定本柳田國男集　第二十六卷（新装版）、筑摩書房、1970､7､20（1971.12.20.3刷）

　

(1)　　　日本の昔話

　

(3)　拜啓　今度アルス社の兒童文庫の爲に、小さな「日本昔話集」を書いて見ました。何の御參考にもなりますまいが、記念として一册拜呈致します。著し御心付の點がありましたら、何によらず御遠慮無く御指摘下されんことを希望いたします。少し話の數が足りませぬところから、近世の世間話の、　　稍々昔話くさいものを拾つて入れて見ました。是に就ては或は御議論もあらうかと存じます。承はつて置くことが出來れば幸ひであります。誤植が少々ありますが、大抵は差支が無いやうですから今度は正誤表を添へません。よろしく御判讀を願ひます。尚御知人中に斯ういふ趣味の方がありますればどうか御紹介下さる樣希望いたします。

　　　　　昭和五年四月

　

　

(5)　　　　　昭和三十五年版の序

　

　久しく國内の若い人たちに愛讀せられ、今でもまだちつとも人氣の衰へてゐない「日本の昔話」を、今度のやうに大規模に改定するといふことは、實は容易の事業ではなかつたのだが、それを承知してもなほ實現させたいと、私が念じてゐたのも永いことであつた。年をとつてからの世情の激變、これに對處しようと試みたさま／”＼の苦悶の中から、今に今にと心にはかゝりつゝも、ついこの問題だけはそつとして置く場合が多かつたのである。その上になほ一つ、今までの同志の中にも、特にこの方向に心を傾けてゐた者が少なく、または自由にその進路を改める者もあつて、新たにこの方面の勞作を共にしようといふ人は得にくかつた。だから結局は多くの先進者と共に、ただこの素志の存在と、もしも幸ひにそれが實現したならば、これ／＼の功績を擧げたらうに、といふ類の豫測をもつて終つたかもしれない。ところが「日本の昔話」に取つて、幸運なことには、丸山・石原の二人の女性が、自分たちも時代の災厄をしたゝかに體驗しつゝも、終始一貫して心をこの問題に傾けられた。しかも老翁の心弱さ、ある時はもう絶望して、昔話の整頓まではとても力が及ばない。これは女性にでもまかせて置くがよいのだと、憎らしいことをいつて見たり、しかも稀々にはまた思ひ返して、今の?態でもし自然の變動にまかせて置くと、せつかく永い年代にかけて、世界の全面に擴張し、しかも經路なり變遷なりが跡づけられる文學以前からの「かたりごと」が、粉々になつて散亂してしまふのになア、などと愚痴をこぼして萎れてゐる日もある。この笑つてもよい兩面の立場を、女性だけに多分によく理解して、今度は勇氣を出してこの難事業を引受けてくれることになつたものであらう。今度の改訂版は勿論終局ではない。できるものならばもつと同志を育てゝ、日本を一つの研究中心にする所まで進ませてみたい。

(6)　小さな本に大きな序文は滑稽だが、ついでに讀んでもらひたい人が多くゐるから、もう少し書いて置きたい。「日本の昔話」が始めて世に出たのはざつと三十年の昔であつて、私の學問もそれからやゝ進んだし、一方にはまた昔話の採集量も大分増加し、もとは本島の北端だけといつてもよかつたのが、このごろは縣市郡のほゞ半分、南は奄美諸島から琉球先島までも伸びてゐる。もちろんその中には詳しいもの略なもの、元の話に忠實な記述、多少は忘れたのや補つたものもまじつてゐるが、もうこれだけあれば大體にある土地だけにあつて他では一つも採集せられてをらぬものなどは無い。稀にもしあれば珍しい殘留で、特に注意をしてゐると、遠く離れた土地から思ひがけず類型を見付けられる樂しみもあり、またにせもの、こしらへものとの見分けは格別むつかしくない。

　昔話のハナシといふ日本語は、たしかにいつからといふ證明はないが、少なくとも中古以前の文獻には見えず、東北方面では今でもカタルをもつてこれを表出してゐるやうで、たぶんは今昔などの例の如く、日常の談話もモノガタリであつたのが、それを物々しい語りに限るやうになつて、次第にハナシといふ語の用途を必要にしたのであらう。無端事だからハナシだといふ解などは、ちつとも信用するに足らぬが、今でも中部以西では、まだ動詞としては使はぬのが普通になつてゐる。考へてみると他の一方の昔話とても、必ずこれを用ゐたのには意味があつたらう。南島の古い神歌にも、しば／＼「むかしからけさしから」といふ對句があつて、現在でないことのみは明らかで、時は少しも確立してゐない。のちわれ／＼の現在といふものからは遠くまたは近く、時の繋がりは説くことのできぬ場合で、それを計量のできない過去に置かうとしたのが、恐らくは最初からの用法であつた。今の世の文藝の習慣とはちがふか知らぬが、求めて捕はれない境涯に身を置いて、夢見ようとしたものと私は見てゐる。それで西洋の幾つもの國で、民話または民間説話と譯してもよい名を使ひ出しても、おつきあひにその迹を追ふ氣にはならない。いはゆる昔話を數多く聽いて覺えて、孫子や若い者に一度はして聽かせようと思つてゐる老人には通じやうがない。ミンワとは何ですかと問ふやうな人たちが、實は日本のもとの形のものを知り、(7)またうそ〔二字傍点〕をつかないでそのまゝ次の代に傳へようとしてゐる。ミンエウ（民謠）の方だつて同じだといはれさうだが、これは文學と同じに眞似の上手な若い人が早く覺え、すぐ取次いだり改造するからさうは困らない。われ／＼の大事な昔話は、もう覺えてゐる人が少なく、この戰亂の間にぐつと減つてしまつた。そんなにまで骨を折つて、辛うじて村々の隅に殘つたものを、無くしてしまはずともよいぢやないか。

　今ごろそのやうなことをいつてももう遲いと、あきらめきつてゐる人はすでに多からうが、これでもわれ／＼は少しは働いてゐるのである。たゞこの一卷の「日本の昔話」だけが、三十年前のまだ採集の進まなかつた時代にこしらへたまゝであるために、少しく不本意な點が認められるのである。いよ／＼種切れになつた區域、たとへば小さな島々で若い人たちは急いで外に出で、歸つて來たころには話ずきの年寄も世を去つて、誰に尋ねやうもないところとか、工場や町中の忙しい人ばかり住む區域で、言葉が入交り人の氣持がわかりにくゝ、またそんな世話まではする者が無いといふ場合は多からうが、言はれて膝を打つまでの人はともかく、にこりとするぐらゐの理解者は相應にあると思ふ。私の思ひ出の一つは昭和十一年の秋、昔話の採集手帖といふものを千部以上こしらへて、これをなるべく分散した地域の小學校に配布してみた。世上によく知られた昔話百種のあらすぢを印刷して、その各々の後に若干の白紙を添へて記入に供へ、卷頭にはできるだけ簡明に採集者の參考になることを書いた。その手帖による採集の結果を見せて下さるなら、返却する時にまた一部進上します、といふ意味の手紙を添へた。それに對しては一册も「はいできました」といつては來なかつたが、禮?や受取は多く屆き、またその前後よくこれを見た人の消息を受取つた。栃木縣などはいろ／＼ゆかしい昔話のある地方だが、むしろ完成を期してか、またはたゞ多忙でか、手帖を返してくれた人はなかつた。今ではもう名も覺えぬが、ある山村の校長さんは、家に歸つてから母や妻子と共に爐端でこの手帖を讀んで聽かせたことを告げて來た。一時は爐端がしんとして、女たちは大息をついた。そんな話まで聽かうとする人が東京にもあるのかといひましたと書いてよこし(8)た。私は當時その手紙を若い人たちに見せて、少し間を置いて行つてみるやうにすゝめたが、多分はそれつきりになつたものと思ふ。今から考へるとこれもせつかちな方法であつた。たとへ全部でなくともせめて三分の一くらゐは書かないと、へいできましたと返して來るわけがない。これはあまりにも事務的な、アメリカ人みたいな計畫だつたと思ふ。

　それは當り前だよ、そんな計畫なんかに乘つて來る者が、今時あるものかと批評した人もあつたが、今日とはその「今時」が少しちがつてゐたやうである。この手帖よりは數年前、「族と傳説」といふよく賣れた雜誌に、二囘にわたつて昔話の特集號を出してもらつて、全國の讀者からその土地の昔話を募集して見た。その應募者には若干の知人もまじつてゐて、とにかく一册の大部分を占めるほどの寄稿が得られ、まだたくさんの不適當なものを殘した。昭和六年の第四卷の四號には、「昔話採集の栞」といふ文を添へて、それが本になつて今殘つてゐるが、この時はこれといふ意外な經驗もなく、むしろ新たなる地方學者の熱意を高め得たと思ふ。それから三年目の昭和九年十二月號の方には、應募者に新人の顔ぶれもあつた代りに、ちつとも採集でない新作品で、しかも共産主義の教育を念じた民話もまじつてゐた。かねて風説としては聽いてゐたが、あるいはその方式には系統があつて、こちらにも早すでに入つて來たのかと、測らずも大切な經驗を得たことであつた。文藝にこの程度の活用があつても、それは各人の自由であらうが、われ／＼の目的はどこまでも史學の探究であるから、昔話を知りたいといふ者に、虚僞の事柄を教へようとするのは、よくないことだと警戒することにした。さうしてごく近ごろになるまで、かういふ文學作品ともいへぬやうな、目的ある作り話を提供する者が、民話の名をもつて流布する場合があつたらしいのである。主義や政策を別として、これを民話と呼ぶことは文學の用法にも反する。かういふ侵害を警戒するためだけにも、自分らだけは民話といふ名を避けようとしてゐる。日本の村人たちには、さういふ紛らはしい言葉は用ゐさせたくない理由である。

(9)　話が思ひの外長たらしくなつたが最後にもう二つ、報告して置かねばならぬ事實がある。その一つは私の計畫してゐた「昔話研究」といふ小さな雜誌、これは昭和十年の五月から丸一年は、「族と傳説」が引受けて出してくれたが、それから後の一年あまりは、繼承した某書院が新店で力が弱く、その雜誌も第二年度までで終つてしまつた。私たちの事業は心輕く思ひ立つて、やがてはまた頓挫し、これぞといふ成果も收め得なかつたに反して、一方の「族と傳説」などは、業主の萩原正�ｺ君が純情に國を懷ひ故郷の奄美の島々を愛し續けた故に、内外に多くの友人を得て、昭和三年の初頭から同十八年の終り近くまで、休まずに雜誌を出しつゞけて、幾つとなき未知の領域を開拓して來た。學士院の中村清二先生を始めとし、思ひがけない學者方がごく自由な心持をもつて、自分の旅や感想を書いてゐられる。私の如きもちつとは押賣の嫌ひはあるけれども、餘裕があれば進んで彼の雜誌のために書き、それが次々とたまつて、何册かの本の分量になつてゐる。それよりも奄美諸島、更に沖繩出身の學徒までが、機會あるごとに故郷の島を談じ、その中には喜界島の岩倉市郎君の如き、優れたる學徒が世に現はれ、もはや新たには作れないいろ／＼の記録を世に留める因縁を結んでゐる。私の昔話研究などは中途半端であるが、なんでもかんでも南北をあはせ考へ、これから生れ出る空想を樂しむ癖があるのも、ありやうは多くは「旅と傳説」に暗示を受けて、次々と南島の民間傳承、特に島々の昔話を捜しまはつたお陰であつた。實は私がこの序文の中で説かうと思つてゐた灰坊太郎の話においても、私が最初特に印象を受けたのは沖永良部島の例であつた。これは繼子の娘が竈の前にばかり置かれたからシンドレラと呼ばれたのと、日を同じくして語るべき昔話であつた。日本の若い人たちはシンドレラの美しさを説かうとするが、これがわが國の米ぶくろ粟ぶくろと同じ話だといふことはまだ知らず、われ／＼の珍重するミス・コックスの大册は知つてゐる人でも、支那では西暦八世紀に世に出た「酉陽雜俎」の中に、すでに同じ話が載せられてゐることを、まだ心づかぬ人ばかりが多いかと思ふ。われ／＼のこれから明らかにして行きたいことは、單にかういふ昔話の一致といふことだけではない。(10)それよりもまづ目の前のことを問題として、どうして遠い異國の端々に同じやうな話がちがふ言葉をもつて語り傳へられてゐるかを考へなければならぬ。外國人に相談しただけでは、いつか宣教師が來たときに教へて行つたのだらうといふことになるかもしれない。やつぱり辛抱して近隣の老人の話を聽いて見ることを私は勸めるのだが、話がかうくどくては、この老人はまづ落第であらうか。

　　　　　昭和三十五年四月

　

(11)　　　　　新訂版の始めに

　

　ちやうど此本が始めて世に出た頃から、我邦の昔話蒐集事業は急に活氣づいて來ました。今まで一向に斯ういふものゝ有ることを聽かなかつた地方から、曾て一度も文字の形になつて、人に讀まれたことの無い昔話が、幾つともなく報告せられました。日本が特別にたくさんの説話を保存して居る國だつたといふことゝ、人が説話を愛する趣味の遺傳は、さうたやすく中斷せられるもので無いといふことが、是に依つて證明せられたのであります。私たちは無論この好機會を遁がさぬやうに努めました。會をこしらへて全國の同志者の協力を求め、昔話研究の雜誌を出し、又一册に纏まるほどの昔話集は、出來るだけ出版して世に傳へようとしました。しかし世の中の好みが斯ういふ風に向いて來なかつたら、我々の熱心も實は持つて行きどころが無かつたので、折角出して置いたこの「日本の昔話」も、或はこの樣にまで弘く讀まれずにしまつたかも知れません。

　改めて著者が皆樣に言ふことの出來るのは、この中に載せてある昔話の大部分は、何れも日本國の隅々に於て、お互ひに他の土地にも有るといふことを知らずに、ほんの少しづつのちがひを以て、各々その先祖から聽き傳へ、記憶し傳へて居たものだつたといふことであります。東北地方の話が此本には多いけれども、あちらにだけあつて他には無いといふものが、もう今日では殆と一つも無いといふ實?であります。今や安心して我々は、是を日本國の昔話だといふことが出來るのであります。今まで聽かなかつたのは忘れて居た爲であつて、決して自分の土地に昔から、傳はつて居なかつたからではないといふことが、今ならばほゞ確かに言へるのであります。たゞ永い年月の間には、同じ一つの昔話が土地により家によつて、幾分の變化を受けて居ります。元は一つであつたといふことは容易に認められても、そのちがつたものゝどちらの方が前か、それが又どういふ事情で語りかへら(12)れたかといふことは、さう手短かにはきめることが出來ません。さうして其點が又昔話研究の、最も興味の多い部分なのであります。各地の採訪には是からも大いに骨を折らなければなりませんが、それには又斯うした一つの見本帳のやうな書物が、弘く讀まれて居るといふことは、非常に好都合なのであります。

　或は新たにもう一つ、全國を代表した標準昔話集のやうなものを、出して置く方がよいとも思ひますが、今となつてはそれを選り出すことが却つて困難なのみならず、この一册の中にも其方に加へてよいものが幾つか有るので、之をばら／＼にほぐしてしまふのが惜しいのであります。この「日本の昔話」は、年の若い人たちにも讀んでもらはうと思つて、成るだけ筋の込入らない、さつぱりとした話を拾ひました。その方針を續けて行くとすると、結局はあまり色々な新らしいものを加へられませんから、まだ當分のうちはこの形のまゝで置くことにします。之を何度も讀んでから後に、もう少し昔話のちがつたものを知りたいといふ人々の爲には、新たに計畫を立てて、別に詳しい比較をした書物を、出して置きたいと思つて居ります。我々の仲間では數年以前、「昔話採集手帳」といふ小册子を作つて、是から昔話を集めて見ようといふ人たちに分配しました。昔話といふべきものの範圍、その中でも日本に最も普通なのはどういふ昔話かといふことを、實例によつて説明して置きました。それを標準にするとこの本の中には、やゝ異なつたものが七つ八つまじつて居ります。「乞食の金」とか「拾ひ過ぎ」とか「山賊の弟」とかいふのがそれでありまして、つまりは古くから傳はつた昔話に、何人かゞ加工して實話の形にしたもので、讀みものの興味を添へる爲に入れましたが、是は我々の研究して居る昔話の外であります。強ひて分界を明かにする必要も無いと私は思ひました。目的は全く古くから傳はつた説話には、聽いて面白いものが多いといふことを、若い人たちに知らせる爲だつたからであります。

　　　　　昭和十六年八月

　

(13)　　　　　はしがき

　

　皆さん。この日本昔話集の中に、あなた方が前に一度、お聽きになつた話が幾つかあつても、それは少しも不思議なことではありません。なぜかといふと、日本昔話は、昔から代々の日本兒童が、常に聽いてゐたお話のことだからであります。

　この昔話の大部分は、今でも日本のどこかの隅で、どこかの家の小さな人たちが、聽いてゐる話であります。けれども皆さんが一人で知つておいでになる話は、さうたくさんはないだらうと思ひます。それはお話をする人が忙がしくなつて、もうさうはゆつくりと色々の話をしてゐられないからであります。だから若しこの本にある話の三分の一、四分の一だけでも、一人で知つてゐる兒童があつたとすれば、それは其子の家に、よつぽど話の好きな又上手な、さうして物覺えのよいお祖母さんかお祖父さん、又はお母さん姉さん叔母さんなどの、子供の心持のよく解る人があつた爲で、さういふお家は昔からさうたくさんにはありません。もう一度思ひ出してよくお禮をいふ方がいゝのです。

　次にこの昔話集に書いてある昔話と、自分の覺えてゐる家のお話と、人の名や土地の名、道具や鳥獣、歌や言葉、又は事がらの後先などの違つてゐることがあつても、それも格別不思議なことではないのです。どちらか一方がうそだらうと思つたり、又は自分の記憶が誤まつてゐるやうに、思つたりするには及びません。昔話といふものは最初から、ほんの僅かな人で一しよに聽き、又其中でも一人か二人かゞ、それを後から生れて來る者に、話して聽かせることが出來たのであります。作りごとをする必要が少しもないと共に、知らずに間違へてゐても、それを直してくれる者はゐませんでした。永い年月の間には、村により又家庭によつて、少しづつ變つて來るの(14)はあたりまへのことであります。同じ一つのお話でも何度も何度も覺えたり思ひ出したりしてゐるうちには、自然に面白いと思ふところが動いて行くのです。さうしてその面白いところだけが特別に詳しく話されるやうになつて、他の殘りの部分がおひ／＼に取れたり落ちたり壞れたりするのであります。

　私は日本の昔話を、この小さな一册の本に集める爲に、少しでも變つた珍らしいものを探さうとはしませんでした。それよりも、なるたけ全國の多くの兒童が、聽いて知つてゐるだらうと思ふものを拾ひました。少なくとも日本國内の遠く離れた二箇所三箇所で、お互に知らずに話してゐるやうなのを、選んで見ようとしたのであります。たゞしさういふ幾つかある話の中では、殊に一番昔話らしいもの、即ち古い形のちつとでも多く殘つてゐるものを採るやうにいたしました。それから新らしい形の最もよく整つたものを四つか五つか其中に加へて置きました。これが日本の昔話の兩端であります。多分誰が見てもこの古いと新らしいとの區別は、すぐに分るであらうと思ひます。

　何よりも私の愉快に思つたのは、日本全國の何億萬人といふ昔からの子供が、この同じ話を聽いて育つて來たといふことであります。それから今でもまだ其話を知つてゐる人の少なくないといふことであります。それが此本を讀んでゐると段々にわかるのであります。又面白いことは、まるで同じかと思つてゐる話が、いつの間にか少しはちがつてゐることであります。どこがどう違ふかは讀んで見ればすぐに氣が付くでせう。どうしてこんなに違つて來たか、皆さんは大きくなつてから、もう一度考へて御覽なさい。

　　　　　　昭和五年二月

　

(15)　　　　　　　猿の尾はなぜ短い

　

　昔の昔の大昔、猿の尻尾は三十三尋あつたさうです。それが熊のために騙されて、あのやうな短い尻尾になつてしまひました。或時猿は熊のうちへ訪ねて行つて、どうすれば澤山の川の魚を、捕ることが出來るだらうかと相談しました。さうすると熊が言ふには、今晩のやうな寒い晩に、どこか深い淵の上の岩に坐つて、その尻尾を水の中へ漬けて置いてごらん。きつと色々な雜魚が來てくつつくからと教へてくれました。猿は大喜びで教へてもらつた通りにして待つてゐますと、夜が更けて行くうちに、段々と尻尾が重くなりました。それは氷が張つて來たのでしたが、お猿は雜魚が來てくつついたのだと思つてゐました。もう是くらゐ捕れたら十分だ。あんまり冷たいから還りませうと思つて、尻尾を引き上げようとしたけれどもなんとしても拔けません。これは大變だと大騷ぎをして、無理に引張つたところが、其尻尾が根元からぷつつりと切れました。猿の顔の眞赤なのも、その時あまりに力を籠めて引張つた爲だと言つてゐる人があります。（出雲）

　

　　　　　　　海月骨無し

　

　大昔、龍宮の王樣の御妃がお産の前になつて、猿の肝が食べて見たいといふ、珍らしい食好みをなされました。龍王はどうかしてその望みをかなへて遣りたいものと、家來の龜を喚んで、何かよい考へはあるまいかと尋ねられまし(16)た。龜は知慧のある者で、早速日本の島へ渡つて來て、ある海岸の山に遊んでゐる猿を見つけました。猿さん猿さん龍宮へお客に行く氣はないか、大きな山もあり御馳走はなんでもある。行くならば僕が負うて行つてあげると言つて、大きな背なかを出して見せました。猿はうつかりとこの龜の口車に乘つて、嬉しがつて龍宮見物に出かけました。成程かねて聞いてゐたよりも美しいお屋敷でありました。中の御門の口に立つて、龜の案内してくれるのを待つてゐますと、門番の海月が猿の顔を見て笑ひました。猿さんはなんにも知らないな。龍王樣の御妃がお産の前で猿の肝が食べたいとおつしやるのだ。それで君がお客に呼ばれて來ることになつたのにといひました。こいつは大變だと思ひましたけれども、猿にも智惠があるので何食はぬ顔をしてゐますと、やがて龜が出て來てさあこちらへと言ひました。

　龜さん僕は飛んでもないことをした。こんなお天氣模樣なら持つて來るのだつたが、うちの山の樹に肝を引掛けて、乾して置いて忘れて來た。雨が降り出したら濡れるだらうと思つて心配だと言ひました。なんだ君は肝を置いて出て來たのか、それぢやもう一度取りに行くより他はあるまいと、再び龜が背中に載せて、元の海岸まで戻つてまゐりました。さうすると猿は大急ぎで上陸して、一番高い樹の頂上に登つて、知らん顔をして方々を見てゐます。龜がびつくりして猿君どうしたといふと、海中に山無し、身を離れて肝無しと言つて笑ひました。是は龍宮で門口に待つてゐるうちに、あのおしやべりの海月がしやべつたに相違ないと、龜は還つて來て龍王に訴へますと、けしからぬ奴といふことで、皮は剥がれる。骨は皆拔かれる。たうとう今の海月の姿になつてしまつたのは、全くこのおしやべりの罰だといふことであります。

　

(17)　　　　　　　雀と啄木鳥

　

　昔の昔、雀と啄木鳥とは二人の姉妹であつたさうです。親が病氣でもういけないといふ知らせの來た時に、雀はちやうどお齒黒を附けかけてゐましたが、すぐに飛んで行つて看病をしました。それで今でも頼ぺたが汚れ、嘴も上の半分だけはまだ白いのであります。啄木鳥の方は紅をつけ白粉をつけ、ゆつくりおめかしをしてから出かけたので、終に大事な親の死目に逢ふことが出來ませんでした。だから雀は姿は美しくないけれども、いつも人間の住む所に住んで、人間の食べる穀物を、入用なだけ食べることが出來るのに、啄木鳥は御化粧ばかり綺麗でも、朝は早くから森の中を驅けあるいて、がつか・むつかと木の皮を敲いて、一日にやつと三匹の蟲しか食べることが出來ないのださうです。さうして夜になると樹の空洞に入つて、おわえ、嘴が病めるでやと泣くのださうです。（津輕）

　

　　　　　　　鳩の孝行

　

　昔の昔、鳩はほんとにねぢけ者で、ちつとも親の言ふことを聽かぬ子であつたさうです。親が山へ行けといへば田へ行き、田へ行けといへば畠へ出て働いてゐました。親が死ぬ時に靜かな山に葬つて貰ひたかつたけれども、さう言ふと又反對の事をするだらうと思つてわざと川原へ埋めてくれと頼んで死にました。

　ところが鳩は親が死んでから、始めて親の言ふことを聽かぬのは惡かつたと心付きました。さうして、今度はその(18)言ひつけの通りに、川原へ行つて親の墓をこしらへたのださうであります。然し川のふちでは、水が出るたびに墓が流れさうで氣がかりでたまりません。それ故に今でも雨が降りさうになると、この事を考へ出して悲しくなつて、ととつぽつぽ・親が戀しいといつて鳴くのださうであります。もう少し早くから、親のいふことを聽いてをればよかつたのであります。（能登）

　

　　　　　　　時鳥の兄弟

　

　むかしむかし、時鳥には大へん親切な善い弟があつたのださうです。毎年五月になると山に行つて澤山の山の薯を掘つて來て、煮て一番おいしいところを兄さんに食べさせました。それを兄の方ではまだ疑つて、弟がもつと旨い山の薯を、自分では食べてゐるのだらうと思つて、しまひには恨んで庖丁を持つて來て、その優しい弟を殺したのださうです。さうして弟の腹を裂いて見ると、中からあわた〔三字傍点〕といふ筋ばかり多い薯が出て來ました。これは惡い事をしてしまつたと、後悔して悲しんでゐるうちに、たうとうこの鳥になつてしまつたのださうです。だから今でも山の薯を掘る時節になると鳴いて方々を飛びまはります。よく聽いてゐるとあの聲は、

　　　おとゝ戀し

　　　掘つて煮て食はそ

　　　弟こひし

　　　薯ほつて食はそ

と言つて啼くのださうであります。（越中）

　

(19)　　　　　　　時鳥と百舌

　

　むかし／＼、時鳥は又沓を作る職人であつたといふ話もあります。百舌といふ鳥は其頃は馬方であつたさうです。百舌の馬方は時鳥に頼んで、毎度馬の沓を打つてもらつて、ちつとも其代金を拂ひませんでした。それを覺えてゐていつ迄も、時鳥は沓の代はどうしたと鳴くのださうです。さうすると、百舌は面目無いものだから、時鳥の出て鳴く頃には、どこかへ隱れてゐて少しも顔を出しません。さうしていろ／＼の小蟲を樹の小枝などに刺して置いて、時鳥の機嫌を取らうとするのださうです。（紀州那賀郡）

　しかし又こんな講もありますから、どちらが本當だかよくは分りません。昔百舌は酒がすきで、時鳥の金を預かつて、御佛壇の佛樣を買つて來る約束をして置きながら、その金で酒を飲んでしまひました。それで時鳥が毎年其時になると、本尊掛けたかと鳴くのは、催促をするのだといふことであります。百舌はさう言はれると困るものだから、成るたけ黙つて出て來ないやうにしてゐる。百舌の顔の赤いのは、お酒を飲んだからだと言ひますが、事によるときまりが惡いからかも知れません。（同　有田郡）

　

　　　　　　　梟染め屋

　

　むかし／＼、梟は染物屋で、多くの鳥に頼まれて、色々の衣裳を染めてやるのが商賣であつたさうです。その頃烏(20)は大へんなおしやれで、いつも眞白い着物を着て飛びあるいてゐました。その烏が梟の染め屋へ來て、どうか私の衣裳を又とないやうな色に染めてくれと注文しました。梟はその注文を引き受けて、眞黒々の炭のやうな色に染め、是が世界に又とない色だと言ひました。烏は非常に腹を立てましたけれども、もうどうすることも出來ませんでした。それでも其怨みを忘れないで、梟の顔さへ見れば怒つていぢめます。それ故に梟は今でも森の奧に隱れて、烏の起きてゐる間は決して外へ出て來ぬばかりでなく、たまにゐる所を烏に見つかると、ひどい目に遭ふのであります。（陸中岩手郡）

　

　　　　　　　蝉と大師樣

　

　むかし弘法大師が乞食のやうなきたない衣を着て、諸國の田舍を巡つてをられた時に、ある村の百姓の家に來て、一夜の宿を貸してくれと頼まれました。百姓はあんまり大師の身なりが惡いので、すげなく斷つて歸してしまひました。さうして後になつて、始めてそれが弘法大師だといふことに心付きました。それで大急ぎに欅の樹の上に登り、大きな聲で弘法樣よーい、弘法樣よーいと呼び立てましたけれども、もう遠くへ行かれたと見えて歸つて來られません。それをいつ迄も一心になつて呼んでゐるうちに、たうとう其百姓はちばひめ〔四字傍点〕といふ蝉になつたのださうです。今でも七月の二十三日になると、欅の大木にこの蝉が集まつて高い聲で啼くのは、この日が大師樣の一夜の宿を借りに、まはつて來られた日だらうと言つてをりました。（常陸）

　

(21)　　　　　　　鷦鷯も鷹の仲間

　

　大昔色々の鷹が集まつて酒盛りをしてゐる所へ、小さな鷦鷯が遣つて來て、僕も仲間に入れて下さいと言つたさうです。鷹の同勢はこれをばかにして、この仲間に入りたければ猪を捕つて來るがいゝ。猪を捕つて來たら酒盛りに加へてやらうと言ひました。さうすると鷦鷯はすぐに飛んで行つて、藪の中に寢てゐる猪の耳の中に飛びこみました。猪はびつくりして驅け出しましたが、小さな鷦鷯が耳の中であばれるので、苦しくてたまらぬから夢中になつて狂ひまはり、たうとう岩の角に頭をぶつつけて死んでしまひました。それで大威張りで歸つて來て、鷹の仲間に入つて酒盛りをしたさうであります。この時に熊鷹といふ大きな鷹が、負けぬ氣になつて、飛び出して行つたところが、猪が二匹つれ立つて走つてゐました。それを一ぺんに二つ共捕らうと思つて、右と左との足を一匹づつに掛けたら、猪が兩方へ遁げて行かうとした爲に、慾深の熊鷹の股が裂けてしまつたといふ話もあります。（播磨）

　

　　　　　　　狸と田螺

　

　むかし／＼、狸が田螺を誘つて、二人で伊勢參りをしたさうです。旅行もおしまひの日になつて、田螺が狸に向つて言ひました。どうだ狸君、たゞかうしてあるいてゐてもつまらない。是から伊勢の大神宮樣まで、二人で驅けつくらをして見ようぢやないかと言ひました。狸もさんせいして支度をしてゐますと、田螺はすばやく貝の蓋を開いて、(22)狸の尾のさきにちやんと食ひ付きました。だから少しも骨を折らずに、狸と同じだけに飛んで行くことが出來ました。いよ／＼伊勢のお鳥居の傍まで到着しますと、狸はうれしいものだから太い尻尾を振りました。それが石垣の石にかちんとぶつつかつて、田螺の貝が半分壞れて、田螺は土の上へ轉がり落ちました。ずるい田螺は見え坊な奴ですから、痛いのを我慢してかう言つたさうであります。おい狸君、遲いぢやないか。僕はさつきにこゝへ着いて、今肩を脱いで休んでゐるところだぜ。（紀州）

　

　　　　　　　貉と猿と獺

　

　むかし／＼、貉と猿と獺の三人がつれ立つて、彌彦詣りに出かけたことがあるさうです。其途中で三人は拾ひ物をしました。その拾ひ物は蓙が一枚、鹽が一叺と豆が一升とでありました。是をどういふ風に分配したらよいか。なか／＼相談が纏まらなかつたさうです。そのうちに貉は賢いからかう言ひました。猿さんはこの蓙を持つて、山の樹の上に登つてひろげて、方々を眺めたらいゝぢやないか。獺さんはこの鹽をどこか魚のゐさうな池へ持つて行つて撒いて、魚を浮かせて捕つたらいゝぢやないか。私は殘りの豆を貰つて食べようと言ひますと、他の二人はうつかりと賛成してしまひました。猿は喜んで樹の上へ蓙を持つて行つて、それを敷いて見物をしようとしますと、直ぐにすべつてしまつて、猿も木から落ちました。さうして足を挫いてしまひました。獺は池を見付けて一叺の鹽を打ち込み、其の後から水の中に入つて見ますと、鹽水が眼にしみて眞赤に爛れてしまひました。これは飛んだ物を背負ひ込んだ。全體貉がずるいからいけないと、二人で苦情を言ひに貉のうちへ行きました。其間に貉は一升の豆をちやんと食べてしまつて、女房の貉と二人で豆の皮を毛の間へ挾んで呻る眞似をしてゐました。私たちも豆を食べたらおでき〔三字傍点〕が澤山(23)出來て、苦しい苦しいと言ひました。猿と獺とは又だまされて、それぢや御互樣だから、仕方がないと言つて歸つて行つたさうです。（越後）

　

　　　　　　　猿と猫と鼠

　

　昔々ある所に、爺と婆とがありました。婆は精出して木綿を織ると、それを爺が風呂敷に入れて、方々の町を賣りあるいてゐました。或日爺は木綿を賣りに出て、一人で山路を歸つて來ると、遙か向うの山の樹に大きな雌猿がゐるのを、獵師が鐵砲を持つて撃たうとしてをりました。雌猿は手を合せて、こらへてくれといふ樣子をして拜んでをりました。可愛さうな事をすると思つて留めに行きますと、思はず鐵砲がそれて、爺は肩先を打たれました。獵師は飛んだことをしたと思つて遁げてしまひました。さうすると何處からともなく多くの子猿が現れて、一しやう懸命に介抱をしてくれました。さうして猿の家へ連れて行つて、大そうな御馳走をしたさうです。婆が心配をしてゐるからもう還ると言ひますと、猿たちがお禮に寶物をくれました。是は猿の一文銭と謂つて、世にも大切な寶物ですが、命の親樣にさし上げます。是を祭つて置くと金持ちになります。

　ほんたうにお猿が言つた通りでありました。家では婆が年の暮だといふのに、木綿も賣らずに爺が還つて來たので、散々に怒りましたけれども、猿の一文錢の御蔭で、僅かな間に金持ちになりました。ところが近所によくない人があつて、急に爺婆が金持ちになつたわけを聞いて、知らぬ間に其寶物を盗んでしまひました。

　爺と婆とはびつくりして、方々尋ねて見ましたがどうしても在りかが知れません。そこで家に飼つてゐる玉といふ猫を喚んで、玉よ、猿の一文銭を三日の内に探し出して來い。探して來てくれたら御褒美だ。探し出さなければ是だ(24)と言つて、光る短刀を拔いて見せました。猫は是を聽いてすぐに飛び出して、一匹の鼠をつかまへて言つて聽かせました。鼠よ、うちの爺樣の寶物がなくなつた。三日のうちに見付けて來い。見つけて來るならば助けて遣る。若し見付けないと尻尾まで食べでしまふよと言ひました。鼠は食べられると大變だから、三日の間近所の家々をまはつて、猿の一文錢を探しました。さうしてしまひに隣りの惡者の家の箪笥の中にあるのを見つけて、引き出しを?つてそれを取り出し、持つて來て玉に渡しました。玉は喜んで、それをくはへて爺樣に渡しました。爺も婆も猫の玉も鼠も共共に大喜びで、皆が皆いつ迄も繁昌しました。めでたし／＼。（因幡）

　

　　　　　　　猿と蟇との餅競走

　

　昔ある所の山の中で、猿と蟇蛙が出逢つたさうであります。ちやうどお正月も近くなつて、里ではそちこちに餅を搗く威勢の好い杵の音がしてゐました。なんと蟇どん、あの餅を一臼取つて來て食べる工夫はあるまいかと猿が言ひました。そこで山の中で相談をきめて、二人はそろ／＼と里に降りて行きました。最初には先づ猿が庄屋樣の背戸に來て隱れてゐると、後から蟇が忍んで來て、庭の泉水の中へ、どぶんと大きな音をさせて飛び込みました。餅を搗いてゐる若い人たちはその音を聞いて、是は大變だ。うちの坊ちやんが池へ落ちたやうだといつて、臼も餅もほつたらかして置いて、殘らず水の傍へ驅けて來ました。その際に猿はうま／＼と餅の臼を抱へて、山の上まで運んで來ました。蟇もその後からのそ／＼と戻つて來ました。

　なんと蟇どん、お前と二人でこの餅を分けて食ふよりも、いつその事臼のまゝでこゝから轉がして、早く追ひ付いた方がまるごと食ふことにしてはどうかと猿が言ひました。蟇蛙は足がのろいから損だとは思ひましたが、それでも(25)承知をして一、二、三の掛け聲と共にごろ／＼と餅の臼を谷底に突き落しました。足の達者な猿は直ぐにその後から飛んで降ります。蟇は足が遲いので仕方なしに、のたり／＼と山を下つて行きますと、運の好いこともあつたもので、餅はいつの間にか臼の中から拔け出して、道のはたの萩の枝にだらりと引懸つてゐました。是は有り難しと早速その餅の傍に坐り込んで、蟇は一人でゆる／＼とたべてゐました。さうすると、空臼を逐つかけてむだ足をした猿が、がつかりして又登つて來ました。蟇どん蟇どん、こつちの方から先に食つてはどうかねと、見物をしてゐた猿が言ひました。なあにこりや俺の餅だ。俺が好きな方から食はうよと、蟇蛙は答へました。（越後）

　

　　　　　　　猿聟入り

　

　昔々ある村の爺が、一人で山畠に出て働いてゐました。畠が廣くてあんまり骨が折れるので、あゝあゝ猿でもよいから來て助けてくれるなら、三人ある娘の一人は嫁に遣るがなあと言ひました。さうすると猿が一匹ひよつくり出て來まして、せつせと畠爲事を手傳つてくれました。こいつは困つた約束をしたわいと思つて、家に歸つて來て三人の娘と相談をすると、姉も二番目の娘も、猿のお嫁には行かれませんと言つて怒りました。末の娘だけがやさしい女で、お父さんが約束をなさつたのなら、是非がないから私が行きませう。嫁入りの支度には瓶を一つ、その中へ縫ひ針を澤山に入れて下さいと言ひました。さうすると次の日の朝は、猿がちやんと、聟樣の着物を着て、約束の花嫁を迎へに來ました。嫁の荷物は瓶と縫ひ針、これを猿の聟が背中に負うて、仲よく話をしながら、猿の住む山へ行きました。山の麓には深い谷川が流れてゐて、細い一本橋が架つてゐました。その橋を渡らうとする時に、猿の聟樣が話しかけました。男の子が生れたならなんといふ名を付けよう。猿どのゝ子だから猿澤と付けませう。女の子が出來たらなん(26)と名を付けよう。この谷には藤の花がきれいだからお藤と付けませう。さう言つて渡つて行くうちに一本橋が細いので、ちよつと手がさはると猿の聟は川へ墮ちました。さうして縫ひ針を入れた瓶を背負つたまゝで、水に流されて行きました。其時に猿の聟が泣きながら、こんな歌を詠んだといふことで、今でも其文句が殘つてゐます。

　　　猿澤や、猿澤や、

　　　お藤の母が泣くぞかはいや。（備中）

　

　　　　　　　山の神の靭

　

　昔ある所に盲の琵琶法師がありました。琵琶箱を背なかに負うて一人で旅行をしてゐるうちに、路に踏み迷うて山の中で日が暮れてしまひました。仕方がないから大きな樹の蔭に琵琶箱を卸して、そこに一晩野宿をしようと思つて、その大木に向つてかう言ひました。まうし山の神樣、私は路に迷うて夜になりましたから、今晩だけこゝに泊めていたゞきます。就いてはお聞き苦しくもござりませうが、旅の座頭の作法として、琵琶の一曲をお聽きに入れますと言つて、琵琶を取り出して平家物語の一節を語りました。

　さうすると高い所から聲が聞えて、さても／＼面白い。どうぞ今一曲語つて聽かせてくれと言ふ人があります。不思議には思ひながらも、又望みに任せて同じ平家の他の一節を語りました。これは大きに有り難かつた。定めて疲れたであらうといふ聲がしました。しばらくすると誰だか知らぬ足音があつて、お膳に色々の食べ物を載せたのを持つて出てこの盲人に勸めました。これにも重ねて驚きましたけれども、もと／＼無邪氣な座頭であつた上に、腹もへつてゐたので十分に御馳走になり、樹に向つて厚く禮を述べて、その晩は寢てしまひました。

(27)　翌朝になると、一人の獵人が出て來ました。あなたを人里のある所まで、御案内申せと言ひつけられて來ました。この靱にしつかりとつかまつて、私の後に附いておいでなさいと言つて、太い毛皮の筒のやうなものを、盲の手に持たせました。琵琶法師は大喜びで身ごしらへをして、その靱のさきを一しやう懸命に?んで、段々と山を降りて來ますと、やがて谿川の水の音も高くなり、遠い所の犬?の聲などが聞えて來て、村に近くなつたことが知れました。

　そのうちに里の子供等が、大勢山に入つて來る話聲が聞えたかと思ふと、その中の一人が不意に大きな聲を出して、あれ／＼あそこを見ろ、あんな座頭の坊が狼の尻尾をつかまへて、山から降りて來るわとどなりました。この言葉を聽くや否や、今まで路案内をしてゐた獵人は、慌てゝ靱を引き放して、元の路へ走つて還りました。後で聞くとこの獵人かと思つてゐたのが、實は狼であつたのであります。

　それから琵琶法師は草刈り男を頼んで、先づその村の村長の家へ、連れて行つて貰ひました。さうして昨日からの話を詳しくいたしますと、村長は手を打つて、なるほどそれで始めてよくわかりました。昨晩は突然と私の家の小さな子供が、妙なことを言ひ出したのであります。俺はこの山の山の神だ。今夜は珍しい客人があるのだから、何か御馳走をこしらへて山へ持つて來て、大木の下に休息してゐる人にさし上げろ。もし遲くなるとこの子供の命を取つてしまふぞと言つてあばれるので、家中で心配をして、兎も角も急いでお膳をこしらへて、山へ持たせて出したのであります。それでは山の神樣の客人といふのはあなたでしたか。よつぽど琵琶がお上手だと見えますねと言つて、大層この盲法師を尊敬したといふことであります。

　

(28)　　　　　　　鷲の卵

　

　昔ある村に年とつた百姓があつて、美しい一人の娘をもつてゐました。田植ゑの頃に苗代を見まはつてゐると、蛇が小さな蛙を追ひかけて、苗代を荒してをります。蛇よさう追ふな。おれの一人娘をお前にやるからと言ひますと、蛇は追ふのを止めておとなしく歸つて行きました。さうしてその晩から、立派な若い聟が娘のところへ、夜遲く來て朝早く歸るやうになりました。それがどういふ人かよく分らぬので、爺は氣にかけてゐましたが、ある日家の前を一人の見たことのない易者が通つて行くので、それを喚び込んで、占ひをしてもらひました。その易者が言ふには、この娘はたゞの人間でない者を聟に取つて、人間でない者の子を持つてゐるから、近いうちに死ぬかも知れない。けれども助かる方法がたつた一つある。裏の山の大木の上に、鷲が巣をかけて今卵を三つ産んでゐる。あれを聟殿に頼んで取つて來てもらつて食べさせて見たらよからうと言ひました。そこでその晩に來た聟に鷲の卵が食べたいといふ話をしますと、快く承知をして取りに登つてくれましたが、その時はちやんと蛇の姿をしてゐたさうであります。さうして二つの卵を口にくはへて來て、三つ目を取りに昇つたときに、鷲の親はその大蛇をつゝいて殺してしまひました。爺は家に歸つて見ると、昨日の易者が又來てゐて、この話を聽いて、それではもう娘さんは助かつた。この後では三月三日の節句に、酒の中へ桃の花を浮かせてお飲ませなさい。さうすれば愈々丈夫になります。私はあなたに命を助けられた、小さな蛙の御恩返しと言つて、ぴよん／＼とどこかへ飛んで行きました。それから後は三月の三日に、人が桃の酒を飲むやうになつたのださうであります。（肥前杵島郡）

　

(29)　　　　　　　弘濟和尚と海龜

　

　むかし備後國に、三谷寺といふ大きなお寺がありました。始めてこの寺を建てる時に、佛の像や御堂に塗る黄金がないので、弘濟和尚といふ僧が土地の人に頼まれて、數多の産物を船に積んで京都に登り、それを黄金と交易しました。その用も濟んで難波津、今の大阪の港に來まして、歸りの船に乘らうとしてゐますと、大きな海龜を四つ、濱の漁師たちが捕つて來て、殺さうとしてゐるのを見かけました。弘濟は深く憐みの心を起して、海人の者に金を遣つてその龜を買ひ取り、四つとも海へ放して遣りました。

　それからいよ／＼出帆をしまして、備前の骨島といふ島の沖まで還つて來ますと、日の暮れ方になつて海賊の船が現れました。最初にこちらの船へ飛び込んで、先づ二人の家來を捉へて海の中へ投げ込みました。次に弘濟和尚に向つてお前も海へ入れ。入らぬならば投げ込むぞと言ひました。色々と靜かに話をして見ても、惡者どもが承知をしてくれないので、仕方なしに自分で海に入りますと、海賊は金を積んである船を漕いで、何處かへ行つてしまひました。

　弘濟和尚は海に入つて見ましたが、淺い所に岩のやうな物があつて、足が其上に立つて體が沈みませんでした。一晩中かうして立つてゐて、夜が明けてからよく見ますと、岩かと思つたのは大きな海龜の甲｜ら〔傍点〕であつて、いつの間にか備前備中の灘も過ぎ、故郷の備後國の濱近くまで來てゐましたさうです。村に戻つてこの不思議な命拾ひの話をしましたところが、一人として龜の恩返しの深き心ざしを感心せぬ者はありませんでした。

　それからしばらくして後に、この村で大きなお寺が建つことを聞いて、黄金を持つて賣りに來た者がありました。弘濟和尚は早速出て見ますと、その黄金商人の群れの中に、先日の海賊が六人までまじつてをりました。海賊は和尚(30)の顔を見まして、非常に驚き又畏れて、黙つて下を向いて青くなつてふるへてゐます。弘濟もそれをよく知つてゐましたけれども、一言もその事は言はずにたゞ黄金の價を出して交換してやりました。惡者どもはその代物を受け取つて、なんともかとも云はれぬやうな顔をして、黙つて還つて行つたさうであります。

　

　　　　　　　猿正宗

　

　むかし九州の或大名の家の飛脚が二人、江戸へ御用の大切な手紙を持つて、東海道を旅行してをりました。興津の宿を朝のまだ暗いうちに立つて、薩?峠といふ大きな坂路を海岸の方から登つて行かうとする所で、何心なく濱の方を見ますと珍しく大きな章魚が一匹出てゐまして、あの足で何物かを搦めつけて、海の中へ引き込まうとしてゐます。よく見るとそれは猿でありました。猿は岩の角にしつかりと取り付いて、引き入れられまいと一しやう懸命に爭うてゐますが、章魚の方が力が強さうに見えました。助けてやらうぢやないかと、小石などを投げて嚇して見ました。けれども章魚は平氣で中々その手を放さうとしません。そこで二人とも荷物を峠口の路傍に置き、磯端に走つて行つて脇差しを拔いて章魚に切り掛けますと、漸くのことで搦んでゐた手を解いて、章魚は水の中へする／＼と入つて行きました。

　ところが、その猿は危い一命を助かつて、如何にも嬉しさうにその場を飛び退いて、二人の恩人の側へ近よつて來る樣子でありましたが、どうしたことか忽ち途の脇に置いてあつた御?箱を擔いで、どし／＼と山の上へ走つて逃げてしまひました。その箱の中には、何よりも大切な御用の手紙が入つてゐるのです。山には峠路より外に登つて行く路はありません。それを無理に押し分けて、心配しながら猿の後を追ひかけて見ましたけれども、もう何處へ行つた(31)のやら、姿も影も見えませんでした。御?箱がなくなつては、旅行を續けるわけにも行かず、是は飛んでもない事になつてしまつたと、兩人とも困り切つて、茫然として峠の中程に休んでをりました。

　さうするとしばらくしてから、遙かむかうの山に再び同じ猿の姿が現れました。あれ／＼といつて見てゐますと、片手には御?箱を高くさゝげ、片手には何か長い薦包みのやうな物を抱へてゐます。不思議に思つてゐるうちに段々と二人の傍へ近よつて來まして、その二品を前に置きました。先づ／＼大切な御?箱が、無事に戻つて來たのは大安心、今一つの方はなんであらうかと、手に取つて見ようとしますと、その猿は歸つて行きました。この品をお禮に持つて來ようと思つて、しばらくの間兩人に待つてゐて貰ふ爲に、?箱を隱したのであつたといふことが、初めて解つたのであります。

　それでその薦包みがなんであつたかと開いて見ると、中には白木の棒鞘に入つた、一振りの刀がありました。それを江戸に着いてから後に、その道の人に鑑定して貰ひますと、紛れもない五郎正宗の名作であつたさうです。研ぎ立てゝ見れば一點の疵もなく、如何にも見事な古刀であつたので、是を殿樣に獻上することになりました。寸尺といひ形といひ、ちやうどその頃お望みであつた通りなので、二人の飛脚の者は手厚い御褒美を賜はり、その名刀は猿正宗と名づけられて、永くお家の寶物の中に加へられましたさうです。めでたし／＼。

　

　　　　　　　春の野路から

　

　昔々ある所に、貧乏な一人の爺が住んでゐました。毎日々々働いてやつと暮しを立てゝゐました。今日は卯月の八日だから、一日だけ家でゆつくりと休まうと思つてゐますと、又用が出來て外へ行かなければならぬことになりまし(32)た。折角買つて置いた一升の酒を、�ｺ利のまゝでぶら下げて、途中ででも飲まうと思つて一人で出かけました。晴々としたよい天氣で、野にも山にも色々の花が、咲きほこつてゐるのでありました。廣い野原にさしかゝつて、天氣は好し疲れもしたので、この邊で一杯やらうと思つて、よいくらゐの石に腰を掛けますと、足もとに一つの骸骨が轉がつてゐました。これは／＼、どういふ人の骨だか知らないが、ちやうどよい所だ。俺は一人で飲むのはきらひだ。お前さんも一つ飲んで、この景色を見ながら一しよに樂しみませうといつて、盃になみ／＼と一杯ついだ酒を、その骸骨に濺ぎかけたさうです。さうして面白く歌などを歌つて、やゝしばらく遊んでから、そこを立つて出かけました。

　ところがこの爺が用を濟ませて、その日の黄昏時に同じ野を通つて歸つて來ると、後から爺樣ちよつと待つてと呼ぶ聲がしました。振り返つて見ると、十七八の美しい姉樣であつたさうです。今日はお前さんのお蔭で、ほんたうに嬉しい思ひをしました。そのお禮を言ひたい爲に、歸つて來られるのを待つてゐました。私は三年前のこの月の二十八日に、この野原を通つてゐて急病で死んだ娘であります。親たちは今に諸處方々を探してゐますが、縁が薄くてまだ見つけてくれず、昨日まではまことに寂しく暮してゐました。二十八日の法事の日には、何用を置いても是非もう一度こゝへ來て、私と一しよに親の家へ行つて下さいといつたさうです。

　いよ／＼その二十八日になつて、爺は約束だから朝のうちに野原に來て見ますと、美しい娘が出て待つてゐました。それから連れだつて野の隣の村に入つて行きました。娘の家といふのは大きな構への屋敷で、村の人が大勢今日の法事の爲に寄り合つてをりました。俺にはとてもこの中へは入れないと爺がいふと、それなら私の着物に取り附いて入ればよいといつて、二人とも誰にも見附けられず、する／＼と家の中に入つて、佛壇の間に坐りました。座敷には本膳が出て御吸ひ物も酒もありました。好きな酒ですから娘が勸めるまゝに、爺樣は酒を飲み好きな肴を色々と取つて食べました。座敷にゐる坊樣や親類の客人は、知らぬうちに自分の膳の物も酒もなくなるので、不思議だと話しあつてをりました。

(33)　そのうちにお膳を下げる段になつて、一人の小さな女中が皿を落して缺きました。家の主人は大事の皿を飛んでもないことをしたと、ひどく小言をいひました。幽靈の娘はそれを見て、爺樣に向つてさゝやきました。私はあゝいふ所を見るのがいやだから、もう歸りますといひました。爺はそんなら俺も行くといふと、お前さんはまあいゝからこゝにゐて下さいと言つて、獨りで何處かへ行つてしまひました。娘が出て行つてしまふと、直ぐに爺樣の姿が皆に見えて來ました。お前は何者だ。どこから來たか、どうしてこの座敷へ來てゐたかと尋ねられました。もう隱すことは出來ないので、今までのことを殘らず話して聞かせますと、親類一同の者はびつくりし、主人夫婦は泣きました。それでは早速娘のゐる野原へ、私たちを案内して下さい。拜む頼むと言はれました。それで爺が先に立ち、親たち一族寺の和尚までが打ち揃うて、骨を迎へに行つて、もう一度葬式を營みました。爺樣も貧乏な手間仕事などを止めて、この家の人たちから情をかけられ、一生安樂に暮すことが出來たさうです。（陸中上閉伊郡）

　

　　　　　　　黄金小臼

　

　昔々、奧州、みぞろ〔三字傍点〕が沼の片ほとりに、兄弟の百姓が住んでゐました。兄は少し愚かで、弟は中々小ざかしい男でありました。それでその弟は兄を追ひ使つて、毎日々々沼の岸へ遣つて、草苅りばかりさせて置きました。ところが或日のこと、沼から美しい女の人が、手に一通の手紙を持つて來まして、どうかこの手紙を御駒が嶽の麓にある八郎が沼まで持つて行つてくれと、その兄に頼みました。八郎が沼へ行つたら、岸に立つてたん／＼と手を叩いておくれ。さうすれば水の中から若い女が出て來るから、それにこの?を渡せばよいと言ひました。

　男は頼まれてなんの疑ひもなく、早速その手紙を持つて八郎が沼へ行きました。さうして教へられた通りに手を叩(34)くと、果して沼から美しい女が現れて手紙を受け取つて讀みました。みぞろが沼の姉樣が、いつもお前の世話になるさうな。この手紙の中に書いてある品物は、今持つて來てあげるからしばらく待つてゐるやうにと言つて、沼に戻つて小さな石の挽き臼を手に持つて、再び出て來ました。是は二つとないこの世の寶物だけれども、姉の言ひつけだからお前に進上する。この小臼に一粒の米を入れてまはすと、黄金の粒が一つ出ます。たゞ歸つたら庭の片隅に、小さくとも一つの池を掘つて、朝と晩にそれから水を汲んで、この挽き臼に供へておくれ。かう言つて臼を男に手渡しして、又もとの沼へ入つて行きました。

　兄は小臼を持つて自分の家に歸り、毎日一粒づつの黄金を臼から出して、樂々と暮すやうになりました。弟は兄が此頃草苅りにも行かず、樂に暮してゐるのを不審に思つて、そつと覗いて見ると妙な臼をまはしてゐます。それで兄の留守に遣つて來て、佛壇の隅からその小臼を見つけ出して、米粒を一つ入れてまはして見ると、忽ち黄金の粒が出るのでびつくりしました。しかし慾の深い弟ですから、それだけで濟まして置くことが出來ず、一度に澤山の金を取つて置かうと思つて、椀に一杯の米を打ち込んでその臼をまはして見ました。さうすると小臼はころ／＼と轉がつて、段々に外へ出て、庭の隅に掘つた小池の中へころがり込んで、たうとう見えなくなつてしまつたといふことであります。（陸中江刺郡）

　

　　　　　　　はなたれ小僧樣

　

　昔々、肥後國の眞弓の里といふ山奧の村に、一人の爺がありました。毎日山に入つて薪を伐つて、それを關の町へ持つて出て、幽かな暮しを立てゝゐました。或日どうしてもその薪の賣れないことがあつて、町のまん中を流れてゐ(35)る川の橋を、何度となく渡つて町中をあるいて見ましたが、一人も薪を買ふ人がありません。しまひには草臥れてしまつて、その橋の中程に來て休みました。さうしてその薪を一把づつ、橋の上から川の淵へ投げ込んで、龍神樣を拜んで歸つて行かうとしました。

　さうすると、不意にその淵の中から、今まで見たこともないやうな美しい若い女が出て來て爺を呼び留めました。その女の腕には小さな本當に小さな子供を一人抱いてゐます。お前が正直で毎日よく働いて、けふも薪を持つて來てさし上げたことを、龍神樣は大變に喜んでおいでになる。その御褒美にこの子供をお預けになるから連れて行きなさい。この御子ははなたれ〔四字傍点〕小僧樣と謂つて、お前の願ふことはなんでも聽いて下さる。その代りに、毎日三度づつ、是非とも海老の膾をこしらへて、お供へ申さなければならぬと言つて、女はその子供を爺に渡して再び水の底に歸つて行きました。

　爺は大喜びでそのはなたれ小僧樣を抱いて、眞弓の里に戻つて來て、神棚の脇に小さな小僧樣をすゑて、大切に育てました。米でもお小遣ひでもなんでもかでも欲しいと思ふ物があれば、この小僧樣にちよつと頼むと、直ぐにふうんと鼻をかむやうな音をさせて、それを爺の目の前に出します。あんまりこの家はきたなくなりました。もつと大きくて新しい家を出して下さいといふと、家のやうな物までもたゞ一度の鼻の音で出て來ます。さうして思つてゐたよりも尚美しい立派な家でありました。倉や道具なども段々に出て、わづか一月ほどの間に見ちがへるやうな大金持ちになつてしまひました。山へ薪を採りにはもう行くに及びません。爺の爲事は毎日町に出て行つて、膾にする海老を買うて來るだけになりました。

　ところが段々に月日がたつと共に、そのたつた一つの役目までが、少し面倒くさくなりました。さうしてしまひにははなたれ小僧樣を神棚から下して爺はかういふことを言ひました。はなたれ小僧樣、私はもう貴方に何もお願ひすることはありませんから、どうか龍宮へお歸り下さい。さうして龍神樣へよろしくお傳へ下さいと申しました。それ(36)を聽いて小僧樣は、黙つて外へ出て行かれました。さうしてしばらくの間家の外で、すうつと鼻を啜る音をさせてゐましたが、そのうちに段々と家も倉も、その中に在つた物も一つづつ消えてなくなつて、あとにはたゞ以前のあばら家ばかりが殘りました。これは大變だと急いではなたれ小僧樣を、引き留めようと思つて飛び出しましたが、もう何處にもその姿は見えなかつたさうであります。（肥後玉名郡）

　

　　　　　　　松子の伊勢參り

　

　むかし伊勢の大神宮樣へ、出羽の北秋田の獨鈷といふ村の者だと言つて、若い男と女とが二人連れでお參りをして來ました。女の名は松子と謂つて、田舍の人にしては珍らしく上品な美しい女でありました。この二人が旅費が足りなくなつて、大へんに困つてゐるのを、宿屋の主人が見て氣の毒に思ひまして、そんなら來年誰かお前樣方の村の衆が參宮なさる時に、ことづけて返して下さいと言つて、入用なだけのお金を貸して遣りました。ところがその次の年に、獨鈷の村の人が大勢で來ましたから、あの金は持つて來てくれたかと尋ねましたけれども、私たちの村には松子などといふそんな美しい人はをらぬ。これはどうしたわけであらうかと、客も亭主も驚いてしまひました。それからこの伊勢參宮の人が村に還つて來て、村の人たちにこの話をしますと、なるほど、それでやつと合點が行つた。村の諏訪神社の森の高い松の木の上に、三年も前からあゝして白く見えてゐるのは、どうも伊勢の御祓ひのやうだと思つてゐた。それでは一つ下して見ようといつて、松の樹に登つてその白いものを取つて見ると、果してそれは神宮の御札でありました。そんなら確かにこの二本の松が、人の形になつて伊勢參りをしたのであつた。早速その借金を返すがよいと、村で金を集めて、直ぐに伊勢の宿屋へ送り屆けることにしたさうであります。さうしてその二本の松の樹(37)の一方が女で、名前が松子さんであつたことも、この時からわかつたのであります。（羽後北秋田郡）

　

　　　　　　　水蜘蛛

　

　むかし奧州の半田山の沼で、夏の頃に或人が釣りをしてゐますと、珍らしくその日は澤山の魚が釣れて、僅かな間に魚籃が一杯になりました。ひどく暑い日であつたので、その人は跣になつて足を沼の中に浸してゐましたが、何處から出たものか一匹の水蜘蛛が、水の上を走つて來て、その足の栂指に絲を引懸けて行つた。さうして間もなく又來ては同じ所に絲をかけるので、不思議に思つてその絲をそつと拇指からはづして、傍にあつた大きな柳の株に卷きつけて置きました。さうするとやがて沼の底で、次郎も太郎も皆來いと大きな聲で喚ぶ者がありました。それにびつくりしてゐたら、魚籃の中の魚が、一度に皆飛び出して逃げてしまひました。その中に沼では大勢の聲で、えんとえんやらさあ〔六字傍点〕といふ懸け聲と共に、その蜘蛛の絲を引つ張り始め、見てゐる前で太い株根つ子が、根元からぽつきと折れてしまつたさうです。その時から後は誰一人として、今にこの沼へ釣りに行く者はないさうであります。（岩代伊達郡）

　

　　　　　　　泥鼈の親方

　

　物を言はぬ人を、魚のやうに黙つてゐるなどと、西洋の人は言ひますが、日本では魚の物言ふのを聽いた者が折り(38)／＼ありました。それから泥鼈なども物を言ふことがあると言ふ話です。昔美濃の大垣から一里ほど東の中津といふ村で、或古池の水を替へ乾して、非常に大きな泥鼈を捕つたことがあります。その人がこれを肩に荷うて、大垣の町の魚屋へ賣りに行きますと、途中に又一つの大池の堤を通る時に、その池の中から大きな聲で、おい何處へ行くぞといふ者がありました。すると背中の籠の中から、今日は大垣へ行くわいと答へました。びつくりしてゐますと又しばらくして、同じ聲で池の中から、いつ歸るぞと問ひました。これにも籠の泥鼈は返事をして、いつ迄ゐるものぞ、明日はぢきに歸るわいと、耳元で大きな聲でわめきました。かういふのが池の主といふものであらうと思ひましたが、この男はなか／＼きつい男であつたので、こゝで弱い氣を出したら大變だと思つて、こと更籠に氣を付けて、蓋を押へ繩をしつかりと懸けて魚屋へ持つて行つて、好い値に賣つてしまひました。明日は還ると自分でも言つてゐたのだから、たゞ殺されてしまふやうなことはあるまい。どうなるか見てゐようと思つて、先づ賣つて來た金を近くの寺々へ納めて、お經を讀んでもらひました。さうして自分は今日を限りに、生き物を捕る商賣を止めてしまはうと決心しました。その翌日は町に行つて昨日泥鼈を賣つた魚屋の店へ、通りがかりのやうな顔をして寄つて見ますと、主人の方から聲をかけて、あの泥鼈は怖ろしいものであつた。刃物がなくては人間でも破れない池洲の中から、どうして出て行つたか見えなくなつたと言つて、驚いてゐたさうであります。これが恐らく泥鼈の頭であつたらうといふ話でありました。（美濃）

　

　　　　　　　やろか水

　

　むかし尾張の井堀といふ村で、秋のなかばに毎日雨ばかり降つて、木曾川の水が段々に高くなり、堤が切れるかも(39)知れないと心配して、村の人たちが起きて水番をしてゐることがありました。或夜の眞夜中頃に、川の向ひの美濃の伊木山の下の淵あたりから、頻りにやろうかあ、やろうかあと喚ぶ聲がしました。一同は唯不思議に思ふばかりで、どうすることも出來ずに顔を見合せてゐましたが、いつ迄もそのやろうかあといふ聲が止まないで、しまひには怖ろしくなつて人夫の中の一人が、思はず知らず高い聲で、いこさばいこせえと言つてしまひました。さうすると忽ち大水がどつと押し寄せて、見てゐるうちにこの邊の田が全部、水の下になつたといふことであります。それで今でもその時の洪水を、やろか水と謂つてをります。今から二百五十年はど前の、貞享四年の事だといふ人がありますが、この大川の附近には、他にもさういふ話が村々にあるさうです。（尾張丹羽郡）

　

　　　　　　　御辛勞の池

　

　むかし肥後國の八幡村で、御社の近くの古池の水をさらへて、池の魚を捕らうとしたことがありました。八月一日の日であつたといひますが、朝から村の人たちが殘らず集まつて、せつせと水を汲み上げましたけれども、いつ迄經つてもかへ乾すことが出來ません。そのうちに夕方になつて、もう大分底に近くなつたやうに思つてゐますと、だしぬけに見たことのない人が一人、その水の中から出て來ました。さうしてぴよこんとお辭儀をして、皆樣御辛勞と言つたかと思ふと、忽ち何處へか消えてしまつて、池の水はすぐに又もとの通り、池に一ぱいになつてしまひましたさうです。それからこの池の名を御辛勞の池と謂つて、誰も魚を捕らうとする者がなくなりました。（肥後玉名郡）

　

(40)　　　　　　　米良の上漆

　

　むかし日向の米良の山里に、安左衛門十兵衛といふ二人の兄弟がありました。二人ともに米良の山奧に入つて、山の漆を掻いて渡世にしてをりました。ある時兄の安左衛門は山に行く路で、持つてゐた鎌を谷川の淵に落しました。水練の達者な男ですから、直ぐに裸になつて水に飛び込み、段々に深いところへ入つて見ますと、驚いたことにはこの谷川の淵の底が一面の漆でありました。大昔から山々の漆の木の汁が、雨に流されて追々に溜つてゐたのを今までは誰も知らなかつたのであります。これは又と得難い幸運に有り附いたと、安左衛門は一人で喜んで、毎日そこへ行つては少しづつ漆を取り出し、それを好い値に賣つて段々に金をこしらへました。近所の人たちは、何處であのやうな上等の品を手に入れて來るのかと、不審に思はぬ者はありませんでしたが、その中でも弟の十兵衛は、この頃兄が自分と同行せず、いつも隱れるやうにして出て行くのが氣になるので、色々としてそつと後から從いてあるくうちに、たうとうその秘密を見付けました。さうして自分もその淵の底へ入つて、漆を取つて來て賣るやうになりました。兄の安左衛門はこれは困つたことになつた。どうか弟には取らせぬやうに、いつ迄も自分一人で取ることにしたいと思つて、いろ／＼思案をしたあげくに、町の彫り物師に頼んで大きな木の龍の形を、念入りにこしらへさせました。角や鱗には赤青の繪具を塗り、金銀で眼を描いてまるで活きた龍の通りに作つて、それを誰にも知れぬやうに、竊かに谷川の落ち合に持つて行つて、水の力で自然と動くやうにしかけて置きました。弟の十兵衛は少しもこれを知らず、次の日もこゝへ遣つて來て、裸になつて入つて見ましたが、見るも怖ろしい大蛇が水の底から、眼をむき出して睨めてゐるので、近くへも寄れないで、はふはふの體で遁げ還りました。兄はこの樣子を遠くから見てゐて、これからは(41)もう自分ばかりで、自由自在に漆を取ることが出來ると、喜び勇んで水の中に入つてみると、確かに町の彫り物師にあつらへて、彫つてもらつた木の龍でありましたけれども、いつの間にか魂が入つて本當に動きまはつてゐました。さうして安左衝門が漆を取りに行かうとすると、今にも一呑みにする勢ひで、大きな口を開けて向つて來ました。そんなはずはないと思つて、何度も何度も戻つては又行つて見ましたが、どうしても氣味が惡くて、その傍へ行くわけにゆきません。淵の底にはまだ澤山の漆があるのに、たうとうそれを取り出すことが出來ませんでした。こんなくらゐならば始めから仲よく、毎日兄弟づれで取りに來た方がよかつたと、非常に後悔をしたさうであります。

　

　　　　　　　蟹淵と安長姫

　

　むかし／＼隱岐島の元屋といふ村に、年とつた一人の樵がありました。或日、安長川の奧に入つて、瀧の後の山で木を伐つてゐましたが、つい誤つて手に持つ斧を取り落して、瀧壺の小さな圓い淵の中に沈めてしまひました。さうすると忽ちその淵に浪が起り水煙が立つて、そこら邊が眞暗になりました。さうして水の中から黒い刺の生えた棒のやうな物が、浮び上つて來ました。爺はこの樣子を見て非常に驚き怖れて、一目散に山の麓の方へ逃げて來ますと、後からまことに優しい聲で、爺よ、少し待つておくれといふ人があります。振り返つて見ると、繪にあるやうな美しい若いお姫樣が、ちやうどその瀧の所に立つてをられました。私は安長姫といつて、昔から、この淵に住む者だが、何時の頃よりかこゝには大きな蟹が來て住むことになつて、夜も晝も私を苦しめてゐた。今日はそなたが斧を落してくれたによつて、惡い蟹は片腕を切り落されて弱つてゐる。今大きな刺の生えたその腕が、流れて行つたのを見たであらう。そのお禮を言はなければならぬが、まだ片方の腕が殘つてゐるので、安心をしてゐることが出來ぬ。蟹は今(42)淵の底の横穴の中で、腕の痛みで唸つてゐる。どうかもう一度この斧を、瀧の上から落しておくれと言つて、さつき水に沈めた斧を手渡しました。爺は怖ろしながら水の神をお助け申したいと思つて、再びもとの山に戻つて言ひつけられた通りに、その斧を高い所から瀧壺に投げ入れますと、姫神は大そうにお喜びで、これから後は富貴長命、なんなりともそなたの願ふまゝと言つて、林の中に歸つて行かれました。それから幾日かの後、甲ら〔傍点〕の周りの一丈もある蟹の、大爪の兩方ともないのが、死んで海の口へ流れて出たのを、村の人が見つけまして、樵の爺の言つた話を、本當だと思ひました。さうして川の名を安長川、瀧壺を蟹淵と呼ぶやうになつたのださうです。この川の流れはどんな旱の年でも水が絶えませぬ。さうしてこの水の神に雨乞ひをするときつと雨が降るといふことであります。（隱岐周吉郡）

　

　　　　　　　龍宮の鐘

　

　むかし近江國に粟津冠者といふ武勇の士がありました。お寺を建てましたがまだ釣鐘がないので、釣鐘を鑄る鐡を買つて來ようと思つて、越前から船に乘つて、出雲國へ鐡を求めに出かけました。日本海を船で走らせてゐますと、急に風が惡くなり、浪が打ち込んで來て、どうしても船が進みません。船頭も乘客も皆困つてゐたところへ、何處からともなくごく小さな小舟に、子供がたゞ一人で梶を取つて、近くまで遣つて來ました。その船に近江の粟津冠者といふ人が乘つてゐるだらう。急いでこの小舟に乘り移つて下さいと言ひました。どういふわけかは解りませんでしたが、粟津冠者はその言ふ通りに、今來た小舟に乘り移りました。さうすると浪も風もなくなつて、親船は少しも走りません。しばらくの間こゝで待つてゐるやうに言ひつけて、小舟は忽ち海の底へ入つて行くかと思ふと、そこがもう(43)龍宮の立派な御殿の門でありました。龍王が粟津冠者を迎へに出て來られまして、あなたは世に隱れもない弓矢の達人であると知つて、是非ともお頼み申したいことがある。今この龍宮には怖るべき大敵があつて、毎日家來を引き連れて攻め寄せて來る。どうかその弓勢を以て我々を助け、今日の仇を打ち滅ぼしてもらひたいと言はれました。粟津冠者は名譽な頼みである故に、さつそく承知をして龍宮の高殿に昇り、支度をして待つてをりますと、やがて遠くの方から見上げる程の大蛇が、數多の同類を引き連れて攻めて來ます。その大きく開いて來る口を目がけて、眞正面から鏑矢を射放して、舌の根より喉の下まで射貫きました。それに畏れをなして大蛇が逃げて歸らうとするところを、文一箭今度は中程を射かけたさうであります。龍王を始めとし、多くの臣下達も大喜びで、何を今日の骨折りのお禮にしたらよいかと問ひましたが、粟津冠者の今度の旅行は、新たに建立したお寺の釣鐘がまだないので、その材料の鐡を買ふ爲に、海を渡つて出雲まで行かうとしてゐるだけで、他にはなんの望みもないと言ひますと、それならばいと安い事だと、早速龍宮の御殿に懸けてあつた鐘をはづして、これを御進物に贈られました。近江の粟津の廣江寺の釣鐘が、龍宮からのおみやげの鐘であつたと言ひますが、その御寺はもうとつくにありません。武藏坊辨慶が背負つて行つて、比叡山の中腹から轉がしたといふ今の三井寺の大釣鐘が、その龍宮の鐘だといふ話もありましたけれども、確かなことはもう誰にもわかりません。

　

　　　　　　　山父のさとり

　

　昔ある所に一人の桶屋がありました。雪の降つた朝、外に出て爲事をしてをりますと、山の方から一つ目一本脚の、怖ろしい怪物が遣つて來て、働いてゐる桶屋の前に來て立ちました。桶屋はそれを見て慄へながら、これが昔から話(44)に聽いてゐる山父といふものだなと思ひました。さうするとその怪物は、おい桶屋、おまへはこれが山父といふものだらうと思つてゐるなと言ひました。これは大變だ、此方の思つてゐることを、直ぐにあゝして言ひ當てると思ひますと、おい桶屋、おまへは今思つてゐることをすぐに覺るから大變だと思つたなと又言ひました。それから後も、なんでもかでも思ふとぢきに覺られるので、桶屋は困つてしまひました。さうして仕方なしにぶる／＼慄へながら爲事をしてゐますと、思はず知らずかじかんだ手が滑つて、箍の竹の端が前へ走り、山父の顔をぱちんと打ちました。山父はこれにはびつくり仰天して、人間といふやつは時々思つてゐないことをするからこはい。こゝにゐるとどんな目に逢ふか知れないと言つて、どん／＼又山の方へ、遁げて行つてしまつたさうであります。（阿波）

　

　　　　　　　飯食はぬ女房

　

　これも昔々ある村に、一人の桶屋が住んでゐました。或日の晩方に外へ出て小便をしながら、あゝあゝ飯を食はぬ嚊が一人欲しいもんだなあと獨り言を言ひました。さうするとその晩見たこともない女が尋ねて來て、飯を食はぬ嚊の欲しい桶屋さんは此方ですか。私は飯を食はぬ女です。さうしてよく働きますから嚊にして下さいと言つて、いくら斷つても歸つて行きません。致し方がないから女房にして家に置きました。なるほど善く働いて、少しも食事をしませんが、どういふわけか、米が知らぬ間にぐん／＼減りました。それを不審に思つて一度樣子を見る積りで、爲事に行く支度をして家を出かけ、そつと天井に上つて隱れて覗いてをりました。さうすると女房はやがて竈に大きな釜をかけて、俵からどつさり白米を量り出して、さく／＼と洗つて飯を炊き始めました。それから物置からうんと味噌を持つて來て、大鍋に一ぱい味噌汁を沸かしてそれを柄杓で桶の中に汲みこみました。その次には戸板を一枚はづし(45)て來て臺所の上り口に敷き、煮えた米の飯を片端から、大きな握飯にこしらへて、其上へ竝べました。さうして置いてから、今度は髪をばら／＼に解きますと、頭の眞中に別に大きな口が一つありました。其口の中へ握飯を一つづつはふり込み、杓で一杯づつ味噌汁を流し込んで、見てゐるうちに汁も飯も、殘らず食べてしまひました。さうした後で頭の髪をちやんと結び直すと、元の通りのよさゝうな女房になりました。

　この女は山母であつた。こいつは飛んでもない嚊をもらつてしまつた。なんでも早く追ひ出さなけりやならぬと思つて、知らぬ顔をして夕方に、草鞋に土を附けて掃つて來ました。いくら飯は食はなくとも、おまへは家の嚊には向かない。なんでも遣るからどうか往つてくれと言ひますと、それでは行きますからどうか大きな桶を一つ、こしらへて下さいと申しました。桶なら安い事だと早速こしらへて遣りますと、山母の女房は桶屋の油斷を見すまして、出しぬけに男を大桶の中に突き落しました。さうして其桶を頭の上に載せてさつさと山奧の方へ歸つて行きました。桶屋は桶の中から逃げ出さうとしますが、桶が大きいので飛び出すことが出來ない。そのうちに段々山路になりますと、路の片脇に大木があつて、その枝がから／＼と桶の縁にさはりました。山母はやがてある一本の大木の蔭に、少しの間立ち止つて中休みをしました。ちやうどよい折りだと思つて桶の底から手を伸ばして、垂れてゐた枝につかまりますと、體は桶から拔け出しました。山母はそれを知らずに、空桶をかついで奧の方へ行きました。この際に逃げなければならぬと、一しやう懸命に走つて還りますと、山母はそれを心づいたか、振り返つてどん／＼と追つて來ました。里まで行くうちには追ひ付かれる。何處か隱れる所はないかと見まはしたところが、ちやうど谷川の川原に菖蒲が茂り、又その續きには蓬が茂つてをりました。それでその二いろの草の間に潜つてをりますと、山母も追つかけて來てその中へ飛び込みました。

　ところが非常に幸ひなことは、菖蒲の葉が山母の右の目を突き、蓬の莖が左の目を突き破つて、山母は忽ち盲になり、さうして谷川の流れに墮ちて、死んで流れて見えなくなつてしまひました。その日は五月の五日の日であつたさ(46)うです。それから後は此日を節句と謂つて、必ず蓬と菖蒲と二いろの草を屋根に葺き、又その葉を湯に入れて浴みすることになつたのですが、これは二度と再びこの桶屋のやうな、ひどい目に逢はぬ用心だといふことであります。（陸中膽澤郡）

　

　　　　　　　牛方と山姥

　

　昔々ある一人の牛方が、澤山の鹽鯖を牛の背に積んで山の在所へ賣りに行く途中、高い大きな峠を越えようとする時に、運惡く山姥に行き逢ひました。牛方々々、鯖を一尾くれと言ひます。仕方がないから荷の中から鯖を一つ拔いて、投げて遣つて急いで通りましたが、牛が遲いのですぐその鯖を食べてしまつて、又後から追ひついてねだりました。かうして一尾づつ拔き出しては投げて遣つてゐるうち、たうとう牛に附けてゐた澤山の鹽鯖は殘らず山姥に食べられてしまひました。鯖がなくなるとその次には牛を食はせろ、食はせないとおまへを食ふぞと言ひました。怖ろしくてたまらぬから、牛をそこに置いて急いで遁げて來ますと、それも瞬くうちにめり／＼と食べてしまつて、又追つかけて來て、今度は貴樣を取つて食ふと言ひました。これだけはなんとしても承知をするわけにはゆきません。一しやう懸命に走つて遁げて、大きな池の堤まで來ました。堤の上には大きな樹がありました。急いでその樹に登つて隱れようとしましたが、あいにく下の方には葉がないので、牛方の影が沼の水に映りました。

　山姥は息を切つて飛んで來ましたが、あわてゝ沼の中の影を牛方かと思つて水に入つて方々を捜しまはりました。その暇に漸くのことで樹から下りて來て、牛方は又走つて遁げました。さうすると山の下に一軒の家があるので、急いで中に入ると、それが又今の山姥の住家でありました。そつと天井に上つて梁の間に隱れてをりますと、やがて山(47)姥は沼から出て、今日は牛方に構つてゐてえらく草臥れたと、獨り言をいひながら歸つて來ました。さうして圍爐裏に火を焚いて、又餅を出して來て燒き始めました。餅が段々燒けて來るうちに、山姥はこくり／＼と居睡りをしてゐます。梁の上に隱れてゐる牛方は、屋根の裏から茅の棒を一本拔いて、燒けた餅を一つづつ突き刺して取つて食べました。姥が眼を覺まして誰が取つたとどなると、小さな聲で火の神火の神と言ひました。山姥は一きれの餅が渡し金から轉げて眞黒に焦げてゐるのを拾つて、火の神樣なら仕方がないと言ひました。それから今度は鍋を掛けて、又甘酒を沸かします。さうしてその甘酒の温まるのを待つてゐて又居睡りを始めましたから、牛方は長い茅の棒をもう一本拔き出して、梁の上から甘酒を吸つてしまひました。山姥が眼を覺まして、誰が飲んだとどなると、牛方は又小さな聲で、火の神火の神と言ひました。こんな晩には寢た方がよい。石の唐櫃にしようか木のからと〔三字傍点〕にしようか。石は冷たい木のからと〔三字傍点〕がよからうと言つて、大きな樹の唐櫃の蓋を開けて、その中に入つてぐう／＼と鼾をかいて寢てしまひました。牛方はその樣子を見てゐて、そつと梁の上から下りて來て、圍爐裏の火を焚きました。さうして湯をぐら／＼と沸かして置いて、錐を持つて來て木のからと〔三字傍点〕の蓋に穴をあけました。からと〔三字傍点〕の中の山姥はその昔を聽きながら、明日は天氣だげで、きり／＼蟲が鳴かあやといつてゐましたが、そのうち熱い湯をその穴から注ぎ込まれて、たうとう牛方に讐を打たれてしまひました。（越後）

　

　　　　　　　天道さん金ん綱

　

　昔々ある村に、母と三人の子とが住んでをりました。母が三人の子に留守番をさせて、寺參りに出かけた後で、山姥が母に化けて歸つて來ました。山姥の手はさはつて見ると直ぐにわかるのですが、子供をだますつもりで芋がらを(48)卷いて來たので、子供は母の手だと思つて戸を開けて中へ入れました。山姥は三人の子の一番小さいのを抱いて、奧の間に入つて寢ました。さうしてがり／＼とその子を食べてしまひました。次の間に寢てゐた二人の子はその音を聽いて何を食べてゐるのかと山姥の母に尋ねますと、小さな一本の指を奧の間から投げてよこしました。それを見ると直ぐに山姥だといふことがわかつて、二人の大きな子は逃げて出る相談をしました。最初に二番目の子が便所に行くと言ひますと、山姥が兄の方に戸を開けてやれと言ひました。それで二人は家の外に出て、井戸端の桃の木に鉈で切り目をつけて、それを傳つて木の上に登りました。山姥は後を追つかけて方々を探してゐるうちに、井戸を覗いて見たので桃の木の上にゐる子が見つかりました。どうしてその木へ登つたかと山姥が尋ねます。鬢つけ油を塗つて登つたと、頭の兒がうそをつきました。山姥は鬢つけを持つて來て桃の木に塗りますと、つる／＼と滑つてどうしても登ることが出來ません。二番目の子がそれを見て笑つて、鬢つけ油を附けて登れるものか、鉈で切り目を附けて登るのだと言ひました。山姥はそれを聽いて、鉈で切り目をつけて登つて來ます。二人の子は困つてしまつて、空を見上げて、天道さん金ん綱と大きな聲で呼びますと、がら／＼と音がして天から鐡の鎖が下つて來ました。それにつかまつて子供たちは天に登りました。山姥もその後から、同じやうにどなりましたが、今度は天から腐れ繩が下つて來て、それをつかまへて登らうとした山姥は、高い所から落ちて來て蕎麥畑の中で、石に頭を打ち割つて死んでしまひました。蕎麥の莖はその山姥の血に染まつて、その時からあのやうに眞赤になつたのださうであります。（肥後天草郡）

　

　　　　　　　鬼と神力坊

　

　昔阪本八幡の神力坊といふ山伏の家へ、毎度秩父の山の鬼が遊びに來て、大酒を飲み御馳走をねだり、又色々の無(49)理難題を言ひかけて困り拔いてゐたことがあつたさうです。その時に神力坊が工夫をして、なんとかしてもう懲りて來ぬやうにしようと思つて、村の人たちに頼んで置いて、鬼が遣つて來た日は一日の中に、畠の麥を苅つてしまふやうに支度をしました。さうして酒の肴には白い石を四角に切つたものと、竹の根を輪切りにしたものを用意して、自分には別に豆腐と筍との煮たのを、皿に附けて置きました。そんな事は知らないで、鬼は例の通り大ゐばりで馳走を食べようとしますと、竹の輪切りでも石でも、みんな堅くつて齒が立ちません。それで閉口して見てゐる前で、亭主の神力坊は本物の豆腐と筍とを平氣でむしや／＼と食べてしまひました。どうです鬼さん、人間の齒は先づこの位丈夫に出來てゐるのだから、?まうと思へばなんでもかでも?むことが出來ます。まだそればかりではありませんよ、人間は地面をひつくり返したり、皮を剥いだりすることも出來るのです。まあ出て御覽なさいと言つて、神力坊は鬼を案内して家の外に出て見ますと、今朝ほど鬼が來る時までは、一面によく熟して黄いろかつた村の麥畠は、いつの間にか殘らず苅り取られて、その半分は鋤きかへして、眞黒の土になつてをりました。鬼はそれを見て成程人間は鬼よりもえらい。鬼にはとても出來ない事ばかりする。うつかり人間の所へ來て、ゐばり散らすことは出來ないと思つて、逃げて還つてしまつたかどうか。その點はお話が殘つてをりません。しかし兎に角にもう餘程久しい以前から、山の鬼がこの村へ、來なくなつてゐることだけは確かであります。（武藏秩父郡）

　

　　　　　　　金剛院と狐

　

　昔々ある所に、金剛院といふ山伏の修驗者がありました。旅をしてゐて久しぶりに、元氣よく自分の村に還つて來ましたが、村の入り口の岡の陰に、大きな狐が一匹いゝ心持ちさうに畫寢をしてゐるのを見つけました。金剛院はそ(50)つと拔き足をして、寢てゐる大狐の傍へ近より、手に持つてゐた法螺の貝を、狐の耳元で聲高に吹き鳴らしました。さうすると狐はびつくりして飛び上がり、轉がるやうにして逃げて、遠くの草の中に隱れてしまひました。

　これが狐には餘程くやしかつたと見えて、いつの間にか讐討ちをたくらんでゐたのであります。ちやうどこの次の日の晩に、町に修驗者の寄り合ひがあつて、昨日還つて來た金剛院も出て來ることになつてをりました。村々の山伏たちは、方々から集つて來まして、連れだつて町へ出ようとする途で、實に珍らしいものを見ました。一匹の狐が人の通るのも氣が付かぬらしく、池の端に立つて水鏡を見ながら、しきりに草や木の枝を頭に載せ、肩に掛けてゐます。何をするのだらうとそつと見てをりますと、やがてぶる／＼と身を振はせて、忽ち金剛院の姿になりました。さうして足早に何處へか隱れてしまひました。憎い狐ぢやないか。ああして今に遣つて來て、我々を騙すつもりであらう。來たら引つ捕へて松葉いぶしにしてやらうと相談して、山伏たちは待ち構へてをりました。本物の金剛院は、そんなことなどは夢にも知らず、少し遲れて集會の席へ出て來ますと、やあ金剛院よく來られたと言つて、一同が手を取つてまん中へ押し出しました。若い山伏が尻を探つたり耳を引つ張つたりします。何をするのかといふ間もなく、はや誰かゞ繩を持つて來てぐる／＼卷きにしてぶちました。さうして青松葉をうんと焚いて、息が出來ないほど燻したり敲いたりしました。金剛院は狐が化けて來たのだと疑はれてゐることを知つて、決して狐でないといふ證據を、色々として見せましたから、漸くのことで繩を解いてもらふことが出來ました。實は昨日外から歸つて來るときに、罪もない狐を法螺貝で驚かしたから、狐がそれを怨んでわざと化るやうな風を見せて、かうして皆にいぢめさせて、し返しをしたものであらう。もう是からは晝寢をしてゐる狐を見つけても、決して法螺貝などを吹かぬやうにしようといふことになつたさうであります。（紀州西牟婁郡）

　

(51)　　　　　　　俄か入道

　

　昔ある村で、惡い狐が出て惡戯ばかりして困つてゐた頃に、おれは決して狐などには化かされないと言つて、獨りでゐばつてゐた人がありました。その人が他所から還つて來ますと路の下の川原で一匹の狐が、朴の木の葉を頭に載せて女になり、川の藻を採つて圓めて、赤ん坊の形にして抱いてゐるのを見かけました。この畜生、人をばかす積りだな。よしどうするか見てをれと言つて、路傍の石を拾つて上から投げ付けますと、それがちやうど赤ん坊に當つて、一打ちで死んでしまひました。母親は泣いて怒つて、子供を元の通りにして返せと言ひます。なんだ手前は狐ぢやないかといふと、ます／＼腹を立てゝ承知をしません。さうして何時まで經つても狐にならず、見れば見るほど人間の親子に相違ないので、それでは見損なつたか、飛んだことをしてしまつたと思つて、色々と言葉を盡してあやまりましたけれども、中々一通りのことでは宥してくれませんでした。それでは仕方がないから坊主になつて詫びをすると言つて、近くのお寺まで一しよに行き、和尚樣にわけを話して頭を剃つてもらひました。その和尚樣の頭の剃り方が非常に痛い。餘り痛いのでやつと正氣になつてあたりを見ますと、もう先刻の母親も赤ん坊もをらず、和尚もお寺もありませんでした。さうして、剃つてもらつたと思つた頭の毛は、みんな狐に喰ひ切られてゐたのだつたさうです。（武藏）

　

(52)　　　　　　　小僧と狐

　

　昔々ある山寺に、ずゐてん〔四字傍点〕といふ小僧がありました。和尚樣がよそへ行つて一人で留守居をしてゐますと、きつと狐が庫裡の口へ來て、ずゐてん、ずゐてんと呼びました。あまり憎らしいので本堂の窓へまはつて覗いて見ましたら、狐は入り口に背なかを向けて立つてゐます。さうして太い尻尾で戸をこすると、ずゐ〔二字傍点〕といふ音がする。それから頭を戸にぶつつけると、てん〔二字傍点〕といふ音がするのでありました。賢い小僧さんだから早速戻つて來て、そつと戸口の脇に來て立つてゐて、ずゐ〔二字傍点〕といふ音がした時にがらりと戸を開けますと、てん〔二字傍点〕と戸を叩かうとしてゐた狐は、庫裡の庭へ轉げこみました。すぐにその戸を締めて置いて、棒を持つて來て狐を追つかけましたが、そのうちに狐の姿は見えなくなつてしまひました。それから本堂の方へ行つて見ますと、いつの間にか本尊のお釋迦樣が二つになつてゐて、どちらが狐の化けたのやら、見分けることが出來ませんでした。なあにそんな事をしたつてすぐにわかるさ。うちの御本尊樣はお勤めを上げると、舌をお出しになるから間違ひつこはないと言つて、ぽん／＼と木魚を敲いてお經を讀んでゐますと、急いで狐のお釋迦樣は長い舌を出しました。それでは是からうちの佛樣に、庫裡の方でお佛供をさし上げませう。狐の化けたのは殘して置いてと言ひながら、さつと臺所へ歸つて來ますと後から贋物の本尊樣が、のこ／＼とあるいて出て來ました。それでは先づ行水を上げませうと、土間の大釜の中へ抱いて入れてしつかりと蓋をして火を焚きました。さうして和尚樣の還つて來られるまでに、狐のまる煮をこしらへて置いたといふ話であります。（羽前）

　

(53)　　　　　　　片目の爺

　

　むかしむかし奧州の或田舍に、爺と婆が住んでゐました。婆はちやんと目が二つありましたが、爺の方は片目でした。ある日の晩遲くなつてから、ばあな／＼今還つたぞと言つて、右片目の爺樣が左片目になつて歸つて來ました。ははあ是は狐だなと婆樣は思ひました。爺なは又醉つて來たな。醉つて還るといつもの癖で、俵さ入らうといふべなと言ひますと、爺樣はなにや又と言つて、自分で俵の中へ入りました。俵さ入ると上から繩を掛けろといふべなと言ひますと、俵の中の狐の爺樣は、なにや又と言つておとなしく繩を掛けられました。繩あ掛けると又いつもの癖で、火棚さ上げて燻せといふべなと婆がきゝますと、やはり狐の爺は何や又と言ひました。それで居爐裏の上の火棚へはふり上げて、どん／＼と火を焚いて狐を困らせました。それからわざと魚などを燒いて、いゝ香りをさせて婆一人で御飯を食べました。さうしてゐるうちに右片目の、本物の爺が還つて來ました。それで火棚の上の左片目の爺は、たうとう狐汁になつてしまつたさうであります。（陸中）

　

　　　　　　　比治山の狐

　

　むかし廣島に一人の能役者がありました。或日海岸の村の祭に行つて、夜おそく一人で比治山の下の路を歸つて來ました。あまり北風が吹いて寒いので、懷に入れてゐた能の面を出して、風よけにそれを被つてあるいてゐました。(54)さうすると不意に比治山の上から、一人の男が降りて來て、もし／＼と言つて呼び留めました。あなたは實に珍らしいものを被つておいでになる。それはなんといふものですかと言つて尋ねます。これは能の面といふもので、被つて舞ひを舞ふものだと答へますと、それを被りさへすれば、いつでもそんな顔になれるのですか。實は私はこの比治山に住んでゐる狐ですが、一つあなたのやうに化けて見たいから、是非その面といふものを私に讓つて下さいと言ひました。あんまり熱心に頼みますのでたうとう役者も承知をして、その面を取つて狐に遣つて家に歸つて來ました。それからしばらくして廣島の殿樣が、狩りに出て大勢の家來を連れて、比治山の下をお通りになつたところが、をかしな狐が一匹山の上から出て來て、少しも人を恐れずにその邊をうろ／＼してをりました。それ狐が出たと言つて多くの武士が、集まつて來てすぐに打ち殺しましたが、よく見ると以前に能役者の持つてゐた面を被つてゐたさうであります。面さへ被れば體までが、人になるものと思つてゐたらしいので、狐の中ではこの比治山の狐が、一番愚かものであつたらうといふことであります。

　

　　　　　　　芝右衛門狸

　

　むかし淡路の芝右衛門狸の所へ、阿波の禿狸から、化け競べをしようと言つて來たさうであります。芝右衛門狸は承知をして、海を渡つて阿波國へ遣つて來ました。先づ最初には禿狸が、阿波の殿樣の御渡海の樣子を化けて見せました。澤山の船が遠く近く、海の上につら／＼と竝んで、色々の幟や吹き流しが風に靡いて、御座船からは水手の船唄の聲が聞えて來ました。芝右衛門は感心して、今までこんな上手な化け方は、見たことがないと言ひました。それでは私も一つ御大名のお行列を化けてお目にかけませう。いつ幾日のお晝前に、舞子の濱に行つて、あの松の樹の上(55)から見てゐて下さいと約束しました。禿狸は約束の通りに、早速播州へ渡つて行つて、舞子の濱の松の上に、そつと登つて待つてゐますと、やがて西の方から長い何本もの毛槍を立てゝ、下に下にと言つて行列が進んで來ました。馬やお駕籠の飾りが光るやうで、供の武士たちは皆こはい顔をしてゐました。禿狸はすつかり感心してしまつて、思はず松の樹の上で手を叩いて、芝者衛門どの見事々々、まるで本物の通りと、大きな聲で褒めました。

　禿狸が感心したのも無理はありません。それは本物のお大名の行列だつたのであります。芝右衛門はちやんと前からこのお通りを知つてゐて、それを禿狸に見せたのでありました。お伴の武士は禿狸を見つけて、あれあんな所で狸めが嘲弄をしてゐる。無禮なやつだと言ふよりも早く、飛んで來て槍で突き落してしまつたさうです。四國で最も名高かつた阿波の禿狸は、かうして淡路の芝右衝門に騙されて、死んでしまつたといふ話であります。さうかと思ふと阿波の方では、禿狸は今でもまだ達者に暮してゐるやうにいふ人もあります。狸のことですから確かなことはよくわかりません。（淡路）

　

　　　　　　　山伏の狸退治

　

　むかし石城の榊高野といふ村で、或百姓の家の色々の道具が毎日々々見えなくなつたことがありました。是は多分狸の惡戯であらうといふことで、方々の修驗者を頼んで來て、御祈?をしてもらひましたが、少しもきゝ目がなくて、やはりお椀や箸のやうな物までが、いつの間にかなくなるので、山伏たちも弱つてしまひました。

　さうすると一番おしまひに頼まれて來た山伏が、私ならばこんなものはわけはない。きつと退治して見せると言ひました。しかし祈?をするには少しばかり入用の品物がある。急いで買つて來るからと言つて、平の町へ買ひ物に出(56)かけました。その後で家の者が氣が付いて見ると、よつぽど慌て者の法印さまだつたと見えて、小さな風呂敷包みを一つ忘れて置いて行きました。これがなくては困るかも知れない。早く知らせて上げようと言つて、外へ出て大きな聲で呼んだり、人を走らせて見たりしましたが、たうとう追ひ付くことが出來ませんでした。さうして歸つて來て家に入つて見ると、もう今の間にそのつゝみが、何處へ行つたか知れなくなつてをりました。

　それから稍々久しく待つてゐるうちに、法印さんはひよつこり歸つて來ました。家の人たちが氣の毒がつて、風呂敷包みのなくなつた事を話しますと、それでいゝそれでいゝと言つて少しも心配せずに只笑つてをります。さうして皆と一しよになつて、家中をよく探して見ると、縁の下の一番奧の方に、古狸が一匹死んでゐたさうであります。なくなつた道具類も大抵はそのあたりにありました。狸は手に大きな握飯を持つたまゝで、半分食べかけて死んでゐたといふことであります。これはまちん〔三字傍点〕といふ狸の毒藥を、其提飯の中に入れて置いて、風呂敷に包んでわざと忘れて行つたのであると、法印さんが笑ひながら話したさうであります。（磐城石城郡）

　

　　　　　　　湊の杙

　

　むかし三河の平阪の湊に、惡い狸がゐて毎度船頭たちを困らせました。その狸の一番よくない惡戯は、杙に化けてゐて船頭に小舟を繋がせることでありました。さうして舟の者が陸へ上つて遊んでゐるうちに、その舟を何處かへ持つて行つてしまふのであります。平阪の湊には杙などはちつともなかつたのですが、夕方に他所から來た船頭などは、狸が化けてゐることを知らないので、これはちやうど好い所に杙があつたと、うつかり繋いで置いては小舟を流してしまふのでありました。

(57)　かういふ狸の惡戯に懲りてしまつて段々に平阪の湊へ遊びに來る者が少なくなりました。そこで土地の元氣のいゝ人たちは、これは是非とも狸退治をしなければならぬと、ある月夜の晩に、繩だの棒だのを小舟の中に匿して、三四人の若い連中が漕いで出ました。土手の蔭だけが少し暗くて、水の上は平一面に白く光つてゐる晩でありました。この邊から上つて行くとよいのだが、何處にも杙がないなあと、わざと一人が大きな聲で言ひました。さうすると何時の間にか土手の近くに、太い一本の杙がによきと出てゐました。若い人たちはお互ひに目を見合はせて、少しも知らぬ顔をしてその傍を漕いで通らうとしますと、水の中から小さな聲でくいつ、くいつ、といふ者があります。狸は元來少し智慧が足りないので、誰も氣が付かぬのをもどかしがつて、こんな聲を出したのでありました。あゝこゝに太い好い杙があつたのに、ちつとも氣が付かなかつたと、皆して笑つて、舟の中から綱を出して、早速その杙を縛りました。いつもの倍以上もある長い綱でありました。それでぐる／＼と丈夫に舟を繋いで、それから次には棒を出して、寄つてたかつてその杙を打ちました。さうすると忽ち杙が泣き出して狸の化けの皮は露れ、たうとう惡狸は退治られてしまつたさうであります。めでたし／＼。（三河幡豆郡）

　

　　　　　　　狐が笑ふ

　

　むかし美作の或山の峠の上に、一軒家の茶店があつて、喜兵衛といふ人の夫婦が住んでをりました。その喜兵衛の茶屋へ、或日の晩おそくなつてから、立派な身なりをした旅の武士が、入つて來て休みました。よく見るとそれは狐の化けたのでありました。袴や着物や大小の刀ばかりは、本當の武士の通りでありましたが、まだ一向未熟の狐だつたと見えて、少し毛があつて顔は尖つてをりました。耳も三角で突つ立つてをりました。それを自分では知らぬもの(58)だから、よく化けたつもりで、大そう威張つてをりました。喜兵衛はをかしくて堪りませんが、やつと我慢をして笑はずにゐました。しかしどうするか見て遣らうと思つて、金盥に水を一ぱい汲んで來て、御使ひなさいましとその狐の武士の前に置きますと、暫くしてから狐は水を使ふつもりで、うつむいて自分の顔を水に映して、始めてまだ化けきれずにゐたのに氣が付きました。さうして非常に驚いた聲を出して、茶屋を飛び出して何處へか行つてしまひました。

　その次の日に、喜兵衛は一人で山へ木を伐りに行きました。さうして還つて來ようとしてゐますと、出しぬけに林の中から、喜兵衛さん喜兵衛さんと、小さな聲で呼ぶ者があります。姿は見えなかつたけれども返事をしますと、喜兵衛さん、昨晩はをかしかつたなあとその聲が言ひました。それぢや昨晩の狐だなと、喜兵衛さんにはすぐわかりました。昔は狐でもこの通り正直で、人と一しよに笑ふことが出來るものと、多くの山の人は思つてゐたのであります。

　

　　　　　　　夢を買うた三彌大盡

　

　むかし日向國の三彌といふ大金持ちが、まだ貧乏な旅商人であつた時、夏の日に仲間の者と二人づれで、或山路を越えて寂しい高千穗の村へ入つて行きました。あんまり暑いから少し休まうと言つて、路の横手の樹の蔭に横になつて、友だちは直ぐに睡つてしまひました。それを三彌がまだ起きて見てゐますと、一匹の蜂が寢てゐる男の鼻の穴から飛び出して、どこか遠くの山の方へ飛んで行きました。妙なことがあるものだと思ふと、やゝ暫くしてその蜂は還つて來て、再びその男の顔のまはりへ來てゐなくなりました。それから眼を覺ましてその友だちが言ふには、今實に珍らしい夢を私は見た。なんだかこの近くの山でもあるらしかつたが、あるいて見ると一谷が、金で一ぱいになつて(59)ゐる所があつたと語りました。それはまことによい夢だ。それを私に賣つてくれぬかと言ひますと、夢なんか何になるものか、ばかなことを言ふといひましたが、たうとうお酒か何かこの男の好きなものを遣つて、夢をこちらへ買ひ取ることにしました。それから幾日かの後に、三彌は又一人でこの土地へ戻つて來て、毎日々々一しやう懸命になつて、山といふ山を探しまはりました。さうしておしまひに見つけ出したのが、外録といふ金山であつたさうであります。それが三彌の一代の間、夢で見た通りに莫大の金を出して、またゝくうちに九州一の大盡になりました。不思議なことにはこの人が死んでしまふと、すぐに大地震が起つて山が崩れ、今ではその跡は一つの沼になつてゐるといふことであります。（日向西臼杵郡）

　

　　　　　　　蛸島の虻

　

　是もむかし能登國蛸島の湊に、柳何がしといふ人がありました。或日一人の若い者を連れて、鯖を釣りに小舟に乘つて沖に出ましたが、面白いほど鯖が澤山に釣れるので、還ることも出來ないでいつ迄も釣つてをりますと、舟を漕ぐ若い者は退屈をして寢てしまひました。主人は暫くして、ふと氣が付いて見ますと、何處から來たものか三匹の虻が飛びまはつて、しきりに寢てゐる男の鼻の穴から、出たり入つたりしてゐます。こんな沖合に虻などの飛んで來るわけはないがと思つて、その若者の寢てゐるのを搖り起しました。若者が起きて言ふには、私は今實に珍らしい夢を見てゐました。村の丸堂の中から三體の佛樣が、三匹の虻になつて飛んで出られたのを、どこ迄行かれるのかと見屆けようとしてゐるうちに、貴方がお起しになつたのですと申しました。主人は之を聽いて、それはなる程奇妙な夢だ。それでは今日の鯖を殘らずお前に上げるから、その夢を私に賣つてくれぬかと言ひました。夢なんか若し買つて下さ(60)るならば、幾らにでも賣りませうと言つて、男は澤山の鯖を貰つて、喜び勇んで共々に還つて來ました。柳の主人はその足で直ぐに、村の丸堂といふ御堂の在る所に行つて見ますと、果して夢の話の通り、御堂の壁の隙間から三つの虻が、出入りをしてをりました。笠を手に持つて待つてゐて、そつとその虻を押へて大急ぎで家に歸り、座敷の中でその笠を除けて見ますと、虻ではなくて一寸八分ほどの美しい三つの御佛像でありました。これを三つとも家に置いては、あんまり慾が深過ぎると思ひまして、阿彌陀樣は村の勝安寺といふお寺に納め、辨天樣は湊の外の、小さな島に持つて行つて、今でもそこを辨天島といつてをります。さうして殘りの毘沙門さまの像だけは、今でも大事にして、この家で祭つてゐるといふ話であります。（能登珠洲郡）

　

　　　　　　　だんぶり長者

　

　昔々奧州のまた奧の郡に、だんぶり長者といふ途法もない大金持ちがあつたさうです。家には三千人の家來があつて、一日に百石づつの御飯を炊きました。その御飯の米を磨いだ白水が、米代川へ流れて出た爲に、今でも米代川の水は白く濁つてゐるのだといつてをります。此だんぶり長者が都に上つて、長者の御印を戴きたうございますとお願ひ申しました時に、長者といふものには天から授かつた寶物がなくてはならぬ。人間第一の寶は子寶である。その子寶が有るかといふお尋ねがありました。私は小豆澤の大日如來に信心をして、授つた女の子がたゞ一人あります。今度も都見物のために、連れて參つてをりますと申し上げました。呼び出して御覽になりますと玉のやうに美しい姫でありましたので、後に貴い方の御妃になされたさうであります。

　だんぶり長者は若い頃には、正直でよく働くたゞの百姓でありました。山に入つて小屋を掛けて、夫婦で山畑を拓(61)いて耕作をしてをりました。ところが或日の晝休みに、大きな口をあけて畠の脇に晝寢をしてゐるのを、女房が起きて見てゐますと、向ひの山の下から一匹の蜻蛉が、二度も三度も飛んで來ては、男の顔の上や口のまはりを飛びまはりました。不思議に思つてゐるうちに眼を覺まして、おれは今なんとも言はれない好い酒を飲んだ夢を見たと言ひました。そこで女房は蜻蛉の話をしまして、どういふわけだらうと思つて、二人でその山の陰に行つて見ますと、岩の下からきれいな泉が流れてゐて、掬んで見るとそれが泉酒でありました。さうして又その同じ山からは、幾らでも黄金が出て來ました。その黄金をどし／＼と採つて還つて來たので、忽ちこんな大金持ちになつてしまつたのであります。だんぶりといふのは、奧州の言葉で蜻蛉のことであります。蜻蛉に教へてもらつて長者になつたから、それで名前を蜻蛉長者と呼ぶことになりました。（陸中鹿角郡）

　

　　　　　　　藁しべ長者

　

　大昔貧乏でなんともかともしやうない人がありました。大和の長谷の觀音樣に參つて來まして、どうかお助け下さいと朝から晩まで晩から朝まで、幾日も幾日も一しやう懸命になつて拜んでをりました。さうすると或夜の夜明け方に、まことに不思議な夢を見ました。觀世音がお堂の奧の方から出てお出でになつて、其方は前の生の行ひが惡かつたので、今の此世で報いを受けてゐるといふことも知らずに、いつ迄もそのやうに?つてゐるのは愚かなことだ。其方に授ける福は何一つとてないが、あまり不便だからほんの少しだけの物を遣はすぞ。これから下向の路で何によらず、最初に手の内に入つたものを、賜はり物と思つて持つて歸れといふことでありました。男はその夢を觀音樣のお告げと心得まして、もうあきらめて次の日は京都の方へ還ることになりました。ところが長谷のお寺の大門を出よう(62)とするときに、どうした拍子でか、つまづいて轉びました。起き上つて氣が付いて見ますと、知らぬ間に自分の手に、一本の藁しべを?んでをりました。それではこれがあの夢のお告げの、觀音樣の賜はり物であつたのか、心細いことだと思ひましたけれども、根が信心深い男ですから、その藁しべを大切にして持つて出て來ました。

　春の暖かい日であつたさうです。途中で一匹の虻が飛んで來て、顔のあたりをうるさく飛びまはりました。木の小枝を折つて逐ひますけれども、直ぐに又飛んで來てたかります。おしまひにはその虻を手で捕へまして、ちやうど持つてゐた藁しべでそれを縛つて、その小枝に結び付けました。虻はぶん／＼と縛られたまゝで、枝のさきで飛びました。そこへちやうど京都の方から、きれいな牛車に乘り數多の家來を連れて、長谷に參詣する人が來ました。車の中には小さな男の子と、その子の母親とが乘つて外を見てゐました。子どもは牛車の簾の中から、この男の手に持つ虻を見つけて、あれが欲しい欲しいと言ひました。さうすると馬に乘つた一人の家來が、急いで貧乏人のそばへ遣つて來て、若樣がその虻を欲しいと仰せられる。なんとそれを差し上げてはくれまいかと申しました。これは只今觀音樣からいたゞいて來た藁ですが、お子さまがお望みとありますれば、差し上げませうと言つて渡しますと、車の中の奧方は大そうなお喜びで、咽が乾いたらうからお食べと、見事な蜜柑を三つ、眞白な紙に包んでこの男に下さいました。

　わづかこゝまであるいて來るうちに、もう藁しべ一本がこんな見事な蜜柑になつた。御利益は有り難いと思ひまして、又それを大事にして手に持つて歸つて來ると、今度は路の脇に二三人の從者をつれて、休んでゐる若い女の人がありました。暑くて咽が乾いてどうしてももうあるくことが出來ない。何處かこの邊に水はなからうかとこの男に尋ねましたが、近くには井戸も流れもありませんでした。あんまり苦しくて氣が遠くなるほど、若い女の主人が水を欲しがるので、家來たちも困つてしまひました。それならばこゝにたつた今京都の奧樣から下さつた蜜柑があります。これを差し上げて御覽になつてはいかゞと言ひますと、女の人は大喜びで、早速それを貰つて食べました。ああこの人が來て蜜柑をくれなかつたら、私は長谷の觀音樣へお參りも出來ずに、道中で死んでしまつてゐたかも知れない。(63)何かお禮をしなければならぬのだが、旅のことだから他には何も上げるものがない。まあ何か食べて下さいと、用意の御辨當を出して、そこで十分に食事をさせました。それから別れて歸らうとしますと、これはほんの心ざしばかりと言つて、荷物の中から好い布を三反出してこの男にくれました。

　その三反の布を脇にかゝへて、男は喜び勇んで又路をあるいてゐるうちにだん／＼日の暮れに近くなりましたが、むかうの方から立派な馬に乘つた一人の武士が、家來を引き連れて急いで來ました。なんと良い馬もあるものだなと見てをりますと、不意にその馬が此男の立つてゐる前まで來て、ばたりと倒れました。是は困つたことになつた。今までなんともなかつた馬が死んでしまつた。仕方がないから後に殘つてなんとか始末してくれと家來に言ひつけて置いて、主人の武士は大急ぎで先へ行きました。この武士も家來も遠方から來た人で、どうすることも出來ないで弱りきつて、家來たちは倒れた馬の傍に、しやがんで評議をしてをりました。それではその馬は私が引き受けて片づけませうと、貧乏人は其家來たちに言ひました。さうして只で貰ふのもお氣の毒だから、これを上げますとさきの三反の布の中から、一反だけ出して遣りますと、家來たちは顔を見合せて安心したやうな樣子をして、その布を持つて急いで主人の後を追うて行つてしまひました。觀音樣の御慈悲は爭はれない。一日のうちに、藁しべが蜜柑三つになり、その蜜柑が三反の布になり、布は又こんな良い馬になつた。どうか出來ますならばこの馬を、今一度活き返らせて下され觀皆樣と、信心を凝らして念じてゐるうちに、馬が目を開けて少しづつ動き出しました。大喜びで口を取つて引き立てると、馬は立ち上つて身ぶるひをしてあるき始めました。人に見られると盗んだと思はれるかも知らぬと思つて、林の陰につれて來て、樹に繋いで休ませました。さうして夜に入つて後に村里に行つて殘りの二反の布で麥と秣、それから粗末な馬具などを農家から讓つて貰つて來ました。それで十分な支度をして、夜中になつてからその馬に乘つて、林の陰を出て來ました。

　京都に還つて來たのは、次の日の朝早くでありました。京都の町の入り口に一軒の大きな家があつて、今日遠方に(64)引つ越しをする樣子で、荷物をくゝつたり人を喚んだり、家内中大騷ぎをしてゐました。こんな時にはよく馬の入用があるものだ。もしかすると買ふかも知れぬと思つて、門口に立つて馬をお求めになりませんかと申しました。さうすると主人が出て來て、これは如何にも好い馬だ。ちやうど是くらゐの乘り馬を一頭、買ひ入れたいと思つてゐたのだが、旅に出るところで、お金に不自由してゐる。なんとこの近くに少しばかりの田があるがそれをこの馬の代りに取つて作つてくれぬか。それから此家も留守のうちは住む者がない。預けて置くから私たちの歸つて來るまで、入つて自由に住んでゐてよろしいと言ひます。それで承知をして馬を渡しますと、喜んでそれに乘つて、その日のうちに家の人たちは、遠い關東へ旅立つてしまひました。

　虻の男はその跡に住んで、讓り受けた田を耕し、忽ちに立派な農家になり、一年ましに暮しが安樂になりました。元の家主はその後何か事情があつたと見えて、幾年經つても歸つて來ませんでした。それで自然にこの大きな家が自分の物となり、永く子孫が繁昌して、大和の長谷の觀世音の御利益を、感謝したといふ話であります。

　

　　　　　　　炭燒小五郎

　

　昔々、豐後國の有名な眞野長者は、元は炭燒小五郎といふ貧しいよく働く青年でありました。三重の内山といふ所に小屋を建てゝ、一人で炭を燒いて暮してをりました。この小五郎の小さな寂しい炭燒き小屋へ、都から美しいお姫樣が、尋ねて下つて來られました。私は京の清水の觀音樣のお告げを受けて、あなたの家へお嫁に來た者です。今日からこの小屋に置いて下さいと言ひました。折角遠い都から遙々と嫁に來て下さつたのは嬉しいけれども、この小屋には今晩二人で食べるだけの、お米さへもありませんと言ひますと、それならば町へ出てそのお米を買うて來て下さ(65)いと、お姫樣は錦の袋の中から、二枚の小判を出して炭燒小五郎に渡しました。小五郎はその黄金を手に持つて、山を降りて町へ食べ物を求めに行きました。内山の麓には谷川が流れてゐます。その岸には川楊の林が茂つて、その陰が靜かな淵になつてゐました。林の中の路を小五郎が通つてゐますと、二羽のをし鳥がその淵の上に遊んでをりました。小五郎はそれを見かけて立ち止まつて、手に持つ二つの小判を礫にして、その鳥を打ちました。よく狙つて打つたのですが、をし鳥は飛んで逃げ、小判は水の底に二つとも沈んでしまひました。それで仕方がないので又山の小屋へ戻つて來ました。今途中で水鳥を見つけたから、捕つて來て上げようと思つたが、中らなかつたと申しました。

　花嫁はそれを聞いてびつくりしました。あれは大切なこの世の寶で小判といふものであります。あれだけあれば澤山の米や魚鳥が買へるのに、惜しいことをなされましたと言ひました。さうすると炭燒小五郎も始めて知つて、大へんに驚きました。あの石がそんなに貴いこの世の寶だとは少しも知らなかつた。それならばこの小屋の後の山に、幾らでもあの色をした小石が轉がつてゐると言つて、早速二人で松明をつけて見に行きますと、果して小五郎の話した通り、一谷の小石はこと／”＼く純金でありました。それを拾つて來て小屋の中に運び入れますと、忽ち炭燒小屋が一ぱいになつたので、その殘りは小屋の外に積み上げて置きました。町や里の人たちはその事を聞いて、我も我もと色々の物を賣りに來ました。さうして黄金を分けてもらふ爲に、皆が小五郎夫婦の爲に働いてくれました。そこで三重の内山には大きな屋敷を開き、又觀音の御堂を建てゝ信心しました。奧州のだんぶり長者と同じやうに、玉のやうな、きれいな姫が生れて、後に都に上つて御妃になり、家はます／＼榮えました。元が炭燒きであつたから、それで炭燒長者と人がいひました。

　

(66)　　　　　　　二十騎が原

　

　むかし甲州の西山に、家富み榮えた一人の長者がありました。澤山の田や畠を家來に作らせ、又廣い林や野を持つてゐて、狩りなどをして日を送つてゐました。長者夫婦には十人の男の子がありました。それが皆大きくなつて、いづれも立派な逞しい若者になりました。或日その十人の兄弟は、野原に出て弓を射て仲よく遊びました。長者夫婦もつれ立つて出て來ました。高い棧敷をかけさせてその上に坐つて見物をしてゐました。若い人たちは華やかな晴れ衣を着て、鹿毛や黒や月毛や、色々の馬に乘つて出て來ました。さうして自由自在に野原を馳せまはつて、おの／＼精一ぱい弓の技を、親たちに見せました。

　長者はこの有樣を見て大へん喜んで、傍に添うてゐる自分の妻に話しかけました。十人の子寶は決して少ないと言はれない。しかし若しこの上に尚十人の男の子があつて、それが共々にかうして同じ野で、弓を射て遊ぶのであつたら、どんなに心丈夫で又樂しいこどであらうと申しました。さうすると長者の女房は之を聽いて、それならば本當の事を打ちあけませう。本當はこの子どもの生れる時に、どれもこれも雙子で生れたのであります。餘り多いと思つて遠慮をして、實は今まで別の所で育てゝ置いたのです。直ぐに喚びに遣りますから會つて下さいと言つて、大急ぎで使ひを走らせました。暫く待つてゐるとこの野の向うの端から、若い武士が又十人、これも皆良い馬に乘り、花のやうに色々に染めた狩衣を着て、箭を負ひ弓を手に持つて現れて來ました。さうして長者の前に來て禮拜をしました。どれもこれも男らしく、りゝしい若者ばかりでありました。それが前の十人の兄弟と入り交つて、この廣い野原を縱横に馬を走らせ箭を射て、日の暮れるまで面白く遊んださうであります。

(67)　その長者の家は、長い間にもうなくなつてしまひました。さうしてその家の跡が山になり野になりました。然し長者の二十人の子どもが、毎度連れ立つて出て遊んだといふ野原は、二十騎が原と謂つて、久しい後まで名が殘つてゐました。それから少し離れた小山の麓には、又赤子澤といふ所もありました。長者の妻が家を建てゝ、その十人の雙子の片方を育てゝゐた谷だから、それで赤子澤といふのだと話す人もありました。

　

　　　　　　　長者の寶競べ

　

　むかし肥後の菊池の米原の長者と、山本郡の駄原の長者とが、寶物くらべをしたことがあるさうであります。米原の長者は自分の住む米原の村から、山鹿の茂賀浦の阪口といふ所まで、田底三里の間に黄金の飛び石を敷いて、それを踏んで出て來ました。駄原長者は何一つの持ち物もなく、男の子二十四人を引き連れて出て來ました。米原の長者には子といふものが一人も有りませぬ故に、之を見てうらやましいと申しました。それから後はそこの阪を、今に浦山の阪といふことになつたさうであります。

　

　　　　　　　會津の鶴塚

　

　昔奧州の會津に、常安といふ長者がありました。この長者も何百と算へることも出來ない倉を持ち、その倉に一ぱいの金銀と米、その他色々の寶物を貯へてをりましたけれども、子といふものが一人もなくて、それを遣つて喜ばせ(68)ることが出來ませんでした。あんまり寂しくて仕方がないので、鶴を飼つて子供のやうに可愛がつてをりました。鶴は長生をする鳥だから、永く長者の跡が殘るだらうと思つて、それを子供の代りに育てゝをりました。ところがどういふわけかその鶴がまた死んでしまひました。長者夫婦は非常に力を落して、鶴の爲に大きな塚を築きました。それが鶴塚と謂つて今でも殘つてをります。さうして長者の家の跡は、もう何處だかわからなくなつてしまひました。

　

　　　　　　　湖山の池

　

　昔々、因幡國の湖山長者は、一千町歩の田を持つた大きな地主でありました。毎年五月の田植ゑの日は、何千人といふ田人早少女を使つて、一日の中にその千町の田を植ゑてしまふのが、長者の家の昔からの習はしになつてをりました。ところが或年の田植ゑの日に珍らしい事が起つて、どうしても晩方までに千町歩を、植ゑてしまふことがむつかしくなりました。その珍らしい事といふのは、ざつと先づこんな話であります。

　その日も毎年の通り朝早くから、若い田植ゑの女たちが田に下りて、いつもの佳い聲で田植ゑ歌をうたひ、面白く田を植ゑてをりますと、どこの山から出て來たものか、一匹の大きな牝猿が、子猿を背に逆さまに負うて、その廣い水田の畔を通つて行きました。何百人の苗持ち男、何千人の早少女たちは一時にふりかへつて、この不思議な猿の親子の姿を見ました。ほんの僅かばかりの間、立つて見てゐたのでありますが、なんにせよ、これだけ大勢の働く人が殘らず手を休め腰を伸ばしたのですから、爲事がその爲に大へんにおくれてしまひました。太陽がもう西の山の嶺に近くなつても、まだ廣々とした水田の面が、白く光つて殘つてゐます。明るいうちに植ゑ盡すことがなんとしても出來ないといふことになりました。

(69)　湖山長者は高い所から、この樣子を見てゐまして、おれの家ではいつの田植ゑにも、昔から此田を一日に植ゑ切らなかつたことは一度もない。今年ばかり千町歩の田植ゑに、二日かゝつたとあつては、長者の名折れだ。若しも思ふことが何事でも心のまゝに成るのが長者であるならば、今日はこの日の暮れて行くのを、是非とも止めねばならぬと言つて、黄金を張つた扇を一ぱいに開いて、夕日に向つて戻れ／＼と、三べんまで招き返しました。さうすると果して長者の思ひ通り、山に沈みかゝつた日輪が竿三本の長さだけ、三べんに戻つて來ました。千町歩の田植ゑはその光の下で、此日も滯りなくすませましたさうです。しかしこの樣な事をして自ら長者の威勢を試みるのは、勿體ないことでありましたから、忽ちにその天罰を受けました。長者の幸運はこの時を絶頂として、それから次第に降り坂に向ひました。今では子孫が悉く死に絶えて、何處に長者の家が在つたかも、もはや尋ねて見ることが出來なくなりました。或は大地震があつて潰れたとも謂ひますが、その千町歩の長者の田は、いつの間にか大きな湖水になつてをります。汽車の窓からよく見える、湖山の池といふ廣い美しい湖水は、むかし湖山の長者が入り日を招き返した田の跡だと言ひ傳へられてをるのであります。（因幡氣高郡）

　

　　　　　　　梅木屋敷

　

　むかし奧州の滑志田村に、助右衛門といふ又一人の長者がありました。この長者の家では親代々の言ひ傳へがあつて、いかに貧乏して家屋敷を賣ることがあつても、庭前の梅の樹だけは賣つてはならぬ。必ず掘り起してどこかへ持つて行つて植ゑるやうにと、堅い戒めになつてをりました。ところがよもや貧乏になることはあるまいと思はれた助右衛門の家が、だんだん微禄して、どうしても屋敷を賣らなければならぬことになつた時、それでも主人は先祖の教(70)訓を忘れないで、老いたる梅の樹を掘り起して、隣の中屋敷に移さうとしました。さうすると不意にかちりと鍬の尖に、大きな古甕が掘り當つて、蓋を取りのけるとその中から、大判といふ黄金が山のやうに出て來ました。家の人たちは大喜びで、直ぐにその金を出して借りた金を返し、屋敷を賣らずに濟んだばかりか、前よりも一層立派な家を建てゝ、元の長者となつて繁昌することになりました。ところが困つたことにはこの助右衛門の屋敷には、まだ何本となく老木の梅がありました。さうして其樹の下から黄金の甕の出た話を、子孫の者がよく覺えてゐて、安心して奢つた暮しをしました故に、暫く經つと又貧乏になりかけたのであります。それで大急ぎに別の梅の木の根もとを、一本々々と掘つて見ましたけれども、今度はどれからも大判は出て來ませんでした。さうしてしまひには家も梅の樹も悉くなくなつて、今ではその屋敷の跡だといふ只の大きな畠を、いつまでも人が梅木屋敷と呼んでゐるだけになつたといふ話であります。

