定本柳田國男集　第二十五卷（新装版）、筑摩書房、1970､6､20（1977.4.30.13刷）

　

(1)　　　郷土誌論

　

(3)　　　　　序

　

　此論文は我社の菅沼可兒彦君の書いたものです。菅沼君は目下留守ですが、議論の責任は全部私が代つて引受けますから、どうか十分の御批評を願ひます。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　郷土研究社に於て

　　　　　大正十一年三月　　　　　　　　　　　　　柳田國男

　

(5)　　　　　郷土誌編纂者の用意

　

　府縣誌郡誌、乃至は一郷一町村の過去と現在とを記述した書物、便宜の爲之を總稱して郷土誌として置きます。さてこの郷土誌は、最近二三十年の間に何千と無く出來たやうです。活版になり、我々が其名を聞いたものだけでも、既に數百あります。私は退屈を忍び務めて多くの郷土誌の序文を讀んで見ました。而して此ほど流行の事業ながら、其動機、と目的とは存外に區々であることを感じ、更に溯つて郷土誌の書が、世の爲に如何に有用であるかを、吟味すべき必要を認めました。尤も序文には文飾もあつて、此ばかりで判斷を下すことは出來ませんが、凡そ郷土誌を著さうと云ふ人の志にも、上下幾段かの差等があるやうです。讀者側の注文も、勿論之に伴つて數通りに分れて居ります。所謂理想の卑いものから列擧すると、第一種は則ち序文に「弘く我郷の形勢を天下に紹介し」などゝある者がそれです。その紹介を受ける天下と云ふのは、汽車の時間表を握んで炎天を駈けあるく新聞記者などが之を代表し、其場次第の奇妙とか愉快とかを絶叫し、さうしてやがて忘れてしまふ人が多い。忘れられても又可いとしてあります。土地繁昌が當の目的であることは、廣告の多いのでもわかり、宿屋の名や現在の宿賃迄も掲げて居るのは、それが實は客商賣の徒の廻し者である證據です。此類の書は郷土誌として住民と交渉する所が無きのみならず、或は書籍と云ふことも出來ぬかも知れませぬ。何となれば、之を後世に傳へんとする趣意は、始より無いからです。併し凡ての温泉場海水浴場等が有名になりたいのは自然のことですから、今後も此類の印刷物は多く出ませう。我々は之を第二の大なる目的に利用することを心掛けねばなりませぬ。

(6)　第二種の者は先輩に由つて「愛郷の精神を養ふは則ち愛國心を盛ならしむる所以」などゝ讃められて居る品です。輕薄なる世の快樂追求者に媚びず、少くも郷土の住民を以て讀者として居るだけ、志は遙かに高尚であります。併し之に依つて愛郷精神を養つてもらふ位の讀者では、もと／＼古い事などはなんにも知らぬのですから、存外説明は容易なもので、虚誕を吐いたらいかんか知らぬが、昔の本を少し位和解して聞かせても、此序文の廉には該當することが出來ます。殊に愛郷心などゝ云ふ見事な語は、如何やうにも其意味が取られます。果して郷土のどの點を、どの種の人に愛せしめるのであるか。もし又田舍者と呼ばれるのを不愉快に思ふやうな人々に、御國自慢の種を供するだけであつたなら、間接の差こそあれ、やはり第一種の遊覽案内と同じく、村の故老に苦笑をさせるやうな誇張も出ないとは言はれません。故に始から愛郷心を持つて居て、之に由つて養つて貰ふ必要の無い住民に見せる本に比べますと、やはり稍々價値は低いのです。

　第三には「予煙霞の癖あり公務の暇云々」などゝ序して居る郷土誌です。邪推をすれば此中にも贋物がありませうが、果して風聽の通でありとすれば、此は郷土の爲に郷土を傳へんとするもので、假令一生涯を費すと云ふ程の熱心は無く、從つて其功程は著しからずとも、能く郷黨を誘つて郷土の面目を自覺せしむるの勞は之を認めねばなりません。殊に古書の記事を援用して、之を新しい實地に當嵌めて見ようとする人ならば、少くも郷土の智識を積添へて行く好事業であります。唯困つた事には斯云ふ類の風雅人の?を曳く場所は、神社佛閣に非ざれば古碑や歌名所の類のみで、幾人寄つても趣味は偏るばかり、やはり驛長の相談でも受けて、停車場の立札に書く位の舊跡智識を以て滴足して居るのです。又些しく一地方で學者と言はれる人は、近隣の親爺たちだけでは話にならず、どうしても遠國の、心ある讀者を相手にしたがる所から、是亦終には御承知の通りなどゝ言ひつゝ、案内記風の本を書くことになります。之とは反對に世間には構はず、こつ／＼と調べて居る人は至極有難いが、多くの事物が、かう云ふ人には、見馴れ聞馴れて珍しくなくなり、折々其郷土の隨分の特色にも氣が附かぬことがあります。是などは全く隨筆的に面白さうな(7)事項だけを摘採するの弊でし、此位なら寧ろ益軒や蜀山のやうな物のわかつた他國人の、最初の感じを書殘した紀行の方が、概括的には價値が多いと思はれるのも其爲です。

　第四種の郷土誌は凡てを明瞭にしようとする新しい計畫でして、近頃資力のある團體が追々と之を始めました。私が小さからぬ望を之に囑し、敢て參考になりさうな批評を試みたいと思ふのも、主として此種のものの爲であります。此種の郷土誌には、まだ序文の定まつた型と云ふものが有ませぬが、ほゞ郡長教育會長等の意向を察しますると、あはよくば前記三種の目的をも、併せ達したいと思つて居られるらしいのです。夫は決して惡い事ではありませぬ。殊に第二の目的の如きは多々益々辨ずでありますが、然らば其主たる趣旨は別にどこに在るかと問はれますと、果して何と答へたら至當でありませうか。勿論理窟は至つて簡單であります。要するに新智議、即ち今まで人の氣の附かざりし事を明かにすると言へばそれで十分です。併し當節の府縣會や町會は、そんな單純な理由では或は經費を出しますまい。假令持つて廻つたやうな説明でも、何かもつと直接に利益の發現する答を請合はねばなりませぬ。此爲には多くの學究はよい苦勞をしました。似たる境遇に在る我々で無ければ推察もできぬ話ですが、最初は依頼を受けて掛つた仕事でも、元々物好きであればこそ引受けたのですから、つい／＼調査に深入して浩瀚なる大册を作つてしまひ、書店は勿論篤志者も其出版を承知せず、著者が一人で當感をすることがあります。近頃の有志家は存外小學教育には力瘤を入れるもので、一方には此類の郷土研究に從事する人には教育家が多い。故に斯云ふ書物を出版するのは、學校授業の參考用に備附ける爲と説いて、それで首尾好く納まるものも中にはありませう。併し方便としてなら兎も角も、まじめにさう計畫するとあつては一言せねばなりませぬ。この小學校の所謂郷土科と云ふものに就ては、これまでとんと腑に落ちるやうな説明を聽いたことがありませぬが、全體何の目的を以ていとゞ忙しい生徒に郷土科までを課しますか。生活準備上必要なる智識として、獨立して存在の理由のあるものか。はた又他の科目の理解を助くる爲に、工夫せられた一箇の方法に過ぎぬのであらうか。結果さへ良ければどちらでも好いでは無いかと言ふ譯に行かぬ(8)仔細は、其決答如何に由つて教材の採り方、乃至は授業の順序にも變更が無ければならぬからであります。之を我々の所謂郷土誌の側より見ましても問題は同じで、良い郷土誌は果して郷土科の適當なる教科書（勿論教員用の）であらうか否かは、まだ頗る疑はしいのであります。

　私などは、此二つの者は語が近いのみで、殆と別物だと心得て居ります。假に郷土誌に教育的效果があるものとしましても、それは幼年少年の要求すべきものでは無く其智議を利用し得るのは、今少し鬚などの多い階級であらうかと思ひます。又しても序文の話になりますが、或は「郷人をして我地方の事情を正當に理解せしむる云々」などゝありますのが、甚だ要領を得ぬやうで、實は最も當つて居る趣意書であるのです。我々は元來學問の威嚴の爲にも、世用の有無を問はるゝことを屑しとはしませぬが、其に答へなければ學問の普及が望まれぬと云ふ場合には、先は右の最後の序文のやうに言はんと欲します。地方の政治などに携はる人々は、我地方の事情などは教へられなくても、始から理解して居ると憤激して仰せらるゝかも知りませんが、實際重立つた人々に其智識があつたならば起るべからざる爭論、又は小田原評定が永く持續し、甚しきは爭論も評定もすることの出來ぬほど大きな社會問題が、澤山にごろ／＼と横はつて居るではありませんか。中央政府は此等の問題を發見し、且つ解決するに適した一機關ではありますが、それとても各地の郷土の研究が進み、此學問が或程度まで完成した上で、其結論を參考とせざる限は、徒らにかうかさうかの盲打をするの他は無いのです。殊に國々村々の事情が一樣でありますならば、大體を括つた見極めを附けた上で、例の「外國の先蹤」も追ひ得ますが、人種が違ふのか境遇の致す所か、奧羽と九州とは勿論のこと、同じ縣郡の中でも山地と平地とは樣子がかはり、人口の粗密とか土着の先後とか、職業の相異とか交通の難易とか、其他萬般の條件がいつ迄も纏綿しまして、一箇村として他所の町村是を借りて來て間に合せ得るものはありません。故に一郷毎に新たに事情を理解するの必要があるのです。かうなると郷土誌が自ら物を言はずとも、人が役に立てずには置きませぬ。況や之を計畫する府縣なり町村なりが其つもりになつて研究したら、效果は最も顯著だらうと思ひます。(9)此は私の忠言でありますが、皆さんは此後は其考で御説明をなさるが宜しいのです。但し愈々話がさう決着すれば、其代りには郷土史の編纂者に於ても、一段の深い用意が入用になります。其用意とは何であるか。私は稍々具體的に之を述べて見たいのですが、要するに箇々の郷土が如何にして今日有るを致したか、又如何なる拘束と進路とを持ち如何なる條件の上に存立して居るかを明かにし、其志ある者をして此材料に基いて、どうすれば今後村が幸福に存續して行かれるかを覺らしむるやうに、便宜を與へてやらねばなりませぬ。小學兒童を名所舊跡の通にしてのけるやうな、平凡よりも劣つた事業を以て甘じて居てはならぬのです。舊弊な學問だと云ふやうな嘲弄を、退けるだけの自信と親切とを持たなければ、實際郷土誌の世に遺すに足る者は出來ないのであります。

　歴史の學間なども、曾ては無用の穿鑿のやうに輕ぜられた時代もありました。而も其學問の應用が現前に大きな事業をした爲に、終には俗人の敬愛する所となりました。俗人の思はくは決して何でも無いことではありません。其人望の爲に學問が始めて進歩し得たことは、學者の方で却つてよく御承知です。近頃では一種の反動とでも申すのでせうか、少々歴史の學問が出しやばり過ぎるやうに人に思はれます。政治上にも外交上にも、理窟を言ふ人はよく推論を略して、歴史だけを主張したがります。一寸例を引いて申せば、國民性がどうのかうのと言ふことを歴史家が申しますが、全體どうして國民性が歴史家にさうよくわかるのですか。日本などでは歴史のどの部分に、國民の性質の推定せられるやうな材料がありますか。假に證文の片端や、日記のついでなどに、古代の或人の或人情が發露して居りましても、それを多く竝べたり比べたりして、穩當な結論をし得た人がこれまでに有りましたか。私などは日本には平民の歴史は無いと思つて居ります。何れの國でも年代記は素より事變だけの記録です。此へ貴人と英傑の列傳を組合せたやうなものが言はゞ昔の歴史ではありませんか。なるほど政治と戰爭とは時代の最も太い流で、如何なる土民のはしくれと雖、其影響を受けぬ者は無かつたでせう。併し事績の記事だけを見て、之に向つた國民の心持を推定するのは、寫眞機械を望んで人の顔を想像するやうなものです。當れば奇跡であります。斯樣に後世の我々が國民の過(10)去をゆかしがることを知つたら、昔の歴史家も今少し注意して書殘してくれたかも知れませんが、實際多數の平民の記録は粗末に取扱はれて來ました。繪本太閤記などの繪を見ても、旗持の後や馬の陰などに、無數のへの字が積重なつて居るのは、あれが所謂雜兵の陣笠であります。雜兵と言つても在所へ還れば鎗一筋の家柄で、子孫があればきつと名主などを勤め、學問もすれば人をもよく世話し、新時代になつては代議士や縣會議員なども、多くは其家から出ますのに、右の如き冷遇を受けて居たのであります。併し戰爭は腕力で番附を作るから是もまだ仕方が無いとしても、平和時代の名所圖會などに、或は兩國の川開きとか、祇園天滿の祭禮の圖とかを見ると、小さな圓の中に眼と口とだけを書いて之を見物と名づけ、其又後には無數の丸藥のやうなものを一面に竝べて、之を群衆などゝ謂ふのであります。殆と人格をも人情をも無視した態度ではありませんか。この不心得は獨り物を知らぬ畫工のみでありませぬ。歴史家の有する「民」の概念も毎に是でありました。さうして今更記録の中から、國民性を見出し又は立證せんとするは無理な話です。一體我々平民は學問に對しては常に甚だ柔順であります。學問上の不能に對しては殊に諦めがよ過ぎるのです。其不能の原因が何に在るを問はず、判らぬものは是非が無いと濟まして居りました。簡單な一例を擧げますと、或村では千年前の延喜式郷名に村の名が見え、神名帳に村の鎭守の名がある。時によつては千年家などゝ云ひ、手斧で削つた柱の舊家があります。だから此村は古いのだと申します。然らば家々の十代十五代前の主人は何處に眠つて居るか、又假令某家の先祖と云ふことは分明せずとも、兎に角四百年五百年前の村人の墓はどれかと聞くと、少しも知りませぬ。此は火葬が一般の風習で、其灰を山野に撒くこと萬葉の歌に見えるやうにあつた爲か、墓地の上に埴土が厚く布いて素地のやうになつてしまつたのか、戒名を刻んだ石などを立てる風が昔は無かつたのか、或は又名ばかり大昔の村名と同じでも、今の人が來て住んだのは存外新しいのか、はた又東海道の吉原白須賀のやうに、所在が遷つたのか、何れであるかも一向きめて居りませぬ。而も王塚と云ふ塚があれば四道將軍の故居と云ひ、比丘尼塚があれば平家の殘黨が來て隱れたと云ひ、だからよつぽど古い村だなどゝ談合して居ります。偶々之に不審を抱いて(11)専門家の教を求めても、一番正直な人で無造作に知らぬと答へられる。それならどうして下さるのか、歐羅巴の話を聞きましても、つい近頃まで闇黒時代などゝ稱し、歴史家の斷念して居た中世が、研究としては最も意味の多い時代であることが解つたのみならず、更に又闇黒とも何とも評する限で無かつた程の、埃及やアッシリアの歴史が追々明るくなつて行くさうです。日本などは農の歴史でも税の歴史でも、鎌倉室町の五六百年間を、ぴよいと跨いで來たまゝに抛つて置きながら、おまへの村の由來は不明だ、平民は要するに無名だと、乞食が金を借りに來た時のやうな挨拶を爲し、そしてわきを向いて大に國民性を論ずるなどは感心しないではありませんか。併しそんなら是非が無いと、問題を投げ出す平民の方も良くない。今の郷土誌編纂者の多くは此仲間であります。彼等は折角好い事業に着手しながら、輕々しく學問の賜を斷念して、結果の不完全に甘じようとします。實際今のやうでは郷土誌の必要を承認せぬ頑固連の豫算削減論にも、一分の理があることになるのであります。然らば何か此方面の攷究、即ち地方々々の平民の思想、及び之に伴ふ生活の變想を詳かにする妙案が別にあるか。陰で惡く言ひつゝやはり今風の歴史家に物を頼むやうなことをせずに濟む途があるか如何。私はあると思ひます。

　爰に又郷土誌の研究を以て、所謂歴史地理の別名と認めて居る人々があります。其説の當れりや否やは、郷土誌の任務如何と云ふ決定に由つて極りますが、此人たちの眼を以て視ますれば、此に地理と云ふのは單に歴史の容器としての地理ですから、郷土誌も亦歴史の記述と云ふことになります。さうすると前申した反抗説などは、言はゞ自分で自分を仲違ひするやうなもので、至つて張合の無い話となるかも知れません。成程人間の過去を説くものは皆歴史と廣い定義を採ることにすれば、郷土誌の大部分は即ち歴史です。何となれば一郷土の現情を平面に記述するにしても、一たび「何故に」の問に逢着するときは、多くは過去に立入つて之を解説せねばならぬからであります。よつてさう云ふ風に歴史を弘く見ようとする人に對しては、反對をすることは出來ませぬ。其代りには先方に於ても、歴史と云ふ文字の古い概念には拘束せられないと云ふことを、言明して貰はねはなりませぬ。私は必要も無いのに字義や名稱(12)で爭をするやうな閑人ではありませず、又郷土誌と云ふ語とても、最初に御斷り申した如く單に此文章の便宜の爲に用ゐる略語ですから、名稱の當る當らぬの論は御容赦に預りたい。只今日府縣郡市町村等の一區割の地方に於て、必要を感じつゝある所の新しい智識の集團、又我々が田舍の幸福の爲に、同時に此國の榮譽の爲に、是非とも發展させなければならぬと思ふ學問の一部面、大學でも布衣の間にも、此まで一向手が着けられて居なかつた社會研究の此部面が、到底今の尋常の史學者の有する手段と用意では、之を相應な物にする望が無いと主張するのであります。遠廻しに物を言つても仕方が無いから、一つ書にして申します。立派な且つ役に立つ郷土誌を子孫に遺さうとする學者は、流行の史學研究法から超脱せねばなりませぬ。氣六つかしい史學者の奴と爲つてはなりませぬ。即ち、

　一、年代の數字に大な苦勞をせぬこと

　二、固有名詞の詮議に重きを置かぬこと

　三、材料採擇の主たる方面を違へること

　四、比較研究に最も大なる力を用ゐること

　外にもまだ有りませうが、先づこの四つの點は、郷土誌を作る人に缺くべからざる用意であらうと思ひます。さて飜つて郷土誌を歴史だと仰せらるゝ人に申します。此四點は今迄の信條に對しては隨分著しい分裂でありますが、此をしも寛容せられるならば、何とぞ引續き郷土誌の世話を燒いて下さい。さうして政治史や朝廷史の方面も、此筆法を用ゐて開發せられたら猶幸であります。それは兎も角も、郷土誌の方ではどうしても此でなければ仕事が出來ないのです。徒に叛旗を縫つて人に渡すのではありません。仔細を申せば事長くなりますが、つまり郷土誌に於て先づ知らねばならぬ事柄、或は住民が各自の郷土に就て最初に抱くべき疑問が、國の歴史に於て取扱ふが如き所謂大問題で無いこと、之と同時に他の一方では、限ある一郷一地方を舞臺として開展した古來の社會現象が、京とか鎌倉とか屋島とか關ヶ原とかの二三の幸福なる地域を除くの外は、實は甚だ質素な寧ろ見すぼらしいものであつたことが此結果(13)を生ずるのです。私は「幸福なる」と云ふ語を使ひましたが、是は今の世の人情に媚びたので、露骨に申せば一方は殺戮とか陰謀とか、兎角人の動悸を高めるやうな出來事を目安にして、事變から事變へと渡つて行き、他の一方は平和の裡の推移を窺ふもので、同じ時勢の潮流に對しても、彼は灘を横ぎる舟脚の速さを問ひ、此は岸頭の苔を探つて、滿干の痕を察するやうなものです。私は固より白石山陽等の諸先輩が、所謂大勢の變易を政治史の表だけで簡單に説明せんとしたのには不服でありますが、さればとて無理な附會をして迄も、我郷の昔の生活が大局と唯半點の交渉があつたことを誇らうとする人を、腑甲斐ないことだと氣の毒に思ひます。それと云ふのも家集つて國を成すといふ思想の不當な類推から、各地方の郷土誌を積算したものが即ち國の歴史であるやうに誤認した結果です。古い郷土誌の中には、醫者が二日分の散藥を六服に包み分けるやうに、記録にある限の我郷土の記事を、骨を折つて拾ひ集めたものもありました。そんなのは役に立ちませぬ。さうして編纂者の恥です。

　

(14)　　　　　郷土の年代記と英雄

　

　近代の郷土誌には、序文題辭ばかり物々しくても、纏まつた一箇の製作品として見ることの出來ぬ册子の甚だ多いのは、悲しむべきことであります。惣じて昔から物知は必ずしも學者で無かつた。殊に物知を商賣とせぬ村住の人々は、言はゞ智識が外より來つておのづから諭すのを待ちますので、心掛の最も良いと云ふ處でも、僅かに蜘蛛が網を張るだけの準備しか致しません。從つてある題目に就て不審を抱き、特に此が研究を力めようとした人は稀であります。尤も力めんとしても其方法材料が得られなかつたのかも知れませぬ。其結果は所謂見聞隨筆の類の、至つて統一の無いものでありました。それも一通りの見識ある人ならば、どれ迄が自分の發見で、どれ迄は只の受賣であるかを、區別して記することが出來たかもしれませぬ。思ひ掛け無く老人の記憶して居た昔話、一寸得難い舊記などの一節、さては或時他の地方の記事に接して、始めて心附いた我土地の生活の異同の如き、假令順序も無く書留めてありましても、多くは後の研究者に緊要なる暗示として殘ります。之に反して用の無い隱居だから書き物をするなどゝ言つて、無代の米味噌をせつせと寫本に變形した人もありました。其書き物が子孫に於て之に表紙を附けますと、やはり書籍として後世に傳はります。郷土の生活を其中から尋ね出すことは、實に砂金取のやうな根の盡きる仕事です。或は既に完成した地誌の中から、十枚も十五枚も拔書きして誤脱があつたり、或は京江戸の板本から、出處も書かずに我田舍の記事を寫したり、從つて多くのまごつき思ひ違ひの種を蒔いたものであります。元來讀者をして記事の確實さを承認せしむる唯一の方法は、其出處を明示することです。先祖の覺書か寺の縁起か旅人の噂話か、丸々材料の性質を(15)隱して之を一樣に排列するのは、殆と想像談と同じき無責任であります。然るに此風が近頃は段々烈しくなるやうに思ひます。近頃の郷土誌は昔の雑話體のものとは反對に、分類の方だけは頗る綿密になりましたが、遺憾なことには今以て「或家の舊記に」とか、「一説に曰く」とか、勿體ぶり且つごまかす風が止みませぬ。それも正しい選擇の下に、純良なる材料のみを以て記事を構成しますなら、結局著者の信用に順ふと云ふこともありますが、少しく平和無事だつた村の事を派手に長々と書かうとしますと、有る限の抄録類を皆取込まねばなりませぬ。數百種の引用書目を卷頭に表示し得た人が、夫々の事項の眞僞と價値とを、判別する力が無かつたと云ふのは滑稽だと思ひます。而も其材料が、右申す受動的物知の筆録に據る所が多ければそれに引廻されて記事が一方に偏より、折角の部門分けが變なものになつてしまひます。但し此弊害は、文字以外の資料が十分利用せられるやうになれば、勿論改まりませう。

　以前各藩の經營に係る完備した風土記は申す迄もありません。假令殘欝斷簡の類でありましても悉く今では寶です。苟くも郷土誌を編まうと云ふ人が、此等の書物の一つをも見落すまいとするのは當然です。併し其記事を引用するのには、亦注意が入用であります。第一には各著者の信頼すべき程度で、第二には其著の年代、否寧ろ其著の記事の年代であります。一口に�ｺ川時代と申しますが、其三百年の生活の變遷が中世に比べて急激であつたことは、婦人の衣服一つを考へてもよく分ります。地誌類の書き方にも、同じく時代の風が現はれて居りまして、例へば元禄前後の明清の郡縣志を摸倣した漢文の著書には、或は文明を装飾すると云ふ意味でもあつたものか、大體を把へて何でも堂々と描いてあります。文化文政以後のものには行政の參考と云ふ目的が加はりました。何れの藩でも庄屋や郡奉行の書上に基いて居りまして、所謂規模と由緒とに忠實に、又滅多に邑落殷盛だの地味豪腴だのと云ふ概括文字は使ひませぬ。此中間に出來たものでも、やはりそれ／”＼著者の事情や場合の附纏つて居ることが無い者は無かつたのです。之を一括して「前代に於ては」と書くのが既に不安心でありますのに、不用意な近頃の郷土誌には、往々にして出處が擧げられてをらぬ結果、産業でも風習でも、或は明治大正の今日の事案かと誤解せしむることがあります。處が此の如(16)く近世の年代に疎かなる人々が、寺の開基、神社の創立と云ふやうな昔の事になると、きつと年月を精細にし、或は人皇何十何代などゝ分りきつた餘計な事まで書立てるのは矛盾です。意味の乏しいことです。門外漢の意見をごく淡泊に申しますと、全體歴史の年代などゝ云ふものは、證文の年月日ほど必要なものでは無いと思ひます。史官が毎日の事件を記録した時代には、必要にも何にも是非とも年月日を伴はねばなりませぬが、後代から觀ますれば、大小の出來事が錯綜して居る時代に、例へば某の歿したのは某地の戰より前か後か、某國の貢船は何年ほど絶えて居たかと言ふやうに、現象の順序と遲速とが分ればよいので、それを明瞭にする方法が具はつてさへ居れば、年の穿鑿は月日の穿鑿だけの必要も無いのです。つまりは記憶を精確にしたい爲の國の年代記を借用して、村々では却つて其由來を不精確にして居るのは、誠にいらぬ物眞似であります。尤も一概に昔々と言つてもたより無い。十年一昔もあれば大昔中昔もあります。約何百年前とか何の何年の頃とか、大積りをせねばならぬ必要はありませう。又村内の問題としても、山の檜は八十年で伐り、池の塘は十年目に手を入れる。天明には灰が降り享保には蟲が出た。此等の事件は村の年代記に書入れねばなりませぬ。何となれば夫等の出來事は、何れも現在我々の生活に直接間接の影響を及して居る筈ですから、其發現の順序を忘れては、事情の理解を誤ることがあるかもしれません。併しそれ等は所謂近昔の二三百年内に限られたことです。其以前は辿りやうもありませぬ。後先の脈絡も無い千年前の或干支を把へるのに骨を折り、隣村との張合上、無理な年代の遣繰をするやうなことは、永久に見合せにしたいものであります。

　話は別になりますが、維新の前後事物の?倒した一つの例は、以前は人の名が變へ易く村の名が變へ難かつたのに、近頃では改氏名は甚だ六つかしく、改村名は至つて容易になりました。三四十年來村の名を更へました中には新田と云ふ二字を取去る爲のものが多うございました。新田は幕府領にては享保檢注以後の立村で、各藩でも亦近い開發を意味して居ります。故に本田百姓の輕蔑を避ける爲に、最初の機會に於て其證據を隱したのです。昔から開發の古かつたと云ふ村は、所謂舊家が自慢する如く自慢して居りました。村に影響も無い年代記の詮議は、即ちこの背競べか(17)ら必要になつたのです。人に由つては之を美風だと申しますが、私には合點が行きません。日本を神國と言ひ、三千年の建國と誇る思想は、右の如き村々の自慢を許さねば成立たなくなる者では決してありません。村は百年ばかりの新田でも、其時南蠻から飛んで來た百姓でもありませず、やはり其近郷近國に、古くより神洲の土を耕して居た人です。又決して不首尾や辛抱が惡くて本村を去つたので無いとは、誰でも知つて居ます。海外殖民を雄圖と目する今日に、村が新しいとて卑下すべき理窟はどこにありませう。古いが自慢の年代調べなら、愈々以て無意味のことです。

　併しながら理窟は兎に角、此は近年までの社會心理でありました。而して其習癖と意氣投合したのが多くの神社佛閣の社傳縁起であります。縁起は筆つきばかりは皆歴史のやうで、如何にも尤もらしく見えますが、僅少の例外を除けば、何れも元和偃武から百年以内、即ち郷土研究の甚だ振はざりし時代の作品です。藥師でも不動でも試に十篇の同種縁起を集めて見れば、必ず二三の共通がありまして、或程度までは住僧一存を以て發明した歴史であることが想像せられますが、其餘の部分に於ては單に今迄茫漠と流布して居た傳説を、勇氣を以て把捉したばかりです。即ち今の人でも遣りさうな推斷を、率先して行つたと云ふだけの罪です。例へば社頭の腰掛石に日本武尊の御遺蹟を傳へたとすれば、社の神も其頃の物として「人皇十二代景行天皇の御時」とやります。本尊は八幡太郎の護持佛などゝの噂があれば、直に「天喜四年の春」と來る。大體傳説と云ふものが、時代と共に色々の衣装を着るものなので、言語と文字の差こそあれ、社傳縁起も亦一箇の傳説であるのを、正面から史料と認めて掛るのが惡いのです。朱印を欲しがる神主僧徒で無くとも、傳説は之を眞しやかに語らぬものはありませぬ。又昔の村人が史實と傳説との辨へが無かつたこと、是亦強ちに責めるわけにも行きませぬ。一國の故事すらも、口から耳へ幾度か傳へて居るうちには、誰の所爲とも無く次第に傳説分子が増加して行きます。その仔細は言へば長くなりますが、要するに語部は蓄音機ではありませぬから、感動を目途とせねば其職務が行はれなかつたのです。而してこの傳説の史的價値幾何と云ふことは、常に困難なる問題であります。傳説は多數の人々が多數の人々より聽く話です。故意の潤色を加ふべき機會の極めて尠(18)ないものです。故に其誇張にしても變化にしても、それ／”＼に自然の動機が無ければなりませぬ。殊に其發生の最初に於ては、何か然るべき所據が無ければ、之をまじめに語り傳へる譯が無いのです。即ち其核心に於ては必ず或一定の現象、又は其誤つた認識があるべきで、猶進んで申せば其誤解夫自身も亦一つ／＼の史實であります（が唯當面の目的として居る問題に向つては役に立たぬのです）。如何に立派な歴史の書でも、判別無しには採用しにくい如く、殊には變化し易き傳説のことであれば、更に一層の取捨が必要ではありますが、少なくとも郷土の傳説には、必ず郷土の「或昔」を包含して居るものとして差支ありませぬ。但し果して「どの昔」かと云ふことは、年代を過重視する愛郷家と共に、之を論ずることが甚だ困難なのであります。

　我々の見る所では、現在日本の郷土に充滿して居る英雄の諸傳説は、あまり深い根ざしを持つた者は稀で、多くは中古の接穗だと思ひます。なぜ又其樣なことを申すかとの御尋ねならば御答を致しますが、（イ）には村々の英雄事蹟譚には著しく書籍の臭が致します。前後太平記一味の俗書から結托を求めて來た形跡があります。此等は固より千年前の故老の與り知らぬ事です。（ロ）には傳説傳承の徑路が如何にも遡源しにくいことです。英雄の子孫又は臣下等と自稱する者がたまにはありましても、何れも忘れた頃になつてから飛出して居るのです。加之中世戰亂の際には、何れの地方でも烈しい移動がありまして、傳説の一點を除くの外は、村が日本武尊役行者の時代から續いて居たと認むべき?況は一もありませぬのに、此記憶ばかりが千年間の精確を保つ譯は無いのです。だから仕方無しに本尊や靈寶の由來は多くは夢の告になつて居ります。（ハ）は最も肝要なる見所です。傳説の要素又は中心點とも云ふべき部分は、英雄其者のえらさを現はさうとして居りませぬ。目的は一株の樹乃至は一座の封土の神聖侵すべからざること、或神或佛の威�ｺには久しき證跡のあること、或種の年中行事が村の存する限り廢すべからざるものであること等を、住民の頭に浸込ませんとするに在りまして、單に「昔一人の長者あり」とか、「國の司之を聽きたまひ」とかある下に、「其名を何の某と謂」はねば、後世の文章としては形が調はぬ處から、言はゞ有合せの人名を嵌めたと云ふに止るの(19)です。だから通俗歴史讀本のあまり流行しなかつた時代には、實に不條理なる英雄が配置せられて居りました。而も其訂正は、やはり又僧侶や村學究の任務でありまして、縁起起草の必要は無い村でも、彼等は毎に相當の發言權を行つて居ります。其例證は追々各地の研究者が奇拔なやつを示して下されますから、茲にくだ／＼しくは申しませぬ。要するに日本の英雄崇拜は、武邊咄の無暗に盛であつた時代に始まると言つても過言でありませぬ。最初は實際村民の同情を催した地侍や舘の主の物語であつたかも知れませぬ。寺に過去帳あり石碑の文字が鮮明であれば格別、其痕跡絶えての後は農民は名乘や戒名には疎い者ですから、首を傾け／＼さうかも知れぬの方へ引摺られて行くので、實は人皇何十何代だの古い年號などは、傳説の元の領分では無いのです。傳説中の英雄が名を改め、三百年五百年を一飛びに移つたとて、ちつとも不思議はありませぬ。全體英雄は所謂不世出で、假に七八流の俊傑までを網羅しても其數は知れたものです。之を日本十七萬の大字に割渡せば一村に付き〇、〇〇いくつ位にしか當りますまい。だから多數の英雄は非常な旅行家となつて居るのであります。それも最明寺時頼や西行法師なら何とでも相談の途はありますが、生涯の明瞭であつた人ほど矛盾が多くなりまして、おまへの國に居られた筈は無いなどゝ、所謂傳説の決闘が始まります。よく「史書の闕を補ふ」などゝ云ふことを聞きますが、補ふことはさて置き、歴史との調和が既に大難物であります。況や此から割出した年代記に由つて、村の昔を捜らうとするなどは、舟に刻して劍を索むるものであります。我々が郷土研究の初期に於て、頻りに傳説蒐集の興味を鼓吹しましたのは、單に氣樂な道筋を選擇したものではありませぬ。此の如き比較研究の數年を經た後でなければ、弊害ある從來の學者の態度を改めることも出來ず、又折角保存せられた村々の貴い口碑を、完全に郷土誌の爲に利用することが出來ぬと見たからであります。傳説だと極まつたら縁切りだと云ふやうな先生は話になりません。そんな人たちは日本の古代史をどうして御調べになるつもりでせうか。正直の所、古事記でも日本紀でも、神國の大昔の模樣を明かにする爲に、十分に材料が豐富だとは申されませぬ。書籍以外の郷土研究が、今後如何なる程度迄之を助勢するかは、全く以て我々の今後の心掛一つかと存じま(20)す。假製の年代に絆されるやうな腑甲斐無しにはとても／＼我郷土の眞相を見現はし得る見込がありませぬ。

　

(21)　　　　　村の年齡を知ること

　

　村には人間と違つて、一定の壽命と云ふもの無きが如く見ゆる故に、村に住む人々は往々にして、我村の齡の高いと言はれるのを好む風がありますが、私は大にさうで無いと思ひます。大體の法則としては、やはり古い村は新しい村よりも先に滅ぶべきものでありまして、唯その後れ先だつ世の習ひが、人間の場合よりも、今一段と込み入つて居るばかりです。人間界に於ては今僅かにメツチエニコフが、大隈さんなどゝ云ふ信者を誘ひ始めたばかりでありますが、村の方には夙くから、不老不死の仙藥らしいものが手近にありました。意識の存否は六つかしいから別問題としまして、或村々は過去に於て幾度と無く、例の菊花の雫を服用して居たのです。但し其爲に、殆と生れた當時の面ざしとは、丸で違つた村となり、よそめには一の村が死んで、他の村が其跡に生れたとより考へられぬ場合も有つたか知れませぬが、??から蝉となり蝶から桑子となつても、生命が續く限りは一つの永い生活と言ひ得る如く、村の新しい住民が古い住民の後裔である間は、やはり之を珍らしい長壽と評せねばならぬやうです。若し古い生活を忘れたから別の生活だと言ふならば、三千年の日本國の村々も、とんと小學校か青年會かのやうに、若々しい者ばかりだと言ふことになります。

　古い村が何が故に人と同じく、老い且つ死する傾を持つて居るかと申しますと、一言にして答ふれば世の中が變るからであります。誰しも始めて永住の地を擇ぶ時には、日の最もよく當る、水の最も清列な、柴刈りにも洗濯にも、往來の勞最も尠なき場處を求むるのは、古今共通の人情でありませうが、是は唯所謂泰平の逸民が、野中の一軒家を(22)構へる場合の標準でありまして、今一段と生存の價値を重んじ、物質以上の要求を抱くやうになりますと、出來ぬながらも時代々々の智慧相應に、即ち住心地をよくする工夫を致します。ムレ（群）と語源を同じくすると言はるゝムラ（村）の必要は、斯の如くにして起つたので、寂寞と危險との二つは、至つて原始的な、且つ何よりも大きな人生の不便であつたのです。是は甚だ平凡な眞理で、事新しく申すも恐れ入りますが、右の危險と云ふ點に付ては、猶聊か攻究を加へて見ねばなりません。人が賢明になつて、目前の生活のみを問題としては居られぬやうになると、勢ひ危險の範圍が廣くなり、其性質も從つて變つて來る理窟です。今は屈強な男だが年が寄つたらどうしよう。可愛の子や孫の世になつて、氣づかはしい事は起るまいか。風水其他天然の災害は、大抵十年二十年の周期らしいものがあります。之を想像するときは、平穩の時にも不安が潜むやうに感ぜられ、又過去つた怖しい經驗は、終に再び出現すべからざる危險をも遺して行きます。實際亦世の中の變轉につれて、害惡の増進して來た時代もありました。戰爭盗賊の侵掠には大小強弱がありますが、單に邑落の繁榮と交通の發達の背後にすら、何よりも慘虐なる疫癘の災が隱れて居ります。目に見えぬ危險の中には、當節生活難などゝ云ふ語で總括して居る一種の大危險もありました。避けても避けきれぬ比等各種の不便を、今から見れば些しはをかしいやうな方法をも混同しつゝ、昔の人はそれこそ一生懸命の努力を以て、排除しつゝ進んで來ましたので、其勞苦の痕跡が、乃ち彼等の生活の樣式に最もよく表はれ居る故に、箇々の村はそれ／”＼發生の時代の特色を示し、假令隣同士に續いた二村でも、最初の條件の相異は、今尚著しく其形?の上に名殘を留めて居ります。常州高倉の山中には、寒氣に由つて、全戸退轉したと云ふ新田があり、駿州大井川の奧には、猛獣に食はれてしまつたと傳ふる村さへある。故に今日存立する村々は、昔の時勢に相應して出來たと同時に、又新しい時世にも適應し得たものだとも言得られます。殊に農業に於ては、米を作つて食へばよいので、古今の變は必ずしも顯著ではありませぬから、古い形で保つた例も少なくはありますまい。それにしても四圍の情況が變化しますると、今迄の住み方が最善のもので無いことが分明になりまして、留まつて全くの新村の新樣式を採用する(23)ものと、去つて氣に入つた他郷の生活に參加する者とが次第に増加しますから、いつと無く地名のみ昔で人が改まり、乃至は十町も半里も場所が移つて、事實上の若い村となつて居るものが、段々あるやうになつたのです。

　日本に於ては大體に村は高い處から低い處へ降り、傾斜地から平地へ移つて行つたと云ふことが出來ます。谷地沼地の追々の排水や、川原干潟の自然の擴張によつて、今日の所謂耕地の大部分は後に出來たものでありますが、其外にも築堤の幼稚な爲に居住に供することの不可能な區域が、中々廣かつたやうです。傾斜地を選擇して登降の骨折を顧みなかつた理由の、最も主なるものゝ一つは、家用水としての泉の得易いことでありました。是も鑿井の技能が普及しなかつた時代には、至つて肝要な事で、京鎌倉の如き都會地では、既に有りふれた手段となつて居た時代にも、田舍へは存外其智識が傳はらず、假に又之を知る者があつても、人の力が不足で、舊式生活を改める迄には利用せられなかつたのです。村の發達變遷に取つては、右二種の土工技術は重い關係がありますから、其來歴は是非とも攻究をせねばなりませぬ。單に用水の便のみを考へて、氾濫の折の不便を慮らぬならば、川岸の地に優る者は無いのですが、而も人が始めて部落を構へるには、之に由らずして却つて高い段丘の上などを擇んだのです。異邦異民族にも同じ實例は乏しくありますまいけれど、殊に日本は國柄として此が多かつたやうです。手近な處では、相模の馬入川の如き、稍々溯つて川の東を對岸から望みますと、明かに三段の平地が折重なつて、布を引いたやうに川下へ靡いて居りまして、今でも多分の民烟が、其第二段の上にばかり簇集して居ることが認められ、殊に川の方に寄つた崖の附近に、喬樹花木の多いのが目に着ます。鎌倉以前の武藏との交通路も、やはり此線に沿うて居たらしいのです。但し此關係を單に水の手のみから説かうとするのは、勿論當を得ませぬことで、此外にも昔の普通人の一般害敵に對する態度が、何處も同樣に、留まつて防ぐよりは遁れて避けようとしたことが自然に遠望に都合がよい開敞の地を相するに至らしめ、冬の日光にも夏の涼風にも不足をせず、手近な處に衣食の材料を取集めて、靜かに自分等限りの天然を享受しようとしたことが、やはり此の如き地勢を利用するに至らしめたのかと思ひます。併し今日となりましては、此(24)等昔風の村々の中でも、其儘で新しい境遇に通用し得るものは次第に少なくなりました上に、更に一方には、もつと好い場所が色々と知れて來ました結果、人こそ知らね氷河の流るゝやうに、此二三百年の間に、村は著しく低い方へ下りて來て居るのです。

　私は議論を簡單にする爲に、專ら村を作つた人の希望注文の側ばかりから、最初の　　状態を推定しましたが、次には之に伴うて、是非共其等小民の辛抱我慢の程度如何を考へて見ねばなりませぬ。成るほど穴に棲む獣でも、淵に潜む魚でも、それ相應の樂地があつて、決して遁げ隱れる爲のみに一生涯を費し盡すものはありませぬから、況してや人間が其居住の地を定めるのに、どうなりと有次第と諦めてしまふ筈はありませぬが、それでも亂世の騷の最中にわりなくも子孫兄弟の數が殖えて、今だけの土地では養ひきれぬことになり、乃至は又舊社會には留りにくい事情が起つて、眷屬を引連れ他郷の空閑を求めると云ふ場合などに於て、今日ならば誰も彼も低地の方へ足の向くのが當然ですが、或時代には之と反對に、却つて川上へ川上へと進んで行つたこともあります。どうしてかと申せば、一つには農作以外の勞働需要が頓と無かつたと云ふこともありますが、主たる原因は社會勢力の統一に反對する傾向が、田舍の隅々迄も充滿して居りまして、平地が常に爭奪の土俵であつたことです。世を避けて山に入ると云ふことは、寧ろ平凡人に取つて必要の多いことでありました。彼等は山林の自由を得んが爲に、他方に於ては頗る忍び難きものを忍びました。深山嵐の寒く烈しいのは、榾火と皮衣の豐富を以て支へても、谿が狹くなれば多くの家數が相應接することも出來ず、垣内の土地だけでは米はおろか、雜穀と雖充分なる年食を收穫することができませぬ。それでも尚依然として隣が戀しいので、彼谷此入と散り／”＼に一軒家を作ることもせずに、作物の立つて居る半季の間は、夫婦で乳呑兒位をつれて一里二里と邑落を離れ、所謂田屋の生活をする風が起りました。平地人の眼から見れば、人情に遠い習慣でありますが、田屋生活を廢することになると、多くの山村は退轉せねばなりませぬ。而も今日此風習は追々に減じつゝあるのです。此類の村では、盆と祭の日は殊に樂しみが深いが、其餘の夏秋四五ヶ月の間は、老いたる親の顔(25)も見られず、限ある一家族の者が二つに分れて住むので、普通の隱居分家などよりも事情が一層寂寞でありますから、或は之を以て棄老の舊俗に聯想する人もあつたやうです。此結果のみでもありますまいが、田屋の風習の存する地方の人は、比較的無造作に出稼などをする。里に出て見れば天地が快活で、往々故郷に還るのを忘れしめます。新に之に代つて其山里に入らうと云ふ者は、無論當世には有りませぬから、斯樣な村の現住戸口は、何れの年にも減少するのが通例でございます。それでは人口の分布上面白くないと思ひ、或は又五十年七十年後の林業經營の顧慮等の爲に、若し其移動を制止する手段を考へるとしましたら、今では恐らく全然其村の態樣を一變せねばなりますまい。さうで無くとも、温泉が湧き出したとか鑛山が開かれたとか、或は思ひの外に汽車が其邊を突拔くやうになつたとか、自然の影響に由つて面目を變へることも折々ありまして、結局は毛蟲から蝶と云ふやうな驚くべき復活をするに非ざれば、其他は先づ山村としては心細い未來を持つものと見ねばなりませぬ。是は只一箇の例でありますが、此以外でも或時代の社會事情に基く一定の約束制限の下に、始めて最適當と判斷せられた居村でありますれば、其約束が弛み制限が撤せられて、交通は自由となり比較的移住は容易となつた後世に處して、假令亡滅せぬ迄も、他の新土着地等に比べて?々著しい劣勢を感ずるのは已むを得ぬことで、其苦境を脱する爲には、時々の改革を敢てせねばなりませぬ。所謂村是の調査の爲に村史の觀察の入用なのは全く此爲で而も同郡比隣の各大字間にすら、實情の異同が稀で無いことは、愈々以て郷土誌を、活きた研究と爲すべき理由を爲すのであります。

　さて我村の年齡は幾つ、甘やかされて育つたか、苦しい中に生れたか、之を知ることは勿論他人が觀て判斷する程容易ではありますまい。書いた物が何程も有つてすら住民を誤つた判定に導くのが普通であります。況や舊記や金石文は有つても至極切れ／”＼のもので、多くは他の材料、殊に固陋なる人の纏まりの附かぬ説に由るのです。そこで我々の苦心する所は、何か斯なもの以外に、今少し何れの村にも通用する物差のやうな物を發見したいと云ふことです。大體から申して、從來の風土記のしたやうに古く著はれた土地の名が、今もどこかに有る筈ときめて掛るだけならば(26)まだしも、たつた一度古史に名の見えて居る村々が、今存する者のどれかであらうと速斷することは、十に八九まで誤謬でありませう。旅行をして見ましても、此盆地は如何にも古さうだと云ふ處は、四圍の地形から推測しても、或は表土の工合から考へても、隨分多く見出すことが出來ますが、中行く川が久しく今の形に流れて居たか、今ある村がどうしても外には持つて行きやうが無かつたか否か、之を決するには若干の思慮がいります。此だけの事は假に僅かな我々の學問で肯定せらるゝにしましても、其村々が果して古いか否かはまだ分りませぬ。兵亂に由つて全戸退轉したことは無い迄も、今居る住民が追々に來て代つた者で無いことは中々想像がつきませぬ。實際又住民の入れ代りは烈しかつたやうであります。畿内と言はず東國と言はず、武家の所領が地續きに國土を蔽うた時代には、公の百姓で以前からの口分田を持ち續けて居た者は、何程も無かつたらうと思ひます。莊園の四至の内には、?々既墾の舊邑里を取込んだことは事實ですが、假令土着の名族が自ら舊勢力を保つて、其莊の刀禰となつて留まつたにしましても、恐らくは彼等が屋敷は、令に依つて割渡された園宅の地では無く、必ず垣内の片端に若干の下僕を住ませて、堂々たる外觀を持つて居たことでありませうし、名田の耕作者としては、有利な條件を以て流氓を抱へ置く方が、前からの里人を壓迫するよりも簡便であつたに相違無く、一部分獨立の作人職を保有した莊民とても領主に對する經濟關係が變つて見れば、元の形で集り住んだか否かは疑はしいのです。驛傳の制が廢せられ、郡家も不用になりますと、倭名鈔の頃までは數へて居た多くの郷の中心も、どう移つたか知れたものでありませぬ。即ち千年以上の村と云ふものが依然取續いて居ると云ふ話は、總括して信じにくいのであります。其後も驅落百姓の爭奪と云ふことは引續いてありまして、吾々の想像以上に人は東西に移動したやうです。殊に生命財産の保障は、何かの手段で是非求めねばなりませぬのを、別に是と云ふ確かな大權力者が無くなつたのですから、或は片田舍では、住民一揆して防衛だけでもせねばならず、それには又相應の村の形が入用であつたのです。所謂大小名の力競べは、平和の時代にもやはり村變動の種でありました。彼等が富の力は、尤も容易く武力と相互に變形し得ましたから、強い又は富有な武士の領内には、(27)居餘る程の住家が出來て、その人の手を自由に使つて、山野の處々に村里を開きます。其後も兵火の暴虐は何をしたか知れませぬが、それでも鎌倉時代位の、莊園の中に出來た村には今尚跡を留めて居る者が折々あるやうで、或場合には大字の境堺が、所謂下地の中分や、分割相續の痕を示すものもあれば、宮や寺に存する遺物の中に、村の舊家と因縁のある者もあり、猶又家々の傳説、殊に苗字や家號の證據が、其村の老いて猶健かなことを語つて居ります。但し其中でも、領主の悲惨なる滅亡を見た地方では、其と深い關係のある部落、例へば城の根小屋に據つて住し、或は時世相應の商工運送等に從事して居た場所は、退轉せねばならなんだのです。其或者は口碑も遣物も共に殘つて居ります。猶細密なる研究を待たねばならぬことですが、戰國の殺伐な時代に、新領主に弓を引いて攻めて滅され誘ひ殺され、或は又浪人して他郷に主取りし、乃至は只の小百姓に零落した迄の、村々の領主の數は甚だ多かつたことゝ思はれます。それが三四百の大名だけに減じた爲、不用になつた城山の數は是亦莫大です。城山と申すも大袈裟な位の、今なら地主の石垣屋敷かも知れませぬが、それにしても周圍に相應の部落を持つて居たでせうから、其大部分は、只の農村に復するには少しく密集に過ぎて居たでせう。此頃幸に處々の城下に新町が出來、復興した驛路にも人の手の入用が増したので、一半はそれに赴いて町人となりましたが、干戈が收まつて人口が頓に増し、維新後と同じやうな生活要求の一大躍進がありました爲に、何でも物を多く産する必要が生じまして、一時動いて居た餘分の人が、そちこちの新村に落付くことになりました。江戸時代の大事業の一つは新田開發であります。今日新田の名を存するものは、其開發の内の僅かの一部分で、其他の村では、寛文あたりの檢注を唯一の古記録としながら、何だか古さうなことを言つて威張つて居るものが中々多いのです。併し如何に主張しても、生れた時代の特色は蔽ふことのならぬもので、孤立經濟の下には夢想することも出來なかつた沼無し薪山無しの米一色の農業には、古い村ならば到底堪へ得た道理が無いのです。此點は人間で申せば、當世風の優男が荒仕事に向かぬやうなもので、此類の新田場は、今日所謂強健の氣風を地方人に鼓吹せんとする場合の、小さからぬ邪魔物であります。

　

(28)　　　　　村の成長

　

　村の歴史を説く人が、村を骨董品として取扱ひたがる心得違ひは色々ありますが、中にも一體の石佛の年代を鑑定すると同じやうに、或は又富士山が一夜に近江から飛んで來たと語るやうに、何か一二の廉に由つて、村全體が大に古いかの如く誇りますのは、笑はずには居られぬ話でございます。式内神社の本家爭ひは、百年以來の流弊でありまして、時としては今日の停車場登記所等の奪ひ合ひと、動機相似たるものさへありました。併し私共の見る所では、地名の音韻變化などを穿鑿する前に、何が古いのか、どの點が傳來の久しきを誇るに足るのかを、考へて見ねばならぬと思ひます。何となれば里には前にも申した新陳代謝の外に、後から追々の増附があつたからであります。現前には一箇の有機體と見るべき町村でも、その今日に到達した道筋を考へたら、人間の四肢毛髪が、出生の時から具はつて居たのとは、違ふことが判りませう。その最も著しい例證は、今の各大字の明治二十二年前の?態であります。其結果として、外國人などが日本を新進國と謂ひ、青年期の國家のやうに認めるのを憤慨し得る場合にも、町村に在つては、さ程老人顔をすることが六つかしいのであります。

　そんな事が有るものかと詰る人が有るかも知れませぬ。北海道や臺灣が中古以後の新附であることが、何も帝國の古さを煩はさなかつたでは無いか、其と同じだと論ずる人も有るかも知れませぬ。併し何と言はれても、國と村との明かな區別は、國は大御門の最初からの御支配であつたのに反して、村は今言ふ村の地の中で、特に屋敷と之に伴ふ田や畠の、年貢地を持つて居たばかりであつたことです。即ち人が増し在家が殖えて、近隣の土地に利用の手の屆か(29)ぬ隅々が無くなるに至つて、始めて村の領土又は版圖とも謂ふべきものが、今日の如き關係に立つたのであります。否今日と雖、汐千の跡の砂濱は勿論、晝夜を分たず普天の日に照されて居る遠干潟の、蘆や楊の叢生に適して居る部分までが、國の領域にして、而も何れの村の區域にも編入せられて居らぬ有樣ではありませぬか。前年大阪の藤田組が許可を得て、堤を築き埋立をした備前兒島灣の新田の如きも、其成功の條件があまりに寛大であつた爲に、既に小作人を招いて麥蠶豆を作るやうになつても、其地は何れの村でも無く、住民は寄留する役場が無くて、徴兵も就學も郷里の町村から沙汰するより外の方法が無いので、小學校だけは、隣接する妹尾町に居住することにして間に合せても、其他の點では悉く皆水上の舟住居と同じく、たま／＼赤痢でもはやれば、入費を負擔しつゝ行旅病人の取扱をして貰はねばならぬ結果を見たのです。此類の例は各地に有りまして、今後も新たに村の生れる場合の起り得べき如く、村の容貌風采も亦色々と變り行く筈であります。

　此理由を推して考へますと、過去に於ける町村の成長は、著しく自然人の成長と異なる所があります。動物では組織の更代が如何に甚しくとも、眼鼻立ちを變へてしまふ迄には至りませぬが、地方團體に於ては其肝腎な部分が、前後の連絡も無くどし／＼と改まつて來た例も多いのです。前にも一寸申したことですが、京都に遠い國々で、以前からの住民のまだ若干殘つて居る村方を、荒地なるが如く書面を刷ひ、空閑何百町の中に引きくるめてしまつて申し請け、或は地方官と腹を合せて、境榜示を打つべき處より外に打ち、既墾の田も畠も庄園の中に入れてしまつて、新たに多勢の庄官を置き作人を入れたやうな場合に、假に此村、奈良の朝からの開發に係ると主張するとしたら、如何でありませうか。即ち其主張の如何にも空名で、實生活の上に何の意味も無いことを、感ぜぬ者は無かつたであらうと思ひます。而して年代の長短、即ち變化の遲速を假に取除けて考へますと、其後も之に等しい大異動が幾つか繰返されて居たやうに信ぜられますので、現在の住民が辿らねばならぬ必要のある昔と、詩人肌の人々が詠歎の種となすべき昔とは、賢い人ならば二つに分けて考へて行くべきことだらうと思ひます。

(30)　私は話を耳に入り易くする爲に、最初には先づ住民の側から、村の變化を考へて見たいと思ひます。日本のやうに家長制のよく發達して居た國で、耕作と云ふ最も普遍なる集合勞働に始まつた村でありますれば、村と家との關係は必ず至つて單純なもので、例へば甲の一族は甲の地に住み、乙の一門は乙の村を作ると云ふ工合であらうと思はれて居たのに、明治の初年に在名禁止の帷が撤せられて、戸々の百姓が苗字を登録する際になつて見ますと、驚くべき事には、殆と一村として一の家筋から構成せられて居ると云ふ者が無かつたのです。元からの水呑や門男の末などで、名乘りたくとも我苗字を知らぬと云ふ仲間も隨分多く、故障の起らぬ限は地方で聞えて居る家名を貰つたり眞似たりした實情であつたにも拘らず、鈴木とか伊藤とか云ふ有りふれた苗字が、全國に瀰漫して居ると同時に、一處一大字の家の名は大變に入組んで居ることを發見しました。これは抑も如何なる事を意味して居ると見ませうか。成るほど中には氣紛れな新苗字を作つて、系圖の不明をごまかした人も有りませうが、丸々下司を除くとして、相應な長百姓たちが坪を同じくし、嫁聟の取遣りをしながら、紋も源平藤橘も全然別々で、久しく共住をして居ると云ふことが、果して上古其儘の村の成長だと見られませうか。御承知の通り、苗字家號はほゞ鎌倉時代のなかばまで、文字通りの其在名、即ち家の所在地の地名であつたのです。承久又は弘安の役後から、關東名門の末流が遠方の地に、新恩の地を給せられて入部しますのに、多分は本家の威勢をひけらかす下心で、故の苗字を改めずに居る者が追々出來ました。九州の千葉宇都宮伊東などは其例であります。勿論其以後にも苗字は幾らも出來ましたが、分家の折に新たに作つても、移住の際には持つて行くと云ふ風で、終に今日の固定を致したのでございます。之に由つて見ますれば、今日の家號の交錯は、後の主人が必要あつてわざと改めたので無い限、多くの家筋の集合を示すものと言はねばなりませぬ。成ほど此中には表に現はれぬ女系の續柄が多く潜んで居ります。娘の聟には必ずしも家名を強ひなかつたらしいのですから、其實は一家の親に同じく、以て一郷の統一と平穩とを圖り得たのかも知れませぬ。併し此の如くして結合せられた二家三家の最初の接近はどうして起つたのでせうか。我々はよく村の口碑として、五軒百姓とか十二頭名とか(31)云ふ話を聞きます。即ち始めて村の地に入込んで田を拓く時から、彼等は既に或複雑なる組織を具へて居たと云ふのであります。併し其樣な形で移住土着したと想像するには、更に今一段前の居住村を認めねはなりませぬ。結局中古の族制を以て、至つて散漫不秩序のものと斷定するに非ざれば、あまり古くから今日のやうな村があつたとは見られぬので、而もさう斷定することは決して容易では無いのです。語を換へて申せば、假令今日の言傳へはどうなつて居らうとも、一の部落の中の色々の家筋の中には、多くは必ず土着の先後があつたのです。甲が豐饒にして而も寂寞な生活を送つて居る所へ、何か平和な縁故を手繰つて乙が來り、次で又丙が來たと云ふ場合が最も普通で、中には戰亂等の時、悲憂を同じくする二家三家が、助け合ひ申し合せて一時に落ち着いたにしましても、又は偶然信仰上の中心を一にして、異姓兄弟の思をすることがあるにしましても、他の一半の村民は、必ず後年の加入者であつたことは疑がありませぬ。今日の農村では新來者に對する壓迫が常に甚だ強く、時としては加入金の沙汰さへ有るのに比べまして、あまりなる人情の變化とも言ひ得まするが、それは要するに人と土地との比例、大きな譬を引けば百年の昔と今との米合衆國の移民待遇の相違などゝ、同じ心理の支配する所かと思ひます。

　江戸期三百年の平和時代に於ける、人口の一般的増加を説く爲に、最も重要なる觀察點は諸藩の騷落百姓又は失せ人に對する法制の變遷であります。初期の開發時代に人口の乏少を患ひて居たことは、各領互に百姓を誘ひ又は匿まはぬと云ふ不文の約束と、國外を企てる土民に?々追討ちの制裁を加へた事實とによつて窺はれます。それがいつと無く其嚴峻の度を失ひまして、後には單に家財田畠の缺所處分と、之を惣作りに付してひたすら年收の減損を避くると云ふ方に向いて行きましたのは、つまりは僅かの年代に人はもう澤山となり、寧ろ如何にして餘刺の民口を食はせようかの問題に逢着する地方が、追々多くなつた事情を示すものです。村によつて固より天災に對する抵抗力にも強弱があり、從つて戸口増殖の率も一樣では無かつたでせうが、それにしても早晩面と向はねばならなかつたのは新田の問題で、之を單に財用不足の側からのみ批判せんとするのは誤つて居ります。牢人の歴史は、日本のやうな島國(32)では殊に精彩に富んで居ります。併し經濟生活の方面から見ましたら、元禄享保度の新田時代には、先づ稍々片付いて居たと言ふことが出來るのです。そこで其以後の村の發達史は著しく單簡になり、且つ言はゞ今風になりました。他の一方からは、假令或一地方の戸口が特に堪へがたく増加し、或は分内狹く或は冬の仕事が無くて、結局手の餘りを感じましても、海岸其他の大規模の新開を企て得る地方の外は、附近に移住させて新村を作り又は飛地持添へを増して行く餘地もなく、雙方から段々押詰めて、茲に始めて我々が今日見る村の境と云ふ者は定まつたのです。土地の利用程度が段々と集約になり、農法の模倣傳習の範圍が擴張するに從つて、村の特色は追々消えて行きましたが、それでも其以前の久しい間に、田舍生活上拔き差しのならぬ許多の條件が固定して居たのであります。具體的の例で申すならば、奧羽北陸に見るやうな所謂商人地主の開いた村では、中百姓と云ふ階級が至つて力弱く數少なく、之に反して地侍の退轉した跡には、旦那衆と云ふほどの中心勢力が無い爲に、今日に至る迄村の中が兎角割れたがり、舊家の世話のよく屆いた村には、人口が早くから増殖して、枝郷出屋敷が多く起り、山野の有り餘つた處では、水附きの川原を粗末にして、却つて新參者の隣人に要勝を占めらるゝの類、計へて見れば限はありませぬ。併し結局遠國の移住民を使ふにも、身内の次男三男を片付けるにも、一番早くから辛抱して住み續けて居た者が最も都合がよかつたので、山に據り水を控へ思ふ通りの村の形を作り得たやうです。遲れて入込んで來た者の先祖の骨折は、此頃になつて始めて顯はれて參りました。即ちあらゆる障碍よりも力強かつた人口の増加が、終には所謂純農村の子弟を押出して新な生活をさせる段になりますと、眞似て宜しい手本は、やはり分内の狹い町場附近に住んで、身過ぎの助けに品物を作つて他國に賣り、或は又海道に出て運送などの臨時の勞働を漁つた人たちが、人氣が惡いの、油斷がならぬのと言はれつゝも、やはり新時代の經濟を田舍と繋ぐ鏈の役を勤めて來たのであります。

　

(33)　　　　　相州内郷村の話

　　　　　　　　　　某會の席上にて

　

　此間中我々が參つて居つた相州の内郷村は、陸軍の五萬分一では「上野原」圖幅の右中程になつて居ります。大さは是で約三寸に三寸五分位、戸數は三百六七十戸しかありませぬ。其だけの處へ、深川の富川町などには、先づ居るまいと思ふ最優良の人足が、延べにして九十二三人程出たのであります。とんと田植を見たやうな騷ぎで、いや此二萬分一圖は古いことの、わざ／＼印刷して持つて往つた一萬分一が違つて居るから直すのと、其は／＼綿密な穿鑿を致しました。カメラなども大小四つか五つ有りまして、少くとも百枚以上ぱち／＼とやりました。但し殘念ながら今晩は其地圖も寫眞も、悉く皆持參することを忘れました。そこで一々に就て持前の長話を致すことは、皆樣内々御失望だか御安心だかは知りませぬが、兎に角今晩は出來ませぬ。ほんの輸廓と二三の所感を述べて御免を蒙ります。

　同行の諸君の意見は未だちつとも承はつて居りませぬが、私だけの實驗は、一言を以て申せば村落調査と云ふものは、非常に面白いと同時に、非常に六つかしい仕事だと云ふ、是だけであります。私は偶然此村の沿革と云ふ方面を分擔しましたが、是は村に入れば何人も先づ注意する趣味ある題目でございます。併し國の歴史を調べるのと同じやうな態度で居りましては、何一つ滿足に分るものはありませぬ。村には物語や歌に殘るやうな大事件といふものが一向無かつた上に、歴史家の所謂史料と云ふものが思ひの外少ないのであります。

　例へは舊記古文書の類であります。新編相模風土記は今から僅か百年程以前の、村々の書上げに由つて編纂したも(34)ので、一村の記事は精確だと言つても活版本で四五頁しかありませぬ。但し此中に引用してある永禄三年の小田原役帳は、簡單ではあるが此地方としては有益な材料であります。兎に角三百五六十年前に、如何なる人が村の豪家であつたかが知れるのであります。而も内郷では二つある大字の一方の分は缺けて居りまして、其區内の古い虚空藏尊のある寺がどの位の勢力であつたかが知れませぬ。此寺は中古衰微して居たと見えまして、一向古い書き物が無く、唯一つ宗祇宗長の時代の寫しだと稱する縁起の卷がありますが、單に文學上の作品として、物語の解剖を喜ぶ學者には見逃すべからざるものだと云ふのみでありました。それでも此山寺の昔が、箱根と御嶽の間に介在して、此二名山と同性質の勢力であつたらしいといふだけは、大凡察することが出來たのであります。

　次に人の大切にする所謂古文書でありますが、是も多くの場合には甚だ片寄つたものであることが分りました。全體最初に内郷村を選定しましたのは、一つは地形、即ち一方の境は高い嶺、他の三方は絶壁を以て川に臨み、近年まで橋も無かつたと云ふ孤存　　状態と、第二には村長校長其他の有力者に、同情と理解が有つたのが主たる誘因で、實は此程迄に文書類のよく保存せられて居る村とは知らずに出掛けたのです。處がそちこちから二十通三十通と書き物が出て來る。殊に零落した或一戸の舊名主の家から、今度始めて取出して見せてくれたものには、寫しではあつたが慶長寛永の年貢受取などさへもありました。珍しく火災の少なかつた、よく保存せられた村と見えます。併し此につけても我々の感じましたことは、よく村誌類に、惜むべし其々年の洪水又は火事に悉く舊記文書を失ふなどゝ、さも／＼其があつたら、萬事を解説し得たかの如く申して居るが、それが果してどうであらうかと云ふことであります。高が天正の江戸入以後の筆跡で、それも村役人が大事にして殘して居るのは、つまりは公課増加に對する防衛の證據材料になる分だけのやうです。從つて此中から、二百年三百年以前の社會相を感得しようとするのは、容易の話ではありませぬ。尤もこの内郷村には一つ他村とは異なつた事がありました。其は寛永の昔から、否恐らくは更に其以前から、村の西北隅｜鼠阪《ねんざか》の隘路に、一つの口留番所がありまして、村は草高四百石ばかりの高を引受けて、自ら其番役を(35)勤めて居つたのです。之に關係した文書が段々あり、又貞享の頃からか、番所を川手と陸上との二つに分けまして、水路の方には運上等の沙汰があつたらしく、此は詳しく調べたら、何か纏まつた知識が得られるだらうと思ふ程、よく完備して居りました。併し之に就ても考へたことであります。二百年三百年の間には此簡易關所の前や後で、隨分腸を斷つやうな、又は胸の躍るやうな、悲劇活劇が幾つか起つたに相異無いが、總て是れ雲煙の眼を過ぎ去るが如きもので、文書は只々平凡な、筏に乘つて十何人馬入へ下る。歸りには陸路を川上へ通るといふやうなことだけが多いのです。唯一つ其中で忘れ難い一括の書類は、寛政の頃でありましたか、御家人かと思ふ江戸の客人が、關所へ來た所が當番の者が居らず、小使を走らせて組頭某の家へ聞きに行くと、此も不在で叔父に當る袖都と云ふ盲人が、待つて貰つて名主へ聞きに行くがよからうと差出口をしたのを、使が關所に還つて有の儘に言つたと見えて、後日或筋から鼠阪の關所では座頭を番人にして置くかと捻込んで來た一件であります。固より二三通の形式的文書ではありましたが、當時の光景は文面に躍如たるものがあるやうに感ぜられ、手續書の奧に捺した袖都盲人の爪印が、幅一寸もあるかと思はれたにつけても、端的に昔の山村の生活を髣髴し得たことであります。併し此樣な趣味から村の古文書を獵つて居ると、結局失望が多からうと思ひます。例へば此村ではさして古からぬ昔、村の舊家で名主をして居た與次右衛門と云ふ人が、落度があつて後の淺間森で磔物に揚げられたことがあつて、其古屋敷は依然としてあります。又他の一部落では此前後に、秋元織部と云ふ丸々の下司とも思はれぬ百姓が、物語にある長者のやうな豪奢をして闕所になつたことがある。其宅址は今水田で、曾ては周圍に小川を堰いて、舟を泛べたなどゝ云ふ話もある。此二つの事件などは、村としては隨分の大騷動で、恐くは之を見た老人たちは、生涯の語り草として居たことでありませうのに、よく／＼注意して居たにも拘らず、之に關係ある文書などは紙切すらも無い。即ち故意に廢棄したものに相違ありませぬ。今日の村人が、いくら聞いても詳しく知らぬのは勿論のことであります。

　耳から口への傳承は、世に口碑とも言ふ位で、村としては重要の史料に相違ない。而も此とても何でも斯でも言傳

　

(36)〔津久井郡内郷村全圖あり、省略〕

　

(37)へるといふ時代は夙に過去つて居ります。殊に大正七年頃の村の故老の如きは、即ち明治初年の若い衆でありまして、文明開化などゝ稱しどうかして無形のチヨン髷、無形の裃から脱却せんとして居た時代に、而も最も忙しく最も此樣な話を粗末にしたがる年輩の人々であつたのです。祖父祖母のよく世話を燒く者が達者で居る家に、比較的記憶力注意力の優れた少年少女が一緒に居て、始めて僅かに傳へ得べき昔話の類が、小學校の教育の規則正しくなつてから亡びたのは多いのです。是は内郷村の話ではありませぬが、自分の實驗に依りますと、御互の間でも、曾祖父曾祖母の通稱を知つて居る者は、二分の一は有るか無いかです。況や村では勘兵衛清右衛門は代々の事で、而も或者は長命して郷黨で立てられ、或は病身或は道樂不人望と、個人々々の原因に伴ふ榮枯盛衰はありました筈ですが、本人自らすら十分に意識せずに一生を終ることが多い。況や我々の所謂環境の變遷等を參照して、歴史家のやうな昔の見方をする者が有る筈は無い。其中でもカストムと稱して之に從はねば批難を受け、乃至は不安恐怖の精神上の制裁を免れぬ部分は、生活の必要上、學校以外の家庭教育として、親から子に是非傳へて置いたのでありませうが、其も此頃はどしどしと改革せられて居りまして、突然我々が入込んで老人たちの言ふことから、僅かなりとも前代の精神生活を窺ふやうな機會は、よほど都遠い山家にでも入らぬと、把へにくい世中になつて居るのです。

　あの邊は諸君も折々御通過になつて御存じであらうが、今日の甲武鐵道は、今日でこそ偉大なる文明輸入機關でありますが、あれは實は既存の甲州街道の旅客貨物を横取りする爲に出來たので、其甲州街道も亦決して古いものでは無く、つまり江戸が甲州を統御する必要が起つてから後のことであります。八王子なども、城の移轉の筋を見ても分る如く、元は南北の往來を押へるのが主たる目的でありました。畢竟甲武の境山は大なる天然の障壁で、古人は水流の如くに、自然に出口を中部相模の方に求めて居たのであります。今の鐵道と國道とがまだ出來なかつた前を想像しますると、此村などは誠に形の如き偏土でありまして、三十年五十年に一度位、至つて勇猛なる武人が軍勢を率ゐて越えて來ると云ふだけであつたのが、僅々三百年足らず、と云ふ中にも最近の百年間に、先づ／＼東京の近郊とさし(38)て變らぬ程度に、開けて了つたのであります。餘程の速力を以て前代の事を忘却しなければ、到底今日あるを得なかつた道理で、之に對して多分の口碑、有效なる故老談を期待するのは不當であつたのであります。併し其にしても一時は一寸驚きました。恰も盆の休でありましたが、青年はよい浴衣などを着て處々に集り物を食ひ談笑するのみで、盆踊などは前から無かつたと申します。「前から」とは何時からでありませうか、或は天明の凶年などからでせうか、はた又明治以後の警察の干渉からか、どうも分りませぬ。祭禮はと申すと神輿を舁くのは十部落中の一つだけで、他にはやはり前から無いのだと言ひますが、而も寺山の入口には、今も儼然として平石を上に据ゑた輿塚があります。家々の年中行事などには、維新以後の改廢が隨分烈しいやうに感じました。是は娘なり嫁なりが一人女學校を出て居れば、はや雜煮の汁加減も變ると云ふやうに、少しでも準備支度の上に人の意思の加はり得る限は、名づけて三越趣味とでも申すべき外部からの浸潤は、存外に力を施し易いものゝやうです。之に對する唯一つの例外、即ち地方々々に昔の型の保存せられ得るものは、冠婚葬祭の中の葬だけです。是は突然として原因が顯はれ、而も他人任せの執行であります爲に、彼是取捨選擇して責任を負ふよりは、先づ誰もする通りにして置かうと云ふ所から、自然に在來の式を踏襲することになると見えます。例へば八九寸ばかりの竹の串に、三角に折つた紙切を挿み、金剛杖などゝ名づけて各人之を襟にさして野邊送りをすませ、歸路に辻又は門前の路上に刺して置くと云ふ風習などは、自分等の始めて目撃した所で、疑も無く幽靈の生人に附いて家に戻るのを避けた、古い習慣の名殘でありますが、禅でも眞言でも寺々一樣に此式を承認し、各自我宗旨に基く文字梵字などを其紙切に書いてやります。畏怖の信仰は人間に不幸のある限り、根強く存續するものらしく思はれます。我々にしても迷信が起るとすればこんな時で、若しやあの爲では無いかとか、斯うもすれば免れることが出來ようかなどゝ、自身は兎も角も最愛の者の大病などの折には思ひます。此類の不安に基く俗信などは、古いだけに一番に村と村との因縁、語を換へて申せば、始めは何れの地方から來住したか等の問題を、探る便宜となることゝ思ひます。又此村で道祖神の信仰などの、比較的うぶな形で痕跡を留めて居る(39)のも、やはり其一例證であります。部落々々には其境に接近して必ず左義長場があり、其側には男女神竝立した道祖の石塔が立つて居りまする上に、偉大なる陰相の石の、年々此火の中へ投込まるべきものが、今でも殘つて居る所も二三あります。百五十年前の地圖には祭場の名があつて、今は既に取除けられて居る山の神などの多いのに對して、獨り道祖神のみ今も一分の權威を保持して居りますのは、必ずしも其神が里近く親みの多い爲のみでなく、一つには疫病の村に入ると云ふ畏怖が、最も強かつた結果であらうと思ひます。

　村の昔の忘却せられ易いといふ他の一證としては、此他に又家傳の粉亂を擧げることが出來ます。明治の初に苗字の無かつた小百姓が、僅かな因縁を辿り、又は事大主義から、他家の家號を僭稱した例も隨分ありますが、其等は大體の上には影響の無いものとして、村では苗字から家々の新古と盛衰とを尋ねることが出來る筈です。然るに内郷村でも他の地方と同じく、部落を異にする同苗字の家に就て、互に關係があるかと間ふと、きまつて無いと答へるのです。是といふのが永い間には他人養子や仲違ひが挾まり、而も親類と云ふのは昔もやはり六等位を止りとして居ます爲に、大抵の場合には故意に宗家を承認せず、其儘に他人になつて了つたのであらうと思ひます。非常に立派な苗字なら盗んで用ゐることも無いとは申されませぬが、是とても質朴な農民の多くが忌み惡む所であります。況やさほどでも無い家の名を無意識に傳へるには必ず溯つて何等かの關係が有らねばならぬ。是を多くの場合には忘れて居るのです。最も甚しい一例の如きは、一つの城山の下に屋敷を接して住んで居て、どう聞いて見ても何の關係も無いと言つた二家があつた。尤も是は二家の苗字は別であつたが、自分は微少なる努力を以て、容易に二家が始は一本であつたことを想像し、更に城山の地を實査して、其地を眞二つに切つて兩家が分有して居ることを、見出したのであります。此等の家には書いたものは少しも無かつたが、其一方の筋で一番古からうといふ家には、百年以來の筆の系圖がありました。どういふ事情の爲か是が作つたもので既に永禄の小田原役帳にも見えて居る此村の苗字でありながら、文禄慶長の頃になつて始めて此地へ入込んだやうに出來て居るのであります。我々の調査とは大した關係は有りませ(40)ぬが、家としては惜いことのやうに思ひました。

　今後の村の調査をする人々が、村の保守派と共に、徒に家門の新舊などの穿鑿に心を勞するのは、勿論不本意な話であります。大きな眼で見れば、村に生死した人は何れは無名氏で、而も親が無くて生れる子は一人も無いのでありますから、其一人々々を取立てゝ特に輕重する必要は認めませぬ。唯一群の日本人の集合として、何れの點に昔の方が幸福で、何れの點に新時代の恩澤を蒙つて居るか、又蒙らせなければならぬかを考へる時に、始めて村民の沿革を討究する趣意が顯はれるのであります。古風の語を借りて申せば村柄であります。足るを知り分に安ずる舊道�ｺの下には、鼓腹撃壤の民であつても、終には永く平和なる共同生活を持續しにくい村も稀にはありますが、大體に於ては、世の中の開けると云ふのは即ち村の開けることで、現に此村なども、僅に三四十年の間に物質上にも精神上にも改良の跡は著しく見えます。但し多くの山村と一樣に、穀作を主とする低地の村落に比べると、幾分か世上の景氣不景氣から來る動搖を強く感じるかと思ひます。過去帳などを見て居て心付きましたが、?々一戸の家で一年二年のやゝ短い期間に、三人四人の家族が、續いて死んで居るのがあります。傳染病にしては長期に過ぎ、肺病にしては急激に失して居ります。此樣なのは事によると、今日でも稀には見掛る所謂營養不良症といふものかも知れぬと思ひました。老人幼兒などは兎に角、盛りの男女の此病で死ぬ者がもし有つたとすれば、考へて見ねばなりませぬ。新聞などはいつも時事問題に拘泥して居りまして、凶作とか飢饉とかいふ普遍的の現象にのみ呼號しますが、此外に特發性の飢饉、慢性の凶年とも稱すべき貧困といふものが、時々箇々の民家を襲ふことがあります。諸君は決して成金萬能を承認せられるやうな御方ではありますまいが、天下泰平國土豐穰の我君が代の裏面に、永古人に知られざる悲痛事のまれ／＼にも發現せぬやうにと祈る人々が、外面好事の穿鑿のやうな形を以て、此種微細なる研究に手を着けんとして居るのを、或は知らずに居られるかも知れぬと思ひます。自分の功勞を誇るのでは決してありませぬ。世には此類の學問も存在し得るといふことだけ、御承認を願へはよろしいのであります。

　

(41)　　　　　村を觀んとする人の爲に

　

　　　　　　　趣意

　

　非常に面白かつたけれども、我々の内郷村行きは學問上先づ失敗でありました。面白かつたとは言ひ得ますが、有益であつたとは申しにくい。其失敗の原因は至つて單純で、勿論我々の怠惰不熱心の爲ではない。一言を以て言へば、問題が多岐に失して順序と統一の無かつたこと、學び得る事は何でも學ばうとした其態度が惡かつたのです。此態度と雖、其に必要なる時と資力さへ具へて居たならば、絶對に惡いものでは無い。但し費用は出す者が有るとしましても、時は何人にも負擔し得ぬ程の、長生で無いと間に合ひませぬ。此調子で調査をして居たら、いつも「天若し之に年を假さば」と云はねばならぬことになります。利己主義か知りませぬが、自分等は蜜蜂でも無く蠶でも無い。我成績は先づ我用に供したい。村の人々の考も多分は御同樣でありませう。古人は?々名山石室に書を藏し、後世の識者の認むる所となれば滿足だと言つて居ります。併しながら今度の調査旅行の報告の如き、斷片的の智識を書殘して、そんな事を言へば必ず人が笑ひます。さうすれば結局誰の爲に何をしたのだと言ふことになります。我々は物好きで今後も此樣な事を繰返すとしましても、少なくも村に居る人たちに同種の企てを起さしめる張合ひにはなりませぬ。そこで此失敗の經驗の中から、些しでも續いで起つ諸君の參考となりさうなことを書き殘して、成るだけ勞少く結果(42)の早く見えるやうな方法を討究して置いて貰はうと思ひます。

　

　　　　　　　問題の中心

　

　目的とか效果とか言ふと、學問の威嚴を傷けるかも知れませぬが、切れ／”＼の智識などは茶飲話の種にしかならぬことを考へ、人間の壽命の存外短いことを思ふときは折角骨を折る位ならば、何か纏まつた一つの形を具へるやうにしたくなります。又同じ事ならば自分以外の人も注意して下さりさうな題目を先にしたい。多人數が協同して事に當り、乃至は人の力又は公の費用を之に用ゐんとする場合は、殊に名義を明かにせねばなりませぬ。實際我々の心掛けは、平素から決して同胞日本人の生活と交渉の無いことを穿鑿しようと云ふのではありませんが、久しい間纏まつた成績が現れず、氣紛れに目先きの變つた事柄へ移つて行つて、どの方面も少しづゝかじり散らして居ては、初め同情をもつて居た社會までが、終にはつまらぬ苦勞だと考へるやうになる心配があります。而も一方には世中から、一日も早く發表して貰ひたいと言つて居る問題が、解答無しに既に明治大正と數十年を過ぎて居ります。舊式の村誌類には人が倦み且つ飽いて居ます。名所舊跡も停車場も宿屋も無く只古い村で、恰も古池をかへたら鯉や鰻が居たのと同じやうに見られるのを口惜しがり、色々な事を言立てゝ空な自慢をして居ても、此からの實生活は其爲に甘くも辛くもならぬことがよく分りました。どうか今ちつと適切なものをと頻りに言つて居る處であります。學問をするからには此聲を聞遁すわけには行きませぬ。そこで我々は完全と云ふことは第二隊に控へて居る人の仕事に殘しまして、先づ大體の目安を立てゝ、一旦は簡略なる成績を擧げて見たい爲に、何か一つの中心を見出して置きたいと思ふのです。

　併し實は其も心持ちのものですから、明晰なる語でさへあれば、何と名をつけても結果は略々同じに歸するものです。自分だけは假に是を「生活の變遷」と言つて居ります。一つの村が成立する爲に、當初必要であつた各種の條件(43)は、今も悉く具はつて居るかどうか。其中の幾部分は、國が立派になると共に不必要になつたかどうか。或は之と反對に、新なる條件の追加せられるものが出來で、其要求を充すが爲に如何なる事をせねばならなんだか。手短かに申せば、此迄の村民はどう云ふ生活をして居たか。是が即ち眞成の村の沿革であります。同時に又御先祖と云ふ人の功績表でもあるのです。而して其生活なるものが、目下刻々にも亦變遷しつゝあること、是は村民ならば何れもよく知つて居ます。それが又旅人に取つても、やはり非常に面白い所謂近世史であるのです。歴史と云ふとフヽンなどゝ笑ふ輩は、歴史が此ほどの幅を持つて居ることを知らぬから笑ふのです。日本武尊と弘法大師が來て、一晩づゝ泊つて行かれたやうな話だけが村の沿革でありますならば、成程フヽンであるかもしれませぬ。

　次には此から後の村の生活はどう變遷して行くか。それでは困るかどうか。是は又一段と困難にして而も一段と重要な問題であります。前田正名翁の同志者は之を村是と名づけました。なるほど村で將來の計畫を村是と云つて居るのは尤ですが、單に勤勉とか時間勵行とか云ふ普通の道�ｺ語を列記してすまして居たのは、あまりに冷淡でありました。尤も愈々となれば、人は神樣で無いからと云ふことに歸着するかも知りませぬが、我々の飯を食はねばならぬこと、女房子供の可愛いことなどは、千萬年を經るとも變ずまじい如く、よく／＼の天變地異があつても、村の場處は移らぬ筈である。周圍の事情が大體同じで、人も亦我々及び其子孫であるならば、假令千年の後は六つかしくとも、百年後の事は憂ひ又は樂み得る筈であります。而も又隣の村や隣の町とは趣の異なることが察せられ、全國一樣の村是ではすまぬ道理も分る筈であります。そこで此分を先づ最初に、我々の調査目的としたらどうでありませうか。變遷せぬ生活ならば現在の記録もさして必要ではありませんが、變遷して而も分らなくなるから、即ち廣い見方から言へば、天と地との間に起つた或事實が、全く起らなかつたと同じ結果になるから、又之を着實に申せば、我々の子孫の幸福と不幸との分岐點であるかも知れぬ將來の計畫に、頗る參考となるべき好材料が散佚するから、我々は大にあせつて村の觀察を流行させたいと願ふのであります。其には東京から今度十何人も出掛けて而も大して得る所が無か(44)つた、それ程面倒な仕事だと云ふ評判が、最も大なる障碍であります故に、否々方法さへ立つて居たならばよかつたのだと云ふことを、差出がましいが自分が立證して見ようとするのであります。

　

　　　　　　　調査者の資格

　

　先づ第一には他所から入込んだ者が仕事をしやすいか、はた又土地の人が自ら手を下す方がよいかと云ふのが問題であります。他所からわざ／＼來る位の人なら、自信のある人々に相異ない。外の村々での經驗を利用し得るに相異ない。個人的の利害や感情に捉はれぬ判斷をすることが出來る、と思はれても無理では無かつたのでありますが、實は我々は些し例外でありました。併し行く／＼さう云ふ外來調査者が多く出て來るでありませう。前代の地方役人などは、よく村柄の善惡を説いたものであります。直覺同然のあぶない鑑定ではありましたが、場數を重ねると存外當るもので、その爲に永々しい問答を省き得たやうであります。又言はゞ急所と云ふやうな物の聞き方がありました。一つの現象が變則の例であるか、又は代表的のものであるかは、村の人に取つては判別も容易でありませうが、旅客には練習の必要なる技術で、而も今日の郡書記、昔の代官手附のやうな人には、十分その能力を具へた人があつたらしいのです。併し速斷は如何に機敏でも基礎の無いものですから、問ひ方さへ上手ならば丁寧に要點を問ひ、或は數學的の綜合をする方がよいのです。語を換へて申せば、土地に不馴れで大把みの觀測を爲し得ぬと云ふ點も、亦外來調査者の長處と言へば長處であります。唯どうしても免れ得なかつた一つの不利不便は、心安く無い爲に村の人の氣が改まつてしまふことです。勿論これは虚僞の修飾をすると言ふのでは無い。而も概して言語に拙なる農家の老幼男女の心持ちは、顔に表はれる感情を透して之を看取するの他は無いのに、所謂心にくい客人である爲に謹愼して、したい顔もせぬやうであつては、言はゞ三分の一の面會拒絶と同じです。殊に我々の團體見たやうに、口髭の秀麗な人(45)々がぞろ／＼と繋がつてあるいては、如何程猫撫聲を出しても、問答の捗行かなかつたのは當然であります。其に今一つは訪問の時期時刻を得ぬことであります。昔から言ふやうに、冬の夜の折焚く柴の火の影で、語るも聽くも差向ひでは無く、彼も聽いて居る、此者の思はくもあると云ふ處から、時々は相顧み又はうなづき微笑する境に於て、人の心の隈々は伺はれるのであります。又老人などは話好きでも物忘れが常の事であります。事情に疎い外部の者が誇張と不精確とを見出す機會も無く、長談義に耳を傾けるのは時として有害であります。假に又話にはさ迄重きを置かぬとしても、いくら村の爲とは言ひながら、現在仕事の手を止めて茶を出したり案内したりすることが頻繁であつては先づ困ります。村の教員乃至は心有る青年が自ら調査の勞を執る場合には、はしたの時間が自在に使へますから、此類の懸念は大抵無くなる上に、方言訛音の耳にうといものが無い故に、朝夕の往還などで自然に側聽きする子供のねだり聲や老婆の口小言までも、心掛け次第では之を適切なる村の印象として集積して行くことが出來ます。生活上の私事、例へば常は何を副食物にするかや、どの位金が殘るかの類は、至つて緊要なる調査項目であるにも拘らず、村人は我家のは勿論、人の家の有樣をも語るを屑しとしませぬ。即ち耳で聽くよりも目で視、鼻で嗅がねばならぬ種が中々多いのです。是も亦地元調査員平常の努力にして、始めて會得し得べき事情であります。之を要するに資料としては外來者の手帳に載るものは、往々にして第二次のものであります。中間に分別辯口のある村の觀察家が立つて居て、筆に依らざる編纂をして居る場合が多いのです。從つて同じ位の力のある調査者に、内外の二組があつたとするならば、外を排し内を扶けるが善いことは殆と説明を須ゐませぬ。而も猶時あつてさうもならぬと云ふ唯一つの理由は、最初に申す如く村の人は概して世間の振合ひを知らぬ故に、隨分變つた村の?態を何でも無い事に思ひ、親代々見馴れ聞馴れて居る爲に、村の存立に拘はる程の重要な現象を忘れてしまふこともある。是をどうかせねばならぬと云ふ迄であります。さも無い事を珍しさうに風聽した方は、後で判るときまりの惡いものではありますが、實は脱落の心配が無いのだから差支はありませぬ。大體から言ふと村に生れて暫く他國に居た人などか、他所から入込んで(46)久しく住んで居る人ならば、右に言ふ如き缺點はありますが、其人たちが果して村の生活を根本から調べて見なければ、國家社會を説き政治經濟を論じ人類未來の福利の爲に劃策することが出來ぬと確信し得るであらうかどうか。是亦大問題であります。自分の見る所を率直に申せば、一利一害は互にありますが、つまり村を調べて見たいと云ふ心掛けが要素です。此態度さへ決すれば他は方法の問題で、方法は何の學問に由らず、熱心な研究者の數さへ増加すれば、いつとなく獨りでに立つて來るものであります。今はまだ學問が發達せぬ故に、我々が斯う迷ふので、從つて此上にも尚今度の内郷村行きの如き失敗を、何囘も重ねて見る必要があるのであります。

　此迄が序論のやうなものでありました。此から實行の方法に就て少し言つて見ようと思ひます。

　

　　　　　　　所謂郷土資料

　

　既に農村調査の目的と、其任に當るべき人とを説けば、其次に來るのは材料と方法とであります。自分等の考では、この後の二者は別々に取扱ふことは出來ませぬ。恰も作物を離れては土地の養分なるものが何の意味をも有たぬ如く、整理せられざる材料、乃至は利用を伴はぬ郷土資料の如きは、丸きり無いのとあまり大きな差異を認められぬのです。處が世中には、多くの迷惑と金とを掛けて郷土資料を集め、其で以て安心してしまふ人が隨分あります。成ほど其散佚を防いだと云ふことが、此人たちの自ら信じた功勞かも知れませぬ。併し村では早既に散佚し又は終に散佚し去るべき材料が、此以外にも何程あるか分らぬのであります。或は又後の研究者の用に供するとも言ふでせうが、一人でならば下し得た判斷でも、年月を隔てゝ二人で見ると誤ると云ふ處があります。殊につまらぬ小人情などの爲に、責任を憚つて二種の相容れざる材料を子孫に引繼ぐ學者に至つては、一半の誤謬と不眞實とを、知りつゝ世に傳へるものでありまして、始から學者の義務に背いて居るのです。何の方面にも多少は免れない時代の弊習ですが、そんなの(47)は物知りとか何とか名づけて、學者よりは一段低い取扱をすることにしたいと思ひます。整理の心掛けを有する者の立場から見れば、材料採取の原野は決して狹くはありませぬ。如何なる寒村に入つても、利用の見込める材料は充ち滿ちて居ります。例へば爰に目的あつてうそばかりを書いた寺の縁起があるとします。どうして其樣なものを書く必要があつたかと尋ねるのが、早既に其時代の信仰生活を窺ふ手懸りであり、何と何とに據つて一篇のうその記文を構成したかを見て行けば、其地方の文學藝術の一面を察することも出來るわけであります。殊に書籍は一人で室内で筆を執つた場合が多く、從つて人間の記憶と云ふ最も不精確な物が、概して其基礎を爲して居ります。至つて正直な人が忠實に書留めたといふ本でも、誤られるといふ事が此世に存する限り、やはり同じ光を以て一應は之を照して見ねばなりませぬ。古いもの程尊いやうな感じのするのは、單に僞だと云ふ證據の益々擧げにくゝなる爲である場合が、我々の學問には隨分多いやうに思はれます。

　

　　　　　　　前代郷土誌の價値

　

　道具などは昔出來の方が遙かに手堅い。新縮緬やパルプ入りの障子紙の如きは、大正明治以前には無かつた。此意味に於て我々が古い風土記類を尊敬するのは正しく理由があります。和銅延長の書上げは暫く別として、江戸期に公表せられた地方々々の人文誌でも、少なくも今日のやうな急製品はありませんでした。伊勢の古谷久語翁の背書國誌などは、一夜に書いたと云ふ話もありますが、それとても既成の著書を暗記して居た迄であります。丹念な老人には生涯掛つて尚ほ未定稿を遺したと云ふのも多い。從つて中には自分が現に見聞した事實の外は録さなかつたと云ふのもありませう。而も其人々にも、天分の懸隔もあれば遭遇の幸不幸もあつて、結局は自ら欺かなかつたといふ以上に、絶對の信を置き得る記事は無いと思ひます。殊に我々が實地に臨んで參考書として之を見る時に、先づ感ずるのは比(48)較の足らぬことゝ、觀察の周到で無いことであります。これ恐らくは良心の鋭敏な著者の、永く未定稿を遺した理由でありませう。古書の渉猟に由つた人々は、勿論古書の範圍に捉はれる。親しく?を曳くと云つても、隈無く山村水郭を見巡るには人の一生は短か過ぎます。二百年以前に支那文明の感化を受けて、各藩で作つた國郡誌、或は黒川道祐翁の著書等は、年月を費したが主として有名な事項のみを拾つたので、後世之を實用に供して見ますと、注意に漏れた村々が至つて多かつた。そこで更に大規模なる支度をして、次第に作り上げたのが郷帳や村鏡、又は特別の村書上げに基いた紀伊國續風土記や、新編相模風土記類であります。所謂道中の興味を主とした名所圖繪などに比べますと、乾燥無味ではあるが一段とよい材料をも含んで居ました。併し其中でも確かだらうと言ひ得るのは、草高即ち地租賦課の基礎となつた公稱年産額、人別即ち本籍人口の數などの外は、今でも變らない里程や山川の名ぐらゐのもので、其他は名主年行事の心持次第、きつと明確なる事實を書上げたとはきまつて居りませぬ。この神社は何樣かと聞かれた時に、説明の面倒を厭つて多くは八幡樣でござりますと答へたといふ話が、尾張地名考か何かにも見えて居ります。官吏が實地に就て聞いてすら此樣な事もありました。書上げの精確は要するに甚だ消極的のもので、如何な大部の地誌でも之を以て實際を記し盡して居ると見られぬのは勿論であります。近頃までの一流行であつた何頁かの引用書目を書列ねることは、所謂編輯者が大に迷つたと云ふ證據になるのが關の山で、其實は孫引きの作りごとであつた方が、却つて材料の統一の爲にはよかつたといふこともありませう。從つてある府縣には、昔の著書が多いから郷土誌が作りよからうと思ふのは素人の考で、そんな物を當てにして村の調査を始めたら、必ず無責任極まる郷士資料だけで、御免を蒙らねばならぬ結果を見るに相違ないと思ひます。

　

(49)　　　　　　　古證文古帳面

　

　此に比べると、村に屬する文書類の材料としての價値は、遙かに大きいわけであります。第一に帳面や證文は、事實を後に傳へると云ふより他の目的が些しも無く、而も我々の要求するのも亦昔の事實其物であるからです。唯此場合に於て我々の尤も注意すべきことは、遺つて居る文書の數が我々の遺して置いて貰ひたかつた文書の數十分の一又は數百分の一であることで、而も遺さうとした動機が彼我相異なる爲に、必しも今の村に取つて最も肝要なものゝみが遺つて居らぬと云ふことであります。紙屑屋の來なかつた昔の村の方が、書いた物を反故にする力は却つて大きかつた。忘れてよい時が早く來て、すぐに之を箱に貼り袋に作つたと見えて、百年二百年の近昔でも殘つた文書の量は年代の上るにつれて甚しく鈍角の杉なりであります。故に若し此を年代が比較的古いから、又は數が少ないからと云つて貴重視するならば、いつも無用に近い郷土資料を捉へて居ねばなりませぬ。何となれば元々村調査人の注文を豫測して、殘して置いたので無い古文書は、甲と乙丙と同じ年代のものを比べ合せる時に、始めて我々を教へる材料を供し得るからであります。例で申せば、人別帳が存して居ればこそ年貢取帳や水帳から、村の人の生産力や所得?態が知れるので、雙方何れか一つならば、古くても只珍しいと云ふに止まる類であります。而して古物を掘出すのみでは、人の爲にも自分の爲にもなりませぬ。生活の變遷は大昔からのが分れば其に越すことは無いのですが、適當の材料が失せた爲に、的確な基礎が無ければ致方が無いから、文政でも天保でも、大凡同期の諸文書の揃つて居る時代を基礎に立てねばなりませぬ。即ち今日の郷土誌家の一番怠つて居る近世に對する注意と、年代順の文書分類を、最初の準備とすべきであります。此が自分の謂ふ材料料理の第一着手でありまして、而も又散佚防止の必要の最も多い方面であると思ふのです。

　

(50)　　　　　　　繪圖の效用

　

　總國風土記と云ふ書物の僞物取るに足らぬことは、伴信友翁の如き人でもまだ判定はし得なかつたやうであります。あの本は化の皮の現はれ易い部分は虫喰ひなどゝ稱して、巧に有りさうな斷片的虚誕を列ねて居りますが、而も地方々々の居住者が實地に引當てゝ考へさへすれば、直に露顧すべき不眞實であつたのです。語を換へて申せば、文字では人を欺き得ても、地圖では農夫をも僞ることが六つかしかつたのであります。地圖でも江戸の古圖には至つて怪しいと云ふのが二三ありますが、其は此の如き新地にのみ存し得る例外であつて、其他は假令技術の拙劣や測定の不精密はあつても、わざ／＼贋の地圖を拵へるのは不可能でもあり又不必要でもありました。從つて幸に村に傳はつて居れば、古い地圖は常に信頼し得べき一材料であります。故人も地圖の上の地名の存在を重要視して居ましたが、是は道理のあることであります。地名は天然が人間と交渉を生ずるに由つて始めて發生するもので、山嶽岩石の如く遠くより望んで此に命名した場合も無いとは言ひませぬが、十の八九迄は人が來り住み或は耕すに由つて始めて地名の必要が起るのですから、地名は之を人文誌の起端としてもよいのであります。地圖は而して能く之を立證いたします。只其用途が疎であつた爲に、偶々古くから存するものも多くの材料を供與しなかつたのみで、やはり他の種の文書と同樣に、新しい物ほど有益なものが多いのです。此點から見ると、明治九年十年の土地丈量は、無意識に我々の郷土研究を著しく助けて居ります。此時の法制では村々に必ず地目を色別けした村繪圖を作成せしめました。其が全國一率に一分一間の六百分一であつたことも大なる便宜であります。地堺の諍訟等には或は必しも十分精確とは言はれぬかも知りませぬが、所謂一筆限の區分は、殊に他の村圖の多くのものには期し難い面倒な仕事でありました。田畑宅地等の一筆毎に番號を打つたのも此時からで、此も行政事務に取つては大なる改良でありました。只我々調査者の方(51)面から見ると、一の悲しむべき損失を伴つて居たのは是非も無いことで、其は即ち小地名の滅亡でありました。村調査の一日も早く決行せられねばならぬ理由の一つは茲にあります。地名は成程必しも適切ならず、往々にして滑つて隣の地に行くこともありますから、所有を明かにするには番號の方がよいと言ひ得るかも知れませぬが、其爲に又個々の土地の歴史は正に不明になりました。其事情を少し述べてから更に地圖の利用の問題に進むことに致しませう。

　

　　　　　　　地名は重要なる口碑

　

　現在の村地圖が常に六百分一である結果は、多くの大字では全圖を一目に見る爲には、寺の本堂へでも行かねばなりませぬ。此不便を除く爲に副本の方を切繪圖とし、且つ其方のみに製圖後の變動を記入させることゝしたのは良い考でありました。唯困つたことには、以前の字即ち同一地名を以て呼ばれた區域が、少しも切繪圖に便なる形と大さとを具へて居なかつた故に、普通には之を作るに際して特に新なる字名を案出し、而して古くからあつた多數の地名を無用のものに致しました。石川縣や福井縣の一部などでは、思切つて切繪圖區域の名まで甲乙丙丁又はイロハなどで呼ぶことにして、非常に記憶しにくいものにしてしまひました。事務取扱の便否は知らず、此が爲に湮滅に歸した郷土資料は中々多いのであります。大地主で老人などの達者な家では、或は昔風に田畠の名を謂ふか知りませぬが、僅かの筆數を一箇處に持つて居る百姓は勿論、世間一般でも小字は必要がないから次第に用ゐなくなりました。然るに地番と云ふものゝ無かつた中世の證文には、區別の爲に殆と一筆毎に地名があり、賣買讓與の時にも、此と四至即ち周圍の地形とを以て、目的物を指定したのであります。成程それを認めるのは煩雜な話には相違ないですが、責めて今些しの間保存して置きたかつたと思ひます。

　農民の地名を附けるのは至つて無造作なもので、決して茶人輩が庭園の小部分に付與する如きひねくれたもので無(52)く、言はゞ何時と無くさう呼ぶと云ふ迄でありますから自然に近かつたのです。從つて中には谷口とか岡南といふが如き、今でも明々白々なものがあると共に、或は道路が他に附換へられた後まで道下と呼び、藥師堂は久しく失せて後まで藥師前といふの類、或は最初の作人の名や條件を稱する爲に、略々開發の年代を知り、延いては生活の概況の窺はれる場合も甚だ多かつたのです。勿論他の?況や材料に基いて傍證せねばなりませぬが、猶一歩を進めては、古道下といへば他に新道が出來てからの後の命名とわかり、何野何原と謂へば、村が起つてから後も、暫くは尚其邊が野なり原なりであつたことが想像し得るかも知れませぬ。其等の意味のある地名が十中の八九まで、現在の切繪圖が行はれてから使用を廢したのであります。まだ幾分でも記憶して居る人のある間に、出來るだけ之を記録して置きたいものであります。

　

　　　　　　　準備地圖

　

　自分が此度の經驗に由つて、何よりも必要と感じましたのは、右の目的をも含む地圖の準備であります。其で無くても村の改良の第一着手は、手頃の地圖を具へることであります。記録類の殊に乏しい村々を調査する爲には、假令若干の日子と金とを費しても、是非とも之を複製して掛かる必要があります。陸地測量部で作つた五萬分一圖や二萬分一圖は、旅人には或は詳し過ぎるかも知りませぬが、立止つて生活を觀んとするものにはまだ物足りませぬ。其と云ふのが地形には忠實であつても、兎角に地名を邪魔にする傾きがある爲に、人と天然との關係が分らぬのです。それかと言つて村の六百分の一では、持つてあるくことさへも出來ませぬ。同じくは此二種の中間のもの、例へば此頃逓信協會で發行した東京郊外の村繪圖、時としては別莊地買入の案内かの如く誤解せられて居りますが、あの位のものが手頃であるかと思ひます。あれは何れも五千分一でありますが、四千八百分一なり五千四百分一なり、六百分一(53)を縮めやすい、スケールにして欲しい。兎に角面倒でも一筆毎の地番の記入し得られるものを、自由に使ひ得るやうに複製して置くことが必要であります。其效果の單に小地名保存ばかりの上で無いことは、次に猶述べますつもりです。

　

　　　　　　　其地圖の利用

　

　越後の大地主の家などには、小作人の名を書込む爲に、芝居の棧敷割を見たやうな繪圖を備へて居る者が隨分あります。耕地整理の終つた後などは、村でも之を作る必要もあれば便宜も有ります。用水の分配や害蟲の驅除の施行にも、是が有れば計畫の立て易いことは、感じて居る人が多いでせう。永い將來の爲に打算すれば、無謀と言つてもよい開墾、或は又燃料の用意の爲に植林面積を調節するなどには、地圖を具へてあれば議論が少くてすみます。自分等が地圖の準備を希望するのは、固より村を一箇として觀んが爲、即ち其面積の上に痕を留めて居る生活の變遷を知らんが爲で、從つて田畠宅地のみの記入では不足でありますが、既に右申す如き實務上の必要もあるからは、兩用ゐを兼ねて學校あたりで之を版にして置くがよからうと思ひます。何も極端に精確で無くても、各地物の位置關係が?倒さへして居なければよいのですが、唯道路溝渠等の土工を行ひ、又は洪水山崩れ等の地變があつた場合に、折角作つた地圖が古圖となつてしまふことだけは覺悟せねばなりませぬ。

　斯うして印刷をして備へて置く村の地圖を、一人の村調査者の使用すべき目途は、殆と問題の數だけあつて、列擧することも六つかしいのですが、普通の順序から言へば先づ天然の地理、即ち其里が未だ里で無かつた時代の?態に、最も近いものを眼前に描き出すことで、彩色又は色線を以て高低の差を顯はし、或は地質學者のするやうな岩石分布の標示、乃至は土性地味の精粗厚薄を辨別するが如き、其だけでも大なる興味又大なる學問であります。但し我邦の(54)如き水陸の變化が今以て盛に行はれ、是と人間力に由る破壞とは始終交錯して、尋常の學徒には容易に判別し得ぬかも知りませぬが、其にしても我々の當面の問題、即ち「何處から來たか」「何しに來たか」を答へる爲、更に又繁榮と繁殖との限度の何れの邊に在るかを知るには、此地圖は尤も缺くべからざる重要資料であります。

　天然が供與する直接の生活手段、竝に外界との交通に付ては猶詳しく言はねばなりませんが、此等の概括的の條件を見出すだけならば、地番まで書込む程の細かい繪圖は不用かも知りませぬ。但し自分等が勸誘したいと思ふ主たる調査は、更に一段を進めたもので、一枚の田又は一筆の畠にも宿つて居る村民の志望又は計畫が、如何な風に豫期に反し又は合致したかと云ふこと、語を換へで申せば、村を構成する箇々の民家の運命を、出來るだけ其殘した事業の方から、明白にして行きたいと云ふのであります。所謂歴史の上からは、多くの村民は永遠に無名氏であります。心掛けの惡い者は、子孫にして既に祖先の名を忘れて居るのもあります。而も彼等祖先の人々には一人として、村の今日に若干の影響を與へて居らぬ者は無い筈であるばかりで無く、昔の村生活には竝はづれと云ふことは殆と無かつたのですから、甲の家の進んだ途又は陷つた穴には、乙の家でも少しく時を異にして、同じく進み又は陷つた場合が多いわけです。荒れた山畑でも屋敷でも、此意味に於て最も饒舌に、舊時の生活を物語つて居ます。殊に最近四十何年問の變遷には、少なくも一方に記録があります。貧しくなつた家は少なくて富む人が多ければ、河原や野が田畠になります。路傍に出て農以外の生活を求める人が増加すれば、土地を買添へる人と借りて作る人が多く出來るやうな道理で、「概して」だの「要するに」だのをあまり言はぬ人たちが僅かな勤勞を此準備地圖の上に投ずるならば、所謂村の變遷は至つて濃厚なる色彩を以て、我々に印象することが出來るであらうと思ひます。而も一方に於て大きな意義を有するのは、村の人が容易に世傳の土地を賣り放さうとせぬ氣風であります。偶々京江戸へ家を移す程の決斷があつても、先づ持地は一黨同系の者に委ねて去りました。從つて爰に聊か村の事情に通じた者が、土地の所有者分けをするに際して、同じ苗字又は一つ筋の家々を、稍々相近い色を以て地圖の上に塗つて見たならば、恰も獨逸舊聯邦の(55)地圖に接する如く、村内の大小有力者の本來の分野が、一目して了解せられるやうな場合があらうと存じます。

　

　　　　　　　字と開墾者の生活

　

　自分の僅かな經驗に依りますと、耕地の單位は今日の一筆一地番では無かつたやうであります。水田は殊に給水の關係から、小區割に無數の畦畔を作つて居りますが、最初から之を別所有者に分屬せしめる趣意は無かつたのであります。兄弟姉妹に分割相續せしめる場合にも、よく／＼でなければ小さな面積を入交りにはしなかつたので、作り場が飛び／＼に在つては勢力の損だ位は、古い人でも知つて居た筈であります。近世金錢の融通が流行するに至つて、現存の區割を利用して小面積を別人の手に渡すことが始まりましたが、是とても元の?態を紛亂せしめる程に盛では無かつたと思ひます。然らば何故に中以上の地主の土地が、事實に於て分散して居るかと言ひますと、中には後に富貴になつて、あちこち拾ふやうに買ひ集めた者もありませうが、多くは一囘の開墾地を一囘毎に分配した結果と見ねばなりませぬ。一囘の開發には數年に亙るものは少なかつたことゝ思ひます。即ち年内農閑の或季節に、一定數の農夫が合同して開いた土地を、實力に比例して話合ひ又は鬮引きで分けたこと、狩倉に獲物の肉と皮とを分けたのと略々同じかつたでありませう。而して今の切繪圖の上に存する新製の多くの字は別として、古くから存する字なるものは、疑も無く箇々の開墾地の名でありました。其中には門閥家又は主筋に當る者が、下人を指揮して資本の全部を支出した場合の如く、勞働者には小作權のみを與へて自分は全部の所有を獨占し、後に分家などに一部分を割いたと云ふのもあれば、最初からの約束で五反三反と各戸に分けてしまつたのもあつて、後の方の場合には字の中に小字が出來、中國四國で謂ふホノキなるものが起つたかと思ひます。そこで自分等が村の發達を知るのに必要だと言ふのは、現在又は近年の所有地分布を示す地圖の上に、試に同時に昔からの字と小字との境界を、太い線を以て入れることで(56)あります、平和な村落と目せられて居る在所では、恐くは其から溯つて家と家との忘れられたる昔の關係も窺ひ得ることゝ思ひます。又前にも言つた如く、字や小字の地名には時代々々の特色があります。又持主の居住地からの遠近や、往來の便不便などから推しても、始めて來た頃には先づ此邊を耕して食物を得、人口増加の壓力を感じて、次に如何樣の方法又は交渉を經て、乙の字を開くことになり、愈々耕地に不足して第三に丙の字に手を延したと云ふことが追々に無理で無く推斷し得るに至るでありませう。

　

　　　　　　　宅地移動

　

　地目變換即ち畠を田にするの類にも、凡そ一定の理法が有つて、村民は決して氣紛れに新奇を求めたもので無いことを知るのは容易でありますが、其よりも更に面白いのは、今日の如く一の部落に色々の苗字の家が、來り集まるに至つた迄の徑路であります。宅地の新舊は其庭木でも分りますが、古い村でも存外に屋敷には新しいものが多い。山の下などに古屋敷の今は畠であるものゝ稀ならぬを見て、昔も平家物語第一章の如き激變が、農村に行はれたやうに驚くは往々にして速斷になります。家の集合には樣々な原因がありましたが、殊に其有力なる一つは、生活の同化性であらうと思ひます。家と家との間に若干の敵意あり、成るべく隔絶して自ら守らうとした時代には、同じ地方にも色々の衣食住がありました。例へば畠作のみでも生活し得た山民の子孫は、廣い平蕪の地に移り來つても當分は水田に不熱心であつた。之に反し永く川沼の岸近く住んで居た家族では、高地に植民しても無理をして棚田を作る。稻作にも給水方法の相違に基いて亦生活の差異があります。濱方が旱を悦び、岡百姓が雨を乞ふ類であります。然るに男女若い時の交際はロミオ、ジュリエットでありますから、不便な家風に永く辛抱して居て、徐々に長短相補ふの方針を、生れた子孫に始めて授ける婦人があり、米はうまい魚は結構と云ふ風聞を、高地に住む家庭に齎らすことは、恰(57)も兵役を終つて町から還つた子弟のある家で、麥飯が少しづゝ白くなると同じ理でありましたらう。何れにしても近世の農村には、家を低い方へ移す傾向の方が、其反對よりも遙に強かつたのは一般的事實であります。而して新たに水田を經營せんとするには土工が必要であります。大きな水門を作り又は灌漑の溝を穿るには協力をせねばならぬ。畑地開墾の如く二戸三戸の力を合せたのでは實現が難かつた。そこで異種他部落の家に近より、乃至は之を招いて更に大規模の新字を作ることにしたので、同時に村の大さ及び密集の度が著しく進むことになつたのであります。鎌倉などはほんの一の例ですが、關東の平野に多い小さなヤト又はクボと云ふ地の、水流れ日暖かにして一小字の耕地を抱へ、而も其側に有りさうな農家の無いのは、多くは右申す如き事情の下に、村の組織が鞏固になつた後の變化でありまして、言はゞ暗黙裡に村に取つては最も重要なる近世史を語るもので、而も前に申した明細圖と之に記入した地名とは、常に其解釋の鍵であります。

　然るに村が大に榮えて人口の過剰を見るやうになると、第二次には前とはちやうど正反對の宅地の分散が始まる。即ち村民の共同を以て拓き得る土地が一應皆になり、據無しに思ひ切つて實行する出作《でさく》と云ふものであります。出作にも二通りあつて、次三男や隱居爺は我力相應を考へ、何れか其一を擇びました。人のよく知る新田出作は四方からの寄合ひが普通で、其間に在つて地歩を占めるには障碍が多く、金か智慧か何かの力が入用でありました。埋立てにしても川除《かはよけ》築堤にしても、水路開鑿にしても、統一する力が有つて始めて行ひ得るので、之を缺く場合には是非なく第二の手段として、競爭者の來ぬ山の奧などに入り、孤立寂寞の田屋《たや》出作をしました。即ち所謂「秋の田の刈穗の庵」で、晝は鳴子を引き夜はホーイ／＼と猪鹿の番をしました。租税が至つて輕いので辛抱も出來、始は盆正月は家へ戻つてした者が、從弟再從弟と血が遠くなるうちに、終には普通の分家の通りになつてしまふ。此等は單に一例でありますが、要するに村の經濟の發展するにつれて、集まつたり散じたり宅地の場處は色々に變つて居ります。地方に由つては末子に舊い家を與へて、兄たちは新に家を建てる風もあり、宗家が今の部落の中央に在るともきまりませ(58)ぬ。古い村なら屋敷も古かるべしと思ふは誤なると同じく、今の大字中の最も家の多い部分を以て、昔からの生活の中心と見ては、研究の出發點を誤ることがあります。之を正しく識るには、勿論家々の歴史に據らねはならぬが、其大體の判斷は地圖と其上の地名とが之を導いてくれるのであります。

　

　　　　　　　地境と領分境と

　

　府縣や郡の境でも、必しも山の嶺又は川の中流を以て分劃して居らぬことは、人のよく知る所であります。殊に旅客に取つて興味の多いのは、邑落市街が往々にして特に國郡の境線に接して起ることであります。近世までの社會組織の如く、小さな領主が土地を分割して持つて居なかつたならば、或は行政の便宜を標準として今些し始末のよい境堺を立てたかも知れませぬが、�ｺ川家などの制度では、成るべく村を以て知行の單位とし、既定の郷帳に基いて所領を定めるのを原則とした故に、明治の世になつて二三の極端なる場處を整理する迄は、村即ち今の大字の舊來の輪廓を以て、直ちに大區域の境に充てたものであります。從つて一枚の田の畦が、勝手次第に郡又は縣境になつて居る場合もあります。而も此の如き犬牙錯綜は、追々不明になつて行きますが、一村内の字と字との間には、猶一層多く存して居たのであります。村誌の調査に從事する人々が、從來此の如き重要なる現象に注意をしなかつたのは、如何にも不當の話と言はねはなりませぬ。現在は一望變化も無い耕地であつても、字の分れて居るのは即ち多くの場合に於て、開發の時代を異にする一證であります。假に是が同じ團體の力に成つたとしても、先づ何れの方面に手を下し、次に何れの部分に及んだかを知らなければ、到底村の發達を考へることが出來ませぬ。況や前後左右から時代々々の?況に應じて、種々なる有力者の家族が、追々に利用占有を企てた、所謂｜入會《いりあひ》の地であつたとすれば、字の形?と大さとは至つて具體的に、各派勢力の消長、乃至は其間に行はれた色々の妥協交讓の跡を示すものであります。土地の(59)永代賣買は、法制でも慣習でも共に多くは之を禁じて居ました。明治以後の變動が若干の混亂を來して居るは事實でありますが、其結果は字の境を改める迄には至りませんでした。まだ今日ならば地圖に就いて、此一區劃はどの長百姓の系統の者が中心となつて開いたか、或は又村が左程他村の者を招き入れなかつた頃からの作りであるか否か、始めて祖先の落着いた時分には、どれだけ迄の耕地で足りて居たかと云ふ類の事が、必しも地名の暗示に援助せられなくとも分明し得る道理であります。而して村誌の作成が果して實際生活の必要から起つたものならは、責めて此だけの事は知つて置かなければなりませぬ。

　

　　　　　　　飛地の歴史上の意味

　

　入會野山の札元は威張る。他部落の利用者は何かにつけて不便を感ずる。此等の事は今の人もよく知つて居ます。即ち前者は戸口の割に所屬の土地の面積が豐かで、隣村の事情は之に反するが故に、頼んで秣なり薪なりを分けて貰ふことになつたのであります。舊時代には行政廳は土地收益權の分配にも干渉しました。從つて機會さへあれば入會から進んで分割まで行かせようとする。山野の飛地には此事情に基いたものも多からうと思ひます。而も人は往々にして耕地宅地の飛地にも、似たる事情のあつたことを考へませぬ。飛地の問題もやはり字の境の問題であります。人の少なかつた前代には、里と里との間には公有地が多かつた。地續きの村から出て拓けば單に其村區域の擴張及び村境線の變更を以て終りますが、若し或一村のみが普通以上に勤勉であり、其他何か特殊の事情から人口が大に増加した時に、進んで隣村の耕地の境まで開いたのではまだ足らず、更に其向ふの公有地までを何等かの手段を以て手に入れると、即ち飛地が出來るのであります。中には飛地の山野を、後に往つて開いたものもありませうが、先づ從來無主の公有地をめがけたのであります。東京近くでは隅田川東岸の海端などは好い例で、何度も潮除境を築いては干潟(60)を圍ひ込むと、之に接した新村では最近の開拓で滿足して手を出さず、多くは其一つ又は二つ奧の村から百姓を招いたので、乃ち無數の飛地が出來て現在迄も字の名となつて殘つて居るのであります。新田といふ程の大團體ならば、後に獨立して別の村となりますが、小さくて往來に便だと久しく飛地で居るのです。新町村となつて大字を合併すれば、又所屬を換へて接續地へも附けますが、兎に角地圖の上には歴史を示し得るのです。一つ大字の内の各區にも、此と同じ事情は繰返し行はれた筈であります。是すらも知らずに居るのは眞の村調査者では無いのであります。

　

　　　　　　　地下の史料

　

　地圖の序に今一つ述べて置きたいことは、村の人の足元に黙つて轉がつて居る文字以外な色々の記録であります。前年信州梓川の谿で、えらい騷ぎを呼起した横筋ある石の事は、まだ記憶する人が多いでせうが、廣大なる氷河の流を、路傍一片の石に由つて判定する迄には、地理の學問が進んで居らぬ如く、これは昔の人間の所業では無いと云ふことを、何物に就ても明言し得る者は、殘念ながら今日尚至つて少ないのであります。子供は人間の中でも最も微弱な分子でありますが、何の爲か知らず地藏道碌神の臺石を叩いて遊び、何時の間にか到る處の路傍の石に深い窪みを穿つて居ります。又立派な石塔の稜を缺いて持去る人があります。小石を樹の股へ投上げて行く人があります。石ほど平凡にして且つ堅く重い物でも、永い間には?々たわいも無い人の意思に因つて、妙な境遇に陷り而も忘却せられます。五百年千年は地球の齡に比べては短いが、明けても暮れでも踏碎かれる屋敷の土、或は耘り鋤かれる田の泥が、人知れず被つて居る變化といふもの、是が生活の痕跡で無くて何でありませうか。近頃自分はハヴロック・エリスの日記を讀んで居りますが、この性慾心理の大家が、意外にもやはり國際發掘事業の急須を唱へて居ります。此人の説では、掘つて見る位ならばポムペイとか、日本の河内の國府とか、目ぼしい處だけ拾ひ食ひしたのではだめだとあり(61)ます。地方と地勢とに應じて五尺とか八尺とか、掘下げる程度を學者にきめて貰ひ、各國申合せて系統的に地面をめくつて見なければ、人生の不可思議は永久にわかるもので無いと言つて居ます。實際又我々の過去には見當の付かぬ事が多く、而も汽車の隧道や耕地整理の施行に際して、矢の根や石の斧、さては人間の最も大事にする財寶まで、偶然の手引きで見出して居る國は日本のみでは無く、世界には花咲爺の狗の子だけの自信すらも、持つて居る專門家がまだ少ないのであります。

　朝鮮では近い頃まで墓荒しは公認せられた職業でありました。支那では一層顯著なる古來の社會相で、之に由つて富を成した者の話が、たしか史記の貨殖傳にもあります。塞外から中央亞細亞では此徒を寶捜しと稱し、スタイン、ペリオの大事業に若干の貢獻をしたのも、奇なる因縁でありますが、其動機の私慾に在ることは、日本の所謂表面採集家より優つても劣つても居りませぬ。採集と云ふと學者らしく聞えるのは文字の弱點であります。溝に下つて蜆などを採る者と何れの點が違ふか。煮て食ふか食はぬかの差は單に採る物から來て居るだけです。只幸なことには此徒の多くは發掘をしませぬ。而して地面の下にはまだ何か殘つて居ます。持つて行かれぬ品が大分あります。彼等は其採集を地表に限ることに由つて、消極的に我文明史學の爲の恩人であるのです。前年自分は旭川の町に參つて、所謂十勝石の石器類を買つて來たことがあります。普通の石鏃以外に環?石匙とも名づくべき品もあり、何れも精巧を極めたものでありました。處が某採集家は之を見て、是は本物ぢや無いと言ひました。其時も自分は鼻の奧で獨りで笑つたことでありますが、本物とは抑も何であるか、諸君等の時計の紐の曲玉の如く、何處で何時如何なる?態で發現したかも分らぬ古物が何になる。又茶の湯も無く千の利休も無いのに、古茶柄杓ばかりの穿鑿は無用ではあるまいかと心の中で考へました。誠に此道樂は村には流行させたくないものであります。

　併しエリス博士の望の如く、村の土を二尺三尺、一時に系統的に剥いで見るのは容易でありません。唯出來るならば一區劃の地面を以て未だ繙かざる一卷の記録の如く心得、行當りばつたり僅かな拾ひ物に由つて、散漫極まる趣味(62)とやら云ふものを起させぬ用心だけはして置きたいものです。この爲には亦大に地圖を利用せねばならぬのです。一の村が單に古いと云ふ事だけならば、其村も亦日本國の内だと言へば其が直に證據でありますが、居住開發の順序、即ち山野が徐ろに人里となつた道程に至つては、一通りの事では中々説明がつきませぬ。再び石器の例に就て話を進めますが、同じく石を材料とした原始工藝品でも、形?種類に由つて我々の推論は異ならねばなりませぬ。矢根石の用途は結局紛失に在ります。鳥獣が之を負うて谷や林の奧深く散布します。之に反して斧や鎚は家具でありますから、住所の附近に遺して在ることが多い。不用に歸して棄てたもの、或は出來損じで使はなかつたもの、それ／”＼發見時の現?に由つて、太古の人の行動を測定せしめますが、其には猶久しい間の無意識の移動をも考へて見ねばなりませぬ。異なる原料異なる製式の石器類が、同時同種族の一群に由つて併せ用ゐられたと云ふことは實は信じ難いことで、場合に由つて打製石斧が磨製に進む迄には、日本歴史の全期間以上も掛つたらうとのことであります。而も此邊では二種以上の品が一所に出ても、格別の不審を抱かずに拾つて行かれる。斯う云ふ風では要するに學問ではありませぬ。學問とするからには地中の注意、即ち出た瞬間の記録が殊に必要である上に、時を隔てた數箇所の記録を、地圖に由つて比較對照することが常に重要な事項となるのであります。

　

　　　　　　　無ければならぬ工作物の址

　

　今より二十年あまり前、伊豆の大島野増村の磯山から、色々の遺物の現れたことがあつて、自分も往つて其場所を見ました。近年に崩れた南向きの崖の中腹で、上端から一丈ばかりの赤色の火山の土で覆はれた、厚さ四五寸の埴土の層であつたやうに記憶します。其黒土の稍々下になつて土器も人骨も獣の牙なども出、又黒耀石の矢根の屑がいくらも拾はれました。其頃耳にした話では、此石材は無論大島には産せず、最も近い産地は秩父の山中だといふことで(63)ありましたが、それが今も正しい説か否かを知りません。但し舟で持つて來たことだけは、多分疑が無かつたのでせう。當時此村で又斯な話もありました。村には水が乏しいので度々井戸を掘つて見るが、いつでも大分掘下げてから木葉が出る。或時は灰炭が出たこともある。曾て餘程大きな噴火のあつた前に、此邊に人の住んで居たことは確かだ云々。此方の底土が前の遺物層と同じ表面かどうかは此のみでは決しませぬが、人が居て後にも大地變は何度か有つたので今の島民が中世の移住であることは略々認められて居ります。唯問題となるのは、近世の薩州櫻島の如く、新しい植民が繰返されたのか、或は又今日海になつて居ると云ふ野増の御所に、八郎御曹司に册いて居たといふ前期の大島人は、連綿としてかの黒耀石使用者の末であつたかと云ふことでありますが、是などはエリス博士の理想通り、島の土の全部を取除けて見なければ、斷定することの六つかしい事柄であります。

　併し自分が村の爲に明白にして見たいと望むのは、水ならば流の方角と云ふ位の大體であつて、一々岸頭の草木を指點する迄の不可能事を企てるのでありません。假に五千年八千年の大昔の事としても、食べぬ人眠らぬ人はある筈は無く、女が兒を生まぬ部落も無い如く、人間の自然に出現する土もありますまいから、必ずや或時に、何物にか誘はれ何物にか迫られて、來り住み居を構へ、男女は孳育し且つ衣と食とを求め始めたものに相違ありません。語を換へて言ふならば、曾て古人をして此地を安邑と認め、前の故郷を之に比較して一段不便なりと感ぜしめた原因が在つたのであります。人の判斷と工夫とは必ずしも神樣の如く精確で無いものと看做されて居ますが、果して我村の場合にも、先代の誤謬を承繼いで行掛り上の難儀不便を見て居るのかどうか。振囘つて此點を尋ねる方が、其石作りが所謂コロボックルの先祖であつたか敵であつたかを評定するよりも前の仕事であるやうに自分は思ひます。即ち食つたとすれば何を食ひ、寢たとすれば如何して寢たかと云ふ方面に研究を進めずして、僅かに落散つた土器の缺ら古瓦などを日に翳して、大昔の武藏野はなどゝ言はうとすると、乃ち吉田文俊君等の如く、へぼ小説のやうな趣向をせねばなりませぬ。早い話が百戸の村に九十を超えた老人の居らぬと云ふ事實は、總住民が略々九十年にして一たて入代り(64)となることを意味します。實際は其よりも早く返つた者が中々多いのであります。村が二千年になるとすれば、少なくも今の二十倍を超えた數が此地で身罷つて居らねばなりませぬ。其は皆どうなつてしまつたか。石塔の戒名には寛永正保以前の分は殆と無い。或は元は火葬が一般の風であつたと言はうか、其なつかしい灰は皆、雨に流れて消去つたか。五器や箸や菅笠の如きなくてはならぬ身の廻り類も、二百年も立たぬうちに既に人の想像の外に消えて居るのです。それで以て夢ほどの前住民の掃溜を掻捜して、村の故事を尋ねるなどは、言はゞ根の無い植木の肥しであります。

　村の歴史が傳記と年立との外に在る以上は、我々は最も深く「昔」とか「古い」とか云ふ語の區分に注意せねばなりませぬ。畑に散亂する石鏃の屑も古ければ、隣の荒屋敷の井戸の石も古いが、其間には橋も掛けられぬ程の年代が溝渠を爲して居ります。前後の生活が續いて居たか絶えたかは、茲に於てか至つて大なる問題であつて、假に無人の草の原の時代が永く在つたとすれば、一方は又更に別の基礎に由つて調べ始めねばなりませぬ。而して此事を決定すべき有力なる材料としては、村の土を竪に切つて見るより他は無いのです。明治以來の新土木では之を檢する偶然の機會が何囘かあつたのに、人骨でも出ればすぐに古戰場ときめるやうな人ばかりが、空々に看過して了つたのは遺憾なことであります。大凡學問の起らぬ前は、どの國も似た?態で、後になつて齒がゆく思ふのは我々のみでは無いのですが、せめては將來の爲に志ある人の注意を乞うて置きたいのは、我々の祖先は住居にも器具にも、多く朽ち易い材料を使用して居つたことです。土地の傾斜と降雨量の多い爲に、地表の遺迹は殊に湮滅し易かつた。少しなりとも考古の資料を保存してくれたのは、獨り大地といふ天然の母の懷のみであります。之を考へると一箇の岩石も無思慮には動かされませぬ。況や中部日本では弘く火雨塚《ひさめづか》などゝ呼び、九州壹岐對馬で鬼塚などゝ稱した澤山の塚穴が、折角近年まで保存せられて居りながら、終に一度も明燭を以て照し見ることなしに、石を搬び土を擔ひ去つて、徒に小字の地名のみを留めて居るなどは、全く取返しの付かぬ大損失でありました。濱田教授が肥後の古墳で側壁に彩色の模(65)樣あるものを見出されたのは、三四年前のことであります。河内の塚の内に「大家つか」の落書を見出して騷いだのが、文字發見の恐くは最初であります。東京近くでは吉見の百穴の如きも、塚の口悉く開いて内に葬具らしい一物もありませんが、土人の共同墓地のやうに見られてしまつて、其以上の調査は中止しました。而も一方には穴居の習俗の曾て存し、天然の洞窟と守る人の無い塚の中とが、往々此が用を爲して居たことは殆と誰でも證明し得るほどの事實であるのです。

　

　　　　　　　僅に殘れる前代の土工

　

　雨が多くて灌漑の盛な日本には、古人も其生活の痕跡を遺すことが容易で無かつたのです。我邦の考古學者は古墳家と名づけてもよい程に、此一件にのみ精力を集注しました。而も土を盛上げる工事は、時代によつて目的を異にしつゝ、殆と現代までも續いて來て居ます。是も運んで來た土石の種類、或は底部の切込みの高さ、其他技術上の異同を調べたならば、やがては新舊の順序なども明かになると思ひますが、古墳と塚とは丸で別だなどゝ言ふ人が、大さや形や土地の口碑の類に絆されて、何度と無く無用の土を動かして失望して居るのはをかしいと思ひます。其と云ふのが上古を重じて最近千年の人の心の變化を顧みなかつた爲で、官道の一里塚の雙?にして且つ偉大なるものもあり、或は又大事件を記念すべき念佛塚や供養塚には、數百千の人足を使つた丁寧なものもあること、或は又古い事を忘れてしまつて、天然の丘かと思つて之を祭場や住居に充てたり、其他既に存する封土に更に色々の變改を加へるなどの、久しく且つ複雜なる歴史のあることを思はぬ爲であります。何れにしても塚の類には村人の信仰生活の資料が多く纏綿して居ますが、其年代を尋ねる一の手段は、やはり水帳や檢地帳の記載であります。前からの不耕地ならば地租を取る理由が無いから除地になつて居ます。從つて新しい塚を築くにも成るべくは其域内を求めますが、已むなくして(66)有租地を塚所に充てる時は、中々高引きを乞ふことが六つかしかつたらしいのです。次には塚の名稱でありますが、之も地名と同じく十中八九迄は適切な語を以て喚ぶから、假に文人じみた二字の漢語ならば、風流の戯では無くして築造の儀式に參加した修驗者などの名であります。それを多くは轉訛して或は山伏を殺して埋めたなどゝ傳へて居ます。其以外の者ならば先は本尊か行法の種類をさし、之を一度忘れてしまつた後の人でなければ、四つ塚長塚などゝ數や形?に由つて呼ぶやうにならぬのです。塚の所在は又一箇の見所であります。後世の塚には部落境の原野の、殊に交通の衝に築いたものが多い。從つて其附近に人家が連り田園多しとすれば、後年新たなる原因が此?態を誘つたものと見ることが出來るのであります。

　塚以外に此迄の人の注意を脱して居る工事は、岩石の異動であります。人の勞力の價が追々高くなつてから、塚に代ふるに立石を以てする風習は大に進歩しましたが、其以前と雖村に文字ある者の稀なる結果、石の表を平らにして色々の事を切附けなかつたばかりで、天然奇形の石は其所在地に於て之を崇敬するのみでは無く、或時は之を谷の陰より移し來り、又或時は多少は豫期に相應せぬ部分を削る位のことはしたらしいのです。獅子岩だの文珠岩だのゝ名ある石が、今少しと云ふ所で似ないとあつては、必しも當世の茶店の亭主ならずとも、善意を以て凡人の理想を體現せんとしたことゝ思はれます。是は獨り岩石の小なる物のみで無く、孤峰の祭壇に適し、遠く望んで信仰の目標とするに足るものゝ類には、さう／＼自然の秀麗奇拔は望み難いから、三丈五丈の大塚でも築かうかといふ人々の根氣を以て、來り就いて若干の斧鑿を、此に加へたものが有るかと思ひます。飯盛山茶臼山が多くあれば、別に又平野に於て之と同名の塚あることを考へ、高きに登つて神を降した古い慣習を參酌して見ると、苟くも山巓に土工ある者を見れば、必ず一箇の何々々の守《かみ》をして來り據らしむることは、是もなま中に學問ある人々の、よき程の斷定を交へて居るものと見てよからうかと思ひます。

　

(67)　　　　　　　天然記念物の意味

　

　斯して數へ立てゝ見ますと、少ないやうでも永い人間生活の痕跡であれば、終には其全部を保存しきれぬ位の數になります。併し今日の如く理科大學の先生方のみの管轄で、鑿や胴亂を携へる向の學術上の好參考品で無い限、如何なる岩石でもかの有難い國家御用制札も立てゝくれぬとあつては、丸で智識は今日を以て行止りとするやうで心細うございます。或は又傳説ある岩石樹木だけ更に保存すると云ふ話ならば、人が惡いが急場遁れに何か傳説を拵へて置きたいやうな氣もします。平凡な種類の松杉であつても、何かの由緒を聲無きに語つて居るのを、單にあなた方の耳が疎い爲につまらぬと言はれ、切つても宜しいの御許しの出ぬやうにしたいものであります。此點に於ても舊い稱呼の地圖上に保存せられねばならぬ必要は正に有ります。一本杉二本松は昨日附けたやうな分りきつた名ではありますが、其木の未だ甚しく成長しなかつた時を思へば、何に由つて行路の人が特に此木の所在に注意を拂つたかゞ考へられます。殊に二本の同種同齡の古木の如きは、多くの場合其存在が偶然で無さうであります。其地に特徴を附ける爲に持つて來て栽ゑたか、さうで無い迄も二本だけ伐り殘した位の人の意思は發現して居るのです。即ち多くは境の峰や路の曲りとの、旅に立ち又は遠くから還つた者の、立止つて里の景色を見るやうな地で、而も大抵は樹下を神靈の地として居ります。記録が乏しいなどゝ歎息する村の人の、先祖にとつては最も一生懸命であつた信仰生活の跡を、事も無げに看過して居るのは、全く早學問の歎かしい災であります。而して不完全な保存事業の如きは、更に鞭を以て其忘却の尻を叩いて居るやうな觀があります。

　

(68)　　　　　　　村の種類

　

　近年各地に於て企てられる郡誌村誌の類は、金も努力も相應に掛かる事業でありますから、どうか物好の穿鑿を以て終らぬやうにしたいものと思ひます。今日の實情は通例村に於て最も多く活動する人が、却つて村誌を讀まうとせぬやうであります。若し其原因が徒らに名所や年代の論辯のみに重きを置いて居る點に在るとすれば、是は早く改めねばならぬ事柄であります。

　多くの村誌には、是非共載せねばならぬ最も簡單なる一要項を闕いて居ます。村も一種の有機體には相違ないが、甲と乙と丙との間に存する形容の差異が、組織の複雜なだけに人や獣などに比べて遙かに大きいのです。其外貌の變化が村其物の性質と關係して居るのは固よりの事でして、村誌の編纂者が單に村の面積地味戸口の數のみを擧げて、只一言「どんな村か」と云ふことを語るのを怠つて居る爲に、往つて見たことの無い外の人に解らぬのは勿論、村の者までが折角村の現在又は將來の爲に考慮せんとしても、其端緒を見出し得ぬのであります。

　江戸時代の地方《ぢかた》の書物には、大部なものが多いにも拘らず、村の觀方を述べた本はやはり少ないやうであります。それは多分主たる目的が收税に在つた爲でもありませうが、全體に城下で生れた役人などゝ云ふ者は、昔も今も概念に捕はれ易いもので、其爲に村に生活する人たちの受けた迷惑は何程であつたか分りませぬ。古代の民政論の中に風土記の作成を大切な事に見て居た理由は全く此に在るので、適當なる地方調査が無い時は日本の如き變化の多い田舍を取扱ふこと、恰も牧場の羊を取扱ふ如くにして、時々の經濟政策を立てゝしまふ故に、一の地方の感謝が?々他の(69)地方の閉口を伴ふのであります。自分が曾て農政はあまり中央の裁斷に任すべきもので無いと論じたのも此爲でありましたが、其趣旨を多くの村誌編輯者は閑却して居りはせぬかと氣遣ひます。

　百年前の新編武藏風土記稿などは、僅かづゝではあるが各村に就て其成立を説かうと力めて居ます。但し此書は村々の書上げに基いた官府の編輯でありましたから、村に取つてはあまり簡略であると同時に、外の人にはあまり詳しくて要領を得難い、新時代に於ては、どうしても村が自ら進んで、箇々獨立に適切なる村誌を作らねばなりませぬ。

