亦既に安心して、次の代の人に教育し得るまでに悟つて居るのであらうか。乃至は其方法が全國の同職者に、一樣に倣ひ學ばるべきものと思つて居るのであらうか。それも覺束ないことだとすれば、さう思はせようとする人たちの心持は不審である。

　自分たちの夙に唱へて居た郷土研究は、本來は疑惑から出發して居る。それが新たに得た知識の分類と比較とによつて、同じ一つの民族間の數多い一致と類似と差異とから、次第に少しづゝ解釋せられて行くのを期して居るのだから、いつ迄も假定と次の疑ひとを以て充ちては居る。是では兒童はさて置き、成年をも教育することは出來ないといふことは、殘念ながら之を認めないわけに行かぬのである。我々とても學問は名利の爲にして居るのでは無い。否人生に弘く用立たぬものは學問で無いとさへ考へて居るのであつて、早くこの知識の收穫を人間の幸福に變化させたいのは山々であるが、何分にも今はまだ國内の協力が行はれず、一隅の勞作で得られたものが、僅かにその部分の人だ(73)けの小滿足になつて終り、恩惠を全國に及ぼして居ない爲に、幾多の人生の疑問は、「どうやら斯ういふわけらしい」といふ程度にしか、明らかになつて居ないのである。たゞ其攻究の過程と問題の深い興味とを掲げて、寧ろ將來の教へ得る人を、少しでも早く又多く作り出さうと努めて居るだけである。是を迂遠なる泥繩式だと、評せられても一言の辯明も無いが、さりとて急場の好い加減な間に合せを發明しようとも思つて居ない。

　これが待遠しいと言つて、兎に角に結論を出して置かうとしたのが、今までの所謂文化諸學であつた。哲人先覺の思索方法に指導せられるのみか、曾て自分のものでも無かつたよその經驗に服從し、ちがつた境涯に在る人の結論を其まゝ借用して、更に之に據つて自分の「それ故に」を、作らうとしたのが彼等であつた。多くの哲人や先覺の斷案は流石に當つて居た。我々が長い間かゝつて自分獨立の研究を積み重ねて見ても、結局はやはり同じ處に到達する場合は少なくは無かつた。異なる民族の間の發見にも、?々我々に共通する眞實があつた。其御蔭に我々は久しい間導かれ、又勞せずして大いなる啓發を得たのである。しかし現在の如く異なつた色々の人生觀、又所謂史觀の競ひ進む時代になると、我々は學び教へられるに先だつて、兎に角に何れかの學派に屬しなければならない。大昔も同樣に先づ師匠を取つて、それから彼の言を學ぶのでは、盲從の危險は常に在る。是が人文を取扱ふ多くの學問の、今以て正確に科學と名づけられ能はざる理由である。

　其種類の郷土教育ならば、近頃は暫らく絶えて居るけれども、以前には引續いて行はれて居た。村にはきまつて二(74)三人の物知りと言はるゝ故老が居た。文字には書き表はさず、讀本は編輯しなかつたといふだけで、彼等は先づ完全に郷土の地理に通じ、又ほゞその由來を知つて居た。地下の發掘即ち骨と石器の古代史は未だ起らず、當世流行の考證學といふものは彼等の長處では無かつたが、其他の部分に於ては多くの所謂郷土研究者ぐらゐは知つて居た。さうして機會ある毎に、之を後進に談り聽かせて居たのである。明治の中頃までの少年青年であつた人々は、よく／＼の低能で無い限り、一人として今日のやうな郷土教育、もしくは是と非常によく似た教育を受けて居らぬ者は無かつたと言ひ得る。しかも其好結果といふべきものは、有つたのかも知らぬがまだ何人にも認められて居ない。少なくとも外部から來る色々の刺戟、又は時勢の變化の影響に對して、抵抗力の弱かつたことは今古少しも變りは無かつた。だから今度の郷土教育こそは、きつと成績が擧がると信じたい人たちは、よほど深く考へて置かないと、私のやうな不吉の豫言を押へ付けることが六つかしいわけである。

　但し舊時代の村の物知りの郷土教育が、今日の諸君のそれと異なつて居る點は、一つだけは確かに有る。故老と稱する從前の教師には、その良心を苦しめる樣な、生活上の疑問といふものは無かつた。知つて子弟に説き聽かせ能はざるものは、個人の惡評ぐらゐのものより他には一つも無かつた。尤も彼等も折々は「こんな不思議なことが世にあらうか」などとは言つて居たが、それは其實は神佛の靈驗とか、人の一念とか妄執とかいふ類の、内心にはさも有りさうなことだと思つて居る場合に使ふ慣用語で、今日我々御互ひが不可解だと思つて居る樣な多くの社會現象は、却つて大抵は當り前の話だとして居た。此氣風は今でもまだ若干は遺つて居る。通例村の人たちはどんな困つた事でも、それが古くからも斯うであつたといふか、銘々の力では奈何ともすることが出來ぬといふか、又は他の地方でも皆此通りだといふことを聽くと、もうそれで安心をして居た。それも實際は決して確かでは無かつたのだが、兎に角この(75)三つの想像が共に働いて、彼等を甚だあきらめのよい人とし、又批判の少ない人として居たことは事實である。さうしてたま／＼之を知つても尚疑ひ、もしくは苦情を述べる者があると、當り前のことぢや無いかとか、常識の足らぬ男だなどと言つて、一言に之をはね付けて居たのである。即ち人世如是といふ前提の下に、單なる記述又は報道のみを以て、村の物知りの教育事業は終つて居たのである。

　それが新しい我々の世代に入つて、何を疑ひ何を恠しんでもよいことになつて來たのである。之を詳かにせんとする我々の努力も躍進すると共に、人生の不滿不安も是につれて高まつて來た。郷土の教育課目の又一つが、是が爲に追加せられたことは爭へない。其中でも最も率直なる質疑は、漸く成長しようとする少年男女から發せられる。中でも殊に普遍的で、しかも深刻極まる實際的の疑問は、何故にうちは貧乏なのか。之を積極的に言ひ換へると、どうすればもうちつと生活が樂になるか、又はどうすれば偉い人になれるかであつた。固より古人の目から見れば、魯《おろ》かしい問ひには相異なかつたらうが、是を尋ねられると親たちは胸が痛くなる。さうして又此問に答へなければならぬ任務を、父兄と社會とから委托せられて居る諸君等は、無理かは知らぬが是に充分な答の與へられる迄、引續いて尚多くを學ばなければならぬのである。今日までの歴史のやうに、判つて居ることだけを教へてやつて、向ふから出して來る質問には、どんな痛切なものにでも答へずに置くといふことは出來なくなつたのである。要するにこの人生の疑問の増加、殊に是から大きくなつて行かうとする者の不可解が、段々と目を覺まし數を増加するが故に、それを最初に感知するであらう所の諸君の活動が、この新しい史學の發達に向つて、誰よりも多く期待せられるのである。

　「新しい史學」といふ言葉は、或は古い史學者から僭越のそしりを受けるかも知れない。しかし過去に對する人間の疑問である以上、史學の領分で無いとは言へまい。是に答へる爲に今までの方法では足らず、一方に第二の方法が成(76)り立つとすれば、名は何と言はうとも、斯ういふ學問の存立だけは認められねばならぬ。又假りにそれがやゝ面倒なる綜合を必要とし、五年十年の永い歳月を費さなければならぬとしても、其爲にこの一つの新しい方法の、價値までを疑ふわけには行かぬ。今日既に老いて居る幾つかの學問でも、遡つて其幼年期を考へて見ると、何れも是と似た樣なもどかしいものであつた。或は至つて卑近な動機から、又はたゞ／＼單なる發見の興味から、最初は道樂のやうにして着手せられたものが、今日は皆成長して居る。其中でもこの外國でフオクロアと謂つて居る我々の學問などは、産業とか國防とか醫療とかのそれのやうに、目の前の效果といふものが一つも無かつた。從うて又給料や報酬のあてなどは無く、殆と職業としては成立つ見込の無い學問であつた。言はゞ有閑階級の、もしくは特殊に熱心な者の餘暇の仕事であつて、格別に急いで成績を世に示すべき要求も無かつた。それが此頃になつて西洋の多くの國でも、大學の教授などの注意する所となり、もつと速かに對社會の機能を發揮しなければならぬといふことになつたのである。一つには最近の輕濟界の動搖も之を促したかと思はれて、今やこの民俗學の社會的任務といふやうなことを問題とする人が方々に現はれて來た。

　しかし所謂産業革命と、普通教育との徹底的に效を奏した國々で、今頃之を説くのは聊か沙漠の植物學の感がある。非常な苦勞を重ねないと、今殘つて居る各郷土の資料だけでは、纏まつた結果は擧げられない。又努力次第に何の問題でも、此方法を以て答へ得られると、言ふわけにも行かぬらしい姿がある。ところが日本だけはよほど又事情が違つて居るのである。我々が受入れた急劇な新文化は、今でもまだ國民生活の全般には浸潤して居ない。只ところ／”＼に燒け焦げのやうな變化を與へて居るだけであつて、同じ一村一家の中にも、相隣接して異なる心持、異なる生活ぶりの人が共に住み、新舊二つの樣式を調和させ、又は少なくとも兩立させようと試みて居る。それのみか同じ一人の腹の中にも、古い分子がまだ色々と潜んで居て、それが時あつて頭を出さうとすることは、誰にでも自ら實驗し得られる奇現象であつた。この生活史蹟とも名づくべき多くの傳承が、外國とは比較にならぬほど豐富に保存せられて居(77)ると共に、その直ぐ傍には是に心づき、又同情と理解とを以て其眞意を把へ、且つ之を記録し研究し得るだけの能力のある者が、幾らでも見出される國が日本なのである。郷土人の郷土研究は、斯くの如く好き磯會を惠まれて居る。よしや歐羅巴の舊國ではそれが困難な學問であらうとも、日本に於ては決して効果の收めにくいやうな事業では無い。只同胞の爲によく疑ひ、是を同志の協力によつて、少しでも正しく答へて行かうといふ忍耐力のある人が、多いか少ないかゞ問題となるばかりである。あきらめて再び舊式の獨斷論法に、歸つて行かねばならぬ必要などは少しも無いのである。

　國の史學の最近の傾向は、ちやうど又此機運を助長してくれた。私たちのいふ郷土研究の方法に依らないと、判らぬ區域を殘して前へ出なければならぬことを、いつでも間接に考へさせようとして居る。日本は少なくとも平民史に關する限り、記録文書の甚だ乏しい國、或は一方に偏して居る國であつた。それで新たに國民總體の生活誌を調べ、出來るだけ社會の色々の疑問に答へようとするには、古人が是だけは傳へて置いて遣らうと思ひ、もしくは斯ういふ風に書き殘して置かうと、自分の選擇を以て掲げて居るもの、即ち私たちの所謂計畫記録のみを、整頓し吟味しただけでは足らぬといふことが直ぐに心づかれる。故に今日の史料編纂所の一つ前の、水戸の大日本史の編修せられる頃から、既に史料の源となるべきものを擴張して、我々の祖先が全く他の目的の爲に書いて置いた書物、又は切れ／”＼の金石文といつたやうなものゝ中からでも、多少の思ひ當ることがあれば皆引用した。江戸その他の民間の考證家に至つては、更に面白づくで其捜索の手をずつと遠く伸ばした。即ち私たちの所謂偶然記録はたゞそれが文字である爲に皆史料として利用せられて居た。一例をいふと、今昔物語や沙石集は、單に説經の法師に話の種を多く供給したいといふ計畫の記録であつて、其内容などはどうあつてもよいものだつたかも知れぬが、其文章の中には偶然に、あれ(78)が出來た時代の民間の生活ぶりが見えて居る。さうすれば是も見遁すわけには行かぬ。西鶴から八文字屋に至る頃の浮世草子、降つては一九や三馬の小説の如き、其目的に於て誠につまらぬ文學でも、もし文章が寫生ならば、筆の序には彼等の時代の、都市人の人生觀なり道義なり趣味なりが、偶然に發露して居るかもしれぬ。さうすれば是も亦歴史を書く者の材料になると認められて來たのである。それから近代は是がもう一歩を進めて、たとへば維新史の史料などになると、少し老耄しかゝつた舊藩の老人までを、つれて來て話をさせて書き取つて、記録をこしらへて史料にして居る。即ち私たちの是からもう少し力を入れて、精確なものを作つて見ようとして居る所謂採集記録でも、文字である以上は悉く史料としようとして居るのである。だから一たび記事本末體の史學に徹底して、大よそ未來の少壯日本人が、過去に向つて投げかけるであらう所の、あらゆる疑問に答へることを心掛けることになるならば、今までの史學者獨自の方法でも、當然に我々の今企てゝ居る郷土研究の事業と、合流しなければならぬのである。

　たゞ一つだけ殘念な點は、今日の修史家が、問題の選擇權を依然として歴史學者の手に在るやうに思つて居ること、といふよりも前代人のきめたもの以外、先づは自分たちの力で判つたものだけが、歴史の問題だと思つて居ることである。是は史學が我から其役割を小さくし、其社會的機能を限局せんとするもので、しかも是を彼等の御隨意とも言はれないのは、現に一方には前代生活の實相で、論議の的となり好奇心の焦點となつて居ることが、いつ迄もよい加減の不精確に打棄てられて居るからである。勿論我々が必死の捜索を盡しても、永古に判明せぬ問題も絶無とは言はれぬ。結果に於てたゞ徒らに大言壯語したことに、歸着する問題も有るか知らぬが、少なくとも今有つてやがては消えてしまふ郷土の資料だけは、急いで出來る限り採集して記録とし、いつでも利用し得る形に整理して置かなければならぬ。さうせぬとこの折角の事業が、他の多くの科學の如き、普遍性を具備せぬことになるのである、問題の選擇權は、決して一時代の學者のみが私すべきもので無いと信ずる。

　察するに是は根本に於ける觀方の差、即ちこの我々の眼前に實驗せられる社會事實そのものが、正しい史料である(79)といふ事を認めるか認めないかの相違である。私などの見る所では、「事實」といふものは自分の目で耳で又は感覺で、實驗したもの以外には無いと思つて居る。所謂史實も亦過去の事實ぢや無いかと言ふであらうが、それは過去であるが故に實驗には入らず、今あるものは其痕跡でしか無いのである。千年以上も人が事實であつたと信じて居たことで、此頃始めて事實で無かつたことの判つたものも多い。書いて傳へたものだけは本當であらうと思つて居ると、それすらも尚檢査を要することになつた。僞作や贋造は論外であるが、是は正しいと言はれて居るものでも、尚その筆者自身が、誤つて眞なりとして居たことがあり、おまけに最初の筆跡が、其まゝ殘つて居るわけでも無いのである。だから記録文書は、たゞ其殘留して居るといふことそれ自身が、我々に取つての事實なのである。その一種の事實が何物を意味するかは、係つて我々自身の認識に在り、言はゞ古人が我々に親切で、正しいことのみを傳へようとしてくれたといふことを、信頼するより以上の保障とては無いのであつた。この立場から見ると、未だ文字に表はされない民間の傳承、録して新たに採集記録の列に加ふべきもの、即ち我同胞が偶然に又は無意識に、古くから持ち傳へて居てくれた言葉なり癖なりには、まだ／＼多くの消えた事實の痕跡が有り得る。殊に無意識の傳承には少なくともウソは無い。たゞ氣づかはしいのは代々の誤解であるが、誤解ならば史書の方にも充滿して居る。さうして誤解の保存せられて今に傳はつて居るといふことも、亦一つの重要なる事實であつて、その多くの數量を整理分類して見ることによつて、新たに過ぎ去つた生活の正しい姿を見出すことが出來るのであり、不幸にして地方の割據した郷土研究者のみは、通例はその眞意味を洞察する力が無かつたのである。是に安心して次の代の教育を、託するわけには行かぬ理由は爰にもある。

　史學は果して科學なりや。是は我々が立證しなければならぬ全然未解決の一大問題である。我々の兄分である所の自然科學の學徒は、?々不當に文化科學を輕蔑して居る。彼等は云ふ。文化科學などと生意氣なことを言つて、果して其根柢に觀察があるか。果して其基礎を實驗の上に置いて居るかと云ふ。この輕蔑に對しては一矢を以て酬いなければならぬ。科學としては如何にも我々は弟であらう。ベーコンが世に出るまでは、人は歸納を以て人間の道を考へることを知らなかつた。今日とても我々の歸納は不完全かも知れぬ。幼稚だといふ批評を甘んじなければならぬかも知れない。しかし少なくとも觀察は、現代人の文化研究を指導せんとして居る。哲人先覺に教へられた既定の法則を、金科玉條とするやうな文化史家は居ない。どんなに古い由緒をもつ知識でも、合點が行かなければ我々は疑ふ。疑惑は我々の世に生きる武器だ。何物の威力も我々の物を訝かる心、自ら教へようとする念慮を抑制することは出來ない。之を要するに觀察の無い學問は、もはや現代には存立し得ないのである。

(81)　たゞ其方法が、是から系統立てられなければならぬと云ふ迄である。私などの企てゝ居る研究では、歴史は竪に長い細引のやうなものとは考へられて居ない。寧ろ是を考察する者の屬する時代が、切つて與へたる一つの横斷面と見るのである。此横斷面に頭を出して居る史實、即ち過去にあつたらしき事實の痕跡は、實際はその過程の色々の段階に於て自分を示して居る。我々の社會生活は決して均等には發達し展開して居ない。是には新しい文化がいつも都市といふ僅かな中心から、入つて來たといふことが一つの大いなる便宜であつた。即ちその文化改革の中心からの距離が區々である爲に、所謂おくれた地方又は人を生じ、是に又無數の等差が認められるのである。殊に日本はこの横斷面の、最も錯雜した國であつた。山嶺の區割があり、多數の小さな盆地の孤立があつた。さうしてその區々の文化は、今までは多く他の振合ひを見ずに展開し、從つて甲乙丙丁の間に、種々なる變化と偶然の一致とがあり、互ひに遠く隔絶した土地の多くの一致は、概して其根原の年久しいことを思はしめる。それよりも尚著しい我邦の特徴は島の分立であつた。現在人の住んで居る島は四百以上、北は蝦夷の海の利尻禮文から、南は八丈の向ふに在る青ヶ島、更に琉球列島の果の波照間や與那國島に至るまで、何れも元は一つであつた民族が村を爲し、個々の改定の幾つかを加へつゝ、同じ一つの國語を話して居る。其間に於て觀察せられ又實驗せられる所の現在の事實、それの比較と綜合とが、端的に我々に告げ知らせることは無數であつた。たつた一箇處のやゝ變つた現象のみを、事々しく説き立てようとせぬ人が、靜かに見て行くならば是は皆史料である。

　例は多きに過ぎて選擇に苦しむのだが、時間が惜しいからたつた一つを擧げる。我々日本人が年の初に、山から伐つて來る樹木を年木と謂つた。年木は新しい春の温度を作る爲に年頭に焚くのが主たる目的であつたかと思はれ、日と時刻とは幾らかづゝちがふが、正月に火の祭をせぬ土地は殆と無いと言つてもよい。さうしてその神聖なる炎と化(82)すべきもの、即ち式の日の燃料と指定せられた木である故に、ちやうど生牲を生きて居るうちから尊敬したと同じく、是に特殊の能力を認めて、事前に色々の目的に之を利用して居た。其方法が一地方毎に異なつて居るのである。それを集めて比べて見ると、以前我々の祖先が生活上の重要事項と認めて居たのが、何と何とであつたかゞ略々わかる。大體からいふと占なひとまじなひで、前者には其小枝を粥の中に入れて煮たり又は粥を掻きまはして、飯粒の附き方の多少によつて、穀産の豐凶を卜せんとした粥杖粥かき棒の類がある。又まじなひの方では此枝を門口に下げて邪氣の侵入を防ぎ、或は之を打つて一年中の鳥や土鼠を逐ひ、果樹や新婦の尻を敲いて其多産を念じた。其爲にはそれ／”＼の唱へごとがあり、又棒には必ず一定の飾りをつけた。それから食物を以てこの年木の枝を飾ること、是も亦目的はまじなひであつた。餅花・稻の花・粟穗稗穗などといふのは、多くは農作物の農作の?を模して居るが、一方には新年一家内で食はうと思ふ食物を、悉く之に掛けて置く地方もある。九州では普通に幸木《さいはひぎ》と謂つて居るが、四國では藁で十二箇の總を下げるので、十二ふしと呼ぶ土地もあつた。現在は此木を毎年は取替へぬことになつて居るが、この十二の藁飾りが新しくなるので、多分其必要を見なくなつたかと思ふ。是は遠く離れた地方の類例を多く比較して始めてわかることで、今までは右の幸木の慣習は、九州の北西部一角に限らるゝものゝ如く、我々も考へて居たのである。ところがよく氣をつけて見ると、名前は全く變つて居るが、横木に正月の食物を引掛ける風は東日本にもあつた。私などの生れた中國の東部では、單に注連飾りと稱して家の入口に掛けるものが、實際はこの幸木との結合であつた。藁の厚い總を幅一間ほどにも組み合せて、竹を横たへて之を押へて居る。さうして是に海老や橙の實、昆布や串柿搗栗の類、大よそ正月の喰ひ積みに用ゐる程の食物は皆結び付ける。さうして家によつては門口で無く、臺所の正面などにこの特殊の注連飾りをするものもあるのである。東京などでよく行はるゝ牛蒡注連や輪注連なども、餘り簡略になつたので幸木とは別のやうに思はれるだらうが、やはり尚幾つかの食物を是に飾り付けて居る。本來の注連繩はこんなもので無かつた。この飾り物是が幸木と同じ風習から出たものであることは、各地多數の相似たる實例を(83)湛念に排列して見さへすれば、さうこと／”＼しい論辯を費さずして、容易にこの意味深き樹木崇拜の一樣式の、古い起原をもつことが諒解せられることゝ思ふ。

　それから婚姻の慣習などの、どうして今見るやうな形にまで進化して來たかといふことも、書物を捜したのでは何の解説も得られないのだが、現今尚目撃し得られる全國各方面の事實を、澤山に集めて順序立てゝ見るに及んで、始めて昔の聟入本位の婚姻が、今日の嫁入本位に移つて來た經路が知れる。葬制の古今の變化の如きも、亦たゞ此方法によつてのみ之を跡付けることが出來るので、詳しくはこゝに述べぬが私は既に其一半を公表して居る。之を要するに今までの歴史の中心となつて居た事件主義、たつた一囘しか起らなかつた出來事によつて、時代の全部を明らかにしようとする爲に、非常な史料の嚴選を專らとする代りに、斯ういふ何千萬囘と無くくり返される事實の觀察によつて、それの持つて居る重複の一致の效果を利用して行けば、少なくとも同一程度の安全さを以て、昔行はれて居た文物制度の變遷を、確めることは不可能で無いのである。しかしそれを企てる爲には、一區域の郷土研究では功を遂げない。ましてや手輕に判明したことばかりを、早速人に説きたがる樣な氣風があつては、いつになつても斯ういふ問題には觸れることは出來ないだらう。今少し辛抱して永く疑問を抱いて居られる人だけが、末には是が解説を爲し遂げることを許されるのである。

　そんな平凡なことは歴史には用が無いと、或一派の人たちは今でも言つて居る。奈何せん是が現代人の將來の對策を立てる爲に、是非とも知つて居らねばならぬ過去の事實であるのみならず、今日では既に平凡ですらも無いのである。今日の平凡はもう別のものに移つて居る。少なくとも若い人たちの生活好尚は改まり、これを指導する標準も一變した。彼等が老人になる迄には、その一つ以前のものが忘れられることは確かである。今日は過渡期であるが故に、注意もせられない事實がまだ此通り殘つて居るのである。英佛その他の Folklore に於ては、斯ういふものを殘形又は痕跡と謂つて居る。其數量は極めて稀になつて居るが、其代りには一般の新文化層の間に、くつきりと拔け上つて(84)殘つて居る。我邦は之に反して、自分一身の中にすら、まだ若干の舊生活の名殘を留めて居る位であるが故に、何が程無く消えてしまふ史料であるかを、見分けることが困難なのである。だから日本での特別の仕事は、それを直ちに見分けるだけの觀察力を養成し、又各地方が相助けて、微細なことを馬鹿にせず粗末にせぬ氣風を作つて行くことである。さうして出來る限り綿密な分類をして置くことであつて、索引事業は斯ういふ國柄としては、採集事業に負けぬほどの急務である。私たちの謂ふ所の郷土研究の要件、即ち他の多くの同名の企てと異なる點はこゝに存する。しかも又折角中央官府の發起を以て、全國一齊に此調査を始めながら、それが徒らに各地の割據に終らうとするのを、歎き悲しまねばならぬ所以も爰に在るのである。

　私はこの民間傳承の資料を、三通りに分けて見ようとして居るが、その中のたつた三分の一だけが、眼に映じ又は寫眞にとられ得る、所謂有形文化であつて、即ちほゞ外部から見ただけで理解し得る事實と言へるが、是とても尚こちらの認識の誤つて居らぬことを確かめる爲には、やはり一應は郷土人の心意に觸れ試みる必要がある。次にこの外形の生活誌を解説せんとする方言名稱傳説口碑、その他色々の言語藝術は、苟くも同一國語の圏内であるならば、耳ある限りは誰にでも採集し又會得し得るやうに思はれるが、それも國柄によりけりであつて、日本の如くたゞ敍情的に物を言ひ、多くの感投詞を交換し合つて居た國では、その速記だけでは人の心の隈ごとに、隱れて居る心持までは把捉し待ぬ。從うて是にも郷土人の參加は常に必要である。ましてや第三部の心意上の諸事實、人が心の裡で願ひ望み、もしくは黙つて避けたり控へたりして居る日々の心持は、それが社會の動きを構成する重要な分子であるに拘らず、いくら同國人でも外から來た我々には、先づ其存在を知ることが困難であり、之を理解することは殆と絶望である。別の語でいふと此方面の歴史は、歴史家を郷土外に期待することが不可能なのである。

　教員は單に郷土研究家たるの資格をもつといふだけで無く、別に又さうならずには居られぬ衝動さへあるのである。彼等が朝晩に我兒に近い愛情を以て、親しみ近づけて居る所の少年少女は、實は他の何人よりも豐富なる無意識史實の保管者であつた。成人は既に疎遠になつて居る前代生活で、幼き者のみが持傳へで居るものは多い。それを耻かしがりワニルこと無しに、打明けて見せ聞かせる相手方は、先生の外には無いのである。その無邪氣なる表現は、假に感動せず注意すまいと思つても、尚且つ感動させられ考へさせられる。それから彼等の親なり祖父母なりが、表向きの生活から今一つ内に潜めて抱いて居る心持なども、子供を仲に立てゝ折々は教員に傳達せられる。それを格別尊重はしないにしても、一種の珍しいものとして大抵の人なら心を惹かれる。もし是が何れも今後の新しい史學に、入用な史料だといふことを知つたならば、諸君は省みて自家の觀望臺の、最も形勝の地位を占めた一等席であることを、よもや認めずには居られまいと思ふ。

　そこで無遠慮ついでにもう一つ、自分の所信を吐露して、この長話を完結することにしよう。郷土研究と教育者と(88)の關係は、今日想像せられて居るよりも更にもう一段と密接なるものがある。諸君普通教育の當面の責任者たちは、その郷土研究を以て生徒を教へる以前に、實は先づ以て自ら教へなければならなかつたのである。この日本の舊式經濟が行きづまり、農漁山村疲弊の聲が、斯くも哀切に又高く叫ばるゝまで、依然として五十何年來の、一つの教育方法を維持して居た原因はどこに在るか。勿論同胞の爲に學問の利用誘導を爲すべき局に當つた者の、不注意と頑固とは責めてもよいが、他の一方個々の實施の任務を負はされて居た者も、自分の仕事の效果を省察しなかつただけは確かによくない。「こんな事ではだめです」と、何故に早く言はなかつたか。一向氣が付かずに今までも居たとすれば、それも亦容易ならぬ落ち度であつた。今日までの郷土教育には明らかに缺點弱點が有つたのである。その缺弱の二點が何れに存するか位は、今一つ以前の代と比べて見てもわかつた筈だ。

　成るほど文部省には日本教育史料の編纂がある。しかしあれはたゞ寺子屋の歴史に過ぎぬ。寺子屋の始めは江戸時代も中期からで、しかもごく近世になる迄村にたゞ五人か七人の、行く／＼農民以外の職業を得んとする者だけが、或期間つゞけて讀書算筆を學びに行つた場處では無いか。それだけを調べて見ることが何の教育の歴史であらうぞ。そんな事をいふなら元禄寛文以前には村々の殆と全部、明治維新の間際までも常民の九割以上が、無教育であつたといふ結論になるでは無いか。民に教育が無くして是だけの國家が成立ち得るものかどうか。ちよつと考へて見ても判(89)ることである。讀書算筆の教育は郷土の爲に必要が無かつたから、寺小屋の授業は無くても我慢の出來る世の中であつたから、さういふ人たちはそこへ行かなかつただけである。今ある小學教育が假りに現代の世情に適應して萬全なものであつたにしても、以前是と同樣又は類似のものが無かつたことを目して、無教育といふのは無法である。ましてや此樣な自信の無い、どこかにまだ缺陷の有りさうな、どうしても改善しなければならぬ學校教育が前には無かつたといふことは、斷じて無教育の證據にはならぬのである。

　この明治の初頃までの郷土教育は、寧ろ一般に稍々感情教育に走つてゐたとさへ我々は感じて居る。百姓などは今少しく武骨素朴で、且つ冷靜であつてもよかつた位である。生活知識の供給も或は幾分か豐富に過ぎて居たとも評し得る。技藝に至つては子女に必要なるものゝ全部を、綿密に且つ漏れ無く教へて居た。病弱でさへ無ければ、彼等が結婚する迄に一人前となることは容易であつた。しかし何と言つても最も力を注いで居たのは道德の教育であつたと思ふ。さうして此方面に限つては、家庭以外の團體の力が、殊に意識して最も多く働いて居たのである。ところが世が改まつてこの社會教育の力は弱り、同時に又足らなくなつた。人を新國家の一員として養成し、それに必要なる道(90)義律を習得せしめることは、古來年久しい村々の教案の中には缺けて居た。從つて舊式の教師たちは、直ちに自分たちの不適任を認めて、やゝ思ひ切りよくさつさと郷土教育の役を辭して去つたのである。

　此部面の聞發は、全部たしかに新制度の力であつた。殊に記念すべき教育勅語の渙發によつて、國民道德の第一要義は遺憾無く全土に徹底したのであつた。たゞもし私の批判が容さるゝものならば、この當時文教の局に當つた人たちは、不幸にして從前の村々の郷土教育の短所が、尚此以外にも若干は有ることを、心付かずに居たらしいのである。我々の郷土教育は、本來五十戸百戸の部落を限堺として發逢したものであつた。少なくとも郷黨故舊以外の者に、適用することを豫期しない道德のみを教育して居た。闘諍と侵害とは因より法禁であつたが、單なる平和の手段を以て他郷人を輕蔑し、嫉視し壓抑し、もしくは冷淡であることまでは許されて居た。それ迄を戒めるやうな郷黨道德はまだ十分に起らなかつた。是は恐らく古くからの惰性が、特に匡正せられぬ爲に偶然に永く殘つたものであらうが、今から振囘つて見ると可なり目につく郷土教育の弱點であつて、實は是あるが爲のみに、その全體の價値をさへ疑はしめたのである。時代が進み人の往來が繁くなると、この不便不利は相互の當事者たちにも深く感ぜられた。それであらゆる機會を求めて、人は郷黨外に特殊交友關係を作らうとした。就中村外縁組の増加は、この孤立道德の擴張に役立つたやうだが、なほ斯ういふ限られたる場合以外には、折角養成せられた新たなる情誼を、適用する途が無かつたといふのは、畢竟は是を擔任すべき教員が得られなかつた爲である。

　是がたゞ單に一國の統一、貴き唯一つの中心に仰ぎつかへまつるといふ意識の目ざめによつて、忽然として變じ改めることを得なかつたのは已むを得ない。よく氣を付けて見ると、近代の系統道德の御手本であつた儒教の教條でも、此點は思ひ及ばなかつたやうで、これを基準として標目を立てた現代道德、五倫五常のどの概念の下にも、包含し難かつたのだから致し方は無いやうなものだが、今日となつて見ると、是は誠に忍び難い缺陷であつた。我々の日夕交渉をもち又は隱れたる利害の共通をもつ同胞國民は、其大部分が所謂見ず知らずの他人である。是と彼との間を調和(91)すべき道德の法則は、未だどの方面でも教育せられたことが無い。今日の公德養成なるものは、其解釋が狹きに過ぎる。其爲に現代日本人は一般にたゞ利と競爭のみにさとく思ひやりが少なく、人の弱味にのみ明るくて助けることを知らぬ者、手前勝手な孤立人種の如き印象を與へんとして居るのである。是は明らかに我々の國人の道德の頽廢で無い。始めから知らないのだから單に弱點の暴露であつた。即ち是こそ正眞の無教育の致す所である。

　今や國家の爲に忠誠の臣民を養成する方策は既に確立し、又着々と實行せられて居る。一方には個々の家庭のため、純良なる族員を作り上げる手段には、今尚最大關心をもつ人々があつて、たとへ教職者諸氏の理想に反してでも、必ずその欲する所を實現せずば止むまいとしで居る。然るに獨り其中間に於て、一個の町村民、一個の府縣民としての正しい行爲を訓練し、更に進んでは新たに組織し直されたこの雄大なる共同生活體の爲に、日本人相互の間柄を約束し調和する法則だけが、まだ何人によつても指示せられて居らぬのみか、是を如何に定めてよいかも、實は一向見當が付いて居らぬのである。私たちの謂ふ郷土研究、即ち全國各地の協力を以て、討議し且つ解決しなければならぬ問(92)題も多々有らうが、是くらゐ急に迫り、且つ他の在來の學問をあてにして居られぬ案件も少ないのである。しかも其疑問の提出者として、何人よりも無智無力であり、何人よりも純情に且つ他の教導に信頼する者が、無意識ながら痛切に其結果を待ち焦がれて居るのである。彼等兒童を本當の一人前、將來に向つての十人並みにして遣らうといふ志の有る人々、さうして又之を考へて見るだけの能力あり資格ある人々は、諸君等各郷土の教育家を措いて、他にも有ると言へるかどうか。

　我々實驗派の立場から見ると、今までの修身科教授法は、あまりにも智的であつた。道德の名前を知らしめるに偏して居た。さうして其言葉が新し過ぎ、且つ著しく範疇に囚はれて居た故に、前から持つて居るものまで氣付かずに、其外に抛り出されて居る結果を見たやうである。是だけでは到底十分で無く、更に補充をしなければならぬとすると、先づ以つて「以前はどうであつたか」の研究から、大いなる參考を得るわけである。近世の寺子屋私塾等に於ては、專ら仁義禮智孝悌忠信の漢字によつて、是が指示して居る道義感を教へた。それも一つの方法ではあつたが、それは唯新たなる一つの方法といふのみで、全部では無かつたのである。其方法の行はれる以前から、既に我々の道德はあつたのである。其教育は施行の區域が狹く、部外には通用せぬ憾みがあつたと言へ、旅へ出ぬ限りは是でも十分の效果を奏して居た。郷土の教育は日常の語を以て與へられて居た。定義は明示せられなくとも是で百般の目的は達して居る。親にも祖父母にも兄姉にも子にも、ヤサシイとかヨクスルとかいふ漠然たる語が適用せられて、それで一切の不孝不悌不慈を撃退して居た。カタイとかズルイとかいふ語は捉へどころも無いやうだが、それで濟ませて居た時代の方が、今よりも人は正しかつた。正直勤勉などの概念も、以前の方がずつと公共の爲であり、又打算的で無かつた。今日は大分成功の秘訣に化したが、元は今一層利他的な内容を含んで居た。斯ういふ用語の感覺の再檢討から、我々の仕事は始めなければならぬ。即ち土地の言葉を粗末にせぬこと、やたらに不精確な新語を以て置き換へようとせぬことが、人の生活を知る道の第一の要件である。

(93)　人が共々に働く場合に、餘分に骨折らうとする者が感謝せられ、隱れて樂をしようとするものが憎まれることは、今とても少しも變りは無いが、是にはぴたりと當る日本語が昔から無かつた。又人間の機轉と敏活、勇氣や判斷力や人を説く術の如き、種々なる細かな長處の、道德と同じやうに尊敬せられ、終には今日のやうな優秀な地方青年を、工場に軍隊に供給するに至つたのも、もとは皆共同の爲に役立つたからであるが、是にも亦最初から多數の無形名詞を具へて置いて、無やみに詰め込まうとする風などは以前は無かつた。從つて今日の小學教育の外に置かれようとする傾きがあるが、この日本青年の好ましい特長の如きも、決して亦自然の發達では無く、可なり巧妙なる計畫的の養成にかゝるものであつた。村の長老は勿論良き若者を褒めるが、同時に又良からぬ者を惡罵し又漫評した。それが如何にも適切であつて、往々にして傍に聽く者を失笑させ、笑はるゝ者を憂鬱ならしめ、之を見る者をして深く戒め畏るゝ所あらしめた。乃ち日本は可笑味を帶びた多くの奇警なる俗諺を持ち傳へて居たことを、誇つてもよい國であつたのである。諺の教訓的效用は我邦でならば研究し得られる。それが古く傳はり又廣く行はれて居たことは、郷土で研究すれば容易に學び得られる。笑を教育の爲に利用するといふのは面白い方法である。外國でも多分同樣であつたらうと思ふが、日本ほど資料がよく保存せられて居ない。之を採集比較し又之によつて思索することは、教育者諸君にして殊に意義のある仕事である。

　注意して見るべきは笑ふ人と笑はれる人の境涯である。それから又笑はれまいとする努力、是が青年男女の最も大いなる刺戟であり、又配偶者選擇の主要なる標幟でもあつた。村の若者組や娘組の批判、是と道德成長の歴史との關係も、亦省みられなかつた重要事實である。所謂輿論は衆説の一致であるが、多くの場合には背後に隱れたる指導者がある。教育期の男女には雷同性が多く、同輩の過半數の感ずるものと異なる感じ方をする力に乏しい。是を道德の進展策に利用せんとしたる舊式教育者は、決して笑ふべき舊式では無かつたのである。現在は既にそんなものゝ力は無く、笑はれても平氣、又結婚が出來なくても平氣で居るかといふと、實際は中々さうで無い。やはり仲間にはづれ(94)ると愁ふ歎き、又誤つたる人生の歩み方をする。群の力は現代に入つて更に強烈である。たゞ彼等の長老の如く、親切にしてしかも機智に富み、その上に衆人の微妙なる心理を解する術を練習し得たる者を缺くのみである。人を無力單純なる同樣式生物の如く認めて、之を前提として郷土の地理統計を算出しようとする類の學術を、教育者諸君までが眞の郷土研究だと思つて居られるやうでは、今度の運動も又々線香花火式を以て終るかも知れない。我々は何故にさういつ迄も、斯樣な無益の辛勞を繰返さなければならぬのであるか。

　他の學問には、其樣な停滯は先づ無いやうである。普通の人々には大體に知つて置くべきことがほゞきまつて居て、格別新たに加へたり訂正したりする必要の無い自然史ですらも、一方で學者の研究が追々に進めば、それに動かされて自然に子弟への教へ方も變つて來る。少なくとも眼の前の珍しい實例が捉へられ、話を聽く者には活き／＼とした印象が與へられる。早く大きくなつてもう少し詳しいことを、知りたいものだといふ興味が刺戟せられる。是だけでもういゝのだといふ考へを抱く者などは少ない。ところが歴史は大切な必須の課目として、早い頃からの教育に編入せられてあるのだが、其割には成長力が甚だしく弱い。尤も以前の世の中に比べると、丸々國史などといふことを考(96)へても見なかつた多數の少年少女で、さういふ名を知つて居るといふ者の數はたしかに激増した。しかし日常この人々の家の會話に、歴史の問題などの取上げられるといふことは、我々はまだ一度も實驗したことが無い。つまり普通の知識にはなり切つて居ないのである。さうして以前から本を讀んで居たほどの家々はどうかといふと、他にも學ばなければならぬ事が多い爲もあらうが、知つて居ることが非常に少なくなつた上に、國の歴史を考へたりする場合が、びつくりする程も昔よりは減じて居るのである。普及はしたかも知らぬが深みは全く無くなつて來た。專門家だけは多分進んで居るのだらうが、多數の所謂インテリなる者の過去に就ての知識は、自國に關する限り却つて半世紀前よりも少ない。うそだと思ふ人は何べんでも試驗をして見ることが出來るが、試驗をする迄も無く結果は既に現れて居る。二千六百年もあるといふ國の歴史の中で、我々の説いて居るのは合算して百年か百五十年間だけの事蹟である。そんな教へ方といふものがあるだらうか。歴史の教育は退歩したといふよりも、寧ろ門を開けたばかりで、まだ幾足も前へ踏み出しては居ないのである。

　然らば是からはどういふ風に道を附けるがよいか。それについて私には意見が有るのである。今まで學校で教へられて居る教授要項、是は至つて大切な事蹟であり、又感激すべき出來事であり、それを知らずに居ては活きて行けぬことばかりである故に、其一部をも省略して置くことは出來ない。もつと懇ろに、試驗の爲の暗記などで無く、家庭の常識にまでなり切つて居るやうにした方がよい。此頃兒童の繪本などが流行して、國民學枚の三年になるよりも前から、歴史を面白く樂しく知るやうになつて來たのは結構なことで、あれに今少しく世話を燒き、整理し又精確にし又誰にでも手に入るやうにしたら、自然に結果はさうなつて行き、或はわざ／＼もう一度教へなほす必要も無くなるかとも思ふが、もしそんなものばかりに信頼して居るわけにも行かぬとすれば、改めてこゝで一樣に、國家國民が今(97)日あるを得たことには、十分なる理由があり、貴き意思があり、偉れた計畫があり努力があつたからだといふことを、やさしい言葉で説き聽かせて置くことは、是は如何にも必要であらう。たゞ私たちが願つて居るのは、將來幸ひに家庭なり民間なりの協力によつて、少しでも童心の下染めが出來るやうになつたら、何とか教へ方を加減し餘力を利用して、之を今まで法外に輕く視られて居た他の部分、即ち歴史學の成長素ともいふべきものゝ養成に、振り向けるやうにしたいといふことである。時間を剰すことがもし六つかしくば、話の中程にも織り込んで行くことが出來る。又さうした方が效果は或は大きいかもしれぬ。とにかく學校の歴史といへば何度でも、同じあたりを行きつ戻りつして、聽手にちつとも新しい印象を與へず、末には固有名詞や年代の暗記に苦勞して、たゞ面倒な學科だなと思ふ者を多くするやうな教へ方は、單に現在にとつて損なばかりで無く、行く／＼大人をしてこの學問を粗末にさせる、一つの原因ともなりさうだから氣になるのである。

　歴史學の成長素などといふのは妙な言葉だが、或は單純に史心といふ方がわかりよいかも知れない。とにかくに是が一人立ちになつた國民の間に、この學問を接穗する臺木として役に立つのである。やゝ具體的にどういふことを教へるかを列擧すれば、第一に日本のやうな舊國では、歴史の領域が非常に宏大だといふこと、戸主が一ぺんも若死にをしなくとも、八十代又は九十代は、相續しなければ二千六百年にはならない。其間には嬉しいこと苦しいこと、大小の事件が幾らでもあつたらうが、それでも人間はよく働く者であつた故に、益々進展して繁り榮え、昔に比べると大きな又立派な國になつたといふこと、是だけはたとへ書いたものには明白に書いては無くとも、是非とも少青年をして推測せしめなければならない。其次には今日の世の中のさま／”＼の現象には、原因が無くて斯うなつて居るものは一つも無い。それが判れば説明となり、判らなければ疑ひとなり誤解となつて、或は我々を不安心な人にしたり、或は無益に苦悶させたりする。さういふ原因はすべて皆歴史の中にあるといふこと、是に氣づかせなければ實は歴史を普通教育になされた甲斐は無いのである。

　この原因は、今はまだ片端しか明らかになつて居ない。從つて人は勝手放題な想像を附けて、何も知らぬ者を迷はせようとして居る。歴史の信用は幾分か逆戻りしかゝつて居る時代とも見られる。だから急いで遠い將來に入用なものを、説き聽かせて置く必要も無い樣に見えるが、子供といふものは非常に聽きたがり、又尋ねて教へてもらつたことは格別によく覺える者である。何でも率直に疑ひを表明して、恥かしいと感ぜぬのも彼等である。さうして幸ひに又彼等の問ふことは、大抵は成人のたやすく答へられることであり、もしくは答へられない理由を簡單に答へられることのみである。斯ういふ年齡の頃に、問ふことの利益、それから又學問に對する敬意と信頼とを、強く鼓吹して置くことは、他の學課に於ては既に皆やつてゐる。獨り歴史ばかりが「是だけは心得置くべし」、永い歳月の間のたつた三十か四十の大事件だけを、教へ込んでもう是でよろしいと、突き放して居るらしいのである。歴史は廣漠たる深い海であつて、まだ／＼あの底には人間の大事な知識が、珊瑚眞珠のやうに潜んで居て探り出されるといふことを、想像せしめたばかりでも國の學問は進むと思ふ。今度の事變以來、科學に對して急に高まつた世の中の期待とても、根底はこの未知に對する想像力の成長に在つた。歴史は大切な學問だといふ人は多くなつたが、試みに何の爲に大切なのかと問ふと俗人は皆口を揃へて、偉人傑士の事蹟をしらべて模範とするやうにといふ風なことを答へる。そんな限定があつては學問は必ず變質させられるだらう。

　今日の歴史學が甚だしく傳記臭を帶びて居ることは、何人も既に心づいて居ることゝ思ふ。優れた人格、正しい人の出現といふことを考へて見るのに、一方に必ず世の滔々たる者が庸劣無能であり、又時としては惡者でさへあつたことを意味する。國運は駸々として曾て大いなる障碍は受けなかつたけれども、彼等が賢明だつたらあの樣な非運を嘗めるに及ばず、この一群がもう少しよき經驗を利用してくれたならば、もつと活?に國民の進路が開けたらうにと、(99)思はれるやうな時代は少なからずある。其證據には我々の敬慕するやうな偉人は皆苦しんで居る。たま／＼心のまゝに國の爲に働き得た人もあらうが、さういふのは却つてもう記憶せられても居ない。中央顯要の地位に在つて、名を青史に留めて居る人すらも此通りである。まして微々たる小社會に於て、人がおろかしく又は頑なであり、或は良き志を抱きながらも物を知らず、考へ深い友を持たなかつたばかりに、無用に同胞を苦しめ悲しましめ、又は弊害を次の世に殘したものも、一方には算へ切れぬほどあるので、それと更に他の人力を以て制御し難い原因とによつて、滿點を附けてよいやうな人世がいつまでも出現せずに居たのである。歴史は一言でいふならば國民合同の經驗であつて、國が久しい國ならば殊に利益の多かるべきものである。我々は之に由つてさま／”＼の災害を豫防するの途を見出すと同じく、昔の成功の跡を嗣ぎ、戒愼して前車の覆轍をくり返すことを避け得たのである。而うして人智には誠に缺陷が多い。耳に快く心を樂しくする出來事ばかりを拾つて、其他を忘れ去らうとすれば、久しい經驗の三が二は埋没し、鏡の半面は曇つてしまふのである。幼ない人々にはまだ之を説く必要を見ないといふならばよく判つて居る。しかし彼等には準備をさせなければならぬ。惑ひがある場合には歴史が教へてくれるといふこと、この信用だけは早期に養つて置かなければ、我々は終に求めずして過ぎてしまふかも知れない。是を齡と共に成長する學問とせぬ限り、普通教育の效果は、カテキズム以上の何物でも無いことになる懸念がある。

　誰でも知つて居る如く、歴史は元來常民の學では無かつた。用途は主として政治にあつた故に、政治が僅かな上流の人だけの事務であつた時代には、當然に之を利用する者も限られ、又この人たちの參考になることのみが多く傳はつた。昔を重んずる心は何人にも共通であつたが、諸職諸道の者は由緒を言ひたて、農民は開發の至つて古かつたことを説くだけで、中間の經歴を語ることは出來なかつた。書いた證據といふものを殘して置く途が無かつたからであ(100)る。文字の利用が少しづゝ普及して、彼等の讀み得たものは政治家の歴史だけであつた。所謂草莽の士が政治の意識に目ざめたのも、更に進んでは信仰藝術、生産交通等々の上にも、それ／”＼の歴史が無ければならぬと、考へ始めたのもその結果であつて、是は獨り我邦だけで無く、一般に十九世紀は歴史の時代だとさへ言はれて居る。人が昔を知つた爲に考へ深くなり、心が弘くなり且つ未來に關心をもつやうになつたのも世界的であつたが、さういふ中でも日本は特に顯著に、國史をよく學んだ者が最もよく働いて、短い期間に國を新たにすることに役立つたのである。しかしさういふ人の數も、最初はまだ少なかつた。それが愈々今日の立憲政體を創始なされるに就て、歴史を全く知らぬ者が、一人でも憲政に參加するやうではならぬといふ有難い思し召しから、之を普通教育の缺くべからざる一科目と、御定めなされることになつたのである。第一には日本が如何なる國柄であるかといふこと、次にはさま／”＼の障害厄難を突き拔けて、暫しもたゆまずに躍進する素質と、是に必要なる結合の力を持つて居るといふ自信、即ち正しい生存の途が昔から明らかに具はつて居ることを、人の説示に依らずとも自力でめい／＼が覺り得ること、是等は悉く歴史の賜物であり、同時に又新たなる共同生活の爲の、大切なる要件でもあつた。乃ち庶民も亦歴史を學ぶべき必要があることを、公けに認められたのである。

　今日はそも如何なる時代ぞといふ言葉、是が?々當時の論客の口に上つた。今でも時代の認識が不足だなどと、相手が我説を容れないとすぐに言ふ者があるが、それ程にも時代は認識し難いものであつて、しかも是が歴史を學ぶ者の、何よりも大事な目標であつた。過去の經驗が我々に役立つのは、言ふまでも無く?況の同じいか又は近い場合で、それをまちがへると應用はすべて誤謬になる。以前の世の變遷は徐々として居たから、先例を守つて居て安全な場合が多く、此頃の改まり方は餘りにも急激であつた爲に、一切の古い經驗は參考とするに足らぬ如く、速斷する人が多くなつて居る。實際はどんな時代になつても變りやうが無く、もしくは容易なことでは改まつてしまはぬ部分が必ず有るのだが、それを明らかに見定めることが、保守派にも革新派にも共に出來なかつた。其上に人の感情は偏し易い(101)もので、雙方片意地になつて今までは喧嘩をして居たのである。たゞ漠然と今はもう昔とちがふと謂つて、何でもかでも新しく計畫し、もしくは全く閲歴を異にした外國の例を、模倣しようとしたのは無茶であつたが、一方には又法則の既に全く改まつて居ることを無視して、昔ながらの計畫を立てゝ見たところが、期待する結果は得られる筈が無いから、自ら不明を證據立てることになつて、結局は損である。如何なる太平無事といふ世の中でも、時が何物をも變へずして進むといふことは有り得ない。殊に外形の最も耳目に觸れやすいものが、先づ新たなる文化の影響を受けるのだから、今日のやうな時代に「世の中は一變した」などと、速斷する者が有つたのも寧ろ已むを得ない。之に對してそんな筈が無い。現にこの點とかの點は古今を一貫して、少なくとも核心に於ては少しでも變つて居らぬといふことを、明らかに説き示すのも歴史教育の仕事であらうが、自分などは寧ろ反對の側から、個々の變化した事物を列擧して、其一つ／＼が如何に變つて來たかを確認せしめた方が、大體を知る上に於て效果が收め易からうと考へてゐる。同じ一つの國であり民族であることが、既に昔からのまゝなのである。新たなものばかりの印象が強いから、何だか非常な入れ替りがあつたかの如く感じられるが、よく見るとそれ程のことは無いのである。斯うして拾ひ上げ算へ立てゝ行くと、殘りの變らなかつたものゝ量も多く且つ重要であつたことが、却つてはつきりと判るだらうと思ふ。

　學校の歴史教育に於て、この根本の大きな法則、即ち生活は時世と伴なうて次々に變つて行くものではあるが、さういふ中でも永遠に變りやうのないもの、もしくは容易には變らうとしないものが幾らもあるといふことを學ばしめ、且つ必要に應じて隨時に之を辨別するだけの能力を、養はしめようとしなかつたことは誤りである。是は一見甚だ煩はしい仕事であるやうに見えるが、年の行かぬ者の常の日の質問、又は彼等の好奇の眼の色を見てもわかるやうに、實は此人たちはさういふ事ばかり知りたがつて居るのである。手短かにいふならば彼等には珍しい知識なのである。(102)程よく無理なしに順序立てゝ話して聽かせるならば永く記憶し、又行く／＼は類推を以て、自分でも尋ねて知るやうになる。さう長たらしい目録のやうなものを竝べて、暗記を強ひる必要などは無いのである。歴史は到底數千百年の出來事を、一目で見えるやうに教へきれるものでは無い。寧ろ古今の變遷は免れぬものであつて、それは後れ先だち又入り組んで、個々の時代を丸でちがつたものゝやうに見せるといふことが、印象となつて各人の頭には殘るのである。概括論に陷つて大切な傳統を見失はぬやうに、或は又其反對に因習の僕となつて、改良の機會に取殘されてしまはぬやうに、子弟をして各自の環境を意識せしむべく、昔の人たちも大きな苦心をした。文字の教科書などは一つも無い時代から、家庭では親や祖父母、郷黨では長老と立てられる人々が、何かの折を捉へては古い話をして聽かせる。多くは切れ／”＼の一小部面の問題であつたが、次々と積み重ね又綜合して行くうちには、おのづから時代といふものの觀念が之に由つて得られたので、是が又學校創立以前の、たつた一つの歴史教育の方法であつた。さういふ老人の話を一も二も無く、頭から若い者が馬鹿にするやうな氣風の始まつたのも、言はゞ新たなる機關に對する信頼からであつた。そんなくど／＼しい年寄の話などを聽かずとも、學校で立派に教へてくれられるからよいといふ考へが先に立つて居る。だから學校の責任は非常に重い。ほんのいゝ加減な型に嵌まつた學ばせ方をしては居られぬわけである。

　一方の太古以來の舊式教育とても、完全な方法だつたとは無論言はれない。それには餘りにも理論がなく、又目的の意識を缺いて居た。話者の偏見や誤謬がまじり易く、又しば／＼個人の感情が加はつて、昔自慢や當世嫌ひが、特に新進の反感を買ひやすい傾きもあつた。しかしそれも是も時代次第のことだつたと、私などは考へて居る。日本に所謂尚古趣味の盛んになつたのは、露骨に言ふならば國のやゝ衰へて居た時代のことである。たとへば江戸期でいへば中葉以後には、以前は人が重厚強健で且つ辛抱づよかつたといふ記憶がなほ新たで、眼の前には華美を好み智巧を弄する者が出て來て活躍するのを見せられると、つい兩者を比較して「今の若いやつらは」などといふ老人が多くなり、それが又口癖にもなるのである。所謂戰國時代の大亂がやつと平定して後、是から新文化の建設に取掛らうとし(103)た頃には、老人の夜咄を聽く風は盛んであつたが、しかも前代を讃美するやうな物語は却つて少なかつた。最近にも私たちの仲間では全國の村々をあるいて、多くの老翁老女に昔の話をさせて見たのであるが、奇妙に其中には古い頃の方が好かつたといふ者が無い。一ばん暮らしよかつたのは世界大戰直後、それから少しづゝ困ることが多くなつたとは言ふが、もう一度五十年六十年の以前に、戻して見たいといふ人などは殆と一人も無かつた。それ程にも著しく今日の生活は改良せられて居るのである。その一つ／＼を列擧する必要も無からうが、是を考へて見ようともせぬのは、結果に於て國の恩、大御代の惠みを忘れたことになると思ふ。過去の如何なる世の五十年百年を取つて見ても、その始と終とを比べて是だけの進歩、國民個々の生存の樂しさ安らかさの、是だけ大きく加はつた例は一つも無い。少なくとも物質文化の側では全面に皆進んで居る。戰爭は時の勢の止むべからざるもので、新たに我々の忍苦を要求して居るが、それすらもなほ國民の力の異常なる成長ぶりを證明する。だから今日のやうに聲を大にして時代の變化、今が昔でないといふことを、堂々と唱へ得る機會は有り得ないのである。それをしも閑却してたゞ村老の感想に委ね去り、歴史の教育はひたすらに國が大昔の日本のまゝであることのみを高調しようとするが如きは、それこそこのまのあたりの貴き御德澤を、輕んじ又ないがしろにする所業と言はなければならぬ。さういふ心得ちがひの無いやうに、常に用心することが今日は特に必要である。

　時世の變遷を好ましからざるものゝ如く考へる氣風は、私に言はせると是も一つの歴史であり、從つて又その史的原因がある。第一には此の如き咏嘆が、主として皇道の稍々振はなかつた時代に於て起つた。さうして佛道の末法思想が、著しく之を聲援して居るのである。其樣な概括の出來るものでないことは、現在が鮮かに之を反證して居るのだけれども、とかくに前代の文藝に感動した人の心は、意味もなく新たに生れるものを不安がるのである。第二の原(104)因としては、次々の變革が例外も無く國を朗かにするものばかりならば、危ぶみ又は忌み懼れる餘地は無いのだけれども、さういふ時代といふものは容易には期することが出來ない。さうすれば何れが喜ばしい變化であり、何が其反對であるかを見究めなければならぬのだが、其方法なり標準なりが、今はまだ明確に立つて居らぬのである。同じ一つの文化の新相貌でも、境遇利害の立ち別れて居るにつれて、或者は之を患ひ或者は之を進歩の兆として慶賀する。それから又若干の觀祭を續け、もしくは結果を見なければ、公社會に取つての利不利は決し難いものがある。之を決するのは結局に於て國民の事業であつて、少なくとも史學にはそれを裁定するまでの權能は無い。たゞ單に常人が未だ心づかざる前に心づき、もしくは彼等の見出し得ない原因を見出す能力がある故に、しば／＼其序を以て一社會人としての意見又は判斷を、披?して耳を傾けられたことがあるといふだけである。それが出來なくとも必ずしも耻ではない。寧ろ自分に其力が無い爲にわざと時代の變化を輕視し、或は其原因の追究に不熱心であるといふことが歎かはしいのである。

　私がこの一文に筆を執つた動機は、實はさう六つかしい理窟を述べる爲では無かつた。學校の歴史科にはもう少しはつきりと、世の中が今や著しく變化して居るといふ點を、たとへば教授要項の一部を省略してでも、教へ込んで置くべきだといふことが説きたかつたのである。是を知つた以上は何故にさう變つたかといふ疑問が必然に起る。それにはたやすく答へられるものもあり、又共々に永く學問を續けなければ、滿足する答を得られぬものもある。是が歴史といふ廣大な知識に對して、人の一生の關心を引付ける唯一の途であり、又今日のやうに歴史を專門の職業とせぬ多數人を、殆と無準備に世の中へ送り出すやうな?態から、連れ戻す方策も此他には無いと私は思つて居る。現在の生活諸相はよいにつけ惡いにつけ、必ずこの邦限りの原因があつて、それは「原因」だから必ず過去の中に在る。今までの知識ではまだ説明がしにくゝとも、尋ねて行くうちには早晩は判つて來る、といふ希望だけは是非とも若いうちに養つて置かねばならぬ。何れかといふと日本人は、歴史に對しては今は少しく見切りが早すぎる。

(105)　日本を世界中で話柄の恐らくは最も乏しい國、會話の最もつまらない國にしたのも、責任はこの歴史教育の限定に無いとは言へない。旅は面白いかも知れぬが見て來た者は一人、めつたに私も知つて居るといふ土地の話は出來ない。萬人共同の興味は毎日の生活だが、老人が見聞を語らず、聽いて印象を保つ若い人々が無かつたら、互ひに顔を突合せてわかり切つたことばかりをくどかなければならぬ。だから天氣の話がすめば忽ちめい／＼の健康を問題にし、少し時間がたつとすぐに人の蔭口になつてしまふやうな、いとはしい社會相が出現するのである。我々の話題を豐富にする爲に、文藝も音樂ももつと普及しなければなるまいが、その根底となるべき生活の常識が第一甚だしく狹く、眼の前の世相がいつの頃から斯うであるかを、知らぬばかりか訝らうとせぬ者が多いのである。しかも話を上手にするならば、欣然として耳を傾ける者が澤山に爰に居る。歴史を古くさい暗記でしか覺えられない知識とするのも、それを又人生の好話題にするのも、要はたゞ少しばかりの方法の加減だと思ふ。明治は文化の激變した時代である故に、新たに生れた事物は少年にも算へ立てられると共に、大人にもなほ見落してしまふものが幾らもある。石井研堂さんの事物起原といふやうな著述は、まことに親切な且つ讀んで愉快な本だと思ふが、自分等はなほ他の一方の側面、即ち以前は有つて今は全く無くなつて居るものを、近いところから段々に氣をつけて行くことが、過去を現代と繋ぎつける大切な方法かと考へてゐる。この話が又山ほども打棄てゝあるのである。

　自分の計畫は、最初はその類の雜話を竝べて見たかつたのである。僅か半世紀ばかりの狹い經驗の中にも、既に世人が省みず、本にも書き殘されずに忘れようとして居るものゝ多いことを、例を以て話して見るつもりだつたが、それでは又長くなるから今度は見合せる。諸君が恐らく想像もし得まいと思ふことをたつた一つだけ、是は散歩に出ればもとは毎日でも遭遇する光景であつた。大體に子供はいつの間にか非常に美しくなつて居る。頭にいやな皮膚病が無くなり、蟲も居らず、着物や顔手足の汚れて居る兒が、どんな場末に行つても見られなくなつたが、それが只この二三十年來の變化であつた。それよりも著しいのは子供の長泣き、涙をこぼすことは今でも無くなつたらうとは思は(106)ぬが、大きな聲を揚げていつ迄も泣いて居るのを、人が構はずに置くといふ風は、もう捜しても見られなくなつた。以前は旅行をすると是が氣になつてたまらなかつたのである。新しい文化が斯ういふものにも影響して居ると思ふ。無論是を以て彼等の幸福の尺度とするわけには行くまいが、泣くといふことは元來言語表現の障碍を意味する。だから赤ん坊が一ばん多く泣き、大人は大抵は罵りを以て之に代へようとするのである。その罵る聲も今日は大分少なくなり、又非常に手短かになつて來た。子供は今でもまだ十分に國語を利用して、複雜な感情を表はして居るとも思はれぬが、それでも泣いて表現せずに濟む場合が、段々と多くなつて居るものと察せられる。斯ういふ少しづゝ考へさせられる世の中の姿を注意して、自然に新文化の有難味を會得させることは、やらうと思へば出來る人が幾らも諸君の中には居る。たゞ諸君はまだそれを勉めないのである。改良しなければならない。

　我々が始めて歴史のよい學問であることを知つたのは、今少しく以前の、日本外史などが出た頃からでありますが、斯ういふ書物を讀んで面白くて膝を拊つやうな者は、一村に精々二人か三人、それも戰國時代から織田豐臣德川の頃までもずつと讀み通した人は、又一段と少なかつたのであります。まして其知識が維新以降の最近世史にも及び、其一端が我々の毎日讀む新聞と續くやうになるなどといふことは、古い史學の想像も及ばなかつた變化でありまして、是は悉く明治の御代に御定めなされた普通教育制の新産物であります。かりに新舊の文化が現今の如く入り交り、其間の矛盾と牴觸、又は表べばかりの調和などの諸弱點が、片端から人生の疑問となつて、我々を迷はしめる世の中で無かつたところで、人が原因を過去の沿革に求めなければならぬ問題が、年を逐うて多くなるのは自然の結果であり(109)ます。我々が國史の價値を重んずれば重んずるほど、是に向つて多分の信頼を繋け、何でもかでも事いやしくも此一國の過去に屬する限り、歴史ならば此疑問に答へてくれるであらうと思ふのは當り前であります。勿論この新たな歴史教育の御蔭を以て、大きな大切な、日本人として是非知つて居なければならぬ事蹟だけは、幸ひに惑ふ所無くよく判りました。此上はめい／＼共の小さな疑問、少なくとも千人二千人三千人の國民が、共々に訝かり迷うて居ることを、どうか歴史によつて教へてもらひたいといふ希望は、おのづから湧いて來ざるを得ぬのであります。平たい言葉で申しますならば、極めて貧しい者、昔ならば數にも足らぬと謂はれた人々にも、やはり彼等の體驗の上から、囘顧せざるを得ぬ國史があるといふことが心づかれたのであります。それと同時に近年頻りに唱へられ始めた普通教育の實際化といふ世論は、是に携はる限りの若い教員たちの間に、如何にすれば歴史の科目に於て、その新たなる要求に答へられるであらうかと云ふ點に、思ひ惱む者を多くしたのであります。

　それは或は幼少なる者の六年の小學期間に、説いて聽かせ得るやうな手輕な詣でない、といふことは出來るかも知れませぬが、究極に於て史學は必ず之に答へなければならぬのであります。今日我々の目の前の社會現象で、遠く又は近く、其原因を斯邦の過去にもつて居らぬといふものは無いからであります。歴史の學問より他には、之を明らかにし得るものが無いからであります。今はまだわからぬ、答へることは出來ぬといふことは、如何に進んだ數學にも化學にでもあります。現在問はれてもまだ答へが出來ぬといふことは、其研究の今後尚大いに進まなければならぬ理由にはなりますが、是を以てさういふ難問を史學の管轄の外に押出さうといふ言ひ前にすることは許されませぬ。將來の史學を其樣な不自由な、同じ國の過去の事實でも、手を出すことの出來ぬ部分があるといふ樣な、限られたる役目しか持たぬものにすることは、私どもには考へられぬことであります。それ故に今までの記録引用の方法以外に、(110)別に新たなる材料と手段とが、案出せられなければならぬと我々は申すのであります。

　さうして其方法は、既に追々と見つかつて居るのであります。考古學の如きも確かに其一つと言ふことが出來ます。たゞ是はまだ大分遠慮をして居りまして、試みるならば出來るかも知れぬに拘らず、中古以後の新しい時代の問題までは降りて來ようとせぬのであります。從つて古い／＼大昔の事、特に只好事なる少數一派の人々の、史心にしか答へを與へないのであります。それでも明々白々になりましたことは、假令一片の文字も留めて居らぬ或土木工作の跡とか、石の矢の根とか土器のかけらとかいふ類の物に由つても、爰にはいつから人が居たか、その人々が何をして暮らして居たかといふやうな、疑問だけには答へ得られるといふ經驗であります。斯樣な遼遠の昔すらも、なほ追々と判つて行くものとしますれば、ずつと手近の、しかも我々の知りたがつてゐる近世の歴史の如きは、更に一段と知り易い筈であります。記録の備はらぬといふことだけで、失望するには及びませぬ。探せば此外にもまだ色々と新しい種類の史料はある筈であります。と申すよりも既に大分見つかつて居るのであります、先づ第一には我々の容貌體質や言葉、是等も何物をか語らうとする記録であります。それよりも一層具體的なるものは、我々國民の大多數の現に日毎に示して居る生活ぶり其もので、是が先づ利用せられてよい文字以外の史料だと、私たちは信じて居るのであります。

　世の中の變り目と申すものが、もしも屏風などを折返すやうに、國内そつくりと一ぺんに改まり切るものでありますならば、前代の痕は殘りませぬから尋ねて見やうも無いのですが、我々の生活ぶりは後れ先だつて居るのであります。日本のやうな地形の變化に富み、島もあり岬もあり、谷あひもあるといふ國でなくとも、都府から遠くなつて行くほどづゝ、新しい文化に附いて來る歩みが遲くなります。その數多くの例を竝べ比べて見ますならば、世が改まり(111)生活方法の變つて參つた足取りもほゞわかり、さうして向ふの一端は今もまだ可なり古い處に、止まつて居ることが明らかになります。此頃説明の一つの例に引いて見ましたのは、「松の火」のことであります。人はもう全國が皆電燈になつたやうにも思ひ、實際町方では買はうと思つても洋燈などはもうありませんが、それでも捜して見ますと隅々にランプ・カンテラを使ふ土地があるだけで無く、段々順を溯つて東北の或村には、今なほ多數は松燈蓋と申しまして、爐の一隅に枝のある木を立てゝ、其上で松の割裂きを燃して、明りを取つて居る處があります。關西ではこの照明用の松の脂分の多いところをコエマツと申しました。私などの少年の頃までは、小家では貯へて置いて之を手燭などの代りにしました。東北と九州の端々ではアカシと申すのが、此松のことであります。關東一帶に是をヒデと申しまして、それを燃す爲に用ゐたヒデ鉢といふ石の器が、近い頃まで幾らも殘つて居りました。誰が見ました所で、竹ボヤ丸芯のランプを罷めて、種油の行燈にかへ、更にヒデ鉢に進んで來たなどと思ふ者はありませぬ。さうすれば單に是だけの生活ぶりを見比べただけで、既に何等の記録も無い日本照明史の、數百年の經過がほゞ判るのであります。衣服建物食べ物のやうな、人眞似のしやすく改めようと思へば改められますものさへ、斯うしてたゞ何と無く元の習はしに止まつて居るのであります。ましてや比較の機會も無く、流行も全く目に立たぬ我々の氣持、心持、さては古風な信仰といふやうなものが、さう早速に統一せられてしまはぬのは當然でありまして、是とても何れは消え變つて行くにきまつて居りますが、今ならばまだ是を尋ねて細かに比べて見ることによつて、所謂昔風の今風になつて來た經路が、大よそは突留められるのであります。

　しかも御承知の通り、田舍の問題が今日はもう國の問題になつて來て居ります。東西の各府縣を一貫して、陰慘を極めたる農村衰微感があり、數百萬家の農民は大と無く小と無く、前途に向つて若干の不安を抱いて居らぬ者は無いといふ有樣であります。何故に斯うなつたかといふのは既に一國の疑問であります。是に對しては人が問ふより以前から、答へを與へようとする者が輩出しましたが、彼等の意見には概ね獨斷がまじつて居ります。史學が今まで社會から價値を認められて居るやうな、最も安全なる證據から歸納して、原因を明示したものではないのです。單に聽く人の強ひて反對せず、又は寧ろさう信じたいと望んで居る方角へ、所謂歴史の斷案を持つて行かうとする者であることは、舶來の新説も國産のものも、決して甲乙は無いのであります。我々が時を費して詳しく調べて見ましたとても、或は不幸にして是と同じ結論に達するに過ぎぬかも知れませぬが、多分さうだらうでよい加減な腰だめをするわけには行きませぬ。我々としては兎も角も歴史を明らかにし、原因を指摘しなければならぬのであります。從來の文獻主義だけでは、是を右とも左とも斷定することが出來ぬかと思はれます。學者がそれを正直に告白しないのはまだ恕してもよいのですが、今は寧ろやゝ一般の信用を奇貨として、史學としてはさうは言はれない斷定まで、試みようとする人があるのです。警戒しなければならぬ風潮だと私は感じて居ります。

　斯ういふ大小の事柄の變り改まつて來たものゝ中には、既に多くの人に心づかれて居るものと、まだ誰にも知られて居らぬものとがあります。現在我々によつて不審とせられ、理由を知るに苦しむと言はれて居りまする諸問題は、必ずやこの未だ注意せられざる世相の中から、答を發見せらるべきものであります。少なくとも捜すならば必ず其方面に力を傾けなければならぬと思ひまして、昨年の春以來我々の仲間では、日本學術振興會の補助を受けまして、既に十數人の篤志な人々を出し、府縣の最も世に現はれざる山村を、三十箇處近くも視察してもらつて居ります。以前の調査はたゞ通りすがりの見聞を主として居りましたのに反して、このたびは二度三度と同じ土地を訪れ、半月三週間の日子を、狹い區域の中で費すことに致して居ります。是が明後年で終りますれば、其次には孤島を見にあるく手配になつて居ります。斯うして互ひに全く懸け離れた隅々の僻地に、共通して今も遺つて居るのが、一つ前の時代の生活ぶり、もしくはその壞れ殘りだと我々共は想像して居るのであります。勿論一通りや二通り是を比較して見ましたところで、まだあらゆる當今の疑問に對して、悉く明確な答を與へ得るといふのには程遠いのでありますが、さういふ中にも段々に判つて來ることはあります。諸國一樣の一つの傾向とも認められますことは、以前あつた平民の結合力の解體と、もとの組織のやゝ亂暴な改造であります。一つの部落に住む人々を繋いで居たユヒとモヤヒ、講と組、もしくは是と對立して働いて居た門黨制度、マキとかアヒヂとか申すものゝ約束は、所謂新しい村ほど弛み又は變つて來て居ります。農民が此頃急に孤立の心細さを感じ出しましたことが、是と多少の關係のあることだけは推測して(114)よいのであります。歴史家は必ずしも尚古派ではありません。以前備はつて今缺けて居るものが假に發見せられませうとも、早く適切なる新しい代りを見つけようといふ説も起り得ますし、又其方がよい場合もあり得ます。復古はたゞ一つの政策といふ迄で、是を決するのは國民の別の任務であります。史學は其樣な對案までを管掌すべきものではないと思ひます。しかし兎に角に斯ういふ大切な事實だけは明らかにして、之を同時代の爲政者の參考に供すべき職分だけは有ると存じます。故にもし今までの歴史の方法だけでは、其職分が遂げられぬとなりますれば、當然に第二第三の試み、即ち我々どもの謂ふ民俗學の方法にも學ぶべきだと思つて居ります。

　幾つともなき現實の試驗問題、即ち私たちの方法に依らなければ、この成績が擧がらぬかどうかを、判定なされる手段といふものが、皆樣の目の前に横たはつてゐるのであります。たとへば現政府とその同情者たちの、目下主力を傾けて何とか始末しようと思つて居る選擧肅正の問題の如きもその一つであります。よその國にも少しづゝは、不正投票の行はれるらしい話を聽きますが、斯樣に朝野總がゝりを以て、その退治の策を立てる必要のあります例は、私などは少なくともまだ耳にして居りませぬ。是はそも／＼如何なる原因、即ち如何なる國史の致す所でありませうか。假にも此學問の片端に携はるほどの人々は、國の面目にかけてもその由つて來たる所を囘顧しなければなりませぬ。もしも滿足に説明し得られる理由もないと致しますれば、現代日本人は氣ちがひにも劣つた無法者といふことになりますので、後世子孫の思はくは勿論、周圍を取卷く文野さま／”＼の外國に對しても、まともに目を開けては居られぬほどの恥がましさであります。私などは學生の頃に、佛蘭西の文人ピエル・ロチといふのが東洋紀行を公けにしまして、其中に、「日本まで憲法政治を始めた」と書いたのを見まして、非常に腹を立てたことがあります。歐羅巴の人たちは物いふことが自由で、あの當時はまだ幾人も、彼と同じ樣な批評をした者があつたやうであります。今ならば此(115)言葉は、他に何とでも解釋しやうが有るのでしたらうが、私たちの如き政治科の學生は、是をさも／＼「半開人種のくせに」と、言はれたかのやうに口惜しがつたのであります。國の歴史や境涯によつて、西洋と同樣な政治組織が、何等の障碍無しには實現し得られない場合がありましても、それは些しも不思議なことでは無いので、從つて日本が果してこの外國の流義に倣ふだけの、條件を具備して居るかどうかを、もう一應考へて見るべき機會が曾ては確かにあつたのです。がしかし今に及んでは代議制は既に儼乎として動かすべからざる現實となり切つて居るのでございます。如何なる方法を盡しても、憲法の御趣旨には則らなければならぬことは、申す迄も無いことであります。たゞそれにつけても深く感じますことは、この日本の大御國ばかりが、どうして今になつて選擧肅正といふやうな問題の處理に惱み苦しまなければならぬかといふ不審であります。何はさし置いても此點を、一つの問題としなければなりません。さうして一方には又、少なくとも此原因を明らかにした上で無いと、肅正の方法も立てられぬのであります。熱があるから熱さましを頓服させる。腹が痛むから鎭痛剤を注射するといふ類の對症療法だけでは、健康は取り戻せぬのみか、再發も防ぐことは六つかしいのであります。原因は必ず此國の過去に在ると思ひます。假に近頃外から入つて來たものにかぶれたとしましても、かぶれたのは日本人であります故に、私はこの過去の事實と原因は、當然に國の史學の管轄すべきものだと思ひますが、皆樣の御判斷は果して如何でありませうか。

　この不思議の世相を解説せんとするには、やはり先づ第一段に、今まで是を黙過し來つた事情といふものを注目しなければなりませぬ。是が即ち私などの申す日本の最近世史なのであります。明らかに法令の違犯であることを知りつゝ、本意で無い投票をします者にも、實は幾通りかの階段がありまして、右から左へ金と引換へといふ者よりも、頼まれて據ろ無くといふ者の方が、遙かに多いらしいのであります。さうしてその後者の中にも、匿せば隱さるゝと(116)思ふ者や、何とでも口賢く取り繕へると思ふ者以外に、誰でもすることだから、又は世間の習ひだから、強ひて自分ばかり堅苦しく振舞ふには及ばぬと、考へて居るらしい者が最も多いので、それが又一番怖ろしいのであります。今度の所謂肅正標語の中には、「金で賣るな」の一句と竝べて、「義理に負けるな」といふのもあるといふことを聽いて居ります。事實この節では現金で授受をする者ばかりを、押へて居たのでは目的は達すまいと思はれますが、さて斯うなつて來ると我々は、又忽ち非常に六つかしい問題に突當つてしまふのであります。といふわけはこの「義理」と呼ばれるものが、日本ではまだ一つの貴重なる道德であるからであります。もし假りにこの同じ「義理」といふ言葉の中に、國に害あり世道人心を誤らしむるものが、潜みまじつて居ると致しますれば、我々は何をさしおいても、正しい義理と憎むべき義理との間に、截然たる分堺を立てる必要があるのであります。あの人には義理がある故に頼まれたら斷るわけには行かぬと申して居る者の中には、平生利を以て懷柔せられて居る者、殊に何年に一囘來る選擧の日の用意に、日頃から下心あつて恩誼をかけられて居る者、下品な言葉で申せば、飼ひ付られて居る者があるのであります。是を豫め禁制することが出來なければ、どんな綿密な法令訓諭がありましたところで、少しく巧妙な奴は皆洩れてしまひます。即ち均しく日本男子の「義理」と名づけて居るものゝ中にも、斯樣なけしからぬ、幾らでも惡用し得るものがあるといふことを、明白にして置かなければならなかつたのであります。

　この間題は大きく申しますと、法律と道德との牴觸でございます。近世は固より大昔の世から、我々は是が爲に惱み拔き、又考へ拔きました。しかもまだ少しでも解決が付いて居りませぬうちに、斯ういふ複雜な御時勢になつてしまつたのであります。法治國といふものになる前には、日本に限らずどこの國でも、法律よりも社會倫理に重きを置きました。人を殺して逃げて來た者を匿まつでも、なほ義人と言はれた場合すらありました。最も極端の場合は親と子との間柄で、父が重惡の罪を犯したといふときに當り、其子は是を秘し隱すのが道でないか、と申すことは?々假想の問題となりました。直きこと其中に在りなどと、聖人さへも甚だ不正確なことを言つて居られまして、現實にそ(117)んな事例が不幸にして起れば、如何なる人でも迷はざるを得ないのであります。是を選擧の場合にあて嵌めて見ますと、父が誤つて或醜惡漢に投票せよと子に命じます。金銀などにはよりませぬが、兎も角に其候補者が風上にも置けない人物なることを、子は十分に確信して居るのであります。さう言つた場合が假にあつたとして、その父の命に背くといふことは、今でもまだ正當とは認められて居らぬのであります。しかし幸ひなことには、其樣な義理は日本には餘り生じませぬ。少なくとも一家のうちの政治意見は、若い者の説の方に統一せられる傾向をもつて居るからであります。たゞ一つ甚だ困つたことには、この從順の道德が、我邦では別に多くの生みの親子に準ずべきもの、即ち所謂假の親子、義理の親子の間柄にも推し擴められて居りまして、それが立憲政治普通選擧の世に入つても改まらぬのみか、既に政治の實際の上に、濫用せられて居ることであります。

　其次に今でもよりく名を聽きますのは仲人親、是はずつと新しいものかと思ひます。日頃互ひに心安く、内の樣子を知合つて居る間の縁組には、入用の無い役目だつたからであります。以前は京都の上流の婚姻にでも、使や橋渡しはあつても、今見るやうな仲人は全くなかつたのであります。仲人の必要になつて來ました原因は、主として貰ひにくい嫁、即ち實親の不承知をなだめる役としてでありました。村の内で大よそ釣合ひのとれた婚姻をして居りますうちは、仲人といふ名はあつても小さい役でありました。それが遠方の名のみを聽いた家から嫁を迎へるやうになりますと、追々と仲人に多く働いてもらはねばならぬことになり、家格の差等その他個々の好みが強くなつて、一方の望むやうな縁は他の一方が進まぬといふものが多くなり、其取結びに有力なる仲介者を要することになつたのであります。親に準ずる仲人が出て來たのは其頃からのことで、今では事實話が纏まつてから後に、名のみの仲人に名望ある人を頼み、それを直接盡力した者よりも大切にし、一生の親とあがめる風もあります。都會では御承知の如く今日過半が是で、斯うして子分の多くなるのを樂しみに、欣んで婚禮の式を主宰する老人も多くなりました。斯うなると寧ろ烏帽子親の方に近いのでありますが、田舍の仲人親には若い二人に同情して、親々を説き付けるといふ本式のものも、まだ相應にあるらしいのであります。

　宿親といふものが、以前は此役に村方では當つて居たやうであります。宿親は即ち若者宿もしくは娘宿の主人でありまして、生みの父母には教へ難い男女配偶の問題にも、正しい意味に於ての指導を致して居たからであります。若者宿もしくは若連中といふものにも、古くから二通りの種別がありました。一つは仲間の最年長者を頭にした自治體でありますが、今－つは右の宿親を上に戴いて、是に教育して貰ふオヤコ組織で、此方では若者組に加入の際に、親(121)子の盃をもしたやうであります。目的は是も青年の兄弟契り、即ち共同の假親をもつた義理の兄弟どもの、仲間の助け合ひが主であつたらうと思ひますが、是を有效ならしめる爲に親が上に居て勢力を持して居たのであります。この契約の親子制は、今でも可なり濃厚に行はれて居る地方がそちこちにあります。東京の周圍では山梨縣などがその一つで、宿はもう利用しなくなつたものも多い爲に、是のみを略して親分子分と謂つて居ります。名前は何とありましても、何れも父子に準ずべきものと認められた義理のオヤコの一種でありまして、是には日本限りの定まつた義理、言はゞ特殊の孝道があるのであります。

　但し古くから引續いてあります假の親子では、二三の例外を除いて、他は多くは手輕な附合ひになつて居りまして、たゞ自分の婚姻や初子祝に其親分を案内せず、彼が死去した時に通夜をせず棺側に附かず、又は盆節供に挨拶に來ず、正月に鏡餅を贈つて來なかつたやうな場合のみに、あれは義理を知らぬやつだと評せられるばかりで、親分の方からは來た日に酒を飲ませる位より外には、別に何といふ仕向けも無いのが普通でありますが、土地によりますと是が一つの勢力とも認められて居りまして、常から目をかけ世話をし相談にも乘つてやる代りに、一朝入用があれば其一令の下に、何でもする何でもさせるといふ、暗黙の約諾のあるものも少なからず、其中には始から計畫があつて、努めて此關係を廣く結んで置かうとする者があるのです。地方の顔役乃至は名望家などと呼ばれる人々には、隨分と斯ういふ人造の且つ打算的なる親分がありました。其子分の若干數を糾合し是を利用し得る?態に置いてあることを、選擧の万では地盤などと申して居るのであります。

　次には是から又岐れたかと思はれる一種の親分もあります。武家ならば客分に當るもの、即ち他所者が來て落付く時に後楯になつてくれる親で、田舍では普通に草鞋脱ぎ場、又は濡れ草鞋ともいひ、そこの親分をワラヂ親などと申しますが、大都會の如く諸國から色々の自由勞働者、即ち何をしてでも有附きたいといふ者の集まつて來る場所では、必然にこの親子契約が發逢したのであります。私などは假に此等のものを總稱して、寄親と寄子と呼ばうとして居ります。戰國時代の武邊稼ぎ、即ち今ならば傭兵と謂ふべきものも、此中に屬して居ましたことは、與力といふ妙な宛て字が之を推測せしめますが、後には只下級の筋肉勞働者に限られ、其人足の親分の事蹟のみが、人入れ稼業などと稱して、小説や講談によく現はれて來ます。さし當つては別に是といふ勞働需要は無い場合にでも、どこか氣性に見(123)どころのある若者は、一年でも二年でも只養つて置くだけの、覺悟のある者がこの親分になりました。即ち支那で謂ふ遊侠であります。養はるゝ者も深く其恩誼を認めまして、彼等獨特の義理を磨きます。さうして一朝親分の指圖とあれば、水火をだも辭せぬのであります。今日でも寄場の人足の小頭などの中には、命令せられて人を殺しに行く者さへあります。親分の最も腹の大きいのになりますと、知りつゝ惡者でも抱へます。遊ばせて置きます故に自然に博奕を打つだけで、もとは決して博徒だから子分にしたといふわけでも無かつたやうでありますが、いつの間にか人を養ふ入費まで、博奕の上りを當てにするやうになりまして、侠客の面貌が又一つの變化をしたのであります。中には心掛のよいのも居りましたらうが、多くは惡いたくらみがあつて子分の數を増し、義理で責め立てゝ國法に背くやうな所業までをさせる者が出たのであります。日本人はもと世界にも稀なる義人國、義に勇んで身を顧みざる壯烈なる多くの若者を出すので、著名なる國でありました。しかも導くに其道を以てしませぬと、僅か百年五十年の間にでも、此樣な名分を解せざる者が、半ば公然と横行するやうになるのであります。選擧肅正の必要が一般になるといふのも其弊の一つで、是には同時代の我々は、連帶の責を逃れることが出來ぬのであります。

　白柳秀湖氏の親分子分史は、まだ詳しくは讀んで居りませぬが、主としてこの近代都市に於ける事態を、よく推究した書物のやうであります。人に昔ながらの伴をなつかしがる情と、一方に又孤立獨行し難き世相とが有りまする限り、何等かの集結手段に出ようとするのは自然であり、それには又新たに考案し出すよりも、古來國に傳はる一つの制度を利用して、出來るだけ容易に平生の志を遂げんと努めますのは、少しでも無理な仕事ではありませぬ。思ひ切つた比較をしますならば、我々が後進の篤學者を庇護して、新しい學問に到達させようとしますのも、皆樣が各々有爲の青年を扶導して、早く其才能を伸べさせようとなさるのも、幡隨院も國定も、本來は異なる道では無いのであり(124)ます。義理の法則に若干の誤謬、乃至は曲解のあるか無いかによつて、此運用の當不當は決すべきであつたのであります。本來義理は子方の側に於て、平心に去就を決すべきものであり、又第三者の地位に在る者が、彼等を支援して其節を全うせしむべきものでありました。それを親とある者の方から追究しようとしますと、往々にして越えてはならぬ藩籬を越えることになるのであります。それも盆の素麺とか正月の鏡餅とかを、當てにして居る位のうちは無事ですが、わしには平素目を掛けて居る者が何人ある。わしが頼むと言へば、右でも左でも向く筈だなどといふことを自慢にし、もしくは後でするだけの事はしてやるからといふ類の、暗黙の諒解を續けて居るやうでは、たとへ法令の力で錢の音を聽かぬまでにしましても、選擧はなほ費用の多少の問題であり、從うて他日の請托とか運動とか、又は是を何とか決算したい爲に、餓鬼の如く政權の把握にあせる者を、防止することは出來ないのであります。國法が必ず社會の公倫理と一致すべきものなることを、先づ考へなければならぬ人は上層に居ります。是を各個の小選擧民に責めることは無理であります。彼等は義理知らずと罵られてまでも、尚一人ばかりで毅然として正義に就くほどの力は無いのであります。たゞこの古來の因習の中に卷込まれて、是といふ意義も無いのに惡い親分を作り、知らず識らず國の不爲になることをして居たのだといふことを正しく知らせたら、今後はさしたる必要も無い場合にまで、あんな不健全なる牢獄を設けて、自ら其中に囚はれるやうな者が、或は稍々少なくならうかと思ふだけであります。