　

　　　　　　　本取山

　

　昔々、越中礪波郡の山奧に、いくら深いとも知れぬ洞穴がありました。山の麓の村に住む人たちは、いつでもこの岩屋の穴の口に來て、家で入用なお膳だのお椀だのを、借りて來ることにしてゐたさうであります。たとへば明日はお客があつて、うちの道具だけでは間に合はぬといふ時には、前の晩にこの穴へやつて來て頼みました。私は村の何左衛門でござります。あすは是々のことで客をいたしますのに、膳椀の數が足りませぬ。どうぞ十人前だけお貸しなされて下されと言つて、還つて次の日の朝早く又行つて見ますと、必ず立派な器が頼んで置いた數だけ、揃へて穴の口に出してあつたものださうです。それを使つた後でよく洗つて拭いて、次の日に同じ所へ持つて來て、有り難うご(71)ざりましたとお禮を述べて戻ると、何時の間にかそれがしまひ込まれたといふことで、誰が貸してくれるものか、見たといふ者は一人もありませんでした。

　赤や青色の漆塗りの、まことに美しい膳椀であつたさうであります。ところがある慾の深い人がこれを借りて來まして、あまり欲しいのでもう返さぬつもりになりました。催促をしに來る者のないことを知つてゐましたから、平氣でいつ迄もそれを使つてをりました。それから岩屋の穴の口では、もはやなんとお願ひしても、決して道具類を貸してくれぬやうになつたのは、當然のことでありました。しかしその不正直な百姓には、別になんの罰もありませんでした。さうして夫婦で働いて、少しづつ家が金持ちになつて來たばかりでなく、その夫婦が子どものないのを寂しがつてゐたところが、そのうちに一人の男の子さへ生れて、大悦びをしました。

　たゞ困つたことには折角生れた一人子が、五つになつても六つになつても、まだ起つてあるくことが出來ません。今に立つだらうと言つて待つうちに、たうとう十の歳になりました。秋の稻刈りがすんで、それを持ちこんで家の表の庭で、夫婦はせつせと籾を扱いて、俵につめてをりますと、今まで足の立たなかつた男の子が、家の中から匍ひ出して來まして、そこいらを遊びまはつてをりましたが、そのうちにふいと庭先に轉がしてあつた二つの俵の中に入つて、兩方の手に俵をつかまへて、始めてその子が立ち上がりました。あゝ立つたと手を打つて、二人の親が大喜びで見てゐたところが、男の子はその俵を兩方の手に持つたまゝで、なんと、今までに立つことすらも出來なかつた者が、すたこらとあるき出したではありませんか。

　夫婦も始めはたゞ不思議に思つて見てゐたのですが、あんまり急に足が達者になつて、俵を下げたまゝで屋敷から外へ出て行きますので、びつくりしてその後を追ひかけました。しかし足が早くてどうしても追ひ付くことが出來ません。さうして見てゐる間に段々と遠く山路を登つて行つて、おしまひに以前お膳やお椀を貸してくれた岩屋の中へ、ずん／＼と入つて行つてしまひました。父親も大いそぎで後からその穴の口まで遣つて來て覗いて見ましたが、中は(72)眞暗で何物も見えず、又怖ろしくて入つて見ることが出來ませんでした。仕方がないのでぼんやりしてそこに立つてをりましたら、穴の奧の奧の方で、話をする聲が聞えました。やつと米を二俵だけ持つて來た。是でまあ本だけは取れたと、誰かゞ大きな聲で言ふのが聞えたさうであります。

　このお話は是でおしまひです。それからこの岩屋のある山の名を、本取り山といふやうになつたのだと言つてをります。

　

　　　　　　　鶯姫

　

　昔々駿河國に、一人の爺がありました。山で竹を伐つて來て色々の器を作り、それを賣つて渡世にしてゐたので、竹取りの翁と謂ひ、又箕作りの翁とも古い本には書いてあります。この箕作りの翁は或日竹林に入つて、鶯の卵が巣の中でたゞ一つ殊に光りかゞやいてゐるのを見つけました。それを大切に家に持つて來て置きますと、おのづと殻が割れてその中からまことに小さな美しいお姫樣が生れました。鶯の卵から生れた故に鶯姫と名を付けて、自分の子にして育てました。だん／＼に大きくなつて、後には又とないやうな綺麗なお姫樣になり、光り耀く故に又かぐや姫とも呼ばれました。箕作りの翁の伐つて來る竹の節の中には、いつでも黄金が一ぱい詰まつてゐるやうになつて、元は貧乏であつた老人が、僅かのうちに大そうな長者になつてしまひました。その長者の美しい姫のところへ、聟になりたいと言つて色々の人が尋ねて來ましたが、いつも長者の親子からむつかしい問ひをかけられて、それが答へられないので困つて歸つて行きました。時の天子樣はかぐや姫の光りかゞやくやうな美人であることをお聞きになつて、狩りの御遊びの序を以て駿河國まで姫を見においでになりました。さうして都に上つて御妃になるやうに、お勸めにな(73)りましたけれども、思ふ所があつてこれをさへ御辭退申し上げました。その年の秋の八月十五夜に、月の光が清らかに、空一ぱいに照り渡つてゐる時、眞白な雲が迎へに來まして、かぐや姫親子は富士の山の上から、天へ上つて行つてしまつたさうであります。その折にこの一首の歌を添へて、死なぬ藥といふものを天子樣にさし上げました。

　　　今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる

　天子樣はこの和歌を御覽になつて、大そう悲しみなされたといふことであります。さうして死なぬ藥にも用はないと仰せられて、天に最も近い富士の山の上に持つて行つて、それを燒いてしまふやうに命ぜられました。それから久しい後まで、富士の煙と謂つて、常にこの山の頂上が燃えてゐたのは、その藥を燒き棄てた煙が永く殘つてゐるのだと言ひ傳へてゐたさうであります。

　

　　　　　　　瓜子姫

　

　むかし／＼爺と婆とがありました、爺は山に行つて薪を伐り、婆は川に行つて洗濯をしました。或日いつものやうに婆が川へ行くと、川上の方から瓜が一つ流れて來ました。それを拾つて來て爺と二人で割つて見ると、その中からまことに小さな、美しい女の子が生れました。瓜の中から生れたので、瓜子姫と名を付けて可愛がつて育てました。だん／＼に大きくなつて、後には好い娘になつて毎日々々機を織りました。今年の鎭守樣のお祭りには、瓜子をお參りに連れて行かうと思つて、爺と婆とはお駕籠を買ひに、二人で町へ出かけました。留守にはぴつたりと戸を締めて、中で瓜子姫が機を織つてゐますと、あまのじやくが遣つて來て作り聲をして、この戸を少しだけ開けてくれと言ひました。瓜子はついうつかりと戸を細目に開けてやると、それから怖ろしい手を入れて、あまのじやくが戸をがらりと(74)開けました。裏の柿の實を取つて上げませう瓜子さんと言つて、瓜子を裏の畑へ連れて出て、裸にして柿の樹へ縛りつけました。さうしてあまのじやくが瓜子の着物を着て、化けて知らぬ顔をして機を織つてゐます。そこへ爺と婆とは駕籠を買うて、町から歸つて來ました。さあ／＼瓜子姫お駕籠を召せと言つて、あまのじやくを駕籠に乘せて鎭守樣へ詣らうとしてゐると、裏の柿の樹の陰から本當の瓜子姫が、瓜子を乘せないでよう／＼、あまのじやくばかり駕籠に乘せてよう／＼と、大きな聲で泣きました。爺と婆とはその聲を聽いて、びつくりして引き返して來て、それから爺は鎌をふり上げてあまのじやくの首を切つて、黍の畑に棄てゝしまひました。黍の莖が秋赤くなるのは、そのあまのじやくの血が染まつたからださうです。（出雲）

　

　　　　　　　米嚢粟嚢

　

　むかし／＼或所に、姉と妹と二人の娘がありました。姉の名は米嚢で亡くなつた母の子、妹の名は粟嚢で今の母の子でありました。繼母はいつも姉の米袋を憎んでいぢめてゐました。或日村の娘たちと一しよに、二人は山に栗を拾ひに行くのに、姉には底の腐つた古叺を持たせ、妹の粟嚢には新らしいこだす〔三字傍点〕を持たせて遣りました。もう夕方になつて、どの娘も栗を一ぱい拾つたからさあ歸らうと言ひましたが、米袋の叺だけは底が拔けてゐるので、いつ迄も一ぱいになりません。それで友だちが皆歸つてしまつて一人だけ山の中に殘されました。腹がすいて仕樣がないので、谷に下りて水を飲んでゐますと、白い美しい一羽の小島が飛んで來ました。可愛い娘、私はもとはおまへの母親であつた。おまへはおとなしくて今のお母さんによく仕へてゐる。その御褒美にはこの小袖を上げる。常には土の中に隱して置いて、事のある時には出して晴れ着に着るがよいと言つて、それに葵の笛と新しいこだす〔三字傍点〕とを副へて、米袋に(75)與へました。新しいこだす〔三字傍点〕を貰つたので、栗の實がすぐに一ぱいになりました。それを背負つて晩に家へ戻つて來ました。

　それから又四五日して、隣の村におまつりがありました。繼母は粟嚢に好い着物を着せて、そのお祭りを見に出かけて行きます。姉の米袋も行つて見たいと言ふと、お前は麻絲を三結び績んで、それが濟んだなら來てもよいと言ひました。それで一しやう懸命に苧を績んでゐますと、友だちが大勢で誘ひに來ました。わたしはこの爲事を母に言ひつけられたから行かれぬといふと、友だちが哀れに思つて手傳つてくれましたので、思ひの外に早く爲事が片付きました。それから白い小鳥に貰つた小袖を出して來て、きれいになつて皆と出かけました、途々あるきながら葵の笛を吹いて見ると、

　　　この笛を聽く者は

　　　天飛ぶ鳥は羽をよどめて聽け

　　　地を匍ふ蟲は足をよどめて聽け

と、いふ聲に響いたさうであります。

　隣り村のお宮に詣つて見ますと、妹の粟嚢は母と一しよに、人形の舞ひを見てゐました。姉の米袋は饅頭の皮を、そつと妹に投げ付けて見ると、頬に當りました。あれ姉さんがあそこから、私に饅頭の皮を投げたといふと、いや／＼米袋には用が言ひつけてある。なんで今頃來るものかと言つて、母親は本當にしません。それから又少し經つて、妹があちらを向いてゐる時に、今度は飴の包みの竹の皮を投げて見ました。それも妹がさう言つても母親は信じません。それは誰か似た人ででもあるだらう。人に物を投げられたら脇を向いてゐろと言ひました。

　そのうちに母と妹がもう還りさうにするので、米袋は急いで先に戻つて來て、着物を着替へて知らぬ顔をして待つてゐました。その次の日には隣村の人から米袋を嫁に欲しいと言つて來ました。繼母は妹の方を貰つてくれと言ひま(76)すので、それならば二人のきりやう比べをして、美しい方にきめようといふことになりました。二人がお化粧をするのに髪には何をつけようかと妹がきくと、棚から油を持つて來て塗つて見ろと教へ、姉が問ふと水屋の流し元の水でも附けろといひました。粟嚢の髪は癖毛だから、櫛に引掛つてぴんぱら／＼と鳴りましたが、それを母親は琴か三味線かの音のやうだと言つて賞め、米袋の髪の毛がすなほで澤山あつて、櫛が通つてじよらじよらとするのを、まるで糞蛇が穴に入つて行くやうな音だとけなしました。それでも髪を結つてしまひますと、誰が見ても姉の方が遙かに美しいので、たうとう嫁に貰はれて行つてしまひました。妹の粟嚢は、それを見て羨しくてたまりません。私も早くあのやうな立派な駕籠に乘つて、嫁入りがして見たいと言つて母親をせがみました。母親は仕方がないので荷車に妹を載せて嫁はいらぬか嫁はいらぬかと、大聲に觸れてあるくうちに、その事が轉げて、娘は田に落ちて田螺になり、惡い繼母は堰に落ちて、堰貝になつてしまつたさうであります。（津輕七つ石）

　

　　　　　　　山姥の寶蓑

　

　むかし／＼或山國の田舍に、美しい一人の娘がありました。春の日に村の人たちと山へ遊びに行つて、路をまちがへて自分だけ、遠くの方へ行つてしまつて、歸ることが出來なくなりました。そのうちに段々日が暮れて來て、どつちへ行くのがよいかと思つて困つてをりますと、向うにたつた一つ燈火が見えるので、大喜びで尋ねて行きましたら、それが山姥の家で、山姥が一人で圍爐裏に當つてゐました。折角尋ねて來たけれども、こゝは人を食ふ者の住居だから泊めてやることは出來ぬ。竝の人間の家を探す方がよいと言ひました。娘はこれを聽いてぞつとしましたが、もう食べられても構ひませんからどうか泊めて下さい。どうせ今夜のやうな暗い晩に、これから山の中をあるいてゐれば、(77)熊か狼かに食べられるにきまつてをります。それよりもこゝで食べられた方がまだよいからと言ひました。

　山姥もそれを聞いて哀れに思ひました。それでは大事な私の寶物だけれども、寶蓑といふ物をお前に上げるから、これを被つてもつと先へ行くがよい。この蓑を着て三遍如法の唱へ言をすると、老人にでも子供にでも、自分の思つた通りの者の姿になれる。又欲しいと思ふ物はこの蓑を持つて振ると、なんでも出て來るからと言つて、きれいな一枚の蓑をくれて、使ひ方を教へてくれました。娘は喜んでその蓑を貰つて、早速よぼ／＼のお婆さんの姿になつて、山姥の家から出て來ました。途中には怖ろしい鬼が集まつて、待ち伏せをしてゐる所もありました。あれ人が通る、取つて食はうかといふ鬼があると、よせ／＼あんなきたない痩せた婆あを食つてもつまらないと他の鬼どもが止めました。さうして漸く夜の明ける頃に、知らぬ里に出て來て、ある長者の門の前に立ちました。私は行く所もない者です。どこの隅にでもよいから置いて下さいと言ふと、情深い長者で、それでは長屋の空いてをる所にゐるがよいと言つてくれました。

　それからその長屋にゐて、晝は絲紡ぎなどをして暮し、夜は退屈なものだから、誰も知らぬ間だけそつと元の娘になつて、手習ひなどをしてをりました。長者の息子が或晩遲くなつて外に出て見ますと、長屋にたつた一つ燈し火の光がさして、覗いて見ると美しい娘が一人靜かに手習ひをしてゐます。どうかあの娘を嫁に欲しいものだと思つて、次の日屋敷中を探して見ましたけれども、もうそんな女は何處にもをりません。不思議なこともあるものだと思つてゐると、今度は家の下男がどうかしてその姿を見つけまして、化け物かも知れぬと思つてその事を長者どのに話しました。それで早速この婆を呼んで來て、段々證據を出して責めて見ますと、娘はもう仕方がないので、山姥に貰つて來た寶蓑の話をしました。さうしてその蓑を脱いで娘の姿に戻つて、自分の家と所を詳しく言つて、どうか私の家へ屆けて下さいと頼みました。長者の力で探して見ると、娘の家はやがてわかりました。家ではもう死んだ者と思つて、お祭りをしてゐたさうであります。それを送り返してやると、大騷ぎをして喜びました。それから暫くしてその娘を、(78)長者の家の嫁にもらふことになつて、一家仲よく皆榮えたさうであります。めでたし／＼。（甲斐）

　

　　　　　　　竈神の起り

　

　昔々或村に一人の百姓がありました。旅から歸つて來る途中で、夜に入つて俄雨が降つて來たので、暫く路傍の道禄神の森の陰に、雨宿りをしてをりました。さうするとその森の前を馬に乘つて行く人があつて、暗い所から聲をかけました。道禄神はお宿ですか、今夜は何村にお産が二つあります。これから御一しよに生れ子の運をきめに參りませうと言ひました。森の中から又返事をして、折角お誘ひ下さつたけれども、今はちやうど雨宿りの客があつて、手が離せませんからよろしく願ひます。左樣ならば一人で行つて來ますと言つて、馬の足音が遠くなりました。何村といふのは自分の所のことですから、これは不思議なことだと氣を付けてをりますと、僅かばかりの後にその馬の主は歸つて來て、又表の往來から聲をかけて行きました。本家の方は男の子、分家の方は女の子、女は福分があつて男は運がありません。これを夫婦にすれば女房の運で榮えるでせうと言ひました。

　百姓は思ひがけず、今日の赤子の運定めの話を立ち聽きしまして、急いで村に歸つて見ますと、ちやうど自分の家に男の子が生れ、隣りの分家では女の子が生れてゐましたので、すつかり驚いてしまひました。それで早速に相談をして隣りどうしで今から縁組の約束をしました。二人が大きくなつて夫婦になりますと、成程家は段々に繁昌しましたが、それを女房の運がよいお蔭だと、思つてゐることは亭主には出來ませんでした。後には追々と氣に入らぬことばかり多くなつたので、赤飯を炊いて赤牛にゆはへつけ、その赤牛に女房を載せて、強ひて遠くの野原へ追ひ放してしまつたさうであります。

(79)　女房は泣きながらその赤牛に乘つて、何處へでも牛の行くなりに任せてをりますと、段々と山に入つて山中の一軒家の前に來て止まりました。その家の主人は親切な男で、色々と世話をしてくれますので、他に行く所もないから、たうとう其一軒家の嫁になりました。さうすると見てゐるうちにこの家の暮しが都合よくなつて來ました。後には數多の男女を使つて何不自由のない身分になりました。そのちやうど同じ頃から、女房を追ひ出した本家の方では、損をするやうな事ばかり續いて、次第に身上が左前になり、しまひには親代々の田畠までなくして、零落して笊賣りになつてしまひました。その笊賣りがそちこちを賣りあるいてゐるうちに、或時ひよつこり山の中の、立派な一軒家に遣つて來て、持つてゐた笊を殘らず買つて貰ひました。

　それから後も他へ往つては少しも賣れないので、毎日のやうにこの山中の一軒家に來て頼んで笊を買つて貰ふことにしてゐましたが、或日其家のおかみさんがつく／”＼と笊賣りの顔を見てゐて、どうしてお前さんはそのやうに落ちぶれたか、元の女房も見忘れてしまつたかと言ふので、始めて氣が付いて見ると、成程前の年赤牛に乘せて追ひ出してしまつた自分の妻であつたので、びつくり仰天して泡を吹いて死んでしまつたさうであります。

　女房はそれを見て可哀さうに思ひました。さうして誰も知らぬうちに、そつとその死骸を竈の後の土間に埋めて、自身で牡丹餅をこしらへて供へました。その日外に出てゐた家の人たち下女下男などが歸つて來ますと、今日は竈の後に荒神樣を祀つて、その御祝ひに牡丹餅をこしらへたから、幾らでも食べるやうにと言ひました。それが始まりで今でも百姓の家では、牡丹餅をこしらへて竈の神のお祭りをするのださうであります。（上總長生郡）

　

(80)　　　　　　　矢村の彌助

　

　むかし信州に矢村の彌助といふ親孝行の、若い農民がありました。正直でよく働いて、それでゐて家は貧乏でありました。或年の暮れに僅かな錢を持つて、正月支度の買ひ物に暮の市へ出かける途で、路傍のわなに一羽の山鳥がかかつて、ぱた／＼としてゐるのを見かけました。これは一つ助けてやらうと、罠の絲を弛めて山鳥を逃がしましたが、たゞ逃がしては罠の主に濟まぬと思つて、手に持つてゐた一緡の銭を、山鳥の代りにその跡へ挾んで置いて、もう買ひ物の用がなくなつたから、手を空にして戻つて來ました。家の母親も心のやさしい人で、それは好い事をして來たと言つて、親子二人で何もない寂しい正月をしました。そこへ見馴れない若い娘が一人訪ねて來ます。私は旅の者、雪に降られて難儀をします。なんでも働きますから春になるまで置いて下さいと謂つて、お婆さんの代りに色々の家の用をしてくれました。至つておとなしいきれいな娘でありました。親も身寄りもない人ならば、いつそこの家にゐて嫁になつてくれぬかと、彌助の母親が相談をかけて見ましたら、喜んで承知をして嫁になりました。それから何年か仲よく暮してゐるうちに、有明山に惡い鬼が現れて、田村將軍が朝廷の仰せを蒙り、それを退治に行くことになりました。矢村の彌助は弓が上手だから、田村將軍のお供をして鬼征伐に出なければなりません。その時に彌助の女房がそつと彌助を呼んで、斯ういふことを申しました。有明山の鬼は魏死鬼と謂つて、たゞの弓箭ではとても射殪すことが出來ません。十三の節ある山鳥の尾羽根を箭に矧いで、其箭で射るならば一矢でも退治することが出來ます。一世一代の男の大事だから、その羽根を私が上げませう。私はずつと昔の年の暮にわなにかゝつて、あなたに命を助けられた山鳥ですと言つて、泣きながら何處へか飛んで行きました。後には十三節の見事な山鳥の尾羽根が殘してあり(81)ました。それだから、有明山の鬼が退治せられて、日本アルプスが明るい山になつたのも、全くこの矢村の彌助の手柄であります。彌助はその手柄によつて莫大な御褒美を戴き、永く信州の山奧に其名を留めました。（信濃南安曇郡）

　

　　　　　　　狐女房

　

　むかし能登國の萬行の三郎兵衛といふ人は、或晩便所に行つて歸つて來て見ると、部屋に自分の女房が二人をりました。どちらか一人は化け物に相違ないのですが、姿から言ふことまでも寸分の違ひがなく、色々難題をかけて見ましたが、雙方共にすら／＼と答へるので、どうすればよいのかに困つてしまひました。そのうちに一人の方に、ほんの僅かな疑ひがあつたので、それを追ひ出してしまつて今一人の方を家に置きました。それから家が繁昌して二人まで男の子が生れました。その二人の子が少し大きくなつて家で隱れんぼをして遊んでゐて、ふと母親に尻尾のあることを見つけました。正體を見られたからにはもうをることが出來ない。實は私は狐であつたと言つて、二人の子を殘して泣いて歸つて行きました。それから毎年稻のみのる頃になると、その狐の女房は三郎兵衛の田のまはりを、「穗に出いでつっぱらめ」と唱へながらあるいたさうであります。さうしてこの家の稻だけは、いつも少しも實が入らぬ爲に、毛見の役人が見に來て必ず年貢を許してくれました。それが刈り取つて家に運んで來ると、後から穗を抽き出してどこの家よりもよく實つたので、この家の暮しはます／＼豐かになつたといふことです。（能登鹿島郡）

　

(82)　　　　　　　盲の水の神

　

　むかし肥前の深江といふ村に、母とたゞ二人で住んでゐる若い醫者がありました。或日途中で村の子供が、白い鰻をつかまへて殺さうとしてゐるのを見て、命を助けて放してやつたことがありましたが、やはり矢村の彌助さんのやうに、後に美しい旅の娘になつて來て、此家の嫁になつたさうです。さうして一人の男の子が出來てから、正體を見られて歸つて行つたといふことであります。ある時姑が用があつて嫁の部屋に行つて見ましたところが、大きな蛇が子供を卷いて鼾をかいて寢てゐたので、それからもうゐることが出來なくなつて、ねんごろに子供のことを頼んで歸つて行きました。若しよい乳母がなくて育てにくいやうであつたら、どうか普賢岳の池の岸へ來て、私を喚んで下さいと言ひました。

　それから父親の手で子を育てゝ、乳が足りなくて難儀をしました。そこでその子を抱いて山の上の池に尋ねて行きますと、約束の通りその女が出て來て、美しい一つの玉を取り出して子供に嘗めさせました。これは私の眼の玉でありますが、乳の代りに嘗めさせるとこの子が丈夫に育ちます。大切にして持つてゐて下さいと言つて別れました。ところがその歸り路で見巡りの役人がこの醫者の懷中のふくらんでゐるのをあやしんで、世にも珍らしい寶玉を持つてゐることを知つて、それを取り上げて殿樣にさし上げてしまひました。子供は乳が出なくなつたので又泣き立てゝ仕方がありません。そこで翌日はもう一度同じ池の端にやつて來ますと、今度は片目になつて、その女が現れて、くはしくその話を聽きました。今一つある玉を遣つてしまふと、私はもう盲になるけれども、我子の爲とあればそんな事はなんでもないと言つて、殘つた片方の眼の玉を子どもの父に渡し、泣く／＼歸つて行つたさうです。

(83)　しかしこれほど迄に親の愛情の籠つた玉でしたが、それを又取られてしまひました。殿樣と役人とはどこ迄も無慈悲であつて、このやうな結構な玉は一對にして將軍家に獻上した方がよいと言つて、折角二度目に貰つて來た玉も、又役人に持つて行かれました。普賢岳の大蛇はこの事を聞いて、非常に怨み又憤つたさうであります。寛政年間の島原の大地震大津浪はその盲になつた池の神の腹立ちから起つたと言つてゐる人も澤山あります。さうすると大蛇の母から眼の玉を貰つたのは、今から百四五十年前の話といふことになりますが、實際はもつと大昔からの話であつたかと思はれます。（肥前南高來郡）

　

　　　　　　　爺に金

　

　これはうつかりしてゐる所へ金銀が飛んで來て、知らぬうちに大金持ちになつた話であります。むかしむかし或村に、善い爺と惡い爺がありました。ある時善い爺は一人で山に入つて爲事をしてゐますと、何處からともなく取つつかうかくつつかうかといふ聲が聞えました。あんまり何度もその聲がするので、爺は何心なく取つつかば取つつけ、くつつかばくつつけと言ひますと、不意に兩方の松林の中から金と銀とが幾らともなく飛んで來て、肩や背なかにうんといふ程乘りました。それを持つて歸つて家の中にひろげて、婆と二人で眺めてゐると、隣りの惡い爺が遣つて來て、それを見て大そう羨しがりました。

　おらもその眞似をして寶物を背負つて來ようと、次の日は隣りの爺が同じ山へ入つて行くと案の條左右の山の中から、くつつかうか取つつかうかといふ聲が聞えて來ました。早速大喜びでくつつかばくつつけ、取つつかば取つつけと言つて背なかを出すと、今度は松の樹の上から松脂が飛んで來て、重いくらゐ惡爺の肩と背なかに附きました。婆(84)あ婆あ今歸つて來たぞ、早く燈火をつけて來て見せよ。と言つて、婆は大いそぎで近くまで火を持つて來ましたらその火が松脂にうつつて、惡い爺は大火傷をしたさうであります。

　

　　　　　　　大歳の焚き火

　

　昔々ある田舍に、貧乏な一人の馬方がありました。明日は元日だといふのに一つも爲事がなくて、空の馬を牽いて家へ歸つて來ようとしますと、街道の松竝木の蔭に、きたない乞食が倒れて呻つてをりました。やれ／＼俺よりもまだ氣の毒な人があつたか、これは助けて遣らなければならぬと思つて、幸ひ空つぽの荷鞍の上に載せて戻つて來たさうです。さうして女房と相談をして、土間に筵を敷いて横に寢かせ、何もなけれども地爐の火だけはうんと焚いて、どうやらかうやら年だけは取らせました。元日の朝はお天道樣の高く上がらつしやる迄も、その乞食は起き出して來ませんから、傍に寄つておい／＼と、起して見ても返事がない。なんだか冷たくなつてゐるやうだと思つて、びつくりして掛けてやつた藁の筵をめくつて見ると、乞食だと思つたのは大きな黄金の塊りでありました。それを使つてその馬方は、すぐに大金持ちになつたさうです。めでたし／＼。（三河南設樂郡）

　

　　　　　　　笠地藏

　

　昔々ある村に、至つて心の善い爺と婆とが住んでゐました。爺は毎日編笠をこしらへて、町へ出て賣つて暮しを立(85)てゝをりました。明日は正月といふ日にも笠を賣りに出ましたが暮の市だから笠などは少しも賣れません。しかたがないので笠を背負つて戻つて來ると、ひどい吹雪の中で野中の地藏樣が、濡れて寒さうに立つてをられます。これはお氣の毒だと思つて、六つある笠を六つの石地藏樣に着せて上げました。さうして家へ來て婆にその話をして、何もする事がないからそのまゝ寢てしまひました。さうすると年越しの夜の明け方に、遠くの方から橇を曳く音がして、歌の聲が聞えて來ました。

　　　六臺の地藏さ

　　　笠取つてかぶせた

　　　爺あ家はどこだ

　　　婆あ家はどこだ

　かういつて橇を曳く聲が、段々と近くなつて來るので、起き出して、こゝだ／＼といふと、戸の口へどつさりと、寶物の袋を投げ込んで置いて、六人の地藏樣が歸つて行く後影が見えたさうであります。

　

　　　　　　　團子淨土

　

　昔々ある所に、爺と婆とが又ありました。春の彼岸に彼岸團子をこしらへてゐたところが、一粒の團子が庭に落ちて、ころ／＼と轉がつて行きました。だんご／＼何處まで轉ぶと、爺がさう言つて追つかけて行くと、地藏さんの穴まで轉ぶと言ひながら、團子はたうとう穴の中に入つてしまひました。爺もその後から穴の中へ入つて行きますと、穴の底は廣くて、そこに地藏さんが立つてをられました。その地藏の前でやつと團子をつかまへて、土の附いてゐる(86)方を自分で食べて、土の附かぬ方を地藏さんに上げました。そのうちに暗くなつたからもう歸らうとすると、地藏さんがおれの膝の上さあがれといふ。勿體なくて上れません。いゝから上れといふからその通りにすると、今度は肩の上さあがれといひます。膝までもやつと上つたのに、とても勿體なくて上れませんと斷りましたが、無理に上れといふから肩の上へあがりました。さうすると、今度は頭の上さ上れといひます。辭退をしてもなんでも上れといふので、思ひ切つて地藏の頭のうへに上りました。さうすると一本の扇を地藏さんが貸してくれました。今にこゝへ鬼共が來て博奕を始めるから、よい頃にこの扇をたゝいて、?の鳴く眞似をしろと教へられました。案の如く大勢の鬼が遣つて來て博奕を始めたから、しばらくしてから地藏のいふ通りに?の鳴く眞似をすると、そらもう夜が明けると鬼共は大騷ぎをして、錢や金を澤山に殘して置いたまゝで、皆逃げて行つてしまひました。それで爺はその金や銭を地藏さんに貰つて、喜んで家に歸つて來ました。

　うちでは婆が待つてゐて、二人でその銭金をひろげて見て大喜びをしてゐますと、ちやうど隣の婆が遊びに來てびつくりしました。どうしてこの家では、急にその樣に福々しくなつたのかと訊くので、正直な爺は有りのまゝの話をしますと、それならおら家の爺も地藏さんの穴へ遣るべちやと言つて、急いで歸つて二人でわざ／＼團子をこしらへました。さうしてその中の一粒をわざと庭に落しましたが、ちつとも轉ばないので足で蹴るやうにして、無理やりに穴の中に入れて、自分もその後からのこ／＼と入つて行きました。地藏さんの前に行つて見ると、團子が土まみれになつて轉がつてゐます。その中のきれいな所だけを自分が食べてから、まはりの土の附いたのを地藏さんに上げました。さうして誰も上れとも言はないのに、獨りで地藏さまの膝から肩、頭のてつぺんまでさつさと上つて、貸すともいはない扇を黙つて取つて待ち構へてゐますと、やはりその日も鬼どもが集まつて來て、地藏の前で博奕を始めまし

た。それで早速その扇をはた／＼とたゝいて、?の鳴く聲を眞似て見ますと、鬼たちはもう夜が明けるのか、早いなあと言つて慌てました。そのうちに一匹の小鬼が遁げそこねて、圍爐裏の鉤を鼻の穴に引掛けて大きな聲を出して

(87)　　　やあれ待ちろや鬼どもら

　　　鉤さ鼻あひつかけた

と言つたので、爺は思はず知らずくす／＼と笑つてしまひました。そうれ人間の聲がしたと、鬼は方々捜しまはつてたうとう地藏さんの頭の上から、隣りの爺を引きずり落して、ひどい目に遭はせました。鬼が殘して行く金を拾つて來る代りに、やつと命だけを拾つてはふ／＼の體で遁げて還りました。だからあんまり人の眞似はするものではないといふ話であります。（羽前最上郡）

　

　　　　　　　瘤二つ

　

　むかし／＼目の上に大きな瘤のある坊さんがありまして、諸國を修行して或山家の村で泊めてくれる家がないので、仕方なしに古辻堂に入つて一夜を明かしました。夜もすでに三更の頃ほひに、多くの人の足音がして、この堂に入つて來る者がありました。よく見るとそれは天狗さんで、こゝに集まつて酒盛りをするのでありました。とても夜どほし隱れてゐるわけには行かぬので、怖しかつたけれどもよい時刻を見はからつて、自分も圓座といふ藁の敷き物を尻に當てゝ、飛び出して一しよに踊りました。明け方に天狗は歸らうとして、おまへは面白い坊主だからこの次もまた來てくれ。しかし約束をしてもうそをつくといかぬからこれを質に取つて置くと言つて、目の上の瘤をむしり取つて持つて行きました。坊さんはうるさいと思ふ瘤を取られて、大喜びで故郷に歸つて來ました。

　ところがその近所に又一人、同じところに瘤があつて困つてゐる坊さんがありました。この評判を聽いて羨しくてたまりません。くはしくその人の話を聞いて置いて、わざ／＼瘤を取られにその辻堂まで出かけて行きました。案の(88)如く夜ふけに天狗が集まつて酒盛りをしますから、急いで圓座を腰にくゝり付けて踊り出して見ましたところが、天狗たちは大變喜んで、おゝ坊主、よく約束をまちがへずに又來てくれたな。大きに御苦勞であつた。それでは質に取つて置いた瘤を返すぞと言つて、何か顔へ打ち付けられたやうに思ひますと、もう目の上のたん瘤が二つになつてゐました。さうして餘計な人眞似はしない方がよかつたと、いつ迄も後悔をしてゐたさうであります。

　

　　　　　　　奧州の灰まき爺

　

　むかし／＼奧州のある在所に、やつぱり善い爺と惡い爺とが、隣りどうしに住んでゐました。二人の爺は同じ晩に、川の流れに雜魚を捕る?《どう》といふものを掛けて置きました。上の爺が朝早く往つて見ると、自分の?にはたゞ一匹の小犬が入り、下の爺の下の?には、澤山の雜魚が入つてゐましたので、その?の雜魚を皆取つてしまつて、それへ自分の?に入つてゐた小犬を投げ込んで置いて、知らぬ顔をして來ました。後から下の爺が川に行つて見ると、自分の　?　薮には可愛らしい犬ころが、入つて鳴いてゐるので、取り上げて家へ抱いて來て育てゝやりました。椀で食はせると椀の大きさだけ、鉢で食はせれば鉢の大きさだけ、毎日々々大きくなつて、少し經つと爺の山へ行くときに、色々の道具を背なかに背負つて供をして行くやうになりました。ある日その犬は、山で爺樣に鹿を捕ることを教へてくれました。爺が大きな聲で彼方のしし〔二字傍点〕も此方さ來う、此方のしし〔二字傍点〕も此方さ來うと呼ぶと、方々から鹿が集まつて來るのを、一つ／＼その犬が?み殺して、それを背負つて歸つて來ました。爺と婆とがそれを鹿汁に煮て食べてゐると、上の家の婆がやつて來てその話を聽いて、それならば俺たちも鹿汁が食べたいから、犬を貸してくださいと言つて連れて行きました。

(89)　次の日上の爺は犬をつれて山へ行きました。犬が付けろとも言はぬにこれを持てあれを載せろと、斧だの鎌だの色々の道具を犬の背に負はせて、やれ急げそれ行けと、追ひ立てゝ山に入り、自分はしし〔二字傍点〕といふのを間違へて、彼方の蜂も此方さ來う、此方の蜂も此方さ來うと、大きな聲で呼んだものですから、山中の蜂が皆飛んで來て、上の爺をさしました。上の爺はそれをみんな犬のせゐにして、腹を立てゝその犬をぶち殺して、こめ〔二字傍点〕の木の下にいけて還つて來ました。下の爺はいつ迄も犬を返して來ないので連れに行くと、上の爺はうん／＼唸つて寢てゐました。あの犬のお蔭でおれはこんなに蜂にさゝれてしまつた。あんまり憎いから殺してこめ〔二字傍点〕の木の下に埋めて來た。犬が欲しくばこめ〔二字傍点〕の木の下に行つて見ろと言ひました。

　下の爺はそれを聞いて大そう悲しみました。さうして山に行つてそのこめ〔二字傍点〕の木を伐つて來て、その木で摺り臼を作つて、婆と二人で臼を挽きながら、かういふ歌をうたひました。

　　　ぢんぢ前には金おりろ

　　　ばんば前には米おりろ

　さうするとその臼唄と一しよに、爺の前には金が下り、婆の前には米が下りて、暫くの間に長者になつてしまつて、二人は好い着物を着て見たり、米の飯を食べたりしてゐました。そこに上の家の婆が又やつて來て、何處からそんな好い物ばかり、出して來たのかと尋ねました。なにさこれはお前の所の爺樣が、犬を殺してはふり込んだ山から、こめ〔二字傍点〕の木を伐つて來て臼にして挽いたら、金だの米だのが出たものだから、かうして居申すと答へました。それならばその臼を貸してくれと、慾の深い上の婆は又摺り臼を借りて行きました。さうして爺と二人で一しやう懸命に、その臼を挽きましたけれども、肝腎の歌の文句は忘れてしまつて、

　　　ぢんぢ前にはばゝ下りろ

　　　ばんば前にはしし下りろ

(90)と歌ひましたので、その唄の通りに臭いきたない物が、幾らでも家の中に流れて來ました。爺と婆とはそれを摺り臼のせゐにして、ひどく腹を立てゝ斧で切り割つて、その臼を火にくべて燒いてしまひました。

　下の爺は又暫くしてからその臼を取りに來ました。あの臼は飛んでもない臼であつた。家の中をきたない物だらけにして始末にをへぬから、切り割つて竈の口にくべてしまつたぞと、上の爺が言ひました。それならば仕方がないから、その灰でも貰つて行かうと、笊を持つて來てその灰を入れて歸りました。さうして灰の笊を畑へ持つて行つて、畑の側の沼に下りてゐる雁の鳥を目がけて、かう言ひながらその灰を撒きました。

　　　雁の眼さあくはいれ

　　　雁の眼さあくはいれ

　さうするとその文句の通りに、雁の目の中に灰が入つて、ころり／＼と死んでしまひます。それを拾つて歸つて又婆と二人で、仲よく雁汁をこしらへて食べてゐますと、又々上の婆が來てどうしてそんなうまい物を食べてゐるのかと聞きました。お前たちは俺の所の臼を切り割つて燃してしまつたから、その灰を持つて來て、撒いて見たら澤山の雁が落ちた。それを拾つて來て斯うして雁汁にして食べてゐるといひました。

　それならば少しばかりその灰を分けてくれと言つて、又上の婆が爺に眞似をさせました。上の爺は婆に教へられて、向ひ風の強い晩に屋の棟に上つて、空に向いて灰を撒きましたが、やはり大切な文句を忘れてしまつて、

　　　ぢんぢ眼さあくはいれ

　　　ぢんぢ眠さあくはいれ

と大きな聲でどなつたものですから、灰は文句の通りに爺の目の中に入つて、爺は盲になつて屋の棟からころ／＼と落ちて來ました。雁の落ちて來るのを今か今かと、待ち構へてゐた上の婆は、それを雁だと思つて大きな槌で打つたといふ話であります。（陸中江刺郡）

　

(91)　　　　　　　海の水はなぜ鹹い

　

　昔の昔の大昔、ある所に兄と弟とが住んでをりました。兄は金持ちで弟は貧乏、年の暮れになつても明日の正月の支度も出來ないので、兄の家へ米を一升借りに行きましたが、ひどいことを言つて貸してくれませんでした。仕方がないから家へ歸つて來ようとしますと、山路で一人の眞白な髯の爺樣が、柴を刈つてゐるのに出逢ひました。何處へお前は行くのかと尋ねますから、今晩は年越しだけれども、御歳神樣に上げる米もないので、當てもなくたゞ斯うしてあるいてゐるばかりだと申しました。それは定めし困ることであらう。それではこれを遣らうと言つて、小さな麥饅頭を出してくれました。この饅頭を持つて彼處の森の神樣のお堂へ行つて見ろ、お堂の後には穴があつて、そこに大勢の小人がゐてきつとお前の饅頭を欲しがるだらう。金でもなく他の物でもなく、石の挽き臼とならば取り換へてやらうと言つて、その臼を貰つて行くがいゝと教へてくれました。

　教へられた森のお堂まで行つて見ると、成程穴があつて多くの小人が出たり入つたりしてがや／＼と騷いでゐます。何をしてゐるのかと思ふと、たつた一本の萱に取り付いて、倒れたり轉んだりしてゐるのでありました。どれ俺が持つて行つてやるべと言つて、指につまんで、運んでやりました。さうすると穴の口で、人殺し人殺しと蚊の鳴くやうな聲がするので、驚いて氣を付けて見ると、小人が一人下駄の齒の間に挾まつてゐましたので、急いで丁寧につまんで出してやりました。なんたら力の強い大きな人だと言つて見上げた拍子に、弟の手に持つてゐる麥饅頭を見つけました。それを是非私達に讓つてくれと澤山の黄金を持つて來て前に積みましたが、兼て白髪の爺樣に聞いてゐますから、石の挽き臼とならば取り換へてもいゝと言つて、たうとうその臼を貰つてしまひました。これは小人の中でも二(92)つとない寶物なのだが、饅頭の代りにお前に遣る。右へ廻すと欲しい物がなんでも出る。左へ廻すと出なくなると教へてくれました。それを大事にかゝへて家に歸つて見ると、女房が待ちくたびれてゐました。年越しの晩だといふに何處をあるいてゐた。米は借りて來たかとやかましく聞きますので、まあなんでもいゝから早く蓙を敷けと言つて、女房に蓙をしかせてその上に小臼を置き、米出ろ米出ろと言つて右へ廻すと、米がぞく／＼と一斗も二斗も出て來ました。この次は鮭が出ろといふと、大きな鹽引きが二本も三本もひよこ／＼と出た。それから順々に入用の物を皆挽き出して、その晩はなんともかとも言ひやうのない、目出たいお年取りをして寢ました。明くれば正月元日の朝で、俺はこんなに俄長者になつたのだから、今までのやうに人の片屋の借り住居などをしてゐるのは面白くない。先づ新しい家を建てようと言つて、挽き臼をまはして立派な家と、五間に三間の土藏を出しました。それから長屋だの厩だの、厩に繋いで置く馬を七匹も出して、あとはそれ餅出ろ酒出ろと言つて、あたり近所や親類縁者を殘らず呼んで祝ひ事をする支度をしました。村の人たちはびつくりして呼ばれて來て、今までにないやうな御馳走になりました。昨日一升の米を貸さなかつた兄も呼ばれて來ました。どうして又一晩のうちに、こんな長者になつたものであらうかと、不思議で不思議でたまらないので、驚きながらもそちこち氣を付けてをりますと、やがて客人が歸つて行く時に、お土産の菓子でも持たせてやらうと思つて、そつと陰に入つて弟が例の石臼をまはして、菓子出ろ菓子出ろと言つてをるのを隙見をして、はゝあ今分かつた。あの臼だなと感づいてしまひました。

　それからその晩客が皆歸つて、弟夫婦がよく寢てしまつた時刻を見はからつて、兄はそつと入つて來て陰の部屋から、石の挽き臼を盗み出しました。さうしてその序に傍にあつた餅だの菓子だのも取つて、濱に出て見ると幸ひに小舟がある。これにその寶の臼を載せて、綱を解いて沖の方へ漕ぎ出し、何處かの島へ渡つて一人で長者にならうとしました。併しその舟の中には餅や菓子のやうな甘い物は積んで出ましたが、あいにくと鹽氣の物が何もありません。それでは何よりも先に鹽を出さうと、やたらに臼をまはして鹽出ろ鹽出ろといひますと、さあ出たは／＼、忽ちのう(93)ちに舟に一ぱいの鹽が出た。もうこのくらゐで止めたいとは思ひましたが、左へ廻して止めることを知らぬものですから、いつ迄もいつ迄も鹽ばかり出て來て、たうとうその鹽の重さで舟も兄も、盗んで來た石の小臼も、共々に海に沈んで今に誰一人として左に廻す者がない爲に、海の底でその臼が、鹽ばかり出して廻つてをります。それであの通り海の水は、鹽からいのだといふことであります。（陸中上閉伊郡）

　

　　　　　　　八石山

　

　昔々、越後國のある百姓の家に、兄と弟と二人の子がありました。兄の母は亡くなつた母、弟の母は今の母でありました。繼母は兄を憎んで、どうかして自分の生んだ弟の方だけによい暮しをさしてやりたいと思つてゐました。それで一枚の山畑を二つにしきつて、二人の兄弟に大豆を蒔かせて、どつちの畠の大豆がよく出來るか比べて見ようと言つて置いて、夜中にそつと兄の畠に行つて、今日蒔いた豆をみんなほじくり出してしまひました。

　それだから兄の畠の方には、いつ迄經つても豆は生えて來ません。あの子は豆を蒔くのをいやがつて何處かへ持つて行つて棄てたのにちがひないと、父親に言ひつけて散々に小言を言はせようと思つて、待ち構へてゐたのであります。ところが亡くなつた兄の母が見えない所にゐて、助けたものでありましたらうか。たつた一粒だけ其畠の隅に、繼母が見落して拔き出して來なかつた豆粒がありました。それが芽を出してずん／＼大きくなつて、後には山よりも高い大木になつて、その枝のさきが天まで屆いてしまひました。さうして秋になるとその一本の木から、大豆が八石取れて繼母の惡企みは、すつかり當てがはづれてしまつたさうであります。それからその村の高い山の名を八石山といふことになりました。北條の專福寺といふお寺の門柱は、その大豆の樹を伐つて來て、それを材木にして建てたと(94)いふさうであります。（越後刈羽郡）

　

　　　　　　　犬頭絲

　

　昔々三河國に、二人の女が隣りどうしに住んで、毎年蠶を飼つて絲を取つて暮しを立てゝゐました。ところが一方の女の飼ふ蠶は、いつもよく出來て澤山の絲が取れるのに、もう一人の女の家では、どうも思ふやうに育たなくて、段々に貧乏になりました。下女や下男もいやになつて、追々に遁げて歸つてしまひました。最初に澤山に飼つてゐた蠶が、一つづつ死んで行つて、いつの間にかたつた一匹になつてゐました。ところがその一匹の蠶がよく桑を食つて、毎日々々大きくなつて來ますので、一匹ばかりでは仕樣がないと思ひましたけれども、それを大切に育てゝをりましたら、後には珍らしく大きな蠶になりました。或日その一匹の大蠶を表に出して、桑を遣らうとしてをりますと、家に飼つてゐた白犬が尾を振つて前に見てゐたのが、うつかりしてゐるうちにその蠶を取つて食べてしまひました。折角これまで一しやう懸命に大きくしたたつた一匹の殘りの蠶まで、犬に食べられてしまふといふは、よく／＼運の惡いことだと悲しみましたが、犬のしたことだからなんともいたし方がありません。犬は平氣な顔をしてそこに寢ころんでゐます。女はそれを見て、情ないと思つて一人で泣いてゐました。そのうちに犬がくしやみをしたので氣を付けて見ますと、その鼻の穴から白い絲が雙方一筋づつ一寸ばかりも垂れてゐるのが、まるで絹絲の通りでありました。あまり不思議なので、絲の端を持つて引いて見ますと、二筋ともどこまでも長く續いてゐます。そこで試みにわく〔二字傍点〕に掛けて繰つて見たところが、二百三百のわく〔二字傍点〕を卷いても、まだ其絲が切れません。大よそ四五貫目も絲が出たかと思ふ頃に、その白犬は倒れて死んでしまひました。これは神樣のお使ひだつたかも知れぬと思つて、犬を裏の畠の桑の(95)木の下に埋めてやりました。その頃ちやうど京都には御大禮があつて、天子樣の御服を織る絹絲を、土地の役人が尋ね求めてをりましたが、今一人の女の家では、養蠶は當つたけれども絲が黒くて、節が多くつて御用になりません。ところが此方の絲を庭にかけてさらしてゐるのを見ると、眞白で光が美しくてまことに結構な品であつたので、早速それを御用に立てました。白犬を埋めた裏の桑の木には、その翌年から蠶が自然に生れて繭を作り、これも同じやうな好い絲になりました。三河の絹絲がそれから後、いつ迄も他の諸國よりも優れてゐたのは、全くこの犬頭蠶の種であつたからだといふ話であります。

　

　　　　　　　狐の恩返し

　

　とんと昔、爺樣が朝起きて、内庭を掃いてゐますと、豆が一粒庭の隅に轉がつてゐました。これは勿體ないと裏の畠に持つて行つて蒔いて置いたところが、やがて芽を出してぐんぐんと大木になり、これは八石まではありませんでしたが、一本の豆の木に豆が一斗も二斗も實つてゐたさうです。

　ところが或日一匹の狐がやつて來まして、一度にその豆をぺろりと食べてしまひました。老人は眞赤になつて怒つて、折角おれが丹誠をして作つた大豆を盗んで食つてしまふとは憎い獣だ。ぶち殺してくれると言つてどなりますと、狐は大きにあやまつてどうか宥して下さい。その代りにはお前樣に金儲けをさせて上げますといふから、それならばと言つて、こらへて遣りますと、直ぐに一頭の良い駒に化けました。爺はそれを長者の家へ牽いて行つて、高い値に賣つてお金を儲けました。

　それから四五日もすると、馬に化けてゐた狐はもう遁げて還つて來ました。今度は一つ茶釜に化けて上げませうと(96)言つて、まことによい頃合の茶釜になりました。爺はそれを又お寺に持つて行つて、お茶の好きな和尚に賣りつけました。和尚がその茶釜を爐にかけると、きいんきいんと鳴ります。小僧が川に行つてその茶釜を磨きましたら、痛い／＼、小僧そつと磨けと言ひます。これは大變、茶釜が物を言ひました。なんのそんな事があるものかと、和尚がうんと火を焚いてその茶釜をかけますと、狐はたうとう或慢がしきれなくなつて、熱いぞ和尚がげえ〔三字傍点〕と言つて、尻尾を出して遁げて行つたといふ話。（津輕五所川原）

　

　　　　　　　聽耳頭巾

　

　これも昔奧州の方の或在所に、又一人貧乏な善い爺がありました。氏神の稻荷樣にいつも生魚でも上げたいと思つたけれども、それも貧乏で思ふやうにはならぬので、或日お社に參つて斯う言ひました。氏神樣申し、氏神樣申し。おれはとても貧乏で生魚も上げることが出來ませんから、どうぞこの俺を食つてください。どうぞお願ひでござりますと言つて拜みました。氏神樣は爺や爺や、何もそんなに心配をすることはいらぬ。俺もお前の難儀してゐることはよく知つてゐる。それでは一つ運を授けて遣んべ。それこの寶頭巾を遣るから被つて見ろ。これを被ると鳥でも獣でも、なんでも言ふことが直ぐ解るからと言つて、古めかしい赤頭巾を一つ、その爺に授けました。さうでがんすか。これは早どうも有り難うがんすと、喜んで早速そのきたない赤頭巾を懷に入れて出て來ました。さうしてゆらり／＼と街道をあるいて行きますと、路傍に大きな樹がありました。その樹の下に休んでゐましたら、いつの間にかついとろ／＼と睡つてゐました。

　さうすると濱の方から、一羽の烏が飛んで來て、疲れてその木の枝に休みました。すると又國中の方からも、一羽(97)の烏が飛んで來て、同じ樹の上にとまりました。爺はこれを見て、稻荷樣に貰つた聽き耳頭巾を、試して見るなら今だと思つて、そつと出して被りますと、俄に頭の上で話の聲がし始めました。濱から來た烏が、やあ暫くであつた。おれは今まで濱の方にゐたが、濱もこの頃漁がなくつて、不景氣で困るから飛んで來た。お前は又どつちから來たといふと、おれはあらみ〔三字傍点〕の方から遣つて來たが、いや不景氣は何處に行つても同じだ。時に何か世の中に不思議なことはないかねと聞きますと、濱の烏は、別に珍らしいことでもないが、濱のある村の長者どんでは、土藏を建てゝからもう五六年にもなるが、土藏の入り口の屋根を葺く時に、どうして匍ひ上つたものか一匹の蛇が上つてゐて、ちやうど板の下で釘を打ち付けられて、今に動けないで半死半生になつてゐる。感心なことには雌蛇が食ひ物を運んで養ひ續けてゐるが、ほんたうにお互ひに苦勞をしてゐる。その思ひが積り積つて、長者どんの娘の體に障つて永煩ひをしてゐる。あれは今のうちに土藏の屋根の板を離して蛇を助けてやらぬと、蛇も死ぬし娘も死んでしまふ。おれも再々あの屋根に飛んで行つて鳴いて遣つたけれども、人間といふ者はなさけない者で、少しもそれを覺らないと言ひました。相手の烏もほんたうに人間はさういふ事になると、まるで何もわからぬものだと言ひ合つて、そんだらば又此次に出逢ふべなと、西と東とに烏たちは別れて飛んで行つたさうです。

　爺はこれはよい事を聽いた。早くその長者どんに行つて娘を助け、又蛇の命も助けてやりたいが、なんにも支度がなくてこれでは出かけられないと、町裏をうろ／＼とあるいてゐますうちに、こはれた木鉢が落ちてゐたから、それを拾つて紙を貼つて頭にかぶり、濱の長者どんの門前に行つて、八卦々々と大きな聲で呼はつて通りました。長者の家では娘の永煩ひを治すのに、何がよからうかと心配してゐた時だから、おい／＼門前をふれて通る八卦屋、早く内さ上つて八卦置いてくれと言ひました。爺樣は内に入つて何八卦を置きますべと言ふと、實はこの家の娘が永の病氣で、今日か明日かといふ容態だから、なんとすれば良くなるか、その八卦を置いて見てくれと言ひました。それでは病んでござる娘御の所に通してくれと言つて、娘の枕もとに行つて坐つて、「二十里這うたる葛の葉は這へば二十里」(98)といふ唱へごとを何度もくり返してから、前に烏からちやうど聽いて置いた話を、委しくして聽かせました。さうすると長者どんでは、如何にも八卦樣の言ふ通り、五六年前に土藏を建てたことがある。それではそんな事もあつたかと、近所の大工を喚んで來て、早速土藏の屋根板を離させて見ますと、果して一匹の蛇が體が白くなつて、もう半分腐りかけて釘に打ち付けられてゐた。あゝこれのことだと大事に笊に入れて屋根から下し、流し前に置いて物を遣つて、暫く介抱して丈夫にしてから放してやりました。さうすると薄紙を剥ぐやうに、娘の病氣も一日々々とよくなつて、日數の經つうちにすつかり治つてしまひました。長者どんでは大喜びでお禮金は三百兩、爺は忽ち大金持ちになりました。さうして家に還つて急に氏神樣のお宮を建て直し、今までないやうな立派なお祭りをしました。もちろん生魚も度々買つて來て供へました。

　それから聽耳爺は、今度は好い着物を着て又旅に出ました。さうしていつかの大木の下で休んでゐると、また西東から烏が飛んで來て、その木の枝に休んで世間話を始めました。一羽の烏が一つ町にばかりゐてはつまらぬと言ふと、もう一羽の烏が本にさうだが、おれの今までゐた町には斯ういふ事がある。町の長者どんでは旦那が大病で、今日か明日かといふ命だが、それは五六年前に離れ座敷を建てたとき、昔からあつた庭の楠の木を伐り倒して、その切り株がちやうど離れの軒下になつて、雨垂れに打たれてゐる。それでも根が死に切らないものだから、生のある限りは芽が出て、育ちたいと精魂を盡すのだが、芽が出れば刈り芽が出れば刈り取られて死ぬには死なれず、そんならばと言つて生きるには生きられず、その思ひが旦那にかゝつて病氣になつてゐる。それに又山々の友だちの木が、毎夜のやうに見舞ひに來るがこれも亦大へんなことだ。あれは生かさば生かすべし、又どうせ枯らす氣なら、根からよく掘つてしまへばよいに、困つたものだと話しました。爺は烏の話を聽いて早速その町に出かけました。八卦々々、頼むから内の旦那の病が、どうすれば直るものか見てくれと云ふので、長者どんの家へ喚び込まれました。こゝには五六年前に建てた離れ座敷がある筈だから今晩はおれをその座敷に泊めてくれ。あや八卦殿はどうしてその離れのあること(99)を知つてゐるかと家の者がびつくりします。それも八卦で中てたが、先づ今夜は俺をそこに置いてくれろ。明日は旦那の病氣の元を、洗ひざらひ當てゝ見せるから、俺が言ふまでは誰も入つて來るなと言つて、その晩は一人で起きて樣子を見てゐました。

　さうすると眞夜中頃になると、がさり／＼と近よつて來る者の足音がして、楠の木よ、あんばいはどうだと言ひます。それに返事をするのはなんだか土の底からでも出るやうな幽かな聲で、あゝさう言つてくれるのは六角牛山の梛の木か、遠い所を毎度難儀をかけて濟まない。おれは此通り一刻も早く死にたいのだが、それさへ思ふやうに行かないので苦しんでゐると言ふと、なにそんなに力を落すものでないと、慰めて歸つて行きます。又一時經つと、今度はしゆつ／＼といふ音がして來る者がある。楠の木どん、あんばいはどうかなと聲をかけますと、又楠の木が以前のやうな聲で、さういふお前は早地峰山の這ひ松だか。おれはとても助からぬが、かうお前たちに毎夜見舞ひに來て貰つては申しわけがないと言ひます。あゝさうだか。なんでもないことだから心配するな。今夜はつい五葉山の方へ遊びに行く通り筋だから、かうやつてお前にも逢へたが、これが東と北とでは逢ふこともむつかしい。そんなら春にもなつて見たら又本復するだらうから、力を落さずに時節を待つがよいと言つて、這ひ松も亦さつきのやうに音をさせて歸つて行きました。爺は聽耳頭巾を被つてゐて、すつかりこの話を聽いてしまつて、朝になると病人の枕元に案内して貰つて、いつもの通りの葛の葉は二十里の呪文を唱へてから、昨晩の樹木の問答を詳しくして聽かせました。これは軒下の楠の木だけの難儀ではない。諸處方々の高山の木までが、この爲にえらい苦勞をしてゐるのだから、早くその根株を掘つてしまへと教へました。さうして根を掘つて庭の木の神樣に祭つたら、旦那殿の病氣も、また薄紙を剥ぐやうに日ましによくなつた。長者の家の者は皆大喜びで、そのお禮が又三百兩。それを貰つて家に還つて來てからは、爺はもう慾を出さないで八卦を止め、自分も普通の長者になつて暮したさうであります。（陸中上閉伊郡）

　

(100)　　　　　　　雀の宮

　

　昔々野州の或田舍に、饅頭をまる呑みにして食べるのを、自慢にしてゐる妙な人がありました。惡い者がよくその癖を知つてをりまして、針を饅頭の中にそつと入れて置いたのを、知らずに例の通りまる呑みにしたものですから、腹が痛んで苦しんで寢てしまひました。さうして寢ながら障子を開けて外を見てゐますと、雀が一羽、裏の韮畠に來て、しきりに韮の葉を食べてゐました。どういふわけだらうと思つて毎日氣を付けてゐたところが、そのうちに雀のお尻から、韮の葉にくるまつて小さな針の折れが落ちたさうです。これは韮の葉を食べれば針が出ることを、神樣が雀に教へさせて下さつたのではないかと思つて、試みに自分も韮を澤山食べて見ますと、果して針が出てしまつて、痛みがすつかりなくなりました。それで喜んでお社を建てたのが雀の宮で、今でもあの邊の停車場の名になつて殘つてゐます。

　

　　　　　　　黒鯛大明神

　

　むかし土佐國のある山奧の村へ、濱から一人の魚商人が、魚を賣りに入つて行きました。寂しい山路で、路の脇の林の中に、誰かゞ罠をかけて置いて、それに山鳥が一羽かゝつてをるのを見ました。魚賣りは之を見て欲しいと思ひましたが、只取つて行くのはよくない事であるし、そこにちやうど人がゐないので、代りに自分の籠の黒鯛を三尾挾(101)んで置いて、黙つてその山鳥を取つて歸つて來ました。その後から村の人が來て見て、山に黒鯛のゐるのが既に不思議であるのにそれが山鳥の罠にかゝるといふのは只事ではよもあるまい。なんでも是は天の神のお示しであらうと、一同評議をして直ぐに小さな社を建てゝ、その三尾の黒鯛を齋ひ込めて、黒鯛三所權現と唱へて祭りました。その評判が傳はりますと、方々からお參りに來る者があつて、社は大へんに繁昌しました。後に魚賣りが又遣つて來て、山鳥を持つて行つた話をする迄には、もう繁昌のお宮になつてゐたさうであります。

　

　　　　　　　蜥蜴の目貫

　

　昔ある一人のすぐれた彫物師が、まだ一向世の中にも名を知られずに、貧乏で暮してゐた頃の話ださうであります。或日庭に下りて一匹の蜥蜴の、石の間に遊んでゐるのを見付けました。その蜥蜴の形が如何にも美しいので、いつ迄もぢつと見てゐるうちに、ふとこれを彫刻して見ようといふ氣になつて、その形を寫し取つて、程なく一つの銀の目貫を作り上げました。我ながら好く出來たと思つて、それを道具屋に持つて行きますと、直ぐに買ひ取つてくれたばかりでなく、後から又一つ又一つと、次ぎ／＼の注文がありました。いづれも上作と賞められて、それが評判になりまして、幾つ拵へても賣れぬといふことはなく、次第に收入も多くなつて、豐かな暮しが出來るやうになりました。たゞ奇妙なことには、この目貫を作り出すやうになつてから、何時庭前へ出て見ても、夏でも冬でも石の間から、必ず同じ蜥蜴が出てゐて、目の前で遊んでゐるのださうです。始めのうちは別になんとも思ひませんでしたが、段々に後にはそれが氣になつて、なんだか氣味の惡いやうにも感じられて來ました。それも他人の目には少しも見えず、只自分だけに見えるのでいよ／＼我慢が出來なくなつて、或時思ひ切つて小石を打ち付けて、その蜥蜴を殺してしまひ(102)ました。さうしたところがその時から、評判の細工が急に下手になつて、たま／＼作つても誰も買はうといふ人がなく、蜥蜴の目貫の注文はさつぱり絶えてしまつて、いつの間にか又元の通りの、貧乏な彫物師になつてしまつたさうであります。

　

　　　　　　　長崎の魚石

　

　昔支那の人をまだ唐人と謂つてゐました頃に、長崎の伊勢屋といふ家で、懇意にしてゐる唐人が一人ありました。それがもう國へ還るといふ前に、この家へ一度遊びに來まして、土藏の石垣に積んであつた小さな一つの青石を、立つたり腰かけたりしていつ迄も眺めてをりましたが、あの石を是非私に讓つて下さいと、熱心に主人に所望しました。私の方では不用のものだから讓ることはなんでもないが、この石一つ拔けば石垣が崩れるかも知れず、後の造作が甚だ面倒だから、この次渡つて來られる時までに、普請の序があらうから、必ずのけて置いて進上いたしませうと答へますと、石垣を積みなほすのに金がかゝるならば、この石の代として百兩の金を出します。私は今度又來るかどうかも知れないから、是非とも今買ひ受けて還りたいと唐人が言ひました。伊勢屋の主人久左衛門は百兩の聲を聞いて、始めてこの石の貴いものだといふことに心づき、少しばかり慾心を起して、却つて即座に手放すことを惜み、なんだのかだのと斷りの口上を設けて、しまひには三百兩まで出さうと唐人が言ふのに、どうしても賣ることを承知しませんでした。それから愈々唐人の船が出てしまつてから、わざ／＼その青石を掘り出して見ました。さうして玉磨きの職人を呼んで鑑定をさせましたが、いかさま普通の石ではないやうだといふばかりで、少しづつ磨かせて見ても光も出ず、別に是ぞと變つたこともありません。あまり不思議なのでたがね〔三字傍点〕を入れさせて見たところが、ちやうど眞中か(103)ら二つに割れて中から水が出て來てその水と共に、金魚のやうな赤い小鮒が、飛び出して直ぐに死んでしまひました。これはまことに惜しいことをした。三百兩の金を取り損なつたと言つてをりますと、次の年にはその同じ唐人が、今度は千兩の金を持つて、青石を買ひに又遣つて來ました。伊勢屋は殘念でたまりませんから、くはしく樣子を話しますと、唐人も涙を流して悲しみました。あの石は私たちも名を聞いてゐるだけで、他ではまだ一度も出くはしたこともない、魚石といふこの世の寶であつた。あれを氣永に周りから磨り上げて、水から一分といふところまでで留めると、水の光が中から透きとほつて、二つの金魚のその間に遊びまはる姿は、又とこの世にもない美しさであつて、それを朝夕に見てゐると自然に心を養ひ、命を延べる�ｺがあると傳へられ、王侯貴人は如何なる價を拂つても手に入れたいと望んでゐる品であつた。私はそれを本國に持ち歸つて買ひ主を見つけ、妻子眷屬と共に一生を安らかに送らうと思つてゐたのに、今やその願ひ事も空しくなつた。かういふ天下の奇玉の世に隱れ、又永く傳はらないのも天命であつたかも知れない。私は最初からこの話をして置けばよかつたのに、黙つて買ひ取らうとしたのが惡かつた。今度こそは千兩がその三倍になつても、是非とも買ふ積りでこの通り用意をして來ましたと言つて、三千兩の金包みを出して見せました。さうしてすご／＼と支那へ歸つてしまつたさうであります。遠い國の商人は思ふことを顔に出さず、又どんな場合にでも値段の掛け引きをする癖があり、日本の商人は物を知らずに、只慾ばかり深かつた爲に、昔は折り／＼こんな飛んでもない損をしたのださうであります。

　

　　　　　　　瓜の大事件

　

　むかし八幡太郎義家と安倍晴明と、忠明といふ名醫と解脱寺の觀修僧正といふ名僧と四人、御堂關白道長の家に來(104)合せたことがあつたさうです。その日は五月の一日で、奈良から一籠の早瓜を獻上して來ました。今日は御殿の御物忌の日であるが、かういふ外から來た物を、内に入れてもよからうかどうかといふことで、早速先づ安倍晴明が占ひをして、この瓜の中には一つだけ、毒氣のある瓜があると言ひました。それではと觀修僧正に加持をさせますと、暫く?つてゐるうちに多くある瓜の一つが、ぴよん／＼と跳ね上がるので、それに毒氣があるといふことが知れました。それならば次には醫師忠明が針を立てゝその毒氣を去るやうにといふ命を受けて、その瓜を手に持つて取りまはし取りまはし二所に針を立てますと、もう瓜は飛びあがらなくなりました。おしまひに、八幡太郎義家は、腰刀を拔いてその瓜を切り割つて見ましたが、果して晴明の占ひの通り、その瓜の中には一匹の小蛇が入つてゐました。さうして醫師忠明の打つた二本の針は、ちやうどその蛇の兩眼に刺さつてをり、義家の腰刀はたゞなんとなく瓜を割るやうに見えましたけれども、ちやんとその小蛇の首を切り落してゐたさうであります。

　

　　　　　　　死後の占ひ

　

　むかし北國街道のある寂しい村に、京都へ歸つて行く旅人が、何人かの家來を連れて夕方に入つて來て、他によい宿がないので、路傍の大きな家の、女がたゞ一人で住んでゐる所へ、頼んで一晩泊めて貰つたことがありました。次の朝早く起きて、その旅人が出て行かうとしますと、家主の女が後を追ひかけて來て、あなたには金千兩の貸しがあります。それを返して置いて立つて下さいと言ひました。家來たちは餘りに突然な言ひがかりに驚いて、怒つたり嘲笑つたりしてゐるのを、主人は物靜かに先づ待てと之を制して、兎に角後戻りをして來てくはしく其話を聽きました。どういふわけがあるかは私も知りませぬが、父が亡くなる時に私を前に喚んで、十年後の今月の昨日、北の方から旅(105)人が來て泊るであらう。その人に話をすれば千兩の金を返して下さるからとくれ／”＼も言ひ置いて死にました。それを樂しみにして待つてゐるところへ、ちやうどその日にあなたが來て泊られたので、間違ひのないことだらうと思ひましたと言ふのです。成程それでよく解つた。お前の父は占ひ師であつたと思はれる。それで十年も前に今日私の來ることが、知れてゐたからさう言ひ殘したのであらう。よし／＼それならば千兩の金を、今直ぐに返して上げようと旅人は言ひました。

　實はこの旅人もまた有名な占ひ師であつたのでした。それで再び昨夜宿を借りた大きなあばら屋に入つて、家の中を方々あるいてまはりました。さうして最後に奧の間の一本の柱の傍に近よつて、とん／＼と叩いて見ました。その柱だけは中がうつろになつてゐて、他の柱とは音が別であります。お約束の千兩はこの柱の中に入つてゐる。すぐに取り出して成るだけ大事に使ひなさいと言つて、その旅人は京の方へ掃つて行きました。女の父親は十年も前から一度は自分の娘の困ることを知つてゐました。さうしてその爲に八卦を見て、ちやうどその頃に京の優れた占ひ師が、來て泊るといふことを見て置いたのでありました。易の術と親の愛情と、どちらか一つが備はらなかつたら、とてもかういふ計畫は、立てることが出來なかつたらうといふことであります。

　

　　　　　　　乞食の金

　

　むかし東京がまだ江戸であつた頃、淺草の福井町に善五郎といふ貧乏人が住んでゐました。日頃深く大黒樣を信心しましたけれども、少しも金が出來ず、或年の暮れには、いよ／＼困つてしまつて、もう飢ゑ死にをするより他はないといふ迄になりました。死ぬくらゐならばいつそ身を捨てゝ、この近所の金持ちの家へ盗みに入り、少しなりとも(106)金銀を取つて來て、せめてこの正月だけは樂に越して見ようと思つて、それを女房に相談しますと、泥棒をするよりは飢ゑて死ぬ方がよいと言つて、賛成をしてくれません。それでもまだ思ひ切ることが出來ないで、そつと女房の寢入つたのを見すまして、家を出て近くの大家の塀の外に立つて、内の樣子を覗きました。それからなんとかして入つて見たいと思つて、その板塀に手を掛けて越えかけましたところが、雪の後なのでつるりと足が滑つて、外へ落ちて氣絶をしてしまひました。さうすると夢を見るやうに、大黒天のお姿がそこに現れ、あたりは光り耀いて山の如く金銀財寶が、その足元に積み重ねられてありました。この永い年月の間、一目として信心を怠つたことのない者に、どうしてこれ程數多ある物を、少しでもお惠み下さいませんかと言ひますと、その方には授ける福分が少しもない。この金銀財寶にも主がある。その主に頼んで借りるより他はないと、大黒樣が言はれたさうです。それでは何處にその主はをりますか。つい此さきの橋の袂に、寢てゐる乞食がこの金銀の持ち主だといふ答へであります。それにはびつくりしてしまつて正氣になりましたが、根が正直な善五郎ですから、すぐにその足で大黒の教への通り、橋の袂に行つて見ますと、成程一人の汚い乞食が、薦を被つて寒空によく寢てゐました。それを搖り起してくはしくわけを話し、證文を入れるから三百兩だけ貸してくれと申しますと、乞食も驚いてしまつてそんな事が出來るものかと言ひました。でも大黒樣の確かなお告げだもの、なんでもかでも貸すことを承知せよと、家へ連れて來て三百兩の借り入れ證文を書いて渡し、おまけにこれから親類のつきあひをしようといふ契約をいたしました。さあかうして置けば、もはや金が見付かるかも知れない。先づ自分の家から探して見ようと、女房に手傳はせて床板をあげ縁の下を隈なく改めて見ると、隅の方に少し小高い所があつて、その土の中からちやうど三百兩の金が出て來ました。それを元手にして稼いでゐるうちに、段々と身上がよくなりました。勿論かの乞食は早くつれて來て、相應に分配をして家を持たせ、兩家共々に繁昌してゐましたが、善五郎夫婦には子供がなく、後に乞食の家の方から、養子をしてその財産を讓ることになりましたから、結局は大黒天のお示しの通り、福分はすべて乞食の家のものになつてしまつたわけであります。

　

(107)　　　　　　　拾ひ過ぎ

　

　次にはこれも江戸の昔話であります。昔青山に門奈助左衛門といふ金持ちの武士があつて、その家來に至つて正直な何がしといふ男がをりました。暮れの二十八日に主人のお使ひで、淺草の藏宿に行つて五十兩の金を受け取り、それを大切に財布に入れて首にかけ、今の青山の電車通りの、玉龍寺の前まで戻つて來ましたところが、路が惡いので轉びました。急いで屋敷に歸つて汚れた手を洗はうと思つて、部屋の鴨居にその財布を引つ掛けて置きながら、すつかり忘れてしまつて手を洗つて主人の前に出ました。さて返事の口上を述べようとすると財布がない。あわてゝ物も言はずに飛び出して、急いで玉龍寺の門前まで行つて見ますと、幸ひにまだ人が通らなかつたと見えて、小判が散らばつて方々に光つて落ちてゐます。それを拾ひ集めて算へて見たら、三十八兩までありました。十二兩も不足したのは困つたことだが、兎に角申しわけをして後はなんとかしようと思つて、家に歸つて見ると鴨居の折れ釘に、ちやんと自分の財布は引つ掛かつてゐました。それでは此方は拾ひ物であつたと氣が付いて、諸方へ知らせて待つてゐましたが、いつ迄も落し主が出て來ませんので、偶然にそれは自分の物になり、これを元手にして段々に立身したのは、全く常から正直の報いであつたらうといふことでありました。最初に寺の前で倒れたのも、多分急いでゐてその小判にすべつて、轉んだものらしいといふ話でありました。

　

(108)　　　　　　　山賊の弟

　

　昔越後國の或農家に、兄弟の子供がありましたが、兄は小さい時から性質がよくないので、親も見限つて勘當をしましたら、何處かへ往つてしまひました。そのうちに父は病んで死に、弟の方は母に孝行なよい息でありましたけれども、家がどうしても立ち行かなくなつて、僅かの田地は賣つてしまひ、母は親類に預かつてもらつて、十六七歳の頃に江戸へ出て來て、ある醫者の家に奉公に入りました。至つて實直で給金は一文もむだに使はず、十年ほどの間に、色々の貰ひ物や何かを合せて、もう十四五兩の貯蓄が出來ました。そこで主人に向つて事情をくはしく話し、どうか母親のまだ丈夫でをりますうち、この金を持つて生れ故郷に歸り、なくした田地をこの金で請け返して、家が持ちたうございますといふと、それはよい心掛けと主人も感心して、別に路用の金を餞別に遣りました。それから江戸を立つて遙々と越後の國へ歸つて來ようとしましたが、途中上州の山路で山賊に出逢つて、財布の金は勿論のこと、衣類身のまはりも殘らず剥ぎ取られて、まる裸になつてしまひました。折角十年餘りも眞黒になつて働いて貯へてゐたものを、一日に取られてしまふことはなんたる情ないことかと思ひましたが、兎に角これでは國へ歸つてもなんにもならぬ。此上は行き所もないから手下にでも家來にでもしてお前さんの所に置いておくんなさいと、山賊に向つて頼んで見ますと、流石に不便と思つたものか、山賊は今奪ひ取つた品物を荷造りしてこの男に背負はせ、襦袢一枚だけを着せて、自分たちの隱れ家へつれて行きました。二三日も山賊の所で厄介になつてゐるうちに、色々と考へて見ましたが、盗人はとても自分の商賣にもなりさうもない。まだ若いのだからもう一度江戸へ出て働いた方がよいと思つて、その事を話して見ると山賊も同意しました。ついては着物は襦袢一つでもよいが、脇差しは道中の犬おどしに、是非(109)返して下さい。あれは私が小遣ひで、わざ／＼柳原で求めて來た刀だからと言ひますと、なるほど尤もの事ではあるが、一旦奪つた物を返すといふことは、山賊の作法にはないことだ。腰の物ならばこの通りたくさんある。一本遣るからこの中からどれなりと持つて行けと、奧から繩からげにした脇差しを一抱へも持つて來て見せました。それでは頂戴しますと言つて、可なり錆びたのを一本貰つて、山賊の宿を出て來ました。江戸では元の主人より他に、頼るべき家とてはありません。それで又戻つて今度の災難の始め終りを述べて、もう一度その醫者の家で奉公することになりました。ところがこの主人は兼て刀劍が好きな人で、よく目利きなどを樂しみにしてゐましたが、山賊に刀を貰つたといふ話を聽いて面白がり、一度見たいといふので持つて來て見せますと、これは見所のある脇差しだと言つて、その道の心得ある人たちに見て貰ひましたところが、果してあつぱれな名作であつて、早速三十兩に買ひ取つてくれた人がありました。これはなんともはや意外の仕合せでありますが、この金が出來ました以上は、やはり一日も早く歸りたうございますと、再び主人の許しを得て、又故郷の空に旅立ちました。上州から山を越えて行く路は、一度ひどい目に逢つてゐるので、止めて他の方を廻つて行かうかとも思ひましたが、色々考へた末に又この路を歸り、おまけにわざ／＼その山賊の家へ訪ねて行きました。親方その後はお變りもありませんか。私は先日御厄介になつた旅の者でござります。江戸であの脇差しが三十兩に賣れました。私の取られた金は十五兩、これを皆貰つては私の方が義理が惡くなりますから、半分だけ返しに來ましたと言ふと、山賊どもは驚いて、暫くは無言で顔を見合せてをりました。その内に親方の山賊はこの男をぢつと見て、お前は越後の人だといふが、越後は一體何村だと尋ねますから、くはしく在所や親の名などを申しますと、賊は大きな溜め息をつきました。どうも蟲が知らせるといふのか、若しやさうではないかといふ氣がしてならなんだ。惡いことは出來ぬものだ。おれは十何年前に勘當せられたお前の兄だ。お前は小さかつたから顔を覺えてをるまいが、おれはたうとう斯んな商賣になつてゐる。同じ血を分けた兄弟でも、かうも心持がちがふものかと、別れた親のことを思ひ出して二人で泣きました。そこで仲間の者一同を呼んで、永らく(110)一しよに暮したが、おれはもう止めて歸らねばならぬ。ここにある貯への中から、たゞ少しばかり路銀に持つて行く。後はみんなでどうなりとしてくれと言つて、兄は弟と連れ立つて生れた村に歸つて來ました。さうして親の賣つた田畠を買ひ戻して、自分は一旦勘當を受けた者だから、弟に家の跡目を繼ぐやうにと言ひましたが、弟はなんと言つても承知しません。さうして兄弟で讓り合つてゐるうちに、なんと思つたか兄は髪を切つて、出家になつて又行く方が知れなくなつたさうです。昔の越後傳吉を始めとして、以前はかういふ篤實な若い者が、村に多かつたことは實際でありませうが、たゞその話が此樣にくはしく、江戸の方まで傳はつてゐたことだけは、少しばかり不思議であります。

　

　　　　　　　力士と産女

　

　昔羽後の横手に妹尾五郎兵衛といふ人がありました。ある日夜の明け方に蛇の崎の橋を通りますと、橋の袂に若い女が立つてゐて、ちよつとこの子を抱いてゐて下さいと言つて、赤子を預けて何處へか行つてしまひました。その赤んぼが、抱いてゐるうちに段々重くなつて背伸びをしたり、こはい眼をして見せたりしましたが、五郎兵衛は勇氣のある人で、ぢつと我慢をして抱いてゐましたら、そのうちに女は戻つて來て、大そう禮を言つて金財布をくれようとしました。そんな物は欲しくないと斷りますと、そんなら力を上げませうと言つて、手拭を一筋くれて置いて行きました。翌日この手拭を使つて顔を洗はうとする時に、それを絞ると二つに切れ、又絞ると四つに切れたので、始めて産女に大力を授かつたことがわかりました。この人の話は色々殘つてをります。ある時などはこの蛇の崎の橋の上で、大きな木を曳いて來る人夫と喧嘩をして、その木を取つて川の中へ投げ込みました。それを引き上げるのに五十人の人足が、三日もかゝつたといふことであります。

(111)　これと多分同じだらうと思ふ話を又かういふ風にも語り傳へてをります。昔梅津忠兵衛といふ横手の武士が、夜中に半夜替りの交替でお城に登らうとして、城山路の七曲りといふ所で、一人の婦人に出逢ひました。今夜は骨折りの仕事が一つあるので、是非あなたの助けを得たいと思つて、こゝに來て待つてゐました。どうぞ暫くの間この子を抱いてゐて下さいと言つて、赤子のまだ産髪も剃つてゐないのを忠兵衛に預けて置いて、忽ち飛ぶやうにしていづれへか行つてしまひました。赤子を抱いて出勤も出來ないので、そこに立つて稍々しばらく待つてゐるうちに、段々にその子が重くなり、始めは五貫目ほどにもなつたかと思つたのが、十貫二十貫三十貫にもなつて來て、金とも石とも譬へやうのない重さでした。ところが餘り苦しいので我を忘れ、思はず念佛を唱へると、忽ち赤子は形さへもなくなつて、自分ばかり茫然として立つてゐました。そこへ前の女が襷をかけ汗を流し、よほど働いたやうな顔色をして歸つて來まして、今の念佛のお蔭で親子の者が助かつた。自分はこの山中の氏神であるが、今夜氏子の何がしの家に産があつて、自分の力だけではむつかしいと思つた故に、武士で念佛を申す人を見かけて、その助けを求めたのである。産髪の赤子はまだ生れない前の魂、それが重くなつたのは、ちやうど産の重かつた時であつたが、念佛の力に助けられて、無事に産れてこんな嬉しいことはない。お禮には子孫の末になるまで、大力を授けてやると言つて、その姿は見えなくなりました。翌朝顔を洗はうとして手拭を絞つて見ると、手拭が切れて二つになり、又折り重ねて絞つて見ると、それが四つに切れたので、始めて昨晩山の中で力を授かつたことを知つたさうです。それからその氏子の家を尋ね合せると、いかにも昨晩は産があつて、ひどい難産で苦しんでゐたのが、ちやうどその赤子の重くなつた時刻であつたといふことでありました。

　

(112)　　　　　　　女の大力

　

　むかし紀州に毛原の茗荷といふ人がありました。ある時この村の觀音淵の上を通つてゐますと、不意に美しい氣高い女の人が現れて、どうかお願ひだからこの水の底に光つてゐる物を除けて下さい。私は龍宮の乙姫といふものですが、あれが光つてゐるので龍宮へ歸ることが出來ないからと言ひました。茗荷は快く承知して、川に飛び込んでその光る物を取り上げて見ると、それは一寸八分の觀音の像でありました故に、それから淵の名を觀音淵といふやうになつたともいへば、或は又それが唐鋤の尖であつたとも謂つてをります。龍宮の乙姫は大そう喜んで、これで漸く龍宮へ歸ることが出來る。お禮には何がよいか。遠慮なく言ふやうにとのことであつたので、それならどうぞ千人力を授けて下さいと言つて、その場で直ぐに千人力になつて戻つて來ました。ところが千人力では踏むたびに路がこはれてしまふので、あるきにくゝて困りました。それでもう一度願ひ直して、相手一倍といふことにして貰ひました。百貫目の物が來れば百貫目の物を持つ力、五百貫目なら此方も五百貫目の力が出るので、いつも千人力を持つてゐるよりは、ずつと便利なことでありました。この力は筋を引いて、子孫にも永く傳はる筈でありましたが、それにはたゞ一つの約束がありました。決して女に物を手渡しせぬことで、若しそんな事をすれば、力が女の方へ行つてしまふと、固く乙姫に戒められてをりました。ところが、或日高野山から、お味噌を貰つて歸つたときに、ついうつかりしてそれを女房に渡したので、もうその力は男の子には傳はらず、なんの役にも立たぬものになりました。その代りにはこの家に生れた娘たちは、いづれも非常な大力でありました。こゝから嫁を貰つた家では、風呂に入つてゐるときに夕立などが降つて來ると、いつでもお嫁さんに風呂桶に入つたまゝで、家の中へ運び込んでもらふことが出來たさうで(113)あります。

　毛原の茗荷の大力の話も、土地には今でもまだ色々と殘つてをります。高野山の興山寺で屋根を葺き替へるときに大きな箱棟を上げることがむつかしくて、何百人といふ人が寄つてたかつて騷いでゐました。それを通りかゝつて見物してゐた若荷が、朸をかたげてぽかんとして立つてゐて、やにこい〔四字傍点〕奴等ぢやと獨言をいひました。そんなことを言ふなら上げて見よと皆が言ふと、よし來たと唯一人で、その箱棟を肩に載せて屋根の頂上に登つて置いて來たさうであります。一同はその大力に驚きましたが、もう一ぺん試して見ようと思つて、おい茗荷それは裏がへしだぜと下から言ひますと、あゝさうかと、又肩を入れて、ぐるりと一つ廻して向けかへました。後で今のは實はうそであつた。どうか元の通りに置きかへてくれと言ひましたけれども、今度は怒つてもう承知をしませんでした。それで紀州の高野山の興山寺の箱棟だけは、今でも表と裏とが逆樣になつてゐるといふことであります。（紀伊那賀郡）

　人によると君荷が相手一倍の力を授かつたのは、水の底の光り物を取り除けた爲ではなくて、毛原のうづわ〔三字傍点〕淵の神樣から、俎淵の神樣へ手紙を持つて行く、お使ひをした御褒美だつたとも謂つてをります。いづれにしてもその大力は、水の女神から授かつたといふことは同じであります。

　

　　　　　　　大い子の握り飯

　

　昔近江の石橋の里には、大い子といふ大力の女があつたさうです。ある旱の年に、村の人たちが意地が惡くて、溝を堰き留めて大い子の田には水を遣るまいとしました。大い子は黙つてゐて、夜中にそつと行つて七尺四方もある大きな石を持つて來て、溝のまん中に置いて流れないやうにしてしまひました。村では朝起きて見てびつくりして、急(114)いでその石を取り除けようとしましたが、中々僅かな人では動かすことも出來ません。大勢が集まつて來て運ばうとすれば、近所の田が皆荒されてしまひます。そこで村の者は弱りきつて、大い子の家へお詫びに來ました。これからは幾らでも、こちらの田へ水を入れるやうにして、もう決して意地の惡いことはしませんから、どうかあの石を片付けて下さいと歎願しました。それならばといつて又夜の中に、そつとその大石を邪魔にならぬ所へ、持つて行つて置いたといふことで、それを大い子の水口石と呼んで、ずつと後までもこの村に殘つてゐたさうです。

　それから又この大い子に惡戯をして、大しくじりをした人の話もあります。ある時越前國から佐伯氏長といふ力士が、京に出ようとしてこの石橋の里を通りましたときに、若いきれいな娘が水の桶を頭に載せて、川から歸つて來るのを見かけました。それが大力の大い子だといふことは夢にも知りませんから、後から近よつて行つて、桶をおさへてゐる手の腋の下をくすぐらうとしました。さうすると娘は少し笑つて、片手を桶から放して佐伯の手さきを、腋の下に挾んでしまひました。それが拔かうとしてもどうしても拔くことが出來ません。仕方がないのでたうとう大い子の家まで引つ張られて附いて行きました。それからやつとその手を離してくれて、全體あなたは何をする人かと尋ねますから、實は越前國の力士であるが、朝廷の晴れの相撲に召されて、これから都に登るのだと申しますと、世の中は廣い、まだどのやうな強い人が他の國から登つて來るかも知れません。もう少し私の家にでもゐて、修行をしてから行つた方がよいでせうといふことで、幸ひ相撲の期日までにまだ十分に日數がありますので、それから三週間、この大い子の家で練習を積むことにしました。大い子は毎日飯を強く炊いて、自分でむすび〔三字傍点〕を握つて越前の力士に食べさせました。始めの一週間は、なんとしてもその握り飯を、食ひ割ることが出來ませんでした。次の七日になるとやつとのことで、握り飯を食ひ割ることだけは出來るやうになり、三週間目には始めてむしや／＼と自由に食べることが出來たさうであります。私の握つたむすび〔三字傍点〕が、それくらゐ樂々と食べられるやうになつたら、もう大抵大丈夫でせう。早く支度をしてお出かけなさいと言つてくれたので、佐伯氏長は大喜びで、京都の相撲の節に出て行つたさうで(115)あります。

　

　　　　　　　日田の鬼太夫

　

　むかし豐後の日田に大藏永李、通稱を鬼太夫といふ力士がありました。大力の評判が段々に高くなつて、後に京都の相撲の節に召されて、出雲の小冠者といふ天下一の力士と、力を競べることになりました。どうか首尾よくこの勝負に勝ちたいものだと思つて、京都に上る途中で筑前の老松明神の社に參詣し、信心を凝らして武運を祈りました。その夜明神は鬼太夫の夢枕に立つて、かういふ秘密を教へて下さいました。出雲小冠者の母親は、日本一の力士を産まうと思つて、その子の腹の中に在る間、毎日々々砂鐵ばかりを食べてゐた。それで小冠者の五體は鐡のやうに堅い。ところがたつた一度だけ、ついその母親が甜瓜を食べたことがあつた。その爲に身の内に一箇所だけ、柔かなところがある。それは額のこの邊だといふことを明神樣が教へて下されたのださうであります。鬼太夫はその御蔭で、相撲の晴れの勝負の時に、小冠者の額の肉の部分を突き破つて、勝つことが出來ました。それ故に鬼太夫の子孫の者は、永く老松明神を氏神として祭つてゐたといふことです。

　

　　　　　　　稻妻大藏

　

　むかし肥前の諌早の稻妻大藏といふ相撲取りは、母が八天嶽の山の神に?つて生れた子でありました。天狗樣の申(116)し子であつたので、如何なる敵に會うても勝たぬといふことはなく、たうとう日本一の大力士となりました。ところが或年の晴れの勝負の前に、柏手になる力士が色々と頼みますので、あまり氣の毒だと思つて、つい憐みの心を起し、たつた一度だけ勝ちを讓つてやりました。さうしたら忽ち天狗が稻妻の身を離れて、それからは急に弱い力士になつてしまつたといふ話であります。（肥前北高來郡）

　

　　　　　　　藤拔き喜内

　

　昔加賀の大杉谷の瀬領といふ村には、喜内といふ力の強い人があつたさうです。その評判が遠い國々まで響いたので、ある勇士がわざ／＼力競べに來ました。その時喜内はちやうど路傍の田圃に出て田植ゑごしらへをしてゐましたが、その武士が立ち寄つて、喜内の家は何處だと尋ねました。早くも力くらべに來たものと知つて、喜内は片手に唐鋤の横木を持つて、そのさきに馬のくつついた儘、それを引き上げてあれあの屋敷ですと、馬と唐鋤とで指して教へたさうです。武士はその大力に仰天して、さてはお前が喜内であらうと言ひますと、いゝや私は喜内の家の下男ですと答へました。下男でさへもこの通り、馬の附いた唐鋤で路を教へた。ましてやその主人はどのくらゐ強いかわからぬと言つて、もう力を競べる勇氣もなくなつて、すたこらと遁げて歸つたといふ話であります。（加賀能美郡）

　

(117)　　　　　　　阿波の大力熊野の大力

　

　むかし／＼阿波國に有名な一人の相撲取りがありました。紀州の熊野に獺田川といふえらい大力がゐると聞いて、それを負かして日本一にならうと思つて、海を渡り山阪を越えて、遙々と力競べに、熊野の田川越えの獺田川の家まで尋ねて來ました。家には年を取つた母親が、たゞ一人で留守居をしてをります。倅は今薪を採りに山へ行きました。やがて歸つて來ませうから先づおあたりなさいと言つて、五尺もある火鉢を片手に持つて、上り端へ出しました。阿波の力士はそつとその火鉢を動かして見ますと、中々兩手でも擧りさうにありません。母親でさへこの通り、息はどうであらうと驚いてゐる所へ、なんだかその邊が俄に暗くなつて、急に空が曇つたかと思ふと、それは熊野の大力が山ほどの柴の荷を背負つて、山から戻つて來たのでありました。これではとても叶ふまいと思ひましたが、折角遠くから名乘つて來たものだから、たゞ歸つてしまふことは出來ません。それで二人は江川の柳潟の濱へ出て、力競べの相撲を取りました。阿波の大力が先づ布の犢鼻褌をしめると、熊野の大力は太い竿竹をひしいで、それをまはし〔三字傍点〕に締めこみました。さうして直ぐさま阿波の大力を?んで、頭よりも高く差し上げて、天か地かと問ひました。仕方がないので地と答へますと、はや自分は砂濱の砂の中に、深く埋まつてゐたといふことであります。獺田川のゐるうちは、とても日本一を阿波の方へ取ることは出來ぬとあきらめて、さつとその夜のうちに歸つてしまつたといひますが、今ではそんな大力の子孫は熊野にはゐないさうです。さうしてをそだ〔三字傍点〕川といふ力士の名前も、どうやら少しばかりをかしいやうであります。（紀伊西牟婁郡）

　

(118)　　　　　　　仁王とが王

　

　むかし／＼日本の仁王樣の所へ、唐からが〔傍点〕王樣が力競べに遣つて來たさうです。その時團子をこしらへて御馳走にしようと言つて、仁王樣の家内が鐵の棒をちぎつて團子を作り、豆の粉をかけてお茶菓子に出しました。さうしてが〔傍点〕王樣を試して見ようとしたのですが、が〔傍点〕王は我慢をして、これは結構だと言つて食べてしまひました。これならば兄弟分になつて、觀音樣の門番をしてもいゝと言つて、二人がそれから門番になりました。それだから今でも一方の仁王樣は鐡の棒を持つて立つてゐます。一方に大きな口をあけて、その棒を食べようとしてゐるのが、唐のが〔傍点〕王樣だといふことであります。

　

　　　　　　　旦九部と田九郎

　

　昔々、旦九部と田九郎の二人の兄弟がありました。兄の旦九郎は金持ちで智慧が足らず、弟の田九郎は惡がしこい癖にいつも貧乏でありました。或日弟の田九郎の家では、茶釜の湯を沸かして餘りに煮えくりかへるので、暫く板の間におろして置きますと、そこへちやうど兄の旦九郎が遊びに來ました。おやこの釜は珍らしい釜だな。火もない板の上でぐら／＼と湯がわいてゐると兄が言ひました。それは私が今度手に入れた火なし釜といふ寶物ですと田九郎は答へます。それならば十兩で私に讓つてくれと言つて、大急ぎで旦九郎はそれを持つて歸つて行きます。さうしてよ(119)く洗つて水を入れて、板の間に置きましたけれども、いつ迄經つてもお湯はわきません。旦九郎は怒つて田九郎の所へ談判に行きました。さうすると田九郎はそんな筈はない。が、もしや兄さんは茶釜を洗ひはしませんか。なに、洗ひましたか。洗つてしまつてはだめだ。洗ひさへしなければお湯が沸いたのに、惜しいことをしたと申しました。

　その次には又田九郎は、小判を二枚、馬屋の中へはふり込んで置きました。それを又兄の旦九部が來て見付けて、おやこの馬は小判をひつてゐると言ひました。それは私の秘藏の金ひり馬といふ馬です。それならばおれに金五十枚で、是非賣つてくれと、代金を拂つてさつさと牽いて行きました。さうして立派な厩を新しく建てゝ、外へ行かぬやうに繋いで置きました。併しいくら待つてゐても、小判などは落としません。又だましたかと大そう腹を立てて、早速弟のところへ掛け合ひに行きますと、兄さんの家ではもしや厩を建て直して、板の上であの馬を飼つてはゐませんか。あゝさうですか、それは殘念なことをした。あの金ひり馬は板張りの厩に繋いで置くと、忽ちたゞの馬になつてしまふ馬ですと、田九郎は答へたさうであります。

　

　　　　　　　分別八十八

　

　むかし／＼奧州のある村に、八十八といふ名前の男が六人住んでゐました。綽名がなくては誰が誰だかよく分りません。そこで一人は氣が荒いから外道八十八、一人は博奕が好きで博奕八十八、一人は田を作つてゐるから百姓八十八、一人は米の商ひをする故に米屋八十八、又一人は盗みをするので、盗人八十八、今一人の八十八は智慧があるところから、人が分別八十八といふ名を付けて間違はぬやうにしてゐました。

　ところが或日外道八十八は、博奕八十八と喧嘩をして、うんと打つたら博奕八十八が死んでしまひました。殺す氣(120)はなかつたのでびつくりして、困つて分別八十八の所へ相談に來ました。それではその死骸を百姓八十八の田の水口に持つて行つて、そつと田の畔にしやがませて置いて見よと教へてくれました。

　その晩百姓八十八は田の水を見廻りに出て見ると、自分の田の水口に誰だか知らぬがしやがんでゐます。憎いやつだ、又水を盗みに來たなと言つて後から棒で一つ打つところりと倒れ、それをよくみると博奕八十八でありました。飛んだことをした、どうすればよからうかと、これも外道八十八と同じやうに分別八十八の家へお土産を持つて相談に來ました。それではその死體を空俵につめて、米屋八十八の倉の前の、米俵の一ばん上に置いて來て見よと教へてくれました。

　さうするとその次の晩に、盗人八十八は米屋八十八の倉の前から、米かと思つてその俵を盗んで來ました。家に戻つて俵を開けて見ると、それは博奕八十八の屍骸であつたので、肝を潰してしまひました。どうしたらよからうかと思案に暮れて、やつぱり分別八十八の所へお禮を持つて智慧を借りに來ました。

　そんなら今夜遲くなつてから博奕八十八の家の表戸を叩いて、今戻つたぞと言つて見よ。きつと女房が怒つてゐるから、やかましいことを言つて戸を開けぬに相違ない。さうしたら死んだ博奕八十八を、門口の井戸の中へ投げ込んで來るがよいと教へてやりました。それで盗人八十八は教へて貰つた通りに、夜更けに博奕の家の戸をこと／＼と叩いて、嚊よ今歸つて來た。開けてくれと作り聲で言ひました。さうすると家の中では、果して嚊が大聲を出して、今歸つたもないもんだ。お前見たいな人は死んだ方がいゝとわめきました。その時に屍骸を井戸の中へ、どぶんとはふり込んでさつさと歸りますと、後で女房はその音に大騷ぎをして、村中の人を頼んで博奕八十八を引き揚げてもらつて、それを見ておい／＼と泣いたさうです。

　分別八十八だけは皆からお禮を貰つて、一人でうまい事をしました。（陸中上閉伊郡）

　

(121)　　　　　　　二反の白

　

　昔五月のお節句の前に、五月人形を箱から出して來て、嫁と姑とが口爭ひをしました。この人形は田原藤太だ、いいや八幡太郎だと言ひ張つて、どちらも負けてをりません。それなら明日は和尚さんの所へ行つて、どちらが本當かきめて貰はうと言つて、その晩のうちに、姑はそつと白木綿を一反持つてお寺に行き、どうか私を勝たせて下さいと和尚に頼みました。それが歸つて行くと又暫くして、今度は嫁の方もまた白木綿を持つて、同じ事を頼みに來ました。それで翌日二人が揃つて來て、どちらが間違つてゐるか、和尚さんならば分りませうと言ひますと、和尚は笑ひながら、これは俵藤太でも八幡太郎でもない。こちらでも一反の白、あちらでも一反の白、即ち仁田の四郎たゞとりといふ人形だよと答へました。

　

　　　　　　　無言くらべ

　

　昔々ある所に、この上もなく餅の好きな夫婦がありました。餅を搗いて散々に食べて、後にもう少しばかり殘つた。これは今晩黙り競べをして、勝つた方が食ふことにしようと約束しました。ところがその晩にあいにく泥棒が入つて、そこら中を探してあるきました。夫婦は二人ともちやんとそれを知つてゐましたが、物を言ふと負けになつて、餅を食はれてしまふから我慢をしてゐました。さうすると泥棒はいゝ氣になつて、方々探し散らしておしまひに戸棚を開(122)け、餅の木鉢を持ち出さうとしました。それを見てゐると女房はもう堪らなくなつで、あれ盗人が餅を持つて行くと、大きな聲でわめきました。今まで辛抱してゐた亭主はやつと口を開いて、餅はもうおれの物だと、どなつたさうであります。なんと、皆さん、泥棒がそれを承知したでせうか、どうでせうか。

　

　　　　　　　古屋の漏り

　

　むかし雨の降る晩に、爺と婆とが睡ることが出來ないで、二人で話をしてゐました。虎狼よりも怖いのは古屋の漏りだと言つてをりました。それを表を通つてゐた虎狼といふ獣が立ち聞きして、それではこの世の中には、おれよりもまだ恐ろしいもり〔二字傍点〕といふのがあると見える。これは油斷がならぬと思つてゐると、ちやうどこの家に入らうとした馬盗人が、馬かと思つて虎狼の背なかに乘りました。これはたまらぬ古屋のもり〔二字傍点〕につかまへられたと、虎狼は一散に飛んで走りましたので、馬盗人はふるひ落されて、路傍の空井戸の中に墮ちました。そこへ猿が遣つて來て何してゐるかと尋ねますと、今この穴の中に古屋のもり〔二字傍点〕といふ化け物が隱れたと、虎狼が答へました。そんな化け物はないだらう。おれが檢査してやらうと言つて、出過ぎ者の猿は、尻尾を空井戸の中へさし込んで探りました。穴の底の馬盗人がそれをしつかりと?みました。猿もびつくりして強く尻尾を引かうとすると、根元からぷつりと切れてしまひました。猿の尻尾の短くなつたのは、又この時からだといふ説もあります。（肥後阿蘇郡）

　

(123)　　　　　　　清藏の兎

　

　むかし／＼清藏は友だちと共に、山へ遊びに行きましたところが、草の中に兎が一匹ぐつすりと晝寢をしてゐました。あゝこんな所に兎が死んでゐると、連れの者の一人が言ひますと、清藏は早速鼻をつまんで、道理で先程からえらく臭いと思つてゐたと言ひました。そのうちに兎が人の聲に目を覺まして、驚いて走つて行つたので、なんだ晝寢をしてゐたのかと、その友だちがびつくりしますと、又清藏が口を出して、だからおれもなんだか耳が動くやうだと思つてゐたのだと言ひました。それからこの方いゝ加減なことを言ふ人を、清藏さんの兎のやうだと、たとへ言にいふやうになりました。かういふをかしい人の昔話は、まだ色々の事が澤山にありますが、今度はその中の三つ四つしか、お話をすることが出來ません。

　

　　　　　　　鳩の立ち聽き

　

　昔ある山家の村で、爺が川の向の山畠に働いてゐました。川の此方の爺が聲をかけて、おい今日は何を蒔くかと聞きますと、返事はせずに小手招きをしました。川を渡つてその傍まで行つて、どうしたかといふと、その耳に口を寄せて、おれは大豆を蒔いてゐる。豆をまくのがどういふわけで内證事だ。それでも鳩に聽かれると大變だから。（上野吾妻郡）

　

(124)　　　　　　　杖つき蟲

　

　むかし座頭が一人、琵琶を背なかに負うて、ある山家の村を通つてゐますと、川の向うの畠の爺が、川のこちらの爺へ聲をかけました。やい／＼、あれを見ろ、大きな杖つき蟲が出たわ。六年前にもあの蟲の出た年は小豆がよく取れた。今年も小豆が豐作であらうといひました。

　

　　　　　　　首筋に蒲團

　

　むかし貧乏で藁を被つて寢てゐました人が、恥かしいから藁の中に寢てゐると言ふな。人の前では蒲團と言へと、常から子供を教へて置きました。さうすると或時お客に行つた席で、とゝよ、とゝの首筋に蒲團の葉がくつついてゐるよと、その子供が言つたさうです。

　

　　　　　　　知つたかぶり

　

　昔よそに行つて始めて饂飩を御馳走になつた人が、給仕の子供になんといふ名前だとそつと尋ねました。子供は自_(125)分の名を訊かれたのかと思つて、彌二郎ですと答へました。それを覺えてゐて今度は村の人たちと、町へ出て來た時に、干し饂飩の掛けてあるのを見ました。さうすると早速つれの者に向つて、あれ／＼生彌二郎があんなに乾してある。あれをゆで〔二字傍点〕彌二郎にして皆に食はせて見たいなと、言つたさうであります。

　

　　　　　　　やせ我慢

　

　昔々ある威張つた武士が、田舍の農家に來て泊りました。今晩はひどく寒い。蓙でも掛けて寢て下さいといふと、身共はたび／＼軍に出て、いつも野宿に物を掛けて寢たことなどはない。無用なことだと言つてごろ〔二字傍点〕寢をしました。さうすると夜中に寒くなつて來て困りました。それで家の者を起して、おい／＼亭主、この家の鼠には足が洗はせてあるか。いやそんなことはいたしませぬ。さうか、それでは踏まれると着物がよごれる、蓙を出してくれ、掛けて防がうと言つたさうであります。

　

　　　　　　　慾ふか

　

　昔々ある所に、慾の深い婆があつて、なんでもかでも人の物を見ると、若しいらないなら私に下さいと謂つて貰つて行きました。ある時その近所の家で猫が鼠を捕つて、尻尾だけ食ひ殘してあるのを、棄てようとしてゐた人たちが、如何にあの婆さんでも、これだけは下さいと言ふまいと言つて笑つてをりますと、噂をすれば影といふ諺の通り、ち(126)やうどその年寄りが遊びに來ました。さうしてその鼠の尾を見て、もし御不用なら私に下さいと言ひました。それには誰も彼も驚いてしまひまして、一體あなたはこれを何にするのかと問ひますと、はい持つて行つて錐の鞘にいたしますと答へたさうであります。

　

　　　　　　　物をしみ

　

　昔々、二人の物惜しみが隣りどうしに住んでをりました。或時一方の主人は隣りへ使ひを遣つて、釘を打ちたうございます。どうか御無心ながら少しの間、鐡槌をお貸し下さいと言はせました。此方の主人はその使ひの者に、さてその釘は木の釘か鐡の釘か。はい鐵の釘を打ちますと答へると首を傾げて、まことにお安い御用ですが、折り惡く鐵槌は外へ貸して今手元にありませんと言つて、使ひの者を返しました。その返事を聽いて借り主はあきれかへり、なんと世の中には吝い人もあるものだ。木の釘か鐡の釘かと尋ねて、鐡の釘ときくとうそ〔二字傍点〕をついて斷つた。鐵槌が痛むかと思つて、作りごとをするのはけしからぬ。それではもういたし方がない。家の鐵槌を出して使はうと言つたさうであります。

　

　　　　　　　盗み心

　

　昔々ある男が、雪の降つた日に人の家へ遊びに行きました。あまり外が明るかつたので、俄に家の中に入つたら、(127)眞暗で夜のやうでありました。あゝ暗い暗いと言つて上つて行くと、上り端で何か冷たい物を踏みました。手に取つて見れば小さな鉈です。前からこんな鉈が一つ欲しいと、思つてゐたところなので、惡い考へを起して誰にも見えまいと思つて、その鉈をそつと懷へ入れました。ところが少しすると、家の中はさほど暗くもなく、家の人たちがこの樣子を、皆でよく見てゐたことがわかりました。これは困つたことをしてしまつた。どうすればよいかともぢ／＼して、いつ迄も話をしてゐますと、折りよく又一人、外から遊びに來た者があつて、入つて來るや否や、あゝ暗い暗いとどなりました。それを聞くと鉈を盗んだ男、それには好いまじなひ〔四字傍点〕があるから教へて遣らう。これくらゐの小さな鉈をちよつと懷に入れてをると直ぐに明るくなる。私も今試して見たが、確かにその通りであつたと言つて、その鉈を今來た男に渡しましたさうです。

　

　　　　　　　聟の世間話

　

　むかし聟どのが始めて舅の家へ行く時に、何か前から面白さうな世間話の用意をして置いて、好い時刻に出すのがよい。たゞ黙つて食つてばかりゐると笑はれると、友だちに教へてもらひました。それでその日は一通りの挨拶がすみ、いよ／＼お膳が出て酒盛りも始まつた頃に、聟は箸を膝の上に立てゝ、かういふ世間話をしたさうであります。なんと舅殿、お前樣は一かゝへほどある鴫を御覽になつたことがありますか。いやそんな物はつひぞ見たことがない。さうでござりますか、私もまだ見たことがござりませぬ。それでおしまひ。

　

(128)　　　　　　　下の國の屋根

　

　大うそつきの話にも、色々と珍らしいのがあります。昔ある村で井戸を掘つたら、いくら掘つても掘つても水が出て來ません。それでももつと掘れと毎日々々掘り下げて行くと、おしまひに黒く燻つた藁が出て來ました。それを取り除けて尚掘らうとすると、下から大きな聲でどなり付けられました。上の國のやつ等は何をするか。それはおれの家の屋根の藁だ。それを剥いで行つてどうするかと、非常に怒られたといふ話。

　

　　　　　　　博奕の天登り

　

　むかし／＼、博奕に散々負けて歸つて來た惡者が、一人で大木の下で賽を轉がして、勝つた負けたと面白さうに遊んでゐますと、天狗が見てゐて大そうその賽を欲しがりますから、それを天狗の羽團扇と交換して遣りました。この圃扇で鼻を煽ぐと、少しあふげば少しばかり、強くあふげばうんと鼻が伸びます。團扇を裏がへしにして煽げば又段々に低くなります。それを持つて長者の家の門の脇に立つてゐると、長者の一人娘が神參りに出ようとします。その鼻を目がけてうんと煽ぐと、鼻が七尺にもなつて外へ行くことも出來ず、廣い座敷に鼻を横たへて毎日泣いてゐました。若しこの鼻を元の通りにしてくれることの出來る人は、長者の聟に取らうといふ高札を立てると、團扇を懷に入れてこの男が聟に來ました。さうして少しづつ娘の鼻を低くして遣つたので、家の者が皆喜びました。それで得意に(129)なつて寢ころんで涼んでゐますと、男はうつかり睡つてしまつて、自分の鼻を夢中であふいでゐるうちに、鼻が段々高くなつて、天に屆いてゐるのも知らずにゐました。天の上の天の川では、その頃ちやうど川普請がありまして、橋杭が一本足りなくて探してゐる所で、それへ下から不意に棒が突き出したので、これ幸ひと繩を持つてくゝつて、さきの方を少し捻ぢ曲げました。痛いので氣がついた長者の聟は、慌てゝ羽團扇を裏がへしにして、せつせとあふいで見てももう間に合ひません。鼻が縮んで戻つて來る代りに、體の方が橋杭に引き寄せられて、天に登つてしまひました。それで今でも天の川の底には、博奕うちが一人行つてゐる筈ですが、普通の望遠鏡ではそれは見えないさうです。

　

　　　　　　　空の旅

　

　むかし／＼何事にも運のよい男が、への字の形に曲つた鐵砲で雁を打つと、一發の弾が順々に通り拔けて、何十羽と竝んでゐた雁が皆落ちて來ました。それを殘らず帶の間に挾んで、路をあるいてゐるとその雁が生き返りました。さうして高い空をどこ迄も飛んで、大和の或寺の五重の塔の上に、この男を殘して行つてしまひました。さあどうかして降りて來ようと思つて、上から大きな聲で助けを求めると、寺や村から多くの人が出て、寺で一番大きな風呂敷を、四隅を持つて塔の脇にひろげました。さうしてその風呂敷の上に綿を山ほど載せて、この上へ靜かに飛んで降りよと言ひました。一、二、三で飛んで降りた拍子に、風呂敷が袋になつて四隅を持つた坊さんたちが、寄り合つて鉢合せをして眼から火が出ました。その火が綿に付いて風呂敷も五重の塔も、雁に擔がれて飛んで來た男も燒けました。さうしてこの昔話だけがいつ迄も殘つてゐるといふ話であります。

　

(131)　　　日本の傳説

　

(133)　　　　　再び世に送る言葉

　

　日本は傳説の驚くほど多い國であります。以前はそれをよく覺えてゐて、話して聽かせようとする人がどの土地にも、五人も十人も有りました。たゞ近頃は他に色々の新に考へなければならぬことが始まつて、よろこんで斯ういふ話を聽く者が少なくなつた爲に、次第に思ひ出す折が無く、忘れたりまちがへたりして行くのであります。私はそれを惜むの餘り、先づ讀書のすきな若い人たちの爲に、この本を書いて見ました。傳説は斯ういふもの、こんな風にして昔から、傳はつて居たものといふことを、この本を讀んで始めて知つたと、言つて來てくれた人も幾人かあります。

　日本に傳説の數が其樣に多いのなら、もつと後から／＼別な話を、書いて行つたらどうかと勸めて下さる方もありますが、それが私には中々出來ないのです。同じやうな言ひ傳へを、たゞ澤山に竝べて見たゞけでは、面白い讀みものにはなりにくい上に、わけをきかれた場合にそれに答へる用意が、私にはまだとゝのはぬからであります。一つの傳説が日本國中、そこにもこゝにも散らばつて居て、皆自分のところでは本當にあつた事のやうに思つて居るといふのは、全く不思議な又面白いことで、何か是には隱れた理由があるのですが、それが實はまだ明かになつて居らぬのです。私と同樣に何とかして之を知らうとする人が、續いて何人も出て來て勉強しなければなりません。その學問上の好奇心を植ゑつける爲には、よつぽどかはつた珍らしい話題を、掲げて置く必要があるので、さういふ話題がちよつと得にくいのであります。白米城の話といふのを、今私は整理しかゝつて居ります。十三塚の傳説も遠からずまとめて見たいと思つて居ますが、斯ういふのが果して若い讀者たちの、熱心な疑ひを誘ふことが出來るかどうか。とにかくにこの本の中に書いたやうな單純でしかも色彩の鮮かな話は、さう(134)多くはないのであります。

　最近に私は「傳説」といふ小さな本を又一つ書きました。これは主として理論の方面から、日本に傳説の榮え成長した路筋を考へて見ようとしたものですが、曾て若い頃にこの「日本の傳説」を讀んで、半分でも三分の一でも記憶して居て下さる人であつたら、興味は恐らくやゝ深められたことゝ思ひます。それにつけてもこの第一の本が、今少しく平易に又力強く、事實を讀む人の心に殘して行くことの出來る文章だつたらよからうにと、考へずには居られません。それ故に今度は友人たちと相談をして、又よほど話し方を變へて見ました。日本の文章は、一般にやゝ耳馴れないむつかしい言葉を今までは使ひ過ぎたやうであります。傳説などの如く久しい間、口の言葉でばかり傳はつて居たものにはどうしても別の書き現はし方が入用かと思ひますが、その用意もまだ私には缺けて居たのであります。新にこの本を見る諸君に、その點も合せて注意していたゞかなければなりません。

　　　　　　昭和十五年十一月

　

(135)　　　　　はしがき

　

　傳説と昔話とはどう違ふか。それに答へるならば、昔話は動物の如く、傳説は植物のやうなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行つても同じ姿を見かけることが出來ますが、傳説はある一つの土地に根を生やしてゐて、さうして常に成長して行くのであります。雀や頬白は皆同じ顔をしてゐますが、梅や椿は一本々々に枝振りが變つてゐるので、見覺えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは傳説の森、草叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろ／＼の傳説の種子や花粉を、遠くまで運んでゐるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、學問はこれを二つに分けて、考へて見ようとするのが始めであります。

　諸君の村の廣場や學校の庭が、今は空地になつて、なんの傳説の花も咲いてゐないといふことを、悲しむことは不必要であります。もとはそこにも、さま／”＼のいひ傳へが、茂り榮えてゐたことがありました。さうして同じ日本の一つの島の中であるからには、形は少しづつ違つても、やつぱりこれと同じ種類の植物しか、生えてゐなかつたこともたしかであります。私はその標本のたゞ二つ三つを、集めて來て諸君に見せるのであります。

　植物にはそれを養うて大きく強くする力が、隱れてこの國の土と水と、日の光との中にあるのであります。歴史はちやうどこれを利用して、栽培する農業のやうなものです。歴史の耕地が整頓して行けば、傳説の野山の狹くなるのも當り前であります。しかも日本の家の數は千五百萬、家々の昔は三千年もあつて、まだその片端のほんの少しだけが、歴史にひらかれてゐるのであります。それ故に春は野に行き、藪にはひつて、木の芽や草の花の名を問ふやうな心持ちをもつて、散らばつてゐる傳説を比べて見るやうにしなければなりません。

(136)　しかし、小さな人たちは、たゞ面白いお話のところだけを讀んでお置きになつたらいゝでせう。これが傳説の一つの木の中で、ちやうど昔話の小鳥が來てとまる枝のやうなものであります。私は地方の傳説をなるたけ有名にするために、詳しく土地の名を書いて置きました。さうして皆さんが後に今一度讀んで見られるやうに、少しばかりの説明を加へて置きました。

　　　　　昭和四年の春

　

(137)　　　　　　　咳のをば樣

　

　昔は東京にも、たくさんの珍しい傳説がありました。その中で、皆さんに少しは關係のあるやうなお話をしてみませう。

　本所の原庭町の證顯寺といふ寺の横町には、二尺ばかりのお婆さんの石の像があつて、小さな人たちが咳が出て困る時に、このお婆さんに頼むと直に治るといひました。大きな石の笠をかぶつたまゝ、しやがんで兩方の手で顎をさゝへ、鬼見たやうなこはい顔をしてにらんでゐましたが、いつも桃色の胸當てをしてゐたのは、治つたお禮に人が進上したものと思はれます。子供たちは、これを咳のをば樣と呼んでをりました。

　百年ほど前までは、江戸にはまだ方々に、この石のをば樣があつたさうであります。築地二丁目の稻葉對馬守といふ大名の中屋敷にも、有名な咳の婆さんがあつて、百日咳などで難儀をする兒童の親は、そつと門番に頼んで、この御屋敷の内へその石を拜みにはひりました。もとは老女の形によく似た二尺餘りの天然の石だつたともいひますが、いつの頃よりか、ちやんと彫刻した石の像になつて、しかも爺さんの像と二つ揃つてゐました。婆さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐ろしい顔をしてゐたさうですが、をかしいことには、兩人は甚だ仲が惡く、一つ所に置くと、きつと爺さんの方が倒されてゐたといつて、少し引き離して別々にしてありました。咳の願掛けに行く人は、必ず豆や霰餅の妙り物を持參して、煎じ茶と共にこれを兩方の石の像に供へました。さうして最もよくきく頼み方は、始めに婆樣に咳を治して下さいと一通り頼んでおいて、次ぎに爺樣のところへ行つてかういふのださうです。(138)おぢいさん、今あちらで咳の病氣のことを頼んで來ましたが、どうも婆どのの手際では覺束ない。何分御前樣にもよろしく願ひますといつて歸る。さうすると殊に早く全快するといふ評判でありました。（十方庵遊歴雜記五編）

　この仲のよくない爺婆の石像は、明治時代になつて、暫くどこへ行つたか行く方不明になつてゐましたが、後に隅田川東の牛島の弘福寺へ引つ越してゐることが分りました。この寺は稻葉家の菩提所で、築地の屋敷がなくなつたから、こゝへ持つて行つたのでしたが、もうその時には喧嘩などはしないやうになつて二人仲よく竝んでゐました。そればかりでなく咳の婆樣といふ名前も人が忘れてしまつて、誰がいひ出したものか、腰から下の病氣を治してくれるといつて、頼みに來る者が多くなつてゐました。さうしてお禮には履き物を持つて來て上げるとよいといふことで、像の前にはいろ／＼の草履などが納めてあつたさうです。（土俗談語）

　食べ物を進上して口の病を治して貰つた婆樣に、後には足の病氣を頼み、お禮に履き物を贈るやうになつたのは、ずゐぶん面白い間違ひだと思ひますが、廣島市の空鞘八幡といふお社の脇にある道祖神のほこら〔三字傍点〕には、子供の咳の病が治るやうに、願掛けに來る人が多く、そのお供へ物は、いづれも馬の沓であつたさうです（碌々雜話）。道組神は道の神また旅行の神で、その上に非常に子供のすきな神樣でありました。昔は村中の子供は、皆この神の氏子でありました。馬に乘つて方々のお産のある家を訪ねて來て、生れた子の運勢をきめるのは、この神樣だといふ昔話もありました。すなはち子供を可愛がる爲に、馬の沓の入り用であつた神なのであります。路を通る人が馬の沓や草鞋を上げて行く神はどこに行つてもありますが、今では名前がいろ／＼にかはり、また土地によつて話も少しづつ違つて居ます。咳のをば樣なども、もしかするとこの道祖神の御親類ではないか。それをこれから皆さんと共に私は少し考へて見たいのであります。

　咳のをば樣の石は東京だけでなく、元は他の縣にもそちこちにありました。例へば川越の廣濟寺といふお寺の中にも、しやぶぎばゝ〔六字傍点〕の石塔があつて、咳で難儀をするのでお參りに來る人がたくさんにあつたさうですが、今ではその(139)石がどれだか、もうわからなくなりました。しはぶきは古い言葉で、咳のことであります。（入間郡誌。埼玉縣川越市喜多町）

　甲州八田といふ村にあるしはぶき〔四字傍点〕婆は、二貫目ばかりの三角な石で、これには炒り胡麻とお茶とを供へて、小兒が風をひいた時に祈りました。もとは行き倒れの旅の老女を埋めた墓印の石で、やたらに動かすと祟りがあるといつておそれてをりました。（日本風俗志中卷。山梨縣中巨摩郡百田村上八田組）

　上總の俵田といふ村の姥神樣は、近頃では子守神社といつて小さなお宮になつてゐますが、こゝでもある尊い御方の乳母が京都から來て、咳の病で亡くなつたのを葬つたところといつてをります。それだから咳の病に願掛けをすれば治してくれるといふことで、土地の人は甘酒を持つて來て供へました。さうして頼むと必ずよくなつたといふ話であります。（上總國誌稿。千葉縣君津郡中根村俵田字姥神臺）

　姥神はまた子安樣ともいつて、最初から子供のお好きな路傍の神樣でありました。それがだん／＼に變つて來て、後には乳母を神に祀つたものと思ふやうになり、自分が生きてゐるうちに咳で苦しんだから、お察しがあつて子供たちの百日咳も、頼むとすぐに救うてもらふことが出來るやうに、信ずる人が多くなつたのであります。

　下總の臼井の町でも、城址から少し東南に離れた田の中に、おたつ〔三字傍点〕樣といふ石の小さなほこら〔三字傍点〕があつて、そこには村の人たちが麥こがしとお茶とを上げて、咳の出る病を祈つてをりました。臼井の町の傳説では、おたつ〔三字傍点〕樣は昔臼井竹若丸といふ幼い殿樣の乳母でありました。志津胤氏といふ者が臼井の城を攻め落した時に、おたつ〔三字傍点〕はかひ／”＼しく若君を助けて遁れさせ、自分はこのあたりの沼の蘆原の中に隱れてゐました。追手の軍勢が少しも知らずに、沼の側を通り過ぎようとしたのに、あいにく咳が出たので見つかつて、乳母のおたつ〔三字傍点〕は殺されてしまひました。それが恨みの種であるゆゑに、死んで後までも咳をする子供を見ると、治してやらずにはをられぬのであらうと、土地の人たちも考へてゐたやうであります。麥こがしは妙り麥をはたいて作つた粉であつて、皆さんも御承知のとほり、食べると(140)よく咳が出るものであります。それを食べて今一度、咳の出る苦しさを思ひ出して下さいといふつもりであつたと見えて、近頃では燒き蕃椒を供へる人さへあるといふ話でありました。それからお茶を添へるのは、こがし〔三字傍点〕にむせた時に茶を飲むと、それで咳が鎭まるからであらうと思ひます。（利根川圖誌等。千葉縣印旛郡臼井町臼井）

