定本柳田國男集　第二十七卷（新装版）、筑摩書房、1970､8､20（1972.1.20.3刷）

　

(1)　　　後狩詞記【日向國奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故實】

　

(3)　　　　　序

　

一　阿蘇の男爵家に下野《シモノ》の狩の繪が六幅ある。近代の模寫品で。武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが。私が之を見て心を動かしたのは。其繪の下の方に百姓の老若男女が出て來て見物する所を涅槃像のやうに畫いてあるのと。少しは畫工の誇張もあらうけれども。獲物の數が實に夥しいものであることゝ。侍雜人迄の行装が如何にも花やかで。勇ましいと云はんよりは寧面白い美くしいと感ぜられたことゝである。下野の年々の狩は當社嚴重の神事の一であつた。遊樂でも無ければ生業では勿論無かつたのである。從つて有る限の昔の式例作法は之を守り之を後の世に傳へたことと思はれる。此が又世の常の遊樂よりも却つて遙に樂しかつた所以であつて。例としては小さいけれども。今でも村々の祭禮の如き。之を執行ふ氏子の考が眞面目であればあるほど。祭の樂しみの愈深いのと同じわけである。肥後國誌の傳説に依れば。頼朝の富士の卷狩には阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故實を聽いたとある。併し坂東武者には狩が生活の全部であつた。まだ總角の頃から荒馬に乘つて嶺谷を驅け巡り。六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。何も偏土の御家人に問はずとも。立派に卷狩は出來たことであらうから。此説は信用するには及ばぬ。が唯この荒漠たる火山の裾野が原も。阿蘇の古武士にとつては神の惠の樂園であつて。代々の弓取が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明かである。處がその大宮司家も或時代には零落して。初は南郷谷に退き。次には火山の西南の方。矢部《ヤベ》の奧山に世を忍び。更に又他國の境にまでも漂泊したことがある。祖神の社頭には殺生を好まぬ法師ばかりが衣の袖を飜へし。霜の宮の神意は知らいでも。阿蘇谷の田の實は最早他國の武家の收穫であつた。昔肥前の小城《ヲギ》の山中で腹を切つた大宮司は。阿蘇の煙の見える所に埋めよと言つたといふことである。其子孫が久しく故土に別れて居つたのである。嘸かし遙に神山の火を眺めて。産土の神と下野の狩を懷かしがつたことであらう。(4)然るに漸くのことで浦島のやうに故郷に歸つて見れば。世は既に今の世に成つて居つた。谷々の牟田には稻が榮え。草山には馴れたる牛馬が遊んで居て。鹿兎猪狐の類は遠く古代へ遁げ去つて居つたのである。昔を寫す下野の狩の繪には。隱れたこんな意味合も籠つて居るのである。

二　今の田舍の面白く無いのは狩の樂を紳士に奪はれた爲であらう。中世の京都人は鷹と犬とで雉子鶉ばかりを捕へて居つた。田舍侍ばかりが夫役の百姓を勢子にして大規模の狩を企てた。言ふ迄も無いが世の中が丸で今とは異なつて居る。元來今日の山田｜迫田《サコダ》は悉く昔の武士が開發したものである。今でこそ淺まな山里で。晝は遠くから白壁が見え、夜は燈火が見えるけれども。昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隱されて。道も橋も何も無い。烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。此中に於て。茲に空閑がある茲に田代を見出でたと言ふ者は。武人の外に誰が有らうか。獣を追ふ面白味に誘はれてうか／＼と森の奧に入つて來る勇敢な武士でなければ出來ないことである。其發見者は一方には權門大寺に縁故を求めて官符と券文とを申下し。他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。名字の地と成れば我が命よりも大事である。之を守る爲には險阻なる要害を構へ。其麓には堀切土居の用意をする要害山の四周は必ず好き狩場であつた。大番役に京へ上る度に。むくつけき田舍侍と笑はれても。華奢風流の香も嗅がずに。年の代るを待兼て急いで故郷に歸るのは。全く狩といふ強い樂があつて。所謂山里に住む甲斐があつたからである。殺生の快樂は酒色の比では無かつた。罪も報も何でも無い。あれほど一世を風靡した佛道の教も。狩人に狩を廢めさせることの極めて困難であつたことは。今昔物語にも著聞集にも其例證が隨分多いのである。

三　此の如き世の中も終に變遷した。鐡砲は恐ろしいものである。我國に渡來してから僅に二三十年の間に。諸國に於て數千の小名の領地を覆へし。其半分を殺し其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に。狩といふ國民的娯樂を根絶した。根絶せぬ迄も之に大制限を加へた。「狩詞記」の時代は狩が茶の湯のやうであつた。儀式が狩の殆全部に成りかけて居る。大騷をして色々の文句を覺え。畫に描いた太田道灌のやうな支度で山に行つても。先日の天城山の(5)獵よりも不成績であつたことが隨分有つたらうと思はれる。併しまだ遠國の深山には。狩詞記などゝいふ秘傳の寫本が京都に有るやら無いやらも考へずに。せつせと猪鹿を逐掛けて居る地頭殿が有つた。併し鐵砲が世に現はれては是非も無い。弓矢は大將の家の藝であるけれども。鐵砲は足輕｜中間《チユウゲン》に持たすべき武具である。而も其鐵砲の方が。使ひ馴れては弓よりもよく當り遠くへ屆く。平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出來るが。出陣の日が次第に多くなつては。留守中の取締は付き兼ねる。昔は在陣年を越えて領地へ歸つて見ると。野山の鳥獣は驚くべく殖えて居る。此が凱旋の一つの快樂であつた。然るに今は落人の雜兵が糊口の種に有合せの鐵砲を利用して居る。土民は又戰敗者の持筒を奪ひ取つて。之を防衛と獣狩の用に供して居る。怒つて見ても間に合はぬ。山には早よほど鹿猿が少くなつた。そこで徒然のあまり狩の故實を筆録する老武者もあれば。之を讀んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

四　狩詞記（群書類從卷四百十九）を見ると。狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。所謂峯越す物といひ山に沿ふ物といふ「物」は鹿である。全く鹿は狩の主賓であつた。此には相鷹の理由のあることで。つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。北原晉氏は鐵砲の上手で。若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。然るに十年餘の間に猪を撃つたのは至つて小さいのを唯一匹だけであつた。猪は何と言つても豚の一族である。走るときは隨分早いけれども。大雪の中をむぐ／＼と行く有樣は?鼠と同じやうである。之に反して鹿は走るときはひたと其角を背に押付ける。遠くから見ても近くでも。丸で二尺まはり程の棒が横に飛ぶやうなものである。足の立所などは見えるもので無い。之を横合に待掛けて必ず右か左の三枚を狙ふのである。射當てた時の歡はつまり所謂技術の快樂である。滿足などゝいふ單純な感情では無い。昔から鹿狩を先途とするの慣習も或は此邊の消息であらうか。乃至は未知の上代から傳へられた野獣の階級とでもいふものがあるのか。兎に角に鹿は弱い獣で。人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。奈良や金華山に遊ぶ人たちは。日本は鹿國のやうに思(6)ふだらうけれども。普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。此因に思ひ出すのは北海道のことである。蝦夷地には明治の代まで鹿が非常に多かつた。十勝線の生寅《イクトラ》（ユク、トラッシュ、ベツ）の停車場を始として、ユク〔二字傍線〕といふ地名は到る處に多い。然るに開拓使廳の始頃に。馬鹿なことをしたもので。室蘭附近の地に鹿肉鑵詰製造所を設立した。そしたら三年の内に鹿も鑵詰所も共に立行かぬことになつた。北海道の鹿は鐵砲の痛さを知るや否や直に其傳説を忘却すべく種族が絶えたのである。

五　茲に假に「後狩詞記」といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は。勿論第二期の狩に就ての話である。言はゞ白銀時代の記録である。鐡砲といふ平民的飛道具を以て。平民的の獣即ち猪を追掛ける話である。然るに此書物の價値が其爲に些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は。其中に列記する猪狩の慣習が正に現實に當代に行はれて居ることである。自動車無線電信の文明と併行して。日本國の一地角に規則正しく發生する社會現象であるからである。「宮崎縣西臼杵郡椎葉村是」といふ書物の。農業生産之部第五表禽畜類といふ所に。猪肉一萬七千六百斤、其價格三千五百二十圓とあるのが立派な證據である。毎年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので。此實際問題のある爲に。古來の慣習は今日尚貴重なる機能を有つて居る。私は此一篇の記事を最確實なるオーソリテイに據つて立證することが出來る。何となれば記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀬淳氏から口又は筆に依つて直接に傳へられたものである。中瀬氏は椎葉村大字下｜福良《フクラ》小字｜嶽枝尾《タケノエダヲ》の昔の給主である。中世の名主職を持つて近世の名主職に從事して居る人である。此人には確に狩に對する遺傳的運命的嗜好がある。私は椎葉の山村を旅行した時に。五夜中瀬君と同宿して猪と鹿との話を聽いた。大字大河内の椎葉�ｺ藏氏の家に泊つた夜は。近頃此家に買得した狩の傳書をも共に見た。東京へ歸つて後頼んで狩の話を書いて貰つた。歴史としては最新しく紀行としては最古めかしいこの一小册子は。私以外の世の中の人の爲にも。隨分風變りの珍書と言つてよからう。

六　此序に少しく椎葉村の地理を言へば。阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が。九州では最深い山地であるが。(7)中央の山脈は北では東の方豐後境へ曲り。南では西の方肥薩の境へ曲つて居るから。空で想像すれば略Sの字に似て居る。其Sの字の上の隅。阿蘇の外山（外輪山の外側）の綬傾斜は。巽の方へは八里餘。國境｜馬見原《マメワラ》の町に達して居る。其先には平和なる高山が聳つて。椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で。肥後の五箇莊とも嶺を隔てゝ隣である。肥後の四郡と日向の二郡とが此村に境を接し。日向を横ぎる四の大川は共に此村を水上として居る。村の大さは壹岐よりは遙に大きく隱岐よりは少し小さい。而も村中に三反とつゞいた平地は無く。千餘の人家は大抵山腹を切平げて各其敷地を構へて居る。大友島津の決戰で名を聞いた耳川の上流は村の中央を過ぎて居るが。此川も他の三川も共に如法の瀧津瀬であつて。舟はおろか筏さへも通らぬ。阿蘇から行くにも延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも。四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

七　比の如き山中に在つては。木を伐つても炭を燒いても大なる價を得ることが出來ぬ。茶は天然の産物であるし。椎蕈には將來の見込があるけれども。主たる生業はやはり燒畑の農業である。九月に切つて四月に燒くのを秋藪と云ひ。七月に切込んで八月に燒くのを夏藪と云ふ。燒畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど。二年を過ぐれば士が流れて稗も蕎麥も生えなくなる。九州南部では畑の字をコバと訓む。即ち火田のことで常畠熟畠の白田と區別するのである。木場切の爲には山中の險阻に小屋を掛けて。蒔く時と苅る時と。少くも年に二度は此處に數日を暮さねばならぬ。僅な稗や豆の收穫の爲に立派な大木が白く立枯になつて居る有樣は。平地の住民には極めて奇異の感を與へる。以前は機を織る者が少なかつた。常に國境の町に出でゝ古着を買つて着たのである。牛馬は共に百年此方の輸入である。米も其前後より作ることを知つたが。唯僅の人々が樂しみに作るばかりで。一村半月の糧にも成り兼るのである。米は食はぬならそれでもよし。若し些でも村の外の物が欲しければ。其換代は必ず燒畑の産物である。家に遠い燒畑では引板や鳴子は用を爲さぬ。分けても猪は燒畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三反の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ爲には髪の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに挿すのである。之をヤエジメ〔四字傍線〕と言つて(8)居る。即ち燒占であつて。昔の標野《シメノ》、中世莊國の榜示と其起原を同じくするものであらう。燒畑の土地は今も凡て共有である。又茅を折り連ねて垣のやうに畑の周圍に立てること。之をシヲリ〔三字傍線〕と言つて居る。栞も古語である。山に居れば斯くまでも今に遠いものであらうか。思ふに古今は直立する一の棒では無くで。山地に向けて之を横に寢かしたやうなのが我國のさまである。

八　椎葉村は世間では奈須と云ふ方が通用する。例の肥後國誌などには常に日州奈須と云つて居る。村人は那須の與一が平家を五箇の山奧に追詰めて後。子孫を遺して去つた處だといふ。昔の地頭殿の家を始め千戸の七百は奈須氏であるが。今は凡て那須といふ字に書改めて居る。併しナス〔二字傍線〕といふのは先住民の殘して置いた語で。かゝる山地を言現はすものであらう。野州の那須の外。たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。椎葉と云ひ福良と云ふも今は其意味は分らぬけれども。九州其他の諸國に於て似たる地形に與へられたる共通の名稱である。奈須以外の名字には椎葉である黒木である甲斐である、松岡、尾前、中瀬、右田、山中、田原等である。就中黒木と甲斐とは九州南部の名族で。阿蘇家の宿老甲斐氏の本據も村の北隣なる高千穗庄であつた。明治になつて在名の禁が解かれてから。村民は各縁故を辿つて。村の名家の名字の何れかを擇んだが。其以前には名字を書く家は約三の一で。これだけをサムラヒ〔四字傍線〕と稱して別の階級としてあつた。其餘は之を鎌サシ〔三字傍線〕といふ刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。昔の面影は此外にも殘つて居る。家々の内の者即ち下人は女をメロウ〔三字傍線〕といひ男をばデエカン〔四字傍線〕と云ふ。デエカン〔四字傍線〕即ち代官である。近代こそ御代官はよき身分であつたが。其昔は主人を助ける一切の被管は大小となくすべて。代官であつた。

九　次には猪を撃つ鐵砲のことである。村に傳へらるゝ寫本の記録「椎葉山根元記」に依れば。奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫（西暦一五八七−一六一三）の幕下に屬して居つた時代に。椎葉の地頭へ三百梃の鐡砲が渡された。此時代は明治十年の戰時と共に。椎葉の歴史中最悲慘なる亂世であ、つた。十三人の地侍は徒黨して地頭の一族を攻殺した。此時の武器は凡て鐵砲であつた。元和年中に平和が快復して後。此三百梃は乙名差圖を以て百姓用心の爲に夫々(9)相渡したとある。寛延二年の書上を見ると。村中の御鐵砲四百三十六梃。一梃に付銀一匁の運上を納めて居る。今日ある鐵砲は必しも昔の火繩筒では無いやうだ。其數は寛延度よりも増して居るや否や。運上の關係は如何なつて居るかは凡て知らぬ。又如何なる方法で火藥を得て居るかといふことも知らぬ。併し鐵砲の上手は今日も決して少なく無いと考へられる。それは兎に角。椎葉の家の建て方は頗面白い。新渡戸博士が家屋の發達に關する御説は。此村に於ては當らぬ點が多い。山腹を切平げた屋敷は。奧行を十分に取られぬから。家が極めて横に長い。其後面は悉く壁であつて。前面は凡て二段の通り縁になつて居る。間の數は普通三つで。必ず中の間が正廳である。三間ともに表から三分の一の處に中仕切があつて。貴賤の坐席を區別して居る。我々の語で言へば人側《イリカハ》である。正廳の眞中には奧へ長い爐があつて。客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。即ち突當りの中央に壁に沿うて。床の間のやうな所があつて。武具其他重要なる家財が飾つてある。其前面の爐の側が家主の席であつて之を横坐といふ。宇治拾遺の瘤取の話にも横坐の鬼とあるのは主の鬼即ち鬼の頭のことであらう。横坐から見て右は客坐と云ひ。左は家の者が出て

〔家の平面図省略〕

(10)客を款待《モテナ》す坐である。

遠來の客は多くの家の客坐に於て款待せられた。縁の外は僅の庭で其前面は全く打開けて居る。開けて居ると言つても狹い谿を隔てゝ對岸は凡て重なる山である。客坐の客は少し俯けばその山々の頂を見ることが出來る。何年前の大雪にあの山で猪を捕つた。あの谷川の川上で鹿に逢つたといふやうな話は。皆親しく其あたりを指さして語ることが出來るのである。之に付けて一つの閑話を想出すのは。武藏の玉川の上流棚澤の奧で字峯といふ所に。峯の大盡本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。十年前の夏此家に行つて二晩とまり。羚羊の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。東京から十六里の山奧でありながら。羽田の沖の帆が見える。朝日は下から差して早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。此家の縁に腰を掛けて狩の話を聽いた。小丹波川の波頭の二丈ばかりの瀧が家の左に見えた。あの瀧の上の巖には大きな穴がある。其穴の口で此の熊（今は敷皮となつて居る）を撃つたときに。手袋の上から二所爪を立てられて此傷を受けた。此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて。主人が犬の毛を分けて見せたれば。彼の背には縱横に長い瘢痕疾があつた。あの犬にも十年逢はぬ。この親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。懷かしいことだ。

十　椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。この慣習と作法とは山中のおほやけである。平地人が注意を拂はぬのと交通の少ない爲に世に知られぬだけで。我々は此智議を種に平和なる山民に害を加へさへせずば。發表しても少しも構はぬのである。之に反して「狩之卷」一卷は傳書である。秘事である。百年の前迄は天草下島の切支丹の如く。暗夜に子孫の耳へ私語いて傳へたものである。若し此秘書の大部分が既に遵由の力を現世に失つて。椎葉人の所謂｜片病木《カタヤマギ》の如くであることを想像せぬならば。私はとても山神の威武を犯してかゝる大膽な決斷を敢てせぬ筈である。併し畏るゝには及ばぬ。狩之卷は最早歴史になつて居る。其證據には此文書には判讀の出來ぬ箇所が澤山ある。左側に――を引いた部分は。少なくも私には意味が分らぬ。それのみならず實の所私はまだ山の神(11)とは如何なる神であるかを知らないのである。誰か讀者の中に之をよく説明して下さる人は無いか。道の教は知るのが始であると聞く。もし十分に山の神の貴さを會得したならば。或は大に悔いて狩之卷を取除くことがあるかも知れぬ。其折には又狩言葉の記事の方には能ふ限多くの追加をして見たいと思ふ。

　　　明治四十二年二月一日　　　　　　　東京の市谷に於て

　

(12)　　　　　　椎葉村を懷ふ

　　　立かへり又みゝ川のみなかみに

　　　いほりせん日は夢ならでいつ

　

(13)　　　土地の名目〔漢数字の下の片仮名の題号は太字だが、太字にはしなかった。〕

　

一　ニタ　山腹の濕地に猪が自ら凹所を設け水を湛へたる所を云ふ。猪は夜々來りて此水を飲み。全身を浸して泥土を塗り。近傍の樹木に觸れて身を擦る也。故にニタに注意すれば。附近に猪の棲息するや否やを知り得べし。

　　　△編者云。ニタは處によりてはノタともいふか。北原氏話に。信州にてノタを打つと云ふは。猪鹿などの夜分此所に來て身を浸すを狙ふなり。火光を禁ずる故に鐵砲の先に螢を著けて照尺とし。物音を的に打放すことあり。ニタを必ず猪が自ら設けたるものとするは如何。凡そ水のじめ／＼とする窪みを。有樣に由りてニタと云ふなるぺし。風土記に「にたしき小國也」とある出雲の仁多郡は不知。伊豆の仁田を初め諸國にニタといふ地名少なからず。我々が新田の義なりとする地名の中にも。折々は此ニタあるべし。例へば上野の下仁田など。

二　ガラニタ　水枯渇して廢絶せるニタを云ふ。

三　ウヂ　猪の通路を云ふ。

　　　△鹿のウヂ。にくのウヂなどゝも云ふ。ウヂ引尻指の神の條參照。中瀬氏はウヂは菟道にて山城其他の宇治同義なりと云ふ。如何。

四　セイミ　少しく水湧き泥?を爲し居る處を云ふ。猪は此水を飲み蟹蛙などをあさり食ふ。人の注意することニタに同じ。

(14)五　シクレ　荊棘茂り合ひ人容易に通過し能はざる處を云ふ。猪は大概シクレに伏し。又はシクレを通路とす。

六　モッコク　シクレの中に枯木の枝打混じ。シクレの層甚しく。且小區域なる處を云ふ。モッコクは猪の好潜伏場とす。

七　ヤゼハラ　シクレの廣く亙れる處を云ふ。

八　ドザレ　傾斜地に砂礫疊々として通行するに一歩毎に砂礫の轉下する處を云ふ。ドザレは流石の猛猪も急進すること能はず。故に村田銃を以てせば五六歩毎に一丸を與ふることを得る也。

九　ヒラミザコ　凹所急ならず弧　　状を爲し。水無き迫の竪に引き居る處を云ふ。セイミは大概ヒラミザコに在り。

一〇　ホウバ　樹木立込み居るも見通しのよろしき處を云ふ。即ちセイミ、モッコク、ヤゼハラ、ドザレの反對の地形なり。猪は遁走するにホウバを避く。故に狩人が包圍するにも。人手多き場合に限り弱卒を此處に配置するのみなり。

一一　スキヤマ　森林にして見通しよろしき處を云ふ。スキヤマは位置ホウバに似たるも。猪は之を避けず。

一二　ツチダキ　土瀧。岩石無く急傾斜にして滑り易く。人の通るに困難なる箇所を云ふ。

一三　クネ　土砂隆起して大瀧の?を爲し。横又は斜に引き居る處を云ふ。猪は大概クネの上下を過ぎるものなれば、クネの上に構へて要撃する也。

　　　△對馬の久根。遠江の久根。地名辭書に見ゆ。

一四　マブ　傾斜したる小谿の水源又は小迫の頭に。塚?を爲し居る處を云ふ。猪は大概マブ下を通過し。巨猪は群犬を茲に引受けて關ふ。

一五　ヨコダヒラ　傾斜緩なる地が横に長く亙り居る處を云ふ。

　　　△九州南部にて廣くハエといふ地名を附する處。地形或は之と同じきか。椎葉及其附近にでは凡て「八重」と書く。勿(15)論近代のあて字なり。例へば尾八重《ヲハエ》、野老八重《トコロハエ》などあり。或地方にては「生《ハエ》」とも書けり。「延へ」の義か。はた先住民の語か。山地の土着民居に適する部分は多くはハエなり。

一六　クモウケ　雲受。天を眺むる如き山の頂上を云ふ。

一七　クザウダヒラ　山々相重なり居る中に。一つの山のみが方向を異にし。斜に天を挑むるに似たる所を云ふ。

一八　カマデ　鎌手。或目標に向ひて右の方を云ふ。

一九　カマサキ　鎌先。同じく左の方を云ふ。

二〇　イレソデ　入袖。燒畑又は舊燒畑跡が判然として。山林區域に對し袖　　状に見ゆる所を云ふ。即ち左圖〔省略〕の如し。

二一　ツクリ　燒畑跡地にして未だ林相を爲さゞる處を云ふ。

二二　キリ　切。昔燒畑とせし箇所が森林に復し居る處を云ふ。然らば椎葉の山林は凡てキリなるかとも云ひ得べしと雖。此の如く解すべからず。抑キリの名稱は地面の一局部に小地名を冠する必要より生ぜしもの也。例へば往時燒畑を作りし人が五右衛門なるときは五右衛門キリ。三之助なるときは三之助切といふ一の小字となるなり。

　　　△燒畑を經營することを此地方一帶にてはコバキリと云ふ。コバは火田にて。畑と書きてコバと訓む地名多し。人吉の(16)南にある大畑（オコバ）の如し。燒畑を切山《キリヤマ》、切畑《キリバタ》といふこと東西諸州に於て常のことなり。或は野畑（薩州長島）。藪（伊豫土佐の山中）とも云ふ。草里《サフリ》、佐分《サブリ》、藏連《ザウレ》、曾里《ソリ》とも云へりと見ゆ。反町と書きてソリマチ。後にはタンマチとも訓めり。是も燒畑に因あること疑なし。神奈川町の臺地に反町桐畑《タンマチキリバタケ》、昔忍ばるゝ地名なり。されど燒畑と切替畑とは同じ物に非ず。説長ければ略す。地方凡例録の説明は誤れり。

二三　カタヤマギ　片病木。大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ。

二四　ツチベイギ　燒畑と燒畑との境に伐り殘りの樹木が多少燒害を受けつゝも生存し居るを云ふ。

　　　△此村竝に近郷にはをさ／＼土塀を見ず。此語を土塀より出でたりとは速斷すべからず。

二五　ヨホーレギ　斜に立ち居る木を云ふ。

二六　マブシ　猪の通路に構へて要撃する一定の箇所を云ふ。

二七　カクラ　猪の潜伏せる區域を云ふ。

二八　ナカイメ　中射目。カクラの中に在るマブシなり。中射目に手員を配置するは。富士の卷狩に似たる大狩場にあり。四方八方要所を堅めたるも。カクラ廣くして逐出すに困難する場合のことなり。中射目は東西雌雄を決する關ケ原なれば。此要害を占むるの任は。老練衆に秀る獵將と雖。遺憾ながら之を庄屋殿に讓らざるべからず。

　　　△この庄屋殿は中瀬氏自らのことなるべし。下にも見ゆ。面白からずや。

二九　シリナシヲ　尻無尾。尾（峯）がおろし居るも低所に達せず。中途にして展開し居るものを云ふ。この尾の下は猪の遁路に當り。最肝要の箇所とす。

三〇　ズリ　材木又は薪を落し下す所なり。熊笹の如き植物密生し見通し難き場合は。此のズリにすけ行き。一目一引といふ工合にて。ころりと撃落すことあり。

(17)　　△一目一引の工合。十分に想像すること能はず。すけ行くは沿ひ行くなり。わざと椎葉の方言を翻譯せず。

三一　ヲダトコ　猪を里に持下して。割きて分配するに使ふ家を云ふ。ヲダトコの家は一定しをれり。

　　　△天草下島の西海岸にも小田床村あり。神祭にゆかりある名ならんと思へど考證し得ず。

三二　カモ　猪の寢床なり。笹、柴、茅などを集めて。粗末なるものを作れり。この笹草は如何に生ひ茂れる中なりと雖。決して一所に於ては採取すること無く。遠方より點々と持集め來りて。形跡を暗ますなり。

　　　△草萎めば常に新しきを取そふるなり。カモにては子を育つる故にかく人に知られぬやうに骨を折る。

三三　ヲタケ　峯の横に亙れるを云ふ。

三四　ヲバネ　峯を云ふ。

　　　△赤羽根、青羽根の如く羽根といふ地名は。凡て上代に埴《ハニ》を採りし所なるより直に命名したること。例へば柚木、久木などゝ同じ類ならんと思ひしが。かゝる羽根もありけり。

三五　タヲ　嶺を云ふ。

　　　△峯と嶺とを區別するの意明ならず。タヲは三備其他中國の山中にては。乢又は峠と書けり。乢の字の形が示す如く。たわむといふ語と原由を同じくするならん。土佐にては峠を凡てトーと云ふ。たゞ山の頂をもトーと云ふ。此もタヲの訛なるべし。三浦氏の一族に大多和氏。相模の三浦郡に大多和の地ありと記憶す。

三六　ヒキ　嶺の凹所に在り。各所より逐ひ囘したる猪が最後の遁路なり。ウヂとは混ずべからず。

三七　シナトコ　大豆、小豆、蕎麥、稗等を燒畑の内にてたゝき落し收納したる跡を云ふ。猪は來りて落穗をあさるものなり。

　　　△燒畑に作りたる穀類は凡て實のみを家に持歸るなり。麥などは穗を燒切りて採るが常にて。短き麥桿の小束が松明の末のやうに。焦げて山に棄てゝあるを見る。麥を燒きて穗のみを收むることは奧羽にても普通なり。

(18)三八　シバトコ　人の變死したる跡を云ふ。某シバトコと稱し。死者の名を冠して地名とす。路を行く者柴を折りて之に捧ぐる風習あり。之を又柴神とも云ふ。柴を捧ぐるは亡靈を慰するの意なり。

　　　△又路の側に小竹を立て其端に茅を結び付けたるを見る。これは蝮蛇を見たる者が必ず其所に立てゝ人を戒むるなり。其名を何と云ふか記憶せず。

三九　アゲヤマ　上山。燒畑に伐るとき誤りで樹上より墜落し悲慘の死を遂ぐる者あり。上げ山と稱するは。此山の一部分を爾後燒畑にせざる旨を山の神に誓ひて立て殘しある箇所なり。

四〇　サエ　高寒の地。村里遠く隔たりたる所を云ふ。

四一　コウマ　サエの反對にして即ち村里を云ふ也。因に記す。本村の神樂歌にサエは雪コウマは霰といぶ句あり。

　

(19)　　　狩ことば

　

一　トギリ　狩を爲さんとする當日。未明に一二人を派して。猪の出入先を捜索し復命せしむるを云ふ。

二　オヒガリ　逐狩。トギリを出さず。心あたりを空に狩るを云ふ。

三　オヒトホシ　追通し。猪が小憩もせずにマブシのあたりを走り過ぐるを云ふ。猪は飛禽の如く走ると雖。大概二三十間毎に凡そ二十秒ほどの間立止るもの也。是四近の樣子に聞耳を立つる爲也。獵師は此時を待ちて發砲す。されども犬が追跡するときは。此小憩をも爲さずマブシを通り過ぐる故に。此に命中するをば追通しを撃ちたりとて大手柄とす。

四　スケ　猪が一定のマブシに出でず他に出でんとするを。囘走して撃つを云ふ。

五　タテニハ　獵犬が猪を包圍して闘爭するを云ふ。

六　ホエニハ　吠庭。包圍が散開しつゝなほ闘爭を續くるを云ふ。

　　　△猪の犬は昔より細島にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて。捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比に三里四方の牡犬悉く集り來て。玉蜀黍の畑を荒し村人に惡まるゝ故に。飼ふことを憚かるなり。犬は近年鹿兒島の種交りて形小さくなれり。

七　九ダイ、三ダイ　猟師が當日猪の出先を占ふ方位なり。獵師は今日は何の日なるを以て猪は何代に出づと言ふなり。

(20)八　クサククミニウツ　猪の肌見えず。笹や草の中に在るを見込みて撃つを云ふ。

九　ヤタテ　矢立。又矢鉾ともいふ。猪を獵獲し分配の後。三度發砲して山の神に獻ずるを云ふ。

　　　△分配の後といふこと。如何。隣村諸塚村の村長堀莊氏曰く。分割の後に一發。之を「芝起し」と云ふと。ヤタテは山に在りて猪を仕止めたる時に手向くるものには非ざるか。

一〇　ガナラキ　猪の舌を云ふ。ガナラキは未だ一囘も猪を獲たること無き者には分配せず。

　　　△新進の狩人は隨分冷遇を受く。例へば猪の腸《ワタ》は分割の場にて串に差し燒きて食ふを常とす。此のワタアラヒは必ず新參者の役なり。

一一　コウザキ　猪の心臓を云ふ。解剖し了りたるときは。紙に猪の血液を塗りて之を旗と爲し。コウザキの尖端を切り共に山の神に獻ず。コウザキはコウザキ殿と云ひ。又山の神をもコウザキ殿と云ふ。祭文は後に記す。

一二　イリコモり　入籠。トギリを出したるときに。前夜は猪の出入先を發見せずと雖。前々夜若くは數日前の入跡現然として。出跡無きときは即ち入り籠り居るものと見るなり。前夜の入跡をナマアトと云ひ。其以前のものをフルアトと云ふ。

一三　セコ　包圍中のカクラに分け入り。タカウソ（竹の笛）を吹き犬を呼びつゝ。隈なく捜索して猪を追ひ出す者を云ふ。

一四　ハヒバラヒ　灰拂。猪の尾端を云ふ。

一五　オコゼ　鯱《シヤチ》に似たる細魚なり。海漁には山オコゼ。山獵には海オコゼを祭るを效驗多しと云ふ。祭るには非ず責むるなり。其方法はオコゼを一枚の白紙に包み。告げて曰く。オコゼ殿、オコゼ殿近々に我に一頭の猪を獲させたまへ。さすれば紙を解き開きて世の明りを見せ參らせんと。次て幸にして一頭を獲たるときは。又告げて曰く。御蔭を以て大猪を獲たり。此上猶一頭を獲させたまへ。さすれば愈世の明りを見せ申さんとて、更(21)に又一枚の白紙を以て堅く之を包み。其上に小捻を以て括るなり。此の如く一頭を獲る毎に包藏するが故に。祖先より傳來の物は百數十重に達する者ありと云ふ。此のオコゼは決して他人に示すこと無し。

　　　△椎葉村にオコゼを所持する家は甚稀なり。中のオコゼを見たる者は愈以て稀有なるべし。鯱に似たる細魚なりは面白し。中國の漁人たち試にオコゼを一籠此山中に送らば如何。オコゼは一子相傳にして家人にも置所を知らしめず。或者の妻好奇心のあまりに。不思議の紙包を解き始めしに。一日掛りて漸くして干たるオコゼ出でたりと云ふ話あり。一生涯他人のオコゼ包を拾ひ取らんと心掛くる者もありと云ふ。此村にては吝嗇なる者を「おこぜ祭」と云ふ。

一六　タマス　猪肉を分配する爲。小切にしたるものを云ふ。

　　　△此説明は少しく不精確なり。タマスは分け前といふことなり。一夕マス二タマスは一人前二人前なり。役により一人にて二タマスを得る者もあり。次を見よ。

一七　クサワキ　草脇。猪の?の下より尻へかけての腹の肉を云ふ。

一八　ミヅスクヒ　猪の下?の末端を云ふ。

　　　△三角の形を爲せる部分なり。最うまし。

一九　セキ　猪の腰の間にて腹を包み居る脂肉を云ふ。二十貫以上の猪ならば脂肉のみにて六七斤もあり。幾年圍ひ置くも腐敗せず。バタの代用を爲す。

二〇　ギヤウジボネ　行司骨。猪の肋骨の端なる軟骨を云ふ。

二一　イヒガヒボネ　飯匙骨。猪の後脚の腿骨の端を云ふ。其形?飯匙に似たればなり。

二二　ツルマキ　絃卷。猪の首の肉なり。輪切にしたる所絃卷に似たり。味最美なりとす。

二三　ソシ　猪の背に沿ひて附著する肉なり。外部なるをソトゾシと云ひ。内部なるをウチゾシと云ふ。最不味也。

　　　△「そじゝのむな國」などいふそじゝなるべし。

(22)二四　モグラジシ　?鼠猪。又ブタジシとも云ふ。臭氣ありて食用に供し難し。百頭の猪の中大概二三頭は此なり。外形少しく通常のものと異なれども。素人は解剖の上ならでは見分くること能はず。其形一見豕の如く。腹部甚しく肥滿して脚は割合に短かく。仰臥せしむれば四肢の容態?鼠に酷似す。素人又は商人之を購ひ泣き出すことあり。

二五　一ノキレ　猪の首を云ふ。

二六　ヌリ　負傷せる猪の血液が荊棘などに附著し。又は地上に滴り居るを云ふ。獵師はこのヌリを見て。急所に中り居るか擦り傷位なるかを知り。急所に中りたるものと認めたるときは。三四日間引續きても捜索する也。蓋し急所に中りたる折の血液は。黒味を帶び又脂肪を混ず。

　　　△血をノリといふ語原はわかりたり。

二七　オヒサキ　狩出したる猪を追跡するを云ふ。

二八　ツナグ　猪の足跡を求めて捜索するを云ふ。

二九　アテ　他人の猪を盗取り。又は狩場の作法に背き。不正の行爲を爲したるときは。奇妙にも獵運惡しきものなり。又獵師の妻が姙娠中は猪を獲ず。萬一要部を射當るも斃れず。斃れたりと雖蘇生して逃走することあり。この二の場合をアテと云ふ。併し後のアテは大反對に出で。獵運大によろしきこともありと云ふ。

三〇　ヰドモ　猪伴。母猪に子猪があまた伴ひ居るを云ふ。

三一　ツキヰ　附猪。ヰドモに牡の大猪が伴ひ居るを云ふ。

　

(23)　　　　　狩の作法

　

獵法　狩は陰暦九月下旬に始り。翌年二月に終る。狩を爲さんとする當日は。未明にトギリを出し。其復命に由り狩揃ひを爲し。老練者の指圖に依り各々マブシに就き。後セコをカクラに放つ。オコゼを有する者は背負籠に之を納めて出るなり。

　マブシに在る者は。セコより竹笛にて合圖を爲す迄は。最も靜肅を旨とし。竹笛にて幽に合圖をするはよけれども。決して言語を發すべからず。若し咳嗽起らば地上に伏して爲すものとす。既に猪が突到らば息を凝らし。數歩の近きに引受け。肺臓心臓の部分を狙ひて發砲す。其狙ひ所を小肘のハヅレと云ふ。

　タテ庭、吠庭始まりたるときは。受持のマブシを離れ。山の上の方に囘り靜に近寄るべし。萬一撃損ずるか又は負傷せしめたるときは。硝煙の未だ照尺を拂はざる中に。猪は突進し來りて股を切り。倒るれば胴を切る也。故に未練者は楯に寄るに非ざれば近よるべからず。此時尚大に注意すべきはハヒジシに在り。ハヒジシ（這ひ猪）とは負傷せる猪が怒りて人犬に當らんが爲に。伏して假死?を爲し居るを云ふ。此考無くして近よりたるときは。猪は矢の如く飛びかゝり。牡猪なるときは牙にて股をえぐり。牝猪なれば牙なき故肘と無く頸と無く咬へて粉碎せんとするなり。

　猪斃れたるときはヤマカラシ（短刀のことなり）を拔きて咽喉を刺し。次に灰拂を切取る。灰拂を切取るは最先に射斃したる證とする也。其後ヤマカラシと耳とを一つに束ね。左の咒文を唱ふ。

(24)　今日の生神三度三代。ケクニユウの神。山の神。東山カウソが岳の猪の鹿も。角を傾けカブを申受け。今成佛さするぞ。南無極。

猪はヲダトコに持下し。一應縁の上につるし下げ。然る後解剖す。解剖に二通りあり。胴切にして四足に分ち其後骨を除くを金山オロシと云ひ。肉のみを四足に分ち其後骨を除くを本オロシと云ふ。

　　　△分割は山にてもすることあり。之も違式には非ず。小田床にて必ず一應は縁の上に釣下ぐるは。丸のまゝに先づ神に供ふる嚴重の儀式なりと聞けり。

分配の法は撃主には射中てたる方の前肢と脂とを與ふ。其前肢の目方は總量の五分の一なり。其後又撃主をも加へて平等に分配す。撃主には草脇を與ふることもあり。その肉の量は前の場合に同じ。其他セコは一人に二人分を與へ。獵犬の分は又一人前とす。

　　　△曾て耳にて聞きたるは又此記事と少異あり。首と胸の肉を仕留めたる者の所得とす。首の肉は最上品なり。同じく首を落すにも。ヤマカラシを耳の元に宛てゝ。それより三轉ばしにで切るも。四轉ばし目に切るもあり。地頭殿の仕留めたる折には。この轉ばし方殊に多し。執刀者にも餘分の所得あり。この慣習は中々嚴重なるものなりしが。可悲近年漸く廢せんとす。猪の肉が高くなると。狩人は自ら食はずして商人に渡すなり。一頭三十圓より五十圓に及ぶ。此場合には撃主の所得は代金の四分の一を定とす。

解剖終りたるときは。執刀者はヤマカラシを肉の上に×に置き。左の咒文を唱ふ。

　カブラは山の神越前のきさきに參らする。骨をば御先御前に參らする。草脇をば今日の日の三代ケクニユウ殿に差上ぐ。登百葉山が五萬五千。降百葉山が五萬五千。合せて十一萬の御山の御神。本山本地に居直りたまうて。數の獲物を引き手向けたび玉へり。ハンゲノ水を清ければ。シヤウゲンして人々生く。南無極樂々々々々。

分配終つて後。コウザキと紙の旗をコウザキ殿に獻じ。左の祝詞を唱ふ。コウザキ殿は巖石又は大木の下。雨露(25)のかゝらざる所に奇石を置き。折々カケグリを獻ず。カケグリとは七八寸の長さに拇指大の竹を切り。十數本を束ね。此に濁酒を盛りたるもの也。

　　　　諏訪のはらひ

　そも／＼諏訪大權現と申するは。本地は彌陀のアツソンにてまします。ユウオウ元年庚戌。我が羽根の下に天降らせたまふ。信濃國善光寺岳赤根山の峠に。千人の狩子を揃へ。千匹の鹿をとり。右は地藏菩薩。左は山宮大明神。中に加茂大明神と現はれ出で。八重鎌千鎌を手に持ちて。我先の不淨惡魔を切拂ひ。水露ほども殘なく。三五サイヘイ再拜と敬て白す。

　　　△前の呪文に「越前のきさき」とあるはコウザキ殿のことなるべしと思はる。ケクニユウ〔五字傍線〕殿。ゆかしき名なれども思ひ得たる所なし。登百葉山降百葉山は。登る葉山降る葉山なること。「狩之卷」に依りて明なり。唯此字が新なる偶然の誤寫には非ずして。山民も久しく斯く唱へ來れるものとすれば興味あり。

罠獵　罠獵は秋の彼岸より春の彼岸までとす。罠は猪のウヂの屈曲なく見通しよき箇所に。二尋八引の腕大の杭を立て。麻にて作りたる八尺の繩を末端に結び付け。撓めて輪を作り。蹴絲を張り。猪が蹴絲に觸れたるときは。はづれて之を捕縛するものなり。

　猪がウヂを行くには。ウヂ引の命、尻指の命と云ふ二の山の神が。其前後に立ちて走るものなりと云ふ。故に罠を掛けたるときは。少量の粟を四方に散らし。ウヂ引の命尻指の命に上げ參らすると三唱する者あり。其趣意はウヂ引の命は道先の案内。尻指の命は後押を爲す神なれば。此神たちに念願を掛れば。猪を罠の方に導き。又猪踟躊するときは尻指の命其尻に觸れて。はと罠に飛込ましむると言ふに在り。

　　　△又「ウヂ引尻指の命に御頼み申す、あびらうんけんそはか」と唱ふる者もあり。夜待をする者猪の來る前に凡そ鼠ほどの足音して走る者あるをきく。これウヂ引の神なりと云へり。

(26)　　　△罠にて猪を捕るは昔より小民の業にて。鐵砲を持つ者は之を輕しめをれり。故に折々は無理なる獲物爭ひをもしかくる也。罠主は七日に一度づゝ罠を見巡るが作法なり。狩人之に先ちて罠ある所に行き。既にかゝれる猪を我が追込みたるなりと云ふことあり。凡そ罠は猪の通路を圖りて立るなれども。之を立てたる山には猪より付かず。故に諸方より追込みて罠に罹らするは常のことなり。狩人他人の罠に猪を追掛けたるときは。片肢を罠の主に與へ殘りを我が所得とす。三四日も前に罹りて眼の落くぼみたる猪を。今日我が追込みたるなり。蝨猪《シラミジシ》なりし故山にて燒きて來たりなどゝ欺きて。横領する奸徒も無きに非ず。

　　　△燒畑の猪防ぎにワナといふものあり。燒占、栞の類なり、罠に似たる物を作りて畑の附近に置けば猪亦之により付かず。

ヤマ獵　ヤマは猪が燒畑作りを荒し。又は樫の實をあさりに來る箇所に設くるなり。ヤマを設くることを上グルと云ふ。其方法は。六七寸周りの木を六尺に切り。二十本ばかり組みて筏　　状と爲し。兩側に二本の俣杭を立て。之に横木を置き。ヤマの一端を三尺の高さに此横木へ釣上げ。莢のまゝなる小豆を一握ばかりづゝ結びて。四周とヤマの内につるし。中央の小豆を引き餌とし。猪が此の引餌を咬へて引きたるとき。ヤマが落下して壓殺する法なり。ヤマの上には荷石を括り付け押へとする也。

　ヤマにては巨猪を獲ることありと雖。悲哉壓搾するを以て。血液煮えて全身に行渡り。肉の品質を損ふなり。ヰドモなるときは一度に四五頭を得ることあり。

狩の紛議　狩獵に付ては甲乙カクラ組の間又は狩組と罠主との間に。紛議を生ずること往々にしてあり。然れども一も警官に訴へ或は法廷に持出すことなく。慣例に依り之を解決するものなり。左に其慣例の二三を記す。

　一　狩組が他人の罠に猪を追掛けたるときは。前脚一本を切り罠杭に括り付け置き。心當りに通告すること。

　一　甲カクラ組に於て負傷せしめたる猪が。乙カクラ組の區域に遁げ込み。乙カクラ組の手にて撃ち留められ(27)たるときは。甲乙兩組の平等割とす。

　一　甲カクラより乙カクラに遁げ込みたる猪を。乙カクラ組に於て撃ち留めたるときは。乙組の所得とす。但し甲組の獵犬が追跡し來りたるときは此限に在らず。（此場合が最も紛議を生じ易し。良犬は自ら捜し出したる物なるときは。終日追跡するものなり。然るに乙組に於ては芝苞を作り、犬に負傷せしめざるやうにして之を敲き拂ふことあればなり。）

　一　猪を獲たるとき。其狩組に加はりし者か否かを判定するには。當日出發の際。狩揃ひの場に出頭せし人の顔を以てす。（横著なる者は銃聲を聞きて獲物のありたるを知り。蒼皇獵裳を爲して己も狩組に加はりしものの如くに見せかけ。解剖場に乘込むことあり。本項は此場合に之を適用す。）

裁判例の一二。判士は庄屋殿。又は小役人。

　第一例　他人の罠猪を盗みたるもの。

　原告八兵衛は昨日九年山に掛けある罠を見に行きたり。四斗マ位の猪がかゝり大に罠場を荒したる形跡現然たり。決して逐掛けの猪とは認めず。然るに狩人は之を銃殺して持去れり。其足跡は雪を蹈みて一ツ戸の方へ向けあるを以て。彼方の狩人に疑を入れつなぎ至れば。果して一ツ戸なる三之助の縁の上に釣し在り。彼は予が質問に對し。此猪は昨日竹之元にて追起せしを。誰人かの罠に追掛けしを以て。狩の法に依り前肢一本を罠杭に括り付け置き。今日通告せんと思ひ居りたるなりと答へ。返すことを拒みたり。

　庄屋曰く和談すべし。

　原被とも承諾せず。

　庄屋曰く。然らば直に關係外の狩人に申付け。元起し場より猪の足跡を捜索さすべし。

　此時被告の顔色稍變ず。

(28)　被告は他の有力者に縋り。猪を罠主に返し。庄屋前を取下げたり。

　　　　　　　　　　――――――――――

　第二例。甲組に於て負傷せる猪を乙組に於て撃止めたるもの。

　原告三太郎は一昨日佐禮山に登り。七八名連れにて狩を入れ。暮方鷹山の元にて大猪を起し。タテニハに於て一發を加へしも。鹿遊《カナスビ》の方へ向け流血淋漓として遁げ去れり。昨日ツナギを入れたるに。鹿遊の狩人虎市等に於て撃止めたる處に出會したり。由つて仲間入りを交渉したるに。頑として之に應ぜず。剰へ侮辱を加へたり。

　小役人曰く。手負猪と知らば雙方にて程好く分配すべし。

　被告虎市曰く。成ほど血液は滴り來りしも。微傷にて銃傷とは認め難し。故に拙者共の勝手にすべし。

　小役人曰く。猪は射手の前、口事は言手の前と云ふことありと雖。獵は此節に止らず。末永く互に仲好くせざれば。終には之に類する反對の位置に立ちて損をすることあり。屹度小役人の指圖に從ひ。仲間として分配すべし。猪の症だけにやめ（矢目に通ず）として。敢て言ひ爭ひを爲し庄屋殿の手を煩はすことなかれ。

　被告虎市曰く。誠に左樣なることなり。一同承諾すべしと。

　　　△中瀬氏の文章。野味ありて且つ現代の味あり。其一句一字の末まで。最も痛切に感受せられ得と思ふ。讀者以て如何と爲す。

　

(29)　　　　　色々の口傳

　

飛走中の猪を止まらすること。

　竹笛を一口短く微に吹く。

　竹笛無きときは同じくウソを吹く。

　猪は元來眼よりも耳の感覺鋭敏なり。近距離に居りても動きさへせねば之を知らず。物音は之に反す。故に一寸微に物音をすれば。附近に人の在るを疑ひて小止りをして考を付るなり。されど此法は素人は行ふべからず。

猪を見ずして其大小肥瘠を知ること。

　蹄の跡小さくとも地中に印すること深きは大。

　蹄の跡小さくとも跡と跡との距離長きは大。

　蹄の跡大なりとも地中に印すること淺きは瘠肉也。

　蹄の跡に立つ形あるものは多くは瘠肉也。

　蹄の跡の向爪と後爪との間廣がり居るものは猪が疲憊せる兆也。疲憊せる猪は遠くへ往かず。近所に潜伏するものと見る。

　蹄の跡の雪中に印するものは。小猪なりとも大猪と見誤まることあり。日射の爲蹄跡の雪融解すれば也。

丸の儘なる猪の肥瘠を知ること。

(30)　牡猪は脊部肥え牝猪は腹部肥え居るが常なり。故に牝猪の腹部の肥えたるを見て。全身肥滿のものと思ひ購ふときは損をすべし。

　脊部の毛色白く且つ全身綿の如き綿毛にて蔽はれ居るものは肥肉にて。全面毛色黒く且つ疎なるものは瘠肉也。

猪の肉量を知ること。

　臓腑のみを除きたる丸の儘の猪ならば。之に六を掛くれば純肉の量なり。但し此は十貫目以内の猪のことにて。十貫目を超ゆる者は大概七を掛け。二三十貫目の大猪となれば八を掛くる也。其殘は骨又は蹄などなり。

銃聲を聞きて命中と否とを知ること。

　トンと短く纏まりたる反響は命中とす。

　トーンと長く散じたる反響は不とす。

彈の數のこと。

　一丸も二丸も場所によりて利害は色々なり。

　一丸は命中正確なるも飛走中の猪には二丸を利なりとす。一丸は熟練者に於て採用し。二丸は未練者に利あり。

　熊笹の如き障碍物密集の場所にて。狙ひ定まらざる場合には。誰人も多くは二丸を込むるを利とす。

　二九を二ツ矢と云ふ。

獵犬を仕込むこと。

　猪狩向きの犬には決して兎を逐はしむべからず。若し兎を逐ひたるときはいたく叱し懲すべし。

　幼犬を仕込むに最良の法は。小猪を半死の中に繋ぎ置き。長く引ずりまはして咬殺さしめ。さて後時々其肉の小片を切りて與ふる也。

　幼犬の側にて發砲するときは。幼犬喫驚して常に銃聲を恐るゝの癖を生ずるもの也。

(31)　幼猪を伴ひたる牝猪に接したるときは。幼犬に付てはよほど注意すべし。何となれば幼犬は悦びて小猪を咬まんとす。若し放任するときは母猪歸り來て幼犬を噬殺すことあり。故に母猪の引返すを伺ひて速に射殺すべき也。

　幼犬もし猪罠にかゝりたるときは。直ちに罠を切り解くべからず。罠の杭を撓め罠を弛めて。犬をして自ら之を噬み切るの習慣を養はしむるを肝要とす。

　

(32)　　　　　　　　　　――――――――――

茲に椎葉村の地圖を掲ぐることを得ば讀者に便なりしならんも。適當なる原圖を得ざりき。もし熱心なる人あらば。大日本陸地測量部にて出版したる五萬分一圖中。左の圖幅を參照せられんことを望む。共に延岡號の中なり。

　　　　　　椎葉村。神門《ミカド》。諸塚山。鞍岡。村所《ムラジヨ》。

　　　　　　　　　　――――――――――

　

(33)　　　　　附録

　

　　　　　　　　　　狩之卷

　

　　　　西山小獵師　　　　　　　獅子式流〔四字左傍線〕

一山に出る時。生類に行あふてまつるとなへ。

　　山の神もてんとの〔四字左傍線〕事はめされ鳧々々々々

　と唱へ。もゝ椿〔三字左傍線〕の枝にて拂ふ也。但し道の上を折る

　

　　　　宍垣の法〔頭注はすべて（）で括り、各条の前または後に置く〕

（△今も椎葉にては男女の下人（メローとデエカン）を「内の者」といふ）

（△「みさき」は小田林の呪文にも「御先御前」とあること前に見ゆ）

一鹿は上をしげく。猪は下をしげく。後宍垣。前は三尺二寸。腰袖しがきと云ふは二尺三寸也。其時　小摩の獵師猪をとる事數不知　小摩が内の者に辰子と云へる男　せつ子といへる女に　しゝを手向よと乞けるに　男女共にせなをかるひはぎなとして〔せな〜左傍線〕　小摩の獵師に仕ふる後一人は山川に飛人アダハヘ〔四字左傍線〕となる　ひとりは海にとび入一寸の魚と成る　今の「おこぜ」これ也　其時しゝをとりてかふら戸〔四字左傍線〕を祭る　かぶらは山の御神一人の君に奉る　骨をばみさきに參らする　草脇をば今日の三體玉女に參らする　そも々々小摩がもとは藤原姓也　如何なる赤不淨黒不淨にくひちがへても　小摩が末たがふまじと誓ひ(34)たまふ　大摩の獵師は山神の御母神にわりごを參らせず　よつて三年に嶺の椎柴一つゆるされしが　三年に白きししの貳と一つ〔四字左傍線〕ゆるされ　三年にかは一枚　みなふこと一筋とたふへしや〔みな〜左傍線〕　奧山三十三人　中山三十三人　山口三十三人　山口太郎　中山二郎　奧山三郎　嶺の八郎　おろふ〔三字左傍線〕の神谷原行司〔二字左傍線〕　三年原の行司　只今の獵師の末に相逢ふて　あだ矢射させまじ獵師や　柳の枝七枝　小摩が年の數【五十より】かり文ましきのごく〔九字左傍線〕　白き桑かけの魚〔四字左傍線〕とり調へ　昔の神かふざき　中頃の神かふざき　當代神かふざき　山の御神に懈怠らず謹むで申奉る

（△「かふざき」は前にいふ「コウザキ殿」のことと見ゆ）

　

　　　　椎柴の次第

一上瀬にさか柴。但ししでを付る。

　

　　　　御水散米の法

（△「亦ごくは赤御供なるべし、「ごく」は外にも見ゆ）

一中瀬は椎柴也。木の柴三丸かし〔四字左傍線〕也。柴の上より粢みさき祭る。亦ごく〔三字左傍線〕七まへ。尤柴の右の三方より立掛火を放。心經讀誦。しゝは其柴にかけ置事。口傳。

一中瀬みてぐら三本。但し水神の幣也。ごくしとぎごまひを備へ。諸神くわん〔三字左傍線〕

（△「神崎」は亦かふざきなるべし）

一神崎三本。亦は七本。

ちゝみ〔三字左傍線〕右數にして備ふ。

　

　　　　小獵師に望の幣

　

(35)（△左右の「六」と「八」何れかあやまりならん）

〔幣の図省略〕

　

（△「けぢな」は「けばな」とも見ゆ「け」は本の字分明ならずふり假名による）

　　　　朝鹿の者けぢな〔三字左傍線〕祭る事

一ちはやふる神のおもひも叶しや

　　　　　　　けふ物數に千たびもゝ度

　

　　　　完草《ウダグサ》返し

（△「はんけの水」前にも見ゆ）

一のぼるは山に五萬五千　下るは山に五萬五千　合て十一萬の山の御神　本山本地居なほくち〔五字左傍線〕　得物を多くたびたまへ　きざらだや〔五字左傍線〕はんけの水をたつね來て生をてんじて人に生れよ　夫《ヲ》じゝ五カ〔二字左傍線〕　婦《メ》じゝ四カ〔二字左傍線〕や　歩行〔二字左傍線〕。口傳。

一初しゝには頭にまなばしをあてず。矢びらきに掛る也。

(36)（△此文句などはきはめてよく沖繩の「オモロ」に似たり）

一神崎まつり　【串長　二寸二分・燒物串　右同斷】

むかしありといひしや　中頃ありといひしや　地主かんどかうさき　かんの〔三字左傍線〕かうざき　今當代かんどかうさき　簗のかうさき　祭人玉女にむかふ

（△「カクラ」は前に出でたり狩倉と同義なるべし）

一丸頭　今日の日の三度三體玉女殿にかけ法樂申　野の神山の神　天日の神　三日の神　同所のちんじゆ森　かくら山の御神に參らする　猶も數の得物たび玉へ　ぐうぐせひ〔五字左傍線〕のものたすくるといへどたすからず　人に食して〔三字左傍線〕佛果に至れ。六じの名號。

　

　　　　掛隨

（△尻指のみさき）

一しやち頭　今日の日の三體玉女に參らする　二つの兩眼は日天月天　　犬はな〔三字左傍線〕は打きん〔三字左傍線〕のみさき　左のふた〔二字左傍線〕は所の鎭守森　かくら諸神にかけ法樂申奉る　草脇は草の御神　こしわきは尻指のみさき　八枚の折肌〔二字左傍線〕は八人のかんどかうさき　天竺の流沙川水神殿　同法界いなり　ほつかい水神　め谷を谷のはゝ　かりこ〔三字左傍線〕の行司　かりこの子とも　おろふの神　さけふ〔三字左傍線〕の神　谷の口におりやらせ玉ふは山のみさきに掛け法樂申す　とんた〔三字左傍線〕のとほみとしたの〔二字左傍線〕其子に掛け法樂申す　同じ山の木柴おりからし　ほう丁まなばしまな板かうばし　せんくやうく〔六字左傍線〕なきやうに　得物をくし玉へ　まつりはづしはあか良原殿〔五字左傍線〕　はづしのなきやうに　あとのちよとの〔七字左傍線〕にかけ法樂申奉る

一完所に女來るときは。必ずしゝをふるまふべし。女心えはきたる草履の裏にて受れば。なり木の枝をしき。其上にしゝを置てわたすべし

　

　　　　山神祭文獵直しの法

(37)一抑山の御神　數を申せば千二百神　本地藥師如來にておはします　觀世音菩薩の御弟子阿修羅王　緊那羅王　摩　　脈羅王と申佛は　日本の將軍に七代なりたまふ　天の浮橋の上にて　山の神千二百生れ玉ふや　此山の御神の母　御名を一神の君と申す　此神さんをして　三日までうぶはらをあたゝめず　此浮橋の上に立玉ふ時　大摩の獵師毎日山に入り狩をして通る時に　山の神の母一神の君に行あひ玉ふとき　我さんをして今日三日になるまで　うぶはらをあたゝめず、汝が持ちし割子を少し得さすべしと仰せける　大摩申けるは　事やう／＼勿體なき御事也　此わり子と申は　七日の間行を成し　十歳未滿の女子にせさせ　てんから〔四字左傍線〕犬にもくれじとて天上にあげ　ひみちこみちの袖の振合にも　不淨の日をきらひ申す　全く以て參らすまじとて過にけり　其あとにて小摩の獵師に又行あひ　汝高を〔二字左傍線〕いふもの也　我こそ山神の母なり　産をして今日三日になるまで　うぶはらをあたゝめず　山のわり子を得さすぺしとこひ玉ふ　時に小摩申けるは　さてさて人間の凡夫にては　産をしては早くうぶはらをあたゝめ申事なり　ましてや三日まで物を聞しめさずおはす事のいとをしや　今日山に不入　明日山に不入とも　幸ひ持しわり子を一神の君に參らせん　かしきの｜う〔左傍線〕ごく　白き粢の物を聞しめせとでさゝげ奉る　其時一神の君大によろこび　いかに小摩　汝がりう〔二字左傍線〕はやく聞せん　是より丑寅の方に的て　とふ坂山といへるあり　七つの谷の落合に　りう〔二字左傍線〕三つを得さすべし　猶行末々たがふまじと誓て過玉ふ　きう／＼によりつりやう　敬白

（△此大摩小摩の物語は如何にも形式のよくととのひたる神話なり此筋より求入らば更に面白き發見あるべき也）

　

一上日〔二字左傍線〕さかな。へんはい口傳。

　　　みさきあらばかせと車に打のりて

　　　　　　　　かへりたまへやもとのみ山に

一友引。一大事。

(38)一我まへに來るかくれしゝ打つまじき事。

　

　　　　熊の紐ときの傳（大秘事）

一なむめいごのもん　　三返

　　　　　　腹に手をあて

　ろてん中天なりばざつさい　あとはならくのこんりんざい

　　　　　　紐分

一是より天竺の流沙か嶽の邊にて　めんたはつたといへる鍛冶の打ぬべたる　彌陀の利劍を以て解いたる紐にとがはあるまじ

　　　　　歌

　　月入て十日あまりの十五日

　　　　　　　　のこる十日はみろく菩薩へ

　　　　　　月の輪二つに割るとなへ

一こんがうかい　たいざうかい　兩部の万だら　大日如來。

　　　　　　　ねんぶつ十二返

　右小刀三本にてみつ柴〔三字左傍線〕口傳

　　　　　紐とく間のきやうもん

（△此呪文何に在りとも知らず切に識者の教を待つ）

一なふまくさまんだもとなんそはらちことやきやなんおんのんしふらはらしふらうしゆしゆりそふはしやせんちんきやしりゑいそはか

(39)　同。しゝにまなばしをたてゝ九字の文にて九刀にきる。

　　　　　引導

（△有難さうなる經文なれども編者も山中の人と共に夢中にて寫し置く）

一ぐわんにしきどく平號しゆ〔四字左傍線〕いつさいおんゆふく百さい〔三字左傍線〕ちん守らいやうおんしゆりれうちごくがきしゆらのくをのがれしきやう成就となるべし

一諸行むじやうぜしやうめつぽふ生めつめついじやくめつゐらくひがふぐんせい〔七字左傍線〕のもの助るといへども助らず人に食してぶつくわに至れ

　六字の名號。ごしんぼふ

一南無御本尊界行摩利支天

　のうへ〔三字左傍線〕影向あつて

　　ヲンソワウロタヤソワカ。　　　　七返。

　右産所の流といへり。

　

【大山祇命・豐玉姫命】　　　山の御神也

　