　我々の心付きましたこの積弊の因由が、幸ひにして誰が檢討して見ても誤つて居ないと決しますれば、是によつて選擧を肅正するのは寧ろ容易であります。國民は幸ひにして明敏であり、又推理と判斷に長じて居ります。單に私が申述べただけの事實を、最も平易に讀み易く記述して、歴史として一讀せしむれば十分であります。それ故に此の如く考へよといふやうな教訓までは附加するに及ばぬかと思ひます。是だけの過去の沿革を知りさへすれば、其上は彼等自らの思慮によつて、自己の行爲を指導させるのが、却つて同胞の自重を促す道かと思ひます。假に彼等が義理といふ日本の道德の、目下甚だしく紛亂して居ることに驚いたとしますれば、義理の研究は乃ち大いに起ることでありませう。選擧も亦彼等自らの道德心を點檢する、一つの愉快なる練習の機會になるかも知れませぬ。神でも無い者が、子供でも無い者に教訓しようとするのは、僭越な話であります。それでは何の爲に國史を全國民の普通教育の一科目と、御定めなされたかの本然の御趣旨が、不明に歸するだらうと思ひます。

　此方法は今僅に民間に起りかけて居て、人は之を英國風にFolkloreなどと呼んで居る。一部には之を民俗學と唱へる者もあるが、果して學であるか否かほ實はまだ裁決せられて居ない。今後の成績によつて多分「學」と謂ひ得るだらうと思ふだけである。而もさういふ人たちの中には、專ら其任務を茫洋たる古代歴史の摸索に局限(130)しようとする傾向が見えるが、之に對しても自分は別な考を持つて居る。其一つは古代史にして尚此方法に由つて究め得べくんば、新代史は愈々其望みが多からうといふこと、遠き上古にすら之を應用する必要があるならば、近くして更に適切なる現代の疑問にも、是非とも試みて見なければならぬといふことであつた。今一つは正反兩樣の證據の共に示し難く、たとへば日本人は希臘より來るといふ説までも、成立つたり濶歩したりするやうな區域に於て、この無敵の劍を舞はすことは、何か巧妙なる一種の逃避術の如き感がある。だから邪推をする者には故意に事實の檢閲を避け、推理法の當否を批判せられるのを、免れんとする者の如く解せられるので、是はこの新たなる研究法の信用の爲、可なり大いなる損害と言はなければならぬ。それを防止する爲にも自分は今一方の片扉を、是非とも押開く必要があると思つた。それでこの一つの機會を逸すまいとしたのである。

　そこで結局は此以外のものゝ、現に讀者も知り自分も知つて居るといふ事實を、唯漠然と援用するの他は無かつた。努めて多數の人々が平凡と考へ、そんな事があるかと言はぬ樣な事實だけを擧示して、出處を立證せずに濟むといふ方法を採るの已む無きに至つたのである。今少し時日があるなら標本を作ることは出來たのであるが、さうして見た處で唯分りきつたことを、丁寧に述べるといふ結果にしかならぬ。此點が將來何とか考へて見なければならぬ問題で、兎に角に最初の計畫は爰で頓挫した。新聞は勿論無限の暗示であつたが、直接の資料として引用し得たものは唯僅であつた。その他の資料も餘りに同時代人の熟知して居ることを、異國後代の讀者に書送るやうに、くだ／＼しく記述する氣にはなれなかつた。もう一度自然史と比照することを許されるならば、かの方面では松とか笹とか雀とかいふやうな朝夕見馴れきつた物でも、丁寧に其?態を敍説すると、精密だと評せられるまでに學問は進んで居る。これに反して從來の世間話から僅に一歩しか進んで居ない世相研究に於ては、もしもそんな事をすれば馬鹿々々しいと謂つて、耳を傾ける者が一人も無くなるであらう。自分が此著に於て幾分か論評式の筆を遣つたのは、斯うでもしなければこの有りふれた世上の事實に、改めて讀者の注意を惹くことが出來ないからの窮策であつて、決して資料の乏しいのを補はうといふ爲では無かつた。資料は寧ろ過多といふまでに集積して居た。たゞ方法が拙ない故に甲乙丙を分類比較して、その進化の徑路を一目に明瞭ならしむることを得なかつただけである。それが出來ないといふのはフオクロアとしては失敗である。

　以前も世の中の變り目といふことに、誰でも氣が付くやうな時代は何度かあつた。歴史は遠く過ぎ去つた昔の跡を、尋ね求めて記憶するといふだけで無く、それと眼の前の新しい現象との、繋がる線路《すぢみち》を見究める任務があることを、考へて居た人は多かつたやうである。ところがその仕事は、實際は容易なものでなかつた。この世相の渦卷の全き姿を知るといふことは、同じ流に浮ぶ者にとつて、さう簡單なる努力では無かつたのである。鴨の長明とか吉田兼好とかいふ世捨人は、確に自分ばかりは達觀することが出來たやうであるが、まだその方法を教へては置かなかつた。我々は新たに之を學ぶべき必要を感ずるのである。全體に物遠い法則を假定してかゝり、もしくは込入つた調査を計畫するものは、大衆にも向かず、又いつも次から次への變化には間に合はぬやうな憾みがある。何か此以外に今少しく平明な、誰でも入つて行かれる實驗法があつて、段々に歴史を毎朝の鏡の如く、我々の生活に親しいものとすることが出來るのでは無いか。それには先づ色々の樣式を試みて見なければならぬ。江戸が始めて東海の滸《ほとり》に生れた頃、時代は當然に亦一つ廻轉をしようとして居た。久しい兵亂に倦み切つた日本人は、均しく目を瞠つてこの若い平和の都府の新しい世の姿を視(134)たのであつた。多くの文人が筆を載せて、その間を往來して居た中に、或一人は奧州の田舍者の江戸見物に托して、吾妻廻りと題する小さな一册の觀察記を書いて居る。勿論、三百年前の人の心持は、今思ふとをかしい程に悠長であつた。當時關東に於て流行るものは何々、庭木には椿の花、飼鳥には鶉、上下貴賤と無く何方に往つても之を珍重する。鶉の風雅なる聲音と椿の花の艶色と、何れを優れりとせんかといふことを長々と説いて、それでその書の一名を色音論《しきおんろん》とも謂つて居るのである。是は或は一種文章の趣向に過ぎなかつたのかも知れぬ。如何に無事素朴を尚んだ武家時代の社會でも、さう簡單には統一せられて居たのでは無い。個人心意の動きの其表層に顯はるゝものは、同じ空氣に住むあの當時の人の感覺にはやはり相應に目まぐろしかつたに相異ない。椿と鶉とたゞ二つの微々たる物によつて、文化の特徴を代表させることの、不可能であつたことは解つて居る。しかもこの二物の流行なるものは、兎に角に新しい現象であつた。最近に過去の部に編入せられた今までの?態と、各自が直接に比較することの出來る事實であつた。恐らくは何人の指導説明をも須たず、且つ多くの仲間の者と共々に、黙つて其徑路を理解し得た變化であり、即ち又實驗の歴史でもあつたのである。此方法は常に全般に行き亙らぬ非難があるが、尚努力を以て之を必要なる區域に推し擴めて行くことが出來る。さうして少なくとも各自把握した現實の區域に於ては、外部の文明批評家の論斷を、鵜呑にしてしまふみじめさ〔四字傍点〕を免れるのである。三百年前の色音論は氣樂であつたが、眼に見耳に聞いたものを重んじた態度だけは好い。改めて今一度、之を昭和の最も複雜なる新世相の上に、試みて見るのは如何であらうか。是が此書の編者の第一の提案である。

　次には我々の實驗を、特に何れの方面に向つて進めようかゞ問題になつて來るが、それには必然的に、歴史は他人の家の事蹟を説くものだ、といふ考を止めなければなるまい。人は問題によつて他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが我々に屬する限り、純然たる彼等の事件といふものは、實際は非常に少ないのである。時代が現世に接近すると共に、この間題の共同は弘くなり又濃厚になつて來る。さうして其關係の最も密な(135)る部分に、國民としての我々の生き方が、どう變化したかの問題が在るのである。順序はそれ故に出來るだけ多數の者が、一樣に且つ容易に實驗し得るものから、入り進んで行くのが自然である。如何に平凡であらうとも衣食住は大事實である。各人の興味と關心は既に集注し、又十分なる豫備知識は行き渡つて居る。攻めて之を歴史として考へて見ることは、社會の爲であつて同時に又自分の入用である。假に文化の時代相が、その全き姿を此中に映し出して居ないとしても、少なくとも國民生活の主力は、終始之に向つて傾けられ、從つて其痕跡は何よりも顯著である。何人も知り切つて居る莫大なる事實が、未だ整頓せられずに此方面には轉がつて居る。新たに報告せらるべき材料などは殆と無い。我々は單にもう一度、指ざして仲間の問題にすればよいのである。さういふ中でも眼は何遍も物を見直すことが出來る。一人が見損じて居れば萬人が訂正してくれる。是が當代の新色音論の、特に重きを色彩と物の形の方に、置かなければならぬ理由であつた。

　新聞は時々面白い問題に心付かせてくれる。大阪では近い頃「今澤市《いまさはいち》」などと評判して、久しい間の盲人が目あきになつた話がある。八年ぶりとかに見た世の姿で何が一番に珍しく感じるかと尋ねて見ると、女たちの衣裳の花やかになつたのには驚くと答へたさうである。見えぬとは言つても町に住む盲ならば、幾度と無く美しい色の話を聽いて居たことであらう。さうして心のうちにそれを描いて居たことゝ思ふが、それですら久しぶりに目をひらけば、意外の感に打たれずには居られなかつたのである。是はたつた一人の奇拔なる經驗で、勿論有力な參考とは言はれぬが、假に我々が目を閉ぢて、逆に浦島太郎の昔の日を思ひ出して見ても、やはり同じやうな變化を説くことになるであらう。明治大正の六十年足らずの歳月は、非常に大きな仕事を此方面でも爲し遂げて居る。それが餘りにも當り前と考(136)へられて居た爲に、誰も此盲人のやうな心持にはなり得なかつたのである。

　色は多くの若人の装飾に利用せられる以前、先づそれ自身の大いなる關所を越えて來て居る。色彩にも亦一つの近代の解放があつたのである。我々が久しく幻の中にばかり、寫し出して居た數限りも無い色合が今は悉く現實のものとなつたのみならず、更にそれ以上に思ひがけぬ多くの種類を以て、我々の空想を追越すことになつたのである。この變化は決して單純なる程度の進みでは無かつた。日本は元來甚しく色の種類に貧しい國であつたと言はれて居る。天然の色彩のこの樣に豐かな島として、それは有り得ないことの樣であるが、實際に色を言ひ表はす言葉の數は乏しく、少しちがつたものは悉く外國の語を借りて居る。さうして明治の世に入つて後まで、さういふ借物までを取集めても、使つて居る數は四十にも足りなかつた。しかも緑の山々の四時のうつろひ、空と海との宵曉の色の變化に至つては、水と日の光に惠まれた島國だけに、又類も無く美しく細かく且つ鮮かであつたのである。この二つの事實の矛盾しないわけは、我々が眼に見、心に映し取る色彩の數と、手で染め身に装ふことの出來たものとの間に、極めて著しい段階があつたといふことで説明し得られる。六つかしい言葉ではあるが、私たちは之を天然の禁色と謂はうとして居る。其禁色が近代の化學染料期になつて、悉く四民に許されるやうになつたのである。

　禁色は一方には又國の制度でもあつた。たとへば黄の一色だけは王者の服、紫は定まつて上流の官人に許すといふやうに、其位に列せぬ者が用ゐることを非法としたのは、古い國々の常の例であつたが、其動機は今でもよく解つて居る。つまりは中世以前の社會に於ても、其時代の文化能力の許す限り、出來るだけ多くの天然の色彩を、取り卸して人間の用ゐ得るものとしようとした念慮は、今日と異なる所が無かつたのである。染法は我々の祖先が最も熱心に、外國から學ばうとした技術の一つであつた。高價なる染料は其目的の爲に、辛苦して遠く求められ、是が金銀珠玉に次いでの重要なる貿易品であつた。得難く染め難い新種の色彩が、尊貴の特徴となつたのは自然の結果であつて、之を常人の模倣することを禁じたといふのは、寧ろ其工藝の幾分か民間に普及し始めたことを意味するのである。京都(137)の富の獨占が少しづゝ弛んでから、所謂雜戸の分散が始まつた。種々の職人は田舍を渡りあるいて、農民の間に生計の路を開くやうになつた。染物師は其中でも比較的新しい出現であつて、近世漸く店の數を増加した後まで、尚村々の手染と對立して、其全部に取つて代ることは出來なかつたが、それでも在來の禁色の制度を、終に無效に歸せしむるには足りたのである。或一つの色が庶民の常用に許されなくとも、彼等は其專門の知能を働かせて、別に第二のそれよりも珍しく、又上品なものを工夫することが出來たのである。此點が黄金や寶玉などとは事かはり、色彩の文化の永く一部の獨占に屬し得なかつた理由であつて、假に他の幾つかの條件さへ備はつて居たならば、必ずしも明治の新世紀に入るを俟たずして、色は幾らでも通俗化して行くことが出來る筈であつた。之を制抑して居た力は別に在つた。餘り多くの人の心付かぬ間に、其制御が徐々として解けて來て居たのである。

　所謂天然の禁色に至つては、この人問の作り設けた拘束に比べると、遙かに有力なものであつた。今でも其力はまだ少しばかり殘つて居る。我々が富と智能との缺乏の爲に、どうしても自分のものとすることの出來なかつた色といふものは、つい近頃までは其數が非常に多かつたが、假に技術が十分手輕にその模倣を許すとしても、尚憚つて之を日常の用に供しようとしなかつたものが幾らもある。特に制度を立てゝ禁止する迄も無く、多くの鮮麗なる染色模樣等は、始から我々の生活の外であつた。質素は必ずしも計算の結果では無かつた。江戸期の下半分には衣類儉約の告論が何度か出て居るが、之に背くやうな人たちは、村方には何程も居なかつた。東北などの或藩では百姓の衣類の制式を定めて居る。他の多くの土地にはその樣な掟は無いけれども、やつぱり農民はそれ以上のものは着なかつた。是は貧乏の爲なりと解するのも理由はあるが、彼等は稀に豐かなる場合に於ても、多くは飲み食ひの方へばかり其餘力(138)を向けて居る。好みを世間竝にして目に立つことを厭うたといふこともあらう。或は又感情の安らかさを保つ爲に、力めて年久しい慣習を受け繼いで居たと見ることも出來るが、その慣習の元に溯つて見ると、何か今少し深いわけがありさうである。手染の染草は大部分は山野に採り、もしくは園の片端に栽ゑたものであつたが、其品種は既に豐かであり、又其處理の技術も驚くほど進んで居た。必ずしも澄んだ明るい色合が出せぬといふ爲で無く、わざ／＼樹蔭のやうなくすみ〔三字傍点〕を掛け、縞や模樣までも出來るだけ小さくして居た。さうして是が亦衣裳以外の、種々なる身のまはりの一樣の好みであつたことは、以前は町方も村と異なる所が無かつた。

　つまり我々は色に貧しかつたといふよりも、強ひて富まうとしなかつた形跡があるのである。是が天然の色彩の此通り變化多き國に生れ、それを微細に味はひ又記憶して、時節到來すれば悉く利用することの出來た人民の、以前の氣質であつたといふことは不思議な樣であるが、見方によつては是も我々の祖先の色彩に對する感覺が、夙に非常に鋭敏であつた結果とも考へられる。色の存在は最初一つとして天然から學び知らなかつたものは無いのであるが、其中には明らかに永く留まつて變らぬものと、現滅の常なきものとの二種があつた。地上に屬するものとしては物の花、秋の紅葉も春夏の若緑も、美しいものはすべて移り動くことを法則として居た。蝶や小鳥の翼の色の中には、しば／＼人間の企て及ばざるものがきらめいて居た故に、古くは其來去を以て別世界の消息の如くにも解して居たのである。火の靈異の認められて居た根本の要素には、勿論あの模倣し難い色と光があつた。是に近いものは寧ろ天上の方に多かつたのである。虹の架橋は洋海の濱に居住する者の、殊に目を驚かし心を時めかすもので、支那でも虫扁を以て此天象を表示する文字を作るやうに、日本では之を神蛇のすぐれて大いなるものと思つて居た。其他おまんが紅などと名づけた夕燒の空の色、又は或日の曙の雲のあやの如き、何れも我々の手に觸れ近づき視ることを許さぬといふことが、更に一段と其感動を強めて居たのである。所謂聖俗二つの差別は當然起らなければならなかつた。移して之を日常の用途に、充てようとしなかつたのも理由がある。

(139)　だから我々は色彩の多種多様といふことに、最初から決して無識であつたのでは無く、却つて之を知ることが餘りに痛切なる爲に、忌みてその最も鮮明なるものを避けて居た時代があつたのである。人が此點に最も多感であつたのは、恐らく童子から若者になる迄の期間であらうが、誰しも一生涯には二度か三度、到底拭ひ消すことの出來ぬやうな印象を受けて居て、それが大抵は異常なる心理の激動と結び付いて居た。それが各自の體質の上に、如何なる痕跡を遺すものであつたか。はた又遺傳によつてどれだけの特徴を、種族の中に栽ゑ付けるものであるか、是は尚進歩すべき生理學の領分であるけれども、少なくとも日本の國民が古く貯へて居た夢と幻との資料は、頗る多彩のものであつたらしい證據がある。言葉には之を表はす手段が未だ具はらず、單に一箇のアヤといふ語を以て、心から心に傳へては居たが、人は往々にして失神恍惚の間に於て、至つて細緻なる五色の濃淡配合を見て居たのである。繪が始まり錦を織るの術が輸入せらるゝや直ちに之を凡俗の生活に編み込むことを敢てせず、一種崇敬の念を以て仰ぎ視て居たのも、必ずしも智能の等差なり貧富の隔絶なりでは無かつた。佛法が其宣教の主力を、堂塔の金碧莊嚴に置いたのも、言はゞ一つの無意識なる巧であつた。天然に養はれたる此國民の宗教心は、常にこの類の異常色彩によつて、目ざめ又必ず高く燃え立つやうに出來て居たのである。

　斯ういふ二通りの色の別ちが存する限り、たとへ技術は之を許すとしても、人は容易に禁色を犯さうといふ氣にはならなかつた。昂奮は譬へば平野の孤丘の如きもので、それが無かつたならば人生は勿論淋しい。しかも?々其上に登り立つことも、堪へ難き疲勞であり又前進の妨げであつた。それ故に我々は花やかなる種々の色が、天地の間に存することを知りながらも、各自は樹の蔭のやうな稍々曇つたる色を愛して、常の日の安息を期して居たのであつた。それが固有の染料の自らの制限だけで無かつたことは、單なる白といふ色の用ゐ方を見てもよくわかる。現在は臺所の前掛に迄も使はれるやうになつたが、白は本來は忌々しき色であつた。日本では神祭の衣か喪の服以外には、以前は之を身に着けることは無かつたのである。婚禮と誕生とにも、もとは別置を必要とした故に白を用ゐたが、それす(140)らも後には少しづゝ避けようとして居た。つまりは眼に立つ色の一つであり、清過ぎ又明らか過ぎたからである。斯ういふ稍々不自然なる制限の解除せられたことは、一つには異なる外國の風習の、利あつて害無きことを知つたからでもあるが、それよりも強い理由は褻《け》と晴との混亂、即ち稀に出現する所の昂奮といふものゝ意義を、段々に輕く見るやうになつたことである。實際現代人は少しづゝ常に昂奮して居る。さうして稍々疲れて來ると、始めて以前の澁いといふ味はひを懷かしく思ふのである。

　今度は方面をかへて、衣服調度以外のものを考へて見るに、花を愛するの情も亦大いに推し移つて居る。櫻は久しい前からの日本の國の花であつたが、春毎に山に咲いて之を見に出るのが花見であつた。躑躅《つゝじ》、藤、山吹の咲き榮える四月始には、これを摘み取つて戸口に插し、又は高い棹の突端に飾つて、祭をするのが村々の習はしであつた。秋の初には又一しきり、野山の錦の織り出されることがあるが、其時にも之を盆花に折り取つて、精靈の眼を悦ばせようとしたことは、冬のとぢめに常磐の緑を迎へて來て、門に祭をするのと同じであつた。栗や櫪《くぬぎ》のやうな眼に立たぬものは別として、大よそ鮮麗なる屋外の花の色どりは、常に我々の心を異樣にし、祭を思ひ又節供を思はしめたのであつた。人が美しいと感ずる方が前であつたか、もしくは祭の氣分の爲に美しく感じられたのか、それさへも未だ確められて居ないのである。花木が庭前に栽ゑて賞せられるやうになつたのは、酒が遊宴の用に供せられるに至つたのと、經過に於て略々相似て居る。天の岩戸の物語に傳はつて居る如く、面白いといふのはもと共同の感激であつた。其折の幸福が永く記憶せられる爲に、資力のある者は少しづゝ花の木を庭に掘り植ゑた。前栽といふのは、農家では蔬菜畠のことであるが、上流の家では野の草を庭に咲かせようとすることを意味して居た。其うちに追々唐樣の植物(141)が渡ることになつて、邸内の色彩も單調では無くなつたけれども、それでも尚久しい間、之を以て普通民家の眼の樂しみとするには至らなかつたのである。

　江戸で三百年前に椿の花が流行したといふことなども、到底今の者には想像し得られぬ程の大事件であつた。椿も此國の固有の木ではあつたが、元來は山や神樣の杜に咲くべきもので、人は季節の宗教的意味を考へること無しに、此花を眺めることは無かつたのである。それが輸入により又は新しい培養を以て、次々に變り種の出來たといふことさへ不思議であるのに、町では單なる愛玩用の爲に、家竝に之を栽ゑようとして居たのである。當時の田舍者が驚いたのも無理は無い。しかし驚くとは言つても既に其頃から、之を面白いと感ずる者が次第に多くなつて、椿が行き詰まれば山茶花とか木瓜とか、末には漢名しか無い多くの木の花も渡つて來て、僅な世紀の間に日本の園藝は美しいものとなつた。さうして一方上流の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つたのであつた。是を海外交通の開けたといふ唯一つの理由から、解説しようとしたのが今までの歴史家であるが、以前とても入る途は塞がつて居たわけで無い。第一には人が斯樣の物を求むる心、それよりも力強い原因と見るべきは、花を自在に庭の内に栽ゑてもよいと考へた人の心の變化であつた。近頃の外國旅客の見聞記の中には、日本人の花好きに感心して居る記事が毎度有る。十坪二十坪の空地しか持たぬ小農の家でも、居廻りには必ず何か季節の花を作つて居る。よく／＼自然に對する優しい感情をもつた人民だと言つて居るが、其觀察は實は半分しか當つて居なかつた。花に對する我々の愛着は以前から常に深かつたが、其動機は徐々に推し移つて居たのである。今でも老人のある家などで、菊や千日紅やダリヤを咲かせるのを、佛樣に上げる爲と思つて居る者が少しは有る。畠に綺麗な花が一つも無いか、町でも花屋が來ぬ日などがあると、なんにも供へる花が無いと言つて淋しがることが、秋は殊に著しい。流行を始めた人たちは娯樂であつたかも知れぬが、それが普及するには別に又是だけの理由があつた。俳諧寺一茶の有名な發句に「手向くるやむしりたがりし赤い花」といふのがある。即ち可愛い小兒でさへも佛になる迄は此赤い花を取つて與へられなか(142)つたのである。此氣持が少しづゝ薄くなつて、始めて閑ある人々の大規模なる花作りが盛んになつた。さうして近世の外からの刺戟も大いに之を助けたのである。

　しかも西洋の草花の種が、殆と其全群を盡して入り込んで來たのは、明治年代の一大事實であつて、今日百に近い片假名の花の名は、大部分が其遺物であつた。これも簡單に最も模倣し易い外國文化であつたからと、片付けてしまふことも出來ぬわけは、初期の勸農寮の政策では、積極的に之を奨勵し又援助して居るのである。殊に北海道の米國式農政に於て、新たに荒漠の地を開かうとする者に異國の鮮かなる色彩を供給しようとしたのには同情があつた。恐らくは當時、農村の生活が、既に花作りによつて其寂寞單調を慰められて居る事實が知られて居たので、しかも是が大きな世相變化の境目だといふこと迄には心付かなかつたのである。花を栽ゑようといふ人々の心持は、勿論此以前からも區々になつて居て、また段々に觀賞の方に傾かうとして居た。最初最も弘く國内に人望があつたのは、誰でも記憶する如く千日紅、百日草といふ類の盛りの長い花であつた。花の姿には別段の見所は無くとも、欲しいと思ふ時にいつでも得られるのが重寶であつた。それが追々と新種の増加によつて、次々に珍しい花が絶えず、待つとか惜むといふ考が薄くなつて、終に季節の感じとは縁が切れた。家の内佛に日々の花を供へるやうになつたことは、近代の主婦の美德の一つではあつたが、其爲に曾て彼等のたつた一輪の花を手に折つても、抱き得た情熱は消えてしまつた。新たに開き始めた花の蕾に對して、我々の祖先が經驗した昂奮の如きものは無くなり、其樂しみはいつとなく日常凡庸のものと化した。是が我民族と色彩との交渉の、やがて今日の如く變化すべき端緒だと、自分などは思つて居る。

　其中でも殊に日本の色彩文化の上に、大きな影響を與へたのは牽牛花《あさがほ》であつた。他の多くの園の花は鮮麗だといふだけで、大抵は單色であり其種類も僅かであつたに反して、この蔓草ばかりは殆とあらゆる色を出した。時としては全く作る人が豫測もしなかつた花が咲き、さうで無いまでも我々の空想を、極度に自在に實現させてくれたのである。是が大部分日本の國内の、しかも百年餘りの自力に成つたといふことは、考へて見れば愉快なことである。牽牛花の(143)歴史を説く人は支那からの輸入のやうに言ふが、實際は暖かな南部の海濱などに前からあり、持つて來たのはたゞ其種實の藥用と、それを書き現す漢字とだけであつたらしい。現在はもはや改良も行止まつて、辛うじて葉や花の畸形に變化を見せようとして居るが、其以前には一度色彩の珍を競はうとしたことがあつた。ちやうど江戸期の末頃から、明治の前半期までの事であつたかと思ふ。所謂玄人たちはもう省みなくなつてからも、變つた色々の花が地方に普及し、人は思ひ／＼の交配や撰種法を以て、今まで見たことの無い色を出さうとした。さうして一部分は成功をしたのであつた。當時人工の染料は發明日あさく、在來の技術にもまだ多くの束縛があつた間に、柿とか黒鳩とかの名も付けにくい珍しい色、または紅紫青水色の艶色のみか、絞り染分けなどの美しい仕上げ迄が、一時は工藝家よりも數歩前へ出て居たのである。どうして此種の植物ばかりが、特に人間の空想に從順であつたか、今とても之を説明し得る者は無い。勿論半は偶然の遭遇に歸してよいが、早く此事實に心付いて、注意と情熱とを傾けたのは我々であつた。やがて出現すべかりし次の代の色彩文化の爲に、この微妙の天然を日常化し、平凡化して置いてくれたのは無意識であつたらうが、少なくとも曾て外見や、陰鬱なる鈍色《にびいろ》の中に、無爲の生活を導いて居た國民が、久しく胸の奧底に潜めて居た色に對する理解と感覺、それがどれ程まで強烈なものであるかを、朝顔の園藝が十分に證明した。さうして豫め又今日の表白の爲に、少しづゝ準備をさせて居たのである。

　是を模倣の如く又出藍の譽でもあるかの如く、自分までが考へてかゝることは間違である。機會が相應しなかつた故に發明はよその國に委ねたといふばかりで、色彩の進歩に向つては立派に我々も寄與し得る素養があつたのである。他の萬般の學術も同じことであるが、其利用を完成し得る能力と、之を創始した智慮とは二つのものである。夙に自(144)然に志まれ又練習させられて居る我々が、行く／＼世界の色相觀を導き得るかどうかは、今は些しでも豫定せられて居ない。少なくとも現在の實?よりは、ずつと前の方へ進み得るであらうことは、歴史の學問が之を希望させてくれるといふわけは、我々の知り又考へるべきことが、まだ幾らも殘つて居るからである。境遇が我々の技藝の發達の爲に有利であつたことは、將來はいざ知らず、過去に於ても悦ぶべきものが幾らもあつた。たとへば色に對する日本人の趣味性の如き、一方には以前の精神生活の影響によつて、澁さの極致ともいふべきもの迄を會得した頃に、ちやうどアニリン色素などの應用が起つて來たのである。色の二つの種類の境目が紛亂し始めた時期まで、季節信仰を超越したやうな餘り多くの花物は入つて來なかつた。朝顔の栽培がよい頃合に流行したやうに、木綿の輸入なども遲過ぎもせず、又早過ぎもしなかつたやうである。

　綿の種は山城の都の初の世に、三河の海岸から上陸したといふ記録があるが、どこに栽ゑ何物に利用して居たのか、まだ何人も之を指示し得ない。第二の輸入はずつと時を隔てゝ、所謂南蠻貿易の頃であつたらうが、それもやゝ久しい期間、案外に普及して居なかつた。諸國の農民が眞劍に綿を栽培し始めたのは、江戸期も半を過ぎて、綿年貢の算法が定められた享保度の僅か前からのことゝ察せられる。以前も少しづゝは名を知られ、又相應にもてはやされて居たものが、急に此樣に生産を増加することになつた理由は、恐らく紡織技工の進歩よりも、是も亦染色界の新展開にあつた。葉藍耕作の最初の起りは不明であるが、少なくとも是が實用には專門の紺屋が豫期せられて居た。家々の手染に於ては、此材料は處理することが稍々六つかしかつた。麻やさよみの類にも染められぬことは無いが、殊に木綿に於て最も藍染の特徴を發揮して居るのを見ると、紺を基調とする民間服飾の新傾向は、全くこの藍と綿と二つの作物の提携から生れて居るのである。紺の香と木綿の肌ざはり、歴史は短かゝつたかも知れぬが、懷かしい印象を殘して居る。

　これ以外にも鬱金《うこん》とか桃色とか、木綿で無くでは染められぬ新しい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせ出(145)した事は、諸國の小唄類に今以て其痕跡を留めて居る。如何に我々の内部の色彩感覺が成育して居らうとも、麻を着て居たのでは之を實際に表はして見ることが出來なかつた。ちやうど一つの關の戸が開かれたやうなものであつた。何れの民族でも同じかと思ふが、木綿着用の歴史には記念しなければならぬことが多い。山本修之助氏の集めた佐渡の民謠の中に「シナのはだそで脛こくる」といふ盆踊唄がある。シナといふのは級《しな》の木の皮で織つた布、もとは通例は肌にも麻を着けたが、土地によつては湯具にまで級布を用ゐたのである。肌膚が之に由つて丈夫になることも請合だが、其代りには感覺は粗々しかつたわけである。ところが木綿のふつくりとした、少しは濕つぼい暖かみで、身を包むことが普通になつたのである。是が我々の健康なり又氣持なりに、何の影響をも與へないで居られた道理は無いのである。日本の若い男女が物事に感じ易く、さうして又一樣に敏活であるのも、或は近世になつて體驗した木綿の感化では無いかと、私たちは考へて居るのである。

　少なくとも日本人はこの木綿の採用に當つて、一囘のとつおいつ〔五字傍点〕を經驗して居る。果して一千年來の麻の衣を脱ぎ棄てゝ、この新來の衣料に身を任せるのがよいものかどうかは、容易に決し難い問題であつたのである。海洋國の夏は殊に多濕であつた。肌と着物との間に幾つもの三角な空地を作つて置いて、たび／＼扇の風を送り込まなければ、汗を放散させて清涼を味はふことが出來なかつた。それには腰の強い麻の絲を、織つて着るの他は無かつたのである。木綿は温柔な代りに足手に纏はり易く、主として春と秋とを外で働く者にも適しなかつた。新鮮なる染色の效果を愛する人たちは、それ位な便不便は省みざらんとしたのであるが、尚極端に糊をこはく、又洗濯の度毎に打ち平めて、舊來の麻の感觸を少しでも保持して居たのである。縮みといふ一種の織り方が、特に日本に於て盛んに行はれたのも國柄であつた。斯うして漸くの事で不斷着の買入れを可能ならしめ、終に全國の木綿反物を、工場の生産品たらしむる素地を作つたことは、考へて見れば手數のかゝることであつた。

　麻の第二の長處は久しく持つといふことであつたが、是も後には不人望の種となつて居る。色が目に立ち記憶し易(146)くなれば、飽きて折々は更へようとするのも自然で、それには却つて木綿の早く弱るのが、うれしかつた人も多いやうである。好みの年齡に應じてそれ／”＼に違はなければならぬ習はしは、全く此時から始まつたのである。大體に日本人くらゐ、多量の衣裳を持つて居る民族も無いと言はれて居るが、元は單純な誰にでも用に立つ品を、多く持つのだから貯蓄にもなつたが、末には折角の寶を衣櫃の底で、腐らせるやうな場合も無いではなかつた。それよりも更に無益なる古くからの惰性は、絹織物に對する過度の尊敬であつて、爲に幾分か木綿の利用法を、無理な方向に導いて行つた形がある。曾て中華民國では爪を長く延ばす風があつた。爪は決して美しいもので無いが、毎日働く者には爪を長くして居る事が出來ない。即ち働かずともよい人の記號として、爪の長いのが好ましがられたのであつた。絹は爪などよりは無論美しいが、是もやはり働かぬ時の衣料であつた故に、何だか格別によく見えたのである。染色が自在に我々の實用に供せられるやうになつた後まで、尚染絹を上臈の代表の如く、考へる氣風は失せてしまはなかつた。さうして好みは往々にして其模造の方に赴いたのである。金巾《かなきん》の輸入は其品物が少しばかり、又其名前の半分が絹に近かつた故に喜ばれた。所謂唐絲は持が惡いことを知りつゝも、單にその細手の故を以て普及した。明治二十九年の棉花關税の全廢は無くとも、以前の太短かい日本棉などは、次第に片隅に押し遣らるべき運命をもつて居たのである。紡績の工藝が國内に發達して來ると共に、木綿の着心地は公然として變化した。もはや洗濯物の糊の強《こは》さ柔かさを、深く詮議する者は無くなつた。衣服は此通りいつも稍々濕つて肌に附くものと相場がきまつてしまつた。女性の姿のしをらしさが、遠目にも眼につくやうになつたのも此頃から、又その細かな内々の心遣ひが、掬み取らるゝことになつたのも此頃からであるが、其代りには幾分か人に見られるのを專らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて來たことも事實である。

　何を一國の國風と認むべきかは、さう容易く答へられる問題で無い。たとへば衣服と民族との間に、曾て一つの約束が存在したにしても、それは此際を以て完全に帳消しとなり、殘るはたゞ人竝の物が着たいといふ願のみである。さうしてずつと以前にも是と同じ變化が、又時々はあつたかも知れぬのである。麻の織物は最初その天然の繊維の、幾らでも細く利用し得られるのが長處であつて、技藝は之に基づいて實に驚くほどの精巧の域に達して居たが、後には却つて其爲に、新しい生産經營には向かなくなつたのである。家々の婦女の勤勞が、今とは全く異なる評價法に支配せられて居た時代には、彼等は其生涯の記念塔を刻むやうな情熱を以て、神と男たちの衣を織るべく、一線づゝの苧を繋いで居たのであるが、之を市場に托するやうになれば、其價は確に骨折に償はなかつた。新たなる衣料はこれに比べると、實にをかしい程得やすかつたのである。だから麻しか産しない寒い山國でも、次第に麻作を手控へて木綿古着を買ひ、又は古綿を買ひ入れて打ち直させ、それから買縞の荷がまはるやうになつて、終にめい／＼の機道具を忘れるに至つたので、最初から斯うなることを豫期して、乘りかへた者は無かつたのである。是をもし一つの機運と名づけるならば、原因は遠く溯つて村々の人の心理に在つた。門を叩かれて漸く戸を開いたのでは無いのである。

　強ひて思を構へる迄も無く、我々の色の歴史は不思議なやうに、文化の時代相を映發して居る。始めて日本に木綿の日が東雲《しのゝめ》した時には、新しい色と謂つても算へるほどしか無かつた。人は今考へたら笑ひたい位の單純なる色を、染めて着て嬉しがつて居たのである。さういふ中にも正紺の香は懷かしがられ、縞は外國から入つて來た流行らしいが、それにも我々の好みは加はつて、絹の色絲などがつゝましやかに織り込まれ、斯邦でより見られない發達を遂げたのであつた。絹の縞織などは起りは古いかも知らぬが、後には寧ろ木綿の趣味に追隨する觀があつた。ところが新(148)たに縞を知らぬ國々と交際してから、却つて木綿を絹らしく見せようとする努力が始まつたのである。それから又一方には、毛織物とも近づかうとして苦勞をした。メンといふ語を頭に載せた色々の織物は、すべて此際を以て出現したのであるが、其中でも綿フランネルなどが殊に澤山の逸話をもつて居る。無地や染模樣に幾つもの理想を抱いて居りながら、肝腎の染料が思ふやうには得られなかつた。假に粗末な品で間に合はせようとすれば、直ぐにぼやけて淺ましい色になり、地質の良くないのと相助けて、何の爲に此樣なものを着て居るのかと舌打ちするやうなものをよく見かけた。それが程無く外國の補給によつて、先づ一通りの色だけは具はつたものゝ、實はまだ自分の能力では無かつたのである。世界大戰時代の貿易杜絶によつて、その弱點が明白に露はれ、國内の生産者が共々に慌てた光景は、全く何かの判じ物のやうにも思はれた。それが朝野の苦心の結果、大正四年の染料醫藥品製造奨勵法などとなつて、兎に角一時を間に合せたのみならず、躓きながらも結局は染料國産の、前途を拓いて行く機縁となつたことは、ちやうど今日の思想界とも似て居るのである。

　モスリン工業の急速なる發達の跡は、その一種の中間性に於て、人力車などの經過と共通した點が多い。尤も此方は最初は模倣であつたが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた。さうして是がどの程度までに、國の生活の實際と調和し得るかを、遲くなつてから發見したことも同じである。原料の羊毛が果して國内の生産を期し得るかどうか、それを何れとも決し得ないまゝで、着手したことは無謀のやうであるが、そんな事には構つて居られないといふ事のみは、既に木綿の方でも經驗して居る。兎に角に、自分で作つて見なければ損であり、又精確には國内同胞の要求に追隨することも出來なかつたのである。勿論此要求は稍々氣まぐれに、始終變つて行くものであつた。僅か行き過ぎて振りかへつて見ると、流行の弱點などは誰にでも心付くものである。たとへばモスリンが塵埃に化し易く、衣類を一年半季の消費物として、家の豫算を組む習慣を強ひられることは、後には明白になつて來たのであるが、少なくとも我々は之に由つて、又新しい經驗を積み添へた。一言でいふならば獣毛(149)も着らるゝこと、古來一疋でも羊を飼つた覺えの無い百姓でも、其毛を取り寄せて織らせて着ることの出來る世の中に、もうなつて居るといふ意識である。是が將來何を着るべきかの問題を決する爲に、重要なる參考資料であることは言ふ迄も無い。以前は玩具に近かつた毛絲の利用普及、それよりも更に顯著なる厚地毛織物の生産増加、殊に染色應用の技術進歩が、悉く過去數十年の、唐縮緬文化を苗床として居たことを考へると、これは確に無益なる實驗では無かつた。問題はたゞその次々の實驗の途中、やたらに理想的だの完成だのといふ宣傳語を、眞に受けることがよいか惡いかで、所謂生活改良家は少しばかりその説法がそゝつかしかつた樣に思はれる。

　絹と人造絹との新舊兩端の織物も、共に此意味を以てもう一ぺん試驗せられるだらう。絹が忘れる程古い昔から有る故に、誰にも向くといふことの言へない如く、一方も亦最後に出たのだから、あらゆる階級の註文に應じて居ると迄は言ひ得ない。しかも新たに發明せられたものは固より、久しく傳はるものにも各々の用途はある筈だから、我々は先づ其領分を劃定する必要を見るのである。全體に季節境涯その他、是ほど千差萬般の身の望みを持ちながら、少しく有合せのものを着るといふ辛抱が強過ぎたが、實は今までは色と形と、其價とより他のことを考へる者が、少なかつたのだから致し方は無い。色は其中でも最近百年間の國民共同の研究問題であつた。それが明治に入つて天然と人文との、二つの禁色を解放せられたのだ。自由は我々を眩惑せしめたのである。それを今頃になつて元の穴へ、再び押し込むなどといふ事は出來るもので無い。寧ろもう一歩を進めてあらまし此問題を片付け、それから少しづゝ他の點に及んだ方がいゝ。和田三造畫伯の色彩標本は五百ださうだが、それを千五百にも増加したら、もう大抵は索引によつて順ぐりに引き出すことが出來るだらう。幸ひに我々は隱れた永年の演習によつて、幾らでも新しい色を空想し得るだけの能力を養はれて居た。さうして之を實際の物とする學術は、向ふの方から近よつて來たのである。世界の國々との色彩の交易に於いても、既に多くの珍しいものを供給した。我々は必ずしも輸入超過を苦しんで居ない。たゞ時々は過度の謙遜を以て、日本もまた他の太平洋の島々の如く、始終歐米服飾の趣味流行に、引き廻されて居る(150)ものゝ如く考へることを、弱點とするばかりである。

　ヨウフクといふ語が既に國語であると同じく、所謂洋服も亦とくに日本化して居るのである。なまじひに其文字の成立ちを知り、此着物の傳來を詳かにした者が多い結果、いつ迄も我々は之を借物だと思ふ癖を去ることが出來ない。始めて朝廷が禮服の制を改定せられた際には、或は寸分も違はず何れかの一國の風を移すこと、たとへば大和の都で唐式を採擇せられた如くであつたかも知れぬが、尚本元の正しい着方までを學び取ることは容易で無かつた。下に鼓動する心臓の問題は別にして、單に外形の上から言つても、槍や弓術で作り上げられた骨格が之を引掛けたのだから、同じ形とは見えなかつた。所謂鰐足が非常に氣になつたさうである。或は牧師のやうにいつもフロックコートを着て居る人がある。朝から燕尾服を着てあるく禮儀もあつた。既に其頃よりして一種洋服に近い衣物と、謂ふ方が當つて居たのである。それでも晴の衣裳は初から窮屈なものときまつて居たから、絶えず手本に照して訂正することもあつたらうが、是が常着であつては借物で通せる道理が無い。追々に自己流を發揮して行く方が當り前である。我々は寧ろ今日の程度にまで進んで身を矯めて新服に調和させようとした、無邪氣さに歎服してもよいと思つて居る。

　或は人によつては稍々進み過ぎた決斷のやうに、感じて居た者もあるか知らぬが、所謂洋服の採用を促したものは、時運であり又生活の要求であつた。兵士が顯著なる一つの例であるが、つまり明治四年に於て既に新たなる仕事着をさがして居たのである。兵士の仕事着はもう古いものが用ゐられなくなつて居た。ちやうど近頃の勤勞者も同じやうに、假に獨立して工夫をして見たとしても、やはり上下二つになる衣袴《いこ》を考へ出すの他は無いのであつた。是には勿論洋の字の附くものを、新しいと喜ぶ心持が手傳つて居る。或は晴着に洋服を用ゐんとした人々の、感化といふこと(151)も考へられぬことは無い。併し單なる模倣で無い證據には、最初から必要なる變更を加へて居たのである。例へば學生が制服に足駄をはき、ズボンに帶を卷いて手拭を挾んだりすることは、三四十年前から今も續いて居る。地方の郵便集配人には、足だけは和装のものが初から普通であつた。兵士でも警察官でも、最も眞劍な働きの際には、?々是に近い改良が必要と認められて居た。夏の旅人には時々は臍から下だけの洋服を着て行くものがあり、俄雨のぬかるみの中では、靴を下げて素足で通る人さへあつた。實際日本の氣候風土、殊に水田の作業を主とする村々に於ては、晴着以外の目的に寒い大陸の國の服装を學ぶことは、何よりも先づ足が承知をしなかつたのである。即ち生活の必要が之を日本化させたといふよりも、單に落想を外國人から得た新たなる仕事着と、言つた方が寧ろ當つて居るのである。

　婦人洋服の最近の普及と共に、此推定は一段と明白なものになつた。敢て事々しく動作を敏活にする爲などといふ説明を添へずとも、親しく現在の實景を見た程の人ならば、是が小兒服同樣にたゞ愛らしくする目的に出でたものと、考へる者などは恐らくはあるまい。働かうといふ女たちに働くべき着物も與へず、今まで棄てゝ置いたのが濟まなかつたと言つてもよいのである。勿論女の仕事着も元は確にあつた。日本はなか／＼女のよく働かされた國で、仕事着が不要なほど悠長な暮らしは少なかつたのである。ところが理由あつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廢れてしまつた。西洋の田舍でも、女がよい服よい靴の古びて仕方の無いものを、畠で着て居るのをよく見かけるが、殊に日本には女に餘分の晴着が多く、その中の一等惡いのが、下して間に合せに用ゐられたのである。是には團體の作業が少なくなつて、めい／＼の出立ちを八かましく言はぬやうになつたことも、原因の一つに算へられるが、それよりも大きな理由は衣服が得やすく且つどし／＼と古くなることであつた。今日の女の常着は以前の晴着であつた。即ち、上臈のよそ行きの衣の型であつた。しかも之を裾引いて居られる女性は、實際は町にも少なかつたので、乃ち襷を應用して長い袖をまくり上げ、褄《つま》を折りかへして重くるしい帶を蔽うたのみならず、更に色々の見にくい身のこ(152)なしを忍んでまでも、此なりで尚働かうとしたのは殊勝であつたが、今から考へると無理な苦勞であつた。ヨウフクの發見は至つて自然である。保守派の長老たちの人望の無いのは、この突飛なる躍進を賛成せぬばかりか強ひて此事情を述べようとすると、然らば今一度昔の仕事着に戻れと、言ひさうな顔をすることである。それが諾々として服從し得ることか否かは、實物を一見すればすぐにわかる。昔の仕事着は、先づ最初に男女年齡の差別が餘りに少なく、一樣に色が鮮かで無い。それに名稱が何分にも古臭い。各部分を比べて見るとさう大して最新式の仕事着と違はぬのだが、上着の至つて短いのを腰きりだの小衣《こぎぬ》だのと謂ひ、下にはく袴をモンペだのモッピキだのと謂つて居る。前掛は町に保存せらるゝ唯一つの仕事着であるが、是は細長く前に垂れ、村にあるものは横廣く腰を纏うて居る。是に手甲を附け脛巾《はゞき》を卷き、冬は大幅の布を三角に折つて頭に被り、足には藁靴を穿くのが通例であつた。夏の仕事着には裸といふ一樣式もあつたが、女は勿論そんな流行を追はなかつた。袖無し單と腰卷との單純な取合せは、殊に盛装する女性に疎まれて居るやうだが、あれが一番に今の流行と近い。色と模樣と僅ばかりの裁ち方を改むれば、これを日本の新しいヨウフクだと、名乘つても別段差支は無かつたのである。實際又この仕事着の方にも、明らかに各時代の新意匠は加はつて居たのである。たとへば木綿が出現すれば次々に之を採用し、紀州ネルが起れば之を腰卷にも角卷にもしたのみならず、花やかな染色が多くなると共に、其好みによつてめい／＼の年頃を見せようともしたのであつた。守つて變らなかつた一點は勞働本位と、古くからある肩と裾、襟と袖口などの僅なる飾りであつた。即ち是からもなほ幾らでも改良することが出來たのである。新しい洋服主唱者にもし不親切な點があるとすれば、強ひてこの久しい行掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を學び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い。さうして多數の爲に問題を未決にして置くのが、どうもまだ本當では無いやうである。

　未決の問題はいつでも足もとにある。靴は外國でも働く女たちが常に困つて居る。獨り其入費が高くつくといふだけで無く、是を人竝に間ちがひ無く穿いて居らうとすると、如何に簡單な衣服を着ても、やはり十分に働くことが出(153)來ぬからである。是も木靴を再現するわけにも行くまいから、或は行く／＼日本に來て見て、鼻緒の附いたものを學ぶ樣にならうも知れぬ。此方では靴の歪み潰れを案外に氣にして居ないが、何しろこの通りの土と水氣では、到底あんな物を誰でもはくといふわけに行かない。男ばかりが護謨の長靴などを穿いて、女はどうともせよと棄てゝ置くらしいのは惡いと思ふ。其上にもう一つ氣になるのは、住宅の方との關係である。靴は其本國では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る。さうして極度の馴々しさを意味して居た。ところが我々の家では玄關の正面で、是と別れるやうに構造が出來て居る。一日のうちにも十回二十囘、脱いだり突つ掛けたりする面倒を厭うては、休處と仕事場との聯絡は取れぬので、それがまた世界無類の下駄といふものが、斯樣に發達した理由でもあつたのである。衣服ばかりが單獨に洋化するわけには行かなかつた。大工の技藝も根本から改まるか、さうで無ければ上り口に手洗ひ場を設けるか、我々の清潔癖が緩和するか、もしくは指で摘まんで物を食べる慣習でも罷めぬ限り、靴は到底常人の仕事着に、從屬する資格をもたぬのであつた。全體に是は斯ういふものなのだと、あきらめさせる訓育がよく行はれて來たが、其中では働く者にこの暑苦しさを我慢せしめることが殊に無理であつた。それ故に流石に此點だけは背く者が多いのである。汗の惱みは日本の女たちの、永い間の試錬であつた。それは幸ひに靴の一點を除いて、今は先づ解除せられようとして居るのであるが、男はまだ大いに苦しめられて居る。厚地綾織類の詰襟の汚染を見ると、せめて日本が北緯四十度以上の大陸國ででもあつたらばと、悔む者も少なくはないと思ふが、これにも何かは知らず一つ／＼の理由は有つたので、たゞ其思案が隅々に及ばなかつただけである。我々の仕事着はまだ完成して居ない。單に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されて居るといふまでである。

　明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した。主たる理由は非衛生といふことであつたが、所謂對等條約國の首都の體面を重んずる動機も、十分に陰にははたらいて居たので、現にその少し前から裸體と肌脱ぎとの取締りが、非常に嚴しくなつて居るのである。是が恰かも繪と彫刻の展賢會に、最も露出の美を推賞しなければならぬ機運と、竝び進んだのは不思議なる事實であつたが、是よりも更に大いなる一つの問題が今尚解決せられずに殘つて居るのである。我々が足を包まうとする傾向は、實はもう久しい前から現はれて居た。或地の法令は單に之を公認し、又幾分か之を促進したといふに過ぎぬので、人が足を沾《ぬ》らして平氣で居てもよいか惡いかは、寧ろ新たに東京の先例に由つて、考へさせられることになつた次の間題である。最初の跣足禁止は足と地面との間に、何か一重の障壁を設ければよかつたので、或は草鞋の奨勵と謂つた方が當つて居た。草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく、それで泥溝をあるいて大道に足形を附けて行く光景が當時の漫畫界の題材とさへなつて居た。斯ういふ人たちででも無いと、もうその頃には跣足では歩かなかつた。しかも傘は頭しか隱さず、蓑は既に流行におくれ、雨だけは依然として横吹きに降つて居たのである。裾をからげて脛を天然の雨具とする以外に、是ぞといふ便法も發明せられずして、大正終りの護謨長時代まで遣つて來た。だから手拭は本たうは足拭であり、洗足の盥は家々軒先の必要器什であり、跣足禁止はまだ少しでも根本の解決では無かつたのである。

　それが忽ちにして今日の足袋全盛となつたのは決して法令の力では無いのである。武家階級の上下を一貫して、素足はもと禮装の一部であつた。人が是で無くては存分に走り廻れなかつたこと、それから革足袋が本來｜沓《くつ》の一種であつたことを考へると、別に意外な話でも無いか知らぬが、後に木綿の柔かな足袋が、家々では普通に用ゐられるやう(155)になつても、尚病身又は老年を理由にして、毎冬殿中足袋御免を願ひ出でなければならなかつたのである。一方庭前に控へて居る位の身分の者は、當然にそんなものは許されて居なかつた。即ち獨り田に働く人たちだけで無く、一般に足袋は仕事着の品目に算へられなかつたのである。察するに寒い冷たいが最初の理由で無く、やはり又木綿の物珍しさ、或は肌にふつくりと迫る嬉しさともいふべきものが、偶然に之を我々に結びつけ、後には習ひとなつて、無いことを不幸と感ぜしめる迄になつたのであらう。出井盛之君の「足袋の話」は、我々に此間題を考へさせた最初の本であるが、あれから以後も工場は東西に競ひ起り、機械と工程とは次々に改良を加へられ、統計に出て來る年産額のすばらしさは、殆と人間に足が幾つあつたかを、もう一度考へさせる位である。人は昔のまゝでも、足の生活だけは少なくも變化した。足袋は乃ち仕事着の一部になつたのである。是も始にはたゞ餘分な古物の利用であつたらうが、程無く專用の洗足足袋、地下足袋などといふ名が現はれた。護謨や金色の小はぜの興味が、之を誘うたやうにも考へられて居るが、結局はやはり靴の間接の感化と見られる。近頃交際し始めた西洋の諸國が、今少し南の方に在つたなら斯うはならなかつたらう。帽子襟卷手袋耳袋、凡そ我々の採用した身のまはりは殆と例外も無く皆防寒具であつた。防寒具の完備は勿論冬を面白くしてくれた。しかし足を沾らすことを氣にすること、足袋の役立つ仕事を好むといふことは、可なり我々には大きな事件である。我邦の水田はどし／＼と排水して行くが、是から出て行く先には沼澤が多い。足を沾らして働くやうな土地だけが、僅に日本人の植民には殘されて居るのである。

　男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた。それは單なる御化粧の進歩では無いのである。男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるとも無く別なものになつた。さうして常に現在のものが正しく、振り反つて見れば皆少しづゝをかしい。肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りする摺足もあつた。氣を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである。下駄は最初から、決して今のやうに重寶なものでは無かつた。著聞集には小馬を足駄だと謂つた人の話があるが、駄といふからには何(156)か基づく所はあつたのである。兎に角に僅か一筋の鼻緒を以て、之を御して行くのは練習を要することで、この足の指の技能にかけては、獨歩の譽は日本人に屬して居る。一方には又色々の意匠と改良があつた。下駄屋は比較的新しい商賣であつた。それが江戸期の末の頃になつて、盛んに商品の種類を増加し、更に明治に入つてから突如として生産の量を加へた。桐の木の栽培は是が爲に大に起り、しかも國内の需要を充たすことが出來なかつた。褻にも晴にも一度でも公認せられたことの無い履物であつたが、其普及は此の如く顯著であつたのは、やはり亦足を汚すまいとする心理の表はれであつた。藁沓藁草履の衰運は此際を以て始まり、いよ／＼簡單なる護謨靴の進出に遭うて、其最後をとぢめられた。個々の農家に於ては又一つ、金で買ふべき品物の數を加へたのである。全體に藁の履物を下賤なもの、貧乏くさいものと考へるのは誤解であつた。是は一つには粗製でも間に合ふ場合には、強ひて體裁を構はなかつたことゝ、又一つには無頓着に、古く破れたものを折々は穿いて出た爲で、現在は既に此工藝は衰へたけれども、土地によつてはまだ精巧なる作品を存して居る。たゞ大なる不利益は産物が都市に屬せず、また工場の大量産出に適しないことであつたが、麻布などと違ふのは、生産の勞費は他の何れの品よりも低い。村に此技術の續かなかつた理由は、主として古風であり町の流行で無かつたといふことゝ、人が獨立して各自の必要品を、考へ得なかつたといふことに在る。さうして斯ういふ例は他の方面にも多いやうである。我々の衣服が次々に其材料を増加し、色や形の好みは目まぐろしく移つて行きながら、必ずしも丸々前のものを滅ぼしてもしまはず、新舊雜處して殘つて居たといふことは、亂雜なやうだが又好都合なことでもあつた。假に各人が自分の境遇、風土と勞作との實際に照して、遠慮無く望むこと又困ることを表白し得るやうになつたとしたら、もう一度改めて斯ういふものゝ中から、眞に自由なる選擇をして、末にはめい／＼の生活を改良する望みがあるからである。

　私の新色音論は、つい眼で見るものゝ方に力を入れ過ぎたが、是は誠によんどころ無いことであつた。音は色容の如く曾てあつたものを、永く以前のまゝで保留しては居ない。現在の新しい世代を代表する音の中にも、確に若干の元からあるものを含んで居るのだが、これを聽き分け又人々と共に味はふといふことは六つかしく、從つてその善し惡しに就いて、選り好みをすることが出來ない。それ程我々は新たに現はるゝ一つ／＼の音の爲に、心を取られてしまひ易かつたのである。人が天然の快い物の音を記憶して、學び傳へようとしたものは僅であつた。樂器はその構造が單純であつて、多くの約束によつて辛うじて其聯想を繋ぐばかりであつた。人の音聲は幾分かそれよりも自由で、稍々適切なる模倣を爲し得たかと思ふが、後々内容が複雜になつて來ると共に、次第に分化して符號のやうな言葉だけが激増したのである。色とは違つて人間が何の目的も無しに、作り出した音といふものも非常に多い。しかも其大部分は今までの音よりも、珍しく又力強く人の心を動かしたのであつて、所謂騷音の世界が我々を疲らすものであることは、まだ近頃まで心づく者が無かつたのである。

　耳を澄ますといふ機會は、いつの間にか少なくなつて居た。過ぎ去つたものゝ忘れ易いは言ふまでも無く、次々現はれて來る音の新しい意味をさへも、空しく聞き流さうとする場合が多くなつた。香道が疲るゝ嗅覺の慰籍であつたやうに、音樂も亦これ等雜音の一切を超脱せんが爲に、慾求せられる時代となつて居るが是に由つて人の平日の聽感を、遲鈍にすることなどは望まれない。のみならずその色々の音響にも、一つ／＼の目的と效果とがあるので、それを無差別に抑制しようとするのも、理由の無いことであつた。古來詩人の言葉で天然の音樂などと、形容せられて居る物の音の中には、實は音樂では無くてそれよりも更に樂しいものがある。都市のざわめきは頻はしいものゝやうに(158)思はれて居るが、曾ては其間にも我々の耳を爽かにし季節の推移を會得せしめるものが幾つかあつた。衢《ちまた》を馳せちがふ車の轟きや、機械の單調なる重苦しい響きまでも、人によつては尚壯快の感を以て、喜び聽かうとして居るのである。闇が我々を不安に誘ふ如く、靜寂は常に何物かの音を戀しがらせる。殊に人間の新たに作り出したものは、たとへ染色のやうに計畫のあるものでは無くとも、兎に角に相互ひの生活を語り合つて居る。人は即座にそれが何であるかを解し、もし解し得なければ必ず今の音は何かと尋ねる。即ち音は缺くべからざる社會知識であつた。それを批判も無く又選擇も無しに、一括して憎み又は避けしめようとするのは誤つて居る。行く／＼是も亦綿密に整理せられ、色と同樣にこの共同生活の立場から、各々の價値を定められる時が來ると思ふ。

　全體に一つの強烈なる物音が、注意を他のすべてから奪ひ去るといふ事實は、色の勝ち負けよりも更に著しいものがあつた。それ故に企てゝ所謂一種異樣の響きを立て、之に由つて容易に中心の地位を獲ようとする濫用が、時としてはあつたやうである。殊に近頃までの日本人は、一般に其誘惑に對して弱かつたと見えて、明治に入つてからも誠に珍しい經驗をして居る。よほど以前にも私はこれを社會心理の一問題として提供して置いたが、それにはまだ別の解釋を示した學者も無かつた。平和なる山の麓の村などに於て、山神樂或は天狗倒しと稱する共同の幻覺を聽いたのは昔のことであつたが、後には全國一樣に深夜狸が汽車の音を眞似て、鐵道の上を走るといふ話があつた。それは必ず開通の後間も無くの事であつた。又新たに小學校が設置せられると、やはり夜分に何物かゞ、その子供等のどよめきの音を眞似ると謂つた。電信が新たに通じた村の貉は、人家の門に來てデンポーと喚はつた。其他造り酒屋が出來ると、季節はづれに酒造りの歌をうたふ者があり、芝居が濟んで暫くの間は、やはり空小屋の中で囃子拍子木の音をさせるといふ毎夜の噂があつた。斯ういふ類の話は決して一地方だけでは無く、而も一家近隣が常に共々に此音を聽いたと主張するのであつた。新しく珍しい音響の印象は、之を多數の幻に再現するまで、深く濃かなるものがあつたらしいのである。我々の同胞の新事物に對する注意力、もしくは夫から受けた感動には、是ほどにも己を空しうし、(159)推知と批判とを超越せしめるものがあつたのである。其後餘りにも頻繁なる刺戟の連續によつて、この效果は頗る割引せられることになつたが、尚言論の如きは音聲の最も複雜にして又微妙なるものである。是が今までさういふ形式を知らなかつた人々を、實質以上に動かし得たのも已むを得なかつた。

　故に音樂の流行がもし我々の音の選擇、即ち特に自分の求むるものゝみに耳を傾けさせる習慣を養うてくれるならば、それは確にこの生活を平穩ならしめる途である。さうで無い迄も此世には既に消え去つたる昔の音が多く、今尚存在して稍々幽かに、もしくは是より新たに起らんとするものがあつて、或ものは甚だ快く又或ものは無用にしてしかも聞苦しく、最も美しいのは必ずしも高く響いて居るもので無いといふことを、知らしめるだけでも一つの事業であらう。聽明は決して現在の特に強烈なるものに、動かされ易いといふ意味では無いのである。昔は縁の下に蟻が角力を取る音を聽いたといふ話がある。それ程で無くとも心を靜めて聞けば、まだ／＼面白い色々の音が殘つて居る。聞き馴れて耳に留まらなくなつたのは、叢の蟲梢の蝉だけでは無く、清らかなるものゝ今や稀になつたのは、野鳥の囀《さへづ》りのみでも無いのである。新たに生れたものゝ至つて小さな聲にも、心にかゝるものは多い。ある外國の旅人は日本に來て殊に耳につくのは、樫の足駄の齒の鋪道にきしむ音だと謂つた。然り、是などは確に異樣である。さうして又前代の音では無かつた。

　音と色彩とがこの我々の疲勞には構はず、止め度も無く其變化を重ねて行かうとして居るに反して、獨り現代の物の香のみは不思議に追々と整理せられる傾きがある。町に住する者の五感の中では、鼻だけがいつも稍々過分の休息を許されて居るやうである。是は必ずしも嗅がなければならぬものゝ數が、少なくなつて來た結果とも言はれぬので、或は寧ろさう澤山の香は嗅ぎ切れぬ爲に、自分から退いて其能力を制限することになつたとも見られる。鼻醫者と鼻の病氣が急に多くなつて來たことも、何か是と關係が有りさうには思はれる。何にもせよ鼻の格好だけは一般に少しづゝ好くなつたけれども、その内部の働きに至つては、あべこべに惡くなる一方で、人は目耳の如くには鼻の鋭敏を自慢せぬのみか、或はそれが未開人に限つた特徴ででもあるかの如く、負け惜しみを言ふ者がある爲に、いよ／＼此方面には研究も進歩も無く、徒らに古風な臭ひのみが鼻について、一層その經驗を粗末にする者が多いのであつた。

　併し我々が以前この鼻の感覺に由つて、如何に大切なる人生を學び又味はつて居たかは、今でも田舍を歩いて見ればすぐにわかる。たとへば所謂日本アルプスなどの山案内人は、をねの曲り目に立つて此澤には人が入つて居る。此澤には誰も居ないといふことを、一言で言ひ當てる者が幾らも居る。僅な小屋の煙が谷底から昇つて、澄み切つた大(161)氣の中に交つて居るのを、容易く嗅ぎつけることが出來るからである。斯ういふ鼻の經驗を器械により、または推理や計算によつて、補充することは不可能に近い。さうすると結局文明人の或者は、此點だけでは前よりも魯《おろ》かになつたと言へるので、靜かに考へて行くと、是と類を同じうする喪失は、まだ他にも多くありさうである。鼻の能力を衰へさせた原因の一つは、煙草であらうと考へられて居る。近世の煙草はきつくもなつたが、それよりも第一分量が著しく多くなつた。その煙を我々は悉く鼻から吹き出すことに興味を有つて居る。人の嗅覺は絶えず之に由つて刺戟せられ、終に他の色々の微々たる雜臭に對しては、いつの間にか應接の餘裕を失つて居るらしいのである。煙草の魅力が東方の諸民族に於て、特に心の奧深く入つて行く理由があつたことは、之を想像する人があるといふのみで、未だ精確には説明せられて居ないが、兎に角に最初はこの一種の強烈なる香氣の統一によつて、餘りにも煩劇なる感覺の急迫から、暫しの休息を得ようとしたものが、後には却つて全體の鼻の趣味を、支配せられてしまふことになつた。此點は他の多くの香味料などが、人を他の一面に甚だ鈍感ならしめたのも同じことであつた。

　それ故に人はその祖先以來の生活に、深い由緒をもつ數々の物の香から、何の思ひ出も無く別れて行つたのである。たま／＼愛着の忘れ難きを感ずる者があつても、之を語り合ふだけの方便を持たなかつたのである。たとへは村の薫りの今多くの人に知られて居るものは、堆肥や下水などの稍々強烈に過ぎたる二三だけであるが、是はたゞ日中の活躍する時刻に屬するものであつた。文章でいふならば丁度コンマの如きもので、別にこの簡單な符號のやうな臭氣に區切られて、他の多くの内容あり變化あるものが、季節と伴うてこの間を移り進んで居たことを忘れたのである。それを指折つて算へ上げることも、村に生れた人ならば出來る。例へば盆と春秋の彼岸の頃に、里にも野山にも充ち渡る線香の煙は、幼ない者にまで眼に見えぬあの世を感じさせた。休や人寄の日の朝の庭を掃き清めた土の香といふものは、妙に我々の心を晴がましうしたものであつた。作業の方面に於ても、碓場《うすば》俵場の穀類の輕い埃には、口では現はせない數々の慰安があり、厩の戸口で萎れて行く朝草のにほひには、甘い晝寢の夢の聯想が豐かではあつたが、や(162)はり何と言つても雄辯なのは火と食物との香であつた。冬の林で焚火をして居ると、旅人までが蛾のやうに寄つて來る。飲食は之に比べると遙かに外部の人には親しみ難いが、それだけに又我々をして孤獨を感ぜしめ、家への路を急がしめる。無始の昔以來人類を其産土に繋いで居た力は是であつた。

　鼻は要するに此力を嗅ぐ爲に具はると言つてもよい。さうして色々の之を統一する技術が、無意識に村では進んで居たのである。食物はもとは季節のもので、時を過ぐれば何處にも無いと同樣に、隣で食ふ晩は又我家でも食つて居た。是は獨り澤に採り、畠に掘り起すものが一つだといふばかりで無かつた。遠く商人の賣りに來る海の物でも、買うて食はうといふ日には申し合せて買ひ入れる。臨時の獲物は豐かなるが故に頒《わか》たれたのみで無く、どれ程僅であつても、こつそりとは食はぬことが人情と言ふよりは寧ろ作法であつた。人を仲間とよその者に區別する、最初の標準は爰に在つた。竈が小さく別れてから後も、村の香はまだ久しく一つであつた。殊に大小の節の日は、土地によつては一年に五十度もあつて、其日にこしらへる食品は軒竝みに同じであつた。三月節供の乾貝や蒜膾《ひるなます》、秋は新米の香に鮓を漬け、甘酒を仕込んで祭の客の來るを待つて居る。特に香氣の高く揚がるものを選んで用意するといふことも無かつたらうが、ちやうど瓶を開け鮮桶を是へといふ刻限までが、どの家も略々一致して居た爲に、すなはち祭禮の氣分は村の内に漾ひ溢れたのであつた。

　食物文化の色や音響と違つて居る特徴は、以前に大いなる統一があつて、後次第に分立の勢ひを示して居ることである。流行が再び各人の趣味を征服し得ず、又特に一種の強烈なるものによつて、音の如く他の群小を威壓し得ないことである。何でも食はねばならぬといふ大きなる必要から、新たに時代の標準といふものを設けて見ることの六つかしい點である。從うて品種は年と共に激増して、愈々一般の觀察が下し難くなるのである。併し大體から言つて、明治以降の日本の食物は、略々三つの著しい傾向を示して居ることは爭へない。その一つは温かいものゝ多くなつたこと、二つには柔かいものゝ好まるゝやうになつたこと、其三には即ち何人も心付くやうに、概して食ふものゝ甘くなつて來たことである。是に種目の増加を添へて、四つと言つてもよいのか知らぬが、此方は寧ろ結果であつた。人の好みが先づ在來のものゝ外へ走つて、それが新たなる色々の方法を喚び込んだので、恐らくは強ひて押し付けられたものは無かつたらうと思ふ。

　料理の記録は可なり古いものが傳はつて居る。これと比べて見ただけでも右の三つの變化は確にわかるが、現代生活の横斷面を見わたしても、殆と土地毎に此趨向の各段階が認められる。さうして又此方角からで無いと、如何いふ順序を踏んで改まつて行くのかを、考へて見ることが出來ぬのである。昔も飲食の温かいといふのは馳走であつた。神や佛への供物の中でも何か一色だけは湯氣の立つものを供へようとしたのだが、儀式手續に時間がかゝる爲に、晴の食物はどうしても之を冷しがちであつた。あつ物を進めるといふことは料理人の辛苦で、同時に亭主の心入れのしるしでもあつたから、出來るものならば昔も之を望んだ筈であるが、却つて尊敬する賓客の前には、其誠意が表はしにくかつた。其理由は至つて單純で、つまり我々は共同の飲食といふことを、温かいといふことよりも尚重んじたの(164)であつた。同じ火同じ器を以て調理した物を、主客上下が相饗しようとするには、早くからの支度が必要であつた。是を互ひに氣にせぬやうにならなければ、客に暖かい小鍋のものを、勸めることが出來なかつたのである。

といふ歌を詠じたといふ物語は、既に袋草紙といふ歌書のなかに有る。東北には今でも時鳥《ほとゝぎす》をコナベヤキと呼ぶ地方があるが、そこでも昔姉妹が鍋で燒いた食物を爭うて、腹が裂けて死んだといふ童話などが殘つて居る。江戸期の多くの女訓の書を見ても、人に嫁ぐ者の最も愼むべき所行の一つとして、必ず小鍋立をしてはならぬといふことが書いてある。乃ち所謂深窓の佳人の間にも、いつの間にか此樣な趣味が入つて居たので、それが必ずしも上臈だからはし(165)たいといふのでは無かつたことは、つい近頃まで行はれて居た武藏杉山の田遊び歌にも、鳥や害蟲と共に村から追ひ攘ふべき惡徳の一つとして、やはりこの小鍋立を擧げて居るのである。女が集まつて珍しい食事を企て、殊に男の居らぬ日に留守事をするといふことは、今尚普通の家では面白いことゝ考へられて居ない。後には單なる奢侈の弊、もしくは我儘の振舞を非難したのでもあらうが、其感情の起りはもつと複雜で、只老輩たちは之を言葉に表はし得なかつた。つまりは家庭に於ける食物統一の破壞、大袈裟にいふならば火の神信仰への叛逆を怖れたのであつた。

　歴史は言ふ迄も無く此見解の當不當には論及しない。しかも事實として是非知らなければならぬことは、曾てそれ程やかましく戒められて居た小鍋の獨立が、今では普通となり時としては主婦の氣働きと認められるやうになること、然も或時代には何故にさしも禁斷せられ、又如何にして次第に其作法が改まつて行つたかを、解説する者すら無いことである。乃ち日本の風俗は既に驚くべく變化して居るので、固有の國風は少なくとも食事に就いてはさう明確には之を指示することが出來ぬのである。現在の實?に於ては、小鍋の利用にかけては我々は先づ世界無類である。或は日本料理を言ふと直ちに所謂鋤燒の美を喋々する者も多いが、是は勿論牛?の食用が、此頃始まつたことも知らぬ樣な、西洋の半可通に調子を合せた言葉である。しかも一方には秋田縣などの貝燒から、此方は町の大道の鍋燒｜饂飩《うどん》に至るまで、あらゆる銘々料理の方法は全國に行き渡り、味と材料との際限も無い増加がある。是が僅々五六十年内の發明であり、又普及であることを信じ得ない者の多いのは、寧ろ自然といふべきである。

　此變化の起りだけは假にわかつたとしても、鍋が今日の樣な發達を見るに至つた理由までは説明して居ない。それを斷定に陷らざる程度に於て、尚少しづゝ考へて行かうと思ふが、第一に心づくのは飲物との關係である。茶が常人の家庭に入つて來るまでは、水はわざ／＼暖めて飲むやうなことは無かつたらう。罐子《くわんす》がいつでも圍爐裏の鍵に掛かつて居るやうになつたのも其以後で、是が温かな飲料の親しまれた始では無いかと思ふ。それから問題になるのは酒を燗する慣習のもとである。平家物語に有名な話が一つあるが、是は寧ろ座頭の琵琶のもてはやされた時代に、恰か(166)も斯ういふ流行が珍しかつたことを、意味するものとも解し得られる。酒の用途の段々の擴張を述べてからで無いと説明は六つかしいが、兎に角に、人が温かいものを喜ぶ風は、最初から今のやうに濃厚で無く、中頃酒茶の常用に誘導せられて、特にふう／＼と吹いて食ふやうなものを、御馳走と感ずるやうになつたらしいのである。

　次に考へられるのは女性の關與、即ち小鍋を愛した人たちの感化である。料理は昔から正式のものは男の作業であつた。單に小規模なる只の日の食事のみが、主として婦人によつて用意せられたのである。それが打ちくつろいだ火處の近くであつた故に、當然に温かい食物は多かつたわけで、母や妻娘などの親切を聯想することが、恐らくさういふ出來たての食事の、旨さ嬉しさを倍加したかと思ふ。衣服がよそ行きの趣味を以て、漸次に常着を改良したとは正反對に、飲食は何時でも勝手元から發達して居る。昔織田信長の料理人が歎息した樣に、我々の獻立は退歩したけれどもうまくなつた。古例を無視した自由なる材料選擇、それから手料理の無造作な試みが、徐々として本膳に影響を與へたからである。曾ては幾通りもの熱い吸物を勸めて、客人に家に在るが如き親しさを味はしめたと同じく、今度は新たに始まつた爐の火の分裂に乘じて、座敷へ臺所の一片を運搬することになつたので、それには又陰に在つて此方法の完成に助力した者の、細かな才智が間接に人を悦ばしめて居るのである。我々の食物の温かくなつたといふことは、言はゞ料理の女性化の兆候である。行く／＼此間題の全部を擧げて、彼等の管理に委ぬべき傾向を語るものと言つてよい。

　次には日本の食物の一般に柔かくなつて來たこと、是にも或は婦人の力が、加はつて居るのでは無いかと考へられる。といふわけは温かい冷たいに拘らず、總體に鍋で煮る物が年と共に増加して居るのである。上代は我々も他の島(167)々の土人と同じく、鹿や兎の乾した肉をかじつたことがあつた。獣は久しからずして常食とするには足りなくなつたが、その次には魚や貝を、やはり煮焚きをせずに、乾しただけで食べて居た。最も驚くのは熨《の》し鮑《あはび》のあのくしや／＼するものを、生のまゝで?んで居た。今では僅に進物の記號として用ゐられるのみであるが、是が儀禮の際の通例の酒の肴であつたことは、知つて居りながらも眞とは思へぬやうである。榧《かや》とか勝栗とかの食積《くひつみ》の飾り物も、以前は普通の食品であつたが故に、斯うして式の日には取出されるのである。胡桃榛實等の色々の樹果、其他生米なども?み碎いて居た。我々の祖先の齒を粗末にしたことは非常なものであつたが、それで居て入齒金齒の必要は今の人の方がより痛切に之を感じて居るのである。齒の弱くなつたことは結果かはた原因であるか、但しは全然此等のものとは關係が無いか、掛りの人といふものが若し有るなら、何とか答へなければならなかつた問題である。

　釜と竈との構造に就いても、日本人らしき微細な新案の痕は認められるが、それよりも尚適切に飯の進化を語るものは、茶碗と杓子との最近の形の變りであつた。陶器の白々とした光が我々の臺所風景を明るくしたことは、別に説いてもよい興味ある一つの事件であつた。是が在來の木製の御器と代つてから後も、まだ暫くの間は茶碗は壺形に近(168)かつた。ところが朝顔形と稱して追々と平めになり、更に其程度も通り越して益々皿形の方へ進んで行かうとして居るのは、乃ち飯が次第に盛り易くなつて來た證據である。杓子も以前のものは洋食の匙などと同樣に、十分に中を凹ませたものであつたのが、今は其痕跡を幽かに遺すのみで、殆と一枚の平たい板片となりかゝつて居るのである。飯が強飯の如くぽろ／＼と飜《こぼ》れ易いか、もしくは現在のカユの樣なものであつたなら、斯うした杓子は役に立たなかつた筈である。ちやうど豆腐の程度に切つて載せてよそふやうに變化して、始めてこの箆式のものを普通とする事が出來たので、是が新しいといふことは即ち今の飯の製法の固有のもので無いことを意味するのである。如何なる影響が個人生活の内部、及び外の方の交通の上に出現して居るか、考へて見ようとした人もまだ多く無いらしいが、少なくとも白米の皮を出來るだけ厚く剥いて、糊を多く作つて粒と粒との結合を十分ならしめる必要は、是一つの原因からでも生れて來なければならなかつたのである。

　米を餘分に精《しら》げ過ぎた弊害だけは、もうよほど前から注意せられて居た。それが何故にいけないかの理由も、此頃は略々明らかになつた樣に言つて居る。しかも若し新たなる不幸の元を、斯ういふ關係の中に尋ねようとすれば、生活方法の變化は決して是ばかりでは無かつたのである。第一に米の消費量が、以前は今日のやうに多くなかつた。稻を栽培しなかつた土地は既に弘く、米は通例城下と湊町とより他へは、輸送せらるゝ途が付いて居なかつたのである。畠場や山間でこれを常食に供し得なかつたのは勿論、田を耕す村々でも米の飯は始終控へ目であつた。明治二十何年頃に獨逸人のエッゲルトが、政府の爲に調査をした際には、米は全國を平均して、全食料の五割一分内外を占めて居ると言つた。兵士その他の町の慣習を持ち還る者が多くなると共に、米を食ふ割合は次第に増すことであらうと説いて居る。その豫言は確に適中した。兵營は夙く脚氣病の豫防などの爲に、挽割りの麥を混食させる方針を採つたにも拘らず、一般に其混用の歩合が少なくなり、目に見えて飯は白くなつたのである。米しか食はない人の數が亦激増して、粗惡な外國米が山奧にも運び入れられる事になつた。此變化の方が實は精白過度よりも大きなことである。米は(169)日本人の主食物だといふことを信じて疑はない人は以前から相應にあつた。さういふ人たちばかりが、日本の生活問題を論じようとしたこと、それと一方には米の飯は奢りであり、從うて米が食へるのは幸福だと思ふやうな、質朴なる考へとが合體して、始終注意を此一點に集め、非常に我々の食料問題を窮屈にしたことは事實である。

　米以外の食品の研究と改良とが、全く進まなかつたのも其結果であつた。麥は種類を取り替へて、まだ若干の需要を繋ぐことを得たが、其他の穀類の效用は閉塞してしまつた。折角發展しかけた畠の農業は退歩した。さもなければ全然自給の望みの無い特殊農となつて、食物の爲に高い運賃を拂はされたのである。明治以來の文化統一は、斯ういふ人々には隨分の壓迫であつた。日本のやうに米と親しみが深く、米の宗教的價値をさへ認めて居た國の住民が、人が有り剰つた結果とは言ひながら、思ひ切つて高原の水の手も乏しい處に、新たに永續する村を拓いたといふことは、實は容易な事業では無かつたのである。それ故にこそ特に米の消費には注意を拂ひ、たとへば一年の定まつた日に限り、もしくは色々の潤澤なる材料を加味して出來るだけ其樂しみを永くしようとしたので、米を中心とした多くの調理法が、味や温かさや時々の物珍しさを以て、他の一面の不滿足を補充した點に、初期の家刀自等の人知れぬ氣働きも籠つて居た。みそうづ雜炊ごもく飯の類の、名前は如何にも下品に聽えるが、何れも或時代の食料問題の、最も親切なる解決であつた。必ずしも飢饉や貧困のせつぱ詰まつた窮策とは言はれぬのである。國の榮養の未來を説く者は、兼て此方面の改良をも考へて見る必要があつた。ところが米の交易の突如たる隆盛に出くはして、人は先づその解放の喜びに醉うてしまつたのである。米さへ食つて居ればといふ一つの幸福に安んじて、却つて其利用法を疎略にした形のあることは、木綿やモスリンの流行とも稍々似て居た。さうして問題は決してヴィタミンBだけの消長では無かつたのである。

　鮓の變遷だけは幸ひにまだ各地の實例が傳はつて居る爲に、單なる比較によつて容易に其徑路を窺ふことが出來る。他の多くの食品に於ては、もはや是ほど忠實に以前の慣習を殘して居る地方は無いのである。鮓は土佐日記にもすでに見えて居る如く、最初はたゞ魚類を保存する方法の一つであつた。單にその方法の最も巧妙にして、又贅澤なるものといふに過ぎなかつた。海川の獲物は?々豐富に過ぎて、一囘の消費に剰る場合があつた。之を遠くの人に販《ひさ》がうといふ考への無かつた頃から、貯へて他日の用に備へようとする念慮は起り易かつた。その簡便なる方法には干魚があつて、もとは是一つが運送に適して居た。鹽物は多分其臭味を防ぐ爲に、次に發明せられた改良であつたらうが、是も加減が覺えにくゝ、又概して元の味を割引しなければならなかつた。鮓だけは獨り其?酵する力によつて、別に新たなる風味香氣を附け加へたのである。所謂｜鶚酢《みさごずし》の昔話が全國に流布して居るのを見ると、もとは偶然の發見に基づくものかも知らぬが、少なくとも飯をその保存に利用したのは考案の結果であつた。現在は既に地方の技術となり、(171)或はたゞ二三の舊家の口傳に屬して、詳細を知ることも出來ぬが、最初は魚と穀類との自然の酸によつて、久しきを經て漸く熟するを待つたことだけは明らかである。

　それが釀造酢の外部からの供給によつて、壽司の製法は爰に一變した。早鮓といふ名前は先づ之に向つて與へられたかと思ふが、後に今一段と迅速なる作り方が現はれた爲に、此分はもう古風にならうとして居る。現在の卷き鮓握り鮓は、言はゞ米の飯の一種の食法であつて、其趣向は寧ろ握り飯の方に近いやうである。是が簡便と新しい趣味とによつて、全國を風靡したのは面白い事實であるが、少なくとも鮓の製法の改良とは言ふことが出來なかつた。鮓の要件は馴れるといふ點に在つた。外から酢を注いで味を附けるやうになつてからも、是まであつたものは漬けると稱して、器に詰め込み押し石を載せ、何日かの日數を重ねて米と魚との變質するを待つたのである。それが普通の飯や膾と比べて、どれだけの養分と消化力の相異があるかは、調べて見た人がまだ無いといふのみで、兎に角に二者は食品としては全く別のものであつた。民族の嗜好は永い間の習慣に由つて、容易に改めることが出來ぬといふ説は、日本には必ずしも当てはまらぬ事が多い。都市は寧ろ新奇なる物の味を、次から次へと尋ねて行く傾向をもつて居るが、殊に專門の飲食店が、之を日々の一商品として取扱ふやうになると、其變化が急速なやうである。鮓は古い言葉だから是こそは固有であらうと思つて居ると、もう知らぬ間に内容の方がちがつてしまつて、なまじひに元の名を相續したばかりに、却つて前に存したものを忘れさせて居る。衣食住の現在の仕來りの中には、是に似た例はまだ色々ある。

　刺身と名づけて魚を生で食ふこと、是なども牛鍋鰻飯などと共に、今や日本料理の主要なる特徴のやうに考へられて居るが、やはり亦一つの新世相であつた。所謂早鮓の流行が刺身と提携して現はれたらうといふ事は、まだ斷定するのには早いかも知らぬが、少なくともこの二つは同じ歴史の偶然なる原因によつて、略々同じ頃から段々に頭を擧げて來たといふ關係をもつて居る。關東の海の邊で、取り立ての鮮魚を割いて食ふ風は、或はずつと古くから有つたとしても、江戸がもし三百年の修養を積んで、後に帝都となるだけの勢力を具へて居なかつたら、到底この素朴極ま(172)る調理法が、總國一般の食卓を支配するには至らなかつたらう。現に徒然草には鎌倉人の鰹の食ひ方が亂暴だと言つて笑つて居るのである。此著者は法師であり、又京生れであつた故に、恐らくは共に魚の味を談ずるに足らず、實際試みて見れば刺身程旨いものは無かつたのかも知れぬが、以前は海に近い若干の邑里を除いては、其實驗は企つぺからざるものであつた。鹽か干物にして漸く魚類を運び込む地方では、是は生涯に幾度かの旅先の思ひ出であり、若しくは久しく話にばかり聽いて、所謂風采を想望する所のものであつた。だから早便の運送が開け、更に冷藏装置の完備するや伊那や、各地一齊に競うて、その模倣に着手したので、即ち此流行には兼て思はせぶりとも名づくべき、念入りの支度があつたのである。生魚が旨いか否かは毎囘の事實であつて、決して定まつたる法則では無い。然るに現在は既に案外な田舍にまで、之を缺くときは饗應で無いかの如き心持が行き渡つて居る。鮨も此點では同じことであるが、共に其故郷を以て有力なる背景と頼んで居るのである。

　第二の原因もこの二つの食品にとつて、共々に好都合なものであつた。それは何かといふと醤油の發明であつて、是が又鮓と刺身の流行を助けて居るのである。?油の歴史はやゝ明治以前に溯るが、最初は勿論生魚の味を佳ならしめんが爲に、考案せられたものでも何でも無かつた。動機は寧ろ反對の精進料理、即ち寺方の嗜好品として國外から學んだものと思はれるが、日本は此種の調味料の釀造に非常に便宜の多い國であつたとおぼしく、久しからずして是が一つの特産となり、西洋に輸出せられてソースの原になつたといふ話もある。ちやうど甘酒が酢を發見させたやうに、最初は唯もろみの中の水を掬んで、鹽氣の代用に供したのであらうが、後には特に此爲に多量の粕を搾るやうになつた。さうして明治年代が最も此生産の躍進した時期であつた。酢の釀造技術も近代に入つてから、　　　愈々精妙になつたことは事實であるが、此方は天然の果汁などにも優品があつた爲に、膾の賞玩が刺身や洗ひよりもずつと前だつたのである。しかし是とても必ず流行の初期はあつたので、巧みに鮮魚の美を之に由つて味はひ得た人は羨まれ、一時は在來の干魚鹽魚の類を、今の酢の物の如き地位に押し落したこともあつた筈である。幸ひなることは比が皆新種(173)食品の追加であつて、鮓の改良の如く今まであつたものを滅してはしまはなかつた。永く併存し又次第に讓り合つて、各々の用途を割據して居る。四周を洋海とする日本國ではあるが、北と南とでは魚の種類も味もちがつて居る。新たに罐詰の製法が起れば、罐詰の魚にも亦一隅の領分を付與することが出來た。自由な選擇は常に消費者の幸福に歸着する。たゞ其間に折々の偏見の存するのを悲しむべきのみである。