　備陽記と云ふ書物は、享保の初頃に出來た岡山藩の集合郷土誌であります。此本は村々の記事の下に、至つて簡單な語を以て村の樣式を示さうとして居るのが、一の特色であります。之に依つて見れば、備前地方の村だけでも少なくも此だけの種類があります。其名目は平場《ひらば》、山寄《やまより》、川端、谷相《たにあひ》、山相《やまあひ》、海邊、湊、川（ノ）中島、山（ノ）上などであつて、更に川端山寄とか、海邊平場などゝ云ふのもあります。此等の分類は恐くは著者の發明ではありますまい。最初は多分軍略上の必要から始つたものでありませうが、此場合に在つては更に右の如き地理上の差別が、村々の生活要件に影響することの大なるを知つて、採用したことゝ思ひます。

　併し自分が村の性質の異同と申して居るのは、必しも右の如き山岳河海との地位關係のみを見て知ることは出來ませぬ。是と同時に又よく人の言ふ村の年代だけからも村の面目を明かにすることは難いのであります。成程通例は一番先に入込んだ部落が最も無理の少ない且つ都合の好い場所を選んだでもありませうが、其時世の智力次第、乃至は土着者の境遇などが、山の上へも導けば川の端にも止らせる。而も其因縁が村に存する限、永遠に附纏うて村の生活を制限し、或は政策の效果を加減するのであります。

　そこで自分等は是まで村の形貌を相するに當つて、個人の力では變更することの難しかつた土着當時の條件に重きを置いて、必ずしも年代にも地理にも依らずに分類することにして居ますが、其結果に就てよく觀ると、やはりおのづから時代の特色も見え、且又地理的特性とも一致するやうになるのは妙であります。漁民の出稼地や鑛山から發達(70)した僅かな特例を除けば、近年一萬二千の町村に合併した十七萬ばかりの舊村即ち大字は、凡そ之を五種又は六種に分類して、可いやうに自分は思ひます。それを分り易いものから順序に列記すると、

　第一に來るのは新田百姓の村であります。多くは江戸時代中期の食品需要の増加と勞力の過剰とに促され、資本と技術の新しい力を利用して、昔ならばとても拓き得なかつた廣い不用地を村にしたものでありますが、其以前にも特殊の事情の下に開發を爲し、後正式の檢地を受けて本田に編入せられたものが隨分ありますから、今在家《いまざいけ》とか新田とか云ふ地名のみに由つて、之を判定することはできぬ。而も其住民は自ら新田と名乘ることを好まず、從つて多くは早く名をかへました故に、堤防があるとか街道から遠いとか、地割が整一だとか云ふ類の、外見を綜合して知るの他は無いのです。尤も新田の中にも何兵衛新田などゝ謂つて、中心人物が個人で經營したものと、何村新田などゝ云ふ一村が總受で開いた共同事業と二通りあつて、性質が大に違ひます。即ち前者は住民が諸方面から招集せられた烏合の衆であること苗字を見ても分り、後者は親村があるから其から風俗信仰等をも移し、經濟上でも久しい間交渉を保つて居るのが普通であります。但し最初より資本其他の外部からの援助に由つて出來上つた村ですから、常に市場交易の金錢經濟を要件とし、衣服器具燃料等の必需品に就て、早くから孤立した生存を爲し得なかつたことは、兩者共に同樣であります。

　第二に草分百姓とも隱田《おんでん》百姓とも名づくべき村々は、ちやうど是と正反對な事情を具へて居ます。是は戰國時代から江戸の初期へかけて、亂を避け又は敵を遁れた落人の主從などが作つた村で、成るたけ近所の遠い谷合や野中で、孤立した生活を始めたものであります。後に領主から公認せられ、追々と附近に新田の村が出來るやうになつても、此種の村に限つて地の利を占め且つ分内も廣く、又最初から利害を共にして居た爲に結合力が強く、さして外界との交通を必要とせずに、獨立した生活を續けることが出來ました。其代りには消極的安全を主とした爲に、新しい經濟組織の利便は受けにくい。關東では折々見かけるが、總數に於てはさして多くはないやうです。

(71)　第三種は關東で根小屋百姓などゝ謂ふ村であります。地方の小領主が丘陵の端などに砦を作つて據る場合に、其防衛上又は平日の生活の便宜から、強制し又は好條件を提供して、其山の下に特に構成させた村であります。或は又｜箕輪《みのわ》とも、寄居《よりゐ》とも呼び、中國では山下《さんげ》又は片原《かたはら》、九州では拵《かこひ》とも麓《ふもと》とも謂つて、つまり廣義の城下であります。領主が勢力を増すか、又は其地勢が重要なものであれば、發達して町とも市ともなりますが、さも無い限は今に農村として殘つて居ます。本來他の目的に由つて成立したのですから、農業の方には不便も多く、又耕地も戸數に比して狹うございますが、幸に一方に道路或は川筋等の交通が夙くから開けて居ますから、收入補充の手段はあります。而も住民が箇人の新田と同じく烏合の衆である爲に、利害が衝突し易く人氣が荒びやすいやうです。

　第四は根小屋百姓と稍々似て更に古い所謂門前百姓であります。廣い敷地を有する大社大寺が、縁故者に付與して居住せしめた土地で、其社寺が繁昌すれば、やはり奈良や出雲杵築のやうに、町にも市にもなりますが、村で居なければならぬ場合にも、戸數が限定してあるだけに、根小屋ほどに萬事が窮屈で無い。唯古くから社寺特別の職務に携はり又負擔が輕かつた爲に、農業者としては必しも精勵なもので無く、或は旅人を相手にする故に幾分輕薄で無いとは言はれませぬ。最も初は烏合かも知れぬが、信仰の中心が有るだけに比較的統一せられて居ます。何宮又は何々寺などゝ云ふ地名のある村の大部分は、既に社寺が無くなつて居ても斯くの如くにして起つたものであります。

　第五種としては名田《みやうでん》百姓と云ふべき村があります。即ち莊園新立の當初から、直按開墾者として分家及び眷屬と共に、久しく其地に住み來つた村であります。名田の名とは開墾人の名などを以て地名とした一區劃のことで、其子孫が之を保有するものを名主《みやうしゆ》職と名づけ、色々の特典がありました。日本の如く古く開けた國では、少なくも中央部に於ては、村の大多數が此種類であるべきだと思ふ人が有るかも知れませぬが、事實は必ずしもさうで無い。名田の百姓は大名小名の文字が示す如く、何れも武士でありましたから度々戰爭をして、よほど幸福なもので無いと元の地には殘つて居ませぬ。南北朝時代の少し前迄の人は、下人で無い限は必ず居住地の地名を以て苗字として居たものであ(72)りますが、今日は既に我村の名を以て家名とする家が、非常に少なくなつて居るのを見ても分るのであります。併し假令住む人は變つても、名田の時代と略々同樣の形式を以て生活を續けて居る村は少しはあるでありませう。若し有つたとすれば其外貌は最も多く第二種の立退百姓の村と似て居る筈でありますが、自分は未だ確かに其だと云ふ村に出逢つたことが無いから、何とも言はれませぬ。

　最後に第六種として、理論の上からは莊園以前の班田《はんでん》百姓の村と云ふものが無ければなりませぬ。京都附近や大和平原などには、千年以上少しも休まずに耕作し來つた田園も必ずあるでせうから、其地主の中には、系圖は不明になつて居ても引續いて住んで居る家も無いとは言はれませぬ。併し假に有るにしても彼等は必ず後世其周圍に發生した村の生活樣式に同化せられて居て、到底上古の特質を受繼いで來ることが出來なかつたことゝ思ひます。既に莊園が全國に普及して後は、國衙即ち從前の公田の地も、取扱ひ振に於て莊園と均しくなつたと言はれて居ります。此方面の學問が大に進んだら、案外昔の村制度の斷片を見出すかも知れませぬが、少なくも實用の村誌としては、其までの穿鑿をするには及ぶまいとおもひます。

　自分は固より右の如き分類に由つて、從來一切の農政方針を演繹しようと言ふのでは無いのですが、此だけの區別も眼中に置かずして、地方の政務を講ずることの如何にも無謀であると同じく、我村當初の存立要件が何であつて、其要件は續いて具はつて居るか否かと云ふことをも考へずに、世上流行の空な農民改良論を持廻るやうなことを批難すれば足るのであります。府縣農會以下の農事奨勵に於ては、質朴な村人の感情を動かし、早く成績を擧げようとする手段も有るやうですが、是は論評の限ではありません。彼等に猶乏しい經濟の知識を供與して、どうしても新時代に向くやうな勤勉方法を擇ばねはならぬと考へさせるには、先づ自ら彼等箇々の境遇を知て居る必要があります。所謂精農は心を一業に專らにする者の間からで無いと出て來ませぬ。此點から言へば同じ農業の中でも米は米、養蠶は養蠶と能ふ限作業を純一にせねばなりませぬが、是は一戸當り三反や四反の耕地を持つ根小屋百姓には望み難い。優(73)等なる作物を栽培して收益を増加することは、孤立自給を原則として、家が消費した僅かの殘りのみを賣るやうな草分百姓に勸めて見た所が、熱心にならぬは知れたことであります。之に反して薪炭までも買はねばならぬやうな新田場では、金錢の必要が多いから捨てゝ置いても市場に出す品に骨を折るのでありませう。其代りには又落付いた心持が少ない爲に氣が替り易く、土地を金に換へて他郷に出ることも早いのです。一概一律な行政をして成績を見ようとするのは不自然な話で、結局は手段の爲に目的を忘れることにならねば幸であります。

　郡長さんは常に各地方に於ける最も圓熟した知識であります。而も我々は此人の口から我郡の實?は是々と云ふ話をよく聞きますが、果してそんなことが言へるかと危く思ひます。此頃折々西郊の三多摩地方へ遠足に行つて見ますが、相隣した二つ三つの部落で、出來た年代も生活の基礎も又制限も、全然異なつて居るやうな例に度々出逢つて居ます。武藏などは殊に此懸隔が甚しいやうに思ひます。どうしても村の有力者に自ら村誌を研究させる必要があるのであります。右に擧げた分類の如きは、單に斯うも區別せられると云ふ例證だけであつて、根本の趣旨さへ認められ得るならば、此説の如きは將來の學者に由つて、どう訂正加除せられても構ひませんのです。

　

(74)　　　　　　　農に關する土俗

　

　　　　　　　　　　一

　

　書物を見れば一切の舊いことがわかると考へて居る人があります。今日の日本に於ては、是が一番怖ろしい迷信であります。我々は久しく此島に住馴れた爲に、既に以前の本國の西か東かをすらも忘れて居る。米を作つて常食とすることは、此島に來てから學んだか、或は又遠い故郷から稻の種を載せて來たのか、此樣な簡單な問にすらまだ答へ得る人は無いのであります。而して村々の傳承は今將に絶えんとして居ます。母が稚い時に祖母から、祖父が曾祖父から圍爐裏の側で聽いた話は、最早若い者等が笑つて居て耳を傾けぬやうになりました。意味の明白でない多くの習慣は、年毎に之を守る人が少くなつて行き、其意味は結局不明のまゝで終るらしいのであります。

　何れの社會に於ても、舊慣の破壞は若い者の役目であつたと言つてよろしい。彼等は別に學ばねばならぬ多くの新しい事を有つて居ます。日々の忙しい生活と交渉せぬ閑話題の爲に費すべき時間が至つて少ない。殊に我國では、右の新舊の絶縁を促す所の一動力が加はつて居ました。青年等が老人の話を笑ふのは、別に背後に大に笑ふ人の有るを知つて、常に其思はくを顧慮して居た結果であります。自分等は此?態を名づけて、假に之を洋服の專制と謂つて居ります。

　

(75)　　　　　　　　　　二

　

　自分は曾て或夏の風雨の日、南日向の海端をあるいて居て妙な紳士に逢ひました。犢鼻褌一つの眞裸の男が、首に何か白い物を括りつけて居る。よく見ると其が洋服の下に用ゐるスルメと云ふものでありました。即ち「自分は天氣ならば洋装をする身分の者だ」と云ふ迄の徽章だつたのであります。九州其他の山奧の村には、一藥館或は俗にオイチニとも稱して、フロックコートを着て、賣藥を賣りにあるく者が多い。彼等の髭は往々にして胃活の看板以上であります。相手次第で上り口から手を延ばして病人の脈を取り、或は容體を言はせて其髭を捻つて聽きます。さうしてつまらぬ藥を賣つて行くのです。

　是は無論滑稽なる極端の例ではありますが、而も地方を旅行する者が往々にして實驗する如く、何にも知らぬ小學兒童に、洋服を着た人に出逢つたら辭儀をせよと云ふ類の教訓をして置くらしいのは、これ果して右申す藥賣りのやうな卑しい根性の奴の利用する所となり、同時に他の一方には、和装にして而して尊敬すべき人、又は物を輕蔑し、多數の少年青年をして笑はずともよきものを笑ひ、更に又忘れずにすむものを忘れさせる結果を招かぬでありませうか。

　

　　　　　　　　　　三

　

　そこで自分等は常に考へて居ります。洋服を着た人の無識、乃至は髭ある者の迷信は、尋常隴畝の中に營々する者の無識迷信よりも遙に有害であります。彼等は時として、凡て人間のした事は必ず何等かの意思何等かの動機に基かぬものは無いと云ふ、至つて單純なる法則をも無視することがあります。東京などゝ云ふ處は、人で言へば成金で、まだ一向に統一した文化も何も無いのに、その狹い東京眼で呑込めぬ程の事物に接すると、すでに無意味なものと速(76)斷してしまひます。自分が馬鹿な人に限つて馬鹿と云ふ語を濫用します。而も情ないことには、村の人が彼等の批判に服する態度は、東京人の外國の批判に對するよりも一層卑屈であるのです。我々は日本語の語彙の乏少なるを悲しんで、非常な苦心をして古書の中から、一旦廢つた古語を見出して之を復活せしめんとして居ます。幸にして其一部は、亦農夫の用語の中にも保存せられてあつたのです。然るに郡の教育會などでは、之を排斥して、所謂「方言の匡正」を力めて居ます。どんな結構な語が、其代りに來るかと思ふと、どうです、浮世風呂時代に始まつた江戸言葉も交つて居るではありませんか。

　春が來れば何人も冬の洋服を脱がぬ者は無い。古いレジムが消えて行くのが、即ち新らしい社會の眞の形である。我々は決して不可能事を保存せんとするやうな急進保守黨ではありませんが、多勢の者が大きな眼を開けて見て居りながら、何物が如何にして日本から消えて行くかも氣付かずに、空々として自分たちばかり洋式の新時代に入つて行き、而も澤山の同胞が前にも後にも據り所を失つて、彳んで居るのを笑はうとするのを非難します。苟くも國民性に基いて國の運命を論じ、或は又代議制度の未來でも説かうとする氣なら、稀にはちつと農夫の心中にも入つて考へて見るがよろしい。子が可愛いは犬猫も文明人も一樣であります。日本人は其上に、生れぬ孫彦の爲を思つて苦勞します。所謂血食の欲望は決して盲動的のものでは無かつたのです。村で草分けと云ひ、家で御先祖といふ人の努力の跡には、よく見れば其用意が正しく有りました。單に今日の論理に合はぬ爲のみに、其心ざしを看過することは出來ぬ上に此が集まつては國民の歴史を語つて居るのであります。笑つて忘れてしまつては國が國では無くなります。

　自分は前年史蹟名勝天然紀念物保存協會と云ふ長い名の會で、我々がもつと熱心に保存すべき記念物、人の知らぬ間に闇から闇へ隱れて行く危險の遙かに大なるものが他に在ることを述べて、洋服黨中の有志者を動かさうとしたことがあります。併し實を言へば、保存だけでは何にもなりませぬ。又保存は寧ろ一方に敗退滅亡の承認であります。不自然なる事業であります。學問と云ふものは、全體斯んな場合の爲に存在するものと思ひます。保存しても研究を(77)せねば、五十年を百年に延期する迄であります。忙しい人が少し知つて何もせぬのを、當世では「趣味」と云ひます。誠にいやな語であります。單に珍しがり玩び物にするのは、髭を捻つて嘲るのといくらも違はない輕薄であります。我々の要求する所は知つて而して研究することであります。記録をし、人をして考へしめることであります。而して消滅は免れぬとすれば、之に由つて生ずべき空隙を、適當なる物で補充することであります。

　

　　　　　　　　　　四

　

　同じく農業と云ふ中でも、稻作に就ては特に記念すべき傳承が多い。村で有志家などゝ云ふ連中が、所謂田夫野人の所業として苦笑して我々に語る事は、十中の八九までは米の栽培と關係して居ります。此點は此國民の起原を考究する者に取つて、殊に重要なる見所であつて、米を收穫して粢《しとぎ》と一夜酒《ひとよさけ》を作つて神を祭り、少くも祭の日には自分等も米を食ふといふことは、恐くはまだ／＼久しい間、國民生活と切放すことの出來ぬ我々の一特性であらうと思ひます。而してそれが後年に外人から學んだ風習か、はた又原始時代から持傳へた約束であつたかは、仔細に箇々の行事を觀察し、且つ之と稍々類似する他民族の土俗と比べて見れば、追々と分明すべき道理であります。時代々々の文化には、記録類から推論しても一定の水準があります。昔の常識に照して不穩當なる儀式や方法は、新たに持込むことはやはり六つかしかつたのです。唯古くから爲し續けて居ることは、止めては惡いと云ふ感じが、前代人には今よりも遙かに強く有りました。而して同じ國民の中に、横から見て居て胃活式の髭を捻るやうな人などは、昔の世にはとんと無かつたのであります。

　

　　　　　　　　　　五

　

　穀物耕作に伴ふ多くの儀式は、大要之を二種に分類することが出來ます。便宜上之を直接、間接と名づけて置きま(78)す。直接と云ふのは農事即ち生産の行爲と一緒に行ふもので、此を亦二つに小別すれば、始業儀式終業儀式とでも云ひますか、一つは種蒔き植付等の時に行つた慣習、他は苅入れの時に行ふものであります。この二つは何れが最も原始的と云ふことは出來ませぬが、人に依つては依頼よりは感謝の方が一層人間的であるから、秋の祭の方が新しいと言ふかも知れませぬ。日本では村の祭は主として秋ですが、直接田の中で行ふ儀式に至つては、植付の時の方が盛であります。是は耕作する穀物の種類にもよるかと思ひます。小麥や大麥のみを作る國では、收穫の時に比べては種蒔きの作業の方が遙に簡單であります。之に反して稻作には苗代と云ひ水と云ひ、最初に苦勞すべき事が多く、從つて色々の氣になる事柄も此時に起りますから、今日の如く田植季節を大事にし始めたのでありませう。併し秋の節にもまだ多くの慣習が昔はあつたものだと云ふ人もあります。

　間接儀式と自分が名づけたものは、人が著しく因果の法則を經驗した後に起つたものらしうございます。即ち大分推理の加はつた智的行爲であります。此も二つに分けて見れば、甲は作物の成長期中の心遣ひに始まつたもので、例へば蟲送り雨風祭の類であります。殊に米作國の特色は雨乞の祈?であります。之を全然農村の信仰界から排除することは、如何な技師でも當分は六つかしいのであります。乙に至つては今一段と文明的のもので、要するに暦法と云ふものが始まり、收穫と播種李との中間の、最も米作と縁の遠い時期を以て、トシと云ふものゝ堺としてから後の事に相違ないのです。朝家では之を祈年《としごひ》祭と名づけられ、今でも總農民を代表して大廟で公に其儀式を行はれます。村々でも正月を以て其年中の豐作を?るのは一般の事で、地方に由つて形式の相違はありますが、一として其意味を示さぬものはありません。江戸で鳥追と稱する遊藝の徒の出たのは、農家で春の始に一定の式を以て年中の害鳥を豫め驅逐した餘風であります。大神樂《だいかぐら》と稱して獅子を舞はしめてあるいたのも田遊びの變形らしい。即ち初春に村民が集合して、一年中の農事の動作をくりかへし、五穀成就でめでたい／＼と、餅酒に樂んだ例は、東京近くの赤塚にも杉山にもありました。或は雪中に畝を立てゝ松の葉を苗に見立てた田植をしました。「ならずば伐らう、いやなります(79)なります」と唱へて果樹を嚇してあるいたのも、所謂小正月の晩であります。

　

　　　　　　　　　　六

　

　此等の風習は或は殘り或は既に廢せられて、今では既に系統も不明になつて居ますが、若し地方々々に同情豐かなる研究者が居て調べて見たならば、恐くは多大の歳月を費さぬうちに、日本の農神信仰の、今日神祇官の運動などをして居る人たちの解して居る所と、遙に差別のあつたことを理解し得るでありませう。自分は物知りぶつて、そんな細かな講釋をする氣は無いのですが、ヘヽヽなどゝ笑つて古い事を忘れてしまはれるのが心外でありますから、例として一つだけ珍らしい話をして置かうと思ひます。

　前にも申した如く、日本では田植に伴ふ儀式及び言ひ傳へに古いものが多い。其中でも不思議なのは、最も清かるべき田植の日に、女が死んだと言ふ言傳への各地にあることであります。勿論話ですから色々と潤飾せられて居ますが、其最も普通の形式は斯うです。昔或長者があまり早乙女をひどく使ひ、大きな田を強ひて一日に植ゑさせようとした爲に、其女は疲れて死んだ云々。駿州吉原在｜須津《すど》村の「おきく田」などは其一例であります。或は姑が嫁を憎んで酷使したと云ふのも多いが、それは嫁田などゝ云ふ名から起つた新らしい話らしうございます。肥後の米原《よなばる》の長者の昔話では、長者の家の下女が田植の飯を運んで居て、路で疲れて死んだと云ふことになつて居ります。此だけでは何故に似た話が多くあるかを説明し得ぬやうでありますが、一方に昔の日本人は普通は朝夕二度しか食事しなかつたこと、田植の時に限つて特に結構な晝の食事を調理し、ある特定の女を美しく化粧させて、之を植田まで持參させ、一同賑々しく食つたことを考へて見ますと、ある程度まで此樣な奇怪な話にも由來のあることが知られるのであります。

　前年文部省で編纂した俚謠集と云ふ書物に、各府縣の田植歌が數多く集めてありますが、之を見ますと國々の田植(80)の儀式が大略分るやうで虜ります。右に言ふ晝食を運搬する女は、國によりてはヒルマモチ又は晝飯持などゝ云ひますが、中部日本では一般に之をウナリ、オナリ人又はオナリ樣などゝ呼んで居ます。紅白粉に美しい衣服を着て、植田にやつて來るのを待ち、或は夕方に岡を越えて歸つて行くのを名殘惜く思ふと云ふやうな歌がいくらでもあります。全體に田植には若い女が缺く可らざるものであつた中にも、殊に此一人を中心として居た形跡は、尚此外にも土佐の多野郷《おほのがう》や肥後の阿蘇等の田植神事に、晝版持或は宇奈利と云ふ婦女が出る事實が之を示して居るのであります。中國邊の片田舍には今日尚オナリ人を、田植に必要とする風習が殘つて居るやうですから、自分は面倒な多くの證據を提供しませぬが、是は至つて古くからの制度であつたらしく、京の賀茂の神田の田植にも、ウナリ女一名オナリ女の出たことが、既に袖中抄と云ふ書の中に見えて居ります。即ち田植が尚信仰上の一儀式として考へられて居た時代から、引續いて此名は存して居たのであります。

　其オナリ女が田植の日に死んだと語り傳へて居るのは、抑々又何を意味するのであらうか。單に田の神の巫女として、神に代つて農夫等の尊敬を受けたと云ふことを、誤り傳へたものでありませうか。或は又古い時代にオナリ女の死ぬことが、儀式の完成の爲に必要であつたことを意味するのでは無いか、是は非常に大きな問題であります。澤山の材料を細密に分析した上でなければ何れとも決せられませぬが、假に多くの民族の原始期に於て行つた農神の犠牲と云ふ風習が、此の如き夢物語によつて幽に記憶せられたものとすれば、日本の米作は、夙に此民族と併存して居たのであることがわかります。

　人類學雜誌の大正七年一月號には、陸中で用水堰の人柱になつたと云ふ巫女を祭つて、ボナリ大明神と稱する社のあることを記して居ます。今人の考から推せば無法でありますが、是も田植の日の一習慣として早乙女等に泥を掛け、甚しきは一度は水田の中へ轉がし倒す迄は止めなかつた例もあつたのは、亦やはり太古の殺伐な儀式の痕跡とも見られぬことはありません。それを馬鹿なとか、けしからぬとか言つて了へば世話は無いのですが、昔を尋ぬる機會は其(81)爲に永久に無くなるのであります。奧州白石噺の悲劇も、此泥掛けの習慣に始まつて居ます。新時代の志賀團七君をして、昔を忘れぬ農民たちに對し、徒らに暴威を逞しくせしめぬ樣にしたい者であります。

　

(83)　　　青年と學問

　

(85)　　　　　小序

　

　近頃そちこちで試みた談話の中から、やゝ見當の似寄つたものを集めて試みに斯ういふ體裁に竝べて見た。ところどころ重複した箇所があるけれども、今それを削つて居ると餘り元の形に遠くなるから、その點は讀者に我慢をしてもらふより他は無い。

　日本の講演も早くラヂオと同じ樣に、三十分間で目的を達することにしたいものだと思ふ。さうすれば必ずもつと有力な、印象の深い教訓が得られるに相違ない。併し今日の講演の長たらしいのは、所謂下手の長談義の爲ばかりでは無い。聽衆の方でも今日は緩りと御話をなどと謂ひ、又短かい話を物足らぬ樣に感ずる風がある上に、前以て少しも準備が無く、中には理解の爲に骨折ることを厭うて、寧ろ有りふれた事を面白く説く者を、歡迎せんとする傾きさへあるのである。是では兎に角に大切な時間のむだだと思ふ。そんな事をして居ると、後には或は講演も圓本の如く、同じ話を方々に持廻るやうになるかも知れない。私だけは是でも出來る限り、話商賣になつてしまはぬ用心をして居る。殊に近年は必ず手控を作つて、一度々々別の話をすることにして居るので、それが棄てられない爲に斯ういふ記念の小册子を遺さうといふ氣にもなつたのである。

　此話の中にも出て來る英國のリバース博士は、死後に友人たちが其遺著を整理した時に、曾て印刷にしたことの無い原稿が一つだけ出て來た。それは先生が方々に頼まれて、幾度かして聽かせた講演の手控であつた。それが簡明で親切で又巧みに要領を盡して居たので、まだ何囘でも使ふ積りで、わざと公表をさせなかつたものだらうと言つて居る。若しさういふ結構な草稿が私にもあつたら、或は斯んな書物は出さずに濟んだかも知れぬが、不幸にして自分たちの學問は、いつ迄たつても改良と訂正とが必要である。之を印刷に付するのは此儘信用せら(86)れんが爲で無く、寧ろ自分も讀者諸君と共に後日虚心平氣にもう一度之を批評せんが爲である。

　　　　昭和三年三月

　

　　　　再版に際して

　

　最近郷土研究といふことは、非常に旺んになつて來た。たしかに結構なことである。一體私の「青年と學問」とは、郷土研究に關しての、私の論述で、郷土研究といふことが旺んになればなる程、研究者の間に、汎く讀まれて欲しいと希望してゐる。

　今度再版に際して、體裁をかへて、内容にふさはしく改めたいといふ、出版元の希望を容れて承諾した。御諒承を乞ふ。

　　　　昭和六年十二月

　

(87)　　　　　青年と學問

　

　　　　　　　公民教育の目的

　

　最近に諸君と會談してから、早既に三年あまりを過ぎた。あの後日本には色々の事が起り、好い事もあつたが好くない事の方が多かつた。自分としてもこの三年の間に、少々弱つたと見えて生活が可なり重荷である。それにも拘らず、會て我々が民族の前途の爲に、幽かなる一道の光明の如く感じて居たものが、この三年間にも次第に成長して、世の中は大分明るくなつて來た。通例人の通例の努力を以てしても、以前に比べると色々の事物が、稍々はつきりと見えるやうになつた。智識の眞の樂みが認められ又求められるやうになつた。學問のみが世を濟ふを得べしといふことを、信ぜざるを得ぬやうになつた。

　なるほど我邦目前の社會相は、必ずしも美しく又晴れやかでは無い。人は皆互ひに爭つて居る。欺き得べくんば欺かんとさへして居る。此形勢を以て押進むならば末は谷底であることは疑ひの餘地が無い。しかも最早打棄てゝは置けぬといふことと、在來の治療法では不十分であつたことゝを、よほど多數の者が認めるやうになつたのである。此上は新らしい方法の發見、其次には必ず救はうといふ決心とを必要とするのみである。此二つのものに付ては、人々はまだ絶望しては居らぬ。たゞ待遠しさの煩悶を見るばかりである。故に自分は救はれるであらうと信ずる。

(88)　如何なる大災害の眞中に於ても、日本の學問は進みつゝあつた。讀み過ぎはせぬかと思ふほど多くの書物が讀まれ、講演なども少しは節約してはどうかと考へるほど盛んに催される。久しく外國に居て還つて見ると、不良青年の増したのにも驚くが、純良なる研究者の多くなつたことも見遁すわけには行かぬ。さうして彼等が研究の傾向は、大體に於て惡くないと思ふ。

　學問なんか何の爲にするかといふ質問は、實はもと我々には不愉快なる輕蔑の言葉に聽えた。俗物め、何を言ふか、凡そ人間の努力、人間の携はり得るほどの事業の中で、是が最も高い種類のものなのだ。實利世用の有無などは問ふところで無いのだと、獨りごとには言ひ切つて居りながらも、實際は内心竊かに煩悶をした人が多かつたのである。學問といふものが、單に塵の浮世の厭はしい故に、暫しは之を紛れ忘れようとするやうな、高踏派の上品な娯樂であるか、はた又趣味を同じうする有閑階級に向つて、切賣小賣を爲すべき一種の商賣であるならばいざ知らず、斷じてその二つの何れでも無いことを信じながら、尚これほど眼前に痛切なる同胞多數の生活苦の救解と、未だ何等の交渉をも持ち得ないといふのは、實は忍び難き我々の不安であつた。それが此頃になつてから、假令少しづゝでも次第に其應用の送に目を着けようとして來たのである。

　社會史の研究の如きは、何れの國でも一般に至つて若い學問であるが、殊に日本に於てはつい近い頃まで、少しも進んで居なかつたことは事實である。どの方面を向いても素女地ばかりで、耕すにつれて面白いほどの收穫があつた。智識慾の多い者にはうつかりするとつい引込まれて、生涯を費してしまふ程の珍しい發見が、そこに幾らでも轉がつて居た。しかも世の中からは、今頃そんな古い事を穿鑿して居る餘裕があるかと言はれ、又さう言はれても一言も無いくらゐに、煩雜なる現代社會相との間には、何の聯絡の途も得られなかつたのである。

　世の中の實務の方でも、年一年と學問から遠ざかつて行くかの如き感がある。現に政治の方面などを見ても、故事や前例を引くやうな人は、多くは其説が迂愚笑ふべきものであつた。今日の實際に適切でない爲に、人から輕く視ら(89)れて居た。ところがよく考へて見ると、是には固より方法上の缺點もあつたが、第一には世人が歴史の智識の應用を誤まつて居たことが、此の如き悲しむべき疎遠を餘儀なくしたのである。それから又斯ういふ學問に對する世間の態度も、正しいとは言はれぬやうに思ふ。史學は古い事を穿鑿する技術では決してない。人が自己を見出す爲の學問であつたのだ。がさういふ風には自他共に考へる人が少なかつた。

　現在のこの生活苦、若くは斯うして爭ひ又闘はねばならぬことになつた成行を知るには、我々の持つ所の最も大なる約東、即ち此國土この集壇と自分々々との關係を、十分に會得する必要がある。それを説明する鍵といふものは、史學以外には求め得られないのであつた。我々が只漠然と國の姿と謂ひ、或は時代の風などと呼んで居たものを、具體的に理解する爲には、何よりも先づ一個民族としての日本人を意識する必要があつたのである。

　今が今まで全然政治生活の圏外に立つて、祈?祈願に由るの外、より良き支配を求めるの途を知らなかつた人たちを、愈々選擧場へ悉く連れ出して、自由な投票をさせようといふ時代に入ると、始めて國民の盲動といふことが非常に怖ろしいものになつて來る。公民教育といふ語が今頃漸く唱へられるのもをかしいが、説かなければわからぬ人だけに對しては、一日も早く此國此時代、此生活の現在と近い未來とを學び知らしめる必要がある。しかもそれを正しく説明し得るといふ自信をもつて居る人がさう多くないらしいのである。こゝに於てか諸君の新らしい學問は、活きて大に働かねばならぬのである。

　

　　　　　　　異人種觀の改良

　

　歴史の學問も現在の研究程度に止まつて居るといふことは、無用なるのみか又有害でもあり得る。所謂軍事教育が日本人を「戰ふ國民」とするといふ懸念は、恐らく絶對に無いことゝは思ふが、少なくとも民族間の眞の平和を、積(90)極的に求めようとするには、是だけでは足りないことも確かである。我々は尚此以上に、公けに國際の正義を論じ得るだけの、力と自信とを養つて置かねばならぬ。

　申す迄も無く國防の第一線は、毒瓦斯でもなければ潜水艇でも無い。先づ國と國との紛爭を解決すべきものは、討論であり主張であり、不當なる相手方の反省であり屈伏であるわけだが、現在各國の持つて居る國際道�ｺは、不幸にしてまだ我々の個人道�ｺと、同列にまでも進んでは來て居ない。省察もなければ悔悟も無く、また?々曲解があり我執がある。今往古來是が爲に無用の殺戮が行はれ、亡びずともよい多くの國が滅んだ。而うして敵を滅して之に由つて榮えようとした國が、往々にして成功して居る。其結果戰爭必要論は今以て有力なる政治家等の竊かに之を信ずる者が多いのである。併し世界一般から言ふならば、もう澤山だと考へ出したものが遙かに多數を占めて居る。遲々たる歩みには相違ないが、今や何か之に代るべき手段を發見しようといふことに、世の中がなつて來たのである。代るべき方法はさう多く有るべき理由が無い。結局は自ら知り、互に今までよりも一段と精確に、爭ひの原因と結末とを考へて見ることの出來るやうにするより以上、別に新奇なる發明があるべき筈はないのである。ところが所謂治亂興亡の跡を詳かにすといふ一つの學問が、如何なる理由があつてか今日までは、まだ本當によく働いては居なかつたのである。どの位完全に今ある史學の智識を消化しても、それのみではまだ平和本位の國際主義を、成立せしめるには足らなかつた形がある。

　過去の日本が此島々の中に於て、靜かに仲よく一國限りの平和を樂しんで居た時代にも、外から來る者は皆敵なりと認め、日本國民でないものは皆一つに固まつて恰かも舌切雀の婆の葛籠《つゞら》の中から飛出す者の樣に、いつかは寄つてたかつて我々を犯すであらうと考へることは、無益にして且つ結局は損失であつたが、いよ／＼同胞がこの小さい島々に居りあまり、もう是から外へ出て何か仕事を見付ける他は無いといふ段になると、殊に其樣な大ざつばな異人種觀は邪魔ものである。異人の中にも色々あつて、顔でも言語でも服装でもする事でも千差萬別である。傲慢で調子づ(91)いて居る者もをれば、遠慮ばかりして尚いぢめられてゐるのも居る。それが同じ國の者でも時と境遇によつて、亦一樣ではないのである。國と國との利害は錯綜して居り、彼等どうしでもやはり爭ひ又は和して居る。その間の交渉が日を逐うて面倒になり込入つて來る上に、此方の立場も人によつて統一が無いわけで、斯うなると最早出先の外交官や、時の武人團の意向などに、和戰の判斷の鍵を委ねて置くわけには行かぬ。國民自身が直接に、この重要なる根本問題を考へて見なければならぬ。即ち普選は言はゞ其爲の普選であつたのである。

　それには何よりも先づ國と國との關係、殊に肝要なる一通りだけは、誰にでも知らせて置かねばならぬのであるが、是までは其方法と順序が當を得ず、我々の普通教育の外國地理などは、徒らに遠方の國の首府や人口などを暗記させて、却つて目と鼻との間に在る隣の島に、如何なる人間が住み如何なる政治が支配して居るかをさへ説明しなかつた。殊に面倒とは言ひながら大切な知識が、あまりに專門の人に獨占せられて居たのみか、他の部分には飛んだ誤解さへ正さずに打棄てゝあつたのである。國民は先づ最も平凡通俗なる方法を以て、既に知つて居るべき筈の知識から、改訂をして貰ふ必要があるのである。

　極端な一例をいふと、支那では古來の蠻夷思想がつい半世紀の前まで民間に横溢して居た。三千年近くも前からあつた職貢圖《しよくこうづ》などの智識が、有識階級の一部をさへ支配して居た。飛頭蠻《ひとうばん》と謂つて首だけで飛びあるく民族があると考へたり、或は所謂手長足長、腹に穴があつて棒を通して擔いであるくなどと、妖怪に近いものゝやうに想像して何百代を經たのである。日本でも二百年前の和漢三才圖會は、悉く皆其畫の受賣で、それが一般國民の常識を構成した。碧眼紅毛の人が長崎に來て居て、折々江戸との間を往復した時代にも、尚見ぬ人々は有りとあらゆる空想を逞しくして居たのである。それが時代の變化で少し舶來を珍重し過ぎる今日となる迄の間に、段々に彼と我との相近いといふことだけは分つて來た。尖つては居るが鼻はやはり顔の眞中に在る。彼等も人であつたといふことは、實は近世の一大發見であつたのである。即ち打棄てゝ置くと人間の實驗は、往々にして此の如く遲鈍なものであるが、しかも之に(92)由つて養ひ得た國際觀念が、千百の鎖國攘夷論よりもより有効に、日本の立場を世界的に支持してくれたのである。

　

　　　　　　　政治と國境と人種

　

　故に今後に向つても受賣の危險を戒め、力めて實證の機會を物學ぶ人々に供與せねばならぬ。殊に從前白人が抱いて居た有色人觀の如きは、我々は自ら學ぶことに由つて、之にかぶれるのを豫防することが大切である。黄白といふ類の人種差別などは、考へれば考へるほど怪しいものだ。彼等謂ふ所の蒙古人とは全體何であるか、韃靼《だつたん》は歐羅巴に入つて今の露國人の要部を爲し、ラップやフィンも早くから其一隅に住んで居た。洪牙利人はアリヤン種の眞中に國を作り、血は半ば化して言語と思想には古い傳銃を保つて居る。其他東方から遠く移つて、末は混同したものゝ痕跡は、今でも尋ねたら次第に分つて來る。之と對立して波斯にも印度にも、もと白人と同種と稱する人民が多數に居て、是亦甚だしく差別せられて居るのである。血は到る處に混同し、宗教も亦大に入り交らうとして居る。要するに種族の抵觸は政治であつて、種の異同に基くものではなかつたのである。飜つて白人彼等自身の國を見ても、大陸の種族は横に略々三段に分れ、國は河流山脈などに由つて、却つて縱に分堺せられて居た。即ち人種は共通なるに拘らず、獨逸佛蘭西などと政治的に對立すると、殺し合はなければ承知しなかつたのである。結局は如何に顯著なる人としての共通點はあらうとも、依然として以前の民族は相闘爭して居たといふことを見出すの他は無いのである。

　この悲慘なる?態は、不幸にして現在まで續いた。我々が白人の跋扈と名付たものも、實は單に白人國の中にばかり、跋扈し得る力ある國があつたといふことを意味するだけである。前には班葡蘭英佛、後には白獨米などと、要するに一時覇をとなへた一又は二の國民のみが、其威力を各方面に振つた迄で、抵抗力の殊に弱い擁護者の一人も無かつた遠洋島上の土人等ほどひどい目には遭つて居ないが、近隣の國民たちも寧ろ大か小か被害者の側に立つて居る位(93)である。例へば東歐羅巴のあはれな住民などは、我々の目から見れば等しく白人だが、有色人をいぢめ殺した責任は、他の大國民と分擔するわけに行かぬのみか、彼等自身も亦被害者の中である

　併し其中には又時代の變化をも顧みず、隣國の惡い先例を利用して、出來るなら横暴をしようと試みた國々もあつたが、よく見ると次第に相戒め相責めて、無法な眞似は差控へるやうになつて來た。強國の我儘國でも、時としては自國内にすら強い非難が起つて、少しづつ改良をしたことも無いではない。但し其進歩たるや、餘りに徐々として居つて、いつになつたらからり〔三字傍点〕と夜があけたやうになるものか、まだ如何にも心元ないやうであるが、兩極端の今と三百年前とを取つて比べて見れば、流石に顯著なる變化を認めるのである。例へば古いニウギニヤ南岸航海誌に、岸上を見れば數多の土人、打集まつて踊り戯れて居る。試みに銃を以て之を射るにばた／＼と斃れ死んだとある。或は又「亞弗利加西岸の黒人は、チムパンジーなどよりも遙かに馴らしにくい。母を殺して其兒を携へて還つたら、泣いて食物を食はずに死んでしまつた」などとも書いた紀行がある。或は奴隷運送船の多くある記録の如き、當時當然の事務として寧ろ人の耳を悦ばしめる爲に書殘した文字が、今では如何なる惡人と雖も、背に汗すること無くして、之を讀むことが出來ぬ迄になつたのである。しかもその現在の待遇といふのが、尚同胞に向つては到底忍びないことばかりなのだから、如何に昔の殘虐は烈しかつたか、全く證據が無ければ信じられぬ程度のものである。

　それでも國によつてその程度に差があり、又陰性陽性の別もあつた。教育の力といふものであらうか、同じ東洋に來て居る白人の中にも、夙くからやさしい者も少しづつは居た。併し全體からいふと旅に出て居る白人には物知らぬ者が多く、殊に古くから來て住む者は、殆と同じ國から出た者と思はれぬほど、無法な事を何とも思はずにする奴があり、それを見ると後から來た者は、びつくりし且つ考へさせられて居た。外國の旅行をすると、東洋の沿岸では度々實に不愉快な光景を目撃する。それを見馴れて何とも感ぜぬやうになつた者が、在留日本人の中にも澤山居つて、中には少しづつは白人の眞似をして居る。それから又此樣に相憎みつゝも、段々に黄白黒白等の合の兒が増して行く(94)のである。彼等合の子の中途半ぱの立場と、弱い情無い感情とは、更に一段と社會の調和平靜を困難にして居る。之を要するに現在のところでは、まだ植民悲史の終の章を書くまでには至らぬのだが、年を追うて公然の惡業が、少なくも僞善の點まで進みつゝあることは事實である。而うして國際聯盟の如きは世評の通り、今尚氣の毒な機關には相異ないが、それでもやはり此新傾向を助長する力はあつたので、兎に角に人類平和の事業は今度の大戰爭を堺として、一時代を劃したといふことは言はれるのである。

　

　　　　　　　學問進出の新方向

　

　諸君と別れてからの三年間の進歩に付て、自分の心づいた二三の點を申すならば、第一には太平洋研究の學問が、著しく進んだことである。阿弗利加もスタンレイの時代を堺として、大分に智識が具體化したやうだけれども、學者の興味は追々に東の方へ引かれて居る。太平洋研究の學問としての面白味は、一言で言ふならば何でもかでも、歐羅巴と夏冬の相異の通りに裏がへしであることである。それも遠方から見て居るだけでは、十分の調査もしにくいのであるが、一方には濠洲ニウジーランドの土着した移民の子孫が、時を經て漸く文化の價値を知り、教育や研究の方にも次第に國らしくなつて來た結果、彼等の大學にも段々獨立してよい學者を出すやうになつたので、今ではもう北半球の他國の人にばかり、太平洋の學問を委ねては置かれなくなつたのである。

　併し將乘の此方面の學問に對しては、何と言つても北米合衆國の力は大に働くことだらうと思ふ。此國とは我々日本人は、近年何度も不愉快なる感情衝突をした。彼の新たに採用した移民政策は確かに無理なものであつた。併し考へて見ると、今更此樣な無理を敢てしなければならぬ程、從來の態度はまだ鷹揚であつたのである。其隣國のカナダの如きは、最も早くから日本を警戒し、又南阿弗利加共和國でも、濠洲やニウジーランドでも、何れも最初から最近(95)の北米がやつたやうな事を、我々に對して遣り續けて居たのである。米國が遲蒔きに此等の因業なる白人國を模倣する迄には、日本國民の惡感や報復に對する懸念とは獨立して、米國彼自身も亦大に煩悶したのである。煩悶すべき理由が十分にあつたのである。米國が獨立以來の一世紀の間に、國内に入れてしまつた異民族の、最多數を占めて居るのは黒人である。その以外にも少數の亞細亞人、又東歐羅巴の氣持ちのちがつた白人があつて、此等はまだ融合して一體の國民とはなつて居らぬ。即ち彼に在つては人種間題は國際の問題に非ずして、眼前の國内問題である。如何にして此間の和親關係を保ち、怖るべき分裂又は闘爭を避けようか。如何にして英國出身の白人の因習感情又は利己心と、この新しい國家理論や人道觀との、抵觸を免がれしめようかといふことに苦心した結果、今頃になつて少しでも其原因となるべきものを除いて見たいと考へ始めたのだ。が實は必ずしもそれが有力なる手段とも認められて居ない。問題は尚次々に發生し、學問は多分行く／＼最も賢明に之を解決するであらう。面白いことには之を考へて居る學者には猶太人が多く、しかも猶太人は今後の米國に於て、一番困難なるべき人種問題の種である。

　それから今一つの米國の特殊事情は、太平洋諸島に對する地理上の關係から來て居る。貿易上又國防上、太平洋の交通は彼に取つて一番大切であるにも拘らず、おくれて世界に出て來た爲に、米國の屬地といふものが此方面に於ては甚だ少ない。日本の近くではフィリッピン諸島、其東方にグワム島、それからずつと離れて布哇の一群島があるが、赤道以南に行くと僅かにサモアの東二島を持つだけである。サモアは大きな島が四つあるのを、今から四十何年前に獨逸が西の二島を押取りした際、大急ぎで米國も殘りの二つを手に入れた。あの廣大な版圖を持つ米國としては、別に土地などの入用は無いのだが、屬領が少しも無くては肩身が狹いとでも考へた爲であらう。其後太平洋岸の繁榮は愈々加はり、濠洲との交通も密接になつて來たから、追々にはサモアも布哇以上の重要さを持つかも知れぬが、現在に於ては僅かばかり英領の間に介在して居るので、却つて管理が厄介な位で、まだ是ぞといふ經營も試みては居ないのである。

(96)　實際又歐羅巴の舊國のやうに、植民地經營をする必要は米國には無いのであつた。從つて今日多くの米人の太平洋上に出て働いて居る者は、其目的は他に在るのである。其中でも傳道事業の盛んなことは米國が先づ一番で、日本の委任統治領にも來て居ると同樣に、他の大小の島々にも強固なる本國の後援の下に、熱心で眞面目な宣教師が送られて居る。阿弗利加大陸にも亞細亞にも入込んでは居るが、やはり最も力を入れて居るのは太平洋方面であつて、土人の生活に關する色々の消息が、此等宗教家の手に由つて本國に傳へられて居る。此以外には又多くの元氣のいゝ旅客の往來もある。英佛屬領諸島に關する智識は、英佛人自身に次では米人が最も豐富なものを持つて居て、中々日本人などの及ぶ所では無い。彼等の旅行記見聞録、又は之を基礎とした批評論議の類は、我々に取つては興味ある讀み物である。殊に英人の植民政策に對しては、不滿と輕蔑の感を抱いて居る者が米國には多く、一般に歐羅巴舊國の形式主義と僞善とに對して、遠慮の無い評論をした人が幾らでもあつた。其言ふ通りを信用するわけにも行かぬが、率直な記述の中には參考となる點が少なくないのである。

　白人植民家の何よりも煙たがるものは、前には土人を愛する宣教師あり、近年には米國から遣つて來る新聞記者があつた。斯ういふ人たちの紀行や報告が世に出ぬやうだつたら、太平洋住民の幸福は、或は永遠に改良する見込は無かつたかも知れず、資本主義の盲目的な活動は、何をしたか分つたもので無いのだが、出しやばりの正直者なる米合衆國が、幸ひにして太平洋上に於ては大した植民國で無かつた御蔭に、社會は早くから此間題に留意し又警戒することが出來たのである。植民國自身の永年の經驗、之に對する外國の公平な批評を參酌して、現在多くの研究者の抱いて居る見解を概括して見れば、要するに白人は到底熱帶諸島の植民には向かなかつた。來て住むことは出來ても來て働くことは出來ない人民であつた。白濠洲主義などと稱へて、あれ程我々に惜んで居るオーストラリヤでも、現にその北部の三分の一だけは、支那人を頼んでやつと少しづつ開いて居る?態である。其他の多くの島々でも、官吏か會社員かのしかも年若く屈強なる者が一時的に在勤するの外、永く住み着かうといふ白人は殆と無い。半分西洋化した(97)合の子か、早く渡航した印度人馬來人支那人などの子孫だけが、今では眞劍に土地に根をはやさうとして居るのである。尤も還るに家なき墮落しした白人の、うろ／＼して居る者は少しあるが、是は無恥無慚の死んだ方がよいやうな奴ばかりで、白人に取つては寧ろ心細い生存である。

　しかも一方には斯んな白人の支配の下に、土人の衰亡は月に日に甚だしいのである。惡病惡習慣の船で遠方から運ばれたものが算へ切れぬ程ある上に、折角善意を以て試みたる生活改良が、大抵は却つて原住民の生活力を妨碍して居る。戰爭が絶え危難が減じたといふことさへ、土人をして生活の興味を失はしめる原因となつた。彼等の敬慕の標的であつた土酋名門の勇士は、多くは世を憤つて悲壯なる終をとり、嗣いで起るものはもう無かつた。優柔無氣力なる改宗者だけが白人から保護せられ、彼等には積極的な生活上の興味刺戟が無い爲に、努力といふものは少しもその必要を見ず、其結果であつたかどうか、兎に角に人の生れ方が少なくなつて、人口は減少する一方である。曾て繁榮した島々の、再び草木を以て閉されたものも多く、數年前の流行感冒で一時に減じた人間の數が、どうしても元に戻る見込が無い。此まゝ自然の成行に放任して置くことは罪惡の如く感ぜられるにも拘らず、もうだめだらうといふ悲觀説が頗る有力なのである。しかも皮肉な事には此頃になつて、島の生活の特性が段々に研究せられ、今まで一通りの觀察では見現はすことの出來なかつた程、土人の歴史は意味深いものであり、又白人文明と對立した全然別種の文明が、成長せんとして中途で挫折したのであつたことを、心付く者が出て來るやうになつた。この大切な社會學上の問題が、まだ一通り明かにならぬうちに、不幸にして悲觀論者の豫言が適中し、今殘つて居るだけの資料すら消滅してしまふやうなことがあつたら、恐らくは白人自身の中にも、過去の白人の植民政策の拙劣と失敗とを、悔恨し痛罵して止まざる者を出すことであらうと思ふ。

　

(98)　　　　　　　白色圏外の文明

　

　尤も此問題は獨り赤道以南の諸島だけでは無い。日本から近いインドネジヤンの若干の民族、例へばフィリッピン群島の原住民なども、同じ道を進むのでは無いかと思ふ心配がある。我國の領内では臺灣の生蠻なども同樣である。殊に北海道樺太のアイヌなどは、久しい間首狩はさて置き、戰爭なども少しもしない平和なる土人だが、それでも尚一段進んだ文化と接觸して住むやうになつてから、少しでも人口が増加する傾向は見えぬのである。棄てゝ置けば末は消え去ることに殆と疑ひが無い。さうかと思ふと他の一方には、幾らでも増加して行つて將來の心配な島もある。蘭領印度の殊に瓜哇本島などは其著しい例で、十九世紀の始から二十世紀の始までの百年に、人口は忽ち十倍し、其後の四半世紀に又二割五分を加へて居る。結局どうしようかの問題は増減雙方ともに未解決である。併し増す方はまだ何とでも考へられるが、人口の減退のみは方法がつかぬ。支配國としては寧ろ世界が此事實を知らず又は深く注意をせぬ間に、何とでも成るやうに成つてくれゝばよいと思つて居るかも知らぬが、もうそれは不可能である。濠洲の南に在るタスマニヤ島の土人が、世話の不足から到頭今より五十年ほど前に死に絶えてしまつたことを、學者も宗教家も今以て深く歎いて居る。此他にも人の絶えた例は小島には幾つもあるらしい。赤道の直下に在るナウルといふ燐礦島の如きも、以前の住民はもう居ないので、今居る二千人ばかりは何れも近年方々から寄せ集めたものだから、古い歴史は空中に消え去つてしまつた。日本の預かつて居るマリアナ群島などにも、住民の近世入りかはつたものがあるのである。併し今後はもう何人も氣付かぬうちに、ある種族が根絶するといふやうなことは有得ないであらう。西比利亞の北氷洋沿岸などには一年間の八九ヶ月は氷雪に閉され、交通の出來る際にも遣つて來る者は、極惡非道な少數の毛皮仲買ばかりで、富は奪はれ若い娘は連れ去られて、次第に婚姻は六つかしく兒は生れず、人の數は減ずる一(99)方といふ樣な、悲慘なる人種がそちこちに僅かづつ居るのだが、太平洋の往來は海で阻てられてもそれよりは遙か自在で、又多くの旅行者及び在住宗教家の監視もある。殊に國際聯盟の新機運をを利用して、以前コンゴー問題の盛んに論ぜられた折に創立した土人保護協會の運動は再び復活し、もう亞弗利加の大陸ばかりでは無く、弘く異人種の支配を受ける所謂未開土人の爲に其利益を擁護しようと力める者が多くなつて來た。虐待などの不可能なるは勿論、假に少しもいぢめずに居るとしても、現在の趨勢を其儘にして構はずに置くといふことが、既に文明國政府として許すべからざることゝ看做される世の中になつた。

　そこで更に徹底的に、土人人口減少の眞原因を、尋ね究めようといふことになつたのであるが、多く死ぬといふ方の事情は或は一つづゝ、次々に分つて行く見込も立つか知らぬが、少なく生れるといふ方の理由に至つては、多くは複雜にしてまだ要點に觸れることの六つかしいものがある。社會組織の不時の變化、集團心理の外部からの攪亂の如き、如何なる點までと確かに突留めることは出來ぬ迄も、若干の關係をもつて居ることだけは疑ひが無いのだが、さて之を源に向つて辿つて行くまでに、今尚此方面の學問は進んでは來て居らぬのである。たゞさういふ大なる未發見の境地が、所謂民族生理の學問には在るといふことが、先づ大體認められただけである。我々の敬慕する所の博士リバース、去ぬる一九二二年に四十七八歳の早齡を以て世を辭した英國の一學究の如きは、今より十餘年以前に、既に長期の學術探險を終つて、メラネシヤ人の社會組織に關する一著を公にして居る。此人以前にも既に此世紀の初頭に、ケムブリッジ大學の研究船が送られ、トルレス海峽附近の諸島に付て、色々有益なる調査はあつたけれども、リバースの事業は正しく其斷案に於て劃時代的であり、同時に又我々日本人の自身の歴史を明かにする爲にも、有益なる參考である。土人の心理と是に基いて發勤する社會生活の特色には、從前の基督教本位の研究から全く立離れて、今一段と根柢から考へてかゝらねばならぬものがある。それが斯ういふ新しい學者の力によつて、漸く世に明かになつて來たのみか、同時に宗教その物の眞の會得の爲にも、一つの最も確固たる立場を供與してくれることになつたのであ(100)る。

　希臘羅馬の一つの型の文明から引續いて、二千年近くの間も耶蘇教の信仰に包まれて、寒い國ばかりで成長した歐羅巴式の文明が、太平洋の中央に散布する此等の島々の人の持つて居たものと、共通で無いのには何の不思議も無いが、だからそれは價値の低いもの、少し試みて到底完成する見込の無かつた劣質腦髓の所産であるかの如く、何の根據も無く久しく推斷して居たことの誤りが、見事に看破せらるべき時代が來たのである。白人侵略といふが如き突然且つ偶然の歴史的變化が無かつたならば、後に如何なる珍しい形をとつて、此文明は成熟したか知れなかつたのである。全然西洋のものとは法則を別にして、しかも大なるもの又美しきものゝ芽生はたしかにあつたのである。殊にポリネシヤ人の要素には、大分古い時代に西北の方面から、海を渡つて入つて來たかと思ふ痕跡がある。二千年にも近い洋上孤島の生活で、體質にも外貌にも新たな特徴が出來たので、普通の旅人が想像して居るやうに、メラネシヤ人とは全然別系統のものでは無いと説く人も出來た。兎に角に非常に複雜な血の混淆があつて、從つて起原を問ふことも殆と不可能にはなつたが、當初何れも亞細亞大陸の南端から、海上の遷移が始まつて、しかも現在西の方へ進出して居る大種族と、遠い從兄弟の關係が辿られるとすれば、彼等の生活の何れかの部分に、基督教以前ヘレニズム以前、或は吠　　咤《ヴエダ》以前とも名づくべきアリヤ人思想の芽生が、まだ潜んで持傳へられて居るわけである。それが永い閲歴と環境の變化とに由つては、斯んな形態をも取り得るといふこと、個々の別天地が作る信仰感情と社會諸制度、又其異同に基いて發生した現在及び未來の紛亂と衝突、それが全世界の運勢にどう影響するかといふこと等、際限も無く六つかしい大切な問題を提供することになつたのである。

　日本の今の人類學で遣つて居るやうな、骨格其他生理諸相の比較研究、それから外部に現はれた生活技術器具材料、擧動言語の容易に觀測し記述し得るもの以外、更にその今一つ底に潜む民衆心理の動きと影響、例へば宗教の最初の刺戟となつた夢やマボロシの色々の變化といふやうな、至つて取留めの無い種族現象の痕跡までが、調べて行く方法(101)があり、調べて見れば追々に何か至つて大切なる社會法則を説明するといふ見込が立つた。リバース去つて後一時此方面の研究に中心が無くなつたやうな感はあるが、兎に角に從來は單に成行である、偶然の變化であるとのみ考へて、人の些しも比較を試みようとしなかつたものが、段々にある一貫した法則の片端であつたことを、認められようとして居るのである。

　

　　　　　　　日本の分擔すべき學問

　

　故に日本が若し今迄の通りに、幾らか流行におくれつゝも、眞似だけは必ずする國民であるならば、是から三十年五十年の後の、學問の方向だけは凡そ豫察し得られるのである。只大學は寺院に次いでの保守派であるから、稍々餘分に遲蒔きに澁々ながら追隨するといふ結果に、陷りはせぬかと氣遣ふのみである。しかも弘い世界を見渡して、此種の學問の恩惠利益を最も多く收め得る國、同時に此間題に對する研究の材料を、手近に最も多く供給し得る國は、日本をおいて他にはあるまいと思ふのであるが、是でも人は尚此學問の世間的價値を疑ひ、道樂の代りの無害な暇潰しのやうに考へるであらうか。

　自分たちの一團が今熱中して居る學問は、目的に於ては多くの歴史家と同じい。只方法だけが少し新しいのである。今其差別の點をあらまし述べて見るならば、昔の人が殘して置いてくれた史料には二つの種顆がある。第一種の特に後世に傳へる目的で保存せられた史料は、彼等の眼界想像力若くは利害關係の狹かつた場合には、必ず甚しく一方に偏し又分量が少ない。時代により島によつては、同じ國の中でも殆と何物をも留めない土地さへある。それだけでは不充分なので第二種の史料、即ち偶然に殘つて居る生活痕跡を大切な參考とすることが、百年この方の學風になつて來た。例へば（一）偶然別途の目的を以て保存した文書。俳諧の連歌などから市井の行事を想像し、其磧西鶴の好色(102)本によつて、京阪の商人道�ｺを見付けようとするの類。（二）金石文などに出て居る年代や人名事蹟。是が其所在地の過去の?態を推測する爲に、毎々有力な材料であつた。（三）物品の破片や工作物の痕、即ち所謂遺物遺跡である。斯ういふものに力を專らにする學問を、特に今日は考古學と名付けて居る。其は一種の因習であつて、つまりは古代を考へる手段が、是より他には無いものゝ如く、悲觀せられて居た時代の命名に過ぎないのだ。我々日本人の遠祖の使用した器具家屋は、主として木であつた爲に朽ちて殘らぬものが多いが、手法とか形　　状とかは數十囘の繰返しを以て永く殘つた。後に變更した部分は比較によつて段々に之を判別し得るのである。此意味に於て又（四）人自身の外貌骨格等は、日本の如く混淆の少なかつた國では、非常に重要で且つ豐富なる遣物である。之を史料として我々の過去を尋ねようとする人類學の一方面がある。日本では醫學者が興味をもつて此方の研究を引受けて居る。次には（五）言語即ち名づけ方や言ひ現し方の色々の變化、是も眼と耳との差こそあれ、至つて確かなる遺物である。領分ちがひといふやうな心持から、まだ一向に歴史の研究者は手を付けて居らぬが、當の地主の言語學者も今はまだ格別の仕事をして居らぬ。其次には（六）民間文藝、即ち記録に由らずして今日に傳はつた歌謠昔話謎諺などの中に、見出さるゝ前代人の物の見方考へ方である。文學史といふものが正しく解せられるならば、必ずその主要なる部分を占むべきもので、現に諸君のよく知つて居られる折口信夫氏などが、今全力を擧げで開拓して居る荒野らである。自分も閑居の日が來たら、その中の五畝歩か一段歩だけを、小作でもして見たいと願つて居る。最後に尚一つは（七）風俗慣習、時としては迷信などとも呼ばれて、今以て暗々裡に平民の行動を支配して居る信仰のきれ／”＼なもの、人によつては是だけを引離して土俗學と名づけ、何と無く其材料だけを珍重して居るが、之を確かな校量比較の上に組立てゝ、國の昔の姿を畫き出さうとする骨折は、今までは重きを置かれなかつた。併しもう大分優れた判斷力のある若い人たちが、此方面に研究の手を着け始めたから、遠からず一躍進の日が來ることゝ豫期して居る。

　さて此等の諸材料の中で、始の五項目までは西洋の諸國でも、非常に烈しく變化はして居るが、兎に角に殘つて居(103)る。變化が烈しいだけに比較に興味が多く、又成績が認められ易い。故に澤山の學者が四方からたかつて居る。之に反して後に擧げた二つだけは、千年以上の基督教の力と、大規模なる民族移動と、機械文明の侵略との御蔭で、今や目ぼしい學問の進んだ國では、史料の最大部分が消滅し、たま／＼殘るものも土地及び居住者との因縁が薄くなつて居る。それを捜して學問に用立てるために、學者は砂金取りのやうな忍耐を敢てして居る。それに比べると我々の國は羨まれてよい。實際又彼等も頻りに日本を床しがつて居るのである。日本は國が近世化したのは最近で、今以て一つの村里、一つの家のうちにさへ昔が共棲して居る。えらい速力を以て空に散じつゝあるが、まだ民間藝術の花は萎まない。それを其間に生れた者が母語の親しい感覺を以て、學び知ることが出來る國である。

　故に單なる蒐集採録を以て能事了るとせず、集まつた材料を靜かに書齋に於て整頓し、又その經驗を携へて再び出て捜索し觀測するならば、其收穫は當然に外國に倍加すべきで、行く／＼は獨り同胞日本平民の前代に付て、より精確なる理解を得るに止らず、更に之を他の比隣民族の生活と比較して、後始めて日本人の極東殊に太平洋に於ける地位、所謂有色人種の互の關係などが、明白に誰にでもわかることであらう。又必ずしも急に明白とまでは行かずとも、少しでも多く知れば少しでも親しみが増して來て、同情が起り從つて理解が可能になる。小さな島々には助けに乏しい住民が居ること、彼等を苦しめ滅さうとする粗暴なる文明力は、西から來ようと東から來ようと、又我々の中から現れようと、必ず抑制しなければならぬことを感じて來る。又是と同時に、民族の弱點がどこに在り、強味が何れに在るかもわかつて、國として結合しなければならぬ程度方法も明らかになる。子弟同胞を本當に幸福にする手段も見出される。之を要するに將來世界の日本人としての支度が出來るのである。

　

(104)　　　　　　　白人學問の功績

　

　しかし是には尚外部の援助が不必要で無いことは勿論である。どこの國でも歴史を學びたいといふ志は内に發するが、出でて外の國々の同種の事業を見聞するに及んで、始めて其學問は進歩するのである。のみならず單なる智識の爲にも、國際の相助は有益であつた。國によつては國内には既に手が餘つて、他の民族の歴史を知るために、出て働いて居る人が多くなつた。墺太利や瑞西のやうな少しも植民地を持たぬ國にも、異人種を調査する學問は夙く起つた。佛でも米でも今日の研究家はどし／＼と我領土の外に踏出して居る。さうして其成績には感謝すべきものが多かつた。たゞ便宜の上から言ふと、手近い部分を各自が分擔するに如くは無い。日本に關する外人の記述などを見れば何人でも實驗し得られるが、國外から來て調べた人の觀察推理には、如何に丁寧な手段を盡しても、尚飛んだ間違つた斷定を生じ易い。それには主として用語の相異が妨碍をするからで、安心して彼等に一任することは到底出來ない。我々日本人は母語の感覺を以て直接に自分の遠い過去を學び得る幸福を十二分に利用するのみならず、尚進んでは此悦びを隣國に分つべき義務がある。支那は現在に於ても確かに智識の大寶庫であり、それが開かれると世界は均しく益するのであるが、彼等自身の鍵は失はれたか、然らざれば大に錆びて居る。それが最近に至つて始めて心付く者が出て、改めて史書以外の資料を直接に民間に求めようとして居る。印度人も次第に同じ意識に眼が覺めた。彼等の學問が此方向を取るべき時節も到來した。馬來人其他所謂東印度諸島の住民も、やがては之に嗣ぐであらう。フィリッピンなどは氣の毒であるが、餘りに混同が烈しい爲に、其智力は既に省察に適する迄に進んで居るのだが、先祖が幾つにも分れて居て、歴史の中心をきめるのに我々の味ひ得ざる苦心をして居るかと思はれる。

　それから今一段と學問に向かない民族はどうするか。島々の人に追々と自分で研究する力を授けるのと、さうは待(105)つて居られぬから今の内に、外部の手で調査してやるのと、二者の得失利害は容易には決し兼ね。行く／＼は我々日本人の如く、個性も自分で考へ得るやうになるべきであらうが、其資料の消えて行くのが早いから、兎に角に不完全不精確の嫌ひはあつても、やはり外の者の探訪記述をも同時に歡迎するの他はないのである。此點は我國内の各地方でも同じことで、土地に正しい學者の養成せられる迄は、棄てゝ置くよりも旅人の觀察記、又は傳聞の類までを大切にし、又住民に代つて考へてくれる學者に感謝すべき場合が多いのである。

　之を要するに白人の物ずき筆まめは、大體に於て學問上有益であつた。殊に此世紀に入つてから彼等の調査方法は急激に改良せられた。米國がフィリッピンを取つてからまだ三十年にはならぬが、あの後の土俗調査事業には目ざましい成績がある。一番厄介なる土人言語の如きも、久しく一地に駐まつて忍耐して研究する學者がある。蘭領印度などは三百年間の領有統治によつて、普通智識としても我々が臺灣の生蠻を知るの比で無い上に、有數の學者の生涯を此調査に傾けたものが幾人もあり、各地の地方官や教師船員は、それ／”＼一小部分の寄與をして、それが今は大變な集積を爲し、二十世紀になると更に亦大規模な學術探險が行はれた。それ等の報告類は文庫に充ち、一部分は索引によつて拾ひ讀みをし得る迄に整頓せられたが、尚その他にも我々の一生では見盡せぬ程の材料がたまつた。佛蘭西人は學者としては驚くべく根氣がよい。專門家以外に傳道師の中にも篤志な人があつて、所謂印度支那領に關する近年の研究書が、目録だけでも見切れぬほど澤山に出版せられて居る。英國人の仕事は比較的知られて居るが、是も勿論他の諸國に劣らず、印度は固より緬甸《ビルマ》でも馬來半島でも、それ／”＼立派な一流の學者が出て居る。支那に關する資料なども、一番纏まつたものは皆英人の手に成つた。殊にニウギニヤ以東の南太平洋諸島に至つては、今までは殆とアングロサクソンの獨壇場であつた。英本國人の手の屆かぬ部分は、ポリネシヤ學會やシドニイ、メルボルンの大學の先生たちが之に着手して居る。

　この四隣の?勢、殊に白人の活動といふものは、正しく衿持ある日本青年に對する一つの挑戰である。これが跣足(106)で走るスポーツなどであつたら、第一周圍の者が氣をもまずには見て居られまい。全體亞細亞東南の諸群島の如きは、政治上の割據さへ無かつたなら、實は歐洲の諸國が集まつて一團の社會をなす以上に、より鞏固なる共同生活體である。過去千年以上の間、支那人などは自分の大陸を漂泊するやうに、此間を移動して居たのである。現在の經濟生活に於ても、よほど人爲を加へぬと、此群島を區劃し對立せしめることは難い。然るに一たび所謂文明人の入つて之に主たるや、無害有用なる智識の事業にすらも、尚協同が行はれない。各人別々の鋤鍬を以て、小さき一隅を耕すに止まつて居る。固より聯絡を欲せぬのでは無い。支那や日本がまだ加入し得る資格を持たぬからである。近々ブリュッセルで開かうとする萬國會議にも、太平洋の學問を議題とするといふ通知があつた。日本は有力なる太平洋上の一國家だが、出て行つて差當り言ふことが無いさうだ。勿論是は國内の學問が絶無だといふことを意味するわけでもあるまい。一つには公表の方法が具はらず、勉強も張合ひが無いといふこともあらう。日本語で感じたことを英語で陳述せねばならぬのは情け無い話で、それ故に自分などはエスペラント運動の大賛成者である。けれども問題は決して國際用語如何では無いのである。假に鳥居博士以上のフランス文、西村眞次氏だけの英文が安々書けたところが、書いて見せ語つて聽かせる内容が無ければ何にもならぬ。受賣も成程國内では學問のうちだが、之を再び飜譯して見せることは、あたかも水を煮て食べさせようといふ樣なもので、本元に向つては通用しない。然るに日本の名士の中には、人種差別論さへ白人から受賣する者があり、また其受賣すら十分には爲し得ない有樣である。斯くして大學あり學者ある國として認められたいといふのである。國を愛する一國民たる自分すらも是には首を傾ける。況んや冷淡なる世界は果して之を許すかどうか。

　

(107)　　　　　　　積極的樂觀

　

　自分が歐羅巴から歸りがけに、北米を通過した頃は、例の移民問題の前途の甚だ暗澹たる時で、又大震災の直後であつた。戰後反動の不景氣は今日の失業問題を豫測せしむるに十分であつた。邦人進出に對する米國の妨碍と、本國に於ける人口増加の現象とは、殆と我々をして途方に暮れしめた。その多忙なる旅の中で、私は勉強して太平洋岸の二三の大學を覗いて見たが、彼地では十種に餘る異民族が相集つて、盛んに人種學人類學の講義を聽いて居る。大學の窓からは世の中を客觀して居る。學者の囚はれざる批評の資料として、尤も新しき智識を渇望して居り、新らしい疑問と其見方とは、憚る所なく青年に向つて説き示されて居るのであつた。

　そこで自分は歸つて來るや乃ち、帝國大學の有力者、又は大政治家と名の付く人々にも説いて見た。迂遠なやうなれども一日も早く、人類學殊に所謂人種學の比較研究を盛んにして、日本人中によき學者を作り、白人等の好奇心に乘じて新しい智識を先づ彼等に供與しよう。さうして之に由つて又別の方面から、人類の久しい間の因縁を考へさせ、如何なる肌膚の色如何なる髪の毛の人間たるを問はず飢ゑてはならぬこと、血にまみれて斃れてはならぬこと、其子孫を面前に於て屠らしめてはならぬことを感ぜしめて後、それから一歩を進めて協同して人種差別論の當不當を考へることにしようと説いた。何れも大賛成ではあつたが、それは單なる名論としてもう忘れられてしまつた。

　地方々々に大學は出來る。低い學校も昇格する。私立にも大學は増加し學生は幾らでもある。しかも其構造を尋ねて見ると、ある一つの古い大學の恰好を寫すこと恰かも鏡餅の上段の如く、よく似て居て一まはりだけ小さい。年々西洋で出る本と雜誌とを讀んで、會得する爲によほど澤山の時を使ふ。卒業生が懸命に職を求めること、是も今は是非が無いことゝ思ふ。たゞ困ることは彼等が生活の餘暇を以て、同胞全體の幸福の爲に學問をしようといふ志が、却(108)つて始から大學に居なかつた人よりは少ないことである。此人たちに向つて早く學問を以て同じ惱みの異民族までを救へと説くことは、委細承知と答へて貰つても尚心細い。況んや中にはさうは言ひさうも無い顔付をして居る。此有樣では國情はまだ／＼惡くなるだらうと思ふ。

　自分たちは文化史の學徒としては、普通以上の樂觀派である。但し其樂觀は決して消極的のものでは無い。打棄てゝ置いても段々によくなるなどと考へたことは無い。我々が何かしさへすれば世の中が住みよくなるといふのである。だから何かしようといふのである。幸ひにして漠然たる智識慾は既に現れ、我々の學問も次第に欣び迎へられんとして居る。歴史の學問の新しい意義を、問はんとする風潮が強くなつた。若し諸君が縁あつて祖先の生活の痕を熟視せられるならば、決して多數の人が會て想像したやうに、散漫亂雑なるので無かつたこと、我々の社會組織は本來丈夫なる織物の如く、又其綾と紋樣とは、今日あるものよりも遙かに精巧であつたことに心付き、單に其きれ／”＼の片端を手に取つて、感動し讃歎してばかりは永く居られず、如何にして以前は斯くの如くであつたか、それが如何にして今の如く變化したか等の、無數の疑問が次々に起つて、自ら制することが出來なくなるであらう。

　此疑問に對しては、遺憾ながらまだ明晰な答を與へ得る者が無い。故に我々はいふ。先づ徐ろに尚觀察して見よう。さうして又靜かに考へて見よう。多くの正しい資料を協力して集めて見よう。それを比較分類して段々に整頓した記録にして置かう。その上で無いとまだ斷言はし得ぬが、是が古今に亙つて民族の生存の姿であるらしい。其根は深く入つて居るものらしい。或は時としては打製石斧の世まで一貫して居るかも知れぬ。さうして又横にも弘く延長して居るのかも知れぬ。最も謙遜なる多くの有色異人種までが、　　　屡々此とよく似た生活をして居るのを見ると、さう考へずには居られぬやうになる。

　

(109)　　　　　旅行の進歩及び退歩

　

　　　　　　　旅行道の變遷

　

　一つの國民の發育生長の爲に、「旅行」はどれだけ迄の役目を勤めなければならぬか。別の言葉で謂ふならば、「旅行」の榮養價値如何。これは歴史を輕んぜざる學生ならば、さしたる骨折無くして解決し得る問題であつたにも拘らず、今までは特に之を考へて見ようとした人が無かつた。而うして日本の旅行道ともいふべきものは、あらゆる社會の文化現象と同樣に、時代につれて追々に其姿を改めて來たが、人は又現?を以て常態なりと誤解して、其變遷を指導して見ようとする念慮がなかつた。

　政治にも經濟にもすべて此病がある。諸君は或好機會に於て、この自ら作つた鳥籠見たやうなものゝ中から、羽ばたきをして飛出す練習をせられたらよからうと思ふ。其方法を講ずる爲には、先づ頃合の問題として、この旅行の價値といふ類の、比較的議論の少なさうな方面から、手を着けて見られるのも一策である。但し自分の話は單なる御參考に過ぎない。此間題を研究する方法は、外にも色々有るかと思ふが、我々の仲間でのやり方は、現在一番よく知つて居る智識を基礎にして、それから少しづつ以前へ溯つて行かうといふのである。吉田東伍氏などの謂つた倒敍法では無く、得易い資料の實證に由つて、氣付かぬ過去へ歸納して行かうといふのである。便宜の爲に此方法をフオクロ(110)アと我々は呼んで居る。在來の文化史家とは異なつた態度である。さうして日本には殊に適した方法のやうに思つて居る。序に其大要を聽いて貰ふことが出來れば自分としても幸ひである。

　

　　　　　　　風流の苦痛

　

　そこで話は當然に自分の經驗から出發することになるが、それでなければ別に吹聽に値するやうな感心なことは一つも無いのである。古い話だが私は日清戰爭の前後から、ぽつ／＼と旅行を始めて、明治大正の境頃までよく方々をあるいた。學生で小遣の乏しかつた頃は、幸ひにして旅行の經費が非常に安く、それが段々と高くなつた頃には、もう色々の便宜があつて、自由にどこへでもあるくことが出來た。當時の先輩としては田山花袋君、其他知名の人が多かつた。全體にあの頃は讀書生は大抵同時に旅行家であつて、一時風を爲すといふ有樣であつた。そこで自分たちは何の根據も無しに、旅行といふものは昔も後世も、本來此の如くなるべきものと思つて居たのであつた。

　ところが久しからずしてそれが誤りなることを覺つたのである。第一に現今世人が旅行と名づけて居るものと、自分などの經歴とは可なり内容が違つて居る。更に以前の時代を囘顧すると、亦私たちの旅行とも同じでなかつた。つまりは色々の外部の條件が綜合して、最近の三四十年が旅行其ものゝ黄金時代、それも少し大袈裟だが兎に角に理想に近い時代であつた。さうして其條件は一つづゝ、今に無くなつて行きはせぬかといふ心配がある。即ちあらゆる人間の社會的行動と同樣に、旅行も亦段々に價値の高いものへ變形して行き得られると共に、時としては又退歩することもあるから油斷がならぬと、感ぜざるを得なかつたのである。

　タビといふ日本語は或はタマハルと語原が一つで、人の給與をあてにしてあるく點が、物貰ひなどと一つであつたのでは無いかと思はれる。英語などのジャーネーは「其日暮らし」といふことであり、トラベルは佛蘭西話の勞苦と(111)いふ字と、もと一つの言葉らしい。即ち旅はういものつらいものであつた。以前は辛抱であり努力であつた。其努力が大きければ大きいほど、より大なる動機又は決意が無くてはならぬ。だから昔に溯るにつれて、旅行の目的は限局せられて居る。樂しみの爲に旅行をするやうになつたのは、全く新文化の御蔭である。

　尤も漫遊といふ語だけは相應に古い。例へば足利時代の文獻の中に、道のはたの道碌神の由來を説いて、共工氏の子漫遊を好む、道に死して靈となり之を祀つたなどと話して居る。是は今いふ疫病神見たいなものである。神靈ならば往來の自在なるは當然のことで、盆と彼岸とには地獄からさへ還つて來る者がある。しかし生きた人間で文字通りに、漫遊を爲し得た者は古いところには無いかと思ふ。話には殘つて居るが西行法師最明寺時頼なども、實はどうあらうかと思つて居る。宗祇宗長以下の歌人連歌師に至つては、漫といふことが餘程困難であつたことは、其紀行を讀んで見てもわかるのである。

　關東地方の地誌としてよく知られて居る廻國雜記の道興准后などは、なるほど永い歳月の間根氣よくあるいて居る。けれども漫どころか澤山の拘束を受けて居る。第一に下手でも何でも、歌を詠んで人と應酬せねばならなかつた。是は誠にえらい通行税である。それから以後の行脚文人に至つては、今一段進んで旅行職とも名付くべきものが多く、旅行で生活をする點は今日の相撲巡業、旅役者などに近い者が多かつた。いつの頃から言ひ出したことか知らぬが、歌枕といふ言葉があつた。實方中將の話などは隨分古くから有名なものであつた。併し何の事であるかよく分らぬのは私だけであるまい。恐らくそんな事を言つて漂泊生活に勿體を付けたものであらうが、彼等は結局旅をしようとしまいと、依然として彼等であり、我々の持つ時代文化とは久しく格別の交渉が無かつたのである。

　

(112)　　　　　　　漫遊者の記録

　

　地圖學の方に興味を持つ人ならば、既に心付いたことであらう。日本の國繪圖などは實に妙なカーブを以て、出鱈目から急に實際に近づいて來て居る。馬鹿げたうその地圖がつい近頃になつて、忽ち今日のに近いものになつた。必ずしも測量とか製圖技術とかの問題で無かつたことは、西洋航海者の日本地圖を見てもわかる。つまりは精確に知らうといふ願が、昔の旅人には無かつたからである。國の名と里の名だけは入用があるから記憶せられる。吾妻に下るには逢阪を越え、筑紫に行くには津の國を經るといふことを、京の人が知つて居たのは旅行の效果かも知れぬが、土地土地では境の訴訟が頻繁に諍はれる時代までも、人は駿河と信州とが隣國であるか否かをさへ究めなかつた。智識の爲の旅行で無く、衣食以外の何物かを得んとする旅行では無かつたやうに思はれる。

　數多い現存の紀行文學を見渡して、始めて漫遊家らしい漫遊の跡を認め、或は我々の望んで居る旅行に近いと思ふものは、僅かに百二三十年前の古川古松軒である。彼の東遊雜記西遊雜記は近年漸く出版せられたらしいが、是などは漫遊記と呼ばれる資格がある。前の方が殊によいかと思つた。古來他の旅人のあるかなかつた方面をあるき、今迄記述せられざりし新事實を集めて居る。例へば南會津の御藏入《おくらいり》地方の生活の如き、此書が無かつたなら昔の或期間は永く埋もれたのである。此書と折々間違へられる紀行に、橘南谿の東遊記西遊記があるが、此方は夙くから畫入の刊本があつてよく人に知られて居る。著者は富裕なる醫者であつた。醫術修業の爲にあるいたと謂つて居る。古川氏より少しばかり早く、一人の家隷を連れて上品な金をつかふ旅をした。大凡全日本の主要なる土地を歴遊し、殊に其中の珍奇を書き傳へるを目的として居る。缺點は寧ろ饒舌に在り、或は其先輩たる桃井塘雨の説を受賣したところもあるやに疑はれて居る。兎に角に塘雨の笈埃隨筆は東西遊記よりも一つ前で、體裁も相類し記事に若干の重複がある。(113)言はゞ類型の多い諸國物語の、幾分か新味寫眞味の多いものに過ぎなかつた。

　西洋でも土俗誌の起原は所謂旅語りであつた。日本に流行した諸國奇聞も之に近く、つまりは長い旅から還つて來た者の、人の耳を悦ばしめた茶話が、集められてもてはやされたのである。是には系統が先づ二つある。一つは採藥記と稱して官命で植物を捜しあるいた人々の追憶談、此方は天然の珍奇を主として、人間の生活には注意が淡かつた。第二には俳人の逸話録、塘雨の隨筆は書名が示す如く、此方に近いものであつた。但し俳行脚の物語ならば彼以外にも例は多い。尤も著聞集といふ類の地誌を主としない書物は、捜せば他にもまだ色々あるらしい。純然たる紀行も澤山に殘つて居る。其筆者としては芭蕉よりも、大淀三千風《おほよどみちかぜ》の方が遙かに大なる仕事をした。三千風には大部册の行脚文集がある。何ともかんとも言へぬ程六つかしい文章で、自分で振假字を附けて人に讀ませる本の元祖である。足跡海内に遍ねしといふ語は確かに當つて居るが、是も亦文章の爲の旅行であつて、旅行の爲の文章では無かつたのである。

　併し兎に角に多くの俳人たちが、生活の新しい境地を開拓せんが爲に、其旅行の少なくとも一部を利用したといふことは進歩であつた。旅行が無かつたら今日だけの俳諧文學の花は咲かず、又實も結ばなかつたらうと思ふ。それを職業の用に供したといふ事實は、些しも其功績を没しはしない。けだし俳諧の自分たちを感動せしめる部分は、實は多數の俳人の弄んで居る發句の方には少ない。之に反して俳諧の連句の方は、生憎と表現に無理が多くて難解ではあるが、わかりさへすれば悉く近世生活の實寫であり、しかもその約四分の一は、作者自身の旅行の産物であつた。四分の一と勘定したのは變であるが、その他の四分の一は家庭の日常經驗から、他の四分の一は讀書と冥想とから、殘りは古文學の口眞似である故に、さう言つて見たのである。

　

(114)　　　　　　　文章の修行

　

　東洋殊に古代支那に於ては、文學文章に關する概念が歐羅巴人とは別であつた。文章は力だ人格だと考へ、又文章は氣なりなどとも説いて居る。都府宮廷の花やかなる文明が、時代の作品を感化したと同樣に、自然の風光に接觸しなければ、大規模な文學は出ないものと認め、それを漢學で養はれた日本人も深く信じて居た。大史公曰く、吾泰山に登りて天下を小なりとす。斯う言つた意氣が昔の青年文人に愛せられた。稻垣滿次郎氏の東方策などに迄、否進んでは�ｺ富蘇峯先生の文章にさへ其痕跡が見えるのである。勿論批難する意味でそれを言ふのでは無い。只旅行が何物かを我々に與へるといふ思想の發達過程に、曾ては斯うした一時代があつて、それをもう今日の青年は顧みざらんとして居るといふことを、一應は述べて置きたいと思ふからである。

　武者修業といふことの盛んに行はれた時代には、一方には文章の此方面の修業旅行もあつて、漢學者の文集中には既に其痕跡が見出される。就中平澤元�ﾄの漫遊文草、青山銕槍の大八洲遊記の類は有名であるが、此等は確かに修業の産物である。ちやうど今日の新聞記者と同じく、文人は其問題は六つかしくて文章には書けないなどと言つて居られぬから、あらゆる事件あらゆる境遇、成るべく多くの變化に遭遇する爲に旅行を企て、又見聞を文章にしようとしたものである。今日の目から見れば或は目的が稍々小さかつたとも言へるし、又あまりに個人的利己的だつたとも評し得る。併し其練習に由つて、幸ひに百歳に傳ふるに足るやうな文章が出來たとすれば則ち或土地或時代の現實は、其御蔭で始めて我々の智識となるのである。後世人としては今から如何なる方法を施しても、到底獲得し得なかつた前代の智色が、文章家の旅行によつて始めて保存せられたことになるのである。

　併しながら是が一方には、爲にする宣傳の用に供せられた場合も多い。例へば今日九州で耶馬溪鐵道などと謂つて、(115)行き止まりの山懷へ一本の輕便鐡道を引込むことになつたのも、山陽先生の海内第一と稱した結果に外ならぬ。又は日本三景などといふ名前が今に至るまで、多くの閑人の行動を束縛して、自在に山野を樂ましめざる原因も、つまりは文人が餘計な組合せを案出した御蔭であつて、激賞は各人の勝手とはいふものゝ、あまり出來過ぎた美文も稍々近所迷惑である。其爲に先づ我々の旅行術が、やゝ正道を失せんとして居るのである。

　支那などは實際平蕪廣漠の地であつて、十日半月の旅行を重ねて、僅かに山水の變化を見るといふ有樣だから、風景の記事も珍重せられてよいのだが、日本は恰かもその正反對で、寧ろ應接に遑なしといふ實際である。その數限りも無い好景勝の中で、僅かに偶然が引合せた二三の箇處を見たばかりで、もう此外には好い景色は無いやうな最高級の形容をするのは有害であつた。それといふのが文章は美しく印象深く書くのが本意であり、詩歌も亦其通りであつたからで、風景の紹介宣傳は言はゞその結果に過ぎなかつたのである。純なる旅行道の立場から判定すれば、好紀行は必ずしも好旅行の表幟では無かつたのである。

　

　　　　　　　旅行は學問のうち

　

　然らば旅行の價値標準、旅行の第一義は如何。此問題は私にはさして答へにくゝは無い。一言にしていへば本を讀むのと同じである。幾ら本を讀んでも志が高くないか、選擇が惡ければ、只疲れるばかりで自分にも人にも益無き如く、旅行にも愚な旅行、つまらぬ旅行は多々あつて、しかも一方には又非常に貴重な可能性もあるのである。我々が御同樣に良書を求めて倦まぬのと同じく、常に良き旅行を心掛けねばならぬ所以である。良き旅行といふのもやはり良き讀書と同じで、單に自分だけが之に由つて、より良き人となるのみならず、同時にこの人類の集合生活にも、何か新たなるもの又幸福なるものを齎し得るか否かに歸着する。諸君是より世に出られたならば、人の艱苦といひ煩悶(116)といふものゝ大部分が、本來知るべかりしことを未だ知らず、又教ふべくして教へざる人のあつた結果であることを、また着々として實驗せられるであらう。知るとか教へるとかいふことを六つかしく解して、消化し難い教理、若くは感情の助けを借りた獨斷の如きもの迄を豫期する必要は無い。最も單純に稻の穗には籾が幾粒あり、山の木の實がどれだけの温度濕度で甲拆するかといふやうな智識を集拾しても、また我々は隣人をしてより幸福ならしめることを得るのである。

　日本は世界にも珍しい國であつて、是ほど民族の閲歴が單一無事であつたにも拘らず、國民の生活、國の姿といふものを通觀し概説しようとする場合には、如何なる明透の頭腦を持つ人でも、短かい文句で之を敍述することが出來ぬ。例へばこの二月四日の節分の日に際して、北緯二十六七度の南方の島々では、今慥かに田植をしつゝある。鹿兒島には稀には雪も降るが、それでも此頃はもう梅が散り過ぎて居る。然るにどうであらう。これから汽車ならば僅か五六時間で行かれる日本海岸の縣では、雪崩が烈しくて幾日も汽車が止まつて居るのである。尤も此緯度で日本のやうに雪の深い園は世界中どこにもあるまい。越後などはシルシの竿と謂つて、積雪の中から高く棒を出し、昔はその突端に家々の徽章を作つて附け、正月にはめい／＼の歳�ｺ神の道しるべをしたものである。暦は一つ正月は全國一度に來るのに、北と南と生活は是までに相異した。是が各人の幸不幸に何等の影響無しに居るわけは無い。しかも新國家主義の中央統一に於ては、一本の法令で全人民を律する迄は兎も角も、一箇の生活標準によつて外部から彼等を引纏めようとして居るのである。生存の事情の首府や京阪附近とちがつた國が、閉口するのは知れたことである。前代の政治は或程度までは此事實を省みて居た。旅行の或種のものは夙くから此を考究する目的を以て企てられた。例へば山城の京の初期の按察使又は問民疾苦使《もんみんしつくし》といふ類のものは、必ずしも唐制の模倣とのみは言はれなかつた。併しそんなものが何程の役に立たう。後世にも御奉行樣路といひ、又御奉行樣の御通りなどと謂つて、其送迎に携はるものは隱される者だけは隱し、一方は又知りたいことだけを知つて還つたのである。災害の御救濟の如きも固より惡いこ(117)とでは無い。御見舞の勅使が行けば土民は感泣する。しかし常の日の常の事情、即ち突發の災害に對する抵抗力ともいふべきものが、曾て考へられて居ないのだから何にもならない。

　

　　　　　　　地方事情の疎隔

　

　其上に更に色々の慢性の災害とも名づくべきものがあつた。豫め土地に就いて多くを知つて置くの他は無かつたのである。しかも現在は少なくとも其途が缺けて居る。此弱點は所謂陳情員又は運動者の必要を見てもよくわかる。彼等は要求ある毎に必ず地元の全部利害を代表するが如き顔をして、實情を語り又は虚構する。而うして彼等の上京經費は大抵は目指す利益に對する資本投下である。從つて此資本を持たぬ者の實情は知られずにしまふのである。

　兎に角に今日の交通は完備に近いと言はれて居るが、其經路はどこ迄も放射線?である。即ち全國の隅々までが孤立し分散せぬのは、都府の媒介があるからであつて、其爲には一段と中央集權制が濫用せられる。しかも地方と地方との相互の交際は、各藩割據の六十年前と比べて、さまで改良する所は無いのである。自分は今日少しく新聞に關係して居る爲に、殊に此方面に於て感ずることが深い。以前新聞に中央の材料が乏しく、郵便を以て地方の通信を取つて居た時代の方が、地方版各縣獨立の今日よりも、遙かに多く遠方諸國の事がわかつた。それが例へば三つ兒を産んだとか、蟒蛇を見たとかいふ類のとぼけた記事であらうとも、少なくとも嶺の向ふの縣の今一つあちら隣に、斯んな人生があるといふことだけは、始終耳に響いて居たのである。それが今日は小學校に地理の教育はあるが、いや産物は紬であるの、馬が何千何百頭居るのといふのみで、子供は日本全國どこでも自分の村と同じ樣な村落があるものときめて居る。芋玉蜀黍が常食であつたり、甚だしきは栃の實やドングリを飯にまぜて食つて居るといふ例になると、同じ縣内の者すら互に知らないことが多い。斯ういふ事情の疎隔の下に、一つの國民として共に榮えることは決して(118)容易で無い。必ず何れかの一部分が時代に調和し得ぬ不幸に惱んで居るのである。

　古代の旅行の場合を想像して見ると、假令一篇の紀行文學は世に遺さずとも、旅をして圖らず因幡の人と一夜語つたとか、行暮れて或山中の農家に泊めて貰つたといふやうな場合が多かつた。さうして氣を永く色々の世間話の種を得て還る者が、伊勢參宮でも金毘羅詣りでも、新らしい知識を拾ひ教育を受けて、還つて之を村の人に分配したものであつた。それが現今はどうであるか。日數は儉約になり入費も或は安くなつたか知らぬが、汽車で何かを食べながら又睡りながら、一日に行先へ辿りつくのである。目に觸れるものは到る處、都會生活の延長である。此方面の旅行だけは確かに今は墮落したと言つてもよろしい。

　行商人といふものは、古くから日本の社會組織の一要素であつた。タベト又は世間師などと稱して、是等が色々の外の報道を持込んだ。うそも交つては居たが、外を知らねばならぬといふ知識慾は刺戟したのである。然るに村々に小賣店あり町には一切の雜貨の常店が出來ては、此からの行商は先づ一藥館オイチニの系統のものか、二度は來ぬやうな用心すべき惡者だけである。そんなら新聞が毎日來るから、あれを精出して讀んで居さへすればよいかといふと、それが今申す通り、中央都府の生活より以外には、是ぞといふことを報知してはくれぬのである。

　

　　　　　　　旅行組合の急務

　

　自分は全體を見渡して、日本の地方人の互に知る力、即ち農民漁民等の自己省察といふものは、確かに衰へつゝあると考へる。それを補充すべき任務は、教育ある愛國者に負はされて居る。しかも青年學生等は今も昔の如く旅行は得意であり大好きであるが、今日は國道縣道といふ地圖の上に二本の線で描いた路筋ばかりを、乘合ひが走り輕便鐵道が通つて居て、それから少しでも入込まうとすれば、元あつた交通設備までが今は無くなつて居る。人力車は野蠻(119)なものであつたが自分等はまだ大になつかしい。殊にあの屈強な中年の村の男が、骨が折れるといふ意識も無いかの如くに、阪路などにかゝつて少し足が遲くなると、必ず申しわけ的に先方から話をしかける。あれが無くなつては中流都人の旅行は先づ不可能である。石鹸箱を持ち櫛を持ち本を持ち、親がもし神經質でもあれば、寢まきにシャツ迄革鞄の中につめてくれる。さうしてもう之を持つてもらふ荷持ちといふ者が村では得られぬのだ。

　私の經驗では、荷持ちは所謂車屋さんに比べると、あまりに家隷性とも謂ふべきものが強かつた。それで早くから村の人は車夫にはなつても荷持ちにはなりたがらぬ。大正に入つてからの地方の荷持ちは、少年か女か薄のろか貧乏な寄留人か、兎に角普通の百姓で無い者のみが出て來て同行するので、大抵は話相手にも指導者にもならなかつた。今日も骨折つて求めたら絶對に求められぬこともあるまいが、勞賃が高いからとても普通の旅人には雇はれぬ。自轉車が盛んになつて荷持ち迄が自轉車で先へ行き、土埃を浴びて歩くものは我々ばかりになつてしまつた。

　そればかりか草鞋までがもう無くならうとして居る。村にもと有つた宿屋が無くなつた。そこで旅行などとは言つても、大道のガソリン臭い處ばかりを、少しづつあるくのが關の山で、他の多くは客引き的案内記に釣られて、神社佛閣日本三景などを見てまはつて居るのである。宿屋などもどうしたら東京風、大阪風に見えようかに皆苦心して居る。刺身さへ食はせば能事了れりと心得て居る。刺身などは本來オキナマスと謂つて、漁師の食ふ即席料理であつた。氷につめて山中に入るやうにはなつたが、海から遠くなればうまくないにきまつて居る。他には何等の歡待の方法も知らぬ癖に、最も樂に示される土地の食物といふが如き興味ある問題は、わざ／＼骨を折つて旅客の注意から遮斷しようとするのである。

　或は偶然に船や車の中で、ちがつた土地の人が乘合はすことがあつても、御互に張合つて町と舶來文化の話ばかりして居る。いや東京には姉の子が出て居るの、是でも神戸は三度往つて見たのと、とかく中央の話ばかりしたがる者が多くなつた。其上に宿屋が今申す如く都會生活別莊生活の運搬であり、其設備が待合料理屋の模倣だから、其費用(120)がべら棒である。世界一では無いまでも二位三位より低くはない。旅を保養と考へるやうな贅澤な氣風を廢止するか、若くは全然彼輩と絶縁しなければ、我々は此方面に於て新たによき文化を開拓し得ぬのみならず、或は折角既に獲たものをさへ失ふことになりさうである。

　そこで先年から少しづゝ旅行組合の運動を企てゝ居るのである。現在村々で特に遠方の人を頼み、有りふれた一夕の話を聽く爲に可なりな金を使つて居る。それを全然止めるわけにも行くまいが、例へば巣箱を置いて小鳥を招くやうに、至つて簡略な設備と好意とを與へれば、もつと活き／＼とした旅人が自ら進んで幾らも來る。肩を張らして永談義を聽かずとも、自由に討論し批判し得る話がきかれる。一つの組合に屬する旅人が、名簿によつて互に往來し、質素な寢食だけを實費で供せられ或は雨具自轉車などを貸してもらふことが出來るやうになれば、少なくとも農村の生活は今よりは刺戟の多い開放的のものにならうと思ふ。青年團の建物とか役場小學校の一隅を、諸君のやうな旅人に供することは何でも無い。只地方の人がその必要を認めるか否かゞ問題である。追々に同感の人が多くなるならば、假令自分は年とつて最早其恩惠に均霑し得ない迄も、其組織計劃には大に助力して見たいと思つて居る。

　

(121)　　　　　旅行と歴史

　

　　　　　　　青年と旅

　

　私は十七八の年から旅行が好きで、今迄に隨分色々の處をあるいて居る。殊に此縣へはわけがあつて度々來た。下野國の事を書いた古い本も幾つか見て居る。郡によつては或はそこで生れた諸君よりもより多く知つて居るかも知れぬ。併し人の一生は誠に短かい。まだ知らねばならぬことが澤山に殘つて居るのに、もうからだが弱くなり、且つ用が段々多くなつて、此先さう大した成績を擧げる見込が無くなつた。計畫の一部分は是非とも後から來る諸君の中の誰かに、引繼いで置かねばならなくなつた。そこで折もあるならば今日の樣な會に出て、大に話して見たいと思つて居たところであつた。

　先づ第一に、何の爲にさう旅行をするかといふ問題であるが、是が簡單なやうで實は考へて見ないと一寸答へにくい問題である。汽車の中などで、多分諸君も折々は考へて見られたことがあるだらう。斯うしてごた／＼と乘合せて居る人の中に、本當の旅行者といふ者が果してどの位居るであらうかといふことを、自分などは?々考へて見る。或は職業や錢儲けの爲に、或は親類を訪問する爲に、行つて來ないと用が足りぬから、面倒だけれども出かけて來たといふ人が隨分多いらしい。乘るや否や新聞一つ見ずに、腰掛けさへ空いて居れば直ぐにもたれて寢てしまはうといふ(122)人が幾らもあるやうだ。彼等は實は旅人では無いのである。

　旅行の爲に旅行をする人も、日本には決して少なくは無いが、其目的はと訊くとたゞ「すきだから」、又は「面白いから」と答へるのが通例で、自分にもなぜ面白いのか、はつきりとしたことが分らぬ。或は「爲になるから」といふ人もあるが、實はどういふ風に爲になるものか、考へて見ない人が可なり多い。

　ところが旅行が面白いものになつたのは、ほんの近年からのことである。言はゞこの新しい文明の御蔭である。今でも眞に旅らしい旅をすると中々骨が折れるが、昔は尚更のことであつた。それでも西行法師とか宗祇とか芭蕉とか、有名なる旅人は却つて昔の方が多かつた。即ち何かは知らぬが此人たちが、我身の爲になると考へたことが、その苦しい中にもあつたのである。

　可愛いゝ兒には旅をさせよと、昔の人は言つた。是は勿論旅が面白いからでは無く、寧ろ其反對に旅はういものつらいものであるが故に、眞に其子を愛する親たちは、忍んで彼等に此經驗を得させるやうにせねばならぬといふ勸告であつて、或は其裏面から世間普通の親が、成るべくは出して難儀をさせまいとして、我子の旅行を欲せざる傾向のあつたことを、證據立てゝ居る諺であると思ふ。

　

　　　　　　　人を知る爲に

　

　そんなら以前はそれ程面倒であり又厄介であつた旅行に、或はすき好んで一生の半分を費し、又は旅をすればする程、次第に旅行ずきになる人が中々多かつたのはどうしたわけか。是は社會心理學といふ學問で、是から後研究せらるべき面白い問題の一つである。早い話が鳥や獣はいつでも閑で、又一時もぢつとしては居られぬものだが、つひぞ其群を離れて獨りて奮發して遠くへ行くといふことは無い。人の中でも野蠻人などといはれる者には、逐はれて生命(123)の危い時でも無いと、知らぬ人の中へ入つて行かうとはせぬ。又盲や聾もあんまり旅行をしない。其以外の人だけが、何かといふとよく出あるくのは、單純なる好奇心といふよりも、今一層強い具對的の目的が、知らず識らずの中に誘うてゐるのではないか。即ち旅をすれば「人」を知るから、而うして「人」はいつでも我々にとつて、興味深き題目であるから、うつかりと引付けられるのではなからうか。

　我々は古くから此漠然としたあるものを、世間と謂ひ世の中と謂ひ、又は他人の中などと謂つて居た。つまりは多くの場合には斯んな語に當るものが、旅行をした時ばかり特に我々にぶつつかるのである。魚が水に居り人が空氣の中に住んで、水空氣に馴れて感ぜぬ如く、生れた時から周圍の人ばかりと接して居ては何とも思はなかつたものが、一旦其間から拔け出して振返り、或は前と後とを比較して見る時に、始めて少しづつ自分と周圍との關係が分つて來る。是が所謂旅をさせよの意味であつたと思ふ。子供が始めて學校へ行き出した時、又は久しく來ぬ叔父叔母などが尋ねて來た時に抱く所の感じを、稍々擴大したものが旅行であつて、結局は字が讀めるやうになると本を開いて見たくなり、本が澤山にあれば其中の一番面白さうなものを先づ手に取るのと、同じやうな心持から起る人の行爲であらうと思ふ。

　もしさうだとすれば若いうちによく考へて見なければならぬ。無暗やたらに何でもかでも、そこらにある本を讀み散らして居ても、それ相應には役に立つか知らぬが、實は學問の眞の意味を解し、一定の方針を立てゝ讀書する人だけが、之によつて生涯を正しく導き得ると同じ樣に、この旅行といふものゝ意味をよく知つて、短かい一日二日の旅でも心を留めて見てあるく人が、時即ち人生を一番よく使つた理想的の旅人といふことになるのである。

　但し私の今日の話は、諸君を旅行ずきにして見たいといふ考からでは無い。寧ろ之とは反對に、書籍は圖書館か友人の藏書家か、又は本屋のある町まで行かぬとどうしても手に入らぬが、旅行の方は其目的とする人間研究には、必ずしもそれだけの手數を要しない。我々の心掛け又人に對する態度如何によつては、今まで見馴れ住馴れて居る最も(124)狹い周圍に於てすらも、同じだけの興味と教訓とが得られる。それ程に材料が手近に完備して居るのだから、必ずしも旅行に由らざれば得られぬものでないといふこと、今一つにはそれだけの用意も無く又經驗も無い人々の旅行が徒らに萍草《うきくさ》の如き輕くして根の無いもの、生活とは縁の薄い誠に不經濟な辛勞に終るかも知れぬことを、少しばかり説いて見たいのである。私のやうな境遇の者には非常に無理な都合をして十日とか半月とか、わざ／＼遠くまで出かけて漸く得られるやうな大切の智識が、諸君ならば至つて手輕に、たとへば泉から清水を汲む如く自由自在に求め得られるのだといふことを、篤と諸君の爲に説いて見たいと思ふのである。

　

　　　　　　　人生も學問

　

　諸君等は多分自身でも、「私たちはまだ子供だ」と思つて居るだらう。人間を研究する學問などは、學校を出てから緩くりと始めて澤山だと、親たちの方でも考へて居ることゝ思ふ。私の意見では、それが誤つて居るのである。人の成長も樹木などと同じく、境遇次第では二十五歳三十歳にも及び、本當の完成といふ迄にはやはり一生涯かゝるのであらうが、それと同時に身體でも力でも心持ちでも、略々世間でいふ大人の一人前といふ所には、ずつと早く十六七の時からなつて居るのである。それを丁年即ち滿二十年といふ時に、大變はつきりとした區切りを付けて、兵役も其時から、家を持つのも其時から、法律行爲の自由も其時からと、すべて此歳を以て堺にしたのは、全く今日の教育の必要からであつた。

　だから之を改良して新しい教育方法さへ發見せられるならば、もつと早く世の中に立たせた方がよかつたのである。現に今日でも多數の若い者は、諸君よりもずつと早くから學校をやめて、生活をしながら片手間に、只世間から不完全な亂雑な教育を受けて居るばかりである。中學校の如く仕事は何一つさせずに、斯んなに永い間、專ら身體と精神(125)とを發育させる爲に費すことの出來るのは、昔の人の味ひ得なかつた大きな恩惠である。

　二百年三百年の昔に溯るまでも無く、つい三四十年前までは、諸君ぐらゐの家に生れた青年は、何れも今日の苦學生と同じく、何か働きながら人世を學び、自ら成長して行つたのである。さうして其辛苦は多くは縁の下の力持ではあつたが、中には既に其年齡を以て、忠實なる社會人として、永く其功を記憶せられて居る者もある。彼等も亦分相應に早くから日本の進運に貢獻して居たのである。若い人たちは概して感情が單純で氣力が旺んで、何事にも一生懸命になり得るから、戰でもあると一番多く、諸君の年齡の者が出て往つて討死して居る。古い歴史を讀む者の常に無限の哀愁を感ずる所であるが、しかも同時に昔の軍物語などは、之に由つて非常に花やかなものになつて居る。例へば牛若丸御曹司を主人公とした義經記、曾我兄弟の仇計を述べたる曾我物語、この二種の青年物語は、殆と中世の武家文學の全部であつたのである。

　親や先輩の情愛から言へば、折角やつと世の中に眼の開いたばかりの者を、討死させるのは勿論のこと、色々の世の中の苦勞をさせたく無い。出來るものならば少しでも永く、外から保護をして樂に成長させたいと、考へるのは無理も無い。又感謝すべき好意である。併し保護のあまりに、もう是だけ成長して居る諸君に向つて、實際の世の中の一部分を閉鎖し、是だけの學問は後まはし、今は知らうとしないがよいと云ふ樣な、制限を付することは不必要である。殊にそれが人間生活の中の最も有益な又最も肝要なる部分、即ち「人とは何ぞや」「人は如何にして生活するか」といふ類の問題である場合に、それを青年期の觀察ずきな、分析批判に熱心な時代の學徒から、隔離して置くといふことになつては、其損失は單に諸君一個の被る所では無いのである。そこで次の代の日本を、今日よりも少しでも住みよい國にしたいと思つて居る人々は、直接教育の任に當る先生方も、又脇から色々と心配して居る我々も、言はず語らずの間に、何とかして此缺點を補ひ、御互ひの損失を免れたいものと苦慮して居るわけである。

　

(126)　　　　　　　目隱し教育の理由

　

　尤も御斷りする迄も無く、今日の目隱し教育とても、決して先生たちの冷淡不熱心から、只諸君をして實際の生活智識に遠ざからしめて置かうとするのでは無い。是には又色々の諒とすべき事情のやうなものがあつたのである。

　第一にはこの人間を研究する學問は、をかしな話だが實は近い頃まで少しも進んでは居なかつた。多分餘りに問題が研究者に近過ぎ、且つ汝とか彼とか我とかいふ關係交渉が餘りに複雜であつた爲に、却つて犬猫雀蟻を觀察する動物學や、星や天の川の行動を考へる天文學の如く、一つの學問としてよそ／＼しく研究することが六つかしかつた爲だらうと思ふ。それがこの百年ばかり前から、多くの國の學者が少しづつ此方面に向つて骨を折り始め、又手分をして成るべく縁の遠い學問から調べて、其智識を持寄つて來て、今では人間をどういふ風に研究すべきかの輪廓だけが大凡きまつた。人類學と謂つて居る學問が本當はそれであつて、日本ではまだ其ほんの片端の一部分だけに、そんな名を付けて居るのだが、實は大變に範圍の弘い學問で、歴史なども行く／＼は其中に入つてしまふかも知れぬのだ。

　第二の理由としては人間生活の意味又は將來といふことを考へる學問は、一部分だけはごく古くからあつたが、それを途轍も無く六つかしいものに考へて、聖人とか賢人とか言はれる人でも無いと、到底之に關して何一言も言ふことが出來ぬかの如く、考へる風が昔からあつた。從つて青年に之を説くのは無理で又無益だといふ推論を下したのであつた。一般國民がごく無智で、本とか文字とかに丸々縁の無かつた時代には、成程先づ讀書といふ面倒な準備をしてからで無いと、何を言つて居るのかを把へることも出來ず、又練習無しには本にあるやう精細な理窟を、順序よく呑込むことも出來なかつたでもあらうが、其事實があまり強く人の心に沁み込んだ結果、却つてあべこべに六つかしい言葉、面倒な論法、ひねつた言ひ現はし方をせぬと、哲學では無いやうな馬鹿な考へ方をする者を生じ、其果は人(127)間の生活を説く學問を空なもの厄介なもの、聞かせても無益なもの、誤解早合點の危險のあるものとして、わざと手の届かぬ棚の上に揚げて置かうとする風があつた。

　第三のものはずつと實際的の理由であつて、或は是が最も有力であつたかも知れぬ。實際の人生はあんまり感心せぬものだ。世の中には志の高い善人も多いが、物の分らぬ手前勝手な醜い人も少なくない。雙方どちらでも無い人も隨分あつて、場合によつては　　　屡々惡いこともすればいやな事もする。さうして善い事よりも惡い事の方が、目にも立ち氣を取られ易い。折角無垢に育つた青年には、ちつとでも永くそんな實際は見せずに置きたい。經驗に乏しい彼等だから、或は斯んな事にも動かされ、又眞似をしようといふ考にならぬとも限らぬ。善いことばかりを見せたり教へたりすることは出來ないから、いつその事世の中の事は丸々知らせぬ方がよいといふ風に、普通の人は考へて居たのである。

　是が實は非常に考へさせられる大問題である。我々も實は早くこの社會がもつと美しいものになり、歌の集や畫帖の如く、どこを開いて諸君に見せても、「いやだなア」と感ずることの少しも無いやうにして見たい。しかも其時を待つのは容易なことで無い。其間には諸君も年をとり、結局いつあきらめるとも無しに、見たり聞いたりして此醜に馴れてしまふ時が來る。若しそれが到底免れぬとするならば、寧ろ忽然として世の中に出て忙しくなつた際に、藪から棒に葢を開けて見せるよりも現在の時間に餘裕があり且つ驚いたり怪んだり疑つたり、乃至は批判をなし得たりする時代に、少しでも多量に又ゆつくりと、本當の人の生活の善い方面も惡い方面も觀ることが出來る樣にしたいと思ふのである。さうして能ふべくんば、何故に斯くの如く、人間の作つた世の中には、善い事もあれば其傍に惡い事もあり、愛と尊敬との隣同士に、憎惡闘諍が住んで居るかと思ふ理由を、青年の優しい心持を以て考へさせて見たい。尚又學問に携はつて居るからには、出來ることならば尚一歩を進めて、もしや人の生活は方法次第で味はずとも濟むべき苦いものすつぱいものを、わざ／＼互ひに味はつて居るので無いかどうかを、批判させる樣に仕向けて見たいと思(128)つて居る。

　

　　　　　　　無學と社會惡

　

　人間の不幸の大部分が天災地變で無く、或は何人かの惡い考、又は誤まつた考から出て居ることは、宗教家で無くても之を認めることが出來る。しかもその誤れる考は勿論のこと、所謂惡い考といふものでも、更に今一つ根本に溯つて見ると、或は境遇であり又は行掛りであつた。つまりは之を免れる方法が發見せられぬ間の考無し、智慧無し又は物知らずの結果であつたことが、靜かに外に立つて觀察する者には、さう大した骨折無しに、推論することが出來るのである。此原因の發見と理解から、次いで起るところの感情は、憎惡では無くして恐らくは人を憫れむ心、世を憂へる心であらうと思ふ。

　自分等は多くの日本の青年が、この大切なる中學教育の期間に、一度でも此樣な寛大なる、利己的で無い尊い感情を練習するの機會を得ずして學校を終へ、突然として實地の職業生活に出立し、茫々たる浮世の荒波に揉まれてしまふ傾きあることを惜む者である。大は國全體の爲又世界の爲に、小は家庭郷黨の爲に、是は全く淋しいことであると思ふ。

　そこで演題の旅行と歴史に立戻つて、第二段には歴史は何の爲に學ぶかといふことを、諸君と共に考へて見たい。諸君の中には、或は此貴い學問が今の處で、世の中と諸君とを繋ぐ最も大切な智識であることに心付かず、たゞ人の名地名年月日の類を暗記し、以前日本國の中央部に發生した六つか七つの大事件を忘れさへしなければ、それで歴史は卒業と思つて居る人も無いとは言はれぬ。それは大變に間違つた損な考へ方である。

　中等教育のの科目は數多いが、少し注意して見れば大體之を二つに分けることが出來る。第一種の方は單に好き青年、(129)智識ある青年を作る目的のもので、數學とか理科とかいふ科目は、世界どこに往つても青年ならば皆同じ樣に教へられ、同じ樣に役に立つて居る。所謂共通の學科である。之に對して第二種の國語なり地理歴史なりは、之に由つて同時に生徒を日本の好き青年たらしめ、更に尚將來の「好き日本人」たらしむる爲に、特に設けられて居る科目である。諸君を日本の國土と繋ぐ紅の紐である。

　或はそんな爲になら歴史などを教へて貰はずとも澤山だ。生れてから死ぬる迄、大抵の者は日本と、離れたくとも離れられない關係に居る。わざ／＼結び付けて置かねばならぬ必要が無いと、いふかも知らぬが實はさうで無い。我々が單なる一個の人である以外に、日本人であるから斯う考へるといふ考へ方は色々ある。殊にこの日本といふ古い國、西洋と同じ道を歩んで來なかつた民族に對して、如何なる態度を持して居るがよいかといふ問題は、人に指圖されたゞけでは早速に決し兼ねる。僅かに是等の學問をすることに由つて、次第に自ら之を解く力を養ふのである。即ち諸君等を將來の最も日本人らしき日本人とする爲に、國と諸君と雙方の立場から觀て、至つて大切な學科なのである。

　其中でも歴史は直接に人と人との關係を教へようとして居る。さうして現在この我々の目前に、政治と名づけて若干の或個人の考が、國民全體の共同生活の方向をきめること、又は之をきめ得る地位に立つ者を指定する選擧といふ仕事、或は經濟行爲と名付て成るべく簡單な方法を以て、樂に自分々々に都合よき生活をして行かうといふ計畫など、凡そ人間が怒つたり喜んだり笑つたり奔走したりする此世の中の現象は、悉く今我々の學んで居る歴史といふものゝ引續きであることを、一方には又さういふ深い意味のあることを知らずに、何と無く毎日我々が活動して居るのが、其瞬間を過ぎると直ぐに「歴史」と爲つて、永く後代何百千年の同國人に、それ／”＼の影響を與へるものだといふことを、はつきりと我々に感じさせるのが、此學問の本來の趣旨であつた。

　

(130)　　　　　　　歴史の缺乏

　

　歴史は此通り誠に大きな意味のある公けの學問である。がそれにしては今ある教科書は如何にも物足らぬ樣である。過去三千年間の出來事を、一年間で學ぶやうに出來て居るのはいゝとしても、其本の中に書上げてある國の大きな事件と、我々自身の生活との關係が何分にもよく呑込めないので、「昔」は別世界よその國であるやうな感じがする。例へば太閤秀吉が小田原を攻め滅した前には、此地方に住んで居た武家は半分は既に北條氏の手下に歸屬し、他の半分だけはまだ反抗しつゝ、誰か秀吉見たやうな偉い大將の來てくれるのを待つて居た。その待つ間が餘りに永いので、小さな色々の闘爭が村々の間に起つた。或家では皆殺されて赤ん坊ばかりが遁げてやつと助かり、其隣村の或家では、運がよくて追々出世をして大名になつた。戰爭に出て行かない農家でも、やはり上に十分な監視が無いから、仲間同士で奪はれたり取つたり、激しい生存競爭があつたに相違ない。さうして世が亂れて田舍も一旦は大いに荒れて居たのを、後に遣つて來て新たに野を拓き靜かに榮えた家もあつた筈である。そんな土地々々の事情が、丸で教科書には記して無い。諸君は世界の一箇人にして同時に日本人である如く、亦同時に縣民であり町村の人であり家の人であるが、どうして又さうであるのか。如何なる因縁原因を以て今日此附近の或村に、栃木縣の青年として生存するやうになつたのであるか。之を考へることが公生活の初歩であるが、書物はまだ此問には何物をも答へて居ないのである。

　そこでどうかすると、歴史の本は讀んで居りながら、それは暗記をして試驗を受ける學科として別にして置いて、一方抑へ難い好奇心智識慾を以て、國又は郷里と自分との關係、家と土地との縁故などを知りたがる者が出て來ると共に、旅に出ても村に居ても、他人に接する態度に於て、十分に同胞同國人といふ親しみを抱く能はざる者が出來る。

　淋しい感じをして自分のみ孤立して此世に現れたかの如く、思つて居る青年が多くなる。それよりも今少し困ること(131)は、古くからの色々の小さな仕來りには、意味のさつぱりわからぬもの、如何して始まつたか知れぬものが多くなり、其慣行と自分とは縁の無いものと、思ふだけならまだ仕方が無いが、わからないから何れ下らぬものであらう位に、獨できめて輕蔑して最初から考へて見ようとせぬ者の出來ることである。一言でいふならば周圍の人々に對する思ひやり同情の足りなくなる點である。是は何十萬とある國の記録を、僅かに小さな一册の本から覗かせようとする制度にも缺點があるが、第一には若い人々たちが、歴史は何だといふことを考へることが十分で無く、又歴史には如何なる心持ちを以て對すべきものかといふことを、教へられる折が少なかつた爲であらうと思ふ。

　私は以前内閣の文庫の管理をして居たことがあるから知つて居るが、足利時代から以後の四五百年間の本でも、大きな倉庫に山盛り一杯ある。東京の大學圖書館では數萬の惜しい書物が、今度の大地震で燒けたが、其他にもまだ史料編纂掛の方に、それ以上のものが殘つて居る。併し歴史に詳しい人ほどよく知つて居るだらうが、假に此等の本の全部を讀み盡しても、それには中央の政局の變化と、折々の大戰爭の前後の事情との外には、あまり澤山の事は書いて無い。しかも我々多數の者の祖先の生活は、この二大事項の何れとも關係が薄かつた。平和であつた下野國の平民の先祖の生活の跡、それと日本との關係は非常に深いのだが、ほんのぽつちり〔四字傍点〕しか此等の本には書いて無いのである。

　然るに今までの學問をする人は、歴史は何の爲に學ぶかと尋ねると、單に治亂興亡の迹を知つて、後の誡とする爲といふ風に教へられた。それだけの爲にならば何もそんなに苦勞をせずともよいと、考へてしまふ青年があるわけである。政治や戰爭を專門に世襲する家があつて、其家の子弟だけが學問をその準備にした時代ならそれでよいが、今日の如く國民の殆と全部が此學問をする時代には、是ばかりの目的では無論足りない。もつと適切なる此學科の價値を、示されなければならず、又考へ出さなければ濟むまいと思ふ。

　

(132)　　　　　　　土地と顧みられざる史料

　

　それを自分は斯う考へて居ればよいかと思ふ。我々がどうしても知らなければならぬ人間の生活、それを本當に理解して行く手段として、人が通つて來た途を元へ元へと辿つて尋ねる爲に、此學問は我々に入用なのである。苦いにせよ甘いにせよ、こんな生活になつて來たわけが何かある筈だ。それを知る手段は歴史より外には無い。つまり現在の日本の社會が、すべて歴史の産物である故に、歴史は我々にとつて學ばねばならぬ學科である。と斯ういふ風に諸君が考へて、今の教科書が十分で無ければ、徐々に之を更へて貰ふやうにしたらよからうと思ふ。

　但し明瞭に斷つて置きたいことは、愈々右の如く歴史といふ學科を、今後の國民生活に用立てんとする場合には、更に又之に伴なふ所の二三の小さな誤解に、陷らぬだけの用心をせねばならぬことである。その誤解とはどんなものかといふと、

　第一には是だけ學べばもう十分といふ小さな滿足をせぬことである。何の學問でも、中學などで遣るのは本の手ほどき〔四字傍点〕であつて、村の小學校の友だちが知らぬことを知つて居たとて、ちつとも偉い智識で無いことは勿論だが、殊に歴史といふ、人間の複雜な生活の、何千年といふ久しい經歴を知るのだから、幾ら知つてもまだ行く先があるといふことをよく覺悟せぬと、利益よりも却つて害の方が大きいかも知れぬ。

　第二の誤解は本さへ讀んで居れば、それで宜しいといふ考へ方である。是は前にも申した如く、本は今まで京都か江戸で出來たもので、遠い地方の記事は少ない上に、片寄り又誤まつて居ることが多い。故に若し文字以外の形を以て傳はつて居る材料が手傳はなかつたら、我々の祖先の事蹟は何一つ解るものでは無い。而うしてその文字以外の地方史料は、諸君の家の周圍に充滿して居る。それも一種の記録であつて、只讀み方が文字で書いたものと同じで無い(133)だけである。新たに之を讀む術を練習する必要があるのである。私たちが旅行のすきなのも、又旅行を以て讀書に譬へるのも、全くこの意味からである。

　斯ういふ歴史の尊び方、即ち偶然に殘つた文字以外の記録から、出來るだけ精確に過去を知らうとする學風は、今まで誰にも顧みられて居なかつたが、此頃は少しづつ此地方にも行はれるやうになつた。繪を見るときの樣な心持ちで、諸君も追々に注意を拂はれたらよからうと思ふ。

　文字以外の史料としては、是まで一番に人の興味を引いて居たのは、考古學即ち遺蹟遺物の比較研究であつた。又は生活技術誌（ソシアルテクノロジー）などと稱せられる衣食技藝等の發達變化であつた。是等は何れも時が保存してくれた昔の生活の痕跡を頼りとして進むのであるが、其中でも一種最も豐富にして且つ確實なる遺物の、案外に顧みられなかつたものがあつた。それは何かといふと人間そのもの、朽ち殘つた骨ではなく活きた人間の活き方である。即ちその人の使ふ言葉、折々現れるその人の考と心持ちとである。今までは只一つ／＼の珍しい風習、かはつた歌や物語、謎や諺、その他一括して口碑と名付て居る色々の昔話なども、物ずきの人の切れ／”＼の注意を引いては居たが、その多くを集めて比較して見るまでは、それが我々の父祖の何れより來り、何を信じ何を怖れ何を愛し何を願つて居たかといふ一般的の?態と、その追々の變化とを諒解せしむるには足らなかつたのである。幸ひにして此學風の段々盛んになつた御蔭に、日本人の多數の過去の心が、少しづつ明らかにならうとして居る。我々の先祖は殊にその一特徴として、未だ生れざる子孫を愛し、其繁榮を希ひ其安全の計を立てた。彼等の最も怖れたのは家衰へ子孫愚かにして、死後に追慕してくれる者の次第に無くなつて行くことであつた。さうして人間らしく又男らしく、欺かず怠らず、神と秩序とを重んじて居れば、乃ち家に幸ひあつて後裔たる我々も永く恩惠を受けるものと信じて居たのである。其等の計畫に適した土地として、この下野図を選定した理由なども、多分は段々に發見せられることゝ思ふ。その發見は實に幸福なる興味と名づけてよい。しかも今迄の人が何の意味も無いものゝ如く誤解して、棄てゝ置いた材料であ(134)る故に、發見の機會は幾らでも手近に在る。例へば町村にある字小字の地名である。自分は是ほど明瞭に村の歴史を語るものは無いと迄思つて居るが、今日までは人があまり研究せず、そのうちに大切な材料が燒けてしまつた。次には家々の苗字である。苗字は百中の九十以上、家が曾て住んで居た土地の地名から出て居る。中には貰つたり借りたりした家の名もあらうが、大體に於ては日本人の國内移住の迹を示すものと言つてよい。諸君の中にも自分と同じ苗字の人があると思ふが、是なども久しく注意して居るうちに、今では略々下野一國の柳田氏だけの歴史はわかる。是が大凡でも知れたとなると、微々たる我々の一門と、此地方此國又天朝との關係縁故が、説明し得られることになるのである。此類の御話をして居ると切りが無い。特に希望のある人には又折を見て話してもよいが、今はよい位にして置かうと思ふ。

　

　　　　　　　もつと考へよ

　

　最後に第三の誤解として用心すべきは、歴史は讀むものであつて考へるもので無いやうに思ふことである。そんな事をして居ては時間ばかり潰れて、折角の教育が無益のものになつてしまふことは既に前にも述べて居る。簡單な一册の教科書を讀んですらも、考へさせられることは幾つもある。京都でいふと源氏と平家、此地方では足利氏新田氏などは、隣同士のしかも親類同士が、ひどい闘爭をして曾ては殺し合つたことがある。更に進んでは甚だ畏れ多いことだが、皇室の御一族の中にも御從兄弟同士、御叔父甥の間に於て、やはり止むことを得ざる御喧嘩があつた。今日の社會組織又我々の心持ちからは、想像することも出來ぬ悲しい出來事である。さうして斯ういふ上流の悲劇には、記録があつてもう大よそに原因が分明になつた。統一ある新國家に在つては、それは悉く成立し得ない原因ばかりである。だから今日は再び之を繰返す氣遣ひは無いのだが、しかも異なる國と國との間、異民族の間のみには、今でもま(135)だ公然の殺戮が際限無く行はれようとして居る。人が多くて物が足らず、我よかれ我正しといふ考が、相互の理解を伴なはずに競ひ起る場合には、人は?々人らしからざることをも忍んでする。さうして後世の人をして、囘顧して深く悲しましめるのである。是が果して人類の本性であるかどうか。或は又深く慮り遠く謀るならば、豫め此災を脱出し、若くは少なくとも其害を小さくする別の道があるのでは無いか。斯ういふ大切な問題はすべて皆、歴史の學問を重んぜざる人たちの、考へることを得ない問題なのである。

　

(136)　　　　　島の話

　

　　　　　　　世界第一の島國

　

　地理の學問ばかりは、淋しい書齋の中では完成しない。又多くの同志の協力を必要とする。それ故に自分は斯ういふ會があると、少しも謙遜をせずに出て來て物を言ふのである。

　最初に諸君の御注意を乞ひたいことは、日本が世界全體の學問に向つて、將來是非とも分擔しなければならぬ仕事が、地理研究の方面には非常に多いといふことである。即ち若し我々が手を着けなかつたならば、それだけ全部で無い迄も大部分、人類の學問が進まぬ結果になる問題があるのである。此事は勿論諸君も既に心付かれて居るであらう。例へば火山のこと、温泉と社會生活との關係である。地震などもその一つであり、又梅雨と色々の生物との交渉の如き、算へたらまだ幾らもあるであらうが、今日御話をして見ようと思ふ島々の研究ほど、社會學の學徒としての諸君の清新なる努力を、多分に要求して居るものは無いのである。

　其理由は至つて明白である。第一には日本の如く、澤山の島を領土の中に持つて居る國は他には無い。統計年鑑を御覽になればわかるが、周囘一里以上か又は人の住んで居る島の數が四百以上ある。それへ世界有數の多島海を控へた朝鮮半島を加へ、其上に委任統治領として赤道以北の、俗に謂ふ微小群島を加へたのである。この群島は大體四つ(137)に分たれて、島の數は最も微細なるものを加へると、七百幾つとか言はれて居る。しかも此等の島々の天然要素、及び生活條件は確かに同樣式では無いのである。

　第二に國際交通の點から考へて、我々の隣國なるものが亦島であるか、さうでなければ布哇が北太平洋に横はる大陸國の如く、多くは島を仲繼にして往來をして居る。國民が外へ出るといふことは、次の島へ渡ることを意味する。外を知るといふことは島を學ぶことであつた。駱駝隊商の國とは最初から條件が一つで無かつた。

　事情の稍々日本に似た國として、近世希臘に於ける地理學は今如何なる?態に在るか。知りたいと思つて居るがまだ少しもわからぬ。希臘の方の我々に優る二つの便宜は、其島々には古典的の興味があることである。又他の學問國に隣接して居る爲に、若し自國が棄てゝ置くならば、伊太利・佛蘭西・英吉利・獨乙などから、他の學者が出掛けて來て、代つて研究してくれようとする故に、意地にも無關心では居られぬことである。この二つは共に結構なる好刺戟と言つてよい。しかも其學問の世界的效果に至つては、到底我々日本人に許されたるものゝ如く、規模雄大ではあり得ないのである。

　その理由も至つて簡単に説明し得られる。所謂人文地理の立場からいふと、島は大別して二種とすることが出來る。即ち沖の島と地の島とである。是は獨り距離のみの差では無く、大さなり成因なりの相違から、眞の屬島と考へ得る場合と、離れ小島と謂はなければならぬ場合とがあるのである。然るにエーゲ海上の多くの島の如きは、即ち自分の謂ふ地の島であつて、數千年來の歴史も亦、地の島として發展して居る。從つて此方の岸に立つて、半分ぐらゐは其?況を推定することが出來る。桃太郎の童話を發生せしめた所謂鬼ヶ島では無かつたのである。

　

(138)　　　　　　　自ら學び得る國民

　

　更に今一つ人の心付かなかつた相異は、研究者の素質である。日本人は自身が島人である。之に反して今の希臘人は、實は中古に北の大草原から降つて來た人民らしい。我々が大陸人の持つ或經驗を缺いて居ると同樣に、彼等も亦島人に限られたる或感覺、或特長を持たぬことを意識し得る。それが島々を調査して行くうちには、自然に御互ひにわかつて來るだらうが、少なくとも日本人には、よその島々の生活法則を、より容易に會得し得る長處のあることが、今既に認められて居るので、つまりは此方面の學問は、只我々の中に於てのみ、次第に其效果收益を増進する見込があるのである。

　一つの具體的の例は言語である。異種民の言語は何れ學びにくいにきまつて居る。併し同じ困難といふ中でも、我々にとつて比較的東方の語が解しやすいのは、第一には物の名、行爲の名の付け方が近いからで、實は日常の小さな經驗が、共通であり得た爲である。第二には語法句法、考への現し方の順序、是にも生活の影響があると思ふ。第三には發音の類似である。今の日本の所謂標準語は、極端に簡單になつて居るが、諸君も既に心付かれたであらう如く、東京から遠くなる程音の數は多くなり、五十箇のカナでは表出し難いものを耳にする。キの音が二種とかシの音が三種とかいふ風で、注意して見るとそれ／”＼別の目的に用ゐられて居る。爰にも島人同士の共通は、全然人種異同の問題とは獨立して、之を發見することに困難を感じない。ローマ字論者のまだ考へて居らぬ軟かなG、長崎をNangasakiなどと書くngは、學者によつて尚色々な表音法を採用して居るが、必ずしも言葉の中程にある場合のみで無く、又他の母音にも伴なうて、弘く太平洋の各地に行はれて居る。是なども日光・風・濕氣・食物、其他の天然の力が肺や聲帶や口腔構造に影響して、この大なる一致を示すのかも知れぬ。此心持に基く言語の比較研究は、最近に追(139)々と島住民の生活調査を流行させた、誠に興味の多い新學問で、恐らくは將來の太平洋研究に、一轉機を畫するものである。日本はまだほんのぽつちり〔四字傍点〕しか之に參與して居らぬが、しかも理解し得る力の大小をいふと、幸福なる天分を有する者は我々であつて、西洋の學者はたゞ餘分の熱心と習熟とを以て、日本人を凌駕し受賣せしめんとして居るだけである。

　次には宗教史の問題であるが、宗教はもと原始人の生活實驗が基礎を爲すものである。而うして千年二千年の久しきに亙つて、南北太平洋の島々の住民と、最もよく似た環境に包まれて、自然適應の生活を導いて居た者は我々である。故に實際他の大陸居住者の味ひ得なかつた觀念、及び是から出たと思はれる信仰の相近いものが至つて多い。例へば海と天とを一つに考へようとすること、潮の物を淨める力、ミソギといふものを神聖の方式とすること、風雨雷霆の怖しさを、龍蛇鰐鮫の如き水中の大動物と結び付けること、儒艮《じゆごん》を人魚と考へたり、海底の歡樂郷を想像したりすることは、をかしな言葉だが日本が本場に近い。即ち自身の過去生活を囘顧して見ることが、半分は同時に他の離れ島に別の支配を受けて居る者の、埋もれたる閲歴を考へてやる結果にもなり得るのである。物ずきの學問では無いのである。

　但し此一致共通は勿論一部分であつて、島毎に色々の偶然と必然とが働いて、それ／”＼の生活を作り上げて居る。其住民の歴史は即ち與へられたる天然との調和手段の適否である。過去苦闘の跡として、最も人間らしく之を視察しなければならぬ。それよりも更に大切なのは未來に對する希望である。現在までの社會科學、殊に近代の史學の結果に基いて、言はず語らずの間に絶望と考へられて居た所の、孤島の幸福の改良といふもの、是が若しも個々の島の住民の手を以て、自身其方法を案出する見込が立たぬとしたならば、其次の最適任者は、自分も亦同じ苦惱を切拔けて、少しは明るい地平線を見付けたる、日本の平民たちで無ければならぬのである。

　

(140)　　　　　　　島調査の計畫

　

　學問を個人の名利の爲、乃至は政治經濟の手段として、少しも怪まない今日の氣風の中に於ても、尚我々が島の地理學を進めて行く必要は大いにある。況んや今一段と小高い處から、普く人類の智能を價値づけんとする場合には、斯んな廣漠たる沃野が耕す人も稀にして、そつと諸君等の爲に殘してあつたといふことは、殆と偶然を以て目することが出來ぬ位である。此意味からして島の研究が日本に於て當然大いに起るべきものと自分は考へた。さうして其機會を伺ひ、又少しでも之に貢獻しようといふ志を抱いて居たのだが、既に年を取つて之を有爲の青年に引繼がねばならぬ必要が、餘りにも早く到來した。是が本日出席して諸君に此問題を提供するたつた一つの動機である。

　自分の成績と言つてはまだ少しでも擧がつては居らぬ。何か諸君の御參考となるべきものをと考へると、殘念ながら失敗の跡をでも吹聽して見るの他は無いのである。四五年以前から、何とかして大阪朝日新聞の如き名あり力ある新聞に實行させて見たいと思つて居たのは、學術探險船の計畫であつた。最初は手近から面白く始める考で、暮春海上の最も靜かなる頃に、先づ九州西北隅の諸島、壹岐と對馬から五島の島々、及び東西松浦郡の諸島にかけて、處々の小さな灣に船を繋ぎ、一方には講話や展覽會などで多少の智識を島の人にもたらし、他の一方では自由に上陸して調査と採集と考察とをする。單に地理の學者のみならず、能ふべくんば歴史の人社會學の人、博物などの若い專門家までも、少しづつ代り／＼に働いて貰へば、その代りには便宜を供して、島の旅行に於て最も不自由な、渡海と宿泊とを容易にするといふ企てであつたのである。

　それから尚瀬戸内海の諸島、殊に四國の西の端を取繞らした幾つかの島を、冬の初などに訪問して見よう。うまく行けば天草以南の島々、長島獅子島、上下甑島の一群を經て、更に興味の多い川邊十島、種子屋久から奄美諸島、沖(141)繩縣下の知られざる島に及ぶべく、北へ引返して日本海では處々に散在する小さな島、隱岐は固より、若狹丹後の二三の地の島、能登の舳倉島、佐渡の外側内外の海府、粟生嶋飛島にも行けば行かれる。東海岸では伊豆七島、伊勢灣頭の島々はいつでも行けるが、松島以北の牡鹿諸島、氣仙沼の大島などは紹介の必要がある。是等は計畫者の手腕次第で、段々に社會の注意と興味とを引付けて、他日容易に費用を調達して、行く行くは外洋にも進み得る見込があるのである。此節世間で漸く問題となつて居る太平洋調査が、希望ばかりで容易に外國の協力の得にくいのは、所謂平和的侵入の準備手段と疑はれて、自他ともに學術上の意義が認められぬ爲である。斯んな當然以下の事業さへ企てることが出來ぬのは、學界の恥辱と言つても過言で無い。しかも自分の計畫とても、新聞界等に於て實はまだ確かな共鳴者が得られなかつたのである。經費などは知れたものだが、故障は金では無く實行の衝に當る人が得られないことであつた。自分としては事務の骨折には堪へられぬので、其爲に今尚機運が到來しなかつたのである。

　

　　　　　　　島の記録新集

　