　　寛政五年八月　　奈須資�ｺ相傳也

　　　　　　　　　　――――――――――

　　右一卷日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉�ｺ藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖

　　　明治四十二年二月二日　　　　　　　　　　　　柳田國男

　

(41)　　　山島民譚集（一）

　

(43)　　　　　　　小序

　

　横ヤマノ　峯ノタヲリニ

　フル里ノ　野邊トホ白ク　行ク方モ　遙々見ユル

　ヨコ山ノ　ミチノ阪戸ニ

　一坪ノ　清キ芝生ヲ　行人《キヤウニン》ハ　串サシ行キヌ

　永キ代ニ　コヽニ塚アレ

　イニシヘノ神　ヨリマシ　里ビトノ　ユキヽノ栞

　トコナメノ絶ユル勿レト　カツ祈リ　占メテ往キツル

　此フミハ　ソノ塚ドコロ　我ハソノ　旅ノ山伏

　ネモゴロニ我｜勸進《クワンジン》ス

　旅ビトヨ　石積ミソヘヨ　コレノ石塚

　

(45)　　　　　再版序

　

　山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於ても異存が無い。それは今から三十年も昔に、たつた五百部を印刷して知友同好に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る變つて居るからである。斯んな文章は當世には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があつたわけで無い。大げさな名を附けるならば苦悶時代、即ち俗に謂ふ雅文體が段々と行き詰まつて、今見る「である文」はまだ思ひ切つて出あるけない一つの過渡期に、何とかして腹一ぱいを書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色々の形を以て表示せられたので、言はばその數多い失敗した試みの一例なのである。無論誰一人この文體を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつたのだが今日となつては歴史的な興味が、他人で無いだけに自分には特に深い。何が暗々裡の感化を與へて、斯んな奇妙な文章を書かせたかといふことが、先づ第一に考へられるが、久しい昔になるのでもう是といふ心當りは無い。たゞほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな處のあるのは、あの當時闊達無碍の筆を揮つて居た此人の報告や論文を羨み又感じて讀んで居た名殘かとも思ふ。但し南方氏の文は、勿論是よりも遙かに自由で、且つさらさらと讀みやすく出來て居る。私の書いたものが變に理窟つぽく、又隅々の小さな點に、注意を怠らなかつたといふことばかりを氣にして居るのは、多分は吏臭とでも名づくべきものだらう。今はさうとも言へまいが、あの頃はいはゆる御役所の文章が衰頽を極めて居た。讀まずに居られぬから人が讀むといふだけで味も鹽氣も無く又冗漫で措辭の誤りが多かつた。私たちは自身も刀筆の吏でありながら、是が厭で厭でたまらなかつた。さうして事情の許す限り、努めて毎日の氣持に近い、意見書や復命書を書かうとして居たのである。それは或程度まで成功したかも知れぬが、その應用にはおのづから限度がある。一たび職掌を越えて河(46)童や馬蹄石の問題を取扱はうとすると、日頃の練習が却つて惡い癖となつて、忽ちお里を顯はしてしまつたのは苦笑の他は無いのである。それからもう一つ、是も氣が咎めるから白?して置くが、ちやうど此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人をして居た。さうして色々の寫本類を、勝手に出し入れをして見ることが出來たのである。斯んなにまで澤山の記録を引用しなくとも、もつと安々と話は出來たのであるが、それが驅け出しの學徒の悲しさであり、又實は内々の味噌でもあつた。御蔭で河童論などは何だか重くるしく、且つ妙に齒切れの惡いものになつて居る。今から考へると決して利益だつたとは言へない。たゞ其爲に愈々世に遠く、珍本と呼バるゝ條件を具へるやうになつたことだけは、筆者の爲にも好い記念ではあつた。

　この書に掲げた二つの問題のうち、一方の水の神の童子が妖怪と落ちぶれるに至つた顛末だけは、あの後の三十年に相應に論究が進んで居る。最初自分がやゝ臆病に、假定を試みたことが幾分か確かめられ、之れと關聯して又新たなる小發見もあつた。今少し具體的な結論を下しても、反對をする人はもうあるまいといふまでになつて居る。他の一方の馬の奇跡についても、別な解説を下す人はまだ現はれず、しかも私が引用したのと同じ方向の證據資料が、永い間には次々と集積して、何れも倍以上の數に達して居る。一度はこの本を解きほぐして、書き改めて見ようとしたこともあつたが、其時間も無かつたのみならず、又その必要も無いやうな感がある。その上にこのやゝ奇を好んだ一卷の文は、日本民俗學の爲にもあとの港の燈の影のやうなものである。是をもう一度そつくりと本の形で、世に殘して置くことも意味が有るかと思ふ。少し氣になるのは地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區割に引當てゝ置けば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載録せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂増補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすること(47)は出來ない。たゞ著者たる自分が後世人の中にまじつて、もう一度三十年後の新たなる批判を聽く機會を得たことを幸ひとするのみである。

　　　　　昭和十七年七月

　

(49)　　　　　河童駒引〔各項目の見出しは太字、頭注は、見出しの前にまとめた。地名の前の、大字、小字、字、及び引用書名は小字になっているが大きさは変えなかった。「後狩詞記」も同様。〕

　

（温泉、白鷺、鸛、鶴、鳩、鹿、蛇、權現、有馬、蜘蛛、三輪、金掘、隱家）

鷺之湯鶴之湯鹿之湯貉之湯其他　温泉ハ我邦ノ一名物ニシテ兼ネテ又多クノ傳説ノ源ナリ。温泉ノ名ヲ呼ブニ、都會ノ人又ハ遠方ヨリ往ク人ハ、有馬ノ湯或ハ草津ノ湯ナドト所在町村ノ名ヲ以テスレドモ、諸國ノ温泉ニハ大抵別ニ其名前アリ。一ノ山村ニ二箇所以上ノ湯ガ湧クトキ、之ヲ一ノ湯二ノ湯ト謂ヒ元湯《モトユ》新湯《シンユ》ト名ヅケ若シクハ熱湯《アツユ》温湯《ヌルユ》ナドト區別スルハ常ノ事ナレドモ、唯一箇所ノ湯ニテモ亦名前アリ。ソレガ又鷺之湯鹿之湯｜貉之湯《ムジナノユ》ナドト、動物ノ名ヲ用ヰシモノノミ多キハ、異國ノ旅人等ニハ定メテ奇妙ニ感ゼラルヽコトナルベシ。

　サテ何故ニ諸國ノ温泉ニ鷺鶴鹿ノ類ヲ名乘ル者此ノ如ク多キカ。之ヲ土地ノ人ニ訊ヌルニ其答モ亦略一樣ナリ。今其二三ノ實例ヲ語ランカ、先ヅ東北ニハ陸奧下北郡川内村蠣崎ノ鷺之湯ハ、昔｜火箭《ヒヤ》ニ中ツテ脛碎ケタル白鷺アリテ此泉ニ來リ浴シ、日ヲ經ルマヽニ癒エテ飛去リシガ故ニ斯ク名ヅク〔眞澄遊覧記六〕。羽後仙北郡峯吉川村ノ鴻之湯ハ昔鴻ノ鳥｜角鷹《クマタカ》ト闘ヒテ脛折レタルヲ此温泉ニ温メテ之ヲ治セリ〔月之出羽路二〕。羽前西田川部湯田川村湯田川ノ温泉ハ和銅五年ニ始メテ湧出ス。手負《テオヒ》ノ白鷺此湯ニ浸リテ傷平癒シテ飛去リシヨリ效驗ヲ知ルコトヲ得タリ。故ニ鷺之湯ト稱ス。同郡｜温海《アヅミ》村温海ノ温泉ハ大同二年ニ白鶴來ツテ之ニ浴シ足ノ痛ヲ癒シテ飛去リシカバ之ヲ鶴之湯ト謂フ。今源助ト云フ者ノ家ノ後ニ此湯アリ〔三郡雜記下〕。而シテ右ノ大同二年ト云フハ奧羽ノ傳説ニ於テ最モ有名ナル昔ナリ。越前大野郡｜五箇《ゴカ》村｜上打波《カミウツナミ》字｜鳩《ハト》ケ瀬《セ》ノ鳩之湯ト(50)云フ冷泉ハ、毎朝鳩ノ來リ浴スルニ心附キテ之ヲ發見シ、同郡｜小山《ヲヤマ》村｜深井場《フカヰバ》ノ炭酸冷泉ノ一ヲ古來｜鹿井之湯《シカノヰノユ》ト稱セシハ領主｜斯波義種《シバヨシタネ》猟ニ出デテ手負鹿ノ泉ニ欲スルヲ見出セシニ基クト云フ〔大野郡誌〕。但馬ノ城崎《キノサキ》ニモ鸛之湯《コフノユ》アリ。舒明天皇ノ御時ニ脚ヲ病メル鸛鳥《コフノトリ》常ニ此處ノ水ニ立ツヲ怪シミ、其鳥飛去ツテ後其水ニ手ヲ入レテ見ルニ暖カキ靈湯ナリ云々ト語リ傳フ〔日本轉地療養誌〕。武藏ニテモ多摩川ノ上流ナル小河内《ヲガウチ》ノ温泉ハ同樣ノ理由ヲ以テ之ヲ蛇之湯ト名ヅク〔十方菴遊歴雜記初篇上〕。同ジ西多摩郡平井村字｜鹽澤《シホザハ》ニモ寶光寺ノ境内ニ鹿之湯ト云フ温泉アリキ。寺ノ開山文濟禅師ガ天文六年ニ始メテ庵ヲ此山ニ結ビシ頃、朝毎ニ足ヲ傷ツケタル一鹿ノ庵ノ前ヲ往復スルヲ見ル。其跡ヲ繋ゲバ麓ノ谷ニ温泉ノ湧出ヅルアリ。即チ藥師佛ヲ安置スル外ニ、鹿湯權現《ロクタウゴンゲン》ヲ勸請シ來ツテ此地ノ守護神トス〔新篇武藏風土記稿〕。攝州有馬ノ湯ノ根原ニ就テハ有馬大鑑ニ左ノ如キ説アリ。建久二年二月半、吉野ノ僧｜仁西《ニンサイ》熊野權現ノ御告《オンツゲ》ニ由リ此地ニ來リ、御神ノ教ニ任セ蜘蛛ノ引ク絲ヲシルベニ山ニ分ケ入リツヽ、古キ跡ヲ尋ネテ十二坊舍ヲ建ツ云々〔古名録四〕。此話ハ此山ニ三輪明神ヲ祀リシコト、關係アルベシ。美作勝田郡｜湯之郷《ユノガウ》村ノ鷺之湯モ、圓仁法師白鷺ニ由リテ温湯ノ所在ヲ知ルト、元龜元年ノ藥師堂縁起ニ見ユ〔東作誌〕。豐後北海部郡｜下北津留《ツモキタツル》村｜藤河内《フヂカウチ》字｜鷺來《ロク》ケ迫《サコ》ノ炭酸泉ニモ文字ニ因ミテ同種ノ説アリ。昔此山ニ金ヲ採ラントスル者、圖ラズ坑中ニ靈泉ノ迸リ出ヅルヲ見ル。時ニ脚ヲ傷メタル鷺來リテ其泉ニ浸リ忽チ疵癒エテ飛去ル。依ツテ始メテ其驗ヲ知リ且ツ其處ヲ鷺來ケ迫ト名ヅクルニ至レリ云々〔豐後温泉誌〕。白鷺鹿ノ輩ハ古來皆靈物ナリ。温泉ノ發見者ガ神主又ハ僧侶ナリシ場合ニ、必ズ其動物ガ土地ノ神佛ノ使者傳令ナリシコトヲ附加スルハ誠ニ當然ノ事ニシテ、是ダケノ偶合ナラバ未ダ怪シムニ足ラズトス。

　今日ノ温泉ハ半ハ避暑地遊覽地也。サホド病人デモ無キ者ガ所謂保養ノ爲ニ出掛ケテ行ク場處トナレリ。然シナガラ二三百年前迄ノ湯ノ宿ハ不自由ヲ極メタルモノナリキ。難儀ヲシテ山ノ中ヘ往ク昔ノ湯治客ハ決(51)シテ今ノ紳士ノ如キ氣樂人ニ非ズ。殊ニハ戰爭頻繁ニシテ外科醫術ノ進歩セザリシ時代ニハ、温泉ハ言ハヾ天然ノ病院ナリ。亂世ハ戰場ニテ命ヲ殞ス者モ勿論今ヨリハ遙カニ多カリシナランガ、一旦助カリタル手負人モ傷養生ハ中々面倒ナリキ。良醫ヲ求メテ其治癒ヲ受クルヨリモ、先ヅ以テ五體ノ利カヌ間ハ敵ニ發見セラレヌ爲、靜カニ山中ニ隱レ居ルコトノ必要ナリシハ、全ク右ノ鷺鹿ノ類ト同ジ。若シ領分内ノ深山ナドニ右ノ如ク金創《キンサウ》ニ效アル温泉アレバ、ソレコソ誠ノ天ノ惠ナリシナリ。有馬草津ハ千年來ノ名湯ナレド、其靈驗ノ十分ニ發揮セラレテ終ニ日本ノ一名物トナリシハ、恐クハ亦後世鷺之湯鹿之湯等ノ傳説ガ發生セシ時代、即チ略戰國ノ斬合時代以後ノ事ナルベシ。世中太平ニ及ブト共ニ、箭ノ傷刀ノ創ガ早ク平癒スルト云フノミニテハ廣告トナラヌ故ニ、是等ノ話モ少シヅツ變形シテ、鳥獣マデガ脚氣血ノ道「リウマチス」ヲ、苦ニシテ居タルガ如ク語リ傳ヘザレバ、折角ノ理窟ガ段々不明ニナリ行ク也。

（淺瀬、薤、雀、無名異、雉、佐渡島）

非類霊藥ヲ知ル　鹿狐ノ徒ガ山中ニ於テ手療治ヲ試ミ居タリト云フ口碑ハ、モト靈泉ノ奇特ガ天然ニ具備スル者ニシテ、自ラ無知ノ鳥獣ヲ感應セシムルニ足リ、世ノ常ノ醫藥ノ如ク人間ノ智巧ヲ以テ作リ上ゲタル者ニ非ザルコトヲ意味シ、素朴單純ナル前代ノ人ヲシテ容易ニ其有難味ヲ悟ラシムルコトヲ得。始メテ此噂ヲ立テタル人若シ有リトスレバ物ノ分ツタ人ナリ。イヅレ御寺ノ和尚カ何カニテ、カノ行基菩薩弘法大師性空上人ナドヲ日本國ノ隅々マデモ引張リマハシ、終ニ之ヲ世界ニ稀ナル大旅行家トシタル人々ノ所業ナルカモ知レズ。但シ人間ガ非類ノ物ヨリ生活方法ノ一部ヲ模倣シタリト云フ話ハ外ニモアリ。獨リ鷺之湯鹿之湯等ノ由來記ニ限リシコトニハ非ズ、昔ノ日本人ニハ耳馴レタル物語ナリシナリ。例ヘバ下總ノ鴻ノ臺ハ、曾テ小田原北條ノ軍勢攻寄セシ時、搦手ノ備薄キ處ヲ突カント欲シテ川ノ瀬ヲ知ルニ苦シム。時ニ中流ニ鴻ノ立ツヲ見テ漸ク渡ルコトヲ得タルガ故ニ此地名ハ起リシニテ、之ヲ國府臺トスルハ誤ナリト云フ説アリ〔十方菴遊歴雜記初篇上〕。鷺ニ就テモ古クヨリ一ノ話ヲ傳フ。丹波國ニ住ム者青鷺ヲ射ル。後ニ家ノ薤《ニラ》畠ヲ來テ荒(52)ス者アリ。暗中ニコレヲ射止ムレバ前ニ遁ゲタル鷺ナリ。薤ノ葉其傷ノ矢ノ根ニ卷附キテアリ。矢創ヲ癒ヤサンガ爲ニ薤ヲ摘ミシヲ知リ、之ヲ憫ミテ佛門ニ入ル云々〔三國傳記〕。薤ノ金創ニ效アルコトハ兎ニ角動物ヨリ教ヘラレタリト見ユ。下野｜雀宮《スヾメノミヤ》ノ由來ニ、曾テ針ヲ包ミタル饅頭ヲ人ニ欺カレテ丸呑ミニシ大ニ苦シミ居タル男、庭前ノ雀ガ草ヲ口ニシテ弱リタル友雀《トモスヾメ》ニ食ハスヲ見ル。ヤガテ其雀尻ヨリ光レル物ヲ出シ元氣快復ス。光ル物ハ針ニシテ草ハ即チ薤ナリ。男モ之ニ習ヒテ薤ヲ食ヒテ針ヲ出シ雀ノ恩ヲ謝シテ神ニ祀ルトアリ〔東國旅行談〕。佐渡ノ島ニハ無名異《ムミヤウイ》ト云フ一種ノ鑛物ヲ出ス。今日ハ茶碗ヤ盃ヲ燒ク原料ナレド、本來ハ血止ノ妙藥ナリ。始メテ其效能ヲ知リタルハ、或時網ノ爲ニ足ヲ損ジタル一羽ノ雉、小石ヲ以テ傷所ヲ摩擦シ程無ク飛去ルヲ見テ、其石ノ外科ノ治療ニ用立ツヲ知リ得タルナリト云フ。此話ハ支那ノ書ニモ之ヲ掲ゲタレド〔本草綱目〕、佐渡ニテハ此ヲ彼島ノ出來事ナリト傳フ。此島ニハ黄金ヲ産スル故ニ金ノ隣ノ土マデモ何ト無ク價値ヲ認メラルヽニ至リシナラン。雉ハ桃太郎以來ヨク色々ノ援助ヲ與ヘタリ。或人獵ニ出デ如何ニ狙ヒテモ鐵砲ノ中ラヌ雉ヲ見ル。不思議ニ思ヒテ網ヲ以テ之ヲ生捕り、巽ノ下ヲ檢スレバ小サキ紙アリ。※［手偏＋（合／辛）］抬※［手偏＋（合／辛）］※［手偏＋（巳／力）《シヤクコウシヤクカク》ノ四字ヲ書ス。即チ仙人道士ノ秘傳タル護身ノ符字《フジ》ナリ〔難波江六〕。鐡砲ノ玉ヲ除ケテ網ノ厄ヲ免レシムルコト能ハザリシ矛盾ハ、自分ノ説明シ得ザル點ナレド、兎ニ角ニ是ガ百年前ノ稀有ノ出來事ニハ非ズシテ、現ニ日露戰爭ノ際ニモ、右ノ雉ノ守札ヲ身ニ帶ビデ出陣セシ勇士多カリシコトハ事實ナリ。

（片手、河童ノ手、腕ノ共通、鯰、ヒヤウスヘ、澁江氏、水神、菅公、守札、馬、馬洗、橋ノ怪、逆流、手接、河童欒法、河童草、池、鎌）

河童上傳ノ金創藥　サテ此カラガ本論ナリ。今若シ河童ヲ以テ一種ノ獣類トスルナラバ、正シク前ニ掲ゲシ傳説ノ一例ト見ルベキ昔話アリ。即チ非常ニ效能ノ大ナル金創藥《キンサウヤク》ヲ河童ヨリ傳授セラレタリト云フ多クノ物語是ナリ。自分十二三歳ノ頃世ニ公ニセラレシ書物ニ、石川鴻齋翁ノ夜?鬼譚《ヤソウキダン》ト云フ者アリ。自分ノ耳ヲ悦バセシ最初ノ話ハ此文集ノ中ニ在リキ。奇拔ナル挿畫アリシ事ヲ記憶ス。袴ヲ著ケタル立派ナル若衆ガ奧方ノ前ニ低頭シテ一本ノ手ヲ頂戴スルノ圖ニシテ、其手ハ恰モ天竺�ｺ兵衛ガ蝦蟆《ガマ》ノ手トヨク似タリ。此少年コ(53)ソハ即チ河童ノ姿ヲ變ヘタル者ニシテ、奧方ノ爲ニ斬取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ處ナリ。タシカ九州ハ柳河《ヤナガハ》ノ城下ニ於テ、河童或強勇ナル奧樣ニ無禮ヲ働キテ手ヲ斫ラル。泣イテ其罪ヲ謝スルガ故ニ、憐愍ヲ以テ其手ヲ返シ與ヘタルニ、禮物ニ川魚ヲ持參セリト云フ話ナリシカト思フ。此同ジ話ノ異傳カトオボシキモノ、少クモ九州ニ二ツアリ。其一ハ博多細記ニ見ユ。筑前黒田家ノ家臣ニ鷹取運松庵ト云フ醫師アリ。妻ハ四代目ノ三宅角助ガ娘、美婦ニシテ膽力アリ。或夜厠ニ入リシニ物蔭ヨリ手ヲ延バシテ惡戯ヲセントスル者アリ。次ノ夜短刀ヲ懷ニシテ行キ矢庭ニ其手ヲ捉ヘテ之ヲ切放シ、主人ニ仔細ヲ告ゲテ之ヲ燈下ニ檢スルニ、長サハ八寸バカリニシテ指ニ水掻アリ、苔ノ如ク毛生ヒテ粘リアルハ、正シク本草綱目ニアル所ノ水虎《スヰコ》ノ手ナリト珍重スルコト大方ナラズ。然ルニ其夜モ深更ニ及ビテ、夫婦ガ寢ネタル?ニ近ク來リ、打歎キタル聲ニテ頻ニ訴フル者アリ。私不調法ノ段ハ謝リ入ル、何トゾ其手ヲ御返シ下サレト申ス。河童ナドノ分際ヲ以テ武士ノ妻女ニ慮外スルサヘアルニ、手ヲ返セトハ長袖ト侮リタルカ、成ラヌ／＼ト追返ス。斯クスルコト三夜ニ及ビ、今ハ絶々ニ泣沈ミテ憫ヲ乞ヒケレバ、汝猶我ヲ騙カサントスルカ、我ハ外治ノ醫家ナルゾ。冷エ切ツタル手足ヲ取戻シテ何ニセント言フゾト罵ル。御疑ハ御尤モナレドモ、人間ノ療治トハ事カハリ、成程手ヲ繼グ法ノ候ナリ。三日ノ内ニ繼ギサヘスレバ、假令前ホドニハ自由ナラズトモ、コトノ外殘リノ腕ノ力ニナリ候。偏ニ御慈悲ト涙ヲコボス。此時運松庵モ稍合點シ、然ラバ其藥法ヲ我ニ傳授セヨ、腕ハ返シ與フベシト云ヘバ、河童是非ニ及バズトテ障子越ニ一々藥法ヲ語リテ書留メサセ、片手ヲ貰ヒテ罷リ還リ、吏ニ夜明ケテ見レバ大ナル鯰ノマダ生キタルヲ、庭前ノ手洗鉢ノ邊ニサシ置キタリシハ、誠ニ律義ナリケル話ナリ。次ニ笈埃《キフアイ》隨筆ノ中ニハ、肥前｜諫早《イサハヤ》在ノ兵揃《ヒヤウスヘ》村天滿宮ノ神官澁江久太夫ノ家ノ歴史トシテ此話ヲ傳ヘタリ。事ノ?末ハ全ク博多ノ鷹取氏ノト同ジク、唯彼ハ醫師ナルニ反シテ此ハ本草ニモ縁ナキ普通ノ神主ナレドモ、利害ノ打算ト外交的手腕トニ於テハ甲乙アルコトナク、有利ナル交換條件ヲ以テ安々ト河童手(54)繼ノ秘法ヲ聞取リ、永ク之ヲ一子相傳ノ家寶トシテ、近國ノ怪我人ニ河童藥ノ恩惠ヲ施シタリト云ヘリ。

　右三書ノ傳フル所、果シテ何レヲ眞トスベキカヲ知ラザルモ、要スルニ澁江氏ハ河童ト淺カラザル縁故アリ。肥後ニモ河童ノ退治ヲ職トスル一箇ノ澁江氏アリキ。今ノ菊池神社ノ澁江公木氏ナド或ハ其沿革ヲ承知セラルヽナランカ。但シ自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵揃《ヒヤウスヘ》ト云フ村ノ名無シ。恐クハ亦傳聞ノ誤ナラン。九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神《スヰジソ》ト謂ヒ或ハ又「ヒヤウスヘ」ト謂フ〔サヘヅリ草〕。狩野探幽ノ筆ト稱スル百化物《ヒヤクバケモノ》ノ畫卷ノ中ニモ、「ヒヤウスヘ」ト云フ物アリ。太宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスベ」ノ宮アリ。此ハ俗ニ謂フ河太郎ノコトナリト稱ス〔南蘭草下〕。昔菅公ガ筑紫ノ配處ニテ詠マレタリト云フ歌ニ

　　イニシヘノ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

ト云フ一首アリ〔和漢三才圖會四十〕。此歌ハ僅ナル變更ヲ以テ又左ノ如クモ傳ヘラル〔同上八十〕。

　　ヒヤウスヘニ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男我モ菅原

　之ヲ以テ觀レバ、「ヒヤウスヘ」ハ本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル。諫早《イサハヤ》附近ノ澁江氏ガ同ジク天滿宮ノ神官ナリシコト、及ビ一説ニハ長崎ノ邊ニ住スル澁江文太夫ナル者、能ク水虎ヲ治シ護符ヲ出ス、河ヲ渉ル者之ヲ携ヘ行ケバ苦ナシト云ヒ、或ハ若者等海ニ小石ヲ投ジテ戯トセシヲ怒リ、河童此澁江氏ニ托シテ其憤ヲ述ベタリト云フコトヲモ考フレバ〔同上〕、村ノ名ヲ兵揃《ヒヤウスヘ》ト誤リ傳ヘタル仔細ハ必ズシモ想像ニ難カラズ。而シテ右ノ一首ハ、此男ハ菅原氏ノ一族ノ者ナレバ川ニ立チテモ害ヲ加フルコトナカレ、以前「ヒヤウスヘ」神ト結ビタル約束ヲ嚴守セヨト云フツモリニテ、拙《ツタナ》キナガラニヨク要領ヲ得、河童研究上有カナル一史料ナリ。

　併シ何レニシテモ右ノ河童藥ノ話ニハ少カラズ御伽噺的分子ヲ含メリ。如何ニ妙藥ナレバトテ切ラレシ手ノ繼ガルベキ道理アルコトナシ。但シ靈藥ノ靈藥タル所以トシテ、最初ノ程ハ先ヅ／＼ソレ位奇妙ナル效能(55)アリシモノトシテ置クナリ。然ルニ此ノ如キ奇談モ九州以外ニヤハリ多クノ類例アリ。何事ニヨラズ天下一品ト云フ物ハ此世ニ無シト言ヒテ可ナリ。試ミニ其一二例ヲ掲グレバ、甲斐北巨麻郡｜下條《シモデウ》村ニ昔ハ下條ノ切疵藥トテ有名ナル妙藥アリ。此モ釜無川ノ河童ノ傳授ナリト稱ス。農夫アリ、或年ノ冬薪ヲ馬ニ附ケテ甲府ノ町ヘ賣リニ行キシ歸リニ、此川ノ川原ニシテ日暮レ霙降リ來ル。其時曳キタル馬ノ少シモ動カザルヲ怪シミテ振返リ見レバ、十二三歳ノ男ノ兒ガ馬ノ尾筒ニ縋リ居ル。如何ニ叱リテモ手ヲ放サズ、アマリ憎ラシケレバ年甲斐モ無ク少々腹ヲ立デ、腰差ノ刀ヲ拔キテ切拂フ眞似ヲシタルニ始メテ遁ゲ去レリ。然ルニ其夜宅ニ歸リテ馬ヲ洗ハントスルニ、尻尾ノ根モトニ猿ノ手ノ如キ物一ツブラ下リテアリ。不思議ニ思ヒツツモ之ヲ藏ヒ置クニ、其夜中ニ戸ノ外ニ來テ小兒ノ如キ聲ニテサモ悲シゲニ旦那々々ト呼ブ者アリ。私ハ河童デアリマス、ドウゾアノ手ヲ返シテ下サレト言ヒ、且ツ切ラレテ萎ピタル手足ニテモ、元ノ通リニ繼ギ得ルコトヲ告ゲタリ。此河童モ性來好人物ノ河童ナリト思シク、主人ノ掛引ニ逢ヒテハタト當惑ハシタルモ、元々自分ノ方ガ理窟モ惡ク且ツ弱味モアルコト故、終ニ其秘法ヲ傳授シテ腕ト交換シテ去リシノミナラズ、翌朝ハ別ニ澤山ノ鯉鮒ナドヲ戸口ノ盥ノ中ニ入レテ行キタリ。主人ハ慨然トシテ曰ク、我｜豈《アニ》獣類ヲシテ其食ヲ分タシメンヤト、悉ク魚ヲ川ニ放ス。而モ一包二十四文ノ切疵藥ノミハ河童ノ餘�ｺトシテ盛ニ賣レタルガ故ニ、結句一郷ノ分限者ト成リスマシ、更ニ又河童退治ノ高名ハ國中ニ響キ渡リシ次第ナリ〔裏見寒話六〕。常陸｜行方《ナメカタ》郡｜現原《アラハラ》村大字芹澤ト大字｜捻木《ネヂキ》トノ間ヲ流ルヽ手奪川《テバヒガハ》ハ梶無用《カヂナシガハ》ノ上流ナリ。橋アリ手奪橋《テバヒバシ》ト云フ。寛正六年夏ノ頃芹澤俊軒ト云フ人此邊ヲ遥遙シ、日暮レテ此橋ヲ過ギテ歸ラントスルニ馬｜前《スヽ》マズ。怪シミテ後ヲ顧ミレバ怪物アリテ馬ノ尾ヲ捉フルヲ見ル。乃チ刀ヲ拔キテ其腕ヲ斫リ之ヲ携ヘ還ル。然レドモ其何物タルヲ知ラズ。其夜俊軒ガ寢所ニ入リ來リ拜伏シテ訴フル者アリ。吾ハ前川《ゼンセン》ニ住メル河童ナリ。公ノ爲ニ一手ヲ斬ラル。願ハクハ腕ヲ返セ、吾ニ金創接骨ノ妙藥アリ、幸ニ以テ我腕ヲ接ギ且ツ奇方ヲ君ニ傳ヘテ謝意ヲ表セン(56)ト言フ。俊軒愍然トシテ腕ヲ返ス。河童大ニ悦ビテ其秘傳ヲ授ケ且ツ曰ク、爾後日々魚ヲ獻ゼン。若シ魚ヲ獻ゼザルニ至ラバ吾命ノ終レルヲ知リタマヘ云々。明日果シテ魚一雙ヲ庭上ノ梅ノ枝ニ懸ケ、久シキヲ經テ斷絶スルコト無シ。數年ノ後一日魚ヲ見ズ。仍テ下男ヲシテ前川ヲ捜ラシムルニ、河童果シテ死シ其屍ハ逆流シテ今ノ東茨城郡橘村｜與澤《ヨザハ》ノ地ニ止マル。乃チ其地ニ葬リ祠ヲ建テ、手接《テツギ》明神ト謂フ。水旱疾疫ニ際シ之ニ?ルニ驗アリ。手奪川《テバヒガハ》ノ名ハ此ニ起リ、芹澤氏金創藥家傳ノ妙方亦之ヲ祖トス。今遠孫芹澤潔ト云フ人此地ニ住シテ尚接骨ノ藥ヲ販ギツヽアリ〔茨城名勝誌〕。

　以上數箇所ノ接骨藥ハ本來其家ノ總領ト河童トノ外ニハ誰知ル者無キ秘密ナルベキ筈ナルニ、ボツ／＼ト其噂ノ世ニ傳ハリタルハ此モ亦不思議ナリ。下條《シモデウ》ノ切疵藥ハ田野ニ生ズル所ノ蔓草ヲ以テ藥種トス。油類?類ト差合アリト云フ迄ハ兎ニ角、魚類ヲ食フベカラズトアルハ河童ノ藥トシテハ少シク平仄ノ合ハヌ話也。日向國高鍋ノ庄左衛門ナル者、曾テ河童ト闘ヒテ其一腕ヲ斬取リテ歸ル。河童哀求シテ其腕ヲ乞ヒ、此モ手繼ノ秘法ヲ秘シ去ルコト能ハズ、命ノマヽニ藥物ヲ臚列シテ見セタリ。然ルニ腕ヲ取返シ欣ビテ門ヲ出デ顧ミテ言フニハ、吾詳カニ藥劑ヲ述ベタレドモワザト其一ヲ闕キタリト、終ニ水ニ没シテ又追フベカラズ。庄左衛門藥ハ後盛ニ世ニ行ハレ、用ヰテ金創｜打撲《ウチミ》ニ傅《ツ》クレバ神效アレドモ、全ク切レタル手足ノミハ繼ギ兼ヌルハ其一味ノ不足スル爲ト云フ〔水虎録話〕。虚誕《ウソ》ヲ吐クホドナラバ丸々無用ノ草ヲ指示シテ可ナリ。半分約ヲ守ルト云フモ如何ナリ。博多ノ河童ハ鷹取氏ニ向ヒテ、イヤ僞ハ人間ノ器量ニコソアレ、化物ノ心ハ只一筋ニ行クモノニテ、命ヲ助ケラレ手ヲ求ムル間ハ、中々人ヲ欺クベキ餘裕ナシト言ヘリ。次ノ話ヲ考ヘ合ストキハ、此方ガ尤モラシク聞ユルナリ。河童ノ藥ト云フモノハ東ハ出羽ノ果ニモアリ。羽後｜平鹿《ヒラカ》郡榮村大屋寺内ノ某氏ニ於テ製スル河童相傳ト云フ接骨藥《ホネツギグスリ》ハ、黒燒ニシテ飲藥トシ又｜傅藥《ツケグスリ》トス。此藥ヲ賣ル者秋田市ニモ能代町ニモ住シ、通名《トホリナ》ヲ又市ト云ヘリ。同ジク平鹿都ノ横手｜給人町《キフニンマチ》須田源六郎家傳ノ正骨藥、仙北郡｜長信(57)田《ナガシタ》村川口ノ鷹嘴《タカノハシ》太右衛門ガ製スル飛龍散モ共ニ亦河童ノ相傳ニシテ、其家ハ兼ネテ骨接醫者ヲ業トセリ。此類ノ秘藥ニシテ河童ガ人間ヨリ夙ク知リ居タリト云フモノハ外ニモ多ク、何レモ其主剤ハ漢名ヲ扛板歸《カウハンキ》、和名ヲ「イシミカハ」一名「カツパサウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕。中陵漫録卷十三ニ曰ク、萬病囘春ニ扛板歸アリ。和名「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此草ヲ寶ル。能ク折傷打傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ。按ズルニ日向國ヨリ出ル河童相傳正左衛門藥ト云フアリ。能ク骨ヲ接ギ死肉ヲ活カス妙藥ナリ。昔日向ニ古池アリ。毎歳河童ノ爲ニ人命ヲ失フ。或人薄暮此池ノ邊ヲ過グ。河童手ヲ出シテ足踵《カヽト》ヲ引ク。此人鎌ヲ以テ河童ノ手ヲ切リ取リテ歸リ、梁下ニ釣リ置ク。是ヨリ毎夜來リテ板戸ヲ扣イテ其手ヲ乞フ。其人大ニ罵リテ追ヒ散ラス。凡ソ來ルコト一七夜、此人河童ニ謂ツテ曰ク、此手乾枯シテ用ニ立ツコト無シト云ヘバ、河童對ヘテ曰ク、我ニ妙藥アリ之ヲ以テ活カスト。此人戸ヲ開キテ其手ヲ投ジ去ル。此夜ノ中ニ一草ヲ持チ來リ置ク。考フルニ妙藥ト言ヒシハ此草ナルベシトテ、乾カシ置キテ金創及ビ打傷ノ人ニ施スニ甚ダ妙ナリ。之ニヨリテ毎歳採リテ打傷ノ藥トス。甚ダ流行スルニ至ツテ近隣ノ人々此草ヲ知ラントスルヲ恐レ今ハ黒霜《クロヤキ》トス。按ズルニ毎夜來リテ板ヲ扛《タヽ》キテ歸ルト云フ、囘春ニ扛板歸トアルト(58)暗ニ相合ス云々〔以上〕。併シナガラ扛《カウ》ハ擧グル也、叩クコトニハ非ズ。此漢名ノ起原ハ、怪我人ガ即坐ニ本復シテ、歸ル時ニハ又板ヲ擔ギテ行カルルト云フ迄ノ意味ニテ、右ノ河童ノ因縁ニ結ビ附クルコトハ些シク難儀ナリ。但シ或地方ニテ之ヲ「河童ノ尻拭ヒ」ト呼ブハ、此草ガ水畔ニ生ジ莖ニ刺アリテ河童ノ滑ラカナル肌膚ヲモ擦リ得レバナランカ〔南方熊楠氏説〕。

（馬、伯母、鬼、老女、妙虎天、姥神脇侍、鎌、狼、火車、犬、山伏、手紙、片腕、赤岩一角、化物謝罪、鬼）

羅城門　肥前ト甲斐常陸トノ河童談ヲ比較シテ最初ニ注意シ置クベキコトハ、後者ニハ馬ト云フ第三ノ役者ノ加ハリテアルコト也。但シ釜無川ノ川原、又ハ手奪川《テバヒガハ》ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ單純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々研究ノ歩ヲ進メ行クトキハ、此系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムベキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ヅ順序トシテ羅城門ノ昔話ヲ想ヒ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大將軍攝津守殿頼光ノ家人ニ、渡邊綱通稱ヲ箕田源二ト云フ勇士アリ。武藏ノ國ヨリ出タル人ナリ。或夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼ト闘ヒテ其片腕ヲ切取リテ歸リ來ル。其腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ攝津ノ田舍ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問シ來り、見セヌト云フ腕ヲ強ヒテ出サシメ之ヲ奪ヒ還シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至ハ凧ノ繪ニ詳カナリ。羅城門ニハ古クヨリ樓上ニ住ム鬼アリテ惡キ事バカリヲ爲シ居タリシガ、一旦其毛ダラケノ腕ヲ箕田源二ニ切ラレシ頃ヨリ、頓ニ其勢力ヲ失ヒシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其取戻シタル腕ハ歸リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日譚ハ此世ニ傳ハラズト雖、兎ニモ角ニモ近代ノ河童冒險談ト頗ル手筋ノ相似タルモノアルハ爭フベカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ寶劍ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。頼光サント太閤サントヲ同ジ人カト思ヒシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全國ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思ヘリ。然ルニ、海ヲ越エテ佐渡島ニ行ケバ、此話ハ忽チ變ジテ駄栗毛《ダクリゲ》左京ノ武勇談トナリテ傳ヘラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或年八月十三日ノ夜、河原田ノ館ヨリノ歸リニ、諏訪大明神ノ社ノ傍ヲ通ルトキ俄ノ雨風ニ遭フ。乘リタル馬ノ些シモ進マ(59)ザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ?ム者アリ。大刀ヲ拔キテ之ヲ斬沸ヘバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁レ行キ、其跡ニ一本ノ逞シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾ヒテ我家ニ藏シ置キタルニ、其後毎晩ノヤウニ彼ノ處ニ來テ戸ヲ叩キ哀願スル者アリ。九月モ中旬ニ及ビテ終ニ對面ヲ承諾シタル處、這奴ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺拐帶ヲモセズ、又何等ノ禮物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉ク其身上ヲ白?シタル後、イトヾ萎ビタル右ノ古腕ヲ貰ヒ受ケテ歸リタリ。彼女ノ言ニ依レバ、以前ハ越後國彌彦山附近ノ農夫彌三郎ナル者ノ母ナリ。惡念増長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此島ニハ渡ラヌ筈ニテ國元ヘ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神樣トナル。今ノ彌彦山ノ妙虎天《ミヤウトラテン》ト云フ祠ハコノ彌三郎ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ傳ヘタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天《ミヤウタラテン》トアリ。岩瀬ノ聖了寺ノ眞言法印之ヲ濟度シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ツテ阿彌陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我子ノ爲ニ斬ラレタリト云フコト也。越後三島郡中島村ニ彌三郎屋敷ト云フ故迹アリ。鬼女ハ此地ノ出身ナリト云フ。彌三郎或夜鴨網ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居タルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ?ム者アリ。持ツタル鎌ヲ振ヒテ其腕ヲ斬取リ家ニ歸リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言ヒテ納戸ニ臥シ起キ出デズ。翌朝戸ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ?ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ爲ニ鬼女ナルコト露顯シ、終ニ家ヲ飛出シテ公然ト惡行ヲ營ムコトヽナリタリト云フ〔越後名寄四〕。此話ニハ言フ迄モ無ク前型アリ。今昔物語ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、倅ガ「スハ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寢處ニ擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ彌三郎婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。刈羽郡中鯖石村大字｜善根《ゼコン》ニテハ、狼ニ成ツテ漆山ト云フ處ニテ人ヲ食ヒ、後ニ我子ノ爲ニ退治セラレテ八石山《ハチコクサン》ニ入ルト傳フ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテ／＼有難イトムラヒヂヤト云ヒテ棺ヲ奪ヒ中ノ屍骸ヲ食フ故ニ、飛岡ノ淨廣寺ノ上人ノ代ヨリ青キ日傘ニ青キ法衣(60)ト改メタリ〔日本傳説集〕。或ハ又妙太郎婆ノ話トナリテモ傳ヘラル。妙虎妙多羅妙太郎ノ名ノ由來ハ未ダ之ヲ明カニスルコト能ハズ。從ツテ鬼カ火車カ、本體ヲ究ムルコト難ケレドモ、狼ノ老女トナル話ハ古クシテ且ツ弘シ〔郷土研究一ノ十二〕。越中婦負《ねヒ》郡櫻谷村大字駒見ノ古傳ニ依レバ、昔此里ニ「ユウユウ」ト云フ老尼アリ。夜ハ犬トナリテ樣々ノ妖怪ヲ爲シケルガ、或時山伏ニ足ヲ斫ラレ、ソレヨリ此里ニ住マズ。其後三年ホド經テ射水《イミづ》郡ノ荒山ト云フ所ヨリ駒見ノ八右衛門ナル者ノ家ヘ書面ヲオコセタリ。犬ノ手跡トテ、人皆之ヲ見タリト云フ〔越中舊事記〕。然ルニ此話ニハ又一異傳アリ。此ヨリモ時代稍古ク且ツ土地ノ人ノ手ニ成リシ著書ニハ、之ヲ狼ナリト云ヘリ。昔駒見村ノ「ヨウユウ」ナル者ノ家ニ年久シク召使ヒシ姥ハ、狼ノ化ケテ人トナリシ者ナリキ。或山伏夜更ケテ呉服山《クレハヤマ》ノ古阪ヲ通リシニ、狼群レ來ツテ附纏フ。山伏怖レテ喬木ニ攀上リケレバ、狼アマタ打重リ其上ニ姥跨ガリテ彼ヲ引下サントス。山伏短刀ヲ拔キ其姥ノ肘ヲ打落セバ、下ノ狼モ散々ニナリテ遁去リタリ。夜明ケテ山伏樹ヨリ降リ、駒見村ヲ見掛ケテ暫ク憩ハント、カノ「ヨウユウ」ガ家ニ立寄リシニ、姥ハ傷痛ミテ叫キ號ビ打臥シ居タリシ處ニテ、山伏ノ姿ヲ見ルヤ否、逃出シソレヨリ行方ヲ知ラズ。此事御郡ノ舊記ニ出デタリトアリ〔肯構泉達録十五〕。サレバカノ八犬傳ノ赤岩一角ノ如キモ、不運ナル化物ニハ相違ナキモ、其決シテ天下唯一ノ例ニ非ザリシコトハ、此等ノ話ニ由リテ十分ニ明白ニテアルナリ。

　右ノ駄栗毛左京ノ話ハ、妻鹿《メガ》孫三郎ノ話又ハ大森彦七ノ話ナドト同樣ニ、勿論羅城門或ハ一條｜戻橋《モドリバシ》ノ怪談ノ一變形ナルべキモ、二箇ノ極メテ肝要ナル點ニ於テ、甲州下條及ビ常州芹澤ノ河童ノ話ト相接近シ、二種類ノ昔話ノ中間ニ立ツ者トシテ大ナル價値アリ。其二點ト言フハ、一ハ鬼ガ馬ニ向ツテ惡戯ヲ試ミ失敗シタルコトナリ。二ニハ閉口謝罪ノ後腕ノ平穩ナル還付ヲ受ケテ退散シタルコトナリ。此二點ハ共ニ羅城門系統ノ話ニハ見ル所ナクシテ、多數ノ河童談ニハ皆之ヲ具フ。但シ河童ト鬼トハ如何ニモ縁遠キノミナラズ、此(61)等ノ話ニ在リテハ、馬ハ未ダ重大ナラザル一端役ヲ勤ムルニ過ギズ。猶追々ト話ノ筋ノ進ムニ從ヒテ、姶メテ其關係ノ偶然ニ非ザルヲ知リ得ルナリ。

（姥子、厩、口碑ノ爭、山伏、水死、野飼、桑原、如意石、ハヾ、名馬、池、河童赤シ、ガオロ、鐡器ノ忌、鎌、鬼、葦毛馬、和尚慈悲、�ｺ利、打出小槌、義老酒、四十九、厩ノ柱、葛ノ葉、野飼、河童怠?、河童引越、ガタロウ、馬駿足、刃物ノ忌、水難禁呪、河童ノ祭、鹿ノ角、疱瘡除、河童ノ皿、駒繋木、厩ノ柱、女ノ被害、河童頭目）

馬ニ惡戯シテ失敗シタル河童　明治四十三年ニ出版セシ遠野物語ノ中ニ左ノ如キ一話アリ。陸中遠野ノ町ニ近キ小鴉瀬《コガラセ》川ノ姥子《ウバコ》淵ノ邊ニ新屋ノ家ト云フ家アリ。或日馬ヲ淵ヘ冷シニ行キ馬曳ノ兒ハ外ヘ遊ビニ行キテアリシ間ニ、河童川ヨリ出デテ其馬ヲ引込マントシ、却ツテ馬ニ引キズラレテ家ノ厩ノ前ニ來リ馬槽ニ覆ハレテアリキ。家ノ者馬槽ノ伏セテアルヲ怪シミ、些シク之ヲモタゲ見ルニ河童ノ手見エタリ。村中ノ者寄集マリ殺サンカ宥サンカト評議セシガ、結局今後ハ村ノ馬ニ惡戯ヲセヌト云フ堅キ約束ヲサセテ之ヲ放シタリ。其河童今ハ村ヲ去リテ相澤ノ瀧壺ニ行キテ住メリ〔以上〕。此話ノ中ニテ新シキ部分ハ河童ノ引キタルハ馬ノ尻尾ニ非ズシテ口網ナリシコト、及ビ途中ニテ手ヲ切ラレシ代リニ厩ノ戸口ニ於テ不覺ノ生恥ヲ晒セシコトナリ。此類ノ話ハ諸國ノ村里ニ何程モ傳ハリ、而モ何レノ村ニ於テモ皆之ヲ我處ノ歴史ナリト信ジ居リ、偶々同ジ傳説ノ他地方ニ存スルヲ聞ケバ、互ニソレハ我村ノヲ持去リシナラント言フ。多クノ中ニハ旅人ナドガ他國ニテ聞キ歸リテ話シタルヲ、子孫ノ者之ヲ村内某地ノ出來事ナリト誤リタルモ無シトハ言ヒ難ケレド、元來此傳説ノ如キハ實ハ夙クヨリ全國ノ共有物タリシナリ。仍テ茲ニハ如何ナル程度ニマデ此話ノ分布シテアルカヲ明白ニセント欲ス。

　先ヅ舊日本ノ北端ヨリ始ムベシ。羽後仙北郡神宮寺町ノ花藏院《ケザウヰン》神宮密寺ハ八幡宮ノ別當寺ナリ。京ヨリ快絲法印一名ヲ咽《ノド》法印ト云フ山伏下リテ此寺ニ住ム。或時河童ヲ生捕ニシテ嚴シク之ヲ戒メシニ、手ヲ合セ涙ヲ流シテ詫ヲスル故ニ放シ遣ル。其�ｺニ因ツテ以來此一郷ニハ決シテ河童ノ災ナシ〔月乃出羽路六〕。此話ニハ馬ハ出デ來ラズ、又何故ニ捕ヘ且ツ戒メラレタルカハ舊記ニハ見エズ。岩代河沼郡ノ繩澤ハ不動川ノ岸ニ在ル村ナリ。昔喜四郎ト云フ農夫、此川ノ旨淵《メクラブチ》ト云フ處ニ於テ馬ヲ引込マントシタル河童ヲ捕ヘシガ、他日(62)再ビ惡戯ヲセザルコトヲ誓ハシメテ一命ヲ宥シ放シタリ。ソレヨリ後ハ村ニ水ノ災ニ死ヌ者一人モ無シト云フ〔新編會津風土記〕。此邊ニテハ人ノ水ニ死ヌヲ悉ク河童ノ所業ト考ヘタリシガ如シ。越後三島郡桐島村大字島崎ノ農家ニテ、馬ヲ野ニ放シ置キタルニ、例ナラズ馳セ還リテ厩ニ飛込ミ大ニ嘶キケレバ、家ノ者怪シミテ近ヨリ見ルニ、馬槽伏セアリテ口取綱ノ端ヲ其下ヘ引入レタリ。馬槽ヲ引起セバ河童アリ、馬ノ綱ヲ身ニ卷附ケテ小サクナリテ居ル。村ニ桑原嘉右衝門ト云フ剛膽ナル男アリ、之ヲ引捉ヘテ直ニ其腕ヲ拔ク。河童悲シミテ曰ク、命ヲ助ケ腕ヲ返シ給ハルナラバ、今後ハ永ク此里ノ人ヲ取リ申スマジキ上ニ、血止骨接ノ妙術ヲ御傳ヘ申サント。因ツテ其願ニ任セテ拔キタル腕ヲ返却シ、桑原ハ勇氣ノ獲物トシテ件ノ妙術ヲ以テ代々ノ家ノ寶ト爲スコトヲ得タリ。此ハ藥剤ニハ非ズ、何カ雙六石ノ如キ七八分ノ一物ナリ。金創ノ血ガ止ラズ百計盡キタル際ニ桑原ヲ招ケバ、彼ノ物ヲ懷中シ來リテ席ニ著クヤ否ヤ血ノ出ヅルコトヲ止ム。多クノ場合ニハ取出シテ示スニモ及バヌ位ナレバ、從ツテ現物ヲ見タリト云フ人モ無シ。此村ノ者ガ其後決シテ河童ニ取ラレザリシハ勿論ノコト也〔越後名寄三十一〕。信濃上伊那郡ノ天龍川端ニ羽場《ハバ》ト云フ村アリキ。今ノ何村ノ中ナルカ知ラズ。「ハバ」トハ川ノ岸ノ如キ傾斜地ヲ意味スル地名ナリ。天正ノ頃此村ニ柴河内ト稱スル地侍住居ス。或時此家秘藏ノ名馬ニ害ヲ加ヘントシタル不心得ノ河童アリ。此モ結局失敗ニ終リ大ニ詫言シテ他所ニ立退キタリト云フ〔小平物語〕。飛騨大野郡清見村大字池本ノ農家ニテ、或日今ノ鬼淵ト云フ處ノ邊ニ馬ヲ繋ギ置キシニ、暫クシテ其馬一散ニ走リテ家ニ歸ル。何故ゾト見レバ馬ノ綱ノ先ニ身體赤キ異樣ノ物、腰ニ其綱ヲ卷附ケタルマヽ引カレ來ル。大ニ驚キテ之ヲ捉ヘ何物ゾト問ヘバ、我ハ「ガオロ」ト云フ物ナリ。馬ヲ捕ヘントシテ却リテ捕ヘラル。速カニ助ケタマヘ、助ケ給ハヾ其禮トシテ毎朝川魚ヲ持來ルベシ。但シ其處ニ刃物ヲ置キ給ハヾ我來ルコト能ハズト云フ。此約束ニテ之ヲ赦シテ後、毎朝川魚ノ貢絶ユルコトナカリシガ、或時農夫誤リテ鎌ヲ其處ニ置キケレバソレヨリ其事止ミタリ。其「ガオロ」ノ住ミシ所ヲ(63)鬼淵ト名ヅケ今モ金屬ヲ忌ムト云フ〔日本宗教風俗志補遺〕。「ガオロ」ハ河童ノ事ナルニ、此ニテハ之ヲ鬼ト恐レシガ如シ。少々ノ魚ヲ貰フヨリハ寧ロ刃物ヲ置クヲ以テ安全ナリト考ヘシ者アリシヤモ測ラレズ。美濃惠那郡｜付知《ツケチ》町ノ豪農田口氏ノ祖先ハ遠山玄蕃ト云フ武士ナリ。曾テ飼フ所ノ葦毛ノ駒ヲ、夏ノ日川ノ淵ノ邊ニ放シ置キシニ、俄ニ走リテ厩ニ歸リ入ル。下人等出デテ見レバ、一人ノ小兒其馬ノ側ニ踞リ居タリ。ヨク見レバ則チ河童ナリ。水中ヨリ手ヲ延バシテ馬ノ足ヲ?ミシニ、馬驚キテ一目散ニ馳セ歸リ之ニ引摺ラレシモノト見エタリ。下人等ノ打殺サント云フヲ制止シ、他日重ネテ人畜ヲ害セザルコトヲ約セシメテ玄蕃之ヲ宥ス。其淵ノ名ヲソレヨリ?馬淵《アシゲノフチ》ト云フ。葦毛ノ馬ガ高名シタル場處ナレバ其名譽ヲ表彰スル爲ノ地名カト思ハル〔濃陽志略〕。口綱ナラバ兎ニ角、馬ノ脚ナラバ直ニ手ヲ放セバ可ナランニ、思ヘバ不細工ナル河童ナリ。シカシ此モ足ハ誤傳ニシテ、他ノ多クノ例ト共ニ手綱ノ端ヲ以テ自縛セシモノカモ知レズ。

　東京近傍ニ於テハ武藏北足立郡志木町、舊稱ヲ館《タテ》村ト稱スル地ニ於テ、引又川《ヒキマタガハ》ノ河童寶幢院ノ飼馬ヲ引カントシテ失敗ス。馬ノ綱ニ搦メラレテ厩ノ隅ニ倒レ馬ニ蹴ラレテ居リ、和尚ノ顔ヲ見テ手ヲ合ハス故ニ、同ジ誓言ヲサセテ後之ヲ宥ス。此河童モ甲斐飛騨其他ノ同類ノ如ク、翌日ノ夜明ニ大ナル鮒ヲ二枚和尚ノ枕元ニ持來リ、當座ノ謝意ヲ表シタリト云ヘリ〔寓意草上〕。僧侶ニ魚ヲ贈ルガ如キ、無意味ナル因習ニ拘束セラルヽヲ見テモ、河童ガ決シテ新奇ナル妖怪ニ非ザリシヲ察シ得ベシ。相模ノ大山街道｜間角川《マカドガハ》ノ河童ハ、馬ニ對スル惡計露顯シテ打殺サレントセシヲ、間角村ノ三輪(64)堀五郎左衛門ノ先祖、例ノ如ク命乞ヲシテ放還ス。鎌倉時代ノ出來事ナリト傳フ。此時ノ禮物モ鱸ガ二本ト酒�ｺ利ニシテ、其�ｺ利ノ酒ハ酌メドモ盡クルコト無カリシ由。今ハ既ニ空�ｺ利トナリ、魚ノ圖ト共ニ永ク家ニ傳ヘタリシヲ、天保二年四月ニ至リ、江戸本所ノ彫物師猪之助ナルモノ、實見シ來リテ人ニ語ルトイフ〔寶磨現來集廿一〕。其末孫三輪堀啓助君ハ今高坐郡茅ケ崎町ニ居住シ、家寶ノ河童ノ�ｺ利ヲ縣ノ民政資料展覽會ニ出品シ、先祖孝行ノ賞トシテ酒ヲ入レテ河童ノ贈リシモノト稱ス。此ハ大正二年ノ傳説ナリ〔神奈川縣民政資料小鑑〕。東海道ハ駿州ノ吉原ガ未ダ今ノ地ニ移ラザル前、瀧川ノ押出シト稱スル物凄キ落合ノ淵ニ河童四十九匹住ス。或大名此宿ニ一泊シ乘馬ノ足ヲ用水ニ冷サシム。河童其馬ノ尾ヲ搦メテ之ヲ水底ニ引入レントセシガ、馬恐レテ往還マデ馳セ出シ、河童ハ尻尾ニ纏ハレテ引出サレ、土地ノ者之ヲ捕ヘテ厩ノ柱ニ一夜縛リ附ク。此河童ノ謝罪條件ハ不明ナリ。翌日｜大將立《タイシヤウダテ》ヲサセ之ヲ放ツトアリ〔田子乃古道〕。三河ノ河童ノ話ハ後ニ之ヲ述ブベシ。近江ノ河童ハ犯情異ナレドモ刑罰ハヨク似タリ。此國野洲郡北里村江頭ニテ、或百姓ノ留守宅ヘ河童亭主ニ化ケ來リテ其妻卜合宿ス。後ニ眞ノ夫還リ爭ヒテ化ケタルコト現ハレ打殺サントセシヲ、色々ト詫言シテ宥シテ貰ヒ、其恩報ジニ�ｺ附ケ得サセント、大鮒ヲ二枚ヅツ二日目三日目ニ持來リ、被害者此ガ爲ニ身上良クナレリ。十年ホドノ後、河童來リテ曰ク、近頃ハ新田多クナリ魚ヲ捕ルコト殊ノ外不自由ナリ。モハヤ宥シ給ヘト言ヒ其後ハ持來ラズ〔觀惠交話下〕。山城宇治ノ龜ノ茶屋ハ最初ハ幸齋ト云フ百姓ノ家ナリ。或夕馬ヲ川端ニ野飼シテ置キシニ、河童之ヲ水中ニ引入レントシテ綱ヲ幾重ニモ身ニ卷附ケ、惣身ノカヲ以テ曳キケレドモ、却ツテ馬ニ曳キ勝タレテ幸齋ガ家ノ厩ニ轉ガリ込ミテ遁グルコトナラズ。近所ノ人々モ出合ヒテ打殺サントセシガ、或者仲ニ立チテ幸齋ニ詫言シ、以來此家ノ者ハ申スニ及バズ、宇治中ノ者ニ仇ヲスマジキ由ノ怠?立《タイジヤウタテ》ヲ、自問自答ノヤウニサセテ宥スト云ヘリ。之ヲ以テ推セバ、元吉原ノ河童ノ大將立ト云フハ此ニ謂フ怠?立即チ宣誓ヲ爲サシムルコトナランカ。サテ右ノ宇治川ノ河童モ他國ノ例(65)ト同ジク、其翌朝ヨリ三箇年ノ間毎朝未明ニ魚ヲ二ツ三ツヅツ幸齋ガ戸口ヘ持來リ置キテ恩報ジヲ爲セシガ、其後ハモハヤ來ラズ。或時幸齋大阪ヘ下ラントテ夜船ニ乘リ鵜殿ノ邊ヲ過ギシニ、幸齋々々ト喚ブ者アリ。夜中不思議ナリト思ヒツヽ篷ヲ擧ゲテ見レバ、川除《カハヨケ》ノ上ニ五六歳ノ小兒ホドノ者アリ、彼ニ向ヒテ言フニハ、何時ゾヤ命ヲ御宥シアリシ恩ヲ三年ハ報ジ候へドモ、宇治邊ニ居リ候テハ水早クテ魚ヲ捕ルコト易カラズ、我身ノ養ヒサヘナリ難ク候故、此處ヘ住居ヲ換ヘ候、此ヨリ宇治ヘハ程遠ク候程ニ心ナラズ無沙汰ニナリ候、モハヤ御宥シ候ヘト斷リヲ言ヒテ川ヘ入リケルト也〔落穗餘談四〕。阿波那賀郡平島村大字赤池ノ庄屋ニ勝瀬某ト云フ者アリ。二百年ホド以前、此家ノ奴僕馬ヲ那珂川ノ滸《ホトリ》ニ飲《ミヅカ》ヒ川端ニ繋ギテ家ニ還ル。此川ノ河太郎其綱ヲ解キテ身ニ纏ヒ引込マントセシガ、馬ガ駿足ナリシカ却ツテ河童ヲ引摺リテ厩ニ歸ル。人々集リテ殺サントスルヲ、主人制止シテ之ヲ解キ放チ去ラシム。其夜主人ノ夢ニ河太郎來テ言フニハ、命ノ恩ニハ毎朝井戸ノ側ラノ竹棚二鮮魚ヲ捧ゲ置キ申スベシ。但シ刃物ヲ忌メバ決シテ之ヲ棚ニ置キ給フナ云々。ソレヨリ久シク言フ所ノ如クナリシヲ、二三年ノ後新參ノ下女アリテ菜刀ヲソコニ置キ忘レシヨリ、終ニ河童ノ貢物ハ絶エタリ。サレド河邊ノ者川ヲ渡リ水ヲ泳グニ、自ラ勝瀬氏ノ子孫ナリト名乘レバ河太郎害ヲ爲スコトナカリシト云ヘリ〔阿州奇事雜詰二〕。土佐ニハ予ガ知ル限リニ於テ此話三アリ。其一ハ元禄年中ノ出來事ナリ。長岡郡五臺山ノ麓ナル下田ト云フ所ノ百姓、野飼ノ爲馬ニ三十尋バカリノ繩ヲ附ケテ川ノ岸ニ放シ置キシニ、四邊ニ人ノ居ラヌヲ見スマシ、河童其繩ヲ端ノ方ヨリ身ニ卷キ、殘リ六尺ホドニナリシ時之ヲ川ノ中ヘ曳ク。最初ハ馬モ之ニ附キテ行キシガ、深ミニナリテ驚キテ跳リ上リ、河童ハ川原ノ上ニ投出サル。百姓等之ヲ發見シ多勢打寄リテ散々ニ打鄭シ既ニ殺スバカリナリシヲ、老人タチ先ヅ了簡ヲ爲シ、將來コノ下田村ニ於テ人ニハ勿論牛馬鷄犬ニ至ル迄決シテ害ヲ加ヘヌカト、十分ニ念ヲ押シテ放シ遣リ、其代リニハ毎年六月十五日ニ河童ノ祭ヲ村ニテ營ムコトニ定メ、愈以テ此地ニハ河童ノ害ヲ見ヌコトヽナレリ〔土州淵岳志〕。河童ヲ(66)祭ルト云フ一段ハ外ノ地方ニハ見エザルモ注意スベキコト也。此ト略同ジ時代ニ、土佐ノ西部幡多郡津大村大字藤（ノ）川ノ今城八兵衛方ニ於テモ、川端ニ繋ギ置キシ飼馬同樣ノ厄ニ遭ヘリ。此河童ハ兩三日ノ間厩ノ前ニ繋ギ捨テタル後、以來人馬ヲ傷フベカラザル由ヲ固ク戒メテ川ヘ放ス。其翌朝ヨリ何人ノスルトモ知ラズ軒ニ釣リタル手水桶ノ鍵ニ毎日魚ヲ持來リ引掛ケ置ク者アリ。年月ヲ經テ此鍵損ジ鹿ノ角ヲ以テ之ニ換ヘタルニ、河童ハ性トシテ鹿角ヲ畏ルル故ニ、之ヲ見テ遁ゲ去リシモノカ、其邊ニ魚ヲ棄テヽ行キシマヽ以後其事止ミタリト云フ〔土佐海〕。又吾川郡｜御疊瀬《ミマセ》村ノ千屋《チヤ》惣之進ガ家ニハ、先代ガ河童ノ命ヲ助ケ還セシ時彼ガ報謝トシテ持來レリト云フ一ノ珍器ヲ傳フ。越後島崎ノ桑原氏ノトハ異ナリ、此ハ皿ノ如キ一物ナリ。水難除ノ外ニ疱瘡平癒ノ厭勝《マジナヒ》トモナルト稱シ非常ニ有名ナル物ナリキ〔同上〕。右ノ河童ノ皿ハ些シク我々ガ聞ク所ノ物ト異ナリ。通例皿ト云フハ彼ガ頭ノ頂ノ窪ミノコトナリ。河童ニ取リテハ大切ノ物ナルハ同ジケレド、引放シテ人ニ呉ルヽコト能ハズ。此窪ミニ水溜レル間ハ強力人ニ數十倍スルコト「サムソン」ノ髪毛ノ如シ。曾テ肥前佐賀郡ノ三溝《ミツミゾ》ト云フ地ニ於テ、農民其馬ヲ樹ニ繋ギ置キシニ、河童水ヨリ出デ其網ヲ解キテ身ニ絆《マト》ヒ之ヲ水際マデ引行キケレバ、馬驚キテ大ニ跳ネ、乃チ河童ノ皿ノ水ヲ覆《コボ》ス。河童忽チ力弱リ却ツテ馬ニ引摺ラレテ厩ニ至ル。主之ヲ厩ノ柱ニ繋ギ其由ヲ母ニ語ル。母ハ洗濯ヲシテアリシガ、大ニ罵リテ盥ノ水ヲ河童ニ打掛ケタレバ、其水少シク皿ノ中ニ入リ、河童力ヲ復シテ馬ノ綱ヲ引切リテ逸シ去リ、終ニ片手ヲ失フニモ及バズ、又詫?モシクハ藥ノ秘傳ノ沙汰ニモ立至ラズ〔水虎考略後篇三〕。從ツテ此地方ニハ河童ノ侵害後世ニ至ルマデ中々多カリキ。九州ノ河童ハ一般ニ智巧進ミタリト見エテ、人間ノ逆襲ヲ受ケタリト云フ記録アマリ多カラザルモ、古キ昔ノ物語トシテハ同種ノ事蹟ヲ傳フルモノナキニ非ズ。例ヘバ薩州｜川邊《カハナベ》郡川邊村大字｜清水《キヨミヅ》ノ一部落モ、亦河童トノ約束アリテ水ノ災ニ罹ル者決シテ無シ。昔此村清水川ノ櫻淵ノ上ニ川邊《カハナベ》家ノ館アリシ時代ニ、河童此家ノ女ヲ引込ミタルコトアリ。主人大ニ怒リ早速其淵ヲ埋メテ水ヲ涸シ之ヲ退(67)治セントセシカバ、河童ノ頭目閉口シテ謝罪ニ來リ、永ク邑人ニ害ヲ爲スマジキ旨ヲ誓ヒテ漸ク宥サルヽコトヲ得タリシ也〔三國名勝圖會〕。肥後ノ加藤モ小姓ヲ河童ニ取ラレテ大討伐ヲ企テシコトアリ。後段ニ之ヲ述ベントス。清正ホドノ鬼將軍ニ瞰マレテハ勿論河童ハ之ニ楯突クコトノ出來ル者ニ非ザル也。