　しかし東京などの咳のをば樣は、別にさういふ來歴がなくても、やはり頼むと子供の百日咳を治してくれたといひますから、この傳説は後で出來たものかも知れません。築地の稻葉家の屋敷の咳の爺婆は、以前は小田原から箱根へ行く路の、風祭といふところの路傍にあつたのを、江戸へ持つて來たものだといふことであります。風外といふ僧が、庵を作つてそこに住み、後に出て行く時に殘して置いたので、おほかた風外の父母の像であらうといひましたが（相中襍志）、親の像を殘して去る者もないわけですから、やはりこれも道の神の二つ石であつたらうかと思ひます。山の峠や橋の袂、または風祭のやうに道路の兩方から丘の迫つたところには、よく男女の石の神が祀つてありました。箱根から熱海の方へ越える日金の頂上などにも、おそろしい顔をした石の像が二つあつて、その一つを閻魔さま、その一つを三途河の婆樣だといひました。路を行く人が銭を紙に包んで、わんと開いた口の中へ、入れて行く者もあるさうです。しかしそこではまだ咳の病を、祈るといふことは聞いてゐません。

　淺草には今から四十年ほど前まで、姥が淵といふ池が小さくなつて殘つてゐて、一つ家石の枕の物凄い昔話が、語り傳へられてをりました。淺草の觀音樣が美しい少年に化けて、鬼婆の家に來て一夜の宿を借り、それを知らずに石の枕を石の槌で撃つて、誤つてかはいゝ一人娘を殺してしまつたので、悲しみのあまりに婆はこの池に身を投げて死んだ。姥が淵といふ名もそれから起つたなどといひましたが、この池でもやはり子供の咳の病を、祈ると必ず治ると信じてゐたさうであります。これは竹の筒に酒を入れて、岸の木の枝に掛けて供へると、まもなく全快したといふことですから、姥神も、もとはやはり子供をまもつて下さる神であつたのです。（江戸名所記）

　何か必ずわけのあることと思ひますが、姥神はたいてい水の畔に祀つてありました。それで臼井のおたつ樣のやう(141)に、水の中で死んだ女の靈が殘つてゐるといふやうに、説明する話が多くなつたのであります。靜岡の市から少し東、東海道の松竝木から四五十間北へはひつたところにも、有名な一つの姥が池がありました。こゝでは旅人が池の岸に來て「姥甲斐ない」と大きな聲で呼ぶと、忽ち池の水が湧きあがるといつてをりました。「甲斐ない」といふのは、今日の言葉で、「だめだなあ」といふことであります。それについていろ／＼の昔話が傳はつてゐるやうですが、やはりその中にも咳の病のことをいふ者があります。駿國雜志といふ書物に載せてゐる話は、昔ある家の乳母が主人の子を抱いてこの池の傍に來た時に、その子供が咳をして大そう苦しがるので、水をくんで飲ませようと思つて、下に置いてちよつと目を放すと、その間に子供は苦しみのあまり、轉げて池に落ちて死んでしまつた。乳母も親たちに申しわけがなくて、續いて身を投げて死んだ。それだから「姥甲斐ない」といふとくやしがり、また願掛けをすると咳が治るのだといふのであります。ところが、うばは金谷長者といふ大家の乳人で、若君の咳の病がなほるやうに、この池の傍の石の地藏樣に祈り、わが身を投げて主人の稚兒の命に代つた、それでその子の咳が治つたばかりか、後々いつまでもこの病にかゝる者を、救ふのであるといつてゐるものもあります。傳説はもとくかういふふうに聽くたびに少しづつ話が變つてゐるのが普通ですが、とにかくにこの池のそばには咳の姥神が祀つてあり、ある時代にはそれが石の地藏樣になつてゐたらしいのであります。さうして地藏樣も道の神で、また非常に子供のすきな御方でありました。（安倍郡誌、靜岡縣清水市入江町元追分）

　姥神がもと子安樣と同じ神で、常に子供の安全を守りたまふ神であるならば、どうして後々は咳の病ばかりを、治して下さるといふことになつたのであらうか、何かこれには思ひ違ひがあつたのではないかといふことを、考へて見ようとした人もありました。上總國の南の端に關といふ村があつて、以前そこには高さ約五尺、周圍二十八尺ばかり、形は八角で上に穴のある石が二つありました。大昔この村に關所の門があつて、これはその土臺の石であるといふことで、土地の人は關のをば〔二字傍点〕石と呼んでをりました。をば〔二字傍点〕石は御場石と書くのがよいといふ者もありましたが、やはり(142)ほんたうは姥石であつたやうで、ちかごろ道普請のために二つある石の一方を取り除けたところが、それから村内に惡いことばかりが續くので、また代りの石を見つけて南手の岡の上にすゑて、これを姥神といつて祀ることになりました。もとの地に殘つてゐる方の一つの石も、姥石だと思つてゐる人が多いやうであります。さうして他の地方にある神石と同樣に、この百年ほどの間に重さが倍になつたといふ説もありました。（上總町村誌。千葉縣君津郡關村關）

　咳のをば〔四字傍点〕樣は實は關の姥神であつたのを、せき〔二字傍点〕といふところから人が咳の病ばかりに、祈るやうになつたのであらうといふ説を、行智法印といふ江戸の學者が、もう百年餘りも前に述べてゐますが（甲子夜話六十三）、この人は上總の關村に、をば〔二字傍点〕石があることなどは知らなかつたのであります。關の姥神はもちろん、上總と安房との堺ばかりにあつたのではありません。一番有名なものは京都から近江へ越える逢阪の關に、百歳堂といつてあつたのも姥神らしいといふ話であります。後には關寺小町といつて、小野小町が年を取つてからこゝにゐたといふ話があり、今の木像は短册と筆とを手に持つた老女の姿になつてゐますが、以前はこれももつとおそろしい顔をした石の像であり、その前はたゞの天然の石であつたかも知れませぬ。せき〔二字傍点〕はすなはち塞き留める意味で、道祖神のさへ〔二字傍点〕も同じことだ、と行智法印などはいつてをります。いかにも關東地方の道祖神には、石に男と女の像を彫刻したものが多く、姥石の方にも實は爺石と二つ竝んだものが、もとはたくさんにあつたのでありますが、人が婆樣ばかりを大切にするやうになつて、二つの石はだん／＼仲が惡くなりました。

　これには閻魔さまの信仰が盛んになるにつれて、三途河の婆樣の木像を方々のお寺に祭るやうになつたことが、一つの原因であつたかも知れません。お寺ではこのこはい顔をした婆のことを、奪衣婆といつてをります。地獄の途中の三途河といふ川の岸に關をすゑて、この世から行く惡い亡者の、衣類を剥ぎ取るといふので有名になつてをります。佛説地藏菩薩發心因縁十王經といふ日本でつくつた御經に、この事が詳しく書いてありまして、それを見ると奪衣婆も決して後家ではないのです。懸衣翁といぶのがその爺の方の名でありました。

(143)　「婆鬼は盗業を警めて兩手の指を折り、翁鬼は無義を惡んで頭足を一所に逼む」ともあつて、兩人は夫婦のやうに見えるのでありますが、木像は大抵婆の方ばかりが造つてありました。これにも深いわけがあるのですが、皆さんにはそんな話はつまらないでせう。

　とにかくにこの奪衣婆を拜むやうになつてから、姥神は多くは一人になり、またその顔が次第におそろしくなりました。江戸で關のをば〔二字傍点〕樣に豆妙りを上げるやうになつた頃から、市内の寺にも數十箇所の木像の婆樣が出來、今でもまだそちこちで盆にはお詣りをする者があります。それからはやり〔三字傍点〕病などの盛んな時に、こはい顔をした婆のはひつて來るのを見たといふやうな話が、だん／＼に多くなつたやうであります。甘酒婆といつて、甘酒はないかといひながらはひつて來る婆が、疫病神だなどといふひやうばん〔五字傍点〕もよく行はれました。可愛い子供をもつ親たちは、かういふ場合には急いでどこかの婆神樣にお詣りしました。關のをばさま〔四字傍点〕が江戸でこのやうに評判になつたのも、私はきつと質の惡い感冒の、はやつた年などが始めであつたらうと思つてゐます。

　それにしてもせき〔二字傍点〕のをば樣といふやうな、古い名前が殘つてゐながら、どうしてこんな石の婆の像のところへ、子供の病氣を相談に行くのかは、もうわからなくなつてゐたやうであります。三途河の婆樣の三途河といふ言葉なども、やつぱり關といふことでありました。三途河はにせ〔二字傍点〕ものゝ十王經には葬頭河とも書いてありますが、そんな地名が佛教の方に前からあつたわけでなく、さうづか〔四字傍点〕は日本語でたゞ界といふことであつたのを、後に誰かゞこんなむつかしい字をあてはめたのであります。富士山その他の靈山の登り口または大きなお社に詣る路には、大抵はさういふ場所があります。精進川と書くのが最も普通で、實際そこには水の流れがあり、參詣の人はその水で身を潔めたやうですが、それが初めからの言葉の意味を、表したものであるかどうかはまだ確でありません。たゞそこが神樣の領分の堺であるために、いよ／＼嚴重に身をつゝしみ、また堺を守る神を拜んだやうであります。昔の關の姥神は、おほかた連れ合の爺神と共に、こゝで祀られた石の神であつたらうと、私などは考へてゐます。それを佛教の方に働いてゐた(144)人たちが、持つて行つて地獄に行く路の、三瀬川の鬼婆にしたのであります。それだからこの世にある諸國のさうづか〔四字傍点〕には、多くは奪衣婆の像を祀つてあるのであります。

　日本本土で一番北の端にあるのは、奧州外南部の正津川村の姥堂で、私も一度お參りをしたことがあります。東海道では尾張の熱田の町にある姥堂は、古くから有名なものでありました。これは熱田神宮の精進川に架けた御姥子橋、一名さんだが〔四字傍点〕橋の袂にある御堂で、もとは一丈六尺の奪衣婆の木像が置いてあつた爲に、熱田神宮は御本地閻魔王宮だなどとおそれ多いことをいふ者さへありましたが（紹巴富士見道記）、これは姥神のもとのお姿を、忘れてしまつた人のいふことであります。十王經はうそ〔二字傍点〕の御經でしたが、これに基づいて地獄の繪解きをする者が全國を旅行してをり、それがまた婦人でありました爲に、わづかな間に方々の御姥子樣が、見るもおそろしい奪衣婆になつてしまひました。以前はこれよりずつとやさしい顔であつたことゝ思ひます。さうでなければわざ／＼地獄からやつて來て、活きた人間の子供のために、こんなに親切に心配をしてくれるはずはないからであります。

　今でも三途河の婆樣はこはい顔をしながら、子供たちの友人であります。盆の十六日には藪入りの少年が遊びに來ます。そればかりでなく、もつと小さな子供の爲にも、頼まれると乳の心配をしたなどといふのは、まつたくの商賣ちがひのやうに見えますが、それがかへつて昔からの、姥神の役目であつたのです。羽後の金澤の專光寺のばゝさんは、寺では三途河の姥だといつてゐますが、乳の少い母親が願掛けをすると、必ずたくさんに出るやうになるといひます。この像は昔專光寺の開山蓮開上人の夢に一人の女が現れて、われは小野寺の別當林の洞穴の中に、自分の像と大日如來の像とを彫刻して置いた。早く持つて來て祭るがよいと教へてくれた。さつそく行つて見るとその通りに二つの像があつたので、迎へて來たといひ傳へてゐます。雄勝の小野寺は芍藥の名所で、小野小町を祀つたといふ寺がありますから、そこから迎へて來た木像ならば、たとへ小町ほどに美しくはなくても、まさか鬼見たやうではなかつたらうと思ひます。（秋田縣案内。秋田縣仙北郡金澤町荒町）

(145)　莊内大泉村の天王寺のしようづか〔五字傍点〕の姥も、乳不足の婦人が祈願すれば乳を増すといつて、多くの信者がありました。これも至つて古い作の木像ださうですから、後に名前だけが改まつたものであらうと思ひます。（三郡雜記。山形縣西田川郡大泉村下清水）

　遠州見付の大地藏堂の内にある奪衣婆の像は、新しいものだらうと思ひますが、こゝでも子供の無事成長を祈る人が多く、そのお禮には子供の草履を上げました。新に願掛けをする者は、その草履一足を借りて行き、お禮參りの時にはそれを二足にして納めるので、いつも地藏堂の中は、子供の草履で一杯であつたといひます。（見付次第。靜岡縣磐田郡見付町）

　それから上州の高崎市には、大師石といふ一つの靈石があつて、その附近には弘法大師の作と稱する石像の婆樣があり、これをしようづか〔五字傍点〕の婆石といつてをりました。これには咳をわづらふ人が祈願をして、しるし〔三字傍点〕があればやはり麥こがしを持つて來て供へたといふことであります。（高崎志。群馬縣高崎市赤坂町）

　越後では長岡の長福寺といふ寺に、古い十王堂があつて閻魔樣を祀つてゐましたが、こゝでは米の妙り粉を供へて咳の病を祈ると、立ちどころに全快するといふことで、咳の十王といへば誰知らぬ者もなかつたさうです。閻魔に米のこがしを上げるのは珍しい話ですが、ことによるともとは見付の地藏堂の草履のやうに、同居をしてゐたもとの姥樣のおつきあひ〔五字傍点〕であつたかも知れません。閻魔と地藏とは同じ一つの神の、兩面であるといつた人もあります。もしさうだつたら地藏は子供の世話役ですから、わざ／＼こはい顔をした婆さんに頼む必要はないのですが、以前はこれがわれ／＼の子安神であつた上に、いつも御堂の端の方に出てゐて、參詣人の目につき易いところから、子供やその母親の願ひごとは、やはりその婆樣の取り次ぎを頼む方が、便利であつたものと思はれます。實際また人間の方でも、地藏や閻魔の祭りに加はつた者は、つい近い頃まで總て皆婦人でありました。それが子安姥神の三途河の婆になつて後も、永くもてはやされてゐた一つの原因であらうと思ひます。

　

(146)　　　　　　　驚き清水

　

　乳母が大切な主人の子を水の中に落して、自分も申しわけのために身を投げて死んだといふ話は、駿河の姥が池の他にもまだ方々にあります。これだけならばほんたうにあつたことかと思はれますが、なほその外にもこれによく似た不思議話があるので、それが傳説であることが知れるのであります。

　越後の蓮華寺村の姨が井といふ古井戸などもその一つで、そこでも人が井戸の傍に近よつて、大きな聲でをば〔二字傍点〕と呼ぶと、忽ち井戸の底からしきりに泡が浮んで來て、ちやうどその聲に答へるやうであるといひました。或はこれを疑ふ者が、かりにあに〔二字傍点〕と呼び、またはいもうと〔四字傍点〕と呼んで見ても、まるで知らぬ顔をしてすこしも泡が立たなかつたといふことであります。（温故之栞十四。新潟縣三島郡大津村蓮華寺字佛（ノ）入）

　すなはち死んでもう久しくなつて後まで、姨の靈が水の中に留つてゐると考へさせられた人が多かつたのであります。同じ國の曾地峠といふところには、またおまん〔三字傍点〕が井といふのがありました。これも傍に立つておまん〔三字傍点〕／＼と呼ぶと、きつと水の面に小波が起つたといひます。おまん〔三字傍点〕はこの近くに住んでゐた某といふ武士の女房でありました。夫に憎まれて、殺されてこの井戸に投げ込まれたゆゑに、いつまでもそのうらみが水の中に殘つてゐるのだといふことであります。（高木氏傳説集。新潟縣刈羽郡中通村曾地）

　これとよく似た傳説は、上州伊勢崎の近くの書上原といふところにもありました。それは阿滿が池といふ小さな池があつて、その岸に立つて人があまと呼ぶと、清水がすぐにその聲に答へて下から湧き上り、「しば／＼呼べばしば(147)しば出づ」といつてをります。（伊勢崎風土記。群馬縣佐波郡殖蓮村上植木）

　あま〔二字傍点〕もおまん〔三字傍点〕もまた姨が井のをば〔二字傍点〕も、その聲がまことに近いのは、何か理由があることかも知れません。駿河の姥が池でも人がうば〔二字傍点〕と呼べば湧き上り、姥甲斐なしといへばいよ／＼高く泡を吹いて、水を動かしたといふ話であります。清水の湧き出る池や井戸では、永くぢつと見てゐると泡が上り、また周りの柔かい土を踏むと、水が動くこともあるかと思ひますが、たゞ大きな聲で呼ぶと呼ばぬとで、湧いたり止つたりすることがあるといふのは奇妙です。しかしこれも早くから評判になつてゐて、人が特別に注意するために、かういふことがわかつたのかも知れません。

　同じやうな不思議は實はまだ方々にありました。それを少しばかりお話して見ませう。

　攝津有馬の温泉には、人が近くへ寄つて大聲で惡口をいふと、忽ち湧き上るといふ小さな湯口があつて、これを後妻湯《うはなりのゆ》と呼んでをりました。うはなり〔四字傍点〕といふ言葉は後妻のことですが、後に女の喧嘩のことをいふやうになつてからは、別に惡口をする者はなくても、若い娘などが美しく化粧をして湯の傍に行くと、すぐに怒つて湧き立つといふ評判になり、それを妬みの湯といふ人もありました。これなどはよほど姥が池の話と似てをります。（攝津名所圖會。兵庫縣有馬郡有馬町）

　野州の那須の温泉でも、もとは湯本から三町ばかり離れて、教傳地獄といふところがありました。人がそこへ行つて、「教傳甲斐ない」と大きな聲でどなると、たちまちぐら／＼と湯が湧いたといひます。昔教傳といふ男は山へ薪を採りに行く時に、朝飯が遲くなつて友だちが先に行くのに腹を立てゝ、母親を踏み倒して出かけたので、其罰でその魂がいつまでも、こんなところにゐるのだといふ話もありました。（因果物語。栃木縣那須郡那須村湯本）

　伊豆の熱海にはまた平左衛門湯といふのがあつて、「平左衛門甲斐ない」とからかふと湯が湧くといひ、旅の人がそれを面白がるので、村の子供たちが錢をもらつて、呼ばつて見せたといふことであります。それが多分今の間歇泉のことであらうと思ひますが、前にはその東に清左衛門湯、一名法齋湯といふのもあつて、そこでも大聲に念佛を唱へ(148)て暫く見てゐると、高く湯が湧き上るといつてをりました。法齋も人の名のやうに聞えますが、實は法齋念佛といふ踊りの念佛のことで、それだから法齋念佛川とも呼んでをりました。念佛でなくとも、高聲に何か物をいへば湧くのだといつた人もありますが、だまつて見てゐても自然に湧き上つたのかも知れません。（廣益俗説辨遺篇其他。靜岡縣田方郡熱海町）

　温泉ではなくとも、念佛を唱へると水がわくといふ池は方々にありました。京都の西の友岡村では、百姓太右衛門といふ人の屋敷の後に、いつもは水がなくて、岸に立つて念佛を申すと、忽ち湧き出すといふ池があつて、それで念佛池といつてをりました。近頃はどうなつたか、私はまだ行つて見たことがありません。（緘石録。京都府乙訓郡新神足村友岡）

　美濃の谷汲の念佛池は、三十三所の觀音の靈場である爲に、はやくから有名でありました。池には小さな橋が架かつてゐて、これを念佛橋といひ、橋の下には石塔が一つあり、橋からその石塔に向つて念佛を唱へると、水面に珠の如く沸々と泡が立つ。しづかに唱へればしづかに立ち、貴め念佛といつて急いで唱へると、泡もこれに應じてたくさんに浮んだといふ話であります。（諸國里人談。岐阜縣揖斐郡谷汲村）

　この縣には今一つ、伊自良《いしら》の念佛池といふのがありました。やはり同じ傳説があつたのかと思ひます。少し甘味があるといふくらゐ良い清水で、皮膚病の人などはこの水を汲んで塗ると、すぐに治るとまでいつてをりました。（稿本美濃誌。岐阜縣山縣郡上伊自良村）

　上總の八重原といふ村でも小學校の裏手に、念佛池といふのが今でもあるさうです。これは泡ではなく池の畔に立つて念佛を唱へて見てゐると、水の底から忽ち清い砂を吹き出すといふのは、やはり清水がわいてゐるのであります。（傳説叢書上總の卷。千葉縣君津郡八重原村）

　これとちやうど正反對の例は、陸前の岩出山の近く、うとう阪といふ阪の脇にありました。いつも湧き上つて底か(149)ら砂を吹いてゐますが、人がその側に近づいて南無阿彌陀佛を唱へて手を打てば、暫くの間は湧き上ることが止むといふのです。そのくせ泉の名を驚きの清水と呼んでをりました。（撫子日記。宮城縣玉造郡岩出山町）

　驚きの清水といふのは、普通の池や泉とちがつて、人のやうな感覺をもつた活きた水といふことであつたやうです。豐後風土記といふ千年あまりも前の書物にも、そんな話が書いてあります。たぶん今の別府の温泉の近くでありませうが、玖倍利《くべり》湯の井といふ温泉は、いつも黒い泥が一ばいになつて湯は流れないが、人がこつそりと湯口の傍に近より、ふい〔二字傍点〕に大きな聲を出して何かいふと、驚き鳴つて二丈あまりも湧きあがるといつてゐるのであります。それが後になると念佛の話ばかり多くなつたのは、つまり念佛が非常にはやつたからであると思ひます。この國でも田野の千町牟田には、朝日長者の屋敷跡といふところがあつて、そこには念佛水といふ小さな池がありました。人がその岸に立つて南無阿彌陀佛を唱へると、水もこれに應じて泡を立て、ぶつ／＼といつたといふ話が殘つてゐます。（豐薩軍記。大分縣玖珠郡飯田村田野）

　それからこの縣の東の沖にある姫島といふ島では、拍子水と名づけて、手を叩けばその響きに應じて、迸り流れるといふ泉があつて、これを姫島の七不思議の一つに算へてをりました。この島の神樣赤水明神は姫神でした。この水を掬んで齒をお染めにならうとすると水の色が赤錆色であつたので、また銕漿水といふ名前もありました。お社はその泉の前の岩の上にあり、御神體は筆を手に持つて、齒を染めようとする女の御姿でありました。不思議なことにはたゞ手拍子につれて水が湧くといふばかりでなく、胃腸の惡い人はこの水を飲むと治り、また皮膚病にも塗れば治つたといふことは、美濃の伊自良の念佛池などと同じでありました。（日女島考等。大分縣東國東郡姫島村）

　支那にもこれとよく似た泉が方々にあつたさうで、土地によつていろ／＼の名をつけてをります。あるところでは咄泉といつてをりました。どなると湧き出す清水といふことであります。あるところでは笑泉、人が笑ひ聲を出すと水が急に湧いたといふので、すなはち驚きの清水も同じ意味であります。喜客泉は、人が來ると喜んでわく清水、撫(150)掌泉といつたのは、手を打つとその聲に應じて流れるといふ意味でありました。日本でもぜひ念佛を唱へなければ、湧き出さぬといふわけでもなかつたのであります。實地に行つて見ないと確なことは知れませんが、大抵は周圍の土が柔かで、足踏みの力が水に響いたのではないかと思ひます。常陸の青柳といふ村の近くには、泉の杜といふお社があつて、そこの清水も人馬の足音を聞けば、湧き返ること煮え湯のやうであるといひ、それで活き水と呼び、また出水川三日の原はこゝだともいふ人がありました。（廣益俗説辨殘篇。茨城縣那珂郡柳河村青柳）

　甲州佐久神社の七釜の御手洗といふ清水なども、人がその傍を通ると水がたちまち湧きあがり、細かな砂が浮き亂れて、珍しい見物であるといふ話であります。たゞ近くに行つただけですぐに湧くくらゐですから、南無阿彌陀佛といつたり、姥甲斐ないとでもいはうものなら、もちろん盛んに湧き上ることゝ思ひますが、こゝでは誰もそんなことをして見ようとはしなかつただけであります。（明治神社誌料。山梨縣東八代郡富士見村河内）

　昔の人たちは飲み水を見つけることが、今よりもずつと下手でありました。井戸を掘つて地面の底の水を汲み上げることは、永い間知らなかつたのであります。それだからわざ／＼川や池に出かけたり、または筧といふものを架けて、遠くから水を引いて來たので、あまり離れたところには家を建てゝ住むことが出來ませんでした。たまに思ひがけない土地に泉を見出すと、喜んでそこに神樣を祀り、それからおひ／＼にその周圍に村を作り、また旅人もそこを通つて行きました。水がないので一番困つたのは旅の人でありますが、その中には水を見つけることが普通の人よりも上手な者があつて、土地の樣子を見て地下に水のあることを察し、井戸を掘ることを教へたのも、彼等であつたらうといふことであります。諸國の山や野を自由にあるいてゐた行脚の僧、ことに空也上人といふ人などが、多くの村々に良い泉を見立てゝ殘して行つたといふことで、永く住民に感謝せられてをります。空也はわが國に念佛の教へを弘めた元祖の上人でありました。後の世にその道を慕ふ人たちは、いつでも美しい清水を汲むたびに、必ずこの上人の名を想ひ出しました。阿彌陀の井といふ古い井戸が各地に多いのは、多分その水のほとりにおいて、しば／＼念佛(151)の行をしたためであらうと思ひます。空也派の念佛は多くの人が集つて來て、踊り狂ひつゝ合唱する念佛でありました。念佛池の不思議が土地の人に注意せられるやうになつたのも、それにはそれだけの原因があつたのであります。しかしそれだけの原因からでは、他のいろ／＼な驚き清水、おまん〔三字傍点〕が井や阿滿が池の傳説は出て來なかつたらうと思ひます。念佛の僧たちが諸國を行脚してあるくよりもなほ以前から、水の惠みを大切に感じて、そこに神樣を祭つてそのお力を敬うてゐたことが、むしろ念佛の信仰を泉のへんに引きつけたのかも知れません。さうしてその神樣が、後に姥神の名をもつて知られた子安の神であつたことは、まだこれからお話して見ようと思ふ多くの傳説によつて、おひ／＼にわかつて來るのであります。

　

(152)　　　　　　　大師講の由來

　

　傳説の上では、空也上人よりもなほ弘く日本國中をあるき廻つて、もつとたくさんの清い泉を、村々の住民のために見つけてやつた御大師樣といふ人がありました。大抵の土地ではその御大師樣を、高野の弘法大師のことだと思つてゐましたが、歴史の弘法大師は三十三の歳に、支那で佛法の修業をして歸つて來てから、三十年の間に高野山を開き、むつかしい多くの書物を殘し、また京都の人のために大切ないろ／＼の爲事をしてゐて、さう遠方まで旅行をすることの出來なかつた人であります。かういふえらい方だから、亡くなつたと見せてほんたうはいつまでも國々を巡つて修業してゐられるのであらうと思つてゐた人も少くはなかつたので、こんな傳説が弘く行はれたのでもありませう。高野の大師堂では、毎年四月二十一日の御衣替へに、大師堂の御像の衣を替へて見ると、いつもその一年の間に衣の裾が切れ、泥に汚れてゐました。それが今でも人に知られずこつそりと、この大師がわれ／＼の村をあるいてをられる證據だなどといふ人もありました。

　とにかくに傳説の弘法大師は、どんな田舍の村にでもよく出かけました。その記念として殘つてゐる不思議話は、どれもこれも皆似てゐますが、中でも數の多いのは今まで水のなかつた土地に、美しくまた豐なる清水を與へて行つたといふ話でありました。東日本の方は大抵は弘法井、または弘法池などといひ、九州ではたゞ御大師樣水と呼んでをります。もとは大師樣とばかりいつてゐたのを、後に大師ならば弘法大師であらうと、思ふ者が多くなつたのであります。あんまり同じやうな話がたくさんにあつて、いくつも竝べて見てもつまりませんから、私はたゞ飛び／＼に(153)今知つてゐる話だけを書いて置きます。皆さんも誰かに聞いて御覽なさい。きつと近くの村にかういふいひ傳へがあつて、それにはいつでも女が出てきます。その女がほんたうは關の姥樣であつたのであります。

　普通は飲み水の十分に得られないやうな土地に、かういふ昔話が數多く傳はつてゐます。人がいつまでも忘れられないよろこびの心を、起さずにはゐられなかつたからであらうと思ひます。石川縣の能美郡なども、村々に弘法清水があつて、いづれも大師の來られなかつた前の頃の、水の不自由を語つてをります。例へば粟津村井の口の弘法の池は、村の北の端にある共同井戸でありますが、昔こゝにはまだ一つの泉もなかつた頃に、ある老婆が米を洗ふ水を遠くから汲んで來たところへ、ちやうど大師樣が來合せて、喉が乾いたからその水を飲ませよといはれました。大切な水を惜しげもなくこゝろよくさし上げますと、そんなに水が不自由なら一つ井戸を授けようといつて、旅の杖を地面に突き立てると、忽ちそこからいゝ水が流れ出して、この池になつたといつてをります。鳥越村の釜清水といふ部落なども、釜池といふ清水が村の名になるほど、今では有名なものになつてゐますが、もとはやはり水がすくなくて、わざ／＼手取川まで汲みに行つてをりました。土地の舊家の次郎左衛門といふ人の先祖の婆さんが、親切にその水を大師に進めたお禮に、家の前にこの池をこしらへて下されたのであります。それだから今でも池の岸には大師堂を建て、水の恩を感謝してゐるといふことであります。花阪といふ村にももとは良い水がなくて、ある家の老女が遠方から汲んで來たのを、大師樣に飲ませました。さうするとまた杖をさして、こゝを掘つて見よといつて行かれました。それが今日の花坂の弘法池であります。ところがその近くの打越といふ村では、今でも井戸がなくて毎日河へ水汲みに出かけます。これはまた昔その村の老婆が、大師樣が水をほしいといはれた時に、腰卷を洗ふ水を勸めたその罰だと申します。湊といふ村にも以前は二つまで弘法大師の清水があつて、今ではその一つは手取川の堤の下になつてしまひましたが、これも大師が杖のさきで、突き出した泉であるといつてをりました。ところがその隣りの吉原といふ村には、さういふ結構な井戸がないばかりでなく、今でも吉原の赤脛といつて、村の人が股引をはくと病氣になると(154)いひ傳へて、冬も赤い脚を出してゐるのは、やはりある姥が股引を洗濯してゐて、せつかく水を一ぱいくれといはれた弘法大師に、その洗ひ水を打ち掛けたからだといつてをります。良い姥、惡い姥の話は、まるで花咲爺、または舌切り雀などと同じやうではありませんか。（以上みな能美郡誌）

　それから能登の方では羽阪といふ海岸の村では、昔弘法大師がこのへんを通つて水を求められた時に、情なくも惜しんで上げなかつたため、大師は腹を立てゝ一村の水をしまひ込んでおしまひになつたといつて、今でもどこを掘つて見ても水に銕氣《かなけ》があつて使ふことが出來ず、仕方なしに食べ物には川の水を汲んで來るといふ話でありました。（能登國名跡志。石川縣鹿島郡鳥尾村羽阪）

　また羽咋郡の末吉といふ村でも、水を惜しんで大師に與へなかつたために、今に良い清水を得ることが出來ぬといつてゐますが、その近くの志加浦上野といふ部落では親切にしたので、大師はそのお禮にそばの岩を指さすと、忽ちその岩の中から水が湧いたといつてゐます。そして名産の志賀晒布また能登縮をこの水で晒して、いつまでもそのめぐみ〔三字傍点〕を受けてゐるといふことであります。（郷土研究三編。石川縣羽咋郡志加浦村上野）

　若狹の關屋川原といふ所は、比治川の水筋がありながら、ふだんは水がなくして大雨の時にばかり、一ぱいになつて渡ることの出來ない困つた川でありました。これも昔この村の老女が一人、川に出て洗濯してゐるをりに、僧空海が行脚して來てのどがかわいたので、水でも貰ひたいとこの老女にいはれたところが、この村には飲み水がありませんと、すげなく斷りました。それを非常に立腹して唱へごとをしてから川の水はこと／”＼く地の下を流れて行くことになつて、村ではなんの役にも立たぬ川になつてしまつたのださうです。（若狹郡縣志。福井縣大飯郡青（ノ）郷村關屋）

　近江の湖水の北にある今市といふ村でも、村には共同の井戸が一つあるだけで、それがまたすぐれて良い水でありました。これも弘法大師が諸國を歩きまはつて、ちやうどこの村に來て一人の若い娘に出逢ひ、水が飲みたいといはれました。すると親切に遠いところへ汲みにいつて、久しい間大師を待たせましたので、大師がそのわけを聽いて氣(155)の毒に思ひ、持つてゐた杖でそこいらの岩の間を突かれると、すなはち清水が湧き出たのがこの井戸であるといひます。（郷土研究二編。滋賀縣伊香郡片岡村今市）

　伊勢の仁田村では井戸世古の二つ井といつて、一つは濁つて洗濯にしか使はれず、その隣りの井戸はまことによい水でありました。やはり老いたる女が洗濯をしてゐるところへ、弘法大師が來て水を求めた時に、その水は惡いからといつて、わざ／＼たいへん遠いところまで行つて汲んで來てくれましたので、大師がそれは困るだらうといつて、杖を濁り井のすぐ脇の地面に挿すと、そこからこのやうな清い泉が湧き出たといふのであります。（伊勢名勝誌。三重縣多氣郡佐奈村仁田）

　紀州は弘法大師の永くをられた國だけに、幾つかの名水が大抵はこの大師のお蔭といふことになつてゐます。日高郡ばかりでも弘法井は南部の東吉田、上南部の熊岡、東内原の原谷にもあり、西内原の池田の大師堂の近くにもありました。船津の阪本の弘法井は、今でも路通る人が花を上げお賽錢を投げて行きます。高家の水飲谷にあるのは、弘法大師が指先で穿つたといつて結構な水であります。南部の舊熊野街道の山路に、今一つある弘法井などは、親切な老婆が汲んで來た水が、千里の濱まで汲みにいつたものだといふ話を聞いて、それはたいへんなことだといつて、大師が錫杖のさきで、穿つて下さつた井戸だといつてをります。（以上みな南紀土俗資料）

　伊都郡の野村といふ所などは、弘法大師が杖で突いてから涌き出したと傳はつて、幅五尺ほどの泉が二十五間もある岸の上から落ちて、廣い區域の田地を潤してゐます。話は殘つてゐるかどうか知りませぬが、それを今でも姥瀧といふのであります。杖が藪といふ村にも大師が杖で穿つたといふ加持水の井戸があつて、その杖を投げて置かれたら、それが成長して藪になつたといひ、村の名までがそれから出てゐるのであります。（紀伊續風土記。和歌山縣伊都郡高野村杖ヶ藪）

　こんな話は幾らでもありますから、もういゝかげんにして置きませう。四國などは大師の八十八箇所もあるくらゐ(156)ですから、この突きさした杖に根が生えて、だん／＼成長したのだといふ大木の數だけでも、數へ切れないほどたくさんにあり、惡い婆さんと善い婆さんとが、たつた一杯の水を惜しんだか與へたかによつて、片方はいつまでも井戸の水が赤くて飲まれず、他の片方はこんな良い水を大師樣に貰つたといぶ傳説が、もう昔話のやうになつて多くの村の子供に語り傳へられてをります。

　杖の清水の話の中でも、殊に有名なものは、阿波では下分上山の柳水、この村にはもとは水がなかつたのを、大師がその杖で岩を突き、そこから清水が流れ出るやうになりました。杖は柳の木で、永くその泉の傍に青々と茂つてゐたさうであります。（阿州奇事雜話。徳島縣名西都下分上山村）

　伊豫では高井の西林寺の杖の淵。この村にも昔は水がなかつたのですが、大師が來て杖を地に立てゝから、淵になるまでの立浜な泉が涌き出したのださうです。しかしその杖は今ではもうないので、竹であつたか柳であつたかわからなくなつてしまひました。（伊豫温故録。愛媛縣温泉郡久米村高井）

　どうして旅の僧が行く先々に、杖を立てゝあるくのかといふことを、私はいろ／＼に考へて見ましたが、池や泉と關係のないことははぶいて置きます。九州の南の方では性空上人、越後の七不思議の話では親鸞上人、甲州の御嶽の社の近くには日蓮上人などが、竹の杖を立てゝそれが成長したことになつてゐますが、水が湧き出した話には、どうも大師樣が多いやうであります。東京の附近では入間郡の三つ井といふ所に、弘法大師が來られた時には、氣立てのやさしい村の女が、機を織つてゐたさうであります。水がほしいといはれるので、機から下りて遠いところまで汲みに行きました。それは定めて不自由なことであらうと、さつそく杖をさして出るやうにして下さつたといふ清水が、今でも流れて土地の名前にまでなつてをります。（新清武藏風土記稿。埼玉縣入間郡所澤町上新井字三つ井）

　女が機を織つてゐたといふ話も、何か特別のわけがあつて、昔から語つてゐたことのやうであります。大師の井戸の一番北の方にあるのは、今わかつてゐるものでは山形縣の吉川といふ所で、こゝまで傳説の弘法大師は行つてをら(157)れるのであります。その昔大師が湯殿山を開きに來られた時に、喉が乾いてこの村のある百姓の家にはひつて、水を飲ませてくれと申されますと、女房がひどい女で、米の磨ぎ汁を出しました。それを大師はだまつて飲んで行かれたが、あとで女房の顔が馬になつてしまつた。それからまた二三町も過ぎたところのある家では女房は機を織つてゐました。こゝでも水がほしいといはれますと、いやな顔もせずに機から下りて、遠いところまで汲みに行つてくれました。大師は喜んでこの村には良い水がないと見える。一つ掘つてやらうといつて、例の杖をもつて地面に穴をほりますと、こん／＼〔四字傍点〕として清水が湧きました。それが今もある大師の井戸だといふのであります。（郷土研究一編。山形縣西村山都川土居村吉川）

　こゝでまづ最初に、われ／＼が考へて見なければならぬのは、それがほんたうに弘法大師の僧空海であつたらうかといふことであります。廣い日本國中をこの通りよく歩き廻り、どこでも同じやうな不思議を殘して行くことは、とても人間わざでは出來ぬ話でありますが、それを神樣だといはずに、なるべく誰か昔の偉い人のしたことのやうに、われ／＼は考へて見ようとしたのであります。それには弘法大師が最もその人だと、想像し易かつただけではないでせうか。温泉の方にも杖で掘り出したといふ傳説が少しはあります。上州の奧にある川場の温泉なども、昔弘法樣が來てある民家に一泊したときに、足を洗ふ湯がないので困つてゐると、さつそく杖をその家の入り口にさして、出して下されたのがこの湯であるといひ傳へてをります。それだからこの温泉は脚氣によくきくのだと土地の人はいひ、またその湯坪の片脇に、今でも石の小さな大師樣の像を立てゝ、拜んでゐるのだといふことであります。（郷土研究一編。群馬縣利根郡川場村川場湯原）

　ところが攝津の有馬の湯の山では、豐臣秀吉がやはり杖をもつて温泉を出したといふ話になつてをります。太閤が有馬に遊びに來た時に、清涼院といふお寺の門の前を通つてじやうだん〔五字傍点〕半分に杖をもつて地面の上を叩き、こゝからも湯が湧けばよい。さうすれば來てはひるのにといひますと、たちまちその足もとから、温泉が出たといひます。そ(158)れでその温泉の名を上の湯、一名願ひの湯とも呼んでをりましたが、後にはその名ばかり殘つて、温泉は出なくなつてしまひました。（攝陽群談八）

　太閤樣は思ふことがなんでも叶つた人だから、さういふこともあつたか知れぬと、考へた者はずゐぶんありました。ぜひとも弘法大師でなくてはならぬといふわけでもなかつたのであります。尾張の生路といふ村には、あるお寺の下に綺麗な清水があつて、これも大師の掘つた井戸だと、土地の人たちはいつてをりましたが、それが最初からのいひ傳へでなかつたことは明かになりました。四百年ばかり前に、ある學者がこの寺に頼まれて書いた文章には、大昔日本武尊が、こゝに來て狩りをなされ、渇きをお覺えなされたが水がないので、弓?をもつて岩をおさしになると清い泉が湧いた。それがこの井戸であると誌してをります。近頃はもう水も出なくなりましたが、以前は村の者が非常に尊敬してゐた井戸で、穢れのあるものがもしこれを汲まうとすると、俄に水の色が濁つてしまふとまで信じてゐたさうであります。（張州府志、愛知縣知多郡東浦村生路）

　これと同じやうな傳説は、他の地方に數多くありまして、たゞ關係した人の名が違つてゐるばかりであります。關東などで一番多くいふのは、八幡太郎義家であります。軍の半に水が得られないので、神に念じ、弓をもつて岩に突き、また矢を土の上にさすと、それから泉が流れて士卒こと／”＼く渇を癒やした。よつてこれを神水として感謝のため神の御社を建てゝ永く祀つたといつて、その神も多くは八幡樣であります。小高い所から泉の湧く場合には、大抵は土が早く流れて岩が現れて來ますので、一そう普通の人間の力では、見出すことが出來なかつたやうに想像する者が多くなつたことなのかと思ひます。すなはちこの石清水八幡の傳説なども、後になるほどだん／＼に數が多くなつたわけでありますが、それがお社も何もない里の中や道の傍、または人家の間に挾まつてしまふと、話はどうしても杖を持つた行脚の旅僧といふ方へ、持つて行かれやすかつたやうであります。

　それからまた他のいろ／＼の天然の不思議を、あれもこれも同じ弘法大師の仕事のやうに、説明するふうが盛んに(159)なりました。その中でも最も人のよく知つてゐる例は、石芋といつて葉は全く里芋の如く、その根は硬くて食べることの出來ない植物、または食はず梨といつて味も何もない梨の實などであります。いづれもその昔一人の旅僧がそこを通つて、一つくれぬかと所望したのを、物惜しみの主人が嘘をついて、これは硬くてだめですとか、または澁くて上げられませんとかいつた。さうかといつて旅僧は行つてしまつたが、後で聞くとそれが大師樣であつた。その芋また梨はそれから以後硬くまた澁くなつてしまつて、食べることが出來なくなつたなどといふのであります。傳説の弘法大師は全體に少し怒り過ぎ、また喜び過ぎたやうであります。さうして佛法の教化とは關係なく、いつもわれ／＼の常の生活について、善い事も惡い事も共に細かく世話を燒いてゐます。杖立て清水をもつて百姓の難儀を救ふまではよいが、怒つて井戸の水を赤錆にして行つたり、芋や果物を食べられぬやうにしたといふなどは、かういふ人たちには似合はぬ仕業であります。ところが日本の古風な考へ方では、人間の幸不幸は神樣に對するわれ／＼の行ひの、正しいか正しくないかによつて定まるやうに思つてゐました。その考へ方が、今でも新しい問題について、をり／＼は現れて來るのであります。だから私などは、これを弘法大師の話にしたのは、何かの間違ひではなからうかと思ふのであります。

　そのことは今に皆さんが自分で考へて見るとして、もう少し珍しい傳説の例を擧げて置きませう。石芋、食はず梨とちやうど反對の話に、煮栗燒き栗といふのが方々の土地にあります。これも今では弘法大師の力で、一旦煮たり燒いたりした栗の實が、再び芽を吹いて木になつたといつて、盛んに實がなつてゐるのであります。越後の上野原などにある燒き栗は、親鸞上人の逸話になつてゐますが、やはりある信心の老女がさし上げた燒き栗を、試みに土に埋めて、もし私の教へが後の世で繁昌をするならば、この燒き栗も芽を出すであらうといつて行かれた。さうすると果してその言葉の通り、それが成長して大きな栗林となり、しかも三度栗といつて一年に三度づつ、實を結ぶやうになつたといふのであります。どうしてこのやうな話が出來たかといふと、この一種の柴栗が他のものよりはずつと色が黒(160)くて、火に焦げたやうに見えるからでありますが、京都の南の方のある在所では、やはり同じ話があつて、これは天武天皇の御事蹟だといふのであります。天武天皇が一時芳野の山にお入りになる時、この村でお休みなされると、煮た栗を獻上したものがあつた。もう一度歸つて來るやうであれば、この煮た栗も芽を吹くといつて、お植ゑになつた實が大木になつて榮えたといふことで、その種が永く傳はつてをります。或はまた春日の明神が初めて大和にお移りになつたときに、お付きの神主が煮栗の實を播いたともいふ者もあります。かういふやうに話はぜひとも弘法大師でなければならぬといふわけでもなかつたのであります。

　それからまた片身の魚、片目の鮒などといふ話もあります。燒いて食べようとしてゐるところへ大師がやつて來て、それを私にくれといつて、乞ひ受けて小池へ放した。それから以後その池にゐる鮒は、一方だけ黒く燒け焦げたやうになつてゐる。または片目がない、もしくは片側がそいだやうに薄くなつてゐるといふのです。動物學の方から見て、そんな魚類があるものとも思はれませんが、とにかくに片目の魚が住むといふ池は非常に多く、それがこと／”＼く神の杜、または古い御堂の傍にある池であります。池と大師とは、またかういふ方面においても關係があるのであります。

　或はまた衣掛け岩、羽衣の松といふ傳説もあります。これも水の邊で、珍しい形の岩や大木のある場合に、不思議な神の衣が掛かつてゐたことがあるといふので、普通には氣高い御姫樣などの話になつてゐるのですが、それがまたいつの間にか、弘法大師と入り代つてゐるところもあるのです。備前の海岸の間口といふ灣の端には、船で通る人のよく知つてゐる裳掛け岩といふ大岩があります。これなども飛鳥井姫といふ美しい上臈の着物が、遠くから飛んで來て引つ掛かつたといふいひ傳へもあるのですが、土地の人たちは、またこんな風にもいつてゐる。昔大師が間口の部落へ來て、法衣を乾かしたいから物干しの竿を貸してくれぬかといはれた。竿はありませんと村の者がすげなく斷つたので、大師もしかたなしにこの岩の上に、ぬれた衣を掛けてお干しなされたといふのであります。おほかたこれも(161)一人の不親切な女の、後で罰が當つた話であつたらうと思ひます。（邑久郡誌。岡山縣邑久郡裳掛村福谷）

　安房の青木といふ村には、弘法大師の芋井戸といふのがあります。井戸の底に芋のやうな葉をした植物が、青々と茂つてゐます。昔大師がこの村のある老婆の家に來て、芋をくれないかと所望したのを、老婆が物惜しみをしてこの芋は石芋ですと嘘をいつた。さうすると忽ち家の芋が皆石のやうに堅くなり、食べることが出來ぬから戸の外に棄てると、そこから水が湧き出してこの井戸になつたといふのは、きつと二つの話の混合で、芋では罰を受けたが、井戸は土地一番の清水でありました。傳説はかういふふうに半分缺けたり、また繼ぎ合せて一つになつたりするものであります。（安房志。千葉縣安房郡白濱村青木）

　會津の大鹽といふ村では山の中の泉を汲んで、近い頃まではそれを釜で煮て鹽を製してゐました。かういふ奧山に鹽の井が出るといふのは、土地の人たちにも不思議なことでした。それでやはり弘法大師がやつて來て、貴い術をもつて潮を呼んで下されたといつてゐますが、これにはまたどういふ女があつて關係したものか、今ではもう忘れてしまつた者が多いやうであります。（半日閑話。福島縣耶麻郡大鹽村）

　ところが安房の方では神餘《かなまり》の畑中といふ部落に、川の流れから鹽の井の湧くところがあつて、今でもその由來を傳へてゐます。その昔金丸氏の家臣杉浦吉之丞の後家美和女、施しを好み心掛けのやさしい婦人でありました。大同三年の十一月二十四日に、一人の旅僧が來て食を求めたので、ちやうどこしらへてあつた小豆粥を與へると、その粥には鹽氣がないから、旅僧は不審に思ひました。うちが貧乏で鹽を買ふことが出來ぬといふのを聽いて、それはお氣の毒だと川の岸に下りて、手に持つ錫杖を突きさして暫く祈念し、やがてそれを拔くと、その穴から水が迸つて、女の顔のところまで飛び上りました。嘗めて見るとそれが眞鹽であり、その僧は弘法大師であつたと、古い記録にも書いてあるさうです。（安房志。千葉縣安房郡豐房村神餘）

　いくら記録には書いてあつても、これが歴史でないことは誰にでもわかります。弘法の旅行をしさうな大同三年頃(162)には、まだ金丸家も杉浦氏もなかつたのであります。それよりも皆さんにお話したいことは、十一月二十四日の前の晩は、今でも關東地方の村々でお大師講といつて、小豆の粥を煮てお祭りをする日だといふことであります。天台宗のお寺などでは、この日がちやうど天台智者大師の忌日に當るために、そのつもりで大師講を營んでゐますが、他の多くの田舍では、これも弘法大師だと思つてゐるのであります。智者大師はその名を智��といつて、今から千三百四十年ほど前に亡くなつた支那の高僧で、生きてゐるうちには一度も日本へは來たことのなかつた人であります。また弘法大師の方はこの十一月の二十三日の晩と、少しも關係がなかつた人でありますが、どこの村でもこの一夜に限つて、大師樣が必ず家から家を巡つてあるかれると信じて、このお祭りをしてゐたのであります。

　舊暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろ／＼雪が降りますが、この二十三日の晩はたとへ少しでも必ず降るものだといつて、それをでんぼ〔三字傍点〕隱しの雪といひます。さうしてこれにもやはりお婆さんの話がついてをりました。信州などの方言では、でんぼ〔三字傍点〕とは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師樣に差し上げたい一心から、人の畠にはひつて芋や大根を盗んで來た。その婆さんがでんぼ〔三字傍点〕であつて、足跡を殘せば誰にでも見つかるので、あんまりかはいさうだといつて、大師が雪を降らせて隱して下さつた。その雪が今でも降るのだといふ者があります（南安曇郡誌その他）。しかしこの話なども後になつて、少しばかり間違つたのではないかと思ふ點があります。信州ではこの晩に食物を供へるお箸は、葦の莖をもつて必ず一本は長く、一本は短く作ることになつてゐます。これもでんぼ〔三字傍点〕隱しの記念であつて、その婆さんはでんぼ〔三字傍点〕で且つ跛であつたからといふ人もあるが、所によつては大師樣自身が生れつき跛で、それでこの晩村々をまはつてあるかれるのに、雪が降るとその足跡が隱れてちやうどよいと喜ばれるといひ、「でえしでんぼ〔六字傍点〕の跡隱し」といふ諺もあるさうです（小谷口碑集）。越後の方でも古くから大師講の小豆粥には、栗の枝でこしらへた長し短しのお箸をつけて供へました。耳の遠い者がその箸を耳の穴に當てると、よく聽えるなどともいひました。それからこの晩雪が降ると跡隱しの雪といつて、大師が里から(163)里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬやうに隱すのだといひ傳へてをりました。（越後風俗問?答）

　さうするとだん／＼に大師が、弘法大師でも智者大師でもなかつたことがわかつて來ます。今でも山の神樣は片足神であるやうに、思つてゐた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造つて、山の神樣に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、をり／＼は下りて來られることもあるといつて、雪は却つてその足跡を見せたものでありました。後に佛教がはひつてからこれを信ずる者が少くなり、たゞ子供たちのおそろしがる神になつた末に、だん／＼におちぶれてお化けの中に算へられるやうになりましたが、もとはギリシャやスカンヂナビヤの、古い尊い神々も同じやうに、われ／＼の山の神も足一つで、また眼一つであつたのであります。それとこれとは關係はないかも知れませんが、とにかく十一月二十三日の晩に國中の村々を巡り、小豆の粥をもつて祭られてゐたのは、たゞの人間の偉い人ではなかつたのであります。それをわれ／＼の口の言葉で、たゞだいし〔三字傍点〕樣と呼んでゐたのを、文字を知る人たちが弘法大師かと思つただけであります。

　だいし〔三字傍点〕はもし漢字を宛てるならば、大子と書くのが正しいのであらうと思ひます。もとはおほご〔三字傍点〕といつて大きな子、すなはち長男といふ意味でありましたが、漢字の音で呼ぶやうになつてからは、だん／＼に神と尊い方のお子樣の他には使はぬことになり、それも後にはたいし〔三字傍点〕といつて、殆と聖�ｺ太子ばかりをさすやうになつてしまひました。さういふ古い言葉がまだ田舍には殘つてゐたために、いつとなく佛教の大師と紛れることになつたのですが、もと／＼神樣のお子といふことですから、氣をつけて見ると大師らしくない話ばかり多いのであります。信州でもずつと南の方の、龍丘村の琴が原といふところには、淨元大姉といつて足の惡い神樣を祀つてをります。その御遺跡を花の御所、後醍醐天皇の御妹であつたなどといふ説さへありますが、これもまただいし〔三字傍点〕と姥の神とを、拜んでゐたのが始めのやうであります。この大子も路で足を痛めて難儀をなされたので、永く土地の者の足の病を治してやらうと仰せられたといつて、今でも信心にお詣りする人があり、そのお禮には草鞋を片足だけ納めることになつてゐます。さうしてこ(164)の地方にも、「ちんば山の神の片足草鞋」といふ諺があるさうであります。（傳説の下伊那。長野縣下伊那郡龍丘村）

　高く尊い天つ神の御子を、王子權現といひ若宮兒宮などといつて、村々に祀つてゐる例はたくさんあります。また大工とか木挽とかいふ山の木に關係のある職業の人が、今でも御太子樣といつて拜んでゐるのも、佛法の方の人などは聖�ｺ太子にきめてしまつてをりますが、最初はやはりたゞ神樣の御子であつたのかも知れません。古い日本の大きなお社でも、かういふ若々しくまた貴い神樣を祀つてゐるものが方々にありました。さうしていつでも御身内の婦人が、必ずそのお側に附いてをられるのであります。それから考へて見ますと、十一月二十三日の晩のおだいし〔四字傍点〕講の老女なども、後には貧乏な賤しい家の者のやうにいひ出しましたけれども、以前にはこれも神の御母、または御叔母といふやうな、とにかく普通の村の人よりは、ずつとそのだいし〔三字傍点〕に親しみの深い方であつたのではないかと思ひます。それぐらゐな變化は傳説には珍しくないのみならず、多くのお社や堂には脇侍ともいつて、姥の木像が置いてあり、また關の姥樣の話にもあるやうに、兒と姥との靈を一しよに、井の上、池の岸に祀つてゐるといふ、傳説も少くないのであります。

　私は兒童の守り神として、姥の神を拜むやうになつた原因も、大子が實は兒の神のことであつたとすれば、それでよくわかると思つてゐます。姥はもと神の御子を大切に育てた故に、人間の方からも深い信用を受けたのであらうと思ひます。それについてはまた二つ三つの少し新しい傳説もあります。紀州岩出の疱瘡神社といふのは、以前は大西といふ舊家の支配で、守り札などもそこから出してをりました。その大西家で板にした縁起には、かういふ話が書いてありました。ある年十一月の二十三日の晩に、白髪の婆さまが一人訪ねて來て、一夜の宿を借りたいといつた。うちは貧乏で何も上げるものがないといふと、食事には用がない。たゞ泊めて下さればよいといつて、夜どほし圍爐裏の火の側に坐つてゐた。夜の明け方に清水を汲んで貰つて、それを湯に沸かして靜かに飲み、さうして出て行かうとして大西家の主人に向ひ、私はこの家の先祖と縁のある者だ。今またかうして親切に、宿をしてもらつたのはありが(165)たいと思ふから、そのお禮にはこれからいつまでも、大西の子孫と名乘る者は疱瘡が輕く、長命をするやうに守つてやらうといつて歸つた。その跡を見送ると、ちやうど今のお社のあるところまで來て、愛染明王の姿を現じて行方知れずになつたといつてあります。種痘といふことの始まるまでは、疱瘡はまことに子供たちの大敵でありました。それだから殊に疱瘡神をおそれ敬うてゐたのでありますが、この老女は實はそれであつたらしいのです。愛染明王はもとは愛欲の神であつたさうですが、愛といふ名からわが國では、特に小兒の無事息災を祈つてゐました。それ故にお姿も若々しく、決して婆さまなどに化けて來られる神ではなかつたのです。それを一つにしてこの大西家の先祖の人は、まぼろしに見たのであります。前から姥の神の後には兒の神のあることを、知つてゐた爲であらうと思ひます。（紀伊續風土記。和歌山縣那賀郡岩出町備前）

　伊勢の丹生村は古くから鉛の産地ですが、そこには名の聞えた鑛泉が一つあります。近頃ではいろ／＼の病氣の者が入浴に來るやうになりましたが、昔はたゞこの地方の女たちが、お産の前後に來て垢離を取り生れ子の安全をお祈りするところであつた爲に泉の名を子安の井といひ、やはり弘法大師の加持水だといふ傳説をもつてゐました。戰國時代にはこの土地が荒れてしまつて、井戸も半分は埋もれ、さういふいひ傳へを忘れた人が多くなり、近所の百姓たちでその水を普通の飲料に使ふ者もありましたが、さういふ家ではどうも病人が多く、中には死に絶えてしまつた家さへあつたので、驚いて御鬮を引いて明神樣の神意を伺つたさうです。實際は水に鉛の氣があつて、それで飲む者を害したのかも知れませんが、昔の人はさうは思はなかつたのであります。それで御鬮の表には、子安井は産前産後の女のために、子育てを助け守りたまふべき深い思し召しのある井戸だから、早く浚へて清くせよと出たので、それからはいよ／＼これを日用のために汲む者が、祟りを受けるやうになつたといふことであります。（丹洞夜話。三重縣多氣郡丹生村）

　子安の池といふのは、また東京の近くにもあつて、これにも杖立て清水とよく似た傳説をもつてをりました。板橋(166)の町の西北の、下新倉の妙典寺といふ寺の脇にあつたのがそれで、昔日蓮上人がこの地方を行脚してゐた頃、墨田五郎時光といふ大名の奧方が、難産で非常に苦しんでゐました。日蓮がその爲に安産の祈りをして、一本の楊枝をもつて加持をすると、忽ちこゝから優れたる清水が湧き出した。その水を掬んで口そゝぎ御符を戴かせたら、立派な男の兒が生れたといつて、その池の傍にある古木の柳の木は、日蓮上人の楊枝を地に挿したのが、芽を吹いて成長したものだとも語り傳へてをりました。（新篇武藏風土記稿。埼玉縣北足立郡白子町下新倉）

　傳説は子安の池の、岸の柳の如く成長しました。東京は四百年この方に漸く出來た都會ですが、こゝへも弘法大師がいつの間にかやつて來てゐます。上野公園の後の谷中清水町には、清水稻荷があつてもとは有名な清水がその傍にあつたのです。この清水がまだ出なかつた前に、やはり一人の老母が頭に桶を載せて、遠いところから水を運んでゐたところへ、大師が來合せてその水を貰つて飲みました。年を取つてから毎日かうして水を汲んで來るのは苦しいだらうといはれますと、そればかりではありません、私にはたつた一人の子があつて、永らく病氣をしてゐるので困りますと答へました。さうすると大師は暫く考へて、手に持つ獨鈷といふもので、こつ／＼と地面を掘り、忽ちそこからこの清水が湧くやうになりました。味はひは甘露の如く、夏は冷かに冬は温かにして、いかなる炎天にも涸るゝことなしといふ名水でありました。姥の子供の病氣は何病でありましたか、この水で洗つたら早速に治りました。それから多くの人が貰ひに來るやうになつて、萬の病は皆この水を汲んで洗へば必ずよくなるといひました。稻荷のお社も、この時に弘法大師が祀つて置かれたといふことで、おひ／＼に繁昌して今のやうに町屋が立ち續いて來たのであります。（江戸名所記。東京市下谷區清水町）

　野州足利在の養源寺の山の下の池などは、直徑三尺ほどしかない小池ではありますが、これも弘法大師の加持水といひ傳へで、信心深い人たちが汲んで行つて飲むさうです。昔ある婦人が乳が足りなくて、赤ん坊を抱いて困り切つてゐたところへ、見馴れぬ旅僧が來てその話を聞き、しばらく祈念をしてから杖で地面を突きますと、そこから水が(167)湧き出したのださうです。これを自分で飲んでもよし、または乳のやうにして小兒に含ませても、必ず丈夫に育つであらうといつて行きました。それが弘法大師であつたといふことは、おほかた後に養源寺の人たちが、いひ始めたことであらうと思ひます。（郷土研究二編。栃木縣足利郡三和村板倉）

　土地の古くからのいひ傳へと、それを聽く人の考へとが食ひ違つた時には、話はかういふふうにだん／＼と面倒になります。だいし〔三字傍点〕が世に名高い高僧のことだとなつてしまふと、また一人別に姥の側へ、愛らしい若兒を連れて來て置かねばならなかつたのであります。あんまり氣味の惡い話が多いから、詳しいことはいはぬつもりですが、日本でよくいふ産女の靈の話なども、もとはたゞ道の傍に祀つた母と子の神でありました。姿が弱々しい赤んぼの樣でも、神樣の子であつた故に不思議な力がありました。道を通る人に向つて抱いてくれ／＼と母親がいふので、暫く抱いてゐるとだん／＼に重くなる。その重いのをぢつと我慢をしてゐた人は、必ず寶を貰ひ、または大力を授けられたのであります。それが後には、またある大師に行き逢うて、却つてその法力をもつて救はれたといふ話に變つて來て、産女は普通の人の幽靈のごとくなつてしまひました。しかし幽靈が子供づれで來るのもをかしいことですし、福を與へるといふのも、ます／＼似合ひません。これには何か他の理由があつたのであります。土地によつて、夜啼き松または夜啼き石などといつて、眞夜中に橋の袂や阪の口で、赤子の啼く聲がするといふ話もありますが、それをおそろしいことゝ考へずに、村にお産のある知らせだなどといふ土地もあります。或はまた一人の女があつて、夜になると赤んぼが啼くのに困つた。その松の木の下に行つて立つてゐると、行脚の僧が通りかゝつて抱いてくれた。さうして松の小枝を火にともして、その光を子供に見せると啼き止んだ。それから後この松の下に神を祀り、また夜啼きをする子の家では、その小枝を折つて來て燈の火にするといふ所もあります。九州の宇佐八幡の附近では、弘法大師といはずに、この僧を人聞菩薩と呼んでをります。人聞菩薩は八幡大菩薩が假にこの樣な姿をして、村々をお歩きなされるのだといふ人もありましたが、こんな奇妙な僧の名もあるまいと思ひますから、私などはそれを人の母、すなはち人(168)母といふ言葉が、この神の信仰について、古く行はれてゐた名殘であらうと思つてゐます。子安といふ母と子との神は、今でも關東地方には方々に祀つてゐます。氣高い婦人が子を抱いた石の像であります。姥といふのはたゞ女の人のことでありました。親の妹を叔母といふのも、または後々叔母になるべき二番め以下の娘を、小娘のうちからをば〔二字傍点〕と田舍でいつてゐるのも、もとは一つの言葉でありました。それを老女のやうに考へ出したために、しまひには三途河の婆樣のやうな、おそろしい石の像になつたのであります。佛教が日本にはひつて來るより前から、子安の姥の神は清い泉のほとりに祀られてゐました。弘法大師が世を去つてから千年の後までも、なほ新なる清水は常に發見せられ、いはゆる大師の井戸、御大師水の傳説は、すなはちこれに伴うて流れて行きます。生きて日本の田舍を今も巡つてゐる者は、寧ろわれ／＼の御姥子《おんばこ》樣でありました。それだからこの神を路の傍、峠の上や廣い野はづれ、旅人の喜び汲む泉のほとりにまつり、また關の姥神といふ名も起つたので、熱田の境川のおんばこ〔四字傍点〕堂なども、もとはかういふ姥と子を祀つてゐたからの名であらうと思ひます。箱根の姥子も古い傳説は人が忘れてゐますが、きつとあの温泉の發見について、一つの物語があつたのです。なほ皆さんも氣をつけて御覽なさい、古くからの日本の話には、まだ／＼幾らでも美しいかしこい兒童が、姥とつれ立つて出て來るのであります。

　

(169)　　　　　　　片目の魚

　

　この次ぎには子供とは關係はありませんが、池の傳説の序に片目の魚の話を少ししてみませう。どうして魚類に一つしか眼のないのが出來たものか。まだ私たちにもほんたうのわけはよくわかりませんが、さういふ魚のゐるのは大抵はお寺の前の池、または神社の脇にある清水です。東京に一番近い所では上高井戸の醫王寺、こゝの藥師樣には眼の惡い人がよくお參りをLに來ますが、その折にはいつも一尾の川魚を持つて來て、お堂の前にある小さな池に放すさうです。さうするといつの間にか、その魚は片目をなくしてゐるといひます。夏の頃出水の際などに、池の下流の小さな川で、片目の魚をすくふことが折々ありますが、そんな時にはこれはお藥師樣の魚だといつて、必ず再びこの池に持つて來て放したといふことです。（豐多摩郡誌。東京府豐多摩郡高井戸村上高井戸）

　上州曾木の高垣明神では、社の左手に清い泉がありました。旱にも涸れず、霖雨にも濁らず、一町ばかり流れて大川に落ちますが、その間に住む鰻だけは皆片目であつた。それが川へはひると、また普通の眼二つになるといひましたが、それでもこの明神の氏子は、鰻だけは決して食べなかつたさうです。（山吹日記。群馬縣北甘樂郡富岡町曾木）

　甲府の市の北にある武田家城址の濠の泥鰌は、山本勘助に似て皆片目であるといひました。土壌が片目であるばかりでなく、古府中の奧村といふ舊家は、その山本勘助の子孫である故に、代々片目であつたといふ話もありましたが、實際はどうであつたか知りません。（共古日録その他。山梨縣西山梨郡相川村）

　信州では戸隱雲上寺の七不思議の一つに、泉水に住む魚類、こと／”＼く片目なりといつてゐました。また赤阪の瀧(170)明神の池の魚も、片目が小さいか、または潰れてゐました。神が祈願の人に靈驗を示す爲に、さうせられるのだといつてをります。（傳説叢書。長野縣小縣郡殿城村）

　越後にも同じ話が幾つもあります。長岡の神田町では人家の北裏手に、三盃池といふ池がもとはあつて、その水に住む魚鼈は皆片目で、食べると毒があるといつて捕る者がなかつた。古志郡宮内の一王神社の東には、街道をへだてゝ田の中に十坪ほどの沼があり、そこの魚類も皆片目であつたさうです。昔このお社の春秋の祭りに、魚のお供へ物をしたお加持の池の跡だからといつてをりました。四十年ほど前に田に開いてしまつて、もうこの池も殘つてゐません。それから北魚沼郡の堀之内の町には、山の下に古奈和澤の池といふ大池があつて、その水を引いて町中の用水にしてゐますが、この池の魚もこと／”＼く片目であるといひました。捕へてこれを殺せば祟りがあり、家に持つて來て器の内に置いても、その晩の内に池に歸つてしまふといふ話もありましたが、實際は殺生禁制で、誰もそんなことを試みた者はなかつたのであります。（温故之栞。新潟縣北魚沼郡堀之内町）

　青森縣では南津輕の猿賀神社のお池などにも、今でも片目の魚がゐるといふことで、「皆みんなめつこ〔三字傍点〕だあ」といふ盆踊りの歌さへあるさうです。私の知つてゐるのでは、これが一番日本の北の端でありますが、もちろん捜せばそれより北にもたくさんにある筈であります。（民族。青森縣南津輕郡猿賀村）

　それからこちらへ來ると話は多くなるばかりで、とても一つ／＼擧げてゐることは出來ませんから、私はたゞ魚が片目になつた原因を、土地の人たちがなんといひ傳へてゐたかといふことだけを、皆さんと一しよに考へて見ようと思ひます。その中で早くから知られてゐたのは、攝津の昆陽池の片目鮒で、これは行基菩薩といふ奈良朝時代の名僧と關係があり、話は少しばかり弘法大師の杖立て清水に似てゐます。行基が行脚をしてこの池のほとりを通つた時に死にかゝつてゐる汚い病人が路に寢てゐて、魚を食べさせてくれといひました。かはいさうだと思つて、長洲の濱に出て魚を買ひ求め、僧ではあるが病人の爲だから自分で料理をして勤めますと、先に食べて見せてくれといふので、(171)それを我慢をして少し食べて見せました。さうしてゐるうちにその汚い乞食は藥師如來の姿を現し、私は上人の行ひを試して見る爲に、假に病人になつてこゝに寢てゐたのだといつて、有馬の山の方へ、金色の光を放つて飛び去つたといふことであります。行基はその不思議にびつくりして、殘りの魚の肉を昆陽池に放して見ると、その一切れづつが皆生きかへつて、今の片目の鮒になつた。それで後にはこの池の魚を神に祀つて、行波明神と名づけて拜んでゐるといふのでありました。あんまり事實らしくない話ではありますが、土地の人たちは永くこれを信じて、網を下さず、また釣り絲を垂れず、この魚を食べる者はわるい病になるといつておそれてゐたさうであります。（諸國里人談その他。兵庫縣川邊郡稻野村昆陽）

　またある説では行基は三十七歳の年に、故郷の和泉國へ歸つて來ますと、村の若い者は法師を試して見ようと思つて、鮒のなます〔三字傍点〕を作つて置いて、むりにこれを行基にすゝめた。行基はそれを食べてしまつて、後に池の岸に行つてそれを吐き出すと、なますの肉は皆生きかへつて水の上を泳ぎまはつた。その魚が今でも住んでゐる。家原寺の放生池といふのがその池で、それだから放生池の鮒は、皆片目だといひました。しかしなます〔三字傍点〕になつてから生きかへつた魚ならば、それがどうして片目になるのかは、ほんたうはまだ誰にも説明することが出來ません。（和泉名所圖會等。大阪府泉北郡八田莊村家原寺）

　これと全く同じ話は、また播州加古川の教信寺の池にもありました。加古の教信といふ人は、信心深い念佛者でありましたが、やはりむりにすゝめられたので、仕方なしに魚の肉を食べ、後で吐き出したのが生き返つて、永くこの池の片目の魚になつたといひました。寺ではその魚を上人魚といつたさうですが、それは精進魚のあやまりかと思ひます。さうしてこの池を教信のほつた池だといふ點は、行基の昆陽池の話よりも、いま一段とお大師水に近いのであります。（播磨鑑。兵庫縣加古郡加古川町）

　しかし魚が片目になつた理由には、まだこの他にも色々の話があります。

(172)　例へば下野｜上三川《かみのかは》の城址の濠の魚は、一尾殘らず目が一つでありますが、これは慶長二年の五月にこの城が攻め落された時、城主今泉但馬守の美しい姫が、懷劍で目を突いて外堀に身を投げて死んだ。その因縁によつて今でもその水にゐる魚が片目だといふのであります。この「因縁」といふことも、昔の人はよくいひましたけれども、どういふことを意味するのか、まだ確にはわれ／＼にわかりません。（郷士光華號。栃木縣河内郡上三川町）

　そこでなほ多くの因縁の例を擧げて見ると、福島の市の近くの矢野目村の片目清水といふ池では、鎌倉權五郎景政が戰場で眼を傷つけ、この池に來て傷を洗つた。その時血が流れて清水にまじつたので、それで池に住む小魚はどれもこれも左の目が潰れてゐる。片目清水の名はそれから出たといひます。（信達一統志。福島縣信夫郡餘目村商矢野目）

　鎌倉權五郎は、八幡太郎義家の家來です。十六の年に奧州の軍に出て、敵の征矢に片方の眼を射られながら、それを拔かぬ前に答の箭を射返して、その敵を討ち取つたといふ勇猛な武士でありましたが、その眼の傷を洗つたといふ池があまりに多く、その池の魚がどこでも片目だといつてゐるだけは不思議です。その一つは羽後の金澤といふ町のある流れ、そこでは權五郎の魂が、死んで片目の魚になつたといふさうです。こゝは昔の後三年の役の、金澤の柵のあつた所だといひますから、ありさうなことだと思ふ人もあつたか知れませんが、鎌倉權五郎景政は長生をした人で、決してこゝへ魂を殘して行く筈はないのでありました。（黒甜瑣語。秋田縣仙北郡金澤町）

　次ぎに山形縣では最上の山寺の麓に、一つの景政堂があつてそこを鳥海の柵の趾だといひました。權五郎が眼の傷を洗つた池といふのがあつて、同じく片目の魚が住んでゐました。どうしてこのお堂が出來たのかは分りませんが、附近の村では田に蟲がついた時に、この堂から鉦太鼓を鳴らして蟲追ひをすると、忽ち害蟲がゐなくなるといつてをりました。（行脚隨筆。山形縣東村山郡山寺村）

　また莊内の平田の矢流《やだれ》川といふ部落には、古い八幡の社があつて、その前の川でも權五郎が來て目を洗つたといつてゐます。さうしてその川のかじか〔三字傍点〕といふ魚は、これによつて皆片目であるといふ傳説もありました。（莊内可成談等。(173)山形縣飽海郡東平田村北澤）

　かうして福島縣の片目清水まで來る途中には、まだ方々に目を洗ふ川や池があつたのですが、驚くべきことには權五郎景政は、遠く信州の南の方の村に來て、やはりその目を洗つたといふ話が、傳はつてゐるのであります。信州飯田から少しはなれた上郷村の雲彩寺の庭に、杉の大木の下から涌いてゐる清水がそれで、その爲にそこにゐるゐもり〔三字傍点〕は左の眼が潰れてゐるといひます。清水の名はうらみの池、どういふうらみがあつたかは分りませんが、權五郎は暫くこの寺にゐたことがあるといふのであります。（傳説の下伊那。長野縣下伊那郡上郷村）

　何かこれには思ひ違ひがあつたことゝ思はれますが、またかういふ話もあります。作州美野といふ村の白壁の池は、いかなる炎天にも乾たことのない物凄い古池で、池には片目の鰻がゐるといひました。昔一人の馬方が馬に茶臼を附けて、池の堤を通つてゐて水に落ちて死んだ。その馬方がすがめ〔三字傍点〕の男であつた故に、それが鰻になつて、また片目であるといふ話であります。今でも雨の降る日などに、ぢつと聽いてゐると、池の底で茶臼をひく音がするなどといひました。（東作誌。岡山縣勝田郡吉野村美野）

　越後には青柳村の青柳池といつて、傳説の上では、かなり有名な池があります。この池の水の神は大蛇で、折り／＼美しい女の姿に化けて、市へ買ひ物に出たり、町のお寺の説教を聽きに來たりするといつたのは、おほかた街道のすぐ脇にこの池があつた爲に、そこを往來する遠くの人までが評判にしてゐたから、かういふ話が出來たのであらうと思ひます。昔安塚の城の殿樣杢太といふ人が、市に遊びに出て、この美しい池の主を見染めました。さうして連れられてたうとう青柳の池にはひつて、戻らなかつたといふことで、この杢太殿が、また目一つであつたところから、今にこの池の魚類は一方の目に、曇りがあるといひ傳へてをります。（越後國式内神社案内。新潟縣中頸城郡櫛池村青柳）

　池の主の大蛇は、水の中にばかり住んでゐて、へび〔二字傍点〕ともまるで違つたおそろしい生き物でありました。さういふ物が實際にゐたかどうか、今ではたしかなことはもうわからなくなつてしまひました。繪などに描く人は、もちろん大(174)蛇を見たことのない者ばかりで、仕方なしにこれを大きな蛇のやうに描くので、だん／＼にさう思ふ人が多くなりましたが、この大蛇の方は水の底にゐて、すべての魚類の主君の如く考へられてをりました。片目の杢太殿が池の主に聟入りをして、自分も大蛇になつたといへば、魚類はその一門だからだん／＼かぶれて、目が一つにならうとしてゐるのだと、想像する人もあつたわけであります。

　靜岡市の北の山間にある鯨の池の主は、長さ九尺の青龍であつたといひ、または片目の大きなまだら牛であつたともいひますが、化けるのですからなんにでもなることが出來るわけです。昔水見色村の杉橋長者の一人娘が、高山の池の主にだまされて、水の底へ連れて行かれようとしたので、長者は大いに怒つて、何百人の下男人夫を指圖して、その池の中へあまたの燒け石を投げ込ませると、池の主は一眼を傷ついて、逃げて鯨の池にひき移つてしまひました。それから以後、この鯨の池の魚は、こと／”＼く片目になつたといふのは、とんだめいわくなおつき合ひであります。（安倍郡誌。靜岡縣安倍郡賤機村）

　又、池の主は領主の愛馬を引き込んだので、多くの鑄物師をよんで來て、鐵をとかして池の中へ流したともいひますが、どちらにしてもそれがちやうど一方の眼を傷つけ、更に魚仲間一同の片目のもとになつたといふのは、珍しいと思ひます。ところがかういふ話は、まだ他にも折り／＼あります。同じ安倍郡の玉川村、長光寺といふ寺の前の池でも、池の主の大蛇が村の子供を取つたので、村民が怒つて多くの石を投げ込むと、それが當つて大蛇は片目を潰し、それからは池の魚も皆片目になつてゐるといひました。

　蛇が片目といふ傳説も、また方々に殘つてゐるやうであります。例へば佐渡の金北山の一つの谷では、昔順�ｺ天皇がこの島にお出でになつた頃、この山路で蛇を御覽なされて、こんな田舍でも蛇はやつぱり目が二つあるかと、獨言に仰せられましたところが、そのお言葉に恐れ入つて、以後この谷の蛇だけはこと／”＼く片目になりました。それで今でも御蛇河内といふ地名になつてゐるのだといひます。加賀の白山の麓の大杉谷の村でも、赤瀬といふ一部落だけ(175)は、小さな蛇までが皆片目であるといつてゐます。岩屋の觀音堂の前の川に、やすなが淵といふ淵がもとはあつて、その主は片目の大蛇であつたからといふことであります。

　昔赤瀬の村に住んでゐたやす女《な》といふ者は、すがめ〔三字傍点〕のみにくい女であつて男に見捨てられ、うらんでこの淵に身を投げて主になつた。それが時折り川下の方へ降りて來ると、必ず天氣が荒れ、大水が出るといつて恐れました。やす女の家は、もと小松の町の、本蓮寺といふ寺の門徒であつたので、この寺の報恩講には今でも人に氣付かれずに、やす名が參詣して聽聞のむれの中にまじつてゐる。それだから冬の大雪の中でも、毎年この頃には水が出るのだといひ、また雨風の強い日があると、今日は赤瀬のやすなが來さうな日だともいつたさうであります。（三州奇談等。石川縣能美郡大杉谷村赤瀬）

　すがめ〔三字傍点〕のみにくい女といひ、夫に見捨てられたうらみといふことは、昔話がもとであらうと思ひます。同じ話は餘りに多く、また方々の土地に傳はつてゐるのであります。京都の近くでも宇治の村のある寺に芋を賣りに來た男が門をはひらうとすると、片目の潰れた一筋の蛇が來て、眞直になつて方丈の方へ行くのを見ました、なんだかおそろしくなつて、荷を捨てゝ近所の家に行つて休んでゐましたが、ちやうどその時に、しばらく病氣で寢てゐた寺の和尚が死んだといつて來ました。この僧も前に片目の尼を見捨てゝ、そつとこゝに來て隱れてゐたのが、たうとう見つかつて、その靈に取り殺されたのだといひました（閑田耕筆）。或はまた身寄りも何もない老僧が死んでから、いつも一疋の片目の蛇が、寺の後の松の木の下に來てわだかまつてゐる。あまり不思議なので、その下を掘つて見ると、たくさんの小判がかくして埋めてあつた。それに思ひがのこつて蛇になつて來てゐたので、その老僧がやはり片目であつたといふ類の話、かういふのは一つ話といふもので、一つの話がもとはどこへでも通用しました。中にはわざ／＼遠い所から、人が運んで來たものもありましたが、それがいかにもほんたうらしいと、後には傳説の中に加へ、または今までの傳説と結び付けて、だん／＼にわれ／＼の村の歴史を、賑かにしたのであります。人が死んでから蛇になつた、(176)または金澤の鎌倉權五郎のやうに、魂が魚になつたといふことは信じられぬことですけれども、兩方ともに左の眼がなかつたといふと、早それだけでも、もしやさうではないかと思ふ人が出來るのです。しかしそれならば別に眼と限つたことはない。またお社の前の池の鯉鮒鰻ばかりを片目だといふわけはないのであります。何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思ふわけがあつたので、それで傳説の片目の魚、片目の蛇のいひ傳へが始まり、それにいろ／＼の昔話が、後から來てくつついたものではないか。さういふことが、いま私たちの問題になつてゐるのであります。

　歴史の方でも伊達政宗のやうに、獨眼龍といはれた偉人は少くありませんが、傳説では、ことに目一つの人が尊敬せられてゐます。その中でも前にいつた山本勘助などは、武田家一番の智者であつたやうに傳へられてゐますが、これがすがめ〔三字傍点〕で、またちんば〔三字傍点〕でありました。鎌倉權五郎景政の如きも、記録には若くて軍に出て眼を射られたといふより他に、何事も殘つてはゐないのに、早くから鎌倉の御靈の社に祀られてゐました。九州ではまた方々の八幡のお社に、景政の靈が一しよにおまつりしてあるのです。

　奧羽地方の多くの村の池で、權五郎が目の傷を洗つたといふ話があるのも、もとはやはり眼を射られたといふことを、尊敬してゐたためではないかと思ひます。さうすると片目の魚といつて、他の普通の魚と差別してゐたのも、必ず何かそれと似たやうなわけがあつたので、女の一念だの、池の主のうらみだのといふのは、ちやうど池の邊の子安神に、「姥母甲斐ない」の話を持つて來たと同じことで、後に幾つもの昔話を繋ぎ合はせたものらしいのであります。

　つまり以前のわれ／＼の神樣は、目の一つある者がお好きであつた。當り前に二つ目を持つた者よりも、片目になつた者の方が、一段と神に親しく、仕へることが出來たのではないかと思はれます。片目の魚が神の魚であつたといふわけは、ごく簡單に想像して見ることが出來ます。神にお供へ申す魚は、川や湖水から捕つて來て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、當分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する爲には、一(177)方の眼を取つて置くといふことが出來るからであります。實際近頃のお社の祭りに、そんな亂暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕つて食べぬこと、食べると惡いことがあるといつたことは、さういふ古い時からの習はしがあつたからであらうと思はれるのみならず、また話にはいろ／＼殘つてをります。例へば近江の湖水の南の磯崎明神では、毎年四月八日の祭りの前の日に、網を下して二尾の鮒を捕へ、一つは神前に供へ、他の一つは片面の鱗を取つてしまつて、今一度湖に放してやると、翌年、四月七日に網にはひつて來る二尾のうち、一つは必ずこの鮒であるといひました。そんなことが出來るかどうか疑はしいが、とにかくに目じるしをつけて一年放して置くといふ話だけはあつたのです。

　また天狗樣は魚の目が好きだといふ話もありました。遠州の海に近い平地部では、夏になると水田の上に、夜分多くの火が高く低く飛びまはるのを見ることがある。それを天狗の夜とぼし〔三字傍点〕といつて、山から天狗が泥鰌を捕りに來るのだといひました。そのことがあつてからしばらくの間は、溝や小川の泥鰌に眼のないのが幾らもゐたさうで、それは天狗樣が眼の玉だけを拔いて行かれるのだといつてゐました。これと同じ話は沖繩の島にも、また奄美大島の村にもありました。沖繩ではきじむん〔四字傍点〕といふのが山の神であるが、人間と友だちになつて海に魚釣りに行くことを好む、きじむん〔四字傍点〕と同行して釣りをすると、特に多く獲物があり、しかもかれはたゞ魚の眼だけを取つて、他は持つて行かぬから、大そうつがふがよいといふ話もありました。

　また宮城縣の漁師の話だといふのは、金華山の沖でとれる鰹魚は、必ず左の眼が小さいか、潰れてゐる。これは鰹魚が南の方から金華山のお社の燈明の火を見かけて泳いで來るからで、漁師たちはこれを鰹の金華山詣りといふさうであります。必ずといつたところが、一々調べて見ることは出來るものではありません。人がさう思ふやうになつた原因は、やはり神樣は片目がお好きといふことを、知つてゐた者があつた證據だと思ひます。

　それからまた、お社の祭りの日に、魚の目を突いて片目にしたといふ話も殘つてゐます。日向の都萬神社のお池、(178)花玉川の流れには片目の鮒がゐる。大昔、木花開耶姫の神が、このお池の岸に遊んでおいでになつた時、神樣の玉の紐が水に落ちて、池の鮒の目を貫き、それから以後片目の鮒がゐるやうになつた。玉紐落と書いて、この社ではそれをふな〔二字傍点〕と讀み、鮒を神樣の親顆といふやうになつたのは、さういふ理由からであるといつてをります。（笠狹大略記。宮崎縣兒湯郡下穗北村妻）

　加賀の横山の賀茂神社に於ても、昔まだ以前の土地にこのお社があつた時に、神樣が鮒の姿になつて御手洗の川で、面白く遊んでおいでになると、にはかに風が吹いて岸の桃の實が落ちて、その鮒の眼にあたつた。それから不思議が起つて夢のお告げがあり、社を今の所へ移して來ることになつたといふいひ傳へがあります。神を鮒の姿といふのは變な話ですが、お供へ物の魚は後に神樣のお體の一部になるのですから、上げない前から尊いものと、昔の人たちは考へてゐたのであります。それがまた片目の魚を、おそれて普通の食べ物にしなかつたもとの理由であつたらうと思ひます。（明治神社誌料。石川縣河北郡高松村横山）

　昔の言葉では、かうして久しい間、神に供へた魚などを活かして置くことを、いけにへといつてをりました。神樣がます／＼あはれみ深く、また魚味をお好みにならぬやうになつて、いつ迄も片目の魚がお社の池の中に、泳ぎ遊んでゐることになつたのでありますが、魚を片目にする儀式だけは、もつと後までも行はれてゐたのではなからうかと思ひます。俎岩などといふ名前の平石が、折り／＼は神社に近い山川の岸に殘つてゐて、そこでお供へ物を調理したやうにいつてゐます。備後の魚が池といふ池では、水のほとりに大きな石が一つあつて、それを魚が石と名づけてありました。この池の魚類にも片目のものがあるといひ、村の人はひでりの年に、こゝに來て雨乞ひのお祭りをしたさうであります。（藝藩通志。廣島縣世羅郡神田村藏宗）

　阿波では福村の谷の大池の中に、周圍九十尺、水上の高さ十尺ばかりの大岩があつて、この池でも鯉鮒を始めとし、小さな雜魚までが、殘らず一眼であるといつてゐます。その岩の名を今では蛇の枕と呼び、月輸兵部殿といふ武士が、(179)昔この岩の上に遊んでゐた大蛇を射て、左の眼を射貫き、一家こと／”＼くたゝりを享けて死に絶えた。その大蛇のうらみが永く留まつて、池の魚がいつ迄も片目になつたのだといひますが、これもまた二つの話を結び合せたものだらうと思ひます。（郷土研究一編。�ｺ島縣那賀郡富岡町福村）

　大蛇といつたのは、むろんこの池の主のことで、片目の鯉鮒は、その祭のためのいけにへでありました。それとある勇士が水の神と戰つて、初めに勝ち、後に負けたといふ昔話と、混同して新しい傳説が出來たのかも知れません。しかしかういふ池の主には限らず、神々にも眼の一箇しかない方があるといふことは、非常に古くからいひ傳へてゐた物語であります。どうしてそんなことを考へ出したかはわかりませんが、少くともそれがいけにへの眼を拔いて置いたといふことゝ、深い關係があることだけはたしかであります。それだから、また目の一方の小さい人、或はすがめ〔三字傍点〕の人が、特別に神から愛せられるやうに思ふ者があつたのであります。大蛇が眼をぬいて人に與へたといふ話は、弘く國々の昔話になつて行はれてをります。その中でも肥前の温泉嶽の附近にあるものは、ことに哀れでまた兒童と關係がありますから、一つだけこゝに出して置きます。昔この山の麓のある村に、一人の狩人が住んでゐましたが、その家へ若い美しい娘が嫁に來まして、それがほんたうは大蛇でありました。赤ん坊が生れる時に、のぞいてはいけないといつたので、かへつて不審に思つてのぞいて見ますと、おそろしい大蛇がとぐろを卷いて、生れ子を抱へてゐました。それがまた女になつて出て來まして、姿を見られたからもう行かなければならなくなつた。子供が泣く時にはこの玉を嘗めさせてやつて下さいといつて、自分で右の眼を拔いて置いてお山の沼へ歸つて行きました。それを寶物のやうに大切にしてをりましたが、その評判が高くなつて殿樣に取り上げられてしまひ、赤ん坊がお腹がすいて泣き立てゝも、なめさせてやることが出來ません。こまり切つて親子の者が山へ登り、沼の岸に出て泣いてゐると、にはかに大浪がたつて片目の大蛇が現れ、くはしい話を聽いて殘つた左の方の眼の玉を拔いてくれます。喜んでそれを貰つて來て、子供を育てゝゐるうちに、その玉も殿樣に取り上げられます。もう仕方がないから身を投げて死なうと(180)思つて、また同じ沼へやつて來ますと、今度は盲の大蛇が出て來て、その話を聽いて非常に怒りました。さういふひどいことをするなら、しかへし〔四字傍点〕をしなければならぬ。二人は早くにげて何々といふ所へおいでなさい。そこでは良い乳を貰ふことが出來るからといつて、親子の者をすぐに返しました。さうしてその後でおそろしい噴火があつて、山が崩れ、田も海も埋まつたのは、この盲の大蛇の仕返しであつたといふのです（筑紫野民譚集）。遠州の有玉郷では、天龍川の大蛇を母にして生れた子が、二つの玉を貰つてそれを持つて出世をした話が、古くからあつたやうですが、眼を拔いたといふことは、そこではいはなかつたと思ひます。（遠江國風土記傳）

　何にもせよ、目が一つしかないといふことは、不思議なもの、またおそるべきものゝしるし〔三字傍点〕でありました。奧州の方では、一つまなぐ〔三字傍点〕、東京では一つ目小僧などといつて、顔の眞中に眼の一つあるお化けを、想像するやうになつたのもそのためですが、最初日本では、片目の鮒のやうに、二つある目の片方が潰れたもの、ことにわざ／＼二つの目を、一つ目にした力のもとを、おそれもし、また貴みもしてゐたのであります。だから月輪兵部が、大蛇の眼を射貫いたといふ話なども、ことによると別に今一つ前の話があつて、その後の勇士のしわざに、間違へてしまつたのではないかと思ひます。

　飛騨の萩原の町の諏訪神社では、又かういふ傳説もあります。今から三百年餘り以前に、金森家の家臣佐藤六左衛門といふ強い武士がやつて來て、主人の命令だから是非この社のある所に城を築くといつて、御神體を隣りの村へ遷さうとした。さうすると、神輿が重くなつて少しも動かず、また一つの大きな青大將が、社の前にわだかまつて、なんとしても退きません。六左衛門この體を見て大いにいきどほり、梅の折り枝を手に持つて、蛇をうつてその左の目を傷つけたら、蛇は隱れ去り、御輿は事故なく動いて、御遷宮をすませました。ところがその城の工事のまだ終らぬうちに、大阪に戰が起つて、六左衝門は出て行つて討ち死をしたので、村の人たちも喜んで城の工事を止め、再びお杜をもとの土地へ迎へました。それから後は、折り／＼社の附近で、片目の蛇を見るやうになり、村民はこれを諏訪(181)樣のお使ひといつて尊敬したのみならず、今に至るまでこの社の境内に、梅の木は一本も育たぬと信じてゐるさうであります。（益田郡誌。岐阜縣益田郡萩原町）

　この話なども佐藤六左衛門がやつて來るまでは、蛇の目は二つで、梅の木は幾らでも成長してゐたのだといふことを、たしかめることは出來ないのであります。もつと前からこの通りであつたのを忘れてしまつて、この時から始まつたやうに、考へたのかも知れません。わざ／＼梅の枝など折つて、しかもお使者の蛇の目だけを傷つけるといふことは、氣の短い勇士の佐藤氏が、しさうなことでありません。そればかりでなく、神樣が目を突いて、それからその植物を植ゑなくなつたといふ傳説は、意外なほどたくさんあります。その五つ六つをこゝに擧げて見ますと、阿波の粟田村の葛城大明神の社では、昔ある尊い御方が、この海岸に船がかりなされた折りに、社の池の鮒を釣りに、馬に乘つておでかけになつたところが、お馬の脚が藤の蔓にからまつて、馬がつまづいたので落馬なされ、男竹でお目を突いてお痛みははげしかつた。それ故に今にこの社の神には眼の病を折り、氏子の四つの部落では、池には鮒が住まず、藪には男竹が生えず、馬を置くと必ずたゝりがあるといひました。（粟の落穗。�ｺ島縣板野郡北灘村粟田）

　美濃の太田では、氏神の加茂縣主神社の神樣がお嫌ひになるといつて、五月の節句にも、もとは粽を作りませんでした。大昔、加茂樣が馬に乘つて、戰ひに行かれた時に、馬から落ちて薄の葉で眼をお突きなされた。それ故に氏子はその葉を忌んで、用ゐないのだといつてをりました。（郷土研究四編。岐阜縣加茂郡太田町）

　信州には、ことにこの話が多く傳へられてゐます。小縣郡當郷村の鎭守は、初めて京都からお入りの時に、胡瓜の蔓に引つ掛つてころんで、胡麻の莖で目をお突きなされたといふことで、全村今に胡麻を栽培しません。もしこの禁を犯す者があれば、必ず眼の病になるといつてゐます。松本市の附近でも、宮淵の勢伊多賀神社の氏子は、屋敷に決して栗の木を植ゑず、植ゑてもしその木が榮えるやうであつたら、その家は反對に衰へて行く。それは氏神が昔この地にお降りの時、いが〔二字傍点〕で目を突かれたからだといふのです。また島立村の三の宮の氏子の中にも、神樣が松の葉で目(182)を突かれたからといつて、正月に松を立てない家があります。橋場稻扱あたりでも、正月は門松の代りに、柳の木を立てゝをります。昔晴明樣といふ偉い易者が稻扱に來てゐて、門松で目を突いて大きに難儀をした。これからもし松を門に立てるやうであつたら、その家は火事にあぶぞといつたので、かうして柳を立てることにしたのださうです。（南安曇郡誌。長野縣南安曇郡安曇村）

　小谷四箇莊にも、胡麻を作らぬといふ部落は多い。氏神が目をお突きになつたといひ、または強ひて栽培する者は眼を病んで、突いたやうに痛むともいひました。中土の奉納といふ村では長芋を作らず、またぐみ〔二字傍点〕の木を植ゑません。それは村の草分けの家の先祖が、芋の蔓につまづいて、ぐみ〔二字傍点〕で眼をさしたことがあるからだといつてをります。（小谷口碑集。長野縣北安曇郡中土村）

　東上總の小高、東小高の兩部落では、昔から決して大根を栽培せぬのみならず、たま／＼路傍に自生するのを見付けても、驚いて御祈?をするくらゐでありました。他の村々でも、小高の苗字の家だけは、一樣に大根を作らなかつたといふことです。これも小高明神が大根にけつまづいて、轉んで茶の木で目を突かれたせゐだといひますが、それにしては茶の木の方を、なんともいはなかつたのが妙であります。（南總之俚俗。千葉縣夷隅郡千町村小高）

　中國地方でも、伯耆の印賀村などは、氏神樣が竹で目を突いて、一眼をお潰しなされたからといつて、今でも決して竹は植ゑません。竹の入り用があると山を越えて、出雲の方から買つて來るさうです。（郷土研究四編。鳥取縣日野郡印賀村）

　近江の笠縫の天神樣は、始めてこの村の麻畠の中へお降りなされた時、麻で目を突いてひどくお痛みなされた。それ故に行く末わが氏子たらん者は、忘れても麻は作るなといふお誡めで、今に一人としてこれにそむく者はないさうです。（北野誌。滋賀縣栗太郡笠縫村川原）

　また蒲生郡の川合といふ村では、昔この地の領主河井右近太夫といふ人が、伊勢の楠原といふ所で戰をして、麻畠(183)の中で打たれたからといふ理由で、もとは村中で麻だけは作らなかつたといふことです。（蒲生郡誌。滋賀縣蒲生郡櫻川村川合）

　關東地方に來ると、下野の小中といふ村では、黍を栽培することをいましめてをりますが、これも鎭守の人丸大明神が、まだ人間であつた時に、戰をして傷を負ひ、逃げて來てこの村の黍畠の中に隱れ、危難はのがれたが、黍のから〔二字傍点〕で片目をつぶされた。それ故に神になつて後も、この作物はお好みなされぬといふのであります。（安蘇史。栃木縣安蘇郡旗川村小中）

　この近くの村々には、戰に出て目を射られた勇士、その目の疵を洗つた清水、それから山鳥の羽の箭をきらふ話などがことに多いのですが、あまり長くなるからもう止めて、この次ぎは村の住民が、神樣のおつき合に片目になるといふ話を少しして見ます。福島縣の土湯は、吾妻山の麓にあるよい温泉で、弘法大師が杖を立てさうな所ですが、村には太子堂があつて、若き太子樣の木像を祀つてをります。昔この村の狩人が、鹿を追ひ掛けて澤の奧にはひつて行くと、ふいに草むらの間から、負つて行け／＼といふ聲がしましたので、たづねて見るとこのお像でありました。驚いてさつそく背に負うて歸つて來ようとして、途中でさゝげ〔三字傍点〕の蔓にからまつて倒れ、自分は怪我をせずに、太子樣の目を胡麻稈で突いたといふことで、今見ても木像の片目から、血が流れたやうなあとがあるさうです。さうしてこの村に生れた人は、誰でも少しばかり片目が細いといふ話がありましたが、この頃はどうなつたか私はまだきいてゐません。（信達一統誌。福島縣信夫郡土湯村）

　眼の大きさが兩方同じでない人は、思ひの外多いものですが、大抵は誰もなんとも思つてゐないのです。村によつては昔鎭守さまが隣りの村と、石合戰をして目を怪我なされたからといふことを、子供ばかりが語り傳へてゐる所もありますが、大抵はもう古い話を忘れてゐます。それでも土湯のやうに、實際さういふ御像が殘つてゐる場合だけは、間違ひながらもまだ覺えてゐられたのであります。三河の横山といふ村では、産土神の白鳥六社さまの御神體が片目(184)でありました。それ故にこの村には、どうも片目の人が多いやうだといふことであります。（三州横山話。愛知縣南設樂郡長篠村横川）

　石城の大森といふ村では、庭渡神社の御本尊は、もとは地藏樣で、非常に美しい姿の地藏樣でしたが、どういふわけか片目が小さく造られてありました。それだから大森の人は誰でも片目が小さいと、村の中でもさういつてゐるさうです。（民族一編。福島縣石城郡大浦村大森）

　それからまた村全體でなくとも、特別に關係のある、ある一家の者だけが、代々片目であつたといふ話は方々にあつて、前にいつた甲州の山本勘助の家などはその一つであります。丹波の獨鈷抛山の觀音さまは片目でありました。昔この山の頂上の觀音岩の上で、觀音が白い鳩の姿になつて遊んでござるのを、麓の柿花村の岡村といふ家の先祖が、さうとは知らずに弓で射たところが、その箭がちやうど鳩の眼に中りました。血の滴りの跡をついて行くと、それがこの御堂の奧に來て、止まつてゐたので驚きました。それからこの家では子孫代々の者が眼を病み、たま／＼兄が弓を射れば、必ず弟の眼に中るといつて、永く弓矢のわざをやめてゐたさうであります。（口丹波口碑集。京都府南桑田郡稗田野村柿花）

　羽後の男鹿半島では、北浦の山王樣の神主竹内丹後の家に、先祖七代までの間、代々片目であつたといふ傳説が殘つてゐます。この家の元祖竹内彌五郎は弓箭の達人でありました。八郎潟の主八郎權現が、冬になると戸賀の一の目潟に來て住まうとするのを、一の目潟の姫神に頼まれて、寒風山の嶺に待ち伏せをして、射てその片眼を傷つけたといふことであります。さうすると八郎神は雲の中から、その箭を投げ返して彌五郎の眼にあたつたともいひ、またはその夜の夢に現れて、七代の間は眼を半分にすると告げたともいつて、とにかくに彌五郎神主の子孫の家では、主人が必ずすがめ〔三字傍点〕であつたさうです。（雄鹿名勝誌。秋田縣南秋田郡北浦町）

　この竹内神主の家には、神の眼を射たといふ箭の根を、寶物にして持ち傳へてありました。神に敵對をした罰として、片目を失つたといふことが間違ひでなければ、かういふ記念品を保存してゐたのが變であります。神が片目の魚をお喜びになつたやうに、ほんたうは片目の神主が、お好きだつたのではなからうかと思はれます。

　野州南高岡村の鹿島神社などでは、神主岩田家の先組が、池速別皇子といふ方であつたといつてをります。この皇子は關東を御旅行の間に、病のために一方の目を損じて、それが爲に都にお歸りになることが許されなかつた。それでこの村に留まつて、神主の家をおたてになつたといふのであります。（下野神社沿革誌。栃木縣芳賀郡山前村南高岡）

　奧州の只野村は、鎌倉權五郎景政が、後三年の役の手柄によつて、拜領した領地であつたといつて、村の御靈神社には景政を祀り、その子孫だと稱する多田野家が、後々までも住んでをりましたが、こゝでも權五郎の眼を射られた因縁をもつて、村に生れた者は、いづれも一方の目が少しくすがめ〔三字傍点〕だといつてゐました。少しくすがめ〔三字傍点〕といふのは、一方の目が小さいことです。昔平清盛の父の忠盛なども、「伊勢の平氏はすがめ〔三字傍点〕なり」といつて、笑はれたといふ話がありますが、勇士には片目のごく小さい人は幾らもありました。さうして時によつてはそれを自慢にしてゐたらしいのであります。（相生集。福島縣安積郡多田野村）

　

(186)　　　　　　　機織り御前

　

　越後の山奧の大木六といふ村には、村長で神主をしてゐた細矢といふ非常な舊家があつて、その主人がまた代々すがめ〔三字傍点〕でありました。昔この家の先祖の彌右衛門といふ人が、ある夏の日に國境の山へ狩りに行つて路を踏み迷ひ、今の卷機山に登つてしまひました。この山は樹木深く茂り藥草が多く、近い頃までも神の山といつて、おそれて人のはひらぬ山でありましたが、彌右衛門はこの深山の中で、世にも美しいお姫樣の機を卷いてゐるのを見かけたのであります。驚いて立つて見ると、向うから言葉をかけて、こゝは人間が來れば歸ることの出來ぬ所であるが、その方は仕合せ者で、縁あつてわが姿を見た。それでこれから里に下つて、永く一村の鎭守として祀られようと思ふ。急いでわれを負うて山を降りて行け、さうして必ず後を見返つてはならぬといはれました。仰せの通りにして歸つて來る途中、約束に背いて思はずたゞ一度だけ、首を右へ曲げて背中の神樣を見ようとしますと、忽ちすがめ〔三字傍点〕となつてしまつて、それから以後この家へ生れる男子は、悉く一方の目が細いといふことでありました。今でもさういふことがあるかどうか、私は行つて尋ねて見たいと思つてゐます。（越後野志と温故之栞。新潟縣南魚沼郡中之島村大木六）

　大木六ではこの姫神を卷機權現ととなへて、今も引き續いて村の鎭守として祭つてゐるのでありますが、土地によつては神を里中へお迎へ申すことをせず、もとからの場所にこちらからお參りをして、拜んでゐる村がいくらもあります。さうすると參拜する時と人とが分れ分れになつて、もとからあつた傳説もだん／＼に變つて來るのであります。それで山の神樣が女であつた。小さな子を連れた姥神であつたといふことなども、後には忘れてしまつたところがず(187)ゐぶんありますけれども、どうかすると話の大切な筋途から、いつまでもそれを覺えてゐなければならぬ場合もありました。例へば靜かな谷川の淵の中で、機を織る梭の音をきくといひ、または人が行くことも出來ぬやうな峰の岩に、布をほしたのが遠く見えるといふなどはそれで、かういふ爲事は男がしませんから、その爲に山姥山姫のいひ傳へはなほ永く殘るのであります。

　殊に山姥は見たところは恐ろしいけれども、里の人には至つて親切であつて、山路に迷つてゐると送つてくれる。またをり／＼は村に降りて來て、機織り苧積みを手傳つてくれるといふ話もありました。また仕合せの好い人は、山奧にはひつて、山姥の苧つくね〔三字傍点〕といふ物を拾ふことがたまにある。その絲はいくら使つても盡きることがないともいひました。また山姥が子を育てるといふ話も、決して足柄山の金太郎ばかりではありません。

　以前はどこの國の山にも山姥がゐたらしいのですが、今はわづかしか話が殘つてをらぬのであります。さうしてその山姥ももとは水の底に機を織る神と一つであつたことは、知つてゐる者が殆となくなりました。備後の岡三《をかみ》淵は、恐ろしい淵があるから出來た村の名で、をかみ〔三字傍点〕とは大蛇のことであります。村の山の下には高さ二丈餘もある大岩が立つてゐて、その名を山姥の布晒し岩といひ、時々この岩のてつぺんには、白いものが掛かつてひらめいてゐることがあるといひました。（藝藩通志。廣島縣雙三郡作木村岡三淵）

　因幡國の山奧の村にも、非常に大袈裟な山姥の話がありました。栗谷の布晒し岩から、それと竝んだ麻尼の立て岩、箭溪の動ぎ石の三つの大岩にかけて、昔は山姥が布を張つて乾してゐたといひました。この間が二里ばかりもあります。また箭溪の村の西には、山姥の衣汁濾しと云ふ小さな谷があつて、岩の間にはいつも灰汁の色をした水がたまつてゐます。この水でその山姥が布を晒してゐたといふのであります。（因幡志。鳥取縣岩美郡元鹽見村栗谷）

　かういふ話を子供までが、大笑ひをしてきくやうになりますと、だん／＼と傳説がうそらしくなつて來て、山の崩れたところを山姥が踏ん張つた足跡だといつたり、小便をしたあとだなどといふ話も出來て來ます。土佐の韮生《みらふ》の山(188)の中などでは、岩に自然の溝が出來てゐるのを、昔山姥が麥を作つてゐた畝の跡だといひました。（南路志。高知縣香美郡上韮生村柳瀬）

　春になると子供が紙鳶をあげるのに、「山の神さん風おくれ」といふところもあれば、また「山んぼ〔二字傍点〕風おくれ」といつてゐる土地もあります。今では山姥は少年の知り人のやうに、呼びかけられてゐるのであります。或る夕方などに山の方を向いて、大きな聲で何かわめくと、直にあちらでも口まねをするのを、普通にはこだま〔三字傍点〕といひますが、これは山姥がからかふのだと思つてゐた子供がありました。こだまといふのも山の神のことですから、もとはそれを女だと想像してゐたのであります。

　山姥は少し意地惡だ。いつも子供のいやがる樣な、にくらしい口答へをよくするといつて、あまんじやく〔六字傍点〕といふ言葉が、素直でない子のあだな〔三字傍点〕のやうになつたのも、ほんたうはこの反響が始めなのであります。前に姥が池の話でいつたやうに、あまん〔三字傍点〕もおまん〔三字傍点〕も姥神さまのことであります。東京のやうな山から遠い土地でも、昔は夕燒け小燒のことを「おまんが紅」といつてをりました。天が半分ほども眞赤になるのを、どこかで山の大女が、紅を溶かしてゐるのだといつてたはむれたのであります。

　この山姥が機を織つたといふ話が、またいろ／＼の形に變つて傳はつてをります。遠州の秋葉の山奧では、山姥が三人の子を生んで、その三人の子がそれ／”＼大きな山の主になつてゐるといひ、その山姥がまた里近くへ來て、水のほとりで機を織つてゐたといひました。秋葉山のお社から少し後の方に、深い井戸があります。この山にはもと良い清水がなかつたのを、千年餘り前に神主が神に祈つて、始めて授かつた井戸だといふことで、この泉の名を機織の井といふのは、その後奧山に山姥が久良支山から出て來て、このかたはらに住んで神樣の衣を織り、それを獻納していつたから、この名になつたのだといふさうです。さういふいひ傳へのある井戸は、まだこの近邊の村にも二つも三つもあります。（秋葉土産。靜岡縣周智郡犬居村領家）

(189_)　秋葉の山の神は俗に三尺坊さまと稱へて、今でも火難を防ぐ神として拜んでゐるのは、おほかたこの貴い泉を、支配する神であつたからであらうと思ひます。山姥とこの三尺坊樣とは、一通りならぬ深い關係があつたので、そのお衣を山の姥が來て織つたといふのも、それ相應な理由のあることでした。相州箱根の口の風祭といふ村は、後に築地へ持つて來た咳の姥の石像のあつたところですが、その近くにも大登山秋葉寺といふ寺があつて、いつの頃からか三尺坊を迎へて祀つてゐます。この寺にも一夜にわき出したといふ清水があり、水の底には二つの玉が納めてあるともいつて、雨乞ひの祭りをそこでしました。三百五十年ほど前に、こゝへも一人の姥が來て布を織つたことがあるので、井戸の名を機織りの井と呼びました。その布に五百文の錢を添へて寺におくり、姥はいづれへか行つてしまひました。その錢は永くこの寺の寶物となつてのこり、布は和尚が死ぬときに着て行つたといふことであります。（相中襍志。神奈川縣足柄下郡大窪村風祭）

　今でも姥神は常に機を織つてをられるが、それを人間の目には普通は見ることが出來ぬのだといふところがあります。信州の松本附近では、人が病氣になつて神降しといふ者に考へてもらふと、水神のたゝりだといふ場合が多いさうであります、水神樣が水の上に五色の絲を綜て、機を織つて遊んでゐられるのを、知らずに飛び込んでその絲を切つたり汚したりすると、腹を立てゝたゝりなさるのだと、想像してゐる人があつたのであります。それが爲に時々は小さな流れの岸などに、御幣を立て五色の絲を張つて祭つてあるのを、見かけることがあつたといふ話です。（郷土研究二編）

　戸隱しの山の麓の裾花川の岸には、機織り石といふ大きな岩があつて、その脇には梭石《ひいし》、筬石《をさいし》、※［縢の糸が木］石《ちぎりいし》などと、いろ／＼機道具に似た形の石がありました。雨が降らうとする前の頃は、この石のあたりでから／＼といふ音がするのを、神樣が機をお織りになるといつたさうで、この音がきこえるとどんな晴れた日も曇り、二三日のうちには必ず降り出すといつたのは、恐らくもとこゝで雨乞ひをしてゐたからでありませう。（信濃奇勝録。長野縣上水内郡鬼無里村岩下）

(190)　木曾の野婦池といふのもひでりの年に、村の人が雨乞ひに行く池でありました。この池では時をり山姥が水の上で、機を織つてをるのを見た者があるといひました。この山姥はもと大原といふ村の百姓の女房であつたのが、髪が逆立ち角が生えて、しまひに家を飛び出して山姥になつたといひます。或はまた突いてゐた柳の杖を池の岸にさして置いて、水の中へはひつてしまつたといふ話もあつて、そのあたりに柳の木がたくさんに茂つてゐるのを、山姥の杖が芽を出して大きくなつたものだともいつてゐました。（木曾路名所圖會。長野縣西筑摩郡日義村宮殿）

　水の底から機を織る音がきこえて來るといふ傳説なども、土地によつて少しづつは話し方が變つてゐますが、探して見るとそちこちの大きな川や沼に、同じやうないひ傳へがあります。羽後の湯の臺の白糸澤では、水の神樣が常に機を織つてをられるので、夜分周圍が靜かになれば、いつでも梭の音がこの淵の方からきこえるといひました。（雪之飽田根。秋田縣北秋田郡阿仁合町）

　飛騨の門和佐川の龍宮が淵といふところでは、昔は龍宮の乙姫の機織る音が、たび／＼水の底からきこえてゐたものであつた。それがある時一人のいたづら〔四字傍点〕者があつて、馬の鞦をこの淵へはふり込んで以來、ばつたりその昔をきくことが出來なくなつたといひます。神代の天の岩屋戸の物語にも、似通うた所のある話であります。（益田郡誌。岐阜縣益田郡上原村門和佐）

　昔は村々のお祭りでも、毎年新たに神樣の衣服を造つてお供へ申してゐたやうであります。その爲には最も穢を忌んで、かういふやゝ人里を離れた清き泉のほとりに、機殿といふものを建てゝ若い娘たちに、その大切な布を織らせてゐたかと思ひます。その風がだん／＼にやんで、後には神のお附きの女神が、その役目をなさるやうに考へて來ました。そのわけももうわからなくなつて、しまひには龍宮の乙姫樣などといふことになりましたけれども、こゝできこえる機の音は龍宮のものでなく、最初から土地の神樣の御用でありました。ちやうど片目の魚が生け牲のうちからおそれ敬はれたやうに、後々神の御身につく布である故に、その機の音のするところへは、たゞの人の布を織る者は、(191)はゞかつて近よらぬやうにしてゐたのであります。舊五月一と月の間は、たゞの女は機を織つてはならぬといふいましめ〔四字傍点〕があり、これを犯す者が嚴しく罰せられる村は今でもあります。

　安藝の嚴島などは、島の神が姫神であつた爲か、昔は島の内で機を立てることが常に禁じられてありました（棚守房顯手記）。また機道具をもつてある池の側を通つた女が、落ちて死んだといふ話が他の村々に多いのも、その爲かと思ひます。

　若狹の國吉山の麓の機織り池なども、今はすつかり水田になつてしまひましたが、前には水の中から機織る音がきこえるといひました。まだこの池が大池であつた頃、一人の女が機の道具を持つて、池の氷の上を渡らうとしたところが、氷が割れて水にはひつて死んだ。機織姫神社といふのは、その女の靈を祀つたのだといつてゐますが、それは多分思ひ違ひで、この姫神の社もある程の池だから、こんな恐ろしい話が出來たのであらうと思ひます。（若狹郡縣志。福井縣三方郡山東村阪尻）

　それよりも更に物すごい話が、近江の比夜叉の池にあります。もとはこの池には水が少くて、どうすればよいかと占ひを立てゝ見ると、一人の女を生きながら池の底に埋めて、水の神に祀るならば、きつと水が持つといふことでありました。その時に領主の佐々木秀茂の乳母比夜叉御前が、自ら進んでこの人柱に立ち、持つてゐた機の道具とともに、水の下に埋められました。それからは果していつも水が池一杯あるので、今でも比夜叉女水神と稱へて信仰せられてゐます。さうして眞夜中にこの池の脇を通る人は、いつも水の底から機を織る音をきいたといふことであります。（近江輿地志略。滋賀縣阪田郡大原村池下）

　乳母がわざ／＼機道具を持つて、池の底にはひつて行つたといふ點は、今一つ前からの話の殘りであらうと思ひます。比夜叉といふ池の名も、もとはおそろしい池の主がゐた爲らしいのですが、美濃の夜叉池の方でも、やはりそれを大蛇に嫁入りした長者の愛娘の名であつたやうにいつてゐます。即ちかういふ傳説は昔話になり易いのです。昔話(192)の最も面白い部分を、持つて來て結びつけられ易いのであります。

　上總の雄蛇の池などでも、若い嫁が姑ににくまれ、機の織り方が氣に入らぬといつていぢめられた。それで困つてこの池に身を投げたといふ話になつてゐますが、雨の降る日には水の底から、今でも梭の音がするといふ部分は傳説であります。もとはこの話は必ずもう少し池の雄蛇と關係が深かつたのだらうと思ひます。（南總乃俚俗。千葉縣山武郡大和村山口）

　しかしその昔話の方でも、もし傳説といふものがなかつたら、かうは面白くは發展しなかつたのであります。一つの例をいふと、土佐の地頭分川の下流、行川といふ村には深い淵があつて、その岸には一つの大岩がありました。昔ある人がこの岩の下にはひつて見ると、淵の底に穴があつてその奧の方で、美しい女が綾を織つてゐるのを見たといふ傳説があります。（土佐州郡志。高知縣士佐郡十六村行川）

　この傳説は殊に弘く全國に行き渡つてありますが、大抵はこれに伴つて氣味の惡い、または愉快な話が語り傳へられてゐるのであります。

　羽後の小安の不動瀧の瀧壺では、昔あるきこりが山刀をこの淵に落し、水にはひつてこれをさがしまはつてゐると、忽ち明るい美しい里に出た。御殿があつて、その中には綺麗な女の人がゐました。山刀はこゝにあるといつてこの男に渡し、二度と再びこんなところへは來るな。あの鼾の聲をきゝなさい。あれは私の夫の龍神の寢息だ。私は仙臺の殿樣の娘だが、龍神に取られてもう逃げ出すことが出來ぬといつたといふ話。これには女が機を織つてゐたといふ點が、早すでに落ちてをります。（趣味の傳説。秋田縣雄勝郡小安）

　ところが私のきいた陸中原臺の淵の話では、長者の娘は水の底に一人で機を織つてをり、鉈はちやんとその機の臺木に、もたせ掛けてあつたといふことで、さうしてうちの親たちに心配をするなといふ傳言をしたといふのです。（遠野物語。岩手縣下閉伊郡小國村）

(193)　更に岩代二本松の町の近く鹽澤村の機織御前の話などは、また少しばかり變つてゐます。昔ある人が川の流れに出て鍬を洗つてゐて、あやまつてそれを水中に取り落した。水底にはひつてさがしまはつてゐるうちに、たうとう龍宮まで來てしまひました。龍宮では美しいお姫樣がたゞ一人、機を織つてゐたといひます。久しく待つてゐたところへようこそおいでといつて、大そうなおとり持ちでありましたが、家のことが氣になるので、三日めに暇乞ひをして、腰元に路まで送つてもらつて、もとの村に歸つて來ました。さうすると三日と思つたのがもう二十五年であつた。それから記念の爲に、この機織御前のお社を建てたといふ話であります。たゞしそれにもまた別のいひ傳へはあるので、私はそのことを次ぎにお話して、もうおしまひにします。（相生集。福島縣安達郡鹽澤村）

　機織御前を織物業の元祖の神として、祀つてゐる地方は多いのであります。その一つは能登の能登比�盗_社、この神樣は始めて能登國に御兄の神と共にお下りなされ、神樣の御衣服を作つて後に、その機道具を海中にお投げになつたのが、今は織具島といふ島になつて、富木浦の沖にある。この地方の織物業者が、稗の粥を機絲にぬるのは、もと姫神樣のお教へであつたといつて、今でも四月二十一日の祭禮に、稗粥を造つてお供へすることになつてゐるさうです。（明治神社誌料。石川縣鹿島郡能登部村）

　野州の那須では那須絹の元祖として、綾織池のかたはらに綾織神社を祭つてをります。大昔、館野長者といふ人が娘の綾姫の爲に、綾織大明神を迎へに來たといふのが、今の歴史でありますが、その前には驚くやうな一つの奇談がありました。この池は今から二百五十年前の山崩れに埋まつて、小さなものになつてしまつたが、もとは有名な大池であつた。その頃に池の主が美しい女に化けて、都に上つてある人の妻となり、綾を織つて追ひ／＼に家富み、後には立派な長者になつた。ある時この女房が晝寢をしてゐるのを、、夫が來て見ると大きなる蜘蛛であつた。それを騷いだので一首の歌を殘して、蜘蛛の女房は逃げて歸つた。さうしてこんな歌を殘して行つたといふのであります。

　　　戀しくはたづねて來れ下野の那須のことやの綾織りのいけ

(194)それで夫が、跡を追うて尋ねて來て、再びこの池のほとりで面會したといふ話もあります。歌はこの地方の臼ひき歌になつて永く傳はつてゐたといひますから、これもまた那須地方の傳説であつたのです。（下野風土記。栃木縣那須郡黒羽町北瀧字御手谷）

　この歌が安倍晴明の母だといふ葛の葉の狐の話と、同じものだといふことは誰にも分りますが、那須の方は子供のことをいつてをりません。ところが、歌の文句にある那須のことや〔三字傍点〕といふのが、もしこのお社のある御手谷《ごてや》のことであるならば、福島地方の絹の神樣、小手姫御前はもとは一つであらうと思ひますが、こちらには親子の話があるのであります。小手姫樣は今の飯阪の温泉の近く、大清水の村に祀つてあるのが最も有名で、土地では機織御前の宮といつてをります。いろ／＼のいひ傳へがあつて、少しも一致しませんが、今でもよく知られてゐるのは、羽黒山の神樣蜂子の王子の御母君であつて、王子のあとを慕つてこの國へお下りなされ、年七十になるまで各地をあるいて、蠶を養ひ絹を織ることを人民に教へ、後に、この大清水の池に身を投げて死なれたといふのであります。それはとにかくに、社の前には左右の小池があつて水至つて清く、今も村々の人は絹を織れば、その織り留めをこの御宮に獻納するといふことであります。（信達二郡村誌。福島縣伊達郡飯阪町大清水）

　この小手姫の小手といふ語には、何か婦人の技藝といふ意味が、あつたのではないかと思ひますが、今の小手川村の内には、また布川といふ部落もあつて、小手姫がこゝの川原に出て、自ら織るところの布を晒したともいつてゐます。すなはち布を織る姥の信仰の方が、却つてこの地方に絹織物の始まりよりは古かつたやうであります。さうすると小手姫を蜂子王子の御母といひ始めた理由も、幾分か明かになります。すなはち王子の御衣服を調製する役として、早くから共々に祀つてゐたのが、後に綿工業が盛んになつて、獨立してその機織御前だけを、拜むやうになつたとも見えるのであります。前に申した二本松の機織御前なども、領主の畠山高國といふ人が、この地に狩をした時、天から降つた織姫に出あつて、結婚して松若丸といふ子が生れた。その松若丸の七歳の時に、母の織姫は再び天に歸り、(195)後にこの社を建てゝ、祀ることになつたと、土地の人たちはいつてゐたさうで（相生集）、話はまた那須の綾織池の方とも、少しばかり近くなつて來るのであります。かういふ風に考へて來ると、機を織る姫神を清水のかたはらにおいて拜んだのも、もとは若い男神に、毎年新しい神衣を差し上げたい爲であつて、どこまで行つても御姥子樣の信仰は、岸の柳のやうに一つの傳説の流れの筋を、われ／＼に示してゐるのであります。

　

(196)　　　　　　　御箸成長

　

　御箸を地面にさして置いたら、だん／＼大きくなつて、大木になつたといふ話が方々にあります。

　東京では向島の吾妻神社の脇にある相生の楠もその一つで、根本から四尺ほどの所が二股に分れてゐますが、始めは二本の木であつたものと思はれます。社のいひ傳へでは、昔、日本武尊がこゝで弟橘姫をお祭りになつた時、お供へ物についた楠のお箸を取つて土の上に立て、末代天下泰平ならば、この箸二本とも茂り榮えよと仰せられました。さうすると果してその箸に根がついて、後にはこんな大きな木になつたといふのであります。この楠の枝を四角にけづつたものを、今でも産をする人がいたゞいて行くさうです。それをお箸にして食事をしてゐれば、必ずお産が輕いと信じた人が多く、またこの木の葉を煎じて飲むと、疫病をのがれるともいつてをりました。（江戸志以下。土俗談語等）