　それから比べると第二の計畫は頗る花々しからぬものであつたが、別に我々は精密なる記録といふことを條件にして、一つ一つの島の調査を始めて居る。最近に爐邊叢書の一册として出た羽後飛島圖誌は、その最初の收穫である。與那國島圖誌の方は偶然の收穫を整理したものに過ぎぬが、一方は少なくとも計畫に基いた調査である。斯うして世に公にして見ると、早既に學問上の大切な資料が、一つならず其中に含まれて居たことが發見せられるのである。例へば島の周圍の隱れ岩の中に在る蛸穴の權利だけが、女の財産となつて結婚と共に次々の家に移つて行くこと、それよりも重要なのは春の始の神祭方式の一部として、小兒に小さな棒を付與して村人の生活方法を批判せしめる風習、次には春舟秋舟と稱して内陸と貿易した慣行の、ソロモン諸島などのクラの制度に近いものが、曾ては亦我民族のア(142)キナヒ關係をも、支配して居たことを考へしめる等である。要するに我々の目的とする點は、百年程前に流行した名所圖會を、未知の隅々に延長させて、見取り聞書きの挿畫を寫眞で行かうといふ企てであつた。寫眞を猛獣夜鳥の生活實寫から、追々に人の平常の最も繕ろはぬ擧動に及ぼさうとする新しい傾向に乘じて、成るべく新らしい印象を以て新らしい學問の興味を刺戟して見ようとしたのである。是にはまだ技術上の障碍が多いが、今から二三年もするうちには、十箇處ぐらゐは計畫し得られる。是と一方には山村の圖誌とを組合せて、存外僅かな勞費を以て或成績を擧げられるかと樂觀して居るが、果して空想に終らぬであらうかどうか。少し覺束ないものである。

　最近に自分たちが眼を着けて居るのは、一つは越後の粟生島である。海府の汽車の中からもよく見える。北に隣する山形縣の飛島が平地であるに反して、是は山がちで外線が面白い。地形にも變化があり、野馬を以て世に知られて居る。土着の事情も稍々複雜で、或は飛島などよりも前かと思ふ。日本海岸の移民史はまだ研究した人も無いが、船で入つて來た場合が多かつたことは確かで、處々に其痕跡を遺して居る。能登の輪倉の海士町《あままち》、佐渡の相川の海士町以前に、海人を海部《かいぶ》と呼んで居た時代の土着もあつたと見えて、豐後隱岐紀伊尾張等にアマベ郡、佐渡にも越後にも海府といふ一地域がある。移住は永い年月の間に、何度にも行はれたものだが、人は必ずしもさう思つて居ない。越前丹生郡の海岸に住むソリコなどは、現に小舟の形の特徴から出た名で、其舟を出雲の中海《なかのうみ》でもやはりソリコを以て呼ぶのだから、同系であることは知れるのだが、その歴史はもう百年も前から忘却せられて居る。海から遣つて來たことすら、土地を耕すやうになると否認する。併し島ばかりは何と言つても致し方があるまい。さうして粟生島の如く久しく外から攪亂せられなかつた島では、少なくとも移住の順序と關係とは、今の生活の上にも其痕跡を留めて居るだらうと思ふ。

　

(143)　　　　　　　島々の問題

　

　次に手を着けて見たいのは、陸前牡鹿の諸島、殊に江（ノ）島といふのが注意に値する。此島が海部の土着であるか否かは、實はまだ明らかで無い。近年琉球の絲滿人の入つて來た以前には、「潜ぎあま」の北の限りは松島の宮戸島で、それも現在は男が携はつて居るのであるが、この江（ノ）島には女が物を頭に載せて運ぶ風が傳はつて居る。物を運ぶ方法は人種學上の一つの觀察點で、其種類ははつきりと分れ、何か特殊なる事由が無いと、滅多に改めず又混用せぬものらしい。朸といふ棒の一般に行はれたのは、日本では比較的新らしいことであつたと見えて、主として都市の周圍にのみ之を使ふ者がある。關東に來ると、カルコ即ち背に負ふ風がまだ盛んであるが、八瀬や大原を控へた京都の附近では、その風が少なくとも女には見られない。今のうちに注意をして置かぬと、えらい速力を以て消えて行く樣子であるが、大體に於て舊日本の平野で、近頃まで頭に物を載せて運んだ人たちは、尚それ以外にも幾つかの特徴を持つて居て、我も他も系統の別であることを感じて居る。豐後の海岸でシャアと謂はれる水上生活者などは、今でも女が物を頭にいたゞいてあるくが、是は大よそ疑ひ無く海部《あまべ》である。瀬戸内海に入つて、カネリともカベリとも呼ばれて居る部落も同じものらしく、カネル若くはカベルといふ動詞は物を頭に載せることを意味する。或は土地によつてはイタヾキと稱する處もあり伊豫の松崎などでオタタといふのも其變化かと思ふ。彼等を單にリョウシと呼んで居る土地もあるが、そんな場合には普通の民の漁業を營む者をリョウシとは謂はない。さうして互に少しばかりの分け隔てをして居るのである。即ち今日では出自の別な者だけが、イタヾキをするやうに考へられて居るのであるが、果してさうかどうかは六つかしい問題である。沖繩本島に於ては、此風習の領域には興味ある堺がある。即ち國頭郡の南部に一線を劃して、それから南は一樣に頭に載せ、それから北は奄美大島の北端まで、すべて女が額を以て紐を釣つ(144)て荷物を背に負ふのである。それが九州になると又頭に載せ、京の大原女や畑の嫗の如く、柴薪までもいたゞく者もあれば、伊豆大島では小學校の女生徒が、風呂敷包みを頭に載せ、牛飼ふ女が秣などを載せて來る。新島には朸があるが、あべこべに兩端が上へ反つて、やはり肩に載せずに頭のてつぺん〔四字傍点〕でかついで居る。右に申す陸前江（ノ）島は其風習の北の限りであつた。それから更に進むと人も知る如く、アイヌ女性の運搬法は再び琉球國頭郡や奄美諸島と一致して居るのである。だから此風習の變化には、何か人類學上の原因があるものと見て差支無く、又曾てはもつと弘く日本に行はれて居たイタヾキの風が、一方には廢れ他の一方に保存せられたのにも、何か深い理由があるものと考へてよいので、こんな小さな一つの問題の爲にも、自分等は島の調査の今よりも遙かに精細ならんことを希ふのである。

　

　　　　　　　移住民の二系統

　

　それから尚伊豆の三宅島でも同じ計畫を目論んで見たのである。此島は辻村教授などが既に何度も旅行せられて、幸ひによい材料の殘つて居ることがわかつた。又東京から近い故に方法が立て易い。六つある部落の中で、坪田の一村だけは、殊に他とちがつた特色があると言はれて居る。併し三宅には限らず、何れの島でも氣の付くことは、個々の部落は別々の移住である場合の多いことである。個々の移住ならば必ず別々の條件、別々の誘因又は衝動のあつたのは當然の話である。或者は津輕海峽南岸の烏賊漁師の小屋のやうに、海上生産の根據地を求めて移住したと同時に、一方には耕地を得る爲に上陸した者もあつたことは事實である。海岸の住民だからとて全部が海の民と見ることは出來ない。村によつて非常にはつきりした差別があつて、總體からいふと農民の方が多い。丸々海を利用せぬ程では無い迄も、島に住んで居ながら釣漁しか知らぬといふ島民もあるのである。

　自分の最初の經驗は今からもう三十年も前のことであつた。三河の伊良湖崎の村に一夏暮らしたことがあるが、可(145)なり古い時代の土着であつて、岬の地は中古までは島であつたにも拘らず、住民は潜ぎをして貝を捕るばかりで、殆と釣又は網といふ漁法を知らない。魚もたま／＼水に入つて銛を以て刺して捕るばかりであつた。さうすると尾張の篠島の釣舟が遣つて來て、四五町沖に繋つて鯛を釣つて居る。それを買ひに行くと丸で町のやうな値段をいふ。よしよし今度入用があつて、鹽や米を無心に上陸した時、うんと高く賣つて報復をして遣らうなどと、冗談を謂つて居るのを聽いた。汽車で通つて見る中國九州の平地には、浪打際まで田畑を耕作して海と没交渉に住んで居る村は多いが、瀬戸内海では島にもそんな例は乏しくない。廣島縣の大崎下島の大長村などは、よく働く農民で、小舟で二十五の島々に渡つて畑を作つて居るといふが、しかも漁業は極端に不得手で、釣さへ碌にしないのは宗旨の爲ばかりでも無いらしい。さうかと思ふと其附近の島には、水上生活を專らとする所謂リョウシの部落もある。どうして此樣な顯著なる相異があり、又その入りまじりがあるかといふことは、今少し日本の平民の歴史を考へてからで無いと、右とも左とも答へることは出來ぬ筈で、つまり此方面は、諸君の學問の爲の有望なる素女地である。

　

　　　　　　　交通手段の激變

　

　瀬戸内海の所謂地の島の調査も、色々の意味に於て大切である。之とよく比較して見ないと、孤島の生活の特徴が考へられぬ。内陸から土地を求めて對岸の島に移つた者は、常に背後の交通に注意を拂つて居た。從つて我々が往來するにも樂で調査がし易い。之に反して海の側から來た移住者は、もと／＼手船以外の交通機關を當てにせず、孤立は最初からの覺悟である故に、内地人からは忘れられがちである。近世の郵便制度と地圖とが無かつたら、或はまだ我々の知らなかつたらうと思ふ島は多いのである。前に申した伊良湖崎の對岸に、三重縣に屬する神島がある。此島の人が伊勢參宮をするのに、往きには島の船に乘つて出るが、其序に上方などに旅行して、歸りの日を約束し得ない(146)場合には、以前は伊勢灣を一周してこの三河の突端まで遣つて來て、伊良湖の人の承諾の下に、山に登つて合圖の火を焚いた。さうすると其煙を望んで島からは迎への舟が出たのである。今ではもうそんな必要も無いが、元は斯ういふ事情であつた爲に、日夕に船から對岸から、山の形は馴染になつて居ながら、中の事は少しも知られなかつた。だから同じ瀬戸内でも、航路の關係によつてよく知られた島と、少しも有名でない島とが竝んで居るのである。又小豆島や因島の樣な大きな著名なる島でも、全然顧みられない岬の陰又は向ふ側があつた。これは全體に島國で無ければ、又日本の如く山で作つた島でなければ、見られない人文地理の一現象である。

　尤も伊豆とか熊野とかの如く、地續きとは言ひながらひどい山阪で限られ、舟でばかり出入しやすい濱は、事情が稍々島と近かつた。さういふ孤立した平地へ、農業目的の移民が多く入込み、成るべくは海路を避けんとし、又は風浪の變化に對して從順に忍耐し得ぬやうな生活慣習を持つ人々が來て住むやうになつてから、始めて山路が開けるのである。屋久島の周環道路などは、熊野の大ヘチなどと同じく、非常に無理な且つ金のかゝつた交通方法であつた。斯ういふ山路だけで繋がれて居る海岸の村々は、外から觀た目には一つの陸地であるが、内から考へると舟で往來する以上は、幾つかの小島と異なる所は無かつた。沖繩の古代史などにも、此事情がよく現れて居る。即ち「遠くの親類より近くの他人」の諺と同じく、遠くの地續きよりも近くのハナレが、寧ろ相結んで一團をなしたのである。而して其?態を打毀したものは、則ち近世の海上交通の變化であつた。

　江戸時代の水運史は既に少しづつ之を語つて居るが、明治に入つて急激に其形勢が展開した。一言でいふならば大船の發達は、同時に小舟の機能の衰弱であつた。島の社會に取つては非常なる大事件である。汽船が走り乘合航路が開けることは、通例は交通の改良を以て目せられるが、之に因つて小舟の數の減じた結果は、島から島への往來が却つて個々の住民の自由では無くなつたのである。陸上に於ける馬籠人力車から乘合馬車自動車への變遷も、效果が之と略々似て居る。此御蔭に枝路といふものが皆役に立たなくなり、ガソリン土ぼこりの幹線國縣道の外は、殆と皆邊(147)鄙となり在郷路となつた。但し此方面は自轉車のチリリンがあつて、まだ／＼之を緩和することが出來るが、海上にはさういふものが少しも無いから、小さい島々は山村よりも住みにくゝなつたわけである。

　此?勢を促した主たる動力が、いはゆる蒸汽船であつたことは説明する迄も無い。自分が前年佐渡で實驗した一例は、水津・赤泊・二見・鷲崎の如き、岬の突角に在る古い湊が皆田舍になつて、河原田と夷港が之に代つたのも其爲であつた。殊に夷などは袋の底であつて、試みに小舟を傭うて此港に入らうとすると、潮の流に制せられて餘分の勞力又は時間を費さねばならぬが、汽船ならばする／＼と乘込んで、速かに奧地に近づくことが出來る。つまり今日の交通の便不便といふことは、平野の中央を占める都市の利害から割り出したものである。九州南端では坊津や山川が夙く衰へて、鹿兒島が繁昌の船着きとなり、近畿では加太や撫養《むや》が比較的重要で無くなつたのも、すべて一つの法則であつた。昔の小舟の交通では、靜かな日に岸近くを漕いでまはつて、出來るだけ突端まで行つて都合のよい風を待つて居る。即ち風待ちの泊といふものが、岬の近くに在つて殷賑を極めた所以である。それから又船の暮しは退屈するから、到着した船の客も成るべく斯んな所で上陸してしまふ。だから汽船以前には津輕の三厩《みんまや》小泊《ことまり》、外南部の大間佐井濱などが今日の青森であつた。ずつと遡つて渡唐船の時代に於ても、若し五島といふものが無かつたら、あんな交通は六つかしかつた。日鮮往來に對しては對馬の地位が之とよく似て居る。否九州といふ島の全體が、日本の國際生活に貢獻した力は、此の如くにして顯著であつたのである。

　

　　　　　　　海上遠征の史蹟

　

　五島は此意味に於て特に諸君の注意を要望する。獨り動植物の生活が太古の陸橋の名殘を示すのみでは無いのである。福江島の外側に在る三井樂《みゐらく》の里などは、死んだ人に逢はれるといふ樣な奇異なる雜談を以て漸く記憶せられて居(148)たが、實は一千年前の横濱市であつた故に、斯んな不可能事も此土地のみには、有りと想像し得られたのかと思ふ。即ち全日本の海岸線を通觀して、神を祀らぬ御崎といふものが、一つも無かつたといふことゝ深い關係があるのである。外國の學者の本からは、學ぶことの出來ぬ知識である。諸君が自ら觀察し自ら思索せらるべき獨立の領分である。昔の島の生活の大なる一要件で、我々の或は氣付かずに居たものは、悠長若くは氣が長いといふことであつた。それを忘れても差支無しといふところに、蒸汽機關や石油發動機の、非常に大なる文化史上の意義はあるのである。中古以來の外國貿易の年に一囘であつた理由、支那へ行く時代にも、オランダが來る時代にも、常に季節が一定して居たのは、連日同じ風の吹く頃を待たなければ、大洋には出て行かれなかつたからである。急いだところで仕方が無い。乃ち人の一生といふものが今とはよほど違つた意味を持ち、航海が狩獵や農業と近く、澤山の休日が自然に必要であつた爲に、勞働は單なる辛勞でも無く、遊戯休息が單なる放逸でも無かつたのである。さうして又樹林草原の片端に住んで、絶えず動搖して居た大陸の漂泊民と違つて、海の人種移動には特別の考究を待つものが多い所以である。

　然るに太平洋の歴史の興味は、既に白人の學者によつて御先へ失敬せられて居て日本人はたゞ感心して見物をすることになつた。例へばマクミラン、ブラオン等が力説して居るイースター島の巨石文化の如く、其島では得られない材料をどこからか多量に運んで來て、絶海の孤島に工作物を遺して居る。そも／＼如何なる船を以て斯んな大きな物を遠くへ運んで來たか。獨り日本人の祖先が今尚何處から移つたかを知り難いのみでは無い。もつと他の陸地から隔絶して、中間の足場の考へられぬ島々にも、斯うして早くから人が來て住んで居る。サモアやタヒチの群島に居る人と同じ系統の言葉の者が、赤道を越えて北へ更に十八九度の、布哇の島々にも知らぬ間に來て居る。種々なる推算から少なくとも七百年前、多分は千何百年の大昔に、定期風の便宜も無い漫々たる熱帶大洋を通過して、前人の經驗の役に立たなかつた大航海をして居るのである。さうして彼等の使ふ船は至つて小さい。だから大陸沈下説といふが如き、學者の夢も成立ち得たのである。自分等の考へて居る現在の解釋も、亦久しからずして覆へるかも知れぬ。或(149)は覆へらぬかも知れぬ。地平線外の數百里の彼方に、行けば住まるゝ島ありと知つたのは、言はゞ最初は當てずつぽう、一種の空想であつたに相違ないが、之を確信せしめ得たのは、恐らくは宗教の力であつた。即ち鳥のふるまひや雲の行方の、幽かなる暗示だけでは無く、或は靈夢の鮮かな告げがあり、或は神仙巫女の託宣に教へられ、非常な大計畫と決心とを以て大船隊を組織して出て行つたものかと思はれる。小船には日本でモヤヒといふが如く、繋ぎ合せて其力を強くする方法があつたらしいが、それと同じものが人と人との間にもあつて、且つ之を統一する權力が完全に承認せられて居たらしい。其上に色々の精神的準備、例へば祈念卜占物忌の如き方式が、嚴重に守られたことも確かである。而うして無論幾らとも無きコロンブスは、空しく雄志を潮の底に埋めたであらう。例へはフィジーの島から東北方に向つて、假に出て行つた船隊があつたとすれば、其運命は必ず悲しいものであつた。それを本國に於ては徐福の藥を求めて永く蓬莱に留まつて居ると考へた如く、又は南波照間島の物語が、更に一つの夢の樂土を追加した樣に、好い意味に解して羨んで居たかもしれぬ。が兎に角に十に一つか、はた百に一つであつたかは知らず、その或ものだけは成功して、斯うして永く神意の徒爾ならざりしことを、詠歎することが出來たので、日本も亦その幸福なるものゝ一つであつたかと私は思ふのである。

　

　　　　　　　移住と信仰との關係

　

　今や我邦に於ても、古代史は幸ひにして人望ある學問となり、民族移動の道程を説いて見たがる人は多くなつた。しかも大抵は大陸的と名づけてもよいか、隨分と心元無い類推の上に立つて居るのである。成程歐羅巴でも其他の大陸でも、人はたしかに遷移した。殊に阿弗利加の如きは文字記録の力を假らずして、現在の人種分布の痕を見たゞけでも、大樣は異動の方向が分るやうに言はれて居る。併し果して大海の島と島との間に於て、その同じ法則が適用し(150)得られたかどうか。其點を考へて見た人はまだ無いやうに思ふ。大陸の地續きに於ては、假令高山や熱砂漠の妨げるものがあつても、人は一方から押されゝば自然に且つ徐々に、他の一方へ退くことが出來たが、海上に於てはさうは行かない。それ以上にもつと纏まつた力、もつと積極的な衝動が無ければ、今日ですらさう安々とは出て行かれぬのである。故に壓迫とすれば遙かに強い怖ろしい壓迫があつたわけだが、恐らくは別に自發の原因の内から之を促すものがあつたのである。即ち人が殖えて物が足らず、今までの社會に滿足し得なくなると、自然にもつと好い島がある筈だ。もつと花やかな國が作られるかも知れぬと、考へる機會が多くなる。これは日本の古神話にも、又近代の民間文藝にも、少しづつは其形跡が現れて居る。例へば鬼が島は寶の島で、勇猛なる者が渡つて往つて征服するといふ童話なども、偶然では無かつたのである。或は人の一生が餘りにもあわたゞしいと感ずる者は、往々にして燕の行き雁の來る國を常世の國と考へようとして居た。神が地平線の彼方に住むことを説いて居た民族もある。或は之を母の國とも名づけて、愛する靈魂の死して飛去るのを、其處へ行つて永く住むのだと思つて居た人もあつた。そんな信仰が盛んな時代には、夢や占方や雲風虹蜃氣樓の自然の現象までが、人を無意識なる大冒險に誘ふに十分であつたので、彼等の智巧がまだ完全に環境を支配し得なかつた期間は、殊にさういふ漂泊の宗教の成長する餘地が多かつたものかと思ふ。

　しかも一旦新たなる緑の島が發見せられ、その稍々過分なる豐沃が暫らくの安住を許すことになると、文化は培はれ心情は成長して、信仰も亦次第に其面目を改めた。天は益々遠く高く、導く神は來り訪ふ神となり、更に又留まつて護る神となつた。人は與へられたる平和を樂しんで、却つて外より來り侵す者を怖れ氣遣ふやうになつた。實際又種族文明の差別から、或ものが既に土着の民となつて居るのに、他の或ものは尚絶えず動いて居るやうなこともあつた。伊豆の海邊に鬼ヶ島の人が渡つて來たことは、古今著聞集と玉葉と、二つの獨立した記事が殘つて居るので、確かなる史實であつたことがわかる。是などは近世に謂ふ所の漂着ではなかつた。白人の船が始めて太平洋の島々を訪(151)うた時なども、土人の多くは寧ろ之を意外としなかつたといふ話がある。彼等に取つては天の一方から、見知らぬ異人の漕ぎ寄るといふが如きことは、從來聽なれたる出來事であつたので、それが現在の如き世界の大變化の、端緒となるべきものとも心付かなかつたのである。

　

　　　　　　　海島民族の成長

　

　之を要するに我島は佳き島なりといふ考が夙くより存在したならば、多くの海上遷移は起り得なかつたのである。斯ういふ心持の少なくとも上層の人々に抱かれたのは、恐らくは永い苦しい海上漂泊と、異種民族征服の戰闘が終つて後のことで、所謂｜妣《はゝ》の國の信仰は、其間に於て少しづつ、色彩に灰色を加へて來たのである。別の説き方をするならば、此等海上の勇士が、稍々大なる好き島を見付けてそこに落付く頃になると、自然に宗教は變形して、土地と住民との因縁の最初から定まつて居たことを信じようとするが、他の一方には又神に導かれて、始めて理想の地を發見した絶大の悦びが、いつ迄も神話となつて記憶せられざるを得なかつたのである。

　南太平洋の多くの島々の神代史が、往々にしてこの二流れの言ひ傳へを共に存して居ることは、人種異同の問題とは獨立して、別に斯ういふ事情の共通なものがあつた爲である。或は各島の創世記の全部を擧げて、後の傳承者の幻想なりとする人もあつて、議論をして見たところが結局は水掛論になるかも知れぬが、兎に角に海上の移動には之を支配した法則があつた。明白に時代の影響と目すべき條件、例へば航海機關の改良、地理知識の増加などを拔きにして見れば、昔も今も島と島との關係は相同じく、しかも天然から來る制限に對しては、古人は我々よりも尚一層反抗の力が弱かつたわけである。即ち島では幾つかの事由が具備し又成熟しなければ容易に次の島には移つて行かれなかつた故に、出てもいゝ?態が來ても暫らくは稍々無理をして、辛抱して尚止まつて居たかと思ふ。島の人口が往々に(152)して溢れ易く、從つて同族闘爭の激しくなり易いことは今日のやうに政治國境の八かましい時代になつても、なほ陸續きの大陸國では經驗し得ないものがあるのである。之を要するに海は自由であると共に、又特殊の拘束でもあつた。

　秦の始皇は今の山東角に近い東莱の海邊に來て長歎したと傳へられる。地圖で見ればこそ朝鮮海峽を隔てゝ、東に扶桑の島あることを知るのだが、昔の人にはたゞ茫洋たる水の無窮であつて、弱水泥海の説は亦早くから行はれて居た。之を渡るといふ決心には準備が無ければならぬ。先づ沖に出てほゞ雙方の陸地の見える距離、是が最初の交通の條件であつたが、それだけでは甲から乙の地に、移つて住む動機には十分で無い。モーゼが埃及を出て來た場合は、故地に復るのであつたが、あれより今一段と純にして強烈なる空想の、之を導くべき必要があつたのである。

　

　　　　　　　島の政治の特徴

　

　ところが我島を悦び且つ滿足せんとする農民氣風と、夙に養はれたる傳統的信仰とが、未知未經驗に對する不安と合體して、人を不必要に永く一つの島に縛り付けたことは、全く大陸國の住民等の思ひ及ばざる境涯であつて、それが又多くの島に於て、驚くべき一致を示して居る。例へば近代米國の領に歸したバラワン列島の或ものには、清水の出ない島があつて、水といふものは鹽氣のあるものと考へて居る人民が住んで居る。モロとは謂つて居るが馬來人支那人の血を多量に混じて居る人種である。それがもう今ではたま／＼他の島に在つて、純なる淡水を飲むとからだの調子を惡くするといふ程度にまで、斯んな風土に馴染んでしまつたのである。

　勿論此樣な?態の下には、到底大海を横ぎつて新らしい島に赴くことは六つかしい。即ち私どもが遠き祖先の精神生活に、前後二期の階段があつて、或期間の最も活?なる國?《くにま》ぎ時代と、次に出現した安住時代との間に、著しい信仰の變化があつたものと、推斷する所以である。物悲しい歴史には相違ないが、我々の島研究は自然に斯ういふ假定

(153)説を發生せしめるのである。大小スンダ諸島の住民の如きも、東はポリネシヤ・パプアから、西は馬來印度からの色々の種族の湊合であることは痕跡があるが、現在の哀れな滿足、強烈なる愛島心を見ると、此が曾て萬里の波濤を越えて、遙々入つて來た者の末であることすら想像し得られぬ。況んや再び徐福の船を艤して、遠く第二の蓬莱を求めに行くなどは、絶對に望むことの出來ぬ姿である。今の執着と昔の大膽な思ひ切り、この二つの特性を兼ね備へたことが、島の歴史の省みられなかつた不思議である。

　眼近き日本の例を引くならば、沖繩群島の更に南の果に、宮古と呼ばるゝ島がどうして存在するか。奧州海岸の都島は既に古今集の歌に詠まれて居る。今の松島の宮戸島のことだともいへば、いやそれよりも遙か北に在るともいふ。島では無いが兎に角陸中の閉伊にも、古くからの宮古といふ港がある。九州では豐前の京都《みやこ》郡なども、色々な傳説はあるが皇居とは關係が無さゝうだから、同じ系統の一例には相違ない。何で又斯んな地名が出來たか不思議のやうであるが、やはり今日の都と元は一つの日本語であつたと思ふ。沖繩縣の宮古島にはアヤゴと名づけて、古い歴史が多く韻文と爲つて、口傳へに傳はつて居るが、其中には島をミヤコと呼んだ理由の窺はれる文句が殘つて居る。即ち、

　　　ワーミヤクヌ　　　（我がみやこの）

　　　ウフミヤクヌ　　　（大みやこの）

云々といふ對句を以て、あの周圍僅か八九里の、珊瑚礁粉末の瘠士の島を讃美して居るのである。今日の國語では、ミヤには宮といふ漢字を宛て、之を宮廷か神社のみに使用することゝなつて居るが、元は此語の用途は弘く、領主若くは部落長の住宅もミヤ即ち御家であり、從つて其所在地がミヤコであつたものと思はれる。内地にも宮原宮城といふ類の地名は多いが、沖繩本島でも所々に幾つかの宮城（ナーブスク）があり、八重山では最初の主邑が宮良（ミヤラ）であつた。少なくとも漢語の宮よりは意味が廣かつたが、しかも之に基づいてミヤビとヒナビを區分し、其ミヤコに住む者は既に我土地に自得して、遠く神話時代から住み續けて來たのである。

　

(154)　　　　　　　悲しむべき社會觀

　

　この小さな滿足優越感が、どの位孤島の一宮古の爲の大なる煩累であつたかは、諸君の想像以上である。此島の人は今でこそ盛んに島外に出て行つて、最も辛抱強く且つ精悍なる勤勞をして居るが、以前は少しでも出て行かうとせず、又其樣な横合も無かつた。さうして目と鼻との間でそれは／＼烈しい戰闘をして居た。生き殘つた勇士の家の功名談の裏から、滅された他系統の勇士の悲壯なる終焉がよくわかる。つまりは兩雄竝び立たなかつたのである。其以外に尚天災も多かつた。シガリナミ、といふのは海嘯《つなみ》のことで、島の記録には四海波といふ文字が宛てゝあるが、我々の使ふやうな四海波靜かでは無く、幾つとも無き邑里を荒跡とし、乃ち古き都はそちこちに畠となつて居る。井戸なども今は涸れたものが多い。何しろ人の増加が怖ろしい割合で、ある時多く減じても又一杯になる。しかも天然に對しては此通り無抵抗で、人同士は常に相爭つたのである。さうして最後の勝利者の一群のみが榮えて居る。是が所謂ヨカルビト（上流）となり、彼等の記録を保存して居るのである。

　其記録を讀んで見ると、支配階級の家を保全した手段は二つ、其一つは主島への朝貢、殊に租税納付の約束である。第二には次の島の征服、是にも十分に中山王廷の背景勢力を利用して居る。之に由つて政治上に最早抗爭する者無き優越の一團が出來て、大切なる島の統一は爲し遂げたが、他の多數は爭ひ得なかつたといふのみで、其生活は非常に惡かつた。宮古島から征服せられた八重山の方でも、同じ結果に歸着して居る。古くからの酋長の後裔は、今百姓となつてひどい壓抑に苦しんだが、それも今は三分二以上の村々が、今から百五十年前の大海嘯に滅亡して、其跡は歴史を少しも知らぬ他の小島の移民を以て補充せられ、外部から見た歴史は要するに士族のみの歴史である。

　此關係は沖繩の本島でも同じことであつた。人が島内に充ち溢れて爭奪が起つたとき、先づ外國と交通を開いて其(155)後援を得た者が、能く統一の大業を完成し、島の平和を維持し、所謂武器を知らぬ王國を作り上げてしまつたが、其前後には慘酷なる生存競爭があつて、其爲に人が多く死んだのである。是も勿論整理方法の一つで土地の養力に比例せぬ人口を盛つて、利害が兩立しなければ不斷に殺し合ふか、又は斯うして始末するかの他は無かつたのである。言はゞ是が人間の考の進まぬ以前の、島の適應性とも名づくべきものであつた。日本の如き大なる島でも、やはり此傾向は免れなかつたことゝ思ふ。たゞ關係が複難し方面が弘くなると、斯んな模型的な實驗から、類推して見て始めてわかるといふ迄である。巧みに外援を利用して内を制するの策略は、武器以外の經濟戰にもやはり行はれ、又近頃のやうな思想戰に於ても、相變らず同じ手段で勝を收めようとする者が現れて來る。骨肉を犠牲とする惡癖は、一朝一夕には改められさうにも無いのである。考へなければならぬ問題である。

　

　　　　　　　島の歴史の共通點

　

　是が一箇單獨の歴史で無くて、諸君の所謂人文地理の現象であつたことは、南太平洋の多くの大島が、次第に近代化した路筋を比べて見ればよく解かる。沃野千里といふ大陸であつたならば、斯んなに事情の切迫する前に、住民は必ずもつと分布したであらう。又國覓めの宗教が我々の祖先を興奮させて居た時代ならば、人は小舟に乘つて未知の海に飛出したであらう。奈何せん最初此島に入つて來た時の悦ばしい安逸と幸福とが、個々の家には記憶となつて傳はり、どうしても我島を愛せずには居られなくなつてしまつたのである。從つて人を押除けなければ住まれぬ時世が來ると、從弟でも叔姪でも又其末々でも、同じ血筋の間にも爭が起るのである。

　日本の歴史にも其證跡が少しはある。南北朝以降足利期を通じて、所領は一族繁榮と共に分割し得られるだけは分割したが、やはり本家には格式があつて、それまで失へば本家では無くなる。從つてどの家も／＼必ず二組以上の中(156)心が出來て、骨肉が殺し合ふ迄に闘爭したのである。應仁の大亂は其一つの行詰まりであつたが、僅かな年代を過ぎると再び同じことが繰返された。之を民族性などと名づけたら、それこそ大まちがひである。要するに島は隣が騷々しく無くて落付き易い。從つて繁榮する。人口増加の彈力性がある。外へ出て行くことはさう容易で無く、鎖國政策は自然である。從つて内爭が起り易く、之を平和の裡に處理しようとすれば、陰謀ともなれば虚僞ともなるのである。そこへ外部の勢力が參加する段になると、そこに又新種の痛苦が出現する結果を見るのである。

　

　　　　　　　所謂太平洋政策の内部原因

　

　白人の干渉は言はゞ機運であつた。島の?勢にも幾分は之を招致した姿がある。近代歐羅巴の太平洋政策なるものは、まだ島人の側からは十分に考へられて居らぬが、多くの場合には島に相對峙して居る澤山の頭目の内、一人を助けて主權者と承認し、其他の全部を生蠻扱ひにした形である。ポリネシヤの群島などでは、島人自身の感情から批判すれば、耶蘇教化し又は外人と親しくする酋長は墮落であつて、其最後は必ず良くないものと豫言せられて居た。其豫言も往々にして適中したが、其豫言をした頑固なる保守派たちも、やはり壓迫せられ亡されたことは同じであつた。統一は無理にも得られたけれども、悲しむべし其統一者は彼等では無かつた。

　要するに外界の勢力感化にさらされることは、島の弱點の一つと見てよいやうである。白人の太平洋政策は此二百年の間に、徐々に改良して少しく思ひ遣りのあるものになつたが、其以外の外部勢力は依然として元のまゝであつた。肌膚のみ白色なる惡漢は、まだ何れの島にも少しづつ居るのみならず、もつと規則正しい害敵としては、熱帶の海などには海賊の跳梁があつた。男を奴とし女を妾として、亂雜なる人種混合の行はれたのも此結果であつた。蘭領の海賊壬國が完全に?定《さくてい》せられたのは、今から僅か二十年前の事であつた。普通の軍艦では干瀬の奧まで追掛けて行くこ(157)とが出來なかつた。平定は言はゞ石油發動機船の發明の御蔭と言つてもよい。ゴアやスールーの繁榮が永く續いたのも此爲であり、チドルやタルナテの酋長たちが、帝王の豪華を極めたのも、本來は海賊業の賜であつた。日本は幸ひに囘歸線以北の荒い海に在つて、殆と彼等の侵略を知らなかつたが、セレベス東南部の海岸の如きは、少しく里が繁えて犬鷄の聲が聞え出すと、直ぐに海賊が來て劫掠を逞くし、彼等が代つて住んで又暫らくすると次の者に荒される。天惠は豐かであつて、却つて其爲にいつ迄も市邑が起らなかつたのである。

　海賊が漸く衰へて、次で出て來たのは支那人であつた。日本人のみは夙く引退したが、ブギス人マカサル人、南モルッカスの島民たちは、代つて追々に貿易術を學んだ。しかも其多くは海のジプシイたちも同樣に、本來は海賊から轉業したものであつた。囘教普及の勢に乘じて、阿刺比亞人も多く遣つて來た。印度人なども金力を挾んで、徐々に東南の海上に手を延ばして來た。白人に比べると計畫の統一は無かつたが、島々の生活に怖ろしい衝動を與へたことは一つである。即ち島の本來の住民の間に、少しでも利害の抵觸が起れば、此等の外來者と先づ交際を結んで、其支援を以て同胞を制御しようとした者だけが、其仲間の數の過多に陷るまでの或期間、兎に角に幸福な地位を保持したので、それは個人としては或は幸運ともいへるが、群としては結局は自殺自傷であつた。

　沖繩の生存競爭なども最近に至る迄此形式を追うた。即ち少數の特殊に慧敏なる者が、前には鹿兒島次には大阪、最近には大島などの商人の手引をして、無理な商法を以て島の同胞を誅求させたので、其結果として都市だけは外面榮えて居た。しかもさういふ人がやゝ餘分になると、又其間にも新しい苦闘は起らざるを得なかつた。さうしてこの沖繩縣の經濟問題が行詰まつて、今や全國の注意を惹くに至つたのは、不幸な現象ながら永い將來のためには幸福であつた。我々の努力は先づどうしても自ら知ることから始まらねばならぬのだが、それを日本全體の爲に、未然に注意してくれたのが南の方の島であつた。もう彼等も徒らに永く苦惱させては置かれぬであらうと信ずる。

　島の文藝の特殊なる發達、その根柢を爲したに相異ないと思ふ男女感覺の成長、それと深い關係をもつ家庭及び親(158)族組織等、色々他にも御話をして見たい題目があつたのに、何だか理窟ばかり多くなつて、諸君を退屈せしめたのは不本意であつた。此次機會があつたら今少し明るい方面の話をして、この埋合せをしたいと思つて居る。

　

(159)　　　　　南島研究の現?

　

　　　　　　　大災厄の機會に

　

　大地震の當時は私はロンドンに居た。殆と有り得べからざる母國大厄難の報に接して、動?しない者は一人も無いといふ有樣であつた。丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。丁抹に開かれた萬國議員會議に列席した數名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲みと憂ひの會話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を以て斯ういふことを謂つた。是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が輕軽浮薄に流れて居たからだと謂つた。

　私は之を聽いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。本所深川あたりの狹苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縱な生活を爲し得なかつた人々では無いか。彼等が他の碌でも無い市民に代つて、この慘酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。

　此議員のしたやうな斷定は、勿論一種の激語、もしくは愚痴とも名づくべきものであつて、まじめに其論理の正しいか否かを討究するにも足らぬのは明かだが、往々にして此方法を以て何等かの教訓とあきらめを罹災民に與へようとするのが、ごく古代からの東洋風である爲か、歸朝して後に人から聞いて見ると、東京に於てもより多くの尊敬を(160)受けて居る老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説《てんけんせつ》を唱へた人があつたさうである。誠に苦々しいことだと思ふ。

　昔は周公といふ人は、若き王樣に過ちがある時に、我子の伯禽《はくきん》を鞭つたといふ話がある。又鶴千代君の身邊に警戒の必要があると、千松が飢ゑて且つ死んだといふ先例もあるが、君臣親子兄弟朋友の間ならばいざ知らず、又始めから其覺悟があるならば兎も角も、單に同時代の國民だといふのみで、平素は何等の連帶も無く、又は相互の干渉も指導も戒飭も力及ばぬ者が、代つて罪せられる理由は無い。例へば銀座通りで不良青年がたわけを尋した故に、本所で貧民の子女が燒け死なゝければならぬといふ馬鹿げた道理は無く、それは又制裁でも何でも無いのである。

　殊に東京や横濱の市などは、殆と公共團體とも名づけ能はざる空漠たる無數家庭のかたまりである。幸福にも不幸にも、常からして何等の統一は無かつたのである。之に向つてソドム・ゴモラの舊式な説明を下すことは、因果説としても極度に不完全なものであつた。

　

　　　　　　　沖繩問題の未解決

　

　自分たちは或は幼稚なる運命論者かも知れぬが、未だ上天の裁判と刑罰とに確かな成律のあることを解し得ない者である。しかも少なくとも人間の大小の不幸には人の誤つたる行爲不行爲が、原因を爲す場合の多いことだけは認めて居る。但し之を指して自業自得と呼んでもいゝのは、果してどの程度までゝあるかには疑問がある。例へば親が若い頃に道樂をして、我子に惡疾を遺傳した場合はどうか、自分の採用した運轉手の亂醉の爲に、自動車が谷に墮ちて大怪我をする。斯んな場合は自業自得の内かどうか。さう手短かには否とも然りとも、答へることは出來まいと思つて居る。

　然るに富來の歴史研究者が、所謂治亂興亡の跡を外部から批判する際に限り、往々にして右申す道樂な父、乃至は(161)不注意なる運轉手よりも、尚遙かに廣汎なる區域に亙つて、國民の責任連帶を認めようとするのである。隣國支那などの史論には、古今を通じて幾らでも其例があるが、我日本に於ても近頃は折々、斯ういふ不正確な物の見やうをする者が出來て來たのである。現に今日の問題たる沖繩諸島の生活に於ても、我々はその最も悲しむべき實例を見をのである。

　沖繩最近の窮?の、主たる原因は社會經濟上の失敗である。誤り又は故意に巧んだ人間の行爲が、積り積つて此痼疾を爲したことは事實である。しかも其誤りを敢てした者は、現に今最も多く苦み惱んで居る人で無いのみならず、彼等の親たちや友人ですらも無かつたのである。所謂張三が酒を飲んで李四が醉うて居るのである。誤つたる經濟といふのは誤つた消費であつた。島には素より天然の制限が多い。島の天候と地味である。面積である。地理上の距離である。此等の諸因子は常に島の生産を拘束して、如何なる新しい智術を以てするも、彼等の生産は到底完全に自由であり得ぬに反して、一方その消費の樣式と選擇とは、時代一樣の趣味と流行とに支配せられ、至つて自由且つ奔放であつた。少なくとも若干の富める個人には、それが權利の如く認められて居た。其爲に島を一體として見るときは、到底其生産と釣合はざることの明かな消費を、何等かの方法を構へて久しい間續けて來たのであつた。

　日本の最近の國情も恰も之に該當する。自分の資力で自分が奢るのに何の不可があると謂つて居るうちに、國全體の力を以て生産する物が、始終國全體としてつぶしてしまふ物の分量に及ばず、市價はいつも高く一度下つた爲替は中々元に戻らず、さうして誰かゞ片隅に於て、いつでも難澁をして居るのである。たゞ日本一國としては、つい近頃漸く其弊が見えて來たに反して、沖繩では可なり永い前から之を續けて居た上に、島が小さいので其不權衡が早く現れて居ただけである。交通が始まれば色々と便利調寶な物品が入つて來る。力ある者が之を買入れる爲には、力弱き者を制して、そのいゝ加減不十分なる消費の割前を、尚一段と差控へさせる必要があつたので、古い時代にはそれが年貢運上の形を以て、この生活幸福の大差等を付けて居たのである。

(162)　税は新しい時代になつて確かに輕減せられたが、尚之に代つて特殊なる商事機關が働き、個々の直接生産者の利益は其爲に大に殺がれた。沖繩本島でいふならば鹿兒島大阪から來た商人の店、又は之を援助して分前に與かつた那覇などの利口者である。彼等は常民よりも一段すぐれた才能と、大きな資本の力とを武器として、愚鈍なる同島人の生産に餘分に食ひ込み、彼等を窮乏せしめずんば止まなかつたのである。官廳巨匠其他の有力者は、之に伴うて許さるる限り自由なる消費をした。其消費の中には學校とか書籍とかの如き、新文化の生活に必要缺くべからざるものも勿論多かつたが、其以外にも食料飲料衣料などの、島の乏しい生産物と交易して輸入せられる品物が、いつでも輸出を超えて居たので、久しきを經てそれが集積し、終には以前の浪費階級までを引つくるめて、共々に没落の淵に沈めようとするのである。仕事ばかりうんと殘つて金は無く、納税は義務ばかりで納め得る力は既に尋き、今や縣市町村の如き公法人にも、破産といふことがあり得るか否かといふ、新しい法律上の問題をさへ生じたのである。

　此?態は勿論坐視すべきものでは無い。如何なる對策でも立てなければならぬ。一の救濟手段が不十分だときまれば、必ず轉じて第二の方法を試みなければならぬ。しかも我々の尚心苦しく感ずることは、此の如き場合に於ても、最も多く惱み悶える者は、早くから大に弱つて居た階級であるに拘らず、外部の援助に由つて先づ救はれる者は、通例は却つて最近始めて困り出した表層の少數だけだといふ點である。即ち沖繩縣を一箇の生活體として見るならば、今度の如き困窮も或は因果應報かも知れぬが、一たび其中に入つて兩者の關係を見れば、やはり此の如き連帶責任は不當であり、又苦痛の分擔も明白に不公平なることを知るのである。

　

　　　　　　　通用し難き經濟調和説

　

　日本全體としても此道理は同じである。或階級又は或地域の住民が拙劣なる經濟生活をした爲に、當初から些しも(163)之に參與せず、又之を制御するの力も無かつた同胞までが、共々に難儀をするといふことは不當であり、如何にも気の毒な話である。しかも日本は國柄として、天然の事情が地方毎に色々である。離れ島や山奧の村には、中央部の都市に近い平野と、丸で違つた經濟上の條件があり、生産の制限がある。其中では東北地方のやうに、土地弘くして人が少なく、開けばまだ餘力のあるといふ地方ならば、單に世間に引張られて餘りに急激に、生産の行止まりに近づくのが困るといふだけであるが、海島の生産制限は之とは反對に、主として人口の過剰と資源の缺乏から來て居るのである。沖繩の如き近世百年間の新刺戟で人の數が倍三倍になり、しかも食料の増加は決して之と比例しなかつた故に、榮養の不足で子供も其親も、次第々々にかじけて小さくなつて行くやうな土地では、以前もてはやされた英國風の經濟學のやうに、所謂自然の經濟調和を樂親しては居られぬわけである。

　以上はたゞ比較的單簡なる經濟問題のみに付て述べて見たのであるが、一般文化の諸問題、例へば精神生活の幸不幸に就ても、全然同一の事態を推究することが出來る。外國人が横濱神戸の埠頭や帝國ホテル四周の日本人を見て、此國の氣風を論じ未來を判定しようとするのを恕し能はざる我々は、必ず先づ自ら日本人とはどんなものかを知らなければならぬ。然るに色々の偏した心持ちの所謂先覺者が、未だ曾て自分に似ない境遇の日本人を、考慮の中に置かうとしなかつたのは不親切であつた。

　そこで此意味に於て我々は、夙に日本の偏卑な土地の一樣ならざる事情を闡明して、國の今後の政策の基礎と爲すべきを主張した。たま／＼中央に遠い地に居を占めて居たばかりに、終始他方の利害に殉ぜしむべき理由の無いことを唱道した。さうしてその最も適切なる一例として、沖繩諸島の現在問題を選んだのである。

　

(164)　　　　　學問と希望

　

　就ては先づ承認を得なければならぬことは、自分は本日は南島談話會と稱する小さい團體を代表して、最近までの南島研究の大略を申述べるのであるが、此合は主として所謂内地人、殊に都市居住者によつて組織せられて居るけれども、我々は一人として閑暇に苦しんで沖繩の學問に、參加を申込むやうな氣樂な人間では無かつたといふことである。それに我々が覺えてからでも、沖繩の學問は非常に進んだ。殊に尊敬すべきは伊波普猷君の、二十年間の倦まざる勤勞であつて、今や其感化は群島の内にも外にも弘く及んで居る。我々共の聲援、乃至は競爭の刺戟が無いならば、島の學問の完成が期し得られないかの如く、考へて居る者などは決して無いのである。

　たゞ我々同志の徒が深く感じ、又自分一箇としては前年彼地に旅行した際にも、しみ／”＼と島の諸君と話したことは、如何にしたならば沖繩今日の學問が、弘く日本全國民の幸福となり、否進んでは世界全體の、人の生活の改良となり得るであらうかといふことを、まだ諸君等が十分に考へてくれられぬといふ點であつた。此が爲に文化の研究を目的とする學問にとつて、最も大切なる比較と思ひ遣りとが、まだ足らないといふことを遺憾としたのであつた。

　沖繩の有識階級に屬する人々は、如何なる瞬間も中央の文化の恩惠が、孤島の端々に及ぶこと遠からずして、時運が彼等を後に取殘して進みつゝあるのでは無いかを、氣遣はざる時とてはないのである。しかも他の一方には、沖繩の中部日本に對する關係と、至つてよく似た外樣關係を以て、沖繩自身に從屬する更に小なる孤島あることを忘れんとし、又往々にして之を取殘して獨り進まうとしたのである。沖繩本島を取圍んで居る若干の小島だけは、或は小舟に乘つて朝晩に往來することも出來るが、所謂先島の二群島、即ち宮古八重山の二郡の島々に至つては、悠々たる五百年の間、今の沖繩縣が中央集權制の下に統治せられるよりも、更に遙かに心細く且つ苦しい孤存?態に置かれたの(165)であつた。その又先島の八重山の主島にも、更に税を納めるだけとも謂ふべき關係で、結び附けられて居た屬島があつた。舊日本の南の端、西の端はどこかといふ地理の問題が出る場合だけに、僅かに人の記憶に上つた波照間島、與那國島などが即ちそれである。宮古群島の方にも遙かの海を隔てゝ多良間の島が從屬し、多良間自身に對しては亦｜水納《みんな》の島が隷して居た。島に大小がある以上は、棄てゝ置いても大は小を輕んずる傾きがあるのに、中央では更に統治を簡便にする爲に、一方の優越を承認したのみならず、尚その個々の島内に於ても、從來はわざと其住民の中から、上に從順にして才智便巧なる少數者のみに權力を付與して、所謂統一を圖らしめた。其爲に同じ一つの島の住民の間に、辛苦と安逸との甚しき不均衡があつたことは、申す迄も無いのである。

　埃及や希臘の古い文明を見ても、國が盛んに開けたといふことは、思ひの外少數の、表面に立つ人だけの誇りであつた。貧困者と多數の奴隷とは、下に隱れて其勞苦のみを負擔せしめられたのである。併し彼等驅役に供せられた奴隷なり小民なりは、專ら異民族であり又捕虜であり買はれた者の末であつた。之に反して我々の社會に於て、蠶の如く又鵜の如く働かされた人々は、疑ひも無き同胞の血族である。言語を同じくし神を同じくした古來の日本民族の仲間同士であつたのである。それが境遇の差によつて、追使はれる百姓と追使ふ士とに分れて、著しい幸福の階段を生じたのである、島々の文化を興隆せしむる爲には、他には是ぞといふ手段も別に無かつた故に、出來るだけ彼等を利用したのである。

　而うして此大小の島と島の關係は、更に眼を轉ずれば同時に又、今の日本といふ國の世界の文明國團に對する、笑止千萬なる關係ともよく似て居た。五大國の一などといふ空な語を以て物を知らぬ人をおだてゝ、何等模倣以上の努力をせずして半世紀は既に過ぎてしまつた。しかも外交は誤解を以て終始し、言語は滿足に通ぜず、頭數票數を以て其主張を貫かうとすれば、所謂特殊の利害はいつの世にも少數で無かつたことは無い。土地は懸離れて電報は遠く、運賃は莫大で時ばかり多くかかる。得る所のものは常に取殘されはせぬかといふ不安と、邪推に傾かざるを得ぬ繼子(166)根性の淋しさである。そればかりか國に相應せぬ消費増加の爲に、内に産する何物を以てしても支拂に追付かず、結局は小弱なる生産者の取前を餘分に殺いで、之に宛てるの他無き?態に陷つたことは、言はゞ稍々大規模なる世界の沖繩島であつたのである。

　故に今若し沖繩の學者たちが、一たびこの大小孤島の比較に徹底して、一方には目下自分たちの知友親族等の惱み患ふる所のものは、以前年久しく微小なる諸屬島が、痛烈に味つて居た所の不幸と同じものであつたことを知り、更に他の一方にはそれが又、この日本といふ島帝國全體の、行く／＼將に陷らんとする所の慘?であるべきを覺つて、自ら憐むと共に同種國民の爲にも悲しみ且つ患ひ、能く病源を探り治術の要點を見出すことに率先したならば、彼等の學問の光は一朝にして國の光と爲り、終には人間界の最も大なる希望も、之に伴うて成長するにちがひない。是が私の沖繩人に向つて、力説した意見の大要であつた。

　しかも從來の沖繩の學問が、聊か偏つて居たことは事實であるが、是も亦日本全體の通弊といふべきものであつた。日本には近年の如き莫大の著述言論あるに拘らず、海の果や山の奧に住む平民たちの歴史の暗いことは、俗に暗黒時代と稱する中世も同じである。是れ全く本といへば都府の産物で、本に基づく知識のみが學問の全部と看做されて居た結果であつて、所謂中央集權の文化の苦き果實である。是あるが爲に今やカフェや百貨店の米國式生活を以て、一國の文化を推斷せられんとして居るのである。此の如くんば普通選拳の如きも、單なる虚名に歸するの虞ありと言はねばならぬ。我々は國のこの大きな缺點を覺らんが爲に、或は沖繩人に取つては迷惑な話かとも思ふが、地域に限あり變化が單純であつて、勢の忽ち窮まり易く從つて病症の診斷せられ易い一例として之を選定し、細心に又深い同情を以て、既往の沖繩の生活を研究しようとしたのである。必ずしも獨り此一地方の爲に、盡さうといふ志からでは無いのであつた。

　

(167)　　　　　　　王國成立以前

　

　沖繩の文獻は異常に豐富である。つい近頃まで伊波氏の管理して居られた縣立國書館では、諸君の努力を以て島の文書の大部分が既に蒐集整理せられた。尚《しよう》侯番家にも若干の系譜記録の類が保存せられ、他の若干は又内務省と東京大學とに在つてこのたびの大震災の爲に灰燼に委したが、現存する材料の利用だけでもなほ多數の俊秀の生涯を要求するものがあるのである。併しながら文字が此島に行はれたのは、存外に後世のことであつた。沖繩が明と交通を始めたのは足利期の初頭であつたが、文字渡來はそれよりも餘り遠くは遡り得ないやうである。殊に正史の編纂に至つては、それより降ること三百餘年、我々がいふ江戸時代に入つてからのことであつた。それ故に修史に利用せられた古代史料なるものは、必然的に不完全であつて、且つ著しく王室と朝臣との周圍の事蹟に偏して居た。所謂三山併立時代の史實は、年月や人名の如き主要なる點までが不確實で、屡々支那の方の記録に由つて、之を補正する必要があつた。況んや三山以前の如きは、十の十迄が口碑の領分であつた。事蹟の埋没して居ることは大和の朝廷の安寧天皇以後、開化天皇以前よりも又一層甚しいものがあつたのである。

　王といふ稱呼は恐らくは支那と正式の交通があつてからのことゝ思はれる。古語では之を「世の主」と謂つて居る。しかも世の主は浦々島々に大小無數に住んで居たので、固より其間には強弱はあつたであらうが、果して其中の最大なる者が、他の「世の主」等を統括して居たかどうかは不明である。按司若くはアジといふ名稱は、アルジといふ語と元一つかとの説もあり、語原に就ては定まつた解釋も無いが、やはり亦世の主のことを意味して居たやうである。或は又カワラとも謂ひ、其音一轉してチャラ若くはヂャナとも謂つた。ちやうど内地の大名小名が、割據から追々併呑に移つて行つたやうに、沖繩も以前は可なり殺伐な島で、戰勝に因つて大を爲した者が覇を唱へ、次に外に對して(168)王を稱したので、第一尚氏の三山統一なるものは即ちその最終の段階とも見られるのである。

　外國文明の偏頗なる恩惠は、既に此頃から著しかつたのである。三山の王都は何れも皆海港を擁し、その勢力ある世の主は之に由つて唐大和とも交通したのだから有形無形の國内征服の武器は、すべて外部から獲たと見てよいのである。此點は彈丸黒子の宮古島も、又八重山の石垣島も同じことで、與那國島さへも事情がよく似て居た。年代ばかりが少しづつおくれて、各小島でも何れも人が剰り利害が抵觸し澤山のカワラたちが相爭つて居るうちに、率先して款を沖繩の王延に通じた者が其支援を得て、乃ち後世までの優勝階級であつた。此事實の決して或る二三の島のみの偶然の一致で無かつたことは、弘く南北太平洋上の諸島の、土人盛衰の歴史を學ぶ者の大なる感興である。未開のフイジイやソロモンの島々でも、偶々海に近く住む部曲にして、先づ白人と接觸し得たものは、戰にも平和にも常に内陸に居る酋長等を威壓して、久しい間に出來て居た勢力のバランスが覆つた。それを宣教師などの歴史には大變に重く見たのみか、膝を白人に屈すると否とに由つて、主權の正閏を判別せんとした結果は、陰に潜んで抑制せられ、惱み且つ亡びた者の歴史は、所謂有史以前として永古に埋もれてしまつたのである。

　所謂群雄割據の時代に於ては、舶來の文明は自衛の爲にも亦必要であつた。人は自ら進んで之を利用しなければ、必ず他の之を利用する者の爲に制馭せられる。此が爲には外と親しみ内に關はねばならぬやうな、情無い結果をさへ生じたのである。從つて文化模倣の民族心理にも、自分たちは今尚究め盡されざる深い原因があるやうに思つて居る。次の代の學者に完成してもらふべき學問の中でも、特に重要なるものゝ一つである。

　我沖繩の如きも、本島の南三分一を除外例として、地勢上から申せば本來は割據孤立に便なる島であつたが、天然の制限が忽ち現れ、個々の盆地に人口が溢れるといふ世の中になると、外との交通は刺戟せられて起り、又各自の小利害を防護する爲には、血族でも相聞ふといふが如き、あらゆる不自然なる方法が案出せられたのである。其順序又法則は、時につれて形を更へつゝ、たうとう現代まで續いて來た。さうして中央の政府に結ぶ者が必ず克つといふが(169)如き、地方黨情の今日の特色を作つたのである。故に政治に病があると謂はうよりも、寧ろ老子の言の如く、病あるが爲に政治の必要を生じたと謂つた方が當つて居るのである。

　

　　　　　　　文化普及の法則

　

　琉球といふ名稱は薩摩人を始めとして、我々が最も多く用ゐる所であつて、現に本日の會の名も琉球講演會であるが、是は日本をジャパンといふと同樣に、本來外部から付與したもので、多數の所謂琉球人は實は之を知らず、知る者も亦之を悦んでは居らぬ。そこで自分などは便宜上、之に代ふるに沖繩、沖繩人といふ語を以てするが、是とても前に申す南端の二群島は勿論、北に三百年前に薩藩に割取せられた奄美大島、喜界・沖永良部・�ｺ・與論其他の島々を包含することを得ないものである。此等多數の離島に於て、惡鬼納とも字には書いて、ウチナアと謂つて居たのは即ち王の住む主島を意味し、之を自分たちの居る島々の總稱とは考へて居なかつた。海上に繩を延《は》えたるが如くなる故にとか、又は朽繩《くちなは》の蜒蜿として居る如く長く連なつて居るところから名づけたなどといふ説は、大なる出鱈目である。地圖を開いて見るか又は飛行機に乘つて飛んででも見なければ、其樣な形容の出來る筈は無かつた。何かもつと古い理由があるのである。

　しかも大昔から日本の國史にも此名が見え、彼地でも久しく之を用ゐて居る人があつた。自分の推測では恐らくもと交通の衝に在つた一小地域の地名で、例へば長野や栃木が縣の名となつたやうに、今では弘い面積の總稱の如く考へられるに至つたので、つまり文化や政權と共に地名までが次第に擴張したものであらう。ナハは與那覇・我那覇・下《おり》那覇などと謂つて諸處に在る。内地でも亦那波といふ地名は少なくない。多分はもと或特色ある平地に付與せられた固有名詞であつて、最初は今の沖繩本島の南部、首里から那覇あたりを包合した一帶の地域が沖繩であつたのが、(170)我々のヤマトシマネなどと同じく、沖繩文明の普及した區域に、段々とそれが延長して行つたものであらうと思ふ。

　しかもその沖繩文明なるものゝ中心に於ても、亦内外の刺戟に由つて、近世頻繁に其態樣を改めなければならなかつたのである。例へば靜かなる池の汀に、繰返して小石を投込んだ場合のやうに、段々の波紋の輪が、首里那覇の間を中心として逐次に四方に進んで行つた跡を認める。又或は布などの面の燒焦げのやうに、それが遠くなるほど狐色から茶になつて行き、末は布地の元の色が追々に見えて來ると同じ趣がある。三十六島の全體に對して、この文化統一の事業は可なりの困難であり又甚しく複雜であつたにも拘らず、我々の大なる興味を感ずることは、この以前の布地の色なるものが、やはり亦南北略々一樣であつて、海上數百里の間に粟散する島々は恰も五丈七丈の一續きの布を、擴げた如くであつたことである。邑に君あり村に長ありとも謂ふべき百按司（ムンヂャナ）の世の中が次第に進展して、其順序が我大ヤマトの戰國末と同じく、土佐は長曾我部に、越後は上杉に、薩摩大隅は島津にと云ふ風に地方地方で先づ一つに纏まり、それが又相率ゐて伏見城の秀吉公へ參覲したのと頗るよく似て居たことは、或は全世界の人類群に共通なる政治上の趨勢であつて、必ずしも我々の民族だけに、限つたことで無いと謂ひ得るかも知れぬが、それよりも更に一歩を進めて、其統一より以前の各部落の結合方法、一門一族の組織關係など迄も、詳しい調査をして見たならば、色々の點に於て海洋民族の特色が發揮せられ、以前久しい間外國の學者たちが、知らうとして力及ばなかつた微妙なる知識が、供與せられることにならうかと思つて居る。

　殊に政治上の大なる力と爲り、社會制度の根柢を爲して居たのは、所謂固有宗教の樣式である。首里の王朝が近世式國家を打建てる爲に、多大の努力を以て全島に亙つて信仰の統一を計畫した時よりもずつと以前から、この南北端の遠く相隔てた離れ島の部落の間に、既に驚くべき信仰の一致はあつた。しかも其一致は啻に島と島との間のみならず、同時に又ヤマトの我々との間にも、何人にも氣の付くほど顯著なるものがあつた。例へば神が一定の期日を以て、海と天との堺から一定の土地に御降りなされたことである。祭祀は必ず其地方に於ける一門の長者の家に屬し、其家(171)に在つては必ず女性の專業であつたことである。神と其家々との關係は、外部の何人も爭ひ得ない程度に深いもので、其優越は同時に又俗界に於ける彼等の力であつたことである。女性は神と人との間に立つて神意を傳へ、殊に其指導を以て彼等が肉身の兄弟、父又は夫を授けたことである。此等は何れも皆、兼て我々が日本の固有宗教の元の樣式として、それ／”＼論證して置いたところのものと、要點に於ては殆と同一であつた。

　しかも南方の諸島では、佛教道教の影響は共に案外に微弱であつた。即ち古い信仰は大なる變更を受けずして、現に今日に傳はり且つ活きて居るのである。從つて神秘はなほ多く、婦人は又最も惧み深い故に、正面から問ひ尋ねて其理論を學ぶことは、島の男子にすらも許されては居らず、況んや外から來て見る者には一層困難で、誤解や一知半解の臆斷もあり勝ちであり、ひどい人になると腰だめで鐵砲を打放すやうな者が近頃までも隨分あつたが、その化けの皮だけはいと容易に引剥がし得たのみならず、尚積極的にも若干の苦勞忍耐を以て、少しづつは眞相を見出して行くことが出來るらしいのである。其爲には島の平民の青年たちが、志を起して精確な學問をすることは、非常に大なる貢獻であつた。最近我々の喪失した一會員、法學土佐喜眞興英君の如きは、確かにその一人であつた。彼が僅かな二つ三つの研究だけを世に遺して若くして死んでしまひ、折角の天分を空しくしたことは、殆と我々をして慟哭せしめるものであるが、兎に角に斯ういふ人々の辛吉に由つて、南島古文化の研究は其端緒だけは開かれたのである。少なくとも方法と順序、前途の光明だけは既に見出されたのである。

　

　　　　　　　信仰から文藝へ

　

　沖繩の政府に於ては、正史の編纂よりは又遙かおくれて、今から二百十餘年前の康煕五十二年（一七一三）に、各島各｜間切《まぎり》より書上《かきあげ》を徴して、琉球國諸事由來記と題する編述があつた。是が島民の信仰に關する最初の系統ある記録で(172)ある。地方に由つて繁簡一樣で無いが、二三の離島では御嶽の神々の御名と由來、祭日祭式と供物の品目、參列諸員の人數座位などの他に、古來用ゐられて居たオタカベ及びミセセリの詞までも録進して居る。オタカベは我神祭の祝詞に當り、ミセセリは則ち之に對する形式化したる神語であつた。此にも亦各地の間の著しい一致があり、且つ年々之を聽く者には、却つて耳馴れて注意も薄かつたか知れぬが、我々が始めて之に接すると、勿論其中から其詞の出來た時代の信仰が窺はれるのである。見遁がすべからざる一つの特色は、其祭の願が悉く公共のものであつて、一語として個人の私事には觸れて居なかつたといふ點である。所謂天下太平五穀成就村内安全までの祈願であつて、私人家庭の福�ｺ圓滿には及ばなかつたといふ點である。即ち世の爲に神を祭り、世が好ければ民も「世の主」も共に榮えたので、別の語を以て言ふならば、所謂祭政一致を以て島特殊の經濟組織を支持して居たのであつた。

　このオタカベとミセセリとは、今日も稍々破損して殘つて居る。此以外には祭に仕へる祝女《のろ》たちの素朴な音樂に合せて、歌ひ且つ舞つたらしいオモリといふものが、村々の舊家即ち巫女の出る家に傳はつて居る。それと伊波普猷氏の獻身的なる勞作に基づいて、我々が最近帝國學士院の援助の下に、校訂出板したオモロ草紙のオモロとが、根原に於て一つであることは明白になつた。

　オモロ草紙はつまり公認せられたるオモリ集である。其大部分は王府に屬する巫女の元首、ヤマトの齋宮に該當する聞得大君《きこえおほぎみ》の祭事に、曾て用ゐられたものを存録したのであるが、其以外にも由緒ある地方々々のオモロは、之を尊重して半ば文學的の意味を以て保存したのが、卷々の中には交つて居るやうである。併し要するに元は悉く神の大前で歌はれたものであつて、最初の聽手は神樣、然らざれば神と共に樂しんだ浦人島人たちであつた。必ずしも神の御�ｺをたゝへたもので無く、風景を咏じ人事を敍べたものでも、之を作り設けた目的の神に奏上するに在つたことは我々の村の氏神の御田遊に、男女の情を興じた歌があつたのと同じで、神樣も亦そんな歌を、聽いて御悦びなさるものと信じたからである。故に之を名づけて人間の文藝と謂はうよりも、寧ろ文藝の原の形と謂つた方が正しいのである。

(173)　現在普通の沖繩人には、オモロやオモリの解し難いことは、我々が神樂催馬樂をもてあつかふよりも尚甚しいと謂はれて居る。オモロの意味を會得する爲には、更に特殊の研究の入用であることは、伊波君のやうな年頃の言語學者すら之を認めて居る。しかも其草紙は左樣に六つかしい爲に、却つて秘傳口傳の書の如くに、人から見られるやうになつて敬して遠ざけられた。チェンバレン教授の如きも、名は知つて居るが手が着けられなかつたと言つて居る。研究して見ようと謂つて東京にも持つて還つた人はあつたが、それは只今度の震災で、其幾部かを燒いてしまふだけの事業であつた。

　併し我々に於ては、單なる保存の事業として之を刊行するのでは無い。之に由らざれば解し得ない前代の思想及び心理が、もう澤山にあつて沖繩の理解を妨げるからである。由來記に列記せられた神々の御名のやうな至つて簡單な言語でも、もう今日は不明に歸したものが多い。琉球國舊記といふ書物は、この由來記の大要を整理し且つ漢譯して體裁を爲したもので、僅かに十八年後の雍正九年に成つたのであるが、その神の名の漢譯などは實に亂暴で、原本の假字の書損は其書損の通りに漢字が宛てゝある。即ち此當時既に外國の學問をした男子などには、意味が全く不可解になつて居たのである。

　爰に於てか我々は、沖繩人の古い思想と信仰と、之を體現する慣習とを明かにする爲に、更に進んで第三の興味ある研究、即ち言語の調査に入つて行く必要があるので、南島談話會に於でも微力ながら、親切なる島の人々と協力して、此方面の事業を思ひ立つたのである。

　

　　　　　　　言語變遷と世相

　

　沖繩の言語の近世の變化は、日本語よりも更に烈しいものがあつた。しかも前に譬喩に引いた文化波動の法則に由(174)つて、今尚遠い島の隅々はは古い形を遺して居るのであるが、首里に集合して住んだ貴族上流の人々が、國外からの影響に對して最も鋭敏であつたのみならず、彼等の文化は常に最も有力なる標準であつた爲に、此等偏卑なる地方の保守分子が今までは代表せられ解説せられる機會を得なかつた。此點も亦最も適切に日本全體の言語變遷の歴史を縮圖するものであると思ふ。

　伊波氏のP音考といふ論文は、此點に關しては至つて有力なる參考であつて、今や一般に其正當を承認せられて居る。即ち沖繩語に於ても内地語と同じやうに、パ行は今のハ行の元の音であつた。さうして我々の方と同じ法則で、中央部から率先してPがFに移り次で又Hに移つたのであつた。沖繩では例へば畠は首里近くではハタキであるが、八重山の方はFでファタキ、宮古群島と北の國頭郡とは、今尚P吾のパタキである。花でも春でも又羽を意味するハニでも、右の波動圏の遠くなるにつれて、Fが現れ又Pが顯れて來る。其道筋は内地も亦多分同樣で、現在P音を保存した例は知らぬが（語の中間には幾らも顯れる）、F音の方は九州の一部でも北部日本海岸でも又は他の山村にも方々に用ゐられて居る。前代に溯つて見る迄も無いのである。

　此類似は獨りP吾には限らず、MがNと變り、RがDと變り、又Kが英語のchなどに移る等皆同じことで、母音では又OがUに、EがIになるなど、何れも今日内地の方言に於て、?々類例を見出し得る習性であるが、たゞ沖繩の中央部に於ては其變化が論理的に周到であり且つ嚴格であつて、一つ變つた以上は皆變るといふ風になつて居たのは、全く前に謂ふ所の標準文化の公認の結果に他ならぬと思ふ。

　ところが三山統一以後の五百餘年間、沖繩は終始この最も進んだる一面のみを以て、外部との接觸を保つて居たのである。所謂兩屬の時代に於ては、支那は支那、薩摩は薩摩と、特に應接の爲に構へ設けた特別の一面さへあつた。さうして内外人民同士の直接の交通は、甚だ微々として振はなかつたらしいのである。其上に一方には島を連ね血と信仰とを共通にした日本の學者までが、斯ういふ特定の一箇の窓からばかり、南の島の社會を覗かうとして居たのみ(175)ならず、所謂異國情趣（エキゾチック）、即ち何か奇事異聞の耳目を驚かすものあるべきを豫期して、書物の上からの捜索を續けて居たのである。時勢の然らしむる所是非も無いことゝは言ひながら、其?態が殆と五百年も續いて、明治となり大正と爲つたのである。例へばマヽゴトをする小兒が我妹を隣の叔母さんにして遊ぶやうに、我々の方でも國が榮えて行くにつれて、實は唐土などの泰平現象に倣ひ、所謂九譯を重ねて來るといふ類の南方の異國が、一つ位は欲しかつたのかも知れぬが生憎やそれは暫く別れて居た肉身の兄弟であつた。しかも此通り雙方の政治の實?が、恰も其誤解を爲すに適して居たことは、誠に島々の爲に悲しむべき不幸であつた。

　沖繩中央の學者の中には、夙く渡爲朝渡航の傳説を信ぜんとした者があつた。東恩納文學士の先刻擧げられた文治二年云々の年代は、他に獨立した傍證の無い限りは、單に舜天王を以て鎭西八郎の子なりとした結果と見るの他は無いのである。足利から�ｺ川と源氏隆盛時代の日本と交際する爲には、又此點を高唱するの必要もあつたかと思ふが、其樣に迄細心な考證を事としつゝ、しかも民族全體としての親族關係は、却つて之を忘れようとして居たのであつた。明治の初年まで存命であつた、和歌に高名なる宜灣親方朝保の如きも、沖繩の單語の中から四十か五十の例を拾ひ上げて、それが日本の古語と元一つであつたことを説き、恰も當節のバビロン學會の諸君の如くに、之に由つて日琉の同祖を證明しようとして居る。此人にして尚然り。實に歎息に堪へざる疎遠であり又忘却であつたと言はねばならぬ。

　我々は幸ひにして最近學風の變化に由つて、今やこの南北兩端の島々の中から、骨を折つて目琉共通ならざる若干の單語、例へば太陽をテダと謂ひ銀をナムジャといふの類を、探しまはつて問題にせねばならぬ迄になつたが、是も極めて新しいことであつて、まだチェンバレン先生の頃までは、世間は決してさうは考へて居なかつたのである。先生は首里の士人桃原良得氏の助けによつてあの島の標準語を學び、之に由つて有名なる琉球語研究の一變を著はされたのであるが、其結論としては二つの言語の、祖先の共同は之を認め、しかも其間柄は兄弟までゝは無く、從姉妹ぐらゐなものかと謂つて居られるのである。成程オ列が悉くウ列となり、マがナになり、キをチと發音するやうな變化(176)は、京江戸周圍の方言には見られない。是と首里那覇の現在語と、二つの所謂標準語を比べて見たならば、再從姉妹と謂つても三從兄弟と謂つても差支が無いのである。但し其中間に橋を架けて居る國頭郡以北、殊には道の島の方言、それから一方には九州の多くの田舍の語音などには、まだ先生は手を着けて居られなかつた。況んやずつと懸離れた宮城岩手青森等の方言に、假に氣永に捜して見たら澤山の共通が見つかるにしても、當時之を外國の先生に向つて、注意をしてあげる者は有り得なかつたのである。

　この沖繩の中央低地部に於てすらも、數百年前に内地から平假字を輸入して、金石文などを録して居た頃までは、尚發音は今日よりも内地に近かつたのである。其當時既に「ク・ス・ム」と發音して居たものなら、「こ・そ・も」の假字を宛てる筈は無いと思ふのに、現在の「ク・ス・ム」等に對して、其「こ・そ・も」等の假字を使つて居る。おもろ草紙の表音法なども、大體に於て此事實を示し、又他の古文書にも之に一致した證據がある。例へば今歸仁と書いて現在はナチジンと訓む村の名を、三百年前の辭令書にはミヤキセンと假字書きしてある類である。此通り音の轉訛は僅かな年代の力であつたのみならず、又地方的の差でもあつた。此頃出板せられた國頭郡誌を見ると、相隣りする村々にして、互ひに同じ語の發音を異にする例が甚だ多いのに心付く。南端の島々の如きは勿論のことである。

　獨り音韻の變化のみでは無い。語法句法の上にも時代の差と、又所謂都鄙雅俗の差があつた。沖繩語法の一つの特色として、チェンバレン教授の擧げて居るミシエンやイメンシエンの類の助動詞とても、手短かに言へば我々の古語の、メスとイマスの異常なる發達であつて、例へば今日のゴザリマスルやイラセラレマセ等の、鎌倉時代にはまだ無かつたものが、此通り盛んに使はれて來たのと同じである。敬語法は言ふ迄も無く宮廷や地方豪族の住處、其他大小の文化中心から進展し普及する。我々の持つて居た地方的敬語の多くは、明治に入つてから野卑又は氣がきかぬものとして急速に消滅し、其跡へは是も至つて新らしい「御見せ致します」といふ類の、都會産の敬語法が入つて來たのだが、沖繩に於てはまだ此程度にすらも行はれなかつたので、その特殊なる一樣式の中央上流人の間にのみ用ゐられ(177)るものが、今の日本の新語法と異なつて居るといふことは、意外でも何でも無い。五年以前に私は國頭郡の村々をあるいて見て、自身この類の日用語形の地方的差異の甚しいのに心付いたのであつた。例へば地人《ちんちゆ》寄合即ち區民總會は、村では今尚自治の必要なる機關として頻々に之を開いて居るが、其召集方法は多くは少年をして聲高く部落内をふれあるかしめるのである。其言葉を何といふかと思ふと、郡役所所在地の名護の町方ではユラチモーレー、即ち「寄合ひたまはれ」と謂つて居た。次に西海岸を三四里北に進んで鹽屋湊で聽いたのはスリーンソーレ、即ち「揃ひめされ」であつたが、山を越えて東の海岸の瀬嵩といふ處では、右の二つの中間であつて、ユレンショーレー即ち「寄合ひめされ」と變つて居た。内地のゴザイマスに相當するビン又はヤビンなどは、明かに「侍る」又は「有り侍る」から發達した敬語であつて、其流行の起原のさして早く無いことは、内地に於ける此語法の歴史からだけでも想像が出來る。

　從つて島によつては、勿論まだ此等の文句の用途を知らぬものがあり、それに該當する今一つ以前の古い敬語の形が色々と殘つて居る。例へば北は奄美大島、南は宮古の島で聽く所のアリオール又アリオーラヌは、多分「居る」といふ動詞から作られた敬語であらうが、内地でも紀州の南海岸の如き「居る」を敬語用として「三錢五厘でをります」などといふ方言の例は多く、軍隊などで今盛んに使はせるデアリマスの如きも、勿論之と系統を同じくする新敬語であります。八重山群島の石垣などで使つて居るアルユー又はアラヌユーといふ敬意のユーは、尚その今一つ前のものかと思ふ間投詞の形であつて、畢竟は物言ふ人の愼んだ心持ちを表はすもの、例へて見れば此節の佛蘭西人などの、會話の末によく附け加へる小さな引き息と最も近いものである。日本語の厄介な特色として、外國人たちの閉口する複雜極まる敬語法の如きも、原に復れば斯樣にまで單純なもので、我々が經過して來た千年この方の政治沿革、それから生れた今までの社會組織は、國語の特性と結合してかういふ語詞の異常なる發達までを、促すに至つたといふことが考へられるのである。

　

(178)　　　　　　　學問上の未開拓地

　

　ところが日本の此節の國語研究は、もう大分久しい間、斯ういふ問題よりももつと高尚な段階に停頓して居つて、大學や學會の業績を注意して見ても、根つから言語の成長や之に參與した地方生活、社會心理の働き方などには、力を入れる樣子の無いことは、ちつとも敬服しない愼重の態度である。今の有樣で進んで行くならば、自然の作用として人なら一代か一代半ほどの間に混亂し盡し、今見るものゝ大部分を不明にしてしまふことは受合である。それを知りつゝも尚棄てゝ置くのならば、我々は最早此學問を專門家に委任して置かぬ方がよいのである。さうして又素人には手の着けられぬ樣な六つかしい仕事でも無いのである。

　而うして此點に關しては我々はこの啓明會の親切に感謝する如く、帝國學士院の好意に對しても深く負ふ所がある。金高は至つて僅かではあるが、既に昨年と今年と二年に亙つて、本日そこに來て居る宮良當壯君といふ篤學なる八重山人に補助をして、南方諸島の言語採集の旅行をさせてくれられた。併し殘念ながら二囘だけの旅行ではまだ不十分であつた。殊に今年は海が荒れ航海が不規則であつた爲に、僅かに北に近い部分で三四ヶ處、昨年はそれでもずつと南の方の島で十幾ヶ所、就中八重山群島では六つの島を巡り、やゝ豐富なる採集をして來た。是で約四分の一くらゐの功程であらうと思ふ。沖繩縣では山原地方、即ち前に申す國頭郡の山地の、村毎に少しづつ變つて居るといふ地方、次には本島を取圍む東西の小島、殊に伊江伊平屋や南は久米島の如き、沖繩の人たちも用が無いから餘り行かぬのである。それから現今鹿兒島縣に編入せられた所謂道の島々、南は宮古群島から多良間水納等の島が、全然まだ調査の外に殘つて居るのは遺憾の極みである。

　然るに少なくともこの先島方面に於ては、獨り一つの島と他の島との間のみならず、尚同じ島内で殆と部落毎に著(179)しい音韻語彙の差が認められる。是も我々の同志の一人なるニコライ・ネフスキー君は、前年既に自費を以て宮古諸島の言語歌謠の採集に出かけた。其實驗談に依ると、宮古の主島ですら言語の變化が甚しく、一番小さな方言團ともいふべきものは、戸數が僅かに二十戸ばかりであつたといふ。故に完全を望めば此種の比較語彙なども、非常に厖大なものとなるであらうが、自分等としては兎に角或階段まで達した時に、一應打切つて調査の結果を、公表してもらひたいと思つて居る。さうでもしなければ學界の沈滯を救ふに足らぬからである。

　宮良民の報告の片端を見せて貰つて、我々の受けた教訓が先づ三つある。第一には言語の自ら保存する力である。我々が至つて幼稚な社會生活以來、便益を受けて居た所謂第一次用語は、殆と其全部が孤島も内地の我々も共通であつて、只其中には此方では今はもう利用せず、書物や記録にばかり遣つて居るものが少々ある。第二には音の變化の驚くべく烈しいことで、其爲に一旦は別語の如き感を與へんとすることである。例へば南方の三十六島に於ては、衣服は如何なる場合にも大和と同じくキヌであるが、島によつてはそれがキンとなり、チンとなり、又シヌとなつて居る。其他ワ行がバ行に、ヤ行がダ行に、カ行の一部がファ行に變つて居るのは最も多い例で、不意に之を聽けば勿論南蠻鴃舌《なんばんげきぜつ》であるが、通譯が入用だといふことは決して言語の差別では無いのであつた。私などは鹿兒島縣に知人が多く、大抵は話の癖は解るつもりで居たが、それでもあの地方に旅行して老いたる婦人などと話をするときには、始終通辯の必要を感じたことであつた。

　第三には又表現法の變化の多いことである。是は濁り其元を爲す語法の分立からでも無く、殊には生活事情と之に基づく物の見方の差が、久しきに亙つて影響して居るからであらう。即ち古い思想なり感覺なりに、此には失はれて彼に存するものがある爲で、昔を解釋せんとする者にとつて、大切なる一つの鍵である。同じ一つの民族であつても、時代によつて物言ひの變化する如く、境遇の以前に近いものと大に改まつた者との間に、段々の約束の移動があるのは自然のことで、日本が此樣な打散つた群島の國である御蔭に、何等の假定や演繹法を傭ふことなくして、一望の下(180)に色々の生活條件に在る舊同胞の心持ちを實驗することの出來るのは、多くの外國の學者に羨まれてよい便宜であつた。單なる原理の學問の爲から申しても、今日南島研究の前途が斯くの如く開けたことは、眉に手をかざして欣喜してよいことであるが、自分等民間學徒の希望は尚其以上に、數段と切實且つ重要なるものが存するのである。

　記録と絶縁して居る普通の日本人の、久しい間の生活努力が、今日の實社會の嬉し悲しい種々相の根柢であることは、特に立證する迄も無いことである。然るに若し右申す如き標本的の保存が無かつたならば、我々には到底其片端をも窺ふことも出來ず、徒らに饒舌なる中央の一部人士と共に、貴族や僧侶の文學の中から、漠然たる國民性、國民信仰の　　状態を描き出して見るの他はなかつたのである。それを最も確實なる遺物、即ち人そのものと言語とに基づいて、改めて今より深く遠く考へて見ることが、今後の公共生存の上に、何等かの效果を及ぼさずに居る道理は無いといふこと、是が我々の南島談話會の確信であり又希望である。

　但し言語の穿鑿は道樂に流れ易いから、十分に警戒しなければならぬ。即ち少しく類似認定の範圍を擴げると、忽ち日本語は波斯語なりといふ説も成立ち、又原始人の赤ん坊すら口にすべき語、若くは最近に作成せられたる文明語までが、全部を擧げて廣東土音、或はチャム・モンクメール語でも説明が付くことになるので、此研究を只の暇潰しに終らせることも少しも困難ではないのである。我々の業務は現存する事實の採録である。解説では無いのである。此手此耳あの空あの星を、何と呼んで居るかを知らんとする企てゞある。而うして又統一教育の力に由り、久しからずして次第に埋没せんとする事實を保存せんとする辛勞である。假に第二段の收穫の全然無い場合に於ても、あゝいふ先生たちの物ずきと一つに看做されることは大なる不當である。

　況んや我々都市の住民をして、絶海の孤島に此の如き同胞あることを知らしむ以外に、更にその孤島に生死する人々をして、其生存の何れの部分までが、全國土に分散する日本人と共通のものなるかを、知らしめるだけでも既に大なる力てある。而うして其力に基づいての社會事業なり政治運動なりでなければ、假に成功した場合の恩澤が、遠き(181)彼等に及ばぬのは致し方無しとしても、それが失敗した場合の苦痛までを、彼等に分擔せしめる理由は絶對に無いのであるが、現に沖繩の如きは氣の毒千萬にも、前代以來の拙劣なる政策が、主としで其惡結果を此等無抵抗無力無邪氣なる人々に押付けて居たのである。没道理の天譴論者などは、先づ以て此點に於て深く反省する所が無ければならなかつたのである。

　國家萬年の大計の爲に、民族結合の急務を説かうとする人々は、無識であつてはならぬ。且つ手前勝手であつてはならぬ。其過失を免がれたいばかりに、我々は新たに斯ういふ學問の興隆を切望して居るのである。

　

(182)　　　　　地方學の新方法

　

　　　　　　　學問に對する期待

　

　私は日本の社會生活が、近年急に複雜になつて來て、如何に明敏なる觀測者でも時々は目の屆かぬ隅々がありさうだといふことを感じて居る一人である。又假に眞相を捉へ得たりとした所が、さて其問題をどう處理しようかといふことに、迷はねばならぬ場合が多からうといふことも感じて居る。昔のやうに此方の態度さへ公平であれば、必ず何とか解決が付くものと、安心して居るわけには行かぬやうな、厄介な時代になつたと思つて居る。

　其理由は一言にしていふならば、未だ我々の知らぬ事があまりに多い爲である。知るべくして知ることの出來ぬ事實が、今は却つて日に月に増加しつゝあるからである。即ち以前の型のきまつた時代の通りに、一隅を押へて他の部分を推し量り、大體の誤無き見當を立てるといふことが、今日は非常に六つかしくなつて居るからである。學問殊に最も精確なる學問が、急に御互ひの生存の爲に、入用になつた所以である。

　我々は國の將來の變化に對して、外を見ても内を省みても、言葉に現し難いほどの氣遣ひをもつて居るが、しかも爰に唯一つの前途の光明として、學問だけは幸ひに其方法さへ誤らなければ、行く／＼この人類の苦惱を濟ひ得るものと信ずるが故に、まだまだ努力の張合ひがあると樂觀して居るのである。そんなら學問の正しい方法とは、一體ど(183)ういふ態度又は順序をとることを意味するのであるか。それを是非一度だけは、諸君のやうな方々に考へて見て貰ひたいと思ふ。

　

　　　　　　　綜合無き學術

　

　第一には先づ目的をはつきりとして置きたいと思ふ。是まで物知りとか博學とか謂つて、我々が尊重して居たのは單なる比較の語であつた。村なり町なりの多勢の人の中に、たつた一人そんな先生の居る間はよいが、今一人現れて來て名を競ふやうになると、必ず其間に不必要な論辯が起つた。それが現在では際限も無く、入亂れて背競べをすることになつたのである。人の一生涯を捧げて勉強さへすれば、所謂一切智を我有とする望みのあるうちはよいが、現在の處では如何に細かく專門を分つて、各自の繩張り以外には全然盲目で過ぎようとしても、尚新智議は雜駁で多量で、とても一人の力では消化しきれぬやうになつたのである。

　さうすると爰に選擇といふことが非常に大切になり、それと同時に有益な學問、必要な智識の他に、無用又は時としては有害な智識といふものも、想像し得るやうになつたのである。從つて我々自身の方にも最初から適當なる箸と茶碗とを用意してかゝるのみならず、少なくとも人の説の矛盾を發見し、二つ以上ある説の何れに從ふかを決する爲に、費し得る力を貯へて置かなければならぬ。何でもかでも知りさへすればよいといふわけには行かなくなつたのである。

　國民が次第に學問の必要を感知し、研究といふ語を口癖のやうに使ふことになつて來れば、當然に何を研究すべきかゞ問題となる。さうして社會の缺陷の一番たやすく覺り得られる方面には、既に誰が見ても適當だと思はれる色々の研究機關が出來た。殊に所謂國境の無い學問、惡く言へば受賣も飜譯もすぐ出來る方面に於ては、もう立派な學者(184)が現れて仕事を整理し、智識を世の中の消化に都合のよいやうにしてくれた。農村の生活で言ふなら種々なる試驗事業、取分け生産の技術に關しては可なり有效なる研究が多かつたのである。僅か十年二十年の間にも、古い誤つたる學説は棄てられ、どし／＼と新らしいものと取替へられた。醫術や法律事務などにも、國として誇り得る進歩を見た。其結果が愈々以て若干の取殘された部分の、亂雜さ幼稚さを忍び難くしたのである。

　時勢の進歩を通觀する人々、殊に同情多き外國人などの批評では、日本の學問はこの僅かの年月の間に、驚くべく成長したといふ。それは確かに事實である。例へばと謂つて指を折つて、幾つでも其例が擧げられるのである。しかも其中に割合に進まぬ部分、又はちつとも進んで居ない部分が相應にあつて、それが他の進んだ智識と調和せぬのみか、往々にして互ひに相妨げて居る事實も、日一日と目に着くやうになつたのである。大體に於て個人の職業に適し、さうで無くとも或階級の人々の功績となつて戻つて來るやうな學問は、もう別段世話を燒く必要も無い程に、發達の軌道の上に乘つて居る。がその各部面の有用なる智識を繋ぎ合せ、又は配合する程度とか順序とか折合とかいふことになると、どこを探しても其專門家といふ者が無い。折角百科の學は精透の域に達しても、全體の組織綜合の學問といふものが缺けて居る。そんな學問があるものかと怪しむ人もあるか知らぬが、確かに無くてはならぬので、其證據には現に放任してあるから調和が出來ぬのである。久しい昔から現在に至るまで、「政治」といふ漠然たる語で、暗示せられて居る一つの學問が正しくそれに該當するのである。

　

　　　　　　　一時的行詰り

　

　今日の所謂政治家が、この「政治」の學徒で無いことは無論である。併し彼等の言論行動等に付て、近頃新聞などの與へて居る批評は酷評である。醫師が病人を盛り殺した、土木技師が鐵橋を川の中へ落したといふのなら、飛んで(185)も無い話だと責任を問うてもよいが、もと／＼政治の學問などをしたことの無い者に、間違つたことをしたと言つて責めるのは無理で、或はそんな人を使つで安心して居た我々の方こそけしからぬのかも知れない。

　無學な者でも間に合ふ程に、決して現在の政治は手輕で無い。是を小にしては個々の町村の集合生活とても同じことで、よく我地方では村がもめて困るといふことを聽くが、困ると言ひ得る資格のあるほど豫め研究考慮したことは無い場合が多いのである。農業などの行詰まりは、此實例として餘りにも適切である。四十年餘も前から、政府が企てゝ居た勸業政策なるものは、失敗もあつたが大體に於て成功であつた。農業教育も此範圍に於ては行渡つた。昔國民が荐《しき》りに惱んで居た天然の災害の如きは、もう最少限度まで之を防止し得ることになつた。しかも今日農民は果して滿足し且つ幸福であるかどうかと言へは、隨分の樂觀家でも尚首を振らなければならぬ。小作人が地主と闘つて居ない村でも、多くは一方の我が通つて居るといふ迄で、不平不滿が多いばかりか、實際困窮して居ることが外から見てもわかる。斯んな　　状態を見て居る人々にとつては、或は學問が結局此世の苦みを救ふと謂つても信ずる氣にはなれぬかも知れない。つまりは是ほど迄の智識の集積があるに拘らず、まだ何れかの部分に足らぬ所があつたのである。何か此以上に進んで求めなければならぬものが殘つて居るのである。それを我々が考へて見ようとしなかつたのがいけなかつた。

　

　　　　　　　智識のあてがひ扶持

　

　自分たちの牢く信じて居る所では、學問は結局世の爲人の爲で無くてはならぬ。學者は假令研究の興味に醉うて、時として最終の目的を考へぬことがあらうとも、我々の方では之に向つて要求することが出來る。否既に今日のやうに、何人にも學問の機會が與へられて居る以上は、自ら進んで必要なるものを選ばなければならぬのである。學問ば(186)かりは「あてがび扶持」では行かぬと思ふ。

　此點にかけては今迄は學ぶ者にも遺憾な心得ちがひがあつた。何か知らぬが學校で是だけしか教へてくれなかつた。よいか惡いかわからぬが、是だけの事しか今は言ふことが出來ないといふと、さうで御座るかと言つて引込んでしまつたのでは、つまりは學問に對する消極的不信任である。何れ人間は神樣では無い。何時になつたとて人の望む通りの智識が、得られようわけが無いといふ類の哲學も、今までは流行した。併し其斷定を下すのには、まだ／＼試み盡さなかつた方法が甚だ多いやうに思ふ。それを今囘は少しばかり話して見たいのである。

　眞面目なる青年ならば、殊に此際反省して見てよいと思ふことは、日本は東亞細亞の一國であるだけに、近い頃まで文字に對する過度の尊信があつた。苟くも字で書いたもの、本の形を以て世に出たものならば皆價値がある。皆何かを教へてくれると考へる傾向から、偶然に手に入つたやうな書物の爲に、惡く導かれた例は至つて多い。もうさういふ豫定をして、無條件に本に導かれることの不可能は實驗した。我々は一律に書物を信用する爲に、却つて往々にして最も優れたものを逸するらしい。此頃のやうな問題ばやりの世の中になると、二つの本を讀むことは迷ふことを意味し、三つ讀むことは混亂と散漫とを意味する。さうかと言つて勝手に其中から一つだけを拔くことは、又往々にして欺かるゝことを意味する。此講演とても同じことであるが、聽く者自身の取捨判定は非常に大切なことになつて、しかもまだそれを實行するだけの練習さへしてないのである。この宣傳の盛んな群衆政治の世の中になつて、是は又誠に心元ない不用意と申さねばならぬ。

　

　　　　　　　實際の疑問から

　

　六つかしく之を説けば際限も無いが、私は必ずしもさう厄介な支度は要せぬと思つて居る。つまり先づ我々が自分(187)の問題を作つて、それに對する答を求めることにすればよいのである。私は學校に居る時分、外國の本で經濟學を教へられた人間だが、今日に至る迄も實は本と自分の生活とが、はだ／＼になつて繋ぎ合されぬのに困つて居る。さういふ風の教育が、若しや今でもこの事件の多い農村の生活を支配して居るのでは無いか。果して然らば何を置いても、先づ教育を受けようとする者の態度から、變へさせなければなるまいと思ふ。

　議論といふものは面白いものだ。殊に是から發達しようといふ人たちには、手足の運動と同じやうに、論理も亦一種の愉快なる遊技である。詩歌俳諧に遊ぶと同じ心持ちで、之に引附けられるのも自然ではあるが、それは單なる演習であつて學問で無い。學問は何れの科學を見てもわかる通り、事實を基礎とするものである。こんな事もあるのか、又はそんな事があるものか、是が其第一歩である。智識即ち或事實の存在だけは、外から教へられなければならぬ。又は努力して自ら發見しなければならぬ。考案又は議論は之によつて自ら作るもので人に教へられてはならぬ。此差別を明かにするのが、至つて大切な用意であるかと思ふ。もつと具體的にいふならば、村に新たに不愉快な出來事が始まる。或は我家我境遇に思案に餘るやうな心配事が起る。そんな場合には人の意見又は議論智識、殊に系統立つた學問が入用であるが、用に臨んで學問に相談するやうな慣習は、兼て修練して置かなければ得られないのである。

　事件に當面して普通何人でも胸に抱く疑問は、何故に以前は此問題が無くて、今になつて此問題が出現したか、又は何故に他の町村にはこんな問題は無いのに、我部落にのみ此事が始まつたか。斯う考へて見ることは、何とか答の得られる見込のある以上、決して愚痴といふべきものでは無いのである。次には又昔の人ならばこんな場合に、如何なる處置を取つたらうか。若くは隣村隣部落に假に此事件があつたとして、自分等は何と之を批評し豫想をしたであらうか。斯ういふ風に考へて見るのが至つて普通なる人の心の働きである。そんな事を考へたつて仕方が無いといふのは、到底答を得る望みの無い場合の話である。つまり我々は少しくあきらめが早過ぎたのである。

　この自然にして又普通なる眼前の生活上の疑問が、右にも左にも解答が出來ぬやうなら、人間の智慧もいらぬもの、(188)學問とても無益なわざと言はれても是非が無い。故に心あり能力あり又餘裕ある先輩たちは、常から萬一の場合の爲に、之を考へて置くのが當然の義務であり、それが又眞の學問であると私たちは信じて居る。

　

　　　　　　　地方事情の異同

　

　局外に居る人の同情とか聲援とかいふものは高が知れて居る。殊に日本に於ては其力に限りがあるやうに思ふ。といふわけは我々の國ほど、北と南と東と西と、土地々々の生活事情の幾通りにも變化して居る國は、先づ他には一寸無い。近頃になつて政治屋の間にも、一律教育の弊などと説く者が出て來たが、それは只小學枚の讀本を、町場と農村と二通りにしてやれば安心する程度のたわいもないものである。そんな事で濟まう筈は無い。同じ樣な風土氣候、生産物も一樣に米であり繭であつても、僅かな交通關係の相違、例へば一つの川の上と下といふやうな差からでも、隣人の知らぬ宿題は多い。殊に村々の成立ちが、親方制か組合別であつたかといふやうな差別から、永い間には甲の村では絶對に見られぬ現象が、乙丙の村のみは頻々として現れるといふ時代も來る。況んや山を越え大川を隔てゝ寒さ暑さのかはつた土地に行けば、同じ話の到底通用しないことは、誰にでも容易に出來る實驗である。その土地々々の特殊事情を、若し住民が自身講究しなかつたら、他には考へてくれる人は有り得ないのである。從つて統一的指導の大部分が、杓子定規になることを防ぐ途は無いわけである。日本の學問の一番進まない部分は、主として此方面に在るのだから、土地の先覺者なるものも責任は重いわけで、萬一にも斯ういふ人たちが不幸にして「學問は書物の中に在り」と、きめてかゝるやうな古風な人であつたら、農村の將來は到底明るい色を以て描くことは出來ないのである。

　

(189)　　　　　　　顧みられざる前代

　

　歴史といふ學問は、日本では取分け古くから大切にせられた學問であつた。故に今日の青年などが、少し突飛なことを言ひ出し、又は西洋人の意見の受賣りでもしようとすると、慌てゝ老先輩は歴史を讀め、歴史を讀まぬからそんな事を言ふのだといふ。ところが現在の有樣では、我々がそれを讀んで見て知ることゝ、自分の今思ひ惱んで居る生存の問題とは、どう考へて見ても關係が無いのである。それは又さう有りさうなことで、歴史といつて小學校などで教へるのは國の歴史、中央部即ち京鎌倉江戸の記録である。その小破片の自分の地方に及ぶものといへば、單に何年何月に此邊でも戰爭があつた。いつの頃此邊の地方官は何といふ人が任ぜられたといふ位が關の山なのである。

　所謂あてがひ扶持の弊は、歴史といふ此由緒ある學問に於て殊に甚だしい。何と言はうとも是だけしか昔のことは分つて居ないのだから已むを得ぬ。さうですかなアといふのが今日の歴史である。國の結合し一致和協し、天朝を仰いでそれ／”＼生活の最善を盡すことが、古今を一貫した國民の理想であることだけなら、そんなに本を讀まずとも是までにもう教へられて居るのである。それから今一歩を突進んで實際の具體的な疑問、そんならどうしたら土地がよく纏まり、一人でも不幸な人、不心得な人を少なくし得られるかといふ問題に、何か參考になるものを得ようとすると、又別の學問が入用になつて來る。今の方法で歴史を讀むことは、如何な巧妙な理窟を付けても地方の研究と關係があるとは言へない。或は少なくとも本を見て自分の村の古いことを知るからといふ。そんなこと位なら學はずとも知れて居る。

　しかも我々平民の祖先代々、生活して來た途筋を考へて見ることは、誰が何と言はうが歴史には相違ない。だから此方面の歴史の學問のみは必要であつたに拘らず今まで棄てゝ置かれたといふことになるのである。如何なる新らし(190)い問題を考へて見るにも、我々には事實が入用である。それが若し明瞭に分つて居たら、或は結論がどう變るかも知れぬといふ事實を省みずに置いて、議論をするといふことは馬鹿げた骨折である。故にまはりくどい樣な話だが、是が一つの大切な準備である。自分等の謂ふ地方研究が、道樂や物ずきや閑人の慰みでは無くして、今後も充實した地方生活をする人の、缺くべからざる學問だと信ずる理由はこゝに在るのである。

　

　　　　　　　地方研究の失敗した理由

　

　その平民の歴史が新しい方法の立て方によつて、全部根こそぎにと迄は言ひ得ないが、まだ餘程澤山の隱れたる部分がわかり、從つて智識の興味に誘はれて、ことによると更に一段の愛情を生れ故郷に向つて懷き得ることになるかも知れぬと思ふ故に、自分は以前から色々と工夫をして、成るべく弘く應用の出來るやうな方法を見出さうとしたのである。勿論まだ確信を以て御勸め申すことも出來ず、又此以外にも色々と私の心付かぬ手段もあることゝは思ふが、差當りは成るべく諸君の意外だと思はれるやうな二三の經驗を述べ、學問の前途の洋々として春の海の如く、しかも是は心がけ態度の問題であつて、別におつくう〔四字傍点〕な支度には及ばぬといふことを、證據立てゝ見たいのである。

　實際地方研究の爲には各府縣町村ともに、既に少なからぬ金と手間とを掛けて居る。それで居てまだ是から遣らなければならぬといふと、何か餘程の難事業のやうにも見えるが、實は地方の歴史研究者は、今まで無理な骨折ばかりして居た。智識の得られない方面ばかり捜して居たのである。其失敗の大元はといふと、つまりは前に申した書き物の過重である。文字の在る所で無いと歴史は無いかの如く考へたことである。ところが文字はもと中央都府のものであつた。其用法は至つて限られて居た。故に讀書手習が地方に普及したと言つても、之に携はる者は醫者か坊主か然らざれば公文《くもん》とか案主とか謂つた書役であつた。訴訟や行政に携はる者のみに限られて居たのであつた。其上に又紙(191)筆も乏しかつた。石に刻み金屬に鑄付けようとしても、其工作者も村毎には居なかつた。だから古い言葉は多く殘らぬのである。

　しかも我々の土地の早く拓かれ、我々の家の古くからあつて、ほゞ今日と同じやうな辛苦の生活を續け、之に由つて子孫の計を立てゝ置いてくれたことは疑ひが無い。さうだとすれば別に何か文字以外の史料を通じて、農民今日までの經歴を考へて見なければならぬといふ結論には達するが、歴史は無い、若くは有つても尋ねるには及ばぬといふ斷定の理由にはならぬのである。ところが久しい間の一つの癖、歴史には必ず尊氏とか清盛とかいふ中心の人物が無ければならぬといふ心持、即ち傳記と歴史との混同、次には何年の何月何日に、どういふ大事件が起つたといふこと、即ち年代記を歴史の全部とする誤つた考に基づいて、地方でも乏しい文書史料ばかりを掃溜の鷄の如く、掻き散らかして居たのであつた。

　そんな考へ方で歴史を學んでも、是を今後の政治の參考とすることすら六つかしい。況んや個々の町村に於ては、もと／＼大事件も無ければ大人物も無かつたのが普通で、單に無數の微小事件の集積、何代かの無名氏の眞面目な努力の綜合が、即ち今日の共同生活を爲したのである。古風な英雄傳的な研究方法では、到底此方面の學問を、御互ひの實生活に結び付けることは出來ず、いつ迄も勉強は御前の勝手、世間は別の途を進むといふ今日の有樣を、續けなければならぬのである。

　

　　　　　　　口碑と傳説

　

　自分は片手間仕事ではあつたが、もう餘程永い間、本を全く第二次の參考とし、主として文字以外の資料から、田舍の生活の過去と今日との繋がりを尋ねる方法を立てゝ、試驗的に之を友人の居る二三の村に應用して見た。何時か(192)らとも無く口から耳へ、祖父母から孫曾孫へと語り傳へた歴史を概括して、我々は之を口碑と名づけて居る。素朴正直なる人の口は、能く金石の碑文の代りをするものと認められた故に、此名前は以前から存在するのである。

　口碑傳説といふ語は今でも地方によく用ゐられて居るが、傳説は物語の又一部であつて、口碑に比べるとずつと範圍が狹い。即ち古くからの言ひ傳への中でも、特に説明の加はつて居るもの、斯んな話があるなどと説いて居るもののことである。それを實際曾てあつた出來事を傳ふるもの、恰も日記や覺書などと同じものと見ることは六つかしい。といふのは一つの傳説が必ず遠近の諸國に幾らもあるからである。例へば平家谷といつて平家の落人が來て隱れたといふ傳説、又は平將門の娘が尼になつて、遁れて來て父の菩提をとぶらつたといふの類である。そんなに多くの平家の殘黨、殊に將門の娘などが居た筈はない。從つて自分の土地の傳説を歴史といふ爲には、他の土地の傳説を眞似た作り事だと罵らなければならぬのである。それでは傳説は平和の攪亂者である。たゞ記憶以前の昔から、兎に角正直なる村の住民が、どういふわけでかそんな話を歴史として信じて居た。それにはわけがあり又各地何十箇所で同じことをいふのも、何か理由がある筈である。それを改めて考へて見ようといふ學問が、まだ一向に進まぬとはいへども、兎に角日本にも大分前からあるのである。それを詳しく述べて居るひまは無いが、それは通例土地の現在の又は以前の信仰と關係があるもので、曾て神佛からさういふ御示しがあつたによつて之を其儘信じ、まだ見棄てゝしまふことが出來ずに居るものを傳説といふのである。御示しは夢の告げかまぼろし〔四字傍点〕の他に、神佛に從屬した人々の口を借りて、所謂託宣せられる場合も多かつた。信心が根柢である故に其啓示には定まつた幾通りかの型があり、又内容にも日本全國を通じて、略々定まつた種類がある。一つの村では珍無類と思つても、探してどこかに同樣の例の無かつたといふ場合は殆と無い。それを段々に比較して行くことは、信仰成長の過程を知らうとする者には、非常に有意義なる學問だと思ふのだが、特に其目的を持つ人で無ければ、別に深入りをして見る必要は無い。只如何に今日の普通教育の智識に照して有り得べからざることであらうとも、何か隱れたる理由が無ければ、さういふ傳説が發生するわけが無(193)いといふことを考へて、出來るならば自分が聽いたまゝを確實に書留めて、後の引繼ぎさへすればよいのである。

　

　　　　　　　教育方法としての言語

　

　それよりも同じ口碑の中でも、特に諸君の注意を勸告したいのは、今一段と直接又簡單で説明的で無い口碑である。それにも色々あるが、其最も主要なものは、言葉殊に物の名事柄の名、それから土地や家や人の名等、及びさういふ語辭の持つて居る精密なる意味である。口では一寸言ひ現し難い言葉の感じなどの、土地の人のみが永い間に之を外部へ通譯することの出來る本當の意味である。勿論それも時代毎に少しづつ變つて行く。さうして昔の學問をしたといふ人々は、寧ろ自分等の仲間の多數の實際の心持を曲げて、外から入つて來た漢字の解説の方に凭れて行かうとした。口碑は?々檢閲せられ査定せられるの危險を經た。がそれにも拘らず所謂田夫野人の中に中々根強く今までは保存せられたのであつた。

　教育の方面に携はる人ならば、もう夙に親しく經驗せられたことであらう。以前の世の農村の教育法は、よほど今日とは異なつたものであつた。今の小學校に該當するものは私塾の素讀や寺子屋の手習では決して無かつた。年長者と共に働き又父兄などの話を脇で聽いて居て、所謂見習ひ聞覺えが教育の本體であつた。何度も何度も繰返されて、いつと無く覺え込む言語の感覺が、主要なる學課であつた。方言そのものが今日の教科書に當るものであつたことは、近世全國一律の教授要項の下に、遠方から來た先生が多くなつた結果、親から子への連鎖が著しく弱くなつたことを考へて見ればよくわかる。勿論之を防がんが爲に小學校を罷めて、再び家庭と郷黨との感化に、普通教育を一任するわけには行かぬが、少なくとも此全國一率の國家教育時代の大きな影響を意識して、何等かの用意を以て避け難い弱(194)點を補充しようと試みることだけは必要である。昔ならば自然の進みに放任し、與へらるゝものを受けて安心して居てよかつたものが、此から後は青年少年の側からも努めて少しづつ求め出すやうにさせなければならぬと思ふ。

　今少し詳しく比較して説明せぬと或は此意見が徹底せぬかとも思ふが、兎に角に昔を知るといふことゝ、保守主義即ち昔を守るといふことゝは、全然別の問題である。何ほど現?維持を望む者があつても、時勢は外から變つて來るもので、人の生存は先づ之に適應せねばならぬ以上は、幾ら傳統の教育に力を入れても、改めらるべきものは改まる。近世の如き激しい變遷こそは無かつたけれども、いつの時代でも親の仕來りの儘を、子が受繼いだといふことは無かつた。百年を重ねぬうちに前の生活は古風になつて居り、長生をした老人は大抵は不平であつた。たゞ舊式の教育法の下では、一應は前の型だけは究め盡して後に、必要に應じて端から更へて行つたのであるが、それが根本から教育の系統が改まつた爲に、今ではよほど困難になつたのである。

　近い頃までは小學校の教育者たちは、いつも家庭の力が強過ぎるといふことを感じて居たが、口にこそ云ひ現すことを得ないが、家庭又は郷黨の先輩の方でも、同じ不滿は免れなかつたのである。多分將來は次第に雙方が歩み寄つて、出來るだけ同じ方向をとつて相補うて行く時代が來ることゝ思ふが、少なくとも若い人たちに新たに適當なる選擇改良を爲さしむべく、今はまだ若干の積極的努力を以て、過去の事物を熟知せしめる必要があるのである。

　

　　　　　　　傳統と小學校教育

　

　都市住民の感覺と氣風とは、比較的學校の教育に代表せられ易いやうだが、土地々々の農民漁民たちが古くから持傳へて居るものは、普通には一小部分しか小學校には反映して居ない。馬鹿にするといふ程では無論あるまいが、新らしい教養を受けた先生たちには、自身まだ呑込めぬ點が多いやうである。其理由は第一に方法が丸で別であつた。(195)師範の教へ方は言葉は符號として尤も簡便明晰なるものを採擇し、必ずしも其浦に包まれる心持ち迄を掬み取るやうな遣り方ではなかつた。ところが私などのいふ地方口碑は、単に、直接に過去の事實を語り傳へるに止まらず、尚之に伴うて色々の古い思想と感情とを運ばうとした。それを方言だの下品な語だのと言つて、無造作に制止しようとした爲に、折角よく發達して居た平民の批判力社會感の如きものゝ、消えて再び粗野に復つた例は多い。例へば人間の氣力勇氣眞率さ、其他色々の男らしい好ましさを名づけて、中部地方ではいつ頃からかヅクと謂つて居た。ヅクガナイといふことは何といふこと無しに、最も感心しない青年の癖であつた。しかも之を標準語に譯して見よといふと、奧羽では臆病のことゝいひ、信越では怠惰のことゝいひ、西の方の府縣ではヅツナイといつて苦しがることだといふ。方言に一旦さういふ譯がきまると、通用の範圍がずつと狹くなるのである。さうして昔此等を綜合した「よき男」の理想とも名づくべきヅクの概念が、散漫になつてしまふのである。勿論言葉そのものにも分化し限定せられて行く傾向はあるが、尚多くの人多くの場合を寄せ集めて見ると、單なる漢字の一又は二を以て、代用せられない古くからの内容が感じられるのである。其他全國的に行はるゝ形容詞のウタテイとかオトマシイとか、カナシイとかメグイとかいふ類で、言葉を棄てれば其心持ちにも別れねばならぬものは幾つと無くあつた。それが土地々々で少しづつの用法の差を示して、郷黨感覺の永い間の歴史を語つて居り、從つて別の表現法を使ふとすれば、結局は今日の文學の如く、やたらに澤山の文字を用ゐて尚近所までしか行かれぬといふことになるのである。しかも完全に學校で仕込まれた少青年以外の者は、さういふ古風の語を自在に使ひ、土地に生れた者ばかりが辛うじて其心持ちを會得するといふ?態である。親々の代からの村の社會倫理や藝術觀で、言葉以外には何等の記録も無く、斯うして幽かに傳はり將に亡びんとして居るものは非常に多い。苟くも地方の前代を學ばうとする者が、之を棄て置いて他の斷片の記録に走つたのは、心待ちがひといつてよいのである。

　此以外にも尚大切なる口碑は多い。たとへば言語と闘聯した言葉使ひ物言ひである。敬語などは形だけで眞似ると、(196)相應に教育のある者でも多くは誤謬に陷る。ところが土地に定まつた樣式があれば、すぐ笑はれるから子供でも、少し大きくなると大抵は間違はない。即ち程合ひ頃合ひ場合ひといふものゝ微妙な差別は、之に由つて精確に知ることが出來るので、それと比べると常識などといふ現代語は、茫漠に過ぎて把へ處も無いが、通例我々が深い考も無く使つて居る「調子がよい」とか頓珍漢とかいふ批評の意味は、たゞ斯うした方面からのみ精確に理解することが可能なのである。

　それから今一歩進めば俚諺即ちコトワザ、是は短いけれどももう文學の中に入るべきもので、最も多く人を感動させるものが最も永く殘る。さうして其裏から古い諺によつて、之を賞讃し是認した人の感情道�ｺ審美眼をも推測し得るわけである。

　トナヘゴトは半面は歌謠に近く、他の半面は傳説などと共に、以前の信仰?態の不立文字の記録である。其次には澤山の説話、これは今尚面白がつて聽く人があるから詳しく説くにも及ぶまい。民謠と童詞と遊戯の色々は、ちやうど口碑と之に對立する體碑とも名づくべきものとの中間に位する。慣習仕來り縁喜前兆夢判斷、して好いして惡いの色々の行爲法則の類なども、一つ／＼に孤立して觀測すれば、只珍しいとかをかしいとか言つて終るものだが、それが一つの共同生活體の中に、併存し又互ひに調和して居るために、その文化史上の意義は至つて大きいのである。しかも地方毎に特種の發達があつて、同村人の容易に御互ひの感覺によつて學び得る如くには、外から來た者には研究が自在で無く、其利益も亦早速には現れないのである。最終には勿論全國的比較と綜合とを要するのであるが、それへ行く迄の階段として、何よりも先づ土地の人たちが、この新らしい學問の眞の目的に目さめることを必要とするわけである。

　

(197)　　　　　農民文藝と其遺物

　

　　　　　　　借金と信用と

　

　私等から言ふのも逆な話だが、諸君が若し學問をして現代生活の難問題を解かうといふ意氣込をもつならば、是非とも先づ手近なる田舍の事物に就いて、出來るだけ精確な智識を貯へてかゝらねばならぬ。其支度が今日迄は誠におろそかであつた。從つてまだ幾らでも、新たに興味あり且つ有益なる發見をすることが出來る。といふことを證明する爲に、少しばかり農民の間に成長した文藝の歴史の御話をして見ようと思ふ。

　文學は今でもまだ舶來の物のやうに想像して居る人が若干ある。なるほど日本の文字は外國品であり、之を活版にする技術も近世になつて外から學んだ。入れ物は確かに國産では無いが、中味をもたなかつたら容器を借りる必要も無かつた筈である。然るに書物などをひねくる程の人は、當世に限らず千百年の昔から、一貫して案外な外國心醉者であつた。

　古人の書き殘したものを見て我々がいつも苦々しく思ふことは、日本は小國である。大きな強い賢い國が隣に居る。出來るだけ眞似をして負けぬやうにしなければならぬといふ類のことを、無邪氣に言明して居る人が中々多い。乃ち我々が何度と無く服飾住居から言語文章までも變更して、世界に稀なる眞似上手な國といふ評判を取つた所以である。

(198)　ところが最近までは文字の教育を受ける人は、全國民中のほんの僅かな一部分でそれも都會の周圍ばかりにかたまつて住んで居た。他の大多數の農民までは其力が及ばず、單に一旦中央の文化として固定したものを、少しづつ外形ばかり地方に持込むに過ぎなかつたので、文學の方面までには餘計な世話を燒かず、始から田舍は話にならぬものとして、うつちやらかして置いてくれたことが、却つて色々の昔からのものを、保存し且つ發達させる原因となつたのであつた。

　國民の性情感覺、例へば我々の中では、如何なる?態をメデタシと名づけ、何をオモシロシと謂ひ何をカナシと謂つたかを知る爲には、所謂無學文盲の方面に向つて御禮を述べ、それから更に之をそつとして置いてくれた無意識の恩人に對しても、目禮ぐらゐはしてよい場合が、澤山にあるのである。

　

　　　　　　　平民の智能比較

　

　世界の諸國諸民族は、いつでも羽織袴｜裃《かみしも》熨斗目《のしめ》、又はフロックコートを着して玄關と應接間で交際をしたのである。即ち御互ひによそ行きの改まつた容子を見て褒めたり貶したりして居たのであるが、どんな國でも皆背後には三分の二、五分の四ばかりの只の人、不斷着で働いて居る人がある。外國をあるき殊にその田舍を見た人なら、大抵は知つて居ることだが、支那や露西亞の内輪の樣子は、評判にも聞えて居るから驚かぬとしても、其他の一廉の顔をする文明國でも、まだ／＼在來の農民や勞働者の多數は無茶なものだ。人は成るほど善過ぎる程善良だが、粗野で遲鈍で氣が永くて騙され易い。尤も近年の移民ばかりで拵へた國は別だ。併し之を除いては日本の如く、感情が豐富で美醜善惡の判別に鋭敏に、且つ物わかりの早い農民を持つて居た國は、實は他に一つも無いと言つてよいのである。しかも所謂文學に關與した人々からは無視せられ、又はシヅノヲだのヤマガツだのと謂つて、輕んぜられて居たのだか(199)ら不思議である。

　この誇るべき國の大特色は、さしたる困難なしに其理由を説明することが出來る。先づは大體に於て原因が三つ、一つには相續制である。小さな地主小さな侍、狂言記などに所謂「此あたりに隱れも無い大名」が、幾らでも在郷に住んで居た。つまりはよい血が早く村に入つたのである。良家が村で働いて居たのである。是は或は一方に哀れなる階級の、夙に亡びたことを語るものかも知れぬから、自慢してよいか否かは別問題である。第二には風土天然の刺戟、例へば光線水分温度、山水の外線や此等のものゝ色彩の變化等、感化を受けずには居られぬものが多かつた。第三には非常に早くから、農民限りの自由なる藝術のあつたことである。之を風俗又は國ぶりと名づけて、いはゆる臺閣文學の徒も動かされざるを得なかつたのは、歌とそれが包容したしをらしい多くの物語であつた。音樂は固有のものはあまりにも單簡であつたが、其代りには幽邃なる共同の信仰が、人知れず此藝術を支持して居たので、從つて我々の精神生活とは皮相的ならざる關係があつた。

　

　　　　　　　地方文藝の衰亡

　

　國の文學の美しく成長する爲には、周圍の之を味はふ人々の感覺が絶對の要件であつた。ホメロスは孤立の天才ではなかつた。必ず彼を取圍んで互ひに誘導する所の聽衆があつたのである。この天然の文藝と現代のものと異なる一點は、交通の障碍であつた。日本は殊に島の形が細長く、山の嶺が幾筋と無く平原を分割した爲に、個々の小天地小社會の中に剖據して、如何に尊いものでも外へ出ると通用しなかつたことである。

　その大小幾つかの地方文藝の中に立つて、都人のみは濃厚なる自重心と文字教育との強味があつた爲に、殆と自分等以外のものを容認することが出來ず、田舍者も亦其優勢に對しては一言も無かつたのであるが、しかも彼等各自の(200)立場に立つて觀れば、永い歳月の間にそれ／”＼餘程のところ迄進んで出て居たのである。

　それが今日の教育制度の統一の爲に、此二系統の文藝は一は滅び盡きんとし、他の一つは全國を支配することになつたのである。さうして今や我々は、單に一時代以前の地方生活の眞相を知つて置きたいばかりに、僅かに殘るものを尋ねて保存して見ようとして居るのである。

　文藝は本來文字の藝術といふことであらう。之に對立した「言葉のみの藝術」を意味するには、何か適當な語があれば別の文字を使ひたいのだが、差當り好い案が無いから假に之を農民文藝と名づけて話をする。海邊に行けば漁民文藝、又は水上勞働者の文藝もあるのは勿論であるが、話を簡單にする爲に爰では農民の文藝だけを説かうとするのである。

　

　　　　　　　命名技術

　

　文字に縁の無かつた人々の間にも、言葉の藝術の著しい進化のあつた證據、今一つ溯つて我々日本人には最初から、非常に細かく感情の働く素質があつたといふ證據は、まだ今ならばさう骨を折らずとも、豐富に見付け出すことが出來る。此頃自分等の仲間で考へて見ようとして居るのは、第一には「物いひ」である。即ち一番始には物の名の付け方、人が段々に新らしい事物に出會つて、之を言ひ現はすに用ゐた言葉、それが如何にも氣が利いて居り又印象的であつたが、都會住民は殆と此大事業には少しでも參與して居なかつたのである。例が多過ぎて竝べて居ると日が暮れるが、動植物の名前などは本草啓蒙の類に澤山見えて居る。俳諧で曼珠沙華などいふ田の畔の植物、水仙とよく似て赤い花の咲くものを、關東では季節によつて彼岸花、私たちの國では折つて珠數の形にして遊ぶからジュズバナ、液汁が肌膚を刺戟するからテクサレバナ、又は葉の形によつて狐の剃刀とも名づけた。野外に在る物には狐の何々とい(201)ふ例が多いが、土地によつては此花を「狐のたいまつ」とも呼んで居る。あの形からふと浮んだ美しい空想である。それから庭前の樹の枝などによく見かける刺蟲《いらむし》の巣、雀の卵に似て上の端のきれたものを、雀の酒壺、雀の酒桶、或は雀の小便たごなどとも謂ひ、又之を取つて吹くと鳴る故にヒューヒューデンデンなどと、神樂の樂器を聯想して居る。其他烏の枕だの蛙の座蒲圏だのゝ類はまだ色々ある。水に住む蟲では水カマキリを、手の形に由つて屋根屋のばばさ、足の長い水すましを、其臭氣によつて飴屋のおかゝ、又は味によつて鹽屋とも謂ひ、源五郎蟲の背中のぬれぬれと黒く光るのを紺屋のかゝさといふかと思ふと、目の覺めるやうなコバルト色の鴨頭草《つきぐさ》の花を染屋のおかた、即ち花嫁とも呼ぶ處がある。

　多くは稍々成長しかゝつた少年少女の仕事であらうが、中には既に觀察の域を脱して、幾分文藝的構想の加はつて居るものもある。例へば靜岡縣の西半分で槇の實のことをヤンゾー、ヤンゾーコーゾー又はヲショコゾウと謂ふのは、紅と青と大小の球が繋がつて居るのを、下男が兒を負ひ又は和尚の後から小僧が附いて行くのに譬へたので、しかも和尚と小僧などは昔話の中の最も人望ある主人公であつた。それからどんぐり即ち?《かし》の實の皿を、越後ではガモンモと謂ふ村があるが、ガモンモはもと御寺の本堂にある金屬の大きな樂器のことで、是も音から出た形容であつた。それを轉じては斯んな小さな同じ型の物に應用した。其ドングリといふのも元は獨樂のことで、さきの僅かとがつた丸々とした形が似て居る爲に、未には太つた背の低い男をさへ、ヅングリといふことになつたのである。

　

　　　　　　　形容の文句

　

　それから更に進んでは譬喩の文句、何々見たやうなといふ言葉にも奇警なものが多い。又は全然思ひもかけぬ言葉を以て、場合々々の感覺を言ひ表すこと、例へば人をうまく説付けて文句を言はせず、若くは損失を忍ばしめるやう(202)なうまいことをいふのを、津輕あたりで「餅藁着せる」。他人の問題に世話を燒いて迷惑な立場に置かれることを、是も東北の一部で「灰俵しよはされる」。斯ういふ類の微妙な譬喩は、却つて村の人の方が上手であつた。所謂教育のある人は何かといふと字を見なければ解らぬやうな漢語を使ふから、仲間から外に出ると通用しない。「既に定評あり」などと謂つて見ても何のことだか分らぬが、あの男のねうちなら知れて居るといふことを、「ヤスコ付けられてる」といへば、東北の人には始めて聽いても其意味と感じとを捉へることが出來る。ヤスコとは歌留多や追羽子などに、負けた者の顔にかく罰點のことだから。

　酒を飲んでくど／＼と同じことを謂ふのを、東京などでは「管を卷く」といふが、是も日本の東半分の田舍では、「ごんぼを掘る」といふのが通用して居る。或は小兒の「だゝをこねる」場合にもさういふ。其心持ちは私にはまだはつきりせぬが、多分餘計な土を盛上げるところから、さう形容したものでもあらう。九州の南部に行くと、同じ醉狂ひを「山芋掘る」と謂つて居る。たゞ偶然に言葉が似たのみで、此方は野猪などの暴れまはる光景に、たとへたものであつたかも知れぬ。兎に角に「八かましいことを謂つてあたりの人を困らせる」などゝいふよりも、短かいのみならずどの位印象が深く、又愛嬌があつたか知れぬ。だから之を聽いて笑つた人も直ちに其妙を認めて、次々の場合に應用するから程なく普通の文句となり、例へば機を織る作業を知らぬ者までが、今では一般に「クダを卷く」といふ言葉を使ふことになるのである。

　とても擧げきれないが此例は幾らでもある。西洋人の中では佛蘭西の人が此長所を持つて居るやうで、それが一つのあの國語の人望にもなつて居る。日本では所謂有識階級が、最初から此面白味に盲目であつて、之を國語の改良に利用しなかつたが、それにも拘らず會話演説の差別を知らぬ人たちの間には、今でも次々に盛んに此類の物言ひが、新製せられ又流布しつゝあるのである。

　此言ひ現し方に若干の智慮又は技術が加はると、次にはコトワザといふものが出來る。僅かな語數だが諺はもう文(203)學である。内にも外にも文學の具ふべき要件は皆具へ、一つだけ足らぬのは印刷にしようとせぬことである。一つの社會又は智能の水準を目がけて、誰しも言つて見たく又聽きたいと思ふべきことを、若干の計畫工夫の下に、出來るだけ巧妙に言ひ現す。從つて諺の方が他の普通の物言ひよりも、永く記憶せられ又利用せられ、世を經るまゝに其數が溜まつて來るのである。

　

　　　　　　　諺の成長

　

　コトワザが日本にどの位數多く出來たかといふことは、藤井乙男氏の諺語大辭典などを見るとよくわかるが、あの中には實は雜駁に他の種類のものも交つて居る。農民文藝としての俚諺は、書物に現れた支那の格言、又はたゞの迷信といふものなどとは別で、普通の會話に挾んで使用すべく、前から出來て居る形の定まつた文句である。意味も言ひ方も共に面白く、律語で無いまでも口拍子と音の響きとを以て、耳を樂しませるやうに結構せられたものである。村の社交が諺といふものあるが爲に、非常に活き／＼として居たことは、今日の書いた文學とよく似て居た。近世は幾分か之を濫用する人が出來て、追々下品と考へられるやうになつたが、それでも物固い老人などが「物の道理が」だの「理づめ」だのと言ひながら、斯ういふ諺ばかり連發することは今でもある。式亭三馬の浮世床にも、さういふ江戸の婆さまが出て來る。つまり之によつて會話の語數を儉約し、且つ其效果を大きくし、其上に少しばかりの愛嬌を加へたものであつて、作者は勿論不明であるが、其働きからいふと農民文藝の主要なるものであつた。

　試みに目的によつて諺を分頼して見ると、先づ第一には人を説付ける爲に用ゐるもの、相手の攻撃を防ぐとか、喧嘩の仲裁をするとか、永たらしい口數をきいて居ては間に合はぬ場合、所謂口巧者な人は大抵之を利用した。

　それはうそだらうなどと人の言ふ時に、眞顔になつて辯疎をするよりも、おらア「うそと比丘尼のあたまはいつた(204)ことが無い」と言ふ方が話は早く片付く。我慢をせよといふ代りに「長い物には卷かれろ」といふこともあるといひ、雙方ともよく無いといふ代りに「垣根と喧嘩は一人ぢやゆへぬ」などと謂ふ類は、何べん聽いて居ても兎に角をかしいから、怒つて居る者が笑つてしまふ。此等は何れも目的のある文藝だから、ちやうど今日の論文に該當すると思ふ。

　次には此とはあべこべに喧嘩をする爲に使ふ諺も、昔は可なり澤山にあつた。即ち傍に觀て居る中立者を味方に引つけ、若くは相手方をはツと思はせてへこたれしめる。江戸の職人などの間には此種のコトワザはよく發達して居たが、今から見ると少し濃厚に失して居た。啖呵を切るなどと稱して、威勢のいゝ調子で、五つか七つの諺を連發すると、大抵他の一方はしよげてしまつて、それで喧嘩はおしまひになる。それ程で無くとも向ふの弱點を刺して、第三者をして此方に同感させ、それによつて間接に相手を屈せしむる手段に古くから諺は用ゐられた。論語よみの論語知らずとか、耳を取つて鼻をかむとかいふ類のものがそれであつて、今日の文學でいへば批評文に該當する。之を聽く者が目下であり、之を言ふものに親切がある場合には變じて教訓となり格言となるのだが、それが全部で無いことは、諸君の知つて居らるゝ伊呂波歌留多を見てもわかる。あの中には必ずしも教訓で無く又倫理的でも無く、たゞ面白いから賞美せられて居たといふものが隨分あるのである。

　

　　　　　　　生活用の教科書

　

　又今日ならば生活用の教科書ともいふべきものが色々ある。例へば「呼ぶよりそしれ」とか、「噂をするなら筵しけ」とかいふ類は、陰口をきく際に當人のひよつこりやつて來た氣持のよくない經驗を語るだけのもので、其趣旨は必しも道�ｺ的でない。「柿は食ふとも種食ふな」とか「とりは食ふともドリ食ふな」とかに至つては、理由さへも明かに解らぬけれども、兎に角に或智識の傳授であつた。其他地方々々の天候の占ひには、「朝鳶に川渡すな」「秋の夕燒(205)鎌を研げ」といつた樣なものが非常に多く、其内容をなす智識にも今尚有用なものが隨分あるが、それ以上に言葉の藝術として我々の靜かに味ふべきものが少なくは無い。

　或は此文藝の弊害として、是あるが爲に實驗を細かく敍述し、又は意見を丁寧に説明する技能が、後世多數の日本人に缺けることになつたとも言はれるか知らぬが兎に角に人の才智判斷觀察などを、最も有效に表現する手段としては、日本人の天分は之に由つて、十分に發揮せられて居たのであつて、單に少數の聽明なる者の道樂といふよりも、寧ろ聽手の多數の方で、書物の文學と同じやうに、何遍と無く繰返して之を鑑賞し又利用して居た點に、文化記念物のねうち〔三字傍点〕が認められるのである。殊に時がたち場處が隔たるにつれて、形が簡單であるだけに表面の文句のみでは誰にも直ぐわかるといふわけには行かず、若干は各自の智能を働かせて、始めて其含蓄を味ふことが出來たといふことが、一種スポーツ式の興味を起さしめるので、ちやうど少年から青年時代に入つて行く頃の人たちなどには、特に歡迎せられるやうになつて居たのである。

　其意味からして自分などは、取分け斯ういふ教科書式、智的俚諺ともいふべきものに重きを置いて考へて居る。今まで曾て注意した人は無いが、日本人の内部の成長、是だけのさかしい國民となつて、出しぬけに世界交際に引出されても、引けを取らぬ迄になつて居た原因には、常日頃コトワザ其他の口と耳の文藝の、目に見えぬ練習があつたからで、それが學科の如く勉も強も必要とせず、面白づくで自然に覺えてゐたのは大きな事であつた。

　少し考へて始めて理解するといふ快樂は、諺ばかりで無く又謎といふものからも得られた。ナゾは「何ぞ」であつて一種問答體のコトワザであつた。掛けると稱して一方から意外な或文句を提供し、片方が其意味を解し得るか否かを試みる。後にはこしらへて非常に六つかしいものを出すやうになつたが、是も本來は成長しかゝつた男女の、智力を引出さうとする所に面白味があつたので、解つたり解らなかつたりする程度を、上乘の謎として居たのである。近世のは三段になり、「何々とかけて何々と解く心は……」といふ樣に、説明を添へなければならぬことになつたが、古(206)いのは必ず二段であつて、説明などは不用であつた。それが例へば、

　　　まはり白壁、中ちら／＼なアに。　　答、行燈

　　　いる時のいらぬもの、いらぬ時のいるものなアに。　　答、風呂桶の葢

といふやうに、意味も面白いが問の言葉にも出來るだけ綾と調子とを取つて、先づ耳を怡ばしめようとしたことは、俚諺なども同じことであつた。

　

　　　　　　　元は信仰の儀式から

　

　此等の民間文藝の起原は至つて年久しいものであつた。是が若い人たちの樂み又遊戯となつてしまふ以前に、髯の白い老翁までが參加して、嚴重なる儀式としてこと問ひ應答し又は聽いて考へた時代があつたのである。其?末を詳しく説いては居られぬが、つまり最初は此形式を以て神の言葉を傳へて居たのであつた。祭はもと今のやうに純然たる想像のものではなかつた。それでは昔の人にはとつくりと胸に入らなかつたからである。即ち人と神々との中間に立つて、神の御詞を語る者を必要としたので、其語は特に尋常の會話とは調子をかへ、又少しは意味を不明瞭にして、どうとも取れるやうにして置く習慣があつたのである。簡約にして餘韻含蓄の多い言葉、是が恐らくは我々の最初の謎又は諺であつたかと思ふ。信仰が變化してさういふ必要がもう無くなつて後も、其形式方式の面白さのみが永く記憶せられ、又若い人たちが好んでいつ迄も、之を眞似て見る風だけは殘つたのである。

　さうして近世になつて、斯ういふ遺習を專ら研究する學問が、外國の各地にも起つた。日本は其中でも殊に材料の豐富なる國である。小兒の遊戯などの中にも、模倣によつて漸く古い時代の慣習行事を保存して居る例は少なく無い。「まゝごと」は又「お振舞ごつこ」とも、「をばさま事」とも名づけて、大人同士の交際の方式を寫したものであること(207)は誰でも知つて居るが、他の「鬼ごと」でも「目くら鬼」でも「隱れん坊」でも是から類推し得るのみならず、他の一方には記録の上からの證據を以て、曾て子供で無い人々の間に、一度は行はれて居た眞面目の式であつたことが考へられる。「かアごめかごめ」とか「中の中の小坊主」とかは、現在でも土地によつて之と同じ事を年とつたものが行つて居る。さうして此場合に使はれる詞などは、考へてももう意味はよく解らぬやうにはなつて居るが、文章としての面白さ、音の響きの耳に快いこと、それから遠方の土地まで同じ形で流布して居る點から、近頃偶然に始まつたものでは無くて、古くからあつたものゝ少しづつ崩れたのだといふことが考へられ、乃ち我々の祖先が今日の多くの若い人たちのやうに、感情表現に無頓着でなかつたことを示して居る。其文句の所謂子供らしいのは、子供が作つたからでは無く、寧ろ極く古いといふ證據になると思ふ。

　天然の花や蟲や鳥を見て、子供が唱へて居る詞、「螢來い／＼」とか「烏々」などの類にも、驚くほど弘い一致が見られる。蝸牛などは全國に二百以上もの地方的名稱があるに拘らず、角出せ槍出せといふ言葉は大抵どこも同じで、尚世界の多くの國にも、よく似た唱へごとが傳はつて居るといふことである。恐らく人間が我々の子供のやうに無邪氣で且つ閑が多かつた時代に、大人でも斯ういふことを謂つて、蟲や鳥を相手に遊んで居た頃からのものが、面白いから小兒のみが眞似て、今日まで保存して居たのであつて、即ち原始期のまじなひ詞、又は宗教的文藝であつたかも知れぬのである。

　

　　　　　　　民話研究の目的

　

　かも知れぬでは無くもう餘程確からしくなつて來た。そこで我々の仲間では、或は此方面から入つて見たら、他に記録なども無い百姓の過去、民族のまだ一般に幼稚であつた世の中の、眞の?態がわかるであらうと信じて、民謠な(208)ども熱心に蒐集し、又その根本の趣旨を味つて見ようとして居る。同じ民謠と呼ばれるものでも、現在作つた人の知れて居るもの、又は此頃になつて他所から流行して來たものは除外し、土地々々に作者はいつの誰といふことが知れずに殘つて居るものによつて、昔の普通人の文才と心の働きを、尋ねて見ようとして居るのである。

　謎にも諺にも最初の用法があつたやうに、民謠にも亦やはり目的があつた。歌謠が是非とも無ければならなかつた場合は、一つには祭りと祝ひ、是には踊りと酒盛りとが附いて居るが、踊りもせず酒も飲まぬ祝ひごとも多かつた。例へば正月十六日などの夜明方に、田に出て唱へる鳥追ひや土鼠打ち、雨乞の折の「雨たアもれ」の如きも、皆それである。第二には作業の相の手、是は一人ではか〔二字傍点〕を行かせる爲にも歌があつた方がよいが、五人七人が一所に働くと、殊に其必要が大であつた。はたき物と稱する昔の臼搗き、それが磨碓《すりうす》に代つてからの協力に於ても、歌で手を揃へぬと間が拔けて實際能率が擧がらぬ。それも銘々が勝手に歌ふのでは役に立たず、臼挽きでいふならば「やり木の御方」、即ち音頭といふ人が是非入用であつた。音頭は機敏で頃合ひ間合ひを解し、更に聲が佳くて又澤山の歌を記憶して居る者で無くてはならぬ。一つの唄を何べんでも出すこともあるが、それでは間が合ふといふのみで、面白く思はぬから仕事の苦しみを感じ易い。故に人望ある音頭取りは色々として外から歌を借りて來て使ふ。其爲に臼を挽くときにも臼挽き唄のみは使はず、草刈り唄が麥搗きの晩にも出る。後には町や港の女などの歌つて居た三味線の唄まで、採用せられることになる。それが所謂はやり唄であつた。

　民謠は斯ういふ風に最初から協力といふことが目的であつた。聽手は口で合唱せぬ場合でも、心の中では共に歌つて居た。さうして歌ふべき章句の選定は勿論、その新作に對してすらも、内々は干與して居たのである。即ち歌ふ人と略々同じ位な感動をもつて味はつて居たのだから、音頭も亦出さうな歌しか出さなかつたわけである。それといふのが團體にとつて甚だ大切な能率と成績は、悉くこの唄の興味の集注如何によつて左右せられて居たからである。戰爭や狩獵の前夜などにも、やはり同じ共同の興奮が入用であつたことゝ思ふ。今日でこそ勞働と遊戯と祭典は、それ(209)／”＼別の物になつて居るが、大昔は其間に明らかな差別は無く、何れも多數人の調和した作業でであつた。今日に至つても酒造りと酒祝《さかほが》ひ、田植と田祭りとは一讀きで、其上に田植などはあの骨折にもかゝはらず、遊びの氣分が加味せられてあつた。盆の踊とても同じことで、此日に限つて精靈を送ることは、村に必要なる一つの事業であつた。又酒盛りとても最初は人の心を新たにする儀式であつた。たゞ斯ういふ共同には追々と面白味が勝つて、從つて歌が幾らでも多く入用になつた爲に、一番早く澤山の流行唄を借用し轉用したといふのみである。