　香の物は今でも日本の村の香の殊に顯著なる一つに算へられて居るが、是がやはり亦或時代の新嗜好であり、且つ偶然の發明であつたとも言へるのである。我々の蔬菜の眼ざましい改良は、至つて近頃になつてからの事實であつて、わざ／＼其記憶を喚び返す必要も無い位であるが、所謂山東白菜の珍しい名が知られた頃から、僅か二十年足らずに入つて來た菜の新種、殊に其消費量と作付地積は、驚歎に値するほどの累進であつて、其以前はたゞ幾つかの大都市の周圍を除けば、普通の田舍では量も質も共に貧弱なものであつた。種類は相應にあつたが、それが皆近世の輸入で、徑路傳來も大抵は知られて居る。古く行はれで居た蔬菜類も外來らしいが、是は菜と呼ぶのも似合はしからぬやうな豆とか瓜とかいふものが主であつて、中でも容貌の特に異國味を帶びた茄子などが、最も早く栽培せられて居た畠作物であつたことは意外である。單に作物種目の歴史だけから見ると、日本人は沙漠大陸の北狄などの如く、多分の青物を要せずして、生息し得た民族のやうにも考へられるが、是は大ちがひで此島が殊に天然の植物に豐かであつた結果、久しく農業として之を生産することを要しなかつたといふ迄である。さうして香の物の起原もまた、此事實の中に含まれて居るのである。

　日本はこの夥しい人口増殖の間に於て、尚且つ歴《れつき》とした天然物採取の國であるといふことは、人が考察を怠つて居(174)る大きな事實であつた。海川の生産はわかり切つたことだが、其中でも種々なる植物を擇び取つて食用に供して居る事は異人には珍しがられて居る。陸上の採集は今は娯樂のやうにも考へられて居る。實際凶年でも無い限りは、之を食料の豫算に組む者も無いのだから、娯樂と見られても是非が無いやうなものゝ、是が全く得られない場合を想像して見ると、やはり必要なる食物ではあつたのである。春の若菜の七種は儀式かも知れぬが、田では芹、山では蕨、其年々の量は決して少しでは無い。それから土地によつて蕗を採り地竹の筍を採る。色々の灌木の芽には懷かしがられる風味があり、娵菜《よめな》や餅草などは町の人までが摘みに出たがる。即ち野菜の文字が示して居るやうに、若菜は雪のやゝ融くるを待つて、春の野に出でて採るものであつた。今でも雪國の村の人たちには、是が一種の行樂と結び付いて居る。從つて野山に遊んで採つて來る青物の數は、ホナとかミヅとかシドケとかいふ類の、至つて普通のものだけでも十種を越え、それには次々の季節があつて、初夏の頃までに幾度か採つて來て貯へるのである。

　斯ういふ地方の一部の事實は、以前の全國の生活を推測せしむるに十分である。ナといふ日本語はもと副食料のすべてを包括して居た。特に蔬菜の爲にはククダチといふ語があるのだが、後に是のみをナといふ樣になつたのを見ても、如何に其消費が大切であつたかゞ推測せられるのである。ククダチは即ち莖立ちで、野山の青物が大よそ其莖を抽く頃を見て、採ることになつて居た名殘であらう。人が前栽の畑に菜を蒔くやうになつてからも、やはり今のやうに葉ばかりは宛てにしなかつたといふよりも、改良以前の蔬菜は莖ばかりよく伸びたのであつた。しかも季節があつて望みの時に收穫し得なかつた故に、先づ之を鹽藏する必要を見たのである。東北の諸縣に於ては、野菜にも無鹽の野菜といふ語があつて我々を喫驚させるが、實際永い冬季には鹽した青物しか得られなかつた。乃ちあの方面の人たちが今も食つて居る如く、野菜鹽藏の本來の目的は、之を鹽出して煮て食ふに在つたのである。

　他でも漬物を煮て食はうとする土地が折々ある。之を笑ふわけに行かぬのは、香の物のやうな食品を最初から計畫して、作り出したといふことは想像し難いからである。漬物の?酵現象は今日でも説明が十分で無い。あの風味と香(175)氣は數千百囘の繰返しのうちに、偶然で無ければ實驗し得ないものだと思ふ。何にもせよ鮨が魚の味を格別にし、?油が刺身の殺伐さを割引した如く、生で野菜を食ふ趣味は中頃から誘導せられたものであつた。瓜とか蕪とかの兼てから生食せられるものを、最初同一の手段を以て鹽藏する事にしたのが、或は此試みを大膽ならしめたかも知れぬが、何にもせよ、人は可なり久しい間止めて居た草食を、測らずもこの特殊の?酵法によつて、再興する氣になつたことは略々確かである。それからして漬物の興味ある研究が進んだ。關西の方では香々の名は大根に限られて居る。乃ち此香を賞美する人たちが、次第に適用を莖立以外のものに及ぼしたのであつた。澤庵は如何にも此名の和尚などの考へ出しさうな大改革であつた。鹽藏の蔬菜が水づいて永く保たぬのを防ぐ爲に、或は鮓の理法を應用したと見てもよからうか。即ち大根を十分に乾して後、鹽に多量の米糠を加へて、一方には味と色とを添へ、同時に之に由つて殘りの水分を吸收させて、この特殊の?酵を完成せしめようとしたのは手柄であつた。これも手輕に支那から學んで來た所謂五山藝術の片割れと、言つて置いても人は承知するが、さういふ證據もまだ出て來ぬのみならず、糠を漬物に入れるだけの智慮ならば、もつと廣い區域に行はれて居たのである。是は新村博士の領分になるが、關西のどぶ漬、東國でいふ糠味噌のことを、以前は何故かヂンダと呼んで居た。堪?甕《ぢんだがめ》の一つも物は持つまじきなどと、しば／＼禅門の世棄人が揚言して居るのは、即ち彼等までが此甕だけは控へて居て、是に時折の瓜茄子を私有しようとした事實を語るものである。趣味は意外の方面から、俗衆の間にも流傳した。殊に澤庵の色と香氣、それからあの一種別樣の觸覺は、新たに日本人の愛着を引いて、つひに今日の牛肉の味噌漬にまで進出した。漬けるは素より液體に浸すことであつたらうが、可なり早くから粕漬奈良漬の類が起り、追々に日本をこの無類の漬物國にしてのけたのである。根原は國民が食物の香に鋭敏で、しかも英國人の如く牛の燒肉を、生涯毎日食はうといふ程の、辛抱強い保守主義者で無いと共に、折角此通り色々の新種蔬菜を採用しながら、それを殆と皆漬物桶に打込んで、生で食ひつゝ柔かでよいなどといふやうな、不徹底な妥協家であつたことを意味するのである。

(176)　この結果の一番大きかつたものは、過去に在つては鹽の消費の増加である。鹽は種族によつてその需要量の差等が烈しいと言はれて居るが、日本は正しく其一方の大關であつた。單に鹹《しほから》いものを好む習性を養はれただけで無く、斯うして腹に入れない多分の鹽を、家々が求めて居たのである。内地には以前若干の鹽井が散在して、附近の住民だけは其恩惠に浴して居たが、他の大區域に亙つては、それ／”＼運び切れぬ程の鹽を、外海に仰がなければならなかつたのである。沖繩では今でも桶を擔うて海の水を汲みに出る風がある。本土も古くは松風村雨といふ類の女たちが、ずつと山奧からも濱に通つたものらしいが、それではたまらぬので北海の寒い果まで、可なり不完全な製鹽法が行はれて居た。自給割據が他の衣食に就いては許さるゝ場合にも、是だけは是非とも遠くから買はなければならぬ。鹽の糧道を絶たれて苦しむ者は、決して甲斐の武田ばかりで無かつた。さうして他の色々の用品の如く、氣まぐれなる行商人を當てにしても居られなかつた。今日謂ふ所の正式の商業機關、即ち問屋仲次取引先といふものが定まり、町に常店の堂々たるものが起つた最初は、鹽の爲だつたと言つても過言では無い。海と山地との間を繋ぐ通路の主要なる系統は此際に決せられて居る。是は全く漬物の致す所であつた。明治の世も半になつて、政府は始めて鹽專賣の權を收公し、次いで隅々の小規模なる製鹽業を廢止させた。其專賣益率は相應に高いけれども、大抵の土地ではこの責任ある供給に安堵して居るのは、以前この爲に今一層の苦勞をして居たからである。しかも日本のやうな國柄に於て、永く現制度の運用を續けて行くことは、中々容易の事業で無いといふこと迄も、この漬物の問題が我々をして考へさせるのである。

　尤も芭蕉の實には我々の好奇心をそゝるべき、十分以上なる異國趣味があつた。味や色形の何れの點に於ても、曾て想像にも上らなかつた珍しさを具へて居たのである。是が人間の自然に求めて居た食品であり、更に價が低く段々に得易くなつた以上は、一朝にしてこの異常な普及を見るのも不思議は無いか知らぬが、全體にちやうど我々の果實に對する考へ方が、變らうとして居た際でもあつたのである。前に衣服の條でも言つた如く、奇妙に今まで知らなかつたものゝ價値を、即座に理解するやうな機敏さを、日本人は有つて居る。それが久しく養はれて恰かも熟したのか、但しは豫て其樣な素質があつたのかは決しかねるが、兎に角にこの新しい文化は遭遇であつて、單なる原動力の效を奏したのでは無かつたのである。至つて微々たる誘導によつて、殆と總ての日本の果實は改良して居る。此點は蔬菜其他の年々の作物よりも、却つて進歩の度は早かつたやうである。例へば柑橘は二千年の歴史をもつ日本の産物ではあるが、これが今日の如く優種を競ふやうになつたのは、僅に近世の温州の輸入から、或は明治の末頃のネーブルの刺戟と名づけてもよい。桃でも梨でも同じ名の物が、昔からあつたといふだけが事實で、殆と見て居る間に其味はひ迄が別のものになつた。柿は此等と比べると改良が遙かに古く、既に足利期の終りには柿系圖の戯著などもあつて、其食法も色々とあの頃に始まつて居るが、尚木練種の増加は最近のことで、これ一つは確に國内に於て、世界無類の(178)ものを完成したと誇つてよい。量の側から言つてもあらゆる果樹の増産、之に加ふるに外國種の移植、柘榴林檎無花果といふ類の、以前は唐木として一隅に秘藏せられたのが、忽ち商品となつて町に溢れるに至つたものを以てすれば、よくも是だけの物を生産する餘裕と、消費する能力とが潜んで居たものと、今更に驚歎するばかりである。それが必要のものか、はた他の何物かと重複して居るかの問題は別にして、兎に角にこの一つの現象を度外に置いた、國力消長の論は出來なくなつて居るのである。

　菓子といふ語が此大變化の間に在つて、今尚平然として初期の名稱を保持して居ることは、考へて見れば滑稽なことである。菓子は其文字が示して居るやうに、以前は山野に實るコノミのことであつた。クダモノといふ方の柔らかな果實が、未だ多からず又珍重せられざりし時代には、人は之を摘んで小さき飢を凌ぎ、或は徒然を散じて居たのであつた。栗とか椎の實とかが通例の甘き菓子であつた。甘いといふ趣味は解しなかつたのでは無いが、それが今日に比べると著しく淡かつたのである。母の乳の味を忘れ兼ぬる童子等には、先づ第一には甘酒があり、なつかしい佛誕會の甘茶があつた。甘蔓の煎じ物は他の日の食物にも合せ用ゐられて居た。飴は明らかに支那から輸入した製法であつたが、是も效用としては以て小兒を養ふべしと言つて居たのである。今日の所謂菓子のことを、一樣にアメと謂ふ方言は今でも弘く行はれて居る。是が改良せられて色々の新種を普及せしめてから、我々の甘味は始めて大いに濃厚となつたが、それは決して古い昔では無かつた。

　砂糖が生藥屋の店に賣られて居たのも久しい間であつた。それが丁度近頃のサッカリンと同じに、半ば靈藥の如く常人に考へられて居たことが、却つて他日の浪費を反動せしめて居る。南の島々の黒砂糖の産地に於ては、全く飴と同じに此産物を愛用する者が居る。本土の中にも是を一等の茶受けとして、掌に載せて甞める者が多かつた。白人が異種の國々と通商を開く際に、能く酒精を利用したことは人の?々説く所であるが、砂糖も亦同工異曲であつた。殊に露骨なのは此商人等の宣傳として、砂糖の個人當り消費量は、國の文化の計量器だと唱へたことである。日本人は(179)乃ち無邪氣にも其斷定を受け入れたのであつた。食物の販賣を業とする者が、斯ういふ好機會を利用せぬ筈は無い。殊に精白の技術が我々を歎異せしめた際に於て、菓子が悉く砂糖を以て獨占せられたのは自然である。氷砂糖は要するに砂糖を結晶せしめる發明であつた。金米糖乃至薄荷糖は、たゞ砂糖を或形に押し固めただけの菓子であつた。何々糖といふ名の新菓が算へ切れぬほど簇出した。中に砂糖がどれだけ入つて居るかは、甞めてわからぬ者は無いのであるが、尚其上にも雪の如く、太白を振りかけたのが砂糖餅であつた。鹿の子絞りや麝香を以て上臈の特徴としたのと、動機に於ては全然同じであつた。斯くして文化の進度を表白したのは愚であつたが、事實は其頃から少しづゝ所謂世が開けたのだから、或は今以てこの出鱈目の法則を信じて居る者があるのである。

　しかも流石に此流行は永く續き得なかつた。大よそ明治と大正の間を堺として、菓子の好みははつきりと變化した。單に一般の食品に甘味の一進級を促したのを名殘として、菓子そのものは再び土佐日記の山崎驛の名物の方へ、幾分か戻つて行かうとして居る。即ち穀物の粉末を使用することが、一段と多くなつて來たのである。もう一つの大きな變化は、果實が何れも必然的に甘くなり、それが又多く消費せられるやうになつたことである。桃柿梨林檎の甘味も本質は一つだといふこと、雪とふり掛けずとも砂糖は砂糖だといふことが、實物を以て證明せられるやうになつて、人は自然に幾分か間接なる順序に由つて、この所謂砂糖文化を受用するに至つたのである。しかも斯うして供給が二通りになると、消費者自身より外には之を通計して、どれ迄が必要でどれだけが重複するかを決し得る者が無い爲に、結局は電燈が出來て却つて洋燈の石油を多く使ひ出したやうに、我々の飲食も一樣に砂糖勝ちになつて來た。下戸と上戸の酒餅優劣論なども、知らぬ間に酒と甘い物との競爭になつてしまつた。日本は概して飲水の清涼なる國として知られて居るのに、別に清涼飲料といふものが盛んに用ゐられるのも、主たる動機は爰にあつたらしい。即ち一方の罎詰の酒と對抗して、此方は罎詰の砂糖水を飲まうといふのである。趣味と流行は實際のところまだ我々を拘束して居る。しかも他日の自在なる取捨選擇は、專ら此區域に於てのみ行はれ得るので、其意味からいふと菓子と新果物と(180)は、豫め人類の爲に是だけの餘地を、切り開いて置いてくれた功勞者だつたとも言へるのである。

　僅か五十年足らずの肉食率の大激増も、全く原因を是に存したのであつた。我々は決して或歴史家の想像したやうに、宍《しゝ》を忘れてしまつた人民では無かつた。牛だけは甚だ意外であつたかも知らぬが、山の獣は引續いて冬毎に食つて居たのである。家猪も土地によつては食用のために飼つて居た。都市には此香氣を穢れと感ずる風が、次第に普及して居たのも事實であるが、一方には所謂藥喰の趣味は、追々に新たな信徒を加へて居たので、たゞ多數の者は一生の間、之を食はずとも生きられる方法を知つて居たといふに過ぎぬ。だから始めて新時代に教へられたのは、多く食ふべしといふ一事であつたとも言へる。是は至つて容易なる教育で、勿論忽ちにして人は此味を學ぶことの遲かつたのを悔んだのであるが、最初はたゞ無邪氣なる模倣であつた。即ち率直に泰西人なるものゝ精力能率の優越を認めた者が、原因を特に顯著なる食料の相異に求めた結果なることは、長崎を本山とした蘭學者等の態度を見ても察せられる。即ち彼等を敬慕すると、はた嫉視するとを問はず、將來是と對立して同等の成績を擧げようとするには、先づ同(181)じ物を食つて身の力を養はなければならぬといふ論理であつたので、是ほど夙くより我々は、食物と心意性情との相關する理法を認めて居たのである。

　所謂牛屋の繁昌にも限度はあつた。銀鍋金鍋の馬鹿げた設備をした頃あたりを絶頂として、衰へもしないが新たに開かるゝ店は無くなつた。しかも其成績の尚久しく殘つて居るのは、獨り國人の味覺に一つの新標準を附けただけでは無かつた。この過渡期の奇拔なる展開が無かつたら、日本は斯う容易に西洋風の牧畜國とはなれなかつた筈である。他の多くの外國料理の材料と共に、肉もまた何れかの方面から、輸入しなければならなかつたらう。鍋が流行した御蔭に豚なども忽ち普及し又改良した。殊に珍しい一つの事實は、馬肉が此序を以て忽ちに食品の一つとなつたことである。是はたゞ安いから當然のやうに考へられて居るが、我邦以外にはさういふ方へ進んだ例は聽かぬ。馬は如何なる農家でも肉用に肥育する者は無い。さりとて老い窮まつてこはくなつてからでは食へない。其中間の頃合を見はからつて轉換することが、日本獨得の畜産業であつたとも言へる。支那でも狗だけは其方式で飼つて居たことが、以前の書物には見えて居る。日本は?などでも明治の世になるまで、この兩用の目的を兼ては飼はなかつた。或は闘?が普通の日の娯樂になつてから、始めてシャモの味などを知ることになつたのかも知れぬ。兎に角に一時は?を食はうとする人の爲に、互ひに遠方の馴染の無いものと、取替へさせる職業さへ出來たのであつたが、今ではもう野菜作り(182)などと、殆と同じ氣持の生産になつてしまつた。狗とよく似た番兵的任務の、必要が無くなつたのも原因であらうが、主たる理由は肉需要の増進、殊に今まで食つて居た分が乏しくなつたことであつた。足利時代の日記類を讀んで見ると、鳥は雁鴨菱食から雉山鳥鳩鷺に至るまで、實に多くの種類と數とを、食へる家では食つて居たのもある。鹿や兎の類も亦盛んに捕つて居た。たゞ家畜には手を着けなかつたといふのみで、我々は決して精進では無かつた。それが斯ういふ動物の飼ひ方にまで變つたのは、一つは鐵砲の暴威が野山の種を盡したのと、今一つは食物に季節が無くなつたからであつた。

　それでも西洋料理といふものにはまだ少しづゝ統一の試みがあつた。自ら何國風の名乘を揚げて、模倣は完全だといふ證明をしようとした店も段々生れたが、一方支那料理に至つては、是ぞといふ料理場も無いうちから、はや既に街頭に進出して居たのである。支那が元來は日本以上に、食法の複雜な國であつた。其上に版圖が廣大である爲に、地方々々の技術は區々であつた。それを概括して其中の最も簡易なる一小部分を、切れ／”＼に僅か似せて見たのである。全體に我々の共同感覺はまだ強い故に、ちよいとした一つの此方に無い特徴を捉へても、多勢の人が直ぐに合點(183)をした。たとへば牛を多く食ふのを洋食のこつ〔二字傍点〕と心得た如く、一般新料理の缺くべからざる要件は、脂氣の多いことだと解するのも普通であり、引いては之を流行の滋養衛生と、結び付けて考へる誤りも根強く弘まつた。旨いといふ語の内容も著しく其影響を受けて居る。味覺の段階は急激に上の方へ伸びた。之を組み合せて新たなる諧調に導くことは、益々六つかしいことになつた。食物の好き嫌ひは以前からもう現はれて居たが、それが一家の内でも折々は纏まらなくなつて、一層外に出て自由なる選擇をする必要が増加したのである。

　料理茶屋款待の重苦しい設備には、金を惜まぬ人々も稍々窮屈を感じ出した。だから明治の改良はいつも御手輕といふことであつた。其以前からも惣菜料理だの、有合御茶漬だのといふ看板が、方々にぶら下りはじめた。茶漬は民間では褻の食事を意味した。方言で朝飯を茶漬といふ土地もあれば、又晝飯をさういふ村もある。即ち一切の形式を拔きに、内で食ふ通りの物を食はせようといふので、是で安ければ辨當は無用になるわけである。辨當の原理は影膳などともよく似て居た。家でも今時分是と同じ飯を、集まつて食つて居るだらうといふ點に、無形の養分は潜んで居たのである。即ち、ある一つの共同飲食の分派だといふことが、眼に見えぬ鹽氣ともなつて居たのである。ところが主人の想像し得ない留守事は普通になり、小鍋は自由に部屋毎の火鉢の上へ運ばれ、同時に各人の好み嫌ひは多くなつて、煮豆佃煮の如き知らぬ火で煮たものが、何の方式も無く入り込んで來る。村や一つの部落の内は固より、同じ屋敷の一つ棟に住む者にも、覗いたり隱したりする食物が出來て來た。家の統御の力は弱くなつたのである。斯うなれば簡便なる一膳飯の商賣が立派になり立つのは當然の話で、從うて個々の家族の私有財産、即ち小遣の問題が又面倒になつて來るわけである。

　一膳飯はもと不吉な聯想があつて、御幣を擔ぐ者にはいやがられて居たが、もうそんな事は構ふ人が無くなつた。明治は多くの街道の煮賣茶屋を、追々に一膳飯屋に改造したのである。定價で食はせる以上は食ひ放題といふわけに行かぬ。それで色々の盛り切り飯が、しかも麺類などと同じく温めて賣られるやうになつた。どんぶりといふ器が飯(186)椀に代つて、天どん牛どん親子どんなどの、奇拔な名稱が全國的になつたのも、すべてこの時代の新現象である。面白いことには辨當が家で無用になると同時に、別に是ばかりを當てにする生活が起り、一方には又其製造を業とする者が榮えて居る。即ち仲間では益々相背馳する趣味が、弘く外部に向つては一致しようとして居るのである。古來百を以て算へた我々の食物は、僅な例外を以て大抵はその形を存して居る。それに明治大正の新料理が、更に何百種といふ變つたものを附加したのである。材料から言つても調理法から見ても、日本のやうに飲食の種類の繁多な國は、世界恐らくは無類であらうと思ふ。是が何でも自由に選擇し得られることは、生活技術の大いなる強みであつて、今でも我々は幸福であるわけだが、是が日々の商品となつてしまふと、さう片端から何でもかでも、作つて氣まぐれなる選り取りを待つて居るわけに行かない。だから賣る方では何等かの方便を設けて、出來るだけ一つの物に多くの需要を集めようとする。是が流行の常に移り動き、いつでも我々がよその押賣りを、事實に於て受けて居る理由でもあれば、町の便利が何かといへば感歎せられ、之に引き比べて村の生活が損なやうに、考へさせられる理由にもなつて居る。我々の臺所には革命があつた。しかも其動亂はまだ續いて居る。個々の食物調製者の煩勞は少しでも輕くなつて居ない。公衆食堂共同炊事の必要は既に認められて居るが、パンを主食とする社會のやうに、其實現は容易で無いらしい。温かい飯と味噌汁と淺漬と茶との生活は、實は現在の最小家族制が、やつと拵へ上げた新樣式であつた。之を超脱して又此次の案を夢むべく、あまりに其印象が深く刻まれてゐるのである。

　小泉八雲氏が日本を見てあるいた頃には、まだ我々の都市は雜然たる木造小屋の集團であつた。岐阜提灯のやうに風雅であるかも知れぬが、又それ以上に丈夫でも無ささうぢや無いかと、一種の同情を以て彼は批評して居る。是が千年以前の原の儘だといふことは想像が誤つて居るが、斯ういふ家にでも住めぬことは無いといふ心持だけは古かつた。さうして遠國の人の批評を聽いて、始めて成程と心付くまでに、さういふ風雅な岐阜提灯式に馴染み切つて居たのである。遠い祖先が此國に渡つて來て住んでから、もう何千年だか算へられぬ程こゝに住み、更に今一段と豐かなる村を開くべく、地續きなればこそ氣輕なる決意を以て、嶺を越え岬の鼻をめぐり、次第に此島の北と東に散らばつてからも、尚永い間暖かい南の方の生活を忘れなかつたのである。だから半年近く雪の底に埋もれるやうな山里に住んで居ても、やはり斯ういふ淺々と圍つた家に住んで、無邪氣で又剛強なる祖先の趣味を受け繼ぐことも出來たので、家は斯ういふ風に建てるものとばかり思つて居た。住心地の善し惡しを考へて見るまでには、もう大分この風土と親しんで居たのである。改良は多くは偶然で無いまでも、寧ろ外側の事情によつて促されて居たのである。小泉氏以上に理解ある外國の觀察者は滅多に無い。暑いと言つても團扇の風より外の方法は知らず、寒いと言つても戸を立てゝ、(188)腹と背中をあぶつて寢るのが關の山で、どうしてこの濕氣のひどい温度の變り易い土地に、外界と何の差別も無い生活を續けつゝ、火事や風雨と闘つて來ることが出來たかを、訝り思ふのも尤もなことである。

　大正十二年の震災は、關東地方の都市と農村に於て、古い新しい色々の家を破壞して、それにからまる舊來の行きがゝりを一掃してくれた。涙なくしては想起出來ぬ歴史ではあつたが、より良き將來を期すぺく人々は此機會を利用したのであつた。そこで今までは夢にも考へられなかつた程、澤山の雜多な住宅樣式が期せずして試みられ、その裏面には少なからざる犠牲をも支拂つたが、兎に角に久しく潜んで居た我々の空想が、幾分か無分別にまで發露することになつた。住心地とはどういふものかを、前からも後からも仔細に點檢して見ることが出來た。消え去る何物の惜むべく懷かしむべきかを感じ知ると共に、心置き無く今までの住居の暗く寒かつた部分を、批評することも出來たのである。是は勿論時代のちやうど待つて居た機運であつたらう。だから他の地方の平穩なる町も改造せられ、村でもじつとして局外からは見て居ないのだが、そこではこの思ひ切つた取崩しが出來ず、從つて又急速なる決斷がつきかねた。やはり手本を求め先例を追ひ、もしくは資力のある者は、却つて純然たる洋風を採ることを安全だとも思つて居る。十分自由には住心地の問題を考へて見ることが出來なかつたのである。是が果して失敗であつたらうかどうか、豫言する力はまだ我々には無いが、少なくとも今まで受けて居た拘束と、其解放がどれ程骨の折れたものであつたか(189)とを、折角囘顧して見る機會を失はうとして居ることは、歴史の領分に於てこれを説くことが出來るのである。石で造つた巖丈な古い建物は、西洋の都市でも實際は始末に困つて居る。到底其全部を記念物としてたゞ保管して居ることが六つかしいからである。現在の新家屋などでも、今に又もつと改良せられる時が來ることであらう。動きの取れない形をきめる前に、我々が實はどういふ住心地を求めて居たのかを、一應は考へて置く必要があつたのである。

　最初に誰にでも直ぐ心つくことは、家には二通りの種類が夙くからあつて、それが日本では入り交つて居たといふ事實である。一方は通例大きくて念入り、他の一方は粗末のものであつたが、これを貴賤貧富の差等から來て居るものと、見ることは出來ぬのであつた。同じ一戸の通例の百姓でも、やはりこの二種の建物を持つ必要は多かつた。山で働く人々は獵や杣炭燒の爲に小屋を作り、遠くの野を拓いて作つて居る者には田屋の入用があつた。即ち天智天皇のかりほの菴である。或は古い頃に夏と冬と、家を二通りにして居たのが始であつたかも知れない。極度に立派にはなつたが今日の事務所といふものも、此假菴の系統に屬すべきものであつた。宮殿城閣も是が發達したものであり、又共同の信仰の爲に人が入用毎に建てゝ居た宮社なども、後には最も大切な記念物にまで固定したが、やはり作業の必要に基づいた點は同じである。目的が限られて居たので普通の生活には、さう大層なものは望まなかつた。我慢と間に合せは當然のことゝ考へられた。それを一方の住居の方に代用する風が始まつて、次第に多數の小家屋は、所謂岐阜提灯式になつたのである。

　大都の小屋生活は遠く室町以前から始まつて居る。諸國の大名には京都を常の住地とした樣な者もあつたが、元は長番に上つて居るのだから、その居所はやはり假屋であつた。主人ばかりは其構造を故郷の屋形に近くして、住心地をよくしようとしたかも知らぬが、家來は多人數だから皆割長屋の辛抱をさせた。江戸でも最初のうちは其交代が頻繁であつて、始終國元から人を喚んで使つて居た故に、彼等の休息所は極端に狹かつたのである。元は男ばかりだから産育の混雜は起らなかつた。それが追々と旅行を節約し、家族を呼び寄せて一家の暮らしを立て、後に御定府と稱して世襲して居るやうになつても、その爲に別に十分に住宅を給することは出來ず、又女子供までがいつの間にか、是でどうにか我慢するやうに馴らされたのである。一方は格子窓で堀の石垣に臨み、一方は玄關と勝手口が袖垣一つで仕切られて居る。斯ういふ御長屋が明治の末まで、まだ方々に殘つて人が住んで居た。我々も一度は是が東京の家の風かと思つて居た。

　地方の小さな城下町などにも、是とよく似た生活の展開があつたことは、根小屋といふ言葉の多く存するのを見ても察せられる。根小屋は即ち城山の根に集まつて、領主の使命に服した小屋の者の居地である。しかし士族の歴々は實際にやゝ廣い邸宅を給せらるゝこと、江戸の大名や御家人などと同じで、たゞ僅にその下に働く小者だけが長屋に居た。勤番を原則とした江戸の武家屋敷のやうに、窮屈な生活をする者は少なかつたのである。ところが一方の町屋(191)の住居だけは、何れの都市でも大體は同じで、人は大部分が甘んじてこの長屋の暮らしをして居たのであつた。其起りは是も勞動の統一の爲であつたと思ふ。町にも固より大屋といふものはあつて、相應の地面を請けて永住して居り、是には武家と違つて出來るだけ表間口を狹く、なるべく多くの軒を一町に列ねさせようとしたのだが、新たに興る町の勞働はそれだけでは到底足りなかつた。それで地内に澤山の割長屋を設けて、それ／”＼自分の監督する働き人を是に入れて置いたのであつた。地主が追々に自由な職業になつて、この長屋の者を引率しなくなり、人入れ寄り親の業は別人の手に屬し、親方自身も小さいのは長屋に居り、隣へ見ず知らずの者が集まつて來るやうになつたが、尚表向だけは店子の身分を、大屋が管轄することになつて居たのは、明らかに以前の小屋生活の名殘であつた。

　飛行機の乘合航空が盛んになつたら、今に町の空から此生活の痕跡を見る時が來るだらうと思ふ。東北などは一帶に地割が豐かで、又獨立した表間口を持つ小民も多かつた樣に思はれるが、東京は最初から面積に合せて人が多く、又跡からも益々入り込んだ爲に、横丁路地木戸どぶ板の生活が盛んであつた。大抵の表店はひあはひ〔四字傍点〕に細い通路があつて、町の長屋は悉く其奧に固まつてあつた。即ち所謂雜然たる木小屋の集合であつたのである。澤山の辛抱人は此中から立身した。後には爰でも職業が全く自由で、段々に累代の長屋の衆といふものも出來て來たが、尚半分までは至つて不完全なる家庭であつたのである。京都の記録を見ると、斯ういふ住居も亦小屋であつた。ところが小屋掛けを臨時のものに限ることゝなり、末には御救ひ小屋などといふ名前のものも出來て、從うて小屋の者は一種の賤民を意味するやうになつた。さうして長屋御長屋は市民大多數の、普通の家屋の如く考へられるやうになつたが、實は中に住む者の習慣の方が變つたのである。最初は出稼ぎの假の宿りであつた者が、永留して終に還るべき途を失つたので、乃ち長屋の生活は忍耐そのものでもあつたのである。

　市民の村人と異なる特徴が若し有りとすれば、第一にはこの狹隘なる一時的の假住と調和して、我慢を苦にしなくなつた修錬である。田舍の小屋の方も勿論片端は變化して居るが、幾ら日本は國が小さくとも、まだ此樣にまで固ま(192)つて居るには及ばなかつた。だから其變化の方向を異にして居るのである。町で借家暮らしが當り前のやうになり、引越しを着換へと近く考へるやうになつたのも、大工の技藝が專ら狹い面積を巧妙に、また氣が利いた利用をする方に傾いて來たのも、本來はたゞ一つの原因からであつたが、後には是が又學んでもよい趣味の如くなつて、さまでの必要の無い者までが、好んでこの拘束を受ける樣になつてしまつた。江戸が東京と改まつて、都市住民の大きな入れ替りが行はれた際には、移住者の心理は既に一變して居た筈であるが、尚曾て働きに出て暫くの腰掛け場處を求めて居た時代の仕來りが、依然として續いて居た。此點では町屋は窮屈なものと諦めて、他の屋外の見物食物などを以て、その不自由を償はんとしたのであつた。併し流石に是を永住の家とするからには、小さくとも門と坪庭だけは獨立したものを持ちたいと、思ふ人たちが多くなつた。風呂は錢湯の方が却つてよいと言ひつゝも、便所だけは家々に附屬させる必要を感じた。それで今までの區域には何としても住み切れなくなつて、追々に都市が周圍へ延長したのである。最初には是も舊來の割長屋の幾分か大ぶりなものを、裏町の通りに面して建てゝ居たのであるが、交通が次第に改良せられるに乘じて、いつと無く郊外の空地をねらふやうになつた。郊外生活は新たに町に移つた者の、草木と青空とを忘れ兼ねる情から、出發したものが勿論多いが、なほ其以外にも何代か市街の眞中に、住み馴れて居た人も飛び出して來た。さうして働く場處だけを元の地に殘さうと苦心して居るのである。是は要するに今までの集合生活が、ただ避くべからざる拘束に過ぎなかつたことを意味する。人は許されて久しぶりに、本來の住心地に戻らうとして居るのである。

　部屋といふ語も今日は家の各室の名になつて居るが、是も曾ては小屋を意味し、若しくは小屋の一種であつたこと(193)が有るやうである。貸して勞働者を住まはせる小家を、部屋といふ土地が今でもあり、木部屋味噌部屋といふ語は尚弘く行はれて居る。屋敷は都會の長屋などと同樣に、もとは數多くの部屋を分立させて居た。是と主屋との明らかなる差別は、大きい小さいといふ以外に、竈屋の附いて居るか否かであつた。部屋の主たる用途は寢るといふだけであつて、食事は集まつてする習ひであつた故に、さう大きなもので無くともよかつたのである。建築が進んで大きな木材を使ひこなすやうになつた頃から、若干の部屋だけは一棟の下に編入せられ、殘つた部分は皆獨立してしまつた。近世の分家といふものゝ中には、單に炊事食事の場を別にしたといふだけのものが多かつたのが、後々土地を分配して經營まで二つにするやうになつた爲に、新宅はもはや部屋では無くなり、へやは唯家の中の或區劃といふ意味に歸したのである。

　今日の村の小家には、此種の勞働小屋の唯少しばかり進化したものが多い。爰にも町と同樣の忍耐があり住心地の妥協があつたことは事實であるが、此方は最初から獨身者の巣として、設けられたものでは無かつた。村では獨身者は即ち婚姻し得る者であつた。それ故に部屋は同時に又婚舍であり、やがては數多くの小兒を育て上ぐる家でもあつた。但し幸ひなことには田舍の子には外といふものがあつた。さうして親たちも晝だけは始終外に居た故に、部屋の小さいことは格別の拘束で無かつたのである。町でも長屋の子はいつも外へ出て遊べと言はれた。僅な空地でも近くに在る場合は勿論、道路の上でも、獨樂や紙鳶をもつて、遊ぶのが權利であつた。それが追々に不安になり戒められるやうになつたのである。公園や寺社の境内が常に子供の遊び場になるのも、やはり又小屋が日中の住居までは用意して居なかつた結果であつたが、是は彼等に取つて惡い影響ばかりも與へて居らぬ樣である。

　始めて日本が西洋の旅人のいふ紙窓の國になつた時の、農民の悦びは想像することが出來る。家はもと寒風を遮る爲にも、木戸蓆戸を卸さなければならぬ造りであつた。窓を大きく又低くしようとすれば、吹き降りを凌ぐことが出來なかつた。夜で無くとも内を夜にすることが、家の效用を達する唯一つの途であつた。爐の火を高く焚けば家の中が明るくなり、それが又火の神の神壇の拜まれた由緒でもあつたが、冬で無ければさういふことは望まれない。せうこと無しに雨の降る日は寢るといふ、をかしな慣習さへ普通になつて居たのである。明り障子の便利はよほど前から知られては居たが、紙が商品にならず經濟が其交易を許さぬ間は、農家では之を實地に應用することが出來なかつた。奇妙な因縁で是が又小兒の手引によつて、追々に小家へも入つて來たのである。近世の草双紙の繪を見ると、きまつて斯ういふ家の障子には、いろはになどの清書の紙が貼つてある。それが明治の中ほどになる迄、尚多くの村の實際の光景であつた。さうして子供が學校に行くやうになつて、始めて又この端居といふものが必要になつて來たのである。

　家が明るくなつたといふことは、豫想以上の色々の結果を齎した。第一には壁や天井の薄ぎたなさが眼について、知らず／＼に之を見よくしようといふ心持の起つて來たことである。障子に日の影の一ぱいに指す光は、初めて經驗した者には偉大な印象であつたに相違ない。ちやうど同じ頃から勝手元の食器類に、白く輝くものが追々に入つて來たことは、必ず相映發する所があつたらうと思ふ。所謂白木の合子《がふし》は清いのは最初の一度だけであつた。始めて染まつたものは永久のしみ〔二字傍点〕になつて殘つた。粗末でも塗物の拭うて元にかへるものを、農家が使はうとしたのも同じ刺戟からであらう。茶釜鑵子の類を磨き拔くことは、今日は主婦の常の作業であるが、是なども特に必要が多くなつたことゝ思ふ。これから色々の什具の形と好み、よそで見たものと同じのが欲しくなることも、次第に多くなつて來たわ(195)けである。家を機會ある毎に少しでも大きくし、押入れを仕切つたり縁側を添へたり、内からも外からも見た目をよくしようとしたのも、實際は亦此頃からのことであつた。是は兎に角に改良には相違ないが、其御蔭に以前の小屋が簡素なる本式の住居となり切つて、是でもどうやら住めるといふ小滿足に達したことが、ちやうど又町の長屋の人と同じであつた。乃ち貧農が一つの定まつた世態となつたのである。

　一方、日本の常の住屋といふものには、別に昔からの一つの型があつて、元は略々各種の階級に共通して居たらしい。此方は格別よその國々と比較して、自ら卑下しなければならぬやうな粗末なものでは無く、あらゆる生活の要求に對する準備があり、また外觀の壯麗といふことも考へて居たのだが、何分にも國民の總敷に對して、是に主たる者の數は僅かであり、個々の部落に於ては多くは孤立して居た爲に、思ひ／＼の意匠が加はつて變化し易かつた。それから一旦格式となり家の自慢の種となると、不便を忍んで原の姿を守らうとする嫌ひもあつた。衰へる家では改造の費が多い爲に、ひどく住み荒らして、其儘にして置くものもあつた。大體に木材が太く軒が厚く、土間と廣敷とが無暗に廣いのを特徴として居たが、是は共に働き共に食ふ人の、數多かつた時代の住心地に基づいたもので、一旦部屋の者が分散して獨立の小前になつてしまふと、がらんとしただけでも寂寞の感は深かつた。これにも光線の缺乏といふことは始からあつて、僅に大規模なる圍爐裏の火によつて、暗さと濕氣に對抗する勢力の中心を作つて居たのであつた。障子紙の採用は斯ういふ家々に取つても、最初は簡易なる改造のやうに考へられたが、實際はこれが重大なる變動の因になつて居る。しかも歡迎してよいか否かには拘らず、來ずには濟まない變動でもあつたのである。大きな建物の隅々が明るくなつたといふことは、家に幾つもの中じきり〔四字傍点〕を設けてもよいといふことを意味する。有るだけの柱と柱との間に、悉く鴨居鴨居を取り附けて、板戸唐紙戸を立てゝ置くやうにしても、それが片方に引込んで居る者の、幽閉では無いことになつたのである。板硝子は久しく日本の國内に産せず、遠くから輸入したものを大切に切つて使つたが、もう其頃より之を障子の一枠に嵌め込んで、黙つて其間から外を見て居る者が田舍にも多くなつた。紙(196)が硝子に移つて行つたのは、外の景がたゞ一團の明るい感じから、忽然として個々の具體的なる物象に進化したことにもなるのである。家の若人等が用の無い時刻に、退いて本を讀んで居たのも又その同じ片隅であつた。彼等は追々に家長も知らぬことを、知り又は考へるやうになつて來て、心の小座敷も亦小さく別れたのである。夜は行燈といふものが出來て、隨意に何處へでも運ばれるやうになつたのが、實は決して古いことでは無かつた。それが洋燈となつて又大いに明るくなり、次いで電氣燈の室毎に消したり點したりし得るものになつて、愈々家といふものには我と進んで慕ひ寄る者の他は、どんな大きな家でも相住みは出來ぬやうになつてしまつた。自分は以前の著書に於て、之を火の分裂と名づけようとして居たのである。

　火の分裂は即ち爐の威力の衰微であつた。秋も稍々深くなる頃から、背戸《せと》の薪の山をほつ／＼と崩して、之を大きなひほど〔三字傍点〕に打込んで燃した時代には、家に住む限りの者は集まつてその傍を圍まずには居られなかつた。爐端の正面を横座と謂つて、是には當然に家の主が坐つた。こゝの一枚だけ茣《ござ》が横に敷かれた故に横座である。通例は其右手が客座であつて、客の無い時には家の者もまじり坐つたが、他の一例の上席だけは儼然たるかゝ座〔三字傍点〕として、嫁にも娘にも代つて居ることを許さなかつた。或は杓子とり〔四字傍点〕とも稱する食物分配の權能は此座から發動し、嫁に其杓子を渡すことが家の相續であつた。横座と相對する下の座は木尻であつて、是には素より敷物は敷いて無い。薪の尻の方を向けて置くから木尻であつた。古風な大家では夜なべの時刻にも、主人は其横座に來り臨んだものであつたが、それは必ずしも安氣なる任務で無かつた。最初にこの圍爐裏の煙を厭うて、先づ引込んだ者は彼等であつた。乃ち第二の小さな上の爐といふものが出來たのだが、これは廣敷とは違つて天井が低い爲に、大火を燒くことは出來なかつた。炭の(197)入用は此の如くにして起つたのである。燠掻きが杓子とはちやうど正反對に、次第に中窪みの十能に進化して來たのは、火を運ぶ必要が多くなつて來たからである。土で築いた今日の竈といふものも、以前から便はれては居たのであらうが、主人の影が見えぬと爐邊は淋しくなり、同時に燃料の節約の爲に、多く此方を利用するやうになり、それから又消炭が多く出來ることになつた。所謂小鍋立ての準備は此の如くにして成つた。必ずしも焜爐と堅炭の發明を須《ま》たなかつたのである。火鉢は土地によつてをか爐〔三字傍点〕とも謂ふ方言がある。ヲカは高い處のことであつて、之を上の間までも持ち運び得たことが、他日是ほどの住居の變遷を、引起すものとは何人も豫想しなかつたが、兎に角に是が出來たばかりに、珍客は先づ爐の傍へは請じられなくなつたのである。

　木綿の普及は爰にも亦一つの大きな影響を與へて居る。是が無かつたならば恐らくはこたつ〔三字傍点〕といふものも出來なかつたのである。炬燵といふ妙なものゝ起原は、今尚説明せられて居ないが、兎に角に是が上の小さな爐に薪を焚かぬやうになり、十能せんば〔三字傍点〕が燠の火を運ぶやうになつてから、後のものなることは推測することが出來る。それが火鉢と結托して置炬燵となり、更に進んでは番所ごたつ、ねこ〔二字傍点〕といふ類の小發明も繼いで起つたことは、江戸期も終りの頃の文學に既に見えて居るが、弘く農村の間に採用せられたのは、無論明治の四十年間の事蹟であつた。さうして是が一家の生活ぶりに新たなる差別を立てたことは、或は食物などよりは更に著しいものがあつたのである。以前は冬の夜も帶を解いて、爐の火で腹と脊なかをとつくりと灸つて、それから其着物を引きかついで寢るのが常であり、餘り寒ければ爐の周圍に出て來て寢たが、一人は?々起きて木を添へる者があつて、夜一夜休めなかつたといふ話も多かつた。炬燵は年寄りや病身の者を安く睡らせる便法であつたが、その惠澤は一部にしか及び得なかつた。さうして是あるが爲に我々の寢臥法も變化したのである。

　古來の日本人の寢臥法は、繪になつて居る上流の僅なものを除く外、餘りに平凡な爲かこれを記述した書物が無い。斯ういふ晴で無い事柄は語るを避けた結果、一般に人に知られることを耻ぢて居る樣だが、是が却つて舶來の寢床に(198)近かつたのみならず、且つは今までの住宅とも調和して居たのである。木綿が冬の夜着となつて、固有でまた自然なものは下品なやうに考へられて、何の改良をも加へられなかつたのは殘念である。寢間の大切になるのは秋の末からであつた。ちやうど苅り入れた新藁を乾してよくすぐり、それを一ぱいに敷きつめて、夜の床は香はしくなる。其下には二尺三尺の深さまで、籾殻を積んであるのが普通であつたが、是も年毎に古いものと入れ替へたのである。藁に寢て居た記憶のある者は、今でもまだ決して少々では無いのだが、よほど素朴な人で無いと、それが煎餅蒲團よりは遙かによいものだといふことを、思ひ切つて説く者が無い位に、今では綿の敷物が普通になつてしまつた。併し殘つて居る寢室の構造を見てもわかる樣に、元は決して貧乏人だけの、よんどころ無しの辛抱では無かつたのである。家の幹部になる者の休處は、大抵は中央の突當りにあつた。其入口の正面を背にして、所謂横座の主は之を防護して居たのである。爰のしきり〔三字傍点〕だけには始から戸があつて、下の框《かまち》が五六寸も高くなつて居たものが多い。跨いで入るのは侵入者を食ひ止める方便でもあれば、同時に又中から藁の飛び出さぬ用意でもあつた。或は又折れ曲つて入口を横手に附け、表は却つて板壁になつた例もある。だから妻子の寢る室は大抵は薄暗いのであつたが、藁を床にして居る間は暗くても先づはよかつたのである。ところが木綿は最も濕氣を引き易く、又汗の香を移し易いものであつた。寢間の構造位置などは元のまゝにして置いて、單に夜具だけを新しいものに變へようとしたゝめに、こゝは村々の衛生吏員などの、何よりも氣にしなければならぬ場處になつたのである。此種の考へない二重生活は、家屋に伴なうては他にもまだ色々あるやうに思ふ。それ程にも建物は我々を拘束し、又は徐々として意外な生活慣習を、成長せしむるものであつたのである。

　私室を納戸《なんど》と謂つて居る方言は弘い。納戸は文字の通りにもとは物置のことであらうが、實際寢間は又其用途をも兼ねて居たのである。伊豆の島々や但馬の一部分では、村でも此室を帳臺といふ例がある。帳臺は古い語であつた。さうして專ら身分ある人々の寢所のことのやうにも考へられて居たのである。二條城その他の本式の書院造りを見ると、上段主公の座の一方の片脇に、低い櫛形の窓があつて次の間に通じて居る。それを武者隱しなどと稱して護衛の士を置く處だと謂ふ人もあつたが、實際はその次の間が即ち帳臺の間なのであつた。その低い窓のやうな入口は、寧ろ外襲に備へた構造のやうに思はれる。武装した者が潜つて此穴から人らうとする間には、若干の支度をとゝのへる餘裕があるからで、内外の相違はあるが、防禦に用立つたといふまでは一致して居る。ちやうど農村の舊家の寢間の閾が高く、或は三尺の板敷を折れ曲つて入るやうに、表を圍うてあるなども目的は同じであつた。佐渡では此由來に關して親隱しの昔話が傳はつて居る。即ち蟻通しの物語も同じやうに、老人を山に棄てさせた時代に、孝行な者が親を此中に匿して居たといふのである。或は又この入口の小高い下框のことを、戯れに耻隱しと呼んで居る土地もあつた。是が無かつたら?々藁しべを蹴散らして、藁に寢て居ることが暴露するからといふのであるが、此説明もやはり新しいものであつた。武者隱しの傳説が半分ほど是と似て居るのは、或は偶然ならぬ何等かの關係があつたかも知れぬのである。

　こゝ迄考へて乘ると、座敷の行き留まりの一區割を小高くして、今は掛物置物生花などを鑑賞する場處を床と謂つて居るが、元はその用途が全く別であつて、やはり寢床のトコであつたことが想像せられるのである。どうして此樣な裏から表への大變革があつたかは、主として建築術の歴史が之を説明する。以前尊敬する寄寓者の爲に、新たに假(200)屋を建てゝ提供した時代には、それは多くの提供者の家に接近した離れ座敷のやうな別棟であつた。追々工藝が進んで巨大なる棟木や柱が利用せられ、人も亦複雜の技巧を樂しむやうになつて、家族の若干の部屋が母屋と併合した如く、客舍もまた豫め常設のものを、その大きな家の中に作り添へた。それほど後代は珍客の來訪が、頻繁になつて居たのである。勿論この設備がある爲に、同じ待遇を幾分か擴張したといふことはある。以前ならば單に爐邊の客座の上まで、請じ入れてよかつた人を、奧座敷があるばかりにそちらへ通したといふことはあらう。しかし、兎に角に客の爲に設けた一室である故に、留まつて居る間は客の方がそこでは主人であつた。今でも旅館に於ては此氣持を味はふことが出來るが、つまり滯在者に横座權を讓るのである。上客が強ひて床柱の前へ、押し上げられるわけはそれから出て來る。亭主の横座の後が寢間であつた如く、主賓は床の柱に凭《よ》ることを當然としたのである。ところが客殿は全部疊を敷きつめた座敷となり、綿の蒲團を其上に延べて寢るやうになつて、床の特別の装置は不要になつた。それでも之を取り除けてしまふと、客を優遇して居る趣意が見えなくなる故に、次第に此區劃を今一段と高尚なる目的に使用することにはなつたのである。軸物を壁に掛けることも、俗人の家ではちやうど生花と同じ頃に、即ち室町時代から始つたやうである。花を花瓶に插す日は最初は七月の七日ときまつて居た。これも一種の盆花であつたから、掛繪も宗教畫に限つて居たのであらうが、程無く種々の風流が之に加はつて、器物や植物との興味ある配合が行はれ、富める者はその數十組を陳列するやうになつて、急に此時代の骨董熱は高くなつたのである。生花見物の爲にする装飾を、室禮とも謂つて居た。床が臺子《だいす》と連なつて此目的に供せられることになつたのは、丁度その設備が無用になつた直後である。茶事と誹諧とがこのやゝ頓狂なる思ひ付きを、尻押ししたことは言ふ迄も無からう。

　ふすま〔三字傍点〕が中じきりの唐紙戸を意味するやうになつた理由は、私にはまだはつきりとは説明が出來ない。が兎に角に一つの屋棟の下に、しば／＼二人の主人が出來、二箇所の寢床が設けられるやうになると、屏風だけでは分堺が尚十分て無かつたので、それが間といふものゝ今日の如く割據する、最初の原因になつて居るのである。それよりも大き(201)な今一つの變化は、家中がすべて疊になつたことであるが、是も亦根本は客舍の併合と、それに基づく坐禮の改定とから來て居る。客舍が單純なる臨時の小屋であつたうちは、それを給與せられた客の席はきまつて居る。即ち普通の住居に於ける主人の座、圍爐裏の正面から庭の方に向いて居ればよかつたのである。ところが客間が出來てからは色々の人が是へ通され、次第に貴賓の款待を同輩の間にまで及ぼさうとした爲に、互ひの斟酌會釋といふことが繁くなり、結局所謂よき程のところへ、坐らなければならぬ人も多くなつた。疊は元來歌がるたの繪のやうに、一人が一帖づゝ控へて居ればよいものであつたが、後には連中が多くなると、周圍だけには敷き連ねて置くやうになり、更にこの辭讓の作法が面倒になつてから、しまひは中央部までも皆疊にしたのである。是には盃酌の際に於ける亭主の進退なども關係して居たのであらう。本當の貴賓ならば正座の人は皆平坐であり、之に對する者は皆｜跪坐《きざ》であつた。日本では兩膝を合せて下に突き、足は指先のみを揃へ付けて居るのが、長者の前に侍する者の常の作法であつた。即ち御用あらば直ぐに立てるといふ形なのである。この形は受ける側にも、幾分か氣ぜはしなく感ぜられる故に、女性だけには今少し打ちくつろいだ現在のやうな坐り方があつたが、男が主客ともに前面は膝まづき、後は指を伸ばして足の甲を下に附けるやうになつたのは、全くこの款待の擴張からであつた。即ち客もあぐらをかくに忍びず、亭主もかしこまつて居るにも及ばぬといふ程の交際が、最も發達した結果と言つてよいのである。斯ういふ坐り方には板敷は殊に不便であつたらう。兎に角に客間は座敷ともいふ程で、夙くからこの座の疊が敷きつめてあつた。しかも其他の部分も、廊下勝手以外は、悉く疊を敷くべきものと思ふやうになつたのは明治である。言はゞ疊のもと敷物であつたことを、忘れて行かうとする過程である。現在は客無き日にも敷き放しを普通とするのみか、金のある者は其上に絨氈や虎の皮を延べて、更に坐蒲團と稱する第三の疊を敷いて居る。さうして靴を脱いだ手で、すぐに御菓子を摘まなければならぬ不便をさへ忍んで居るのである。斯ういふのは古くからの拘束ですらも無い。

　疊は本來はたゝむ〔三字傍点〕ことの出來るものであつた筈である。それが床と稱する藁の中子《なかご》を入れるやうになつたのは、やはり座蒲團が褥《しとね》の轉用であると同じく、寢具との關係があつたらしいのである。現在は刺し固めて板のやうになつて居るけれども、是に何寸かの高さを附けてあるのは、單に室内の入用なる處々に、移して敷くものであつた名殘に他ならぬ。牀に高低があれば休むのに樂であつたのみならず、以前の上靴であつたたび〔二字傍点〕を脱がずとも、足を投げ出してあぐらに居る便があつたからだと思ふ。足袋が木綿になつてからは、却つてこれを穿いて疊を踏みあるく方が、まだ幾分か氣持がよい樣に感じて居るが、それでもこの敷物を單なる板の間と同一視し得ざる限り、氣になることは中々多いのである。中でも問題になつて居るのは塵埃の始末で、其爲に今日の煤拂ひなどは、實際は疊を叩く音を以て終始しなければならぬことになつて居る。日本の文學が頻りに浮世の塵を歎いて居た頃には、まだ／＼我々の塵は單純であつた。亂れて飛ぶものゝ繊維は幾分か長かつた。今日では毛や木綿の色々の織物、紙とか炭屑とかのすべてが、碎けて粉になつて多くの微生物を宿し、ちやうど細かな疊の目に落ちついて、又朝夕の蒲團の煽りに飄ふのである。それが少しづゝ沈んで來る時刻が、生憎我々の寢る時又は食ふ時である。膳の高さといふものが面白いほど低くなつて來たことは、或は十二分に此塵攻を受けて湛へようとする趣意の如くにも考へられたが、此方は流石に少しづゝ、又その寸法を加減しようとするやうになつた。獨り疊の高さばかりが、現に寢臺といふものに足のあることを知りつゝも、是をどう改めようと思ふ者も無いのは、全く近年に入つて之を敷きつめて牀の如くにしたからであつた。つまり此物がちやうど其形のやうに、牀にしては稍々餘分であり、敷物としては少し足らぬといふ、中途半端の地位に在る爲と言つてよからう。

(203)　客間が右に述べた如く發達してから、出居《でゐ》の生活といふものが日本では衰へた。出居は地方によつて奧座敷をさういふ處もあり、或は店の間茶の間にも之を宛てた例もあるが、何れも實際は元の意味に當つて居ない。出居は其文字の示す通り、出でて外の人と共に居る場所であつた。寒い盛りには爐の側にも寄せて語るが、通例はもつと端近の明るい所に、圓座などを敷いて相對したのである。客間は準備が無くてはさういふ單純なる訪問者を迎へ入れることが出來ず、茶の間には又内々の心遣ひがあつた。小さな家では多くは戸口の立ち話でも用を辨じたが、門構へのある位の家ならば、是が事務でもあり新たなる刺戟でもあり、又社會との連鎖にもなつて居た故に、出居といふ一隅が元は大切なものに考へられたのである。それで一名を表の間、貴族には之を會所と謂つた時代もあつた。所が尋常の家々では外に働く時が多いのだから、無論毎日こゝを使ふわけでも無く、常は女が縫物をしたり、又は子供が手習をするといふ類の、主人以外の者の事務にも用ゐられて、少しづゝその最初の目途が不明になり、次いで座敷といふ部分が發達するにつれて、有れども無きが如きものにこの出居はなつてしまつたのである。商人が之を見世の擴張に利用し、醫師その他の居職の者が、こゝを仕事場にする場合を除き、他の多くの家ではこの一室が無意味になつた。外から來る者は強ひて上らせて座敷の客として款待する者と、出來るならば取次から還してしまはうとする者との、何れかに片寄せられることになつた。日本の接客法が或者には濃厚に過ぐと評せられ、他の觀測者には又稍々冷淡のやうにも解せられる原因は、主として出居の衰微から來て居るかと思はれる。

　近頃の所謂文化住宅だけは、少しづゝ此缺點に心づき始めたのであるが、やはり大部分は出居を不用として、これを省略する方へ進んで居る。村でも新しく建てたものには、最初から之を廊下同然に看做して居るものが多い。婦人が追々に社交の能に長じて來ると、茶の間と表、常居と出居との隔ては無くしてもよいか知らぬが、後者と座敷の差別に至つては、無いと必ず混亂を招くべきものであつた。玄關は本來客室の出入口として、特に設けられたものであつた。是も或は長屋生活の影響であらうが、それを外觀の中心とするやうになつて、家はあべこべにこの臨時設備の(204)附屬物の如くなつて來たのである。貴人來臨が生活の大重要事件であつたのは、武家時代でも主として前期に屬して居る。單に有閑階級が出遊を好み、旅館がまだ到る處に備はらなかつたといふ以上に、是は部下の者の御目見え見參と對立した、一種誓約の方式のうちであつたらしいのである。それ故に久しからずして其風は漸次に廢つた。唯一旦その爲に發達した奧座敷の構造のみが、いつ迄も其利用の延長を促して居たのである。一方には故舊親族の折々の往來、是も起原は久しく土地によつては之をチョウベ（朝拜）と謂ふ者もあつて、まだ生命のある一つの慣習のやうであるが、此方は臨時に家族の一員となるといふ意味しか無かつた。此二つが後には混亂して、座敷へ通した以上はいつの場合にも歡樂宴語し、家中をひつくりかへらせ、子供をまご／＼させるやうに成つて居るのは拘束であつた。今日の間取りは部屋であれ座敷であれ、何れも新たに外から附け加はつた部分が、前から有る住居を侵食した形になつて居る。出居の生活は改めて非常に必要になつて來たけれども、之に代るべき應接間といふものには、今はまだ多くの客間式分子を留めて居るやうである。

　是には我々の住心地の問題が、少なくとも一地方の協同で無いと、解決し得なかつたといふことも考へて見なければならぬ。色とか味とかは、思ひ／＼の趣味によつて、此通り入り交つて居る。けれども家屋には之を供給する者の手がきまつて居た。大工の雛形は至つて徐々に變つて行くもので、それにも幾つかの棟梁の系統が分れて居た。滅多に教へられた寸法割合から離れて行くと、實際は危險に堪へなかつたのである。それ故に甲と乙との府縣の間には、面白いほどに樣式の相異があつて、しかも同じ土地だけでは、どの家も略々御揃ひに出來て居たのである。愈々不便が甚しくなつて改造をしようといふことになつても、この變化は誠に知れたものであつた。何處に行つてもさうは大膽で自信のある設計家といふ者は居ないから、安心して手本に取るやうなものが得られなかつたのである。それで結局は寧ろ外國の永い經驗を、その儘引繼ぐ方がよいといふ案も出るのであるが、他の生活方法がまだ之と調和せず、又材料の制限も色々あつた。さうして我々は此上新しい忍耐を強ひられようとはしないのである。家が全體に他の何物(205)よりも古風で、衣食その他の進歩を邪魔して居るのは、言はゞ悔無きものゝ定まるのを待つて居るのである。今日は幸ひにして既に若干の自由に空想し得る建築家が現はれて、次々に其製作を實地に試みるやうになつたが、品は唯一つで型を定むる迄に至らず、直ぐに後から來るものに代られて居るのは、即ち流行のまだ容易に始まらぬことを意味する。所謂和洋折衷の例はもうよほど多くなつたが、是は折衷では無くて實際は、寄せ集めて比べて居るだけである。

　家を建てる材料の問題に就いては、今迄も可なり苦勞をし又迷つた。さうして衣食のやうには機會に惠まれて居ない。併し大體からいふと、日本のやうに植物のよく繁茂する國で、木萱を主として使つたのは自然であり、又選擇の餘地の無いことであつた。只その利用法が、以前は幾分か注意深くなかつたと言へるのである。最初に屋根を葺く方法からいふと、是が無暗に人の手を掛けさせるものであつた。板葺きはちやうど今日のぶりき〔三字傍点〕屋根と同じに、最も單純な思ひ附きであつただけで無く、損所を補修することも容易なやうであるが、それは只板の價が極めて安かつた場合の話である。枌板《そぎいた》の工藝が出來るだけ木を薄くそぎ、追々に又其形を小さくしたことは經濟にもかなひ、且つ作業にも便である上に、それを葺き重ねたところは美觀でもあつたが、それだけに手數は多くかゝつた。釘で打ち附けると割れ腐り、石で押へると滑り落ち、それを横木で留めると雪が卸しにくゝなる。おまけに風に損じ火に劫かされる。危險は最も多いのである。それにも拘らず此式は永く傳はり、それを押へる樹の枝や平石丸石、海近くに在つては蠣の殻などと、土地それ／”＼の特色とさへなつて居るのである。

　主たる理由は之に代つて用ゐらるべき材料の、發見し難かつた點に在ると言つてよからう。茅屋は至つて造作も無いものゝやうに思はれたが、是とても萱野の兼ねて用意せられたものが無くては、さう何時でも新たに建てるわけに(206)行かぬ。即ち古くからの土地經營法と、併行して傳はつて來たのである。葦や麻稈や桑や竹のやうな、有合せのものを以て一部を補充するやうになつても、もう其分だけは萱野が減じて居つて、再び總茅葺きに戻すことは六つかしいのである。殊に各戸がめい／＼に其材料を用意するといふは望まれぬことであつた。一部落の内が順次に葺きかへ、又は火に遭うて復舊するものを助けるには、ユヒ〔二字傍点〕といふ組織を必要として居た。即ち一年の萱を或一家に使はせることを承認するのみか、更に集まつて苅り且つ運んで助けることを、相互ひに約束して居たのである。ユヒの結合が崩れてしまふよりも前から、もうこの萱生地の存續が六つかしくなつて居た。しかも民家が瓦を以て屋を覆ふことは、普通は制度として許されなかつた故に、小屋には思ひ／＼の假葺きが始まつたのである。京都の南から大和へかけては、稻藁を多く用ゐて居る。或は美觀の爲に此材料を擇んだかと思ふほどに、今では家の輪廓と巧妙に調和させて居るが、斯ういふ手のかゝる葺き代を最初から好んだわけは無い。其他の多くの府縣の小麥稈、乃至は大麥の藁を以て葺いて居るものは、明らかに萱野を麥畠に開かねはならなかつた結果である。上手に葺き上げると外形はさして違はぬが、此方は茅屋の丁寧に葺いたものが四五十年を保つに反して、先づ三年もすれば朽ち始めた。從うてゆひ〔二字傍点〕をかはすべき餘地は無くなつたのである。山々の冬の仕事の少ない村から、屋根屋といふ者が暮にかけて巡業した。手の足らぬ家では日傭を入れた。さうしてその眞黒になつた古麥藁は、通例は堆肥などに宛てゝ居た。

(207)　總瓦が自由になつて萱野は忽ちに開き盡され、一方には又家の形が丸で變つて來た。草屋は出來るだけ早く雨を流し、濕氣を含ませて置かぬ爲に、最も傾斜を急にする必要があつた。斯ういふ家では軒が低くたれて、雨垂れのしぶきが戸に迫つたが、瓦は之と反對に載せてずらせぬやうに、特に綬やかに屋根をこしらへたので、從うて軒先を深く、窓を明るくすることも容易であつた。板や杉皮を葺いた庇は新しいものでは無いが、明治は村々の茅屋藁屋が、競うて其庇を取附ける時代であつた。竹樋とたん〔三字傍点〕の樋を其端に廻らして、人が雨垂れの簾をくゞらずとも自由に入つて來られることになつたのはそれからであり、之に伴なうて又縁先といふものが、多くの小家の普通になつたことが、新時代の一つの變化であつた。縁は草屋に在つては通例は雨戸より外になつて、濡れて實際は多くの用に立たなかつた。軒の庇が高く明るくなると、始めて家の端にこの板敷が設けられるやうになり、疊を敷きつめた障子の中の不自由さを、幾分か緩和する結果になつたことは、是がどういふ風に利用せられて居るかを見てもわかる。年寄りたちには今でもその縁側が珍しくて、始終是に出て日を浴びようとする者が多い。子供も心安く多くは爰に集まつて來る。路を通る者が立寄つて腰を掛けようとする。即ち一部分は出居の機能をも快復して居るので、是が主として又瓦といふものゝ影響であつた。

　壁の普及は瓦よりは少し古かつたかと思ふが、是も庇が開いて軒先が遠くなつてから、一段と其效用が顯はれで來た。以前は雨が注いで土を飜《こぼ》し易く、所謂あばら屋の土壁の隙間は、却つて板よりも多かつたのである。併しよく塗れば此方が無論風を防ぐから、寒い土地には適したらうと思ふが、實際は寧ろ意外に、北へ行くほど板壁が多くなつて居る。一つには材料の木板が尚乏しからぬ爲、今一つは是が外から來た技術であつたからで、すさ〔二字傍点〕を切り込んで泥を纏めるといふほどの簡單なことでも、偶然には思ひつくことが出來なかつたのである。左官といふ名前はどうして始まつたか知らぬが、この一派の職人が土着して、家は稍々温かくなり又漸く立派になつた。さうして我々は他日礦物の家に住む準備を、少しづゝして居たのである。今一つの效果は窓が自由に、如何なる大きさにも開けられるやう(208)になつたことである。板で壁を張つても窓は作れぬことは無いが、實際は其大きさと位置とが限られて居た。障子硝子戸の進出と手を携へて、窓の形は面白いほど區々になつた。從うて又小座敷の數を多からしめたのである。

　瓦と土壁とは當然に又火事を防いで居る筈であるが、まだ實際には其成績を認めさせてくれない。所謂屋上制限の早く行はれた都府、土藏塗籠を建て竝べて居る市街が、それから何度とも無く一望の赤土と化して居る。地方の大火といふものは一段と繁く起つて居る。消防の組織の密になつたこと、機械の精巧になつたのも明治大正の特色であるが、一方には火事を起す原因もまた確に多くなつたことは、事後の調査によつて之を知るばかりである。是には一種の隱れたる小屋心理、即ち家は燒けるものだといふ考へ方も働いて居たやうである。小屋が本當の假屋であつた時代には、事實是は又必要時の薪でもあつた。それからやゝ落ち着いて住むやうになつても、強ひて火事を起して燒く人が無かつたといふだけで、町では殆と家の火を防ぐ者は無かつた。いつでも警鐘を聽いて方角と風の力を察し、少しく危險があれば先づ立退きの支度をした。葛籠や籠長持は悉く運搬用に出來て居り、車力の大八車なども、火事の用に發明せられたと言つて居る。田舍でも一軒燒けで濟むのは先づめでたい部類で、後に見舞や手傳を以て埋合せをしたことは、今日の保險も同じであつた。災害の種類も數は多いが、人が是ほどいさぎよく諦めるものも稀であつた。それが都會に於ては直ぐに代りの得られる商品であつたからである。だから不意を食つて家財まで丸燒けになつた場合のみを、特に不幸として歎いて居たのである。町火消しに格別の骨折りをさせることは、大金のかゝる仕事であつた。必ず此一軒は燒くまいと思へば、急場に臨んで算盤を彈いて見る必要があつたので、多くの借家人らは勿論そんな事をしなかつた。總別家の燒けることに關心せぬ者が、町には至つて多かつただけでは無く、一部には之を景氣と解する者も少なくは無かつた。大火があれば一時ながら、澤山の失業者を濟ふことが出來た。江戸などは殊に火消しが即ち仕事師である故に、兎角火災を大きくしたがつて困るといふことが、百年前に成つた羽澤隨筆には書いてある。つまりは家が燒け易いといふよりも、燒かぬといふ覺悟を以て建てられた家が少なかつたのである。

　人を廣々とした一つの盆地に置いて、自由に何處なりとも好きな場處を屋敷に擇べと言つたら、少なくとも日本人(210)だけの間では、略々その選定が一致して居たらうと思ふことは、今でも諸國の實例に由つて想像し得られる。たとへば岡を北後に負うた家は、其他の向よりも早く出來て居る。泉の露頭に近い上手の方の屋敷は、多くは下流に在るものよりも存分な地取りがしてあつて、其繩張りの一つ前であつたことを思はしめる。人が多くなつてさう望み通りの地處が得られなくなつて後も、尚出來るだけ最初の條件に近いものを求め、更に少しづゝ新たなる發明を以て、其不備の點を補はうとして居るのである。山は燃料を採り水を引き、風を除け日を受けるといふ便宜以上に、是を後に控へることは用心の爲にも必要であつた。家の正面に田を作つて、門から出て行く一筋の徑が其間を通つて居るなども、單に管理が易く秋の稔りの光景を樂しみ得るといふ以上に、最初は之を要害として、近よつて來る者を防ぎ守る目的の方が主であつたかも知れない。さういふ殺伐を極めた害敵掠奪者は、もうとくの昔から押し寄せて來なくなつても、人は尚斯ういふ樣式の家を見つきがよいと謂ひ、主人も亦是に滿足して、一方新たなる交通手段の不備を意に介しない例が多いのは、つまり我々の住心地が非常に複雜なる構成をもつて居て、自身も意識せざる色々の古い分子が、今でも遺つて居る結果と言つてもよからう。

　つまりは何と何との條件が、我々の安住に必要であつたかといふことは、今ではまだ知れて居ないのであつた。さういふ行きがかりは一切斷ち切つて出て來たつもりで、何かまだ缺けて補はなければならぬものが有る樣な感じ、それが近世の新築計畫者の惱みであつた。思ひ／＼の郊外の文化住宅などには、其惱みがよく現はれて居る。以前も町を造り若しくは平野に村を拓いた人々が、やはり是と似た色々の妥協もしくは折衷を試みようとして居た。關東北陸の諸縣の山に稍々遠い低地で、屋敷の背後の森がよく發達し、殊に陰鬱なる杉樅の類を高く茂らせて居るなどは、恐らく單なる風除けといふよりも、曾て高地に據つて居た所の、心安さを忘れ得ぬ結果であらう。或はいさゝ小川のせゝらぎの音なども、何でも無いやうであつて又一つの心の頼りであつた。即ち水は常に流れて居るといふことを、耳で確かめて居た數百年からの習はしが、斯うして井を掘り水道を伏せる時代まで、尚我々をして泉の響を愛せしめた(211)のである。是が明らかに心付かれたならば、却つて何とも思はなくなるかも知らぬが、元來日本人は何れの民族よりも水を多く使ふ國民であつた。壺で頭に載せて運ぶやうな分量では、殆と辛抱しきれない性癖をもつて居る。門を流るゝ水のよしあしには拘らず、止めども無い程に是で物を洗つて居た。高く登つて遠望することは、決して嫌ひで無い快活な質であつたが、土に遠ざかつて住むことはこの爲にも出來なかつた。二階三階の甚だしく乏しかつたのは、制禁の力でも無く又材料の不足からでも無かつた。火事や地震の不安といふことよりも、土を踏む機會の乏しくなることを厭うたのである。

　山が一般に緑深く、其外線は急に複雜になつた。伐ることも勿論昔よりは烈しいのだが、人が遊ばせて置くやうな土地は、さう殘つて居らぬのである。水面は川も沼も、出來るだけ狹くしようとする爲に色が濃く光が強く、又物の影は多く映るやうになつて來た。自然は新たにその美しさを増して來たことも確である。只人間にはもう長い旅といふものが無くなつて、之を知らずに通つて行く日ばかり多いのである。旅は安樂に面白いものとなつて行く代りに、同じ處へ二度來る人が少なく、靜かに立つて見て居ようといふ心持は減つた。遊覽を目的として出てあるく人が既に是である。其以外にはたゞ忙しい用事をかゝへて織るやうに東し西する者が繁くなつて來ただけである。風景の味ひは大いに淡くなつたと言へる。折角美しくなつたものが、まだ我々の旅の情を養ふといふまでには用ゐられて居ない。さうして年を隔てゝ故郷の土を踏む者が、あの禿山の貧しい赭《あか》い光でも、なほ消え去つて再び見られないことを歎くのである。大小あまたの石が磊々として居た頃の、幼時の川の岸ばかりを懷しいものに思ふのである。

　是にはまた人々の心に潜んで居る古い趣味の束縛、即ち自然に對する態度の不用意といふことが考へられる。所謂環境が世代とゝもに改まつて行かなかつたら、それに包まれたる人生は荒れて居るのである。さうして永く荒らした(213)まゝに悲しんで居ることは、我々には出來なかつたのである。新しい生活には必ずまた新しい痕跡がある。線と色彩とは當然に變つて行くべきであつた。俗惡といふ言葉が大抵は自分たちの勇んで働いて居る事業を、嘲り罵る結果になつたのは、多分は風景を人間の作るものとは考へずに、どうしてそれが快く眼に映ずる事になるのかの、元を尋ねようとしなかつたからであらう。才情豐かなる旅の文藝家は、いつの時代にも氣まぐれなる批評を濫發して居る。さうして季節や時刻や又時々の氣分によつて、自分にもあてはまらぬ法則を立てゝ見ようとして居る。是が我々の天然に對する立場を、無益に二通り又三通り以上にも分けたのは、考へて見ると惜しいことであつた。

　自國固有の藝術は古いもの、外から入つたものだけが新しいといふ誤解も、半分以上は亦是を原因にして居る。文學にも實は澤山の粉本があつた。殊に言語は繪具などの如く、自由に溶かしまた塗ることの六つかしいものであつた。歌にならない人間の感覺といふものは、畫に描くことの出來ぬ風景よりも更に多かつた。それで旅行が幾らでも自由になつて後まで、名所といふものが幅を利かして居たのである。畫の方には床の間や掛物の寸法とか、其他之によく似た我々の豫期が多かつた。其爲に新たに生れた美しいものゝ中から、何でも持つて來るといふことが出來なかつたのである。洋畫も最初のうちは唐畫が大陸の風物を種にしたと同樣に、成るべく是と調和した題材だけを選んで居たのであつたが、其うちに技術と心がけとが獨立して輸入せられることになつて、所謂埃箱の隅でも描いていゝといふ流儀が、卒然として始めて頭を擡げることになつた。畫家の是が爲に新たに受けた好奇心の刺戟、是に導かれた才能の覺醒はすばらしいものであつたが、それよりも更に大きな事實は、徐々に實現して來た風景觀の解放であつた。

　昔の旅人が詩歌文章に寫し出すことが出來て、傳へて置いてくれたものは一部であつたといふことも解つて來た。彌次郎兵衛喜多八といふ類の漂浪者の、素朴單純なる旅の昂奮の中には、多くの名?し得なかつた感銘があつたことも心付かれた。斯ういふ變化に滿ちたる國土も少なく、日本は美しい天然の國だといふ觀光國の常套語が、空な辭令で無いことだけは知つた。寫眞も素人の幾分か無細工なものが、畫以上に盛んにこの發見を進めて行かうとして居る(214)ので、人は兎に角に非常に風景といふものを心安く、且つ自由に樂しむことが出來るやうになつた。それは何れもみな明治大正の世の、新しい産物と云つてよいのである。但し缺點を強ひて擧げるならば、是ほど親密に我々の生活に織り込まれて居るものを、まだ多くの人は自分の物とまでは思つて居ないことである。衣食や住宅を樂しくするやうに、是を人間の力で統御することが、出來ないものゝ如く諦めて居る者がまだ多い。從うて何が新たに生れた美しさで、何が失はれた大切のものであるかを、ほんの僅な人だけに考へて貰はうとして居る。而して單なる無關心の爲に、不必要に未來の幸福を壞さうとして居るのである。特に進んで風景を作り立て、若しくは選び定める技術は拙劣であつたにも拘らず、斯ういふ破壞力の方は人が増すと共に愈々猛烈になつた。それを爭はんとする者は殆と皆、昔からの趣味に囚はれた人ばかりで、此仲間は又生れて成長するものをさへ憎んで居るのである。そこで風景の批評は混亂することになつた。旅を夢中でして、名所ばかりを尋ねて居る者が、いつの時代になつても數多いのは、そんな面倒な觀方を學んで居る餘裕が無いからである。

　所謂、鐡の文化の宏大なる業績を、たゞ無差別に殺風景と評し去ることは、多數民衆の感覺を無視した話である。例へば鐵道の如き平板でまた低調な、あらゆる地物を突き退けて進まうとして居るものでも、遠く之を望んで特殊の壯快が味はひ得るのみならず、土地の人たちの無邪氣なる者も、共々にこの平和の攪亂者、煤と騷音の放散者に對して、感歎の聲を惜まなかつたのである。是が再び見馴れてしまふと、又どういふ氣持に變るかは期し難いが、兎に角にこの島國では處々の大川を除くの外、斯ういふ見霞むやうな一線の光を以て、果も無く人の想像を導いて行くものは無かつたのである。木曾の水力電氣はこの谷の年久しき傳統を破つて或は山靈を泣かしめて居るかも知れぬが、こ(215)れが平野の經済活動の、また一つの水源になつて居るといふ意識は、どれだけ奧在所の人々に心強い印象を與へたか知れぬのである。今まで何一つ此類の變化を受けなかつた土地と比べて、どちらがより多く滿足して居るかといふことは、改めて聞いて見る必要も無い位である。

　都市は永遠に爰に住み付かうといふ意氣込の者が、多くなつて行くと共に活き／＼として來た。一つ／＼としては失敗であつた建築でも、それが集まつた所は又別に一種の情景を爲して居る。或は片隅に倦み疲れたやうな古家が殘り、もしくは齒の拔けたやうに空地が入り交り、それから見苦しいものを強ひて押し隱して、表ばかりを白々と塗り立てた僞善ぶりを、憎まうとする者も有るだらうが、同情ある者の眼には是も成長力の現れであり、且つ此上にもなほ上品なる趣向を、働かせ得べき餘裕である。正直に言ふと明るい晝間の光で見れば、まだ／＼目障りになるものが色々あるのだが、少なくとも夜の燈火の色の美しさだけは純である。これだけは確に此世紀に入つてから、人が老いたる天然に寄贈した、親切なる贈り物と言ふことが出來る。此魅力は多くの若い訪問者に向つても、可なり強烈に働きかけて居る。人は是あるが爲に永く遊ばんとし、又寄り合つて更に此土地を修飾しようとする。さうして色々の曾て愛せられた情緒を、無造作に忘れ去らうともして居る。乃ち都市の風光も亦推移しつゝあるのである。

　ところが、一方には町が至つて古いといふ誇りを、大切にして居ることも亦一般の風であつた。稍々衰へ行く都市が其記念物を保護し、之を力として遠近の人を招き寄せんとする以外に、他の大急ぎに町を新たにせんとする者までが、やはり舊跡の自然に舊くなつて行くことを、罪惡の如くにも考へて居るのである。この矛盾は中々面白いことで、實際は市民の生活に取つて必要なものが、今はまだ求められずに居るといふことを暗示するのである。是は必ずしも廢墟の寂寥たる詩趣を、熱閙《ねつたう》の底に味はひたいといふ樣な無理な願ひからでは無い。舊跡も亦一つの飾り、一つの修養の機關として、別に之を新たなる都市構造の中に、組み入れて置く必要があつたのである。だから舊跡は保存せられつゝも、毎日次々と時代化して居るのである。以前の城下町の最も花やかなる目標、人がその地に近づくにつれて、(216)殊になつかしく笠の端に振り仰がれたものは、城の白壁と御天守であつた。多くの紀行や廣重の板畫などを見ても、是が松の木の間からちら／＼と見える光景は、先づ以て其都市の意氣を示すものであつた。自分は低い小家に住む者でも、何かといふと御城を自慢の種にした。後には防禦の本來の役目よりも、寧ろ此方が重要であつたかも知れない。廢藩置縣の事業が完成した際に、膳所《ぜゞ》とか水口《みなくち》とかいふ近江の古城の、最もよく旅人に知られて居たものが毀たれた。彦根も同じ運命に定まつて居たのを、折しも行幸があつて惜しいから殘せと仰せられ、それ故に今も汽車の窓から美しく仰ぎ見られて居る。

　港の盛衰とその風光の變化ほど、外から來て觀る者の心を動かすものはあるまい。曾ては遠淺の砂の上に碇の綱をたるませて、何を待つとも無く腹這うて居た友船の悠長な姿が、海の景色といへばよく畫かれたものであつたが、今はさういふ景色を見るのは路の絶えた岬の陰、もしくは地圖に名も出ぬやうな入江の口ばかりで、少しく聞えた土地には、じつとして居る船は殆と居なくなつた。汽船の寄航は誠に慌たゞしいもので、それに用意する爲に小舟の數は非常に増して居て、いつでも事ありげに右往左往して居る。發動機船が入つて來てからは、まだ漸く二十年ほどにしかならぬが、急に其頃から漁村と港とは接近した。つまり港に近く住む漁村のみが、多くの便宜を得るやうになつたのである。出漁の材料は港に來て買はれるのみならず、朝毎の魚市も爰に立つのを普通とする故に、事實漁夫等のこ(218)ゝに暮らす日は多い。港の水面は土地の船を以て覆はれて居る。さうして旅人の船はさつさと過ぎて行つて、こゝを泊りとする者が少なくなつた。湊の情景はもう以前とはよほど變つて居る。

　是は直接に風景の問題で無いが、所謂有識階級には昔から引續いて、海部《あまべ》の感覺を承け繼いで居る者が、農夫のそれよりも遙かに尠なかつた。或は全く無いと言つてもよかつた。彼等の間には内陸に入つて來て、邑里の人々に混じ(219)ようとする者も無かつたらしい。何れ一度は大海を渡つて、到着した者の末であるだらうが、日本人の多くは海の生活を異郷視して居た。其原因は或は信仰であつたかも知れない。海の邊には漁民で無い者も多く村を造つて居るが、彼等はどういふわけか一般に海の生活技術を學ぶことが遲かつた。殆と渚の線まで耕作をして居る者は、海を畏れ憚る情のみ強くて、親しみは持つて居ないやうに見えた。山を隔てゝ住んで居る人たちは、勿論出て來れば非常に珍しがるが、同時に又をかしい程海をこはがつて居る。川でも湖でも、船に醉ふ人は甚だ多く、舟を操る者は至つて少ない。日本に海洋文學の發達しなかつたことを、訝り怪む外國人は多い。丸で生れなかつたわけでも無いが、全體に海をよそ／＼しく氣味の惡いものゝ樣に取扱つたものが多くて、其壯麗を讃歎したやうな作品は、捜しても見つからぬのである。海人の子・あまをとめは歌にも?々詠まれて居るけれども、それは多くはたゞ憐まれて居る。

　ところが海の風景は明治に入つてから、實に花々しいばかり變化して來た。山の奧でも鐵道や鑛山の開け又は林業の盛んになつた處は外貌が改まつたが、海はそれよりも更に活き／＼として來た。全體に動くものが多くなつて、じつとして居るものが少なくなつた。船は風待ち潮待ちの日ばかり長くて、殆と半生を睡り暮らすやうであつたのが、今は繋船といふことが不幸な現象になつた。漁業にも季節の外に天候の制限があつて、沖に出ぬ日が何日も續いたものが、快活なるポッポ船が始まつてから、近くが不漁ならば遠洋へも乘り出す。濱が淋しくなつた程に、いつも海上に働いて居るのである。農村とちがふのは水面が大通りである故に、一切の見物は悉く眺望に入つて來る。船が巨大になることは水平線の遠くなることであつた。千里の對岸から大洋を横ぎつて、近よつて來る異國の船、それから全(220)國民が税を拂ひ力瘤を入れて造らせた軍艦や飛行機飛行船、構造から謂つても又金高からいつても、都府の如何なる大建築よりも優つたものが、絶えず眼の前に消えては又現れる心地よさは、僅か半世紀の前の代の人の、夢にも想ひ得なかつた新現象である。帆船は柿本人丸の時代から既に美しい海上の一點景であつた。日本で其布を眞白なものにきめて居たのは、何か偶然で無い深い理由があつたと思ふが、是が濃淡の緑色にくつきりと跡つけて行くところは、凪にも荒天にも之を上下に操る者の苦心を、遠くに居りながらも同情し得るやうであつた。併し一體に昔の白帆は單調であつて、瀬戸では風の好い日には海に滿つるほど走つて居ても、それが皆同じ形の同じ方角になり易かつたが、所謂三角帆の西洋流が混用せられてからは、形は雜駁だが變化は面白くなつた。折には帆布の色も珍しいものになつて居る。それに第一帆の數が大へんに多くなつた。さうして沖を通る大船の中には、算へきれぬほどの帆をかけたものもあるのである。望遠鏡はもう至つて得やすくなつて居る。文化は都市のものとは又樣式をかへて、この晴朗な海の上にも、ひし／＼と迫つて來て居るのである。

　それから夜の火の美しさなども、海上はまた別種の趣きを見せるやうになつた。港はもと其燈火の水に映ずる光を以て、蛾の如く夕方の船を引寄せたものであつたが、現在はそれが却つて岸から見るものになつた。各種燃料の供給が自由になつて、焚入れの漁業は到る處に盛んになつた。日本海の方はいま少し古くから、殊に夜舟の漁りが多かつた。烏賊《いか》の盛りには津輕の海峽から、北は宗谷の近くまでも遠方の釣舟が集まつて來る。さうして廣々とした闇の海に、入り亂れて火を焚いて居る。其風景は旅をする人々にも、山の花盛りを仰ぎ見るやうな懷かしさであるが、ましてその漁法を解し是が家々の秋の稔りであることを知るものには、ちやうど農民が稻田の黄金色に對するやうな、心地よさを伴なうて居ることゝ思ふ。港に住む者もやはり此火の花やかさを眺めて、めい／＼の身の喜びとすることが出來たのである。海の明るくなつたことは燈臺の力も大きかつた。闇や曇り夜の心淋しい時刻を、是で慰められるのは海を行く者だけでなかつた。町の光のやうに其底に沈み入つて、陶醉し得るといふ一點は缺けて居る代りに、虹で(221)も星でも夕曉の雲の彩りでも、海で見る風景は常に遙かに壯大であつた。それを時代が又澤山に附け加へてくれたのである。昔ながらの天然では無かつたのである。