（詑證文、氏神、エンコウ、御尻用心、水難禁呪、手形、守札、水邊ノ牧、手印、河童自筆、手印、河童角力、化物文書、野飼、猿、河量ノ手、河童藥、河童ノ手、河童ノ祟、足洗、四國無狐、狐崎、疫病神、兩人、紅手拭、河童一黨、設樂氏、サヽラ三八）

河童ノ詫證文　其時代ノ河童ハ神代ノ草木ト同ジク能ク人語ヲ解シタリト見ユ。又人間ト同ジク或ハ泣キ或ハ叩頭シ、甚シキハ人間ト對等ニ不行爲ノ契約ヲ締結セリ。其契約モ單ニ口頭ノモノノミナラズ、時トシテハ書面ヲ以テ差出シタルヲ以テ察スレバ、約ニ背キ若シクハツイ失念シテ相濟マヌコトナドモ、ヤハリ人間竝ニテアリシカト思ハル。出雲八束郡川津村大字西川津ニモヨク似タル話アリ。昔此村｜水草川《ミクサガハ》ノ河童、馬ヲ引込マントシテ例ノ如ク失敗シ、色々ト村民ニ陳謝シ辛ウジテ助命ヲ得タリ。此時ノ河童退治ハ全ク村ノ氏神宮尾明神ノ神�ｺニ因ルト云ヘリ。雲陽志ニハ此?末ヲ記載シ且ツ曰ク、ソレヨリ後此里ニテハ猿猴災ヲ爲スコトナシ。其故ニ世人ハ此社ヲ猿猴ノ宮ト稱ス。猿猴トハ俗ニ謂フ「カハコ」ノコト也。又「カハツパ」トモ「カハタロウ」トモ、國々ニテ名ノ相違アリ。水中ニ住ミテ人ノ害ヲ爲ス者ナリ云々〔以上〕。近代ノ傳承ハ之ト若干ノ變化アリ。猿猴トハ言ハズシテ河獺ト稱ス。河獺馬ノ綱ヲ身ニ纏ヒテ之ヲ引込マントシ、却ツテ馬ノ爲ニ引摺ラレテ棉畠ノ中ヲ轉ゲ廻ル。村ノ者之ヲ見ツケテ河子々々ト騷ギ立テ、終ニ之ヲ捕ヘタリ。河獺ガ手ヲ合セテ拜ムニヨリ、殺サントセシ命ヲ宥シ、河獺ハ其儘村ニ奉公シテ田畠ノ仕事ヲ爲セリ。然レドモ本來人間ノ生膽ヲ拔クヲ好ムヲ以テ、奉公中モ其癖ヤマズ。折モアレバ村ノ者ノ腎ノ邊ニ手ヲ出ス故、始ノ程ハ各自ニ瓦ヲ當テテ用心ヲセシモ、アマリ度々ノ事ニテ氣味ガ惡クナリ、相談ノ上河獺ニ證文ヲ入レサセテ之ヲ放ス。村ノ宮ニ祀レルハ實ニ此時ノ證文ナリ。今モ土地ノ人ハ水泳ノ時ニ雲州西川津ト唱フルヲ常トス。是レ河子除《カハゴヨケ》ノ呪文ナリ〔日本傳説集〕。河童ト河獺トヲ混同スル例ハ他ニモ存ス。中國西部ノ諸縣ニ於テ今モ河童ヲ「エンコウ」ト呼ブハ、殊ニ我輩ノ肝要ト認ムル所ナリ。長門ノ萩ニ近キ阿武郡椿郷西分村(68)ニ於テハ、亦雲州ノ西川津ト同ジク、古クヨリ「エンコウ」ノ手形ナルモノヲ傳フル神社アリ。之ヲ板行シテ信心ノ徒ニ施ス、牛馬安全ノ護符トシテ有效ナリト云ヘリ。此手形ニ關シテモ同種ノ由來記アリ。寛永年間ト云ヘバイト古キコトナリ。「エンコウ」或家ノ馬ヲ水中ニ引入レントシテ相變ラズ失敗ス。手形ハ即チ其河童ガ、再度此村ノ牛馬ニ對シテ非望ヲ抱カザルベシト云フ誓約書ナルガ故ニ、之ヲ寫セシ印刷物マデモ、牛馬ヲ保護スルノ效力アルモノト認メラレシ也〔長門風土記〕。

　河童敗衄ノ記録ハ右ノ外ニモ猶多シ。例ヘバ同ジ長門ノ大津郡｜向津具《ムカツグ》村ハ出島ナリ。村ニ杉谷池ト云フ池アリ。毎年領主ノ馬ヲ預リテ此池ノ堤ニ野飼スルヲ例トス。又河童アリ。手續ハ型ノ通リニシテ馬ニ引摺ラレテ厩ノ中ニ轉ゲ込ム。隣人等集リ來リ、後代ニ至ルマデ向津具一庄ノ中ニ住ムマジキ由ノ券文《ケンモン》ヲ代書シ、彼ガ手ニ墨ヲ塗リテ之ヲ押サシメテ放シ還ス。此ガ爲ニ庄内ニ河童永ク跡ヲ絶ツト云フ。貞享年中ノ出來事ニシテ、其證文ハ少クトモ寛政ノ頃マデ村ノ産土《ウブスナ》ノ社ニ之ヲ藏メタリキ〔蒼柴園隨筆〕。河童ガ無筆ニシテ代書ヲ必要トセシコトハ無理モ無キ話ナリ。然ルニ或地方ニテハ其證書ヲ以テ彼ガ自筆ニ成ルモノヽ如ク傳フ。現ニ江戸深川入船町ニ於テモ斯ル例アリ。安永年間ノコト也。或男水ヲ泳ギ居タルニ、河童來リテ害ヲ加ヘントシ、亦捉ヘラレテ陸ニ引上ゲラル。三十三間堂ノ前ニテ打殺サントセシヲ、見物ノ中ニ仲裁ヲ試ミタル人アリ。河童詫證文ヲ出シテ宥サル。其一札ニハ以來此邊ニテ一切害ヲ爲スマジキ由ノ文言アリ。且ツ河童ノ手判ヲ墨ヲ以テ押シタルモノナリキト云フ〔津村氏譚海〕。九州ハ肥前佐賀ノ藩士大須賀道健ガ被管、佐賀郷｜百石《モヽイシ》村ノ某ト云フ者、東淵ト云フ處ヨリノ歸途ニ、一人ノ小僧來リ逢ヒ張ヒテ角力ヲ取ランコトヲ求ム。某之ヲ諾シテ取組ミシニ、負ケナガラ段々ト水ノ方ニ近ヨル。サテハ河童ト心ニ悟リ、此物人間ノ齒ヲ怖ルヽコトヲ豫テ知リタレバ、早速ニ其肩ノアタリニ?附ケバ、聲ヲ立テヽ水底ニ遁レ去ル。其夜河童ノ來リテ家ヲ遶リテ哀號スルコト、他國ニテ腕ヲ斬ラレタル場合ト同ジク、何トゾ此傷ヲ治シテ下サレヨト云フ。其(69)仔細ヲ聞クニ、?ミタル人ガ手ヲ以テ其疵ヲ摩ルニ非ザレバ到底癒エヌモノト見エタリ。汝若シ此近邊ノ人ヲ取ラズト誓フナラバ其請ヲ允スベシト云ヘバ、河童欣々トシテ敬諾シ、終ニ紙ヲ乞ヒテ券ヲ作リ手印ヲ押シテ之ヲ差出ス。汝ガ如キ者ニハ手ヲ汚スヲ欲セズ、足デ澤山ナリト威張リ足ヲ展バセバ、ヌルリトシテ觸ルヽ所アリト云フ話ナリ。此券文モ永ク勇者ガ家ニ傳ハレリ。其體略文字ノ如クナレドモ讀ミ難シトナリ〔水虎考略後篇〕。此話ナドハ取分ケ虚誕ラシケレド、天狗ノ書ト云ヒ狸ノ自筆ナド稱スルモノ諸國ニ例多ケレバマダ何トモ申シ難シ。播州佐用郡ノ某地ニ一種ノ骨繼藥ヲ出ス舊家アリ。此家ト縁故アル河童ノ如キハ、前者ニ比シテハ稍正直ニ見ユ。此ハ寶永中ノコトヽ稱ス。七月下旬ノ殘暑ノ勞ヲイタハルトテ、愛馬ヲ野飼ノ爲ニ川邊ニ出シ置キシニ、此亦綱ノ端ニ一河童ヲ引摺リテ厩ニ走リ入ル。仲間怪シミテ往キ見ルニ、厩ノ片隅ニ猿ノヤウナル物手綱ヲ身ニ搦メテ居リ、駒ハ向ウノ方ニテ息ヲ繼ギ居タリ。其物ヲ熟視スレバ猿ニ似テ猿ニ非ズ、頭上ニ窪ミアリテ髪ハ赤松葉ノ如ク也。旦那歸リテ此始末ヲ聽キ大ニ怒リ、此川原ニテ折々人ヲ取ルハ必定汝ナルベシト、忽チ脇差ヲ拔キテ河童ノ手ヲ切落ス。河童シホ／＼トシテ、ドウカ命ヲ助ケ給ヘ、今ヨリ此村ノ衆ニハ指モ差シ申スマジト言ヘバ旦那、其方ヲ殺シタリトテ手柄ニモ非ズ、宥シ遣ハスベシ詫證文ヲ書ケトアリ。私ハ元來物書クコトモナラヌ上ニ、手ヲ御切リ成サレタレバ愈以テ書ケマセヌ。御慈悲ニ免シ給ヒ其手モ返シテ下サレ、持ツテ還ツテ藥デ繼ギマスト云フ。旦那思慮ヲ廻ラシ其藥ハ己ガ調合スルノカト問ヘバ、ナル程拵ヘ申スト答フ。然ラバ手ヲ戻シ助クルニヨリ其藥方ヲ我ニ傳ヘヨ。命ノ代リナレバ安キ御事ト、人ヲ沸ハセテ備ニ秘法ヲ口授シテ去ル。其法甚ダ奇ニシテ子孫勿論之ヲ相續スト云ヘリ〔西播怪談實記〕。此一條ニ由ツテ察スルニ、詫證文ト藥方ト片腕トハ、河童ノ主觀ニ在リテハ兎モ角モ、人間ニ取ツテハ其價値略同等ナリキトオボシ。證文ガ書ケズバ秘傳ヲ、片手ガ欲シケレバ藥方ヲト云フ中ニモ、手ハ河童ニハ最モ大切ニシテ人間ニハ比較的無用ナリ。渡邊綱ニシテ強情ヲ張ラザリシナラバ、何カ有利ナ(70)ル「コンミッション」位ハ得ラレシ筈ナリ。其證據ト云フモ妙ナレドモ、近世ニモサル例アリ。山城伏見ノ和田某ナル者、曾テ淀川ノ堤ニ遊ビシニ、河童出デテ足ヲ取リ引入レントス。和田強氣ノ男ニシテ其手ヲ捉ヘ腰刀ヲ以テ之ヲ切レバ、キヤツト叫ビ水中ニ入レリ。歸リテ其手ヲ人ニ示スニ、何レモ彼ガ剛勇ヲ感ゼザルハ無シ。此河童モ夜深ク出直シテ來リ、切ニ片手ノ返却ヲ求ムルコト既ニ六夜ニ及ブ。七日目ノ夜ハ殆ト閉口シテ、今夜御返シ下サレズバ最早接グコトモ相成ラズト、打明ケテ懇願ニ及ビタルニモ拘ラズ、頑トシテ之ニ應ゼザリシカバ、茲ニ至ツテカ河童大ニ恨ミ、此報ニハ七代ノ間家貧窮ナルベシト詛ヒテ去ル。而モ其手ハ永ク和田ガ家ニ傳ハルト云フ〔諸國便覽〕。和田氏貧乏ノ言譯トシテハ、目先ノ變リタル思附ナレドモ、而モ天下ノ勇士ハ多クハ河童ノ豫言ヲ待タズシテ貧乏ナリ。殊ニ干涸ビタル河童ノ手ヲ家寶トスルガ如キ氣紛レ者ハ、金持ニナレヌ性分トモ云フベシ。但シ河童ノ手ノ評判、如何ニシテ世ニ傳ハルニ至リシカハ、考へテ見ル値アリ。今ハ如何ニナリシカヲ知ラズ、以前筑後ノ柳河藩ノ家老某氏ノ家ニモ一本ノ河童ノ手ヲ藏セリキ。此家ノ側ニ近ク大ナル池アリテ、家人時トシテ四五歳ノ小兇ノ猿ニ似テ猿ニ非ザル者ガ水ノ滸ニ立ツヲ見タリ。或時家來ノ者足ヲ洗ヒニ行キテ河童ニ引込マレントシ、之ト闘ヒテ其腕ヲ斬リテ持歸ル。其河童ハ如何ナル仔細アリテカ手ノ返却ヲ求メニ來ラズ、故ニ今モ此家ノ寶物ナリ。毎年夏ノ始ニナレバ取出シテ之ヲ水ニ浸シ、親族朋友ノ家ノ子供ヲ集メテ其水ヲ飲マシム。斯クスレバ永ク河童ノ災ニカヽルコト無シトノコト也〔水虎録話〕。伏見ノ和田氏ナドモ子孫貧苦ニ迫リ、此一物ヲ筐底ヨリ取出シテ世ノ中ニ吹聽シタリトスレバ、其動機必ズシモ初代ノ武功ヲ誇ルニ止ラザリシナランカ。此モ亦有リ得ベカラザル推測ニハ非ズ。

　此ノ如ク論ジ來レバ長門ノ一村ニ於テ、「エンコウ」ノ手形ヲ印刷シテ望ミノ者ニ分與スト云フハ非常ニ意味ノアルコトナリ。蓋シ河童ニシテ村ノ祭ヲ享クル程ノ靈物ナリトセバ、斷然トシテ詫證文ノ作成ヲ拒絶シ、(71)「イヤ僞ハ人間ニコソアレ」ト高ク止リテアリ得ベキ筈ナレドモ、既ニ手モ無キ術策ニ馬脚ヲ露ハシ、内甲《ウチカブト》ヲ見透カサレシ以上ハサウモナラズ、ヲメ／＼ト昔ナラバ大恥辱ノ一札之事ヲ差出シテ引下リシハ、誠ニ器量ノ惡キ次第ナリ。併シナガラ是レ決シテ河童バカリノ身ノ上ニ非ズ。例ヘバ本朝故事因縁集卷四ニハ、四國ニ狐ノ住マザル理由ヲ説明シテ左ノ一話ヲ戟ス。伊豫ノ河野家ニテ不意ニ同ジ奧方二人トナリ、其何レカ一方ハ狐ニ相違ナカリシ時、僅カナル擧動ニテ狐ノ奧方看破セラレ既ニ打殺サレントセシヲ、散々ニ詫ヲシテ命ヲ助ケラル。其折ノ謝リ證文ニハ將來四國ニハ一狐モ住ムマジキ由ノ誓言アリ。乃チ數艘ノ船ヲ借用シテ悉ク本土ニ押渡ル云々〔以上〕。上陸地點ハ中國ノ何レノ海岸ナリシカ、如何ニモ迷惑ナルコトナリシナラン。備後｜柄《トモ》町ノ狐崎ハ寶暦年間迄狐ノ形シタル赤石アリキト云ヒ、又狐多ク群レ居ルトモ言ヘド、一説ニハ昔四國ニ狐狩アリシ時狐多ク浪ニ浮ビテ此崎ニ著キシヨリノ地名トモ謂フ〔沼名前神社由來記附録〕。或ハ其樣ナル事モアリシカモ知レズ。而シテ右ノ證文ハ今モ必ズ河野氏ニ於テ之ヲ保存シテアルコトヽ信ズ。何トナレバ若シ此文書ニシテ亡失セバ、狐ハ再ビ四國ノ島ニ來リ住スルコトヲ得ル約束ナリケレバナリ。

　近クハ文政三年ノ秋ノコトナリ。江戸愛宕下田村小路ナル仁賀保《ニカホ》大膳ト云フ武家ノ屋敷ヘ、疫病神アリテ竊ニ入込マントセシヲ、同家ノ次男金七郎之ヲ見咎メ、右樣ノ者我方ヘは何シニ入來ルゾ、打殺スベシト怒リシニ、疫病神何トゾ一命ヲ宥シタマハレト申ス。然ラバ書附ニテモ差出スベシト云ヘバ、早速別紙ノ如キ證文ヲ認メ置キテ立去ルト云フ〔竹抓子二〕。

　

　　　　　差上申一札之事

　　　私共兩人心得違ヲ以御屋敷江入込段々被仰出候趣奉恐入候以來御屋敷内竝金七郎樣御名前有之候處江決而入込間數候私共ハ申不及仲ケ間之者共迄モ右之趣申聞候依而一命御助被下難有仕合奉存候爲念一(72)札如件

　　　　　　文政三辰年九月廿二日　　　　　　　　　　　疫病神

　　　　　仁賀保金七郎樣

　疫病神ノ方デハ無論ゴク内々ノツモリナリシナランモ、當時ハ疫病大流行ノ折柄トテ、爲ニスル者ノ手ニ由ツテ此證文ハ意外ニ弘ク流布シタリト覺シク、隱居老人ナドノ隨筆ニモ採録セラルヽニ至レリ。或ハ此モ亦長門ノ「エンコウ」ノ手形ト同ジク、板行シテ信者ニ施シタリシカモ測リ難シ。

　元來詫證文ナルモノハ勝チタル方ノ言分ヲ何處マデモ通シ得ルモノナレバ、右ノ如ク至極念入ナルモ別ニ不思議トスルニ足ラザレドモ、苟クモ仁賀保金七郎ノ名ヲ掲グルニ於テハ、其眞僞ヲモ問フコト無ク、常ニ疫病神總員ノ營業ヲ禁止シ得ト云フニ至ツテハ、聊カ過酷ノ嫌無キニ非ザルナリ。唯舊來ノ縁故如何ニ拘ラズ勝チタル強者ヲ以テ保護者ト頼ムハ、言ハヾ封建時代ノ餘風ナリ。「ヒヤウスヘ」ノ社、又ハ「エンコウ」ノ宮ノ御礼ノ如キモ、要スルニ近世海船ノ國旗ト同ジク、一種庇護ノ權力ヲ標識スル徽章ニ他ナラズ。而シテ又相手ガ文字ニ疎キ河童ナルコトヲ考慮シ、今一段簡單ナル方法ヲ以テ之ヲ表示シタル例アリ。昔三河ノ某地、清水權之助ナル人ノ領内ニ於テ、河童馬ヲ襲ハントシテ亦大ニ失敗シ、助命ノ條件トシテ約束ヲ爲ス。即チ手拭ノ端ヲ紅ク染メタルヲ持ツ人ニ對シテハ害ヲ加フマジト云フコトナリ。是ヨリ以後此附近ノ人民ハ我モ／＼ト紅手拭ヲ携帶スルコトヽナレリト云ヘバ〔水虎考略後篇二所引〕、此モ亦稍濫用セラレタリト見エタリ。又一説アリ。此話ノ異傳ナルカ否カヲ知ラザルモ、同ジ三河國ニ設樂《シダラ》某ト云フ強力ノ勇者アリ。「カハツパ」ト組合ヒ取ツテ押ヘ突殺サントシケル時、「カハツパ」下ヨリ言ヒケルハ、命ヲ御宥シ候ハヾ御子孫竝ニ御一家ノ分殘ラズ水ノ難ヲ遁レシメ申スベシ。日本國中ノ「カハツパ」ハ皆我等ガ一類ニテ候間、何方ニテモ我等ガ御約束申シタリト聞キ候ハヾ、川ニテ守護仕ルベシト言ヒケル故、然ラバ宥ス、證據ハ如何ト(73)アリシカバ、乃チ歌ヲ教へタリ。

　　「ヒヤウスヘ」ハ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

　設樂氏元ハ菅原氏ナリ。之ニ因ツテ設樂氏ノ人ハ川ノ難無シ。又此歌ヲ唱フレバ他氏ノ者モ難ヲ遁ルト云ヘリ〔落穗餘誌四〕。此河童ハ別ニ馬盗人ニテモ無カリシ如クナルニ、兎ニ角ニ大ナル言質ヲ取ラレタリ。右ノ「氏ハ菅原」ノ歌ノ如キハ、河童自筆ノ手形ヲ眼ノ前ニ突附ケタルニ比ブレバ、幾分證據力ニ乏シキモノナリシナランモ、若シ律義ナル河童ナラバ夫ノミニテモ以前ノ約束ヲ思出サシムルニハ十分ナリシナリ。世間尋常ノ疱瘡神ノ如キハ、居ル筈モ無キ昔ノ勇士ノ名ヲ署シテ人ノ門戸ニ張リ置ケバ、サテハ此家ハ鎭西八郎爲朝閣下ノ御宿ナルカト言ヒテ通リ過ギ、又ハ此家ニモ「サヽラ」三八殿ガ同居シテゴザルノカト、碌々家ノ内ヲ覗キモセズニ歸リ去ルヲ常トセリ。之ヲ思ヘバ人ノ方ガ遙カニ人惡シ。如何ニ相手ガ害敵ナリトハ言ヒナガラ、毎囘此手段ヲ以テ彼ヲ欺クナリ。但シ印刷シタル降參?又ハ謝罪ノ口供ハ決シテ此類ノ陰險ナル策ニ非ズ。汝ノ一類ニハ曾テ此ノ如ク敗北ノ恥ヲ晒セシ者アル也。人間ハ決シテ侮リ得ベカラザル動物ナルゾ。馬モ亦然リ。心得違ヒヲスルコトナカレト豫戒スル迄ノ事ナリ。河童ニシテ若シ文字アリトセバ、馬屋牛小舍ノ守護トシテ、此ホド穩當且ツ適切ナル警備手段ハ、決シテ他ニ求ムルコトヲ得ベカラザルナリ。

（河童研究、赤子、河童ノ毛、甲良、顔色、記録乏シ、カウラワロウ、ガアラツパ、カウゴ、神護石、神功皇后、カハノトノ、水神、ガメ、カハツソウ、川濯神、ウミカブロ、ガウライ、テガワラ、ミヅシ、メドチ、ミンツチ、コマヒキ）

諸國河童誌ノ矛盾　サテモ此世ノ中ニ河童ト云フ一物ノ生息スルコト、既ニ動カスベカラザル事實ナリトスレバ、次デ起ルハ其河童ハ動物ナリヤ、ハタ又鬼神ナリヤト云フ一問題ナリ。此問題ノ解決ニ付テモ、諸國ニ於ケル河童捕獲ノ記録ハ尚且ツ有力ナル資料ナリ。今ヨリ僅カニ百餘年ノ前、即チ文化文政ノ頃ハ、人間ト河童トノ交渉最モ頻繁ナル時代ナリキ。露西亞ノ「ガローニン」ガ遭厄日本記事ニスラ、河童ノ題目ヲ看過セズ。天下ノ一奇書水虎考略ガ世ニ公ニセラレタルモ亦此前後ノ事ナリ。所謂太平ノ餘澤ナリシカ否カ、九州地方ノ河童ニ就キ系統的ノ研究ヲ試ミシ人アリ。此書ハ則チ其人ノ手ニ成リシモノ也。ソレヨリ少シ以(74)前ニ常陸水戸ノ海濱ニ於テ漁夫ノ網ニ掛リテ一頭ノ河童捕殺セラル。其又數十年ノ前ニハ越前某村ニ於テ河童ヲ生擒シ之ヲ將軍家ニ獻上セシ者アリ。河童ノ生メル子ハ頗ル人間ノ赤兒トヨク似タリト謂ヘリ。更ニ寛永某歳ノ昔ニ於テモ、豐後ノ日田ニテ捕ヘタリト云フ河童アリ。此等ハ何レモ立派ナル寫生ノ繪圖アリテ今日ニ傳ハリ、殆ト疑ヲ容ルベキ餘地無キニモ拘ラズ、何分ニモ合點ノ行カザル一點アリ。即チ諸國ノ河童ノ形?及ビ生活ニハ地方ニヨリ餘程ノ相違アルコト是ナリ。例ヘバ九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚褐色ニシテ總身ニ毛アルニ反シテ、三河越前等ノモノハ青黒クシテ毛無ク、所謂「オカツパ」ノ部分ニノミ、人間ノ小兒ト同ジキ毛ヲ頂ケリ。豐前北部ニ於ケル報告ニ依レバ、河童ハ海月又は白魚ノ如ク、水中ニ在ツテハ透明ニシテ形ヲ見ル能ハズト云フニ、常陸ノ海ノ河童ハ眞黒ニシテ而モ背ニハ頑丈ナル甲良ヲ被レリ。琉球ニテハ河童ヲ「カムロー」ト云フ。水陸兩棲ノ動物ニシテ形三四歳ノ童子ノ如ク、面ハ虎ニ似テ鱗甲アリト云フニ〔沖繩語典〕、和漢三才圖會ニ記述スル九州中國ノ川太郎ハ、十歳バカリノ小兒ノ如ク裸形ニシテ能ク立行シ人語ヲ解ストアリ。予ハ河童ノ顔色ハ青黒キモノト信ジ居タルニ、陸中其他ニ於テハ其面朱ノ如ク赤シト　言傳フ〔遠野物語〕。越後新潟ノ河童ニ至ツテハ常ニ龜ト同ジク匍行スル怪物ナルニ反シテ、九州ノ河童ノ人(75)ト相撲ヲ取ル事ヲ好ム者ハ往々ニシテ華美ナル犢鼻褌ヲヒケラカシテ闊歩スルアリ。此等ハアマリニ顯著ナル差異ニシテ、到底單ニ河童文明ノ地方的優劣ノミヲ以テ之ヲ説明シ去ルコト能ハザルニ似タリ。而シテ右ノ如キ記述ノ矛盾ヲ解決スルノ方法ハ唯一ツアルノミ。即チ今迄ノ人ガ河童ナリト認メテ寫生シタル物ノ一二又ハ全部ハ正眞ノ河童ニテハ非ザリシコト是ナリ。例ヘバ常陸ノ漁夫ガ海上ニ於テ打殺セシ動物ノ河童ナリシコトハ如何ニシテ之ヲ知リタルカ。何レノ地方ニテモ予ハ河童ト云フ者ナリト名乘リタル河童ハ有ルマジケレバ、此ノ如キ誤リタル想像ハ有リ得ベキ道理ナリ。總體此物ノ特性又ハ生活　　状態ニ關スル吾人ノ視察ハ、未ダ十分ニ精細ナリト言フコト能ハズ。河童ノ記録ハ諸國共ニ豐富ナルニモ拘ラズ、此ニモ亦頗ル著シキ相違ノ説アリ。故ニ若シ記述ノ些カニテモ區々ニ亙レル部分ヲ不確實ナリトシテ排除ストセバ、此物ノ存在ハ次第ニ茫漠トナリ行クヲ免レ難シ。殊ニ河童出現ノ事實ノ書史ニ見ユルモノ、甚シク近世ノ二三百年間ニ偏レルコトハ、誠ニ凡庸ノ歴史家ニ取リテハ大ナル疑ノ種ナリトス。下學集以前倭名鈔以後、歴代ノ語彙ニ其名目ヲ掲ゲズ、渡來發現等ノソレラシキ記事フ見出ス能ハザルガ爲ニ、今後尚幾多ノ臆説ヲ存立セシメ得ベキ餘地アリ。併シナガラ前ニ列擧セル多クノ馬引失敗記ヲ見テモ明瞭ナルガ如ク、何人モ認メザルベカラザル一事アリ。何ゾヤ。曰ク、諸國ノ碧潭ニ棲ミテ、時々馬又ハ人ノ子ヲ水ニ引込マントスル物ハ河童ナリ。

（ガタロ、カハタロウ、カワランベ、川小僧、川小法師、川原小僧、足跡、木ノ子、カシャンボ、足跡、鰯、山男、墨斗、那羅延坊、海ト河童、ヒヤウスヘ）

河童ニ異名多シ　河童トハ本來何物ナルカ。少クモ我々ノ多數ハ之ヲ何物ナリト信ジツヽアルカ。此問題ニ答ヘンガ爲ニハ、是非トモ順序トシテ河童ノ別名又ハ方言ヲ比較考察セザルベカラズ。予ハ此迄ハ便宜上東京語ヲ用ヰテ之ヲ「カツパ」ト呼ビタレドモ、是レ單ニ此物ノ名稱ノ一種ニシテ、比較的弘ク採用セラレテアル者ト云フニ過ギザルナリ。予ガ如キモ幼時之ヲ「ガタロ」ト稱ヘタリ。「ガタロ」ハ恐クハ川太郎ノ義ナラン。「カツパ」ハ即チ川童《カハワツパ》ニシテ、「ワツパ」トハ小兒ヲ意味スル近世ノ俗語ナリ。畿内及ビ九州ノ一部ニテハ「カハタロウ」、尾張ニテハ「カワランベ」又ハ川小僧、伊勢ノ山田ニテ川小法師、同ジク白子ニテ川原(76)小僧ト云ヒ〔物類稱呼二、本草綱目釋義四十二其他〕、筑前ニ「カウラワロウ」、肥後ニ「ガアラツパ」ナドト云フモ同ジ事ニテ、要スルニ此物ノ人間ニ比シテ形小ナルコトヲ意味スルノミ。備前備中等ニ於テ之ヲ「カウゴ」ト呼ブハ、出雲ニ於テ河子ト稱スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カハコウ」ト云ヒ、岡田ニテハ「ガウコ」ト云フ。同國吉備郡川邊村ノ川邊川ノ流ニ河子《カハコ》岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元龜年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ツタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小兒ヲ嚇スヤウニナリテ、終ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕。同ジ地名ハ遠近ノ諸國ニモ亦多ク存ス。

　　備前兒島郡藤戸村大字天城字川子石小字川子石

　　美作久米郡鶴田村大字和田南字年貢田小字川子岩

　　丹後熊野郡久美谷村大字栃谷字カハゴ石

　　信濃北安曇郡八阪村字川古石

　　甲斐南都留郡船津村大字大富宇土堀小字川子石

　　相模中郡大磯町大字大磯字高麗道下小字川子石

　　武藏比企郡七郷村大字越畑字川後石

ノ如キハ其例ナリ。近年評判ノ「カウゴ」石ナル者ハ、勿論悉ク河童ノ故跡ナリトハ云フ能ハズ。或者ハ革籠石《カハゴイシ》ト書シ又ハ香合石《カウガフイシ》ト書シテ、其形?ノ革籠又ハ香合ニ似タルガ故ノ名稱トシ、或者ハ皇后石ト書キテ神功皇后ノ御遺蹟ナドト言ヒ、其他ニモ區々ノ説アレド、要スルニ古クヨリ土地ノ人ノ注意シ尊敬シ居タル石ニシテ、尋常ノ場所ニ非ザリシコトノ外、何等確乎タル説明ヲ見出ス能ハズ。而シテ神籬《ヒモロギ》對山城説ノ八釜シキ石ノ圓形ノ圍障ハ、此「カウゴ石」ト無關係ナルコトハ次第ニ明白トナレリ。

(77)　九州ノ或地方ニテハ、河童ヲ「カハノトノ」ト呼ブト聞ク。南ハ日向大隅邊ニテハ之ヲ「ヒヤウスヘ」ト云ヒ、又「スヰジン」（水神）ト云フ。此等ハ何レモ尊敬ヲ極メタル稱號ニシテ、正シク一般ノ河童動物説ヲ否定スルニ足ルモノナリ。之ニ反シテ越中富山ニ於テ河童ヲ「ガメ」ト稱スルハ、即チ之ヲ龜又は鼈ノ部類ニ屬スルモノト認メタルガ爲ナルコト、曾テ越後新潟ニ於テ捕ヘタリト云フ河童ノ寫生ヲ見テモ想像ニ難カラズ。佐賀縣ニテハ河童ヲ「カハツソウ」ト云フ由〔佐賀縣方言辭典〕。「カハツソウ」ハ川ノ僧ノ義ニモ非ズ、水ノ神タル川濯神《カハスソガミ》トモ直接ノ關係無ク、全ク河童ヲ以テ川獺《カハヲソ》ノ類ト考ヘタル爲ノ名稱ナルガ如シ。出雲ニテ昔ノ「エンコウ」ヲ今ハ川獺ト爲セルコトハ前ニ述ベタリ。川獺ハ小獣ナレドモ亦淵ノ底二住ミテ惡事ヲ爲ス。馬ヲ害セシ話ハ未ダ聞カザルモ、人ヲ騙カシテ水ニ引込ムナドト傳ヘラル。海ニモ亦獺ノ住ム地方アリ。佐渡ノ兩津町附近ニテハ、海獺ハケシカラヌ詐術ヲ以テ人ノ命ヲ奪フト信ゼラレ、其一名ヲ「ウミカブロ」、即チ海ノ童兒ト云フトアレバ〔佐渡志〕、通稱ニ於テモ亦河童ト相似タリ。播州明石ノ海岸ナドニテハ、今日「ガタロ」ト云フ物ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ〔内藤吉之助君談〕。此外ノ異名ニシテ由來ノ尚不明ナルハ、熊野又ハ但馬ニテ「ガウライ」、北陸ノ或地方ニテ「カワラ」、「ガワラ」又ハ「テガワラ」。此ハ或ハ「川ワラハ」ノ義ナランカ。加賀能登其他ニ於テ河童ヲ「ミヅシ」ト云フコト〔本草啓蒙〕、サテハ陸中陸奧ニ於テ之ヲ「メドチ」ト云フニ至リテハ〔南部方言集〕、猶數段ノ討究ヲ重ヌルニ非ザレバ其理由ヲ明白ニスルコト難シ。「アイヌ」ノ古言ニハ、河童トヨク似タルモノヲ「ミンツチ」ト云フ由ハ次ニ言ハントス。而モ江差松前ノ舊城下ニ於テハ、又河童ヲ「コマヒキ」ト呼ビシ時代アリ〔サヘヅリ草〕。此事ニ就テモ後ニ猶考察ヲ加フベキ機會アルナリ。

　九州ノ河童ニ付テハ更ニ一異説アリ。曰ク河童ハ夏バカリノ物ナリ、冬ハ山中ニ入リテ「ヤマワロ」（山童）トナルト〔西遊記其他〕。山童ヲ目撃シタル者ハ愈々少ナケレド、昔ハ往々ニシテ之ニ遭遇シタル者ノ記(78)事アリ。山ニ入リテ其足跡ヲ見ルガ如キハ殆ト普通ノ不思議ナリキ。山童ハ童ト謂フハ名ノミニシテ隨分ノ大男ナリ。川小僧輩ノ中々企ツルコト能ハザル大入道ナリシナリ。但シ此トハ或ハ別種カト思ハルヽ山ノ神ノ部類ニ、「セココ」〔觀惠交話〕、又ハ木ノ子ナドト稱スル物アリ〔扶桑怪異實記〕。愛ラシキ童形ニシテ群ヲ爲シテ林中ニ遊ビ杣｜木地挽《キヂヒキ》ノ徒ニ惡戯ス。山男ト同ジク木ノ葉ヲ綴リテ着ルトモアレド、或ハ又青色ノ衣服ヲ着テアリトモ云ヒ、ヨホド動物バナレノシタル者ナリ。紀州熊野ニテハ、河童ハ冬ハ山ニ入ツテ「カシャンボ」ト云フ物ニナルト云フ。「カシャンボ」ハ六七歳ホドノ小兒ノ形、頭ハ芥子坊主ニシテ青キ衣ヲ着ス。姿ハ愛ラシケレドモ中々惡事ヲ爲ス。同國東牟婁郡高田村ニ高田｜權頭《ゴンノカミ》・檜杖《ヒヅヱノ》冠者ナド云フ舊家アリ。此中ノ或家ヘ毎年ノ秋河童新宮川ヲ上リテ挨拶ニ來ル。姿ハ見エザレドモ一疋來ル毎ニ一ノ小石ヲ投込ミテ著到ヲ報ジ、ソレヨリ愈々山林ニ人リテ「カシャンボ」ト成ルトイヘリ〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬ノ害ヲ爲スコト多シ。或ハ木ヲ伐リニ山ニ入リシ者、樹ニ繋ギ置キタル馬ヲ取隱サレ、漸クニシテ之ヲ見出デタレドモ、馬苦惱スルコト甚シク、大日堂ノ護摩札ヲ請ヒ受ケテ、僅カニ助ケ得タルコトアリ。或ハ水邊ヨリ出デ來リテ夜々牛小屋ヲ襲ヒ、涎ノ如キ物ヲ吐キテ牛ノ身ニ塗リ附ケ之ヲ苦シム。試ミニ小屋ノ戸口ニ灰ヲ撤キ置ケバ、水鳥ノ如キ足趾一面ニ其上ニ殘レリ〔同上〕。「カシャンボ」ハ火車ヨリ轉ジタル名稱カト南方《ミナカタ》氏ハ言ハルレドモ未ダ確證ヲ知ラズ。兎ニ角夏ノ間里川ノ水ニ住ム者ヲモ同ジク「カシャンボ」トモ呼ブト見エタリ。之ニ反シテ九州ノ南部ニテハ、冬季山ニ住スル彼ヲモ亦河童ト稱ス。薩州出水郷ノ獵師八右衛門、夜山ニ入リテ辨當ヲ使ヒテアリシトキ、闇ノ中ヨリ四五本ノ手出デテ食ヲ求ム。八右其河童ナルコトヲ知リ持チ來リシ海鰛《イワシ》ヲ與ヘテ其禮ニ猪ヲ追ヒ出サシメ、結局僅カナル食物ヲ以テ大キニ利得ヲシタリ。次ノ夜モ亦此通リナリシガ、手多クシテ海鰛足ラズ、乃チ戯レニ榾《ホダ》ノ火ヲ最後ノ者ノ掌ニ載セタルニ、聲ヲ放チテ走リ去リ、ソレヨリ山ドヨミ樹木ノ折レ倒ルヽ音頻リニシテ物凄ジクナリタレバ遁ゲ還ル。其後山ニ入レドモ河(79)童百方妨ヲ爲シ、獵物無レバ終ニ其業ヲ罷メタリト云ヘリ〔水虎録話〕。此話ハ他ノ諸國ニテハ常ニ山男ニ就キテ語リ傳ヘラル。奧州ニテ有名ナル白髪水ノ傳説ニモ、白キ石ヲ燒キテ餅ヲ求ムル山男又ハ山姥ニ食ハセシト云フコトアリ〔遠野物語〕、山稼ノ者ノ焚火ノ傍ニ立寄ルト云フ話ハ、山人トシテハ決シテ珍シキ例ニ非ズ。唯之ヲ名ヅケテ河童ト云フヲ以テ奇ナリトス。又日向地方ニ於テモ、河童冬ハ山ニ入リテ棲ムト云ヒ之ヲ山童トハ言ハズ。其形　　状宛モ熊野ノ「カシャンボ」ノ如ク、又「セココ」木ノ子ナド呼バルヽ物ニ似タリ。杣人ノ墨斗《スミツボ》ヲ欲シガルコト甚シク、天壺ト云フ物ヲ怖ル。天壺トハ高鍋邊ノ方言ニテ苧ヲ編ミテ造リタル器ナリ。山ニ入ル者常ニ之ヲ肩ニシテ行ク。墨斗ヲ天壺ノ上ニ載セテ差出セバ河童驚キテ飛ビ退クト云ヘバ〔水虎録話〕、彼縣ニテハ之ヲ見タル人多キナルベシ。然ルニ一方ニハ同ジ地方ニテ、河童ハ夏ニナルト海邊ヨリ山手ニ向フガ如ク語ル者アリ。初夏ノ雨ノ夜ニ數百群ヲ爲シ、ヒョウ／＼ト鳴キテ空ヲ行ク者ヲ河童ノ山ニ入ルナリト言ヒ、秋ノ央ニナリテ同ジ聲ヲシテ海ノ方ニ鳴キ過グルヲ、河童山ヲ出デ來ルト云フ。曾テ其姿ヲ見タル者無シト云ヘバ、思フニ一種ノ渡鳥ナルベシ〔郷士研究二卷三號〕。筑肥海岸地方ノ河童ハ、毎年四五月ノ頃筑後川ノ流ヲ溯リ、豐後ノ日田ヲ經テ阿蘇ノ社僧｜那羅延坊《ナラエンバウ》ガ許ニ伺候スト云フ。是モ亦同ジ鳥ノ聲ナドニ由リテ起リタル説ナランカ。那羅延坊ハ古クヨリ俗ニ河童ノ司ト稱ス。代々人ニ頼レテ河童ヲ鎭ムル祈?ヲ爲シ、又折々近國ノ田舍ヲ巡同ス〔水虎考略後篇所引蓬生談〕。其由緒は久留米ノ尼御前ヨリモ古キガ如シ。何ハトモアレ九州ノ河童ハ、眷屬大群ヲ爲シ且ツ移動性ニ冨ムコトヲ以テ一特色トス。佐賀白山町ノ森田藤兵衛ナル者、曾テ對馬ニ渡リ旅宿ニ在リ。夜分家ノ前ヲ通行スル者ノ足音曉ニ至ルマデ止マザルヲ怪シミ、明日亭主ニ向ヒテ何故ニ斯ク人通リ多キヤト問ヘバ、亭主ノ答ニアレハ皆河童デゴザリマス。河童日中ハ山ニ居リ夜ニ入レバ海ニ行キテ食物ヲ求ムルニテ、人間ニハ害ヲ爲サズト云ヘリ〔水虎新聞雜記〕。今ヨリ八九十年以前、日高謙三ト云フ人日向ノ耳川ノ上流ナル一山村ニ往キテ滯在セシニ、毎夜四更ノ頃ニ及(80)ベバ怪シキ聲川上ニ起リ、暫クアリテ對岸ニ達シ忽チ又下流ニ去ル。曙ノ比ハ復ビ岸ニ沿ヒテ還ルガ常ナリ。土地ノ人ノ説明ニ、是ハ河童ガ山ヲ下リ海ニ浴スルナリト也〔日州水虎新話〕。此輩ハ何レモ山ノ方ヲ本居トスル河童ナルカ、然ラザレバ亦何ゾノ鳥ノ聲ノ誤リテ斯ク信ゼラレタルモノ也。河童群ヲ爲シテ來去スト云フ者ハ、未ダ曾テ其姿ヲ見タリト言ハズ。高鍋附近堤ノ番人、永年此河童ノ聲ヲ聞キテ曾テ之ヲ見シコト無シ。或士ノ勇氣アル者深夜ニ物陰ニ之ヲ覗ヒ、聲ヲ的ニシテ闇ニ鐵砲ヲ放シタルニ、一發ニシテ忽チ行方ヲ知ラズト云フナド〔水虎録話〕、如何ニモ鳥ラシキ話ナリ。サレバ河童ヲ「ヒヤウスヘ」ト云フハ其ノ鳴ク聲ノヒョウ／＼ト聞ユル爲ト云フ説ノ如キ、未ダ何分ニモ信ヲ執ル能ハズ。某地方ノ山中ニ住スル「セコ子」ハ、二三十群ヲ爲シテ往來シ、其語音ヒウ／＼トノミ聞ユト云ヘリ〔觀惠交話〕。但シ此「セコ子」ハ、顔ノ眞中ニ大キナ眼ガ一ツナリト云ヘバ、アマリ當ニモナラヌ話ナリ。

（エンコウ、河童言語、猿牽、河童首領、厩ノ猿、河猿、釜淵、淵猿、頭ノ皿、?、猿猴淵、エンコザル、水ノ月、中山神、通夜猿、賀茂明神、雨乞）

河童ト猿ト　河童ヲ「エンコ」又ハ「エンコウ」ト云フ地方ハ、出雲石見周防長門伊豫土佐等ナリ。九州ニテモ河童ニ出逢ヘリト云フ者ニシテ、其大サモ形モ共ニ猿ノ如クナリシト報告スル者多シ。或ハ又全身ニ短キ毛アリ、人間ヲ詭カサントスル時ハ最初ニハ人ノ如ク物ヲ言ヘドモ、之ヲ聞返セバ二度目ニハ「キイ／＼」ト云フバカリニテ、何ノ事カ判ラズトモ云ヒ、又悲シミテ泣ク聲マルデ猿ナリキト傳フル地方アリ〔水虎考略〕。然ルニ一方ニハ又河童ト猿トハ仇敵ナリト云フ説アリ。河童ハ猿ヲ見レバ自然ニ動クコトガ不能トナル。猿モ此物ヲ見レバ捕ヘズニハ承知セヌ故ニ、猿牽ガ川ヲ渡ル時ニハ用心ノ爲是非トモ猿ノ顔ヲ包ムト云フ事ナリ〔笈埃隨筆一〕。加藤清正ガ肥後ノ領主タリシ時寵愛ノ小姓ヲ八代川ノ河童引込ミテ殺ス。清正大ニ之ヲ憤り、早速令ヲ領内ニ下シテ多數ノ猿ヲ集メ、河童討伐ヲ計畫ス。河童ハ到底猿ノ敵ニ非ザリケレバ、之ヲ聞キテ大恐慌ヲ引起シ、中ニモ河童九千ノ頭目ニ其名ヲ九千坊ト呼ブ者、一族ヲ代表シテ或僧ニ仲裁ヲ頼ミ、永ク人間ニ害ヲ加フマジキ旨ヲ約束シテ、僅カニ鬼將軍ノ怒ヲ解クコトヲ得タリト云フ〔本朝俗諺志〕。

(81)　猿ガ河童ニ勝ツト云フコトハ今ハアマリ聞カヌ話ナレド、其由來ハ中々複雜ナルモノアルニ似タリ。此事ハ獨リ西國地方ノ俗信ナリシノミニアラズ、江戸ニテモ河童ノ災ヲ避クル爲ニハ猿ヲ飼ヒ置クヲ可トスルノ説アリキ〔竹抓子四〕。自分ノ推測ニ依レバ、是レ厩ニ猿ヲ飼ヒテ牛馬ノ災ヲ拂フ古來ノ慣習ト因縁アルモノノ如シ。仍テ今少シク其問題ヲ講究セント欲ス。蓋シ近代ノ河童ニモ頗ル猿ニ似タル特徴ハアリシナレド、中古ハ猶一段此二ツノ物ガ接近シ居タリト覺シク、或ハ今ナラバ直ニ河童ト呼ブベキ水底ノ怪物ヲ、河猿又ハ淵猿ト名ヅケタリシ例アリ。例ヘバ遠江榛原郡ニハ河猿ト云フ怪獣住ス。水ノ岸ニ現レ出ル物ニテ、馬之ニ遭ヘバ忽チ斃レ死ス。何レノ川筋ニテモ河猿出レバ馬ノ種ハ絶ユ。恐クハ馬ノ疫病神ナランカト云ヘリ〔三河雀〕。毛利公爵ノ祖先ガマダ藝州ノ吉田ニ在リシ頃、其臣下ニ井上元重通稱ヲ荒《アラ》源三郎ト云フ武士アリ。時ハ天文三年ノ八月、吉田川ノ釜淵ノ水底ニ入ツテ、人畜ヲ害スル淵猿ト云フ怪物ヲ退治シ、武勇ノ名ヲ天下ニ施セリ。源三郎七十人力アリシモ淵猿ニハ百人力アリ。唯幸ニシテ怪物ノ強キハ全ク頭ノ中央ノ窪ミニ水ノアル爲ナルコトヲ前以テ知リシガ故ニ、取敢ズ其首ヲ?ミテ左右ニ振廻ハシ、水ヲ翻シテ之ヲ無力トシタル後、容易ニ生擒シ得タルハ最モ智慮アル手段ナリキ〔老媼茶話〕。但シ此淵猿ハ所謂怠?立ヲシテ釋放セラレタリヤ否ヤ、後日譚ノ傳ハラヌハ遺憾ナリ。此話ハ大昔仁�ｺ天皇ノ御代ニ、吉備ノ川島河ノ淵ニ於テ笠臣ノ祖縣守ト云フ勇士ガ?《ミヅチ》ヲ退治セシ?末トヨク似タレドモ、多分ハ偶合ナルベシ。武家高名記陰�ｺ太平記志士清談等ニモ之ヲ載録ス〔南方熊楠氏報〕。藝藩通志ノ高田郡吉田村釜淵ノ條ニハ、荒源三郎ガ?※［獣偏＋國］《カハタラウ》ヲ生獲シタル故跡ナリト見エタリ。

　猿ノ水中ニ住ムト云フコトハ何分ニモ信ジ難キ話ナレドモ、兎ニ角昔ノ人ハ此ノ如キ一種ノ猿ヲ見聞セシ者多カリキト覺シク、今モ府縣ノ地名ニ猿ケ淵又ハ猿猴淵ナドト云フモノ少カラズ。例ヘバ、

　　石見美濃郡匹見下村大字落合字矢尾小字猿猴ケ淵

(82)　　石見邑智郡長谷村大字長谷字山中小字猿猴淵

　　土佐長岡郡天坪村大字北瀧本字エンコウ淵

　　同　幡多郡下川口村大字宗呂字エンコウ淵

　　下野下都賀郡富山村大字富田字猿淵

　　武藏入間郡南高麗村大字下直竹字猿淵

　　越前足羽郡東郷村大字下毘沙門字猿ケ淵

　　美作苫田郡東一宮村大字東一宮字猿淵

等ノ如シ。我々ノ幼時ニハ、文人畫ニ畫カルヽ一種手ノ長キ猿ノミヲ「エンコザル」ト呼ビタリキ。猿族ノ月ヲ捉フル話ハ必ズシモ物ノ譬ニハアラズ。大和ノ猿澤池ノ如キハ昔多クノ猿集リ手ト手ヲ組ミテ梢ヨリ水ノ月ヲ取ラントセシガ、最初ノ猿手ヲ放チシ爲悉ク池ニ落チテ死ス。其猿共ヲ埋メテ驗ノ松ヲ栽ヱ今モ存スト云ヘリ〔所歴日記〕。其　　顛末ノ越中｜駒見《マミ》ノ狼婆ト似タルハ一奇ナリ。右ノ猿猴淵ト云フ地名ノ由來モ、恐クハ亦此物水底ノ月ヲ採ラントセシ故跡ナドト説明スル老人アルベケレド、實際ハヤハリ他ノ地方ノ河童淵又ハ川子淵ト同樣ニ、其地ニハ曾テ此ノ如キ猿ノ住ミシ時代アリシモノト解スベキナリ。美作ノ猿淵ハ一宮中山神社ノ猿ナルベシ。此社ノ猿ハ今昔物語以來有名ナリ。今モ明神ノ神使トシテ崇敬セラレ、一宮村ノ贄殿谷《ニヘドノダニ》又ハ同郡西苫田村大字小原ニ猿ノ祠アリ。毎月十二日ノ夜ハ一宮ノ靈猿必ズ黒澤山ニ登リ佛殿ノ中ニ宿ス。風雨霜雪ノ夜ト雖缺クコトナシ。之ヲ名ヅケテ通夜猿ト云フ。一宮村大字東田邊ノ石原川ニモ猿淵アリ（或ハ前ノ猿淵ト同ジキカ）。一宮神社ノ使ノ猿此村ノ湯原山王ニ來ルトキ、毎ニ此淵ニ入リテ齋浴スル故ニ此名アリト云フ〔作陽志〕。若狹｜遠敷《ヲニフ》郡宮川村大字加茂字大戸ト、同郡野木村大字上野木トノ境ノ山ノ麓ニ、猿陪淵ト云フ處アリ。太古賀茂明神降臨ノ折ニ之ニ供奉シタル白猿此淵ニ姿ヲ現ハス。淵ノ底ニハ明神ノ冠(83)石《カンムリイシ》卜云フ一箇ノ小石アリ。旱魃ノ年ニハ雨乞トシテ水中ヨリ右ノ小石ヲ抱キ上グレバ驗アリ〔若狹郡縣志〕。此等ノ白猿又ハ靈猿ハ御伽噺ノ中ノ猿ノ如ク、水ノ中ニ入ルコトヲ意トセズ。恐クハ即チ安藝ノ淵猿ヤ三河ノ河猿ト同族ニシテ、其昔何カ然ルベキ由緒アリテ、土地ノ者ヨリ永ク尊崇ヲ受クルニ至リシナランカ。而シテ其尊崇ノ起原ニ至リテハ後ニ猶説アリ。

（犀、蹴裂、道ノ神、盡キヌ泉、水牛、道祖土、一角獣、水底ノ牛、牛ケ淵、牛沼、沼ノ主、牛クヽリ、牛野飼、窟ト牛、水神、神ノ爭、石ノ窪、鹽、牛鬼、牛頭天王、蘆毛馬、池、赤牛、サハリ池、池ノヌシ、犬神、ヲサキ狐、クダ狐、土瓶神、ヤナ、川熊、怪物ノ手）

川牛　淵ハ兎ニ角ニ怖シキ處ナリ。アノ紺青ノ水ノ底ニハ動物學ノ光モ未ダ透徹シ得ザルガ如ク、此外ニモ非常ナル物之ニ住ムト云ヘリ。例ヘバ信濃ノ犀川ニハ犀ト云フ獣住ム。東筑摩郡片丘村｜牛伏寺《ゴフクジ》ノ古傳ニハ、此邊古クハ水湛ヘテ大ナル湖ナリシニ、神人犀ニ乘リテ下降シ、巖石ヲ切開キテ今ノ流ト爲シタリト云ヒ〔日本宗教風俗志〕、或ハ又泉小太郎犀ニ乘リテ三清路《サソセイヂ》ノ岩ヲ突破リ、又｜水内橋《ミノチバシ》ノ下ノ岩ヲモ蹴破リテ水ヲ千曲川ニ落シテ平地ヲ造ル。其犀ヲバ犀ロト云フ處ニ祀ルトモ語リ傳ヘタリ〔信濃奇勝録〕。近江ニテハ今ノ愛知郡｜葉枝見《ハエミ》村大字新海ノ川尻ニ、昔ハ深キ淵アリテ犀龍住メリ。弘安中黒井覺海ナル者此地ニ來リテ件ノ犀龍ヲ亡シ、淵ヲ埋メテ田地ト爲シ新開村ト號シ、己モ新開氏ヲ稱セリ。同ジク東淺井郡｜虎姫《トラゴゼ》村大字大寺、正八幡ノ境内ニ昔ヨリ犀ケ窪ト云フ處アリ。今ハ田地ノ字トナル。曾テハ比地大ナル淵ニシテ老犀住ミテ往來ノ人ヲ惱マス。淺井備前守ノ家士ニ入海彦之庄司ト云フ者、彼ノ犀ヲ捕ヘテ既ニ之ヲ殺サントス。犀誓ヒテ此地ヲ去ルトアレバ、此亦謝罪ヲ以テ助命ヲ得タルナルベシ。彦根町長光寺裏ノ外濠ヲ犀ケ淵ト云フ。水湧出デ大旱ニモ絶ユルコトナシ。北青柳村大字長曾根等ノ堰水ト爲ス〔以上淡海木間攫〕。遠江濱松ノ北方ニモ、犀ト云フ獣ノ出デタルニ因ツテ犀ケ崖ト呼ブ處アリ。三方原南端ノ絶壁ニシテ樹木ニ隱レテ下ヲ流ルヽ水アリ。元龜ノ有名ナル古戰場ナリ〔遠江風土記傳〕。東京ニテハ早稻田ノ西北ニ亦一箇ノ犀ケ淵アリテ、現ニ百年バカリ前マデ、時々「サイ」ノ出現セシコトアリ。高田ノ面影橋ノ一ツ上流ニシテ但馬橋ノ下ナリ〔十方菴遊歴雜記三編中〕。今ハ附近ニ下宿屋ナド出來タレド、ツイ先頃マデハ物凄キ魔所ナリキ。薄暮ニ水中ヨリ半(84)身ヲ顯ハスヲ遠ク望ミ見タル者アリト稱シ、或ハ幅三間バカリノ小川ナレバ獣トシテハ調子ガ合ハヌヨリ、「サイ」ト稱スル惡魚ナドトモ記載シタル者アリ。日本ニハ犀ハ居ラヌ筈ナリ。犀ハ山野ニ住ム獣ナレドモ、別ニ水犀ト稱シテ三本ノ角アル者ハ水牛ニ似タリト支那ノ書ニ見ユル由、朝鮮ニテハ犀ヲ誤ツテ水牛ノコトヽ解スル者アリト云ヘリ〔雅言覺非三〕。日本ニテモ或ハ亦此誤訓ヲ傳ヘタルモノカ。但シ臺灣ノ外ニハ今ハ犀ト誤ルベキ水牛モ存在セザレバヨホド不思議ナリ。蓋シ「サヘ」又ハ「サヘト」ハ、往古境ノ神ヲ祭リシ畏ロシキ場處ノコトナレバ、或ハ此ガ爲ニ「サイ」ト云フ怖ルベキ一物ヲ作リ出シ、之ヲ處々ノ碧潭ニ住マシムルニ至リシヤモ亦測ルベカラズ。