　

　　　　　　　手毬唄の特色

　

　子供の使ふ遊戯唄なども其成立ちは全く之と一つであつた。其中でも最も變化多く且つ日本だけの特色として、もつと細かに考へて見なければならぬのは、つい近頃まで盛んに行はれて居た手毬唄御手玉唄などである。成人の唄は意味がよく解らぬやうになると、もう古くさいと謂つて棄てゝ用ゐない爲に、百年以上も古くからのものは至つて少ないが、子供は最初からよくも解らぬものを眞似たのだから、いつ迄も昔の歌を持つて居た。さうして間違へられるだけ間違へて歌つて居たのである。手毬が小兒の遊びになつたのはさう古くからでは無い。多分足利時代の末からでもあらうか。其前は品玉曲取りで放下田樂の徒の伎藝であり、主として高く投げ揚げる方の手わざであつた。それが板の間や地面に打ちつけて、突くといふことの始まつたのは、よく彈む材料即ち木綿わたなどの、民間に入つて來てから後のことで無ければならぬ。然るに存外に古さうな手毬唄が今も殘り、且つ全國の隅々まで弘く行き亙り、しかも章句の細部に至つては、村々毎にちがひ、時としては家によつても同じで無い。是は少女が毬の作業の方に多く氣を取られ、歌の文句は口から出まかせにして居た爲で、歌がすんでも球がつゞけば次の歌を繼ぎ、忘れたら他のを出して來て、勝手次第にくつゝけるからで、幸ひ方々に殘つて居るからそれを比較して、元の形を尋ねて見ると、大體(210)五十種内外に分類することが出來るかと思つて居る。

　其中の一つの例を引くならば諸君は鎌倉郡の人だから、鎌倉の歌を聽くのが興味があらう。鎌倉が只の田舍となり、寺と八幡樣ばかりの名所になつたのは、もう少なくとも四百年以前からのことであるのに、不思議に手毬唄の中にはまだ「鎌倉の御所の御庭に」といふ類の歌が多い。しかも可なり遠方の村々にも行はれて居る。私の生れたのは兵庫縣の、神戸から尚十八九里もある小さな農村であるが、母などのよく教へてくれた毬唄の中には、

　　　鎌倉へまゐる路に

　　　椿一本そだてゝ

云々といふやうなのがあつた。後に氣を付けて見ると、同じ歌のもとあつたといふ土地は、東京近くでは多摩三郡と秩父方面、上總あたりにもあつたといふ。福島縣山形縣などでは、之と似たものを田植唄其他に使つて居た。詳しいことは文部省から出した俚謠集などに就いて見てもらふ外は無いが、兎に角全國の田舍の衆が、まだ鎌倉を一つの文化の中心と認めて居た時代から、始まつた唄であることは想像し得られる。それが此樣な美しい詞で傳はり、大正昭和の村の女の子たちの心をさへ慰めて居たのである。

　そこで問題となるのは、唄の文句は其樣に古く發生し、一方手毬の流行、殊に突く方の毬はそれからまだ後のものだとすれば、此聯絡はどう説明してよいかといふことだが、是は此歌と手毬との中間に、臼唄といふものがあつたといふことを考へればすぐ解る。臼も搗くものである故に、其作業唄の中にはツクといふ語が入つて居る。從つて子供が之を手毬唄に轉用することが容易であつた。伊豆半島で臼唄といふ次のやうな歌が、其拍子は全く前に擧げた椿一本の手毬歌などと同じであつた。眞直ぐな手杵で臼を搗くことは、伊豆邊ではもう夙くに止めて居るから、恐らくは後にはたゞ文句が面白いので記憶せられ、酒宴其他の場合に用ゐられて居たものかと思ふ。

　　　鎌倉には女が無いとて

(211)　　　猿に夜麥を搗かせた

　　　猿が三匹手杵が三本

　　　どれもどんすの前かけで……

　又次のやうなものもあつた。

　　　鎌倉の御所の御庭に

　　　十三｜小女郎《こぢよろ》が酌に立つ

　　　酒よりも肴よりも

　　　十三小女郎が目につく〔二字傍点〕……

　是はどう考へて見ても鎌倉の文化の盛りを、知つて居た人で無ければ歌ひ出されぬ文句であつて、しかも輸入文學の感化の下に在る文人などの言葉では無いのである。即ち手杵と名づくる月中の兎の持つやうな杵を手にした女が三人、木臼を廻りつゝ夜麥を搗いて居た時代から、もう是だけの文藝を我農民たちは持つて居たのである。

　

　　　　　　　青年の同情缺乏

　

　是が日本國民の進んだ感受性、即ち新教育を與ふれば直ぐに新傾向を理解し、外國文學を飜譯して見せれば直ぐに其特徴を呑込んで眞似をし、其他如何なる六つかしい片假字の哲學者の名を聽いても、一度でも是は意外だといふ顔もせずに、競うて之を習ひ又受賣取次をして、結局は稚い兒が元から手に持つた物をくわらりと棄てる如く、次から次へと移つて行くだけの能力が出來たのも、要するにこの久しい間の修練習熟の賜だといふことが出來る。我々は斯うして積上げた基礎の上に立つ國民なのである。明治以後の新教育のみが、俄然として人を野蠻から開明まで飛移ら(212)せるやうな力のあつたわけでは無いことを、よく／＼確認してから後に、次のま一つ次の文化の研究には向つて行くべきであると思ふ。

　個々の農村が遠慮深く自ら卑下して、如何なる種類の中央文化にも無條件に降伏するの弊害は、今日の如く山家の奧、離れ島の向ふ岸までが、一齊に書物を以て新らしい事を教へられる世の中となつて、殊に怖るべきものになつた。いつの世にも親と子の趣味の相異、又は老人と青年との感情の衝突はあるが、それが今日の如く議論も仲直りも一つの言葉、一つの文藝に依ることが出來ず、一方は無暗に多く讀んで、耳で聽いたゞけでは意味の不明な言語を使用し、他の一方は單に自分の心持ちを洋語漢語で發表する能力に於て缺けるのみで、内側は非常に細かい點まで感覺が發達して居るといふ場合には、頗る其調停の困難が氣づかはれるのである。

　是が多くの家庭に於て見るやうに、年寄りが何の苦情も無く寧ろ欣んで、所謂今の若い者にへこまされて居てくれるならばよいが、口や文章では言ひ現はせない不滿である爲に、折々は誠に不可解なる形式を假りて、飛んだ方面に其反抗が顯れることがある。單に老人と若い者との間のみならず、同じ青年の間でも、學校の教育が短かくて昔風の感化のまだ強勢なる分子即ち所謂口不調法派と、少しく本を見た自稱智識階級との行違ひも之に伴ひ、折角一人々々は新しい文化の恩惠を受けても、其集團の中には何の共存共樂も望まれなくなる。よく農村のごた／＼などの、どう見ても外から來た者にはわけが解らぬといふものがあるのは此爲で、必ずしもわからぬのでは無くたゞ互ひに解らうとしないからである。境遇のちがつた人の心持ちを知らずに、仲よく一緒に暮さうとしても出來ないのは、要するにそれが無理な註文だからである。

　學問をするならば活きた學問、目の前の學問から片づけて行かねばならぬ。私の今日の農民文藝談は、たゞ面白い一例を述べたゞけだが、此以外にまだ昔話の弘い領域がある。其他信仰の方面でも又經濟の方面でも、諸君が進んで知らうとしない限りは、いつ迄もわからずに喧嘩をして居なければならぬ問題が色々ある。まだ／＼幾らでも投げ遣(213)りが我々を不幸にする實例はあるのである。

　

(214)　　　　　郷土研究といふこと

　

　　　　　　　偶然なる起原

　

　郷土研究といふ語が、何か專門の一つの學科の如く世間から考へられるやうになると、私たちは多少の責任を感ずる。本日の如き好機會に於て、一應日本に此の如き名稱の起つた事情を、申述べたいと思ふ所以である。

　大正二年以前には、我國にはたしか斯ういふ熟字は無かつた。郷土文學又は郷土藝術といふ語は既に折々之を耳にしたが、それは單に農村現在の文藝、又は祖先から持傳へた技藝といふ位の意味で、弘く都市に發生する新文藝、乃至は舶來流行の文藝に對立させた名目に過ぎなかつた。教育者の間には又郷土科といふ語も?々行はれたが、それは單に學校周圍の實地に就て、博物でも地理でも歴史でも、出來るだけ效果多く、教へて見ようといふ方法の名であつた。

　ところが其年の春、我邦で最初にフオクロアの學問を唱へた故高木敏雄君が、我々少數の有志者を説いて、一の月刊雜誌を創立せしめたときに、この郷土研究といふ名稱は始めて用ゐられたのである。其時の事情を記憶する者はもう二三人しか居ないが、何とかして世間に新らしい印象を與へるやうな題號をといふことで、我々が提案した澤山の候補者の中から、高木君は殊に此文字を選擧しようとしたので、つまりあの當時「郷土」といふ語の感じが、故郷・(215)田舍又は地方などといふ語よりも、別に強い一種の觀念を與へるやうに思はれたからして之を採用したので、一方にはそれに附け加へられた研究といふ文字は、もうあの頃から相應に濫用せられ、少しでも注意を一つの問題に傾けると、それを研究と謂つて人も我も怪まなかつたのである。

　高木氏は中々覇氣のある學者で、或はわざと斯んな名を設けて、問題を起し又は世間の氣を引いて見ようとしたのかも知れぬが、案外に反對の聲は無くして、豫期以上の共鳴者を得た。雜誌は決して繁昌と迄は行かなかつたが、郷土研究といふ言葉ばかりは、一年もたゝぬうちに普通語となり、最初はたしか群馬縣かに、別に一つの郷土研究社といふものが起り、且つ同名の著書を出版した。是が初めで次第に此名を用ゐた團體が各地に出來るやうになつた。東京では國學院大學の學生たちが折口教授を取圍んで月々開いて居た會も郷土研究會であつた。此頃は更に府廳關係の人々が新たに大きな同名の會を作り、會員の數既に千人などと新聞は報じて居る。語音の響きの佳いことも恐らく一つの原因であらうが、それよりも主たる動機は、何か新らしい方法を以て、今後は地方の研究をしなければならぬといふ心持ちから出て居ると思ふ。

　斯んな話は如何にも無益なる懷舊談のやうであるが、自分が特に明瞭にして置きたいと思ふ目的は、なるほど雜誌などの標題としてこそ、盛んに我々は此語を流行させようとしたけれども、未だ曾て自分たちの携はつて居る學問を、自ら此名稱を以て呼んだことは無かつたといふ點に在る。郷土研究は其文字が表示する如く、一つの專門の學問を區劃すぺく、あまりに廣汎なる語であつた。然るに拘らず世間の方では、或は我々のフオクロアが、譯すと郷土研究となるのだらう位に考へて居る人もあり、しかも一方には名は郷土研究と稱して、到底我々の承認し得ない方法を以て、地方の前代を研究しようとする人もあるから困るのである。

　我々はこのフオクロアの如く、資料採取の分野を出來るだけ小さく區劃し、個々の地方を單位とした考察方法、及びその澤山の比較を以て、或事實ある法則を明かにして行かうとする學問も、亦この郷土研究といふ汎い總稱の中に(216)包含させ得ると信じた故に、又私たちの學問、即ち民族固有の思想と信仰と感情、此等のものから生れて來る國の歴史の特殊性の研究ばかりで無く、尚他の方面の色々の學問にも、同じ態度と方法とを應用し得ると思つた故に、更に又我々は便宜上、さういふ學問の人たちとも手を繋いで進んで行けると考へて居た故に、郷土研究といふが如き廣い新らしい名稱を、自分たちの雜誌の名に付けることを、必ずしも不當なりとは考へて居なかつたゞけである。

　

　　　　　　　郷土研究の必要な國

　

　諸君は既に幾度も考へて見られたことゝ思ふが、世界のどの一國と比べて見ても日本くらゐ學問の地方的分業を必要とする國は無い。早い話が自分などとは縁の薄い動植物學の上から言つても、バナヽ・甘庶・甘藷などの研究は琉球か臺灣で、林檎・馬鈴薯・砂糖大根等の改良法は、北海道か奧羽かで試みられなければならぬ。同じ水産の實驗でも、北と南とは丸つきり魚もちがひ又其習性も別で、鱈や蟹は日本海の問題、鰹は太平洋岸の問題である。實驗が精密になればなるほど、總括論の六つかしさが分つて來る。しかも國が斯うして一つである以上は、同時に又常に比較と綜合との努力を怠つてはならぬのである。

　ところが他の一方の社會科學の部面に於ては、昔から今日まで、如何に都市が衰へ地方が隆盛であつた時代にも、終始研究中心の偏重、殊に中央に向つての學問上の屈從があつた。西洋から持つて來た輕濟の學問又法律論などに於ては、今や殆と忍ぶべからざる中央集權がある。都會と其周圍の平地から遠く離れて行くにつれて、所謂學理と實地との間には段々に開きが大きくなり、書物の信者たちは?々信じ難いことを信じさせられて居る。多くの學問は暗記であり樣式であり盲從であり、良心ある者には則ち苦悶であつた。所謂劃一主義の打破は、到底小學校の讀本を二通りにする位のことでは、何の役にも立たないのである。

(217)　農村生活の地方毎に單一で無いことは、斯ういふ小さな一つの郡の中に居てもよく解るが、尚多くの府縣をあるいて見て、例へば更級の田毎の月、岡の頂上まで鎧畠に切開いた人口の多い島や岬を見た揚句に、更に例へば陸中閉伊川の溪谷の如く二十何里の間に三百とは家數の無い緑の山地をあるくと、同じ日本といふ國が、よくも斯う色々の外貌を持つて居るものだといふ感が深く、到底一册の農業經濟書を以て、人を平等に賢くする計畫の、立てられぬといふことが考へられる。

　地形學の上から考へて見ても、我邦は誠に珍らしい實例である。水内《みのち》河内カッチなどと、全図共通の名稱を以て呼ばるゝ處々の盆地は、其中流にたつた一つの瀧があると否とによつて、林業の種類は丸でかはつてしまはねばならぬ。況んや奧の深さ、山の向ふ地の?勢、谷の縱横等の相異によつて、假令土質や氣温には是ぞといふ變化は無くとも、一般の土地利用方法、從つて之を基礎とする村組織の上に、別々の影響を與へねばならなかつた。一言で言ふならば異なる歴史を成長せしめずには止まなかつたのである。四本の指を斯う竝べたやうな隣同士の谷でも、決して一方の?態を以て他を推すことは出來ぬのであつた。然るにも拘らず、學問にまで過半數主義が入つて來て、平地の經濟が僻村の利害を無視して説かれるやうになると乃ち孤島に住み山間に在る者が惱まなければならぬ。是が他力の學問の一つの悲哀である。

　そこで我邦の學問が大に進んで、行く／＼世界全體の文化史親、乃至は宗教史觀が之に由つて立て直されなければならぬのと同じ樣に、國内の地方研究が次第に全帝國の政治意見と、生活の理想との上に反映し、少なくとも今日の取次學問を驅逐する時代を樂しみにして働く者が、何れの方面にも段々多くならうとして居る。殊に最近は其兆候が顯著に認められる。故に此意味からして自分などは、郷士研究といふ語の何か至つて狹い範圍の、只一科の學問なるかの如く、誤解せられんとする危險に對して、責任を痛感せざるを得ないのである。

　

(218)　　　　　　　地方意識と歴史

　

　其上に我々は一種の身贔屓かも知らぬが、右の如き大切なる地方意識といふものゝ根柢も、やはり亦我々の携はつて居る所の、歴史的研究の中に在ると思つて居る。學問に終局の目的といふものがあつて、それが若し人類の幸福増進に在るとすれば勢ひこの現在の民族生活を作り上げた原因を尋ねようとする學問が、全體の事業の準備ともなり、又緒論の部分を占めることになるのは、當然の話のやうに思つて居る。我々が個々の郷土を以て研究の目的物とする場合に、最初に出現して來る問題は、人と天然との久しい間の交渉、それが如何なる變化を生活樣式の上に及ぼして居たかといふことである。それを明白にするのを職分とする學問の、尊重せらるべきは論無きことで、知識の綜合といふ我々の大事業も、結局は其基礎を爰に置くことになるわけである。

　國といふものを一箇體として考察する場合にも同じことだが、自分たちの屬して居る民族を仔細に熟視すればする程、是だけ顯著なる差異懸隔を、他の民族との間に持つて居るにも拘らず、尚他の一方には其中から、多くの爭ふべからざる共通性の發見せらるゝ事に心づくのである。是は到底偶然の一致などと、輕く見逃しては居られぬ程度の類似である。慣習も言語も宗教も政治關係も、丸々別であつた異國同士が、近づけば自然に理解しあふことの出來る法則をもつて居たといふことは、我々を驚歎せしめずには置かぬのである。それは或は人種がもと一原であつた爲かも知れぬ。記録を超越した遠い昔に、手を分つた友であり同胞であつた爲かも知れぬ。さうで無いならばまだ我々の知らない大動力が、人を一致せしむべく豫め其原因を設けて置いたのかも知れぬといふことが、幽かながらも此新らしい世の中に生れた者の、始めて抱くことを得た希望である。

　異民族同士の間にすらも此共通がある。況んや一國一民族の間に於ては、此經驗は殊に感深く、又效果の多いもの(219)に相違ないが、それを眞底から體得し得るのは、やはり各地方の個々獨立した研究の結果でなければならぬ。未だ其實驗の無い者に向つて、以來は斯く心得べしといふやうな押付けがましい學説とは、價値に於て最初から、雲泥の差が無ければならなかつた。例を擧げる必要も無いか知らぬが、中世各地に崛起して今尚繁榮して居る多くの名門の系圖などを見ると、殊に此事が深く考へられる。系圖は本來其用途から言つても、家が榮えて後に始めて作成せられたもので、初代からの家の祖先が、自ら書込んで來たといふものは一つも無い。即ち作成以後の分は最も確實でも、其以前は漠たる記憶に據つたものである。此頃覆刻せられた寛政重修諸家譜、さては群書類從史籍雜纂などの中に取入れられた家々の所傳を見ても、十中の七八は源平藤橘であり、その又六七は藤原朝臣源朝臣に限られて居る。是は有り得べからざることでもあり、其誤謬は有り得べきことである。しかも歴史の學問が進まず、殊に年代の勘定や比較調査の最も行ひにくかつた時代に、この多くの家々の系圖は出來たのだから、今見れば合點の行かぬことだらけで家傳に滿幅の信を置かんとする家の主人すら、尚安心して人に説き得ざる記録が多く、そこで系圖の書直しや訂正をして生計を營む者さへ出來て、系圖屋系圖買などといふ言葉までが、之に基づいて出來たといふ説もある。故に所謂萬民同祖の國民的確信の如きも、若し斯樣な史料に由つて成立つて居たとすれば、自然に動搖を受けずには居られなかつた道理である。信州では古來美濃から此方にかけて、頼光流の源氏の末と稱する舊苗字が多かつた。しかも彼等は各地に分立して正閏を爭ふばかりで、たま／＼共通の家號を持つ者でも、殆と同族といふ感じが無かつた。然るに之と同時に他の一方には、百里二百里の遠い國々に、何時からとも無く分散して住みながら、産土神に對する敬と信、農作に對する熱烈なる執着、血族及び婚姻から生ずる相互の義務心、其他之に伴なふ微細なる慣例、俗信又はをかしな癖と名づけてもよいやうな小さな仕來りに至る迄、無意識に全然同じ型に依り、同じ途を歩んで居る點が算へ切れぬほど澤山に見出される。是が百篇の記録史論又は所謂精神講話よりも、遙かに有效に又切實に、我々遠近の百姓の、久しく同族であつたことを感ぜしめるのである。

(220)　關東などには古い記録に依ると、三韓からも支那からも、歸化して來た多數の異種族が入つて居る。蝦夷の後裔もうんと此邊には散布して居る。故に若し系圖を信じて、之によつて立證し得られない部分は、當世の史論に從ふとするならば、我々の結論は可なり心淋しいものに歸着するわけであるが、實際は如何に骨を折つて捜して見ようとしても、さういふ外來分子の痕跡は、もう拾ひ出し得ない迄の同化を完成して居るので、例へば武藏高麗郡高麗村の高麗某といふ人でも、中世以來型の如き東國の武士であり、現在はその感情までも日本人になり切つて居る。即ち縁組と交際の久しい關係によつて、血は完全に混同して既に渾然たる一體を爲して居る。又それで無ければこの狹い國に、隣を連ねて永く住み得たるわけも無く、又今日のやうな大きな統一も行はれ得なかつたのである。

　然るに今日までの中央學問の概括論又は平等觀があまりにも單純なる演繹法で押切らうとした爲に、却つて若い學者の中では例外を指摘したり、いや天孫系だの出雲種だのと、碌に證據も無い新しい分類をして見ることが、一時學問上の流行を爲すに至つたので、それを又半ば面白づくに持ちまはる者も地方には出來たが、自分などは諸君の地方文化研究が盛んになりさへすれば、久しからずして斯かる學説の混亂は、大部分之を整頓し得るものと信じて居る。それは只精確なる物の觀方、又親切なる疑問の提出が、果して諸君によつて爲され得るか否かの、根本問題次第であると思ふ。

　

　　　　　　　研究單位としての郡

　

　我々は誤解を避ける爲に、なるべく歴史といふ字を用ゐまいとして居る。「歴史」には不幸にしてもう固定した意味があるからである。そこで國民生活誌とでも謂つたらよからうかと思つて居る。その生活誌の限地的討査は、從來も私がいふ程の深い趣旨無しに行はれて居たのだが、今や次第に全國に普及し、且つ段々と着實になつて來た。自分(221)等は此調子で進めば大體先づこれで結構と考へる故に、無條件に之を賛成して居るのであるが、併し慾を言へば言ひたいことはまだ澤山にある。

　第一には研究の單位となるべき地域である。江戸時代の地誌は領分で定まつて居た爲に、例へば西讃府志は丸龜領の飛地として、播州の一部分に迄も及び、新篇會津風土記は國堺の山を越えて、越後の小千谷《をぢや》地方まで書き及ぼして居る。新時代に入つては亦府縣單位である爲に、東京府の伊豆七島、それ程で無くとも福井縣の若狹とか、島根縣の鹿足郡といふが如き、別に一箇體として考へてよい地域までが、府誌縣誌といふと其中に包括せられる。全體に稍々大に失し、且つ机の上の穿鑿、文庫内の作業に傾き易い人々、即ち中央の修史官の令弟見たやうな態度の學者が之を取扱ふ故に、長所も短所も彼と共通になつて居る。乃ち都から眺めたやうな地誌が出來上る。

　中央歴史家の長所は、諂諛《へつらひ》にわたるから事々しく之を説くまい。弱點といふのは何であらうかといふと、近世史の如き史料の豐富なる部分に於ては、研究の題目は出來るだけ小さなものを捉へて、深々と之を論じようとする。將軍家光公逝去の刻限に就てとか、大石良雄山科隱宅の窓の高さに關する考察と謂つたやうな問題を掲げて、必ず今まで誰も知らなかつた二三の事實を發見して嬉しがつて居る。しかも一たび中古以前の記録資料の二つか三つしか無い區域に入つたとすると、忽ちにして活き／＼とした論理想像力のあるだけを働かして、百年五十年に跨がる一國人文の趨勢を明晰に推斷することは、宛として酷吏が法を案じ律を擬するが如き概がある。殊に古代史に於ては、小説作家の如き天分ある者が世俗的には成功して居り、一方には又官府の充溢したる文書に面して、少し史料が多過ぎる、今少し少なくなつてくれゝばいゝにと歎息をする人さへあつた。一言を以て評すれば如何にも骨惜みの學風である。そんな學風を狹い諸君等の郷土に應用して見ても、我々が要求する歴史の完成する筈は無いのだが、悲しいことにはこの筆法に倣つて、農民の前代史を書いて見ようとした人が、折々は今でもあるやうだ。

　是れ恐らくは研究の單位として、縣は大に失し又事情の色々なるものが錯綜して居た故に、斯うしないと纏まりが(222)付かず、しかも何でも纏めろといふ要求が強くて例へば小石を積上げて石垣を築いて行くやうな、もどかしさを忍び得なかつたのである。然るに基礎の工事ともいふべき用意は必しも整つたと言はれない。故に我々は研究の區域は、出來るだけ小ぢんまりと纏めて行く方がよいと思つて居る。志あり又方法を解した篤學の士が、隅から隅まで知り拔いた我部落、即ち「我町村の史學」から、始めるのがよいと迄考へて居る。或はそれほどに細かく地域を分つことを得ずとすれば、責めては一つの盆地一つの溪谷を單位として、他に何等の解説者通譯者を傭ふこと無しに、總住民の感覺と生存利害との解る區域に、限つて見たらよからうと思ふのである。此趣旨から見ると、郡でも往々にして弘きに過ぎるかも知れぬ。たゞ他に方法も無く適當な機關も無い場合にはさう贅澤なことは言へないと我慢するだけである。是でも勿論縣全部を一體として調査するよりは便宜も多く實際又各郡では教育會の共同聯絡が中々よく發達して居るから成績が得易い。自分は此目的の爲にも今後郡役所閉鎖の結果、教育部會の活力が衰へはしないかを、甚だ氣遣はしく思ふ者である。假令郡役所は無くなつても、どうか折角今やつと夜が明けたばかりの郡誌調査のみは、直ぐに縣の方へは引繼がぬやうにしたいと思ふ。

　郡誌の大きいのは既に幾つと無く世に出て居る。長野でも古いものには栗岩君が編輯した下水内郡誌があり、又近年の東筑摩郡誌を始め、まだ拜見せぬものもあるが、既に二つ三つも出來て居る。諏訪郡からも巨大なるものが出かかつて居る。えらい骨折な仕事ではあつた。隣の岐阜縣では益田郡誌などが面白かつた。富山石川などの縣にも段々大きなものがある。福井と滋賀とは此事業が殊に盛んで、越前大野郡誌二卷二千頁、近江阪田郡誌三卷三千頁、同蒲生郡誌十册六千頁、實に驚くべき精密な著述であつた。此等は勿論無きにまさること萬々で、現に我々も折々其恩澤を被つては居るのだが、しかも正直な話が、之を見てもう仕事は完了したと、感じ得た場合は一度もなかつた。寧ろ此御蔭を以て是から大に進んで行けるだらうと將來を囑望するばかりであつた。得難き家々の舊記古文書が、何れも活字と爲つて讀み易く又得易くなつた。之を一々所在に就て探してかゝるのだつたら、無論大へんに時を取られる。(223)それが助かつたといふことは感謝しなければならぬ。

　但し各郡の青年たちが、索引も何も無い此樣な大册を讀終つて、果して兼々抱いて居る不審に付て、何等かの解答を見出し得るかといふと、其答は簡短に「否」である。つまり何といふ標題を付け、如何なる序文の賞讃があらうとも、是は單に史料の保存に止まつて居る。地方人の眞の史學は、之に基づいて是から漸く始まるべきものである。肝腎かなめの我々の疑問、即ち我々はどういふわけで今の村の住民であるか。何物の力が我々を某縣人又は某郡人にしたかといふ問、それが答へられなければ實は我々の歴史であり、人文地理であり得ない筈で、是が帝國全部の平民の總てが、此學問に對する唯一つの要求であると思ふが、今日迄の「歴史」はそれに答へようとはしなかつたのである。それでも致し方が無いといふ意味に於てのみ、地方にも「歴史」は存在したのである。

　最近飛騨では大野郡史といふものが出た。美濃からは不破郡史が出ようとして居る。前者は二千七百頁、後者は一千六百頁、凡そ公私の國中記録の苟くも此土地に關する限り、目に觸れた限りは皆集められて居るのだが、それが雙方とも古今二千年間の、人の數から言へばざつと五百人か六百人かの傳記又は逸話集といふに過ぎぬ。他の無數の普通人の普通生活が、間接に此から類推し得られることは至つて幽かなものであつた。しかも自分たちは方法さへ立てたならば、もつと何か古い世の中の事情が知れる筈と思ふが、今迄の樣に名士ばかりが人であつた時代には、是でも濟んで居た爲に、それが癖になつて誰もまだ苦情を持込むことをしないのは殘念なことである。

　

　　　　　　　地方史料の種類

　

　御承知の通り二十世紀といふ今日になつても、地球の上に住む人の三分の二は、まだ文字といふものゝ效能を知らず、從つてまだ其恩惠に與からぬ。又僅か百年の昔に溯つて見れば、所謂文明國とても今日の支那と同樣に、文字は(224)官府と士人との專用品であつた。かゝる事情の下に書いたものだけで歴史を知らうとすれば、其結果は知れたものである。中央に於て一國の政治史を書く場合にはそれでも濟むだらうが、平和にして又無事なりし一つの郷黨で、郡史なり村史なりを書く場合にはそれで目的を達するわけは無いのである。斯ういふ方法以外何か別途の手段を講じなければならなかつたのは、最初から解りきつたことであつた。

　元來我々の記録といふものにも、實は二通りの種類があつた。即ち作るに特定の目的のあつたものと、別に其爲に殘さうといふ趣意のなかつたものとで、假に自分等は計畫記録、偶然記録などと謂つて居るが、偶然記録となればつい近頃までは史料にも入れなかつた。系圖證文訴訟?の類は何れも計畫の記録、即ち或人々の利益擁護の下に成つたものである。中には家の名譽の爲に、知りつゝうそ僞りを書いたものもある。甲陽軍鑑江源武鑑などは其尤なるものだといふ評判である。そんな物でも無いよりはましと、言ひ得るかどうかも疑はしい。ところが郡より以下の小さな地方では、まはり合せによつて此樣な史料すらも、殆と皆無なところさへあつた。言はゞ絶對に昔風の地方史の書けぬ地方なのだが、それですらも尚何とかして引用書の澤山ある中央風の歴史を著はさうとして居たのである。此樣な無茶な話は無いと思ふ。

　我々は既に全然文字を持たぬ時代又は民族の爲に、辛苦して他の之に代るべき方法を講じて居たのである。考古學と稱して遺物遺跡により、舊事舊態を推測せんとするは其方法の一つである。今若し此の如き手段が長野縣の所謂先史原史に就て認められるならば、何故にそれよりも遙か後代の中世近世にして、しかも文獻無く若くはあつても極端に不精確なる場合の學問にも、同じ方法が用ゐられぬのであるか。遺跡は無論古墳貝塚のみで無い。遺物も亦土器の破片や矢の根石等には限らない。それよりももつと出處の確かな、數の揃つてまんべん無く頭を出して居るものがあるでは無いか。それは何かと問へば生きた住民其ものである。彼等の生活の樣式と色々の仕來りである。

　家は今見る建物は二百年が大抵は古い止まり、米麥などは年々作つて食ひ、衣服は年々のやうに織つては着るが、(225)しかも最近までの住み方食ひ方着方には、幾ら古くからのものか見當のつかぬものさへ澤山にあつた。此等は中頃如何に變化して居るかわからぬ故、古物と斷定し難いと氣遣ふかも知らぬが、生活の樣式の如きは一定の法則無しには、さう勝手には變つて居ない。又一つ處のみを見ては不確かのやうに思はれても、懸離れた全國の隅々に一致のあることを知れば、比較と重ね寫しによつて次第に元の形が知れて來るのである。尚此等の生活風習よりも今一段と手固く、少數の人々の考では變へることの到底出來ぬものも多い。言語の如きも其一つであつて、個人が勝手に改めれば、忽ち役に立たなくなる。乃ち至つて影響の少ない部分から、ごく少しづつ變へようとして、まだ澤山に元のまゝを殘して居ることは、古書の偶然の史料からも、之を傍證することが容易である。近頃になつてから動詞や形容詞は急速に改まらうとする傾向があるが、それでも尚名詞迄を變へてしまふことは六つかしい。新しい名は新しい物と共に入つて來るのみで、現に信州などの山國が保存した言語も多く、京都で入用無き爲に忘れたといふだけであつて、それが國語の中から丸で消えてしまつたのでは無かつた。

　府縣從前の方言調査は、多くは所謂匡正の爲であつたが、滑稽なことにはそれが我々の保存事業に役立つて居る。匡正などの運動はつまらぬと謂つて、もし夙くから中止せられでもしたならば、却つて我々は資料蒐集の手段に苦しまねばならなかつた。方言が果してどの程度にまで昔を保存して居るかは比較によつて知り得る。書物などは二三の都市に於ける若干の古語を保存するのみで、例へば狂言記は足利後期の京附近の言葉、天草版のローマ字書きはあの頃あの地方の或階級の用語だけであつたらうが、今に於て多くの田舍の笑はれる片ことが、決して出たら目の横訛りでなかつたことを證明する。只それが餘りにも各地區々になつた爲に、後々の文書は別に人工の可被下や罷在の如き、國内共通の文句を採用して、いよ／＼以て古語の生存區域を制限したのであつた。

　史料の闕を補ふべき無形遺物としては、又各種の命名樣式があつた。人の名殊に女の名一つだけでも、細かに見て行くと色々の古風を保存し、從つて社會家庭に於ける彼等の地位の變動までが察せられる。北信から越後にかけて、(226)我々が早くから不思議に思つて居ることは、言語としては一見意味を持たぬやうな、二つの音を以て女の名とする風習である。此風は關東平原の田舍迄も及んで居るが、其最初の理由はまだ明かで無い。或は他人に容易に記憶させまいといふやうな趣意でもあつたものか。本名を呼ばるゝを忌む風は農民の中にもあつて、史上の女性でも多くは實名が傳はらず今傳はるものはアザナの如きものであつた。從つて同名が非常に多く、村でも父親の通稱とか又は屋敷の名などを冠らせて甲乙を區別した。今日婦人の持つ二つの假字の名も、此地方は例外かも知らぬが、元は種類が非常に少なかつた。さうしてオサヨとかオサンとかオツルとかの類は、本名とは言はれぬもので、最初何か宗教上の意味があつたものゝやうである。今一つ前になると、阿茶《あちや》だの阿古《あこ》だの茶々だの禰々《ねゝ》だのといふ字を書いた婦人ばかりで、それは皆今日のボウヤ孃チャンと同じやうに、只子供を意味する普通名詞の愛稱を、其まゝ通稱のやうに用ゐたものであつた。カナとかオナとかいふのも元は其類で、カナはかなしい即ち愛兒のこと、オナは單に女といふ言葉の省略であつた。つまり本名の必要が、極端に少なかつたのである。

　それから又地名のことであるが、地名は其土地を利用して始めて出來るものである。例へば一本松とか獅子岩の類は、そこに往來する者の目標としてのみ入用があつたので、從つて土地の利用の度の進むと共に、自然に其數は増加して行く。故に狩獵の時代より柴刈草刈炭燒の時代、それよりは又開發開墾の時代になつて、互ひに差別をする必要が　　　愈々繁くなり、細かい區劃にもそれ／”＼の名を生じた。然るに五十年前の切繪圖作成の時を絶頂として、其後は地番制度が始まつて地名の數は減少し始めた。それを記録に保存しようとしたのが、明治十七年頃の全國の郡村誌であつたが、惜いことにはたつた一部しか無いものを、今度の大地震で燒失してしまつた。この地名の澤山の比較と、其地形の一致とから、京都で失はれた多くの地形語を復原することが出來た。例へばママとかハヾとかハケとかいふ類の名詞は、地名に殘つて居る爲にはつきりと意味がわかる、陸軍などではそんなことに構はずに、色々の言葉を獨乙の地理書などから直譯した。タヲ・タワといふ語があるのに鞍部といひ、河内といふ語があるのに盆地だの河盂《かう》だの(227)といひ、一つ屋があるのに獨立家屋などと謂つた。そんな文字では我々の先祖は生活の用を辨じ得なかつたのである。或は又むかし使つた動詞なども、追々に地名の中から蘇生する。信州で最も有名なる輕井澤などもカルフといふ動詞が不明になつた爲に、色々珍なる解説を生じたが、本來は嶮阻なる峠の麓、それから上は馬が通はぬので、荷物を人の脊に負ふべき場所のことであつた。カルフとは背負ふことで、其人足を元はカル子と謂つた。即ちカルヒ人である。それから又以前の土地制度、開發に關する以前の慣行も、田畠の小字名から考へられ、同時に又其種類によつて開發の時代が知れる。古く行はれた信仰が地名に保存せられて居るものも多い。例へば信州から北國に多い十二木又は十二前などといふ山中の地名は、此地方の山の神が十二座と考へられたか、又は十二本の木を以て代表されたかの名殘で、同種の地名の行はるゝ地域だけは、此點に共通なる部曲の追々に住み擴がつたことを推測せしめる。斯ういふ風に考へて行くと、紙には書いて無いといふのみで、偶然の記録としての價値は、却つて空想をまじへた文學の書などよりは大きいわけである。

　東筑摩郡では前年自分たちの説を容れて、早く小地名の蒐集に着手して今整理の半ばにある。今迄の人の考では地名は到底わからぬもの、何の昔をも語らぬものとして居たのだが、其絶望の無益であつたことが知れた。あの郡では之に次で尚色々の調査を企てゝ居る。家名の調査なども其一つで、其分布を見たゞけでも、今の住民の大體何れの方角から入つて來たかといふ見當だけはついた。家名は全體が亂雜なもので、殊に明治の初年に在名禁止が解けた際、各家勝手放題な選擇をしたなどと謂はれて居るが、そんな例が若干はあつたにしても、尚大數の上からは家の分れて出た道筋系統はわかつて來る。是も遠からず一册の書となつて、必ず隣接地方にも或參考資料を供與することゝ思つて居る。

　是等は自分の今心づいた二三を例示した迄だが、此以外にも考へて見たら、まだ色々の種類と方面とから、興味ある郷土研究の資料を集められると思ふ。しかも此等は高木君などの首唱したフオクロアの外であつた。四十餘年前に(228)英國の學者が説き始めて、僅かな間に國々の歴史を愛する人々によつて、次々に發育させてもらつたフオクロアといふ一派の研究は、詳しくは爰には述べないが、亦此以外の問題に於ても色々と活動の舞臺をもつて居た。さうしてそれ等も我邦の各農村に、未だ手を着けられざる材料として豐富に殘つて居る。つまりは新らしい世になつても、尚何と無く改め難くして殘つて居る季節の行事、生産作業に伴なふ仕來りと、冠婚葬祭等の作法、神社の祭日などに行はるゝ一般の催しもの、それから出て後に零落したかと思ふ兒童の遊戯、更に考へて見ればをかしいやうな色々の怖畏と不安心、之を散ずる手段としての積極的手段、即ちマジナヒ・ウラナヒの類、消極的方法たる物忌禁忌等の比較研究である。歐米人の新らしい生活の中には、そんな特徴も我々と比べるとずつと少なくなつて、今では遠方に出かけて太平洋の島々、南阿南米などの土人の群の中に入り、又は寒帶圏内に僅か殘つた異民族から、辛苦して零碎なる事實を集め、之に基づいて是まで一向に心付かなかつた人間發達の道筋を知らうとして居る。二十年三十年の骨折を積んで、今もまだ夜が明けたやうに明瞭にならぬが、確かに調べ上げねばならぬ大切な問題だといふことだけは分つた。それが我々の邦に於ては如何に冷淡のやうでも、言語がわかり顔色や心持ちの察せられる同國人同郷人同士の間である故に、もしあつたとすれば微細な點でも心付かずには居らぬ。議論は第二次として一通りの事がわかる迄、片端から誇張も無く又批判もせずに、それ等の社會現象を採集し記録して置かうとすること、是が我々のいふフオクロアなるものであつた。

　フオクロアの取扱つて居た題目は、神道の歴史などを調べて居る人と近い。それ故に折々は飛んでも無い方面の學者と、一律に考へられて迷惑したこともあるが、我々には兎に角臆斷の哲學は無い。人を教へて信ぜしめようとするやうな有難い新發見も無い。只この國の普通人の間に、實際持傳へた古風なものが若しあるなら、一應は見た通りに書留めて置かうとするのみで、それが誤つて居る居らぬは手製の目安といふものを持たぬから、之を判別しようとはせぬのである。たゞ此方面にも他の一切の精神作用と同じく、時代即ち外界の複雜な感化を受けて、始終變形し又展(229)開して止まざるものがあつたと共に、つい其傍には殘つても差支の無かつた部分が、存外元の姿で其儘殘つて居ることを知つて、それを出來るだけ精確に見て置かうとする爲に、折々研究が所謂神道學に接近するだけである。教育者諸君の方とは、之に反して往々に興味の合致がある。又その大なる援助を期待すべき場合が多い。殊に兒童の個人的な行爲と、それが群集の影響に由つて、突如として異常心理に移つて行く場合の如き、彼等の心持の觀察から大なる暗示が得られる上に、一つには又教へ導かうとする人々の親切なる觀察が、今まで怠つて居た我々の研究方法の一面を、次々に援助し改良してくれられる點は、常に我々の希望し又感謝する所であつた。

　

　　　　　　　郷土研究の要件

　

　之を要するに從來のフオクロアの領域は、行きがかり上今尚不必要に狹隘であつた。所謂郷土研究の中のほんの一小部分を要求するのみであつた。その自然の成長は行く／＼社會心理の側から、若くは經濟組織の改造、公共倫理觀の再建設、其他色々の實地の事業を準備する爲に、研究を進めて行く人たちと、合同はせぬ迄も提携し得る場合は多いだらうと思ふ。彼等に向つての我々の援助、少なくとも經驗から得來つた有利なる進言は、感謝せられる時があるであらう。是は學問が段々に實際と近より、又次第に人間的となる自然の結果であつて、同時に又歴史の人間生活に對する本當の意義が、いつ迄も考へずには置かれぬ世の中になつて來たからである。自分たちの現在取つて居る態度は、此意味からして弘く一般の郷土研究者にも適用せられ得る。それを今一度列記して見るならば、

一、最終の目的はどんな大きくてもよいが、研究の區域は出來るだけ小さく區劃して、各人の分擔を以て狹く深く入つて行くこと。

二、其便宜の爲には、成るべくは自分の家の門の前、垣根のへりから始めて、次第に外へ出て行くこと。即ちよくわ(230)かるものから解らぬものへ進むこと。

三、文書の價値は勿論輕んじないが、その材料の不足な場合が多いことを知つて、常に力を自身直接の觀察に置くこと。

四、それを志を同じくする者との共同の寶物とする爲に、最も精確且つ忠實なる記録を遺すこと。

五、如何なる小さい、俗につまらぬといふことでも馬鹿にせず、もと人間の始めた仕事である以上は、何か趣旨目的のあつたものに相違ないといふ推定から出發して、一見解りにくいものは殊に面白く且つ重要なるべしと考へてかゝること。

六、之を解釋する手段としては、出來る限り多くの地方と聯絡を保ち、互ひに相助けて比較をして見ること。必要があれば其比較を國の外、世界の果までも及ぼすこと。

七、澤山の無形の記録を保管して居る人々に對して、常に教を受ける者の態度を失はず、正に文字通りの同情を以て之に臨むこと。

などが、殊に大切なる諸點である。

　學問は本來至つて寂寞なものである。殊に斯樣な人を見る學問に至つては、久しい間の一國の同胞と、自分等ばかり對立したやうな地位になつて、國民が「見る人」と「見らるゝ人」との二つの組に分れなければならず、自分は彼等の群に混じて、浮かれたり醉つたりすることが出來なくなる。言はゞ是は人が大昔からもつて居た太平無爲との御別れである。尤も今一段と社會が意識的になれば、再びこの差別も無くなつて、同時に又見られるに値する古代からの傳承も消え去るであらう。現に二三の外國に於ては、資料の減少からもうフオクロアは行詰まらうとして居る。日本も末にはさうであらうが、まだ消えて行くものが消え殘り、恰も過渡期なるが故に特に我々は忙しいのである。其上に我々の過去を名殘惜しく思ふ情は、この五十年間の史學が少しでも我等に欲する所の知識を供與せず、殆と此方面(231)には何一つの成績が擧がらなかつたのを恥ぢて、一層發憤して祖先の精神生活を、出來る限り鮮明に且つ感深く、開展し且つ説明して見なければならぬと思ふのである。何のことは無い地方研究の振興は一種の罪滅しである。過去世と當來とに對する、現代人の免がれ能はざる義務である。

　

(232)　　　Ethnology とは何か

　

　　　　　政治と植民地研究

　

　或は皆樣の夙くに御承知の事を、今更事々しく御話し申すことになるか知らぬが、日本人が新たに國の爲に學問をする必要と、一方にはその特殊の興味效益とを説明すべく、只今我々少數の者の携はつて居るエスノロジーの大體を御耳に入れたいと思ふ。

　エスノロジーとは全體どんな學問であるか。之を二三の辭書類に依つて、知ることが既に容易で無い。現に自分などは學校で講釋をするのに、今尚譯語の決定に苦しんで居る。民俗學と譯して見たいのであるが、困るのは「民族」といふ語と響が紛はしいのみならず、別に民族學と謂ふ方がよいといふ者もあるので、俄かにさうきめるわけに行かぬ。たゞ今夕の御話には便宜上假に其語を使ふといふだけである。

　國により又學者により、Ethnology くらゐ區々不同の範圍を持つて居る學問は無い。佛蘭西ではこの一九二六年の二月、巴里に Institut d’Ethnologie 民俗學院を置いて之を大學に附屬せしめた。 Levy Bruhl の書いた其創立趣旨に關する一文が、 Revue d’Ethnolographie 民俗誌評論に載せられて居る。元來あの國に於ては、エトノロジーとエトノグラフィーとは、略々同じ心持ちに用ゐられて居る。二つ別々の學問とは考へられて居ない。從つて新設の學(233)院は當然雙方を包容するので、其目的を具體的に言ふならば、亞弗利加土人の生活の研究事業といつてよい。佛蘭西の屬領は印度支那もあり、又南太平洋にも大西洋にもあるのだが、國民普通の感覚では亞弗利加とは比べものにならぬ。一般に歐羅巴の社會に於ては、我々が滿蒙や東部西伯利亞に對すると同じ心持で、この對岸の大陸を視て居る。殊に佛國は戰に克つて、以前獨逸が經營した大地積を引繼ぎ、黒人大陸の重要部分を支配することゝなり、大勢に於て此大陸を英國と山分にした形であるが、歐羅巴と近い西北方面では、少なくとも自ら許した覇者である。サハラの大砂漠を自動車で横斷する世の中になると、土人同士の交通は益々盛んになり、是に白人資本家の大小が參加して、利害が錯綜を極める。其間には又日本と同じやうに、國内の政治費を植民地で調達しようといふ下心は尚抑へ難く、一方之に對抗しては土人の中に智能の著しい進歩があり、又耶蘇教傳道の宗派別の背後には、國別の理想なり野望なりの之を支持するものがあり、若くは之を超越した最も進んだ人道主義の主張がある。所謂ペールブラン白い神父の公平なる慈悲心と入交つて、ペールノアル黒い神父の幾分か反抗的なる批評が現出する時代となつた。問題が其解決力よりも、一足先きへ成長するのも止むを得ない事情である。

　しかも政治は今日の佛蘭西などに於ては、所謂雄辯宏辭の術であつて、日本の如くどんな古臭い愚説を述べても、人が相手をしてくれるやうな國柄では無いのに、其材料元手が將に種切れにならうとして居るのである。新たなる問題の系統的研究は、學界よりも實社會の方に其要求が有るのであつた。乃ちあの貧乏財政の中から工面して、反對も無くこの民俗學調査の大機關を公設した所以である。

　

　　　　　　　英佛二國の相異

　

　巴里に始めて Soiete d’Ethnologie 民俗學會の出來たのは、今から八十五六年の前であつた。其頃からつい近頃ま(234)で、佛蘭西では我々日本人の人類學と譯して居る　Anthropologyと略々同じ意味に、このエトノロジーといふ語を使つて居た。勿論國際的學問の盛んな國だから、英國などで謂ふ人類學の何であるかは十分に知つて居たのみならず、中には異を立て割據して自分の學問を、Anthropologieと呼んで居た人も國内にあつたが、普通の人の概念では今尚アントロポロジーの方を狹く解して、單に人類を對象とした生物學くらゐに、考へて居るものが多いのであつて、此點も亦例の通り、わざとか偶然かは知らぬが、佛國と對岸の英國とは、ちやうど黒白裏表の相異を示して居る。

　英國でも隣國に倣うて、僅か四年ほどおくれて同じエスノロジーの學會を創立したのであつたが、其内容は最初からちがつて居た。例へば我々のいふ民俗學の方面の最も有力なる學者、日本の坪井正五郎氏などの先生、E.B.Tylor 教授の如きは、たうとう一生の間 Ethnology といふ語は使用せず、ちやうど佛蘭西のエト）ロジーと同じ内容の學問を、終始 Anthropology といふ名稱の下に講説し著述して居たのである。其門下の出身にして藍より青しの評ある Sir James Frazer の如きも、我々の知る限りに於て最も精勵なる學者であり、劃時代的大著を幾つも發表して、七十の老翁となつても尚孜々として學問をして居る人だが、彼は師匠のタイラー先生とは違つて、骨の寸法や目の色毛の色、又は地下の石器人骨にはさして興味を有たず、今の東京帝國大學の人類學教室などで、少しも遣らうとしない方の學問、例へば呪術の盛衰、靈魂不滅思想の發達、舊約全書古傳の構成、又は同族避婚の慣習の分布及び意義といふ類の題目に、其生涯の精力を傾注して居たにも拘らず、尚自分の學問を Social Anthropology、即ち社會人類學と標識して居つた。其心は人類を研究する學問に個人と社會との二つの立場、即ち生物學的と社會學的との二つの方面があるからといふので、暗に後者の殊に樞要又深遠なるべきを意味して居るのは勿論であるが是が若し佛蘭西又は米國の今風の學者であつたら、そんな割長屋式名稱は使はず、必ず獨立して Ethnology の名の爲に、光を放たうとしたことは疑が無い。斯ういふ國々の差別がある故に、自分は偶然渡來の一二の書物から、定義などを譯して間に合はせようとする人の説に、うつかりと耳を傾けられざらんことを御勸め申すわけである。我々の學びたいのは(235)名では無く、其内容であることは言ふ迄も無いことである。

　

　　　　　　　最近五十年の進歩

　

　自分は曾て故坪井教授から、右のフレーザー先生の噂を聽いたことがある。後に瑞西で御目にかゝつた時にも成程と思つた。此先生は日本の民間の學者等が一つもつて居ても羨まれてよいものを、四つまでも兼ね有して居る。四つといふのは第一には完全なる文庫、第二には優秀なる助手の數名、三には良き細君四には金である。有名な Golden Bough 金枝篇が、中二十年を隔てゝ三版を重ね分量を五六倍にし、索引と引用書目のみで厖然たる一大册を爲すに至つたのも、第三以下は兎に角、他の二つの條件の具はつて居た爲と言つて宜しい。日本のことが如何に取扱はれて居るかと、大なる興味を以て注意して見ると、我々が滿足する迄には無論材料を精選してはゐないが、少なくともアイヌの土俗の如きは、日本では得られまいと思ふやうな十數種の書物を渉獵してある。行屆いた研究のし方であると思つた。

　斯ういふ事業は英國の如き學問國でも、五十年前には出來なかつたことである。といふわけは前世紀の央ば過ぎまでは、學問の爲に特に企てられた調査旅行は、殆と一つも無かつたと謂つてよいからである。有るものとては冒險家のホラ話、船乘り連の誤解と誇張、最も親切なものが宣教師又は其女房の日記であつた。勿論近世に入つて來るにつれて、此等のものも段々に着實且つ學問的となつた。少なくとも化の皮は容易に露れるから、さう無暗なことは書かぬだらうと、安心してよいやうになつたが、尚資料の集積と共に、其整頓と價値批判とが愈々容易の業では無くなつた。古い紀行の好い資料を拾ひ上げ、それが其後變化しないか、又どう變つたかを確めるには、大いに學者の才能を要としたのである。

(236)　ところが約五十年の此方になつて、漸く眞面目なる學術探險の旅行が、十分の用意を以て企てられるやうになつた。就中巨大なる植民者として、他國に負けてはならぬといふ義務心又は自重心が、最も多く英帝國の世論を刺戟した。さうして永遠の事業の色々と企てられた中で、殊に代表的なる勞作は Spencer と Gillen と、二人の旅人の濠洲旅行記の三部作である。斯んな周到なる又精確なる視察録は、今後も恐らくはさう澤山は出來まい。少なくとも個人の力では到底再びこんな難旅行を濠洲大陸に企てられず、又必ずしも改めて之を繰返すにも及ばぬと思ふ程、完全なる報告であつた。之に由つて氣樂な素人の三十囘二十囘の漫遊よりも、志あり又素養ある者の只の一度の調査の方が、遙かに役に立つといふことは一般に承認せられ、其後は政府や學會の計畫に基づいた學術調査隊を派遣するために、多くの金と準備とをかけることが、日本を除いた他の文明國の重要なる文化事業の一つになつたのである。自分等の聞いて居るだけでもケムブリッジから出たトルレス海峽諸島の探險、英佛の競爭になつた中央亞細亞から新疆の考古學的調査、ジェサップ隊の遠征を始め、和蘭でさへもセレベスニウギニヤ等の調査の爲に、引續いて大なる努力をして居る。米國に至つては元々世界を驚かすのが商賣だから、是から先も何をするかわからぬが、今迄の事業でも赤色土人の綿密な調査は、殆と此學問の表面を變化させ、又日本に近い方面ではフィリッピンの人種言語等の實測 Survey の如き、我々の利用せずには居られぬものが多々である。フレーザー教授ならずとも、完全なる書齋で學問を續けようとする國々の學者には、全く隔世の感ある新學術の曙であつた。さうして其時運は又我々の門口にも近づいて居るのである。

　

　　　　　　　合理的民俗誌學

　

　要するに Ethnolgraphy が Geography や Topography などと併立して、社會科學の大切な一科目となつたこと(237)は、確かに全世界的ともいふべき氣運であつた。英語國に於けるタイラー教授以來の Anthropology は、乃ち此氣運を背景として、能く今日の隆又隆を見るに至つたのである。タイラーは其著述の中に?々 rational Ethnogaphy 合理的民俗誌學といふ語を使つて居る。即ち亦佛國人と同じく、自分の學問の基礎がエスノグラフィーであることを認めて居たのである。人類は同じく人類である。幾ら世界の隅、所謂蠻夷の地に住むとても、眼が眞中に一つあつたり、腹に穴があつて棒を通して之を擔ぐといふ類の人種は有り得ぬと同じく、人の生存方法と之を導く所の心意性情には、彼と我と共通の點ばかりで、ただ單に千何百年程前に今の文明國人がして居たことを、所謂未開人は今遣つて居るといふ差あるのみである。文明もあらゆる自然界の現象と同じく亦進化するものである。さうすると事によれば同じ一つの太い大道の上を、おくれ先だつて歩んで居るのかも知れないといふことを、俗人に迄も考へさせたのは手柄であつた。

　但し若しさうであつたら、白人は永久の先輩といふことになつて殊に結構だが、假にさうで無い迄も Culture 文化相の進みにも必ず法則がある。法則があるならばいつかは發見せられずには濟まぬ。だから少しでも早く發見して見ようといふことが立派な學問になるわけである。但し其法則を尋ねるには、草木や小さな動物の遺傳を檢する如く、時間のかゝる觀察をすることは到底出來ぬ。そこで多くの種族の種々の環境に在るものを比較して、甲から乙への推移を辿り、若くは一方の前代記録と、他の一方の現在の?態との間の類似共通を究めること、それが必然的に將來のエスノロジーの中に、包含せらるべき學問といふことになるわけである。

　佛蘭西は前に申す通りである。他の歐羅巴の丸で植民地を有たぬ國でも、大か小か此學問に手を着けて居らぬものは無いが、何れも此意味に Ethnologie といふ語を解して居るのである。米合衆國でも大抵は此通りで、細かく比べたら少しづつの定義の差はあるか知らぬが、先づは諸民族の生活?態、殊に社會の諸制度の起原を尋ねて見る學問となつて居るのである。然るに獨り英國のみは、前からの久しい行掛かりがあつて、さういふ意味には此語を用ゐるこ(238)とが出來なかつたやうである。例へばキーンズなどの名著を見ると、エスノロジーの目的は專ら人類の生物學的起原古代人類の痕跡、それから人種分派及び差別の理由といふことに限られて居る。略々これだけの問題を調べるのがエスノロジーだと謂つて居る。日本では早稻田大學の西村教授や鳥居龍藏博士などは以前から此説に從ひ、今でもエスノロジーを人種學といひ（寧ろ人種學がエスノロジーだと思ひ）、全然エスノグラフィーとは別系統の學問のやうに説いて居る。つまり古くからの英國風である。

　名稱などは何れでもよかりさうなものだが、學者が中途から自分の携はつて居る學問の改名屆も出來ぬわけだから、存外に一度用ゐた名稱には拘泥する。相似た語で隣國同士、異なる内容を表示することが、國際的に不便であることは百も承知しながら、先づは互ひに他方の折れて來るのを待つて居る。併しそれは英佛の如き永年の行掛かりある國での話で、日本は今以て何もして居ないのだから、是から先は名前よりも内容によつて必要緩急を決すべきであつた。

　

　　　　　　　人類學との關係

　

　自分の觀た所では、幾ら英國で Ethnology の範圍を、人種起原と種族分派の二つの題目にきめたからとても、それだけは人類學の中から取除けて置くがよいと、思つて居る者は無いのであつた。人類學が若し此二點に觸れなかつたら、差當り仕事が無くなつてしまふのみならず、恐らく學問全部の體系を具へることが難かつたであらう。其中でも人類起原論の如きは、實は百年以來の基督教國の流行題目であつて面白いといへば面白い問題だが、きまりもせず又是非きめて貰はねばならぬ必要も無い。之に反して人種差別の原理に至つては、實は人類學の最も大切な中心であつた。種族異同を度外視して、人間の發達は考へ樣もないのである。或は又字義の穿鑿を事とし、Anthropos は人のこと、Ethnos は即ち其集合體のことだから、群を研究の對象とするならば、Ethnology の方が正しいなどと謂はう(239)とする者もあるか知らぬが、そんなことで一方が承知する見込は無い。人の研究は成程新らしい學問かも知れぬが、それは社會の一員としての人であつて、個人の生存だけならば、もう久しい以前から解剖學や生理學で早く手を下して居るのである。故にこんな所を境にして二つに引分けることは、魚の片身の骨附きと否とよりも、尚不公平な分配であるのみならず、又斯うして對立させることは學問上の利益でも無い。結局は雙方から名は何と言はうとも、同じ高根の月を見るかなといふことに、歸着せざるを得ぬのである。

　ところが本元の英國に於ても、最近は動搖が始まつて、もう永くこの舊習を守つて居られなくなつて來たのである。例へばごく通俗の書であるが、ジェームスの人類學入門などには、次のやうなエスノロジーの定義を下して居る。曰く、

　　　Ethnology とは通例左の如く考へらる。即ち人類學の一部門として人類の種々なる派別を系統的に細論し、人の起原・最初の住地・初期移住と分裂、竝びに異種の接觸より生ずる結果を究明せんとするもの云々

　御覽なさい此定義の前半は純英國風、後半は外國との新らしい妥協である。しかも爰に列擧した樣な大部門を取去つてしまへば、差引き本家の領分として殘る所は幾らも無いのだから、即ち最初から重疊して居たことが解るのである。つまり今日迄は呉服屋といひ太物屋《ふとものや》と謂つて二通りの店と認められて居たが、氣を付けて見ると雙方同じ物を幾らも賣つて居る。御客にもまごつかせるから一方に商ひを縮小させようといふと同じである。言はゞ定義などの器械的なものであることゝ、學者にもやはり分業專門の弊多きことゝを、感ぜしめる一例證といふ迄である。

　

　　　　　　　專門割據の弊

　

　我々日本人は成程受賣と飜譯とによつて、今迄は大きな便利を得て居るが、さうかと言つて何もよその國の行掛か(240)りに迄、囚はれねばならぬ義理は無い。弘く捜して見て一番入用の多い内容を有つた學問から始めて行けばよい。名前などはあまり早く、學問のまだ進まぬうちから附けて置くと、今日外國が經驗して居るやうな難儀な目に遭はねばならぬ。だから自分たちの雜誌（民族）が採つて居るやうな方針で、特に定義を立てず史學でも言語學でも、聯絡があり關係があると思ふ分は、次々に包括して行けばよいやうなものだが、それでは核心がはつきりせず、人によつて興味が動き易い上に、領分が定まつて居らぬと見落しが出來て困る。多分誰かゞ遣つて居てくれることゝ思つて居ると、誰も手を出す人が無くて、結局其點だけ穴があいて居たといふことがあつてはならぬ。故に少なくとも是々の問題だけは、是非一纏めにして遣る方が利益だと思ふ區域を、劃定して置く必要を生ずるのである。

　色々の學科が對立して、内々は價値を競ふやうな氣風のある國では、説いても或は無益のことかも知れぬが、若し將來人間の智能がよく働いて、簡明に大體を要約することが出來るならば、少なくとも社會諸學は全般に渡つて、一人で知つて居るに越したことは無い。それが今日はまだ殆と望み無く、如何に狹い前面でも深入りをすれば、人の一生涯を費すに十分以上である爲に、せん方無しに專門の厚薄を設け、手分けをしてそれ／”＼の研究に從事して居るわけである。其中の人の研究とても正に其通りで、多くの社會學者の如く現在の實?と其意味を明らかにするだけで結構一人前に餘るほどある故に、是だけは他に托して人類學は先づ「今まで」といふ區域に立て籠つたのだが、さうして置いても尚學問の範圍が弘きに過ぎて、例へば我々は動物學者や生理學者の手を下して居る數字形態の解説、顯微鏡下の發見の如きは、要點を理解するだけでも骨が折れる。それだけは一任して置いて只報告だけを承はることにしようと謂つて居ると、早同じ人類學の中にも二流が出來て、互ひに相手を疎遠にする傾きを生ずる。例へば人類學とは骨の形や髪の毛の太さ色合ひの類を、詳しく調べるだけなのだといふ人もあれば、其人たちは他派が Ethnology と呼ばれることを希望するかも知れぬが、タイラー先生などは承知する筈がなかつた。或は此だけを Anthropometry 人類測定學などと別置して、殘りを正統の人類學のやうに考へようとする者もある。つまりは現在では餘りに一(241)つの學問の領分としては大きいので、自然に分立の必要が促されたが、名稱の爭奪といふ一點を除きさへすれば、是は少しも悲しむべきことで無いのであつた。

　

　　　　　　　二面協力の急務

　

　學間の名稱は結局多々益々辨ずといふことになつて、甲乙丙丁などと番號を打つて聯絡を付けるよりも、兎に角古くからあつた Ethnology といふやうな語を、活かして適切に使ふ樣にするがよいといふことにならうと思ふ。問題はたゞ分業が孤立を誘致し、各人がそれ／”＼狹い區域で、一本立ちに昔のやうな大きな成績を、擧げ得ると誤解する危險は無いかどうかである。所謂補助學科の必要は誰だつて認めぬわけには行かぬ。餘計な心配をせずとも入用なだけは役に立てゝ居るといふ人もあるか知らぬが、この相互の關係にも實は著しい親疎の差があるので、例へば今我々が人類學と名づけて取掛かつて居る事業の如きは、單に時折片方の仕事場を覗いて見るといふだけでは用が足らず、始終手に手を取つて一つ道をあるかぬと、いつ迄も完成の見込が立たぬほどに、其目的が入組んで居るのである。

　日本の實際を一寸御覽になつても解るが、東京の大學では故坪井正五郎先生の地盤關係から、此講座は理學部に置いてある。京都と仙臺では醫學者の中から、此學問に手を着けた人が出た爲に、少なくとも研究の中心は骨格調査に置かれて居て、勢ひ受持區域を狹く限り、さつさと此方面の業績を擧げようとして居る。恰かも屋根屋の不在中に、左官が塗つてしまはうとするやうなものである。分業も斯うなると確かに弊があつて、一方所謂文化人類學の人々の空想澤山の斷定にも指摘しなければならぬ缺點が現れて來ると同時に、測定家の方でも只結果だけを報告しようとして居るうちはよいが、何か假定を立てゝ次の調査の見當を付けようとすれば、不自由なことだらけである。よく人が例に引くのは、日本でも夙くから有名であつたラボックなどの本に、太古人骨の發見せられる岩屋の奧の壁畫のこと(242)が書いてある。又は金屬も知らぬ世の人が大辛苦を以て、骨や牙に動物の姿を彫刻して居る。それが何の爲だつたらうといふ誰でも提出する凝問には、想像以上の答がまだして無いのは、つまり提携すべき二通りの研究が、提携しなかつた結果であつた。日本でいふならば事は小さいが、時々耳たぶに小さな穴のある人を見かける。多分耳環を附けた爲の永い變形が固定して遺傳するものであらうが、果してそんな事實があり、又どうしていつ頃絶えたかは全然之を知る方法が無い。Physical Anthropology の側では確かに興味ある題目だが、此實驗だけでは一足も進んで行かれぬ。それとは反對に面白い事實が、氣づかれずに濟む場合も多い。例へば最近京都の清野教授が、北海道で古い人骨を檢して居ると、奧齒の根元を磨擦した痕跡の、至つて顯著なものに出くはせた。恐らく齒ブラシを使つて居た爲だらうと手輕に看過して居られるが、是は有り得ないことである。日本人の生活風習の一端を知つて居る者ならば、或は可なり大切な發見の端緒が、こんな一點からでも得られたわけである。それよりも實地の效果から見て、我々が將來の協同に期待して居るのは、我民族の衣食住の變遷と、體質の古今の差異との關係である。日本人ほど近い數百年間に、度々日常の慣習を改めて居た國民は少ないと思ふ。家屋衣服も同樣であるが、今の平民の食物と調理方法で、千年前のまゝといふものは算へる程も無い。魚はといへば生のまゝ食ふことは昔の人はせず、米はといへば今のやうには炊かなかつた。毎日のことであれば、體質に效果を及ぼして居らぬ筈が無いのだが、そんな後天的要件によつて、全國的に又地方的に生じたる變化は勘定に入れず、單に血の混淆のみを主要のファクトルとして居るのが、今日の體質人類學であつた。私等はその研究の成績を待つて、これが人の感覺を改革し性情に影響し、一方經濟上の再整頓と之に追隨する法制とを誘致し、他方藝術批判や倫理觀の推移を左右した原動力を究めようとするのだから、待遠しくもあれば心もとなくもある。從つて他の空想で手輕に片付けようとする者を責めることも六つかしいのである。木綿と觸覺との關係は、もう自分なども辛抱しきれずに獨立して考へて見ようとした。木綿が入つて來てから日本人は肌膚のみならず、梓神的にも多感な鋭敏な民族になつたことは、史學一面の調査だけからでも、大凡推測し得られるの(243)であるが、他の體質研究者の協力が無い限り、精確を期し得られぬことは所謂ヴィタミンBなども同じである。是が人類學を細分して、やたらに獨立の科目にしたくない私の理由である。

　

　　　　　　　國別研究の機運

　

　そんな事は歐羅巴の誰が言つて居るかといふ類の、詰問をしたがる人は相手にせずと宜しいが、實は如何なる小さな經驗でも、同じ先例が他の方面にあるか無いかによつて、結論の信用に大きな相違のあることは、新らしい國では殊に爭はれない。ところがどこの國でも此學問には入門とか階梯とかいふ本が少なくて、其癖各人の研究が微に入り細を穿ち、どんな論文が出て居るかを知るだけですら容易で無い。フレーザー教授はいつ迄も羨まれる。圖書の分類索引の事業を、社會が引受けて後顧の煩ひ無からしむる急務はあるのだが、そんなことを今説くのは無益である。さうするとどんな超人的博覽強記でも、尚受賣さへ碌々は出來ぬ位に、今日はもう著述報告が多くなつたのである。そこで自然に生じたる分業は、大體此頃では地域的にならうとして居る。例へば米國でいへば印甸人に關しては大抵のことは知つて居る。その他は大勢に注意して居て、入用なときに調べるだけにとめて置く。太平洋でもポリネシヤの學者とか、又は濠洲土人の事だけ、パプア人の問題のみに心を潜めるといふ風になるのは、止むことを得ざる趨勢である。

　是にはやはり全體の組織方法を改定すること、例へば今日の經濟の學問などのやうにして、總論原論の時世におくれぬものを、社會の手で供給して置く必要があるが、それを完備する前にも我々はまだ大に働かねばならぬ。地球の表面が全部一樣にこの學問の對象であるのだが、其中で極東の亞細亞、北の太平洋、此部分が今では一番に、地圖を塗るとすればまだ色の薄い部分である。日本の内地なども最暗黒では無い迄も、學問上に知られて居ないことは、或(244)は中央阿弗利加の或部分に越えて居る。古い丁髷時代の畫や紀行が引用されて見たり、さうで無ければ開港場の藝者などの風俗の、日本風として報ぜられて居るのが多いことは、諸君も定めて御經驗でござらう。固より英文で書けば讀んでやらうといふ外國人も不熱心なものだが、全體に是だけの國になると、幾分か外から手を着けることを遠慮するのも尤もで、つまりは我々日本人が自ら何かして居るのであらうと、幸か不幸か大いに買被られて居るのである。

　學問は貿易とはちがふから、始終借りどほしの貰ひ通しでも、暮して行けぬことも無いやうなものだが、それは科目にもよりけりで、斯ういふ調査區域の擴張と比較の周到とを財産とすべき學問に於て、自分の受持を疎かにして置くことは、確かに二重の損失であつた。單なる體面とか國の聲望とかの問題ではないのである。殊に我々の文化史學は、世界の實驗のたゞ一つの機會である。我々が果して大陸を見棄てゝ島に入込んだ種族であらうとも、乃至は洋海を漂泊して此島に辿り着いた種族であらうとも、異なる環境が異なる文化を發生せしめた特殊なる一つの例として人間社會の可能性に、兎に角新らしい前面を展開して居ることは同じである。さういふ國民の學問に對して、多くを期待する外部の學者が無理か、彼等に失望させるのが當然か、ほんの少しばかり考へて見ればわかることである。

　

　　　　　　　日本民俗學

　

　此意味に於て私たちは、人類研究の學問の少なくとも半分、即ち Ethnology と呼ばるゝ方面だけは、行く／＼次第に National 國民的になるべきものと思つて居る。さうなるのが正しいか否かの問題には異説もあらうが、さうならなければ本當に進んで行かれぬ時代は、もう到來して居ると云つてよいのである。然るに西洋の學問國には、さう考へることの出來ない人がまだ澤山居て、實は今頗る煩悶して居るらしく思はれる。といふ理由の一つは希臓の大昔、又は中華民國の古代に於ては、此學問は實は蠻夷を知るために起つたものである故に、自分たちの生存を Ethnology (245)の客體とすることが、感情上好ましくなかつたこと、又何もそんな學問に掛けずとも、もう分つて居るといふ誤斷があつたことである。是は近年心付いた人が多くなつて、改めて今歴史の考へ直しをして居る最中である。第二には世界の文化は既に進んだと謂つても、まだ自分の事を自分では考へ得ない民族、内から外から能力の制限を受けて居るものが、多くの學問上の寶をかゝへて踞つて居ることである。彼等の爲には宣教師なり撫育官なり、はた旅人なりが考へて遣らねばならぬ。しかも所謂「白人の足手まとひ」といふ語が、盛んに行はれて居た時代よりも、今日は段々に私心無き代表者を得るやうになつた。墺太利とか瑞西とかの屬地を海外に一切れも持たぬ國が、所謂土人等の立場に立つて、運命の過去未來を考へてくれるのみならず所謂「黒い心臓」の持主たちも、よき友人さへあれば之に導かれて、各自の文化の隱れたる隅々を語り得るやうになつたのである。

　學問のみが人の考へ方を自由にする實例は、着々として舊教傳道師たちの業績にも顯れて來るやうになつた。隣國支那などもいつになつたら、無學者の歴史が明かになることかと思つて居ると、却つて日本人よりは御先きへ、民俗學の國民化が始まらうとして居る。是は我々に取つては何よりも心丈夫なことで、斯ういふ民衆心理のつかみにくい國で、外人ばかりが寄つてたかつて所謂觀察をして見たところが要するに群盲の象を評するに過ぎない。それが片手を世界の思想學問にかけた自國人によつて、解説せられようとするのは大きなことである。昔は白人も甚だ亂暴で一言も土語を知らぬ者が、合の子や改宗者を通辯に雇つて、暫く滯在すればすぐ見聞記を書いたものだが、そんなものはとくの昔に信用せられなくなつた。次には土語の習得を手段として、各階段の住民に接近するといつても、是とても限りのあるものだといふことは、現に日本などでは都會の青年の大部分が、古書は讀めず方言には通ぜず、無我夢中の田舍旅行をするのを見てもわかる。其上に必ずしも舊文明の同情者で無い者に、托して置いて完全な調査が出來ようとは、考へることが六つかしいのである。即ち先づ日本の如き學問能力ある國の國學者に向つて、自身の詳しい説明を要求しなければ、此學問の前途が開けぬといふところまで、もう世界の智識慾が押寄せて來た所以である。

　

(246)　　　　　フオクロアの新生面

　

　是は全くタイラー教授などの謂ふ合理的民俗誌學の自然の歸趨であつた。等しく愛の宗教の感化を以て、中世以後其社會相を一變し、つい此間まで一つの法王に統御せられて居た歐洲諸國でも、又は其國々の各部分でも、それ／”＼自分には當然で外からは不思議に見える何物かを持つて居る。それが仲よく附合つて居ても又戰つて見ても、すぐに氣が付くことは同じである。人から不思議がられると自分にも氣がつき、或は敏感な人ならば、外へ出て内を顧みると自然にわかる。所謂常識は時により土地によつて互ひに著しくちがつて居る。さうかと思ふと遠方の色も姿も丸で別な種族の中に、亦或程度までの共通性はあるのである。結局文明は通觀した上の分析によつて、始めて本當に其意味がわかつて來るのであつた。別の言葉で謂ふならば、白人等の歴史の觀方が、異民族研究の御蔭によつて、最近改まつて來たことは誰にでもよくわかる。其中でも殊に我々日本人の研究は、必ず又別途の恩澤を弘く施し得るに違ひないのである。

　英國などは古風な且つ高慢な國であるが、もう此節では國内民俗の研究を、Ethnology と謂つても人が怪まぬ迄になつた。さうして從來は特に Folk-Lore と名づけて、全然別途の學問の如く考へて居たものが、次第に合體して廣義の人類學の大切な一部分を爲すやうになつたのである。此變遷は至つて新らしい爲に、僅か以前の字引を引いても、或は反對の證據は擧げられるが、それが將來の豫言として、何の價値も無いことは勿論である。フオクロアは其文字の示す如く、最初は單に珍しい民俗の蒐集と排列に過ぎなかつた。しかも比較の進むにつれて、それが暗々裡に重要なる前代事蹟、殊に基督教化前の記録乏しい過去を解説することを實驗して、人は之に對して肅然として容を改めたのである。乃ち文書に惠まれざる弘い民衆の爲には在來歴史と名づけて居た方法を斷念して、曾て蠻夷の國にの(247)み適用して居たものを、試みに此方面にも當てはめて見ようといふことになつたのである。さうすると言語と感情の共通といふことが、始めて非常に大きな要件であることがわかつて來た。日本人の自ら此點に心付くと否とに拘らず、此學問の本當の世界協力が、各國民をして自ら調査せしむるに在ることを、彼等が言ひ出すのも近いうちのことだらうと我々は信ずる。

　私などは根が俗人である爲か、學問に世用實益の有無を問はれるのは當然だと思つて居る。さうして結局政治を改良し得れば、學問の能事了れりと迄考へて居る。たゞ現在の有樣では一方を實際といひ、他の一方を空想と名づけて、兩々相容れぬものゝ如く見られるのは止むを得ぬといふのみである。東洋人の休戚に關する人種差別論なども、今はまだ先決問題が打棄てゝある爲に、諍ひが怨恨に變じ易いが、順序を立てゝ進む路は、實は夙くに開かれて居るのである。個々の民族の自身の立場から、その今日の國情を作り上げた諸原因、殊に種々なる文化階段の併存と、落伍者の不幸なる生活とが、必ずしも天分とか運命とかいふ空漠の法則で無く、それ／”＼原因を擧げて説明し得るやうになれば、結論は自然に變化せざるを得ぬのである。フオクロアは今日でもまだ獨立した一派の學問とは認められず、言はゞ研究の一つの方法に過ぎぬが、二十世紀の Ethnology は全く其力によつて面目を一新した。さうして其新しい資料を以て充滿する我々の母國を、非常に重要なる人類學の研究所としてくれたのである。而うして日本の學者は、既に洞察と發見の能力を持つて居る。今まで受賣に終始したのは、全く古い行掛かりに囚はれて居たからである。外國でも此學問は、つい近頃まではさう自由な學問ではなかつた。

　

(248)　　　　　日本の民俗學

　

　　　　　　　先づ名前が問題になる

　

　本日の演題は課題の如きもので、自分の御話は言はゞ其答案である。果して諸君の豫期せらるゝが如き陳述が出來るか否かは心許無いが、兼て考へて居たことのあらましを、兎に角御聽きに入れようと思ふ。

　先づ最初に爰にいふ民俗學とは何か。耳馴れぬ語だから一應は主催者側と打合せて、誤解の無いやうにして置かなければならぬ。自分としては今日迄、實はまだ此名稱を使つては居なかつた。併し段々成長して行く者が、名無しの權兵衛では不自由さも不自由だから、假に斯うでも言つて置かうかと思案して居た所であつた。諸君は多分之を英語で謂ふフオクロア、又はエスノロジーの意味に解して居られるのであらう。此二つの中ならば私の方でも差支は無い。其積りで日本の民俗學の現?を御話して見ようと思ふ。

　但し二つの英語のどちらに該當して居ても差支無しといふことは、或はあまり大ざつぱで不精確だといふ御感じがあるかも知れぬが、實際は最近の稍々成長したフオクロアは、例へば英國でいへばリバース博士などのエスノロジーと、目的及び研究方法に於て大樣一致する所まで來て居るから、何れに解せられても實際に於ては殆と御答にかはる所は無い。只氣遣はしいのは之を民俗學などと譯する爲に、仕事の持場が狹くなりはしないかといふ點のみである。

(249)　世間には、殊に日本のやうに行掛かりに忠實な國では、勿論この二つの名稱を混同することに、不安を抱く人のあるべきは明かである。併しそんならどうしようか、一方フオクロアを民俗學、他方エスノロジーを土俗學とでも譯して置くとしたらどうか。如何に文字は差別の符號に過ぎぬとしても、是は又あまり機械的な馬鹿げた無意味である。

　或は今までの英和字書の通り、後者を人種學として置けばよろしいと謂つても、實際今日のエスノロジーは人種學ではないのだから致し方が無い。英國の方には人種起原論人種分派論などを、エスノロジーと名づけて講説した人もあるが、少なくとも日本には、そんな人は昔から居なかつた。

　

　　　　　　　二つの學問の以前の差別

　

　多くの學問は始めて名の出來た頃には、幼稚な世間見ずなあたり構はずなものであるが、このエスノロジーほど時代により國によつて、内容の變りちらした例も珍しい。とても何の某氏が斯う申されたからといふ一つの記憶を、義理固く守つたり又文字そのものゝ語義を穿鑿したりしては居られない。フオクロアも其通りで、最初は道樂の、強ひて學の字が附けたければ隨筆學とでも名づくべきものに過ぎなかつた。それが最近半世紀足らずの間に雙方から歩み寄つて、斯んな一つの大きな愉快なる學問の合奏にならうなどとは、最初之に關係して居た人たちすらも、考へ及ばないことであつた。

　出來るだけ簡明に其?末を述べてから、自分の課題に移るが、前年私は伯林の或古本屋で、盲捜しに參考書を買ひ集めようとして居た時、實はまだフオクロアを獨乙語で何と譯すのかを知らずに居た。ちやうどそこへコロムビヤ大學のボアス教授が來て居て教へて貰つた。貴君はフオクロアの本を捜すならフオルクスクンデと謂はなければ解らぬ。フェルケルクンデと謂へば獨逸ではエスノロジー又はエスノゲラフィーになるのだと教へてくれた。即ち此國では二(250)つの學問は近いけれども別々であつて、さうして其名稱の相違が、ちやうど二つの學問の成立ちと相互關係とを適切に説明して居たのである。即ち同じくフオルク又エトノス（民族）に關する智識であつても、一方は單數の形を使つて我民族のことを、他方は複數名詞で多くの民族、自國以外の異人種の生活を、概括して研究すべきもので、もとは此通りはつきりとした自他の差別があつたのである。

　英國人などは殊に舊弊だから、今以てエスノロジーといふ學問を以て、自分等の生活をも管轄せしめることを許さぬやうである。あれは元來異國異人種の社會を討究する學問の名であると謂つて居る。佛蘭西其他にも恐らくは同じやうな語感があることゝ思ふ。字引を見るとアンデイジェヌといふ語は、其土地生れの住民といふことだが、自分たちをさう呼ぶことはしないらしい。オートクトンといふ語も殆と自らには使つて居ないやうである。だから巴里人とか里昂《リオン》人とかいふ語が、頻々として用ゐられるのである。又私は或英人に、君たちをネーチブスと謂つてもよいのかと聞いて見た。よろしい些しも差支は無い。たゞ普通にはさうはいはぬと答へた。其癖東洋人に對しては始終此語を使はうとして居るのである。是は其語に生れた人々のみの、知つて居る感覺であつて、本で語學をする者のわからぬことだが、氣をつけて見ると日本でも同じことである。

　日本でも江戸期の漢文家などは、村民といふことを土人とも書いて居るが、今日長野とか群馬とかに旅行して、此邊の土人はなどと謂へば怒られるにきまつて居る。土俗土俗學なども略々之と同じことで、現に招魂社の祭典兩國の花火等を、一寸我々は今の東京の土俗といふと失禮なやうな感じがする。しかも田舍に對しては或人は敢てさう謂つて居る。私たちはそんなつまらぬことで地方人の機嫌を損ずるのは愚だと思ふから、まだ一度もそんな語は使用したことが無い。

　

(251)　　　　　　　人を見る學問

　

　然るにエスノグラフィー又それから出たエスノロジーは、實際最初にはその土人のみの土俗を記述し又考察する學問であつた。ヘロドトス以來、是が學者の常の癖であつて、自分等の生活樣式思想又は信仰は、普通のこと當り前のことで、たゞ是から隔絶した奇異なるものゝみが、智識として後代に傳ふる價値あるものと考へられて居たのである。つまりは蠻夷即ち憐むべき者、中世以後の耶蘇宗の立場からいふならば、まだ神の道にも惠まれぬ氣の毒な人々、即ちこの人類文明の畷道を、豆ほどに見えて遙かあとの方から、附いて來るやうな境遇に在る者の事蹟のみが、彼等の博學の一つの對象となり得たのであつた。時節とは申しながらそれが後終に我々のフオクロアの、一つの清き流れに落ち合ふことになつたのは、奇縁とも名づくべきものである。

　フオクロアの歴史は前者に比べると遙かに日は淺いが、始めて起つた時の事情は亦略々之と似たものであつた。日本でいふならば足利時代迄の田舍のやうに、殿も下郎も一樣に常は粟の飯を食ひ、一樣に麻の衣を晴れに着て、同じ氏神の廣前に額突いて居る間は、フオクロアの如き學問は成立つ餘地が無いのであつた。それが一方は本を讀む、京に上つて遠國の武士や法師と交際することになつて、所謂有識階級の意識が生ずる。さうすると自分たちとちがつた心持ち、又は今まで見馴れて居た慣習でも、それを守らうとする彼等のみの熱心さが、目にもつけば興味を惹くことになる。即ち諺にいふ京に田舍ありとは反對に、田舍にも京の破片が飛び散ることになつて、後漸く田夫野人が視察せられるに至つたのである。殊に城下の町などに出て住む者は、間接に之に由つて寧ろ各自の新生活の幸福を味はうとさへした。彼等にとつては在郷は異郷であつた。其生活の自分たちと違つて居ることが、代を重ねるにつれて愈々目について來た。

(252)　奧州白石噺の宮城野信夫が面白い芝居であり、江戸の落語藝人が新田の杢十だの飯炊きの權助だのを興じた如くに、一方はやゝ高く、他を見て怪み笑ふ迄に生活が變つてしまつたのである。固より彼等の觀察には輕い侮蔑は交つて居た。しかも相手も亦言葉の通ふ同國人であり、つい近い頃までの親類であり朋友であつたといふ心持ちが、特に之に對する親切な考究を促し、何か隱れたる古い理由、書物には書いて無い大切なる歴史が、此中に潜んで居るに相違無いと、思はしめるに至つたことは事實である。

　

　　　　　　　フオクロアの成長

　

　たしか西暦一八四六年に、フオクロアといふ語が始めて使はれる迄は、英國では此種の研究を民間故事（ボピュラー・アンティクィティ）などと名づけて、單に切れ／＼の奇事異聞を集めて、話の種を豐富にして見ようとする風であつたことは、我國百年以前の隨筆文學も同樣であつた。近年書物の形を以て地方別に分類覆刻したジェントルマンスマガジーンの投書集なども、つまりは後年のフオクロアに他ならぬのであつた。古い民謠俚諺地名家名其他の方言、珍しい迷信暦法禁厭の類を、互ひに紹介して知見を弘めることは、日本の風俗畫報などと似たものであつた。ノーツエンドクェリーズなどは引續いて今も出て居る。近頃綿密な索引なども出來て、學問上に利用し易くはなつたが、要するにまだ總括した名目が無かつたといふのみで同じ樣な學問は日本にも早くからあつたのである。

　このフオクロアは如何にも氣の利いた名前だと謂つて褒められて居る。此名一たび發明せられてより、英國には久しからずして今の學會が起り、之に次いで近隣の國々でも其｜顰《ひそ》みに倣ふものが多かつた。佛蘭西ではポール・セビヨーの著述に、詳しく此間の消息が載せられて居る。或は英人の思ひ付を其儘採用したくないといふ考から、別に民間傳承などといふ語を流行させようとした者もあるが、それよりもフオクロアの方が便利だから之に從ふがよいと謂つ(253)て居る。

　英國人は殊に學會に興味を持つ國民である。斯ういふ會が出來、旅行が盛んになり、又國際の交通が益々自由になると、儘かな年月の間にも學問は著しい進況を呈せざるを得なかつた。今日では殆と最初の出發點が有閑地主等の道樂半分の事業であつたことを、忘れてしまつたやうな有樣である。併し我々が青年時代の愛讀書ハインリッヒ・ハイネの諸神流竄記などは、今からもう百年以上も前の著述であつたが、夙に其中には今日大に發達すべかりし學問の芽生を見せて居る。アナトール・フランスの如き敏感なる文人たちが、いち早く此研究の究竟地に就いて、深い意義を認めたのは申す迄も無い。要するに耶蘇の宗教が一世を席卷した歐羅巴大陸にも、猶百千年を隔てゝ豐富なる上代が活き殘つて居た。それが容易に平民の日常生活の中から掬取られるばかりで無く、新しい社會の動きさへも、暗々裡に之に由つて左右せられる場合が多かつた。之をしも書齋の學者たちは、夢ほども心付くこと無くして、單に紳士級の表面事相のみによつて、文化の消長を説いて居たのであつた。

　さては尚大に進んで考察せざるべからずといふ心持ちが、フオクロアをして一隅好事の徒の博識に止まることを許さなくなつたのである。ゴンム翁の村落生活研究が公けにされたのは一八七八年であつた。或寒村の小さな寺の新築に、?の血を入口の敷石の上に濺いだといふたつた一つの小さな異聞は、今まで怖ろしい蠻民の中にのみ、行はるゝものときめて居た生類犠牲の風習が、白人の諸國にも實は弘く行はれて居たことを發見せしめる端緒であつた。人は斯くの如くにしてフオクロアの微々たる破片が、語らんと欲するものに耳を傾けたのである。

　一の國に既に消失したものは次の國の同一事情の下に保存せられて居た。要するに人類は必ずしも手輕に親々の遺産を抛棄しては居なかつた。優勢なる新文明が社會を改めて行く力は、存外に表層膚淺のものであつたといふことが、次第に會得せらるゝと共に、フオクロアは本來各國獨立（ナショナル）の學問ではあるけれども、?々同一の法則の古今多くの他民族に、共通するものが無かつたか否かを、尋ね究むる必要に出會つたのである。

　

(254)　　　　　　　民俗進化の跡

　

　時代の最も健全なる學風、即ち比較研究の方法は是にも應用せられ、更に又ダーヰニズムの啓示が、此方面に於ても切實に學者の推理力を刺戟した。サー・ジェムス・フレーザーの如きは、其師タイラーの勇猛な學説を祖述して、所謂文明の中に殘留する野蠻の痕跡を、指示すること最も丁寧であつたが、彼の著「舊約全書のフオクロア」三卷に至つては更に同一研究法を押及ぼして、次々に昔今の多くの民族の前代を知得する手段とした。自分等をして言はしむれば、是れフオクロアとエスノロジーとの婚約であつた。日本の學生が目に觸れて居る書物でも、或はブリークのブッシュマン・フオクロアや、エヴンスの馬來フオクロアの類は多い。即ち所謂蠻民土人の社會にも進化があつて、今現前するものは同時に又、彼等が歩んで來た前代を説明する。さうして只之に由つてのみ、彼等の將來を推測することが出來るのである。

　フレーザーは又多大の勤勞を以て、パウサニオスの全紀行を註釋して世に公けにした。紀元後第二世紀に生息した此希臘人の漫遊時代には、アッチカもペロポンネソスも既にパルナシヤンの神代を去ること遼遠なるのみならず、ソフオクレスやオイリピデスの世の中に比べても、亦遙かに近代となつて居ることが、之によつて具體的に開示せられる。即ち古典時代の文化にも亦成長があり變北があつたことを、あまりに單純なる今迄の崇拜者に理解せしめたことは、小さからぬ學問の功績であつた。

　しかも今日は既に世界諸民族に關する所謂土俗誌の類が、眞僞雜然として篤學者の書架に充溢する世となつて居る。異聞採集の旅行に次いで、準備の整つた學術探險除の發遣は比々として企劃せられ、年毎に打寄せらるゝ報告書類の大波は、いとゞ學海の茫洋として無際なることを感ぜしめた。單なる智識の整理から進んで、更に系統立つた積極的(255)論證に、入込むべき時代になつたのである。比較研究の興味は大に起らざるを得ない。乃ち過去の完成を以て目せられた希臘の文化にも、はた埃及古帝國の燦爛たる展開にも、必ずその背後には一つづつの蒙昧時代があつて、其?態は北歐諸國の原始宗教の社會、乃至は蠢爾として愚なる濠洲黒人や、ヴェツダやネグリトの今日の文明と、同じ卓子の上に竝べて見なければ、互ひに眞の意味の解らないものであることが明かになつたのである。所謂文化の偶發多源論と一源移動説とは、新たに此資料に據つて其正否を判定せらるべき世の中になつたのである。學問が鎖國の小さな太平の中に於て、徒らに眷屬知友の賞賛に陶醉して居られなくなつたのは、厄介かも知れぬが亦一つの進歩である。

　

　　　　　　　白人の先入主

　

　けだし從來の民俗學文獻は、久しい間忠實なる宣教師たちの貢ぎ物であつた。彼等の親切は先づ土人言語の習得から發足して、常に微細なる感情知能の働きをも無視せず、悉く其見聞を記述しようとした、しかも虚誕《うそつき》は十戒の隨一であつたが故に色々の眞實なる報導の彼等から出でたことは事實である。たゞ一つ困つたことには彼等には先入主があつた。彼等は牢乎として自分の宗教の神意を信じて居たばかりに、五洲各色の種族の文化を目して、一つの大道の上を後れ先だつて、歩みつゝあるものゝ如く解せざるを得なかつた。此法師等に傳道費を供する歐米の姥嚊連中の如きは、幾ら反對の明白な證據が現れよう共、尚この狹隘なる民種優劣觀を棄てられぬ者が多かつた。それが實際の土人教導の上に影響して、どの位不自然且つ不幸なる干渉を以て、弱い者を惱まし妨げたか知れぬのである。其中でも殊に惜いと思ふのは、天分素質には澤山の特長を持ちながら、單に小さな飛び／＼の島の島人であつたばかりに、何度と無く沈淪と奮起との苦痛を繰返し、今又新たに外部の新勢力を以て捻ぢ曲げられ、結局不適應の爲に永遠の衰亡を見ようとして居るポリネシヤ種の民族であつた。

(256)　此事實が甚だ時おくれたりと雖、兎に角にエスノロジーの進歩に由つて、段々に白人統治者をして舊來の錯誤に心付かしむるに至つたのである。環境か遺傳か、はた又隱れたる第三第四の力であるかは知らず、何にしても世界多くの民族には、それ／”＼別の人種であるが故に、即ち又別の文化の流れがあつた。外界感化の勢の強烈なる今日ですらも、尚歐羅巴人の學問が前以てきめて置いたやうな、途筋ばかりはあるいて居なかつた。白人たちは實は年久しく誤つた獨斷をして、それを少しづつ悟らうとして居る時しも、恰もよし我々の國には、日本獨得のエスノロジーが今將に起りつゝあるのである。

　支那印度のことは問題を簡單にする爲に之を外に置くが、兎に角に日本人の社會構成、之が原動力であつた生活の樣式と、その久しい間の沿革といふものは、此道に習熟した白人たちにも、尚學問上の一異彩であつた。ラフカディオ・ハーンの如き歸化觀察者ですらも、最後の書の評言は却つて最初のものよりも混迷に向つて居た。其他のわれ日本を理解すといふ者の説に至つては、十卷の書は即ち十卷の見解であつた。つまりはまだわからぬのである。それも其筈である。我々國人でさへも實は手ん手んの事しか考へて居ないのだから。

　

　　　　　　　日本人の學問上の使命

　

　而うして幸ひに今や所謂フオルクスクンデの眞の趣旨が、世界の學問國を一貫して、略々諒解せられて來たのである。日本人の如き唯一無二の境遇に立つ者が、受賣飜譯を是れ事とするなどは、出來るわけ合ひのもので無いと自分は思ふ。乃ち自ら研究しなければならぬ。之に由つて自分を知らうと努めるに止らず、更に又迷へる外國の民俗學者を導かなければならぬ。是が我々の今直面する所の本然の使命であつて、學問の歴史として客觀すれば、此希望此抱負は是も亦至つて當然なる人文進化の過程である。個人の手柄とか力量とかいふ樣な小さな問題では無いのである。

(257)　またそればかりで無く、今の日本に生れてフオクロアの學問に携はる者の幸福は別に大なるものが存在する。我日本の所謂開國、即ち國内有識階級の分立したのは至つて日が淺い。國民の中の舊分子、英語でいふフオク、漢學者等のいふ田夫野人はまだ大多數であつて、時あつては我々新人自身の、胸の中にさへ住んで居る。現に自分なども其一例で、今でも敷居の上に乘らず、便所に入つて唾を吐かず、竈の肩に庖丁を置かず、殊にくさめを二つすると誰かゞ蔭口をきいてるなどと、考へて見る場合は甚だ多い。即ち日本には今尚豐富なるフオクロアの資料が現存するのである。之を新教國などの、片田舍の貧家の老嫗を捜しまはつて、漸く僅かなものを見付けて珍重するに比べると、固より同日の談では無いのである。我々が昨日も聽き今日も耳にして、一向に氣に留めぬ一つの俗信、一つの小さな慣行でも、之を確めるが爲にわざ／＼大洋の孤島に出かけ、辛うじて見付けて鬼の首の如くに吹聽して居る例は多い。北でシャマニスムと稱する巫覡管理の靈魂信仰は、或は昔物語の中の魔法婆とも關係があつて、西でも南でも調べて行くほど其區域が弘くなり、しかも熱帶の諸島のものにも、窮北の地と類似する點は一二で無い。さうして其中間の鎖は切れて居るのである。其際に在つて日本はそも／＼如何なる地位を占めるか、丹波市である綾部である。又はそれよりもずつと小さい村々のさかしき女たちが、相競うて彼等の無意識に相續したものを、どし／＼と我々の前に開展して見せてくれるのだ。さうして比較によつてその歩んで來た途は大凡は知れる。僅かな努力を我々がこの問題の爲に費すならば、證據のある幾つかの論斷を以つて、この南北二者の溝渠に橋を架けることも出來るであらう。さうなれば蟻が砂糖を見付けたよりもより大なる熱心を以て、向つて來る者は必ず遠國の學者である。

　たゞ今日迄の採集方法は、自分の知る限に於ては稍々雜駁であつた。地方研究といふことは盛んに口にせられるが、何をするか何の爲に働くべきか、實はよく考へて居らぬ人が多かつた。勿論そんな種顆の採集も尚歡迎せねばならぬ。書物はあまり役に立たぬものだと考へつゝも、我々は?々書物からさへも材料を見付けようとして居る。併し結局は民俗誌家（エトノグラフ）は同時に民俗學徒（エトノログ）で無くてはならぬ。さうで無いと第一に選擇の緩急を知ら(258)ぬ。早く消えさうなものを後過しにする。それから又採集の時に毀してしまふ。是は小鳥の卵や巣、苔や茸類を採集する場合と同じく、よほど氣を付けて大切に持つて來る必要がある。又顯微鏡を使ふ爲には、プレパラートの技術にも堪能でなくてはならぬ。さうで無いと苦勞をした割に、恩澤が弘く及び得ないのである。

　

　　　　　　　社會學との關係

　

　日本は既に社會學の盛んな國であり、又斯ういふ問題を社會學で取扱うて居る先例はある。だから別に新なる學問として功能を述べ立てるも無益なやうであるが、自分等の實驗を遠慮無くいふと、我邦の社會學者は親切なことは確かだが、たゞ非常に上品な親切しか持つて居ない。よい材料があるなら持つて御出で、見て遣らうと言はれる。本に書いて御覽、讀んで遣つてもよいと仰せられる。ところが不幸にして國の文化史の資料などは、小學校生徒の如く從順でない。先生の室の戸を叩いて、御註文の品を持參しようとはしない。やはりこちらから在る場處に臨んで、關係者と共々に考へ且つ感ずることを以て職分とする所の、フオクロリストを必要とする所以である。講壇の社會學が如何に活躍しても、尚其中間に一つの民俗學といふ商賣が、薄元手を以て取續き得る餘地はあるのである。

　私などはいつもよそ心で、碌々身にしみて本も讀まず、旅をしても確かな故老とも話をする折を得なかつたが、それでも永い年月の間には意外な實驗なども少しづゝあつて、少なくとも此方面の學問が、どの位奧が深いかわからぬといふことだけはわかつて居る。それを手柄とは考へぬ迄も、幸福なことだとは思つて居る。他の何れの科目に就いて比べても、是ほど未開の沃野の廣々と殘つて居る學問は一つも無い。又我々が日本人に生れたことを仕合せとすべき學問は、さう幾らでもあるわけで無い。獨り大切なる人間成育の法則發見に付てのみは、日本が幸ひに一通り片付いたとすれば、隣には支那があり馬來と印度との、三世に亙つた大問題がある。其間々を點綴して、南亞細亞の曠漠(259)の山地には、衣食の主要なる點に於て我々と若干の類似を有するシヤンが住みカーレンが居り、其他ミヤオとかリーとかローローとか、名前さへも列記し得ないほどの色々の種族が居る。顧みて南に海の路の跡無きものを辿るならば、臺灣呂宋から先々の島の人、殊にミクロネシヤの若き弟たち、其又隣のメラネシヤ・パプアの見分け難い澤山の種類が、何れも日本の學問が明るくなるならば、少しは自分たちのどうして貧しく又哀れであるかの、隱れた原因が知れるであらうかと、待つて居るらしき樣子が見える。人が假りに武内宿禰等ほど活きられるとしても、仕事が盡きて手持ち無沙汰になる氣づかひは先づ無いのである。その宏大なる道の山口まで、今我々は辿り着いたのである。聲高く笑ひ興じつゝこの學問の峠の麓に差しかゝつた處である。別の語でいへば早朝の花やかな欣ばしさである。少しは意氣揚々として、斯ういふ御話がして見たくなるのも、尤もなことだと、認められんことを希望する次第である。

　

(261)　　　郷土生活の研究法

　

(263)　　　　　郷土研究とは何か

　

　現在地方に行はれ、又しば／＼諸君の耳目に觸れる郷土研究といふ語は、名前だけは弘く知られ、且つ相應に古くなつて居るけれども、よく視ると土地により、之に携はる人の種類によつて、言ふことする事が可なり區々になつて居る。一體全體どういふ風に解し、又どういふ事をするのが本筋なのかといふ疑ひは、まじめに物を考へる人の、必ず抱くべき疑ひである。それと同時に、その郷土研究の目的は果して何であるか。それを實行することが、果して今日の更生運動に、直ちに何等かの便益をもたらすとでも云ふので、其樣に急務を叫ばれるのであるか。別の言葉で言ふと、斯ういふ國家多事の際にも、尚且つ御互ひの努力の一半を、是に向つて割くだけのねうちが有るかどうか。といふ疑問も亦諸君の胸のうちに、必ず去來して居ることゝ思ふ。私などは實は最初から、さういふ熱さましが熱をさましたり、酒が飲む人の顔を眞赤にしたりするやうな、速效の有るものとは考へもせず、又請合つたこともなかつた。たゞ早くから今日の如き時世の爲に、此學問を以て豫め備へて置かねばならぬといふことを唱へて居たのであるが、それがつい間に合はなくて泥繩になつてしまつたのである。泥棒をつかまへてから繩をなふのは滑稽なことに相違ないが、それでもまだ全然綯はないよりはましである。個人の一生などゝはちがつて、國家の生命には案外に餘裕がある。時おくれだとは言つても、まだ今からでも新規に始めて、間に合はぬと迄は言ひ切れない。その上に現在は決して新規では無い。もう是でも大分に手が着いて居るのである。是を何とかして少しでも世の中の役に立つ知識にまとめ上げて御目に掛けたい、といふ念願を、誰よりも強く私は持つて居る。さうして丁度自分の地位が中途半ぱである(264)だけに、大か小か近年の地方研究の、どの方面にも知合ひがあり、又若干の關係を付けて居る。各地の調査事業の長處も呑込んで居れば、又弱點も少しは心得て居る。諸君は要するに要領を得なければならぬ人々である。くだくだしく説かれる必要の無い人でもある。この郷土研究に對して如何なる態度を持し、又將來如何に是を善用すればよいかを、知つて居ればそれで澤山で、斯んな方面へあまり引込まれたくない人、つい面白くなり過ぎて深入りしては困る人も多かりさうに思ふ。さういふ諸君に只あつさりと、此事業の社會的意義を説くことは、我々の爲にも甚だ大切である。さういふ話ならば私にも出來ると思つて居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　郷土研究の第一義は、手短かに言ふならば平民の過去を知ることである。社會現前の實生活に横はる疑問で、是まで色々と試みて未だ釋き得たりと思はれぬものを、此方面の知識によつて、もしや或程度までは理解することが出來はしないかといふ、全く新らしい一つの試みである。平民の今までに通つて來た路を知るといふことは、我々平民から言へば自ら知ることであり、即ち反省である。自分たちの事だけなら、何でもかんでも皆知つて居るといふ自惚れはもう到底成立たない。なるほど考へて見ると其點も此點も今までは氣付かずに居た。言はれて見ると答へることの出來ぬ不審が幾らもある。改めて是から大いに學ばねはならぬといふ、至つて謙遜なる心持から、出發して行くべき新たなる捜索である。平民の歴史は、實際に書いて殘されたものが甚だ少ない。大多數の家々では、よほど物覺えのよい者でも曾祖父母のその又親の名までは知つて居ない。何か特別に好い事か惡い事か、とにかく變つたことでもして置いてくれぬと、其存在が既にうろんになり、二代や三代はすぐに取りちがへて話をする。ましてや如何にして今ある屋敷に、今在るやうな家を興し、貧富さま／”＼の生活方針を立てゝ置いてくれたのかを、最も利害關係の深い者に説明してやることなどは、今迄の歴史では出來ない。我も人もたゞ一個の概念によつて、過去の平民を知つたと思(265)つて居るだけである。人の心は各々その面の如く、村を同じくする近隣の親爺同士すら、はや生活の流義を異にして居るにも拘らず、各自の親々の生活に對しては、誰でも千篇一律の、文學や講談に現はれて居るやうな、きまり切つた型しか考へて居ない。家につき又故郷に就いても同じことで、日本は地方的に久しく色々の異なる暮らし方をして居た國だが、是まで政治家などの頭にある村なり農家なりは、各人めい／＼の限られたる見聞によつて、一つの型をこしらへて、それが全國を代表するやうに思つて居るのである。千差萬別賢愚貧富の錯綜した今日の社會相は、そんな穀物の粒のやうな揃つたものゝ中から生れて居ない筈である。もとより其中にも一定の法則、因果の關係はあるであらうが、それも十分に調べ上げて見てこそ成程と言ひ得るので、人に教へられたり書物に述べてあつたりすることが、すぐに自分々々の場合にあてはまるかどうかは確かでない。果して外部の先輩が説き立てるやうな法則が、我々各自の郷土にも行はれて居るか否か、改めて自分の力を以て確かめて見るやうにしたいといふのが、私たちの仲間の計畫であつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　そんな事を知らうとしたとて到るものか。といふのが古くからの平民の早い「あきらめ」であつた。眞率なる心の疑問を表白する者は、寧ろ世間を知らない少年ばかりであつた。彼等の正直な質問に對しては、二通りの冷笑が今まではあつた。其一つは「あたりまへぢやないか」。ちつとも當り前でない不審までも、答へられないとさう謂つて撃退する。第二はもう少しばかり同情のある冷笑で、「世の中はそんなものなのだ」と謂つて、しかもなぜそんなものなのかを説明せぬのである。不條理は答へる者の方に在るのだが、二度も其問をくり返すと、すぐにわかり切つたことを聽くとか、あのやつは常識が無いとか言つて、甲も乙もうなづき合ひ、自分たちは努めて空々として、一生を渡らうとして居るのである。しかし心の底に潜む共同の疑問は、其爲に消えてしまほう筈がない。だからたま／＼たつた(266)一つの奇拔な解説が現はれると、それが少しく亂暴に過ぎた獨斷であらうとも、又實證の無い受賣り論であらうとも、兎に角に今まで少しも聽かなかつた新らしい答だから、皆が皆之を傾聽しようとし、又忽ち之を信じようとしたのである。ゾラのルウゴン一族といふ小説の中に、或空想青年が貧しい勞働者の家に來て、貧乏の原因を説き立てる場面がある。老いたる父も乳呑兒を抱いた女房も、わからぬなりに自分たちの眼の前の問題だから、溜息をつき眼を見張つて、一心になつて其言葉を聽いて居る情景がよく描かれてゐる。日本にも亦そんな時期が來たのである。是は誠に致し方の無いことで、百年も前から人の知識慾は既に目覺めて居るのに、無理に或種の答へ難い問題を封じて置かうとすれば、袋はどこからか破れずには居ない。口を聞いて正々堂々と出すものは出させ、入れるものは又入れなければならぬ。つまり平民史の攻究は、平民の強い自然の要求であり、いつかは與へずに居られぬ學問である。たとへ現在はまだ見當が付かなくとも、何とでもして方法を立てゝ、之を求め得られるやうにしなければならぬ。況んや其方法は既に具はつて居るといふことを我々は證據立てることが出來るのである。是が追々と世に行はれようとするのは些しでも不思議は無い。

　

　　　　　　　　　　○

　

　歴史は獨り微々たる平民の生活のみと言はず、何れの方面にもその要求が増して來て、過去に對する疑問は自由に起されるやうになつた。たとへば日本民族の經歴に就いては、僅々三千年足らずの間の事が、少しづゝ書き傳へられて居るに過ぎない。それより以前の出來事といへば、ほんの風説のやうなものが殘つて居て、それも日向と出雲と天の國と海の國との交通といふやうな話に限られて居る。其他の地域では奧羽はもとより、首都周邊の關東地方の事でさへも、記録の上に名を出すのが又ずつと遲く、處によつては存在も認められて居ない。所謂有史以前にはそこはどうなつて居たか。どんな人々が住んで何をして居たか。斯ういふ疑惑が抑へきれなくなると、考古學といふ學問は盛(267)んになつて來る。書いた本などは一つも無いが、こゝに大きな古墳がある。岡の崩れからは石器土器が出る骨が出る。それを使用した人々の、これは骸骨に相違ない。人が居れば物も食ひ、女房も在れば子も有つたらう。だから此邊にはアイヌか誰かゞ村を作つて住んで居たのだなどゝ、大よそ我々の現生活と交渉の薄い、三千年も前のことでも、説明する人があれば、聽いて悦ぶ人が居る。平民たちのもつて居る疑問は、是に比べるともつと卑近な、其代りもつと適切なものばかりである。ほんの百年か二百年前の親々の生活ぶり、それが今日あるに至つた事情のやうなものが先づ知りたいのである。さうして之を知る爲の遺物は山のやうにある。骸骨では無くして生きてさへ居る。生きて居るのは昔の本物で無いといふかも知らぬが、親が無くては子は生れず、子は皆先祖の形を追うて居る。彼等の今使つて居る言葉も古物である。土中の土器石器が割れたり缺けたりして居る樣に、言葉も久しい間にちよい／＼損じては居るが、尚且つ民族と不可分なる日本語だ。後に中華から又は亞米利加から、教へてもらつたものは別として、殘りは悉く斯邦の内に發生し、もしくは古くから有つたのばかりである。我々は是を用ゐて色々の事物に名づけ、又はその時々の?況動作を言ひ現はして居る。字引といふものゝ助けを少しも借らずに、甲が使へば乙丙が直ちに其意味を會得し、是でことわざを拵らへて使へば皆が笑ひ、歌が出來て居て歌へば皆が面白がる。其言葉を文字に書き本にして殘して置いたものが少ないといふのみで、一度でも中斷せずに連綿として傳はつて居たといふ、證據ならば幾らでも擧げられる。どの一つを拾ひ上げて見ても、過去の同國人の生活の痕を、留めて居ないといふ言葉は無いのである。それ以上に具體的なものは、衣食住の資料と用法、年中行事から禮儀作法等、さては郷土舞踊の演奏に至るまで、今見る人の行爲は新らしいけれども、其底には以前からの型があることは、飯は何度炊いてももとの飯、蓑笠は毎年新たにしても、前の蓑笠の通りに出來るのと同じことである。是をどうして斯ういふ風に傳はるのかといふと、誰でも以前から此通りであつたからと言ふ以外に、別の答へやうも無い。つまり文化は繼續して居るので、今ある文化の中に前代の生活が含まれて居るのである。文字に書いて殘したものと比べて、史料としての價値がどれだけ違ふだらう(268)か。假に一方は判を押した證文であり、他の一方は單なる形跡だけだから、同じに取扱ふことは出來ぬとした所がもしも書いたものが何一つ殘つて居らぬとすれば、第二の手段としてはこちらに據るの他は無いのである。其上に書いた證據といふものは精確だと言つても、通例は一囘限りの出來事を傳へて居るに反して、此方は今日何百千人といふものが、時によると一日に三囘も五囘も、又は同じ季節にそこでも爰でも、くり返して見せてくれる現實の行爲である。それを寄せ集め重ね合せて見れば、存在はずつと確かになる。斯ういふものを殘された證據として考へて行けば、行く／＼は無記録地域の無記録住民の爲にも、新たなる歴史が現出して來るといふこと、是が私たちの是非とも世に廣めたいと思つて居る郷土研究の新たなる希望である。

　

　　　　　　　　　　○

　

　英人ウェルズの書いた世界史は、讀んで見られた人も多分あるであらう。白人はこの地球がいよ／＼圓いといふことを知つた頃から、頻りに人類史とか世界史とかいふ書物を書きたがつて居たが、是には希臘の昔からの一つの癖があつて、いつもさういふ大きな標題の下に、自分たちを中心とした知られて居るだけの事實を書いてよろしいといふ考へが附纏つて居る。しかし本當はそれは世界史ぢや無いといふ人が出て來ると、一言の辯明も出來ないのである。それで改めてこの世界は、人類の總體は如何に活き、如何に變遷したかを綜合して書いて見ようとなると、今はまだウェルズの著書ぐらゐのものしか出來ないのである。此地球の表面には、今でもまだ文字を使はず、各自の言葉を書留め得ない人間が大分居る。本といふ語すらもたない民族がある。しかも其中には阿弗利加のバントウのやうに、一つの大陸の運命を左右したものもあれば、中世の蒙古人の如く歐羅巴の東半分を席卷したものも居て、彼等の事業行動はたゞ僅かに敵人の記述のみが其片端を傳へて居る。文化に誇つて居る白人の先祖とても、干年前までは悉く蠻民であり、彼等の辛苦經營もやはり征服者の筆のみが之を録して居る。書いた歴史の一つも無いといふことは、何もし(269)なかつた証據では無いことを、最も明かに示して居るのは日本の平民たちであらう。記録は入用が無ければ起らぬのが當然で、それが無いといふことは恥づるに足らぬが、現に第二第三の方法によつて、知れば知らるゝ機會が惠まれたにも拘らず、尚且つ自分たちの生活の過去に向つて、何等の知識慾も抱かず、又は證據の無い解説に滿足して、もう其以上の發見を念じないやうな人が、一人でも有るうちは自慢が出來ない。現在にも歴史にも、胸の痛くなるやうな悲慘事は可なり多い。それが根原を尋ねて人間の無知、知つて居らねばならぬことを知らなかつた結果であることを、たつた一つでも發見し得られる間は、まだ我々は學問の未來に、力強い信頼を繋けて居らねばならぬ。郷土研究の方面に殊に新たなる疑問の未だ答へられざるものが多いといふことは、私たちから見れば大いなる希望である。社會はまだ幾らでも賢こくなることが出來る。どうか諸君も其心持を以て、この學問の成長を觀て居てもらひたいと思ふ。

　

　　（附記）　この講演の聽衆は、主として地方の教育者、又は指導階級の人々であつた。しかし將來此學問の内に於て直接に此研究に携はらうとする者には、この對外的解説的語調が、却つて又一種別樣の印象を與へることゝ信ずる。故に之を以て序文に代へる。

　

(270)　　　　　郷土研究と文書史料

　

　　　　　　　文書史料

　

　舊記證文　郷土史が國の歴史を攷定する方法と、全然別な方法を必要とする仔細はだんだんあるが、その中でも最も明白なる一つの事實は、郷土には國の歴史を調べる場合に唯一の頼りとしてゐる文書史料が、甚だ乏しくまた不完全であるといふことである。最近二十年程の間に出來た郷土史は、その多數が郡誌であつたが、そのいづれの一卷をみても直ぐに判るのは、郡を一團としても、舊記證文の類の役に立つて居るものが既に少ない上に、個々の町村、更にその一部をなす一つ一つの部落に至つては、丸きり何一つ筆の跡を留めないものが至つて多い。そんならさうした部落は、新しくひよつくり出來た今在家であるかといふと、住民の感覺は勿論のこと、周圍の事物が悉く、過去の頗る久しいことを示して居る。郡を取まとめて一つの歴史が書いてあるからよいやうなものゝ、これをめい／＼の郷土に分けてみたら、何處が郷土史なのだ、と詰問しなければならぬ場合が甚だ多い。一つの小學校または役場を中心として、住民の前代生活を明らかにしようとしてみても同じことで、いくつかある區、大字のたつた一つに、何か書き物が保存せられてゐたところが、それは隣の大字が如何にして今日あるかを説明するものではない。郷土史の研究を若し全國的の事業にしようといふならば、何よりも先づ、この弱點を自ら認めてかゝらねばならぬと思ふ。

(271)　文書資料の偏在　それからいま一つの事實は、文書資料がかりに存在するとしても通例はそれが甚だしく近代に偏して居ることである。今日公表せられてゐるいくつかの郷土史は、大きいことにかけては買ふのに困るほど大きいものがあるが、その中に書いてあることは牛が何匹馬が何頭、田畠山林が何百何十町歩、さては日清日露の戰爭に誰が死し誰が傷き、歴代の町村會議員の連名は誰々といふことまで、百年後の人が知りたがるやうなことは書殘してあるが、今から百年前の土地の容子、生活ぶりを知らうと思つても、そんなことは一向に明らかにしてくれては居らぬ。たま／＼名主大庄屋の家が零落もせず火事にも遭はず、さうして帳面類を丹念に保管してゐたとしても、その中から出てくるものは、よくて水帳と稱する或時代現在の耕地面積、作り人の記入、または年貢皆濟の受取書とか、稀には菩提寺の人別帳がある位のもので、それも三百年餘りも昔の慶長元和といふほどの、古い頃まで遡り得るものは至つて僅かである。これ以外にも人の大切にして居るものは社寺の記録、もしくは或舊家の自ら由緒を述べたものなどであるが、これらも出來た時代は大よそきまつてゐて、いづれも江戸時代の文字教育がやゝ進んで、一方に人の暗記力が少しづゝ衰へ始めてから後のことで、いはゞ外部にこれを信じない人が出來たために、新たに主張する必要の生じたものが多く、最も確實にして且つ誰でも承認しなければならなかつた事實は、かへつてこれ以外に暗記を以て別に傳つて居たものと、推測せられるやうなものばかり多く殘つて居るのである。

　文書教育　これが全國大部分の町村に亙つて最も普通の?態であるといふことは私たちにとつては意外でも何でもない。曾て文部省の調べた寺子屋の歴史を見てもよく知れるが、田舍に讀み書きを學ぶ者の出來たのは、遲い處では明治の初年から、早かつたといはれる土地でも、精々百五十年ばかり前の寶暦明和頃で、更に百年ほど遡る元緑年間からといふやうな例は、捜して見つける位なものである。それも伊呂波と數字と名頭村名だけを、手習して下つてしまふのが世間竝であつたことは、諸君も知つて居らるゝ通りである。讀む者が無ければ書いておいたところで役に立たぬ。役に立たぬものが存在しなかつたのは當り前の話である。手習を日本國民の教育の起源の如く考へて居る者も(272)おほまちがひの行止りだが、無いものを宛にして郷土史の研究に、取り掛らうとした地方學者たちも不用意なことであつた。

　文字の役目　漢字を書き本を讀む教育が一般に普及したのは明治初年の小學校令以後といつて少しも過言ではない。それ以前はこれも亦たゞ一つの職業教育にほかならなかつたのである。舊藩の學問が最も進んだと評せられるものでも祐筆の家は世襲であり、記録方には藩士の誰でも任命するといふわけには行かなかつたのは勿論、代官奉行として令名のあつた人たちといつても、必ずしも自身文筆の能があるとは限らず、いづれも部下に專門の手代書役を使つてゐたのである。殊に村々の役方に至つては、常に地主の片商賣で、しかも通例は家柄の中から指名せられてゐた故に、?々讀めない書けない人でもこれを勤めて居る。後にかういふ人たちが率先して讀み書きを學ぶやうにはなつたが、尚やゝ込入つたものになると檀那寺の和尚を煩はしたり、または給料を以て算用師帳面付けといふやうな者を傭うて居た。それといふのが文書は元々官廳との往復のみに入用であつたからで、それも平年のきまり切つた事務は、多く口頭で辯じ、もしくは型ばかりの驗を取つてゐた。だから今日からいふ家筋の者が持傳へて居る文書が幸ひにあつたとすると、大抵は災害の記録、これに就いて租税の減額や補助救濟を歎願したやうなもの、さうでなければ村内または他郷との訴訟書類などで、めつたにめでたい方のものは殘つて居らぬのである。

　異常事件と記録　人が必ずしも不吉な出來事ばかりに精確であつたのではなく、かういふ問題だけが讀み得る人に見せる必要があり、また口上だけでは濟まぬ故に、詳しく筆記して且つ無制限に保存せられる理由があつたのである。�ｺ川三百年の間に一度しか起らず、村によつてはまるまる起らなかつた百姓騷動の如きは、大事件だつたに相異はないが、たゞ單に大事件だから書いて殘すといふ以上に、これにたづさはつた代官や村役人などの、特に自己の立場を公邊に明らかにしようとする動機が、細か過ぎるほどの文書を作成せしめたので、いはゞその當時の人心の動搖興奮を、窺はしめる資料といふに過ぎない。今になつて考へてみると、他の殘りの太平無事の二百數十年間の推移の方が、(273)我々に取つては重要なのであるけれども、これは例に由つて例の如しで、別に刺戟もなくまた責任の問題も考へられなかつたが故に、書いて殘して誰に見せようとする必要も認められなかつたのである。だから在來の史學の方針に則り、今ある文書の限りによつて郷土の過去を知らうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であつた如き、印象を與へずんば止まぬことゝなるであらう。

　

　　　　　　　史料の擴張

　

　國民の期待　だから郷土史の研究は、結局新たなる態度と方法を以て出直す他はなかつたのである。國には東西の史部《ふひとべ》があり、大小の朝儀を録すべく外記内記の官が設けられ、乃至は戰爭には着到方や見知人の類があつて、兼てその事跡を後代に傳へて、有形無形の利益に供せんと企てゝ居た場合の歴史や、或は又軍談師や琵琶法師の輩に、少々誇張を加へても、語らせて聽かうとしてゐた場合の歴史と、同じ態度を以て郷土史を研究することは不可能なのであつた。それも以前のやうに、祖先の書き殘して置かうとしたもの、その中でも火にも燒かれず水にも流されずして殘つた文書記録だけが、何物かを教へてくれることを知つて、それで滿足してゐた間はよかつたが、現在は既に史學に對する國民の要求と期待とが大きくなつて居る。さうして我々の過去に對する疑問は繁多になつた。そこでこれぐらゐの事は歴史が説き示してくれさうなものだと思ふ問題や、また歴史の學問に由るのほかこれを明らかにする途はないではないかと、我々の感ずる問題は次から次へと現はれて來る。たゞ手を拱いて今はこれ以上答へることは出來ないといつては濟まされなくなつた。手短かに云ふならば、國民の要求する我々平民の歴史は、もはや今までの手段だけを當てにして居るわけには行かなくなつたのである。

　計劃記録　歴史は元來我々の足跡のやうに、無意識に後に殘されたものではなかつた。支那では、孔子の筆に成る(274)といふ春秋の昔から、歴史は筆者がこれぞ傳ふるに足ると判明した事實だけを、竹に彫り帛に押して文字として保存したもので、その風はひとりあの國の古代のみではなかつた。我邦でも書き殘される理由は、何れの記録も皆その當時必要であつたもので、後世千百年の後に、人あつてかういふことを疑問とし、又ゆかしがるであらうといふことを豫想して、前以てそれに答へておいてくれたものなどは殆と一つもなかつた。大體に異常事件、即ちその時代の通例でなかつたこと、一度出現して再びくり返されることのあるまいと思ふやうな出來事を、年代記ものだなどゝ今の人も云ふが、筆や紙のやゝ自由になると共に、少しづゝその範圍を擴張し、且つ身贔屓も加はり、何だこんな事をと思ふやうなことまで、書いて殘して居る筆まめもあつた。しかし何れにしても書いた動機は多かれ少かれ自己本位で、その極端な例は贋系圖贋證文から、中位な所では寺々の縁起、諸道の由緒書の類まで、少なくとも自分に不都合な事實を書き殘したものはない。隱すのをまた當然の所業としてゐたのである。私たちはこれらを假りに計劃記録と名づけて居るが、その心情の高尚と下劣とを差等付けないとすると、中古以前の歴史は悉く皆この計劃記録の傳達管理の外には出なかつたのである。

　偶然記録の利用　それから比べると、今日の歴史の學問は進んだものといへる。右の計劃記録がたゞ一種しか傳はつて居らぬ場合は、兎に角も問題は先づ起り得ないが、しかしそれが追々と豐富になつて來れば、當然にそれらの間にあまたの矛盾牴觸は發見せられ、そこで史家の辨別力は要望せられるのである。曾て水戸で大日本史が編修せられた際は勿論、つい近頃になるまで、たとへば平家物語には誤が多いとか、太平記は全信すべからずとか、わかり切つたことをことごとしくいつてゐたのがそれであつた。しかもこれはたゞ計劃記録の上で二種以上の記述が積極的に撞着して居た場合だけの話で、それだけなら第二第三の所謂採訪によつて、ゆくゆくはどちらも間違ひといふところまで斷定し得る望みがあらうも知れぬ。しかしそれとは反對に、我々が郷土史に對して抱いて居る疑問の如く、甲も記録せず乙丙丁等の文書にも全く省みられなかつた消極的の誤りは、こんなことだけをしてゐたのでは何時になつても(275)知らずにしまふほかはなかつた。しかもさうした史家とても、新時代の疑問百出に、永く無關心で居ることを得なかつたのである。そこで歴史はその當初の定義を遵守しつゝ、いつの間にかその活躍の範圍を擴張しようとしてゐた。今日の史學の大半は、私たちの名づけて偶然記録といふものを利用してゐる。即ち文字を筆者の計劃した以外の別の問題を明らかにするために援用することで、たとへば「膝栗毛に現はれた東海道馬方の道義觀念に就いて」といふ類の論文は、すべてこの部類に屬するのである。しかし斯うした偶然記録となると、つい近頃までは史料にも入れなかつた。所謂考證史學の世に入つて、始めて可能になつた一革新であつて、そんなものを史料に使ふことは近くは林家の本朝通鑑の世に於てすらも、なほ且つ敢てせざる所業であつたらう。これにつけても私は始終つぶやかざるを得ないのは、それほどまで自由に資料の取扱法を擴げるならば、何故にもう一歩外に出て、我々の採集記録を利用しようとせぬかといふことである。新たなる鉛の活字で刷つてあつても古いものならば採る。古い傳承であると知れても、このごろ文字になつたものなら使はぬ。文字以外のものでも土器鐵器のかけら、古い骸骨の示すことならば信ずる。生きた人間の信じ感じ行ひ記憶して居ることは省みぬ。この窮屈なる分界線の傍に立つて見てゐると、私は何人よりも以上に、史學が今後尚大いに進歩すべき若々しい學問なることを、信ぜずには居られないのである。

　

　　　　　　　新たなる資料

　

　郷土人自身の採集記録　これまでの郷土研究の方面に於ては、この貧弱を極めたる計劃記録の利用に、無理をしまた難儀をしつゝも、なほ稀に存する偶然記録の捜索をさへ怠つてゐたのである。しかし假りにその何れを尋ね盡したとしても、文書資料には前申す通り、超えることの出來ない限界があつた。つまり今までは見當ちがひの骨折を續けてゐたのであつた。それで私の提案は、郷土人自身の力を以て、一日も早く安心して使へるやうな精確なる採集記録(276)を調製して、以てこの缺陷を補はしめようといふにあつた。これが私たちが二十年も前から、常に力説して居る郷土研究の本體であつた。今や時至つて中央でも地方でも、この種の事業の必要を承認し、且つこの實行を慫慂して止まぬやうにはなつた。しかし遺憾なことには、認められたのは終局の目的のみで、その手段方法に至つては未だに各人の自由勝手なる嗜好に委ねられてゐる。しかもこの?態で、果してこの事業の成績の近く收められるものがあらうかどうか、考へてみようとした人はなかつたのである。これでは折角の奨勵も、やがては失望と輕蔑に歸し、かへつて末長くこの學問の興隆を、阻むことになりはしないかと患へられる。そこでこの計劃を次第に系統あるものと改めるには、何よりも先づ研究方法の統一が試みられねばならないのである。私たちの信じてゐるところでは、この採集記録による研究の方法は、早晩國の歴史の探求の上にも、採用せられる時期が來るにちがひないが、只今のところでは、國史の方にはまだ宿題が多く且つ萬人に興味のある新發見が、なほ少しづゝ繼續して居るために、事柄によつては甚だしく在來の文書資料が、缺乏して居ることを心付かずに居るのである。しかも社會は現在の事實のみを見ては、解決しかねる問題に出くはす毎に、必ず史學に向つて以前はどうであつたか、如何にしてかうなつたかの答を求めんとして居る。既に歴史に對する社會のかくの如き要求がある上に、一方これに解答を與ふべき全國郷土史の一致した發見は、ゆくゆくは總國史の着眼點を變化せしめずには置くまい。又さうならなければ一國の方針として、これをすべての府縣郡村に、普及せしめる甲斐もないわけである。地方各自の方法がもし幸ひに正しければ、むしろ後には中央の手本となり得る。最早徒らに出來もせぬ物眞似を事とすべき場合ではないのである。

　新資料の性質内容　そこで最初に先づ郷土史の新史料、私の名づけて採集記録といふものゝ、性質内容を明らかにしてかゝる必要がある。この新しい學問の基礎資料として、この種の記録を求めてかゝつた裏面には、我々が久しい經驗に養はれて、次第に力を強くした一つの推理があつた。即ち「日本人が日本人の顔附と骨格を具へ、日本語を話し日本風といふ家に住んで居ると同樣に、個々の郷土人のその個々の小さき擧勤表現、内部感覺等の中にも、必ず若(277)干の歴史の痕跡、つまり某々郷土の住民の末なるが故に、殘つてゐる何等かの生活の特徴があるだらう」。といふ假定が下に構たはつて居る。勿論この假定は毎囘の實驗によつて再吟味して行かねばならぬが、それには幾らでも容易な方法があるのみならず、我邦の郷土研究はやゝ遲れて起つたために、西洋諸國の前例を利用することができる。英國ではこの種の學問をフオクロアといつてゐる。その協會の起つたのは、今から五十二三年前のことであつたが、この言葉はそれより更に三十年前に生れ、又その調査自身はもう少し前から始まつて居た。その最初はただ單に田舍人、もしくは時代の文化からやゝ後れて生活して居る者の間に、誰でも氣のつく珍しい風習行事、または説話歌謠の類の行はれてゐたのを、どうしてかくあるかといつて拾ひ集めて居るうちに、だんだん比較の調査が進んで、それらの奇事異聞と同じ事柄が、國の内外に分布し、且つ古く前代にあつたことが判り、後には安全にこれを歴史の痕跡、短く言へば殘留又は殘存と、認めてもよいまでになつたのである。つまり採集はこれらの事實を探索しようといふのである。

　古風と流行　現代の生活ぶりは外部との交通の影響を受けて、時々刻々にも變化しつゝある。だから今日の活き方の中で、何が昔のものゝ名殘であり、何が新流行であるか、見分けが付かぬぢやないかと論ずる人もあるわけだ。なるほど理窟はさうもいへようが、ちやうど現存の色々の動物の中に、見慣れぬ眼には既に認められぬやうになつた、動物體の不斷の進化の跡を、熟練した生物學者なら明白に辿ることが出來るやうに、實際は練習をつんで少し馴れると、直ぐに見當が付くのである。學者はこの生活の中の新流行と古風とを、やゝ六つかしく文化の連關不連關などゝ謂つてゐる。即ち新時代の教育を充分受けず、新しい文化の只中に入つて行けなかつた人々の所業と觀念とには、何か外から見て一般の氣風乃至は慣行と折合はず、所謂現代の生活と連關を絶つて、孤立して居るやうに見えるものがある。それだけが我々のこれから利用すべき文字以外の資料だと言ふのである。歐羅巴語でシユパアスチションと謂はれてゐるものはこれとほゞ同じ範圍であつた。この語は日本では通例迷信と譯されて居るが、耶蘇教が始めてあの(278)大陸の大部を席捲した頃から既に用ゐられてゐた古い語で、その本意はたゞ今風でないものが殘つて居るといふことに過ぎなかつた。さうしてこれだけは誰が見ても、確かに昔のものゝ名殘、歴史の痕跡に相異ない。だが問題は我日本のやうな國柄に於ては、更にこの以外に色々の隱れた史料の新たなる歴史研究に利用せらるべきものが、ありはせぬか否かである。さうしてそれがまだ非常に豐富に備はつて居るものと、私は信じて居るのである。

　

　　　　　　　フオクロアの寶島

　

　今にある昔　私たちが子供の頃から聞き飽きるほど聞かされて居る西洋の文明國、分けてもその中の目ぼしい三四箇國に於ては、國が大分以前から開け切つて居る。新らしくなり過ぎて居る。所謂産業革命が完成してから、早い處では四五代も重ね、既に田舍の隅々やあらゆる階級にまで、新しい文化が行き亙つて居る。かういふ國では、よほどの片田舍に行つても人は皆當世で、昔風などは繪でみるか、歴史を讀む者の想像にしか殘つて居らず、今はもう大抵の郷土にはこの方面の資料は消えてしまつてゐる。從つて人は蚤取眼で區裁判所や警察の記録を捜し、もしくは醫者や坊主の實驗談を聽かせてもらはうとして居る。それだからほんの些細な子供遊びや諺の文句までも、今では珍發見として採集せられて居るのである。これに反して我々の社會では、この變化はまことに急激であつた。ちよん髷や脇指こそは總がかりで棄てさせられたけれども、他の多くの好みはまだあまり干渉せられなかつた。上は洋服になつても背中には灸の痕があつたり、便利なたふさぎや小袴は元のまゝにちやんとして居る者が多い。人を見眞似の流行を專らとする衣服までが、今以てこの通りである。ましてやこの外被の今一重奧の方に動いて居る意思や感情が、さう早速に根本から變りきることが出來るものではない。だからこそ一つの部落の中でも、新人と舊人とが雜居して反目し、同じ家庭に於ても年寄と若い人たちが、互に理解し得ない心持を抱いて共に住む例が稀でないのみならず、同じ(279)一人の「我」にあつてすら、時と場合によつて?々古い考へ方をしたり、また新しい物の觀方をしたりして居るのである。

　自己内部の省察　當代の教育が未だ知識のあてがひ扶持の域を脱せず、その感化が往々にして甚だしく偏頗であることを思ふと、古風は決して田夫野人、即ち英語でフオクと呼んで居る者の、獨占には屬してゐないので、たとへばアメリカ風のスタイルをした紳士ですら、尚封建時代の親分子分の?客的な精神を持つて居るのである。ところが英國などではさうした昔氣質が既に消え盡さうとして居る故、ことさら遠く偏卑の地に分け入つて、特にフオクと呼ばれる人々の間から、これを捜し求める必要も或はあつたらう。日本はほんの最近に變化したばかり、といふよりも今將に變りかゝつて居るのである。古くから傳はるかのゝ善し惡しが、現に盛に論議されつゝある時代である。しかも議論はたゞ僅かな意識せられたものに限られて居り、其他に尚無數の仕來りと行掛りとが、我々の身邊を圍繞して居るのである。所謂民間の傳承を探るがために、開けきつた外の國々のやうに、出でゝ少數人の間をうろつき廻る必要などは少しもない。我個々の郷土には、坐ながらにして自ら我世の過去を明らかにする途があるのである。我々の學問は結局世の爲人の爲でなくてはならない。即ち人間生活の未來を幸福に導くための現在の知識であり、現代の不思議を疑つてみて、それを解決させるために過去の知識を必要とするのである。乃ち人生の鏡に照して我世の過去を明らかにせんとする、歴史の究極の目的は眼前にぶら下つて居るのである。そのための採集は、いはゞそれらの不可解な事實を精確に記録し表現することであるが、それが表面の事實ならとにかく、郷土人の心の奧の機微は、外から見たり聞いたりしたのでは到底分りやうもなく、結局彼等自身の自意識に俟つよりほかに仕方はないのである。つまりは我々の採集は兼て又、郷土人自身の自己内部の省察でもあつたのである。

　學問の寶島　全體に歐米の學者たちには、古風と今風とが恰も淡水と鹹水とのやうに、二立て別々に存するものと思つて居る人が多いらしい。中でもレヴィ・ブリュウルの「原始人心境」などはこれを強調した著述の著名なもので(280)ある。しかしこの日本の宛かも川口の潮の上げ下げの如き?を見たら、良心ある學者ならば必ず大いなる但書を添へずには居なかつたであらう。所謂合の子文明は獨り日本のみでなく、東洋の何れの湊に行つてもそれぞれこれが見られるのである。文化の複合には必ずしも定つた方式はない。一方が退かなければ一方がその場所に進み得ないといふものではなく、二重生活は常に雙方からの歩み合ひである。一つの擧動なりもしくは考へ方が、目に立つて一般の風潮と調和せぬ樣に考へられるのは、進んだか退いてゐるか、何れかの一方にずつと傾いて居る場合だけである。さうした場合でも外から冷やかな眼で見ればこそ矛盾とも評せられるが、當の本人たちの生活の現實に於ては、そんなことは氣にせずに、幾らでも暮して行けるのである。所謂京に田舍あり、モダンには色々の昔が入り交つてゐる。いはば我々は縁あつてこの學問の寶島に生れ合せて居たのであつた。それを殊更に不自由な外國の例に則とつて、強ひて笑ふやうな又驚くやうな事柄に限つて、拾ひ集めて勝手な臆測を逞うしようとしたことは、つまりは我々の學問がよその眞似しか出來ないといふことを證明するやうなもので、御同前に甚だ面目のない話である。この今まで埋れてゐた史料などは、進んで世界を教へるためにも、大切に利用しなければならぬものであつた。

　そこでこの次には採集記録の新舊優劣、今後我々の力でどういふ種類の採集を、新たに企てる入用があるかといふことを述べて見たい。

　

(281)　　　　　資料の採集

　

　　　　　　　世の常の推移

　