　平野の色彩の新たに其複雜さを増したのも、悉く亦無意識なる人間の力であつた。人が自ら樂しむべく野山に遊ぶ姿なども、期せずして既に風景の美しさを添へて居るのだが、それ迄はまだ御互ひのことゝ考へてもよい。村の改造に至つては心有つて之を企てたとしても、尚是以上には緑の天然と、しつくりと調和させることは出來なかつたらう。以前の村里はその住民の常着のやうに、くすんで最も目に立たぬものであつた。或は其存在を出來るだけ輕微に見せることが、寧ろ安泰をはかる途であつた時世もあつた。最初此中へ入つて來て、突き拔けて大きな甍を聳かしたものは、所謂平民佛教の道場であつた。其他の宗派では幾分か俗と遠ざかり、山の蔭だの森の中だのに居を構へたものであつたが、眞宗だけは勇猛に此茅屋の群にまじつた。さうして遠くから陽炎の其屋根の上に立つのを、望み見るやうになつたのである。是が普通の小村にまで出來揃つたのは、江戸期も終りの方へ近くなつてからである。

　松の老木を目標としたことは古かつたが、花を其間に栽ゑ交へたのは、亦多くは明治であり、それが大正に入つて(222)樹高くなつた。桃李などの果樹の畠も、今では明るい村々の脚光である。木芙蓉・爽竹桃・百日紅《きるすぺり》の類の、眞赤な夏の花を好んだのも流行であつたが、今では日本半國の田舍の、それが夏景色の基調とさへなつて居るのである。併し何と言つても大規模なる風景の改造は、專ら田園の方に行はれたのであつた。野を拓いて麥生にすると、早それだけでも色の調子は強くなるのであつたが、次いで其間に菜種の花を咲かせることになり、更にまだ是でもかと言はぬばかりに、田には處々に紫雲英《げんげさう》を作り始めたのである。げんげ〔三字傍点〕は土地によつては只はな〔二字傍点〕と謂つても通用する。それ程農村では印象の深い花であつた。都市の郊外などに少しの草花を育てる前、田舍はもう一樣に花園に化せんとしたのであつた。是に引續いて追々に自由なる作物の選擇と配合がある。中には幾分か元よりも減じたものがあると、それが又綾模樣の珍しい新柄になつた。麻畠の雨に漂ふ風情などは、もう忘れられようとして居る。蕎麥も古くからの秋の景物であつて、芭蕉七部集の連句の中には、

　大體に均し半げられて、遠く望むことの出來るやうになつたのが特徴である。開墾は　　屡々隣村の燈火を互ひに見る(223)やうになつて、心の交通も亦繁くなつた。森の伐り殘されて多くの喬木を抱へて居ることが、此上も無く嬉しくなつた。最初はたゞ神靈の所在を侵さぬやうに、土を封したのがもり〔二字傍点〕であつたらうが、それに此通りの村の信仰の記念物が立つたのである。周圍の唯の林や雜種地が畠になつて、却つて古い森の美しさは加はつたやうである。汽車で通つて見ても處々に見かけられる。僅な木の間を透して一方の青田や、又は、村々の煙や花などの見えて來るのは、全く此頃になつての變化であつたが、我々は決して古い物が無くなつたやうな氣はせぬのである。人が少しでも旅の者の眼を怡《よろこ》ばせようと企てたり、又は自分の趣味をひけらかさうとしなくても、現實によくなつた風景は幾らもある。それと同時に折角苦心して、改造した積りの事業にも見苦しいことが多い。つまりは嬉しい滿足した氣持、延び／＼とした安らかさを味はつたといふことが、我々の風景を愛する元であることを、忘れた人が多い結果であつて、責任は多分つくね〔三字傍点〕芋山水を、押賣りした者にあるのであらうと思ふ。

　江戸以前の武家はよく路をかへ、又?々路の側の木も伐らねばならなかつた。一里塚に榎を栽ゑたのは信長からだといふ説もあるが、實はずつと昔から榎は竝木であつた。伐つて薪にして直ぐによく燃えるので軍陣の篝火に適したから、路傍に栽ゑて置くのが便宜であつたやうに、解して居る人もあるがそれはどうでもよい。兎に角に此木にさま／”＼の道の神の信仰が附いて居たのは、寧ろ久しく竝木に栽ゑて居た結果のやうに思はれる。奧州の大道には赤松の可なり古いのもあるが、處によつては川楊《かはやなぎ》を栽ゑ連ねて居る。是などは燃料の用意などよりも、寧ろ成長の早いことをめでたものと思ふ。其上に一つの動機は水に親しい樹といふに在つた。垂柳も同じことであるが、此木の在る所は清水の得やすい地であつた。茶屋が生れた前は泉が旅人の休み場處であつた。道路は自然に開けたものは多くこの泉の所在を繋いで居る。高清水箱清水などの驛の名の起りは、乃ち茶屋よりは一つ古いのである。西行法師の「清水流るゝやなぎ陰」なども、それが遊行柳の物語となつた以前は、やはりこの川楊の方であつたかも知れない。兎に角に是は格別に高く延びる木で、さうして又木肌の黒と葉の緑とが、美しく映える木でもあつた。

　關東は平野つゞきで山が遠く、全體に廣い眺望が得られなかつた。曾て大町桂月君が唱導した多摩原頭の二大觀、百草《もぐさ》の松蓮寺の岡と荒幡の新富士山なども、僅に數十の村の數を算《よ》むうちに、もうその向ふは欅の竝木に隱されてしまふのである。欅は武藏の昔からの特徴であつた。江戸から四方に放射した十幾つかの街道は、何れも其南側に屋敷林を持つた農家を住まはせ、それが表通りに欅の木を栽ゑた故に、自然にそれが一續きの竝木になつて居た。草の武藏野には此開墾の時が始であつたらうが、此樹は東日本の古い有用樹であつた。奧州では一般につき〔二字傍点〕といふのも同じ木らしく、北武藏には又都幾を郷名とし、川の名として居る地方もある。郊外住居の展開を始めてから、追々にこの竝木は伐り倒されて、都府との聯絡は全く斷たれてしまつたが、それでも僅か出て行くとまだ幾線かの欅の列が見られるのである。是も伐る事は盛んに伐つて居るのだが、幸ひに目的が尚續いて居る御蔭に、其跡には稍々年若の相續者が殘つて居て、若葉と秋の葉と、年に兩度の美しい色が繰返されて居る。扶桑木の傳説で語るやうに、朝日の早く(227)さし夕日の長く殘るのが、亦一つの忘れ難い風情をなして居る。冬の風の此木の梢に鳴る音は、夙く町の人の文學にも出て居るが、是が又廣漠たる大都の中へ向けて、久しく春毎の鳥の聲を運んで居た軌道でもあつた。

　烏はモールスの「日本その日／＼」に、飛んで來て人力車の提灯の?燭を取つて食つたとある。東京ではちやうど西洋の鴿《はと》のやうな人に馴れた生活をして居るともある。奧州の旅行では川で女が魚を洗つて居る舟に、僅か三四尺離(228)れて一羽の烏が、じつと其樣子を見て居たとも話して居る。奧州の烏は今でもまだそんなかも知れぬが、東京ではもう鴿と烏とは似て居ない。第一に數がぐつと減つて居る。三馬の浮世風呂には初烏の聲がかあ／＼などとあつて、町の元朝は?よりも烏の聲に明けたことは、明治になつても同樣であつたが、そんな律義な昔風を守つて居ると、烏は正月早々から飢ゑなければならなかつた。鳶が舞ふことは東京でも晴天の兆であつた。彼等の中にはたしかに若干の市に育つたものがあつて、毎日缺かさずにこゝの空ばかり飛んで居た。河岸の材木屋の丸太のてつぺんには、烏が來て居なければ鳶が羽を休めて居た。町の掃除の役の片端は彼等が引受けて居たのである。死んだ鼠を路上に抛り出して置くと、鳶が舞ひ下りて持つて行くのが普通であつた。今ではもう罷めたが、鼠を棄てゝ置く習慣だけはまだ止まない。

　人が無意識に天然の均衡を破つて居た結果は、以前にも既に折々は現はれた。蝙蝠が居なくなつて蚊がうるさくなり、狸が多く捕られて野鼠が跳梁するなどは、もう多くの人が心付いて居る。此頃は蛇を集めて藥に賣る職業が盛んになつた。是もやがて又鼠や蛙などの繁昌を招くことになるかも知れぬ。横濱では明治の初年、始めて洋館なるものが出來た際に、澤山の小鳥が飛んで來て硝子戸に突當り、落ちて死んだといふ記録が殘つて居る。蠅や虻などが今以て窓に苦しんで居る通り、斯んな明るい透明な空と同じ物が、突如として進路を遮斷した意外さは、所謂外國文化の比では無かつたのである。それでもいつの間にかそれを承知したものか、最早その不幸がくり返されなくなつたのは調和である。殊に開港場の海の突角の光は、あの頃としては強烈なる誘導であつた。諸國の淋しい岬に燈臺の立つた當座、闇の空を飛ぶ鳥がこの火に眼がくらんで、無數に落ちて死んだのも珍しい歴史であつた。斯ういふ多感な者が新しい不安に襲はれて、著しく生殖を制限せられたのも已むを得ぬことで、我々が美しい大きな都市に住みながら、何か大切な好い物を無くしたやうな心持が去らぬのは、眼よりも寧ろ耳の方に原因があつた。即ちこの新たな騷音の苦になり出す前から、既に人知れず整理せられて居た物の音は多かつたので、夏の日中をふれてゆく苗賣、圓朝の話に出て來る近江の蚊帳賣、その他色々の物賣りの聲の、何の入用も無いのに戀しがられるのは、即ち又我々の鳥を愛するの情と似たものであつた。

　しかし近頃の飼鳥の流行を以て、すぐにこの空隙を充すが爲に起つたやうに、考へて見ることだけは事實に反する。(230)第一に斯ういふ趣味に遊び得る者は僅かで、しかもその多數は必ずしも野外の鳥の聲に、耳を傾けようとして居た人たちでは無かつた。珍奇を賞するといふ心持が、最初から飼鳥の歴史には伴なうて居る。昔も今のやうに輸入といふことが、鳥の愛玩には伴なうて居たのである。さうして我々の里の周りに、以前豐かであつたものは、通俗なる鳥の聲だけであつた。小兒は今でも雀などを籠に入れたがるが、此方は捕虜を生かして置いた上代の風習に近い。國内の鳥でも後には山の奧から、稀なる種類のものを捕へて來ることがあり、鶯や?眼兒《めじろ》のやうな有りふれた鳥でも、追々に啼きを比べて優種を珍重し始めることになつたが、さういふ場合に限つて、必ず屋外の凡庸なるものを輕蔑した。つまり人間の技能の加はつた特別のものを愛したので、此點は寧ろ野鳥を疎外した大建築物などの藝術と似て居る。殊に最近の飼鳥養殖に至つては、よほど蓄音機や絹織物の製造に近いものがあつたのである。

　馴れるといふことは、又一つの別な意味があつた。家畜といふものゝ起りは是から出て居る。?がもと今日謂ふ所の飼鳥の部類では無くで、言はゞ一種の家族であつたことは、消えやらぬ我々の記憶である。曾て此動物が任じて居た信仰上の役目、祈願や卜占との深い關係は、何だ馬鹿げたと考へる人が多くなつても、朝毎に時を告げるといふ約束だけは、現に效果があつて他の方法では代へることが出來なかつた。このたゞ一つの因縁がある爲に、飼はれて居た?も總數にしては多かつたのである。ところが引續いて外國から入つて來た種類の中には、數々の珍種もあり特長もあつたので、先づこの方面から飼鳥趣味が割込んで、たうとう豚や牛馬と共に、再び捕虜の屠《ほふ》らるゝを待つ境遇に戻つて行つたのである。肉用卵用の?は時を告げる役までは勤めない。夜分が明るくなり、家の中が暖かくなつた爲でもあらうが、初夜眞夜中の早鳴きは普通になつてしまつて、人は不吉だなどともう之を嫌はぬやうになつた。さうして時計は十分に?以上の役目を果して居るのである。

　鼠などはあまり其惡戯が烈しい爲に、早く我々の愛情を失つてしまつたが、今でも家との關係は時として村の犬よりも深い。猫や桝落しが古い方法で無かつたことは、鼠を殺すことをいやがる人の、多いのを見ても察せられる。家に鼠の居なくなるのを不吉とし、或は騷ぐのは何かの前兆といふなどは迷信ではあらうが、新たに生れたにしてはあまりに弘く行はれて居る。正月だけはねずみといふ語を忌んで、よめ子と謂つて居る土地も多い。普通は五日か六日の日の晩に、よめ子にも年を取らせると稱して、節《せち》の食物を器に入れて、鼠の通路に置いて食べさせる習慣もある。犬猫の既に家庭に屬して居るものは勿論、?にも牛馬にも是と同じことをするのを考へると、最初は家畜と家に居る動物との間に、さう大した分け隔てはして居なかつたのである。是が屋上の烏や軒覗く雀、鳶や梟どもにも明日の天(232)氣を相談しようとした理由であつて、かういふ鳥は別に美しい羽の色でも無く、聲とても決して好い音樂とは言はれぬにも拘らず、來ると嬉しく影を見ないと何と無く淋しく思はれた因縁は、一言で言ふならば彼等が我々の友だちであつたからである。都會は實際又鳥類以外にも、多くの古い友だちを失はせる土地であつた。

(233)　人と動物との間柄がやゝ疎遠になつて、却つて其噂は高くなつたやうである。獵して捕るといふことは一つの戰闘であつたが、其結果は殆と全部が勝利談、さうで無い迄も敵方の敗北談であつた。是が往古以來單純なる人々の、最も聽くことを悦ぶ歴史でもあつた。併し其以外にも友としての動物の話は多い。たとへば狼は野獣の殊に兇暴なるものであつたが、是すらも曾ては夜路に人を送り、産の時に見舞を遣つたら禮に來たといふ話も多かつた。猿は敏捷であるがよく人の眞似をして失敗し、鬼は智虜が短かく鼬《いたち》は狡猾でよく物を盗んだ。狐は陰鬱で復讐心が強く、狸も惡者ながらする事がいつもとぼけて居るといふ類の概括も、決して昔話の相續ばかりでは無かつた。誤つて居たにしても兎に角に誰かの實驗であつた。だから斯ういふ話にほんの僅でも、附け添へ又は訂正すべき事實に出遭ふと、少年は細かに觀察したのみならず、また必ず記憶して群に語つたのである。是がどれだけ心の滋養分を含み又衛生になつたかといふことは、やはり食物と同樣に之を確かめた人が少ないのだが、兎に角にこれが彼等の第四番目の生活技術であつた。出でて故郷と外界との關係を會得する以前、先づ天然の中に自分を見出すの途が、いつでも斯ういふ樣式を以て開かれて居たのである。

　小兒が覺えて行く言葉を注意して見ても、順序はやはり衣食住の次に、この一つ／＼の環境の破片が入つて來る。さうしてよその人の概念よりも先に、家とその周圍の動物が學ばれるのであつた。野獣野鳥の物語が既にローマンスに化したといふことは、我々に取つては大きな事件であつた。明治に生れて大正に老いた人たちは、大抵は眼のあたりに此推移の跡を經驗して居る。狼は最近種が絶えたと言はれたが、それは反對の證據のあることで、現に今年も三重縣南部の山では之を捕つて居る。たゞ多くの土地では實物の鑑定を要するまでに、其知識が朧になつて居るのである。羚羊《くらしし》は曾て奧羽の諸山に於て、角を鰹の釣針にするほど捕り、東京近くの山でも僅か三十年前までは角をパイプにして賣るほども捕つた人があつた。今日は登山者の之を見かけたといふ記事すらも稀である。鹿も二三の靈場に保護せらるゝ以外、撃つて取つたといふ計數さへ小さくなつて居るが、五十年前にはそれが或季節の食物のうちに算へ(234)られて居た土地も多い。野猪は鹿に比べて子の生れ方が多い爲か、今尚猪害を患へて居る山村もある。

　其うちに新町村の結合といふことが始まつた。明治二十二年の市町村制以前にも、弱い小さな部落の獨立を止めさ(237)せようといふ方針は立てられて居たが、いよ／＼此時になつて之を全國一齊に實行することゝなつた。いつから在るとも知れぬ十七萬幾千の村と町とを、大まかに一萬二千ほどに纏めてしまつた。其結果は大體に於て好かつた。併し兎に角に大字は對立するものであつた。隣同士に竝んで居る村で、以前一つであつたのを分割したといふものは一割も無かつた。上とか下とか東とか西とかあつても、實際は大抵成立の時と事情とを別にして居る。つまり飛び／＼に有つた舊い村々の間隙へ、後から追々にはめ込んで行つたのである。それ故に隣村は互ひに肌合ひが違ひ、又若干の反撥心があつた。それを地域によつて一團體としたのだから、兵隊のやうに行かなかつたのも無理は無い。地堺の論爭などは合併によつて無用になつたが、何よりも面倒であつたのは共有地の問題であつた。後から作つた大字は必ず活力はあつたけれども、不利な點は草薪を刈る場所の少なく、入會《いりあひ》の權利のいつも不安なことであつた。部落はその一つ一つに、公有財産權の著しい不釣合があつた。これを平均に新圍體の恩惠とすることが、何よりも人に説きにくい改良であつた。部落有林の整理には又二十年以上の歳月が費された。さうして株式會社と同じやうな遣り方で、土地を提供せぬ者には金を出させ、又勞力を出させて植林をしたり、それでも損だといふ者には割戻しをしたりして、兎に角にその大部分を町村の物にしたが、それを纏める迄には手前勝手と邪推、警戒と懸引とが連發して、簡單に言ふならば故郷は人が惡くなつた。土地の問題だけには村の人も鋭敏であつた。從つて是には若干の緊張を感じない者が、一人も無かつたと言つてよいのである。

　又一つの厄介な問題は、どこを新町村の中心にするかといふことであつた。外から來て見る者には地形から判斷して、誰にも爭へない一點が有るやうに思はれたが、それは部落の中では大抵は最も新しいものであつた。はじめ結合の計畫は外に起り、道路も亦わざ／＼之を支持しようとして居た故に、どうしても他へは動かすことが出來なかつたけれども、現在役場の在る所は大多數が新町であつて、從うてそこの住民は方々の寄せ集めであつた。本村《ほんむら》元郷《もとがう》は原則として遙かに山の根方などに引込んで出來て居た。是を沿革には拘らず、交通の便利なところへ持つて來るといふ(238)ことは、亦大きな昂奮を必要としたのである。それが何でも無かつた樣に落付いてしまふには、人の家なら二代、年なら明治大正の六十年はどもかゝつたのも是非が無い。ちやうど東京が全國の努力を以て田舍化されようとした如く、淋しい新村の首府も勉強して各部落の意を迎へたが、それと入れちがひに農家の方も新しくなつた。町にばかり新しい空氣を吸ふ者を、固まらせて置くまいといふ考から、競うて彼等と同じ書を讀み、同じ講話を聽かうとした熱心が、いつと無く生活ぶりの一致となり、しかも流行は悉く小さな町を通つて、背後の大きな町から流れ込んだのである。

　勿論故郷の生活は靜かだとは言へなくなつて來た。街道は自然に住民を遠くへ誘導したと同時にまた意外な他處の人を喚び寄せて居る。人の移住の計畫的になつたのは、地理の知識が稍々確かになつてから後のことで、以前は植物の種子の如く、偶然に運ばれ又はたゞ浮動して居たものが、落ち着くといふのを普通にして居た。それには遠方を繋いで居る比較的眞直ぐな新道が必要であつたが、それにもました條件は、土の潤ひ、又は養分に該當するものであつた。最初村々にたつた一つの異分子は、寺の坊主であつた時代がある。僧侶は修行をするから生れた村には住まなかつた。小僧で村の寺に入つた者でも、大きくなると出て行つて還らなかつた。つまり遠くの方が働きよかつたのである。昔話にも度々出て來るが、無住の山寺に一夜の宿を借りたのが縁となつて、それから引留められて、長く居ることになつた者は旅僧であつた。多くは無口であつたが世間の事はよく知つて居た。次に外から入つて來た者は醫者であつた。是も代々の名醫となる以前に、元祖は多くは遠くからやつて來て、始から村の人であつたのは存外に少ない。寺子屋の起りも古いものでは無かつた。百姓も一通りは字を知つた方がよいと、心づきかけたのは江戸期もやゝ末の(239)頃であつた。是には頼んで町の人をつれて來たり、又は風來のやゝ素性の良いのを引留めた。そんなのが又幾らでもあるいて居たのであつた。土地によつては住民は尚算筆にうとく、いつ迄も外部から書役を雇うて居るものがあつた。代書口きゝ通辯のやうな事務が多くなつて、醫者と同じやうに斯ういふ者が重寶がられた。算用師などとも謂つて一種の職人であつたが、勿論醫者なり僧なりに兼ねてもらふ場合も多く、小さな村ではさう色々の役を別にするにも及ばなかつたのである。

　此等の限られた必要ある人々の外は、異分子は永く止住することを得なかつたのみならず、又頗る警戒せられて居たのである。普通の職人は年のうちに二度か一度、定まつた時に來るだけで十分であつた。商人も顔馴染の者が得意と稱する家々を、買ひさうな頃に廻つて來るだけであつた。御師《おし》や大夫や祈?師の類は、かすみ〔三字傍点〕と稱して廣い區域を繩張りにして居た。それを或季節に慌たゞしく廻つてあるくだけであつた。其他は出處の不明な詳しく身上話を尋ねなければならぬやうな人が、近世になるほど數多く遣つて來たが、旅行の趣意が明らかになる迄は、村人は容易に同情しようともしなかつた。いつも最少限度の應答をして、早く追ひ返さうとして居たのである。併し斯うして遙々と來る程の者は、必ず何等かの交渉を齎さずには居なかつた。それに多少の興味をひかれ、又は因縁を結ぶことになると、勿論時刻には飯を食はせ日が暮れゝば宿を貸した。遠い在所の舊家といふものゝ中には、勝手の片隅に此類の旅人の、五人十人と飯を食はぬ日は無いと言はれて居たものがあつた。彼等の半分以上は引留めれば止まる人であつたが、めつたには止まれとは言はれなかつた。旅人の款待保護と居住權の許與とは別のものであつたのである。

　宿を貸すといふことは一つの家庭の消費であつたが、村に住ませるのは土地の力の負擔に歸するからである。勤勞の自給自足はもとは徹底したもので、斯うして外からの手助けを仰ぐといふことは、それだけ農業の生産を以て養ふべき口を、増す結果になるのを憚つたのである。それが新しい世代に入つて來ると共に、此統制の力を保持することが困難になり、又其必要も次第に薄くなつた。種類は列擧し得ぬほどに多くの人々が入り込み、それを異分子とさへ(240)目することが出來なくなつた。ちやうど此境に家を出て居た者が、還つて浦島の子の驚きをするのも當然であつた。尤もさういふ中にも教員醫師や警察吏のやうに、是非とも入つて來てもらふべき人々も増加したが、別に其以外にたゞ自分だけの責任を以て、居所を生れの地の外に定めようとした者の増加、これが近世の顯著なる特色であつた。村には只僅の見捨地といふものはあつたが、それに小屋掛けするのは不幸なる人ばかりであつた。是以外の地處には皆主があつて、しかも自分一人の考でその利用を改めることも許されなかつた。ところが湊よりも城下町よりも、もつと自由な居住地がつい鼻の先に展開して、爰には略々無條件に旅人でも足を止めることが出來た。それは明治の新路の片脇であつた。

　道路が我々の故郷を改造した力は、大き過ぎるといふ程に大きかつた。古い話だから只簡單に述べて置くが、官道即ち國普請の往還といふものは、これを開鑿するばかりが行政廳の事業では元は無かつた。必ず其兩側に若干の間隔を以て、之を管理する民家を配置しなければならなかつた。是が前代の公式の驛遞法であつたのである。最初は地子《ちし》の免除と人馬の賦役とがちやうど向き合ひになつて、幾分か住民に有利であつたのが、後には二者は關係の無いものになつて、馬の徴發ばかり繁く、更に助郷までに其迷惑は及んだのであつた。だから以前改めて新道を附け替へるといふことは、竝木を惜しまずとも實際は出來ることで無かつたのである。明治の新政は、第一次に官府の旅費支給法を變へた。どんな御用の車馬でも定規の文拂だけは受けたから、街道は先づ地方民の仕事場と化したのである。從うて如何に廣々とした耕地でも原野でも、それを突切つて新路線を開いて置けば、それへは何時とは無く何處からとも無く人が寄つて來る。それを昔風に官府も奨勵すれば、四近の人々も是だけはあまり氣にしなかつた。村々現在の町場といふものは、其三分の一は斯うして生れ、他の三分の一はこの爲に成長した。殘りは鐵道を産婆にしたと言つて、大抵は當つて居らうと思ふ。

　斯うして天下の公道を傳うて、追々に故郷へ入つて來た人の中に、多くの好ましい友人が居たと同じく、新たに學んだ世の中の見方にも、無論有難いと思ふべきものが色々あつた。少しでも排除する力を有つて居ない人たちが、たゞ無差別に外から來るものを忌み嫌つたのは、損では無いまでも無益なことであつた。我々が故郷を成長する一つの生體としで、愛し見まもることが出來るやうになつたのも、實は又教へられた技術であつた。故郷を自分が失うた幸福な過去と、ごつちやにする樣な者は論外であるが、現に止まつて村と共に活きた人ですらも、之を鏡の影のやうにはつきりと知ることは六つかしかつたのである。それが今日ではさしたる經驗の無い者でも、略々我村の形勢を説くことが出來る。我村を解するやうになつたのは他の村を見たからである。隣で無いものとも比較することが許された結果である。即ち故郷意識の變化は、當然に異郷興味の増加に伴なうて現はれたのであつた。

　此傾向は疑ひ無く都市の生活者によつて導かれたものであるが、都市も斯うなる迄には相應の修行をして居る。勿(243)論自分の隣に他國者の住むといふことだけは、氣付かずには居られないけれども、それが最初のほどは途法も無く縁遠く、又何と無く氣の置けるやうにも考へられた。この互ひの冷淡は、以前の田舍暮らしに比べると淋しかつたが、相手が是だから遠慮無く競爭が出來ると、思つて見るやうな人の惡さもあつた。さうして僅かある同郷人が殊に親しくまた頼もしくも思はれたのであつた。所謂同縣の先輩の成功には力瘤が入り、これだけ擔いで居れば世渡りは安全なやうに感ずると共に、いつも餘分の好意を期待せずには居なかつた。しかし是も一種の孤立感の變形であつて、以前やゝ暫くの間法則化して行はれて居た藩閥の結合などとは、全く類推して考へることの出來ぬものだといふことが、追々と覺られて來たのである。藩閥は先づ勢力を補強する必要があつて、其爲に私恩を因縁ある者の間に賣り始めたのであつた。ところが此方には格別是といふ目當ても無いのに、頻りに助けられたい者の方から相助を迫つたのであつた。府縣は親分の活躍する區域としては、少しばかり廣過ぎたことも事實である。折角爰では同郷だなどと謂つて見ても、還つて行くとやはり他人であつた。それで結局は郷友會なども、淡い人情を以て集まつて酒を飲むだけのものになつてしまつた。失望は誠に已むを得なかつたのである。

　士族は今日の軍人と同じやうに、特に所謂假設敵の必要な職業であつた。隣に他人といふものゝ住み得ることを、少しも考へて見ぬ樣な經歴をもつて居た。江戸は彼等の唯一の社交地であつたが、尚以前には仲間でばかり固まつて住んで居て、外へ出た時は切口上でしか物が言へなかつたのである。それが突如として遠近雜居する世の中に出逢つたといふことは、大き過ぎる程の實驗であつた。人が相隣りし又共に働くといふことは、理論を超越した現實の感化であつた。無邪氣な好奇心は先づ動いて、永く垣根越しにばかり話して居ることは出來なくなつた。それに全國を通じて境涯の變化のよく似たものが多かつたのみか、互ひに認めて貰ひたいと思ふ長處も亦一致して居たのである。明治初期頃の南北の大都市、殊に幾つかの官廳でも置かれたものは、宛然として異郷知識の互市場の如き觀があつた。町の商家も由緒の古いものになると、交際を僅かの親戚の間に制限して、容易に外來の人に許さぬ風のあつたことは(244)農村も同じであつたが、斯ういふ地位身元の明白な外來人たちには、知らぬ顔をしては居られなかつた。

　そこで今までは遊歴文人や行脚僧のやうな、對等以下の遠慮がちな人たちからばかり、氣樂に聽いて居た世間話といふものが、急に適切なる意味をもつものとなり、話題も興味も日を追うて増加したのである。新聞はちやうどさういふ都市人の新傾向に追隨しつゝ、同時に又頗る之を促進して居る。何か變つた話は無いかといふ言葉は、世間話を好む者の昔からの常套語ではあつたが、その内容の方がいつの間にか進化したのである。勿論この好奇心の擴張といふのも、まだ相手が自分たちと同種で無いことを認めた結果であつて、是が必ずしも心と心との接近とはならず、從うて直ちに共同の市民觀を築き上げたとも言はれないが、少なくとも相互の理解は進み、又其理解が必要だといふことだけは、都市の生活樣式が先づ之を經驗させてくれたのである。田舍は外來者の量も少なく、又その種類も重要で無かつたから、自身で同じ經驗をする機會は少なかつたけれども、是も街道を下りに遠くから遣つて來るものを、何でも見遁すまいと注意して居た御蔭に、案外夙くから學び且つかぶれる〔四字傍点〕ことが出來た。さうして又何れの方面から見ても、惡い流行では無かつたのである。

　つまり交通が今も尚都市の如く、自然には伸びて行つて居らぬのである。今日になつて見ると信じ難いやうな歴史だが、所謂内地雜居の問題が四十何年前に論じられた頃には、國民の警戒は非常なものであつた。雜居をした爲に亡(245)びるやうな弱い國なら、此儘居たところで永く持たないといふ類の、やゝ過激な意見をさへ飛び出して、やつと決斷はついたのである。ところが我々が豫想して居たほどに、異人は雜居には遣つて來なかつた。今頃まだ觀光局を國で造つて、ホテルの客を誘引しようといふ有樣である。しかも一方には、我々の彼等に對する好奇心は、斯んな機會がもとで極度にまで燃えたのであつた。思想や感覺の驚くべき現在の雜居には、別に有力なる原因も加はつて居るだらうが、兎に角にこの己を空しうした一方的の興味は、自由な都市式の對等の往來よりも、寧ろ暗處に居て獨り視ようとしたやうな、餘計の警戒ぶりが癖になつてしまつたのである。是は小兒のハニカムとか、又はワニルとかいふ情とも關係があるもので、假に一時の考へ違ひが加はつて居るにしても、根本の原因は深く國民の氣質の底にあると思はれる。單に日本人が自ら卑下し易く、何でも新奇のものゝ優勢を認むるに敏なるが爲と、斷定しようとすることは戒めなければならぬ。

　農民は一般に此わざ〔二字傍点〕には不得手なものと認められて居たが、それでも途上に知らぬ二人が行き會ふと、必然に勝ち負けは起らざるを得なかつたのである。大體に周圍に知る人の多い者は、一人で歩いて居ても氣が強かつた。旅から來た者の方がしをらしい眼をして居なければならなかつた。ところが諸國の人間の入り交る都會では、此主客の地位は定められなかつた。それでも早くから來て居る方が自信が多いわけだが、そんな事は人に判る筈も無し、又自分ばかり得意で居る者も、町には隨分と集まつて居たのである。氣が強く無くては町には住まれぬと思ひ、向ふが見たから此方も見て遣つたなどと、所謂負けぬ氣になつて居たものであつた。最初はたゞ近づきで無い人を、仔細に見て知りたいといふ目的でもあつたらうが、それには若干の人を怖れまいとする努力を要した故に、相手に取つて無遠慮とも又侵害とも感じられたのである。貴樣は何でその樣に俺の顔を見るぞ、見たがどうしたなどといふ問答は喧嘩になり易かつた。つまりは元來が餘り人を見たがらず、はにかんで〔五字傍点〕?々人に見られてばかり居た者が、思ひ切つて他人を(247)知らうとする氣になつたときに、其眼は赤子の如く和やかには見なかつたのである。多數の東京の男の眼が若し險しくなつて居るとしたら、それは新たに知識慾の目ざめたことを意味するだけで、必ずしも喧嘩も辭せずといふ迄の、強い反抗心の表示では無かつたらうと思ふ。

　飯よりも喧嘩が好きだといふ男、或は人の喧嘩を代つて買ふといふ者もあつたさうだが、それが若し單に自分の男を上げ、勇氣を證明するだけの動機であつたなら、多分其利己主義を賤まれずには居なかつたであらう。それよりも大切なのは社會上の效果、即ち新たなる知人を増して行く喜びであつた。巧みな仲人の雙方から尊敬せられ、禮を言はれた理由もそこに在つた。喧嘩は事實に於ては求めて居た一つの機會で、仲直りの盃は即ち今まで他人であつた多人數を、直ちに冷淡以上の關係に繋ぎ合す力であつた。講談や小説が同情を一方に傾け、他の一方を完全な鷺阪伴内とする故に、追々仲裁の方式を無意味に考へるやうになつたが、今でも實際の喧嘩は多くは酒盃と談笑とを以て終結(248)して居る。不自由千萬な話には相違なかつたが、是以上手短かに相互の價値を認め、目勝ち目負けの不愉快な對抗を打切つて、人を平等の交際に入らしむる方法の、他には見つからなかつた時代があつたのである。

　斯ういふ廻りくどい社交術の、流石に田舍にははやらなかつたのは幸ひである。村にも闘爭といふものは絶無では無かつたが、是には仲裁は無くて總員の裁斷があるだけであつた。即ち何人にも明白な雙方の常の關係といふものがあつて、新たに改定を受くべき餘地は乏しかつたので、從うてそれを目的に喧嘩の機會を待つといふ必要もなかつた。ところが少數ながらも異分子が來り加はり、もしくは外部との交渉が生じて來ると、抵觸が起り易くて之を處理する方法が立ちにくかつた。一方には舊來の秩序維持主義を守つて行かうといふ多數と、仲裁を顔役の出場に待たうとする者とが、先づ其主張を區々にするのであつた。しかも都市に居るやうに仲裁適任者は必要が無いから村の中には居らず、實際は似て非なる者が顔を出すことが多かつた。此結果はどうしても喧嘩を陰性にし潜伏の期間を長くした傾きがあつた。それに今一つは勝たなければ即ち負だといふ心持、是が甚だしく論爭を眞劍ならしめて、いよ／＼住民の昂奮期間を長くして居る。昂奮の持續は單に休養の敵であるのみならず、同時に又昂奮そのものをも稀薄にして、いよ／＼生活の興味を鈍らせる懸念があるのである。

　さういふ不用意なる大小の都市の間にも、早晩に生存の爲の競爭が現れて來て居る。汽車がその大多數を聯絡させてしまふと、直ちに氣づかれるのは町と町との間隔の餘りに短かいといふことであつた。單なる消費と分配との町な(250)らば、さう幾つもの中心は要らぬといふことになつて、力の稍々劣つたものが苦悶をし始めた。一部は何等かの特殊生産を見つけて、新たに自分の領域を拓かうとして居るのだが、他の多くは寧ろこの僅な距離の差を利用しても、隣を接する都市の繁華を奪ひ取らうとする。模倣はこの趣旨から急激に行はれて居るのである。以前の城下町などがそれ／”＼に持つて居た氣分は其爲に破れ、特色ある周圖の風景と縁が切れて、愈々以て多くの町は何れか一つあれば澤山といふことになり、競爭は必死に陷つた。是に中央の商業が干與すると、一層速かに地方舊市の衿持は崩壞するのであつた。現在の彼等はその事業の中心を中央商品の取次に置いて居る。自分で作り設け又は保持して世に示さうとするものが、事の外に乏しくなつて居るのである。人口が獨り非凡に増加するといふだけで、日本の小都市ほど各自の文化を持たぬ都市は類が少ない。或は大學その他の學校をも爭ひ取つたけれども、是とても單なる繁榮の刺戟であつた故に、之を自分のものとしては愛護して居ない。他の幾多の官廳兵營、もしくは道路鐵道の引張り凧に至つては、殊に見苦しい闘奪が多く、其慘劇は今も猶持續して居るのである。

　其上に今一つ、自分などが名づけて均霑《きんてん》努力といふものが働いて居る。是には所謂縣出身の先輩も參與し、殊に代議士を心掛ける人々が、幾分か問題を作り出す傾きもあつた。日本では土地貧乏とも謂つて、住村に幸不幸の大なる差があることが、早くから知られて居た。最初は勿論その不幸を償ふ何物かゞ無ければ、そこを我が居村として選定する筈は無かつたのだが、時代の經過と共に損ばかり殘るやうな例が現れて來る。さりとて立ち去つて他に求めることも出來ぬ故に、何とかして坐《ゐ》ながら之を有利にしようと心がけたこと、是が近代の農事改良の基調であつた。人心は乃ち既に動いて居たのである。一番氣遣つたのは憲法の平等治下に於て、知らずに國恩の一部分を棄權したことになつては居ないかといふ點で、それにはちやうど幼童の菓子を分つ如く、始終他の兄弟が何を得たかを、互ひに見遁すまいとしたのであつた。それを報告し又は誇張し、稀には或力によつて此方のみ得する方法もあるかの如く、示唆する惡者もあつたのである。それが地方人の政治意見を、目の先のものにしたことは爭へぬが、起りは亦一種の愛郷の純情であつた。

　交通機關の發達に就いては、色々面白い話の種も多いが、それだけに人がもう幾度か話し合つて居る。其中では特に人力車の盛衰の餘りにも急激で、しかも其經過が始から終まで、明治大正の世相を代表して居るやうに見えるなどが、いま一度考へて見てもよい問題のやうに思ふ。人力の名稱は確に車力から出て居る。以前に溯れば脚力強力を通つて、足利時代の力者《りきしや》までは行けるだらう。力は即ち力業をする者といふことであつた。併し其實際は横濱あたりの、異人の馬車を見てからの思ひ付きであつたことは、初期の車の横長く、床が平らであつたのを見ても想像せられる。馬の代りを人といふなどは、今なら誰でも進歩とは思ふまいが、あの頃には輓馬は決して得やすからず、人足は餘るまであつた。僅か一年か二年に道路のある限り、所謂人力車が全國の隅まで普及して行つたのは、單に物珍しいといふ爲でも無ければ、乘らずに居られぬ人が多くなつたからでも無い。つまりは是だけがあの時代の手頃の職業であつたのである。最初には勿論雲助の失業者が入つて來たが、士族でもたゞ腕力しか持合せないものは、零落して是に加はつて居た。村でも屈強な者から追々に出て是に働いた。さうして比較的氣の利いた勞働と認められて居たにも拘らず、是には格別の資格といふものも要らなかつた。當時たゞ一つの自由業であつたのである。

(256)　宿とか輓子《ひきこ》とかいふ階級や組織の立つまでは、單に土地々々の組合のやうなものがあるだけで、故參が兄分になつて若い者を引立てゝ居たが、是とは獨立した者が行く先々の路傍にも住んで居た。其數が追々に増して競爭が烈しくなると、ねぎつたり吹掛けたりする馬駕籠以來の旅の情景が、再び面白いやうに復活して來たが、大體に賃銀表を定めて置く傾向に進んで行つて、競爭は主として腕前と車のよし惡しでするやうになつた。人力車が程なく盛んな製造業となり、目まぐろしいばかりの改良が續いたのは、其結果としか考へられない。初に雨降りの用意に馬車の幌が應用せられ、合羽の取りはづしを簡便にする工夫をしてから、日覆ひ顔隱しの透《すか》し幌といふのが出來、それが關東の方では普通になつてしまつた。車體も色々と寸法を變へて行つて、同じ形が三年と續いたことは無く、それに輸入の塗料を使つて雲龍武者繪などの紙鳶《たこ》のやうな畫が、暫くは街道を賑はしたこともあつたが、それも餘りにけば／＼しいとなつて、今度は無地?塗りだ蒔繪だ定紋附きだと、昔の大名道具のやうな眞似をした。車の心棒には幾つかの鳴輪をはめて、ちやらんちやらんと威勢を添へ、大きな掛聲で道を明けて走つた容子は、まだ宿場情景の名殘を留めて居たのが、後には自轉車と同じやうな喚鈴を鳴らしたり、又は自動車の喇叭を信號に採用したりして、黙つて通つて行くものになつてしまつた。鐵輪が一旦は護謨の平輪になり、やがて又ころ／＼した空氣入りのものに統一せられ、愈々遠路は走れぬ車になつた。

　僅かな期間に用途までが變つてしまつたのである。最初はこれでも唯一の旅行機關であつた時代もあつた。遠い在所の田の中の細路まで、人力車の便ありと稱して入つて行つたこともあつた。二十里、二十五里を日着きにするやうな、剛健な車屋は幾らも居た。處々の立場で繼いだり替へたりして、急げば前引き後押しを雇ひ添へ、旅程は以前の早駕籠よりも、又よほど早くなつて居た。それが先づ定期の乘合馬車に客を取られ、次いで鐵道が開通すると共に、もはや街道の竝木の陰を、走る姿は見られなくなつたのである。全盛期は無論此時を以て終つたのだが、それでも猶暫らくは驛の周圍、都市の内外には多過ぎるほど飛び廻つて居たことがあつた。それを自動車の出現が瞬くうちに、(257)悉く歴史の中へ送り込んでしまつたのである。流行も轉變も共に異常に早かつた。曾ては此樣に人力車の需要が盛んでは、今に樫材の供給が絶えるであらうと患へたり、或は馬をもう少し利用する途は無いものかと、考へて見たりした者はあつたが、何れも斯ういふ結果は豫想することが出來なかつた。時代に適應する人の考案なるものも、存外に遠見は利かぬものであつた。相乘りといふ大きな車の發明なども、あの時代としては隨分小賢しい智慧であつた。是も疑ひ無く西洋人の生活から、眞似て見たいと思ひさうな部分を眞似させたのであつたが、それが艶かしいものゝやうに考へられる時代は忽ち過ぎてしまつた。斯んな重いものをのろ臭く輓いて居るやうな、氣の利かぬ強力が第一に居なくなつた。上方ではまだ至つてだらし〔三字傍点〕の無い者が、少しづゝこの二人乘りを利用して居るうちに、早東京では藝者と箱屋しか乘らぬやうになり、やがて流行から遠いものになつた。過渡期の文化の折衷案の中には、斯うした淺はかな後めたいやうなものが、いつも當時だけは大そうにもてはやされ、背後には亦之を煽るやうな力も働いて居た。日本は幸ひに早く之を乘切つて、次の一つに移つて前のものを忘れてしまふが、痕跡は必ずしもさう容易には消えない。たとへば東洋の諸港は何れも人間が溢れて、ちやうど我邦の明治の初期のやうに勞力が豐かにある。寄親車宿の如き上前や損料で食はうといふ心掛けの者も多い。我々が人力車を考案して輸出してやつたことを、感謝するやうな者も少なくは無いだらうが、それは決して愉快なる記念では無かつた。さうしてまだ相應に長い期間、之を日本人の發明心のよい一例として、諸處方々に引廻はして居るのを、見ずに通ることは出來なからうと思ふ。日本は牧畜の利用の昔から少なかつた國である。從うて人が牛馬の代りをして居るのだといふ感じは、多くの車引きたちは抱かずに終つたらしい。女や年寄りには一種の介抱人又は保護者のつもりで乘せて行く者も多かつた。長閑に車上の客と世間話をしながら、長旅を續けて居る人力車などを、以前は田舍ではよく見かけたものであつた。兩者の關係は一時の主從ですらも無く、又金持と貧民とでも無かつた。ところが異人種の寄り合つた土地では、斯ういふ交際の行はれよう筈が無い。殊に白人などは牛馬の方に馴れて居る。人が車を牽くことは其代りとしか考へない。足で蹴らないまでも(258)心の鞭は常に當てゝ居る。だから我々は誠に飛んだものを流行らせて、隣の國の人に氣の毒を掛けて居るのである。

　紐釦を装飾とし麥酒の空罎を花瓶とする類の好尚は、國が遠いだけに稍々暫らく續いて居た。人力車は國内の生産であつたけれども、珍しい間は實用以上に珍重せられ、寧ろ閑な人の方が其乘心地をよく解して居た。是が旅行を便利にした效果は、始めからたゞ一部分に過ぎなかつたと言つてもよい。今の自轉車なども最初はやはり娯樂品として輸入せられて居る。三十年ほど以前に自轉車全集などの出た頃には、自轉車の達人は名流の中から輩出した。嗜輪會といふ類の團體が、ちやうど今日のゴルフの倶樂部であつた。之を必要品のうちに算へ出したのは官吏であらうが、それも尚當分は醫者辯護士の抱へ車などと、同じ列に見られて居た。二三人の女學生が長い袂を飜して、乘つてあるいて居たのが目につくと、それが直ぐに魔風戀風の口繪などになつた。田舍に曲乘りの見せ物などが先づ遣つて來た。素人にでも乘るだけはさして六つかしいことで無いとわかつてからも、普通の素人たちはまだ餘り乘らなかつた。所謂愛輪家は大半は遊民であつた。輸入が激増して來ると自然に國内にも製造が起り、最初は部分品を取寄せて組み上げる職人から、次第に實用向きといふ工場にまで發展した。それが一方には修繕交換などの業務となつて地方にも分散し、ちやうど伯樂が馬の知識を普及したやうに、段々に地方の話題を豐富にして行つた。

　縣の自轉事大會とか競走會とかいふものが、多數の見物人を喚んだ時代が十年餘も續いて居たが、これには常に取次商の、人知れぬ苦心が參加して居たのであつた。趣味といふ言葉は斯んな物にも鼓吹せられたのは、今から思つて見るとをかしい話である。それが多分は古物の始末や、國内産出力の持つて行き場でもあつたらうが、ほんの僅な期間に誰でも乘るものに化したのである。町では主として小店員をして、之を利用させることになつたのは勘定に合つ(259)た。商家の見習ひは實際は使ひ走りに日を送つて居たので、これが路草を食はぬことになると、入用の人數を半分にすることも出來たからである。其他の多くの職業に於ても、途上に費し棄てた勤勞は皆省かれ、人は遠くへ出て働くことが出來るやうになつた。日返りの道程が倍にも延びて、旅館の必要がよほど減じて來た。計算の上から自轉車を使ふのを利とする人が、見て居るうちに其數を増して來て、土地によつては女髪結ひや産婆までが、是に乘つて村を廻るやうな世の中になつた。

　農家も多くは亦實際の用途から、此頃では自轉車を買入れたことは同じだつたが、其勘定はあまり細かく無かつた。村の作り方は大體に耕地を居まはりに控へて、出來るだけ往復の時は省くやうに、早くから努力せられて居る。たま／＼懸離れた仕事場が少しあるにしても、そこは自轉車などの使へない路であつた。五人三人と同じ家から、連れ立つて出て働くのも特徴の一つであつたが、それにはこの個人主義の乘物は不向きであつた。今一つは農具材料收穫物などの、持つて歸り持つて行く物が非常に多い。農の作業の三分の一は運搬であつた。便利には相違ないが、自轉車は斯ういふ點まで考へて、發明せられたものでは無かつた。だから村々ではしまつて置く時間が多く、家に働く者の數だけ備へ付けることが出來なかつたのである。地方の税の中では白轉車税ほど簡明なものも少ない。是で持主の受けて居る利便も、暮し向きの餘裕も測知せられる他に、負擔がいやなれば之を止めるのに、畜犬税ほどの未練も無いのであつた。車その物には税を拂ふまでの義理は無くとも、標準とするには手頃のものであつた。さうして其計數も精確に知れて居て、斯ういふ話をする際にも都合がよい。東京四周の平地の多い縣などでは、各々何萬といふ農民が自轉車税を課せられて居る。田畠の生産物の收入が低下して來ると、先づ第一着には此税の高いのに心付かれる。次には節約をしようとして隣どうしの共用が試みられる。實際さういふ組合までが、成立ち得るやうな使ひ方でもあつた。珍しい事實は日本だけに限つて、後車を附けた自轉車の盛んになつて居ることである。之をリーアカーなどと舶來のやうに考へて居るが、是も亦一種の人力車に他ならぬのであつた。以前の手車がさう澤山の荷を運ばずとも、用(260)は足りて居たやうな土地であつて、しかも少しづゝは何か持つて歩かねばならぬ人が、自轉車を乘りまはして居る場合でなければ、後車は名前はあつてもさう重寶に利用される必要が無い。ところが日本は風呂敷の國、紳士や奧さんまでが何か持物が無いと、徒然に感ずるやうな國風である。以前は此人たちは突袖をして歩いたのだが、其代りには御供が附いて居た。恐らくは何百年と無き昔から、朝夕路上を動く人は棒にとほすか背に負ふか、乃至は手に下げるか頭に載せるかして、たゞ身一つでは歩かなかつたのである。是が自轉車の先づ御供でも連れて居たやうな人に用ゐられ、次いで實用に向けられると、早速にリーアカーを要した理由の一つであらう。是も市中に流行つたのは簡單な小形であつたが、弘く農村に入つてからは路一ぱいの大ぶりなものになつた。此操縱だけは輸入でも傳授でも無い。元來人込みの中を器用に通る技能を、よく練習して居た國民ではあるが、是で又新たに六つかしい實驗を添へた。走る力と前を行くものゝ動き方、通れるか曲れるかの寸法の目分量、殆と尻に眼があるかと思ふほどの氣働きを以て、新たに間を測り程合を考へることなどは、學校以上の重要な教育であつた。田舍者は以前手拭馬などと謂つて、夫婦が手をつなぎ町へ出て來るとまごついて笑はれて居たが、現在は自動車でも亦精密な機械でも、却つて町の人よりは恐れ氣無く其取扱を覺え込むやうになつた。即ち市民の資格は非常に得やすくはなつたのだが、其代りには折角村に居ても、早くから斯ういふ骨の折れる練習をしなければならなかつたのである。

　村に自轉車が入つて來てから、若い者が兎角出あるいて困るといふことを、こぼして居る年寄りは多いやうである。是は旅行の用具を居職に應用すれば、いつでも必然に起るべき結果であつて、規模の大小はあるが汽車とてもやはり同じことである。鐵道の歴史はいつも專門家の手に成り、その專門家は皆營業人であつた故に、外側から其影響を考(261)へて見ることが出來なかつた。如何なる列車に乘込んで見ても、必ず二通りの感謝する人が、向ひ合ひ又並んで腰かけて居る。即ち一方は汽車が無かつたら、どれほど難儀をしてあるいて居たらうと思ふ人と、他の一方は汽車が通じたから出て來たといふ人とで、今でもどうやら後の方がずつと多い。無くては濟まなかつた一通りの幹線が敷設し終ると、次に現はれたる各地方の均霑努力は、大抵は他の地の前例を參酌して、この未來の新旅人の數を豫算して居る。所謂資源の開發が果して計畫の通りであつたものゝ多いと同樣に、人が釣り出されて遊覽の客となつたことも、亦非常なる大きな數であつた。しかも今までは籠居を甘んじて居た人々が、斯うして世間を知つた爲に損をしても居ないとすれば、是は兎に角に總國民の生活幸福の増進の中に、加算せらるべき一要項であつたには相違ないが、其代りには旅行がやはり自轉車の出あるきと近いものになり、汽車は即ち昔からの旅行機關の代りでは無くなつたのである。

　巡禮は日本では面白い形に發達して居る。最初熊野の道者が稍々衰へて、次第に伊勢の二宮を專らとするやうになつたのも、單なる信仰の發達からとは見られぬのであるが、此經過はもう參考とし難いまでに、其痕が幽かになつて居る。近代は少なくとも何十個所といふ靈場の數を繋ぎ合せて、わざと目的を散漫にしようとした形が見えるのである。參拜の大きな意義は寧ろ道途にあつた。序に京見物大和廻り、思ひ切つて琴平宮島も掛けて來たといふ類の旅行も、信心として許されたのであつた。尤も此間に交つて孤獨の行者の巡禮で衣食する者も居た。六十六部の納經者と稱して、生涯を或一寺の門前に送つた者も居たが、他の大部分は今日の汽車も同じやうに、團體で共にあるく點に目的の中心を置いて居たのである。地方によつては名山の登拜を、成年式のやうに考へて居る例もあつた。誰でも一生に一度はなどと謂つて、年頃が來ると無理をしても此群に參加した。遠くなければ娘の子さへも出て居る。つまりは斯ういふ特殊な方法で、もう一度内の結束を締め直さうとしたもので、世間を知らうといふことは二の次三の次であつた。この行樂の興味は忘れ難かつたものと見えて、明治に入つても巡禮は決して衰微して居ない。四國には哀れな遍路は大いに減じたけれども、其代りには春のよい時候などに、盛りの男女の群が樂しげに歩を運んで居る。瀬戸内(262)海の島と沿岸には、三日路一日がゝりの新靈場の組合せが出來、關東東海にも地方限りの三十三所八十八個所が多く、佐渡などは島限りの道者が毎年歩いて居る。是から信仰を拔き仲間の選擇を自由にすれば、則ち今日の名所巡りになるのである。此旅は多分旅愁といふものゝ今よりも遙かに深かつた頃に、是をうしつらしとした者が段々に考案したものであらうが、今では汽車の中などは殊に群の力を滞りて氣が強くなり、普通故郷に在る日には敢てし難いやうな我儘を續けて居る。何のことは無い、移動する宴會のやうなものが多くなつた。此流儀は少しづゝ獨り旅をする者にも移つて行つて、出來るだけ自宅と同じやうな生活をすることを、交通の便だと解して居る者も稀で無い。寢たり本讀んだり知らぬ間に來てしまつたといふことが、如何にも滿足に思はれる人ばかりを、澤山に汽車では運んで居るのである。旅行は少なくとも其目的と效果とに於ては、五十年前よりもずつと單純になつて居る。

　遊覽本位は日本の交通機關を、幾分か不經濟なものにして居ることも事實である。年内或季節の溢れるやうな乘客の爲に、用意せられた設備が半季は遊んで居る。殊に北陸奧羽の雪深い地方では、利用の激減と維持費の増加の爲に、二重の食ひ込みを豫算する必要があるのであつた。雪の障碍では我邦のやうな經驗をして居る國は他には無いと思ふ。この柔かな水氣の多い温帶の雪が、山と降り積んで鐵路を塞ぐ煩はしさは、舶來の參考書にはあまり書いて無かつた。餘分の隨道や年中の雪覆ひの外に、やはり常識的の除雪人足を、寄せ集めて掘り取らせるのが何よりも有效で、其爲に雪を豐年の兆とする勞働者が、新たに又一群だけ出來たのである。併し斯ういふ永久の失費は免れぬにしても、一方この機關が日本の半ば以上の地域に亙つて、新たな生活樣式を付與した力だけは偉大なものであつた。暖かな南の方から移つて來た爲か、我々の雪中生活には今まではまだ研究が十分で無かつた。殊に山奧では若干の稼ぎ人が、寒さにひるまぬ慣習を養はれて居る外は、多數は古くからの冬眠を普通として、部落から外への交通は略々絶えて居た。旅人も之を豫知して早く境を出てしまふか、さうで無ければどの家かの爐端に、雪崩の無くなるまで待つて居なければならなかつたのである。是が全國一樣の教育制を布いて、子供を先づ引出したのは英斷であつたが、實際はまだ天(263)然と風土の制限を、破つてしまふ迄の方法は立つて居なかつた。夏だけ來て見ると、別に異なる點も目に付かぬが、木葉が散つてしまへばもう丸で他の種族のやうに、都市では想像も出來ぬ古い生活に返つて居たのであつた。ところが汽車は雪害には自分も散々惱みながらも、兎に角この間へ新たなる一道の生氣を送り入れたのである。是だけは可なり大きな變化であつた。既に自然の閑散に倦み切つて居た住民は、この外部の刺戟を善意に解して、冬でも働き得る機會が來たと悦んだ。じつと暮して居る用意をした者までが、追々に暖地の活社會に入り交らうとして、雪の底は俄かに活き／＼として來た。雪舟が盛んに動きスキーが新たに入つて來て、人の往來も自然に多く、今頃漸くのことで外に知られる事實も少なからず、最近何囘かの總選擧でもわかつたやうに、日本は始めて眞冬でも共同し得る國となつたのである。これは電信電話などの力もあるが、主としては汽車の大きな效果であつた。しかも同時に又遊覽團體の氣儘なる移動だけでは、まだ國内の各地方を接近させることが出來ぬことも、考へられて來たのであつた。

　汽車が毎日の作業として、ひどい山間の交通まで開拓して居るうちに、水運の方の不信用は却つて少しばかり昔よりも加はつて來た。今まで大きな船の遠方通ひにのみ熱中して、近くを忘れて居たといふ缺點もたしかに有るが、一つには海も荒かつたのである。さうして之と闘ふだけの元氣が、曾て養はれようともせずに今までは遣つて來たのである。帆船時代の盛んな航海には、我々の考へられない呑氣な長所があつた。ちやうど長崎の外國貿易が年に一度であつたやうに、我々の船便は暮春の海の穩かな頃から始まつて、秋の末の風の變り易い頃を以て切り上げ、湊も船方も其後は遊んで居たことは、寒國の農業とも似て居たのである。日本海上は中世以來の古い船路であつたが、冬はひどく荒れて波と空ばかりになつた。年に二度とは通へぬのみか、少しおくれると越冬さへして居た。氣永で無ければ(264)船便は利用出來なかつた。それが幸ひにして汽船の世となつたから、隨意に今までの水路を使へるものと悦んだのであつたが、是には記録に見えて居らぬ色々の故障があつた。さうして之を排除しようとして居る間に、汽車の方がぐん／＼と進出したのである。

　少しは必要以上にも陸の方に頼り過ぎたかも知れない。地圖をひろげて見た人は一應はみな不審を抱くであらう。斯ういふ島國の自由な海を控へながら、鐵道はほんの僅な例外を以て、全部沿岸線に併行して先づ敷かれて居る。横に内陸を貫いて兩側の海を近くするのは解つて居るが、それよりも南北の縱の線の方が大切に取扱はれて居る。どうでも隣の島へ渡らねばならぬといふ場合にも、廻りまはつて突角まで出て行つてから、海を渡船場にしてで無いと、思ひ切つて船には乘らなかつた。斯んなにまでしなければ始末がわるいほど、果して日本の海が荒れたかどうかは疑問である。この結果として澤山の港は無用になつた。濱に起らうとして居た幾つかの産業は退いた。今でも汽車に恨を含む寂《さび》れた津といふものは多いのである。尤も假に前々通り海を利用して居たとしても、港は必ずしも衰へずには濟まなかつた。帆船の時代には、風が吹き止めば濱に漕ぎ寄るから、よんどころ無しの寄航地も多く、一つ風でも曲り角から先は役に立たぬ故に、岬の突端は大抵は皆風待の湊であり、それが爲に土地も榮えたのであつた。汽船の時代が來ればそんな處に上陸はしたくない。少しでも中央の用のある部分に接近してから碇泊してもらひたいのである。だから近世にはいよ／＼忘れられた湊が多く、岬は殆と皆島以上の僻村にもなつたのである。

　海の交通には陸上とちがつた特色がある。それは幾分か峠の兩方の麓にある二つの驛に似て居たかも知れぬが、此方は單に必ず通る出入口といふのみであつたが、海の方にはもう一段と濃い人情が結ばれて居た。色町の先づ港に起つた理由なども一つであつた。毎年同じ宿を來り訪ひ、一生を同じ航路で老い終つた船頭は以前は其數が非常に多かつたのである。だから一方の文化は敷波の如くに打寄せて、痕を其濱の土に印さずには置かぬのであつた。東廻りの航路は新井白石以後だといふが、それでも紀州志州と伊豆の鼻、安房と石卷などの近かつたことは、無論七島相互よ(265)り以上であつた。船の數が第一甚だ多く、從うて人の關係も繋がつたからである。公の記録には載せられて居ないが、熊野の住民の沿岸貿易は、可なり弘く又久しかつたやうに思はれる。秋田津輕と北陸各地との交通などは、今でも至つて鮮明な痕跡を留めて居る。それが汽車が出來て海を尋常の障壁の如く見なければならぬといふことは、損失以上に寂しいことであつた。

　それでもやがては又瀬戸内海や松浦の諸島のやうに、追々に手船の交通は復活して行くことであらう。假に今までの航路を取戻さぬまでも、發動機船の利用は更に新たな港を繋いで行くことゝ思ふ。伊勢灣の沿岸などは、此船はもう少しづゝ貨物自動車の役を勤めるやうになり、既に外海に出て熊野の多くの入江にも及ばうとして居る。伊豫や天草島では之に乘つて、折々は支那海まで出て行くやうな冒險家が出來て居る。是は日本人の洋海利用の未來を心強いものにしてくれる兆候と謂つてよい。湖水の航路も現在は尚大いに衰へて居るが、是も一部分だけは快復しさうに思はれる。近江の大津は汽車の勢力に歸して、湖岸は鐵道を以て卷くばかりになつて居るが、常陸の霞浦などはまだ一方だけは水運で結ばれて居る。しかし川舟の交通ばかりは、汽車と拮抗して負けないといふ場合は一つも無かつた。河川の改修では水筋を整理してくれたが、堤防が高くなつて町と岸とが分れたものが多い。さうして片脇を鐵道が通るやうになると、町の形が先づ變つてしまつて、もう以前の働きは出來なくなるのである。日本の勞働では最も歴史の古い一つ、綱で高瀬の舟を引き上げる繪樣は、もう今日とは調和し難くなつた。奇拔なるプロペラ船は之に代つて、諸方の流れに試みられて居るが、是もやがては又寫眞になつて、次の時代に傳はるだけでは無いかと思ふ。

　鐡道が山脈の諸所に太い穴をあけ、自動車が高い嶺を昇り降りする時代に、一方にはまだ千年以前からの負搬法が(266)その儘に傳はつて居て、時々はそれ等が一つの峠の口に落ち合ふこともある。日本の世相の殊に意味深く、考へさせられる點は斯ういふ處に在るのである。それを詳しく説くことは好事に失するが、其中の一つのボッカといふものは話して見る價値がある。所謂アルプス諸君なら見た人も多からうが、美濃飛騨信濃の山間の村から、魚鹽米の類を求めに北海の低地と通ふのは、汽車の無い限りは此方法に依つて居るのである。ボッカの出立ちは繪卷物の高野聖などと近い。高い荷物に日覆ひを張つて、掛緒を兩胸に掛けて笈に負うて居る。手に持つ杖の短かく末が太く、とんと野球のバットの樣なものを、本を撞木にしてその上に荷物を支へ、立つたまゝで路傍に息を入れる。所得次第では二十貫近くまでの物を負うて、一日に必ず嶺を越える。登山の強力も此仲間から出たものであらうが、今でもボッカたちの故郷では、小さな娘までが斯うして物を運んで居る。普通の荷持とちがふ點は、計算の損益が自分に歸することであつた。山から擔ぎ出すのは元は麻絲が主であつたが、それを作り主から値をきめて引取り、町で交易して來る海の物や雜貨も、時々の相場に口錢を見て註文者へ渡した。小さいながらに獨立した商人でもあつたのである。

　牛方馬方も是と同じ方式を以て、遠い運送を自分の事業とした時代が、久しい間續いて居たのである。土地に問屋が多くなつて、坐ながら消息を通ずるやうになると、彼等は追々に雇はれて今日の駄賃附けになつてしまつた。原因は要するに文字の力、即ち記録や書信に由つて外の世間を知り得た者が、却つて現實の旅行者を統御したことであるが、一つには又販路の弘く開けた結果が、到底一人の人足の力だけでは、供給しきれなくなつたからでもある。それ故に船は最も早くから、この背後の指令者を持つことになつて居た。寺や大名たちが勘合の印を握つて、支那の海岸に交易をさせた頃に始つて、船方は既に荷主の爲に、單なる使ひあるきの役を勤めたに過ぎなかつたが、それでもまだ若干のほまち〔三字傍点〕物、即ち自分｜賈《あきな》ひといふものを黙認せられて居た外に、事情のよく通じない遠方の湊まで行くと、個々の運送人の判斷と交渉に、一任しなければならぬ問題も多かつたので、斯ういふ沖乘りの船頭ばかりは、どこに行つても大切にせられ、又相應に經驗を積んだ所謂腹のある人物であつた。ところが陸上の交通は之に反して、便宜上(267)幾らでも仲次處が設けられ又監督も可能であつた故に、次第に遞送の距離を短かくすることゝなつて、どんな男にも其役は勤まり、從つて山越し其他の特殊なる場合を除く外は、夙く行商の事業は衰へてしまつたのであつた。

　狹くて人の多い島國では、カラバンは大いに發達する機會を得なかつたのである。牛馬も伯樂《ばくらう》が遠く賣買をする場合で無ければ、もう今日では之を牽いて旅行をする必要が無く、從つて牛宿馬宿は絶えてしまはうとして居るが、曾ては此設備を以て市場の中心としたこともあつた。村の若者等の才能あるものが、之を世渡りの練習とも、又運命を開くべき遠征とも考へて、知らぬ他人の中へ突進して行つたのも、つまりはこの農業では見られない轉送の利得といふ興味があつたからで、今でも一種のやゝ無遠慮でしかも率直なる態度が、牛馬を追ふ者の間だけに認められるのは痕跡である。傳馬《てんま》が街道の問屋の統制に歸してから、村の交易業は卒如として受動的なものになつた。僅に菜大根を町に擔ぎ出す外は、商人は殆とみな町から來る者となつて、又一つの世間を知る機會を失つたのである。現在村々を巡つて居る行商の中には、ぼて〔二字傍点〕振りと稱して朸の兩端に籠を下げたもの、今一つ古風なのには大きな布の袋を肩にして、家々の産物のはした〔三字傍点〕を買ひ集めようとする者がある。資力が乏しいので三百｜旅人《たべと》などと輕蔑しつゝも、いつも不用意に此輩を儲けさせて居た。繭の仲買などの秤の棒と矢立とを腰にさして、白い股引で押しまはしたのも同類であつた。自轉車の往來が村の中に繁く、町場は東西南北に有り過ぎるほど出來ても、農人が之を利用はせずにあべこべに利用せられて居たといふ?態にも、基づく所は深いものがあるのであつた。販賣購買の組合事業が起ると、是等の弊風の若干は整理せられるが、それと同時に村が又一段と奧の方へ、引込んだものになる感じは抑へられない。さうして是が本來の村の生活だと、思はなければならぬのは淋しいことであつた。

　所謂遊覽旅行の發達、都市と名所との繁榮の起りは、此方面からも考へて見ることが出來る。村に外から訪れて來るものが、全體に世の進みとは反比例に、少しづゝ單調に傾いて來たのである。行商の最も快活であつたものは、村々から互ひに通うて來る牛方馬方で、多くは山一つ彼方を談り、海と奧山との半ば珍しい生活を教へてくれるのは彼(268)等であつた。彼等は戰場から戻る兵士と同じく、いつも耳を傾けて聽く人を豫想して、出先の印象を採集して居たのであつた。其次には世故と人情とに馴れ盡したともいふべき、本物の旅人が入つて來て居た。彼等の出處に就ては何の語るべきものも無かつたかも知れぬが、其代りには諸國を股にかけて、地方の有る限りの變化に通じて居た。さうして元來が有るか無いかの薄元手を以て、其日々々の生計を立てゝ居るのだから、口だけは最も達者に、幾らでも土地の人の機嫌を取結ぶことが出來たのである。うそ〔二字傍点〕もよく吐き油斷のならぬことも知られて居たが、さう／＼は騙すべき必要も實は無かつた。高野聖の横着は諺にまでなつて居るけれども、それでも何百年の間引續いて田舍を巡つて居た。彼等の商品は笈の中に、片寄せて置かれるほどの輕物と小間物であつたが、此二種だけは早くから商賣として成立つた。呉服も近代の三越白木の前驅者が、江戸のあの附近で三百年前には、大道の側に露店を出して居た。之を呉服聖と謂つたのはやはり高野の徒であつたらしい。ひじり〔三字傍点〕といふ旅人には無數の種類があり、その下級なものは物乞ひであつた。しかも直接土地を管理する農民以外に、衣食の資料を抱へて居る者は無かつたことを考へると、「たべ」と謂つて來なかつたたび〔二字傍点〕人は、元は一人も無かつた筈である。問題はたゞ何を其代りにあたへたかであつて、勸進も祝ひ言も形は無いが、又一種の商品として受入れられたのである。遊藝の門附《かどづ》けなどが村をあるいて生活し得た理由も、それが丁度この邊に拂底して居たからである。以前の田舍渡らひは後世の押賣とは違つて、努めて求めらるゝものを持込まうとして居た。外から學ぶ所の多かつたのも道理がある。

　漂泊者の歴史は日本では驚くほど古く始まつて居る。中世以後彼等の大部分は聖の名を冒して、宗教によつて比較的樂な旅をして見ようとしたが、實際は他の半面は工であり又商であつた。さうして行く先々の土着民に、土を耕さずともまだ色々の生活法のあることを、實證して見せたのも彼等であつた。もう彼是一千年にもならうが、其間始終何かかゝ新しい事を、持つて來て吹き込んだ感化は大きかつた。村と村との間に交易の旅行が始まつたなども、多分は斯ういふ人から學び取つた技術であらう。數から言ふならば國民の八割九割までが、昔ながらの農民であつた時代(269)もあるが、此生活は全國一樣に固定して居た。倦むことはあつても自ら改まるといふ機會は少なかつたので、是に時々の意外な刺戟を與へて、終に今日見るやうな複雜多趣の農村にしたのは、原因は他に有り得ない。乃ち日本の文化の次々の展開は、一部の風來坊に負ふ所多しと言つても、決して誇張では無かつたのである。ところが世の中が改まつて行く毎に、彼等の職業は好ささうなものから追々に卷上げられた。町が數多くなると直ぐに其中へ編入せられて榮えた。町の商工業の書物になつて居る發達史などは、悉く其背後に今までの漂泊者から、大事な飯の種を奪つたことを、意味して居らぬものは無いと言つてもよかつた。それは勿論國全體から見て、幸福なる整理と認むべきであるが、少なくとも村々の社會教育に於ては、補充を必要とすべき一損失であつた。由緒ある我々の移動學校は墮落して、浮浪人は只警察の取締を要する惡漢の別名の如くになつた。さうして旅行の價値といふものが、内からも外からも安つぽくなつてしまつたのである。

　西洋の書物にはよく書いてあるが、日本ではまだ渡り職人といふ者の、歸結に就いて考へて見た人は無いやうだ。職人の旅をすることを修行と謂つて居たが、彼等は一つの土地にじつとして居た方が、確に爲になることが知れて居る場合にも、やはり歩き廻つて居たのだから、慣例といふの他は無かつた。一番大きな最初の理由は、生きるに十分なだけの仕事が、家に居ては得られないことであつたらうと思ふ。都市のまだ方々に建設せられなかつた時代には、我々の職人たちは親方も共に働いて居た。江戸期に入つてから先づ地方に土着し始めたのが金屋であつたが、それでも其一部だけは今も尚巡業を本則として居る。石屋はそれから以後に少しづゝ村を作り始めたが、まだ完全に土地に居馴染んだとも言へぬものが多い。木地屋《きぢや》の如きは明治の世になつてから、漸く各地に小さな部落を作りはじめた。(270)大工や左官の旅あるきといふことも、?々將來の居住地の選定を目的とするものがあり、居村はあつても半分はそこに居なかつた。桶屋の職といふものは殊に新しいので、行く先々で珍重せられては居たが、彼等の仕事場の區域は殊に弘かつた。從つて又話の面白い世間師でもあつた。近世始めて生れた傘蝙蝠傘の直し、又は茶碗の燒繼ぎ屋といふ類のものには、需要が限られて居るだけに實際は尚漂泊して居るので、町でも滅多に常店といふものを開くことが能《でき》ない。併し一般に斯ういふ人たちの定住には、故障の少ない世の中となつた故に、大抵は何處かに家庭があつて、國勢調査では其町村の職業別に算へられて居る。旅から渡つて來る職人に比べると、この限地的な漂泊者は見聞の傳ふべきものが少なく、後には土地の人と同じ心持で、共々に世間を眺めるやうになるのであつた。斯ういふ職人たちの追々の定住といふことが、村々の世間知識の外からの補給を、又著しく制限することになつて居るのであつた。

　最後にもう一つ、明治の文化が旅の内容を改めて、地方相互の知識交換を不便にした例を言ふならば、それは旅館といふものゝ餘りにも單純になつたことである。宿屋といふ商賣は以前からも一つであつたか知らぬが、旅をする者の夜寢る處は、以前は野宿辻堂を除いても、少なくとも尚三通りはあつた。是は主として宿主と旅人との關係の相異だから、或は上中下の階級別と認めてもよい。其一つは第三章にも述べてある御假屋式、もしくは本陣風とも名づくべきもので、自分の住家の一隅を貸與して置きながら、亭主御目通りを願ひ出るといふやうな、謙遜を敢てする泊め方である。大名貴人が早く其例を開いて、維新の際などから追々と之を鬚のある全階級に擴張し始めた。言葉に訛のある程の遠國人は、悉くこの待遇を豫期して來る。始は限りある本街道筋だけであつたのを、次第に村々の宿屋までが、大小と無く之を模するやうになつた。所謂茶代の問題の發生地であつて、費用の方面から相應に旅行の發達を妨げて居る。第二に衰へたものは問屋式もしくは定宿風とも名づくべきものであつた。是が近頃の定宿なるものと、接近して來るまでには沿革があつた。主たる理由は同じ人のさう度々は廻つて來ぬこと、即ち安宿の名の無用になつたことであるが、同時に又宿主がその旅人に對して、興味を抱くことが少なくなつたことも考へられる。以前は商取引(271)の關係は宿主共同の作業として、臨時の家族の如き感じを與へて居た。職人や瞽女《ごぜ》座頭のやうな個人的の仕事でも、寢宿を貸すといふことが加擔のやうに思はれたのであつた。斯ういふ宿泊者は其境遇に應じて、大抵は頃合の馴染を行く先に持つて居たのである。湊の問屋が年毎の渡海の船員を迎へる場合などは、優遇はするけれども此程度の泊り客に過ぎなかつた。遊女の船の津に特に發達したなども、もとは定宿の一つの形に過ぎなかつた。つまりは或期間だけの家族とすることが目的で、報酬は多分所得の分配であつたと思ふ。此組織が茶屋風に移つて行くと、旅を毎日の生活として居る者などは、日返り以上の遠くへはまはり難くなるのである。

　第三の樣式も衰へては居るが、是はまだ少しばかり町中にさへも殘つて居るさうである。假に善根宿式又は攝待風とも名づけて置くが、起りは必ずしも信心ばかりからでは無かつた。家の格式もしくは慣例によつて、止める必要も無いとて續けて居るのが普通だから、何か特別の祈願でも無い限り、新たに之を始める者は先づ少なからう。しかも村では利益の爲に、客商賣をすることは不可能だから、誰でも一夜の宿を乞ふといふ者は、斯ういふ家ばかりを捜さなければならなかつたのである。是は家族の一員にするといふよりも、寧ろ被保護者の關係であつた。小さい家ならば家内の飯を分けるが、召仕の多い家ならば彼等の火にあたり、彼等の食ふ物を食はなければならなかつた。しかも斯ういふ氣の置けない火と食物とが豫想し得られなかつたら、多くの廻國者は最初から斷念しなければならぬのであつた。今日の宿屋には紹介を要したり、女房が世話を燒いたりする定宿風はまだ少しあるが、座敷の待遇は何方もまづ一樣になつて居る。まさか大名のやうには威張らうとせぬ客でも、やはり手を鳴らして命令をするだけの覺悟をして居る。從つて旅行は支那人の婚姻と同じく、金を溜めなければ企てるもので無いことになり、如何なる宿主でも金以外の好意利益を、旅人に期することは出來なくなつたのである。人が親類を持たない村里に入つて見ることは、大抵は不可能になつてしまつた。街道は常に自動車の煙埃を以て霞むほどの往來があつても、脇道は知つた顔しかあるいて居ないやうになつた。たま／＼來る他所者には、油斷のならぬやうな用件ばかり多くて、異郷の事情を心靜かに(272)語る人も無く、又我土地を外の人に語り得るまで、知つて出て行く者もめつたには無いのである。安宿無料宿泊所の急迫した需要以外に、人が晴では無しに相逢うて話をするやうな機會を、何とかして新たに設けて見ないと、この旅行道の大いなる衰頽によつて、一旦失うたものは補?する途が無いことは、町も小さな市も村とかはる所が無い。しかも我々は好奇心をまだ多く剰して居る故に、中央の消息ばかりがたゞ急劇に流れ込むことになつたのであつた。

　酒は我々の世に入つてから、たしかに其用途が弘くなつて來た。以前も無くてはならぬものだといふことは、飲まぬ人にも認められて居たけれども、その趣意はいつの間にか變つて居るのである。町が酒飲みを多くしたのと、理由は大體に同じものであつた。手短かにいふならば知らぬ人に逢ふ機會、それも晴がましい心構へを以て、近付きになるべき場合が急に増加して、得たり賢しとこの古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は氣の置ける異郷人と、明日から直ぐにも共に働かねばならぬやうな社交であつた。所謂各藩の志士が膝を交へ、手を執つて國事を談じた頃にも、酒の必要は既に大いに認められたのであつたが、まだ其時分には氣がせはしかつた。それが太平になつてから萬障御差繰が容易となり、又相手が次から次へと替つたのである。勿論此中には空虚なる口實も多かつたらうが、根本は人が互ひに知り、速かに全國感覺の統一を圖らうといふ志に在つたので、言はゞ世間知識の授業料の覺悟を以て、この第三生活費の膨脹を厭はなかつたのである。缺點がもし有つたとすれば、強ひて此事ばかり保守主義を奉じて、別に方法が無いかどうかを、問はなかつたこと位なものだらう。

　考へ方の順序だけは少なくとも逆になつて居た。我々は凡庸の年久しい沈滯にだれて居て、何か新たなる努力に取(274)掛かり、もしくは生活の特に嚴肅な部分の、めつたに繰返さぬものを實驗しようといふには、酒を使つて氣を換へる必要は時々あつた。祭禮その他の晴の日の式といふものは、其自身が昂奮の力を有つて居たのだけれども、尚一時に多數の人の氣持を揃へさせるべく、酒に由つて或種の異常心理を作り出す恒例になつて居たのである。醉へない人間には無用の企てのやうだが、醉へば先づ大抵の者は面白くなるものにきまつて居た。天の岩戸の昔語りにも有るやうに、面白いといふのは滿座の顔が揃つて、一方の大きな光に向くことであつた。即ち人心の一致することであつた。其語が今日の如き或る一つの内容を、有つに至つたのは經驗である。ところが新しい時代は一致を以て始まつて居たのである。人が闘ふつもりで集まつて來た者などは一人も無く、しかも改まつた氣持は既に町田舍に漲り、世の中は殆と毎日の晴であつた。それへ出て行く人は皆緊張して居た。乃ち今更酒によつて人造の昂奮を催すべき必要はもう無くなつて居たのである。計畫と言はんよりも寧ろ惰性であつた。

　つまりは日頃幾分か親しみの薄い者が、逢ふと飲まずには居られぬやうな、又一つの習癖が附け加はつて居たのを、わざと古い方の理論で解説しようとしたのであつた。酒の濫用は明治が始では無かつた。昔も何等昂奮の用も無い者が、時と場合に無頓着に飲んで居た。或はその昂奮が餘りに痛切であるが故に、それを紛らす爲に酒を飲む者さへ多かつた。明治の所謂附合酒は、もう一體によほど此方へ近くなつて居た樣である。地方では酒の利用がすでに年を重ねて、醉後の反動が可なり忍び難い程度にまで進んで居るものがあつた。常は無口で思ふことも言へぬ者、僅な外部からの衝動にも堪へぬ者が、抑へられた自己を表現する手段として、酒德を禮讃する例さへあつたのである。斯ういふ人たちが新時代の社交に入つて來て、働かなければならなかつたのは氣の毒であつた。酒で壽命を縮めたと言はれる人が、俄かに増加したのも殘念な世相であつた。好きでも無い者が勉強して、仲間に加はつたのも少々では無い。單に相手を醉どれとする策略に、巧みに飜して居た酒も相應に多いらしい。斯うして日本の酒消費量は、今や人口の増加と共に、繁くほどの數字を示すことになつたのである。

(275)　獨酒はたしかに又明治大正時代の發達であつた。元來は酒は集飲を條件として起つたもので、今一つ以前は神と人と、共に一つの甕《かめ》のものに醉ふといふ點が、面白さの源を爲して居たのである。今日の眼から見れば、實に煩瑣な色々の酒令といふものがあつて、それが又容易に得られぬといふ樂しみの理由でもあつた。伊勢貞丈翁の研究に依れば酒の作法は餘りにも複雜であつて、武家簡略の主義に合はぬ故に、足利時代には之を省略して三三九獻にしたと謂つて居る。察するに座席の次第や辭令の交換などが一々あつて、末座に唾を呑んで待つて居る者にまで、盃の屆くのは容易で無かつたのだらう。全體にたつた一つの見事な盃から、順に一同が飲むといふことが法則であつた。遊里の生活が盛んになつた頃から、それでも附けさしとか思ひざしとかいふ風が始まつて、折々は順序の中程を飛ばすこともあつたが、さうすると必ず中間の省略せられた者が怒つた。殊に問題が婦人に關した爲に、?々盃論の末に打ち果したなどと、殺伐な逸話が生じたのである。今でも醉人にはいや迷つた杯だの、今一つ檢《あらた》めるなどと古風なことをいふ者があるが、既に德利が現はれ又陶器の小さな猪口が、銘々の膳の上に白く光るやうになれば、宴會は即ち大いなる解放であつた。而うして獨酌は更に破天荒に之を自由にしたものである。斯ういふ連中が古來の民俗を説いたり、乃至は節酒の可能を主張したりするのは、本當はをかしいことであつた。此類の衛生手段や利用法こそは、全く明治以來の新發見と言つてよいのである。

　宴會の改良なども恐らくは之と同じことで、結局は前よりも一段と酒がうまく、醉が愉快になるやうに努力するわけになるだらう。和漢古今を通じて、酒の美德をたゝへた文學は數が多い。さうして其作者は皆酒飲みであつた。殊に日本では酒盛の效果を十分ならしむる爲に、主人に代つて人を醉はしむるの術は發逢して居た。其一つは歌謠となつて、永く佳い聲と樂器とに伴なはれて居た。酒の無用を兼て知つて居る者までもが、之に催されて時々は醉人の群に加はつた。それを金言の如くに酒を賣る者が援用することは巧妙ながらも稍々ずるい宣傳法であつた。第二の技術も日本では尚行はれて居る。それは少しも醉はずに大酒の飲めることで、是が選手の如く又一郷の英雄の如くに尊重せられた理由は、主として敵手を醉ひ負けしめる力であつた。本人に取つては些しでも有難いことで無いに拘らず、修錬を積み重ね又素質を發揮して、人に褒められるやうな席上へ悦んで出て來た。是が酒宴の興といふものを添へたことは、時としては美人の歌にも越えた。さうして共々に飲酒を經濟以外の事業に化せしめたのである。

　珍客に酒を勸むべしとする社交法は、主として酒の貯藏といふことを條件にして居る。是も以前からまるで無かつたことで無いが、近代に入つて特に其效果を收めて居るのである。我々の群飲制度の他の一つの拘束は、大きな盃の順流れを待つて居る樣に、造り込んだ新酒の熟する迄の、もどかしさであつた。村々の祭の日が秋の九月になつて居たことは、酒が無くては神を迎へることが能《でき》ぬからであつたが、同時に又田の穀物の刈入れられるまで、飲めない日數の長かつたことを意味して居る。以前の酒造りは、事の外に簡易であつた。?に二日と甘酒に二夜を送ると、殘りの三日四日の間にはもう甕にふつ／＼と湧いて居た。ちやうど遠方から太鼓の吾が響いて來るやうに、この幽かな酒瓶(277)の音に耳を傾けることが、即ち家々の祭を待つ心であつた。當日の用意は新しぼりの器を替へる香によつて整うたのであつた。それを神樣に供へて滯り無く祭を終つてから、醉うて倒れるまでたらふく飲まぬやうであつたら、酒といふことは出來なかつたのである。

　今でも舊家の誇りは、味噌や漬物の作り方、その他何人にも比較し得られる食物の調理法に存するやうだが、酒は其中でも殊に家刀自の苦心の存する所であつたらうと察せられる。是には家傳があり又覺え込んだ技倆といふものもあらうが、それよりも大切に、はた不思議にも考へられたのは、今ならば何でも無い酒の靈、即ち米を?にして行く微生物の、家々の型の相異であつた。是が何人の眼にも觸れずに、古來一家の空氣の中に浮遊した故に、何處にも無いといふやうな佳い酒が、時々は或舊家の名聲を高めて居たのである。泉も強清水などといふ名を帶びて、特に酒造りに適したといふものが、通例は神の社の片脇等にあつて、社と縁の深い家が之を管理して居た。元は單純なる家門の譽れであつて、飲ませて金を得る考などは無かつたのであらうが、斯ういふ出色ある酒は自然に多く貯へられ、人は古酒の香を慕うて、之を富貴繁昌の一つのしるしと感ずるやうになつたものらしい。地方で尊敬せられる指折りの名家が、好んで酒造りといふ樣な業體に携はつたのはをかしいやうだが、是も最初は又隱れたる信仰から出て居た。(278)それが分家の流行する世になつて、いよ／＼本式に農以外の資本を、卸して經營する事業とはなつたのである。

　酒の贈答は國々の銘酒が世に知られてから、一時我邦の一つの風俗とまで爲つたが、今日はもう必要も無くなつて來た。あの大袈裟な赤塗りの角樽などは、めつたに儀式の折にも顔を出さなくなつた。其代りには最近の交通方法が、著しく國内の輸送を容易にし、同時に今までの地方割據を、酒だけに就ては統一に導いたやうである。灘が清酒の發明に引續いて、芳野の山の杉を四斗樽に結《ゆ》ふやうになつてから、海上の運搬が年と共に加はつたことは有名だが、江戸には今日までまだ下《くだ》りといふ名稱が殘つて居る。地酒は是に對峙して尚久しい間、一部の嗜好を繋ぐことを得たのであつた。地酒の特色は必ずしも安いといふ點だけで無かつた。是には又別種の醉心地があつたのみならず、土地にはそれ／”＼の絶ち難い聯想も多かつたのである。其上に東西の大きな都市の間にこそ、稍々完備した輸送方法もあつたが、之をそれから先の片田舍まで延長させることは、實は贅澤以上の難事でもあつた。だから本當の酒の意義を解せずに、之を一種の社交用と見た消費者の間には、僞物の惡酒が際限も無く行はれて居たのであつた。