　諸國ノ海川ニハ、「サイ」トハ言ハザル水牛ノ住メリト云フ處アリ。其水牛モ格別人ヲ害セザルモ要スルニ怪物ナリ。土佐ノ近海ヲ航行スル船、曾テ船底ヲ水牛ノ爲ニ突カレタリ。大阪著船ノ後船體ニ折込ミ居タル水牛ノ角ヲ取リ、藥種商ニ高ク賣リ渡シタリト云フ〔土佐淵岳志中〕。此等ハ往々ニシテ犀角ト混同セラルヽ所謂「ウニコール」（一角獣）ノ所業ナリシナランカ〔六物新志〕。併シ大隅｜姶良《アヒラ》郡牧園村大字中津川ニ於テ、約三十年日毎ニ犬飼川ノ水底ヨリ出デタリト云フ牛ノ如キハ正眞ノ牛ナリ。最近ニ出現セシハ黄牛《アメウシ》ナリキ。角ハ短クシテ太ク、毛ハ甚ダ美麗ニシテ眼光射ルガ如シ。人近ヅキテモ遁ゲズ、人モ亦靈物トシテ敢テ侵サズ。陸上ニ遊ブコト二三日ニシテ復水中ニ還リタリ〔三國名勝圖會〕。正�ｺ四年六月ノ中旬、大阪城ノ追手門ト京橋口トノ間ノ堀ニ頭ト背トヲ水中カラ現ハセシ怪物ハ、頭ハ牝牛ノ大サトアレド金色ノ鱗アリ。但シ堀ノ中ヲウロ／＼ト歩ミ去ルトアリテ甚ダ龍ラシカラズ〔月堂見聞集七〕。武州秩父郡金澤村字出牛ニテハ、見馴《ミナレ》川ノ流ニ牛ケ淵アリ。昔此淵ヨリ牛出デタルコトアリテ地名ヲ出牛トハ謂フナリ〔新編武藏風土記稿〕。羽後平鹿郡横手町、朝倉城址ノ南方ニ牛沼アリ。沼ノ名ノ由來トシテハ、或ハ此堤ニ築キ込メタル牛今ニ至ルマデ靈アリト云ヒ、或ハ神社建築ノ材木ヲ負ハセタル牛此沼ニ沈ムトモ云ヒ、又一説ニハ「ウシ」トハ棟木(85)ニ用ヰル大材木ノコトナリ、其材水ノ底ニ沈ミテ眞ノ牛ト化シ、終ニ沼ノ主ト成リテ折々背ヲ現ハスコトアリトモ傳ヘタリ〔雪乃出羽路十三〕。勿論取留メタル話ニハ非ザレドモ、各地ニ於テ水中ニ靈牛住ムト云フ點ノミハ一致セリ。獨リソレノミニアラズ、牛ハ又自由ニ地下水ノ流ニ從ヒテ土中ヲモ往來スルコトアリ。陸中和賀郡更木村大字更木ノ牛クリガ淵ハ、北上川ノ流ニ在リテ隣村平澤トノ境ニ近シ。「牛クリ」ハ即チ「牛クヽリ」ノ轉訛ナリ。或年ノ夏民家ノ牛ヲ此岸ニ放チ置キシニ、牛ハ暑サニ堪ヘズシテ淵ノ底ニ入リ、沈ミタルマヽ出デ來ラズ。牛主ハ既ニ死シタルモノト思ヒテアリシニ、水中ヲ潜リタリト見エテ同村大字｜臥牛《ヒソウシ》ノ觀音堂ノ下ノ淵ニ浮ビ出デ、岸ニ上リテ潜マリ居タリ。故ニ又其地ヲ「ヒソウシ」ト謂フナリ〔和賀稗貫二郡郷村誌〕。此話ニハ河童ハ出デザレドモ、事ノ筋ニハ注意スベキ脈絡アルコト尚後段牛馬藪入ノ條ニ之ヲ説クベシ。陸奧下北郡東通村大字｜白糠《シラヌカ》ノ山ニハ大穴ト云フ處アリ。昔野飼ノ牛此窟ニ入リテ終ニ出デ來ラズ、遙カニ隔タリタル上北郡横濱村ノ中ニ現ハレタリ。故ニ其地ヲ牛ノ澤ト呼ブトカヤ〔眞澄遊覽記八〕。牛ガ窟ノ中ニ入リシ話ハ今昔物語ニモアリテ、極メテ古キ來歴アルナリ。

　神ガ川牛ノ背ニ乘リテ出デラレタル話アリ。下總北相馬郡｜文《フミ》村大字押付ノ水神社ハ蠶養川《コカヒガハ》ノ岸ニ在リ。此神ノ正體ハ川牛ニ乘リタル木像ニシテ、其牛ノ右ノ角折レタリ。御影ノ版畫モ亦此ノ如シ。其由來ハ昔隣村ノ大字｜大平《ダイヘイ》ニ御大平樣ト云フ異人アリ。今日｜大平權現《オホヒラゴンゲゾ》ト稱シテ村ニ祭ル者即チ是ナリ。此御大平樣、アル日水神ノ社ノ下ニ來テ釣ヲ垂レタルヲ、水神怒リテ川牛ニ乘リテ出現シ其釣竿ヲ奪ヒ取ラントス。異人ハ驚キテ傍ノ藤蔓ヲ取リ之ヲ投附ケタルニ、川牛ノ頭ニ引掛リテ右ノ角折レタリ。ソレ故ニ神體ノ牛ニ片角無キナリ〔利根川圖志二〕。日本ニテハ珍シキ話ナレド支那ニハ之ニ似タル川牛アリ。勾漏縣ト云フ地方ニハ大江ノ中ニ水牛ノ如キ獣住シ、水ヨリ出デテヨク闘爭ス。其角ハ陸ニ在リテハ軟キコト押付水神社ノ川牛ノ如ク、江水ニ却リ入レバ角堅クナリテ復出ヅトアリ〔酉陽雜俎續集八〕。東京小石川ノ牛天神ノ牛石ハ、石ノ上ニ窪(86)ミアリテ昔ハ之ニ睦ヲ供ヘタリト云フ。或ハ又海中ヨリ出現セシ天神ノ乘物ノ化石シタルニハ非ザルカ。同市向島ノ牛御前《ウシノゴゼン》ナドハ川牛ノ記念トシテ一箇ノ牛ノ玉ヲ保存セリ。若シ彼社ノ縁起ノ文ニ誤無シトスレバ、昔建長ノ二年ニ淺草川ノ底ヨリ牛鬼ノ如キ物飛出シ、天下ニ疫病ヲ流行セシム。牛頭《ゴヅ》天王ノ降魔ノ力ニ由リテ、右牛鬼類似ノ物ハ此社ニ飛込ミ、一國忽チニシテ平穩ニ復スト云フ〔十方菴遊歴雜記第二編中〕。此社ノ神體ハ即チ牛頭天王降魔ノ異形ト云フコトナルガ、ソレニシテハ被征服者ノ名ヲ以テ其御社ニ名ヅクルコト、聊カ解シ難キニ似タリ。

　牛ケ淵牛沼ノ類ハ諸國ニ多ケレドモ、必ズシモ之ヲ以テ川牛又ハ牛鬼ノ如キ珍奇ナル動物ノ産地ト目スルコト能ハズ。安藝高田郡志屋村大字志路ノ黄牛淵《アメガフチ》ノ如キハ、曾テ河童ノ爲ニ村ノ黄牛《アメウシ》ヲ此水ニ引込マレシコトアリシヨリ此地名アリ〔藝藩通志〕。蘆毛淵《アシゲブチ》又ハ馬子淵《ウマノコブチ》ナドト稱シテ、河童ガ蘆毛馬又ハ馬ノ子ヲ引込マントセシ故跡ナリト傳フル例ハ外ニモアレド、其地命名ノ由來トシテハ被害者ノ縁故ヲ引クコトハ多少不自然ノ嫌ナキニ非ズ。故ニイツト無ク牛淵ハ牛ノ居ル淵ト説明スル者多クナリタルナリ。牛ニ似タル水底ノ怪物ガ、河童乃至ハ淵猿ト同ジク、人ヲ引込ミテ殺シタリト云フ例ハ外ニモ存ス。甲州北巨摩郡旭村上條北割組ノ甘利山ノ山中ニ、佐原池ト呼ブ池アリ。甘利左衝門尉ノ一子此池ニ漁シテ池ノ主ノ爲ニ命ヲ失ヒ、其亡骸ヲスラ見出スコト能ハズ。甘利氏ハ郷内十村ノ百姓ヲ驅リ集メ、池ノ中ヘ大木ヲ投ゲ込マセ且ツ不潔ナル物ヲ沃《ソヽ》ガセタルニ、池ノ主ハ赤牛ノ姿ニ化シテ水中ヨリ走リ出デ、更ニ山奧ナル大笹池へ遁入リタリト云フ〔甲斐國志〕。同郡｜安都玉《アツタマ》村村山北割組字｜八牛《ヤツウツ》ノ牛池ニモ之ニ似タル口碑アリ。昔時角ノ八箇アル赤牛此池ヨリ飛出シ、八嶽ノ方ヘ走リ行キシ故ニ、地名ヲ八牛トモ牛池トモ云フナリ〔同上〕。方三間バカリノ小池ナレドモ、水ノ色ノ清濁ヲ以テ晴雨ヲ占フ風習存シ、池ノ岸ニハ應仁二年ノ年號アル六地藏アリト云ヘバ、年久シキ靈場ナルコト疑無シ。

(87)　池沼ノ主トシテハ、釜鏡鐘又ハ馬ノ鞍ノ如キ眼鼻モ無キ物マデガ往々ニシテ其威力ヲ逞シクセリ。況ヤ始ヨリ生アル物ノ中ニテハ、龜ヤ鯉ノ如キ靈物ハ勿論、鯰鰻モシクハ白田螺ノ類ニ至ルマデ、所謂劫ヲ經タルモノハ皆化ケ且ツ人ヲ捕ルナリ。其例ヲ列擧スルハアマリナル枝葉ナレバ略ス。要スルニ學者ノ分類記述ヨリ超脱シテ、今尚色々ノ動物ノ存在スルハ事實ナルガ如シ。例ヘバ犬神及ビ之ニ類似スル「ヲサキ」狐・「クダ」狐又ハ人狐ノ如キ、或ハ「トンボ」又ハ「トウビヤウ」ト云フ蛇ノ如キハ、恰モ是レ顯微鏡發見前ノ「バクテリヤ」ナリ。「クダ」ハ體細クシテ管ノ中ニ入ルベク、犬神ハ鼠ニ似テ群ヲ爲シテ人家ニ住ミ、總テ皆身ヲ隱スコト自在ナリ。「トウビヤウ」ハ酒瓶ノ中ニ住ミテ時ニ出デテ人ニ憑キ、身ニハ蚯蚓ニ似タル頸輪アリ。一定ノ家筋ニ屬シテ能ク人ノ爲ニ恨ヲ報ズルノ力アリ。之ヲ見タル人多クシテシカモ動物學ノ書ニ見エズ。地上ニスラ既ニ此ノ如シ。況ヤ碧潭ノ底深ク牛ノ住ムナドハ決シテ驚クニ足ラズトス。武藏川越城ノ三芳野天神ノ下ナル外濠ハ伊佐沼ノ水ト下ニ通ズ。コノ泥深キ堀ノ主ハ何カハ知ラズ「ヤナ」ト名ヅクル怪物ナリ。當城危急ノ際ニ於テ敵兵｜搦手《カラメテ》ノ堀端マデ迫リ來ル時ニハ、忽チ霧ヲ吐キ雲ヲ起シ魔風ヲ吹カセテ四方ヲ暗夜ト爲シ、且ツ洪水ヲ汎濫セシメテ寄手ニ方角ヲ失ハシムベシト云フ話ナリ〔十方菴遊歴雜記第三編下〕。實驗モセズシテ此作用ヲ承知シ、之ヲ防衛ニ利用シタルハ、智慧伊豆守ニ非ズンバ則チ太田道灌ナルベシ。又川熊ト名ヅクル水中ノ獣アリ。其話ヲ聞クニ陸地ノ熊ト似タル所甚ダ少ナシ。少年ノ頃姫路ノ城ノ堀ニハ藪熊ト云フ怪物住ミテ人ヲ騙カスト聞キシガ、此モ熊トハ思ハレヌ生活?態ナリキ。文政十年七月、名古屋｜大須《オホス》ノ門外ニ於テ、勝川ニテ生捕リタル猪熊ト名ヅケテ見セ物ニシタル獣ハ、實ハ木曾街道ノ中津川ニテ取リタル川熊ト云フ物ナリシヲ、川ハ水ニ縁アレバ雨ガ降リテハ惡シト、忌ミテ之ヲ「ヰノクマ」ト呼ビシナリ。毛ハ鼠色ニシテ澤《ツヤ》アリト云ヘリ〔見世物雜誌二〕。羽後ノ雄物川ニモ川熊ノ住ミシ證據アリ。秋田侯ノ先代ニ諡ヲ天英院ト謂ヒシ人、船ニテ此川ニ獵ヲセシ時、水底ヨリ黒キ毛ノ手ヲ出シテ、殿ノ鐵砲ヲ奪ヒシ怪(88)物アリ。其後水練ノ達者ナル人アリテ、此川隨一ノ魔所タル洪福寺淵ノ底ニ入リ一梃ノ錢砲ヲ拾ヒ上ゲタリ。佐竹家ノ什寶ニ川熊ノ御筒ト稱セシハ即チ是ニシテ、以前藩主ガ水中ノ獣ニ奪ハレタリシモノ、現ニ川熊ノ?ミシ痕存スト云フ〔月乃出羽路五〕。此下流ノ河邊郡川添村大字椿川ニハ又川熊ノ手ト名ヅクル物ヲ傳フ。曾テ椿川ノ舟子、雄物川ノ岸ニ船繋リシテアリシニ、深夜ニガバト浪ノ音シテ舷ニ雙手ヲ掛クル物アリ。驚キテ鉈ヲ揮ヒテ之ヲ斬リ、朝ニナリテ見レバ此手舟ノ中ニ落チタリ。一見猫ノ手ノ如キ物ナリキト云フ〔同上〕。河童ナラバ即刻ニ返付ヲ哀訴スベカリシ品物ナリ。

（カハコマ、駒引澤、馬塚、馬上咎メ、繪錢、錢神、錢何疋、支那繪餞、出駒入駒、猿曳駒、繪馬ノ猿、生石子神）

駒引錢　秋田ノ人ノ話ニ、今日彼地方ニ於テ「カハコマ」ト稱スルハ、水ノ神ノ別名ナリ〔山方石之助氏談〕。「カハコマ」ハ或ハ川駒ニハ非ザルカ。果シテ然リトスレバ川牛ト相對立シテ、話ニ幾分カ筋道ガ立ツカト思ハル。但シ斯ク言ヘバトテ、勿論右ノ黒キ毛ノ手ヲ以テ直チニ馬ノ脚ナリト主張スルニハ非ズ。松前地方ニ於テ河童ヲ「コマヒキ」ト云フコトハ前ニ之ヲ述ベタリ。河童ニシテ深キ毛皮ヲ被リタル川獺ノ類ニ非ザル限、北海道ノ雪氷ノ下ニ冬ヲ送リ、三尺ノ童形ヲ以テ牛馬ニ對シテ熊以上ノ暴威ヲ振フト云フコトハ、靈物ニ非ザレバ到底企テ能ハザル藝ナリ。之ニ就キテ案出シタル予ガ一説アリ。乞フラクハ之ヲ演ベシメヨ。東京ノ附近ニハ駒引澤又ハ馬引澤ト云フ地名多シ。思フニ昔關東ノ平原ニ盛ナリシ馬ノ牧ト關聯シテ、何カ然ルベキ由緒アル土地ナルベク、?々馬ニ就キテノ信仰ヲ存ス。例ヘバ玉川電車ニ接近セル駒澤村ノ馬引澤ニハ頼朝ノ愛馬ノ塚アリ。府中ノ對岸關戸村ノ駒引澤ニハタシカ古キ藥師堂アリテ、堂ノ前ナル路ハ馬ニ乘リテ行クコト能ハズ、乘打ヲスレバ必ズ怪異アリシ故ニ駒ヲ曳キテ通行セリ。藥師堂ノ西ト東ニ各「ゴクラク」ト云フ地名ノ存スルハ、此處マデ來レバ最早馬ニ乘リテモ差支無カリシ爲ナリト云フ〔林義直氏談〕。馬上咎メヲスル神ハ、蟻通《アリドホシ》明神以來甚ダ多カリシナリ。ソレヲ駒引ト名ヅケタル例ハ外ニモアリ。羽後平鹿郡植田村大字越前字駒引ハ、館村ノ八幡ノ鳥居ノ正面ニシテ、乘打ヲスル人ハ誰ト無ク落馬セシガ故ニ、何レ(89)モ畏レテ馬ヲ曳キテ通リシヨリノ地名ナリ〔雪乃出羽路九〕。駒ヲ曳クトハ乘ラズシテロ綱ヲ取ルコトナリ。後世馬追ヲ業トスル田舍者ナドハ、曳クト云フ古語ヲ誤解シテ、鼠ガ鏡餅ヲ引クナドノ引クカト思ヒ、從ツテ終ニ牛馬ヲ水底ニ誘ヒ穀スト云フガ如キ迷信ノ發生ヲ促シタルヤモ圖リ難ケレド、其昔ノ意味ハ必ズ別ニ存シ、河童ノ人格ハ或ハ今日ノ如ク賤劣ナルモノニハ非ザリシカト思ハル。

　前代ノ穴錢ノ中ニ的引錢ト稱スル一種ノ繪錢《ヱセン》アルコトモ、亦何等カノ因縁無シトハ言フベカラズ。今日ノ通説ニ依レバ、日本ノ繪錢ノ始ハ足利時代ノ末所謂六條錢ノ頃ニ在リテ、元和以後殊ニ寛永通寶ノ鑄造ニ伴ヒテ一層盛ニナリタリト云ヘリ。又取留メテ此ト云フ目的ハ無ク、錢座ノ開業祝ニ職人等ガ慰ミ半分ニ作リシモノカ、又ハ物好ナル鑄物師輩ガ最初ヨリ樂錢即チ玩弄品トシテ鑄タルモノニテ、別ニ信仰上ノ意味ナドハ無カリシガ如ク認メラル〔繪錢譜序〕。併シ此説ニ對シテハ疑ヲ挿ムベキ餘地全ク無キニ非ズ。支那朝鮮ノ銅ノ豐富ナラザリシ地方ニテモ、竝ノ錢ヨリハ大キク且ツ手丈夫ニ、複雜ナル意匠ヲ以テ念入ニ澤山ノ繪錢ヲ鑄造セリ。是レ即チ所謂厭勝錢ニシテ、社會生活上通用錢ヨリハ一層大ナル意義ヲ有セシガ故ニ此ノ如キ也。錢ヲ神ト祀リ又ハ祈?卜占ノ用ニ供セシ例ハ我邦ニモ乏シカラズ。日本ノ繪錢ノ中ニモ橋辨慶トカ紋盡シトカノ類ハ或ハ只ノ玩具ナリシナランモ、繪錢譜ノ大部分ヲ占ムル駒錢ニ至リテハ、單ニ道樂半分ノ所業トシテハ餘リニ數多ク且ツ系統アリ。或ハ又餞十文ニ付キ一枚ヅツノ駒引錢ヲ交ヘタリシ故ニ百文ヲ十疋ト云フトノ説アレド、更ニ根據無キ想像説ナルノミナラズ、少ナクモ駒ノ繪餞ヲ鑄造セシ起原ヲ説明スル能ハズ。疋ヲ以テ錢ヲ數フルノ風習ナキ支那ニ於テモ馬ノ錢ハ甚ダ多シ。例ヘバ唐將千里追風又ハ白驥ナドノ錢文アルモノハ裏面ニ駒ノ畫ヲ鑄出シ、逐日腰泉ノ如キハ表面ニ之ヲ鑄出シ、更ニ又千里之能日行千里出入通泰等ノ錢ハ人ノ馬ニ騎リタル畫樣ナリ〔鹽尻六十四〕。此等ノ錢文ヨリ想像スレバ、馬ハ即チ通用ノ迅速ナルコトヲ以テ其奔馳ニ譬ヘタルカトモ考ヘラル。此等ノ繪餞ハ多クハ餞背一杯ニ大キク馬ヲ描キ、恰モ射藝ノ(90)草鹿ナドノ如ク馬ノ腹ノ部分ガ錢ノ孔ナリ。之ニ反シテ日本ノ駒錢ハ方孔ノ周圍ニ馬ヲ描キ、且ツ十中ノ八九マデハ口繩ヲ附ケテ之ヲ曳ク形ナリ。馬ノ首ノ右ニ向ヘルヲ入駒ト云ヒ、左ニ向ヘルヲ出駒ト云フ。馬ノ背ニハ或ハ俵トカ珠トカノ目出タキ荷物ヲ積ミ、神人又ハ農夫ノ之ヲ曳ケルモアレド、分ケテモ注意セラルルハ裸馬ヲ猿ノ曳キ行ク圖ナリ。假ニ年代ノ前後ヲ忘却スレバ殆ト、河子「カシャンボ」ノ歴史ヲ畫ケルカトモ思ハル、所謂猿曳駒ノ繪錢ナリ。

　サテ右ノ如キ繪錢ハ果シテ如何ナル目的ノ爲ニ之ヲ使用セシカ。殘念ナガラ今尚之ヲ明白ニスルコト能ハ(91)ズ。又我輩ノ強ヒテ想像セントスル如ク、猿曳駒ノ一種ガ他ノ多クノ駒引錢ノ根源ナリシト云フコトモ甚シク證據ニ乏シ。併シナガラ兎ニ角自分ガ蒐集セシ諸國ノ河童ノ話ノ、右ノ繪錢ト若干ノ關係ヲ有スルラシキコトハ、恐クハ何人ニモ承認シ得ベキコトナラン。蓋シ猿ガ馬ヲ曳ク圖ハ獨リ繪錢ノ模樣タルノミニ止ラズ、今日ノ田舍ニテモ些シク注意スレバイクラモ他ノ例ヲ見出スコトヲ得ベシ。神社ノ繪馬ニモ猿ガ之ヲ曳ク所ヲ描ケルモノアリ。自分ハ幼少ノ頃播磨ノ農家ニ於テ、厩ノ戸口ニ印刷シタル此繪ノ貼附ケラレタルヲ多ク見タリ。多分ハ同國印南郡ノ生石子《オフシコ》神社、俗ニ石ノ寶殿ト稱スル宮ヨリ出シタル牛馬ノ守護符ナリシカト思ヘド、其點マデハ記憶セズ。九州地方ニテハ又他ノ神社ヨリモ此繪札ヲ配リシモノアリシガ如シ。其神ノ名ハ聞洩ラシタレドモ、必ズシモ猿ヲ使令トスル山王ノ社ナドニ限リタルコトニ非ザリシカト思ハル。

（厩ノ猿、猿ノ舞、猿ハ馬飼、馬醫、馬ノ神、蝗ノ神、サル木、馬力神、勝善神、名馬長壽）

馬櫪神ト馬歩神　猿ヲ厩ノ守護トスル風習ハ起原ノ最モ古キモノナリ。我々ノ同胞ハ猿曳駒ノ繪札ヲ厩ノ軒ニ貼附スル以前、實物ノ猿ヲ畜舍ニ繋グヲ以テ有效ナル家畜保護ノ手段ト認メタリキ。此慣習ハ支那ニモアレバ暹羅ニモ存シ、佛經結集時代ノ天竺ニモ亦行ハレタリト云フ〔南方熊楠氏報〕。馬ヲ大事ニセシ武家時代、馬經ヤ安驥集ノ類ヲ片端ヨリ飜譯セシ時代ニ、此モ亦支那モシクハ朝鮮ヲ經テ我邦ニ輸入シタル迷信ナリト言ヒ得ザルニハ非ザルモ、日本ノ厩ノ猿モ決シテ新シキ外國ノ模倣トハ認ムベカラズ。讃州高松ノ某氏ニ傳ヘタル古キ馬ノロ籠ノ金物ノ彫刻(92)ニ、猿ノ首ニ繩ヲ附ケテ柱ニ繋ギタル所ヲ表ハセルモノアリ〔集古十種馬具三〕。昔足利家ノ先祖左馬入道義氏朝臣ハ、美作國ヨリ舞ノ巧ナル一頭ノ猿ヲ求メ得テ之ヲ將軍ニ獻上ス。顯文紗《ケンモンサ》ノ直垂小袴ニ鞘卷ヲ差シ烏帽子ヲ着テ、鼓ノ調子ニ合セテ面白ク舞ヒ、舞終リテハ必ズ纏頭ヲ乞ヒケリ。件ノ猿ヲ能登守光村預カリテ厩ノ前ニ繋ギ飼ヒケルニ、如何シタリケン馬ニ背中ヲ?マレ、其後舞フコトセザリケレバ皆人念無キコトニ思ヘリト云フ〔古今著聞集二十〕。今ヨリ七百年バカリ前ノ事實ナリ。同ジ頃流行セシ郢曲《エイキヨク》ノ章句ニモ亦一ノ例證アリ。曰ク

　　御厩《ミマヤ》ノ隅ナル飼猿ハ、キヅナ離レテサゾ遊ブ、木ニ登リ、常磐ノ山ナル楢柴ハ、風ノ吹クニゾチリトロ搖ギテウラガヘル〔梁塵秘抄二〕

　サテ何故ニ猿ヲ厩ニ繋ゲバ馬ノ爲ニ善カリシカ。肥後ノ阿蘇ニテハ馬ハ元來猿ノ飼フベキモノナリト云フ。人間ハ猿ニ學ビテ始メテ馬ヲ牽クコトヲ知レリ。其故ニ今モ馬屋ハ申ノ方ニ向ケテ建テ、百姓ハ決シテ猿ヲ殺スコト無シ。野飼ノ駒ニ猿ガ耳ヲ?ミテ乘レルヲ見タル人少ナカラズトナリ〔郷土研究一卷二號〕。他ノ地方ニモ此類ノ口碑存スルヤ否ヤ未ダ之ヲ詳カニセズ。古ク輸入シタル支那書ノ記事ニモ、或ハ??瘟疫ノ氣ヲ去ルト云ヒ〔補註相驥經六所引畜養本草〕、?猴ノ皮ハ馬ノ疫氣ヲ掌ルト稱シ〔同上證類本草〕、能ク惡ヲ避ケ疥癬ヲ去ルト云ヒ〔同上虎鉾經〕、又ハ常ニ?猴ヲ馬坊ニ繋ゲバ惡ヲ辟ケ百病ヲ消スナドトモアリテ〔同上圖像馬經及爾雅翼〕、其理由トスル所區々ニシテ且ツ曖昧ナレド、結局其效用ハ災ヲ免カルト云フ、消極的ノモノナルコトニ一致セリ。古クハ東晋ノ大將軍趙固ナル者アリ。馬醫中ノ扁鵲トモ言フベキ道士郭撲ノ力ニ由リテ、愛馬ノ危キ命ヲ取留メタリ。此馬ハ不思議ノ病ニ罹リテ俄カニ狂ヒ死セシヲ、人ガ三十人長キ桿ヲ持チテ三十里東ノ方ノ森林ニ入り、其桿ヲ以テ森ノ樹ヲ叩ケバ猿ニ似タル一疋ノ獣現ハレ出ヅ。其獣ヲ連レ來リテ死馬ノ前ニ置ケバ、鼻ヲ馬ノ?《ムクロ》ニ當テヽ息ヲ吸ヒ、馬ハ忽チニシテ蘇生スト云ヘリ〔獨異志〕。郭撲ノ時代(93)ハ即チ「パンチヤタントラ」ガ印度ニ於テ編述セラレ、又菩薩本行經ガ支那ニ於テ飜譯セラレタル時代ナリ。

而モ佛典ノ厩ノ猿ニハ何ノ爲ニ之ヲ繋グカヲ説明セザルニ反シテ、道士教ノ行法トシテハ此ノ如ク記述セラレタリ。馬ニ災ヲ與フル神アルコトハ更ニ其以前ヨリノ支那ノ信仰ナリシニ似タリ。馬歩ト云フガ即チ其神ノ名ニシテ、毎年冬季ニ厩ノ司ノ之ヲ祭リシコト周禮校人ノ章ニ見ユ。馬歩神ノ歩ハ?ニ同ジ。馬ノ病又ハ田ノ蟲ノ發生シタル時ニ祭ルベキ災害ノ神ナリ〔補註相驥經七〕。後世超宋ノ代ニ至リテハ馬歩神ニ對シテ馬櫪神ガ祭ラレ、民間ノ信仰ハ善惡二道ノ分立ヲ示セリ。馬櫪神ノ櫪ハ厩ニ於テ馬ヲ繋グ木ノコトニシテ、日本ニテハ之ヲ「サル木」ト云フ。此神ノ像ハ人ノ形ニシテ兩手ニ劍ヲ持チ、兩足ノ下ニ猿ト鶺鴒トヲ踏ミテ立ツト云ヘリ〔塵添?嚢抄三〕。猿ハ則チ災害ヲ除クト云フ神ノ力ヲ表現シタルモノナランガ、鶺鴒ハ全ク其趣旨ヲ解スル能ハズ。或ハ是レ馬ノ神ト水ノ神トノ相互關係ヲ推測セシムベキ材料ニハ非ザルカ。未ダ旁證ヲ知ラズト雖一應之ヲ假定シテ進マント欲ス。馬櫪神ト云フ唐ノ神ハ我邦ニモ正シク之ヲ輸入セリ。例ヘバ野州ノ大蘆川ノ谷、武州秩父ノ山村ナドニ於テ、馬力神ト刻シタル路傍ノ石塔ノ近年ノ建設ニ係ル者ヲ見ル。是レ察スルニ馬ニ牽カシムル荷車ヲ人ノ曳ク人力ニ對シテ馬力ト呼ブニ至リシ新時代ノ一轉訛ニシテ、馬櫪神ノ神號ガ文字無キ平民ノ耳ニ馴レタル語ナリシ證トスルニ足ル。陸奧｜三戸《サンノヘ》郡三戸町大字川守田村字｜元木平《モトキダイ》ノ宗善ノ祠ハ、明治維新後改メテ馬力神社ト稱ス。寛保三年ニ立テタル春砂國《ハルシヤコク》ノ名馬ノ碑アリ。中央ニ馬頭觀世尊ト刻シ、其傍ニ鹿毛二百九歳長五尺九寸五分トアリ。天和二年ニ四代將軍ヨリ贈ラレタル「ハルシヤ」ノ種馬ニテ、死後此地ニ?メ今モ正月十六日之ヲ祭ル。塚ノ上ニ南向ノ松アリ。馬ノ靈故國ヲ慕フガ故ニ枝葉皆南ニ靡ケルナリト云ヘリ〔糠部五郡小史〕。

（猿牽、猿屋町、厩師、小山氏、猿能、猿屋部落、猿屋家筋、馬醫、勝善神、葦毛馬）

猿舞由緒　猿ヲ厩ニ繋グノ風習ニ次ギテ、第二ニ考察スベキハ猿牽即チ厩ニ來テ猿ヲ舞ハシムル職業ノ事ナリ。今日ニ於テハ猿牽ハ將ニ猿芝居ニ進化セントスルノ觀アレドモ、其本來ノ役目ハ實ニ厩馬安全ノ祈?ニ(94)外ナラザリシナリ。毎年正月三日ノ伊勢兩大神宮ノ猿ノ舞、同ジク禁裏ノ御物始ノ三番ハ、何レノ世ヨリ始リシカハ知ラズ、兎ニ角猿飼ノ徒ノ眉目トスル所ナリキ〔遠碧軒記上〕。但シ此ニハ厩ノ祈　　祷ヲ目的トセシコトハ見エザレドモ、其他ノ場合ニハ常ニ武家百姓ノ厩ニ來テ舞ヒシナリ。�ｺ川將軍家ノ出入ノ猿屋ハ淺草猿屋町ニ住セシ瀧口長太夫ナリ。天正十八年入部ノ節ヨリノ由緒アリテ幾度ト無ク城内ニ出頭シテ馬ノ病ヲ祈?セシ猿屋ナリ。常ノ年ニモ正五九月ノ三度ヅツ大小ノ武家ヲ廻リテ猿ヲ舞ハシム〔彈左衝門書上〕。駿府靜岡ニ於テモ猿屋町ト云フ處ニ猿屋惣左衛門ト云フ今川家以來ノ厩師居住セリ〔駿國雜志七〕。紀州ニテハ海草郡貴志村大字梅原ノ大歳神社ノ南ニ猿舞師ノ有名ナル者住ス〔紀伊國續風土記〕。家ノ名ヲ小山卜云フ。單ニ和歌山ノ城下ニ出ヅルノミナラズ、廣ク上方地方ニ於ケル猿引ノ本山タリ。近江犬上郡高宮村ノ猿引式部ハ本名ハ小山右京、彦根井伊家ノ代々ノ猿屋ナリ。藩祖ニ隨伴シテ上野ヨリ來ルト云フ。最初今村小兵衛ノ下ニ附キテ其長屋ニ住ミ、後ニ高宮ニハ移リシナリ。例年正月ノ三日ニハ井伊家御厩ノ祈?ヲ勤メ、次ニ今村氏ニ行キソレヨリ諸家中ヲ廻ル。神祇官ヨリ特ニ烏帽子白丁ヲ許サレ、正月五日禁廷ノ猿能ニハ猿引ノ惣司武井兵庫頭ヲ助ケ五人ノ役者ノ一人タリ。高宮ノ小山右京ハ笛、尾州清須ノ小山左京ハ太鼓ノ役ナリ云々〔淡海木間攫二〕。加賀金澤ノ厩ノ祈?ハ、越中射水郡二上村ノ山町ト云フ部落ヨリ出ル猿舞之ヲ勤ム。毎年正五九月ノ三度先ヅ前田家ノ厩ニ於テ猿ヲ舞ハシメ、ソレヨリ家中村々ヘモ廻ル。其猿屋ノ名前ハ昔ヨリ七ト呼ベリ〔越ノ下草下〕。上杉家ノ猿牽ハ米澤市猿ケ町ニ住スル高田彦兵衛外四人ノ者ナリキ。家禄トシテ御藏米二俵ヅツヲ下サレ、春ハ城ヘ出デテ御厩ヲ祝ヒ、次ニ御大家ヲ廻リ、町方ニテハ寺島半七郎、在方ニテハ馬持百姓ノ家々ヲ廻リタリ〔米府鹿子四〕。此等ノ由緒アル猿牽ドモハ其後如何ニ成リシヤラン。貴志ノ小山甚兵衛氏ノ末裔ノ如キハ、今モ立派ナル役人ナレドモ、家ノ歴史ハ夙ニ忘却シ了ルト云ヘリ。其他ノ地方ニ至リテハ思フニ一層激烈ナル變遷ヲ經タルナルベシ。

(95)　世中太平ト成リテ牛ガ増加シテ馬ガ減少シ、而モ猿屋ノ眷屬ハ次第ニ國々ニ多クナリシ結果トシテ、由緒ヲ重ンジ馬ヲ大切ニスル大名タチガ猿舞師ヲ扶持シテアリシ時代ニスラ、彼等ハ既ニ人ノ厩ノミヲ譽メテハ暮スコト能ハザリシナリ。況ヤ今ハ生活ノ烈シキ新時代ナリ。轉業廢業ヲ敢テスルニ非ザレバ則チ追々ト所謂猿芝居ノ方ニ力ヲ用ヰ、猿ニ女ノ鬘ナドヲ被ラセテ、馬以外ノ者ノ心ヲ樂シマシメネバナラヌハ自然ノ傾向也。但シ世ノ季ニナリテモ昔ト變ラザルコト唯一ツアリ。即チ猿牽ノ職業ガ終始一定ノ家筋ニ限ラレテアルコト是ナリ。此ハ必ズシモ此職ノ下賤ナルガ爲ニハ非ザルベシ。人間ニ似タリト言フトモ到底猿ハ獣ナリ。之ヲ教育シテ舞ヲ舞ハシムル迄ニハ多クノ口傳ト練熟トヲ必要トス。誰ニテモ即座ニ猿屋トナルト云フコトハ不可能ナリ。加之厩ノ祈?ニハ猿ノ舞ト共ニ更ニ六ツカシキ修法アリ。昔ハ猿引ガ馬相及ビ馬醫ノ術ヲ兼ネ行ヒシガ如シ。即チ近キ頃マデ博勞ノ徒ノ從事セシ職務ナリ。猿舞ト馬醫トノ間ニ分業ガ行ハレテ後モ、尚猿屋等ハ此種ノ故實ニ通ジタリシ上ニ、更ニ厩ノ神トシテ勝善神ト云フ神ヲ祀リ、勝善經ト云フ經ヲ讀ムガ其常ノ任務ナリシナリ〔猿屋惣左衛門傳書〕。勝善又ハ蒼前ト云フ神ハ奧羽地方ノ村里ニ於テ馬ノ保護者トシテ今モ崇祀セテル。其由來ハ不明ナレドモ、自分ノ推測ニテハ?※［馬＋前］《ソウゼソ》即チ葦毛｜四白《ヨツジロ》ノ馬ナラント思フ。葦毛ハ古來ノ馬書ニモ七?八白トアリテ、齡八歳ニ達スレバ白馬トナル。馬ノ最モ靈異ナルモノト認メラレ、多クノ地方ニ於ケル馬ノ神ノ正體ナリ。厩師ノ猿牽ハ言ハヾ之ニ仕フル巫祝ニシテ、現今ノ思想ニ於ケル遊藝人ニテハ非ザリシナラン。西京ニテハ因幡堂藥師ノ町ニ住スル山本七郎右衛門、及ビ伏見ニ住スル猿牽ノ如キモ、晴ノ儀式ニハ装束ヲ着ケテ出頭セリ〔遠碧軒記上〕。併シ片田舍ノ猿牽例ヘバ甲州西山梨郡千塚村ノ守山野太夫ノ如キハ、刀ヲ差シ麻上下ヲ着テ其上ニ袈裟ヲ掛ケタリト云フ〔裏見寒話四〕。其出立チノ此ノ如ク頗ル異樣ノモノナリシヲ見テモ、伊達ヤ物好ニテハ無カリシコトヲ察スルニ足レリ。

（鉦打ノ類、初穗、行者、山伏、野山伏、琵琶法師、竈、土御門家、竈拂、梓巫、鹽、山王、猿ト河童、手形ハ守札）

守札ヲ配ル職業　維新以前ニハ右ノ甲州ノ猿牽ト同樣ニ、半僧半俗トモ謂フベキ生活ヲ營ム一種ノ階級ノ人(96)民頗ル多カリキ。關東ニテハ鉦打《カネウチ》又ハ磬叩《キンタヽキ》ト云ヒ、西國ニテハ茶筅又ハ鉢屋ナドト云フ者モ皆此類ニ數フベシ。其他「エビス」ト云ヒ、「ソキ」ト云ヒ、「シユク」ト云ヒ、「シキ」ト云ヒ、婦人ニテハ「イタコ」「モリコ」ナド呼ブ者アリ。名稱ニモ業務ニモ無數ノ種類ハアリシガ、一般ニ在家ニ住ミ配偶者ヲ持チナガラ本尊ヲ人ニ拜マセ、所禮卜占ノ術ニ通ジタル者多ク、常ハ農作ヲ營メドモ主タル生活ハ宗教的ノモノニシテ、殊ニ色々ノ護符ノ類ヲ遠近ノ民家ニ配リテ僅カヅツノ初穗ヲ集ムルヲ專ラトス。明治ノ代トナリテ法令ヲ出シ、此徒ノ全部ニ對シテ職業ノ繼續ヲ禁止セシガ、其以前�ｺ川幕府ノ時代ニ於テモ、既ニ大社大寺ノ勢カニ壓迫セラレテ著シク其數ヲ減ジ、或ハ又家傳ノ由緒ヲ忘却シテ次第ニ尋常物貰ノ仲間ニ零落セシ者無キニ非ズ。併シ壓迫ノ比較的輕微ナリシ種類又ハ地方ニ在リテハ、此者ノ一類モ頗ル蔓延シテ、單ニコソコソト札ヲ配リテ廻ルノミニ非ズ、村人ニ勸メテ色々ノ神ノ爲ニ小サキ祠ヲ建テサセ、自分ノ家ニモ夫々權現ヲ祀リテ信心ヲ誘ヒタリシ例多シ。近世ニ及ビテ彼等ガ中ニモ佛教ト結合シ、寺院ノ庇護ノ下ニ立チテ社會上ノ地位ヲ維持セントセシ者アリキ。之ヲバ特ニ修驗者行人又ハ行者ナドト呼ベリ。山ニ臥ス故ニ山伏ト云フ者即チ是ナリ。所謂山伏ニモ寺ト似タル住所アリ、其生活ハヨホド僧侶ト似タル處多クナリシヨリ、今ノ人ハ之ヲ僧侶視スルガ常ナレドモ、所謂本當二山ノ山伏ナルモノハ後世ノ從屬ニシテ、此以外ニモ何レノ佛教ニモ附隨セズ、低キ身分ニ居タル野山伏ナル者近キ世マデ田舍ニ有リテ、ソレ等ハ亦全然札配リヲ以テ生計ヲ立テタリシナリ。又盲法師ノ琵琶ヲ彈ク者モ此類ナリ。彼等ガ一部ハ殆ト信ジ難キ由緒ヲ主張シテ直接ニ江戸幕府ノ保護ヲ受クルコトヽナリ、何ノ札ヲモ配ルコト無クシテ唯從來ノ配當ノミヲ徴集シ居タリシモ、此同類ニモヤハリ別ニ一派ノ在野座頭アリテ、昔ノ儘ニ土地ノ神竈ノ神ニ琵琶ノ曲ヲ手向ケテ祈?ヲ爲シ、札ヲ配リテ其生活ヲ續ケ居タリシナリ。

　此等ノ配礼者ハ昔ハ悉ク陰陽師ヨリ分レ出デタリシモノヽ如ク、後世マデモ其多數ハ陰陽道ノ總管長タル(97)土御門家ノ支配スル所ナリキ。例ノ猿牽職ノ如キモ亦｜梓巫《アヅサミコ》ヤ萬歳師ナドト共ニ、正シク其中ノ一種ナリ。此徒ハ何レモ自分ノ持場々々アリテ、祈?ヲシタル札ヲ配布シテアルク外ニ、宗教家ニモ似合ハズ舞ヲ舞ヒ歌ヲ歌ヒテ家々ヲ巡ルガ常ノ業體ナリシナリ。後世歌舞ト配札トガ次第ニ各一方ニ分ルヽコトヽナリタレドモ、猶竈拂ト云フ巫女ノ如キハ近キ頃マデ民家ニ札ヲ配リニ來リ、且ツ竈ノ前ニ於テ鈴ヲ振リ舞ヲ舞ヘリ。梓神子家職ニ關スル安永二年ノ田村八太夫掟書ニハ、珠數占《ジユズウラナヒ》相勤ムベキ事繪馬配ルベキ事ナドトアリ〔祠曹雜識三十六〕。寺社方ニ勤務シタル稻葉丹後守ノ手控ニハ、同ジク梓女ノ家職トシテ、繪馬ト申シテ猿馬ヲ牽キ候繪ヲ正月配リ候事トアリ〔寺社捷徑〕。之ニ由リテ思フニ、右ノ猿牽職ノ輩モ以前ハ厩ノ守護ノ札ヲ配リ居タリシ者ナルベシ。備後ノ福山領ニテハ以前ハ正月ニ猿牽猿ヲ負ヒテ農家ニ來ル。或ハ馬屋ノ祈?トテ猿ヲ連レ參リ、鹽ヲ振リ何カ唱ヘテ猿ヲ牽ク人ノ畫ヲ貼附ク。猿牽ニハ頭アリ。今ノ蘆品郡有磨村大字有地ニ居住セリ。此者藩主ノ馬ノ祈?ヲスルニ、正五九月帶劍袴ニテ厩ヘ罷リ出デ、幣四本馬ノ繪四枚差上ゲ何カ唱ヘゴトヲ爲セシトナリ〔風俗問?答書一〕。蓋シ猿ガ御幣ヲ擔ギテ片手ニ馬ノ綱ヲ曳ク所ノ繪紙ノ如キハ、元ハ皆此者ノ手ヨリ貰ヒ受ケテ之ヲ厩ノ戸口ニ貼リシモノナラン。古代ノ板繪ハ無造作ニ粗末ナル者多シ。今若シ武藏西多摩郡｜西秋留《ニシアキル》村大字引田ノ山王社ノ天正十七年ノ繪馬ノ如ク、御幣ヲ手ニセザル猿ガ馬ヲ曳ク繪札ノ古キモノアリキトセバ、河童駒引ノ傳説ノ如キハ之ヲ發生セシムルコト極メテ容易ナリシナルベシ。即チ馬ガ急病ノ爲ニ騰リ狂フ處ヲ猿ガ取鎭メントシテ居ルモノカ、ハタ又猿ニ似タル獣ガ馬ヲ捕ヘ殺サントスルヲ馬驚キテ之ニ抵抗セントスルノ圖ナルカ、由來ヲ忘却シタル者ニハ一見シテ之ヲ判別スルコト容易ナラズ。或ハ猿ノ形ガ甚ダ小サクシテ如何ニモ力無ゲニ見エ、且ツ馬ノ方ニ向ヒテ垂レ下ルヤウニシテ居ルヲ見テ、此ハ是レ怪物敗北ノ樣ヲ描キタル歴史畫ナルベシト速斷セシ者無キヲ保セザルナリ。而シテ猿ハ河童ノ強敵ナリト云フ一説、又ハ紀州田邊邊ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云ヒ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛

　

(98)〔繪省略〕武州引田山王社古繪馬

（新編武藏風土記稿ヨリ）

　竪八寸五分。横六寸。畫樣猿ノ馬ヲ曳タルヲ高ク彫タルモノナリ。繪馬ノ裏面ニ。

武州多西引田村。當領主日奉之朝臣。平山右衛門大夫也。此家中某令知行當所内、有山王權現。古跡中絶牛久者也。忝信心某得心。過去因現在未來業。今歳天正十七己丑。奉再興新殿一宇。次某自男號角藏者。十七歳而刻之。奉寄進當社也。仍而如件。

　　　甲州鶴郡鶴川祖生　　志村肥前守

　　　　　所願成就皆令滿足

　　　　　　　　　　　　引田眞照寺　　　　　　景元（押）

　

入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云フ説ノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦此繪札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムベキ一材料ナリ。又多クノ厩ノ守札ノ中ニハ、駒曳ノ外ニ鶺鴒ヲ蹈マヘタル馬櫪神ノ像モアレバ、或ハ單ニ勝善經ナドノ呪文ノミヲ書シタルモアリテ、此ダニ貼置ケバ牛馬ノ災難ハ決シテ無シト信ゼシコトガ、終ニハ此札ヲ以テ河童降參ノ怠?ノ如ク言傳フル原因ト爲リシモノカ。長州椿郷ノ河童ノ手形ノ如キモ、之ヲ板行シテ希望者ニ頒チタリト云フ以上ハ、恐クハ亦右ノ配札ノ一種ニシテ、此等猿屋ノ手ニ由ツテ馬持百姓ノ家ニ配布セラレシモノナルベシ。長門又ハ周防ノ山村ニハ、猿牽ガ猿ヲ調教訓練スル猿ノ學校ノ如キモノアリ。入學者ハ多ク九州方面ヨリ來ルトノコトナリ〔石黒忠篤氏報〕。兎ニ角所謂「エンコウ」ト縁故ノ淺キ地方ニ非ザルコトハ確カナリ。

（萬歳師、靱猿、野大坪、唱門師、猿皮靭、骨足ラズ、唱門師、ヒジリ、ハカセ、ヰンナイ、エビス願人）

靱猿根原　厩ノ祈?ニ關係スル巫祝ノ中ニ、今一種ノ部類アリ。ソハ今日モ隨分數多キ春ノ初ノ萬歳師ナリ。河童ノ手形ト誤ラレタル牛馬安全ノ守護札ヲ民家ニ配リシハ或ハ此輩ノ所業ナリトモ想像スルコトヲ得。而シテ此ニモ亦少々ナガラ猿ノ因縁ハアルナリ。能ノ狂言ニ靱猿ト云フ一曲アリ。アル我儘ナル大名、猿牽ノ猿ヲ見テ靭ニ張リタケレバ其皮ヲ呉レヨト言フ。猿牽ハ驚キテ色々ト詫言ヲ爲シ辛ウジテ勘辨シテ貰ヒ、其禮ニ猿ヲ舞ハスト云フ趣向ナリ。此狂言ノ猿屋モ腰ニ御幣ヲ挿シタリ。歌ノ文句ニハ厩ヲ譽メ馬ヲ祝スル語多シ。狂言ハ必ズシモ有力ナル史料ト認ムル能ハザルモ、之ヲ見レバ靭舞ノ根原ハ此時ノ猿ノ皮事件ニ在ルガ如クモ考ヘラル。然ルニ右ノ「ウツボ」ノ舞ナルモノハ、實ハ古クヨリ存在セシ厩祈?ノ爲ノ宗教上ノ舞ナリシナリ。越前今立郡｜味問野《アヂマノ》村ノ野大坪《ノオツボ》及ビ上大坪ノ二大字ハ、所謂越前萬歳ノ郷里ナルガ、此地ノ住民ガ自ラ記録シタル由緒書ヲ檢スルニ、地名ノ大坪ハ即チ右ノ宇津保舞ノ「ウツボ」ニ同ジ。彼等ノ先祖｜河内首《カハチノオビト》某ナル者ハモト朝廷ノ馬飼部ナリキ。或時皇子御寵愛ノ馬物ニ驚キテ、秣モ食ハズ病附キシヲ、此者其馬ノ前ニ進ミテ宇津保ノ舞ヲ舞ヒシカバ、忽チニシテ氣力ヲ快復シ一命ヲ取留メタリ。ソレヨリ吉例トナリテ御厩ノ祈?役ヲ命ゼラレ、野宇津保萬歳ノ稱號ヲ賜ハル。其後頼朝公ノ將軍時代ニハ鎌倉ニ召サレ、正月御初乘ノ式ニ祝言ノ?ヲセシ功ヲ以テ、證文士卜云フ位ヲ授ケ且ツ萬歳樂ヲ舞フコトヲ許サル云々〔今立郡誌〕。此宇津保ノ舞ハ人ガ舞フモノニテ、猿トハ關係無キガ如クナレドモ、彼等ガ其家ノ神トシテ天鈿女命即チ世ニ猿田彦神ノ妻トモ謂ヒ又猿女君《サルメノキミ》ノ祖先トモ謂フ女神ヲ祀リテアルコトハ頗ル注意ニ値セリ。此徒ノ厩ノ舞ガ何故ニ古クヨリ宇津保ト稱セシカハ誠ニ決シ難キ問題ナリ。試ミニ僅カナル手掛リニ由リテ想像ノ説ヲ立テンニ、靭ニ猿ノ皮ヲ張ルコトハ決シテ狂言ノ大名ノ思附ニ非ズ。既ニ源平盛衰記ノ中ニモ猿ノ皮ノ靭ト云フコト見エタリ。而シテ猿ニハ限ラヌコトナレドモ、總テ靱ニ毛皮ヲ掛ケタルヲ名ヅケテ騎馬靱ト云ヒ、其他ノモノヲ大和靱ト云ヘバ〔武家名目抄〕、馬ニ騎ル武士ハ特ニ猿ノ皮ヲ掛ケタル靭ヲ携ヘテ馬ノ守護ト爲シ、馬ノ病ナドノ折ニモ自然ニ之ヲ用ヰテ舞フコトトナリシヨリ、其舞ヲモ「ウツボ」ト名ヅケシモノナランカ。

(100)　同ジ野大坪ノ記録ノ中ニ又左ノ如キ一節アリ。曰ク鎌倉殿ヨリ頂戴セシ證文士ノ免許?ハ扇子ノ面ニ認メテアリキ。然ルニ不幸ニモ其扇ノ骨ガ一本損ジテアリシ爲ニ、且ツハ自分等ガ品格ヲ重ンジテ近村ノ農民トノ交際ヲ避ケタリシ爲ニ、世ニハ誤リテ野宇津保證文士ハ骨一本足ラズト唱ヘテ此部落ヲ輕蔑擯斥シ、サモ／＼賤民ニテモアルカノ如キ取扱ヲ受ケ來リシハ殘念ノ事ナリトアリ。此記事ヲ裏面ヨリ觀レバ、當ト不當トハ別問題トシテ、世間ニテハ此仲間ヲ目シテ、所謂骨ノ一枚不足セル種族ト爲セシ事實ハ明カナリ。萬歳ト「シヨモジ」ト同類ナルコトモ之ニ由リテ知ルコトヲ得タリ。「シヨモジ」ハ普通ニハ唱門師ト書キテ、二百年ホド以前迄京都及ビ其近國ニ居住セシ特殊ノ部落ナリ。塵添?嚢抄卷十三ニモ、家々ノ門ニ立チ金鼓《コンク》ヲ打チ妙憧ノ本誓ヲ唱ヘ阿彌陀經ヲ誦スル者ナレバ門ニ唱フト書クベキナリトアリテ、今ハ多ク之ニ從ヘリト雖、其名稱ノ由來ハ峯相記ナドニ「闇證ノ禅師誦文ノ法師」ナドトアル誦文師ナランカト思ハル。即チ經文ヲ暗誦スルモ、學問ナクシテ一宗ノ趣ヲ解セザル身分低キ「ヒジリ」ノコトナルベシ。此モ亦夙クヨリ陰陽家ノ支配ノ下ニ立チ、正月ノ左義長又ハ土用ノ水合セノ折ニハ、宮廷ノ御階近クマデモ罷出デタリシト云ヘリ〔和訓栞〕。而シテ其子孫ト云フ者今ハ何レノ地方ニモ殘存セザルハ、多分ハ「ハカセ」トカ、「ヰンナイ」トカ、「シユク」トカノ別種ノ名稱ヲ以テ呼バレタル結果ニシテ、此ト共通ナル業ヲ營ミ乃至ハ唱門師ノ一類ナリト稱セラルヽ者ハ近キ頃マデ多ク存セシナリ。此等ノ輩ハ何レモ未ダ厩ノ祈?ニ關係セシ證據ヲ見出サザレドモ、越前ノ字津保舞ノ故事ヲ考ヘ合ストキハ、猿ガ馬ヲ曳ケル繪札ナドヲ配リシ者ハ、必ズシモ專門ノ猿屋ノミニハ限ラザリシヤモ知リ難シ。カノ梓神子ノ一派ガ此札ヲ持チテアルキシ外ニ、關東ニテハ神馬ノ守札ハ舞太夫モ「エビス願人《グワンニン》」モ亦之ヲ配リタリシナリ。サレバ所謂駒引錢ノ中ニ神主又ハ農夫體ノ者ガ口綱ヲ取居ルモノノ如キハ、必ズシモ沐猴ノ冠シタル者ニハ非ズシテ、右ノ證文士一輩ノ在野巫祝ノ生活ヲ寫セシモノトモ見ルコトヲ得ベキナリ。

(101)（善神惡神、神送り、客神、荒神、人ヲ化カス動物、河童人ニ憑ク、カウゴ石、水神、鐡ノ忌、植物ノ忌、瓠、胡瓜、祇園、水天宮、隱里、水難除、釜神、水神、牛ノ正月、牛ノ禁忌、ヒサゴ、柱松、牛ノ祇園、牛ノ藪入、鞍、疱瘡、牛カケ、洗馬、牛首、野牧、河童ノ祭、竈ノ祭、馬ト竈、飯盛）

河童ノ神異　サテ立戻リテ愈々河童傳説ノ結末ヲ附ケント欲ス。猿ハ既ニ厩馬ノ保護者ナリトスレバ、假令毎囘ノ計畫ハ失敗ニ終リタリトハ言ヘ、常ニ馬ノ害敵ヲ以テ自ラ任ズル河童ヲ指ザシテ、猿ヨリ變形シタルモノナリト斷定スルハ無理ナルニ似タリ。併シナガラ日本ニハ限ラズ、多クノ國ノ民間ノ神樣ニハ佛樣ト違ヒテ往々ニシテ善惡ノ二面アリ。而モ人ノ生活ト最モ多ク交渉スルハ、神ノ本來ノ親切ニハアラデ其時々ノ憤怒ノ威力ナリ。此性癖ノ殊ニ顯著ナルガ恐クハ所謂｜枉津日《マガツヒ》ノ神ニシテ、人ハ其兇害ヲ輕減セラレンガ爲ニ村ニ夥シク其祠ヲ齋ヒ、言ハヾ惡神ノ消極的保護ヲ仰ギシナリ。思慮淺キ者ノ考ニテハ、善神ニハ何ノ祈願ヲ掛ケズトモ當然ノ恩惠ヲ期スルコトヲ得ベシ、之ニ反シテ惡神ノ方ハ早ク手ヲ廻シテ置カザレバ何ヲシタマフカ分ラズ。故ニ常ニ其御機嫌ヲ取リテ良キ程ニ他ノ方面ニ注意ヲ轉ゼシムルノ算段ヲスルナリ。其神ニシテ移動性ノ神ナラバ鉦鼓歌舞ヲ以テ之ヲ村ノ境マデ送リ出シ、若シ又土著ノ神ナラバ無慈悲ノ地頭ヲ戴キシ時ト同ジ格ニテ、最モ謹愼シテ年々ノ祭ヲ勤メ、聊カニテモ其怒ヲ起サズ其思遣リ無キ神罰ヲ蒙ラザルコトニ熱心ス。要スルニ憤ヲ抑ヘ恨ヲ寛恕スルコトモ亦大ナル神�ｺ即チ人間ノ懇請スベキ神ノ好意ナリ。此故ニ假ニ馬ノ神ノ特質ニ中世何等ノ變遷無カリキトスルモ、猶河童駒引ノ傳説ヲ發生セシムルニ些シモ差支無シ。殊ニ所謂猿神ノ如キハ勿論神代ノ最初ヨリノ我神ニ非ズ。イヅレノ時代ニカ入リ來リシ客神ノ一種ニシテ、十分ニ氣心ノ知レヌ神ナリ。從ツテ我々ノ祖先ガ如何ニ其信仰ヲ受傳ヘタリシカハ、到底想像ノ外ニ在リ。或ハ油斷ノナラヌ荒神ナルガ爲ニ、一應ハ其護符ヲ有難ク頂戴シタルモ、内心ノ不服ヲ自制スルコト能ハズシテ、寧ロ詫證文ノ誤解ヲ歡迎シ且ツ其詮議ニ手ヲ盡シ、モシクハ又其力量ノ必ズシモ怖ルヽニ足ラザルヲ感ズルヤ、頻リニ某地ニ於ケル「ヒヤウスヘ」ノ約束ヲ云々シテ、旗鼓堂々ト之ニ對シテ戰ヲ宣シタルモノナリトモ見ルコトヲ得ベシ。

　事茲ニ及ビテハ河童ハ到底動物學上ノ問題ニハ非ザルナリ。草木言問フ神代ナラバイザ知ラズ、今時河童(102)ガ人間ト會話ヲ爲シ、モシクハ人ヲ欺キ、或ハソコニ居リナガラ姿ヲ見セズナドト云フガ如キ、是レ所謂靈異ニ非ズシテ何ゾヤナリ。我々祖父母ノ頃マデハ、狐狸貉ノ類ハ獣ニシテ兼ネテ人ヲ魅スルノ力アルコトヲ許サレタリシモ、仔細ニ考慮ヲ加フレバ、此ハ他ノ一面ニ動物ヲ神ニ齋クダケノ覺悟アリテ始メテ現ハレ來ルベキ思想ナリ。木ノ神モ蟲ノ神モ皆同ジコトニテ、拜スレバコソ崇ルト云フコトモアルナレ。語ヲ換ヘテ申サバ、惡ノ力モ世ノ進ムト共ニ漸ク衰ヘ行クベキモノナリ。此古風ナル信仰ノ斷絶シテヨリ後ハ、傳説ノミガ其跡ニ取殘サレテ只ノ小説トシテ存在シ、假令最初ニ之ヲ語リシ人ハ如何ニ眞面目ナリキトスルモ、後世ニ於テハ單ニ興味ノミヲ以テ之ヲ語リ傳ヘ、又興味ヲ以テ自由勝手ニ之ヲ變形シ行クコトモ無シトハ云フベカラズ。故ニ諸國ノ澤山ノ河童談ヲ比較研究スルニ非ザレバ、何ノ爲ニ斯ル話ガ發生シタルカヲ理解スルコト能ハザルハ當然ノ事ナリトス。

　河童ノ社會上ノ地位ト云フベキモノニモ地方的ニ餘程ノ高下アリ。東北ノ河童ハ概シテ普通ノ獣類以下ニ取扱ハル。化ケルトハ言ヒテモ狐ナドニ比プレバ遙カニ拙劣未熟ナリ。之ニ反シテ西部日本ニ向フニ從ヒテ、次第ニ其神異的分子ヲ増加スルガ如シ。二三ノ地方ニ於テハ河童ハ犬神「ヲサキ」又ハ「トウビヤウ」ナドノ如ク自在ニ人ニ憑キ、頗ル馬ノ因縁ヲ離レテ人間ノミヲ目ノ敵トスル風アリ。土佐ニテハ婚姻ノ相談ナドハ決シテ之ヲ河童ニ聞カシムベカラズ。若シ不注意ニシテ彼等ノ立聞キスル所トナレバ、必ズ嫁入婿入ニ化ケ來リテ人ヲ迷ハス。故ニ一般ニ密談ヲスルニハ先ヅ弓弦ヲ鳴ラシテ此徒ヲ退散セシムベキナリ〔土陽陰見記録下〕。肥後ノ葦北郡ナドニハ、他國ノ天狗話ノ多クヲ以テ、「カゴ」即チ河童ノ所爲ニ歸セリ〔日本周遊記談〕。肥前五島ノ富江ニハ河童ノ築キタリト云フ城ノ城壁今モ存在スト云フ〔同上〕。又西國ニテ川ニ火トボリ芥ナドヲ燒クガ如キアリ。船近ヅクコト三四尺ニナリテ消エ、漕ギ過グレバ又元ノ如シ。之ヲ「川ワラフ」ノ仕業ナリト云フ〔觀惠交話下〕。即チ不知火モ亦河童ノ力ニ出ヅトスルナリ。加藤清正ニ二字ヲ奉リタル河童ノ(103)頭目九千坊ノ如キモ、亦恐クハ一城ノ主ナルベシ。人間ノ武家ガ迫《サコ》毎ニ割據シテアリシ時代ニ、河童ノ方面ニハ既二或程度迄ノ中央集權行ハレ、此ノ如キ大酋長ヲ推戴シテアリシナリ。