　都鄙雅俗　英語のフオクロアなる名稱は、一八四六年に始めて使はれ、早くから佛蘭西其他英國に近い國々にも採用せられてゐるが、範圍を「開けない人々」の間に限つてゐるから、我々の研究と方向は同じであつても、實際は少しく狹いのであつた。そこでこれに代るべき語として、私たちは民間傳承といふ字を使つて見ようとしてゐる。この語も元は佛蘭西なので、フオクロアといふよその名前をそのまゝ用ゐたくないといふ氣特から、同じ研究の目的をかういふ自國語によつて呼び慣はさうとしたのであつた。その「民間」といふ意味も、元方の佛蘭西などではやゝ限られてゐた。人によつては民間（ボピユレエル）は優秀階級（シュペルユウル）に對立する語だなどゝ言つた者がある。それでは知識あり教養ある者の抱いて居る古風な考へ方が含まれないことになつて困るが、これを我邦にも久しく行はれてゐた雅俗の相異、或は風流と凡常の差別に引當てゝ見れば、我慢の出來ぬといふ程でもない。ところが又その定義を改めて、その民間のポピュレエルは、リテレエル即ち文字を以てする傳承と相對するものだとも言ふ人もある。この方だと餘程限界は明瞭になつて來るが、その何れにしても結局は同じことであつた。といふのは、文字は元來が足手を働かさぬ人、脇に立つて物を見また指圖する人の、專門の技藝と認められた時代があつたのである。從うてさ(282)うした文字の專用者は都市に住み、所謂上品な生活に憧がるゝ人々でもあつた。さうはいつても彼等の筆に記して後年に遺さうとしたものに、好みや選拔があつて全般的でなかつたのは、必ずしも彼等があまさかる鄙の生活を知らず、書いて見ようにも書くことを得なかつただけではない。そこには知つてしかも殊更筆にしなかつた所謂風雅の心が働いてゐた。今でも人の前では下がかつた會話を忌み惧しむやうに、否寧ろ當時は今一段と用心をして、誰でもするやうな常日頃の振舞、飯や鹽味噌の問題には觸れようとしなかつたのである。つまり風雅と凡俗、都鄙もしくはミヤビとヒナビとは、相通ずる觀念であつた。その他に紙が一枚々々工人の手に漉かれ、至つて貴重であつた時代の事情も考へて見なければならぬ。筆硯はもと世の中の大事にのみ用ゐられたのであるが、後代それがすこしづゝ餘力のある者に、濫用せられ出しただけである。

　根源の偏重　誰でも知つてゐる事や言はずとも判つてゐることが、記録に傳はらなかつたのは當然である。ましてや風俗が後大いに改まつて、曾ては人生の極めてありふれたものであつたことが、かうして苦勞しても尚尋ね知る能はず、間違ひだらけの臆測が一世を風靡する時代が來ようなどゝは、世の常を信じて居つた昔の人々の、想像し得なかつたのも不思議はない。歴史が通例は、今まで一度も無かつたといふ事實に力瘤を入れたのは、事物の根原や人の始、天地開闢の記事などが重要視せられたのと、同一心理の作用かと私たちは思つて居る。といふのは、その後引續いて同じやうな出來事が、物によつては千萬囘もそれ以上も、始終くり返されるのは、元からさうであつた爲であると、信じて居る人が多かつたからである。この氣風は今でも衰へてゐない。一方に起りが年久しいと聞いてそれだけで安心してしまふ一般人があれば、他方には何でも一つの事實の發端を探り求めて、それの論辯ばかりに時を費し、曲りなりにもその點のみが一通り明かになることを、學問の眼目と心得て居る者も少くない。さうして我々の學問の、先づ答へなければならぬ問題、差迫つた疑問の最も繁多な近代史をさし置いて、古代の研究のこの頃更に盛になつたのも、紛ふかたなくその餘弊である。それにつけても、郷土史だけはそんな悠長な境に遊ばせたくないが、幸ひなこ(283)とにはさうしようと思つても、實は出來ないのである。

　無意識の推移　公事根源や和事始の著述せられたのは、凡そ五百年ばかりの昔であるが、あの時代にはもはやあゝいつた知識は、上流諸儀式に携はる者の必要ばかりでなく、俗間にも入用であつたらう。それといふのがちやうどあの頃には、古い多くの文物がなほ存し、それが又大分變り、且つ本の意が忘れかゝつて居て、かの「いにしへの野中の清水」の歌の如く、やうやく崩れようとする古くからのものを、どうかして當初の姿に復して見たらといふ心持は、我も人も共に抱いて居たからである。ところが社會は再轉參轉して、改めてよいものは改めるやうに、といふ御時世が到來したのである。さうでなくとも時は事物を新たにする力しかもたなかつた。單にこれに携はる者が自ら推移に心づかず、依然として昔發生したまゝと思つてゐるうちに、内容はいつとなく變化して、暫らく過ぎると同じものは名前ばかりになつてしまつたものも色々とある。この變遷こそは今日を作つて居るのである。たとへば日本人が飯を食ひ米の酒を飲むのは、古い國風だなどと議會人は言つて居る。ところがその飯はいつとなく無暗に白くなつただけでなく、蒸して炊いだイヒは式の日に限られ、日常は水で煮たカタカユを食ふやうになつた。さうしてその柔かさも時と共に變つたと見えて、匙のやうな中窪であつた飯杓子が、全國を通じて今は板同然の飯切りとなつてしまつた。また酒が透明な液體になつたのも、僅かに二百年來の變化であつた。ひとり酒そのものゝ色彩に新たな統一が行はれたばかりでなく、是を用ゐる機會方法、理由までが改まつてしまつた。これでも判るやうに古來の風といふのは名前の運んだ本の心だけで、實質は幾變りにも變繊を重ねてゐるのであつた。たゞそれが突然でなかつたばつかりに、無意識の内に推移したといふまでゝ、その最初と最後の兩端を把つて比べて見て、全く別物のやうな感を抱かせられることは、封建制度とか武士道とかいふ、事々しい問題だけではなかつた。時の力は例外なく働き、かうした毎日の常不斷の生活も尚その通りであつたのである。しかも最近になつてその變化は特に激しく、それが又總員の體質や習慣の上にも、人知れず大きな影響を與へて居るのである。もし歴史の學問が、我々の信ずる如く、遂には世を救ひ導く(284)べきものなりとするならば、今日なほ風をなして、ひたすら古代起原の穿鑿を事とし、現前の疑問を顧みようとしないやうでは、尋常古來の博識學ならば知らず、このさし迫つた實際の人生問題を前に置いて、果して何の爲の考古沙汰、起原論の論究ぞやと、郷土史の研究者ならば詰問せられても致し方がないのである。

　

　　　　　文書史料の限界

　

　　史料の空隙　今までの歴史なるものには、永い間の癖ともいふべきものがつきまとうて居た。その一つは甚だしく傳記的に傾いて居たことであつた。或一人の特に著名なる人物の、或年の或月日に於ける行爲又は言説を、書いて殘すことに力を入れて居た。たとへば歴史には必ず尊氏とか清盛とかいふ中心の人物がなければならぬといふ心持があつた。今一つは年代記、即ち何年の何月何日には、どういふ大事件が起つたといふことの、連續が歴史の全部であるとする考へであつた。だから後世の、史を讀み前代を知らうとする者も、概ねこの過去の選擇に遵つて、強ひて史書に傳はらぬことまでを尋ね究めてみようとはしなかつたのである。かうした歴史の態度に慊らず、もつと概括した時代の?勢を詳かにしたいと、願ふやうになつたのは遙かに後の事らしいが、これには二通りの行きかたがあつた。一つは史論とか史觀とか稱して、史料の缺乏は論理と想像力とを以て補ひ、百年五十年を一跨ぎに、幾らでも臆斷の虹の橋を架けて居り、いはゞ空の華さにも似たものであつた。これを危いと思ふのが今一つの行方で、これは右に申すたつた一囘づつの出來事を透して、それ／”＼の時代を推し測らうとして居た。しかしその何れも單純なる演繹法で押し切らうとした態度に於ては同じであつた。實に大變な役目を記録文獻に負はせて居たものである。そんなことをするものだから、文書は恰も訟廷の證據書類の如く、峻嚴を極めた眼を以て見なければならず、しかも一方には酷吏の獄を斷ずると同樣に、あらゆる論理を以て史料の空隙を掩はんとしなければならなかつた。だから學者は徒らに解釋(285)や推論の端々に辯難の時を重ねて、末には常識の背競べのやうな、滑稽な喧嘩ばかり多くなるのである。つまりは乏しい文書資料から、演繹によつて時代の文化を概括しようとした、中央史家の弱點であつた。この筆法を狹い郷土に應用してみようとしても出來る筈のものではない。それに我々が久しく歴史によつて解かうとした疑問は、兎に角そんなものとは別であつた。

　記録と眞實　我々が知つて置いて貰ひたかつたのは、記録史料が單に中古の兵亂水火に亡失しただけでなく、最初からさう豐富に用意せられて居なかつたといふことである。しかし今日入用なる記録の若干は、幸ひにしてこれからでもまだ立派に調製することが出來るのである。たゞこれを利用するに際して、今までのやうにたつた一片の書き物に重きを置かず、數を積み變化を究めて後にその中から、或確實なる事實を抽き出す必要があるといふことを、心に刻んで居て貰はねばならぬ。在來の史學の嚴密主義には、かういふ一面の弱點も實はあつたのである。即ち、所謂古い書物が物を言ふといふ信仰から、最も正しい上代の計劃記録に對すると同じ態度で、他の偶然の記録をも見ようとした弊が認められる。古人は大體に嘘言が拙だから、欺かうとしたものは多くは露顯して居る。それを除けば其他はほゞ、眞實を語つて居るものと認めても先づよからう。つまり、古いから正しいのではなく嘘言に拙なる上代人が傳へ知らしめんとする意思を以て書いた故に、これを信じようとするのである。幾ら古いからとて土中を掘り起した一片の石碑、乃至は物の序に一寸觸れただけの横合ひの記事が、これを知らしめたいと企てゝ書いた計劃記録と、同等の精確さを以て表現せられて居るわけはない。しかも一種の文字の魅力、書き物を丸呑みした永年の心ならひが、往々にして或小さな偶然記録を、鬼の首の如く振舞はす歴史家を生んでゐるのである。

　文庫内の研究　郷土史を主として文庫の中で研究しようとする人は、よつぽどこの傳來の文字過重癖を愼しみ、從うて陷り易い次のやうな缺點に警戒して貫はなくてはならぬ。各人の郷土史にはそこの住民は却つて知らなかつた偶然記録は色々ある。ちやうど松下見林の異稱日本傳や、山本北山の日本外志がその昔編輯せられ、もしくは白色人の(286)三百年來の日本見聞録が、この頃になつて新たに飜譯せられたやうに、郷土史のさういふ意外な資料は必ず物珍しく、又感興をそゝるに相異ない。しかし是等はたゞ一つの有效なる暗示といふに止り、他にその郷土に關する何等の文書資料がない場合にも、これだけを根據にして自分たちの前代を説くことは出來ないのである。我々の普通の經驗では、かゝる偶然の記録にあつては、固有名詞は?々間違ひ、計數は亦よく誤つて居る。それから又印象の過大に伴なふ若干の誇張もあり得る。だから單にそれが自分たちの確信なき事項であり、又他にこれを反證すべき材料がないといふばかりに、何の考察も加へず直ちにこの偶然の記録を採用したら、失敗の危險は甚だ多い。しかも溺るゝものは藁をつかむ如く、餘り自分の土地に書き物がない苦しまぎれに、それを根據として且つその上の空想を附け足したものが折々ある。現に私の見た或郡の郡誌は、塚原澁柿園の小説を百頁ばかり利用して居るものさへあつた。實際今の?態を以て郡誌を書かうとする人はこれくらゐも苦しまなければならないのである。

　

　　　　　從來の採集記録

　

　目的の散漫　郷土史は前申すやうな新たなる暗示に基づいて、結局は採集資料に依るの他方法のないことを悟らねばならなかつた。だからこれから最も確實なる採集記録を企て且つ實行することが、決して迂遠ではないことになる。といふのは均しく採集記録とはいつてもその價値はまちまちで、中には無邪氣なる旅行者の見聞録よりも、遙かに劣つて居るものが今まではあつた。今までの採集記録の缺點は段々あるが、最も普通なのは目的の散漫といふことであつた。殊に我々の素志と相容れない動機に出たものもあつた。その一例は各縣の方言採録が、以前はこれを匡正して悉く標準語に改めしめようといふ目的に出たなどがこれである。この目的なら、古臭くて人が大丈夫もう用ゐまいと思ふものは、知つて居てもそれを掲げて置く必要はないことになる。勿論かういふ言葉でも、今日となつては一種の(287)偶然記録として相當の價値はあるから、我々は決して粗末にはあ、今から企てられる採集がもしこの態度でであつたら、精確といふことからは頗る遠いものになるのである。

　それから一方にはちやうど是と正反對に、何でも我郷土の古く且つ他に優れ、》正しい古風の多く存して居ることを證明したい爲に、努めて變つた點ばかりを、折々は與太も承知の上で載せて置かうとする初一念のあるもの。これは最も多く傳説採集の上に現はれて居た。

　地方の傳説集は近頃になつて色々出た。それには上のやうな狹い目的をもつて取捨したものは今ではもう無いが、新たな惡い癖は傳説は美しいものといふ豫斷から、少ししか知られて居らぬものを文學的に引延ばし、或は人名を設け年代を限り、會話などをこしらへて出來るだけへぼ短篇小説に近くしようとすることであつた。我々の民間傳承が元からかうあつた氣遣ひの無いことは一目で判るから、私などは單に何か「この系統に屬する言ひ傳へがあの邊にあるな」といふ暗示としてのみ受取り、その内容は一括してこれを無視して居る。もしその中に少しでも古い口碑が交つて居るとしたら、玉石共に燬かれるのは惜しいものだが致し方はない。もう一度出直すの他はないのである。

　末梢の偏執　それから第二の缺點は採集の小局部に限られてしまふことである。これなどはもしも志を同じうする者の分業であつたら、末には協同して一つの效果を擧げることも難くはないが、事案は奈何せん偏よつた流行があつて、人が繪馬玩具を集めるなら自分も繪馬玩具、もつと甚しいのはみだらな形のものばかり貯へて、一廉の土俗採集家を以て任じて居る人さへある。我々の傳承資料の總體から考へてこれなどは一部の又細目に過ぎず、他の幾つかの土地の現象、例へば祭式とか信心者の心持、乃至は之に伴なふ口碑とか呪文とかいふものと、照し合せて見て始めて理解せられ、又前代生活の痕跡とも斷定し得られるのである。それをたゞ一つ切り離しては一向にその望みがない故に、徒らに數を誇り珍種を欲しがり、末には何處にどうして在つたものやら、自分でも知らぬものがごちやごちやと固まり、結局入用ある人の利用を邪魔することゝなる。そんなものが歴史でもなく、學問では尚更ないことは何人も(288)疑はぬが、一方の眞面目なる採集が、骨折甲斐ある成績をまだ擧げ得ない爲に、今日は徒らにさういふ趣味の徒を多くしたに過ぎぬことは、所謂考古學と土器石器の關係も同じであつた。

　無駄な重複　それから民謠とか童詞とかの採集に熱中する者も、右にいふ繪馬や玩具の貯藏者と一つに視ては氣の毒だが、やはり或程度までは似たる弊害があつた。日本の民間歌謠などは、實はもうその採集が完備に近づいて居るのである。もしも中央に一つの臺帳が出來て居たならば、番號にでも由つてどれとどれが我郷土にも在るといふことを、言つてしまへばそれで用が濟むのであつた。それ程までに一つの詞章は古く弘く流傳し、又土地々々の音曲と調和して居るのであつた。然るに採集者が一人現はるゝ毎に、改めて手帖を黒くして是を何かに發表しようとして居る爲に、我々はいつも同じものを讀むのに多くの時を費さされて居る。固よりその文句が丸々同じではない場合が多からうが、その大部分は誰にもわかる誤謬であつて、手毬唄などは殆と子供毎に少しづつ違つたことを言つて居り、それが異なるといふことには格別に史料價値もないのが普通である。これに澤山の人の力が掛けられる理由は、要するに歌謠童詞はその一つ一つが、簡單なる完成であり又解決であるが故に、他の複雜なる事物の一端に比べると、いち夙く採集の效果もみえ、自己滿足が得られるからであつた。

　我邦農民の知巧と感覺とが、殊に是等の言語藝術の上に、微妙に現はれて居ることは事實であつて、これを仔細に實證することも無意義な事業ではないけれども、もし餘りにも多く注意がこちらに偏して、他の缺くべからざる民間傳承の、ともすれば消え行くものが棄て置かるゝとしたならば、やはり我々の郷土研究が、永くこの資料の綜合を爲し得ざる患はあるのである。

　

(289)　　　　　今後の採集

　

　緩急先後　日本の民間傳承は前申す通り、萬國に比ひなく豐富であるが、今すぐにそれを片端から集めなければならぬのではない。それには綬急難易があつて、或ものは早く今のうちに骨が折れても記録して置かねば消えて行かうとし、他の或ものはもうこれ位で、そつとして置いて差支へないといふものがある。しかるに今までは數多の民間傳承の一つ一つが、郷土史料の全系統中の如何なる地位を占めて居るか、又他の史料と如何なる關係に立つてゐるか、即ちその文化史料としての綜合的の價値といふものを認めず、延いては各地の所謂研究家も意識して、その採集記録の系統立つた利用を企てなかつたが故に、とかく易きに就き氣の向かぬものを抛つて置く選り喰ひを制することが出來なかつた。

　私は何か自分の手柄を吹聽するやうで後ろめたいが、これでも一通りは民間傳承の領域はどれだけといふことを、ほゞ落なく經廻つて見たつもりである。從つて現在の採集者のどの方面が手薄く、どこには人氣があつて人が鉢合せをして居るかを心づいて、隨分の氣苦勞をしてゐるのである。これには遠からず一覽表のやうなものを作つて、同志者の配置を更へて貰ふのがよいと考へて居るが、この中には必要と知つても適任の人が得にくゝ、又は成績がちつとやそつとでは纏らぬ爲に、誰も尻込して行きたがらぬものもあり、或はたゞ方法が示されぬばかりに、興味を見出すことの出來ずに居るものもある。少くともこの最後の分だけは何とかすれば、今に多くの働き手を、誘導して來る見込がありさうである。又さうしなければ恐らくは郷土史の研究を慫慂せられた中央の趣旨がいつまでも貫徹すまいと思ふ。

　事物の意義　一番に困ることは、折角歴史によつて現實の疑問を解かうとする志があり、且つ綿密なる調査を續け(290)るだけの、根氣のある採集者が土地に居りながら、こんな事を採集して果して何の役に立つのかと怪しんで見たり、又は全然或事物の意義を看過して、眼前に殘つて程なく消えるものも、注意せずに投げ棄てゝ置くことである。

　私は數年前から日本の葬儀慣習の變遷を知りたいと心掛けて居るが、これなどは一つの土地限りでは最もよく一致し、しかも近い隣の村とも存外よく違つて、古い仕來りが孤立して傳はつて居る。それといふのが葬式は他の何れの式よりも人任せで、主人は于與せぬから改廢の責を負ふものがなく、先づ／＼これまで通りと先例を追ふのが普通であるからで、寺は實際のところ在家の作法に口を出して居ない。從うてこの中には以前の居住地から持つて來た慣習もあるべく、それを逆にいふと葬式の特徴によつて、最初どの方から入つて來たかゞ、察せられる場合もあり得るのである。ところが大きな都市だけは、行列が新たに告別式などと改まつて居るので、地方に於ても土地の採集者たちは、その由來や他との異同を深く究めもせず、都會の風なるが故にそれが或時代の新しい風習を模倣したものだらう位に思つてゐる。しかるに葬儀慣習には、世間も亦この通りだらうと信じて居る作法の中に往々にして驚くほど珍しい古風があり、或は又これだけは多分我土地ばかりだらうと、近い隣と比べて恥ぢたり誇つたりして居ると、ずつと遠方にひよつくり同じ流儀のものが見つかり、始めて由來する所の深く且つ久しいことを感じたりする。

　人類の生死觀は宗教の大いなる動力、多くの無形文化の根柢を爲すものであるが、それを極めて平凡でたよりないものゝ如く、今までは輕く考へがちであつた。私は各地の郷土誌の風俗の部に於て、いつも葬式を注意して見たのであるが、これまではつひぞその文面から、その土地の異色といふものゝ存在を知ることが出來なかつた。それ程また上面ひと通りの事だけが從來は採集せられて居るのであつた。

　部分と全體　これと比べると婚姻儀式の方は、よほど土地毎の變り方が詳しく認められて居る。その理由は近世に入つてから、次第に遠方との婚姻が多くなり、これに立會ふ者も諸處から集つて來て、深い興味を以て互の異同を見ようとするばかりか、最初から婚姻は妥協の必要の爲に、十分にこの點を調べて置かなければならなかつたのである。(291)通例婚姻の記述には好奇心に基づく誇張があり、時としては幾分他を輕んじ笑ふやうな傾向さへあるのだが、實際は人一代のうちにもその式の改革があつて、今ある恆例は案外に新らしく、又遠近の統一が著しかつた。これとよく似たものは村々の鎭守の祭、殊に他郷の知己親類を互ひに招き合ふ習はしのある場合で、これだけは又土地の人たちも、出來るだけ神秘を加へて人に説き聽かすのが例になつて居た。それ故に村々の祭典の變化は、必ずしも一系統の進歩過程の各階段を代表して居るものとは限らぬ。中には司祭者や從員の信仰と空想とから、各個別々に生れたものもあるらしい。それが又我々には無限の興味でもある。ところがさういふ特徴ある一面があるとは言ひながらも、又一方には共通の點も至つて多いので、それを全體に互ひにやゝ無視しようとしてゐるのである。かうした民間傳承の採集に當る人々の得て陷り易い二つの速斷、即ちこれだけは我土地にしかないだらうと信じて、頻りにその珍しさを強調するものと、こんなことは尤もありふれた世間竝だらうと思つて、一向に注意を怠るものとは、共に在來の採集の缺點であつた。これが爲に可なり重要なる史料が利用の途を得ずして終つたことは、ひとり臨時の式や祭のみでなく、毎日の小さな出來事、たとへば不斷の食ひ物や着物、家の内限りの人の交渉のやうなものに就いては、却つてその逸失が多いのである。それ故に採集者は、生物學方面の採集も同じやうに、ざつと一通り民俗に關する知識を具へ、特に他の地方で行はれて居る先輩の調査には、常に若干の注意を拂つて居る必要がある。

　郷土研究がそれぞれの郷土の人々によつてなされねばならぬといふことは、この學問の性質上單に各地の區劃的分擔を必要とすることを意味するばかりで、孤立しては決してその效を奏し得ぬことは、何の學問も異るところはないのである。それだから又文部省の人たちなどが、全國歩調を揃へてこの方法に向ふことを勸誘するに至つたのであらうと思ふ。

　

(292)　　　　　諸外國の民俗研究

　

　　　　　　　英國と獨逸と佛蘭西

　

　英國の現?　そこでもう一度、私の知つて居る外國の實例を説いて、御參考に供したいと思ふが、英國では既に御話して置いた通り、國の古風な生活がもう段々と薄れ、その上に主として耶蘇教輸入以前を暗示するやうな、ごく古いところの資料のみに着眼して居た故に、今では到底全國の各郡郷に、それぞれの郷土研究を開始させる見込は立たなくなつた。學者はやはり倫敦に多く集まつて居て、それが何處へでも出て行つて採集をしようとする風がある。その結果は調べる人と調べられる人とが二立てに分れ、よほどの巧者でないと相手の言葉の裏までは透視し難く、從うてまた採集法の練習に、海外探險隊と同樣な努力を費して居る。しかしさういふ中でも地方に篤志家の居る場合だけは、それを中心として小さな會合を設けたり、或は小册子を刊行しまたは中央の協會と聯絡をとつて、常に全國の同志者を相助けようとして居る。またさういふ眞面目な研究者の數多い英國でもあつた。ジェントルマンス・マガジンといふ雜誌がかういふ人たちのために、百年も前から續いて出て居た。その雜誌社では先年その古い號の中から、特に民間傳承に關する通信や質疑應答を拔き出して、これを順序立てゝ各郡別に、何十卷かの大きな本を刊行し、また特に俚諺や歌謠の篇をも出して居る。地名研究の書物なども各地それぞれの著述が公にせられて、何れも郷土毎に前(293)代の生活ぶりを、徐々として明かにして行く準備が整つて居る。今までは この僅かの材料を、索引と臺帳によつて容易に見付け出すやうにして置く方に專心して居たが、これが一通り終つたから、次には採集の範圍の擴張と、各地方の利用とが始まることゝ思はれる。つまりかうした久しい努力の末、英國始め各國では、漸くこれが一つの學問として、發達して行く時期に達したので、日本のやうにまるで準備時代を拔きにして、やたらに何々學の名を使ひたがるのとは、僅かばかり樣子が違つてゐる。

　獨逸の活動　次に獨逸の方では十何年も英國には遲れて、中央に學會の出來たのはたしか千八百九十年であつたが、その代りには全國の各地に、同種の團體が相競うて無數に出現し、そのうちの若干は各自年報を出して居た。世界大戰の直後に當つてこの?態が大改造を加へられ、今では民間傳承を採集調査する協會が、一つの大聯盟を作つて共同の活躍をして居る。これに統一せられて居る大小の會が、百七十いくつといふ驚くべき數になつて居る。ひとり獨逸一國のみならず、墺太利を始めとし、チエッコスロバキヤ、?牙利、瑞西其他の國の日耳曼《ゲルマン》部に於ける同種の學會は皆これに加入し、現にその總裁は獨逸人でなく、バアゼル大學のホフマン・クライエル教授が初からこれに任じて居た。この合同の效果は可なり大きなものであつたらしい。學者には勿論立場や意見の差はあらうが、資料は客觀的の存在だから個々の學者の個性に左右されることなく、豐富に容易に且つ精確にそれが採録せらるればよいので、これには相互の暗示といふことが非常な便宜を與へ、所謂遼東の豕もなければ猫に小判の弊害も少なくなつた。自分だけが何か知つて居るから、自分だけで何かの結論が下されるだらうなどといふ、愚かな誤謬に陷る者も居なくなつた。同志の戮力と知識交易の恩惠はまことに偉大なるものがあつたが、これなどは決して事新らしい眞實でもなんでもない。他の多くの科學に於ては、とつくの昔から既に行はれて居たことで、偶然に割據の運命にあつた郷土史の學問のみが、今まで幾分か大勢に後れて居ただけである。

　その特色　獨逸の地方學の特色は色々あるが、一つの注意すべきことは民間の言語藝術、分けても單語や句法の發(294)生に、人間の意志と力とを認めたことであつた。英國では方言は別の學者の別の事業の如く今でも考へて居る者が多いが、獨逸では後に述べようと思ふグリム兄弟の感化もあつたか、郷土の言語現象を所謂民間傳承の中に算へ込んで居る。方言は概ね無意識の保存であつて、またその使用者だけはよくその内容に通じて居るから、これを他の採集の標的とし、もしくは索引の目安とすることは便利である。さうしてこの邦には早くから、物とその名稱とを不可分のものとして、一緒に採集して行かうといふ運動も始まつて居たのである。それが前申す如く大聯盟を結成すると共に、俄然として觀察の視野を擴大し、郷土の歴史と民族全體の歴史とが、互に相映發し且つ相支持して、進むことになつたのは大改良であつた。全體歐羅巴の國家は、政治上の國境と人種言語及び感情の國境とは同じでなく、人はこれを越えて往來しまた縁組して居た。日本にはそれがないけれども、少なくとも國内の遠方だけは、それぞれに郷土の境を越えて、互ひにこの道筋を通つて協同し、また近より知るべきものであつた。しかるにそれの出來ない割據の時代が餘りに久しかつたために、今でも國内各地一般の事情を自分の土地を以て推斷し、同時にまた或一つの長所を以て、我郷土史のみの誇りとするやうな癖が止まぬのである。

　佛蘭西の概況　次に佛蘭西の現?をあらまし述べると、この邦の學問も日本と同樣に、實はあまりまだ統一せられて居ない。フオクロアの學會は英國に次いで早く起つたけれども、これに最も多く働いて居たボウル・セビオといふ學者が前年死んで、その機關は全く眠つて居た。最近に再び雜誌を出すと言つて、我々の方へも案内は來て居るが、誰が今度の中心になるのか、私はまだ聽いて居ない。セビオは佛國民間傳承といふ四卷の大著の著者で、その志は國の全版圖にあつたが、彼自身は北部の人であつた。その採集は故郷のブルタアニュに限られ、その感化も亦その區域にしか及ばなかつた。さうしてこの邦ほど東西南北の種族と生活事情が、相異なる所も稀なのであるが、今以て地方の熱心家は不完全な連絡を以て、半割據の?態を續けて居るらしい。?ン・ジェネップといふ民間の學者がある。この人はセビオと正反對の、東商瑞西に接したサボアの山地の出身で、あの方面の傳承は周到に調査して居り、また追(295)隨者も相應多いらしく、今では巴里に出て民族誌評論（ルビウ・デトノグラフイ）といふ雜誌を出して居る。近頃日本でも認められ始めた地方主義、もしくは劃地研究法（レジオナリスム）といふ名目は、主としてこの民間學者が唱導したので、これは或は中央の大家たちの、坐ながら概括論をしようとする學風に反抗したのかも知れぬが、論法の精透な割には、今以て國の學問の實地には適用せられて居らぬやうに見えるのである。

　巴里の學者　遠慮のない批評をすると、巴里の學者は他の二國の學者よりも少しく無精なやうである。これには自分の國の屬領が限られて居て、調査に出かけても張合がないためかも知らぬが、一つはあの國の氣風だと見えて、瑞西のやうな海なき國にも、また植民地を全部喪失してしまつた獨逸墺太利にも、何かの機會を作つて出て行つてよその異民族の、現地調査をして見ようとする人が段々ある。國内を歩いて見ることも、巴里の學者は昔からあまり好きでなかつた。さうして集まる限りの各方面の資料を利用して、廣く世界を論じようとする御國風であつた。それだから一部の見にとらはれず、たゞ自分の知つて居るだけの事實を基礎にして、めくら蛇の獨斷に陷らぬのだと言へば言はれるが、一旦國内の文化史のやうな、特殊の實驗を必要とする項目に當面すると、人からこの通り地方主義、もしくは劃地研究法を主張せられても一言もないといふ結果になるのである。この點も日本が幾分かあの國に似て居る。似て居てさうして今少し未熟である。

　

　　　　　自他内外二支れの學問

　

　差別分界　?ン・ジェネップの書いたものを讀んで見ても、彼が民族誌評論といふ雜誌に、國内の民間傳承を併せ説いて居る如く、佛蘭西ではまだ一般に、民族誌學（エトノグラフイ）及び民族學（エトノロジイ）と、我々の謂ふところの郷土研究、または英國でいふフオクロアの學問との、差別分界がはつきりして居らぬやうである。ところが獨(296)逸語の領域に於ては、少なくとも名稱の上では、もうこの二つはちやんと對立的のものになつて居て、後者即ち自國人が同胞の間の傳承を採集調査するのがフオルクスクンデ、前者即ちどことなく弘く他民族の生活を記述するものがフエルケルクンデと呼ばれて居る。二語はフオルク即ち國民といふ語の、單數と複數であるが、縁は近くとも同じものでなければこそ、かうして別々の名が付與してあるので、つまりは自國同胞の生活の痕を尋ねる場合と、よその國民の生活を記述する時とは、用意も別なれば可能性にも差等があり、更にまた目的も同一でないことを意味して居る。英、佛の學者とても決してこの相異を無視するわけではないのだが、つまりはまだ適當なる用語が考へ付かれぬまゝに、心持では二通りに見分けながらも、それを明晰に表示し得ないばかりに、折々は今でも日本のやうな飜譯國民を迷はせて居るのである。

　名と實　獨逸人が發明したこの自他内外二つの學問は、實際適切なる譯字の選定に難儀をする。私はかりにフオルクスクンデの方を一國民俗誌學、または日本民俗誌學、今一つのフエルケルクンデを萬國民俗誌學、もしくは誤解の虞がないならば比較民俗誌學と名づけて置いて、他日もつと好い語があつたら取替へることにしようと思ふ。さうしてこの知識が十分に整理せられ、一つの體系を以てこれに臨むことが出來、たとへばフオルクスレエレといふ語が用ゐられてもよい時節が來たら、始めて我國でも堂々と日本民俗學と名乘つても、未だ必ずしも遲しとせぬであらうと信ずる。それよりか問題は主として内容實質の如何に存する。幾ら提灯の紋ばかり鮮明にして見ても、まごついて隣の家に飛びこむやうなことでは、物笑ひ以外の何物でもない。我々は、記録文書の歴史をもたぬ天が下の諸蠻民の過去世が、すべてこの郷土研究の方法を以て探尋せられ、自他平等に一つの世界民俗學の對象となるべき日の、究竟は到來することを信じ且つ望むものであるが、現在の事實は遺憾ながらそれからはまだ遠いのである。

　外表と内面　日本人が自ら我民間傳承を採集し記録して、これを各自の祖先の活き方を知る手段にする場合と、たとへげ我々が高砂族の現?を觀察し、或は白人がスワヒリやエスキモオなどの生活誌を報告する場合と、どれほど違(297)つて居るかはたつた人目見れば判る。先づ第一には異郷に入つて行く者が至つて少い。旅人はたゞ有形の文化の、目につく一部を筆にして去るが、それでもあまり行かぬ所ならば珍らしがられ、少々は法螺があつても今までは摘發せられなかつた。かういふエスノグラフイが實はまだ大切に見られる程度にしか、普通人の異國知識は進んで居ない。それから稍々深入をしたといふ更に少數の熱心家が、暫らく一地に駐まつて土人の言語を學び、これに由つて若干の言語藝術と、これに伴ふ演奏とを採集して來るのが第二段であるが、これとてもまるで系統のちがつた西歐の或國語に、譯して見せなければ何人にも解らず、しかも筆者自身が日常の會話には通じても、謎や唱へごとや物語に用ゐられる古風な言葉には註釋を必要とし、相手はこちらが呑みこめる程度にしか説明しない。ましてやその音調の運んで來る複雜なる聯想、乃至はその背後に潜んで居る感覺の微細なものに至つては、仲間でも少し遲鈍な者には呑みこめぬくらゐだから、外から來た者に氣付かれよう筈がない。南太平洋の孤島に四十年の月日を送つたジョオジ・ブラオンの如き、褐色人の父と言はれた人でも、果して耶蘇教をきらつて山林の間に竄れて居た生粹の島人の、喜怒哀樂の理由までが解つて居たと自ら信じて居たかどうかは疑問である。私の謂ふところの萬國民俗誌は、地域が宏大だから文獻は既に豐富以上であるが、その一つ一つを見るとかくの如く稀薄に、肌膚には觸れて心髓を逸して居るものが多いのである。

　言葉の垣　歴史家を同胞種族の間に有せず、他の目的ある異人の筆の跡を透さなければ、確實に自分たちの前代をも知り得ない未開人の、氣の毒千萬なる點は茲に存し、これとは反對にいつでも志さへあれば、自在に自分たちの生活の痕が尋ねて行かれる我々の悦びも亦この裏面から覺り得られる。人類の言語の垣根といふものが存する限り、如何なる時代が來ても史學が國民的でなければならぬ理由、國の歴史と外國歴史とが、よく似たものでありながら終始二分れに、研究せられなければならぬのもこのためであり、それと同時に人に頼んで、自分の郷土史を明らかにしてもらふことの、結局は望み難い事情も亦この間に横たはつて居る。これが單なる測量や寫眞のやうに、外から見て取(298)つたものだけを咀嚼してよいものならば、ちやうど隣へ來てゐる馴れた人を頼まうといふ場合もあらうが、程度こそは違ふが同じ國内でも、遠方の人には自分たちのことはよく呑みこめない。それでもぢつと心を落付けて、土地に生れたやうな、同情を傾けて聽いたら解らぬ筈はないわけだが、旅人には旅人の心理がある。五年三年の寄寓者の孤立には、通例は觀るよりも人から觀られる方の心もとなさが多く、人もまた一郷一家族どうしが、互に無言に會釋しあふやうなものを、彼等に向つて示さうとはせぬ場合が多い。ましてや以前日本に行はれてゐた土俗學などといふものは、曾て白人が赤黒褐色の國に携へて行つた態度を以て、この自國同胞の上に臨まうとしたのである。我々の久しく説いてゐる個々の郷土研究とは、殆と似た所の一つもない、亂暴極まる調査法であつた。さういふ採集によつて齎らされた採集記録が、補充も改訂もなしにそのまゝ利用せられてよい道理がない。だから新たなる日本の郷土研究は、改めてまた採集から取掛らなければならないのである。

　

　　　　　學問の相互映發

　

　グリムの功績　私の爰に謂ふ採集記録、即ち今後の郷土史のために、是非とも用意しなければならぬ新史料のことを、始めてフオクロアといふ名を以て呼ぶやうになつたのは、今から八十餘年前の西暦千八百四十六年のことだつた。英國ではこの人望ある世界單語の本元であつた自慢から、ついでにこの事案それ自身も、自國が元祖である如く思はうとして居るけれども、これには同意をしない國が相應に多いやうである。先づ第一には競爭者の地位にある獨逸、あそこではグリム兄弟の方が英國の人よりも早いと言つて居るが、これは尤もな話と評してよい。グリムは諸君の間には、或は巖谷小波のもうちつと古いものくらゐに思つて居る人があるかも知らぬが、彼は發見者であつて作家ではなかつた。グリムの有名なる兒童家庭説話集（K・H・M）は、今でも採集記録の手本にしてよいほど、精確にして(299)且素朴なる聞き書きであつた。この書が世に出る前にも獨逸の少年たちは、各自その一部分づゝをやゝ取り止めなく、聽いて記憶して居たことは事實であるが、それを限なく全國を探り求めて、後世萬人が利用し得る形に、保存してくれたのはグリムであつた。その上に彼等はこれを研究して居る。弟のヤコブ・グリムが有名な獨逸神話論を公にしたのは、千八百三十五年であつたが、その前後にかけて段々に書き添へて行つて、死後の今日までずつと續いて居る各國民譚の比較考證（アンメルクンゲン）がまた大變なものである。フオクロアといふ語を發生した國でも、勿論それ以前から同じ採集は始まつて居た。しかし唯こんな奇妙な事實がある、かういふ變ちきりんな言ひ傳へを持つて居ると、よそ事のやうに紹介して居たのとは違つて、此方は何でもこの方面の觀察の中から、大よそこれだけの事は明かになつて行く筈だと、あらまし計劃を立てゝ取掛つて居たのである。

　相互啓發　グリムは一方には人も知る如く、言語學に於ても鬱然たる大家であつた。これまで書いたものには傳はらなかつた獨逸語の歴史を、現實に今の世に行はれて居る事實を資料として、比較によつてこれを跡付けて見ようとした方法の創始者と言つてもよい。少なくとも田夫野人の言行なるが故に、これを未開地の土人のそれと同樣に、外部の事實の如く處理しようとはしなかつた。言はゞ内省派とも名づくべき史學の開祖であつた。嗣いでその道を祖述する者が乏しかつたのだから、一歩先だつたと言ふことは決して誇りにはならぬが、兎に角に英吉利が第一着といふやうな説には、反對してよいだけの理由にはなる。英國にもグリム協會は早くから出來て居た。さうしてこれがあの國のフオクロアの發達を助けたことも少々ではないやうである。しかしそれと同時に今日の獨逸の民間傳承研究が、新たに英國の學風の好い感化を被つたこともあらそはれない。彼等は近いから諸國互ひに聲援し、容易に今日の一般機運を促進したのである。外から學んだといふことは格別の恥でもないのであつた。

　發端と擴充　ところが人情はをかしなもので、瑞典でもこの頃は、民俗採集の活動は自國の植物の大家リンネが既に始めて居る。グリム兄弟などよりはまたずつと古いと言ひ立てゝ居る人がある。ぢかに平民からものを聽くこと、(300)文書以外の史料を粗末にせぬといふことは、文獻の乏しい國や時代には當然の話で、現にその東隣の芬蘭《フインラソド》などでは、今囘獨立するまでは露西亞語以外のものを學問に使ふことは許されず、一切の古い事は外國語によつて讀むの他はなかつたので、從つて國民の間に傳はつて居る歴史などは、その全部がフオクロアであつた。こんなことを言へばプリニウスやパウサニオス、さてはヘロドトスもクセノフオンも、すべて郷土研究の鼻祖であつたと言へるし、日本でいふならば千二百年以前に稗田阿禮の暗誦したものを筆記した、太安麻呂などがリンネ、グリム兄弟よりも更に早いと主張し得るかも知れぬ。たゞ古かつたといふだけでは何にもならぬのである。さういふ採集がいつまで續き、且つ時代時代の要求に適應して、順次に問題のある方面に擴充して行かなければならなかつたのである。獨逸に於てもグリム没後、彼の喚起した學問上の興味は、一旦案外な方へ奔馳して行つて、採集の事業は寧ろやゝ久しく、反動的沈滯に陷つて居た。それが近頃に入つてまた新たに振興して來たのは、やはり亦ゴンム、ラング、フレーザーなどゝいふ英國學者たちの刺戟であつた。

　

(301)　　　　　我國郷土研究の沿革

　

　　　　　　　この學風の芽生え

　

　玉勝間より　日本でもかういふ學問の風が芽を吹きかけたのは、相應に古いことであつた。私は本居宣長翁の玉勝間を讀んで見るたびに、先生の着眼點の甚だ凡ならず、夙に國民の歴史が今日の一轉囘期に、到り向ふべきことを洞察して居られたのを驚嘆すると共に、然らば何故にその生涯を古典訓詁の業に傾け盡して吝まれなかつたのかを訝しく思ひ、且つは時運といふものゝ學者を支配し、または指導する力の大きかつたことを感ぜずには居られなかつた。玉勝間の中には一箇所ならず、次のやうな感想がしみじみと述べてある。たとへぽこの隨筆八の卷、萩の下葉の冒頭の一節に、

　　詞のみにもあらず、萬づのしわざにも片田舍には、古へざまのみやびたる事の殘れるたぐひ多し。さるを例のなまさかしき心有者の立まじりては、却りてをこがましく覺えて改むるから、いづこにもやう／＼に古き事の失せ行くは、いと口惜しきわざなり。葬禮婚禮など、殊に田舍には古く面白き事多し。すべてかゝるたぐひの事共をも國々のやうを海づら山がくれの里々まで、あまねく尋ね聞き集めて、物にもしるし置かまほしきわざなり。葬祭などのわざ、後世の物知り人の考へ定めたるは、中々にから心のさかしらのみ多くまじりて、ふさはしからず、うるさ(302)しかし。

　とあるなどは、最も多くの讀者の印象を受けてゐる卓見であつた。これ以外にも言葉や歌謠や慣習などの注意すべきものが、所謂偶然記録として各卷に揚げてあるが、先生を始め門流の人たちも、一向計畫的にこの採集を試みた者はないのみか、さういふ資料がこの隨筆ぐらゐより外に、集まつて居るものもさう多くないのである。

　片手わざの物好き　察するに伊勢松坂の本居先生の書齋へは、多數の知識慾に燃えた青年が四方から集まつて來て、たまたま異なる遠國の人どうしが落ち合つた場合などは、話はどうしても各自の郷土の生活の比較になり、普通の好奇心のある人ならば、耳を傾けまたは筆記せずには居られなかつたのである。近頃私は江戸の聖堂の儒者、松崎慊堂の日歴の活刷になつたのを讀んで見たが、この人も筆の達者なことは無類で、漢文ながら地方の色々の珍しい事物を、可なりの精彩を以て書き殘して居る。この種の採集は本居翁も言はるゝ如く、早いものほど價値は多いのである。これがかういふ他の任務に忙しい人の、片手わざにしか傳へられなかつたのは、何にしても惜しいことであつた。本居先生以後の國學者の中にも、伴信友翁などは書物以外の事實にも、隨分よく注意した人であつた。少なくとも若狹一國のことだけは進んでも問合せ、見にも行かれたらしい記事が所々に散見する。それから神名帳考證土代に見える黒川春村の記述、これなども永い間心掛けて、追々に實地から收穫して來た大切な資料であつた。平田篤胤なども地方人の話を悦んで聽き、殊に幽明界の實驗などゝいふ類は、無教育な者の言をも馬鹿にせぬ美�ｺはあつたが何分にもこの人には、かねて主張せんとする説が既に存し、事實は唯その證據になるものを選び拔いたので、歸納を詮とする我々の態度とは一つでなかつた。この派の人々には明治の世に入るまで、その志を繼がうとした宮脇定雄、後醍院眞柱といふやうな人が少なくはなかつたが、兼ねて神道の幽玄を説かうとする成心があるので採集が普遍的ならず、却つてたゞ物好きの何でも書き集めて置いてくれた、順序も立たぬ偶然記録の方が、我々にとつては有難いことにさへなるのてあつた。これが隨筆といふ一部類の書物の、日本ではまだ見縊れない理由であると同時に、人が我々の學問を(303)閑人の閑つぶしのやうに考へて、時としては「まことによい御道樂で」などゝ、御世辭のつもりで言つて呉れるといふやうな遺憾な原因でもあるのである。今日は學問を道樂にしうる時代ではない。我々は一日も早くこの誤解の中から出て行かなければならぬ。

　

　　　　　計畫的採集の試み

　

　風俗間?　これといふのが民間傳承の價値を、本居翁の如く確認した人はありながら、自らその勞に服して完全なる採集記録を作つて置かうとした人が、今まではなかつたからである。ところが珍しいことにはたつた一つ、獨逸のグリム兄弟などゝ略々同じ頃に、日本でも計畫ある民俗の採集に着手した例があつた。江戸期も終に近い文化の十三四年頃、江戸では屋代弘賢を中心にした一群の學者が、諸國風俗間?といふ小册子を印刷して、これを各地方の知人に頒ち、その答信を求めようとしたことがある。屋代氏は輪池と號し、書家としてまた藏書家としても有名な人であつたが、一方には幕府に仕へて寺社奉行手付といふ、可なり田舍の人には押しの利く地位にもあつたから、多分さういふ關係をも利用してなるべく全國的に、多くの報告を集めようとの企てがあつたことゝ思はれる。民間の學者としては石原正明、中山信名などゝいふ人もこれに關與し、この人たちも交際が廣かつたらうから、この帳面は可なり數多く、發送したものであらうと思ふ。しかし殘念なことには、屋代輪池が天保十二年に高齡を以て物故するまでには、その返事はいくらも集つて來なかつたらしい。今日殘つて居るもので私などの知つて居るのは、秋田風俗問?答といふものが内閣文庫にある。那珂通博、號を青峯といふ人が主としてこれに與かり、これは彩畫入りの親切な記事で、秋田にも流布して居るから一つの成書である。次には備後禰山領の答書、これも立派な繪入で、菅茶山を始め福山志料の編者等が餘力をこれに注いで居る。その他には越後長岡領のことを書いて北越月令と題したやゝ不完全なものが(304)一册、先づ三種しか殘つて居らぬらしいといふことを、私は故井上頼圀翁に話したことがあつた。ところが井上翁はいやわしの所にも一つある。貸して上げようと言つて見せられたのが三河吉田領の風俗答書で、これは本居派の學者中山美石の筆に成つたもので、果して屋代氏へ屆いたかどうか知らぬが、山崎美成といふ江戸の學者が、寫し取り且つ朱書を加へて居る。それから丹後の峯山領のものは、その後になつて私が發見し、原本は既に先年の震火災で燒けた。これなどはまさしく寺社奉行手付の威望によつて成つたもので、五六箇寺の住職が相談しそれに村々の庄屋の申し口を加へたものだが、寺家だけに在家の風儀には詳しからず、また到頭出さずにしまつたものと思はれる。次に越後の北越月令は不完全だと言つて新潟附近の學者青木定計といふ人が、これを増補した自筆本が縣立國書館に保管せられて居た。これも所々に餘白を殘した未成品であつたが、私たちが勸めて謄寫版にして先年その若干部を頒布した。土地の人が細讀して見たならば、懷かしくてたまらぬやうな綿密な記事が多い。

　その缺陷の教訓　これ以外には大和の高取領のが一つ、若狹の小濱領のものがまた一つあることだけは確かに知れて居るが、私はまだ二つとも見たことがない。九州や四國にも少しは出來て居て、それがたゞ世に知られて居ないのかもわからぬが兎にかく昔の人は氣が永くて、かういふ新しい試みにも、反響は先づ小さかつたのである。それに我々に取つてはまことに好い經驗であつたが、この江戸學者の問　　状は如何にも用意を缺いだものであつた。かりに全國數十箇所から、響きの聲に應ずるが如く立ちどころに返事が來たにしても、さう充分なる成果の期し難いものであつたといふ理由は、この問題として提出した江戸町方の年中行事などは、最初から偏した又混合したものであつたからである。關東地方の風俗は少しは下地をなして居ようが、これに三河だとか駿府だとか、または京都あたりの分子を加へ、各藩邸はまた自分の御國風を守つて、それぞれの出入の者を感化して居た。

　江戸に保存せられて地方に忘れてしまつたものも若干はあらうが、別に破魔矢や火祭等の如く、田舍の或部分にだけしか傳つてゐないものも中々多い筈である。それを江戸人の認めてゐる項目に由つて、これはあるかこれはどうな(305)つてゐるかと尋ね問ふこと、まるで近頃の方言採集家が標準語を掲げてその對譯を聞くやうな態度では、幸ひに雙方を知つてゐる有教育者しかこれに答へることが出來ぬ道理である。丹後峯山の和尚たちにあらずとも「左樣の儀承知不致候」といふ答を、くり返さずには居られなかつたことゝ思ふ。郷土以外に住する外部採集家が、往々にして豫斷を以て事に臨み、結局大切なる新たな暗示だけを、取遁がすことゝなる弊害は、この百年前の風俗問?が先づ以て教訓してくれたのである。郷土が自ら鑑み自ら知ることの必要は全くこの幾つかの經驗の賜であつた。

　學問の一轉囘期　日本のやうな資料の豐富な邦では、遲い早いは必ずしも大きな問題でないかも知らぬが、折角志を立てゝ着手した事業が、嗣ぐ者無くして後かへつて衰へたことは、幾分か我々の不面目でないとも言へぬ。屋代石原氏等の風俗問?が、如何なる動機に基づいたかは今考へ難いが、あの時は兎に角新らしい疑問の、數繁く江戸の學者を刺戟した時代ではあつた。或は學問の一轉囘期とも言ふべきであつたらう。漢學の方でも一通り古史經書の訓釋と考證とが終つて、才能ある者は次に眼前の社會事相を、評論するやうな機運にまで進んで居た。他にも色々の著述があつたらしいが、村瀬栲亭の藝苑日渉などは、私も少年の頃に愛讀した書物で、これがちやうど又文化の初年に公にせられて居る。勿論漢文で何事でも書けるといふ手腕が、一方では嘆賞せられて居たに相違ないが、これは同時にまた京阪地方の市井雜事、殊に衣食住の卑近なる生活ぶりを、仔細に觀察した内容そのものが大いなる興味であつたのである。江戸の方では更に學問が町人の間にも普及し、屋根屋疊屋の親方とか、煙管屋の隱居とかゞ、博識なる讀書家でもあれば、棄て樣式化してしまつた舊學風の破壞者でもあつて、武士が縉紳僧徒から取上げた學問の特權を、次に一般平民に引繼がしめようとする橋渡しの役をつとめ、それに江戸傳來の所謂やつこ魂が、少しばかり加味して居た。だからあの當時の隨筆文學などといふものは、何れも雜然たる研究斷片の掃溜に近いものだが、尚且つ過去觀照の視野を擴め、後代のために未墾の沃土に荒犂だけは入れて行かうとした、意氣込は窺はれるのである。人のよく知る瀧澤馬琴の玄同放言・燕石雜志の類は、まだまだ衒學風の臭味の高いもので、支那の舊書に據つて日本の生活を(306)説明しようとするやうな、無法な物知り氣質を平氣で眞似て居るが、しかも題目を凡人日常の疑問とするところのものから選び出して、これに答へんとしたのは進歩であった。その他磐瀬京傳の骨董集や近世奇跡考、高屋種彦の還魂紙料・用捨箱等、當時自ら戯作者を以て任じて居た人々のみが、特にこの現實の社會相に、注意を拂ひ且つその由来を尋ね説いて居たことは、私には何か意味のある事のやうにも思へる。つまりこの人々は誰よりも早く、観察が學問の大切な一部であることを覺つて居たのである。

　嬉遊笑覽　かういふ中でも私たちの特に推服して措かぬのは喜多村?庭の嬉遊笑覽であった。この一著のみはほゞ隨筆漫録の域を脱して、系統ある一個の専門書と目することが出来る。明治以後この書を活版にして世に行ふ企ては何度かあつたが、どれも校訂が粗末で、誤脱はあり、また引用文と細註とを混同したりして居るので、愛讀を妨げて居ることが甚だしい。そのために著者の功績が埋れて居るのは残念である。「嬉遊」は元来小兒の生活といふ意味で、最初は主として彼等の遊戯と玩具、もしくは童言葉や歌や昔話等を中心にして始めた研究らしかつたが、それがだん／＼出て行つて葉子餅その他の食物、住居の結構から衣服、女の髪かたちにも及び、または市街の物賣り見せ物、劇場色町の事も取入れるやうになり、後にその順序を立て直したらしいために、著者の本意は書名にしかこれを窺ひ得ぬやうになったが、兎に角に所謂大人君子等の齒牙にかけぬ事項のみを、選りに選つて、わざと問題にしたことは爭はれぬのである。

　學問の新意匠　この書の特色は他にも幾つかある。日本の中古以降の雑著、殊に繪卷や册子もの、俳諧の集などから豊富に資料を引くことは、骨董集以下の戯作者の隨筆もみな試みて居るが、嬉遊笑覽のみは問題が先づ定つて居り、選り食ひでなかつただけにその捜索には竝ならぬ勞苦が拂はれて居る。俳諧が我邦文藝の一つの變態産物であって、最初から固い學問を好まぬ人ばかりに持て囃され、同時にまた如何なる民間の卑事小事をも、採つて文字にしようとし、且つさうすることを生命としてゐたものであるのを知つて、その中からならば問題の多くの暗示が得られること(307)を、最も明瞭に意識したのもこの人であつた。この態度は他の?庭雜録、殊に畫證録などの著によつて察せられ、さうしてまた後々他の方面の學者の感服し且つ追隨するところでもあつた。唐天竺の書物は類似の現象の比較参考にはするが、典據は専ら國内の舊記中でも最も現在と縁の近い近世の記録の中を、一つの計畫を以て渉獵しようとしたところに、方法學上の新意匠と、功績とは認められなければならぬのであつた。

　

　　　　　弱點の模倣

　

　新たなる啓發　嬉遊笑覽の一書を讀んだゝけで、誰にも心付かれる大きな事實は、同じ江戸の町の僅か二百年そこ／＼の歳月の間に、前と後と著しい風俗行事その他の變化があったことゝ、それが大部分は如何なる學者先生にも、注意せられず記述せられずに、たゞ暗黙の間にのみ推移して居たといふことであらう。今日でも若干の自稱研究家は、聽く人が何でも感服してくれるのを奇貨として、忽ち根源に関する一つの記録に據つて、その今日ある所以を解説してやらうとするのであるが、これは常人の國史を理解しようとするものにとつて、非常に大なる妨碍だから除かねばならぬ。單に或一度の古い存在理由が教へとなつて、後の千百年の變遷過程、殊にこれを現實とつなぐ連鎖が無視せられてよいものならば、個々の郷土史などは研究はさて措き、その名を稱へるだけの必要もないわけである。嬉遊笑覽の喜多村氏が、主として書籍だけでは起原も定かならず、しかも我々の毎日の疑問となって居る平凡極まる事實を先づ考察しはじめたのは、あの時代としては外國にも例のない新たなる啓發であつた。

　半面の弱點　唯その半面の弱鮎を指摘するならば、それは注意が餘りにも江戸といふ一郷土に傾けられ過ぎたことである。問題の選擇が市街地の雜事のみに偏して、幾分か人の意表に出ようとした嫌ひがあつたために、これに動かされた者は却つてその弊害の方を先に模倣した。遊里劇場の生活は以前にもすでに文獻が豊富であつて、所謂昔を探(308)る者の功をたて易い區域であつた。それがかういふ穿鑿をしてゐても、尚文筆の事業と名づくるに足ると知つて、いつの世にも盡きないエロチックの好奇心を、此方に導いて行かうとしたのも自然である。その御蔭で折角起りかけた民間の學問は、狹隘なる花柳の巷に停滯して、普通の男子の修養の片端にも算へられなくなつたのみならず、寧ろあべこべに生眞面目なる渡世者や田舍の朴念人が、輕笑せられるやうな趣味を普及させたのであつた。これは獨り喜多村?庭一人、又は彼の時代だけの罪ではなかつた。遠い過去には遊女俳優は民間に於ける美しいものゝ代表者、技藝長養の機關であり、男女情操の最も優雅なる表現形式として、多くの風俗研究者から仰ぎ望まれた時代もあつた。即ちこの一面を透して社會文化の特質、複雜なる趣味好尚の趨向を知る途もあつたから、全然これを看過しては今と將來とを考へてみることが出來ないと言ひ得たらう。然るに現今は世相が既にあらたまり、色里は日蔭のもの、遊女はたゞ憫むべき肉の器械とまで零落して居る。それをものものしく尋ねて行く必要などは更にないのであるが、今以て軟文學や遊冶郎文學の「研究」せられて居るとは、全くこの一つの餘弊であつた。我々は乃ちこれに由つて、所謂偶然記録の渉獵にも、豫め取捨の用意がなくてはならぬことを經驗したのである。

　採集の志　併しながら嬉遊笑覽などの古文獻利用は、一方に新たなる採集を誘導して居る。?庭は家に信州から出て來た飯炊き男などを置き、その口から稀に田舍の話を引出してゐる他に、或は親族の老女に聽き、または自分の幼時の追憶を辿つて本からは獲られない比較の資料を積み重ねようとして居る。不完全には相違ないが兎に角にその志だけはあつたのである。然るに近世は故老を尊奉することは昔に勝るけれども、それから聽かうとするものは維新政變の自慢話か、單なる個人の成功のやうなものだけで、歴史は依然として書いたものさへあればよしといふ感が失はれない。一つの例をいふと日本社會事彙、名前ばかりは誰でも是認するが、中に書いてあることはちよん髷時代の、江戸の學者が書き集めてゐたものゝ轉載であつて、その後更にそんな舊資料を積み添へたものはあらうが、新たに我々が自分で知つたものは洩れて居る。さういふことで日本の社會が知り得られ、不斷に出現してくる凡百の疑問が、(309)文庫にさへ入れば解決できるものと、果して多くの先輩たちは思つてゐたであらうか。思つてゐなかつたとすれば餘りにもその行動が無責任であつた。

　

　　　　　新氣運の黎明

　

　郡誌縣誌の編纂　明治の四十五年間はかくして暮れたが、大正といふ年に入つてきてから、少しづゝ我々の天地は明るくなり始めた。故大正天皇樣がまだ皇太子殿下でお出での頃に、軍艦に召して全國の各府縣を御巡歴遊ばされたことがある。その際の地方では何を鶴駕奉迎の記念物にしようかと、色々評議した末に多數が思ひ立つたのは郡誌縣誌等の編纂であつた。それが急造で一二年の後に出版獻呈したものもあれば、中にはひどく念入りで郡役所廢止の頃になつて、辛うじて世に出たものもあるが、兎に角に以前一二の土地のみに小さなものがあつただけの郡誌が、この時を境にして忽ち全數の四分の三に近く、各々數百頁から千頁以上の大册が公刊せられたといふのは大きな事實であつた。これが悉く統計表の再録や、官衙文書の編纂ばかりでなく、中には辛苦して各村の舊記録を集め、それを何人にも得易く讀み易い形に保存してくれたのも多かつたが、何にしても管内の住民が自らこれを讀むならば、こんなに金をかけ人の力を費しながら、まだ自分たちに屬する昔の事などは一筆も書いてはないぢやないかと、感ぜずには居られないものばかりであつた。是は惡口にも近いが、前に無遠慮にこれを直言しておいた。即ち郷土史の世に存すべき理由は認めて、しかも今ある方法ではまだ力が及ばぬといふことを人に感ぜしめた、消極的の效果だけしかなかつたといふことになるのである。

　採集の要望　つまりは在來の資料の缺乏を補ふべき採集の事業が、まだ發達しなかつたことを意味するのである。一番最初にこの弱點を意識したものは、各郡町村の教育者の團體であつたらう。彼等の辛苦は人々により土地によつ(310)て差等はあつたが、兎に角に一人として今ではその必要を説かざる者はなくなつた。これが一般の傾向でなかつたならば、如何に事を好む文政當局なりとも、突如として郷土研究の必要を全國に説く筈はない。形は中央の方針であつても、その實は地方の一般的氣運がこれを喚起したのであつた。しかも實地の採集となると、これは第二の問題になつて來る。通例郡教育會などの熱心なる會員が申し合せ、手分けをして村々の採集をする場合には、時として文化年間の諸國風俗問?とやゝ近い弊害に陷らぬとも限らなかつた。即ち問を出すものは豫め各地に存する事實を察することができず、問はるゝものは先づその箇條だけに對して、あるだけは報告するが、その他は「左樣の儀無之候」と書くだらう。さうすると標準語を掲げてこれに對する方言を聞くと同樣に、今まで人の知らなかつた物の名や動詞形容詞の、社會事實として更により重要なものは脱落して、しかも一通り採集は濟んだといふ印象を與へずにはゐないのである。

　個人採集家の成長　それだけでなく個々の採集者の感覺もしくは經驗如何によつて、全然同種またはごく類似の現象でも、精粗別樣に受入れて來ぬと限らぬ。具體的にいふと一つの俗信または祭式のやうなものでも、それがその地方としてありふれたることか、又は國全體に亙つて稀有のものであるかを、少しでも知つて居ると否とによつて注意にも強弱があり、またどの點を特に細かく知つておくがよいかの加減も出來るわけである。つまり採集者に入用なのは、たゞ空漠なる興味だけでなく出來るなら少々の豫備知識があつた方が結構なのであるが、これをさう多數の同志者に望むのは無理であつた。殊に動植物などの採集とは違つて、齒朶なり蝶々なりのたゞ一種だけを追ひまはして居るやうなわけには行かず、何を見るにもそれと關聯してゐる周圍のものを、一緒にして採つて來なければ、正しい解説が得にくいとなると、この技術はやはり囘數を重ぬるに從つて、實地によつて次第に、到達すべきものであつたのである。それで私などは一方に地方の個人採集家の成長といふことに對して、蔭ながら絶えざる聲援を供し、自身少しでも早くその報告を利用して野外作業の勞苦の徒爾でなかつたことを知らしめることに心掛けると共に、一方には(311)出來る限りそれ等の採集を刊行し、又これを遠く離れて住む同志者の間に紹介して、將來の協力を勸めて來た。時機がちやうど熟してゐたからであるが、今やさういふ好い素質を持つた觀察記述者が、多くはないけれども大抵どの府縣にも二人や三人は指折り算へられるまでになつた。個々の郷土にさういふ人が追々出てきて、それが私などの仲立を要せずに、遠近たがひに激勵しまた信頼して行くやうになつたら、もうこの採集記録も遠からず、さう面倒なものではなくなることゝ思ふ。

　

　　　　　新たなる活動への準備

　

　「郷土研究」の頃　今から約二十年前の大正二年に故高木敏雄氏が日本にフオクロアの調査を盛にせんとし、私がそれを助けて「郷土研究」といふ雜誌を出した頃には、實際をかしい位この採集が進んでゐなかつた。古い人類學會誌やその他の定期刊行物に、時々は地方の篤志家の報告が出てゐたのであるが、何れもきれぎれでまた所在すらも知り難かつた。郡誌もその際はまだ出來てゐたものが少く、その僅かの記述すらも利用し得なかつた。それでせん方もなく自分たちは漸く喜多村氏の故智を襲ふのみであつた。今日古いノートを取出してみると、大變な時を費して書拔いてあるものは、その大部分が所謂偶然記録の、舊時代の著述に散見するものであつた。これを殆と唯一の材料にして、私たちが求めてゐた平民の昔が、さうありありと見えぬのは當然であつたが、尚その態度が新らしく問題が自發的のもので、今までの史學の如くこの事は幸ひに史料があつて判つたから説くといふやうな、あてがひ扶持でなかつた爲に、若干の同情者もあり、稀にはまた今以てこの方法しか用ゐぬ者がある。しかし有りやうはあの頃はまだこんな途しか開けてゐなかつた爲に、止むことを得ずしてなるべく廣く雜著をかき探して、心もとない偶然記録を拾つてゐたのである。

(312)　採集事業の進展　ところがその後の採集の勢ひといふものは、久しからずしてこの偶然記録の渉獵を、無用にしまたは笑ふべきものにした。「郷土研究」は休刊までの四年間に千頁以上の直接採集を掲載し得ただけでなく、他にいくつかの本や雜誌新聞に、同種の報告を爭ひ録するやうな流行を作つた。それから以後の中央地方の出版物がどれほどまでこの數量を豐富にしたかは、私にも一寸計算がし切れない位である。それも地方的に可なりの濃淡があるので、澤山の離れ島や山村には、まだ一向手の着いて居らぬものがあまたなるにも拘らず、土地によりまた題目によつては、重複して何度も採集せられ、後のものが前に濟んで居るのを知らずに、却つて粗末な誤つたものを出して得意になり、もつと惡いのは知らぬ顔をして人のものを温めかへして居る。即ち採集記録は少なくとも國の表面の四分の一までには行きわたり、今はその優劣精粗を檢し、且つこれを利用すべき時期に達して居るのである。郷土の歴史のこれより面目を一新すべきが如く、私たちのこれを嚮導しまた援助しようとする學問も、自然に春が來て古き皮衣も脱ぐことになつたのである。嬉遊笑覽流が今更害毒を半解の徒の上に、流すべき世の中でもないのである。

　分類と整頓　但しこれには是非とも民間傳承の範圍を明定して、どの部分が今は採集が不足であるかを、土地毎に明らかにする必要がある。さうして現存の採集記録を整頓して、利用し得べきものは少しでも多く、郷土史を書かうとする人にも、又將來の採集者にも、利用させるやうにしておく必要があるのである。英國のフオクロア協會では、夙くより力を文庫の完成に注いでゐた。さうして同時に會員の臺帳を設けて、個人々々の興味と研究題目とを登載し、なるべく馴れた人に方々から援助を供して、早くその仕事を纏めさせるやうにすると言つてゐたが、今でもその方法を實行して居るかどうかは知らない。瑞西の民間傳承學會では、毎年この方面の世界中の文獻の分類目録を出して居る。本の名前ばかり知つても手に入らぬものは利用し得ないが、狹い國だから會員は折々本部に來て、そこにあるものだけは讀むこともでき、また少なくともそれぞれの研究のあつたことを知つて、それを見ないうちは盲蛇な説を出さぬやうにして居るのであらう。ホフマン・クライエルの分類は私たちのとは違つて、二十程の項目に全資料を分け(313)て居る。最近にはこれに基づいて、千五百何箇條かの質問箇條を選定して公表した。これではまた誰でも一度に目が通せるといふわけに行かず、よほど採集が進んでからでないと、幾分か煩瑣に失すると思ふ。獨逸の聯合團體はこのホフマン・クライエルを團長にして居ることは前にも言つたが、果してその分類法までを採つて居るか否かを知らぬ。この邦ではつい近い頃に、多數の學者が協力して俗信語彙を出版しをはり、第二段にはボルテ、マッケンゼン二人の編輯する民譚語彙を連續公刊して居る。これが傳承のすべての部門に亙つて、悉く出揃つたら大したものであらうが、その完成は些しく待遠い。我々の實地の用途には、これらの國々の長處を取合せて、毎年または臨時に今まで調査せられて居る事項と地域とを分類公表して、索引を以て現況を知り易くし、且つは採集者の準備知識とし、且つは新たなる勞力をもつと有效なる部面に轉囘せしめたいものと思つて居る。

　

(314)　　　　　新たなる國學

　

　　　　　　　相互連絡と比較調査

　

　好事癖と割據の弊　これまでの自分たちの經驗では、民間傳承に關して一般的興味を感じて居る人々は、東西南北どこの事實でも拾ひあげて、地域境涯といふものを少しも考察の中に入れないこと、恰かもかの土器の把手ばかり五百集めたといふ好事家の如くであり、他の一方に我郷土のために舊事を探らうとする人々は、とかく周圍にばかり熱中して、遠い地方のことに無關心なるものが多い。前者は事實の次第に集積して行くと共に、自然に中止すべき一時の惡癖であるが、後者に至つては根柢に深い誤解があり、土地のことならば土地の人が最もよく知つて居らねばならぬといふ負惜しみも手傳つて、なほ永く孤立の研究を續けさうな懸念がある。この點が今では我々の最も力を入れて、その不利を直言しなければならぬものになつて居る。

　類似共通　けだしたゞ一つの古い記憶、または一片の口碑などが、單に或土地かぎりの特發のものであつたならば、それが具へて居る史料としての價値は、實はさう大きなものであり得なかつた。近く模倣や輸送の行はれた氣遣ひのない遠い土地に、飛び飛びに離れて三十も五十も分布して居ればこそ、奇しく珍らしく又それと國全體と郷土の住民との三つの關係が、問題として考へさせられるのであつた。ところが傳説は通例歴史とよく似た形を以て語り傳へら(315)れ、歴史は前にも後にもたつた一度しか起らなかつた事實に限るものと思ひ切つて居る人が多いために、一應は同じ傳説の類例が國中に多いことを知つて、まごつかないものはなかつたのである。しかもこの發見こそは、我々の研究を新たならしめた大なる自然の力であつた。人は先づ最初に類似の言ひ傳へではあるが、これこれの點が異つて居る。そこが怪しいなどと批評したがる。實際どんなによく似た傳説でも、一から十まで同じといふものは少ない。習俗行事信仰も亦その通りで、それが一段や二段でなく、無數の小さな變化があつて、なほ且つ一貫した何物かを保存して居るといふところに、我々の比較調査の手掛りはある。これを順序立てる方法がせめて地質學の程度に見付かつたならば、個々の古い思想なり物の見方なりが、時を經て如何に推移しつゝ、つひに現?に到達したかを見究めることが出來るので、いつまでも世界を知らなかつたら、折角自分の土地のことを隅々まで明らかにしても、それが何等の知慧ともならぬことは、地誌でも博物でも變るところはないのである。

　御大師水の暗示　話は長くなるが、例を一つ擧げさせて貰ひたい。日本に一番數の多い御大師水の話、即ち善心の老婆と邪慳な婆とがあつて、旅僧が水を求めた時に、一方は拒絶し、一方は遠く汲んで來てねんごろに進めた故に、甲の村の井戸は赤く濁り、乙の家では枚立清水などゝ稱して、清く澄んで甘い水が湧く。この傳説を持つた井戸は全國の端々にかけて數百を數へられる。更にまた大根を洗ひ得ない水無川、石芋喰はずの梨脂桃等、色々の類話の明らかにこの系統と認めらるゝものがある。これだけは恐らく諸君の殆と全部が、詳しく説くを要せぬほどに知りぬいて居られるであらう。この旅人が日本の内地では、十中の八九まで弘法大師であつたといふことになつて居る。稀にはこれを親鸞上人とし、行基菩薩と傳へ、もしくは十一月の二十三日の晩を忌日とする或大師の逸話としたのもあるが、高野山では我祖師の一生涯に、さう廣汎なる廻國は不可能と認めて、即ち御影堂の御像が毎年の御衣替に、必ず裾切れ土が附いて居るさうなといふやうな噂をさへ生じてゐたのである。ところが遠く南方の沖繩の島に行つてみると、同種の傳説は色々と今も保存せられて居るが、流石に大師だけはこの地までは渡航してゐない。そこで始めて心づく(316)暗示は、この賞罰の制裁があまりにも峻嚴で佛者には似合しからぬことゝ、それから異人巡國の口碑が、多分は高僧行脚のそれよりもずつと古いもので、或は備後風土記の逸文に殘る蘇民巨旦と牛頭天王、もしくは常陸風土記にある富士筑波と天の大神來訪の話などが、その上代の形態であつたことが推測せられるのである。井戸を掘り水を求めてそこに村居を設けるといふことは、さう大昔からの生活の常の型ではなかつた。それが井戸があれば?々水を授かつた口碑を生じ、もしくは芋や大根のやうな後に流布した農産物にまで轉化して居るのは、土地の信仰の歴史にとつては相應に大きな事實である。單に或年の一日に弘法大師が通過して去つたといふだけなら、これは今人としては問題にするにも足らなかつたのである。

　

　　　　　遠方の一致

　

　沖繩の發見　それよりも我々の學問にとつて、沖繩の發見といふことは劃期的の大事件であつた。沖繩の王家の始まりは鎌倉の幕府などゝ、ほゞ同じ頃といふことになつて居り、それよりも古いことは書いたものには傳つてゐない。内地との交通は主としては商人のみで、僧侶も入つては居るがその傳道は久しく效を收めなかつた。從うて彼等の佛法の教理によつて、説き改められたといふ古風は案外に少く、支那からの移住者も若干は曾てあつたのだが、これも往復の公文さへ六つかしいほどに、早く島地の多數に同化してしまつた。勿論さういふ外部からの影響は薄くても島人自身も獨自の變化はあり、また忘却はあつた筈で、單に或別種の道程を經て發達し來つた一例が見られると言ふのみであるが、我々が新たにこの方面の觀察から、受け得たる暗示は無限なものであつた。先づ言語の方では記録の上だけに見えて、内地では全く使用を廢してゐた單語や語法が活きて行はれてゐた。音韻の上でも稀に地方の訛語に傳はつて、近世の墮落かとも考へられてゐたものが、偶然に彼島には存して居た。勿論たゞこれだけの偶合を以て、古(317)くからのものとは斷定し得ないが、少なくとも從來いと粗略に看過してゐた地方の事實を、もう一度注意して見直すだけの必要は、何人も深く感ずるやうになつたのである。それから信仰の方面に於ても、神社といふものゝ起りや女性の地位、中古神輿といふものゝ普及によつて、自然變つてきた祭祀の式、その他神と人間の祖先との關係の如き、以前はたゞの空想であつた我々の假定説に、可なりの支援を與へる事實が當然として彼地には行はれて居た。手が屆かぬために今まではそつとしてあるが、これ以外にも家族組織や土地制度、それから技藝流傳の樣式などにも、現在の?に於て比べてみれば大きな相違、以前に遡つて考へるとよほど接近して來るやうに思ふことが色々あつて何れもみな沖繩を日本の古い分家と心づくまでは、全然參照し得なかつた新資料のみである。

　古風保存の場所　この所謂海南三十六島の郷土研究には、最初からそれぞれの島の住民が自ら手を下して居るのは愉快なる現象である。内地の篤學も後には二三これに參加したけれども、事情が特別であり、用語が甚しく異なつて居るために、主として働く者は土地に生れた人でなければならなかつた。世界のいづれの海上を見渡しても、かういふ小さな島で、島人が自ら我島の歴史を考察してみようとして居るものはない。しかもそれが多くの場合には精確を期し得る唯一の手段であつたのである。沖繩研究の間接なる恩惠は幾つかあるが、その一つは伊豆の七島とか肥前の五島の如き、事情の或段階までこれと一致し、國民との關係の幾分疎くなつてゐる島々でも、是非とも比較によつて民族全體の古代を映發するために、一日も早く各自の郷土研究を進める必要があるといふことを、新しい歴史學に教へて呉れたのである。獨り白波怒濤に取圍まれた離れ小島だけではない。日本は地形の然らしむるところ、内陸の奧にも肥後の五箇山、日向の米良椎葉、飛騨の白川、越中加賀越前の五箇山といふやうな、別天地が方々に孤立してゐて、嶺を越えて外から見に來る者などは滅多になく、從うて比べて見たこともない無意識の古風を今以て保存してゐて、我々の疑問に解説の鍵を與へてくれさうなものが數多いのである。それが現在ではほゞ統一ある小學教育の光によつて、一齊に觀測せられ得る時代になつた。假に佛蘭西その他の地方主義が、今なほ割據であつて自分の所の故事(318)を知ればよいといふ　　状態に安んじて居らうとも、我邦だけは出て他の郷土の研究者を助け、きれぎれの史料の價値を、弘く人間の過去全般のために役立たしめるやうに、高め且つ評定しなければならなかつたのである。

　文化變遷の遲速　次になほ一つの我々の實驗は、所謂計畫記録の最も豐かであつた中央の文化が、却つて最も多く變遷してゐたことゝ、それから距離の遠くなるに比例して、少しづゝ古い姿の消えて行きかたが遲くなつて居るといふことであつた。これは机の上でも必ずしも想像し得ぬまでのことではないが、實地に當つて見た者ほどにその感は痛切でない。山奧や岬の外や離れ島は顯著な例であるが、たゞの平野でも中央の影響の久しく行屆かなかつた方面には、今はまだ色々の殘留が見出される。例へばつい最近までの宮崎縣の中央部、東北では南部地方などがそれであつた。太平洋の舟運は餘り多くの港を訪ひ得なかつたと共に、上陸して見てから奧地がみな迫つてゐた。これに比して海上の通路の早く開けたのは、大小の半島の形が主風とよく調和した日本海側であつて、この方面では陸を歩む者が、一部分づゝ便船を頼んでも水を横切ることが出來た。だから奧州の人たちまで、以前は山を越えて出羽北陸の筋を上方へ出た。さうして外南部は一方の行き止り、袋の底の如き舊文化の貯藏所であつたのである。土佐とか能登の突端とかその外の島々とかの調査が進むに從つて、この南北雙方の遠心的事情に、著しい一致のあることが心付かれ始めた。人知れず永く存してゐたことが立證せられようとしてゐる。郷土の歴史が將來の相互の交通によつて、容易に明らめ得らるべきことも疑はれなくなつた。これがまた近頃の沖繩研究の一つの賜であつたのである。

　

　　　　　利他平等

　

　着實なる採集の中心　今日の實?に於ては、郷土の熱心なる研究者を有するものは、まだ指を折つて算へるほどしかない。さして廣大な國でもない日本が、今以てその大部分は未知の境である。統計の數字ばかりを氣にして居る連(319)中は、或はこれには落膽するかも知れぬが、私は寧ろ此頃のやうな、流行がたゞ稀薄に全版圖に瀰漫するよりも、奧羽でも沖繩でもはた伊勢でも、どこかに着實なる採集の中心が、ぽつ／＼と出來て行く方が有難いと思つて居る。長野縣などは、私は縁があつて今から十數年も前に、既にその一二の郡に於て課題なき調査、豫斷なき採集を慫慂し、その一部は既にやゝ精密な成績を公表し得た。今から囘顧してみると可なりの難事業であつて、よくも意志強く終まで漕ぎつけたと思ふやうであるが、その代りには、この方法の實驗は各地の感謝するところで、次で起る者の勞苦を著しく輕め得たのみならず、自分もまた問題の一中心となつて將來追加せられて來る各地の小採集を悉く消化し利用するの便を得、單に空疎なる前驅者の名譽以上に、その努力は酬いられることになつて居る。

　學問發達の中心　學問は即ち資料の最もよく整頓せられ、知識の標本の最も得易い所を中心として、發達すべき傾向をもつてゐたのである。大きな先例を一つ擧げると、獨逸ではグリム兄弟が國内現存の民間説話をあつめ、同時にその研究に指をそめてから、これが因縁となつてこの國の説話學は大いに榮えた。二人の歿後もその門流の手によつて、比較考證の書は年増しに大きくなつた。私の讀んで居るのは戰前にできた第二版三卷であるが、やがて大増補の新版が出るといふ話も聽いて居るし、昨年はまたその第四卷として、同じボルテ、ボリヴカ二氏の世界民間説話史も公刊せられて居る。勿論グリム以後に於ても、露西亞のアファナシェフとか、蘇格蘭のキャンベルとか、一々列擧し得られないほど、雄大なる説話採集が幾つも現れて居るが、單にその本國民に讃歎しまた感謝せられてゐるのは小さな效果で、これが最も大きな輝きを世に放つたのは、やはり一應この獨逸の中心地へ持て來てから後であつた。即ち所謂K・H・Mの事業は、この方面に於てまさしく世界に君臨して居るのである。

　東西の一致　諸國の隅々に働いてゐる採集家たちは、將來大いにその力を養うてから後はいざ知らず、一應はこの中心に向つて朝貢しなければならぬのであつた。私なども最初日本は少なくとも孤立の國だから、印度支那朝鮮から學んだものゝ若干はあつても、他は悉くこの國の固有のものであらうといふ心持を以て、昔話の蒐集を始めたのであ(320)る。歐羅巴では宗教は國語の堺を越え、政治もまた異なる種族の間に入交つて居る。だから爐端から爐端への昔話の通譯もあつたのだが、日本は島國だから特殊の傳承をもつであらうと、實はやゝ氣樂に推量してゐたのであつた。ところが結果は決してさうでなく、到底その傳播の經路が分りさうもない話に、幾つとなき全世界の一致のあることを知つたのであつた。獨逸の人たちも少し心付いて居るのは「紅皿缺皿」及びこれと關係のある「鉢かつぎ姫」のお伽話であるが、これも書物で知つて居る人の想像以上に、日本の田舍にはまだ色々の型が傳はり、西洋の人たちが國々の代表的差別の如くに見てみたものが、我邦では殆と皆備つて居るのみならず、更にまたこれと起りが一つだらうといふ「千枚皮」もしくは「猫皮」の話や、グリムで有名な「手無し娘」の話などもちやんとある。それから今一つは「猿の尾はなぜ短い」の話、尻尾で魚を釣るのと、「古屋の漏」の結末になつて居るのと、これなどはよもや日本以外にはあるまいと思つてゐたが、白?をすればそれは世間見ずであつた。魚釣りの方は東北へ行くと、猿でなく狐であり、もう一つ北へ行くと熊になつて居り、さうして熊が寒中に尻尾を水の中に垂れて、氷のために尾が切れたといふ話などは、北歐の國には充ち滿ちて居るのである。その騙された獣は土地によつて變つてゐて、末はゲエテの狐ライネッケにまで續いて居た。さうするとこれを尾無し猿の由來とし、更にまた「猿の顔はなぜ赤い」の話にまで變つただけが、この島へ持つて來てからの發達であつたのである。

　國々の協力　この問題は芬蘭のカアルレ・タロオネといふ學者が先年細かく研究した。獨逸の本山では世界中の分布には注意深かつたけれども、尚その自國の材料が豐かでないために、大まかな斷定しか出來なかつたに反して、芬蘭やバルト海岸の三國または露西亞やスカンヂナヴィヤの國々に於ては、以前の文籍が乏しいだけに口で傳承したものの變化が細かくして、これを十分に利用すれば却つて中心地の學究の心付かぬ點を發見し得るのである。アアルネ・トムプソンの鶯くべく精透なる分類が行はれ得たのもそのためであつた。日本の資料も民間説話にはかぎらぬが、今なほ外國の學者が豫想し得ないほど豐富である。たゞ自家用に供しただけでは價値も低く、第一にその效能が認め(321)られない。單に猿が狐に騙されたといふたつた一つの昔話が、あつたといふだけでは郷土の歴史とも言へねば、それがどうして歐大陸の北半とこれまでの一致を日本が示してゐたのかは、殆と考へ切れないほど問題が大きい。だからこの研究は外國の人と共にしなければならず、また決して各自の故郷だけの利益に歸着するを以て滿足してはいけない。利他平等はこの學問にたづさはるほどの者の發願でなければならなかつたのである。

　

　　　　　目標は現實疑問の解答に

　

　昔話と傳説　元來昔話と傳説とは、民間傳承の研究に入つて來る人たちの最も陷り易い温柔なる落し穴であつた。單に少年の日の追憶がこれを誘ふといふだけでなく、諸國の各種族にはそれぞれの採集があつて世に知られ、自分は何もしない不精者等にも、書齋にゐて何等かの仔細らしい口をきくことが出來たからである。それ故にまたグリムほどの苦勞をせぬ人も有名になり、これさへ遣つて居ればフオクロアの仕事はすむものと、心得違ひをするものも以前は少なくなかつた。神話學といふ語は、アンドリウ・ラング等の英國の學者が出てから、全く内容を改めてゐたのであるが、それが獨立して今でも一派の學をなし得るものゝやうに誤解をして居るのはその目的を知らぬからであつた。所謂道樂にならばさういふ專門はあつてもよい。併し少なくとも郷土史の必要に立脚して、古い資料の蒐集分類を志す人ならば、是ばかりをたゞ知つてゐただけでは、用が足りないといふことを思はねばならぬ。

　言語藝術採集の趣旨　歌謠や謎諺なども同じことであるが、所謂言語藝術の採集の趣意は鑑賞ではない。單に面白い珍しいといふだけなら、この他にも近代小説や外國の文藝がある。我々が飽きずにかういふものを寄せ集める目的は、第一には國語をこの程度にまで味はつて、自在にこれを驅使してゐた前代人の能力である。次にはまた如何なる人的社會的の事情があつて、この種の口碑を發生せしめ、もしくは各地各時代の變化を引起したかといふことである。(322)これは今までの歴史の如く、それ自身が一つの傳ふべき事件ではないけれども、これに由るよりほかには知る道のない或背後の事實が、事によるとこれから推測し得られさうなのである。郷土で採集された傳承ならば、郷土人と交渉のなかつたものはない筈である。たゞそれが如何に交渉したかを明かにするために、一應はより廣い區域に亙つて、資料の性質を知つておく必要があつた。これがたゞ神話の本質の、講説せらるべき理由であつて學であるかどうかは私たちの知らぬことである。

　古代信仰の研究　しかも我々の準備時代はやゝ長きに過ぎた。今以て如何なる實際の生活疑問でも、こゝへ聞きに來れば直ちに答へられるといふまでにはなつて居ない。それを待遠に感じた者が、待ちかねて題目を拾ひ取り、また押賣を始めたのであつた。説話の研究はいはばその一つの流行であり、もしくは比較的開墾し易い平原でもあつた。かうして開いて行けば他の區域も望みがあるといふ先例としてのみ頼もしいので、人が一代をこれに打込むべしといふまでの案内にはならぬのである。民間傳承の個々の耕地の中で、歐羅巴で次に人望のあつたのは、古代人の信仰であつた。これは昔話や傳説の調査からも、段々の手掛りが得られただけでなく、一方に直接舊慣行事、もしくは遺物や文樣の如きものからもその片端を推察し得られ、これと僅かに存する記録文書と、三方四方から持ちよつた材料の、合致しまたは喰ひちがふところに興味があつた。その上に今一つ、十九世紀は史學の世紀であり、同時に宗教起源論の盛んに討議せらるべき時代でもあつた。僧徒以外の者の手によつて、耶蘇教の今日あるを致した事情乃至力の、改めて客觀せられようとした際でもあつた。白人は一般に遠き父祖の能力を輕蔑してゐた。羅馬の世界教が嶺北一帶を席卷するまでの、彼等の信仰生活は微弱なもの、亂雜なものとばかり思つてゐた。ところが知らずに千年住んでゐた同じ野中に、驚くやうな石の工作物が彼等の事業であつた如く、公教のいかめしい説法式典の背後に、一つ以前のものがなほ潜んでゐたことを見つけたのである。それが新たなる史學の方法を刺戟しなかつたならば寧ろ不思議である。その鮮葉がフオクロアは即ち古代信仰の闡明であるやうに速斷する者を一方に生じ、その目ざましい成績に心醉した(323)我々は、日本でもやはりこれを以て、郷土研究隨一の目的としなければ、相濟まぬものゝ如く解するに至つたのである。その發頭人は何を隱さう、私なども亦その一人であつた。勿論我々の中でもこれは決して無用の詮議ではなかつた。たゞ漠然と國の成立ちを明かにするといふだけでなく、新舊各種の宗教が競ひ進み、たがひに相制して力を弱めあつてゐる今日に於ては、これがまた解決の急務を認めらるべき、現實の大疑問でもあつたのである。あやまちの功名であつたかは知らぬが、我々の努力は無用のものではなかつた。但しそのために餘りにも過分の注意を取られて、他のこれと同等以上に大切なる問題を、省みないやうなことがあつたら、申し譯がないといふ迄である。

　

　　　　　構へざる態度

　

　フオクロアの新展開　西洋の學者の中には既にこの缺點に心付いて、他に方向を轉じて新らしい主題を掲げようとした人も少からず、近年これがためにフオクロアの外貌がよほど變つて來た。英國の協會などで、頻りに制度（インスチチュウション）といふ字を使ふのも、その一つの表はれと認めてよい。この語は範圍が大分廣いが、大體に今まで秩序などゝ名付けてゐたもの、即ち群に首領あり總意があつてそれが總括せられ、また分裂しなければならぬ理由、個人に所屬があつて、自他を分つに至つた事情、もしくは男が強く女が從ふことに定まり、母より父の方を重じたのは何時からかといふ如き、あらゆる今日の社會事相の淵源を訊ねるのが趣意であつたが、それを細かく分析しまた古い姿に戻つて行かうとすると、大元は個々の家といふものゝ組織に歸着した。それからもう一つ原始的な方に溯ると、或は父子もなく夫婦一家もなかつた　　状態も考へられぬことはないが、それにしたところが、人が血を分けるといふ天然の事實までは埋れてゐない。結局は養ひ養はるゝといふ必要が人を繋ぎ、更にまた死んで肉眼にふれぬ祖靈の力が、暗々裡にこの結合を強制するといふ事實があつた。問題は短い言葉では説き切れぬやうに深く、新舊の生き方が入り(324)交つて社會を複雜にして居るが、兎も角も特殊なる一二の舊國には限らず、多くの制度の奧底にはこれを支持する者の古い感覺があつて、社會の組織は學校で別々に教へられてゐるやうに、法律・道�ｺ・宗教などと、區劃して考へられるものでなかつたことが判りかけた。即ちやつぱり元の古代信仰の問題を引きくるめて、研究すべきものといふことになつたやうである。

　始めは白紙の?態から　それから藝術の起源論なども、この方面から入つてみようとする人が、近頃はだんだん多くなつて來たやうである。私などの見たところでは、日本はこの問題の最も尋ね易く、單にきれぎれの殘留資料だけでなく、以前の心持がまだ手付かずに記憶せられてゐて、從つてその發端と時代變化とを説明し易い國柄であつた。外國の旅人がこの國の繪畫彫刻を見、能や芝居を見物して、驚いて昔に觸れたやうなことをいふのは、全部が全部好事家の感激でもないやうである。だから國でもこの研究が案外はやく進み、幾つかの面白い發見があつた。大體に古い姿といふのは、信仰生活とまだ完全に手を切つて居らぬといふことらしい。花火が盆の火祭の一つの變形であり、生花が同じ季節の靈迎への式の一つであつたやうに、競馬とか綱曳きとかは或土地ではたゞの娯樂に、或地では今なほ祭典の部分として、または神意卜定の方法として行はれて居る。子供の遊戯の中でもカゴメ／＼、または「中の中の小坊さん」といふものなどは、地方によつてはこれを狐狗狸さんの程度に、またはそれ以上に信頼して成人がこれを行うて居る。博奕の賽なども今では惡�ｺの代表の如く考へられて居るが、これを船玉樣の御神體ともすれば、或村では祭日に神輿の前でこれを投げる。これもまた占方の一種であつたのである。舞や踊の類でも現在なほ信仰の行事としてこれにたづさはる土地は多く、その手に持つて居る扇や鈴はシムボルで、神主諸君の笏と至つてその用途が近い。將來は或は日本が民俗藝術の、研究中心となるやうな時も來るかと思ふが、何にもせよ當初はたゞ白紙の?態を以て由來を尋ねてゐたにかゝはらず、これも追々に上代の信仰生活と、不可分の大問題であることが知れて來たのである。

(325)　歸納による當然の結論　然るに今日の文化史學徒のなかには、豫め一つの計畫乃至は確信を以て、古いことを尋ね出さうとして居るものが居る。そんな下らない結論に到達するのなら、もう止めだと言ひさうな顔付をした青年もちらほら見える。今日の社會の改造は、一切の過去に無省察であつても、必ずしも成し遂げられぬとはきまつてゐない。

　現に今日までの歴史の變化にして、人間の意圖に出たものは大半がそれであつた。復古を標榜した或ものといへども、また往々にして古代の認識不足に陷つて居る。我々の如く正確なる過去の沿革を知つて後、始めて新らしい判斷を下すべしといふものは一つの主義である。盲滅法界にこの主義を否認してかゝるならまた格別だ。我々は蔭にゐてそれが自然の正道に合致せんことを祈るのほかはない。いやしくも歴史の知識を持つて居てから仕事に取掛らうといふならば、意外によつて教へられるだけの用意がなくてはならぬ。出來るだけ多量の精確なる事實から、歸約によつて當然の結論を得、且つこれを認むることそれが即ち科學である。社會科學の我邦に於て輕しめらるゝ理由は、この名を名のる者が往々にしてあまりに非科學的だからである。

　

　　　　　自ら知らんとする願望

　

　郷土研究の限界　但し我々にとつて一番つらい詰問は、そんな悠長な材料蒐集をしてゐて、今の入用に間に合ふかどうかといふことである。社會科學は一般に、少しばかりその出現が遲すぎたといふ批評がある。殊にその中でも宏大な地域を控へ、各地各種族の千差萬別の生活誌を、細かく分類して標本を作り、それを隈なく檢定してから、始めて總論が出來ようといふ世界民俗學が、さう短日月に成立する筈はない。我々の郷土研究は寧ろやゝ早手廻しに、その中間報告を少しでも利用しようといふのである。澤山の未來のこの點が何を教示するかゞわからぬうちに、一應はそれを條件附として、自國内で今判つて居るものだけに由つて、ほゞ間違ひがなからうといふ假定だけを立てゝみる(326)のである。出來るかぎり方法を愼重にして、大過なきを期すべきは當然である。

　答へんとする用意　自然科學の方でも同じことだが、現に研究中である以上は、少しは世間だつて待つてくれるがよいのである。併し片方でもなるだけ道草を食はず、問題の緩急大小と外部の期待とを考へあはせて、入用と思ふものから手を着けて行く義務がある。假に今のところではまだ何の問題でも答へられるといふわけには行かなくとも、解けさうな問題を選ぶべきである。今までの歴史にも記事本末體といふのがあつて、一つの事柄を課題とする方法はあつたが、それは必ずしも入用を標識とはしなかつた。たまたま田制篇とか租税史とかいふものがあつても、それはたゞ資料の羅列で、判らぬものはわからずまた別に判らうとしない。あんなものならば誰にでも出來るが、答へようとするから問題は六つかしいのである。

　學問の實用　私たちは學問が實用の僕となることを恥としてゐない。さうして自身にも既に人としての疑問があり、また能く世間の要求期待を感じて居る。差當りの論議には間に合はなくとも、他日必ず一度は國民を惱ますべしと思ふ問題を豫測して、出來るものならそれをほゞ明かにしておかうと企てゝ居る。大體近世に社會改革と稱し、生活改善といふものは問題の巣であらう。これが聲ばかりで何たる效果もなかつたといふことには、方法や當事者の失敗も多からうが、その背後には所謂時世に適せず、もしくは自然に反したと稱せらるゝものもあると思ふ。その「時世」なるものは果して何であるか。また人間の所業にして、自然であり、自然に反するといふことは何を意味するか。單なる抽象的の論理に墮し去るまいとすれば、飜つてその改められんとする事態の、成立ちと根強さ、引拔いて棄てることの困難なるわけを吟味してみる必要が出るのであつた。

　眼前の疑問への解答　私は元來が農民史を專攻してみようと思つて、學問を始めた人間である。今でもこの方面に知友は多く、また農村近年の出來事に對して、最も深い關心を抱いて居る。眼前にこれほど多くの問題を見せつけられ、また遣瀬ない苦惱の聲を聞きながら、何等の獻策を以てこれを救ふことも出來なかつたのは、學徒としてこの上(327)もない恥辱ではあるが、自ら辯疏すればこれは微力に比して問題があまりにも大きかつたことと、二つには世上の常識なるものが私たちのとは別で、共通の立場に立つて異見を闘はす途がないためであつた。この上は間に合ふと合はぬとに拘らず、とにかく自分の方法によつて見つけてきた材料を整頓し、許さるゝかぎりの結論を導いてみたいと思つて、少々は既に發表しておいたものがある。引續いて今でも問題にして居るものは、第一に教育の實際化といふこと、何が以前の教育の中には具つて、今日は既に缺けて居る點であらうかといふ考察、次には農村道�ｺの昔はあれで備はり、今はこれでは足らぬといふ理由、及びそれを成長せしめまた支持してゐた力の所在、これには當然に男女青年團と、結婚風俗のことが考へられる。次にはその婚姻の障害に基づくと認められる離村問題、これが果して一つの原因を除くことによつて、制止し得るものだらうかどうかといふこと、それよりもつと痛切なる「何故に農民は貧なりや」の根本問題である。以前はどうであつたかを先づ明らかにしなければ、何れも勝手な斷定ばかり下されさうな疑問であるが、郷土史の研究者たちは通例そんな厄介なものは自分たちの仕事の外だと思つて居るらしい。それでは人によつては今少し太平の時になつてから、始めてもよからうといふ人があつても反對する理由はないわけである。

　學問救世　土地に據つて家の保存を確實にしようといふ考へ方も、物質ばかりの側面からこれを説明することが出來ない。今の農村の動搖苦悶の底にも、善し惡しは別として、古い信仰の名殘のあることは、これを認めずには居られぬであらう。切つて棄てるにせよ、はた堅く守つて放たないにせよ、それを確めるためには我々の通つてきた過程を知つて居らねばならぬ。この場合にも藝術の歴史と同じやうに、やはり上代信仰の問題を度外におくことは出來ない。これを要するに今日郷土史の研究によつて明らかにしようとして居るのも亦一面世に隱れたる御國振りであつた。我々の三大人が出でて道を説かれたまでは、誰一人日本に國學といふ學問が新たに唱へらるゝ餘地あることを信ずる者がなかつた。その國學の偏へに盛んになつた時世には、次に第二の新國學の改めて必要を生ずべきことを認める者のなかつたのも是非がない。併し寧問が世を救ふべきものであるならば、今はまたこの方式の御國學びが入用になつ(328)てきて居るのである。つまりは學問に對する世間の注文が新しい時代に入つてまた一つ加はつたのである。それは何かと言へば「人が自ら知らんとする願」である。我々は是非ともこれに答へなければならぬ。

　

(329)　　　民間傳承論

　

(331)　　　　　序

　

1　民間傳承論は明日の學問である。一本の稚樹である。

　 山に植ゑるか盆栽にするか、何れとも御互の心次第である。

　 從うて祈願者は同時に豫言者であり得るのである。

　

2　如何なる學問にも一度は幼稚時代があつた。

　 さうして多くの學問は既に年たけて居る。

　 獨り我々の民間傳承論のみが、今尚至つて頑是ないのである。

　

3　だから人間の末子と同じ樣に、外部には「好意の輕蔑」があり、内には又「謙遜なる無責任」とも名づくべきものがあつた。

　 是を一つづゝ取拂つて行くことが、言はゞ此學問の成長である。

　

4　最近三十年の進況は、頗る前途を矚目せしむるに足るものがあつた。

　日本は此學問の爲に、未だ耕されざる沃野ではあるが、諸外國の先蹤は豫め既に其開發の道を講じてくれて居る。

　

(332)5　三つの重要なる先決問題は、今や三つともにほゞ是に答へることが出來るまでになつた。

　 第一には目的、即ち民間傳承の採集と處理に由つて、果してどれだけの智識が添へ得らるゝかといふことである。

　 是は殆と人類文化史の全般に及び得ることが明かになつた。

　

6　以前我々が此方法に由つて成果を收めた區域の、限られて居たことは事實である。しかも所謂「殘留資料」の得らるゝ以上、是を何れの問題に通用するも差支は無いのであつた。

　 さうして其資料の多少は一に國柄の如何によることであつた。

　

7　學問が實際生活の疑惑に出發するものであり、論斷が事實の認識を基礎とすべきものである限り、國の前代の經過を無視したる文化論は有り得ない。

　 多くの民間傳承は今まで氣付かれざりしものゝ發見である。

　 過去の講説は總て之に據つて、今一度檢査されなければならぬのである。

　

8　種々なる假定は之に由つて確認せられると同時に、誤れる在來の想像は事實の前に無力となるであらう。

　 少なくとも新たなる判斷は、次々に之に由つて導かれ得る希望が生れて來る。

　 所謂社會科學を「科學」たらしむるの途は、實驗せられたる事實の増加と其整理より他には無い。

　

9　第二の問題は、範圍即ち現在は何とあらうとも、結局民間傳承の研究が、他の學問と相對峙して、どこ迄を(333)管轄し得るか といふことである。

　 史學は近世に入つてまさしく其版圖を擴張したけれども、尚其能力には給する所があつた。

　 其外側は直ちに他の色々の學問と續くべきである。だから中間に無主の空閑を殘してはならぬ。

　

10　史學を中心として言ふと、我々の學問は是は所謂補充の學であるが、記録文書の利用し得られる區域こそは、寧ろ甚だしく狹かつたのである。

　 人生の問題の日に繁く、過去の不審の解説の益々要求せられると共に、新しい方法の來り援くるを必要とするべき場合は多くなつた。

　 人類學はもと限られたる目途を以て世に現れたものであるが、今は此方法の全部を總括した名とするにふさはしくなつた。

　

11　過去人生の痕跡の現代に存留するものに據つて、其實　　状を推斷しようとする迄は、史學も人類學も一つである。

　若し傳統ある名稱を重んずべしとすれば、特に「文字の史料」を要とせぬ部分のみを人類學と名づけてよかつたのである。

　 此場合には民間傳承の研究は當然に此中に含まれることになる。文化人類學といひ社會人類學といふ語は、要するに此見解より出でたる名である。

　

12　但しこの二つの名稱は、精確に我々の民間傳承學とは一致して居ない。

(334)　 其上に古くから獨立して居る學問は、何れも努めて分堺差別の論を主張せんとして居る。

　 故に新たなる總括と提携とは、分類對立以上に有意義である。

　

13　單なる成長の順序からいへば、考古學は特に形勝の地位を占めて居る。

　 その新興の氣風は確かに次に生れたる學問を誘導した。

　 しかも是が爲に自分も亦大に成長して、後次第に連合混化の實を擧げ得たことも亦爭はれない。

　

14　神話學と宗教史學との關係も是に近い。

　 古典研究は行く／＼新たなる文藝史學の酵母として作用せんとして居る。

　 從來文書を以て主たる資料とした政治史の如きも、終には亦精確なる社會人類學の一章に要約せられる時代が來ようも知れぬ。

　

15　現に我々の眼前に於て、愉快なる發育の例を示したものは地理の學であつた。

　 民俗誌學は最も是と近似して、たゞその新しい形態に對して別の名があつた。

　 其爲に爰に無益の對立が現はれんとして居るのである。

　

16　併し何れの科學でも、當初は小さな發見と個々の觀測記述を以て始まらなかつたものは無い。

　 假に其程度に於て自得する學者が昔はあつたとしても、後次第に系統あるものに包容せられて、單に其事業の一部を爲すに至るべきは自然である。

　

(335)17　學問は統制せられなければならぬ。

　 さうして終局には人道の完備に寄與しなければならぬ。

　 割據は要するに分擔の一時的の形勢に過ぎない。今の多くの學者は此希望を忘れて居る。

　

18　しかも悲しむべきは人間の生涯の限られて居ることである。

　 綜合せられたる人類學は、今は兎に角に個人の力には剰る。

　 學問は要約せられ又索引の事業を伴なはなければならぬ。

　

19　それと同時に個々の分擔者をして、各自の研究の意義を知らしむる必要がある。

　 たとひ或一隅の人知れぬ勞苦でも、行く／＼大きな智識の完成に寄與し得ることを覺らしめなければならぬ。

　 從うて第三の問題とし分類をどうするといふ問題が起る。「分類」は我々の研究價値の意識の爲に必要である。

　

20　民間傳承の學問は其起原が最も散漫であつた。

　 さうして職業としては發達しなかつた。

　 たゞ其爲に特に各人の相互聯絡、協同の勞作を高唱し得たのは幸ひなことであつた。

　

21　分擔の方法は夙に定まつて居る。

(336)　 學會の任務は非常に重要と認められ、更に又其大意を講説することが、最初の條件となつて居たのである。

　

22　我々の分類は既に試みられて居る。

　 それは幸ひにして國際的にも略々一致して居る。

　 さうして各人の能力を最も有效に利用するやうになつて居る。

　

23　自分の分類案は日本を本位としたものだが、必ずしも從來の意見に對して大なる變更を加へて居ない。

　 大體に是を三つに別けることは自然である。

　 たゞ名稱と順序とが英佛獨等の案と同じで無いだけである。

　

24　第一部は生活外形、目の採集、旅人の採集と名づけてもよいもの、之を生活技術誌といふも可。

　 在來の所謂土俗誌は主として是に限られ、國々の民間傳承研究は通例之に及ばなかつた。

　

25　第二部は生活解説、耳と目との採集、寄寓者の採集と名づけてもよいもの。言語の知識を通して學び得べきもの。

　 物の名稱から物語まで、一切の言語藝術は是に入れられる。

　 是が又土俗誌と民間傳承論との「境の市場」であつた。

　

26　第三部は骨子、即ち生活意識、心の採集又は同郷人の採集とも名づくべきもの。

(337)　 僅かな例外を除き外人は最早之に參與する能はず。

　 地方研究の必ず起らねばならぬ所以。

　

27　前の二者とても獨立しては完成せず。

　 現に許多の誤解を世に殘して居る。

　 國が「自ら知る」必要は、特に日本の如き國柄に於て痛切である。

　

28　學問と道樂との差は、必ずしも之に由つて衣食すると否とに由るもので無い。

　 我々は假にこの短い生涯の更に數千分の一しか是が爲に割き費し得ずとも、それが偉　 大なる人間研究の片端であり、眞理の殿堂の一礎石であることを意識することによつて、　 明白に單なる遊戯趣味の生活と識別せられることが出來るのである。

　

(339)　　　　　第一章　一國民俗學

　

　　　　　　　一　凡俗知識の研究

　

　「民俗學」といふ語を普通名詞として使用することは日本ではまだ少しばかり早いやうな感じがある。しかしそれは必ずしも此學問が尾のある蛙、衣裳を重ね着した若竹の?態にいつまでも停滯して居るといふ意味に於てではない。此學問の或部分などは却つて飛んでもない處まで進出して居るらしい懸念さへ多いのである。我々の「歴史」の歴史を考へて見てもわかるやうに、訓詁註釋の術が一たび窮まつて、其處に乃ち自由な考證の説が起り、其考證の獨斷が漸く忍び難くなつて、更に又古典の讀み直しが始まつて來るのである。ところが現代にはこの二つの相交替するもの、同時兩立をしにくいものを括り合せて、之を民俗學と呼ばうとする者がある。西洋の文獻學派といはれる人々は、かりそめにも書言の未だ録せざる所のものを採つて、自家の意見の理據とすることを恥として居るが、其狹隘に反抗して始めて齊東野人の語を聽くべしといふ、私たちの研究は起つたのであつた。然るに我邦の民俗學者なるものゝ中には、今尚足利末期の世諺問答と同じく、古書に依つてのみ、當世の解すべからざる事物を解釋しようとする者があるのである。是では第一に或一つの學問が、古いか新しいかすらも容易にきめられない。我々の學問は、其到達の彼岸を、雲漠々たる地平線のをちに期して、しかも萬人の向ふ所を歸一しようとする新時代の企てなのである。今はまだ(340)確定的な民俗學といふ名を持つに適しないのである。民俗學といふのは惜しい言葉であるが、我々は之を避けなければならない。少なくとも其内容が純化せられ、或程度の協同が得られる迄は、民俗學といふ語は日本語にならぬ方がよい。それに此學問は今日はまだ組織だつた「學」ですらもないのである。

　民間傳承論といふ名稱は、是も自分一個人の提案に過ぎぬのであるが、幸ひにして今はまだ誤解者も無い位に流行の狹い一語である。私は心置きなく公けに其意味を限定することが出來ると信ずる。提案者の本意を告白するならば、是を歐羅巴大陸若干の舊國に於て、Les Traditions Populaires などゝ謂つて居る一團の知識と、出入り無く一致せしめるを以て便利とし、更に現在是とほゞ同義語の如く解せられて居る英人の所謂 Folk-Lore とも、範圍を同じくするものと認められんことを欲して居るのである。トラヂシオンといふ語は、其本國に於ても色々政治上の聯想があつて困ることは、日本今日の「傳統」といふ譯語が之を推測させる。それでボピュレールといふ形容詞に、非常に重きを置いてもらふことになつて居るのだが、我々はそれを「民間」としか表現し得なかつた。その代りに新たな感じのある傳承といふ語を以て、情實纏綿する傳統にさし替へることが出來たのである。「民間傳承論」は則ちその弘く世に知られて居るフオクロア、是と内容を一つにする民間の傳承の、輕んずべからざる所以を説かうとする小篇である。

　日本在來の語感では、「民間」は用途やゝ弘く、時としては官吏に非ざるものゝ全部のやうにも解せられて居た故に、近頃僅かな間にも早や色々のをかしい誤解があつた。或は俗間とか俚人とかいふ文字を使つた方がよかつたかも知れぬが、もう改めにくゝなつて居るから註解を以て補ふことにする。佛蘭西の民間（ポピュレール）を説明する學者は、之を以て上流（シュペリュール）に對する語だと謂ひ、それでは何か氣が咎めるものと見えて、又文字ある階級（リテレール）に對するものとも言ひ直して居る。何れにして見たところで、ぴたりとは概念が表はれて居ない。それよりも日本で今盛んに使はれるインテリゲンチャ、即ち有識階級と向き合せて、最も明瞭にその意味が呑み込めると思(341)ふ。つまり人から御世辭にインテリといはれ、自分も内々はさう心得て居る者を除き、その殘りの者が持つてゐる古臭いもの、それが我々のいふ民間傳承になるのである。

　斯樣な用語の末ばかりに、今更少しの遠慮をして見ても始まらぬ話だが、兎角どこの國でも明瞭にこの「民間」の範圍を指示し得なかつた。殊に面と向つて諸君等凡庸の徒の、傳承を知りたいと言ふことを憚つた。その爲によほど反省の機會を失ひ、損をして居る人が有るやうである。英國ではフオクロアの定義といふのは、生活が惡くて社交から遠ざかり、此新しい文化から取殘された人たちの、擧動言語に表はれた古風な考へ方といふことになつて居る。さうまで限らずとも我々一かどの新文化人の生活にも、時には日頃に似合はない因習の餘勢が、無意識に頭を擡げることに心づく場合があるのだが、斯う聽いてはよもや自分たちの事ではあるまいと思ふ故に、競うて遠い田舍のあばら屋のみを訪問して、我も人ももう採集の種は盡きたやうに思つてしまふ傾きがあつたのである。ところがあの國で一つ仕合せなことには、ちやうど都合のよい民間傳承を意味する語が、今から九十年ほど前に發見せられたのである。このフオクロアは傳承せられた知識であつて、フオクは獨逸語のフオルクとは違つて、國民の下層を占むる一部分をしか意味せず、しかも語原は彼と一つで親しみの感じがあり、且つ些しでも輕蔑賤視の響きを持つて居なかつた。つまりは斯樣な幾分か紛れの有る語が見付かつた御蔭に、之に頼つて僅かづゝ觀察の區域を延長して見ることも出來たのである。さうで無かつたならば此學問は或は成長しなかつたかも知れない。

　獨逸では一時この英國の新語を、意味と共に借用して居たこともあつたが、大きな戰をしてからはもう借りるのがいやになつたものか、今では Volkstum といふ語を以て是に代へて居る。フオルクは此國の言葉では國民全體のことである故に、是は民風とも譯すべき一語であつて、もしも此フオクロアの由緒を知らなかつたならば、忽ち是も亦都府臺閣、學者富民等の間に普通であるものを以て、すべてを代表せしめることになつたかも知れぬが、少なくとも現在ではさうは此語を解して居ないのみならず、更に進んでは Volkskunde といふ語を設けて、爰に我々の謂はう(342)とする民間傳承誌に宛てゝ居るのである。此の種の觀測記述の始まつたのは、總體としては獨逸は確かにおくれて居た。國に學會の起つたのは英國よりは二十年も後である。しかもその抱負と覺悟に於ては、必ずしも彼が後塵を拜しては居なかつた。即ち一方の國では調査の區域を限つて、今尚同胞を視る者と觀られる者との、二つに分たうとして居るに反して、此方は之を國民全部の上に及ぼし、一國をして共に與に自ら知らしめようとして居るのである。願はくば東方採長補短の國が、徒らに舊名に絆されて、以前のまだ改良せられなかつた英國流を、眞似する愚をなさないやうにしたいものである。

　しかもその本元のフオクロアとても、實際には着々と成長して居るのであつた。單に目ざましい改良ぶりを示さず、又例の通り之を具體的に報告しないだけで、二十一年前に出したバーン女史 Miss C.Burne の指導書 Handbook of FOlk-Lore 通りで、結構だと思つて居る者などは一人もないのである。（此書は英國の民間傳承協會を代表した案内書であつた。改訂の必要を生じて爾來第三版の編述に着手して居る。此書は昭和二年に日本にも翻譯された。岡正雄君の民俗學概論がそれである。）だから私は此意味に於て、我々の民間傳承の「民間」といふ語が、元よりも廣く解せられることは格別苦にしない。つまり人間に古風な慣行や考へ方を持つ者と、全然持たない者との二種類が有らうとは思はれぬ故に、この傳承は遍ねく官吏なども引きくるめた民間に、求めることが不可能では無いからである。其間には勿論分布の厚薄はある。所謂醒めたる人々の自意識が強く、其言動思念の矛盾撞着を心づく者の間に、惰性の僅かに遺れるものを捜し出す煩勞は、悠然として自適する翁嫗兒女の生活から、絶えず發蕗する古風を拾ふに比して、償ひの乏しいことは爭へないが、日本は最近には豐富に經驗したやうに、此點にかけては一般に都合のよい國であつた。急激な新文化は只表面をしか色づけて居ない。同じ一つの部落、一つの家の中に、互に驚くほどちがつた考へ方をする者が、相敬愛しつゝ共に住んで居る。昔ものが?々新装すると同時に、舊弊は世に後れじとする青年の中にも潜んで居り、それが又何れを優れたりとするかも決し難いものである。此際に當つて、何が我々の觀察し採集すべく、(343)分類し比較すべき傳承であるかを知ることは、人生の新たなる興味でなけれなならぬ。古來一たびも文字ある者の考察に上らず、所謂優雅階級が鄙俗として省みなかつた部分に、此通り多くの消化せられざる知識、解釋を今後に期すべき儼然たる人間事實が、手附かずに殘り傳はつて居たといふことは、今日の日本人ならば面白がらずには居られぬ現象であると思ふ。世界の民間傳承論は前世紀の初頭から、此新展開を望んで百年の試驗を重ねて居る。學問は殆とこの一個の惱み關ふ邦の爲に、準備せられたかの感があるのである。それ故に説いて未だ其要點に達し得ない類似の研究エスノロジーと、いつまでも紛らはしい同音の名稱――民俗學と民族學と――を以て、呼ばれて居られぬ理由が、爰に存するのである。

　

　　　　　　　二　新しい學問の成長

　

　然らばその民間傳承の研究の眼目はどこに在るかといふと、其答は何よりも簡明である。我々は民間に於て、即ち有識階級の外もしくは彼等の有識ぶらざる境涯に於て、文字以外の力によつて保留せられて居る從來の活き方、又は働き方考へ方を、弘く人生を學び知る手段として觀察して見たいのである。さうして其方法が果して成り立つか否かを、何よりも前に突きとめて見たいのである。如何なる「學」でも最初は皆さうであつたやうに、此事業も亦僅かなる好事の徒の、半ば氣まぐれなる穿鑿に始つて居る。それが中々大切な事だつたと判つても、尚其抱負は決して雄大になつたとは言へなかつた。あんな事を丹念に調べてまはつて、果して何の役に立つのだらうかといふ世評を、甘んじて受けて居なければならなかつたのである。今でも是でよいのだと思つて居る者が少しは有るが、以前彼等の知らうとしたのは、一つ話の種になるやうな奇事異聞、同じ迷信でも其結果が害を生んで、周圍が打棄てゝ置くことの出來ぬやうなものばかりを、捜して書き留めて見ようとしたことは、たとへば草木を愛する者が、先づ畸形の類少ない(344)品に注意を拂つたのと同じであつた。單なる切れ／”＼の知識としても、尚甚だしく一方に偏して居た。是を一つの綜合に持つて來ることは程遠い話であつて、それが測らずも人間の明らかにしなければならぬ問題に、大きな暗示を與へたことが?々あつたけれども、それは唯幸福なる偶然といふに過ぎなかつた。久しく此程度の採集をくり返して居た以前の民間傳承が、急いで學といふ名を名乘らなかつたのも尤もなことであつたと思ふ。

　一方には又文字の教養なき僻村の住民の間に、いつの世からとも無く傳はつて居るくさ／”＼の口碑、殊に形態の稚拙なる昔話や歌物語、又は素朴にして力強い仕事唄戀歌の類を、數多く採録して見ようとするのが、初期のフオクロリスト等の心醉した興味であつた。彼等の執着ぶりは今人の企て及ばざる所であり、其功績は永く感謝せられては居るが、是とてもつまりは稍々我儘なる選り食ひに過ぎなかつた。同じ採集とは言ひながらも、昔話や民謠は林の奧の珍らしい蕈のやうなものである。色彩鮮麗なる野草の花である。之を目に觸れては素人でも手に摘んで、愛玩しようとせぬ者は無いであらう。集めて來てさて何に使はうかの問題が起つて、始めて我々の働いてもよい事業になるのであつた。佛蘭西では今より二百五十年も前に、ペロー C.Perrault といふ優れた學者が、既に童話の蒐集に手を下して居る。此人が是を後世に示さうとした動機は、我々の是を有難がる理由とは別のものであつたらしいが、それでも引續き是が時代の風をなして、貴女縉紳の來り携はる者が多く、此部面ばかりでは所謂蒭蕘の言も採り用ゐられた。即ち必ずしも新しい流行ではなかつたのである。之を我々の文化史解説の資料に、供すべき用意だけが缺けて居たのである。グリム Grimm 兄弟が更に百餘年を隔てゝ、その東隣の國に生れ出たといふことは、或は此因縁の催す所であつたかも知らぬが、同時に又幸運なる一大値遇でもあつた。この兩國人の親切なる比較研究に依つて、始めて心付かれたことは色々ある。東は天竺の奧地から、西は歐羅巴の果の岬まで、年久しく分散し盤踞する許多の種族の、もとは一續きのうからやからであつたといふことが、今は安全に斷定し得るやうになつたのである。獨り言語の複雜な後々の變化が、限りある法則の下に系統立てられて、終に大昔の共同の爐端まで、溯り辿ることが出來たといふだ(345)けでなく、所謂分明國では兒童すら尚顧みない數々の説話が、すべてその無意識の保存と一致とによつて、起原傳承を語つて居るといふことを、覺らせてくれたのも彼等の功であつた。希臘羅馬の上代の文化國に於て、繪になり像になりはた文學となつて、不朽の譽れを得たものが神話であるならば、遠く北方に止住して時の進歩に立ちおくれ、?々戎狄を以て目せられた彼等の從弟にも、それ／”＼に同じ種類の神話の痕跡は殘つて居る。此諸民族の中には、近世に近くなるまで文字の利便を知らず、一片の史書をも有せざる者も稀で無く、たま／＼外部に其生活を觀測した者があつても、其記述は筒と言はんよりも寧ろ粗であつて、事跡の埋没は現時の太平洋諸島民に超ゆるものがあつた。しかも尚偶然に彼等の間に持ち傳へて居たものに由つて、之を親切に考察して見ようとする人を缺かぬ限り、悠々たる數千百歳の下に於て、斯くも重要なる社會生活の一面を、囘顧して見ることが出來るのであるといふことが論證せられるに及んで、始めて説話の採集が道樂で無く、後の學徒に向つての莫大な遺産であるといふことに心付いたのである。

　十九世紀の西洋ではグリム兄弟の御蔭に、前後に比類なき昔話時代を現出した。とくと考へて見たら間違であつたといふ幾つかの學説が、起つては榮えて又滅びて居る。資料の意外なる追加が尚續く限り、今とてもまだ安心して人に導かれて居るわけには行かない。非常に面倒な中間期に入つてしまつた。さうして徒らに小區域の傳説や説話の採集、若しくはその不徹底なる解説を以て、所謂フオクロアの全部ででもあるかの如く、多くの世間の人に考へさせるやうになつたのである。民間傳承の研究が、もし成長して一個の學となるべきものだつたならば、此?態は明かに停滯であり又障害であつた。だから各國の同志者たちは、何れもこの自分で建築した住心地よき牢獄を打ち毀して、未墾の廣場に出て行くことに努力して居るのである。學問獨立の最初の要件は、普遍性を具ふることであつた。なんぼ珍しく且つ人望ある古信仰の問題であり、又諸隣國の民間説話の、最も周到なる比較によつて、可なりの確かさまで突き進むを得たにしても、同じ研究方法が更に他の多くの問題にも適用し得られ、同時に系統を別にする遠くの種族、(346)たとへば我々の國などにあて嵌めて見ても、同じ結果が擧げれるときまらぬ以上、之を學といふ名を以て呼ぶだけの、勇氣が無かつたのも當然のことである。英國では最近に外國から來た學者クラッペ A.H.Krappe が、始めて民間傳承學（Science of Folk-Lore）の名を其著述に付與したが、アンドリウ・ラング Andrew Lang などは既に五十五年も前に、此名稱の將來の可能を力説してゐるのである。其後久しい間さういふ名乘を揚げる者の無かつたのは、決して單なる謙遜からではなかつた。

　一つの新しい學問の成熟の爲に、百年位はかゝつても致し方が無いと思ふ。實際又少しばかり道草を食ひ過ぎた嫌ひもある。耶蘇教化以前の歐洲古住民の生活に就いては、過去一世紀間にそれは面白くてたまらぬほどの、澤山の新發見があつた。獨り言語の精細なる研究によるのみでなく、稀に傳はつて居る古文獻の檢討から、遺跡遣物の調査なども、日本のやうに矢の根石の時代に限るやうなことはなかつた。是等の業績が相刺戟して、興味を我故郷の前住者の上に、集注させた勢ひは大きなものであつた。昔話の研究も實は孤立のものでなかつたのである。其上に比較宗教史の新たに興つた機運が、前代未信者に對する人々の考へ方を一變せしめ、殊に彼等の遺留した有形無形の記念物を、又なく床しいものに感じさせたのである。歐羅巴は人も知る如く、中古に大規模の住民の入替りがあつて、今住む者は大部分は彼等の子孫で無く、言葉も解せぬほどの遠い間柄であつたが、尚且つ我々日本の常民が自分の遠祖を懷ふよりも深い親しみを以て、古代の生活を學び知らうとしたのである。初期のフオクロアが專ら此方面の痕跡に着目したのも、言はば時來つて特に社會の同情が、この久しく埋もれて居た者の爲に燃えたからであつた。歴史が問題の選定を其道の者に一任して、彼等の教へてくれるだけを聽いて滿足し、必ずしも各自の疑問を提出しようとしなかつた習はしが、或はその新しい隣の學問にも染傳したのかも知れぬ。兎に角に最初大きな夢もなく、又綜合的な計畫も立てずして、僅かな人たちが意の赴くまゝに、興味の誘ふ程づゝ拾つて行つた問題であつた故に、フオクロアは自然に其研究が一方に偏し、流行を又逐ふ形にもなつたので、假に今以て是を昔話蒐集事業の別名かと思ひ、もしくは古代(347)信仰の痕跡を尋ねる學問の如く、解する者が外部には有らうとも、之に對しては十分の言ひ開きが立たぬといふのみで、自分もさう思つて居るフオクロリストは、もはや一人だつてないのである。日本の學者方の起原論好きは、無論斷じて西洋の眞似では無い。其證據には、あちらで是までの上代偏重を悔い始めても、此方は尚平然として元の仕事を續けて居る。由緒傳來の限りも無く久しいといふことだけを、立證して貰はうとする世上の要望も、我邦に於ては特に強烈であつたのである。社會は暗々裡に時の學問を支持し、且つ牽制する者である。故に先づ彼等に向つて此研究の可能性を説き、まだ／＼多量の實生活上の疑問を、解決する能力を持つて居ることを信ぜしめ、より大いなる期待を繋けさせた上でないと、今の學者だけでは單獨に進むべき道に進んで行けぬかも知れない。

　

　　　　　　　三　人類學の發展

　

　

　西洋の學者の中には、面白い警句を吐いた人がある。曰く、人類の學問の中で最も發達しないのは人類の學である、と。過去數百千年の我々の智慮分別は、未だ一度でも人間を賢にし、もしくは幸福にする目的を外にしては働いたことは無かつた。人は知識の收穫を樂しみにして生きて居る。幼な子の目覺めから柩に眠る今はまで、あらゆる隣のものを知らうとしなかつた瞬間とてはないので、其關心は次第に延長して、終に宇宙の果までも屆かうとして居るのである。獨り其間に於て人とはどんなもの、人の生存が如何に導かれ、如何に進み動いて居るかといふ主要の問題が、僅かに片端の見本とも言へない實例によつて説明せられ、それが果して總體の眞相と、合致して居るか否かを點檢しても見なかつたといふことは、考へれば考へるほど不可思議な矛盾であつた。是には屹と隱れたる理由が無ければならぬ。人の好奇心が自分たちの未來と過去とだけに、特に冷かであつたとは推測し得られぬのみか、現に又實際の疑惑に逢着して、生涯惱み拔く者は數限りもなくある。唯それが相談に行く學問が、まだ御醫者樣のやうに開業をして(348)居ないのである。

　是を教へようとした者のあつたことも事實である。少なくとも其志を持つて人間の問題に、心を潜めて居た人々は昔から多かつた。今日は寧ろそれが多過ぎるので困つて居る。教へられるが爲には先づ信ずることが必要であつた。さうして其一つを信じようとすると、直ぐに第二第三のものがまぜ返しに來る。結局は自分で一應は自分を教へて、取捨の決を採らなければならぬやうになつたのだが、さて其判斷の資料に供すべき知識が、妙に此方面では久しく缺乏して居たのである。現在の人類學は、堂々たる哲學や史學に遠慮をして、其定義を限局せんとして居た。人類學は單に動物としての人を對象にする研究だと言つた者もある。併しながら是は必ずしも謙遜の�ｺを發揮しては居ない。人は動物だが賢い動物である。考へてどこ迄も其社會を改造して行ける動物である。神を懷ひ死後を信じ得る動物である。さうして其以外の何物でも無い。自然の現象としての人類を知ることに、中間の籬を設けることは出來ない。今まで此範圍で働いてゐた學問が有るならば、當然にそれも人類學と謂つてよいのだが、之を仲間に引入れても、尚此學問が不釣合に遲く始まり、且つ渉々しく他の學問のやうに、進歩をしなかつたといふことは言へるのである。

　人を一種の存在として考察する學問に、幾つともない障礙のあつたことは、大抵の人にはもう判つて居るだらう。獨り基督教の經典が特定の事實を教へ、之を否認した上で無いと前へ出られなかつたといふだけでは無い。どこの文明國でも蠻夷戎狄を、自分と同じものだと見ることは許されなかつた。日本は古くからさういふ窮屈な拘束は受けなかつた樣だが、其代りにはてんからさう澤山の齡ひし難き同類の有ることは知らなかつた。たま／＼空想に上つた手長足長、腹に穴ある異人種などは、之を鬼畜の部に入れても常識は少しも之を訝らなかつたのである。白人の國でも世界の航海が始まつて尚暫くの間は、パプアやネグリトと、ゴリラやチンパンジーとの差別を素人は解しなかつた。彼等自身の外に迷へる神の子のあることを知つたのは、文字通り新發見だつたのである。人類の自然を會得する能力は、之に由つて始めて其鐵鎖を解き放たれた。人間考察の學問が之を樞軸として、百八十度の轉囘をしたのも怪しむ(349)には足りない。たゞ不可解な一事は、その貴重な經驗が必ずしも利用せられず、今尚一國の民俗學を打立てることは幾分か容易に過ぎ、世界人類のフオクロアは、必要が更に大なるにも拘らず、殆と其希望の端緒をすらも把へ得ないことである。サー・ジェムス・フレエザア Sir J.Frazer などの、是に代るべき新學名として提案した社會人類學といふ言葉は、此二つを兼ねようとした爲に、恰も滿洲の荷車が馬と黄牛とを共に繋いだ如く、眞直ぐには走つて行けない?態に陷つて居る。是が又一つの大いなる我々の惱みである。

　我々の民間傳承論が、この廣義の人類學の中に、どれだけの領域を現在は持つて居るか、且つ又どれ迄の役目を果すのが相當であるかといふことは、不幸にして今はまだ二つの別々の問題である。私たちは實着の歩みを踏みしめて行く爲に、特に先づ一國民俗學の確立を期し、是によつて將來の世界民俗學の素地を用意し、是に働く人々の習練に資するを順序として居るのであるが、その序幕に於てすらも、既に色々の妨碍に出逢つて居る。到底總世界の人間研究に押し擴め得ないやうな方法が、時としては民俗學の名を占有してゐる。人類學との聯絡は一向に省みられて居ない。しかしむつかしい問題のやうに思はれてゐるが、私としては説明は至つて簡單である。人類學がもし體質と精神との二部に分ち得るものならば、傳承の研究は無論後者に屬するが、是も亦是非とも前者と同じ方法に依らなければならぬ。さうして其方法は一國の内外を問はず、一貫して常に遵奉せられるのが當然だと信じて居る。所謂體質人類學の研究方法は、今や完全に樹立して之を爭ふ者が無い。即ち其要件の一つは現在の事實以外、自身の眼で見手で觸れたもの以外、他の如何なる資料をも借りて來ないことである。次には觀察し實驗せられたる事實を、出來るだけ數多く集めて分類を精確にし、其同異の比較に基づいて法則を見つけて行くことである。個々の史料の價値を平等視して、主觀によつて重心を置き替へようとしないことである。獨り醫者理學者の人類學のみと言はず、苟くも科學の名を以て呼ばれんとする研究は、何れも皆此律法に服從すべきは當り前の話である。然るに今日の民俗學といふ部分にばかり、尚自分で無い者の異時異處の認識を無差別に踏襲して、新たなる觀察を重んじないものが多かつた。實驗の(350)未だ及ばざる今後の採集の中に、現在の疑問の答が潜んで居ることを思はずに、僅かに知る限りの眼の前の資料に據つて、自由な斷定を下さうとする者があつた。其爲に體質人類學と共通の方法を以て、手を執つて共に進んで行くことが出來なかつたのである。

　日本の所謂體質人類學は、又フオクロア同樣に素人臭く、甚だしい問題の選り食ひをして居る。興味の集注して居る所は主として骨、或は是を硬部無生人類學と名づけても當つて居る。生きて現在に滿ち溢れて居る事實にまで、導かれて來た筋と順序、是が條件たる生存樣式、即ち我々の社會問題と、より多くの交渉をもつ dynamic の方は、單に好望を將來に囑せしむるのみで、是も亦外間の由無き誤解を防ぎ得ない。併し同じく一時の流行とは言ひながらも、體質人類學の上代偏重、起原論熱中にはまだ理由がある。其一つは新しい發見が餘りに多く、一寸と思つて取掛つた者が、もう切上げて外を廻るといふ折が無いことである。だから私などは爰は御連中に任せて置いて、他の持場の爲に新らしい人を待つて居るのである。第二の理由は愈々人類の生きて繁殖して斯う變化した迄の經過を明らかにするには、實は「體質」だけの獨力では少し足りない。地理學者のよく謂ふ環境の差異を、詳かにしたゞけでもまだ足りない。人が銘々の氣風や習癖から、もしくは信仰や自然觀の持ち傳へたものから、たま／＼選擇した一種の生き方が、たとへば斯んな日本人や蝦夷人を、作り上げたのかも知れぬからである。ところが頼りにすべき相棒はまだ御休息だ。殆と自分が新らしい人類學の主要な役者であることを否認もしかねまじき人々が、依然として片隅の問題をつゝいて居るのである。此方が目覺めて一ぱいの仕事をする迄は、あちらの方でも發掘の仕事しか出來ない。二つ別々でも無い新らしい人類學が、斯うして體質だのいや文化だのと、割據孤立して居られるのも、學問の進まぬ御蔭だ。もしもいつまでも割據がして居たければ、現?に感謝するがよいのである。

　

(351)　　　　　四　今日の史學

　

　我々の史學が、今日はまだ何としても答へることの出來ない多くの問題を持つて居ることは事實である。是は手不足や我儘な選り食ひの爲といふよりも、寧ろ學問の年久しい行き掛りから、自由に總ての過去に對する不審を尋ね究めんとする努力を抑制せられて居るからで、強ひて言ふならばそれでも結構だと思ひ思はれて居る所に、反省しなければならぬ弱點が有るだけである。他の多くの遲く生れた學問は、周圍が第一にそんな春氣な態度を許さない。假令出來ないまでも各自の所轄内の、あらゆる疑問を無くすることを、理想としないものは無いのであつた。それだから又安心して、しかも未熟のうちから人類學などゝ、名乘つて居ることも出來たのである。さうすると問題は當然に史學と人類學との境目はどこか、一方の目的の有限性に對して、こちらは何でも來いといふ普遍性の旗印を以て、向ひ合つて居てもよろしいか否かに進んで來るのであるが、是には私たちのやうに史學の近代の展開ぶりを、深い興味を以て觀望して居た者の、容易にうんと言へない理由がある。其上に今までの人類學は前に言ふやうに、まだ些しでも其普遍性を發揮しては居ないのである。最も舊式の歴史でも笑ふやうな、狹い前面を控へてたゞ自得して居るだけである。

　幾多の制限を受けて居るとは言ひながらも、もう今日の歴史は決して舊式で無い。近い百年ほどの間にどの位彼等が目的を複雜にし、其可能性を擴張しようと力めたかは、ちよつと短い言葉では説き盡せない位である。大體に日本の明治年間は、西洋の十九世紀も同樣に、所謂記事本末體の途法も無くもて囃された時代であつた。大は宗教史や制度史の類から、微は玩具や髪容の變遷に至るまで、題下に史の字を附すると本は皆賣れたといふ話である。如何なる題目を取扱つた書物でも、卷頭に史的記述の尤もらしい一章が無いと、不親切であるかの如き印象を人に抱かせたが、(352)其癖本論とは何の交渉も無く、又利用せられても居ないものが比々としてあつた。是等何々史の大半は、以前の社會に於ては曾て歴史のうちに算ふべきものとすらも考へられなかつた。ましてや後世にかゝる讀者の有るべきを豫想して、是に必要なる記録を留めようとした者の、絶無であつたことは勿論である。それにも拘らず兎に角に曲りなりにも、斯ういふ新史書の輩出し得たのは、單なる流行の力のみではなかつた。即ち又第二段に於て、古人が夢にも豫想しなかつたやうな大規模の史料採擇の躍進があつたことを意味するのである。

　歴史が素朴なる記傳の道から、修史館裡の事業と化したのも一朝の變では無かつた。古人が家の祖郷土の英雄の功業を絮説する熱心は殆と問はず談りに墮するを顧みなかつた程であつたが、それでも尚後世の者が聽き尋ねんとするところと、?々著しい喰ひ違ひがあることは免れ得なかつた。それ程にも我々は偉人の行跡に就いて、こまごまと知らうとする趣味を持つて居たのである。それから二人以上の強ひて傳へんとした者が、互に相容れざる主張を遺して、もはや何れが正しいかを問ひ究められぬ處へ、行つてしまつて居る場合も多かつた。そこで第三者は公平に其眞相を確認する爲に、何等の計畫をもたない他の方面の文書の中に、單なる筆の序を以て書き留めて置いたものまでを、證據として援引しなければならぬ必要を感じ始めたのである。歴史が上代の神話や傳説と、完全に手を分つたのは此際であつたと言つてよい。今でも此方には書き傳へたたのならば信じ、わざ／＼殘したもので無いと何物をも信じまいとする氣風が、まだ少々は消えないで居るが、大體にこの修史即ち歴史の書き直しは、内外兩面に史料採擇の自由を、著しく擴大させずには置かなかつたのである。

　しかも是を近世の歴史問題大追加の後に比べると、以前の自由は物の數でも無かつた。我々の國史が其輪廓に於て、大よそ昔の史官が記傳すべLと認めたものと、重なり合つて居た間は此自由の必要も實は小さかつた。ところが我々が能く訝かり、世相が數多くの奇異と不審とを掲ぐるに至つていつと無く是を極度にまで利用することになつたのである。江戸期で最も奇拔な例は、二三の市井學者が市民の常の日の生活の由來を知る爲に、御伽や浮世草子、さては(353)俳諧の小さな集までを渉獵して、其中に幽かに觸れて居る記録を求め、之を自分たちの特別史の史料としたことであるが、そんな事などはもう今日ではざらである。それをしなかつたら殆と書くやうな問題は無いのだ。國史の最近の進歩は一つには採訪の力であるが、是とても多くは側面からの證據であつて、利用の方法が新しい故に役に立ち、又他の最も意外なる偶然の記録と結び付いて始めて意義があるものも稀でない。それから經筒や鰐口のかけら、磨滅しかゝつた路傍の石塔なども、大抵は或文字を金石に彫り付けた動機と、全く異なる目的の爲に使はれるのが普通である。昔かつて文字を以て歴史の手段とした趣旨と、大よそ是ほどまで懸け離れた用法は、果して他にも例があるだらうか。それで居て尚歴史は、文字に書いたものを基礎とする前代生活の尋討だといふ定義を、守株しなければならぬといふのは、私たちにはたゞ行き掛りの拘束とより他には評する語が無いのである。