　また淺草の觀音堂の後にある大公孫樹は、源頼朝がさして行つたお箸から、芽を出して成長したものだといふいひ傳へもありました。（大日本老樹名木誌。東京市淺草公園）

　頼朝のお箸の木は、これ以外にも、まだ關東地方には、そちこちに殘つてをります。

　武藏ではまた土呂の神明樣の社の脇の大杉が、漁義經の御箸であつたと申します。義經は蝦夷地へ渡つて行く以前に、一度この村を通つて、こゝに來て休憩したことがあるのださうです、さうして靜かな見沼の風景を眺めながら晝の食事をしたといふのであります。その時に箸を地にさして行つたのが、芽を生じて今の大杉になつたといつてをり(197)ます。（大日本老樹名木誌。碕玉縣北足立郡大砂土村）

　武藏の入間郡には椿峯といふ所が二箇所あります。その一つは、御國の椿峯で、高さ四五尺の塚の上に、古い椿の木が二本あります。これは昔新田義貞が、この地に陣取つて食事をした時に、お箸に使つた椿の小枝をさして置いたのが、後にこの樣に成育したといひ傳へてをります。（入間郡誌。埼玉縣入間郡山口村）

　いま一つは山口の北隣りの北野といふ村の椿峯で、これは新田義興が、椿の枝を箸にして、こゝで食事をしたやうにいつてをりますが、ちやうど村境の山の中に、雙方がごく近くにあるのですから、もとは一つの話を二つにわけていひ傳へたものであります。（同書。同郡小手指村北野）

　それからいま一つ外秩父の吾野村、子の權現山の登り口に、飯森杉といふ二本の老木があります。これは子の聖といふ有名な上人が、初めてこの山に登つた時に、こゝで休んで、晝餉に用ゐた杉筈を地にさして行つたと傳へてをります。かういふふうに人はいろ／＼に變つても、いつもお晝の食事をした場所といふことになつてゐるのは、何か理由のあることでなければなりません。（老樹名木誌。埼玉縣秩父郡吾野村大字南）

　甲州では、東山梨の小屋舗といふ村に、また一つ日本武尊の御箸杉といふ木がありました。それは松尾神社の境内で、熊野權現の祠の後にある大木でありました。日本武尊の御遺跡といふ所は、山梨縣にはまだ方々にありますが、いづれも詳しいことは傳はつてをりません。（甲斐國誌。山梨縣東山梨郡松里村）

　そこから餘り遠くない等々力村の萬福寺といふ寺にも、親鸞上人の御箸杉といふ大木が二本あつて、それ故に、また杉の御坊とも呼んでをりましたが、二百年以上も前の火事に、その一本は燒け、殘りの一本も後に枯れてしまひました。昔、親鸞がこの寺に來て滯在しいよ／＼歸らうといふ日に、出立の膳の箸を取つて、御堂の庭にさしました。阿彌陀如來の大慈大悲には、枯れた木も花が咲く。われ／＼凡夫もそのお救ひに洩れぬ證據は、この通りといつてさして行きましたが、果たせるかな、幾日もたゝぬうちに、その箸次第に根をさし芽を吹いて、いつしか大木と茂り秀(198)でたといふのであります。（和漢三才圖會以下。東山梨郡等々力村）

　關東では東上總の布施といふ村の道の傍にも、幾抱へもある老木の杉が二本あつて、その地を二本杉と呼んでをりました。これはまた、昔源頼朝が、こゝを通つて安房の方へ行かうとする際に、村の人たちが出て來て、將軍に晝の飯をすゝめました。箸には杉の小枝を折つて用ゐたのを、記念の爲にその跡にさし、それが生えついて、この大木となつたといつて、そこも新田義貞の椿峯と同樣に、小さい塚になつてゐたと申します。（房總志料。千葉縣夷隅郡布施村）

　なほこれから四里ばかり西に當つて、市原郡の平藏といふ村の二本杉にも、同じく頼朝公が御箸をさして行かれたといふ傳説が殘つてをりました。いつも頼朝であり、また箸であることは、よほど珍しい話といはねばなりません。（房總志料續編。千葉縣市原郡平三村）

　上總では、また頼朝公の御箸は、薄の莖をもつて作り、食事の後にそれをさして置いたらついたので、今でも六月二十七日の新箸といふ祭り日には、薄を折つて箸にするといひ傳へてゐる村があります。（南總の俚俗。千葉縣長生郡高根本郷村宮成）

　越後などでは、七月二十七日を青箸の日と名づけて、必ず青萱の穗先を箸に切つて、その日の朝の食事をする村が多かつたさうです。そのいはれは、昔川中島合戰の時に、上杉謙信が諏訪明神に祈つて、武運思ひの通りであつた故に、その後永く諏訪の大祭りの七月二十七日の朝だけは、神のお喜びなされる萱の穗を、箸に用ゐることにしたのだといつてをるのであります。（温故之栞卷二十）

　或はまた頼朝は葭を折つて、箸に用ゐたとも傳へてをります。上總の疊が池は、八段歩に近い大池でありますが、一本も葭といふものが生えません。それは昔頼朝公が、この池の岸で晝の辨當を使ひ、葭を折つて箸にしたところが、あやまつて唇を傷つけました。それで腹を立てゝ葭の箸を池に投げ込んだので、今でもこの池には葭が育たぬのだと(199)いつてをります。（上總國誌稿。千葉縣君津郡清川村）

　下總では、印旛郡新橋の葦が作といふ所に、これは頼朝の御家人であつた千葉介常胤の箸が、成長したといふ葦原があります。やはりこの池を通行して晝の食事をするのに、葦を折つて箸に使ひ、後でそれを地面にさして行くと、その箸に根を生じて、追々に茂つたといひ、元が箸だから今でも必ず二本づつ竝んで生えるのだと傳へてをりました。（印旛郡誌。千葉縣印旛郡富里村新橋）

　安房の洲崎の養老寺といふ寺の庭には、やはり頼朝公の晝飯の箸が成長したと稱して、清水の傍に薄の株がありますが、これは前の話とは反對に、毎年たゞ一本だけしか莖が立たぬので、一本薄の名をもつて知られてをりました。尾花は普通には何本も一しよに出ますから、何か特別の理由がなくてはならぬといふふうに、考へられてゐたものと思はれます。（安房志。千葉縣安房郡西岬村）

　葦と薄の箸の話は、もうこの他には聞いてをりません。東北地方では、陸中横川目の笠松があります。黒澤尻から横手に行く鐵道の近くで、汽車の中からよく見える松です。これは親鸞上人の御弟子の信秋といふ人が、やはり甲州の萬福寺の話と同じ樣に、佛法のたつといことを土地の人たちに示すために、食事の箸に使つた松の小枝を二本、地面にさして行つたのが大きくなつたのだといはれてをります。（老樹名木誌。岩手縣和賀郡横川目村）

　それからまた、越後に來て、北蒲原郡分田村の都婆《つば》の松が、これまた親鸞上人の晝飯の箸でありました。この松は女の姿になつて京都に行き、松女と名乘つて本願寺の普請の手傳ひをしたといふので、非常に有名になつてゐる松であります。（郷土研究一編。新潟縣北蒲原郡分田村）

　能登の上戸の高照寺といふ寺の前に、古くは能登の一本木ともいはれた大木の杉がありました。これは八百年も長命をしたといふ若狹の白比丘尼の、晝餉の箸でありました。白比丘尼は、ある時限の病にかゝつて、この寺の藥師如來に、百日の間願かけをしました。さうして信心のしるし〔三字傍点〕に、杉の箸を地に立てたともいつてをります。この尼は箸(200)ばかりでなく、諸國をめぐつて杖や椿の小枝をさし、それが皆今は大木になつてゐるのであります。（能登國名跡志以下。石川縣珠洲郡上戸村寺社）

　加賀では白山の麓の大道谷の峠の頂上に、また二本杉と呼ばるゝ大木があつて、これは有名なる泰澄大師が、晝飯に用ゐた箸を地にさしたといつてをります。こゝはちやうど越前と加賀との國境で、峠の向うは越前の北谷、この邊にも色々と泰澄大師の故跡があります。（能美郡誌。石川縣能美郡白峰村）

　越前では丹生郡の越知山といふのが、泰澄大師の開いた名山の一つであります。泰澄はこの山に住んで、食べ物のなくなつた時に、筈を地上にさしたのが成長したといつて、大きな檜が今でも二本あります。くはしい話はわかりませぬが、これも信心の力で、やがて食べ物が得られたといふのであらうと思ひます。（郷土研究一編）

　近江國では、聖�ｺ太子が百濟寺をお建てなされた時に、この寺もし永代に繁昌すべくばこの箸成長して、春秋の彼岸に花咲けよと祝して、おさしなされたといふ供御の御箸が、木になつて二本とも殘つてをります。土地の名を南花澤、北花澤、その木を花の木といつてをります。楓の一種ですが、花が美しく、また餘りたくさんにはない木なので、この頃は非常に注意せられるやうになりました。しかし美濃三河の山中などにも、たまに大木を見かけることがあつて、大抵はあるたふとい旅人が、箸を立てたといふ傳説を伴うてゐるさうであります。（近江國與地誌略以下。滋賀縣愛知郡東押立村）

　この地方では今一つ、更に驚くべき御箸の杉が、犬上郡の杉阪といふ所にあります。大昔天照大神が、多賀神社の地に御降りなされた時に、杉の箸をもつて晝飯を召し上り、それをお棄てなされたのが榮えたと傳へて、境の山に大木になつて今でもあります。（老樹名木誌。滋賀縣犬上郡脇ヶ畑村杉）

　聖�ｺ太子の御箸の木は、大阪にももとは一本ありました。玉造の稻荷神社の地を栗岡山、または栗山といつたのは、その傳説があつた爲で、こゝでは栗の木をけづつたお箸であつたといつてをります。太子が物部守屋とお戰ひなされ(201)た時に、このいくさ勝利を得べきならば、この栗の木、今夜のうちに枝葉出づべしといつて、おさしなされたお食事の箸が、果して翌朝は茂つた木になつてゐたと傳へられます。もちろん普通にはあり得ないことばかりですが、それだから太子の御勝利は、人間の力でなかつたといふふうに、以前の人は解釋してゐたのであります。（芦分船。明治神社誌料）

　美作大井莊の二つ柳の傳説などは、至つて近い頃の出來事のやうに信じられてをりました。ある時出雲國から一人の巡禮がやつて來て、こゝの觀音堂に參詣をして、路のかたはらで食事をしました。この男は足を痛めてゐたので、これから先の永い旅行が無事に續けて行かれるかどうか、非常に心細く思ひまして、箸に使つた柳の小枝を地上にさして、道中安全を觀音に祈りました。さうして旅をしてゐるうちに、だん／＼と足の病氣もよくなり、諸所の巡拜を殘る所もなくすませました。何年か後の春の暮れに、再びこの川のほとりを通つて氣をつけて見ると、以前さして置いた箸の小枝は、既に成長して青々たる二本の柳となつてゐました。そこで二つ柳といふ地名が始まつたと傳へてをります。二百年前の大水にその柳は流れて、後に代りの木を植ゑついだといふのが、それもまた大木になつてゐたといふことであります。（作陽誌。岡山縣久米郡大倭村南方中）

　四國で二つあるお箸杉の傳説だけは、もう今日では晝の食事といふことをいつてをりません。その一つは阿波の芝村の不動の神杉といふもの、二本の大木が地面から二丈ほどの所で、三間四方もある大きな巖石を支へてをります。昔弘法大師が、この地を通つて、大きな岩の落ちかゝつてゐるのを見て、これはあぶないといつて、二本の杉箸を立てゝ去つた。それが芽をふき成長して、大丈夫な大きな樹になつたのだと傳へてをります。（�ｺ島縣老樹名木誌。�ｺ島縣海部郡川西村芝）

　伊豫の飯岡村の王至森寺にあるものに至つては、なん人の箸であつたかといふことも不明になりましたが、それでも杉の木の名は眞名橋杉、まなばし〔四字傍点〕とは御箸のことであります。八十年餘り前に、この木を伐つてしまつたところが、(202)村に色々の惡いことが續きました。或は眞名橋杉を伐つたためではなからうかといつて、新たに今ある木を植ゑて、古い名を相續させ、それを木の神として尊敬してをります。（老樹名木誌。愛媛縣新居郡飯岡村）

　九州には、またこんな昔話のやうな傳説が殘つてをります。昔肥前の松浦領と伊萬里領と、領分境をきめようとした時に、松浦の波多三河守は、伊萬里兵部大夫と約束して、雙方から夜明けの鷄の聲をきいて馬を乘り出し、途中行き逢うた所を領分の堺に立てようといふことになりました。ところがその夜、岸嶽の鷄が宵鳴きをしたので、松浦の使者は早く出發し、隣りの領の白野なた落といふ所に來て、始めて伊萬里の使者に行き逢ひました。これではあまりに片方へ寄り過ぎるといふので、伊萬里方から頼んで、十三塚といふ所まで引き下つてもらつて、その野原で馬から下りて、酒盛り食事をしました。その時用ゐたのは栗の木の箸でしたが、それを記念のために、その場所に挿して歸つて來ますと、後に箸から芽を出して、そこに栗の木が茂りました。不思議なことには毎年花が咲くばかりで、實はならなかつたといひ傳へてをります。（松浦昔鑑）

　これと同じ樣な話は氣をつけてゐると、まだいくらでも知つてゐる人が出て來ます。以前はほんたうにそんなことがあつたと思つてゐた者が多かつたので、永い間皆が覺えてゐたのであります。里でも山の中でも村の境でも、神のお祭りをする大切な場所には、必ず何か變つた木が伐り殘してありました。それが近江の花の木の如く、種類の非常に珍しいものもあれば、また向島の相生の樟のやうに、枝振りや幹の形の目につくものもありましたが、最も普通には、同じ年齡の同じ木を二本だけ竝べて殘したのであります。さうして置けば、すぐに偶然のものでないことが後の人にもわかつたのであります。

　さうして一方にはお祭りの折りに限つて、木の串または木の枝を土にさす習慣がありました。同時にまた新しい箸をけづつて、祭りの食事を神と共にする習慣もありました。箸は決して成長して大木となることの出來るものではありませんが、大昔ならば、また神樣の力ならば、そんなことがあつても不思議でないと思つたのです。それもたゞの(203)人には、たうてい望まれぬことである故に、かつて最も優れた人の來た場合、もしくは非常の大事件に伴うて、さういふ出來事があつたやうに、想像する者が多くなりました。しかし實際はそれよりもなほ以前から、やはりこれは大昔の話として、語り傳へてゐたものであつたらうと思ひます。

　

(204)　　　　　　　行逢阪

　

　境は、最初神々が御定めになつたやうに、考へてゐた人が多かつたのであります。人はいつまでも境を爭はうとしますが、神樣には早く約束が出來てゐて、そのしるしにはたいてい、境の木、または大きな岩がありました。大和と伊勢の境にある高見山の周圍では、奈良の春日樣と伊勢の大神宮樣とが、御相談の上で國境をおきめなされたといつてをります。春日樣は餘り大和の領分が狹いので、いま少し、いま少しとのぞまれて果てしがない。いつそのこと出逢ひ裁面として、境をつけ直さうといふことになりました。裁面はさいめ〔三字傍点〕、すなはち堺のことで雙方から進んで來て、出あうた所を境にしようといふわけであります。そこで春日の神樣は鹿に乘つてお立ちになる。伊勢は必ず御神馬に乘つて、かけて來られるに相違ないから、これはなんでもよほど早く出かけぬと負けるといつて、夜の明けぬうちに出發なされました。そのために却つて春日樣の方が早く伊勢領にはひつて、宮前村のめづらし峠の上で、伊勢の神樣とお出あひになりました。おゝ春日はん珍しいと聲をおかけになつた故に、めづらし峠といふ名前が出來ました。こゝを國境にしては餘りに伊勢の分が狹くなるので、今度は大神宮樣の方からお頼みがあり、笹舟を作つて水に浮かべて、その舟のついた所を境にしようといふことになりました。

　その頃はまだこの邊は一面の水で、その水が靜かで、笹舟は少しも流れません。それで伊勢の神樣は一つの石を取つて、これは男石といつて水の中に投げこまれますと、舟はたゞようて今の舟戸村にとまり、水は高見の嶺を過ぎて大和の方へ少し流れました。それを見て伊勢の大神が、舟は舟戸、水は過ぎたにと仰せられたので、伊勢の側には舟(205)戸村があり、大和の方には杉谷の村があります。二村共に神樣のお付けになつた古い名だといつてをります。その男石は今もめづらし峠の山中にあつて、新道を通つても遠くからよく見えます。村の家に子供の生れようとする者が、今でもこの石を目がけて小石を打ちつけて、生れる子が男か女かと占ひます。男が生れる時には、必ずその小石が男石に當るといつてをります。三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました。伊勢の神樣が神馬に乘り、榊の枝を鞭にしておいでになつたのを、ちよつと地に挿して置かれたものが、そのまゝ成長して大木になつた。それ故に枝はこと／”＼く下の方を向いて伸びてゐたといひました。この木をさかき〔三字傍点〕といふのも、逆木の意味で、こゝが始まりであつたと土地の人はいつてをります。（郷土研究二編。三重縣飯南郡宮前村）

　大和と熊野との境においても、これと近い話が傳はつてをるさうであります。春日樣は、熊野の神樣と約束をして、やはり肥前の松浦人と同じやうに、行き逢ひ裁面として領分境をきめようとせられました。熊野は烏に乘つて一飛びに飛んで來られるから、おそくなつては負けると思つて、まだ夜の明けぬうちに春日樣は、鹿に乘つて急いでおでかけになると、熊野の神樣の方では油斷をして、まだ家の内に休んでをられました。約束通りにすると、軒の下まで大和の領分にしなければならぬのですが、それでは困るので無理に春日樣に頼んで、熊野の烏の一飛び分だけ、地面を返してお貰ひになりました。それ故に、今でも奈良縣は南の方へ廣く、熊野は堺までがごく近いのだといひますのは、まるで兎と龜との昔話のやうであります。

　これとよく似たいひ傳へが、また信州にもありました。信州では、諏訪大明神が國堺を御きめなされるために、安曇郡を通つて越後の強清水といふ所まで行かれますと、そこへ越後の彌彦權現がお出向きになつて、こゝまで信濃にはひられては、あまり越後が狹くなるから、いま少し上の方を堺にしようといふ御相談になり、白池といふ所までもどつて堺を立てられました。それから西へ廻つて越中の立山權現、加賀の白山權現ともお出あひなされて、つがふ三箇所の境がきまり、それから後は七年に一度づつ、諏訪から内鎌といふものが來て、堺目にしるしを立てたといふこ(206)とであります。（信府統記）

　同じ話を、また次のやうに話してゐる人もあります。昔國境を定める時に、諏訪樣は牛に乘り、越後樣は馬に乘つて、途中ゆきあうた所を境にしようといふお約束がきまつて、越後樣は馬の足は早いから、あまり行き過ぎても失禮だと思つて、夜が明けて後にゆつくりとお出かけになる。諏訪樣の方では、牛は鈍いからと、夜中にたつて大急ぎでやつて來られたので、先に越後分の塞の神といふ所まで來て、そこでやつと越後樣の馬と出あはれた。これは來過ぎたわいと、少し引き返して出直して行かれたといふ所を、諏訪の平といふのださうであります。（小谷口碑集。新潟縣西頸城郡根知村）

　昔はかういふふうに、國の境を遠くと近くと、二所にきめて置く習慣があつたらしいのであります。さうすればなるほど喧嘩をすることが、少くて濟んだわけであります。豐後と日向との境の山路などでも、嶺から少し下つて、雙方に大きなしるしの杉の木がありました。さうして豐後領に寄つた方を日向の木、これと反對に日向の側にある方の杉を、豐後の木といつてをりました。百年ほど前にその豐後の木が枯れたので、伐つて見ますと、太い幹からたくさんの錆びた鏃が出ました。これは矢立の杉ともいつて、以前はその下を通る人々が、その木に向つて箭を射こむことを、境の神を祭る作法としてゐたのであります。箱根の關山にも甲州の笹子峠にも、もとは大きな矢立杉の木があつたのです。信州の諏訪の内鎌といふのも、その箭の代りに鐡の鎌を、神木の幹に打ちこんだものと思はれます。近頃になつても、境に近い大木の幹から、珍しい形をした古鎌が折り／＼出ました。さうしてそれと同じ鎌が、諏訪では今もお祭りに用ゐられるので、薙鎌と書く方が正しいやうであります。何にせよ諏訪の明神が、境をお定めになつたといふ傳説は、鎌を打ちこむ神木があるために、出來たものに相違ありませぬが、その話の方はおひ／＼に變つて行くのであります。例へば越後の神樣は、諏訪の神の母君で、御子の樣子が聞きたくて、越後からわざ／＼お出でになる路で、ちやうど國境の所で、諏訪の神樣とお出あひなされ、諏訪樣が鹿島、香取の神に降參なされたことをきいて、(207)失望してこゝから別れて、越後へお歸りになつたなどといふのは、後に歴史の本を讀んだ人の考へたことで、安房や上總で、源頼朝の旅行のことを、附け加へたのと同じ樣な想像であらうと思ひます。

　飛騨の山奧の黍生谷といふ村などは、昔川下の阿多野郷との境が不明なので、爭ひがあつて困つてゐた時に、雙方の村の人が約束を立て、黍生谷では黍生殿、阿多野は大西殿といふ人を頼み、牛に乘つて兩方から歩み寄つて、行き逢うた所を領分の境とすることにしました。尾瀬が洞の橋場で、その二つの牛がちやうど出あひ、それ以後はこれを村堺に定めたといつてをります。その黍生殿も大西殿も、共に木曾から落ちて來た隱居の武士であつたといひますが、話はまつたく春日と熊野、もしくは諏訪と彌彦の、出逢ひ裁面の傳説と同じものであります。（飛騨國中案内。岐阜縣益田郡朝日村）

　美濃の武儀郡の柿野といふ村と、山縣郡北山といふ村との境には、たにのしお〔五字傍点〕といふ所があつて、そこに柿野の氏神樣と、北山の鎭守樣とが、別れの盃をなされたといひ傳へてをります。金の盃と黄金の鷄とを、その地へ埋めて行かれたので、今でも正月元日の朝は、その黄金の鷄が出て鳴くといつてをります。（稿本美濃志。岐阜縣武儀郡乾村）

　二つの土地の神樣を、同じ日に同じ場所で、お祭り申す例は方々にありました。さうすれば隣り同士仲が好く、境の爭ひは出來なくなるにきまつてゐます。地圖も記録もなかつた昔の世の人たちは、かうしてだん／＼にむり〔二字傍点〕なことをせずに、よその人と交際することが出來るやうになりました。だからどこの村でも傳説を大事にしてゐたので、もし傳説が消えたり變つたりすれば、お祭りのもとの意味がわからなくなつてしまふのであります。

　行き逢ひ祭りをするお社は、別になんといふ神樣に限るといふことはなかつたのであります。信州では雨宮の山王樣と、屋代の山王樣と同じ三月申の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つの御輿が集つて、共同の神事がありました。その橋の名を濱名の橋といつてをります。東京の近くでは、北と南の品川の天王樣の神輿が、二つの宿の境に架けた橋の上で出あひ、橋の兩方の袂のお旅所でお祭りをしました。さうしてその橋を行き逢ひの橋といふのであります。(208)東京灣内の所々の海岸には、まだ幾つでもこれと同じお祭りがありますが、もとは境を定めるのが目的であつたことを、もう忘れてゐる人が多いやうであります。さうして一方が姫神である場合などは、これを神樣の御婚禮かと思ふ者が多くなつたのであります。

　

(209)　　　　　　　袂石

　

　昔備後の下山守村に、太郎左衛門といふ信心深い百姓があつて、毎年かゝさず安藝の宮島さんへ參詣してをりました。ある年神前に拜みをいたして、私ももう年をとつてしまひました。お參りもこれが終りでござりませう、といつて歸つて來ますと、船の中で袂に小さな石が一つ、はひつてゐるのに心付きました。誰か乘り合ひの人がいたづら〔四字傍点〕をしたものであらうと思つて、その石を海へ捨てゝ寢てしまひました。翌朝目が覺めて見ると、同じ小石がまた袂の中にあります。あまり不思議に思つて大切にして村へ持つて歸り、近所の人にその話をしましたところが、それは必ず神樣からたまはつた石であらう。祀らなければなるまいといつて、小さなほこら〔三字傍点〕を建てゝその石を内に納め、嚴島大明神と稱へてあがめてをりました。その石が後にだん／＼と大きくなつたといふことで、この話をした人の見た時には、高さが一尺八寸ばかり、周りが一尺二三寸程もあつたと申します。それからどうしたかわかりませんが、もし今でもまだあるならば、またよほど大きくなつてゐるわけであります。（藝藩志料。廣島縣蘆品郡宜山村）

　信州の小野川には、富士石といふ大きな岩があります。これは昔この村の農民が富士に登つて、お山から拾つて來た小石でありました。家の近くまで歸つた時、袂の埃を拂はうとして、それにまぎれてこゝへ落したのが、いつの間にかこのやうに成長したものだといつてをります。（傳説の下伊那。長野縣下伊那郡智里村）

　また同じ地方の今田の村に近い水神の社には、生き石といふ大きな岩があります。これは昔ある女が、天龍川の川原で美しい小石を見つけ、拾つて袂に入れてこゝまで來るうちに、袂が重くなつたので氣がついて見ると、その小石(210)がもう大きくなつてゐました。さうして自分が爪の先で突いた小さな疵が石と共に大きくなつてゐるので、びつくりしてこの水神樣の前へ投げ出しました。それが更に成長して、しまひにはこのやうな巖となつたのだといひ傳へてをります。（傳説の下伊那。長野縣下伊那郡龍江村）

　熊野の大井谷といふ村でも、谷川の中流にある大きな圓形の岩、高さ二間半に周りが七間もあつて、上にはいろ／＼の木や草の茂つてゐるのを、大井の袂石といつてほこら〔三字傍点〕を建てゝ祀つてをりました。それをまた福島石ともいつてゐましたが、そのわけはもう傳はつてをりません。（紀伊國繪風土記。三重縣南牟婁郡五郷村）

　伊勢の山田の船江町にも、白太夫の袂石といふ大石があります。高さは五尺ばかり、周りに垣をして大切にしてありますが、これは昔菅公が筑紫に流された時、度會春彦といふ人が送つて行つて、歸りに播州の袖の浦といふ所で、拾つて來たさゞれ石でありました。それが年々大きくなつて、終にこの通りの大石となつたので、その傍に菅公の靈を祀ることになつたといひ傳へて、今でもそこには菅原社があります。（神都名勝誌。三重縣宇治山田市船江町）

　土佐の津大村と伊豫の目黒村との境の山に、おんぢの袂石といふ高さ二間半、周り五間ほどの大きな石がありました。これは昔曾我の十郎五郎兄弟の母が、關東から落ちて來る時に、袂に入れて持つて來たものといひ傳へてをります。この地方の山の中の村には、曾我の五郎を祀るといふ社が方々にあり、またその家來の鬼王團三郎の兄弟が住んでゐたといふ故跡なども諸所にあります。曾我の母が落人になつて來てゐたといふことも、この邊ではよく聞く話なのであります。（大海集。高知縣幡多郡津大村）

　肥後の滑石村には、滑石といふ青黒い色の岩が、もとは入り海の水の底に見えてをりましたが、埋め立ての田が出來てから、わからなくなつてしまひました。この石は神功皇后が三韓征伐のお歸りに、袂に入れてお持ちになつた小石が、大きくなつたのだといつてをりました。（肥後國志。熊本縣玉名郡滑石村）

　九州の海岸には神功皇后の御上陸なされたといひ傳へた場所が、またこの他にもいくつとなくあります。さうして(211)記念の袂石を大切にしてゐたところも、方々にあつたのではないかと思ひます。一番古くから有名になつてゐたのは、筑前深江の子負原といふところにあつた二つの皇子産み石であります。これはお袖の中に挿んでお歸りになつたといふ小石ですが、萬葉集や風土記の出來た頃には、もう一尺以上の重い石になつてをりました。卵の形をした美しい石であつたさうです。後にはどこへ移したのか、知つてゐる人もなくなりました。土地の八幡神社の御神體になつてゐるといつた人もあれば、海岸の岡の上に今でもあつて、もう三尺餘りになつてゐるといふ人もありました。（太宰管内志。福岡縣糸島郡深江村）

　大きくなつた石といふのは、大抵は遠くから人が運んで來た小石で、始めからそこいらのたゞの石とは違つてをりました。下總の印旛沼の近く、太田村の宮間某といふ人の家では、屋敷に石神樣のほこら〔三字傍点〕を建てゝ、五尺餘りの珍しい形の石を祀つてゐました。むかしこの家の前の主人が、紀州熊野へ參詣の路で、草鞋の間に挾まつた小石を取つて見ますと實に奇拔な恰好をしてゐました。あまり珍しいので燵袋の中に入れて持つて歸りますと、もう途中からそろ／＼大きくなり始めたといつてをります。（奇談雜史。千葉縣印旛郡根郷村）

　また千葉郡｜上飯山滿《かみはざま》の林といふ家でも、この成長する石を氏神に祀つてゐました。これはずつと以前に主人が伊勢參りをして、それから大和をめぐつて途中で手に入れた小石で、巾着に入れて來た故に、その名を巾着石と呼んでゐました。（同書。同縣千葉郡二宮村）

　土佐の黒岩村のお石は有名なものでありました。神に祀つて大石神、また寶御伊勢神と稱へてをります。これもずつと昔ある人が、伊勢から巾着に入れて持つて來てこゝに置いたのが、終にこの見上げるやうな大岩になつたのだといつてをります。（南路志其他。高知縣高岡郡黒岩村）

　筑後にも大石村の大石神社といつて、村の名になつた程の神の石があります。音大石越前守といふ人が、伊勢國からこの石を懷に入れて參りまして、これを伊勢大神宮と崇めたともいへば、或は一人の老いたる尼が、小石を袂に入(212)れてこの地まで持つて來たのが、次第に大きくなつたともいつてをります。今から三百年前に、もう九尺三方ほどになつてをりました。さうして別に今一つ三尺ほどの石があつて、村の人はそれをも伊勢御前と稱へて、社をたてゝ納めてをりました。その社殿を何度も造り替へたのは、だん／＼大きくなつて、はひらなくなつて來たからだといつてをります。（校訂筑後志。禰岡縣三瀦郡鳥飼村）

　この大石村のお社には、安産の願掛けをする人が多かつたさうです。石のやうに堅く丈夫な子供、おまけに知らぬ間に大きくなるといふ子供を、親としては望んでゐたからでありませう。熊野から來たといふ石の中には、たゞ成長するだけでなく、親とよく似た子石を産んだといふ傳説もありました。例へば九州の南の種子島の熊野浦、熊野權現の神石などもそれでありました。このお社は昔この島の主、種子島左近將監といふ人が熊野を信仰して、遠くかの地より小さな石を一つ、小箱に入れて迎へて來ましたところが、それが年々に大きくなつて、後には高さ四尺七寸以上、周りは一丈三尺餘、左右に子石を生じてその子石もまた少しづつ成長し、色も形も皆母石と同じであつたと申します。（三國名勝圖會。鹿兒島縣熊毛郡中種子村油久）

　これとよく似た話がまた日本の北の田舍、羽前の中島村の熊野神社にもありました。今から四百年ほど前にこの村の人で、熊野へ七度詣りをした者が、記念の爲に那智の濱から、小さな石を拾つて歸りました。それが八十年ばかりの間にだん／＼と大きくなつて、後には一抱へに餘るほどになりました。形が女に似てゐるので姥石といふ名をつけました。それが年々に二千餘りの子孫を生んで、大小いづれも形は卵の如く、太郎石次郎石、孫石などと呼んでゐたといふのは、見ない者にはほんたうとも思はれぬ程の話ですが、これをこの土地では今熊野といつて、拜んでゐたさうであります。（鹽尻。山形縣北村山郡宮澤村中島）

　土佐では今一つ。香美郡山北の社に祀る神石も、昔この村の人が京の吉田神社に參詣して、神樂岡の石を戴いて歸つて來たのが、おひ／＼に成長したのだといつてをります。（土佐海續編。高知縣香美郡山北村）

(213)　伊勢では花岡村の善覺寺といふ寺の、本堂の土臺石が成長する石でした。これは隣りの庄といふ部落の人が、尾張熱田の社から持つて來て置いたもので、その人はもと熱田の禰宜であつたのが、この部落の人と結婚したために、熱田にゐられなくなつてこゝへ來て住んだといつて、そこには今でも越石だの熱田だのといふ苗字の家があります。（竹葉氏報告。三重縣飯南郡射和村）

　肥後の島崎の石神社の石も、もとは宇佐八幡の神官到津氏が、そのお社の神前から持つて來て祀つたので、それから年々太るやうになつたといつてをります。（肥後國志。熊本縣飽託郡島崎村）

　この通り、大きくなるのに驚いて人が拜むやうになつたといふよりも、始めから尊い石として信心をしてゐるうちに、だん／＼と大きくなつたといふ方が多いのであります。だからその石がどこから來たかといふことを、今少しお話しなければならぬのでありますが、安藝の中野といふ村では、高さの二丈もある田圃の中の大きな岩を、出雲石といつてをりました。これもまだ小石であつたうちに、人が出雲國から持つて來て、こゝに置いたのが大きくなつたといつてをります。（藝藩通志。廣島縣豐田郡高阪村）

　その出雲國では飯石神社の後にある大きな石が、やはり昔から續いて大きくなつてをりました。石の形が飯を盛つた樣だからともいへば、或は飯盒の中にはひつたまゝで、天から降つて來た石だからともいつてをります。（出雲國式社考以下。島根縣飯石郡飯石村）

　どうしてその石の大きくなつたのがわかるかといひますと、その周りの荒垣を作りかへる度毎に、少しづつ以前の寸法を、延べなければ納まらぬからといつてをります。豐前の元松といふ村の丹波大明神なども、四度もお社を作り替へて、だん／＼に神殿を大きくしなければならなかつたといつてをりました。昔丹波國から一人の尼が、小石を包んで持つて來て、この村に來て亡くなりました。その小石が大きくなるのでこのほこらの中に祀り、丹波樣と呼ぶやうになつたのださうであります。（豐前志）

(214)　石見の吉賀の注連川といふ村では、その成長する大石を牛王石といつてをります。これは昔四國を旅行した者が、ふところに入れて持つて歸つた石だと申してゐます。（吉賀記。島根縣鹿足郡朝倉村）

　富士石といふ石がまた一つ、遠江の石神村にもありました。村の山の切り通しのところにあつて、これも年々大きくなるので、石神大神として祀つてありました。多分富士山から持つて來た小石であつたと、土地の人たちは思つてゐたことでありませう。（遠江國風土記傳。靜岡縣磐田郡上阿多古村）

　關東地方では秩父の小鹿野の宿に、信濃石といふ珍らしい形の石がありました。大きさは一丈四方ぐらゐ、まん中に一尺ほどの穴がありました。この穴に耳を當てゝゐると、人の物をいふ聲が聽えるともいひました。これは昔この土地の馬方が信州に行つた歸りに、馬の荷物の片一方が輕いので、それを平にするために、路で拾つて挾んで來た小石が、こんな大きなものになつたといふのであります。（新編武藏風土記稿。埼玉縣秩父郡小鹿野町）

　その信州の方にはまた鎌倉石といふのがありました。佐久の安養寺といふ寺の庭にあつて、始めて鎌倉から持つて來た時には、ほんの一握りの小石であつたものが、だん／＼成長して四尺ばかりにもなつたので、庭の古井戸の蓋にして置きますと、それにもかまはずに、後には一丈以上の大岩になつてしまひました。だからすき間からのぞいて見ると、岩の下に今でも井の形が少し見えるといひました。（信濃奇勝録。長野縣北佐久郡三井村）

　かうしてわざ／＼遠いところから、人が運んで來るほどの小石ならば、何かよく／＼の因縁があり、また不思議の力があるものと、昔の人たちは考へてゐたらしいのでありますが、中にはまたもつと簡單な方法で、大きくなる石が得られるやうにいつてゐるところもあります。九州の阿蘇地方などでは、どんな小石でも拾つて歸つて、縁の下かどこかに匿して置くと、きつと大きくなつてゐるやうに信じてゐました。やたらに外から小石を持つて來ることを嫌つてゐる家は今でも方々にあります。川原から赤い石を持つて來ると火にたゝるといつたり、白い筋のはひつた小石を親しばり石といつて、それを家に入れると親が病氣になるなどといつたのも、つまり子供などのそれを大切にするこ(215)とも出來ない者が、祀つたり拜んだりする人の眞似をすることを戒める爲にさういつたものかと思ひます。

　だから人は滅多に石を家に持つて來ようとしなかつたのですが、何かわけがあつて持つて來るやうな石は、大抵は不思議が現れたといひ傳へてをります。奧州外南部の松ヶ崎といふ海岸では、海鼠を取る網の中に、小石が一つはひつてゐたので、それを石神と名づけて祀つて置くと、だん／＼と大きくなつたといつて、見上げるやうな高い石神の岩が村の近くにありました。（眞澄遊覽記。青森縣下北郡脇野澤村九艘泊）

　隱岐島の東郷といふ村では、昔この濱の人が釣りをしてゐると、魚は釣れずに握り拳ほどの石を一つ釣り上げました。あまり不思議なので、小さな宮を造つて納めて置きますと、だん／＼成長して七八年の後には、左右の板を押し破りました。それで今度は社を大きく建て直すと、またいつの間にかそれを押し破つたといつて、後にはよほど立派なお宮になつてゐたさうです。（隱州視聽合記。島根縣周吉郡東郷村）

　阿波の伊島といふ島でも、網をひいてゐますと、鞠の形をした小石が網にはひつて上りました。それを捨てるとまた翌日もはひります。そんなことが三日續いて、三日めは殊に大漁であつたので、その石を蛭子大明神として祀りました。それから一そう土地の漁業が榮え、小石もまたほこら〔三字傍点〕の中で大きくなつて、五六年のうちにはほこら〔三字傍点〕が張りさけてしまふので、三度めにはよほど大きく建て直したさうです。（燈下録。�ｺ島縣那賀郡伊島）

　かういふ例はいつも海岸に多かつたやうであります。鹿兒島灣の南の端、山川の港の近くでも、昔この邊の農夫がお祀りの日に潮水を汲みに行きますと、その器の中に美しい小さな石がはひつてをりました。三度も汲みかへましたが、三度とも同じ石がはひつて來るので、不思議に感じて持つて歸りましたところが、それが少しづつ大きくなりました。驚いてお宮を建てゝ祀つたといひ傳へて、それを若宮八幡神社といつてをります。さうして御神體はもとはこの小石でありました。（薩隅日地理纂考。鹿兒島縣揖宿郡山川村成川）

　沖繩縣などで今も村々の舊家で大切にしてゐる石は、多くは海から上つた石であります。別にその形や色に變つた(216)ところがないのを見ますと、何かそれを拾ひ上げた時に、不思議なことがあつたのであらうと思ひます。薩摩には石神氏といふ士族の家が方々にありますが、いづれも山田といふ村の石神神社を、家の氏神として拜んでをりました。そのお社の御神體も、白い色をした大きな御影石の樣な石でありました。昔先祖の石神重助といふ人が、始めてこの國へ來る時に道で拾つたともいへば、或は朝鮮征伐の時に道中で感得したともいひ、これも下總の宮間氏の石の如く、草鞋の間に挾まつて何度捨てゝもまたはひつてゐたから、拾つて來たといふ話がありました。しかし今日では運搬することも出來ない程の大石ですから、これもやはり永い間には成長したのであります。（三國名勝圖會等。鹿兒島縣薩摩郡永利村山田）

　石に神樣のお力が現れると、昔の人は信じてゐたので、始めから石を神として祀つたのではないのですが、神の名を知ることが出來ぬときには、たゞ石神樣といつて拜んでゐたやうであります。それだから土地によつて、石のあるお社の名もいろ／＼になつてをります。備後の鹽原の石神社などは、村の人たちは猿田彦大神だと思つてをりました。その石などもおひ／＼に成長するといつて、後には縱横共に一丈以上にもなつてゐました。普通には石神は路のかたはらに多く、猿田彦もまた道路を守る神であつた爲に、自然にさう信ずるやうになつたのであります。（藝藩通志。廣島縣比婆郡小奴可村鹽原）

　常陸の大和田村では、後には山の神として祀つてをりました。これは地面の中から掘り出した石と傳へてをります。始めは袂の中に入れるほどの小石であつたのが、少しづつ大きくなるので、清いところへ持つて來て置くと、それがいよ／＼成長しました。それで主石大明神と唱へてゐたといひ傳へてをります。（新編常陸國志。茨城縣鹿島郡巴村大和田）

　石には元來名前などはないのが普通ですが、かういふことからだん／＼に名が出來るやうになりました。伊勢石、熊野石が伊勢の神、熊野權現のお社にあるやうに、出雲石、吉田石、富士石、宇佐石なども、もと／＼それ／”＼の神(217)を祀る人たちが、大切にしてゐた石でありました。鎌倉石も多分鎌倉の八幡樣の、お力で成長したものと考へてゐたのだらうと思ひます。しかしどうして來たかゞよく分らぬ石には、人がまた巾着石とか袂石といふやうな、簡單な名を附けて置いたのであります。

　羽後の仙北の旭の瀧の不動堂には、年々大きくなるといふ五尺ほどの岩があつて、それをおがり石と呼んでをりました。おがる〔三字傍点〕といふのはあの地方で、大きくなるといふ意味の方言であります。（月之出羽路。秋田縣仙北郡大川西根村）

　備後の山奧の田舍にはまた赤子石といふのがありました。それは昔は三尺ばかりであつたのが、後には成長して一丈四尺にもなつてゐたからで、そんなに大きくなつてもなほ赤子石といつて、もとを忘れなかつたのであります。（藝藩通志。廣島縣比婆郡比和村古頃）

　飛騨の瀬戸村には、ばい〔二字傍点〕岩といふ大岩がありました。海螺といふ貝に形が似てゐるからとも申しましたが、地圖には倍岩と書いてあります。これもおほかたもとあつた大きさより倍にもなつたといふので、倍岩といひ始めたものだらうと思ひます。（斐太後風土記。岐阜縣益田郡中原村瀬戸）

　播州には寸倍石といふ名を持つた石が所々にあります。たとへば加古郡の野口の投げ石なども、土地の人はまた寸倍石と申しました。ちやうど郷境の林の中にぽつんと一つあつて、長さが四尺、横が三尺、鞠の樣な形であつたさうですから、前には小さかつたのが少しづつ伸びて大きくなつたと、いひ傳へてゐたものと思はれます。投げ石といふ名前は方々にありますが、どれもこれも大きな岩で、とても人間の力では投げられさうもないものばかりであります。（播磨鑑。兵庫縣加古郡野口村阪元）

　大抵の袂石は、人が注意をし始めた頃には、もう餘程大きくなつてゐたやうであります。さうして土地で評判が高くなつてから後は、ほんたうはあまり大きくはなりませんでした。前にお話をした下總の熊野石なども、熊野から拾つて來た時は燧袋の中で、もう大きくなつてゐたといふくらゐでありましたが、後にはだんだんと成長が目に立たな(218)くなりました。二十年前に比べると、一寸は大きくなつたといふ人もあれば、毎年米一粒づつは大きくなつてゐるのだといふ人もありましたが、それはたゞさう思つて見たといふだけで、二度も石の寸法を測つて見ようといふ者は、實際はなかつたのであります。或は出雲の飯石神社の神石のやうに、もとはお社の中に祀つてあつたといひ、または筑後の大石神社の如く、以前のお宮は今のよりも、ずつと小さかつたといふ話は方々にありますが、それは遠い昔のことであつて、石の大きくなつて行くところを、見てゐるといふことは誰にも出來ません。筍のやうに早く成長するものでも、やはり人の知らぬうちに大きくなります。ましてや石は君が代の國歌にもある通り、さゞれ石の巖となる迄には、非常に永い年數のかゝるものと考へられてゐたのであります。つまりは一つの土地に住む多くの人が、古くから共同して、石は成長するものだと思つてゐた爲に、かういふ話を聽いて信用した人が多かつたといふだけであります。

　

(219)　　　　　　　山の背くらべ

　

　石が出しぬけに大きくならうとして、失敗したといふ話も殘つてをります。例へば常陸の石那阪の峠の石は、毎日々々伸びて天まで屆かうとしてゐたのを、靜の明神がお憎みになつて、鐡の沓をはいてお蹴飛ばしなされた。さうすると石の頭が二つに碎け、一つは飛んで今の河原子の村に、一つは石神の村に落ちて、いづれもその土地ではほこら〔三字傍点〕に祀つてゐたといふ話があります。一説には、天の神樣の御命令で、雷が來て蹴飛ばしたともいつて、石那阪ではその殘つた石の根を、雷神石と呼んでをりました。高さは五丈ばかりしかありませんが、周りは山一杯に根を張つて、なるほどもしこのまゝで成長したら、大變であつたらうと思ふやうな大岩でありました。（古謠集其他。茨城縣久慈郡阪本村石名阪）

　陸中小山田村のはたや〔三字傍点〕といふ社の周圍にも、大きな石の柱の短く折れたやうなものが、無數に轉がつてをりましたが、これも大昔の神代に石が成長して、一夜の中に天を突き拔かうとしてゐたのを、神樣に蹴飛ばされて、このやうに小さく折れたのだといつてをりました。（和賀稗貫二郡志。岩手縣和賀郡小山田村）

　南會津の森戸村には、森戸の立岩といふ大きな岩山があります。昔この山が大きくならうとしてゐた時に、やはりある神樣が來て、その頭を蹴折られたといつてをります。さうしてそのかけらを持つて來て、逆さに置いたのがこれだといつて、隣りの岩下の部落には逆岩といふ高さ八丈、周り四十二丈ほどの大きな岩が今でもあります。（南會津郡案内誌。福島縣南會津郡館岩村森戸）

(220)　山を木などのやうに順々に大きくなつたものと、思つてゐた人がもとはあつたのかも知れません。富士山なども大昔近江國から飛んで來たもので、その跡が琵琶湖になつたのだといふ話がありました。奧州の津輕では、岩木山のことを津輕富士といつてをります。昔この山が一夜のうちに大きくならうとしてゐる時に、ある家のお婆さんが夜中に外へ出てそれを見つけたので、もうそれつきり伸びることを止めてしまつた。誰も見ずにゐたら、もつと高くなつてゐる筈であつたといふ話であります。磐城の絹谷村の絹谷富士は、富士とはいつても二百メートルほどの山ですが、これもちやうど地から湧き出した時に、ある婦人がそれを見て、山が高くなると大きな聲でいつたので、高くなることを止めてしまひました。もし女がそんなことをいはなかつたら、天にとゞいたかも知れぬと、土地の人たちはいつてをります。（郷土研究一編。福島縣石城郡草野村絹谷）

　駿河の足高山は、大昔諸越といふ國から、富士と背くらべをしに渡つて來た山だといふ話があります。東海道を汽車で通る時に、ちやうど富士山の前に見える山で、長く根を引いて中々大きな山ですが山の頭がありません。それは足柄山の明神が生意氣な山だといつて、足を擧げて蹴くづされたので、それで足高は低くなつたのだといつてをります。その山のかけらが海の中に散らばつてゐたのを、だん／＼寄せ集めて海岸に、小高い一筋の陸地をこしらへました。それが浮き島が原で、そこを今鐵道が通つて居ますが、以前の道路は十里木といふ所を越えて、富士とこの足高山との間を通つてをりました。さうして右と左に二つの山を見くらべて、昔の旅人はこんな話をしてゐたのであります。（日本鹿子。靜岡縣駿東那須山村）

　伯耆の大山の後には韓山といふ離れ山があります。これも大山と背くらべをするために、わざ／＼韓から渡つて來た山だから、それで韓山といふのだといひ傳へてをります。それが少しばかり大山よりも高かつたので、大山は腹を立てゝ、木履をはいたまゝで韓山の頭を蹴飛ばしたといひます。だから今でもこの山の頭は缺けてをり、また大山よりは大分低いのだといふことであります。（郷士研究二編。鳥取縣西伯郡大山村）

(221)　九州では、阿蘇山の東南に、猫岳といふ珍しい形の山があります。この山もいつも阿蘇と丈競べをしようとしてゐました。阿蘇山が怒つてばさら〔三字傍点〕竹の杖をもつて、始終猫岳の頭を打つてゐたので、頭がこはれて凸凹になり、また今のやうに低くなつたのだといひます。（筑紫野民譚集其他。熊本縣阿蘇郡白水村）

　山が背くらべをしたといふ傳説は、ずゐぶん弘く行はれてをります。例へば臺灣の奧地に住む人民の中でも、霧頭山と大武山との兄弟の山が競爭して、弟の大武山が兄の霧頭山をだまして一人でする／＼と大きくなつたといふ話があります。それだから大武山は、兄よりも高いのだといつてをります。（生蕃傳説集。パイワン族マシクジ社）

　それからまた古い時代にも、同じ傳説があつたのであります。近江國では、淺井の岡が膽吹山と高さくらべをした時に、淺井の岡は膽吹山の姪でありましたが、一夜の中に伸びて、叔父さんに勝たうとしました。膽吹山の多々美彦は大いに怒つて、劍を拔いて淺井姫の頸を切りますと、それが湖水の中へ飛んで行つて島になつた。今の竹生島は、この時から出來たといふことを、もう千年も前の人がいひ傳へてをりました。（古風土記逸文考證。滋賀縣東淺井郡竹生村）

　大和では天香久山と耳成山とが、畝傍山のために喧嘩をした話が、古い奈良朝の頃の歌に殘つてをります。それとよく似た傳説は、奧州の北上川の上流にもありまして、岩手山と早地峯山とは、今でも仲が好くないやうにいつてをります。汽車で通つて見ますと二つのお山の間に、姫神山といふ美しい孤山が見えます。爭ひはこの姫神山の取り合ひであつたともいへば、或はその反對に岩手山は姫神をにくんで、送り山といふ山にいひつけて、遠くへ送らせようとしたのに、送り山はその役目をはたさなかつたので、怒つて劍を拔いてその頸をきつた。それが今でも岩手山の右の脇に載つてゐる小山だともいひました。（高木氏の日本傳説集。岩手縣岩手郡瀧澤村）

　日本人は永い年月の間に、だん／＼と遠い國から移住して來た民族です。昔一度かういふ話を聽いたことのある者の子や孫が、もう前のことは忘れかゝつた頃に、知らず識らず似たやうな想像をしたといふだけで、わざとよその土(222)地の傳説を眞似ようとしたのではありますまいが、山が右左に高くそびえて、何か爭ひでもしてゐるやうに思はれる場合が、行く先々の村里の景色にはあるので、それをぢつと眺めてゐて、幾度でもこんな昔話をし出したものと見えます。

　青森の市の東にある東嶽なども、昔八甲田山と喧嘩をして斬られて飛んだといつて、胴ばかりのやうな山であります。その頸が遠く飛んで岩木山の上に落ち、岩木山の肩には瘤みたいな小山が一つついてゐるのが、その東嶽の頸であつたといふ人があります。津輕平野の土地が肥えてゐるのは、その時の血がこぼれてゐるからだともいひます。さうして岩木山と八甲田山とは、今でも仲が好くないといふ話もあります。（高木氏の日本傳説集。青森縣東津輕郡東嶽村）

　出羽の鳥海山は、もと日本で一番高い山だと思つてゐました。ところが人が來て、富士山の方がなほ高いといつたので、口惜しくて腹を立てて、ゐても立つてもゐられず、頭だけ遠く海の向うへ飛んで行つた。それが今日の飛島であるといひます。飛島は海岸から二十マイルも離れた海の中にある島ですが、今でも鳥海山と同じ神樣を祀つてをります。これには必ず深いわけのあることゝ思ひますけれども、かういふ變つた昔話より他には、もう昔のことは何一つも侍はつてをりません。（郷土研究三編。山形縣飽海郡飛島村）

　負けることの嫌ひな者は、決して山ばかりではありませんでした。全體に日本では、輕々しく人の優劣を説くのは惡いことゝしてありましたが、交通がだん／＼開けて來ると、どうしてもさういふ評判をしなければならぬ場合が多く、それをまた大へんに氣にする古風な考へが、神にも人間にも少くなかつたやうであります。阿波の海部川の水源には、轟きの瀧、一名を王餘魚《かれひ》の瀧といふ大きな瀧があつて、山の中に王餘魚明神といふ社がありました。この瀧の近くに來て、紀州熊野の那智の瀧の話をすることは禁物でありました。那智の瀧とどちらが大きいだらうといつたり、またはこの瀧の高さを測つて見ようとしたりすると、必ず神のたゝりがあつたといふのは、多分この方が那智よりも少し小さかつたためであらうと思ひます。（燈下録。�ｺ島縣海部郡川上村平井）

(223)　橋などは、殊に遠方の人が多く通行するので、毎度他の土地の橋の噂を聽くことがあつたらうと思ひますが、それを非常に嫌ふといふ話が多いのであります。橋の神は、至つてねたみ深い女の神樣であるといつてをりました。

　甲府の近くにある國玉の大橋などは、橋の長さが、もとは百八十間もあつて、甲斐國では、一番大きな、また古い橋でありましたが、この橋を渡る間に猿橋のうはさをすることゝ、野宮といふうたひ〔三字傍点〕をうたふことゝが禁物で、その戒めを破ると、必ずおそろしいことがあつたといひました。今でも土地の人だけは、決してさういふことはせぬであらうと思ひます。猿橋は小さいけれども、日本にも珍しいといふ見事な橋でありますから、それと比べられることを、この大橋が好まなかつたのであります。さうして野宮は、女のねたみを同情したうたひ〔三字傍点〕でありました。（山梨縣町村誌。山梨縣西山梨郡國里村國玉）

　九州の南の端、薩摩の開聞岳の麓には、池田といふ美しい火山湖があります。ほんの僅な陸地によつて海と隔てられ、小高い所に立てば、海と湖水とを一度に眺めることも出來るくらゐですが、大洋と比べられることを、池田の神は非常にきらひました。さうして湖水の近くに來て、海の話や、舟の話をする者があると、すぐに大風、高浪がたつて、物すごい景色になつたといふことであります。（三國名所圖會。鹿兒島縣揖宿郡指宿村）

　湖水や池沼の神は、多くは女性でありましたから、獨隱れて世の中のねたみも知らずに、靜かに年月を送ることも出來ました。山はこれとちがつて、多くの人に常に遠くから見られてゐますために、どうしても爭はなければならぬ場合が多かつたやうであります。

　豐後の由布嶽は、九州でも高い山の一つで、山の姿が雄々しく美しかつた故に、土地では豐後富士ともいつてをります。昔西行法師がやつてきて、暫く麓の天間といふ村にゐた頃に、この山を眺めて一首の歌を詠みました。

　　　豐國の由布の高根は富士に似て雲もかすみもわかぬなりけり

　さうするとたちまちこの山が鳴動して、盛んに噴火をし始めたので、これはいひ方が惡かつたと心づいて、　

(224)　　　駿河なる富士の高根は由布に似て雲も霞もわかぬなりけり

と詠み直したところが、ほどなく山の燒けるのがしづまつたといふ話であります。西行法師といふのは間違ひだらうと思ひますが、とにかく古くからかういふ話が傳はつてをりました。（郷士研究一編。大分縣速見郡南端村天間）

　もとはほんたうにあつたことのやうに思つてゐた人もあつたのかも知れません。さうでなくとも、よその山の高いといふ噂をすることは、なるたけひかへるやうにしてゐたらしいのであります。多くの昔話はそれから生れ、また時としてそれをまじなひ〔四字傍点〕に利用する者もありました。例へば昔日向國の人は、癰といふできもの〔四字傍点〕の出來た時に、吐濃峯といふ山に向つてかういふ言葉を唱へて拜んださうであります。私は常にあなたを高いと思つてゐましたが、私のでき〔二字傍点〕物が今ではあなたよりも高くなりました。もしお腹が立つならば、早くこのできもの〔四字傍点〕を引つ込ませて下さいといつて、毎朝一二度づつ杵のさきをそのおでき〔三字傍点〕に當てると、三日めには必ず治るといつてをりました。これも山の神が自分より高くならうとする者をにくんで、急いでその杵をもつてたゝき伏せるやうに、かういふ珍しい呪文を唱へたものかと思ひます。（塵袋七。宮崎縣兒湯郡都農村）

　山が背くらべをしたといふ古い言ひ傳へなども、後には兒童ばかりが笑つてきく昔話になつてしまひました。さうしてだん／＼に話が面白くなりました。肥後の飯田山は熊本の市から、東へ三四里ほども離れてゐる山ですが、市の西に近い金峯山といふ山と、高さの自慢から喧嘩をしたといつてをります。いつまで爭つて見ても勝負がつかぬので、兩方の山の頂上に樋をかけ渡して、水を流して見ようといふことになりました。さうすると水が飯田山の方へ流れて、この山の方が低いといふことが明かになりました。その時の水が溜つたのだといつて、山の上には今でも一つの池があるさうです。これには閉口をして、もう今からそんなことは「いひ出さん」といつた故に、山の名をいひださん〔五字傍点〕といふやうになつたとも申します。（高木氏の日本傳説集。熊本縣上益城郡飯野村）

　尾張小富士といふ山は、尾張國の北の境、入鹿の池の近くにある小山ですが、山の姿が富士山とよく似てゐるので、(225)土地の人たちに尊敬せられてゐます。それがお隣りの本宮山といふ山と高さ比べをして、やはり樋を掛け水を通して見たといふ話が傳はつてをります。さうして見た結果が、小富士の方の負けになりました。毎年六月一日のお祭りの日に、麓の村の者が石をひいてこの山に登ることになつたのは、少しでもお山の高くなることを、山の神樣が喜ばれるからだといふ話であります。（日本風俗志。愛知縣丹羽郡池野村）

　これと同じやうな傳説は、また加賀の白山にもありました。白山は富士の山と高さ競べをして、勝負をつけるため樋を渡して水を通しますと、白山が少し低いので、水は加賀の方へ流れようとしました。それを見てゐた白山方の人が、急いで自分の草鞋をぬいで、それを樋の端にあてがつたところが、それでちやうど雙方が平になつた。それ故に今でも白山に登る者は必ず片方の草鞋を山の上に、ぬいで置いて歸らねばならぬのださうです。（趣味の傳説。石川縣能美郡白峰村）

　樋を掛けたといふことはまだきゝませんが、越中の立山も白山と背琴べをしたといふ話があります。ところが立山の方が、ちやうど草鞋の一足分だけ低かつたので、非常にそれを殘念がりました。それから後は、立山に參詣する人が、草鞋を持つて登れば、特に大きな御利益を授けることにしたといつてをります。（郷土研究一編。富山縣上新川郡）

　それから越前の飯降山、これは東隣の荒島山と背くらべをして、馬の沓の半分だけ低いことがわかつたさうであります。それ故にこの山でも、石を持つて登る者には、一つだけは願ひごとがかなふといつて、毎年五月五日の山登りの日には、必ず石をもつて行くことになつてをります。（同上。福井縣大野郡大野町）

　三河の本宮山と、石卷山とは、豐川の流れを隔てゝ西東に、今でも大昔以來の丈くらべを續けてゐますが、この二つの峯は、寸分も高さの差がないといふことであります。それで兩方ともに石を手に持つて登れば少しも草臥れないが、これと反對に小石一つでも持つて降ると、參詣はむだになり、神罰が必ずあるといひます。つまり低くなることを非常に嫌ふのであります。（趣味の傳説。愛知縣八名郡石卷村）

(226)　有名な多くの山々では、みんなが背くらべのためではなかつたかも知れませんが、非常に土や石を大切にして、それを持つて行くことをいやがりました。山に草鞋を殘して來る習慣は、今でもまだ方々に行はれてをります。白山や立山にはあんな昔話がありますが、世間にはもつと眞面目に、その理由を考へてゐた者も多かつたのであります。例へば奧州金華山の權現は、山の土が草鞋について、島から外へ出ることを惜しまれるといふことで、參詣した者は、必ずそれをぬぎ捨てゝから船に乘りました。（笈埃隨筆。宮城縣牡鹿郡鮎川村）

　富士山のやうな大きな山でも、やはり山の土を遠くへ持つて行かれぬやうに、麓に砂振ひといふ所があつて、以前は、必ずそこで古い草鞋をぬぎかへました。さうして登山者が、踏み降した須走口の砂は、その夜のうちに再び山の上へ歸つて行くともいひました。

　伯耆の大山でも、山の下の砂が、日が暮れると峯に上り、朝はまた麓に下るといつてをります。山をうやまひ、山の力を信じてゐた人たちには、それくらゐのことは當り前であつたかも知れませんが、それでも出來るだけ皆で注意をして、少しでも山を低くせぬやうに努めてゐたのであります。富士の行者は山に登る時に特に歩みをつゝしんで石などを踏み落さぬやうにしてゐたさうですし、また近江國の土を持つて來て、お山に納める者もあつたさうであります。富士は皆樣も御存じの通り、大昔近江の土が飛んで、一夜に出來た山だといひ傳へてゐますので、それを今もとの國の土をもつて、少し繼ぎ足さうとしたのであります。

　

(227)　　　　　　　神いくさ

　

　日本一の富士の山でも、昔は方々に競爭者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する爲に、山も競爭せずにはゐられなかつたのかと思はれます。古いところでは、常陸の筑波山が、低いけれども富士よりも好い山だといつて、そのいはれを語り傳へてをりました。大昔御祖神が國々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行つて一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしてゐますから、お宿は出來ませぬといつて斷りました。筑波の方ではそれと反對に、今夜は新甞ですけれども構ひません。さあ／＼お泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神樣は非常に御喜びで、この山永く榮え人常に來り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないやうにと、めでたい多くの祝ひ言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂つて、男女の樂しい山となつたのはその爲で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新甞の前の晩に大切なお客樣を、歸してしまつた罰だといつてをりますが、これは疑ひもなく筑波の山で、樂しく遊んでゐた人ばかりが、語り傳へてゐた昔話なのであります。（常陸國風土記。茨城縣筑波郡）

　富士と淺間山が煙りくらべをしたといふ話も、ずゐぶん古くからあつた樣ですが、それはもう殘つてをりません。不思議なことには富士の山で祀る神を、以前から淺間大神と稱へてをりました。富士の競爭者の筑波山の頂上にも、どういふわけでか淺間樣が祀つてあります。それから伊豆半島の南の端、雲見の御嶽山にも淺間の社といふのがありまして、この山も富士と非常に仲が惡いといふ話でありました。いつの頃からいひ始めたものか、富士山の神は木花(228)開耶媛、この山の神はその御姉の磐長媛で、姉神は姿が醜かつた故に神樣でもやはり御嫉みが深く、それでこの山に登つて富士のうはさをすることが、出來なかつたといふのであります。（伊豆志其他。靜岡縣賀茂郡岩科村雲見）

　ところがこれから僅二里あまり離れて、下田の町の後には、下田富士といふ小山があつて、それは駿河の富士の妹神だといつてをります。さうして姉樣よりも更に美しかつたので、顔を見合せるのが厭で、間に天城山を屏風のやうにお立てになつた。それだから奧伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいふさうであります。おほかたもと一つの話が、後にかういふ風に變つて來たものだらうと思ひます。（郷士研究一編。同縣同郡下田町）

　越中舟倉山の神は姉倉媛といつて、もと能登の石動山の伊須流伎彦の奧方であつたさうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬の爭ひがあつたと申します。布倉山の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山の加夫刀彦は能登媛を援けて、大きな神戰となつたのを、國中の神々が集つて仲裁をなされたと傳へてをります。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戰があり、舟倉の權現が礫を打ちたまふ故に、この山の麓の野には小石がないのだともいつてをりました。（骨構泉達録等。富山縣上新川郡船崎村舟倉）

　これと反對に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この國の大瀧山と、高越山との間に戰爭があつた時、雙方から投げた石がこゝに落ちたからといつてをります。さうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ盡したからだといふことであります。（美馬郡郷土誌。�ｺ島縣美馬郡岩倉村）

　それよりも更に有名な一つの傳説は、野州の日光山と上州の赤城山との神戰でありました。古い二荒神社の記録に、くはしくその合戰のあり樣が書いてありますが、赤城山はむかで〔三字傍点〕の形を現して雲に乘つて攻めて來ると、日光の神は大蛇になつて出でてたゝかつたといふことであります。さうして大蛇はむかで〔三字傍点〕にはかなはぬので、日光の方が負けさうになつてゐた時に、猿丸太夫といふ弓の上手な青年があつて、神に頼まれて加勢をして、しまひに赤城の神をおひ(229)退けた。その戰をした廣野を戰場が原といひ、血は流れて赤沼となつたともいつてをります。誰が聞いても、ほんたうとは思はれない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じてゐたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射祭りと稱して神主が山に登り赤城山の方に向つて矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に屆いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢拔きの餅といふのを供へて、扉の矢を拔いてお祭りをするさうだなどといつてをりましたが、果してそのやうなことがあつたものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。（二荒山神傳。日光山名跡志等）

　しかし少くとも赤城山の周圍においても、この山が日光と仲が惡かつたこと、それから大昔神戰があつて、赤城樣が負けて怪我をなされたことなどをいひ傳へてをります。利根郡老神の温泉なども、今では老神といふ字を書いてゐますが、もとは赤城の神が合戰に負けて、逃げてこゝまで來られた故に、追神といふことになつたともいひました。（上野志。群馬縣利根郡東村老神）

　それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣らなかつたさうであります。赤城の人が登つて來ると必ず山が荒れると、日光ではいつてをりました。東京でも牛込はもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀つた古くからの赤城神社がありました。この牛込には�ｺ川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城樣の氏子になつてゐましたが、この人たちは日光に詣ることが出來なかつたさうであります。もし何か役目があつて、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土の八幡だの市谷の八幡だのゝ、假の氏子になつてから出かけたといふことであります。（十方庵遊歴雜記）

　奧州津輕の岩木山の神樣は、丹後國の人が非常にお嫌ひだといふことで、知らずに來た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり惡い陽氣の續く時には、もしや丹後の者が入り込んではゐないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたさうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫樣であつた頃に、丹後の由良といふ所でひどい(230)めにあつたことがあつたから、そのお怒が深いのだといつてをりました。（東遊雜記その他）

　信州松本の深志の天神樣の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道眞であり、島内村の氏神武の宮は、その競爭者の藤原時平を祀つてゐるからだといふことで、嫁婿ばかりでなく、奉公に來た者でも、この村の者は永らくゐることが出來なかつたさうであります。（郷土研究二編。長野縣東筑摩郡島内村）

　時平を神に祀つたといふお社は、また下野の古江村にもありました。これも隣りの黒袴といふ村に、菅公を祀つた鎭守の社があつて、前からその村と仲が惡かつたゆゑに、かういふ想像をしたのではないかと思ひます。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといつてゐたのみならず、古江の方では庭に梅の木を植ゑず、また襖屏風の繪に梅を描かせず、衣服の紋樣にも染めなかつたといふことであります。（安蘇史。栃木縣安蘇郡犬伏町黒袴）

　下總の酒酒井《しすゐ》大和田といふあたりでも、よほど廣い區域にわたつて、もとは一箇所も天滿宮を祀つてゐませんでした。その理由は鎭守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといひましたが、どうして時平大臣を祀るやうになつたかは、まだ説明せられてはをりません。（津村氏譚海。千葉縣印旛郡酒酒井町）

　丹波の黒岡といふ村は、もと時平公の領分であつて、そこには時平屋敷があり、その子孫の者が住んでゐたことがあるといつてゐました。それはたしかな話でもなかつたやうですが、この村でも天神を祀ることが出來ず、たま／＼畫像をもつて來る者があると、必ず旋風が起つてその畫像を空に卷き上げ、どこへか行つてしまふといひ傳へてをりました。（廣益俗説辨殘編。兵庫縣多紀郡城北村）

　何か昔から、天神樣を祀ることの出來ないわけがあつて、それがもう不明になつてゐるのであります。それだから村に社があれば藤原時平のやうに、生前菅原道眞と仲が惡かつた人の、社であるやうに想像したものかと思ひます。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があつて、それを時平公の墓だといつてをりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になつて誰かゞ考へ出したのであります。（遠碧軒記。鳥取縣(231)岩美郡）

　しかし天神と仲が善くないといつた社は他にもありました。例へば京都では伏見の稻荷は、北野の天神と仲が惡く、北野に參つたと同じ日に、稻荷の社に參詣してはならぬといつてゐたさうであります。その理由として説明せられてゐたのは、今聞くとをかしいやうな昔話でありました。昔は三十番神といつて京の周圍の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしてをられた。菅原道眞の靈が雷になつて、御所の近くに來てあばれた日は、ちやうど稻荷大明神が當番であつて、雲に乘つて現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振はせなかつた。それゆゑに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稻荷杜に對して、怒つてゐられるのだといふのでありますが、これももちろん後の人がいひ始めたことに相違ありません。（溪嵐拾葉集。載恩記等）

　或はまた天神樣と御大師樣とは、仲が惡いといふ話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天氣がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるといふことを、京でも他の田舍でもよくいつてをります。東京では虎の門の金毘羅樣と、蠣殻町の水天宮樣とが競爭者で、一方の縁日がお天氣なら他の一方は大抵雨が降るといひますが、たとひそんなはずはなくても、なんだかさういふ氣がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまはずには、獨で繁昌することが出來ぬやうに、考へられてゐた結果であらうと思ひます。

　だから昔の人は氏神といつて、殊に自分の土地の神樣を大切にしてをりました。人がだん／＼遠く離れたところまで、お參りをするやうになつても、信心をする神佛は土地によつて定まり、どこへ行つて拜んでもよいといふわけには行かなかつたやうであります。同じ一つの神樣であつても、一方では榮え他の一方では衰へることがあつたのは、つまりは拜む人たちの競爭であります。京都では鞍馬の毘沙門樣へ參る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があつて、もとはこれを福惜しみの昆沙門などといつてをりました。せつかく鞍馬に詣つて授かつて來た福を、惜しんで奪ひ返さ(232)れるといつて、鞍馬參詣の人はこの堂を拜まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るやうにしてゐたといひます。同じ福の神でも祀つてある場所がちがふと、もう兩方へ詣ることは出來なかつたのを見ると、仲の善くないのは神樣ではなくて、やはり山と山との背競べのやうに、土地を愛する人たちの負け嫌ひが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があつて、こゝに熊野の神樣がお降りなされたといふ話があり、以前はそのお祭りをしてゐたかと思ふにも拘らず、こゝの氏子は紀州の熊野へ參つてはならぬといふことになつてゐました。それから熊野の人もけつして松尾へは參つて來なかつたさうで、このいましめ〔四字傍点〕を破ると必ずたゝりがありました。これなども多分雙方の信仰が似てゐたために、かへつて二心を憎まれることになつたものであらうと思ひます。（都名所圖會拾遺。日次記事）

　どうして神樣に仲が惡いといふやうな話があり、お參りすればたゝりを受けるといふ者が出來たのか。それがだん／＼にわからなくなつて、人は歴史をもつてその理由を説明しようとするやうになりました。例へば横山といふ苗字の人は、常陸の金砂山に登ることが出來ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城してゐた時に、武藏の横山黨の人たちが攻めて來て、城の主が没落することになつたからだといつてゐますが、この時に鎌倉將軍の命をうけて、從軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があつたのであります。（楓軒雜記。茨城縣久慈郡金砂村）

　東京では神田明神のお祭りに、佐野氏の者が出て來ると必ずわざはひ〔四字傍点〕があつたといひました。神田明神には平將門の墓を祀り、佐野はその將門を攻めほろばした俵藤太秀郷の後裔だからといふのであります。下總成田の不動樣は、秀郷の守り佛であつたといふ話でありますが、東京の近くの柏木といふ村の者は、けつして成田には參詣しなかつたさうであります。それは柏木の氏神鎧大明神が、やはり平將門の鎧を御神體としてゐるといふいひ傳へがあつたからであります。（共古日録。東京府豐多摩郡淀橋町柏木）

　信州では諏訪の附近に、守屋といふ苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけな(233)いといつてをりました。強ひて參詣すると災難があるなどともいひました。それはこの家が物部守屋連の子孫であつて、善光寺の御本尊を難波堀江に流し捨てさせた發頭人だからといふのでありますが、これも恐らくは後になつて想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕へてゐた家であるゆゑに、他の神佛を信心しなかつたまでゝあらうと思ひます。（松屋筆記五十。長野縣長野市）

　天神のお社と競爭した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといつたのは妙な間違ひですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の惡い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であらうといふ人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るといふことになりました。どちらが早くいひ始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくゝ、嫉みからお爭ひがあつたやうに、古い歴史には書いてあるので、かういふ想像が起つたのであります。伊勢と大和の國境の高見山といふ高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰といふ山と背くらべをしてゐるやうに見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足を祀つてをりますゆゑに、高見山の方には蘇我入鹿が祀つてあるといふやうになりました。入鹿をこのやうな山の中に、祀つて置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出來なかつたばかりでなく、鎌足のことを思ひ出すからといつて、鎌を持つて登ることさへもいましめられてをりました。そのいましめを破つて鎌を持つて行くと、必ず怪我をするといひ、または山鳴りがするといつてをりました。（即事考。奈良縣吉野郡高見村）

　この高見山の麓を通つて、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思ふ大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでこゝに落ちたのだといつてをります。さうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との爭ひはあつたので、その爭ひに負けた方の山の頭が、飛んだといふ點も羽後の飛島、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同樣であつたのであります。どうしてこんな傳説がそこにもこゝにもあるのか。そのわけはまだくはしく説明することが出來ませんが、ことによると負けるには負けたけ(234)れども、それは武藏坊辨慶が牛若丸だけに降參したやうなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかつたと、考へてゐた人が多かつた爲かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至つて際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になつた山をも輕蔑しなかつたのであります。日向の飯野郷といふところでは、高さ五尋ほどの岩が野原の眞中にあつて、それを立石權現と名づけて拜んでをりました。そこから遠くに見える狗留孫山の絶頂に、卒都婆石、觀音石といふ二つの大岩が竝んでゐて、昔はその高さが二つ全く同じであつたのが、後に觀音石の頸が折れて、神力をもつて飛んでこの野に來て立つた。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかへつてこの觀音石の頭を拜んでゐるのであります。（三國名所圖會。宮崎縣西諸縣郡飯野村原田）

　肥後の山鹿では下宮の彦嶽權現の山と、蒲生の不動岩とは兄弟であつたといつてをります。權現は繼子で母が大豆ばかり食べさせ、不動は實子だから小豆を食べさせてゐました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、權現山は大豆を食べてゐたので力が強く、小豆で養はれた不動岩は負けてしまつて、首をひき切られて久原といふ村にその首が落ちたといつて、今でもそこには首岩といふ岩が立つてゐます。搖ぎ嶽といふ岩はそのまん中に立つてゐて、首ひきの綱に引つ掛かつてゆるいだから搖嶽、山に二筋のくぼんだところがあつて、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕だといひ、小豆ばかり食べてゐたといふ不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだといふさうであります。（肥後國志等。熊本縣鹿本郡三玉村）

　

(235)　　　　　　　傳説と兒童

　

　諸君の家のまはり、毎日あるいてゐる道路のかたはらにも、もとはこれよりもつと面白い傳説が、いくらともなく殘つてゐたのであります。學校に行く人たちがいそがしくなつて、暫くかまはずに置くうちに、もう覺えてゐて話してくれる人がゐなくなりました。それから美しい沼が田になり、見事な大木が枯れて片付けられてしまふと、當分はそのうはさをすることがかへつて多いけれども、後に生れた者には感じが薄いので、おひ／＼に忘れて行くやうになるのであります。村などはこのために大分さびしくなりました。

　傳説は、今までかなり久しい間、子供ばかりをきゝ手にして話されてをりました。尤も大人も脇にゐてきいてはゐるのですが、大抵はおさらひをするをりがないために、子供のやうに永く記憶して、ずつと後になつてから、また他の人に話してやる程に、熱心にはならなかつたのであります。子供のおさらひは、その木の下で遊び、またはみんなと連れだつて、その岩の前や淵の上、池の堤をたゞ通つて行くことでありました。話は不得手だから誰もくはしくは話しませんが、その度毎に一同は前にきいたことを想ひ出して、暫くは同じやうな心持ちになつて、互に眼を見合ふのであります。人が年を取つて話をすることが好きになり、また上手になつて後に、昔のことだといつてきかせる話は、大方は、かうした少年の頃に、覺えこんだ話だけでありました。だからどんな老人の教へてくれる傳説にも、必ずある時代の兒童が關係してをります。さうしてもし兒童が關係をしなかつたら、日本の傳説はもつと早くなくなるか、または面白くないものばかり多くなつてゐたに違ひないのであります。

(236)　だから皆さんが若いうちに、きいて置く話が少くなり、またそれを覺えてゐることがだん／＼にむつかしくなると、書物をその年寄りたちの代りに、頼むより外はないのであります。書物には大人にきかせるやうな話、大人が珍しがるやうな話が多いのでありますが、今ではこの中からでないと、昔の兒童の心持ちを、知ることは出來ぬやうになりました。國が全體にまだ年が若く、誰でも少年の如くいき／＼とした感じをもつて、天地萬物を眺めてゐた時代が、かつて一度は諸君の間にばかり、續いてゐたこともありました。書物は廻り廻つてそれを今、再び諸君に語らうとしてゐるのであります。

　もとは小さな人たちは繪入りの本を讀むやうに、目にいろ／＼の物の姿を見ながら、古くからのいひ傳へをきいたり思ひ出したりしてゐたのであります。垣根の木に來る多くの小鳥は、その啼き聲のいはれを説明せられてゐる間、そこいらを飛びまはつて話の興を添へました。路のほとりのさま／”＼の石佛なども、昔話を知つてゐる子供等には、うなづくやうにも又ほゝゑむやうにも見えたのであります。其中でも年をとつてから後にその頃のことを考へる者に、一番懷かしかつたのは地藏樣でありました。大きさが大抵は十一二の子供くらゐで、顔は佛さまといふよりも、人間の誰かに似てゐるので見覺えがありました。さうしてまた多くの傳説の管理者だつたのであります。

　村毎に別の話、一つ／＼の名前を持つてゐたのも、石地藏に最も多かつたやうであります。かういふ兒童の永年の友だちが、いつの間にかゐなくなりさうですから、こゝには百年前の子供等に代つて、書物に殘つてゐる三つ四つの話をしてみませう。古くから有名であつたのは、箭負ひ地藏に身代り地藏、信心をする者の身代りになつて、後に見ると背中に敵の矢が立つてゐたなどといふ地藏ですが、これはまだその人だけの不思議であります。土地に縁の深い地藏樣になると、特に頼まずとも村のために働いて下さるといつて、むしろ意外な出來事があつてから後に、拜みに來る者がかへつて多くなるので、その中でも、ことに地藏は、農業に對して同情が厚いといふことが、一同の感謝するところでありました。足洗はずの地藏といふのは、時々百姓の姿になつて、いそがしい日に手傳ひに來て下さる。(237)水引き地藏は田の水の足りない時に、そつと溝を切つてこちらの田だけに水を引き、そのために隣りの村からうらまれるやうなこともありましたが、それが地藏の仕業だとわかると、怒る者はなくなつて、たゞ感心するばかりでありました。

　鼻取地藏といふのもまた農民の同情者で、東日本では多くの村に祀つてをります。私の今ゐる家から一番近いのは、上作延の延命寺の鼻取地藏、荒れ馬をおとなしくさせるのが御誓願で、北は奧州南部の邊までも、音に聞えた地藏でありました。昔この村の田植ゑの日に、名主の家の馬が荒れて困つてゐると、見馴れぬ小僧さんがたゞ一人來て、その口を取つてくれたらすぐに靜かになつた。次ぎの日、寺の和尚がお經を讀まうとして行つて見ると、御像の足に泥がついてゐる。それで昨日の小僧が地藏樣であつたことが知れて、大評判になつたといふことです。（新編武藏風土記稿。神奈川縣橘樹郡向丘村上作延）

　ところがまた八王子の極樂寺といふ寺でも、これは地藏ではないが、本尊の阿彌陀樣を、鼻取如來と呼んでをりました。昔この近所にあつた寺の田を、百姓がなまけて耕してくれぬので因つてをると、これも小僧が現れて、馬の鼻をとつて助けたといつてをります。どういふわけでかこの阿彌陀如來は、唇が開き齒が見えて、ちよつと珍しい顔の佛樣であるので、一名を齒ふき佛とも稱へたさうであります。（同上。東京府八王子市子安）

　駿河の字都谷峠の下にある地藏尊は、聖�ｺ太子の御作だといふのに、これも鼻取地藏といふ異名がありました。かつて榛原郡の農家で牛の鼻とりをして手傳つてくれられたといふことで、願ひごとのある者は、鎌を持つて來て獻納したといふのは、農業がお好きだと思つてゐたからでありませう。ある時はまた日光山のお寺の食責めの式へ出かけて、盛んに索麪《さうめん》を食べたといつて、索麪地藏といふ名前も持つてをられたさうです。（駿國雜志。靜岡縣安倍郡長田村宇都谷）

　鼻取りといふのは、六尺ばかりの棒であります。牛馬を使つて田をうなふ時に、この棒を口の所に結はへて引き廻(238)るのです。今ではそれを用ゐる農家が、東北の方でも、だん／＼少くなりましたが、田植ゑの前の非常に忙がしい時に、もとはこの鼻とりに別の人手がかゝるので、仕方なしに多くは少年がその役に使はれ、うまく出來ないのでよく叱られてゐました。地藏が手傳ひに來てわざ／＼さういふ爲事をして下さるといつたのは、まことに少年らしい夢であります。もとはかういふさす〔二字傍点〕の棒もなしに、直接に牛や馬の鼻の綱をとりましたから、かれ等にはかなりつらい爲事でありましたが、もと／＼牛馬を田に使ふといふことが、東の方ではさう古くからではありません。だからこれなども新しく出來た傳説であります。石城の長友の長隆寺の鼻取地藏などは、ある農夫が代掻きの時に、ひどく鼻とりの少年を叱つてゐると、どこからともなく別の子供がやつて來て、その代りをしてくれて、それは農夫の氣に入りました。後で禮をしようと思つてさがしてみたが見えない。寺の地藏堂の床の板に、小さな泥足の跡がついてをります。さては地藏が少年の叱られるのをかはいさうに思つて、代つて鼻とりをつとめて下さつたのだと、後にわかつてあり難がつたといふ話であります。この地藏は安阿彌とかの名作で、今では國寶になつてゐる大切なお像であります。（郷土研究一編。福島縣石城郡大浦村長友）

　また福島の町の近くで、腰濱の天滿宮の隣りにある地藏にも同じ話があつて、お堂の名を鼻取庵といつてをりました。これも子供に化けて田の水を引き、馬の鼻をとつて引き廻して手傳ひました。晝飯の時に連れて來て御馳走をするつもりで、田からあがつて方々を尋ねたが見えない。尋ねまはつてお堂の中にはひつて見ると、地藏の足に田の泥がついてゐたといふのであります。（信達一統志。福島縣福島市腰（ノ）濱）

　登米の新井田といふ部落では、昔隣りの郡から分家をして來た者が、七觀音と地藏とを内神として持つて來て、屋敷に堂を建てゝていねいに祀つてをりました。村の人たちもお參りをして拜んでゐましたが、農が忙しい頃には、時々見たことのない子供がやつて來て、方々の家の鼻とりの加勢をしてくれることがあつて、それがこの地藏樣だと皆思つてゐたさうで、代掻地藏と稱へて今でも拜んでゐます。（登米郡史。宮城縣登米那寶江村新井田）

(239)　それから安積郡の鍋山の地藏樣も、よく農業の手つだひをして下さるといふ話があつて、わざ／＼この村を開墾する際に、隣りの野田山から辺へて來たのださうです。（相生集）

　地藏菩薩靈驗記といふ足利時代の書物にも、かういふ話はいろ／＼と出てをります。出雲の大社の農夫が信心してゐた地藏樣は、十七八の青年に化けて、その農夫が病氣の時に、代りに出て來て、お社の田で働いたといふことです。あまりよく働くので奉行が感心して、食事の時に盃を一つやりました。喜んで酒を飲んで、その盃を頭の上にかぶり、後にどこへか歸つて行きました。翌日になつて、農夫がこのことをきゝ、もしやと思つて厨子の戸を開けて見ると、果して地藏樣が盃をかぶつて、足は泥だらけになつて立つてをられたといひます。近江の西山村の佐吉といふ百姓は、病氣で田の草もとることが出來ずにゐると、日頃信心の木本の地藏が、いつの間にか來て、すつかり草をとつて下さつた。朝のうち參詣の路で見た時には、あれほど生ひ茂つてどうしようかと思つた田の草が、歸りに見るともう一つも殘らずとつてある。どうしたことかと思つて近くにゐた者に尋ねると、今のさき七十ばかりの老僧が、田の畔を一まはりあるいてゐられるのを見た他には、誰も來た人はないといふので、それでは地藏の御方便で助けて下さつたものであらうと、引き返してお堂へ行つて見ると、そこらあたりが一面に泥足の跡で、それがお厨子の中までも續いてゐたと書いてあります。

　或はまた、田植ゑの頃に水喧嘩があつて、一人の農夫が怪我をして寢てゐると、夜の間に小僧さんが來て、その男の田に水を入れてゐる。それをにくむ者が後から箭を射かけると、逃げてどこかへいつてしまつた。後にこの家の地藏樣を拜まうとして見ると、背中に箭が立つて、田の泥が足についてゐた。かういふ水引地藏の話も古くからありました。また筑後國の田舍では、八講の米を作る田へ夜になると水を引く者がある。村の人が大勢出て見ると、若い法師が杖をもつて田の水口に立ち、溝の水をかきまはしてゐるのが、月の光でよく見えました。杖を流れに入れて掻くやうにすれば、細い溝川が波を打つて、どう／＼と上手へ流れ、水はこと／”＼くその田にはひりました。これも箭を(240)射られて後で見ると、地藏の背中に立つてゐたといひますが、その箭が山鳥の羽をもつてはいであつたといふのは、前に申した足利の片目清水と似てゐます。この不思議に恐れ入つて、その田を寄進してお寺を建て、それを矢田寺と名づけたといふことであります。

　かういふ話は、地藏樣でなくても、或は上總の廳南の草取仁王だの、駿河の無量寺の早乙女の彌陀だの、秩父の野上の泥足の彌陀だのといふのが、そちこちの村にはあつたのですが、その中でも一番に人間らしく、また子供らしいことをなされたのが地藏でありました。佛教の方でも、地藏尊は人を救ふために、どこへも行き誰とでもお附き合ひなさるといつて、つまらぬ旅僧の姿で杖を持つて、始終あるいてゐられるやうに考へてゐますが、日本の話はそれだけではないやうであります。遠州の山の中のある村では、百姓が粟畑の夜番をするのに困つて、もしこの畑の番をして、鹿猿に食はさぬやうにして下されば、後に粟の餅をこしらへて上げませうと、石地藏に向つていひました。さうして置いてすつかり忘れてゐると、地藏が大そう腹を立てゝ、その男は病氣になりました。氣がついて驚いて粟の餅を持つて行つたら、すぐに全快したといふ話もあります。尾張の宮地太郎といふ武士が花見をしてゐると、山の地藏樣が山伏に化けて來てのぞきました。さうしてよび込まれて歌をよみ、烏帽子をかぶり鼓を打つて、お獅子を舞つたといふ話もあります。

　またある所では、信心深い老人があつて、毎日夜明け前に門口に出て、地藏樣の村を廻つてあるかれるお姿を見ようとしてゐました。なん年かさうしてゐるうちに、たうとう地藏樣を拜んだといふことであります。その樣子がまるで人間と少しもちがはなかつたといつてをります。地藏の夜遊びといふことは、多くの村できく話でありました。例へば埼玉縣の野島の淨山寺の片目地藏などは、あまりよく出て行かれるので、住職が心配して、背中に釘を打つて鎖でつないで置くと、たちまち罰が當つて惡い病にかゝつて死んだといひます。それからは自由に夜遊びをさせてゐたところが、ある時茶畠にはひつて茶の木で目を突いたといつて、今でもその木像は片目であります。またその目の傷(241)を門前の池の水で洗つたといつて、今でもその池に住む魚は、悉く片目であるさうです。（十方庵遊歴雜記。埼玉縣南埼玉郡萩島村野島）

　東京でも下谷金杉の西念寺に、眼洗地藏といふのがありました。それから鼻缺地藏だの鹽甞地藏だのと、面白い名前が幾らもありました。夜更地藏、踊地藏、物いひ地藏などといふのもありますが、傳説はもう多くは殘つてをりません。また時々は路傍の地藏で、いたづらをして旅人を困らせたといふ話もあります。相州大磯には化け地藏、一名袈裟切地藏といふのがもとはありました。伊豆の仁田の手無佛といふのも石地藏であつて、毎晩鬼女に化けて通行の者をおどしてゐるうちに、ある時強い若侍に出あつて、手を斬られて林の中へ逃げ込みました。翌朝行つて見ると、地藏の手が田の畔に落ちてゐたといふのもをかしな話であります。（伊豆志。靜岡縣田方郡函南村仁田）

　しばられ地藏といふのにはいろ／＼あつて、京都の壬生寺の繩目地藏などは、一つは身代り地藏でありました。武藏の住人香匂新左衛門、この寺にかくれて追手を受け、既に危いところを本尊の地藏が代つて下されて、しばつて來てからよく見ると、地藏尊であつたといふのは、そゝつかしい話であります。さうかと思ふと品川の願行寺のしばり地藏などは、願ひごとをする者が毎日來て、繩で上から上へとしばりました。それを一年に一度十夜の晩に、寺の住職がすつかりほどいて置くと、次ぎの日からまたしばり始めるのでありました。（願掛重寶記。東京府荏原郡品川町南品川宿）

　もとはこれなどは繩を結んだので、しばつたのではないやうであります。今でも神木とかお堂の戸の金網とかに、紙切れや絲紐を結びつけることがよくあつて、かうして人と神樣との間に、連絡をつけようとしたらしいのであります。前に鼻取地藏の話をした上作延の村などにも、しばり松、一名聖松といふ大木がもとはあつて、願掛けをする人は繩を持つて來て、この松をしばりました。さうして願ひごとがかなふと、お禮に參つてその繩を解いたのであります。しばるといふために、何か惡いことでもしたやうに考へて、いろ／＼の話が始まりました。龜井戸の天神の境内(242)には、頓宮神といふ小宮があつて、その中には爺と婆との木像が置いてありました。その後には青赤二つ鬼が繩を持つて立つてゐます。頓宮神といふのはこの爺樣のことで、昔菅公が筑紫に流された時に、婆は親切であつたが、爺の方はまことにつらく當りました。それで今でもお參りをする人は、わざ／＼鬼の持つてゐる繩で爺の體を卷き付けて天神に願掛けをする。さうして七日目にその繩を解くのだといつてをります。（願掛重寶記。東京府南葛飾郡龜戸町）

　雨乞ひの祈?にも、よく石地藏はしばられました。羽後の花館の瀧宮明神は水の神で、御神體は昔は石の地藏でありました。これを土地の人は雨地藏、または雨戀地藏とも稱へて、旱の歳には長い綱をしばりつけて、石像を洪福寺淵に沈めて置くと、必ずそれが雨乞ひになつて雨が降るといひました。（月之出羽路。秋田縣仙北郡花館村）

　所によつては、たゞ雨乞地藏の開帳をしただけで、雨が降るものと信じてゐた村もありますが、なか／＼それだけでは降らぬので、をり／＼はもつときついことをしたのであります。熊野の芳養村《はやむら》のどろ本の地藏尊などは、御像を首の根まで川の水に浸して雨乞ひをしました。（郷土研究一編。和歌山縣西牟婁郡中芳養村）

　播州船阪山の水掛地藏は、堂の脇にある古井の水を汲んで、その中で地藏を行水させ、後でその水を信心の人が飲みました。今では雨乞ひとは關係がないやうですが、この井戸もいかなるひでりでも涸れることがないといつてをります。（赤穗郡誌。兵庫縣赤穗郡船阪村高山）

　肥前の田平村の釜が淵などでは、ひでりの時には土地の人が集つて來て、一しやう懸命になつて淵の水を汲み出します。深さが半分ばかりにも減ると、水の中に石の頭が見えて來るのを、地藏菩薩の御首といつてゐまして、それまで替へほして來ると、たいてい雨が降つたといふことです。（甲子夜話。長崎縣北松浦郡田平村）

　かういふ雨乞ひのし方は、ずつと昔から日本にはあつたので、地藏はたゞ外國からはひつて來て、後にその役目を引き繼いだばかりではないかと思ひます。

　筑後の山川村の瀧の淵といふ所では、昔平家方のある一人の姫君が、入水してこの淵の主となり、今でも住んでを(243)られる。それは驚くやうな大鯰だなどといつてをりますが、岸には七靈社といふほこら〔三字傍点〕を建てゝ姫の木像が祀つてあります。ひでりの場合にはその像を取り出し、淵の水中に入れて置くのが、この土地の雨乞ひの方法でありました。（耶馬臺國探見記。禰岡縣山門郡山川村）

　大和の丹生谷の大仁保神社は、俗に御丹生さんといつて水の神で、また姫神であります。こゝでも雨乞ひには御神體を水の中に沈めて、少し待つてゐると必ず雨が降るといふことでありました。（高市郡志料、奈良縣高市郡舟倉村丹生谷）

　武藏の比企の飯田の石船權現といふのは、以前は船の形をした一尺五寸ばかりの石が御神體でありました。社の前にある御手洗の池に、この石を浸して雨を祈れば、必ず驗があると信じてゐましたが、どうしたものか後には御幣ばかりになつて、もうその石は見えなくなつたといひます。（新編武藏風土記稿。埼玉縣比企郡大河村飯田）

　それから石地藏に、いろ／＼の物を塗りつけること、これも佛法が持つて來た教へではなかつたやうであります。雨乞ひのためにする例は、羽後の男鹿半島に一つあります。鳩崎の海岸に近く寢地藏といつてゐたのは、たゞ梵字を彫りつけた一つの石碑でありましたが、常には横にしてあつて、雨乞ひの時だけこれを立てゝ、石に田の泥を一面に塗ります。さうするときつと降るといつてをりました。（眞澄邊覽記。秋田縣南秋田郡北浦町野村）

　これは恐らく泥で汚すと、洗はなければならぬから雨が降るのだと、思つてゐたのでありませうが、さうでなくても地藏には泥を塗りました。大和の二階堂の泥掛地藏などは毎月二十四日の御縁日に、今でも佛體に泥を掛けてお祭りをしてゐます。（大和年中行事一覽。奈良縣山邊郡二階堂村）

　油掛地藏といつて、參詣の人が油を掛けて拜む地藏もありました。大阪の近くの野中の觀音堂の脇には、墨掛地藏といふ眞黒な地藏さんがありました。願ひごとのかなうた人が、必ず墨汁を持つて來て掛けたのださうです。（浪華百事談）

(244)　羽前狩川の冷岩寺の前には、毛呂美地藏といふのもありました。以前普通の家でも酒を造ることが出來た頃に、この近所の者は、もろみ〔三字傍点〕といつて酒になりかけの米の汁を、先づ一杯だけくんで來て、地藏の頭から浴せる。それがだん／＼と腐つて路を通る者が鼻をつまむ程臭かつたけれども、誰一人としてこれを洗ひ清める者はなかつたさうです。昔ある農夫があまりきたない地痺樣だといつて、それをすつかり洗つて上げたところが、たちまち罰を被つて一家内疫病にかゝり、大きな難儀をしたといふ話もあり、おそれて手をつける者がなかつたのであります。（郷土研究二編。山形縣東田川郡狩川村）

　それからまた、粉掛地藏といふのもたくさんあります。伊豫の道後の温泉にあるものは、參詣の人が白粉を持つて來てふりかけました。その名を粉附地藏といひ、はんたうは子好き地藏だらうといふ説もありましたが、たしかなことはどうせわかりません。（日本周遊奇談。愛媛縣温泉郡道後湯之町）

　駿河の鈴川の近くにも、小僧に化けたといふので有名な石地藏がありましたが、これもお祭りの時に白粉を塗つて化粧をしました。（田子之古道。靜岡縣富士郡元吉原村）

　相模の弘西寺村の化粧地藏、これも願掛けをする人が白粉や、胡粉を地藏のお顔に塗つて拜みました。（新編相模風土記。神奈川縣足柄上郡南足柄村弘西寺）

　近江の湖水の北の大音村の粉掛地藏は、このへんの工場で絲とりをする娘たちが、手が荒れた時には、米か麥の粉を一つかみ持つて來て、この地藏に振り掛けると、さつそくよくなるといつてをります。（郷土研究四編。滋賀縣伊香郡伊香具村大音）

　安藝の福成寺の虚空藏の御像には、附近の農民が常に麥の粉や、米の粉を持つて來て供へました。それはこの佛の御名を「粉喰ふぞ」といふのかと思つて、それならば粉を上げたら喜ばれるだらうといふことになつたとの話もありますが（碌々雜話）、これとてもはやくから粉を掛けてゐたために、一そうそんな説明が信じ易くなつたのかも知れま(245)せん。とにかくに虚空藏は、地藏に對する言葉で、もとは兄弟のやうな仲であつたのですが、土に縁の深い地藏尊だけが、特別に農村の人氣を集めることになつたので、それには諸君のごとき若い人たちが、いつでもひいきをしてゐたことが大いなる力でありました。

　京都ではもう古い頃から、毎年七月の二十四日には六地藏詣りといつて、多くの人が近在の村を廻つてあるきました。村の方では休み所をつくつてお茶を出し、子供は路の傍の石佛を一つ所に集めて來ました。さうしてその顔を白く塗つてすべてこれを地藏と名づけ、花を立てゝ食べ物を供へて、町から來た人に拜ませました（山城四季物語）。私などの田舍でも、夏の夕方の地藏祭りは、村の子の最も樂しい時で、三角に結んだ小豆飯の味は、年をとるまで誰でも皆よく覺えてゐます。

　土地によつては寒い冬のなかばに、地藏の祭りをした所もあります。伯耆國のある村では、それを大師講といつて、十一月二十四日の夜の明けぬ前に、生の團子を持つて路の辻に行き、それを六地藏の石の像に塗りつけました。一番早く塗つて來た者は、大きくなつてから美しい嫁をもらひ、好い男を婿に取るといつてをりました。（霞村組合村是。鳥取縣日野郡霞村）

　大阪天王寺の地藏祭りは、以前には舊の十一月の十六日でありました。この朝早く子供たちは、米の粉を持つて來て地藏のお顔に塗り、その夕方にはまた藁火を焚いて、眞黒にいぶしました。さうして「明年の、明年の」とはやして、お別れの踊りを踊つたといふことであります。（浪華百事談）

　人によつては、これを道碌神の祭りともいひました。道碌神は道祖神のことでありますが、これも少年と非常に仲の好い辻の神で、もとは地藏と一つの神であつたのですから、さういつても決して間違ひではありません。道祖神はたいていの所では、正月十五日にそのお祭りをしました。木で作つた場合にでも、やはり子供等は白いものを塗りました。東京から西に見える山の中の村などでは、この日のどんど〔三字傍点〕燒きの火の中へ、石の道祖神を入れて黒くいぶしま(246)した。信州川中島の村々では、二月の八日がお祭りの日でありますが、この朝は餅を搗いて、これを藁製の馬に負はせ、道碌神の前までひいて行き、その餅を神樣の石像に所嫌はず塗りつけるさうであります。

　町の兒童も近い頃まで、「影や道碌神」と唱へて、月の夜などには遊んでゐました。東北の田舍では三十年ぐらゐ前まで、地藏遊びといふ珍しい遊戯もありました。一人の子供に南天の木の枝を持たせ、親指を隱して手を握らせ、その子をとり卷いて他の多くの子供が、かあごめ〔四字傍点〕／＼のやうにぐる／＼と廻つて、「お乘りやあれ地藏樣」と、なんべんも唱へてゐると、だん／＼にその子が地藏樣になります。

　　　物教へにござつたか地藏さま

　　　遊びにござつたか地藏さま

といつて、皆が面白く歌つたり踊つたりしましたが、もとは紛失物などのある時にも、この子供の地藏のいふことをきかうとしました。またある村では、遊び地藏といつて、いつも地藏さまの臺石ばかりあつて、地藏はどこかへ出かけてゐるといふ村もありました。さういふのは、若い衆が辻の廣場へ持ち出して、力試しの力石にしてゐるのです。嫁入り聟入り祝言のある時にも、やはり石地藏は若い衆にかつがれて、その家の門口へ遊びに來ました。地藏講の地藏には、廻り地藏といつて、次ぎから次ぎと仲間の家に、一月づつ遊んで行くのもありました。

　子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸當などをこしらへて、辻の地藏尊に上げました。それで地藏もよく子供のやうな風をしてゐます。さうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り／＼腹を立てました。繩で引つ張つたり、道の上に轉がして馬乘りに乘つてゐたりするのを、そんなもつたいない〔六字傍点〕ことをするなと叱つて、きれいに洗つてもとの臺座に戻して置くと、夢にその人のところへ來て、えらく地藏が怒つたなどといふ話もあります。せつかく小さい者と面白く遊んでゐたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどつたかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くといふ地藏もありました。

(247)　なるほど親たちは何も知らなかつたのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地藏樣は必ずまた腹を立てるでせうが、いつの世からともなく代々の兒童が、さうして共々に遊んでゐるものには、何かそれだけの理由があつたのであります。遠州國安村の石地藏などは、村の小さな子が小石を持つて來て、叩いて穴を掘りくぼめて遊ぶので、なん度新しく造つても、ぢきにこはれてしまひました。それを惜しいと思つて小言をいつたところが、その人は却つて地藏のたゝりを受けたといふことです。（横須賀郷里雜記。靜岡縣小笠郡中濱村國安）

　このやうなつまらぬ小さな遊び方でさへも、なほ地藏さまの像よりはずつと前からあつたのであります。昔といふものゝ中には、かぞへ切れないほど多くの不思議がこもつてゐます。それをくはしく知るためには、大きくなつて學問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしてゐることを、子供はわけを知らぬために、却つて覺えてゐた場合が多かつたのであります。木曾の須原には、射手の彌陀堂といふのがありました。もとは春の彼岸のお中日に、この宿の男の子が集つて來て、やさいこ〔四字傍点〕といつて小弓をもつて、阿彌陀の木像を射て、大笑ひをして歸るのがお祭りであつたさうです。（木曾古道記。長野縣西筑摩郡大桑村須原）

　佛樣を射るといふことは、大へんなことですが、これにも神樣が目をお突きになつたといふ類の、古い傳説があつたのかも知れません。越後の親不知の海岸に近い青木阪の不動樣は、越後信州東京の方の人は、不動樣といつて拜み、越中から西の人は、乳母樣と稱へて信心してゐました。お寺では今から四百年ほど前に、野宮權九邸といふ人が海から拾ひ上げた佛樣だといひますが、土地の人は、もとからこの沖の小さな島に、子産み殿といつて祀つてあつた神樣だと思つてゐまして、字を知らぬ人のいつた方がどうも正しいやうであります。といふわけは、このお堂へは、母になつて乳の足りない女の人が、多くお參りをして來たのでありました。さうしてお禮には小さなつぐら〔三字傍点〕といつて、赤ん坊を入れて置く藁製の桶のやうな物を持つて來て、堂の側の青木の枝にぶら下げますがその數はいつも何百とも知(248)れぬほどあるといひます。この神樣も地藏と同じやうに、非常に子供がお好きであるといふことで、何かといふ時には、村々から多くの兒童が集つて來たといふことです。あんなこはい顔をした不動樣でも、姥神と一しよに住めばつぐら〔三字傍点〕の子の保護者でありました。お盆になると少年が閻魔堂に詣るのも、やはりあの變な婆さんがゐるからでした。（頸城三郡史料。新潟縣西頸城郡名立町）

　日本は昔から、兒童が神に愛せられる國でありました。道祖も地藏もこの國に渡つて來てから、おひ／＼に少年の友となつたのは、まつたくわれ／＼の國風にかぶれたのであります。子安姫神の美しく貴いもとのお力がなかつたら、代々の兒童が快活に成長して、集つてこの國を大きくすることも出來なかつた如く、兒童が樂しんで多くの傳説を覺えてゐてくれなかつたら、人と國土との因縁は、今よりも遙かに薄かつたかも知れません。その大きな功勞に比べるときは、私のこの一册の本はまだあまりに小さい。今に出て來る日本の傳説集はもつと面白く、またいつまでも忘れることの出來ぬやうな、もつと立派な學問の書でなければなりません。

　

(249)　　　　　傳説分布表

　

　　この本に出てゐる傳説の中で、町村の名の知れてゐる分を、表にしてならべて見ました。この以外の縣郡町村でも、たゞ私が知らなかつたといふだけで、むろん尋ねて見たら幾らでも、同じやうな傳説があることゝ思ひます。下の數字はページ〔三字傍点〕數です。自分の村の話が出てゐましたら、まづそこのところから讀んで御覽なさい。

　

東京府東京市淺草區淺草公園…………………………………………箸銀杏…………一九六

同　　同　　下谷區谷中清水町………………………………………清水稻荷………一六六

同　　荏原郡品川町南品川宿…………………………………………縛り地藏………二四一

同　　豐多摩郡淀橋町柏木……………………………………………鎧大明神………二三二

同　　同　　　高井戸村上高井戸……………………………………藥師の魚………一六九

同　　南葛飾郡龜戸町…………………………………………………頓宮神…………二四二

同　　八王子市子安……………………………………………………齒吹仏…………二三七

京都府乙訓郡新神足村友岡……………………………………………念仏池…………一四八

同　　南桑田郡稗田野村柿花…………………………………………片目觀音………一八四

大阪府泉北郡八田莊村家原寺…………………………………………放生池…………一七一

神奈川縣橘樹郡向丘村上作延…………………………………………鼻取地藏………二三七

同　　　足柄上郡南足柄村弘西寺……………………………………化粧地藏………二四四

(250)神奈川縣足柄下郡大窪村風祭……………………………………機織の井………一八九

兵庫縣川邊郡稻野村昆陽………………………………………………行波明神………一七一

同　　有馬郡有馬町……………………………………………………うはなり湯……一四七

同　　加古郡加古川町…………………………………………………上人魚…………一七一

同　　　　　同野口村阪元……………………………………………寸倍石…………二一七

同　　赤穗郡船阪村高山………………………………………………水掛地藏………二四二

同　　多紀郡城北村黒岡………………………………………………時平屋敷………二三〇

長崎縣北松浦郡田平村…………………………………………………釜が淵…………二四二

新潟縣長岡市神田町……………………………………………………三盃池…………一七〇

同　　北蒲原郡分田村分田……………………………………………都婆の松………一九九

同　　三島郡大津村蓮華寺……………………………………………姨が井…………一四六

同　　北魚沼郡堀之内町堀之内………………………………………古奈和澤池……一七〇

同　　南魚沼郡中之島村大木六………………………………………卷機權現………一八六

同　　刈羽郡中通村曾地………………………………………………おまんが井……一四六

同　　中頸城郡櫛池村青柳……………………………………………片目の聟………一七三

同　　西頸城郡名立町青木阪…………………………乳母神とつぐら〔三字傍点〕…二四七

同　　　　　　同根知村…………………………………………………諏訪の薙鎌……二〇六

埼玉縣川越市喜多町……………………………………………………しやぶぎ婆石塔…一三八

(251)埼玉縣北足立郡白子町下新倉………………………………………子安池………一六六

同　　　大砂土村土呂…………………………………………………神明の大杉………一九六

同　　入間郡所澤町上新井……………………………………………三つ井……………一五六

同　　同　　小手指村北野……………………………………………椿峯………………一九七

同　　同　　山口村御國………………………………………………椿峯………………一九七

同　　比企郡大河村飯田………………………………………………石船權現…………二四三

同　　秩父郡小鹿野町…………………………………………………信濃石……………二一四

同　　同　　吾野村大字南……………………………………………飯森杉……………一九七

同　　南埼玉郡萩島村野島……………………………………………片目地藏…………二四〇

群馬縣高崎市赤坂町……………………………………………………婆石………………一四五

同　　北甘樂郡富岡町曾木……………………………………………片目の鰻…………一六九

同　　利根郡東村老神…………………………………………………神の戰……………二二九

同　　同　　川場村川場湯原…………………………………………大師の湯…………一五七

同　　佐波郡殖蓮村上植木……………………………………………阿滿が池…………一四六

千葉縣千葉郡二宮村上飯山滿…………………………………………巾着石……………二一一

同　　市原郡平三村平藏………………………………………………二本杉……………一九八

同　　印旛郡臼井町臼井………………………………………………おたつ樣の祠……一四〇

同　　同　　酒々井町…………………………………………………仲の惡い神樣……二三〇

同　　同　　富里村新橋………………………………………………葦が作……………一九九

同　　同　　根郷村太田………………………………………………石神樣……………二一一(252)千葉縣長生郡高根本郷村宮成………………………………………新箸節供……一九八

同　　山武郡大和村山口………………………………………………雄蛇の池…………一九二

同　　君津郡清川村……………………………………………………疊が池……………一九八

同　　同　　小櫃村俵田字姥神台……………………………………姥神樣……………一三九

同　　君津郡八重原村…………………………………………………念佛池……………一四八

同　　同　　關村大字關………………………………………………關のをば石………一四一

同　　夷隅郡千町村小高………………………………………………大根栽ゑず………一八二

同　　同　　布施村……………………………………………………二本杉……………一九八

同　　安房郡西岬村洲崎………………………………………………一本薄……………一九九

同　　同　　豐房村神余………………………………………………大師の鹽井………一六一

同　　同　　白浜村青木………………………………………………芋井戸……………一六一

茨城縣那珂郡柳河村青柳………………………………………………泉の杜……………一五〇

同　　久慈郡阪本村石名阪……………………………………………雷神石……………二一九

同　　同　　金砂村……………………………………………………横山ぎらひ………二三二

同　　鹿島郡巴村大和田………………………………………………主石大明神………二一六

同　　筑波郡筑波町……………………………………………………筑波山の由来……二二七

栃木縣河内郡上三川町…………………………………………………片目の姫…………一七二

同　　芳賀郡山前村南高岡……………………………………………片目の皇子………一八五

同　　那須郡黒羽町北瀧………………………………………………綾織池……………一九三

(253)栃木縣那須村湯本…………………………………………………教傳地獄………一四七

同　　安蘇郡犬伏町黒袴………………………………………………天神の敵…………二三〇

同　　同　　旗川村小中………………………………………………人丸大明神………一八三

同　　足利郡三和村板倉………………………………………………大師の加持水……一六六

奈良縣山邊郡二階堂村…………………………………………………泥掛地藏…………二四三

同　　高市郡舟倉村丹生谷……………………………………………雨乞と地藏………二四三

同　　吉野郡高見村杉谷………………………………………………入鹿を祀る山……二三三

三重縣宇治山田市船江町………………………………………………白太夫の袂石……二一〇

同　　飯南郡宮前村……………………………………………………めづらし峠………二〇四

同　　同　　射和村……………………………………………………成長する石………二一三

同　　多気郡佐奈村仁田………………………………………………二つ井……………一五五

同　　同　　丹生村……………………………………………………子安の井…………一六五

同　　南牟婁郡五郷村大井谷…………………………………………袂石………………二一〇

愛知縣丹羽郡池野村……………………………………………………尾張小富士………二二四

同　　知多郡東浦村生路………………………………………………弓の清水…………一五八

同　　南設樂郡長篠村横川……………………………………………氏子片目…………一八三

同　　八名郡石卷村……………………………………………………山の背くらべ……二二五

靜岡縣清水市入江町元追分……………………………………………姥甲斐ない………一四一

同　　賀茂郡下田町……………………………………………………下田富士…………二二八

(254)靜岡縣賀茂郡岩科村雲見……………………………………………富士の姉神…二二七

同　　田方郡熱海町……………………………………………………平左衛門湯………一四七

同　　同　　函南村仁田………………………………………………手無仏……………二四一

同　　駿東郡須山村……………………………………………………山の背くらべ……二二〇

同　　富士郡元吉原村…………………………………………………化け地藏…………二四四

同　　安倍郡長田村宇都谷……………………………………鼻取地藏（索麪地藏）…二三七

同　　同　　賤機村……………………………………………………鯨の池……………一七四

同　　小笠郡中浜村國安………………………………………………子供と地藏………二四七

同　　周智郡犬居村領家………………………………………………機織の井…………一八八

同　　磐田郡見付町……………………………………………………姥と草履…………一四五

同　　同　　上阿多古村石神…………………………………………富士石……………二一四

山梨縣東山梨郡松里村小屋舗組………………………………………御箸杉……………一九七

同　　同　　　等々力村………………………………………………親鸞上人の箸……一九七

同　　西山梨郡相川村…………………………………………………片目の泥鰌………一六九

同　　同　　　國里村國玉……………………………………………國玉の大橋………二二三

同　　東八代郡富士見村河内組………………………………………七釜の御手洗……一五〇

同　　中巨摩郡百田村上八田組………………………………………しはぶき婆の石…一三九

滋賀縣蒲生郡桜川村川合………………………………………………麻蒔かず…………一八二

同　　栗太郡笠縫村川原………………………………………………麻作らず…………一八二

(255)滋賀縣愛知郡東押立村南花澤………………………………………花の木………二〇〇

同　　犬上郡脇ヶ畑村大字杉…………………………………………御箸の杉…………二〇〇

同　　阪田郡大原村池下………………………………………………比夜叉の池………一九一

同　　東浅井郡竹生村…………………………………………………竹生島の由来……二二一

同　　伊香郡伊香具村大音……………………………………………粉掛地藏…………二四四

同　　同　　片岡村今市………………………………………………大師水……………一五五

岐阜縣揖斐郡谷汲村……………………………………………………念仏橋……………一四八

同　　山県郡上伊自良村………………………………………………念仏池……………一四八

同　　武儀郡乾村柿野…………………………………………………黄金の鶏…………二〇七

同　　加茂郡太田町……………………………………………………目を突いた神……一八一

同　　益田郡萩原町……………………………………………………蛇と梅の枝………一八〇

同　　同　　上原村門和佐……………………………………………龍宮が淵…………一九〇

同　　同　　中原村瀬戸………………………………………………ばい岩……………二一七

同　　同　　朝日村黍生谷……………………………………………橋場の牛…………二〇七

長野縣長野市……………………………………………………………善光寺と諏訪……二三三

同　　北佐久郡三井村…………………………………………………鎌倉石……………二一四

同　　小県郡殿城村赤阪………………………………………………瀧明神の魚………一七〇

同　　下伊那郡上郷村…………………………………………………恨みの池…………一七三

同　　同　　龍丘村……………………………………………………花の御所…………一六三

(256)長野縣下伊那郡龍江村今田………………………………………龍宮巖の活石…二〇九

同　　同　　　智里村小野川…………………………………………富士石……………二〇九

同　　東筑摩郡島内村…………………………………………………仲の惡い神樣……二三〇

同　　西筑摩郡日義村宮殿……………………………………………野婦の池…………一九〇

同　　同　　　大桑村須原……………………………………………矢さいこ行事……二四七

同　　南安曇郡安曇村…………………………………………………門松立てず………一八二

同　　北安曇郡中土村…………………………………………………芋作らず…………一八二

同　　上水内郡鬼無里村岩下………………………………梭石※［縢の糸が木］石…一八九

宮城縣玉造郡岩出山町…………………………………………………驚きの清水………一四九

同　　登米那寶江村新井田……………………………………………代掻地藏…………二三八

同　　牡鹿郡點川村……………………………………………………金華山の土………二二六

福島縣福島市腰（ノ）濱………………………………………………鼻取庵……………二三八

同　　信夫郡餘目村商矢野目…………………………………………片目清水…………一七二

同　　同　　士湯村……………………………………………………片目の太子………一八三

同　　伊達郡飯阪町大清水……………………………………………小手姫の社………一九四

同　　安達郡鹽澤村……………………………………………………機織御前…………一九三

同　　安積郡多田野村…………………………………………………氏子の片目………一八五

同　　南會津郡舘岩村森戸……………………………………………立岩………………二一九

同　　耶麻郡大鹽村……………………………………………………大師の鹽の井……一六一

(257)福島縣石城郡草野村絹谷…………………………………………絹谷富士………二二〇

同　　同　　大浦村大森………………………………………………すがめ地藏………一八四同　　同　　長友………………………………………………………鼻取地藏…………二三八

岩手縣岩手郡瀧澤村……………………………………………………送り山……………二二一

同　　和賀郡小山田村…………………………………………………はたやの神石……二一九

同　　同　　横川目村…………………………………………………笠松の由来………一九九

同　　下閉伊郡小國村…………………………………………………原台の淵…………一九二

青森縣東津輕郡東嶽村…………………………………………………山の爭ひ…………二二二

同　　南津輕郡猿賀村…………………………………………………片目の魚…………一七〇

同　　下北郡脇野澤村九艘泊…………………………………………石神岩……………二一五

山形縣東村山郡山寺村…………………………………………………景政堂……………一七二

同　　西村山郡川土居村吉川…………………………………………大師の井戸………一五六

同　　北村山郡宮澤村中島……………………………………………熊野の姥石………二一二

同　　飽海郡東平田村北澤……………………………………………矢流川の魚………一七二

同　　同　　飛島村……………………………………………………鳥海山の首………二二二

同　　東田川郡狩川村…………………………………………………毛呂美地藏………二四四

同　　西田川郡大泉村下清水…………………………………………しようずかの姥…一四五

秋田縣南秋田郡北浦町…………………………………………………片目の神主………一八四

同　　同　　　同　　野村……………………………………………寢地藏……………二四三

(258)秋田縣雄勝郡小安…………………………………………………不動瀧の女……一九二

同　　北秋田郡阿仁合町湯の台………………………………………水底の機…………一九〇

同　　仙北郡金澤町……………………………………………………片目の魚…………一七二

同　　同　　同　　荒町………………………………………………三途河の姥………一四四

同　　同　　花館村……………………………………………………雨戀地藏…………二四二

同　　同　　大川西根村………………………………………………おがり石…………二一七

福井縣大野郡大野町……………………………………………………山の背くらべ……二二五

同　　三方郡山東村阪尻………………………………………………機織池……………一九一

同　　大飯郡青（ノ）郷村關屋………………………………………水無川……………一五四

石川縣能美郡白峯村……………………………………………………白山と富士………二二五

同　　同　　白峯村……………………………………………………二本杉……………二〇〇

同　　同　　大杉谷村赤瀬……………………………………………やす女が淵………一七五

同　　河北郡高松村横山………………………………………………片目の魚…………一七八

同　　羽咋郡志加浦村上野……………………………………………大師水……………一五四

同　　鹿島郡能登部村…………………………………………………機織と稗の粥……一九三

同　　同　　鳥尾村羽阪………………………………………………水無村の由來……一五四

同　　珠洲郡上戸村寺社………………………………………………能登の一本木……一九九

富山縣上新川郡…………………………………………………………立山と白山………二二五

同　　同　　船崎村舟倉………………………………………………山のいくさ………二二八

(259)鳥取縣岩美郡元鹽見村栗谷………………………………………布晒岩…………一八七

同　　同郡………………………………………………………………時平公の墓………二三〇

同　　西伯郡大山村……………………………………………………韓山の背くらべ…二二〇

同　　日野郡印賀村……………………………………………………竹栽ゑず…………一八二

同　　同　　霞村………………………………………………………大師講と地藏……二四五

島根縣飯石郡飯石村……………………………………………………成長する石………二一三

同　　鹿足郡朝倉村注連川……………………………………………牛王石……………二一四

同　　隠岐周吉郡東郷村………………………………………………釣上げた石………二一五

岡山縣邑久郡裳掛村福谷………………………………………………裳掛岩……………一六〇

同　　勝田郡吉野村美野………………………………………………白壁の池…………一七三

同　　久米郡大倭村大字南方中………………………………………二つ柳……………二〇一

廣島縣豐田郡高阪村中野………………………………………………出雲石……………二一三

同　　世羅郡神田村藏宗………………………………………………魚が池……………一七八

同　　蘆品郡宜山村下山守……………………………………………嚴島の袂石………二〇九

同　　双三郡作木村岡三淵……………………………………………布晒岩……………一八七

同　　比婆郡小奴可村鹽原……………………………………………石神社……………二一六

同　　同　　比和村古頃………………………………………………赤子石……………二一七

和歌山縣那賀郡岩出町備前……………………………………………疱瘡神社…………一六四

同　　　伊都郡高野村杖ヶ藪…………………………………………杖の藪……………一五五

(260)和歌山縣西牟婁郡中芳養村………………………………………雨乞地藏………二四二

�ｺ島縣那賀郡富岡町福村………………………………………………蛇の枕……………一七八

同　　同　　伊島………………………………………………………蛭子神の石………二一五

同　　海部郡川西村芝…………………………………………………不動の神杉………二〇一

同　　川上村平井………………………………………………………轟きの瀧…………二二二

同　　名西郡下分上山村………………………………………………柳水………………一五六

同　　板野郡北灘村粟田………………………………………………目を突く神………一八一

同　　美馬郡岩倉村岩倉山……………………………………………山の戰……………二二八

愛媛縣温泉郡道後湯之町………………………………………………粉附地藏…………二二四

同　　同　　久米村高井………………………………………………杖の淵……………一五六

同　　新居郡飯岡村……………………………………………………眞名橋杉…………二〇一

耕地縣土佐郡十六村行川………………………………………………綾を織る姫………一九二

同　　香美郡山北村……………………………………………………吉田の神石………二一二

同　　同　　上韮生村柳瀬……………………………………………山姥の麦作り……一八七

同　　高岡郡黒岩村……………………………………………………宝御伊勢神………二一一

同　　幡多郡津大村……………………………………………………おんぢの袂石……二一〇

福岡縣糸島郡深江村……………………………………………………鎮懐石……………二一一

同　　三潴郡鳥飼村大石………………………………………………大石神社…………二一一

同　　山門郡山川村……………………………………………………七靈社の姫神……二四三

(261)大分縣東國東郡姫島村……………………………………………拍子水…………一四九

同　　速見郡南端村天間………………………………………………由布嶽……………二二三

同　　玖珠郡飯田村田野………………………………………………念佛水……………一四九

佐賀縣西松浦郡大川村…………………………………………………十三塚の栗林……二〇二

熊本縣飽託郡島崎村……………………………………………………石神の石…………二一三

同　　玉名郡滑石村……………………………………………………滑石の由来………二一〇

同　　鹿本郡三玉村……………………………………………………山の首引…………二三四

同　　阿蘇郡白水村……………………………………………………猫岳………………二二一

同　　上益城郡飯野村…………………………………………………飯田山……………二二四

宮崎縣西諸県郡飯野村原田……………………………………………觀音石の頭………二三四

同　　兒湯郡下穗北村妻………………………………………………都萬の神池………一七七

同　　同　　都農村……………………………………………………山と腫物…………二二四

鹿兒嶋縣揖宿郡山川村成川……………………………………………若宮八幡の石……二一五

同　　同　　　指宿村…………………………………………………池田の火山湖……二二三

同　　薩摩郡永利村山田………………………………………………石神氏の神………二一六

同　　熊毛郡中種子村油久……………………………………………熊野石……………二一二

　

(263)　　　辭書解説原稿

　

(265)　　　　　一　日本文學大辭典（新潮社版）

　

　　　　　朝日夕日（あさひゆふひ）

　