　河童ノ威風ノ最モ行ハレ居タル南部九州ニ於テハ、水神ト云ヘバ即チ河童ノコトナリ。田畠收穫ノ季節ニハ地面ノ西ノ方ヲ一鎌ダケ刈殘シ、之ヲ其水神ニ供フル慣習アリキ〔笈埃隨筆一〕。肥後ノ北部ニ在リテハ、河童ヲ水邊ニ祭レドモ水神ハ河童ニ非ズ。毎年ノ夏畠ノ初物ヲ串ニ挿シテ溝川ノ堤ナドニ立テヽ置ク〔高木敏雄氏談〕。此モ亦水神ノ信仰ニ基クモノナレドモ、此ハ寧ロ河童ニ對抗スベキ勢力トシテ之ヲ祭ルガ如シ。

　但シ河童モ水ノ神モ共ニ鐵類ヲ忌ミ、水神ノ供物ト河童ノ供物トノヨク相似タルヲ見レバ、本來一ツノ神ノ善惡兩面ガ雙方ニ對立分化シタルモノト解スルモ必ズシモ不自然ナラズ。河童ハ又｜角豆《ササゲ》ヲ嫌フ。近江ニテハ村童角豆ヲ袋ニ入レテ腰ニ下ゲ、河童ノ害ヲ防グ守トス。河童來リテ相撲ヲ取ラント云フトキ、我ハ角豆飯ヲ食ヒタリト云ヘバ閉口シテ去ル〔土陽陰見記録下〕。河童ハ又瓢箪ヲ甚シク嫌フ。仍テ之ヲ食ヒテ川ヲ渉ルトキハ害無シト云ヘリ〔越後名寄十八〕。又同ジ國ニテ川々ノ渡守｜壺蘆《ユフガホ》ト胡麻トヲ作ラザルハ古クヨリノ習慣ナリ。其仔細ハ川ニ潜ム河童ドモ壺蘆ノ若キト胡麻ノ若葉トヲイタク忌ムト傳フル故ニ、之ヲ作ラズシテ舟ニ乘ル人ノ安全ヲ祈ルナリ〔越後風俗志七〕。之ニ由リテ思フニ、大昔｜笠臣《カサノオミ》ノ祖ガ川島川ノ?ヲ試ミタリシ三ノ全キ瓠《ヒサゴ》、或ハ河内ノ人茨田連衫子《マンダノムラジコロモノコ》ガ河伯《カハノカミ》ヲ欺キ得タル兩個ノ瓠ナル者ハ〔仁�ｺ紀〕、共ニ後世ノ河童ガ避ケ且ツ忌ミタル壺蘆ノ瓜ナルコト大凡其疑無キニ近シ。河童ハ又麻ヲ忌ム。或人河童ヲ捕ヘ之ヲ斬レドモ通ラズ、麻穰《アサガラ》ヲ削リテ刺セバヨク通リタリ。又｜樒《シキミ》ノ香ヲ惡ムトモ云フ説アリ。或ハ法師ノ言ヒ始メシ言ナランカ。河童ノ愛スル物ハ胡瓜ナリ。胡瓜アル畠ニハ多ク來ル。胡瓜ヲ食ヒテ川ヲ渡ル人往々ニシテ河童ニ取ラルヽコトアリ。關東ニテハ六月朔日ニ胡瓜ヲ川ニ流シテ河童ノ害ヲ攘ヒ得ベシト信ズル者アリ〔竹抓子四〕。此ハ恐クハ祇園ノ神ノ胡瓜ト何等カノ關係アルベシ。自分等ノ郷里ニテハ祇園ノ夏祭ニハ胡瓜ヲ川ニ流シテ(104)其神ニ捧ゲ、ソレヨリ後ハ中ニ蛇ガ居ルナドト稱シテ決シテ胡瓜ヲ食ハズ。此神ハ西京ノ本社ニ於テハ水ノ神トハ言ハザレドモ、田舍ニテハ此意味ヲ以テ祀ル處モアルナリ。今日ノ東京ニテハ水難除ノ守札ハ殆ト水天宮ノ一手專賣ナルガ、蠣殻町ノ流行神ガ東上シタルハ決シテ古キコトニ非ズ。有馬家ノ舊領久留米ヨリ芝ノ屋敷内ニ勸請シタルハ實ニ文化ノ某年ニ在リ。此神ノ守札ヲ碇ニ附ケテ水中ヲ探レバ、水ニ落チタル物必ズ綱ニ掛リテ揚ル外ニ、産ニ臨ミタル婦人之ヲ戴ケバ直チニ安産スナドトモ噂セラレキ〔寶暦現來集七〕。此神樣モ亦些シク風變リナリ。郷里ノ筑後ニ於テハ元ハ尼御前社ト稱セラレ、城下ヨリ四里ホドノ上流ニ九十瀬川ト云フ處ノ水神ト夫婦ノ神ナリトモ云ヒ、或ハ又九十瀬入道ハ即チ平相國清盛ニシテ尼御前ハ二位尼ナリトモ傳ヘラレ、此地方ニ分布スル平家隱里ノ傳説ト因縁ヲ結ビ附ケラレタリ〔筑後志下〕。今ノ久留米ノ本社ニ於テハ祭神ハ三座ナリ。中央ハ二位尼安�ｺ天皇ヲ抱キマツル像、一體ハ女院ニシテ他ノ一體ハ戎衣ヲ著ケタル平知盛ナリ。而モ此尼御前ノ靈驗ハ弘ク水難ヲ救フニ在ルノミナラズ、殊ニ河童ニ對シテ有カナル守札ヲ出スハ奇ト謂フベシ〔校訂筑後志〕。但シ此札ハ專ラ人間ノ腰ニ佩ビシムベキモノニシテ、牛馬ノ爲ニハ寧ロ冷淡ナルガ如クナレド、是レ恐クハ牛馬ノ多カラザル都會地ノ神ト爲リテ後ノ變遷ナルベシ。同ジ筑後ノ中ニテモ、八女郡光友村大字田形ノ釜屋神、即チ矢部川南岸ノ淵ニ臨ミテ構ヘラレタル水神ノ社ノ如キハ、農民ヲ相手ニ盛ニ牛馬安全ノ護符ヲ出シ、多クノ修驗者ハ其札ヲ持チテ村々ヲ廻り、一匹一升ノ施米ヲ受ケツヽ、牛馬病難ト河童トノ防衛ヲ以テ任務トスル、神ノ�ｺヲ宣傳シツヽアリシナリ〔筑後地鑑下〕。

　水神ト河童トハ假ニ一歩ヲ退キテ最初ヨリ別物ナリトスルモ、少ナクモ牛馬ノ災ヲ避クル爲ニ水神ニ祈?スルノ風習ノ弘ク行ハレシ事ノミハ事實ナリ。毎年春ノ初又ハ夏ノ終ナドニ、牛馬ヲ引キテ川ニ入レ又ハ川原ニ於テ一日遊バシムルコトハ、其一年中ノ災ヲ攘フ爲ナリト信ゼラレ、農家ハ嚴重ニ此行事ヲ勤メタリ。馬少ナキ長門ニテハ牛ニ就キテ盛ニ此事アリ。初春ニ行ハルヽヲ牛ノ正月又ハ牛ノ年越ト云フ。牛祭ト稱シ(105)テ二月ニ入リテ此式ヲ擧グル村方アリ。牛神樂又ハ牛申シトモ名ヅケタリ。五月五日ト六月晦日ト兩日牛ヲ使ハザル村ハ最モ多シ。大津郡俵山、美禰郡岩永、共和村大字青景等ニ於テハ、端午以後八朔マデ他郷ノ牛ノ村ニ入ルコトヲ禁ジ、之ヲ犯シタル者ハ瓢箪ヲ頭ニ被ラセ牛ニ乘セテ村ヲ追放ス。又婦人ヲシテ牛ヲ使ハシメモシクハ農具ヲ掛ケタルマヽ牛ニ川ヲ渡ラシムルコトモ嚴禁ナリ。此等ノ禁條ハ農業ノ爲不利益ナリトテ、俵山ニテハ天明四年ニ畔頭《クロガシラ》等ノ連判ヲ以テ之ヲ廢シタリシモ、尚且ツ人民ノ不安ヲ如何トモスル能ハズ、四十年ノ後再ビ前ヨリモ一層八釜シキ禁止ヲ申合セタリ。此等ノ村々ニテハ六月末日ノ牛ノ休ヲ夏越《ナコシ》ト云フ。所謂柱松ノ行事モ夏越ト關係アリ、之ヲ行ハザレバ牛ノ病難アリト信ゼラレ、此ヲ又牛燈ト稱ス。美禰郡赤郷村大字赤ニテハ、六月晦日ヲ夏越ト唱ヘ、軒別牛馬ヲ山野ニ繋ギ休息仕ラセ候。同郡｜眞長田《マナガタ》村大字長田ナドニテハ、此日牛馬ヲ川ヘ連レ行キ一日休息セシメ候云々。阿武郡大井村ニテハ六月十五日ヲ牛ノ祇園ト稱シ、村民牛ヲ洗ヒテ地下《ヂゲ》ノ小社ヘ參詣仕リ、半日一日休息セシメ候ナド、何レモ村々ノ書上ニ見エタリ〔以上長門風土記〕。大阪附近ノ田舍ニテハ五月五日ヲ牛ノ藪入ト云フ。例年此日ハ梅田堤ヘ近在ノ飼牛ニ新シキ鞍ヲ置キ、肩ニ色々ノ花ヲ結ビ附ケテ、朝ノ五ツ時ヨリ一時バカリ此邊ノ野ニ放チ、ヤガテ牛ノ心ノマヽニ家路二還ル。農民粽ヲ數多持來リテ見物ノ人ニ之ヲ蒔散ラス。之ヲ得テ歸レバ小兒ノ疱瘡輕シトテ爭ヒテ拾ヒ取ル〔攝陽落穗集二〕。是レ今ヨリ百年バカリ前迄ノ風習ナリ。或ハ又之ヲ「牛カケ」トモ謂フ〔攝陽見聞筆拍子三〕。紀州奧熊野ニ行ハルヽ「牛カケ」ハ、普通田植ノ後ニ田地ノ一部ヲ區劃シテ之ヲ行フ。其有樣餘程競馬ナドノ興行物ニ近クナレリ〔郷土研究一ノ五號川口氏〕。端午ノ日ノ競馬ハ必ズシモ賀茂社ノ模倣ノミニハ非ザルベシ。現在ハ如何ニモアレ、其最初ノ動機ハ亦此邊ニ存スルニハ非ザルカ。之ニ由リテ思フニ全國ニ數多キ洗馬《セバ》又ハ馬洗淵ナド云フ地名ハ、昔某ト云フ武人ガ愛馬ヲ洗ヒタル古跡ナドト説明スルモ、恐クハ皆信仰ノ根ヲ絶ヤシタル馬ノ神ノ舊祭場ニシテ、曾テハ例年ノ或日馬ヲ此地ニ曳キ來リ之ヲ洗ヒテ祈?ヲ爲セ(106)シヨリ起リシナルベシ。彼ノ陸中ノ「牛クヽリ淵」ノ如キモ、牛ヲ繋ギ置キシ水邊ノ地ト解スルコトヲ得。牛首ハ即チ牛絞《ウシクビリ》ノ轉訛ニシテ、「クビル」トハ繋グト云フ方言ナラン。牛クビリ淵ト云フ地名モ亦多シ。多クノ牛池駒ケ池ノ類モ、此ノ如ク説明スルトキハ其傳説ノ全然夢語リニ非ザルコトヲ知リ得ベキナリ。

　所謂夏越祭又ハ牛ノ藪入ノ趣旨ハ多クハ牛馬ノ疫病ヲ防グ爲ナリト云フモ、又異ナリタル口碑ノ存スルアリ。例ヘバ備後ノ福山附近ニテハ、七月七日ニ牛馬ヲ海川ニ引入レテ置ケバ、年中河童ノ災難ニ遭フコト無シト信ゼラレタリ〔風俗問?答書〕。曾テ河童ガ馬ヲ引込マントシテ失敗セシ古跡、土佐長岡郡ノ下田ナドニテハ、毎年六月十五日ニ家々ノ馬ヲ川端ニ引出シ、長キ綱ヲ以テ之ヲ杭ニ繋ギ置クヲ野牧ト稱シ、此日ハ又河童ノ祭ヲ營ム〔土州淵岳志〕。遭難當時ヲ記念スル爲ニ年々同ジ作法ヲ繰返スモノカ、但シハ又斯ル慣習アル爲ニ此傳説ヲ發生セシモノカ、之ヲ判斷セザルベカラザルハ我々ナリ。思フニ猿ノ水中ニ住ムニ至リシモ、段々ノ順序ヲ考ヘテ見レバ必ズシモ非常ニ不自然ニハ非ズ。川ノ流ノ淵ヲ爲ス場處ヲ諸國ニテハ多クハ釜ト云フ。釜ハ英語ノ「ポツト」ナドトハ別ニテ、周圍ヲ巖石ニテ圍ハレ一方ニノミ開ケルサマ、ホボ竈ノ形ニ似テ居ルガ爲ノ名ナルガ如ク、昔ヨリ之ヲ竈ノ神ノ祭場ニ用ヰタリシガ如シ。陸上ニテモ岩ノ形ノ竈ニ似タル處ヲ崇敬シタル例ハ多シ。巫女ノ宗教ニ於テハ生命ノ根原トシテ食物調製ノ爲ニ用ヰラルヽ竈其物ヲ祭ル風アリキ。貴人大家ナラバ家々ノ竈ニ就キテ其祭ヲ營ミシナランモ、一村一郷合同ノ竈祭ニハ、天然ノ地形ノ竈ニ似タル處、即チ前ニ?々擧ゲタルガ如キ川々ノ淵、又ハ山中ノ岩組ノ中凹ナル處ナドヲ其祭場ニ選定セシモノナラン。而シテ竈ノ神ト馬トハ夙クヨリ深キ關係アリキ。此ハ馬ノ蹄ノ痕ガ昔ノ時代ノ竈ノ形ト似テ居タリシ爲カ、或ハ又竈ハ火ノ神ナルガ故ニ午ニ相當スル馬ヲ以テ其象徴トシタルモノカ、未ダ充分ニ其理由ヲ知ル能ハザルモ、兎ニ角二者ノ關係アリシコトノミハ疑無シ。馬ノ鞋ヲ作リテ初春毎ニ之ヲ竈ノ神ニ供ヘ、馬ノ繪札ヲ竈ノ傍ニ貼附ケ、或ハ又生レシバカリノ馬ノ子ヲ曳キテ竈ノ神ヲ拜マシムルガ如キ風習ノ、(107)今モ各地ニ行ハルヽモノ甚ダ多シ。牛ニ就キテモ之ニ似タル例アリ。例ヘバ羽後北秋田郡｜阿仁合《アニアヒ》町ニテハ、十二月二十八日ニ竈ノ神ノ祭アリ。宮ノ神主ハ一枚ノ紙ニ三十六ノ牛ヲ印刷シタルモノヲ家毎ニ配リタリ。昔伊勢ニテ三十六頭ノ牛物ヲ運ビテ功アリ。御炊《ミカシキ》ノ神｜氷沼道主《ヒヌマノミチヌシ》、三十六ノ「ヘツヒ」ノ神ヲ率ヰテ朝夕ノ大御食《オホミケ》ヲ炊キ供フト云フ故事ニ基クカト云ヘリ〔眞澄遊覽記二三〕。但シ其故事何ニ見ユルカヲ知ラズ。此等ノ關係ヨリ察スレバ、竈ノ神ノ祭場ガ同時ニモシクハ時代ヲ經テ、牛馬ノ神ノ祭場トナルコト無シト云フベカラズ。而シテ所謂河童ガ牛馬ノ神トシテ常ニ水邊ノ祭場ニ居住スト考ヘシモ亦自然ノ推測ト謂フベキナリ。但シ氣紛レニ人間ノ子供ニ迄モ手ヲ出セシガ爲ニ、其正體ガ甚シク不明ト爲リ、此ノ如ク後世ノ研究者ニ手數ヲ掛クルニ至リシナリ。

（河童ノ藥、メドチ、芥子坊主、疱瘡神、蓬、河童ノ腕、手長猿、足摩乳、手摩乳、打出小槌、傳説ノ發明、センゾク、駒繋松、雨乞）

?ハ水神　河童ヲ猿ニ似タル物ト云フ説ノ、牛馬ノ保護ヲ祈?スル信仰ニ出デタルコトハ、以上ノ解釋ニテ先ヅ明カニナリタリトシテ置クベシ。唯此ダケニテ濟マヌト感ゼテルヽハ、龜ダ川獺ダト主張スル他ノ地方ノ異説ナリ。更ニ退キテ考フルニ、猿ヲ水中ノ物トシタル理由モ單ニ竈ト馬トノ關係ヲ言フノミニテハ些シク不十分ナリ。故ニ今暫ク此問題ニ足ヲ駐ムルノ必要アラン。サテ河童ノ一名ヲ加賀又ハ能登ニテ「ミヅシ」ト呼ブコトハ前ニ唯一言セリ。能登ニテハ胡瓜ヲ食ヒテ水泳ギニ行ケバ「ミヅシ」ニ取ラルト云フ。羽咋《ハグヒ》郡堀松村大字末吉ノ川ノ邊ニ、淵端某ト云フ疳ノ藥ヲ賣ル舊家アリ。其家ノ先祖或日門前ノ川ニテ馬ヲ洗ヒ居タルニ、「ミヅシ」來リテ馬ノ脚ヲ纏ヒ陸ニ引揚ゲラル。捕ヘテ之ヲ殺サントスル時助命ヲ切ニ求メ、其禮トシテ疳ノ藥ノ製法ヲ教ヘタリト云フ。此藥今ハ遠ク北海道ニ迄モ販路ヲ有セリ〔郷土研究一ノ四號〕。コノ「ミヅシ」ハ南部地方ノ「メドチ」ト同ジキコト疑ナシ。南部ノ八戸邊ニテハ、川ニ泳ギテ「メドチ」ニ取ラレタリト云フ話、今モ毎夏絶エズアリ〔石田收藏氏談〕。然ルニ蝦夷ノ土人ノ中ニテモ、河童ヲ「ミンツチ」ト呼ビ來レリ。金田一京助氏ノ話ニ、バチェラア氏ノ語彙ヲ見レバ、「ミンツチ」ハ單ニ湖又ハ川ニ棲ム半人(108)半獣ノ靈物トノミアレドモ、「アイヌ」ガ之ニ就キテ語ルヲ聞ケバ、全ク奧州ノ河童ト同ジク、三尺バカリノ芥子坊主ニテ其オ芥子ヲ煙管デデモ打テバスグ死ヌ者ダナドト云フ。彼等ガ傳承ニ從ヘバ、「ミンツチ」ハ元ハ草人形（チシナプカムイ）ナリ。昔「オキクルミ」天降リテ人間世界ヲ支配セシ時代ニ、沖ヨリ疱瘡神渡リ來リ數多ノ「アイヌ」其爲ニ命ヲ殞ス。「オキクルミ」ハ乃チ六十一ノ草人形ヲ造リテ其疱瘡神ト戰ヒ之ヲ逐ヒ退ケシム。其折討死シタル草人形、化シテ「ミンツチ」ト成ル。草人形ハ蓬ヲ十字ニ結ビテ人ノ形トシ、横ノ一本ハ即チ左右ノ手ナルガ故ニ、今モ「ミンツチ」ハ片手ヲ拔ケバ兩手トモ拔ケルナリト稱ス。又｜紫雲古津《シウンコツ》ノ「アイヌ」ノ中ニハ又「ミンツチ」ガ人ノ家ノ好キ娘ニ聟入シタル物語アリ。「アイヌ」語ニテハ又「シリシヤマイヌ」ト呼ビ、海川ノ漁獵ヲ掌ル神ナリト云ヘリ〔郷土研究一ノ十二號〕。此記事ノ中ニテ殊ニ注意スベキハ亦例ノ河童ノ腕ノ話ナリ。内地ニテモ之ニ似タルコトヲ云フ。例ヘバ強力ナル武士河童ヲ捕ヘ其腕ヲ引拔キシニ、後ニテ見レバソハ唯一本ノ藁稈《ワラシベ》ナリト云ヒ〔日本傳説集〕、又ハ河童ト相撲ヲ取リテ甚シク取リニクキハ、其兩手ガ一本ニテ左右ニ貫キ伸縮自在ナルガ爲ナリト云フガ如キ是ナリ。豐前耶馬溪宮園村ノ庄屋次右衛門曰ク、河童ヲ揃ヘシ者ノ話ニ、其肩ノ骨一本ニシテ左右ニ通リ、譬ヘバ手拭掛ノ臺ニ手拭ヲカケタルヤウニアリシ云々〔水虎録話〕。此等ノ話ノ奧羽ニ存セズシテ遙カニ九州ニ飛離レテアルハ殊ニ奇ト云フベシ。中國ニテモ「エンコザル」トハ手長猿ノコトニテ、此猿ノ左右ノ手ハ貫通シテ一本ナルガ故ニ、梢ヨリブラ下リテ水中ノ月ヲ採ルニ便ナリナド、老人ノ語リ聞カセシコトアルヲ記憶ス。而モ其由來ニ至ツテハ獨リ「アイヌ」ノミ之ヲ説明シ得テ、我々ハ未ダ之ヲ尋ネントモセザリシナリ。「ミンツチ」ハ日本語ノ「ミヅチ」ト關係アルベキコト、「アイヌ」ノ音韻轉訛ノ法則ヨリ見テ露ホドモ疑ナシト、金田一君ハ言ハレタリ。奧州ノ「メドチ」ハ固ヨリナリ。加賀能登ノ「ミヅシ」ニ至リテモ、之ヲ「ミヅチ」ノ轉訛ト考フルノ外別ニ一案ノ存スル無シ。「ミヅチ」ハ我邦ニ於テハ古クヨリ之ヲ漢字ノ?又ハ蛟ニ(109)宛テタレドモ、單ニ其語原ヨリ見レバ未ダ之ヲ蛇類ニ屬スベキ理由ヲ知ラズ。本居氏ノ説ニハ、「ミヅチ」ノ「ミ」ハ十二支ノ巳又ハ「オカミ」、「ヘミ」、「ハミ」ナドノ「ミ」ニ同ジク、モト龍蛇ノ類ノ總稱ナリ。「ツ」ハ之ニ通フ辭ニシテ「チ」ハ尊稱ナリ。野槌ナドノ例ニ同ジトアレド、自分ハ其野槌ノ例ヨリ推シテ之ヲ水槌ノ義ナランカト思ヘリ。「ツチ」ノ靈物ヲ意味スルラシキ旁例ハ、出雲ノ國津神｜足摩乳《アシナツチ》手摩乳《テナツチ》アリ。打出小槌ヲ如意ノ寶トスルコト、奧州ノ「イタコ」等ガ槌ノ子ニ由リテ巫術ヲ妨ゲラレシ話〔佐々木繁氏談〕、サテハ大地ヲ「ツチ」ト云フナドヲ思合セテ、此ノ如ク考フルナリ。歴代ノ文人タチ、其漢學ノ知識ヲ以テ頻リニ?ノ字蛟ノ字ヲ以テ「ミヅチ」ニ宛テヽ止マザリシモ、水邊ニ住スル平民ハ一向之ニ頓著セズ、何カ有リ得ベキ怪物ニ托シテ各自ノ水ノ神ヲ想像セシハ寧ロ正直ナリト云フベク、彼等ハ父祖十數代一タビモ遭遇セザル四脚ノ蛇ナドヲ、村ノ水中ニ養フコト能ハザリシナリ。而モ又否定スベカラザル一事ハ、毎年夏月ニ入ルニ及ビ、小兒婦女牛馬ノ類往々ニシテ淵ニ入リテ死シ、恰モ物アリテ其獲物ヲ求ムルガ如クナリシヨリ、「ミヅチ」ノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈々深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルヽ能ハズト信ズルニ至リシナリ。其時一人ノ英雄アリ、乃至ハ道力優レタル行者ノ村ヲ訪フ者アリ。法《カタ》ノ如ク出現シ來リ法ノ如ク兇神ヲ退治シ去ル。是レ即チ我々ガ所謂傳説ノ東雲ナリ。傳説ハ恰モ春ノ野ノ陽炎ノ如シ。能ク我等ガ望ム所ニ向ヒテ發展ス。唯夫レ陽炎ノ如クナルガ故ニ、從前ノ信仰ハ少ナクモ其形式ノ上ニ於テハ此ガ爲ニ一朝ノ變革ヲ受クルコト無ク、永ク其痕跡ヲ故土ニ留ムルナリ。天然ノ神々ガ人間ノ便宜ニ抵抗スル能ハズシテ徐ロニ其威力ヲ收メ、終ニハ腑甲斐無キ魑魅魍魎ノ分際ニ退却スルコトハ何レノ民族ニ於テモ常ニ然リ。而モ彼等ガ既ニ其結界ヲ明渡シ其犠牲ヲ思切リテ後モ、責メテハ型バカリノ昔ノ祭ヲ要求シ、且ツハ氣味惡キ儀式ヲ繰返シテ畏怖ノ記念ヲ新ナラシメ、且ツハ之ニ由リテ敗北ノ失望ヲ慰メラレントスルモノ往々ニシテコレ有リ。サレバ彼ノ馬ヲ水邊ノ杙ニ繋ギテ河童ノ祭ト稱スル土佐ノ例ノ如キモ、恐クハ又(110)「ミヅチ」ニ對スル最少限度ノ養老金ノ類ニシテ、更ニ多クノ洗足池馬洗淵ノ地名ハ、由來不明ナル各地ノ駒繋松ナドト共ニ、年々馬ヲ水ノ神ニ供ヘタル上古ノ儀式ヲ、イツト無ク農民ノ好都合ニ解釋シテ、之ヲ以テ其馬ノ災害ヲ除却スル一手段ト見ルニ至リシモノ、久シキヲ經テ再ビ其理由ヲ忘ルヽニ至リシナルベシ。牛馬ノ首ヲ水ノ神ニ捧グル風ハ、雨乞ノ祈?トシテハ永ク存シタリキ。朝鮮扶餘縣ノ白馬江ニハ釣龍臺ト云フ大岩アリ。唐ノ蘇定方百濟ニ攻入リシ時、此河ヲ渡ラントシテ風雨ニアヒ、仍テ白馬ヲ餌トシテ龍ヲ一匹釣上ゲタリト云フ話ヲ傳ヘタリ〔東國奧地勝覽十八〕。白キ馬ハ神ノ最モ好ム物ナリシコト、舊日本ニ於テモ多クノ例アリ。

　

(111)　　　　　馬蹄石

　

（ダイバ、瓶、雨乞、ヤチ、駒繋松、馬上咎メ、老翁、祭ノ愼、苧、權五郎、竹、馬ノ神、柳、楊枝、金創ノ藥）

葦毛ノ駒　美濃ノ加子母《カシモ》ニ於ケル河童駒引ノ故跡ハ、其地名ヲ葦毛淵ト云フコトハ既ニ述べ了ンヌ。カノ猿神ガ馬ノ保護者ニシテ更ニ馬ノ害敵ナリシト同ジク、葦毛ハ馬ノ最モ靈異ナルモノナルト同時ニ、又最モ災厄ニ罹リ易キモノト考ヘラレシ時代アリ。例ヘバ馬ヲ襲フ魔物ニ、「ダイバ」又ハ「ギバ」ト云フ物アリ。今ノ今マデ達者ニ歩キシ馬モ、此物ニ遭フトキハ忽然ト狂ヒ騰リテ死ス。江州大津ノ穢多ノ娘死シテ「ダイバ」トナルト云ヒ、大津馬｜仕合吉《シアハセヨシ》ト染拔キタル腹掛ヲ馬ニサセルト、其災ヲ防ギ得ト傳フ。美濃尾張邊ニテハ、「ダイバ」ニ懸ケラルヽハ白馬ニ限ルトモ、又ハ葦毛ノ駒ガ懸ケラレヤスシトモ謂フトナリ〔想山著聞奇集一〕。美作苫田郡二宮村ノ瓶淵《カメガフチ》ニハ、河童ノ話ハ傳ヘザレド、往昔此邊ガ街道ナリシ時、瓶ヲ負ヒタル葦毛ノ馬水底ニ落チ沈ミタルヨリ土地ノ名トス。寛永二年ノ旱魃ニハ國中ノ僧此淵ノ邊ニ集リテ雨乞ヲ爲セシコトアリ〔山陽美作上〕。前ニ擧ゲタル武藏荏原郡駒澤村大字馬引澤ニハ、目黒村大字上目黒トノ境ニ葦毛塚アリ。是レ例ノ右大將頼朝ノ愛馬ニシテ、將軍巡歴ノ節此村ノ沼地《ヤチ》ノ中ニ陷リテ斃ルト云フ。今ノ字葦毛田ハ即チ其故跡ナリ。同村字子神丸ニハ駒繋松アリ。會テ其葦毛ヲ繋ギタリト稱ス。豐多摩郡代々幡村大字代々木字一本松ニモ、以前鞍掛松、一名ヲ駒繋松ト云フ名木アリ。八幡太郎奧州征伐ノ折此地ニ於テ七日ノ物忌ヲ爲ス。此松ハ當時葦毛ノ馬ヲ繋ギ置キシ木ナリト云フ〔以上新編武藏風土記稿〕。此等ノ「コマツナギ」ハ共ニ馬ノ野牧ノ祈?場ナリシコト、諸處ノ馬洗モシクハ「牛クヽリ」ト同ジカルベシ。而モ葦毛ノ斃レタリシ(112)因縁ト稱シテ馬引澤ノ一村ニハ今モ猶葦毛ノ馬ヲ養ハズ〔四神地名録〕。同ジ荏原郡ノ蒲田村大字蒲田新宿ニ於テハ、八幡社ノ境内ニ以前靈アル物ヲ埋メシト云フ古塚アリ。葦毛ニ乘リテ此塚ノ前ヲ過グレバ必ズ落馬ス〔新編武藏風土記稿〕。如何ナル理由アルカヲ傳ヘズト雖、恐クハ亦之ト似タル口碑ヲ有セシ馬塚ナラン。

　葦毛ノ馬ヲ飼ハヌト云フ風習ハ古ク且ツ弘ク行ハル。武藏入間郡｜飯能《ハンノウ》町大字中山ノ天滿宮ハ、昔ノ領主中山氏一家ノ氏神ナリキ。天文二十年川越城ノ夜軍ニ、中山勘解由家勝敗北シテ中山ニ還ラントスルニ、入間川洪水ノ爲ニ渡リ難ク殊ニ艱難ノ折柄、何處ヨリトモ無ク一人ノ老翁葦毛ノ駒ヲ牽來リ、勘解由ヲ扶ケ乘セテ中山ニ歸リ、我ハ吾妻天神ナリト名乘ツテ人馬共ニ社ノ側ニ於テ姿ヲ見失フ。ソレヨリ此社ヲ導《ミチビキ》ノ天神トモ稱シ、中山ガ子孫ハ勿論、一村ノ者マデモ今モ葦毛ノ馬ヲ飼フコト無シ〔同上所引縁起〕。同國比企郡宮前村大字伊古ニテハ、鎭守淡淵明神之ヲ忌ミタマフトアリテ、村ノ者決シテ葦毛馬ヲ用ヰズ〔山吹日記〕。甲州ニテハ東山梨松里村大字松里上井尻組ノ諏訪明神ハ例祭舊暦ノ七月十九日ナリ。七月一日ノ日ヨリ姶メテ此日マデ氏子ノ物忌最モ嚴重ナリ。其間ハ高聲普請及ビ繩目ヲ結ブコトヲ戒メ、又祭ノ日ニハ葦毛ノ馬ヲ牽出スコトヲ禁ズ。東八代郡富士見村｜小石和《コイサワ》組ノ諏訪明神モ葦毛ノ馬ヲ忌ミタマフ。里人之ヲ飼フコトアレバ神必ズ之ヲ隱ス。又苧ヲ栽ウルコトモ忌ムト云ヘリ〔以上山中笑翁書簡〕。磐城西白河郡三神村大字三城目ノ御靈社ハ、鎌倉權五郎ヲ祀ルト云フモ所傳ヲ失ス。此村ニテハ神ノ忌トテ葦毛馬ヲ飼ハズ又矢柄竹ト謂フ竹ヲ栽ヱズ。祟ヲ畏ルヽコト古來ノ習ニシテ人敢テ犯サザリシヲ、寛政中領主松平越中守吉田家ニ請ヒテ免許ヲ得、其旨ヲ社ニ皆ゲテ人ノ惑ヲ解キ、爾後竹ヲ栽ヱ馬ヲ畜ヒテ民用ニ給スト云ヘリ〔白川古事考二〕。信州北佐久郡本牧村大字望月、即チ古來有名ナル望月牧ニモ、同ジク此毛ノ馬ヲ飼ハヌ慣習アリ。一説ニハ村ニ飼ハヌハ葦毛ニ非ズシテ鹿毛ナリト云フ。「カゲ」ナラバ望月ニ忌ムモ理窟アリ。但シ未ダ何レガ正シキヲ知ラズ。筑前嘉穗郡｜足白《アシロ》村大字馬見ハ、村ニ葦毛ノ馬ヲ飼フコトヲ戒ムルノミナラズ、他處ヨリ曳來リシ者ヲモ止宿(113)セシメズ。此村ハ多分ハ倭名鈔ニ所謂嘉麻都馬見郷ナルベシ。村ノ境ニ馬見嶽ト云フ高山アリ。其頂上ニ祀ラレタル馬見權現ハ一ニ白馬大明神トモ名ヅケ奉リ、昔ハ嘉麻一都ノ總社ナリキトナリ〔太宰管内志〕。讃岐綾歌郡松山村ノ各大字ニ於テハ、葦毛ヲ飼フトキハ或ハ斃レ或ハ奔リテ必ズ飼主ニ損ヲ被ラシム。往昔三木近安ト云フ郷士アリ。朝命トハ言ヒナガラ讃岐院ニ對シテ矢ヲ射掛ケ奉ル。普通ノ歴史トハ合ハザレドモ、終ニ路傍ノ柳ノ空洞《ウツロ》ノ中ニ於テ院ヲ害シマツレリトモ傳ヘタリ。其折三木ハ葦毛ノ駒ニ乘リ居タリ。故ニ今モ此家ノ者ハ決シテ楊枝ヲ懷ニセズ、又此村ニ絶エテ柳ノ木ノ生立タザルモ、總テ同ジ因縁ニ基クト云ヘリ〔讃岐三代物語〕。�ｺ川將車家ニテモ葦毛ノ馬ハ村正ノ刀ト共ニ代々大ナル禁物ナリシガ、其理由トスル所ハ寧ロ之ト異ナリ、幾分カ中山氏ノ家傳ト相類セリ。蓋シ上野新田ノ一宮ハモト新田義重ノ尊信セシ神ナリ。寛永中林道春ノ作リタル鐘ノ銘ニモ、此神葦毛ノ駒ニ乘リタマヘルガ故ニ、新田氏ノ子孫タル者ハ此毛色ノ馬ヲ避クルナリト謂ヘリ。後世ノ學者之ヲ記載シ更ニ附加シテ曰ク、葦毛ノ馬ノ糞ハ金創ノ妙藥ナルコトハ、既ニ甲陽軍鑑ノ松代攻ノ條ニモ見エタリ。今御當家ニ於テ悉ク此毛ノ馬ヲ忌ミタマフトアリテハ、買フ人無クシテ次第ニ其種ヲ絶ヤスニ至ルベシ。右ノ如ク軍用トモナルベキ馬ナリトスレバ、セメテハ之ヲ諸國ノ社ノ神馬トシテナリトモ奉納シ置キタキモノナリト説ケリ〔?麓堂隨筆〕。然ルニ葦毛ノ駒ハ、此學者ノ説ヲ須タズシテ、古今共ニ多クノ社ノ神馬タリシナリ。以下順序ヲ逐ヒテ自分ガ述ベント欲スル所ハ即チ其始終ナリ。

（有馬、三輪　厩師ノ神　神託　白髭　若宮八幡　海邊ノ牧　天智天皇　白山　黒駒　平家谷　白旗　白鷺）

白馬ヲ飼ハヌ村　葦毛ハ一名ヲ青鷺毛《アヲサギゲ》トモ謂ヒテ、稍青味ノカヽリタル白馬ナリ。然ルニ夙クヨリ白馬ト同ジ毛色ノ如ク取扱ハレ、村ノ内ニ飼ハヌト云フ右ノ傳説ノ如キモ、二者共通ニ存スルハ奇ト謂フベシ。攝津有馬ノ湯山權現ハ此山ノ地主神ナリ。曾テ婦人ノ姿ヲ現ジテ麓ノ野邊ニ道ビシニ、國ノ守護某ナル者鷹狩ニ出デテ之ヲ見怪シミ、滋籐ノ弓ニ白羽ノ箭ヲツガヒ、葦毛ノ馬ニ乘リテ山ノ奧マデ之ヲ追ヒ懸ケタリ。其咎(114)ヲ以テ武士ハ即座ニ命ヲ殞シ、其後右ノ三物ヲ携ヘテ山内ニ入ル者アレバ、必ズ山荒レ雷電スト云フ話ナリキ〔諸國旅雀五〕。此話ハ極メテ古クヨリ世ニ傳フル所ナリ。阿波ノ領主三好修理太夫長慶ガ弟ニ十河ノ某ト云フ武士ハ、唐瘡ヲ煩ヒテ此湯ニ養生ノ間、人々ノ止ムルヲモ聽カズ、葦毛ノ馬ニ乘リテ押シテ登山シ、ヤガテ神罰ヲ蒙リテ歸國ノ後程モ無ク病死セリ。此ハ正シク永禄九年中ノ出來事ナリ〔當代記〕。ソレヨリ更ニ百十餘年ノ以前ニモ、有馬ニ滯在シテ山神ノ女ノ姿ト現ハレテ武士ニ追ハレシ話ヲ聞書シタル僧アリ。此ニハ湯山權現ノ本地ハ三輪明神ニシテ、此山ニテ禁ズルハ白馬ナル事ヲ記載シテ葦毛ナリトハ言ハズ〔臥雲日件録寶�ｺ四年四月十八日條〕。此湯ノ發見ニ三輪ノ神卜因ミアル蜘蛛ノ絲ノ導アリシコトハ前ニ言ヘリ。而シテ三輪ガ小山秦兩家ノ厩師ノ尊信スル神ナルコトハ猿屋傳書ニモ見ユ〔駿國雜志七〕。又之ト因ミアルカ否カヲ知ラザレドモ、更ニ今一ツノ似タル話アリ。下野那須郡那珂村大字三輪ノ三輪明神祀古傳ニ曰ク、昔此村ノ字宮窪ニ柏ノ大木アリ。其處ヨリ見エ渡ル所ヲ白馬ニ乘リテ過グレバ、人馬共ニ即時ニ倒ル。人々不思議ノ思ヲ爲シ湯ノ花ヲ捧ゲ神託ヲ問ヒシニ、神少女ニ移ラセタマヒ、吾ハ大和ノ三輪ノ神ナリ。此地ニ跡ヲ垂レントスルコトヲ知ラシムル爲ナリ。爰ニ祀ラバ永ク里ヲ守ラントアリシヨリ此社ヲ建テタリ。今ニ至ルマデ葦毛ノ馬ヲ此里ニ留ムルコト一夜ナリト雖、必ズ災アリト云ヘリ〔下野風土記下〕。

　村ニ白馬ヲ置カシメザル理由ニ至リテモ、地方ニ由リ些シヅツノ相違アリ。武藏入間郡高麗村大字｜新堀《ニヒホリ》字大宮ニテハ、今モ一般ニ白毛ノ馬ヲ飼ハズ。此村ハ上代高麗人ノ殖民地ニシテ、祖神トシテ白髭明神ヲ祀レリ。其氏子ナルガ故ヲ以テ村人モ白馬ヲ忌ムナリト云フ〔東京人類學會雜誌第二百十六號柴田氏〕。横濱市本牧町字本郷ノ若宮八幡宮ノ神體ハモト白馬ニ乘リタル神像ナリキ。此地ノ農民ハ夫ガ爲ニ嚴ニ白馬ニ乘ルコトヲ戒メタリ〔新編武藏風土記稿〕。本牧ハ即チ一箇海邊ノ馬牧ナレバ、此ノ如キ口碑ノ存スルハ偶然ニ非ザルベシ。大隅囎唹郡東志布志村大字安樂ノ山口六社明神ハ天智天皇ヲ祀ルト傳ヘラル。此天皇ノ傳説ハ弘ク鹿(115)兒島縣ノ南海岸ニ分布シテ此ハ其一例ナリ。此神社ノ境内ニ於テハ昔ヨリ白馬ニ騎ルコトヲ固ク戒ム。其禁ヲ犯セバ必ズ災アリ。白馬ハ此神ノ乘用ナリシガ爲ナリト言ヒ傳フ〔三國名勝圖會〕。之トハ正反對ニ薩摩川邊郡｜川邊《カハナベ》村大字清水ノ白山權現ノ神體ハ、黒キ馬ニ騎リタマヘル像ナルガ故ニ、村中ノ民ヲシテ白馬ヲ飼ハシメズ〔同上〕。土佐ノ山中ニハ平家隱里ノ傳説多シ。之ト伴ヒテ又所謂白旗傳説アリ。日向ノ那須山ナドニテハ山櫻ノ花ノ盛リヲ見テ源氏ノ旗影カト誤リシト傳ヘタルニ、此地方ニテハ、何レモ白鷺ノ飛ビ揚ルヲ白旗ト見誤リテ一族悉ク自殺シタリト語リ傳ヘタリ〔土佐州郡志〕。此國兩家村ノ平家谷ナドハ、此因縁ヨリ今以テ所謂｜不入山《イラズヤマ》ノ禁令固キノミナラズ、白馬ヲ曳キ又ハ白キ手拭モテ頬冠リシタル者ハ、此山ヲ過グルコト能ハズト云フ〔土佐國古雜志〕。白旗ト白鷺ニ就キテハ最モ多クノ傳説アリ。白キ衣ヲ著タル老女ヲ白鷺ト思ヒテ射殺シ、其他色々ノ物ニ見誤リテ後ノ災アリシ話ノ多キハ、何カ仔細アルコトナルベシ。

（白馬節會、七?八白、熊阪長範、地藏、雨乞、盗泉、染屋、田村將軍）

毛替ノ地藏　白馬ト葦毛トノ混同ハサマデ古クヨリノ事ニハ非ザルベシ。萬葉集ニハ大分青馬ト書キテ「アシゲウマ」、倭名鈔ニハ説文ヲ引キテ葦毛ハ青白雜毛ノ馬也ト謂ヒ、又漢語抄ヲ引キテ青馬ナリトモ見ユ。新撰字鏡ニハ?ハ馬白色又青色、阿乎支馬《アヲキウマ》ト釋シタリ。葦毛ノ漢字ヲ?ト云フモ亦同ジ理由ニ基クモノナリ。?ハ即チ葱（ネギ）ノコトニテ、本白クシテ末青ク其色ノ最モ美シキヲ葱ニ譬ヘタルナリ〔相驥經二其他〕。併シ葦毛モ必ズシモ一種ニハ非ザリシガ如ク、現今葦毛ト呼ブ馬ノ中ニハ青ヨリモヨホド灰ニ近キモノアリ。古クハ源平盛衰記ナドニモ青葦毛白葦毛ト云フ語折々見ユ。朝廷新年ノ儀式ニ有名ナル白馬節會ニハ、後世ハ葦毛ノ駒ヲ曳クヤウニナリタルガ、日本語ニテハ、白馬節會ヲ「アヲウマ」ノ節會ト訓マセタリ。伴信友翁ノ説ニ依レバ、此節會ニハ最初ハ今日ノ「アヲ」即チ鐡?馬《クロミドリ》ヲ曳キタリシガ、後ニ白馬ヲ用ヰルコトヽナリ、更ニ葦毛ヲ以テ之ニ換ヘラレタルナラント云フコトナレドモ〔比古婆衣九〕、未ダ安心シテ之ニ從フコト能ハズ。白馬ヲ神聖ナル物トスルハ、本來支那ノ思想ナガラ、我邦ニテモ頗ル古キ代ヨリノ風ナリ。或ハ白(116)馬ヲ馬ノ性ノ本ナリト謂ヒ、地ニ白馬アルハ天ニ白龍アルガ如シトモ言フ説アリ。天子ニ限リテ之ヲ用ヰラルヽト云フモ恐クハ其爲ナラン。素問ノ書ニモ馬ヲ西方ノ白色ニ配シ、其類ハ金、其穀ハ稻、天ニ上リテ大白星ト爲ルト説キタリ〔弘賢隨筆五十七〕。思フニ白馬ノ珍重セラレタル根本ハ、ヤハリ純粹ノ物ノ得難カリシ爲ニシテ、其爲ニ又夙クヨリ葦毛ヲ以テ之ニ代用スルノ必要ハアリシナランカ。而シテ葦毛バカリガ白馬ノ代リトシテ用ヰラレタルモ、單ニ其色ノ美シク且ツ最モ近カリシ爲ノミニ非ズ、此馬ノ毛ガ年ト共ニ變化シテ恐クハ追々白勝ニ成ルコトヲ實驗シタル結果ナラント思考ス。所謂七?八白ノ説ハ古クハ?雅ト云フ書ニ見エタリ。葦毛ハ八歳ニナレバ色變ジテ白馬トナルヲ謂フナリ〔華陽皮相其他〕。駿府ノ猿屋傳書ノ馬ノ毛色ノ説ニモ葦毛ノミハ全ク別物ニシテ五行ニ配スベカラズト謂ヘルハ、此馬ノ毛色ノ?々變リテ不定ナルヲ不思議トシタル爲ナルベシ。

　一體馬ノ毛色ト云フモノハ如何ナル程度ニ迄變化シ得ルモノナルカ、自分ハ聊カモ之ヲ實駿シタルコトハ無ケレドモ、葦毛ハ兎ニ角黒ヤ栗毛ノ類ノ馬ガ一朝ニシテ白馬トナルト云フニ至リテハ、之ヲ傳説ト見ルノ外無キナリ。藝州嚴島ノ神馬ハ平日ハ厩ニ繋ギ明神遷幸ノ折ハ之ヲ儀仗ノ列ニ加フルモノナリ。此神馬ハ如何ナル毛色ノ馬ヲ獻納シテモ、次第ニ毛ヲ替ヘテ一二年ノ間ニハ必ズ純白トナルト信ゼラレタリ〔藝藩通志〕。此等ハ特ニ此宮ノ神�ｺニ由リテノミ説明スルコトヲ得ベキ話ナリ。之ト近キ一例ハ尾張國ニモアリキ。愛知郡｜天白《テンパク》村字島田ノ東方ナル定納山《ヂヤウナウヤマ》ト云フニ、熊阪長範ノ厩ノ跡ト云フ處アリテ、今モ其小字ヲ厩内《マヤノウチ》ト呼ベリ。古クハ程遠カラヌ路傍ニ有名ナル地藏堂アリ。長範ガ白キ馬ヲ盗ミ來レバ、一夜ノ中ニ之ヲ黒馬ニシテ本ノ主ノ眼ヲ暗マス。此地藏ヲ毛替地藏ト稱ヘシハ此ノ如キ不名譽ナル靈驗アリシ爲ナリト云フ。或ハ又雨地藏トモ名ヅケテ能ク雨乞ノ祈願ヲ容レタリトモ傳ヘタリ〔尾張志〕。熊阪長範ハ謠ニテハ越前ノ人ト稱スレドモ或ハ又信州上水内郡｜信濃尻《シナノジリ》村大字熊阪ヲ以テ其郷里トスル説アリ。野尻ノ湖水ノ岸ヨリ見ユル峠ヲ長範阪ト(117)云ヒ、其山ヲモ今ハ長範山ト云フ。長範ハ此山中ニ隱レ住ミ夜ハ里ニ出デテ馬ヲ盗ム。其馬ヲ月毛ハ栗毛ニ染メ栗毛ハ黒ニ塗替ヘテ、再ビ市ニ曳出シ之ヲ賣飛バス。其染場ノ跡ト云フ地アリテ礎永ク殘リタリ。多分ハ隣村ナドヨリノ惡評ナランモ、野尻ト熊阪トノ間ヲ流ルヽ關川ノ水ハ、之ヲ飲メバ盗心ヲ生ズベシト唱ヘラレテアリキ〔眞澄遊覧記三〕。但馬養父郡大藏村大字堀畑ニモ長範屋敷ト云フ小字アリ。長範曾テ此地ニ住ムト傳へテ泉アリ。此ニハ染物ノ口碑ハ存セザルモ、此水ヲ飲ム者ハ盗心ヲ生ジ、馬牛ニ飼ヘバ性惡シクナルト云フ俗信アリテ、今モ之ヲ用ヰル者ナシ〔但馬考〕。長範ホドノ大盗人ガ刷子ヲ持チテ内職ヲシタリトモ思ハレザレドモ、兎ニ角馬ノ毛ヲ替フルト云フ話ハ彼ト何カノ因縁アルベシ。或ハ一種ノ染工ヲ賤シキ部落トシテ取扱ヒシ遺風ナルカモ測リ難ケレド、之ヲ神佛ノ力ニ基クトスルモノニ至リテハ、恐クハ亦彼ノ七?八白ノ思想ト關係アルベク、兼テ又神馬ノ毛ノ色ヲ選ビタリシ大小ノ神社ノ古例ヲ説明スルモノトモ見ルコトヲ得ベキナリ。磐城田村郡小野新町東遠山萬福寺ノ觀世音ハ、カノ田村將軍ノ祈願ニ因リ千ノ矢ヲ放チタマヒシ本尊ト云ヘリ。十四五里四方ノ人民牝馬ヲ牽來リ、其牝馬ノ生ム駒ノ牝牡毛色ヲ此靈佛ニ所願スレバ、願ノ通リノ駒ヲ得ル奇瑞アリ。凡ソ此邊ヨリ出ル駒ニハ良馬多シトノコトナリキ〔行脚隨筆上〕。

（齋忌、騎馬神像、神ノ降臨、神ノ林、境塚、石馬、老翁、熊野權現、駒形、三寶荒神、神馬用途、嶽、ウポツ山、山ノ神、梓巫、頼政、田植歌、白旗、馬頭觀音）

馬ニ騎リテ天降ル神　或家又ハ或地方ニ於テ白馬又ハ葦毛ヲ飼ハザル風習ハ、何レモ神社ノ信仰ニ基クモノナルコトハ略確實ナルガ、其由來ニ至リテハ表裏相容レザル二種ノ説明アリ。即チ一ハ白馬ハ神ノ乘用ナルガ故ト謂ヒ、他ノ一ハ神此毛ノ馬ヲ好ミタマハズト謂フモノナリ。神ガ白馬ヲ好ミタマハヌ故ニ氏子モ之ヲ嫌フト云フ説ハ、近世ノ人ニハ通用宜シケレドモ、ソレダケニ思想新シト見エタリ。有馬又ハ讃岐ニ於テ別段ノ來歴ヲ必要トシタルヲ見テモ明カナルガ如ク、清クシテ美シキ白馬ヲ神ノ惡ミタマフト云フハ何分ニモ不自然ナリ。此ハ疑無ク忌ト云フ語ノ意味ガ時世ト共ニ變遷シタル結果ニシテ、多クノ森塚巖石等ニ就キテモ之ニ似タル例アリ、即チ元ハ神ノ物トシテ其清淨ヲ穢スマジトシタル忌ヨリ、轉ジテ神ガ枝葉ヤ土石ヲ採(118)リ去ルヲ惜ムト云フ風ニ考ヘシト同ジク、神ガ凡人ノ之ヲ持ツヲ忌ムヲ自分モ欲セラレザルガ故ト察スルニ至リシナリ。多クノ社ノ神ガ白キ馬ノ嫌ヒデ無カリシ證據ハ今更之ヲ列擧スルニモ及ブマジ。神馬トシテ之ヲ奉納スル風習ハ弘ク行ハレ居タリシノミナラズ、御神體ニモ騎馬ノ像イクラモ有リテ、其馬ノ毛色若シ分明ナリトスレバ大抵ハ白ナリ。此序ニ言ハンニ、諸國ノ御神體ニ騎馬ノモノ多キハ決シテ輕々ニ見ルベキ現象ニハ非ズ。佛像ニモ勝軍地藏ノ如キハ必ズ馬上ノ御姿ナリ。此等ハ中世ノ武家ガ今ノ人ヨリモ馬ヲ愛シタリシ爲ナドト簡單ニ解釋シ去ル事能ハザル事實ナリ。

　蓋シ都鄙多クノ神體ノ製作ハ比較的後代ノモノナリトスルモ、其形?特性ノ如キハ漫然タル空想ニ由リテ新タニ之ヲ附加セシモノニハ非ズシテ、ヤハリ神ノ示現ニ關スル當初ノ歴史ヲ表ハサント力メシモノナラン。其證據ニハ神ガ馬ニ騎リテ降臨シタマヒシコトヲ傳説スル場合ニハ、其馬ノ毛モ亦多クハ白ナリ。前ニ述ベタル一二ノ例ノ外ニ、美作苫田郡一宮村大字西田邊ノ駒林ハ、慶雲三年ニ中山神ガ白馬ニ乘リテ來現セラレタル故跡ナリ。二町ヲ隔テヽ上林ト下林トアリ。其年ノ九月二十三日ニ神ハ此林ヨリ五町北ノ霧山ト云フ處ニ入リタマフ云々。林ヲ駒林ト云フコト、竝ニ例年九月ノ神事ニ白馬ヲ用ヰルハ其爲ナリ〔作陽志〕。新羅ノ大昔ニ蘇伐公ガ白馬ノ林間ニ跪拜スルヲ見テ、卵ニ籠レル赫居世ヲ拾上ゲシト云フ話モ何ト無ク思ヒ合サル。日本ニテモ清キ林ニハ此類ノ神話多シ。伊勢ノ飯南郡川俣谷、即チ今日ノ宮前村大字｜作瀧《サクダキ》ニテハ、村ノ境ニ祓塚《ハラヒヅカ》アリテ其北ヲ賀瀬川流ル。其川ノ中流ニ立ツ大石ノ上ニ、昔天照大御神白馬ニ騎リテ降リタマヒ、國ノ堺ヲ定メタマヘリト云フ口碑アリ〔勢陽俚諺十一〕。此石ハモトハ多分白クシテ馬ノ形ニ似タリシガ故ニ斯ル傳説ヲ生ゼシナルベシ。阿波名西郡神領村字｜白桃名《シロモヽミヤウ》ノ一部ヲバ御馬原ト謂ヒ、丹生《ニフ》明神ノ乘捨テラレシト云フ石馬アリ。鞍鐙皆具シテ膝折伏セテ見返リタル形、ヨク見レバ鬣ノ筋マデアリ／＼トシテ、些シ遠クヨリ望メバ誠ニ生ノ馬ノ通リナリ。此地ハ元ヨリ村ノ山野ナルガ、村人此石ヲ尊崇シテ木草ヲ採ラヌ爲ニ、自然(119)ニ林ヲ爲シテ終ニ石馬ヲ遠望スル能ハズ。傳ヘ謂フ昔一人ノ老翁白馬ニ乘リテ此原ノ柴刈男ニ現ハレ、我ハ大和ノ丹生明神ナリ、由アリテ跡ヲ此地ニ垂レ五穀ヲ守ルベシト仰セラレ、乃チ天ニ歸リタマフ。神馬ハ之ニ伴フコト能ハズ、御跡ヲ顧ミツヽ石ト化シタルガ即チ是ナリ〔燈下録〕。岩代河沼郡堂島村大字｜熊野堂《クマンダウ》ノ熊野三社ハ、數多キ奧羽ノ熊野ノ中ニテモ殊ニ有難キ神ナリ。八幡太郎義家戰捷ヲ祈ル爲ニ建立セシ社ナリト傳フ。其折ニ愛馬ノ連錢葦毛ヲ奉納シテ神馬トシ之ヲ駒形原ニ放牧ス。此葦毛ハ後ニ天ニ昇リ雲中ニ嘶クコト七日、仍テ之ヲ馬頭觀音ト祀リ、更ニ此原ニモ右ノ三社ヲ勸請ス。今ノ耶麻郡鹽川村ノ三寶荒神社ハ即チ是ナリト云フ〔新編會津風土記所引縁起〕。三寶荒神ハ竈ノ神ナリ。馬ト竈トノ關係アルコトハ前ニモ一タビ之ヲ述ブ。後段ニモ猶詳カニ攻究セント欲スル所ナリ。

　神垂迹ノ起原ハ決シテ後世ノ縁起ニ説クガ如キ明確ノモノニ非ザリシハ勿論ナリ。分身自在ノ天竺ノ佛タチトハ異ナリ、本ノ社アル神々ニ於テハ決シテ勸請ノ地ニ永逗留ハシタマハズ、一定ノ日ニ降リテ祭ヲ享ケヤガテ又還リ往キタマヒシナリ。所謂毎朝神拜ノ思想起リテ後、如在ノ神ハ終ニ常在ノ神トナリ、狹ク小サキ祠ノ中ヲ以テ神ノ住所ノ如ク考フル者出デ來レリ。是レ決シテ本來ノ信仰ニハ非ザリシナリ。阿波ニ於ケル丹生明神ハ其馬ヲ殘シテ往カレタルガ、抑々神馬ノ神ニ用立チシハ全ク其往來ノ此ノ如ク繁カリシ爲ナリ。此説ハ必ズシモ根據ニ乏シキ臆説ニハ非ズ。沖繩諸島ノ如キハ、今モ村々ノ神ハ甚ダ多ク社ノ數ハ甚ダ少ナシ。年々日ヲ定メテ神ノ降ル場處ヲ「ダケ」又ハ「ヲガン」ト謂フ。高山ノ頂又ハ人ノ蹈マザル一區ノ林地ナリ。「ヲガン」ハ即チ拜林ニシテ此處ニ於テ神ヲ祭リ拜スルナリ。大島ニ於テハ之ヲ「ヲガミ」山、又ハ「ウポツ」山ト云ヒ、祭ノ日ニハ此山ヨリ出デテ又此山ニ歸ル。神馬ニ乘リテ現ハルヽコトモ亦稀ナラズト云ヘリ〔人類學會雜誌第百九十五號昇氏〕。遙カニ懸離レタル羽後ノ平鹿郡ノ保呂羽《ホロハ》神社ハ、東北地方ニ於テ威力ノ最モ盛ナル山ノ神ノ一ツナリ。十一月七日ノ祭ニ歌フ神樂ノ曲ノ章句ニ、

(120)　　東方《アヅマ》ヨリ今ゾ寄リマス長濱ノ葦毛ノ駒ニ手綱ヨリカケ

ト云フ歌アリ〔風俗問?答〕。「ヨリカケ」ハ「ユリカケ」ノ轉訛ナルベシ。寄リマストハ神靈ガ巫女ニ託シタマフ事ナリ。其神ガ葦毛ノ駒ニ乘リ長濱ヅタヒニ東ノ方ヨリ降ラルルサマヲ歌ヒタルモノナルガ、此歌ハ中央部ノ諸國ニテハ所謂｜梓神子《アヅサミコ》ノ歌トシテ傳ヘラレタリ。鴉鷺合戰物語ニ、「カンナギ」梅染ノ小袖ヲ着テ座敷ニ直リ、梓ノ弓ヲ打扣キテ天清淨地清淨ヲ唱ヘ、只今寄セ來タル所ノ亡者ノ冥路《ヨミヂ》ノ談リ、正シク聞カセタマヘト言ヒテ歌フ歌、

　　ヨリ人ハ今ゾ寄リマス長濱ヤ葦毛ノ駒ニ手綱ユリカケ

トアリ〔嬉遊笑覽所引〕。謠ノ葵ノ上ニ神子ガ六條ノ御息所《ミヤスドコロ》ノ口ヲ寄セントシテ唱フル詞モ之ト全ク同樣ナリ。之ニ由リ見レバ人ノ生靈亡靈モ亦馬ニ乘リ來リテ巫女ニ託セシナリ。巫女ヲ「ヨリマシ」又ハ「ヨリマサ」ト云フコトハ社ノ神子モ所謂｜縣神子《アガタミコ》モ區別無カリキ。後者ノ梓ヲ業トスル者ノ如キハ單ニ拜處ヲ一定セザル移動的ノ巫女ト云フニ過ギズ。例ノ頼政塚ノ傳説ノ如キハ恐クハ此徒ノ名ヨリ起リシモノナラン。同ジ保呂羽山ノ神樂ノ曲ニ、

　　ヨリマサバ今寄リマサネサハラ木ノサハラノ山ニサハリ隈ナク

ト云フモアリ。寄ルトナラバ直チニ寄リタマヘト言フ意味ナルヲ、誤リテ神靈又ハ託女其物ヲ「ヨリマサ」ト謂フト解シタル結果、其祭場ヲ以テ源三位入道ノ首塚ナリトスルガ如キ説ハ起リシナルペシ。