　濁酒密造の注意すべき特徴は、隱す方の技術ばかりが年と共に進歩したことである。現在はもはや以前のやうなゴンド被りでは無くて、或は穴藏を掘つたり深山の奧に隱したり、非常な智慮と勞苦を此爲に拂つて居るにも拘らず、造るものと言つては全く昔のまゝの、酒とも言へない程の粗末なる濁酒で、賣つて金にしようといふ見込などは無いものであつた。是が僻村の豐かで無い人たちによつて造られるといふのは、恐らくは町で賣る酒の高過ぎて又良過ぎることに、頑なゝ反感を持つたのが始であらう。實際樽詰、罎話の酒類は、此邊まで持つて來ると比較を絶する程高くなる。假に其供給を潤澤にして遣つたところが、是で一方の誘惑を退けることは六つかしい。醉ふのを主眼とする古風から言ふと、うまいけれども是は酒の部には入らないのであつた。上酒《じやうしゆ》諸白《もろはく》の百年以來の流行は、無理に全國の酒の趣味を釣上げたけれども、尚或一部の小民の間から其舊慣を奪ひ去ることは出來なかつた。それを今日の酒造税法が無視した爲に、憫れむべき多數の犯人を作らねばならなかつたのである。

(281)　此統一の犠牲は大都市の中にも有つた。何か今少しく安價に醉へるものは無いかといふ希望が、現に白馬《しろんま》の釀造を今日までも持續させたのだが、準備や手續の繁瑣な割には、格別な利得を製造主に與へず、税の負擔が安物だけにきつく應へて、是で滿足する者が段々に少なくなつた。之に代つて現はれたものが、電氣ブランといふ類の混成酒であつた。警察では特に其中の粗惡有害なものだけを禁制しようとして居るが、色や器や名前などは、次から次へ變へて行くことが出來るから、到底一つ一つ其害を調べて見るわけに行かぬ。メチール酒精の如き驚くべきものでも、醉ふなら飲んで見ようかといふ者が居る限りは、何等かの形を以て此飲料は世に行はれ、乃ち犯罪に陷らなければ、飜つて自分の身の破壞を甘んずるのである。酒が飲む者を忘我の境に誘ふことは、近頃始まつた惡德でも何でも無い。近頃始まつた現象は居酒と獨酌と酒宴の連續、それから酒が旨くなり又高くなつたことゝ、國家が小民の何を飲んで居たかを、ついうつかりと忘れてしまつたことゝである。

　しかも酒の濫用が今日の極端に及んで居る以上は、假に酒造家の反對を退けて、地酒や白馬の自家釀造を自由にし、安く醉ひ得る途を與へたとしても、それで大衆を幸福にする望みは無いのである。九州の南部には酒造税法の初頭から、所謂株燒酎の製造が盛んになり、農家は自分たちの藷や米を使つて、組合によつて安い飲料を造つて居る。一切の販賣經費を省略した上に、原料も勞力も御手の物なり、酒精分も多いから、近頃始まつた組合?油以上の利益がある。從うて他の地方の濁密地獄等は夢にも知らず、立派に法令に認められた手造りを樂しんで居るのだが、其代りに飲み方が猛烈になつて、其害が誰の目にも顯著になつて居る。働かずに居られぬ者の精力の衰退、子供の體質の追々の劣弱などが、もう此頃では飲む者自身にもわかる樣になつた。組合燒酎の便法さへ起らなかつたら、斯ういふ悲慘な結果は見ずに濟んだらうと言はれて居る。ちやうど一方の飲めない爲に罪を犯す者と、形は正反對であつて不幸には甲乙が無いのである。飲まずに居られぬといふ根本の原因に溯つて、考へて見るより他は無くなつた。

　全體に今日迄の禁酒運動には、この近世の惡癖を指摘する考は少なくて、是非とも數千年の國風と關はなければならぬやうな、無用の勇敢を必要と認めた爲に、却つて背負投げを食はされる場合が多かつた。當初日本に來て居た親切な外國人が、我々の酒の飲み方に眉を顰めて、何とかして之を止めさせようとした時には、外國人だけに土俗には變遷があることを知らなかつたのも無理は無かつたが、其後各地に其志を嗣いで起つた人までが、幾分か仲間の容易に同感する人だけの間で、思ひ遣りの足らぬ批判をして居た弊だけは免れなかつた。其結果は禁酒を迷惑とする者の側から、あれは耶蘇だからあの樣なことを言ふのだと、さも此手段を通して我々の信仰を、打毀さうとする企てかの如き惡評を放つたのであつた。實際さうであつた所が差支は無いわけではあるが、これでは少なくとも神酒を祭の式の重要なる供物として居る者が、警戒しなければならなかつたので、其爲に或は無理な論理を構へて、醉人と愛國者(283)とを一つに考へさせようとするやうな僻見までが、大目に見遁されて居るといふ傾向があつた。だから少數ながらも佛教徒の間に、別に獨立して禁酒の運動が起り、もしくは何れの宗派とも關係無しに、新たに此間題の社會的意義を、考究して見ようとする團體が出現して、それ等が全國の聯盟を作り上げたといふことは、たとへば其協同がどれ程微弱であらうとも、兎に角に非常な大事件であつた。彼等の仕事にはいやな誤解が無くなつて、何れも是からは大いに遣り易くなつたわけである。

　但し未成年者禁酒法だけは、最初から一部の僞善を容認したものとして迎へられて居た。多數の年若な者を酒を取扱ふ職務に携はらせ、殊に酒宴の相手役たることを認めて置きながら、飲むのが犯罪になる法律を出すといふことは、是も亦一つの濁密地獄の亞流であつた。だから容易に隱匿せられ、檢擧を免れるだらうといふことを承知の上で此法は施行せられたのであつた。實際豫想の通りに其適用は至つて鈍い。犯してよろしいといふ禁令を出すことは、國家としては大いなる苦痛でなければならぬ。今又是を二十五歳までに押擴めようとする企ては、更に不愉快なる實驗を追加しさうに思はれる。全體に是は權力を以て強壓すべき行爲では無いやうである。殊に善惡の判斷の最も鋭い年齡(284)地位の者に、酒に限つて自決の機會を與へないといふ事は、今まで流行の弊を感じて居る問題だけに、一層將來が心もと無いのである。併し一方からいふと惰性は破り難い。斯ういふ新奇の法則によつて、側面から轉囘の機を作らうとして居るのかも知れない。犯して免るゝ者が假にあらうとも、少なくもそれを惡事と公認してもらひたいのかも知れない。實際二十五歳の酒飲みが罪人ならば、軍隊にはもはや酒保といふものは置けず、學生は其行爲を酒の上と釋明することが出來なくなる。さうして酒の效果は善惡二つ共に、いつでも集團の中に於て最もよく發揮せられて來たのであつた。個人に勸告するといふことは大抵は無益の勞であつた。社會に此問題を考へさせる爲には、先づ小さな個々の群に於て實驗する必要のあることだけは認めなければならぬ。

　此意味に於て學生排酒聯盟の將來は、世上の興味を引付ける力を持つて居る。この自發的の團體がどの程度に發育し且つその結果を後に遺すかといふことは、社會に取つても大切な實驗である。多くの他の禁酒會が懲りて嫌ひになつたやうな經驗家を有つと反對に、是は普通の前例を拒否せんとするのである。酒で成功して世の中へ出て行つた若干の事實はよし有らうとも、今度は一つ酒無しに、五十年の人生を生きて見ようといふのである。果して前代人の臆測が誤りであつて、酒は無くとも必要なる時々の昂奮が爽快に感じ得られ、多數共同の元氣は直ぐに燃え揚り、情操は純になつて些々たる個人の利害は棄てられ、素朴無邪氣に互ひの腹の中を打明けることが出來、乃至は沈垂した疲勞氣分を轉じて、忽ち次々の他郷知識を求めて行くことが出來るものかどうか。それが幸ひにして然りと答へ得られるならば、即ち全社會の禁酒が可能なのであり、まださう確實に答へられぬとなると、禁酒はやはり酒無し日の如く、一部の割據を以て滿足しなければならぬのである。而も此實驗は個人では殆と不可能であつた。村や一つの部落が申し合せをして、始めて禁酒をすることが出來たといふのは、即ち此消息を語るものである。飲酒は本來は群の事業であつたからである。個々の禁酒者の増加だけでは實際は此間題は解決し得られない。

　婦人は昔とても勿論男のやうには飲まなかつたが、酒を飲む場處には必ず出て居た。是は勿論見張役でも無ければ、又單なる宴席の色彩として招じ入れられたといふやうな、一時の思ひ付から始まつたものでも無かつた。由つて來る所は至つて久しいが、一言でいふならば酒はもと女性の管理するものであつたからである。刀自といふ語は現在は杜氏などとも書いて、專ら山村から出て働く百日男のことを云ふやうになつて居るが、元來はおかみさん〔五字傍点〕のことである。即ち家々の主婦が酒造りの事に與つた名殘で、しかも朝廷にも國々の大社にも、これが必ず女の役であつたことを考へると、たゞ主婦であつたが故に造つたのでは無く、最初は女性でなければならぬもつと深い理由があつたらしい。酒殿の神樂歌には舍人女ともあるが、宮中でも同じく是を刀自とは呼ばれたのである。家々の刀自が餘分の酒を造つて、出でて賣つたといふ話は靈異記にも出て居る。それが引續いて、狂言の「姥が酒」の頃まで、尚女のする業ときまつて居たのである。地方に大きな酒庫が建つやうになつて、仕事も名前も男の手に移つたが、村々の地酒には姥が(286)手造りが多かつたばかりで無く、買ふにも貯へるにも男は干渉し得なかつた時代が、まだ暫くの間は續いて居たものと思はれて、如何なる酒宴に於ても、女の臨席は絶對に必要のものになつて居た。此慣習がをかしな變形を重ねて、今でもまだ痕跡だけを留めて居る。御酌は女といふことも賤しい意味ではなかつた。以前は家々の主婦たちの、義務と言はんよりも特權であつた。

　西部日本の幾つかの島に於ては、今でも酒盛といふのは、男女入りまじつて共に飲む場合に限り、男ばかりで飲むものには特別の名は無いさうである。多くの繪卷などにも常に見らるゝ如く、是は上下を一貫して古くからの酒宴の方式であつた。これが無意識ながらも農村にはまだ傳はつて居るのであつた。ところが唯一つ、是が不可能であつたのは軍陣の生活であつた。女が居なければ是非が無いので、少年の特に優雅なる者に、酒配給の任務を代理させる風習も始まつた。旅の假屋を設けて珍客を宿する場合にも、娘を喚び出して酌を取らしめたといふ話はよくあるが、それは同時に其娘を假屋の刀自たらしめることを意味したので、さう輕々しくは參列させるわけに行かなかつた。殊に客殿を家の一區劃に設けて、頻々と座敷の酒宴を催すやうになれば、所謂床柱の前の席は誰のものかゞ不確かになつて、主婦の任務は甚だしく行ひにくゝ、次第に他の相當の者に其任務を讓ることになつて、末には臺所に居て肴の心配ばかりするやうに、彼女の地位は退歩してしまつたのである。

　つまりは家々の構造の變化が、いつと無く婦人を社交的に退却せしめようとしたのであつた。是には勿論近代の武家氣質、即ち出來るだけ女の手は掛けずに、假屋式の生活に馴れて居らうとするやうな傾向や、女は愼み深く陰に居る方がよいといふ考へ方なども助けて居たらうが、それ等はたゞ一部上流の表向きの交際であつて、尋常の家庭の親(287)しい往來に於ては、事實尚久しく主婦が酒宴の事務だけは管掌して居たのである。ところが出合ひと稱する一種の宴會式が新たに現れて、爰に始めて家々の奧方は、完全に酒の配給から絶縁しなければならぬことになり、彼等に代つて專門に此事務を取扱ふ女性が出て來たのであつた。寄寓を普通とした江戸や大阪の人たちが、茶屋と其女たちを利用したのは已むを得なかつたかも知れぬが、其後に起つたものなどは、明らかに濫用の部であつた。即ち一家の酒ならばとくに飲み盡したらうほどの量を、家とは交渉の無い場處である故に、人は連夜に飲み且つ遊んで居たのであつた。

　單なる歴史の發見は今となつてはもう無益であるかも知れぬ。假に酒管理の權能がもとは女性のものであつたことが認められても、之を恢復すべき手段はもう無いのみか、又恐らくは其勇氣も有るまい。たゞ考へて見てよいのは酒が何故に家の爲に必要なるか、如何に配給することが最も社交的に有利であるかを、曾て最もよく理解した者が主婦であり、しかも今日最も冷淡に又無關心である者も亦主婦だといふことである。酒が害あつて包括して之を斥くべきものと決すれば、以前此物の利用によつて收め得たる生活便宜は、今後は何を以て代つて其效果を擧げさせるかといふことも、同時に又考へて置く必要がある譯である。をかしい話は西洋式の宴會といふものが、頻りにその長處を羨まれ且つ模倣せられるが、是と同等以上に着實で又親切なものが、以前は日本の普通の家の、唯一つの酒盛法であつたので、それをつい近頃になつて家庭の外へ、追ひ出した結果が濫用にはなつたのである。兎に角に酒と家刀自との因縁は、さう簡單には打切れるもので無かつたこと、それが今漸くわかつて來たのである。

　女性が始めて酒といふものゝ、神々しい力を味得する機會は、元は我邦ではかため〔三字傍点〕の酒より他には無かつた。かためは勿論婚姻の約束を、動かぬものにするといふ意味であつたらうが、同時に又處女の爲に新たなる境遇を固定し、その情感の自由なる動搖を終止する結果にもなつた故に、靜かなる一生に取つては是以上に心の引緊まり、又充實した瞬間は經驗し得られなかつた。從うて永く此飲料の無形の値を輕んずることが能なかつたのである。こひ〔二字傍点〕は其語義から言ふと、本來はこの固めの酒を掬みはした者の、後の意欲の種々相を總括した語であるのだが、普通には愈々その決斷に立ち至るまでに、若干の用意と整理と、又希望と不安との交錯の如きものがあつて、是も頗る日常の生活と違つて居た。それに適當なる名が始から無かつたために、いつと無く同じ一つの言葉を、堺の此方までも持つて來て使ふやうになつた。さうして追々に酒と戀との關係を、紛亂せしめるやうな原因を作つたのである。

　男の側にはこの固めの酒を運ぶまでの、殊に待遠で又樂しみな期間を言ひ現はす名があつた。曾て妻｜?《ま》きとも又妻問ひとも謂つたものがそれであつたが、女はたゞ之に答ふるだけである故か、特に對立した名稱が設けられて居なかつたのである。我々の明治文化史は、是等世の多くの「問はれ人」即ち花嫁候補者たちの、漸く眼ざめんとした疑惑(289)の聲に夜明けて居る。異郷人の交遊が繁くなつて來たといふ事は、未だ必ずしもこの妻問ひの機會を豐富ならしめず、實際は彼等の準備期を久しからしめ、又其とつおいつ〔五字傍点〕を一段と複雜にして居たのであつた。早婚の何よりも安全でありし理由は、家庭の選擇が容易に行はれ得ることであつて、是にも早晩に娶り得る家の數が限られ、縁組みのもう自由で無くなつた兆候は見られるのであるが、それでもまだ雙方が久しく土着して居る者である間は、家が互ひに知ることだけは大いなる努力でも無かつた。大小の都會が新たに成長して、二個の寄寓生活が相隣接するやうになると、以前稍々暫く行はれて居た父兄の代理契約法は、之を安心して持續することが困難になり、言はゞ其責任の一部を、再び當人たちに返さなければならぬ必要を生じて、佳期は當然に少しづゝ遲れるやうになつたのである。

　それが年進んで村も狹く、もはや此上の家増加を希圖するにも及ばぬ事となつて、先づ稍々遠方迄に知られて居る家から、追々に子女を部落の外へ送り出すことゝなつた。それが自然に利害共同の區域を弘めたことにもなつたらうが、武家が所謂政略軍略の婚姻を企てるやうになつたのは、寧ろ應用の一種に過ぎなかつたと思ふ。兎に角に以前ならば、聟を遠方の珍客から迎へることが出來た程の名門は、努めて縁家の選定を弘くすることになつて、家筋家柄の詮議は乃ち面倒な事務となつたのである。斯うなると假に女に相應なる思慮分別が養はれて居ても、もはや判斷は何(290)人かに委ねなければならぬ。問はれ人の智能技術などは、用ゐる所が殆と無くなつた。其上に早婚を安全と考へるやうな傾向も加はり、又言ひなづけなどといふことも必要になつて、女性の感覺の十分に成熟するまで、待つて居ることも出來ない場合が多く、しば／＼固めの酒を親兄が代つて飲むやうなことがあつた。從つてたとへ殘つて居た所で古い方式が、型ばかりになるのは已むを得なかつたのである。

　新たなる時代の交通促進は、たゞ單純にこの選擇の區域だけを、擴張したといふ迄であつた。或は寧ろ判斷の誤謬と不安とを多くしたと、言ふ方が當つて居るかも知れない。しかも一方には以前上流の間に行はれて居た婚姻式を、本式と考へる風が強くなつて、是に依らない縁組は何と無く安つぽくなつて來た。前代の所謂小笠原流は、一部分は最も不幸なる婚禮、少なくとも忍苦の生活の開始を意味して居たのだが、別に今一つの本當にめでたいものを、考へ出すといふことも容易で無いので、女子は依然として既に固めの酒を飲んでしまつた後に、もう一度何の爲とも知れぬ盃事といふものを、顔も見合はさない綿帽子の下で、くり返すやうなことをして居たのである。口へ出して言ふか否かは別として、是を不審に思はぬ者は恐らくは少なかつたらうと思ふが、さう簡單には其疑問は釋き得られなかつた。是は昔から日本では斯うするものなのだといふことゝ、何故かは知らぬがどこの家でも斯うするからといふ事とが、最も有效なる説明になつて居たらしいが、實はこの二つとも本來はさうで無かつたのである。今日の小笠原流は又少し進化して來て居るが、何れにしても三つ以上の至つて重要な點に於て、以前行はれて居た我々の婚姻とは變つて居る。部落内部に於てもつい近頃までは大よそ是と同じ方法を行うたものであつたが、それには又若干の缺點もあるので、人は明治に入つてから追々に之を罷めて、今ではこの遠方婚姻に始まつた新式に、準據しようといふことになつたのである。新舊どちらが優るかは一應はもう定まつたと言つてよいが、變へて變へられないもので無いことだけは、それ自身が之を立證して居るのである。だから歴史としてもう一度比較をして見てもよいわけである。

　變つて來た一つは婚姻が夫の家に於て始まるといふことである。即ち嫁入が無い限りは、婚姻はまだ成立たぬもの(291)の樣に考へる考へ方である。是は民法の同居義務の解釋が之を支持するやうになつて、今では略々動かぬものになつて來たらしいが、以前は嫁入の前に既に聟入といふものがあつて、時としては其中間の時が二年三年も續いて居たのである。主婦にはまだならない嫁といふものゝ存在、即ち第二の重要なる變化が是に伴なうて居たことは想像せられる。嫁が姑と同じ一つの家に住んで、角突合ひをするといふのは新しい現象でも無いが、少なくとも以前は出來る限り、それを避ける樣にはして居たのであつた。今でも土地によつては嫁取りを堺に親夫婦が別屋に入り、もしくは杓子を引渡すを例とする處もある。さうで無ければ兒が生れて後まで、女が尚親里の方に留まつて、聟の方から休息にそこへ來る土地もある。婚姻した娘の部屋は母屋とは獨立して、離れとか門長屋とかの別棟になつたものが多いが、それでもまだ家庭の複雜になるを厭ふ處では、村内に共同の新夫婦宿所が設けてあつて、やはり早速には嫁を舅姑の膝下へは迎へ取らなかつた。

　嫁入を婚姻の第一日とする風は、疑ひも無く遠方婚姻の必要から出たものである。縁家が他郷にあつては聟入はともあれ、久しく右の婚舍の生活は繰返し得ないからである。しかも親里が娘の勞力を人に委付するを惜しんで、少しでも永くこれを留めようと思ふならば、聟を自分の方に迎へて置くといふ方法もあつたのだが、それよりも早く片付けて安心をしようといふ念の方が強くなると、頻りに引取りを急いで、終に嫁入を儀式の中心とするやうになるのである。聟入は其結果として今は型ばかりのものに化して居る。最も多くの田舍では、今も輿入當日の朝のうちに、聟が仲人の案内で出かけて來て、嫁方の親類と見參《げんざん》の盃を交し、中には自身で嫁を伴なうて還る例もあるが、新しい式ではこれをさへ省略して、嫁の里歸りの日を以て聟が同行して來ることになつて居り、親類盃なども里の親たちが嫁入に附いて往つて、一度に濟ますといふ場合も多くなつた。同じ親々の同意といふ中にも、かつては呉れる方の承諾が得にくかつた時代もあるのだが、いまでは引取る方の心持が大切であつて、もはや主婦權の競立などは考へて居られなくなつた。或は是も亦家庭が小さく、人が多くなり過ぎた結果と言つてよいかも知れぬ。兎に角に嫁入が婚姻の(292)要件であり、登録がこれに伴なうて行はれるものとなつた爲に、事實の婚姻はあつても聟の親が拒めば、やはり日陰者のやうな生活をしなければならなかつたのである。

　今一つの大きな變化は前にも一端を述べたやうに、妻問ひの方法が甚だしく不自由になつたことである。人が一生の安危の固めの盃を唇にあてる時まで、尚はつきりとは顔さへも互ひに見ぬといふ婚姻が、通例として行はれなければならなかつたことである。是には不安を抱いておとなしく旨從し得ない者が、實際はよほど多くなつて居るのであるが、假に自由に判斷をすることを許されたにしても、今日の組織に於てはやはり机上の空論に近いもので、餘りに用心深ければ片端から否決するより他は無いのである。ちやうど我々の故郷が互ひに他を知つて居ると思ふのと同じで、男女はたゞ概念によつて知り且つ知られて居るのみである。それでも大體に差支の無かつた時代が、曾て一度はあつたのであるが、もうさういふことは望み難くなつた。武家と村々の名家とに支持せられて居た婚姻法が、大きな弊害も無く最近まで行はれて居たのは、昔の二つの時代色の今は既に薄れて行かうとして居るものが、之に伴なはれて發達して居たからであつた。

　其一つは女性心意の同化力と言つてもよからうか。即ち婚姻を一種の教育手段として、新たに環境と適應して行く修養が、樂々と進められたらしいことである。多くの早婚者の智能感覺が、遲く成長を始めて久しく之を續けたことである。彼等の戀愛生活は前には蕾であつた代りに、却つて固めの酒以後に於て非常に美しい展開を遂げて居る。日本の婦人には個性が無いなどと、口惜しさうに評した人もあつたが、それは其生活の序の口だけを見た話で、學問と感化の半分の餘地を携へて、嫁いで來たといふことは大體に於て幸福であつた。單に夫が盗賊や惡人であつた場合に、(293)それが身の仇となるだけが困るのであつた。第二の特色も同じ非難を受けるが、家々の庭訓には是ぞといふ異同が無くて、常に女性を或一つの標準に向つて、育て上げようとしたことであつた。男子は稀には強ひて奇を求めた教育法もあつたが、女には世間竝といふことが、いつも力強い拘束になつて居て、少しでも出色の譽れがあれば、それは寧ろ婚姻の妨げであつた。だから遠方に在つても門地と資産、齡と健康と二親の性癖ぐらゐを確めると、其他は推し測つて大抵は危險がなかつた。是が今日ではもう絶對に望み難くなつたのである。

　家風に合ふとか合はぬとかいふことは、以前も折々は聽くことであつたが、どれ程の喰違ひが有るのか尋ねてもよくは判らず、實際は幾分か當世風に流れ過ぎて居る方を、非難する言葉としてしか用ゐられなかつたのである。その當世には家風と名づくべきものは殆と無い。家々の生活ぶりには、似たところが少ないのみか、同じ一軒のうちでも年と共に趣味は變遷する。此中に育つ者が女でも男でも、各々一人づゝの自分に成るのは當然であつて、それが思ひ思ひの社會觀と計畫とを抱いて、それ／”＼の新家庭を作らうといふ事になると、今までの單なる外廓からの推斷が、大きな冒險になるのは已むを得ぬことであつた。太平洋の對岸に渡つて居る者で無くても、寫眞を唯一つの手掛りにする場合が多くなつたのは、全くこの新舊二つの事情の不調和を、及ぶだけ補つて見ようとした努力の産物である。我々の妻問ひ技術は珍しい方面へ進化した。繪姿から若い男女の性情氣質を讀む修錬は、恐らくどこの國にも見られぬ程度にまで發達して居ると思ふが、是がちやうど又書物で異郷を理解しようといふ計畫にもよく似て居た。

　斯ういふ方法だけでは何時になつても、婚姻に所謂幻滅は附き物のやうになることを免れない。日本は離婚の多い國として知られて居るが、それは手續が餘りに簡易であつて、すべての別れたい者が皆別れるからだと解釋してしまふことは少し六つかしい。別に此以外に辛抱をして居る者が、何十倍かは知らぬが、確にまだ殘つて居る。もう少しよく知りよく考へてから、固めの酒といふものは飲むべきであつたといふことは、經驗して居る者が非常に多いのであるが、それが遠方婚姻の稍々無謀な擴張から、斯うなつて居るのだとまでは考へた人が尠ない。小さな社會の昔か(294)ら持つて居た任務に、適當な配偶者の選定を容易にさせるといふ、至つて大切なる一つの事があつたのを、つい何心も無く見過して居たのである。部落は今でもまた土地によつて、現實に結婚區域として認められて居るものがあるが、近世その機能の著しく削減せられて以來、總括して之に代つたものは他に一つも無かつた。少しづゝの新たな風習は、始まらうとして又廢れた。例へば商家や職人が長年の使用人の中から、見たてゝ跡を嗣がせたり娘をくれたり、主從の關係を超脱したのも其一つ、或は遊女に心底からの誠を見出して、無理をして夫婦になつたりするのもそれであつたが、今では其氣持を同情する者さへ無くなつた。さうして今更のやうに縁といふ語に神秘を托して、たゞ行當りばつたりの幸運を捉へようと念掛けて居る。失望者の次第に多くなるのは是非も無い結果である。

　つまりは高砂業などといふ機關の、出現しなければならぬ世相であつた。寺が葬られて行く者の將來を保證せぬ以上に、媒妁會社は結婚後の生活には義務を負はない。寧ろ件數の繰返して多からん事を、彼等は正當の業務として希望してよいのである。爰で世間の全く知らぬ者どうしが、始めてたつた一つの目的の爲に逢ふのだから、其妻問ひの慌たゞしく且つ露骨で、?々戀愛技術の見苦しい失敗に歸するのは自然である。支那では媒婆は賤しむべき職務であつた。單に漁色の徒に方便を供與する以外に、少しでも家庭的の效果を豫期せられては居なかつた。ところが日本には以前此類のものは無かつたにも拘らず、近代になつてから非常に重要な地位に押上げられて居る。仲人は親々に次いで尊敬せられ、また往々にして假親の關係さへ結ばれる。名士を妹妁者として婚姻したいといふ希望は、所謂閨閥の運動を凌駕するものがある。何かこの高砂業なるものが、少しは上品で公共的のものでもあるかの如き、感じを與へるのも其爲であつた。

　舊來の日本の媒人《なかうど》は、雙方から頼まれて爲るといふことはめつたに無かつた。大抵は一方だけの熱心な望みを助けて、幾分か困難なる縁談、時としては不可能に近いものをさへ成立たせ、それを手柄にもすれば又賞讃せられても居たのである。中には今少しく巧者な者があつて、雙方が共に意あつて之を表はし兼ねて居るを見て取り、進んで橋渡(295)しに任じて輕易に效を奏した例もあるが、さういふのは格別尊敬せられなかつた。他の多くの場合には媒人は最も根氣よく、人を説き付ける技倆を持たねばならぬとせられて居た。家と家との結合を主にしたものには、釣合ひといふことが殊に面倒だつた。一方が大いに滿足するやうな縁談は、必ず他の一方が稍々尻込みするものであつた。之に向つて婚姻の第一義を講説し、親族の意見などは從たるものだといふことを論證するのは、平凡の如くにして其實は骨折な仕事であつた。さうして又それが今よりも遙かに困難であつた時代もあるので、仲人役の聲望の高く揚つたのは、又ちやうど其時代であつた。

　其中でも部落内婚姻の舊制と、遠方縁組の新主義とが、抵觸した場合が殊に處理し難かつた。父兄の代理權が最も充實し、問はれ人たちの本志が尋ねられなかつた家庭では、時にこの二重の妻問ひの併發することがある。仲人の尋力が何物よりも期待せられ、又感銘せられたのもこの場合であつた。其爲に或は仲立の地位を踏み出して、一方の加擔者として働くことすらも稀で無かつたが、是までの行動はたゞ一箇の顔役の、智惠なり勢力なりでは出來ぬものであつた。是を常識と言はうが又物の道理と言はうが、兎に角今一つ背後に之を支持する輿論があつて、仲人は乃ち有效にそれを表現したのであつた。日本にも昔は男女の間に使した女を、媒人《なかうど》と呼んで居たこともあるが、それと是とは名は同じでも、役目は全く別である。東北地方で御指南だの幸神《さひのかみ》などと謂つたのは、名前は違つてもすることは是に近かつた。何れにもせよ我々の今日仲人と謂つて居るのは、明らかに媒婆の成長したものでは無かつたのである。

　婚姻は家々限りの私事でありながら、これほど喋々と世間の口の端に上るものも稀であつた。人が思ひ切つて異風の縁組を爲し得ず、從うていつも時代の習はしといふものに、牽かれ進んで來た姿があるのは、一つにはこの周圍の(296)批判に、夫婦を幸福にも又不幸にもする力が、今でもまだ有る樣に感じて居るからであつた。果して其力が今も有るか否かは、實驗で無ければ之を確め得ないが、少なくとも以前はこの公論の機關が、村には組織立つてあつて、弘く其效果を妻問ひの時期にまで及ぼして居たのである。何時の世の中でも青春の男女が迷はず、又過たなかつた時代といふものは有るわけが無い。一切の判斷を長者に委ぬる者は格別、些しでも自分の思慮と感情とを働かせようとすれば、是非とも何等かの練修方法と、指導の機關とが入要であつた。幸ひに村に若連中娘連中と稱する稍々干渉に過ぎたる批評者の群があつた御蔭に、我々の自由婚姻は幸ひにして多くの似合ひの女夫を作り得たのである。

　始めて若者組といふものゝ村に出來た動機は、餘りに久しくなる爲か、日本では之を究めることがまだ出來ない。併し少なくとも婚姻はその一つの目的であつたと想像せられる。或は集群婚姻の大昔から、ずつと續いて居るのでは無いかと、思はれるやうな節もあるが、今は少なくとも風儀の非常に亂れた二三の土地の外、一夫一婦の法則の熱心な守護者は彼等である。村には本來此圃體が無くとも男女が共に働いて、互ひに人柄を知り合ふ折は多いのであるが、それを品評し又等差づけるやうな機會は、たゞ心を許し合つたこの未婚者の集合より以外に、之を求むることは出來なかつたのである。此爲に多くの村には男女それ／”＼の宿といふものが設けてあつた。是を寢宿と稱して婚舍にも流用する例もあつたが、今殘つて居る多くのものは、單に同輩と夜業を共にし、話をして更かす倶樂部といふだけであつた。彼等が集まると男はいつも女のこと、女も男の話をよくすると謂つて嘲けられるが、始めて世心に眼覺めた若い人々が、是より無害な方法を以て我世を知るといふことは、今とても決して他に無いのであつた。

　それも情味の無い只の理論ならば、或は應用に失敗したかも知れぬけれども、是は實例を言葉に引當て、または言語でも描かれない表情法を以て、一々實地に解説する久しい經驗の集積であつた。普通の感覺と記憶力とを持つ若い者が、永くこの第一學年の印象を利用し得たことは、恐らくは文字や算筆より以上であつたらう。是は他の一方の男の團體も亦同じことで、大よそ村々に於てよい娘と云ひ、又よい若者と謂つて居る評語の内容には、姿恰好應對振り、氣轉程合ひ思び遣りといふが如き、列記しきれぬほどの細密な個條が含まれて居るのも、それが悉く家長や故老たちの、教訓に基づくものばかりで無かつたことを推測せしめる。富が何でもする今日のやうな時代で無い限り、この異性の好みに合ふと合はぬとは大變な事であつた。一つの民族の氣風を作り上げる村々の道德が、其發達の主要なる機縁を、斯ういふ無邪氣な團體の夜話の中に持つたとしてもそれは少しでも不思議なことでは無いのである。

　しかも若者組娘組の婚姻に對する任務は、決して是を以て終つては居なかつた。第二の今一段と適切なる衆議判は、個々の實際問題に對しても遠慮なく下されて居たのである。例へば分るゝ心の何方に就くかを決しかね、若しくは生田川に水鳥を射なければならぬやうな場合は勿論、互ひに脇目も振らずに相近よらうとして居る際でも、一度は是非の評に上らぬといふことは先づ無かつた。それには必ず本人たちの未だ省みなかつた周圍の事情、起り得べき故障の幾つかゞ考へ付かれる。大體に果して末遂げるか否かといふことが、同情の有る者にも無い者にも、共に問題の中心を爲して居たやうである。中途の破綻といふことを一般に非常に憎んで居たのは、意味の深い現象であつた。本人は勿論之を怖れたのみならず、豫めさういふ想像を下さるゝことをすら耻として、色々の誓言を先づ朋輩の前に立(298)てゝ居た。其信用さへ確められると、大抵の自由意思は承認せられ、且つ強烈に支持せられたのである。仲人の活躍は乃ち此輿論を代表し、或は若者の頭と推さるゝ者が、自ら進んで仲人の事務に任じた例もあつた。村に平穩なる婚姻の多かつた理由は、斯ういふ固めの酒以前の手續が、十分に念入りであつたからであつて、假に無意味な離別をする樣な者があれば、それは第一に團體に對する背信であつた。それ故に普通は村に居ることが出來なかつたのである。

　斯ういふ盆歌などは作者は女であつた。大抵は土地で立てられて居る名家であつた故に、若者等も直接之に抗議し妨碍するだけの勇氣も無かつたが、少なくとも抗議と妨碍の形式だけは取り、又自分たちの承認を得る形を要求した。嫁入の途中に關所を据ゑたり、石を投げ込んだり、石地藏を持つて來たり、其他酒をねだり挨拶を要求する等、村によつて方式は樣々であるが、兎に角に黙つて居る所は少ない。聟は入聟でも見參聟でも、いぢめられる事は非常なものであつたが、他所から來る花嫁も平穩には迎へられなかつた。嫁見と稱して衣裳を出させて見たり、又は障子を明けさせて正面から批評をしたりした。其見物の群の中には無論村の女が入つて居たのである。是等は一見する所婚姻團體とは關係が無いやうだが、成熟した未婚者の全員が知らぬ樣な婚姻は有り得ないといふ考、知つた以上は必ずそれを支持し、其永續を保證しなければならぬといぶ舊慣が、尚斯ういふ新儀をすらも圏外に放置させなかつたのであ(299)る。

　男子はさういふ中にも比較的身勝手な考を持ち易かつた。以前容認せられて居た色々の行動に照らして見ても、そんな外形などはどうでもよからうといふ口の下に、或は少しでも將來の所決を、豫め自由にして置かうといふ存念が、(300)潜んで居た場合も無いと言はれぬ。たゞ變つて來たのは婦人の方の心持、斯ういふ不安な自分の地位に對して、格別氣を廻さずには居られるやうになつた理由である。これには勿論幾つかの現代世相が常に複合して反映して居るのだが、何が基調であるかも注意すれば今にわかつて來るであらう。たとへば單なる物知らずといふ以上に、女にも自ら憑《たの》む所が出來たこと、物を持つて居るとか藝が有るといふことは、自然に彼等の心を強くして、さう／＼は男に縋《すが》り付いて居なくともよいといふ勇氣を起させ、或は餘りにうるさければ、此方から退いてもよしといふ迄に、水くさくなつて居る者も無いとは限らない。それを試驗婚だの友愛婚だのと謂ふと、何だか非常に新しいやうにも聞えるが、さうした用意も時々は必要だといふことだけは、實は西洋人なども大分以前から考へて居たやうである。棄てられるといふ言葉は言葉其ものが既に慘酷で、之を極度に怖れ又歎いた時代には、棄てられなくとも女は心細かつた。親たちの愛情は此苦惱を濟ふ爲に、今までも久しく色々に働いて居た。さうして強ひて入籍を迫るなどといふことが、さほどの效果は無いことも經驗したのである。

　何でも印象を濃厚にする言葉を、好んで用ゐんとする今日の人たちは、斯んな柔弱で齒切れの惡い掛引までも、男女の闘爭などと名づけて居たが、實際は是も仲よく永く住まうといふ、一つの策略に過ぎなかつたのである。戀愛の技術が手段を外に假りて、效果を樂に擧げようとした爲に、幾分か不純になつたといふ程度の變化である。だから修養を積み又自信のある者は、別に是ぞといふ外から取つて附けた武器は無くとも、愛情の力だけでも繋ぎ留め得ると思つて居た。或はもう少しきつく露骨に、退けるものなら退いて見るがいゝと言つて居た者もあるかも知れない。何れにしても籍が入つて居ることなどを、宛てにしなければならぬやうではもう御仕舞だと、考へて居る者の多くなつたことだけは疑が無いので、事實また是で押通して、無事に一生を濟ませた者も相應にあつた。戸籍制度の威信には關したけれども、法令はこの夫婦關係の現實は認めないわけに行かなかつた。ましてや子供なり世間なりは、大抵は登録の有無などは知らなかつたのである。

(301)　併したゞ是だけの理由では、わざと入籍をせずに置くまでの説明にはまだ少し足りない。何かこの以外に今一段と積極的に、幾分か婚姻を解除し易い?態に置かうといふ、言はず語らずの合意のやうなものが、最初から有るのでは無かつたか。有期の婚姻といふのは想像の出來ぬ事である。千代に鶴龜と言はなかつた祝言も無いのであるが、しかも別離の必要が起り易く、それが又大よそは豫想し得る婚姻は、昔から決して少なくは無かつた。さうで無くとも子無き者は去るといふ樣に、多くの甚だ有りふれた事柄を、解除の條件にしたものは近世にもあつたのである。例へば初期の東京には田舍出の名士たちで、寄寓生活をして居る者が多かつた。彼等は權妻と稱して東京の女を妻問ひし、後々所謂糟糠の妻が遣つて來ても、平氣な顔をして一處に住ませて居た。ちやうど今日の内縁の妻とは反對に、權妻には籍を入れよと要求する者が多く、又其希望があの時代の戸籍制ともなつて居る。對等條約がいざ行はれようといふ前になつて、慌てゝそんな者は表面から抹殺したけれども、其當座は市中は一種の別宅を以て充ちて居た。惡い風習だつたが、ずるい男は之を模倣した。さうして何の爲に斯んなことをして居るのかは解らなかつたのである。無論是も又一つの内線の妻ではあつたのだが、其期間は益々短くなつて、終には月を以て算へるものさへ出來た。

　明治二十四年の某新聞の社説には、言ふべくして行ひ難きはそれ一夫一婦の制乎といふ論が出て居る。しかし其頃から人は漸くに公然と此事を口にしなくなり、次第に先例の多い惡事ぐらゐに考へるやうになつて居た。ところが一方に折角下火になつたかと思ふと、他の一方新領土に於ては、權妻の代りに灣妻などといふ語が發生して、それを使ふやうな問題がよく起つた。灣妻は單に臺灣だけでの女房で、殆と全部が内地から行つた婦人であつた。つまりは島から外へ出れば、消えてもよい婚姻といふことであつた。關東洲でも朝鮮の半島でも、人が戯れてさう言つたのかも知れぬが、折々は似たやうな言葉を耳にするのであつた。現在の汽車や汽船の交通でさへも、男のあるき廻るだけは女は遠征しない。それ故に故郷の永住の地に居る時のやうに、精確なる選擇をすることが出來なかつたのである。今の内縁と稱するものゝ一部分にも、斯ういふ假の契りの地方妻とも名づくべきものが、まじつて居たことは推測に難(302)くない。しかも愛情は不測《ふしぎ》の力であつて、假が本物よりも尚一段と濃やかに、生涯をかたらひ終せたのみならず、旅人を行く先々の土地に繋いだ例は、古今ともに其數が少なくないのである。親子花嫁までが肩を組んで、共々移住するといふ植民は、今日といへどもさう澤山には有り得ない。第二の故郷の將來の元祖たちは、一度は先づ亂雑なる婚姻制を、經て行かなければならなかつたのかも知れぬ。

　一番最初にそれが不可能になつた原因は、遊女を奉公人として其自由を奪つたことであつた。其風は勿論都市に先づ起つて、追々に海の果までに及んだのであつたが、有名な南北の幾つかの湊では、尚近年まで遊女が町中の自分の家に住んで、聟を迎へる方式を以て客を自分の家に住ませて居たものがあつた。それを法令が一齊に強制して、悉くこの抱へ女式にしたのであつた。それから又てゝ〔二字傍点〕と稱して、遊女を娘分にして家に置く土地もあつたが、是も其女の數が多くなると、末には普通の抱へ主と、どこにも異なる點が見られなくなつたのは、ちやうど此頃の藝妓の養女問題と同じであつた。女衒《ぜげん》といふ職業が盛んに活躍を始め、次いでは娘を賣るといふ家々の悲劇が起つたことなどは、參考書が多過ぎるから斯んな書物には説く必要が無い。單にさういふことが奈良朝以來からでも、續いて居たやうに(304)考へる人がなければよいのである。二つの大きな變化は遊女の苦難が加はつたことゝ、戀愛が愚かなる遊戯に退歩したことゝである。是には固より外からの要求が輕薄になつたといふ原因もあるのだが、それを迎へる以上に誘導を敢てしたのは、何の道ででも金を儲けなければならなかつた都市生活の荒々しさであつた。

　都市の遊里には、古くからの婚姻儀禮の幾つかゞ、何れも馬鹿げた誇張を以て保存せられて居た。之を支持する感覺が消え盡してから、斯んな外形だけの演出が珍しがられたことは、却つて尋常の家の祝言に於て、努めて其類似を避けるやうな傾向を促して居る。酒が此種の婦人の飲むものとなつて、夫婦の盃の無意味になつたなども、その著しい一つの例である。所謂戀愛技術の曾て雙方に共通であつたものなどは、此には衰へ去り、彼には異常に發達した。歌や艶書の人の心を優雅にしたものが、今では賤まれて眞面目な者は之を用ゐなくなつた。戀する者より他は使はなかつた色々の言葉と風姿は、大方卷き上げられて、而も玩弄の種にしかなつて居ない。無爲と謙遜とを詮とした良家の女たちは、言はゞこの爲に二重のうはなり〔四字傍点〕打ちを受けて居たのであつた。ところが其遊女等も、現在は既に疲れ切つて居る。資本のあらゆる誅求に堪へかねて、殆とこの廢頽した遊戯にさへも携はれなくなつて居る。殘るはたゞ輕薄兒の戯れ笑ひたい念慮のみで、それが次々に新たなる遊び場を尋ね求めて、その一つ／＼を荒墟にしなければ止むまいとして居る。是が當代の花柳界なるものゝ、陰慘なる運命であつた。

　近代都市にもてはやされた心中文學といふものが、概ね遊里を發源地として居たのには原因があつた。大近松以來の傳統として懷かしがられた、戀と義理との葛藤といふことも空なものになつて、形ばかりの名文句が飽きられる時代が來ても、まだ本物の情死だけは、模倣といふ以上に盛んにくり返されて居る。活きて居りにくゝなるといふ事情の、新たに附け加はつたものが多いからである。曾ては此別天地に生を營む者は小さな時から年老いてしまふまで、出來るだけ尋常の社會から引離して、特殊の雰圍氣の中に籠城させようとする巧らみがあつた。それが或期の繁昌にそゝのかされて、次第に成長した婦人を地方から補充するやうになると、乃ち遊女の氣質は變化せざるを得なかつた(305)のである。以前も浮川竹とか流れの身とかいふ言葉は多く用ゐられ、此生活に携はる者が、終の宿りを定め難いことを樣々の歌章に詠じては居るが、是は今日から見れば眞情ではなく亦一つの戀愛技術に過ぎなかつたやうである。假に彼等を永久の婚姻によつて、平靜なる尋常の家庭に繋ぎ留めたとしたら、果して、

といふやうな風懷をもつた者が、安んじて其晩生を樂しみ得るか否かは疑はしかつた。斯ういふ花やかなる一期間の婚姻の爲に、若き命の酒を傾け盡した者は、必ず其老境は無聊寂寞なものであつたらうが、しかも何人にも想像し得られるやうな、さう平凡なる末路では無かつたのである。ところが普通の家に育つた女たちの、泣いて親同胞に別れて行く者になると、いつ迄もたゞ世の常の身のよすが〔三字傍点〕を、考へずには居られなかつたのである。芝居によくある貧故の身賣り、又は欺かれてこの苦界に墮ちたと思ふ者は、もう其時から半分は世を棄てゝ居た。それが僅に殘つた夢を押潰されて、再び家庭の人に戻ることが出來ぬと決すると、乃ちいと容易に絶望してしまつたのである。實際又有りふれた外の生活と比べて、比べやうも無いほどの殘虐な任務でもあつた。さうして社會は尚昔の通りに、彼等を其一廓の内に遮斷して、努めて混入を防がうとして居たのである。自由廢業の新たなる運動も、單に資本の足枷から、一旦の救濟を爲し遂げたといふばかりで、殘りの生活はまだ必ずしも自由にはなつて居ない。さうして自分だけは何でも爲し得るやうに思つて居る者が、今に至るまで色々と形を變へて、依然としてその苦惱の職業を續けて居るのである。

　我々の婚姻樣式は、恐らくは餘りに整理せられ過ぎたのである。是ほど人間の往來が繁くなり、是ほど異なる境遇の者が、相隣りして活きるやうになる迄、たつた一つの以前に定められた手順だけに、依るより他は無いとすれば、當然に種々雜多の内縁といふものが現れ、其方法は年と共に、淺墓なものとならなければならぬのであつたらう。其中でも都市は格別に人が互ひに知り難く、同時に又虚構粉飾の行はれ易い新住地であつた。さうして是に住む者の氣(306)質も一人々々に變れるだけ變らうとしで居る。それが心を輕くし洞察を鈍くし、更に又酒といふ感覺を切ならしむる力ある飲料を以て、交遊の唯一つの手段とする事になつたのである。酒が幸福なる婚姻の敵の如くに解せられて、しば／＼下戸を以て聟選みの候件にするやうになつたのも、考へて見れば大きな變化であつた。所謂一人者の理由も無限に増加して行かうとして居るが、是も自由に基づいたものは實際は非常に少ない。求めて得られぬ者と求めかねて惡い婚姻に忍んで居る者とが、新たに勝手なる婚姻觀を立てゝ居るだけである。是等は其意見を批判するより前に、一應は先づ其境涯を同情しなければならない。

　珍しい事實が新聞には時々傳へられる。門司では師走なかばの寒い雨の日に、九十五歳になるといふ老人が只一人傘一本も持たずにとぼ／＼と町をあるいて居た。警察署に連れて來て保護を加へると、荷物とては脊に負うた風呂敷包みの中に、たゞ四十五枚の位牌があるばかりだつたといふ記事が、ちやうど一年前の朝日新聞に出て居る。斯んな年寄の旅をさまよふ者にも、尚どうしても祭らなければならぬ祖靈があつたのである。我々の祖靈が血すぢの子孫からの供養を期待して居たやうに、以前は活きた我々も其事を當然の權利と思つて居た。死んで自分の血を分けた者から祭られねば、死後の幸福は得られないといふ考へ方が、何時の昔からとも無く我々の親達に抱かれてゐた。家の永續を希ふ心も、何時かは行かねばならぬあの世の平和のために、是が何よりも必要であつたからである。是は一つの種族の無言の約束であつて、多くの場合祭つてくれるのは子孫であつたから、子孫が祭つてくれることを必然と考へ、それを望み得ない靈魂が淋しかつたのであらう。

　家を富ませたいといふ念願の底にも、やはり亦この血食の思想があつた。立派な葬式、盛大な佛事を營んでやることが、祖先と自分たちのあの世の幸福を、一層深めるかといふ空想は、人情として當然であつたらう。全體に故人がそこに立つて見て居るので無ければ、無用だと思ふやうな親切が、今でもまだ數多く行はれて居るが、故人も豫めそれを期待して、幾度か其日を想像の畫に描いて居たのであつた。例へば關東の田舍に於ては、葬列に撤錢をする風が近い頃まで盛んであつたが、老人は多くは其入用の爲に、早くから撒くべき錢を貯へて居た。白衣の看護婦が或時代の殉死者のやうに、自分の手に死んだ人の後から附いて行くなども、思想としては必ずしも新しい流行では無かつた。葬式だけは最後の晴だから、立派にしてくれと言ひ殘して死ぬ人も多かつた。さうすると揃への衣装を着た出入の者が供をしたり、花や放鳥のけば／＼しい籠が列ねられた。是を生き殘つた者への慰藉だとは、何人も考へては居なか(309)つた。古風はたま／＼此樣な機會に蘇つて、それを新しい文化に照して、訂正して見ようとする者が無かつたのである。

　祖靈を禮拜し且つ供養する爲には、別に臨時の祭壇を作り設け、常は各人の血の中に流るゝある物を以て、永遠の記念と解して居たやうである。寺が靈魂の管理に專任するに至つて、我々の墓制には一部の改造が行はれた。法師は穢れを忌まぬ故に境内の埋葬を許與し、もしくは常設の亂塔場を管理すべく、庵や道場を建てさせて其中に住んだ。石碑を常人の爲に作るやうになつたことは、三百年ばかりの以前からの事と見えて、それより古くは少なくとも字を刻んだものは殘つて居ない。それも最初のほどは禮拜が目的であつた故に、人を送つて行く野邊とは別の地に在るものが多かつた。土地が次第に利用を進められて、自由な葬地を選定することが困難となり、いつと無く里近くへ其場處を定めることになつて、墓に對する考は又若干の變化を見た。曾ては一種の忘却方法であつたものが、後には永久の記念地と化し、人は競うて大小の石を立てゝ、各々祖先の埋葬所といふ土地を占有しなければならぬやうになつた。墓碑の大さは以前から少しづゝ加はらうとして居たが、急に明治に入つてより家の資力の許す限り、どんな巨大な石でも持つて來てよいことになり、僅な歳月の間に共同墓地は狹く、土地の權利は非常に高くなつて、貪しき人々は死後にも安眠の場處が得やすからぬやうになつて來た。

　火葬は十數世紀以來の日本の公認葬法であつたにも拘らず、案外に普及はして居なかつた。是が新たな必要に迫られて、段々に弘く採用せられる頃には、もう我々の墓に對する考も變つて居た。二三の大きな都市では寄寓生活者の、遺骨を寺に托して墓を設けぬ者が甚だ多く、末には引取人の無いものが、少しづゝ溜つて、どう處理してよいかに迷つて居る。此中には勿論惡意の委棄、もしくは極度の不幸の若干を含んで居るが、他の多くの場合は第一の故郷とは(312)既に手を分ち、第二の故郷は未だ選定せられず、餘りに現在の居所がよく移る爲に、引取つて何處に置かうといふ計畫の立たぬ者が、困つて其儘にして居るといふだけのものもあるらしい。土地と婚姻との繋ぎの綱が弛んだといふことは、當然に親々の墓處に還り得ない靈魂の、旅で新たに形を結ぶことを想像せしめる。人が數多くの位牌を背に負ひつゝ、如何にその記念を次の代と結ぶべきかに、苦慮しなければならなくなつた時代は到來して居るのである。

　橋を架けにくかつた内外二つの信仰の差は、我々はもと天竺の人のやうに、完全なる輪廻轉生の法則を承伏して居なかつたことである。死んで忽ち別の家庭に屬し、或は別の世界に引越してしまふといふ風には、靈魂の行くへを眺(313)めて居ることが出來なかつた。眼にこそ見えないが郷土の山川草木には、親の親たちが憩ひ宿つて、曾て參加して居た現世の生活を、なつかしげに見守つて居るものと思つて居たのである。しかも佛法から言ふならばそれは迷へる魂であつた。故に正しく供養せらるゝものは盆の二夜だけ、十萬億土から戻つて來るやうに教へらるゝと共に、呼べばいつでも出るやうな亡靈は、甚だ油斷のならぬ怖ろしい干渉者であるが如くに、段々に考へさせられたのである。功力の絶大なる代々の佛如來の外に、魔障の懷柔を誓願とする十一面觀世音、特に惡道を救濟する地藏菩薩などが、盛んに拜まれたのも其爲であつた。産土の杜には住民の最も聲望ある家の祖靈を中心にして、祭を統一するのが古くからの習ひであつたらしいが、是も後には八幡天滿などの、最も靈魂を統御する力大なりと信ずる神々を、新たに勸請して主從の關係に置く風が普通になつた。

といふ類の歌謠は、日露戰役の頃にも幾つと無く行はれて居た。是は古風な多數國民の心の底に、久しく眠つて居た靈魂の觀念であつたが、この新國家主義の發揚と共に、忽ち産土の狹い限界を脱出して、一朝にして大なる團給を作り成したのである。人が到る處の青山《せいざん》を墳墓の地と考へて、どこででも働き且つ眠らうといふ氣になつた、是も亦一つの大いなる力である。神社は宗教で無いかあるかも、もう今ならば確に問題とするに足りる。固有信仰の特徴は、經典が各人の心理に書寫されて居て、讀み樣の時代と共に變つて行くことであつた。しかも遺傳の數十代を累ねて、それが國民の氣質の一部を爲すものは、さう容易には消え盡すことは出來ない。外國の宗教が之を押開き突破つて進んだものゝやうに考へて居たのは、今までの歴史家の概括論であつた。佛教は本地垂迹の昔から、たゞ有る限りの昔の物を容認することによつて普及して居る。耶蘇教が假に生ある小家族の靈魂の管理から、もう一歩を前か後かへ進めようとしたら、必ず抵觸か妥協かの二者一つを忍ばなければならなかつたらう。我々の宗教生活は實際は複難を極(315)めて居る。小學校の神棚は問題にせられたが、家々の神棚だけは當然に認められて居る。さうして死者の引導を、佛法に委托して置いて、自分は婬祠を?つて居るといふ者が、今も其數が最も多いのである。此混亂の最初の因を爲したものは、家の移動に伴なうた産土思想の分解であつた。

　士族の今までの不動産に近い俸禄權が、一種の動産に化したことも大いなる變化であつた。之を利用する機會は勿論都市に多く、しかも彼等の多數は最初から都市人であつた。士族の商法といふ語は、競爭の不安を抱かされた者の、誇張した風説が元であつたらしい。若干のたしかに失敗して貧しくなつた者はあつたが、新たなる企業の此人々によつて案出せられ、瀬踏みをしてくれたものは甚だ多い。是は政府の恐れて居た動搖のうちであるけれども、しかも其動搖は結果に於て健全なものであつた。曾ては生涯を漂泊に終つたやうな、常に輕んぜらるゝ旅人の中からでも、我々は新たなる生活技術の幾つかを傳受したのであつた。ましてや是は昔から人を説く力あり、殊に自身の爲に先づ安泰の計を立てなければならぬ人々の、弘く時代を見渡して心付いた方策であつた。假に一度は失敗をしようとも、士族の經驗は十分に利用せらるべきものが多かつた。良くも惡くも新文化の展開には、士族の苦闘が無意識に貢獻したと言ふことが出來る。

　今一つの影響は我々の社會の中に、何よりも急速に俸給生活者といふ一階級を作り出したことである。殊に官員の方は政府が心あつて、特に授産の道を講じたのかと思ふほど、數と階段とを豐かにして居た。今でも小さな事業をピラミットでも築くやうに、部署整然として遂行する氣習などは、恐らくは人手の多かつた其時代の名殘である。現在其任を嗣ぐは士族のみでは無いが、大よそ此頃に型をきめてしまつた。隨分威張りはするが其代りに氣品高く、責任を先例になすり付けんとする代りに、專横の振舞が少なかつたといふなどが、出身職業の異同に論なく、我日本の官吏の喜ぶべき特徴であつた。實際新時代の更改は彼等の加擔無くしては到底完成を期すべきもので無かつた。案外の舊弊がこれに伴なうて保存せられたのも、誠に已むを得なかつたことである。情實といふ文字が、さほどの嫌忌無し(317)に?々使用せられ、もしくは封建時代の御恩制度が、僅か形をかへていつまでも通用し、所謂閥と系統の差別を他の多くの自由職業に流轉せしめたのは、言はゞ今日の行政が、多分に舊幕以來の吏才を必要とした證據であつた。兎も角も士族は大いに此方面で働いて居るのである。

　明治大正の榮達者は、大半は貧乏士族の子弟であり又苦學者であつた。獨り文武の官吏だけで無く、政治學問技術等の何れの方面に逸出した者でも、何れも怖しい程の背後の刺戟者を持つて居た。人に負けないといふことを唯一つの先祖への供物として、無理な忍耐をして家の名を興したといふのが、日本の立志傳の最も有りふれた形式であつた。其代りには郷人の之を讃歎して、時としては過褒にも及んで居る事は、譯して弘く讀まれた英國の自助論などと、よほど又行き方が違つて居るのである。日本の名士には小さいながらも英雄型が多く、さうで無いまでも直ぐに傳などを書いて、外から英雄型にしようとする傾向があるのも、大體に於てよい效果を齎して居る。但し何と言つたところが是は或一時代の特別の現象であつたことは爭へない。即ち未だ消え失せなかつた武人の氣魄を、新たに生れた文化に應用し得た過渡の際が、最も目ざましい成績を示しただけで、機會は時代と共に段々に其率を低下して行つて、たとひ完全に其足跡を踏んで見たところが、果して同じ標的まで達するか否かも期し難くなつた。所謂苦學生の困苦は前よりも更に痛烈で、しかも相應に障碍の多い出世法となつて居るのである。

　農民の家永續には、夙くから可なりの犠牲を必要として居た。武士の家でも此爲には子弟を勘當したり、主人に詰腹を切らせたりすることさへも無いでは無かつたが、それはよく／＼の異常の變であつた。之に反して一方は常住に、多數の族員の無理な辛抱を要求して居たのであつた。一つの家門の舊勢力を保持するには、主人の努力苦心は勿論であるが、更に之を助くる者の完全なる從順、時としては自由の制限さへも必要であつた。多くの男女が嫁取嫁入の出來ない婚姻をしなければならぬことは、決して飛騨の白川村だけでは無かつた。彼等は僕婢では無いけれども衣食は之と同じく、しば／＼質素以上の惡い生活に甘んじて居た。末には主となるべき聟嫁でも、斯うして共同の勞に服さなければならなかつたのは一つだが、次男次女以下に至つては其希望すらも無かつた。附近に餘つた土地のまだ拓かれぬものが有る限りは、勿論機會を見て獨立の計畫も立てられ、又は嫁聟が縁を求めて出て行くことも次第に許されるやうにはなつたが、なほ殘りの者は家に留まつて、下積みの生涯を送ることになつて居た。新時代の變化は即ち先づ、此團結の分解を以て始まらなければならなかつたのである。

(319)　家長には固より家を統御するの技能と德義の、久しく養はれて居たものは有つたらうが、主として彼を支持したのは時勢であつた。最初には、戰爭その他の外部交渉が起つて、彼一人の生活ばかり前へ進み、比較の差が先づ目に着いて來た。次には世の中の實?が少しづゝ知られて來て、別に幾らでも自由な職業の、有りさうなことが考へられて來た。山奧の村ばかりに古い組織の殘つたのは、主として此知識の入込み方が遲かつたことを意味する。個々の婚舍の中にもこの影響がやゝ現れて、婦人の智慮が幾分か男を動かし始めると、小さな獨立した活計といふことが念頭に浮んで來る。それが生産經濟の改革に乘じて、家の分裂は先づ故郷の地に於て試みられたのであつた。初の間は一門團結の大きな效果を、斷念するといふことは心細かつたらしい。土地財産の分割を思ひ切つて行つた場合にも、親は我子を集めて將來永遠に仲睦まじく、殊に分家が誠實に本家を助くべきことを誓はしめて居た。縁組も努めて近い處を求めようとしたし、奉公に出す者も出來る限り、遠くへは遣るまいとして居たのであるが、唯さういふことが何時までも之を望み得なかつたのである。

　百姓奉公は普通に兄弟が他人と爲る始まりであつた。家には最早分ち與ふるだけの田畠も無く、本人は農を得意として靜かな村の生活を好むといふ場合に、どこか人手の足らぬ家を見つけて、新たに主從の縁を結ばせるのであつたが、隣近所にさういふ家は見付からぬ方が當り前であつた。土地には必ずそれ／”＼の農法と慣行があつて、それを呑込んでしまへばもう其土地の人になるのである。年季を切ると言つても十五六から二十五歳まで、是だけの特別教育をしてもらつてまだ還つて行かうとする者はめつたに無い。其上に目的は主人の庇護の下に、有附きを其地に求めるに在つた故に、配偶者は必ず我在所の幼友だちでは無かつた。生れた親の農家とは無關係の、新百姓となるのは必然と言つてよかつた。近頃の年季作男の出稼式のものとは、名は同じであつても性質は別なもので、是が多くは村々の小前の、淋しい生活の先祖になつて居る譜代奉公人も現代はすべて獨立して居るが、數が少ないといふのみで起りは又よく似て居た。但し是は最初から人別を引渡してしまふので、よほど幸福な場合でも實際は委棄に近かつた。つま(320)り兄弟親子の縁の切れる分家である。それは慘酷だと言つて德川の法令は之を禁じたが、尚棄兒といふやうな非常手段を以て、無條件無代償に我子を人の家の譜代にする者が、明治になつて迄も全く絶えては居らぬのである。

　家が小さくても住んで行けるといふ安心、農業の爲だけにはさう澤山の者が結合して居るに及ばぬといふ經驗が、結局は家を最小限度にまで分解させたのであつたが、武家や商家に比べて、農民には其時が遙かに遲れて來たのである。此傾向が既に現れ始めてから、それを知りつゝも尚止まつて居た者の、居心地は決して極上で無かつた筈である。それでも一方には昔からの家繁昌の誇り、不時の災難の怖ろしい不安などの爲に、出さずに濟むならば置きたいといふ考もあり、更に本人からいふと好い機會は誠に少なかつた。農村の教育は今日とは丁度正反對に、餘りにも農村だけにしか向かぬ教育であつた。他郷に出て働くには素質のよいといふ以上に、少しは特別の準備をしたもので無ければならぬ。村で惜しがられる程の好青年で無いと、第一に自分が出て見ようといふ決心がつき兼ねたのであつた。斯ういふ幾つかの原因が重なつて、村の家の分裂は幾分か抑壓せられ、人手が　　　稍々剰るほどに充ちて居たのである。それが新世代の交通解放によつて、如何なる偏卑な土地からでも、競うて進路を外界に求めようとするに至つた。或は反動の少しく必要を超えた場合があつたにしても、それは勢の當然と考へる他は無いのである。

　今日の結果から見て行くと、事實農民には轉じ得られぬといふ職業は一つも無かつた。企てゝなつたのと否との二種はあるが、現在有る限りのすべての業體で、彼等が來て參加して居らぬものは一つでも無い。曾て士族の成功したほどの仕事には皆成功し、海や鑛山や機械場などの丸きり知らなかつた技術にも携はつて居るのみならず、遊女の如き特殊な勤勞にまでも、今は彼等の中から出て居る者が少なくない。選擇は絶對に自由になつて居る。而もこの行くとして可ならざる無し、何にでもなれるといふ自信が、幾分か職業の選擇を粗陋にし、又中途からの轉換を頻繁ならしめたことも爭はれない。彼等は以前の境遇の馴れ過ぎから、或は職業の固定を不幸とし、もしくは準備の修養を無くともよいものと考へるやうな、誤つた經驗をして居るのかも知れぬが、家の存續といふ點から考へるならば、轉業(321)は可成り大きな不利であつた。少なくとも次の代の計畫、即ち子供たちを育てゝ行く便宜の、幾つかを抛棄しなければならぬ損があつた。眼に見えぬ代々の祖靈の思惑、たとへば氣質感受性の家に傳はつたものを、利用する途が無いのは勿論である。

　しかもこの農民分子のやゝ無謀なる進出に基づいて、急激に日本の社會相が複雜に又興味多くなつた事も事實であつて、恐らくどこの國でも文化が一新すれば、皆斯うなるものともきまつて居るまいと思ふ。所謂新しい生き方を論ずる資格があり、また講究する必要の切なる者は、近頃になつて地方から押出されて來た日本の都人士以上のものは他には無い。一つの職業が救濟にも頼らず、又外部の援助をも仰がずして、獨立して一家の生存を安固ならしめるには、果してどれだけの條件を必要とするかといふことが、新たに斯ういふ人々の問題となつて來たからである。農には限らぬが、古くからあつた産業には、そんな問題は考へずともよいものが多かつた。家を支持しようといふ族員の協同には、?々職業の統一と交渉の無いものがあつた。例へば一期の剰つた勞力を出して、漁場や炭坑の出稼ぎをさせたり、子女をあらゆる種類の年季奉公に遣つて、其收入を家計に補充したりする風は、農業とは丸で別のものであつた。漸く問題になつて居る外國移民の送金なども、亦その一つの意外なる形式であつた。是等は何れも古くからの習はしのまゝに、家計には合力しても農業には加擔し得ないのであつた。而うして今や農業は大に進みつゝ、農家は衰へるかも知れぬといふ時代が來て居るのである。家が分解して夫婦と子供だけの最小限度に達すれば、もう其中には農以外の方法を以て、家の犠牲になり得る者はさう多くを期し得ないからである。

　家はいよ／＼人口の増加と共に、次々に分れて行かなければならぬことになつた。人が新たなる家々の第一祖とな(322)らうといふ意氣込が、當然に昔の活き／＼とした親の愛を蘇らせてくれたことは、何よりも悦ばしい新世相といふべきであつた。日本は子供の樂土と謂つた外國人の批評も、此頃頻々たる親子心中の報道によつて、幾らかは割引せられるかも知らぬが、是とても慈愛の遣瀬ない一破綻とも見られる。無知と心弱さの原因は他に有るにしても、兎に角に親が是ほど迄に、思ひを我子の行末に凝らすやうになつたのである。子を思ふ心は鳥も獣も同じだとは謂ふが、人の愛情は言ふまでも無く遙かに複雜で、又時代の理智を以て染められて居た。結局は我兒の爲になるといふ教訓にも、簡單には説明が出來ないで、形は可なり峻嚴なものがあつた。それに他の多くの明らかに家の存續を目的としたものが、附け添へられて居たのである。家族の構成の今よりもずつと複雜であつた頃には、秩序の道德は法則として勵行する必要があつた。家の躾がしば／＼懲罰の制裁を伴なうたのもその爲であつたが、家が親子だけになればもうさう迄はするに及ばず、第一に問題の起ることも稀であつた。

　子女をめい／＼の後の生活に適する樣に育てる事は、以前も勿論親々の本務ではあつたが、奈何せん彼等の勤勞の用途は始から甚だ制限せられて居たのである。殊に農家は食糧の産額が生計を拘束した故に、家族の員數を増減する必要が折々あつて、一層教育の方法を不自由ならしめた。成長した男女の出稼ぎをしなければならぬ樣な年は、即ち又年少者の年季奉公に出される時でもあつた。奉公は即ち彼等の教育權の委讓であつた。奉公先の家風や職業の種類などは、生みの親の慈愛を以て綿密に考量するにしても、其以後の教育の效果に至つては殆と全責任を年の行かぬ當の本人に負はせなければならず、しかもそれが又主家の利害を標準とした教育でもあつたのである。幸ひに以前は親と名の付いた者は親方でも寄親でもはた親分でも、それ／”＼に親としての情合と義務心とを持つて居た故に、代つて或程度の役目を果すことは出來たのであるが、それでも確に生みの子と同じ幸福は味はへなかつた。さうして夙くから一生の境遇を指定せられて居たのである。

　東京では近頃北國の貧しい村から、十何人の少女を貰ひ集めて來て、遊藝業者に養成しようとして居た者が問題になつた。大阪でも或工場主が地方から幼年の奉公人を多く連れて來て、虐使して居たことが發覺した。今日になつては世上の耳目を聳かすに足る事實であるが、土地によつては是が近年までの、最も通常なる移住樣式であつた。たとへば奥羽の或都市には、毎年何十人といふ小さな奉公人を托せられて、之を引率して曖い地方へ出て來るのを職業とする老女があつた。沿道の農家では其中から丈夫さうなのを見立てゝ年季を切つて抱へる。さうして若干の給金を前渡して、老女は又雜用と手數料を其中から取つた。越後と信州との間にもこの巡囘桂菴とも名づくべき職業が、此頃までも尚盛んに行はれて居る。斯ういふ方法で家族の勤勞を利用しないと、一家の生計が成立たぬといへばそれ迄だが、全體に少しく子女を利用し過ぎた嫌ひはあつた。所謂人情本が親に賣らるゝ娘を以て、孝行の標準と説くやうな愚な氣風の起つたのにも由來があつた。つまりは子を寶といふ古くからの諺を誤解したのである。

　士農工商を四民の目安に立てることは、明治の初頃の一つの考へ方であつて、それが又今日のやうな對立の起りにもなつて居るが、漁民船員の如き日本の大切な家業を脱落して、綿密なる列擧では無かつたと同樣に、農に對する觀察を幾分か粗放ならしめて居る。一番困つたのは百姓が田畠を耕す人、もしくは米を作る職業といふ風に考へられることであつた。老農精農といふ名は古くからあつて、元は恐らく農村の生活に就いて深く考へ、又經驗して居る者といふことであつたらうが、後には個々の作物の栽培に秀で、共進會に出て一等の賞を取るといふ類の人に解せられた(327)のが、我々の困り始めであつた。重要農産物の品目が、夙く定められたといふことも不幸であつた。日本は何の事は無い、一時生産増進の昇天の勢に醉うて居たのであつた。國が統計の總額を見て安堵しただけで無く、地方は村々部落の末までも、等しく此數字を以て相競はうとして居た。業は專らなるに精しとばかりで、非常に專業農の養成に苦心し、彼等の勤勞と討究とを、十餘りの列擧せられたる産物に集注させた。さうして喫驚するほどの養蠶製絲の發達などを見せた。果樹も養禽も莫大の國の富となつた。

　此間に一方農の家業の中から、色々のものが拔け出して行つた。衣料は我畠に麻を播かなくなつた頃から、少しづゝ外の物を入れて居たから、是は抑へても止まらなかつたかも知らぬが、それでもまだ木綿は篠卷で買入れて居たのである。それを絲に紡いで綜《へ》て織るまでのうちに、他人を頼むのは藍染屋だけであつた。先づ是だけの仕事が、今はすべて工場に委付せられ、それに用ゐられて居た女の手は剰つて、是も亦多くは別の工場へ送られて居る。反物を買うて來てから縫うて着るまでの作業は、作業とは言つても半分は樂しみであつたかも知れぬが、兎に角にまだ家庭に殘り、裁縫は農家の少女の教育の一部になつて居るが、是とても材料と形がもう少し變つて、たとへば洋服と謂つたやうなものが仕事着になれば、それでも尚家人の手を用ゐるかどうかは疑はしい。藁は大抵の處には有り餘る原料であつて、夜分や雨の日の半端の勞力を、應用するのが久しい習はしになつて居た。履物の大部分は斯うして造つて居たのが、今はそんな物は入用ならば買ふまでゝ、それよりももつと便利な護謨靴や地下足袋をはき、假に藁加工品を業とするにしても、方法と目的とは前の時と別になつて居る。

　是をたゞ一概に奢りの沙汰のやうに、舊式の經營に馴れて居る人は評したけれども、僅か是ばかりの物を金で買つて見たところで、其爲に實際は生活が向上しても居ない。単に農家の金錢の出納が、以前よりは多くなつたといふ迄で、それも現在までは經濟が之を許して居たのであつた。奢りは通例同じやうな境遇に在る者の、敢てせぬことをするといふだけの意味であつたが、今日は是が既に軒竝の風になつて居るのである。しかも老人たちの言葉には表示し得なかつた不安には、一つだけは根據のあるものがあつた。農家は今までは一年中を通じて、外か内かに何かしら仕事があつた。それで辛うじて簡素なる生活が維持し得らるゝといふ迄であつた。果して是を或一季二季の主要生産だけに限つて、其他は手を明けて居ても續けらるゝだらうかといふことは、以前と比べて見る者の抱かずには居られぬ疑であつた。たとへば夜業で作り設けた藁鞋や草履の代りを、晝の畠働きの收益を以て買調へる。夏の長い日に織つて居た冬着の料を、秋の忙はしい取入れの物で交易する。此樣に一年中の數多い入用を、わづかな種類の勞働の揚がりから、すべて支へることが出來るかといふことが、彼等には心もとなく思はれたのであつた。最も農家は仕事にむら〔二字傍点〕のあることは、昔から心付かれて居た。眞冬は雪國で無くとも殆と是ぞといふ纏まつた用が無い。最初は恐らくたゞ遊んで居た時代もあつたのであらうが、少しでも生活をよくしたいといふ心が生じて、色々と經驗を積んで延ばせる仕事を後らせ、冬の稼ぎといふものを拵へたのであつた。女のわざには家で絲引くこと、男は外に出て山川の食物を狩し漁るなどの他に、炭燒き紙漉きといふ類の負とは縁の無いもの迄、取集めて來なければ家業は成立つて行かぬのであつた。それが明治になると再び上古のやうに、たつた一囘か二囘かの大きな骨折によつて、元通り一年の活計を續けられるといふことが、何か奇跡のやうに思はれたにも一理はあつた。

(329)　所謂農閑期の大いに閑になつたといふことは、幾つかの喜ばしい結果をも齎して居る。第一に是が無かつたら、青年は書を讀んで世間を知ることも出來なかつた。酒は幾分かだらし無く飲むやうになつたかも知れぬが、外に出て話を聽き人と交はるに至つたのも此期間であつた。單なる空想の時刻を試驗の機會としたと言つてもよい。兎に角に冬の出稼ぎといふことは前からもあつたが、それを出易く又決心し易くしたのも、決して道路鐵道の開通だけでは無かつたのである。百萬に近いといふ村生れの娘たちは、用が無ければこそ遠國の工場に入つて、あゝいふ特殊の技能を學ぶことになつたのである。今日の副業といふものゝ中には、斯ういふ家族が外から取る收入は、普通は算へ込まぬことになつて居るが、是は都市住民の内職に對して、假に外職とでも名づくべきものであつて、少なくともまだ直接には家業の分解を引起しては居ない。つまり農業を純化せしめようとした運動は、一方に斯んな色々の意外な副業を發生せしめたのであつた。

　しかも農民の職業意識なるものは、生れが新しいだけに實際はまだ不完全にしか發達しで居ない。彼等の間には米を賣る者と買ふ者、或一種の生産に專らなる者と、何にでも少ししか携はつて居ない者と、喰ひちがつた利害が唯一つの共通點、即ち都市を離れて住むといふことに於て統括せられようとして居る。さうして何故に家業が家の永續を支持し難くなつたかの原因を、まだ自分々々の境遇から見つける迄には至らぬのであつた。地主は其中でも殊に複雜なる家業の組織を持つて居る農民である故に、農が職業化して行くにつれて、先づその利害の抵觸に心付かれたのであつたが、現在はまだ米の賣主であるといふ點を以て、最も多數の生産者と前線を共にして居る。それが此問題のいつも合同の旗幟として、採用せられる大いなる動機ではあつたが、さうで無くとも農業者の熱情は、とかく米價の方に集注せられがちであつた。其理由は何人にももうわかつて居る如く、米を作らぬ人たちに迄供給するといふことが、彼等の夙くからの誇りであつたところへ、更に近代の勸業方針が、之を家業の中心にさせたからである。

　此事實は或は餘分の樂觀を人に抱かせたらしいが、實際は全く稀有の機會であつた。さう何度でも同じ結果を期待することが出來ぬほど、一時に色々の好條件が集まつて居たのである。それを列記しようとすると必ず見落しがあらうと思ふが、第一には農民の心が政治の革新に徹底して、自分たちも今まで通りでは居られぬと、急に一齊に引緊まつて來たことである。是には勿論境遇改善の強い希望が伴なうて居た。新たに交通の開けた外國の文化の、稍々誇張した紹介も好奇心を刺戟したが、少なくも生産の方面では失望させなかつた。ちやうど智能が之を受入れるに適するまで、進んで居つた事も一つの便宜であつたらう。瞬くうちに色々の技術方法、殊に作物の新たなる種類を、知つた數だけでも非常なものであつた。それへ力を添へたのが田畠勝手作の新制度であつた。たとへば米を中止して水田に藺《ゐ》や田芋を栽ゑようと、乃至は之を畠に直して棉でも桑でも見込次第に、作つても構はぬことになつたのである。農民の事業計畫は俄かに大膽に、且つ巧妙なるものに變つて來たのである。

(331)　第二には知識の増加は明らかに能率を大きくして居る。機械は改良する前から既に其利用が進んで居た。仕事に興味が起り成績が目に見える故に、さう苦しまずに多く働けるやうになつて居る。休日は當然に其數を減じた。其上に著しい影響は、人口の徐々の繁殖からも來て居る。人が増すといふことは直接には農場に働き得る勤勞を豐かにすることになつたと共に、外へ出て行つて食物の田畠に出來るのを待つて居る者が、年ましに多くなつて來ることを意味して居た。いつでも最も熱心なる買手があつて、賣れぬといふ懸念の無いものを作つて居るのだといふ考は、當然に生産増加の一方に向つて突進せしめる。日本には近世何囘かの怖ろしい大凶作が續いて起り、農民自身までが常に缺乏の不安を抱いて居た。ましてや都會に居て事情を詳かにし得ない消費者は、始終此點ばかりを心細く感じて、實際は剰る年も?々有るのだけれども、特に鋭敏に穀物相場の引上げに應ずるのが、今日までの習ひになつて居り、是が又非常に主要農産物の生産を張合ひのある事業たらしめ、延いては是ばかりでも家を保つことが出來るといふ、或時代の自信を養ふことになつたのである。

　米の生産量は、是ほど數字ばかりを氣にする國でありながら、いつでも其統計が甚だ精確で無かつた。實際の收穫高は表向きには報告せられず、單に年々の増減の對比だけを、之に由つて知る位のものであつたが、その内部の事實も永い間には變化して居る。一反歩平均一石七八斗などといふ村は、今は何處にも無いことは公に認められて居るが、甲では今もまだ其約三割増しにしか生産して居らぬに反して、乙丙の村では其後の努力に由り、それを倍近く迄も進めて居る場合もある。何れにしたところが六十年前と比べて、よほどの増加になつて居ることは確實で、しかも其割には作付の面積は大きくなつて居らぬのである。是は勿論開墾が進まない爲では無かつた。人を多くするには先づ地を拓けといふ方針は、維新以前からずつと引續いて居たが、近頃になつて其熱心は倍加した。彼處はまさかと思ふやうな高地までも、水を揚げて皆田にして居る。中にも北海道などは爰で稻を作らうとするのは無謀だと言つて、非難をした者が多かつた位であるが、三十年を過ぎるとちやんと年産三百萬石の記念祝賀會を催して居る。開墾奨勵には(332)補助金があるから、指定した以上は一旦は必ず成功する。それで水田の總面積が、いつになつても略々同じであるのは、一方に道路その他の土木事業に、潰してしまふ土地が多かつたことゝ、不時の災害や損失の爲に、再び荒れるものがあつたからである。陸稻の作付は確に増して來て居るが、それを差引いても、今までの耕地から生産するものが、内端の統計表に於て既に著しく増加して居るので、しかも是が他のあらゆる農産業の進歩を、些しでも犠牲にせずして成し遂げられたのは驚歎に値する。粟とか稗とかいふ在來の穀種には、生産の稍々衰へたものも有るには有るが、それは我々の入用が減じた爲で、別に其爲には補充の苦勞をせぬのみならず、必ずそれだけの代りの物が出來て居る。新種の作物の少しでも有利なものは、何れもえらい速力を以て全國に普及した。米は乃ちそれと併行して、能く是までの成績を擧げたのであつて、個々の土地利用の技術としては、恐らく是以上に鮮かな效果は無いと言つてよい。だから農といふ家業が、是でも尚家を保持するに十分で無かつたと言へば、其原因はどうしても外側の方から、探つて見なければならぬのであつた。

　全體に産物の種目が數多く、從うて選擇が人々の自由であつた頃が農業は盛りであつた。折々眞似をして馬鹿げた損をする者はあつても、珍しいと言はれて居るうちの品物なり生産方法なりには、苦心は大きい代りに人を羨ませるだけの餘得があつた。發明工夫は農家には無益のものゝ如く考へ、ひたすら模倣を以て平凡なる安全率を保障しようといふことになつて、忽ちにして作り過ぎの現象を生じた。曾ては必需品の供給を誇りとした土地産業が、烈しい仲間の競爭をしなければならぬことになつた。土地の産業ほど競爭に向かぬものは無いといふことは、經濟の書物にもよく書いてある。引込んだ地方の者が負けるにきまつて居り、さうで無ければ勝つた方の者の利益が、地代として吸ひ取られてしまふからである。最近漸くのことで生産統制の必要を認めるやうにはなつたが、府縣が互ひに傷つけつゝ販路の爭奪をして居たのは、可なり久しい前からのことであつた。其原因は總計の數字を重んじ過ぎたことが一つ、今一つは補助や補償の不自然な手段に誘導せられて、各自の危險を以て經驗を積み、計畫を進めようとせぬ者が多く(333)なつたことである。個人は生産が過剰であるか否かを、打付かつて見なければ知り樣が無い。しかも國が職業を純化しようといふ傾向は、一段とこの不意の競爭に遭うて、打撃を受け易いやうな農家を作り上げて居たのである。

　實際一年にたゞ一囘の産物が、賣れぬかも知れぬといふのは大きな不安であつた。ところが米穀ばかりは獨得の事情があつて、今までは先づ其不安から保障せられて居たのである。元來日本人の米消費量といふものは、時々の景氣と相場次第に、増したり減じたりする性質を有つて居たに拘らず、是を生産統計の方から逆に推算して、平均一人に約一石といふやうな目安が、いつの頃よりか立てられて居た。さうして國内の生産總量は僅かばかり、常に其入要に不足するものゝやうに、一般が信ぜしめられたのである。わざとさういふ策略を講じた者も無かつたらうが、是が偶然にも有力なる生産の支柱となつて、全國の水田耕作者は聊かの作り過ぎの懸念も無く、今までは米作の技術に專念することを得たのであつた。勿論一部的の供給過多から、突如たる低落を見ることも時々はあつたが、それは常態で無いから忍んで待つてさへ居れば、再び原位以上にも反撥し得べしと信ずる者が多く、事實又其通りに待つて居ると高くなつた。土地の賣買價格は此結果として、明治の七八年頃に計算せられたものよりも、何倍といふ程の相場が出現し、それで買入れた人々は、米が安いと損をしなければならぬ故に、力を盡して米價を維持しようとすると共に、一方には小作人の分前の少ない事が目に立つて、地主との間に紛紜がよく起つた。併し多數の自作農はさういふ爭ひの外に在つて、坐ながらにして長くこの米價の不足相場の、恩惠に浴して居たのであつた。農業が古來の複雜な副業を投げ捨て、金で買ふべき物の種目を激増し、今まで之に宛てゝあつた勤勞を、たゞ遊ぶ時間に換へてしまつても、尚どうにか立行いて居た根據は爰に在つたのだが、果して此?態がどこ迄續くかは、もう幾らづゝか問題になつて來始めた。それは食物の個人自由が急に目ざましく認められたといふだけで無い。元來が米の消費の一部分は、生活方法の如何によつて整理せられ得るものであつた。今は單に其嗜好を爭奪せんとするものが稍々前よりも進んで來たといふ迄である。自家の消費せぬ物を多く生産し、生産せぬ物を多く消費する農家の地位は、段々と商人に近くなつて(334)來たが、土地天然の拘束があるだけに、さうして又久しく其用意を缺いて居ただけに、其不安は一時彼よりも大きく、從うて又早く其脱出の途が考へられさうに思はれる。

　農業が餘りに政治の問題になり過ぎて居るに反して、水産は又餘りにも少しばかりの人の手に、大きな問題が任せきりにしてあつた。さうして今ちやうど農業の明治後期のやうな、隆盛時代に入つて行かうとして居るのである。さほど行詰まらぬ前に少しでも之を解決して置く途が、有るかも知れぬといふ大切な機會である。兩者のよく似た點は色々あるが、主たる一致は當業者の覺醒が、恰かも外から與へられた色々の便宜によつて促されたこと、新しい技術と天然の知識が、折よくもまさにそれを要望し且つ理解する者の前に持つて來られたことであつた。日本ではさしもに豐富であつた沿海の富を漁り盡し、或は少しばかり海の人口の過多を感じなければならぬかと思ふ頃に、徐々に勢力が對岸の半島に伸びて行つて、朝鮮海の出漁といふことが自由になつた。北洋の産業は、僅に歐羅巴人の海獣狩りに限られて居たのを、久しく北海道の漁場の不振を患へて居た人たちが、直ちに其舊經驗を應用する機會に惠まれた。是は何れも國際交渉の偶然の歸趣に過ぎぬのであつたが、豫て計畫して見たところで、是以上に好都合なものを望むことは出來ないのであつた。

　漁村の開發が少しばかり農村より後れて居たこと迄が、わざと待ち合せて居たやうにも考へられる。水産の方では、今がちやうど新種新方法の自由選擇時代で、人の是まで手を下さなかつた方面に、各自の工夫を以て進んで行くことも、乃至は實驗の既に了つた部分に、後から參加して入亂れて利益を爭ふのも、共に關係者の心次第といふ?態になつて居るが、大體の傾向は是も所謂有望なる事業を、多數が集まつて早く荒さうとする方に向つて居るらしく、從うて個人どうしの喧嘩も多ければ、地方相互に傷け合ふ場合もあつて、共斃れといふ危險は少しづゝ加はつて來て居る。天産の豐富は最初に想像せられたやうに、必ずしもこの競爭の痛苦を緩和することが出來なかつた。一時限りの漁獲過剰といふことは、往々にして計畫を無益なものにする。之に對しては保存と配送の方法が考究せられ、一方には又我々の消費力が、尚際限無く携張して行く形勢が、よほど米穀の生産と似たところがあるので、現在は專ら其需要の方を開拓することによつて、一時この行詰まりを延期させて居るのであるが、是には米の相場を支持して居るやうな、例の社會心理はまだ些しでも働いて居ない。しかも代用品の價値は接近して居る故に、消費の整理訂正は行はれ易く、多産は當然に市價の引下げを促すことゝなるので、それが又國民榮養の問題を、いとも簡單に解決してくれると共に、更に將來の漁政を複雜ならしめようとして居るのである。