　傳説

〔解説〕　傳説の最後まで殘留し得るものは、どこの國でも長者の榮華と没落、殊に金銀萬寶を埋藏してゐるといふ類の口碑である。朝日夕日の歌は、不思議にこの傳説と關聯して常に記憶せられて居る。文句には少しづつの異同があるが、「朝日さす夕日かゞやく樹のもとに黄金千兩漆萬杯」などが最も普通の形である。或は三葉うつぎの根、白南天の花咲く處などと謂ひ、子孫に遺すとか後の世の爲めとかいふ文句のあるのは、次々に傳承者が附加したものと考へられる。嘗て人類學會の故坪井博士が、この類例を蒐集した際にも、二十餘府縣數十町村に亙つて、この口碑を我が郷土に限つたものである如く信ぜんとした人があつたが、今では更にその數は三四倍にもなつて居る。坪井博士はこの歌章の起原を以て、古墳築造者の勞働歌であつたかと想像して居るが、さういふ珍しい假定説は確立し得られさうもない。たゞ朝日と夕日とを對句にした綾言葉が、決して中世以降に新たに始まつたもので無いといふだけで、この埋金傳説の古墳と關係があるといふ事すら、實は證明することが出來ぬのであつた。一方では歌が記憶の中心となつて居たために、物語が信ぜられ易く又永く保存せられ易かつた例は、外にも幾つか發見されて、愈々以て朝日さす夕日かゞやくといふ類の文句が、特に我々の上に及ぼして居た隱れた力の、根本を尋ねて見る必要が大きくなつた。寶を埋めたといふ傳説は、當然に「長者の物語」の一片で無ければならぬ。而して長者榮華の(266)花やかなる空想は、殆とその全部が遊女時代の文藝によつて培はれたものである。朝日は中世の多くの語り物に於て、美女の名でもありまた長者の名でもあつた。長者が今一人あつて、朝日長者と對立すれば、それは必ず夕日長者である。下野安蘇郡の葛生町の周圍、及び秋田市外の寺内の香爐木橋にも、朝日夕日の兩長者の傳説があつて、ロメオ、ジュリエット同系の美しい哀話を留めて居る。つまりこの二つの言葉は大昔以來、我々日本人の最も懷しく思ふ昔語りを、装飾するに適した日本語であつたと言つてよいのである。

　

(267)　　　　　阿曾沼の鴛鴦（あそぬまのをしどり）

　

　説話

〔内容〕　この話は夙に「古今著聞集」と「沙石集」との中に採録せられ、その後諸國に於ていろ／＼變化して行はれてゐる。陸奧田村郡赤沼に住する馬允某といふ武士、鷹狩の歸りにこの沼の岸を過ぎ、鴛鴦の雄鳥を射殺した。その夜の夢になまめきたる女が、枕頭に來て夫を殺された怨みを説き、一首の歌を詠んでさめ／”＼と泣いた。「日暮るればさそひしものを赤沼のまこも隱れの獨寢ぞうき」。怪しと思つて翌朝餌袋の中を見ると、昨日の鴛鴦の雄鳥の骸に嘴を突き入れて、その雌鳥が死んで居た。これに感じて馬允は出家した（著聞集）。これは一つの「世間話」の形式になつてゐるが、それと幾らも時代を隔てない「沙石集」の方では、中比下野國の阿曾沼といふ所に云々とあつて大略同じ話を載せ、歌の地名だけが「阿曾沼の」となつて居る。話は阿曾沼の方に永く伴はれてゐたかと思はれて、「本朝故事因縁集」には安藝國中村の城主阿曾沼中務大輔、もとは遠江の阿曾沼に住すとあつて、同じく鴛鴦の雌が詠じたといふ「眞菰隱れの歌」を載せて居る。但しこれは夢に美女となつて來て泣いたとは言はず、翌年雌鳥を射たところが、その右の羽にこの歌が書いてあつたと云つて居る。阿曾沼氏は秀郷流の藤原氏で下野に住んで居た。文治五年の泰衡征伐の後に、所領を奧州に賜はつて移住したと云ひ、閉伊郡遠野郷の地頭が、足利期の終近くまで阿曾沼氏であつた。その家の舊事を記した「阿曾沼興廢記」といふ書には、勿論この鴛鴦の歌の話を載せ、先祖が下野の故郷に於て遭遇した奇事として傳へて居る。下野の安蘇郡では佐野の町から東北方に、その安蘇沼の跡だといふ田圃があり、傍の丘陵にはその鴛鴦を埋めたといふ塚さへあつて、今では立派な傳説に化して居る。これだけで想像すると「著聞集」の赤沼は聞きそこなひ、若くはあの頃の人が既に剽竊したやうにも考へられるか知(268)らぬが、さうで無かつた證據もまだ幸に殘つて居る。例へば、下總印旛郡阿蘇村大字村上の正覺院は、もとの名を鴨鴛寺と稱して、保元年中に平入道眞圓なる者、やはり鴛鴦の雌の歌に感動して僧となり、この寺を建てたといふ話が「佐倉風土記」に見え、寺には延寶二年の縁起もある。九州では福岡縣朝倉郡志波村の金鳥山集雲庵の舊記に、大友氏の家臣三原彈正貞吉といふ者、この村の山陰にある沼で、行きかへりに雌雄二羽の鴛鴦を射取つたところ、後の方の鳥の思ひ羽に歌が血書してあつた。仍つて發心して僧となり無方と號し、三箇所の大寺を勸進して建てたとあり、東京の近くでは荏原郡矢口村大字蓮沼の蓮光寺の舊誌にあるものも、鴛鴦の雄を射てから後は夢も歌も全然「沙石集」と同じく、やはりこれを菩提の種としてこの寺に住したと傳へて居る。信州上伊那郡中澤村字貝沼、鴛鴦山東光寺の由來は、丁度二通りの話の界目に立つて居て、雄鳥が雌鳥の射切られた首を隱し持つてゐたとなつてゐる。

〔解説〕　この物語が北は奧州から、西は九州までも分布したといふことは確に哀れなる三十一文字の力である。その夢想の歌といふことが、餘りに繰返されて平凡なものとなり、後には、思ひ羽に詩歌を血書したなどと云つたが、更に射切られた首を隱してゐたとまで變化した。これは支那の小説にでもあるやうな奇聞だが、以前のに比べれば遙かに現實味が多い。而してこの首を抱いてゐたといふ話も餘程廣く流布したものと見えて、一部は世間話と化し、又一方には傳説にならうとしてゐる。例へば鈴木正三の「因果物語」には、鳩のことゝして傳へられ、「張州府志」には雁の話になつて話されてゐる。その他、射られた鳥が?であつたり（岩代安積村上成田）、津輕の弘前では文政中の事實として傳へられてゐる（鴛鴦鴨）。これ等の例を事案談として受入れ、鳥類に斯くの如き習性ありと推斷するはまだ早からう。由來日本人は首級に愛着する民族であるから、假にこの一奇談が外來のものとしても、それを讃美して説話とし、又傳説とするだけの傾向は持つてゐたのである。なほこの話は説話の歴史を考へる上に、最も好都合な實例の一つである。

　

(269)　　　　　あまのじやく

　

　説話

〔名義〕　九州では今もアマンシャグメと云つて居る地方がある。これが神代史上の天探女《あまのさぐめ》と、少なくとも名目に於て一つものであることは、疑ひの餘地が無い。然るに天邪鬼などの文字を用ひ、全く別種の魔神の如く考へる人があるのは、古記に豫期せられない多くの特徴が、民間に語り傳へられるからであらう。

〔解説〕　アマノジャクに關する多くの小さい言ひ傳へは、いづれも消えて行つた民間説話の破片であつて、直接に固有信仰の幽かな名殘を止むるもので無い。瓜子姫（別項）の昔話に姫を殺して又は樹の梢に縛り付けて置いて、自身姫の姿に化けて嫁入しようとした惡者を、東北では往々山姥だの鬼だのと云ふが、他地方では一樣にこれをアマノジャクと云ふ。多くの類型を比較して見ると、アマノジャクは負けて滅びる者の一切の條件を具へて居るからである。機を織る筬の音がドタバタと唯物騷がしく、傍へ寄つて見ると太い尻尾がだらりと垂れて居たなどといふ滑稽味までが、所謂隣の慾深爺型に出來て居て、如何にひどい目に逢つても、氣の毒とは思へぬやうに用意せられて居る。それから、「粟の莖はなぜ赤い、蕎麥の根はなぜ赤い」などといふ由來譚に、やはりアマノジャクが殺されて、その血で染まつて斯うなつたと言つて居るのは、これも亦上代の一つの滑稽であつて、たま／＼その形式を神話と似せた點が面白かつたのであらう。後世は或は説話の最後の效果を大きくする爲めに、神に逆らふ力をやゝ重々しく、人間の力だけでは制しきれぬやうに説かうとした者もあつて、次第にこれを鬼類の列に加へるやうになつたらしい。今でも弘く行はれて居る蚤蚊の起りとか、雜草の種を播いてあるいた話、その他アマノジャクの所業に託した言ひ傳へは、何れも皆笑ひ話の中に算へてよいもので、最初から信じてこれを説き、又は受入れた者は無かつた(270)筈である。我々の空想が斯ういふ人氣のある説話と、その話術の進歩とから影響を受けて、段々成長して來たことは、他の妖怪變化も同じであらうが、それは今でもまだアマノジャクの本來の立場を、改めてしまふ迄には至らなかつたのである。現在の地方語に於て、アマノジャクが人に逆らひ、素直で無い者の名になつて居るのは古意であるらしい。その中でも山彦をアマノジャクの名を以て呼ぶ土地があるのは、注意すべき事實である。人の言ふことに反對するのと、口眞似とは全く別な所行であるが、以前は物いふすべを知らぬ者が、多くは後者によつてその反抗を表示して居た。殊に異なる音聲でこの方の口調を摸することは、何よりも腹立たしい侵害である。花咲爺や屁ひり爺の第二の者が、いつでも正直爺の跡を追うて憎まるゝ如く、説話のアマノジャクも元はこの方法によつて、その惡�ｺを例證したのでは無かつたか。現在の民間説話中には、天狗又は山男が人の心中を覺つて、何度も思つて居る事を言ひあてゝ居るうちに、不意に木が跳ねて打たれて喫驚したといふのがよくあるが、それも古い形ではアマノジャクがさうした事になつて居る。記紀に名を出して居る天探女は、單に邪念を天若日子に抱かしめたといふだけであるが、これはその頃から既に人の計畫を妨げ破らうとする者の代表者であつて、サグメの名の起りは、或は逆女であり、山に在つて口眞似を事とする者から、思ひ付かれたのでは無かつたらうかと思ふ。

　

(271)　　　　　粟袋米袋（あはぶくろこめぶくろ）

　

　昔話

〔名稱〕　糠福、米福などとも呼ばれてゐるが、何れも二人の娘を山へ栗拾ひに遣つて、わざと姉には底の拔けた古袋を持たせ、妹はその袋からこぼれ落ちる栗を、後から附いて行つて拾ふといふ一條があるから、多分は袋といふのが本の名稱であつたらう。

〔系統〕　世界の諸民族の中に、最も弘く分布して居るシンドレラ説話に屬するもので、日本では「紅血缺皿」（別項）の名を以て都府に行はれ、夙に繪草紙となつて流布したのみならず、更に馬琴の「皿々郷談」の如き文藝に移り進んだ。粟袋米袋は即ちその東北各地に於ける變形であつて、これもやはり繼娘と實子との童名から出た話題である。中部諸州ではお銀小銀、或はお月お星の名を以て傳はつて居るものも同系かと思はれるが、これは既に近世風の孤兒哀話、即ち實の子が腹違ひの姉をかばふ話、若しくは二人の子が共に繼母に苛なまれる話に化しかかつて、餘程數多くの比較を重ねないと、その根源を明かにすることが難い。これに反して粟袋米袋の方には、まだ「灰かつぎ」の竈の側の苦難がちやんと保存せられ、而も盆皿や皿々山の云々といふ歌を詠じて、二人の娘の才情を競べるといふ點は、紅皿缺皿の物語とも共通になつてゐる。

〔内容〕　名稱の所で擧げたやうな一二の日本限りの挿話はあるが、やはり話の中心は異類の援助を受けて、いつも繼母の難題を容易に果すのみならず、あとからそつと美しい衣裳を出して着て、長者殿の神樂を見物に行つて居たこと。「あれ姉樣が一人であそこに來て居る。何のあれ程仕事を遣つて置いたに、今頃來ることが出來るものか。いやそれでもこちらを向いて飴の竹の皮を投げたものを」といふやうな問答まで、殆と符節を合すといふ程に、シン(272)ドレラと似て居る。

〔解説〕　ミス・コックスの分類では、粟袋を助けた者が實母の靈であり、又はその變身の鳥獣であり、或は單なる守護神であるといふことによつて、シンドレラ傳播の系統が分れると稱して居るが、日本にはその何れの型も竝び存して居る。粟袋が山に取殘されて唯一人泣いて居ると、山の妖怪が憐れんで助けてくれる。さうして身の安全を計るが爲めに、不思議の衣裳を貰ひ受けて、それを着ると醜い老婆になり、それを脱げば美しい娘になつて、測らずも長者の息子に見染められる。紫波郡の昔話などでは、その衣裳を姥皮と云つて居り、甲州ではこれを寶蓑などとも云つてゐた。鉢かつぎ姫も多分これと同類の話で、共に紅皿缺皿から分れて出たものと見てよからう。最後にたつた一つ、奧州のシンドレラ譚の珍らしい特徴は、米袋即ち繼母の實の子が、姉の嫁入を羨んで自分も嫁に行きたいとせがむと、母は臼に乘せて田の畔を牽いて歩くうちに、轉んで水に落ちて田螺になつてしまつたといふ一條である。これがどうして又繼子立身の話の結末となつたものか。現在はなほ解説し難いやうであるが、普通昔話の最も古くからあつたもの、さうして又我々の想像以上に深い興味を以て聽かれたものは色々の動物の由來談で、蚤や虱の起りといふ類の「なぜ話」（別項）が全然關係も無い他の昔話の終りに取付けてある例は他にも多い。或は後世の本地譚のやうに、これが説話の印象を深くする手段として用ゐられたのが、餘りに意外であり又面白かつた爲めに、いつ迄も結び附いて殘つて居るのかとも想像せられる。

　

(273)　　　　　石芋（いしいも）

　

　傳説

〔内容〕　昔、小川の岸で、婆さんが芋を洗つて居た。きたない風體の旅僧が通りかゝつて所望すると、この芋は堅くて食はれませぬと嘘を吐いた。それ以來この地に芋を作れば、石同然で食ふことが出來ない。その旅僧は弘法大師であつたと言つて、今でも絶對に芋を栽培せぬ村と、莖ばかりを食用とするやうな芋だけしか作らぬ村とがある。

〔解説〕　この系統の話は、全國の隅々に行渡り、且つ殆と皆弘法大師の通力に由ると解するに一致してゐる。北と南との例を比べて見ると、この傳説の發生には二段の順序があつて、後者は他の一方が既に相應に著名になつて後に、暫く説話の形を以て遠く流傳し、次いで又土着してその地の昔語りとなつたことが想像される。暖かい土地には通例この傳説に伴なうて、芋が化したと傳へられる芋とよく似た植物が繁茂してゐる。これは多分石芋又は喰はず芋の名を以て知らるゝ、Alocasia Macrorrhiza　であらうと思ふ。即ち外貌は芋の如くにして、食用に堪へないこの芋の不思議なる存在を、曾ては神の罰であつたやうに解した信仰が、次には單に芋を作るに適せぬといふだけの村々にも移つて行つて、又新たなる傳説を支へて居るのである。青森縣の三戸郡などでは、これを野老《ところ》といふ植物の根の、苦くて食はれない理由とし、また奈良縣南部の山村などに於いては、脂《やに》の多い桃しか出來ない原因を始めとし、萵苣《ちしや》といふ菜の出來ないのも、又牛の仔の村に育たぬのも、共に弘法大師を欺いたから斯うなつたと云はれて居る（土俗と傳説第一號）。この種の煩瑣を極めた呪咀と祝福には、眞言佛教の關知したものは少ないので、何故この古風なる巡囘神の賞罰譚が、全國一樣に弘法大師の奇蹟に附會されるに至つたかを考へて見る必要がある。四國道者の風習は、何時頃始まつたものか明かでないが、あの地方の靈場には、何れも大師に不親切であつた老婆子の口碑を(274)存し、順禮の徒は?々これを「話の種」（別項）に携へて行つたといふことであり、喰はず梨又は喰はず貝の傳説も亦同斷で、或はこの方面の旅人の中には各地の説話を同化させる力を有つて居たものがあるのかも知れない。身なりの惡い旅僧を輕蔑して制裁を被つたといふ話を、ちやうど輕蔑せられさうな旅僧がしてあるくといふのは、今ならば如何にも氣のさすやうなことであるが、實際昔の旅人はそれ位露骨な者が多かつた。こんな汚ない願人坊主でも、事によると弘法大師が隱れてあるいて御座るのかも知れぬと人が言ふと、南無三あらはれたと言つたといふ笑話もある（譚嚢）。兎に角に所謂高野聖の徒は、この石芋系の説話傳説に、無關係だつたとは言へないやうである。而も他の一方に、「常陸風土記」に見ゆる富士筑波の大神款待譚、もしくは「備後風土記」の殘篇にある蘇民・巨旦の兄弟の説話などが、夙く存在しなかつたら、突如として起るまじき傳説でもあつた。安房の海岸に近い青木村の芋井戸、或は上州太田の芋の森神社等に於ては、一方に大師が親切な女性の爲めに、清き泉を出して與へたといふ話があつて、そこへ投げ棄てたと稱して石芋が水の中に茂つて居る。大隅國分村の尻無川、筑前立石村の大根川等では、大根を所望して吝《をし》んで與へなかつた罰として、大根の季節にその川の水が絶え、洗ふことが出來なくなつたと傳へて居る。全國何百個所とある「弘法水」の傳説は、石芋の場合にもなほその痕跡を留めて居るのである。大師賞罰の口碑の最も古いものは、恐らくこの原始的なる生活需要、即ち水の惠みの問題に發し、弘く農作の全般に及んだものと考へられる。

〔參考〕　日本傳説集（アルス刊）

　

(275)　　　　　和泉式部（いづみしきぶ）

　

　傳説

〔解説〕　和泉式部に關する傳説の分布は頗る弘く、その誕生地と傳へる所が、西は肥前杵島郡に始まり、因幡・播磨・丹後から、駿河・信濃・磐城を經て、北は陸中の和賀郡に及んでゐる。これは、靜御前や大磯の虎女、松蟲・鈴蟲などと同樣に、この人達の傳記を語物にして歩く女性が、中世日本を隈なく經廻つてゐたからで、しかもその技藝の分布には、豫ねて一つ以上の中心地があつたらしい。今殘つてゐる傳説の多くは「瘡の歌」「うるかの歌」などのやうな歌の靈驗談であつて、本來それ等は傳説ではなく、單なる説話であつたものが、偶然、この歌才と奔放な行?を持つた女性と結び付けられるやうになつたものらしい。（後代編纂の歌集の中には、或はこの假託を信じたのではないかと思ふ歌が、幾つとなく紛れ込んでゐる形跡がある。〕例へば、和泉式部が隱栖の猿丸太夫を訪はんとして、途に小童の意外な秀句を聽いて、歌競べの高慢な鼻を折つて引返した話（滋賀縣栗太郡曾束村）は、神童が歌を詠じて旅人を驚かすといふ古來からあつた説話に結びついたものである。その他、うるかの名歌が縁となつて、棄てゝ久しい我子の小式部と邂逅したといふ傳へや（播州赤穗得乘寺のうるか堂）、御伽草子の「和泉式部」の中の、式部の隱し子の道命阿闍梨が、知らずに母に戀慕して歌を詠む近親相姦譚などもその例に漏れまい。たゞ和泉式部の名は不思議な程色々の場合に參與してゐる。兎に角、これら和泉式部に關して傳へられた歌は、二つや三つではなかつたらしいが、特に珍らしくて人に注意されたのは、「瘡の歌」と「うるかの歌」（別項）とであつた。

〔瘡の歌〕　和泉式部が或る時瘡を疾み、日向諸縣郡の法華嶽寺の藥師如來に平癒を祈つたが、些かの驗もないので「南無藥師諸病悉除の願立てゝ身より佛の名こそ惜けれ」と詠ずると、夢の中に、「村雨はたゞひと時のものぞかし(276)己が身のかさそこに脱ぎおけ」の返歌があつて、忽ち難病が平癒したといふのである。日向ではこれが最も有名な傳説で、幾つかの故跡、殊に墓所まである。薩藩の學者には、山田清安の「和泉式部事蹟考」を始めとし、これに基いて式部の傳記を考證した數種の著述さへある。ところが、これと殆と同樣の歌問答の話が諸國にあつて、伊豫・備中・美濃・上野などでは、小野小町のことになつて傳へられ、更に安樂庵策傳の「醒睡笑」には稚兒のことになつて傳へられて居り、これを脚色したかと思はれる謠曲の「歌藥師」には、叡山の御兒菊王が、この名歌の力によつて醫王の秘文を感授したことになつてゐる。想ふに、この南無藥師の歌の傳説は、本來は國内倶通の物語であつたものが、有縁の地に土着して、靈驗の縁起と化したもので、日向では、これを和泉式部の説話と説いたものが、偶然に永く動かすべからざる固有名詞になつたのであらう。

　

(277)　　　　　打出の小槌（うちでのこづち）

　

　昔話

〔解説〕　我邦の寶器説話は、やゝ久しい前から既に笑話期に入つて居る。煽ぐと鼻が高くなる金銀の扇とか尻を撫でると好い音が出る朱塗の箆とかが、奇拔な結末を以て珍重せられるやうになると、自然にこの方面の空想は新たなる發達を停止して、寶物は何であつても格別大きな問題では無くなつて來る。從つて打出の小槌のどうした形、又は如何なる不思議を現ずるものであつたかの、不明に歸したのも怪しむに足らぬやうなものだが、實際にこれは最初から、さう重要な役目を日本の昔話の上には持つて居なかつたと思はれる。俵藤太が蜈蚣退治の御禮に、龍王から拜領して來たといふ寶物の數なども、段々に話が成長して十種まで算へるやうになつたが、その列擧の中には心得童子といふ子供まであつたが、まだ何でも打出すといふ槌だけは無かつた。「宇治拾遺」の清水觀音に富を?つた法師の話を初めとして、我々の果報は取れども盡きぬ寶、即ち米なり布なり苧麻なりの只一色が、いくら使つても無くならぬもの、又は俵とか櫃とかのその容器だけで、欲しいと思ふ品物の何でも出るといふやうな、便利で複雜な道具はまだ夢みられては居なかつたと思ふ。かういふ僅かな點でも説話の國産と、中期の輸入とは判別する手がかりが得られるやうである。槌が人間の志願を實現させるといふ思想は、今日に於てもなほ日本人には物遠く感じられるが、書物を讀み得た人だけには、それが比較的容易に理解せられたものかと思はれる。外國の記録では「酉陽雜俎」の支諾皐に、新羅の古傳として載せて居る旁※［施の旁］兄弟の話が、その結構に於て著しく我々の隣の爺型と近い。

〔旁※［施の旁］兄弟の話〕　心素直にして貧しい兄が、鳥を追うて山中に入ると、その鳥は石の隙間に入つてしまつた。夜に入(278)り月出でて後、赤い衣を着た童兒多く現れ、その石の間から金の槌を取出し、それを打つて餅や菓子や何でも欲しいものを出して戯れ遊んだ。やがてその金の槌を元の穴に突込んで去つたので、後からそれを取出して持ち歸つて忽ち長者となり、慾張りの弟はその眞似をして鬼に捉まり、鼻を引延ばされて戻つて來たとある段は瘤取爺と似て居る。これが直接に日本に入つて來た話で無くとも、それと系統を一にした愉快なる新話が知られて、やゝ又我々の空想を改良せんとした時代があつたのかと思ふ。

〔日本の打出の小槌〕　古く打出の小槌の問題になつて居る説話は、御伽草子に録せられた一寸法師、近頃のものでは「米倉・米倉」のおどけ話であるが、後者は土地によつては槌では通用せず、甲州でも陸奧でもエメコブクロ（延命小袋）、又はエメコヅチ（延命小槌）といふ物を持つて、呪文を唱へたといふことにして居る。槌から小判を振出す大黒天の繪像を見た事のある者でも、まだ十分具體的にその作用を理解し得ず、從つてこれをはつきり兒童の胸に印象し難かつたのである。これは今ある才槌。金槌の歴史以前、その代りにどんな物を使つて用を足して居たかを考へて行くならば自然に分る事だが、つまり日本の農民にはかの大黒天の持つやうな道具は無かつたらしいのである。正月の飾り物の卯杖・卯槌なども、名があつて實はまだ如何なる形のものとも考へられて居らぬ。ツチは我々の間では久しく唯の木片で、これが横槌になつたのは「寶物集」に打出小槌を説き、「平家物語」の祝園女御の條に、その名を掲げた時よりも後の事であつたかと思はれる。京都の近くでは山崎の寶積寺、俗に寶寺とも稱した寺の什寶に打出の小槌があり、古來評判の物だが名ばかりだと「三才圖會」には記してゐる。江戸では今の早稻田大學の片脇、高田の穴八幡にも亦一つの打出小槌があつた。これは山崎の寶寺から持つて來たと言ひ、信心の者願ひ事を掌に書いて、この槌で叩くと、忽ち叶ふとも言つたさうだが、「新編風土記稿」にその圖を載せて居るのを見ると、到底槌とは言はれない木製の寶珠形の物である。如意珠といふ名は「今昔物語」の小蛇を助けて報を得た話にあるのみならず、古くは「日本書紀」征韓の條にも見えて居て、その思想は我々に知られて居た。打出小槌といふ語も(279)既に耳馴れた日本語となつて居る。しかもなほ書册を通し學者の手を經て、よそから入つて來たものは、この郷土には根付かなかつた。所謂傳播論者のやたらに文藝の貸借を説く者は、かういふ實例を見て再考しなければならぬ。

　

(280)　　　　　うつぼ舟（うつぼぶね）

　

　傳説

〔解説〕　日本は島國だけに、この傳説は弘く久しく行はれ、又ほぼ上代の神話の面影をも留めて居る。西洋でもり Pentamerone の Peruonto の話を初めとして、グリム童話の愚者ハンスに至るまで、民間説話のこの題目を取扱つたものは數多いが、大抵はこれを大樽又は方舟と謂つて、その由來を尋ねることが六つかしくなつて居るやうである。うつぼ舟は本來、木を空洞にしたる舟、即ち今日の刳舟・丸木舟を意味する日本語であつたと思ふが、これが專ら大海を越えて來る神人の物語に伴ふに及んで、次第に我邦でも一種別樣の蓋があつて水を防ぎ、隙間を目塗りした潜水艇式のものに想像する者が多くなつて來たのである。記録の最も古いものは、少彦名神の白?《かゞみ》皮の小舟であるが、これは譬喩に過ぎてその眞意を解することが容易でない。大隅正八幡の古傳は、昔唐土の王女大比留女、七歳にして父知らぬ子を生み、母子共にうつぼ舟で海に流され、九州の南の海岸に漂着なされたのが八幡神であつて、その地を八幡崎と云ふとある。これと同系の傳説は伊豫國を初めとし、内海周邊の古社舊家に於て保存せられて居た。後世は或はこれが神渡來を説く一つの樣式となつたものかも知らぬが、八幡の母子神とは全く關係の無い場合にも、やはりうつぼ舟の奇瑞を中心とした言傳へが多く出來て居る。例へば常陸筑波郡の蠶影山《こかげさん》の縁起などは、信州の「甲賀三郎」同樣にこれを語つて歩いた者があつたと見えて、可なり弘く東日本の各地に知られて居るが、これも繼母に憎まれて海に流された異國の王女を祭り、しかも乘つて來たのは桑の木のうつぼ舟であつて、その桑再び芽を吹き、姫の亡骸は美しい小さな蟲と化し、それがこの國の蠶飼の根原だと云ふのである。傳説は通例時代と共に變化して、元の形を尋ねることを困難にするものだが、この一種のみは特に永續し、且つ一方には珍らしい昔(281)話をさへ發達せしめて居るのは、恐らく我々の祖先がこの中空洞にして水の上を漂ふものに對し、曾て抱いて居た特殊の興味からであらうと思ふ。

〔小子《ちひさご》の信仰〕　うつぼ舟の空想の最初の因縁には、新羅の瓠公の海を渡つて來たといふ物語、さては日本の昔話の瓜子姫（別項）に見る如く、ひさごといふものの能く水に浮ぶ性質の觀察實驗が確かに參與して居るが、それよりも更に重要であつたのは小子《ちひさご》の信仰、即ち普通の人間には見られない形の小ささと、同時に至つて急激なる成長とが、或る特種の神人又は英雄に限つて認められたことで、それが後世には忘れられてしまつた爲めに、人は十分にその感動を解し得なくなつたが、以前はさういふ小さな物の中に入つて來たといふ點に、大なる意味があつたものかと考へられる。沖繩の久高の屁の話では、その瓜と母と子の流竄とが別々のものになつて居るが、壹岐島の類話ではその婦人がうつぼ舟に入れられて海に流され、漁人に助けかしづかれて、子を産んだことになつて居る。ペンタメロネの昔話で、幸運の青年が、妻と二人の兒と共に大樽に入れて流されてゐるうちに、その身は突如として美しく賢くなり、又その乘り物も化して、金殿玉樓となつたとあるのが、やはり一寸法師の忽ちに偉丈夫になつたのと同じ系統の奇蹟譚である。一つの島一つの民族の間に於て年久しく傳承せられたものは、獨り自分の國の舊信仰を反映するに止まらず、更に遠方の國土に破片となつて殘留するこの種の説話までに、可なり有力なる解決の鍵を供與する。

　

(282)　　　　　姥皮（うばかは）

　

　昔話

〔名義〕　姥皮は、それを着ると汚ならしい婆となり、脱ぐと又もとの姿になる不思議な衣料の名である。

〔内容〕　紫波郡昔話の中には二つの例があつて、前者は詳しいが、意外にも蛇聟入の後に繋がつて居る。（一）父の約束に從つて蛇の嫁になつた美女が、縫針千本の力によつてその難を遁れ、山奧から出て來ようとする夜路で婆の一つ家に泊り、その主から姥皮といふ物を貰ひ、それを着ると汚ならしい婆になつた。さうして麓の長者の家に住み込んで火焚き婆となり、夜だけはそれを脱いで、元の美しい娘に復へる。それを長者の息子が隙見をして、戀煩ひをする（最後の箇條は、グリムなどと同じである）。（二）次の話は繼母に惡まれた姉娘が、山に棄てられて一つ家の老女に助けられ、これも姥皮を貰つて婆の姿に化し、そつと自分の家に來て親切な妹と仲よく暮して居る。そのうちに父が戻つて繼母の惡事が顯れる（この點だけは「お銀小銀」（別項）の多くの繼子話と一致して居る。この主人公を男にしたのは「聽耳草紙」である）。

〔系統〕　日本でもこの昔話は、夙くミス・コックスが發見したやうに、通例は「粟袋米袋」（別項）、即ち西洋の「灰かつぎ姫」の、半分の變化として傳へられて居る。たゞその美しい少女が姿をやつす身の皮が、英國の猫の皮、佛國の驢馬の皮、さては獨逸のあらゆる獣の皮などと違つて、更に一段と奇拔である。ボルテ・ポリヴカのグリム研究書には、御伽草子の「鉢かつぎ」だけを日本の一例として引いて居るが、なほその以外に東北最近の採集によると、上に述べたやうな姥皮といふ昔話もあつたのである。

〔解説〕　何れの話に依つても、或る衣服に特殊な呪力があつて、それを身に纏うて居ると完全に別な人間に見えると(283)いふ考へ方が、極めて古くからのものだといふ證據には十分であるが、ただその空想の末は種族毎にそれ／”＼異なる發展をなし、殊に日本では色々の地方的變化を併せ存せしめた。石井研堂の「國民童話」を見ると、甲州では、これを山姥に貰つた寶蓑にしてゐるさうで、餘程隱蓑隱笠に近い。しかし結末の幸福に至つては何の皮も、異なる所は無い。唯亡き妻とよく似た我が娘に、婚姻を求めようとした王樣の話だけは、日本には起ることが出來なかつたらしいが、他の部分の一致の既にこの程度に明瞭なのを見れば、前者を説話の比較的古い部分とした想像の、覺束ないものだといふことは斷定してよからう。これと同時にシンドレラ民譚の最も不可解な特徴、即ち上代の家庭組織では想像し難い繼子いぢめ、母を異にした子女が同じ家に共に住んで居るといふことが、單に偶然に雙方に現はれたといふだけで、決してこの説話の最初からの要點では無く、寧ろ近代に入つて新たに興味を引起した話題であつたといふことが、この不思議な衣料の國々の變化の方から、段々に推究して行かれると思ふ。この系統の説話の最も重要な共通點は、極度の幸運を持ち、あらゆる美�ｺを具へた若い娘又は男が、一時身を潜めて凡人から輕しめられてゐるといふ所にあつた。それが本來は境遇の爲めではなくて、心あつて與へられてゐた假の身の皮の力であつたといふ事が、遠き祖先たちの何よりも、興味を抱き得る點であつたといふことに、説話研究の最も大きな價値は有るやうに思はれる。

　

(284)　　　　　産女の怪（うぶめのくわい）

　

　傳説

〔解説〕　この傳説は江戸時代の小説の趣向に、度々採用されてゐる。路傍に現れる變化の中で、一番素性が不明であるが、怪譚の成長を考へるには大切な資料である。近代の隨筆家は主としてその名の起りを支那の書物に求め、姑獲と書く一種の鳥だなどと説いてゐるが、民間の實驗によれば、通例は夜道に遭遇する眼の幻覺であつて、空を飛びあるくものの聲などでは無かつた。殊に他の化物と違つて居たのは、瀬田の橋の大蛇などの如く、勇士を見込んで物を頼むことである。而して産女の出現の形式は大體に何處でも一致してゐる。やつれた若い母が子を抱いてしよんぼり立つてゐて、通り掛つた人にこの兒を抱いてくれと頼む。これにも三種あつて、第一は鎌倉大巧寺の産女寶塔、上總法光寺の産の玉などの傳説のやうに、名僧の法力によつて母子の亡魂が救はれたといふ話、第二も?々これと結び付いてゐるが、産女がその禮に黄金の袋、もしくは稀代の寶物を授與して去つたといふもの、第三には一たび斯樣な薄氣味の惡い頼みごとを聽いてやつてから、急にその人間の力が強くなつたといふもの、即ち子を抱いてやつた御禮に百人力を貰つたといふ類の話である。産女が何の爲めに我子を人に抱かせなければならなかつたかが、次第に解しにくゝなつて後に、法師たちがこれを念佛の功�ｺの方に引き付けて行つたのは自然である。比較的わけの解らぬ傳承の方が、古くからのものだと想像して多分誤りはあるまい。産女は人に力を與へ又は福分を授けるまでの機能を、妖怪になつて後も持ち續けて居る。換言すれば古い信仰の内容が、やゝ多量に次の代まで保存せられて居たのである。殊に彼女の要求に從順であつた者の恩賞が力量であつたといふ事は、日本武士道の古い信仰を映發するものとして深い興味がある。普通に民間に傳へられてゐる産女の實驗は、少しの間この兒を抱いてゐ(285)てくれと言つて、何處かへ行つてしまふと、見る／＼目方が加はつて石よりも重くなつて行く。それを齒をくひしばつて持堪へて居ると産女は歸つて來て大に悦び、それから忽ち大力になつたなどと云つてゐる。腕力を常人の自然に持つて生れるものとは信ぜず、これを神授とし異樣誕生の古傳を信じ、又は力石と稱して願ひ事の成る成らぬを卜した慣はしも、基づく所はこれと一つであつたと思ふ。從つて産女に力を授かつたといふ傳説も恐らくは大昔の神話の破片で、この信仰の根本が覆へると、これが傳説とはならずに、説話として展開する場合もあつたのである。京都では既に「今昔物語」の時代から、平季武が産女に逢つたといふ話は娯樂用の昔話であつた。抱いた赤兒の重くなつた迄は他と同じで、それが狐に化かされたのであつたといふ結末になつてゐる。現在諸國に殘つた産女の傳説が、これと同系ながらも、もつと早くから分立したものであることは、敍法の比較によつて何人にも認められる。この方はただ産女の存在を承認した者のみが、語り傳へて居た過去の奇蹟であつた。

〔參考〕　日本神話傳説集（アルス版）

　

(286)　　　　　瓜子姫（うりこひめ）

　

　昔話

〔内容〕　瓜子姫の普通の形は子の無い爺婆の洗濯の折に、瓜が川上から流れて來て、拾つて家に歸るとその中から赤兒が生れる。桃よりも瓜の方がこの空想には似つかはしく、しかも竹の節の中の小さき姫、鶯の卵の中の姫とも因みが深い。成長して美しくなり、御城の殿樣の所へ嫁入する支度に、家で毎日々々いゝ音を立てて機を織つてゐる。するとアマノジャクといふ惡者が來て、姫を樹の梢に縛りつけ（又は一旦殺して喰つてしまつて）、姫の姿に化けて機を織つて居る。人の善い爺婆はそれとも知らずに、駕籠に乘せて（又は馬に乘せて）、嫁入をさせようとして居ると、鷄とか烏とか、もしくは雀とかが、啼いてその秘密を告げ、アマノジャクの惡巧みが露顯する（この點は桃太郎の犬猿雉に似通つてゐる）。

〔解説〕　文獻としては桃太郎などよりは百年以上も後で、「嬉遊笑覽」が多分最初であらう。喜多村信節はこれを信州から來て居る召仕に聞いたと記してゐる。如何にもその形が近年出版の「小縣郡史餘録」に掲載せられたものとよく似て居る。但し同書に芳賀矢一博士の言として、これが信越二國に限られたる桃太郎童話の特殊の變化だとあるのは誤りで、石井研堂氏の「國民童話」には、既に日向國の例があり、又出雲・石見その他東北六縣とも、各々の類話を同一の名稱を以て傳へて居る事が明かになつた。桃太郎の如く中央の文學と親しみをもつて居なかつたのみで、瓜子姫の分布も亦全國的であつたらしい。或は雛人形の五月人形に分れた如く、これも女の方が前かとさへ思ふが、さうで無いまでも兩話はもとから一對であつた。さうしてこれを比べ合せて見る事によつて、桃太郎譚の未だ童話に化せざりし以前の?態を推察することが出來る。桃太郎の子供噺では、鬼が馬鹿々々しく弱く、降參する(287)やうに話されるに反して、この方では瓜子姫が敵にいぢめられる條を餘りに詳しく説く故に、彼は華やかに、これは物悲しく記憶せられて居るが、昔話にハッピーエンドを持たぬものは無い。喰はれたとある場合でも、元は恐らくは再生の悦びを附け添へてゐたのであらう。謂はゆる英雄説話の世界共通の型は、異常生誕がその一つだが、更にこれに伴つて最初は至つて小さく、または至つて貧しく醜く、もしくは愚かであり惰け者であつたとさへ云つて居る。つまり凡人には十分輕蔑さるべき者が、隱れた天運によつて、後に驚くべき優者となるのを通則としてゐたのである。日本ではそれが追々に分化して行つて、「物臭太郎」や「一寸法師」、「隣の寢太郎」若しくは「山田白瀧」のやうな別々の話になつて居るが、いづれもその生涯の事業といふのは、大いなる危險または障碍に打勝つて、單に萬福長者になるだけでなく、その前に先づ世にも稀なる善美の配偶者を得ることであつた。ところが桃太郎ばかりは童話であるがために、この肝要なる妻問ひの一條が省かれてゐるが、瓜子姫はやはり婚姻を以て完成の一つに數へてゐる。同じ鬼ヶ島遠征でも「御曹司島渡り」若しくはその古い形の「蛇室」などには、好き妻を儲け得たことを要素として居るのみならず、更に東北地方の桃太郎話には、姫を救つて鬼ヶ島から遁げ還る型がなほ殘つて居る（紫波郡昔話）。瓜子姫の發見は單に桃太郎譚の起原を諒解させるだけでなく、更に進んでは古來の民間説話が個々の民族の間に於て、それ／”＼に發達しなければならなかつた法則の存在を認めしめる。

　

(288)　　　　　うるかの歌

　

　昔話

〔名義〕　「うるか」の語源は明瞭でないが、鮎の腸を指す古語であつたらしく、既に「拾遺集」の中にも、これを掛言葉に用ゐた俳諧の歌があり、「七十一番職人盡歌合」の「かつら鮎とりてうるかと闇またば月の價は無くなりぬべし」や、「犬子集」の貞�ｺの句「水色に染めてうるかや鮎のわた」なども、共にその古臭い地口の踏襲であつた。

〔解説〕　俳諧と民間説話との關係は、日本に於ては可なり密接なものがあつた。秀句は最初必ず或る個人の天才の手に成り、而も萬人の意表に出でたのを手柄とした筈なのに、これに感心して何時までもその酒落を繰返してゐたのみならず、後にはそれだけを趣向にした昔話が製作せられ、それが地方に流布し往々傳説とさへなつて居る。即ち「かも河の瀬にふす鮎の腹にこそうるかといへるわたはありけれ」などの歌が出來、これを説明するだけの目的かと思はれる昔話が行はれてゐる（俚言集覽）。又、伊勢では西行上人が宇治郷の櫟木館といふ者の前を、打綿といふものを背に負ひて通られけるを、館が家より見て、それは賣るかと問ひければとあつて、同じ歌の初の句を「宇治川の」と替へて傳へてゐた（蟄居紀談）。奧州ではその地名を「逢隈の」と改めて、宗祇戻りの記念碑を建て（福島縣誌）、近江の曾束では、和泉式部と里の童との歌問答、播磨赤穗のうるか堂では、これを小式部との母子再會の話にして居る。これ等の出處はもと一つで流傳は多人數の手によつて久しい間に爲し遂げられたのであらう。これは一見記録文藝の勝利を意味し、民間の空想はひたすら少數者の指導に追隨したやうにも見えるが、背後の原因は今もなほ指摘し得るものが無しとせぬ。第一にはこの種の語り事を地方に頒布して、生を營む男女が數多く、しかもその群には統一があつて、中央には所謂「話の種」（別項）を供給する機關があつたらしいことである。第二には國民の歌(289)章を尊重する氣風が、必ずしもその藝術鑑賞と併行しなかつたこと、平たくいへば如何なへぼ歌でも、歌だと思ふと心を和げて迎へたことである。そのために歌を中心にした昔話が、日本では特に久しく流行してゐた。うるかの歌などはその中でもよほど精巧な部であつて、これ以外にも西行法師が閉口し、宗祇が行脚を止めて戻つてしまつたといふ類の歌には、隨分と粗末なものが多い。これが新舊入交つて百に近い變化を示してゐるが、何れもその骨子は神童の叡智、乃至は賤の女、草刈男などの意外なる才能で、これを見侮つて物を言ひかけて驚歎すると、實は某明神の權化であつたといふ類の、謠曲の結構にも最も頻繁に用ゐられてゐる結末を示す。遠く根源に溯れば我々の信仰が、兒女の憑語によつて神靈の意思を判斷した慣習と、斷つべからざる關係をもつて居たらしい。その信仰の變轉と共に、説話は次第に人の心を樂しましむるに專らとなり、從つて競うて新意を出して興味を添へるやうになり、その資料を中古以來の秀句に求むるに至つたので、西行上人の民間の人望などは、大半はかゝる俚俗の説話鑑賞に養はれてゐたものであつた。しかもその起りは存外に古く、足利時代に筆録せられた色々の逸話集は固より、更に家々の聞書の類から轉載したかと思はれる撰集の歌の中にも、たとへば江口の遊女との贈答といふが如き、説話味に富んだものも少くない。女流に在つては和泉式部も亦その一つの型である。（和泉式部〔傳説〕參照）

　

(290)　　　　　大話（おほばなし）

　

　民間説話

〔名義〕　關東では「いかい話」などともいふ。大抵は至つて猥らな、男女の私事などを説いて大に笑ふのを、大話と云ふことになつてゐるが、最初はただ法外に大きな有り得べからざる事を語り、その空想の奇に興じたものが、追々と新しい話の種を求めて、比較的流布の力の乏しい猥談の方へ走らうとしてゐたのであらう。

〔解説〕　童話の領域にも色々の大話はあつた。或は「莊子」の逍遙遊篇などの、飜案かとも思はれる南海の大海老の髯に宿借りた話、それから七億婆の落し話のやうに、確かに近世に入つて追加せられたものもあるが、初期以來の話の種もまだ色々傳はつて居る。たとへば常陸の大櫛岡の巨人は、地名説明の傳説に化して居るが、少しく北へ行くと、これと同じ話は陸前の霞狼山、その他にも説かれて居り、他の府縣の巨人傳説の中にも、これに近いものが極めて多い。扶桑木の各地の傳説の如きも、その形式から考へると、元は一つの民間説話であつた。それがいつの間にか「話の種」（別項）を落してしまつて、事實の片端のみを土地に留めたのだといふ事は、越後八石山の豆の木の話からでも類推し得られる。一畠の大豆が皆拔き棄てられて、ただ一本殘されたのが大木になると云つたり、又は一本の茄子が成長して青雲を貫き、それを梯子にして昇つて行くと天の座敷で親子の神樣が、その實を採つて賞翫してゐたといふなどは、何れも最初から笑つて聽いた話で、内容よりも寧ろ話術と題材とが、後々發達すべき傾向を持つて居た事と思ふが、これすらも決して新たに笑ふために作り設けられたものばかりではなかつた。例へば三河の犬頭蠶の由來と傳へられたたつた一匹の大きな蠶の話等も、既に「酉陽雜俎」の朝鮮の打出小槌の條に出て居り、又陸奧氣仙の百匹塚の牛の話にも變化して居る。何れも貧富二人の兄弟の、福運の移動を語らうとしたもので(291)あつた。大話は要するにこの類の奇瑞に興味を集注して、次第にその點のみを誇張するやうになつたのが始めであらう。近代の民譚の中では、鴨に引かれて天上した話などが、一つの面白い型である。水に落ちると泥鰌が裾ばさみの中に一杯になる。岸に上がらうと思つて?んだのが手負猪の脚で、その猪は苦しまぎれに土を掻いて、敷十本の山の芋を掘り起してゐた。或は又鴨の足が田の水に凍りついてゐるのを、手捕りに百羽捕つて腰に結はへると、忽ち朝日が照つて氷が解け、鴨が羽ばたきをして天を飛び、奈良の東大寺の五重塔の尖に落ちて來る。大きな風呂敷をひろげさせてその上へ飛び降りると、人足が鉢合せをして眼から火が出た。その火がほくちに移つて塔が燒けたといふ風に、次から次へと大嘘を連發して行くところに、殊に世を忘れるやうな大笑があつたのは、恐らくは又初期の民譚の一つの特徴であつたらうと思ふ。黄表紙類の滑稽文學の中には、この群衆の興味を繼承しようとしたものが少なくない。しかも本來は笑へば目的が達するのだから、何も手數をかけてそれ迄の皮肉な空想を働かすにも及ばぬといふことになつて、實際の笑話はいつとなく簡單で奇警なものに移つて行つた。下品といふ點を忍べば、下がかつた話は效果が常に多かつた。それで「いかい話」の内容は墮落したのである。

　

(292)　　　　　大人彌五郎（おほひとやごらう）

　

　傳説

〔名義〕　巨人をオホヒトといふのは、古くからの日本語で、今も天然の窪地を大人又は大の足跡（オホノアシアト）と呼ぶ例が全國には非常に多いのだが、いつの頃よりかその言葉が、二種のやゝ異なるものゝ名に分化して居る。その一つは東日本に於て天狗又は山男をオホヒトといふもの、これも普通の人間よりは大分大きいと信ぜられたが、固より富士の山を背負つて行かうとしたダイダラ坊（別項）などに比ぶべくも無い。他の一つは九州の南部に於て、祭禮の儀式に列する人形であるが、これもさう大きくは作り立てることが出來なかつた。この兩者には何等かの關係があらうかと思ふが、現在はそれがまだ明かになつて居ない。彌五郎はこの九州の大人の名である。この彌五郎の名は、石見國などにも傳はつて居た。又大人とは言はないが、祭に彌五郎といふ人形を列せしめる風習は東國の方にも獨立して行はれて居た。尾張津島の天王社の末社に、彌五郎殿といふのはこの土地の名族、堀田彌五郎といふ者の祀り始めた社だといふ事に、現在の社記には記されてあるさうだが、近國の信徒たちの信じて居る彌五郎は、最早疾疫の際に、この郷社からわざ／＼お迎へ申す藁製の奇拔な人形であつた。これを九州の大人彌五郎と同樣に、擔ぎ廻つて終りに村境へ送り棄てゝ能く郷中の災害を禳ひ得べしとしたのであつた。そして大人彌五郎の五郎も「鎌倉權五郎」の五郎と同じやうに、共にこの大神の力によつて管理せられて居た御靈のことであつたのを、次第に或一人の名の如く考へるやうになつたものらしい。それが嘗ては大空を笠とし、山を腰掛として滄海に足を洗つたといふやうな、無類の巨人までを包容してしまつたのは、信仰の上からいふと大きな發達には相違ないが、その爲めに日本人の自由なる空想は、永くこの方面から萎縮することになつた。

(293)〔解説〕　九州の大人にも往々にして山作りの話はあつた。朸が折れ簀の土がこぼれて、後に出來たと稱する二つの小山などもある。併しそれが多くの神社の傳説の中に入つて來たのは、これとは全く別の理由からで、少なくとも今ある記録では、大人は嘗て兇暴を逞しうして、主神によつて征服せられた事になつて居る。さうして祭の日にその人形を擔ぎ廻るのも、伊豫の牛鬼や羽黒の大蛇などと同じやうに、初期の大事件を再演するの趣旨であつたらしく、式果てゝ後に人形を分解して、これを滅却するのが一つの目的であつたやうである。大隅國でこの祭の行はれた社は、何れも皆八幡宮であつた。國分の正八幡では今その例は絶えて居るが、中古の社傳にはこれを解説したものがあつて、謂はゆる隼人討伐の歴史と結び付けようとして居る。村々の社に於てもこの表向きの言ひ傳へに從うて、大人隼人の名を用ゐるものが往々にしてある。而も民間で今なほこれを大人彌五郎と稱へて居る。八幡の信仰の牛頭天王と共通なる部分は、石清水に勸請せられて以來段々に薄くなつたやうだが、なほ民間では今も厄拂ひの祈願をこゝにかけて居る。地方にこの神の御社が多くなつた原因は、八坂・北野と共に惡靈を統制する力が、特に強烈であるのを仰いだことに在つた。八幡では夙くより聖靈會などと稱して御靈（ゴリヤウ）といふ語を用ゐぬやうにして居たが、一方には、今宮・若宮の思想を以て、事實世上のために有害なる多くの亡魂を配下に屬せしめて鎭撫するといふ役目は、却つて專門の諸社よりも大きかつたやうである。なほ津島に傳へられた彌五郎の方はこれと反對に、社傳の變化のために、その統御から解放せられて、地方は再び獨自の傳説を作り出す必要を生じてゐる。而もさういふ變遷は以前にも折々はあつたので、雨乞ひ・蟲送り等の人形祭の中には、村の鎭守の社に管理せられて居るものと、住民が自らこれを經營するものとがあつて、傳説は却つて後者に於て發達して居る。齋藤別當實盛の靈が、ウンカの將軍となつて、總勢引連れて遠くへ行つてしまふなどといふ傳説は、到底一二の大社に於て、斯くまでの流傳の端緒を開くことは出來なかつたであらう。九州南部の大人傳説が半分は關東・奧羽のダイダラ坊と一致して居るのを見ると、これも彌五郎と名を附與せられる以前、既に一般的呪法の解釋として、最も奇拔なるもの(294)が發達して居たのを、偶々八幡神の新たなる信仰が收容されて、これを自分の教理と結び付けたのかも知れぬ。

〔參考〕　郷土研究（四ノ一〇）

　

(295)　　　　　お銀小銀（おぎんこぎん）

　

　昔話

〔名稱〕　東北地方では「お月お星」又は「おりん子小りん子」の話などと呼んでゐる。共に話の主人公である姉妹の名による。

〔内容〕　「粟袋米袋」「紅皿缺皿」（各別項）等と同樣に繼子いぢめの話であるが、これ等にあつては妹が母を笠に着て繼子の姉をいぢめるが、「お銀小銀」の話の方では、妹の小銀は優しくて始終姉を庇ふ事になつてゐる。東北地方の「お月お星」の話では、母がお月を石の唐櫃に入れ山奧の谷に埋めに遣ると、妹のお星は罌粟の種を一袋、そつと手渡して途々それを零《こぼ》させる。春になつてその種が芽を出し花咲く時、それを知るべに妹が尋ねて行くなどといふ挿話もあり、或は二人の子が遁げて人に救はれてゐる所へ、父が悲しみの爲めに盲になつて、お月お星があるならば、何しにこの鉦叩くべな、と歌ひながら、探しに來るといふ一條も、よく附加せられてゐる。又惡い母親が父の留守に二人又は三人の先妻の子を虐殺した話なども、（古く「今昔物語」にある例は實子を世に出すためであつた）恐らくはこれも「お銀小銀」の一つの展開であつたらう。これ等の話では繼母の惡性が殆と鬼婆に近く説かれてゐる。そのあはれの中心となつてゐたのは、父が旅立ちの前に、色々のお土産を子供に約束する。それを待ち焦れてゐる者を欺いて、煮湯を湛へた大釜の上に、蘆の莖の橋などを架けて渡らせ、墮して殺した上で裏の庭に埋める。父が戻つて子供のゐないのを訝かつてゐると、鶯が裏の木に棲《とま》つて父戀しと啼いたといひ、若しくは埋めた土から竹が生えて、それを笛に切つて吹くと、櫛も紅も何もいらぬ、唯とゝ樣の顔が見たやといふ音がしたなどといつてゐる。

(296)〔解説〕　日本の繼子譚は、可なり特色のある傾向を取つて、早くから變化してゐた。「粟袋米袋」の實子、即ち「紅皿缺皿」に於ては、紅皿の名で呼ばれる娘は、まだ姉をいぢめる役に廻つてゐるが、この話と前半を共通にしてゐる「お銀小銀」の話では、妹の小銀は姉を庇ふやうに變つてゐる。この例はまだ外國では注意されてゐない。尤もこれにも幾つかの階段があつて、本《もと》の子が愚かで母の言ふなりになつてゐるもの、又は唯折々姉の肩を持つといふ程度のものは、「粟袋米袋」の話にもある。それが後には一所懸命に姉の庇護に任ずるやうになり、繼母の殘虐がいよ／＼濃厚に説かれるやうになる。説話の成長を物語る興味深いものである。（粟袋米袋參照）

　

(297)　　　　　御伽噺（おとぎばなし）

　

〔名義〕　伽の折に話される話の義。この語を童話といふ意味に使ひはじめたのは新らしいことである。「とぎ」といふ言葉の語源は不明であるが、眠らないでゐる意味を含むことだけは確かである。凶事のあつた家などに人が集まつて、夜通し起きて居るのを通夜といふ代りに、「とぎ」「夜伽」といふ地方も多い。或は佛事には通夜と云つても看病などの徹夜だけは「とぎ」といふ土地もある。「伽」といふ字を宛てたのも、多くの人が參加しなければ自然の睡眠を防ぐことが出來ないからであらう。參加を「かたる」と言ひ、話をすることも同じく「かたる」といふのも、つまり話をすることが、睡を退ける主なる手段であつたからであらう。

〔解説〕　御伽の衆といふのが、足利時代以後の大名の夜の話相手であつた。それを同朋とも伽坊主とも「咄の者」とも云つて特に談話の技能ある者を、その爲めに扶持してあつた。日本の民間説話はこの御伽の衆によつて整理せられ又修飾せられた。御伽噺は多分それ迄の昔物語に比べると、質量共に著しい變化があつて、それに新名稱を附與しても差支なかつたのであらう。大體に話術の洗練に比べて、話の種のまだ豐富で無かつた事は想像せられる。それには軍陣行旅の夜警その他、人が起き明かすべき場合が多くなつて、同じ話をくり返すのを避ける以上は、何としてでも話の數を増す必要があつたのであらう。最初には異なる地方の説話を採集し又交換したであらうが、それでは足りなくて書物殊に佛典の讐喩類をあさつたらしい。才氣のある者がその材料を換骨奪胎して、次から次へと新味を添へて行つたことも、亦一つの御伽噺の特質であり、それから主と仰ぐ人の機嫌を取る爲めに、力めて笑話の方面に進路を求めたこともまた疑がない。この點からいふと、御伽噺は同一階級内の話者と聽者、若しくは長者より後進に説き聽かす昔話などと、その色合を異にしたのは當然であつた。しかも年月を經るまゝにこの方が流行(298)の表層を占めて、終に民間の説話にまで發展し、一般にやゝ輕薄な滑稽、若しくは誇張に過ぎたる無智無學の人の逸話などが昔話の主要なるものの如く考へられるに至つた。以前この國に久しく行はれてゐた民譚は、この際に於て多く消え、多く改造され、又は田舍の隅に押遣られた。さうして文筆に携はる者もこれを省みなかつたのである。御伽の衆を出入させる風が段々に廢れて、御伽何々といふ話の本がその代りに出版されることになつた。これも大抵は支那小説の燒直し、若しくは誠しやかなる作り話であつて、未だ兒童を讀者とする事を豫期して居なかつた。それが一轉して今日の如く、最も子供らしい童話だけをさう云ふことになつたのは、昔話を消閑の手段にする必要が少くなつたことに原因すると見るより外は無い。即ち我々の生活は多忙となり、又次第に單調でなくなつたから、無聊のために人を集めて話をさせる機會も少く、又集まつて徹夜をすることがあつても、もはや昔話を以て睡魔を驅る必要が無くなり、從つてこれを伽とは言はなくなつたのである。さうして御伽噺が、ただ小さな者だけの御相手をする文藝の如く解せらるゝに至つたのである。

　

(299)　　　　　鬼ヶ島（おにがしま）

　昔話

〔解説〕　「玉葉」卷十、承安二年七月九日の條に、去頃伊豆國｜出島《いづのしま》に上陸したとある鬼形の者に關する聞書がある。これに就いては「疑是蠻夷之類歟」と同書にも推測して居る位で、事實は多くの國人の實驗した所であり、浮いた風説では無かつたのである。「古今著聞集」第二十七の所録も、日附に若干の誤りはあるらしいが、その蠻人の風貌動作を述ぶること、更にこれよりも詳密なるを見れば、當時別にこの異變を傳へた材料に據つたことは確かである。「百錬抄」卷八「隱岐島鬼形童出來之由」とあるのも、前の二書と引合せて、同じ事實を意味したことがわかる。兎に角これは非常な大事件であつた。或はその前後に他にもあつたかは知らぬが、これほどまで世に知れ渡り、衆人を驚倒させた例は殘つて居らぬやうである。我々の民間説話の鬼ヶ島の空想、海の彼方に異類のものの住む島があるといふ事は、遠い大昔から持ち傳へて居たといふよりも、寧ろ新たにかういふ出來事によつて、刺戟せられて起つたのでは無いかと思ふ。「保元物語」の爲朝鬼ヶ島渡りの條などは、綱の如き太布を着て刀を右に佩びて居るなど、極めて具體的の敍述をして居るのが、單なる文筆の巧とは考へにくく、しかもこれが後代の鬼ヶ島話の一つの出發點にもなつて居たやうである。日本は洋上の國であつたに拘らず、鬼の住家は普通には深山の奧と考へられ、鬼ヶ城といふ名稱は、大江山その他の冒險談に用ゐられて居る。その「じやう」といふ日本語ももとは城のことで無く、門又は境を意味して居たので、即ち人間と隣を接してかういふ怖ろしいものの領分があるといふのが、一つ以前の考へ方であつたらしいのである。「おに」といふものの觀念の各時代の變遷を承認した上で無いと、我々の昔話の發達の跡は尋ねる事が難い。「今昔物語」の中に出て來る鬼等は、もう餘程支那の文學から牽制せられて居(300)るやうである。

　

(301)　　　　　竈神の本地（かまどがみのほんぢ）

　

　民譚

〔内容〕　幾つかの奇怪な説話が、かまどの神の由來に就て語られてゐる。もとは竈の祭に仕へる者が、その折ばかり來て誦んだもので、少なくともその外形に於ては、非常に神話に近かつたものと察せられる。さうしてその中の一つは發生が可なり古く、又記録の文藝の上にも感化を與へてゐた證據がある。袋中上人の「琉球神道記」に載せられてあるのは、近江國の事と傳へられる。福分の豐かなる女と貧苦の運をもつ男とが婚姻して、最初には女の力によつて富み榮えてゐたのが、夫の心得ちがひから妻を送り出して、一方は長者に嫁し、他方は零落した。後に再會して身を恥ぢて男は死んだのを、そのまゝ竈の後に埋めて祭つて神としたといふのである。

〔解説〕　この話の普通の樣式、即ち北は岩手縣の各地、南は沖繩縣の國頭郡、宮古島などの例にまで一貫してゐる特徴は二つある。その一つはこの男女の生れた晩、雙方の親は山中又は濱邊に相宿して、人の運勢を定め給ふ神の語を洩れ聞いたといふこと、宮古島ではそれが寄木の神であり、内地は一般に山神と道祖との問答になつてゐるのを見ると、初めから燃料といふ事に關係があつた。次には女が二度目に縁付いた男が炭燒きであり、婚姻と共に忽然として莫大の黄金を發見したといふ「炭燒長者」の話に、しつかりと結び付いてゐることである。併しこの三點を續けて語る時は、餘りにも話が長くなるためか、袋中の記文には既にこの部分は略してゐるが、前の夫が恥ぢて死に、それをその場に埋めたといふだけは、幾つもの話に共通してゐるのである。「大和物語」の彩筆によつて、京の貴人の妻と謂ひ、津の國難波の浦の哀れなる歌物語として、永くあしかりけりの秀句を傳へてゐる一條なども、その最初の「話の種」が却つてこれに在つたことは、偶然ながらも貧しい前の男が、「人の家に逃げ入りて、竈の後(302)方にかがまり居りけり」とあることから推測せられる。即ち「大和物語」が結集せられて世に現はれる以前、既にやゝ久しくこの説話は行はれ、且つ少しづつ崩れ移らうとしてゐたのであつた。

　

(303)　　　　　庚申講と昔話（かうしんかうとむかしばなし）

　

〔解説〕　カノエサルの日の夜は三尸と稱する身の内の神が、天に昇つて本人の罪咎を報告しようとするから、この一夜は睡らないがよいといふ俗信は支那が元である。それが我が國にも輸入せられ又實行せられた（拾芥抄）。近世では青面金剛神、俗に庚申樣といふ神の信仰と合體して、久しい間農村の圃體生活を支配してゐた。庚申講は即ちその結社集會の名であるが、それが偶然にも我が國の民間文學の發育と保存とに、大なる功績を立ててゐる。この講中の最も重要なる約束は、六十日目に一夜づつ當番の家に集まつて來て、飲食談話して夜明かしをすることであつた。この晩寢た者は、盗人の子を産むといふ怖るべき制裁さへ信じられてゐた。佛教も後にはこの習俗を管轄しようとしたけれども、未だその教理を以て徹夜の必要までは説明する事が出來なかつた。これは多分、一年何囘かの或日を定めて、終夜の祭をする風が前から有つたのを、干支《えと》の知識が入つてから庚申の日に一定し、後には又これを猿の神や?の神に附會したものであらう。土地によつてはこの庚申の代りに、甲子その他の日を用ゐるものもあつて、一般にこれを日待と謂つてゐる。日待は昇る日を待つといふ意味の語では無いが、宵と曉と兩度の供物をするために、一夜を徹した事は庚申も皆同じであつた。これも通夜ともいひ又伽ともいつて、所謂御伽噺（別項）といふものの必要、即ち會衆を睡らせないやうに、長く且つ面白い澤山の昔話を、常に幾つも用意して置く必要があつたのである。最初は或は話を聽くことが、却つてこの集合神事の主要なる目的であつたかも知れぬ。その上に日待の晩になると思ひ出す話、又は庚申講の名を聞いて、聯想する昔話といふものが、特に幾種類か有つたやうに考へられる。例へば「八百比丘尼」（別項）といふ長命の美女が、人魚の肉を食うて不老不死を得たといふ話などは、丹後の乘原でも、越後の野積でも、會津の金川寺でも又紀州の丸栖村でも、共に庚申講の晩に、不思議の神人から(304)贈られた食物であつたと傳へてゐるのである。かういふ暗合は是非とも注意をしなければならぬ。庚申が特に、異人の食物を餉《おく》り來る晩で無いとしても、少くともこの昔話は、?々庚申の夜のまどゐに於て、語られて居たことは想像し得られる。

　

(305)　　　　　口碑（こうひ）

　

〔意義〕　今でも、口碑といふ語を傳説（別項）と同じ意味に、狹く使つてゐる人も少くないが、口碑は言語記念物、即ち人の言葉にのこる前代生活の痕跡の全部であると廣く解するのが穩かである。

〔解説〕　個々の民族が有する民間傳承（Traditions Populaires）は、當然これを三部に分けることが出來る。その一は、眼に映ずるもの、即ち一語をも解し得ない異種人が遣つて來ても、直ぐに寫眞を取り手帖に記載することの出來るもので、その二は、共に住み永く一つの環境に成長した者でなければ、觸れても感ぜず、疑うても問を掛けられない心意の働き、外國の觀察者は勿論のこと、同胞國民でも立場が異なると、?々把捉を困難とする感情である。この二つのものの中間に在つて、耳から入つて來て、自然に我々に知らせる部分、即ち熱心なる言語學習者ならば、外人でも殆とその全部を學び取ることの出來る口頭傳承といふものが、分量においては恐らく最も大きく、また久しい以前から一括して考察せられてゐる。それに口碑といふ總名は、似つかはしくまた格別の故障がない。音樂は三部の何れに入れるか、又は心意の傳承を觀測するにも、やはり言語を手段とするのはどうするか、或は三類複合し、また關聯する場合は如何などの煩はしい問題は省略して、爰には唯その口碑はどれだけの種類があり、又どう順序を立てて置くのが便利かを述べて見る。先づ最初には、口碑の中心の如く認められてゐた（一）傳説がある。次には、　　　屡々これと實質を同じくして、ただ幾分か樣式を固定してゐる（二）民譚（別項）、即ち民間説話、これが怪談奇談や笑ひ話、もしくは特に古形を存した童話などに小別し得ることも、爰には詳しく述べない。次には民譚よりも更に外形を重んじ、しかも内容は互に行き通うてゐる（三）語り物、もしくは、歌物語といふものが數へられる。神話（別項）がもし當初の純な形を保持してゐるならば、勿論別に一項を立てなければならぬのであるが、(306)今ではその本旨が明かでない場合が多いから、單に外形によつてこの中に包容せしめるの外はない。次には（四）歌謠即ち音樂に伴うて、形を整へられた綾言葉が入つて來る。語り物の多くは、亦同じ樂器を使ひ、且つ往々にして歌謠をも中に挿んでゐるが、兩者の差別は舞と踊との差の如く、詞章と曲節との何れを主とするかによつて、かなり明かに立てることが出來る。文句の長短、敍述の詳略も、幾分かは兩者分界の標準とすることが出來る。今日我々の民譚と呼んでゐるものには、實は雙方を混同して居るやうである。その次に來るのは（五）唱へごと、詞章は固定して受け繼がれ、また平常と異なる音聲を用ゐることにはなつてゐるが、音樂の拘束はまるで受けてゐない。唱へごとの目的は、もとは幾通りもあつて、それによつて種々の表示法があつたやうだが、今では成人の間には殆とその必要がなくなり、殘つてゐるのは號令位なものである。これに反して小兒は遊戯のために、まだ種々の唱へごとを傳へて居り、それが多くは過去の成人の用ゐたものの摸倣であるところに、蒐集の意義は殊に多い。これを童詞と名づけて別の項を立て、もしくは歌謠の末に列ねようとする者もあるが、共に誤つてゐるやうである。（六）呪文即ちまじなひの言葉も、唱へごとの一種と言へぬこともないが、その多くは聽き手を狹く限り、相手以外の者に知らせることを欲せず、又は相手にすらも聽かせまいとすることが、他の唱へごととは異なつてゐる。（七）謎と（八）諺との二つは共に言語の有力なる效果を期する點が唱へごとに近く、その選擇と配合に多くの技巧を費したことも相似てゐるが、一方は出來るだけ意味を捉へにくゝ、他の一方はこれと反對に出來るだけ誰にも理解せらるゝを以て主眼としてゐた。最終になほ一つ、これは今までの口承文學（La Literature Orale）といふ中には算へられなかつたが、（九）他の種々の言語の利用法も、やはりこの口碑の列に加へて然るべきものである。これも二つに小別して、一方は言葉使ひ、後に熟語となり又流行語となつて、癖の如く盛んに使用せらるゝもの、動植物などの人の親しみ視るものには、かういふ原因から名の改まる例が多い。他の一方は謂はゆる固有名詞、人が新たに他には無い名稱を設け備ふべき必要のある場合は、これこそ最初から永く保存するのが目的である故に、最も口碑(307)といふ名に似つかはしかつたのである。或は今日の謂はゆる方言の全部が、すべて前代生活の痕跡だといふ事も出來るか知らぬが、その中には、單なる誤謬轉訛に出でたものも交つてゐるから、言語技術の歴史に於ては、先づこれを第一次利用者の意圖に出でたものに限るのが至當であらう。

〔參考〕　口承文藝大意 柳田國男（岩波日本文學）

　

(308)　　　　　米倉米倉（こめくらこめくら）

　

　昔話

〔解説〕　昔々正直な親爺が龍宮又は仙郷に招かれて、打出小槌や如意寶珠などを貰つて來る。欲しい物の名を口に唱へてその寶物を振ると、即座に現はれ出て長者になる。話はこの點までは遠い上代からの、我々の遺産であつたらしく、實際又色々の民族に流布してゐる。但しこれだけでは説話が古臭く、活き活きとしないので、次々に珍しがらるゝ新な想像が附け加へられた。即ち個々の民族の才分はこれに表はれ、時代の社會相も亦この間に反映してゐるのである。通例は、その親爺が後に心弛み、又は連れ添ふ女房が心がけよろしからず、或は隣に物羨みをする強慾爺があつて、強ひてその寶物を濫用して失敗し、また新なる葛藤が始まるのであるが、日本ではそれが夙くから夢を信じない者の「笑ひ話」に變化して行かうとする傾向を見せてゐた。米倉米倉などもその一つの特色ある例である。欲しい物は米と倉だと思つて、頻りにその語を唱へて小槌を打つと、思ひ掛け無く澤山の小盲が飛出して來て、食はせよ／＼と言つて爺を責殺したといふ話、これなどは單なる口合ひとしても面白かつたらうが、話の改造者が實際は盲人の説話を業とする者であつたので、特に聽衆に大きな興味を與へ、永くこの新しい形態を流布せしめたやうである。盲人で無ければ考へつかなかつた話、もしくは旨人の話なので一層面白く聽かれたといふ話は、注意して見ると數多く殘つてゐる。笑話には更にその例が多く、たとへば座頭の長座を憎んで、召仕の者が出口に才槌を吊して置くと、八人の盲が頭をこれに打付けて歸つて行く。御坊何時であらう。はて今八つの頭を打つたではないかといふ類の落し話、又は吝《しは》い亭主が餅を惜しんで旅の座頭に食はせないので、狂歌を詠む。「餅つくと目にはさやかに見えねども、杵の昔にぞ驚かれぬる」といふ類の秀句話、色々珍らしいものが傳はつてゐるが、怪談(309)の方も亦彼等の管掌であつたかと思はれて、耳切法一の耳を切られた話、越後折峠で大蛇のために琵琶を彈いた話、それから轉じては狼の尾に縋つて山から降りて來た話（日本昔話集）など、何れも話主をこの盲人としてゐるのである。米倉も必ずその傑作の一と信ずるが、殊に面白いのは民譚の成長が、これを以て終止しなかつたことである。例へば富士の山麓の米倉話は、長者がその多數の盲人の始末に困つて、手毎にコンドシ（篩）を持たせて、加島から土を運ばせたと言つて、そこに長者の菜畠の遺跡があり、後にその盲人が不用になつて、投げ込んで殺したといふ長者が池もあつて、そこには片目の鮒が住んでゐる（甲斐昔話集）。即ちこんな「笑ひ話」すらも、土着して傳説に化しかゝつてゐるのである。或は盲人に片目の鮒は釣合はぬと見たか、別に頼朝のために誅罰せられた長者の傳説があり、丁度常陸の袴塚長者と同じやうに、長者の威勢を以て一日の中に千人の片目の人足を揃へたとも語つてゐるが、共に最初簡單なる米倉の昔話が持ち運ばれてゐなかつたならば、發生し得られぬ傳説のやうに思はれる。兎に角、座頭は説話の運搬によつて衣食の資を得べき職業であつたから、改造布衍の趣向は概して自嘲被笑の方針を取つてゐた。それが彼等を中心とした笑話の多くある原因だと思ふ。

　

(310)　　　　　山莊太夫（さんしやうだいふ）

　

　傳説

〔名義〕　山莊太夫の名稱はこの話に出る丹後由良の長者の名前から來てゐるが、古くは單に由良の長者とだけで、山莊太夫とは云はなかつたものであらう。「さんしやう」の字面も、三莊・山桝・三枡・山椒などと宛ててゐる。古く土佐國には、山庄太夫と稱する一階級の人民が住んでゐたといふ事を初めとして、各地に算所《さんしよ》・山莊《さんしやう》・産所《さんじよ》・山所《さんしよ》などと稱する者があり、皆山臥・陰陽師の類であつたが（山莊太夫考、郷土研究三ノ一）、これ等は卜占・析?の表藝の外、或は祝言を唱へ歌舞を奏して合力を受け、更にその一部は遊藝賣笑の賤業にも從つた。即ち山莊太夫の名目は、最初この由良の長者の話を語つて歩いたのが、この「さんしよ」の太夫であつたので、いつの世にか、これを曲の主人公の名と誤解されるやうになつたものかとも考へられる。

〔解説〕　寛永版の説經淨瑠璃「さんせう太夫」によれば、大體話の筋は次のやうである。

　奧州五十四郡の太守岩城の判官正氏、帝の御勘氣を蒙り筑紫へ流され、その子安壽姫・對王《つしわう》丸は母と共に父を慕つて行き、途中越後國直江の浦で、山岡太夫といふ惡者に欺かれて、人買の船に賣渡され、母は佐渡で足の筋を切られて、粟の鳥を追ふ奴婢とされ、安壽姫・對王丸は丹後の由良港の強慾無殘な三莊太夫といふ長者の僕婢となつて酷使された。安壽姫は弟を思ひ家を思つて我が身を殺して弟を遁す。對王は虎口を遁れて都に上り、清水寺に參籠して觀世音に祈願し、貴人に見出され、その養子となり、その計ひで父の罪も宥され、又佐渡の母をも救ひ、三莊太夫等を罰した。

　この話の古い形が果して如何なるものであつたかは、今日なほ詳かでないが、この話の原の形は、やはり單なる(311)長者傳説（長者屋敷參照）であつたらう。これを長者傳説として見れば、長者の名が山莊太夫といふ外に、これといふ特異の點もない。諸國の長者の話には朝日と夕日との二面がある。多くは原因を信心と善根の有無に歸してゐるが、一方には極度の幸運によつて一朝にして巨富を得た者と、他の一方には然るべき因縁があつて、さしもの大分限が夢の如く退轉して了つたと云ふ話とが語られる。山莊太夫は即ち右の長者没落の一の例であつて、これに伴ふに對王丸の不思議の立身談を以てし、大體の形式はよく整つてゐる。長者が没落して行く因縁話には樣々なものがあるが、山莊太夫の如く、慈悲に乏しく下人を酷使した爲めに滅びた例も段々ある。現に奧州｜膽澤《ゐざは》の掃部《かもん》長者などもその一つである（郷士研究二卷）。慈悲と謙遜とは觀音・藥師などの最も重んじ給ふ所である。加ふるに信仰と祈念とを以てした對王丸は高い官禄を得たので、これも「今昔物語」以來、貧民が出世した普通の道筋である。次に岩城判官の三人の遺族が人買に買はれたといふ話も、少し複雜ではあるが説明が出來る。貪慾なる長者が富を得る手段として惡い事をした話は、纐纈城《かうけつじやう》の筋を引いた播州姫路の平野長者の類が少くない。但しこの場合に、被害者が安壽姫・對王丸であることは、何か吾々に分らぬ別の仔細があることと思ふ。岩城判官の居館は、寛永の淨瑠璃には奧州信夫郡とあつて今の福島縣らしいが、北奧の青森縣では彼は津輕から出た人と傳へ、今でも丹後の國の船が寄港すると、岩木山の神の憤りで天氣が荒れるといふことが多くの書に見えてゐる。又近い頃の弘前の人の話に昔この邊に同胞二人の娘があつて姉の方を安壽姫と言ひ、山莊太夫のために苦しめられて遁れ出で、一人は東へ行つて小黒《こぐれ》山に登り、一人は西に走つて岩木山に入り山の王になつたといふ（共古日録卷十六）。山莊太夫があれ程有名である以上、後人の訛傳とは認め難き話の相違である。兎に角この兄弟の話の奧には、例の花萩中納言の子少將の話などと同じく（柱松考、郷土研究三ノ一）、流人の子が親を慕ひ、その臨終に逢ひ碍ずして後に供養をしたといふ一段が含まれてゐたことはほぼ確かである。而も岩城判官正氏が如何にも芝居の殿樣然たる名である上に、奧州の大名が九州へ流されるなどは有り得べき話でないから、これは王孫沈淪の悲劇を濃厚ならしめるまでの脚色かも知(312)れない。一體山莊太夫の話の中で最も身に沁むのは、盲目の母親が鳥を追ふ一段である。「あんじゆ戀しやほゝらほい、つし王こひしやほゝらほい」、この唄は人々の涙を誘はずには措かなかつたらう。前半は石童丸に、後半は梅岩丸に、よく似通つた幾多の脚色は、或はこの鳥追の歌を中心として敷衍せられたのではなからうか。若しさうだとすれば、舞臺は違ふが謠曲の「鳥追舟」などは、既に又その一先型であつた。こゝに注意すべきは、山莊太夫に限らず多くの長者没落譚には、農作に關する話題を伴つてゐることである。殊に鳥追は田植に次いで、農村生活に於て重要な地位を占めてゐた行事であるから、かく長者の話に結びついてゐることは寧ろ自然であるといつていい。そしてこの話などもこの唄によつて人の心に植ゑつけられ、信ぜられて傳説となつたものであらう。なほもう一つは、早乙女の死んだといふ話が長者傳説には伴ひ易いと考へられる點があるので（山莊太夫考）、若い安壽姫の非業の死、竝にその母の盲目にして鳥を追ふといふ哀れな話も單に由良長者の口碑として不調和な取合せでないのみならず、寧ろ山莊太夫の由來を明かにする良い手掛りであると思ふ。勿論淨瑠璃の山莊太夫となるまでには多くの脚色を經てゐるにしても、これ等鳥追の歌や、早乙女の話の如きは、後代の技巧が到底偶然には添附し難き部分であるのを感ずる。尤も實を言へば、これ等鳥追の歌や早乙女の話は、長者の滅亡退轉とは寧ろ調和の出來ぬ事柄であるから、多分はこの長者傳説が、その最初の形、即ちその榮華繁昌を傳へられてゐた時代から、長者に附いて廻つてゐた口碑の一つであつたらうと思ふ。

〔參考〕　山莊太夫考（郷土研究三ノ一）

　

(313)　　　　　酒泉傳説（しゆせんでんせつ）

　

〔解説〕　今ある日本の酒の泉の古跡といふものには、多分よその國には見られまいと思ふ特徴があつて、それがほぼ各所に共通してゐる。例へば、「阿波傳説物語」に採録せられた寶田村大日堂の靈石では、昔一人の魚賣の男が、毎日この石の穴から滴る清水を飲んで、醉つて歸つて來ては女房を擲るので、女房が恨めしがつてその跡をつけて行き、この酒の泉を見つけて汚れ物をこれに投じたので、それを限りにもう湧かなくなつたといふのだが、よく似通つた話は沖繩本島の南部にも一つあつたさうである。下目黒の行人坂附近では、その醉つて歸つて來るのが長者の家の馬方であつた。主人がこれを知つて慾心を起し、一人で汲んで來て賣つて儲けようと思ふと、もうその時にはただの水であつたと傳へてゐる（十方菴の「遊歴雜記」）。「新編風土記稿」にある目黒千代ヶ崎の錢龜井の話は、多分同じ處の傳説かと思はれるが、既に千代といふ孝女が老いたる母のために酒を求めてゐたら、この泉が酒であつたといふことになつてゐる。これを美濃養老瀧の物語の同化と解する人は多いであらう。しかし所謂養老孝子譚は著名であり、古くは「古今著聞集」にも「十訓抄」にも、既に筆録せられてゐるが、なほそれよりも以前の形があつて、併行して口承文藝の間には永く殘つてゐたのかも知れぬ。それはかういふ傳説の變化を比べて見て、その自然の先後を察知することによつて、追々にこれを確かめ得られると思ふ。東日本に分布してゐる數多くの酒泉遺跡では、何れも一致して老いたる父が醉うて還り、その子が行つて掬むとただの清水であつたといふ話になつてゐる。越後萱峠の頂上にある「親皆酒の子は清水」、出羽から會津へ越える沓掛坂の「親は諸白子は清水」の茶屋など、旅人の聞いて珍らしがる話はよく似てゐた。東京の近くでは上板橋の西に在つた清水、文人の酒泉澗などと名づけてゐたもの、それから北多摩郡｜清戸《きよど》下宿の「こは清水」などもそれであつた。下總でも印旛沼の沿岸に記録に存するだけ(314)が五箇所以上あり、共に同じ口碑と名稱とを伴うてゐた。印旛郡吉岡にあつたといふたのなどは、「舊編佐倉風土記」には、漢文で子也泉と記してゐるが、話を見ればやはり又一つの「子は清水」であつた。通例｜強清水《こはしみづ》の文字を宛てた名水は諸國に多く、右の如き傳説は無くても大抵は皆神の泉であつた。或はこの水を以て神を祭る酒を釀す習ひであつた事が、偶然にこの種の昔語りを根付かしめるに都合がよかつたのでなからうか。何にもせよ我々の酒泉傳説が、曾て一般の靈異であつたとは言はずに、必ず或一人の特に惠まれたる者と、個人的に結び付けられてゐたのは意味があらうと思ふ。昔親孝行の子が親の求めによつて遠方の水を運び來り、途中で親既に歿すと聞いて、その水を棄てたのが、永く殘つて小さな湖となつたといふ傳説は、飛騨の中山峠の孝池水にもあり、これと極めて近い話は文題中西境の夫池にもあつたが、これ等は共に酒の泉ではなかつた。酒の泉の奇瑞の最も多く説かれてゐたのは、通例は昔話（別項）の方であつて、それが旅をする遊藝の徒によつて語り歩かれてゐたことが、諸國「こは清水」の由來譚の、これほど一致するやうになつた原因ではないかと思はれる。酒を見つけて長者になつた昔話は國々に多く、奧羽では鹿角のダンブリ長者が、蜻蛉に教へられて酒の湧く泉を見つけた話があり、又は蕪燒笹四郎が蕪を引拔いた穴から、泉酒が流れ出したとも謂つて、その「いづみざけ」の祝言歌は、弘く南北の端々にも流布してゐる。猿地藏といふ昔話は、或る正直爺が猿に招待せられて富貴を得たことを語るものだが、その石見國に行はれてゐる一例では、やはりその爺のみが谷に下つて水を飲むと酒であり、隣の慾深爺は眞似をして失敗したことになつてゐる（旅と傳説、昔話號）。我々の傳説が各地よく一致したものにはかういふ昔話の再土着といふことを想像して見ないと、説明し難いものがまだ幾らもあるやうである。

〔參考〕　孝子泉の話（郷土研究四ノ八・九）

　

(315)　　　　　頭白上人（づはくしやうにん）

　

　傳説

〔解説〕　頭白上人は生れながらにして頭の髪が白かつた。常州小田の古道に接した一軒の店屋に、毎夜餅を買ひに來る見馴れぬ婦人があつて、その歸つて行く處がわからない。後に新墓の底で、死んだ母に抱かれ、幼兒が餅を食つてゐるのを發見されて、その婦人の亡靈が土中で我が子を育ててゐるのを知つたといふ。これは常陸の筑波山下に傳へてゐる一例であるが、播磨・伊豫その他の諸國にも、大部分これと一致する言ひ傳へがあつて、何れも或る寺の開山の高僧の生ひ立ちといふ事になつてゐる。即ち縁起と稱する部類に屬すべき傳説である。筑波地方には、これを題材とした幾つかの小説も行はれ、結構は頗る小夜中山の物語と似てゐる。近代の草子類は、深窓の婦人を主たる讀者としてゐた爲めか、特に母性愛の描寫の哀切を極めたものが多いが、その中でもこの幽靈餅買ひの怪談は頻りに繰返され、單に土地の名と寺や上人の名を變へただけのものが多かつた。これはその初期の分布事情を暗示する有力なる材料である。記録の實證する限りに於ては、「奇異雜談集」に載せられた靈山國阿上人の逸話が最も古いやうであるが、それは同時に又餅とか飴とかを棚に陳ねて、見も知らぬ路上の人に賣るといふ習俗の、漸く普通になつて來た時代でもあつて、それより以前にはこんな話は實は起り得なかつたわけである。然らばこの傳説はこの際に新たに起つたか、さうでなければ古くからあつたものに、非常に著しい變化が加へられたかで、多分は後者であつたらうと考ふべき理由もある。所謂土中誕生の奇談の、現在知られてゐる數は何十個所とあるが、大體にこれを二つの系統に分けることが出來る。即ち一方は母の幽靈が飴餅を買ひに來たといふもの、他の一方は單に深夜に緑兒の啼く聲を聽いて、捜し求めて墓の底から見つけたといふもので、後者には母の執念といふ點が閑却せられ(316)てゐる。勿論前の分が興味は濃厚であつて、今でも何かの機會にはその方に引き付けられる傾きはあるけれども、話の現實味に至つては、實はこの方が一層乏しい。第一に生れたばかりの赤子が、餅を食つてゐたといふのが變であり、それ程靈のある母親が、化けて餅を買ひに行くより他の方法を知らないのもをかしい。これは葬法や死者に對する觀念の異なつた國から、やゝ不完全に飜案した一つの證據で、少くとも、その移入者等が抱いてゐた「昔話」の觀念が、普通の聽衆のこれに對する考へ方と、變つて來てゐたことを意味するのである。幽靈餅買ひの原型と謂つてもよい話は、支那の文獻から幾つとなく指示せられてゐる（南方隨筆・楓軒雜記）。日本の空想が偶然にこれと一致したと見ることは、この話の特殊なる構想がこれを許さぬので、從つて傳説にはかゝる國際的の文藝を取り入れて、再び或る特定の土地又は人物の事蹟の如く信じようとした場合もあることが、これによつて明白になつたわけである。

　

(317)　　　　　炭燒長者（すみやきちやうじや）

　

　傳説

〔解説〕　昔、内山の奧に、炭を燒いて獨り住む小五郎といふ貧しい若者があつた。都の某家の姫君、長谷の觀音の夢の告によつて、遙々尋ね下つて夫婦の語らひをする。その折に小五郎は姫から小判といふものを貰つて、それを持つて米を買ひに出かけたが、たま／＼水の上に遊ぶ鳥を見て、その小判を打ちつけたが、中《あた》らなかつた。さうして手を空しくして歸つて來たので、どうしてそのやうな惜しいことをするかと姫が言ふと、あんな物ならば炭燒く小屋の脇に幾らでも落ちてゐるとの答へに、二人は行つて見ると、果して滿山皆黄金であつた。それを拾つて來て一朝にして長者となつたといふ。この傳説は、豐後大野郡三重町、内山蓮城寺の觀音堂の縁起として、夙く文籍に録せられた物語の破片であるが、その分布の廣汎なことにかけては、全國中これに比肩するものが少い。而もこの地方には、この奇聞を詳述した「眞名野長者實記」などといふ數種の書があるばかりでなく、今もその事實を信じて金鑛試掘地として登録されてゐる。ところが、この物語はまだ中世の交通不便な時代から、既に國中の隅々まで、何人かによつて運搬せられ、それ／”＼の土地に土着して、拔くべからざる傳説となつてゐる。「海南小記」といふ書には、その主要なる例を列記してあるが、北は青森縣津輕の戸立澤（こゝでは、炭燒藤太が妻の暗示によつて黄金を發見したと謂つて、その由緒を記念した社もある）、山形縣山形市の吉事の宮、宮城縣栗原郡金成村の長者屋敷、福島縣信夫郡石那阪の吉次宮、及び信州薗原の伏屋長者の屋敷跡の四箇所では、やはり藤太といふ炭燒が同じ因縁を以て長者となつたと傳へ、而もその藤太は、金賣吉次三兄弟の父であつたと謂ふのである。もとは明かに國々を流傳した一箇の説話であつたと思ふが、それが何れも傳説に化して、土地の舊史の如く考へられようとしてゐ(318)たのである。それから他の一方には、遠州濱松に近い鴨江の觀世音、加賀金澤に近い野田の二子壕には芋掘長者の話がある。單に炭燒藤太が芋掘藤五郎と變つてゐるだけで、雙方の傳説は一致してゐる。南部八戸の港でいふ是川村の蕪燒笹四郎なども、芋がただ蕪になつてゐるのみで、殆と同樣の話である。西部日本に於ても同種の傳説が、紀伊・阿波・肥後・大隅などにはまだ確かに遺つてゐる。そのうち肥後の二人の長者の話は、隣國豐後の内山の縁起から、觀音の利生を説く者によつて移されたことが想像し得られるのみならず、現に又筑前の朝倉郡と安藝の賀茂郡に於ては、盆踊の口説歌として、その豐後の炭燒長者の事蹟を語つてゐた（文部省編纂の俚謠集）ことによつて、その傳説化以前の?況も、凡そ想像することが出來る。併しこれだけの事例を見て、すべてこの説話を内山の蓮城寺の縁起より新しいものと斷定することは出來ぬ。といふわけは、南方沖繩の列島に於ても、炭燒が女房の福分にあやかつて、長者になつたといふ話があるからである。これには勿論、觀音の利生といふことはない。「遺老説傳」に録せられる宮古島の炭燒太良の話は、ユリと稱する穀靈に導かれて、幸運の妻を得て長者となると謂ひ、佐喜眞法學士の採集した南島説話の山原の炭燒長者も、小判を打付けたといふ話はない代りに、雀の聲に教へられて女房が尋ねて來たことになつてゐる。沖繩は本來金を産せぬ島だから、かういふ説話の土着には最も不便であつたらうと思ふが、それにも拘らず察度王の逸話の一つとして殆と同樣の話が傳へられてゐる。これ等の多くの事實を綜合すると、黄金發見の傳説は、もと金賣の徒の運搬したものらしいことが想像される。金賣は近世の平和時代に入るまで、踏鞴を荷擔して群をなして田舍を巡り、便宜の地に假住して鑄物の業を營んでゐた。さうして炭燒は、その缺くべからざる副業であつたのである。彼等の持つてゐた信仰には、宇治の八幡と關係の深いものがあつたのではないかと思ふ次第がある。簡單に言へば、八幡は、もと火の惠の本の神と彼等によつて考へられてゐたらしいのである。豐後の眞野長者の物語は、單に炭燒立身の奇瑞を説くのみならず、それから引續いて一女玉世姫の美人の名高く、終に禁裡に召されて、貴き皇子を生んだといふ一段がある。それが近古の文藝に、一つの異彩を放つた「山(319)路の草苅」であつた。そして僅かづつ形をかへ、又は色々の敷衍を以て、遠く奧羽の果までも語り傳へられてゐたことは、この頃になつて追々に分つて來た。例へば、秋田縣鹿角郡小豆澤の大日堂の縁起に、田山長者の一人娘が御后になつたといふ一條なども、曾ては亦この炭燒長者の、後日譚として傳へられてゐた爲めに、所謂山路の牛飼童の話と、著しい類似をもつてゐるのであらう。その山路の笛のことが、舞の本の「烏帽子折」に遊女の物語として長々しく敍述せられるのも、それが最初から、金賣吉次の家の話と關聯してゐたものとすれば、格別の不思議はないのである。

　

(320)　　　　　大太法師（だいだぼふし）

　

　傳説

〔名義〕　東日本殊に關東地方の傳説の特色として、先づ數ふべきものの一つ。昔、かういふ名前の巨人があつて、富士を一夜に作つたとか、榛名山に腰かけて、利根川で臑を洗つたとかいふ類の言ひ傳へがあつて、しかも一方には、その遺跡と稱して偉大なる足跡を留めてゐるのは、ちやうど説話と傳説との分界線上の現象として、興味多き今後の研究を期待せしめる。關東の大太法師の文獻に現はれたのは、「紫の一本」などが初めのやうだが、近江石山寺附近の大道法師の足跡なるものは、既に中世の日記にも見えて居り、かの方面に於ては、今もなほダダボシサマの音語が傳はつてゐる。これを「日本靈異記」の怪力僧、道場法師の事ならんと想像するのは、寧ろ民間の傳承に疎かつた學者だけで、單に一個の道の字が共通する以外に、少しでも二者の關係を證する材料は無いのである。所謂巨人説話の最も誇張せられた部分、たとへば苧殻の朸が折れ、又簀の目から土がこぼれ落ちて、處々の孤山となつたといふ滑稽談などが、弘く全國の端々まで流布してゐるに反して、この足跡の傳説だけが、ほぼ限られたる地域に行はれてゐるのは注意に値ひする。新たに大東京に編入せられた東武藏の丘陵地帶にも、かういふ遺跡は、少くとも四つ五つはあつたが、何れも數畝歩以上、時としては二三反歩にも及ぶやゝ足形に近い窪地で、その底部には泉があり、水の神を祀つてゐる例もあつた。關東各地とこれに接續した福島・長野二縣の一部にも、幾つと無くさういふ地形が大人の足跡と呼ばれ、以前は除地であつた痕跡を存してゐるのを見ると、特にこの方面に限つては、巨人の信仰がなほ幽かながら活きてゐたので、單なる民間説話の興味を高調するために、新たに附會せられたる遺跡地に比べて、その間自から異なるものがあるかと思はれる。日本は傳説の比較研究に於て、特に便宜の多い國であ(321)るが、その中でも、この大太法師の地方的異同は、最も有用なる資料であつて、もしこの推測が誤まらぬならば、將來これに由つて傳説の起原、即ち地物と口碑とを結び付けた時期及び樣式に、少くとも二種の差があることは認められるだらう。大太法師は土地によつてデエラボツチャ、又ライラボウともデンデンボメと謂ふ所があるが、それ等を合せ考へると、ダイダラ坊といふのが元の形らしい。これが近世に始まつたものか否かは、今後なほ多くの採集によつて決する外は無いが、「源平盛衰記」に、既に見えてゐる緒形家始祖の大太童は先づこれと關係が有るらしく、九州では更にそれよりも古く、豐後にも筑後にも大太良といふ神の名があるから、或はこれも上古のオホタラシといふ語の名殘りであつたかも知れぬ。（大人彌五郎參照）

　

(322)　　　　　寶競べ（たからくらぺ）

　

　説話

〔名義〕　以前旅をする遊藝の徒によつて、長々と語られてゐた長者譚は、ただその中の最も解し易く、又最も深く民衆の胸を轟かしめた部分だけが、破片となつて土地毎に留まつてゐる。さうして一方には記録の上にも、もはやその完形は保存せられぬものが多いのだから、僅かにその切れ切れの傳説の蒐集によつて、ありし日の姿を想像して見るの外はないのである。大體に長者の語りごとは、栄華の盛りと没落の物悲しさとの二つに分れ、曾ては淨瑠璃御前の草子にも見るやうな、富貴萬福の光景を描き出すために、話者の空想を傾けた時代もあつたらしいのだが、何しろ眼前は既に離々たる草の原であるのだから、聽手の感動は自然に盛者必衰の理に引寄せられて來たかと思はれる。それが所謂讃佛乘の趣旨に合し、兼ねては貧しく乏しき人々に對して、一種間接の慰籍にもなつたことは想像し得られる。寶競べの挿話は、丁度この榮枯二つの部分の堺目として、必ず説き立てられてゐた重要な一節であつたやうで、これを傳説の形にして記憶することは、やゝ困難であつたらうと思はれるにも拘らず、今も民間の傳承に折々は殘つてゐる。通例の形は二人の長者が地を接して住み、一方は米俵を堤に築き、又は金銀を路に布いて、それを踏みながら出會したところが、他の一方はただ十二人の男を引連れて出て來た。これより以上の寶は、この世の中にはあるまいと、一方の子を持たぬ長者が、初めて人生の寂寞を感じたといふ風に語つて居り、肥後ではその口碑を受け入れ易くするために、浦山といふ地名を援用した傳説もあつた。これは子を持つて苦勞する普通の農民に、心強い一種の教訓を與へたかと思はれ、長者が子無くして神佛に祈願を掛けたといふ話は、後には會津の鶴塚のやうに、鶴を子として淋しく終つたといふやうな言ひ傳へにも移りかはつてゐる。しかもこれはただ後々の新(323)しい傾向であつて、最初は恐らく「吉蘇志略」の、箕作翁と童觀翁との寶競べの如く、長者の富の力の無邊際を敍説した、花やかなる語りに興じたものであらうと思ふ。今日その痕跡のなほ殘つてゐるのは、若狹の八百比丘尼が幼少の頃に、人魚の肉を食べたといふ話の前段だが、これなどもやはり、人間の福分には限りがあつて、あたら不老長生の術の眼の前に存するのを、多くの長者は知らなかつたといぶ寓意が窺はれる。次には壹岐島などの百合若物語に、二人の長者が寶競べをしたことを發端としたものもあるが、これも善き兒を持つてゐた百合若の父の方が勝ちであつた。日本は要するに子を愛し、家の持續を珍重する説話が次々に成長し、展開して行くべき國柄であつた。その傾向が、今もきれ／”＼の傳説の上に、幽かな例證となつてその跡を留めてゐるのである。（長者屋敷參照）

　

(324)　　　　　たけくらべ

　

　傳説

〔名義〕　地名のタケクラベが、多くは以前の國郡の堺の峠に存することは、夙に旅人によつて注意せられてゐる。傳説の或はこれを説明するのではないかと思ふものも、次々採集比較せられるやうになつた。その中でも殊に有名なる一つは富士の東南面に横はり伏す愛鷹山であるが、これは大昔諸越といふ國から富士と背競べをしようとして、こゝまで歩んで來たのを、足柄明神が憎んでその頭を蹴飛ばした爲めに、根張りは雄大であるが、たけは至つて低いのだと、語り傳へてゐたさうである。九州では阿蘇の一隅に立つてゐる猫岳が、これも主山を凌がうとしてその神の怒りにふれ、竹の笞を以て散々に頭を打たれた。それ故今もこの山ばかりは嶺に多くの凹凸が有るのだと謂はれる。山陰の方でも伯耆大山の隣に在る韓山は、「から」といふ國から長競べに來た山で、大山の神樣に木履で踏まれた爲めに、その頂が今なほ少しばかり傾いてゐるといふ。以上三つの實例の中で、富士の場合だけは兩山の間に通路があつた。今の大宮の町よりやゝ下の方を斜めに、十里木といふ峠を越えて、須山から足柄の方へ行く路が、寶永の噴火以前までは、盛んに使用せられてゐたのである。だからこの筋を通る旅客が、左右に二つの山を仰ぎつゝ、?々この傳説を聽いてあるいたことは想像せられるが、果してこれと同樣の奇拔なる口碑が、曾て他の諸國の長競べといふ峠にも附隨してゐて、後に忘却せられたものと見てよいかどうかは、さう手輕には決し得ない。山が高さを競うたといふ傳説は、多分は古來の説話の土着したものと思はれるが、弘く全日本に分布してゐる。富士を相手としたものでは信州淺間、これは文藝の上にもくりかへし利用せられた昔語であつた。常陸の筑波山は、高さでは爭はうとしたのでないが、これも富士の山より立ちすぐれてゐたといふことが、古くからの語り草である。伊(325)豆の半島の山々にも、やはり山の姿の美しさを比べたといふ神の嫉みの物語があつた。高さの爭ひとしては、加賀の白山が富士の噂をすることを忌むといふ話があり、越中の立山は又その白山と競うてゐた。東北では出羽の烏海山が、背競べに負けて口惜しさの餘りに、飛んで海上に出て飛島となつたと謂ひ、津輕の岩木山も南部の岩手山も、富士と爭うたといふ話はない代りに、同じく附近の山の頂を斫つて飛ばせたといふ言ひ傳へは殘つてゐる。大和では三山の爭ひはただ舊記に録せられるのみであるが、伊勢の境に立つ高見山が、多武峰と高さを競うて、負けてその頭が飛んだといふ話があり、更に一方が藤原鎌足を祀るといふに對して、これは蘇我入鹿の祭湯であるかの如き解釋さへ起つた。その他三河の本宮山と石卷山、さては九州にも所々の高山に、かういふ半ば笑話化した傳承は數多く、本來は一時に雙方の山を望み見る平地で、言ひ始めたことであつたかも知れぬが、今は主として何れか一方の山の麓での傳説として行はれてゐるのみである。それが各自の郷土を鎭護する名山の尊信と結び附いてゐたこと迄は想像し得られるが、これによつて直ちに我が土地の境の山に、タケクラベの名を附與することは難かつたらう。多くの峠路には二つの峰、若しくは長高き二柱の岩があつた。道路は往々にして迂囘してこの中間を過ぎるやうに設けられてゐた。これが我が國固有の守護思想に基くもので、神の認諾なき者の容易にその竝び立つ間を通り得なかつた信仰を利用したらしきことは、必ず男女を以てその二つの神を喚んでゐたのを見てもわかる。それをタケクラベと謂ふに至つたのは、恐らく轉用であつたらう。即ち遠近の山々が高さを競うたといふ物語が普及し、一方に男女相對する峰又は大岩が、異郷人の接近を禁止するものだといふ信仰が、一旦衰へ弛んでから後の、第二の變化であつたらうと思ふ。

　

(326)　　　　　長者屋敷（ちやうじややしき）

　

　傳説

〔解説〕　長者の物語は我が國の民間文藝に於て、殊によく發達し、又最も弘く倶通してゐた上に、珍らしくその大部分が傳説と化して今も記憶せられてゐる。府縣の郷土誌にはこれを歴史の埋もれたる一片として、考察を下す者さへ今日はまだ稀でない。これには記録を失つた舊社大寺の近代の援引もあれば、又財寶發掘といふやうな實際の利害もあつて、容易に人をしてこれを生活圏外に送り出さしめなかつたのである。日本は天變地異が多く、また社會の條件も幾度か改まり、その上に人口は可なり稠密であつたから、邑里にも山野にも、共に小さな廢墟が澤山に出來たのは當然のことである。さういふ不明の廢墟には、何れの國でも傳説の附着するのが普通であるが、それの殆と全部を擧げて長者屋敷と名づけ、嘗て絶大の富豪がそこに住み、榮えて後又衰へたといふ風に信じてゐたのは、改めてその理由を究めなければならぬ一つの特色であつた。幸なことには日本では國の隅々まで、この長者の傳説が落ちもなく行き亙り、何れも可なり鮮麗なる色彩を保存してゐる。さうしてその主要な記憶は、完全に一致してゐるので、そのただ一點からでもその傳説の起原が、もとは各地を輸送せられてゐた系統ある一種の説話であつたことが證明し得られるのである。所謂長者が末期に近よつて、朝日さし夕日かがやく木の下に、黄金萬兩を埋めたと傳ふる説話なども、その幾つかある共通挿話の一つであつた。それを史實と信じて苦心して掘りあるく者も亦誤まれる郷土史家の亞流である。糠塚もしくは「すくも塚」といふ塚、又は地名は、奇妙に長者屋敷の近傍に必ずあり、大昔、長者の家の食糧が莫大で、棄てた籾殻がこの通り山になつたといふのだが、これなども奈良朝の頃から、既に行はれてゐた語り草であつた事は、「播磨風土記」がこれを暗示する。長者榮華の盛りにただ一子無きことを愁(327)ひ悲しみ、靈佛に心願をこめて果して容色珠の如き姫を生むといふ話なども、例の矢作の金高長者以來、最も有りふれた文藝の趣向となつてゐるのだが、各地の長者傳説はそれをさへ永く認めてゐた。そのただ一人の愛娘が成長して類稀れなる高貴の聟を儲け、乃至は水の神に嫁入して土地の信仰の基礎を樂いたといふ話なども、些少の變化を以て今なほ多數の長者屋敷に傳へられてゐる。因幡の湖山長者が大田植の日に、西に入る日を招き返した奢りの罪によつて、家は滅びて千町の田が湖になつたといふが如き、珍しく又繪のやうな傳説でも、捜して見ると既に遠近の數箇所に同じ例がある。一つの土地の信仰又は誤れる經驗によつて、そこだけに發生した長者傳説などは、先づは絶無といつてもよからう。元來長者といふ語を以て富人の義に解したのは、佛經には例はあるが、その以外には聞かぬことである。それを近世に入つて長者議員などといふ語があり、東北では現實の富家を、その地の長者と呼ぶに至つたのも、つまりはこの近世の文藝の影響であつた。記録に出てゐるのは藤氏・源氏の長者、又は僧にも東寺の長者などがあつたが、その普通の意味は、一族一群の首領といふに過ぎなかつた。近江の竹生島の蓮華長者などは、單に年々の祭の頭屋のことであつたが、これも亦家長族長と同じ名の應用と思ふ。それよりも前からよく知られてゐたのは、遊女の長者であつた。多分その仲間の一臈《いちらふ》に限つた語だらうが、小相撲をも關取と呼んだ如く、一人行けば彼等は皆長者であつたかも知れぬ。全國の長者屋敷又は長者池等には、かういふ者から名を得た土地がありさうに思はれる。さうして彼等の主たる職分は、この類の物語を語つてあるくことに在つたのだから、二者の混同は一層この名稱の普及を助けたらしいのである。日本が古くからこれほど多くの大金持を、包容し得たと思ふと間違ひのもとである。多かつたのはその第二の「長者」である。小野のお通なども、恐らくは自身が矢作の長者であつたらうと思はれる。

　

(328)　　　　　沈鐘傳説（ちんしようでんせつ）

　

〔名義〕　ハウプトマンの戯曲が紹介せられた頃から、こんな言葉を用ゐるやうになつたが、日本では普通に、「鐘が淵の由來」として知られてゐる。最も分布の弘く且つ久しい傳説の一つである。東京のやうな若々しい寄洲の上の都にも、既に又一つ以上の鐘が淵が出來て居り、その他、近世新たに運び移したかと思はれる例は少くない。何かこの類の地名の發生すべき理由が前にあつて、それに所謂沈鐘が附會したのではないかとも想像せられる。全國無數の鐘が淵由來は、分類して見ると存外に簡單なものばかりである。その一種はそこに大きな寺の伽藍があつて、或る時代の地變に陷没して淵となつたといふもの、これはただ郷土の古く榮えてゐたことを、説くだけの趣旨としか考へられない。第二にはその鐘に靈あつて盗賊兵火の難を脱し、我から水底に轉げ込んだといふ類の名器傳説、これには女夫鐘などの哀話の織り入れられたものもある。今一つは佛典から筋を引いたかと思ふ龍神の物語で、古い記録の中には往々にこれを傳へてゐるが、近頃は却つてこれを説く者が稀である。何れにしても水中の靈異と關聯してゐることだけは明かで、或はこの傳説の所在を以て水の神の祭場と解しても誤りではなからうと、私は思ふ。さうでなくては、これほど澤山の釣鐘の、水に沈んでゐると信じられた起因を、想像することが難いからである。但しこの傳説の基礎には、別にやゝ意外なる史實の類推があつた。�ｺ川氏の時代に入つてからも、海から梵鐘の漂着した事蹟は所々にあつた。明かにその當時の記録もあれば、實物も亦現存する。その以前にもこれと同樣に、海から揚つたと稱する朝鮮鐘などの、寺に傳はつてゐるものも少くはない。これほど幾つかの鐘が水中から出てゐるのだから、今なほ水底にありといふ説も本當かも知れない。といふやうな茫漠たる論理が、一段と鐘が淵の口碑を史化してゐたのである。その上に古書の記述もしくは類例の古い存在が、この數多い同種傳説の一つ／＼を支援し(329)てゐることは、考へて見ると面白い協力であつた。その中でも筑前の鐘の岬は、古くは「萬葉集」の歌にも詠ぜられ、それから以後にも數々の不思議を現じ、殊に種彦の「白縫物語」で、頓に遠國の者にも知られるやうになつた。さうして他の多くの鐘が淵も同樣に、晴れて波靜かなる日に船の上から覗くと、龍頭の岩の間に傾いてゐるのが見えると云つた。大正八・九年の好景氣時代に、或る成金が一代の思ひ出に、十餘萬圓の財を費してこの鐘を陸に持つて來ることに成功し、鐘の岬も鐘のないただの地名になつてしまつた。而もその海底の大梵鐘だと思つて引揚げて見たのが、實は形のよく似てゐるただの岩であつた。諸國の鐘が淵は、このために一つの支柱を失つたわけだが、その代りには、傳説としての眞の意味を、これから追々に發揮することが出來るやうにもなつたのである。

〔參考〕　日本傳説集 高木敏雄　○沈鐘の傳説 新村出　○沈鐘傳説と大職冠と 志田義秀

　

(330)　　　　　傳説（でんせつ）

　

〔名稱〕　（佛）les Légendes.

〔解説〕　口碑傳説といふ熟語が、我が國には行はれてゐる。外國でも人によつてはレジャンドの中に、或る種の俗信現象や民譚・歌謠の類さへ包容せしめようとする者もあつて、範圍は近頃まで必ずしも精確でなかつた。ところが、我々の民間傳承の分類に於ては、是非ともこの語でなくては代表することの出來ない一群の事實があつて、他と混同すべからざる色々の特徴を持つてゐる。殊に「民間説話」との間には最も大切なる差異があるので、後者の性質を明かにするためにも、是非ともこの二つを對立させることが必要である。それで近頃は追々とこの傳説といふ名稱を、限定して用ゐる者が多くなつたのである。我々の定義では、傳説は口碑の重要なる一種であつて、次に列記するやうな幾つかの點に於て、説話歌ひ物その他の口碑と區別して、考察せらるべきものをいふのである。今までの混同には一つの文字の單純なる解釋から起つたものもあるが、それよりも大きな原因は傳説と説話と、?々同一の内容をもち、又は共通の起原を推測し得るものがあつたことであるが、我々はそれがある故に一層分界の必要を認め、又その利益を説かなければならぬのである。この狹義の傳説の「民間説話」その他と異なるは、先づ（一）には形の無いことである。説話が如何に自由になつてもなほ若干の定まつた文句を持つに反して、傳説は言葉では傳はらずに、單にその實質を以て傳はつてゐることである。それ故に或は口碑の中にすらも加へがたく、寧ろ呪法禁忌等の俗信と、同じ列に置くべきだといふ説も成り立つのであるが、内容の聯絡は專ら口碑の方に存し、研究は少くともこれと共にするのが便であるのみならず、これと文學との深い關係も、實は傳説の「形を持たぬ」といふ特質に基いてゐるのである。傳説に定まつた形が無いといふことは、常に新しい時代の言葉を以て、どのやうにも表(331)現し得るといふ事を意味する。傳承者の才能や聽く人の立場で、長くも短くも強くも優しくも、色々に説き聽かせることが出來たといふことが、やがて旅人の先づ親しみを抱き、文藝の士がこれに據つて、次々に美しい想像を附け添へる機縁でもあつた。それを一面から見ると、傳説は殊に誤解と利用とによつて、速かに變化すべき傳承だともいふことが出來る。ところがこゝに（二）の特質があつて、幾分か又その傾向を牽制しようとしてゐるのである。それは何かといふと傳説は信ぜられてゐたといふことである。民譚童話は古い形を保留してゐるが、何人もその目的の人を樂しましめる藝術なることを知らぬ者がないために、趣味と便宜によつて或る部分はこれを抑制し、又は全然これを無視して新しい形に改めようとした場合も多かつたが、傳説は少くとも或る時代の人が、これを眞實だと思つてゐた故に、變へて誤りに陷ることを敢てしなかつたのである。今日は勿論、信ずる者が既に少くなり、單に嘗て信ぜられてゐたといふ事實を説くに過ぎぬが、それでもなほ全部を誤信なりと見ることの出來ぬ人があつて、所謂傳説の合理化、即ち歴史や自然史と調和させるべく、その一部の改造を企てるのである。各地の傳説の著しく歴史らしくなつてゐるのは、即ちこの改造の結果であつて、それは既に數世紀の前から始まつてゐる。（三）の特徴は傳説が説話の浮遊するに反して、必ず一定の土地又は事物に固着してゐることである。例へば「白米城」（別項）の口碑は、全國に五十數箇所を算するに拘らず、一つとしてそれが自分の土地に於て現にあつた事實である事を主張せぬ者はないのである。從つて傳説の盛時は交通が未だ十分に開けず、見聞が地方に割據して居つた時代であつて、一朝比較が始まると解釋は乃ち改まらざるを得ないのであつた。

〔傳説とその主體との關係〕　傳説とその主體ともいふべき樹木・岩石、その他塚・堤・橋・清水等との關係は、普通今日の保管者が考へてゐる所と、或は少しばかり違つてゐたのではないかと思はれる。即ち物が存して説明がこれに伴うたのでは無く、物は却つて言ひ傳への信じ認められたことによつて、後に漸く著名になつたらしいのである。山嶺沼湖の如き天然の地物に於ては、傳説によつて導かれたものは單にその現在の名稱だけであるが、他の色々の(332)小さな人工物には、往々にして傳説を記念し又は確實にするために、新に設け備へられたものもあつたやうである。樹木はその中でも殊に明白なる例であつて、稀に當時の木と稱するものも、多くは傳説よりは若く新しく、また枯るゝに從つて更に植ゑ繼ぎをする慣習も殘つてゐる。塚や石塔の類にも同じ例はあつて、現に今日にまで續いてゐる。岩石は人意を以て左右し難いものであるが、それでも、山野に數多く横たはつてゐる中から、さもあるべき一箇を認定して、これが傳説の何々石だと決めた場合が多かつた。それ故にこれ等異常なる地形地物が、即ち傳説の根源であつたといふ想像は誤つてゐる。傳説には別にこれを發生せしむべき社會上の原因が無ければならぬので、それは恐らく、これを永年に亙つて保管した人又はその集群の心意に求むべきものだと思ふ。從來の傳説分類者が、樹木・岩石・塚・沼等の傳説と對して、家・村・社・寺などの傳説といふ目を立てんとしたのは、この意味に於て正しくなかつた。何となれば一方はその主張者若しくは利用者であり、他の一方は單なる記念方法に過ぎなかつたからである。これと同樣に多くの歴史上の人物の傳説の上に現れて來るのを見て、これを英雄傳説などと謂ふのも理由がない。多くの傳説は、必ずしも最初から、その英雄のために語られたものではなく、英雄は單に或る種の傳説の古さ尊さを確保すべく、次々に招き請ぜられるのが普通であつたからである。傳説の主たる興味は、寧ろこれ等の手段を盡して、これを永代に保存し又主張しなければならなかつた理由、即ち土地の前居住者たちが、さしも強烈にその眞實を信じようとした點にあつた。神話傳説といふ語は?々連繋して使用せられ、甚だ無意味なることのやうに批評せられてゐるが、説話が單にその敍述の外形のみを承け繼いでゐるに反して、傳説は言はば神話の實質を、やゝ斷片的ながら把握してゐたのであつた。祭祀の方法は既に改まり、信仰の指導權が新來者の手に移つて後まで、なほ以前の感銘の一部を持ち傳へて、たとひ無意識にもせよ、百方これを固守しようとしてゐた點に、文化史料としての價値が大きいのである。日本の傳説が全國を通覽して、その種類必ずしも豐富ならず、?々遠隔の地の一致共通が認められ、而も後代の各種文藝の上に、極めて濃厚なる陰影を投げてゐることは、民族結合の強烈(333)なる一島帝國に於て、始めて遭遇し得べき過去精神生活の一偉績と言つてよからう。

　

(334)　　　　　虎が石（とらがいし）

　

　傳説

〔解説〕　日本の傳説を發生學的に調べて見ようとする者には、これは最も手頃な、且つ便宜の多い題目と言つてよい。

　東海道の往來筋の一つの宿場の片脇に、この名の石が現はれたのは、比較的新しいことであつたらしく、しかも最初からこれに目を留めた好事の士が餘りに多かつた爲めに、傳説は成長しかけて終に一つの形に固定する暇がなかつた。淺井了意の「東海道名所記」が多分初めで、それから「一目玉鉾」、益軒の「吾妻路之記」、降つては「撃壤餘録」や「海録」「於路加於比」、さては十方庵の「遊歴雜記」まで、この事を記した書は捜せば十種もあらうが、その記述は一つ一つ趣きを異にしてゐる。書いた人の出たらめではなく、土地の者が既に色々の事を謂つてゐたのである。さうしてその何れもが、大磯で作り上げた口碑でなく、必ず幽かなる無意識傳承によつて、方々からこゝへ持ち込まれたものであつた。問題は二つに分れて、我々の殊に面白く思ふのは、終始一貫してゐる石の名の起りであるが、今一つの傳説内容の方も、ぐら／＼變つてゐたとは云ひながら、やはり大よそは由つて來たる所があつた。近代の虎が石は或る寺院の管理に歸し、人はその石を抱き試みて重さによつて石占をすることになつてゐたといふが、この俗信がもし眞面目なものであつたなら、實は最も古い形に近いのであつた。ところが以前の旅人はただ戯れにこれを玩んだだけで、美男が抱けばいと輕く揚がり、ぶをとこが持つと重かつたなどと笑ひ興じてゐる。これは「本朝國語」にも見えた大和洞川のオイトシボ石と同じ例で、嘗て衢の石神に占問ひした習俗の、一旦零落した型がこゝへ移されたのである。虎女は大磯の産で「曾我物語」以來の有名な貞女であるが、唯これだけでは、餘りにも石との因縁が薄いので、後にはこの風習をそつちのけにして、別に虎御前の精靈が、化して道の隅の石となる(335)といふ傳へも起つたと見えて、これを咏歎した詩が「錦里文集」には出てゐる。或は曾我十郎が路に仇人の襲撃を受けた時、この石が箭を防いだと謂つて、石の面に疵痕のあるのを示してゐたこともある。さうかと思ふとその石の凹みは、よく見ると男女の陰相を現じてゐるなどと謂つて、依然として巫娼傳道の痕跡を傳ふるものもあつた。この石の記述を見ると、石も昔から一つのものでなく、何度か次々に別のものへ名を遷してゐた。それにも拘らず大磯といへば必ず虎が石を聯想せしめたのは、一つには曾我の流布の力でもあるが、又一つにはかういふ種類の石に、トラといふ名を附する古來の習はしがあつた爲めかと思ふ。「郷士研究」（四卷五號以下）に、老女化石譚と題して、嘗て私はこの問題の解説を試みようとしたことがある。人の忘れた虎が石は、京都・關東その他の地に幾らもあり、大磯の虎御前が諸國を巡歴して、記念を留めたといふ名石も亦數多く、祐成の愛人以外にも別に亦虎姫虎御前といふ美女が、やはりその遺跡に石を存してゐる。問題は溯つて何故に或る種の婦女に、虎といふやうな名があつたか迄、考へて見なければならぬのであつた。福島の信夫山や富士の麓には、大磯の虎が尋ねて來て、空しく引返したといふ地に傳説の石がある。これと越中立山の中腹に、登らんとして石に化した若狹の登宇呂の姥、加賀の白山の登山口に於で、同じく女人結界の禁を破らうとして化石した融《とほる》の尼、更に古く世に知られた吉野金峯山の都藍尼《とらんに》も、私の想像ではすべて一つの名で、上古の多くのタラシ姫と共に、神に仕へた一種の女性を意味した名かと思ふ。靈山の麓に在る多くの比丘尼石・姥石・モリコ等の類には、虎が石の名はなくても、押して登らうとして化石したといふ口碑なら無數にある。化石は現實でないから後の解釋であつて、以前はただ女巫の祈念湯の標の石かと思ふ。さうして東海道の新驛へは、これはただ未完成の傳説として、運び込まれたに過ぎぬと思ふ。

　

(336)　　　　　何故話（なぜばなし）

　

〔名稱〕　（英）Why so stories.