　保呂羽山ノ神樂ノ歌ガ、梓巫ノ徒ヨリ學ビシモノニ非ザルコトハ、亦之ヲ立證スルコト難カラズ。岩代會津ノ伊佐須美神社ノ田植歌十二段ノ中ニモ、

　　繋ギタヤ／＼、葦毛ノ駒ヲ繋イダ。白葦毛ノ白ノ駒ヲ、高天原ニ繋イダ。大明神ノ召サウトテ、葦毛ノ駒ヲ早ウ引ク。

(121)ト云フ歌アリ〔中古雜唱集〕。然ラバ海ノ都ト此世トノ交通ニ鰐ヲ用ヰシト同ジク、天ト地トノ往來ニハ特ニ靈アル白ノ駒ヲ選バレシモノニテ、從ヒテ人間ノ雜役ニハ之ヲ用ヰルコトヲ遠慮セシモ尤モ自然ノ事卜謂フベシ。人ノ靈ニ在リテハ矢口ノ渡ノ新田義興ノ如キモ、尚又白キ馬ニ乘リテ青空鮮カニ現ハレタリ。空ヲ行クモノ山ヨリ降ル者ヲ白カリシト想像スルハ、單ニ詩トシテ美シキノミニ非ズ、多クノ白旗傳説ナドト共ニ、先年西洋ニテ流行セシ所謂天然現象説ヨリ之ヲ解釋スルモ亦差支無シ。日本ニ於テハ佛教ノ方ニモ多ク此傳説ヲ利用シタリトオボシ。支那ニテモ始メテ經文ヲ輸入セシ馬ノ白カリシコトヲ言ヘド、此ヨリモ今一段我邦ノハ之ト縁深シ。昔信濃ノ筑摩ノ湯ノ村ニ住ム信心者ノ夢ニ、明日ハ觀世音此湯ニ入浴ニ來ルベシト云フ豫告アリ。年ハ三十前後、髯黒ク綾藺笠《アヤヰガサ》ヲ著テ、節黒ナル胡箙《ヤナグヒ》ニ皮ヲ卷キタル弓ヲ持チ、紺ノ襖《アヲ》ニ夏毛ノ行縢《ムカバキ》ヲハキ、葦毛ノ馬ニ乘リタル人ガ觀音ナリト教ヘラル。即チ法《カタ》ノ如キ田舍者ノ風俗ナリ。翌日ニナリテ果シテ其通リノ人來リタレバ、一同有難ガリテ之ヲ拜ム。其男ハ元來觀世音ニハ非ザリシ故、勿論非常ニ面喰ヒタリシモ、根ガ氣ノ善キ御侍ト見エテ、サテハ身共ハ觀音デ御座ツタカト、此ガ菩提ノ種トナリテ直チニ剃髪シテ法師トナリ了ル〔宇治拾遺物語六〕。上野國ノ馬頭主ト云フ武士ナリキト云ヘリ。上野ハ下野ノ誤聞ナルカモ知レザレド、兎ニ角馬頭觀音ノ信仰ヲ聯想セズニハ過グシ難キ一話ナリ。

（駒形神、黒駒、龍馬ト星ノ神、石馬、雨乞、天狗佛、神馬足跡、山中ノ馬、山ノ神田ノ神、鍵引、山神祭日、十二神、大山祇、日待、歸リ馬、出駒入駒、白色ノ忌、嶽又ハ岳、野馬、石馬、鍬形、農牛農鳥、人形山、名ノ附會）

駒ケ嶽　又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。例ヘバ武藏北足立郡｜尾間木《ヲマキ》村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三?ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黒駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ?リテ驗アリ〔風俗問?答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追《ノマオヒ》ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。越前大野郡ノ穴馬谷《アナマダニ》ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬(122)ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上《グジヤウ》領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨク／＼ノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ頼ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈埃隨筆八、有斐齋剳記〕。陸中膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

　深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯《アンドミネ》ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目撃セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。薩摩日置郡田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所録天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程二、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ説アリ〔新著聞集所引寛文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳説ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獣ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハサウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳説ハ、(123)ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルベシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文ヲ唱ヘツヽ田面ノ方ヘ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水温故〕。神ノ出入ノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊暦二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ縁日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原《カハハル》村大字｜木庭《コバ》ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ人ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然り〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ概シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代岳、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如ク一定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市(124)川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。新暦五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルベシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ縁ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ入ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。常陸那珂郡｜柳河《ヤナガハ》村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。

　サテ此ヨリ愈々駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。「ダケ」は只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルベキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ説明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ説ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。其報告ハ區々ニシテ或ハ青ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小説別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル(125)想像ノ産物ナリトモ見ルコトヲ得ベシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黒ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消エ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津｜檜枝岐《ヒノエマタ》ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ説アリ〔地名辭喜〕。同國西頸城郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形?アリテ明カニ存ス。故ニ山ノ名トス。俚俗ノ説ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。

　岩代耶麻郡金川村ノ駒形山ハ、山ノ南ニ草木ノ生ゼザル砂石ノ地アリテ、恰モ逸馬ノ形ニ似タル故ニ駒形山ト名ヅケタリト稱ス〔新編會津風土記〕。山ノ樹木ノ特ニ茂レル部分、例ヘバ富嶽南側ノ鶴ケ芝ノ如キ、或ハ永ク物ノ成長セザル部分ガ、何カノ形?ニ類似シタリト云フハ、事ニ由ルト幾分ノ人作ヲ加ヘタルモノナリトモ言ヒ得ベシ。京ノ東山ノ大文字又ハ北山ノ妙法ナドハ、其最モ著シキ例ナリ。併シナガラ雪ノ消エヌ消エタト云フガ如キハ正シク天然ノ現象ナリ。故ニ遠クヨリ望ム人ガ意ヲ以テ迎ヘタル解説ト言フノ他ナキナリ。越後絲魚川邊ニ牛形ト稱スルハ、季春山中雪消ノ時殘ル形ノ牛ニ似タルモノナリ。飯豐山《イヒデサン》ニハ乘物形アリ、肩輿ノ形ニ似タリ。粟ヲ蒔ク頃殘雪ノ僧形ヲ爲スヲ名ヅケテ粟蒔入道ト謂ヒ、菱嶽ノ殘雪ノ鍬ノ形?ニ似タルヲ鍬形ト稱スルガ如キ、皆同ジ類ナリ〔以上越後野志十九〕。富士ノ白雪ノ解ケ殘リタル形ヲ、駿河ヨリ見テ農男、甲斐ノ方ヨリ農牛農鳥ナドト謂ヒ、之ヲ望ミテ農事ニ取掛ルガ如キ亦然リ。或ハ南面ニ在リテハ農馬ニ見ユト爲シ、牛ト馬ト自然ニ陰陽兩位ノ方角ヲ表ハスモノナリト言ヒシ人アリ〔甲斐國志三十五〕。(126)サマデノ理窟ハ無キマデモ、農耕ト關係アリト考ヘシコトハ右等ノ名稱ヲ見テモ明白ナリ。越中｜礪波《トナミ》ノ奧ナル人形山ハ、殘雪ノ形ガ二人手ヲ達ネテ立ツガ如ク見ユ。其雪ノ次第ニ融ケテ結ビシ手ヲ離ス頃ヨリ、木樵獵人ハ山ニ入リテ差支ナシト信ジ居タリ〔地名辭書〕。是レ即チ障神《サヘノカミ》ノ思想ヲ表示スル者ナルベシ。何レニシテモ遠方ニ在ル物ノ形ハ見ヤウ次第如何ヤウニモ見エ、天井板ノ節穴ガ眼球ノヤウニ思ハレタリ、障子ノ雨ノ痕ガ影法師ト見エタリスル例ハ多シ。仍テ自分ノ考フル所ニテハ、前ニ列記スルガ如キ馬ノ形像説ハ、駒ケ嶽又ハ駒形山ト云フ地名アリテ後、次第ニ土地ノ人ガシカ看做スヤウニナリシナラント認ム。即チ神馬ヲ崇祀スル信仰ノ方ガ、此傳説ヨリ一段ト古キモノニテハ非ザルカト思ヘリ。若シ然ラズトスレバ、平地ニ於ケル駒形又ハ馬神ノ信仰ハ、全然別口ノモノトナリ了ル結果ヲ見ルベキナリ。

（勝善神、箱根權現、手形、駒形ハ足形、箱根縁起、仙人、比丘尼、御生題、駒ノ石像、馬頭觀音、供養ト祈?、馬ノ首、青面金剛、舞々、配札、竈神、猿馬ヲ牽ク繪札、三社權現、習合神道、濱成兄弟、大黒、竈神、駒形神人）

駒形權現　駿府淺間社ノ社人ノ唱言ニ、所謂關東ノ「ソウゼン」奧ノ「ソウゼン」、奧羽ニテ弘ク拜マルヽ「オコマサマ」ハ、今日村々ノ百姓ガ之ヲ何ト稱フルカヲ問ハズ、表向ノ名稱ハ殆ト皆今ハ駒形神社トナレリ。此ハ明治ノ復古思想ノ一種ノ發露ニシテ、奧羽ノ「オコマ」信仰ノ中心タル膽澤郡ノ駒ケ嶽ガ、即チ延喜式内ノ駒形神社ナルベシト謂フ地方誌ノ説ヲ公認シ、之ニ由リテ名ヲ正シ迷信ヲ改メントセシ神祇官ノ目的ニハヨク合セリ。奧州ノ駒形神ハ成程古シ。神名帳ノ發表ヨリ五十餘年前ニ、既ニ神階ヲ正五位ニ進メラレタル記事アリ〔文徳實録仁壽元年九月二日條〕。箱根ノ駒ケ嶽ニ祀ラルヽ駒形權現ノ如キモ、安貞二年ノ火災ノ記事ニ、ソレヨリ又五百年前ノ創立トアレドモ〔吾妻鏡〕、此ハ要スルニ所謂縁起ノ主張ニシテ、實ハ足柄越ノ閉塞シ此山道ノ開カレテヨリ後、奧州ニ往來スル旅人ニ由リテ運搬セラレタル信仰ナリシカモ知レズ。兎ニ角ニ此ノ如ク古キ神ナレバ、其名ノ由來ヲ解説スルコトハ容易ノ業ニハ非ズ。即チ假令駒ノ一字ガ共通ナリトテ、馬ノ保護者ニシテ兼ネテ蠶ノ神タル今ノ「オコマサマ」ヲ、駒形神社ト改メ稱フルノ正シキカ否カハ、今直チニ決スルコト能ハザル難問題ナリ。自分ノ信ズル限ニテハ、少ナクモ駒形ト云フ語ノ解釋トシ(127)テハ、地名辭書等ニ採用シタル觀迹聞老志以下ノ通説ハ疑ヲ容ルヽ餘地アリ。雪ナリ岩ナリ其形?ガ駒ニ似タルガ故ニ駒形ト謂フナリト説クハ、恐クハ形ト云フ文字ニ拘泥シタル意見ナルベシ。駒ニ似タル「カタチ」ヲ以テ駒形ト稱スルハ、昔ノ造語法トシテハ不自然ナリ。「カタ」ハヤハリ押型ナドノ型ニシテ、手形ノ形ト同ジク物ノ上ニ印サレタル跡ヲ意味スルモノト解スベシ。而シテ馬ガ其跡ヲ留ムト云フニハ言フ迄モ無ク其蹄ヲ以テセザルベカラズ。サレバ古代ノ奧州ノ駒形神モ亦多クノ社ノ神々ノヤウニ、祭ノ日ニ神馬ニ騎リテ降ラレタルガ、其馬ノ痕跡殊ニ鮮カニ岩カ何カノ上ニ殘リシ爲ニ、頗ル地方ノ信仰ヲ繋ギ、從ヒテ其御神ノ名トモ爲リシカト思ハル。始メテ社ヲ建ツルト同時ニ又ハソレヨリモ以前カラ、駒形ハ其地ノ地名ナリシヲ、神ノ御名ニモ及シタリト見ルモ差支無シ。勿論此ハ駒形神社ノ名ノ由來ヲ想像シタル迄ニテ、其後色々ノ神秘ガ附加ヘラレ、或ハ本然ノ信仰ニ多少ノ變動ヲ及スニ至リシコトモ、決シテ無シトハ言フ能ハザルナリ。

　駒形卜云フ神ハ、必ズシモ延喜式ナドヲ捜索セズトモ、現代諸國ノ平地ニイクラモ之ヲ祀リテアルコトハ事實ナリ。但シ其分布ガ東北ヨリモ寧ロ關東ノ諸國ニ多キハ、多分ハ箱根ノ感化影響ナルベシ。而シテ山城朝初期ノ駒形神ガ如何ナル御神ナリシカハ不明トシテモ、近世ノ駒形權現ガ馬ト深キ關係アリシコトハ爭フ能ハズトス。箱根ニハ今ヨリ四百五十年前ノ縁起殘存ス。鎌倉時代ノ記録ニ基キテ起草ストアリテ、ホボ又吾妻鏡ノ記事トモ一致スレドモ、其神ノ由來ニ至リテハ固ヨリ本居平田兩大人ノ神道ニテハ之ヲ説明スル能ハザルト同時ニ、佛教ヨリ言フモ尚且ツ一種ノ異端ナリシガ如ク、密宗ノ曼陀羅思想ヲ以テ辛クシテ之ト聯絡ヲ保チ得タリシ姿アリ。最初此山ニ三代三人ノ異人出現ス。其名ヲ聖占仙人利行上人及ビ玄利老人ト謂フ。聖占ハ高麗權現即チ駒形神、利行ハ能善神、玄利ハ即チ高根神《タカネジン》ナリ。此山ニハ右ノ三神ニ奉仕スル爲ニ多クノ修驗者ト比丘尼ト住ミタリト云フコトナルガ、彼等ハ果シテ本山當山ノ行人タチノ如ク、佛道ニ染上ゲタ(128)ル者ナリシカ否カハ疑問ナリ。山ヲ降リテ村々ニ勸請セラレシ駒形ニモ、頗ル後世ノ富士行者ノ如キ面目ヲ存セシ者アリキ。例ヘバ相州｜酒匂《サカワ》村ノ鎭守駒形社ノ如キ、祭神ヲ??草葺不合尊ト稱シテ木ノ御立像ヲ安置スル外ニ、別當寺ニ御生題《ミシヤウダイ》ト稱スル銅鏡ニ鑄出シタル神像アリ。唐服ヲ著タル仙人ノ如キ姿ニシテ、其鏡ハ普通ノ懸佛ト云フ物ト同ジカレドモ、兩側ノ紐附ノ耳ニ當ル場所ニ奇怪ナル人ノ顔ヲ鑄出シ、裏面ニハ天文二十二年駒形大權現御生題ト刻シタリキ〔新編相模風土記〕。御生題ハ勿論御正體ノコトナランモ、兎ニ角ニ一種異樣ナル信仰ノ對象ナリ。甲州其他ノ地方ニ御生題山ト云フ高山アリ。中古修驗道ノ遺跡ナラント思ヘド、土地ノ人モ多クハ地名ノ由來ヲ説明スルコト能ハズ。

　箱根ノ駒形ガ馬ノ神ナリシト云フコトハ、古記ニ據リテ之ヲ推定スルコト能ハズ。唯今日僅カニ地名又ハ神名ノ解釋トシテ、茲ニモ例ノ駒ノ「カタチ」ヲ、彫リタル石アリト傳フルノミ。更ニ此火山ノ南側、伊豆ノ輕井澤ヲ下リニ赴ケバ、路ノ右ナル松ノ中ニ駒方權現ノ社アリ。三尺ニ二尺五寸ノ平石ニ駒ノ形ヲ浮彫ニシ、烏帽子單衣ヲ著シテ乘レル人アリ。土地ノ者ノ説ニハ、昔頼朝公ノ愛馬此處ニテ俄カニ死ス。依リテ駒方ノ神ニ齋フト云ヘリ〔伊豆志四〕。里ニ在ル駒形社ノ多クハ明白ニ馬ノ保護神ナリ。武州中尾ノ駒形社ノ三個ノ白馬像ノ例ノ如ク、駒形神ノ本地佛トシテ馬頭觀音ヲ説ク者多シ。東京淺草ノ駒形堂モ本尊ハ亦馬頭觀音ナリ。今ハ町中ノ堂トナリテ馬バカリニテハ堂守ノ暮シ立タヌ故、外ノ祈願モ無論聽キタマフト雖、其御禮參ニハ後々マデモ小サキ馬ノ形ヲ作リテ之ヲ奉納ス。馬頭觀音ハ日本ノ田舍ヲ見タル人々ノ何レモ由來ヲ知ランコトヲ欲スル一ノ奇現象ナリ。誤レリヤ否ヤハ知ラザルモ自分ハ之ヲ斯ク解釋ス。今日道傍ニ立ツ馬頭觀音ハ簡略ニ文字ヲ刻ミタル石碑多ケレドモ、以前ハ專ラ馬ノ頭ヲシタル石像又ハ木ノ柱ナリシヲ、道祖神《サヘノカミ》ヲ地藏ニシテ了ヒシト同一ノ筆法ニテ、佛教ノ方ノ人々ガ辛苦シテ珍シキ經典ノ中ヨリ馬頭觀音ノ名ヲ見出シ、早速其名ヲ採用セシモノナルベシ。天竺ノ觀音ノ像ニ馬ノ頭ヲ冠ニシタルモノアルハ、佛道ヲ宣傳(129)スルコト恰モ馬ガ野ノ草ヲ食ヒ行クガ如シト云フ象徴ナリト聞ケド〔島地大等師説〕、日本ノ馬頭觀音ニハサル思想モ無ケレバ、此ノ如キ大流行ヲ促スベキ動機ニ乏シ。今日ノ路傍ノ馬頭觀音ハ大抵馬ガ其場處ニ斃レシヲ供養スル爲ニ立テタリト云フモ、而モ其石ノ前ニ線香ヲ焚キ花ヲ供フルコト絶エザルハ、今後往來ノ馬ニ同ジ災ノ無キコトヲ祈ルナリト云ヘリ。全ク以テ佛法ノ薄キ被衣《カツギ》ヲ著タル昔ノ馬ノ神ノ面影ナラズヤ。此故ニ日分ハ馬頭觀音ノ元ノ名ハ馬頭神ナラント思ヘリ。甲州ナドノ馬頭觀音ノ石像ハ、今モ馬ノ首ヲ頭上ニ戴キテハアレド、頭ヨリ下ハ眞ノ觀音ニ成切ツテ、馬ノ首ハ追々ト小サク、殆ト丁髷ホドニ退化シタル者多シト云ヘリ〔甲斐落葉〕。自分ハ又相州ノ西秦野村及ビ上秦野村ニテ、近年ノ建設ニ係ル鮮明ナル馬頭神ノ石體ヲ見タリ。馬ノ首ヲ戴ケル人物ハ何レノ點ニモ觀音ラシキ樣態ナク、寧ロ常陸ナドノ子安神《コヤスガミ》トヨク似テ女體ナルカト思ヘリ。東京ノ西郊下練馬ト上板橋トノ境上ニハ、青面金剛神ノ石像、足下ニ「アマノジヤク」ヲ蹈ミ鷄ヲ隨ヘツヽ、而モ頭ニ馬ノ首ヲ戴ケル者アリ。寛政年間ノ建設ナリキ。

　淺草駒形堂ノ觀音ハ淺草寺ノ觀音ト昔ハ何カノ關係アリシモノニハ非ザルカ。二百年來ノ江戸人ハ、アマリニ筆豆ニシテ却リテ昔ノ事ヲ不明ニシタル傾キアレド、少ナクモ此堂ノ地ガ往古淺草觀音ノ境内ナリト云フ記事ハ信ズルニ足レリ〔地名辭書〕。然ルニコノ淺草寺ノ片脇田原町ニ、近キ頃マデ田村八太夫ト云フ關東ノ舞々ノ總取締居住セリ。舞々ハ所謂陰陽師ノ一分派ニシテ、又神事舞太夫トモ稱ヘ、各地ニ二戸三戸ヅツ村ノ端ニ住ミテ、常ハ普通ノ百姓ト同ジク農商ヲ營ミ、祭禮ノ折バカリ社頭ニ出デテ舞ヲ舞フヲ役トス。又頼マレテ祈?ヲ爲ス。色々ノ神ノ繪札ヲ配リテ米錢ヲ貰フ。其女房ハ多クハ例ノ梓巫《アヅサミコ》ニシテ、此モ亦札ヲ配ルヲ以テ職業トスル者ナリ。田村八太夫ノ書上ニ依レバ、後世ノ舞々ガ配ル札ハ大黒ノ像、青襖《スアウ》ト稱スル繪馬及ビ竈神ノ札ノ三種ナリト云フニ〔嬉遊笑覽〕、一説ニハ舞々本來ノ家職トシテ配ルハ日暦十二神ノ札及ビ神馬ノ札、梓巫ガ家職トシテ配ルハ繪馬ト稱シテ猿ノ馬ヲ牽ク繪札ナリトモ云ヘリ〔寺社捷徑〕。右ノ如ク配(130)札ノ種類モ更ニ一定セズ、現ニ田村ガ配下タル上州高崎｜新町《アラマチ》ノ神事舞太夫ノ如キハ、彼等ノ奉仕スル三社權現ノ御札ナリト稱シテ之ヲ村々ニ配リ居タリ〔高崎志〕。三社權現ハ淺草觀音ノ境内ニモ在リ、田村八太夫實ニ此ガ神主タリキ。田村ノ神道ハ昔トシテハ一寸奇拔ナル神道ナリ。天思兼命ノ神傳ナリト稱シテ、白川吉田二家ノ支配ヲ受ケズ。別ニ舞太夫梓巫ノ輩ヲ糾合シテ一派ノ習合説ヲ立テ居タリ〔續甲子夜話七十三〕。田村派ノ主張ニテハ、淺草ノ三社權現ノ祭神ハ往古宮戸川ノ流ニ於テ一寸八分ノ觀音像ヲ感得セシ檜熊濱成武成三人ノ兄弟ナリト稱スレドモ、之ヲ信用スルハ餘程ノ骨折ナリ。檜熊ハ元來濱成武成兩人ノ苗字デアル筈ナリ。無理ニ三ツニ切リテ三社ニ附ケ合セタル形アリ。之ニ比ブレバ高崎ノ三社權現ニ於テ三社トハ荒神ト駒形ト大黒トナリト云フ方寧ロ無頓著ニシテ面白シ。勿論此トテモ驚クニ堪ヘタル烏合ノ衆ナレドモ、之ニ由リテ元禄以後田村氏ノ定メタル三種ノ配札ナルモノノ中、青襖ノ像ト云フ繪札ノ、モト駒形信仰ヨリ出デタルモノラシキコトヲ想像シ得ル便リトハナル也。高崎ノ三社神中ノ大黒、田村ノ三種ノ配札中ノ大黒ノ像ハ取分ケテ不調和ノ感アレドモ、此ハ舞太夫ノ徒ガ其商賣敵タル惠比須願人《エビスグワンニン》ト稱スル別派ノ太夫ニ對抗スル爲ノ一策トモ考フルコトヲ得ベシ。元禄頃ノ册子ニ舞々ガ歳ノ暮ニ困り、當時流行ノ大黒舞太夫ニ早變リシテ錢儲ケヲシタル話モ思ヒ合サルヽナリ〔嬉遊笑覽〕。大黒ハ以前ノ摩多羅神ノ思想ヨリ推スモ必ズシモ臺所ト縁無シトハ言ヒ難シ。荒神ト駒形トニ至リテハ竈ヲ中ニ置キテ正シク攻守同盟ノ間柄ナリ。確カナルコトハマダ知ラザレド、カノ青襖ノ像ナルモノモ、或ハ「エビスサマノカホカクシ」トモ云ヒテ、後ニハヤハリ貰ヒ受ケテ竈ノ側ニ貼置クベキモノナリキト云ヘリ〔山中笑翁談〕。竈ト馬トノ深キ關係モ、或ハ同ジ陰陽師ガ古クヨリ二種ノ札ヲ一緒ニ取扱ヒ來リシガ爲ニ、イツト無ク理窟ヲ附シテ之ヲ結ビ合セタル者トモ見ルコトヲ得。何レニシテモ舞々ノ如キ特殊ノ巫祝ガ駒形信仰ノ傳播ニ參與シテアリシコトハ注意スベキ事案ナリ。今日ハ箱根以西ノ國々ニ於テハ、馬ノ神ノ崇拜ハ盛ナレドモ駒形ノ名ハ關東ホドニハ行ハレテアラズ。然ル(131)ニ南北朝時代ノ記録ニハ山城男山ノ八幡宮ニモ駒形神人ナル者ノ有リシコトヲ傳フ〔園太暦正平元年八月十二日條〕。而シテ男山ノ八幡ハモト九州ヨリ上リタマヒシ神ナリ。此故ニ陸中ノ駒形神社ノ現況ヲ以テ昔ノ駒形ノ眞相ヲ類推セントスルハ、返ス／”＼モ道理ナキコトニテ、「オコマサマ」ノ特色ハ必ズシモ之ヲ全國ノ馬ノ神ニ伴フモノトスル能ハザルモ亦明白ナリ。

（天然物崇拜、名馬池月、要石、馬乘石、馬石、爲朝、道ノ神、駒岩、駒形濱、九十九、巌ト塚、名馬磨墨、太夫黒、馬ノ墓地、馬シカ、名馬ノ塚、池ト馬、鞍掛松、榎、固有名詞、御靈、馬ノ祟、祝神、大豆ノ忌、泣祭、馬ノ首、實盛、馬ト蝗、磨墨、頼政、亡念ト馬、駒ト岩屋、生駒、巨馬、七座、大骨、妙見、馬醫、白樂天、馬神祭式、鞍塚、聖�ｺ太子、卒都婆、八月十五日、三人ノ子、馬醫ハ神職）

馬塚ハ馬ノ神　駒形ノ最初ノ意義ガ假ニ神降臨ノ遺跡ヲ示スコト自分ノ説ノ如クナリキトスルモ、此ト同時ニ馬其物ヲ神トスル別種ノ信仰アリシコトハ亦看過スベカラザル事實ナリ。神ガ本地佛ノ形態ヲ以テ一ノ社ニ永ク留リ、神迎神送ノ思想ガ形バカリノ儀式トナリ終ルト共ニ、我々ノ同胞ガ宗教生活モ一時却リテ天然物崇拜ノ境涯ニ逆戻リシタル時代アリ。語ヲ換ヘテ言ハヾ、神モ召サザル馬バカリヲ怖レ且ツ?リタル例ハ甚シク多キナリ。例ヘバ阿波國ニハカノ丹生明神ガ乘捨テラレシト云フ石馬ノ外ニ、今一ツ有名ナル天馬石アリ。名所圖會ニハ勝浦都田野村トアレドモ今ハサル村ノ名無シ。恐クハ今ノ多家良村大字宮井ノ附近ナルベシ。天ヨリ降リテ石ト成ルトモ云ヒ、或ハ源氏ノ名馬池月爰ニ來リテ死ストモ傳フ。名所圖會ノ挿畫ニ伏シタル馬ノ形ニ描ケルハ所謂繪空事ニテ、誠ハ高サ四尺バカリノ立姿ナリ。ソレモ小兒ガ石ヲ打付ケナドシタル爲ニ、前ノ如クハ形ノ似テ居ラヌヤウニナレリト云ヘバ、今日ハ最早ドウナリタルカ分ラヌナルベシ。或ハ鹿島ノ要石《カナメイシ》ノ如ク地底ヨリ生エ貫キタリト云ヒ、又ハ此石ニ耳ヲ當テヽ聽ケバ浪ノ音遙カニ響キ、舶漕グ人ノ聲轡ノ音ガスルナドト傳ヘラレシモノナリ〔以上燈下録〕。飛騨大野郡清見村ノ龍ケ峯ノ峠ニモ、天ヨリ降リシ龍馬ノ化石ト稱シ駒ノ形ヲセシ大石アリ。連錢ノ紋マデモ鮮明ナリキト云ヘバ〔北道遊簿〕、此モ亦葦毛ナリシナラン。此峠ハ以前ノ往還ナレバ之ヲ見聞セシ人モ多カランニ、或説ニハ單ニ龍馬ノ蹄ノ痕ガ岩ノ上ニ有ルバカリノ如クニモ記セリ〔飛騨之山川〕。今日トナリテハ決シ難キ疑問ナリ。播磨宍粟郡｜神戸《カンベ》村大字｜須行名《スギヤウナ》ニテハ、岡城山ノ谷川ノ中ニ馬乘石アリ。馬ニ似タル岩ノ上ニ又岩アリテ人ノ乘ルガ如シ〔播磨鑑〕。(132)大和ノ橘寺ニハ古キ石人一?ヲ巖石ニ彫付ケ其側ニ馬ノ如キ獣アリ。俗ニ之ヲ阿彌陀ト言ヒ、又聖�ｺ太子ト甲斐黒駒ノ像ナリト云フ〔遊嚢※［謄の月が目言が貝］記〕。江州ノ石馬寺ニハ門前ノ池ノ側ニ馬ノ形ヲシタル石體在リ。此モ亦太子ノ遺跡譚ヲ傳ヘタリ〔大内青巒氏談〕。越後北蒲原郡加治村大字｜著荷谷《ミヤウガダニ》ノ山中、藥師堂ノ傍ニ大石アリ。縱ハ一丈バカリ横ハ七尺餘、半ハ土中ニ没ス。土人之ヲ馬石ト名ヅク。其形臥馬ノ如シ。石上ノ苔ノ中ニ二寸ホドノ白毛ヲ生ズトアリ〔越後野志十八〕。肥前西松浦郡大川村｜駒鳴《コマナキ》ノ駒鳴峠ニモ駒ニ似タル石アリキ。昔鎭西八郎爲朝櫻野ノ池ニ於テ大蛇ヲ退治シ、其鱗ヲ馬ニ積ミテ此阪路ニ掛リシニ、アマリ荷ノ重キ爲ニ馬ガ嘶キタリ。峠ノ名ト村ノ名ハ此ヨリ起ルトノミアリテ、此ニハ化石ノ物語ハ傳ヘザレドモ、此峠ナル石ノ馬モ夜毎ニ聲ヲ立テヽ往來ノ人ヲ劫カセシ故ニ、後ニ石屋ヲ頼ミテ之ヲ打割ラシムト云ヘリ〔松浦記集成〕。此モ亦今ハシカトシタル形ハ無キナルベシ。山城井手玉川ニ沿ヒタル雨山ノ雨吹龍王社ノ址ニ殘レル駒岩ハ正シク人作ナリ。自然ノ大岩ノ面ニ駒ノ形ヲ浮彫ニシテ甚ダ古雅ノモノナリシガ、今ハ磨滅シテ明瞭ナラズ。舊記ニ依レバ保延三年五月六日ノ文字アリシ由ナリ〔綴喜郡志〕。石ニ詳シキ雲根志ノ説ニ依レバ、遠江國ニ駒形濱ト云フ渡海ノ湊アリ。海底ニ馬ノ形ヲシタル大岩アリテ、出入ノ船ニ馬又ハ馬ノ繪アル物ヲ運ブトキハ必ズ祟ヲ受ケテ難船ス。故ニ骨牌ノ荷ナドヲ送ルニモ、四十八枚ノ中ヨリ特ニ馬ノ繪ノミヲ拔キテ之ヲ陸ヨリ廻送スト云ヘリ。遠州ニハ駒形ト云フ船著ハ無ケレドモ、榛原郡御前崎ノ突端ニハ駒形大明神ノ社アリ。此邊ノ海ニテハ何故カ航路甚ダ磯近クニアリテ、岬ニ續ケル暗礁ノ爲ニ船ヲ損ズル者昔モ今モ絶ユルコト無シ。湊ト云フ程ニハ非ザレドモ神社ノ東ノ山陰ニ僅カノ船掛リ場アリ。自分ガ旅行シテ聞取リタル所ニテハ、沖ノ御前ノ岩ニハ天然カ人工カハ知ラズ、九十九疋ノ駒ノ形アリテ汐干ノ時ニハ鮮カニ見ユト云ヘリ。但シ馬ヲ忌ムト云フ話ニ就キテハ終ニ之ヲ知レル人ニ逢ハザリキ。「メクリ」ノ骨牌ヲ江戸ニ送ル話モ實ハアマリニ出來過ギタリ。卯花園漫銀ニハ大阪ヨリ江戸へ送ル骨牌ノ中ヨリ馬ノ繪ノミハ陸送リスルナリト云ヘド、(133)土地ノ人ノ知ラヌ話ナレバ猶如何カト思ハル。

　又馬石ニ對シテ馬塚又ハ名馬塚ト云フ塚モ諸國ニ多シ。此ハ獨リ馬石ニハ限ラズ、石ノ無キ土地ニ於テ塚ヲ以テ石ニ代フルハ常ノ例ニシテ、鷄石ニ鷄塚、烏帽子岩ニ烏帽子塚、休石ニ休場、鉢石ニ鉢塚等多クハ皆然リ。馬塚ノ有名ナルモノハ尾張丹羽郡羽黒村大字羽黒ノ磨墨塚《スルスミヅカ》。此ハ其附近ニ梶原某ト云フ武士ノ居住セシ爲ニ起リタル説ラシク、塚ノ上ニ一樹ノ梅ノ栽ヱラレタル迄モ箙《エビラ》ノ梅ノ故事ニ附會シタリ〔犬山名所圖會〕。讃岐木田郡牟禮村大字牟禮ニハ義經ノ愛馬太夫黒ノ墓アリ。屋島戰捷ノ後佐藤嗣信ノ追善ノ爲ニ太刀一振ト共二此馬ヲ志度寺《シドデラ》ニ寄進ス。志度寺ニハ厩無リシカバ此村ノ極樂寺之ヲ預カル。後ニ嗣信ノ墓前ニ赴キテ死スト傳ヘラル〔讃岐三代物語〕。下總印旛郡船穗村大字船尾ニモ字名馬塚アリ。未ダ其由來ヲ知ラズ。出羽ノ莊内領塔ノ腰山ノ麓ニ小サキ祠アリテ馬頭觀音ノ石像ヲ祀ル。酒井家ノ先代大乘院殿ノ召サレシ大河原毛ト云フ名馬ノ塚ナリ。此ヨリ此處ヲ御召馬ノ葬處ト定メラル〔三郡雜記下〕。備前邑久郡國府村大字福里ニ馬塚アリ。盛衰記ノ勇士｜海左介《ウンノサスケ》ナル者ノ名馬ヲ埋ム。左介此馬ニ騎リテ海上ヲ馳騁セシガ、或時沖ニテ馬鹿《ウマシカ》ト云フ物ニ遭ヒテ、其馬傷ツケラレ歸リ來リテ死スト云フ〔和氣絹上〕。馬鹿ト云フガ如キ妙ナ怪物此世ノ中ニ在リヤ、我ハ幸ニシテ未ダ知ラザルナリ。蒲冠者範頼ノ乘馬ハ虎月毛ト名ヅク。亦一ノ名駿ナリ。九州征伐ノ折菊池家ノ先祖之ヲ拜領ス。數代ヲ經テ此馬猶堅固ナリ。後五百石ノ禄ヲ宛行ヒテ休息セシム。寛永年間ニ至リ齡五百餘歳ニシテ歿ス。野送ノ伴ヲスル者一千人、其馬ノ墓碑極メテ宏大ナル者殘存スト云フ〔阿州奇事雜話一〕。名馬ノ爲ニ墓ヲ築クト云フ傳説ハ決シテ新シキモノニ非ズ。現ニ播磨ノ古風土記ノ記事ニモ、飾磨郡｜貽和里《イワノサト》ノ船丘ノ北邊ニ馬墓及ビ馬墓池アリト見ユ。昔ノ昔大泊瀬天皇ノ御世ニ、尾治連《ヲハリノムラジ》等ガ先祖長日子ナル者、死スルニ臨ミテ最愛ノ妾ト馬トヲ葬ルコト吾ニ准ゼヨト遺言ス。故ニ第二ノハ其女、第三ノ墓ハ馬ヲ埋メタルモノナリ。後世ノ國司ニ上生石《カミオフシ》太夫ナル者アリ、馬墓ノ邊ニ池ヲ構ヘタリトアリ。自分ハ此話(134)ヲ以テ、或史學者ノスルガ如ク、古キガ故ニ之ヲ史實ナリトハ視ルコト能ハズ。殊ニ丘ヲ船丘ト謂ヒ、又馬塚ニ據リテ池ヲ築クト云フガ如キハ、後代ニモ類例多キ龍神ノ信仰ヲ表示スルモノナリト言フコトヲ得。

　越後西蒲原郡峯岡村大字平澤ノ馬塚ハ、土人ハ之ヲ鞍掛松トモ稱ス。昔上杉謙信此地ニ來リシ時、其愛馬暴カニ病ミテ死ス。因ツテ之ヲ埋メテ塚ノ上ニ松ヲ栽ヱタリト云フ〔越後野志十一〕。此話ノ武州馬引澤ノ駒繋松トヨタ似タルコトハ誰シモ心附クベキナリ。鞍掛松ノ名モ偶然ニハ非ザルニ似タリ。之ニ由リテ案ズルニ、多クノ馬塚ノ由來ニハ單純ナル記念ト云フ外ニ信仰アリ。肥後八代郡宮原町大字｜拵《カコヒ》ニテハ、街道ノ傍ニ一所ノ馬神ヲ祀レリ。豐臣秀吉島津征伐ノ途次、村雨ト云フ愛馬ノ斃レタルヲ、此處ニ埋メテ印ニ榎ヲ栽ヱタリ。里人之ヲ馬ノ神ト崇敬シテ永ク往還ノ馬ノ爲ニ其平安ヲ祈願スル風習アリキ〔肥後國志〕。此等ノ口碑ヲ比較スルトキハ、固有名詞ノ必ズシモ大ナル要素ナラザリシコトヲ知ルニ足レリ。岩代河沼郡若宮村大字牛川字牛澤ノ名馬塚ハ、曾テ佐瀬上總ト云フ地侍アリテ、最愛ノ駿馬ヲ新地頭ノ蒲生殿ニ取ラルヽヲ惜ミ、馬ヲ殺シテ身モ亦自殺セシ、其馬ノ塚ナリト傳ヘラル〔新編會津風土記〕。此話一ツノミヲ聞ケバ、如何ニモ尤モラシキ中世ノ武邊咄ナレドモ、過去三百年ノ間、土地ノ百姓ノ信仰生活ト交渉セシ點ハ、恐クハ右ノ「ローマンス」ノ中心ヨリハ遠キモノニテ、人及ビ馬ノ怨恨ト、之ニ基ク馬ノ祟ト云フコトニ重キヲ置キシ傳説ナルベシ。此一條ノ如キハ、所謂御靈信仰ノ起原即チ邪神《アシキカミ》又ハ荒神《アラブルカミ》ノ思想ト縁遠クナリタル人々ニハ少シク信ジ難キコトナランモ、馬ガ死シテ村里ニ災シタリト云フ例ハイクラモ有ルナリ。例ヘバ讃岐三豐郡莊内村大字箱ニ於テハ、昔八幡宮ノ神馬?々夜出デテ畠ノ物ヲ荒スニ因リ、浦人某ナル者之ヲ殺シタルニ、忽チ心亂レテ病ニ罹リ、後ニハ一村ニ祟ヲ蒙ムル者多カリシカバ、終ニ馬骨ヲ取集メテ馬神塚ヲ築キ、之ヲ馬神ト祀リテ漸ク其患ヲ免レ得タリ〔西讃府志〕。備後絲崎ノ柿崎八幡宮ノ境内ニ馬出《ウマダシ》馬神ト云フ祠アリ。昔此八幡宮ノ神馬モ同ジ惡癖アリテ、夜ナ夜ナ田畠ノ大豆ヲ喰ヒケルヲ、土地ノ者過リテ之ヲ打殺セシニヨリ祝(135)神ト祀リタリ。此故ニ絲崎谷ニテハ決シテ大豆ヲ栽培セズ。之ヲ犯ス者ハ祟アリキト云フ〔三原志稿〕。常陸鹿島郡大同村ノ六月十五日ノ泣祭ナルモノモ、本來馬ノ靈ヲ弔フノ目的ヲ以テ營マレ、事ノ始末ハ頗ル馬引澤ノ葦毛ノ話ト相似タリ。或年此村ノ?田《フケタ》ノ泥ノ中ニ陷リテ一頭ノ馬死ス。其後此田ヨリ馬ノ面ニ似タル害蟲發生シテ耕作ヲ荒シ、祈?其效ヲ奏セザリシ餘ニ、或ハカノ馬ノ祟ニハ非ズヤト心附キ、馬ヲ祭ルコトヽナリテヨリ始メテ蟲ノ出ルコト熄ミタリ。故ニ毎年六月望ニ一村休業シ、鉦太鼓ニテ大聲ニ泣キ廻ルト云フコトナリ〔日本宗教風俗志〕。蟲送ニ鉦鼓ヲ鳴ラスコトハ弘ク行ハルヽ風習ニテ、一般ニハ害蟲ヲ戰場ニ歿シタル者ノ亡靈ノ所爲ナリトス。實盛ノ祭ナルモノ即チ是ナリ。勿論馬ニ限リシコトニハ非ズ。併シ伊勢大神宮ノ御神田《ミカンダ》ノ神事ニ、舞ヲ舞フ祝《ハフリ》等ノ手ニ持ツ御田扇ニハ馬ヲ描キ、之ヲ以テ熱病ノ患者ヲ扇ゲバ熱ガ醒メ、又之ヲ以テ田ヲ扇ゲバ蝗《タムシ》ガ附カズト云フヲ見レバ〔本朝俗諺志五〕、古クハ馬ト田ノ蟲トノ間ニ何カノ關係アリシナラン。蓋シ此等ノ馬ドモハ素ヨリ名モ無キ田舍者ナルニ、而モ猶斯バカリノ威靈ヲ行フコトヲ得タリシナリ。況ヤ天下ノ駿足ノ身ノ果ニ至リテハ、其憤怨ノ勢ハ到底之ヲ推測スルコト能ハズ。磨墨《スルスミ》ハ馬ノ最モ不遇ナル者ナリ。池月ナカリセバ能ク一代ニ雄視スルコトヲ得タリシナランニ、由ナキ主取ガ基トナリテ、生キテハアラユル壓迫ヲ受ケ、終ニ狐崎ノ悲運ニ殉ジタリト云フナリ。要スルニ化ケズシテハ居リ難キ馬ナリ。似タル例ヲ引クナラバ、源三位頼政ガ平家ノ爲ニ奪ハレントセシ木下ト云フ名馬モ、死シテ後山城葛野郡木島明神ノ附近、寶金剛橋《ホウコンガウバシ》ノ南ノ田中ニ神塚ヲ築キテ祭ラレタリ。木島明神ノ名モ木下ヨリ出ヅト云フ雜説マデ古クヨリアリシモ〔臥雲日件録長禄二年閏年正月二十五日條〕、夫ハ勿論ノ誤ニシテ、社ノ東ニ在リト云フ養蠶社《コカヒノヤシロ》コソ或ハ此馬ノ神ナランカト謂フ〔都名勝圖會〕。又誰ガ唱ヘ始メタルカ知ラズ、此馬ハ頼政ニ退治セラレシ鵺《ヌエ》ノ生レ變リニシテ、彼ガ一家ノ滅亡ヲ招クノ源トナリシそ、昔ノ怨ヲ馬ト成リテ報イタルナリト云フ噂サヘアリシナリ〔臥雲日件録同上〕。

(136)　馬ノ神ノ信仰ハ必ズシモ死靈ニノミハ限ラレテアラズ。諸國ノ駒ケ嶽ニ活キタル神馬ノ往來ヲ見ルト云フ如ク、越前ノ穴馬谷《アナマダニ》ナドニモ穴ノ中ニ馬アリテ、時トシテ谷ノ口ノ鹽井ノ水ヲ來テ飲ムト云フ説アリ〔大野郡誌〕。多クノ巖窟ニハ駒ノ住ムト云フ口碑存セリ。甲斐西八代郡古關村大字瀬戸字山中ノ栃木澤《トチノキザハ》ニハ、土人ガ駒ノ寢處ト稱スル岩穴アリ。夏ハ涼風ヲ起シ冬ハ暖風ヲ生ズル爲ニ、其中ノ草ノミハ夏枯レテ冬繁茂スト云ヘリ〔甲斐國志〕。今ナラバ蠶ノ種紙デモ藏シ置クベキ一ノ風穴ニ過ギザレドモ、昔ノ人ニ取リテハ濫ニ近ヅクベカラザル靈地ナリシナリ。此等ハ所謂｜活馬《イコマ》ノ神ノ信仰ノ殘片ニシテ、起原頗ル古キモノナルベキモ、塚穴ヲ以テ悉ク葬處ト看做ス後世トナリテハ、追々ト此ヲモ死馬ノ幽靈ト考フルガ如キ傾向ヲ生ゼシガ如シ。多クノ馬塚ハ恐クハ掘ツテ見レバ何モ無ク、唯ノ祭場タル封土《モリツチ》ニ過ギヌナルベシ。馬ヲ一疋埋ムルハ決シテ容易ノ業ニ非ズ。故ニ塚ノ形ノアマリニ小サキ場合ノ如キハ、是非無ク馬骨ヲ集メテ之ヲ埋メタリナドト云フナリ。陸奧上北郡六ケ所村大字出戸ノ口碑ニ至リテハ更ニ一段ノ荒唐ヲ加フ。曰ク昔此村ニ常ノ馬ヲ四ツ五ツモ合セシホドノ大馬出現シテ、人ヲ追ヒ牧ノ馬ヲ食フ。其大馬ノ出デタル故ニ大字出戸、之ヲ捕ヘテ檢分セシ故ニ大字｜高架《タカホコ》、馬ノ形ガ平カナリシ故ニ大字平沼ノ地名ハ生ジタリ。又之ヲ射殺シテ埋メシ塚ヲ「七クラ」ト云フハ、馬ノ背長クシテ鞍ヲ七ツ置クホドナリシ故ナリトモ傳ヘタリ。其後領主ノ命アリテ此塚ヲ發キ白骨ヲ取出シ見ルニ、背骨ノ周圍二尺ニ餘レリ云々〔眞澄遊覽記八〕。思フニ「ナヽクラ」ハ七座《ナヽクラ》ニシテ北斗七星ノ崇拜ニ基ク名ナルベシ。龍馬ヲ妙見ニ配スルコトハ前ノ磐城相馬ノ例モアルナリ。此ノ如キ巨大ノ白骨ナルヲ、如何ニシテ鯨カ何カノ物ニ非ザルコトヲ確メ得タリシカ、怪シキ話ナリト言フベシ。此迄話ガ進ミテ來レバ、死馬ノ祟ヨリモ活馬ノ威力ノ大ナルコトヲ認メザル能ハズ。カノ奧州ノ蒼前神ノ神體タル白馬ハ立往生ヲセシ馬ナリト謂ヒ、或ハ猿牽ノ傳書ノ中ニ葦毛ハ死シテ復蘇リシ馬ナドト云フガ如キハ〔考古學雜誌二卷十號拙稿「勝善神」〕、恐クハ生死二樣ノ信仰ヲ調和セントシタル努力ノ結果ナランカ。猿牽ハ予輩(137)ノ信ズル所ニテハ以前ハ馬醫ヲ兼ネ居タリ。而シテ理想ノ馬醫即チ伯樂ハ能ク死馬ヲ活スコトヲ得タリト信ゼラレシ故ニ、後世ノ俗人ハ又之ト誤解シテ白樂天ヲ崇拜シタリ〔猿屋傳書〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎字荒瀬ノ馬頭觀音ハ、觀音ト稱シナガラ小サキ祠ニシテ其正體モ二箇ノ石像ナリ。昔玄心玄參ト云フ兄弟ノ馬醫アリ。串木野村ノ人トモ又｜市來《イチク》ノ者トモ謂フ。死馬ノ既ニ皮ヲ剥ガレタルヲ見テ、此馬尚生氣アリト言ヒ、紙ヲ以テ之ヲ包ミ藥ヲ飲マシムルニ馬忽チ蘇生ス。里人之ヲ見テ必ズ魔法ノ所爲ナラント思ヒ、後ノ害ヲ慮リテ兩人ヲ殺シ、而モ祟ヲ畏レテ之ヲ馬頭觀音ニ祀リタリ。其祭ノ日ハ六月十八日ニテ、夥シキ人馬遠近ヨリ參詣スト云フ〔三國名勝圖會〕。羽後南秋田郡北浦町附近ニテハ、以前ハ厩ノ柱ニ鳥居ヲ描キ置ク風習アリキ。馬醫ガ始メテ二歳駒ノ鍼ヲスル時ニ、其血ヲ以テ藁又ハ其駒ノ鬣ニ浸シ、此ノ如キ鳥居ヲ描キテ馬ノ神ヲ祭リシモノナリ〔眞澄遊覽記二十九〕。近江阪田郡鳥居本村大字原ノ八幡山ノ麓ニ、馬塚鞍塚ノ二ツノ塚ト太子堂トアリ。此山ノ寶瑞寺俗ニ八幡堂ト稱スル寺ノ縁起ニ依レバ、抑此八幡ハ聖�ｺ太子ノ勸請シタマフ所ナリトハ誠ニ驚クベキ事實ナリ。太子ハ何カノ都合ヲ以テ此邊マデ來テ佛敵ト戰ハレシガ、其戰場ニ於テ御乘馬ノ駿足斃レ死ス。今モ路ノ側ニ有ル二ツノ塚ハ、即チ太子ガ其馬ト鞍トヲ埋メタマヒシ故跡ニシテ、塚ノ上ニ卒都婆ヲ立テヽ供養セシガ故ニ、此地ヲ一ニ又卒都婆ノ里トモ謂フ。然ルニ此馬ノ魂魄永ク留マリ、邑里ニ化現シテ人民ヲ惱マスコト甚シ。之ヲ患ヒテ天朝ニ奏聞スレバ、唯佛力ノミ其災ヲ止ムベシトアリテ、寶瑞寺ヲ建立シタマヒ、千僧ヲ聚メテ施餓鬼ヲ行ヒ且ツ馬千疋ノ布施アリ。乃チ後ノ例ト爲ツテ八月十五日ニハ此供養ガ執行ハレ、年々馬千疋ノ用途ハトテモ此地方ニテ調ハヌ故ニ、太子ノ臣下ニ橘猪助法名ヲ道專ト云フ者、命ヲ蒙リテ奧州越路ニ下リ其馬ヲ集メタリ。道專二三人ノ子アリ。長男ハ太子ニ仕ヘ、次男ハ近江ニ下リテ右ノ施餓鬼ノ奉行人トナリ、更ニ奧ノ馬千疋ノ運上ヲ勤メタリト云フ。又一説ニハ、橘猪助ハ病馬ヲ治スルノ法ヲ太子ヨリ受傳ヘテ此村ニ居住ス。後ニ佐藤太郎兵衛入道多入ト稱セシハ實ニ此人ニテ、彦(138)根ノ井伊家ニ奉公セシ佐藤宗兵衛ノ家ハ其子孫ナリト謂ヘリ〔淡海木間攫〕。今此縁起ノ中ニ、若シ眞實ノ部分アリトスレバ、ソハ佐藤ト云フ馬醫ノ家ニ太子ヲ開祖トスル馬ノ神ノ信仰ノ傳ヘラレシ事ト、其家ガ八幡堂ト結合シテ近村ヲ感化シツヽアリシ事グラヰナルベシ。馬醫ノ神馬ニ隨伴スルコトハ古キ慣習ナリ。延喜式ヲ見ルニ、平野園韓神其他ノ官社ニ所謂｜櫪飼馬《イタガヒノウマ》ヲ奉獻スルニハ、必ズ馬寮附屬ノ馬醫ヲ差添ヘタリシモノナリ〔左馬寮式〕。其目的ハ途次ノ急病ナドノ用意ノミトモ思ハレズ、何カ格段ノ仔細アリシコトヽ見ユレバ、神馬ヲ重要視セシ古代ノ信仰ニ馬醫ノ干與シタルモノト想像スルハ不當ニハ非ズ。但シ後世盛ニ馬ノ死靈ヲ説クニ至リテ、之ニ雷同スルコトハ馬醫トシテハ少々見�ｺガ惡キ爲ニ、所謂白樂天ノ後商ノミハイツ迄モ馬ノ死セザルコト、又ハ一旦死シタレドモ忽チ蘇生シタルコトナドヲ説キテ、彼等ガ地歩ヲ占メントセシナランカ。何レニシテモ聖�ｺ太子ガ、僅カナル因縁ノ爲ニ馬ノ祖神トシテ擁立セラレタマヒ、其御馬ノ國々ヲ牽キ廻サルヽハ、思ノ外ノ事ナリケリ。

（太子講、達磨大士、黒駒巡國、祥瑞、神馬、神馬足跡、馬蹄石、駒形石、降臨ト馬、黒駒ノ塚）

甲斐ノ黒駒　駿府ノ猿屋ガ秘傳ノ卷物、サテハ江州小野庄ノ馬醫佐藤家ノ由緒書ノ外ニモ、聖�ｺ太子ヲ以テ馬ノ保護者トスル傳説ハ弘ク行ハレタリシガ如シ。古クハ天平神護元年ノ五月、播磨賀古郡ノ人｜馬養造人上《ウマカヒノミヤツコヒトガミ》ノ款　　状ニ、此者ハ吉備都彦ノ苗裔、上道臣息長借鎌《カミミチノオミオキナガノカリカマ》ノ後ナルニ、其六世ノ孫｜牟射志《ムサシ》ナル者、能ク馬ヲ養フヲ以テ上宮太子之ヲ馬司ニ任ジタマヒ、此ガ爲ニ庚午ノ戸籍ニハ誤リテ馬養造《ウマカヒノミヤツコ》ニ編セラルト稱セリ〔續日本紀〕。此君馬ヲ愛シタマフト云フコトハ久シキ世ヨリノ傳説ニシテ、難波ノ四天王寺ニ甲斐黒駒ノ影像ヲ安置シ〔台記久安二年九月十四日條〕、或ハ此馬ノ太子ノ御柩ニ殉ジタル物語ヲ傳ヘ〔元亨釋書〕、或ハ又秦川勝ガ黒駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡國ニ隨ヒマツリシ由ヲ言ヘリ〔花鳥餘情〕。而シテ猿屋ノ徒モ亦自ラ秦氏ノ末ナリト稱スルナリ。近世ニ及ビテモ大和ノ橘寺若狹ノ馬居寺《マゴジ》、安房ノ檀特山小松寺等、太子ト黒駒トノ關係ヲ語リ傳フル例甚ダ多シ。東國ニテハ武藏甲斐ノ間ニハ太子講ト稱スル月祭アリ。常陸北部ニテハ太子塚ト(139)刻セシ石塔到ル處ノ路傍ニ在リ。此モ亦馬ノ斃レシ跡ナドニ造立スルコト、馬頭觀音勢至菩薩ノ立石或ハ駒形權現ノ嗣ナドト其趣ヲ１ニセリ。陸中｜岩谷堂《イハヤダウ》町ノ太子ノ宮ノ如キモ、亦馬ノ祈願ノ爲ニ勸請セシモノナルベシ。或ハ鎭守府將軍秀衡ガ奈良ノ都ノ俤ヲ移セシトモ傳ヘラレ、其地ヲ片岡ト稱シ岡ノ片岨ニハ太子ノ宮ト竝ビテ又達磨尊者ノ社アリキ〔眞澄遊覽記十〕。後世ノ俗説ニテハ達磨ニ御脚ガアルモノカナド云フニ、時トシテ馬ノ神ニ祀ラルヽハ珍シキ事ナリ。猿牽ノ仲間ニ在リテモ家藝ノ祖神トシテ達磨ヲ祀レリ。彼等ハ或ハ太子ノ調馬術モ亦片岡ノ飢人ヨリ學ビ得タマヒシ如ク説クナランモ、ソハ信ズベカラザル後世ノ附會ニシテ、其根原ハ單ニ古代ノ駿馬傳説ガ聖�ｺ太子ト云フ日本ノ理想的人物ト因縁ヲ有セシ結果ニ他ナラザルベシ。最モ古キ記述ニ依レバ、太子ノ愛馬ハ四脚雪ノ如ク白ク極メテ美シキ黒駒ナリキ。推古女帝ノ第六年ノ始ニ、諸國ヨリ獻上セシ數百頭ノ中ニ於テ、太子ハ能ク此黒駒ノ駿足ナルコトヲ見現ハシタマフ。同ジ年ノ秋太子ハ黒駒ニ召シ、白雲ヲ躡ミテ富士山ノ頂ニ騰リ、ソレヨリ信濃三越路ヲ巡リテ三日ニシテ大和ニ歸ラセタマフ〔扶桑略記〕。甲斐ノ黒駒ハ此馬ノ名ニハ非ザリシモ、黒駒ハ夙クヨリ甲州ノ名産ニシテ、且ツ駿逸ノ譽高カリシモノナリ〔日本書紀雄略天皇十三年九月條〕。加之此毛色ノ馬ハ特ニ朝廷ニ於テ祥瑞トシテ迎ヘラルベキ仔細アリキ。例ヘバ聖武天皇ノ天平十年ニ信濃國ヨリ貢セシ神馬ノ如キハ、甲斐ノ黒的ニヨク似テ更ニ髪ト尾白カリキ。其翌年ノ三月ニ對馬ノ島ヨリ獻上セシハ、青身ニシテ尾髪白シト見ユ〔續日本紀〕。此等ハ何レモ聖人政ヲ爲シ資服制アルノ御世ニ非ザレバ、現ハレ來ラザル馬ニテ、始ヨリ凡人ノ乘用ニ供スベキ物ニハ非ザリシナリ。故ニ世治マリ天下平カニシテ之ヲ大内ノ庭ニ曳クコトヲ得レバ好シ。然ラザルモノハ諸國ニ留マリテ永ク神遊幸ノ乘具ニ供セラレシナルベク、後世池月磨墨ノ二名馬ニ由リテ代表セラレシ二種ノ純色ハ、即チ馬ノ最モ神聖ナルモノト認メラレシ物ナルベシ。尤モ古史ニ見エタル神馬ト云フ漢語ハ、單ニ極端ニ結構ナル馬ト云フ意味ニ用ヰシモノカモ知レザレドモ、邊土ノ人々ニ至リテハ終ニ之ヲ以テ神ノ馬又ハ馬(140)ノ神ト解シ、或ハ木曾ノ駒ケ嶽ニ於テ馬蹄ヲ印セシカトオボシキ土砂ヲ取還リ、或ハ樹ノ枝ナドニ懸リタル馬ノ尾ノ如キ一物ヲ持チ來リテ、厩ノ守護用トスル迄ニハナリタルナリ。

　對馬ヨリ出デタル神馬ノ足跡ハ、同國與良村大字｜豆酘内院《ツヽナヰン》字神崎ノ馬下《ウマオロシ》ト云フ海岸ノ巖ノ上ニ、數處一列ヲ爲シテ存在シ、此馬ノ洋海ノ出ス所ナルコトヲ暗示セリ〔津島記事〕。但シ馬下ノ「オロシ」ハ神ヲ降臨セシムルコトヲ意味スルカト思ハル。甲斐ノ黒駒ノ遺跡ニ至リテハ、太子ニ對スル崇敬ト伴ヒテ更ニ弘ク國内ニ分布セリ。先ヅ其本國ノ甲斐ニ於テハ、東山梨郡｜等々力《トヾロキ》村ノ萬福寺ノ門前ニ、太子ノ憩ヒタマヒシト云フ馬蹄石アリ。此寺今ハ眞宗ニシテモトハ天台宗、而モ聖�ｺ太子ヲ以テ開基トス〔本朝國語〕。四ツノ蹄ガ四ツナガラ鮮カニ現ハレ居ルト云ヘバ〔甲州噺〕、勢ノハズミニ打込ミタルモノニ非ズシテ、靜カニ且ツ確實ニ印シタル痕跡ナリ。同ジク東八代郡日影村字｜駒飼宿《コマカウジユク》ノ駒飼石ニ至リテハ、五間二三間ノ石ノ面ニ二十一箇ノ足跡アリキ。上宮太子此地ニ於テ黒駒ヲ飼ヒタマヘリト傳ヘタリ。此石ハ享保年中笹子川ノ洪水ニ障リトナリテ多クノ民屋ヲ損ゼシヨリ、之ヲ割リテ川除ノ石堤ニ用ヰ〔甲斐國志〕、今ハ其片影ヲモ留メズ〔山梨縣市町村誌〕。其他東山梨郡加納岩村上下石森組ノ境、熊野權現ノ小山ニ馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組ノ馬蹄石一名ヲ駒石、北巨摩郡穴山村字黒駒ノ駒形石、北都留郡初狩村下初狩組カンバ澤山ノ馬蹄石ナドアレド、何レモ聖�ｺ太子ノ傳説ヲ伴ハズ。穴山ノ駒形石ハ黒駒大神ノ社頭ニ在レドモ、此神ハ大汝《オホナムチ》ト建御名方トノ二尊ヲ祭リ、昔諏訪ノ神黒駒ニ乘リ此地ニ來リタマヒシヨリ社ヲ立テ名ヲ定メタリト稱シ〔山梨縣市町村志〕、初狩ノ馬蹄石ハ數多ノ馬ノ蹂躙シタル跡ナリト云フ〔甲斐國志〕。黒駒ガ聖�ｺ太子ノ知遇ヲ忝クセシト云フハ大和ノ朝廷ニテノ事ナリ。富士往來ノ三日ノ外、後ニ郷里ニ還リタリトモ見エザレバ、太子ノ口碑ノ甲斐ニ多ク存セザルハ寧ロ當然ナリ。黒駒終焉ノ地ハ河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷ナリト謂ヒ、此村ノ金剛輪寺ハ亦太子ノ建立スル所ナリ。此谷ニモ黒駒ノ足形ノ石ノ上ニ遺ルモノアリ。之ヲ繋ギタリト云フ柊《ヒヽラギ》(141)ノ樹ハ葉ノ端ニ刺無シ〔和漢三才圖會〕。攝津川邊郡長尾村ノ仲山寺モ太子創立ノ寺ナリ。境内ノ黒駒石ニハ四ツノ蹄ノ跡アリ。後世ノ爲ニ斯ノ如キ奇跡ヲ留メシナリ〔攝陽群談〕。大和ノ三井ノ法輪寺ノ巽ノ方ニハ、太子ノ召サレシ栗毛ノ駒ヲ葬ルト云フ栗毛ノ岡アリ〔大和國遊誌下〕。此ハ勿論黒駒トハ別ナルベキカ。播川｜斑鳩寺《イカルガデラ》ノ壇特山ノ路ニ、御駒ノ蹄ヲ留ムト云フ岩アリシハ、是レ亦日本ノ太子ニ托シタル靈石ナルガ如シ〔朝風意林所録斑鳩寺縁起〕。