　今まで我々は氣にも止めなかつたが、日本人の味覺が海川の産物に對して、特に發逢して居たといふのは大きな事實であつた。近代は急に生魚を食し得る者の數が増加して、或は少しばかり幼稚に戻つたかも知れぬが、元は至つて普通の經驗が、個々の魚類の特性と價値とを判別させて居た。嗜好は其一つ／＼に就いて異なつて居たことは、獣肉の僅に調理の方法を以て、區分せられるやうな簡單さでは無かつた。是に蛸烏賊蝦蟹介類の若干を加へると、其種類(336)の繁多な事は何物も之に比ぶべきものは無く、それに南北の領土の延長が加はつて、味の變化は又地方的にも盛んになつて來た。個々の水産は乃ちそれ／”＼の需要を有し、しかも其方法は各種動物の習性と漁法とに基づいて、一つ／＼別途に講究し又改良せられたものであつた。漁民を競爭無き多數の團體に分立せしめることは、日本ならばさして困難ではなかつた。等しく海を作業場とした作業の中にも、鹽燒きや藻草の採取は夙に別派を爲し、更に貝殻の利用から人造眞珠の如き、新たなる事業も大小數多く出現して居る。鯉や鰻や鼈などの養殖に至つては、其性質がよほど農の方に近くなつたと言へる。美濃の明知や伯耆の根雨《ねう》の如く、それを獨立の産業として居る者も多い。川や湖沼には既に孵化放流の事業が始まり、海にも過剰の漁獲物を生養する必要が、既に漁業者の間に認められて居る。動物學の知識のより精確になると共に、漁業の半面が牧畜化して來ることも想像が出來る。現に今日でも明石では蛸の飼育場が設けられ、牡蠣や灰貝などはずつと以前から養殖せられて居る。鯛や鰹の卵が放流せられる時代も、早晩は來るものと豫期し得るやうになつた。斯うなれば寧ろ米に相當する一種の重要水産物が、無かつたといふことも不幸とは言はれぬわけである。

　漁業が農と異なつて居た一つの點は、是が夙くから一つの職業であつたことである。網は釣よりもやゝ遲く起つて、しかも多くの人の協同を條件として居たけれども、是に携はつたものは他の生産と對立して、交易によつて衣食の資料を手に入れなければならなかつた。のみならず其生産の技術は細かく分れて居て、釣は釣で段々に進歩し、潜《かつ》ぎは又それ一つを專門に練習して居た。彼等の生活が改良すると共に、寧ろ不純になつて諸種の方法を兼ね學び、更に若干の磯山畠をさへ耕すやうになつたのであつた。さうして農民と同じく愈々複雜なる家業の交響樂を樂しまうとして居た際に、不意に世が變つて其中から引拔かれたものが、漁民に於ては草履草鞋味噌?油といふやうな、片端の小さな部分で無かつたのである。部外に引渡したのは經營その物であつた。農家で言ふならば土地に該當するものであつた。以前も漁民の間には網主があつて、漁獲の分前は均等で無かつたけれども、それはまだ魚見や柁取の役と同じく、(337)彼等の團體の特に働きの多い者といふ程度であつた。それが純乎たる資本投下業となつて、もはや個々の漁民の家の永續までは、考へて居ることが出來なくなつたのである。水産企業は他の多くの者の企て得ぬやうに、不必要にまで大きなものとなつた。さうして安全率の爲に生産過剰の結果を忍んで、出來るだけ既に試みられたる一方法に集中し、互ひに利益の横取りを策するやうになつたのである。漁民の自ら指導し選擇し得る者は、今は段々に其數を減じようとして居る。彼等の家業には又新たなる空隙を生じた。斯ういふ外部の資本家は無くてすむ迄に、群の組織力はまだ發育して居ない。此點から見ると近來の水産勃興は、尚幾分か時期が早かつたのでないかとも言ひ得るのである。生産統計の總括的數字のみに據つて、海岸諸部落の繁榮を卜知することは、更に農村よりも今一段と六つかしいことである。

　我邦の生産政策は、今でもまだ天然物採取時代の印象深かりし幸福に累はされて居る形がある。山で茸を見つけ小鳥を網して居た人たちが、家でも食ひきれず、隣に分けてもまだ餘つたといふほどの獲物に、出くはせた時の心地よさは、いつも生涯の一つ話としてくり返すものであるが、農業や水産に於ても、人は時々は其目的の爲だけに、働いて居るのかと思ふことがある。豐作豐漁の際には、生産者の心理が丸で常と變つて、急に鷹揚な浪費者となる傾きがあるのも、無論その古くからの習はしの一つであつて、之を神々の惠と解し、村の淋しい生活の人知れぬ補償と感じて居たことは、我々の同情に堪へぬ所であつた。昔話の長者の富などといふものも、單に布なり酒なりの數限りも無い集積であつた、樂しみは寧ろそれが水や空氣と同じく、取れども盡きぬといふ點にあつたやうである。此考へ方は昔話の世を去つてからも、存外に永い間續いて居た。初期の工場の大なる魅惑も、實際は爰に根をさして居たので、(338)必ずしも新種新方法の興味が、他の農業や水産のやうに我々を激勵したので無く、單に今まで家々の辛苦して造つて居たものが、いとも手輕に數あまた出來上がるといふ事實を、仕事を奪ひ取られつゝも尚我事のやうに喜んで居る。日清日露の二戰役が終つた頃まで、或は今少しく後までも、珍しいものは舶來ときまつて居た。國内の工場はたゞ平凡な一商品を、多く造るを以て樂しみとして居たやうであつた。

　資本の不思議な力がしみ／”＼と感動せられ、之を携へて來る者を尊敬したことも、決して一片の利己心からでは無かつた。最初は家々の力を集合して、地方に小規模な製造所を設けた人々は、それだけでも早能率の飛躍を見、事務の簡便を知つたのだけれども、是に機械を付與し又之を改良してくれる資本家を、例へば野を拓く者に食事を運び、海を望む人々に船を造つて貸すと同じやうに、心賢き新加擔者として、歡迎し又分前を與へずには居られなかつたのである。織物染物の賣品を産し始め、もしくは絹絲の共同坐繰を開始した際などには、何れも土地の舊生産者を糾合する公共事業の如く稱へざるは無かつた。中には直接に從來の家業を侵さずに、それを守り立てゝ他に臨むべき勢力とする如く揚言して、次に生産販賣の實權を、收めて行かうとする方法もあつた。其うちに若干の必ず從屬しなければならぬ者を生じて、資本の優越は固定してしまひ、自在に其工場を有利なる場處に移さるゝに及んで、始めて地方はそれが自分たちの事業の競爭者であつたことを知つた。さうして今も尚切に之に代るべきものゝ又現れんことを待つて居る。

　どこの國でもさうであつたか知らぬが、日本では製造業者といふ階級は元は其卵すらも無く、特に之に化し得る素質を具へた者すらも無かつた。あらゆる職業の者がその智惠と資本とを持寄つて、僅な期間の運不運もしくは優勝劣敗を以て、急激に今有る若干を作り上げたので、其中には士族も居れば百姓も居た。しかも最も縁の近かるべき職人だけは、大抵はこれに使はるゝ人と爲つて居るのである。斯ういふ製造家の何を製すべきかの考案に付いては、傳統の拘束といふものは勿論無い。何か見込のある事業といふ意味で、先づ手近なる農家の副業を收容したのであつたが、それが略々滿員となる頃には、一方に少しづゝやゝ大膽なる見込が立つて來た。最初の落想は無論輸入品目表から得て居る。既に國内に是だけの需要がある以上は、造つて損にはなるまいといふのが普通の論理ではあつたが、實際は地の利や特殊技能、又は大量産出の便宜などがあつて、和製即ち此方で製したものは實費が高く付かなければ大抵は品質が粗惡であつた。前者には關税の保護を與へ後者は大目に見て、兎に角に國産愛用を公然と唱へ得るまでに、立派に成績を擧げたのはえらい努力であつたが、それには又一般消費者の大きな同情、國の生産力の開展するのを、花の開くを見るやうな愉快な心を以て、始終眺めて居た態度にも負ふ所が多いのである。

　しかし輸入には本來註文を取るといふ仕來りが無かつた。見本を送つて先づ相手方の希望を問ふといふことすら、遠い貿易ではさう容易には行はれなかつたのである。そこで當然に重きを置かれたのは、第一には輸入國民の嗜好を察知する技術、其次には刺戟に富みたる趣向によつて、新たに相手方の嗜好を作り出す方法であつた。ジンや煙草や赤い布片、光ある金屬具を持つて行けば、蠻地では常に失敗が無かつたやうに、東洋も最初はやゝむだな消費を誘導せられて居たことは、明治前期の輸入表を見てよくわかる。如何にも失敬なる話といへば話だが、是は交通の已むを(340)得ない順序であつて、現に日本では今まだそれを造つて居る。水夫などは好みの殊に幼稚な旅人だが、それの悦んで買つて行くものをメリケン向きと稱し、又は印度向き南洋向きなどと、自分で考へ出しては取引を進めて行つたのである。三百年間の長崎貿易なども、今見れば和蘭支那は殆と之に終始して居た。中には念入りの註文品といふものが少しあつても、他の大部分は所謂貿易品であつた。だから斯ういふ舶來を標準にとつて國内の製造業を選定すれば、勢ひ少なくとも消費財貸、即ち直接に人の受用に供せられるものゝ方へ、偏傾して來ることだけは免れなかつたのである。

　米や魚類やその他若干の食糧品のやうに、需要の永く保つものはさう澤山には無い。趣味は流行が今のやうに急激で無くとも、以前から次々に移つて行くべきものであつた。國内製造の一つの大きな力は、此趨勢を早くから見て取ることであつて、是が外國品に賣り勝つ唯一つの武器でもあつたが、其代りにはいつでも尖端に立つて見廻して居なければならぬ。人のし遂げた事業をいち早く倣ふといふ以上に、寧ろ多くの者の共に向ふ生産に、たゞ一足だけでも先へ出る必要があつた。單に各自が大量生産の利を願ふだけで無く、一般製造家は心を一にして、其産額を過剰にして居たのである。國の工業が是ほど迄に隆盛になつても、獨り特殊の新しい生産に進む者は只僅かで、殘りの大部分は皆同じ事を考へて、久しく重複生産品の溢流の中に、自ら陷つてあへいで居た。何が國民に入用かといふ方から、製造を企てるといふことは流行しなかつた。それよりも踏み明けられた一つの途を、速かに進むのを安全と考へて居た。發明の勞苦は尊重せられて居るが、それも大抵はこの既定圏内の、少しの模樣替に働くものばかり多かつた。斯ういふ當業者がいよ／＼行詰まつて、各自折角の企畫の一部を斷念し、罰金を設けて其操業の短縮を申し合せた際まで、尚此單調なる生産統計の増加を、社會繁榮の兆の如くに見て居たのは惰性であつた。所謂實業家は是が爲に先づ苦しみ、次いで世間も亦少なからぬ迷惑を受けて居る。

　この生産制限は實際に惜しいものであつた。初から判つて居たならば其力を外に割いて、企てゝよかつた事業はまだ幾らもあり、合理化即ち人や設備の置換への爲に、無用の損失と難儀とを忍ばずとも濟んだのであつた。然るに當業者が澁々にやつと生産制限の必要を承認する迄には、よほど久しい間彼等は有る限りの方法を以て、何とぞして其現?を維持しようと骨折つた。案内のやゝ不明な外國への輸出が、盛んになつて來た原因もそこに在つたが、それよりも力を盡したのは國内への普及であつて、商業は非常な宜傳を以て、我々の消費を勸説したのであつた。捜して物を求める樣な場合はもう何物にも無くなつた。大抵は百年以前の國際貿易と同じやうに、教へて貰つて存在を知り、勸められて始めて便利を解するやうな物品が、次々に増加して來たのであつた。勤儉貯蓄を告諭した内閣は少なくないけれども、如何に不景氣に同情する政黨と雖も、未だ日本の産業の爲に、浪費の急務を説法した例は無い。ましてや地方には金錢の出入を、出來れば抑制しようといふ氣風は尚殘つて居る。然るに拘らず、事實やゝ溢れんとした全國の過剰生産を、どうにか近頃まで支持して居たのは農村であつた。農村の所謂購買力は、餘裕さへあれば如何なる製造業をでも扶助したのであつた。

　是には農の生産物が常に有用であつて、與ふれば必ず悦んで受けられて居た習はしが類推せられたのかも知れず、又農民が特に消費者の立場から、進んで求めるものゝ少なかつたことも原因になつて居るやうだが、それよりも大きな力はやはり近代の商業の發達であつた。日本の製造業の歴史に於ては、商人が加擔したのは比較的後の事で、初期の資本は土地材料の提供者もしくは舊武人の財産などを中堅として居たのであつたが、次いで追々に招き入れられた遠方の技術と機械が、商人で無くては之を運び難かつた爲に、必然に所謂商賣人の勢力が認められることゝなり、從(342)うて企業の移動性が年と共に著しくなつて來た。この新分子は會社を大きくし、曾て見たことも無い弘い他郷との交通を開く上に、優秀なる技倆を持つて居たので、在來の經營者たちも其術を習ひ、少しづゝ商人化せざるを得なかつたのである。製造業者といふ職業團が假にもう出來て居るにしても、それは主として商人の化して成つたものであつた。しかも今以て多數の商業者の之を兼ぬる者或は其資本を此方に托して居る者があつて、同時に生産の經營の上に、如何なる株主よりも強い聲をもつて居る。どれだけ精確なる國勢調査に於ても、商工業の分堺を明らかにすることは、現在は先づ不可能と言つてよからう。

　是が商業自身の爲にも、必ずしも幸福な結果ばかりは齎さなかつたことは、事後に囘顧して見ると大よそは判るのである。商人はもと今日の如き偉大な發達を見なかつた頃には、殆と商品の種類といふことには注意を拂はぬ人たちであつた。と言はうよりも、寧ろ故意に變化を構へて、新しい利益を圖るのを常として居た。町々に常店が立つて業體が稍々定まり、特殊の知識の傳習が職業を世襲させるやうになつても、その取扱ふ品の數は多く、何か名物といふやうな物が出來るまでは、格別一つの品に固執しなかつた。從うて常に生産者の伴侶といふわけには行かず、?々思ひ切りよく部分的の轉業を繰返して居た。それが新たなる時代の風潮を觀察して、或種の製品を取扱つて見ようとい(343)ふ場合に、其選定が氣輕で又一方に偏し易かつたのも、いつも全體の利益の多少から割出した算盤であつて、生涯を一つの物品の製出に費さうといふ者には、是は一向に心丈夫で無い指導者であつた。殊に此頃では肩拔け手拂ひといふが如き、もはや其品との縁を切らうとする際に於て、却つて最も販賣に熱心になるといふ樣な皮肉なる現象も少なからず、さうで無くとも生産費とは關係無く、もしくは之を侵食する外の經費が、可なり高率に掛けられて、漸くに擴張の目的が達せられることになつて居る。

　此種の商業闘爭は大抵の場合に於て、製造業と其從屬者の不運なる忍耐に歸着して居る。單なる産額報告の増加を以て、彼等の幸福の増進と解し得る場合は實際は甚だ少なく、損をして賣るといふは僞りだとしても、少なくとも苦痛は生産増加と共に却つて多くなつて居ることを、推測せしめる例が稀で無い。消費者の方には一種の町行き心理、買物と遊山とを似た樂しみにして居る舊習が、今でもまだ若干は殘つて居る以上、斯ういふ賣員を損とまで考へる理由は無いのだが、それでも追々に消費生活の整理を計畫する者が多くなつて、直接生産者との取引の有利を認めはじめた。町に此頃始まつた公私設の市場の中には、徒らに從來の小賣制を複雜にしただけのものも有るらしいが、産業組合の聯絡は段々に中間機關の省略し得るものであつたことを實驗せしめて來た。殊に農村の購買組合が、最初に買(344)入れなければならぬ製造品の種目と數量とをきめてかゝるといふことは、今後の工業に對する新たなる一つの指導である。人が單調生産業の重複と浪費に心づくことは、同時にその不用に歸したる勞力と智慮と資本とを、轉じて次の必要なる企業に應用する運動の端緒でもあつた。商業に重きを置き過ぎた今までの資本家は、頗るその永年の不用意を悔いなければならぬ立場に置かれて居る。

　産業合理化や國産愛用の聲は最近しきりに起つたが、大いなる發展を見た生産物の大部分の搬出に就ては、今まで其生産者は甚だ干與する所が少なかつた。從つて物産の割據は資本戰を激成し、生産は甚だ過多となり、勞力の配賦も亦今尚解決せられぬ惱みとなつてゐる。それ故合理化は勿論必ず企業の縮少を伴なふべきであつたが、しかし次に何を造るべきかを考へる事が先立たねばならぬのである。若しそれが無くしては、勞力過剰が齎らす不幸は國民生活の絶えざる暗影とならねばならぬであらう。我國の勞働者は昨日迄は農民であり、また來年は農民としての仕事に從事するかも知れぬ者が多い。若し此出稼勞働者の配分を解決せずして、農村人の都會入りを阻害するならば、町と村とに住む勞働者の競爭は愈々激しくなる許りで、我國の勞力配賦を順調にする道は甚だ困難となりはしまいか。今までは勞働組合も此點に就て惱まなければならなかつた。以前は如何なる?態の下に之がどう動いてゐたかと云ふ事を、出稼ぎといふ現象に基づいて一應は歴史的に考へて見る價億も亦茲に存するのである。

　明治の農業は土地を使はれるだけ大いに使つた。農村では休みをも廢し、勞力はその廣いはけ〔二字傍点〕口に流れ込んだが、その餘の勞力とても永い傳統の下に、盲目的に考へては行はれて居なかつたから、却つて自然に利用せられて居た。(346)少なくとも無理は少なかつた譯である。出稼ぎの動機は村の動搖から起つたものではない。家の協同維持の爲に、餘つた勞力を有效に利用すべく行はれたものであつた。從つて出稼ぎの風は山間や雪國の、仕事を遣りたくても充分にやりかねる地方に盛んに行はれたので、それが家の經營を維持してゆく普通の方法であり、其故に又特殊の現象ではなかつたのである。所謂冬場奉公人と稱せられた者は即ちそれであつた。丹波百日と云ひ、越後の酒男と云ひ、淺口杜氏と云ひ、後にその技倆が謳はれて、今日では釀造者側からも、出稼人自身の側からも是非必要な者であるにしても、元はやはり同じ動機から起つて來て居る。その外に但馬の豆腐師、或は筏流し、茶賣、奈良富山滋賀香川の賣藥商人、越後の毒消し賣藥、種々の行商人も亦多くはそれであつた。椋鳥だの渡り鳥と云ふ言葉はあまり良く感ぜられては居ないが、家との縁を切らずに出ては歸り、出ては歸りしたその樣を、良く此言葉は云ひおほせてゐるのである。

　殊に小さい獨立生産者が多くなつて、以前の樣に日傭取でも生活は保證されてゐたと云ふ時代では無くなると、誰しも家の存續は希つて居たから、一層出稼ぎに出懸ける必要は多くなつたのであるが、未だ中國地方の山間にはその方式が殘つてゐると云ふ大農式農家に於ては、殊に大田植や刈入の季節にだけ入用な人手を常の日から附近に備へて置いた。大農時代ではなくとも、わが國には田植といふ非常に忙しい時期がある。農具の改良は進んでも、勞力省略の機械は作業の一部にしか適用されない。田植の人手は減ずる事が出來ないのである。しかも此時だけ遠方から臨時に人を呼ばうとすると、そこに種々な不安や困難が湧いて來る。外へ出て行く者が多くなると、田植は困難となつて、夜までも松明を灯してやると云ふ程の不自由を忍んでゐる所もあつた。それ故に此作業は家の力と共に、人々を故郷に繋いだので、村を出てゆく多くの人々を年一囘の渡り鳥にしたのも亦道理であつた。しかも出稼ぎに出ないで濟むならば、平和な故郷に住んでゐたいのは人情である。從つて村には勞力の需要があれば、それに應ずる人は永く多く存在してゐたのであつた。けれども事態は何時までもさうはしておく譯にはゆかなかつたのである。

　田植にしても茶摘養蠶にしても、土地に依つてその季節が異なる。之が人の動く機會を作り出稼ぎの道をも拓いた(347)のであつて、始めは附近から次第にその道は出來て行つた。例へば三重縣や九州方面の茶摘時期には、其季節的手傳が盛んに行はれ、茶摘の日が自ら異なる所から、次第に川下より川上へと、氣候を追つて茶山を渡つて歩く風が盛んである。養蠶地方に於ても此現象は隨所に見られた。殊に藺《ゐ》刈の如きは夏の初めの一週間許りの間に好天氣を見計つて、疾風の樣にやつてしまはねばならぬ爲に、讃岐から岡山へは年々非常に多數の人が手傳ひに行く。さうしてかういふ雰圍氣の中には共同で働く面白さや昂奮があり、少しはお祭の樣な樂しさもあつたのである。言はゞ相互の結《ゆひ》の組織が手近かな村々の手傳ひに擴張し、それが次第に遠國への出稼ぎの道を開いたと云つてもよろしい。けれども杜氏の樣に特別な技術を必要とする者が、毎年間斷なく出稼ぎに出懸けると、遂には需要に應じて遠地にも行き、また家の協同維持と云ふよりも、更に進んだ職業となるのである。しかし之は可成り不自由なものであつた。杜氏にしろ筏人夫にしろ、北海道樺太に往く漁夫にしろ、その仕事が定期的に繼續せられると、其永續が保證されねば甚だ不安になるのである。實は家の保全の爲の職であつても、一つの職業としてそれを求めようとするならば、其處に其安全を強めるだけの組織が必要になるのである。親方制度は即ち現在の自主的組合の、代りを勤めたその組織であつた。殊に出稼勞働が杜氏の樣に農事作業と懸け隔たり、家に歸つても役に立たぬ技術に手練が積む樣になると、この親方制度も一段と力を増したのである。

　寄親が仕事を支配した時代は相當に永かつた。村の一番年長者であつたおやぢ〔三字傍点〕は、もと假親であつたらうが、それが又口入業者の源でもあつた。此寄親が三四五十人の出稼志望者を引つれて、その勞力配賦に寄與したことは、それがもう滅びてしまつた今日から思へば大きな役目であつたのである。その中には微弱なのも有つたらうが、その發達したものは決して亂雑なものではなく、甚だ組織立つてゐたのであつた。寄親が町に住む樣になつて、人入れ稼業が起り、村からそれを頼つて行く者許りではなく、知らぬ者までも容易くその恩惠に浴する事が出來る樣になつた。即ち家につながれて居た多くの出稼勞働者は、此親方制度に依つて次第に獨立して、適宜に配賦せられてゐたのであつ(348)た。寄親のない出稼ぎは例へば朝鮮人の土方や作男、支那人やロシア人の行商者の如く心細い不安なものである。親方制のない今日、それに代る有力な何物かゞ出來ないならば、異郷の人のみではなく、我々はその不安を喞《かこ》たねばならぬのである。

　現在凡そ九十萬の同胞が尠くとも家に金を送らう、何かの足しにならうといふ殊勝な心持で外國へ出稼ぎに出懸けてゐる。内地でも更に大多數の人々が製絲工場への女工男工、紡績工場への男女工を筆頭とし、僕婢小使として大都市に流れ込む者、炭坑に稼ぎに行く者、機業地へ出かける者、酒造りに雇はれる者、大工木挽等の旅廻り、土方日傭、又は賣藥其他の行商人として夥しく故郷を後に世間に出てゆく。しかも故郷では靜かに呑氣な生活をしてゐるものも多かつた。近江商人伊勢商人などの出生地たる出稼ぎの代表地では、故郷は何もしないで綺麗な家にちん〔二字傍点〕と暮してゐる。近世の海外出稼ぎには之と同じものが未だ少しあつた。有名な紀州の潮岬村三尾村なども、のんびりと暮してゐる事は、近江の南北五箇庄村などと似て居た。支那の廣東邊の出稼ぎの盛んな地方とも同樣に、出稼人が移住者となつて、遂に歸郷する機會が無かつたにしても、故郷は其送金を當てに暮してゐたのである。尤も海外に雄飛する者の或時代の理想は茲に在つたのかも知れない。故郷は海外で奮闘した人々の安住の場所、墳墓の地であつた故にその汗の結晶は故郷に送られたのであらうが此風は永く眞の移住を阻害し勝ちであつた事は想像し得られる。

　移住は成程明治大正を通じての、今までには無かつた大きな現象ではあつた。移住は出稼ぎと全く異り、多くは一家が故郷を離れるので、人家の代替りやその流離といふ一つの刺戟が必ず伴なふ爲に、人は之を不幸と考へたが、實は多くの移住は亦事實出稼ぎの心持で行はれたのである。尤も旅などをしてゐる間に、廣い原野を見た者は、碌に耕(349)す場所もない故郷の樣と思ひ比べて、それから此處に移住しようと紜ふ決心を付け、妻子を伴なうて來たものもあつたかも知れぬが、それにしても一應は自分一人だけが瀬踏みにやつて來たであらう。北海道は過去六十年間に偉大なる發展を遂げた。それには當局の紹介奨勵があり、貧困な農民や士族等の團體的な移動や屯田兵の制度が、大いに預つて力があつたであらうが、然も尚一家が移住する前には、出稼ぎ同樣の心持で暫くは行つて居た者が多かつたのである。勿論後には郷黨の先輩の實?を見て安堵し、またそれを頼つて行く人も多くなつた。その發展は實に既往移住者の努力の賜物であり、また此方面の移住は日露戰爭以後再び多くなつて、大正以後さへも其人口増加率は東京府に次ぐ全國第二位の隆盛を極めたのであるが、しかし人の入れ替りも激しかつた。北海道より内地方面殊に郷里に歸る人も、青年から壯年者には少なくはなかつたのである。人口がこんなに増加し、その中には落着いた人も多かつたらうが、歸郷し轉住した人も亦少なくはなかつた。言はゞ北海道は我々の移住の練習地であつたとも云へるのである。

　移住植民は出稼ぎと異なり、家を寂しくはするが兎に角に解決であつた。即ち家の仕事に役立たなくても歸つて來ると云ふ事は少ないのである。けれども女ならば婚姻が解決してくれたが、男はさうはゆかず、何時までも家の力に繋がれてゐる者も多かつた。即ち家に金を送り年を取ると歸つて來る。大抵親の在つた時代の故郷よりは、移住地は良くなかつたから、移住とはならずに尚結果が、出稼ぎと云ふ事になつてしまふ者もあつたのである。尤も出稼ぎの心算で出て行つても、反對に移住となつたものもあつた。即ちかの地で死んだ者、理由があつて國に歸つて來られなくなつた者、又近來は婚姻に依つて出先きに定住する者、或は出稼ぎの力が故郷の綱よりも強くなつた結果、移住となる例も少なくはなかつたが、海外移住と稱するものきへも、從來のものは一寸行つて來ると云ふ出稼ぎ氣分で爲されたものが多かつた。從つて故郷に錦を着て歸る心算で出懸けるのが普通であつて、それ故に眞の植民は行はれ難く、出稼ぎされた國は澁面するのも實は無理がなかつたのである。

　一方に男の出稼ぎの盛んな島や海邊の村々では、婦人は多く故郷に殘り、その結果留守を守つてゆく爲に女消防隊の組織さへも珍しくないのであつた。女は男と共に正式に働いた。女性が勞働に携はると家庭が壞れはせぬかといふ心配は寧ろ杞憂である。機の上手な八丈嶋の女性の働きは單に男の仕事の補充ではなかつたのである。海女の勞働も即ちそれであつた。現代は獨身でなければ勤まらぬ樣なもののみが、職業婦人の仕事となつて居る。しかも家庭育兒の事務は繁雜な爲に、女性が澤山獨立した勞働を有してゐる所では、かうした餘裕は無かつたのである。然も女工が出來る以前、すでに出稼ぎを樂にする爲に、婚姻に依つて之を移住に強めてゆく傾向は濃厚となつてゐた。即ち山に入り船に乘るを業とする者は女性を多く伴なうて行つたのである。女が働かないで養はれてゐると云ふ思想は、極く良い生活から來たのであつて、普通は昔から女性が働くのは當り前で、それに干與しないと云ふ事は甚だ稀であつた。(351)またよし働かなくても、働かうとする心持は女性の心の裡にあつたにちがひない。

　明治以後のその最も大きな現象は女工の出現であつたが、只に女工のみではなかつた。前述した茶摘女と云ひ、其働きは目覺しいものがあつた。女中も追々に此列に加はるやうになつて來たのであるが、女中はもと働かねばならぬと云ふ意味で、他家奉公をしたものではなかつた。教育と有附きとがその目的であつたのが、追々に自分の家を維持する爲に、働いて金をとると云ふ風に女中はなつたのである。けれども多くは古風な雇傭關係が保たれ、その生活は保障せられてゐて、少なくとも雇主の準家族員として待遇され、時には嫁入の支度までもして貰ふといふ風があつた。今日でも或地方では舊盆を境として、女中が出替る習慣のある所があるさうである。かゝる女中、子守奉公は強く家につながれてゐた。さうして多くの場合村の一番樂しい時、即ち節供や盆や正月を濟ましてから奉公に出たのであつた。かゝる若き女性は殊に都市附近の農村には多かつたのである。所謂歐洲大戰による好況時代には賃銀の多い女工を志願する者が多く、大分減少したが、今日も尚女性の勞力配賦の上には、幾分古風な家の繋がりを保存して重要な役割を演じてゐるのである。

　海女の働きは驚異であつた。磯の出來ぬ即ち海にもぐつて仕事の出來ぬ女は、甚しく輕蔑せられた。朝起ると洗濯や炊事を爲し、それから田畑に出て晝からは海に行つて鮑や海草類を採取し、夕には家に歸つて家事裁縫子供の世話から、村の寄合や工事に至るまで夫を代表して出ると云ふ非常な働きに堪へ、海に出てゐる夫を助け一家を支へて居るのである。夫は始終海に居て世間がわからぬといふので、婦人が村會に出席してゐる所さへもある。一體に海濱の女性は非常に勞働に從事した。男に負けぬ荒仕事を爲し得た女が多かつたのである。港や停車場の構内の貨物積下しの勞働者には多くかゝる女房連が參加してゐる。女の沖仲仕も現在各地に甚だ多く存在してゐる。トラックや車力などに依つて運送方法が變遷すると、彼等はそれにまで參加し、又之に對抗してゐるのである。又中には一種の身仕度を整へ、仲間の道德をも有する職業婦人團として存在してゐるものも少なくない。殊に行商人は昔からどう云ふもの(352)か女性の方が多かつた。所謂｜販女《ひさめ》と云ひ、彼等は毎日七里八里と振賣つて歩く。女性は身體が弱いから、いたはつてやらねばなどと云ふ事は、之を觀ては通用しないのである。少なくとも働く者の仲間では、體質及び智能の點で何等差異は認められなかつた。女性の勞働は假令幾ら激しくても、彼女等はかくの如く健やかに仕事に堪へて來たのである。男にしか出來ぬと云ふ荒仕事はさうあるものではなかつた。しかも之に反して女でなければ出來ぬといふ仕事は多かつたのである。職業婦人といふ名の起つたのは極く新しい事であり、從つて職業婦人そのものも新しいものゝ樣に思はれる傾きがあるが、女性が働いたと云ふ事はかくの如く極く普通の事であつたのである。

　女工の數は出稼勞働者中、群を拔いて其最大多數を示してゐる。我國の産業が曾て女の仕事であつた製絲紡績の方面にのみ異常な發展を遂げたといふ事は面白い歴史であつた。我國の工業は言はゞ女の仕事の延長から發達したと云つても過言はあるまい。然しそれには殘念乍ら種々の不幸をも伴なつた。女工生活に基づく性格變換が農村人をして失望させ、また女工その人も心無き不當な冷笑を受けた時代もあつたが、しかもそれは相互の同情と理解とに依つて綬和せられて行つたが、もつと不幸なものは機械的産業勞働が及ぼす肉體的影響であつた。今までの勞働にはあんなにまで健全に堪へてきた女性の身體も、近代の勞働にはやられたのである。新規な仕事は新規な影響を身體に及ぼしたのであらう。婦人勞働者の成育の不調和と云ふ問題は兎も角としても、多くの女工が呼吸器病に侵されると云ふ事實は、一時農村に大恐慌を起さしたばかりではなく、今日も尚殘る憂慮すべき現象である。一體に呼吸器病は都會人によりも、空氣の良い平穩な農村に育つた人にとり付き易かつた。なまじひに良い環境に在つたものは、甚だ健康ではあつたが、しかし呼吸器病に對しての準備がしてなかつたのであらう。事實工場内の設備の改善がどれだけ此犠牲(353)を減じ得たかは未だ確かではない。現在病氣を土産にして歸る者が三割にも上ると云ふ地方があり、病苦に惱む若き女性等を如何にして救濟すべきかといふ研究に取りかゝつた地方もある。けれども若し今頃その研究を始めたとすれば始めぬよりは勿論良いが、實はその遲きに失した事を歎息せねばならぬのであつた。

　女工虐待と云ふ悲しむべき聲をも聞いた事があつた。かゝる犠牲があつたにも拘らず、至極簡單にしかも欣然として家を救ふぺく、若き多數の女性が系統立つて此出稼女工の募集に應じたといふ事は、決して突如として起つた現象ではなく、充分にその下染があつたので、此風は我國特有の寄宿舍制度を起し、例へば養蠶茶摘の樣な季節的の入れ替りを保存して、或期間まで働かして返すといふ風をも生ぜしめ、此階級のみを何時までも一つの從屬的のものとしたのであつた。現在の大多數の工場出稼ぎには此點で弊害が多かつた。男の勞働者の如く此仕事に成り切つて、永くそこで地位を築いてゆくといふ事が出來ず、何時までも有期的な、つまり出稼ぎであつたのである。しかも永い間親方もなく組合も無く、言はゞその役を爲して來たものは工場經營者それ自身であつた。從つて寄宿舍制度も工場に屬した部屋として發逢したのである。尤も最近女工保護組合といふものが出來て、其周旋業をやつてゐるが、之は一種特別の親方制度であつて、今日の自由的な組合とは程遠いものである。それ故に女工は一番勞働者の大きな力となつてゐる聯合には、加盟しにくゝなつてゐる。其組合の一部たらんとしてもやがて國に歸るべき氣持であるならば、其處には自ら遠い隔りがあつた。正月には正月を迎へに郷里に歸る。出來得るならば農繁期にも手傳ひに歸らうとさへする者がある。近代産業の立場から見れば、言はゞ實を結ばぬ空華《あだばな》も多かつた。しかし此風は家の獨立を維持する以前の習はしをその儘受繼いだものであつて、又それ故に此多數の女工を生んだものと云はねばならぬ。

　女工のみならず産業の異常な發達は、日清戰爭以後漸次勞働乃至職業婦人の數を増加して行つた。女性の勞働は金錢上の價値が少なかつた爲に、資本主義は農村婦人の地位を低めたと云ふが、すでに婦人勞力の配置は以前にまして非常に擴まつたのである。もとは女にも出來ると云ふ仕事に從事し、それが次第に女の新聞配達人や牛乳配達人、床(354)屋或は最近に於ては女船長さへも生み、女性の職業戰線は非常に擴大して、事實最近では男の仕事を侵食するといふ傾向も顯著に感ぜられる樣になり、從つて獨りで家を支へる爲に働いてゐた者が、今は二人で働くといふ言はゞ二倍の人數をも必要とする樣にさへなつた。男子の養蠶教師を驅逐して女教師が進出すると云ふ類も少なくはなかつた。さうしてその中には次第に女でなければ出來ぬといふ仕事も發見され、また多くなつたのである。即ち教員や幼稚園の保母や看護婦、産婆の方面には職業婦人は早くから大いなる發展を遂げてゐた。また最近には電話交換手、女店員その他無數の職業婦人が活?に世に貢獻する樣になつた。此傾向がもう一層女性でなければ出來ぬ仕事に、即ち婦人の天職を盡し得るやうになるならば、此世は甚だ愉快なものとなるであらう。

　出稼ぎは今迄只亂雜な現象の樣に見られてゐたが、實は之には系統もあり組織も立つてゐたのである。親方は職人や農民に許りでは無く、總て一般勞働者にもあつた。内から見れば寄子《よりこ》、外から云へば出稼人にも親方はあつたので(355)ある。親方は寄親であり、村々の地親と起りは矢張り同じであつた。寄子は此親方に依つて生活を保證され、其勞力は支配されて居た。常に出稼ぎの道が定まつてゐる間は、それは家に對する共同の營みであつたが、其仕事にむら〔二字傍点〕が出來てくると甚だ不安になつた。出稼ぎが出來ない場合にはその勞力は餘り、殊に郷里の勞働に適せぬ仕事を今までやり續けてゐた者は、村の勞力へも自分だけは編入されぬ事となつて、それが次第に孤獨の漂泊者の如き感を抱かしめる樣になつた。それが新たに又親方制度の必要を大にしたのである。寄子は村から引つれられて出て行かずとも、町に寄親があれば、それを頼つて行きさへすれば、職に有りつく事は出來た。

　寄子には時代に應じてその盛衰があり、種類も從つて多かつた。例へば髪結職人、紺屋職、?類職、料理人、鮨職人、天ぷら職人、牛鳥斷肉夫、菓子職、湯屋男、妓夫妓女、馬夫、土こねなど其澤山の種類は草間八十雄氏の「水上勞働者と寄子の生活」といふ書物の中に記されてゐる。尤もその中でも合羽職や張物職、?油杜氏や米搗、粉挽などは時代がその職人を要求しなくなると、やがて衰微しまた滅んだが、その代りにボーイの如きものが寄子として生れると、その親方も亦出來たのである。親方たる者は見知らぬ人を任侠を根元とする寛容性から之を款待し、又人を見分ける力をも具備してゐなければならなかつたのである。之等の親方は日傭組や町火消、或は香具師等の仲間にも存したが、唯或階級だけが強固なる團結と禮儀の正しさが在つたと考へられるのは、それが目立つた人々であつたからで、必ずしも一部の人のみの特殊な組織では無く、又大都市特有のものでも無かつた。地方にも周旋業者が部屋又は親方と呼ばれてゐる例は今日も尚弘く存してゐる。勿論之は以前の職人が此部屋に草鞋をぬぎ、世話になつた名殘りである。それが今日の桂庵式にまで變化した道筋は現在ならばよく判つてゐる。寄親が客のみを大切にして輕薄になると、自然寄子に無責任になつた。さうして今日の多くの弊害をも釀したのであるが、一方土方、土工の仲間には大部屋格として羽振りを利かす有名な何組彼組が、血は分けずとも、腕の流れを汲んだ任侠の譽れ高き親分の統率の下に大いなる發展を遂げたのであつた。今日も尚かゝる由緒深き團體は多く存してゐる。この外にも多くの寄子職人は(356)親分制度の廢れた今日に於ても、部屋に屬する衿持を保ち、その職人としての修行に深い自信を懷いてゐるのは、現在の如き職人養成の衰微した際に於ては寧ろ甚だ頼母しく思はれるのである。しかし鮨の置き方さへも知らぬ奴が鮨屋をやると、憤激する鮨職人等の聲は悲しかつた。新しい職業の勃興と共に新舊の入れ替りが、古い此修行試驗の方法を壞してしまつたのは已むを得なかつたが、之がまた引いて親方制度の崩壞をも促したのである。

　衣食住に關する或程度の保護を親分から受ける事は勿論有難いとは言ふものゝ、親分の乾分に對する統制力が強く、手數料が他に比して多い上に、又手間賃渡方などに就て、一部の間に紛紜をきたす樣な機運になると、新職業の自由を憧憬する者がその覊絆を厭ひ、親分乾分の縁を切つて、俗に謂ふこむかひ〔四字傍点〕となり、自由行動に出づる者が多くなつたのは自然である。また仕事の種類が、以前の如く變らなかつたなら、親方制度は未だ崩壞しなかつたかも知れぬが、此制度は時代の變遷に追付いて行く程手が廻らなかつた。かくして親方制度に依らぬ自由な勞働者の存在が刺戟して、此制度を崩壞したのであつた。殊に傭主も中以下になると、此親方といふ顔役との交渉よりも、面倒の要らぬこむかひを歡迎して、之が次第に寄子を減少して行くと共に、親方の威力をも稀薄にしたのである。次第に顔役親分が否認せられ、特殊な所謂神農團などを除いては、次第に衰微したのであつたが、尚以前の大勢力の痕は今も隨所に窺はれるのである。さうして此口入業者の雇人なる引手が所謂もぐり〔三字傍点〕といふ惡辣なる手段を恣にし、鬼周旋屋などと云ふ言葉が世上に行はれるやうになると、寄子の周圍圖には一層暗い影が差してきた。

　縣外出稼が何時も出稼ぎされた土地の勞働團體の力を弱め、或は之を壞はす樣な結果になるのでは、國の爲に健全なる勞力配賦は望み難い。今日の操業短縮や不景氣の結果が、國に歸り得る者に歸農を促しても、農村に之を受け入れる働きが無いならば、家の累《わづら》ひが増す許りである。殊にかゝる失業者の歸郷は或地方に於ては縣外勞働者を驅逐する樣な結果に成つたと云ふが、之は寧ろ一種の混亂と云ふべきで、驅逐せられた者は再び又何處へか行かねばならぬ。從つて勞働者は成るべく地元よりと云ふ聲も各所に起る樣になつたが地元の者だけを使用して、それで紛紜が起らぬならば、事態はかくの如く成る筈は無かつたのである。勿論故郷の人手が餘つたから、外へ出たのであつた。府縣が各地元だけで剰つた人を皆利用し得るならば、大都市が農村勞働者を受付けぬといふ不平の聲も聞かずに濟むであらう。殊に今日に於ては、各地を流れ渡る人々や東海道を歩いて歸らうと云ふ失業者さへも中々少なくない?態に成つ(358)た。何か今迄の親方に代るべき組合を組織して、此移動し行く大きな勞働力を指導し統制してゆかねばならぬ必要が現はれたのである。單に臨時の事業を起して、其方面にこの勞力を振り向けても、それはやはり解決の延期に終るであらう。

　組合さへも此問題の解決の任に先立つて、各地方の競爭者に對し警戒線を張つてゐる。之は此勞働移動が最近起つた現象として、昔から必要があつて絶えず年々繰り返されて來たといふ事を、考慮の裡に置かなかつたからではなからうか。根本の問題は移住されるか、出稼ぎの?態に止まるかであるが、遠き將來は兎も角現?に於ては、農業の勞力は季節的に片寄つた需要を必要としてゐる。然も家々に之を平均する技術が一旦絶えたとすれば、往つては亦戻る一部の出稼勞働者だけは急に止める事は不可能であらう。殊に若し今後とても地方的需要が變轉常なきものであるならば、移住は家の安全を保障し得る程、頼みにする事は出來ない。其結果として日本には特に百年前より寄親の制度が入用な譯であつたのである。我國に於ては少なくとも現在は出稼ぎが必要であつた。まして年々除隊兵を村に入れると云ふことは頗る困難になつた今日、此點からだけでも出稼ぎは缺くべからざる必須の生活手段であるにも拘らず、しかもそれが六つかしくなり、その統制機關さへもすでに失はれてしまつたのである。これでは有爲な落伍者さへも出るのは寧ろ當然であつた。

　けれども最早園内に多くの出稼人を入るゝ餘地なしとすれば、我々は他にその道を是非必要とするのである。而も幸ひなる事には此道は廣く開いてゐたと信ぜられる。それは何かと云ふと遠大な將來を有する漁業であつた。未だその改善は緒にさへ付いて居らぬに拘らず、水産はすでに世界に冠たる大産業であつたのである。殊に遠洋漁業の出稼地は到底永住する事の出來ぬ場所が多い故、今後も其出稼ぎがもう終ひになる事はあるまいと思はれるのは甚だ力強い事である。まして團體生活を爲し、共同作業とその興味とを充分に經驗してきた除隊兵といふ最も強壯な若人達の勞力を村に入るゝ餘地は常に無しといふ現　　?の時、此青年達が親方拔きの仲間の機關たる組合を組織して、洋海に遠(359)征するならば、團體行動の共和制の實現は容易に可能となるであらう。次第に團體生活の自主的統制が爲し得る樣になつた今日である。殊には今まで海濱より程遠き農村の若人さへも、日傭として遠洋漁業に充分の腕を示して來てゐるのである。此實驗はすでに濟んだ。只この團結が彼等の職業を自主たらしめ、その利用が普く行はれてゐなかつた爲に、?々蟹工船や監獄部屋に於けるが如き、慘事が今尚存續して來たのである。

　遠洋漁業の過去は偉大であつた。從つて其將來も大いに期待される。その始め小航海が發逢してきて、ポッポ船の使用が其補助の效果と共に盛んになり、それが勇敢なる漁夫の新天地打開に用ゐられて、遠洋漁業隆盛の口火は切られたのである。尤も此大發展は漁民を單なる資本家の雇人に落し、その縣外進出は地元漁業者の利害と衝突し、種々の問題をも生んだ。漁場荒し、底曳網の問題は即ちそれであつて、縣と縣との入り交りは甚しく盛んになり、特別な技能を有する者は非常に遠くまで出懸けてゆく樣になつた。例へば中部以西の各縣の漁船が三陸より南部沖へ遠洋漁業にゆく。殊に土佐人は釧路の沖まで漁群をねらひに出懸け、駿州燒津の漁夫は千島沖にまでも遠征する。和歌山の漁民は鹿見島其他九州方面に遠く行き、其他豐後、長門の漁民の遠征など、海上の生活は船が港に人らねば、我々にはわからぬが、各地の漁場には全縣から出稼人が入り交つて、殊に對馬の周圍などでは五縣七縣の漁夫がその技を闘はしてゐるのである。金華山以北の鰹漁場に於ては、全國幾百の漁船が言はゞ一堂に會して、華々しい鰹獲りの爭覇戰を演ずる樣になつた。それ故に地元各濱の漁師達は如何にその釣魚の技の上手さを稱へられても、他縣の優秀船の中に在つては到底｜敵《かな》はない。次第に壓迫されて悲運を嘆ずる樣になつたのは、朝鮮の漁民も同樣で、言はゞ不必要に戰つてゐたのであつた。遂に或地方では縣内漁民の負擔を輕減する爲に、縣外漁船よりも海面漁業税をとるべしといふ陳情も出たが、各縣が宛かも一つ一つの産業國の如く思はれてゐるのでは、その改善は容易では無いであらう。この水産業を一國の産業として觀るならば、改良が出來ぬと云ふ事はないのである。

　けれども遠洋漁業の範圍は益々擴大し、千葉の漁民のオホーツク海への鱈漁は既に企てられ、臺灣への發展は高雄(360)港を中心としての南支那海から南洋各地、委任統治の諸島に於ける新漁場開拓がある。山口長崎佐賀の漁業者の朝鮮海への進出は既に有名になつたが、移住漁民等が同地の漁夫を悲境に陷れんとする矢先に最近愛知廣島の漁業者の全南道への移住が計畫された。北洋への遠征は暫らくおき、兎も角も南海への遠洋漁業は?々永久の移住たる因縁ともなりかけてゐるのである。漁民のかゝる移住は朝鮮のみではない。近年に於ては臺灣｜蘇澳《すおう》港の大改修と共に、此方面にも試みられ四國から多くの漁民が出懸けてゐるが、その氣候風土の大いなる變化があつたに拘らず、最近は非常な好成績を擧げでゐる。また北ボルネオのシアミル島には、大正の末年以來土佐の漁民が根據地を据ゑ、鰹鮪の漁業に從事し、ボルネオ節を内地の市場に送つて來た。蘭領アンボイナ島方面には漁場として有望な地ありとで、鹿兒島縣から數百名の出稼人が送られた。移住にしろ、出稼ぎにしろ、漁夫の天地は實に廣い。

　貧苦の本式に忍び難くなつたのは、零落といふことから始まつて居る。以前今よりもずつとよい生活に育ち、しかも斯うすれば更に改良し得るといふ、一つの理想まで有つて居た者が、一朝に何か我家限りの不幸なる原因の爲に、榮える多くの友人と離れて、制限だらけの生計を立てなければならぬといふことは、殊に周圍が、それを何とも思はぬ人たちである場合に於て、いやが上にも堪へられぬことであつたらうと考へられる。明治大正の世の中の變化は、さういふ家々を數多く作つた。士族は其全部が轉業を強ひられた階級であつたが、其中には無論若干の選擇を誤つた者が居た。全體に曾てさういふ必要を豫期せず、從うて之に對する考究を怠つて居た者は、境遇の最も自由であつた家に多かつたと言へる。此貧苦は恐らくは猛烈を極めたものであつた。次には個々の職業の唯一つの強味であつた技術が、不用無價値のものとなつた例は、是ほど急激に現れて來なかつた代りに、いつ迄も地方の古い家を累はして居た。是も結局は轉業を必然のものとしたので、寧ろやゝ早めに又輕率に、新しい仕事に移つて行つた者が、今では其先見の明を誇ることになつて、爲に幾分か無益な心の動搖をさへ青年に與へたのであつた。農家は何れかといふと元の技術を、守つて居て差支の無い職業であつたにも拘らず、外の機會の新たなるものを見かけて、出でて之を捉へようとして失敗した者が少し有つた。それが又一つの零落の原因を添へて居るのである。

　職業の種類は絶えて滅びたものよりも、新たに生れたものゝ方が何十倍か多い。殊に都門には如何なる職業でも成立ち、現に一つ前の國勢調査に於ては、東京の職業種別は六千有餘と注せられて居たが、實は其大多數も亦零落の職業、辛うじて貧苦を支へる一時的便法といふに過ぎなかつた。少しでも優つたものを他に發見すれば、早速棄てゝしまつてよい樣なものばかりで、家とは何等の交渉の無い職業であつた。しかも一旦移つて之に從事すると、もう以前の家業との縁は切れ、假に救はうとする志のある者が居つても、其手段は直接の衣食補給より他に一つも無かつた。(364)孤立の貧窮は即ち常に此順序を以て現れて來たのである。ところが農村はそれ自體が職業の集團であつて、たとへ孤立の力は弱くとも、相互救濟の力はまだ具へて居た。以前も家々の特別の事情によつて、貧に陷らうとする危險は決して稀で無かつた。其中の殊に頻繁なものは家族の病氣、主人の若死や立退きによつて、不意に勞力の缺乏を告げることであつた。水田は女や小兒ばかりでは、到底其耕作を續けることが出來なかつた。斯ういふ災難の家に殘つた者を苦しめたことは非常なものであるが、それは大抵の場合に個人の不幸を以て終り、家を永久に貧苦に陷れずに濟んだものが少なくなかつた。

　近世の立志傳が主として新家の創立であつたと反對に、多數非凡の人物の名を遺した事業は、前代に在つてはこの復興の爲の力闘であつた。貧家の少年がその強健なる體質と、熱烈の意思とを唯一の武器とし、一生を働き拔いて終に繁榮の礎石を築き上げたといふ話は、久しく續いた家ならば大抵は一つづゝ其記憶を持つて居る。文書は通例其迄は書殘さぬが、斯ういふ大いなる發奮の背後には、以前時めいた時代の數々の思ひ出、先祖の遺法とそれを繼がなかつた悔恨、人情の變化、世間の評判などの、始終雜談や繰言の形を以て激勵し又訓戒したものゝ多かつたことは想像し得られる。是が尋常の貧家には味はずに濟んだ苦痛でもあつたが、同時に又一つの身分のやうなものが固定して、いつ迄も浮び上れなかつた悲しむべき事情にもなつて居る。彼等の多數とても、起原は又遠い昔の零落であつたのかも知れねが、一度或時期を過ぎ去ると、次の機會は得難く、後には縁組その他の原因から、貧を何とも思はぬ仲間の方に牽かれて行つたらしいのである。

　貧乏にこの新舊の二種が現れたといふことは、無論明治よりは又よほど前からであつた。舊家の零落は家業の解體、殊に農場を追々に分割しながら、其一旦の格式だけは落すまいとした無理な苦心が始であつたと言つてよい。此爲に出でて新たな目論見に携はつても、じつとして居ても共に衰へた。有爲轉變は江戸期の後半から、既に其例が年と共に多くなつて居たのである。明治は寧ろ次三男の躍進時代で自由な分家の方法は増加したのであつたが、それでも尚(365)此趨勢を後へ戻すには至らなかつた。士族町家の敗退する者は新たに之に交つて、一時地方は此類の物語を以て充ちて居たこともあつた。ところが結果から囘顧して見ると、是は有望なる貧窮であつたのである。單に産衰へたる名門が、發奮によつて名士を出したのみならず、その多くの實例は貧家にも亦機會あることを教へた。少なくとも貧の久しく安住すべきもので無い事を、弘く痛感せしめたる原因にはなつて居る。さうして再び世道が固定して、家運の起伏が稍々緩慢となり、一度衰へたら衰へたきりに、終つてしまひさうな心配が起ると共に、社會は又改めて大いに苦悶し始めたのである。

　初期の貧窮の今よりは遙かに猛烈であつたにも拘らず、それが忍び易かつた又一つの理由は、簡單にいふならば同勢の多かつたといふ事である。以前衣食住の一樣に惡かつた時代から、ほんの僅な者だけが便宜を見つけては脱出し、次々に新たな幸福を味はつて居たに反して、殘りの多數の者は改良の手段を知らず、もしくは制抑せられて其舊態を續けて居た間は、貧しいといふことが自分にも他人にも、實際はさう目に立たずに過ぎることが出來た。生活の階段が今のやうに細別せられるやうになつたのは、無論或程度までの消費が自由になつてから後であり、從うて都市には貧困の者が數限りも無く居るやうに見えたのであるが、假令表面には其差等は現れて居らずとも、貧が人間の家を覆へす惡魔であることは、田舍とても變りは無く、或は寧ろ無邪氣に其危難を覺らぬ者が多い結果、慘苦は却つて町よりも大きかつたとも言へる。其?勢に夙く心付いて、豫防と血路の切開きに苦慮する者の多くなつたといふことは、決して不幸なる新現象と見るわけに行かぬのである。

　田舍で貧窮の情無いものだといふことを、人が最も適切に感じ知るのは、火事や風水害などの天災の場合であつた(366)が、それを自ら經驗しなければならぬ者には、大抵はもう間に合はなかつた。天災が不意に多くの窮民を出すことは事實であつても、豫防はしきれぬのみならず、原因はもう一つ奧に前からあつたのである。だから事變が過ぎてからの救恤《きうじゆつ》は、通例は第二番目の不幸な者を扶助することゝなり、それも僅にその次に起る災害の際に、最も多く惱むべきものを殘すといふ程度に止まつて居た。天明天保の兩度の飢饉に於ては買はうと思つても賣る米が何處にも無い爲に、小判の袋を背負うて餓死して居た者があつたといふ話も傳はつて居るが、それ等は一つ話といふもので、普通の例で無い故に弘く語られたのである。普通に先づ死ぬのは貧しい者ときまつて居た。斯ういふ極度の缺乏が暴露せぬ以前から、既に榮養が惡くなつて居て、働いて遠く求める力を失ひ、永くは此?態に堪へて居ることが出來ぬのであつた。新時代の交通機關が略々完備してから後にも、幾つかの小規模な飢饉は處々に出現した。殊に東北では明治三十五年と、其翌々年との二度の不作の結果、意外に舊式なる飢渇が若干の農村を襲撃した。最も急速なる輸送の策が講ぜられたに拘らず、それさへ間に合はずに死んで了つた者が多かつたのである。

　或は又限地的の、一種慢性の凶作とも名づくべきものも前からあつた。主として山村などの耕地が稍々乏しく人は次第に多くなつて出稼ぎの途が未だ開けず、二三の添?《そへかせぎ》の曾て有つて衰へたといふ土地で、一村を擧つて榮養の頗る(367)振はず、從うて氣力の旺んで無いといふ例も發見せられて居る。山で無くても壯丁檢査の成績が一部落を限つて特に劣つて居たり、もしくは女子ばかりの頻りに生るゝ土地等があるので、原因を食品その他の生活法の不自由に、辿つて行かれるのは相應にあるらしいが、是等は?勢の可なりに突詰めて來るまで、通例は之を考へて見ようとする者が無い。それよりも更に忘れられ易いのは、特に或一家に限つて襲つて來たらしい飢饉であつた。最初は單なる働き手の缺乏などであつても、土地の利用が不完全で十分な生産を遂げないと、自然に食ふ物が惡くなつて愈々仕事が堪へ難くなり、漸次に各家族の天壽を縮小して行つたといふ場合が、元は絶家の最も多い原因では無かつたかと思はれる。都市は固よりのことであるが、村でも災難の相救濟せらるべきものは定まつて居て、斯ういふ徐々の不幸は知つて居ても助ける途が無く、しかも大抵は是までの觀測はして居なかつた。貧窮の甘なひ安んずる能はざる理由は爰に在つたのである。今日は一方に自衛の術が進み、或はやゝ性急に此不安を除去しようとする者が出來たけれども、他の一方には又特に貧しい者を劫かす害敵も増加し、しかも共同防貧の手段に至つては、却つて著しく以前あつたものよりも劣つて居る。家を復興しようといふ健氣なる奮闘者の中にも、往々にして餘りに其競爭者を恤《あは》れまざる者が出來て來たのである。

　貧乏の原因が全部或一期の家長の不道德に在るやうに、考へようとして居た時代もあつた。或は反對に責任は悉く他人に在るものゝ如く、解して居る者も今は多くなつたが、何れにして見たところで當面の害を防ぐ努力だけは、これを外部に托して待つて居ることは出來ない。何よりも困つた話は、一旦陷つた貧窮から脱け出す機會の追々に少なくならうとして居ることで、殊に今日の職業教育を以て、まだ有效なる立身の手段と信じて居る人々は、是が若干の(368)餘裕ある子弟のみに、獨占せられて居ることを不本意に思つて居る。今となつてはさう樂しみの多い機會でも無いやうだが、是も勿論均等の利益に供しもし實際に有效なものであるならば、寧ろより多くの必要ある人々に、餘分に利用が出來るやうにするが當然である。併し障碍はそれよりも一つ前に横たはつて居る。全體に子供を大きくする事が、貧しい者には一年ましに大きな苦しみにならうとして居るが、別けても丈夫なよく働きよく學ぶ若者を作り上げることは、中々容易で無い大事業になつて來た。乳兒の死亡率は以前から日本は高い國であつたが、それが原因かと思ふものは、舊いのがまだ殘つて居るうちに、又新しいものは附加へられて居る。單に親々を悲しみ衰へさす爲だけに、生れて來たやうな子が甚だ多い。さういふ危險を漸くに通り越しても、中々簡單には大きくなつてくれない。ほつたらかして置いても子は育つものと思つて居た、自然の遊び場と群とが追々に少なくなり、親が見て居なければならぬ時が多くなつたが、それで尚外から來る色々の疾を、少しでも防衛することが出來なかつたのである。

　我々の公衆衛生の行政は、つい近頃までは只六種の傳染病と闘つてばかり居た。是も固より非常に怖ろしい敵であつて、殊に虎列刺は幾度と無く、戰爭以上の損害を國に與へて居る。固有の疾の數も既に多く、未だ其一つでも退治したといふ程のものが無い上へ、新たに若干の新病を輸入したといふことは、島國としては一層遺憾なことであつた。傳染病の中では虎列刺とペストだけが、現れゝば直ぐ撲滅するだけの手配が付いて居て、まだ外敵として之を警戒すれば足るが、其他はどうやらもう土着してしまつたやうである。さうして國人の抵抗力だけが、依然として新地に種を播いた時のやうに弱いのである。外蕃招來の時疫の類に對しては、特に神佛の冥護を頼む以外に、是といふ方策も無かつた時代も昔はあつた。或は今でもまだ個人の自信が足らぬのかも知らぬが、全體に我々の體質は是に屈服し易い。歴史の最も久しい天然痘だけは、十分に善那《ぜんな》の偉勲を利用することが出來て、もはやあばた〔三字傍点〕といふ言葉さへ不用になりかけたが、殘りの三つ四つは慘毒が尚大きい。殊に窒扶斯が働き盛りの、丈夫な若者ばかりを連れて行かうとするのは、何と考へても情無いところであつた。是が家々の家業の豫定を狂はせ、貧乏の不安を深くして居ることは、(369)殆と衛生政策の一方に偏して居ることを、責めることも出來ない程の切迫した?態である。

　貧は四百四病の一番につらいものといふ事は、今でもよく繰返す古い諺であるが、貧故に誘ひ起す病の數が、斯うして段々に多くなり、又忍び難いものになつて來たのである。以前も養生といふことは只餘裕のある者だけのすることのやうに考へられて居たが、さういふ語は無いだけで、人々は常に無意識に自ら守つて居た。たとへば流行病の際には極端に交通を制限したり、或種の病は神の警《いまし》めとして忌み怖れたり、迷信と言はれる色々の方法にも、少なくとも實驗の基礎はあつた。實際は永い年月の選擇が、抵抗力の強い者だけを殘したのかも知れぬが、若い者が病に負けぬといふ自信も可なり強かつた。さうして藥法は言ふに及ばず呪禁祈?の效果に對しても、今よりは遙かに強い信任を抱いて居たので透つた。併し是等の防禦術は、何れも在來の知識の範圍内に限られたもので、兼て用意の足りなかつた方面、殊に突如として外部から入つて來たものは、餘分の不安を感ぜざるを得なかつたのである。今まで耳にもしなかつた色々の物々しい病名の爲に、急に人間が病に弱くなり、英氣を失ひ全快を遲くしたことは、確に統計の上には現はれない新しい一つの損失であつた。

(370)　勿論新醫學の功績は一方には非常に大きい。是ほど澤山の知らぬ病が附加へられたに拘らず、救はるゝ者は却つて遙かに多くなつた。たゞ我々の一生の間に、病に惱んで居る時間だけは長くなつたのである。たとへば盲は日本の有難くも無い一つの名物であつて、元は如何なる部落にも一人か二人、目の見えぬ者が居らぬ處は無いといふ實?であつたのが、追々原因が判つて來て其不幸を遁れ得る者が多く、今でも其計數は減じて行く一方であるが、それと同時に新たに心付かれたのは、最初から眼の力の弱い者が、實は非常に多かつたのだといふことである。町村によつては小學校生徒の半分近くまでが、トラホームに罹つて居ることの發見せられたものもあつた。それから青年の近眼になり易いこと、是は薄暗い燈明と細かな仕事と、二つの似つかはしからぬものが落合つた、過渡期だけの現象だつたかも知れず、或は以前からも此通りだつたのかも知れぬが、兎に角最初は書物を見るといふ一つの看板、もしくは青年の伊達の如くにも考へられたものが末には無くては濟まぬものになつて、忽ち日本を珍しい眼鏡國にしてしまつた。

　それから比べると問題は幾分か快活であるが、齒が惡いといふことも急に近代に入つて注意せられ出した。是も惡くしまいといふ警戒は　　稍々始まつたといふのみで、未だ何故にといふ研究にまでは進んで居らず、只熱心に現れたる病弊と闘はうとするのみであつた。記録は斯ういふ事柄にはいつも不完全であるが、この夥しい我々の齲齒といふものは、どうも國初以來の一貫した特徴では無いやうに思はれる。入齒師は無くても齒の拔けた老人はあつたらうが、(371)是ほど病み苦しむものなら其方の醫術は、もう少し早く進んで居た筈である。第二章にも既に説いたやうに、食法の變化は此頃になつて急に烈しくなつた。それと口中一切との因果關係は、大抵の常識ならば想像だけは出來る。從うて其根本の社會的治療も、少しは考究せられてよいわけであるが、現在は寧ろ當面の對策ばかりに、或は若干の興味を惹かれて居るとさへ言へる。金齒は即ち金の指環に次ぎ、金縁の近視眼鏡よりも以上に、此機會に於て若い男女を修飾しようとして居た。それが出來ない程の人たちに取つては、全く内外からの責苦と言つてよかつた。

　醫事と生理に關する一通りの知識だけは、素人にも與へて置く方が便利だらうと考へられて、學校でも教へ又色々の通俗書が出た。少しく早手廻しに健康の苦勞をする者は、時を費してその知識を漁り、もしくはいゝ加減な受賣にも耳を傾けた。所謂衛生知識は一般によほど進んだやうに見える。併し其中で最も多く讀まれるのは、いよ／＼或病(372)氣になつてからの手當もしくは簡單に獨りで治さうといふ秘法の如きもの、是は容易に御醫者が來てくれず、又頼まずとも濟むなら濟ませたいといふ者に、特に人望が多いのも致し方が無い。其次から兆候によつて何病であるかを知るやうな參考書、此方は何れかと言へば弊害の方が多かつた。診斷は其道の者すらが迷つたり誤つたりして居る。さうと思へば思はれぬことも無いといふ症?は幾らもある。それに身勝手や取越苦勞が加はれば、言はゞ參考書は見本帖の如きものになるわけである。以前の國手の中には絲を繋いで、次の間から脈を引いたなどといふ話もあり、さうで無くても舌を見て意見を決するやうな人があつたといふが、今は之とは正反對に、容體の陳述が大變な重々しい手續になつて居り、中には裁判官のやうに之によつて略々判斷をしようとする者もある。さうして其材料が三分の二は、家事衛生の書物を應用した自己流の觀察なのである。醫師の爲にも間接には是が一つの混迷の種になつて居る。

　醫師會の料金率の申合せといふことが、最近では一つの問題になりかゝつて居る。是も不當な競爭者を抑へないと、下品になつて信用を失ふといふ理由であつたが、現在は既に其引下を以て、少しでも繁昌を圖りたいと思ふ者が、仲間のうちにも段々に多くなつて來た。そんな事をするよりは困る人だけに、無料ででも快く親切に投藥する方がよいといふ反對説も強いが、實際は無料や割引の恩惠を仰ぐほども困らず、さりとて今のまゝでは高過ぎて難澁といふ者が、最も多く病人を抱へて考へ込んで居る。だから是ほど醫者の多い大都市の中ですらも、種々なる買藥から祈?までが盛んに行はれ、死亡證の給付を醫師の事務にして居ることを不便に感ずる者さへ出來て居るのである。實費診療所や巡囘診療班が、活動し得る餘地は十分にある。しかも醫師會はさういふ實際の競爭者でも無いものを、今までは敵視して其發達を喜ばなかつた。簡易保險局が其利益の保護から、加入者の健康の相談に乘らうといふのまで、自分等の業務を害するものゝ如くに恐れ忌んだ。寺の坊主が檀家の凶事を待つて居るといふ惡評は前からあつたが、醫師の團體もそれに近い冤罪即ちわざと近所の者の健康の好くなることを、妨げて居るかの如き邪推を受けようも知れぬ。

(375)　是は獨り病苦の場合のみでもあるまいが、醫術も今までは少しく人間の不幸を個性化しようとした形がある。成ほど遺傳とか體質とかには隣人の與り知らぬものは多からうが、それをそこ迄持つて來た力には、特發といふものは殆と一つだつて無い。少なくとも日本人だから免れなかつた惰性、人も氣づかぬ故につい卷込まれた不注意、考へてしたことでも人の眞似、世の流行といふものが眼に見えぬ原因になつて居る。いやな花柳病が外國から渡つて來て、僅な間に全國に擴がつたなども、言はゞ人々の談合の結果であつた。一番大きな例は寄生蟲の問題だが、是も我々が念を入れて調査するまで、斯うまで循環し又牽聯して居るものとは思はず、從つて或人だけは丁寧なる介抱によつて、直ぐにも獨り全快するものゝやうに、考へて御醫者を頼んで居たのであつた。ところが之を原因から退治しようとすれば、そんな姑息な手段は無視しなければならぬ。一部が免れたといふことは些しでも危險の制限にはならぬのであつた。其代りにはもし共同して之を滅して置けば、生れない子孫の健康までが、或程度までは保障せられることになるので、醫者は乃ち個人の藥禮よりも、弘く社會の全體から、診察料を貰つてよいことになるのである。

　是と同時に又日本人の特殊の長處、或種の病に對する抵抗力なども、同じ觀方から發見して之を當てにすることが出來る。例へばモールスの明治初年の日記に、日本の夏は是ほど強い照りであるのに、どうして日本人は頭の中ほどを月代《さかやき》にし笠も被らずに歩きまはつて、日射病に罹らずに居られるのかと驚歎して居る。進んだ生理學は無論説明し得るだらうが、是は我々の夏は彼の國とは違つて、空中に許多の水分があり、しかも衣帶が至つて緩かで、放散代謝が自由であつたからだと思はれる。ところが是だけの原因の相異に就いてはまだ考へ及ばぬうちに、恰かも日射病も尚彼方を眞似て見たいかの如く、競うて帽子をかぶり厚地の小倉服などを着せて、今日の兵士や青年團は、もう決して此病から免疫はされて居ない。家にも食物にも此と似た失敗は多い。この種の思ひちがひは病氣以外の問題にも有るのだが、先づその當然に心付かせてくれたのは、研究ずきなる醫學の力であつた。勇氣や信心の既に衰へはてた闘病術を、やゝ復活させたのも群の力であつた。もしくは群に在つて多くの人の爲に、代つて考へてくれた人の力と謂　　(376)つてもよい。

　一體是等無數の團體の創設に際して、直接間接に指導經營の衝に當つたのは、新國家主義の尖端に立ち、新しく政府の官吏となつた舊い士族達であつたが、彼等士族たちは、曾て藩と云ふ大きな一つの組合以外に、その組合内で、更に別個の團結を作る事を壓へられてゐたから、他の農工商等が曾て各自の階級内で、それ／”＼に營んでゐた舊時代の自治組合の消長については深い理解を缺いて居た。元のまゝに踏襲して少しも差支無く、又發展せしめねばならぬ多くのものまで、詮議もなく之を弊履の如くにかなぐり捨てたのみならず、其代りに創設せらるゝものゝ事態に適合(378)するか否かゞ、最も大切な問題であつたにも拘らず、それを關係者同志の研究の爲に殘して置かなかつた。さうして政府が差圖して細かに定規まで作つてやつたと云ふ事は、他面組合の依頼心を徒らに増長させる事となつて、いやが上にも曾て組合が具へてゐた共同團體の自治力を、薄弱にしてしまつたのであつた。

　殊にその中でも注意せらるゝものは産業組合である。二十何億萬圓の巨額なる資金と、二萬の組合と三百萬の組合員數とは、實に現代の一大偉觀であるが過去三十年間に於て數字の上ではかくの如く成功し、且又多忙に仕事もやつて來たにも拘らず、尚效果は豫期せられしものゝ全部に及んで居ない。即ち救はれねばならぬ人々の自治の結合が成就してこそ、目的は達せられるのであるのに、その點の顧みられなかつた結果は、却つて比較的貧苦の危險の少ない者から、先づ國家の保護を受けることになり、彼等は從順に行政廳の指導に服する代償として、機關を利用して此通(379)り勢力を外に晴ることを得たのであつた。所謂公式脱税会社の悪評は、若干の場合には適中して居た。保險も相互の組織を以て經營することを必要と認めたのであるが、法律は餘りに其條件を限定した。さうして細かに手續を履んで、政府の認可を受けたものでなければ、保險事業を爲す事が出來ないといふことに定められ、當時少しづゝ發達の途にあつた各種の共濟事業は、何れも此條件に充たぬ點があつて、悉く解散を命ぜられたのは實に惜しいことであつた。以前の協同の實際の利益を記憶して居る者は、却つて新制の唯舊きものを何の詮議もなく捨て去るのに不服であつたが、統括時代の單一方針は、寧ろ目ぼしい地方の有力者に新事業を與へる事に汲々としたため、特徴ある各種の組合の發展は阻止され、一方無數の新設組合への參加を強要される人々は、益々從來の自治心を喪失して行つたのであつた。

　勞働組合もまたこの新しき團結の一つで、しかも法令を待たずに、自發した生氣のある協同事業であるが、其成立が自然に近いだけに、關係者自身にも意識せられざりし歴史、これほど豐富な記録の中にも書留められなかつた若干の苦悶があつた。それは前々章にも既に述べたやうに、移動して行く大量の勞働力の配賦問題である。非常に懸離れた兼業にも轉業にも、行くとして可ならざる無きは我國勞働者の著しい特徴であつた。土方黒鍬乃至はそれ以上の手錬を要する勞働でも、農村人は容易に學んで之に移ることが出來た。農業の技術は益々專門の習養を要して、他業よ(380)り之に轉ずることは殆と不可能となつた反對に、農業から他へ轉ずることは實驗上容易なのであつた。現に今働いて居る工場の人たちも、半分は村から出て居る。新たなる候補者も後に控へて居る。さういふ競望を全く杜絶しようとすれば、それは單に都市と農村との悲しい反目となるばかりでなく、府縣各郡の勞働者の間にも相互の救援を不能にする結果となるのであつた。此解決には無競爭區域の開拓、即ち海を仕事場とする者の増加に、多くの期待を持つのがよいこと、これも片端を既に述べて置いたが、海上勞働が今日の樣な自治に遠い?態では、我々は同胞を安んじて之に押遣ることは出來ない。早く此職業を自主獨立のものとして、過剰勞力の難題に多少でも解決の鍵を與へることを必要とする考が強くなつて來て居る。徒らに闘ふ組合は兎角率らるゝ組合になり易かつた。さうして組合員の個人の情合は絶たれ、新たなる親分制度の弊害を歎息する結果になり易かつた。實は今までは餘りに代表者や世話人に任せ過ぎてゐた。さうして少數の有力者の名利の爲に利用され、組合は常に正しい方向を失つて、基本的な政爭とは兩立せぬ世界へ漂うて居た場合も多かつた。新たなる團結は既に其弊害に心づいて、それから脱却すべく自分を整理し始めて居るらしく見える。

　馬鹿にせられて居た古くからの團結の中には、名前は兎も角も其心持だけは、唯忘れてしまふには餘りに惜しいものがあつた。人に作つて貰つたので無いものが多かつた。歴史が最も古く又久しく續いたものには講といふのがあつた。講は元信仰を中心とした仲間であつた。現在大工や杣人や木挽や石工等の團體と成つて居る太子講等は、曾ては他の職業にも弘く行はれで居た痕跡がある。太子は聖德太子の御事と今は考へられてゐるが、實際は神の王子といふ意味て、冬至は即ち其降誕會だとするクリスマスと同じ樣な信仰があつたらしい。後に種々な形に變つて、例へば弘(381)法大師を中心とするやうな團體も起つて居たが、其共同の問題はやはり生活であり職業であつた。伊勢講三峯講の類の宗教團が、諸國に澤山存在したのも、何れも共同の信仰が縁であつて、追々に世事を談ずる圃體となり、又生活を協同する機會となつて居る。毎年或は三月に一度づゝ位普通順番に二人づゝの代表が選まれ、參詣をして還つて世上の見聞を物語りする。團體の代表といふ事は既にこの時に始まつて居るのである。今日の汽車汽船の旅行とちがひ、此二人は峠を登り谷を廻つて、故郷とその風を異にした村や町を見學し、旅の苦勞の味を甞めながら、新しい知識を培つて故里に歸つて來た。講中は絶えず世間に見學者を出し新しい見聞を得てゐたので、きまりきつた土地の利害の話ばかりをしてゐたのではなかつた。いはゞ一つの研究團體であつたのである。

　講が仲間の難儀を救ふ一種の共濟組合となつて來たのはまた自然の推移であらう。さうしてその臨時的制度までが、次第に常設のものとなつたのも亦さういふ必要の存在を推測せしめる。頼母子はもやひ〔三字傍点〕と謂ふ地もあるが、元は講であつた。其永續を望んで無盡講と云ひ、或は萬人講、牛馬講と云つたのも信仰の語から出て居る。無盡には最初から一致の目的があつた。やはり起原は神社佛闇の祈願參拜の入費を得んとしたのかも知れぬが、それでなくとも誰の家をたてようとか、誰が金や或は牛馬が入用だとか云ふ時に無盡が起された。一人の或希望を合力するのが主であつて、それで寄貸講などの名も始まつたのであつた。一つの郷黨では冠婚葬祭も亦一種の無盡であつた。即ち一度の救援を以て終るべきもので無かつた故に、追々に相互の法則が綿密に設けられた迄である。ゆひ〔二字傍点〕といふ制度も今は限局せられて居るが、曾ては共同作業の全般にも及んで居た。さうしてもやひ〔三字傍点〕といふ語の意味も是に近い。恐らく家が分解し(382)て個々の生計が小弱になつて後まで、尚談合を以て力の及ぶ限り古くからの共同を保留したので、特に新たに發明せられた方法では無かつたやうである。

　唯是が頼母子に應用せられることになると、其性質は丸で變つてしまつたのである。即ち衆議の向ふ方は示さずに、單獨の強い意思のみが發露することになり、仲間の各員はたゞ自分たちの利益の爲に、最も思ひ切つた割引を承認する者に、第二囘以後の集金を貸付けることになり、僅に餘裕のある人々が、村に居て高利の興味を解するやうに傾いて來たのが變遷である。其間に立つて周旋の勞を取ることが、次第に職業の一つに認められ、末には無盡業などといふ名目さへ起つたのは、確に内容の新たなる追加であつて、從うて又講といふものゝ最初の目途からは遠ざかつて居るのである。ところが此變遷の餘りにも徐々であつた爲に、今以て其差別を意識せぬ者があり、相變らず之を村共同の美風と見ようとするが、それが無理であることだけは取締の法文を見てもわかる。以前は寧ろその法文よりも強力なる制裁が、共助制の根底を支持して居たのである。如何なる仲のよい信用組合に於ても、感ずることの出來ぬやうな同志への義理、一人が他の總員を欺き裏切つてはならぬといふ約束が、主催者の仲介と知らぬ人々との結合によつ(383)て、段々に力薄くならうとして居るのである。他の幾つかの團結も皆同じことであるが、各員は單に中心を爲す二三の人物と繋がつて、稀には師父の如き深い親しみを抱くやうな場合さへあつても、彼等相互の間の交渉は至つて淡い。利害の相容れぬものゝ有ることに氣付かなかつたり、もしくは知つても之を露はにすることを避けたり、或は單獨に之に備へたりして居る。それ故に組合もしば／＼空名となり、分裂の危險が常にあつて、いつでも其次に來るより強い者を、祈念して居なければならぬのであつた。

　問題は年と共に六つかしくなつた。今までこの青年團が示して來た長所は、先づ第一に働く事であつた。道路改修に植林に、或は救難作業等に、その逞しく朗かな勞働振りを示した事であつた。晴の氣持で働く共同作業の愉快さは、團員にとつても又健全なる興味であり刺戟でもあつた。此齡此境遇の者に限られた身體の剛健さが、自由に誇り又は讃美せられるのも好機會であつた。斯ういふ張り切つた氣持は小學校へも感染し、一方には又既に青年時代を通過した先輩たちをも動かして、少年團壯年團の組織活躍が可能なるものとなり始めた土地も多い。青年訓練所もその指導(384)の偏向に就いては問題があつたが、一樣に共同勞作の氣風の涵養については、相應なる效果が認められる。勞働の辛さを氣特のよい掛聲や拍子で輕めるとは面白い國民性であると、前にも或西洋人は評したことがあるが、それは少しづゝ實は衰へかゝつて居たのを、新たに彼等によつて復活したのである。共同勞働の愉快さはかうした處にも發露してゐるのであつた。

　處女會女子青年團の進出は、男子青年團の革新よりも又ずつと後れて始まつたが、此方は將來の家庭の計畫以上に、適切なる共通の問題は無かつた故に、いち早く婚姻の改良といふことに注意を拂ひ出した。儀式に華美を衒ふ必要は無いといふ類の、反省的の決議をした例も多いけれども、大抵はもうすこし根本に入つて、男子の配偶者とするに適せざる者を指摘し、酒癖と性病の懸念ある者とを排除すべきことを聲言して居る。是が實行し難くして始から不滿足(385)の嫁入をする者が無いか、もしくは警戒の爲に佳期を失することは無いかといふ心配もあるが、果たしてたゞ附燒刃の雷同附和で無かつたならば、次には當然に如何なる種類の婚姻が、最も新時代の女性の希望すべきものなるかを、積極的に考究しようとすることになるであらうし、少なくとも如何に多くの家々の貧苦が、拙劣なる縁定めから來て居るかといふことに、注意を拂つて見る端緒にはなるので、效果はたゞ單に青年の行?を批判するに止まらぬことゝ思はれる。

　主婦會母の會の團結の目的は、最初から實はやゝ限られたものであつた。それには比較的問題の少ない人が集まり、成るべく自分たちの胸を痛める内?に、觸れない部分に於て共同をしようといふ形があつた。名士の講話を謹聽しない場合には、必ず少數會員のこれに劣らざる雄辯に、耳を傾けさせられてそれで閉會した。實行の伴なうて居た討究の主たるものは育兒法、これだけは確に銘々の自信を強めて、少なくとも不良兒を天災と解するやうな、迷信だけは無くしようとして居る。婦人參政權の要不要の問題と關聯して、いつでも多數の主婦に考へられて居たことは、果して自分たちに我家以外の事まで、調査講究して見る餘裕があるだらうかといふことであつた。古來の貞婦烈女には、一身を家運の美しい犠牲とした者は多いが、家が幸にして平和安寧であつた場合には、その餘つた力を社會に施すといふ機會は誠に少なかつた。今度は新たにそれが出來るか否かを試みようとするわけであるが、馴れぬ仕事である爲に、まだ十分な自信が無いらしいのである。しかもそれが澤山な時を費して、わざ／＼學ばなければならぬほどの知識で無く、何れの家庭に於ても大か小か、常に妻たり母たる者の考へずには居られなかつた問題が、實際は國と時代との通有の型であつたことを、氣付かない家が多かつただけである。一人のよき考案が全體に應用し得ると共に、是が社會的の解決で無かつたら、一家にも功を奏しない。さういふ相關の理法を覺らせてくれるものも、やはり亦團體生活の他は無いのであつた。たゞ今日までは餘りによく説く人と、餘りに黙々として拜聽する人とが雜居して居た爲に、知識の交換がともすれば制限せられて、時勢を談ずることは男子の獨占のやうになつて居たのであるが、實際は(386)彼等も亦各自の家刀自から、教へられて居たことが多かつたのである。

　しかも女の團體が一段と活躍することになつたら、社會は或は今日よりも更に平凡化するだらうといふ懸念だけはある。男の仲間に於ても所謂大勢に敏で、人の多數のすることが正しいのだらうと、速斷するやうな者が非常に多い。それも各人が皆同じことを考へて、暫く顔を見合せて黙り込んで居るうちに、或一人の出しやばりの思ひ付き、もしくは豫て支度のある若干名の巧らみが、其儘全會一致になるやうなことばかりである。女性はさういふ内にも人竝といふことを重んじ、強ひて異を立つるを嫌ふ風が強い。右とか左とかの判斷になれば迷はぬ者も、一つしか無い案には批評をする力が無く、後には諦め切つて大勢に順應し、又は御多分に洩れぬといふ主義で、最少限度の安心を得ようとし易い。會の頭數は常に勢力ではあるが、それにも流行を以て加入する者が少なくなかつた。日本に會創立を技能とし職業とする者が現れて來たのも、實際は團結心の弱い人が多いからであつた。多くの婦人團體はいつも其生活力の弱さを以て、直接に會といふものゝ當てにならぬことを覺らしめ、更に其改造の必要あることを、我々に實驗せしめただけの功績をもつて居る。

　この事實は僅ばかり以前の經過を考へて見ればよくわかる。村々の生産が未だ盛んであつた當時には、人は心靜かに我境遇の趣味といふものを保持してゐた。尠くとも現在の樣に國の南の端と北の端とが、一時に同じ流行に卷込まれて悦ぶと云ふ樣な、不思議な現象は見なかつたのである。それが村の生産の大部分を商人資本に引渡すと、忽ち一切の好みが彼等の思はくに指定せられ、多くの農民美術がたゞ若干の好事家に、捜しまはられるものとなつてしまふのである。野暮とか無細工とかいふ語を氣にする者は、却つて農民の中に多くなつた。曾て趣味豐かだといはれた地方にも、都會からは田舍向きと云ふ品が入つて來る。それが地方人の憤怒と反抗とを買ふ爲に、却つて都會化の奨勵を容易にすることになつたのである。田舍向きと云ふのは少し流行に遲れて、少し安く又品が惡いと云ふだけのことでもあつた。生産が若し順當な經過を取つて居たならば、さう多くの廢れ物が出來る筈はなかつたが、事實はさうでなかつた故に、いつでもやゝ鑑識力の淺薄かと思ふ田舍を、捜しまはつて處分しなければならぬことになつたのは、誠に殘念なるまはり合せであつた。まがひ〔三字傍点〕といふ言葉が贋といふ語に代つて、横行闊歩し始めたのは明治からであつた。洋銀といふのは銀で無い金屬であつたが、銀と名が附く爲に相應に賣れた。新縮緬といふ名は絹絲織で無いものを、澤山に買はしめる宣傳名であつた。大正に入つてからはさういふ品の多數が、必ず文化といふ二字を頭に置いたのも一現象であつた。男物の興味を普遍ならしめるが爲に、都市はあらゆる力を傾けて地方と個人との趣味を塗り潰した。その大きな武器は亦、他でも多數の人が之を喜んで居るといふ風説であつた。斯ういふ點にかけては元は我々は氣の毒なほど從順であつた。

　流行の變遷はかくの如くして常に都會が指導した。地方は其事實を知るに遲れ勝ちであつた結果、いはゞ何時でも流行の尻ぬぐひばかりをさせられて、反動の憂目までも引受ける役にまはつたのである。是が自然に發生したにして(388)も、尚悔恨の情は免れぬのであつたが、事實は昔から蔭に居て絲を操る者があり、それが又やがて下火になることを豫想してかゝつて居たのである。明治以前の流行は必ずしも都市に起らず、又各郷土の趣味までには干渉しようとしなかつたが、それでも約六十年目の伊勢の御蔭參りなどは、其發生地に於ては或種の機關《からくり》が巧まれたと傳へられる。近年のものは利欲の動機が露骨だといふのみで、此技術にはたしかに傳承があつた。今に公開せられるだらうが、現在はまだ秘傳のやうになつて居る。近年の西洋小鳥の流行などは、最初極めて目に立つ方法を以て、五度か七度法外な高値の取引をして見せるだけのことで、それから以上は世間で評判を作り、僅な間に有得べからざる相場が出來、豫て用意して居る者を儲けさせてくれる。さうして結局は最も實着な、最もおくれて流行に參加した者のみが、損をして倒れることゝなるのである。小鳥が無代價になる頃には、もう一度萬年青を流行らせようと企てた者があつたが、此方はあまり成功しなかつた。是は四十年ほど前に是でひどい目にあつた記憶が殘つて居たからであらう。實際萬年青の以前の流行は怖ろしいほどのものであつた。それから一つ前には兎の流行があつた。是も珍種が跡々から出て來るやうになつて居て、仲買や賣込商が一番に利得をした。さういふ風説の原を知つて居る者だけが、汐時を見はからつてさつと退くと、人造の景氣などは忽ち消え去つて、殘るは只奸商に對する憤慨の聲ばかりであつた。

　豚の田舍に入つた起りなども、日本では亦この流行であつた。緋豚といふのが生れたら千兩に買ふといふと、農民はそれを樂しみに幾らでも仔を生ませた。緋豚の生れぬうちに飼料の金が無くなつて、夜陰ひそかに人の山林や、又は離れ島などに持つて行つて棄てた。それから以後にも動物の流行には、何れも少しづゝ此宣傳が用ゐられたが、宣傳のみでは目的は達し得なかつた。必ずこれに伴なうて一方に呼應する者、自分も利益を信じて友を勸める者が、澤山に介在することを必要としたのである。甘んじてこの流行の奴僕となりつゝも、自分は之を以て新たに得た趣味の如く、樂しみ喜ぶ者が無かつたならば、斯樣な珍しい世相は出現するわけが無かつた。無邪氣で人の言ふことをよく理解する幸福なる氣質が我々を累はして居る。人の多數の加擔するやうな事業に、損を與へるやうな原因は潜んで居(389)るまいといふ推測、もしくは今一段と氣輕に判斷を他人に任せて、自分はこの一旦の群の快樂に、我を忘れて遊ばうといふ念慮は、社會の今日までになる間に、是非通つて來なければならぬ必要な一過程であつた。日本は國が一つになつたといふことを、案外に新しく意識した國であつた故に、斯ういふ共同生活の樂しみも又弊害も、共に今頃になつてから、念入りに味はつて見なければならなかつたのである。