　しかも斯ういふ切れ／”＼の文字が殘り傳はつて居るといふことは、些しの必然性も無いのであつた。即ちどの位考へて見る價値のある史上の問題でも、必ず捜したら何處かに史料があるものとはきまらなかつた。假に現在何等かの痕跡を留むるものだけが、國の歴史の傳ふべき事項なのだと、獨りできめてかゝつて安心して居る者はあるが、それはたゞ記傳時代の餘習といふに止まり、到底之を以て後世の知識慾を撃退し、又は重要視を掣肘することは出來ない。近頃の適例では維新史の研究が流行して、是ほど澤山に有る文書や覺書でも、まだ一方に偏して居るといふ不滿があつた際に、各舊藩から多くの老人を呼び寄せて、新たに其談話を聽いて幽かな記憶を誅求したのである。即ち既存の文字に依頼する以上に、今一段と深く問題を掘り下げて行かうとすれば、時には古い定義の外に逸出する必要のあることが、もう認められずには居られないのである。それから他の一方には考古學の知識も、古代史や他に史料の無い地方史の區域では、可なり鷹揚に援用せられて居る。是が人間の姿形として遺り傳はつて居る史料、もしくは國民の無意識に傳承した無形の遺物や、遺跡の上にまで、手を伸したくなるのもやがてであらう。要は我々の史學が古い問題に倦み、もしくは新たなる問題の重要性を見出す時期がいつ來るかによつてきまることで、是まで展開したものが(354)此程度で永く停止することは萬無いと思ふ。

　

　　　　　五　フオクロアの内容

　

　始めて Folk-Lore といふ語を生のまゝで、日本に持込んだ人はバチェラー Batchelor 老師であつたらうと思ふ。蝦夷は此國土と因縁の深い種族であるらしいが、其歴史は全く埋もれて居る。奧州安倍頼時行胡國歸來語といふ類の風説書は申すに及ばず、たとへば近世のシャグシャインやツキノイの一件記録が、どの位正確に史實を保存して居らうとも、さういふ片端の外部史料に據つて、あの民族の經て來た過去、殊にその今日ある所以のものを、解し得たりといふ譯に行かぬことは、篤實なこの英國の宗教家が誰よりも先に心づいたのであつて、よしや其採集は弘く及ばずとも、心ざしは既に四十何年の前に立てられたのであつた。日本人の中にも言葉だけならば、もつと以前から知つて居た人は必ずあつたらうが、果して其本意を輸入して居たか否かは、成績に就いて見るとよほど疑はれる。それといふのが初期のフオクロアは、其國元に於ても非專門家の好事の學であり、又甚だしく古代探求の興味に偏して、綜合を餘りにも遠い未來に期して居たからであつて、その一部の綿密な調査ぶりだけを見て來た者が、成るほど人民の風俗の學問だから民俗學かと、思つてしまつたのも無理は無いのである。それに少しは今よりも人の心が悠長でもあつた。何になるかは知らぬが、私も遣つて見ようといふ人が相應に尊敬を拂はれて居たのである。それが自他ともに學問の社會的效用如何を、考へずには居られぬ時代となつて、改めて痛切に當初の趣旨を白覺し、力を完成に傾け出したことだけは事實である。そこ迄見屆けてから、眞似をするならばした方がよかつたかも知れない。或は採用のし樣が早かつたとも言ひ得る。

　それに尚一つ察して遣らなければならぬことは、二三の西歐の舊國に於ては、其近代化が既に徹底して居る。あら(355)ゆる新文化の綾模樣の中から、僅か一線の古代染の色絲を見つけることも、今はもう餘程困難になつて居る。學者が概念として別に考へようとする農夫 peasant といふ者も、實は片端から當世人になり切つて居て、その常の日の生活ぶりには、何一つの異なる法則で支配せられて居るかと思ふものも無いのである。所謂殘習遺俗はよく／＼衝動でも無いと、無意識にも滅多には發露しない。是を觀察して行つて追々に數多くの類例を重ね、比較によつて證據力を確實にしようといふことは、先づ斯ういふ國々では望み難いことだ。ところが飜つて我々の生れ合せた群島國、今頃やつとの事で世の中の既に改まつて居ることを教へられ、しかも去就を右左のいづれかに惑はねばならぬ日本に於て、果して彼等と共に資料の消滅を歎息し、乃至は論理の飛躍を忍んで、比較を縁の遠い蠻夷の間に求むべき必要があるか否かは、誰にでもすぐ決せられる問題であり、決し難ければ幾らでも手輕な證據がある。我々の間に於ては毎日の生活事實が、尚現前に過去を物語つて居る。之を取殘され或は殘留 survival と名づけ、はた持續 vestiges と呼ぶのには、餘りにも多量の昔風が、我々を圍繞し、又自分たちの内にも潜んで居る。是を意識する無くして生きて行かうとすることが、寧ろ教養ある者には不可能にさへなつて居るのである。多くの場合に於ては省察が即ち採集であり、又分類でもあれば比較でもある。是ほどにも容易に過去を解する資料が、整備し得る　　　状態は他の國に望むことが出來ない。しかも尚新學といへば何でもかでも、たゞ白人の踏んだ足跡をしか追へないといふことは、口惜しい摸倣主義と言はなければならぬ。

　フオクロアといふ一つの英語は、實は分家の米國に於てすらも、餘り珍重せられない程の新語であつた。我々外部の者から考へて見ても、三百年も以前に故郷の田舍を出て大海を渡り、ずつと曠野に入つてしまつた者の、少しづゝ持傳へて居る昔風と、元の土地での生活ぶりの變化とを、比べて見るのは興味の深いことで、早速呼應して起つたらよささうなものだが、今までは一向にまだ氣乘りがして居ない。必ずしもさういふ方法の可能も信じないわけではなく、又殘つて研究に價する痕跡が此方には無いと思つて居るのでも無いらしいが、兎に角さういふ新らしい思ひ付き(356)を、氣輕に他の國から借りて來ることが、何と無く己を空しうし過ぎるやうに感じられたのである。所謂舊大陸の國々が申し合せた如く、どうかして斯んな語を使はずに濟ませようと努めて居たのも、それ以上に尤もな心理ではあつた。しかし名稱はたとひ何と付けようとも、既に其内容の實在を認めずに居られなかつたとすれば、寧ろその正しい目的と分野とが、國際的に確定してしまふまで、一つの共通の名を保存して置いた方が、御互の理解と討究には便利であつたらう。ところが英國はもと／＼フオクロアといふ語の發明を誇つて居る位だから、忘れても隣國の民間傳承といふ語などは使はうとしない。さうして他のそれ／”＼の自己流と、互に飜譯の際に若干の誤解をし合つて居る。此不便も今になつて見ると大きかつた。是が自動車とか飛行機とかいふ類の、現に定まつた形のあるものなら、各國で名を異にしようとも辭書一つで用は濟むが、フオクロアの如きは成長するものであつた。人によつて少しづゝは輸廓をちがへて考へ、しかも其範圍内のたゞ一小部分のみを、生涯耕して居る者もまだ相應に多いのである。是では國毎に割據の姿を呈して、永く總體の協力は望み難く、銘々がたゞ自分に都合のよい場合ばかり、氣隨に國外の人の言を援用して、却つて仲間の混亂を招く弊を防ぎ得ない。日本のやうな學問上の自主のない國では、特に此結果を警戒する必要があるのである。日本では將來完成すべきフオクロアの學問を、是非とも民俗學と譯さうといふ説があるならば、それに私は反對しない。又その範圍が舊い二三の國よりも廣くなつても趣意さへ一貫して居れば結構だと思ふ。たゞ一つの條件は是と一面の類似をもち、しかも方法と本質とを異にするエスノロジーを「民族學」と同音で譯しては困るといふことである。

　しかしさういふ内にも大體の傾向は、今までのフオクロアの領土を擴張しようとして居る。個々の研究者の選り喰ひは無視して、終始其論理の終極まで、この學問の限界を持つて行かうとして居る。現在是に携はる者の數や能力は別として、新らしく始まつた土地ほど、手を着けなければならぬ仕事の區域は廣いと考へて居る。一例をいふと常民の衣食住、是に伴ふ長い間の仕來りの如きは、もとは餘りにも有りふれた現象として、英國などでは是を省みようと(357)する者が無く、僅かに奇拔意外なる習慣、もしくは迷信が是と結び付いた場合のみに、之を問題にしようとしたのである。所謂有形文化の種々相まで、フオクロアが取扱ふべきであるか否かは、此頃かの國でも漸う問題にし始めて居る。ところが對岸の佛蘭西や其他地續きの國々では、最初から是を民間傳承の主要なるものに算へ、それを中心にしないと大衆の過去世は考へられぬものと思つて居る。同じ一つの學問の態樣としては、是は可なりの顯著なる相異であり、又所謂民族學との聯絡に於ても、この接觸面の廣狹は大きな違ひである。次に獨逸のフオルクスクンデなども、譯すればフオクロアだと何人も解して居るのであるが、此方では地方の言語現象を、最も大切な項目に入れて居るのだが、隣の佛國ではたゞその一部の、命名技術のやうなものに注意して居るだけである。英國では方言の調査の方からで無いと、入つて行けないフオクロアがあることを、此頃首唱する人が現はれたけれども、そんな問題は彼國本來の計畫の中には無かつた。私等が日本に於て言語事實を觀察し、之を利用せんとする立場は、右三つの國風とも亦少しちがふ。何にしても早く始めた國の研究が、是等を民間傳承の外に置いたことは、單なる行掛りだから踏襲する必要は無かつたのである。

　

　

(359)　　　北小浦民俗史

　

(361)　　　　　各地民俗誌の計畫について

　

　民俗學研究所の初期の事業の一つとして、我々は全國の隅々の、最も世に知られない小區域の採訪記録を世に殘すことを思ひ立ち、多數の同志諸君から、是に協力しようといふ約諾を得ました。私一個人に取つては、とても實現はしないだらうとあきらめて居た若い頃からの夢でありましたが、新たなる時勢は之を可能にし、又極度に之を必要にしたのであります。

　古い生活ぶりが、時と共に改まつて行くのは當然の事でありますが、以前はまだそれがどういふ風に改良せられたかを、覺えて居らうとする人が多かつたのみか、中にはあまり急激な變化に對して、幾分の危惧不安を感ずる者が、少なくとも元は斯うでは無かつたといふことを、言はゞ用心のために少しづゝ、語り殘して置かうとする態度が見えました。村の寄合には面白い思ひ出話が多く、それに耳を傾けようとする若い男女も、少なくはなかつたのであります。然るにこの動亂の十數年の間に、さういふ親切な故老は次々と去つて行きました。僅かに留まつた者も見當を失つて、たゞ嗟嘆を事として居ります。進取追隨の氣風は一世を蔽ひました。さうして我々の日常生活は、又新たに大いなる變貌を重ねなければならなかつたのであります。考古學などにいはゆる表面採集は、こゝでも甚だしく困難なものになつてしまひました。しかも一方には過去を明かにしようとする希望が、普通教育の面に於て、一般に非常に高まつて來て居るのであります。

　この目前の需要に應ずる爲に、民俗學研究所の創設以前から、我々の進めて行かうとして居た方法が二つあります。其一つは今まで永い間に拾ひ集められた民俗資料を、綜合整理して檢索の用に供すること、即ち民俗語彙の編纂であります。是が亂雜で精確を缺くもの多く、殊に全國の隅々に亙つて、まだ／＼觀察の及ばぬ區域の弘(362)いことがわかつて、第二段に手を着けましたのが昭和十年以來の郷土調査であります。是は比較的交通に惠まれず、且つ是まで省みられずにあつたいはゆる偏鄙な土地を選び、やゝ長い日數を費して精細なる視察をくり返したもので、問の出し方とか物の見方とか、又は話の聽き方とかに、可なり念入りな用意をもつて掛りました。不幸にして時局の制限を受け、三年あまりで中絶のうき目を見ましたけれども、それでもなほ百何十かの山村と海村とは、之によつて始めて我々の學問と交渉を持つことになりました。さうして其記録は原形のまゝ、すべて此研究所の寶物として保存せられるだけで、今はまだ一般の利用には供せられずにあるのであります。

　今度の各地民俗誌は、先づこの記録の公表を以て出發するのでありますが、この中にも勿論價値の差等は認められまして、多分はその全部までは公表せずにすむかと思ひます。其代りには我々の壯擧に刺戟せられて、あれから以後同じ種類の計畫が、すでに各方面に實行せられて居ります。將來は又更に一段と立ち優つた知慮と熱心とを以て、前者を凌駕するやうな成績を収めることが出來るかと期待せられます。困難は固より増加して居りますが、若い人たちの勇氣は此方面に於て、又一段と昂揚せられて居ります。是があればこそ私たちは、斯うしていつ迄も働かうとするのであります。

　現在豫定し得る民俗誌の目録は、假に二十何篇としてありますが、我々は是を少なくとも百篇ぐらゐにはしたいと思つて居ります。個々の郷土の特色が次第に目に立たず、共通一致の點のみが多くなれば、それを目的の完成と見てよいのですが、さういふ時期は容易には來ぬだらうと思ひます。やがて三十なり五十なりの卷の數がたまつた上で、一つの總合索引を作つて、各地重複の多少を調べて見ることが、我々としては大きな樂しみであります。

　民俗誌といふ書物は、今から十敷年以前にも、一時連續して幾册か世に出たことがありました。それと今度のものとのはつきりとした相違は、あちらは壹岐島とか天草島とかのやゝ廣い地域の總覽であり、こちらは一つの(363)町村の中の、又一段と小さい部落を目標として居ります。山村とか漁村とか題した民俗誌なども、現實には或限られた郷土に對象を置いて居ますが、やはり出來るならば國の全體に通ずるものを、見定めようとする意圖を抱いて居りました。民俗學の素志とするところは、窮極はそれに到達しようといふに在ります。たゞ奈何せん資料事實の調査が、今はまだ十分に周到で無く、又さういふ知識を貯蓄することは、一人の能力に餘るといふ?態であります。個々の特色ある地域の記述と、その比較綜合は缺くべからざる準備でありまして、それが現在まではまだ出來ずに居たのであります。日本一國の民俗學も同じことですが、各自の内側を精確にした上でないと、實際は外との比較は望まれなかつたので、言はゞ今までは假定の上に立つて、概論をして居たといふ姿であります。いはゆる人文の科學に對立して、他の一方の自然科學のみに、エキザクトといふ名を冠らせて居た、口惜しい理由はこんな處に在るのです。土地に生れた人たちの學問が、仲間から誤りを發見せられるやうなことがあるのでは、いつの世になつても文化の論を、外國人の著述からいき呑みにしなければなりません。今度の民俗誌なども、主として外からやつて來た人の觀察が物を言つて居るのですから、誤つた判斷は有りがちでありますが、土地を指定せられて居る以上は、その土地の人は讀まずには居られず、讀めばその誤解を指摘せずには居られますまい。それを私たちはこの學問の最も着實なる基底であると思ひまして、國の中央のたつた一つの研究所の、是非とも最初に手を着けなければならぬ事業だと考へたのであります。

　しかしながら可なり大きな事業であります。有縁無縁の内外の理解者の、廣い聲援を得なければ、成功は得にくいことゝ思つて居ります。國は悲しい時代に沈淪して居ますけれども、幸ひなことには日本文の讀める外人が、近頃急劇に多くなつて來ました。飜譯の煩はしい仲介に依らず、直接に斯ういふものを讀まうといふやうな人々へは、あらゆる方法を盡して此本を頒布して見ようと思つて居ります。それには又文章の平易明瞭といふことが、たとへ出來ないまでも常に心掛けられねばなりません。あまりやさしいから學問の本らしくないなどゝ、つまら(364)ぬことを言つてもらひたくないものであります。

　　　　　昭和二十三年十月

　

(365)　　　　　北小浦民俗誌

　

　　　　　　　一　海人の村

　

　佐渡は島の周りが二百十キロ餘、北に突き出したその約四分の一が、内海府と外海府の二つの村になつて居る。以前の海府はそれよりもまだ少し廣かつたらしい。

　海府といふ地名は、對岸の越後の方にもあつて、土地の樣子が互ひによく似て居る。その名の起りは阿波や豐後の海部郡、その他あちこちの海部郷と同じく、海で働く人たちの來て開いた土地である故に、さう呼ばれたといふのが正しい説だらうと思ふ。もとは海部と書いてアマベと稱へて居たのだけれども、後々は文字によつてカイフといふ人が多くなつた。香取神宮の中世の文書にも、下總常陸の海夫たちを管領して居たことがしば／＼見えて居る。佐渡や越後の海府なども、元來はそのカイフの住む土地をさう呼んで居たのが、斯ういふ文字になつて傳はつたものであらう。

　土地を耕す人たちが、後に陸の方から次々と、入つて來たことも想像せられる。古い家々は皆田畠を持ち、野山に薪を取り炭を燒き又牛を放牧して、海の稼ぎばかりを目當てにはして居ない。詳しく尋ねて見たならば、それ／”＼の家筋は見分けられるかも知らぬが、長らく一つの土地に集まつて暮すうちに、縁を結び親しみが深くなつて、次第に(366)二つの産業は融け合つてしまつた。さうしてそれが又家々の活計を、少しでも樂しくする途であつたかと思はれる。

　ともかくも最初の海部移住者たちが、こゝを引上げて立退いたと思ふ形跡は見出されないで、彼等の子孫が少しづゝ、新たな陸上の生産を學んで來た、その足取りはやゝ窺ふことが出來るのである。島で無くては見られない畜産の珍らしい樣式はあるけれども、其他の農業は一般にごく普通であり、たゞその收穫が十分で無く、地元の食料にもやゝ不足がちであるに反して、海の實入りはもとは隨分と豐富であつた。幾つかの特色である漁法が保存せられて、水上の營みを容易にし、其技術も世と共に進歩して居る。海府地方の古い歴史を傳へるものは、主として此點であらうかと我々は思つて居るのだが、それには地域のずつと廣く、從つて開發の事情の複雜だつた外海府よりも、むしろ制限の多い内海府の方が、色々な事に心づきやすいのである。内海府村の總人口は、近い頃の統計で千三百あまり、田は六十四町ほどあるが、裏作まで取れるのは一町ほどしか無い。日本でも最も小さい村の一つである。八里に近い海沿ひの線に、六つの部落に分れて是だけの人が住んで居る。さうしてこの本に記述しようとする北小浦は、ちやうどその中央の、三十戸ばかりの殊に古風な村であつた。

　

　　　　　　　二　内海府の生活

　

　外海府の北の行止まりには、願《ねげ》の佐比のかはらといふ地藏さんの靈場があつて、無人の荒濱が其さきにしばらく續いて居る。内外二つの海府の堺は、どこか此邊りに昔からあつたものと思はれる。山の脊筋が南北に通つて、まるでちがつた方角の海に面して居るだけに、この内外のけぢめは著しい。佐渡四民風俗の原田翁追記（天保十一年）を讀んで見ると、雙方の異なる點はほゞ想像することができる。

　外海府は西北を受け、冬は北方の風烈しく吹拂ひ候ゆゑ、雪の積り少なく、内海府は外海府の雪落ち候て積り深く(367)候へども、東南受け故消え方遲からず、外海府の田地植付は國仲よりも二三十日おくれ、秋は風烈しきゆゑ程合ひ見計らひ、田に稻を倒し、ナル木を以て押へ置き、實入を待ち候ほどの儀にて、作損は多き田に候へども、強水《こはみづ》掛りにて米性は宜しき方に御座候とあるのは、今も引續いて居る天然の條件かと思はれる。即ち一方は雪が多いけれども早く融け、他方は積り方が少ない代りに、冬中は風が強く吹いたのである。冬で無くとも北西はいつも惡い風であつた。さうして此半島の突角は、北よりもよほど東へ振つて居て、内海府は山でやゝ其風を防ぐことが出來たのである。

　或は薪を焚きくらべ候老人の説に、外海府は風荒きゆゑ木の性堅く、之に依つて調へ燒き候ものも、勝手宜しきよしに御座候と謂つた人もあるが、是とてもさう大きな一方の長處では無かつたやうに思ふ。薪と炭との外部からの需要は、相川鑛業の影響を受けて、無論外海府の方に先づ開けたものと思ふが、是を運び出す手段には障りが多かつた。之に對して内海府の方には、船での輸送といふことが少しづゝ進んで居たのである。今からもう二十六七年も前に、私がこの方面を見て通つた頃には、鷲崎の村の陰の小さな澗《ま》に、船がゝりをして居る和船が三四艘もあつて、それは皆越後の方から、炭と薪を積みに來た船であつた。内海府の海岸ならば、斯うして氣永に潮待ちをすることも出來た。ところが一方は海が荒い爲に、冬場で無くともそれが?々妨げられたのである。

　しかも外海府は土地が廣く里の數が多く、人の勢ひも盛んである故に、今では誰が見てもこの方が表口、あちらは裏手のやうに感じない者は無く、

　　　内は山かげだ、

　　　外は今から日ざかりだ（佐渡の民謠）

といふやうな歌が、内の人たちの口にさへ上るくらゐで、どうして都からの距離の大きい向ふ側の方を、内海府と謂ふことになつたのかを、いぶかる者が段々と多くなつて居るが、記録にちつとも傳はらぬ海の上の往來といふものを、考へて見るならば是は不思議で無い。つまりは最初の移住者が、先づ此方面から入つて來たから、此方を内と謂ふの(368)である。能登の半島でも、隱岐や對馬の島でもやゝ似た形勢が見られるが、或はこの我々の住む陸地の構造、もしくはそれを支配した天然の力が、最初から西北面を近づきにくゝして、アナジ・タバ風の風下の方へ、船をまはして行く習性を、海に働く人たちに植付けて居たのかもしれない。

　佐渡の内海府の場合に至つては、それに又一つの偶然が附隨して居たのである。濱はなごやかで船を寄せることは容易だつたけれども、上つて見ると山が立ち迫り、目ぼしい溪の流れも無く、雨は岩根を洗つて其まゝに海に出てしまふ。全體に土の乏しい處であつて、大きな部落をこしらへて共に住むことが出來なかつた。いはゆる海の幸の十分に豐かであつたうちは、むしろ斯ういふ土地を安全として居たでもあらうが、次第に食料の變化を悦ぶやうになり、人も多くなると又次の場所を今度は船で無く、陸つゞきに求めようとしたかと思はれる。北小浦の後の山に、さして高くない嶺を越え、外海府に行通ふ一筋の路がある。近世の開發者が向ふの側から、越えて來たといふ言ひ傳へは殘つて居るが、こちらの方からも行つて居ることは確かで、漁法牧法などに雙方幾つかの一致が見られる。峠の交通は求めることの多い側から開かれるものとすれば、それは東表の小浦の方であつたらうと思ふ。そこには漁場がなほ榮えて居たにしても、やがて人の數が餘分になつて、さう／＼は働かせる場所が無かつたからである。耕作の方でもわざ／＼山を越えて、又は北の濱邊を迂回して、拓きに來るほどの平地がこちらには無かつた。後には雙方入れちがひに、來たり往つたりするやうになつたかも知れないが、最初の移動はやはり内から外へであつたらう。經濟の中心が相川に遷つてから、新たな文化は先づ外海府をおとづれたけれども、別になほ一つのもつと古い起點があつて、それは記録の無いまゝに、追々と忘れられて居るのである。日本は久しい國である故に、さういふ埋もれたる歴史が幾らでも想像し得られる。何か特殊な手掛りさへ捉へれば、それを見付け出す途が有るのではないかどうか。北小浦の民俗誌を書いて見る氣になつた、自分の動機の一つは是である。

　

(369)　　　　　　　三　磯ねぎとかつぎ

　

　冬の三月は風強く海が荒れて、漁に出られぬ日が外海府では多いに反して、内海府の村々では、是がイソネギといふ漁業の季節となつて居た。冬至即ち十二月の二十二三日の頃に始まつて、春は新暦三月の終りまで、毎日のやうに小舟を漕ぎ出して、章魚や鮑《あはび》や榮螺海鼠などをヤスで突き、又はエゴといふ海草を採取する。それを爰では磯ねぎといふのである。海の隣の粟生島、越後の海府や能登の御崎、その他沿海各地の實?を調べた上で無いと、少しでも確かなことは言へないが、此種の漁業は佐渡に入つて來てから、又一段の發達を遂げたのではないかと、思はれるふしが有る。少なくとも地形と魚介の生態に支持せられて、他の多くの土地では既に痕跡といふまでに衰へたものが、爰ではまだ活?に活きて榮えて居る。さうして或部分はもう絶え／”＼になつたものが、其中にまじつても居るのである。

　たとへば女が海に潜ぎ入つて、貝や海草を採り上げる作業、是を海人の唯一つの生計でもあつたやうに、久しく内陸の者からは思はれて居たけれども、それが内海府の北小浦などでは、今は殆と行はれて居ない。時々は男で海にむぐる者が、近くの部落には有るといふ程の、話より我々は聽いて居ない。此頃急に衰へたのでもないやうである。そんなら海部には最初から、かつぎを得手とする者とさうでない者と、二種の部類が有つたといふか。又はこの地方に入つて來た者が海部では無かつたのか。それも全く想像し得られぬことではないが、今のところではまだそんな形跡は見出されないのである。

　そこでやゝ詳しくこの土地の實例を記述して、他日遠近の各地と比較する場合の、目安を立てゝ置きたいと思ふ。第一にはイソネギといふ言葉、是は佐渡以外ではまだ私たちは聽いて居ない。ネグといふのは舟をネル、即ち漕ぐことだと思つて居る人も有るらしいが、別に海中の魚を突くことをネギスルと謂ひ、又その舟をもいふのを見ると、是(370)はむしろ山陰地方のカナギと同じく、水底を引掻くやうな動作を意味する語で、ナグ（薙ぐ）といふ動詞から岐れたものかと思ふ。土地でも此言葉は他に用ゐられる場合が無い爲に、元の起りがもう不明になつたのである。

　イソといふ言葉も、土地によつて意味が少しづゝちがつて居る。文學の上では「磯たちならし磯菜つむ」などゝ、岩でもあつて渡つてあるけるやうな、岸近くをいふかと思はれるが、海府の方ではさういふ處はナダ、ナダよりさきの海面がヘタであつて、その又一つさきの、海の深さでいへば三ひろ四ひろも立つあたりがイソなのである。イソから外の遙かな沖は、ダイナンともダイオキとも此地方では謂つて居る。磯とか灘とかいふ漢字を我邦へ輸入するときに、こちらの言葉をはつきりと見定めなかつたのは、京都の人たちの責任であらうが、そんな事を今言つたとてしやうがない。イソは?々水底の隱れ岩のことにも使はれて居るから、要するに魚族介類の棲む處、海に稼ぐ人たちの採取の出來る場所のことであつて、たゞ其方法が地形により、又その人々の修練によつて、追々と分化して來たのである。

　東京あたりでいふ汐干狩、海の潮の引いた頃を見かけて、貝や海草を採りに出ることをイソと謂つて居る例は西日本には多い。それを二つに分けて、あるいて行くのをカチイソ、小舟に乘つて仕事をするものをフナイソといふのは、是も亦普通に聽くことであるが、その中間には沖なかの磯や小島に渡つて、かち立ちになつて働いて來る者もある。能登の海士町ではそれをワタリと謂ひ、壹岐の島などではシマイソと呼んで居た。岸の汀の採集が、全く無いといふ場合は想像しにくいが、佐渡の内海府は海が深く、特に舟いそがよく發達して居た爲に、自然にこのイソといふ言葉が、沖の方へ出て行つてしまつたのである。

　イソが必ずしも海ばただけの名で無かつたことは、舟で乘出して海に潜る海女までを、イソドと呼んで居る土地があり、又彼等の身に附けるものをイソダテ・イソカプリ、その他イソマゲ・イソベコ・イソメガネなどの、言葉が有るのを見てもよくわかる。たゞさういふ土地でも作業の種別によつて、舟で沖中へ出て行く者を沖アマ又は本アマ、(371)他の一方の岸近くで働くのをカチアマ・ダカアマ又は桶アマなどゝ稱して、幾分か輕く見下げるやうな傾きが有るのは、二つを比べると前の方が勞多く又收穫が大きいからであらうが、是とても海の事情によることで、たとへば九州の北部でも、遠賀郡に居る者は皆ダカアマであり、志賀島に住むのは沖アマばかりである。志摩の海岸には本アマが多いが、安房の半島では舟を用ゐぬ海女が少なくない。

　大體に舟イソの行はれる區域は限られ、之に對してカチイソ即ち陸から行く採取は、どこ迄も擴張して行くやうである。是は從來この方面の生産に携はらなかつた者が、自由に小規模に眞似をすることが出來た爲であることは、ちやうど近世の竿釣りなども同じであつたらうが、一方には又潜ぎが相應に苦しい作業で、よほど好都合な條件が備はらぬと、擴張はもとよりのこと、維持も改良も出來なかつたらうといふことが考へられる。海女の水中に活躍する地域は、現在は甚だ限られて居る。かつて記録の上には名を留めて、既に跡無きものも幾つか有る。國の北端まではまだ移住が及ばなかつたとも見られようが、暖かい南の海などは彼等の故居であつたのに、そこにもこの漁法がもう絶えて居るといふのは、見棄てゝ去つたといふよりも、寧ろ新らしい生産へ轉じたのであつて、佐渡の海府のイソネギなどは、乃ちその一つの場合であらうと思ふ。海に入るといふたゞ一點を除いては、いはゆる舟イソは最もアマに近い。ヲカド即ち陸人の容易に學び取れない精巧なる技能と、海の底に就いての細かい知識とが必要であつて、この二つは女のアマと共通して居る。さうして冬三月の最も裸になりにくい季節に、つゞけて稼業の出來るといふ點は、彼には見られないこちらだけの長處であつた。海部土着の大きな誘因が、特にこの側面に在つたらうといふことを、私たちが推定するのは此理由からである。

　女が海で働かなくなつたのには、別に隱れた社會的事由があつたにちがびないが、この著しい變遷を説明するやうな資料は、佐渡ではまだ少しも集まつて居ない。爰で我々の言ひ得ることは、男アマが我邦でも古い記録に先づ現はれ、決して中古から女に代つて、新たに出現したものでないといふことが一つ、次には男女の海人が入りまじつて働(372)いて居らぬといふだけで、男が潜ぎをする例は中部以西にもなほ見られ、それが東北に向つて進むと共に、段々と男ばかりになつて行くことである。女がアマをする水面は最初から限られ、彼等の技能は其區域内で特殊に發達しては居たけれども、これを新たな海へ擴張することが、望み難かつたのではないかと思ふ。風土の制約といふことも勿論考へられる。殊に移住地には女の數が少なく、家の創設は又色々の任務を女の手に委ねなければならなかつたのである。

　

　　　　　　　四　ナシフリから鏡へ

　

　磯の漁業は舟と徒歩と、二つの方向へ追々と分れて行く以外に、なほ今一つの、是もはつきりとした種別があつて、土地によつては兩方ともにあるが、大抵は何れか一方に力を入れ、從つてそればかりが特に進んで居る。一言でいふならば晝と夜とのちがひであつて、その日中におこなふ方のみを、イソミ又は見突きと謂つて居る土地もある。佐渡の海府のイソネギも是に屬するのだが、特に區別の名を必要とせぬほどに、是ばかりが普通になつて居る。二つの漁法が同じ季節に、共々行はれるやうな土地では、一方のイソミに對して、夜の方をイサリと謂ふらしいが、本來それまでの限られた意味は、どちらにも無かつたものと思ふ。イサリも恐らくはイソといふ語から分れて來たもので、現に晝間の磯のすなどりを、さう呼んで居る例も稀ではない。たゞいさり火が遠目に美しく、夙く和歌文藝に取上げられたといふ以上に、是が又最初の計畫ある漁業でもあつたところから、イサリは夜分のものゝ樣に、思ふ人が多かつたのである。海に遠い農村の初夏の夜にも、火振り夜振りは弘く行渡つて居る。さうして一方には是を出發點とした色々の焚入れ漁法が、次々と考案せられることになつたのである。しかし私の話題にして見たいのは、是よりも寧ろ晝の磯見、見突きと稱する桙《ほこ》漁の發達であつた。是まで我々の心づかずに居た歴史が、分けてもこの方面には多いや(373)うに感じられる。

　日本海の潮は澄み徹つて、隱岐の内海などは殊に水底の美しいのを以て知られて居る。佐渡も風下の内海府の海は、さうであらうと思はれるが確かめて見たのではない。しかし一般に小舟のへりに顔を寄せて、ぢつと水の中を視つめる習はしに養はれた人たちが、陸に住む我々のまだ覺えぬほどの、鋭どい視力を持つて居ただけは確かである。海の面を平らにする方法、波の小皺のちら／＼とするのを消して、イソを見やすくする手段が次々と發明せられ、又改良せられて行つたのは自然の進みであつて、それは恐らくはイサリの火よりも、又ずつと後の事であらう。周圍の諸民族にも此風が始まつて居るかどうか。比較をすることが出來たら興味が多いだらうと思ふが、國内に於ても、土地毎の慣行に少しづゝの差があり、眞似る教はるといふ以上に、漁民各自の工夫が加はつて居る。事は小さいやうだけれども、歴史を大勢とか時代の力とかいふものと、混同するやうな人への警戒にはなる。さうして氣をつけて見ると、斯ういふものが積み重なつて、群の今ある生活を作り出して居るのであつた。

　中國九州の類例を見渡すと、斯ういふ作業に用ゐらるゝ物を、ナギワタ又はナギガヒといふ土地が少なくない。ナギは水面の平靜になること、ワタは魚介の内臓のことだが、それには鮑のわたを、それも腐らせてから使ふものが多かつた。佐渡の海府では、もとは主として烏賊のわたを用ゐて居た。それをナシフリ又はナシヲフルと謂つたのは、他の地方にはまだ聽かぬ言葉だが、島では魚類の屑を腐らせて肥料とするものをナワシと謂つて居るから、それと一つの語であらう。現に田畠にさういふものを散布して、肥培にも驅蟲用にもすることを、爰でもやはりナシフリと謂つて居るのだから、この語は寧ろ農業からの轉用とも見られる。

　イソネギの舟の作業に於ては、この材料を竹筒などに入れて置いて、藁の箒に附けて時々振りまくのだといふが、他の各地ではこの臭いものを口に含んで居て、海面に向つて吹付けるといふのが普通であつた。如何にも氣持のわるい仕事にちがひないが、其間手を休めるのが惜しく、又ちやうど頃合ひを見はからふのには、この方が遙かに有效だ(374)つたのである。或は鹽鯖などの頭を黒燒きにして、其粉を口にくゝんで吹いたこともあつた。其次には荏胡麻の實、又榧の實のやうな池質のものを、?み碎きながら吹くこともあつたが、是等もすぐに口中が荒れるので、一時間以上は續けることが出來ず、今度は胡麻油を綿に浸して、口にくはへて居て吹くといふ方法なども試みたことがあるが、結局は段々に古いものは皆罷めて、何か液體の油を水面に垂らし、池の水の上にひろがつて行く性質を利用することに、一旦は歸着して居たやうである。

　ところが佐渡の海府では、ずつと以前から凪わたを口に含んで吹くといふことをしなかつた爲に、却つていつまでもナシフリの方法を守り續けて居たらしい。タラシと稱して魚油を水の上にふりまくやうになつたのは、此地方では明治以後の事と傳へられ、しかもなほ久しくナシフリと併行して居た。その推移の跡は言葉の上からでも辿つて行かれる。タラシは本來は西國の語で、向ふではトラシ又はトラセといふのが普通であり、其起りは魚の腸の腐つたのを、竹の筒などに入れて行つた頃からで、その容器を一般にトラシツボと呼んで居た。トラスは水面を滑かにする、即ち海をトロリとさせるといふことであつたのだが、佐渡では水油の時代になつてから採用した爲に、是を油を垂らすことゝ取つて、爰ばかりではタラシと呼ぶことにして居るのである。

　しかもさういふ些細な變化を、もう注意する必要が無くなつたわけは、水眼鏡の新考案がまたゝく間に普及して、トラシもナシフリも共々に省みられなくなつて居るからである。水眼鏡の發明者が誰であるか、どうして始まつたかも私はまだ知らないが、ともかくも其影響の大きかつたことゝ、是が弘まつて行く路筋の屈曲して居て、土地によつて可なりの遲速があつたことゝ思はれる。始めて自分が此器械の用ゐられて居るのを見たのは、奧多摩上流の小さな谷間のイハナ突きで、それは明治三十二年の夏のことであつたが、もう其頃には關東處々の村里に於て、是を持出して川遊びをする少年の姿が見られた。もちろん磯に出て働く人々から學んだものだらうとは想像して居たが、それを確かめる機會は得られなかつた。さうして一方には三河の伊良湖崎のやうに、其二年前に私の行つて居た時まで、ま(375)だ全く之を使はない土地もあつたのである。出來るものならば今のうちに、それ／”＼の海邊の村に於て、是の入つて來た時期と?況とを、記憶のある人から聽いて置きたいと思ふ。ごくごく精確とまでは言はれぬが、東北は氣仙の廣田半島などで、眼鏡を使ひ出したのは明治二十年頃のことゝ、郷土資料には録して居る。佐渡の北小浦や南隣の蟲崎では之に對して明治も末になつてからガラスが入つて來たやうに言つて居る。さうして其以前のナシフリも、まだ忘れられてしまはぬ程度に、今なほ僅かづゝは用ゐられて居るらしいのである。メガネの名を以て呼ばれるこの硝子器の構造にも、恐らくは次々の小改良が加へられて居ることであらう。

　

　　　　　　　五　たこ穴と蛸さぶき

　

　イソの最も主要な、且つ古くからの漁法は桙《ほこ》突きである。夜のイサリにもかち磯にも、ホコを使ふ場合は少なくないが、殊に舟いそでは是がほゞ全部であつて、その爲に技術は驚くばかり進化して居る。桙といふ言葉では、人は皆さきの尖つた、武器になるやうな物ばかりを想像することになつて居るが、それは中世この方の意味の限定であつて、もとは只長い棒のことであつた。ボウとホコとが本來一つの語であつたことは、旗を立てる長い木竹の棒をハタホコといひ、屋根の萱を押へる横木を、今でも何ボコと呼んで居たのを見てもわかる。單に差別の爲に刃物をさきに取付けたものだけをホコ、其他を段々にボウといふやうになつたのである。イソのすなどりに使ふホコなども、用途に從うて形が色々にかはり、それ／”＼に新らしい名が生れて居る。

　佐渡の内海府の例をいふと、まづ春さきに海の草、ワカメとかエゴとかを採る棒は、長さが三間もあつて、さきが二またに岐れた木を使つて居る。それを此土地ではモデといふが、四國の外海などではメデ、北九州の海岸ではモカギといふ處もある。伊豆の南崎ではムコトリといふさうで、實はモク取りといふ單純な名なのだが、聟取りと聽える(376)ので珍らしがられて居る。出雲の中（ノ）海でヨリザホといふのも同じもので、是は二本の女竹の中ほどを繩で結はへ、大量の藻葉をからみ付けて引揚げるから、それで縒り竿と謂つたものらしい。佐渡の藻手のさきが二又になつたのも其目的らしいが、是はまはすのに大きな力がいるから、まだ改良前の形であらうかと思はれる。

　鮑は海底の礁《せ》に附いて居るのを、長い竹のさきに鉤の附いたので引掛けて取る。それだけを佐渡ではカイカギと呼んで居る。掻く鉤といふことであらう。鉤は鐵製でさきがぐつと曲り、是にシナヘといふよく撓ふ柄が附き、シナヘと竹竿とを繋ぎ合せるところを、やはりホコネといふさうである。

　他の多くの桙類は、大體に皆ヤスと謂つて居るが、ヤスは必ずしも金屬製とは限らない。たとへばサザエヤスは丸木の端を四つに割り、小さな木片を十字に挿し込んだもので、是で榮螺の貝を挾んで揚げるものらしい。海鼠などは二本ヤスといふので突いて取つたといふが、是は他の地方で魚などを突いた、鐵の突きヤスと同じものと思ふ。たゞ爰では海が深い故に、其ホコが途法も無く長かつたといふ點がちがふだけである。

　内海府のイソネギに於ては、蛸を突く装置が特に複雜で、又修練を要するものであつた。蛸のヤスは二通りあつて、一方は三本ヤス、他の一つはサブキヤスと稱して、是は二本に分れて居る。突くとはいひながらも兩方とも、ヤスのさきは曲つて鉤になつて居り、やはりホコネを以て長い棒に繋ぎ付けられて居た。乃ちこの二つのヤスの扱ひ方は、さう單純では無かつたのである。

　蛸と烏賊とは、味と形とに似通うた特徴があつて、陸に住む我々素人は、兩者を親類か何かのやうに考へがちであるが、海に働く者の經驗から言へば、是ほどまちがつた想像は無いのであつた。烏賊が季節をきめて大擧移動する習性をもつに反して、たこの入道は隱者にもたとへつべき、孤棲の土着者であつた。從つて漁民の彼等に對する交渉は、最初から全く別々でなければならなかつたのである。一方の捕獲に時期があり、又其數量の莫大であつて、無限の餘剰をもてあましたらうことを考へると、土地が偏鄙で交通がまだ開けず、輸送貯藏の途も備はらなかつた時代には、(377)是をたゞ自然の現象として眺め送り、時としては驚き怪しみ、又怖れて居たやうなことも無かつたとは言へない。現に又烏賊の神詣で、もしくは念佛の鉦の聲を聽いて集まつて來るといふ類の、神秘な傳説がまだよその島々には殘つて居る。之に反して蛸は榮螺や鮑海鼠なども同じやうに、いつでも磯に行けばもつて來られるもの、ちやうど屋敷の片隅の菜園の如く、常から用意せられる食料であつた。時の順序からいふならば、此方がずつと古い漁法であり、計畫も亦全く別なものであつた。二つの漁法が互ひに異なつた進み方をして居たとしても、少しも不思議でない。しかも我々の興味をもたずには居られぬことは、この二つの間にもなほ隱れた聯絡があつて、たこで十分に養はれて居た經驗は、いつと無しに他の一方の烏賊に應用せられて居る。機會があるたびに、必要に促される毎に、外から聊かも教へられずして、人の生産技能は次々と新らしい領域に進出して居る。よその民族でも多分は同じかと思ふが、漁業は農とちがつて政治からの指導が無い。從つて又世の識者と稱する者に、觀察せられ、記録せられることが少ない。漁業の歴史を今までの方法によつて、尋究することの望めないのは、遠い洋上の未開の小島も、我々の國土もかはる所は無い。乃ち我々はなほ働かなければならぬのである。

　話は横にそれたが、たこには一つ／＼の住居のやうなものが有る。岩に窪みがあつて、其中の程よいものには、主は無論毎々かはるのだが、いつ行つて見ても必ずたこが居る。山形縣の飛島などではそれを蛸穴といひ、良い蛸穴は財産であつた。穴には名があり一つ／＼の持主があつて、他人は遠慮をしてそこを取らぬだけで無く、親の蛸穴は子が相續して居た。それも母から娘へ行くのが普通といふ話があつて、或は女の海人のかつて盛んであつた名殘かとも察せられるが、其點は私にはまだはつきりして居ない。佐渡の北小浦などでは、そのたこ穴をタコセとも謂つて居る。こゝでも子に讓つたといふ話はあるが、それは相續といふほど公けのもので無く、大抵はもう働けなくなつた際に、子どもを連れて行つて其場處を教へて置く程度で、むしろ山中の松蕈シメヂのシロなどゝ近いものだが、それでもあれは誰それのタコセだと知られて居るものでは、捕つた蛸を取上げられることもあつたといふ話である。

(378)　海は廣いから一つ／＼のタコセを、覺えて居るといふわけにも行かなかつたらうが、つまりは蛸突きはさういふ場所を見つけてするので、其中でもよく取れるタコセは、發見者の名を附けて記憶せられ、他の者はそれへ行くことを遠慮するのであつた。前に掲げた二種類のヤスの、利用せられたのもタコセである。三本ヤスは蛸の姿を見て引掛けるもの、ヤスのさきの曲つて居るのも突いたら拔けさせぬ爲で、此方は目的がよく判つて居る。他の一方のサブキヤスといふのは、隱れて居る蛸を追出す爲に用ゐると稱するが、その用方はさう明瞭でない。附近の部落では是をサグリヤス、又はユスリとも謂ふさうだから、居るか居ないかを試みたり、又隱れて居るのを外へ出す目的のあつたことは確かだが、私はまだそれ以上に之を使ふ趣旨があるものと思つて居る。サブクといふ動詞は他では使はぬやうで、土地でもこの場合だけに有るのだから、語感を把へることがむつかしい。しかし大よそはすびく・そびくなどゝ同じで、追出すといふ以上に蛸を突きやすい所まで、誘ひ出すことではなかつたらうか。烏賊釣りにも後から／＼と上つて來て、底まで屆かぬうちに又釣れることを、中サブキといふ語も有るので、私はさう解釋する。それからなほ一つ、赤い布ぎれを竿のさきに附けて、タコセの穴から蛸を誘ひ出すことを、又は其竿を、サブキといふ言葉も此地方には行はれて居る。たこは元來さういふ習性をもつもので、別に赤い色がすきといふわけでも無いが、ぢつと水の中に居てあの目を光らせ、何か少しでも變つたものが目の前を通ると、それを先づかきよせて見ようとして、手を伸ばすものらしいのである。莊内地方の海岸ではタコスカシと稱し、ガザミといふ蟹を竿のさきに結はへ付けて、岩の間を出し入れして行く蛸釣りの漁法がある。石城小名濱のタコオラギ、駿州燒津附近のタコネリ等も是に近く、たゞ蛙などの餌を釣針に附けて、磯を引摺つてあるいて居るうちに、向ふから飛びついて來るといふのは、何れも同じ經驗の應用であつた。蛸甕蛸壺などの簡單な發明にはまだ及ばぬが、もとは所在を探るだけの目的しかなかつたユスリといふヤスに、蛸をおびき出し引寄せるまでの働きをもたせたのは改良である。それには細かな手の加減を件なひ、又注意深い海底生態の觀察を重ねて居たことが、おのづから推測し得られる。魚族の減退といふことは、奈何ともすること(379)が出來なかつたかも知らぬが、少なくとも海部の經驗して來たものは、決して衰亡の歴史のみでは無かつたのである。

　

　　　　　　　六　烏賊釣りのガザ

　

　蛸突きのサブキは、別に一本の竿を左の手に持つて、其さきに赤い布切を結び付け、蛸を誘ひ出すと聽いて居るが、それでは兩方の手がふさがることになつて、仕事をするのに不便であつたらう。サブキヤスといふ二本ヤスは、多分は二つの目的を兼ねさせたものであつて、是にも何か蛸を引寄せるやうな装置が、してあつたものと思ふが、實地を見て來ないと確かなことは言へない。しかしイソネギの本來の目的が、じつとして居るものを突いて取るに在つたのを、始めは先づ其桙のさきを曲げて鉤にし、それに次いでは何等かの方法を設けて、獲物をこちらへ近づいて來るやうにしむけたといふことは、ともかくも第二次の考案であつた。今日我邦に於て異常の發達を見せて居る釣り漁業、一方には遠い神代の昔から、出雲日向の神々の御慰みでもあつたと傳へられるものが、なほ人類の最初からの方法では無くて、或は其起原を斯んな所に、もつて居たのではないかといふことが考へられる。ちがつた方面から説明を試みるならば、長い木のホコを以て水の底に動くものを、突いて取らうとするまでは猿にでも考へられさうだ。一方に現代の紳士等の釣のやうに、何十メートルとも知れぬ長い絲のさきに、沈みと釣針と餌になるものとを附けて、海に降して辛抱強く待つといふことは、よほど澤山の論理と推理、又經驗の蓄積を要するわけで、假に中間の改良は梯子のやうであつたとしても、始めて之を試みた者には思ひ付きといふものが無くてはならぬ。佐渡では最近の數百年に出現したことが、土地によつてはずつとそれよりも古く、やはり磯見の桙突きの間から、少しづゝ考へ出されたものではなかつたらうか。それはどうかと疑ふことは至つて容易だが、然らばどうして始まつたかを、説明することは誰にも出來まい。

(380)　ともかくも佐渡の内海府のイソネギに在つては、釣りの分子がもうたしかに加はつて居る。さうしてそれが又ほゞ同じやうな形で、新たに始まつたと思ふ烏賊漁にも應用せられて居るのである。沖の烏賊釣りの盛りは此地方でいふ九十九夜、新暦五月の中旬からであり、それも夜分の篝火の下で、タラシもナシフリも用をなさぬ、海の底のものを呼び上げるのであるが、其支度には若干の似通うた點があり、さうして是を亦サブクとも謂つて居る。サブクは要するに誘導漁法のことだつたと、解して置いてよいやうである。

　それが最近の一世紀間に、土地毎の考案改良があり、又互ひに影響し合つて居る。寫眞にでもして見ないと、この複雜な異同は究められまいが、自分に判つたと思ふだけをごくざつと述べるならば、佐渡でヨマともソクともいふ烏賊釣りの装置では、やはり烏賊を引掛ける鉤を集めたものを使ふのだが、是は竿のさきに更に長い絲を垂らし、其端はもう水底には屆いて居ない。單に火の光に引かれて浮き上つて來るものを、中途で引寄せて其鉤にかからせるだけである。蛸とちがつて此方は群をなして來るから、一度に幾つかを捕へることが出來るやうに、かぎを小さく又數多く竝べるので、段々と一本釣りの釣針と形が似て來るが、私は是をヤスから釣針への、ちやうど中間の過程と見て居る。昔太公望がまつすぐな針を垂れて魚を釣つて居たといふやうな俗説も、これを考へると格別奇拔でも無いのである。

　北小浦のあたりでは、この小さな鉤の集合を、ガザと呼んで居るのが自分には注意せられる。爰では鉛のまん中のやゝふくれた短い棒であつて、其兩端に二段にこの小さな鉤を植ゑ竝べるのである。海を隔てた羽前鼠ヶ關などの蛸スカシに、ガザミといふ蟹を使ふことは前に述べたが、是も或はそれと鉤とを括り合せて、海に垂らして居たのが名の起りでは無かつたらうか。北九州のガンガリや隱岐出雲のゴンガラを始め、沈みと兼用に鉛の小さな棒を用ゐることが、現在はもう普通になつて居るが、是などは商品だから、さう早くから普及したらうとは思へない。以前は今一段と自給の担來るものが、土也々々で考へられて居たにちがひないのである。

(381)　たとへば獣の角などは明かにその一つで、是は金屬の全く使はれない時代から既に有り、今でも烏賊漁以外のさま／”＼の釣りに、方々で利用せられて居る。是を一種の擬餌であるかの如く、思つて居る人があるやうだが、それは擬餌といふ言葉の意味にもよることで、何か食へる物かも知れぬと感じて、魚が近よつて來るまではまちがひは無い。たゞしかし是が此樣に盛んに使はれて居るのは行掛りで、人が自分ぎめ色々の解釋を添へて居るだけである。曾て上閉伊郡の海岸をあるいた時に、路ばたの小家で角の鉤を削つて居るのを見かけて、立止まつて話を聽いたことがある。そこの亭主の説では、鉤はアヲシシの角でないと、決して鰹を取ることは出來ない。然るに此獣は禁獵になつて此頃はちつとも角が出なくつて困る。何とか當局に話して見てくれぬかといふことであつた。この説は多分まちがひであることが、もうわかつたらうと思ふ。現に羚羊などは一疋も居らぬ島々でも、やつぱり牛の角で魚を捕つて居り、又しば／＼木や其他の材料を用ゐて、この鉤を作つて居るからである。

　佐渡の海府でもこの烏賊釣のガザを、ツノといふ言葉がまだ殘つて居るだけで無く、角製のガザもあつたことが記憶せられる。大部分を角でこしらへて、鉛でおもりを付けたものも有つたらしい。壹岐の島などでも、上半分を角で造り、下半を鉛にしてその端にガンガリを竝べたものを、オキナハズツテと名づけて、それで烏賊を釣つて居る。スツテは九州の各地に汎く行はれる語であつて、その語源はまだ明かでないがともかくもすべて近づくものを引掛けて捕らうとする、魚族にとつては怖ろしい器械の名であつた。歴代の人間の智巧は、次々と是に集注せられて居るが、要點はたゞ二つ、鉤を設けて柔かな魚の身に引掛けることゝ、彼等をその鉤の所在におびき寄せることゝで、この二點は蛸のイソネギのサブキヤスとも一貫して居た。

　

(382)　　　　　　　七　擬餌の種類

　

　九州地方の所謂スツテには、此以外にもまだ色々の種類があつた。是にも二つの傾向はなほよく現はれて居て、鉤の數と排列に力を入れたものと、引寄せることに重きを置くものとがあり、獲物が少なくなつて行くにつれて、結局は後の方が勝つた形である。乃ち木で造つた色々の浮ズツテの如きは、新たに工夫の加はつた改良であらうと思ふ。今からもう三十年も前に、肥前呼子の港で賣つて居た一種などは、三寸ばかりの海老の形を摸したものであつた。材は桐か何かの輕い木片を、燒いて焦がして削り上げたもので、色といひ跳ねる樣子といひ、人も騙されるかと思ふほどの、ほゝゑましい寫實であつたが、その腹部には僅かの鉛を竪にはめ込み、尾のあたりに丈夫な鉤が二本附けてある。是を絲に附けて水中に引きながら舟を走らせ、彼地でスルメと稱する大きな烏賊を誘ふので、斯うなつてしまふともう完全なる釣りの部類である。人が少しも手を掛けずに、魚の判斷に任せて置くやうなさま／”＼のハエナハなども、是からたゞ一歩、繩を段々と延長して行けばよいので、誰が見てもこの方が先づ備はり、それを一つ／＼分解して釣りとなり、更に桙のさきへサブキを附けることになつたものと言ふことが出來るであらう。

　後になつて考へると、是は小さな何でもない思ひ付きのやうに思へるが、實はよつぽど精確な觀察と發見とが、この變化の各階段に於て有つたのである。魚の心といふものは、窺ひ知り難いものに昔からなつて居る。殊に孤獨の蛸穴の生活では、全く見ることの出來なかつた癖や興奮が、烏賊の去來のやうな群行動に於て、始めて現はれるといふ場合には、類推が役に立たず、人の社會ですらもまだはつきりとは判つて居ない。それをいつの間にかよく覺えたのみならず、忽ち實地に利用して效を收めたのだから、言つて見れば近頃の政治家よりもえらいのである。些しは思ひちがひが有つたにしても、害さへ無ければ褒めてやらなければならぬ。

(383)　九州の周邊から、更にその南に續く幾つかの小島に於て、久しく行はれて居たイカエギといふ漁法なども、形はやゝ素朴であるが、やはりこの海老型の浮ズツテと同じ系統のものであつた。エギは餌木の意で、是も烏賊釣りの餌になるものゝやうに、昔の人が誤解して居たのである。原料には桐類の輕い木が用ゐられ、特に或一種に限るやうに言ふことは、東北海岸の羚羊の角と同じく、時には野猪のかぢりかけた木が一ばんよいといふ類の俗信も有るさうである。しかもその木の下の端に、釣針とよく似た丈夫な小さな鉤を、取付けて置くことは忘れて居ない。是を細綱でしつかり小舟に結び垂れて、海を漕ぎまはることはズツテの場合も同じである。

　鰹その他の大きい魚を捕る爲には、別にホロヒキといふ漁法が此地方には弘く行はれて居る。ホロは恐らく走るときに、風を含むことから付けた名であらうが、現在は一般に鷄の羽を編んで、鉤をその中に隱したものを、是も舟から引いてあるいて居る。遠い南の島々には今でもまだ、山羊の角を削つてこしらへた鉤を、その鷄の羽と組合せて、ホロにしたものが有るといふことである。單に村里で最も得やすい鳥の羽なるが故に、鷄のそれを用ゐたといふだけで無しに、何かもう一段と深い理由が有つたのでないかとも思ふが、それをまだ今は考へ出すことが出來ない。之に反して角の方には、明かに傳銃が有ると言つてよい。人が金屬の利便を知らなかつた頃から、さうして又向ふへ突くことしか考へなかつた世から之を使ひ、後に手元へ引寄せるといふ注文を付けるやうになつても、なほ僅かな改造を加へさへすれば、引續いて角をすなどりに利用することが出來た。さうして恐らくは獲物は非常に多かつたのであらうから、何かこの物に大きな力が有るかの如く、解するやうな經驗は積まれて居たわけである。もちろん其判斷も丸々の誤りとは言はれない。ともかくも碧一色の水の中に遊ぶものが、ほんの少しばかりの見馴れぬ光にも、誘はれ近づいて來るまでは事實であつた。それを必ず餌と心得て、慕ひ寄るものと認めただけは、或はやゝ不精確なる類推だつたかも知れず、ましてや角に限り又羚羊の角で無くてはならぬと信じたことは、無害ではあつたけれどもやはり迷信の一種であり、世が進むと共に少しづゝ改定せらるべきものであつた。

(384)　主たる衝動は生産の減退だらうが、それも斯うした方がもつと多く取れると、いふやうな形を以て現はれて居る。現在の外洋漁業では、今もなほ角の鉤ばかりで、十分な成果を收めるものが多いのだが、是は魚群の移動を偵察して、どこまでも出向いて行くことを以て弱點を補強して居る。それを避けようとすれば、釣りの方に改良が試みられなければならぬ。角に鳥の羽その他の異物を取附け、又は小さくて丈夫な金屬製の針を添へるやうになつたなども、其一つの現はれと見てよからう。石城の海岸一帶のイカヅノといふ釣具などは、角といふ名のみは殘つて居て、すでに材料は竹を主とし、是に鉤を附け且つ餌として蛙を用ゐることにして居るといふ。周防の大島邊では蛸を釣るのに、やはり竹製の釣具を使つて居るが、それはスドと稱して蛸の頭の形を摸したものといふ。是にモイカその他の生餌を絲で卷附け、其下には二本の釣針とおもりとが忍ばせてある。蛸の頭の形にしなければならぬ理由は解し難いが、斯うでもしたならばもつと容易に、たくさん捕れるだらうかといふ試みが最初であつて、實際にそれが又有效だつたのだから、ともかくも新たなる經驗であつた。

　佐渡の海府地方の烏賊漁に於てはツノは言葉だけで無く實物もなほ使はれて居るのだが、釣りのしかけは驚くべく複雜になつて居て、私たちの知る限り、他處には是と同じものが有ることをまだ聽かない。釣竿には竹又は籐《とう》もあるが、近頃は段々鐡線を使ふやうになつた。それを鋭角に二本組合せて、根もとをヤマンダイといふので繋ぎ附け、其まゝ海に降して上下に動かし、竿の端から垂れてあるガザに烏賊を誘ふのである。ヤマンダイの始めの目的は、多分二本の竿を水平に保つ爲の、重りの作用が主であつたらうと思ふが、今ではこの部分を瀬戸物にして白く光らせ、烏賊の注意を是に引寄せ、少しでもガザに掛かる數を多くしようとして居る。斯ういふのも亦一つの新らしい考案であつた。一方には所謂ガザの改良も着々と進んで居る。中には手本を外から得たものもあらうが、角を鉛の細い棒に替へる際に、それを白く塗り又は白い金巾のきれなどで包んで、目立たせようとして居る例が多いのに對して、爰では木綿の絲を以てくる／＼と卷付け、それをカナマキトンボと呼んで居る。多分は其かな絲の分量次第、太くも細くも(385)出來るのが便利だつたのであらう。

　トンボといふ語は他ではまだ聽いたことが無く、其名の起りもはつきりとしないが、多分は目方があつてまつすぐに水の中に入つて行く點が、在來のヨマのこしらへとちがつて居たものであらう。さうなると輕く搖ぎたゞようて居た今までのガザやツノのやうに、烏賊の注意を引寄せる力が、やゝ缺けるかと氣づかはれたところから、是に色々の工夫を添へることになつたのであらう。白い絲や布を以て包むのも其方法の一つだが、なほ其以外に烏賊の肉を切つて、この釣具に卷付けるといふのもあつた。九州方面では是をイカマキズツテ、佐渡では單純にトモヅリといふのが普通である。友釣りはいさゝか殘忍な感じを伴なふ策謀のやうだけども、果して相手がそれを承知で、附くのかどうかは疑はしい。或はたゞ人間の考へ過ぎ、たとへば追込みの漁法にウナハと稱して、鵜の羽を繩に挿したものを使はないと、魚を追込むことが出來ぬのかの如く、考へて居るのも同じであつて、寧ろ一種の前代論理の、たゞ結果が偶然に有效であつた爲に、末永く承認せられて居るものに過ぎぬのかも知れない。

　

　　　　　　　八　網へ延繩へ

　

　イソの二通りの漁法が、最初から別々のものだつたと、思ふ者は多分有るまいが、現在はともかくも大きな距離が出來て居る。それがすぐれた人々の教導でも無く、たゞ偶然のまはり合せがもとになつて、あまりな無理をせずに少しづゝ、前へ／＼と出て行かうとしたことが、もう是ほどの結果を擧げて居ることを考へると、時が我々に供する希望の豐かさも樂しく、かつは又海部といふまだ知られない種族の、持つて生れたかと思ふ境遇にも、なほ大きな信頼が置かれるのである。

　或は佐渡の内海府のやうな荒濱を、求め捜して住み着かうとする好みを持つて居たとすると、話は又少しちがつて(386)來るが、さうでも無かつたらしい形跡は幾つか有る。しかも此地がもし太平洋岸の浦々の如く、砂の遠淺が廣くつゞき、潮の滿干の差の多い處であつたら、今見る色々の生産技術などは、まだ生れずに居たかも知れない。潮干が娘や少年の人望ある遊びであつたやうに、地曳網には?々素人が參加して居る。網を曳く力は多いほど結果が好く、それには別段の修練を要しなかつた故に、九十九里濱などではヲカドヨバリと稱して、大きな聲を擧げて陸人を喚び集める慣習さへあつた。沖繩の諸島でコメ（籠め）と謂ひナガキ（魚垣）と謂つて、木を建て石を積み廻らして引汐の魚を取り籠めた漁法なども、手間と材料との二つの必要から、どうしても臨時の援助を待つことになつて、次第に農民に捕獲の樂しみを教へ、終に今ある如き農漁不可分なる村落の多くを、日本の沿海に成立せしめた。原因は決して一つ二つでは無かつたと思ふ。

　釣りが陸上の人の興味と研究によつて、現在驚くべき技術の精緻、或は專業の者の迷惑にもなるほどの流行を見て居るのも、基づく所は遠くこの渚の地形に在り、徒歩で眞似しやすいイサリを、久しく續けて居た結果かと考へるのだが、それは海府の問題では無い故に、詳しく説いて見ようと私はしない。佐渡の海府は始めから天然の制約を受けて、沖へ伸びて行くより外には、成長繁榮の途は無かつた。しかもそれには又幾つかの好條件が備はつて、よそではめつたに見られぬやうな、單純素朴な形に於て、海上勞働の展開の跡を留めて居るのである。

　ちやうど農民が土地の癖、水の加減や温度の頃合ひまでを、親代々の知識を積み重ねて、手に取るやうに知つて居た如く、四ひろ五ひろの海の底の、蛸の穴に名を附け持主をきめるなどは、一朝一夕の經驗では無かつた。多分はかつて母や叔母姉たちの潮に潜つて居た時代があつて、その語り草が幼ない者の心にも、海の底の親しみを栽ゑ付けて居たのかとも想像せられるが、さうで無いまでも段々と淺い磯から、永い年數をかけて一ひろづゝ、沖の方へ進み出たのでなかつたら、たとへどの樣に透明な海眼鏡が入つて來ようとも、農夫が新たな畑を拓いて行くやうに、次の魚の瀬を見つけることは出來なかつたらう。つまりは人間の欲求の増加、それよりも漁獲の少しづゝの減退であつたら(387)うが、同時に一方には前代の海の幸が、如何に力強く最初の移住者を、引寄せ引留めたかといふことも推測し得られるのである。

　太平洋の島々の例に比べると、我々の突きヤスの柄の長さは、殆と信じ難い程度に伸びて居るが、是は端的に水産事業といふものゝ、伸展性を語るものとも見れば見られる。國土經營が陸地の上に於て、始めからさま／”＼の限界に取卷かれ、深い苦惱を我々に與ふるに反して、海にはなほ多くの不定と未知數が、今も有る如く以前はもつと有つた。日本の海部の成立ちはまだ明かになつて居らぬが、必ずしも是を別種族と見るべき根據は無い。かゝる幸福なる發明をしたことも素質では無く、單に境涯であり遭遇であつたかも知れぬのである。ちやうどこの樣な島國に生れ合せたばかりに、榮えてやゝ衰へて昔を忘れ難く、次々と新らしい方法を試みずには居られなかつた。發明は幸福であつたかも知れないが、その代りには餘分に勵み又働かねばならなかつた。その經驗が我々にとつて、際限も無くなつかしいのである。

　さう幾つもの實例も爰には無いが、海の生物には磯に止まつて永く住むものと、心のまゝに去來するものとがあつた。魚の心は測り難いものと昔からなつて居て、いつと無く古い瀬には附かなくなる。どこへ行くかといふことが探險の第一歩であつた。二つの方法が考へ付かれる。といふ中でも一つは自然により近く、先づ次の隱れ岩を見つけることであるが、それが望みにくゝなると、今度は人工を以て魚の寄るべき磯をこしらへるので、是には食餌とか水の温度、風と波との動きなどが、どんな結果をもつものかを、ざつと一通りは心得て居なければならない。わけも判らずによその土地ですることを、眞似たといふ例も無いとは限らぬが、それにしては狹い區域だけの特色が、不思議に數多くこゝには保存せられて居る。この點も亦一つの、農事普及の方式との差異であつた。それから愈々海の深さが加はつて來て、もはや水底の事情が究め難くなると、そこに第二のハエナハ（延繩）と稱する、やゝ當てずつぽうな漁法が始まるのであるが、是にも土地毎の準備手段、又は熟練の順序といふやうなものがあつて、出來るだけ長く附(388)け磯の技術を活用して、之によつて魚の通路や習性を學び取り、繩釣りの效果を高めようとする場合もあれば、一方には又磯繩と稱して、ヤスも使へるやうなやゝ淺い海から、底を見入れつゝ繩を下して行つて、釣から釣りへの轉進を容易ならしめようとした例もある。佐渡の北小浦などは地形に惠まれて、この二つ特徴を兼ね備へて居るやうにも見えるが、なほ延え繩の方は之を專らとする土地ほどは發達せず、又九州のやうな浮きズツテなども行はれない。さうして他には例の少ない沖漁の幾つかゞまだ殘つて居る。

　いはゆる定置網は近年の資本力によつて、全くちがつた規模のものに發達したが、その根源に於ては一種の附け磯、即ち人工の魚寄せ場であつたらうことは、幾つもの點から推測し得られる。ナツボ・ウヲヤといふ類の淡水漁法と、たつた一つの異なる點は、こちらは水が深いので底までは網が屆かぬことだが、斯うして置いても魚が集まつて來るといふ、實驗に出發したことは雙方同じである。是と同系でしかも最も簡單なものが、ナガシゴモの名を以て海府地方には行はれて居る。主としてバンジョウ即ち秋刀魚の漁であるが、たゞ何枚かの薦を繋ぎ合せて、是を海上に漂流させて置くと、やがて其陰に魚が附く。小舟を漕ぎ出して薦を舟の側に引寄せ、舟と薦との間から手を入れて動かして居ると、魚が次々と指のまたに挾まつて來るといふのは、話見たやうな話であつた。

　

　　　　　　　九　鳥と海の靈

　

　網の根原が、陸の人たちが想像する以上に、可なり入組んだものであつたことは、我邦でならば段々に判つて來ようかと思ふ。磯がくさ／”＼の生物を以て滿ちあふれて居た時代ならば、直ちに所在に就いて入用のものを取つて來ることが出來たらうが、そんな氣樂な?態は永くは續かない。欲しい人は日ましに多くなる。相手は逃げもすれば減じもする。一たび茫洋たるものに面して、我々の願ひを果さうといふ段になれば、昔の人の計畫は自然に三つの方向に(389)分れざるを得なかつたらう。其一つは集まつて居る處を見つけて、成るだけ散つてしまはぬやうに念ずること、其二は方々から手立てを廻らして、捕りやすい處に集めること、即ちカリコミの方法であるが、是は地形が條件である故に、廣い海では行はれにくい。第三の手立てといふのは待伏せ式、細い川ならば簗といふ類の關所も据ゑられるが、沖ではさうもならぬからこちらも動きまはり、魚の通路に當つて出逢ひ頭に取つてしまはうとするもので、是に近年の打瀬底曳きを加へると四つになるが、この方は多分さう長くは行はれまい。是等の漁法は、いづれも現在は網を使はうとし、又互ひに長處を利用し合つて、方式は次第に複雜を加へて居るらしいが、時の順序からいふと堺目はまだ明かであつて、地方毎にその發達の各段階が見られる。それが民俗學の比較方法の、漁業史に對する發言權であるやうに我々は考へて居る。

　汽車で日本海の海沿ひを走つて居て、遠く海上に眺められる各地の建網装置には、素人の全く省みなかつたさま／”＼の變遷が、過去百年の間にも行はれて居たかと思はれる。口の附け方とか縱横の割合ひ、魚を誘導する手綱の長さや角度、その他こま／”＼とした改良は幾らもあつた上に、全體に規模が大きくなり、且つ資本力の増強に伴なうて、統一の傾きは著しいが、それでもなほよく見て行くならば、是が以前の深海の附け磯から成長して、網の利用が段々と缺くべからざるものになつて來た道程が、跡づけ得られるやうに思はれる。佐渡の内海府の實例でいふならば、冬終りの頃を盛りにして、鰯や鯖の類を捕るフクベアミといふ定置網は、今から四十年ほども前に始まつたものといふが、その構造の要部はよほど在來のマスバといふものと似て居て、後者では釣りを專らとし、網は全く用ゐなかつたのである。淡路島の沿岸などで、附け磯と稱するのも、是と同種の共同の釣り場であるが、この方は近年古舟などを利用し、中に石を積み、粉糠の炒つたのや鯡粕を入れて、水中に沈めて置くやうになつたのに反して、佐渡は今でも魚寄せの柴を漬けるだけで、別に誘ひの餌類は置かぬやうである。柴は通例この島の竹を伐つて、束にして何十束も入れるのを、爰でもやはりツケと呼んで居る。其ツケが一定の水深に浮んで、流失することの無いやうに、濱の小石(390)を俵につめたものを、幾つとも無く結び垂れておかうとする。網の長さとか、竹と石との重量の加減などが、多分は親代々の口傳であつたらう。細かな點は陸に居る我々には判らぬが、こゝでは此ツケの中間に適度に絲を下して鱒を釣るので、絲の長さは約二尋、一人持ちは六十筋といふから、相應に廣い區域であつた。毎日早朝に小舟を漕ぎつけて、餌の鰯を取替へ、鱒がかゝつて居ればタモを以て掬ひ上げる。場處がきまつて居るだけに、延繩などよりは手輕なわけである。ツケイソの名の起りは、魚を附かせるといふ附け磯では無くて、事によつたら笹竹を水に浸すといふ意味の、漬け磯であつたかも知れない。とにかくに斯うして置けば色々の微生物、又小海老などが多く集まつて、それを食ひに段々と大きな魚が寄つて來るので、古舟を沈めて置くのはよい思案でもあらうが、それでは仕事が小さ過ぎる。?とか鰺とかいふ類の小型の魚だと、一々釣つても居られぬから後には網を打ち、もつと大きな區域になると、魚を逃がさずいつでも來て取られるやうに、周邊をすつかり網で圍ひ、おまけに入口をずつと廣くして、カリコミの方式を加味することになるのである。個々の漁夫たちの空想を超越した、大謀網といふやうな大がゝりな漁撈組織でも、意外であつたのはたゞ金の力だけで、その他は悉く小さな經驗の、人知れぬ集積であつたことが、斯うして見て行くと段々に判つて來る。さうしてそれが又將來への、大きな希望でもあると思ふ。人が瀬造りを企て巧むより以前に、天然が之を助け導き、廣い大海を少しづゝ我々の働く世界に取入れさせてくれたことも考へられる。魚が人間の知識の外から、時あつて來り通ふものといふまでは知られて居たが、是に隱れた大きな力が働いて居ることを、感じ始めたのはやゝ後であつたかも知れぬ。

　烏賊の大群の浮遊を意味したナツキ又はナトキは、佐渡の海の幸の主要なものゝ一つで、地方獨特の色々の漁法を成長せしめて居る。是には潮時があり、又毎年の期日さへほゞきまつて居て、漁夫はゆつくりと支度をして、仕事に出かけることが出來る位なのだが、しかもどうしてこの樣な約束があるのか、まだはつきりと彼等には判つて居ない。或はアゲ又はタカリとも呼ばれて、何か大きな動物に追はれた魚の群が、もとは案外に近い沖へ寄つて來て、そこに(391)臨時の浮磯を現出する場合も多かつた。佐渡でハナドリと稱する海鳥は、金華山附近のハナダカも同じものだらうが、この鳥のタカリによつて固められた鰯の群は殊に大きく、それを見かけて漕ぎ寄せた漁船の、到着順によつてタモを突入れるものを番突きと謂ひ、順序は構はずに我勝ちにタモをさして捕るのをこね突きと呼んで居る。二つの方法の選擇は鳥の動靜、魚群の散りやすさなどによつてきめるものらしいが、海の勤勞者の烈しい氣性は、斯んな一時を爭ふやうな作業から、段々と養はれて來たものかと思はれる。

　この鳥附きの鰯の漁は、通例は舊の正月頃から始まるものと、永い經驗によつて定まつて居たが、なほこの以外にも時期がもう少し不定で、思ひがけぬ效果の著しい色々のアゲがあつた。魚見の技能は其爲に錬磨せられ、それ／”＼に應じて敏活なる準備と出動とに、濱の人たちを馴らして居たやうであるが、別になほ全く豫想の出來ない海上の福運、もしくは其反對に之を崩壞せしめるやうな目に見えぬ力があつた。鯨をエビスサマと呼ぶ言葉は、ほゞ全國に行渡つて居るが、起りはこの動物が自ら獲られて、七浦を賑はすからといふことでは無く、さういふ用意の少しも無い土地にも、不時に多くの魚類を驅り込んで、漁夫を驚喜させることがあつた故と、私などは解して居る。海とは何の縁も無い山もとの里でも、エビスは田の神であり又外へ出て稼ぐ神であつて、今では其數の方が多くなつて居るために、惠比須神の信仰は曲解せられて居るかとも思はれるが、是が外人を意味するエビスといふ語と、二つ別々のものだつた氣づかひは無いとすれば、最初は汎い未知の世界をもつた海の人の經驗であつたのが、次第に陸上に波及したものと推測してよからう。ともかくも是は人間の智巧や勤勉との交渉に於て、もつと考へて見るべき特殊な信仰現象であつた。

　鯨のめつたに寄らぬやうな海端に住む人たちにも、なほ漁利を祈念する神又は靈はエビスであつた。土地によつては流れぼとけ即ち溺死者の亡骸までをエビスと謂つて、それに冥助を期待した例も多い。佐渡では鯨を特にクヂラエビスと呼び、他にもなほいろ／＼のエビスサンがあつた。其中でも珍らしいのは、海豚は一名をカヘシモンとも稱し(392)て、是が現はれると魚群は散亂してしまふ。多分は下の方から群のまん中へ、浮き上がる習性をもつて居るからかと思ふが、漁民は之を怖れて海上ではイルカとさへも呼ばず、オエベス又はオベスサンと唱へて、節分の豆を貯へて置いて之を撒いたりする。カヘシモンだのメッコだのといふ惡稱を用ゐると、愈々あばれて網を破り、舟をそこなふことが有るとも謂つて居る。タテオベスといふのは又一種の、恐らくは幻しの大魚であつた。劍のやうな鋭どい鰭をもち、だまつて遁げて來ないと忽ちに舟を突破られる。是にも節分の豆が日頃から用意せられて、危急の場合には海に向つてそれを投付ける。或はタテエボシといふ海の怪ともとは一つで、言葉の上からの變化かとも考へられるが、ともかくもオベスサンは御夷樣の方言の訛りであり、海では此樣な恩威二つの力ある神靈を意味して居た。それが陸上へ進出すると、いつの間にか鯛をかゝへて咲顔をして居るやうな、純然たる福の神にもなりきつてござるのである。

　

　　　　　　　一〇　舟木伐る山

　

　海府の生業はこの通り、舟に依ることが多かつたにも拘らず、其割には舟の形や性能が發逢して居ないのは、注意して見るべき一つの點であらう。大體に五つほどの舟の名が、此地方では知られて居る。其中でもやゝ異色のあるのは、テンガイ即ち手櫂といふもので、もとは加茂湖の内水に於て用ゐられて居たのを、近年採用したばかりであまり改良は加はつて居ない。底に圓味があつて二人乘りが三間とすこしの長さ、一人乘りは二間半、是で鱒場の釣りにも行き、海の靜かな土用前には、烏賊場の漁にも出かけるといふが、固より海に自信のある者でないと出來ぬことである。次に現在最も普通に使はれて居るのはテントといふ舟で、この名は全國の半ば以上に擴まつて居るが、土地によつて大小用途の差がある。佐渡のテントは長さが四間から五間、幅が五尺しか無くて四人乘り、艪が三梃の外に二枚の櫂が添へてある。烏賊釣りその他の多くの合同作業に用ゐるが、別にバイタ舟と稱して薪を積み、沿岸短距離を運(393)のもこの舟で、薪の積載量によつて、又十二わく舟の異名もある。病人などを乘せて送るのも是であり、自分も曾ては兩津から、この舟に便船したことがある。

　テントを或は八マイハギといふ人が有るに對して、三マイハギといふのはクリコブネのことであつた。もとは丸木造りの刳り舟から出たもので、今も表からは見えない特徴がなほ殘つて居る。幅が長さに對して狹いのも其名殘であらうが、シキ即ち舟底の材は刳り窪めてあつて、其兩側に別の船板を矧ぎ合せるのをタナといひ、更に其上に添へる板をハタと呼んで居る。南の島々でイタツケといひ、又はトヂブネといふのも同じであり、和歌に詠まれるタナナシヲブネが、丸木舟であつたことも是でわかる。但し海府の今日のクリコブネは、シキの刳材が一本の木では無く、二本の材を穿り凹めて、それをまん中で繼合せて居る。シキは一材である方が丈夫でよいわけだが、それを二本にして合せなければならなかつたのは、もう適當な材木の得にくゝなつた、結果であるやうに私には考へられる。

　クリコブネは今でも以前の名を襲うて、クリフネと謂つて居る者があり、一方には又單純に、コブネと謂つてもこの舟のことであつた。ところが現在は別に普通の板を合せたコブネが出來て、イソネギなどにも盛んに用ゐられて居る。しかしこの方はカンコといふ者が多く、造りも大きさもやゝ違ふので、二つ混同せられるやうな心配は無いけれども、そのカンコといふ舟の各地の實例を比べて行くと、是もどうやら元は刳舟の名であつたらしい形跡がある。熊野から伊勢三河へかけての太平洋岸では、漁舟の中に設けた魚の生洲がカンコであり、それより東へ進むと同じものをカメと呼んで居る。或は木をくり拔いた水槽を、曳いてあるいた名殘かとも考へられる。東北地方でカッコブネといふ小舟が、もしもカンコと同系の語であるならば、是には明かに木を刳つて造つたものが多く、幅は僅かに三尺四五寸、長さが二丈五六尺もあるものを、用ゐて居た土地もあるさうである。さうした由來が既に不明になり、單にテントのやゝ小型なものを、カンコの名を以て持込んで來たものとすれば、佐渡にいはゆる刳小舟の行はれて居た時代は、隨分と久しく續いて居たわけである。

(394)　それからなほ一つ、爰では一番大きなサンバといふ舟があつた。幅は八尺長さは七尋以上、工程もテントの二倍半を要したと謂つて居る。ゴツといふのは更に大型で、中には二十石積ほどのものもあつた。それをシホフネと謂つたさうだが、其名の起りはまだはつきりとしない。鹽をこの樣な大きな舟で運ぶやうな、職業はあつたとは思へないからである。サンバを島内の臨時の輸送に、利用したといふ話はあるが、全體に其數も少なく、又新らしく始まつたものかと思はれて、漁業の方にもさう多くは使はれて居ない。或はアミオコシブネといふ異名があるのを見ると、事によるとフクベアミの採用と共に、その必要が生じたのかも知れない。

　以上五通りの舟の種類は、恐らくは最初にクリコブネ、それからカンコ・テント・サンバ・テガヒといふ順序を以て、次々とこの土地には現はれたもので、時の間隔は素より不同であらうが、少なくとも一度に出揃つたので無いだけは確かである。文化といふやうな大げさな言葉は用ゐたくもないが、ともかくに斯んな古風な片隅の浦邊にも、なほ生活條件の變遷はあつて、以前は有りとも知らず、又は無くても事は缺かなかつたものを、求めずには居られぬ時代が到來すれば、それが又其次の原因となつて、更に新たな改訂を招くことは、廣い巨大な社會もかはる所は無い。と言はうよりも、寧ろ見やすい標本を提供するのである。歴史に志す者の目を留めてよいことは、今までの多くの改革は、實は追加であり添付であつて、何か新舊のよく／＼兩立し難い場合にも、なほ其牴觸の最も少ない部分に於て、以前の樣式の片端を、殆と無意識にも保存しようとして居る。佐渡の北隅のアハセブネ、即ち二つの刳材の細いのを二つ合せて、底に用ゐたものなどはよい例であつて、記録がさういふものゝ爲に何等の力を費さぬ限り、人は如何なる道を通つて今日に到達したかを、やがては思ひ出すことも出來なくなり、遠い別天地の縁も無い前例を引いて、時代を説明するやうな癖を止めることが出來ぬであらう。單なる事實の認識といふ上からでも、是は誠に情けないことである。急いで民俗學の働いて見るべき區域が、我邦では殊に廣いやうに思はれる。

　舟はこしらへて外から持つて來ることの、特別に六つかしいしろものであつた。それが島地に至つて此樣に變遷す(395)る爲には、是非とも條件の前には備はらずして、後に顯著に認められるやうになつたものを基礎としなければならぬ。誰しも考へつくのは船大工の專業化であるが、是は今とてもさう簡單なことでない。必ずそれ以前の自給時代から、仲間の比較的巧者な者をもり立てゝ、次第にそれに信頼して行くといふ、久しい過渡期を經なければならなかつたことは、家屋や器具なども同じであつたらう。それよりも先に問題になるのは板造りで、ガガリ・オホガ（大鋸）といふやうな便利な道具の持込まれるまでは、どうして船板を平らにして居たかゞまだ明かにせられて居ない。多分は非常な根氣仕事で、長い時間をかけ且つ澤山のむだを忍んで、割つた材木の面を削りならして居たもので、各地の發掘が進めば、今にその推測も確かめられるだらうが、ともかくも山がこの爲に又一段と激しく荒れたことは當然であつた。山幸海幸の爭ひといふ大昔の物語は、斯ういふ方面からも味はつて見ることが出來る。かつてこの群島の磯山が、巨木を以て蔽はれて居たことは、海にいたつく人々の大きな便宜だつたに違ひないが、海の生産が末榮えて行くにつれて、他の一方の成長は次第におくれがちになつたのである。この兆候がやゝ見え出してから、海部の移動は始まり、對立が著しくなつて來たので、最初から別の種族であつたら、今あるやうな言葉の一致は無い筈だと私は思ふのだが、それを決するのも次の代の役目である。とにかくに彼等が越の海の淋しい浦わを目ざして、そこに幾つかの永住の地を見定めようとした頃には、山はまだ眞黒な喬木の林であつて、それが心強い一つの保障であり、又誘引の力でもあつたことは疑はれない。舟に刳るべき樹のどれくらゐ豐富であつたかは、經て來た年代の長さからでも推算し得られるが、それさへも終には盡きてしまつて、次第に山の姿は改まり、その新たなる利用は興り、一方には又海に求むるものが少しづゝ遠のいて、段々と沖に出て行くやうな大きい舟を、造らずには居られなくなつたのである。是に類する天然の促迫は、隱れて他にもまだ幾らでも行はれて居たかと思ふ。いはゆる文化の進展を以て、すべて精神力の所産と見ることは誤りである。

　

(396)　　　　　　　一一　外部の勞力

　

　しかし人間の考へ方が、次々と生活樣式を變へて行つたのも、亦古くからの事實であつた。一つの例として茲に擧げられることは、舟も最初は我々の住居と同じやうに、必ず其中に於て生活を營む者が、自ら手を下して造るべきものとなつて居た。それが技術と材料の二つの面から、どうしても外部の力を頼まなければならなくなつて、その古來の制約を超えんが爲に、なされたる色々の心遣ひが、今もまだ海府地方には痕を留めて居る。漁夫がいつの頃まで、各自にめい／＼の小舟を燒き窪めて居たか。又は身うちや近隣の援助の下に、板を矧ぎ合せたやゝ大型のものまでを、自分が作主となつてこしらへて居たか。それを今から確かめることは容易でないが、少なくとも現在はあかの他人、時としては他處から入つて來た專門の者に、作業の主要部を一任するやうになつて居ることは、是に伴なふ飲食の作法からも窺はれる。さうして同時に又是から逆推して、その變遷以前の考へ方といふものが判つても來るのである。

　いはゆる自給經濟の論理は、存外に今までは追究せられて居なかつたやうだが、日本のやうな國の實例に就いて見て行くと、もとはその範圍のずつと汎いものであり、其根本の動機ともいふべきものゝ、もつと深い所に在つたことが心づかれる。平たい言葉でいふならば、ちやうど我が口で食べたものでないと、身の養ひにならぬと同じやうに、我が手を以て造り出したものでなければ、之に依つて活きて行くことが出來ぬといふやうな考へ方が、昔の人の中には行渡り、それが一家とか一族とかいふものゝ結合に、大きな力を認めしめたものかと思はれる。食物に關しては、この思想はまだ無意識に近くなつて殘つて居る。供出と配給と、假に分量に於ては損得が無くとも、やはり農家では我が作つた米を食ひたがり、殊に家の神を祀るには、家の田の米でないと上げたやうな氣になれず、たま／＼商品の酒や餅を供へるにも、鑽火《きりび》をかけぬと氣のすまぬ人が今でもある。火は淨めるからといふのは後の説明で、起りは是(397)も亦我が家の竈を經たものだといふことを表示する、一種の氣休めであつたらうも知れぬ。衣服に就いてはこの感覺はすでに衰へたけれども、それが女の手わざであり殊に母妻の任務であつたといふことに、古い約束を留めて居る。神に仕へた女が必ず神の御服を織り且つ縫つたといふ昔語り以來、是を家庭愛の標識とした文藝の數は多いのである。

　書物になつた建築史を讀んで居ると、家だけは夙くから專門家があり、素人の手に合はなかつたやうにも考へられるが、國民總數の上から見れば、外部の勞力を當てにした家は寧ろ少なく、やはり自給の場合の方が近頃まで多かつた。獵や木草を採りに入る人々が、山野で小屋を掛ける際は言ふに及ばず、里でも簡單なものは大工には頼まなかつた。太い柱を組み梁を渡すなどは、專門家で無いと出來ぬことであり、それ故に又｜建前《たてまへ》といふことを非常に重んじたのだが、飛騨の白川あたりでは、それがすむと職人はさつさと還つてしまひ、あとは近所や身うちの手で、寄合つてまとめてしまふさうである。東北地方でも、屋根の葺替へはヤドコと謂つて、組内が助け合つてするものときまつて居り、もつと小さいのは家主夫婦が、上と下とに居て竹の針に繩を通し、萱を縫ひ付けるものとなつて居た。もちろん此頃新たに建つ家で、墨壺さし金鑿鉋の世話にならぬものはもう無くなつたらうが、それでも山國に行けばシナやモンジヤの木の皮で、結んだ家はまだ幾らも見られる。さうして土地で大工を育てたり、喚んで來たりすることの出來ない離れ小島の數も、我邦には隨分多いのである。私たちの見たところ、さういふ小島の住民は大體にみな器用で、中には大工道具の使へるまでになつて居る者も有るらしいが、彼等が其まゝに大きくなつて、專業化するといふことは先づ望めなかつた。技術と材料との新たに入つて來る爲には、やはり旅大工といふものゝ旅行が、少なくとも初期には必要であつたらうと思ふ。

　舟と家と、最初一つの大工を頼むことにして居た時代が、遠くの島にはあつたものと思はれる。今でも古風な刳舟を使つて居る鹿兒島縣の十島村などでは、家も素人造りに近所の者が、集まつて來て建てるのを例として居る。尺や墨繩の使ひ道は同じだから、僅かな工夫を以て其技能を、延長することが出來たであらう。もしも造船改良の必要が(398)すでに感じられて居たとすれば、村にいはゆる本式の家普請が始まつたことが、それを促進するのにはちやうど好い機會であつた。家大工の仕事は火事でも無い限り、稀々にしか需要が無かつたに反して、舟は使つて見て利益が多いときまると、次から次へ注文を取ることが出來た。土地によつては二つの職業は、寧ろ兼ねずには居られなかつたかも知れない。

　少なくともこの内海府の小さい村には、さう思はせるやうな事實が幾つか有るが、それを説く前にもう少し、外部の勞力といふことを考へて見なければならない。近隣民族の中にも捜せば類例のあることゝ思ふが、家屋の建築に伴なうて、日本ではゴチョウといふ特殊なる飲食の儀式が、今もまだ行はれて居る。ゴチョウが午餉即ちヒルゲであり、辨當を意味することはほゞたしかなのだが、現在はそれが大工振舞に限られ、又親類の家から酒や食物を送つて來る場合だけの名となつて居る。全國飛び／＼に同じ例は見られる中に、新潟一縣は殊に盛んであつて、午腸といふやうな珍らしい文字を書き、やはり家新築の際の親類の義理として、一般に認められて居るのだが、佐渡の海府あたりになると、是が亦主として舟造りの時の慣行だつたのである。もちろん家造りのゴチョウもあつたのであらうが、小さな村であればめつたにさういふ機會は無く、たゞ舟大工へのゴチョウのみが、殆と年々の行事のやうになつて、村人の間に知られて居たのである。本來は現場へ運び込んで來るのが通例であつたらしいが、是を入れゴチョウといふに對して、別に呼びゴチョウと謂つて、職人を呼び迎へて饗應するものもあつた。とにかくに今まで他人であつたよその舟大工と、一度は飲食を共にして置かぬと、安心してその作つた舟を利用することが出來ぬといふ感覺が、本人ばかりか一家身内の間にも及んで居たので、單に共助の勞を省き得たといふ、報償の意味だけでは無かつたやうに思はれる。

　九州でよく聞く棟梁送り、その他各地色々の形で行はれる大工優待の風習は、今では因習とも惰性とも批評し得られようが、起りは何れもこの共餐の方式によつて、新たに肉身の連鎖を作り出さうとする趣旨に在つたことは、縁組(399)の祝宴なども異なる所は無かつた。いはゆる自給經濟の原則は是ほどにも根強いものであり、家を發足點とした次々の社會結合には、本來は斯ういふ精神上の要望が、隱れて働いて居たのであつたといふことも、多分はこの一つのフオクロアの探求によつて、今にはつきりと判る時が來るであらう。もちろん幾つかの比較を積み重ねた上で無いと、斷定をして見たところで何にもならぬが、それには佐渡の北小浦の實例などが、單純なだけに一方の基準にはなる。前に掲げた親類の午餉以外に、爰では未來の舟主が舟大工と共に、酌みかはす酒が少なくとも三度はあつた。其一はダイノセ、其二はダイオロシ、即ち造船臺の作業の始めと終りとであつて、此日はあたりの人々も招かれるらしいから、普通の祝宴とも見れば見られるが、別に此二つに先だつてなほ一度、兩者さし向ひの酒の式があつて、契約はこの時に成立するものとなつて居たことは、ちやうど牛馬や土地家屋の賣買が、酒できまつたのともよく似て居り、一方には又正月十五日の田人呼び、さては同十一日の水手揃《かこぞろへ》といふものと、趣旨に於て近かつた。是が同時に相手方を拘束し、殊に働く若者の自由を制限して、一旦この酒を飲んだ以上は、其一年は是非とも酒主の家の作業に參加すべきものとなつて居た故に、近世は次第に此面に重きを置くことになつたが、それはたゞ生産が進み、勞力の需要が増して來た結果に過ぎない。假に仕事は限られ手は餘つて、働きたいといふ者が多い場合でも、なほ且つこの共同の飲食を經てからでないと、他人を所謂ヤウチカコと同樣に、安心して使ふことが出來なかつたものと思はれる。

　此ちなみに今一つ、小屋入りといつた言葉が私には注意せられる。或は簡單に作事小屋、即ち舟大工が假小屋の中で、舟を矧いで居たからとも見られぬことは無いが、事によると是も此日の盃の交換を堺として、改まつた物忌の生活に入ることを、意味して居たらうかと思はれるのは、小屋がこの土地では特殊の用途あるもの、たとへば産婦などの忌籠る場所の名であつたことが一つ、次には舟造りに伴なふ俗信に、幾分か普通の法則とちがふものがあつたことが、又一つの理由である。ダイオロシ即ち進水式の時刻に、ちやうど葬式の通るのを吉相として居ること、是も珍らしいが其以上に、舟大工のミカハ（近親）に死人があると、其際造つて居た舟の爲に、大そう縁喜がよいと言はれて(400)居たなどは、見樣によつては向ふの弱味が、こちらの強味になるといふ推理から出たものとも見られる。忌には裏表二つの面があつた。その一面の制限は、やがて他の面の力に變り得るといふ考へ方が、もとは狩獵に就いても行はれて居た。舟に女は忌むのが普通なのに、舟おろしの日にはわざ／＼孕み女を乘せ、それにジョウノメの栓にする石を拾はせる、といふやうな習はしも此土地には守られて居た。死の忌も一般に、舟では惡いものとは考へられなかつたやうである。

　

　　　　　　　一二　島の牧場

　

　啄木鳥のつゝいた穴の有る木が、舟材には好いといふ俗信がこの邊には行はれて居て、山で賣買ひをするときにも、是には別に二升の祝儀をはずんださうである。他の土地でも言ふことかどうか知らぬが、恐らく遠く刳舟の時代から持ち傳へて來た感覺の一つであらう。舟には一艘毎の壽命仕合せのやうなものが、有るといふことには心づきながら、それを少しでも前以て測り知るすべが無くて、山に多くの舟木が立つて居るうちは、殊にどの木を伐つたらよいかに迷ひ、たま／＼小鳥のしわざの如きはかない暗示にも、未知の世界の導きを認めるやうな、習はしが始まつたものと思ふ。くり舟には最初如何なる種類の木が、用ゐられて居たかゞ問題になるのだが、それも或は啄木鳥の習性、特に好んでどういふ木をたゝいて、食物を求めようとするかといふことなどゝ、考へ合すべきものであつたかもしれぬ。今日謂ふところのクリコブネの構造には、昔の丸木造りの痕跡がまだ殘つて居るが、現在其底部に用ゐられる刳材は多くは松であり、その前には又カタシ（椿）の木なども使つて居た。椿などは重く堅く、又そんなに太い樹は無かつたらうから、是が最初からの丸木舟の材であつたとは思はれぬ。やがては考古學の力によつて段々に確かめられるであらうが、樟科の植物の中ではタブといふ木だけが、可成り北の方の海岸地帶まで分布し、今でも神社の信仰に庇護(401)せられて、驚くほどの巨木になつて居るものが、佐渡よりもまたずっと北の方にも見られる。新たに植栽することは望まれなかつたらうが、稀には幾つかの好條件に惠まれて、年久しく林叢の中に成育して居たものがあつて、それが海部の民の南の方からの移動を誘致し、同時に又その前進を制限したことは有り得る。勿論タブの全く生えない寒地にも、くり舟は盛んに造られて居た。それが又一つの別系統であつたか、但しは中比の代用であり、技術の變化であつたかは、是から我々の究めなければならぬ點であるが、少なくとも佐渡の海府は、タブの北限線のこちらである故に、假に現在はもう珍らしい樹種となつて居るにしても、爰でも最初の刳舟はタブの木であつたものと、一應は推定して置いてよいかと思ふ。

　磯や渚の?態がほゞ昔のまゝであつたに對して、山の風景は恐らくは非常に變つて居るのである。舟の一代がどの樣に長くても、とても其間に成長し得ない樹を使つて行けば、終には伐り盡すにきまつて居る。しかも木の國の牟婁の郡のやうな、こゝは物深い山地でも無かつたのである。杉が第二の貴重なる船材だといふことが明かになつてからも、栽ゑて育てるといふまでは考へが及ばず、又さういふ業體も海府には成立しなかつた。有るにまかせて用材を採取して居ても、それが商品として積み出されぬ限りは、山の荒廢が存外に目に立たなかつたらしい。さうして愈々その最後の段階に近づいてから、改造せられた大型の漁船を利用して、大量のバイタ（薪）を對岸に送り出し、それから又一轉して一時は炭を燒いて賣り、それが二つとも現在はやゝ衰へて居る。つまり内海府の林業は、始めからしまひまで、ちつとも花やかなものでは無く、又漁業のやうに自主的でも無かつたのである。

　或は土地に對する考へ方が、海から入つて來た人たちだけはやゝ異なつて居て、廣い水面で入會に働く場合のやうに、場所の永續した占有を必要とせぬ生産が爰では早く起り、又存外に久しく續いて居たのではないかと思ふ。土地の利用の方式は、もちろん現在はすでに最後の段階に到達し、又普通の法則によつて統一せられては居るけれども、元來は是が一度に始まつたもので無いのみか、その經營の主體ともいふべきものが、次々に變つて來て居る爲に、三(402)十戸にも足らぬほどの小さい村でありながら、ちよつと外からは理解しにくい位に、北小浦の構成は複雜であり、又結果に於て融合しても居る。しかも私たちの想像して居るやうに、他にも是に近い歴史をもつ村は、日本の沿海には幾らも有つて、この地が必ずしも特殊の例でなかつたとすれば、幸ひに殘り傳はる資料を利用して、少しでも前代生活に對する注意を深め、粗陋な斷定に押しまはされてしまはぬ樣な、習慣を養つて置く必要があるかと思ふ。

　今でもまだ答へられない問題の一つは、最初の移住者等の食物はどうして居たかである。海から採るものゝ消費が農村よりはずつと多く、それが最後の保障であつたことも凝はれないが、もしも少しでも穀物の需要があつたとすれば、爰ではそれを充たす途が、甚だしく限られて居たのである。近畿以西の普通の例では、努めて耕作者の群に接して、寧ろ始めから交易を豫期し、同時に少しづゝ其技術を學び取らうとした形が有るのだが、島々の土着に於てはそれは望みにくゝ、産物は概して片よりがちであつた。さういふ中でも内海府などは、隣の平地に遠く、我土地は斜面が急であつて、屋敷すらもさう十分には取れなかつた。こゝに餘剰を産するやうな農村が既に在つて、海部の上陸を待受けて居た氣づかひは無いのである。季節や勞力の割振りに於て、ほゞ漁業と兩立し得るやうな簡易農業が、すぐにも實施し得られるといふ自信が無い限り、たとへ山中に巨木の舟になるものが多からうとも、それだけでは爰を永住の地ときめることは出來なかつたらう。乃ちこの土地の食料としては、最初はたゞ苅生《かりふ》播きの稗か粟で、稻はほんの少しか又は、全く作らなかつた時代の、曾てはあつたことが推測せられるのである。

　ところがその以前の燒畑作りの名殘が、奇妙なほどもう留められて居ない。ヤケバタケなどゝいふ地名はあるが、それも今は草原で、かつ入込んだ峠の傍にある。里に近い耕地はすべて常畠となり、又は土工を加へて水田にしたものも多い。どうしてこの大きな變化が起つたかゞ次の問題であるが、この方はまだ幽かなる記憶もあり、又無意識の傳承に據つて、追々に判つて來ると思ふ。つまりは米作を中心にした農業が、徐々に又別な方角から入つて來て、新たに村の生活に融け込んで來たもので、それは外海府の土地經營が、一段落を告げてから後であつたらうと私は見て(403)居る。

　この漁業の片手わざの畑作りと、稻田を中心にした本式の農業との間には、若干の歳月が有つたのみならず、更にこの地方の特色の一つなる牧牛の普及といふことが、挾まつて居るのでは無かつたらうか。文書の一向に傳はらない村だから、年代を明かにすることはやゝ六つかしいかも知れぬが、少なくともこの三種の生産の始まつた順序と、それが互ひに獨立したものであつて、後々次第に繋がり合ひ、たとへば一家の活計をも構成するやうになつたらしいことは、現在判つて居る資料だけでも大よそは推定せられ、又是からも調べて行かれさうに思ふ。第一に考へて見てよいことは、島の牧畜といふものが、最初たゞ偶然には起り得ず、又小さな個々の人の力では計畫せられさうにも無いことである。是は小さな島々が色々の天然の條件に惠まれて、牛馬を放養するのに適して居ることを、心づいた人たちの事業でなければならない。この一種の勸業政策は、我邦では歴史が可なり古く、又中世の領主にも承繼がれて居るが、人がまだ少なく原野のなほ豐かな場合でないと、效果は收めにくゝ、障碍は漸く多くなるであらうから、佐渡などでそれが企てられたのは、或は國司の現實に活動して居た時代だつたかも知れぬ。隱岐とか對馬とか伊豆の諸島とか、或は近い隣の越後粟生島などゝ、比較をして見たら面白からうと思ふが、家畜の歴史にも島毎の地方色があり、人と彼等との交渉もそれ／”＼にちがつて來て居る。佐渡牛の場合で言ふならば、いはゆる品種改良の機會が至つて少なかつた爲に、以前の血筋は傳はりつゝも、幾分か退化の形が見られる。大體に自由な山野蕃殖を續けて居たと思はれるのだが、それがいつの間にか村の所屬を通り越して、最近はすでにミミジルシの時代に入り、しかもまだ十分に耕作農との連絡は取れずに居たのである。今度いよ／＼有畜農の新たな發足に際して、斯うした土地々々の古い經驗が、どういふ風に前途を指導し得るであらうか。興味は必ずしも前代の囘顧に、限定せらるべきものでないのである。

　

(404)　　　　　　　一三　毛じるし耳じるし

　

　牛が村々に定住するやうになつたのは、人よりも無論遙かに後のことであつた。殊に内海府では舍飼ひの風習が起ると、殆と同時といふ位に産牛の數が減じて居る。飼料の供給の容易でなかつたことも原因であらうが、又一つには牧場が山の高みに在つて、家々の管理が出來ない爲でもあつたらう。牧夫を共同に雇ふといふ慣行は、全體に日本には發達して居らぬやうだが、爰にもさういふ者は少なくて、その代りにはたゞ垣番といふのが置かれて居た。垣にはオホガキとコロガキとの二種があつて、後者はめい／＼の田畠を守る爲に、耕地の一區毎に取繞らしたものといふから、寧ろ大垣の統制が弛んでから、必要が生じたものと見てよい。もとはこま／”＼とした申合せが、大垣の方にはあつた。春は舊二月末の雪消えの後、かねての割當てに從つて村總出で此垣を繕つた。材料の丸太はどこの山から伐つてもよいが、松杉アテビなどの用木だけは手を付けられない。ユヒソは藁繩で無く、藤蔓などを用ゐたことゝ思ふが、それにも分擔者の責任があつて、たとへば牛が大垣を破つて畠地を荒らすと、牛の持主から罰金を五十銭、そこの垣をこしらへた者には三十錢を出させた。垣を結はない者があると、垣番が見まはつて注意を與へ、なほ怠る者は無論罰金を取られた。垣番の給料は年分に米一石、麥なら二石が普通であつたといふが、是も問題が折々起つて、見廻りが相應に數しげくなつてから後の話であらうと思ふ。牧場に放した牛が家に歸りたがり、毎度里近くへ寄つて來て、垣を越えたり破つたりするといふことは、少なくとも牧場の元の姿だつたとは思へない。人が段々に固まつてめい／＼の村を作つたと同じやうに、牛にも血縁の親しみが、おのづから數多くの小群を割據させ、更に其中心が人里の方へ移つて來て、しまひには隣の村々との混亂を、防止する必要も無くなつたものであらう。家畜の歴史の思つたほど單純なもので無いことは、島に入つて見ると少しづゝ判つて來る。人の利用がまだ進まなかつた時代には、むしろ彼(405)等の側に要求があつて、知らず／＼今のやうな覊絆の途を歩んで來たのかも知れない。たとへば冬の間、山の中腹の林地に雪を避け、又は春さき燒畑の草に就いて榮養を取らうとしたことが、次第に嶺の上の廣々とした生活に遠ざからしめて、人に見覺えられ、村々の牛となつてしまふ原因であつたかもしれない。もしさうでなかつたならば、垣を山々の猪垣兎垣などのやうに、たゞ里まはりに圍つたゞけではすまなかつたであらう。

　牛を野山に放して置く期間は、以前は今よりももつと永く、或は一年中、勝手に遊ばせて置く風もあつたのではあるまいか。ともかくも北小浦は村も狹く、又飼料の手當てにも骨が折れる爲に、今でも家に立てゝ置く日數は出來るだけ少なく、大抵は舊暦二月末の雪解けを待ち兼ねて、急いで山に放して大垣の修理に取掛り、やがて田植の支度が始まる際になると、再び牽いて來て田の苅敷の草を踏ませた。といふのも入用な牛の數だけで、全部をつれ戻すのではなかつたらう。近年牛耕が奨勵せられて其數が多くなり、秋も苅稲を家に運ぶ爲に少しづゝは使役するらしいが、是も今一度オホノアケと稱して、殘らず村の牛を山へ出して、十分に喰ひ込ませるのがきまりであつた。それがぽつ／＼と歸つて來るのが、舊十月も半ば過ぎ、霜月のかゝりまでといふのだから、先づ一年の三分の二以上は、昔ながらの野山の生活をして居るのである。隱岐島の牧畑などでは、狹く放養の土地を區劃して置いて、そこを次の年の栽培に使ふのだが、海府の牧山にはさういふ慣行も無い。つまりは仔を取つて賣るといふのが主で、耕作との連絡は至つて少なかつたのである。

　牛が殘らず山から歸つて來た日は、家々では神棚に神酒を上げ、マヤゴミといつて内祝ひの酒食をした。もしいつ迄も歸つて來ぬと捜しに出る。爰でもヲコゼといふ魚は山神の好みたまふものと言ひ傳へ、家に乾したヲコゼを貯へてあつて、この時はそれを腰に附けて捜しに出たといふ話もある。放牧中にも月三四度、其ヲコゼを携へて見まはつたといふが、それは牛の群があまり遠くへ行き、又は他村の牛とまじつてしまはぬ爲だつたらしく、初冬の牧じまひには別に迎へに行かず、斯うしてたゞ大垣の外へ、下りて來るのを待つばかりであつた。以前は仔を産むのも山の中(406)で、自然にまかせてあつたやうで、嶺を隔てた外海府の北鵜島などでは、仔牛が母について山から歸つて來るといふやうな、ほゝゑましい光景も語られて居るが、近年はもうそれ程には冷淡に、ほつたらかして置く者も少なく、大抵は早めに連れて來て家で世話をするものと見えて、生れて三十日から五十日までの間に、小牛の耳にシルシを切るといふことになつて居る。しかし是なども元は日がきまつて居た。即ち村々の山の神祭りの日、通例は二月の九日であつた。この日は人間の行爲の最も效果多き日と見られて居たらしいが、さういふ中でも是は特に、山神の承認を受けて置きたい事柄であつたらうと思ふ。

　牛市牛商人の用語を集めたものには斑のあり處によつて、牛の特徴を表示する言葉が、多過ぎるかと思ふほどもある。佐渡でも毛ジルシは弘く認められ、又アゼとかオホスヂとかトチアカといふ類の、聽けば忘れない呼び方が色々とあつて、牛を尋ねてあるく爲だけならば、それで十分に用は足りたと思ふのに、どうして又耳ジルシといふ樣な、煩はしい標識が新たに附加はつたか。果して人と所有を爭ふべき必要が、それ程にも爰には多かつたのか。小さい事ながら問題にしてもよいであらう。或は群が大きくなると、似たる毛色や斑の牛が幾つも生れるからとも考へられようが、家々の厩舍に飼ふ數は僅かづゝで、持主としては見分けられぬわけは無く、外の人からは耳ジルシの方が却つて覺えにくい。さうして是によつて所有を證明するやうな必要が稀にしか起らぬとすれば、是などは寧ろ一種の趣味、仔牛にとつては迷惑千萬なことだが、言はゞ自分の物になつたといふ悦びを表示するのが主たる動機であつて、私有制度の展開に隨伴した新らしい心理現象ではなかつたらうか。隱岐の牧牛の例を見てもわかる如く、又こゝに添へてある表にも明かなやうに、耳ジルシの發明と名とは此地方の發明で無く、どこかに流行の起原がありさうに思はれる。それにはそれで又別な理由があつたかもしれぬが、土地では實際はあまり役に立たなかつたらう。爭ひの生ずるのはちがつた村との間であり、よそでは又同じやうな耳ジルシを、幾らでも用ゐて居たらうからである。

　舟とか網とか道具とかいふ類の物が、所有權の主體を家として居たかと思はれるに對して、牛だけは妙に個人の持

　

(407)〔図、省略〕

　

(408)主といふものが認められて居た。是は内外海府の一般の風習と思はれるから、多分は北小浦でも知られて居たらうが、シンガイウシといふ名があつて、それは嫁又は女房に附いて居る牛のことであつた。或はヲバノウシ・ヲヂノウシとも謂つて、後嗣ぎ以外の男女が年頃になると親からもらふこともあるが、是も嫁入養子聟入の際に、里の親から與へられることは一つであつた。シンガイといふ語の意味は、もう誰でも知つて居るやうに、家族個人の私有物といふことであつた。もとは新開即ち田を拓いて作ることで、家も承知の上で其收入を小遣ひにしたのであつたが、後々女たちの内證金、圭の眼を掠めてためるやうなものまでをシンガイといふやうになつて、甚だ感じが惡くなつた。佐渡ではたま／＼その古い心持が殘つて居るのである。聟が養子に行く際に持つて行くシバキリヤマ、是は緑肥の採取地といふことであつたらしい。それから嫁に行く娘に附けて遣るネリゴメダといふ僅かな田地、ネリゴメといふのは乳の出ぬときに、おもゆとして嬰兒に與へる米のことであつた。この二つも共に持參金の一種ではあるが、土地は古くから家に附くものとなつて居た爲か、是には私有といふ考へは無く、たゞさういふ名義で家の財産に編入せられて居たやうである。ところがいはゆる新開牛は之に反して、嫁の物にはなつて居ても嫁入には附けて遣らず、なほ久しい間里方で之を管理し、その收益だけを金にして送つて居た。嫁の衣類調度も皆さうであつたやうに、愈々幾人かの子を設けて、主婦の地位が確定してから、始めて其牛を嫁入先へ引渡すのが通例で、時には最初の兒が十五になつた年と、いふやうな習はしもあつたさうである。タネガヘシと稱して新開牛の仔を一頭、後に實家の方へ返すといふのは、注意してよい慣行だが、まだ私には説明が出來ない。其他の收入は全部女房の所得で、何かよく／＼の事情でも無い限りは、之を自分や子供たちだけの、雜用に費してよいものとなつて居た。牛の耳ジルシは斯ういふ場合に、果してどちらの家のを附けるものであつたか。最初の母牛のは勿論里方のそれであるが、次々生れる仔には聟の家のか、或は又別に新開牛だけのシルシでもあつたか。それはもう一度聽きに行かぬとわからぬが、とにかくに家に斯ういふ個人所有が始まつたといふのも、牛の私有といふことが新らしかつた爲であり、さうして又耳ジルシの發達といふことゝ(409)も、何か關係する所が有るやうに、私たちには想像せられる。

　

　　　　　　　一四　木じるしと家

　

　牛の耳ジルシを附けるには鋏か錐、その他よく磨いだ小刀などを要するに對して、木ジルシはたゞ一梃のキザミナタ、それも有合せのもので簡單に切込むことが出來た。或は木の燃えさした消炭などを使つて、丸きり文字を知らない老女までが、山で自分の家のシルシを描いて置くといふ土地もあつて、この方は最初から實用を主とし、趣味や技巧の働く部分は少なかつたかと思はれるのだが、是が佐渡北端の小さい海村に入つて來て、永く生活の機構に參與するやうになつたのには、やはりこの土地限りの隱れたる事情が考へられる。もとは一人の力で一度には運べぬ物を、是にはもう主が有る。今に取りに來るのだから手を着けてはいけないといふ意味を表示する爲に、たとへば流木や濱の寄り物に小石を載せたり、野外の苅草に萱を結んで、ホデを立てたりしたのも一つだつたかしれぬが、村が接近して家々が入りまじつて住むやうになると、次第に誰のしわざ、何處の家へ持つて行かうとするのかを、明かした方が都合がよくなり、それを見分けさせるには、鉈の切込みなどが手輕だつた。氣をつけて見るならば、今でもこの系統はなほ辿られるであらう。鉈は以前の外で働く人たちが、繩で朸にくゝり付けて、殆と毎日のやうに携へあるくものだつた。山に入る日に限つたことでも無く、從つて又木ジルシが最初のしるしといふことは出來ないかと思ふ。

　そこで我々の問題になるのは、中古に恐らくは海から入つて來た人々の土着によつて、先づ開かれたと思はれる海府の一部落に、いつから斯ういふ木ジルシが始まつたか、大げさな言葉を使ふならば、是は外來の文化であるか、はた固有のものがこの中で成育したかといふことである。この二通りの答へのちがひによつて、是からゑがき出さるゝ昔の村の姿は可なり變つて來るわけだが、自分などは他の多くの土地との比較によつて、既に一通り形を整へてから(410)後に、こゝへは持込まれたものと見て居るのみならず、史にその來た方角なども、追々に尋ねて行かれさうに感じて居る。海上に出て魚を釣る者にも、獲物の所有權を判別させるために、前以て申し合せをして、魚の尾や鰭の定まつた部分を、咬み切つて置くことにして居る例も、現在はそちこちに出來て居るが、所謂ヤウチカコ（同族水手）を主とした時代にはさういふ必要は無く、後々分配の方法がきまれば、他人が共同して居てもやはり其必要は無かつた。山で伐るべき舟木を選定した際にも、必ずもつと重々しい儀式があつて、衆人が是に參加したであらうから、そんなシルシを附けて置くといふやうな場合は少なかつた筈である。さうなつて來ると、前に何處かで利用して居たものが、殘り傳はつてこの新たな移住先にまで、携へて來られたものと見なければならぬのだが、それも漁民の場合にはなほ想像がしにくいやうである。

　之に反して、山で材木燃料を採取して生計を立てゝ居た人たちの間には、木ジルシの入用は年と共に多くなつて居た。現に對岸越後の平野などは、里の住民が想像も出來ぬほど山本が遠く、十日半月もかゝつて木は下流へ流れて來るのだが、是にはさう多くの山子が附いて來ることは出來ない。それで川岸へ曳揚げて積む場合にも、見分けて別々にして置く必要から、殊にシルシといふものが大切だつたのである。阿賀川信濃川の二つの水域などでは、家ジルシ以上に村ジルシが役に立つた。是をはつきりときめて置かぬと、混亂は一段と烈しく、それこそ爭ひの種にもなり得たのである。村ジルシも本來は一つの起原と思はれる。是をやゝ大きく上の方に、又は形を變へ片假字などにして居たか。ちがつた村どうしの同一の家ジルシを、區別する方法は如何にして居たか。行つて尋ねて見れば直ぐに判ることなのだが、少ない例なので今日はまだ知られて居ない。ところが佐渡の海府地方などでは、入組んだ村も無く、大きな流れの共同の木流しに使ふものも無いのに、なほ村と家との二種の木ジルシが知られて居て、それが主として境界の立木に、刻み付けられる習はしとなつて居た。境木の目的は單にこゝが地堺ひといふことを明かにすればよいので、新たに買取る場合でもなければ、持主は誰とまで標示する必要は無い。よその多くの土地では、たゞ特別の木を(411)栽ゑ竝べ、又はわざと若干の巨木を伐り殘し、もし他の林木と紛れさうなときには、捻れ木二又木などのやゝ目に立つものを、計畫的に立てゝ置く位なものである。遠くへ行くかも知れない牛の耳には村ジルシが無く、ぢつと立つて居る境木にだけそれを附けるといふには、幾分か事を好んだ嫌ひがあり、從つて越後かどこかは知らず、かつて村ジルシの無くてはならぬ地域に居た人が、持つて來て爰にもそれを殘したものと、一應は推定してよいかと思ふ。

　家ジルシの目的は、もとはたゞ所屬を明かにするに在つたものが、永い使用によつて漸くに内部の意味をもつに至り、旗幕武具提灯等の紋から、終には我々の羽織の背筋にまで、くつつかずには居ないやうになつたことは、それ自身獨立しても面白い題目であるが、そこまでは爰で説くに及ばぬ。さしあたりの考へて見たいのは、是が一方に分岐して刻印燒印となり、又は今日の墨判となつてしまふ前に、山で思ふがまゝの發達を遂げ、變化の限りを經て居りながらも、今なほ他の一方の家紋といふものと接觸して、大よそは同じやうな法則に支配せられて居ることである。古風な田舍の生活を知り究めようとする者が、一つの目標と立てゝ居る木ジルシ地帶、即ち鉈の刻み目を以て各自の家を表示する慣習を、今でもまだ保存して居る村々は、飛び／＼ながらも全國の隅々に行渡り、且つ不思議なほども記號の樣式が一致して居る。さうして佐渡の海府も亦その一つの場合であつた。道具が鉈や斧だからごく單純な形しか造り得ず、それで偶然に互ひに似て來るのだつたかもしれないが、大體に何處でも三つの原形を先づきめて、それを組合せて色々の名を付與するので、從つてさう多くの種類は出來ない。櫻田君の見て來たところでは、岐阜縣西北の山村などは、山に共同に働かうとするに先だつて、毎囘新たに申し合せできめるらしいが、爰では斧の全部を打込む長い線をヨキバ、刃の半分をあてた短い線をキリハヅシと謂ひ、更に斧の尖りだけをこつんと當てたものをソバツボと謂つて、木ジルシはすべてこの三者の配合であつた。しかしこの線の長さは、實際にはやゝ見分けが付きにくかつたものか、下越後の布部村などでは、鉈の線の長短を區別せず、之を切込ミ又はメクラバンと呼び、別に第三のヲコシといふものを設けて居る。是は少しばかり手が掛るが、二つの切込ミを竝べて、其中だけの樹皮を起すのである。

　

(412)〔図あり、省略〕

　

(413)山の人たちの仕事にはほゝゑましい遊びがあつた。ツラバン又はメクラバンといふ木判は、上の方にこのヲコシを二つ、下には普通の切込みをまん中に一つかけて、是でもう人間の面にしたものであつた。メクラバンといふ名も、一方のヲコシを目あきと見たからであつた。ソバツボといふのは蕎麥の粒で、是も色々の面白い聯想があつたものと思はれる。北小浦の木ジルシには、是がもうはつきりとしなくなつて居るが、其代りには長短さま／”＼の線を、横にも斜めにも自由に使つて、多くの印象深い形と名をこしらへて居る。その中には爰で新たに生れたらしいものもある。ガゼジルシやツヅミは簡單で氣が利いて居り、家紋の方へも是から出て行つたかと思ふ。トリアシは古風であるが、それとよく似たカマンタテといふのは珍らしい。イカリとガゼジルシとの二つは海に屬するもの、或は林業と手を分つてから後に、考案せられたものゝうちかも知れない。ガゼといふのは即ち雲丹の古名、斯ういふ形は前からあつたにしても、少なくともこの名だけは海部式である。

　木判木じるし山じるしの言葉が示すやうに、家じるしの用途はもとは專ら屋外に在つた。鉈や斧鎌の小道具に之を刻み付けるやうになつたのも、恐らくは之を山野に置き忘れて、誰が物とも知り難くなつた場合に、始めて必要が認められたばかりであつたのが、物が重要の度を加へると共に、人の經驗は次第に價値をもち、いはゆる記號の支配力を信ずるやうになつたのみか、更にその影響を受けて家といふものゝ個性が、又一段と明確に意識せられ、次第にその適用の範圍を擴げて來たものと思はれる。ともかくも今は林中での使ひ途は殆と無くなつて、たゞ家々の什器の上だけに、新たなる變化を重ねて居るのである。村の歴史といふものは、もし知らうと思へば斯ういふ方面からでも、少しづゝは尋ねて行かれる。山を區切つて採集利用の場處を分け持ちにしようとしたのは、多分はおくれて入つて來た耕作者たちであらうが、彼等は海の人々といつ迄も對立しては居なかつた。やがて縁組と隣づからの附合ひによつて、互ひの親しみは加はり利害は入りまじり、活計は漸く複雜となつて、技術や方法の學び取らずに居られぬものが、年と共に加はつて來た。その痕跡の一つが、斯ういふ記號の上にまだ殘つて居るのである。

　

(414)　　　　　　　一五　村成長の樣式

　

　是が完全なる融合と名づけてもよいかどうかには、まだ少しばかりの疑問はあるが、とにかくに日本の海ばたの村々には、斯うして時を異にした二組の移住者が、雜居して居る例は稀で無い。さうして海から入つて來た者の土着が早く、いはゆる海幸の先づ榮えたと思はれる土地に於て、却つて後から來た山幸人たちの同化力が、一段と強く働いて居るのが普通である。是は必ずしも智能の差、もしくは職業の難易といふやうな簡單な理由で無く、一つには主食物の前からの共通があつて、それを生産する技法の、後者から學ぶべきものが多かつた爲もあらうが、又一つには家の構成、殊に婚姻によつて親しみを結ぶ方法が、漁民の間では比較的平易であつたからではないか。今はまだ小さな假定に過ぎないが、事實によつて確かめて行く途は幾らも有ると思ふ。

　家じるしの普及からでも想像し得られるやうに、北小浦の村生活はほゞ統一して居る。人によつての得手とか遺傳とかはあつても、水陸二つの生業は家としては分立して居ない。穀物の産量はいさゝか不足らしいが、今でもまだ交易を當てにせず、カテ飯のカテには山でリョウブの葉、又は蕗などを採つて貯へ、海からは又カヂメだのテンツヅなどゝいふ海藻をもつて來て、補食の材料までが一方に片よつては居なかつた。つまりは全體がやゝ乏しい農作に携はつたので、その養力の不足を支持して居たのが、海の生産であつたことは言はずして明かである。

　稻作を中心としたいろ／＼の農耕儀禮が、爰でも正式に村の行事として認められて居たといふことは、我々に取つては意味が深い。春は苗代の種播き祝に始まり、田植の前と後とのノウダテとノウアガリ、家で一ばん大事な大田植の日の祝宴から、秋の取入れの苅上げ餅に至るまで、どれも是もたゞ僅かな名のちがひを以て、汎く全國の農村に行渡つた方式であつて、爰へはたゞ古くからの定まつた型として、持つて來られたらうと思はれるものばかりである。(415)始めてこの土地へ入つて來た農民たちが、米の重要性を知り過ぎるほどよく知つて居て、たとへ少しでも自分の手で作つた米を、家の神の供物にも、又節供身祝ひの日の食物にもするのでなければ、獨立した農家とは言はれぬといふやうな、世間普通の考へ方をもつて居たことは、是たゞ一つの事實からでも察せられるが、更にその以外にも可なりの無理をして、田を開かうとして居た痕跡はなほ殘つて居る。海に接近した濱田といふのが村では最初の田であつたと傳へられ、是は折々の高浪の害を免れなかつた。全體に平地が乏しかつたので、山の斜面も掘り凹めて田にして居るが、その上下には高アド低アドと稱して、廣い空地を殘さねばならなかつた。ユブといふのは水づいた濕地のことであるが、それにも大足を用ゐて田を植ゑることがあつた。さうして水が冷たく日のかげることが早いのだから、手ばかり多くかゝつて實入りのそれに伴はなかつたことは想像し得られる。

　外海府の農業は是に比べると、まだ幾つかのよい條件が備はつて居た。第一に田代の地が廣くて選擇が許され、又隣が近いので田人が集めやすかつたかと思はれる。其爲に或は占有が早く始まつて、新たな農場を拓くことが出來なかつたかも知れぬが、少なくとも此側面にまだ餘裕の有る限りは、土地經營の手は内海府には伸びなかつたらう。もしも兩地の間に山越しか濱つたひか、とにかくに交通の路があつたとすれば、彼處に餘地のある間はそれをさし置いてこちらへは來なかつたらう。北小浦を今あるやうな複合型の村にした力、その力の入つて來た時と方角とは、たとへ文書は無くとも大よそは推定することが出來る。さうして其通路はすでに海部によつて踏みあけられ、又牧の牛を覓める人たちが、しば／＼來往した山路の方ではなかつたかと、私などは想像して居るのである。もしさうだとすれば、痕跡はきつと何處かに殘つて居る。之を見つけ出すことは海上の路よりは容易であらう。

　村の成長に至つては、時が又一段と後であつて、痕跡といふより以上の事實が見られる。尋ねて判らぬといふことは無い筈であるにも拘らず、今まではとかく大まかな類推によつて片づけられて居た。さうして個々の進路を指導した法則といふべきものが、省みられずして過ぎたのであつた。たとへば一つ村の人口が久しく増加せず、戸數がいつ(416)までも變化しなかつたといふ場合でも、それにはなほ幾通りかの原因が有り得た。平地の乏しさといふことが現在は強い制限であつて、分家は北小浦では殆と不可能になつて居るが、それが必ずしも最初からの?勢でなかつたことは、家ジルシの組織を見てもわかる。木出しと關係の無い新らしい形のものが、次から次へと考案せられて居ることが一つ、それが系統を備へて、大よそは家々の紋章も同じに、個々の分家の出所を示さうとして居ることが又一つで、是が下駄の燒印や、番傘の墨書きなどに移つて行く路筋であり、又事によると紋章そのものにも、是から作られたものが地方にはあつたらうかと考へられる。見聞諸家紋といふ類の古い頃の集録を見ると、紋には明かに二通りの種類があつて、一方は直線を多く用ゐて意匠が乏しく、他の一方の精巧な染模樣式と對立して居る。新田足利の二ツ引三ツ引を始め、相應に手の込んだものも中には有るが、何れも根原は土に働いて居た人々の、家を辨別する必要のあつた時代から、繼續したものであることがほゞ推測せられる。後世服飾としての用途が盛んになると、斯ういふ粗野なるものは排除せられ、又は大きな改造を加へられて、よく／＼由緒の深いものだけが保留せられるが、なほ最初の鉈目式とも名づくべきものゝ痕跡は、さういふ中からでも見つけ出すことが出來ると思ふ。家の作業組織の構成といふものが、是等家ジルシの變遷の上に反映して居たことは少しでも意外では無い。即ち家の田や家の山が、もとは誰のといふよりもどの家のものと言はれたやうに、一つの記號の行はれる區域は廣かつたのであらうが、器具には好みがあり又使ふ者の癖があつて、是が最も早く個人私有の對象となり得たのである。しかも仲間うちでは置き所も同じく、又貸し借りの風も盛んであつた故に、單なる愛撫の餘りにも、斯んなシルシを刻み付けて居たのであらうが、愈々働く人の手が多くなつて來て、小屋を異にして寐起きをする必要が生ずると、家の分裂は通例この線に拾うて行はれ、是が又一つの同地分家の、目標となつて殘ることになるのであつた。

　イレテンといふ言葉が、海府では家じるしの系統を意味して居る。本家の記號は大抵は至つて簡單なものであるが、それから分れて出た家々は、是にたゞ一つの點又は線を追加して、もとはめい／＼の同じ一つ作業群に、屬して居る(417)ことを表示した。個々の實例に就いて説明することは出來ないが、たとへば竪に一本の棒を引いただけのが本家とすると、その上端に斜めに短い線を切つて、カギといふシルシにしたのが弟の家、更にそこから又別れて出ると、是へもう一本の横線を加へてイカリといひ、或は下にも切り目を添へて兩カギにするといふ風に、互ひの間には行通ふものゝあるのが、いはゆる入れ點の特徴であつた。最初はことによると本家の保護の下に、族人相互の利益の分堺を立てゝ置くと、いふだけの目的だつたかも知れぬが、後々利害の對立するやうになつて、本家の家じるしはやゝ不安なものになつた。いつでもたゞ僅かな入れ點によつて、すぐに分家のものになつてしまひさうな感じがし始めると、少なくとも鉈目のやうな素朴な方法はもう用ゐられない。さうして是が又刻燒印、その他いろ／＼手のこんだ家じるしの、次第に村里まで普及した理由であつたらうと思ふのだが、佐渡の北小浦などはちやうど今その過渡期に居る爲に、斯んな小さな現象の中からでも、なほ家門制度の移り動いて行く足取りを、さして大きな洞察力を用ゐること無しに、たやすく見究めることが出來さうなのである。

　

　　　　　　　一六　同地分家の制限

　

　分家には本來二つの種類があつたといふことが、もう段々と不明にならうとして居る。古い日本語では分家とは謂はなかつたらうが、是はたしかに國の始めからあつたことで、歸化來住の僅かな場合を除けば、家が分れるより外には戸數の増加し、從つて又人口の増して行く機會は無かつた。さうして古い家の大部分はすでに無くなつて居るのだから、現實には分家が斯邦を造つて居るといつてもよいのである。但し前代人の感覺では、この中から特に本家の意思、又は計畫によつて分ち出したものと、自然に分れて行つてしまつたものとを區別して居た。たとへば舍弟や次三男の元氣のよいのが、から身で世間に入つて業を習ひ家を興すのは、之を分家の中には算へなかつた。是はちやうど(418)養子入聟が、一族のうちでないのと同じことである。今風の言葉でいふならば家をもたせる、家として存立するだけの支度を、本家の方でとゝのへてから、出してやる場合だけが分家であるやうに、考へて居た時代は久しいのである。家督といふ語は今日は不用に歸したけれども、元は斯ういふ條件を表示する爲にも必要であり、それは實際に於ては專ら耕地のことであつた。江戸期に入つてから敷銀聟株買養子、その他いろ／＼の新たな類推が始まつたが、前には土地が得られない限り、どんなに可愛くとも分家をさせることが出來なかつた。さうして近世は其障碍の愈々多く、それを押切つて行かうとするさま／”＼の試みが、或は成功し又成功しなかつた時代があり、佐渡の北小浦は亦その一つの小さな舞臺でもあつた。

　最初は二代三代後の分家までを豫期しつゝ、廣い野中へぽつりと入つて來た家もあつたらう。それまでの餘力は無くとも、周圍に切添へに適する山地があり、又はたゞ僅かの距離の間に開けば開かれる土地が有る場合が、關東北國には稀でなかつたやうだが、それも結局は段々と六つかしく、分家は同時に移住であり、親の家との隔離でなければならぬことになつた。内外海府の多くの家などは、少なくとも一度以上、斯ういふ經驗をした人の末であつたらう。

　田舍に住む者の望みごと、富といひ幸福といつたものゝ内容は今とちがつて居る。一人で奢りをしようにもそんな資材は無い。結局は命永く健かであること、一門眷屬が老いたる二人を取圍んで、恨み爭ひ無く共々に活きることであつたらうが、たつたそればかりの事でも追々に望み難くなつたのである。家を數多くふやして行くことは結局は苦しい勞働のもとであり、又往々にして貧窮の救はれない原因にもなるのだが、課役の便宜の上から爲政者は之を喜び、それを土地繁榮の尺度と見て居たのみで無く、農民自らも、始めは勞力の餘裕の喜びから、後には又肉親の愛情から、是を畢生の願ひとし誇りとして居た。愈々土地の制限がそれを不可能にするに及んで、いつも或程度の讓歩を忍んで、中間妥協の方策を講じたやうである。單純なる形としては、たくさんの子を持つ二親が腰の曲るまで働きとほすといふのから、一方にはいはゆる農村の資本化、もしくは村の資本の都市進出といふやうな新現象まで、こゝに隱れた動(419)機をもたぬものは無いと思ふ。さういつた中でも殊に全國に行渡つて、今では是が常態の如く見られるに至つたものが幾つかある。果して常態ならば是からも永く續くわけだが、今度の大世變に先だつて或ものは既に形をかへ、又或ものはもうくり返されなくなつた。さうして古い歴史の記録の中にも、曾てそんな事の有つた痕跡は無いやうである。どうして斯んな慣習が新たに始まつたかといふと、村のまはりにもう開いてよい土地が無くなつて、本式の分家は作りにくゝなつたに拘らず、出來るだけ家を多くして賑やかに暮したいといふ願ひが、内にも外にもなほ久しく續いて居たからであつた。

　この種近代に始まつた便法かと思はれるものを、假に私が同地分家と呼ぶことにして居るのは、一方の本式分家が、後々は大抵異地に於てのみ、創設せられることになつて居たからである。現在はすでに家督をもつた堂々たる第三の分家を、同じ村に分立させて居る例のあることは事實であるが、是は本家の持地が最初から餘分に豐富であつて、分割がちつとも苦にならぬか、又は輕濟の縮小に伴なふ家格の低下を、覺悟してかゝつたことか、この二つは共に有り得べきことで無いとすると、實際はかねてこの爲に特別の用意をして居たので、つまりは才覺次第資本次第、田畠が幾らでも買ひ集められるやうな時代にならなければ出來ぬことであつた。つまりは近い頃の農村繁榮期、寧ろ土地企業の隆盛期に伴なうて、僅かに實現し得られた新計畫であり、從つて又北小浦のやうな邊隅の村々には、さういふ類例は見られないのである。

　もう一つの同地分家は是と反對に、どこの村に行つてもごく普通に存在する。特徴は大きな本家の周圍にかたまつて、小さな屋敷を給せられた農家で、是にも差等は有るが、大體に持地が少なく、小作を兼ねないと活計を支へられぬものがもとは多かつた。現在は是をも分家といひ、又は是のみを分家と謂つて、他を新宅とか別家とか稱して區別する地方もあるが、起りは獨立した分家では無く、言はゞ本家と合體して、一つの農場を經營した作業群の一員であつたのが、追々に分擔を明かにして、一戸の體面を保つやうになつたものらしい。東北では斯ういふのをエッコ即ち(420)小家といひ、中央部の可なり弘い地域では、デイヘ又はデンベなどゝ、出て住む家といふ名を以て呼ばれて居る。短期雇傭の若い男女とはちがつて、是は永く働いて妻を設け子をもち、先づ別房を給せられて居た者が、後に年功その他の條件を具へて、斯うして外へ出て住むやうになつたことを意味するものであらうが、その住居に附屬した土地は僅かしか無くて、本家の庇護と保障とは、最初からの存立條件であつた。それが小さいながらもともかくも一戸に算へられ、後々一方の本式分家と區別せぬやうになつたのには、幾つもの理由があつたと思ふ。一つには斯ういふ人が實直でよく働き、誰よりも多くの生活興味を持ち得たこともあらうが、又一つには何かの故障があつて、立ち行かなくなつたものは再び本家に收容せられ、丈夫なものだけが後に殘つて、段々に基礎を築いたといふことも考へられる。その上に戰國時代から江戸期の初めにかけて、いろ／＼この人たちの爲に都合のよい社會事情が有つたやうで、とにかくに其地位境遇がよほど改良せられ、もとは名子とか寄子とかいふ類の、やゝ血縁の薄い族員に限られて居たものが、後には愛情のかゝる子や弟たちまで、他に適當な新地が無ければ是非も無く、斯ういふ仲間にさし加へて、我も人も怪しまないやうになつて來たのである。

　相續の問題については、夙い昔から我々は惱み拔いて居た。令の應分の條を引くまでも無く、會て分割は法制であり、又年久しい慣習でもあつた。その痕跡は地名となり、又文書としてもあまる程殘つて居る。今でも動産の上にはショウブワケと謂つて、可なりの廣範圍にそれが續けられる。獨り田畠山林に於て、其事が停止した形になつて居たのは、必ずしも家を權利の主體と見た爲だけでは無い。もう是より小さく分けては、農がなりはひで無くなるといふ段階に、達して居る場合ばかりが多いからである。しかも一方にはこの制限をさへ突き破つて、分けてやりたいといふ人情は強く働いて居た。世界に稀なる細小農國、家の數ばかりむやみに多く、爭ひいさかひの起り易い、複雜なる農村を以てこの日本を作り上げることになつたのも原因は寧ろその人情の強さに在つたのである。若い元氣のよい次三男どもは、第一に斯ういふ無理な分配に、滿足しては居られなかつた。何か新らしい働く口が有れば、何處へでも(421)出て行つて身の運を開かうとしたであらうが、其機會にも制限があつた。町はぐん／＼と大きくなり、職業はいくらでも増加する時代が來ても、世間の樣子が丸でわからず、手引きをする者の無い土地では致し方が無い。やはり生れた家にからみ附いて、小さくなつて辛抱して居るより他は無い者が、段々と多くなつて來たのである。分家といふものゝ地位が急激に惡く低く、又一方にはほんの例外的に、本家を弱らせるやうな有力な同地分家が出來たのも、二つながら天然の制約であつて、必ずしも制度の致すところでは無かつたと私は見て居る。家じるしの分化を跡づけて見てもわかる如く、北小浦のやうな窮屈な土地でも、やはり次から次へと分家は生れて居る。しかもやゝ永い間に亙つて、戸數は格別に増しても居ないのは、つまりは土地の支持といふことが無い爲に、家の移動と變形が繁かつたのであらうと思ふ。もちろん滅びたとか絶えたといふのとは別であつて、ちやうど今日の都市居住も同じやうに、たゞ農家としては姿を消したといふのみで、どこかに榮えて居る場合はきつと多いのであらうが、ともかくも村にはその跡が殘らぬのである。漁業が力強い一つの手引きであつたことが想像せられる。群の移動といふことはすでに不可能になつて居たけれども、なほこの中には外に出て行くことを怖れない素養があつた。新たに増加した農家の子弟は、恐らくは婚姻によつて先づ漁業を學ぶことが出來たのであらう。二つの生産は爰では可なり親密に結び合つて居る。

　

　　　　　　　一七　部屋と隱居

　