〔解説〕　民譚の最も古風なる形態の一つ。「書紀」卷二の「此世人所謂反矢可v茂之縁也」といふが如き例の、上古の記録にも多かつたのを見ると、多分は既に神話の時代に始まつてゐたのである。日本には餘りその數が澤山にはないやうに言はれたのは、單に蒐集がまだ盛んでなかつた爲めかと思はれる。分布の最も弘い現在の例としては「蕎麥の莖はなぜ赤い」があり、或は又蚤と虱の由來などがある。いはれ因縁故事來歴といふ言葉もあるから、いはれと呼ぶのが適當かも知れぬが、どこの國でも今では「なぜ話」と謂つてゐるから、將來はこの語を採用するのが便利であらう。起原が古いだけに民族の特徴がよく現はれてゐるが、一旦神話の領域から出てしまふと、寧ろ「大話」（別項）などの影響を受けて、到底有り得べからざる事實を説く點に、話術の技巧を求めようとし、從つて夙く童話に化し易かつたのである。その中で、特に今後の採集者に注意せられてもよいのは、小鳥の世界を説いて見ようとした一群の由來談である。雀・燕・鷦鷯・啄木鳥・百舌・時鳥、それから鴉・梟などもこの仲間に加はつてゐるのみならず、なほ今日餘り眼にふれぬ鳥類までが、皆それ／”＼の昔話を持つてゐる。アイヌの部落にも鳥の話は非常に多く、一部分は我々のもつものと似てゐることは、前に吉田巖氏が細かな報告（郷土研究一ノ六七二頁以下）を出してゐるが、日本には又一つの重要なる特色が見出される。例へば雀は親孝行で、御齒黒を附けかけて親の臨終の床へ飛んで行つた故に、今でも頬は汚れてゐるが穀類を容易く得られる。燕は黒繻子の帶をさがしてゐたから、啄木鳥は伊達の衣裳を着かへてゐて、親の死目におくれた故に、今でもその罰に食物を見つけるのに辛苦するといふやうに、教訓を含み且つ多くは死といふ事を聯想させ、話は必ずしも常に滑稽談話ではない。時鳥は殊にこの話(337)に富んだ鳥であるが、近代最もよくいふ弟殺し、夫戀しと啼くといふ話から、古くは死出の田長や沓手鳥小鍋燒きの話に至るまで、悉く前生の因縁を語り、また亡靈の長く昔の悲歎を記憶してゐることを敍べるのである。これは「なぜ話」の童幼のために、發明されたものでない確かな證據と言つてよいのみならず、同時に又鳥が空の世界の使であり、その言葉が靈の神秘であつた時代の遺産と認むべきものかも知れないのである。東北六縣の處々の田舍には今でも盲の巫女が一定の祭の日のみに、特に美しい韻律の語を以て、小鳥の話をする地方がある。即ちこれが神話として行はれてゐた痕跡は、我が國に於てはまだ相應に顯著だと言ふべきである。

　

(338)　　　　　白米城（はくまいじやう）

　

　傳説

〔解説〕　普通に孤山の急峻なる絶壁の上などに附いてゐる傳説で、周圍の居住者だけが、これを史實として信じてゐる。曾てその山上に城があつて、某といふ智謀の武士が立て籠つてゐた時に、敵が攻め寄せて來てどうしても落すことが出來ず、城の唯一つの弱點たる水の手を絶ち切つてこれを苦しめた。城兵はわざと平氣を装うて、馬を端近く牽き出して白米を以て脚を洗ひ、水がまだ幾らでもあるやうな樣子を示した。或は崖の上から白米を流して、瀧のやうに見せかけたと傳へるものもある。敵が遠方からこれを望み見て、失望して軍を返したといふ例もないではないが、大多數は後にその計略が看破されて、終に落城したことになつてゐる。水だと思つてゐたら小鳥が來て啄ばんだ、犬が來て嘗めたといふ話もあるが、それよりも顯著なのは一人の老女、若しくは戀する若い娘の密告によつて暴露し、その罪によつて永く子孫の者に祟りがあつたと謂つてゐることである。亡靈譚の系統に屬することはこの點からも察知せられる。信州の洗馬《せば》では地名の説明としてこの傳説がある。併し今日わかつてゐる類例は五十に近く、北は南部津輕から南は四國九州の果まで、十九の府縣に分布し、一縣に四つ五つ、知らずに同じ傳説を信じてゐた例さへある。或は土中から燒けた穀物が出たり、又は米粒に似た砂を産する土地もある故に、これが一つの誘因ではないかと考へられてゐるが、全然さういふ痕跡を持たぬ土地も、決して少くはないのである。最も主要なる共通點は、地形が城址らしく見えることと、次にはその地方の近世の軍記類に、面白く詳しくその事實を敍したものの多いこととである。各地の軍談家の中に隱れたる聯絡系統があつたといふ一つの證據と見ることが出來ると同時に、傳説が?々語り物の土着によつて、新たなる發生を見た例ともいひ得る。この材料が支那の文獻から導(339)いて來られたといふ説には、まだ十分なる根據はないやうである。

　

(340)　　　　　羽衣（はごろも）

　

　傳説

〔解説〕　現在童話の形になつて傳はつてゐるものは、「天人女房」とも名づけられてゐる。即ち天人がこの世の男の妻となる點が要素であつて、本來羽衣の得喪は必ずしも問題でなかつたのである。謠曲の「羽衣」に男の名を白龍と謂つてゐることから考へて、この部分、支那の小説から落想を得たらしく説く人のあるのは恐らくは正しい。たゞその羽衣を返し與へたら、喜んで天女が舞ひ去つたといふ一條を、新たな附加と見ることが出來ぬのみである。

　沖繩本島から喜界島にかけて、今も行はれてゐる傳説に於ては、その羽衣を飛衣《とびぎぬ》と謂つてゐる。男がこれを大切に匿して置いたのを、二人の中に出來たところの小兒が知つてゐて、それを子守唄に歌つたので母が心づき、竊かに取出してこれを着て天に還つたといふので、この點は又多くの狐女房譚の童兒が尻尾を見つけ、母の顔の尖つてゐるのを笑つたといふことと似通うてもゐる。伯耆の羽衣石山《うえしやま》の傳説に於ても、その天に飛び還つた天人女房には子があつた。その他の多くの例でも大に夫の家を富ましめるか、又は二人の間に佳い兒を儲けるか、兎に角にその家は永く存續して、これによつて祖先の血の尋常でなかつたことを誇つてゐたらしい痕跡は認められる。即ち單なる文藝として持て囃される以前、信じてこれを傳へた傳説の時代も永かつたのである。妻を覓める男の機智と策謀とは、前代には必ずしも恥づべきものでなく、殊に羽衣の發見といふが如き、稀有の幸運が伴ふものは、尊むべき神意とも考へられたのであらう。なほこれを取隱して、女の聽從を強ひたといふことは、古い形ではなかつたらしく、これと比照すべき多くの異類相婚譚、たとへば鶴女房や魚女房の類には、男の貧窮にして孝行正直なるを愛で、もしくは命を助けられた恩に報いるために、美女となつて來り嫁した話がある。さうしてたつた一つの約束又は禁止、(341)即ち機殿や産屋を覗き視るなといふ戒めを破り、或は本の姿を偶然に看破られた爲めに、天縁が切れて泣きつつ還つて行くといふ方が、飛衣奪還よりも古かつたことが考へられる。所謂豐玉姫説話なるものは、この傳説の古い記録の一であつた。それから他の一方に余吾湖傳説や天眞名井などの如く、天女が妻とはならずに子になつて來て養はれ、その親々の家を富貴にしたといふのも、同じ口碑の變化のやうに思はれる。富士の山麓を中心として、夙く發逢してゐた鶯姫の物語、即ち竹を伐り箕を作つて世を渡る貧しい老人二人が、一朝に神女を得て家富み榮えたといふことなども、後にその美人が飛んで空に昇つたといふことを結末にしてゐるのを見ると、同じく又異界交通の神話の名殘で、その子孫後裔と稱する家々のみは、久しくこれを我が家の由來を貴くする傳説として守り、又正式に語らせてゐたものと思ふ。もし然りとすれば、その名山の裾を洗ふ三保の海ばたを舞臺として、羽衣の謠の曲が新たに設けられたのも、基づくところは遠く久しかつたもので、現にその詞章の中に援用せられる東遊びの駿河舞なるものも、やはり又人間との縁を全うして、本の國に還つて行く神の妻の、縹渺として霞の空に消え去つたなつかしさを、舞の姿によつて寫し殘さうとしたものと想像しても、大なる誤りはなささうである。

　

(342)　　　　　橋姫（はしひめ）

　

　傳説

〔解説〕　我々の民間傳承に於ても、橋姫はなほ嫉妬の神として傳へられてゐる。その例は數多いが、その一二を言ふと、甲府の西に近い國玉の大橋などでも、通行の者がこゝで猿橋の珍らしい構造の話をすると、必ず怪異を見ると謂つて、その實驗が近い頃まであつた。或は又「葵の上」のやうな女の妬みを主題とした謠曲を口吟《くちずさ》む時は、橋の神が腹立て給ふとも信じてゐる。宇治の橋姫の荒唐なる古傳の起りを究めんとする人は、かういふ比較を試みないではゐられぬ。前代の地方人の信仰には、土地の信者等の競爭心を反映してゐるかと思ふ口碑が乏しくない。獨り橋の上の神のみと言はず、山に登つて他所の高嶺を説くことを戒め、信濃の淺間嶽の裾野を行く旅人が、富士山の話を決してせぬといふ類の俗信は、今も一部にはなほ活きて行はれてゐるかとさへ思はれる。たださういふ中で橋姫の話だけには、今少し考へて見なければならぬ特徴が附き纏うてゐる。先づ第一には橋の神の必ず女性であること、それが遠くの川の涯《ほとり》に住む神と姉妹であつて、族をする者に託して時々の音信をするといふこと等である。この點は東北には姉妹沼などの例もあつて、沼の神が手紙や手箱の類を預け、正直にそれを遠くの沼に持ち行き、教へ示された通りに手を打つてそこの姫神を喚び出して、無事に手渡しをした爲めにその正直を褒められ、莫大な寶を得たといふ風にも語られ、黄金小臼や黄金馬の童話の發端を爲すものも多いのだが、それは何れも皆水に屬して、この橋姫と根源の一つなることを思はしめる。「今昔物語」などを點檢して見ると、この中には既にこの種の神怪を信ずることが出來ないで、明けて見るなと戒められた手函を開き、又は手紙を開封して、嚴しく罰せられたといふ類の説話が幾つか出來てゐる。ネタシといふ形容詞の内容が、いつの間にか大に推移して、後には女性の神であ(343)るだけに、單に男を爭ふうはなりの憤りの如く解せられるに至つたことは確かであるが、本來は水の靈の尊嚴の冒?、その命令に對する不從順をも引きくるめて、これをネタシと謂つてゐたことは、かの安義橋の鬼女の話などを詳しく考察すれば判ることと思ふ。つまりは我々の文化が改まり、水を制する技術が進歩した結果、この神に對する民衆の信仰がいち早く衰へんとしてゐたのである。妖怪は即ちこの過去の崇敬の消え行く姿、以前の畏怖と不安との幽かなる名殘であつた。海から移り住んだ日本人の社會に最初から水神の信仰の今の如く微弱であつた筈はない。さうして無意識に傳承された民間の行事口碑の中には、なほこれを綜合復原して、本の形を見るだけの材料は遺つてゐるのである。水の邊りに住む怪物が必ずしも人を害し、人を脅かすのみを以て能事とせず、眞率にこれを尊みその命令に服する愚直の者を愛して、賞するに稀有の財寶や勇力を以てせんとしたのもその一つである。橋は人文のやゝ開けて後、漸く始まつた工藝であるけれども、これにも畏き神の來り依るあつて、所謂橋占辻占を以て人間以上の智慮を供與した。さうして特にこの神の前に?る者には、多くの願ひごとが許されたのである。我々の海の神は山に降り、又地下の泉を傳うて人間との交通を試した（「桃太郎の誕生」參照）。さうしてその仲介の役を勤める者は、最初から若く美しい女性と考へられたのである。橋姫は即ちその信仰の一面の、やゝ零落した形と見ることが出來る。

　

(344)　　　　　八百比丘尼（はつぴやくびくに）

　

　傳説

〔解説〕　傳説をその本源の方から下りに見て行くといふことは、滅多に得られぬ機會であるが、これは珍らしいその一つの例である。若狹の八百比丘尼が「八犬傳」後編中の一人物、狸の化けた一妖婆の名として採用せられた頃には、作者馬琴は、既に江戸四周に於ける傳説地の存在と、それを説明した貝原翁の「諸州めぐり」及び「隱岐のすさび」の一異傳を知つてゐたのみならず、それを飜案したらしい贋の世間話、筑前庄の浦の長壽婦人の噂も喧傳せられ、一方には又「中原康富記」の寶�ｺ元年の條に、八百歳の白比丘尼が京の或る寺に滯在して、諸人に拜まれたといふ記事のあることも、發見せられてゐたのである。帝國圖書館所藏の「康冨記」自筆本には、現にその條が見えてゐる。これと全國に散布する八百比丘尼の遺跡なるものとを對比すれば、少くとも曾て長命を奇瑞の言ひ立てにして、各地を遊行してゐた女性のあつたことだけは、何人にも想像がつくのであつた。但し今日の眼からこれを見ると、事情の尋ね究めなければならぬものが幾つかある。第一には比丘尼が暫くの間足を駐めてゐたといふ土地が、どうしてこのやうに數多く現代まで殘つてゐるかといふことであるが、それには多くの場合箸を立てて樹となつた、もしくは杖を刺して成長したといふ老木が、記念としてその跡に永く榮えてゐたのであつた。この特徴は、武藏・下野の數箇所を初めとし、日本海側では越後・能登から出雲・隱岐のあたりにも及び、一方太平洋方面では土佐の須崎、瀬戸内海では播磨・安藝等に、比丘尼が殘したといふ塚や石塔のある例が多い。越後の柏崎近くでは、八百比丘尼の立てたといふ石碑に、養老何年とかの文字の見えるものがあつた。それが「康富記」などの寶�ｺ元年から逆算して、約八百年になるのも偶然ではないやうに考へられる。若狹の空印寺に現存する比丘尼の木像は、手(345)に椿の花の枝を持たせてある。能登にはこの女性が來て栽ゑたと傳ふる大きな椿原もあつた。箱柳・笈入柳の方々の傳説が語るやうに、旅で生活をしてゐた巫女や修驗者には、木を栽ゑ、石を立てて行く風習があつたと共に、?々また挿木取木の秘術を知つてゐたやうだが、この場合には或は數百年前の曾遊を説いて、この樹はその折に刺して置いた杖だなどと、人を驚かすやうな説明をする方法があつたのではなからうか。土地の住民が假にそれを信じ得たとすれば、競うて昔を問ひ、祖先の消息を聽かうとするのも當然の結果で、比丘尼の巫術は殊に有效に行はれたに相違ないからである。前代の證明法の我々と異なつてゐたことは、他の多くの傳説主體を見てもわかるが、昔の人たちは眼で見、手で觸れるといふことを非常に重んじ、これに由つて耳で聽いたことを確かめようとする常の傾きを持つてゐた爲めに、たとへば草子に挿畫を要し、語りごとに所作を伴ふことを望んだと同じく、物さへあればその眞僞を正す前に、先づ一應は現實として話を受取ることが出來たのである。人間の八百歳は有り得べからざることであるが、現に杖を刺したといふ木が爰にあるのだから丸つきり空な話ではあるまい、といふ類の考へ方は今でもまだ少しづつ殘つてゐる。その上に八百比丘尼の長命を證明する手段はもう二つあつた。その一つは庄の浦の仙女の話にも引繼がれてあるが、比丘尼は源義經が辨慶等の家臣をつれて、北國の方へ落ちて行くところを見たと謂つてゐる。この點は奧州の常陸坊海尊なども同じであり、中國地方でも年ふる狐狸などは、多くは屋島壇の浦の合戰を見て知つてゐると謂つて、詳しく當時の　　状を説き、又はその光景を幻に見せたといふ話がある。多くの物知りが宗教上の威力を備へ、説教が力を由來記に注ぎ、從つて歴史といふ學問の社會の尊信を受くるに至つたのも、一つの原因はこゝに在つたのである。第二の證明方法は、何故にこの比丘尼一人が、八百歳も活きてなほ若々しかつたかといふ理由を、十分具體的に説明することであつた。若狹や土佐では人魚の肉、會津では九穴の貝、越後には又大蛇の肉といふ話もある。兎に角に見馴れぬ食物を異人から貰つて、なまなか智慮ある者は、怪しんでこれを食はなかつたが、ただ一人無心の少女のみがこれを食つてしまつた。それ故に老いて益々艶かに、あらゆる家(346)族に死に別れて、自分だけがかう永く生きてゐるのだといふ話、これが今日でも八百比丘尼の傳説のあるところには、必ず附きまとうて語られてゐるのを見ると、たとへこの旅行をした比丘尼は一人でなくとも、とにかく同じ系統の技術を傳へたものが、久しい間國々を巡歴してゐたことだけは疑はれぬのである。傳説の採集と比較が單にその根柢をなすところの前代信仰を知るばかりでなく、同時にこれを管理し傳播した人々の、精神生活の經過を明かにするためにも、非常に大切な事業であることは、一つの八百比丘尼の例だけでもこれを承認することが出來る。文學の背景は廣く奧深く、末は原始人の最も素朴なる心情にも及んでゐる。その生命の連續を象徴するものが、或はこの人魚を食うた女の傳説であつたとも考へられぬことはないのである。

　

(347)　　　　　花咲爺（はなさかぢい）

　

　昔話

〔解説〕　花咲爺の童話化は近世の事業と思ふが、その出來ばえはほぼ理想的である。人のよい白髪の翁が冬木立の梢に登り、灰を撒いて花を咲かせ、下を通る殿樣から褒美を貰ふといふ一條は、小兒の空想に適した美しい繪樣である。しかしこの形式の行はれてゐる區域は、書册を外にすれば思ひの外狹く、奧羽・北陸は一般に「灰まき爺」、又は「雁取り爺」とも稱して、灰を撒いて空を飛ぶ雁の眼に打込み、いとも容易く多くの雁を取つたことになつてゐる。私はその方が最も古いものだらうと思つてゐる。この新舊の共通な點は、先づ第一には隣の爺型、即ち惡い不正直な第二の憎らしい爺が、正直爺の眞似をしてまんまと失敗すること、次には話の發達が不思議の小犬であつて、それが一方には非常な福分を與へ、これを羨む惡い爺には失敗をさせる。それを怒つて殺して埋めると、そこから大木が生じて、臼となつて又寶を出し、借りて來てこれを搗けば汚ない物を山と出す。怒つて火に燒いたその灰が花を咲かせ、或は雁の眼潰しになつたといふだけが違ふのである。ところが御伽の花咲爺の方では、その犬の子を如何にして得たかに就いて、別に何とも言つてないのが普通であるに反して、民間の昔話ではこれにも由緒がある。つまりは正直爺さんである故に、さういふ不可思議なる犬の子も手に入つたので、この點は龍宮に行つて黒猫や小龜を貰ひ、もしくは微小なる男の兒を授けられたといふ桃太郎・瓜子姫などと同系の奇瑞であつた。説話の以前の重心は寧ろこの點に存し、臼やその灰などの不思議はその展開であり、一種の後日譚的附加であつたやうに思はれる。從つてこの點ばかりに敍述を集注して、發端を忘れた花咲爺などは、後年の文藝だと見ることが出來るのである。説話は右の如くこれを聽く者の興味にひかれて、次々に中心を移して行くものであつたと共に、元に溯(348)るべき何物をも持たぬやうな、全然自由なる根無し草でもなかつた。これは作者が凡人であり、又多くの準備構想の時を持たなかつたといふことから説明し得られる。殿樣の御褒美、乃至は惡い爺がしくじつて尻を斬られたのを、婆が遠くから赤い衣裳を貰つて來たのかと思つて、今までの着物を皆燒いてしまつたといふ滑稽なども、やはり又「竹伐り爺」といふ一話からの借り物であつた。「竹伐り爺」は一に「屁ひり爺」といひ、貧しい竹取りの翁が山に入り、不思議の小鳥を丸呑みにして、腹から珍らしい音が出る。そこへ殿樣が通り合せて、それにゐるのは何者ぞ、日本一の屁こき爺でござる。そんなら一つこいて見い。チチンプイプイゴヨノオンタカラなどと、佳い音をさせるので褒美を賜はる。それを隣の惡爺が眞似て又失敗して尻を斬られることになつてゐる。この方が尻は遙かに自然に聞えるのである。この殿樣は土地によつて、地主樣とも謂ひ又は山の神樣とも謂つてゐる。竹伐り爺である故に山の神が本の形であり、それを殿樣と語りかへてから後に、花咲爺の方で採用することになつたものらしい。

　

(349)　　　　　話の種（はなしのたね）

　

〔名稱〕　（英）Story Germs.

〔解説〕　日本の民間にも古くからあつたが、この一語は説話研究者によつて非常に重寶がられてゐる。物語は最初精確なる諳誦であつて、これに携はる者は、精進辛苦してその技を練磨したのであらうが、一句一語の末まで口移しに覺えるといふことは、實は殆と望み難いことであつた。それで聽く者の素直な印象に任せて置くと、自然に二筋の深い澪の如きものが出來る。その一つは俗に謂ふ口拍子、即ち定まつた音節數と耳に快い語音とを以て、巧みに人の心を捉へようとする方法、これが後々は語りの最も大切な部分を、特に忘れ難くする手段としても用ゐられるやうになつた。文藝意識の根源は、主としてこの筋を經て溯り覓められる。第二には語り事の内容の興味、曾て想像もしたことのない事實又はその原因の、新奇と含蓄とを以て人を動かすもの、これは諳記の熱情がやゝ衰へ、又聽衆の個々の批判力が少しづつ芽ざして來ると共に愈々大いなる痕跡を次代へ引繼ぐことになるのである。ハナシといふ一種の技術は、それを時代々々の俗語を以て包装し、遠く運び永く保存するがために、新たに必要を生ずるに至つたので、種は大抵の場合に於て、話その物よりも更に古いと見て誤りがない。「傳説」（別項）が「民間説話」と往々混同せられるのは、畢竟この「話の種」を共通に保存してゐるがためであるが、主要なる相異は前者に在つてはその事實が信じられて居り、後者はただこれをハナシだと思つてゐることであつた。從つて「傳説」ではそれを「話の種」とは謂はず、又その種は概して裸である。それが民間文藝の衣裳を着れば、いつでも「民譚」（別項）となることが出來たと同時に、「民譚」は又その種ばかりを遺留して、多くの地方の「傳説」を供給してゐる。これが「民譚」と「傳説」との二つの口碑を始終合せ鏡として見比べなければならぬ理由である。但し不幸にしてこの「話(350)の種」は、永い年月の間に非常な混亂をしてゐる。今ある「話の種」には、新しく加はつたのが多い。話術の進歩は特に或る時代に於て、種の缺乏を感じて外部の補給を求めたことがあつた。その中でも説經の法師が譬喩の資料を佛典に求めた場合などは、獨り記録文藝を復原して「民譚」を不純にしたのみならず、なほ原作の敍述に對しても必ずしも忠實でなかつたものが多い。その上に我々の「話の種」の選擇も、時代につれて決して一樣でなかつた。以前聽く人の最も心を動かし、從つて最も重きを置いて繰り返してゐた部分が飽きられ、又は古臭いと考へられるやうになつて、後にその説明又は敷衍のために、誰かが附加した部分が却つて中心となつたといふ例は多い。「頭白上人」（別項）の話などは、その著しい一つである。大體に「民譚」が童兒ばかりに愛せられ、成人も亦僅かの休息時間の氣晴らしのためのみに昔話を聽かうとするやうになつて、自然に「話の種」は淡泊に且つ卑近に墮ちざるを得なかつた。しかも如何なる發育を見ようとも、話には必ず種があり、種は必ず又、より古い話の實を結んだものであることには變りはない。若し時代がその變化に影響してゐることが明かだとすれば、やがて又、種の分類に由つて、「民譚」の發達史を究めて行くことも出來るわけである。

　

(351)　　　　　咄の者（はなしのもの）

　

〔解説〕　咄の衆或は御伽の衆などとも謂つた。これが現代のハナシカといふ職分の原の形であつたことは、今ではほゞ疑がないのである。昔の高名の咄の者には曾呂利新左や野間の藤六などのやうに、稀には或る一人の頼うだ御方を取卷いて、生涯をその家中で送つた者もあつたらうが、そのやうにまでする必要は雙方共に無かつたのみならず、話の修行にもやはり俳諧や遊藝の如く諸處を巡歴して機會を求め、且つ分に應じた生計を立てなければならなかつた。故に大抵の咄の者は、最初から一人以上の保護者を持ち、それを得意とも御出入先とも謂つたことは、諸道の職人や物賣なども同じであつた。さうして商工が次第に公衆を相手として營業するやうになつたと同樣に、咄の者も亦夙くからこの特定の旦那場を宛てにせず、辻に立つてその滑稽を販がうとした者が多かつた。露の五郎兵衛や鹿野武左衛門は、その仲間の特に卓越した名手であり、又文筆の機縁に有りついて世に著はれたが、地方にはなほ隱れたる澤山の同業があつて、その事業だけを永く留めてゐる。不思議な事にはこれ等の無名氏には通り名があつた。豆藏といふなどもその一つの例であるが、關西では最も多かつたのは彦八彦七、又は彦市孫八などであつた。東國に於てはこれとよく似た彌次郎や與次郎が、この民間の咄職の最も人望多き名前ではなかつたかと思ふ。「膝栗毛」の主人公の出て遊んだよりも、更に三百年も以前から無害の虚誕を以て笑を博した彌次郎が、方々の城下宿驛を訪問してゐたので、勿論その數は一人や二人でなかつた。民間説話の運搬業者として、彼等の働いた仕事は大きかつたが、ただ二つの弱點は必ずしも傳承に忠誠でなかつたことと、餘りにも笑ひ話の流傳成長のみに、その力を傾け過ぎたことであつた。しかもその笑ひの種を眼の前の觀察から採取することは彼等には許されなかつた。異種異教の民を隣に持たぬ日本であつた故に、狐や狸より外には嘲るべき敵が少く、又江戸大阪に住む話し家でない(352)以上は、うつかりと田舍者を笑ふわけにも行かなかつた。その結果は彌次郎彦八が、甘んじて自ら笑ふに堪へたる人物となるの外はなかつたのである。風狂自嘲の文學が特に我が國に盛んであつた原因は爰に存する。東北と南九州との咄の者は、主として遊藝の盲人がこれに任じてゐた。それを奧州はボサマと謂ひ、肥後では今もケンギュウと呼んでゐるが、この二つの地方の昔話には盲人がしくじり、又は笑はれる話が非常に多い。それを何人が流行させたかは言はずとも知れてゐる。豐後の吉右衛門、豐前の吉吾は、實在の人物であつたやうに信じてゐる人も多いが、彼は機智を以て?々他を欺き利を得たと稱せらるゝと同時に、又常に愚鈍を極めたる言行を以て、永く世上の笑を招いてゐるのである。かういふことは到底假想の世界にしかあり得ない。而もその吉といふ通稱のおどけ者は、現に北邊の奧州にもゐたと稱せられ、又中央部の大和平野にも住んでゐたさうで、共に「醒睡笑」以來の日本共通の笑ひ話の主人公を以て目せられてゐるのである。落語を職業とする人々などは、今なほ單純なる話賣りではない。顔や擧動の幾つかを提供して、先づ自分を以て笑ひの公衆に捧げようとするのである。これなどは明瞭に、この技藝が中代の談義僧から出たのではなく、少くとも一たび御伽の衆系統の修養を經來つた證據であらうと思ふ。さうして日本文學の可笑味に、何となく一分の苦味酸味を帶びてゐる如く感ぜられるのも、基くところは、やはりこの隱れたる經濟組織に在つたかも知れぬのである。

　

(353)　　　　　人柱（ひとばしら）

　

　傳説

〔解説〕　人柱に該當する言葉は、他國ではまだ聞いたことはないが、よく似た言ひ傳へは弘く行はれ、現に英國にもローレンス・ゴンムのこれに關する著述が、五十餘年も前に出てゐる。日本に於ては相應に重要な、又興味ある一つの問題である。他の種の傳説と異なる特徴は、これを現實の史跡と思つてゐる者が、今でも多いといふことである。東京でも僅か五六年以前に、舊江戸城の土工の一角から、特に埋めたかと思はれる完全な人骨が、二三の祭具らしきものと共に發掘せられ、當時人柱の名殘であらうといふ説が唱へられたが、場所が禁域に接してゐるために、十分の踏査が行はれなかつた。奧州各地の水利土木に關して、人が自ら進んで犧牲となつて埋められたといふ話には、往々にして年月人名を併せ録したものがある。陸中金ヶ崎に近い百貫堰などに傳ふるものは、これに宛つべき婦人を海岸地方へ買ひに行つた話が殘つてゐる。婚姻の望みもない醜い娘が本人には知らせずにこれに賣られ、それを土中に入れる方法として、わざ／＼横穴を設けてその奧に阿彌陀如來を祭り、村中の女性が一人づつ入つてそれを拜んだ。最後にこの娘の拜んでゐる時に、穴の土を突き崩して生埋めにしたといふ悲慘の話が、實事として世間話に傳はつてゐるのである。誤解誇張があるにしても、その起りは傳説ではなかつたやうに感じられる。ところが他の一方にはこれと併行して、奧羽をも引きくるめた全國の各地に、一種共通の型を備へた傳説も亦採集せられてゐるのである。この共通は可なり顯著なもので、而も偶然に相似たといふべく、餘りにも複雜してゐる。その中でも最も古く有名なものは、長柄の橋又は築島の由來として、文藝の上に現はれてゐる袴の横繼ぎの話である。或る一人のその場に來合せた者の言に隨うて、人柱に立つべき者を物色すると、ちやうどこれを提案した當人であつ(354)たといふ奇譚で、これが九州の處々にまで分布してゐることは曾て私もこれを説いた（島一卷一號、「高麗島の傳説」）。關東の平野などに行はれるものも、人柱を勸めた人が、人柱に立てられることになつたといふ點は一致するのが多いのみならず、陸中のボナリ堰の傳説の如きは、母が娘の聟を殺さうとして、白馬に乘つて朝早く、その地を過ぐる者を人柱に立てよと教へて置いて、その朝白馬に乘せて聟を使ひに出す。それに娘が同行して共に水に投げ込まれたのみならず、それを勸めた母も、後から同じ毛色の馬に乘つて、そこへ遣つて來て人柱に立てられたといふのである。これなどは説明がやゝ曖昧になつてゐるが、たつた一つの例でない故に注意せられる。高木氏の傳説集にも載せられた二三の場合も、共に土木を鞏固ならしめるために、人柱を立てることを勸めたのが女性であり、それが必ず小兒を伴うて來てゐる。誰彼と言はうよりもそなたを頼むことにしようと言つて、その提案者を人柱にする。それを快く承諾したといふ話もあり、又小兒は、その時無心で梅の實を食つてゐたが、その梅の實が成木して今でも食ひ缺いたやうな形の實がなる梅の木があるといふ例もあり、母子は通例、その地に神として祭られてゐるといふのである。豐前山國川の傳説として知られてゐるのも、やはり萬人を助けんために進んで水の神になつたといふ鶴市母子であり、この信仰は、物語となつて遠近に運ばれてゐる。これが實事の記憶でないことは、内容の方からも證し得るのである。人柱の恐ろしき風習が、秘話として永く我々の社會にもあつたか否かの問題とは離れて、一種水の神の祭祀に參與してゐた巫女が、曾て彼等の祖先に、甘んじてさういふ尊い犧牲になつた者のあることを、語りあるいてゐた時期も久しかつたのではないかと思ふ。傳説普及の條件は、聽く人のこれを信ずるといふことである。さうしてこの人柱の傳説は、本質の奇怪を極むるにも拘らず、近世の初め頃になるまで、なほ我が國では頗る民衆に信じられ易かつた事情があつたらしいのである。

　

(355)　　　　　文福茶釜（ぶんぶくちやがま）

　

　童話

〔解説〕　近世の童話は何れも變化してゐるが、その變化の樣式には自ら種別がある。たとへば「桃太郎」（別項）の如く、主として在來の一話を兒童のために省略して用ゐようとしたものの外に、また「花咲爺」（別項）の如く、二つ以上の面白い部分を、わざと組合せたらしいものもある。さうしてこの「文福茶釜」などは、更にもう一歩を踏み出して、新に敷衍を試みた點が、やゝ今日の製作童話に近くなつてゐるのである。寺の什寶の中に、奇拔な由來談をもつた茶釜がある例は、必ずしも上州館林在の茂林寺だけでなく、時としてはただの村々の舊家にも、傳説ある茶釜を珍重してゐるものが知られてゐるが、それとこの童話とは實は關係が薄かつたらしく、單に茂林寺の場合でのみ、後者に影響せられて誰かがそんな名稱を附したもののやうに見える。現在採集せられてゐる民間説話の中で、最も「文福茶釜」の童話と縁の深いものは、一種の動物報恩譚であつた。狐又は狸が、或る貧しい男の好意に酬い、又はその善心を賞せんがために、身を茶釜に變じて寺へ賣られて行く。或は馬になり美女に變じて、長者の家に買はれたといふ話にもなつてゐるが、この方はまだ可笑味が少い。これに反して茶釜の場合に於ては、川へ洗ひに行くと小僧痛いぞ、小僧そつと磨けと謂つたので、小僧が吃驚して釜を落したとか、又は走つて歸つて和尚に話したとかいふ點で、兒童を笑はせてゐる。和尚がそれにも構はず、その茶釜を爐に掛けさせると、小僧熱いぞ／＼と茶釜が物を言つた。さうして終りには尾を出し脚を露はして、茶釜が飛び出したといふに至つて、幼ない聽衆も腹をかゝへて高笑ひせずにはゐられなかつたのである。この類の笑話の通例として、後にはその賣手が滑稽なる小さき惡者ともなり、若しくは話し手の名とも混同してゐるが、前の二つの笑ひで童話としての目的は既に遂げたので、(356)他の部分の話し方は次第に自由になつたのである。文福といふのは實に好文字であつて同時に茶釜の湯の沸く音の擬聲語でもあつた。それで後々の「文福茶釜に毛が生えた」といふ中心の文句の發明せられたことは、ちやうど中世の歌物語の歌が、時代と共に新しくなつたのも同じであつたかと思ふ。子供の繪本にも、この童話は折々採録されてゐるが、實はその形態は今なほ固定してゐない。これを口で話すものに至つては、殆と家毎にそれ／”＼の變化があることは、注意して比較して見れば直ぐに判るであらう。つまりはこれが都市に入つて、或る一つの形になつた時代が、他の何れの童話よりも新しいからで、我々はこれによつて説話進化の過程を學び知ることが出來るのである。前代の隨筆學者たちに援用せられた狐狸の僧、ことに會津の某寺の長命僧が實は狸であつて、寺の大會に小さな茶釜から數百人の茶を汲んだ。その茶釜が今でも傳はつてゐるといふ類の縁起は、全く別の傳説であつてこの童話とは交渉がない。現に一方は狸の形を現はして、遁げ去つたやうに話するに對して、これはその實物が今なほ冷然として寺に遺つてゐるのである。但しこの童話でない方の口碑の發生した原因が、今はまだ明かになつてゐない。これを討究したら或は最古に於ける二者の聯絡、即ち寺や舊家がこんな物を寶物とした動機と、狐狸報恩の説話に茶釜を持つて來た理由とが、もとは相近い心理現象であつたといふ説が成立つかも知れぬといふのみである。

　

(357)　　　　　紅皿缺皿（べにざらかけざら）

　

　説話

〔解説〕　馬琴の「皿皿《べいべい》郷談」に久米の皿山の古歌を引いて、繼娘・實娘の二人の同胞の爭ひを説いた趣向は、シンドレラ姫物語の筋を引いた日本の昔話の復活であつた。現在ある形は既にやゝ壞れてゐるけれども、やはり皿に鹽と松の葉とを載せて出して、二人に歌を詠ませて見たことを語るものが多い。グリムの童話集に採録せられた Alle-reilanch. 即ち佛國で「驢馬の皮」、英國で「猫の皮」の名を以て知らるゝ變装美女の説話が、これと深い關係を持つことは、コックス女史以下のすでに説く所であるが、我が國でもこれが「鉢かつぎ姫」の名の下に、御伽草子の中に保存せられてゐる外に、なほ「姥皮」（別項）などと稱する昔話になつて、今も民間に併行してゐる。（粟袋米袋・姥皮參照）

　

(358)　　　　　松山鏡（まつやまかがみ）

　

　昔話

〔解説〕　現在我が國の昔話の中では、これ一つだけが頗る特異なる經路を取つて、變化して來たやうに思はれる。越後の松の山家といぶ僻村に生れた女が、鏡が影を映すものだといふことに全然無知であつて、その中の姿を亡き母と信じて慕ひかしづいたといふ話などは、他に類型を求めると、笑話以外には一つもなく、これも亦曾てはさういふ中に於て珍重せられてゐたものが、何かの機縁に於てもう一度、眞面目な話の方へ引戻されたものらしい。中世の説話業者等は、自身も旅人でありながら、あぶない冒險をした。即ち交通の最も少なさうに思はれる奧在所を笑ひ草にして幾つかのおろか村話といふものを假作したのであつた。信州の秋山話や遠山話の如く、諸國には大抵一二箇所づつの、無知を以て著名なる村が設けられてゐて、そこに全日本共通の「ちやうづをまはせ」だの、「のうせんかつらの皮」だのといふ滑稽談を持つて來て押付けたのは彼等の所爲であつた。似た例としては?燭を煮て食つたとか、かずのこを食ふのに藪を借りに來たとか、さては屏風をおさへてゐたとか、蚊帳を逆さに吊つて飛び込んだといふやうな、如何にも有りふれた事物を全く知らなかつたといふことを以て、凡人大衆を咲笑させてゐた名殘が、今だに落語家どもの間には幾分かは傳はつてゐる。勿論その土地の人々が聞き知つたならば、苦情を言ふべき失禮な噂ばかりで、それをただ彼等の居合はせないのをよい事にして、いつ迄も話し合つてゐたのであつた。ところが松の山家は山中とは言ひながら、隣國への通路でもあり、又温泉があつて諸方の人の入り集ふ土地でもあつた。かういふ笑話の舞臺としては、似つかはしくなかつた。それがこの鏡を知らなかつたといふ一話だけ、夙に變形しなければならなかつた事情かと思ふ。だからこれと同系の話には、今でも噺し家のよく使ふ比丘尼の仲裁、「もう(359)髪を剃つてゐるから宥して遣れ」と言つたといふ類の形が、依然として行はれてゐるのである。多くの説話は、元はただ一部分の輕い可笑味を含んでゐたのが、聽衆の興味に引かれて次第にその點を誇張し、後には慾深爺の失敗や、愚者の眞似そこなひだけを分離させて、現在ある笑話は成長して來たのである。笑話や大話は變化の終局で、それが再び末めでたしの本格的説話に復する事はないものとしてある。ところが、松山鏡ばかりは孝女の立身譚であり、後更に幾多の潤飾を加へられて、今ではこれを御伽話の一つに算へることすらも無理なやうになつてしまひ、どうしてその主人公に鏡を知らなかつたといふが如き愚かな逸話を携へさせたかの動機が不明になつた。さうして土地の人々は、却つて事實そのやうな事が昔はあつたかの如く考へるに至つた。これは可なり奇異なる昔話の傳説化の例であり、又記録文藝が後代の口承文藝の上に及ぼした一つの反射作用の好い見本である。これとやゝ似寄つたもの、世界的なシンドレラ説話が、日本に入つて來てから物哀れなる繼子話、又はお銀小銀のやうな姉妹の愛情譚を展開したことなどであらうが、雙方共に座頭や歌比丘尼などの、旅の説話業者の介在に基づくものと私などは考へてゐる。

　

(360)　　　　　民譚（みんだん）

　

〔名稱〕　（佛）contes populaire,（英）Folktales.

〔名義〕　普通には「民間説話」と譯されてゐる。「民譚」は單に一部の學者のみが、これを簡約するために使用してゐるに過ぎない。現在に於ては二者は全然その範圍を同じくするものと解せられてゐる。目的は主として製作説話と對立せしめて、特に或る個人の空想又は作爲に基かない説話だけを區別するにあるが、更にその性質を明確にするには、別に現在の「世間話」、若しくは「事實談」といふものとの分界を立てなければならぬ。「世間話」と「民譚」との二つは、話者聽衆の性質、時期機會及び目的にも共通の點が多く、且つ雙方互に材料の融通が行はれ、それが文籍に採録せられる以前に、消えたり變化したりすることまでがよく似てはゐるが、少くともその表現の樣式だけには、間違へやうのない差異がある。即ち「世間話」の方は、假に到底有り得べからざる話であらうとも、必ず誰が言つたとか何時何處で聞いて來たとか言つて、それが或る事實であることを示さうとするに反して、此方は所謂有りさうな話まで、悉く或る時或る男にしてしまつて、最初から空想の活躍のために一種の舞臺の如きものを設けてかゝるのである。話の珍奇なる實質以外に、その敍述の方法に對しても、若干の期待がある。これ我々の話術が、もと「民譚」の中から發達して、次第に他の方面に及んで來た證跡である。この意味から見ても、「傳説」は寧ろ「世間話」の方に屬すべきものであつた。「傳説」には通例定まつた話術がなく、又順序方法もない。それがもし京都の寺などの案内役の言葉のやうに一定すると、再び又民間説話の樣式に戻つて來るのである。

〔解説〕　物語は現在すべて書卷の形を以てのみ保存せられてゐるが、これも嘗ては「民間説話」の中に、包容せられてよい時代があつた。その長い物語が一つの中心信仰によつて統括し、また育成することを得なくなつて、後には(361)人が尋常の能力を以て偶然に諳記し得る程度の、小さな部分に分解し始めたのである。即ち民譚は常に短くならうとする傾向を採つてゐた爲めに、近世になつてはこれを特徴の一つに算へて、稀に殘つてゐる古來の宗教的語り物と差別することも出來るやうになつたのである。而も如何に短くならうとも、少くとも一個の「話の種」（別項）、即ち興味の中心となる部分を缺くことは出來なかつた。その中心が大なる神�ｺであり、又は英雄の生死であつた時代には、説話の輪廓は非常に大きかつたが、それが或る一日の奇怪なる出來事、或る一人の平凡なる者の遭遇、若しくはその偶然なる幸不幸などに移つて行くと、又幾らでも小さく切つて話すことが出來、後世更に興味を個々の言語擧動などに求めるやうになれば、末には現代の一口話の程度にまでも、萎縮することが出來たといふだけである。民譚の分類方法は、人によつて未だ少しも一定してゐないが、右の「話の種」は常に暗々裡に最も大切なる標準になつてゐる。將來の蒐集と比較研究とに於ては、これを拔き出して適當なる名稱を附與することが、何物よりも必要な準備と考へられてゐる。日本では近頃になつて漸くその採集が始まり、地方の昔話や笑話などの、初めて筆録せられたものが非常に増加して來たが、以前はただ偶然に種々なる世間話又は事實談の中に、入り交つて保存せられてゐるだけであつた。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などは、民譯傳承の樣式を踏襲しようとしてゐるに反して、「古事談」「古今著聞集」の系統に屬する逸話集は、寧ろ民間説話をも世間話化してゐるが、二種を混淆してゐることは雙方共に同じである。それ以外に、別に咄の衆〔三字傍点〕の技巧に由つて、古來の話の種に改造に近いほどの變化を加へ、後世の製作説話の先驅をなしたものも多かつた。安樂庵策傳の「醒睡笑」などは、最も早い採集の一つに算ふべきものだが、やはりその三分の一は實話であり、又他の三分の一は新に作り設けられたものであつた。これに反して「狂言記」の數百篇を初めとして、近世の文藝作品の中には落想を前代の民間説話から導いて、これを趣向と名づけてゐたものが存外に多かつたやうである。この意味に於ては彼等も亦、落語と同樣に、無意識なる傳承者であつたといふべきである。

　

(362)　　　　　昔話（むかしばなし）

　

〔解説〕　ハナシといふ日本語の未だ普及しなかつた時代には、昔物語と云つてゐたのが同じものである。西洋には丁度これに該當する學語はないけれど、なほ我々がこの語を棄て得ないのは、一つにはその範圍の明確なためであつて、必ずしも久しく祖先がこれを使用してゐたといふ物なつかしさだけからではない。今日では多くの人が、昔の話だから昔話といふのだと簡單に解するやうになつたが、實は昔の話の全部が昔話ではない。昔話の要件は寧ろその形式にあつた。古くは「伊勢物語」「今昔物語」「宇治拾遺物語」を初めとし、降つて江戸初期の「私可多咄」等に至るまで、文籍の上にもその形はよく遺つてゐる。最初に「昔々」、又は「今は昔」などと言擧げて、必ずしも現世の常識によつて眞僞を判定せんとする勿れの意味を寓したことが、恐らくはこの名稱の基づく所であつたらう。今日の俗言でも地方に由つては單にこれをムカシと云ひ、ムカシ／＼と呼んでゐる者が多い。乃ち英語の Once upon a time と同樣に、元は昔話に限つて必ず定まつた文句を以て始まることになつてゐたのである。この頃普通のものは「昔々或所に」であるが、江戸でも或る時代には「昔々あつたとさ」と切り、又は今日の出雲地方の如く、「とんと昔」といふこともあつたと見えて、トントンカチカチといふ小兒語も遺つてゐる。仙臺では「ざつと昔」、越後の蒲原平原には「有つたてんがのに」、信州松本邊では「昔あつたさうな」、奧州津輕には「昔ア有つたずオん」といふ形が行はれてゐた。話の終末にも亦一定の文句があつた。奧州にはドンドンハライ、コレデドンドハレなどと云ふのもあれば、津輕のやうにトッチバレ、ソゴトッテトッチバレといふ例もある。ハラヒは多分「是でおしまひ」といふこと、即ち何物をも語り殘さずの意であらう。京都などの古風は「それで市が榮えた」といふのであつたが、それが越後に行くと、「エッチがサッカエ、ボロントモゲタ」といふ面白い口拍子に變つてゐる土地もあつた。五十(363)嵐力氏の「趣味の傳説」には、國はどこか知らぬが話の終りにドウビンと云ひ、或はそれを長めて「ドウビン三助、三助アうちに火ア附いて、權助ア屁で吹つ消した」と唱へる地方があつたといふ。越中では、「語つても語らいでも候」、これも「今昔物語」などの「語り傳へたると也」から、段々に變化したもので、同じ書物には又銀細工延正といふ者が、花山天皇の御戯れを大聲に唱へて、終りに「此事語り保てやおい」と云つたとあるから、舊い形とても始終改まつてゐたのである。話の中程にも色々の形式が元はあつたのであらう。西洋でもよく Criq Craq 話などといふが、これは聽手が睡つたかも知れぬと思ふ時に、話者がクリックといふと、聽手がクラックと應じて決して睡らざることを證する音であつて、我々のフンフンもこれに該當する。奧州では今も話手が童話の一の形として、時々「ムカシこ長くて寢目になつたどす」などといふ文句を入れることもあるさうだ。昔話が尋常の會話と類を同じうせぬことは、この特徴が先づこれを示してゐる。併し本來は、それだから信ぜよといふ趣旨に出たのが、後には次第に滑稽を主とするに至つて、却つて眞面目には受取られざらんことを、目的とするやうになつたのは是非もない。前に引例した終りの文句などは、皆多少の頓狂さがある。或は「昔々のその昔」だの、「ずつと昔の大昔」だのと云つて、最初から遊戯に近い興味を催さうとしたのも、單なる話術の變遷ではなくして、同時に内容の徐々の推移をも暗示してゐると言へるであらう。民譚（別項）即ち民間説話といふ語が、昔話と範疇を一にするか否かは問題である。現時の民譚にはわざと昔々の形式を避けんとするものもあることは事實だが、これとても程々なる變化を試みた上で、到達した所の一境地であるから、なほ昔話の種類の一つに算へてもよい。若しそれが許されるならば、昔話は民譚の日本古名であると言ひ得べく、それが許されなくとも、なほ民間説話の主要なる大部分とは言ひ得る。童話を昔話と對立せしめた一類に立てることは、少くともこの意味に於て誤りである。何となれば、童話ほど嚴重に、この昔々の形式を守つてゐるものはないからである。

　

(364)　　　　　餅と白石（もちとしろいし）

　

　昔話

〔解説〕　妖怪退治を説く民間説話の中に、一つの著名なる型は、白い丸石を火に燒いて餅と見せかけ、欺いて食はせた一條である。怪物は、山男・天狗又は鬼といふことになつてゐる。膽力のある者が山小屋に獨り住んでゐる處へ、毎夜のやうに遣つて來て火にあたり、又餅を所望する。或る夜その白石を燒いて置くと、例の通り山男が來てそれを取つて食ひ、あつと言つて飛び出した。翌朝見たら山中に死んでゐたとか、又はそれきり姿を見せなかつたとかいふ類の話が、僅かづつの變化を以て府縣に數多く行はれてゐるのである。敵を恐れぬ修養の資料として、普通かういふ勝利の記録は、到る處に歡迎せられるものであるが、さりとてこれだけの「話の種」（別項）が、單にその目的のために創作せられたとは考へられぬ。山に住む異類が穀物の香を悦ぶといふ俗信は、御幣餅又はたんぽ燒の調製に伴うても語り傳へられ、天狗を誘致する危險があるから、これを里中では燒かぬといふ土地が多い。もとは多分これを供へて祭を營んでゐたのが、その信仰漸く弛んで後、奇謀を以て彼等と絶縁したといふ話になつたのであらう。即ち昔話の根源の、存外に眞面目な慣習から導かれてゐるらしい一つの例である。この白石の話と系統を同じうするものに、竹を切つて煮て鬼に侑《すゝ》め、自分は筍をむしや／＼と食つて見せて、人間は齒の丈夫なものだと感心させたといふ話もある。これなどは現在既に「笑ひ話」（別項）の方に轉用せられ、たとへば、豐後の吉右衛門には虎の油の話がある。竹は煮て食ふとうまいものだ。その料理方を教へて遣ると欺いて禮を前取りしてから、まづ虎の油を一合はど鍋に入れよといふ。そんな物はどこを捜してもあらう筈がない。さうかそれでは殘念ながら、竹を柔かく煮て御目に掛けることが出來ぬと言つた話、これも以前はやはり相手が鬼であつて、人間が筍を食ふのを(365)見て驚歎して遁げ歸つたといふことになつて、諸國に語り博へられてゐたのである。ところが、同じ九州でも、豐前の犀川・清瀬川等の岸の村々では、近い頃まで毎年夏のなかばに、子供たちが川原に出て水神祭といふことをしたが、その折には何れも盛んに竹の子を煮て食ひ、一方には、竹を丸切りにしたものを折敷に盛つて、これを水の邊に供へてゐたさうである。水神は水の中から少年が竹の煮物を食ふのを見て、自分も出て食つて見ると、固くて到底食へない。それで人間の齒の力の強いのに驚いて、もはや害意を抱かなくなるやうに、かうするのだと説明せられてゐたといふ。近世は勿論半分以上遊戯化してゐたことと思ふが、單なる昔話に基いて、これだけの行事は發生する譯がない。即ち儀式の方が先づあつて、それを説明する昔話が、嘗ては神話の如く信ぜられてゐた時代があつたのである。伊豫の宇和郡の海岸などでは、毎年非常に大きな草鞋の片足を作つて、海に流す儀式が行はれてゐる。これを説明する昔話の有無はまだ確かでないが、これがちやうど昔話だけ殘つて儀式はもう絶えた白い石の話と、豐前の水神祭の竹の子の例とを中に置いて相對立するもののやうに考へられる。

　

(366)　　　　　桃太郎（ももたらう）

　

　昔話

〔解説〕　越前の氣比神宮の内陣の彫物に、桃の實に乘つた童子の姿を刻したのがある。もしこれが慶長年間の再建の際に成つたものとすれば、桃太郎思想の發生は、自分等が想像してゐたよりは又大分前になる。併しそれにしたところで、桃太郎といふ名は新しい。我々の間に固有であつたものが、説話のこの部分でないことはほぼ明かである。これは英雄の異常誕生、殊に太平洋のこの方面に於て、最も熱心に語り傳へられてゐた漂着譚即ち瓠だの瓜だのといふ中空虚なる物の實に入つて、水上に浮んで來たと云ふ大昔の奇瑞が、既に信仰の支持を離れ、ただの小説の興味と化して後、なほ久しい間飽くばかりもて囃されて新しい意匠をこの間に求めた結果としか見えないのである。童話の形としてはこれなどは巧妙な改造、又印象強き話し方といつてよい。單に文化の中心地に於て起つたといふだけでなく、力ある素朴さと鮮かな色彩が、能く全國の兒童の好尚を統一させるに足りたのである。この説話の起原を尋ねんとする者には、これは寧ろ不幸なる革命であつた。そのために、今では「燕石雜志」一流の、記銘搬入説とも名づくべきものを成立せしめる餘地さへ生じたからである。併し最近新たに始まつた郷土採集によつて、なほ若干の比較資料のこの説話の成長過程を指示するものが出現して來た。爺が山へ行つてゐる間に婆が川へ往つて、拾ひ上げて來たものは桃だけではなかつた。瓜子姫は全く同じ手順を踏んで小さな瓜の中から生れてゐる。これは女であつて鬼ヶ島へは行かず、親を富貴にしたことも傳へられて居らぬが、さういふ側に於ては、灰蒔爺、又は花咲爺の話の犬の子があり、これは奧州の傳承に於ては川を流れ下る木片の中にあつて、割つて見ると可愛い犬の子であつたといふ。しかも人間以上に怜悧で、拾ひ主を忽ち長者にした。それから雀が籠の中に入つて水上から下つ(367)て、婆のとなへ言のまゝに手元に近よつて來たといふ話もあれば、同じ桃太郎でも桃は香箱の中に隱れてゐて、箱を開いて見たら中に桃があつたと説く例も多く、それから又柿の實が流れて來て、中に赤子がゐたといふ柿太郎とも名づくべき異例さへある。これを要するに桃から生れたといふのは一つの形で、もうその以前散々に色々の物に入つて、異常の赤子が流れて來たことを話にしてゐた餘勢であるとしか思はれぬ。これだけが獨立して古くからあつた筈はないのである。童話が保存する前代分子、即ち神話の元の形まで溯原し得る資料は、却つて無意識なる樣式化の部面にあるやうである。たとへば鬼ヶ島は有名な御曹司島渡りの外に、鬼の子小綱と稱する女性奪還譚中にもあつて、日本は海の國だけに、これを英雄捷利の舞臺に取り易かつたのである。犬猿雉の三疋を家來に連れた點なども、その動物の種類や擧動こそ區々であるが、殆と全世界の遠征説話に附いてまはつてゐる挿話といつてよい。それを近世の桃太郎童話が、特に花々しく働かせたといふ迄で、これと對立する瓜子姫に於ても、やはり形をかへて動物の援助は説かれてゐる。今日の説話研究家なる者は、言はば見當ちがひの方向に眼を遣つて、一つの御伽話の起りを知らうとしてゐたのである。「桃太郎の誕生」に詳しく論じてあるから爰ではそれを援用するに止めるが、他の多くの異常童兒の立身譚と比べて、桃太郎の中に缺けてゐるものは、幸福なる婚姻の一條であつた。これは幼ない聽衆の興味を抱き得ない部分として、わざと計畫をして省いたと思はれるから、かういふ消極的の方面からも、なほこの作品の近代人の意識による改造なることが察せられる。而もなほ他の重要ならざる點に於て、古來の話し方の幾つかを存置してゐることが、民間文藝の成立に聽衆の力の參與した跡であり、同時に又謂はゆる童話文學との岐れ目であつたとも言ひ得ると思ふ。

　

(368)　　　　　山爭ひ（やまあらそひ）

　

　傳説

〔解説〕　富士と淺間の煙くらべといふことは、近代の歌謠にも時に用ゐられる言葉ながら、先づ何よりも解きがたい不審は、富士の御神が久しく淺間大明神として祭られたまふことである。さうして同じ名が信州の方の競爭者、その麓を通る旅人が、富士の噂をするのでさへ忌むといふ山に附與せられてゐるといふことである。古風土記以來對立して、天つ神の寵遇を爭うたといふ常陸の筑波山にも、頂上には淺間大神が祀られてあり、伊豆の雲見の御嶽は富士と仲が惡いと言ひ傳へるにも拘はらず、この山の神も亦淺間明神と稱へられる。或はアサマといふ語に、今は埋没した特殊の意味があつたのではなからうか。富士はアイヌ語で火のことだといふ解説以上に、この疑問は實際に必要である。神書に大山津見神、二人の姫を、天孫に進《まゐ》らせ、その一方は姿醜きによつて返させたまふことは見えてゐるが、未だ御姉妹の間に嫉み憎みの爭ひがあつたとは傳へて居らぬのに、これを山々の神として拜み仰ぐ人々の中には、必ず御仲らひの永久に睦ましからざることが説かれるのも、これと關聯して何か今一つ前からのいはれがあつたものかと思はれる。伊豆の雲見嶽の淺間は磐長姫を祀ると言へば、富士の木花開耶姫の榮え給ふを、安からぬことに思はれるといふだけならば解るが、同じ半島でも下田富士といふ下田の町の北に在る小山などは、富士山の妹神で、それより更に美しかつた故に駿河の姉神がこれを妬み、顔を見るのを厭うて天城の山を屏風に立てられたとも言つてゐる。察するに山爭ひの傳説は古く、これを女性の神とする信仰も前からあつて、たま／＼古史の大山祇の記録と習合した結果が、却つて由なき解説を木花開耶姫の御同胞に附加することになつたらしいのである。山を三人の姉妹の神の座とする思想は、起りが自然であつたか、又は由つて來るところが久しいのか、少くと(369)も伊豆の一國に特有の口碑でなく、又宗像三女神の古傳にも限られてゐなかつた。例へば陸中の早地峰・六角牛・石神の三山に於ては、大昔三人の處女がこの地に來り宿し、夜の間に妹の胸の上に降つた花の枝を、姉が竊かに取つて我が胸の上に載せ、それを驗にして最高の峰を得たといふ「夢取替」とよく似た話があることを「遠野物語」には録してゐる。沖繩の古記には本島と久米島と八重山の萬年青岳と、この三所の神が同胞であつたと傳へてゐる。從つて「萬葉集」に詠じたのと全然別種なる三山の爭ひの物語も、嘗てはこの國には行はれてゐたのかも知れぬが、一たび公認の文獻がこれと比照せられることになると、それが假令輕々しい臆説であらうとも、他の民間の傳承は何れもこれに押され、次第に日蔭のものになつてしまふことは、昔も今日と異なる所がなかつたのである。而も文字の教育が社會のただ一部分に限られてゐる間は、古來の口碑はそれと交渉なく、なほ久しく併存することを得たかと思ふのは、既に一旦大山祇命説が成立つた以上は、如何に間違へても到底發生しやうのない奇怪な異傳が今以て諸國の僻村には一致して行はれてゐることである。靈山に?々女人の結界を設け、これを侵さうとした比丘尼などが罰せられて石に化したといふ遺跡の存するのも、必ずしも佛法の教理又は必要ばかりではこれを説明することが出來ぬ。或はその山の姿を見る里方には、古來美人を産せず、産すれば必ず不幸を見ると言つたり、甚だしきは神、殊に壯齡の男子の山に入つて汚い事をするのを喜びたまふといふが如き、粗野なる言ひ傳へをさへ信じてゐる者があるのは、寧ろその根源の更に年久しいことを推測せしめる。所謂雅俗都鄙の解釋の隔絶してゐることは、特に山神に關する傳承に於て、その最も極端な例を見ることは事實であるが、さりとてこれに由つて日本に初めから二通りの信仰があつたものと迄は推論し難い。越前あらちの山の昔語りとして、古く知られてゐた山中分娩の奇事の如きは、一方には各地の獵人の秘傳の卷物にはその委曲を記し、更に他の一方には多くの記録文藝の趣向となつて發達してゐる。これは固より神代史の磐長姫の與り知るところではなかつたけれども、而も磐神の名を以て山靈を呼びかける習はしは古かつた故に、これを木花開耶姫の御姉の如く説明するやうになつたのも自然である。

(370)〔參考〕　山の人生柳田國男

　

(371)　　　　　山姥（やまうば）

　

　傳説

〔解説〕　説話に出て來る山姥と、我々の傳説が保存してゐるそれとは、頗るその性質を異にしてゐることが、先づ最初に注意せられる。前者の有名なのは牛方山姥、それから西洋の赤頭巾を思はせる「天道さん金の綱」といふ話などであるが、奧州では瓜子姫の勁敵をも、アマノジャクといふ代りに山母としたものが多い。何れも兇暴でやたらに人を食ひ、又殘虐に處罰せられてゐる。鬼婆の異名としか考へられないものばかりである。ところが傳説の方で、昔或る山に山姥が住んでゐたと言ふ場合には、大抵は物懷かしい記憶が主になつて、それは怖ろしい化性などとは推測し得ないのを常としてゐる。ちやうど謠曲の「山姥」が「紅葉狩」の鬼女と大よそ同じ舞臺で舞つてゐるにも拘はらず、これを親類縁故のある者とは見られないのと同じであつた。信州は今でも山姥の故郷にふさはしく、これに關する無數の傳説をやゝ漠然と保存してゐるが、試みにこの地方の故老に山姥とはどんなものかと問へば、妖怪とは答へる者が少さうに思ふ。大體に年の暮の寒くなつた頃に、彼女は山から出て來るものの如く考へられ、年取りの晩の飾り木の中にも、荒神松の代りに山姥の松といふのが立てられ、その名の起りは既に忘れてゐる。所々の由緒ある暮の市には、必ず最後に山姥が買物に來るといひ、又山姥が小さな�ｺ利を携へて、二斗の酒を買ひに來たといひ、それを疑はずに量つて賣つて遣つた家が、その後繁昌したといふ話なども傳はつてゐる。九州四國の山に近い里でも、或は山姥から貰つたといふ精巧な帷子を、重寶にしてゐる舊家があつたり、又は山中に入つて山姥の緒つぐねといふ物を拾つて來たら、それが俵藤太の物語にもあるやうに、取れども盡きぬ絲卷であつたといふ話もある。東海道の各地にも山姥が訪問して來たといふ話を、口碑に有つてゐる舊家は多い。その用向きは、ただ草臥(372)れたから休むといふのもあつたが、大抵は臼とか鍋とかいふ道具を借りに來たといつて、現にその品物が今でもあつたり、又は家の娘が機を織つてゐる窓に近よつて、助言をしたとか勞苦を助けたとかいふので、そのことは既に山姥の能の詞章の中にもあるから、近頃に始まつた俗信でもないのである。今一つのしをらしい傳説は、山姥自らが山中で布を織り、又深山で鬼を産んで、それを育てて山々の主にしたといふことである。「臥雲日件録」にはその説が筆録せられ、又國々にも似た説があつて、この風聞もさほど空なものでなかつた。遠江の秋葉の奧山の古傳は、縁起の中にも述べられてゐるが、阿波の劍山山彙にも山姥の子育て岩などと稱して子を連れて出て來るといふ靈地が所々にある。さうして食はれたとか襲はれたとかいふ説は少いのである。所謂食はず女房が男を風呂桶に入れて擔いですた／＼山へ還つたといふのは昔話の方であるが、これにもなほ平和なる婚姻交通の名殘を留めてゐる。阪田金時の生ひ立ちに關する傳説は、近世書册に録されて急に展開してしまつたが、木曾にも足柄にも前からさういふ話があつたものとすると、これが又大體に口で傳へてゐる各地の山の昔話とも一致するのである。姥といふ語のために今日の木花開耶姫信仰と全く二つの分れたものになりかゝつてゐるが、これも亦以前の日本人の山を崇敬し、又感謝した習慣の名殘であることは、ほぼ確かであり、同時に又この傳承の精細なる討究によつて、昔話といふものの傳説と異なる重要點を明かにする事が出來ると思ふ。

　

(373)　　　　　落語（らくご）

　

〔落語と落し話〕　落語はその名稱それ自身が既に頓狂で、又たわいもない近世の新作であつたが、今日となつてはこの語以上に、日本の話術の變遷を明白ならしめる史料はないのである。落語は勿論、「落し話」の素人藝に對して、話を職業とする者の技術を區別した語ではあるが、その名の新しい割には、實質は意外に早くからあつたらしく、しかも一方には「落し話」といふ名稱も、さう古いものではなかつたのである。話には必ず「落ち」を要すといふ約束は、或はもと初期の專門家の群の間に發生し、後に民間の文藝がこれを踏襲することになつたのかと思はれる。といふわけは「落し話」の方は通例斷片的であり、これに伴ふ細部の技術の、素人に摸倣し難いものを取殘した形跡があるからで、やゝ比倫を失したるたとへではあるが、この點は幾分か神話と傳説（別項）との關係に似てゐる。話を職業とする者には「咄の者」、又は「御伽の衆」なるものが夙くからあつて、彼等はまた「落ち」に該當するものを肝要としてゐたのである。元禄七年に出た「正直咄大鑑」卷四に、「それ咄は一が落ち、二が辯説、三がしかた、殊に當世は古への曾呂利などの噺の風俗とはかはりて、輕口にをかしくしどけなく、理をつめ下卑たやうできやしや也、まづ落ちが惡うてはつまらぬ云々」ともあつて、既にそれ以前から「落ち」のあるものだけがハナシであるかの如く考へられてゐたのである。事によると我々の昔語りを昔話（別項）と云ふやうになつたのは、却つて後の人がこれに準じたものかも知れぬ。「落ち」が笑ひをただ一つの目的としてゐたことは、今も前代も異なるところはなかつた。さうすると大名や富貴の者に、笑ひを獻じて生計を立ててゐた者が、他の種類の笑はせ方は古臭くなり易く、また時としてくすぐり〔四字傍点〕の嫌ひがあるので、專らその力を頓作の意外に傾け注がうとした動機も察せられるのである。生眞面目で想像力のやゝ鈍い人たちを笑はせるには、「落ち」とか「下げ」とかいふ全く豫測しない話題を(374)持つて來て、突兀として今までの別の話と結び付けるのが效果的であつた。それが俳諧といふ應接技術が、次第に記録文藝の中まで入り込んだ理由に外ならぬ。併し御伽には元來時をつぶすといふ他の一つの要件があつた。單に最後の滑稽なる「落ち」をたよりに、黙つて長い話を聽いてゐようとする者は少かつた。それ故に更に第二第三の笑はせ方、たとへば輕口・秀句やしかた〔三字傍点〕・物眞似等を交へ用ゐて、始終華やかに座を持つ必要があつたわけである。當世の落語家なるものは、この中世の同朋たちの技藝、それから轉化した所謂太鼓特などの任務を、ほぼ以前の型通りに演出してゐる。ただ昔と異なるのは、その物々しい名稱以外に幾分か輕口・秀句の採集範圍を擴めたといふことと、極度に練習を重んじて粉本の拘束の外に出ようとしなかつたこと、及び社會事情の變化のために、旦那がただ一人の、我儘大名などでなくなつて、廣く錢を持つて聽きに來る一般の公衆であつたことである。「落し話」といふ一種の民間説話は、その名稱としては「落語」よりも先だが、實際は新たなる應用に過ぎなかつた。ちやうど村々の臼唄踊唄が、弄齋・隆達等の遊び坊主の新作を取入れたやうに、笑話の流行が次第に「話の種」の缺乏を感ぜしめた結果、機會ある毎にこれを「咄の者」の遠くから運んで來たものから補充したのである。都會の需要が追々とこの座敷の藝人を分業させたに反して、田舍では咄の運搬だけでは生活し難かつた爲めに、大抵は昔のまゝの兼業の者があるいてゐたが、その中でも殊によく旅行をしたのは、下級の巫女であり座頭であつた。笑話は大部分盲人がこれを運び、又往々にして自身これを新作してゐる。按摩といふ近世の職業に携はる盲人が、話の上手であつた理由は、彼等は即ち笑ひ話の行商でもあつたからである。

　

(375)　　　　　笑ひ話（わらひばなし）

　

〔名稱〕　（佛）Les Droles.（英）Droll tales.

〔解説〕　從來は「おどけ話」といふ方が普通であつたが、それでは少しばかり範圍が狹くなる感がある。漢字でも「笑話」といふ語があるから、改めて笑ひ話の名を採用すべきである。「おどけ話」はおどけ者又は道化者のする話であつて、さうでない者が?々笑ひ話をすることがあつた。人には夙くより笑の必要があり、道化者は寧ろその必要に促されて後に起つたのである。人が笑を催す場合は、何がをかしいかに注意を拂つて見れば、その性質を見分ける事もさして困難でない。笑ひ話の分類も、結局これを標準として出來る。多くの心理學的辨證もあるが、笑は要するに滿足の聲であつた。欲が遂げ求が得らるれば獨りでも人は笑つた事は、今も幼兒の動作などに於てこれを認めることが出來るが、後にだん／＼と群の生活に限られるやうになり、夙に説話と切ることの出來ぬ關係を結ぶやうになつた。人が他人との比較によつて、相手の自分よりも弱く、醜く、又は魯鈍なことを知ることが、もとは主要なる笑の刺戟であつた。それ故に如何なる民族でも、努めて敵を笑はうとしたのである。笑と戰爭とは深い關係があつたと同時に、笑はるゝは屈辱であり、笑ふは侵害であつた故に、人は笑を愼み、又笑はれざることを修身の目的としたのであつた。平和なる團體の生活では、笑ふべき事由は誠に少く、また笑ふべからざる拘束が多かつた。しかもこの滿足の聲は、既に勇氣元氣のために缺くべからざるものとなつてゐたので、百方その機會を求めて、終に假設想像上の「笑ふべきもの」を見出した。これが笑ひ話の根源といふべきものであつた。そのうちに笑の發見者の技能が練磨せられ、彼等は更に進んで、自らその笑の相手となることを甘んずるやうになつた。これが日本に限らず、いづれの民族にも道化者の一役が、早く存立を認められる理由である。だから笑ひ話は凡そ笑はるゝ者の(376)誰であるかによつて、これを敵・味方の二種類に分つことが出來る。異國人・隣村人、若しくは惡漢等の弱點をやゝ誇張してまでも批評せんとするは對敵行爲であつた。狐狸天狗の類の人に仇するものも、やはり話に於ては、努めてこれを笑はんとしてゐる。おろか村・おろか聟等の話なども、根源は即ち一であつた。これに對してチャリ・ヒョウヒャクなどと稱して、仲間のうちに特に智能を缺き、若しくは普通に人のせぬ事を平氣でして、それを自ら語つて笑はるゝことを辭せざる者があつた。大抵は虚飾であり、又?々職業としてこれに任じてゐたのであつたが、徒然無聊を愛せざる公衆は、彼によつて存分に笑の快樂を味はつたのであつた。この道化は同時に又敵を笑ふの技術をも解してゐた爲めに、二種の笑ひ話は往々にして混同した。が併し笑はれて怒る者のある話と、誰も抗議を申込む者のない話とは、性質が初めから別であつた。敵を笑ふ方の話の古いことはよく分つてゐる。第二の自嘲の説話も近代に入つて非常に發達したことは事實であるが、これに由つて前代には全くその存在を見なかつたものの如く推定することは出來ない。我々が神話時代と稱する社會に於ても、俳優は儀式として怨敵の醜く破らるゝ?態を演じなければならなかつた。優れて正しく又誠ある人の幸運を敍述するには、方法として必ず花咲爺の隣の爺や、慾深婆の如きものを想像に上せる必要があつた。神の訓戒と作法とを解説するには、堅く守つて賞せられた者の側に、誤り欺いて災を受けた者の側を竝べて見るが便利であつた。我々の滑稽文學は早くその芽生えをこゝに培はれてゐたのであつた。或は民間説話（民譚參照）の最も古く文學化すべかりしものが、この方面にあつたと言つてもよい。その上に人の生活には普通に天然の制限があつて、念願希望のみは遠く走り易かつた爲めに、こゝにも夢を實際の如く描寫する「大話」（別項）といふものの發生する餘地はあつたのである。人間の常の力では到底なし遂げ得ない事業、それを知りつつ誠らしく語ることは、即ち一種の自嘲であり、弱點の暴露であるが故に、他人はこれを聽いて大に笑ふことが出來た。笑ひ話はこの普通の常識ある者の言はぬ事、人が私事として隱さうとする事柄を、無造作無遠慮に語り出す點からも發生し得た。笑ひ話の教訓的價値は、言はばこの弱點批判の假想的練習を經て、(377)追々に今日の高さにまで押し進められて來たのである。

　

(378)　　　　　椀貸穴（わんかしあな）

　

　傳説

〔解説〕　二十年餘り前、我々がこの傳説の存在に心づいた頃には、誰しも奇異は感じてもまだこのやうな神秘な意義を含むものとは思はなかつた。何よりも大きな事實は、南は九州の南端から、北は奧州の隅まで行渡つて、分布が廣いのみでなく、どこに行つても、同じ地にその傳へが可なり相接近して無數に記憶せられてゐることである。これは今日謂ふ所の傳説の、普通の性質ではなかつた。今日の傳説は、人々が此處ばかりの事實と認めてゐるが故にこれを信ずるので、從つてその例は孤立し、流布の半徑とも名づくべきものが五里十里もある。椀貸穴だけは百穴の如く、いくら多くあつても土地の人が苦にしない。言はば水神といふものは、人が求むれば椀を貸すものだつたといふことを、一般に承認してゐる形である。この傳説の始めて刊本の書册に録せられたのは、天保年間の「利根川圖誌」などかと思ふが、全くこの記事を見たことなしに、關東以外の各地で傳へでゐるものが、これと符節を合するのは驚くべき程度である。大體に後の人が借りて損じて斷りを言はなかつたとか、數をごまかさうとかした爲めに今はもう貸さなくなつたとかいふのが例であるが、意外なことには、その不正直な者の子孫の家に、現にその傳説の作り話でない證左として、今なほその膳椀を所藏してゐるものが多いのである。木具を食器にしたのは、何と言つても轆轤以後、さうでない迄も鑿の使用が普及してからである。ましてや穉拙にもせよ黒赤の色漆を塗つた工藝が、百姓の手にも屆いたのはずつと後の事で、土地毎にその年代がほぼ文書によつて明かにし得られると思ふ。然らば果してかういふ信仰が、塗物の世に出た後まで續いてゐたとするか、もしくは又人がこの種の新文物を以て、以前の證明樣式に置き代へようとした動機が現はれたとするか、何れにしてもこの廣汎な一致と、顯著なる矛盾は(379)興味ある問題で、答解はよしや遠くとも、なほ大切にこれを守らなければならぬと思ふ。我々の記録してゐる事實の中で、行く／＼探究の手掛りとなるべきものが幾つかある。その一つは村人の求めに應じて祝宴の日の器具を貸出したといふ場處が、大多數は淵や池又は水の流れてゐる山陰の洞などであることである。天龍川の流域では明かにこれをカハランベ、即ち川童が椀を貸したと傳へてゐる例もあるが、さうでなくとも貸す者は水の神、常は岩穴などの陰に潜まつて、凡人が姿を見るを得ない靈物としてゐることである。今一つは地の下に在る通路と邑里、そこに宮殿があり又豐富なる衣食住があつて、たま／＼交通を許された者が、大抵は家富み永く榮え、舊家として久しく家柄を誇るといふことで、この點は今も流布してゐる數々の昔話、例へば斧を探しに水底に入つたとか、龍宮に遊んで乙姫の婿になり、乃至は黄金の小臼や小犬を貰つて來たといふ類の空想譚に、根となり蔓となつて結び合つてゐることである。隱れ里の幻は何れの民族の文藝に於ても、貧しい人々の最も樂しい休息所となつてゐるが、これが日本のやうに信仰の中に織り込まれて永く傳はつてゐた例は珍らしいと思ふ。單なる昔話であつたら、このやうに信じ易い形に、取替へて眺めようとする努力は起らなかつたらう。島國を取繞らしてゐた海の都の信仰は、それが固有のものであつただけに、あらゆる新文化によつて侵撃せられつつも、なほ根強く殘り傳はつてゐるのである。もう一度靜かな心持を以て省察して見なければならない。

　

(380)　　　　　伊勢や日向の物語（いせやひうがのものがたり）

　

　説話・諺

〔解説〕　前代の民間説話の、中味は既に失せて、ただ名目のみを存する例であらうと考へられる。現在世に知られてゐるものには、伊勢安濃郡内田村の長源寺に語り傳へてゐた一説がある。夏の日、日向國から來た旅人が、土地の住民の一人と竝んで、この寺の堂の縁に晝寢してゐるうちに、魂が互に入れ替つてしまひ、雙方互ひちがひに相手の家元へ還つて行く。家人が何としても承知をせぬので家にゐるわけに行かず、もう一度同じ寺にやつて來て兩人竝んで晝寢をし直し、やつと元々の身體へ魂を引き戻したといふ。これが伊勢や日向の物語だと「和漢三才圖會」（卷七十一）には誌してゐるが、傳説としては目的がなく、昔話にしては趣向が足りないと思ふ。この言ひ傳への半分は古くある形で、或は外國の記録の飜案であつたらうか。昔讃岐國で同じ年頃の娘二人が死し、その一人は縁あつて蘇生したが、故《もと》の身は既に亡びてゐた爲めに、已むを得ず今一人の體を借りて還つて來ると、その親たちは外貌によつて、これを他人の娘としか看ることが出來なかつたといふ話。これなどは近代の小説にも、色々にその換骨奪胎を繰り返してゐるやうである。長源寺の口碑なるものも、これに由つて容易に思ひ付かれるもので、ただ後段の又寢をして魂を入れ直したといふ可笑味に、若干の變化を見るのみである。さしも世に持て囃されて有名な諺とさへなつてゐる伊勢日向が、かやうな感じの淡い燒き直し式のものであつたらうことは想像し難い。日向の方では別に梅北村の「神柱神社由緒記」なるものに、萬壽三年この社創立の折、日向では六歳の女の兒、伊勢では七歳の男の子に同時に託宣があつて、雙方の早使ひが中途の縣の里に於て行逢ひ、同じ神旨を語りかはしたといふことを記し、これが即ち伊勢や日向の物語であると傳へるさうだが（三國名勝圖會その他）、これも亦久しく行はれてゐ(381)た物語の名に由つて、後に附會したものとしか思はれぬ。貝原氏の「諺草」に、あなたこなたの一方ならぬ物語をいふとの想像は當つてゐるかも知らぬが、それを直ちに神代卷の鈿女・猿田彦二神の問答より起る諺だと斷ずるのは早い。これも或は消えたと思ふ昔話がまだどこかに殘つてゐて、行く／＼これ等の臆測を無用にする時が來るかも知れぬ。諺といふものの中には、以前傳説や説話のまだ活きてゐるうちに作られて、文句が面白く又簡單であるために、後まで記憶せられたものが、この外にも幾つかある。さうしてその諺の興味に動かされて、もう一度これを説話又は傳説の形に戻して見ようといふ試みも、近世になつてまで?々繰り返されてゐる。伊勢の長源寺といふ寺は、或は特にさういふ事業に携はる者の止住した寺ではなかつたらうか。「和漢三才圖會」は世説に忠實なる編述であるから、この種の研究に向つては若干の暗示である。

〔參考〕　諺語大辭典及補遺

　

(382)　　　　　縁起（えんぎ）

　

　傳説

〔解説〕　縁起は傳説の中でも最も作爲多く、殊に所謂合理化の目的が片よつてゐるものとして、耶蘇教國では通例敬して遠ざけられてゐるが、日本のやうに近世頻りに傳説を補修改造した國では、これが或る時代の横斷面を保存してくれたといふ點にも價値があり、また文章によつてその時代の解釋を固定して置かれたといふことも、不便ではあるがそれ以後の變化を防ぐ功績はあつたのである。一例をいふと宮城縣柴田郡の白鳥明神縁起は、社家が江戸時代の初めに吉田家の人々と相談して作つたものと、その少し以前に別當寺で書いたものと二つあるが、前者はその祭神を日本武尊としてゐるに反して、寺の方ではこれが用明天皇の「山路の笛」の事蹟となつてゐる。雙方共に今一つ以前の尊神流寓の物語を布衍したことは同じだが、これあるによつて今日の傳説の、變化して來た路程だけは知れるのである。口碑は勿論多くの場合に於て、縁起以前のものを保持してゐるが、なほ時としてはこの第二の縁起よりも、更に數歩を進めてゐることがある。それ故に假に自由に過ぎたる變更が加へられたらしい場合にも、全然縁起を參照の外に置くわけに行かぬのである。縁起の文學には定まつた型があつて、特にその進化の痕を究める必要もないが、體系としてはほぼこれを二つに分つことが出來る。その一つは即ち前代の靈驗記と近いもので、筆録の當時世上に傳はつてゐた風説中、神威佛�ｺを顯揚するに足るものを編輯するを以て目的としたもの、他の一つは即ち專ら創建歸依の由緒因縁を述べようとしたもので、假にこれを録進式とも名づけることが出來る。これによれば大體その縁起を讀む人の種類も察せられ、從つて縁起作成の趣旨も窺ふことが出來るのである。尤もこの驗記式の方にも、大抵は勸請影向の始を説いてゐるのみならず、單なる由來記風の縁起は多くは後期の所産であるだけ(383)に、摸倣類型に流れてゐるが、なほ口碑蒐集者の立場から見ると、興味は却つてこの後の方に豐かである。神佛の靈驗は何れも世間話（別項）、即ち實事談の形を取つてゐて、誤信や虚構の種を混入し易く、たま／＼前代の民譚（別項）の、姿をかへて再現してゐるものがあつても、これを元に復して見ることは容易でない。これに反して社寺創立の因縁を語るものは、その儘で一つの傳説であつた。即ち昔々の代に、曾てそれだけの事實があつたといふ口碑の名殘として受取れるので、從つてこれが近世になつて始めて文學に綴られたといふことは、つまりそれだけ永く民間に流布してゐたことを意味し、より多く傳説としての時代色を留めてゐることを推測せしめるのである。縁起を單なる文才ある宗教家たちの、新に案出した小説ででもあるやうに考へてかゝることは不當である。假にそれは文字を知る少數の人に、見せるがために起草せられたにしても、それと平日關係者の口にしてゐる所と喰ひちがつてゐたならば、いつかは暴露する。單に少しづつ解説を改め、もしくは弱點を補強する以上に、新たなる虚構を持ち込むべき機會は乏しかつたのである。尤も近世の縁起流行に誘はれて、今まで何等の言ひ傳へもなかつた堂宮に、物々しい一枚刷りを出すやうになつた例も若干はあるが、これとても大抵は範を諸國の最も高名なものに採つてゐるから、文藝の作爲を以て我々の縁起分類を紛亂せしめる場合は存外に少い。縁起文學の主要なる記述が依然として示現影向の初度の奇瑞を説くに在つて、それが夢想の感得とか、水中出現とかの四つ五つの場合に限らるゝのみならず、その外形にも亦大凡そは定まつた樣式があるのは、事によると書傳以前、久しく行はれてゐた語りごとの面影を、一部はまだこの間に保留してゐるのかも知れない。

　

(384)　　　　　お竹大日（おたけだいにち）

　

　傳説

〔解説〕　江戸でお竹大日如來の開帳があつたのは、文化十二年の春のことであつたが、この時始めて佐久間家の忠婢竹女といふ話を聽いた者も、これを近世實在の人物と信じて、競うて傳記を書き、又は繪を板にしてゐた。大田蜀山人の「一話一言」（補遺四）には、佐久間氏の菩提寺は淺草の善�ｺ寺で、その墓地に延寶八年五月十九日、某々信女とあるものがお竹の石塔だらうと云つてゐる。お竹昇天の奇蹟には誇張があるにしても、少くともその事件は江戸に起つたものと信じてゐたのである。ところが、この「世間話」なるものは、實は古來の民間説話の、一つの流傳樣式に過ぎなかつた。都人が昔話を嘲り新話題を愛し、所謂ほんの事だの世間話を傾聽した結果、往々にして昔話が後者の衣を被いで、足りない場合の補充に罷り出でてゐる。お竹といふ女中らしき名前はいつ始まつたか知らぬが、兎に角話だけは可なり古い頃の東北産であつた。仙臺領の舊事を記した「嚢塵埃拾録」卷一に、「桃生郡小野本郷の村長の家の婦女、忠勤にして慈悲の心深く、己は麁衣粗食してこれを飢寒の者に施した。病みて命終る時、全身より光明を放ちて飛行し去る。其行方を尋るに西北の森の中に其女の木櫛落ちてあり、其夜夢想の告あつて神に祭る。村長が子孫は今に榮え、祭禮の日には此家に神輿を迎へて木臼の上に一夜宿る。もと主從の縁ありしにより此の如し」とあつて、異なるはただ大日如來でなかつたことだけである。青森縣八戸の昔話として、奧南新報（昭和六年七月十九日號）に掲げられたのは、昔々或る家の飯炊女、流しの口に袋を下げて飯粒を空しく流さず、拾ひ集めて鳥類などに施した。或る時一人の旅僧が來たので、自分の貯へを奉施したところ、その旅僧は弘法大師であつた。流し口の袋を見て深く感心し、汝は醜い顔をしてゐるからこれで磨《こす》るやうにと、法衣の袖の布を切つて賜は(385)つた。それでこすると果して美しい女となり、主の貪慾な女房は、その布を借りて毎日こすつたら、段々に馬のやうな顔になつたといふので、これはもう紛ふ方なき昔話である。他の地方にも多分この系統の説話は求むるに難くないと思ふ。美濃の箸木長者の娘といふのも、落ちこぼれの飯粒を集めて池の魚に施與し、後に幸運長壽を得た話になつて居り、今一つ溯れば、山城蟹滿寺の蟹に助けられて大蛇の難を遁れた少女なども、平生食物を蟹に施してゐたことになつてゐる。飯粒といふことには單なる勤儉貯蓄以上に何か呪術的の意義があつたかと思ふが、近世はこれを忘れてゐる。さうして賢女鑑の一例に採用しようとしたのであつたが、これには結末の昇天化佛が、幾分か繋ぎ目を引き歪める。

　

(386)　　　　　二　世界文藝大辭典（中央公論社版）

　

　　　　　口碑（こうひ）

　

　この語の用法は人によつてちがふが、普通には、我々の謂ふ傳説、即ち土地又は地物に固着した、古い信仰の破片をさすものが多いやうである。學問の用語には二つは贅澤であり、又口碑といふ文學の内容にはそれ迄の限定は無いから、民俗學の方では是を口頭傳承の全部、即ち傳説以外の昔話やかたりもの、歌謠謎諺物の名をも含むやうに、今後はこの好い言葉を使ひ習はさうとして居る。ちやうど金石の文字が眼に訴ふる昔の記念であるやうに、是は耳を傾ける人々に印象して、專ら言葉を以て永代に保存せしめようとした、又一つの古い教育法であつて、その効果と價値とに於て、何れの民族でも常に記録とは相剋して居る。即ち文字による教養が進めば、一方は次第に必要を減ずるのみでなく、其授受に携はる人々の能力も亦衰退して來る。文化人の空の記憶が不正確なものである爲に、口から耳への相續を心もとながるのは常の習ひであるが、是は零落であつて本有の姿で無く、しかも文字が一切の傳承の用途をまかなふまでに、まだ多くの國の新教育は進んで居ないのである。殊に印刷の技術は新しい發明であつた。筆寫で書を傳へた時代の一つ一つの卷册は、一囘の口碑のおさらへと、確實性に於て大差は無かつた。それ故に或一人の確かな者の記憶が、文書の代りをするが如く今でも思つて居る人があるのである。聽いて知つて居ることは必ず語つてから死なうといふ氣持、是も口碑の存立には缺くべからざる條件であつたが、是は教育法が改まると共に、俄然として微弱なものになつてしまつた。

　

(387)　　　　　道祖神（さへのかみ）

　

　旅人が道のほとりの小さな御社に、一夜の宿を求めて假睡して居る。夜更けて馬の足音がして別の神が誘ひに來る。今夜何村の某の家に兒が産れる。行つて一生の運を定めてやりませうといふと、私は生憎今夜は客があつて出られませぬ、どうかよろしくといふ聲がして、其神は行つてしまふ。軈て還つて來て又社の前に立止り、生れた兒の運は何々と、よくも惡くもはつきりと語る。それに注意して居ると、果して其言葉の通りであつたといふ話、是が日本では中世の文學にも又現在の土地の口碑にも、方々に尚殘つて居る。此神の一方は山の神又は箒神などゝいふ例もあるが、宿の神は多くは道傍の道祖神といふことになつて居る。是と毎年の道祖神の祭に、主として小兒が參與する風習とは、關係のあるものであらう。子安地藏といふ類の赤兒を抱いた石像の信仰も、新たに佛教と共に入つて來たもので無くて、この古來の道の神の、もつて居たものを分けて貰つたのであらう。道祖を婚姻の守護者のやうに見るのも、其根本は子供を村里に供給する手段としてゞあつたらしい。

　

(388)　　　　　山窩（さんくわ）

　

　日本にサンカといふ一種の漂泊民の居たことは、既に十七世紀の古文書にも記載があるが、それには散家とか算家とかの文字を書いて、尋常土着の農民と差別したに過ぎなかつた。今ある山窩といふが如き奇怪な宛字を設けたのは、多分は明治時代に入つてからの警察官吏などの所爲かと思はれる。警察の人々と交渉をもつたサンカは、實は最も零落した放縱無頼の一部分に止まつて居るのだが、其犯行だけが世間に知れ渡つたのと、この偶然なる山窩といふ宛字とが次第に一種の空想定型を、近頃の文藝に供與する因となつたのである。彼等も生活の必要上、到底山中に蟄居して居られる筈は無かつた。たゞ寒暑の季節に應じて、毎年可なり遠くまで居所を移し、其通路として、成るべく目に立たぬ無人の境を擇ばうとしたのと、其生業の資料に、無主の野山の物を採つた爲に、比較的里に遠い所を好んだといふまでである。關東で箕直しといふ別稱もある樣に、箕・笊・さゝらの如き竹や蔓を利用した器物は、彼等の賣りに來る平和の商品であつた。機織の道具の筬も元は彼等の手に成り、古くは傀儡師を意味したクグツといふ語も、亦彼等の作る草で編んだ籠から出た名だと言はれる。さういふ原料も次第に占有せられて、自由に採取し難く、合法なる職業は制限せられ、彼等の總數は著しく減じたらしい。さうして尚放浪の習ひを改め難い者に、常民の落伍者が來り加はるに及んで、急に惡性の團體に化して來たことも事實かと思ふ。彼等の間には一種の組織があり、又往々美女を出すことも、古くからの言ひ傳へだが、少なくとも今日はよほど誇張されて居る。

　

(389)　　　　　山嶽（さんがく）

　

　山嶽傳説

　山に對する古代日本人の信仰は、中國諸縣に弘く行はれる田唄の中に、比較的純なる形が保存せられて居る。稻の生育のために大切な用水、それを供給する地方的降雨への期待が、農民をして終始其附近の高山の姿を、仰ぎ望ましめる動機となつて居たことは、田植の日の歌詞にはつきりと現はれてゐる。其上に我々の神が天に在し、山を階段として人里へ降りて來られるといふ考へは一般的であつた。春と初冬との兩度の祭、山の神と田の神とは同じ神だといふ信仰は今でも多くの田舍には尚殘つて居る。是を根據とした色々の傳説が、何等文藝の修飾を受けること無しに、素朴に活きて動いて居るのも其爲かと思はれる。奧羽信越方面に例の多い「種播き爺」又は「兎雪」や「出駒入駒」の類、即ち殘雪の消えて行く形?に暦書以上の農作の指導力を認めて居る事實などは、我々から見るとまだ傳説の雛の如きもので、現に是から成長したかと思ふ「山中靈馬譚」、もしくは山の異人が農業の勞を助けたといふ口碑が、さういふ土地には往々にして一致して存するのである。近世文藝の人望ある題材、富士と淺間の煙くらべは申すに及ばず、古くは「萬葉集」の大和三山の爭ひなども明らかにその基づく所はあつたので、現に地方の人々の口づから傳へて居るものは、今なほ例外も無く我山と他處の山と、どちらが高いか美しいかといふ類の、至つて子供らしい競爭心より外へは出て居ない。國民の信仰は夙に中央の有力なるものに統一して後まで、この一種の自然崇拜の區域だけには、まだ土地神の割據の餘習があり、神が嫉むといふ奇異なる物語も、少なくとも旅人の間には記憶せられて居た。其感動が形を歌謠に變へ、或は奇談怪談として、山下の住民に記憶せられて居るのも、我々には最も普通なる、文學の一つのプロセスであつたのである。

　

(390)　　　　　獅子舞（ししまひ）

　

　我々の少年の日の思ひ出に、最も濃厚な影を留めて居るこの民間伎藝の由來は、單に文字の上からでは之を尋ねて行くことが難い。獅子は日本に居らぬ獣だから、其姿をまねた舞ならば、輸入のものだらうと誰しも考へるが、實は音律や手足の動きに、まだ多くの固有なるものが殘つて居るのである。東北のシシヲドリは鹿の踊で、頭に大きな枝角を載いて居るのみでなく、歌の章句にも鹿の妻戀ひを詠じたものが多い。關東の田舍の獅子舞も笛や歌の節は是と近く、おまけに其頭が古いものほど細くて、又耳より上に金色した角の跡があるものが多い。即ち鹿を意味する日本語のシシと、ライオンの獅子とが混同したやうに、内外二つの宗教行事も混同せられ、文字の學問が進むと共に、次第に外國のものへ引寄せられて行くやうである。

　

(391)　　　　　氏族神（しぞくしん）

　

　江戸期の小説類の最も人氣ある趣向の一つとして、氏神の干與といふことがある。子を授け疾を攘ひ、夢に現はれ危難を豫告するなど、多くの具體的なる援助は、少しも有名で無い各自の村の神の力になつて居る。今日は鎭守といふ名が弘く用ゐられ、住民全體の守護者の如く考へられるやうになつたが、尚その起原は主要なる一門に專屬したもので、是を其周圍に集まつて來た家々が承認したまでゞあつたことは、氏神といふ語だけからでも想像し得られる。地方によつては今も氏名を家の神に限り、村總體の祭を營む御社とは區別して居る例がある。斯ういふ處では、春秋の氏神祭の日を一族會同の機會とし、本家の主人は自ら祭祀の任に當るを常とする。さうして現在は中央の大社からの、勸請の如く考へられて居る場合にも、なほその信仰には大昔の家の祖神の約束が遺つて居るのである。

　

(392)　　　　　三　大百科事典（平凡社版）

　

　　　　　カンジョーノキ（勸請の木）

　

　齋木の謂。神を招ぎ降して、これを祭るのに天然の樹木を選んだことから出た語である。神木信仰の古い形式を示したもので、神が蒼空から訪れるとする所謂天降りの思想が根據をなしてゐる。古くより杜《もり》を社《やしろ》と訓ませ、今も神社をモリといふ土地の多いのも、この天降りの依代《よりしろ》である樹木の印象が働いてゐた。古く樹下に依坐《よりまし》の童子を置いた樹下の祭式を思はせるものがある。信濃諏訪上社には櫻タタイ木、檀《まゆみ》タタイ木、岑タタイ木、柳タタイ木等七本の祭木があつたことが「一宮巡詣記」に採録されてゐるが、このタタイの語は「諏訪大明神繪詞」の神長本三月酉の日以後の祭禮の條にある峯湛、柳湛等の湛に當るもので、タタイの本の意味は單に讃歎の意のタタヘでなく、依坐について神意を知らんとした古い形式のタタリで、神の憑り現はれることをいつたもので、後世の祟《たたり》の語の古義である。この神憑木の思想から、後世寺方などで用ゐた勸請の文字を選んだものと考へられ、後には一般の神木の謂ともなつた。近江美作備中等にある地名の勘定の木、神上の木、勸請の木等も、文字は如何にあてようとも、嘗て神憑木を中心とする祭壇に基づいた語であることは否み難い。この例から更に諸國に類例の多い影向の松、來迎の松を始め、下り松、降臨の杉等も、單なる名木の稱ではなくして、同一の思想から付與された語といつてよい。而してこれに松杉等の多かつたことは、その樹相の影響があつた。要するに勸請の木は神自らの憑り給ふ木の謂であつて、人爲の分靈を意味する現今の勸請の語義から説くべき筋ではない。

　

(393)　　　　　キジヤ（木地屋）

　

　山中の樹を伐つて、轆轤を用ゐ椀盆等の素地から杓子の類まで製作する工人。木地挽《きぢひき》、御器挽《ごきひき》、木地職、木地師、轆轤師等とも呼ばれる。その郷里は近江愛知郡東｜小椋《をぐら》村で小椋、小倉、大倉、大藏等の姓を名乘るものが多い。職業の關係から數百年來郷里を離れて原料の豐富な諸國の山々を移動してゐるが、本州を縱斷する中央山脈と四國の山嶽地帶に殊に足跡が多い。各地に移住したものの中には、既に數百年の昔に郷里と交渉を斷つた者があり、隱れ里の傳説を初め、平家殘黨の土着と稱する所謂平家谷の譚、或は貴人流寓の口碑等も、彼等の移住史と密接な關係がある。彼等は何れも山間僻地を開いて、數軒または數十軒集團をなし、男子は樹を伐り材を作り、婦女子は家にあつて轆轤を挽き、その製品を附近の市に捌き、時には里に出て必需品と交換する。しかして原料が盡きれば他に山を求めて移住する。その風俗習慣も獨得で、例へば葬式に於ては、山中隨處に死體を埋めて立去る習慣がある。毎年二囘、四囘または七囘祖神を祭るが、里人の如く山の神を祀らない。土地によつてキヂスヂまたはキヂモンなどと呼んで蔑視するが、昔はその技術と隔絶生活から畏敬を受けた時代もあつた。一團の頭領をなす家には必ず祖神の由緒系圖の所謂木地屋の卷物と稱するものがある。彼等の祖神と稱する惟喬親王の傳記は、彼等特有の結構から成るものである。親王は人皇五十五代文�ｺ天皇の第一王子に生れ、豫て世を厭ひ、一日白馬に召されて都を遁れ、近江國小椋郷に至り、その地に隱れ住んだ。里人杣人の誠心を喜ばれ、同處君ヶ畑に高松御所を營み、供奉の臣藤原實秀等に小椋の姓を賜うた。轆轤の業は即ち親王の創始で、これを杣人信濃守藤原圖書久長、伯耆守藤原小椋藤内光吉に授け、併せて系圖を賜うた。これを我國に於ける木地挽の始めとする。親王薨去の後は、小野御靈神社と崇め祀つた。彼等の由緒を語る文書には、承平五年十一月九日附の綸旨の外、延文二年三月三日附の足利尊氏在判の免許?、天正七年八月十六日(394)織田信長の下?、同年十一月十九日の綸旨等がある。彼等の本據なる近江の東小椋村は、古く小椋（ノ）庄六ヶ畑と稱し、郷中を君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬に分ち、蛭谷と君ヶ畑には全國木地職の總文配所があり、蛭谷の支配所を筒井公文所或は小松御所、また君ヶ畑の支配所を高松御所といふ。前者は筒井八幡社、後者は大皇大明神の社務を取扱ふので、全國の木地屋は各々の支配の關係から、二派の何れかに屬し、地形上東西に區分して、蛭谷に屬する者を西、君ヶ畑を東木地といひ、互に由緒を掲げて本末を爭つて來た。彼等はその何れかの免許が無くては營業は出來ないので、その由緒を語り、郷里との因縁を説くことは職業的生命である。彼等の支配がかく二つに分れたのは、君ヶ畑側の主張によると、寛永年中君ヶ畑の神主小椋吉太夫が、蛭谷の神主大岩某に誘惑せられ、代々の御綸旨免?を讓渡した以來といふが、おそらくそれ以前からである。兎も角古くより別々の氏子を有し、君ヶ畑部落では、各地の木地屋の中から、年番で歸つて來て神主を勤める一年神主の慣例であつたといひ、筒井八幡では、初めて木地職となる者は、烏帽子直垂を着して神前に恭しく氏名乘を告げ、終つて烏帽子親と盃をして名を改め、始めて木地職たる資格を得たといふ。これは年と共に遠隔の地に隱れて、郷里との交渉の薄れて行く者のために、それを防ぐ便法であつたらしい。一方信仰のみでなく、統制と職權擁護の必要も認めて、由緒と免　　状を持廻り、引換に祖神への奉賀金を徴收することになつたと見られる。これが明治推新まで行はれてゐた氏子狩で、蛭谷に於ては天正四年宇佐八幡の例に倣つて始めたといふが、形式としては伊勢熊野等に於ける信者への配札と大體同じである。彼等の全國的足跡は、東は會津一帶の山地を中心に、越後は蒲原及び越中境の山地、更に秋田地方にも及び、西は九州、琉球にもその痕跡があり、四國では伊豫、土佐、阿波を連ぬる山地に亙り、殊に土佐には別箇の傳統を有する一派があり、その勢力は飛騨または紀伊にも及んでゐたと傳へられる。山陰地方では石見、伯耆を初め、美作から因幡、但馬及び播磨の山地に及び、畿内では大和、紀伊、伊勢に亙つてゐる。更に北國筋の越前、加賀、美濃から、一帶の山續きの近江を初め、信濃、三河、遠江、甲斐と何れも足跡の濃厚な地で、相模は箱根を中心とした地方に多い。全國にある木地山、(395)木地ヶ峯、木地跡、木地畑等の地名は、悉くその足跡を語るものである。漆工業の發達の跡に見ても、東北の會津淨法寺塗、紀伊の根來、近江の日野等とも、密接な關係が考へられる。その他の木材工藝でも、因幡の轆轤師と合子賣りは「七十一番職人盡歌合」にも出てをり、箱根細工、東北の會津を中心とする地方の挽物玩具等も、その一として擧げることが出來る。文獻としては明治三十三年版の田中長嶺編著「小野宮御偉績考」三卷その他。

　

(396)　　　　　クダギツネ（管狐）

　

　民間信仰の對象をなす一種の想像の動物で、單にクダとも、またクダンギツネともいふ。中部日本、殊に遠江、駿河、三河、信濃、美濃地方に多くその存在を信じられてゐて、關東の一部地方に於けるオサキ狐などと稱するものと對比すべき地位にある。その謂ふところは、狐の一種で形は遙に小さく、鼬に似て毛色は稍々黒いとも赤いともいひ、尾は太く大なりとも、或は鼠ほどの大いさにて群棲するともいひ、または管（紡織に用ゐる）の如く、または更に小さいなど傳へて一定せぬ。狐より小さいといふ以外は、その形態、毛色等も、見た者や語る者によつて異なり、偶々捕獲したものもコヱゾイタチ、ヤマイタチ、ヤマネ等の小動物をこれに假稱してゐたに過ぎぬやうである。管狐の特色は形態よりも寧ろその靈能を信ずる人の觀念にあつた。肉體の隱顯は自在で、人體に取憑きその口を藉りて意志を述べ、或は病身の者に憑いて食を求め、繁殖力著しく、これを統御する者は狐使ひなどと稱する或種の行人か巫女の類で、若しくは特殊の家筋の者に飼育されてゐるが、その者死せば時には四散するともいひ、これを故意に絶滅することは何人にも不可能で、靈人によつて威壓するか、時に人糞を食はせれば死滅するともいふ。その特殊の家筋の者を管附、管持、管筋、管屋などといふ。その家人または主人の意志によつて行動し、縁組等によつて系類を擴めると信じられ、一般人は婚姻等を避ける風もある。しかし近世の事實ではその家筋たることを標證する根據はなく、これを認定するのはその傳統を支持する周圍の者の意志で、決定の基準は、特別の傳承ある場合を除いては、多くその家の富の昂進と關聯を附けるやうである。急激に資産の増加した場合などには、第一に疑の眼を以て對し、從つて家運が衰へれば退散したとか、または取扱が粗末の結果であるなどといふ。管狐が主のために富を作る方法の一つとして、物を賣る時は品物に乘つて加重をはかり、買ふ場合は秤の分銅に取鎚るなどといふのも、オサキ狐の場合等と共通の(397)言である。またその家筋の者は管狐の靈感を受けて呪詛力が一倍旺盛で、田畑の作物にまでその意志が影響して、單に羨望の情を起しただけでも他人の作物は萎縮するなどといふ。かうした俗信を生じた理由に就いては、民間に於ける信仰觀念の推移と形態を明かにしなければ説明は出來ないが、要するに或種の信仰に對する衰退期に興る一つの現象と考へられる。もと巫道の所謂憑神の思想から出た蠱術に關係あるもので、即ち或る家筋の者は、家の神を人に憑かしめて神の口を寄せることが出來、またこれを利用した者もあつたために、その靈力に對する尊崇畏怖の觀念の記憶が畏れと嫌厭の感情をそそつて、その存在を支持する上に樣々の説を成すに至つたと見られ、管狐そのものは、恰も神と動物との中間を彷徨する存在に置かれたといへる。例へば一部の説に、もと或る靈山から牝牡一對を管に封じて渡したのを、偶々口を明けて放したことから、統制を失つて繁殖し惡盖をなすに至つたといふのも、一面の消息を物語るものである。

　

(398)　　　　　クチヨセミコ（口寄巫女）

　

　靈媒を業とする一種の巫女で、イチコ、梓巫女などと稱するものも同じである。靈媒の一方、祈?、豫言、祭祀等を行ふものもある。口寄は行法の形式からいつた古い語で、既に久壽二年の「台記」にも見えるといふが、その意味は、隔絶して近づくべからざる神または人の言語を眼前の巫女の口を介して聞くこと、即ち託宣託言の仲介をなすことからいつたものである。從つて名稱を異にして内容の同じきものが多く、例へば關東東北地方等でいふタタキミコ、アガタ、ワカ、大弓、モリコ、イタコ、オカミン等、中央部から西南各地のイチイ、ノノウ、ヤカミシュ、マンニチ、タビヂョラウ、ヨセミコ、アルキミコ、イヅナ、トジバナシ、ヲシヘ、イツ、イチヂョなどいふものも、行法の變化や系統階級の差別はあつても同じ限界に入るべきもので、我國に於ける巫道のそれ／”＼の要素形式を傳へ遺したものといふことが出來る。よつてその間に口寄巫女としての明確な限界は與へ難い。多く咒具を所持してゐて、依頼に應じて、神口、死口、生口等と區別して作法を用ゐてゐる。その方法は例へば器に水を湛へて祭り、それに木の葉等を漂はせ、死口なれば枯葉、生口なれば青葉とするもあり、或は門に樹梢を立てるもあり、外法箱《げほふばこ》と稱する咒具に凭り、獨得の抑揚ある口調でその者の言を物語るのである。「鴉鷺合戰物語」に「みこを請じてあづさにかく、かのかんなぎ、梅ぞめの小袖かいとり、ざしきになをり、弓うちたたいて、天しやう天しやう地しやう（中略）只今よせきたる所の亡者の、よみぢのかたりまさしくきかせ給へ、より人は今ぞよりくる長はまや、あしげのこまにたづなゆりかけ云々」とある。より人は今ぞよりくる云々の形式の歌は、一般に神下しの歌として有名なもので、現今でもなほ使用されてゐる。なほ咒具には弓、偶像、梢、數珠、幣帛、獣骨等があり、これをそれぞれの容器に納め旅行をしてゐる。咒具は本來巫女の持つ神で、一にいふ憑神を象徴せるものと見られる。これを捧持して漂浪生活を送つてゐたのであ(399)るが、一定の地に土着した者もあり、それの集團をなしたものが各地にある巫女村または巫女町をなし、行者等を夫としてゐた。�ｺ川時代、京都北野の等持院の附近、江戸では龜井戸、大阪の天王寺巫女町などはその一例で、信濃小縣郡長久保村または彌津村等から出るものを一に信濃巫女と稱し、竈祓、口寄を業としてゐた。京都でいふ大原巫女等もその本據は丹波の大原で、また與謝郡城東村には我國に於ける巫女の元祖と稱するものが住んでゐたといふ。かく集團生活を營む中に自ら階級が生じ、一方職業意識の旺んに連れて統轄保護の必要を生じて來た。信濃長久保の巫女頭飯島與太夫、また�ｺ川末期に關八州の梓巫女の總取締と稱した江戸今戸の田村八太夫等は最も有名である。

　

(400)　　　　　クツガケ（沓掛）

　

　路傍の樹または村の境などの樹梢に通行のものが草鞋または馬の沓等を掛ける習俗からいふ語である。近世ではそこに神佛の祠などがある場合が多く、その動機は一種の手向けの氣持から出てゐる。履き古した草鞋の類を用ゐるのもあるが、多くは新しいもので、片方だけ掛け捧げるのもある。土地によると豫め日を定めて行ふのもあるがその對象となる神は道祖神とするものが多い。その他庚申とか山の神、單に足神などといふものもある。その理由は未だ判らぬが、諸國の神社佛閣の山門等に、巨大な草鞋を上げる習俗もその變形と見られる。各地にある沓掛なる地名はこの習俗から出たもので、有名な信濃碓氷峠の西麓の沓掛宿なども、山道にかゝる旅人が、先づここで神を祀つたことを意味する。これを通行人が一種の群集心理から、同じ場處に來て古沓を引掛けたとか、或は沓を掛けて賣る店があつた、即ち一つの驛亭の意とするのは單なる想像説である。

　

(401)　　　　　ゲダウ（外道）

　

　外道神ともいふ。信仰上の獣の名。その靈怪は關東のオサキ、信濃地方のクダギツネに類し、それと共通の地位にある。外道は佛法から出た語で、佛法を以て制御せらるべき他の信仰の謂で、別に犬神ともいふ。外道または外道神は、中國地方の殊に備後、安藝を中心とする地方に多く信じられてゐた。人に取憑き災をなし、形は?鼠《もぐら》よりもやゝ大きく鼬より小さしといひ、或は脚短くして毛は茶色にて小豆飯を好み、人家の床下等に栖み、春先には群をなして畠の中などを遊び、鳴く聲はクルクルといふ。これを養ひまたは附隨すると信じられた家を外道筋といひ、七十五疋を一團として婦女に從ひ婚姻によつて勢力を伸ばすといふ。殺しても蘇生し仇を報ずるので、燒捨てねば根減は期し難いなどいひ、その黒燒を憑いた病人に服さすれば退くといひ、妙見を祈念することもまたこれを攘却する途とするもある。或はその家筋の者は日蓮宗の信者が多いともいふ。「本朝故事因縁集」に、備後、安藝、周防、長門の賤民犬神といふ外道の神を持ちて、恨あれば犬神をつくともいひ、外道犬神何れにも通ずる地方もあり、四國、中國地方に多い犬神の信仰と同一なることを示してゐる。犬神は九州の南部にてインガメといひ更に沖繩にもインガンの語が行はれてゐる。これも因は巫女の憑き神に發すと考へられ、阿波では犬神使ひに嚴罰を命じた足利末期の文書もあり（美馬郡郷土誌）、これを驅使すると信じられた徒の古くより存在したことが知られる。また犬の靈力の集中せるといふその頭蓋骨を、咒法に用ゐたことは、近世の市子口寄せ等の巫女にも信じられてゐた。

　

(402)　　　　　ケボーズ（毛坊主）

　

　得度戒律のない一種の宗教者で、一向念佛宗等の末派に屬して、世襲的に半僧半俗の境涯を護つてゐた。純粹の佛教者の立場からいへば本格の僧侶にあらざるもので、毛坊主の稱もまたそこに在つた。「本朝俗諺志」に「飛騨の山中に毛坊主といふあり、農業木樵を爲すこと百姓竝なり、遙かの奧山にて出家なき處なり。人死したる時はこの毛坊主を頼みて弔ふなり。代々讓りの袈裟を掛け鉦打鳴し經念佛してとぶらふ也」とあり、また「笈埃隨筆」にも同樣の例を擧げ、更に「譯知らぬ者は常の百姓より一階劣りて縁組などせずと言へるは僻事なり、此者ども何れの村にても筋目ある長百姓として田畑を持ち、俗人とは言へど出家の役をつとむるなり（中略）若し兄弟あれば總領は名主問屋を勤役して弟は同居しながら寺役を爲せり。遠州三河美濃河内などにも毛坊主あるよし」とあり、その生活の容態を窺ふことが出來る。三河遠州等の山中では、近年まで行はれた阿彌陀屋敷と稱するものがそれで、村内に死者のあつた際は、直ちにその家に知らせ死體の處置を委せたもので、信濃等ではこの一派の者を佛背負《ほとけしよひ》ともいひ、「遠野古事記」によると、陸中地方では一に佛持《ほとけもち》とも稱した。近江犬上郡地方にも西本願寺派明照寺末に道場あり、毛坊主勝兵衛なる者の住したことが「淡海木間攫」にある。「秋長夜物語」には「此國（安藝）は一向宗盛にして、郡中村々一向門徒に非ざるは無し、元來は村々に寺あることなし、多くは佛護寺十二坊の門徒なり。其村所にて農民の僧形となりて勸化する者を毛坊主といふ。一向宗に限りて古より此あり云々」とあつて、單に毛坊主と稱した者も、その分布は狹くなかつた。況して名稱を異にして生活の共通せる者は多かつた。我國に於ける佛教の傳道は、多く貴族名門若しくはそれに亞ぐ階級者に對象を置いたに對して、一遍法然の徒が出でて、念佛利益を説くに至つて、その目標は專ら民間草莽の濟度に向けられたが、實際古くよりその生活に交渉を持つて、直接教化に當つてゐたのはこの俗間の宗教者(403)で、念佛利益を發唱した者は、偶々この民間宗教者の地位傳統を利用したものとも見られる。よつてこの一派から見れば、その法門に歸依したものであつたが、佛教者の側としては、その地位勢力を假りたものといへる。從つて毛坊主の沿革は遙に古いもので、特有の信仰を基調として、行法を營みながら、久しく各地を巡遊漂泊の旅を續けてゐた。その護持せる信仰の威力によつて、幽界の慰撫と統制を司り、これを仙人ともまたヒジリともいひ、獨得の咒力を具へた杖を突き金鼓を叩いて、現世に災をなす惡靈の撃攘制御に當つた。時にはその法術を利用して人を怖れしむるもあり、後の山臥修驗の徒もその中に含んでゐた。ヒジリの語は後には高僧智識の稱と化したが、古くは「日知り」で且つ仙人を意味し、日を知る即ち暦日に通ずる者の謂であつたが、後に念佛一派の興隆に迎合するに及んで、俗聖、阿彌陀聖、念佛聖等の稱も與へられて新しい分野に置かれ、別に悲慈利、非事吏等の文字を宛てられる境地をも生じた。佛法と結縁して、例へば熊野三社の信仰と習合せる熊野勸進聖、高野の山内に足を留めてその傳遺教化に參與した一團の高野聖ともなつた。その傳統的信仰行法は、次第に佛法の教理に覆はれて行つたが、なほ相容れぬ點を多く殘してゐた。念佛踊はこの徒の參與した亡靈攘却の行法の一つで、後の神事藝を始め各種の藝能に與へた影響は大きく、歌舞伎の發生を促す要素ともなつた。後世に至つては單なる賤者の代名詞の如く扱はれた磬《きん》叩きを始め、鉦打ち、鉢叩き、鉢屋、ササラ、茶筅、勸進、行人、願人等を始め、地者、シュク（夙）の者、オンバウ等も、その源は共通の傳統を有してゐた者の土着である。それぞれの稱呼の起りも、その行法と境遇の反映で、社會の推移と各自の生活護持の必要から、次第に分解作用を遂げて、佛法の因縁から離れ、別箇の職業意識に立つに至つたのである。毛坊主は偶々その一分野にあつたもので、最後に遺された佛法の因縁者ともいへたが、明治維新を一轉機として、更めて法門に登録を受けた者と、その埒外に轉身せる者とに分れて遂に消滅した。

　

(404)　　　　　コーヒ（口碑）

　

　口碑といふ語は傳説と同じ意味に狹く使はれてゐた場合が多い。現在では口碑と傳説との區別は、傳説が或る一定の據りどころ即ち對象があり、それを根據として語られてゐたに對して、口碑にはその限界がない。文字からいへば口碑は言語記念物、即ち石碑が石を材料として、古いことを傳へると同じく、人の言葉に遺る前代生活の痕跡の全部であるといつてよい。それで學問上にはその範圍を廣く解するやうになつて來たのである。箇々の民族が有する民間傳承 Traditions Popilaires は當然にこれを三部に分けることが出來る。その一つは眼に映ずるもの、即ち一語をも解し得ない異種人にも理解されるもの、その第三は共に住み永く一つの環境に成長した者でなければ、觸れても感ぜず疑うても問を掛けられない心意の動きである。この二つの中間にあつて、耳から入つて來て自然に知らせる部分、即ち口頭の傳承である。その種類には、最初は口碑の中心の如く認められてゐた傳説がある。次にはこれと實質を同じくして幾分樣式を固定してゐる民譚または民間説話、次は民譚よりも更に外形を重んじ内容は行通うてゐる語り物、または歌物語といふもの、神話が當初の純な形を保持してゐれば別に一項を立てねばならぬ。その他歌謠、唱へ言、童詞の類から、咒文と謎、諺、言語の利用法もその列に含む場合がある。

　

(405)　　　　　コーボーシミヅ（弘法清水）

　

　各地にある池とか泉の名には、神や偉人高僧の名を冠し、傳説としてその威�ｺを説いたものが多い。弘法清水もその一である。昔一人の行脚僧が來て、折柄家業に忙しい女性に一杯の水を所望した。女は快くその請ひを入れ、わざ／＼遠方から汲んで來て與へた。始終を見てゐた僧は、それほどこの土地は水に不自由をするとは氣の毒である、良水を得さすべしとあつて、手にせる錫杖の先で大地または岩角を突くと、忽ち其處から一條の清水が迸り出て、清い泉となつた。或は錫杖でなく木または竹の杖といふもあり、その杖が後に根を生じて大木となつたとするもある。後にその僧侶は弘法大師であつたことが判つた。即ち善女の善心に報いたとするのが共通の筋である。或はこれと反對に僅かな勞苦を惜しんだために、大師の怒に觸れて、以來その地は永久に水に不自由をするといふ、一種の水無傳説として別の境涯が説かれてゐるもある。この僧侶が空海の弘法大師でないことは、この傳説が全國津々浦々に亙つてゐることからも判斷がつく。而して一方に同じ形式を空也上人の事蹟に假託せるもあり、阿彌陀（ノ）井、念佛池等の名で殘つてゐた。この傳説を比較して判ることは、相手が老婆となり姥となり偶々若い身であつても、悉く女性であつたことである。泉はもと神の占有で、傳説はその泉の水を以て神を祀つた女性即ち巫女の口から説かれた靈現譚の土着して成長せるものである。偉人高僧は元は神で、所謂唯の人でないことを示すにあつた。弘法大師の大師はおそらく大子で、古くはオホイコなどいふ、長男を指す語で、神の世繼の意があつた。神が?々童形を以てこの世に示現し給ふことは、我國には至つて古くからの思想である。單に大子といふことから、後に名僧の弘法を附合せるもので、佛教の民間信仰を支配してゐた記念である。これが各地を訪れたといふ筋は、我國の神々は、祭りを受ける度にその地に來り臨んだことの記憶が根に働いてゐたのである。今も十一月の下旬即ち秋冬の候に日を定めて大師粥などと稱(406)して特別の供饌を設けて祭りを行ふのも、もとこの期間に神の訪れのあつたことに縁を引いてゐて、この大師も必ずしも弘法大師ではなかつたのである。

　

(407)　　　　　コーヤヒジリ（高野聖）

　

　紀伊高野山に本據を置くと信じられた一種の遊行信心者である。高野に於ける傳道組織は本來學侶方、行人方があり、別にヒジリ方なる一味の徒がその間に介在してゐた。聖のヒジリは本は單純に日を知る人、即ち漢語で書けば日者《につしや》といふ語がその初めの意味であつた。この徒がその知識を本として民間信仰の支配から更に直接これに携はるやうに變化し、中世念佛宗一派の傳道に參與して、その教義と習合するに至つてから、特有の行儀と住所等の關係から各種の稱を以て呼ばれた。高野聖もその一分派である。「詞曹雜識」には「此輩（高野聖）定まれる資格なければ笈を負ひ諸國に托鉢し、無縁の死骨を拾ひ、當山奧院に囘向す」とあり、眞言の教義とは寧ろ關係がない。この徒が威勢を加へたのは、江戸期に入つてからで、�ｺ川氏が三河在住の時から、大�ｺ院といふ聖と、檀縁を結んでゐたのが元（紀伊續風土記）であるといひ、後には�ｺ川幕府の間諜の如き説をも生じた。諸國を遍歴してゐた者の中には、本據との聯絡が絶たれて、生活のためには商賈をもなし、或は弘法大師に假托して小民を欺く等のことから、護摩の灰等の異稱を生じ、かたり盗賊の別名をも生じた。或は「高野聖に宿かすな、娘とられて恥かくな」等の俗謠までも行はれた。「非事吏事歴」には、これを聖と區別して非事吏の文字を充ててゐたが、高野の聖方の寺院は「眞俗興廢記」によると後世は六七十の多きに及び、足利時代は三十六道場、その以前は八葉の聖とて、八人の遁世者が彼等の元祖であつたといふ。

　

(408)　　　　　コシカケイシ（腰掛石）

　

　貴人、英雄、高僧等の來つて腰を掛け、またはその上に憩うたといふ傳説を伴ふ石。その思想の因は、石に神靈の憑依を信じたことから、神降臨の奇瑞が或る條件を具へた石によつて示され、更にそれを對象に祭祀の行はれた記憶から出てゐたと見られる。この意味に於て、降臨石、影向石、御座石等も共通の意にあるもので、これには傍に樹木または泉の伴ふことを條件とした場合もある。例へば「山城名跡志」にいふ洛北大原村來迎院の法然上人の腰掛石、「輿地誌略」の近江醒井の泉の中に立つ日本武尊の腰掛石、「美馬郡郷土誌」に、阿波美馬郡江原村大日浦の三つの石を同じ名で説き、一つは崇�ｺ天皇讃岐より行幸の途次憩ひ給ふといひ、他の二つは源爲義、爲朝父子に依つて説いてゐた。神降臨の記憶を腰掛の語で現はしてゐたのは、傳説の發生に與かつた者が民間里人にあること、これが信仰の支配は、古くは漂泊の神人または行脚の僧等にあつたことから、その疲勞に聯想を喚んだものと見られ、一方にはその徒の傳道に説く靈現譚が、英雄、高僧に假託してゐたことの感化と見られる。

　

(409)　　　　　コブトリセツワ（瘤取説話）

　

　今日行はれてゐる瘤取童話の、正直な爺さんが、夜山中で鬼共に遇つて頬の瘤を取られ、隣りの惡い爺さんがそれを眞似て失敗した話は「宇治拾遺物語」の「鬼に瘤を取らるる話」が標準童話として擧げられてゐて、この説話が數百年間何等の進化を見ずして傳はつてゐたかの如き推定がされてゐる。「宇治拾遺」は單にあの時代に存在した民譚の痕跡といふのみで、今我々の持つてゐる民譚ではないかも知れぬのであるが、その間の區別が明かに認められてゐない。この話などは土地により、また時代によつて、かなり著しく語り改められてゐたことが近頃の研究で追々わかつて來た上に、若し朝鮮に行はれてゐる二三の類例が、この話がかの半島から輸入せられた證據になるならば（日本童話の新研究）、更に日本では新たにこれを面白く加工したといふことも認めなければならぬのである。たとへば「醒睡笑」の卷一と六に分載せられてゐる「鬼に瘤を取られたといふこと何ぞ」の一話は、たしかに「宇治拾遺」を讀まなかつた人の所傳と見えるが、これには鬼の酒宴の中へ、圓座を尻に附けたまま出て踊つたといふことがある。岩手縣の瘤取説話が、近頃幾つか採集せられた中にも、二度目に出て行つた瘤爺の方が「ふるきり、ふるきり、ふるえんざあや」と歌ひつつ踊つたとあつて（郷土研究三の五）この二つは關係があると思はれた。最近に青森縣津輕地方の同系説話が採集せられて、始めて元の形がわかるやうになつた。それは瘤も何もない一人の若者が、ある山寺に泊つた晩、色々の化物が集まつて踊り始める。その歌の文句が「古みの古笠古つづら、古かね古太鼓古つづみ、すつちやんちやんから、ちやんちやがら」といふので面白くなつて古ござを被つて出て踊る。おまへは何だと問ふから、古ござの化物だと答へると、早速踊歌の中に「古ござのばけ物」といふ一句を入れて踊つた。夜が明けてその化物がみな來迎柱の傍に行つて消えるので、そこを掘ると果して古葛籠があり、中には色々の寶物が一ぱいあつて、忽ち金持になつた(410)といふ話である。これを見ると少なくとも東北地方では、この話の興味の中心は踊であり、また歌であつて、それを特色にして次々に語り傳へてゐたことが察せられる。「宇治拾遺」の瘤取の話で、今日普通省略せられてゐる部分にも「何といふにかくどきぐせせることを言ひて」とあつて、これにもやはり踊の文句のやうなものが附いてゐたのかと考へられる。さうすると日本の方にも前から一つ、鬼と共に踊つたといふ話があつて、それが一部分「瘤取」と似通つてゐたために、早く新舊の結合をしたのかも知れぬ。隣に物羨みするまた一人の爺があつて、眞似をしようとして失敗したといふ點は、殆と一切の幸運談に隨伴する型であつて、固よりこれのみの特徴とは見られぬ。最も近いのは「地藏淨土」の鬼の博奕の話であるが、それ以外にも善惡二人の爺の同じ冒險が、一は成功し他は失敗したといふ話し方は例が多い。

　

(411)　　　　　コメクラセツワ（米倉説話）

　