（駒形杉、足形ノ社、三輪、觀音石、圓相、白山權現、客人權現、熊野、鞍石、繪馬、道祖神、鹽塚、龍神、御崎神、荒人神、駒ケ岩、御旅所、暗夜神幸、影向塚、神馬ノ用、ヨリマシ、馬場、白馬、硯ノ水、竈神ト馬、住吉神、相生、天神、アモリ神、菅公影向）

神々降臨ノ跡　前ニ駒形ト云フ神ノ名ノ本意ヲ駒ノ足型ニ基ケリト言ヒシガ、此解釋ノ丸々ノ臆説ナラザルコトハ、甲州穴山村ノ駒形石ナド之ヲ證スルニ足レリ。遠江濱名郡龍池村大字八幡ノ八幡社ニ一ノ駒形杉アリ。元龜三年�ｺ川武田合戰ノ折ニ、白衣ノ老翁白馬ニ跨リテ此木ノ梢ヨリ空ニ昇ルト殯松勢ノ眼ニ見エタリ。軍終リテ後杉木ヲ檢スルニ、馬蹄ノ跡最モ明白ナリキ〔曳馬拾遺〕。即チ八幡大菩薩ガ未來ノ大將軍ヲ助ケラレタル證據ナリシナリ。相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿ノ駒形權現ハ又足形ノ社トモ稱ス。神體ハ地上二尺バカリノ一箇ノ岩ニシテ、其面ニ馬ノ足形アリ。足ヲ煩フ者ノ祈願スル神ナリキ〔新編相模風土記〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野字影ノ宮ノ神ヲ馬足大明神ト云フ。例祭ハ九月吉日〔諸神社録〕、未ダ其由來ヲ知ラズ。更ニ一歩ヲ進メテ馬頭觀音ヲ駒形ノ本地佛ト假定スルナラバ、武藏北足立郡平方村大字平方ノ孤峯山馬蹄寺寶池院ノ本尊ガ馬頭觀音ナリシ事實モ亦一箇ノ證ナリ。此寺ハ古クハ馬蹄菴ト稱シ、吾妻左衛門是好ト云フ芝居ニデモ出サウナ名前ノ武士ガ、其伯父三輪莊司ノ菩提ノ爲ニ建立セシ淨土寺ナリ〔新編武藏風土記稿〕。莊司死シテ後馬ニ生レ變リ、人ノ如ク物言ヘリトノ傳説モアレバ、此馬モ亦蹄ノ痕ヲ石ニ印セシコトナルベシ。長門大津郡深川村字江良ノ觀音石ハ、一間四方ホドノ石ノ面ニ圓相アリテ、其中ニ人ノ足ト馬ノ蹄多ク存セリ。昔ヨリ此石ヲ觀音ノ正體トシテ拜スト云ヘバ〔長門風土記〕、此モ亦一ツノ馬頭觀音ナリケリ。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、駒形ハ即チ馬ノ足型ノコトニテ、神馬ノ奇瑞ノ顯著ナルガ爲ニ、特ニ馬ノ爲(142)ノ祈願ニ有效ナルト考フルニ至リ、終ニ他ノ馬ノ生靈死靈ヲ祭ルノ信仰ト合體シタルモノナルベシ。

　サテ當初駒ノ足跡ヲ崇敬スルニ至リシ動機ニ付キ、尚一段ノ考察ヲ試ミント欲ス。蓋シ駒形ハ元來定マリタル一種ノ神ノ名稱ニハ非ズシテ、實ハ各地ノ祭神ニ共通ナル威靈ノ徴《シルシ》ナリシヲ、特ニ之ニ由リテ神ニ名ヅケタリシ社ノミガ中ニ就キテ有名トナリシナリ。サレバ奧州又ハ箱根ノ駒ケ嶽トハ些カモ關係無キ諸國ノ社ニモ、駒形石ノ少ナカラザルハ前ニ既ニ言ヘルガ如シ。江州愛知郡押立村ノ客人宮《マラウドノミヤ》ハ押達莊《オシタテノシヤウ》十七郷ノ總氏神ナリ。此社ノ神ハ加賀ノ白山大權現ニシテ、往古神馬ニ召シテ此地ニ飛移リタマヘリトテ、社ノ近邊ヨリ森ノ北ヲ流ルヽ小川ノ岸ニ掛ケテ、其駒ノ足跡多ク殘存ス〔淡海木間攫〕。客人社ノ白山菊理比賣神ナルコト、及ビ此神ノ北國ヨリ飛ビタマヒシコトハ、共ニ日吉二十一社ノ古傳ノ中ニ見ユルコトニテ、ソレ故ニ客人ト稱スト云フ説アリ。而モ此押達莊ノ地ハ夙ニ日吉ノ客人社ノ所領ニシテ且ツ氏子ナリ。續古今集ニ載セラレタル押達宮奉納ノ歌ニ

　　爰ニ又宮ヲ分チテヤドスカナ越ノ白根ヤ雪ノフル里

トモアレバ〔地名辭書〕、右ノ縁起ノ如キモ恐クハ却リテ比叡ノ麓ヨリ飛移リシモノナルベシ。但シ日吉ノ本社ニ在リテハ未ダ馬蹄ノ傳説アルコトヲ聞カザルナリ。思フニ客人トハ即チ客神ニシテ元ハ外國ヨリ來リシ神ナルベシ。之ヲ白山ノ神ニ托セシハ深キ仔細ノアルコトナランモ、今之ヲ推測スルコト能ハズ。紀州ノ熊野モ古キ神ナレドモ亦震旦ヨリ飛來タマヘリト云フ説アリ〔??内傳〕。東國ニ數多キ熊野ノ勸請社ノ中ニハ、馬蹄ノ口碑亦少ナカラザルコトナラン。自分ノ知レル限ニテハ、武州西多摩郡小宮村大字｜乙津《オツ》ノ熊野神社ニ、鳥居場ヨリハ四五町ノ上手《カミテ》道ノ左二馬蹄石ト鞍石アリ。熊野權現馬ニ乘リテ此處ヲ通ラレシ折ノ跡ナリト云フ〔新編武藏風土記稿〕。山城男山ノ八幡ニ駒形神人ナル者ノ住セシコトハ前ニモ述ベシガ、此山中ニモ八幡神ノ神馬ノ足跡アリ〔神名帳頭注〕。八幡モ最初ハ白山熊野ト同ジク、遠方ヨリ降臨セラレシ神ナリ。遠江龍(143)池村ノ八幡ニ駒形杉ヲ説クガ如キハ、或ハ戰後ノ人心ヲ利用シテ古縁起ノ燒直シヲ試ミタルモノトモ見ルヲ得ベキナリ。

　諏訪白山熊野八幡等ノ神々ハ、假ニ最初ヨリ此國ノ神ニテオハセリトスルモ、或ハ都ニ上リ或ハ邊土ニ勸請セラレタマヒ、移動ノ特ニ烈シカリシ神々ナリ。併シナガラ神馬ノ入用ノ必ズシモ此旅行ノ爲ニ非ザリシコトハ、昔ヨリ如何ナル社ニモ神馬ヲ進獻シ、後世ニ及ビテハ其代リトシテ繪馬ヲ奉納セシ一事ヲ見ルモ明白ナリ〔夏山雜談１〕。道祖神《サヘノカミ》ノ要害ヲ占據シ往來ノ人ト鬼トニ對シテ無形ノ關ヲ守ルノ職ヲ以テスルモ、猶板ニ描キタル繪馬ヲ大切ノ物ニシタマヒシコトハ、古キ民話ニモ見エタリ〔今昔物語十三等〕。又所謂國津神ノ部類ニ屬シタマヒ、終始一定ノ土地トノミ縁故アル神々ニモ、尚且ツ馬蹄石ノ傳説ハアルナリ。例ヘバ阿蘇ノ宮地町ノ鹽塚ト云フ處ニハ、田ノ畔ニ馬蹄石アリテ之ヲ阿蘇大明神ノ神馬ノ跡ト傳ヘ〔肥後國志〕、阿波美馬郡｜端山《ハヾヤマ》村大字西端山ノ馬ケ岡ニハ、龍馬石ト馬蹄石トノ二箇アリテ、之ヲ天日鷲命ノ遺址ト稱シ〔燈下録〕、出雲八束郡加賀村ノ海ニ臨メル巖窟ノ口ニハ、石上ニ馬ノ足跡ト馬槽《ウマフネ》ノ跡トアリテ、之ヲ出雲大神ガ龍神ニ乘リタマヒシ處ト傳ヘタリ〔出雲國懷橘談〕。茲ニ出雲大神ト謂フハ即チ古風土記ノ佐太大神、後ニ窟戸大神ト申上ゲシ神ナランガ、龍神ニ乘ルトアリテ馬ノ足跡ノ殘レルハ注意スベキ事實ナリ。東國ニテハ上野榛名ノ山中ニ馬蹄石アリテ榛名大明神ノ神馬ニ屬スト云ヘリ〔上野國誌〕。此神ハ又｜徒《カチ》ニテモ往來シタマヘリト見エテ、社ノ貨物ノ中ニ神跡石ト云フ石アリ。陸前本吉郡唐桑村大字唐桑ノ濱ニ在ル馬蹄石ハ、此村ノ御崎神ノ留メ置キタマフ所ナリ。遠州御前崎ノ駒形大明神ト同ジク海難救護ノ神ニシテ、船方等海上風波ノ中ニ於テ祈請スルトキハ、往々ニシテ白馬背上ノ御姿ヲ仰ギ見ルコトヲ得タリキト云フ〔奧羽觀迹聞老志〕。陸奧十和田湖邊ノ路傍ノ石ニモ馬蹄ノ跡アルモノアリ。羽後八郎湖ノ神ナル八郎王ノ乘馬ノ跡ナリト傳フ〔三千里〕。此神ハホボ人天ノ境界ニ立ツ者ニシテ、或ハ自分ノ後ニ言ハントスル御靈ノ階級ニ屬シ、近世ニ(144)所謂荒人神ノ一種ナランカトモ思ハルヽ由アルナリ。

　茲ニ日分ハ端無ク三十年前ノ穉キ記憶ヲ懷シムベキ機會ヲ得タリ。自分ガ生地ハ播磨神崎都田原村大字西田原字辻川ニシテ、産土神ハ後ノ山ナル鈴ノ森明神ナリ。年毎ノ神無月ニハ神々出雲國ニ赴キタマフトテ、社頭ニ馬ノ轡ノ響ヲ聞クト云フコトハ、他所ノ村々ニモ例アルコトナランガ、之ニ加ヘテ更ニ一條ノ古譚アリ。村ノ西ヲ流ルヽ市川ノ岸に一箇ノ大ナル駒ケ岩アリテ、其上ニハ正シク神馬ノ蹄ノ痕ヲ存ス。我々ガ兄弟ハ夏ハ此岩ノ上ニ衣ヲ脱ギテ其西側ノ淵ニテ水ヲ泳ギタリシナリ。三四年前還リテ見ルニ、川ノ流ハ岩ヨリ東ニ移り昔ノ淵ハ河原トナリタレドモ、駒ケ岩ノ姿ハ依然トシテ之ヲ望ムコトヲ得タリ。此ヨリ東北ヘ四五町即チ鈴ノ森ノ社ヨリ一町足ラズノ西ニ、古宮ト稱スル十坪バカリノ岩石ノ地アリ。明神ハ神馬ニ召シテ駒ケ岩ヨリ古宮ヘ飛バレタリト言傳フ。併シ古宮ノ岩ハ燧石ニシテ村人?々來リテ之ヲ虧キ取ルガ爲ニ、此ニハ馬蹄ノ跡ノ殘レル者無キナリ。今日ニ於テ考フレバ古宮ハ昔ノ社跡トシテハアマリ狹シ。此邊ハ水ノ手ニ遠キ岡ノ端ノ新開畠ナレバ、恐クハ以前ハ一圓ノ祀地ノ中ニシテ、古宮ハ即チ森ノ片端ニ設ケラレタル昔ノ祭ノ御旅所ナリシカト思ハル。御旅ト云フ思想ハ厚薄ノ差コソアレ殆ト全國各社ノ祭禮ニ伴ヒテ存在ス。祭ノ夜宮ノ日トナレバ、或ハ長キ馬場ヲ通リテヨホド遠ク迄出遊シタマフ神アリ。或ハ又不思議ニ近キ處ニ御旅所ヲ構ヘタル社アリ。神幸ノ路次ノ長キハ後代行列ノ面白サヲ加ヘンガ爲ニ、古例ヲ破リテ御假屋ヲ遠クニ遷セシモノモアランガ、其證無キ限ハ必ズシモ然リトハ言フ能ハズ。自分實母ノ在所、播磨加西郡北條町ノ住吉明神ナドモ、町ノ名ニ御旅町及ビ御幸町アリ。御輿ハ此二ツノ町ヲ通リテ邑ノ西ノ端ヨリ東ノ端ニ近キ御旅所マデ出デタマフ習例ナリキ。甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組ノ通《カヨヒ》神社ナドモ、祭ノ夜ハ更ケテ後一ノ宮淺間社マデ神幸アリ。過グル所八ケ村ニシテ而モ道路ニ由ラズ概ネ田ノ畔ヲ行キ、暗中ノ神事終リテ未明ニ還幸アル例ナリ〔山梨縣市町村誌〕。之ニ反シテ駿州富士郡大宮町ノ淺間社ノ如キハ、社殿ノ東ニ接シタ(145)ル清淨ノ封土、即チ祭ノ日ノ御假屋ノ地ナリシガ如シ。今モ之ヲ用ヰテアリヤ否ヤヲ知ラズ、恰モ伊勢兩宮ノ宮所ガ二ツアルトヨク似タレバ、何カ特別ノ説ヲ傳ヘ居ルヤモ測リ難シ。右ノ如ク神社境内ニ假屋ノ地アル場合ニハ、之ヲ廢シテ使用セザル例ハ少ナカラズ。社ニヨリテ其跡ヲ名ヅケテ降臨石又ハ影向塚《エウガウヅカ》ナドト名ヅケ、年々ノ例祭トハ關係無キ傳説ヲ發生セルモノアリ。此等モ亦アマリニ距離近キガ爲に、所謂御旅ヲ以テ神ガ社殿ノ中ヨリ遊ビニ出デタマフモノト解スルニ至リシ結果、詮無キコトニ思ヒテ久シク其使用ヲ中止セシモノナルベシ。奈良ノ東大寺ノ轉害門《テガイモン》ヲ入リテ右側ニ偉大ナル一箇ノ切石アリ。アレモ亦タシカ昔ハ八幡ノ神輿ヲ置キ奉ルベキ石ナリキト聞ケリ。話ノ枝葉ニ渡ルヲ恐レテ爰ニハ詳シクハ述ベザルモ、祭ノ日ニ限リ神ガ御旅所又ハ假屋ニ出デテ供物ヲ受ケ神樂ヲ聽キタマフ理由ハ他ニ非ズ。昔ハ邑人此日ニ非ザレバ、親シク神ノ音容ニ接スルコト能ハザリシナリ。即チ御旅所又ハ假屋ト云フ名目ハ寧ロ神ノ常ノ社ヨリ出デテ宿リタマフ爲ニ非ズシテ、御空又ハ遙カナル國ヨリ察ヲ享ケニ降リタマフヲ迎ヘマツル場處ノ事ナリ。サレバコソ此折ノ用トシテ神馬ハ最モ肝要ノモノナリ。神幸ニハ必ズ神馬ヲ牽クモ全ク此ガ爲ナリト察セラル。土佐ノ古キ宮々ノ祭又ハ陸中平泉ノ白山社等ニハ、依坐《ヨリマシ》ノ童兒ヲ其馬ニ乘セテ神輿ノ前ニ牽行ク風アリ。此重兒ハ即チ支那ニ所謂尸童又ハ靈子ニ當ルモノニシテ、神ハ之ニ託シテ神意ヲ宣傳シ或ハ又秋ノ稔ノ喜悦ヲ民ト共ニ分チタマフナリ。神社ノ鳥居ノ通ノ長キ畷ヲ馬場ト稱スルハ、此モ亦神ノ馬ノ式日ニ通行スル路ト云フコトニテ、必ズシモ流鏑馬《ヤブサメ》ヤ競馬ヲ行ハヌ社ニテモ此名アリ。後世ノ氏子等ノ如キハ單ニ人間ノ手足ヲ以テ昔ノ神ノ去來ヲ模擬シ、形バカリノ「ミステリイ」ノ中ヨリ、幽カナガラモ神道ノ古意ヲ汲取ルニ過ギザリシガ、今一段ト熱烈ナル上代ノ崇敬者ニ至リテハ、能ク端的ニ神ノ靈アル御姿ヲ仰ギ、緑色ノ空ヨリ白馬ノ漸ク鮮明ニナル有樣ヲ望ミ且ツ信ズルコトヲ得タリシヤモ知リ難シ。果シテ其如クナリキトスレバ、岩モ豆腐モ何ノ差別カアラン。蹄ノ痕ノ殘ル位ハ毛筋ホドノ疑モ起ラヌ常ノ事實ナリシニ相違ナキナリ。

(146)　サテ立返リテ箱根山上ノ駒形權現ヲ説カンニ、此社ニハ馬蹄傳説ノ明瞭ニ存スルモノ無キ代リニ、境内ニハ馬乘石ト馬降石トノ二大石アリ。前者ハ長サ一丈横二間餘、往古此石上ニ白馬出現シタリト云フ言傳ヘアリ。馬降石ハ方九尺、石ノ面ニ小サキ穴アリテ一升バカリノ水ヲ湛フ。之ヲバ金剛水ト名ヅケ如何ナル旱魃ニモ涸ルヽコトナシ〔新編相模風土記〕。此種ノ石穴ノ水ハ即チ我々ガ名ヅケテ硯ノ水ト云フ傳説ニシテ、後ニ尚永々シキ一條ノ物語ヲ控ヘタリ。筑前ノ竈門《カマト》神社ハ古今共ニ有名ナル國幣ノ社ナリ。俗説ニハ此神ヲ八幡大菩薩ノ伯母君ナドト云フガ、未ダ女神タル明證ヲ知ル能ハズ。當社舊記ノ傳フル所ニ依レバ、神功皇后三韓御征伐ノ時先ヅ此社ニ參拜アリタルニ、大神ハ甲冑ヲ帶シ戈ヲ提ゲ威光赫々トシテ巖ノ上ニ現ジタマフ云々。乃チ其巖石ニ神馬ノ足跡ヲ留メタマフモノ之ヲ馬蹄石ト稱スト云ヘリ〔太宰管内志所引筑陽記〕。竈門山ノ神ハ禁中ノ室ノ八島ナドト同ジク、專ラ御食物ノ側ヨリ聖體ノ康安ヲ守護スル神ナルベキモ、右ノ馬蹄石ノ一條ヲ考ヘ合ストキハ、竈門ト云フ山ノ名ハ殊ニ意味深ク聞ユルナリ。此御時ノ遠征ハ誠ニ絶代ノ偉業ナリ。殊ニハ女性ノ大御心ニハ如何ニモ御氣遣ハシキ御企ナリシカバ、愈々ノ御決斷マデニハ色々ノ神占ヲ問ハセラレシコト正史ニ見エタリ。從ヒテ臨時ニ此山ノ大神ヲ招キ降シ祭ヲ營ミ神旨ヲ聽カレキト云フモ尤モ有リ得ベキコトナリ。又此折ニハ海ノ神住吉ノ大神ノ如キモ亦隨一ノ主戰論者ナリキ。住吉ヲ攝津ノ海濱ニ祀リタル由來トシテハ、皇后凱旋ノ後ニ勅ヲ以テ此地ヘ遷シ奉ルト云フコト通説ナレドモ、カノ安法法師ノ有名ナル和歌ニ、

　　天降ルアラ入神ノ相生《アヒオヒ》ヲオモヘバ久シ住吉ノ松

トモアレバ、ヤハリ神影向ノ傳説ガ此地ニモアリシナリ。住吉ハ即チ所謂｜天神《アマツカミ》ノ部類ナリ〔神祇令義解〕。天神ト云フ語ハ、地祇即チ此國ノ先住民ガ祭リテアリシ神ニ對シテ、新土著者タル大和民族ノ本來ノ神ヲ意味スル者ノ如ク考フル者多シト雖、後世新舊ノ人種ガ完全ニ混淆シテヨリ後ハ、或ハ又天ヨリ降ル神、即チ地(147)方ニ由リテハ今モ「アモリ神」ナドト呼ブ神ヲ意味スルモノト解セラレシニハ非ザルカ。然ラザレバ菅丞相ノ御靈ナドヲ天神ト稱スベキ理由無キナリ。諸國ノ天神社ノ中ニハ菅公ニ非ザル者多キコトハ先輩既ニ多ク之ヲ論ジタリ。然ラバ果シテ悉ク國津神ニ對スル天津神ナリヤト云フニ、未ダ容易ニ然リトハ答フル能ハザルモノヽ如シ。讃岐三豐郡｜財田大野《サイタオホノ》村大字財田西字上村ニ、駒石山宗運寺千手院ト稱スル眞言宗ノ寺アリ。慶長年間ノ草創ナレドモ本尊ハ菅公ノ念持佛ト稱スル古キ聖觀世音ナリ。境内ノ岩神ノ祠ノ附近ニ、菅公影向ノ石ト稱スル大岩アリテ、其上ニ蹄ノ跡殘レリ〔西讃府志〕。山號ハ勿論此ニ基ケルモノナリ。菅公ハ一方ニ於テハ日本最後ノ天神ナリシト共ニ、他ノ方面ニ於テハ我邦最初ノ御靈ノ一ツナリ。人ニシテ神ト同ジク、其靈魂ヲ不朽ノ巖石ノ上ニ留メタリシ古來ノ多クノ英傑ト其類ヲ同ジクスル者ニテ、馬蹄石傳説ノ上ニ於テモ、聖�ｺ太子ト共ニ最モ顯著ナル地位ヲ占ムル人ニテアルナリ。

（地方英雄、日本武尊、龍ノ爪、和氣清磨、千方、多田滿仲、義經、三ツ石、畠山重忠、梶原景時、磨墨、曾我五郎、センゾク、平山氏重、九戸左近、豐臣秀吉、朝倉義景、念力、御靈ノ祭、タヽリ、魂魄永住、湊川、戸神、人柱、天滿宮、藤原廣嗣、新田義興）

御霊ト石　甲州ノ馬蹄石ノ類ヲ聖�ｺ法王ノ故事ニ附會スルハ、特ニ此君ガ佛法ノ保護者ニシテ兼テ日本ノ伯樂ナリシ爲ニ、便宜多カリシト云フノミノコトニテ、必ズシモ他ニ類型無キ話ニハ非ザルコト勿論ナリ。古風土記ニ國々ノ神アリシ如ク、個々ノ地方ニハ今モソレ／”＼ノ史上人物アリテ、殆ト其傳説ヲ以テ一切ノ故迹ヲ統括支配スルガ如キ觀アリ。行基弘法ノ二祖師ノ足跡天下ニ遍キヲ以テスルモ、地方人ハ猶之ヲ爭奪シテ我郷ノ英雄ト爲サザレバ已マザラントス。泰澄大師ノ北陸ニ於ケル、役行者《エンノギヤウジヤ》ノ大和ニ於ケル、性空上人ノ九州南部ニ於ケルガ如キ、或ハ藤原千方ノ伊勢ニ於ケル、田邑將軍八幡太郎ノ奧羽ニ於ケル等ハ、勿論然ルベキ仔細モアリテ、或點ニ於テハ神以上ノ崇敬ヲ繋ギ得タリシナリ。此ガ爲ニ以前物ヲ知ラザル里人ガ、何デモ強力ナ和尚ガ來テトカ、又ハ昔一人ノ勇士ガアツテトカ云フヲ、聞ク方ノ人ヨリソレハ辨慶ノ事ナルベシトカ、此邊ノ事ナラバ山中鹿之介ニ相違無シトカ、無造作ニキメテシマヒ、其次ヨリハ其固有名詞ヲ以テ話シ傳ヘシム。恰モ何レノ御時カノ古墳調査掛ガ、革鞄ノ中ニ國造本紀ノ類ヲ携帶シ、到ル處ノ白骨ニ姓名(148)ヲ附與シテアルキシト同一ノ御苦勞ナリ。其爲ノミニモ非ザルベキガ、多クノ馬蹄石ニモ亦英雄ノ昔語リヲ伴ヒ居リ、而モ一々ニ尤モラシキ因縁アリ。先ヅ時代ヲ追ヒテ言ハヾ、尾張東春日井郡坂下村大字｜内津《ウツツ》ノ内津神社ノ一ノ鳥居ノ跡ニハ、日本式尊ノ御馬ノ足跡アル馬蹄石存ス〔尾張誌〕。即チ「ウツヽナルカモ」ト仰セラレシ故迹ナリ。美作｜間鍋山《カンナベヤマ》ノ長法寺ノ上ニハ岩ニ龍ノ爪ノ如キ跡アルヲ、或ハ鹽冶《エンヤ》判官ノ獻上セシ龍馬ノ蹄ト云ヒ、或ハ又和氣清磨ガ大隅ノ配所ヨリ龍馬ニ乘リテ諸國ヲ巡歴セシ折ノ馬蹄ノ跡トモ傳ヘタリ〔山陽美作記上〕。此地ハ清磨ノ故郷ト云フ備前ノ和氣郡ニ近キナリ。伊賀名賀郡｜比奈知《ヒナチ》村大字瀧原ノ高座山ニハ、方五尺バカリノ石ニ馬蹄ノ跡アルヲ千方《チカタ》ノ飛石ト云フ。此附近ニハ又千方ガ馬ヲ留メシト云フ馬留山アリ〔三國地誌〕。數多キ千方ノ故迹ノ一ツナリ。攝津川邊郡多田村大字｜矢問《ヤトフ》ノ龍馬石ハ多田滿仲ノ乘馬ノ跡アルガ故ニ此名ヲ得タリト云ヒ〔攝陽群談〕、或ハ又同郡小田村大字久々知ニモ同ジ名ノ石アリト傳ヘタリ〔本朝國語〕。阿波阿波郡土成村大字土成ノ御所谷ハ、畏多クモ土御門院ノ御身ヲ隱シタマヒシ地ナリト稱シ數々ノ遺跡アリ。御馬ノ足跡ノ岩ノ上ニ殘レルモノアリト云フ〔阿波國徴古雜抄三所録、澁谷氏舊記〕。和州芳野ノ吉水院ノ境内ニハ九郎判官義經ノ駒ノ跡アリ〔本朝國語〕。此大將ハ全國少年ノ愛好スル人物ダケアリテ、北ハ津輕ノ突端ノ三厩《ミウマヤ》ヨリ、更ニ能登珠洲郡ノ三崎ニマデ馬蹄ノ跡ヲ印シタリ〔能登國名跡志〕。此等ハ綿密ナル義經記ニモ未ダ想像セザリシ史蹟ナリ。陸中盛岡ノ東見寺ノ境内ニハ、同ジク此人ガ馬跡ヲ留メシ名石三ツ石アリ〔譚海十二〕。以前ハ人ノ拜祀セシ石ナルベシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ字ノ形ヲシタル大小三箇ノ石ニシテ、之ヲ拜ミシ根原ハ是亦竈ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義經ニハ兎ニ角ニ馬ノ因縁ハ存スルナリ。畠山重忠ハ其舊領地タル秩父ノ一郡ニ於テハ今モ多クノ傳説ノ主ナリ。高麗川ノ上流吾野村大字阪元ニハ、重忠ノ厩ノ跡ト云フ深サ三間ホドノ洞窟アリテ、中程ノ岩ノ面ニ馬蹄ノ跡二ツアリ〔新編武藏風土記稿〕。此邊ハ石灰岩ノ層アルガ爲ニ殊ニ此種ノ奇巖ニ富メルナリ。其畠山ヲバ讒言シタル梶原平三景時モ、亦駿州(149)田上ノ岡ノ麓ノ岩ノ上ニ、最後ノ念力ヲ愛馬ノ跡ニ印シタリ。或ハ其馬ノ喰ミ殘シタル笹葉トテ、今ニ葉尖ヲ摘ミ虧キタル如キ笹ヲ生ズトモ言傳フ〔諸國旅雀〕。此馬ノ磨墨ナリシコトハ更ニ之ヲ説カント欲ス。相州箱根ノ三枚橋ヨリ五六町ノ東、僅カナル溝ニ架ケタル石橋ニ曾我五郎ノ馬ノ蹄ノ跡アリ。脚氣ノ祈願ニ驗アリテ來リテ線香ヲ燒ク者多カリキ。東海道ノ繁華ナル往來ナルニ、迷惑ナル話ニハ若シ此石ヲ踏ム者アレバ必ズ祟アリ。之ヲ他處ニ移シ去ラント企テテ又祟ラレシ者アリ〔著作堂一夕話〕。併シ今日ハ最早此石無シト見エテ電車ガ無事ニ通行シツヽアルナリ。武藏西多摩郡｜檜原《ヒノハラ》村字｜千足《センゾク》ノ路傍及ビ谷間ニ各一箇ノ馬蹄石アルハ、曾テ此山村ニ落チ來リテ討死シタリト云フ平山伊賀守氏重ガ故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。但シ何レノ時代ノ人ナルカ知ラズ。奧州外南部ノ宇曾利山《ウソリザン》ニハ九戸《クノヘ》地獄ト云フ處アリ。昔九戸左近ナル者國主ニ楯突カントシテ却リテ爰ニ陷リテ死ス。其折ノ薙刀ノ跡ト共ニ岩ニ馬蹄ノ跡ヲ留メタリ〔眞澄遊覽記五〕。豐臣秀吉ノ乘馬ノ跡ト稱スルモノ相州足柄下郡江浦村ノ五郎兵衛ガ屋敷内ニ在リキ。天正十八年小田原攻ノ折、此家ノ庭ヨリ城山ニ登ラントシテ馬ノ足スベリ、其跡永ク後世ニ遺リタリ。八九尺ニ四尺ホドノ大石ニシテ之ヲ馬蹄石ト名ヅク云々〔相州留恩記略三〕。越前吉田郡｜岡保《ヲカボ》村大字大畑ノ蹄ノ瀧ニ於テハ、瀧口ノ大岩ノ上ニ朝倉義景ガ乘馬ノマヽニテ驅ケ登リシト云フ蹄ノ跡アリ。此瀧ハモト附近ノ地名ニ由リテ竹簀ノ瀧ト呼ビタリシヲ、近ク明治ノ三十七年ニ、時ノ縣知事阪本�ｿ之助氏ニ頼ミテ、今ノ名ヲ附ケテ貰ヒタリト云フ新名所ナリ〔吉田郡誌〕。

　サテ此等ノ多クノ傳説ニ就キテ其馬主ノ生涯ヲ比較スルニ、一二ノ例外ヲ除キテハ極メテ著シキ第二ノ共通點アルカト思ハル。即チ彼等ハ單二一代一方ノ英俊ナリシト云フ外ニ、多クハイマダ齡ノ盛リニ於テ何レモ不自然ナル死ヲ遂ゲタル人ナリ。有餘ル生活力ヲ銷盡セズ、而モ執著ノ末成ラズシテ終ヲ取リタル人タチナリ。身ハ去リテ念力ヲ此世ニ留ムルニ必要ナル條件ヲ具ヘタル人々ナリ。思フニ我等ガ祖先ノ特ニ重要視(150)セシハ此未了ノ念力ナリキ。昔ノ京都ノ八所ノ御靈ナドノ列名ヲ見レバ、共ニ其些シ以前ニ於テ、枉屈ヲ以テ死歿シタル貴族ナリシナリ。當時朝廷ノ公文ニハ、寃�詩ﾐヲ爲スガ故ニ祭ルト書キテハアレド、恐クハ未ダ民間信仰ノ消息ニ精通セザリシ人ノ言ナルベキカ。復讐セラルヽ覺無キ下級ノ人民ガ、單ニ御氣ノ毒ナルヲ以テ神ニ祭ラント言フベキ道理無シ。然ラバ何故ニ斯ク迄弘キ信仰ガ行ハレタルカト問ハヾ、是レ全ク前代人ノ靈魂不朽ニ關スル概念ガ此ノ如クナリシ結果ト言フノ外無キナリ。近キ頃ノ佐倉宗吾又ハ佐野常言ノ世直《ヨナホシ》大明神、サテハ伊豫ノ宇和島ノ和靈樣ノ如キ、若シ之ヲ以テ其人格ニ對スル景慕トスルナラバ、所謂上流ノ社會道�ｺトハ或ハ合スベキモ、是レ要スルニ感謝ト祈?トヲ混同シタル説ト謂フベシ。御靈系統ノ雜神ニ對シテハ、少ナクモ昔ハ謝恩ノ意味ノ祭アリシコトヲ聞カザルナリ。或ハ又神ノ憤怒ヲ和ゲル爲ニ祭ルト云フ者アラン。成程前ニ各地方ノ馬鬼ニ就キテ述ベシガ如ク、神ノ「イキドホリ」ハ慥カニ存ス。併シ之ヲ我々ガ所謂怒ナリト言フコトハ難シ。例へバ甲ノ爲ニ害セラレテ乙丙丁ニ對シテ災ヲ爲ス神アリ。佛法ニ教ヘラレタル我々ノ間ノ因果律ヲ適用スルトキハ、全然其外ニ立ツベキ現象ナリ。而シテ此災ヲ避ケンガ爲ノ祭ヲ、若シ贖罪ノ趣旨ニ出ヅル者ノ如ク説ク人アラバ、此モ亦罰ト祟トヲ同一視スルノ誤謬ヲ免レズ。蓋シ「タヽリ」ハ中世ノ用語トシテハ、神ノ怒又ハ之ニ基ク人ノ禍ヲ意味セリ。源重之ノ歌ニモ、

　　千早フルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナノリソヤタヽリモゾスル

トアルナド其例ナリ。此歌ノ「ナノリソ」ハ、語ル勿レト云フ語ト神馬乘ル勿レト云フ語ト兩樣ニ用ヰタル掛ケ詞ナリ。併シナガラ「タヽリ」ノ語原、及ビ最初ノ用法ハ之トハ異ニシテ、譬論ヲ「タトヘ」ト謂ヒ賞讃ヲ「タヽヘ」ト謂フト共ニ、「タヽリ」ハ單ニ神靈ノ語ヲ意味セシモノニ似タリ。彼ノ金屬ヲ鎔ス爐ヲ「タヽラ」ト呼ブハ古キ日本語ニシテ、音ヨリ出デタル造語ナリトモ考ヘ得ベキモ、此地名ガ深山清淨ノ地ナドニ多ク、且ツ古クハ鑄物師ガ一種ノ巫覡ナリシ事ヲ思ヘバ、必ズシモ由無キ想像ニハ非ズ。畏多キコトナレド(151)モ、大昔ノ皇后ノ御名ニ姫蹈鞴《ヒメタヽラ》ト申上グル方アリシモ、亦神ニ仕ヘタマヒシヨリノ御名カト思ハル。今日モ沖繩ニテハ「タヽリ」又ハ「神ターリ」ト云フハ、神ノ人ニ託宣スルコトヲ意味スルナリ〔沖繩語典〕。而シテ此ノ古キ意味ニ於ケル「タヽリ」ノ神�ｺヲ、最モ著明ニ發揮スルニ適シタルハ、一念ノ力ノ強烈ナル人々ガ此世ニ生キ殘シタル御靈ナリ。幸ニシテ大ナル執著ヲ當代ニ留メタル名士タチナラバ、後世ノ佛教徒ノ如ク、死スルヤ否ヤフイト極樂ニ向ヒ去ルガ如キ無責任ナル所業ハ敢テセズ、魂魄ト成リテ迄モ人間問題ヲ考慮シツヽアルナルベク、捨テヽ置ケバ或ハ災ヲ下スノ擧ニ出ヅルコトアランモ、頼ミヤウニ由リテハ勿論親切ナル世話奔走ヲ辭セザルナルベシ。例へバ楠家ノ兄弟ハ、湊川ノ最後ニ際シテ何ト宣言シタリシカ。之ヲ根據ナキ妄想ト見ルコトハ、今人ト雖敢テセズ。我々現代人ノ理想モ亦復此ノ如キノミ。死シテ幽界ノ名士ト成ルコトヲ得バ男兒ノ能事ハ終レルナリ。尤モ此思想タルヤ、本來及ブ所甚ダ弘キモノナリキ。例ヘバ眞言ノ佛法ニ於テ、獰猛無比ノ稱アル障礙神ノ義侠心ニ訴ヘテ境堺ノ守護ヲ委託スルコト、或ハ其信仰ノ根原ナラントノ説アル門ノ側又ハ川ノ境等ニテ人ヲ屠リ其靈魂ヲ利用シテ工作物ヲ防護セシムル慣習、即チ日本ナドニモ往々聞ク所ノ人柱ノ話、サテハ妖婆ノ輩ノ秘密ニ屬セシ物ヲ指シタル幼兒ノ指、食物ヲ見詰ムル所ヲ打斫リタル餓ヱタル犬猫ノ頸ナドガ、人ニ未然ノ善惡禍福ヲ教フルト云フガ如キモ、皆同ジ思想ニ屬スベカリシ者ナリ。更ニ遠慮無キ斷定ヲ自ラ許スナラバ、彼ノ天滿大自在天神ノ信仰ノ如キモ、右ノ御靈ノ思想ヲ以テスルニ非ザレバ之ヲ解説スルコト能ハザルモノナリ。而シテ人間ニシテ能ク巖石ノ上ニ跡ヲ留メタリト云フハ、即チ此等ノ人々ノ乘馬ノ蹄ニ他ナラザルハ、誠ニ偶然ニハ非ザルナリ。古クハ菅公ト同ジク太宰府ノ官吏ニシテ靈死シタル藤原廣嗣、東京ノ附近ニテハ矢口ノ渡ニ千古ノ川浪ヲ咽バシメタル新田義興ノ如キ、何レモ白馬ニ騎シテ白雲ト共ニ空中ヲ飛ビマハリ、終ニ恨ト云フ恨ハ悉ク報イ去リ、猶靈ノ力ノ大ニ餘裕アルコトヲ示シタリ。而シテ其馬ノ足跡ニシテ若シ或岩石ノ上ニ在リトスレバ、神ト同ジク之ヲ祭ルハ極メテ(152)自然ノ結果ニ非ズヤ。

（龍馬ノ嘶、理想ノ名馬、名馬樋口、馬塚、池、鬼鹿毛、馬蘇生、祝神、妙見ト馬、誕生奇瑞、岩ノ窪、赤子足跡、岩ノ窪、雨乞、龍ケ爪、龍宮、駒爪石、沼、龍ケ馬場、火山毛、馬降ル）

龍馬去來　馬蹄石ノ傳説ニハ更ニ今一ツノ根原アリ。カノ藤原廣嗣ガ愛馬ノ如キハ、單ニ乘手ガ一代ノ英傑ナリシノミニ非ズ、自分モ亦五百年ニ一タビ出現スル程ノ名馬ナリキ。天平十二年十月ノ頃ト買上ノ年月マデモ分明ナリ。廣嗣朝臣出デテ馬市ヲ見ルニ、?《ウツロ》ノ中ニ在リテ一度ニ七聲ヅツ嘶ク馬アリ。高キ價ヲ拂ヒテ之ヲ買取リ飼育シテ見ルニ、紛レモ無キ龍ノ駒ナリキ。彼ハ此馬ニ乘リテ毎日午後ヨリ一千五百里ノ路ヲ大和ニ往復シテ朝廷ノ公事ヲ勤メ、午前ハ太宰府ノ事務ヲ視タリト云フ〔古今著聞集二十〕。此話ハ惡クスルト彼ガ後任者大伴旅人ノ歌ニ、

　　龍《タツ》ノ馬モ今ハ得テシカ青丹《アヲニ》ヨシ奈良ノ都ニ往キテ來ン爲

トアルヲ誤傳シタルモノナランモ〔萬葉集五〕、兎ニ角ニ九州ノ邊土ニハ斯ル神物ノ出デタリト云フ噂折々ハアリシナルベシ。即チ昔ノ人ノ英雄崇拜心ハ時トシテ馬ニモ及ビ、馬ノ中ニハ人間賢愚ノ差ヨリモ更ニ幾段カ烈シキ駿駑ノ相違アリト信ゼラレシナリ。平家琵琶流行ノ武家時代トナリテモ、此思想ハ常ニ存在シ、而シテ其名馬ノ名ハイツモ池月又ハ磨墨ニテアリキ。歴代ノ武士ガ名馬ニ憧憬セシ物語ハ無數ナリ。其極終ニハ怖ルベキ龍ノ駒ヲモ怖レザルニ至レリ。石州鹿足郡｜吉賀《ヨシガ》ノ谷ニハ古來馬ヲ産セズ、而モ三頭ノ駿馬相次ギテ此地ヨリ出デタリ。其二ツハ亦池月ト磨墨トニシテ次ニ徐ロニ之ヲ述ベント欲ス。之ニ先ダチテ出デタルヲ樋口驪《ヒグチグロ》ト云フ。生レタル時長八寸ニ餘リ山野ヲ馳セ廻リテ口ヨリ常ニ火ヲ吐ケリ。因リテ火口トハ名ヅケシニテ、鹿足郡藏木村大字樋口ノ地名ハ寧ロ之ニ由ツテ起ルト云ヘリ。火口荒馬ナレバ人敢テ近ヅカズ。獨リ佐伯重行ナル者アリ、仙術ニヨリテ之ヲ御スルコトヲ得、之ニ乘リテ一日ニ石藝防ノ三州ヲ奔馳ス。朝廷聞シメシテ龍馬ノ獻上ヲ命ジタマヘドモ隨ハズ、一子小五郎ヲ人質トシテ終ニ之ヲ刑戮ス。重行遙カニ之ヲ察知シ、今ハ頼無シトテ此馬ニ乘リテ異國ニ立去ラントセシガ、馬鞭ノ影ニ驚キテ大字田野原字河津ノ梅林(153)ニ馳入リ、葛?ニ蹶キテ倒レ死ス。今モ田ノ中ニ馬塚アリテ附近ニ龍馬ノ社ヲ祀ル。神體ハ馬ノ木像ナリ。此村永ク梅及ビ葛?ヲ生ゼザルモ亦此因縁ノ爲ナリト云ヘリ〔吉賀記中〕。龍馬ヲ神ニ齋ヒシ近世ノ例ハ、阪本龍馬ノ郷里ナル土佐ニモアリ。又長岡郡十市村野村氏ノ系圖奧書ニ依レバ、同郡三里村大字池ノ百姓新兵衛ガ家ニ、槇山生立ノ牝馬子ヲ孕ミタリシガ、腹ノ中ニテ既ニ嘶ク聲聞エタリ。永禄元年戊午ノ歳ノ二月初午ニ三足ノ駒生ル。鬼鹿毛ナルベシトノコトニテ豫テ打殺スベキ用意ヲシテアリシガ、生レ出ヅルヤ否ヤ馳セテ善助ト云フ者ノ屋敷ニ飛ビ込ミタルヲ、大勢取卷キテ漸クノコトニテ之ヲ殺シ屍ヲ濱ニ棄ツ。然ルニ不思議ナル事ニハ此駒忽チ蘇生シテ厩ニ立返リ、平氣ニテ母馬ノ乳ヲ飲ミ、厩ヲ七遍廻リテ後終ニ南海ノ浪ニ走リ入リヌ。野村氏ニテハ其龍馬ナルコトヲ知リテ家ノ祝神トシテ之ヲ祭リタリト云フ。近キ頃香美郡室丘ニアリタル寵馬ノ祠モ、多分ハ之ニ似タル異常ノ幼馬ナラント云フコトナリ〔土佐國群書類從九所録龍馬祠記附録〕。藤原廣嗣ノ愛馬ガ一度ニ七聲嘶キ、右ノ池村ノ龍馬ガ厩ヲ七度廻リタリト云フコトハ、偶合ニハ非ザルベシト思ハルヽ仔細アリ。前ニモ説キタル外南部ノ七鞍ノ怪馬ト同ジク、北辰化生ノ古キ信仰ニ基クモノナルヤ略疑ナキナリ。美濃｜惠那山《エナサン》ノ頂上ニ馬ノ神アリ。九月九日ノ祭ニハ近郷ヨリ多クノ凡馬ヲ牽キ登ル。社ハ池ノ側ニ七社列立ス。其池ノ岸ナル笹ノ葉ヲ取來リテ馬ニ飼ヘバ能ク病ヲ治スルコトヲ得ト信ゼラレタリ〔一宵話〕。此モ同ジ信仰ニ起因スルモノナルベシ。

　土佐ノ龍馬ノ生立ハ正シク人間ノ阪田公時又ハ武藏房辨慶ナドト其類ヲ同ジクシ、不倫ナル比較ニテハアレドモ遠ク釋尊誕生ノ古傳ニ線《イトスヂ》ヲ引クモノ、即チ自分ガ假ニ名ヅケテ鬼子《オニノコ》傳説ト云フモノ是レナリ。此口碑ヤ本來單ニ現出ノ稀有ヲ誇張セントスル動機ニ基クモノナルベキカ。鬼鹿毛既ニ絶代ノ珍トスベクハ、ソノ小栗判官ノ如キ伯樂ト遭遇センコトハ愈々多ク有リ得ベカラザル機會ナリ。此故ニ諸國ノ靈山ニハ往々ニシテ人界ノ覊絆ヲ超脱シタル龍馬ノ住スルモノアルナリ。同ジク土佐ノ幡多郡足摺山ノ縁起ニモ、山中ニ龍馬(154)ケ原ト云フ處アリ、千場ケ瀧ノ上ナリ。此原ニハ毎夜龍馬出デテ笹ノ葉ヲ喰ムト云ヒ〔西郊餘翰四〕、又長岡郡｜岡豐《ヲガウ》村大字瀧本ノ毘沙門堂ノ瀧ハ、高サ十七間バカリニシテ中程ニ一段ノ水溜リアリ、其傍ニモ龍ノ駒ノ足跡ト稱スル岩ノ窪アリト傳ヘタリ〔土州淵岳志〕。阿波阿波郡林村大字西林ノ岩津ノ淵ノ側ニ在ル馬蹄石モ、石ノ面ニ殘レルハ爪ヲ以テ押シタルガ如キ形ナレバ、俗ニ又牛ノ爪石トモ云フ〔燈下録〕。要スルニ只ノ馬ノ蹄ノ痕ニハ非ザルナリ。薩摩ノ薩摩郡鶴田村大字｜紫尾《シビ》ノ祁答院《ケタフヰン》神興寺ノ山ニモ胎生尾《タイシヤウノヲ》ト云フ岩アリ。紫尾八草ノ一トシテ此地ヲ詠ジタル詩ノ句ニモ、

　　曾生2天馬1世皆譚　　　　苜蓿蹄痕與v蘚參

ナドト見エタリ〔三國名勝圖會〕。美作久米郡福岡村大字横山ノ嶺平《ミネノダヒラ》ニハ、岩ノ上ニ駒ノ右ノ蹄ノ跡ト赤兒ノ右ノ足跡ト殘レリ。其場處ヲ「ノゴハズ」ト呼ブハ、觸ルレバ忽チ雨降ルト云フ信仰ニ基クモノヽ如シ〔山陽美作記〕。同國苫田郡｜神庭《カンバ》村大字草加部ニハ、賀茂川ノ東岸ノ岩ニ龍馬ノ爪ノ跡數多ト、竝ニ馬桶ト名ヅケタル岩ノ窪二箇處アリテ龍ケ爪淵ト稱ス。其附近ニハ龍神ノ社アリ。楢村ト云フ部落ノ地ニ屬ス。旱魃ニ雨乞シテ靈驗アリ〔東作誌〕。同郡堀阪ト云フ地ニモ川ニ臨ミシ岩ノ上ニ馬蹄ノ跡アルヲ、龍ケ爪ト名ヅケテ參詣スル者多カリキ〔山陽美作記〕。同國英田郡大野村大字川上ノ増《マス》ケ乢《タワ》ニモ古ヘ天ヨリ下リシ龍駒ノ爪形ヲ石ノ上ニ遺スモノアリ。之ヲ駒ケ爪石ト稱ス〔東作誌〕。此トハ遙カニ懸離レテ、陸前名取郡｜秋保《アキフ》村大字｜新川《ニツカハ》ニハ龍駒《リユウク》ケ嶽アリ。東嶽ト相竝ベリ。山上ニ樹ナク只茆草ヲ生ズ、郷人曰ク山中ニ龍駒アリ常ニ出デテ草ヲ食ムト、仍テ其山ニ名ヅケタリ〔奧羽觀迹聞老志〕。加賀ノ白山ニ於テモ古來龍馬ヲ生ズト傳ヘ、土人往々ニシテ蹄ノ跡ヲ峻巖邃壑ノ間ニ見ル。石川郡吉野谷村大字佐良ハ白山ノ麓ニ在リ。村ノ南半里ニ丈溪ト云フハ石壁千仞ナリ。村民市平ナル者曉ニ行キテ小サキ馬ノ尾ト鬣ト甚ダ長キガ躍リテ谿ニ入ルヲ見タリ。岩角ヲ蹴ツテ飛ブコト平地ノ如ク、忽チ其影ヲ見失フ云々〔白山遊覽圖記七〕。羽前西田川郡西郷村大字馬町ノ善法寺ノ(155)池ノ水ハ龍宮ニ通フト稱シテ數々ノ奇特アリ。本堂ノ西南山ニ人ルコト三町バカリニシテ龍ケ澤アリ。龍馬ノ蹄ノ跡ト云フモノ存スト云フ〔三郡雜記下〕。羽後地方ニテモ龍馬ノ傳説ノ少ナカラザルコトハ後ニ再ビ之ヲ説クベキガ、北秋田郡ノ戸鳥内《トトリナイ》ト云フ地ニモ路ノ傍ニ駒爪石ト稱スル神馬ノ跡アル石ヲ、祠ノ中ニ安置シテ崇敬シテアリキ〔眞澄遊覽記三十二下〕。同郡｜萩生山《ハギナリヤマ》ノ山奧ニハ怖シキ一ツノ沼アリ。雨降リ風吹カントスル際ニハ龍馬現ハレテ其岸ヲ馳セアルク。山民之ヲ見テ日和ノ占ト爲セリト云ヘリ〔同上三十一〕。此等ノ馬ドモハ單ニ凡人ノ覊絆ヨリ超脱スト謂フニ止マラズ、獨立シテ既ニ一箇ノ神ナリシニ似タリ。假ニ然ラズトスルモ、少ナクモ其生死出没ノ點ニ於テ、尋常市井ノ荷車ニ營々スル者トハ全ク其範疇ヲ異ニシタリ。即チ一言ニシテ言ハヾ、彼等ハ皆天ヲ其郷里トスル者ナリシ也。陸中稗貫郡｜大迫《オハザマ》町ノ横岨山《ヨコガケヤマ》ノ頂上ニハ龍ケ馬場ト稱スル地アリ。町ヨリ南方ニ當リテ眺望良キ地ナリ。龍ケ馬場ト云フハ廣サ七八尺長サ三十間バカリノ白砂清淨ノ一區ニシテ、雷ノ烈シク鳴ル日ニハ必ズ白馬ノ毛ノ如キ五寸乃至八寸ノ毛ヲ降ラス故ニ、此ノ如キ珍シキ名ヲ負ヘルナリ〔和賀稗貫二郡郷村志〕。但シ此毛ハ白馬ノ毛ナリヤ否ヤ多少ノ疑アリ。現ニ馬ヲ重要視セザル江戸ノ市中ニモ澤山ニ降リシコトアリ。時ハ寛政五年ノ七月十五日、江戸小雨降リテ其中ニ毛ヲ交ヘタリ。丸ノ内邊ハ別シテ多シ。多クハ色白ク長サ五六寸、殊ニ長キハ一尺二三寸ニ及ブ。色赤キ毛モタマ／＼有リ。太サハ馬ノ尾ホドノ物ナリ。江戸中ニ遍ク降リシコト、何獣ノ毛ニテ幾萬疋ノ毛ナルヤ不審ノ事ナリト云ヘリ〔北?鎖談二〕。此ヨリモ遙カ前ノ年ニ、阿部伊勢守殿居間ノ十間バカリ脇ノ櫻ノ木ヘ雷落チ、木ニモ其邊ニモ長サ五六寸ノ毛夥シク降リタリ。主人之ヲ集メテ蠅拂ニセラレシトハ氣樂ナル話ナリ〔觀惠交話下〕。近クハ明治四十五年四月十八日ノ時事新報ノ記事ニ、伊豆ノ大島三原山ノ麓ニ此毛降ル。新シキ學問ニテハ之ヲ火山毛ト呼ブ由ナレドモ、布哇ナドノ土人モ之ヲ神ノ毛ト尊敬スルト聞クノミナラズ、更ニ他ノ一方二ハ馬ガ丸ノマヽ降リタリトノ話モアレバ、要スルニ天ハ何ヲ降ラスカ到底測リ知ルベカラズ。此(156)モ江戸ニテノ出來事ナリ。今ヨリ凡ソ百六十年ホドノ昔、江戸ニ大霰ノ降リシ日、旗本ノ橋本安房守ガ庭前ニ一頭ノ馬降リ來ル。龍ノ揚ゲタルモノナラントノ説アリキ。落ツルハズミニカ腰ノ骨ヲ痛メテアリシ故ニ療養ヲ加ヘタリトアリ。不思議ノ上ノ不思議ハ、此馬ハ背ニ娑婆世界ノ乘鞍ヲ置キテアリシト云フコトナリ〔寓意草下〕。

（龍住ム池、月山權現、池、馬塚、駒ケ池、四十八沼、竈沼、島ノ牧、引田、釜穴、駒留石、硯、岩穴、硯、名馬不死、池田、駒牽澤、駒形神、姥強力、明星、爪石、駒ノ淵、駒繋松、馬影池、海ト馬、馬長壽、池、海邊ノ牧、池、妙見、馬蹄石、馬洗川、駒形神、馬塚、胴塚首塚、山王、馬頭觀音、橋ノ忌、馬塚、馬ノ首、片割シドメ）

池月磨墨太夫黒　名馬池月ハ陸奧七戸立ノ馬ニテ鹿笛《シヽブエ》ヲ金燒ニ當テタル五歳ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇ノ例ヲ擧ゲンカ。奧州三戸ニ在リテハ池月ハ名久井嶽《ナグヰダケ》ノ麓ノ牧｜住谷野《スミヤノ》ニ於テ生ルト云フ。嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潜ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飲ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此説ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳説ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黒スベテ同ジ牧ノ産ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字｜木直《キツキ》ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又｜七寸《シチキ》トモ唱フ。池月生レ落チテ其長｜四尺七寸《ヨサカナヽキ》アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ説明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡｜日向《ニチカウ》村大字下黒川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ産ムト云フ。其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西郷村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故郷ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地《ヤチ》ト云フ村ニモ之ト似タル傳説アリキ。村ノ羽黒神社ノ境内ニ古クハ大小四十八箇ノ沼アリ、其最モ大ナルヲ親沼又(157)ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因縁ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字｜樋曾《ヒソ》モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彦山ノ麓ナリ。彌彦ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト縁故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竈窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。能登鹿島郡中之島村大字｜向田《カウダ》ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來リテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彦神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ頼朝公ノ下文及ビ梶原ガ添?、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好《イケズキ》ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

　磨墨ハ多數ノ故郷ヲ併セ有スル點ニ於テモ池月ト容易ニ兄弟シ難キ馬ナリ。關東方面ニ於テハ此名馬ノ生レ在所ト云フモノ、一ツニハ下野上都賀郡東大蘆村大字引田ナリ。村ヲ流ルヽ大蘆川ノ摺墨淵ノ片岸ニ、釜穴ト稱スル入口八九間ノ洞窟アリ。磨墨ハ此洞ヨリ飛出セリト云フコトニテ、岩ノ上ニ大サ七八寸深サ一尺ニ近キ蹄ノ痕アル外ニ、村ノ長國寺ノ境内ニモ亦一箇ノ馬蹄石アリテ、其名ヲ駒留石ト稱シタリ〔駿國雜志二十五〕。同國安蘇郡｜飛駒《ヒコマ》村ハ元ハ彦間ト書ケリ。昔ノ牧ノ祉ナルヲ以テ今ノ字ニ改メシナルベシ。土地ノ人ノ説ニテハ世ニ名高キ池月磨墨ハ共ニ此地ノ出身ナリト云フ〔山吹日記〕。上總國ニモ磨墨出デタリト傳フル地少ナクモ二處アリ。其一ツハ木更津ノ町ニ近キ疊池《タヽミガイケ》ト云フ池、其二ハ則チ東海岸ノ夷隅郡布施村字硯ト云フ地ナリ。硯ニテハ高塚山ト名ヅクル丘陵ノ頂上、僅カナル平ニ一本松ノ名木アル邊ヲ昔ノ牧ノ跡ナリト傳ヘ、愛宕ヲ祀リタル小祠アリ。此岡ノ中腹ニモヤハリ小サキ池アリテ、其水溜リノ如何ナル旱魃ニモ涸レザルヲ、或ハ磨墨ノ井ト稱ス。此地方ノ口碑ニ依レバ、磨墨ハ此牧ノ駒ナリシヲ平廣常取リテ鎌倉將軍ニ獻上スト云ヘリ〔房總志料〕。此ヨリ更ニ一日程ノ南方、安房ノ太海村ノ簑岡ト云フ海邊ノ牧モ、池月磨墨ノ二(158)駿ヲ産セリト云フ名譽ヲ要求ス。而シテ村ノ名ニモ池月村磨墨村ノ稱呼アリキト言ヘド、今日ノ字何ニ該當スルカ不明ナリ〔十方菴遊歴雜記五篇下〕。此海岸ヨリハ、兎モ角モ或名馬ヲ出セシコトミハ事實ナルガ如シ。同ジ太海村ノ大字｜太夫崎《タイフザキ》ハ、義經ノ愛馬薄墨一名ヲ太夫黒ト云フ駿足ヲ出セシヨリノ地名ナリト云フ。岬ノ岸ニ不思議ノ巖窟アリ。深黒測ルベカラズ。太夫黒ハ則チ其洞ヨリ出デタリト云ヒ、附近ニハ硯トスベキ多クノ馬蹄石ヲ産シ、且ツ馬ノ神ノ信仰ヲ保存セリ〔千葉縣古事志〕。一説ニ頼朝石橋山ノ一戰ニ敗レテ此半島ニ落チ來リシ際、太夫黒ヲ手ニ入レタリ。後ニ此馬ハ獨リ故郷ニ還リ來リ、今モカノ洞ノ奧ニ住シテ不死ナリ。山麓ノ名馬川ノ岸ヨリ浪打際ニカケテ、折々駒ノ足跡ノ殘レルヲ見ルハ、人コソ知ラネ龍馬ノ胤ノ、永ク絶エザル證據ナリト云ヘリ〔遊歴雜記同上〕。然ルニ右ノ太夫黒ハ古クハ奧州ノ秀衡ガ義經ニ贈ル所ト稱シ、池月磨墨ト共ニ南部三戸ノ住谷ノ牧ニ産スルコト、同處ノ馬護神ノ天明元年ノ祠堂記ニ詳カナルニ〔糠部五郡小史〕、或ハ又越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱ニ生レタリト云フ説アリ〔越後名寄三十一〕。讃岐木田郡牟禮村ニテハ此馬終焉ノ古傳碑文ニ依リテ明白ナリ〔讃岐案内〕。結局何レガ眞實ノ話ナルカ、予ハ之ヲ決シ得ズ。

　武藏ニハ固ヨリ池月磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳説ニ於テハ、亦池月此國ニ産セシコトヲ主張スルナリ。其説ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト喜ケリ。源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。或日比沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等絹ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鎌倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムベキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。弦卷山(159)ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔目本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ産レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一説ニ栃澤村ノ民五郎左衛門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルベシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ産シタリ。元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因縁ナキニシモアラズ〔遊嚢※［謄の月が目言が貝］記〕。尚此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