　村で分家をせぬといふ申し合せ、もしくは同村人の承認を得なければならぬといふ慣例は、今日はもう珍らしがられるまでになつて居るが、その痕跡はまだ幾つでも見出すことが出來る。以前は課役の連帶があつて、難儀な家が有ると皆の者が困り、又協力が行はれにくゝなるので、耕地の不足に心づけば、誰しも考へずには居られない對策であつて、是が間接に人口の増加を抑へるといふ結果までは、推究して居たわけではないらしいが、ともかくもこの制限(422)は不自然であつた故に、すこしでも事情の許すものがあれば、すぐさまそれを利用して、この樣な慣行を突き破つてしまふのである。

　内海府に年中を打通した漁業があり、又その豐産を確保するほどの技術が發達して居たことは、斯んな名ばかりの分家をしようといふ農家にとつて、ちやうど好都合な條件の一つであつたらう。海にも株があり又毎季の収益豫想があつて、たとへ土地を持つほどの安全さは無かつたまでも、ともかくも一應仕事の要領を覺え込んでしまへは、後には仲間の支持と援助もあつて、獨立した一戸の生活が設計しやすかつたものと思はれる。是にはもちろん婚姻風習の差異、たとへば配偶選擇の自由に對する干渉の度、殊に未婚者たちの同輩の牽制、又は勞働の種類の異なる者が、一つの家の中に共住し難い事情、或はシンガイだのホマチだのと稱して、私財を積み貯へて行く機會の多少などが、一つ一つの原因として考へられねばならぬのだが、さういふ細かな環境の變化は、今はまだ明かになつて居ない。たゞ結果に於て、この土地近年の新立戸は、何れもヲッサン即ち家々の次男か三男が、近所の娘と縁を結び、多かれ少なかれ自分たちの貯へたものだけで持つた家であつて、親の家の田や畠は、僅かでも分けてもらつては居なかつた。是を北小浦ではインキョと謂ひ、東京語に譯すればやはり分家であるが、古い思想の分家とは、もう本質に於てちがつて居る。乃ち我々の分家はいつの間にか、内容を改めて居るのである。

　しかも此種の同地分家に對しても、別に新らしい名稱が出來て居らぬらしいのは、多分は東北のエッコ又はカマド、中部一帶のデイヘなども同じやうに、たとへしるしばかりの小面積でも、地所をもらつて出る者がまだ多いからであらう。その他の地方の方言でよく知られて居るのは二つ、一つはヘヤであり又ヒヤといふ村もある。その二はインキョであつて、是はどうやら沿海の部落に、多いやうな氣がするが、確かとは言へない。もしさうだつたら考へて見てよいことである。この以外になほ一つ、タナと謂つて居る例が稀々にはあるが、是は寡婦などの耕作に携はり得ぬ者が路の側に出て店屋を持つ場合で、他に子の無い隱居親も同じに、大抵は生涯の終りに、本家へ復歸するものにきま(423)つて居た。それが後々は耕地不足の一對策として、金銭其他の動産を以て、分家を作り立てる習慣の元になつて居るのだが、資本經濟の下に在つては、是などは寧ろ舊來の本式分家と、同一視せらるべきものであつた。農を次第に離れて行くといふ點のみは、海府地方のインキョとも似て居るが、こちらには形を變へてなほ家督があつた。他の一方は之に反して單なる勞力のみの分立であつた。ちやうど根分けに對する接木挿木の關係とよく似て居て、結局するところ、家はどうしても小さく分れて行かずには居なかつたのである。

　ヘヤは部屋とも文字に書いて、もとは別房即ち小さな離れ屋のことであつた。それが本屋の一區劃、板戸や障子でしきられた一室の名になつたのも、近頃の變化ではないのだらうが、一方には牛部屋木部屋などのやうに、小屋をヘヤと呼ぶ言葉もなほ殘つて居る。もとは多分用法が似通うて居たので、大きな建物が出來るやうになるまでは、所謂ヘヤズミは母屋のまはりの、別房に住ませたのであらう。現在は是をも分家の一種の如く、解する土地は多くなつて居るけれども、それは少なくともヘヤを建てるときの趣旨では無かつたと思ふ。即ち夜や雨の日に休むだけの、僅かな寢じきさへ有ればよかつたので、食事も最初には本家の臺所で、共同にして居た痕跡はなほ見られる。たとへば庭竈と謂つて正式の食事を用意する大きなヘツヒは本家にしか無い。家と外界との交渉に利用せられ、又は家族の地位を順序づけるヰロリの間も、持つて居ないのが部屋の特徴であつた。後々最初の意味が忘れられて、次第に其居所が村内に分散し、常の日の煮炊きは別々になり、小さな一戸の形を備へるやうになつたにしても、この名が殘つて居るからには成立ちはなほ明かである。即ち本來は本家と合體して、一戸の生活を營んで居たものであり、今あるヘヤの形が示すやうな、小さな孤立したものでなかつたといふことが判るのである。しかもこの名稱の殘留は偶然であつて、その名の有る無しには拘らず、以前の農村の大家族は、恐らくはすべて此線に沿うて變化し分解し、今日はほゞ最終の段階に行き着いたとは言ひながらも、なほ端々の土地に於ては、その中間過程の幾つとも無い段階が見出されるのである。

(424)　佐渡の北小浦などでも、ヘヤといふ言葉は使はれて居らぬやうだが、やはり本家の農生産に加擔し、必要なる食料の補給を受ける外に、一年の節日と吉凶の機會には、集まつて一つの生活を續けて居た時代が前にはあり、又今とても全く離れては居ないのであらう。若い二人の男女が別に休所を持つといふことが、直ぐに經濟の對立となり、交易の開始となることは考へ難いのだが、兄弟は他人の始まりといふ古い諺もあるやうに、子供が次々と生れ、いとこが又いとことなるにつれて、漸次に聯絡が薄くなつて行くことは、昔とても免れ難く、又それを防止せんとした色々の試みは、大むね不自然であつて、失敗に歸しやすかつたのである。

　分家を隱居といふ名を以て呼ぶやうになつたなども、其經驗の一つの記録と見ることが出來る。隱居は文字の示す如く人間の活き過ぎた者の、老を養ふ方法の簡易なるものであつて、假に財産の一部を是に分つとしても、一期の後には再び本家に復歸する故に、もとは自他ともにやゝ寛大であることが出來た。ところがいつの頃からか、それが次男以下の獨立に利用せられるやうになつたのである。次男を幼少で家に居るうちから、インキョと呼んで居る風は熊野地方などにある。さういふ土地では半ば戯れでもあらうが、三男のことをサンキョとも謂つて居る。親はいつになつても樂をすることが出來ない。一人に嫁を取ると又次の子をつれて、所謂サンキョをしなければならぬからである。斯ういふことは山野がなほ廣く、占有に大きな障碍が無く、外の勞力が入用なだけ、集められるといふ場合ならば、樂しい家門の繁昌であり、老後の大なる福分とも言へるだらう。實際又只の百姓が土豪となり、大名小名となり得たのも、始めは是が唯一の途筋であつた。其條件は夙くの昔に無くなつて、意欲のみが惰性化して傳はつたとすれば、結果は本家の衰弱になるか、然らざれば老いたる親二人の、營々たる勞苦に終らずには居なかつたのである。北小浦で隱居がたゞ單なる部屋分れを意味し、僅かな土地をも貰つて行かぬ代りに、親が本家になほ留まつて居る場合があるとすると、それも變遷であつたことが、此名稱の上から推定し得られる。以前の隱居には田か畠かを一反、又はそれよりももつと小さな面積を、分ち與へた話もあるといふのは、乃ち又もとは父母が次の子に伴なうて、別になるの(425)を通例として居た痕跡とも見られるが、さういふ場合にも是はなほ獨立した一戸とは認めて居なかつたやうに思はれる。全國各地に於て弘く行はれて居た仲間ハヅシ・村ハチブ・カンナベカルハセ其他色々の名を以て、今も記憶せられる村の制裁、たとへば境を侵し契約を破り、或は村のきめを守らず盗伐をするといふ類の者を、村一同が絶交することを、此地ではムラインキョと呼んで居た。隱居が住民の一單位として、對等の立場を與へられて居たならば、たとへ戯れにもせよ斯ういふ語は出來なかつたらう。しかも現在は既にこの名稱が單なる符號のやうになつてしまつて居る。古風な土地にも變遷はあつて、以前のまゝの姿を留めるといふことは殆と無い。是が民俗學の今一つの民族學と、眼の着けどころのちがはねばならぬ點であり、又現實の政治の上に、たやすく利用し得られる所以であると思ふ。

　

　　　　　　　一八　小屋の生活

　

　家を今見るやうな構造にまで、もつて來た元の力は制度だけではない。慣習とか流行とかいふやうな漠然たる言葉で理解したつもりになつて居た一つの趨勢の中にも、よく見ると幾つかの、可なり具體的な事實が參與して居る。それを我々の知識にした上で無いと、是からの正しい計畫は立てられぬやうに思はれる。乃ち政治經綸の方面に於て、二つの學問のおのづから、立場を異にしなければならぬ點である。農の作業組織の徐々たる解體は、今のところまだ主たる原因がはつきりして居らぬが、地方によつて其進行度の區々だつたのを見れば、人口の増加と之に對する可耕地の缺乏が、其一つであつたらうことは想像し得られる。是に伴なうて、消費の自由、殊に米食の機會が一部にのみ擴張したことが、次第に共同の生活を不可能にしたのではないだらうか。貧富が個人の別々に負擔すべき運命ときまつて、知能と膂力とは先づ大いに光を放つたであらうが、其代りには一方に孤獨に衰へて行く者の數を、多くすることを免れなかつた。之に由つて近世の農村衰微感が、一段と薄暗くなつて來たことは事實であるけれども、是には又(426)明るく若々しい、積極的の側面もあつたことを看過すことは出來ない。家の容易に分裂して行く傾向がすでに始まつて居なかつたら、都市も成長せず、工場も計畫せられずに、久しい歳月を重ねたかも知れない。結果の好ましいものであるか否は別として、斯くも短い期間に日本でこの二つのものを、出現せしめただけは農村の力であり、それも單なる人口の充溢では無しに、欣び勇んで出て行かうとする者を、夙にこの新式の分家制が、數多く準備して置いてくれたからだと思ふ。

　是に次いでなほ一つ、婚姻の風習の變化といふことが、家の分裂を容易にしたことが考へられる。民法改正以前の我邦の婚姻は、大體に家と家との縁組を目標とすることになつて居たが、其中でも地方により、男女兩家の力の入れ方に大きな差等があつた。新らしい都市では一般に、姻戚の關係が特に濃厚で、嫁の里方は時としては分家以上に、新家庭を世話するやうになつて居るが、是とは又全く別に、聟の親たち一門に對する義理と心づかひに、大きな力を傾ける風習が日本海側の諸縣には見られる。娘を三人持てば屋の棟が撓むと謂つたり、又は女は八束藁かつぐまでフリヤの造作などゝいふ諺は、數多く北陸地方には行はれて居る。フリヤといふのは妻の實家、八束藁は即ち火葬の燃料で、死ぬまで親元の負擔が絶えぬといふことを意味する。佐渡の海府のシンガイ牛、又はネリゴメ田なども其一つの實例かと思はれ、中部以西の人々にとつては、恐らくは意外な事が多いのである。もちろん土地の習ひとか、世間の振合ひとかいつても、一通りの説明にはなるであらうが、斯うした先例を固定せしめた原因が、一部にはなぜ有つたらうかといふことを考へて見ねばならず、又是からはどうなつて行くかも問題にする必要はある。唯物的な見方に立つて考へると、是は雙方の弱み強み、ほしい遣りたいの熱心の差、言ひかへれば女子の勤勞が其生家に於て、どれほどの重要さをもつて居たかといふことが、一つの分岐點であるやうにも解せられようが、なほ其奧には個人としての新らしい願ひの成長と、更に是と對立する古い行掛りの拘束といふものが、如何に處理せられて來たかも注意せられねばならぬ。要するに現實はまだ／＼複雜なのであつた。

(427)　我々の今持つ記録は、たとへ人民の生活に觸れた場合にも、大抵は家を代表する二人の身の上に限られて居る。さうして以前はその家の群は概して大きく、後に分れて出るやうな者、即ち爰で我々の問題にして居る人々などは、其生活の跡が、まだ文字の上には傳はつて居ないのである。彼等多數の者も必ず妻問ひし、且つ婚姻したことは更々疑はれないが、よその國々でも多くはさうであつたらう如く、日本の普通の建築に在つても、もとは彼等の爲の休息處といふものが、甚だしく不備であつた。人の愛情が淨化して行くにつれて、どこかに二人だけの片隅が、痛切にほしくなることは自然であつて、しかも農村は殊に其需要に應ずることが六つかしかつたかと思はれる。幾つかの方法が、すでに大家族主義の時代から計畫せられ、近世はそれが一つの風俗とさへなつて居たが、結局はまだ最近の家分裂期になるまで、完全なる解決を見ることが出來なかつたのである。

　妻屋すなはち婚舍の問題は、夙く萬葉集の昔から、戀の文學に伴なうて偶然に注意せられて居た。

　　　　いにしへに有りけん人の

　　　　しづはたの帶解きかへて

　　　　ふせ屋たて妻問ひしけん

　　　　かつしかの眞間のてこなが云々

　といふ赤人の歌も世に傳はり、僅かな假小屋を求婚に先だつて、用意する習はしのあつたことはわかる上に、そこで子供を育てゝやゝ久しい間、今日のヘヤ見たやうな生活を續けたことも他の二三の作品によつて窺はれるが、それが何人にも可能なことでは無かつたと見えて、現在各地に名殘を留めて居るものは、殆と全部が多勢の共同であり、又しば／＼或季節のみに限られたものであつた。雪や木がらしの冬の夜になると、戀は思ひ切らなければならなかつたのであらう。最近には普通にやゝ物靜かな人の家を借り、又は?氣ある先輩の庇護を受けるやうにもなつたが、會ては家毎にめい／＼の長屋をもち、それを男と女の二つの區域に分けて、ごちや／＼と合宿して居た時代も想像せられ、

(428)　　わかれせはしき鷄のもと

といふやうなあはれな光景が、まだ芭蕉の世の中まではあつたのである。

　殊に一段と忍び難かつたのは、兒を産ませて大きくして行く場合であるが、その兒が二人になり三人になつてから、どうして居たらうかといふことはもう殆と考へられない。民俗學の仲間では、是まで婚舍婚家の慣習の異同を尋ねるのに、一つの目安を「産は何處でするか」に置いて居た。是には明かな種別が有つて、すべて當然に聟の家でするといふものと、初め一人だけは親里へ往つて生み、産屋の忌が明けてから、送られて此方へ還つて來るものとがあり、三都の周圍の農村などにも、可なり弘く第二の方式が行はれて居る。ところが内海府の各部落に至つては、もつと徹底して五人でも六人でも、産のたび毎に嫁は實家へ行つて生んで來ることになつて居る。是をニブイリといふ名は無いらしいが、赤子をつれて來ることをツバクラワタシと呼ぶ風は茲にもある。乃ち儀式であり又小さな披露の祝宴でもあつて、古い頃のマトリローカル制の、痕跡であらうとも考へられぬことは無いが、實際は是はたゞ嫡女とか相續人の妻とかの、限られたる屬員にしか望まれぬことで、なほ其以外にも還つても産屋は無く、燕渡しをしても育てゝ行く場合を見つけなければならぬものが、以前の大家族の群には多かつた筈である。是をどういふ風に始末したらよいかの答へが、最初のヘヤであり、又萬葉時代の伏屋もしくは嬬屋の、第二のより大切な趣旨でなかつたかと私は思ふ。その證據とも見られるものが、幸ひにして北小浦などには殘つて居る。この土地の言葉では産屋をコヤ、産の催しがあることを小屋立つと謂ひ、三十三日目の産屋明きを小屋祝ひ、五十一日目の神詣でも小屋あがり、同じ一家で二組の産があることを、二小屋掛けると謂つて非常に嫌つて居るのも、もとはそれ／”＼に假屋を建てるのが、本意であつたことを推測せしめる。しかし産屋を小屋といふだけならば、必ずしもこの土地ばかりの特色では無い。全國諸處に通じてコヤカリヤは一般に血の忌のことであり、現にこゝでも其愼みの爲に、婦人に別火別鍋の食事をさせることを、コヤメシと謂ふ語が行はれて居る。たゞ珍らしいと見られるのはそれとは別に、嫁が毎年定まつて三度又は四度、里(429)へ休みに還つて行くことを、やはりこの邊では一般にコヤガヘリと謂つて居るのである。コヤガヘリの主たるものは正月の二十日から、二月の九日までといふのがきまりであり、其他春秋の農事の終つたあと、洗濯などゝ稱して還るのは他の地方も同じく、是等は雙方の都合で後々さうなつたとも言へるが、全體に北國や奧羽の方では、里へ行く囘數が多く期間が長く、自分の身のまはりは殆と實家の親を宛てにし、若い新嫁などは毎日のやうに、兩方の間をあるいて居るやうに、言はれて居る土地もある。世帶を渡されるまでは、家の鍵類には手を掛けず、荷物も里方に留めて置くといふ例は少なくない。是と世にいはゆる招婿婚と、一つゞきのものか否かは決し難いとしても、少なくとも二代夫婦の同居といふことは、さう古くからの定例では無かつたとすれば、小屋の生活は曾ては今よりも重要であり、愈々單婚制の確立すると共に、是が家の分裂を促進する、一つの拍車となつたことは疑はれぬのである。

　

　　　　　　　一九　村と婚姻制度

　

　二種の全く結末を異にした婚姻生活が、今でも現實には若干はなほ行はれて居るやうだが、曾ては二つとも公認せられただけで無く、むしろ數からいへば第二のものゝ方が、遙かに有力であつた時代があつたのではないか。斯ういふ一つの假定の正しいかどうかを、調べて見る機會は爰にもあるのである。時代といふ言葉を使ふと、何か全國が一度に變つてしまふやうにも取られやすいが、民俗の上ではそんなことは絶對に有り得ない。土地により又職分によつて、古い習はしが夙く改まり、一方には飛騨白川の山村のやうに、世上の交通から遠のいた集落では、つい此頃まで殘り傳はつたといふ例もあるのである。端と端とのちがひの餘りにも大きい場合には、人は往々にして一方を奇習異俗視しようとするけれども、よく視ると兩者の中間には、幾つとも知れない變遷の段階があつて、是をさうあらしめた周圍の事情を考へて行くと、次第に元の形を尋ね究めることが出來るのである。それには必ずしも稀有の例を求め(430)ず、むしろ地を隔てゝ何度もの實驗が許されるやうな、言はゞ有りふれた事實の中の、やゝ單純ではつきりとしたものを拾ひ出して、比較の目標とするのがよいかと思ふ。

　たとへば嫁入にも二つの型、一方は人が多く集まり支度が物々しく、提灯の數の無やみに往來するものと、他の一方にはふだん着のまゝで、ふいと夕方から來てしまふといふのと、思ひ切つてちがつたものが大抵の村には共に行はれて居た。その後の方を下々の嫁入などゝ普通には謂つて、實際又貧富資力の差が一つの理由でもあつたけれども、その以外になほ見落してはならぬ條件が、少なくとも二つは是に伴なうて居た。當の本人たちが村を同じくし、家も互ひに知り合つて居るといふことが其一つで、更にこの男女は殆と例外なしに、もうちやんと夫婦になつて居るのであつた。但し世俗の言葉では、まだ同居をせぬ者はメヲトとは呼ばず、單に約束とか言ひかはしとか、その他さま／”＼の名を以て表示して居たやうだが、何がその約束であつたらうかは想像するに難くない。中古の文藝に頻りに見えるカタラヒといふ語なども、現在は之を音讀して、ダンゴと謂へばたゞ私通のことのやうに、解して居る人たちも西南地方には多いが、關東東北の廣い區域では、嫁入そのものをカタラレルといふ例も少なくない。

　　　乞食となりて女夫かたらふ

といふ元禄の句もあるやうに、カタルは要するに共に居ることであつて、機會の許す限りちつとでも早く、必ず二人は一緒になつて、生涯を送らうといふのが、戀をする者の昔からの願ひだつた。

　然るにそのたゞ一つの樂しい約束が、果されずにしまふ場合がもとは多かつたと思はれて、内からも外からも、それを少なくしようとした試みが、いろ／＼と行はれて居た痕跡がなほ見られる。養子入聟の風習の盛になつたのも其一つであり、部屋だ隱居だといふ類の、分家ともちがつた小さなデイヘが、數多く生れて來たのも亦一つである。殊にこの第二のものゝ中には經濟上の計畫としては誤つたものがあつて、從つて苦痛も危險も共に大きく、村の色どりを薄墨色に、染め出すやうな事件ばかりが起りがちであつたが、しかも其根原に溯つて見ると、動機はむしろ打算(431)を超越した、夫婦親子の愛情の進化に在つたものと見なければならぬ場合が多い。つまりはどうしても斯うなるべき事情が、新たに段々と附加はつて來たのである。

　佐渡の北小浦などにはもう見られなくなつて居るが、地方によつてはつい近頃まで、大抵の農家にはオンヂイ・オバアと呼ばれて、たうとう家を持たずに一生を終る男女が何人か居た。數が減つて行くと共に愈々其地位は心細く、しまひには馬鹿か片輪でもあるやうに、娘たちからまで輕しめられて居たが、それは世の中が開けた結果に過ぎず、以前は斯ういふ人の澤山に居るといふことが、言はゞ大家族の常の姿であつた。もちろん殘つたのは獨立計畫の成功せず、戀に失敗した者の身の果とも見られようが、そんな事を言へば大抵の老いたる人が皆それである。失敗といふのにも實は色々あつて、中にはむしろ完成といつた方が、當つて居るものが有つたかもしれない。若い盛りの日は集まつて歌ひ遊び、老いて心が靜まると念佛とか酒とか、又は過ぎ去つたものゝ思ひ出とか、若く伸び立つものゝ心地よさとかに、慰安を乘り替へるなども一つの方法であつて、彼等が悉く悔い歎いて、世を終つたらうとまでは考へられない。おまけに最初にはこの仲間がずつと多くて、是も亦一つの通常であつたのである。

　今日のいはゆる自由戀愛家の立場と比べて、ちがつて居たのは孤獨で無いこと、家が安住の地を供與する以上に、彼等には又ドシとか朋輩とかいふものゝ互ひの扶助、それに加へて小さな社會の親しい人情があつて、旅で病み臥す者のやうな寂寥は味はずに居られた。さういふものが少しづゝ薄れはじめてから、急に家庭愛の必要は痛感せられることになつたのであらうが、今でも子供などは村全體で可愛がり、自他親疎の差を立てない氣風がなほ殘つて居る。名乘つて父と呼ばせる場合は少ないまでも、この中にはめい／＼の子孫があるといふ感覺は、持ち續けることが出來たらうと思ふ。尤も斯うして母の家に育てられる子の數は、恐らくはさうは多くは無かつたらうが、是等も大きくなつて新たな職に就くか、又は家を出て行つて好いしあはせを捉へぬ限り、村ではやはり昔通りに、この第二の型の婚姻に進むより他はなかつた。いかに有力な村の大屋でも、斯うした家族の一人々々にまで、獨立の妻屋を建てゝ與へ(432)ることは出來ず、男女それ／”＼の一つの長屋に、集まつて住むのが多分は普通であり、しかも愛する男女が群から引離れて、靜かに活きて行くといふ機會は、土地の乏しい處ではもとは中々獲られなかつたのである。

　人が境遇のちがひによつて、或者は當然又は容易に、家長主婦の地位に就き、他の多くの者は離合常無く、自由とはいひながらも頼りない一生を送つて居たといふことは、古人もすでに久しい以前から、何とか改良しなければならぬとした不平等ではあつたが、今まで採用せられた對策は萬全のもので無く、一部は好ましからぬ副作用もあり、又一部には效果の及ばない區域が殘つた。それ等の事情をもつと詳しく考察することが、未來の正しい處理法に到達するたゞ一筋の途なのであるが、それまではこの小さな民俗誌の仕事でない。たゞ茲で少し觸れて置きたいと思ふことは、近代の濫婚が只の放縱であり、慣行の無視であるのに反して、曾ての農村の嫁入前の婚姻、もしくは嫁入を豫期しない婚姻といふものは、粗野ではあるけれどもなほ一つの制度だつたといふ點である。今でも全國を通してまだはつきりと認められることは、是には支持者があり、又力強い制裁があつたことで、後々眉をひそめるやうな色々の弊風の現はれたのは、寧ろ其中心の力が少しづゝ、弛み衰へた結果としか思はれない。ちがつた空氣の中で育てられた我々には、とても同情ある批判を下すことは出來ぬが、少なくとも村に男女それ／”＼の未婚者團が有つて、その合同の意見が有效に表白せられるやうな方法がもし無かつたならば、人が配偶の歡びを味はふ機會が今よりも更に尠なく、個々の自由は必ず一段と痛ましい害毒を、流したであらうといふことまでは推測し得られる。しかも世の中が開けて來るにつれて、斯うした舊式な婚姻機關を維持して行くことが、日一日と困難になることを免れなかつたのである。島や谷あひに年久しく群居した民族の、一つの特質と認められる同化性、平たい言葉で言へば淋しがり屋の氣もち、みんなのする通りにして居れば安全だと思ひ、多數の走つて行く方角が常に正しい道だと、速斷してしまふやうなすなほなあきらめも、時々は搖がずには居られなかつた。殊にそれが一身の強い願ひ、親にも打明けられぬ胸の底の苦しみとなると、たまには世間も皆斯うなのかと、外を見ようとする心が少しづゝ動いて來る。他に叨らな惡癖のまだ(433)一つも無い土地でも、村を小さな社會と限定した古い慣行は、先づ婚姻の方面から崩れて行かなければならなかつたかと思ふ。

　

　　　　　　　二〇　仲宿と小宿

　

　さういふ中でも孤立した小さな集落では、人の數が足らず、男女の釣合ひがしば／＼こはれて、昔の仕來りを續けるのに妨げが多かつたらしい。若者組の總意は元來は有力なもので、親しい身うちすらも時々は是に讓歩し、又は豫めその反對をなだめるまでの必要を感じさせたものであつたが、實際にはその威風の及ぶところは、村の區域の中だけであつた。よそから通つて來る男を打擲し酒を買はせ、もつとひどいのはこちらの女をいぢめ、仲間をはぶいたり恥を見せたりしたといふことが、一つ話になつて記憶せられるが、目的はそれも虚喝に過ぎぬものが多かつたか。他村縁組の増加する傾向は、其爲にさまで抑壓せられては居ない。殊に嫁入聟入に對しては、堂々と正面から反抗するものは一つも無かつたが、其代りには蔭の惡戯が隨分とはげしく、戸窓に石を投げつけ、途中にきたないものを撒きちらし、又は祝儀といつて大きな地藏などを持込み、酒をねだつて行くといふ類の愚劣な無責任な行動は今でもまだ片隅にあつて、内心それを悦ばない感情の、群の間に漲つて居ることだけはなほ窺はれる。

　斯ういふ風習も今度は愈々跡を絶つであらうから、もうその微妙な心理に心付く者は無くなるであらうが、是は本來は起源がもつと遠く、まだ村外縁組といふものゝ稀であつた頃から、處女が尋常の妻問ひ方式を經ずに、早期に聟の家に入つてしまふといふ、いはゆる嫁入婚に對しての一般の反感に基づいたものゝ樣に、自分などは考へて居る。實際又いくら一村の中とは言つても、そんな婚姻法が流行して、若い女たちが外で遊ばぬやうになつて來たら、他に樂しみも無い在郷などは、淋しくてたまらなかつたらう。幸ひな事にはさういふ嫁迎への出來る家は、もとは村のう(434)ちでも幾らも無かつた。第一に主婦といふ地位が少なく、それも年たけ子持になつた後に、世帶をもつ必要が生じて入つて來る者が多かつたのである。早い輿入の許されたのは、もとは由緒のあるやうな大屋だけで、しかも神祭り先祖祭り、その他くさ／”＼の家風に親しませて置くといふやうな、特殊の理由があつたかと思はれ、一方それに向くやうな嫁御の數も限られ、かの萬葉集の「親のかふ兒のまゆごもり」、母が守つて外の風にも當てぬやうな、かはつた教育を受ける者が、長女などには幾人かあつて、是は始めから村一般の若い日の樂しみに、影響する所が無かつたのかもしれない。とにかくに是が婚姻制の進化といふものであるといふことは確かであるにしても、弘く全國の上からいふと、嫁入婚の普及は新らしく、それが法定の唯一つのものとなつたのは更に新らしい。さうして其利弊のまだ十分に討究せられぬうちに、今度は又民法の改正となつたのである。我々の生存にとつて、何よりも大切なものが日本では混亂して居る。

　もちろん此樣な議論は民俗誌にはふさはしくない。簡單に言つてしまひたいことは、二つの方式は相剋して居る。一方の普及が他を撲滅すればむしろ世話が無いが、さうはならずに只蔭のものとなつて、下品に又猥雜に、なほ活き殘らうとして居るのである。今日の村の輿論などは、一口で言へば、たゞ酒でごまかされて居る。何か文句でも有りさうな若い者には片端から酒を飲ませ、法外な浪費をすることが婚禮の附き物のやうになつた。さうかと思ふと他の一方には、右打ち樽轉がし聟いぢめ嫁惜しみ、其他さま／”＼の若い衆の惡戯を、縁喜だ吉例だと喜ぶやうな顔をしながらも、實は内々その粗暴と失費とに閉口して、何か方法を設けて之を免れようとする家が多くなり、婚禮の儀式は一般に改まつて、土地々々の變化が甚だしく、しまひには當事者にも説明の付かぬやうな、奇拔な風習が見られるやうになつて來た。寫眞の見合ひだの初對面の花嫁花聟だの、昔の人たちも聽けばびつくりするにきまつて居る。つまりは世の中の新らしくなつてからの變化であつて、それも亦國民の豫期し得なかつたものゝ一つである。

　さういふ中でも特に短い期間に、大きく變つて來たのは仲人といふものゝ機能であつた。是は最初には宿親とか若(435)者頭とかの、若い未婚者群の意見を代表して、事情の許す限り、相愛する二人の希望を支持して、むしろ親たちの反對をなだめようとする者の役であつたらしいが、いつの頃よりか攻守地をかへて、家から頼まれて若い衆の不平不承知を、抑へ付ける方の仕事にまはつただけで無く、更に一歩を進めては聟の家の爲に、あても無く嫁を捜しあるき、又は今まで交際もせぬ遠方の男女を結び合せようとして、足を擂小木に走りまはるやうになつたことは、何かさうならずにはすまぬほどの、よほどの理由があつたものと考へられる。男女互ひに相許して、それから婚姻に進むのは自然であり、又我々の年久しい慣行でもあつたが、或はあまりにも古い形のまゝであつた爲に、世情の變動に耐へきれぬといふ弱味があつたのであらう。古い風儀が一旦弛み始めると、まづ損害を受けるものは當然に女性であり、それに敏感であつたのも亦彼等であつた。處女の團結は多くの村里で、若者組に先だつて解體し、それに代つて娘をもつ親々が、各自の保護に進出して居る。親と仲人の協商に任すより外に、何の判斷力も無い若い女たちが、國土に充滿したのも其結果であつた。角を矯めて牛を殺すといふ諺のやうに、わけも筋道も考へて見ずに、たゞ目の前の災ひを免れようとすれば、まだ何べんでも我々はつまづくかも知れない。末はあきらめて泣寢入になるやうな人ばかりに、この問題は任せては置けないと思ふ。

　佐渡の北小浦の場合に就いて見ると、爰では仲人の任務が重要視せられ、一方には青年の結合が既に弛んで、少なくとも婚姻の成立に向つて、口を出すまでの力はもう持つて居らぬらしい。しかも所謂嫁住みの制度、嫁を早期に聟の家に送り込んで、主婦見習ひの苦しい修業を積ませることを、正式の婚姻と認めて居りながら、それと併行して小屋の生活はなほ痕を留め、又里方のつとめといふものが、まだ色々と殘つて居るのを見ると、この變遷のつい近い頃のものであり、或は今ちやうど過渡期の經驗をして居るところかとも推測せられる。見やうによつては日本の縮圖とも言ふことが出來るであらうが、斯んな小さな一つの村のうちに、新古幾つかの方式の入り交つて、まだ見られるといふは珍らしい例である。

(436)　同じ海府の中でも村によつて、男女二つの寢宿がなほ殘り、それが軒竝びに相接して、始終往來したといふ話さへあるのだが、爰にはもう女の方の宿は無くて、たゞ若者が三々伍々、同じ年頃の者ばかり集まつて夜業をし、又とまつて行く家があるだけであつた。彼等の夜の話題が何であり、又どの程度の惡戯が許されて居たか知り難いが、少なくとも村から旅へ縁に付く娘に對しては、文句は無いことに以前からなつて居た。以前といつても最初からではあるまいが、とにかくに家や親類の意見が通るやうになれば、何と言つても利害の念は加はり、選擇の範圍は段々と廣くなつて、世間に顔の賣れた仲人は腕を揮ひやすく、村を縁組の區域ときめて居た古來の約束は、殊に小さな部落では維持し難くなるのであつた。よそから嫁を迎へ取る慣例が先づ許容せられて、それにも人知れず淋しい思ひをする者はあつたのだが、其感情は無視せられる場合は多く、それが又第二の村外婚を誘導することにもなつたかと思ふ。現在の婚禮にはほゞ全國を通じて、嫁の仲宿といふものを設ける習はしがある。そこでは格別の儀式が有るわけでなく、たゞ一行の休憩所、又は支度所のやうに普通には解せられて、同じ村内でもその仲宿を用意する土地も多いが、海府は一帶にタビ即ち他村から、嫁を迎へる場合に限つて是があり、大抵は嫁方の知音縁者を頼み、又は仲人自ら其家を提供することも有る。仲宿といふ言葉は爰では用ゐられず、それをコヤドと謂ひ、又單にヤドといふ者もあるのを見ると、もとの起りは同じ村の内に、一つの宿を持つた者とで無いと、結婚することが出來ぬといふ原則を、形だけでも守つて行かうとした、一つの妥協策であつたかとも考へられる。コヤドは舊江戸でも奉公人などの身元引受、即ち親元以外の假の宿所、今いふ下宿などゝ同じ意味に用ゐられ、佐渡でもそれとやゝ近く、小屋といふものとは別になつて居るらしいが、北陸から關東への相應に廣い區域にわたつて、是を青年男女の合同宿所、殊に年頃になつて、配偶を求める者の、寢起きする處の名とした例は多い。そのコヤドは文字に書けば子宿であり、こちらの臨時のものは小宿であつて、二つは始めから別だとも考へられるが、ともかくも曾ては妻屋といふものゝ入用な婚姻が、こゝにも行はれて居たことはほゞ確かであつて、其痕跡はもう見出しにくゝなつて居る。それが此側面から、まだ少しづゝは(437)尋ね究めて行くことが出來さうなのである。

　

　　　　　　　二一　同齡團の力

　

　若者團體の結合が早く弛み、可なり急激だつた結婚制の變遷を、喰ひ止める力をもつて居なかつた原因は、主として生産の二元性、即ち漁と農とが小さい村の内に併立して、互ひに勞働の法則を理解し盡さなかつた點に在つたかと思ふ。この二つの業者は入つて來た時を異にし、始めは交易以外の附合ひは無かつたらうが、久しからずして、縁組が先づ若い世代を接近させ、それが子になり孫になるまでの短い期間には、いつと無く一方の特技としたものを學び取つて、次第に生活面を廣くすることが出來たにはちがひない。たゞ其代りとしては、各人の身の入れ方が區々になりやすく、時の利用はやゝめい／＼の自由になつたけれども、休みや力わざの統一はとれなくなつて、協同の樂しみの割引せられることは免れなかつた。今でも純農村とか漁一方の濱の村に、古い組織のなほ活きて居るのを見てもわかるやうに、群が集合して共に働くべき必要は、さう頻々と起つて來るわけではない。たゞ皆と同じ日に遊ぶことができなかつたり、勵みや疲れも只一人切りのものだつたりすることが、斯ういふ土地だけではまだ少ない故に、團體生活の興味は衰へず、從つて又外に對する青年の意向といふものが、粗末にはせられずに居るのである。今日の村の經濟機構は、すでに複雜化の一途を辿つて居る。斯ういふ?態の永續は固より期し難い。それを無意識の推移にまかせて置くことが、果して再建の目的に合致するかどうかを考へて見るとなると、海のはづれの小さな村の經驗までが、やはり一面の參考にはなるわけである。

　以前は宿老とか役付とかいふ人たちでも、村の若連中の氣持には一目置いて居た。それには因習の惰性もあり、又事無かれ主義の心弱さも伴なうて居たか知らぬが、とにかくに村の活力の大きな中心が爰に在り、しかも雷同性があ(438)つて感情が偏しやすく、勢ひに任せると何をし出すかわからぬといふ懸念があつたのみか、實際に又素朴無邪氣を通り越して、時としては此組織の起原の古さを考へさせるやうな、野蠻な惡戯をした例も傳はつて居る。今の若い衆はから意氣地が無くなつた。おれたちの時分には斯んなこともしたものだなどゝ、醉後に放言する無思慮な老人も多かつたやうに、誰しも一ぺんは經て來た境涯である故に、この心理の動きは把捉し得られ、かつは又有效なる對策が施しやすかつたのである。一人々々としては至極穩當な、言ふことのよく判る子弟であつた者が、集まると時々は途法も無い行動に出る。是は何でも群を大きくせぬ樣に、した方がよからうといふことになつて、古來の小屋生活は追々に整理せられ、今ある分宿制が支持せられることになつたものらしいが、是にもやはり一利一害があつて、結局は青年自らが知り且つ覺らなければ、無くても困らず、有つても役に立たぬといふ、今日の?態にまで來てしまつたのである。

　いはゆる分宿制の起りは、必ずしもすべてが新らしいもので無く、中には斯ういふ形でしか存立することの出來なかつたものが、其まゝ續いて居る場合も有ることは確かだが、ともかくも我邦に最近まであつたものが殆と皆この形で、其中には新舊二つの種類が認められるのは、後々社會の要望が加はつて、變化して來た證據と見てよからう。變化と言つたところで幾つもの段階があり、二つはつきりと對立して居たわけではないが、大體に宿主宿親といふものの指導力が強く、殊に結婚の問題に就いては、生みの親以上の責任を取らうとして居たのが新らしい方の形であり、之に對して若い者の自治を認め、仲間の談合に任せて置かうとしたものが、古い小屋生活の名殘かと思はれ、是には新婚の家庭とか後家暮しの家とか、わざ／＼氣の置けない宿を選んで集まつて居たものが多いのである。もし弊害が生ずるとすれば、當然にこの第二の方が先きであるが、それは寧ろ自然の成行きに委ねられて、改良の機會を惠まれなかつた結果であつて、最初から此樣なだらしない組織があつたわけでも無く、又そんなものが新たに出來たといふことも者へられない。

(439)　之に反して他の一方の子宿制には、意思がありまた計畫があつたやうで、子供が始めて仲間に加はつて來る際は、大抵の親は宿主へ依頼に來る。さうして稀々にはそれを斷る場合もあつたやうである。今の小學教育に見る如き積極性は無く、いつでもそれはいけない、さういふ事はするものでないといふ類の、舊式な訓戒法ばかりで、それも決して頻々とは行使しなかつたが、周圍が支持して居た爲に存外に效果が擧がり、人を十人竝にする力としては、是だけでもう十分であつた。其代りには或は道�ｺの進化に、寄與するところが淺かつたと言はれるかも知れぬが、とにかくに當初の目的は非難の無い村住民、殊に無事平和な家庭を作らしめようといふに在つて、それは爲し遂げて居たのだから成功といつてよろしい。もとはそれ以上に痛切な望みが無かつたことは、やつと六つ七つの親を離れて外泊し得る頃から、もう子宿に參加させるといふ土地が有つたのを見てもわかる。斯ういつた土地での注意せらるべき特徴は、第一には男女二つの宿の連絡を、主として宿主の夫婦が世話燒いたこと、第二には宿子の年齡がほゞ同じくらゐで、兄と弟までが必ず別な宿に屬し、長幼の雜居といふことをわざと避けて居たらしい點である。よくないことを教へるからと言つて居たかもしれぬが、それは本來は必要な智識であり、しかも家庭で肉親の者が、自ら導くことの出來ないものであつた故に、斯うした結合も實は必要を認められたのである。それが弊風を生じない限り、恐らくは以前のまゝで存續させて置いたであらう。乃ち私たちが宿主の干與を以て、新たな改良であらうと考へる所以である。いはゆる元服の作法が嚴重であり、その効果がまだ重要であつた時代には、無論年齡階級の結合力は今よりも強く顯はれて居た筈であるが、不思議に其痕跡は記録文獻の中には傳はつて居ない。以前青年の團體が大きく固まつて居た頃には、多分は其中に成年期を異にする者の小さな區分があつて、相對立して居たものと思はれるが、群が縱に分裂して行くにつれて新入者の力は弱り、次第に年がさな者の威壓に服し、ひたすら自分たちも早く古參になつて、次に來る者を押へようとする方にまはつたのであらう。自治とはいひながらも弊害はこの頭だつ者の專横に在つた。それが新たにこの同齡團式の横の分割によつて、或程度までは防止することが出來たのではないかと私は思ふ。

(440)　二つの分宿制度は外形はよく似て居るけれども、結果に於てちがふ點がまだ一つあつた。若い男女が結婚によつて、宿の生活から脱けて行くことは、何れの場合にも必然のことであつたが、一方はそれを限りとしてたゞの村人の群にまじつてしまふに反して、他の一方の同じ年頃の者でこしらへた子宿では、宿朋輩の關係はなほ永く續いて居た。人の一生に附き纏ふさま／”＼の愁ひ惱みに、身うちにも打明けない相談をかけて、力になり合ふといふ話は幾らも有る。旅や祝ひごとの集まりに必ず來るといふだけで無く、年に一度か二度の順まはりの寄合ひを死ぬまでつゞけ、たつた一人になつたので罷めたといふのも珍らしくない。其因縁の種となつた二人の宿親が、何を老の境に於て期待し得たかは、想像するまでもないことであつた。斯ういふ子宿の慣習の行はれて居ない他の多くの土地でも、人は?々中年の頃から、子分子方の數をふやすことに力を傾けて居る。その隱れた動機はやはり是に近いものであつた。親分の始めは名付親拾ひ親、生れたばかりの赤兒にも頼まれることがあるが、最も數の多いのは烏帽子着と鐵漿附け、ちやうど若い者の身の定まる際であつて、是には親分は喜びを分つといふ以上に、大きな關心を寄せるものとなつて居り、近年は更に一段と適切に、進んで良縁の成立に努力する、仲人親なるものが現はれて來た。御蔭で夫婦にしてもらつたといふ人の感謝は、理解する者が乏しくはなからうが、之に對して一方の年をとり氣が弱り、僅かな慰問にも泪をこぼさうといふ人々の、死後をかけての想像上の野望は、存外に考へて見る人が少ないかと思ふ。さまで起原の古くない同齡團の子宿が、可なり進んだ形にまで發達して居るのは、恐らくは斯ういふ心理上の基礎があつたからで、近世の信仰上の慣習が多くはさうであつたやうに、善良なる村人たちは老少二つの面、一度は世話せられる者の側に立ち、一度は又感謝せられる者の側に立つて、既に何代かの體驗を積み重ねて、さう簡單には棄てゝ行くことが出來なくなつて居るのである。

　但し北小浦の民俗誌としては、こゝまで話を進めて來たのは脱線だつた。といふわけは爰には娘宿はもう絶えて居るらしく、又殘つた若者宿もあまり振はず、たゞ年齡のほゞ近い未婚者等が、同じ處に來て寢るといふまでゝ、仲人(441)の活躍はタビから嫁を喚んで來る程度に進んで、之に對する青年男女の輿論といふほどのものは表示せられて居ない。一方には他の地方でいふ親方取り、子分子方の風習は無いといふ人も有るくらゐで、少なくともあまり發達しては居ない。家で力を入れる跡取り息子の場合の外、普通の若い者は如何にして配偶を定めるのか。言はゞ中央の新立の都市と、迷ひ惱みを共通にして居るのである。是に對して一つの疑問は、前から此?態が久しく續いて居たのか否かであるが、私にはどうも何か有つたものが、失はれて居るやうな氣がする。地理的條件のやゝ特殊な土地では、遠くに居る人の指導では我歴史を明かにすることが出來ない。自ら勞苦して進むべき路を見出すとなると、僅な痕跡のやうなものでも、氣を付けて拾ひ上げなければならぬ。その一つの例として我々はドシ即ち同齡關係に注意し始めた。さうして是に參考になる樣な、越前海岸部の子宿の場合などを考へて見たのであつた。詳しい資料はまだ集まつて居ないが、ともかくも、問題を掲げる爲に、今知られて居る事實だけを記して置かう。

　ドシは漢語の對譯がまだ出來て居らぬくらゐに、中央からは夙く消え去つた日本の言葉であつて、標準語に於ては隣どし從弟どし、副詞句のやうな用法が有るのみだが、今でも九州のほゞ全島とそれに近接した或地域だけでは、之をごく親しい友人の意味に、無形名詞として盛んに使つて居る。古い文獻のうま人どち、思ふどちなども同じ語であり、又友だちのだちも亦それであつて、もとは名詞として引離しては使はなかつたのかもしれぬが、さうなつて來たのも決して新らしいことではない。たゞ注意して置いてよいことは、この方言が東日本ではごく珍らしく、たま／＼佐渡のこの地方だけには、今も友人をドシといふ語が、傳はつて居ることである。標準語でもオナイドシといふ言葉のみはあつて、是は同年の年の字の對譯と見られて居るやうだが、海府ではそれをアヒドシと呼んで、其間には若干の拘束を認めて居る。たとへば女三十三歳の年祝ひなどに、必ずアヒドシを招いて食事を共にする。一方には又男女の縁定めに、アヒドシを避けるといふ風習があるのは兩立せぬやうだが、是は相孕みの場合も同じやうに、むしろ一方の力があまりに大きく及ぶのを畏れた爲であらう。アヤカルとかカブレルといふ感じは、我々の想像も出來ぬ程度(442)に、昔の人の方が強くもつて居た。殊にアヒドシの一方に起つたことが、打棄てゝ置くと他の一方にも及ぶといふ不安は全國的で、人が死んだと聽くとその同齡の者はトシタガヘと稱して、急いでもう一つ年を取る儀式をしたり、又は改まつた食物をこしらへて、ちがつた年の者と一緒に食べたりした。耳ふさぎ又はミミアテといつて、餅とか握飯とかを以て耳を塞ぎ、聽かなかつた體にしようとする風も、田舍にはまだ普通に行はれ、親が小兒の爲にさうする例の多いのは、彼等の抵抗力が特に弱いと見られて居たからであらう。北小浦の村でも四五歳までの子供にはそれをやり、其ミミアテの握びは海に投げ込んで、後を振返らずに歸つて來る。大きな村ならば家の棟の見える範圍、もしくは弔ひの鉦の饗の聞える區域だけと限つて居るに對して、爰ではアヒドシで無くとも同じ位の兒の死んだときにさうするのは、多分は二年三年をまとめて、一度に成年式をして居た爲に、同齡團の結合がやゝ廣くなつて居たものであらう。

　同じ一部落若者連の中でも、一緒に育つ者だけは特に仲が好く、理非に拘らず互ひに扶け合ひ、生死を共にしようとさへしたことは、或は家族制よりも今一つ前からの、原始的の習はしかとも言はれて居るが、ドシといふ語がなほ存する多くの土地では、それが新らしい色々の文化に影響せられつゝも、なほ切れ切れの痕跡を殘して居るのみか、時にはやゝ形をかへて、復活した例も他の地方には見られる。近世の日光山誌などで有名になつた兄弟ちぎりは、必ずしも一つの土地だけの珍らしい風俗で無く、是からも全く有り得ない慣行とは言はれない。家を中心とした一つの結合が弱れば、今度は又さういふ必要が新たに生ずるかもしれない。根本に人が孤立して、活きて行きにくい實情が存する限り、何かの形になつてそんな古いものが、再び頭を出して來ることは免れぬので、それを總括的に正しく指導し得るまでに、まだ學問は經驗を積んで居ないのである。佐渡の北小浦などの例でいふと、生れからのドシで無かつた者が、互ひに拘束してイロキになるといふことがある。イロは特別の喪服のことであつて、死者の肉親がそれを着て死後を訪にのが通例だが、身うちが少なくて心淋しい者は、生前にそれを親しい友と言ひ合せて置くのである。(443)海で別々に働く人々などが、特にさういふことを考へ出す場合が多かつたのではないかと思ふ。他處に似よつた場合を詳しく觀察した上でないと、私は斷定をする勇氣は無いが、ドシといふやうなやゝ西日本に偏した方言が、此地方に入つて來て根を下して居るのは、事によると海部の携へて來たものであり、一方には彼等の海上の旅路を跡づけると共に、他の一方には陸を足場とした人たちとの接觸が、必ずしも常に受身の影響のみを、殘して居るとは限らないことを、推測せしめる一つの論據ともなるのではないかと思ふ。

　

　　　　　　　二二　初忌と神參り

　

　海と陸との二通りの生活に於て、最初互ひにもつとも理解しにくかつたのは、隱れた力に對する憧憬と願望、それを形に表現しようとした信仰の行事であつたらうと思ふが、それさへも爰ではもう見境ひが付かぬ程に融合しきつて居る。主たる力は婚姻と誕生、妻がいつと無く夫の心持を知り盡し、それに自分が幼ない頃から學んで居るものを入れまぜて、無形の糧として子供に與へたのが、自然の統一の始めであつたらうが、又一つには農民の持つて居たものがやゝ進み、祭の樂しさと安らかさが、よほど他の一方を羨しがらせるやうに、成つて居たことも考へさせられる。それを或は富の力と謂つても、大よそは當つて居るであらう。北小浦は現在の三十戸のうち、三戸か四戸だけがオモダチと呼ばれ、それが何れも耕作者の末であつて、比較的純粹に當初の陸上移民の血を傳へて居るらしい。この家々を村ではカギトリ、或は又カミとも謂ふ者があつて、幟や鬼太鼓獅子面などの祭具を管理し、鏡餅や五穀麻絲等、祭の供物は皆こゝから調達するのみか、常の日の物忌も他と比べて、特別に嚴重であり、又はしてはならぬといふ事が非常に多い。カミといふのはたゞ頭立つ者といふ意味で、神といふことでは無いと思ふが、ともかくも久しい以前から一族の中心と認められて、こゝの主人が當然に祭主神主の役を勤めて居たことゝ、其爲に必要な土地を持ち、又尊(444)敬を受けて居たことだけは確かであつて、漁業に專らなる家々は其地位に代れなかつたことは、供物が田畠の産物を主として居たのを見てもわかる。

　他處から來た者の心づかずには居られぬことは、この村には村社以上の神社が一つも無く、又神職と言はれてよい家が丸で無いのに、住民の神信心は強く、祭をする日は多く、殊に若い者が熱心に是に參與して居ることで、或は一時代以前の神社神道の感覺が、まだ此あたりには漂ようて居るとも言つてよい。勿論今日は佐渡一帶の風に倣うて、獅子舞も鬼太鼓も祭には出るやうだが、少なくともそれ等が祭の主要部分であるかの如く、思つて居る者は無いと言つてよからう。

　そんなら何を以て祭の中心として居たかといふと、祭をたゞの日と明かに區別するものは、參籠であつたと私は見て居る。現在は是をミヤゴモリ、即ち氏神にはちやんと社殿が出來て居て、それへ寢具を持込んで交代に宿泊するのだが、斯ういふ建築物の常設せられたのは、誰でも記憶するほどの新らしいことであつた。以前は人數も多く集まつて夜を明したのだから、是だけでは足りなかつた。寒い季節には簡單な小屋を營み、さうで無い場合にはたゞ篝の火を焚いて、其周圍に寄合つて居たのであらう。雨儀といふ慣例は宮廷にも伊勢にもあつたが、それで無くとも只の民家の屋内を使用しなければならぬ場合が折々はあつた。それを何れにするかは多分は慣例であつて、家と社地とは接して居たのだから、もとは大きなちがひは無かつたのかと思ふ。北小浦の氏神は十二大權現、即ち東北一帶にかけて、山の神と考へられて居る神であつた。毎月十二日を以て祭りの日とし、仍て十二講と謂つて居たから、是は屋内の行事であつた。小さな祭典には準備の期間が短く、饗饌の時間が割合に長いから、厨を近くにもつことが便利であつた。之に對して一年に一度といふやうな重要な祭には、長いのは七日も前からの物忌があり、男女別々に潔齋するものも稀でなかつた。斯ういふ場合には庚申待などに折々見るやうに、女をすべて他家へ遣らなければ、民家を籠り屋に供することは出來ねのであつた。神社拜殿や社務所のオコモリと、家々の頭屋祭との分れて對立したのは、言はゞ新ら(445)しい偶然の事情だつたことが、斯ういふ土地に來て見るとおのづから判るのである。

　しかし大體に祭の期間を短く、物忌を簡略にしようとしたのが新らしい時代の傾向で、是には海府の村々とても洩れるわけには行かなかつた。たゞ感心に今も古風の消えきらぬものがあるのである。その著しい一つは祭の日、それが大體に民間暦と歩調を合せて居る。世上の多くの大社でも正月に祭はあるが、是は氏子の初參りと別々になつて居るに反して、この地方では雙方がまだ一つである。尤も部落によつて日は一定せず、或村では小正月の十五日、又は十一日を中心とし、又ある村では六日の親神さんの年夜に、御籠りをする處もあるが、北小浦の年籠りは除夜の前七日間、續けて青年が代り合つてお宮に泊り、元日には村一同が親神參りをすることになつて居る。オヤガミサンといふのは氏神のことで、もとの意味は恐らく祖神であらう。一夜交代では七日間といふ甲斐が無いが、それでも大晦日の夜も寢てしまつて、夜明けに起き出して參詣する者に比べると、まだよほど古式に近いのである。

　それよりもなほ一段と昔なつかしいのは、二月と十一月の大切な氏神祭の式が、イミといふ名の下に今も片端を留めて居ることである。イミは本來祭の準備に取掛からうとする者が、世俗の雜念から分離した心の?態を表示した言葉であつて、オコモリは乃ちその手段、二者は一つのものゝ内外の名であつたかと思はれるのだが、一方の法則が先づ弛んで、後次第に忌の意識は不完全となり、各地の異同が著しく、比較を困難にして居るのである。さういふ中でも佐渡は島國である爲か、幾分か他の地方よりも濃厚に、古い信仰の痕跡が保存せられ、殊に海府の端々の村へ行くと、其來歴がやゝ尋ねやすい。たとへば二月と十二月との所謂八日節供は、東京をも含めた東部の可なり弘い區域に於て認められ、コトハジメ・コトヲサメの名稱もまだ傳はつて居るのだが、近代は是がたつた一日の行事に限られ、且つ村々の神社の祭りと、直接の關係が無くなつて居るので、是だけではまだ由來を明かにし難い。然るに佐渡の島はそれと少しちがつて、忌の期間が他よりもよほど長く、二月の四日が海府などではオマツリハジメ、十二月の初の卯の日をオマツリヲサメと稱して村の社の祭をする。さうして他の地方の八日節供に該當するものが、別にこの外に(446)は無いのである。

　佐渡年中行事に集録せられた例だけを見ても、この期日と期間は土地によつて少しづゝくひちがつて居る。恐らくは村毎に思ひ／＼の省略をした結果であつて、會ては新たな經濟生活に向かない程の、もつと大きな拘束であつたことが想像せられる。その一つの場合を擧げると、忌は多くの村で前月の二十九日に始まり、それから二日又は一日の後、祭の前夜までの間をイミナカセと謂つて居る。是は出雲の神郡に於て、今日ナカネといふのも同じで、ナカサヒは即ち中間といふことであるらしい。前と後ほどには嚴重でないが、この期間にも若干の忌がある。多分は致齋に對する散齋のやうなもので、一週間の物忌が少し苦しいので、永い歳月には追々と弛められたものかと思はれる。東北各地で折々きく蔦の年越、信州北部のミソカヨイや鬼の日團子のやうに、正月から二月への堺の日を大事にしたのも、まだ全國の一致が無いのを見ると、この長期の祭の土地毎の破片だつたかもしれず、或は以前にはもつと長い物忌であつたのを、始めをおくらせ後を切り詰めて、自然に中心が移り動いたといふことも考へられる。少なくとも佐渡の島の二月四日、又十一月の初卯の日といふなどは、最初からの定めでは無かつたと見えて、今でも爰では二月の九日十日が重要な日と認められて居る。

　忌に所謂ナカセの期間を置くやうになつたことは、必ずしも信仰の衰微を意味しなかつたらうが、祭の樣式は是によつてやゝ改まり、且つその囘數を多くする結果にはなつたらしい。殊に海上に働く人たちが參加するやうになると、祈年と新嘗との二つの大きな謹愼によつて、丸一年間の安心を確保することが六つかしく、臨時の御籠りの必要が段々に附加せられ、從つて又神といふものゝ解釋が、單純では居られなくなつたことゝ思はれるが、それでもなほ陸の方から入つて來た者の法則に同化せられて、新たに産れる子供をこと／”＼く、同じ道に進ましめようとしたことは、原因は恐らく陸と海とに固有信仰の優劣、分けても積極性の有無に在つたかと私は思ふ。正月その他のイミの日は現在は數多く、家により人によつての制限も區々であり、更に又臨時の祈願の爲に、宮籠りをする場合は増加して居る(447)のだが、しかも北小浦などでハツイミと稱して、小兒が始めて宮參りをするのは、今でも昔からの春秋の祭の日、即ち二月と霜月との忌のはじまる日に限られて居る。この日はその赤子に餅を負はせて、近所隣へ配つてあるくので、是をユミオハセなどゝいふ者もあるといふが、とにかくに斯うして氏神に承認せられ、祭に奉仕する者の資格を得させようとすることは、古い信仰であり又田を作る家の慣行であつた。それを海部の末々の者までが、一致して共に歩まうとして居るのである。

　そんなら彼等の祖先から持ち傳へたものが、どうなつて居るかといふことは一つの問題になる。海陸二つの生業に立ち分れて居た者が、後に融合して一つの村を作つた例は爰のみでは無い。それを比べ合せて共通のものを見出す以外に、安全なる推定を下すことは出來まいが、我々の仲間で今考へて居るのは、エビスといふ神の信仰などが、もとは海の信仰ではないかといふことである。現在はすでに海から遠い農村にもエビスを富の神、利得の神とする言ひ傳へは入つて居る。しかしその分布はやはり一方に偏して居るのである。曾てはこの神を外の靈、畏れてその荒びをなだめなければならぬやうな、不可知な力とする信仰が前に立つて居たのではないか。少なくともその若干の形跡が、海府の海端には保存せられて居る。二つの相對立する信仰は互ひに影響して、しかも自らも元の姿を保つて居ることは出來なかつたやうだが、その變化のし方は海から上つた側に、一段と著しかつたといふことだけは言へるのではないか。是が今まで省みられなかつた神道史の一課題なのである。

　

　　　　　　　二三　旅と旅人

　

　北小浦は又下の小浦とも呼んで居た。

　　　しもの小浦の十八曲り

(448)　　　思うて通へばつらうも無い

　斯ういつた戀の歌が今も記憶せられて居る。佐渡では一般に、シモと謂ふのが北のことであつた。上の小浦は何處に在るか知らぬが、我々外から行つた者の最初に氣づくのは、島には二つ以上同じ村の名があると、必ずその一つだけは元のまゝ、他のを北狄とか東強清水とか、方角を上に添へて區別して居る。小さなことではあらうが、島を一つの社會と見てゐたよい證據のやうに思ふ。奧州などには同じ地名が殊に多いのに、知らずに居ることもあれば又折々はまちがへることもある。西洋の國々でもさういふ例があつて、停車場などの名が長つたらしくなつて居るのを、いゝことかと思つて日本でも眞似をして居る。佐渡だけはそれが無くてすんだのはつまり早くから人が互ひに知つて居たのである。

　大きな靈場や湯治場が無かつた爲でもあらうが、この島には遍路といふことがはやり、その遍路は島を一まはり、くるりとあるいて見ることであつて、その行く手には數々の名所が出來、行かぬ者には覺えきれぬほどの話の種がある。「せめて七日の佐渡巡禮」といふ唄もあつて、ちやうど田植の休みなどに、頃あひの保養でもあつたらしい。一巡の路程は五十里あまり、中途で引返すといふことなどは考へられぬので、みんな廻つてしまふことになつたのであらうが、是くらゐ用の無い人々のあるいた路は、ちよつと他には見られないと思ふ。奧州でも九州でも、道路は大體に中央へ通ふ爲について居て、端へ行くほど利用者が少なかつたが、佐渡だけは何處もまんべん無く知られて居た。内外の海府もこの意味に於ては、決して僻村ではなかつたのである。

　それにも拘らず、今でもこゝを別天地のやうに、珍らしがつて居る人が島内に多いのは、我々にとつては寧ろ興味がある。どの點が其樣に珍らしいのであらうか。それを明かにして置くことも民俗學のうちであらう。最初に氣のつくのは言葉のちがひだが、語音でも物の言ひ方でも、他では聽かぬといふものが有るわけで無く、言はゞまじりが無しに佐渡の癖が保たれて居るまでゝ、單語にも爰だけといふはあまり見當らぬが、有つたにしても多くは忘れ殘りで(449)あらう。毎日の生活ぶり、殊に儀式や神祭りの行事には、何か爰ばかりといふものが見つかつてよいと思ふのだが、それさへも確かにさうだと言び得るものは稀であつた。つまりは日本全國の上でも言はれ得るやうに、是がもし珍らしいと言つてよいならば、それはたゞ自分たちの過去に興味があるのである。それを今まではとかく別々のものに考へがちであつた。狹い地域に就いて觀なければ、確かなことは知りにくいけれども、海に圍まれた島國の住民には、斯うした境涯を通つて活きて來た者が、他にも恐らくは多かつたのである。

　強ひて佐渡海府の特徴といふものを考へ出すならば、外に向つての要求と期待が、あまりにも少なかつたといふことが言へよう。是も日本の一つの縮圖とも見られるだらうが、實際は可なり窮屈な、惡い生活であつたに拘らず、それを普通と見て居られるほどに、よそと比較をする機會を持たなかつた。その點にかけては武陵桃源の民であつた。島を一まはりする通路はあつたけれども、進んで外の方から入つて來る者も、與へるものゝ至つて乏しい人ばかりだつた。斯ういふ種類の接觸から、文化はさう敏活に改まつて行くものでなかつた、といふ經驗を我々はして居るのである。

　もちろん新らしい時代の刺戟は、追々と加はつて來て居るのであるが、それもつい近頃までは存外に弱いものであつたのは、地理的條件といふべきであらう。それが今度は愈々大なる變化を見ようとして居る。たとへ住民が自ら意識するに至らぬまでも、もう以前のやうな無爲の環境は維持し難く、斯うした不完全な民俗誌までが、たつた一つの記録として珍重せられる時が來るかもしれない。そこで筆者等のやうな志ある旅人のこゝを訪れる以前、果してどのやうな種類の外來者が、海府の土を踏んで居たかといふことを、書き列ねて一篇のとぢめとしようと思ふ。佐渡巡禮の根原はいつの頃とも知れないが、いはゆる山居の弾誓上人の入つて來た、元和寛永よりは前のことであらう。最初の動機は信心であり、又恐らくは難行苦行の爲でもあつたらうが、それが村人の好意に迎へられて、少しづゝ遊樂の氣分を加味するやうになつてからでも、この人たちのもたらしたものは平和であつた。大して新らしい知識を寄與し(450)ない迄も、少なくとも村から外にも善人は幾らも居り、必要が有るときは友となり縁家となることが出來るといふ、心強い經驗をしたのも此時からであつた。たゞ困つたことは一たびさういふ無形の通路が開けると、それを辿つて他のいろ／＼の、旅行を生業とする者が入つて來る。多くの離れ島の中では、佐渡は最も渡りやすい島の一つだつた。殊に鑛山に異郷の人が働くことになつて、急にさういふ者の數がふえて、素朴な島人の接客心理を、惡用しようとしたかと思はれる。

　身元の判つて居る者は、さう惡いことはして行かない。佐渡には以前ホイトと呼ばれた者が、相應に多く居たが、是は先づ全部一つの地に土着して居て、顔も見知られ樣子でもそれとわかり、又自分でもさまで隱さうとはしなかつた。たゞ職業が農漁の外である者が多かつた故に、衣食の料を得る爲に始終旅行をしなければならなかつた。關東地方には鉦打の七變化といふ言葉もあつて、來るたびに商賣のちがつて居るのは彼等だつたといふが、佐渡のホイトたちのはそれよりももつと數が多く、それも今まで定まつたものだけで無く、追々と居村のまはりから遠ざかつて、何處に行つても活計になるやうな、輕い新らしい業體を覺え込んで、始終島内を行き巡る者が、以前に比べると少しづゝ殖えて來て居たやうである。我々の文化史の上では、斯ういふ特殊な?況のもとに、旅を續けて居た人々の影響は重要なものであつたが、それを尋ねて見ようとする試みはまだ起つて居ない。私などの知る限りに於ては、ホイトの根原はほぎ人であるといふ説は正しく、めでたい詞を唱へて人生の平和を完成するといふ彼等の文藝は、古い由緒のあるものに相違ないが、其需要が一定の節日、又は臨時の祝日に限られて居た爲に、その常設の機關を推持するに困難があつた。それで多くの土地では彼等を止住せしめるのに、他の幾つかの職業を押付けて、強ひて生計を補足せしめようとしたのであつた。そんなことをすれば技術は退化し、少なくとも時世に應じた改良の出來ないにきまつて居る。交通の開けぬ東北九州の端々にはたゞの農漁民の子弟までが、特志にホイトをしてあるく風習が永く殘つて居たが、一方が賤視せられるので次第に是と伍を成すことをいとひ、同時にやゝ練習を績んだ自信あるホイトが、旅して(451)遠くからまはつて來るやうになつて、いよ／＼ホイトの地位は惡くなつたのみならず、世人の之に對する態度も不まじめになつたことは、ちやうど酒や紅粉の信仰から分離した實?ともよく似て居る。佐渡のホイトは此經過を例示するやうな、興味ある歴史をもつものと思ふが、直接に北小浦と關係して居ないから、是以上の穿鑿はせずともよからう。

　但しこの土着のホイトたちが、もう本業には力を入れず、いろ／＼の新らしい渡世に手を出すやうになつてからも、却つて素性のしれない旅藝人の、數と種類は多くなつた。以前は正月の春駒は相川から、萬歳は新保や川崎の原黒から、顔なじみが毎年やつて來たものが、それが大方は入れ替つてしまひ、なほ其以外にも僅かな口さきの藝を言ひ立てに、時とも無しにまはつて來る者がいろ／＼有る。祈?占なひ札配りの類にも島内から出たのでない者がまじつて居た。尼僧の托鉢などは大抵は對岸の越後からやつて來た。海府の人たちは斯ういふ者の一部をモラヒ又はホイトと謂ひ、他の多くの者を遍路とも巡禮とも呼んで居るが、この區別は實ははつきりとは立つて居なかつた。巡禮の中にもモラヒ即ち他人の食物を分けてもらふのを、目的にした者が幾らもあつたからである。

　巡禮はもと信心が趣意であつて、どんな懷のよい者でも、必ず一日に一度か二度、人の門に立つて乞食をすべきものとなつて居た。それを島では一般に弘法大師の眞似をするといひ、興味あるいひ傳へが世間話のやうになつて流布して居る。たとへば或土地では身なりの惡い遍路に親切を盡して、それが功�ｺとなつて夏も蚊帳の必要が無い。又は反對に之を冷遇した爲に、今に至るまで良い飲水が得られぬといふ類の、全國によく知られた民間説話が、島では何村の某といふ家に、さう遠い昔で無く現實にあつた傳説のやうに談られる。この毎日通つて行くお遍路の中には、本ものゝ弘法大師がまじつてござるのださうな。もしやと思つてすぐに跡を追ふと、もうどの方角にも後姿が見えない。さういふことが有るから巡禮には失禮なことは出來ない。などゝ言つて居るとそれに附けこんで、大師現はれたりと見えを切つた乞食坊主がある。何のきさまがと化けの皮を引剥いたら、又大師あらはれたりと言つたといふやうな、(452)たしか京大阪の落し話の本にも、出て居たかと思ふ話までが、早くこの邊の人には知られて居るのであつた。

　佐渡の海府の世に遠い一つの小浦に、私たちが興味を寄せ、是からもなほ近づいて詳しく知りたいと念ずるわけは、爰が日本の海村の代表的な例で無く、從つて住民自らが外を學んで、類推によつて次第に理解し得るやうな、單純な成立ちをもつて居ないからで、少しく誇張すれば日本といふ國の、世界に於ける立場にも似通うた點が有りさうなのに心を引かれるからである。海府の交通は世の常の概念とは異なり、甚だしく受身であり又氣まぐれであつた。文化の接觸面は狹く限られ、人はたゞ少數の者だけが、その感化を受けて相應に賢こくなつて居る。遠い昔の自然の惠みが、永く豐滿の印象を遺し留めて、新たに全體として捜し求むべきを、考へ出す力を弱め切つて居たのである。しかし時代が新らしくなるにつれて、どうしても無くてはすまぬ物が、段々に算へ立てられるやうにはなつた。鹽は久しい間海の水を汲んで間に合せて居たものが、土地で燒くことが六つかしいとなると、追々に島の外から運んで來はじめた。衣料も次々と古着や反物が陸づたひに入つて、シナのハダソなどはすでに古い歌になつた。食物は一ばん變へにくい慣習であつたらうが、それさへも僅か人一代の間に、もう以前の通りで辛抱する者は無くなつて居る。無形の方面にも當然に需要は加はつて居る筈であるが、それはまだ一部に偏し、且つ全體に始まりが遲すぎた。交易の用意が整つて居るとは言へない。

　ちやうどさういふ移り變りの時期に際して、心靜かに實?を觀察し、更に之に基づいて將來の豫測を立てゝ、段々と其豫測の當つたか否かを驗して見るといふことは、我々の學問に於てもさう容易には望まれぬ機會であつて、それが又出來るだけ精確なる一地民俗誌を、出して置かうとする我々の趣旨でもあつた。海府は昔からの佐渡の好話題ではあるが、それを撒き散らした者がおほむね巡禮であり、巡禮の知見は知れたものであり、多くはまだ行つたことは無い者に、誇り示さうといふ種類のものらしい故に、私はさういふものを材料にする氣は無い。出來るならば土地人の心からなる告白によつて、この上の補充訂正がして見たいのである。

　

(453)　　　　　　　あとがき

　

　佐渡の海府を私が旅したのは大正九年の六月、それも北小浦などは舟から見て通つたのだから知りたいと思ふことは何一つ聽かれなかつた。倉田一郎君を勸めて、前後二度までも此地方をあるかせ、その手帳を誰よりも先に精讀して感歎し、更に全國方言集の一册に、海府方言集を出すことにしたのも、隱れた一つの動機には、斯ういふ古い心殘りが働いて居るのであつた。

　その倉田君が不慮に世を去つて、遺編空しく傳はるのを見ると、今度のやうな民俗誌の企てが無くても、なほ私は代つて斯ういふ一書を、まとめて置くのに躊躇をしなかつたであらう。しかし愈々實際に當つて見て、是は思つたほど簡單な仕事でないことが始めてわかつた。どんなに忠實な行き屆いた觀察であらうとも、彼の手帳には統一が無い。方言集は又綿密な排列といふに止まり、殊に今ちやうど私が書いて見ようとするやうなことを、書かうといふ計畫は倉田君には無かつた。その上に文字以外の印象、手帳に取らずにしまつた體驗までは、まだ私は完全に承け繼いで居ないのである。

　そこで第二段には同じ人が、海と海ばたの村の生活に就いて、すでに貯へ持つて居たらうと思ふ知識を、彼が整頓してくれた分類漁村語彙の中から復原して見ようとした。さうしてどうやら漁業の諸問題だけは、彼が活きて居て自ら筆を執つたとしても、多分は斯う書いたであらうといふ所まで、持つて來ることが出來た。

　しかしこの村の背後に横たはる、山と耕地の現?に至つては、私の想像はなほ甚だしく貧しい。さうして倉田君自らも、斯ういふ傾斜面までは跋渉しては居ないのであつた。土地の人たちが當り前のやうに言つて居たことの中に、他の地方の見聞からは類推し難いことが幾らもある。殊に村居住者の相互關係などは、言語以外のものから感じ取ら(454)ねばならぬものが色々有つたらしく、それは固より手帳の傳へ得るところではなかつた。私の記述はその爲に可なり推測に馳せて居る。あんまりな見當ちがひを、笑はれなければよいがと思つて居る。

　いはゆる參考書は手元にあるものが非常に乏しかつた。又恐らくはさう多くは無いのであらうし、有つてもさういふものを援引することは、民俗誌と名のるものの敢てすべきことでもない。斯うして現前の事相によつて推定し得たものと、記録に書き傳へたものとがどこまでも合致し、又はどういふ風に喰ひちがふだらうかは、むしろ後代の興味の爲に、伏せて置いてもよいかとさへ、私は思つて居る。

　倉田君の手帳以後、僅か十二三年の間にもこの地方の?態はひどく變つたらしい。古い人たちが達者で居て、自由に以前の事を語り盡さぬうちに、ちやうど江戸期の佐渡海府が今日はもう見られない如く、倉田時代といふべきものも過ぎ去つてしまふかも知れず、それを是から改めて書き殘すのも容易な業ではないであらう。私はこの誤謬の繁かるべき民俗誌が、少しでも多く内海府人の手に屆き、讀まれ批評せられ且つ訂正せられんことを望んで居る。紙面の制限が無かつたならば、終りに附けて置きたかつた興味ある斷片もまだ多い。それと新たなる土地人の増補とを利用して、他日今一囘書き改めて見たいのが私の至願である。もし自分でそれを果し得なかつたならば、嗣いで來る人が恐らくは、之を爲し遂げるであらう。それほどにも佐渡の内外海府は、民俗學的に興味の多い土地である。

　　　　　　昭和二十三年八月

　

(457)　　　郷土科學に就いて

　

　郷土諸科學、郷土を輪廓として我々の心の上に、鮮明に寫し取つて置かなければならぬ現代の智識が、何と／＼を含み、又如何樣に分類されてよいかは、人によつてそれ／”＼の注文も有つて、容易に其範圍を定め難いことゝ思ふが、少なくとも一年を一期とした今囘の講座が、洩れ無くその全體に行渡つて居ないことは確かである。しかし、是まで地方の學徒の携はり來つた研究の中には、既に實驗と觀察とを出發點とし、いやしくも自分の目に視、耳に聽き、胸に感じて然ありと認めたもので無ければ、進んでその事實に據つて次の推論に入らうとせぬ樣に習練させられて居る學問は色々ある。もし其人が單なる書齋裡の讀書家で無く、靜かに環境と相對して、平生學ぶ所の果して當れりや否やを考へる質であつたならば、新たに是が爲に方法を説くの餘地は無いのである。自然科學の方面には、斯ういふ學問の仕方、又互ひに隱れたる同志の協力によつて、最近目に見えて發達して來たものが數多いが、一方に特に郷土の爲、もしくは郷土に留まる者として、是非とも是だけの事は學んで置くやうにと、勸められて居た學問の中にも、今以て之を我地に移植して、成育せしめることの望み難いものがあるのである。是は暗記と遵奉とを能事とする者以外に、弘く研究の興味を承認せしめ、文化推進の共同の責任を、分擔せしむるの途では無かつた。それ故に我々の郷土科學は、やゝ又今後の方法の改造の、期待せらるべきものに片よつて居るのである。

　科學といふ文字は近年になつて、頻りに社會人文の方面にも用ゐられるやうになつたが、其眞意は何人にも大よそ知られて居る。短かい言葉で言ふならば、是を今までのすべての科學と同樣に、十分に精確にしようといふことであ(458)つた。從來の教訓とても、既に或程度まで精確ではあつたが、同時に所謂學者の權威が、或は必要以上に強大であつた。我々は通例先づ其人を信じて、次にその言ふ所の全部を、眞實として受入れようとしたのである。問題は必ずしも其指導の誤つて居たといふ事實からは起らなかつた。寧ろ多數の信ずべき者が競ひ進んで、我々を混迷に陷らしむるを避けんが爲であつた。一部の不安に由つて折角得た智識の全體を、失つてしまふのを防ぐが爲であつた。其手段としては最初の單純なる眞實を、之を説く人よりも又其結論よりも、大切にしなければならぬ必要があつたのである。學者自身に取つても此順序によつて、始から動搖せざる同志を得、もしくは何時でも諒解ある協力者を發見することが出來る。さうして全國の科學は、別に著しい中心と尖端が無くとも、ぢり／＼と平押しに進むことが出來たのであるが、この人生研究の方面に在つては、未ださう多くの幸福なる經驗に惠まれて居なかつたのである。

　

　日本が群島の國であり、許多の異なる環境の錯綜した國であることは、頗る外部に起つた概括的の論斷の、あて嵌まるか否かを危ぶましめる事情であつた。近代の實際生活に於ては、幾つとも無き類推法の失敗を重ねて居る。個々の郷土が郷土人以上に、親切に之を觀察し得る者が無いとなると、獨り其所得を以て各自の智識を補正するだけで無く、更に一歩を進めて學問の大きな綜合の爲、之を公共の利用に提供するの義務さへ有るのである。多くの若き講學者たちに取つては、從來の讀書方法は未だ必ずしもその萬全なる準備といふことは出來ない。稀には意外なる名著の斷案に心服するの餘り、それの證據として援用せられた事實の、各自の經驗した所と異なつて居るのを怪しまぬのみか、飜つて我目我耳に對する信用を割引し、或は又事實其ものを疑はうとするやうな無邪氣以上の人も居た。是は要するに思索と觀察との總體を擧げて、所謂先覺に委ねようとする學風に累はされたもので、さういふ人たちにこそ、特に社會科學の本當の練習が必要であつた。暇に其語の響きがたゞ僅かでも、憂ふべく忌むべき聯想を喚ぶやうになつて居るとすれば、それは尚一段と適切に、あらゆる側面からの實例を以て、此方法の眞價を世に明かにするの急務(459)を、語るものと言つてよいのである。

　この講座の執筆者等は、何れも其道の實驗に掛けては、既に國内の何人にも劣らざる勞苦を積み、殊に多數の郷土の事實を比較分類して、少なくとも現在認められて居る限りの變化の跡を究めたる人である。それを根據とした問題の解説なるが故に、言はゞ今日の學問の保障し得る最も安全なる智識である。地方今後の發見によつて、さう早速には改訂の必要を見るやうなことは無く、たとへ一々の例證を擧げ示すことは出來なくとも、先づは多數の爲に各自檢索の勞と時とを、節約せしめるだけの力は確かにもつて居る。しかも此智識が消化せられ、諸君の血となり骨となつて更に成長する爲には、單なるいき呑みは其效を奏し難い。我々の本意とする所は此論證の過程が、もう一度讀者各自の生活に就いてくり返され、出來るだけ當の本人の實驗と近いものになつて行くことである。郷土の事實の問題と交渉するものが無い場合は是非も無いが、さうで無い限りは一囘は實地に引當てゝ見て、果して同じ事が何處でゝも言はれるものか否かを、突留めて置いてから進むやうにして見たい。是が又今でも研究を續けて居る先生方の、心からの希望でもあるのである。

　

　日本で近年長足の進歩を見、且つ少なくとも郷土大衆の間に、弘く眞價を承認せられて居る學問は、たとへば海陸の動物學であれ、又は草木發生繁茂の理法であれ、一つとして過去百千年の久しきに亙り、智識の資料を眼前に積み貯へて居らぬものは無かつた。人は幼少の時より既に其現實に馴れ親しんで居たゞけで無く、時としては個々の精細なる觀察によつて、既に一部の推論の後に傳ふるに足るものをさへ有つて居た。それにも拘らず、新たに外部の專門家の指導に待つて、尚是ほどの收穫を短期間に擧げ得た理由は、以前は其智識が各一隅に割據して、比較綜合の便を得なかつたからである。當の本人に取つては何物よりも大切な地方の實驗が、果して國を共にし時代を同じくする全同胞の生活に、擴張し得るものであるか否かを、確かめる途が無かつたからである。學問の大きな希望は通覽によつ(460)て始めて現れたので、之を支持する所の資料事實は大抵は前からあり、必ずしも器械商の器械のやうに、解説と共に運び込まれたものでは無いのである。單なる物知りの地方に多く居ることは、今とても決して昔に劣らない。彼等が適切なる例證を遠近の學徒に供與して、研究を刺戟し援助した功は大きく、しかも其結果の世に認められると共に、其好奇心も亦次第に成長して行くことは疑はれないが、今日はそれが稍々亂雜に流れようとして居るのである。趣味と名づくる我儘なる題目の選擇、用途を念頭に置かない穿鑿の深入りなどが、往々にして他のより多く必要なる調査を閑却せしめ、又一般にこの事業の遊戯味を濃彩ならしめた傾きがある。郷土の生活の更に觀測せられ、急いで存録せらるべき部分は、この幾分か流行的なる片寄りの爲に、いつ迄も省みられずに殘つて居る。今や地方の博識は何等かの共同手段によつて、之を適度に分配し且つ整理する必要に當面して居るのである。系統無き智能の共進會を以て、この上我々の短い修養時代を、浪費するが如き計畫は許されぬのである。

　科學といふ文字の少しく茫漠に解せられて居たやうに、學といふ語の適用も日本では寛大に失して居た。小さな切れ／＼の事實を數多く知つた者が、それをどうすることも出來ずにたゞ何々學を唱へたり、もしくは或土地ばかりの孤立の現象かも知れぬものを掲げて、全國土を代表させようとする類の試みが、今以て普通の事のやうに見られて居る。觀察と記述とは大切な準備作業であり、苟くも歸納の科學に志を立つる者は、一度は自身にこの修業を積まねばならぬが、要するに是はたゞ道の山口であつて、未だ小さな到達ですらも無いのである。是が我々の生活とは没交渉であり、又時としては煩累であるのに不思議は無い。人間の疑惑は此等の事實を少し知つて、それがまだ十分で無い際に始めて起るので、知つたばかりを以てもう安心して、人に説くことが出來るやうであつたら、實は學問とは言はれない筈である。然るに近代の科學は實驗を尊重した結果、單なる觀察と其記述とでも、本志がこの問題の解決に在る限りは、之を共同の大きな事業の仲間に入れた。一國全世界の顔も知らぬ同志が、多數手を繋いで眞理の發見に向ふのは壯快であるが、その反面の弊は中途に腰かけて休んでしまふ者、資料の供給を終局の成功と信じて、愚かな道(461)樂者とその蒐集の多寡を爭ひ、それが何に用立つのかを考へぬ者の出て來ることである。殊に、地方には獨りで知つて居るのを、樂しみにする風がまだ殘つて居る爲に、もしくは謙遜で人に説くことを憚る爲に、利用せられずに終る智識が常に多い。それがたゞ單なる重複であつても、心力の濫費は悲しむべきであるが、別に其以外に同種類型の比較によつて、始めて意義を認め價値を添ふべきものが、互ひに相知られずに孤立して存し、僅かな周圍の者の尊信を博するだけで、埋れて行くものが多かりさうである。自然界の現象などの共通點が多く、何處で觀測して見ても通例は變化が無いといふものなら、それを一種の遊戯と度外視するも可、又は根氣よく徐々に誘導することにしてもよいが、所謂社會科學の方面では、個々の郷土の資料には重複が至つて尠ない。假に一人が計畫を立てゝ歩きまはつても、同じ實驗にはさう度々は遭遇しない。年代と季節は刻々に變つて行く。毎囘の觀察は一つづゝの、貴重な記録として共有する必要があるのである。是は必ずしも人間の生活の、微妙又複雜であるといふ爲のみで無い。日本は世界の何れの一國に比べても、特に變化の多い、比較の最も痛切な、從つて精細なる研究を必要とする郷土を、無限に展開せしむべき國柄であつたのである。

　

　日本に人文地理といふ學問が急に發達し、今後も尚この何倍かの發達を、見なければならぬ理由も同じ處に存する。面積の上からいふと澤山の兄分があつて、しかも何としても大國の列から半歩でも引下つて居られぬのは、この大きな人口がこの永い期間、是ばかりの島の平地に住み續けて來たといふ、非凡な閲歴を持つて居るからである。この經驗だけは少なくとも我々の特有であるが、人はそれを門外漢に説明することはおろか、實は今までは滅多に囘顧しても見なかつた。斯うした經驗は誰にでも、又何處に行つても出來ると思つたら大間違ひである。同じ祖先から承け繼いだ氣質體質、習癖や技藝にも似た所は多かつたのに、それを境遇や時の事情に應じて、出來る限り變化させて行くことが、特に我々だけには與へられて居た能力であつた。冬も梅咲く九州の南の里から、遠くは北海の浪氷る荒濱ま(462)で、いつの間にか行き遍ねくして、しかも日本人の約束を忘れずに今も持つて居る。其代りには幾分か旅がすきで、家と一緒にならどし／＼と外へ移り、職業なども比較的變へ易かつたかも知らぬが、目先のよく見える割には辛抱も意地も強かつた。さうして地形の如何なる變化にも、それ／”＼似つかはしい村又は町を作つて居るのである。たつた一つの方針や長處を守つて居て、自然に調和し得られるやうな、單簡なる日本の風土山川では無かつた。だから國の古い割に村は新らしく、愈々人が剰つて選り食ひが出來ぬとなると、前には不可能であつた土地を何度でも來て經營し、隙間々々へと後から入つて住んで、通例隣どうしはやゝ異なる部落が、異なる年齡と歴史を持つて住んで居り、それが又時代の必要に促されると、提携しもしくは縁組して追々に一體になる。斯ういふ複雜な成立ちをもつた田舍といふものが、他國にも有るか否かは疑問である。郷土を實地に親しい者の手によつて、研究しなければならぬ理由も茲に在る。と共に、國内の各地が互ひに相知つて、自分ばかりの實?を基礎として、他の區域を類推することを誡むべき必要も亦是から起るのである。萬一不幸にして學問が外から教へられる通りを信じ、各自の實驗を殺してよいとなつたら、一國の政治は今日以上に、手前勝手の鉢合せとならずんは止まぬであらう。それよりも重大なことは過去二千年の間に、個々の郷土に出現した事績、之を計畫し又實現させた人たちの、智慮と誤謬とを明かにすることが出來ず、從つてその何れの部分を改造し、何れの部分を後代に引繼いでよいかの、判別が付かなくなることである。偶然と無意味とは、未だ以て今日の文化諸相を解説するに足りない。所謂環境適應の説の如きも、或は無益であり又時として概括論の弊に墮する場合があつたかも知れぬが、少なくとも日本の各郷土を理解せんと欲する者には、この千差萬別なる居住地の事情を藐視して、人間生活の展開を學び知る途は有り得ないのである。

　

　世には郷土の爲に、其郷土を知ることを以て、一つの獨立した事業の如く説く人もあるが、我々は斷然として之に與せざることを言明する。最終の目的は、國としてより賢明に、社會として永く榮えるに在ることは、如何なる學問(463)も一つで無ければならぬが、たゞ其方法に於て或ものは地域を劃し、特に各自の省察に便であり、又注意の親切を期し得る部分において、先づ實地の研究を分擔する必要があるだけである。是が本講座の地方誌を輸廓とし、郷土に依つて人文の科學を再吟味せんとする趣旨に他ならぬ。自己の郷土をすらも正しく解し、確實に語ることの出來ぬやうな人々に、弘く全般の人道を論議するの資格、果して有りといふことを認め得ない故に、先づ以て自ら知ることの要諦を詳かにせんとするのである。今日の多くの學問は、各々群を抽いて獨り進まんとして居る。たま／＼一方の研究に秀でたる人々は、却つて他の部分の智識に疎なることを以て、心を安んぜんとする傾きさへ見られる。諸學相關の事實を明かに認めた者と雖、之を兼修することは往々にして不可能なる野望に屬する。地理は幸ひにして誘導の學であり、能く自然と人間との仲に立つて、兩者の關係を具體化するのみならず、更に無數の新たなる疑問、事實の將來に解説せられねばならぬものを、次々に發見し且つ配達して進んで來た。是が限りある郷土の域内に於て、互ひに相牽聯して存することを學ぶのは、この種集合講演制の一つの大いなる便宜であると信ずる。願はくは郷土科學の名新たに起つて、學問連合の實漸く擧がり、更に地理智識の最も實着なる利用を以て、郷土は從來のやうにその微細なる研究に割據することを止め、汎く國内の同學と交通して愈々その實驗を確實にし、行く／＼今日の大小の疑惑が、悉く隱れたる社會法則の闡明せられる端緒であつたことを、感謝し且つ囘顧せられる日の到達するやうにして見たい。

　

(464)　　　郷土研究の將來

　

　　　　　　　目次

　

　　　一　郷土研究といふこと――「郷土」といふ語の持つ懷しみ――郷土藝術・郷土教育による展開――郷土愛の一大進歩――割據から相互的へ――今尚孤立の郷土史研究

　　二　現代史學の弱點――從來の歴史は傳記的――三つの結果――劇的展開への傾注――一を以て類推せんとする癖――お國自慢が唯一の目的――郷土史の特長――記録以外の史料――類型の集積による一致點の抽出――郷土史家の役割

　　三　發見は好奇心の誘導――考古學・人類學による發展――有史以前以後とは――今朝までが有史以前――一昨年の虹にあらず――新たなる郷土研究の必要――今が時期到達

　　四　民俗學の起り――我國への輸入――斯學に對する最初の期待――土俗誌學と社會學との交渉――法螺交りのタビ語り――嘘の看破――史書を持たぬ未開人にも歴史はある

　　五　記録の整理が先づ必要――考へねばならぬ學者の態度――土俗誌學の行詰り――次の展開――道樂と學問との境目――可能なる方法

　　六　用語の飜譯の不便――フオクロアの概念の成長――學會創立當時――上流に對する民間――傳承は身分境遇によらざる事――近代社會諸科學の啓發――三つの發見の照合――日本の國情はフオクロアと民俗學とを提携せしむ

　　七　歐米人の苦心――白人の採集は遲すぎた――日本今後の郷土研究――採集に就いての注意――西洋模倣の愚――參考とすべき長處短處――傳承者を誤らしめざること――民俗學とフオクロアとは金鑛と砂金との關係

　

(465)　　　　　　　　　　一

　

　今から二十年餘り前に、始めて日本には郷土研究といふ言葉が現はれた。誰が考へてきめたとも無く、今では此四文字には大よその内容が出來て、明るい前途の希望を我々に抱かしめるのみか、斯樣な實着なる講座までが計畫せられて、歡んで世間から迎へられる迄になつた。が、最初のうちは各人思ひ／＼の好みから、時としては互ひに相容れぬやうな學問のし方を、同じ名を以て呼ぶやうな滑稽もあつたのである。併し大體に於ていつも此言葉には人望があつた。一つには研究といふ語音が、日本人の耳には快く、たとへば其深意は呑込めぬ者にも、何か新らしく又優れた事業に違ひないと、思はせるやうなよい響きであつたからでもあらうが、それよりも一層力強く我々を動かしたのは、郷土の語によつて運び出された無垢な行掛りの無い前代の懷かしさであつたらうと思ふ。

　郷土は其實質に於て故郷郷里、乃至は生れ在所といふ言葉と、格別の相異を持つて居ない。たゞ後者は使用の永い月日に於て、當初豫期しなかつた色々の聯想を蓄積して居るのである。中でも最も露骨な例は、近世始まつた藩閥といふ語などであるが、是は自愛といふ以上に、他のものを押伏せようとするやうな、濁つた感じをさへ伴なはされて居た。さうで無くともお國自慢、故郷に錦などゝいふ印象の深い諺が、我とよその人とのけぢめを、往々にして餘りに際立たせて居たのであつた。ところが「郷土」は新らしく起つたものだけに、其文字通りに萬人が萬人とも、一つ宛は持つて居るものといふ心持に、使用せられることが出來たのである。ちやうど小兒といふ語がその一般的の可愛さを、我々に味はしめるやうなものであつた。比べて見るならば無論我兒の方が心を惹く。さりとてこの數多のいたいけなる者を、只何でも無く見過すことは不可能であつた。此人情を以て御互ひが、他人の郷土を視る氣になつたのは其頃からであつた。

　郷土藝術といふ名が世上に親しまれたのは、この少しばかり前からのことである。是などは確かに誰彼の故郷とい(466)ふことで無かつた。都市に成長しもしくは新たに外國から引移したものと對立して、我々の田舍の、元からあつたものといふ意味で、人は成るだけ弘く其全景を見渡さうとしたのである。それに次いで程無く現はれたのが、郷土教育といふ名稱であつた。あの頃の教育家の議論は今でも記憶して居る者が多いが、是は言ひ換へれば教育の實際化、どこの事やら子供は解らぬ地理歴史を暗記させたり、符號同然の博物學を詰込んだりせずに、物に就き場に據つて各自一生に入用な知識のみを自得せしめなければならぬといふ趣旨から、學校の周圍を天然の教室とさせようとしたのであつた。其方法が正しいと言はるゝ割に成功をしなかつたのは、指導者の用意が足らぬ爲だとあつて、心有る教員は皆苦慮し始めた。この二つの「郷土」は、或は廣さに於て差等があつたか知れぬが、外に在つて之を説く者の思ふ所は大よそ一つであつた。この日本が十萬二十萬の小さな郷土の集合に成ることは、判り切つた事實であつたが、實は此時まで氣付かぬ人もあつたのである。

　郷土愛といふ語はもと文藝上の新語である上に、時には寄附金などの爲に之を濫用する奴輩もあつたけれども、是とても以前の偏頗なる執着を、代表するものと迄は考へられなかつた。ちやうど見ず知らずの切なる母性愛が、よその袂を濕はうすに足りたと同じく、人々の生地を慕ふ情は認められたのである。彼等が各自の郷土を理解し、其知識を又後に來る者に引繼がうとすることが、些しでも手前勝手な所業で無いとせられたのは勿論、近年は又進んで之を稍々冷淡であつた者に勸説し、各地心を揃へてこの事業の爲に働くならば、結局は國自體も亦その利益を收め得るかの如く、漠然ながらも信じようとする人の多くなつたことは、前代には曾て見られなかつた一大進歩である。地方誌の調査を政廳が訓諭したり、又は直接手を下して之を試みたりした例は、我邦にも支那にも何度かあつたが、其動機は今と別であつた。一國文華の隆盛を標識する爲で無ければ、單なる行政上の用途からであつた。だから往々にして餘りに實地に近い記述の、領外に洩れ傳はることを忌む者さへあつたのである。今日の郷土研究は之に反して割據では無かつた。とくに明かにして居なければならぬ生活の?態を、先づ知る必要もあり能力も具はつた者に、先づ明か(467)に會得せしめようとして居るのである。從つて此氣風は遍ねく全版圖に及ばなければ效果が無い。異なる郷土に居る者にも其成績が役に立つて、始めて國家として之を慫慂した意義はある。だからあらゆる郷土研究は、常に相互的のもので無ければならなかつた。然るにたつた一つの狹義の郷土史のみが、今尚案外に分裂孤立して、僅かに其收益を郷人の間のみに分たうとして居るのであつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　是は近頃の歴史の學風に基づいて居るかと考へられる。是までの歴史は一言でいふと、甚だしく傳記的であつた。人でいふならば特殊の偉人豪傑、もしくは百年に一度も起り得ぬやうな大事件を透して、我々に時代の推移を會得せしめようとした爲に、其記述はいやが上にも綿密で無ければならず、又其史料の採擇は、どこ迄も嚴格且つ決定的で無ければならなかつた。といふことは一つの新事實の發見に因つて、しば／＼時代觀の組立てを改める必要を生ずる程に、大いなる重點を個々の傳記の上に置いて居たのである。可なり明瞭なる三つばかりの結果が、其影響として現はれて居る。一つには歴史を讀む者が、其興味を二三の珍らしい事件の劇的展開に傾注すること、是は此學問の社會的用途を立證せんとする人々に取つて、決して感謝すべき現象では無かつた。第二には世の中の要求に應じて、進んで今一段と平凡通常なる事跡を説かうとする者が、尚是までの史料の取扱ひ方に倣うて、たつた一つの事實に據つて其他を類推せしめんとする癖である。最も極端な例は風俗の方面などに於て、貴人上流の僅かな記録を引き、輙ち全國も亦此の如しと言ふの類である。終りにもう一つ是も現在はもう普通になつて居るのは、地方の多くの郷土史家が各その域内の事件大人物を追究して、それを著名ならしむるを以て能事了るとすることである。是などは郷土といふ言葉の起るより、少なくとも千數百年の昔から、個々の部曲が抱いて居た自然の願ひであつて、特に全國が一致して新たに之を開始する甲斐の無いものであつた。

(468)　つまりは現代の史風の長處は夙に認められ、其窮點のみは爰に始めて現はれたのである。日本の大事件は勿論どこかの地方の史實ではあつた。併し太閤も辨慶も一つしか出身地を持ち得ない如く、記録に名の傳はらぬ土地の數は極めて多い。それが競うて郷土の誇りなるものに力を傾けようとしたら、其結果はどうなるであらうか。單に境を越えたら忽ち省みられないやうな事柄の爲に、割據の博識を樂しむといふだけで、滿足して居るだけならまだ無事だが、事によると久しく煩はされて居た式内古社の爭奪、乃至は養和の若みかどの御隱れ家の證明のやうに、作り設けても他に打勝たうとするやうな、恥がましい私心さへも其中から頭を出すのである。全國一樣にこんな研究がもし行渡つたとしたら、其結果は斷じて幸福なものでは有り得ない。

　郷土史の特長は、素より此方面に求むべきものでは無かつたのである。國の歴史が最初から解説を任務として居たに反して、此方は人に新たなる疑惑を抱かしめる樣に、豫め準備せられてあつたと言つてもよい。つまりは世が現代となつて始めて開かれるべく、今まで殘されて居た區域である。自然が後生の働き手を手持無沙汰にせぬ爲に、わざと仕組んで置いたのでは無いかと思ふ事業は、必ずしも學問の方面ばかりで無く、野にも里にも幾つとなく轉がつて居るが、殊に歴史の知識に於ては、この永年の苦しい經驗を積み重ねた後で無いと、人が求める氣になり得ないものが豐かに過ぎる程手付かずに保留してあつた。さうして郷土研究の夜明けを待つて居たのである。最近に我々によつて既に認められたことは、文字の技能が以前或少數の階級、且つ僅かばかりの郷土に住む者の、修養に限られて居たことである。人が自分の見聞した範圍外に、記述の筆をさし伸ばすことの出來ぬのは當然であるが、其上に彼等は記録といふものゝ本來の目途に遵うて、自身書き傳ふるの價値あり、又其必要ありと信じた事實のみを、忠實に選擇して引繼いでくれたのであつた。それが中古の兵亂水火によつて、更に分量を減じたことは別にしても、少なくとも末世の我々が、あの時見て置き又考へて置いて貰ひたかつたと思ふものと、喰ひ違つて居ることだけは疑ひが無い。所謂史料の文字を以て表示したものだけで足らぬこと、もしくは記録の外にも尚大切な史料があることは、もう大分久(469)しい前から、專門の人が却つて之をよく知つて居るのである。

　もう一つの眞實は正直なる昔の人が、わざ／＼計畫して書き傳へた記事以外、殊に平常の目に立たぬ問題に於ては、史料はその類型の幾つかを寄せ集めて、何度も精確であつた一致點を抽き出して見ぬ限り、安全に是を全般的の前代事實と認められぬことである。この集積が中央の少數者だけでは、實はさう容易の仕事では無かつた。乃ち郷土史家の出でゝ手傳ふべき役割になつて居たのである。是まで史料の本山の現はして居た功績は、主として消極的の方面であつた。即ちたつた一つある記録の、さう容易に信ずべきもので無いことを、比較によつて教へたのは有難かつたが、個々の至つて微弱な證跡をうんと重ねて、我々の要求して居る隱れて居た事實を、強い確かなものにしようといふ處までは手が屆かなかつた。といふわけはその類の細々とした文字以外の史料は、地方に落ち散つて居て多くの人の協力に由らなければ、之を物にする途は無かつたからである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　歴史は元來或處まで達すれば、それから以上は判らなくなつてしまふのを、當然の性質として認められて居た學問であつた。たとへば太古は?たり矣、得て尋ぬべからずと言ふことは、どんな確かな研究の書にでも書いてあつた、それも強ひて知るべからざるを知るなといふ、訓誡によつて思ひ諦めて居たのならば、又時には不滿を抱く者も出て來たらうが、一般は寧ろ是だけ學んで居ればもう宜しと心得て、別にそれより多くのものを問ひ求めようとは念じなかつたのである。好奇心は却つて發見によつて誘導せられて居る。西洋の例でいふと、基督教が歐羅巴の大陸を席卷したのは、我朝の聖�ｺ太子の御時よりも遙か後であつたに拘らず、それより以前は何を信じ、何によつて此世を道づけて居たかを、訝る者も無い時代が永く續いて居た。羅馬とそれを教へた希臘や東國の學藝が、僅かづゝ明かになつた頃を復興期と名づけて居るが、其際は單に學べば學ばるゝといふ大きな望みを、多數の俗衆に鼓吹してくれたこと(470)が尊いので、實はそれから此方に何倍か遠い昔、大きな事績が見付かつて居るのである。簡單に神がさうなされたといへば合點し、世界は今から六千年ばかり前に、七日間に作られたと聽いて之を信じた人々に、新たにそれよりも又何千年と無い古へから、人が住み且つ群を成して活きて居たことを報告する者があつて、彼等の疑惑は勿論多岐にはなつたが、同時に又何故に今ある信仰が弘く行はれ、今ある制度が衆力を以て支ふべきものになつたかを、改めて熱烈に又底深く、究めて見ようといふ者をも生じたのである。

　だから限られて居た歴史の障壁は、先づ向ふ側の古代史の堺から、取拂はれもしくは押擴められることになつたのである。今は何處に行き何種と混淆してしまつたやら、わからぬ樣な古民族の生活が、ぽつ／＼と知れて來たのである。文書記録の類に的確なる所據の無い限り、歴史は説くなかれと言つた古い教訓が、但しを爰には附けなければ濟まぬことになつた。考古學は曾ては史學の補充を旨として居たのが、忽ち得意になつて人を先史無人の地に導かうとするのみならず、更に其方法は新たに生れた人類學にも傳授せられて、頗る此あたりの繩張りを複雜なものとした。さうして國によつては人類の芽生えを以て肝要の主題とし、歴史をイの一番から説き立てることが出來るやうな、骨の折れた野望を抱く者さへ出來て來た。日本でもこの起原論の興味は、相應に深くなつて居るやうである。併しこの切れ／＼の地方事實が、果して嚴峻なる近代の證據主義に照して、安全に史料として採り用ゐらるゝに足るか、はた又單なる注意すべきもの、もしくは驚くべく輕んずべからざるものといふに止まるかは、寧ろ門外漢の平心に解決しなければならぬ難問題であつて、それには又一方の史料競立區域、即ち文書古記録を詮として、歴史は完備し得べしと信ぜられた時代の、書外史料といふものゝ價値如何が、大なる參考となるのである。

　けだし現在社會生活の需要からいふならば、遠き上世の物の始まりを究めるといふことが、今を知り近き過去の實情を詳かにする事業ほど、適切なもので無いことは知れて居る。それが一方の太古史のみ先づ流行して、解釋區々になり、議論紛々たる中世以後の沿革が、依然として判つたゞけしかわからぬといふことは變な話だが、是は此學問の(471)順序が偶然であつて、もと我々の思慮を以て排列したもので無いことを意味する。

　其上に尚一つ、神武天皇以後の事蹟ならば、既に判つて居るといふ豫斷も之を促して居る。何がわかつて居るものか。めい／＼の家でいふなら五代七代前は戒名俗名ばかり、村でいふならば二百年か百五十年ほど昔に、誰かゞもう居たといふことを知るのみで、甚だ信じ難い傳説すらも、自分等に關するものは無いのが普通である。一言でいふならば郷土史はまた空であつた。國史は一國の最も重要なる事項に就いて、二三の記述を存するといふのみを以て、そこに有史以前と以後とを劃しようとしたことが、そも／＼の大きな誤謬であつたのである。我々をして言はしめるならば、別にこの左右に宏大なる有史以外が有つたのであり、個々の常人から見れば、現に今朝までが有史以前であつたのでは無いか。勿論是は書いた物、文字に著はしたものを歴史とする結果で、人が省みずとも歴史は儼存し且つ進展して居る。しかも一昨年の空の虹の如く、消えて痕形も無く過ぎ去つては居ない。孫が祖父母に似、生き殘る者が友を懷ふやうに、記念は寧ろ永く故地に留まることを努めたのであるが、奈何せん我々は特に此間より獲るもの無しとして、未だ史料の整理法を講究せざる前に、片端から之を忘れて來たのであつた。だから新たなる郷土研究の必要を覺らしむる爲には、先づ其可能性を立證すべく、若干の興味ある發見をして見せなければならなかつた。今日はそれも早無用になつて來たかも知れぬが、兎に角に考古學人類學は先づ榮え、民俗學は後れて尚とぼ／＼と歩いて居るのである。志ある者が一たび其注意を此間題に向けてよい時期は、今頃になつて漸く到達した。

　

　　　　　　　　　　四

　

　民俗學の起りは、必ずしもさう新らしいことでは無かつたが、是も最初のうちは遠い處の、どうあつても格別のことは無いといふ事柄に、うき身をやつして居る道樂のやうに考へられて居た。實は其氣味も多少無いでは無かつた。是が史學と同樣に一國各自の生活の内景を、鏡に向ふ如く窺ひ知らうといふことになつたのは、ごく近い頃の進歩改(472)良に由ると言はうよりも是からの仕事と、言つた方が却つて事實に近いのである。始めて我邦へこの未完成のまゝの新學を持つて來たのは、日本人類學の創立者たち、殊に故坪井先生の忘るべからざる功績であつた。人生を自然の現象の一つと觀るといふことは、可なり修練を要する技能であつたと見えて、まだ其頃までは我々自身の存在は、批判せられるか無視せられるか以外に、單に記述せられたといふものが至つて少なかつた。異民族に就いても長崎見聞の雜書を除けば、僅かに寺島氏の和漢三才圖會が、諸越の古い記録を丸寫しにしたのを見る位のものであつた。是が始めて世界地圖の各部分と照して、そこに今住んで居る蠻民の名と姿と特徴の若干とを、知るといふのだから新らしかつたに違ひないが、實際は我々の歴史などは、至つて縁の遠い學問であり、從うて又いゝ加減粗末に取扱はれても居た。今でも土俗誌學などゝ之を譯して、濟ませて居る人があるのは其痕跡である。土俗といふ言葉は久しい前からの漢語であつて、字面から言ふならば或郷土の習俗、土に即して古來存するものといふだけかも知らぬが、此語を用ゐる人々の心持には、卑しく鄙びた又奇怪なる所作、自分たちならさうはせぬものといふ意味があつたやうだ。是がちやうど又Ethnographyといふ洋語の、當初その本地に於て帶びて居た語感でもあつた。少なくとも人が此學問に期待して居た所は、聽き馴れぬ珍らしい話によつて、一種微笑を伴なふ驚骸の如きものを、味はうとしたのであつた。此類の旅語り乃至は異國趣味を販がうとする者は、當節になつても決してまだ絶滅はして居ない。今後も或は斯ういふ好奇心をたよりに、次第に通俗の間には入つて行くのかも知れぬが、何にしても其樣な限られた目的に遊んで居るうちは、到底まだ我々の郷土研究を、躍進せしむるには足りなかつたのである。

　學藝の發達は如何なる場合にも雙關的であつた。如何に古く始まり永く重んぜられて居た史學などでも、さういつ迄も既に定まつた型を保守することは出來ない。それと同じ理由で前世紀の所謂土俗誌學なども、顯著なる衝動を他の多くの社會科學に與へたと同時に、自分も亦いつの間にか大なる感化を、隣の研究から受けて居るのであつた。殊に此種の知識は歴史、地理又は博物等の記述の學問と比べて、より速かに、一旦の行止まりに到達すべき性質を有つ(473)て居た。始めて周世界の交通が開けた頃には、何を説いても人は珍らしかり、雲一重彼方の國の生活ぶりは、どれ程欺いても人が之を信じ得た。中には珍奇の興味に絆されて、嘘でもよいからもつと變つたことを聽かせてくれと、希ふ者さへ有つたのである。曲亭馬琴が書かうとした朝比奈巡島記一味の讀本は、あれより少し前頃には西洋にも流行して居た。是と今日民俗資料として、我々の持傳へて居るものとの間には、幾ら昔でも當然の堺目はあるわけだが、最初專ら斯ういふ話を齎し還つた人は、老いたる船長で無ければ世間を股にかけて、行く先々に友を得んとする冒險商人の類であつた。此人々の特長は話上手、必要とあらば少しは法螺もまじへ、誇張はもとより幾らでもしようといふ傳統の主義をもつて居た。其上に記憶の誤りと觀察の粗忽は何としても免れ得なかつたが、しかも一方にはそれが此知識を上も無く活き／＼とさせて居た。今日の整理せられたるエスノグラフィーは、之に比べると遙かに面白くなくなつて居るのである。

　大體に意外なる奇事珍聞が消え、不可測なる現象と見られたものから、もとの彩色が段々と褪めて行つた。異種族殊に白人との交際が、年と共にその甚だしきものを改めしめたのも事實だが、第二には又うそと誤解との、發覺したものも若干はあるのである。そんなに宛てにもならぬ記録なら、唾棄して資料のうちに算へなければよいと言ふ者もあらうが、さうは出來ない理由は色々ある。獨り最初の訪問者の不用意なる印象の中から、人類相互の交渉の今と著しく異なるを知り得るだけで無い。さういふ不完全極まる旅人の記録をでも手掛りとしなければ、最早あの時代の蠻夷生活のどんなものであつたかを、確かめる途は無くなつて居るのである。その後幾通りも綿密なる旅行記は公表せられ、或は特に計畫せられた探險隊の、調査しに行つた地方などもあるが、どれ程それが確かであつても、既に變化して居るのだから昔のものゝ代りにはならない。彼も是も遠いものも近いのも、出來るだけ數多くの資料を集めて、比較をして見た上で無いと嘘も看破れぬわけであるが、兎に角に過去三世紀半の切れ／＼の世間話を積み重ねて、始めて我々は全然自分の史書を有たぬ哀れなる未開人にも、尚且彼等自身の無意識の歴史があつて、それが痛切に先づ(474)當人等の幸不幸を支配して居たといふ、發見に到着したのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　今に於て囘顧すればこそ、それは當然過ぎるほどの當然だとも言へるが、僅か二三十年前の土俗誌は、ちやうど其頃の地誌も同じやうに、單なる一册の讀み本として愛讀せられる場合が多かつたのである。特に一つの土人部落を知り、乃至は一つの美しい島に好奇心を起した者が、何か其事を書いたものは無いかと言つて捜し、何だもう此頃は人を食はなくなつたのかと、本意ながる者さへ時々はあつたのである。其種の文獻が今は既に汗牛充棟になつた。愈々一般的の關心を以て、その全部に目を通すやうな人の存在は望み難くなつて居る。出版の分量だけから言ふと、政治論策や人物評の類はもつと夥しいが、是は始めから殘さう爲に書くのでは無い。文藝はあれ程にも不朽を目途としたが、實はごく少數を除いては、悉く忘れてしまふ約束になつて居る。それと或地の或時代の記録として、一つしか無いものとは話が別で、日本は有名なる孫引國だから、格別まだ氣にも掛けぬやうだが、斯う色々の書物が入り交りに散在して居て、それを讀んだ上で無いと何の意見も立たぬとあつては、どうとか整理をして置かぬことには、もう此以上の學問の進歩は期し難くなつて居るのである。

　すべての記述の學問の向ふべき末の落着きは定まつて居る。最初には如何に粗末なものでも先づ問題の提起を歡迎し、次には出來るだけ豐富なる記述、殊に目さきの變つたやうな事柄の、其中から幾らでも拾はれるものが喜ばれる。それからそろ／＼と法螺吹きが排斥せられ出し、認めて眞實とすべきものはどの部分といふことになるのだが、是等は何れも皆學問の阪本、峠の口である。其次はさてどう進んで行かうかは、自然科學の方には既に體驗したものもあり、又色々の段階に於て長々と路草を食つて居る者もある。その悠々たる態度は羨んでいゝか否かを知らぬが、所謂考古學なども兄分の史學を眞似て、個々の遺跡の寸法を取るのに一生を暮す學者が中々多く、しかも我邦にはまだ隱(475)れたる材料が多いから、ほと／＼團栗の池に落ちるといふ、果無し話を聽くやうな感がある。斯ういふ?態をすつかり通り切つて始めて、綜合の研究に進むの他は無いか。はた又もう少しづゝ二つの方法を併せ行ふことが出來るのでは無いか。一生が短かく學問に對する期待の大きい人々には、此問題は決して何れとも御自由にでは無い。

　ところが所謂土俗誌の方面だけでは、土地と種族と事項とが錯雜して、分類が甚だ面倒であつた上に、時代の變化といふものが最近は餘りに顯著だつた爲か、案外に早くその一旦の行詰まりに遭遇して、是非とも次の局面を展開しなければならぬことになつた。今から四十年餘りも前に、英國では既にエスノグラフィーの合理化を唱へた學者がある。唱へただけでは無く人間生活の主要なる問題に就いて、その大體の法則と傾向とを、當時尚乏しい資料に據つて立證しようと試みた名著もある。是は勿論大膽に過ぎた事業であつて、事實又其後の周到なる調査の爲に、幾らと無く反證を擧げられ改訂せられた點は有つたけれども、それが怖いからと言つて、いつ迄も只記述を續けて居る人ばかりが多かつたならば、此學問も結局は平凡なる紀行文學の列に墮ちてしまつたかも知れない。知識の進取的なる捜索といふことは、全く此等の先覺によつて指導せられて居る。今日學術が最も困難なる探險の第一次の目的となつて居るのは、知つてその所得を何に利用するかといふことが、たとへ早合點するにもせよ大よその見當が付いて來たからである。地方の此頃の採集家の中には、打見たる所徒らに博く識り、多く集めたのを以て滿足とする人も有るやに見えるが、實はその目の附けどころが追々に變つて行かうとして居る。少なくともたゞ道樂でそんなことをする者と、是を學問と考へて居る人との境は有る。さうして後の者だけは、何處かに目に見えぬ共同の中心を豫想し、他の一方は依然として割據の競爭のみを續けて居るのである。

　日本で我々が同胞の久しく埋もれたる歴史を尋ね、國を此?態まで持つて來た骨折と不可抗力、もしくは其計畫の適中と違算とを明かにしようとするのは、固より白人たちが傳道乃至は拓殖の爲に、もつと行先地を詳しく知つて居らうとしたのと、目的の重要さに於ては大きな差等があらう。併し其手段として是から採用しなければならぬものは、(476)會て民俗學の成長を助けて、その今日の隆盛を導いたものを、一つの手本とするの他は無いかと思ふ。それを飛んでも無い事だと慌てゝ反對しようとする人は、最初民俗學が純なる記述の術であり、又專ら文化の劣ると信じた者を取扱つて居たことを、餘りにいつ迄も記憶し過ぎた人であり、さうして又諸國のフオクロアといふ研究の、僅か五十年足らずの目ざましい展開に、餘りにも氣の付かなかつた人であつた。幾ら優れた國民でも、史書の著はし傳へざるものを、文字を通して知らうとすることは難い。人に新たに解かうとする疑惑、必ず原因を究めて置かうとする問題の生じた限りは、幾ら英傑であらうともやつぱり可能なる方法を求めなければならない。今までは單に手段によつて目的を制限せられて居たのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　我々はいつも飜譯の爲に惱まされて居る。一度氣まぐれにきめてしまつた用語が、却つて後々の理解を妨げて居る例は、土俗學でも考古學でも皆さうのやうである。フオクロアといふ語なども、當初英國の二三子に由つて採用せられた時の意味と、現在の心持とは餘程變つて居るのみならず、其中間にも亦何度かの推移があつた故に、下手に通辯すればどれかを取落す懸念があるので、どこの國でも今に原の語を使つて居る。私は是がエスノロジーの民俗學と合體して、一つの學問となる時まで、それも格別遠い未來でも無いらしいから、先づ此儘にして置く方が便利だらうと思つて居るが、人によつては之を俚傳學と謂つたり、又は實質に基づいて民間傳承學とも言つたりする。實際はまだ獨立した一派の學では無いのである。始めて此名の學會が英國に起り、次いで歐大陸の各邦に普及した頃には、是も民俗誌と全く同じに、單なる記述を以て共同の目的として居たのである。兩者の異なる所は一方は異種民族、殊に西洋の文明と縁の連かつた者の生活、他方は又國内古風な人々の間に、今尚現存して居る事實を見付けて、それを珍重して記録して置かうとしたのであつた。フオクといふ英語はこの限られたる範圍には當つて居る。單に氣の置けない(477)尋常の人たちといふ以上に、或は無知なる開けない連中Backward people のことだと、説明をした者もあつた。それで家々の年とつた僕婢に注意して見たり、又は偏卑の村里まで、わざ／＼採集に入込まうとした人も多く、始はたゞ好意ある有閑階級の物珍らしがりを集めた迄であつたが、僅かな年月に會員の種類は變つて、もはやさういふ人たちでは維持し難い團體となつた。佛蘭西の方でもこの隣國の新語を避けて、成るべくは民間の傳承といふ語を用ゐんとした人までが、やはりその民間 populaire は上流 superieure に對立する語だなどゝ謂つて居る。しかし傳承はもと各個人の氣質習性によるもので、必ずしも身分境遇貧富の度、乃至は居住地の相異によつて、概括して其分布を豫測することは出來ない。新らしい職業と是を準備する教育とは、勿論人々の注意を外に誘ひ、從うて發露の機會を減じ記憶を薄くする結果を見るが、是とても人により又場合次第で、さう簡單に古風と絶縁して居たもので無いことが、其後段々に認められることになつて、乃ちフオクロアの概念は、少しづゝ變つて來たのである。

　近代の社會諸科學は、此方面に於ても互ひに相啓發しつゝ進んで行つた。最初白人たちは自分の國の民間傳承と、未開蒙昧と稱せらるゝ有色人種の民俗誌との間に、果して必然の一致があるべきことを豫期しても居なかつた。併し一方に人の生ひ立ち、群れて榮えて行く法則に彼是の差の無いことが、安全に證明し得られた頃には、もう此方にも幾つかの動かすべからざる生活技術の共通が見出された上に、更に前代の最もさかしい人種、完全に近い古文化の創設者として、久しく渇仰して居た希臘埃及の住民にも、彼等の背後には亦遼遠なる昔の野蠻時代があつて、しかも其痕跡は永く新しい社會に迄傳はつて居たことが判つて來たのである。この三つの發見の照合は、各自の學問にとつて可なり痛切な刺戟であつた。人は環境のそれ／”＼に異なる中に生息しつゝも、尚案外に似寄りの方角を向いて、後れ先だつ歩を進めて居た。蠢爾として動かざるが如く見えた者の生活にも、尚百年前の面影は尋ねて漸くにして之を知るまでになつて居ると同樣に、所謂二十世紀の文明とても、さう完全には新らしくは成切つて居ない。たゞ後者は其殘留が特に切れ／＼であつて、又比較的他との關係が薄く、たとへば北の屋陰にのみ雪が消え殘るやうなものである(478)故に、それを史料として前代の社會の、次第に面目を改めて來た道筋を突留めようとするには、弘く其比較を在來の歴史圏外に及ぼし、又新たに其方法を打立てる必要があるのである。

　日本はその特殊なる國情を以て、今まで無意識ながらもこのフオクロアと民俗誌との提携に、よほど重要なる媒介の役を勤めて居る。二つの研究の實質的差別は、もはや今日では無いわけになつて居るのであるが、それでも一方は外來の智者、文字を利用し得る白人の手を借りなければ、記録して之を學問の資料に供することが出來ず、獨り他の一方の所謂民間傳承のみが、僅かに自國人の親切と理解力、又國の前代事情を明かにしたいといふ熱心を以て、直接に之を我學問に用立て得るものと認められて居た。其代りには後者の收穫は、通例は甚だ乏少なるもので、大きな根氣を以て少しづゝの異聞を拾ひ集め、それを何等かの斷定まで持つて行くには、?々推測の假橋を證據の割れ目の上に、架けなければならぬ弱點があつた。ところが我々の社會は、今ちやうど改まつて行かうとする堺目に在つて、古い風は尚豐かに存し、それに新らしいものが稍々交つて、寧ろ反映を顯著にして居る。産業革命後の百年を經過し、六七代の兒童を引續いて親にした、學校教育の徹底した諸國とは、外貌に於て既に異なる所があるのである。だから斯邦のフオクロアだけは、いと容易に民俗學の實力を具へ得て、之に立脚して歴史の埋もれて居る人々の爲に、彼等の語らんとする所を語らしめることが出來さうなのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　この今まで別々に育つて來た二つの學問が、單に手を組んで共に働くだけでも大きな事であるのに、日本ではそれが重なつて一つのものにならうとしてゐる。西洋でも早晩は必ずさうなるものと豫期して居る學者は多いやうだが、その實驗にはまだ色々の支障がある。獨逸などは理論のやかましい國だから、夙くから一方を比較民俗誌學Voelkerkunde, 他の一方のフオクロアを一國民俗誌學Volkskundeと命名して、出來るだけ雙方を近づけ又行き通はせよう(479)として居るが、何分にも久しい間の仕事の相違、殊に其對象となつて居る生活に、遠近寒暑の差などが甚だしい爲に、もつと整理を重ねなければ、問題を共通にすることが六つかしさうである。大體からいふと、白人文明國の民間傳承は、或は稍々採集の時期が遲過ぎて居たやうだ。從うて是に對する方法も細かく、又幾分か餘分のもの迄を掻き寄せて、あとで仕分けをするといふやうな手數なことをして居る。だから片端から興味のある事實を、たゞ採録して讀んで居るうちはよいが、それがもう隅々まで一わたり濟んで、さあ整頓といふ段になると、非常に骨折な仕事となつて來るので、此點が自由で又自然であつた異人種の生活觀測と、歩調を揃へ難かつた理由である。ところが我々の今日迄の習俗趣味信仰などは、この手あひの眼から見ればエスノゲラフィー其ものであつた。それを當の國民が自ら觀、自ら理解しようといふのが日本の今後の郷土研究である。他日中華安南暹羅緬甸等に、さういふ學者が嗣いで起るかは知らぬが、少なくとも現在は我々以外に、斯んな形勝の地位に立つ者は先づ無いと言つてよからう。

　たつた一つの必要なことは、折角自分たちの眼の前に豐かに繁つて居るものを採り用ゐるのに、遠い西洋人の及び腰の觀察法を眞似たり、又は古風な道樂研究の跡を追うて、之を土人野人の生活ぶりを見て遣るのだなどゝ、いゝ氣になつてしまはぬことである。無智で教養の缺けた人たちの間で無ければ、前代の共同社會の痕跡は殘らぬものと考へたのは、耶蘇教國の年久しい宗旨かたぎで、それが爲に心に故い事を多く記憶する者が、恥ぢて採集を避けていよ／＼彼等の資料を乏しくした。日本などでは事實は寧ろ反對で、貧しい其日暮らしのやうな境遇に居た人は、以前も何かといふと傳統の拘束を破つて、新らしい時代の風にどし／＼と加はり、たとへ文字の教育には疎くとも、思慮あり感慨あり又若干の指導の能力を具へ、且つ幾分の餘裕のあつた男女が、主として今までは古い慣行を守つて來たのである。從うて多くの優秀なる傳承者、即ち聽く人が有るなら語りたいと思ふ者も其中に居た。是が急激に新たな世界文化を受入れようとする時代に入つて、もしも誤まつてそんな事を知る者は下等だといふやうな感じを與へたとしたら、其結果はまた略々明白である。是も事によると歐羅巴諸國の失敗を眞似て、わざ／＼よい種を絶滅させてから(480)後に、時おくれて捜査の苦しみを嘗めることにならうも知れぬ。

　範を外國に採るといふことは、通例は今は受賣の申しわけになつて居るが、それをするならば是非とも多くの意見の最後に決した所を見て、少なくとも失敗の模倣だけはせぬ方がよい。民俗學とフオクロアと、この二つの學問は日本でならば簡單に提携し得るが、それも雙方の長處と弱點が、今までの經驗によつて大よそ明白になつてから後のことである。さうして第二のものゝ他の國々での心細さは、求め方が惡い爲に獲るより前に消えて行くことであつた。此點こそ殊に我々の參考にしなければならぬものである。一般に時が遲かつたといふ憾みは如何にもあるが、それよりも研究者が自ら傳ふる者の心になり得ずして、いつも高い處に乘つて別世界の事物を觀るやうな、いやに他人行儀な關係を保つて居たからであつた。歴史が是だけ進んだ民俗學の成績を、まだ何としても利用し得ないで居るのも、やはり亦この惡因縁の絆しであり、日本でフオクロアがともすれば道樂者の天國と看做されるのも、言はゞ單なる先例のはき違ひであつた。

　こゝで一つの譬へを引くことが許されると、幾分か私の話はし易くなる。民俗學とフオクロアの二つの學問の對立は、金礦と砂金との關係によく似て居る。雙方尋ね求めて居る目的には異なる所無いのだが、國によつて其存在の?態が別である故に、是まではちがつた採集法を試みなければならなかつたのである。一方は知識が一つの層を爲し、脈を辿つて順々に掘り下げて行くことが出來たに反して、他の一方も場處だけは大よそ定まつて居るとは言へ、しば／＼時の力によつて下流に押流され、且つ埋没して大部分は知られずに居る。或時はクロンダイクのやうに急に出盛つて、計畫を立てゝ取る樣な場合もあるが、永くは續かぬのが普通であつて、其後はたゞ常住の注意を拂ふ者のみが、稀に意外な福運に打當ることが有るだけである。さうして此方にはもと／＼分布が稀薄なのだから、無益な勞力がどうしても多く費されがちである。礦山の技術は此頃になつて進んだ。一旦其所在に取附きさへすれば、元々物が有るのだから計畫は幾らでも立つのだが、それでも尚天然の事情によつて、現に有りとは知りつゝどうしても手の屆かぬ(481)ものがまだ殘つて居る。ところが或土地の砂金取りたちは、今まで相應の獲物があるので、ついうか／＼と表面の採集を續け、やたらに土石を掻き上げて踏み付けて居たが、やがて失業も程近くなつた頃、そこが金山の一つの露頭の手附かずにあつたものだといふことが知れたとすればどうであらう。誰だつて一方で無駄にしようとして居た根氣と慾とを、此方へ振向けるのが自然では無いか。と先づ是まで譬喩を持つて來て置いて、此次は雙方の採取手段の、長處と短處とをもう少し詳しく考へて見ることにしよう。

　

(482)　　　東北と郷土研究

　

　私の演題は東北と郷土研究。この郷土研究といふ語は、今から十七八年も前に、私たちのごく小さな團體で、始めて用ゐた名稱でありまして、正直に申しますれば、當時は自分どもにも、まだ範圍をはつきりと、きめることが出來ませんでした。

　ところが、それから何年も過ぎて、漸く心付いて見ると、歐羅巴の諸國でも略々同じ頃から、同樣な運動が既に始まつてゐるのでありました。やはり佛蘭酉では之をレジオナリズムと謂つてをります。レジオンは土地の一區劃のことで、直譯すれば地方主義であります。現に日本にもさう謂つてをる人がありますが、それでは愈々趣意がわかりません。つまりは歴史即ち「古い事」を、地方々々で研究して見ようといふ運動であります。

　それだけならば、もう以前から實行してゐるではないかと言ふ人もありますが、郷土が自ら自分の前代を知らうとするには、中央で行はれて居る今までの方法を持つて來たのでは足らぬのであります。別に地方の爲の新しい手段を見付けなければならぬ、といふのが所謂地方主義の眼目であります。その理由は至つて簡單に説明することが出來ます。

　第一にはより多くを知らうとする要求が、我々の中にあらはれたことであります。歴史の學問の成長して來た跡をふりかへつて見ますと、何度でも行詰まつては又進む路が開けました。我々の先祖が、是だけ教へて置いてやればもう十分であらうと思つて、書き殘してくれた分だけでは、子孫は中々滿足しませぬ。ちやうど子供のやうに、「それ(483)からどうしたの」と尋ねようとします。さうして根氣よく尋ねてゐるうちに、どうやら少しづつ分つて來るので、一層この好奇心が強くなるのであります。

　其中でも殆と世界の流行ともいつてよかつたのは、「國の始」を知らうとする物ずきに近い念慮であります。ダーウィンが人類進化の説を立てます迄は、人間は今から六千年ほど前に、突然に作られたことになつてゐました。さうでなかつたといふ事がきまつてから、昔が非常に遠くなりました。日本でも天孫の御降臨は、どこか九州の海岸に御上陸になつたことだらうといふ事になつて、高天原はどこだといふ穿鑿が一時盛んになつたのでありますが、一方にはそれよりももつと大切な問題、即ちこの平民の家々の以前の生活はどんなであつたかといふ方に、又は我々の親はどうだつた、祖父はどうだつたといふ方に、言はず語らずの間に人の疑問が、傾き寄つて來たのであります。

　日本は驚くべき書物の多い國で、勿論其中には百姓の事も丸々書かれてゐないのでは無いが、割合からいふと誠に少ない。わざわざ彼等の事を書かうとしたものなどは殆とない。そこで苦勞をして偶然の記録の中から、少しでもこの多數無名氏の生活を、明かにして見ようといふ歴史家があらはれたのでありました。

　江戸の文明が段々に町人の學者を作り、其中から特に此方法に重きを置く人たちが出ました。和事始、本朝百事談、下つては奇跡考、骨董集の類の流行がありました。方法として最も精密なるは嬉遊笑覽、畫證録の類であります。が此等は殘念なことには都市近代の生活に重きを置き、流れては遊び場の歴史にばかり興味をもつに至つた。所謂軟派さかえ硬派ふるはず、それが續いて今日に至りました。私たちから見ますると、是も所謂耳を輕んじ目を重んじたからであります。書いたものに頼りすぎたからであります。

　地方主義の出現は、言はゞこの第二段の行詰まりを解かうとしたのであります。土地を區劃して歴史をしらべようとすると、何處の國でもすぐに文字資料の缺乏に心付くといふのは、讀書きが中央文化の産物であるからであります。近頃の地方人は、好んで人物の地理的分布を知らうとしますが、もし同一の方法を以て文學地理、乃至は記録の地理(484)を調べて見ますると、假令三府（その中でももう京大阪はずつと少ない）のみに限られぬ迄も、書物の甚しく城市に偏してゐるのがよく分ります。即ち多數平民の過去は、僅に心ある外部の人の觀察によつて、稀に偶然に書殘されてゐたのであります。之を唯一の材料とすれば、心細い地方史の出來るのは當り前であります。

　私たちは最初寫した本ならばまだ田舍にも澤山あり、それがたゞ世間へ知られてゐないだけだらうと思つて、隨分根氣よくさがしたのであります。維新の際の舊家没落で、さういふ書き物の散つた事も事實ですが、あつた所でやはりそれだけでは足らなかつたのです。近頃仙臺叢書南部叢書の類の古書覆刻事業が行はれて、却つてさういふ感じを深くしたのであります。

　考へて見ると是はさもありさうなことで、つまりは元あまりに平凡な有ふれたことであつたが爲に、誰も書殘さうといふ氣にならず、それだから農民の事といへば所謂異常な記録、百年に一度もあるかなしの飢饉とか暴動とかの話のみ詳しく殘つてゐるので、ちやうど士族の家のことといへば戰爭と討死の話ばかり傳はつてゐるのも同じであります。私の近頃の經驗は所謂異國叢書の價値であります。異國人には珍らしいから、どんな平凡なことでも書いてある。これほど日本に史書は多いけれども、ケムペル・ツーンベルグ等が書留めてくれたやうな、道中の事實を記述したものは一つも無い。異郷の旅人の見聞録は此意味で尊いのであります。

　しかも東北は此點ですらも惠まれてをりませぬ。がそれが又我々東北人に非ざる者迄が、東北將來の郷土研究に深く興味を抱く所以であります。一般に我々は外人の觀察を見くびつてゐる。實際又をかしな誤謬も少なくない。それでゐて愈々地方主義の運動に取かゝると、到底その價値を無視し得ないのは、一言でいふならば普通の學問では省みようとしなかつたものを、特に旅人であるが故に注意してくれたからである。さうして歴史に對する今日の世の中の要求は、その昔の旅人のやうな、何にでも注意し、何物をも書殘さうとした心持を、土地に生れた人々にも持たせようとしてゐるのであります。私の知つてゐる限りでは、前人の書殘してくれたものでも、我々の手本になるやうな紀(485)行は少ない。今記憶に殘つてゐるものに、遠山氏の未曾有記がある。文化初年露西亞の船が來たとき、交渉使として蝦夷に渡つた紀行だが、かなり親切に沿道の見聞を録して居る。たゞ其路筋が所謂御奉行樣のお通り筋で、送迎が煩しく障害が多く、又見せたくないものを見せぬ旅行であつた。これより僅か前の旅行記に古川古松軒の東遊雜記がある。これはさうえらい人でない故に側面から物を見てゐることが出來たのみならず、視察が目的であつたので、會津の御藏入りなぞといふ引込んだ地方にも入り、又やゝ時日を費して調べてあります。

　併し斯ういふ類の旅の人の弱點は、次から次へと新しい土地へ、急いで移つてしまふ事であつた。町に住む人こそいつも興奮してゐるが、村の人の心境氣分には大きな波動がある。祭とか祝日とか家の大事件とかの時と、平素とは心理?態が丸でちがふ。殊に祭や踊の過ぎた跡へ通り合せると、丸で百姓は火の消えたやうに遲鈍になつてゐるものである。偶然に斯ういふ所を見た人の説が、田舍を誤つて判斷した害は大きなものでありました。此害は現在でも尚これを認められます。つまり地方を知るには、やゝ久しい期間ぢつと見てゐることが、何よりも必要であつたのであります。

　今日は既にさういふことの出來る人が多いが、もとはそれが稀有であつて、多數の學者は同じ空氣の中に浸りすぎて、どの點が傳ふるに足るかを知らずに過ぎたことは、丁度我々の祖先が彼等の平凡を以て傳ふるに足らずとして、何等日常生活の記録をも傳へなかつた爲に、世が改まると早く知れなくなるのと同じで、此頃東京で我々の同志者が大へんに珍重してゐる眞澄遊覽記などは、此意味に於て得がたき材料であつた。前にいつた古川古松軒などよりは又十數年も前に、東北日本を遊歴して、綿密なる畫と見聞録とを殘してゐる。さうして行く先々の田舍に、時としては三月も半年も留まつて、其生活をぢつと見てゐた。東北の雪中生活の殆と唯一の記録であります。津村正恭の「雪の古道」も此頃漸くあらはれましたが、これも略々同じ頃に秋田に來て、丸一年以上の觀察をしてゐます。ただこれは秋田の城下にばかり滯在し、そこの事と其往復の道筋だけを見たに過ぎぬ。之に反して眞燈の記録は山形秋田の二縣、(486)南部津輕の殆と全部に及び、各地の重要なる季節行事を觀察し、且つ比較をしてゐる。最近に此紀行の初の部分を寫眞版にして出しましたが、これは丁度天明の淺間噴火のすぐあと、大飢饉のすぐ前の、信州北半分の農民の生活を描いたもので、信州の若い郷土研究家たちは之を讀んで、「昔」といふものに對する考へ方が完全に一變したといつてゐます。併しこれほど有意義な記録でも、及ぶ所は甚しく限られてゐる。人が一代の間に足跡をつけ得る區域は、決してさう廣大ではあり得ない。地方を細かに切つて見てゆくと、丸つきり一つの記録をも持たぬ、しかも古くから確かに存在したといふ部落なり家なりが、少なくないのであります。土地を斯ういふ?態にのこして置いて、到底本格の國民史を學び得たことといふことの出來ぬことは、私の所謂郷土研究の着手によつて、始めて明かになつたのであります。

　前に申す如く、古くから生きて活?に働いて居て、しかも書物に書き殘された材料の丸つきり無いといふ郷土もあることに心付きますと、本が無いから又古文書が無いから、歴史の研究は御止めだといふことが、到底出來ないといふことが感じられて來ます。是をどうとかしようといふのが、レジオナリズムの一の目的である。此運動が決して事を好む我々ばかりの氣まぐれでなかつたことは、ごく最近の考古學、人類學などの?況を御調べになつてもよくわかる。始めはたゞどこから出たかも知れない土器の把ツ手や曲玉、鏡の類を無暗と貪り集めて、これは古いのそれは稍々新しいのと、骨董くらべを能事としてゐた考古家が、個々の地方的事實のあまりにも著しい相違に、何等かの説明の必要を感じ、形式や手法の現代との關聯を考へずに居られなくなつたのも、全くこれと同じ傾向であります。