　群の行動の新たなる愉快は、市と祭の日を搗き交ぜたやうな點にあつた。以前も知らぬ人が多く家に集まれば、吉凶に拘らず小兒などは昂奮したが、それが或一つの興味ある事實、もしくはもう一段と眞面目なる協同になると、自分のしたいと思ふことを是だけの多數が、共々に念じて居るといふ心強さは、群の大きさと其分子の複雜さとによつて、比例以上に我々を嬉しくしたのであつた。都市の魅惑の神秘なる力も是に在つた。故郷の見馴れた人の顔の中では、國が大きく且つ鞏固になつたといふことも、言はゞ單なる推理上の事實であるが、世間へ出て見れば我々は直ぐに實驗する。喧嘩も一種の社會生活であると言つたのは、害よりも經驗の方が大きいからであつた。都府の文物の國家意識を強めたのも、恐らくは或政治家たちの古く意識して計畫したことであつた。ところがさういふ諸種の儼然たる制度から獨立して、國民は自身も亦進んでさういふ機會を求めて居た。祭禮や市の日の如き特に必要のあるものゝ外に、何かの折には殆と偶然のやうに、多人數が寄合つて一つの方向に目を集め、所謂面白の光景を作らうとしたのであつた。其中の殊に亂雜で又氣まぐれなものは彌次馬の群であるが、是に近いものは其以外にも色々あつた。西洋の人たちは早くから行列といふ樂しみがあつた。日本にもそれは古くから有ることだが、動く者はたゞ少しで、他の大部分は止まつて見物となり、又は後から順序も無く群れて跟《つ》いて行くのであつた。之を隊伍に組むやうになつたの(390)は、軍隊生活の影響かと思はれる。學校が夙く其整理法を採用し、今では大變な人の數が、斯うして街上を動くやうになつた。憲法發布以來の度々の國の悦び事には、提灯や旗の行列が普通になり、その美々しさは團體行動の愛着をさへ生ぜしめて居る。我々は歴史として永く傳はるやうな大事件を、常に此方法を以て味はつたのみならず、尚追々には自分たちの生活をも、出來るなら斯ういふ形にして眺めて見ようとした。

　春秋の遊山は運動會と改まつて、非常に賑はしく又活氣のある、殊に少年たちの悦ぶものになつた。酒や三味線といふ小人數の樂しみは家に隱れて、跳ねたり飛んだりの無邪氣な遊びが多く加はつた。運動といふ語はもとは出遊といふ意味にも使はれて居たから、是もさういふ所から普及した名稱かも知れぬ。兎に角最初は誰も彼も、此日ばかり出て競技に携はるやうであつたのが、晴といふ感じが強くなつて、程なく其道の修行が盛んになり、選手といふものを用意するに至つた。外國の多くの競技法には、不思議なほど日本人は早く上達した。それで自然に此團結が二つに分れて、僅の人數の其手腕を人に示さうとする者と、じつと見物して只感歎の聲を放つ者とになつたことは、是亦他の多くの社會運動と似て居るのであつた。文部省が頻りに調査をして居る農村娯樂といふものゝ中にも、我々の目前に於て、此變化を遂げたものが多かつた。歌や踊はもとは衆人の共にする所で、假に今年は加はらぬも十年前に加はつた人、もしくは五年後には加はるべき人のみの群であつたのが、優秀な者が現れて大きな喝采を博すると、それが惜しくて他の多數は見物の地位に退いてしまふ。さうしてそれが職業になるならぬは別として、兎に角に特殊の技藝團は成立ち、今までの團體は改めて選手を應接し又支持する會と化するのである。各地の學校に絶えず起つて居る選手制度の存廢論といふのは、つまり團結がたゞ百分の一の天才を養成する機關と變じても、尚之を體育奨勵の方法と言へるかどうかといふ問題に歸するのであつた。ゴルフやスキーや今日の登山術のやうな、金と時間の多分に有る者しか樂しめない體育に比べると、此方はたしかに何人も參加して居る。たゞ其參加が自分たちの力瘤を代表して貰ふだけの關係では、何としても見物大衆を以て、連動の團體とは謂ふことが出來ぬのであつた。

　單に群衆の興味を、一つの點に集注させる爲には、實際は是ほどの必要は無いのであつた。馬の賭は英國の紳士などの古い惡癖であつて、日本はたゞよからうと思つて眞似ただけであるが、競馬といふことだけなら昔からあつた。三月三日の?合せに對して、五月五日の馬競べは神事であつた。角力や射的ももとは同じと思はれるが、單に自分の仲間の最優秀なものを選出して其技能を比べさせ、其結果によつて、神の志の何れに厚いかを卜知した方法であつた。馬は最初にはたゞ裸馬を走らせた例もある。それよりも各人の御術が加はると效果が複雜になるので、京の賀茂などでは神人が之に乘つて走つた。賭は無くても見物は一年の幸福を之にかけて居た。闘牛闘犬などのやゝ慘酷な競技でも、制して止めないやうな地方には久しい慣習があつたので、面白いといふことの起りには、觀衆の熱烈なる贔屓といふものがあつたのである。負ければたゞ屠られてしまふやうな哀れな選手でも、場に臨むまでは主人の如くかしづ(392)かれて居た。牛馬は草食の獣であることを知りながら、是に卵を飲ませたり蝮蛇の肉を食はせたりして、勇め勵ましつゝ牽いて來た飼主も多かつたのである。勝つた場合の大いなる感謝は、幾度か涙の場面をすらも演じさせて居る。名譽といふ言葉は斯ういふ時の爲に、豫て作つてあつたやうに適切な語であつた。力士名士が、一村を代表すれば村のほまれ〔三字傍点〕、府縣を代表すれば府縣のほまれだといふことは、此沿革から來て居る。學校の選手は實際に學校の聲名を代表して居た。ましてやそれが一國の中から選り出されて、負けまいと思つて外國に迄も出て行く時には突如その地位が一個の若々しい英雄となるのは、當然過ぎるほどの結果であつた。

　贔屓をもつて居る人の生活は張合ひがあつた。第一に今まで名も知らなかつた同志者が、前からも後からも顯はれて來る。さうして見て居るうち其數が群になる。擔いで居る人からは、純眞なる感謝を受けるのみならず、戀や婚姻とはちがつて嫉みの累ひが無く、寧ろ仲間の中からも禮を言はれる。故にもし他に何も無ければ捜してさへ贔屓にすべきものを求めて居る。役者その他の藝人は之を命として居た。後援會といふものは大きな政治家までが、少しは手を廻しても其成立を念じて居た。人が何かの機會に結合して見ようといふ心持は、しば／＼目的よりも先に發生して居たのである。會や組合の無際限に出現し、一つ纏まつたら又二つに割れようとする傾向なども、要するにもと孤獨の淋しさからであつた。郷黨を榮えしめもしくは貧苦を脱出するといふ類の切迫した必要が、多數の力で無ければ成功せぬといふことを、ちやうど斯ういふ團結心の盛んになつた際に、我々が感じ得たことは大いなる好都合であつた。たゞ一つの氣がゝりは是も數あまたの催しの一つ、出來ては又割れる尋常の結合の如く、高をくゝつてかゝる者の少なくないことである。會の出來やすいことも日本は世界無類だが、それが潰れたり、命の無いものになつたりすることも、亦離婚や不幸なる婚姻の比では無いのである。現在は寧ろ多くの無意味なる團結を抑制して、個人を一旦は自由なものにすること、それが有用なる組合を成立させ、又豫定どほりの事業を爲し遂げさせる手段と言つてもよいのである。單なる團結心だけならば、我々は決してそれに不得手なる國民では無かつた。

　あらゆる學問藝術の方面に於ても、天才は常に此形式を以て發見せられた。世上にこの己を空しうした天才尊重がもし無かつたら、群の生活は此樣に明るい未來を示すことは出來なかつたらう。假に彼等の一生が酷使せられ、末路は寂寞たる拔殻の如きものになつてしまはうとも、其事業は尚團體の中に活きて行くことが出來るわけである。併し實際は是は得易からぬ遭遇であつた。我々の註文が既に奇を好むに過ぎて居た上に、修錬の必要も無い生れながらの(394)英雄などといふものが、今はさう澤山に居らう道理は無いのである。しかも一方には共同の興味は増加するばかりで、之を總括すべき者の需要は益々多い。ちやうど贋物の幾らでも出現して、濟まして擔がれて居るには似合はしい時節であつた。或は形勢の自然の推移を信じて、知りつゝ碌でも無い者を押立てゝ居る場合もあつた。文學の諸派には批評の術を利用しつゝ、誰かを偉くして中心を作らうとするやうな企てもあるらしい。英雄自身の自惚は別にして、是がたゞ單なる必要の一機關として、團體に迎へられる傾向は既に見えて居るのである。

　選手養成に關する競技界の新風習は、この問題の將來を暗示して居る。最初はどこでも通常の多くの青年の中から、その稍々超凡なる成績によつて、前途有望の者を見つけ出して悦ぶのが元で、次には之に對して出來るだけの便宜を與へ、あらゆる激勵を以て先づ其自尊心を成長せしめる。しかも其勝利が花々しく續いて居る限りは、多數は甘んじて讃歎者の地位にへりくだり、少しでも其事業の妨げになることをせぬのみか、時には臣僕のやうな敬愛の眼を以て、仰ぎ視んとする者さへ多かつたのである。此事實は我邦の英雄崇拜主義が、可なり國民性の深い底の方まで、根をさして居ることを語るもので、假に相手が國技館の力士等の如く、單純無邪氣で且つ後々のことを考へぬ者で無い限りは、其地位は幾らでも利用し得られるやうに出來て居るのである。近頃の團結の頻々たる不成功、組合内訌の群行動を無意義にして居た原因は、其大部分は我々がまだこの新たなる選擧制度に、徹底し得なかつた弱點から發して居る。過渡期の混亂時代は思ひの外永く續くものであつたのである。

　角力は最初から個々の地方を代表して、全國の統一を保ちにくいものであつた。今でも番付には生國を頭に戴き、故郷の山川を名に名乘つて、割據の昔の面影を留めて居る。勸進相撲の巡業は古くからの習ひであつたが、それは一種の挑戰であり、また多くは征服の企てであつた故に、不思議の飛入があつて關取を負かして還したといふやうな、昔話がよく傳はつて居る。有力なる諸國の國持大名が、多分の費用をかけて扶持したといふのも、即ち亦特殊の養成法であつた。時代が一變して彼等の保護者は手を引いてしまひ、四民は自由にその贔屓を選むことになつて、人氣の(395)中心が大衆に移つて行つたのは、一時はこの競技の興隆の徑路のやうに見えたが、それでは部屋々々の對立といふことが無意味になつた。第一に協會が困らなければならなかつたのは、この澤山の未成品の養成であつた。個々の聲援は氣儘なもので、到底忍耐して或一人の完成までは待つて居てくれぬ。そこで觀覽料を唯一の資源とする爲に、?々同じ部屋の者を東西に分離させたりして、少しでも見物の好奇心をそゝらうとした爲に、いつとなく後援者の團結は崩れてしまつたのである。所謂八百長の疑惑が人氣を惡くしたのは、つまりは選手が團體の一つの機關であることを、忘れてしまつた結果であつた。

　各學校の體育設備が、最初何の目的で起つたかを知つて居る者は、寧ろ今頃選手制度の存廢が、問題になることを訝しく思ふ位であるが、一方には又この對抗運動ほど、群の興味を集注させ、圃結の意識を鞏固ならしめ、從つて各員に最も快活なる服從を受諾せしめる手段は無かつたのである。たゞ多くの場合には此手段が第二第三の目的にも利用せられて居た。それが一旦は之を當初の?態に引戻して、組合の本質を省察し直さうとする者に、問題として把へらるゝことになつたのである。論理の缺點は斯ういふ事業には普通であつた。それに氣が付く度に以前の團結は多くは解體し、さうして又新たなる專横が代つて現れるのが、是までは最も有りふれたる順序となつて居た。つまりは人間の獨行し得ない心、殊に自分は突端に立つて烈しく働くに適しないといふ自覺が、いつでも多くの協同事業を、たゞ單純なる後援會の如きものにしてしまふのであつた。現在の實?からいふと、人は結合の必要を感じて居るといふよりも、寧ろ大將のナポレオンの如くなるものを、懷かしがつて居ると見る方が當つて居る。少なくとも群の中心となることは愉快なことであり、又個人としての小さからぬ利益であつた。是が毎回の總選擧に際して、滑稽なる候補者の亂立する動機でもあつた。

　是は個人の教養がもう一段と進んで、誰でも名指されゝば一役は勤められるといふ迄にならぬ限り、尚當分は遁れ難い弊風であつた。ことに地方に於ては粗略になつて居る他郷の知識が、少しづゝ加はるに伴なうて、遠くから眺め(396)て居る者の優秀が先づ認められ、仲間にさうすぐれた人は有る筈は無いといふ、一般的の不信用が段々強くなつて、自治の氣風は寧ろやゝ衰へんとして居る。以前は之に反して内からで無ければ、大人物は求める途が無かつたのである。勿論門地なり才分なりの、自然に具はつたものを發見した場合もあるが、尚それから以後の養成も大きな力であつた。大抵は衆望によつて推されたといふ感激、それから多數が期待して居るといふ意識が、急に其人の人格を大きくし、しば／＼他の仲間の者の爲し得ざることを敢行させたといふことは、有名なる古來の義民烈士等が、もとは尋常農家の一戸主であつたことを考へてもよく判る。斯ういふ人たちの蹶起は常に其家々の破滅であつた。名譽利得の誘惑は一つも無いばかりか、往々にして自分一個の計畫も抱負も無く、單に團體の爲さんと欲するものを爲したといふだけに過ぎぬ者さへあつたのである。それを見つけて育てゝ行くだけの忍耐が無く、居さうなものだと周圍ばかり見まはす樣になつて、追々に鸛鳥の王樣が天降るやうになつて來た。それにも似せ物が數多くなると、團結は彼等の商品に化してしまつて、自分たちの共同の計畫は名ばかりとなり、もしくは頭數の取引の機械のやうに考へられるのであつた。

　教育は無暗に細かく、人の才能に差等を設けようとして居た。さうして何にするかは未定であつたが、兎に角、偉い者になれといふ教訓は、家庭でも學校でもくり返されて居るのである。人を事務員にするやうな課目ばかり多かつたにも拘らず、一方には何でも無い人々の進出した實例が相應に多いので、誰しも之を教育の力と解せざるを得なかつたのである。最初から凡庸の部に編入せられた者は寧ろ氣樂であつた。やゝ卓越した者が日本では非常に迷うたのてあつた。しかし結局は似たる境遇の者が歩んだ途に、忍んで追隨した者に時々はよい運が微笑んで居る。餘りに自(397)信が強く激勵の痛切であつた青年だけが、先づ奮闘の生活に入らなければならなかつたのである。ちやうど、英雄運動の可能なる時代が、彼等の前に展開したといふことは、國の爲にも決して幸福では無かつた。團結の必要は新たに増加したとは云ひながら、其中心の力を外に求めるといふことは、實は最初からさう容易なことで無かつたからである。乃ち多くの特長ある人物は、豫め同志の間に養成せられようといふ用意無しに、突如として來つて自ら薦めたのであつた。

　人物月旦の頻りに集會の話題となつたことも、明治文化の一つの徴象であつたと言へる。是は必ずしも從來の傳記式史學の影響とのみは言へなかつた。彼は人間の活躍のもう終つてから後に、微細に其考課を問はうとするのであつたに反して、此は所謂未成品が興味を惹いたので、中には餘りにも早めに頼まれて書いて遣るといふ類もあつた。名士と名のつく者が少しばかり多くなり過ぎた。彼等の前途は豫言の爲に累はされがちであつたが、大抵は若干の之を推す者との因縁から、實際の必要は無くとも團結しなければならなかつた。會が無意味になつて折角の入用に臨んで、眞面目な加擔者を得難くなつたのも、原因は誠に餘儀無いものがあつたのである。しかも創立者とか專務の理事とかいふ者と、會との關係は餘りに深過ぎた。それを別れると彼等は衰へたのみならず、彼等が去つて行けば會も又潰れる場合が多かつた。財産でもあると大抵は彼等が疑はれ、之を非難も無く管理して行くことが、後には殆と唯一の會務となつてしまふ。さうして之を次の理事者に任せることを乘取られたなどといふ者さへあつた。

　斯樣な微弱なる生活力しか持たぬものが、普通に會と呼ばれる習はしであつた故に、何か今一段と耳に立つた名稱を以て新たな團結を差別する必要はあつたが、その組織方法と指導精神とを、外間の智能に仰ぐ限りは、同盟と謂はうがはた聯盟と名乘らうが、人が大きな要素になることは免れ得ない。祈念はたゞ其人が自分の爲で無く、一時の機關として必要な間だけ、働いて次の中心を養つて置いてくれたことであつたけれども、是が思ふ通りに行かなかつた例は多かつた。實際は同じ程度の能力と聲望とをもつ者が、多いほど團結は頼もしい筈であるが、兎角さういふ場合(398)には地位の簒奪が起り易く、之に對する常住の警戒と防衛とが内部の生活を多事ならしめる傾向がある。理論は通例大同小異といふ程度の、一致を以つて始まつて居る。末の末までも符節を合するやうに、同じだといふことは期せられるもので無い。それを仔細に比較して見ようとするのが、既に分裂の止む能はざることを、想像した人々の行動であつた。假に何かの方法を以て一時の破綻を防ぐことを得たとしても、もう此?態に在つては實際の成績は擧がらないのであつた。

　選手制度の流行は確に群の結合力を強めたが、同時に幾分か、我々の英雄を小粒にした形がある。國でも事を外部と構へて居る間は、自然に内輪の小さな競爭を中止して、先づ眼前の主たる不安を脱却する氣になるが、それと同樣に共同の敵手の發見は、この何時でもよい問題を延期せしめ、我慢の出來る程度の人物を押立てる爲に、各自の批評を抑制することになるのである。意外な天才をその未だ完成せざる前に發見したり、是に餘分の自由を付與して伸びる限りの能力を發揮せしめようとするのも、大抵は此機會である。我々の郷土愛の成長には、?々壓迫の苦しい記憶が附隨して居る。人の犠牲の尊さが感じられるのは、個々の自然の力だけでは競爭に勝ち得る見込の立たぬ場合であつて、ちやうど家貧しうて孝子現はるといふ諺の通りであつた。其代りには團結そのものゝ孤立は、何としても忍ばなければならなかつた。或は出來るだけこの互ひの相頼るの念を鞏固にし、又永く持續させる爲に、わざと必要も無い強敵を殘して置くやうなこともあつた。強ひて周圍の利害の抵觸するものだけを問題にして、外に對する不信用を大きく説くやうな場合も無いでは無かつた。ことに自ら推薦する頭領たちの雄辯は、通例は最も此點に力を傾けようとするのであつた。地方の小さな要求の、國の政治を累はすやうになつた起りは、大抵は仲に立つて一部の關係者に親切を盡さうとする者が、同時に彼等の割據を便とするからであつた。此結果は團結は單に一區域の急務として認められるのみで、外に對しては却つて相反撥するの力となり、たま／＼問題の大きな協同に依つて、始めて解決し得るやうなものがあると、それだけは全然彼等の力の及ばぬものになつてしまふのである。

(399)　國を一團としなければならぬやうな大きな聯合には、政府は出來る限り公平なる援助の手を伸べようとするのであるが、現在はまだ其中から、自然の中心を作り出すまでの支度が整うて居らぬ。非常に興味の深い群の行動であるだけに、之を指揮する地位を競望する者が、際限も無く現れて來て、衆議の向ふ所によつて決を採らうとすれば、必ず聯合その物が分裂する結果になるのであつた。それ故に今は甚だしく無理な技巧を用ゐて、辛うじて一致の外形を保たしめんとして居るのであるが、斯ういふものには假に名ばかりの決議をすることが出來ても、それは唯將來何か此以外の方法によつて、別に其希望を實現させる必要があることを、公認せしめたに過ぎなかつたのである。折角地方で澤山の犠牲を拂つて、養成して來た選手が小さ過ぎたといふことを、經驗して還るのが責めてもの收穫であつた。しかも一方には果して理想通りの大英雄が出現したにしても、是に現在の社會病を治療するだけの、十分なる威力を付與することが出來るかどうかといふことも問題になつて居る。英雄は既に神からは遠いものになつてしまつた。彼等が我々の無邪氣な信用を博する手段は少なく、評論せられる機會ばかりが、年と共に多くなつて來て居るのである。

　親分の素質は必ずしも非常に低下しては居ない。彼等の人心を收攬する手段は今も昔の如く、此上も無く辛抱強いものであつた。假親烏帽子親などの習慣こそは無くなつたけれども、人が自分の生みの親以外に、誰かに引立てゝ貰はなければならぬ必要だけは、却つて封建時代よりも大きくなつて居る。從うて親分の腕を揮ふべき場合も、亦決して少なくはなつて居ないのである。最も主要なものは職業の指導であるが、是は現在のやうに新たに發見しなければならぬ人が多くなれば、彼の力を須つことは愈々切でなければならぬ。此以外にも縁談の口きゝや寄寓者の世話、借金の整理などは以前よりも多く、頼まれゝば喧嘩の仲裁なども彼等がした。大抵は氣質性癖もしくは一種の惰性の如(400)きもので、強ひて報償を豫期して之に携はる者の無いのであるが、其が又可なりの大いなる力となつて戻つて來るのが、古くからの法則になつて居た。世が改まつても日本では是だけは變らない。或は時代の必要が幾分か之を強めて居るかも知れぬ。少なくとも他の方面では既に衰へて居る爲に、この關係ばかりが目に立つやうになつた。

　恩義といふ言葉が此無形の報償を意味して居る。それを忘れる事は借金を返さぬ以上に、惡い行爲と認められて居る。恩義には定まつた形とても無いが、先づ第一には言ふことを聽くといふ要件があつた。動機の善惡は問題の外に置いて、必要があるならば親分を助けなければならぬ。普通は幸ひにさういふことが要求せられぬが、場合によつては惡事でも庇護すべきことがある。少なくとも永遠の雌服だけは、當然の事として認められて居たのである。だから澤山の人を世話し得た者は英雄であつた。もし一方の首領となつて見る氣があるならば、彼等の大部分の擔いでくれることだけは、豫算の中に入れて置いてよかつたのである。ところが實際に於ては親分の其地位を利用する者が、段々に少なくならうとして居る。寧ろ其力を新たなる恩義の爲に役立てようとする方に傾いて來た。是には親分が大抵は年を取つて、今更新規の計畫に携はるだけの氣力を無くして居るといふ原因もあつたらうし、最初からさういふ創造性は無くて、人の世話以外の活躍には向かぬといふことも有つたらうが、それよりも大きな理由は此轉換は實は簡易の事業では無かつた。有る限りの恩義を巧妙に統括して見た所が、尚有力なる一つの團結を完成するに足らなかつた。第一に困難なのは子分たちの一致であつた。それが相互の聯絡を保つ爲には、又新たなる勞働を必要とした。それが煩はしい爲に多くの親分は斷念して居る。つまりは事業の方が法外に面倒になつたのである。親分の力は必ずしも以前よりも衰へて居るわけで無いのである。

　野心ある小英雄の候補者等が此術を試みた者は皆失敗して居る。少なくとも成功を見る以前に中止して居る。動機の最初からやゝ露骨なのが輕蔑せられた外に、目的のある者には是は稍々まだるい手段でもあつた。金で斯ういふ長い間の因縁を買取らうとした者のあつたのも不思議で無い。さうで無ければ自分も一人の依頼者となつて、この先輩(401)のもつて居る恩義を、片端だけでも利用しようとしたのである。それが果して可能であるか否かは、近頃何囘かの總選擧が之を實驗したのである。あの選擧區なら何の某を抱き込むと大よそ何百票だけは得られるといふことは、顔で投票を集められるやうな親分が、そこに居ることを意味して居た。或は輸入候補と稱して若干の金を持つて行けば、人には關係無しに當選が期せられるといふ類の、稍々融通の利き過ぎた取引も稀にはあつたが、大抵は金に換價し得ない人情を横取りしようといふので、地盤は即ちその新たなる贈答品の容器の名であつた。個々の投票の賣買ばかりを戎めても、まだ／＼選擧が自由に行はれて居るものと、推斷することの出來ない理由は、斯ういふ大小の幾つと無き選擧群が、單に一個の中心人物の氣まぐれに從つて右にも左にも動かし得たからであつた。

　是が今日よりもう一段と弊害の多いものにならうとも、尚恐らくは撲滅することは出來ないであらう。顔役は多數の常の心無き者が、今でも必要として大切に守立てゝ居る者である。彼等の任侠は頻々と人を救つたのみならず、その幾分か竝よりも發達した常識は、暗々裡に周圍の生活の基準ともなつて居る。獨り恩義の拘束を受けて居る者だけで無く、平生から其力を知つて尊重して居る者は、迷うて決し兼ねる問題のある度に、いつも其向背を以て參考としようとして居る。殊に世間竝と御多分に洩れぬといふことを、安全の途の如く信じて居る者には、恰かも魚鳥の群が先に行く者に率ゐられる如く、自然に一團となつて動かずには居られなかつた。だから普通選拳が選擧人の數を激増し、自由な親分圏外の人々に投票させて見ても、僅な工場地帶の別箇の統制を受けるものゝ他は、結果は大體に於て、以前と異なる所が無かつた。つまり我々は散漫なる孤獨に於て、まだ自分の貧苦の問題をすらも、討究して見る力を持つて居なかつたのである。もしくは多勢の同境遇の人々と、如何なる方法でも結合しなければ、解決は無意義だといふことだけを知つて、しかも其方法に非常なる價値の差等があることまでは心付かなかつたのである。

　但し最近の恩義は追々にこの親分を教育する方に働かうとして居る。折角自分たちと同じ生活を經驗し、同じ感覺の普通よりも鋭敏なものを持つて居る人を、單に無定見の爲に遠慮させて、徒らに其力をよその野心家に委讓せしめ(402)ることは、惜しいものだと考へる者が多くなつたのである。實際親分の賢くなるといふことは虎に翼であつた。彼等が時務を知り人心を理解するやうになれば、團結は容易の業であるのみならず、それが空名に終るやうな處も無いのであつた。しかも是には又幾つかの障碍が殘つて居る。第一には彼を擔がうとする者の中に、更に今まで以上の個人利益を豫期し、若しくは各自の計畫に利用しようとする者があつて、寧ろその餘りに聽明で無く、時々はおだて〔三字傍点〕に乘り自惚を抱き、もしくは無用の負けぬ氣を出して、所謂井底の蛙の孤立を續けてくれることを、内々希望する傾きが尚強い故に、思ふやうには親分を養成して、時代に相應した活躍をさせることが出來ぬのである。義氣は依然として、今も對個人の道德としか解せられない。協力は時として私欲の保護にまで應用せられる。壯士といふ名稱が日本に行はれ始めてから、もう四十年を少し越えて居る。彼等は一人として生死を度外に置いて、國と正義の爲に働くことを揚言せぬ者は無かつたのであるが、その實際の用途は別なものであつた。親分が分立して居る爲に見解は皆違つて居る。末には數ばかり無暗に多くなつて、彼等どうしは常に闘つて居た。聯合の非常な大きな力であることは認められて居ても、多數は自分の保護の必要から、わざといつ迄も國内に敵を殘して置かなければならなかつた。大きな英雄は實際は入用が無く、微細な天才ばかりに際限も無く好機會があつた。しかも供給はそれよりも遙かに超過して、人は失望の間に半生を老却しなければならなかつた。さうして異郷の未だ相知ることの疎であることを寧ろ便利とするやうな場合ばかり多いのである。

　華やかなる英雄兒の生活の半面には、いつも薄暗い孤獨が附纏うて居た。寧ろ世の盛りに突如として死んでしまへばよいが、不幸にして長命するならば、其末路は大抵はみじめであつた。殊に流行の今のやうに短い時代には、榮譽(403)はたゞ僅に酷使を償ふに足るばかりであつて、殘りの生涯には、何人も責任を分つ者が無く、單に代つて出た者の聲望を眺め暮すのみであつた。忘れられまいとすれば起つて爭ひ、さうして打負かされなければならなかつたのである。日本は將に神童を尊重する國であつた。是が出現には群衆の驚喜があり、一旦は之を兒《ちご》文珠の地位にまで、祭り上げなければ承知をしなかつた。通例はたゞ一種の早熟現象である故に、二十歳を過ぐれば只の人になるのが當り前であるが、本人にはそれだけの準備をする機會が無く、大抵は世途に迷うて寧ろ常人の常の成長を、羨まなければならぬ場合が多かつた。角力その他の力業で名を揚げた者も、小町｜西施《せいし》と同じく若い時が盛りであつて、それから殘りの半生が飽きる程長かつたのである。さういふ經驗は昔から積重ねられて居た。誰しも限りある得意の期間だけに、命の力を集注しようとする者は無い。そこで現在の地位を利用して、それ／”＼身の私を講じようといふ氣になるのである。英雄の私心は存外にけちなものであつた。それが、些しでも隨喜者の目に付くと、忽ちにして次の競望の乘ずる所となつた。交替が行はれ難ければ分裂は必ず起つた。多くの親分方はこの淺ましさを厭うて、最初から事業を團結化することに勇敢でなかつたのである。

　それよりも今一段と心細かつたのは、數多い落選選手の境遇であつた。彼等の計畫には最初から誤謬があつたのであらうが、それには氣付かぬ故に十分なる用意をして居る。選擧は其中でも殊に欺かれ易いものであつたが、他の多くの協同事業にも、必ず若干の失望者を作ることになつて居る。亡者といふやゝ慘酷な言葉が餘りにも適切に是に當つて居た。豫て其樣な意圖も無く、又は必勝の目算が無かつたならば、再び心安く從屬者の地位に復し得るのであるが、それは先づ一部の之を擔いだ者が承知をしない。最も大きな不幸は時を失つた者の、改めて凡庸の道を踏み得ないことであつた。それには、人々の修養や氣質もあつて、概して統率の伎倆があると認められた者は、外には融通のきかぬやうに出來て居る。さうして明治の教育は何の目途も無しに、たゞ斯ういふ人物を澤山に産出して居たのである。志を得ない者は元の土地には止まつて居なかつた。甲の團結に於いて失敗すれば乙に於て更に試みようとする。(404)都市で蹉跌をすれば農村に還つて、小規模の牛耳を握らうと企てる。これが僅の歳月に人物を全國に分布せしめて、それ／”＼土地に適した新事業を創設させた、有難い結果をも生んで居るのではあるが、同時に又利害の紛亂の煩はしい原因にもなつて居る。

　成功といふ明治の新熟語は、無心なる多數少年の夢の代《しろ》を供給して來たが、實際は寧ろ此等の失意者の、それから後の經驗を語るものであつた。落選選手の忍耐はさう永くは持續し得なかつた。中には一生を亡者の生活に終つたものも有らうが、大抵は轉じて反動の趣味に生きようと努めたのである。この第二種の立身方法には、稍々自由過ぎる程の選擇があり、大體に性急で又少し粗暴なものが多かつた。しかも尚之を以て一生の職業とする迄の決心はなかつた故に、責任を負はない一時的の計畫が、幾らとも無く此連中によつて案出せられて居る。勿論その多くはたゞ企てに終つたが、中には當人自身も意外な程の、成功者としたものもある。會社製造業とも名づくべき漠然たる生活の新たに流行したのには斯うした原因があつた。近代の政治は無益の失費ばかり非常に多いのを特徴として居るのであるが、是が其入用の一部分を支へて居たのは、偶然の手柄と認めてもよからう。しかも實際の效果の擧がつたのが少ないから、結局は無益に蓄藏せられて居た資本を、單に世上に放散せしめるだけの、名義を供したに止まるものも多かつたのである。

　以前も天才の時を失ひ、もしくは突き落されて苦悶した者は稀で無かつたが、至つて少數の平賀源内式人物を除く他は、斯ういふ徑路に向つて脱出することは出來なかつた。大抵は世を背いたと稱して蔭の社會に入り、もしくは強ひて奇行を衒うて第二次の高名を求めようとしたが、それも多くの場合には唯幾分か埋没を遲くする位の、はかない效果しか得られなかつたのであつた。ところが現代に於てはさういふ者までが成功した。少なくとも彼等の社會評論といふものは可なりの重みを以て傾聽せられて居る。是が時勢をたゞ一方への偏倚から牽制し、もしくは省察と討究とによつて、無益の熱狂に陷らしめなかつた功績は小さくないが、たゞ其批評は一般に消極的で、いつでも群行動の(405)力を悲觀しようとする弊は免れなかつた。過ぎた江戸時代の一つの遺物として、今でも多くの人が興味をもつ落首文學は、僅にその形を變へて市民の間に行はれて居る。たとへは政治家が餘りにも金錢を愛しもしくは資本ある者が之と結托して、常に其私欲を遂げようとする事實などは、それが法廷の問題として論ぜられる以前、既に久しい間の風聞として世に弘まり、しかもさういふ行爲も格別の奇怪で無く、寧ろ隱密の裡に其取引を完うして、痕跡を後に留めなかつたのはえらいといふ樣な不當な評判までを平氣で流布させて居る。社會には裏面があり、人生は道理ばかりでも行かぬなどといふことを、さも／＼格言のやうに説いて居る者さへあるのである。此種の?倒した道義觀念の存在を認め、しかも絶望もせず又闘爭もせずに、自分は自分だけで活きて行かうといふやうな、氣樂な考へ方が都市人の中にはあつたが、是にも所謂英雄運動の失敗者たちが、往々にして其憤懣の吐き口を求めて居たのである。全體浮世を茶にするといふことは、謀叛よりも有害なものであつたが、妙に是だけには同情者があり、又多數の模倣者もあつて、昔から失意の人々のよい隱れ處となつて居る。是が東洋固有の反動趣味であつたか、或は又特に言論の自由で無かつた時代に、人を此樣な竹林の中に追ひ込んだことが、永く惰性となつて世に殘つて居るのかは知らず、兎に角にもとは其動機の哀れむべく又悲しむべきものがある爲に、人は其放縦を咎めぬのみか、之を高尚なる遊戯の如くにも解したのであつた。併し現在はその弊が既に現れて居る。何等取り處のない凡庸の輩までが、たゞ善惡の批判を超脱して、欺いて活き得べくんば活きようと心掛けて居る。強ひて他人の幸不幸の上にまで、思を勞することの無益なることを説いて居る。無事に自分ばかりの一生を終ることが出來るならば、國の未來は論ずるにも及ばぬといふやうな、個人享樂の人生觀に親しんで居る。さういふ一種の主義者はもう多きに過ぎ、しかも實際は彼等の豫期した通りに、無難には活き終せなくなつて居るのである。個々の失脚者の自慰方法といふ以上に、弊害は弘く感染して居る。つまり我々の團體生活は、最早是より多くの無頼の徒を世の中へ送り出さぬやうに、何とか其選手を養成する方法を、改革しなければならぬことになつて居るのである。それは獨り落選選手の不幸を救ふ爲だけで無く、彼等が苦しまぎれ(406)に世に流す害惡の幾つかを、除くといふことも必要になつて來たのである。

　尤も最初から詐欺盗賊が好きだといふ者もあらう。或は病的に人を害するといふことの、惡事であることを感じ得ない者もあらうが、他の多くの場合には斯んな所業にも成功の興味があつて、段々に其惡癖を増長して行くのである。江戸には火事を景氣と解する樣な惡い習はしがあつた樣に、貴人富豪の盗難にも冷淡な者が多かつた。河竹黙阿彌の白浪ものばかりが、特に盗賊の生活を理解したわけでも無かつた。鼠小僧の石碑には香花が絶えず、夜陰に其｜角《かど》を缺きに行く者が多いので困つた。彼が年少で捕へられて刑に就いたときには、澤山の町人は沿道に之を見物し、それから以後の講談も義賊らしく語らぬと受けなかつた。單にそれだけでは黒岩涙香以來、市民が耽讀する探偵小説といふものは、主として智慧競べが興味のもとであつた。勿論斯んな讀物から技術を研究したり、又は惡事を思ひつく者もあるまいが、兎に角に惡人にも英雄兒があり、惡に徹底するのも一律の痛快事であるやうな考だけは、正直な素人が(407)今も尚之を抱いて居るのである。惡人が其宿業から解脱する機會は、甚だ乏しかつたと言はなければならぬ。

　個々の惡者の嚴罰といふ方法だけでは、とても其犯罪を根絶しする見込は無い。それを又諦めて居るやうな今日の防禦策でもあつた。この點に關しては世人は先づ誤解して居る。石川五右衛門の辭世の歌といふのも、人が何時でも泥棒になれるといふことを、豫言したものゝ樣に説明せられて居るが、是は何よりも悲しむべき悲觀であつた。彼は唯盗賊の技術といふものが、實は古くからの傳授であつて、公然と門札を掲げて開業こそはして居ないが、先生もあれば弟子もあり、單にその一人の檢擧せられたものを、改めて見た所で仕方が無いといふことを、やゝ皮肉に暗示しただけであつたらしいのである。杜騙《とへん》新書といふ支那の杜騙《かたり》の面白さうな話の集を、訓點を付して覆刻したのは、江戸末期の廢頽文學の時代であつた。多少の漢學ある青年は、近頃の探偵ものゝやうに之を愛讀したが、當時の惡漢どもには之は少し六つかし過ぎた。よほどの篤學で無いと之を參考にすることの出來ぬ藝であつた。それにも拘らずその話の唯一つでも、流石は支那だと驚くやうなものは無かつた。又其頃には三都の有閑階級の筆記した、世上の聞書といふ類のものが多くあつて、其中にも詐僞や竊盗の色々の實話が見えて居るが、それと今日の所謂三面記事とは、をかしい程によく似て居る。假に前者には誇張があり、又は丸々の作り事もあるにしても、少なくとも既に百年も前から、人が世間話をして夙に知つて居る手段が、今でも應用せられて遣られる者だけが新しいのである。惡の技術には明白に傳銃があつた。さうして世の進むと共に不必要になり、又衰微すべきものと定まつて居たのである。掏摸などは確に本據を突かれて、既にその修錬が覺束無くなつて居る。此上は只天分の有り、發達の見込ある選手を、あの仲間へ渡さぬやうにすればよいわけである。

　是でも最初は我々の生存に、少々は必要のあつた時代もあるのである。敵が遠くに退き又消滅してしまへば、之を利用する氣にはならぬ筈であるが、世間を面白からず思ふ者が出來ると、好んで模倣をするのみか時には自分でも發明する。日陰者ばかりの團結さへ企てられる。被害者の境遇に同情することが少なくて、却つて其技術の成功を讃歎(408)する者が現はれるのである。出來心の惡事といふもの程情無い現象は無い。所謂醜を千歳に遺さうといふ決心、惡人でもよいから著名になりたいといふ氣持に、普通の素人が變つて行くまでには、實はどれだけの苦闘があつたか知れないのである。それ故に折角滅びかゝつて居る犯罪社會に活氣を與へるのみならず、新たに友人の間に犠牲者を見つけることになる。都市の居住者の十分に相知らぬ隣暮らしが、さういふ機會を生じ易いことも事實だが、害を受ける者は寧ろ田舍者の方に多い。村は昔から此點だけは安心してよかつた。さうした警戒の爲に苦勞をせずともよいのが、この團結の一つの長處でもあつた。人を信じ得ることが村の生活を悠長にさせて居た。ところが今日は特に其隙間を狙つて、惡者の新しいのが侵入を開始して來た。仲間を欺かうといふ者が村の中にも住むことになつた。うそ〔二字傍点〕は村落の徒然を慰める爲に、缺くべからざる一種のユーモアであつたのが、現在は之を私欲に應用する爲に、悉く深酷となり又精妙になり過ぎた。うつかり前途の有望な人間を、養成することも出來なくなつた。早く一同がもう少し賢くなつて、一人の顔役や人望家を、擔がずとも濟むやうに努める事の他は無くなつた。但しその將來ははつきりと見えて居る。必要はたゞこの混亂の過渡期を、出來るだけ速かに又無難に、通り越して進むに限るのである。

　歴史は多くの場合に於て悔恨の書であつた。彼際あゝいふ事をしなかつたら、斯うも困らずに居られたらうといふ理由が發見せられ、それがもう完結して後の祭となつて居るのであつた。然るに明治大正の後世に誇つてもよいことは、是ほど澤山の煩雜なる問題を提供して置きながら、まだ一つでも取返しの付かぬ程度にまで、突詰めてしまはずに殘してあつた點である。我々が自由に之を論評して、訂正の出來る餘地の十分にあることである。性急なる愛國者は是をも墮落といふだらうが、實際は忙しくてさう／＼は考へて居られないものが多かつた。しかもその間にも國は少しでもよくなつて來る。單なる現代人の身贔屓では無しに、僅に二十年前と比べても、前に想像もしなかつた事が今は當然となつて居ることが多い。是非とも復古を望むかと問はれると、即座に勿論と答へることは、如何なる保守派にも少し困難になつて來て居る。つまりは無差別に只新しいものを、片端から讃歎してはいけないといふだけである。そんな事くらゐは誰だつて知つて居る。今までの無益な色々の努力、馬鹿げた流行に就いてはもう相應に考へて見た。今度は一つやゝ樂しみな方から、時代の傾向を觀望して、此一卷の書の結末を付けて見よう。

　第一には國が學問を育てゝ來た態度、是が一年ましに實着なものとならうとして居る。最初勉強をするのは偉い人になる爲、家に立派な分家の出來る慶事として、近隣から祝賀を寄せられて居た。それが存外に大きな收益にもならぬので、手輕に出世をした者から輕蔑せられるやうな時代もあつた。目的が實は世を益する側にあるといふことが判つて、急に尊信の加はつたのも反動に近かつた。世界大戰が國際の交通を壞した頃に、今まで粗略にして居た、研究(410)者の陰の事業に對し、どんな聲援でもしなければならぬと言ひ出したのが、何か一種の罪滅ぼしの樣にも見えた。補助の資財は僅なものであつても、これで多くの學者をして公然と勞苦せしめることになつたのは大きいことであつた。唯其理解が商工業に縁の深いもの、自然科學の殊に一部のものに限られて、社會科學は尚少々は氣味の惡い、別に奨勵まではするに及ばぬものゝやうに考へられた期間は稍々久しかつたが、是も東洋思想の闡明などといふ方から、歴史なら先づよからうと賛成する者が出來て來た。少なくとも日本人が澤山の應に知るべきものを、知らずに濟ませて來たことだけは俗衆にもわかり、次には其知識がまだ／＼我々の社會を幾らでも明るくする餘地のあることが認められた。一人々々のする事は小さくとも、今に集まつたら何かになるといふことを感じて、一般に精確なる科學の成長に、大いなる期待を繋けるやうになつた。或は其成績の待遠しさもどかしさ〔五字傍点〕を、忍び得ない者も多いので、是まで職業教育の役目だけを果して、安心して居た大學が刺戟せられることになつた。

　第二には是と關聯して我々の文化事業が、助けを外國に仰がうとする考の薄くなつた事、もしくはさういふ必要の無くなつたことが、御互ひの責任感のいつの間にか大人になつて居たことを語つて居る。四十年前には政府の御雇外國人が二百名、別に民間には五百名の矚託が、多分の給金を取つて來て働いて居た。汽船を動かしても船頭は外國人、鑛山を掘つても指圖役は外國人で、其方が結局は安く付くなどと、氣樂なことをいふ實業家も多かつた。彼等は勿論日本の爲に考へ、國情に適した考案を立てようとはしたが、我々も知らなかつた點まで心付くものは少ない。大體自分の生れた國でなら斯うするといふ樣な事ばかりを我々に傳授すると、此方は忠實に國情の方をそれに調和せしめようとした。男女が共に踊れば對等條約が結べるものと、思つたといふなどは其一例であつた。それから引續いて御雇外人を不用にする爲に、無數の留學生を外國に派遣した。學問の信用を洋行還りの肩書に托して居た時代は、隨分と永く續いたのであつた。ちやうど千年以前の留學生廢止と同樣に、行くには及ばぬといふことを先づ感じ始めたのは、留學生自身たちであつた故に、斯んな惰性を打切ることが六つかしかつたが、此方に居る方が研究し易く、又外國か(411)ら期待せられることが多くなつて、已むを得ず國の學問は獨立した。さうして他の國語を以て人の既に説いたことを、通譯するだけでは學問と認められぬやうになつた。新たな發見をしようとすれば、問題を自分の周圍に求める方が便である。それ故に自然に日本の自然と社會とを、對象とする研究が盛んになつて來たのであつた。

　著述は我邦では非常に大いなる實業であつた。最初何でも珍しく又何でも知らうとした時代には、全部の語學者が皆著述業であつた。斯んなものがと思はれる雜書までも、飜譯せられて世の中に弘まつて居る。我々の讀書慾は之によつて開拓せられ急に其需要に應ずるだけの出版が、飜譯を拔きにすると間に合はぬことになつた。所謂印刷文化の爲には、是は幸福なる機會であつたと言つてよい。此結果として段々に現はれたものは、一つには編纂といふ事業、即ち内外の既に備はつた材料を綴り合せて、一つの本らしき形に纏めること、もしくは切れ／”＼の短かい文章を集めて、一册の堂々たる書籍を作ること、もつと粗末なのは別人の大きな仕事から、一部分の要點を拔き出して本にすること、斯ういふものまでが著述の中に算へられたのは、以前飜譯といふ著述が既に認められた例があるからであつた。次に文藝の書籍が數多く世に出たのも、やはり又この讀書慾の空隙と、書籍商業の餘力が大きかつたからである。是は一方には國人の思想文章は、過去の數百年が、望み得なかつた進歩を、僅の歳月の間に爲し遂げて居るのである。この二種の印刷物の増加が、現代の文庫を豐富にした力は怖ろしいほどであつた。それに飜譯も亦その稍々我儘な選擇と、宣傳の亂闘とを引起し、幾分か書物を菓子果物の如く、退屈しのぎの用にする弊風を招いたが、書を讀む人々の眼界を弘くした力は、遙かに在來の飜譯事業に超え、しかも類を制限したといふのみで、依然として讀書界には歡迎せられて居る。人が一生の全部の閑暇を盡しても、猶昔のやうに有る限りの書を見るといふ望みは無くなつた。選擇は乃ち必然のものになつたのである。ちやうど宗教が五種七種も競ひ進んで、自然に我々を信仰の比較研究に導くやうに、餘程無我夢中の者でも無い限りは、退いて本は何の爲に世に存し、何故に之を讀まねばならぬのかの問題を、一應は考へて見なければならぬ時世にはなつたのである。所謂圓本の洪水にもし何等かの功績があるとすれば、それ(412)は簡單に本を安い商品としたことでは無く、今まで總括的にたゞ尊信して居た態度を改めて、もう一段と内容の用不用を究めるやうにしてくれたことであらう。我々の讀書法の一つの革命、それが間接には將來の學問の、有力なる指導とならうとして居るのである。

　文藝の新たなる遠路に關しては、別に之を説く人があるから爰には述べない。しかし少なくとも讀者の既に豫想し、もしくは漠然とでも既に考へて居たことを、もう一度彼と共に見たり考へたりしようとするやうな、著述が最初に不用になつて行くことだけは誰にでも察せられる。以前はさういふ世話燒きも必要と認められ、殊に講演などはそんなものばかり喜んで聽いたのであるが、今日はそれはもう仲間の仕事になつて居る。我々が外から待つて居るのは新しい事實、もしくは始めての經驗になる感想であつて、しかも出來るならば自分たちの疑惑に、少しでも解釋を與へるやうなものを望んで居る。實際此樣に多量の未知を抱へ込んで、今まで同じ言葉の人眞似にばかり、時を費して居たことが悔いられて居るのである。讀書慾は當然に知識慾と化せざるを得ない。多くの日本の生活事實が、此頃漸くのことで互ひに知られるやうになり、それに伴なうて省みて見なかつた自分たちの問題が、新たに疑惑の種となつて居ることは、これも見遁し得ない最近の一傾向である。我邦は久しい歴史の因縁から、非常に變化の多い天然と社會とを、一つの版圖の中に包括して居つて、單なる一部面の普通といふものから、他を類推する危險の殊に大きな國である。地方は互ひに他郷を諒解すると共に、最も明確に自分たちの生活を知り、且つ之を他に説き示す必要を持つて居る。それが出來なかつたら大きな團結は六つかしいのである。政府が此頃になつて郷土研究といふ語を新たに唱へ、必ず地方の有識者に之を考へさせ、又教育の上にも利用させようとするのは、深意はまだ解らぬが少なくとも此機運には觸れて居る。さうして最近までの國家教育主義の、久しい間省みようとしない點でもあつた。是を生活改善の新方針の端緒と見ることは、我々に取つては根據無き樂觀では無いのである。

　教育の實際化といふ語が、今頃になつて漸く唱へられるといふのも、まだ間に合つたのだから馬鹿々々しいと思つ(413)てはいけない。家で生計の盛衰を最も心にかけ、子孫の愛育の爲に全力を擧げて居た者が、今までは殆と發言權を持たず、たとへ實際化せぬ教育を與へられても、黙つてたゞ喜んで居なければならなかつた時代が、永きに失したことは殘念であつたが、兎に角、現在では母も祖母も、どうしてくれるのですと訊くことが出來る樣になつた。しかも今日までは、只めい／＼の家の都合だけに基づいて、喜んだり憂へたりしたのが女性であつたが、彼等の知識はいつと無く増加して、是にはもう一段と根本的の要求が、社會と共通にあつたのだといふことがわかつて來た。生活改善の諸案といふものには、世間見ずの獨りよがりも多かつた。それを實行し得る家の數も少なく、貧にあへいで居る大多數の同胞とは、涙のこぼれるほど没交渉な苦勞をして居た人もあつた。併し、少なくとも今の生活は改善すべきもの、それも、個人の思ひ／＼の工夫で無く、同じ憂を抱く、多くの者が團結して、始めて世の中に益があるといふことを、認めたこと自身が改善であつた。中には見得坊の口ばかりのやうな人が、出過ぎて憎らしいことも折々はあらうが、社會を女性の問題とした功勞だけは認めてよい。男は實際に皆あせつて居る。微細な人情の變化までに氣づかぬほど情が荒び、もしくは、わざとそんな事は大まかに論じようとして居る。政治の直接に我々の家庭と交渉する部分を、婦人の團體の考察に任せるはよいことである。

　一つの大きな利益は必ず教育の上に現はれて來る。子供が父よりももつと幸福に活きんことは、父とても決して之を望まぬことはあるまいが、母ほど痛切に之を感じては居ない。貧しい生計の者は尚更のこと、豐かに暮す者でも此感は免れぬ。家の煩累が稍々忍び難くなる度に、せめて我子等には同じ苦しみはさせたくないと思はずに居られぬのは母であつた。大は婚姻の人に語られぬ惱みから、小は飲食の朝夕の苦勞まで、過ぎて還らぬ悔みといふものはこの人たちには一つも無かつた。假に自分はもう如何することも成らぬとしても、それは同時に又次に來る者の經驗であつて、代つて彼等の爲に利用する望みはあつた。以前は祈願信念のたゞ一つの力にしか頼れなかつたのであるが、現在は教育がまだ幾つかの機會を供與する。果して心身の發育が能く一生の艱難に堪へるだけで無く、更によく疑ひ又(414)よく判斷して、一旦是と信ずれば之を實行するだけの、個人の力といふものを養ふことが出來るかどうか。然り確に、と此問に答ふる者が無い以上、いつ迄經つても親々は其苦闘を中止せぬであらう。現代の教育は自らも此缺點を意識して、別に成人教育なるものに補充を必要としたり、もしくは公民教育の追加を試みようとして居るのは、乃ち亦今日の小學枚が、兒童を人とするのに必ずしも萬全で無いことを、弘く世の父母と共に憂ひて居る兆候である。改革は期して待つべきである。一番大きな誤解は人間の痴愚輕慮、それに原因をもつ闘諍と窮苦とが、個々の偶然であつて防止の出來ぬものゝ如く、考へられて居ることでは無いかと思ふ。それは前代以來の未だ立證せられざる當て推量であつた。我々の考へて見た幾つかの世相は、人を不幸にする原因の社會に在ることを教へた。乃ち我々は公民として病み且つ貧しいのであつた。

　日本民俗學會の第一囘の年會に際して、會の實?と是からの計畫とを、ごく簡單に陳述して置きたいと思ひます。學會は明治の初年來、次々と我邦にも起つて、ごく手堅く今日まで續いて居るものも幾つか有りますが、數が多くなつて行くと共に、だめなものも時々はまじり、中には雜誌の購讀者を確保するために、こしらへたかと思ふやうな、いやな學會も實はあります。一番いけないのは會長が名ばかりで働かないこと、又働けない年寄を會長にかつぎ、學問の進路がどつちへ向くかも知らずに居ることであります。十年ばかり前に、日本方言學會といふのが出來て、その最初の會長を持込まれたときに、私は一つの條件を出した。是などは久しい間、英國の民俗學會でもやつて居ることで、向ふでは珍しい例では無いが、先づ會長の任期を一年とし、各々就任の挨拶として、學問の今後に對する見解、乃至は抱負を述べることで、その爲に會はいつでも活き／＼とし、又今までは同情者程度であつた多くの會員が、追々と會の事業に身を入れるやうになる。この慣行を日本方言學會にも入れようといふので、其時は一同皆承知したのであるが、たつた一年にして其條件は守れないと言ひ出し、乃ち私はさつさと退身しました。會は勿論その爲に潰れはしなかつたが、その代りにさつぱり仕事をして居ない。結局一人や二人の力では、斯ういふ新しい計畫は實現するものではないといふことを經驗したばかりであつた。今度の日本民俗學會なども、是が健やかに成長して行く爲には、(418)もう少ししつかりとした心構へ、殊に中堅となるべき委員團のあやふやでない一致が必要であることを感ずる。形の上で會長のやうなものがもし入用なら、委員が年中行事式に順番になる位の覺悟をもたなければならぬであらう。其點を明確にする爲に、この第一囘の年會を開催したのであります。

　日本民俗學會の成立ちに就いては、偶然に私が極めて覺えやすい記憶をもつて居る。今からちやうど十五年前、私が還暦の誕生日を迎へた際、同學の人たちがそれを記念してやらうと言つて、始めて民俗學の全國大會を開いた。その時の記録は「日本民俗學研究」といふ題を付して、岩波書店から出して世に行はれて居る。今から考へて見ると、誠に好い時代であつて、講演や發表の會が晝夜に亙つて一週間もつゞいた。その時の一つの集まりに於て、地方から出て來た人ばかり四十何人かが話し合ひをして、例の滿場一致を以て、一つの永久の會を作り上げた。それがこの會の前身たる「民間傳承の會」である。私はその發起人でないのみか、潰れると後がまづいからといふ理由を以て、むしろ同意を澁つて居たのである。然るに賛成してくれなくても構はぬといふ大へんな意氣込で、しやにむに此會を作つてしまつたのである。さうして會員を募つたら全國三十數縣に亙り、六百人近くの人が忽ち加入して來た。その人々の大半は、今でも遠くから支援して居るのだが、やはり中心は東京だからこちらに居る人が多く働かねばならぬ。ひどく其人たちが苦勞するのを、棄てゝも居られぬので私も少しづゝ助けた。さうして段々と潰すのが惜しくなつたのである。

　そのうちに戰爭が始まり又苛烈になり、紙が得られなくなつて皆苦勞した。それで少しは通りがよからうかといふ希望を以て、今日も出席して居られる橋浦泰雄君などの考へで、全國二十人ほどの世話人の中から、私を引上げて代表者見たいな地位に据ゑたのである。それが其まゝ居据わりに、今度新たに組織を改めた日本民俗學會の會長に、私(419)が留まつて居るたつた一つの理由である。實はつまらぬことで、早くどうにかしなければならぬと思ふ。全體還暦の記念などといふのは、別な言葉でいへば「永々御苦勞樣」といふことである。それを更に十五年も後になつてから、引出して働かせるといふ理由は無いと思ふ。たゞさうは言ひながらも、何十人かの全國の同志者が、若くして戰場の露と消えた中に於て、ともかくも斯うして先づ活き殘り、今日の大きな喜びに逢ひ得たといふだけは、言葉にはいひ現はせない深い感謝であつて、私の發言權は何よりもさきに、この學會の確乎たる歩み、誤謬の無い成長の爲に費されることが、是に答ふる最も適切な方法だと思ふ。

　第三の更にそれよりも迫つた理由は、世間の好意と關心、是が最近豐かに溢れるやうになつたのは有難いことだが、(420)我々の説明が足らぬ爲であらうが、今もつて見當ちがひな概念によつて、褒めたり珍重せられて居る場合が多いことである。殊にジャーナリズムの方面では、是を上品な物好きとも、餘裕のある生活趣味とでも定義づけて居る人が多いらしく、いかに諸君が心深く、この知識を實生活に繋ぎ付けようとして居るかも省みずに、毎年きまつたやうに「踊はどの地方のが面白うござるか」とか、「オバケは有るものですか」といふ類の、頓狂な題目ばかりをひつさげて話を聽きに來るやうな記者が多い。私たちは斯ういふ質問にあふたびに苦笑し、かの昔の唐人の詩の「憐むべし半夜空しく席を進めて、蒼生を問はず鬼神を問ふ」といふ句を思ひ出して、何故に青人草のことを尋ねてはくれないのかと、情けなく感ずると共に、一方には又「それでも全く構ひ付けてくれないよりはよい」などと、いゝ氣になつて居るやうな人たちの心を、口惜しくも思つて居るのである。社會科が普通教育の主要な科目になつて居る今日、内からも外からも、まだどれだけの役目を日本民俗學が負うて居るかを考へる人が無いといふことは、つまりはまだこの學問の本質が明らかになつて居ないのである。學會の出て働かなければならぬ區域は、今ちやうど前面に展けて居るといつてよい。

　是はどうしても一國民俗學といふ學問が、主として何を明らかになし得る能力を具へ、又如何なる知識智處を以て、此世此國に盡さうと心ざして居るかを、説き立てずに居た者の方に、より大きな責任があると思ふ。勿論それを手短かに述べることは可なりの難事業であらう。我々の手を出して居る間口は廣く、しかも前代に對するあらゆる疑問が、結局は皆釋けるやうになるのを、理想とすると言つた態度が、私たちの學問の出發點でもあつたからである。世には象牙の塔などと稱して、人生社會の用に立つか否かを詮議するのを、下品なことのやうに厭がる氣風がつい近い頃まであつたが、それも時代により國により、又學問の種類にもよりけりで、こんな廣々とした沃野に入りながら、好き(421)な花ばかりを摘んで居たのでは、すぐに日が暮れてしまふ。老人だけはそれでもよろしいと、言つてくれる人がよし有らうとも、私なんかは俗物だから到底そんな氣にはなれない。何とかしてもつと具體的に、自分たちにも出來ることは是だけと世の中に披露して、それによつて外からも當てにせられ又勵まされ、さうして又もつと張合ひのある勉強がして見たいのである。それには今日は殊に好い機會、最も働き甲斐のある時代でもあるやうに考へられる。其點をとくと來集の諸君と共に討究して見たかつたのである。

　學者には今まで、めつたに判らないと答へた人が無かつた。だから現在知つて居るだけの事實のみによつて、さしあたりの答を作るのであつた。人を欺くまでの惡意は無いにしても、少なくとも自ら欺いて居たことは、古來の學説の瞬間も休まずに、次々と改訂せられて來たのを見ても明らかである。口にするさへも情けない「日本はなぜ敗れたか」、もしくはどうして今日の如き?態に陷つてしまつたか、答は爰に在るといふ人が幾らあらうとも、今まで御互(422)ひが丸つきり心づかなかつたことが是ほどあり、まだ是からも次々と現はれて來さうな形勢に直面しては、到底私たちはその出來合ひの答を受取つて、さやうでしたかと言つて居る氣にはなれない。廻りくどい道ではあるが、今まで省みようとしなかつたのが惡いのだから、辛抱しなければならぬ。何としてでもこの莫大な新しい知識を整理して、追々とその中から、動かない原因を見出して行かうと努めなければならない。其方法をやゝ氣永に、日本民俗學會が立てゝ見ようとして居るのである。現に又少しづゝほ見込が立ち、答へられると言へさうなものが出て來て居るのである。

　田舍の人たちは一般に、最もよく勞働してゐることを知りつゝも、彼等の働きのどういふ部分が組織なのか、私には全く判らなかつた。つまり今までそんな言葉を持たず、又誰も意識しなかつたのである。是が大きな刺戟となつて、自分はもとより同志の人たちにも勸めて、努めてこの働く人々の間に入つて、知らずに彼等が生きてゐる約束を見つけ出さうとした。ユヒとかモヤヒとかテトヒとかコウロクとか、今までの群勞働は專ら慣行であつて、それが又氏族姻族、居住地域等によつて、すべて相互的に協定せられて居るのである。文書記録には載せられず、又容易には明文化し得ない、複雜でしかも平和な舊式の勞働組織の、まだ確かに行はれで居ることを知つたのである。それから以後の五十年、其間の激しい變化は人の知る所である。曾て今説かるゝやうな荒々しい手段を用ゐなければ、獲得出來なかつた勞働組織なるものがあつたらうか。それは騙されて居たのだ、睡らされて居たのだと、言ふ者は多いにきまつて居るが、果してさう言ひ切るだけの事實を知つて居て言ふのであらうか。いくら概括論でも少しは廉をつけ、又實證を示さなければなるまい。知りもしないで、のつけからさう極めてかゝることが、新しい時代の論法なのであらうか。

　大地主制が夙く日本に入つたのは事實である。その隣に土間に寢るやうな貧農は住み、中間には鬼見たいな取立役の居た例も無いとは言はない。たゞそれが昔からの斯邦の普通の姿であつたといふことは、ちつとも證據が無いのである。近世の新田開發には、町から商人地主の大資本を入れて特權を與へ、それが又米の大量供給者となつて居た故に、是を常態と解するが如き獨斷論は起つたのだが、古くから開けて居た土地に就いて觀れば、小作は例外であり、(424)大抵の農家が自分々々の田を持つて、小さく助け合つて居る村は、今でさへまだ幾らも見られる。それを農村の未來を説く政治家が、少しも顧みずに居た結果が、今ちやうど現はれて來て居るかと思ふ。斯うして無造作に忘れられてしまつた古來の小農の村々と、是から新たに作り上げようといふ理想の農村とは、どういふ點が必ず變つて居るべきだといふのであらうか、何だか雙方ともまだはつきりとして居ないで、比較をすることも出來ないのではないかと私などには思はれる。

　僅かな注意と用心とを以てすれば、多分は陷らずにすんだであらう惡い?態を、平氣の平左衛門でパスさせて置きながら、後になつてから騷がうといふなどは智惠も何も無い話である。さういふ中でも農村の形勢は、時すでに遲しの感が無くもないが、漁村に至つては今我々の見て居る前で、盛んに資本化しつゝあるのである。それも斯うしなければ新しい世の要求に應じられないといふ部分、たとへば遠洋漁業などは別にしてよい。他の大部分の今までの自由な勞働組織を、何故に保存して置かうと骨折る者が無いのか。多くの改革論者は意地惡でも陰謀家でも無い。つまりはまだ保存の價値ある前代生活樣式が、今も傳はつて居ることに氣づかないのである。日本民俗學の是から向つて行くべき仕事は、特に此方面に多いかと思はれる。海の生産の我々を養ふ力は、今日の時勢に於て非常に重要なものであると思ふのに、漁村海村の生活實?は、まだ片端しか調べられて居ない。白?をすれば民俗學の研究は、聊か片よつて居た。今までは農村山村の古風な傳承に熱中して、幾分か其他のもの、海の端々とか離れ島の調査を後まはしにして居た。それを心づき考へ直す時期が、やゝおくれたけれどもまだ間に合ふうちにやつて來たのである。しかも一方に内陸の村々に於ても、私たちの得た知識は比較の基礎であり、又有力な暗示である。此方でも粗末にしたり斷念したりする必要は少しも無い。たゞ是からはもつと丹念に、海を相手とする人々の舊來の生活ぶり、いはゆる顧みら(425)れなかつた勞苦の跡に注意を拂ふやうにしたいと思ふだけである。最近世に送られた「海村生活の研究」は、三年以上もの努力を傾けたものであるが、場處も限られ又見殘した問題も多い。民俗學研究所の計畫して居るやうに、近い將來に於て殘りの離れ島の調査を推進して、將來の勞働組織の安定策の爲に、豐富なる參考資料を供給して行きたい。それには島々の居住者たちの中に、新たな同志を見つける必要があるかと思ふ。乃ち「日本を知るために」、まだ／＼我々は遠く歩まなければならない。

　歴史又は國史といふこの大きな圍ひの中で、現在は殆と繋がりの無い二つのものが、やゝ無統制にもつれ合つて居る。その一つは、是を目標とする專門の學問、他の一つは義務教育と稱して、避けて他へは行くことの出來ない小中學校に於て、必ず授けられねばならぬといふ歴史の學科であつた。數からいふと後の方が勿論重要であり、前者は寧ろ是が爲に大切になつたものと、自分などは正直さう信じて居るのだが、それにしては大分喰ひちがひ又は行きちがつて居る。或時代の大學には象牙の塔とか名づけられて、學問に用途があり、實利などがあつてたまるかといふ氣風が可なり濃厚だつた。學問の種類によつては、さう早急に成績を尋ねても困ると、答へてよい場合も勿論有らうが、醫學が人間の壽命疾苦を省みず、農學が作物の豐饒を問題としないで、たゞ知識の集積を心がけて何とならう。曲學なればこそ阿世も憎むべきだらうが、いやしくも志を立てゝ學問の道に進み入る以上は、終局は人生の御用學者と、なり切るのが寧ろ本望であつて、それをたゞ一身の心ゆかしに、前後を忘れて没入する人に比べて、少しでも肩身を狹がる理由は無い。

　日本が始めてこの所謂君民同治の政治を創立するに際して、當時の有識者の中には、なほ時期條件の熟せりや否やに就いて、若干の危惧を抱く者があつて、專ら西洋の諸國を歴訪して、彼等の經驗を學び知らうとした。我々の先例踏襲は國柄でもあつたが、是に外國の模倣を加味したのは、此時が始めと言つてよからう。西洋の經驗には個性があり、從つて豫測は區々であり、又悲慘なる失敗もくり返された。獨り其中に在つて、スタインといふ墺太利の老國法學者のみは、深い同情を以て日本の立場を理解し、こちらの側に立つて、當面の問題を考へてくれたと言はれる。其意見といふのは世に傳はり、且つ深い感謝を以て遵奉せられて居た。第一の要旨は民を新たにする爲に、先づ教育の制度を立て直して、立憲の政治にふさはしい國民を作るべきだといふに在つた。勿論今とても是は至當の説であり、日本の老人が之を金科玉條として、始終文部省の行政に對し、特殊に眼を光らせたのも尤もではあつたが、笑止なことには其眼は末梢に走りやすく、幾つかの要旨を見落して來た嫌ひがあつた。たとへば今囘の占領七年間に、始めて改定を命ぜられた二三の項目の如きは、すでに維新の初頭から確定し、實は政治的の惡用曲解も若干はあつたのだけ(429)れども、それさへ心づかずに元のまゝとして、守り續けて來たものであつた。歴史は國語に次ぐ重要な科目として、寸時もたゆまずに七十餘年、教へに教へて今日に至つたものだけれども、なほ其二つの中には改革の必然にして、否む能はざるものがあつた。國語の教育に關しては、何度もすでに痛論したから、爰ではそれをくり返さない。たゞ一言するならば、少數の字を識る者が採用し、又は時として新作した單語を、婦人小兒を含む最大多數が、解釋し暗記し又時として使はねばすまぬといふのは、民主的といふ思想からは最も遠く、しかもそれが漢字制限の今日まで、平氣でなほ續いて居るのも學校の御蔭であつた。歴史の教育の效果に至つては、又是よりも一段と悲慘である。と言つて惡ければ虚無に近い。試みに歴史は一通り學んだなどと揚言する者に向つて、何が一生の間に役に立つたかと尋ねて見れば、其答へは恐らくサアの一言であらう。

　それから又二十年近くを過ぎて、重野、星野兩先生等の勞作、國史眼七卷が世に現れた。たしか憲法發布の年までかと記憶するが、私等は是によつて、始めて現代に歴史を繋ぎ付けることが出來、めい／＼の對社會的活動も、いつかは歴史となつて後世の人と、交渉し得るといふことを感じたのである。もう一つ此書の印象的な特色は、初版には少なくとも文字の右傍に二種の圏點を附し、白丸は確實で之を證據に引いて差支へ無いもの、黒丸はまだ／＼研究の餘地はあるが、ほゞ確かなものと認めつゝ、なほ注意を續けてもよいものと指示してあつた。この修史館的確實さ(431)には、無論私たち少年は深い敬慕の情を寄せ、所謂史眼は之によつて、闊然として開けたのであつた。それから又十年餘を置いて、大日本史料が公刊せられた時から、私は引續いて忠實なる民間購讀者となり得たのも、其感化の力であるが、年たけ老の迫るにつれて、思ひを馳せずには居られぬのは完成の日のことである。中たび樣々の障碍があつたとはいひながら、この計畫は餘りにも氣が長い。

　前にも言つたやうに、いはゆる歴史の學問は決して孤高なる智慧では無い。用途が目前にあればこそ國が之を支持し、社會もまたこれに依つて、今少しく賢い悔無き生存を迎へんと期して居るのである。一方現實にこの學問を志した人々は、その大多數がまだ何も知らぬ人を教へ、又はその教へる人を教へて居る。今頃めい／＼の職分や本務を反省して見る迄も無く、もしも内外の歴史が身になるやうに與へられ、せめては忘れずに時々は判斷の足がかりとするだけの、過去の知識が貯へられてあつたら、こんな眼に餘るやうな淺ましい混亂は、現はれずにすんだらうにと、感じられることが何百度かあつた筈である。ともかくも是は歴史といふ教科目を、普通教育の中に編入した、當初の計畫には意圖せられて居た。自責すべき人はおのづから外にあるのであらう。何もかも規定づくめで、是を此通りに進めてさへ行けば、自然に世は明るくなり、又はこんなに眞暗に、たとへ一時でもなるやうなことは有るまいと、頼み切つて居た國民こそ寧ろ責むべきものであらう。

　以前の普通教育では、國史には教授要項とかいふものがあつた。大體の時間に割振つて、是だけは何としても教へて置くやうにといふ趣意であつたらしいが、誰しも物ずきに其圍ひの外へ出て行くものは無く、おまけに先生にはお(432)得意の區域があり、又は手馴れた教へ方に自信があつて、つい其邊で時間を多く使ふ爲に、進級試驗に近よつてこの要項がまだ殘り、駈け足で通るのはまだよい方で、多くは關ヶ原や大阪陣、そんな邊りで切上げることは、私たちの皇朝史略もさう大したちがひは無い。今でも現世に近い三四百年は一走りで、概念は多くは稗史演劇などの、世相の移り變りを無視したものによつて作られて居る。是も或は讀史餘論の、大勢六轉説などの感化かもしれないが、この樣な概括論は日本では成立たない。ほんの一小區割の江戸といふ社會を視ても、この僅かの期間に剛壯なるものが惰弱となり、篤實なるものが輕薄となり、素朴だつたものが華奢を競ふに至つた。是を全國の山間、浦濱、島々に割當てゝ見ると、長短利弊の差は到底尋常の尺度を以て律し難く、その錯綜と相剋とが、頗る明治の統一を困難にして居たのである。今までの史學教授法は或はその對策の一つだつたかも知れぬが、多數の次代國民をして、自分と縁の薄い過去の事件に耳を傾けしめようとすれば、其關心の向ふ所は、國の内外の差を無視するやうになるのも自然であつて、必要はやはり各自の現在を意識せしめ、それから次々に斯くあらしめた原因に、尋ね近よらしめるに至つたのではないか。固有名詞や年月日の類は、教師でも時折まちがへることがある。僅か三四種の人名地名の索引、地圖とか年表とかの備付けさへあれば、入用の時にはいつでも引ける。いはゆる大事件などはもつと面白く、讀ませる本が次々に出ようとしてゐる、それをわざ／＼試驗までして、暗記させる必要がどこにあらう。何の爲に歴史は覺えなければならぬのか、是を少年が質問したときに、はつきりと又わかり易く、答へられる準備は學校のみか、政治家たちの方にもあつてほしいと思ふ。

　私は終戰の次の年の正月、或新聞に一文を寄せて、是からは近世史殊に最近世史の研究と教育に、うんと力を入れたいと主張した。その運動は聊か挫折したが、それでも細々ながらなほ續けて居る。今までの史籍はとかく上つ世に偏し、又傳はつたる記録の暗記に力を入れ過ぎて居た。古代人は今よりも遙かに親切だつたことは疑はれぬが、後世(433)我々が何を知りたがり、何を訝り尋ねようとするだらうかを、豫測することだけは出來なかつた。嘗て尋常平凡にして語り殘すに足らずと思つたことが、片端から珍奇となり從つて又不可解になつて居る。文字の記録は書いて置いて、讀める人の間にしか役に立たない。さうして我々の大多數は、この百年間にすらもなほ文盲だつたのである。勿論語る人々が中世以來は其缺を補つて居るが、彼等は毎囘の印象を重んずるあまり、大きな出來事を拾つて更に誇張し、又時々は空想を之に加味した。この國民が事件を重んじ過ぎ、且つ大きな人物の傳記逸話に力を入れて、それを國史の本體なるかの如く誤解して居る原因も此邊に在るかと考へられる。それも一つの愉快なる歴史ではあるが、是に押されて多數者の辛苦經營、愁ひ喜びの一切を擧げて、無かつたと同じに歸することは忍び難い。文書記傳が史料の全部ではないといふことを、我々の一群が首唱して居るのは其爲であつた。是が安全なる方法も無く又蒐集の機會も無いものならば、空な望みと難ぜられても是非ないが、徐々たる歩みとは言ひながら、次第にわかつて來たことは幾らもある。現に今までに問題となつて居る痛切なる生活樣式の過去が、僅かに此方法によつて明らめられようとして居るのである。

　斯ういふ現實の大切な問題を、有效に處理する方法は通例は三つある。其一つは「右にならへ」主義ともいふべきもの、他の人たちが、殊に先輩たちが遣つて居る通りにして行かうといふものである。安全なやうに見えるが、僅かな危險がある。即ちその御手本があまりにも平凡であり無思慮であり、又はこちらと同じ樣に迷つて居た場合である。第二の方法としては書物へ相談に行くこと、古人は何と言つて居るかを參考にすることである。是にもやはり運と不運がある。たとへば私なぞは諸君の年頃に、ハインリッヒ・ハイネを愛讀し、その文才に心醉して居た。是が甚だし(436)く亂暴な男であつて、一代の有名者を目してフィリステルと嘲り罵り、ゲエテをさへ馬鹿にして居る。必ずしも彼一人が奇矯であつたのではない。時代もまた所謂シュツルム・ウント・ドラングを要望してゐた。さうして十九世紀といふ一つの始めと終りとを、非常に面貌の變つたものにしてしまつたのである。しかもさういふ時世にも、なほ餘裕があり雅量があつて、闘はずして社會をより聽明なる?態に導いて居る人は幾らもあつたのだが、私はそれに廻り合はなかつたのである。若い者で無くとも、書物はもと／＼尊敬すればこそ讀むので、それに書いてあることを否認したり、割引したりすることは仲々出來ない。だからやはり又良い書物、殊に時代に最も適切なる參考書に當り付くことを、念願するの他は無いので、手あたりまかせに讀んで見ることは頗るあぶない。私なども大分の損をしてゐる。

　第三の方法といふのは、是から自分が話して見たいと思ふことで、前の二つのものに比べるともう一段と手輕なものである。簡單な語でいへば、銘々がもう少し以前の生活を考へて見ることである。考へて見ると謂つたところで、種無しには考へて見やうが無い。だから先づ其種を、取揃へる必要がある。書物は勿論有力なる參考資料の一つであり、友人先輩の現に試みて居る先例も無視することは出來ぬが、それ以外にまだ一つ、以前はどうであつたかといふこと、我々の親たちは斯ういふ場合にどうして居たかといふことを、囘顧して見ることが非常に必要である。是が往々にして今日の思索から、粗末に取扱はれ總括的に見縊られて居る。歴史は要するに我々の經驗であり、たゞ文明人のみが失敗蹉跌し、それを教訓として復興前進するの特權をもつて居る。野獣野鳥の群はもとより、人類でも文化の低い種族は、たつた一つのしくじりでも離散覆没して、もう再び元の社會には戻らない。災を轉じて福と爲すことの許されるのは、過去を考へることの出來る國民だけである。

　この歴史には最近の變遷があつた如く、過去に於ても決して一律には進まなかつたらしいが、さういふ中にも最近の百年、もしくは精々百五十年ほどの間に、可なり顯著なる一つの轉囘期があつて、その餘波がなほ今日にも及んで居る。それはどういふ風の變革かといふと、手製の語で言へば「教育群」の分裂といふものが起つて、同時に二通りの青年の訓育法が、兩々併立して行はれるやうになつたのが大きな出來事であつた。その二通りの一つは勿論前からあるもの、第二の新しいものは書物を讀むことを以て特色とし、さうして他の一方の古くからのものを、平凡として輕蔑することが教へられたのである。幸か不幸か私などもこの第二の群に屬してゐた。諸君等も定めし大部分はこの非凡階級の子孫であらうと思ふ。この仲間は優秀機敏の者も多かつたが、中にはかなり批評ずきの、少しく同情の足りない、しかもいつ迄も群衆を器械などの如く、引廻して見たいといふやうな無理な夢を抱く者が、少しづゝ其間から出て來たのである。我邦の近代史の若干の特質は、善いにつけ惡いにつけ、尋ねて行けば原因を此中に見出すものが多い。それを計算に入れないでは、到底今日の文化を説くことが出來ぬのである。

　しかしこの表面の現象即ち讀書教育の普及によつて、直ちに舊式教育法の没落を推斷するのは誤りである。今でもこの二つのものは儼乎として對立してゐる。さうして必ずしもまだ完全には調和して居ないのである。乃ち諸君は自らが中學以來歩んで來た道筋以外に、別に今一つ青年の養成法があつて、それが最も由緒ある國固有のものであり、且つ幾つかの點に於て自分たちの受けたものと、方向を異にするものなることを知つて居らねばならぬ。この二つの一方を受けるといふことは、同時に他の一方の棄權を意味して居たことに心づかねはならぬ。もし二つのものが將來渾融して、一體の國民をなさねばならぬとすれば、この歴史上の知識こそは、出でて世の爲に働かうとする者にとつて、絶對に缺くべからざる準備であつたのである。都市で成長した人たちには、時としてそれに氣のつく機會の無かつた人があるかも知れぬ。全國の青年たちは一樣に、同じ一本路を遲く速く、後れ先だつて走つて居るやうに、思つてゐる人が無いとも限らぬが、村に入つて見るとこの差別は一目でわかる。二種の全く經驗を異にする若者が、互ひに何の交渉も無しに、それ／”＼に自分の流儀の大きくなり方をして居ることが容易に認められる。是はまことに容易ならぬことだと私たちは思つて居る。果して其結果は或形を以て顯はれ始めたのである。

　一番大きな教育法の相異は、具體的にいふと、平凡と非凡とであつた。平凡を憎むといふ人の氣質は、必ずしも新たに生れたものではないが、それが教育の上に公認せられたのは近頃のことであつた。家庭がもしも教育の主たる管理者であつたら、利害や必要は或はもつと早く、此方針を採用せしめて居たかも知れぬが、奈何せん前代の青年教育組織に於ては、實は親々は極度に無力であり、群それ自身は又常に完全に平凡を愛して居たのである。村が問題を避け事件を嫌ふ傾向は、今とても決して珍しいもので無いが、以前はそれにもう少し強い動機が加はつて居た。信州の天龍川筋には、正月十五日の鳥追ひ・むぐらもち追ひ・眠流しなどと同列に、サガ流しといふ行事があつた。サガは昔から善惡と文字にも書いて、とにかく問題になるといふことを意味して居る。村人は平穩無事を好むあまりに、曾ては善いことですらもなほ平凡ならざるものを欲しなかつたかと思はれる。勿論多數が集つて必要を感ずれば、時には新たな計畫を立てることもあつたらうが、不幸にして教育の領域には、その計畫を立てないのを普通とした。理想はどこまでも十人竝、世間竝に在つて、最初から群を逸出するやうな者の出ることを、希望せぬ人々だけが教育の任に當つて居た。この考へ方はかなり實際的のものであつた。今日のやうな積極的の教育機關に向つてすら、なほ相容れざる二つの要求の一つとして、出來るだけ型に嵌つた人を作つてくれといふ樣な、注文をさへ提出させるのである。その論を押進めて行けば、或は高い教育はいらぬといふことにも歸着するのだが、それは同情の無い批評である。我々は交通の今よりも遙かに制限せられて居た、小社會の生活といふことを考へて見なければならぬ。それから年久しい仕來りの、大きな弊害を伴なはずして繰返されて居た經驗といふものも考へて見なければならぬ。慣習の力の強さ(440)といふものは、今の諸君の想像以上であつた。今の心持だけで批評をすれば、幾らでも矛盾と弱點が指摘せられるのは當り前であり、實際又一方には平凡になり切れぬ爲に、壓迫せられ苦しめられた者も少なくないのであるが、とにかくに今日よく聽く所の「日本人らしさ」を、無始の昔から取傳へた原動力は、これ以外のもので無かつたのである。

　今一つの舊式青年教育の長處としては、我々が文字を識る爲に費す時間は現在あまりにも長いが、以前は大體十五歳を以て一人前の境としてゐた。それから二年か三年の見習期間があつて、もう結婚を許される?態になる。大寶令などに見えて居る丁男期よりは、ずつと早くから成年になるのが、書卷の教育を受けぬ者の特權であつて、諸君等がいつまでも若過ぎるのと、かなり著しい對照をなして居る。「丁」は公役に服する場合には、ヨボロと謂つて居たが、普通の生活に在つては日本語で之をセとも謂つて居た。セは成熟したる男子を意味し、同時に妻を?めて差支の無い年齡といふことであつた。即ち我背子とか妹背のかたらひなどのセである。關西で一般に成男をオホセ、今では女性の大人をもさういふのが不當の延長である。京都四周の田舍では村の宿老をフルセといふ。即ちセの大きいもの及び古くなつたものである。東北では一般に青年をワカゼ、言葉が古びたので今では粗末に使はれ、下男や下流の息子に限つていふ土地もある。しかし鹿兒島縣では家柄のある家の新セ、即ち東北ではワコ樣だの關東で若旦那だのと謂ふ者を、ニセサン又はニセドンと呼んで居る。更に沖繩の島の前代になると、王樣ばかりをワウニセカナシと稱へ、即ち上代の稚彦などの美稱と同樣に、常人には用ゐないほどよい言葉になつて居たのだが、今日の所謂青二才は、もはや惡口の場合にしか用ゐられず、辭書を見ると、牛馬二歳のものをさう呼んだのが元だなどと出たらめを謂つて居る。青もニヒセも私等から見れば、共に羨むに堪へたる名稱で、ちつとも惡い意味は無かつたのだが、誤解の結果今では面と向つては用ゐられない語になつてしまつた。

(441)　右の所謂青ニヒセたちは、いつの昔からとも無く團結して、その教育權の大半を自治して居た。彼等は一人々々とすれば甚だ經驗に乏しいが、群の力を以て常に後から入つて來る者を指導して居た。さうして何か新たに事業を計畫すれば、?々失敗しさうな連中である故に、必然的に其方針は保守主義であつた。又近年殊に失敗の實例も多い。少しく前に立つ者が心得ちがひをすると、直ぐに全體の平凡が退歩する。一人の先輩のよくない行動が、御手本になつて仲間が多く墮落する。殊に問題は酒とか男女の風儀とかに關する故に、極端に奔り勝ちであつた。さういふ若干の目に立つ弊風が、一般的に此組織の評價を、引下げたことは事實である。しかしそんな頽廢の?態が、永い間續いて居るわけが無い。現在も既に改良せられ、又一方には古い素朴な形態もなほ色々と殘つてゐる。配偶者の選擇といふことは、國から見ても個人から見ても、生活の最も大切な一要件であつて、しかも是には肉親の者は却つて干與することを許されなかつた。何れの民族でも、寧ろ文化の開けない民族ほど、親兄弟が婚姻の問題に參加することを忌み嫌ふ風は甚だしかつた。故に所謂ニヒセ仲間の自治監督に委ねなかつたら、結局青年は此方面に於ては、無教育といふことになるのである。この選擇は現實に社會生活の基礎であり、或は又倫理教育の一つの出發點でもあつた。今でも常人が他人の德行の檢査をする唯一の關門であり、又我々の品性を陶冶する最も實際的なる動機でもあつた。惡い批判の直接の結果は、良い家庭が持てないと云ふことに現はれる。もしくは幸福なる家庭生活を念ずる者が、特に力を入れて異性の人柄を吟味したのである。一國の文學はこの點についての常識を、養ふやうに今日ではなつて居るが、是にも歴史があつて以前は參考にも何もならなかつた。極端にいふと二葉亭四迷の「浮雲」といふ小説が世に出るまでは、文學は一流の佳人と秀才との婚姻しか説いて居なかつた。即ち他の九十九パーセント以上の只の男女の配偶問題は、所謂村内のゴシップが之を解決して居たのである。このたつた一つの點から見ても、消極に過ぎたる郷黨の平凡教育は、今に至るまで引續いて、かなり大きな仕事をして居たことがわかるのである。

　その舊式の青年教育の方法が、是又思ひ切つて諸君の受けて居るものとは違つて居た。老人などの口數の多い者は、稀にはわざと手本になるやうな好い若い者の言行を、譽めるやうな話をして聽かせることもあつたが、他の大部分は消極的の方法で、何か一人が過失を犯したときに訓誡する。つまりは群から逸出する者を、防ぐやうな計りごとを主として居た。その訓誡が又かなり奇拔なものであつた。笑の教育と自分たちは之を名づけて居るが、一般に日本の社會では、笑といふものが特によく利用せられてゐた。我々の笑は複雜にして又古風であつた。それを巧みに訓育に利用して居たのである。その必要は普通に共同勞作の上に現はれる。忙がしい際だから諄々と説き聽かすといふやうなことは少なく、大抵は短くして氣の利いた、笑はずには居られぬ文句を以て、缺點のある者を批評すると、あと暫らくは其者一人が皆から顔を見られ、何とも言ひ樣の無い淋しい　　　状態に陷る。殊に男女が共に居る場合、それが是から配偶の選擇をしなければならぬとき、大いなる損害とも苦痛ともなつたのである。

　諺といふものゝ研究は、日本では此意味に於て特別に必要である樣に思はれる。文字の教育の進まなかつた邊土に、殊によく是が發達して居るのも自然な現象である。それが全體から見て人をよく言ふものよりも、惡くいふものゝ方がずつと多い。私の意見では、諺の最初の用途は對敵武器、即ち刃物弓箭のやうな武器を使ふ前に、先づ罵倒を以て相手を制壓する手段で、町の喧嘩などには今でも中々よく使はれる。その目的のために平素から之を練習したことは、まるで撃劍などの稽古などと同じで、怒らぬ申合せをして仲間どうしで笑ひ合ふことは、諸君等も無意識に之をやつて居るだらう。それが道具はづれなどの如く、時々は意外にこたへることは御互にも經驗して居るが、とにかくに目的は練習であつて、眞劍でないことは皆認めて居る。次に第二段の諺の應用は、この郷黨教育の訓誡であつた。敵を罵るものほどは痛烈で無いが、それでも周圍に居る第三者が、聽いて思はず齒を白くして聲を出すことは同じで、是(443)が笑はれる當の本人にこたへることは勿論、傍で笑ひながらたゞ聽いて居るやうに見える者も、内心では後々の爲に非常に警戒する。さうして大抵はその短い文句を暗記して、他日再び自分に向つて適用せられる折の無い樣に工夫する。乃ち諺の群全部に對する教育的效果は、顯著にして又無害だつたのである。地方の青年男女が自分はめつたに使用せぬにも拘らず、諺に對して拂つてゐる關心は大きなものであつた。それを又巧みにつかまへて、何か生活上の技術で、是非とも若い者に覺えさせて置きたいと思ふこと、例へば作物の播種時とか天候の判斷といふ類の知識は、出來るだけ面白をかしい短文句で顯はさうとして居る。是は諺といふものが、うつかり聞棄てには出來ぬことを、既に經驗させてから後の考案にちがひ無い。即ち稀に犠牲となる一人は可哀さうだが、是が他の多數を導いた效果は大きく、全體としては親切な計畫だつたといふことが出來る。たゞ殘念なことには其立法の根本が保守的で、村の宿老フルセの發案したものは勿論、青年自らが之を掌どる場合にも、なほ且つ新たなる理想を掲げ示すといふことは望めなかつた。