　この説話は別に米倉小盲話等の名で行はれてゐる。昔正直な親爺が、龍宮または仙郷に招かれて、打出小槌や如意寶珠を貰つて來る。欲しい物の名を口に唱へてその寶物を振ると、即座に現出して長者になるといふのが大體の筋で、この點までは上代からの形式であつたらしいが、唯それだけでは説話として生氣が乏しいから新たな想像が後に附加へられた。即ち箇々の民族の才分はここに表はれ、時代の社會相もまたこの間に反映した。通例はその親爺が後に心弛み、または連れ添ふ女房が心がけよからず、或は隣に強慾爺があつて、強ひてその寶物を濫用し失敗し、また新たなる葛藤が始まるのであるが、我國では夙くから、夢を信じない者の「笑ひ話」に變化しようとする傾向を見せてゐた。米倉米倉がその一つの例である。欲しい物は米と倉だと思つて、頻にその語を唱へて小槌を打つと、思ひがけなく澤山の小盲が飛出して來て、食はせよ食はせよと爺を責殺したといふ話、これなどは單なる口合ひとしても面白かつたらうが、話の改造者が實際は盲人の説話を業とするものであつた故に、特に聽衆に大きな興味を與へ、永くこの新しい形態を流布せしめたやうである。盲人でなければ考へつかない話、もしくは盲人の話である故に一層面白く聽かれたといふ話は、注意すると多く殘つてゐる。笑話には更に例が多く、例へば座頭の長坐を憎んで召仕のものが出口に才槌を吊して置く。八人の盲が頭をこれに打附けて歸つて行く。御坊何時であらう、はて今八ツの頭を打つたではないかといふ類の落し話、または吝い亭主が餅を惜んで座頭に食はせないので狂歌を詠む。餅つくと目にはさやかに見えねども、杵の音にぞ驚かれぬるといふ類の秀句話、色々珍しいものが傳はつてゐるが、怪談の方もまた彼等の管掌であつたかと思はれて、耳切法一の耳を切られた話、越後折峠で大蛇のために琵琶を彈いた話、それから轉じては狼の尾に鎚つて山から降りて來た話（日本昔話集）など、何れも話主をこの盲人としてゐたのである。米倉も必ずそ(412)の傑作の一と信ずるが、殊に面白いのは民譚の成長が、これを以て終止しなかつたことである。たとへば富士の山麓の米倉話は、長者がその多數の盲人の始末に困つて、手ごとにコンドシ（篩）を持たせて土を運ばせたといつて、そこに長者の菜畠の遺跡があり、後にその盲人が不用になり、投込んで殺したといふ長者ケ池もあつた。そこには片目の鮒が棲んでゐる（甲斐昔話集）。即ちこんな笑ひ話すらも土着して傳説に化しかかつてゐる。兎に角に座頭は説話の運搬によつて衣食の資を得べき職業であつた故に、改造布衍の趣向は、概して自嘲被笑の方針を採つてゐた。それが彼等を中心とした笑話の多くある原因であらうと思ふ。

　

(413)　　　　　スミヤキチョージャ（炭燒長者）

　

　傳説。豐後大野郡三重町、内山蓮城寺の觀世音堂の縁起として、夙く文籍に録せられた物語の破片であるが、その分布の廣汎なことは、全國中肩を比べるものが少ない。昔この内山の奧に、炭を燒いて獨り住む小五郎といふ貧しい若者があつた。都の某家の姫君、長谷觀音の夢の告によつて、遙々尋ね下つて夫婦のかたらひをする。その折に小五郎は姫から小判といふものを貰つて、それを持つて米を買ひに出かけたが、たまたま水の上に遊ぶ鳥を見て、その小判を打ちつけたが中らない。手を空しくして歸る。何故そのやうな惜しいことをするかと姫がいふと、あんな物ならば炭燒く小屋の脇に幾らでも落ちてゐると答へて、二人で行つて見ると果して滿山は皆黄金であつた。それを拾つて一朝にして長者になつたといふ。土地ではこの奇聞を詳述した「眞名野長者實記」などといふ數種の書があつて、今もそのことを信じてゐる者がある。ところがこの物語はまだ中世の交通不便な時代から、既に國中の隅々まで、何人かによつて運搬せられた上に、それぞれの土地に土着して、拔くべからざる傳説となつてゐる。「海南小記」には、その主要な例を列記してあるが、北は青森縣津輕の戸立澤で、ここでは炭燒藤太が妻の暗示によつて黄金を發見したといつて、その由緒を記念した社もある。その藤太は津輕家の第五代、京の上臈は近衛家の姫君といふことに、多くの舊記に誌されてゐる。山形市の吉事（ノ）宮、宮城縣栗原郡金成村の長者屋敷、福島縣信夫郡石那坂の吉次宮、及び信州薗原の伏屋長者の屋敷跡の四箇所では、やはり藤太といふ炭燒が同じ因縁を以て長者となつたと傳へ、しかも藤太は金賣吉次三兄弟の父であつたといふ。もとは明かに國々を流傳した一箇の説話であつたと思ふが、それがいづれも傳説に化して、土地の舊史の如く考へられようとしてゐる。たとへば信州では阿智川の鶴卷淵、陸前では金田村の金沼が、藤太の水鳥に小判を投げつけた故跡であり、信夫と最上の吉次宮の附近には、藤太が金を洗つたといふ金洗ひ(414)澤がある。一方には遠州濱松に近い鴨江の觀世音、加賀金澤に近い野田の二子塚には、芋掘長者の話がある。單に炭燒藤太が芋掘藤五郎と變つてゐるだけで、鳥に小判を擲つて後にそれが世の寶であると知り、忽ち長者となつたのも、すべて觀世音の御利益といふところまで雙方が一致してゐる。南部八戸の港でいふ是川村の蕪燒笹四郎なども、芋がただ蕪になつてゐるのみで、花嫁の渡した二分金を、やちの鴨に打ちつけたことになつてゐる。西部日本でも同種の傳説が、紀伊、阿波、肥後、大隅などに遺つてゐる。「肥後國志」によれば、菊池郡｜米原《よなばる》長者の元の名は薦編みの孫三郎で、これは白鷺に小判を投げてゐる。玉名郡｜匹石野《ひきしの》長者も若い頃は貧しい炭燒で、黄金を槌の子として炭薦を編んでゐた。共に觀世音に導かれて幸運の妻を得たことは同じである。これが隣國豐後の内山の縁起から觀音の利生を説く者によつて移されたことは想像し得るのみならず、現に筑前の朝倉郡と安藝の賀茂郡とには、盆踊の歌にその事蹟を語つてゐる（俚謠集）。しかしこれだけの事例を見て、すべてこの説話を内山蓮城寺の縁起以後のものと見ることは出來ぬ。その理由は沖繩列島にも、炭燒が女房の福分にあやかつて、長者となつた話がある。これには觀音の利生を説くことがない。「遺老説傳」の宮古島の炭燒太良の話は、ユリと稱する穀靈に導かれて、幸運の妻を得て長者になるといひ、「南島説話」には、雀の聲に教へられて女房が尋ねて來たとなつてゐる。沖繩は本來金を産せぬ國であるから、かういふ説話の土着には不便であつたらうと思ふが、それにも拘はらず、察度王の金の宮の遺跡には、この王潜邸の日、勝連按司の娘自ら嫁し來つて、貪しき茅屋の庭垣根も、悉く金銀に埋つてゐるのを見た。のちにこれを取出して牧港の大和船から數多の鐡を購ひ、農具に製して大いに人心を收攬したといつて、北端津輕の藤太の發祥譚と同樣、察度王の逸話の一つに數へてゐる。これ等の事實を綜合すると、黄金發見の説話は、もと金賣の徒の運搬したらしいことが想像せられる。金賣は近世の平和時代に入るまで、踏鞴《たたら》を荷擔して群をなして田舍を巡り、便宜の地に假住して鑄物の業を營んでゐた。さうして炭燒はその缺くべからざる副業であつた。彼等の持つてゐた信仰には、宇佐八幡と關係深いものがあつたらしく、八幡はもと火の惠みの本の神と彼等は考へてゐたらしい。豐後の眞野長者の(415)物語は、單に炭燒立身の奇瑞を説くのみならず、それから引續いて、一女玉世姫の美人の譽れ高く、終に禁裏に召されて貴き皇子を生んだといふ一段がある。それが近古の文藝に一つの異彩を放つた山路の草刈であつた。それが僅かづつ形をかへ、または色々の敷衍を以て、奧羽のはてまでも語られてゐたことは次第に判つて來た。例へば秋田縣鹿角郡小豆澤の大日堂の縁起に、田山長者の一人娘が后になつた一條なども、嘗ては炭燒長者の後日譚として傳へられてゐたために、所謂山路の牛飼童の話と、著しい類似をもつてゐるであらう。その山路の笛のことが、舞の本の「烏帽子折」に長々と敍述せられるのも、それが最初から金賣吉次の家の話と關聯してゐたとすれば、格別の不思議はないのである。

　

(416)　　　　　セキカントー（石敢當）

　

　道の辻の突き當りに立てる石の碑で、石敢當の三字を刻し、或は泰山敢當の四字を刻せるもある。多くは高さ一二尺の石であるが、稀には四尺にも及ぶものもある。邪惡防護の意があるといはれ、一種の石神信仰である。「好古小録」には肥後、橘南谿の「西遊記」には鹿兒島城下の例が擧げてあつて、木標に墨にて文字を書きたるもあるといふ。主として西部日本に限られた風習となつてゐるが、東京にもあり、本郷區湯島金助町には文字に朱を塗つたものがあつた（郷土研究三卷三六七頁）。その他大久保にも實見せる例があるから、この風習の東漸を思ふものがあり、地域的限界を定めることは出來ぬ。石敢當の由來については「桂林漫録」に「姓源珠?曰、五代劉智遠爲2晋祖押衙1、?王從珂反、愍帝出奔遇2于衝州1、智遠遣2力士医師敢當1、袖2鐡鎚1侍、晉祖與2愍帝1議v事、智遠擁人、石敢當格闘而死、智遠盡殺2帝左右1、因燒2國璽1、石敢當生平逢v凶化v吉、禦v侮防v危、故後人凡橋路衝要之處、必以v石刻2其形1、書2其姓字1、以捍2民居1、或贈以v詩曰、甲冑當年一武臣、鎭2安天下1護2居民1、捍衝道路三叉口、埋没泥塗百戰身、銅桂承陪間2紫塞1、玉關守禦老2紅塵1、英雄來往休2相問1、見盡英雄來往人」とあるに端を發してゐて、支那の風俗の移れるものとするのがこれまでの定説となつてゐて、「シッカッタン」「イシガンドウ」等の名もある。沖繩の島々には殊に多いが、中にはただの石で石敢當の文字を刻せぬものもあり、殊に八重山島には、この石によつて晴雨を占ふ風習も殘つてゐる。殊に沖繩一帶に亙つてビジュルといふ内地の重輕樣《おもかるさま》、即ち石占の石との混淆がある。これから推論すると、純然たる支那風俗の移入説に疑を挿むものがあり、日本固有の石神信仰に、支那の風俗の融合せるものと見られ、石敢當の文字は新しく、石そのものの信仰は古かつたことが考へられる。この説は「海南小記」にも詳論してある。

　

(417)　　　　　四　日本家庭大百料事彙（冨山房版）

　

　　　　　ナ（名）

　

　一生の間に何回も名を取替へ、又時によつて色々の名を以て呼ばれること、これが日本人の古來の習慣であつた。然るに現在の法制は西洋風に、名は一つに限り又成るべく變へさせまいとする爲に、ここに他の國には見られぬ混雜が現れてゐる。いかなる團體の名簿を手に取つて見ても、その人名の中には必ず次のやうな種類が入りまじつてゐる。これが以前、大抵の日本人が、一度は使用したことのあるものばかりである。先づ男子に就いていふと、（イ）久麿・菊若・虎千代の類。これは童名《わらはな》と稱して、生れるとすぐから元服の時まで付けて置く名で、成るべく愛らしく又めでたいものを選ぶのが親心であつた。（ロ）善吉・清之助の類。これは若名《わかな》と謂つて、青年向きの名。元服の後まで暫くは通用するやうに、かういふ名を童名の時から付けて置く家も多かつた。（ハ）次には是清・義則の如く、むづかしい漢字が二つ、渡邊・松浦氏などは一字を例とした（競・渡など）。俗に名乘といひ、又實名・本名と稱して、元服の時に貰ふ名である。本名ならこれを用ゐたらよささうなものだが、東洋では忌名と稱して、人に本名を呼ばれるを忌む風があり、同輩以下の者は知つてゐても呼ばず、當人も成るべくこれを隱して置かうとした。それから又實名の入用なき者も多かつた。（ニ）右の理由から別に勝手に人に呼ばせる爲に設けて置くのが通稱である。支那では「字《あざな》」と稱して自身が選定するが、日本では本來他人が付けたもので、誰でも自然に一致するものでなければならぬ點は、今日の綽名に近かつた。それでも困るから後には自分できめたが、變更は可なり自由であつた。（ホ）官(418)名・受領名といつて、官吏は役の替るたびに通稱が替つた。低い官だと數が多いので、後には意味も知らずにその形をまねた。何兵衛・何右衛門の類は悉くその名殘である。（ヘ）士族の階級に特有の頼母や主計の類。やはり官名に若干の改造を加へて使用した通稱であるが、人はこれを百官名などといつた。又「東百官《あづまひやくくわん》」といふ珍しい型もあつて、これが今でも少しは殘つてゐる。（ト）家には代々の通り名といふものがあつて、家業を相續する息子が、若名を棄ててこれを繼ぐ例は多かつた。今日もそれを大切に思ふ餘り、他日改名の面倒を憚つて、總領には生れた時からそんな親爺のやうな名を付けて置く人もある。（チ）先代の通り名を息子に讓つた者は隱居名を付ける。信心者ならば僧名に似たもの、風流人は俳諧に通用するものを付けたが、それでも氣の利いたのがあれば、後の人が少しづつ眞似をする。（リ）その他醫者や諸藝人には、道號、畫家・文人には雅號、それで有名になつた人は白石や山陽のやうに、聽く人がこれを通稱と同一視して、時には今でも子供の名にしてゐる。

　こんな色々の稱呼が入りまじつて、今日の日本人の名になつてゐるのである。昔は、「何か似合はしい名を付けて下され」などといつて、境遇次第どし／＼と名を取替へた日本人が、始終一つの名を保つことは窮屈である。その上に近年は姓名判斷などの説が起つて、名を改めたい希望は常に法制と抵觸してゐる。しかも多くの人は一方には氏名一貫の便宜を理解して、生後二週間以内の屆出に、小兒の一生の用途を考へて、思ひ／＼に童名以外の名前を選擇するのである。その結果は日本は世界に珍しい人名多樣式の國とならざるを得ない。女子の名は本來必要が甚だ少かつた。その爲に通稱は少しも發達せず、成年期に入つても實名の無い者が、男子よりも更に多かつた。妻の名を呼ばぬ夫、母の名を知らぬ子供は今でも地方には多い。前代の公文には單に源氏の女、藤原氏の女とのみ記し、或は大子・仲子・三子などの通稱が用ゐられてゐる。大きくなつても童名を呼んでゐたことは、足利時代の阿茶局、茶々とか禰々とかいふ上流婦人の例を見てもわかる。お何といふ簡單な二音節は、本來少數の職業婦人の、獨立して世に交はる者に付する外部からの敬稱であつたらしい。それが僅かな年代に一般の家庭の風になつたのは、必ず社會的原因(419)があると思ふが、今はまだ明かでない。そして女の名には著しい近代の變遷があつた。地方々々にもまた流行の特徴が認められる。大體に男子の名よりも種類が少いやうである。名字《みやうじ》といふ語は元は「實名及び通稱」といふことであつた。通稱が今日よりも遙かに單純であつた時代には、更にその上に居住地を附加して、重複を差別する必要があつたが、近代のやうに、それが千變萬化すると、もう家號を添へて呼ぶには及ばぬので、居所を移轉しても變更せず、一族共用してこれを氏姓の如く考へ始めた。新しい戸籍法にこれを氏と稱するやうになつて、この點に關しても我々の習慣は改まり、いはゆる名字（家號）は固定するに至つたが、明治になる迄は家の主人の都合によつて、これを變更することも亦必ずしも困難ではなかつた。

　

(420)　　　　　五　國史辭典（冨山房版）

　

　　　　　うじがみ（氏神）

　

〔民俗〕　村にたゞ一つの御社を氏神と仰いで、幾つもの氏に屬する住民が共同して奉仕する例が現在は多くなつてゐる。氏人といふ語は既に用ゐられず、誕生の初宮詣に氏神を拜む者は、氏の異同によらずすべて氏子と呼ばれ、又これを氏子入といつてゐる。最初は有力な或一門の氏神に、次々の來住者が參加したものであらうが、その來歴は多くは不明に歸し、たゞ鎭守即ちところ神と、二つの名が併存する場合にのみ、氏神のもと氏の神であつたことを推測せしめるが、大抵の土地では兩者一つで、名稱も亦混用されてゐる。多くの定住者はこれ以外に別に家々の小さな祠をもつてゐる。本家筋の家では特にその春秋の祭を鄭重にし、同族の者に限つて參拜することになつてゐるのは、即ち以前の氏神信仰の名殘であらう。この方は屋敷神・いはひ神または稻荷とか荒神とか、その名稱は區々であるが九州の南端と奧羽の弘い地域とでは今なほこれを氏神といつて、村の御社と區別してゐる。或は右の二つの地方でこれだけを内神《うちがみ》といふものも少くない。多分は今日の氏神の普通の意味に反することを知つて、新に少しばかり唱へ方をかへたものであらう。關東地方には同族ばかりで祭る神を、特に一家氏神といつて區別してゐる例もある。

　

(421)　　　　　うぶすながみ（産土神）

　

〔民俗〕　現在も村の氏神をウブスナといふ土地は關東などに多い。漢字には産土神または産砂と書いてゐるものもあるが、スナが果して土地のことをさすか否かは確でない。最古の文獻には本居とある文字をさう訓ませてゐるから、ウブスナが人の誕生を管理する神の意であつたことだけは推測される。産神もしくはウノカミといふのも、本來は一つの神であつたはずであるが、御社の方には産屋の忌が終つて始めて參詣させ、一方には又、分娩と同時に産屋に來り臨み祭られ給ふ神があるので、そのウブガミとウブスナとは追々に二別れになつて來た。これは信仰の進化であらう。小兒が成長して行くにつれて、ウブスナ即ち村の氏神との關係は愈々深く、前者は襁褓の時期を過ぎるともう殆と説くことがないので、次第に傳説の世界に退き去らうとしてゐるが、今でも固く守られる産屋の作法には、ウブスナ信仰の名殘かと思はれるものがまだ多い。たとへば難産の時、馬を牽き又は背負ひ紐を持つて、山の神を御迎へに行く風が東北地方にはある。この山の神は即ち土地の神なのである。

　

(422)　　　　　大日本地理大系（改造社版）

　

　　　　　塔の澤

　

　塔の澤の文化史と最も深い因縁をもつものは、江戸初期有名の念佛行者、彈誓上人といふ聖であつた。彈誓の事跡には隱れた部分がまだ多いが、西相模に生れ、阿布利山の信仰を背景として成長した人かと思はれ、後に諸國を週遊して佐渡の金北山なども開いたと言はれて居る。この上人が山上塔が峯の地に庵を結び、鉦を敲いて念佛の業を勵んで居る間、山下の靈泉も亦日夜に滴たり流れて、來つて其奇瑞に浴する者は漸く多く、終に阿彌陀寺の興立を見るに至つたのである。此湯の存在の知られて居たのは多分尚遙か前のことであらうが、佛徒が之に據つて始めて繁昌の端緒を爲した例は、他にも全國に亙つて多いのである。七湯七廻りの風習の起原は、爰でもやはり宗教的のものであらうと思ふ。ところが所謂遊び湯の根柢も、存外に早くから築かれて居た。彈誓去つて後幾ばくも無く、箱根の宮道は見事に完成した。湯本は源平盛衰記以來の舊名所であつたが、その僅かな山奧に更に一區の別乾坤があることを、弘く國内の貴賤に知らしめたのは、此地が五十三次の驛路頭に近く、殊に江戸から引返して、容易に又來られるといふ距離の便宜であつた。これが新時代に入つて又幾通りにも躍進したのである。初期の土地利用法の跡方も無く、消えてしまつたのも自然であつた。

　

(423)　　　　　八瀬村聚落

　

　比叡山の西麓に、七八百年も前から出來た珍らしい歴史を持つ村である。近世に叡山との間に大きな訴訟があつた爲に、古い言ひ傳へが消えてしまつたが、最初は輿を舁いで此山を上下する職分をもつて居たものらしい。矢瀬記といふ舊記が今でも村に傳はつて居て、後醍醐天皇山門行幸の御時、奉仕したといふことが述べてある。さうして今でも此由緒に基いて、宮中の役務に服して居る。例へば近世兩度の御大禮の時などにも、主として此村の住民が輿丁の役に召されたし、平日も宮廷の仕人などには八瀬から出て居る者が多い。平日は農を營んで居るが、村民の風習言語には附近と異なつた點が多かつた。

　

(424)　　　　　雪の東北

　

雪の松島　造化の天工いづれの人か筆をふるひ詞を盡さんやと、俳聖蕉翁が奧の細道に感歎した松島は、四時曉昏、晴雨雪月と所謂變幻萬?の妙を盡し、難儀をしてこゝに遊杖を運んだ古今の人々が競うて詩歌文章を殘したが宮城電氣錢道が仙臺市を起點として鹽釜、松島、更に石卷まで伸るやうになつてからは、千賀の濤波を身に沁々と聞く雅懷は薄くなつた。然し松島は白雪を添加しての景が最もよく、五大堂から海陸雄島へかけては全く繪も及ばぬ。

　

冬の酒田町　酒田と新庄間鐵道の全通したのは大正三年の十二月であつた。庄内の咽喉を扼し西海岸唯一の海港と誇つた酒田が、最上川の流域とともに變化し、只久しく荒い沫を浴びて來たのである。何處を眺めても酒田米津出しの昔の景觀は留めぬが、追々陸の交通が發達しで來たから、次第に良港としての性能を顯はすことであらう。こゝは日本海の冬の風が至つて荒く、粉雪を飛ばす處である。

　

雪の新庄町　大雪の止んだ朝の靜かな落ちつきは、雪國の人々のみが味ふことの出來る「靜けさ」である。丁度十一月中旬から三月下旬まで、どんよりした雪日和が續き讀書も、討論も、懇談も此期間にしば／＼くりかへされるのである。道も屋根も野も山も悉く銀白に輝く雪景色はたしかに趣きがある。然し雪國の人々にとつては雪が降り積もることは一つの憂鬱で先づ雪が降るたびに家内中が交代に雪拂ひをしなければならない。これは決して愉快な作業ではない。此寫眞にも深い雪の日の趣が漂うてゐるが、この道をつくるために雪の中で働く憂鬱な雪國の人々の勞働を思はざるを得ない。

　

(425)箱橇　昔、雪國の大名などが領内の神佛詣でをする時、乘つたといふ橇は、朱塗の高欄を構へ金鋲をうちこれを箱橇ともいうた。この箱橇が極端に實用化され、文明の交通機關の間に舊態を横へて居るのである。尤も牛馬の背よりも澤山な積載量を一人の力で運搬するし、人間も亦常に橇の恩惠に浴して居る。

　

雪の長澤線　東北の各鐵道が毎年ひどい雪害をうける事は、もう恒例のやうになつて了つた。陸前小牛田から羽前新庄へ走る羽前東線はその最も著名なもので、各驛は?々寫眞の如く深雪に埋まり莫大な除雪が投ぜられる。山裾を廻る線などは時々なで（なだれの方言）に襲はれて、汽車の姿を見失ふといふ話のやうな事實もある。最上郡から北村上郡一帶へかけての雪も有名で、殊に大石田尾花澤邊の冬は、文字通りの雪中生活を送つて居るのである。

　

板谷峠のスキー場　福島縣の信夫郡と山形縣の南置賜郡との國境板谷峠のスキー場も、附近の五色温泉と共に近年その名が響いて來た。スキー場は勿論東北各地に設けられては居るが、雪質や傾斜や自然が齎らすよい條件が、こゝに備はつて居るといふ。常ならば普通の鳥の外はあまり姿を見せぬ場所も、一度白銀の世界となると赤・青・緑・黄と色とり／”＼に装ひをこらした、若くして美しい渡鳥がうたひながらに躍つて來る。早く流行したものゝ一つであらうと思ふ。

　

八甲田山の樹氷　雪の八甲田山は、明治卅五年一月一夜の間に士卒二百餘人を慘死せしめた所謂雪中行軍の遭難で有名になつたが、今はスキーを使用して樂々と深雪の山彙を踏破して居るのは、時勢の力とて恐しい。酸湯大嶽を盟主とする八甲田は太平洋・日本海・津輕海峽の三方から一度に吹襲はれる風に據つて、かういふ樹氷が思ひもかけぬ白(426)玲瓏の花を着ける。青空から流れる日光を受けて到る處に無數の小さな虹を抱いてゐるのは、亦雪國の一情景である。

　

横手のカマクラ　左義長と水神祭の合したものであらう。今は物焚く事も木梵天（ほたき棒）の惡戯も絶えたが、舊正月の十五日カマクラとて井戸の邊に雪室《ゆきむろ》を造る事は昔に變らない。夕暮かけて子供達は打連れ立ち「お清水《しづ》の神さんサ寄進してたんせ」と戸毎に錢、餅、菓子などを貰ひ集め、さて、水神に?燭をともし餅を供へ、雪室の蓆に竝び座つて甘酒を暖ため餅を燒いて夜を遊び更かすのである。

　

横手のカクマキ　雪國には雪國獨特の風俗がある。深い雪の中に立つ寫眞の少女の穿いてゐるのはつまごとも深靴とも或はゆづけともいひ、雪道を歩くときに常に用ゐられてゐるが、いまは大分都會製のゴム靴のために壓倒されてゐる。脛に卷いてゐるのは、はばきといふ。これは藁のごみか蒲で編んだゲートルやうのもので身體に纏うてゐるのは、かくまきと云ひ、毛織のものが多く風の日、雲の日に常に用ゐられてゐる。頭のかぶりものは、普通雪帽子と呼ぶフランネルのきれで、一寸いまの消防夫のかぶる帽子のやうなものである。かうした姿をした幾人もの人が、雪の上をのつそりのつそりと少し前こごみで歩いてゐるさまは、なんといつても雪國の情緒ゆたかなものである。

　

旭岡の梵天　横手町郊外（山内村大澤字旭岡山」旭岡山神社は田村麿の建立と言傳へる。舊暦十七日この杜に納められる梵天數十本。麻絲の物、モスリンの物、眞綿の物、色さまざまの梵天は思ひ思ひの飾り物を載せ、法螺の貝交りにジヨヤサジヨヤサの掛け聲勇ましく押して行く。それが白銀の積雪から浮いて見えるから素的に美しい。やがて社に着いていざ奉納となると、ここに押返す人波と突進まうとする梵天と猛烈な爭ひを演ずる。その揉み合ひが祭の呼び物である。

　

(427)　　　　　行�ｺ河岸

　

　江戸川は關東平原の中央部に向つて可なり伸び伸びとした水系を開いて居る。�ｺ川將軍の新城下では早速に幾筋かの横川を掘鑿して之を隅田川と繋いで東北方面の主要交通路に利用した。京橋、深川の一角が問屋場として榮えたのも此爲であつた。行�ｺの町を始めとして、此川の上流にはなほ十幾つかの水驛が生れて居る。市民食料の大部分は專ら此水運の力に仰いだのである。然るに鐵道網の完備と共に高瀬舟の數は激減して此通り白く廣々とした水面となつた。川を登つて行く舟の形、帆の掛け方も一變した。さうして小蒸汽船に曳かれて上下して居るのである。

　

(429)　　　竹馬餘事

　

(431)竹馬餘事自甲申至丁亥

　

　　　　　詩之部

　

　　　　　　　五絶

　

春暁　　　　夢斷欲天明隔花聞曉鶯紗窓紅霧濕初日照軒楹

客舍聞砧　　枕上砧杵響月下又雁聲萬里歸思切三更夢不成

秋日遊山寺　山寒颯秋風僧老白雲中鐘響松陰冷明月照花宮

訪隱者　　　行々誦古句山水有清音中有高人住一榻共論心

詠虎　　　　雙鐘如日月猛烈伏羆熊横行食牛氣寄在一嘯風

夏夜讀書　　蚊軍全斂迹炎威一點無灯前蟠史卷夜風透肌膚

秋日偶成　　孤鴉空啼去夕陽紅葉飄柴門人到少靜掃滿庭痕

訪山莊　　　探勝秋郊路小逕夕陽微林亭訪故舊孤?一醉歸

人日　　　　已綻半窓梅和風春氣囘小路菜羮熟一酌温凍?

(432)偶成　　簾外黄?鳴園中隣叟耕春齋多景色閑臥養病醒

春曉　　　　處々鶯語滑春夢隱覺時出門元來曉日在杏花枝

春月　　　　露結百花叢春雲玉兎中千金今夜月寒影映簾?

春雨　　　　陰雲亂半空曉見雨濛々孤館春眠熟庭階苔半弓

春草　　　　雨餘緑更新一色廢城春滿地無人跡遠眺畫不眞

海棠花　　　杳霧欄干外嬌柔影亦妍愛花盡日見自稱海棠?

訪隱者不遇　　求棲暮禽飛山莊塵事稀訪高人不遇閑門題鳳歸

田家　　　　野篁春笋出一路麥苗肥村舍雨餘色門前孤犢歸

初夏幽莊　　風度數竿竹擔馬響丁東南窓讀書坐群蜩噪晩叢

其二　　　　午睡覺來遲潦雨水通池棊殘敵手去閑門雀乳兒

美人睡起　　香燼佳眠覺夢騰倚几時宛囀囀黄?無情庭樹裏

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上二十首

　

　　　　　　　七絶

　

早春探梅　欲問梅花未見梅山中曳杖踏青苔仙姿臨水横斜影衝鼻清芳脈々來

冬夜　　　霜威凛々夜深時風叩紙戀寒月窺推戸椅欄尚未寐數行鳴雁渡雲涯

山中銷夏　青山絶壁老鶯聲密樹纔通水數泓樵客竹間高枕臥披?樹底汲泉烹

立春小集　山光水色五雲中今歳陽和四海同瑞氣滿堂酌　《ママ》酒萬民鼓腹太平時　

(433)春日野望　新晴煙景柳橋東倚杖尋芳麥臘中水遶青山歸路廻凝眸緑野艸連空

春郊吟歩　萬樹花明雨後天滿郊芳艸緑如烟丹青欲寫無成句徒愛韶光作酒仙

春郊晩釣　春浪芝舟一派流夕陽向晩末投釣囘顧同　《ママ》盪漿去貪看青山隔水幽

賞花　　　幽尋偶過古祠前風軟香飄花欲然先我誰占上方寺笑談聲落白雲邊

懷人　　　往年分郷各西東黄卷青燈恨不同門訊故人安穩否小樓只有夢魂通

春夜喜雨　好雨霏々徹夜鳴閑窓靜聽隔階聲幽齋坐久燈花落曉霧濛々草木萌

夏日江村　依岸高樓映淺沙漁歌相答入蕪葭遠汀日落長風起夢破雲濤聲處家

題畫山水　烟雲漠々水西東筆下天機造化工遠淡近濃山萬疊無聲欲動兩三鴻

山居　　　暑退山房氣似冬鐘聲寂々午陰濃芙?映水嬌無語深院梵音物外

納涼　　　一望水烟月色繞披襟引客過涼宵柔櫓聲中荷氣遠舟般垂楊第三橋

池上所見　風塵池心晝尚涼荷花深處盪輕漿黄昏好是人眠去白露滿身夢亦涼

七夕作　　天上隔年情話時金風颯々透簾帷隣樓宴罷蟲聲冷月落更深玉露滋

立秋　　　疎雨蕭條竹簟清笆籬一角槿花榮無端今夜覺秋立欹枕初聞促織鳴

初秋　　　庭後梧桐一葉飛殘蝉聲中早涼歸旅中昨夜商初應獨望斷雲涙滿衣

客舍聞雁　鳴雁高飛望渺茫餘音切々斷人腸爲通故舊平安報月照蘆花秋夜長

中秋　　　碧宇澄清月正圓高梧落影到吟筵夜探聞得彈筝響北舍南隣人未眠

其二　　　三更夜靜淨塵縁如璧清輝霜滿天綺席誰家裁好句簾?隔水送繁絃

秋雨思郷　寒燈引雨暮雲天靜聽雁聲獨自憐兄弟多年音信絶疎鐘寂々落枕邊

山亭　　　園林風景夕陽微詩料滿庭塵事稀吟歩空山踏霜葉啜茶此地忘晩歸

(434)聞笛　　細徑寂寥木葉黄西風漸々客心傷一聲牛背誰家笛落日秋郊人影長

看菊　　　看他倍養紅雜董箇々落影凝艶粧何如一種欺霜雪愛此東籬吹晩香

秋夜圍棊　午夜丁々黒白爭虚窓斜月寂無聲竹爐烟冷燈花落不問人間夜幾更

九日　　　同傾杯酒醉東籬只覺西山日易移佳節盛宴難?過好留高興入新詩

贈儒　　　三餘不倦酖玄艸久屈人間經濟才今日文章眞不朽遭逢奎運上雲臺

幽棲望月次諸子韻　孤枕夢成夢亦幽玉輪皎々映前流今宵最是難空過只合携樽去登樓

詠鶴　　　衣縞裳玄鳴九皐昂然展翅爰翔々巌栖澗飲安吾分不願華軒一日豪

客舍逢秋　片雨遙懸落日前雁鳴嗷々暮雲邊故山不見空囘首手把郷書獨自憐

山行　　　面々秋山木葉紅枯楊嫋々自多風今朝倚杖尋幽去山下柴門問牧童

夜半不寐　寒迫孤衾夢忽醒蟲聲如雨繞閑亭月滿幽窓梧葉響風頭剪々夜三更

聞落葉　　寒侵夜坐睡難成夜久時聞墜葉聲索々蕭々吹不燼疎林殘月近三更

初冬山居　林外風寒墜藥飄聲々和雨響蕭々隣翁賣炭入城去落日閑門鎖寂寥

新年作　　和風融雪人先覺細雨催寒花較遲好是小園春意動晴窓憑几賦新詩

古戰場　　古城宮殿委黄泥壞道頽墻夜鬼啼孤月悲秋重吊古荒園麥秀艸凄々

月夜花下飲　腸斷傷春句匠工落花滿地映簾?叢々芳艸供閑臥李白桃紅轉眼空

江村　　　竹塢殘陽映岸風白?夢穩碧液中秋風江上孤蓬去知是滄浪一釣翁

蟋蟀　　　何物寒蛩驚客夢一痕殘月轉空廊微?便覺軒窓冷繁韻還催機抒忙

江村晩歸　漁翁罷釣鳥投棲風景令人弄晩情一帶平林秋有色半泓寒水淡無聲

訪山寺　　雨餘石徑苺苔緑風後門前落葉紅烟閉花宮呼不答梵音起處白雲通

(435)送友人　故人去國向天涯一別再遊不可期悵々不堪分袂恨振涕長吟陽關詩

冬日田家　林塢人稀已夕陽二三村舍古松傍寒梅何處芳香馥又見幾株繞竹墻

雪江晩釣　孤蓬短棹一竿輕晩景寒江雪未晴囘首四圍皆一色淡烟碧浪是幽情

至日作　　短?自今一線長微陽動處洩春光喜看簷外梅花發芳々清香傲雪霜

雪夜山寺　疎鐘聲杳玉花裏一望濛々淡月斜人定山房更岑寂汲清泉去煮殘茶

新年口號　前庭梅柳含香風賀正歡娯萬戸同議在屠蘓醉裏聽早篤聲綏彩霞中

春寒　　　斷靄濛々落日春庭前春艸未茸々又知雪意催寒色幾陣微風吹入松

偶成　　　花裏一鳩燼日啼雨餘春艸柳邊迷庭前群卉正娟※［?の淑の下に木］頡之頏之燕子低　

春遊　　　晴郊千里麥風和粉蝶雙々戯艸過傾首欷聞聲起處鶯兒柳外弄金?

睡起　　　千漏告來華影移殘茶將熟睡驚時※［口＋答］然【磨硯向硯睡感作夢】坐因夢閑刪舊作詩

春江花月夜　漁父撃船收釣筒翠楊影漾晩來風岸邊艸花天邊月興滿畫圖一幅中

訪山寺　　一方門聳白雲籠竹引前溪泉脈通巣鶴歸來僧出定曳杖此地叩禅宮

雜興　　　日照西窓惠風喧一株楊柳掩柴門芳花多處春光好借與春禽養子孫

春晝　　　春日遲々美午眠留得山僧又話禅半簾晴日花陰外一枕清風竹影邊

上巳　　　菜花新蒲媚嬋娟氣朗風輕紅紫天恰似右軍脩潔處水樓催酒會群賢

雨後　　　密雲去後夢匆々潦水落來引竹筒庭裏索花紅霧濕一杯殘酒醒昏蒙

春夜　　　窓外無聲人不到暗傳香氣過園風春軒月出讀書好皎潔滿天當燭龍

老馬　　　斜陽照背骨相奇憐爾他年嘆老羸當今若有田公在長盡眉壽終無爲

梅雨作　　茶鼎涕來飯熟遲槐花幽逕過人稀痴雲壓屋琴書潤盡日黄梅雨似絲

(436)夏日雜詠　　槐陰緑暗雨空濛盡日吹來扇物風門外清流一衣帶詩人家在野橋東

又【以下皆同】　　白雲起處數奇峯涼滿庭前幾個松一夜竹根稚子長鐵?收去附山農

　　　　　漁家三數低臨江晩伴釣翁渡石矼薄暮敲門乞投宿數株新樹掩書窓

　　　　　小々荷錢滿半地聲々呼雨有蛙兒流鶯不扈東皇駕催喚幽人囀竹籬

　　　　　夜色淒々落月低一聲叫斷不如歸他年客舍歸思切又聽新鵑坐濕衣

　　　　　數擔??趁市閭杜鵑新樹雨晴初千峯鳥路含梅雨洗竹澆花興有餘

　　　　　霖雨未晴梅熟初酒痕墨汁兩沾濡幽齋終日閑無事只見空梁燕乳雛

　　　　　嶄宵宿在曲江西漠々天涯望欲述杜宇何爲愁殺客一聲々和數行啼

　　　　　梵宮半被白雲埋隔水青嵐落小齋?鎖柴門無客問獨看西嶺夕陽佳

　　　　　前山轣轆送輕雷美睡桃笙亦快哉生怕?喃頻喚覺起看白雨滴疎槐

　　　　　新樹作門竹作隣稜々拂々緑無塵龍孫爭出疎篁裏咫尺庭前雨陝旬

　　　　　杳々微宵點々雲疎斜一霎濕炎氛水連繋艸池塘緑竹上蝸涎成篆文

　　　　　潤透青苔泥未乾斜横焚去篆香殘喜看萬物發生速晩筍已抽玉數竿

　　　　　打階點滴伴無聊靜見奔流拍小橋梅雨連宵雲似墨閑開窓戸對芭蕉

　　　　　雨後溪流水没?沿溪一路緑陰交乍抵幽處無人跡閑倚吟?數鶴巣

　　　　　寒透小軒雨脚斜遙過池畔打窓紗柘榴爭發分抉後已見庭前三四花　結句上四字庭後已看ニ作ル

　　　　　涼風吹夢緑陰成宿雨廉繊未放晴日没西山猶堪※［目＋謠の旁］々中遙聽杜鵑聲

　　　　　三更風歇雨冥々石瀬涓々月半庭數點打窓來又去起向楊柳撲飛螢

　　　　　華胥夢斷氣如蒸一片火雲十日升欲敵炎威豈無策青錢數箇買清氷

(437)　　　　風塵枕函涼似秋簷潦殘響惹閑愁此間誰復伴幽獨只有一雙呼雨鳩

　　　　　篆香燒盡轉深沈閑室無聊梅潤侵曳杖眞穿庭樹去池邊飽雨有鳴禽

　　　　　楊柳數珠通路三横橋過盡見松庵乍到閑門高士在一搨清風試雅談

　　　　　庭前咋夜雨繊々門外清流一尺添讀盡課書艸堂靜雙々頡頏燕穿簾

　　　　　群?歸去夕陽銜遙看遠打數點帆佳夢纔破猶恍惚書窓憑几望青�ｰ　　　以上

秋晴千里圖　一路々通十里強農家門外稻雲黄前溪隔水多紅樹昨夜山村新有霜

山荘　　　春去樹陰花影稀臥看幽徑長苔衣又迎隣叟尋殘局簾外微風?蝶飛　　

梅雨【二首】　梅潤上階苔色深南窓閑臥苦陰霖兒童驚喜來相報新看枇杷一樹金

　　　　　蕭瑟晨昏雨暗樓?邪田畔麥方收讀書几上望窓外指點翠陰松竹幽

聞子規　　夜色沈々月似弓四山黯澹雨濛々三更客舍當年恨夢落一聲啼血中

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上九十八首

　　　　　　　五律

　

雪中作　　碧落寒蕭索忽看白王虹繁雲低薄暮急雪舞長空攘下擁蘭葉輕飛集竹叢幌疑銀世界明訝水晶宮

探梅　　　風霜威料峭曳杖雪晴時觸散群蕋出籬横數枝遠地我先見隣人未知朗?佇立久聊賦探芳詩

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上二首

　

(438)　　　　　　　七律

　

春日閑居　　虚窓晝靜午眠餘雙燕來巣處土居机上苦吟遲得句爐邊倦讀臥看書山中花落塵縁絶野外風清世事疎艸莽亦知恩澤遍小池水?躍春魚

春曉早起　　早鳩數語報晴鳴懶起眼邊帶咋醒花凝清露啼粧濕柳拂春風舞袖輕欹耳幾度初鐘斷囘首半橋殘月明村後老翁入市去荷香賣過而三聲

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上二首

　

(439)　　　　　歌之部

　

雪中早梅　あさとでにわがやどちかくしらゆきのつもれるなかににほふむめがえ

新年看鶴　おほぞらにたかくきこゆるたづがねはきみを事ほぐこゝろなるらん

又　　　　あしたづのをりゐるのべのこまつばらちよにちよそふ春ぞたのしき

梅香遠薫　ふきおくるあらしのかぜにたぐへきてちさとにゝほふのべのうめがえ

二月餘寒　はるはまだうすみもあへずきさらぎのやま風さむくふゆにかはらぬ

竹間鶯　　まどちかきたかむらごしにきこゆなりよにおもしろきうぐひすのこゑ

春雨　　　いつしかにあまねくうるふはるさめにかれふのゝべもあさみどりなり

水聲知春　はるかぜにゆきげのみづのながれ出ておとかはりゆくぜゝのやまがは

呼子鳥　　ひともこぬみやまのおくのよぶこどりかすみがくれにこゑぞきこゆる

樵路躑躅　たにかげにいはねのつゝじさきにけりをもひのいろにそめつくすころ

杜若　　　かくれぬのみぎわにたてるかきつばたわかむらさきのいろもむつまし

蛙　　　　あめはれてしづがかとたに時きぬとこゑもおしまずかわずなくなり

水邊山吹　ながれゆくはるのなごりとさきそひてしたゆくみづににほふやまぶき

殘春鶯　　よしの山はかなくのこる木のもとにはるをかこちてうぐひすのなく

(440)惜花　　　あぢきなくをしむこころも知らずしてゆふ日さすおもに花ぞちりける

新樹　　　このごろはのきばもくらきふかみどりこずへすゞしき木々のあさかぜ

旅宿虞橘　わがやどのはなたちばなぞひらくらんもゝ枝さしおほふかぜぞ匂へる

山下早苗　けふいくか皐月きぬらし山かげにおりゐる田子のさなへとるなり

山家卯花　卯のはなのさけるあたりをながむればしづがかき根のゆきと見るらん

待郭公　　よをかさねまつに音せぬほとゝぎすこよひの月になかずもあるかな

山家秋雨　きくやいかに艸のいほりのあきふけてのきばにそゝぐ夜半のむらさめ

月前雁　　あきの夜はおのがつばさをくまと見てつきによこぎるかりの玉づさ

初冬　　　ふゆちかくなりにけらしなませの内のちりあへぬ菊にしもぞおくな

月下殘菊　夜をのこすまがきのもとのそが菊のにほへる花を月のてらせる

空更千鳥　よをさむみさほのうみ原になくちどりともよびかわしむれてたつなり

冬聲　　　のきのはのまつのこすへにおとすなりこはなにびとのすさびなるらん

山家殘雪　やまかげのおどろがみちの艸の上にはるをも知らずのこるゆきなり

古郷梅　　ふるさとのあれにしやどのうめのはなひといとひこす春はきにけり

立春霞　　けさ見ればはるのしるしと小まつばらちとせをこめてかすみたなびく

蘇秦　　　きみにもしおほ城うらの田ゐもあらばゆめにもかゝるはえはあらじな

柳絲隨風　かぜふけばはなだのいとのかたよりにつゆふきみだすきしのあほやぎ

野若艸　　野邊にのこる霜のふるはのしたもえにむらゝゝあほきはるわかくさ

月影移水　やまのはのいは間の清みずそこきよみかげもにごらぬ夏のよのつき

(441)深夜鵜飼　大ゐがわかたぶくつきにしづの男がくだすうふねのかげしらむなり

樹上蝉　　なつやまのこずへもたかくなくせみのかぜにみだるゝこゑしきりなり

葵　　　　むかしよりかざすあほひのふたばぐさいく世かけけんかみのちかひを

五月雨水　さみだれにみづかさぞますみなせがわおろすいかだのいくやへぬらん

遲日　　　はな見つゝのどかにすぐすはるの日はまだくれとほくうすむ大ぞら

殘春　　　なれきつる彌生のそらぞ過にけりはなゝきみねにはるぞくれゆく

苗代　　　をちこちのみづせきいれてはるの田にたねまくしづがいそぐなはしろ

花下送日　花のもとにけふもはなしてすぎにけりはなみてあかぬはるのこのごろ

絲遊　　　大ぞらのかすみのひまにながむればそことさだめずあそぶいとゆふ

遠山櫻　　よしのやまみねのしらくもたちにけりけふぞさくらのさかりなりける

三月盡　　いたづらにくれぬるはるはをしけれどまたこんはるぞたのしからまし

首夏藤　　夏きてもはるのゆかりとさくものはむらさきにほふやどのふぢなみ

送春如昨日　いつのまになつは來にけんきのう迄はるの分れをゝしみかねしが

都鄙更衣　しろたへのころもゝうすくけさよりはみやこもひなもころもかへけり

惜更衣　　はなの香にそめしたもとのをしければころもかへうきけふにも有かな

寄車力戀　くるまうしかよふなはてのはるけきにめぐりめぐりてあふこひぢかな

寄束髪戀　けさいもがたばねてゆひしたばねがみすゑながかれとちかひてしがな

寄汽船戀　なちのうみちさとをはしるはやふねのはやくもたてるわがうきなかな

思不言戀　ほにいでゝまだいひいでぬわがこひはいかにくるしきものにこそあらめ

(442)虞橘　わがやどのはなたちばなはさきにけりやまほとゝぎすいまやきなかん

旅中郭公　きくもうしなかぬもこひしくさまくらたびのねざめのやまほとゝぎす

夏曉　　　ねやのとをたゝくくひなのおとたえて【はかなく・あはれに】さむるあかつきのゆめ

秋感　　　あはれなりしづがかと田のあきかぜにつまこひわたるさほしかのこゑ

深山殘花　たにかげにそれかあらぬかやまざくらあをばにまじるいろもめづらし

又　　　　ちりのこる深やまのさくらゆくはるのなごりをしとやさきのこるらし

蘆花似雪　ゆきかとよみればまだきになにはがたみずべのあしのはなさかりなり

初戀　　　わがこひはのちせのやまのふぢのはなまつにかゝれる命なりけり

また　　　きのうみしいもがすさびのたまづさはこがるゝこひのはじめなりけり　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上六十一首

　

(443)　　　　　文之部

　

雪夜讀源廷尉傳　　餘寒料峭春雪將至一夜閲史於青燈下會至源廷尉傳略記其事蹟矣延尉姓源名義經典厩領義朝之庶子小字牛稚二歳而義朝被殺乃養在鞍馬寺及長岐嶷畫讀胥夜習武伎而厭佛事遂往奧依秀衡々々能遇焉既而聞頼朝擧事義經大喜單騎出會矣自來戰功不遑枚擧滅木曾鏖平家風食霜寐峩々絶壁採千戈令三軍渺々蒼海執弓矢揮萬馬再興家名雪恥辱功名顯天下豈非大丈夫所爲乎余嘗見一圖則與母及二兄從奔六波羅也意頗哀之今又讀此史因有所感世間内得父母訓戒外受師友良導而生太平無事時能不恥義經其人者幾何哉忘其蕪辭作以自警而已

對譯　　嘉助者尾張國某邑人少有大志與同里人三吉友善一日三語嘉曰男子不生則已生苟不得大名不如死遠矣子盍一出來都衣錦歸故郷乎嘉助曰善乃治行※［壯／女］二人家素貧汲々辨路資東赴江戸各主管某家二人已有意於起家小心忠實以經數年主人竝愛其才乃分資本經紀其家業一日嘉訪三居談話及財産事三乃曰凡損産失財者皆萌奢侈故我誓不衣絹衣矣嘉曰善哉吾子之言因感激歸家而寢三日不出房告其妻曰吾自今盟而不衣綿衣矣以後二人皆爲大賈云野史氏曰百事無不因志々大則蹟大意少則功少今見二人所爲一儉一奢各因志氣而皆不失爲大賈記以?世立志者云爾

又一則　　亞相行成深沈有大度嘗會中將實方於殿上実方突然褫行成冠槨之於中庭行成神色不變徐呼小吏收之冠畢正坐言曰君與下官有何仇敵奈何而如此乎實方勃如而去時皇帝遙見之深嘆美之矣即日擧行成爲藏人頭貶實方於奧以死　

又一則　　赤穗侯森氏徴租税庫裏欲計歳入披米嚢中有紙　《不明》孛?少許署曰某處某氏名以新穀獻侯視而欣然即日召而見其人親問其故對曰小僕毎收親穀不敢先食毎歳如之侯感其志賜稟米方之野史氏曰使衆夫皆如此人則上之人庶幾可以(444)無憂矣

諢話　　某邑某社有祠官曰某隣寺有僧又曰某二人各表裏其業以故相仇視已久一日祠官過某野路次會僧行二日平日無交一語雖然必不得黙而過各送數語々忽及己業僧喋々論佛之功�ｺ曰天下無及祠官曰天神者昔作此國以來依冥頼幽以守此國雖不觸人目天下無處不在視無目聽無耳以賞以罰無不顯夷狄之道何爲於此如君等乃無爲神國之罪人乎恰怒曰然行而非無神地乎曰然僧黙然而已會祠官催溺路邊無尿桶乃欲失艸上僧止曰比處豈得有神無罰之乎祠官乃止又行數丁甚急亦欲失又止止而遂不堪熟思囘一考突然蹴僧倒之失其頭上僧大忿曰此狂?何所爲曰汝光頭上無髪矣盖國字髪通神也

大和尚傳　　大和尚者未詳其姓氏一云銀山坊主以其居銀山名焉嘗自云本攝之高槻藩士土人不知其所由來和尚亦不自言天資疎放不治世事又嗜酒有興輒飲々輒狂常徘徊邑里衣履故惡至乞食于市人指辱之和尚不見省又善書醉乃大書紙上字々洒落可見而毎大醉晝食臥于路旅人指以異之夜不擇地而寢飲食糞尿皆一處衣服有臭氣人賤之過屠兒化子雖跟子賤夫皆愚弄之一日和尚來乞富家衣服寸裂面色?染形?無可比僮僕皆目笑之時有一僧來呼和尚曰先師々々何爲不歸乎乃取一衣于懷換之扶而與歸人々不知其故或曰彼僧乃大和尚之弟子耳和尚本居銀山某寺以大酒至出寺然今有二弟子爲給其衣食矣人々始知其由然和尚居寺若其清規又出來市遂不歸雖然其兩弟子時々給衣食不至乏缺和尚亦至今徘徊市井云

私欲之説　人間ノ難苦ヲ顧ミズ國家ノ患害ヲ思ハズシテ只己ノ利ノミ思フヲ私欲ト云フ人此性アル時ハ假令一時ノ名聲ヲ蒙ムルトモ遂ニ亡滅シテ貧窮ニ陷リ却テ人ノ嘲笑ヲ蒙ムルベシ抑此事ハ惡事中ノ惡事ニシテ最恐ルベキコトナリ上天子ヨリ下庶人ニ至ルマデ一日此ノ心アル時ハ則禽獣タルヲ免レズ古人言ヘリ周公ノ才ノ美ナル騎且吝ナラシメバ其餘ハ見ルニ足ラズト此語又宜ナラズヤ

紙鳶之説　　楮身ニシテ竹骨風裏ニ翩翻シ空中二逍遥シ春日天氣清朗風微ニ日暄ナルニ當テ其樂ヤ言ベカラズ或ハ(445)垂楊ノ邊ニ舞ヒ艸花ノ上ニ戯ムル乃チ速ナルヲ翔鳥ニ比シ升ルコトヲ空船ニ競フ人ヲ使テ之ヲ羨ミ思ハズ嗚呼ノ嘆ヲ發セシム身モ亦騎然空中ニ自鳴シ人ヲ愚弄スルニ似タルアリ人此ニ從ハント欲スレドモ得ベカラズ況ヤ之ト肩ヲ比スルヲヤ然リト雖モ一旦暴風※［風＋叟］々雷鳴轟々之ニ加フルニ急雨盆ヲ傾ムク放者逃歸リ見者逃歸リ羨ム者逃歸ル身空中ニ徘徊嚮ノ昂然タル者今ノ※［足＋戚］然ニ變ジ舞フ處ノ垂楊ニ掛リ清朗微暄ノ日ニ至リテモ上ルベカラズ亦下ルベカラズ悲鳴シテ救ヲ乞フト雖人省セズ先ノ羨ム者亦之ヲ嘲ル逐ニ肉破レ骨立チ又紙屑塵埃ニ變ズ嗚呼ナル哉此變ヤ只ニ紙鳶ニ止マラズ又其垂楊ナル者遂ニ幹ヲ伐リ枝ヲ折ラルヽニ至リテ變ジテ農家ノ薪トナル又其艸花ナルモノモ夏ニ至リテ花落秋ニ至リテ葉枯レ冬二至リテ根死ス又其羨ム者嘲ル者見ル者放ツ者皆病ヲ以テ死スルニ至ル當今世間紙鳶子ニ非ル者幾何カアル然シテ驕然空中ニ逍遥スル者豈ニ戒メザルベケンヤ紙鳶ノ説ヲ作ル

祝文　　凡人有志必有蹟無志者以何竢成哉家兄夙有志醫術矣負笈遠學東京五年於此其間切磋琢磨積營雪勞不知幾何今茲十有九季十一月多年苦學顯於一朝學終業卒遂至衣錦歸故郷父母昆弟喜之親戚朋友賀之羨之於是乎可曰有成我年已加二豈無孜々之志可乎未必無志今日好音會來欣喜雀躍聊以憾我無爲雖然吾亦人也豈能蠢爾而止哉必粉骨碎身終揚名興家斃而後已余有感於此聊列祝辭併而述懷云爾

踊之記　　一人叩鼓一人唱歌無數之男女從之行焉或男有女※［壯／女］女有男風着黒衣大笠有身似僧蓑笠肩鍬有爲農夫?者千?萬態右顧左視紅粉逼人長袖飄風不知手之舞足之踏使人不思張口失笑者謂之踊今茲舊暦孟秋十又五夜則爲盆蘭欲行此技于辻川山麓則走健兒以傳村内市井惡少數十輩盡美粧赴之予亦往見至則曲已酣一人誦音頭有一人?鼓和之互窮妙手曲已夜已五更嚮之男女四散亦不可見乃割愛歸家

松陰居記　　處士某新買一宅此宅也遠去紅塵近友白雲後負山前帶澤左右疎篁密樹宅面南背北庭後有巨松下植群花卉皆嬋娟可愛此主人所愛買之也予一目曳杖于郊外會過此居愛其風流低徊不能去予與主人無一面識不得直入※［立心偏＋方］惶欲歸不忍空去因決意窮之主人在門直引入内予罔然不知所爲徐問故主人曰僕亦窺君知其非尋常人欲乞抂駕久矣予欣然抵(446)掌笑遂入室其景倍外之見風韻尤美予嘆賞不已乃問松之名曰撫琴松次問宅之名日松陰居予賛曰良哉吾子名松及居乎予知其意矣半夜月明清輝不可比爲遣樂於吹笙乃松上彈琴和之此則撫琴之興乎又夏天酷暑炎熱不可堪爲納涼於庭後乃松陰送風來滅之此則松陰之興乎此二樂者無物可比可謂君之所以名乎主人曰善子爲記之余不能辭乃歸家夜半綴拙文於燈下以送之

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上十一首

　

(447)　　　　　附録〔〔□で囲む〕とあるが、□の上の横棒はない〕

　

花鳥春秋傳　　其經掛張潮所作其傳乃余所擬作也

經〔□で囲む〕春王正月梅放其英於幹與百卉爭先遂奪其魁＝�尢鮪且ｩ幽谷＝鴻雁復歸北＝月季於其芳自正月至十二月

傳〔□で囲む〕　春王夏正月梅公賢與群侯山茶棣棠紫薇迎春梔子爭班于園奪之魁至此踐王位矣初公之弟英有敏才白多其能漸抱異志乃放之令幹焉≡幽谷有隱士名�尢槙]名夙聞王聞之使東風聘之仄來客王所矣≡北海人鴻雁久在朝位至此捨官去復歸北矣≡氷亡不書不時也≡雪人來侵亦不書凡雨雲不成災不書

經〔□で囲む〕二月菊遷其苗于畔＝桃李棠杏楊柳會于園＝蜂王使衆蜂來侵入其郛＝烏衣國使其子弟遊杏林

傳〔□で囲む〕　初東籬之菊侯封小而族多至是乞遷其子弟于菜之畦書苗　《不明》年少也≡桃侯李侯棠伯杏子柳之公子楊會于園尋舊盟也≡蜂君使其臣馬蜂來侵入王郛王人大窘客有密敏有口辨王厚賄使言之曰君武多矣何爲結怨於四鄰敞邑雖小籬笆以爲城溝渠以爲池春之深淺未可問也今爲君謀不如解兵結盟而去蜂兵乃歸去≡烏衣國與王好其族數十來寓杏林王亦時々與烏衣君乙來遊宴樂以娯

經〔□で囲む〕三月花王牡丹即位于洛時遊姚氏魏氏金蓮寶相薔薇及七姉妹盟于籬＝彩?粉蝶黄蝶來聘饗之＝金衣公子歴聘于柳＝封氏十八姨來伐崔子救之＝鼈靈逐其君杜宇

傳〔□で囲む〕　花王渤海人入洛自稱洛花王即位而賢姚氏魏氏乞宴于庭大樂未歸小臣有異志謀弑王姚之老七姉妹知而誅之與王之近臣金蓮寶相薔薇盟而歸≡胡之蝶氏之族粉氏黄氏及彩?來聘大饗之※［尺／日］過節也≡初幽谷公子?美好黄衣而歌人稱金衣公子(448)梅侯聘之來二月而行寄于柳柳侯宴之乞賦於公子々々賦葛覃首章侯大喜爲賦東門之楊乃置之于葉裏焉≡封之君貪數逼王不肯封君怒乃命其十八姨來伐攻柳々能守不下攻梅々危≡蜀君杜宇不君其臣鼈靈之※［尺／日］名兩罪之也

經〔□で囲む〕夏四月柳絮大去其國＝竹逐其※［竹／沢］於外＝花隕如雨＝木香遊於棚＝靡艸死

傳〔□で囲む〕　柳之夫人絮氏大去其國※［尺／日］大去者絶也初夫人※［さんずい＋搖の旁］通小臣公出之焉≡竹之世子生托之于※［竹／沢］世子長惡※［竹／沢］而逐之※［竹／沢〕出奔居外≡新樹郷有隕花如雨記異也≡水鷄門于地館不※［尺／日］國少不能災也≡木香子※［さんずい＋搖の旁］戯無度遊于棚遂不歸≡靡草死※［尺／日］死曰奢也遺命令其子置于畦靡族後大盛矣

經〔□で囲む〕五月?人粤人使建蘭茉莉來聘＝?※［谷＋鳥］來或剪其舌＝石榴火＝楚美人虞氏孫於野＝李子生王戎侵其核

傳〔□で囲む〕　王使?越各貢美女?貢末麗越貢建蘭至此共倶來二女皆有國色與楚虞美人齊名王大喜同置後宮≡粤?※［谷＋鳥］者爲説客來有賢白同異之辨或剪其舌嫉之也君子曰?※［谷＋鳥］之智不如舌截雀雀尚報恩讎≡石榴火不爲災≡蜀帝子規趣東山次于橘行不合節故不※［尺／日］≡李子生王戎攻之李人能拒之乃以公子核歸＝桐花雨不爲災故不※［尺／日］也

經〔□で囲む〕六月?荷薄蓼會於池＝蘭入居於堂＝有蟲食木葉

傳〔□で囲む〕　樹陰有蟲多暴惡百姓困之至此其族益多侵樹葉將敗諸侯會於池謀之禮也乃令祝融晨襲之融諾未發也≡木香子死於棚≡池有道士青衣徘徊池塘人乞祈雨而驗人呼曰雨々生先不※［尺／日］怪也

經〔□で囲む〕秋七月桐使葉墜于地＝甘露降于蕉蒼鷹撃鳥獲之

傳〔□で囲む〕　秋七月桐之大夫葉妻美桐侯私焉令葉墜於地乃奪之葉怨奔於庭≡天帝命甘露降甘露降于蕉告以氣之變君子乃覺時機≡祝融伐蟲亡之不※［尺／日］謀早也≡鷙伐鳥大獲而歸※［尺／日］名惡食也≡牽牛及織女會于漢益固盟也凡四時之常※［既／木］不※［尺／日］

經〔□で囲む〕八月榴逐其子於外＝葵侯朝於曰初榴之太子賢諸侯附心侯之嬖妾欲立其所生兒乃與幸臣譛之大子遜外※［尺／日］逐罪惡榴也≡葵侯朝于目君子日葵能衛其足≡槿侯老于芭不※［尺／日］早時也

經〔□で囲む〕九月菊放其英于東籬遂入居於堂＝霜及百卉戰於囿殺之菊全師而歸伐茱萸以其英歸＝鴻雁來朝

(449)傳〔□で囲む〕　菊侯武而好謀放其先大子干東籬百卉奉之乃自入堂而王霜王攻囿百卉與之戰大敗菊以其賦而殿百卉皆走死而霜軍未及菊陣侯欲戰大夫芬諫曰大功不可顧細瑾宜早退軍侯曰喜乃全師而歸≡菊伐茱萸々々侯銜璧來降質其公子以歸次于野≡朔之旦日奎中菊侯至自伐茱萸≡北海雁氏來尋盟饗之禮也≡九日菊侯與茱萸侯登高山飲酒以非公事不※［尺／日］≡霜降水不爲害故不※［尺／日］

經〔□で囲む〕冬十月蘭侯與茉莉入於温室

傳〔□で囲む〕　冬十月囿之役群侯多亡蘭侯及茉莉氏恐霜跋扈逃入温室※［尺／日］入示隱也君子以爲怯不爲時用矣≡霧氏圍野不爲害故不※［尺／日］也

經〔□で囲む〕十一月柑侯橘侯來朝≡虎茨伐雪火之

傳〔□で囲む〕　柑侯橘侯久不朝貢王命人促之丙辰二侯以其子來朝王令人促之杉男亦來朝缺禮故不※［尺／日］≡王命虎茨伐雪邊火之一日一夜火不滅邊民皆鏖王大賞之

經〔□で囲む〕十二月雪軍大侵＝※［牛＋未］陵使水仙聘于列國＝爆竹伐山噪逐之

傳〔□で囲む〕　雪軍大侵邊報火之役也≡※［牛＋未］陵人使水仙聘列國奉金盞而獻之諸侯珍之待遇甚篤水仙氏歴遊四方終庭之隅矣≡山噪來侵山噪西山胡人丈十尺有異術命竹伯爆而逐之噪遂不爲筈故特骨爆竹逐山噪也≡梅侯欲使臣蘂吐香以雪未能故不※［尺／日］也

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　晃山生松岡　克

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　著

　

(451)　　　短歌・連句　ほか

　

(453)　　　　　しがらみ草紙

　

　　　　　むさゝび

　おのれから山にすみてもむさゝびの夜半にかなしき聲たてつなり

　　　　　　　　　　　　　　明治二十四年五月二十五日　第二十號

　

　　　　　をりにふれたる

　松かげのあさぢのはなをふく風にさめしひるねは物うくもなし

　雲かゝるにはの木立の志づくよりひるもしめれる石だゝみかな

　はこ杉のわかばのしづく夕かぜにみだれてもなくほとゝぎす哉

　君まちてみんとおもひし夕がほの花のかきねにこさめふりきぬ

　　　　　　　　　　　　　　明治二十四年十月二十五日　第二十五號

　

(454)　　　錢塘蘇小々更値一年秋といへる詩のこゝろを

　このゆふべひと葉こぼるゝ柳ばしあそびかいへも秋やしるらん

　　　　　　　　　　　　　　明治二十四年十二月二十五日　第二十七號

　

　　　　　海邊松風

　すみのえの渚のとほくなりしより松にぞなみのおとはのこれる

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年三月二十五日　第三十號

　

　　　　　行路柳

　道のべの志みづはいまだ寒けれどやなぎの陰ぞはるめきにける

　　　　　春江夜泊

　おぼろよの夜舟のとまの上しろくちるは何處のさくらなるらん

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年四月二十五日　第三十一號

　

　　　　　夢見落花

　さくら花ちるとみつるは夢なれどさむるまくらに山かぜぞふく

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年五月二十五日　第三十二號

　

(455)　　　　夏富士

　むら山の青きが上にあらはれていよ／＼きよし富士の白雪

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年六月二十五日　第三十三號

　

　　　　　をりにふれて

　かはほりのとぶや夕のそらみればうすくなりたるさみだれの雲

　　　　　寄松祝

　まつしまの小島のまつのかずしれずみゆるや君がちとせなるらん

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年七月二十五日　第三十四號

　　　　　をりにふれて

　わが庭の桐のひともとたかければまづ秋かぜにとはれけるかな

　　　　　　　　　　　　　　明治二十五年十月二十五日　第三十七號

　

　　　　　故郷子規

　そのかみはまちてもきゝしふるさとの山ほとゝぎす今はかなしも

　　　　　　　　　　　　　　明治二十六年六月二十五日　第四十五號

　

(456)　　　　待月

　殘りなく友はそろひて月ばかりまたるゝものに成にける哉

　　　　　萩見のをりに

　秋の日の早く暮るをいかにせん萩の盛は今日ぞと思ふに

　　　　　　　　　　　　　　明治二十六年十月二十五日　第四十九號

　

　　　　　をりにふれて

　まぎれてもつねはありしが春雨のふる日となれば家ぞこひしき

　　　　　水郷新緑

　ねふの木の陰おもしろしあやせ川つゝみの宿にいこひてゆかむ

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十七年六月二十五日　第五十七號

　

(457)　　　　　第一高等學校「校友會雜誌」

　

　　　即事

　なにとなく身にしむ風におどろけば尾花もなびく夕なりけり

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十六年十月　第三十號

　

　　　　　折にふれて

　春はまたとほ山さとの梅はやし志ろきは雪ののこるなりけり

　北の海の千島のはてはかりかねの歸るまちてや春をしるらん

　

　　　　　薩摩なる友のもとへたよりのつひ《ママ》てに

　さくら島かすまんころは思ひいてよ上野の山の花のさかりを

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十七年三月　第三十五號

　

　　　　　越中の國にや花の木の清水といへるはかの木曾義仲の遺跡なりといふかこたひ其處の(458)人々その遠忌をとふらふとて花映水といふことをよませけれはよめる　　　　　　　　　　　　　　　　　　白旗生

　そのかみはさかりの花もうつりけん清水の跡を見るか悲しさ

　

　　　　　暮春雜泳

　大かたの春のよそなるうくひすのこかひの聲も老にけるかな

　

　　　　　松上鶴

　山松の上にねふれる白つるはたゝしらくものこゝちこそすれ

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十七年五月　第三十七號

　

　　　　　鸚鵡　　　　　　　　公山或田

　

　父なる人失せて後、世渡りのたつきも絶え、あたりもいとつれなかりしかば、そを憂ひて、悒々として樂しまさりし我友は、つひに去年の暮に身まかりて、老たる母を殘しぬ、昔にかはる家の中に、留れるものは、唯一羽の鸚鵡なり、鸚鵡の羽の雪よりも白くて、世の塵にそまぬげなるもいと哀なるに、旭の影うらゝかなる朝は、おのつから程々の言をかたるめり。そか「後藤さん、後藤さん、」とかたるは、父君ゐませし頃、?々來たりし人の名なりと、母君かたりたまひぬ。はかなき戀の歌など、よく聞覺えて、唱ふる時は、ふしにつれておどるとぞいふなれど、今はものうがりたまひて、見たまふことだにまれなれば、かひなし。いそぐ事ありて、門を通り過ぎむとする時、此鳥の清く鋭くよぶ聲をきけば、我胸はさくるやうにて、ふと立よりて、かの母君と、昔話をするが常なりき。

(459)　　　　　　　　　　　　　明治二十七年十月　第三十九號

　

　　　　　古戰場

　

　日光に遊ひし者は、皆戰場か原の名を知るならん。劍か峰を撃ち、中宮祠前に出て、湖水を左にして、行くこと一里許、菖蒲が濱より、右折して森林の中に入る、森の樹は皆數千年を經たるもの、吹風に大《ママ》古の響あり。又雷火の爲に燒かれたるか、立ちなから枯れて、白々と志けみの中に見ゆるもあり。谷川の音につれて、心も自高くなり、奇しき鳥の鳴聲をきゝては、我も浮世の人ならぬ心地す、林漸にして盡きぬれは、唯見る、一大野の我足下より廣ごりて、遠く大白根の山麓に至れるを。野の廣さ、凡そ今見たる中禅寺の湖水を、十ばかりも合せたらんほどなり。山中なれは雲甚多くして、眺望時々に變れとも、先、右の方に近く野の限にたてるは、二荒山なり。山毛欅《ぶな》の木むらに岩根ましりて、此世の山のけしきに非す、それにつゝけるは、大｜眞名子《まなご》中眞名子、女寶、前なるは何山何か嶽、弓手なるは奧白根、小白根、と數ふるに限もなし。野は唯草の原にて、小松たにいと稀なり、湯瀧の末の谷川、遠く野末を流れて、其汀なる葦原は、山の嵐にさやけり。されとあたりのけしき、やさしきかたも流石ありて、野花は紅緑花開き、草も亦肥えたれは、里近からは牛かふ童なとも來へき所なるを、旅ゆく人の他は、狐兎のたくひのみそ通ふなる。戰場か原といふは、此野の事にて、又赤沼か原ともいふとそ。此處を戰場といふ事は、いつの世に戰ありし故にや、上古以降の歴史は更なり、近國に存在する聞きなとの中にも、更に見る事なしといふ。荒誕の説をなす者あり、曰く、大古に二荒の山にすみたまへりし神、白根の神と戰ひたまひしに、いくさ久しき事やまさりき、其流れける血しほを見て、又赤沼か原とも名つけぬと、他の説には曰ふ、然ならす、いと後の世になりて、下野の國何城の主と、此國の某城の主と、相爭へる處にて、史傳偶々之を逸せる(460)なりと。後説尤訝むへし。此野里近きわたりか、街路に治へるところならはこそあらめ、要なき山中に來て、命を爭ふものあらんや、前の説は畢竟古神譚の類にして、採るに足らすと雖、或は、大古に我天孫人種の祖先が、東北夷と地を爭ひし頃の戰爭を、おぼろけに語り傳へたるにはあらさるか。されとも限もなく遙なる世の事なれは、其蹟一も見るへからす、唯想像に止るのみ。或は又いふ、元は戰場か原にはあらす、千丈か原なり、其廣さを形容して名つけたるなりと。之も亦信しかたし。此野原雲少しく降れは、其限も見るへからす。最狹き距離も、一里を過くへし。古來形容によりて名つくるは、大抵誇大するを常とす。こゝのみ何ぞ實物より小なる名を用ゐんや。四方の山のたゝすまひ、處がらを思ふにも、大古一種屬の蠻民か、此あたりを根據として、我等の祖先に抵抗したりし事を、我は信せんとするなり。されは、苔につゝまれ、雲にしめりて、睡れるか如き二荒の山の岩根も、一々は、すさましき鯨波の聲を呼かへしたる事もありしなるへく、今は野草の根をのみ潤せる山水も、或時には血の色に染かへしたる事もありしならん。軍の神は遠く去り、山の靈はとこしなへに眠り、日はうらゝかに、月はさやかに、山のたかねを出入ること數千年、猛かりけん武士の骨も、鋭かりけん劍の鋒も、悉く土となりて、野草は其上にしけり、跡だにも見るよしなし、何そ其はかなきや。此頃、平壤の新戰場なとを見たるもののたよりをきくに、敵の屍は未全く朽ちすして、彼地の郊外には、到處に慘憺たる樣して横はれりといふ。此等の事がらの、此世の人心を刺激するは如何ばかりそや、志かも後の世にては、彼の如く蒙昧の中に没すめり。屍よりも遲く朽るものあり、骨、骨もまた遂にきえぬ。骨よりも長くとゝまるものあり、名、名の末世に殘りて、子孫のかたり草となるも、つひには二荒山頭の古勇士の如く、其事蹟と共に、全く知るへからさるものとなるなり。戰場か原、花ひらき、鳥なく、山の姿、雲の色、何れか旅人の心をとゝめさる、志かも今百年を出すして、其戰場か原の名は、知る人もなくなりぬへし。嗚呼、丈夫の事業、大は即大なりと雖、猶天地の悠々たるに比へては、渺たる蒼海の一粟の歎を發せさるを得す、悲しき哉。

(461)　　　　　　　　　　　　　　明治二十八年一月　第四十三號

　

　　　　　即事

　つはものゝ命にかへし勝いくさうれしとのみは思はさらなん

　

　都よりかへり來てこそ志られけれゐなかすまひの心やすさは

　　　　　　　　　　　　　

　こゝろある人のわらひをいかにせん大かた人はさもあらはあれ

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十八年二月　第四十四號

　

　　　　　八洲海　　　　　　　　　無名氏作

　

　　やしまの海に、波たゝば

　　大内山に、くもをらば

　　出てゝつかへて、大君の

　　みことのまゝに、ともかくも

　　いのち死なんと、丈夫が

　　思ふこゝろを、引きかへて

　　まなひの窓の、ゆきほたる

　　文よむわざに、としはへぬ」

(462)　　音にのみきく、鳳風城

　　行きてもみられぬ、威海衛

　　ところ／＼の、かち戰

　　我が胸いたし、きく毎に

　　思へは肥えたり、脾裏の肉

　　されと我か友、國の爲め

　　つくす心は、一つなり

　　つるぎはもたぬ、戰に」

　　銃は放たぬ、たゝかひに

　　いでむは我等の、つとめなり

　　鷲ははゞたく、日本海

　　鯨はいぶく、太平洋

　　なかの大和の、島人の

　　いかでのとかに、すくすべき

　　天地ひろき、大きみの

　　めくみによりて、春ことに」

　　心のどかに、あそぶとも

　　つひに忘るな、やまと魂」

右の歌は雅樂協會の撰手并に我校の數氏之に加はりて歌ひし者なり

(463)　　　　　　　　　　　　　　明治二十八年三月　第四十五號

　

　　　　有栖川宮の御内人寺井某氏或年官より奈良の都のなりといふ八重櫻一枝をたまはりてそを接き置かれしにことしはしめて花の咲けるを其歌よめといはれけれはよめる　　　松岡國男

　うつくしき八重の櫻に志のふ哉ふるきみやこのはるのすかたを

　ふる郷のやへ山さくらとしをへてみやこの春にまたあひにけり

　宮人のかさしとなりて八重さくらむかしのはるをおもひ出らむ

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十八年五月　第四十七號

　

　　　　夏の頃旅に在りて　　　　　松岡國男

　故郷に似たる山邊の里にねてきく夜かなしきほとゝきす哉

　うなはらのはてなきものを思ふとて浪のよるこそねられさりけれ

　

　　　　父の喪にこもりてあるほどある夜夢に見えたまひぬ

　はかなくもゆめなりけりと知るからにいとゝうつゝのこゝちこそせね

　　　　　　　　　　　　　　　明治二十九年十月　第六十號

　

(464)　　　　　松楓集より

　

　　　　　春鳥

　花もなき松の林のおくまても來てなく春の百千どりかな

　

　なきかはしうたひかはして遊ふなり野中のひはり森の鶯

　

　　　　　水邊秋風

　すゝみ舟いつしかたえて葉櫻のこほるゝ岸に秋風そふく

　

　　　　　巌上蔦

　蔦紅葉あまり移ろふ身をわひて山の巌にすかりそめけん

　

　　　　　舟中千鳥

　さ夜千鳥ねられぬ友と思ふらんきては浮寢の枕にそなく

　

(465)　　　　　戀のうたの中に

　利根川の夜舟の中に逢見つる香取少女はいかにしつらん

　

　　　　　鷄

　ひとりねて獨りさめたる曉はかけの鳴音も友とこそなれ

　

(466)　　　　　自選歌集

　

　　　　　釧路にて

　

　たまさかにとりてほしたる｜しらぬか《（白糠）》のあいぬかこふをぬらす雨かな

　

　　　　　　（附記）此歌ハ九月六日十勝ノ帶廣ヨリ汽車ニノリ午頃白糠ヲ通リシニイト晴レタル日ニテアイヌ共濱ニ下リ水二人リテ昆布ヲ引上ケ砂ノ上ニホセリアクル日歸リノ汽車ハ大雨ナルニ昨日ノ砂ノ上ノ昆布ハサナカラアリ人々可愛サウニ昆布ハクサルベシナドイフヲキヽテカクハヨメル也

　

　　　　　冬暖

　おもむろに室のすみれもかをり來てしはし曰なたの風は春なり

　　　　　　　　「おもむろに」イカヾ

　

　とこ世ものかくの木の實に日はてりて冬ものとけきいそ山のさと

　

(467)　　　　　風

　たひ人のこえて行つる見わたしの岡のをさゝに夕かせそふく

　　　　　　　　ヨロシ、但シモシ

　　　　　　　　見ズ知ラズノ「旅人」ナラハタヾノ景色ウタナルベシ

　

　　　　　　　○題詠ナリトモ吾ガ上ヲムネトヨムベキナリ、例フレバ此歌ナド女ガヨミタルナラバサラニアハレナルベシ

　

　船窓にみそれ吹つくる風の音にすゝめし友か酒もさめたり

　　　　　　　　「友ガスヽメシ」ト言ハザレバ自然ナラズ「風の音」ノ音ノ字アマレリ

　

　朝ほらけ苫ふきみた｜す《る》川風につもりし雪のさらにちりこむ

　　　　　　　　ヨロシ

　　　　　　　　「みたす」ノカタヨロシ

　

　　　　　　　○「雪の」モトハ「雪ぞ」

　　　　　　　　　　　　　　　（以上明治三十九年十二月十六日）

(468)　　　　　明治三十九年の元日に興津にて

　うと濱のなきさの波のたちかへりむかしの春をしのふけふかな

　　　　　　　　新年ラシキヨキ歌ナリ

　

　　　　　木越貞子の許へ新年に

　よろこひのみちたらひたる宿なれはたのしみにして春も來るらし

　　　　　　　　本ノ句ニ比ヘテ末ノ句ノ今メキタルカ打合ハヌナリ

　　　　　　　　「來ルラシ」ハ語格如何、古クハ皆「來ラシ」トノミイヘリ

　　　　　　　　「宿なれは」ハ「宿を」トイフヘキ所ナリ、サナクテハ下ノ句ヒタト合ヒカタシ

　

　　　　　新年松

　市人か門に立てとも山松の清きみさをはかくれさりけり

　　　　　　　　寓意はサルコトナレト四ノ句重々シキニ過ルナリ

　

　家ことに立つるみとりの松の内春さへ來ぬるこゝちこそすれ

(469)　　　　　　「來ぬる」ハ「來たる」トセシカタヨカルヘシ

　　　　　　　　「松の内」トイヘハ「春もこもる」トイフヤウニアリタシ

　　　　　　　　一二ノ句今少シ打ナガメタル語アラマホシ

　

　うまやちの松のなみ木の末とほくさかえん御代の年たちにけり

　　　　　　　　キコエタレト前ノウタヨリハヲトレリ

　

　雪のうちに春まつ風の音もけさあらたまりぬるこゝちこそすれ

　　　　　　　　　　　　　　　（以上明治四十年一月六日）

　

　　　　　鶯

　小簾たれて誰かきくらんたかとのゝ軒のやなきのうくひすのこゑ

　　　　　　　　ヨロシ

　

　かけくらき外山の杉生かすむ日の夕さひしきうくひすのこゑ

(470)　　　　　　杉生ト云フコトバイカヾ殊ニコヽニテハ植立テタル若木ノ山ノヤウニキコエテハオモシロカラス「山の杉むら」トスベキカ

　　　　　　　　かすむ日トイヒテハ夕さひしき感少キカかすみ立つ夕くれといへはむしろのとかにきこゆれは四の句の詮は少し

　

　　　　　鼠

　うつはりを走るねすみのもとめあれはあやふき世をもわたるなりけり

　　　　　　　　「もとめ」トイフ名詞スコシオチツカズ

　　　　　　　　サレドキコエタリ

　

　かほほりはとひ立ち行けは夕くれのあき屋のねすみさひしかるらん

　　　　　　　　二句とひ立ち行きぬト切ルヘキトコロナリ

　　　　　　　　　　　　　　　（以上一月二十七日）

　

　　　　　池塘春草

　さゝなみのあやうつくしき池のへにうらわか草はなひきそめたり

(471)　　　　　　優美なる歌なり

　

　池尻のつゝみの芝生もえそめて夕日のかけも春めきにけり

　　　　　　　　下の句感少し

　

　　　　　梅林朧月

　おもしろく花ちる月のおほろ夜に笛の音すなり梅の中道

　　　　　　題に縛られたる氣味あり

　　　　　　　　「梅の花さきちる月のおほろ夜に笛の音すなり里の中道」などあらはおもしろからん。

　　　　　　　　されと落梅の曲の古意をよみ出んつもりなるへけれは「さきちる」としては其ゆかり少からんか

　

　梅の花ちるやちらすやおほつかな園しつかなるおほろ夜の月

　　　　　　　　よろし

　

　我袖に月のうつせる梅の影おほろなれとも身にそしみける

(472)　　　　　　　　我袖に月のうつせる梅の花〔右○〕おほろなれとも影そ身にしむ　題は外にあるへし

　　　　　　　　身にそしみける強きに過きたり

　

　　　　　をりにふれて

　たき川の未の青淵なかれてもしつかにすまん時をこそまて

　

　大そらをたゝよふくものありとのみ人に見ゆるも何にかはせん

　　　　　　　　早わかりのせぬ歌なり

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（三月十七日）

　

　　　　　をりにふれて

　かきねゆくいさゝ小川のおとはかり霞みのこせる春のよはかな

　

　はる／＼とかりかねかすむ夕くれのまとへゆかしきともし火のかけ

　

　花多き王子のさとの春の夜の月の夜道のおもしろきかな

　　　　　　　　○「王子」ハモトオモキカナヽレハ語ヲカサネタルカヒナシ

　

(473)　　　　　花間殘月

　あかつきの花のわかれをかなしみて空ゆく月もきえかへるらん

　　　　　　　　○三以下ノ句、意味少シク明ナラス

　　　　　　　　題詠ノ歌トシテハアマリニコトヤウナル境ヲヨミ出タルモノカ、詞書ナトサルカタニアルヘキ歌ノ體ナリ

　

　初花のさかりもまたす有明の月はほそくもなりにけるかな

　　　　　　　　○此モ同シヤウニ題ニアタリタル歌トモオモハレス、題ヲ輕シスキタリ

　

　あけぬれは花の光はてりそひて月のいろこそうつろひにけれ

　　　　　　　　○「てりそひて」ノ「そひて」ハ其詮ナキノミナラス却リテ全體ノ意味ヲ煩スヘシ、タヾ語ノアヤナリ

　　

　　　　　尼

　すみそめにやつれし君を春山の花の中にて見るかかなしさ

　

(474)　　　　　春窓

　大川の水のひかりのかきろひにまたき春めくまとのうちかな

　

　春さめのよはのとなりのまとの火は琴の音よりもなつかしきかな

　　　　　　　　○ヨロシ

　　　　　　　　　○以上は此春もてまゐるへかりしを旅行の爲におくれ侍り

　

　　　　　繪葉書、空に星かゞやけり藁屋一二軒ありてあかり見ゆ

　人の世のまどゐの窓のともし火もきゆるときなき光なりけり

　　　　　　　　○キコエタリ

　

　　　　　同高山植物の畫

　手につみて見れはそまとふおく山の嵐のねくら雲のみなかみ

　　　　　　　　○二ノ句少シク意明ナラス

　

(475)　　　　　越後來迎寺高橋九郎氏山莊にて

　世のためにはたらく君かまれに來てやすらふやとよたのしくあらなん

　　　　　　　　○四五ノ句自然ナラス、物騷シク樂シカラヌ折ニヨミタル歌ノヤウニ聞ユ

　　　　　　　　　やすらふ宿はたのしかるらんトイフヤウニスナホニイフカタマサレリ

　

　　　　　同

　我はかりあそふとおもへはいろ／＼の鳥もなくなりまつかけにして

　　　　　　　　○カクスラヽヽト出テタルカヨキナリ

　

　　　　　寄秋懷舊（松波翁一週忌）

　つく／＼と君か昔のねさめまておもひやらるゝこほろきの聲

　　　　　　　　○こほろきの聲ナラストモトオモハル、故人ニコホロキノ歌ナトアリシナラハトモカクモ

　　　　　　　　　△コレハ日頃此題ヲヨマントオモヒ居タルアル夜ノネサメニ感シタル實境ナリ

　

　　　　　湖上月

　心なきくもゝかへりてなかむらんたかねの海の秋のよの月

(476)　　　　　　　　○三句切レハ歌カラ大力タイヤシクナルカ常ナリサラヌモ上ノ段説明ノヤウニナリテ作爲ノ歌ニ多シ

　

　　　　　桂香何方

　月かけにうとき林の中村にかつらうゑたる宿はたか宿

　

　　　　　同

　雲間ゆく月の行へもゆかしきに手にはとられぬ花の香そする

　　　　　　　　○ヨミエタリ

　

　　　　　同

　我やとのかつらやとほくかをるらん人やたをりて夜道ゆくらん

　　　　　　　　○今少シトカタフカルヽナリ

　

　　　　　秋柳漸疎

　秋かせの吹たにあるをふるさとの柳か原はうつろひにけり

　

(477)　　　　　同

　つはくらのかへる葉月の朝風に柳うつろふ湯河原の里

　　　　　　　　○題詠ニ地名ヲ呼來ルハ大方ハオモシロカラヌナリ、

　　　　　　　　　うつろひ行くトイフヘキヲうつろふト現在ニイフハアシカラス

　　　　　　　　　△湯ノ町ノ燕ハ風情アルモノトオモヘリ柳ノケシキヲオモハスル爲ニ河原トイフ名ヲ求メ出タリ

　

　　　　　湖上月

　磐梯の峯の白雲かきろひて月夜になりぬ猪苗代の海

　　　　　　　　○五ノ句苦シカラス

　

　　　　　同

　水うみに出つる谷間のいさゝ川なれも月見にみちいそくらし

　　　　　　　○三ノ句今少シ急流ラシキ感ヲアラセデハ前後打合ハヌナリ

　　　　　　　　△いさゝ川ハイサトイヒ急クトイフニカケタル語ノ工ナリ、作爲ノ句ナリ

　

(478)　　　　　聽蟲

　朝かほの花のかきねに立よれはしのひ音になく蟲もありけり

　　　　　　　　　　　　　　　　　（以上明治四十年十月五日）

　

　　　　　大正九年一月四日記

　　　　　十二年あまりを隔てゝふと見出でたればなつかしさのあまりに記す

　　　　　萩坪翁は晩年詠草に朱を加へんもものうしとてかくは短評を口授したまへるなり大人逝きたまひて後はほと／＼歌よむをりもなくなりぬいつかは又かゝるのとかなる物語をきくへき

　ありとあるものみなぬるゝさみたれにひたのやまかはかちわたりせし

　

　こほろきのなきしみきりの草のしもかなしき冬に又なりにけり

　

　ともし火の水にうつらぬやともなしこゝろとまりの春の夕くれ

　　　　　　（大正六年三月打狗にて）

　

(479)　大君は神にしませは民草のかゝるおもひもしろしめすらし

　　　　　　（大正六年三月、臺南西來菴にて）

　

　神山のみとりをうつすみたらしは末くむそでもすゝしかりけり

　　　　　　（大正二年の夏葉山の行在所にて后の宮のおかしなりとて瀬見小川といふ菓子とらせけれは）

　

　山｜つ《す》みの神のみつきそゆたかなる千草のにしき瀧のしら玉

　

　みそなはす南の山のみねの松いまそかひある千代をしるらん

　　　　　　（同　日光の御供にて）

　

　こゝにしもしはしよとみてあそふかな清瀧かはのおちあひの水

　　　　　　（明治四十一年嵐山にて）

　

　ふるさとの春のけしきのかはかりを三年來て見ぬ君は何人

　　　　　　（外國に在る友へ繪葉書にて）

　　　　　　（少女三人池の汀に立てるさま）

　

(480)　ふるさとの秋の花野をゆめに見てすゝしき海を君はゆくらん

　　　　　　（大正八年八月、コレヤ丸の船客田中信良君へ無線電信にて）

　

　老いすしてやかてかへりてふるさとの國のさかえをまのあたり見よ

　　　　　　（ブラジルに移住する菊池惠二郎君へ　同上）

　

　何にこのなけきの種は｜のこす《とゝむ》らんつるのはやしのおくも見なから

　　　　　　（楠田秀｜岩《巌》居士身まかりける時）

　

　水うみのゆふへの浪のおときけはいてゆのやともさふくそありける

　

　人の世にいまはかよはぬわたつみのみや路こひしき浪のおとかな

　　　　　　（明治四十一年の夏鵜戸神宮にとまりて）

　

　たれか又雨ふるさとにおもひ出でんちまたの柳ちりになやむと

　　　　　　（大正六年六月、大連にて）

　

　ふるさとのこのてかしはのわかみとりむかしこひしき夏は來にけり

　　　　　　（明治三十四年六月）

　

(481)　三十年のむかしの家のにはさくらひとりかへりて見るかさひしき

　うふすなのもりのやまもゝこまいぬはなつかしきかなものいはねとも

　　　　　　（大正四年春）

　

　　　　　泉

　にひとしの清らわか水くみ上けてさらにいつみのちからをそおもふ

　

(482)　　　　　日記より

　

　　　　初霜

　うちとけてもみちのつゆとなりにけりゆめまとかなるけさの初しも

　

　をさな名を人によばるゝふるさとは昔にかへるこゝちこそすれ

　

　さへのかみくなとの神もたちふさき老のさかひに我をとゝめよ

　

　世の中のうきたひことに思ひいつる椎葉の村は千とせにもかも

　

　　　　　矢田部雄吉通夜

　いつのまにけふかきのふとなりぬらんよひのまゝなるともしひのかけ

　

　　　　　柳の葉の枯れしほみたるをみて悲しみにたへす

　夢よりもはかなきものは目の前にそゝろうつろふうつゝなりけり

　

(483)　　　　　明け方に戸をあけて

　春の夜の夜明のくものしつかなる姿見るにも袖はぬれけり

　

　山越｜へ《え》て行けばかへらぬ旅人をあはれうなゐの立いてゝ見る

　

　　　　　土持氏へ

　十とせあまり六年はさらに長からすいまより後の千代をおもへは

　

　　　　　若狹姫の神に詣てゝ

　玉つくるわかさの國の國中に神代の神をおかむけふかな

　

　とこしへにならひていますわかさ彦わかさひめこそうらやましけれ

　

　　　　　六月廿七日　前日小濱

　いまさらに旅をさひしとおもひけり清きなきさにひとり遊びて

　

　　　　　島原の見えるところ對岸茂木

　いにしへの上津深江も水あせてさひしき浦となりにけるかな

　

(484)　天草の西のはてまて來たれともなをゆくものはこゝろなりけり

　

　　　　　出石鶴山の下を過く鶴の子三四日前より飛ひならひけふは青田の中に親と共にあさる〆六羽

　つる山の鶴は巣立ちて遊ふなり家なるちこをおもひこそやれ

　

　　　　　松浦先生御通夜

　ねさめては聞きたまひけん萩坪のかきねの蟲のこゑのかなしさ

　

　　　　　福井の池松氏へはがき

　かりかねの來なくけふこそおもひいつれ足羽《アスハ》の岸の松かけのやと

　

　　　　　外國の柴木氏へ

　君が見ぬことしのさくらまた散りて春も淋しくなりにけるかな

　

　山川のいく瀬の水かましるらんこの大海のはてもなき浪

　

　　　　　布佐にてヲハヤシの開墾せられてあるを見て懷舊の情にたへず

　荒はたをふたゝひもとの松原にかへすはいつの千とせなるらん

　

(485)　　　　　攝津基祀獻詠

　みやしろはときはの松のもりなれは永く神代の風そ吹くらん

　

　さらぬたに長き長夜を夜もすから同しふしにも蟲のなくらん

　

　　　　　大正六年四月四日臺灣高雄水際の宿にて

　いかはかり安けかりつる浪路かもおさなき者かゆめに訪ひ來し

　

　　　　　後樂園唯心山にて

　秋風のさむきそのふの夕くれはなれてもたつのそゝろなくらん

　

　そとはまのなきさの波の立かへりむかしのはるをしのふけふかな

　

　うちむかふ松のはやまの朝つく日みとりさやかに見ゆる春かな

　

　あまの子よいさうたうたへ夢嶋の柳はなさくはるはたか春

　

　ひるたにも涼しかりつる山川の早瀬さやかに月は出にけり

　

(486)　神な月けふ初しくれふる里の利根の大川渡る時しも

　

　くもる日の庭の白菊うつ／＼と今そさひしき冬をしるらし

　

　けふは雨きのふはくもりきもつきの高くま山を見るよしもなし

　

　我こまに草かふあその山人はむかしのことも知らて老ひたり

　

　あちまさのかけうつくしき青しまを浪たちかへりまた見つるかな

　

　さま／＼の人のこゝろのくまを見つうしとは旅をなけかさらまし

　

　神山のくろかねかつら杖にきり山路こゆれは神代しおもほゆ

　

　よりてゆくみなとゆかしき宵やみに遠くかもめのこゑそきこゆる

　

　松原のあなたに海はとほさかりまた山道になりにけるかな

　

(487)　とよ原のにひ冬こもりいかならんことしは雪も深しとそきく

　

　浪青きみなとの島の春はいかに都は霜の花さかりなり

　

　旅人のこえてゆきつる見わたしの岡のをさゝに夕風そふく

　

　　　　　秋山瀧

　しつかなる奧山寺の秋の夜にこゝろすみゆく瀧の音かな

　

　　　　　秋林鳥

　おもしろく世をわたり鳥この秋も來ては遊へりまへのはやしに

　

　木つゝきのたゝく音のみきこゆなり小雨淋しき秋のはやしに

　

　　　　　萩滿庭

　夕つゆの玉と照りなはいかならん今をさかりの萩のにしきに

　

　　　　　秋閑居

　賤の男のそともの粟生かりそめの田舍すまひも秋ふけにけり

　

(488)　　　　　月前雁

　さやかなる月のひかりに故郷をしのふかかりのこゑのかなしき

　

　おちこちの山に炭やく夕けふりくもとなびきて日はくれにけり

　

　　　　　嶋鶴

　松嶋のしままつ陰に舟よせて月待ちをれはたつそなくなる

　

　　　　　山松

　白雲のかゝる高ねの一つ松いかに淋しき千年ならまし

　

　　　　　巌苔

　奧山のいはねの苔の淺みとり春來にけらし水も流るゝ

　

　　　　　辻川三木氏へ

　君が家のもみの老樹かもの言はゝとひたきことの多くもあるかな

　

　白雲にわか身をなさはなか／＼に野ゆき山行き樂しからまし

　

(489)　　　　　銚子にて

　立いてゝひとり海見るたそかれをすさきのかもめ來てもなかなん

　

　　　　　夜花

　新月のかけおもしろみ出て見れはまかきの花も散る夜なりけり

　

　　　　　塚本吉彦翁へ賀?のはしに

　春風のはるかにひとりしのふかな君かひかしのまとの梅か枝

　

　　　　　稻毛にて

　松の葉の木の間に見ゆるよひの月おほろ身にしむ此夕かな

　

　白雲はいつれの山にかへりけんひとり淋しき岡のへの松

　

　いにしへのあかねむらさきむさしのゝ跡とふものはたゝ秋の風

　

　　　　　落葉滿庭

　中々に落葉の下にうつもれと庭の小草は久しかりけり

　

(490)　　　　　歳暮人事

　市人かとしのいそきのそめものにまつ花鳥の春を見るかな

　

　　　　　梅林朧月

　月見れは昔の春そ思ひ出るみそのゝ梅は若木なれとも

　

　海原の沖の雲ゐにさへつるははなれ小島のひはりなるらん

　

　天きりてふれとも春の雪なれは木々のしつくのおとそたえせぬ

　

　　　　　漁村春雨

　松はかり生ふる常陸の荒濱を春になしても春雨そふる

　

　　　　　島

　しま山の松にいさよふ白雪も君によそへて見れはかなしも

　

　　　　　菅菊太郎氏へ賀?のはしに

　君かすむ島の老松この春は大みや人の歌に入らぬかも

　

(491)　　　　　丹後岩瀧の一老女皇太子殿下の御外遊中御無事を祈念して居たといひ歌を求む

　君こそは鄙の長人永き代に國の姿をかたりつく人

　

　すめみ子のかへり來ませしうれしさを君によりてそおもひ知りぬる

　

　野道に出てゝかへり見すれはうちかすむわか家のあたりうくひすそ啼

　

　大海のうへにもつゆはおくらめとあともとゝめす知る人もなし

　

　　　　　水上落花

　青ふちのそこのこゝろをしりかねてたゆたふ花のあはれなるかな

　

　川しもの柳おほろになりにけりわか行く舟もさそかすむらん

　

　ふくろふのひるのねさめのわひしさを笑ふに似たりすゝめかははり

　

(492)　　　　　にひ草

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　野上松彦

　

　　　　　ある夜

　はな白く月しづかなる故さとに我はなくまでながめつる哉

　

　　　　　反古の中より見出でたりし

　小雨ふる草のいほりにねたれどもなはさはぎをり春の心は

　

　　　　　思ひ出づること多し

　あくがれて夜たゞ寢ざりしそのかみの春しのばるゝ花の陰哉

　

　　　　　讀小説

　うぐひすの夜なく國のおぼろ夜はもの思ふ子や寢られざりけん

　

(493)　夢に來て啼きしむかしの花すみれ忘れやしけんことづてもせず

　

　　　　　をりにふれて

　たまさかに逢へばねをなき別るれば夢にも見えぬはかな我が戀

　

　にがしとて摘む人もなきにがよもぎ何この世にはおひ出でにけん

　

(494)　　　　　連句手帖

　

　　　　　○問題

一、一卷に一つなるべき言葉

　　虎、賊、劍の類

　

　動詞にても、又形容詞にても

　

一、初表に出すべからざる意匠

　　無常、死、人殺しなど

　　失敗、不成就の類

　　怨恨、執念など

　

一、揚句に禁ずべきもの

(495)一、月花の座を移す條件

一、戀にも座を定むべきかのこと

　　又は「あたり」

　　たとへば名殘表の前半など

　

○やはり時日のかゝる卷は見落し多し

　

一、執筆の制度、必要か

　　もとは初表折端の句を出す者、

　

　　　　　叢隱居唱和　　　昭和十六年七月六日

　

　蓼打ちの見えて音なき遠さかな　　　　　　（たかし）

　　　　　　　　　　　　　　　（研、七月）

　　紫蘇の畠ヶの梅雨晴れの風　　　　　　　　　柳叟

　三日がけ紬の機《ハタ》の値《ネ》がなりて　　迢空

　　牛に曳かするつくばひの石　　　　　　　　　茅秋

(496)　夕暮も程なき月のあかるさに　　　　　　　苳空

　　（精靈おくる廣き部屋中）　　　　　

　　土間に鳴き立つ蟲のやゝ寒　　　　　　　　　春洋

　秋うたゝ北行く雲を眺めけり　　　　　　　　　　柳

　　鉦を鳴らさぬ大音寺前　　　　　　　　　　　　空

　　（はやり言葉をつかふ町住み）　　　

　眉痒きことをひそかに頼みつゝ　　　　　　　　　茅

　　たゞいたづらに日を送るなり　　　　　　　　　苳

　兄嫁のつれなき言葉きゝすてゝ　　　　　　　　　春

　　いくさに出るとなほる霜やけ　　　　　　　　　柳

　大根の見送る夜々を更くる月　　　　　　　　　　空

　　片方替へた馬のわらんぢ　　　　　　　　　　　茅

　旅づれの人とをかしく物いひて　　　　　　　　　苳

　　猿を踊らすデパートの裏　　　　　　　　　　　春

　鉢植の小さな花もけふは散る　　　　　　　　　　柳

　　春の掃除に揃ふ手つたひ　　　　　　　　　　　空

　わさび田の水に炊ぎて枸杞の飯　　　　　　　　　茅

　　萬三郎の峯はいづれか　　　　　　　　　　　　苳

(497)　　　　　（は何と名をつけん）

　もらひたる子犬の名前つけかねて　　　　　　　　春

　　地藏遊びに婆も顔出す　　　　　　　　　　　　柳

　思はれてなす時も無や筒井筒　　　　　　　　　　空

　　影かさなりてまはる燈籠　　　　　　　　　　　茅

　

　　　　○以下は折口氏つゞけて結ぶよし

　　　　　同氏の手控へあるべし

　

　　　　　熱海新年兩?

　

　白梅の白に負けり掛大根　　　　　　　　　　　　柳

　　かすむに早き新道の末　　　　　　　　　　　　空

　濤を聽く曲浦の窓に身をよせて　　　　　　　　　柳

　　やゝ半日を汽車にゆらるゝ　　　　　　　　　　空

　　　　　コレハ觀音開キノキラヒアリ

　市の立つ町のはづれの夕月夜　　　　　　　　　　柳

　　　　　コレモ同上カ　　　五枚ホド先ヘツヾク

(498)　停電の闇やゝ涼し夏坐蒲團　　　　　　　　　吉心

　（風雨來るといふ夜の團扇置きて白し）

　　　　　（○發句設クベシ別）　　（碧雲居、俳研ノ七月號）

　　硝子戸覗く芭蕉若竹　　　　　　　　　　　　乞心

　氣の長い笛の師匠を待ちかねて　　　　　　　　　吉

　　　　○待カネテ、來ルトサシ合フナリ

　　早合點したよその電報　　　　　　　　　　　　乞

　まん丸な月物干の上に出づ　　　　　　　　　　　吉

　　鹽煎餅をしのぶ早稻の香　　　　　　　　　　　乞

　相すまぬ草加《サウカ》の宿の土ぼこり　　　　　吉

　　積みも積んだり木灰石灰　　　　　　　　　　　乞

　　　　　　　　　　（衣にセメント）

　隧道《ズヰダウ》の雫ひまなき雨の日に　　　　　同

　　啼いて立ち行くあぢの村鳥　　　　　　　　　　吉

　あかゞりのたより聞かせよ足袋やらん　　　　　　乞

　　妹は知らじな伊豆の楊桃　　　　　　　　　　　吉

(499)　浪白き濱の月夜のハアモニカ　　　　　　　　乞

　　　　　　　　　　（ゆかた掛け）

　　　　○ユカタ、足袋トサシアフ、初句イカニ

　　歌にもならぬ旅寢なりけり　　　　　　　　　　吉

　　　　　旅ネ、打コシノ「タヨリ」トサシ合フ

　どゝいつの烏《カラス》にはとりあけの鐘　　　　乞

　　たゞ現實は爺のしはぶき　　　　　　　　　　　吉

　荒れてなほ石動山《イスルギサン》の嶺の花　　　同

　　鹿多かりし島の春かぜ　　　　　　　　　　　　乞

　一葉の舟に七つの子を載〔右○〕せて　　　　　　吉

　　いくさの映畫今も目に在り　　　　　　　　　　乞

　戀ひ／＼て夢に河南の泥の路　　　　　　　　　　吉

　　手拭くろむ汗と涙に　　　　　　　　　　　　　乞

　よき衆の氷を夏の季に入れし　　　　　　　　　　吉

　　（俳は我身と豚の逍遙）　　　　　　　　　　　乞

　　俳諧寒し冬至とうなす　　　　　　　　　　　　乞

　理もるゝ頭巾の外《ソト》はうき世にて　　　　　同

　　話の晩も猿が三びき　　　　　　　　　　　　　吉

　　（再）なほ三匹の猿の中腰

　

　　　(500)　さかしげに人魚の肉を讓り合ふ

　　ひとり生きても淋しからうぞ

　さま／＼の雲の中行く秋の月

　　水ちろ／＼と芒

　かまきりの高くも飛ばず鳴きもせず

　　面《ツラ》で國知る港あきうど

　あざらしの鞄は既に毛が禿げて

　　うそも殊勝や親の功名

　一もとの花を長者が屋敷址

　　彌生を土器の名に傳へつゝ

　

　　　　　氷見郡柳田村に宿して

　雨垂れの絶間やゝ長く青葉木菟

　　短夜しらむ杉のかいぎよう

　町へ行く親子何やら話して

　　さゝやき草の花はうつくし

　　　　○コレモ夏カ、季キレタリ、改ムベシ

(501)　　　　　熱海新年兩?　　　昭和十七年一月十一日　樋口？

　白梅の白に負けたり掛大根　　　　　　　　　　　柳叟

　　かすむに早き新道の末　　　　　　　　　　　　迢空

　濤を聽く曲浦の窓に身をよせて　　　　　　　　　　柳

　　やゝ半日を汽車にゆらるゝ　　　　　　　　　　　空

　市の立つ町のはづれの夕月夜　　　　　　　　　　　柳

　　　　○市、町　新道とさし合ふか、汽車も

　　秋をしまうてはづむ鼻唄　　　　　　　　　　　　空

　うつら病む我と知られじ冬構　　　　　　　　　　　〃

　　待たずもあらず土手の提灯　　　　　　　　　　　柳

　淡路島かよふ千鳥をうら問ひて　　　　　　　　　　空

　　猿こと／”＼く山に遁げ入る　　　　　　　　　　柳

　夢（ニ）見（シ）勇士馭（シテ）v鰐（ニ）渡（ル）v江（ヲ）　空

　　口女かなしむ釣針の疵　　　　　　　　　　　　　柳

　白鳥は二日の月に鳴き立ちて　　　　　　　　　　　空

　　　　○千鳥と三句隔ツ、差支ナキカ

(502)　　たゝりを思へ雷電の森　　　　　　　　　　　柳

　つき物をうき世をもたぬ家も無し　　　　　　　　　空

　　旅人あはれ故郷名のらぬ　　　　　　　　　　　　柳

　ほの／＼と男鹿の春風山吹きて　　　　　　　　　　空

　　花｜描《カ》くための臙脂白粉　　　　　　　　　柳

　墨染は汗とほこりにまかせつゝ　　　　　　　　　　同

　　ほしかる人にくれぬ芋種　　　　　　　　　　　　空

　拔け賣りの妻子も知らぬ身過ぎして　　　　　　　　柳

　　碇切りたる沖の大船《タイセン》　　　　　　　　空

　誰か又雪ふみわけて燒火山《タクヒサン》　　　　　柳

　　枇杷ゆづる葉も凋む明け方　　　　　　　　　　　空

　まぼろしに珊瑚の島は見えながら　　　　　　　　　柳

　　赤髯きらふ乙姫の聟　　　　　　　　　　　　　　空

　えびえびす海の老《オイ》てふ名のうさに　　　　　柳

　　我にもあらず殘るさらだ菜　　　　　　　　　　　空

　月は早森を隔つる川のはた　　　　　　　　　　　　柳

　　年々はでな藪入りの袖　　　　　　　　　　　　　空

　　　　○春季デハナイカ、盆ヤブ入ト見ラレナイ

　ひつそりと踊る村ある山の裾　　　　　　　　　　　同

(503)　　泣いて送りし人は還りぬ　　　　　　　　　　柳

　上の兒の巧者な書き方綴り方　　　　　　　　　　　空

　　昔は耳で聽いた童謠　　　　　　　　　　　　　　柳

　　　　○聽の字二ツアリ

　花咲いて母の乳の香のそゞろなる　　　　　　　　　空

　　生れ合せた大御代の春　　　　　　　　　　　　　柳

　

　　　　　その二　　　　　　昭和十七年一月十二日

　

　七草の波に鵜の立つ沖の石　　　　　　　　　　　迢空

　　水仙多き島の朝やけ　　　　　　　　　　　　　柳叟

　おそ／＼に裏白一荷山出して　　　　　　　　　　　空

　　マニラのニュウス町をどよもす　　　　　　　　　柳

　飛行して大空よぎる月の友《○とカ》　　　　　　　空

　　雁《カリ》は故郷の沼の方角　　　　　　　　　　柳

　防人《サキモリ》の歌の迹とふ秋の風　　　　　　　〃

　　針目亂るゝ千の赤絲　　　　　　　　　　　　　　空

　さま／”＼の人のなさけの柵に　　　　　　　　　　柳

(504)　　繿縷《ツヾレ》を着せて吉野と添はん　　　　空

　馬ほどの虱の夢を笑ひけり　　　　　　　　　　　　柳

　　ひき臼かかる富士のいたゞき　　　　　　　　　　空

　世にふれば稗の粢もうらやまし　　　　　　　　　　柳

　　南部の海の春の月の出　　　　　　　　　　　　　空

　猫柳西行法師引留めよ　　　　　　　　　　　　　　柳

　　十三參りいらぬ利發さ　　　　　　　　　　　　　空

　貧しさを忘れんとてや花を待つ　　　　　　　　　　柳

　　揃へといふも鬱金手拭　　　　　　　　　　　　　空

　旅立てゝあるくばかりが男にて　　　　　　　　　　〃

　　はゝその杜の夜はしぐるゝ　　　　　　　　　　　柳

　わめかれてつらゝの軒を離れ行く　　　　　　　　　空

　　戀のほのほに身は焦れつゝ　　　　　　　　　　　柳

　りんぎよがるしるしに乾せや椰子の盃《ハイ》　　　空

　　すぐに土産をおもふ浦しま　　　　　　　　　　　柳

　　　　○「浦島太郎みやげ苦にする」では如何　　　

　あぶなさの油田の上を飛ぶ螢　　　　　　　　　　　空

　　　　○二ツモ飛行機アレバ如何ニ

　　大山伏の清水とひ寄る　　　　　　　　　　　　　柳

(505)　道づれは女ばかりのはかどらず　　　　　　　　空

　　ほして何する澁柿の皮　　　　　　　　　　　　　柳

　さとう黍薙いでしまへば月霽れて　　　　　　　　　空

　　ひつそりとした蜜蜂の箱　　　　　　　　　　　　柳

　ふつゝかな木炭《モクタン》バスのうしろつき　　　同

　　袴つまどる天りんのかゝ　　　　　　　　　　　　空

　折ることかばかり多き市ぐらに　　　　　　　　　　柳

　　行儀にならぶ人の長閑さ　　　　　　　　　　　　空

　寒ざくら正月かけて盛り也　　　　　　　　　　　　柳

　　大茅原に遊ぶせきれい　　　　　　　　　　　　　空

　

　　　　　千枝女追善三吟

　

　かげろふも誰を送りて來し道ぞ　　　　　　　　　迢空

　　梅ちりたりとそゞろ笛吹く　　　　　　　　　　柳叟

　春空の深みに木たま沁み入りて　　　　　　　　　茅秋

　　廣尾豐澤水ゆたか也　　　　　　　　　　　　　　空

　有明の月は田人の蓑を照らす　　　　　　　　　　　柳

(506)　　畔の柳に繋ぐ子鴉　　　　　　　　　　　　　茅

　　　　○コノ付、月ヲ無視スル難アリ

　輕々とはしか祝うて水なぶり　　　　　　　　　　　空

　　船は南へ護謨積みに行く　　　　　　　　　　　　柳

　似し人にけふは幾たび逢ふやらん　　　　　　　　　茅

　　淺葱の服があがる渡し場　　　　　　　　　　　　空

　牡丹餅の名を忘るゝも戀なれや　　　　　　　　　　柳

　　洗濯ばかりかゝの道樂　　　　　　　　　　　　　茅

　月白し天の香山松ふけて　　　　　　　　　　　　　空

　　一もと紅葉夜も寢ぬ家　　　　　　　　　　　　　柳

　さび鮎を燒く香は霧とうつり來て　　　　　　　　　茅

　　おとらの噂里にちらめく　　　　　　　　　　　　空

　百萬が衿に花散る清涼寺　　　　　　　　　　　　　柳

　　竹やぶ掃かん春日清らに　　　　　　　　　　　　空

　それ／＼に五人の聟の智惠とひて　　　　　　　　　空

　　ほゝゑむ君は菖蒲ならまし　　　　　　　　　　　柳

　涼《スヾ》風に夜明の篝消えかゝり　　　　　　　　茅

　　聲澄みわたる御旅所の樂《ガク》　　　　　　　　空

　戰場の夢も故郷の常の年　　　　　　　　　　　　　柳

(507)　　貉いぶしは爺が先達　　　　　　　　　　　　茅

　山方へやむめ地藏を片折れて　　　　　　　　　　　空

　　聽けばきこゆる眞清水の音　　　　　　　　　　　柳

　旅繪師の染屋が倉に住みつきて　　　　　　　　　　茅

　　けうといほどの奧在所なる　　　　　　　　　　　空

　　　　○三句前ノ山方トサシ合フカ

　月はたゞをがむものとや思ふらん　　　　　　　　　柳

　　まゝごと鍋の犬蓼の花　　　　　　　　　　　　　茅

　二宮の姉より外に友は無し　　　　　　　　　　　　空

　　雁は常世へ打連れて行く　　　　　　　　　　　　柳

　　　　○ツキスギテヰルカ

　たわにいでゝ御崎を雛に見せ申し　　　　　　　　　茅

　　雲春風の末をたゞよふ　　　　　　　　　　　　　空

　豐年のきざしに花のいつまでも　　　　　　　　　　柳

　　後ぞさかえん千枝の楠　　　　　　　　　　　　　空

　

(508)　　　　　伊東三?の一　　　　　三月二十五日

　

　木蓮のつぼみ靜かに夜は明けぬ　　　　　　　　　柳叟

　　けふも吹出す春のつち風　　　　　　　　　　　迢空

　磯づたひ囀る岡のひらけ來て　　　　　　　　　　茅秋

　　ラジオ一つに寄りつどふ村　　　　　　　　　　　柳

　あら壁の地圖しろ／”＼と冬の月　　　　　　　　　空

　　教へ倦まねど髭こほるなり　　　　　　　　　　　茅

　火の海にいきづく船を思へたゞ　　　　　　　　　　柳

　　もつたいなやと獨り箸置く　　　　　　　　　　　空

　明神の牲の鰻はすが目にて　　　　　　　　　　　　茅

　　刃物許さぬ揖斐の川上　　　　　　　　　　　　　柳

　殿ぶりをほめ立つる乳母の怖ろしき　　　　　　　　空

　　けらいも蟲も《をカ》めづる姫君　　　　　　　　茅

　空でよむ四十五人の盆みたま　　　　　　　　　　　柳

　　屋敷林の夜半の月しろ　　　　　　　　　　　　　空

　いたゞきへ消え行く路の幾わかれ　　　　　　　　　茅

　　昔の友は野にも市にも　　　　　　　　　　　　　柳

(509)　花の本にかくれんぼうもせまほしき　　　　　　空

　　うぐひす笛は草いろの笛　　　　　　　　　　　　茅

　近江路は苗代時の雲の影　　　　　　　　　　　　　柳

　　八幡といふも伊豆の麥秋　　　　　　　　　　　　空

　　　　○ハツマカ、ヤハタカ　國二ツハ考ヘモノ

　井掘り等は歌でせか／＼戀をして　　　　　　　　　茅

　　知るや三とせの閨の寒さを　　　　　　　　　　　柳

　このかごと思ひ出さうぞ枇杷の花　　　　　　　　　空

　　ほこらに似たるかはや一棟　　　　　　　　　　　茅

　青淵は瀬にかはり行くまゝの上　　　　　　　　　　柳

　　あんころ餅をおとす鼠穴　　　　　　　　　　　　空

　旅日記茶代湯錢も書き入れて　　　　　　　　　　　茅

　　籾のむしろに庭鳥を追ふ　　　　　　　　　　　　柳

　一望に大室小室月さえて　　　　　　　　　　　　　空

　　苗木の繪葉に露しとゞ也　　　　　　　　　　　　柳

　　　　○前に苗代あり

　古寺の留守頼まるゝ借頭巾　　　　　　　　　　　　〃

　　納戸につつた鹽引の鮭　　　　　　　　　　　　　空

　うぶ飯の朱椀朱膳もはげかゝり　　　　　　　　　　茅

(510)　　眞珠の島に初たよりせん　　　　　　　　　　柳

　鐘たゝく花の中なる高梯子　　　　　　　　　　　　空

　　畑ふくよかにあがる春雨　　　　　　　　　　　　茅

　

　　　　　其二　　　　　　昭和十七年三月十｜五《？》日

　

　朧夜や松に隣れる大蘇鐵　　　　　　　　　　　　茅秋

　　芝生かすみて小綬鷄の啼く　　　　　　　　　　迢空

　　　　○時刻イカヾ

　山一つあなたの蕨おもふ日に　　　　　　　　　　柳叟

　　灸すゑに來し馬をあづかる　　　　　　　　　　　茅

　火を焚いて牛の七夜はぬく／＼と　　　　　　　　　空

　　　　月ノ座空イテヰル、オボロ夜デスマスモノカ

　　柿八年目孫は中學　　　　　　　　　　　　　　　柳

　負け相撲ふどしの色をほめられて　　　　　　　　　茅

　　隼人の舞のせうも無けれど　　　　　　　　　　　空

　この村は草鞋も賣らず茶も出さず　　　　　　　　　柳

　　石おもしろし燒畑の中　　　　　　　　　　　　　茅

(511)　隣國はしどめの阪の鼻の先　　　　　　　　　　空

　　狐とちぎる代官の甥　　　　　　　　　　　　　　柳

　宵の間は水車をとめて戀をする　　　　　　　　　　茅

　　すゝきのかんざし月待ちの友　　　　　　　　　　空

　爺の句はやゝ説教にかぶれつゝ　　　　　　　　　　柳

　　墓の形（チ）もかはる世のさま　　　　　　　　　茅

　浪間より見る琉球のよるべなく　　　　　　　　　　空

　　花ちる夜半の夢もはかなし　　　　　　　　　　　柳

　　　　○コノウツリヤヽオボロナリ

　近よれば丹頂の巣もよごれたり　　　　　　　　　　茅

　　上手《カミテ》へ盃《ハイ》の上にやり水　　　　空

　忘られて一人芹摘む藪の外　　　　　　　　　　　　柳

　　鐘の疣にもねぎごとのある　　　　　　　　　　　茅

　くゝり染きぬゝび機も織り候　　　　　　　　　　　空

　　最上《モガミ》出てから四年踊らぬ　　　　　　　柳

　この秋はふくべの尻のまろ／＼と　　　　　　　　　茅

　　猪《シヽ》のふえたる沙汰ばかりなり　　　　　　空

　化物の｜話の《出たといふ》寺は跡も無く　　　　　柳

　　　　○話ハ沙汰トサシアヒカ

(512)　　楠を目あてに下る筏士　　　　　　　　　　　茅

　ひや／＼と野糞たれたる月の前　　　　　　　　　　空

　　桔梗うつろふ土手の露霜　　　　　　　　　　　　柳

　新田のほつれに道祖《サヘ》のうつされて　　　　　茅

　　つかみあふ子に犬は吠えたつ　　　　　　　　　　空

　數知れず海鹿《イルカ》入込む濱の端　　　　　　　柳

　　歌はどもらぬやもめをんぢい　　　　　　　　　　茅

　花早し大潮の浪うちあげる　　　　　　　　　　　　空

　　燕むれとぶ湯の町の朝　　　　　　　　　　　　　柳

　

　　　　　永瀧三趣　　　　　　昭和十九年｜五《四？》月

　

　桐の實に春たつ靄のかゝりけり　　　　　　　　　茅秋

　　山窪｜暖《ヌク》う晴れて風花　　　　　　　　杜壯

　藪入の晝餉こらゆる餅食ひて　　　　　　　　　　迢空

　　鷄のあとつき時計鳴り出す　　　　　　　　　　　秋

　高々と夜中の月や細るらん　　　　　　　　　　　　壯

　　沖合白く時雨すぎゆく　　　　　　　　　　　　　空

(513)　薄玻璃に胸あつき乳しぼり捨て　　　　　　　　秋

　　あぢきなや手の冷ゆる長雨　　　　　　　　　　　壯

　思ふ子に鮓を賣らせて待つ身には　　　　　　　　　空

　　薑ひゞく枡酒の味　　　　　　　　　　　　　　　秋

　月の門おぼえて居よと叩くなり　　　　　　　　　　空

　　　　○十一句目　月

　　音は豆ひく裏屋三軒　　　　　　　　　　　　　　秋

　泡立たぬかねのまじなび言うてやり　　　　　　　　壯

　　男も眉をかくす白扇　　　　　　　　　　　　　　空

　鳴弦の間遠に小夜の夕立《ユダ》ちくる　　　　　　壯

　　木香しんかんと長岡の京　　　　　　　　　　　　秋

　あとしきは寺山の花咲いたゞけ　　　　　　　　　　空

　　針金渡し陽炎の末　　　　　　　　　　　　　　　壯

　門｜先《サキ》に人を竝べて尼が灸　　　　　　　　空

　　辻は風立つ草市の跡　　　　　　　　　　　　　　壯

　若き世を繪にせん大谷友右衛門　　　　　　　　　　空

　　明石の秋のしかもまん中　　　　　　　　　　　　同

　たまさかに古木の松も枝ふりて　　　　　　　　　　壯

　　日がな一日郭公に霧　　　　　　　　　　　　　　同

(514)　紫陽花の花に息づく保姆若し　　　　　　　　　秋

　　破れてつきし何の小包　　　　　　　　　　　　　同

　おとゞひの母屋新屋もうつ砧　　　　　　　　　　　空

　　山羊一つ居る櫓田の雲　　　　　　　　　　　　　同

　消息す氷河の月のさすらひを　　　　　　　　　　　壯

　　日本戀しと文字消えぬ御器　　　　　　　　　　　同

　誰が親ぞじやがたら文に音を泣きて　　　　　　　柳叟

　　舟にくりたる樟の埋れ木　　　　　　　　　　　　同

　布留の能靜かに舞ひて入りにけり　　　　　　　　　空

　　控へに白く冴えかへる足袋　　　　　　　　　　　同　壯？

　庭蔭の老い木の花に焚き火して　　　　　　　　　　秋

　　長者の畫卷【かすむ竹芝・瓠芽を出す】　　　　　柳

　　　　○再考ヲ要ス

　

○卷の面白さを味はふ方法多きこと

(515)　　　　　伊東夏三吟　　　　　　　　昭和十七年八月二日

　