　人類學の方でも此頃はもはや天孫族だの出雲族だのといふ大雜把な語は使はなくなつた。日本人位よく周遊移動した國民も少ない。如何なる東北の邊隅の村でも、一色ばかりの苗字から成立つた部落は殆とない。婚姻の爲には寧ろ異分子と接近して行く必要を認めてゐたらしい。海から移るを得意とする種族、山を越え嶺を傳はつてばかり動いたものもあれば、落付いて耕作ばかりして居られぬ家族も多かつた。此人々の配合の如何によつて、生活相がきつと變(487)つてゐる筈であります。それが熱心にしらぺて行くうちには、わかるかも知れないといふ希望、その希望の光が明るくなつてから、我々の學問は急に活氣を帶びて來たのであります。但しまだ是だけでも不足なのは、今までの研究が第一にあまりに上代に偏してゐる、第二には其捜索は田舍の隅々に屆かぬことである。性慾學の大家としてのみ日本には知られてゐる、ハブロック・エリスは、曾て其隨筆中にこんなことを言つてゐる。遺跡遺物の學をして人類運命の解説者たらしめんには、地球の表皮を深さ約二丈か三丈、全體に引きめくつて見なければならぬと。それはやゝ無理な難題ではあるが、少なくとも考古學の取扱つてゐる遺物なるものが、縱にも横にも甚だ僅かなる一標本、所謂大海の一滴、九牛の一毛であるといふ謙遜の態度だけは必要だと思ひます。現に遺物といふ名こそ與へられませんが、人類學の取扱はうとしてゐる「我々活きた人間」も亦一種の遣物である。建て替はつても家は元の形、毎日炊いて食べても飯はもとの飯なると同樣に、これから日の光を見る我々の赤ん坊とても亦遺物である。原因が遠く數萬年の昔に無かつたなら存在し得ざることは同じである。この意味に於て我々は、今日の日用言語といふものを最も貴重なる遺物に數へてゐる。新しい所謂改良と統一との理由を以て、もとからあつたものゝ意味を無視しようとする運動を戒めて居ります。從つて方言の輕率なる「匡正」を、悲しむべき天然記念物破壞と認めてゐるのです。

　言語の利用應用には、極めて容易に其背後に動いた人の心情を窺ふことの出來るものがあります。矢の根石や石棒や角の釣針が打つて殺さんとする心、取つて食べようとする願を語るよりも、今少しく精密に人の心持の屈曲、陰影迄を語らうとする。文法語法といふ一般約束の外に、小さな群又は家族だけに申し合せられた言ひならはし、物言ひ（パロール）や言葉癖、それから諺が出て來る。諺は最も人望ありし一種のパロール、即ち人を動かすの武器でありました。ハナシは新技術で、此技術はもとは知らぬ者が多かつたのであります。

　ハナシに不得手なものが諺を暗記するのは、弓を引かぬ人が鎗を稽古すると同じでありました。神靈異類を動かす武器としてのとなへごと・まじなひの語、他の人にかくすと隱さぬとが、唱へ言と諺との差でありました。相手を限(488)るから集注の力が強かつた。大人が其力を信じなくなつて後は、主として少年の始めて言語を練習せんとするものが之を樂しみました。彼等はまだ其效果を半ば信じてゐます。だから其唱へごと即ち童詞には感興が乘つて、小歌と甚だしく近くなるのであります。多くの地方の民謠集には、この童詞を童謠と一つにして載せて居ります。特徴は言葉が命令形又は勸誘形になつて居て、例へば雁に向つて棹になれと言つたり、螢來い水飲ましよと言つたりする類が多いのですが、小歌の方にも之に似た喚びかけは多いのであります。外國でもシャンソン即ち語り歌に對するシャンソネット即ち小歌といふものには、必らず相手のある會話型が多く、詰り唱へ言と稍々近いものでありましたが、日本では殊に兩者が接續して居たのであります。西洋の開けた國に行つて見ますと、勞働と歌とは既に全然袂を分つてしまつたやうで、從つて我々の邦を珍らしい例として見て居りますが、日本では今でもまだ小歌の最初の用途、即ち群の行動を統制し、力と興味とを一つの目標に集注させる趣旨は至つて明白であります。田の草取りのやうなばら／＼の仕事に迄歌があります。臼摺り石搗き木遣りの如き、力の統一を必要とするものは尚更であります。最も氣儘な又民謠の浪費者ともいふべき盆踊りと酒盛にも、同じ目的の歌は未だに殘つて居て、「踊りをどらば品よく踊れ」とか「そろた／＼よ踊り子が揃うた」とかいふ歌は、寧ろ踊りの初めのまだよく揃はぬのをそろはせる爲めに用ゐられ、又酒盛りの方で言ふと大いに飲ませようとする者が、「さした盃中見てあがれ」とか、「御酒飲む人しんからかわい」とか歌ふと、もう飲めないと云ふ方では又「ようたよた／＼五勺の酒に」などゝ歌ふのであります。要するに小歌も亦その起りは計畫あり且つ效果ある言語の應用法の一つでありました。

　それから又一種の利用法は謎であつて、是は直接には一寸意味を取りにくゝした點が、まじなひや大人の唱へごとに似て居ました。現在あるものは三段式、解いたゞけではまだ十分で無くて、更に「心は」といふ評註を付しますが、もとは始めの二段だけで「山で來い／＼畠でいや／＼なあに」「薄の葉に芋の葉」、或は「いる時にいらぬ物、いらぬ時にいる物なあに」「風呂桶の蓋」といふ類の簡明なものばかりでありました。東北ではなじよ〔三字傍点〕立てろなどゝいひ、つ(489)まりは「何ぞ」といふ問ひの語を名にしたのであります。これは人がどの位まで神秘幽玄に通ずるかを、試みんとした一つの作法で、同時に又之を學んで、逸早く精靈の語を理解しようとしたことは、恰も今日イタコの隱語を知る人あり知らぬ人があるのと同じであつたらうと思ひます。即ち現在は遊戯になつて居ても、最初は人間の特に嚴肅なる心意の働きを代表したものであつたらうと思ふ所から、今も尚我々は其遺物を粗末に看過せぬやうにして居るのであります。

　何れの民族の信仰でも、神靈の豫言は常に此樣に澤山の餘地を取り、何とでも解説注釋の出來るやうになつて居て、その間に神人即ち仲介者の働く區域が設けてありました。今日の言葉でいふ思想上の貴族が、謎を大切にしなければならなかつた理由はこゝにあります。それと同時に一方には今迄の出來事、多くの人々と共に見たり聞いたりしたことは、出來るだけ丁寧に又忘れぬやうに、詳しく力強く之を説くことも亦言葉の一つの技術であつて、後漸くこれを專門とし特技とする者が出來て來ました。祝詞も經文もその内容から言ふと大部分は歴史でありましたけれ共、目的が信仰の復習である故に、これも最も美しき語を選んで、聲清く節面白く言ひ現はさうとしたのであります。さうして最初は多分年に一度、定まつて之を繰返すべき期日がありました。カタリといふ語には多數共同といふ意味があつたやうです。方言では子供などが共に遊ぶのがカタル、男女の婚姻もカタラフ、此頃ではカタルは最惡の意味にまで退歩して居ますが、もとはこの平凡にして苦惱多き凡人の生涯に於て、昔をカタルほど心を清く高くする樂みは他に無かつたのであります。我々の祖先はこの怡悦の記念を抱きしめて、心輕々と人生を辿つて行きました。一言で云ふならば是が文藝の二葉であります。何れの藝術も大か小か、この前代の信仰生活から養分を吸ひ上げて居ないものはありませぬが、中でも我々の物語は、其歌曲の大根を奧深く神祭の式の中に根ざして居るのであります。それが形の整つた外國の信仰を受入れ、一方部曲統一の事業が神から只人の手に移ることになつて、もはや大なる力を是に托さなくなりましたが、曾て精魂を打入れて實驗したところの、神話の面白さだけは忘れることが出來なくて、わざ／＼(490)機會を設けて之れを思ひ出さうとしました。是を自分等は神話の通俗化と謂つて居るのであります。

　神話の通俗化には三筋の別れがありました。これを當世風の語で、假に詞曲説話傳説と謂つて居ります。詞曲は即ち語り物、淨瑠璃祭文又は平家などの如く、主として外形の方から古風を受繼ぎ又進化させたもので、是も始のうちは本地とか由來縁起とか名づけて、信仰と關係のあることに限られて居たものが、後には歴史傳記もしくは自由な空想の作物をも盛ることになつて、全然内容は新たになりましたが、人が集まつてそのカタリを聞かうとする心持だけは昔を遺して居ります。第二の説話は之と反對に、古い世の語り事を形式には依らず、手短かに内容ばかりを傳へようとするもので、人によつては之を神話の破片又は零落形と考へて居りますが、實は古今を貫いて居るのは事柄の實質のみであります。ハナシと云ふ日本語は中世以前にはない、又その技術も元は無かつたのです。目前の用だけを足して居た我々の會話が、例へば私の此話のやうに、長たらしい續き話をまかなふやうになつたのも、實はこの神話の内容の面白さが促したところの進化であらうと思つて居ります。説話の特徴はいつも現代語を利用することで、例へば如何に古い昔話でも其形からいふとはや百年前とは變つて居ります。其上に説話には又進んだ内容改造が行はれました。古い神話を其儘ハナシにして殘して居るものは先づ無いと言つても良い。面白いといふ部分が時代と共に移り、又時代の要求によつて、其部分のみが成長し進化しました。それの少ないのを古い昔話といふだけであります。

　昔話の成長といふことも、お話しをすると長くなりますが、つまり神話であつた頃から既に目的は決して單一でなかつた。その一つ／＼の用途が以前よりも一段と強くなつて來たので、例へば神に愛さるれば幸福だといふことを示すにも、どうすれば愛せらるゝかといふと、素朴と正直、勇氣と健康、智慮と多辯といふやうなことを列擧してその特徴が段々詳しく語られ、幸福とは何かといふことも深く考へると寶物金銀、よき妻と大なる家屋敷、又は奇術や大力といふ風に空想を伸ばして行くうちに、時代によつて人の興味を注ぐ點もかはつて來ます。改めようとしないでも自然に改まり、しまひには元の形に遠くなるのであります。凡人殊に東北の田舍等に住む人達として、殊に自然なる(491)變化は、生活不安に打勝つた奇談、無邪氣と勤勉が賞せられた話、斯う云ふのは最も耳に快いから何度も聽き、聽かせるうちに次第に精彩を帶びて來たのです。それから笑ひ話の多くなつて來たことも、亦近世の一現象でありました。敵に勝つた喜びは敵を嘲ける情となり、更に轉じては負ける者を笑ふ話となりました。其以外に又一種大話と稱して、有り得べからざる幸福を空想して笑つたなどは寧ろ同情に値します。斯ういふ笑話は勿論非常に増加しました。而もこれが發達し成長したものに過ぎぬといふ證據は、いづれも尋ねて行くと其最初の話の種があつて、一つとして個人の天才によつて創造せられては居ないのです。其上に昔話をする時期はいつでも自由であつてよいのですが、やはり是にも神話と同じく季節時刻、例へば冬の夜の庚申とか日待とかの、人の集まる際に限られて居りました。

　それから形式の方も詞曲の如く強ひて古いものを守らなかつたといふのみで、是亦以前の趣意を受けたかと思ふ幾つかの約束がありました。私達が昔話といふ名をよく使ふのは、別に英語でいふオールド・ストリーズを譯したのでは無く、日本の民間説話には通例必ず其始めに「昔々」といふ一句を附けるからであります。東北では現にそれ故にムカシ／＼〔五字傍点〕、又はムカシコ〔四字傍点〕といふ名があります。此一句は伊勢物語や今昔物語宇治拾遺以來、近くは江戸時代初期の説話集にも用ゐられて居りまして、たとへ神話から直に移したので無くても、亦一つの昔話の形式でありました。話の終の文句にも、やはり「これでどんどはらひ」とか「語つても語らいでも候」とかいふ類の、定まつた文句がありました。だから斯ういふ定まつた形を伴なつて話さるゝ話といふ意味に、昔話といふ語を我々は使ふのであります。實質からいふと、現在のところでは世間話といふものと對立して、人が實際ではあるまいと思ひつゝ樂しみに聽く話と言つてよからうと思ひます。尚この序に一言したいのは、人のよく使ふ採集童話と此昔話との關係であります。私は童話はたゞ童兒に向く昔話といふ風に解して居ります。單に親の古衣を縫ひ直して子供に着せたのが童話だと思つて居ります。親が全然そんな縞柄のものを着なくなつた爲に、最初からの子供服の如く誤つて人が考へるのであります。以前には兒童はたゞ昔話の傍聽者であつたのが、世間話が多くなると共に大人は昔話のくりかへしを好まず、次第に(492)聽衆の中心が兒童に移つて、結局は「昔々ある處に」が童話のみの特徴の如くなつたのです。それは大して古いことでは無いと思ふのであります。

　右の二つのものゝ外に神話の第三の崩れとして傳説があります。傳説には昔話が保留して居るだけの第二次の形式も無く、又定まつた順序もしくは中心を爲す文句もなく、單に大昔からの語り事の實質のみを傳へ守らうとするのであります。其代りには古い信仰には最も忠實で、事柄それ自體を信じて行かうとするのであります。世の中が變化すると古傳の全部は信ずることが出來ず、又信ずる必要も無い。そこで選擇が行はれて傳説は破片となり易いのであります。その信ずる部分といふのは、必ずしも外から觀て眞實らしいか否かではありませんでしたが、總體に今までの人の考へ方は少し我々と違つて居て、物がある以上はそれが證據だといふやうな心持がありました。記念といふ語が大よそ此事情を示して居ます。即ち何か注意すべき實物が目の前にある間は、之に伴なふ古い言ひ傳へを本當だと思ふことが出來たのであります。傳説の最も根強いものは、名木・名石・山と川・池沼・古塚などの傳説で、是に次では村とか部落、個々の家にも其一群だけで信ぜざるを得ない傳説がありました。多數が忘れようとして居ると獨り覺えて居る人、又新たに教へてくれる人がありました。それが凡人の單なる記憶であつた場合には、却つて誤りは少ないのですが、若し夢の御告や巫女の口寄せの如き、今の人ならば信じない、昔の人なら信じたものであつた時には、それが意外の變化を見せます。名僧とか學者とかいふ尊敬する人々の補充してくれた場合にも、傳説は變つてしまひます。つまり信じたい心持の方が先で、信ずる事柄は?々後から來るのであります。其結果として、我々の傳説の數は何萬といふ程あつても、大抵は各地共通であつて、一地方毎にそれを纏めて、略々上代の神話に復原して見るといふことが出來ぬのであります。傳説の歴史と違ふ點は爰にあるのですが、もと／＼信じて過去の事實なりとして居る爲に、其土地限りではいつも歴史よりは有力であります。各地の綿密なる比較によつて、段々にその眞の意義を明かにするの外はないので、所謂レジオナリズムの最も仕事の多い題目であります。

(493)　以上幾つかの言語現象を總括しまして、假に我々は言語遺物又は口承無形遺物と名づけて居りますが、是が今迄の遺物學者達に尤も疎外せられて居たわけは、鏡の破片や石器土器のやうに、こち／＼と昔のまゝの形を殘して居ないからでありました。併し變化をいふならば石器だつて變化をして居る筈であります。ましてや金屬品の如きは、多分の推想を加へて見ないと到底元の面影は浮びません。所謂無形遺物の錆と腐りも確かに地方により、又時代によつて最少限度迄之を防止して居り、又同じ位の容易さを以つて贋物新物と區別し得られたのであります。本居大人の玉勝間を始として、古語古意の田舍に殘つて居ることを感歎した學者はありましたが、さてそれを如何に學問に利用しようかを、考へた人はなかつたのであります。都市と農村、中央と東北などの、區劃して別途に考究せられてよい理由は爰にあります。學問は以前殆と都會に服從して居りましたから、是に携はると忽ち權力を以て田舍の無形遺物を改造します。傳説は殊にその干渉を受けました。説話も亦文藝の影響で色々の潤飾を受けましたが、さういふ天才を持たない一地域の管理者は、かへたくとも變へられないので?々壞れたまゝで保存して居ります。少なくともそれが土地々々でちがつて居るのが尊いのです。是を比べて見ることは、凡そ自分の事實を知つてからの後です。沖繩の少壯學者故佐喜眞興英君は、南島説話の採集に際して、傳承者の二つの種類を分けました。一つは我々のいふ故老型、他の一つは即ち天才型です。これが何れの民族でも自然に文藝の二つの流れになつて居りました。其一方の衰滅と他の一方の大勝利が即ち新時代であります。さうして日本は今ちやうど大阪夏の陣の?態にあるのであります。

　この言語遺物に對立して今一つ行爲遺物といふものがあるのですが、時間がありませんからそれは詳しくは述べません。從來の考古家が考へて見ようとしなかつたもの、即ち全體の民間無形遺物を、我々は二つ又は三つに分けて居ます。其中で一言も土地の言語が解らないでも、直ぐに目につくやうな部分を風俗行事又は行爲遺物と謂つて居りますが、是が外國の今日迄のエスノグラフィーと略々一致します。即ち白人等が丸で自分等とちがつた種族の中に入つて觀察した見聞を基礎として、何物かのサトリを得ようとする學問であります。日本は誠にいやな國で、こんなエス(494)ノグラフィーを白人から學んで、其方法を自國同胞の考察にまで宛てようとしました。さうしてそれを土俗學と謂つて居たのであります。私は感情上この土俗といふ文字を非常にいやに思つて、力めてこれを避けようとして居ります。さうしてその代りに民俗誌・民俗學といふ語を此エスノグラフィー及エスノロジーの爲に宛てたのであります。斯うして自國人生活の民俗誌を考へて行きますと、其中には外國人にでも早く解る民俗と、大よそ同國人と同じ位の言語知識を得た上でなければ理解し得ないやうな言語遺物と、單に言語に通じただけではまだ呑込めず、同じ空氣と食物で何百年も共に育つた者だけが、やつと捉へ得るやうな純無形の遺物があることが、誰にでも明白になります。比較は何れの場合でも必要でありますが、主として自國の生活、同胞の文化を觀察し解説するこの自國民俗學、英語でナショナルエスノロジーとでも名づくべきものゝ、特に大切なることが分つて來るのであります。獨逸では既に諸國民俗學と、この自國民俗學とを區別して居りますが、其他の國ではまだ其差別を立てゝ居りません。さうして單に此我々の企てゝ居る部分を、英國人などはフオクロアと謂つて居るのであります。

　フオクは英語では凡人大衆のことです。フオクロアは直譯すれば、庶民生活誌とでも云ふことになるのであります。最初には對岸大陸の國々では、嫌がつて此英語を眞似ませんでしたが、重寶な且つ印象的な語なる故に、次第に讓歩して今ではフオクロアは世界語のやうになりました。佛蘭西でもポール、セビオなどは盛んにフオクロールといふ語を使ひ、伊太利にも西班牙にも、フオクロロといふ雜誌もあり學會も出來ました。つまり此名稱の採用と否とには拘はらず、とにかく自國の民族を、同胞の感覺を以つて學ばなければならぬといふ必要が、認められたのであります。

　英國自身に於ても、此フオクロアと云ふ語の出來たのは僅かに八十年前の事でありました。それ迄は單に民間故事ポピューラーアンチクイテイなどゝ稱して、有閑階級の道樂の樣なものであり、此語が出來て後も、猶暫くの間は隨筆の樣な智識のみが跋扈して居りました。それが一たびレジオナリズムの機運到ると共に、各地各種族の手分けと相互援助とを以て、追々に系統が立ち、個々の國民の史觀を改造して行つたのみならず、殆と人類全體の文化總史を究(495)める爲にも、到底歐米人が黒人やメラネシヤ人を來て見る態度では足りない。少くとも其中の一人に代つて、自ら知るだけの心掛をもつ必要があるといふ事になり、爰にフオクロアは民俗學の唯一の研究方法とならうとして居るのみならず、同時に又日本民俗學といふ樣な、今迄聽きつけない名目さへ可能になつたのは、確かに二十世紀の一大飛躍でありました。何の學問でも最初名が出來た時に範圍目的が確定して、それつきり動かぬといふものはありません。最初は道樂であらうとも、後には立派な一つの學問になり得るのであります。フオクロアなどは實に良い一つの手本でありました。

　今から丁度二十年ほど以前、私が佐々木喜善君の談話を整理して遠野物語と題して世に公にした頃は、何といふ珍らしい話題ばかり多い地方だと、友人達は皆な目を見張り、私も亦心窃かに黄金の鑛脈にでもぶつつかつた樣な感じがしました。それから御互の熱心な比較によつて、其中の一つでも未だ東北特有と云ふべきものは無いと考へられるに至り、單に陸中遠野がどこよりも早く注意せられ觀察せられたことのみを、異數と認めてよいやうになりました。郷土研究が獨占割據の學問でなくして、寧ろ其反對の事業だといふことが次第に解つて來たのは愉快であります。外國でも是と同樣に、最初はある偏卑な一隅が、稀有に故事に富むといふことから注意を引きました。事實所謂民族主義的感情に促されて、郷土研究は起つたと言ふてよいのであります。伊太利ではシシリヤの一島に此學問は特に盛んであり、北はバルチックの沿海諸國、殊にエストニヤやフィンランドの如きは、殆と之を以て民族意識の覺醒を目標として居るのであります。

　フィンランドでは曾て文書記録の舊事を傳ふるものなどは無かつたのが、新たに政府直接の力を以て、四百萬語の辭彙と二十萬句の歌謠とを輯録しました。さうして最後の收穫は北方各種族間の傳統の共通を顯著ならしめたのでありました。佛國でも西北のブルターニュと、東南のサボアとは、兩端に相交渉せざる種族の如く考へられ、從つて各獨立した地方研究が起りましたが、それが進んで行くと却つて太古以來の兄弟關係がわかりました。野獣と人との中(496)間の如く前には思はれて居た熱帶地住民すらも、是と歐洲の古代住民との間には考へ方の一致した點が多く見つかつたのであります。ましてや東北の住民は單に同じ人種の古くからの移住といふに過ぎません。それが同じ文化を保留して居ることは少しでも意外で無いのですが、しかも類似は寧ろ東北と中央との間よりも、遙か離れた九州南部、それから更に南の島々との間に何倍か濃厚であつたことが、近年あの方面の調査によつて判明しました。今までは單に互ひに相知らなかつたゞけであります。是が從前の訓詁の學風、若くは多少は改良しても古史古文の註解ばかりでは、眠れる者の目をさますことが出來ぬのは疑ふ所もありませぬ。私のいふ地方主義が、今後大いに盛んにならなければならぬのは當然であります。

　時間があつたら今少し東北と南海との一致共通を説いて見たいと思ひましたが、今囘は見合せて別の方法で發表するの他はなくなりました。此頃私の主として力を入れて居るのは地方言語の問題であります。中央部の廣い區域だけは既に改まつて、北と南の端ばかりが同じ方言を使つて居る例は、音韻にも語法にもありますが、殊に單語には著しいものがあります。私は是を方言圏の説で解かうとして居ります。蜻蛉をアケヅ、虎杖をサシ、踵をアクド、眞綿をネバシ、可愛をムゾといふ類は、奧羽の更に奧と九州の外側とだけが共通であります。説話や傳説の方面でも先年私の公表した炭燒長者、赤子の運定め、又は黄金の瓜などの話は總て沖繩にもあり、又東北にも及んで居るのです。東北の中でも奧南部が最も古いものを多く保存して居るやうであります。習俗信仰の方面にも人が知らずに異なつて居るとばかり考へて居たものが多いのです。東北文化の一特徴と目せらるる盲の巫女のイダコなども、以前中央の記録に載つて居るのみならず、沖繩でもユタと謂つた是に近い者が居り、相異はたゞ盲人に限らないことであります。人が死んで或期間中に、亡靈の言語を聽いて幽明二界の交通をしようとする、根本の考へ方も一つであります。

　是が學問として存立し得るか否かは、單に研究者の態度一つであります。最初から自分の地方の變つて居ることを見付けようとし、乃至は未熟なる獨斷を以て女房や眷屬のやうな自分を信じてくれる者に講釋していゝ氣になつて居(497)るやうでは、地方主義は有害です。眞の地方主義は事實を確かめること、さうして結局は何處にも飛び拔けて珍らしいことは無いといふ結論に行くつもりで無くては駄目です。それよりも以上に差し當つて必要なことは、人は是ほど饒舌であり又筆豆であるが、其割には知らず又知らせずに空しく過ぎて來た事が多いといふことであります。手短かにいへば書いた物の不信任、事實の再檢査といふことが地方主義の骨子であります。

　實際の方面でも、この方法の必要は幾通りにも之を説明することが出來ます。我々の政治は既に群の力を認めて居て、然もまだ個人と群との關係がどう動いて居たかは説明し得る人が無いのです。選擧などのあるたびに問題になる地方の有力者、それが其力を養うて居る理由は不明であります。といふよりも今一つ源に溯つて、人の智能と財力に是までの等差優劣の生ずべき根本がわかつて居ません。それが人類全體にわたつて、どこでも結局は同じ法則に支配せられるのか。但しは又日本人である爲に、東北地方の住民である爲に、或家或個人は特に便宜を得、他の多くは屈服し又は沈淪するのであるか。私達は毎度東北をあるいて居て、自然に此疑ひを抱かせられる場合が多かつた。さうして是に答へ得るものは、靜かに自分の土地の生活を考察して、是を隔絶した他の同種の地方と、互ひに比較し得る愛郷者で無ければならぬと思つて居ります。自分の問題には自分が最適當の解決者であるといふことは、この地方主義の學徒以外に、將來之を立證し得る者はないといふこと、是が惠まれざる東北の住民の爲に、特に郷土研究を勸めなければならぬ理由であります。

　

(501)　　　雜誌は採集者の栞

　

　本誌の編輯者が始めて唱へられ、又好んで唱へられる所謂「萬葉びとの生活」は、單に廿卷の萬葉集を百遍讀み、續日本紀や令の解類や姓氏録、殘つて居る風土記や靈異記の類を繰返して見た處で、到底其片端をも明かにし得べきもので無いことが、存じの外に早く承認せらるゝに至つたのは時運である。我々の知る限に於て最眞面目なる古代研究者の一群が、今や其當然爲すべき事業に向つて發足せらるゝ事は、且は斯邦文獻の未だ大に衰へざる徴として、我々が手を額にして怡び望む所である。

　昔の歴史家の書き傳ふるに足れりと認めた事柄が、今日我々の知らんと欲するものゝ半分にも四分の一にも充たぬことは申す迄も無い。之を補ふが爲には偶然に保存せられた若干の文書がある。又色々の遺物がある。而も假に御倉の塵芥の悉皆を掻集め取揃へたにしても、其偶然の補充が能く何程の空間を減じ得るだらうか。人は往々にして中代の戰亂火盗の災を悔み悲むが、よく考へて見れば今の日本の社會の根柢を爲すものは、寧ろ千年二千年以前の有りふれた日々の出來事、活字の至つて自由な當節の新聞にも、採録をせぬ位な平凡な人々の心持乃至は交通に在つたので、苟くも文字の證據を踏まへぬ限は昔の世態が考へられぬとするならば、どんな幸運な國家に於ても、先づ極端に思切りのよい人と極端に大膽な人とだけが、いつ迄も歴史家をして居ると云ふことになつてしまふのである。

　素人で國を愛する人々が、「往古は?たり矣」で滿足し得なかつたのは無理は無い。唯彼等は不幸にも民間の古傳を濫用するより他の方法を知らなかつたが故に、其が又頗る文字以外の材料に對する輕蔑と不信用とを加へたのである。(502)併しながら濫用すれば何だつて惡い。古事記書紀の正文でも、誤つて之を援引するときは無用以下である。近頃の歴史家と云ふ人の中には古墳を鑑定する者があつて、其證據に供せられるのが大抵の場合には國造本紀などである。而して其樣な斷定が實際馬鹿々々しいものだとしても、此が爲に其古書の價値は下りもせねば上りもせぬ。況や古墳の方に至つてはどこ迄も古墳で、馬鹿な學者に連坐して贋物に墮落する道理は有り得ない。

　斯程簡明なる物の道理が省みられずして、折角我々の間に僅かに遺つて居る色々の言傳へが、其果して何事を意味するかを究められる以前に、先づたわいも無いものとして齒牙に掛けられぬのは、あの人たちの短慮にして又御損と云ふものである。我々が此學風に追隨して行かねばならぬ義理は少しも無い。そこで以て民傳を正しく理解せんとする諸君の企が、どうか十分なる成功をするやうに心から祈るのである。

　口から耳への聞傳へには成程誤りも多からう。併し其故に書いた物の方が遙かに精確だと言ひ得るのは、同じ時の同じ事物を口と文と二樣に傳へ得たこと、恰も甲乙借金の證據の如き場合だけの話である。何十萬と云ふ位な圖書館の目録の中でも、戰國以前に成つたことの明かな物が幾何あるか。其も大抵は山城の人の筆になつた書物ばかりで、田舍の生活に就ては「だらう」「さうな」の記事すらも頓と曉の星では無いか。苟くも日本人と言へば都も鄙も、宮も藁屋も五百年前も千年前も、一くるめの昔風で暮して居たことに豫斷しなければ、本が有るからよいはとは言はれぬ筈である。而して我々が「國民道�ｺの傳統」などゝ大きな事を言ふ人に、廣く材料を求めて貰ひたいのは平凡人の平凡生活であつて、決して政治家の茶呑話や大將軍の氣紛れでは無いのだ。

　此要求は固より智慧をあさる者の自然の趨向であつて、今更事新しく説く迄も無い。軍書や武邊咄の樣な筋の濃かな物を讀んで居ても、幾度と無く卷を掩うて嗟歎の止み難き者に出遭ふのは、寧ろ書物の背景とも稱すべき社會相の變遷である。古今とは申せ僅三百年か四百年の時の間に、小にしては筆を執つて世に傳へんとした物識りの心持、大は時代々々の禮儀作法の所謂常識に至る迄、扨も變つて居る變つて居る。さればこそ近世考證風の學者が、太平の文(503)庫事業の恩惠に有附くや乃ち、思ひも掛けぬ古書の中から偶然に書き殘された古い事を拾ひ出して、所謂物の根原由來を的確に説明しようと試みた。藝術としては價の低い花柳文學や俳諧集の類迄が、若旦那以外の人々に珍重せられた始は此爲で、言はゞ日本に於ける採集事業の夜明であつた。

　唯悲しい事には文字を過重視する古來の迷信には此人々も捕はれた。從つて本の多くない中古以前にはどうしても登つて行かれず、三都の色里では飛石の數まで討査した博識が、村の昔に立入ることの出來なかつたのは、譬へば岨路が險しくして良材の空しく谷に朽つるが如き有樣であつた。更に此人々の所業の不當なのは、ともすれば「唐土にもさるためしあり」と言つて外國の書を引いた事であつた。久米博士の樣に日本人が江南から渡つて來たとするのでなければ、其が何の證據にならう。

　但し異稱日本傳や日本外志などの編者たちの苦心には諒とすべきものが確かにある。各時代の社會の最も固い約束で後世から昔を捜る人の鍵となるべき事柄も、あまり尋常であつたが爲に偶然にで無ければ書き傳へられず、而も滅多に其偶然の發生しなかつた場合が、筆豆な今日でも多々あるを見れば、昔は一層であつたに相異ない。其を突然として外國から來た旅人は書留める。殊に遠西の行客の如きは、獨り思案が細かくして兼ねて「いのちなりけり佐夜の中山」の感を抱いて居たのみならず、此知識を基礎にして彼等の所謂救濟を遂げようとした爲に、短日月の紀行にも親切な觀察をしたのみか、往々にして永く一地に住み文藝言語にも通じた。其爲に日本のやうに立派に自ら傳ふるだけの能力を具へて居た民族が、やはりアウストララジヤの島人等と同じく、時には彼等の記録を逆輸入するの必要を見たのである。

　其が比較民傳學の進歩の爲に大きな助であつたことは我々も承認する。唯彼等の爲し得たのは單に或時代の斷面の記述に止まり、梢から根に至るの討究では勿論無かつた上に、何人も我々の爲に「何故に」を尋ね「如何にして」を疑つて呉れたのでは無い。而も此學問は方法こそは比較を最大要件にして居るが、目的に至つてはどこ迄も國民的であ(504)つて、日本人の今日ある所以乃至は日本が永く日本で無ければならぬ理由を、動かぬ社會現象からの證據材料に由つて納得させる迄行くのであるから、どうしても氣力のある青年國學者の研究が入用なのである。

　而して其材料が今はまだ甚僅かしか集まつて居らぬ。僅少なる奇習異俗、徒らに江戸の通たちが嬉しがる樣な二三の例を出して、近年の風俗畫報の樣な雜誌を作つても、何物が萬葉生活の痕跡で、どの部分が誤解と所謂識者の訂正に由る變更であるかを判別する途が無い。結論は無期限に延期するとしても、假定が企てられねば次の疑も起りやうが無い。遼東の豕も迷惑であるが卞和の玉も省みねばならぬ。願はくは編者先づ大に物を考へられ七、百年以前の風俗問?の如く、「右樣の儀無之候」と云ふ返答ばかりを蒐集して了はぬ樣に力められたい。誠に御粗末な餞別で御恥かしいが、是でも大に悦んで居るのであります。

　

(505)　　　實驗の史學

　

　　　　　　　　　　一

　

　日本の學界にはミンゾクガクといふものが現在は二つある。我々は何としてなりとも、この二者の差別を明かにすべき必要に迫られてゐる。一番手短かと思はれる方法は、何れか一方の名を改めることであるが、是には外側の使用者の承認を必要とするので、實現は中々容易でない。其上に内部にも、二つのものは大體に同じだと思つてゐる人が、折々はあるのだから始末が惡い。「大體」など、いふ語は甚だ科學的でない。丸々同じなら一つだ。稍々違ふと思へばこそ、二通りの漢字が用ゐられるのである。それならばちがひはどこに在るか。固よりこの二つの研究は色々の共通點をもつてゐる。又互ひに扶け合ひ、將來も一層提携して行くべきものであることは疑ひがない。私などはそれだからこそ特に相異と堺目とを、はつきりさせて置かねばならぬと思ふ。一つの目標として、私は國又は人種といふことを考へてゐる。どこの國でも民｜俗〔右○〕學はナショナルで、主に自分の同胞の文化を討究し、稀に代つて或一つの未開種族の過去の生活を尋ねてやる。是に反して、自分の國だけのエスノロジイといふものは、まだ今日迄は唱へた人がないのである。だから日本民俗學とさへ言つて居れば、どちらのゾクの字を書きますかなどゝ、問ひ返される心配はない。しかしそんな日は來るかも知れない。もしくは奇を好んでそんな名を用ゐる者が出來るかも知れない。日本などでは、曾てエスノロジイを土俗學と譯してゐた時代に、現に日本土俗學を説いた人さへある。いつ迄も日本民俗學と(506)さへ名のつて居れば、他の一方と紛れはせぬといふ安心は保てないのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　そこで第二段に、二つの學の爭ひなき差別點として、私は茲に採集といふことを考へてみようとする。是とても永い未來をかけて、變化のない標準とするには足らぬかも知れぬが、少なくとも日本現在の　　状態に於ては、今はまだ一方を採集の學、他の一方を讀書の學と言つて差別をしても差支へがなく、又さうすることが簡明である樣に思はれる。

　單にこの講演の便宜の爲に、私は他の民ゾク學に即ち民族學の方に、在來の土俗學・土俗誌といふ語を使はうと思ふが、その土俗學に於ても、採集は勿論無視せられては居らぬ。寧ろ是を唯一つの基礎として、土俗誌は大いに行はれ、土俗學は又其中から生れたのである。世界を一團の研究群として見るならば、採集は今尚不斷の刺戟であり、又批判及系統立ての動力として必要缺くべからざるものであつて、一旦その進行が停止した場合には、土俗學は啻に爾後の發達が望めないだけでなく、或は其存續をも脅かされるかもしれぬ。だから間接には是も亦、立派な採集の學だといふことが出來る。たゞ個々の國、個々の學徒の立場からいふと、未だ採集を以て直接研學の手段とし得ざる者が、今日はなほ非常に多く、所謂土俗誌の資料の豐富に過ぎる時代に於ては、この方面の學者ほど多く讀み博く捜り、刻苦の生涯を書齋に閉ぢ込めなければならぬ人は、他にあるまいといふことになるのである。

　素より是はどちらがよいかといふ問題ではない。單に耳できけば全然同じ名の二つの學問が、今の日本では「大體にも」同じものでないといふことを説明する資料に過ぎない。經驗ある外國の旅行家の觀察とその精確なる報告、殊に一定の用意支度の下に、時と費用とを惜まなかつた周到なる調査の記録が、慌だしい各自親らの見聞より價値の多い場合は幾らでもある。只斯くの如くにして新たに知られた事實が、我々の學問の血となり肉となる手順に於て、若干の相異のあることのみは爭へないのである。これは見樣によつては人の學問の二つの方向ともいふことが出來る。(507)二つの民ゾク學は、たま／＼その雙方の端から、追々と相接近しようとしてゐるので、是が百パーセントに完成すれば、表裏全く一つのものとなるが、それ迄の間は求むるものと與ふるものとに行違ひがある。今日世界の端々に於て、心ある若干の調査者によつて觀察記録せられつゝある未知の事實は、何時かは人間の知らずにはをられぬもの、我々の他日の求むる所、又豫め知つて居ることを有利とするものでもあるが、それが各人現在の生活上の疑問に直ちに合致することは必ずしも望み難い。時として非常に長い貯藏期と稍々散漫なる博識慾とを必要とする場合なしとせぬ。もとより學術は之によつて誘導せられた。今日の正しく又適切なる多くの問題は、言はゞ水を向けられて始めて起つたものである。しかも我々の問題は常に成長する。それが何時でも次々に、世界の學者の新たなる知識の跡を追うて成長して行くものとは定まつてをらぬ。各人の先づ知らんと希ふ所は、或は前賢の釋き論さんとするものゝ外に在ることが稀なりとせぬ。殊に學問が國の内外を堺する場合に、この喰ひ違ひは生じ易いかと思ふ。茲に於てか實驗の人文科學、即ち各人自ら進んで我が疑ひに答へんとする研究方法は企てられねばならぬ。新時代の國學は、必ずや此方向に向つて展開するものと私たちは信じてゐる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　茲にいふ土俗學即ちエスノロジイは、世界の學であり、又最も廣汎なる國際の學であるけれども、やはり追々と實驗の道に向つて進んで來ようとしてゐる。現に未知の地域を劃し、調査の事項を豫め限つて、或特定の目的の下に計劃せられた探險陳も幾つか出てゐる。幸ひに世の平和が稍々續いたなら、地球の表面には知られぬ生活なく、あらゆる人生の大きな問題は、總て實例を以て應へられる日が到來するであらうことも空夢ではない。假に日本人がフランスの多くの學者の如くいつ迄も本で讀み通す學徒であつたにしても、尚終には外國の信ずべき記録に依つて、總ての必要なる答を檢索し得る樣になるかも知れない。但しそれは日本限りの多くの事實が、今の樣に埋没して居らず、共(508)に悉く世界の知識と化した後の話であることは言ふ迄もない。現在は兎に角にそれがまだ望めないのである。少なくとも日本に於ては、日本民俗學のみが實驗の學であり、他の一方は是と對立する所の修養の學、答へが與へられた後の問ひの學、偶々各自の心からの疑問に對する解釋が、既に用意せられてあつたから仕合せといふ學である。

　しかもそれを決して惡いといふことは出來ない。總ての所謂社會科學が、つい近頃迄皆是であつた。其中でも史學などは、到底實驗と兩立し得ざるものゝ如く、考へて居る人が今でもある。我々は教へ示されて始めて知り、それを或場合の入用の日まで、覺えて大切にして居ればよいとされてゐる。それ程又人の心が素直で、與へられたる何物にも興味をもち、自在に學界を引張り廻されてゐたのである。固より各人獨自の欲求が睡つて眼覺めなかつたのではない。其證據には幼童は却つて思ひも寄らぬ色々の質問を提出する。生活は寧ろ知識の有限性、尋ねても答が望まれぬ問題の多いことを經驗せしめ、年をとるにつれて、次第に無益の追究を斷念させようとしてゐるのである。だから一旦茲に新たなる希望が生れ、懇ろに求むる者は與へられるといふことが判つて來ると、假令世の中が今より矛盾少く常理が全社會を秩序立てゝゐる場合でも、なほ好んで人の今まで試みなかつたやうな疑惑を挿んで、其解決を一生の仕事とする者が出て來るのである。過去數十年間の學問の進歩は、たゞ偶然の發見の集積に過ぎなかつたが、尚資料の豐富且つ多方面なる増加は、學徒を勇氣づけるに十分であつた。さうして我々は又、不可解の特に痛切なる、答へなき不安の特に忍び難き現代に生れ合せてゐるのである。珍奇な語であるが學問の自主、他國の問題よりは自國の問題、先づ自分の内に起る疑ひから出發して、次々にそれを外部と共通させて行かうとする學問の、日ましに盛んになるのは自然の勢である。

　今日の自然科學とても、僅か三百年間か四百年の前までは、實驗を基礎とする學問ではなかつた。發見は概ね偶然であり、たゞ若干の優れたる頭腦のみが、靜かに結果を豫期してその發見を待つて居たゞけで、他の多數に之を傳達する手段は、たゞ記述があり講説があるに過ぎなかつた。前代の師弟道は、先づ信じて其説を受持し、又は導かれて(509)他人の抱く疑問に追隨してゐた。それが實證によつて、弟子の頭に「果して然るか」の懸念を根絶し得たのは、極めて最近の變化だと言つて差支はない。書物は古今の哲人に比べると、今一段と不純なもの、取捨の必要なものであるに拘らず、其分量の莫大なことは、忽ち入門の士の過度の信用を博して、あの中を捜せばどこかに必ず自分の問に對する答があるときめてかゝつて、貴き生涯を文庫の塵の中にさまよひ暮らした人の數も多いのである。日本の樣に本の選擇が不自由で、一方に俗書の横溢する國では、この病は殊に警戒せねばならぬ。今はまだ不幸にして此方面の援助を謝絶することは到底出來ぬが、少なくともさういふ勞多き迂囘の逸、時としては徒勞に歸するの危險を避けて、新たなる一方の直路を開通しようとせねばならぬ。是は單に學問の前途が廣漠であり、人の一生が之に比べて寔に短いといふ普通の推理によつて説くのではない。我々はもつと多くのものを經驗してゐる。前人は此の如く親切なる筆まめであり、印刷所の能力は又無限であるが、問題によつては本には全く書いてないものがある。さうして入用な知識は文字以外に、捜せばまだ幾らも散りこぼれてゐる、といふことを我々は知つたのである。正しい方法を立てゝ速かに之を利用すべし。是より以外の結論はあり得なかつたのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　我々の疑問は國に屬し、又現代に屬する。故にこの二つを離れた解答といふものはめつたに有り得ない。歴史は單に過去の事實の記憶せられ説明せられて今日に傳はつてゐる形で、是も亦眼の前の事實に過ぎぬが、我々は總ての現世の事相には皆原由があり、其原由は總て今よりも以前、即ち此國の過去に在つたと認めるが故に、時としては身を遼遠の昔に置いて、親しく其眞相を把握しようと試みるのである。記傳を此學問の唯一の能事と解する者の外は、恐らく一人として今を輕んじて昔に見かへようとする者は無いと思ふ。實際はいつとも知れぬ入用の爲に、又は必ずこの中から未來の問題は生れるものと心得て、暗記を普通教育の中に入れて置くのだが、其效果が擧がれば擧がる程、(510)この在來の一つの方法だけでは得られない答がほしくなるのである。

　人が何故に貧苦を脱し得ないか、村がどうして何時までも衰微感の爲に惱まされてゐるか。選擧がどういふ譯で此國ばかり、まつすぐに民意を代表させることが出來ぬかといふ樣な、さし迫つた一國共通の大問題なども、必ず理由は過去に在るのだから、是に答へる者は歴史でなければならぬ。人がさういふ史學を欲しがる時が、今まだ來てゐなければ、近い未來にはきつと顯れる。この私たちのいふ實驗の史學は、勿論もつと廣汎な前線をもつてゐるが、先づ斯ういふ實際問題によつて、其能力を試驗せられてもよいと思ふ。

　私たちの見る所では、あらゆる社會現象は原因なくしては起らない。さうして此國限りの問題である以上、其原因も必ず國の内に在る。それが見つからぬといふのは無いからではなく、消えてあと形もなくなつてゐるか、人が忘れて心づかぬか、乃至は知らうと力めなかつたかの、三つに一つである。通例は無責任に、其第一の場合と斷定することがはやるが、うつかりとは信じられない。無くなれば結果も無くなりさうなものだ。即ち形をかへて、原因は尚潜んでゐるのである。容易にわからぬといふことは、言はゞ學問の興味、御互ひの努力を張合ひ多くする條件ともいへる。それを大體にどの邊から捜すのが順序かといふと、捜しものは先づ周圍に目をつけるのが原則で、是が又端的に、外國の學者の如何に周密なる調査でも研究でも、採つて直ちに我國を説明する能はずとする根據でもある。我々の歴史は通例は問題その物についてゐる。此夏からパンを食ふことにしたと言へば變遷であるが、家にはきつとまだ茶椀もある箸もある。何年何月からといふ年代記は不可能でも、此前飯を食つてゐたといふことだけは記録を要しない。強飯は今でも式の日に家で炊ぐ例が多いが、それを止めても器物はなほ?々殘つてゐる。近世のフカシは木を井字に組んだ物で、それでセイロウの名も出來たらしいが、其以前はコシキと稱して木の曲げ物であつた。京都には支那と同樣に、土製の甑が用ゐられたことは記録に見えて居る。鹿兒島縣の島々にはコバ即ち蒲葵の木の幹を輪に切つて、其儘用ゐてゐる例が今でもあるが、繩を卷き上げて甑にしたものも弘く行はれてゐたと見えて、蛇がとぐろ〔三字傍点〕を卷いたの(511)を蛇のコシキといふ語は上方の方言に存する。佐渡では之をサラニナルと謂ふ。皿も恐らくは又もとは藁製で、土器にも轆轤以前には土を繩にしてつぐねて行つた跡が見られるが、この方は寧ろ藁の器の製法を移したものらしい。この幾つかの地方的異同は、單なる器具だけではなく、同時に又食事の著しい變遷で、日本人の生活に大きな影響を與へてゐる事實だが、其推移の迹は書物にも之を録せず、況んや外國の諸民族の食制に關する精しい記述などは、何の用にも立たない。しかも現在の國内の事實は殆とこの變遷の總ての階段を、どこかの隅々に保存してゐる。一つの土地だけの見聞では、單なる疑問でしかない奇異の現?が、多數の比較を重ねて見れば忽ちにして説明となり、もしくは説明をすらも要せざる、歴史の次々の飛び石であつたことを語るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　郷土研究の意味は、西洋諸國でいふ劃地調査法《レジオナリスム》と、此點に於て餘程異つた所がある。彼は種族の混和に基づく文化の多元性を認め、地方毎に?々系統の異なるものあることを推究するのであるが、我邦は南も北も遡れば却つて多くの一致を見、たゞ地形と中央からの距離の多少とによつて、其變遷の歩みに遲速あるを見出すのみである。個々の郷土は時を同じくして、同じ一つの道筋の上の各丁場を例示してゐる。去年一昨年の都市の流行が、今頃漸く小さな町には入つてゐる樣に、島や山村の生活ぶりとても、無論改まつてはゐるが改まり方が遲く、多くは平野の人々の通つたあとを歩いて居るかの如き姿がある。比較の必要であることは、日本は彼よりも遙かに切であり、同時にその成績の大きなことも亦彼等の比ではないのである。

　衣類の變遷などは近世に於て、殊に急激であつた故に、この方法は效を奏し易い。一つの舊家の古箪笥の中からでも、我々は書外の歴史の數十頁を讀み得る。ましてや比較の方法を應用するとすれば、僅々十箇所か二十箇所の異なる郷土の事實によつてゞも、大凡は趣味流行と經濟との相剋、もしくは利弊の岐れ目を會得して、今後の所謂生活改(512)善に資することが出來る。住居の問題に就いても、人が平凡普通として省みず、又は傳ふるに値せずとして何等の記録をも遺さなかつた間に、實は莫大なる變化を遂げたのである。火とあかりの分散は無形の家の組織をさへかへた。燈火は「まだあの村はランプだ」といふことが、今日は古風殘留の一目標になつてゐるが、是などはちやうど自分共の一生に殆と全部の變遷を見て通つて來たのである。東京から十里餘りの一山村では、十五六年前にもう電燈であつたが、多くの家には丸芯・五分芯・三分芯・竹ぼや・丸ぼやの遺物があつたのみならず、紙行燈もまだ壞れずにあつた。其行燈が此邊では既に甚だ近世のもので、老人達の幼時には松のヒデを焚いて居たといひ、現に石製のヒデ鉢といふ物が、屋敷の隅に轉がつてゐるのを採集して來た。今ではもう何處にもそんなものは實用に供せぬといふのみで、燈火の歴史は大部分が此半世紀間に慌だしく展開したのである。古風な歴史家は何にでも横の劃期を企てるが、京都なら京都といふ一つの土地ですらも、そんな形には世の中は移らぬ。ましてや全國の隅と中央、端と端とを比べるならば、これは同時に又横の異同でもあり、從つてその周到なる比較によつて、大よそは今までの經過を立證し得るのである。衣食住の樣な平凡を極めた事物、三尺の童兒の耳目にも觸れるものでも此通りである。ましてやこれが隱れたる心の隈の働き、しかも電氣と行燈といふが如き、二者併存を許されざるものでない場合に、會ては一般的であり、又永續して民人の生活に影響したものが、悉く維新と共に消滅した筈はないと同じく、一地二地の見聞のみによつて全國を推論し得ざることも明かである。是が自分等の計劃ある觀察、及び正しくしてしかも新しき多くの採集の比較を、一層精密ならしめんことを祈る所以であつて、學徒は山椒魚の如く只大きな口をあけて、自然に流下するものを待つてばかり居つてはならぬと主張する根據でもある。

　狹い一國内の採集とても、今日はまだ伏羲氏が百草を嘗め試みて、始めて醫藥あるを知つたといふやうな?態に在(513)ることは事實である。やはり近世の土俗誌と同樣に、盲滅法に何でもかでも、こいつは變つてゐると思ふたのをかき集めて、問題は却つて其中から拾ひ出し、もしくはたゞ夢中で手帖だけを眞黒にしてゐる者も無いとは言へぬ。假に各人の生活から、最も適切なる疑問が續發するとしても、突嗟にそれに答へ得ぬのは勿論、斯うして調べて行けば結局は明かになつて行くだらうといふ方法をすらも指し示すことは難しい。茲でも相變らず知識と要求とは喰ひちがつてゐる。だから二つの民ゾク學の差は、類の異なりではなく、たゞ五十歩百歩だといふことは出來るだらう。しかもその五十歩が實は大變なのである。單純にいへば捜査區域の大小と、次には交通手段殊に言葉の難易である。他人の實測報告に信頼して、料理をした御馳走ばかり食はうとするならば格別、もしも自ら進んで我疑を散じようとするだけの志があるならば、國内の學の方が遙かに功を奏しやすいのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　最近僅かに二十何年、郷土研究といふ雜誌が地方の新事實を紹介し始めた頃から、襲ひかゝるやうな埋没の大勢と闘ひつゝ、全國の同志者即ち諸君等の先輩が、集めて記録してくれた材料は既に相應に多い。固より國の地圖に照して見れば、まだ眞白な地域は半以上もあるが、さういふ方面に向つて更に鋤鍬を入れてみようとする意氣込は、今日はもう積極的になり、又頗る自主的にもなつて來た。たゞ面白いだの珍しいだのといふ語は、志ある採集者は寧ろ口にするを好まない。何の目的の爲に民俗の資料を集めて行くかを、しつかりと意識してゐるだけでなく、多くは皆自分の研究の必要の爲に、内から迫られて事實を尋ねまはつてゐるのである。

　素より斯ういふ場合にも土俗學と同じ樣に、精密なる索引の利用を必要とする。世間を知らなければ無駄をする虞れがある。以前同種の調査の既に備はつてゐるのも知らずに時を費し汗水を垂らすことは、何ぼ若い人にも笑止なことだ。どこ迄も明かになつてゐるかを究めてから、自分の實驗に着手すべきが當然で、其爲にはやはり文庫の準備を(514)要するのは當り前だが、限りある一國の學問からいへば、これはさう大業な仕事でもない。言はゞ一種の機械的事務であつて、國なり公益團體なりで支持するならば、譯もない手數だつたのである。自分は比較的閑散の地位に在り、又印刷物類の手に入り易い便宜をもつてゐるので、この四五年來志を起して自身で其索引に着手してゐる。語彙の五十音順のものも若干は拵へてみたが、是は資料増加の爲には便でも、個々の問題の經過を知るには役立たない。もつと其利用を進めようとすれば、知識の現?を分類し系統づける方がよい。さういふ心持で既に公にしたものに、年中行事調査標目があり、又出版が中絶して居るが、婚姻史料・葬制史料等もある。何れも皆既出材料の整理であるが、誰でもこれだけの範圍に於て、苟くも自分の問題をもつて居る人ならば、豫め此材料を一わたり目を通しておかぬと、必ず馬鹿々々しい徒勞に陷るだらうと云ふことだけは、斷言して少しも躊躇しない。今後の採集は、再び重複の結果しか得られない樣な區域を避け、これを訂正するか、又は其上へ更に積み重ねる努力に出でなければならぬといふことを、かなりはつきりと私は宣明してゐるのである。

　私などの心づいた所では、信仰の行事でも、改まつた一生の儀式に伴ふ感覺でも、やはり亦卑近なる衣食住の例と同じく、遲れ先だつ地方の變遷は、概ね近世紀間に起つてゐる。さうして我國には地形の然らしむる所、まだ若干の未變化部分があるらしいのである。之を圖に書いて見れば、前の照明方法の場合といくらも違はない。即ち大體に中間の「松の火時代」、又は「麻衣時代」ともいふべきものが、非常に久しく續いてゐたのである。此期間の永さと一般性とに思ひ及ぶ時、是が?々特殊國とよぼるゝ日本の今日ある社會相に、働きかけてゐた力の殊に大きかつたことを認めずには居られない。だから其部分を特に念入りに調べたいのである。古風な歴史家からいふと、是は鎌倉、南北朝、室町、江戸の三期四期の混同だと云ふかも知れない。しかしそれは憚り乍ら私たちの與り知らぬ所で、何だか知らぬがよつぽど古い頃から、つい此頃の祖父又は親の代まで、數百年も又はその以上もずつと續いてゐたらしい生活振りがあり、それを我々は考へてみたいのである。

(515)　素よりその中にも折々の小變化、譬へば文化の中心であり社會の上層であり、乃至は武士であり僧であるが爲に、違つたことをしたといふこともあらう。又この前代文化とてもやはり進化の産物である以上は、尋ねたらそのもう一つ以前も必ずある。それも無限にゆかしいことはゆかしいが、其部分は又一段と方法が複雜になり、興味も亦萬人向きでない。日本民俗學の役目としては、それをも包含しなければならぬだらうが、初期の不自由な學界に生れた御互ひとしでは、第一次の目標をこの眞中の尤も廣漠たる區域に置き、主として日本人が今の樣に變る迄の事實、即ち「國民生活變遷誌」を以て、日本民俗學の別名の如く心得、其他は優秀篤志の人の手に委ねても、ちつとも相すまぬことはない樣に私は思つてゐる。それなら何故にさう名乘つて、二つの民ゾク學の混亂を避けないか、といふ人があるかも知れぬが、それの出來ないわけは、方法が全く今ある生活變遷誌、即ち專ら文書に依るものと違ふからで、此混亂の懸念の方が、實質に關係するから却つて恐ろしいのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　英國では我々の謂ふ英國民俗學、即ちフオクロアの學會が出來てからもう疾くに五十年は經過した。其間のあの國の學者たちの辛苦と成績とを知つてゐる者は、ことによるとお互ひの仕事をも見くびるかも知れぬ。そんなに樂々と何の問題にも資料があつて、實驗同樣の採集が出來るものか。判らぬことは何時までもわからぬだらう。大きなことをいふなと嘲ける人が無いとも云へぬ。樂々と出來るとは私は決して言はない。たゞ出來ると言ふばかりである。英國では産業革命が前世紀初頭に完成し、普通教育が實施せられてからも、既に日本の倍ほどの年處を經てゐる。隣國が近く、都府が大きく、小民の末に至るまで其生活の半分は國際的又工場的だ。その一つ一つが日本は之と異つてゐるだけでなく、其以上に我々は尚極力保持しなければならぬ前代の制度の、大きなものを幾つか持つて居る。新しくなりたいと念ずる傍に、まだまだ意識的にも古くからの傳銃を大切に守り育てゝゐる。無意識に縁を斷ち切り難いも(516)のは其他にも多々ある。そんなに安々と昔風が消えて堪るものかと云ひたい位である。問題は單に其分量の豊富だけではない。我々はそれを學び知らぬ前から、既に此環境に親しいのである。

　天理教・大本教は、根本は老女の神がかりと託宣とを礎石とし、非常に古い／＼民間信仰の一樣式であるが、御互ひの中にその親族故舊の一人でも、是に關與してゐる者が絶無だといふ者がいくらあらうか。さうでなくても毎日の新聞を賑はす所の人の道とか生命の流とかの運動は、輸入でないのみか特發でもなく、悉くこれ國が日本國なるが故に、我々も是を學ぶの光榮を有するのではないか。全く知るまいとする方が寧ろ骨が折れる。問題はたゞ一に自己の疑ひに發するか、人に耳を引張つて聽かされるかの相異である。ところが西洋の社會差の乏しい國々では、何か古風の残留を見出す爲には、たゞ田舎の片隅を旅して所謂バックワードメンバース即ち舊弊人を見つけて歩かねばならぬ。通例は田舎の小新聞の三面記事、といふ中でも警察又は區裁判所の小さな報導に目を留め、偶々日本でいへば行者とか狸憑きとかの噂のやうなものに接すると、赤い圏點をつけて切拔いておくのみか、僅かの知合を手繰つてうるさい程聞合せの手紙を何本も飛ばす。それに丁寧に返事をくれる人も、幸にしてまあ彼處では多いのである。そんなことをしてゐたら際限がない程、我々の中には注意すべき事實があるのだが、餘り豐富なのもよしあしで、却つて平凡視して變つたことと迄は思はぬのである。もしも斯ういふ世の中に生れてゐたなら、彼のフオクロアの學問はあゝいふ形には展開しなかつたらう。彼等は自分から既に小さな成績にあきらめようとして居る。資料は無識者即ち文字を教へられぬ者の間にのみ在りと考へ、しかもさういふ者をなくする教育をしてゐるのだから、多からう筈はない。さうして一方には時代相とか國民性とか傳銃とかいふ論議はよく闘はされるのだが、是にはバックル以來の環境説、風土地勢や集合經濟等の影響を説いて、未だ人自らの人に及ぼしたる影響に考へ及ぼざることは、丁度今日の人文地理學も同じやうな姿であつた。だから民俗學によつて解説し得るといふ問題も、勢ひ限定せられざるを得なかつたのである。例へば初期の基督教信者の人生觀の徐々の變化とか、それと舊來の生活ぶりとの折合とか、何が改まり又何が尚(517)固執せられて居るかの如き現代に近い問題は、今まで通りに文書のみの資料によつて多くの類推方法を認めた論究を續け、民俗學は單にそれよりももう一つ前のケルトやノルヂツクの信仰呪術の、いとも幽かなものだけを説かうとしてゐる。是も非常に大きな功績で、此方法がもし發明せられなかつたら、今日流行の宗教史學などは、文化國には交渉なき學問であつたかもしれぬ。しかし斯ういふ風に問題を狹めて、それしか判らぬ學問である樣な印象を與へたことは、何と考へても不利益な話であつた。さうして近頃もつと大いに擴張しようと云ふ樣な相談の始まる頃には、資料は又一段と乏しくなつてゐるのである。

　だから何がつまらぬといつても、この窮屈千萬なる問題の限定まで、西洋の眞似をしようといふ程つまらぬことはない。受賣飜譯もことによりけりで、向ふが明白に後悔してゐることを、今頃踏襲するといふことがあるものでない。それよりも先づ根本の一つの方針が、どれ程まで今の我邦に適用し得られるかの、可能性を試むべきである。是に對する私たちの返答は、或はまだ信じ得ない人もあらうが、可なりに弘い範圍にまで、多くの問題に答へ又近づいて行くことが出來るといふのであつた。

　尤もこの場合の採集は、考古學者などのいふ表面採集、即ち眼の前に出現して自ら身の上話をするのを聽く樣な、無技巧又は骨惜しみなものばかりではいけない。又は一部の學者がする樣に、たつた一つの特殊な事實に過分の證據力をもたせ、それとは縁の乏しい遠方の、片端しか一致のない類例を括り付けて、直ぐに何等かの結論を下さうといふのだつたら、人を誤りに導く危險が多いから、到底私には勸めることは出來ない。眞相は　　　屡々隱れてをり又假装して居る。これを看究めるには幾つとなき比較を要し、又反覆した觀察を要し、更に又過去の見聞の整理と、用意ある採集手段とを必要とする。實驗は必ずしも顯微鏡乃至は試驗管などの操作ではない。生態觀測や天文氣象等の、人力で作り得ない事實を知る人々はよく理解するであらうが、實驗といふのは素養ある者の、計劃あり豫測ある觀察のことである。是には忍耐と、疑ひを解かうとする熱情とを要するのである。

(518)　しかし結局は東西兩國の事情を比べても判る樣に、我々は採集期の遲速適不適といふことを考へずには居られぬのである。民俗學の學徒が今後採集し利用すべき資料に三つの種類が有ることは、嚮に公にした不完全な民間傳承論の中でも可なり詳しく述べてゐる。眼で見、寫眞に撮り、物で持つて來て竝べ得る樣な、表面に出てゐる事實ならば旅人にでも採集し得られる。同じ國語に育まれた者の間ならば、短期の滯在によつて方言の癖が判る限り、人が口頭を以て持傳へて居る諸種の言語藝術までは、異郷の寄寓者にも採集の出來ぬことはない。たゞ郷土人の心の中に動き、眼や擧動や肌膚の色と光の裡に、幽かに動いては消え去る感情なり、又は其源になつてゐる平日の物の考へ方ばかりは、同郷人以外の感受性からは、?々逸し去り又空しく過ぐることがあることを説いたのであるが、其點は今日でもまだ決して説を更へてゐない。たゞ第二段の説明として附加しなければならぬことは、右の三種の區分は他の條件の總て同一であつた場合に限るので、其條件を變更させる事情は、實際には却つて甚だ多いといふことである。

　採集期の如きは明かにその一つである。時過ぎて果實の悉く地に墜ち、僅かに塵芥の中に朽ちたる種を拾ふといふ樣な場合には、同郷人は却つて早く見きりをつけ易い。さうして英國などの樣に、都府居住の好事家が眼を皿にして居ると、先づ之に氣づくのである。この採集期は無論問題毎に遲速があるが、之を一般の?勢としても、地方により又は種族職業によつて、丁度收穫の頃合といふものがあるかと思ふ。麥や菜種の苅しほも同じ樣に、早すぎてもやつぱりいけない。エスノグラフィー（土俗誌）の興隆は、寧ろ旅人と短期の淹留者の手によつて爲し遂げられたので、一見私の謂ふ三種の採集の難易と矛盾するかの觀はあるが、是は同郷人の自意識が未だ眼ざめず、狹い一つの島の内の作法や流儀を、四海共通の平々凡々事と心得て、問題にも何もならぬと信じてゐた爲である。之に反して白人のやうな北の寒國に育つた者には、裸の生活は見るもの聞くものが皆珍らしい。だからこんなことをと思ふこと迄書き立てゝ、御蔭で三百年來の資料は豐富を極めたのであるが、それも程度問題であつて、あの褐色の又は赤黒い皮膚の下に在るものは、尚十分にはわからなかつた。判らぬと書いた方が正直で、わかつたと云ふ者こそ危險であつた。ジョ(519)オジ・ブラウン師の如き親切なる長期の滯在者でも、尚接觸する土人は身か心かの合の子のみが多く、所謂黒い心臓のとゞろきは今以て神秘であり、必ず之を確めんとすれば、永年の文庫の渉獵か、もしくは計劃ある新たなる調査隊を要したのである。

　日本の社會變化は源を遡れば吉備眞備、おそくとも五山僧留學などの時代だつたかも知れず、現代の新世相とても、維新の政治革正を待たなかつた部分が幾らもあると思ふが、人が是を以て日常の通例と考へ、徐々たる氷河の流の如き推移に心づかなかつた間は、誰が後世の疑惑と誤解とに備へる爲に、目前の有りふれた事實を豫め存録すべしと考へ出す者があらう。江戸時代の學者には「後は昔」などといつて、時代は變化するといふことに心づいた者はあつたが、是とても都府の學、都府が變つた如く全國もかはつたものとして居た。記録の偶然の史料まで引證する程の親切な人達が、其わりには地方の現實は顧みなかつたのである。總體から見て日本も二三十年前迄は、まだ實驗に適しない國だつたと云へる。それが一方になほ古風に固着する家人村人と交りつゝ、その言動感情に何か歴史的の意味あることを心づく者の出て來たのは、或は日本だけの急激文化の特殊性だつたかも知れぬ。國の一致の爲には或は多少の割引になるだらうが、それはもう事實だから致し方がない。而も現?を進めて行けば向ふ所は大よそわかつて居る。再び又西洋の老いたる國々の樣に、自身其雰圍氣の中に住みながら、是が外來思想であり是が國民史の産物であることを、はつきりと見別けることの出來ぬ時代、即ち苅しほ過ぎになつてしまふことゝ思ふ。この過渡期に生れたる優秀の若者、眼を閉ぢても尚新舊の反映を感ぜずには居られない同郷人は、言はゞ指定せられたる觀測者である。苦しくても淋しくても、やはり勉強して自ら問ひ又自ら答へようとしなければならない。諸君は恐らく其人であらうと思ふ。

　

(520)　　　　　　　　　　八

　

　次に言はなければならぬのは、各人の郷土との關係である。採集の潮どきが國により又個々の問題に伴うてある如く、個々の地方にも亦今ならばといふ時があつて、其時にはまだ人を得なかつたといふこともあらう。今迄の學問は都會に偏し、都會は村落よりも早く採集期がすぎて了つた。學問と愛郷心とが此場合には?々抵觸する。生れ故郷のことを知つてこそ勉強の甲斐がある。よその爲には働くも張合ひなしといふ氣持の他に、外へ出てしまへば同郷人でも無くなつて採集が稍々不便になる。まさか自分の土地のモダーンになつたことを悔む者もあるまいが、方言集などにはちつとも方言でもない單語を、しこたま拾ひ集めて自分の土地の方言集として公にした笑止千萬な例も折々ある。この誤解の一つのもとは、郷土研究の語の履きちがへである。自分の土地ばかりの一つの歴史、割據孤立した郷土知識がそれだけでも何かの價値あるやうに思ふ者が斯うする。我々の知りたいのは日本人の生活で、それには大した郷土的差異はないのである。寧ろ自分の土地だけでは解き得ない謎が、他所の比較に依つて始めて明かになるのが常である。是を郷土限りで調べようとする理由は、さうすることが比較的有效だからである。採集實驗がし易いからである。東京に方言集は先づない如く、カッフェから民謠は先づ得られぬ如く、茲に自分の究めんとする資料が無ければ仕方がない。其次は出て求めるのが順序である。我土地がつまらぬから此學問を止めるといふ理由はあり得ない。

　其上に同郷人としての特殊能力、もしくは形勝の地位ともいふべきものは、取つて代られないものでは決してない。著しい例をいふならば、生地に住み續けた冷淡なるインテリ、又は物慾や外部の刺衝に負け易い觀察者よりは、親切な旅人の方が深い所まで物を觀得る。又同じ問題を尋ねてみようとする場合にも、土地の不馴れな篤學者よりは、何度か同じ事項の少しづゝ違つた側面に解れ、又は考へて見たことのある外來人の方が力がある。書いた物なども一度問題に觸れてからでないと、中々とつくりとは腑に落ちぬものであるが、唯見たといふだけでなく、それによつて或(521)種の刺戟を受けた者と、全く始めての人々との間には、三年や四年の滯在熟知に匹敵するだけの能力の差が見られる。たゞ出來ることならば近くの人親しい人、郷土人その者が經驗し又は讀書し感奮してくれゝば、鬼に金棒だと言ふばかりである。これを超えられない障碍物の如く思つてゐることは自他の損である。

　私は茲に採集技術といふ語を試みに用ゐたが、必ずしもこれは卑近な又ずるい掛引のことばではない。つまりは引くるめて或一つの素養が、採集殊に實驗を目的とする我々の採集に、缺くべからざるものだといふことを言ふ迄である。永い年月の間の失敗と成功、又は同志の事業に對する尊敬と批判などが、この修養の大部分を占めることは確かだが、尚その以外にも勘とかコツとかいふ、一寸口では説けないものが幾つかある。其中でも被採集者の人柄と氣分、人はよくても折が惡いか、場合は適當だが話す人間が面白くないかは、丸々無價値といふ場合もないので、却つて見切りをつけるに骨が折れる。私は大よそ顔で判り、眼つきでわかるやうにも感じてゐるが、大體に少しく念入りな、やゝ敏捷な答をしてくれない人の方が、はき／＼した者よりは頼もしいと思ふ。女性の適任者といふべき人は大抵話をいやがるが、それでも年をとると私などの樣に、是だけは是非とも語つて殘して置きたいといふ時が來る。その頃になると存外によく教へてくれるものである。土地の故老の重んぜられるのは其爲だが、其中にも男には若い頃政治などに携はり、覇氣に富み優越感の逞ましい者がまじつてゐる。警戒しないと嘘を報告する結果になるであらう。

　斯ういふ小さいことは寧ろ座談會の話題に向いてゐるからいゝ加減に止める。私の言つて見たかつたのは、我郷土の既に採集期を過ぎた場合、そこに固執する必要は無いといふことだが、同時に採集期の過ぎたといふのも程度問題で、志ある採集者の修養次第、郷土の古風のやゝ埋没したものを掘り起すことを得るは勿論、旅人でも努力すれば郷土人を凌いで、例へば東京大阪といふが如き、物皆改まつたと見える大都府の中からでも、尚且つ先祖の田舍者が持傳へて放さなかつた多くの心意現象を見あらはすことが出來ると信じてゐるのである。問題の骨子は採集者が學徒であること、植木屋が草木をほり、蛇屋が蛇を捕へると異なつて、別に學問以外の目的などをもたぬこと、出來るなら(522)ば自分の疑ひを釋く爲に、然らざれば多數同胞の共に知らんと希ふところを明かにする爲に、改めてこの輝かしい帝國の、現在の社會相を觀測し又捜査することである。斯くしてこそ學問には生命があり、又生命には興味があるであらう。

　

(523)　　　採集事業の一劃期

　

　我々の共同の課題は、村が一個の有機體として、命長く活きて來た生理を明かにしようといふに在つた。新たに付與せられた法令以外、及び記録に書き殘された僅かなる條目以外に、どういふ昔からの約束が住民を團結させ、又その繁榮と平和とを支持して居たか。それが或は稍弛緩した爲に、骨に滲み入るやうな今日の衰微意識と、看過すべからざる一般の地方不安は生れたのでは無いか。是を實地に就いて確かめて見たいのが、今囘の調査の主たる目的であつた。文字計數の資料が得られぬとすれば、出來るだけ多くの互に隔絶した土地に於で、同時同樣式の觀測を試み、其間に共通した若干の事實から、前代生活の痕跡を探り出すの他は無いと考へて、先づ最初に幾つかの特に顯著な事項を拾ひ上げて見た。結論に達するには尚程遠いが、ともかくも是等は從來未だ省みられず、しかも民生との交渉の最も切なる問題のみである。次年度以降更に追加するものも有ると思ふが、大體に是を目標として、我々の調査は進めて行く積りである。

　調査地の選定については、着手に先だつて隨分の考慮を拂つて居る。二以下の異なる府縣でも、あまり接近して居るものは事情の共通が豫想せられ、比較の價値が或は低いかとも思つたので、努めて連絡の少ない山間地帶の、やゝ孤立した村落を物色した。新たに我々の實驗したことは、地方の事情の近年に入つて急に改まつて來たことである。温泉鑛山遊覽地の如き、他郷人の入込む處だけならば之を避けることも容易であるが、自轉車と貨物自動車の普及に至つては、眞に驚くべき縮地の術であつた。殊に最近の所謂救濟土木と、之を利用したバスの延長とは、多くの片田(524)舍を驛路化し、行商の活躍は意外なほど目ざましくなつて來た。一方には又ラヂオの偉大なる同化作用がある。是が又新聞よりも更に馴々しく、毎日の生活智識を運んで居るのだが、其話柄は概ね都市と其周圍の聽取者を目標にしたもので、村から提出するものは俚謠以外、殆と何も無いといふ有樣であり、それを又珍らしがり傾聽する者は村の人で、其印象の強さは四角張つた講演や讀書の比では無い。如何なる世間見ずも、坐ながらにして中央文化の一通りを呑込み、是に日常の親しみを感ずると共に、及ばぬとは知りつゝもその生活樣式の、標準を是に置くやうになつて居る。村の幸福の主觀的缺陷は、當然に増大して來なければならない。古い風習や考へ方は、假にさう手輕には改造しきれないにしても、その價値は低く視られ又は抑制せられて居る。次に來るものが忘却で無いならば、やゝ概括に失したる非難であり排除であらう。明治初年に都府開港場に起つた所謂開化熱は、此頃になつて漸く僻陬の地を浸しつゝあることが發見せられるのである。

　心有る中央の旅人等が、以前久しく樂しみにしてゐたもの、即ち民俗の表面採集といふことが、今は漸く困難な仕事にならうとして居る。單なる觀察の鋭敏と、氣の利いた寫生寫眞の技術とによつて、道の行きずりから獲て還つて來るものは、種類も性質も著しく限定せられ、次第に常套に墮して來て、行く／＼は比較に冷淡なるたゞ僅かの人だけが、遼東の豕として是を誇示するに止まるであらう。實際又今日は既に其傾向が露はれ始め、都市の民俗學は稍その初期の感銘を稀薄にしかゝつてゐる。我々の討査事業は、從來の受動的態度を一變して、進んで積極的に必要なる資料を探らんとする點に於て、日本は素より他の友邦に於ても、多く前例を見ない新計畫ではあるが、もしも今までの通りにたゞ地域の選定のみを腐心して、自然に眼に觸れ耳を撃つ事實だけを、採録するを以て能事として居たならば、今日の?態に在つては其所得は勞を償はない處がある。故に旅人はたゞ單なる好事の徒である以上に、別に或程度の經驗と用意を持つた者、即ち小さくとも一箇の研究者たることを要するのである。我々の中間報告は徒勞を歎じ、又失敗の歴史を以て充ちて居るかも知れぬが、それを相會して互に談じ合ふことによつて、徐ろに第二次以後の旅行(525)の爲に、視察の技能を錬磨する結果にはなつてゐる。幸に之が修養の機關として永續し得るならば、行く／＼は都市の生活の如き複雜なる構造の中からでも、その外形文化の被覆物を透して、尚背後に流れて居るものを把捉し得る時が來るかも知れない。その希望だけはともかくも新たに生れたのである。

　郷土研究といふ語の曾て高唱せられた理由は、言はゞ舊式の旅人の慌たゞしい見聞に對する概括的の不信用に在つた。彼等は時を惜み行程を急いで、?々物蔭の事實を見落して來るのみならず、もつと惡い場合には一端を誤り傳へ、又は空想を加味して有りもせぬ世界を描き出さうとする。その奇拔な報告の當不當を、檢證することは容易でない。それよりは却つて永く一地に止住する者の、見馴れ聽き馴れて尋常として居る事實の中から、實は其土地ばかりに特殊であつた資料を、自ら心づいて語らしめる方が、遙かに有效である樣に考へられたのである。ところが時勢の變遷はいつの間にか是を不可能ならしめて居る。新たなる都市の平凡は、田舍にももう多く入込んで居る。さうして今まで在つたものを下積みにして、是を見分けることが一段と困難になつて來た。從うて孤立の郷土調査が、意義の無い重複を避け、國の學問の一方面を分擔し得る爲には、やはり豫め如何なる種類の知識が、要求せられて居るかを知らなければならぬ。さうで無いと今ある多數の郷土誌のやうに、莫大の心血を徒費せしめる結果に歸着するかも知れぬのである。旅行調査團の爲し遂げ得る仕事は、此點にかけては却つて當面の調査よりも大きい。假に人生の精密なる觀測については、郷を同じくする者の辛棒強い骨折に及ばぬとしても、是を分析し又理解しようと云ふ念慮は、場合を重ねるにつれて痛切の度を加へ、比較は又我々に於て始めて可能である。故に雙方の話し合ふ機會を、出來るだけ利用すべきは勿論だが、それよりも必要なことは我々の新たな實驗を、未だ完成せざる前にでも隨時に公表して、學問上の興味を地方の同志と共通にすることで、是は現代の如く古風の迅速に消えて行かうとする際には、殊に力説しなければならぬ急務だと思ふ。府縣で名を知られてゐる若干の郷土史家は大抵は官府の修史家と同じ樣に、個々の特發事件の始末を明かにするだけが仕事で、しかも其事件の背景であつた時代相が、如何に今日と異なり又他の地方と(526)ちがつて居たかを、説かうとしないのが普通になつてゐる。それでは一つの出來事の理解にも差支へるのみでなく、もしも或郷土が幸ひにして無事太平だつたら、單なる空白を以て其期間を處理するの他は無いことになるだらう。さういふ無意義なる人生は有り得ないものだとすれば、彼等の方法は改良せらるべき必要がある。我々の觀察は寧ろ文書記録の最も具はらざる區域に於て、特に前代の幽かなる痕跡を探り出すことを目的として居るのだから、たとへ不完全でも其結果と先例とは、之を一つの團體だけに私して置くべきものでは無いと思ふ。

　村が從來如何なる種類の法則によつて、久しい間その結合を續けて居たかと云ふ問題は、判つても判らぬでもよいといふやうな、輕微な事柄では決してない。町村制が出來てから約五十年、人はこの力たゞ一つで、公共團體を統括して居るかの如く、思つて居る者は無いとは言はれぬが、現に郡内には舊大字の對立があり、烏合の移住者の集まつて居る新地には、説くに忍びぬやうな背�ｺが往々にして公行し、僅かに以前の組織を承繼して居る者に於て、ほゞ滿足なる生活機能を認められるのを見ても、不文の契約は頽敗したとは言ひながら、まだ暗々裡に其力を施して居るのである。それがたゞ單なる群道�ｺと名づくべきものであるか、但しは又信仰と愛美心、及び物質經濟の兩側面からも、若干の支持と制裁を受けてゐるのかは、事實が今少し詳かになるまでは斷定し得ないが、とにかくに住民は法令の條文だけに服從して、その生存を保障されて居るのでは無いやうである。從うてこの輸廓の崩壞は大事件であり、もし免れ難くんば是に代るべきものを見つけねばならぬ。其爲にも一通りは是までの經過を明かにして置くの必要がある。ところが此種の事實には、確かなる言葉が無い。新たなる文物だけは文字で學んだ人々でも、是を考へるだけの言語は用意して居ない。宗教上の感覺も同じやうに、根本に横たはるものは却つて無名であつて、たゞそれが發露して或定まつた形式を取る場合のみに、人の設けた用語があるのである。思想の共通をもたない他郷人は、この末端の現象を手がゝりにして、是に近よつて行くの外は無いので、幸ひにしてそれが懸離れた土地の間にも、尚一部分の類似を示して居る爲に、幾分か比較の便宜が得られるのである。我々が方言に對して細心の注意を拂ひ、是が異同と由來と(527)を考へることに、力を用ゐた理由はこゝにあつた。

　それと關聯して平常其樣な語を用ゐることを好む者と、之を何とかいふ漢語新語に譯してゞないと、人に傳へることを欲しない者と、二種の説明者が居ることに心づかれる。前者は概して遠慮深く、自分でも無學を認めて表面に出て立たうとしない。故に多くの旅人は他の一方の者とのみ對談して、還つて來るのを例として居たのである。地方の民間傳承の埋没につれて、傳承者の種類と素質とは重要な因子となつて來たのみならず、さういふ古風を保存する者を、見出すことが段々と難くなり、それに心置きなく語らしめることが、苦心し修養すべき一つの技術となつて來た。彼等の方言は學び難く、之を眞似して見ても印象は却つて惡い。眼とか顔付きとか安易なる態度とかいふものが、寧ろ親しみを感じさせる自然の手段であるやうに思ふ。大體に老人の傳統に忠實なる者は、内心には語つて殘したいといふ熱情を持つてゐる。たゞ久しい間之を省みる者が無く、たま／＼説かうとすれば若者は冷笑したが爲に、後漸く口を噤するに至つたのである。或山村の一老翁は、小學教員の物を聞きに來た者に對して、さういふ話をすることまでが、何かの役に立つ御時世になつたかと、涙を流して喜んださうである。我々は其事實を知つて以來、正しい傳承者をして黙々として世を去らしめることを、罪惡と考へるやうになつたのである。

　

(531)　　　社會科教育と民間傳承

　

　終戰後新たに民間傳承の會に參加して下すつた遠方の諸君に對し、會の成立ちと是から先の計畫とを、とくと御話する折がまだ有りませんでした。今度はもつと働いて見ようといふ若手も大分ふえて、自然に編輯ぶりが少しは變るかも知れない上に、ちやうど會の事務所の移轉などをしました爲、もしか内部に動搖でもあるかの如く、誤解されてはつまらぬ話と存じ、言はゞ是を好い機會として、少しばかり古顔連の氣?を揚げて置かうかと思ふのであります。

　一言で申しますれば、普通世間なみの古顔と、聊か我々は古顔性を異にして居るのであります。昭和十年の七月、始めて民間傳承の會といふものが結成を企てた際には、是があゝいつた時世に大手を振つて、活きて行けるだらうかを危ぶむ者が、仲間のうちにさへ有りました。果して我々は大いに辛苦し、勞力の報いられないのは覺悟の前でしたけれども、其上になほ色々の遠慮をさせられて、思つた半分も仕事が出來ませんでした。僅か五年七年の動亂時代を通つて來れば、是ほどにも以前の生活ぶりが、不明に歸するものだといふことを知つて居たら、無理をしてなりとももう少し、各方面の記録を豐かにして置くべきだつたのですが、それを今悔んで見たところで何にもなりません。ともかくもこの十何年間の、會の同志の力によつて、人が氣づかずに居たことが是だけは公けの知識となり、消えて跡方も無くなつて行く患ひを免れ、將來大いに起るべき研究の、資料となることが出來たのであります。文化再建の急が叫ばれて居る今日、是がどの程度にまで有用であるかといふことを、立證するのは計畫者の任務であり、同時に又權利でもあります。年を取つたといふ位の平凡な理由を以て、休養を許されるやうな時期ではありません。

(532)　以前我邦にはさま／”＼の投書雜誌が出て、繁昌した時代もありましたが、それと「民間傳承」との全く類を異にするのは、こちらには共同の目標があり、競爭の代りに互ひの援助があるといふのが一つの點でありました。編輯者は終始最も熱心なる讀者であつたと同時に、多くの讀者は亦それ／”＼の興味の中から、いつと無し一つの學問の進路を見つけ出し、趣味や道樂の間に低徊することが出來なくなるのであります。我々が何よりも重視してゐたのは、事實の正確といふことでありましたが、それは全國の隅々に於て、多分は自分の土地ばかりと思つてゐた慣行俗傳の、遠く飛び離れた一致又は類似を、發見する悦びによつて、段々と望みやすくなります。人間のすることには必ず動機が有る。一見無意味に見えるのは、寧ろ我々のまだ知らぬ何物かゞ、隱れ埋もれて其背後に在るのだと心づきますと、若い人たちの知識欲は、急にかき立てられて來るのであります。古人先輩の明白に過ぎたる解説でも、當時まだ省みられなかつた幾つかの事實があることに心付きますと、さう安々とは服從することが出來なくなつて來ます。さういふ未知の事實につき合せて見ることが、より正しいものに進み近づく、最も安全な路だと私たちは信じてゐたのであります。

　民間傳承の會では、今まで何人も問題にしなかつたものを問題とし、又は通説の既に動かぬものと認められてゐることを、改めて今一度考へて見ようとする氣風が自然と起りました。是は全く國内の同志の、新たに確實に知り得たことが、數を加へて來た結果でありまして、是にもそんな小さな問題を、彼是いふべき時節かなどと、非難がましいことを言ふ者はありましたが、小さくさへあれば出たらめを答へてもよいやうに、思つてゐるといふのが第一いけないので、我々の方では構ひつけずに居りました。それのみならず今になつて考へますと、問題は決して小さくはなかつたのであります。疑問がある限りは、答へを得ようとする願ひが必ず伴なひます。現在はまだ決して最終の解決とは言へないまでも、少なくとも今は斯うより他は考へられないといふ程度に、明かになつてゐる問題も幾つかあるのです。斯ういふことは他日諸君の手で、詳しく拾ひ上げられる日が來ると思ひますが、さし當り私などの知つてゐる(533)だけでも、この會の力によつて先づ問題の價値を認め、更に少しづつその解決に向つて進んで行かうとしてゐるものが幾つかあつて、是等はよその國の書物には書いてないばかりか、知つたら彼方の學者にも、たゞ聽流しには出來ないものばかりであります。

　それを話の種に二つ三つ擧げて見ますと、たとへば我々の假に同齡感覺と名づけてゐるもの、同い年の人の死を耳にすると非常に戒愼し、何とかして二人を繋ぐ無形の紐のやうなものを斷ち切らうとして、さま／”＼のまじなひわざをする。其方法が主として食物に依り、又周圍の多數者の助勢を必要としました。耳の效果を打消すことに力を入れますので、耳ふたぎといふ名が尤も弘く行はれてゐますが、年たがへといふ名もよく通じ、又中世の記録にもあります。つまりは同齡者の間のみに、何か古くよりの連帶があつた痕跡が、偶然にこの區域にだけ全國的に殘つてゐたのです。新らしい社會に於て、是からも一つの課題となるにちがひないドシ又は友だちといふ一つの組織には、日本は又日本だけの沿革があつたのみならず、それが或程度に今も約束の力をもつてゐます。形を軍隊や組合のやうなものにかへる以前、村でも或年齡の幅を認めて、統御の力の中心を作り出さうとしてゐましたが、それは改造であつて、本來は一年毎の群であつた點が、下級の生物ともよく似てゐたことは、我々の間でならば、まだ若干の證據資料が集められます。家といふ群がもし本とうに崩れてしまふたのならば、其代りとなつて再び出現するものは、どんな群であらうかと考へるときに、最初に注意すべきものはこの同齡感覺であるかもしれません。それをともかくも我々の會が、ほゞ全國的に跡づけてゐるのであります。

　次になほ一つ、是も仲間の術語のやうにして、假に我々が兩墓制と呼んで居りますもの、是は日本數十萬の部落を、土着の時期によつて大體に二つに分け、古い方の半分にしか是は行はれて居らず、それも追々に滅び去らうとして居ります。それは死人を送つた野邊を出來る限り早く見棄てゝ、別に便宜の地に永遠の祭場を設けようとするもので、現在は多くは石塔を立てますが、石工の進まぬ前はたゞの林地であり、又は樹であり、岩であり、もう一つ以前は家(534)の周圍であつたとも考へられますから、兩墓制の名は或は當らぬといふことになるかもしれません。大昔の埃及は有名でありますが、近隣の中華民國でも、極度に遺骸を大切にして居りまするに反して、こちらは又靈と朽ち行くものとの分離に熱心であつて、至つて短い期間しか後のものゝ保護を努めなかつたのです。火葬の普及といふことを佛教の信仰に歸するのは、中古以前に於ても誤りだつたといふことが、段々に判つて來るかと思ひます。人が多くなり原野が狹くなつて來ますと、舊來の處理方法は亂雜で、到底持續し難かつたのであります。大陸の文化の影響が早く上流を動かし、それが段々と一般に及んだのは自然でありました。しかも今日も可なり廣い地域に亙つて、まだ昔のまゝの葬法を、ほんの僅かづつの改定を以て踏襲してゐるのであります。忌はしい問題ではありますが、是は民俗學の爲には働き甲斐のある未開地であります。この土地毎の習俗の差異は、可なり微細に階段付けて、その變化の過程が立證し得られ、引いては同じ方法を更に他の題目にも適用し得られます上に、是が又神道の人々は勿論、是のみを職業にしてゐた民間佛教の僧たちにも、まだちつとも説明の出來ないことばかり多く、しかも將來に向つては此まゝにしては置けない社會の一大案件となつてゐるからであります。

　今一つ、比較的小さいやうに見える問題で、やはり凶事に關係した願《ぐわん》もどきといふ風習、是も「民間傳承」で始めて取上げられました。人が亡くなつたすぐ後に、生前に掛けてゐた願を取消すといつたやうな心持で、或は扇の要をはずしたものを屋根の上に投げ揚げたり、又はその死人の衣を逆さにして振つたり、その他種々のかはつた行事をする。是も注意をし始めますと全國どこの地方にもあります。土地では又他處との一致を知らずに、いはゆる無意味な仕來りと思つて輕蔑し、たゞ氣にかける人がまだゐる故に罷めてしまふことが出來ずに居るのであります。どうして此樣なかはつた行事が始まつたかに就ては、色々の説があつてまだ一定しませんが、是を怠ると死んだ者が非常に苦しむと、そちこちで言ひ傳へて居るのを聽きまして、私は一つの想像説を立てました。是は佛教に死後の靈魂を託するやうになつて、その説くところが、今までの信仰と明かに兩立しないことが判り、寧ろ後に生き殘つた者が苦しみ(535)始めたのであります。佛教の淨土は途方も無く遠い處に在りました。之に反して我々の祖靈は、高山の頂にいほりして麓の里を見おろし、毎年季節を定めてもとの家を訪れて來るものと、考へられてゐたのであります。二つの教條は相容れぬものであつたに拘らず、なほ最後まで神佛を共に信じてゐる者が、一人一人としては多かつたので、結局は葬事を管理してゐた者の指導が打克ち、こんな方式を以て他の一方の關係を、斷ち切らしめようとしたのではないかと思ひます。日本人のいはゆる宗教情操は、この一點に關する限り、甚だしく茫漠として居ります。口や筆で言ふことゝ、心の奧底で感じてゐることゝは、いつでも少しづつの喰ひちがひがありました。さうして民俗學の新たに知らうとするのは、申すまでも無く内に潜んで表はされない事實で、言葉や文字の方ではないのであります。假に私の推定はまだ確實でないとしても、斯ういふ方面からでないと、このむつかしい問題に近づいて行くことは出來ませぬ。それ故に又是も決して小さな發見とはいふことが出來ぬのであります。

　この會の諸君のやうな共同の觀察、又連絡ある採集を續けて居たならば、未來の學界に提供せらるべき興味ある問題は、まだ續々と現はれて來た筈でありますが、これが出來なかつたのは一つには時世の牽制、又一つには日本人が、素朴に物を訝かる子供のやうな向學心を、もう久しく失つてしまつて、何でもかでも先進の説く所を、呑込み記憶するのを詮要としてゐた爲だと思ひます。今度は愈々世の中が新らしくなりました。是を境として少なくとも我々の仲間のみは、前人の足蹤に追隨せず、久しく打棄てゝあつた學問の曠野に、踏み出して行かうといふ壯快なる決意に、若手は固より、創業以來の古つはもの迄が、皆一致してゐるのであります。それには僅かながらもこの十何年かの收穫が、我々を勇氣づけてくれるのでありますが、一方には又新らしい社會の要求、殊に普通教育方針の根柢からの立て直しが、ぢつとしては居られない程の強烈な刺戟となつて來たのであります。

　社會科教育の原理は、どの樣にもむつかしく説き立てることが出來ませうが、ともかくも始めて人の世にぱつちりと眼を開いた者に、退屈させるやうな話をしてよいといふ理由は有り得ません。試驗に引掛けなければ記憶もしない(536)やうな知識を詰めこんでそれが何になりませう。さうして又彼等くらゐ經驗の淺い者が、自ら知らうとする問にも答へられぬやうだつたら、我々の學問などは大よそ無用なものです。彼等を完全な世の中の人に、育て上げるといふことが空論で無いならば、我々はまづこの最初の關門に立つて、自己檢討といふものをしなければならなかつたのであります。勿論問ひ方が幼なくたど／＼しく、それを正しく言ひかへさせて、やつと答の與へられる場合もありませう。或はさういふ事はもつと大きくなつてからでないと、話して聽かせても判らぬから後まはしと、言はなければならぬ場合もまゝ有るでせう。しかし大きい人がよく知つてゐて、今はまだ答へられないのだといふ時と、知らないものだからあゝ言つて遁げるのだといふのとは、子供は敏感でよく見分けます。それが我々にとつては、何よりも怖ろしい一つの關門で、社會科教育の新設が、測らずもこの隱されてゐた今までの弱味を、警告した結果にもなるのであります。

　同じ文化科學といふものゝ中でも、種類によつてはごく少數の、天分ある者だけに傳授して置いて、それでもうよろしいといふものが今でもあります。しかしかりそめにも人生の常なるものを、明かにしようといふ學問に、こんな限定があつてはたまりません。愛する子たちの心からなる疑惑に對してすら、すこしごまかさなければ答へられぬやうな?態を其まゝにして、たゞ片隅の珍奇なる穿鑿に進んで行くやうな傾向は、趣味と言はうよりも寧ろ邪道です。社會科の教育が始まつたから言ふのでは決して無く、我々の本意は最初から、確かに知り得た事實を少しでも早く、萬人公有の知識として、自由な利用を可能ならしめようといふに在つて、其爲には可なりよく本や雜誌を出しました。それがまだ十分に行渡らず、知らない人のあるうちは紹介も亦必要でせうが、少なくとも古い興味にほだされて、いつまでも同じ處をほぢくつて居るのは、損であり又拙であります。今までの物知りたちの丸で氣づかずに居た問題が、こんなにもたくさん轉がつてゐることを氣付いた人々は、是非とも其力の大半を、新らしい知慧の芽生え、又は研究の手掛り暗示ともいふべきものゝ發見の爲に傾けなければなりません。よく知られた伊呂波がるたの中にも、負うた(537)子に教へられて淺瀬を渡るといふたとへがあります。小さな者の質問に面くらつて、はつと心づいたことは私などにも毎度あります。直接教育の任に當る人で無くとも、民俗學の效果を前進させる爲にも、やはり彼等と協同して、この平凡なる深秘を探つて行かねばなりません。それが新世代の樂しい贈り物の一つであつて、御禮をいふべき者は寧ろ我々民間傳承の學徒であります。

　

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　うつかりと長話をしてしまつて、言はうと思つてゐたことを幾つも言ひのこしました。この會報の人氣人望は、いつでも各地方の報告者の、話題の興味によつて左右せられます。

　編輯者等は極力興味の多い方へ梶を取らうとしますが、自分も大抵の場合は讀者になつてしまつて、新らしい話題の在りどころを見つけることが出來ぬのです。大體に一つの地方の資料に偏しやすいのが一つの病かと思ひますが、是は最近の會員増加によつて、段々克服する見込が立ちました。通例何かやゝ變つた事實が報告せられると、きつと其次の號には是に追加した投稿があり、是も我々としては樂しいものですが、一度に幾つかのものを竝べて見た程には效果がない樣です。雜誌「民族」の時代には、田植とか盆棚とか婚姻習俗とかいふやうな資料を、集めて置いて一囘に竝べて出すことにして居ました。それには早期の寄稿者を待遠がらせる嫌ひはありますが、後になつてみると、今は貴重な記録です。さうして又同じ問題を取扱つた人たちの間に、互ひの長處を知り合ふ機縁にもなるのであります。

　

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　隱れたる地方の事實を導き出す爲には、質問も亦一つのよい手段であります。どうして斯んな事が、それほどの關(538)心を持たれるのかといふことを、明かにするまでの説明が附いて居てもよいかと思ひます。東京の同志者の中には、地方からの質問を非常に歡迎する氣風が起つて居ますが、出す人はきまつて居て、一般にまだ尻込みがちに見えます。斯んなことさへ知らぬのかと、笑はれるとでも思ふらしいのですが、この氣おくれだけは早く無用なものにしたいと思ひます。判り切つたことゝいふものは、現在はそれ程には澤山ないのです。實例で申すならば、北陸と四國の外側に、殆と同じといつてよい言ひ傳へがあつて、其他の地方にはまだ一向聽いて居ない。兩地直接の交通がない以上、もとは弘く行はれてゐたものの殘留かとも思はれるが、まだ容易に斷言はしかねる。斯ういふ場合にも我々は質問するのであります。中には今一段と神經質に、類例は何箇所もあつて、もう大よそ確かと思ふものでも、自分が力を入れてゐるのだと癖のやうに人に尋ねたがり、又理由などを問うてみようとします。私たちの計畫では、大よその條件、頻數とか分布　　状態とかに限度を立てゝ、たとへば耳ふたぎや願もどきの類は、もう是を日本の習俗と認めるやうにし、又その由來とか原因とかいふものも、現在ほゞ反對のないものを通説として、一鷹は登録して置くのがよいかと思つてゐます。さうしないと問題が多端に失して、新たなものゝ發見の妨げになるからであります。今までそれをやゝ怠つてゐたわけは、島でも、山間の古風な村落でも、まだ我々の同志の調査の手を着けない地域が、あまりにも多かつたからでありまして、それは幸に是から段々に縮少して行くことが出來るかと思ひます。地方の新加入者の住所を當つて見ますと、都府がフオクロアの最初の發生地であつたと同じく、やはり一部のやゝ開けた地帶に偏してゐます。故に今日のやうな交通障碍の下では、今後はそれ／”＼便宜の地に居る人たちが、近い山間や海のはづれを、自分の仕事にして見に行くやうな習慣をつけたいものと思ひます。現在も既にさういふ企をしてゐる同志は少くないのです。只今計畫せられて居る一地民俗誌の續刊が實現するならば、費用も恐らくは容易に辨じられ、又さういふ仕事も興味を持たれることになりませう。

　

(539)　　　　　　　　　　○

　

　民俗學研究所の基礎が愈々固まり、紀要が規則正しく公刊せられるやうになれば、我々民間傳承の會の活動も一段と自由に、又樂しみも多くなつて來ることゝ思ひます。限られたる毎月の會報の中で、精緻な研究をつゞけ、又はカンダラ攷のやうな論辯をまじへんとすると、誌面も許さず、それよりも是が學問の上でどれ程の重要性があるかもきめられず、一つの學問の體系を樹立する上にも、却つて混亂の種であります。專門の研究をする者は、民俗學に於てもやはり限られたる數でありませう。他の多數はやはり學問の正しい理解者、又は利用者となつて、彼等を少しでも働きやすく、同時に又大きな責任を負ふものとする方に協力してよいのかと思ひます。今までの經驗によりますと、動植物などの方面には、さういふ素人の篤學者が多く出て、幾つかのよい援助をして居ります。考古學の近頃の?況を見ましても、さういふ外側の人が十分に樂しみ、且つ又小さからぬ寄與をして居ります。それ等に比べると民間傳承の學は、採集の原野が更に弘く、未發見が殊に多く且つ重要なので、功績は却つて專門に研究所を守つて行く人よりも大きいことがあります。一方をフアンだの家來だのと考へることが惡いので、主たる職業が別にあつて、係り切りになれない人たちが、外から一部分を支持しつゝ、共々に學問の成果を味はひ又身の養ひとすることは、聊かでも氣の引ける生活ではありません。西洋でフオクロアと謂つて居る學問などは、寧ろ斯ういふ人たちの力で段々に大きくなつたので、今でも專門と言はれるやうな學者は、却つて國によつてはやや立ちおくれをしてゐるのであります。日本は之に比べて國情がちがひ、何でもかでも大學が尊とく、講座か研究所がないと學問でないやうに思ふ者があるので、期成同盟會のやうな意味で、我々は民間傳承の會を立てゝ見たのであります。今や目的のざつと半分は達しました。いよ／＼御互ひが太平の世の中にふさはしいやうな、修養ある文化人として活きられる時が來たのであります。たゞその「太平の世」がまだ根つから到來せず、それにもこの學問の活用が缺くべからざるものとなることを感じま(540)す故に、こゝの會員たちで、もつと大いに働いて見ようといふ申合せがしたいのであります。

　

(541)　　　郡誌調査員會に於て

　

　今度又參りましたのは、昨年來此郡（東筑摩）に於て着手せられた新しい式の郡誌事業に對して、普通以上の敬意と同情とを表明するのが目的でありました。此目的の爲には、どんな方面からでも話は出來ますが、私は兼々此地方の學問に對する態度がごく眞面目で、從つて書物を重ずる考も他より一段と進んで居ることを感じて居りますので、そこで少しく書物といふものについての話を試み、進んで是と郡誌編纂の事業との關係に及ばうと思ひます。

　三週間ほど前に、私は和蘭公使パロン・アスベツクの處で、同氏蒐集にかゝる昔の和蘭貿易關係の種々な物品を見ました中に、書名は忘れましたが十七世紀の始に日本に來た和蘭人の紀行の一册があるのを見ました。銅版の繪が澤山入つて居りましたが、十七世紀の初期といふと恰も日本では戰國時代です。是等の銅版畫には其頃の日本の生活が至つて鮮明に現はれて居るのであります。日本では江戸時代に比べると足利時代は書物の甚だ少ない時であつた。當時の生活を知らうとするには、僅かに往來物や狂言記などの斷片的側面的記録に依るの外無いやうなわけで、繪といへば先づ職人盡其他僅少の册子であります。それが彼地では恰も銅版技術の進みかけた時であつて、忠實な多くの見取繪圖が、見損じがあれば見損じのまゝ、ちやんと皆銅版で印刷せられて居るのです。我々の判斷からいへば若干の不精確な點はありますが、兎に角今日殆と日本に現存する何の書物からも得られぬやうな生活?態が、此等の繪には現はされてゐるのであります。一例を言へば御互の縞の着物といふものは、昔から之に該當する布絹はあつたが用ゐ所が異つて居つた。常人が縞を着るのは何時頃からの流行かわかつて居らぬ。飛白もさうでありますが飛白よりも縞(542)の方が意味が大きい。或は唐棧が起原であるとも申しますが、それにしても武士の階級にはどうであつたか、久しく我々の知りたく思つて居つた所であります。然るに此和蘭書の銅版畫には、其頃の武人が辨慶縞の着物を着たり縞の袴を穿いて出て居る。兎に角今日まで我々の考へた「かも知らぬ」の程度を、これは明かに實物で示して居るのであります。

　此類の珍書は此外にも猶十數種もあつて、何れも遠い蠻地の日本の　　状況を郷國の知友に知らしめんとした紀行であります。我々は能の狂言などに由つて四百年前の言葉と感情と動作の若干を髣髴する爲に、江戸時代以降に於ても成るたけ本の形を保存することを狂言師の仕草に要求して居りましたが、而も進んで我々の父祖はどんな着物を着、どんなものを食ひ、さうして又どんな家に住んでゐたかといふ問題、即ち國民生活の物質的方面の全體の判る方法はまだ無かつたのに、彼等外國人は或程度まで文字と繪畫とを以て必ず概括的記述を企てゝ居たのであります。勿論彼等には傳道や通商といふ目的があつての報告ではあるが、報告者の受けた印象の深かつただけに、其記述も頗る印象的であります。クラツセーの日本西教史などは明治十二三年頃に太政官で飜譯出版をし、近年亦書店の手で再版せられたので容易に得られます。歴史としても現存の多くの國書よりも價値が多い。それはつまり當時留日者の寫生を基礎として居る爲で、一體戰記や軍書顆などといふものは、其事件から二十年三十年の後に、記憶を辿つて書いたものが上の部で、老人たちの「おれの若い時」物語であるだけに或は忘れ或は嘘も多い。其また又聞の編集が即ち普通我々の有する足利時代史であるのに、此等外人の書は皆當時の見聞記であるから、飛んだ間違が少ないのであります。實際我々が紅毛人の異國人のと御互に人間と見て居たか否かも怪しい程の昔の筆録が、往々にして昔の日本人の生活を精彩に傳へて居るにもかゝはらず、日本人の書いた書物に存外平民の社會生活を知る材料の乏しいことは不思議な位であります。

　此奇現象は書物の盛に出た江戸中期までも續きました。例へばケンペルの日本國誌などは、筆者は永く長崎に在留(543)した甲比丹部下の獨逸生れの醫者でありました。其書の一部は鎖國論と題して古くから日本譯が行はれて居りますが、近年再版の全部の英譯本も澤山日本へ來て居ります。又「長崎より江戸へ」と題して某文學士の譯した其二囘の長崎江戸往復紀行が出て居ります。之を見てもすぐ分りますが、元龜天正よりもずつと後代の元禄初年ですらも、日本人の曾て書かうとしなかつた多くの社會現象、我々の親の代までは書くにも及ばぬと思つた平凡事、そんなことを書いても後世誰も珍重する者は無からうと思つた事實が、いと湛念に好奇的に書いてあるのであります。我々自身の記録は、東海道の昔の旅の有樣などは膝栗毛位しかない。滑稽本ながら日々の變化を主とした爲に、略々旅宿の入費街道筋の有樣又は旅する人の心持を窺はしめるだけです。ところがケンペルの紀行を見ると、筆者にはつまらぬと云ふ出來事は一つも無かつた。從つて今は無くて昔は普通であつた山伏が路に強請したことや、其他路上に生を營む小民の言動までが、批評を加へて書いてあるのです。百年二百年前の日本人の東海道紀行などは、言ひ合せたやうに詩歌風流の記事のみを書留めたに過ぎませぬ。即ち當時の誰も知る社會生活の如きは、書いても本にする價値が無いから顧みないといふ風でありました。江戸期の學者の唯一の武器は筆であつたのに、其すらも國民をして時を異にして相知るの手段を得せしめず、今更通りがゝりの碧眼紅毛の日記などを捜さねばならぬと云ふのはどうしたものか。言靈の幸ふ國として、文藝の歴史が千年以上もある日本に於て、過去の生活の活動的方面を、此種誤の多かるべき外國書に由つて知るといふに至つては、全體學問は何の爲にしたのか、又するのか、大きな疑惑が起つて來るやうに思ひます。

　蓋し此間題は色々の方面から解説が出來ますが、先づ第一には文藝と社會との關係が昔は今のやうで無かつたのであります。昔は文學は貴族などの特權の如くなつてゐまして、中級以下の多數者は是と大なる交渉が無かつた。平人は其生活の痕を文章の上に殘すといふ場合が至つて少かつた。筆と紙とを買ふことは今日の我々にとつては空氣や水を得るに次で自由でありますが、昔の人の生活に於ては殆と有得べからざることなので、從つて又芳名醜名共に文人の筆に上り得た者は萬人に一人、他は凡て之に與つて居りませぬ。平民と歴史即ち平民と文章の結び付いたのは世が(544)改まつてからの後であります。昔は平民の生活の如きは後世に傳へらるゝ價値を有たなかつたとも言ひ得る。紙の得られなかつた時代例へば竹を編んで字を彫り羊の皮へ入墨をしたやうな時代では、勿論文章を書くことが非常の勞力であつて、中々日常の問題などには及び得なかつたのでありますが、ずつと時代が降つてからも、或意味では此?態が永く續いて來たので、書く人の數も亦大に制限されて居ました。文章の書ける人といふものは村に一人づつも無い。それであるのに其人々が書くと云つては歌や詩のみで、事物を傳へようとする人は少なかつた。それでも秀吉のことや清正のことや合戰の花々しさなどは、四方八方から觀察して競つて書きましたから其方面の記録は澤山に遺つて居ります。これも大事件ではあつたけれども斯くまでに多くある必要は無い。それよりも我々の曾祖父はどんな生活をして居たか、その親の親の親の世には何をしてゐたか。世中といふもの國といふものに就てはどんな風に見て居つたか。子孫に對してはどんな考を持つてゐたか。斯樣な今日の我々が一番知りたい點、知らなければならぬ點は此結果として遂に傳はらなかつたのであります。何れの國民でも二百年位より古いことは記録が乏しい、又有つても主觀の記録囘顧の記事のみで、社會の生活を是から知り得る事が少ないのでありますが、殊に此風は日本が甚しいのであります。

　そこで此日本に、政治外交詩歌などの以外に昔の生活を窺ひ見ようとする學風は、いつ頃から始まつたかといふに、僅か百年位前からの事であります。支那でも所謂訓詁の學が盛であつたのが、ちやうど清朝の末四分の一位の頃から次第に考古考證の學風が之に代り、歸納的に物を研究して行かうとする學者が多く出て京都に來て居られる羅振玉翁などに至つて完成しました。此とは偶合かも知れませぬが、日本では稍々少しおくれて江戸の喜多村信節（又節信）などは其著述に嬉遊笑覽といふのがありまして、多く子供の遊戯などの記事があるので此書名をつけたものと見えますが、此新學風では比較的えらい人でありました。同じ流義の人には山東京傳柳亭種彦其他三四人ありますが、此等は御承知の通り小説戯作の方面に名を成した人で研究としては喜多村翁のが本式であつた。此人自身の考では別に一(545)派の學を立てる爲でも無く、或興味から偶然始めたことであつたかも知れませぬが、昔の文學の中から前代人の生活の證跡を拾ひ出さうとしたのは此人々の創めたことで、其目的の爲には例へば昔の連歌附合又は物の本などが利用せられました。全然他の目的を有つて遺されたものゝ中から、自分の知らんとする事實を抽き出して比較論證して見たのであります。此頃も早稻田大學教授の中桐確太郎君は我邦の風呂の制度を弘く研究してをられますが、嬉遊笑覽卷九の風呂の所には可成り多く此研究の材料が集めてあると言つて居られます。この喜多村氏は此學風の創始者ではありますが、嬉遊笑覽には判斷の正しく無い點もあり、又足利時代には力の入れ方が少なくて�ｺ川時代にのみ重きを置き田舍のことよりも都會のこと、例へば色里の生活の如きは善く調べて農村のことは缺けて居るといふ類の遺憾な點はありますが、然し昔の書物の中で書いた人の目的以外の目的の爲に、必要な智識を抽き出すと云ふ學風は此の如くして次第に起つたのであります。西鶴の小説には當時京阪町人の生活がよく現はれて居る。又近松門左衛門の淨瑠璃に出る人間の仕草言草の中にあの時代の思想が仄見える。尤も主として都會の生活其中でも艶かしい方面のみに偏つて、只の人民の日常生活とは異つた方面にのみ材料が豐富であつたのは止むを得ませぬが、兎に角西鶴なり近松なりを社會史の史料として取扱つたのは面白い利用であります。繪卷物の研究などは今日までも引續いて居ります。其始は伊勢貞丈とか松岡辰方とかいふ人の力が、多くの繪卷物の中から烏帽子や武器の變化を集めて見たりした。或は女の頭髪の研究をした歴世女装考といふ著述もあつて、これには近世まで調べて居ります。何れも繪卷物等の有する目的とは異つた方面のもので、直接正面の記録の無い部分にまで、歴史的考究を進めて行かんとした正に學問上の一進歩でありました。實語教童兒教などの學問は文字を法文の如く遵守するだけで、之に比べると源平盛衰記太平記の類を讀んで或時代を理解するのは一段の解放にちがひないが、やはり其書物の目的の範圍を出ないのが、更に進んで砂を披き金を拾ふやうな心持で新しい智識を求めたのは大な進歩であります。即ち歴史は書いた物から學ぶものとする窮屈な研究方法と、目前一切の社會生活の背後に潜み遺つて居る昔を把へんとする諸君の活きた學問、即ち諸君の(546)野外採集の事業との中間に立つて、ちやうど此人達の書籍上の採集は一種の橋を架けたやうなものであります。

　話は又後戻りをしますが、右のケンペルの紀行等によつて我々が鼻毛をよまれたやうな顔を倒さに撫でられるやうな感じをせねばならぬのは何故であるか、今一度之を考へて見たいと思ひます。申すまでも無いが昔は鏡の數が少なかつた。さうしてそれを持つて居ても黒塗の箱などに入れて大事にしたもので、到底今日の硝子製の鏡が最低限の費用で手に入るといふやうな比では無かつた。越後にある松山鏡の昔話が示す如く鏡といふものは前代人には貴重なものであつた。從つて自分の顔を見る機會は極めて少なかつた。自分の顔はどんなかと思ふ者は水に映る影を見る位のものであつた。この物質上の鏡の少なかつた如く、昔は又精神上の鑑も足りなかつた。それ故に昔の人には自分で自分を見るといふ態度は少なく、又さういふ機會も乏しかつたのであります。これが異人に禮を言はねばならぬ重なる原因の一つであります。自分で自分はどんな姿なりやと見ること即ち自意識といふことは昔はあまり無かつた。反省は文明人の特徴でありまして、或者は之を大我小我などゝも申し、悦んでも怒つても常に精神上の鑑を抱いて行動して居ります。之に反して昔の人は喜怒哀樂ともに純一になることが出來た。今日の我々がどんなに悲しい場合にも「自分は今悲しんでゐるのだ」といふ風に自分を客觀し得るのとは大きな相異であります。此傾向は單に個人の場合のみならず、一つの社會一つの公團體に於ても、古い時代の群衆心理は亦頗る別樣でありました。歴史家が遠い過去を批評する場合にも同じことで、自國の政治を論ずる態度は今日と雖も他の國の治亂興亡の跡を視る時と同樣ではあり得ないのです。批評だから常に冷靜でなければならぬと云ふ理論を徹底しますると、惡くすると竹林七賢一派の非社會的高士になります。江戸時代には社會組織の固定に過ぎた結果、幾分か此傾向ある半不平家が處々に出て、世中を浮世などゝ云ひ、其浮世を茶にするのを以て見識とするやうな者もありましたが、是は勿論共同生活體としての自己省察ではありませぬ。人類の幸福の上から考へて、此變化が悦ばしいものであるか否かは容易ならぬ問題でありますが、而も進化の徑路として早晩到達すべき境地であるからには、是非とも此反省は周到なもので無くてはならぬ。(547)殊に政治などには盲動の感心せぬ如く、中途半端な妥協哲學も亦甚有害である。鏡を手にし始めた以上は、自己の全部の價値を知つて之に應ずる考へ方をするだけの勇氣が無ければなりませぬ。此用意が缺けて居た爲に、前代の著述の多くはまだ我々の爲に粗製の外國品ほども用に立たぬのであります。

　意識に眼覺めた國家の最初の問題はやがて平民の生活問題であります。從來は此間題の主たる對象たるべき國民の多數者の生活は閑却されて居りました。江戸時代の地方學者では佐藤信淵などは一流でありますが、やはり農民を目的物とする研究態度に於ては古い支那式を脱して居りませぬ。孔孟以來の天下泰平論は、言はゞ消極的なる不平とも謂ふべき?態を目的とし、如何にすれば領内を治め得るかの研究のみであつたのです。然し今日はもう世中が變りました。國の問題が上層階級でのみ代表せられて黙つて居られぬやうになりました。國民の多數は或程度の參政權を有つて此國の統治を御輔け申すのでありますが、此人々が果してどんな顔をして鏡の裡に出て來るかは、是から先の政治に大關係があるのであります。

　最近はじめて我々の存在は世界的の事實となり、如何是日本人といふことが外國人の間にも研究せられるやうになりましたが、其外國人が日本人と話をするのにとんと日本語を使はない。横濱の波止場あたりにうろ／＼して居る揉上げを高く剃上げた人々を以て日本人の代表の如く解して居るのは不滿に堪へぬ所であります。我々にしましても、實際外國人と恥しく無いだけの話をするには日本の學問を犠牲にして外國の學問をせぬばならぬ。さうして其類の人にはどこかに日本人らしく無い點がある。上流の人でも外國で學問をしたやうな人にはどうも日本人の風味が幾分薄いやうな氣が致します。東京大坂の住民を以て日本人の模型と見られても既に迷惑であるのに、其中の欧化人士だけを取出して日本人斯の如しと觀察研究せられるのは誠に困つたものであります。國の大部分を成して居る平民、殊に農業方面の日本人の性質は今や全く閑却せられ研究をする者が無いのに、一方には我が國民性がどうのかうのと、盛に論ぜられて居るのも考へて見れば不思議なものであります。

(548)　話がどうも飛び／＼になりますが、露西亞の今日のやうになつた道程には長々しい歴史があるのであります。近くは一八六一年亞歴山二世が農奴開放を紙の上で斷行し、ツルゲニエフが獵夫日記などを書いた頃と、マキシムゴルキーなどが盛に田舍の生活を書いた此頃との間には、彼國では田舍の研究が非常に進んで居るのです。前世紀の終位が最も盛な時代でありました。獵夫日記などの書き方にしても、農民に對する大な同情は有りますが例へばそれは旅行者が車上より見た同情であつて、まだ其態度は貴族的であります。又處女地などでも其篇の主人公ネヅダニエフと同じく、一段高い所から一段白い手を延しての握手であります。これがゴルキーの時代になると、尤も此人は自身が下層民の浮浪生活者であつたからでもありますが、作中の人物と同じレベルで田舍の生活を書いて居る。かういふ傾向の變動には原因のあることで、彼國ではこのツルゲニエフ去りゴルキー來るまでの二十年間が、地方研究の最も隆であつた時で、獨り本國のみならず、西比利亞を始めとし、中央亞細亞から蒙古迄の研究などが徹底的に行はれました。民俗學の參考書は世界一流模範的のものを持つてゐるのであります。斯樣な研究はどういふ風にして行はれたかと申しますと、毎年夏の休暇になれば、多くの學生がランドセルを背負ひ、村から村を歩いて行つて見聞を手帳に書きつける、之を社會が奨勵するといふ至つて大規模なものでありました。大學生の間に於ける此氣風は、遲鈍象河馬の如くなりし舊帝國を忽ちにして醉つた若い衆のやうにしたのです。弊害によつて彼等が覺醒迄を難ずることは出來ませぬ。又スカンヂナビヤなどでも社會生活の研究の勃興した末に、イブセンやビヨルンソンの如き活?な文學が起り國が新しくなりました。イブセンが人世に觸れた最初はやはりこの採集の事業の結果であつたことは、其書翰集にも見えて居ります。何でも最初に文部省から金を貰つて採集の爲に歩いたことが頗るイブセンの社會觀に働いて居ると云ひます。イブセンは稍々中流階級の問題に重きを置いた作者ではありますが、やはり極めて嚴格なる意義に於いて人生を見たといふには永い間のデッサンの勞苦が基になつて居るのです。

　日本の文學はもう少し年代がたゝねば何とも批評が出來ませぬが、以前自然主義を入れた人達の社會生活に對する(549)態度は、亦この採集者の態度でありました。丁度それは畫家がスケッチに出かけると同じでありました。我が信州の誇とする島崎藤村君なども、小諸時代には常に手帖を持つて村を歩いて居りました。緻密な頭腦の批評家には異同の論が八釜しいかも知れぬが、我々どもが自らまだ田舍の事を何も知らぬのに驚いたのも、同じ時代の風に動かされたので、ちやうど其少し前にホトトギスといふ俳句の雜誌が大に寫生文を唱道しまして、村に住む青年が是まで當り前のつまらぬと思つたことを誠實に日記に書いて居たのが都人までを感動せしめた。今迄は田舍の生活を觀るのに恰も遠くから埒の中の牛を見るやうな態度であつたものが、寫生文流行の結果は、程なく鏡の中の影を顧みる心持になつて來た。之を首唱した正岡先生などの考はどうであつたか知りませぬが、あの雜誌が弘く地方に行はれて居た爲に、種々の田舍の生活が寫生文として現はれ其中の或物の如きは永遠の價値を有するものであつたことは、單に其以後の文學の上に效果を止めたのみでは無いのであります。

　更に又別の方面から同じ問題を見ますると、外國人がよその國の事物を書くのは容易な事業で無い。其中には北海道のバチェラー氏の如く、長く一民族の中に在留して研究を續けた人もありますが、あれは傳道といふ別の事業の爲もあつたので、單に學問上の視察の爲にやつて來る人には二年も居れば珍らしい。其短日月の間に言葉もわからず豫備の智識も少ないのに、それ程かけ離れた人間が、冠婚葬祭の外形から、喜怒哀樂の心理の方面までに亙つてごく大まかに觀察するので、固より完全は期し得ませぬ。而もそれですら記述者の態度が眞面目ならば、永久に學界の寶として殘り得るのです。こゝに其一二の例を擧げますると、世界中で一番野蠻な民族だといふ濠洲土人の如き、夫婦共に住むといふことが子を産む原因といふことすらも知らぬやうな人間の生活を、スペンサア、ジレン二人が觀察記述した三部の大册がある。其辛勞忍耐は殆と空前にして絶後であります。又スキート、ブラグデン二氏の馬來半島民族の研究も永久の價値を有つた書物であります。日本に關するものでも、先刻お話した書物の如きは前代の生活を知らんとする爲にはどうしてもこれに依らねばならぬ本であります。言語も若干の俗語を解するが關の山で國民の歴史も(550)知らぬ外人すら、心掛次第萬代の價値ある記録を遺すことが出來るのであります。況や現在の同胞として感情も心持も、譬へば襞の陰までもわかる程に常に郷土と接觸して居る御互のことを觀察して、今日の日本の平民の生活を永久に傳へようとするのであれば、熱心を以て其事業に當る以上は必ず立派なものが出來なければならぬ道理であります。而もそれを既に自意識の盛になつた今の時代に於て行ふのですから、もはや難事業ではなくなつたといひ得るのであります。それが何故に此郡の如く學問の進んだ地方ですらも、やつと是から取掛る位におくれて居たのか。其原因には新しがる人物のそんなことを書いては笑はれるといふやうな遠慮もありませうが、一方には又保守的に少しでも長く自覺をすまい。例へば盆踊のことを書いた爲になるほど變なわけだと心付いて盆踊がやめになるといふやうでは、昔の面影が薄くなると考へてそつとして置かうといふ人があるかも知れぬ。けれども我々がかういふ採集を始めなかつたならば永く遺るかどうかは考へねばなりませぬ。普通人民の慣習を無意味だの何のと下目に見る今日の教育の風では、採集せずに置いても熱の醒むべきは醒め、變るべきは變り、失はれるものは次第に失はれるのであります。さうなると記録が出來てから亡失するのと記録が無くて亡失するといふ差のみとなるのであります。

　自分の見る所では、此郡が此仕事を一遍に多勢で仕上げるといふことは、それだけでも實に結構なことゝ思ひます。村ならば村のことを一人だけの學者が採集することになると、先づ第一に種々な不便と弊が伴ひます。誰も心付かぬ中に新しい事柄を報導しようなどゝ思ふと、如何に愼んでもどうか自分のみ先覺の心持になつて、觀察せられる相手が群小に見える。それでは所謂同じレベルに立つて眞に觸れるといふ趣意にも遠く、又見られる側から申しても面白くない。又斯樣な個人的の觀察はよそに行くと誇張して傳へられ易い。共同事業であるとそれとは異なつていゝ自己省察の修練になります。それから又諸君の中には若い人が多いやうでありますが斯樣な事業に若い人々が當るといふことにも私は多くの意味を見出すのであります。若い人と言へば古い事古い物の正反對のやうに見えるが決してさういふもので無く、若ければ若い程古いことに新しい親しみを有し得る筈であります。祖父母の話はその子よりも孫に(551)行く。年をとつた人のもう忘れて思ひ出せぬ昔のことが、若い人にはまだ新らしく耳に殘つてゐるといふ風に、子供の生活の中には大人の忘却した昔の保存せられたものが多いのであります。兄童心理學の側から未開人と小兒との心理に共通點を見出さうとする學問は、此頃日本でも追々起つて來ましたが、それとは關係無しに、子供の間に古いことの殘存して居るのも興味ある研究題目であります。例へば今日の遊戯の綱引とか石投は、或民族又は或時代には大人の間に於ける儀式であり、又法律といふも變な言ひ方でありますがまあ不文の法律でありました。それが順次變轉して子供の國にのみ行はれ、遂に消滅してゆく道筋はお話をして居れば中々長いことでありますから茲には略しますが、只一つだけ例を申せばあの獨樂といふ遊であります。日本ではもう東京などでは往來で出來ぬから行はれませぬが、あの遊などでも最初は村の儀式として大人の間に重大な意義を以て行はれた證據があります。後世の獨樂は鐵の軸のはまつたものでありますが、もとは天然の木の中心を軸とした物を用ゐたのであります。ポリネシアの或島では今も立派に儀式であつて村の長老が出て管理をする重大なことで、或は生牲となるべき男子を決定する方法かとも思はれ即ち命をかける程の儀式であり又法律なのであります。凧でも踊でも昔は大人も參加する儀式であつた例はだん／＼あります。さういふやうに昔の習慣は子供の國に最後の隱れ場をもつ。その子供に最も近い青年は此採集の事業に一番同情が多かるべきであります。今一つには若いものが古いことを馬鹿にすることが出來なくなります。青年は兎角古い習慣や古いものゝ殘つてゐるものを侮りたがるものでありますが、如何にして村なり家なりの始を知るべきかといふことになると、これは古いことを研究せねはならぬ。又それが唯一の方法であるので其必要を感じ更に進んでは如何に小さな事實でも、人の始めたものに意味の無いことは無いといふことを實驗するのは、人間教育として至つて大切であります。

　地名の調査及家名の採集などは興味のある新しい而も骨の折れることでありますが、學問の上からいへば單に一つの材料であつて更に大きな目的へすゝむべき手段であります。此事業が國の進運と關係するには尚遼遠な距離があり(552)ますが、此郡が率先して國の學問の爲に燈火を與へ、先蹤を示すといふことは弘く人類の爲にも大なる價値を有する貢獻であります。今までの歴史の如く古いを誇とし年代や固有名詞の詮索にのみ重きを置く研究には滿足は出來ませぬ。我々の村が八幡太郎義家武藏坊辨慶等に關係があるとしたならば面白いことではありますが、それは寧ろ偶然なる逸話であります。それ以外に名こそ永久に知られぬが、社會の大きな流に參加して大小色々の波を立てゝ過ぎ去つた多數者の歴史は求め尋ねる必要があります。東筑摩郡誌の別篇はこの點に於て新しい試みであります。田村將軍が自分の村には來て居らなかつたといふやうなことが不名譽であつてはならぬのであります。新しいもの必ずしも結構ではないけれども古いだけが役には立ちませぬ。國を研究する態度はもう昔風であつてはならぬのであります。

　

(553)　　　新郷土誌の目的と方法

　

　私の説かうとしたのは、今日のこの多事多忙なる教育人たちが、眞劍になつて働く爲には、それだけの計畫又希望が無くてはならない。前代の多くの地方の郷土誌は、衆力を集め、又は或るすぐれた人の半生を傾けて、立派な大册を世に出すのに成功したが、たゞ一つの缺點は、誰が讀むか、如何なる方面に利用せられるかといふことを豫測しなかつた。今度は斷じて其跡を追ふべきではない。少なくとも何に使ふかといふことを、ほゞ具體的に確かめてから着手する必要がある。さうすればきつと仕事に張合ひが生ずるであらう。

　勿論終極には一國の學問の爲といふ事を期するのだが、それは實はいさゝか漠然として居る。さうして又歳月の制限が考へられる。もしも一年二年の間に、やゝ形のあるものを世に示さうとするならば、もつと手近なところに、第一の目的を置くことが、地方の公費を使ふ者の義務であらうと思ふ。だから郷土誌の利用者としては、我々の仲間などは第一級に屬するけれども、自分は未だ曾てその編纂ぶりに對して、勝手な注文を付けたことは無く、たゞ出來上つたものゝ中から、好い資料の拾ひ出されることを感謝し、時としては僅か數頁の知識の爲に、大册の郡誌を捜しまはつても居た。さうして一方にはまじめな地方人の精力が、あまりにも浪費せられて居る事を悲しんでも居たのである。

　今度はもう再びそんな事はさせたくない。しかも一方に、新たに體驗しなければならぬ郷土の事實は、際限も無く目の前に増加して居るのである。郡によつてはさうで無い處も稀にはあらうが、私の知つて居る限り、各地の小中學(554)校ではみんな社會科の教へ方には困つて居る。隣も知り合はぬやうな都市の生活でならば、どんな世界主義の讀本でも與へられようが、村ではそんなものを理解しようとして居るうちに、疎開兒以上に土地を知らない者を大きくしてしまふ。永く住まうといふ者は勿論、出て行く子女の一生を考へても、是は相應に心寂しいことである。各人が生れて育つた村里との結び付きをどうしようかとなると、基礎になるものはやはり先生方の知識であり理解力であるといふことを、よその府縣では皆考へ始めて居る。外にもより重要な題目は有るにちがひないが、先づこの眼前の雜然たるものを系統立て、單純明晰なる郷土の常識を持たせるやうに、又自分にも持つやうにすることは、是が閑人の郷土研究である場合にも、なほ且つ敗戰國の再建のために、考へて見ずには居られない問題になつて居る。まして次代の指導をする諸君が、自ら其任に當る場合、もし是をしも目標とせず、又この方面の利用者を豫測しなかつたら、世間は却つて目を圓くして驚くであらう。

　何はさしおいても先づ社會科の教育に役に立つ郷土誌、是を最初の道標として、順次に奧深い問題に入つて行くといふのが、安間君に托した私の提言であつた。乃ち其郷土誌の豫定の讀者としては、いやしくも社會科教育に關心を持ち、且つ責任を感じて居られる人たちといふことにしたい。讀本ばかりで教へる事は勿論だめだが、さうで無くとも教員諸君がもしも學童に學ばせる方を主とするならば、人情として自分の今現に知つて居ることに傾きやすく、從つて先生には發見も無く感動も無く、又恐らくは直ぐに行止りが來るだらう。其點からいふと、教育會の諸君が自ら郷土調査の任に當り、且つ?々集まつて各自の要望と所得とを交換して行くことは、獨り社會科の一課目のみと言はず、一般に土地毎の教育を新鮮にし、又適切にする效果が必ず大きいと思ふ。ただ其條件としては、今までの如く物々しい、且つ隅々にまで行渡つたものでないと、郷土誌ではないかの如き既定觀念を棄てゝたとへ僅かづゝでも新たなることを知り、且つ其知識の價値を品等して、重要なものからそれを次代に引繼いで行くのが、この事業の本旨だと認めることが必要であらう。

(555)　但し斯ういつただけではまだ取付きにくいといふならば、ほんの僅かばかり自分の經驗を述べて見よう。自分は斯う見えても明治新暦以後の生れで、散々舊時代を批判した者だが、それでも年を取るうちには、自分が平凡當りまへ、又は有りふれて居ると思つて居る事物の知識が、段々と珍らしくなつて行くのが感じられ、此頃ではもうどういふことを話して聽かせれば、若い人たちが笑ひ面白がるかの見わけがつき、寧ろ少しづゝはそれを學問のために利用しても居る。一方には多くの老人たちは言へばさうだつたと思ひ出すのみで、それを自分でももう忘れようとして居るのである。上手に整理するならば聽く者を樂しませ、又印象づけることは確かで、しかも現在のやうな多忙な時代、殊に送迎にいとまあらずといふやうな變遷期には、人がたうとう氣が付かずにしまつた昔の平凡事で、今日は既に珍奇に屬し、又は注意しなければならぬ重要なる觀點となつて居る事柄が、ちよつと拾つても拾ひきれないほどあるのである。それをただ片端から、自由に取上げて見たのでは散漫に失する。故に至つて手近な衣とか住食とか、何か中心のあるものを一つだけ選んで、昔といつても三十年か五十年、たとへば母の小さい頃とか、おばあ樣の嫁に來た時分とかいふものと、今との變りがどこに在り何が不思議にそつくりと元のまゝで、續いて居るかを見るなどは、社會科の話題としても手頃であらう。なぜと尋ねる問ひには答へ難いかもしれぬが、如何にして又はどんな風にといふまでは、大抵の年長者には説明し得られ、しかも若い教員たちには、多分は自分も知らなかつたことが多く、それを學童に調べて來させて、はつと氣がつくことも無いとは言へない。斯ういふのを私は先づ指導者に熟知させて、出來るだけ手短かに又感銘深く、試驗なんかで效果を判定するまでも無く、小さい人たちに覺え込ませて、世の中へ送り出したいのである。

　登呂の發掘などが始まつた頃から、全國の學童の興味は驚くほど原始人の生活ぶりに集注し、よつぽど騷いで居る群でも、其話をすると靜かになるほどであり、近頃の教科書などにも、是をよく利用して居るやうだが、私が心ひそかに患へて居るのはこの反面に、あれから以後は大抵今日の通りだつたといふやうな概念が、通常人の間には養はれ(556)て居ないかといふ點である。仲仙道や北國海道を駕籠や小荷駄が通らなくなつて、人力やトテ馬車が走るやうになつた際にも、最近とちがはぬほどの大きな生活の變化が起つたが、それをはつきりと覺えて居た人たちは、覺書も殘さずにもう遠くへ往つてしまつた。それから汽車が敷かれて又數十年、人のすること言ふことが、片端から改まつたのも二段や三段ではあるまい。それを百年この方やつと方々から人が集まり新たな人氣と繁榮とを以て、氣樂に統一してしまつたやうな一外國の社會科教育に附いて行かうとする者があつたらどうかして居る。彼等の現代はすぐに原始時代に接續して居るかもしれず、もしくはその中問は有つてもまとまらない。こちらはそれに反して、惱ましい中世の割據時代が間に挾まり、更に知足安分式の近世の生活が繋がつて居るのである。それをはつきりとまだ意識して居ないうちに、藩閥軍閥の跳梁時代が、忽ち國を今日の　　　状態まで持つて來たのでは無かつたか。見やうによつては日本の敗亡の大きな原因は、この近代史の怠慢に在るとも言ひ得る。衣料食料の獲得方式の如きは、微小な末端の問題にきまつて居るが斯ういふやゝわかりやすい變遷は練修の手段である。將來是を信州人の哲理辯證を以て、どんな樞要な題目に移して行かうと、それは自由なことである、ともかくも今日が既に石器土器の世でないのみならず、五十年三十年の前ですらもないといふことゝ、從つて又是から後の同じ期間には、どれだけの變化が起るものか、それを大よそは計畫を立て又は批判して、再びあれ／＼といふうちに成るやうにしか成らなかつたといふやうな愚かな歎きをくり返させぬことにしなければならない。それは決して小中學校だけの需要ではない。斯うして我々の心付かずに居たことが、あの隅この隅にまだ多いといふことがわかつて來たら、それだけでも我々の文化は進み、原始生活からも離れて行くのである。その效果を明かにするには、私は小さな問題から一つづゝ片づけて段々に郷土から一國へ又世界へ、新たな疑問を發芽させ且つ成長させて行くのが、若い教育者たちの限りある餘力を、活用するのにふさはしいかと思つて居る。誰が讀むかもしれない大きな一卷を出すなどといふことは、たとへ經費が許さうとも、もう再び企つべきことでは無いと思つて居る。最初の利用者は是非とも教育者自身であるやうな報告をこしらへて、それを是から(557)は郷土誌と名づけるやうにして見たい。

　

(558)第二十五卷　内容細目

　

郷土誌論〔1923年3月、郷土研究社刊行〕

　　序

　　郷土誌編纂者の用意（大正三年九月、郷土研究二卷七號）……………………五

　　郷土の年代記と英雄（大正三年十月、郷土研究二卷八號）…………………一四

　　村の年齡を知ること（大正五年四月、郷土研究四卷一號）…………………二一

　　村の成長（大正五年七月、郷土研究四卷四號）………………………………二八

　　相州内郷村の話（三越八卷十號附録）…………………………………………三三

　　村を觀んとする人の爲に（大正七年十一月、十二月、同八年一月、二月、都會と農村四卷十一號、十二號、五卷一號、二號）……………………………………………四一

　　村の種類……………………………………………………………………………六八

　　農に關する土俗（大正七年一月、黒潮三卷四號）……………………………七四

　

青年と學問〔1928年4月、日本青年館発行〕

　　小序

(559)　　再版に際して

　　青年と學問（大正十四年五月、長野縣東筑摩郡教育會講演）…………………八七

　　旅行の進歩及び退歩（昭和二年二月、駒場學友會講演）…………………一〇九

　　旅行と歴史（大正十三年六月、栃木中學校講演）…………………………一二一

　　島の話（大正十五年十月、東京高等師範學校地埋學會講演）……………一三六

　　南島研究の現?（大正十四年九月、啓明會琉球講演會講演）……………一五九

　　地方學の新方法（昭和二年二月、社會教育指導者講習會講演）…………一八二

　　農民文藝と其遺物（昭和二年二月、鎌倉郡青年會講演）…………………一九七

　　郷土研究といふこと（大正十四年十月、埴科郡教育部會講演）…………二一四

　　Ethnologyとは何か（大正十五年五月、文話會講演）………………………二三二

　　日本の民俗學（大正十五年四月、日本社會學會講演）……………………二四八

　

郷土生活の研究法〔1935年8月、刀江書院刊行〕

　　郷土研究とは何か………………………………………………………………二六三

　　郷土研究と文書史料……………………………………………………………二七〇

　　資料の採集………………………………………………………………………二八一

　　諸外國の民俗研究………………………………………………………………二九二

　　我國郷土研究の沿革……………………………………………………………三〇一

(560)　　新たなる國學………………………………………………………………三一四

　

民間傳承論〔1934年8月、共立社書店出版〕

　　序

　　第一章　一國民俗學……………………………………………………………三三九

　

北小浦民俗誌〔1949年4月、三省堂刊行〕

　　各地民俗誌の計畫について

　　北小浦民俗誌……………………………………………………………………三六五

　　あとがき

　

郷土科學に就いて（昭和六年九月、郷土科學講座第一册）……………………四五七

　

郷土祈究の將來（昭和六年九月、郷土科學講座第一册）………………………四六四

　

東北と郷土研究（昭和五年六月、「東北の土俗」三元社）………………………四八二

　

(561)雜誌は採集者の栞（大正七年八月、土俗と傳統一卷一號）………………五〇一

　

實驗の史學（昭和十年十二月、「日本民俗學研究」岩波書店、原題、「採集期と採集技能」）…………………………………………………………………………………………五〇五

　

採集事業の一劃期（昭和十年三月、山村生活調査第一囘報告書）………………五二三

　

社會科教育と民間傳承（昭和二十三年七月、民間傳承十二卷七號）……………五三一

　

郡誌調査員會に於て（大正七年七月、信濃教育三八一號）………………………五四一

　

新郷土誌の目的と方法（昭和二十六年七月、北佐久郡志編纂會報第五號）……五五三

　　　　　〔2015年4月10日（金）午後5時25分、入力終了〕