　右の笑の訓戒警告だけではすまぬ行爲には、更に今一段と強い制裁があつた。目的が單に尋常十人竝の者を作るに在つたとしては、多數の強壓といふことは少し殘酷のやうだが、現在もまだ漁村や山村の、多くの人が協同で仕事をする土地には行はれてゐる。一番に人から憎まれるのは手前勝手と横着、自分さへよければといふ態度、人に迷惑を與へて顧みないといふ所行で、之に對して若い者だけに、惡戯半分の奇拔な制裁が多く發明せられて居る。名は何と謂ふか忘れたが、私なども郷里で少年の頃に、柴攻めとも名づくべきものを一つ實見してゐる。山に柴を刈りに行つて居て、歸りに或一人をいぢめようと相談するのである。群の中で最も力のある若者が、柴を擔いだまゝ細路の中央に立つて休んで居る。他の者はわざとぐづ／＼して居て、制裁を受ける青年を其次に行かせる。さうして後から／＼(444)と一同が押掛けて、中に挾んで其一人を詰めて行くのである。如何なる惡い事をして憎まれたのか、私には判らずにしまつたが、とにかくに其一人の青年はしく／＼泣いて居た。それを見て私の子供心にも、群の暴壓に對する反抗心が燃えたことを今でもはつきりと記憶して居る。思ふに頭立つ者がよほどしつかりとして居ないと、必ず弊害を伴なはずには居らぬものであつた。蒲團蒸しといふ方法も蒲團以後の考案に相異ないが、昔は私塾でもよく行はれ、學校の寄宿舍でも少しづゝは試みる者があつたらしい。是も陰險で又決して公平なるもので無かつた。田舍の若い者の間では御座からはせ、或は藁ぞらと稱して切藁を以てごし／＼と、頭の月代をこする方法もあり、北九州の海岸ではエヘンと稱して、仲間が申合せて當人と口をきかず、途で聲をかけてもエヘンと謂つてすれちがつてしまふ。それで始めて自分が否決せられて居ることを知つて、人を頼んで詫びを入れてもらふ。これが却つて手を掛けられるものより辛かつたといふことである。それからなほ一歩を進めて赤頭巾黒頭巾、或る年月の間一切の人寄りに、赤頭巾を被つて出なければならぬといふ言渡しなどもあつた。是等は大抵もう昔話になつて居るのだが、仲間の交際を制限されるといふ程度の罰則は、今でも方々に殘つてゐる。一年一度の若者の大會で、とも吟味とかあら拾ひとか謂つて、ひどく仲間の者から過ちを責められることがあつて、それをどの位心配して見ても、家の者にはどうすることも出來ぬといふ樣な例は、今でも海岸地方の村々では折々耳にすることである。

　以前の社會に於ては、此等の群の制裁は強いものであつた。よほどの強情の者でもしまひには聲をあげ、大抵は多數の平凡に屈服してしまつた。しかも豫め其危難から免れようとすれば、たゞ何等の新機軸を出さず、少しでも人に變つた所を見せさへしなければそれで十分だつたのである。其辛抱が果して我々に、出來たらうかといふことが先づ考へられる。村には若干の除外例が設けられ、醫者の倅とか神主の息子とか、又此頃のやうに學校に通つてゐる者ならば、此仲間に入らずともよろしいといふことになつて居なかつたら、御互の如きは到底今日有るを得なかつたので、しかも除外例が又一方では、この舊式の訓練法の崩壞して、十分の力を發揮し得なくなつた原因でもあつたのである。(445)學問といふものが始めて村落に入つて來た際には、この除外例はかなり澁々に與へられたのである。天性虚弱で百姓仕事は出來ぬもの、家に十分な地面が無くて、他に職を見つけなければならぬ次三男などは、普通は町へ出て日雇暮らしをする。幸に文字が好きなら手代や帳面つけ、もつとよい所で御寺の小僧や醫者の弟子になり、器量があれば更に出世もしたらうが、さういふ人たちは何れも村には止まつて居ないのだから問題は無い。現在土地に居つて若い衆の仲間に、加入せずに居るといふことは中々許されなかつたのである。あの息子は學が出來るとか、人は何でも學をせねばあかぬなどと言ひ出したのは、所謂維新の風雲に際して、書物を讀む者だけが發達する例を、やゝ澤山に知つてから後のことであつた。此點からいふと是も一つの革命と名づけてよい。小學枚の教育はこの思想の踏襲であつて、此頃こそあまり言はなくなつたが、親も當人も又先生たちも、子供が勉強するのを非凡となる手段と認め、よく勉強して早く偉い人になるやうにと、口癖のやうに謂つて居たのである。乃ち是は平凡を輕蔑する教育であつた。國の全體の兒量を一人殘らず、日本人にする爲に教育して居りながら、たま／＼其中からたつた一人の、やゝ群を拔く者が出ると、それを學校の功績の如く他に誇り村でも悦ぶ氣風は、今とて決して衰へて居ない。さうして一方に村の要求するものは、平和で落付いて居て事を好まぬ尋常の若者だつたのである。この到底相容れざる、二つの目途は、抵觸するにきまつて居る。是を兩々併存せしめる爲には、實はもう少し早くから、何とか適當に考慮して見なければならなかつたのである。

　我々の平凡は、この國土に根をさした歴史ある平凡である。少なくとも其發生の根源に於て、必要も無く理由も無いといふものは一つだつて有り得ない。さうしてそれが又大なる集合の力となつて、我々を統制する時代を形づくつたのである。たゞこゝで一つ考へて見なければならぬことは、それが現在の政治の便宜に役立ち、更に又今まで年久(446)しく人生の秩序を維持して來た效果を讃歎する餘り、次々の時世に必要なる常識の改訂を、おろそかにする懸念のあることである。即ち將來の諸君等に適する平凡を束縛し、是と兩立し難いやうな古臭い平凡を強ひ押付けようとする傾さへ見えることである。更にもう一つ氣をつけなければならぬことは、人生には目に見えぬ複雜な原因があつて、所謂常識は退歩し惡化する場合もあり得るといふ點である。是が若し不幸にして暴威を逞しうし、新たに次の時代を組織せんとする諸君と對立し、又時として壓迫する場合はどうすればよいか。現今の平凡には、幾つかの恕し能はざる矛盾不條理弱點のあらうことは私も認める。しかし是を痛罵漫罵して見た所が、もと／＼自分たちでこしらへたものなのだから、言はゞ鏡を見て我が顔の惡口をいふやうなもので、愉快でも何でも有りはしない。ましてそれと力闘するなどは無法な話である。何となれば是が一代の文化の綜合的な姿であり、又其中で呼吸せずには居られない人生の空氣でもあるからである。然らばどうして居ればよいかといふと、一言でいへば反省すればよいのである。幸ひなることにはこの我々を包むものは、刻々も變化せずには居なかつた。之を自然の推移に任せて置いても、結局は漸次に生活の現實と適應しようとして居る。だから私などは必ずしも大きな悲觀を抱いて居ない。たゞ歴史が教へる如く、折々は無駄なまはり路、損な割引をしてそこへ到着することになるのが、惜しいと思ふだけである。微力ではあるけれども我々は、ひろく一般の同胞と共に、最も精確に是までの經驗を吟味して、この自意識の途を歩み進まうとして居るのである。さうして其方法としては至極手輕な、すぐにも實現に移すことの出來る一つの學問の既に生れて居ることを、諸君に向つて報道したいのである。人が日本民俗學と呼んで居るものが即ち是である。世上に入用が無ければ靜かに樂しみにも學ぶことも出來るが、この知識をさし當つての人生の疑惑解決に、應用しようとすればそれも可能である。要は日本人の年久しき經驗の、今まで心づかずに居たものが許多であつたことを、認め得た者が之を役立たせることが出來るのである。

　惠まれた人生の高みに登つて、徐ろに此世の觀照をすることを許された諸君らが、もしもそれを志さなかつたら、(447)他に適當な代表者があらう筈が無い。諸君はまさしく其期待を以て、この國家多難の秋に在つても、なほ萬人から守り育てられて居る人なのである。少なくとも先づ第一次に、諸君の群を構成してゐる所の「平凡」を内省して、其改良から企てゝ行かねばならぬ。學問に携はつてゐる青年たちのうちにも、今や既にくだらない色々の平凡が生れて居る。現在諸君の十人竝は、正直なところさう高くは評價することが出來ない。學問を食ふ爲自分の爲と考へて居ることが其一つである。世間は愚かだといふ速斷が又一つである。本を讀まぬ者が皆愚かだつたら、日本人の本を讀み始めたのは新しい現象だから、日本は到底今日の如くなつて居らぬ筈である。そんな根據の無いことを考へて居るから、いつまでも無學な者から馬鹿にせられるのである。それから今一つの有害な常識は、あはよくば衆を率ゐて天下に號令せんとする野心を是認することである。現在の社會?態が萬一さういふことを許すとすれば、それは明白に、國家の進歩に、まだ／＼澤山の前途があることを意味する。さうやたらに引張りまはされてはやり切れるもので無い。個人の獨立した判斷を抑制し、だまつて多數の者のついて行く方へ行くといふこと、是が百年前の村々の若連中の、最も歎かほしい弱點であつた。それをいつ迄も利用して見たいといふのは、言はゞ國民の賢くなることを欲せざる者だといふことが出來る。假に其樣な雷同附和性が、どうしてもまだ民衆の中から、當分は根絶し難いとするならば、我々はやはり昔の郷黨の先輩のやうに、全力を擧げてデマゴーグの進出を防止しなければならぬのである。逆に其弱點を利用しようとするなどは、明らかに裏切者の所行ではないか。

　今囘のこの講演を、政府で文化講義と名づけて居ることは、私は非常な好感を持つことが出來る。私には是が何と無く、全國の高等學校に、文化史の講座の常設せられる前兆の如く感じられるからである。四十數年前の高等學校の生徒には、文化史が最も人望ある愛讀書であつた。今から見れば粗末なものかも知らぬが、私たちの友人は皆ベンジ(448)ャミン・キットの著といふやうな其方面の書物を讀んで居た。又内外の多くの歴史の本は、公生活に對する憧憬と感慨とを養ふ爲に、小説を讀むほどの熱意を以て我々は貪り讀んだ。過去の文化に向つての關心は燃えてゐたのである。それが後やゝ一方面に偏した目的を、兼ねて抱いて居る者のみがこれを説くやうになつて、文化史の研究は頓挫したのである。今日の實?も亦同じく一方に偏して居る。「文化」は俗語となり政治語となつて、其一語の意味すらがまだ確實に把握せられず、文化住宅や文化卷紙、甚だしきは文化腰卷といふ名稱さへ許さるゝに至つた。文化の決してそんなもので無いといふことを、知らせる爲にも人は骨を折つて居る。まことに痛ましい零落の姿と言はなければならぬ。勿論この一語は古くからの日本語ではない。しかし之を用ゐ始めた人の心持では、文化は雄大なる一つの織物の綾模樣、無數のたて絲と、色とり／”＼染の料とによつて、組上げられたる美しいものゝ名であつた。時代と社會を構成する各人が、めい／＼に自分のものを持寄つて、休みなく織つてゆく寶の絹なのである。それが時と共に次第に改まつて行くのは當然で、たゞその中にはどれだけの新しい分子が加へられ、どことどこに永古不變のものを存し、又耀かせて居るかといふことが問題だつたのである。諸君は今日以來に於て織機から下される新鮮なる文化の管理人である。それを今まである何れのものよりも清く美しく、且つ温かみのあるものに仕上げるといふ役目を持つて居る。たゞその役目を爲し遂げるには、過去の文化から引繼がれて、其中に含まれて居る要素の一つ／＼に、注意深く又十分なる理解をもたなければならぬのである。それが果して現在の對學問態度、乃至は現在だけの知識を以て、うまく目的を達するや否やに就いて、私はまだ少しばかりの不安を抱いて居る。一人の力では文化は作り上げることが出來ぬからである。さうして又集合的の判斷を誤り無きものとする爲には、成功と失敗との何れであるかに論無く、又批判者ですらも無いのだが、それを知らないやうな者の指導と批判とが怖ろしい故に、私たちは一所懸命になつて正しい文化史の成長を祈念して居るのである。

　從つて過去の一時代を取つてその時代の文化を考察して見る事は可能であり、また必要である。時の推移が緩慢で五十年百年の間には目に立つ變革も無く、又は有つてもそれ程は判別し兼ねるといふ時代は、やゝ長い期間を劃して、是を「上代文化」と名づけて研究對象とする事が出來るかも知れぬ。但し「近世文化」の語を學問的に使ふ事は、既にやゝ難しい。政治史家の近世は、略々關ヶ原戰から鳥羽伏見の役までであるが、この間の文化は、江戸期だけを見て(453)も寛永正保の文化は御維新前、すでに變つて了つて居るといふ　　　状態である。ましてや「現代文化」に至つては、我々がその全貌を見る暇が無い程に目まぐろしい變化を續けて居る。十年と切り五年と區劃しても、まだ大まかに失する氣がし、昭和七年八年と切つて見ても、年初と年末で違つて居るやうな氣がする。この論を押しつめて、統計等のやうに或時點に依る文化の横斷面を作成することが必要であるとさへ思へる。それが出來ないのでこの語を用ゐたがる人々は、いと容易に、現代文化の傾向とか主流とか時代精神とか言ふ語を使つて居る。そんなものはこれから存在を立證せらるべき問題で、獨斷でない限り今から説くことは不可能である。そして斯樣な無理な獨斷を借りて來る必要は、幸にして「上代文化」の方には無いやうである。

　是に反對する學説は、文化神授説であり、今日信ずる人が少なくなつたとは言へ、前代の通論であつた爲に、依然色々の形をなして人々の思考の内に殘存して居る。各民族が野蠻から文化人に移る時に神が出現して法律を與へ農業を教へたといふので、高木敏雄君はこれを「文化神」と呼んで居た。かゝる神話傳説は到る所にあるが、それを押しつめると神が最初に文化を創り次に人間を造り出したといふことになる。しかしこの論者すら、多くはそれ以前の文化を豫想して居る。例へばノアの洪水は、惡い文化に對する神の罰で、そこに生き殘つた僅かな人が文化人として出發したといふ風に考へてゐるのである。ある民族が非常に惠まれて居て、此世の一區劃に出現した當初から既に永續(454)し得べき生活樣式を具へて居たと言ふことは、この人々なら主張し得られようが、假にそんな事があつたとしても、少なくとも我々の定義する文化ではない。新しい「文化」といふ語を用ゐようとすると、自作であると借用採用であるとを問はず、とにかく第二次の物といふ事を先づ認めてかゝらねばならない。

　自然の取捨選擇は、如何なる保守主義の時代にも絶えず行はれて居る。或部分は、それ以外の方法が無いので不自由と知りつゝも辛抱して居たので、新しい方法さへ發見せられたら急いで是に就く。弓が發明されて投槍が用ゐられなくなつたのは當然で、節操が無い等と批難は出來ない。信州では火の氣の殘つた熱い灰をクヨークリと言ひ、それを移すに木の皮を用ゐてゐたが、十能を知るに及んで止めた。一つでも便利な方法を知れば、そこへ移るのである。人間の生活が複雜化すると共に、精神生活の方面でも、新たなる經驗から、從來豫想しなかつた物を附加することが多い。山城奠都以來内外の交通が頻繁になり、京都の人口が増加すると共に、傳染病が流行し、堺の神の信仰が急に起つた。怨靈が病氣を起すと考へられて御靈信仰が急に旺んとなつた。そして天神樣信仰が起り、オホマガツビノ神の信仰も變り、祇園樣も雷神樣も疫病神の性質を新たに帶びるに到つたのである。かゝる信仰はそれ以前は、起りたくとも起り得なかつたのである。一方また鐵砲が發明されて弓矢が廢れ今日は遊戯物と化して了つたといふ風に、社會の新事情が全然別種の方法を必要とした爲に、忘れ去られた文化因子も數へれば限りがない。附加される物と消滅する物とを一つ一つ考へて見たら、その起原や時期や場合等はそれ／”＼違ふであらう。何時流れるとも見えぬ氷河も絶えず動き變りつゝある如く、昔に於ても今日とテンポの相違こそあれ、總て絶えざる變化を續けて來たことは確か(455)である。

　何れにもせよ、古い文化は次ぎ／＼に新しい文化に取つて代られる自然の運命を持つて居る。名稱や形は記憶に保存されてゐても、中身は何時となく改良され、古き世の姿を留めぬ物も多い。米の飯は、今日でも雅文體で表現すればイヒであり、飯と書かねばならないが、昔と今とでは固さも違ひ作り方も變つて居る。昔は甑を用ゐて蒸したので、大體今日の御強《おこは》がその系統のものである。現在我々の食べて居るものは、水粥に對する固粥に當るものである。それも明治以後著しく軟かくなつて居ることは、杓子の形を見れば解るので、以前はぱら／＼したのを盛る爲に中凹みであつたが、今は切つて盛るから平たい。人間が彼方此方に離れて小規模の食事をするに到つて甑では不便であり、一方竈と釜が改良されて温度を散らさずにむらす事が出來るやうになり、今日に到つた。つまり甑使用の不便が發明を促し、甑自身は御強と餅の場合にのみ蒸籠の型で殘つて居る。路にしてもさうであり、一尺幅の足ふみ分けた路も路である。それに對しては昔も作り路、大路があつた。徐々と變化を積んで鋪装道路に辿り着いたのであるが、不意に古人を連れ出して來て見せたら到底これを路とは呼ばないだらう。車にしてもさうで、名は同じでも内容は全く變つて了つて居る。松崎慊堂先生を呼びさまし、この附近の今の有樣を見て貰つたら、到底同じ土地のこととは思はれないであらう。

　かゝる不斷の推移、刻々止まぬ文化の新陳代謝の内に在つて、若し上代から持續して今なほ我々の生存の一部を成して居る物があつたら、それは奇瑞と謂ふべきであらう。然も日本には、その奇瑞が未だ確かにある。強ひて人間の意圖を以て特に保存せんとはしなかつたもので、依然遠い昔の命脈を保つて居るものが多いのである。例へば常民の生死觀の如き、あれほど數多い新宗教の諸宗派が、教へて教へて教へ拔かうと努力したに拘らず、實質は依然古い風を保つて居る。極樂か地獄かの思想を教へこまれながら、今でもお盆には精靈が戻つて來ると信ぜられて居る。坊主が供養するから佛教の思想と思つてはならない。お盆だけではなく、關東に於いては正月にも春秋の彼岸にも精靈が(456)歸つて來る。盆行事が、現代文化といふ織物の中の一本の絲であるから、現代文化の一因子と謂へるかも知れないが、しかし是は古い我が祖先の生死觀が、根強い耐久性を持つて現代文化の内に殘つたのである。

　その一つは復原主義とも謂はうか、とにかく今より二千年前一千五百年前の世の姿を先づ想像力を以て描き出し、そこからもう一度その時代の問題を考へようとする企てである。歴史は是を企てゝ早くその不可能を感じた。結局解る事しか解らないのである。古代以前に關しては記紀以外僅かな文獻があるのみで、數百年間は天子樣の御名と御年しか書いてないといふ　　　状態である。その不足に對して助勢に出たのが考古學である。從來顧られなかつた地下の遺物、關東の野に散在する黙したる多くの古塚さへも、問へば必ず何物かを答へて呉れる事の解つたのは考古學のお蔭である。中央の政治と縁のなかつた土地にも人が住み、各種の工藝が榮えてそれ／”＼人文進化の跡を見せて居る。其等が詳しく調べられたら、綜合によつて關東等の古い時代が復原出來るかも知れないが、それは恐らく美しい夢に過ぎないであらう。有名な文明批評家ハヴロック・エリスは曾て言つた。それは屹度大きな收穫があらう、もし三丈なり五丈なり、必要な程度に世界全體の土の皮を剥ぐ事が出來たらと。然しそんな事をする必要は勿論無からう。エヴェレストの天邊等はそんな必要がない。大凡見立てゝ掘るべき所だけ掘れば充分なのだが、有名な樂浪の古墳すら掘り盡されて居ない現?では、今後一通り古墳を掘るだけでもどれだけ日子を要するか知れない。近年の大きな發見とも言ふべきは、殆と皆端緒を偶然に得て居るので、貴方まかせの御他力學問である。コベルンの「ザ・ニュー・アーケオロジカル・ディスカヴァリーズ」に書いてある事だが、リビヤ沙漠の寺院跡を掘つて見ると、二尺餘りの鰐の子の剥製ばかり數多出て來て、他には何も無い。腹立ち紛れにポンと蹴つた途端に腹が割れて、腹の中には、失はれた町に關する古文書の反古が一杯つまつて居たといふのである。鰐を蹴らねは進まぬ學問では心細い。かゝる學問の完成を(457)どうして待つて居られようか。

　最後に今一つの大きな副産物は、時代と謂ふものゝ力を理解する事である。考古學の人々も實驗したらうが、多くの上代文化因子は、丁度鏡が錆び繪が變色する如く、その保存の間にも外部の影響を受け、決して昔のまゝの姿では無いのである。オーレル・スタインが、西暦八世紀の馬糞がそのまゝ殘つて居るのを發見したと謂つて居るが、それにも必ず時代色は着いて居る筈である。古い物は必ず變化があるから、古い物を最初からの姿と見ない爲にも、我々の如く現在から次第に過去に溯る事が安全であらう。時代が變化を與へることを知る許りでなく、如何なる變化を如何なる程度に與へるかを知るのは、我々の側に屬する事である。神道の如く日本固有のものと目せられて居る事にも、近世終りに復古の必要が叫ばれ、然もその復古たるや如何なる程度のものであつたか是が亦問題である。原型の復舊でないことは確かである。どれだけ近づいたか、それが一つの研究題目であり、知つてかゝらねばならない事だ。

　次ぎに大體に於いて、起原不明の物は先づ古いものと定めてかゝる。そして追々と事實なり文獻なりの反證が擧げられ、その一つ以前の型が解ればより新しい物と知られ、從つて時代も定まるものである。二つ竝べて比較研究すれば、何れが古いかは少々練習さへ積めば判斷出來るのである。我々の研究して居る婚姻制度にしても、多くの發展段階が現存して居るが、發生的に如何なる過程を經て來たかは次第に明らかになりつゝある。また葬制にしても、從來の文化史研究家の疎かにして來たところであるが、我々の側の研究によつて次第に明らかになりつゝある。現在の葬制が三百年も前から續いて來たとしたら、國土は石碑で覆はれて居たらう。それだけでも新しさが解る。文字なき過去の農村に、現在の如き墓碑があつた筈はない。文字を知るやうになつた時代さへ明らかになれば、現在の如き墓碑の歴史も解るのであつて、農村ではそれが非常に新しい事である。以前は墓標として多くは据りの良い三角形の石を置いたので、覺えて居る人がなくなると、自ら基もなくなつたのである。また現在の如くなつても、三十三年なり五十年なり過ぎると骨壺も毀し、墓をなくする風が多いのである。一段古い型では、地上に屍を置いて土を盛つたに過ぎない。色々の古い形式は、現在も殘つて居るのであつて、例へば沖繩北方では死體を岩窟に入れて腐らし、骨を洗つて部落共同の地で他の人の骨と混ぜて了ふ。一人別に納める等は餘程大切な人に限つて居る。日本内地だつて、以前は或條件の人に限つて古墳を築いたのである。東北地方へ行くと今でも一定した墓地の無い所があり、先づ山中の靜かな地へ死體を持つて行つて腐るまで番をして居り、それからベロベロの神樣を揉んで、その示す方向へ骨を持つて行くのである。石碑に文字を刻み、まだ死なぬ細君の名を朱にして置く風なんかは、古いことである筈がない。

　此等に比べると、心意現象の方では未だ古い觀念の保存されて居る物が案外に多い。新しいものは勿論澤山あるが、中世式の考へをとゞめてゐることもなか／＼多い。自由とか個人主義の新しい思想を持つてゐる人々でも、暗い所へ行けば妖怪變化が出るといふ考へに支配されずに居られぬ場合が多いが、それも根原は尚遠く辿り得るのである。心意人類學の對象たる諸現象は、内省の機會が無かつた爲に、即ち無意識であつたればこそ殘り得たのである。近世は謂はゞ饒舌時代であつて、新たなる變化はさうは隱れてゐない。我々にゆかしいのは中世、殊に記録の乏しい又は普及せぬ足利時代である。西洋でも中世はダーク・エージと言ひ、人々の研究はそれに注がれたが、ダーク・エージは興味が多かつたのである。日本の中世は、遺物を見てもわかるやうに、記録こそ乏しけれ内側の生活の最も忙しかつた時代であり、フォークロリストの興味を最も引く時代である。南北朝は古いものゝ崩れかけた時代、狂言記の書かれる一寸前が又一つの轉換期であつて、大農園制度が壞れ始め、農民の個人意識が成長し、民衆の活躍の起つた時代である。

　いよいよ此處から本題の文化運搬の問題に入るのであるが、時間も相當進んで居るので駈足で行かねばならない。(462)文化運搬を考へる人々は、直ちに五山僧の文化改造に貢獻したことを言ひ、南蠻船の渡來の影響を言ひ、また溯つて上古以來の隋唐交通の事を口にしたがる。此等は大事件たるに相違ないが、京師の問題であり、堺浦や筑前那大津の問題であつて、それが全國的問題たり得るには他の理由がなければならなかつた。京下りの禅僧の及ぼした影響や、長崎の異國情緒を書いた文學者の文章の力もあつたらうが、其等が如何なる程度に田舍へ力を及ぼしたかは問題である。その他豐年が續くと都見物の衆が數多京都へ上つたし、また「蟻の熊野參り」の言葉もあるやうに、熊野へ伊勢への道者のことも考へられる。勿論一つの力には相違なかつたが、それにしても道筋も定まつて居、それだけでは足りない。私が見落すべからざる普遍的原因と考へて居るのは、漂泊民の生活であり、是こそ文化運搬に於ける最大の因子と考へられるものである。佛法で言ふ行脚、西行や宗祇や芭蕉等を最も有名な代表者とした漂泊民の群、旅する彼等こそ私の言はんとするものである。

　漂泊の理由として、少なくとも二つの大きなものが考へられるが、その一つは土地探しであり、いま一つは農業は出來ずまた耕作生活を欲しなかつた者であつて、うかれ女、うかれ人、浮浪等もこれである。旅はタベ、即ちたまはれ又は下さいの意味であつて、その生活は非常に古いものであり、また苦しいものであつた。農民は孤立の自給生活をして居て與ふる物が當然乏しかつたから、旅する者の生活は貧しいものであつた。農民としては何等交易の必要を感じて居らず、與へに對して貰ふべき物品を要しなかつたのである。さうした孤立?態から呼びさまし、交易の必要をさとらしむる事は難しかつた。アキンドの語は古いが、發達は眞に遲々たるもので、最初はおそらく生藥屋、次に呉服太物屋、下駄屋、傘屋と順々に出來たのであらうが、市が出來てより遙かに後まで、行商の成り立つ路は少なく、旅する以上はたべたべと言つて歩かねばならず、乞食に近い生活をして居たものと思はれる。

　次に巫女や歌比丘尼等の女性であるが、之にも變化の順序があり、現在の各地方はその發達の各段階を保存して居る。大體に於いて信仰と結び付いたものが古く、藝術の方は後に分化して獨立したものと考へられる。これにも座頭の如く統一機關があつたらしい。地方の信仰厚き藥師堂に於いて、各々自分の土地の事實と信じて居る言ひ傳へは、實は數ものであり、中央に統一の配給所とも言ふべきものゝあつた事は略々想像されるのである。それが誓願寺といふ京都の寺だらうと説いたのが、私の「女性と民間傳承」である。現に日本の田舍に於いては、神氣に依つて語る巫女から賣笑婦に到るまで、全國を漂泊して廻る女が多いが、江戸時代には遙かに多く、由つて來たる所が鎌倉時代南北朝時代と思へぬ程に古い。此等が皆上代文化の一斷片だとは斷言しない。然し態容こそ變つて居れ、女性のかゝる(464)生活方法は上代からのものであらう。近代文化では、中央と地方との間に若干の開きがあり、一方で文藝と見るものを他方はなほ信仰と信じて居り、これを同化させて新しきに就かしむる運動も中央から出て居た。女性が皆農村の婦女の如く、常に一地に生涯を終るものであつたら、かゝる影響はもつと遲かるべきものであつたらう。

　古くは工藝と歌謠と説話とは、不可分の關聯を持つて居り、其等を運ぶ旅行者も多く兼業であつた。馬方牛方は今は近距離の駄賃づけのみであるが、以前は三十里四十里の遠方へも旅したのであつて、山姥の昔話は彼等の持ち傳へたものと思はれる。桶屋も旅したが、彼等もなか／＼の話上手で、口無し女房の話は彼等の傳へ廻つたものである。染屋は手鞠歌に關係があり、漂泊の鑄掛屋は今も各地に居るが、矢張り話上手の歌上手で、炭燒長者譚は彼等が傳へたらしい。次に椀の木地を作る木地屋は、全部近江と伊勢との境なる東小椋から出て、全國を歩き廻つた。祖先は小椋太政大臣といふ翁で高倉宮以仁王に仕へたとか、或は小野宮惟喬親王の家來筋だとか言つて居る。かゝる傳説は越後會津の國境にもあり、歴史家は之を歴史と見たがつて居るが、同じ話は全國的に擴がつて居るのである。彼等は單にお椀を造つた許りではない、かゝる邊鄙な山中へ京の上臈が來られると言ふロマンスを、山間の人々に與へた。古くは多く神樣が平地へ降りられたといふ話であつたが、後には上臈は勿論のこと天子樣が各地へお出かけ遊ばしたといふ風な考へ方を植ゑつけたのである。例へば用明天皇が宮城縣へ、宇多天皇が美濃へ行幸になつたと言ふ傳説があり、長慶天皇の御遺跡の如きは十數ヶ所以上もあり、安德帝の傳説も多いのである。かゝる國柄を作り出したところに、木地屋部落の力がある。單に木地を持ち傳へた許りではなく、農民の空想力を助長發展せしめ、考へ方を變化さしたことに、木地屋漂泊の大きな意義を認めねばならない。

　斯ういふ人々は、單なる本職のみでは交易を農民に求むる事が出來ず、無形の商品を片荷に擔ぎ廻らなければならなかつたことは、前にも述べた通りである。彼等の漂泊が無かつたら、文化の上代因子がもつと地方に留まり得たかも知れないが、外部からの刺戟が次ぎ／＼新種の生活樣式や思考方法を教へ、空想を多彩ならしめた事は、ほんの折(465)々の外國交通に優ること萬々である。是には勿論民族感覺の發展し得る素質も想像せられ、所謂田舍わたらひの徒の目指して群がり寄るだけの土地經營者の引力も認めなければならぬが、とにかくにもしも國内この一部の漂泊分子が無く、又彼等が自ら頼み得る物質上の力を具ふること、處々海の滸りに住む漁民のやうなものであつたならば、中世の日本文化は斯う急激な轉向を遂げなかつたであらう。京都に書き傳へられた限りある記録ばかりから、我々の過去の生活を推測し得ざる所以である。歴史に跡づけ得られる日本の國内移民といふものは、場合が至つて限られて居て、例へば蝦夷征略に伴なふ東北の經營や俘囚配置の如き、かゝる官行植民は他には傳へがない。平家没落に伴なふ遠方の新恩加給は、多數の關東武士を中國九州に運んだらうが、さういふ機會は毎度は來なかつた。諸國の莊園開發には新勞働を要したが、概して地元に於て之を募つて居る。始から漂泊して居る者が無ければ、遠くの土地にさういふ立札のある事を知る譯がない。それにも拘らず日本のやうに滿遍なく全國の住民の入交つて居る國も珍しいのである。然もよく見ると、是も總ての人が動いて歩いたのでないやうであり、それは苗字からも考へられる所である。

　齎した物總てが村の風となる譯ではないが、一つしかないものに他のある事を示すことが既に大きな問題であつて、(467)少しでも有利なもの、同等でも趣味に合ふたの、新しいものに移り進まんとする傾向を生み、氣持を發生せしめたのである。隣りの事を良く思ふ風、都を尊び雅を羨む風、新しきをゆかしがる氣風等、由つて來たること淺からざる次第である。日本人が外部の感化に對して案外抵抗力の弱きこと、外國風にかぶれ易い傾向といふものも、決して明治以後の事では無いのである。然しそれに伴なつて、新舊を調和させる能力も亦一方で養はれた。二種以上の異なる系統の文化因子が久しく共存する事は、闘爭を意味する。それを避けんとする技術、無理な折合、或は曲解、所謂洋服に下駄を履くやうな妥協にも、日本人はやゝ辛抱が良すぎるのである。長所であると同時に短所であり、之が爲に文化混融の過程が?々正解されずに終らうとする。あれ程澤山の日本人らしさを具へながら、尚折々は獨自の文化を有たなかつたものゝやうに物知らぬ外國人の批判を受ける點などは、將來必ず今一度は心を潜めて考へ見るべき事であり、それに對しては面倒でも、我々の如く現代文化の系統的分析をしてみる必要がある。その爲には、先づ材料を集めてかゝらねばならない。今日あるだけの材料では不足である。材料を集め、然る後に批判の仕事に就かねばならない。

　反省して見ると、私なども今はまだ明らかに説くだけの準備が無い。もしも手短かな文句で定義を與へることの出來ないのが文化を知つて居らぬ證據だときまれば、其中に入れられるのは覺悟しなければならぬ。幸か不幸か我々の口言葉には、昔から定義といふやうなものは要求せられて居なかつた。何度も／＼耳で聽いて居るうちに、人が大よそ斯ういふ場合には使ひ、斯ういふ場合には丸で使はぬのみか、又時々は「に反する」といふやうなことも謂ふ。即(469)ち言葉の裏打ちをする?況空氣、乃至は感覺とも名づくべきものゝ體驗の積み重ねによつて、少しづゝ輪廓を明らかにして來たのである。其くり返しが何遍ほど入用であらうかは、勿論物にもより人と方法とにもよるだらうが、大體に眼で見、手で觸れることの出來ぬもの、殊に少數學徒の口から出發した言葉などは、手數のかゝることは確かであり、又それだけには特別な教へ方が、あるべきことも疑はれない。然るに其用意と親切の具はつて居る場合と缺けて居る場合とがあつて、今の文化といふ新語などは、後の方、即ち野育ちに放任して居た方である。日本國民の特長と言はれる敏捷さが、あまりにも無條件に、期待し且つ信頼せられて居る。誰かが世の爲にもう少し考慮すべき問題であることは皆認めるが、しかもその「誰か」は自分のことだとは思つて居ない。白?をすれば私なども、いよ／＼肉親の者の幸福にかゝはるといふことに心づいて、始めて痛切なる責任を感じ出したのである。それだから人に説く前にもう一度、文化の眼鼻を明らかにして置かねばならない。

　明治の歴史をふりかへつて見るのに、文明開化といふ語などは、之を宣傳する人に若干の計畫があつた。大小の刀はいふに及ばず、ちよん髷でもかみしもでも、あらゆる古くからのものは皆棄てよといふ際に、必ずこの語を用ゐて居た。故に少しく消極には傾いて居たけれども、其心持だけは可なりはつきりとして居た。從つてもうさういふ改廢の必要が無くなると、事實それから後の文明開化の方が頼もしかつたにも拘らず、もうこの言葉は豫備後備に入つてしまつた。之に對して又一つの流行語、自由の權といふ言葉などは民間製であつて、たゞ好いものだといふ感じだけは弘く傳はり、その條件や制限を述べたものは、すべて六つかしい學者の著述だけであつた。大衆は少しも本當の教育を受けて居らず、しかも古くから自由不自由といふ語だけはもつて居たので、是に權が附くと何でもしてよいことだと考へずには居なかつた。私は小學校に入り立てに、亂醉した博徒が此語を援用したのを實驗して、自由が非常に(470)きらひになつたことは、曾て何處かで話をしたこともある。つまりは新語だけをたゞ流行させて置いて、内容の解説を初學者に與へなかつたといふことが、日本で自由主義の甚だ短命であつた理由とも見られるのである。我々の愛重する文化といふ社會事實だけは、よもやさういふ運命に、陷りもすまいが又陷らせたくない。

　しかし當路者が世話を燒いて、以前の文明開化の語がやがて必要が無くなつたやうに、たゞ眼前の政策を行ひやすくするだけの、狹い解説を押し付けるのも考へものである。いふまでも無く物は言葉と共に消え去つてしまふまいが、もし之を文化と呼ぶことを罷めて、新たに第二の名を下すことになつては難儀だからである。文化ももとは年號以外には聽かなかつた漢語だが、覺えやすい字であり又文部省の標準漢字案からも除外せられて居ない。もう歸化させていつまでも働かせるやうにした方がよい。それには昔からの多くの日本語のやうに、やゝ大まかな輪廓の中に包まれて、次第に目が細かく綾模樣の鮮麗になつて來るやうな、つまりは成長力のある解説を、國全體に通用させて置くことが必要なのである。強ひて定義をきめるとすると、もう隣近所にも諍ひの起ることは、今はほゞ想像し得られる。だからわざと茫漠として置かうといふのも御親切とは思ふが、さうして置く爲に話が頓珍漢になり、又は飛んでも無いことを考へて居る者が多くなつても困る。やはり通常人の概念だけは、擧國一致をさせる位の、教育方針は立てゝ行かなければならぬ。日本の少年少女は鋭敏だから、今更文化とは何ですかと尋ねもすまいし、又文化は文化さと答へられても、赤い顔をして引込むであらうが、それで濟ませて置けるのは、教へる人々に確乎とした當然があつての上のことである。正直のところ、今はそれが少し怪しいのではないかと私は案じて居る。

　言葉の教養といふものは、以前は元服の時までに、一應は完成すべきものと考へられて居た。男は十五、女ならば十三の年ぐらゐに、少なくとも聽いて理解するだけは、一通り一生涯に入用な物言ひを覺えてしまつて、それで一人前のつき合ひ世渡りが、出來る筈になつて居たのである。事物が複雜を加へ、其上に讀み書きの支度までも必要になつて、其期限のずつとおくれて來たのは是非に及ばぬが、其割合には今は修業の方法が改良せられず、又くり延べもせられず、寧ろ無邪氣に知らぬことを訊くといふ態度が、段々と早く切り上げられて行く傾向さへ見える。是は學校の教へ方が積極的で、大よそ人の將來に入用な知識は、皆與へるといふ自信もあり、又外からの期待もあつたからで、黙つて附いて行けばそれでよいと、安心して居る者が多い爲であらうが、とにかくに「何」とか「どうして」とかを連發して、隨分と親祖父母を困らせた子供は靜かになり、今では却つて學校での見聞を、話して聽かせようとする者が多くなつて居る。それを至極結構なことゝも言つて居られぬのは、事實學校以外にまだ學ばねはならぬものが、何ほどか殘つて居るからである。勿論第二段の學習方法といふものも昔からあつて、子供は大きくなるにつれて、次第に其方に寄つて行く傾きをもつものらしいが、是にも周圍に居る人の援助が必要であつて、それがいつでも注意深く、且つ親切であることを期し難いのである。子供の好奇心は無限であるが、現在自分の胸に抱く不審が、自分獨りの魯(472)かさに基づぐものか、但しは多勢の知りたがることを、代表して居るものかを見わける力は無い。つまりは笑はれるから訊かぬ場合が多いのである。靜かに觀測の機會を重ねて行つて、自分の體驗で解決するやうにすれば安全であるが、その忍耐には現在は故障が多い。殊に文化などといふ言葉のやうに、急に普及して來てはつきりとした解説が無く、他にもまだ迷つて居る人の少なくない新語になると、互ひの當て推量が持合ひになつて、つい眞劍に疑つて見る折が無く、先づ／＼判つたといふ位なぼんやりとした一つの單語が、其なりに固定してしまふのである。是から一生の間に五百囘も千囘も、此語を口に耳にしなければならぬ人々にとつては、斯ういふ目にたゝぬ損失の、積算が實は怖ろしい。心にも無いことを口にする惡癖が、惡くすると是から生まれて來るかも知れぬからである。

　至つて單純に物を疑ひ、又は正直に自分だけはまだ知らぬといふことを、告白する勇氣は大人にも養はせたいが、それがもし一朝にして改めらるべきもので無いとするならば、子供だけには成るべく長く、人は正しく答へてくれる者だといふ、信頼を持たせて置きたい。今まで自分等は少し返答に困ると、さういふことはまだ話してもおまへにはわかるまい。今に判つて來るから氣を付けておいでと、言つて言ひ遁れることを主にして居たが、それは男女の問題とか、又金銀のやりくりとかの、限られたるないしよ話だけのことであつて、其他にはさう隱蔽して置かなければならぬ事柄は多くない。殊に文化が進むといひ展開するといふことなどは、寧ろ小さなうちに鮮かに胸に描かせて、今日空虚になりかゝつて居る「偉い人になれ」の激勵などと、寧ろさし換へてやつた方がよい位のものである。是を髭でも生えてから後の問題に殘させようとすることは、實際は自分たちの解釋が面倒だからで、言はゞ骨惜しみ、もしくは秘密主義の濫用である。だから自身にはたとへ入用が無くとも、何か適當なやさしい答へ方を、考へて置いた方がよいのである。さうして世上には子供で無くとも、子供に近いやうな心持で居る人が、捜せばまだ若干は居るらし(473)いのだから、問はぬからよいわで棄てゝ置くのはよくないと思ふ。

　そこで私は今、彼等がどういふことを尋ねるだらうかを考へて見ようとして居る。或はきまりを惡がつて口には出さずとも、大よそ訊かうとすることは先生その他、親切な人になら察しが付くだらう。子供は大よその見當で是は六つかしさうなことゝ思へば、たとへば文化とは何ですかといふやうな、裸の定義を求めようとはしない。一ばんあどけない質問は人間の本性によつて、先づよいものか惡いものかを知らうとする。それはよいものにきまつて居るさと、答へてしまへば至極簡單で、この點には一向誰も困らぬわけだが、實は其後に「どうしてエ」といふ第二の問が控へて居るので、それを引出す爲に先づこのほゞわかつて居ることを訊いて見るのである。この第二の問ばかりは、相應な名士にも、用意が無くては合點の行くやうな答が出來ない。私ならば至極無造作に、世の中が樂しくなるから、國が美しくなるから、もしくは人間の喜びが、今よりもなほ多くなるからと、答へてすまして居るかも知れぬが、是だけではまだ何やら言ひ盡さぬ點があるやうに、感ずる人もきつと多いであらう。さうすると又其分を、言葉にして備へて置かなければならぬのである。何れにしても之に伴なうて是非とも徹底させ、又誤解を防がねばならぬことは、子供の「よい事」といふ概念の中には、しば／＼「自分の爲に」といふ限定辭が、隱約の間に附き纏うて居る。二つ貰つて居たお菓子を五つもらひ、打たれるやうな惡い事をして、撫でられるといふのが文化ではないことを、十二分に理解させて置く必要がある。六つかしい語でいへば社會的事實、國家國民といふ結合體の上に、始めて認めらるべき現象だといふことを、言ひ落しては話にならぬのである。非常に好いことであつて自分の爲ではないもの、さういふものが此世にあるのだといふことを、教へるのは實は骨が折れる。文化はちやうど幸ひにその一つの教材を供與してくれるのである。

　第二には文化とはどんなもの、どういふものが文化かといふこと、是も氣を付けて居ると子供がよく提出する質問の形であつた。以前も所謂抽象的な、日頃聞きつけない新語を耳にすると、理窟ばつた定義は消化し得ない人が、たとへはどういふものがそれだらうかと問ひ尋ね、それを積み重ねて範圍輪廓を、段々にはつきりさせて行かうといふ努力があつたらしいが、明治以降は其必要が更に多く、たゞ此方式のみを以て人生を學習しようとした人が著しく増加して、今は一つの反省すべき弊害とさへなつて居る。「たとへば」といふことしか言へない論客は既に此世に現はれて居る。以前も「公平なる肥料の分配」と言つて、議會で笑はれた政治家があつたが、是はたゞ突拍子も無いのがをかしかつただけである。政治の改革の中に於ては、肥料の分配もたしかに急務の一つであつた。是に今二つ三つの似寄りのものを添へて居たら、結構聽き手は承知して居たのである。しかも其一例があまりに適切なものであると、それが即ち其物と考へるやうな癖を、古くから我々はもつて居たのである。鮭をウヲと呼び、シシを猪と解する方言は今でもある。トリといへば?を胸に浮べて、此名で總括する我邦の七百何十種に、思ひ及ばぬ人は多いのである。幾つの實例を列擧すれば十分かは物にもよる。トリのやうにすべてが二本の足、嘴と翼をもつものならまちがへても高が知れて居るが、文化といふやうな無限の變化を具ふべきものに、あまりに印象の深い二三の例だけを擧示して、その他どれだけ澤山に後に控へて居るか、まだわからぬといふことを附け添へないのは、相手が小兒で無くとも歎かはしい誤解のもとだと思ふ。

　列擧教育は舊式のものに相違ないが、之を短い期間に出來るだけ數多く、竝べて示すことが許されるならば、人に自然の會得を與へる力は、勿論乾燥無味なる定義より大きい。しかしそれには又十分な準備が必要なのである。是は此ついでを以て説き盡すやうな小さな問題とは思はぬが、忠孝節義や婦道友情といふが如き、廣汎にしてしかも切實(475)なる道德を教へるにも、今日はこの氣がゝりな例示主義により、しかもたつた一つか二つの著名なる場合だけを、くり返して力を入れるのみか、時々は其眞似をすることが即ち修身であるやうにさへ言つて居る人がある。國語の教育としても是はたしかに誤つて居る。ちやうど動物學でトリとは?のことだと、言つて聞かせるのと同じだからである。今日の文化運動者は、よもや自分までが誤つて居るのではあるまいが、千も二千もある文化の諸相の、たつた一つに携はつて居ても、熱心のあまりには是が即ち文化だと言ひかねない。そんな人は到底後進を教へ導くに足らぬのである。社會數千萬の人々が、手を分ち心を一にし、それ／”＼の部署に働かなければ、國の時代の文化は耀き榮えないといふことを、根本に根強く植ゑ付けて置かなければ、多分は一つ／＼の文化運動などは、空な題目に終つてしまふであらう。否寧ろさういふ地盤を作ることが、第一次の文化運動でなければならぬのである。列擧を周密にするためには、先づ品目の有る限りを知るか、少なくとも非常に數が多いものだといふことを確認しなければならぬ。さうして現在はまだその用意が無いといふ人たちには、我々は先づ民俗學の存在を、告知しなければならぬ立場に在るのでは無からうか。

　無邪氣な疑問の想像し得られるものは、まだ此外にも幾つかあるだらうが、長くなり過ぎたからもう一つだけ、どうしても省略し得ないものを掲げて置かう。子供で無くとも多くの人の知りたがつて居ることは、文化は一體かもしくは數箇體か。古い文化が滅び又は退かなければ、新しい文化は生まれないものかどうか。都市の文化を否認することが、即ち地方文化を打立てる道なのかどうか。是を誰一人も口に出して問ふ者が無くとも、なほ我々は明らかな答を持つて居なければならぬ。どつちでもよろしい氣づかひは絶對に無いからである。多くの地方運動者の口ぶりによると、人が今まで夢みたことも無いことを、新たに始めようとするのだから、文化は新しいものだといふ推定も成立(476)つが、もしさうなのかと問ふ人でもあれば、そんな馬鹿なことがあるものかと躍起となる人も一方に多く、儼として千古に輝く日本固有の文化はあり、又現に國民精神文化の研究所がある。しかしそつとして置いても殘り傳はつて居るときまれば、どうして又新たに色々な事を始めるのであるか。文化は果して富山の藥のやうに、各戸數袋を備へて置くやうな、澤山の種類のあるものなのか。此疑問だけは無知なる幼兒を頼んでなりとも、一ぺんは是非尋ねてもらひたいやうな氣がする。

　今でこそこの樣なはつきりせぬものになつたが、つい四五年前までは、文化は當然に新しいものゝやうに、思つて居た人が實は多かつた。新たに附け加はつたものが何も無ければ、我々の意識に上ることも無いのだから、この考へ方は自然といつてもよい。さうして文化といふ言葉のあの頃の用法は、實は今とは少しばかりちがつて居たのである。今日でいふならば文化の新規に附け加はつた部分、精確にいへば文化の新分子とも呼ぶべきものを、直接に文化と謂つたのが、今日と異なる點であり、日本のやうな數を明示せぬ語法の國では、是は折々起り得る混亂であつた。ちやうど標準語といふ言葉が、もとは一つ／＼の單語や物言ひに就て用ゐられたのを、後には獨逸語とか伊太利語とかのやうに、一つの全體の名のやうに解せられたと同じく、どちらが正しいかは歴史ではきめられない。便宜の上からいふと今日は全體の名とする人が多く、又一つ／＼の現象には何とでも別の名が與へられる。だから世の中が開けて來たといひ、もしくは大正と昭和との時代の相違などといふ其?態を、概括して文化と呼ぶことに、反對をしない方がよいのである。

　但し一旦さうきめてしまつた以上は、是からの用ゐ方には氣を付けてかゝる必要がある。たとへば中央の都會の文化と地方の文化、又はそれ／”＼の府縣の文化と、二つ以上のものが對立して甲乙の選擇が出來るものゝやうな、感じを與へて居るなどは混亂の種である。同じ昭和の日本の文化でも、都會ではたやすく觸れることが出來て、田舍には行き渡らず、或は又山國雪國に入つて行かぬと、味はへないやうな文化分子などは幾らもある。その箇々の構成分子(477)ならば、比較も可能であり又特にそれを讃歎し強調することも出來るのである。今まで文化を都市の獨占であり、それを惜しみなく田舍に配分することが、即ち文化運動であるかの如く、心得て居たことは誤りの甚だしいものであつたが、さりとて之に反抗してそんなものを寄せつけまいとするのが、地方文化の樹立であるやうに、思ひ込むのもやはり亦事實の無視である。早い話が郵便やラジオ、もつと大きなものでは戰勝國の誇りと歡喜、國をこゝまで持つて來た學術智能の進歩等は、ほゞ均等に都鄙雙方の文化に組合はされようとして居るので、問題はたゞその思澤に霑ほひ得ぬ者が、どちらに多くまだ殘つて居るかに歸するだけである。文化といふ言葉をたゞの借物で無く、我々國民の生活用語とするには、是非とも最初に是が無數の分子の、組合せから成り立つて居ることを、承知させて置く必要がある。それには毎日使ひ馴れて、氣づかずに居るほど手近なものと、境涯と資力次第で、利用することも出來るといふ位に、遠くの方に在るものとが入り交つて居るといふことを、常識にして置けばよいのである。たとへば私などは都市の中に居るけれども、もう二十年以上も芝居や相撲に行かず、陸上競技會や拳闘とやらは寫眞でしか見たことが無く、時間が惜しいので音樂會には十四五年、繪の展覽會にもこの五六年は行かずに居るが、それでも可能性だけは有るのだから、斯ういふものも私たちの文化の一部なのである。もしも誰かゞ樂しんで居るといふことを標準に、あらゆる恩惠に浴しなければすまぬといふのだつたら、人は本業に働くひまが無くなるだらう。現在の文化運動は、しあはせにまだ規模が小さいからよいが、もしもあの人々の計畫が完成したら、必ず衣食の文化分子だけが、極端に退歩してしまふことであらう。文化を新しい一種の趣味、今まで考へて見たことも無い生活ぶりの流行と見ることは、昭和十年頃までの俗人の考へ方であつた。この語の内容をさういふ風に、きめてかゝることも今ならばまだ出來るかも知らぬが、さうなれば我々には用の無いことであり、又骨折つてけなげなる第二世に、教へ込んで置くにも及ばぬことになるだらうと思ふがどうか。

　私などが何とかしてわかり易く、孫たちの疑問に答へてやりたいと思ふのは、文化がたゞ單に彼等の生活と交渉深きのみで無く、更に彼等の組織する大切な社會の、平和と康寧との基礎となると信ずるからである。言葉こそは新語であるが、昔から今の日まで、國民は上下を擧つて、皆この爲に勤勞し、中には意識してこの文化に該當するものを、推進し發展させんが爲に、我身を顧みなかつた者もあるのである。乃ち人生は是を目標として、始めて生きて甲斐あるものになつて居たのである。ちやうど頃合の好い言葉が見つかつたのを幸ひに、是を國民教育の初歩の教材に、取入れるならば今が汐時、子供の好奇心は活?に動いて居るのである。但し教へるならば映畫とか村芝居とか、たつた一つや二つの「たとへば」を振りまはすこと無く、第一には文化の殊に複雜なる複合體であることを説くと共に、是が如何なる時代にも一つしかない大きなかたまりであつて、それが地方により又境涯によつて、表へ出るところだけが少しづゝちがふといふことを、ちやうど錦などの綾模樣にたとへて、手輕に呑み込ませることが第二の課程かと思ふ。

　それから今一つ、我々が?々口にする天平文化、乃至は江戸文化、明治文化といふのも、今あるものとは別だから過去の文化であり、たま／＼其作物が傳はつて居ても、之を鑑賞保存するだけが我々の文化であつて、物は皆遺物遺跡に過ぎぬのだが、この各時代のちがつた文化の中には、意外といつてもよい位の澤山の共通點が、見出されるといふことを注意させたい。たとへば萬葉集は註釋さへ六つかしいほどの書物だが、それでも萬葉辭典を見ると名詞動詞を通じて、今日と同じ單語が少なくとも三分の一はある。人がふりかへつて昔の文化を見る場合には、やはり新時代の文化に對すると同じく、珍しく變つたものを拾ひ上げて、それを中心にしようとする癖はやまぬのである。時代の樣相が明治維新のやうに、どれほど思ひ切つて改まつたとても、今まであつたものが一朝に入れ代ることは出來ない。即ち今日目に立たぬものゝ間に、まだ澤山の前代文化の分子が、組合せられて傳はつて居るのである。新たに加はつた部分の珍しさに目がくれて、それを今日の文化の特徴と認めようとすることは、警戒しなければならぬ危險性がある。即ち之によつて古くからの分子に對する注意が弛み、時々は殘してよいものまで消すこともあれば、又新舊諸分子の調和を考へる場合にも、とかく新しいものを主に立てゝ、古いものを粗末にする嫌ひがあるからである。それで文化の説明としては、やはり錦のたて絲の譬へ、もしくは織る人の昔から、一つのマケに屬しソンを引いて居たといふ譬へを、引きごとにしなければならぬのである。日本文化といふ言葉などは、たま／＼外國の文化と對立させる場合にしか用ゐられず、從つて今日は其差も少ないかの如き推測を受けやすいが、よい言葉である故にもつと使用をすゝめ、現在我々が其中に住んで居る文化、殊にその歴代の變遷を貫ぬいて、今まで傳はつて居るものゝ名と解し、同時にそれを明らかにする努力を、日本文化運動と呼ぶことにしてはどうかと思ふ。

　この文化諸分子の配合調和といふことは、是からます／＼六つかしい研究を要する問題になるであらう。その理由は、新しく附け加はるものに、人が力を入れ過ぎる傾きがある點にも見出されるが、更にもう一つはこの文化の構成分子といふものが、歳と共に段々積み重なつて、今では見透しもきかぬ複雜且つ豐富なものになつて居ることである。わざ／＼不調和なものを組合せようとせずとも、中には全く有ることに氣付かずに、二つを突き合せて見ると迚も兩立せぬものも出來て來る。人に新たな技藝事業を授けたことが、偶然に祖先の墓を守らぬ者を、多くすることになつたなどがよい例であらう。よき文化の創設には、力の及ぶ限りその各部分の諧調を謀るといふことが必須の條件で、それを怠れば毎度失敗をする。たとへばそれ自身は獨立して好い事であり、又は少なくとも少數の人々に、非常に便利な望ましいことであつても、今まであるものを壓迫し又は妨害すれば、其意味でやはり新時代の文化を惡くする。之を豫め避けようとするには、文化の發達は人の力であり、人は神で無いから誤りも有り得るといふことを、始めて學ぶ者に教へて置く必要があるのである。但しそんな教訓をたゞ抽象的に、授けて效があるかどうかは頗る疑はしい。聽手が事實を重んずる少年男女であれば、殊に例を引いて面白く、ちやうど彼等の好奇心に投ずるやうに、導き示すことを怠つてはならぬが、それには昔の父兄の心がけて居たやうに、出來るだけ短い期間に數多くの事實を見せて、偏見又獨斷に流れぬだけの、用心をしてかゝるべきである。それは大變なことだと尻込みをする人も無いとは言へぬが、民俗學の學徒には經驗があつて、實はさう大そうな仕事でも無いと言ひ得る。今でも子女のおのづからなる質問、即ち以前はどうして居たかといふこと、或は今と昔とはどうちがつて居るかといふことを、段々に答へてやればよいのである。片端から調べて行くに越したことは無いが、最初には先づ七つか八つかの實例の、最も生活に密接した文化分子の新陳交替を、話して聽かせても變つて來たことだけはわかる。さうして大體に今の方がよくなつて居るが、(481)稀には昔の方がよくて、替へて損をして居るものが有ることに心付き、更に今少しくこまかに知らうと思へば、既にさういふ學問も世に起つて居るといふことを覺らしめただけでも、人の心掛けは改まるであらうと思ふ。

　斯ういふと或は民俗學の宣傳のやうだといふ評もあらうが、正直のところ筆者はその下心なのである。私の知つて居る民俗學の雜誌は、今まで全國に十以上も出て居るが、「ひだぴと」ほど文化といふ二つの文字を、頻々と活字にして居る雜誌は他には無い。それがめでたく百號の齡を重ね、更に一雄飛を試みんとして居る際に、御祝ひの言葉としてもしもこの問題に觸れずに居たら、それは失禮に當るとさへ私は考へて居る。御存じの如く外國はどこの國でも、文化の研究は皆文化史から始まつて居る。時代に伴なうた成長と變化とをつきとめずに、文化の面貌は説くことが出來ぬからである。然るに我邦の多くの文化論者のみが、折々は歴史を離脱した文化禮讃を事として居たのは、多分は日本民俗學のやうな、文化史の研究法のあることを知らなかつたからで、獨りこの可能性を十分に經驗して居るのは、我が尊敬する「ひだびと」の編者たちだけであつた。假に今まではよい機會が無かつたにしても、是からは大いに説き又自らも精進することであらう。さうすれば國家興隆の大機運に應じて、更にこの雜誌の權威は伸展するにきまつて居る。私は單にこの事實を書き立てることによつて、もう御祝ひの言葉はすんだやうな氣がして居るのである。

　最初に東北文化とは何だ、と人から問はれたと假定する。私も前に兩三度、この語を用ゐたことがあるので答へなければならぬ義務がある。自分の心持では、東北へ來なければ見ることも聞くことも出來ない生活ぶり、さうして始めて見聞して是はよいと思ふもの、さういふものを言はうとして居たのであつた。たとへば物質的の方面ではチヂミサシ、隣縣ではコギンともヒシザシとも謂ふもの、落着いた藍地の上に純白のかな絲を以て、色々の直線模樣を刺?して、同時に布地を補強したもの。又は雪の中をあるく爲にこしらへた幾つかの藁の履物、蒲の莖を紺絲で綴ぢかゞつた脛巾、マダの皮で造つた螻蓑の類、さては仙北特有のイタヤ細工の小ダシ、小兒にこしらへて與へる玩具のやうなもの。又無形の文化としては幾つかの山唄、或は日常の交際に惜しげも無く使つて居る諺とか、氣の利いた常用文句の、微笑せずには居られないものゝ數々のやうに、親しい友だちがふえ、往來の度數が重なるにつれて、もつと必(483)ず多くなるだらうと思ふものを、概括してさう呼ばずには居られなかつたのである。しかし勿論是だけでは、諸君謂ふ所の東北文化の全體を蔽ふことは出來まい。それではたゞそつとして置けばよいことになつてしまふからである。

　第二に疑問として起りさうなことは、その東北文化をどうしようといふのかといふことであらうが、こゝで我々は斯ういふ考へ方をする。東北文化といふ言葉は一つだが、是にはもう二通りの意味、もしくは二つの側面が、既にはつきりと備はつて居るのでは無いか。その一つは東北限りに於て、發育し展開して居る文化即ち今までの生活ぶり、他の一つは東北に於て是から諸君が共に樂しむべき新文化、それは結局する所日本總國のもつものと、同等同樣式で無ければならぬが、たゞ是が東北であるが爲に、どの程度までの潤飾乃至は制限を受けることになるか、その未來の豫測又は計畫といふことが問題になり得る。この二つの東北文化は、言ふまでも無く深い交渉をもち、切つても切れぬ鍵鎖に繋がれて居ることは、恰も日本の昭和時代の文化が、神代以來の過去文化を根柢として居ると同じであらうが、只一つ重要なる點に於て、今はもう昔とは異なつて居ることを認めなければならぬ。天然環境の推移は、なるほど微々として氣づかれぬほどのものであらう。冬の氣温が動き易く、水分が多くて雪が高く積るといふことは、昔も今も同じと言つてよいかも知れぬが、しかし其雪をかき分けて、いきづき喘ぎつゝも汽車は通つて居る。人が他國から入つて來て重要な地位を占め、又は此方からもどし／＼と出て行つて、見物だけでは無く、大臣大將になつても働いて居るといふことは、元は絶無に近く、今は普通になりかゝつて居る。少なくとも數量に於て、まるで別世界の觀をなすほどに人が入りまじつて居る。地方々々といふ言葉は今もやたらに使はれるが、東北の人が東北の地に割據して、獨自の文化を育成し得るほどに、昔と同樣の隔離は持續し難くなつて居るのである。乃ち私などの謂ふ既成の東北文化は、次第に影が淡く、もしくは下積みになつて、今後新たに東北限りで、展開することはまあ望めなくなつて來たと見てよい。問題はだから第二の、即ち未來の東北文化が、どの位まで今まであつたものを保存し加味し利用するかに歸着する。國家のこの新しい大結合の下に、なほ日本が日本的なるものを守るやうな心持をもつて、舊い地方(484)の生活樣式に取縋つて居なければならぬといふ樣な、結論になつてはならぬのである。

　この點にかけては、地方は國よりもよほど自由な立場に居る。即ち今までの文化を囘顧嚴し考察し、取捨選擇を以て保存と改定とをきめることが出來るのである。こゝでは外部の文化といふものが、もと／＼同胞のものであつて、永い間には暗々裡に影響も受け、又少なくとも互ひに知り合つて居る。國が外國の文化に觸れて、所謂採長補短の道を誤つたりする場合とは、大分また事情を異にして居るからである。たゞ斯ういふ時代になつて、是非とも新たに諸君の考へて見るべきことは、總體によその文化といふものは美しく見えるもので、從つて醉ひやすくかぶれ易いものだといふこと是が一つ、如何なる文化にもたしかな根株があつて、人が心づいて居ると否とに拘らず、それが悉くめい／＼に生まれた土に、生えて成長して居るものだといふこと是が又一つである。東北の歴史はまだ明らかでないが、其住民の大部分は早く遲く、中央の方から移つて來ただけは疑ひが無い。さうして又爰だけだらうと思つて居る生活ぶりの中には、遠い南西の片よつた田舍と、共通したものがまだ幾らでも殘つて居るのである。たまには偶然の一致といふことも無いとは言はれぬが、數が斯う多ければ別に理由が無くてはならぬ。即ちまだ中央で一緒に居た頃から、持ち傳へた種子が必ず有るのである。此點から言つても我々の囘顧の學問の進むと共に、自然に東北特有の文化といふものは、大きな統一の下に小さくなつて行くかも知れぬのである。

　文化が書籍の頁などのやうに、めくつて行くたびに別のものになるかと思ふやうな考へ方は、誤解だから先づ棄ててしまはなければならぬ。地方文化に對する都市文化、同じ一つの國に東北文化だの南西文化だのと、二つ丸々ちがつたものが併存するかの如き先入主に引掛かつて居ては、やはり諸君の努力は徒勞に歸するかも知れぬ。そんならどういふわけで天平文化、鎌倉文化だの桃山文化だのと、人のよくいふ文化の種目があるのか、是が又説明を要する疑惑となるであらうが、私は今斯ういふ風に解して居る。是はたゞ單に日本文化の桃山期らしさ、乃至は天平風であることを意味するだけで、多くの人の目につくものが、今日は既に無く、以前は其部分が殊に光つて居た爲に、その特(485)徴のみを捉へて名を付けた結果、時々はそれだけが各時代の文化の全體であるかの如き、印象を受けた人があつたのかと思ふ。文化は大きな複合體であつて、その構成分子は刻々にも變つて居る。地方的にも若干は一樣であり得ないものが、同じ昭和の聖代にすらもあつて、此點だけを眼中に置いて、東北文化といふやうな名を呼んでも、相手に通ずる以上はそれでもよいといふまでゝある。萬一にも是によつて全然異なつた二種の文化、少なくとも歐米文化と日本文化とがちがふほど、ちがつたものが國内に併存し、又は世が改まればさういふ風に變つてもしまふやうに、誤つて居る人があつたら大變なことである。或は文化分子といふやうな言葉を、是からは使つた方がよいかも知れぬ。二種の異なる文化分子は勿論相剋する。個人の立場から言へば優劣があり、取捨選擇は無意識にも行はれる。その牴觸を出來る限り少なく、時としては相互の認容を以て、替へたり保存したりするやうにしなければ、國の結合は崩れないまでも弛むであらう。文化の政治性などと岸田氏が言つたのも、私は之を意味するかと思つて居るが、それも是も文化が大きな一つの複合體であること、それがどういふ風に組合せを變へて來たかといふことを、はつきりと知つた上で無いと話にならない。乃ち文化は歴史として、もう少し研究すべきものだといふことが、今ある多くの地方文化聯盟に對しても言はれるのである。

　そこで問題は更に一歩を進めて、文化の發達とは何だといふことが答を要求せられる。是は單に松あかしが石油ランプとなり電燈と改まつたやうに、古いものが引込んでもつと都合のよいものが、代りに現はれる場合だけには限らない。たとへば各自の力では實現し得ない場合が多からうとも、大よそ人間に是までは爲し遂げ得るといふ可能性の認められること、詩人風に言へば希望の地平線が、段々に遠く伸びるといふことも、我々の立場の高くなつて來た證據として、その發達の中に入れられてよからうと思ふ。たとへば學問は或特定の家筋の人でないと出來なかつたのを、志望と能力とさへあれば農民の子にも出來るとか、空を飛ぶ必要は我々には無いから飛ばぬが、試みようと思へばい(486)つでも飛行機が有るといふ類の、許された機會といふものゝ多くなつて行くことは、爭ふべくも無い現代の大きな特徴で、平素我々はさういふことまでは心付かずに居るが、たつた百年五十年の昔と比べて見ても、此點は確かに今の方がずつと進んで居る。明治以來の七十何年の歴史は、どの方角を向いても聖代の恩澤を談らぬものは無い。特に我々が斯うあれかしと、念じ又は企てたので無くとも、いつの間にかこの世は樂しく又望み多くなつて居たのである。其爲に人が我儘勝手になり、欲が深くなつたやうに感ずる者があり、寧ろもう一度不自由極まる過去世界へ戻つた方がよい樣にいふ者も稀にはあるが、そんな事は出來るわけが無い。假に或部分若干の文化分子だけを、強ひて昔と同じ形に引戻して見ても、それに併行して居る他の部分は皆新しく、無論さういふ組合せは曾て一度でもあつたことは無いのだから、是も亦一つの發達に他ならぬのである。文化は之を企つる者が有ると否とに拘らず、いつの世にも始終構成を改めて居る。複雜極まる其組織は、知らぬ間にどこかゞ少しづゝ變つて居る。たゞ我々が其中に没入して居て、よつぽど時を隔てゝで無いと前と後とのちがひ目に心付かぬことが多いだけである。今までの經驗によると、大體に良く變つて來たと見て誤りでは無いやうだが、なほ百年二百年の後世からふり返つて、安全に「發達」と認めてよい場合は限られて居るのではないかと思ふ。それを出來るだけ後悔が無いやうに、又餘分なまはり路をせずに、行くべき方角へ進むやうにする爲には、今まで經て來た如き無意識の變化を少なくし、一歩々々足元を踏みしめて生きて行くことを心掛ける必要がある。過去の文化に發達が有るといふことは、その一つ以前のものゝ稍々劣つて居たことを意味する。さうして將來になほ發達があるといふことは、現代是だけ進んだ文化にもなほ滿足し難い點の存することを、承認したことにもなるのである。古くからあるものを古いが故に輕んずることは、愼みの無い者の所行であることは明らかで、是ほど久しく殘り傳はつたといふことは、それ自身に於て大きな價値ある證據でもあるが、さういふ中にも改まらずには居られなかつたものが、世と共に段々と多くなつて居ることは亦爭はれない。正しい未來の發達を導かうとする者は、先づ以て過去の變化を批判するの力を養つてかゝる必要がある。文化史の研究はこの意味(487)に於ていつまでも活きた學問である。我々の生活形態が數千年の沿革を累ねて、終に現在のものにまで到達した理由、その幾度と無き改造の成功と失敗、是ほど豐富に又自由に、利用し得られる經驗は他には無い。孤立した東北文化といふものはもう考へられない時代になつても、なほ私のいふ東北文化の考察は、諸君を正しく活き進ましめる爲の、最も適切なる參考であり、それを無視した判斷は實現力が少ない。といふことに心づくのが、やがて又一段の發達かと私は思ふ。さうして現在はちやうど其方向へ、心を傾ける人が少しづゝ増加して居る。其效果はやがて現はれるであらう。

　話が長くなつたがもう一つだけ、文化政策とは何ぞやといふ問に答へて見よう。是も流行の言葉だが外國に對する場合だけは、幾分かちがつた心持で今までは用ゐられて居るやうである。二つの民族の文化は、優劣の問題を離れても、異なつた部分だけが眼に着き、又始めから異なつて居る筈といふ推斷が下されやすいが、實は御互ひにまだ知らずに居る部分が中々多いので、其中には存外類似した分子、及び其組合せが、行く／＼發見せられるかも知れないのである。しかしこの複雜極まる複合體の、隅々まで知り盡すといふことは容易でない故に、一旦は先づ雙方の異なる點で、互に自分の方が優ると思ふものを相手に試みさせ、それを平和な交際の足場にしようとして居るのである。過去の經驗では、兩者の見解は喰ひちがひ勝ちであつた。文化政策の動機は純であつても、時としては喧嘩になり、又多くの場合には效果が擧がらない。少しく氣永に自然の融和を待つ他に、別に一方に於ては始めから一致して居るもの、既に共通して居る部分を拾ひ出して、それを出發點として段々に、周圍のちがひを見て行くのも好順序では無いかと思ふのだが、今までの對外文化政策なるものは、まだこの方面には進出せず、寧ろ雙方の相容れざるものを突合せて、優劣を決せんとするに急であつた。國内文化の發達を念とする者に取つて、たゞ間接の交渉を有するだけの、隣の事業のやうな感じを抱かせたのも其爲であつた。

　國内の文化政策は、今はまだ名が有つて形が整はない?態に在るが、行く／＼異分子を同化させなければならぬ必要は、却つて對外の場合よりも痛切であるべき筈である。近頃國語統一の問題に就ても、新たに感じられたことであるが、國外の人々に向つて自家の文化の優れた點を示し、その恩澤に均霑せしめようとする者が、内に抗立して個々の得失を爭ひ合つて居ては始まらない。都市人には都市文化があると同時に、地方人の地方文化、乃至は東北人の東北文化があつて、相持して降るべからざるものだつたとしたら、肝腎の日本文化はどうなつて行くか、といふことを再思しなければならぬ。一國一時代の文化といふものが、さう色々と類を異にして併存すべきもので無いことは誰だつて認めて居る。たゞこの複合體が多趣多面であるばかりに、たま／＼自家の面前に立ち塞がるものを視つめて、奧の奧まで見透す力を鈍らせて居るのではなからうか。もつと言ひ方をかへていふと、地方文化のなつかしく好ましいことを感ずる者ほど、一段と我土地に限らぬもの、全國共通のものゝ重要さに、眼を開かなければならぬのではないか。最近の地方に文化の團體が、時を同じくして數多く興立したことは、私等から見れば絶好の機會である。互ひに異なつた?況の下に在る一致點を知り合つて、國が敷千年の基礎をもつ以上は斯うあるのが當然といふことを、改めて體驗すべき時と思ふのだが、今やつて居ることは必ずしもさうでないやうな、感じもするのだがどうであらうか。(489)一地方の文化がどの位光り輝いても、國が一體として樂しくも明るくもならなかつたら、我々の努力も實を結んだとは言はれない。似たる環境に在る地方だけは共に榮えても、都市の文化が今のまゝだつたら、やはり一國としでは進んだことにならぬのである。前年自分は「都市と農村」といふ本を書いて、可なり力を籠めて此點を論じて居る。日本の大都會は片端から、すべて地方人が集まつて作つたもので、田舍と對立する町の人などは幾らも居やしない。それが下手なことをして無暗に町を大きくし又きたなくし騷がしくして居るのである。平たくいふならば地方人のしくじりとも言へる。彼等都市の住人が其文化を正しく發達させ得ないとわかれば、その兄弟從兄弟が忠告し又は世話を燒き、やがて又そこへ入り込んで未來の都市人となるべき人々に、少なくとも必要なる支度をさせるべきではあるまいか。遠慮の無い批評をするならば、現在の地方文化團體は、國の文化を發達させる手段、一國の文化政策を攻究する能力が缺けてゐる。それは自分の地方だけを知つて、よそを知らうとする熱意が足りない爲かと思ふ。國を一體としての雄大なる共通文化、過去を一貫した日本人の生活能力、それを明白にする學問を都市文化に委ねて、たゞ小さく割據して居てはだめだ。勿論各地方も追々に協力するだらうとは思ふが、その力をたゞ頭數の上だけに發揮しようとして居ては、新たな好い政策の浮んで來る望みが無い。私は事實を精確に記述する學問の先づ起り、之を全國相互に學び合ふ氣風の、次第に盛んになる日の來ることを念じてゐる。

　自分が第一、世間から長い間隨筆專門業みたいに言はれてゐるのです。私どもの仲間の人は、誰もかも或ところを大變面白く見てそこにはいつてゆくが、他のところには手をつけない、さういふ人が多いのです。そんなわけで、世間からは隨筆風に見られますし、内輪でもつい隨筆的にやつてしまふ虞れがあります。最近の五六年間といふものは、この傾向と闘ふのが一番大きな苦心でありました。しかし、これは言ひわけではありませんが、元來、民俗學はさういふところから成長して來た學問なのです。それで、寛大な意味ではサイエンスの仲間にはいるものではありますけ(494)れども、關係者自身も決してサイエンスといふことを主張してはゐませんでした。この學問については、イギリスでの發達の歴史はわかつてゐるのでありますが、その中で一番學問的な研究の仕方をしてゐるアンドリウ・ラングといふ人が民俗學會の集會の席上で、やがてはサイエンス・オヴ・フォークロアなどといふものが出來るだらうと言つてゐます。それは千八百八十何年かのことでありますが、この言葉を裏から解釋すれば、サイエンスではないフォークロアといふ通俗の言葉とサイエンスといふ學問の言葉とを結びつけて言つたことになるのです。その時、席上の人々が揃つて笑つたといふことでありますが、フェアリーテールズといふものに對して、いくらかユーモアを含めてさう言つたのだらうと思ひます。それで、さういふことを言つた氣持の中には、行く／＼は、一つの科學として成立つだらう、といふことは信じてゐるが、現在の?態では、すぐに科學であるとか、學問を研究してゐるのだとか、さういふ風には本人自身たちが思はなかつたといふことが現はれてゐるのであります。

　その主な理由は、日本のことゝ較べて見るとよくわかります。一番主な理由は材料が乏しいといふことです。材料が稀薄になつてゐるのです。學問の材料にしなければならないものが、日本のやうに、門の外に一歩出ればすぐあるといふ國とは違つてゐます。何しろインダストリアル・エラが始まつてから百數十年にもならうといふ國ですから何もかもすつかり新しくなり切つてゐます。それですから、一つ二つ殘つてゐるものがあると大變珍重します。材料が乏しいためでありませうか、所謂普遍化することが困難なのです。何處へでも行きわたるやうにこの方法だけで昔のことを調べるといふことは、實際困難です。そればかりでなくこれは民間から出た學者のせゐでありませうか、何かに凝りはじめるとそればかりやるやうになる、例へばグリムの影響が強くなるとグリム協會が出來て、昔噺の研究ばかりをする人が出て來ます。それから目的の側から見ましても、キリスト教以前といふ時代がヨーロッパではかなり興味のある問題になつたものですから、古代信仰の問題だけに入つて行かうといふ形になりがちです。一方、前にも言つたやうに、材料がいゝかげん乏しいのに、その上に學者の側に、總論を書かうとか、一般的なサイエンスらしい行きわたつた書物を書かうといふ氣持がないものですから、したがつてどうしても隨筆的になりやすいのです。日本について言ふと、イギリスにくらべて近世になつたのは急激でありまして、まだ古いものがいくらでも殘つてをります。この點は私どもの方がこの學問にとつては大變に好都合なのでありまして、イギリスの學者の後に追隨するのはまちがひなのです。さうは言つてももと／＼言葉でも、イギリスのものをまねしてゐる位ですから、私どもはじめ多くの人間が、自分達の學問の方法として、ついイギリスでやつてゐるやうな方法をとりがちなのであります。これはどうも今までの私どもの病であつたらうと思ひます。

　こゝでもう一つお話しておかなければならないことがあります。「學問といふものは、目的がなければならない」とよくいはれますが、殊に大學で教育をうけた人は、何かといふと、私どもが何ヶ年かやつてゐることに對して、「目的を明らかにかゝげないから駄目だ。方法ばかりやつて居つて、目的をかゝげないからいけない」といひますけれども、それは一つの誤解です。さういふ性質の學問は他にもたくさんあります。天文學がさうでありまして、なるほど考へやうによれば、天文學は星のことを知る學問だと言へば、目的がたちますけれども、まだこれから先新しい星がいくつみつかるかわかりません。歴史にしてもさうでせう。史學といふものは、もしはつきりと目的をかゝげさせられたら説明がつかないでせう。私どもが知らなければならないことがらは、これから先いくらでも出て來るのです。さういふわけで、私は、目的を置いて學問を分類するといふことは輕蔑してよいと思ひます。目的をかゝげなければ學問でないといふ人があれば、さういふ人を何も相手にしなくてもよろしい。それでは何處にサイエンスとしての特徴があるかといへば、やはり方法なのです。或一つの方法があるからといつて、そのために特別の學問を獨立させるには足りないといふ人があるかも知れませんが特に他ではやらない一つの貫徹した、自分達だけでそれに必ず依るといふ方法があれば、その方法によつて一つの學問を特徴づけることはさしつかへないと思ひます。

　いやしくも、サイエンスと呼ばれようとする限りは、その方法――自然科學が成功してゐる方法によらなければならないでせう。すなはち、一般的の知識、人も我も共通に認める知識――何遍しらべて見ても、これこそ確實だと言ふことの出來るやうなもの――その證據が、本當に支へて呉れなければ、斷定は出來ません。斷定の出來るものを肯定する　――といふこの方法は、まだ他の學問では十分に出來てゐないやうですが、私どもの方ではほゞこの方法で進んでゐるといふことが出來ます。勿論、現在のところまだ完全ではありません。資料がないのですから不完全には違ひありませんけれども、とにかくさうした手續をとらないでは確かなものといふことを掲げない、この方法によつて嚴密に吟味して、他人も自分も認めないわけにゆかない結論に到達した場合に、これをセオリー、法則として掲げるのです。さうすれば、事實として、存在を主張し得るといふことだけは疑ひありません。

(503)　むしろ今日としては、昔はいけなかつたが、しかし今日は幸ひに斯うなつたといつて、聖德を讃へ申し上げるやうな氣持を作りたいと思ひます。私は宮内省の書記官を若い頃して居りましたが今の皇太后陛下がお患ひになりまして、大正五年に葉山においでになつて長く御靜養なさつておいでになり、よくおなり遊ばしてお歸りになつた時に、恰度私は南の御車寄、御所の一番南のお玄關ですが、今の陛下と秩父宮樣と高松宮樣、お三方がずつとお竝びになつてお玄關にお出ましになる。そこを今の皇太后陛下が事に乘つてお上りになる。陛下は左をお向きになつて御覽なさいました。その時の光景に、私は非常に感激いたしました。私は大體今までの歴史を知つて居りますが、長い間の歴史で、國母陛下で、次の王子樣の御母樣でおありになつた時代は殆と數へる程しかない。その時、私は本當に母子の御愛情をもつて御子樣方を御覽になる御有樣を目のあたり拜しまして、こんな良い時代といふものはまつたく有難いことだと思ひました。その時に私は、あゝ實に日本の國がよくなつたなあと思ひました。その時私は一人でもつて二晩も三晩も御世を謳歌して、殆と悦びを禁ずることが出來ないやうな氣持がしました。

　私は齡四十に近くなつてから、發心入道した所謂晩出家でありまして、おまけに虚弱であつて、今頃まで達者で居られるといふ自信がもてませんかつた爲に、最初から後繼ぎのことを考へて居りました。それには自分がこの學問に心を傾けた動機、それよりも一層具體的に、特に興味を引付けられる問題を、説き立て書き立てゝ若い人たちの參加を誘ふがよいと考へまして、先づ盛んにそれを試みました。其計畫は必ずしも適中したとは言はれません。少しは興味を感じ又この方法を是認した人はあつても、何だか無暗に面倒くさい仕事らしいと感じて、たゞ讀むばかりでやつて見ようといふ人が案外に少なく、さうで無ければ寧ろやゝ方面をかへて、別に何か新しいことを言つて見ようとい(505)ふ、第二第三の野心家をそゝのかす結果になり、日本の前代文化の研究は却つて幾分か紛亂しました。注意すべき幽かな暗示と、確實安全なる證據との、價値の差といふものが輕んぜられ易く、例へば是々の事實がある以上は、少なくとも今は斯う考へるより他はあるまいと思ふが諸君はどうですかといふ代りに、自分は斯う考へたいなどと一人だけで、片付けてしまふ樣な議論が簇出し、所謂民俗學は一種の隨筆文學と見られるやうになりました。ほんとに結構な御趣味で、御樂しみでせうなどと御世辭を言はれてうんざりすることも頻々とありました。

　それが實現したのが昭和十二年の春であります。方々の大學に世話人を設けて、主として學生中のさういふ志のある人を集めようとし、又一方には知事の賛成を得まして、府下市内の小學校教員をも勸誘しました。しかしこの第二の方の企ては全然失敗でした。東京附近で働いて居るほどの若い教員は、多くは既に何かの夜學に通つて居まして、地方の同職者のやうな心の餘裕をもつて居ないことがすぐ判りました。一方大學生の方も思つた程は來ません。殊に卒業の年になると、何かと他に心を取られることが出來る爲か、半分以上は止めてしまひます。其代りに意外であつたことは、背廣を着た色々の職業の人、及び婦人が澤山に聽きに來たことで、この人たちは大部分永續きしました。前後三年間を通じていつも定員百人の席が一杯であり、おまけにしまひ頃には學生聽講者の數も増加して五割以上にもなりました。今少し續けて見たかつたのですが經費の理由も有り、又自分の講義準備も骨が折れる、他の人たちを頼むとなると、そこに色々の無理が起ります。是は何でもあまり衰微の兆候を見せぬうちに、中止した方が景氣がよいと考へまして、この盛況に惜しいぢやないかと言はれつゝ、思ひ切つて三年で止めてしまひました。乃ち再興の餘地が取つてあるのでございます。

　それよりも早くから我々が力を入れて居ましたのは、資料の整頓といふことでありました。日本民俗學の主たる根據は、何びとにも何度でも、存在を確めて見ることの出來る社會現象、即ち目の前の生活事實の集積でありまして、是はもう五十年も前から、多くの人によつて注意せられ記録せられて居ましたが、それが多くは雜誌類であつて、分散して居て捜し出すのもむつかしく、其皆が皆確實であるかどうかがわかりません。故に私はその排列と分類比較、索引によつて容易に見つけられるやうにした上で、そのやゝ疑はしくしかも注意すべきものを確めると共に、別に新たに大規模の採集を企てました。其方法は二つ、一つには會をこしらへ、全國各府縣に汎く同志を募つて、めい／＼の區域で新たな觀察調査をしてもらひ、又互ひに遠くの地の會員と知識の交換をするやうな便宜を謀ること、今一つ(507)は東京に熱心な旅行家團を作つて、豫め計劃を立て目的をきめて、わざ／＼調査に出かけるやうにすることで、是には學術振興會や服部報公會などの多分の補助もあつて、私の所謂同時採集が盛んになりました。

　ずつと以前に、私も朝日の記者として七八年間も働いて居たことは、今緒方氏から御聽きになつた通りであります。其頃も私は旁らに斯ういふ骨折な仕事をもつて居ました爲に、本職の方は惰けられる限りなまけて居ました。しかし如何に同情者の多い居心地のよい新聞社であつても、是ではあんまりだらうと自分から氣が咎めて、辭職をしてしまひましたが、實をいふと私が何をするつもりかといふことを、とても皆樣には判つてもらへないものと内々は御見くびり申して居たのであります。然るにこのたび其朝日新聞社から、今まで君のやつて居たことは社會の爲になる仕事だつたと、斯うして承認して下されたといふことは、特に私の良心に對する最大の慰安でありまして、幾ら御禮を言つても足りません。それよりも更に一段と大きなことは、この前古未曾有の時代に遭遇して、地方多數の若き我々の同志は、或者は出征して戰死し、病み傷ついて還り、又或者は手の拔けない劇務に就いて居ります他に、殘りの或者は又大いに迷うて居ます。斯ういふ心の樂しみの多い、新しくして又古い學問を、今の御時節になほ片隅で續けて居てもよいものかどうか。さういふ點で可なり煩悶動搖して居る色が見えます。今のうちにやつて置かぬと世情は更に一新して、埋没は一段と深くなるかも知れず、一朝耀かしい平和が克復した際にも、既に缺くる所があり、もう間に合はぬかも知れぬのですが、地方に住んで居る個人としては、それまでの確信が持てないので、遠慮をしたり身を小さくして居る者は、幾ら有るか知れないのであります。私が此他には自分に似合つた事業も無いまゝに、斯うして捉まへたものを離さずに居りますのを、それは一國の爲にも必要なことだ、時代の文化の上から見てもよい事だと公認してくれられたことは、確かにこの多くの迷へる人々を勇氣づけます。其好結果の及ぶ所は、決して柳田一人には止まりません。どの樣な感謝の辭を列ねても到底この嬉しさを表白することは出來ないのであります。