　かな蛇と娘出て居る沙羅の花　　　　　　　　　　迢空

　　音を栞に瀧の近道　　　　　　　　　　　　　　茅秋

　炭燒の夏の頃から精出して　　　　　　　　　　　柳叟

　　雁椋鳥の別々に來る　　　　　　　　　　　　　　空

　有明の月に大戸を押開き　　　　　　　　　　　　　茅

　　けふ待ちかねし酒の配給　　　　　　　　　　　　柳

　丘の上廣告白くはだかりて　　　　　　　　　　　　空

　　【猪・くね】堀外に建てし避病舍　　　　　　　　茅

　臼に斫るや泣いてそが子が凭りし松　　　　　　　　柳

　　　　○コノ句觀音開キノキラヒアリ　改ムベシ

　　夕日の塚は漆千杯　　　　　　　　　　　　　　　空

　　　　○塚モ丘トヤヽカサナル

　畠ヶ打つ爺は話を強ひる也　　　　　　　　　　　　茅

　　　　○初五イカヾアラム

(516)　　火事の年忌に雨をほしがる　　　　　　　　　柳

　　　　　　　　　　　（待ちつゝ）

　　　　○待ツ、初五句トカサナル

　深川の宵宮《ヨミヤ》を月の橋越えて　　　　　　　空

　　路次の暗きにならす酸漿　　　　　　　　　　　　茅

　せんも無や按摩の嫗につゞれさせ　　　　　　　　　柳

　　　　○嫗、爺、近スギル

　　あたら娘に薹のたつまで　　　　　　　　　　　　空

　　　　○發句ノト遠イガヤハリ氣ニナル

　若者のまじらぬ花見かしましく　　　　　　　　　　茅

　　霞遠のく室の明神　　　　　　　　　　　　　　　柳

　犬を飼ふシヤアは子無しかうたせ船　　　　　　　　〃

　　何ぞといふと蛇を覗かす　　　　　　　　　　　　空

　古井戸に竹のしづくの落つる音　　　　　　　　　　茅

　　香たち消えて日は斜めなり　　　　　　　　　　　柳

　顔よきは平内兵衛にそねまれて　　　　　　　　　　空

　　　　○コノ渡り不審

　　皆《みんなヵ・すべて》投げつけて歸る厄塚　　　茅

(517)　　　○漆千杯の塚とカサナルカ

　肱笠の横目にちらと棧俵　　　　　　　　　　　　　柳

　　霽れてあか／＼夜半の月しろ　　　　　　　　　　空

　露しぐれ木地屋は山をかはりけり　　　　　　　　　茅

　　雀そゝろく餅撒きの｜朝《（村？）》　　　　　　　柳

　青空に玉女の袖も凍てぬべし　　　　　　　　　　　空

　（小屋入に小二才が頻の霜やけて　　　　　　　　　同）

　　鼓古りにし國栖の一つ家　　　　　　　　　　　　茅

　ほほがしは飴と別れて幾｜秋《年？》ぞ　　　　　　柳

　　　　斯クアレバ夏カ　秋ノ季デナイカラ

　　よくせき堅い後家はやしやぶし　　　　　　　　　空

　下張のふみに昔をせゝるなり　　　　　　　　　　　茅

　　　　　昔打越デハナイカ

　　雨は杜牧が軒の絲竹　　　　　　　　　　　　　　柳

　南朝の花に鐘聽く坊二百　　　　　　　　　　　　　空

　　御代靜けさに石太る也　　　　　　　　　　　　　茅

　　　　　　　　　　　　　　　　昭和一八、一二、三〇

　

(518)　雲に聳ゆる殘雪《ハタレ》にうたふ高千穗や　迢空

　　のどかにひゞく遠つ代の風　　　　　　　　　　杜壯

　ほうと立つ道のきらゝのかげろひて　　　　　　　　空

　　――――――――――

　記念祭の餘興の人形芝居《デコ》は雲に舞ふ　　　迢空

　　傘をすぼめて向ふ春北　　　　　　　　　　　　杜壯

　坪の内草やゝこしく萌え出でゝ　　　　　　　　　　空

　　豆腐おぼめくたそがれの鍋　　　　　　　　　　　柳

　車曳き客にはぐらし辻の月　　　　　　　　　　　　空

　　うす霧なびく板塀の穴　　　　　　　　　　　　　杜

　代參に亭主たゝれし伊勢の空　　　　　　　　　　　空

　　　　　坪ノ内ト「板塀ノ穴」アマリニ近シ

　　木高くなりぬ目じるしの杉　　　　　　　　　　　柳

　　　　　末句ノ句形アマリ同ジヤウナリ

　

　　　　　○

　雲に聳ゆる殘雪《ハタレ》にうたふ高千穗や　　　迢空

(519)　　のどかにひゞく遠つ代の風　　　　　　　　杜壯

　ほうと立つ路のきらゝのかげろひて　　　　　　　　空

　　何見に出たか蛙三びき　　　　　　　　　　　　柳叟

　　　　○表ニハフサハズ

　どんよりと八幡《ヤハタ》をかけて月のかさ　　　　空

　　まんじりとせぬ胴の間の客　　　　　　　　　　　杜

　石垣の上は枳殻の咲き｜しら《白》み　　　　　　　空

　　若いおろかな夢も一時　　　　　　　　　　　　　柳

　窓に入る燕か絣きた君か　　　　　　　　　　　　　空

　

　　　澤田君來

　梅もどき落霜紅の名をめぐる

　　鳥影客をさそふ椽先

　雲かゝる南の山を指ざして

　　馬沓作る手を休めけり

　此村に十八年の葦若葉

　

(520)　　　　　昭和十九年十月一日連句

　

　たゞ祈る月明くとも暗くとも　　　　　　　　　　虚子

　　　○霧おのづから片なびく海

　　　　鷹わたり行く島の潮さゐ

　　　　黄菊白菊盛りまつ庭

　　その盛りまつ黄菊白菊　　　　　　　　　　　　柳叟

　　　をちこちの里の砧のうちつけに

　　　　はる／＼と雁行く海をかへり見て

　　　　この秋は田面の露もゆたかにて

　　　　鴻雁の遠き雲路を思ふ日に

　　　　秋風の海さはやかに吹｜く日なり《きぬれば？》

　　　澄み徹る秋《（水）》の流れにたゝすみて

　　　雁の行く南の【島・海】にたよりせん

　めぐらせる山々も亦よそほひて　　　　　　　　　月草

　　　巌かたくなに獨り眠れる

(521)　　　笛に竹伐る七軒の村

　　　茶屋の翁が狗と物いふ

　　大きな籠をかゝへ｜來りし《（上げたる）》　　　漾人

　　　　川上の夕立雲はあとも無く

　　　　舟繋ぐ堤の小屋の夕けふり

　　　　鳰の巣の蒲に風吹く夕まぐれ

　望まれて昔の【ことを語り草・唄を二つ三つ】

　　　○問題は「昔」

　　　○波ひた／＼と濱のとほあさ

　　　○遠き煙の野はゆふべなり

　　（かたのあたりを撫づる青柳　　　　　　　　　　同）

　　船の來ぬ日の窓の風鈴

　　島なつかしき五尺手拭

　　沖に一つの雲の夕やけ

　　（紙帳出來しと送り來にけり

　　　思ひたちつゝ紙帳つくろふ）　　　　　　　　漾人

　　　少し破れし紙帳なれども〔十一字傍線〕　　　　〃

(522)　　　古蚊帳なれど間に合はせたる〔十三字傍線〕　漾人

　　　　旅ぞうき山下清水ちろ／＼と

　　　　岩を吹く風に音無き淋しさよ

　ぞろ／＼と鼠のふえし昨日けふ　　　　　　　　　月草

　　　　茅に雨ふる那須の古寺

　　　　畠にトマトの色のうつくし

　　　　池をさらへてもどる里人

　　何かにつけてかばふ嫂《アニヨメ》　　　　　　漾人

　似合はぬと知りても派手の戀衣　　　　　　　　喜太郎

　　　　○故郷は寒し秋の初風

　　　　○夕日そゞろに家の戀しき

　　　　○柳散る日の橋の秋風

　　　　○秋風わたる門の板橋

　　きのこ採りかや打つれて行く　　　　　　　　　月草

　こゝに來て｜おぼえし《（知りたる）》花は鳥かぶと　正一郎

　　　　○アイノの村の路に月待つ

　　　　○寺は靜かな竹垣の月

　　　　○夜あけの月のおもしろき原

(523)　　　アイヌの老と擇捉の月　　　　　　　　　虚子

　　　　○煙幕の行くへは雲となりにけり

　　　　○岩窟に僅かの酒をあたゝめて

　船着かぬ日は人通り無きことも　　　　　　　　　月草

　　　　○石にもたれて沖の雲見る

　　　　○牛砂濱を黒く隈どる

　　言ひわけきかぬ子を叱る聲　　　　　　　　　　漾人

　　　　○物つまる寛の水のぽた／＼と

　すた／＼と《くらまされ？》篠つく如き雨の中　　同上

　　　　○津輕なまりの汽車をおりくる

　　　　○隔離病舍の窓に火ともる

　　なまぐさものを寺に持込む　　　　　　　　　喜太郎

　　　　　○

　とり／＼に草履なまめく花の客　　　　　　　　　迢空

　　　　○藪の入日にうぐひすを待つ

　　　　○籠のあうむに香をきかする　　季脱ヵ

　　比叡の方より春の神なり　　　　　　　　　　喜太郎

　　　　　○

　近江路は菜たね畠の土ぼこり　　　　　　　　　　柳叟

(524)　　見目何と無く品のある馬子　　　　　　　　漾人

　うき人の顔に提灯ふりかざし　　　　　　　　　　　同

　

一　○點取は連句墮落のもとなること、

　　　　　　　○自分などもすることながら

　　　一句をとりたてゝもてはやすべきものに非ず

四　○豫想の付かぬことが俳諧連歌の特色

三　○去り嫌ひ、「目にたち耳にひゞくもの」はよき説明也　支考？

二　○連句が規則をやかましくいふわけ

　　　そのあとはすべて作者の自由とする故に

　　○をかしくなければ俳諧にあらずと私は思ふ

　　　俳諧は滑稽のシノニム

　　　　　　　○歴史も之を語る此點からいふと蕉風は進化

　　○たゞ各句を笑にすることは無理

　　　笑を複雜又微妙なものにする技術

　

(525)　　　　　明治神宮奉獻連句

　

　唯祈る月明くとも暗くとも　　　　　　　　　　　虚子

　　その盛り待つ黄菊白菊　　　　　　　　　　　　柳叟

　めぐらせる山々も亦粧ひて　　　　　　　　　　　月草

　　大きな聲を抱へ來る人　　　　　　　　　　　　漾人

　望まれて昔の事を語り草　　　　　　　　　　　　　同

　　思ひ立ちつゝ紙帳つくろふ　　　　　　　　　　虚子

　ぞろ／＼と鼠の殖えしきのふけふ　　　　　　　　月草

　　何かにつけてかばふ嫂　　　　　　　　　　　　漾人

　似合はぬと知りても派手の戀衣　　　　　　　　喜太郎

　　菌採かや打ち連れて行く　　　　　　　　　　　月草

　こゝに來て覺えし花は鳥かぶと　　　　　　　　正一郎

　　アイヌの老とエトロフの月　　　　　　　　　　虚子

　船著かぬ日は人通りなきことも　　　　　　　　　月草

　　いひ譯きかぬ子を叱る聲　　　　　　　　　　　漾人

　くらまぎれ篠つく如き雨の中　　　　　　　　　　　同

　　生臭ものを寺に持ち込む　　　　　　　　　　喜太郎

　とり／”＼に草履なまめく花の客　　　　　　　　迢空

(526)　　比叡の方より春の神鳴　　　　　　　　　　喜太郎

　近江路は菜種畑の土ほこり　　　　　　　　　　　柳叟

　　眉目何となく品のある馬士　　　　　　　　　　漾人

　うき人の顔に提灯ふりかざし　　　　　　　　　　　同

　　今は白痴の子を守りて住む　　　　　　　　　　年尾

　村中に澤庵匂ふ頃となり　　　　　　　　　　　　月草

　　ゆかりが無くて訪ね來る客　　　　　　　　　正一郎

　貸本屋上り框に話し込み　　　　　　　　　　　　虚子

　　敵を追ひて掛川の宿　　　　　　　　　　　　　　同

　よろこべば白髪の面美しく　　　　　　　　　　正一郎

　　月の床几にがくと仰向き　　　　　　　　　　　年尾

　上野なる蓑蟲庵の秋いづこ　　　　　　　　　　　漾人

　　夢は覺めがち露霜を聞く　　　　　　　　　　　月草

　うちたへて鼓しらぶることもなし　　　　　　　正一郎

　　鐡兜負ひ並びでぞ行く　　　　　　　　　　　　漾人

　ぬかるみに映る火の手のすぐ消えて　　　　　　　年尾

　　ひとすぢの道よし遠くとも　　　　　　　　　　月草

　國の花今を盛りと咲きみてり　　　　　　　　　　漾人

　　この慶びにかなひたる春　　　　　　　　　　正一郎

　

(527)　　　　　出石三吟　　　　　　昭和十九年十月二十一日

　

　初霜に郊居の心定まりぬ　　　　　　　　　　　　柳叟

　　朝々晴れてさゝ鳴きの庭　　　　　　　　　　　迢空

　　　　○て文字三句に對する斟酌無し

　山口のかけひの竹を取かへて　　　　　　　　　　茅秋

　　稚兒うれしげに白き米食ふ　　　　　　　　　　　柳

　足數におぼえの石をおぼろ月　　　　　　　　　　　空

　　こゝにも青麥蓼の一《ヒト》さく　　　　　　　　茅

　あすは又飛騨の霞のまぎれ行かむ　　　　　　　　　柳

　　かつかと明かる鍛冶小屋の窓　　　　　　　　　　空

　門前に新嫁背負ふ役付いて　　　　　　　　　　　　茅

　　鹿子《カノコ》かなしや押入の隅　　　　　　　　柳

　あきらめて徹夜《ヨヒト》起き居る風の音　　　　　空

　　何を目あてに猪通ふらん　　　　　　　　　　　　茅

　（峯白むばら／＼松の朝月夜　　　　　　　　　　　柳）

　月白むばらばら松の長根路　　　　　　　　　　　　柳

　　火の見櫓に霧しぶくなり　　　　　　　　　　　　空

(528)　（詰付けの木屋の無盡まとまらず　　　　　　　　茅）

　（森閑）と

　ちら／＼潮さす河岸の倉の｜壁《（陰）》　　　　　　茅

　　（【綿・物】干す姥の欠伸算くる　　　　　　　　　柳）

　　岡は彼岸の寺の鐘鳴る　　　　　　　　　　　　　柳

　?を花と挑むる荒れ在所　　　　　　　　　　　　　空

　　乙女の聲もまじり草燒く　　　　　　　　　　　　茅

　思ふ子｜に《（は）》さがし｜出されし《（かねたる）》隱れ鬼　同

　　凭ればつめたき石の狛犬　　　　　　　　　　　　柳

　しはぶきも藤の陰なる禰宜屋敷　　　　　　　　　　空

　　雨よき日なり蕗の薹煮る　　　　　　　　　　　　茅

　（夕けふり藁屋）

　春やよひ甥も悴も還り來て　　　　　　　　　　　　柳

　　雲路むつまじ雁と燕と　　　　　　　　　　　　　空

　顔見たし隣座敷の國なまり　　　　　　　　　　　　茅

　　一茶吾山の旅をうらやむ　　　　　　　　　　　　柳

　故郷は黄牛《アメウシ》多くなりにけり　　　　　　同

　　柿つりそへる軒の味噌玉　　　　　　　　　　　　空

(529)　（へこ赤く隼人　　　　　　月の土間）　　　　茅

　あと｜つ《（繼）》がぬ月の夜更の雪をこし　　　　　茅

　　將棊はづんで座頭ねむがる　　　　　　　　　　　柳

　白玉はわけてたしなき頭數

　　伏せて雫（の）清き金鋺《カナマリ》　　　　　　茅

　桃色の襷を妹がぬらしつゝ　　　　　　　　　　　　柳

　　接木の｜口傳《・（法は）》人に洩らさず　　　　　空

　まむかひに一樹の花の光るかな　　　　　　　　　　同

　　翁の（庭）苑に百千鳥寄る　　　　　　　　　　　茅

　

　　　　　出石三吟の二　　　　　　　昭和十九年十月二十九日

　

　消え殘る飛行機雲や小春凪　　　　　　　　　　　茅秋

　

(530)　○末ノ折ノ「花」ヲ表ヘ引上ゲタル例

　　梅香ニノツト日ノ出ル卷、法印ノ湯治ヲオクル　古典本二一二、

　　月ハ此オモテ五句前ニ在リ、

　

　

　　　　　○心ヅイタコト

○談林デハ形ノ面白サニノミ重キヲオク、芭蕉ニハソレガ早クアキタラナクナツテヰタ、他ノ人々ハサモナシ

○發句ヲ大事ニスルコト、殊ニ月花ノ詠ナルトキハ座ノ作法カハル

○花ノ必ス春ナルハ大キナ拘束

○拘束ヲ設ケタルハ他ノ部分ヲ自由ナラシムル爲

　從ツテ月花ノ引上ゲモ相談ハイラズ、コボストキノミコトワルベキカ

　初裏ノ月ハドウスルカ、非常ニ多ク下ゲテヰル、老手ニマカスルカ

○一バン自由ナルハ初裏ノ月ノ座、次ハ名殘表ノ「月」、

　

　

　○秋ノ發句、月ヲ第三ニス　灰汁桶カト（古典本、一五三・）

　　〃　　　　〃　第二ニ　秋立チテ（〃一五四・）

　

(531)　○初裏ノ月ハ「花」ニ近ヅケントスルモノ多キコト

　

　○初裏ニ「月」ナキ例、朝ガホヤ夜ハアケキリシ（古典本一八二・）

　

　○月花ノ定座ノ意義ハ百韻ニナルトヨクワカル

　　　歌仙ハソノ略シタモノ

　

○初ノ裏、花ノ座空シキ例、

　　古典本四四頁、天和、時節サゾ伊賀ノ山越花ノ雪〔右○〕

　　コノ發句アル爲ニ十七句目又ソノ附近ハ「花」ナシ

　○〃書七六頁　花咲キテ七日鶴見ルフモト哉　翁

　　コレモ初裏花ノ座ニ花ナシ、發句ノ賞玩カラ、（名殘表月アリ、十句目ニ）

　　　ソコヘ代リニ月

　○〃上九六・發句　何木ノ花トモ知ラズ匂ヒカナ　翁、

　　初裏「花」ノ座ハ月ニナル、名表十一句目モ月、

　○〃上、一四九　種芋ヤ花ノ盛ニ賣リアルク、翁、

(532)　　コノ爲ニ初裏ノ「花」カ朝顔ノ花トナル

　○〃上、一九三・、打寄リテ花入探レ梅山茶　翁、〃裏ノ十一句月ニナル

　　○花月ヲ一句ノ例ハ多し〔四字傍線〕、スルト春季ノ月ニナル

　　○花ヲ引上ゲ、ソノ座ノ近クニ月ヲオク例、古典本七九・　○月引上ゲモ多シ

　　　○色々ノ「花」、花ノ座ニサハラス、椿ノ花ノオツルオトナド、榎ノ花ノ風ニ散ル

　

　

　　初裏ニ「月」ヲ「花」ノアトヘ、古典本二二八・

○月花ヲ一句ニスルコト

　月花順カハル初裏（古典本一二七・）

○市中ハ物ノニホヒ卷（〃一五二・）

　　　　初裏ノ三ニ花、「花」ノ座ニ秋ノ月

　　　　名表ノ「月」ハ七句目

○空豆ノ花（〃上、二〇〇・）

　

　

○季モドリ、月モドリハ

　　趣味トシテ忌ムベキコト

　　イクラモ例アリ、（小宮本二二四・）

　

(533)○季ノウツリトハ　雜ノ句ヲハサマズニ他ノ季ニ進ミ入ルコト

　　コレニハ技巧ガ大分イル

　「道心ノ起リハ、花ノツボムトキ」ノ下　ノトノ七尾ノ冬〔右○〕

　　○月ヲ中ニハサメバ比較的自由ナコト、ソノ代り「月」ヲ二ツニ季トメハカソヘル

　　　ソノ例、

　

　

○ヲトツヒノ野分ノ濱ハ月澄ミテ

　　霧ノ雫ニ龍ヲ書キツク−コノ「霧」附句デハ雜ニトルカ

　花クモル右ノ扉ヲオシヒラキ

　　　　　　――――――――――

秋ハナホ只ウマキ物クラヒケリ

　白子ノ太夫我カ霧ノ海

浪ヨスル鯨ノ骨ニ花ウヱテ（古典本六五・）

○新麥ノ卷初裏　古典本二一五・

　雪ニ出テ

　　　　原中ニ月ゾサエタル

(534)　　神鳴ノピツカリトシテ沙汰モナキ

　

　

○季ノ配賦

　　○ナルベク四季ノ順ヲカヘヌハ趣味

　　○色々ノ變化アリ

　　　　何トハナシニノ卷（古典、六四頁）〔十三字傍線〕

　○雜ガ十句モッヽク例、　　　　ノ雁ノ卷（小宮、二二｜九《八》・）

　

　

○花月ノ座、花ハ比較的

　　「花」ヲ名オニ引上ゲタ例、梅香ニノツト日ノ卷（小宮、二三三・）

　　○コノ形モタマニハメヅラシ

　

　

雜ノツモリノ季ノ景物アルベシ、シカモ規則ニハソムカズ

　

(535)　　○予が俳諧論

○笑鷲隊名はいやしけれど志はよし

○どうして又あのやうなくすぐり

○もつと上品に人をたのしませることは出來ぬものか

○育ちが惡いから、金をもらふ笑はしを無料で奉仕するだけだから

○全體に日本の笑は職業になつて退歩した

○職業では自分の頭も叩く

○そんなことまでせずに昔の人は笑はせて居

○尤も笑ひが乏しい世の中では小さなことでも笑ふ

○たとへば古今集の俳諧歌

○今日のやうに人が尤もまじめに固くなつて居る際は笑はすことは實は難事に非ず

○自分も損はず傷けずに

○又は皆と共に笑ふ

　　　――――――――――

○俳諧の元祖は東方朔、この人は同時に仙人だつたといふ

○滑稽といふのも同義語、俳優の俳

○俳諧は本來笑はしが目的

(536)○をかしくない俳諧といふものは有り得ず

○たゞをかしいは折柄ところ柄なり

○同じことでも場合によりてをかしくもなくなる

○笑ひさうな隙間に投ずること

○柿の本に栗の下、無心の座

○守武は心得ちがひ、全部「笑」をならべると誰もいやになる

○連歌の俳諧が恐らくはもと

○俳諧の連歌といふは俳諧を歡迎する連歌

○これを芭蕉翁は考へたものと思はる

○心の效く範圍が弘くなる、感情の波が大きい

○付句の自由さを緩める、むしろ古い約束を破ること

○談林もこの趣意は知つて居た

○たゞ豫想外といふものだけにあまり力を入た

○人を驚かすを詮とす、驚きと笑とは全く別のもの

○それよりも人の心を安めること、安らかな笑ひ

　

　秋の風障子を出でゝ音も無し　　　　　　　　　楸邨、穗高

(537)　茶の花のこゝに人住む多摩の山　　　　斌雄、樹氷群

　

　　　　　――――――――――

　鶯やくれなゐ澄める楓の芽　　　　　　　鴨水（一四九）

　風雨來るといふ夜の團扇置きて白し　　碧雲居（一四一）

　　堂の下に人居て梅雨の降り　　　　　　碧童（一四〇）

　麥打の見えて音なき遠さかな　　　　　たかし（三〇一）

　有明のランプ吹消す雉の聲　　　　　　　　風生（一三）

研7

　

　　(538)　　　赤頭巾の歌仙

　

　　　外南部所見　　　　　　　　　　　　　　　　善麿

　麥踏むや一人かぶらぬ赤頭巾

　　こだまをかへす山｜咲《ワラ》ふ也　　　　　　迢空

　宗任の田打ち櫻と見つれども　　　　　　　　　　柳叟

　　はにかみながら歌ふ今やう　　　　　　　　　　　善

　足柄の月に傘（サ）さす木下闇　　　　　　　　　　空

　　鰻いけたる走井の水　　　　　　　　　　　　　　柳

　横顔に霙こぼるゝ朝ならん　　　　　　　　　　　　善

　　鐙をふめばあかぎれにしむ　　　　　　　　　　　空

　しのぶれどトタンの壁の隙明《スキアカ》り　　　　柳

　　一代ちよんが國へ歸らぬ　　　　　　　　　　　　空

　うすものに忘れな草を染めさせて　　　　　　　　　善

(539)　　いくさ半ばに踊る短夜　　　　　　　　　　　空

　砂をいでゝ砂にいざよふ胡地の月　　　　　　　　　柳

　　太古の民を學問の當　　　　　　　　　　　　　　善

　手のひらにすくも〔三字傍点〕はたけば光る也　　　空

　　春も漸う肥《コエ》の香ぞする　　　　　　　　　柳

　外海へ幾重かさなる遠霞　　　　　　　　　　　　　善

　　ものゝ杭すら花と見ゆ藪　　　　　　　　　　　　空

　袴着て山羊《ヤギ》牽く姥も陸奧や　　　　　　　　柳

　　すこし疲れし民謠の旅　　　　　　　　　　　　　善

　むつごとも面白さうに話（シ）して　　　　　　　　空

　　うたて鬼百合何をうなづく　　　　　　　　　　　柳

　この潟を埋めてしまふ秋風に　　　　　　　　　　　善

　　更地《サラチ》を買へば相撲うるさき　　　　　　空

　小息子の訛りめつらし新《シン》隣　　　　　　　　柳

　　もらつた本を先づ積んで置く　　　　　　　　　　善

　文樂のいほりも夏の月さびて　　　　　　　　　　　空

　　大澁團扇統制の外《ホカ》　　　　　　　　　　　柳

　講演のすめば朧の天守閣　　　　　　　　　　　　　善

　　御成《オナリ》の汽車とすれちがふ春　　　　　　空

(540)　いとほしの夫《ツマ》が手疵を窓越しに　　　　　　柳

　　朝髪梳けば匂ふ藁屑　　　　　　　　　　　　　　　　善

　追ふ牛の角文字ながらいま／＼し　　　　　　　　　　　空

　　長谷《ハセ》の下向に虻の道づれ　　　　　　　　　　柳

　じゆんぐりにうつぎあぢさゐ花咲きて　　　　　　　　　空

　　きり／＼雀｜陽《ヒ》おもてに鳴く　　　　　　　　　善

　

　終りになほ一二篇、たとへば蒼　　札梅室等を中心にした天保の俳壇、明治の前半に覇を唱へて居た舊江戸座の宗匠たち、それに次では子規子の俳文學論などを物ともせずに、一方に雄視して居た他石蘆城柳雨雨山等の諸先進の作品から、更に能ふべくは虚子一門の俳諧をも、熟讀玩味して見たい希望を抱いて居たのだが、十分な資料が私の書齋には取揃へてないので、ちやうど代表的なものを見つけるといふことが出來なかつた。そこで聊か俳諧に過ぎるかも知れないが、こゝに最も手近な又最も新らしい標本を一つ、番外として附載して置くことにした。番外といふよりも寧ろ法外であるかも知れない。この作者たちは、實はまだ連句の式目をよくは知らず、何か面白さうなものだといふ程度に於て、之を試みて居るのである。しかし是からさき、出て來てよいものは斯ういふ人々の多くの群である。發句の方面ですでに大小の門戸を開いて居る現代俳人は、氣の毒ながら多分斯ういふことは出來まい。白註自讃はしても、之を小つぴどくけなすことなどは出來まい。幸ひにこの歌仙の作者だけは、さうしても怒らないばかりか、寧ろこの列の末端に加はつて、評釋せらるゝことを光榮として居るのである。

　

(541)　　　　　外南部所見　　　　　　　　　　　　　　善麿

　

　　　麥踏むや一人かぶらぬ赤頭巾

　赤頭巾は童話の語、東北では現在三角又はフルシキボッチと謂ひ、若い娘たちだけが、赤もしくは桃色の大幅紀州ネルを其三角に用ゐて居る。一人かぶらぬは他の二三人が被つて居るといふことで、それが麥畠の緑と映じて繪を成して居るのである。麥踏みは季題には初春、こゝでは現實にはもう初夏だつたが、脇句は法則どほり春季として之を受けて居る。

　　　　こだまをかへす山｜吹《ワラ》ふ也　　　　　　迢空

　山咲ふも初春の季題、春に入つて霞がかゝり水がせゝらぎ、樹の芽がやゝ色ばむのをさう謂ふのだが、こゝでは其赤頭巾どもが笑つて居るのである。「こだまを返す」がそれを解説して居る。但し空想の句、言葉附けの一種であつて、即景の脇にはなつて居ない。

　　　宗任の田打ち櫻と見つれども　　　　　　　　　　柳叟

　表六句には人名も避けるといふ流儀もあるが、こゝではそれを無視して居る。咲ふといふ前句の語と、奧州といふところから斯樣な聯想が浮んだと見える。田打ち櫻は辛夷、東京でコブシといふ花、櫻とほゞ同じ頃に咲く山の樹である。方言通をふりまはしたところは、安倍宗任とは寧ろあべこべで甚だ素朴でない。

　　　　はにかみながら歌ふ今やう　　　　　　　　　　　善

　この句の今やうは新らしい流行唄のつもりか。何と無くそれが若い女のやうで、從つて打越とやゝ差合ふ嫌ひがある。全體に附け味の呑込みにくい一句である。尤も宗任が都に於て、あの當時の今やうを歌つたとも取れぬことも無(542)い。

　　　　足柄の月に傘（サ）さす木下闇　　　　　　　　　空

　今樣の前句によつて、更科日記の記事を思ひ合せたのである。月に傘さすも、八幡《やはた》種まく云々といふ設樂神の躍歌を採つたのかも知れない。故事の引用はとかく續出したがるが、俳諧を平俗化する道では無いと思ふ。我々讀者は寧ろ樹蔭が傘の如く、歌ふ遊女を覆うて居ると解しただけでよい。木したやみは俳諧には先例が有るが、聊か手筒なる言葉使ひであつた。

　　　　鰻いけたる志井の水　　　　　　　　　　　　　　柳

　走井は逢阪關の名所だが、足柄の峠の茶屋の前などにも、さう名づけてもよい泉があつたかも知れない。前句が中世だから、何とかして之を現代に引下げようとしたのである。こゝの月の座は木下闇で夏季の月だが、一句で棄てるのは同情が足らぬので、今一季夏の句の鰻を附けたものと思ふ。

　　　　ゥ横顔に霙こぼるゝ朝ならん　　　　　　　　　　善

　みぞれは勿論冬の季、此季移りはちと大膽過ぎるが、鰻は年中のものだから彼を雜の句に取つたのであらう。句の姿をあまりいたはつた爲に、繪樣が少しぼやけて居る。霙の降る朝、軒先に立つて路の一方を見て居る女があるのである。濡れるであらうにとでも言ひたい處。戀の句ではないが、もう十分に戀を含んで居る。前にも斯ういふ句を私は半戀と謂つて見た。

　　　　鐙をふめばあかぎれにしむ　　　　　　　　　　　空

　前の句を別離の場として受けたのは極めて自然である。鐙《あぶみ》を踏むは馬上の出發で、思ふ人に後から見まもられ居ることを知る故に、あかがりの痛さが殊に身に沁むのである。以前は壯男は足袋をはかぬから、赤切れは誰にでも出來て居たらうが、わざ／＼是をいふのは荒くれ男を描き出す爲で、乃ち俳諧特有の下品下生の戀である。以上二句冬の(543)季。

　　　しのぶれどトタンの壁の隙明《スキアカ》り　　　　柳

　前句の風情を賞翫した附け方であるが、折角の馬上姿を輕く扱つたのは不本意である。或はトタンを壁に代へたやうな野外の假小屋にも戀があり、馬で過ぎ行く男がかなしい思ひをするとも取られようか。「忍ぶれど」は百人一首以來著名な古語、それを亞鉛板圍ひの新光景と突合せて、強ひて不調和の滑稽を現じようとして居る。

　　　　一代ちよんが國へ歸らぬ　　　　　　　　　　　　空

　チョンガは即ち總角の高麗音、自然東岸といふやうな居士たちの自ら嘲る戯語でもあらうが、實際さういふ總角はこんな野外の勞働小屋にも來ては居なかつた。

　　　うすものに忘れな草を染めさせて　　　　　　　　　善

　是などは一種の遣り句、句の形のみすらりとして居るが、どんな前句にも寄り添ひ得ると共に、どんな句ともひたとは合はない。さうして又寫實味が全く缺けて居る。つまりは俳境のあまり突詰められた場合に、斯うして脱出して行くといふ手法も有るのである。

　　　　いくさ半ばに踊る短夜　　　　　　　　　　　　　空

　前の句と二句は夏、踊り衣裳を染めるといふやうな奢りは戰半ばには出來ぬことだつたが、この句は是だけで又一つの趣を成して居る。或はさういふ伊達な帷子を着て來たのを、染めさせてと謂つて通じたのかも知れない。短夜といふ言葉が特に悲壯な感じを起させる。但し季の問題としては踊は秋、短夜は夏で所屬が明かでないが、次の月の座の秋が直ぐに雜で受けられて居るから、連衆は之を秋の季に取つたのであらう。

　　　砂をいでゝ砂にいざよふ胡地の月　　　　　　　　　柳

　醉うて沙場に臥す君笑ふなかれといふ唐詩を聯想せしめる。村の戰時の踊を、こゝでは朔北の野營地に轉じたので(544)ある。言葉は多分武藏野の草より草にから思ひついたもので、いさゝか讀書臭が鼻に附かぬのでもない。

　　　　太古の民を學問の富　　　　　　　　　　　　　　善

　少し言葉は足らぬが附け味は明かである。此時代の日本の若い學徒の間にも、北亞細亞の先住民の生活を尋ね明らめようといふ熱情が燃えて居た。しかし時過ぎては此共感は薄れることであらう。つまり一つの時事の句であつて、たゞ斯んな思ひ出の爲にも、この歌仙は保存せられてよいと思ふ。

　　　手のひらにすくも〔三字傍点〕はたけば光る也　　　空

　スクモは今いふゴモクと同じ語かと思はれ、籾殻藁屑などの名にもなつて居るが、どういふわけでか一方に褐炭亞炭の類をもスクモといふ例がある。この句のスクモに至つてはその何れでも無く、單に黒ボクなどゝいふ腐植土のことをさすかと見える。乃ち前句の考古調査を受けて、發掘品に附いたスクモを手の掌で拂ふと、日に映じてきらりとしたといふのである。日の光は現行の季寄せ帖には見えぬが、どうしても是は春の季のやうである。

　　　　春も漸う肥《コエ》の香ぞする　　　　　　　　　柳

　やゝ古風に過ぎた貞門風のしやれである。肥の一字を梅とでもさし替へると、千年以來の歌の句になるのを、わざと下品に謂つて見たもので、東北の農民ならばこの感覺はよくわかるだらう。但し粉本は炭俵の振賣りの卷にもある。

　　　外海へ幾重かさなる遠霞　　　　　　　　　　　　　善

　是は結構な附け句であつて、言葉使ひまでが春らしい。前句が小さな遺物散布地などにうつむきがちなのを、眼を轉じて遙かに野の末を眺望せしめたもの、海は見えなくてたゞ霞が濃く立つて居ると見てもよい。恐らく連句の汽車が、ちやうどさういふ野の端を、走つて居た時の囑目の景だらうと思ふ。

　　　　ものゝ杭すら花と見ゆ藪　　　　　　　　　　　　空

　是もいはゆる寫生の句、鉄路の兩側には短い杭《くひ》を打込み、その頭を赤く塗つたのが何處へ行つても點々と列なつて(545)居る。日うらゝかにしてそれがふと花かと見えたのである。花の座を十二句目へ送ることは通例は戒められて居る。さうして此花もいはゆる正花では無い。知りつゝこの二つの慣行を破つたものであらうが、責任は半ば還霞の前句の方にもあつた。

　　　袴着て山羊《ヤギ》牽く姥も陸奧や　　　　　　　　柳

　この末五字の陸奧やは我儘に過ぎる。句の意味は奧州らしい風景、他の地方には見られぬものといふことらしいが、やの切字を斯ういふ所に用ゐた例は私はまだ覺えて居ない。しかしとにかくに土手か何かの小高い路を、山羊の頸に綱をつけて引いて行く婆さんのモンペ姿などは、ちよつとほゝゑましい旅中の趣である。

　　　　すこし疲れし民謠の旅　　　　　　　　　　　　　善

　斯ういふ樂屋落ち見たいな日記體は、たゞ連衆のみを悦ばしめる。連句は對社會の文藝では無いといふ主張とも取れる。古人の作品にも末の方へ行くと折々見られる。炭俵百韻の擧句の、「三人ながら面白き春」の如きもその一つの例である。

　　　むつごとも面白さうに話（シ）して　　　　　　　　空

　何か叨りがましい話を小聲でして居ることを、むつごとゝいふのは穩當とは言へないだらうが、何を笑ふのかは遠くて聽えず、しかもさう上品でも無ささうなことが察せられる場合を、わざと斯んな語で表現しようとしたもので、勿論是は戀の句ではない。

　　　　うたて鬼百合何をうなづく　　　　　　　　　　　柳

　あまりに人事の句に深入りしたと思ふ場合に、何とかして丸々ちがつた境涯に出て見ようとするには、古人も折々斯ういふ風な句を出して居るが、是はその計畫が有つてかどうか知り難い。鬼と見られては百合の花は迷惑だらうが、うなづくといふ言葉はよく働いて居る。

(546)　　　この潟を埋めてしまふ秋風に　　　　　　　　　善

　百合の花の點頭と秋風とはよく調和するが、たゞ季題としては前者は夏だからこゝは一句で棄てられて、次に季移りがあつたものと解する他は無い。この一句も説明が無くてはわからぬだらうが、この頃ちやうど八郎潟を埋めて田にする計畫があつて、連衆は皆之を非難して居た爲に、多分は仲間だけには是が受けたのであつた。考へて見れば厄介な話で、是では連句などは今にもう外部の構ひ手は無くなる處れがある。

　　　　更地《サラチ》を買へば相撲うるさき　　　　　　空

　前句の埋めてしまふを巧みに受けて居る。即ち今はまだ片端だけが埋立てられて居る場合である。さら地は立退き請求などの面倒が無い代りに、若い衆に借りられて相撲場になり、騷々しくてし方が無いといふのである。前句の秋風を受けて相撲も秋の季、この歌仙には二句で切上げた春秋の句が多い。違犯では無いが何か素人くさい感じである。

　　　小息子の訛りめつらし新《シソ》隣　　　　　　　　柳

　都市の郊外などの新住宅地の光景に轉じて居る。一方の隣は空屋であつたのに、最近引越して來たのは地方からの轉任者でもあるか、男の兒の言葉が佐賀か熊本か、何でもあつち方面の訛りだねと、聽耳を立てゝ居るところを詠じたので、炭俵式のごく平常な寫生である。

　　　　もらつた本を先づ積んで置く　　　　　　　　　　喜

　これも同じあたりによく有る情景、主人は新聞人か何かの名の賣れた忙がしい男で、讀まう／＼と思ひながらいつと無しに本が段々たまつて來る。さういつた家で隣の子の方言に注意して居るのであらう。積んで置くは妙な言ひ方だが、古いだじやれのツンドク主義などが、うつかり此場へ顔を出したのであらう。

　　　文樂のいほりも夏の月さびて　　　　　　　　　　　空

　月さびての感じははつきりと掬み取れない。いほりは眞打ちの一枚看板で、それに白々と月の影がさし、從つて又(547)町内の涼み臺の話柄にもなつて居るのである。書物を貰つて讀み切れずに居る先生と、此句の事實とは繋がりが少な過ぎる。やゝそつぽうを向いた附け方ではあるまいか。

　　　　大澁團扇統制の外《ホカ》　　　　　　　　　　　柳

　この句も際物で、是は統制といふ語がやたらに用ゐられた時代である。小僧や男の子に後から扇がせる大きな澁團扇、是だけは荒物屋に行けばまだ買はれると、涼み臺の仲間が笑ひながら話して居る。

　　　講演のすめば朧の天守閣　　　　　　　　　　　　　善

　おぼろは春の季、この季移りは少々亂暴である。何か前句との繋がりがあるかと考へても、少しでも心當りは無く、言はゞたゞ隣へ持つて來て置いたといふだけで、季を變へる場合で無くとも是ぢや附けたとは言へない。しかも式目には斯んなことまでは指定して居ないのだから、違犯でないと言へば言はれる。五色墨の歌仙などにはこの式のものが折々あるが、自分などはよくないことだと思つて居る。

　　　　御成《オナリ》の汽車とすれちがふ春　　　　　　空

　此句も日記の一節のやうだが、前の句に續いた時の流れがあり、又山水の動きが感じられる。宮樣御召しの列車が、古城高く聳ゆる大きな町へ、近づいて來るといふのも春の景色である。たゞ三人の作者が樂しむほどに、外の讀者を引込み得ないのは、ちやうど最上川の「さみだれを集めて涼し」も同じことである。

　　　いとほしの夫《ツマ》が手疵を窓越しに　　　　　　柳

　歸還兵が病院へ送られるのを聞知つて、驛まで家族の者が逢ひに出るといふ情景は、當時は普通であつたが是も亦やがては不明にならう。後世に向つてはやはり言葉が足りない。僅かに前句がすれちがふ汽車である故に、この窓越しの場處が停車場だらうと想像せられるのみである。

　　　　朝髪梳けば匂ふ藁屑　　　　　　　　　　　　　　善

(548)　ごく遠くから附けた句で、手疵の性質までは穿鑿して居ない。若い農家の嫁などの簡素なる身だしなみを描かうとしたものかと思はれる。藁屑は冬の李であらう。獨立した一句としては好い感じである。

　　　追ふ牛の角文字ながらいま／＼し　　　　　　　　　空

　或は戀の句に取なさうとしたのかも知れぬが、それにはまだ少し言葉が足りない。いま／＼しのいの字も牛の角文字だといふのが俳諧だらうが、何をいま／＼しく感ずるのか、二句の表には現はれて居ない。追ふ牛といふと路上のやうにも聞えて、前句とのかゝりが是もあまりに幽かである。

　　　　長谷《ハセ》の下向に虻の道づれ　　　　　　　　柳

　宇治拾遺などの藁しべ長者の故事だらうから、打越の藁屑と少しくさし合ひ、近世宗匠のいはゆる觀音開きの形になつて居る。虻が牽牛に附きまとふといふことを以て、いま／＼しを受けたのはやゝ大げさであつた。要するに前句の氣持を、はつきり補へることが出來なかつた結果である。

　　　じゆんぐりにうつぎあぢさゐ花咲きて　　　　　　　空

　前句の虻は現在の季寄せには春に屬して居る。それを夏の花で受けたのは彼を雜と見たからであらうが、議論の出さうな點である。一句の意味は明かで、又斯ういふ場處にはふさはしい。順ぐりは一つ庭の内の移行にいふ言葉だが、是を大和路の旅の面白さと見ることも出來る。

　　　　きり／＼雀｜陽《ヒ》おもてに鳴く　　　　　　　善

　小かはらひはといふ小鳥を、關東の一部の方言ではキリキリスズメと謂つて居る。此鳥は暮春初夏の頃に群れて木にとまり、きり／＼と啼いて居るから事實上の季には合ふのだが、連歌の約束では小鳥だから是も秋になるのである。季の問題はまことに煩はしい。殊に近世は發句だけの必要から、無やみに季題をふやし又複雜にして居る。俳諧復興の準備としては、是非どうか之を整理して置きたいものである。

(549)　この歌仙の一卷は、さう上出來だと思つて居る人などは誰も無いが、斯ういふ中にもなほ幾つかの有益な經驗が有る。第一には相手の句の意味が時あつて把へにくゝ、是ほど心やすい友だち仲間ですら、それを解らぬともまづいとも、言ひ切れない場合の多いことである。そんないゝ頃加減な受答へを重ねて行つても、形ばかりは具はるといふところに、中古以來の連歌の病があつた。一つはこの國人のお座なり主義、人に逆らひ得ない早呑込の爲とも言はれようが、それよりも大きな原因は時間を掛けないこと、すばやい唱和といふことが珍重せられた爲であつて、殊に俳諧となつてはわざとでも、頓珍漢な附けを以て落ちを取らうとさへして居たのである。談林といふ句風は夙にすたれたけれども、かねて何にでも附くやうな奇拔な句を用意して置いて、少し面倒な前句は皆それで處理しようといふ類の、横着な俳諧師ばかり多くなり、おかげで附け味の講釋が禅以上に、又はこの頃の俳論の如く、もつたい振つたものになつたのである。連句を廣い世の中の樂しみに供しようとするには、一句々々の作者の文藝を前進させて、出來るだけ平明に、しかも上品に又感深く、我が心持を次の人へ又列席一同へ引繼ぐ技能を錬磨させなければなるまい。それがもし此頃の現代俳句のやうに、たゞむつかしくひねくれた言ひ方をして、わからぬのは其方の咎といふ如き態度を取られては、相手も其つもりで顧みて他を言ひ、はては天狗俳諧といふものも同樣に、取合せの最も意外なのを高笑ひする遊戯に化し去るかも知れない。諧調は連句の終局の目的であるが、是を完成するには一人の指導者の力をあてにしては居られない。この文藝の複合體を目して、文學に非ずと言つた正岡子規の説などは、ちやうど今日の文學雜誌の一册が、全體としては文學に非ずと評するやうなもので、私などから見れば當り前のことであり、從つて又決して新らしい創見でも何でも無い。

　

（參照）

俳句研究第八卷第八號（昭和十六年八月）東北車中三吟

　

(550)　　　青城亭五?歌仙　　　　　　　（二二・六・二三）

　

　　　山の湯や三羽育ちし燕の子　　　　　　　　　　　零雨

　宮ノ下の温泉みやげの由。夏の季。脇句も同じ季で受けるが作法。

　　　　楓若葉に雨細き朝　　　　　　　　　　　　　　青城

　夏。その場といふ附け方、こゝでは最も普通であり、之に由つて繪もはつきりとして來る。雨だけが新らしい趣向。

　　　けふは來る笛の師匠を待兼て　　　　　　　　　　柳叟

　雜。三句目は少し意外なことを持つて來て、轉換を講ずる必要があるが、この初五文字聊か物足らぬ。朝から待兼るといふのだから、昨日來べかりしで無くてはならぬだらう。

　　　　つくばひに居るいとゞ一ぴき　　　　　　　　　駑十

　秋。次が月の座だから、其爲にこゝを秋にすることは親切である。イトドはこほろぎの一種、それが軒先の石の陰に居るのを見つけたので、時刻もやゝ夕暮に近く、前の句を活かしても居る。このイトドは啼いて居るのでは無く、たゞ退屈のあまりに、さういふ處にふと眼を遣つたまでゝあらう。

　　　浦藪に月落ち込みし浪の音《オト》　　　　　　　菁々

　秋。此家の背後には竹藪があつてその外は海、浪の音が聽えるといふ靜かな時刻である。夕月の沈んだのを見て居(551)るのでは無く、たゞ庭前の暗くなつて來たのでさう思ふだけ、可なり込入つた情景を描き出して居る。しかしさうなるとこの一ぴきのイトドは、聲を聽いて所在を知つたやうに取られ、何だか浪の音がそれを打消すやうにもなる。二つの音を附け合せることは實際六つかしい。

　　　　露の生るゝ薄《ススキ》ありけり　　　　　　　　雨

　以上三句秋。こゝは少し引離して附けたいところであらうが、その代りに是では場所がはつきりとしない。露のうまるゝは夕方急に氣温が下つて、水分が草の葉の表に圓く結ぶのである。

　　　うち群れて矢の根を拾ふ里の子ら　　　　　　　　　城

　雜。露の生るゝといふ時刻までは考へて居ない。たゞさういふ野中に石鏃などの出るところがあつて、子供が人眞似にそれを捜して居るのである。思ひ切つて場面をかへて見ようとしたのはよい。

　　　　むかし狸の下げた�ｺ利《トツクリ》　　　　　　　柳

　雜。そんな形の土器が、矢の根石と一しよに出るかどうかはおぼつかない。たゞ頓狂に笑ひ興じて見ようとする、里の男などの心持を出したまでゝあらう。前の句が寫實に傾いた場合に、もとは斯ういふことをして變化を求めようとして居た。その眞似ごとの拙な部類であらう。

　　　山がたな鈍く光れるゐろりばた　　　　　　　　　　十

　冬。幾分か前句の貧乏�ｺ利を見つめた嫌ひはあるが、打越しを離れてよく轉囘して居る。狸でも酒買ひに出さうな片田舍の、小農の家の中の景である。

　　　　鼠の覗く雪沓のかげ　　　　　　　　　　　　　　菁

　冬。少し前句に附き過ぎて、新らしい思ひ付きが足りない。一句を隔てゝ又動物が出るのも、さし合ひと謂つてよからう。

(552)　　　水茶屋につとめし指のうつくしく　　　　　　　雨

　雜。娘か女房かは知らず、かゝる貧家には似合はぬきやしやな指をした女が居るといふのだが、水茶屋につとめしはまだ用語が練れて居ない。しかし此あたりもう戀の句が出て然るべしと、斯うした一句を以て水を向けようとするなどは、老成の人でないと出來ぬことであつた。

　　　　人を返して繰る戸重たし　　　　　　　　　　　　城

　雜。乃ち戀の句である。まだ夜が深いのでもう一度雨戸をたてるのか、又は出て行つたあと、其戸をくり明けてしまふのか。何れとも取れるやうだが、とにかくに心が重いので、細い美しい指先には一層重く感じられるのである。

　　　しよんぼりと火の見の月の朧なる　　　　　　　　　柳

　春。月の座を春にして居る。戸を開くと火の見櫓の上に月が見えるといふのは、色町などの趣であらうが、しよんぼりとはどつち附かずである。といふよりも火の見がしよんぼりと立つなどは少しをかしい。

　　　　買出し部隊休むげんげ田　　　　　　　　　　　　十

　春。げんげ田は紫雲英の花咲く田。買出し部隊の新語を面白く使つて居るが、前句の夜景をあまり無造作に閑却して居る。或は夕方の田舍のつもりかも知れぬが、句自體としては晝日中としか取れない。

　　　花の下バス曲る時かしぎつゝ　　　　　　　　　　　菁

　春三句目。花の座を二句引上げたのはさう／＼は春をつゞけられまいといふ心遣ひかも知れぬ。それにしても位置のやゝはつきりとしない附け方で、一句としても格別働きの無い、いゝ加減な句である。

　　　　橋を渡れば高野街道　　　　　　　　　　　　　　雨

　雜。ごく輕い附け方で、句の心には隱れた隈も無い。大阪附近でもあらうか。ちよつと斯ういふ場處は想像がつかぬ。つまり實歴の景では無いのである。

(553)　　鐘の音《ネ》の消え行く方に雲一つ　　　　　　　城

　雜。是も想像上の風景、といふよりも聊か古文學に囚はれて居る。鐘の音の消え行く方は、遠くに鐘が鳴るその方角といふ迄であらうが、一つと形容せられるやうな雲が、そこにどう存在するのか、ちよつと見究められない。、

　　　　より處無き厩《マヤ》の蚊柱　　　　　　　　　　柳

　夏。前句から受ける感じを其まゝ、出して見ようとした句である。厩をマヤと訓まなければならぬのはまづい。

　　　潮さいの縁にゆかたを取込みて　　　　　　　　　　十

　夏。潮さいは爰では滿潮時といふ心持に使はれて居るらしい。蚊柱を夏の夕方と見たのは穩當だが、旅館か別莊かと見える縁がはの光景は、やゝ厩のある庭とは遠ざかり過ぎて居る。

　　　　雨ばら／＼と遠き樂隊　　　　　　　　　　　　　菁

　雜。雨が降り出して樂除の音の靜まつて行くのを遠きと謂つたので、雨が降るのにまだ何處かで樂隊の聲がするといふのではあるまい。隊の字が六句前にあるのも氣になり、雨が再び出て來るのも、犯則で無いまでも面白くない。

　　　うらぶれの旅の果なる悲しさよ　　　　　　　　　　雨

　雜。旅藝人のわびしい生活を、雨の日の街道の樂隊に思ひ寄せて居る。思はせぶりと謂つてもよい句だが、是も次に戀の附けを待受けて居るのかと思ふ。

　　　　背中合せに物言はず寢る　　　　　　　　　　　　城

　雜。色々の物語を聯想せしめるから、戀の句としては成功である。圓朝の月諷荻江一節の中にある、哀切な情景なども私には思ひ出されたが、作者の俳諧は或は又別に、旅の半ばの女夫いさかひなどを、目ざして居るのかもしれない。

　　　　氣づかひの二百十日も過ぎにけり　　　　　　　　柳

(554)　秋。出來るだけ戀を離れて附けようとして居る。花咲く稻の田を前にして、口にも出せないほどの心配をして居た夫婦が、ほつとした氣持でさつさと寢てしまふのである。其ユーモアが是ではまだ言ひ盡されて居ない。

　　　　踊りやぐらもそここゝに立つ　　　　　　　　　　十

　秋。かういふ手輕な附けの方が寧ろ調和して居る。前句の不成功は是からでもわかる。

　　　頼かぶり取れば吹風さはやかに　　　　　　　　　　菁

　雜。雜ながら秋の感覺はなほ續いて居る。餘念も無く踊りぬいた後の感じである。吹といふ文字はむだだ。是を何とか改めたらもつと面白くなるかと思ふ。

　　　　闇でそろへし建前《タテマヘ》の酒　　　　　　　雨

　雜。時世相ともいふべき句、後世の社會史家は利用するだらう。漁家農家の懷が温まり過ぎて、入費かまはずの普請を始めるのである。前句の頬かぶりは大工には少しをかしいが、こゝでは近所の手傳人たちが、酒に釣られて押掛けて居るところなのであらう。ともかくも俗な句で感心はしない。

　　　刃傷の沙汰町内をとよもして　　　　　　　　　　　城

　雜。今でも寄合酒の後には續きさうなことだが、是は又思ひ切つて時代な表現をして居る。日頃遺恨の三人斬り四人斬り、その評判で何日も持ち切つて居る處で、町内といつても是は田舍町であらう。

　　　　老を藥師の堂にはかなむ　　　　　　　　　　　　柳

　雜。幾分か前句に調子を合せ、古風な句の形を好んで居る。たゞの道心坊といふよりも、零落した土地の顔役か何かで、世の無常を親ずる傍に、若い頃だつたら斯んな事にはしなかつたらうに、下に幽かなきほひ〔三字傍点〕を抱いて居るのが哀れなのである。しかし是も前の背中合せと同樣に、人によつて何とでも取れかしといふ横着さが下に潜んでは居る。

　　　寧樂《ナラ》暮れて山のかなたの月さゆる　　　　　十

(555)　冬。藥師堂を奈良の古跡の冬の夕にもつて來たのは好い轉囘だと思ふ。但し内容が淺々として居て所謂遣句に近く、月の座の作法には忠實と言へない。

　　　　氣にいらぬ詩をストーブに燒く　　　　　　　　　菁

　冬。良家の若隱居といふ類の我まゝな小文士が、この舊都の地に來て住んで居るのである。外から見た句とすると俳諧があり、いはゆる主觀とするといやみである。

　　　死を思ふ日のつゞきたる假住居　　　　　　　　　　雨

　雜。防空壕生活を思ひ寄せた附けらしい。こゝで自分の作つた詩を選り分けて居るとするのは、今の言葉でいふと聊かセンチである。

　　　　おもかげに立つ人の數々　　　　　　　　　　　　城

　雜。打越の詩を燒くよりは、この附け方がやゝ安らかである。時も空襲警報下では無しに、世の常の不しあはせな老女などゝ取るときは哀れがある。

　　　行きちがふ蝴蝶の袂花の袖　　　　　　　　　　　　柳

　春。今では話題にも出て來ない新文化時代の園遊會か何かに、引附けて來ようとしたのは轉囘である。しかし初五の行きちがふは近過ぎて、俤に立つとはどうしても調子が合はぬ。

　　　　春狂言の繪びら貼る町　　　　　　　　　　　　　十

　春。過ぎし日の銀座あたりの午後の光景で、斯ういふのも當分は好い俳材となるであらう。たゞ繪びらは新語すぎて、狂言といふ名と調和しない。町の一語も前句の町内と近過ぎる。

　　　ぬり上げて藏の白壁かげろへる

　春。もう一度又地方の三流都市へ戻つて來る。花をこゝでも二句引上げられたので、附け方がずつと自由になつた。(556)土藏の新築などは至極のんきで、人の心を樂しましめるから好い。

　　　　お退路《ヘンロ》づれのうらゝかな空　　　　　執筆

　春。前句のかげろふがよく受けてある。遍路の通るのは田圃か野の端で、町の白壁が菜の花や麥畑を隔てて居る。空の一語がよく働き、又擧句の體を得ても居る。短時間の附合としては存外に駄句が少なく、又新たな感覺にも冷淡でない。忘れてしまふにはやゝ惜しい一卷だと思ふ。

　

(557)　　　文化・自由放談の折

　

　一つ松惜しくも切りし庭の霜　　　　　　　　　　　　豐隆

　　ガラス戸くもる枯芝の色　　　　　　　　　　　　　能成

　冴ゆる灯のさびしき町を歩き來て　　　　　　　　　　信夫

　　けふもひねもすどこの飛行機　　　　　　　　　　　國男

　追放の身をもてあますこたつべや　　　　　　　　　　能成

　　星が流れて氣付く三日月　　　　　　　　　　　　　豐隆

　南極の鯨戀しき秋風に　　　　　　　　　　　　　　　國男

　　借り間にうれし新米の沙汰　　　　　　　　　　　　能成

　はづかしき娘の年で力持　　　　　　　　　　　　　　信夫

　　冨山から來る藥屋を待つ　　　　　　　　　　　　　豐隆

　とめどなく郵便料を引上げて　　　　　　　　　　　　國男

　　行脚僧ゆく村はづれ道　　　　　　　　　　　　　　能成

　

(558)　　　　　栗の花

　　　　　　　　　　　　　　　　　　松彦

　

皐月空晴れて山里の朝閑なり、とある篁の奧なる栗の樹の梢に、栗の花この時眠より覺めて、物を思ひ始めぬ。此花のさして清く麗しきものならぬことは人皆知れり。されど若ければ心に曇無く、世に交らねば風情安らかに、多くの同胞と共に住みていと陸じかりき。

見よ、遠き田面には水こと／”＼く滿ちて、日の影に白く光り、草と木芽とは到處に緑なれど、空の色とは亦けぢめあり。蛙呟きてはまた黙し、蝶と燕とは高く低く往來す。既にして苗採る歌、笑ふはすべて若き人の聲なり。此時小さき雲の東より飄ひ來て、目の前を行けば四邊暫し淋しく、やがて雲過ぎて又照りぬ。泉の音に心づけば、紫なる花菖蒲と藤と、共に水に近く一つは靡き一つは傾けり。少し離れて石榴蜀葵、赤き花も多く見ゆ。栗の花は有樣のゆかしさに勝へず、?々隙間より窺はんとしては、おのが木の葉のあまりに繁きを恨みぬ。

日も夕暮になれば風漸く涼しきに過ぎ、目に見えぬ霧は立寄りて、口爭ひて其葉の上に宿らんとす。野邊と空とには白きもの先づ其色を收め、凝視《みつむ》れば小さき星一つ二つ、早出でゝ闇の催すを待てり。黄昏は野山に露を結ばしめ、人間に涙の酒を釀さしむ。栗の花も亦俯きて思に沈み、ひたすら殘れる歌の聲を聞とめて、この詫しさを紛れんとすれど、少女も烏も皆歸り去りて在らず、終に夜になりぬ。

(559)此時かくいふものあり。あの聲は何ぞ、晝間聽きし泉の音なり。否、さは力強からず、老いたる松が經誦するなり。否、さは氣疎からず、何の聲ぞ、清くして脆しと聽けば、又あはれに沈みたる節あり、寂寞《さもしさ》に堪へぬ溜息のやうにて、又打群れて囁き合ふ聲とも聽ゆ。例へば慰められつゝ猶泣く人の聲か、さらずば少年が旅に出でんとする前の夜に、友と集りて物語するか、かこち歎き恨み愁ふれども、久しくして音にも立てず、望む者か祈る者か、待ち詫ぶるか誘ふか。其聲終に絶ゆるときも無し、怪しや何の聲なるべき。栗の花は訝しさに闇ながら眼を見合せて、互に物も言はず、終夜これに聞入りて夢も結ばぬ短夜を明しぬ。彼等が訝かりしは宜なり、此聲は世にまだ知る人無き聲なり。藪の奧なる若竹の、此頃漸く?《たけのかは》を出でゝ、始めて世の中の夜風に吹かれたるそよぎなりき。況して其夕は下露の滋く、これより立たんとする天が下の望と氣遣はしさを語り交して動く情《こゝろ》の果も無かりしを、葉隱れなれば如何で知るべき。東雲の山の端仄かに、旭日昨日の如く出でたれど、栗の花は寢ぬ夜の夢に思ひ亂れて、猶幾度か耳を傾けつゝ、ありし夜半の聲を聽かんとす。されども晝は物の音の數しげゝれば、それかと思へばあるやうに、又無しとも思ひ惑はれぬ。早く又夕になれよかし、一人が云ふ。聽き得たりとも何かすべき、他の一人は斯く答へぬ。同胞皆さなりと思ひぬ。

日盛りになりて蜂一つ遊びに來たり、いざ山へ、いざ野邊に、我と共に行かずや、風も吹き出でたるにと蜂は云ふ。友よ我等に教へ玉へ、夕暮この樹の下に聞ゆるは誰が歌ぞ、この陰に集りて住むは何んの子ぞ。下は如何なる花園ぞ、詳に語り玉へ。されど蜂は林の外をのみ飛びありく蟲なれば、更に知るべくも非ず、我は善く知れり、そは緑なる草原なり、陽炎の暖なるところなり、蒲公英は髪白けて外に爭ふ花も無きに、遊びに行かずや、我案内せんと羽づくろひす。栗の花は危ぶみて信とせず、空眠して在れば、蜂は倦みて去りぬ。

夕は又かの聲いとあはれに聞こゆ。女々しかりし柔なる調は昨日よりも少くなりて、清く健氣に深く思入りたる聲にて、さらば今はといふやうに、又いざこれよりと云ふかとも思はれて、しかもいと幽に、手に取るやうには非ず、偏(560)に人の心を憧れしむ。この時暗き陰より羽の音して、蝙蝠二つ三つ飛び出でたり。彼か、今まで歌ひしは、さらずば彼こそ歌の主を知らめ、喚留めて問へといふ程に、早行き過ぐるとて、聊か啼きし聲の更に似てもあらぬ上に、下なる私語は益々しげくなりて、終に盡るとき無きものに似たり。

斯くして朝夕を經る程に、或は風荒く或は雨そぼ降りて、栗の花の日は漸く物うくなりぬ。下なる歌は晝も聞ゆるやうになりぬ。曇りて物悲しき日なりき、栗の花は首を垂れて泣く、かく覺束なき日頃を過ぎんよりは、いざ一度下り立ちて、かの聲の在處をも見ばや。否恐ろし、再この梢に歸り得ばこそはあらめ、我は行かじと答ふる者あり。さらば如何にせんと、同胞唯長き息を吐くのみ。この時枝のいたく搖くに驚けば、見知らぬ鳥の來り息ひて、つく／”＼と此態を眺むるものあり。そは花を訪ひ來たる賓客《まらうど》にはあらで、旅立ちおくれたる鵯鳥《ひよどり》の、これより故郷の空に向はんとするなり。鳥は世の中を見渡して、幾度と無く頭を傾け、又目を閉ぢて何か考ふるさまなり。其胸を見れば大波のやうに高まりて息をつく。此翁こそ旅に馴れて、隈も無く世の事を知りたれ、問ひてこの不測《いぶかしさ》を明らめんと、涙を片手に事の由を語りて、教を請けんと祈るに、鳥は黙して答もせず。靜かに同胞の有樣を見廻はし、さては空を眺めて、待てども終に語無く、不意に一聲高くきいと悲しげに叫びて、青雲の裡に飛入り、忽ち行方も知れずなりぬ。花の惑は愈々晴るゝ方も無し。

其後二日三日、曾て訪ひ來る者も無く、やがては五月雨の催さんとして、雲の往來凄まじく、風?々はた／＼と枝を叩きて行く。かの歌の調は日を追ひて幽かに、ともすればよその物音に紛れて聞えず、花は日頃の物思ひに窶れて、淺ましく姿の衰へたるに、今は見かはす目にも力無く、心のみ弱くなりぬれば、さばかり恐ろしかりし下界ながら、かくて在るよりは又樂しきこともあらんかと、言出づる者あるに心動き、或日打連れて葉の間を潜《くゞ》りつゝ、小暗き陰に下り行きぬ。殘りて梢に待ちし者も、久しく便の聞えぬにかつは床しく羨ましくも覺えて、心を定めて皆其跡を追ひぬ。

(561)下はもとより竹の葉山なれば、古葉朽葉深く落ち積りて、日影も洩れず慰も無く、慕はしかりし歌の主は、終に誰とも知る由無く、寒き五月雨の雫の下に、恨みつゝはかなき世を終りぬ。この哀なる生涯を知りて、永く彼等が爲に歎き、世にも其物語を傳へしは藪蚊なり。

此秋木葉の散りしきる頃、遠き海邊より旅立ち來て、栗の柏に宿りたる鵯鳥、ふと過し日の事を思ひ出で、其友に向ひて語るやう、我は曾て此梢にて、かゝるあはれなる事をまのあたりに見たり。さなり、世の中の花といふものは、すべて皆情に痴《おろか》にして、甲斐無きことを思ふものなり。されど思へば不便ならずや。今は其跡も留めざるに、げに戀はやがて無常なりと、其首を振りて賢げなる顔付、いたく人間の物知りといふ者に似たりとか。

　

(562)　　　　　歌評

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　松岡國男

　　　　　壺すみれ

　

朝まだきうたふひばりの云々、萩舍大人の宣ひし如く、雲雀のこゑは囀るとこそいふべけれ、うたふ〔三字傍線〕とはいひがたかるべし

ゑましげにほゝゑみたつかつぼすみれ云々、初二句の形容、全く菫ばかりの小さき者にはいはるまじきにや」花おはき川そひつばき殘なくちりて流れて春くれむとす、花多き〔三字傍線〕はあまりにことさらめきたり、又末句春くれむとす〔六字傍線〕といはむには三の句の殘りなく〔四字傍線〕は打あはず

山里の秋のゆふべのかなしきにゑみてこぼるゝ栗もありけり、栗の實の熟したるをば、詞にこそゑみたりとはいひならへ、あのとげ／＼したるものが黄ばみ落むに、何の樂しげなる樣子かあらむ、こは唯詞の上の巧を求めたるにて、實は全く忘られたる也、更にかなしげなるに反映すべきものにはあらず

星一つみそらに高くきらめきてむなしき谷に木がらしの吹、空谷の木枯、さるべき趣ながら、初句の星は何の爲に一(563)つなるにや、之にては御手細工の景色なるべし」奧山に鹿おふ犬のこゝちして木の葉吹まく木がらしの風、木がらしが犬に似たるにや、思ひもかけず、さては又枯葉のまろがりとぶが赤犬の走るに似たりとにや、まこと奇しき歌なり

海士の子が磯邊にたちて我父の船まつよはにこがらしの吹、あまの子〔四字傍線〕はかづきする女なるべし、漁夫のせがれにはあらざるべし、三の句我父〔二字傍線〕のわが〔二字傍線〕の字も、甚安からぬこゝちす

名もしらぬ大木のかげに名もしらぬ鳥がねきゝて此夜あかさむ、穩ならぬ重ね詞なり、此主歌は更に吟じて見たまはぬにやあらむ

神のます方はいづことしらねどもみそらのはてぞあふがれにける、みそら〔三字傍線〕のはて〔二字傍線〕といふはての詞更に心ゆかず、唯みそら〔三字傍線〕なるべし、大なる差也

波あらきはなれ小島にいへもがなかゝるタにゆきてやどらむ、波あらきは四の句のかゝる夕〔四字傍線〕といふに係るにや、ゆきて〔三字傍線〕とあるにて陸上よりのながめなるべしとは思はるゝものから、何の爲のあくがれ心ともしられず、所詮は初の五文字わづらひをなせるなるべし

　

　　　　　　磯うつ波

　

故郷のまがきの野べやいかならむ草もゝゆらむ蝶もまふらむ、らむ〔二字傍線〕の三つ重なりたるが聞にくき上、いかならむ〔五字傍線〕といはゞ末二句の景などは既に心に浮ぶべき事なればいと無益なるべきか、まがきの野べ〔六字傍線〕は地名にや、さもなくば語をなさず

のどかなるあしたの庭に弓いればおどろきたちてうぐひすのなく、殺風景なること也、鶯はさるはしたなき鳥にては(564)なき筈なり、雀などやふさはしからむ

さほ姫のかすみの衣はるの野をぬふが如くも遊ぶいとかな、これもかけ詞などの爲に事實を忘れたる歌也、遊絲は春の末などの、麗かなる日にこそ見ゆるものなれ、打かすめる野べにはいかで見らるべき、又ぬふ遊ぶ〔四字傍線〕とはたらき詞の重りたるも惡し

岩の上にかもめねぶりてあらしほの汐の八百あひもかすむ春かな、かもめ〔三字傍線〕は海豚、膃肭臍などの類なるかた遙に風情加はるべし、されどこれにてもよき歌也、よきが上の難なり

さゞれふむ小鳥のこゑもあきたけて云々、さゞれふむは小鳥の足にてにや、驚くべし、聲も秋たけてとつゞけむは、例もあるめれど、いとはしきいひまはし也　つゝのおとの遠くきこえて小山田の秋のはてこそさびしかりけれ、ことば多くあまれり、今少し引しめずば感も生ぜぬにや

たつ田ひめ今はとかへるたもとよりほろ／＼とちるむらもみぢ哉、下の句うたひあぐるに、とちる〔三字傍線〕の三字前後の長き語の爲めにおされて、正しきこゑをなさず

木の葉ちる南殿のあたり風たちて櫻をめぐる夕時雨かな、南殿のあたりに風のたつらむもいかゞはしく、夕時雨の櫻をめぐらむ事もあるべしとはおぼえす、又櫻と打まかせていへば、花のさけるのかと思はるべし、されどこは吟じて後の感なれば、書く爲の歌ならば差つかへなきにや

きえのこるがすのともし火またゝきてちまたの霜に人かげもなし、二の句のともし火たゞのならばよからむとは思へども、こは何か瓦斯にせねばならぬことありと見ゆ

駒とめてしばし水かふ川くまの松のたえまにふじを見る哉、旅のうたならば實景なるべきに、初二の句などは題詠の臭味いちじるく見ゆ

くれてゆく空の名ごりのをしき哉云々、くれてゆく〔五字傍線〕はくれゆくなるべし、て〔傍線〕の字挿まれても猶同じ心なりと思はるゝ(565)にや

何とかやいひけむ島の土くれを神ともいつく世にこそありけれ、何とかやいひけむ〔八字傍線〕は文の詞なり、歌に用ふべきにはあらず、佐渡が島のことにや、むつかしきいひやう也

　

二篇數十首の歌の中、めづらしく安らかに承りしは、壺菫の中に、思ひ川思ふことなくて、磯うつの波の中に、九重のみかどの前のの二首、難はありても猶よしと承りしは、かの星一つ、いはの上に?ねぶりて、又末の方の春日の神など也、此他大かたは感なくて、口網のもろもちも、いと其甲斐なきにや、一つ／＼申さむもくだ／＼しければ、今はその著きをのみ書つけ侍り

歌の舊套を脱せぬといふは、詞つかひよりも、先趣を構ふる上の難なるべし、新しき想ありて新しき詞の之に伴はむは元よりなれども、何はおきても語を、いひかけをともとめたまふに似たるは、世に衒はぬ君にして、なしたまはむ事ともおぼえす、昔は商人のよき衣きたるさへ、あやしきものゝ數なりしときけど、當世には其例めづらしともおぼえねば、大人の歌の如きは、之を田舍人の洋服調ずとて、田地を賣はらひたるにもや比べはべらむ、元より一時のすさびならむ事は明かなれども、後輩は猶まどひはべるべし、心したまへ

　

(566)　　　　　獨?記

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　十一峽樵夫

　

　　　　　　　　　　二

　

獨?シテ獨思フ、數多キ人生ノ快樂ノ中ニ人ニ嫉マルトイフ事モ、亦小ナラザル一ナラム、諸子ヨ、一タビ彼ハ何ガ故ニ我ヲ嫉マザルベカラザルカ、我ハ何ガ故ニ他ニ嫉マルベキカヲ思ヘ、何等滿足ノ懷ゾ、我中ニ催スハ、何等愉快ノ感ゾ、我心ニ生ズルハ、希クハ一國ノ男子感來リテ我ヲ嫉メ、次デハ又我ヲ惡メ、我自尊ノ情ハ爲ニ大ニ燃エ、我ヲ防禦シ我ヲ奨勵シ終ニ又我ヲ大ニセン、快ナル哉。

我ハ誓ヒテ他ヲ嫉マジ、此唯自陋ニシ自卑ニスルノ爲ノミ。假令其人ニ害アルヲ顧ズトスルモ亦我ニ益ナキヲ如何ニセン。我徒ハ決シテ此愚ヲ講ゼザランカナ。

男子ノ世ニ來リシ豈ニ徒爾ナランヤ耶蘇が如ク麻吟馬�ｺガ如ク匹夫匹婦ヲ籠絡シ蠱眩シ畏嚇シ屈伏シ盡サバ亦可ナリ此事君成ラズバ我ハ先務メテ人ノ嫉ム所トナラム面從何ノ敬ゾ阿諛何ノ謙ゾ諸子乞フ此小僞善ノ爲ニ貴キ短生涯ヲ忙却スル事ナカラン我常ニ愴ム諸秀才半世ノ學ト識トヲ提ゲテ爲ス所何事ゾ俗世ノ奴ナラズバ名利ノ僕ノミ君ヲ好ミスルモノハ痴子ガ言ト雖必聽キ君ヲ惡ムモノハ狂翁ガ辭ト雖必懼ル遑々焉タルカナ促々乎タルカナ我當ニ之ヲ悲ム。

(567)嫉ヲ懼ルヽハ幼婦ガ匹ナリ小兒ノ類ナリ幼婦ト小兒トハ其中ニ憑ム所少ナル外ニ頼ル所多キヲ以テ他ニ媚ビ他ニ從ヒテ友トセラレザラム事之悲ム之モ亦可ナリ唯丈夫ハ須ク此ノ如クナルベカラザルノミ

　

(568)　　　　　小生ノリヽク

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　玉樹子

　

　　　　　月、風

　

月は棕櫚の樹のひろごりたる葉の上に清き光を宿してをかしの影を机の邊りに投けくれぬ。白う際立ちて見えずもがな香を誘ひくる風に梅の花こそしるけれ。壽がゝきの音のさえたる頃日にはいとめづらにて心ゆく折しも心づきなしや黒き雲の月を包みて琴の音も止みぬ。風よ雲吹きはらひて月を出し又もすがゝきの音をのせてきね。月よなが光もて我思ふ人のほとりに導き行きね。されど事わざしげき世なれば月あかきにうかれて戀しき門に笛吹きずさみけんすきばみし昔は今になすよしもなからん。今は唯ミユーズの神ペガスヽに乘りて風となり人の心を頑にする黒雲を吹きはらひ天の立琴の微妙の聲をつたへてよ。

　

(569)　　　　　小バーンス

　

朔風がヒュー／＼鳴きながら人の耳を千切て行く此頃でも苜蓿の花が銀河の樣に青い草の間を流れて暖い風が頬を撫でゝくれる夏の初でも日曜休日の外は自分は毎日大學の構内を通る。イーズメントの例に先生が取つたのは至極妙だ。然るに人を灼き付けて蒸燒きにして見樣と巧らんでる太陽がヤット顔を出した夏の朝でも物悲しい枯木の樣な冬の神が間誤付いて居相な冬の朝でも行掛には大概八ツ位な小さい小供に會ふ。根津邊から本郷小學へ行くのだらう。小さい汚れた革嚢を肩から提げて此頃は穢ない棒縞の衣物に目倉縞の羽織で袴もはかず寒む相に慄へながら通る。稀には歸りにも會ふ事がある。其時は友達と連立ち笑ひながら來る。大概顔は墨だらけで目計り光つて居る。其顔の無邪氣な所が何處かスヰントンの英文學のバーンスに似て居る。鼻を垂した所などがそれより少し間が拔けて居る計りだ。だから自分は小バーンスと命名してやつた。小バーンスは凡一年前から毎日の樣に會ふが顔付は何時も罪がなく人を微笑はせ相だ。��御前の小い胸の中は恐くは學校から歸て駄菓子を貰ふ嬉しさや蜻蛉捕りに出て根津の原をかけまはる樂で充ちて居るであらう。若しや心配や悲しさと云ふものがあつても上面だけ可畏い先生に叱られる事か無邪氣に意地の惡い友達にいぢめられる位の事だらう。然し御前は悲や憂が巣食つて居る此己れの胸の苦しさには思ひも付くまい。去年の夏の初咲き亂れた苜蓿の上に西洋人の小供が遊んで居るのを立止まつて御前と一緒に見て居た頃の己れと今日此頃木の葉と一緒に希望の花の散り果て、物思ひの擒となつて居る己れとの違には氣付くまい。嗚呼幸なれ無邪氣のもの。己れが切に御前を戒め御前の爲に祈る事は到底とゞく當てのない者にあこがれて心の安慰を失ふなと云(570)ふ事だ。斷ち難いのをたち棄てがたいのをすて思切りを付ける迄の苦しさ囘想の悲しさ嗟乎此經驗のないものは實に幸福だ。嗚呼無邪氣のもの。モー十年も經ち小學を出ての後此己れの心の中での戒に背いて此苦みを受けるな。此苦みに耐へかねて死ぬな。バーンス〔四字傍線〕に似て居るからと云つて山蔭の畠の雛菊に數行の涙を浴びせた樣な心弱いものとなるな″此頃小バーンスに出會ふ度毎にかう思はない事はないのだ。雪の朝でも風の日でも。

　　　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊

　戯に都々一を作る

Ein　Fichtenbaum steht einsam……　　　　　　（Heine）

　　私しや雪の中の一本松で

　　　　　　遙か南の椰子を戀ふ

　

　

Er ragt ins Meer der Runenstein　　　　　　　 （Heine）

　　ルーネン岩から海原みれど

　　　　　　戀ひしゝ人も波ばかり

　

(571)　　　　　干潟の霜

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　大峰古日

　

若葉の夏はたけ、花野の秋もうつろひて後、小暗くもの悲しき冬に入らんとするに臨みて、小春といふ日のあるこそうれしけれ、あした身にしむ時雨のおとなひ、夕暮すさまじき木枯のみだれの中に、夢の間ののどけさは立ち還りて、山には紅葉のにほひ樹間を時めかし、野には百鳥のうたひ賑はしく、空の光、水の緑も、過ぎにし春のかゞやきをおぼえしむる、いかなる神の御心ならん、遊子のうき世渡りに疲れて、柳絮斷雲のたゝずまひわびしく、葡萄の酒紅醒めがちに、袂に沁める薔薇の露、香そゞろにうつろひゆく時、昔の山邊海邊をさまよひて、志のぶ草の種もとむるに、思もかけず、春に似たる小春の日に逢ひたる、よろこバしさは、はかなさにもまさるなるべし、長谷の觀世音の御庭に、一本のいと櫻うつくしくかへり咲して、やはらかなる海風になびける陰を、我たゞ一人逍遥したりし時、ふと思ひ出でたるは親友某がことなり、今は年久しきこしかたとなりぬ、遠近の野山より初花のたより頻なる彌生の盛に、彼と二人南國に旅寢を重ねて、ある日は鎌倉の故さとを沖の夕日の影にしのび、さては金澤の渚つたひをあくがれて、盡きざる春の興をうたひあるきしことありき、さらぬだに過ぎやすき人世の春なりしを、戀に望にあまりひまなく醉ひ夢みしかば、時の間にかなしみは廻り來て、なげき多く憂志げく、友は堪へかねて疾く逝き(572)ぬ、我も亦ねがふ事終に成らず、妹を失ひ母を葬りて、故郷にもまた遠ざかりつ、過ぎし記念と留まれるは、つれなきこの?一つのみ、行きてやすらふべき里もなし、いでや蘆の枯生に鹽燒く烟まよふらん、六浦の入江のあたりとぶらひて、心無き山水は思ひも出づまじき、昔の二人の跡を尋ねん、

十月末の八目、朝霜銀の如し、磯になみ立てる松の老木、けさは嵐の音もたてず、影も寒げに朝日の光まつさま、凋まずといふ名もおぼつかなLや、まだきに宿を出でて野島の陰を行けば、沖の雲日を蔽ひ、渺茫としで海の色かなしく、此曉や退潮なりけん、干潟はる／”＼と霜はおきて、眞砂の色を埋めはてたり、岸の巌に凭りて、そゞろにものを思ひをれば、浪のみ空しく立かへりて、?も飛ばず舟も行かず、何といふ景色の淋しさぞ、案き風の我を吹きて、燃えかへる胸の炎を、さまさんとするに似たるもつれなし、かのひの事の忘れがたさよ、朝霞入江の浪になづさひ、鳰鳥の聲、おちこちにそゞろく時、柳なびく橋の陰より、小舟の纜をとき出でゝ、野島の磯の汐千のさまを見んと、旅人の岸に立ちやすらふ、瀬戸の渡を横ぎりぬ、船に載せたる酒一壺、いまだ酌まざるに人は醉ひつ、友は歌ひ我漕げば、玉藻の若葉舷にふれて、亂るゝ姿なまめかしく、水に映る雲の影は、漕ぎゆくまゝにたゞよひ搖きて、我が心もいとゞ空なり、

大潮の名殘なくひきたる遠淺に、里人あまたまだきより來つどひて、この岡のふもとより、遠き夏島の島影かけて貝ひらふ群のゆきかひしげく、友呼びかはす聲々花やかに、稚子は笑ひをとめの袖は飜りて、とり／＼におのがたのしみを盡すさま、まことの春の國とは、こゝならで何處をかとぞおぼえし、我もおり立ちて同じ海士の子が群にまじり、蛤ひろひ魚あさりて、都の風情のやさしさをまねばんと思ひしが遠き眺望のあまりに興あるまゝに、浮き立つ友の袖を引きとゞめて、其の船中に坐し、靜にこのさまを望みつゝいふばかりなき景色のやすらかさに、時の移るをもおぼえず、

友は顧みて我に語りぬ、今こそはわれ畫人の工を羨まめ、この空の瑠璃の光、あざやかなる雲の白さ、沖の霞の荒浪(573)をしづめたる、遠き渚の眞砂の色、かなたには夏島の松の梢、水に臨む枝ぶりをかしく、春に似つかはしき後面の景、すべて備りたらずや、ましてこの人々の立居往來、姿の變化を盡せるありさま、此まゝに畫となさんに、口惜しくもなかるべしといふ、

我は笑ひて、君の願の如くならば、さばかりの物うらやみはせずとも、寫眞器一つもたらしたまはゞ事は足るべし、我に畫だくみの筆あらば、面白しとてもこの景色、ありのまゝに寫しとるのみにては飽き足らじ、必やこの群の裡に、我が望むまことのをとめの花の色を加へて、春の錦の文とならん、赤裳のすそわづかにかゝげて、磯のさゝなみを踏み、けだかき微笑もて、たのしむ群を見渡したるさまを畫出でなば、此浦さながらに、美の神の御殿とならざらんや、いかにといふ、

友も亦笑ひて、猶夢の如きさま／”＼の物語をつゞくる時、見よや遙なる汀づたひに我がまぼろしや作り出でし、龍の都よりや舟漕ぎよせし、さらずば何處のたかどのをや下り來にけん、姿めでたきをとめ三人、歩ゆたかに眞砂路を打つれて、あなたこなたを遊びつゝ來りしが、忽すなどる海士の子の群にかくれて、志ばしは見えずなりぬ、春毎に此濱にたつ霞も、朝ごとにさす日影も、いつかはかばかりの花の姿をつゝみ、かばかりの玉の貌に輝きし、我も友も顔見合せて、思ひもかけずゆかしきことのさまに、轟く胸志つむるによしなく、醉へるが如き心のみだれをおぼえき、浦人の袖の隙より、花やかなる衣の色め、ちら／＼とほの見ゆるごとに心にくき、ため息をつきて、物狂ほしくもささやき合ひしが、はては何とも知らずうらがなしき思胸に充ち、過ぎし日の數々のうれひまで、かつはたより得がほにせめぎ來れば、二人ながら船の中に身を横へて物もいはず、志ばらくして立上り見れど、美しき君は何方にかへりけん、早かげも見えず、日影の暖さに倦みて、里人のあなたこなたに息へるのみ、我彼も心づき促し合ひて、つひに入江の宿に漕ぎかへりぬ、行末の事はおぼつかなし、されど短くもあらざりし、我が二十五年の生の中には、かばかり身にしみし事のさまは、(574)二つありきともおぼえず、かゝる淋しき冬枯の浦わに來て、昔の春には似もやらず、我たゞ一人さまよふ時さへ、日影にとくる霜けぶりの中に、かの日の海の霞を思ひうかべ、浪ふみたりし赤裳の裾、紫濃かりし袖の色も、ありありと俤に見えて忘れがたし、

其夕ぐれ宿の欄干に凭りて、海遠く打見やれば、樂しかりしけさの磯邊には、潮再みちて、波瀲?として岸を洗ひ、黄昏の催すまゝに、沖の火の三つ二つ、あなたこなたにたゞよひそめたるもあはれなり、友は戀をかたりぬ、人間のよろこびのあまりに時のまにて、悔は恨は永く世に殘れども、樂の泉はながれいとたきつせにて、成るモたゞ事成らずば生きかひも無き心地すべき、おろかなる願を抱きて、うき世さまよふべき身の程のわりなさをかこちつゝ、うつくしき彼が目には涙の玉かゞやき、その口もとにはやさしき微笑ありき、我も亦無きにしもあらぬ心のなやみを一つ二つとり出でゝかたらふ中に、夜の朧はやう／＼深くなりて、我が灯の火もかすまんとす、寢しは初夜の程なるべし、何とも知らず怪しかりし夢に驚きて、我は目さめたるに枕に聞ゆるはたゞ斷えざる浪の音、それもいとやはらかに、居待ばかりの月の光はほのかに窓に在り、入江の水の朧月夜、いかばかりならんと、ゆかしさはたへ難けれど、友が穩なる眠覺さんも心無さに、また枕をとれば、障子に添へる有明の灯の打沈めるも、あくがるゝ人の魂をなだむるに似たり、

眠れる友はふと目を開きて、めつらしき夢を見つといふ、いかなる夢をか見たまひし、語りたまへと問へど、唯ほゝゑみていふことなく、いかなれば我が心、かく迄には迷ふやと、はては又よべの物語のつゞきを求めて、かなしき事優しきこと、さま／”＼にいひ盡し、いたく我を泣かしめき、

此夜の友が言葉のはし／”＼にも、彼がつたなきすく世、ほの見えずしもあらざりしを、人なればいかでかそれとはさとらん、それより後四年ならずして、友を青山の土に埋めし日、はからずも思ひ起して、いとゞ苦しき歎をおぼえたりき、

　

(575)　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊

　

往きて復來じと心に思ひ定めつゝ、夜ごめに金澤を立出るあしたは、木枯すさまじく吹あらびて、寒さ昨日にもまされり、沖の波に黒き雲の亂るゝは、しぐれか、霙か、うたてくも我が世の行末に似たるかな、

　

(576)　　　　　西樓記

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　十一峽生

　

手習にいろは書き始めしなゝつより筆把れは世の事忘るゝが常なりしを、いつの程にかは思はねば物書かぬやうにはなりたりけん、疊の上にこぼれたる茶を拭ふとて、机の下なる反古引出したるに、片端白き二三枚の紙を見付けつ、是にぞかの稚き手ならひはして見んとて、二階の窓の外を行き過ぐる猫の子、喚び留めて、夕けの鱚のなかば取り出でゝ與ふるに、庇の上にうづくまり、耳垂れてたぶ、三毛のぶちすくなくて、丸々と肥えたるが、尾は二寸程にて、首玉は無かりき、今一つは赤猫の、すこし痩せたり、羨しげに遠くより見て居てなく、三毛は食ひ終へて赤と遊べり、亞鉛葺の屋根を轟かしつゝ、窓より見ゆる家竝瓦の波はる／”＼と連りて、大きなる甍は、我は顔にのび／＼と立ちはだかり、低く小さき軒には上り來る烟さへ、何と無く侘びしげ也、三毛が宿はいづれならん、老嫗など獨住みて、晝は何ぞのなりはひに、門の戸引きよせて出でたる間をわかければ一人をりかねて、ながしの上の小窓などよりや、出で來しなるべし、

さらずは孃樣物思ひ給ふひまに、縁を走り下り、植込の下枝か、生垣のはづれかに、紅の縮緬の首輪引き掛け遺して、直に貧しき隣の猫に訪ひ寄りけん、二人誘ひ連れたれどもまだ戀すべき時候にもあらねば、有樣さもさも安らかなり、赤が蜻蛉に目をくれて、土藏の方に走り行きしを、三毛は唯見送りて、喚び還さんともせず、

(577)十年の友垣にも、隔つればへだてはあるものを、玉とよべば早來て、膝近くむつれつゝ、にやうなどもいと打とけたりや、ひげあるものゝ萬に物むつかしく、にくゝ、心おかるゝ世に、唯このものゝみは、さうもなかりけりと、抱き上げて、其顔打ちまもりつゝひとりごつ、昔飼ひたりし玉といふが、亦同じ毛色なりき、春さきに一夜宿をあこがれ出でゝ、よき妻にや住み付きけん、久しく歸り來ざりき、蠶がひ終に近き頃、川むかひなる友が家に、行きて憩ひしに、竈の上に眠れるやつが、あまりによく我が猫に似たれば、立ちよりて引き起し見るに、果して尾のさきすこし曲りたり、今は名をみいと呼び更へて、友の妹にいとよくなつきたり、友が妹は我が好むこと深かりし子なり、此うかれ者が再夜まどひして、つひに又行へもしらずなりはてざらましかば、此事を話の種に、したしき人にもなしたらんものをと、一方ならずぞ惜まれし、

虎猫の逞しく大なるに爭はれて、今は其妻がね思ひ絶えたりけん、夕方潜に歸り來て、長火鉢の陰に頗撫でをる猫を、駒よ痩せたりな、鶯蛙の國にこそ、歌といふものあなりといへ、汝が此頃のあじきなさは、歌によみ出づべき術も志らじ、あはれ、他羨ましとは思はずやといへば、あなたを向きて何とも言はず、其猫あくる年はいたく眼をやみて、きたなしと人にもきらはれしが、其春はつひに遊びにも出でず、夏になりて身まかりき、

これも子猫の赤斑なるが、頷の下のみ眞白にして、仰がせて見れば顔の形は三角に、握飯といふものによく似たればとて、ふつゝかなれども握飯とは名づけつ、又一つこれも赤くて、其顔の斑、芝居の梅王丸が紅隈に似通へりとて、やがて梅王と呼びたり、梅王といふは握飯が姉の子なりき、此一族は殊に我としたしくて、我は梅王が同胞、いくつかの名付親なりき、

薄桃色に花にほふあらゝぎの、香は遠けれども形のいと好ましきを、人來て得させつ、黄なる鉢に植ゑて、南天の木の東に置きたり、花うつろひ人忘れんとする秋の末近く、たまたま小猫の戯れて、石の上に倒しつれば、淺ましくも鉢三つに碎けぬ、塵をだにすゑじの我がちかひも、今はたかゝるものにすら、あなづらるゝまでなりつるかと、すゞ(578)ろにかなしくて、移し植んにも力無かりき、袖垣の下蔭より、何とも無げなる眼して、此あり樣見てありし三毛は、何時の間にかつひに歸り行きぬ、誰かは此事を告げたりけん、猫の主なる隣の刀自、其夜おわびに來て、人々取りなせども聽かず、小さき罪人は、あくる日よその村へ遣されぬ、月頃を經るまゝに、折ふし思ひ出でられて哀なれば、其村に行くといふ油賣のたよりに、龜節すこしことづけたりしが、其猫が身の末は、終に聞かずしてやみき、梅原の小學校の庭にて、穉き仲間と遊びし日、獣にも樹に巣くふものありと、我が言ひ出でしに、人々これに反對せざるものなかりき、其證として我が擧げたる「もゝんがあ」は、唯世の常のおばけなればとて否まれつ、他の獣にもまだ樹に巣くふがありといへば、さらば何ぞ言ひて見よ、言ひて見よ、言ひ得じと口々に迫るに、思はず猫と答へつ、馬鹿なやつかな、いづこの猫か樹に巣くひたると、嘲り笑はぬものも無ければ、よし、さらばあすの土曜日には來て見よ、うちの棕櫚の木に巣くひたる、猫の巣を見せんと、固く約したり、其朝はとく起きて、程よき棕櫚の木に梯子をかけ、木片をさしわたし、藁屑を引きまとひて、巧に大なる巣を構へつ、宿の猫がまうけたる、まだ眼も開かぬ三匹の小猫は、不憫にも我が意地の犠牲となりて、其中に入れられて寒さうにこゞまりをれり、學課の終るをまちかねて、二十人にあまる兒供は、どや／＼と門を入るに、流石に胸も轟きて、一人まづ立ちよりて見れば巣はあれども半毀たれて、中なる猫の雛はふつに見えず、怪しみて家に入れば、十三なる姉は、泣きながら我を見ていたく罵りぬ、親猫が樹の下に行きて、鳴きし聲を聞きて、這ひ出でんとせし程に、落ちて皆死にたるなり、これよりの後、我は「猫の巣」といふ綽名負ふせられしが、今日の日まで猶おぼえをる友もありて、折々は語り出でゝは笑ふとか、鰥住して金たむる、久助男が夕ぐれの店先に、北より來て息らひたる旅人あり、大なる籠のからなるを側におろしたるに、何のあきなひぞと問へば、秩父の大宮へ猫賣りに行きつ、再東京に歸りて仕込むなりといふ、久助耳を傾けて聽けば、珍らしき話なり、かひこ害ふ鼠防がすとて、かのあたりの猫は拂底して、近頃兩に二匹なり、やがては一匹計にも騰らんと、きくにつけても、灰に汚れたる我家の斑も顧みられて、あくる日は日ぐらしあたりの猫を買ひ集め(579)ぬ、此噂夕ぐれには早隣の村にも傳はれば、こゝにも猫の値は上りて、仲買の利を見んとて奔りまはるもありき、秩父へは、十六里、一日の途には苦しきを、夜深く家をたちて、松原雜木山、道すがら籠の猫の、さま／”＼に鳴くも頼もしけれど、逢ふ人毎に怪みて、ことなる商賣もあるものかと、思はぬはなかりき、夜大宮の町に入れば、市の往來は多けれども、猫問屋の何兵衛が宿は、誰も知らざりき、久助は草臥れて、數十の猫とゝもに、道の傍にたふれ伏しぬ、此頃より大宮の一郷にのら猫の數夥しくなりて、それが爲か否か、猫のあたひ極めて低かりしといふ話曾て聞きしことあり、小説といふものにやなど思ひしが、今猫の事思ふとて再思ひ出しぬ、宿の三毛が頭にかうむらせて、ままらせし紙袋を、古くならぬやうに藏ひおきて今にこれが孫猫に被らせて見んと、弟等と企てしことありき、三毛が産みし初の子には、牝猫唯一つありしを、程近き棉屋の隱居にくれて、それが又子うむをまちをりしに、あくる年の春は早くも身ごもりて、物置のあげ板の下に、二つうみぬ、弟いふ、これにてはまだ興淺し、同じくは曾孫にして被らせんかの紙袋はまだ些も破れぬをといふまゝに、わた屋の小猫を、強ひてもらひ來りて育てたり、これがうみし子は、やがて前にいひし「握飯」にて、やゝ大きくもなりたれば、ある日人々集りて、かの由緒ある紙の袋を被らしめて、其の例の如くしりごみするを見屆けつ、弟も我も年頃の願を遂げ得たるうれしさに、手を拍ちよろこびたりし、そのおろかなる心もちは、今もまだ殘りをりてや、かゝるよしなき事のすさびはなさしめけん、

　

(580)　　　　　すゞみ臺

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　松丘隱者

　

　　　　　　　　　　一

　

太平洋記者足下、忙人は忙なるが爲に夏を苦しみ、閑人は閑なるにより夏を苦しむ、今閑人と忙人と相對して夏を語らば如何、又如何、閑人閑處に在りて?々書を忙處に送り、忙人をして更に忙ならしめば如何、我夏は則ち漫なり、君に書を送る、

◎「ツルゲニエフ」を讀む、「遊獵者の手記」を終りたる後、尤感じたる事二あり、一は露國南方の平原所謂「ステップ」の朝の風夕の雲、此人の筆によりて、名殘なく畫き出されたる事なり、他の一も亦我國人の想像し能はざる境にして、且つ一國の法制が藝術の發展に制限を與ふるや否やの問題を決せしむべきもの也、そは他ならず、彼國に於ける夏期遊獵の趣味なり、清水ある樹蔭に馬車を繋ぎ、或は若葦そよぐ入江を小舟漕き入れて、雛鳥の羽ばたきを尋め行き、時としては銃の煙を立てて、遠き白雲と紛れしむる樂しみは、かの盲碌頭巾に耳を藏して、枯木蕭條たる林中を彷徨する者の、夢にも想ひ到らぬ若々しき趣なるべし、佛園の近古史などを繙きて貴族の狩獵權なるものの、下民を虐ぐること極めて甚しかりしを見て、一身の歡樂の爲に斯く迄の犠牲を求めて、顧みざるは淺ましと思ひしが、此(581)の面白味ありてこそ、それも無理ならぬ富者の欲なるべし、

◎「遊獵者の手記」二十數篇の中、「ルゴフ」の精彩尤人を醉はしむるに足るものあることは君も許すなるべし、されど僕が殊に身にしみて面白しと思ひしは「荒野の一夜」の篇なり、夜山路に迷ひ僅に斷崖の頂きに出でたるに、野原遠く廣がり音なき大河の夢の如く流るるあり、無限の闇の中に火の光唯一つの幽なるは、馬を夏草に放すとて里の子の淋しき夜を守れるなり、狩人其邊に下り立ちて、臥しながら幼き者の夜の物語を聽く、鐡と蒸汽の世に立出でしより、詩人夢見ず僧愚にして、茫々百年を過ぎんとす、神秘は僅に荒野の草隱れより探り求むべし、作者が斯る境に身を置くことを得しは大なる幸なり、讀者も亦之に由りて樣々のことを思ふことを得べし、

◎平野の趣味は我國の如きに生れしものには、之を感ずること難かるべし、遼東の戰より人の歸りし頃は折々之を説く者を聽しが、終に耳を傾くるに足るもの無かりしは、聽者の無能力に由りしや否、兎に角如何に誇大するも武藏野や位では仕方なかるべし、利根川の流域は君説き我も曾て之を愛せり、されど唯愛せしのみ、可愛きのみ、

◎其川の堤に住むは、夏或は尤も面白かるべし、小舟に帆を掛けて風さやかなる朝など流れを溯り行かば、處々の人家、處々の柳、岸行く衣の白き、掉歌の節柔かなるスチブンソンが「シエルト河の舟路」など思ひ出でぬべし、帆を卸し流れに任すも亦佳なり、凡て川添の里は旅人の訪ひ來るもの夏尤多し、夕暮川原近き家の門に涼臺据ゑて男女若きが多く涼めるに、浴衣引かけ團扇持てる人の、言葉も掛けず足早に通り過ぐる後附、彼は誰ならんと知れる者無きに、ふと何屋に宿れる旅人ならんと思ひ得て、ゆかしくその引返し來るを待てる、如何に田舍らしき光景ならずや、又遠く花火の音するに今宵は常陸の某の村に夏祭ありといふとて人々汀に下りて見る、やがて曉の明星ほどの高さにて、川向ひの樹の梢に見えたるも、これも昔の夕方の樂なりき、

◎されどこは唯夏の事なり、秋穗蓼の紅く蘆の白く、蟋蟀渚に鳴く頃は、風も悲しく燈も悲しく、雲は水に映り、水は寒く流れ、戀する者は別れ、夜になれば人皆今居らぬ人の事のみを話説す、斯くて木枯起り雪吹雪き平野の感は唯(582)愁の一つとなる、是大凡日本の平野の哀なるべし、

◎況や水の漫々と湛へて、或時は大波騷ぎ或時は細波私語きて寒からば、冬の原は殊に蕭條たるべし、此季節に旅人の少きは宜なり、實に水は冬見るに悲し、一人立ちて眺むる時は必ず悲しき事を想ひ起す、

　　長崎のありその波にまきれけり

　　　　ゆきつる妹がしろたへの袖

　

　　　　　　　　　　二

　

◎伊勢の海邊に遊びし時君も聞きぬ、伊良湖の漁夫の女、志摩の浦人に嫁ぐとて、冬大雪降頻る日を、何の爲の黄道吉日なりけん、人々と舟を浮けて、渡合の濤を渡りしに、滿ちたる帆に雪積みて終に風に堪へず、神島の沖に船覆りて、花嫁は良き衣と共に潮の底に沈み、父は泳ぎて歸り來りし物語、誰かは海を望みて想ひ起さざらん、殊に志摩にて待ちし人、今も老いて生きて在らば、如何に冬の水の悲しかるべき、

◎唯夏に在りて之を説くは或は知慧の無き話ならん、夏は人の無神經となる季節なり、凡ての事に倦くして受性の願のみ烈しき時なり、夕顔棚の下涼に一時の安逸を貪るの人に、悲慘なる冬の物語を爲すは、或は氷を獻ずると同じき媚ならん況や都門の人に對して、天離る鄙のあはれを説くが如き、歌にでも詠まるが落なるべし、徒爾な事なり、

◎青梅に遊びぬ、玉川に架けたる萬年橋は昔の萬年橋には非ず、昔の萬年橋は危くなりて燒き捨てたる由なり、山の夏は未だ淺くして鶯頻に啼けり、河には河鹿多く棲みて鳴く、宛然たる古今集の序なり、山の聲の市の聲と異るは、十里の路を隔てて既に全く然り、我は若し盲ひたりとも、猶旅せんと思ふ、今些か耳の欲の　　稍々他の欲よりも優れたることを説かんか、

◎否、我は閑人なり、今甲の優と乙の劣と、子の美と丑の醜とを決定せんが爲には、高山學士在り、誰か閑人我を要(583)せんや、我は唯記せんのみ、我は虞初新誌に於て秋聲詩序を讀みぬ、碁聲機聲請書の聲佳なることは古く人之を説けり、我が曾て好みたる聲は他に存す、

◎茲に再水を説く、萬の聲水に近くして殊に聽くに佳なり、例へば普請の聲なり、勇ましき胴突の聲、音頭の澄みたる聲と水を渡り來るは更なり、鋸の音も槌の音も水に響くときは皆面白く聞ゆ、春酣に水の紺青なる頃、何の聲も皆心を時めかすが中に、晴れたる朝など船大工の槌の音を聽くばかり樂しきものは非ず、櫻散る頃の春の興は、遠く木場、十萬坪あたりを逍遙して、仲仕が材木引上る聲を聞き、さては鏡花が三尺角めきて、日南に鋸匠が大鋸使ふ音、又はその船大工の木を叩く音を聞くことなり、同じ頃に渡り鳥の歸り行く聲は、意留めぬ人こそあれ、又なく哀なるものなり、晴れたる空の色深く、仰げば目映ゆき中を、高く幽に啼きて何處とも無く飛行く、鵯の聲は殊に忘れ難し、雁鴨の聲は唯囂しくて何の功に歌に詠まるるやも分らず、世の「麓の塵」連には、責めて?眼兒の歸る聲なりとも聞かせ度ものなり、

◎夏に入りて市の聲の我が好むは、苗賣の聲なり、昔の蚊帳賣の聲の懷しさは知らず、「茄子の苗」「胡瓜の苗」はさもあらばあれ、「絲瓜の苗や夕顔の苗」「朝顔の苗や翠菊の苗」と叫ぶを聽けば、胸痛き迄嬉し如何なる園に培かはれ如何なる手に抽かれけんと迄は想はずとも、假令價に換ふるとても自然の落屑を拾ひ上げて、黄塵漲裡の人に輸るの志、そを言表はす聲の清からざる理あらんや、五月雨催さんとして市に住む人の心結ばるゝに、「新茶」と書きたる紙の墨色濃く、新海苔の看板も目を惹く頃、時鳥よりも珍らしきは此聲なり、「新藁や新藁」の聲は亦うれし、花屋は鋏の音が煩さきなり、

◎駒込の奧に家居り初めしは、一昨年の秋更けてなり、隣に岩崎と云ふ冨人ありて、廣き庭の中に限無く鶴と鹿とを放ち飼へり、妻を喚なるべし、夜更くれば共に啼きて、聊喧しきを、名に愛でて然も思はず、友に消息する毎に、曉には田鶴が啼くぞ、一夜鹿を聽きに來ずやなど誇りし、

　

(584)　　　　　旋風

　　　　　　　　富士の頂上にて

　

　烏見たいな先生たちだ。この眞暗なのにぎやア／＼騷いで、もう飛だして往つてしまつた。さうしてあんな隙間を明けて出て行つた。風が入つて仕樣が有りやしない。

　でも早く天氣になつて好かつた。星らしいものが外に一つ光つて居る。小屋の老爺の後の小ランプよりも、あの方がよつぽど景氣が好い。えエ今から起きて見たところで仕方が無い。まア寢て居て何か考へて遣れ。

　圍爐裏の向ふに足を投だして、三人の洋服がぼそ／＼と何かしやべつて居る。ウヰスキーを嘗めながら欠伸をして居る。八合目の室に殘して來た強力が、まだ來ないと言つて怒つて居る。強力は寢るさ。寢りやまだ起きて來ない方が當り前だ。今やつと三時を打つぢや無いか。馬鹿だなア、こんな時刻に、バルタガス何か吹かして居る。煙草は山に來るとちつとも旨く無いのだが、香りだけはやつぱり好い。

「おい、大月で買つた新聞はどうした。」

「近藤がボケツトにいれたよ。ぬれてしまつたらう。さうで無けりや奴さん、きつと敷いててのみ〔二字傍点〕取粉をまいてるよ。」

「何か有つたかい。僕はたうとう見なかつた。あんまり君が馬鹿な話ばかりするもんだから。」

「何もありやしないよ。それに一昨日の新聞ぢや無いか。復興局の公判ぐらゐなものだよ。……それから新月のおつ(585)母アの黒わく〔二字傍点〕が出て居たよ。」

「つまらぬことばかり注意するなよ。君なんかだめだ。政治も文學も興味が無いんだから……時に黒わく〔二字傍点〕と言ひやア、有明新聞の松村が大分惡いさうぢや無いか。」

　飛んでも無い話を始めやがつた。おれがその松村ぢや無いか。煩つたり雨にぬれて富士に登つたり、そんな二役かけ持ちが出來るものか……しかし待て／＼。まだ怒鳴り付けるには少し早い。さア、もつと何かしやべつて見ろ。

　さうすると今までだまつてゐた三人目の大きな男が、重つくるしく横合から面をだした。

「もういかんなア。殘念なもんだ。還つたら又行つて見るんだが、間に合へば好いがと思つとる。」

　何だ、あアんな事を言つてゐる。眼鏡をかけて寢て居りやよかつた。今から懸けたら話を止めてしまふだらう。兎に角聞いたことは無い聲だ。こういふ下つぶくれのちよびひげ〔五字傍点〕は、幾らも東京には有る顔だが、家の書齋へは仕合せと、まだ一人も入つたことが無い。何だつてつまらぬ出たら目を言ふのだらう。第一に、蟲齒やぜん〔二字傍点〕息で、人がさう早速に死ねるものぢや無い。

「さうかい、見舞に行つたのかい。君はよく知つてゐるんだね。いつ往つたのだい。」

「うん、先週のと……火曜日だつた。君と松平が電話をかけて居なかつたね。あの時だよ。何病だかはつきりと醫者が言はないさうだよ。ひどく弱つてねエ。」

　實に際限の無い與太である。社の方にはちやんと話がしてあるのを、たれかゞ知らないで病氣だなどゝ言ふからだらう。己は前々週から東山で書いて居た。それから新潟をまはつて、火曜日には鍋茶屋に居た。折角見舞に來てくれて空つぽで御氣の毒であつた。

「惜しいもんだなア、僕は古くからの愛讀者でね。出た丈の本は殘らず集めて葉山に在るよ。よく書いたね工。みんなで二十二、いや二十三册だ。今度の漂米記の上卷をいれると二十四册になる。あれが又すてきだねエ、大變に賣れ(586)たつて話だが、君は讀んだらうね。實際の話だと言つて居るけれど、ルパンにだつてあんな面白い幕は少ないね。」

　拙者の著書は總計で十三册と半だ。全體借金の言譯か何かなら、うそ〔二字傍点〕にも相應な情　　状が有るのだがこいつ等は又何が不足で、こんな愚劣な作り事をしたがるだらう。ゴルフか何かに出かけて、こつそりとしやべつて居ればいゝものを、富士の頂上まで遣つて來て、うそ〔二字傍点〕を吐くとは何事だ。と腹の中で痛罵して居るとも知れず、

「なアに、あれだつて本當の話ばかりぢや無いのだよ。日記でも紀行でも、本當の事は平凡だからね、それだけでは讀者が承知しない、もんださうだよ。いつかも松村がさう言つたよ。ダンテのやうな信心深い人でも、地獄へ往つたの、極樂でなじみ〔三字傍点〕の娘に逢つたのと、隨分正直なうそ〔二字傍点〕を吐いてるぢや無いかつてね。」

　やい／＼、己が何時そんな馬鹿な事を言つた。併し考へて見ると、このほら〔二字傍点〕吹き共の哲學は、荒増體系を備へて居る。ローマンスの止むべからざる所以を説いて居る。つまりは理窟なんだな。第一自分の平凡から脱却しようと思つて、苦惱して居るのだ。うそ〔二字傍点〕は彼等に取つて、生活を藝術化する努力なのだ。他人の夢は借用したく無いのだ。

　それよりも感心なのは、どこまでも眼前の事實に追隨しようとする態度だ。まさか松村が殺人光線を發明したの、仙人になつたのとは言ひやしない。己が先日若しぜん〔二字傍点〕息の歌を發表しなかつたら、よもや大病だといふ出たら目を聽いて來て、けしからぬあの第二のうそ〔二字傍点〕を誘ひだす氣も起らなかつたらう。兎に角有りさうな虚僞を、かうやつて次から次へ、自然に成長させて行く所は連俳文學以上だ。さうして相手はちやんとうそ〔二字傍点〕だといふことを知つて居るし、それを又こちら〔三字傍点〕で飲み込んで居ながら、協力して幻像を毀すまいとして居る。實に徹底したジヤアナリズムだ。玄人もはだしだ。

　玄人も我々程度の修業では、まだ時々は眞劍に眞實を求める。さうして正誤が來るとべら〔二字傍点〕棒に氣になる。併し正誤なんかしたがるのは痛い時だけかも知れぬ。かゆい〔三字傍点〕のやら、くすぐつたい〔六字傍点〕のは、忘れて置く方が却て趣味があると、思ふ者が多いのだ。……かゆい〔三字傍点〕と言へばこの小屋にも中々のみ〔二字傍点〕が居るなア。海拔一萬尺でもやはり仕方の無いものだ。(587)……おや／＼、まだ何が吐き殘しのうそ〔二字傍点〕が有ると見える。驚いたなア。

「あの本にもまだ書かないことがあるんだよ。僕だけが參加して居る奴さんの逸話だがね……」

「奴さん」とは無禮千萬なやつだ。

「ちやうど大戰爭の始まりだつた、僕がワルシヤワのブリストルに入るとね。先生有りつたけの金を使つてしまつて、まだ借金をこさへて弱りきつて居るぢや無いか。」

「君はあの時はウトレヒトから、ロツターダムへ逃げたと言つたね。それから大まはりをして行つたのだね。ふん。」

「さうだ。そしてまたノルウエーを通つて引返したのだ。何でも八月の末だつたよ。テケレツスキイとかいふユダヤ人が、ひどく來てゆする〔三字傍点〕と言ふんだ。それに女と居るもんだから金がまア要つたんだね。先生は青くなつてるし、光次はぽろ／＼泣くしね。えらい騷ぎなんだ。」

「光次つて何者だい。」

「知らんのか。そら、むかァし居たぢや無いか、佐野屋に。女優に出たといつて見に往つたよ君も。あれがちやうどポーランドに來てゐて出來たんだね。でも義理の固い女さ。あれから時々便りをして來るよ。今はヴエネチヤで、モデルをしてゐるがね。」

　もう我慢が出來ないから自分はむつくり起きた。さうして堂々と眼鏡をかけた。ところが意外なことには、三人ながら自分を見知らぬのか、乃至は極端に度胸がすわつてゐるのか。ちよつと身じろきをしたばかりで、依然として同じ調子で話を續けて居る。

「あゝあれか。顔の圓い、口の大きい、眼の可愛いゝ、米かみ〔二字傍点〕にほくろ〔三字傍点〕の有る……」

「何を言ふんだ。あれはお時ぢや無いか。僕のいふのは光次だよ。」

「うん分つた。併しあれなら君は横須賀へ還つて、汁粉屋をして居ると言つたくせに。」

(588)「それは小光の方ぢや無いか。君も善人だなア。自分にひぢ〔二字傍点〕鐵砲を食はせた女を間違へるなんて、ハツハア。」

「ヒヒヒ」

「外聞」だなんて言つて居る。唐變木どもが、たうとう己までも笑はせてしまつた。それに取つちめて見た所が始まらない。脇には老爺と在郷軍人が二人居るだけだ。このうそつき〔四字傍点〕等は先回りをして東京で、また出たら目の吹聽をすることだらう。歴史にも何にも爲りやしないから止さう。ちやうど好いや、下から強力が遣つて來た。昨晩の落ご〔傍点〕者が押上げてもらつてまだふう／＼と言つて居る。早く出て行つてしまへ早く。己ももう還らう。

「おぢいさん、御山もうつとしいな。己はもう寢てゝ草臥れてしまつた。もう御來光を拜まずに須走へ降りて行かう。」

「それはいけませんよ旦那。そんなもつたいな〔六字傍点〕いことをすると、運氣が開きませんよ。昨日も越中の御客さんと話したこつてすが、後村上天皇樣なども、折角八合三勺の小屋まで御登りになつて、改めて御對面をするでも無いといつて、御頂上を御懸けなさらないばつかしに、どうしても京都へは御還りが出來ないで、甲州で御隱れになつたといひます。誠に早畏れ多いこつて、わしの本家の山名の甚次郎兵衛には、御守り袋が在つて御塚の番をして居りますだ。寶永の御山燒けの時なんかも、ひでえ砂でごわしたけれども……」

　あゝあゝ、（ブルタスよ御身もまた）だ。おぢいさんその話はあんまり神々しい。今に三輪先生かたれかゞきつと書いて置いて下さるよ。私が覺えて還るにも及ぶまいからもう出かけます。

　そこでと。支度はもうこれでよいとして、この石垣の穴に折れた洋杖を突差して、絲通してぶら下げてある帳面は何だい。ふん芳名録か。芳名録だなんて、つまりはこの室堂の宿帳だらう。どれ／＼と開いて見ると、最後の昨日の日付の、群馬縣の在郷軍人の次に萬年筆のちつとも見事で無い筆跡で、先刻のうそつき〔四字傍点〕共が何時の間にかづらり〔三字傍点〕と署名して居る。これだけは本當の事で有るやら無いやら、それさへも實は不明であるがその眞中の一人は

(589)　東京市外上大崎長者丸

　刀劍鑑定家　豐野　安雄

と、餘計な職業までが書加へてある。これには少からず自分も驚かされる。これはたしかに今日までよく記憶して居る名前だ。怖ろしい大震災がもう二年近くも過ぎ去つて、戀も無常も一篇の追懷録に化してしまはうとする今日まで、忘れることの出來なかつた名前だ。そんな人間が實際に有つたのか。

　若し有つたとすれば、三人の中のどのちよびひげ〔五字傍点〕がそれであつたらうか。同名異人かはた僞物か。何れにしたところが自分に取つて決して小さく無い新聞である。

　

(591)　　第二十六巻　内容細目

　

日本の昔話〔1930年3月アルスから出版〕

　昭和三十五年版の序

　新訂版の始めに

　はしがき

　本文………………………………………………………………一五

　

日本の傳説〔1929年5月アルスから出版〕

　再び世に送る言葉

　はしがき

　本文………………………………………………………………一三七

　傳説分布表………………………………………………………二四九

　

辭書解説原稿

　　一　日本文學大辭典（昭和七年〜十年、新潮社版）

　　　　朝日夕日…………………………………………………二六五

　　　　阿曾沼の鴛鴦……………………………………………二六七

　　　　あまのじやく……………………………………………二六九

　 (592)　　　　粟袋米袋…………………………………………二七一

　　　　石芋………………………………………………………二七三

　　　　和泉式部…………………………………………………二七五

　　　　打出の小槌………………………………………………二七七

　　　　うつぼ舟…………………………………………………二八〇

　　　　姥皮………………………………………………………二八二

　　　　産女の怪…………………………………………………二八四

　　　　瓜子姫……………………………………………………二八六

　　　　うるかの歌………………………………………………二八八

　　　　大話………………………………………………………二九〇

　　　　大人彌五郎………………………………………………二九二

　　　　お銀小銀…………………………………………………二九五

　　　　御伽噺……………………………………………………二九七

　　　　鬼ヶ島……………………………………………………二九九

　　　　竈神の本地（以上第一卷）……………………………三〇一

　　　　庚申講と昔話……………………………………………三〇三

　　　　口碑………………………………………………………三〇五

　　　　米倉米倉…………………………………………………三〇八

　　　　山莊太夫…………………………………………………三一〇

　　　　酒泉傳説…………………………………………………三一三

　　　　頭白上人…………………………………………………三一五

　　　　炭燒長者…………………………………………………三一七

(593)　　　　大太法師……………………………………………三二〇

　　　　寶競べ……………………………………………………三二二

　　　　たけくらべ………………………………………………三二四

　　　　長者屋敷…………………………………………………三二六

　　　　沈鐘傳説…………………………………………………三二八

　　　　傳説（以上第二卷）……………………………………三三〇

　　　　虎が石……………………………………………………三三四

　　　　何故話……………………………………………………三三六

　　　　白米城……………………………………………………三三八

　　　　羽衣………………………………………………………三四〇

　　　　橋姫………………………………………………………三四二

　　　　八百比丘尼………………………………………………三四四

　　　　花咲爺……………………………………………………三四七

　　　　話の種……………………………………………………三四九

　　　　咄の者……………………………………………………三五一

　　　　人柱………………………………………………………三五三

　　　　文福茶釜…………………………………………………三五五

　　　　紅皿缺皿…………………………………………………三五七

　　　　松山鏡……………………………………………………三五八

　　　　民譚………………………………………………………三六〇

　　　　昔話………………………………………………………三六二

　　　　餅と白石…………………………………………………三六四

(594)　　　　桃太郎………………………………………………三六六

　　　　山爭ひ……………………………………………………三六八

　　　　山姥………………………………………………………三七一

　　　　落語………………………………………………………三七三

　　　　笑ひ話……………………………………………………三七五

　　　　椀貸穴（以上第三卷）…………………………………三七八

　　　　伊勢や日向の物語………………………………………三八〇

　　　　縁起………………………………………………………三八二

　　　　お竹大日（以上別卷）…………………………………三八四

　　二　世界文藝大辭典（昭和十一年、中央公論社版）

　　　　口碑………………………………………………………三八六

　　　　道祖神……………………………………………………三八七

　　　　山窩………………………………………………………三八八

　　　　山嶽………………………………………………………三八九

　　　　獅子舞……………………………………………………三九〇

　　　　氏族神……………………………………………………三九一

　　三　大百科事典（昭和七年、八年、平凡社版）

　　　　カンジョーノキ（勸請の木）…………………………三九二

　　　　キジヤ（木地屋）（以上第六卷）……………………三九三

　　　　タダギツネ（管狐）……………………………………三九六

　　　　クチヨセミコ（口寄巫女）……………………………三九八

(595)　　　　クツガケ（沓掛）（以上第七卷）………………四〇〇

　　　　ゲダウ（外道）…………………………………………四〇一

　　　　ケボーズ（毛坊主）（以上第八卷）…………………四〇二

　　　　コーヒ（口碑）…………………………………………四〇四

　　　　コーボーシミヅ（弘法清水）…………………………四〇五

　　　　コーヤヒジリ（高野聖）………………………………四〇七

　　　　コシカケイシ（腰掛石）（以上第九卷）……………四〇八

　　　　コブトリセツワ（瘤取説話）…………………………四〇九

　　　　コメクラセツワ（米倉説話）（以上第十卷）………四一一

　　　　スミヤキチョージャ（炭燒長者）……………………四一三

　　　　セキカントー（石敢當）（以上第十四卷）……………四一六

　　四　日本家庭大百科辭彙（昭和五年、冨山房版）………二六九

　　　　ナ（名）…………………………………………………四一七

　　五　國史辭典（昭和十五年、冨山房版）

　　　　うじがみ（氏神）………………………………………四二〇

　　　　うぶすながみ（産土神）………………………………四二一

　　六　日本地理大系（昭和四年、五年、改造社版）

　　　　塔の澤（關東篇）………………………………………四二二

　　　　八瀬村聚落（近畿篇）…………………………………四二三

　　　　雪の東北（奧羽篇）……………………………………四二四

　　　　行�ｺ河岸（關東篇）……………………………………四二七

　

(596)竹馬餘事

　　詩之部…………………………………………………………四三一

　　歌之部…………………………………………………………四三九

　　文之部…………………………………………………………四四三

　　附録……………………………………………………………四四七

　

「しがらみ草紙」より（明治二十三年十一月〜同二十七年六月、十四號、二十號、二十七號、三〇號、三十二號、五十七號）……………………………四五三

　

第一高等學校「校友會雜誌」より（明治二十六年十月、二十七年三月、五月、十月、三十號、三十五號、三十七號、三十九號）…………………………四五七

　

松楓集より（明治四十二年四月）………………………………四六四

　

自選歌集……………………………………………………………四六六

　

日記より……………………………………………………………四八二

　

(597)にひ草（明治三十一年五月、帝國文學四卷五號）……四九二

　

連句手帖

　　問題……………………………………………………………四九四

　　叢隱居唱和……………………………………………………四九五

　　熱海新年兩?…………………………………………………四九七

　　熱海新年兩?（昭和十七年一月十一日）…………………五〇一

　　　　　その二（昭和十七年一月十二日）…………………五〇三

　　千枝女追善三吟………………………………………………五〇五

　　伊東三?の一…………………………………………………五〇八

　　　　　　其二…………………………………………………五一〇

　　永瀧三趣………………………………………………………五一二

　　伊東夏三吟……………………………………………………五一五

　　昭和十九年十月一日連句……………………………………五二〇

　　明治神宮奉獻連句……………………………………………五二五

　　出石三吟………………………………………………………五二七

　　出石三吟の二…………………………………………………五二九

　

赤頭巾の歌仙（昭和二十二年八月、「俳諧評釋」、民友社）…五三八

　

青城亭五?歌仙……………………………………………………五五〇

　

(598)文化・自由放談の折（昭和二十三年一月一日、時事新報）…五五七

　

栗の花（明治三十五年六月、やまびこ二號）…………………五五八

　

歌評（明治二十九年五月、めざまし草五號）…………………五六二

　

獨?記（明治三十年、友人囘覽誌）……………………………五六六

　

小生ノリヽク（同）………………………………………………五六八

　

小バーンス（同）…………………………………………………五六九

　

干潟の霜（明治三十一年一月、帝國文學四卷一號）…………五七一

　

西樓記（明治三十二年十一月、帝國文學五卷十一號）………五七六

　

すゞみ臺（明治三十四年七月、太平洋二卷二十九號、三十號）…五八〇

　

(599)旋風（大正十五年五月、アサヒグラフ六卷廿二號）……五八四