　飛騨國ニテハ池月ハ大野郡｜丹生川《ニブカハ》村大字池俣ヨリ出ヅト稱ス〔飛州志〕。池俣ハ乘鞍嶽西麓ノ村ナリ。恐クハ亦神聖ナル池アリシヨリノ村ノ名カ。乘鞍ト云フ山ノ名モ或ハ又馬ノ神ト縁由アリシモノナラン。池月ハ又近江ヨリ出デタリトノ説アリ〔越後名寄三十一〕。犬上郡東甲良村大字池寺ハ古クハ河原莊ノ内ニシテ、大伽藍アリシ地ナリ。名馬池月ハ此邊ニ生ル。池月ハ即チ池寺月毛ヲ略シタル名ナリ。而シテ磨墨ハ同ジ國伊香郡ノ摺墨郷ニ於テ生レタルガ故ニ其名アルナリト云ヘリ〔淡海木間攫〕。伊勢鈴鹿都庄内村大字三畑字鳩峯ハ亦此地方ニテノ池月出生地ナリ。同郡椿村大字小社字牧久保ニ駒爪石アリ。徑《ワタリ》三尺バカリノ圓石ニシテ中央ニ爪ノ痕ニ類スル者存ス。池月此村ニテ育成セラレシ時蹈立テタル跡ナリト云フ〔伊勢名勝志〕。然ルニ程遠カラヌ河藝郡｜河曲《カハワ》村大字山邊字内谷ニモ同ジ傳説アリ。駒ノ淵ト稱スル周圍五十間餘ノ低地ハ即チ是ニシテ、以前幕府ノ官吏巡視ノ折之ヲ承認シ、右大將源頼朝卿之逸馬生?出生之地ト云フ標木ヲ建テタルコトアリト云フ〔同上所引勢陽雜記〕。平蕪遠ク連ル河内ノ枚方《ヒラカタ》ノ如キ土地ニ於テモ、尚池月ハ此地ニ生レタリト云(160)フ口碑アレバ〔越後名寄所引寺島良安説〕、神馬ハ誠ニ至ラザル所無キナリ。更ニ中國ニ在リテハ安藝山縣郡原村大字西宗ノ四滿津《シマヅ》ト云フ處ヨリ磨墨出デタリト稱ス〔藝藩通志〕。或ハ又之ヲ池月ナリトモ云フ。此村字淨土ノ勇ケ松ハ、池月ヲ此樹ニ繋ギタリトテ古ヨリ其名高ク、神木トシテ崇メラル〔大日本老樹名木誌〕。石見鹿足郡藏木村大字田野原ニ早馬池アリ。池月此邊ヨリ出ヅト稱ス。元來野馬ニシテ池水ヲ泳グコト陸行ノ如シ。故ニ池月ト稱スト云フ。此地ハ山中ノ別天地ニシテ總稱シテ俗ニ吉賀ト呼ベリ。吉賀郷モト馬無シ。古今唯三名馬ヲ産スルノミ。磨墨ハ亦其一ナリト傳フ〔吉賀記上〕。但シ池月ハ或ハ長門須佐ノ甲山ニ生ルト云フ一説アル由ニテ、吉賀ノ故老ハ此一頭ノミハ隣國ノ口碑ニ割壤スルノ意アリシガ如シ〔同上〕。須佐ハ長門ノ東北隅ニシテ石見ト境スル山村ナレバ、龍馬ガ來往シテ其本居ヲ定メ得ザリシモノトモ解スルヲ得ン。而モ長門ノ通説ニ於テハ池月ノ生レタリシハ豐浦郡ノ御崎山ニシテ懸離レタル西隅ノ海岸ナルノミナラズ、磨墨モ亦同ジ牧ノ産ナリト主張スルナリ〔大日本老樹名木誌〕。之ト同時ニ石見ノ邑智郡｜出羽《イヅハ》村大字出羽ニ於テモ、馬影池ト云フ池アリテ亦池月此池ヨリ出ヅト傳フ。出羽ノ池月ハ誠ノ龍ノ駒ニテ、常ニ我影ヲ池ノ水ニ映シ又其池ノ水ヲ飲メリ〔石見外記〕。隱岐島ニテハ周吉郡ノ東海岸｜津居《ツヰ》ト云フ里ニ、牡池牝池ノ二ツノ池アリ。池ノ深サハ測リ知リ難ク岸邊ノ石ハ墨ノ如ク黒シ。白馬池月ハ則チ此水中ヨリ現ハレタリトアリテ、池ノ北ニ今モ駄島ナド云フ地名アリ。駄島ノ駄ハ牝馬ノコトナルベシ。此池月ハ飛ビテ島前ニ渡リ、ソレヨリ大海ヲ泳ギテ出雲ニ來リシヲ、浦人之ヲ捕ヘテ亦鎌倉殿ニ獻上ス〔隱岐視聽合記〕。出雲ニ於テハ今ノ八束郡美保關村大字雲津ニ正シク其遺蹟アリ。池月ガ隱岐ヨリ渡リ著キシ時ノ蹄ノ跡岩上ニ殘レル外ニ、又自然ニ馬ノ姿ノ現ハレタル奇巖モアリト云ヘリ〔出雲懷橘談上〕。但シ雲津ハ夙ニ彼島渡航ノ船津ナリケレバ、二處ノ口碑ガ響ノ如ク相應ズルモ、特ニ之ヲ奇トスルヲ要セザルナリ。

　池月ハ又四國ニ出ヅト云フ説アリ。其説ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、(161)後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳説ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或説ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡｜第拾《ダイジフ》村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戯レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歳ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鎌倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬其池月ニヲサ／＼劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。九州ニ於テハ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ説アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ産シタリト云フ明瞭ナル記録アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルベシト云フ〔三國名勝圖會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧《イケヅキノマキ》ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因縁シテ同ジ傳説ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述ベントスル名馬草ノ記事ヲ録スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黒白二駿ヲ併セ産シタリト云フ説アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世字磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲｜奴可岳《ヌカダケ》村大字｜唐洲《カラス》ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ(162)名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ蓑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此ノ如ク傳説スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルベシ。

　正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十敷處ノ産地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虚誕ナリ。虚誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルベシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歴史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸著ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。東國ニテハ武藏橘樹郡城郷村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戸アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘出ス。字觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ字｜幸館《カウダテ》ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。(163)併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。近江阪田郡西黒田村大字｜常喜《ジヤウキ》ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳説ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飲ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。此地ノ古傳ニテハ、池月ハ隣村足柄下郡｜酒匂《サカワ》村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳説アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新ニ石ヲ立テ、之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙《アブミ》ケ谷《ヤツ》アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字｜新居見《ニヰミ》、竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ説ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。武州都築郡｜都岡《ツヲカ》村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割(164)シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此ノ如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徴ナリ。

（長者、ツクシ、龍ケ池、鞍淵、野飼、生駒山、島ノ牧、駒形三社、野飼、初午、熊野神、窟ノ神、竈神、九十九、馬神根原、神馬草、海ノ寶、海馬、子安ノ守、鳥海山、白馬釣龍、甑及ビ竈）

水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム　池月磨墨ハ名馬ノ最モ高名ナルモノニハ相違ナキモ、弘ク其名ノ諸國ノ傳説ニ採用セラルヽニ至リシ原因ハ別ニ又存ス。先ヅ第一ニ池月ハ池ヨリ生レシ者、即チ水ノ神ノ子ナリト想像セシムルニ最モ似ツカハシキ名前ナリ。池月ハ太ク逞シキ黒栗毛ナル馬ノ、尾ノ先チト白カリケルトアル昔ノ記録ハ、各地ノ古傳之ヲ認メザル者多シ。事ノ外ノ荒馬ニシテ生類ヲ好ミテ食ヒケル故ニ生?《イケズキ》ト云フトノ説ハ、殊ニ牽強附會ノ感アリ。其議論ハ兎モ角モ、其名ヲ耳ニ聞キテ先ヅ思フハ白クシテ光アル馬ノ毛ノ水ノ月ト縁アルコト、更ニ一歩ヲ進ムレバ龍馬ハ龍ノ胤ト云フ古來ノ俗信ナリ。此思想ハ申スマデモ無ク支那カラノ輸入ナレド、而モ日本ノ土ニ移シテ後ニモ國相應ノ美シキ花ヲ開ケルナリ。例ヘバ陸中鹿角郡｜小豆澤《アヅキザハ》ノダンブリ長者ノ如キハ、家富ミテ數百頭ノ馬ヲ山ニ放牧ス。山上ニハ池アリテ龍下リ住メリ。長者ガ駒此池ノ水ヲ飲ミテ龍馬ト成リシガ故ニ、今モ其故跡ヲ龍馬嶺ト云フ〔鹿角志〕。池月産地ノ一トシテ傳ヘラルヽ羽後ノ木直《キツキ》ニテハ、昔百姓ノ家ニ一頭ノ牝馬ヲ飼ヘリシガ、夜ニ入リテ厩ノ中物騷ガシキコト?々ナリ。灯火ヲ挑ゲ行キテ見ルニ何物ノ影モ無カリシガ、朝毎ニ厩ノ周ニ必ズ新ナル蹄ノ跡アリ。副馬嶽《ソウマガダケ》ノ神馬飛降リテ此家ノ牝馬ガ處ニ夜遊ニ來リシナリト云ヘリ。其後此牝馬ニ七寸ノ駒生レタリ。池月ナリト傳ヘラレシハ此駒ノコトナルガ如シ。非常ノ荒駒ナレバ山ニ杙ヲ打チテ之ヲ繋グ。仙北ノ名山大ツクシ小ツクシノ二峯ハ、即チ此杙ノ化シテ成レル山ニテ、「ツクシ」トハ杙又ハ標木ノコトナリト云ヘリ〔月乃出羽路四〕。厩ノ戸口ニ新シキ蹄ノ跡ト云フ話ハ我邦バカリノ物語ニハ非ズ。支那ニテモ大昔ヨリワザト牝馬ヲ水際ニ放チテ龍ノ出來心ヲ誘ヒシ例アリト聞ク。水中ノ靈物ガウマ／＼ト人間ノ誘惑ニ罹リシ場合ニハ、必ズ其足跡ヲ岸上ノ砂(165)ニ遺シタリトナリ〔南方氏神足考〕。磨墨太夫黒ノ徒ガ時トシテ巖窟ノ奧ヨリ飛出セリト傳ヘラルヽモ、思フニ亦龍馬ガ文字通リニ龍ヲ父トシテアリシコトヲ示スモノニテ、即チ神馬ハ河水ノ精ナドト云フ思想ヨリ一轉シテ、之ヲ龍ノ變形又ハ龍ノ子ト考フルニ至リシナランノミ。

　駿馬ノ龍ヲ父トスルコト、近世ニ於テモ正シク其實例アリキ。羽前東田川郡清川村ノ對岸ニ龍ケ池アリ。此水ハ山中ノ青鞍淵ト地下ニ相通ズト傳ヘラレ、曾テ領主ガ池水ヲ切落サントセシ時ニモ、掘ルニ從ヒテ底愈々窪ミ、漫々トシテ終ニ其深サヲ減ゼザリキ。此池ニモ龍アリテ住ムガ故ニ、池ノ空ニ龍ノ形ヲシタル雲ノ折レ棚引クヲ見ルコトアリ。酒井侯忠眞ノ治世ニ、成澤村ノ農長右衛門ガ家ノ女馬、此池ノ岸ニ野飼スル間ニ龍ノ子ヲ孕ミタリ。生レシ駒ハ鹿毛ノ駿逸ナリキ。忽チニ藩主ノ乘馬トナリ後ニ之ヲ公儀ニ獻ズト云フ〔三郡雜記下〕。土佐ノ果下馬《トサゴマ》ハ體コソ小サケレ、健カニシテ且ツ鋭キコトヨタ彼國ノ人物ニ似タリ。其開祖モ亦水邊ノ牧ヨリ出デシモノニテ、一説ニハ牝馬ノ海鹿《アシカ》ト交リテ生ミシ子ナリト稱シ、ソレ故ニ性質チト順良ナラズトモ評セラル〔有斐齋剳記〕。此等ノ事實ヲ參酌シ、兼テ又多クノ池月ガ池ノ邊ヨリ生レ出シコトヲ思ヒ合ストキハ、我邦ニテ延喜式以來ノ諸國ノ牧場ノ海ニ臨メル地ニ多カリシハ、決シテ單ニ土居ヤ圍障ノ經費ヲ節約センガ爲ノミニ非ザリシコトヲ疑フ能ハズ。即チ斯クスレバ良キ駒ヲ産スベシト云フ經驗乃至ハ理論ノ確乎タルモノアルニ非ザレバ、島地岬端ヲ求ムルコト此ノ如ク急ナルベキ理無キナリ。俗説ノ傳フル所ニ依レバ、馬ハ應神天皇ノ御代ニ高麗國ヨリ初メテ之ヲ貢獻ス。之ヲ飼フベキ途ヲ知ラズ、山ニ放チタルニ依リテ其山ヲ生駒山ト云フ。其後高麗ヨリ人渡リテ申ス、岩石峯海ノ邊鹽風ニ當ル處ニ放チ飼ヘバ駿馬トナリテヨシト申ス。依リテサアリヌベキ處ヲ尋ネ、但馬國ノ海峯ニ斯ル處ヲ求メ得テ馬ヲ追放ツ。其後子ドモ多ク生レテ馬此國ニ充滿シケリ。故ニ多馬《タマ》ノ國ト號ス云々〔但馬考所引國名風土記〕。島ノ牧ニ至リテハ近世ニモ例甚ダ多シ。羽前ノ海上ニ飛島ナリシカ粟島ナリシカ、今モ共有ノ野馬山ニ多ク居リ、島人其用アル時(166)ノミ繩ヲ携ヘ行キテ之ヲ捕ヘテ使ヒ、用終レバ復之ヲ放ツト云フ話ヲ聞キシコトアリ。伊豆ノ大島ニテハ里ニ飼フハ牛ノミナレドモ、八代將軍ノ時ニ放牧セシ野鳥ノ子孫、三原山ノ中腹ニ永ク住ミテアリシト云ヘリ。津和野ノ龜井伯ノ始祖龜井琉球守茲矩ハ雄圖アル武將ナリキ。曾テ大船ヲ購ヒテ明國安南暹羅ナドト貿易セシ頃、多クノ駿馬野牛ヲ舶載シ來リテ之ヲ因幡｜湖山池《コサンイケ》ノ青島ニ放牧ス。其種永ク盡キズ、寛永年中ニ至リテ尚其姿ヲ見タリト云フ〔漫遊人國記〕。瀬戸内海ニハ島ノ牧殊ニ多カリキ。熊谷直好ノ歸國日記ニ、

　　赤駒ニ黒ゴママジリ遊ビ來ル島ノ松原面白キカナ

ト詠ジタルハ、今ノ何島ノ事ナリヤハ知ラザレドモ、安藝ノ海中ニモ馬島ト稱シテ野馬ノ多キ一島アリキ。但シ之ヲ取還ラントスル者アレバ、其舟必ズ覆没スト云へバ〔有斐齋剳記〕、世用ニ於テハ益無キナリ。播州｜家島《エジマ》ノ南方十五町ノ處ニモ、寛文ノ頃一ノ馬島アリテ牧ヲ設ケラル〔西國海邊巡見記〕。安藝賀茂郡阿賀町ヨリ一里ノ海上ニ、情島《ナサケジマ》卜云フ大小二箇ノ島アリ。大情ノ方ハ承應三年ニ藩ノ牧場ト定メラレ之ニ十匹ノ馬ヲ放ス。追々ニ繁殖シテ明暦ノ頃ニハ二十餘頭ニ達シタリ。後年其數ノ減ズルヲ以テ文化十四年ニハ更ニ一頭ノ月毛ヲ放ス。此月毛ハ廣島ノ東照宮ノ祭ノ神馬ナリキ。後ニ又牝馬二匹ヲ以テ其牧ニ加ヘタリト云ヘリ〔藝藩通志〕。讃州高松藩ニテハ慶安年中ニ大内郡ノ大串山ト云フ處ニ馬牧ヲ開キ馬ヲ放ス。大串山ハ島ニ非ズ、一里バカリ海中ニ突出スル半島ナリ。陸續キノ一面ニハ塹ヲ掘リテ馬ノ逸出スルヲ防ギタリ。此收ハ良馬ヲ出サザリシガ故ニ終ニ之ヲ罷ムトアリテ〔讃岐三代物語〕、爰ニモ明カニ龍神信仰ノ末法ヲ示セリ。此序ニ申サンニ、大串山ノ串ハ半島又ハ岬ノコトナリ。地方ニ由リテハ之ヲ久慈又ハ久枝トモ書ケド、是レ恐クハ二字ノ嘉名ヲ用ヰシモノニテ、紀州ノ串本長門ノ小串其他、串ト書スル例モ多シ。串ハ朝鮮語ニテモ亦半島若シクハ岬ヲ意味シ、本來「コツ」ノ語音ニ宛テタル漢字ナランカト云ヘリ。而シテ朝鮮ニテモ島又ハ串《コツ》ヲ馬牧トスルハ最モ普通ノ慣習ナリシナリ。其例ヲ擧グレバ限無シト雖、中ニモ大ナルハ全羅道大靜縣ノ加(167)波島、慶尚道熊川縣南海ノ加�ｺ島、同ジク長髻縣ノ冬乙背串、忠精道ニテハ瑞山郡ノ安眠串、奉安郡ノ和靈山串、大小山串梨山串薪串ノ四串、?川郡ノ金宅串、唐津縣ノ西ニ在ル孟串ノ如キモ皆古來ノ牧ナリキ〔東國輿地勝覽〕。獨リ日本内地ノミノ風習ニハ非ザリシコトハ此ダケニテモ容易ニ察スルコトヲ得ルナラン。

　遠州御前崎モ近海ニ著シキ大岬ナリ。突端ノ駒形大明神ハ是レ亦昔ノ牧馬ノ名殘ナランカト思ハル。此權現ノ古キコトハ一ノ證據アリ。前ニ擧ゲタル伊豆ノ輕井澤ノ駒方神ノ如キ、手近ノ箱根ノ社トハ却リテ關係無ク、日下開山鎌倉彌左衛門、三國相傳横須賀與惣右衛門ト云フ兩人ノ舍人司、遠州｜白和駒方《シロワコマガタ》ノ書ヲ以テ駒方｜祝《ハフリ》ヲ行フト言傳ヘ、其三社ノ御正體ハ中央白和王ニ右鵲王左鵲王ヲ合セ祀ルト云ヘリ〔伊豆志〕。白和ハ今ノ白羽村ニテ即チ御前崎ノ隣村ナリ。御前崎ト海ヲ隔テヽ相對スル駿河ノ三保ニモ、安藝ノ馬島ト同ジク亦馬ヲ愛惜スル神ヲ祀レリ。今日ハ單ニ謠ノ羽衣トノミ聯想セラルヽ土地ナレドモ、三穗明神ハ實ハ熱心ナル馬ノ神ニテ深ク馬ヲ愛セラレ、神前ノ松原ニハ野馬常ニ遊ビ居タリキ。此松原モ到頭開墾セラレテ桃ヤ甘庶ノ畠ト成リ、舊領主�ｺ川公爵ヲシテ歎息セシメタリト云フ程ナレドモ、昔ハ此半島ノ風趣ヲ添フルモノハ松陰ニ遊ベル野馬ノ群ナリシナリ。村々ノ農家ニ於テハ馬疾ムトキハ此濱ニ曳キ來リ、神ノ保護ノ下ニ放牧シ置ケバ必ズ平癒スト信ジタリ〔駿國雜志〕。思フニ此慣習ハ必ズ諸國ノ野飼馬洗ナドノ行事ト關聯スル所アルナルベシ。昔ハ人間ノ醫藥モ尋常草根木皮ノ外ニ出デズ。病馬ヲ治スルノ術ニ於テ獨リ大奇法ノ存スルモノアランヤ。多クノ伯樂ガ神傳ニ託シテ其道ヲ靈秘ニシ、モシクハ村老ガアマリニ手段ノ平凡ナルヲ訝リテ之ヲ信心ノ力ニ歸スルガ如キ、何レモ極メテ自然ナル徑路ト言フベキモ、要スルニ新鮮ナル草ト水トヲ得テ休養セバ、普通ノ病馬ハ大抵其健康ヲ復スルコトヲ得シナランノミ。三河寶飯郡ノ小松原ト云フ處ノ、觀音寺ノ本尊馬頭觀音ハ行基ガ作ナリ。毎年二月初午ノ日ニ參詣スル者、此山ノ隈笹ノ葉ヲ得テ歸ル。馬ノ煩フ時御影ヲ厩ニ掲ゲ此笹ヲ以テ飼フトキハ忽チ癒ユ〔諸國里人談四〕。長門阿武郡宇田郷村大字惣郷ノ熊野神社ハ、(168)境内ニ一ノ馬蹄石アリ。牛馬熟ニ苦シム者アルトキハ、一束ノ草ヲ刈リ來リテ此石ノ上ニ置キ退キテヨク祈リ、サテ其草ヲ以テ病畜ニ飼フトキハ則チ治スト云フ〔長門風土記〕。美濃｜惠那嶽《エナダケ》ノ笹ノ葉ハ既ニ之ヲ述ブ。此等無名ノ植物モ只一歩ヲ進メバ又カノ狐ケ崎ノ矢筈ノ笹ナリ。伊賀阿山郡布引村大字｜中馬野《ナカバノ》字｜左妻《ヒダリヅマ》ニハモト左妻岩屋アリ。中古洪水ニ没シテ今其處ヲ知ラズ。昔此巖窟ニ馬ヲ愛スル神イマシテ、?々横根山ノ溪流ニ馬ヲ洗ヒタマフ。馬洗淵ノ字今モ存セリ。其神人間ニ應接スルコト里俗ノ口碑ニ殘リ、葛城一言主ノ談ニ類ス。福地某ナル者曾テ此邑ニ在リテ鎌倉將軍家ニ馬ヲ獻ジ、古來此地ノ名馬ヲ出スコトヲ申スニ因リテ牧馬ノ命ヲ蒙リヌ。又伊賀次郎重國モ名馬ヲ本村ヨリ獻ジタリト言ヘバ、馬野ノ名空シカラザルニ似タリ〔三國地誌〕。三保明神ノ馬ヲ愛シタマフコト誠ニ其由來ヲ知リ難シト雖、此地ハ鹽燒ク濱ナレバ夙ニ竈ノ神ノ信仰起リ、興津彦興津媛ノ説ナドニ感化シテ中世三社ノ神靈ヲ仰グニ至リシニハ非ザルカ。或ハ又單ニ一箇水ニ臨メル牧トシテ、深クモ牧神ノ�ｺヲ仰グニ至リシモノカ。後世ノ研究ヲ須ツノ他ナキナリ。此半島ト相對シテ愛鷹山《アシタカヤマ》ニハ人ノ飼ハヌ野馬アリ。即チ愛鷹明神ノ神馬ナリト云ヘリ。非常ノ駿足ニテ人ハ容易ニ其姿ヲ見ルコト能ハズ〔駿國雜志〕。或ハ傳フ、三保ト愛鷹トハ不思議ノ交通アリ野馬ノ數雙方ヲ合セテ常ニ九十九匹、曾テ増減アルコト無シ。三保ニ多ケレバ愛鷹ニ少ナク、愛鷹ニ多ケレバ三保ニ少ナシト云ヘリ〔本朝俗諺志〕。人モ知ル如ク愛鷹山ハ近キ世迄ノ幕府ノ牧場ナリキ。牧場ノ一方ガ高山ニ續キシ爲ニ、野飼ノ駒ノ逸出シ點檢ニ洩レタル者モ多カリシナラン。唯東海道ヲ越エ海ヲ隔テタル半島ノ松原ニ通フト云フニ至リテハ、即チ甲斐ノ黒駒同樣ノ神話ト見ザル能ハザルナリ。勿論牧童ノ保護ヲ離レテ而モ熊狼ノ害ヲ免レ得シ程ノ野馬ナリトスレバ、必ズ荒ク且ツ逞シキ逸物ニ相違ナケレバ、稀ニ之ヲ思ヒ掛ケヌ谷間ナドニテ見タル人ハ、自然ニ神馬又ハ之ヲ率ヰル馬ノ神ノ信仰ヲ起シ、一方ニハ各自ノ凡馬ノ安全ヲ?ルト共ニ、他ノ一方ニハ其蹄ノ跡ナドヲ尊崇セズニハ居ラレザリシナルベシ。

(169)　肥前五島ノ生月島ハ式ニ所謂｜生屬牧《イケヅキノマキ》ノ故地ナリシト共ニ、後世マデモ海ニ臨メル一箇ノ産馬地ナリキ。甲子夜話ノ記スル所ニ依レバ、此島ノ岸壁ニ生ズル名馬草ト云フ植物ハ、牝馬之ヲ食ヘバ必ズ駿逸ヲ生ム。故ニ之ヲ求メントシテ足ヲ誤リ?々崖落ヲシテ死スル馬アリト〔續甲子夜話五十七〕。悲シイ哉馬ヤ、汝モ亦人ノ親ト其痴ヲ競ハンコトヲ欲スルナリ。但シコノ絶壁ノ端ニ生ズト云フ名馬草ハ果シテ如何ナル草カ、自分ハ唯寡聞ヲ恥ゾルノミナレドモ、此ト些シク名ノ似タル海邊ノ植物ニ神馬草ト云フ物ハアリ。萬葉集ナドニ所謂｜莫告藻《ナノリソ》、今モ正月ノ注連飾ニ用ヰル「ホダハラ」又ハ「ホンダハラ」ハ即チ是ナリ。「ナノリソ」ヲ神馬草ト書クハ、神ノ馬ナレバ騎ル勿レト云フコト、即チ莫騎《ナノリソ》ノ意ニ托シタルモノナリト云フ説アリ〔倭名鈔〕。前ニ擧ゲタル重之ノ歌ノ、

　　チハヤフルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナ乘リソネ祟リモゾスル

ト云フ例モアレド、些シク信ジニクキ口合ナリ。又一説ニハ神功皇后征韓ノ御時、船中ニ馬ノ秣無クシテ海ノ藻ヲ探リテ之ニ飼フ。其時ヨリ此草ヲ神馬草ト呼ブト云ヘリ〔下學集、言塵集其他〕。羽後ノ古名所｜蚶潟《キサカタ》ノ浦ニテハ、皇后此渚ニ御船寄セタマヒシ時此事アリキト稱ス〔齶田乃苅寢〕。海草ヲ以テ馬ヲ養フト云フコトハ疑ハシケレド、例ヘバ馬醫ノ藥ノ料トスト云フガ如キ、何カ然ルベキ仔細ノ古クヨリ存セシ爲此名アルナランカ。要スルニ海ハ永古ノ不可思議ナリ。人ハ朝夕其渚ニ立チ盡スト雖、終ニ蒼波ノ底ニ在ル物ヲ知リ得ズ。故ニ萬ノ寶ハ海ヨリ出デテ海ニ復ルト考フル者多カリシナリ。殊ニ日本ノ如キ島國ノ人ハ斯ク思ハザリシナラバ却リテ不自然ナリ。近キ歴史ニ於テモ、例ヘバ鹿兒島縣ノ今ノ馬ノ種ハ異國ノ名馬ニ由リテ之ヲ改良スト稱ス。或年タシカ海門嶽ノ沖合ニ於テ歐羅巴ノ船一ツ難船ス。乘客ハ皆死歿シ、馬二頭陸地ヲ目掛ケテ泳ギ著キタリシヲ、取繋ギテ之ヲ領主ノ牧ニ放セリ云々。アマリ古キ代ノ事ニモ非ズト云ヘド、心カラカ聊カ傳説ノ香ヲ帶ビタル話ナリ。海ノ中二ハ又海馬ト云フ物アリ。海馬ニハ大小全ク別箇ノ二種類アリ。大(170)ハ即チ「トヾ」トモ云フ獣ニテ、北蝦夷ノ海馬島《トヾジマ》其他、洋中ノ孤島ニ住ム物ナリ。土佐駒ノ高祖父ト稱スル海鹿ハ海驢《アシカ》ニ非ザレバ即チ此物ナルベシ。小サキ方ハ一名ヲ龍ノ落子ナドトモ云フ一種ノ蟲ナリ。薩州上甑島串瀬戸ノ甑島大明神ノ社ニテハ、九月九日ノ祭ノ日ニ蜥蜴ニ似タル奇魚必ズ渚ニ飛上ル。土人之ヲ名ヅケテ龍駒ト云フト云ヘリ〔三國名勝圖會〕。漢名ヲ海馬トモ水馬トモ書キ、我邦ニテハ「アサノムシ」、「シヤクナギ」又ハ「タツノステゴ」ナドト云フ物ハ此ナリ。乾シ貯ヘテ婦人ノ産ヲスルトキ、之ヲ手中ニ持タシムレバ産輕シト云フ〔大和本草〕。沖繩ニテ「ケーバ」ト云フ物モ、首ハ馬ノ如ク身ハ蝦ノ如シ安産ノ守トスト云ヘバ同ジ物ナリ〔沖繩語典〕。此等ノ學説ハ其漢名ト共ニ支那ヨリ渡來セシモノトモ云フベシ。例ヘバ證類本草ニハ異物志ヲ引キテ、海馬ハ西海ニ生ズ大小守宮蟲ノ如ク形ハ馬ノ形ノ若シ云々、婦人難産ヲ主ル、之ヲ身ニ帶ブト云ヒ、神驗圖經ニハ頭ハ馬ノ形ノ如シ蝦ノ類ナリ、婦人將ニ産セントシテ之ヲ帶ブ、或ハ手ニ之ヲ持チ或ハ燒末シテ飲服スルモ亦可ナリト謂ヒ、異魚圖ニ之ヲ收メ暴乾シテ雌雄ヲ以テ對ト爲ス、難産及ビ血氣ヲ主ルト云ヘルガ如キ〔古名考五十三所引〕皆彼國ノ説ナリ。サレド日本ニテモ源平ノ時代ニ、貴人御産ノ後御乳付ノ具御藥ナドト共ニ海馬六ヲ箱ニ納レテ獻上セシコト見ユレバ〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日條〕、古クヨリ此信仰ハアリシナリ。此物越後ヨリ羽前ノ海岸ニ掛ケテハ之ヲ龍ノアラシ子ト云フ。浦々ノ小魚ニ交リテ稀ニ漁夫ノ網ニ入ル。形ハ一寸四五分ヨリ二寸ホド、頭ハ馬ニヨク似テ腰ハ曲リテ蝦ノ如ク尾ハ蜥蜴ト同ジ。雄ハ青ク雌ハ黄色ナリ〔越後名寄十七〕。出羽ノ鳥海山ハ頂上ニ鳥海ト云フ湖水アリ。不思議ナルコ(171)トニハ海馬亦此湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル龍ノ荒兒ト同物ナリ。或ハ海氣ノ雨ヲ釀ストキ此物雲ニ乘リテ空ニ騰リ山々ノ岩際ニ下ルナラント謂ヘリ。此地方ノ田舍人モ之ヲ難産ノ女ノ手ニ持タシム〔莊内物語附録〕。古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ池ニ長サ六七寸ノ龍アリト云ヘリ。常民ハ敢テ登ラズ行人等獨リ往キテカノ龍ヲ取來ル。一年バカリノ内ハ生アリト見エテ、座敷ニ置キテ扇ニテアフゲバヒラリ／＼ト竪横ニナリテ畫ニ描ケル龍ノ如ク飛ブ。一年過ギテハ死スルニヤ扇ギテモ舞ハズト云ヘリ〔觀惠交話上〕。龍ト馬トハ兎ニ角ニ因縁深シ。朝鮮ノ古傳ニテモ、扶餘縣ノ釣龍臺ハ昔蘇定方百濟征討ノ時、江頭ニ風雨ヲ起ス物ヲ退治セントテ、白馬ヲ餌トシテ淵ニ一龍ヲ釣リ得タリ。故ニ江ヲ白馬江ト名ヅケ岩ヲ釣龍臺レ云フコト、前章ニ一タビ之ヲ説キタリ〔東國輿地勝覽十八〕。龍ノ吟ズル聲ハ馬ノ嘶クニ似タリト云フ説アリ。帝釋天乘リタマフ龍馬ヲ伊羅波《イラハ》ト云フ。鼻長クシテ馬ノ如クナル龍ナリ〔塵添?嚢抄〕。況ヤ龍ハヨク牝馬ニ其胤ヲ假スコトアレバ、頭ノ馬ニ似タル海中ノ動物ヲ龍ノ捨子ナドト呼ブハ必ズシモ珍シカラズ。唯薩摩ノ甑島ノ神ガ年々此物ヲ贄ニ召シタマフト云フハ注意スベキ話ナリ。甑ハ即チ釜ノコトニテ釜ト竈トハドコ迄モ馬ト因縁アリ。而シテ此神ノ社頭ニモ亦甑ノ形ヲシタル一靈石ノ存スルモノアリシ也。

（自然硯、陰陽石、池月磨墨、硯ノ水、駒形神、馬ノ首、馬頭神、多田滿仲、馬塚、龍馬神、馬鬼）

磨墨ト馬蹄硯　源平合戰ノ語部《カタリベ》ガ磨墨ト云フ駿馬ヲシテ天下ニ有名ナラシメタルハ、亦誠ニ深キ用意ノ存スルモノアリシニ似タリ。此命名ハ察スル所單ニ毛ノ色ノ黒カリシ爲ト云フノミニ非ズ。東上總ノ硯村ノ口碑ガ之ヲ想像セシムル如ク、石上ニ印シタル馬蹄ノ跡ヲ以テ硯ニ譬フルコト常ノ習ナリシガ故ニ、乃チ此ニ思ヒ寄セタリシモノナリ。太夫黒ヲ一ニ薄墨ト稱ストアルモ同ジク此因縁無シトハ言ヒ難シ。何トナレバ此馬出デタリト稱スル房州太夫崎ノ海岸ニハ亦多クノ馬蹄石ヲ産スルナリ。即チ巨巖ノ表面ニ跡ノ存スルモノトハ別ニ、此ハ馬蹄ノ形ヲ打込ミタル石ノ小片ニシテ、世人之ヲ採リテ硯ニ製スル者少ナカラズト云フ〔千葉縣古事志〕。蓋シ其一端ノ深ク凹メル部分ヲ硯ノ海トスルトキハ、多分ノ工作ヲ加ヘズシテ之ヲ圓キ硯ニ用ヰ(172)得ベケレバナリ。日向ノ鵜戸濱《ウドノハマ》ニモ馬蹄石ヲ出ス。土地ノ人ハ之ヲ自然硯ト稱ス〔雲根志後篇〕。土佐ノ國産ニモ亦馬蹄石アリ。前年之ヲ墺太利ノ博覽會ニ出品セシコトアリ〔南路志續編稿草二十三〕。甲州ノ駒ケ嶽ニモ所謂陰陽石ヲ多ク産ス。其陰石ノ一種ニ同ジ形ヲセシ物ヲ又馬蹄石トモ云ヘリ〔雲根志後篇〕。駿河ノ安倍川ノ溪ヨリ馬足石ト云フ硯石ヲ産セシハ古キ世ヨリノ事ナリ〔渡邊幸菴對話〕。同ジ川ノ支流｜藁科川《ワラシナガハ》ノ附近ニモ往々ニシテ小サキ馬蹄石ヲ出ス。或ハ片面或ハ兩面、恰モ馬蹄ヲ以テ踐ムガ如ク、色黒クシテ甚ダ堅キ美石ナリ、之ヲ割レバ石中ハ殘ラズ金星ナリ〔雲根志後篇〕。之ヲ硯トシテ願ヒ事ヲ書ケバ成就スト云フ俗信アリキ〔駿國雜志〕。蓋シ必ズシモ斯ル奇形ノ自然石ヲ以テ製セズトキ、圓キ硯ナラバ形似タルガ故ニ之ニ馬蹄ト銘ヲ打ツハ有リ得ベキコトナリ。唯其硯ニ何カノ奇特ヲ附會セントスルニ至リシハ、ヤハリ亦神馬ノ崇敬ニ基スルモノト認メザルベカラズ。大和｜當麻寺《タエマデラ》ノ什物ノ中ニ、小松内大臣ガ法然上人ニ寄進シタリト云フ松蔭ノ硯ハ、硯筥ノ蓋ニ馬蹄ト書シテ野馬ノ繪ヲ蒔キタリ。硯ノ形ノ似タルガ故ニ馬蹄トハ名ヅケシナラント云ヘリ〔其角甲戌紀行〕。鎌倉鶴岡ノ八幡宮ニモ之ト同樣ノ馬蹄硯アリ〔集古十種〕。又別ニ源頼朝所持ノ品ト稱シ、上ニ雲ト片破月トヲ彫刻シタルモノアリ〔同上〕。天長元年ノ銘文アルニモ拘ラズ、何故カ人ハ之ヲ池月磨墨ノ硯ト名ヅケタリ。秩父吾野ノ子《ネノ》權現社ノ神寶ニモ一ノ馬蹄石アリシガ〔新編武藏風土記稿〕、此ハ硯ニ用ヰラレタリシヤ否ヤヲ知ラズ。

　大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絶エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒者《ムダガキ》ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムベキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グベキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰(173)カハ智者ナリト謂フベシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因縁アリシカト思ハル。駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、安倍川ノ西岸｜鞠子宿《マリコノシユク》ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來リテ暫ク其柱ニ繋ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得ベシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繋櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルベシ。陸中紫波郡東長岡ノ字｜美々鳥《ミヽドリ》稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ニ繋ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老(174)樹名木誌〕。此説頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ掲ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル横穴ヲ掘リ、馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戸人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハヅレニ顔ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ挿ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田郷ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ毎夜光明ヲ放ツ。和尚之ヲ禮スレバ馬首出現ス。之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戸ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズベカラザル馬鬼ノ説ヲ起シ、或ハ南部ノ高架《タカホコ》ニ七鞍ノ大馬ヲ説キ、サテハ豐後直入郡｜朽網郷《クダミガウ》ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黒嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス／”＼モ悲シミ且ツ歎ズベキコトナリ。

(175)（馬學退歩、野飼、聖�ｺ太子、猿橋、駒爪石、馬蹄砥、竈、ソウゼン場、勝善神、權現、カウゲ、螺、山癬、蛇食、地下ノ寶、サヘノカハラ、鏡、池ケ原、月、ダイダラボウシ）

光月ノ輪　蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫義ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脱スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學説ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ頼リテ、生ヲ支へ職ヲ世《ヨヽ》ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ説キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈々盛ナリシナルベシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繋ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スベキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。聖�ｺ太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ説ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルベシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來リテ祈?ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因縁アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、附近ノ岩石ノ天然ノ形?略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辯ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳説製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此説甚ダ奇ヲ衒フニ似(176)タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繋ギテ、毎回同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歴史トシテ之ヲ受入ルヽコトヲ得ルナリ。延喜ノ左馬寮式ニ、季毎ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、毎年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天産ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ説明ヲ乞フベキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

　更ニ今一タビ馬蹄ト竈トノ因縁ヲ説クベシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竈門《ソウモン》ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌録〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竈ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形?ノ如何ニモ家々ノ竈ト似タルヨリ、竈ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竈ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳入ルヽコトヽナセシナラン。越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述ベタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ説ク者多シ。所傳既ニ矢ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ(177)似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輸ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜毎ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此説ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區々ノ説アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。光月ノ輪ノ「クワウゲツ」は芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輸ヲ思ヒ寄セシモノナルベキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解説スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタ／＼ト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輸トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明カナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルベシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、頼朝公ノ大根｜畝《ウネ》ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所敷所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。其下ニ螺ノ潜メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村字｜小倉《コゴヒ》ノ上ニ赭山アリ。黒キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山《マダラヤマ》ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡清哲村青木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黒ク見ユル處二所アリ。之ヲ山癬《ヤマタムシ》ト云フ。圓形ノ大サハ四十歩バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スベキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナ(178)ドト云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルベキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡｜周匝《スサイ》村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。土人之ヲ蛇食《ジヤバミ》ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結耗録〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。土人之ヲ解説シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルベシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫《オハザマ》ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルベシ。薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繋グコト無シ〔三國名勝圖會〕。美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ?況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒《エイアレ》減免ノ取扱ヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推(179)及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込アルナリ。

　

(181)　　　山島民譚集（二）（初稿草案）

　

(183)　　　　　第三　大太法師

　

二一　色々の物の足跡　千歳不磨の磐石の表に能く永き世の跡を留めたものは獨り日行千里の神馬のみでは無かつた。數に於ては遙に乏しいけれども牛も亦其小さな蹄の痕を不朽にして居る。例へば伊豫東宇和郡中川村大字阪戸では道路の上に牛石と云ふ大岩あり、其上に牛の足跡及子供の足跡がある（イ）。牛石は諸國に多くあるが大抵は形?に基く名稱で時としては靈牛化石の口碑を存して居る。經卷を負搬した功勞に由つて成佛したと云ふ話、又は寺の普請などの爲に假に現はれたと云ふ物語も古く行はれて居る。常から物靜かで忍耐力の強い獣が更に不測の佛力を戴いたのである。足跡を岩に印する位はさして困難で無かつたことであらう。又牛神牛塚の分布は却つて馬神馬塚よりも廣いかと思はれる。紀伊の△△郡△△村大字△△には犬の足跡石がある（ロ）。神跡考の中にも歐羅巴ではヴーイエの戰にタロ?スの軍を導いた牝犬の足跡がギアン河畔に存すること、暹羅のフラバット山上に佛に隨從せし虎象の跡あること等を載せ、更に支那には此例の記録に在るもの甚だ多く、花牛津の牛の跡が元封中大秦から貢した靈牛の殘したものであること（ハ）を始とし、凡そ龍虎鹿鶴の類苟くも道佛二教に因縁ある動物は馬に負けずに各々其跡を留めて居ることを列擧して居る。さて其何故に人が之を注意し尊敬し始めたかは自分の如き僅なる材料を持つて居る者の説明し得る所で無いのは勿論、既に諸民族に行渡つて同じ例があるとすれば單に偶然と云ふやうな手輕な解説に耳を傾けるのは分らぬと言切るよりも猶良くないことである。

　　（イ）愛媛面影　　（ロ）紀伊國續風土記　　（ハ）淵鑑類函四三五

(184)二二　赤子の足跡　前の伊豫の牛石にもある如く、赤子は人間の最も無力なる者であるけれども、猶時としては其足跡を岩石の上に印して居る。備後蘆品郡｜宜山《むべやま》村大字向永谷の赤子石、同郡服部村大字雨木の赤子（ノ）足跡石の如きも同じ例で、石の上に小さな愛らしい足跡が澤山に殘つて居る（イ）。赤子に關する傳説は我邦の民俗志中でも最も趣味あると同時に最も困難なる題目の一つである。此序に少しく其例を言へば、先づ第一に石塚其他の塚の中で時として赤子の泣聲が聞えると云ふ話である。之を聞いた者は幸があるとも言へば又災があるとも云ふ。之に次では或高僧の傳などに塚の中から生れたと云ふ話である。或時塚の中に赤子の泣聲のするのを不思議に思ひ人が之を發いて見ると丈夫な子であつて之を養育した處が非凡の大�ｺになつた。而して其塚と云ふのは新に葬つた某家の夫人の墓所であつたと云ふのも、つまりは後世人を納得せしむる爲一段と話を尤もらしく潤色した結果で、稀世の人物に至ては先づ以て其出所が世間竝で有つてはならぬより起つた話である。強いて論ずれば釋迦基督の誕生に關する奇異も千里の駒を以て神龍の落し胤とする思想と同一系統に屬するものである。

　　（イ）福山志料

　赤子塚の傳説は追々と寫實的分子を加味して後世の小説にも現はれて居る。例へば支那の小説にも先型があり、日本でも何國何村の事として傳へられてある物語の中に、或處の饅頭屋へ日毎に饅頭を買ひに來るやつれた婦人が有つた。後で見ると錢箱の中に支那の方では紙錢があつたと云ひ日本では土にまみれたのが交つて居たとも云ふ。兎に角亭主は此女を不審して跡を附けて見ると塚の中へ隱れた。其塚を掘つて見たら生きた小兒が死んだ母の胸に抱かれて居た。更に一層の近代的色彩を添へんが爲には小兒が手にはまだ饅頭を持ち始めて世の中の人を見て泣いたなどゝも書かれて居る。又今自分が之を書いて居る場所から近い名所の遠州佐夜の中山などに付ても其一例がある。旅人が此山路を越えると孕女の惡者に殺されて居るのを見た。其症口から丈夫な小兒の産れて泣くのを見て之を拾つた。或は其人が某と云ふ長者で子の無いばかりが唯一の不幸である人であつた故に之を神佛の靈授と考へた。又は此子が生長

(185)して友だちから妙な隱語で嘲らるゝのに氣がつき、養親に尋ねて素性を知り終に苦心して生れぬ前の仇を滅した。又は前述の名僧と匹敵するやうな勇士に成つた。此等は何れも自分が七八つの頃胸を轟して聽いた昔の小説である。文藝が今日の如く自由の風を重ぜぬ時代には小説にも畫や詩歌と同じく一種の格調とも云ふべきものがあつた。代々の文士は其拘束の中に於て能ふ限り新機軸を求め而も又歴代の物語を下地にして其力をも假りて讀者の興味と涙とを要求したものである。茲には決して新舊の可否を論ずる氣は無いが、兎に角ロマンチックの有難味は右の通り三千年來の大倭ぶりと少からぬ交渉がある點に存する。色でも形でも同じ事で、遠い國の草の花や鳥獣が俄に我々の辨當風呂敷の模樣にすることの出來ぬのは此爲である。丸々新奇の物になると自ら調和の沙汰が八釜しい。平民は大抵そんな勇氣を持たぬ。露國の貴族は三百年來佛語で用を辨ずるが、ムジクの九割は今でも國語さへ書けぬ。僅少なる智者が自分の勝手を流行させる御蔭に我々は一旦友と頼んだ文藝に別れて再び語部の昔に歸つて行かねばならぬのである。

　詮も無い繰言は此位にして、母が死んで子が生れると云ふ傳説は猶他の方面にも發達して居る。女は幾人もの子を持つべき筈であるのに、非凡の子を得ん爲には其全力を費して了はねばならなんだ。辨慶の如きはたしか七年も親の腹を借りて居た。誕生に奇異を示すだけの趣意ならば木の股からなりと桃の實の中からなりとも出られるが、非凡ではあるがやはり人間であると云ふことを證する爲に、美しい命を一つ費すのは是非も無き次第である。就中最も手數を掛けたのは道教の祖師で、世に出た時既に七十の白頭翁であつた故に老子と謂ふ。髪長く齒の生えて居たなどはまだな事で、或は歩して母體より出で又は産れるや否や物を言つた。最近には伊豫△△郡△△村の民家では若い妻が鬼の子を孕んだ。其父と云ふのは蓑蟲の親のやうに終に一囘の顔出しをもせなんだが、産に臨みて腹の子の謂ふには、おれは鬼の子であるが生れたら殺すかどうだ。殺すつもりなら決して出まい、殺さぬと謂ふなら出てやらうと怖しい權幕である。そこで親類の者ども評議を凝し、兎も角もすかして出て貰はう、出てから又思案をしようと、殺すまいと云ふ誓言をして乃ち目出たからぬ安産があつた。其後家の名聞を氣づかふ所から始終危害を加へたがる故に、流石(186)の鬼の子も安心をし兼ねて、或日あたりの山中へ驅込んで今に出て來ぬと云ふことである（イ）。鬼又は蛇の子を生むと云ふことも昔から日本の田舍には絶えたことの無い話である。

　　（イ）笠井高三郎氏談

二三　神の足跡　再び足跡の話に立戻る。赤子に次では只の人間の足跡を尋ぬべきであるが、順序を更へて先づ神々の故事を述べて置かう。乘物又は隨從の獣にさへ偉大なる蹄の力を與へられた神であれば、其靈跡の弘く且つ年久しく國々に分布して居るのは當然の事で、夫が又一段と厚い崇敬を徴收するの理由も疑を挿む餘地が無い。假に東京に近い地方から例を擧げて行くと、相模中郡△△村大字大竹の若宮八幡宮の社地から十間ばかりを隔てゝ足跡石と云ふ岩がある。石面に足跡の如き形のある故に土人は之を八幡の御足跡石と謂ふ（イ）。上野榛名神社の寶物の中に神跡石と云ふ石がある（ロ）。方一尺五寸高さ六七寸、其上に一足半の足跡が鮮に現はれて居るのを、榛名權現の足跡だと言傳へてある（ハ）。尾州登々川と云ふ所の足跡石は古くは菅清公の記文にも見えて之を大己貴少彦名二神巡囘の折の御足跡と申し（ニ）、近江蒲生郡岡山村大字牧即ち八幡城址の附近には石面に巨大なる足跡が二つまで鮮に附いて居るのを土人は子安神の足跡と信じ安産を祈ることであつた（ホ）。壹岐の△△村の住吉神社は延喜式にも名神大と録せられて居る舊社である。此神は神功皇后三韓御征伐の御時、嚮導として先づ此島に上陸せられたが故に其地を今も御津浦と云ふ。其御足跡と云ふのが三つまで此浦に殘つて居る。其二つは御津八幡の異なる濱の石垣の下の石上に在る。石の大さは竪二尺九寸一分、横一尺六寸六分、周七尺三寸九分で、足形は東から西に向ひ長さ一尺二寸、爪先が四寸四分踵が二寸深さが一寸一分ある。今一足は御伴の辻、大道の中にある大石で竪四尺一寸六分、横二尺八寸八分、周は一丈一尺六寸、高さ八寸の平めな石の表に、此も東から西へではあるが足形は　　　稍々小さくして一尺八分あり、爪先四寸六分踵四寸と云へば別の神の足かも知れぬ。深さは二寸である（ヘ）。

　　（イ）新編相模風土記　（ロ）上野國志　（ハ）（ニ）（ホ）雲根志　（ヘ）太宰管内志

(187)二四　佛足石　右の諸國の神足石には一として人工に成つたと謂ふものは無い。故に何れも神々が其本來の力を以て靈異を示し寧ろ人間の力の遠く及ばぬことを證據立てられたものと見ねばならぬ。之に反して佛の足跡の多くは佛が自ら踐まれたものでなく、信者が之を結構して尊崇の目的物としたのである。即ち前者は之あるが故に愈々信心を生じ後者は信心あるに依つて之を生じた第二次の者である。一話一言の編者に依れば、佛足石は最初日本に七つあつたが、大和藥師寺にあるものゝ外は皆退轉したとある。山城栂尾山の春日明神社の北の谷に在る者は右の七箇の一であるか否かは知らず、亦人作である。或は明惠上人の作とも謂ひ（ロ）、或は上人が天竺より移し置いたものとも謂ふ。或年の地震に亡失して居たのを後に掘出したら蘇婆卒覩川と云ふ銘文が有つたと云ふ（ハ）。此は見たことが無く銘文の意味も分らぬが藥師寺の佛足石も之に似た恢復の履歴を有し、見た所足跡と云ふよりも一の線畫である。美濃の谷汲觀音の境内杖藤と云ふ名木の傍に在る佛足石は人の踏みたる跡であると云ふ（ニ）。世尊東來と謂ふか又は移置と説明して居るか。恐くは後世佛に托した者で彼の七石の外であらう。

　　（イ）（ハ）一話一言一二、引池田正樹筆記　　（ロ）雲根志　　（ニ）新撰美濃志

　神跡考に依れば佛足石は錫蘭にも暹羅にも老?にも多く存在し其或者は彫刻である。其著者も承認して居る如く、自然に存在する足跡を尊敬するのと、特に人が作爲した足形の彫刻等とは幾分か其起原を異にして居るかと思はるゝ。即ち後者に在つては足其物をも崇拜するから之を構へたのであるが、馬蹄は勿論其他の天然の足跡に在つては唯崇敬すべき神又は人の足跡なるが故に之を大事に掛けるばかりで別に之を拜んだのでは無いらしい。此意味に於ける神又は聖者の足跡は佛足石よりも分布遙に弘く東部亞細亞は勿論世界の隅々に迄行渡つて居る。同じ人の蒐集で始めて知つた例ばかりであるが、基督昇天の折の足跡はエルサレムのオリヴェット山上に存し、以前二足備つて居たのを左足は同教徒が持ち去つて、今日エル、アクスの同寺に在る者が夫だとも云ふ。歐羅巴に於ても羅馬のサン、デニス及サン、ローラン竝に佛國の神足寺 Pas de dieu に基督の足跡があると云ふが、此などは若や佛足石の類では無いか。(188)モハメッドの足跡もエルサレムの岩堂なる大理石塊の上に又はダマスクスの神門の外にあると云ふ。

二五　聖者の足跡　更に基督の教に殉じた歴代の尊者の跡に至つては弘く歐洲の諸國に散布して居る。出所は一々神跡考の原文に明記してあるが、例へば波蘭のグリスタン河上にはヒヤシンス尊者の足跡、パロス島にはテオクリタ尊者の足跡あり。羅馬にはウルシニウス尊者の刑を受けた時の膝の跡を留めて居る。殊に道を傳へて世界を巡つたと稱せられて居るサン、トメ即ちトマス尊者の足跡に至つては東は印度から西はブラジル秘露の海濱にも及んで居ると云ふ。我邦でも行基菩薩と弘法大師とは隈も無く海内を巡つたと傳へられ、從つて許多の村の口碑の主に爲つて居る。別けても弘法は今日の俗信より言へば、僧と謂はんよりも寧ろ佛である。其力で行基の分までを併呑して居るから、若し此人を拔去れば日本の傳説はよほど淋しくなるであらう。但し足跡に關しては未だ弘法のが存在するか否かを知らぬ。雲根志後篇に依れば、著者の郷里近江の大津から牛尾山へ越ゆる山路に平なる大石が有つて其上に二つの沓の跡を見る。行叡居士が昔牛尾山の觀音を安置する前に此石の上に立つて其場所を見立てた跡であると云ふ。此は諸國に存在する神の沓の化石例へば因幡の稻葉山上に於て武内宿禰が脱いで行つたと云ふ沓石（イ）などゝ比較して考ふべき話である。又同じ書に同國甲賀郡岩根村大字菩提寺の山中に浪石と云ふ大岩あり。昔此邊が泥海であつた時代に良辨僧都が此山へ來た道筋であると云ふことで、石の上に其足跡が殘つて居る。

　　（イ）因幡志

　右の泥海の話は又神皇正統記發端の國始めの話と比較して見ねばならぬ。此書は出來た時代も明瞭であるが、其説に依れば大昔大和は山に取圍まれた廣い沼地であつて、其間を往來する者の足跡が深く泥の上に印せられたが故に山跡と謂ふとのことで、風土記などによく有る地名の由來談である。併し今日の科學から論じても、石ほど堅い物の上に若し何かの動物の足跡が附くとすれば、それは大昔石がまだ軟かであつた時のことで無ければならぬ。故に南方氏も其説の中に之を言ひ且つバートンのシリヤ誌を引いてツルの地に在る摩面の爪痕と稱する石の跡は、滅族した蜥蜴(189)類の足跡だらうと云ふ記事を抄録して居る。東西古今に例多き巨人の跡と云ふものも、少なくも其一部は偉大なる古生物が泥海時代に歩行した痕跡で、他の部分は之を靈異視してから後の類推又は假托と見ねばならぬ。次に浪石と云ふ岩の名にも一寸注意して置きたい。自分の考では浪石の文字は或は泥海の俚傳を助けたかも知れぬが、其本義は列石のことであつて、床波《とこなみ》常滑《とこなめ》などゝ同じく天然又は人工の石の排列を以て境神の祭の用に充てたものと思ふ。床波等の床は祭壇の義で多くは石である。通例道路の一側又は兩側に之を構へたかと思はるゝが故に足跡の傳説と全く縁無き名稱とは言はれない。

二六　猛者の足跡　赤子の足跡の全然神業かと思はるゝに反して古來の勇士は各々自分の力を以て其足跡を石に遺して居る。曾我五郎は東國に於て所謂荒人神になつて居るが、曾て住んで居たと云ふ相模足柄下郡曾我谷津村字下庭には民家の附近に沓石と稱する四尺に二尺ほどの石あり。其面には一尺三寸に七寸八分の凹みがある。之を五郎の足跡と傳へて居る。昔五郎が瘧《おこり》を病んだ時病後に我が力量を試さん爲此石を踏んで跡を附けたとある。あまりの大足である。此凹みの水は瘧を落す呪に用ゐられる。又此村劍澤山の入口には土中に埋れて轡石と云ふ石がある。此も時致が其轡を載せた跡と稱し、箱根路の馬蹄石ほどでは無いが、幾分か馬の力も間接に添はつて居る（イ）。岩代△△郡の竹駒は歌に詠まれた名所である。此地の大石には義經の足跡と云ふのが鮮明に殘つて居る（ロ）。此大將も處々で馬に奇特を現はさせた人である。辨慶の足跡は近江の鹿飛《しゝとび》にも和歌山の城壁にもある（ハ）。京の清水寺附近には景清の足跡がある（ニ）。信州高遠の藤澤川の岸及上穗琴澤の地にも足跡石があつて誰かは知らず昔の人の名に繋けてある（ホ）。更に此等よりも古く且つ尊き一例を言へば、播磨揖保郡枚方里は今日△△△△であらうと云ふことである。此里の大見山は上代に應神天皇が登山せられ四方を眺望せられたが故に大見と稱するのである。其御野立の場所に高さ三尺ばかり三丈に二丈ほどな大石がある。其石の面に往々窪みたる跡のあるのを奈良朝時代の人々は天皇の御沓及御杖の跡と傳へて居た（ヘ）。

　　（イ）新編相模風土記、雲根志　　（ロ）雲根志　　（ハ）（ニ）神跡考　　（ホ）伊那志略　　（ヘ）播磨風土記

　

(190)二七　蹉?石　羅馬のウルシニウス尊者が刑に臨みて石の上に留めたのは足の跡で無くして膝頭であることは前に述べた。南方氏は又古今圖書集成の中に咸陽に章邯の足跡あり、漢王の軍の不慮に押寄せたる報を聞きて蹉?せし時の物とあると言はれた。日本にも大和の大峰山の麓安禅堂の後に婦人の足跡と共に足摺石と云ふのがある。役行者が始めて此山を開いた時、其母が尋ねて此地へ來たのに女人結界である上に至極の險山であつた爲に徒に此石の上に蹉?をして歎いた跡と云ひ、附近の小石にまで同じやうな跡が附いて居る（イ）。土佐の足摺岬はもとは蹉?の文字より轉じた名で、其サダは大隅の佐多崎、伊豫の佐田鼻、さては出雲の佐陀などゝ共に岬端を意味する語であらうと思ふが、或は又松浦佐用媛や鬼界島の俊寛と同じやうな傳説が生じて居らぬとも限らぬ。併し其樣な石のあることはまだ知らない。

　　（イ）雲根志

二八　手の跡　田舍を行くと民家の戸口などに白紙に小さな手の形を押して疱瘡除の呪にして居るのは、此にも彼の赤子の傳説が纏綿して居るのでは無いかと思ふ。オシデは古くから認證の用に供せられ、文書に手印を加ふることも之より出で、後世の拇印又は當代流行の指紋法なども其段々の變化であることは、是亦南方君が夙に研究せられた所である。山中の地名に押手澤などゝ云ふが有るのを考合せても、手形を以て境の守とするに不思議は無い。此から推論すれば前の浪石の良辨僧都が足跡の如きも、之を以て直に境の印と見てもよろしい。何となれば足の形?又は紋理も亦手の夫と同樣に人の眞僞を立證することが出來るからで、佛の足の裏に八十二の異相を具へ禹と老?とが足の裏に文字を現して居たなどは其最も奇なる先例である（イ）。さて手の跡の石に印した例は高野登山の花坂の半腹で下から言へば右の山端に巨大なる石があつて夫に大師のだと云ふ手の形がある（ロ）。前に擧げた摩面の爪の痕には以前は傍に指の跡が見えて居て其間にちやうど人が一人臥し得たと云ふことであるが、之に因つて思ひ及すべきは支那に古くから存在する傳説である。大昔華山と首陽山とが連つて一嶽を爲した時代に黄河が其側を迂曲せねばならなんだ爲に水災が(191)多く民が苦しんで居たのを、黄河の神巨靈神は之を愍み大神力を振つて山を二つに引裂いた。其が爲に手の跡は華山の頂に遺り足跡は首陽山の麓に存して居る（ハ）。此話は太平洋上のサモア島にも有つて、神チイチイが岩の上に立つて天地を折分した時の足跡なるものが其岩の上に印せられて居ると云ふ（ニ）。日本にも我々が名づけて蹴裂傳説と云ふ物語がある。東國では上野利根郡の盆地及甲斐の甲府平、西國では肥後の阿蘇の火口原などは其昔は共に廣い湖であつたのを、土地の神が民に安住を得せしめんが爲に大力を以て境の山を蹴放し積水を落された御蔭に田が出來村が出來たと云ふのである。其折の神の手の跡足の跡は殘つて居ると云ふことをまだ聞かぬが、現に筑後矢部川の上流たる日向見《ひうがみ》の岩山に於てはケホギ（蹴開）と稱して岩の中程に圓き穴あること恰も妙義山頂に百合若大臣が射拔いたと云ふ穴と同樣である。

　　（イ）（ハ）（ニ）神跡考　　（ロ）雲根志

　ある一の盆地が昔湖水であつたと言ふ口碑は此外にも多く、實際亦さうであつたのかも知れぬ。所謂國つ神の神力を以て之を排水し得たと云ふのも極めて自然なる想像であつて、遠くは夏禹が水を治めたと云ふ物語、さては神皇正統記の山跡の説など何れも多少の類似を持つて居ると同時に、他の一方では此から述べんとする荒唐なる巨人の傳説とも確に或程度までの脈絡を保つて居るのである。

二九　鬼の足跡　さて愈々本論にはひらう。先づ第一に諸國に鬼の足跡と云ふ石がある。本朝國語に曰く、丹後與謝郡｜河守《かうもり》町河守の社の近所に鬼の足形と云ふ石あり云々。此石は疑も無く天保七年の紀行濱木綿日記に見えて居る同國加佐郡河守上村大字佛性寺に在る物と同一であらう。若しそれならば京都から行つて路の左側、坂路にかゝらうとする所に在る石である。伊那志略に記載した丹州深尾阪の茨木童子の足跡と云ふのは此と別物であらう。甲州西八代郡市川大門の二丁目の裏に鬼石と彫刻した大石がある。昔は石の上に荒神の祠《ほこら》が有つたが今は無い。此石とは違ふが市川には鬼の足跡と云ふ石が有つたのである。共石には三つ爪の足跡が存して居たと云ふ（イ）。上野多胡郡の鬼石町には足(192)跡の沙汰は無さゝうであるが、昔は御荷鋒《みがぼ》山の頂上に鬼が居て頻に石を里へ投げ下した。弘法大師が不動明王を刻んで山上に安置し之を調伏して了つた（ロ）。

　　（イ）甲斐乃落葉　　（ロ）上野國志

　其鬼と云ふのは抑々何物であるか。此が中々面倒な問題である。朝倉山の山の上に踞《うづくま》り笠を被つて天皇の葬儀を觀て居たと云ふ山人の類であらうか。但しは又都近くの山中に砦を構へ頻に美女の貢を誅求した盗賊の輩であらうか。今昔物語の出來た時代には鬼の概念に付て既に一段の變遷があつた。或は油壺に化けて轉げてあるいたり或は戸板に成つて人を壓殺したりさては三の爪の跡を御殿の板敷の上に殘して行つたが、此時代でも鬼は決して支那語の鬼即ち人魂のなれの果では無かつたのである。一代の神巫安倍晴明が道力を以てするも符咒の作用は僅に銘々の門戸を守るに止り、帝都の住民をして暫くも畏怖の念を去らしむることが出來なかつたのを見ると、事に由ると鬼は實物で夢の影で無かつたのかも知れぬ。唯常人が如何なる程度に迄之を誇張して畏れたかは又自ら別問題である。

　今だけの材料では殘念ながら右の議論の決定することが出來ぬ。此上ともに注意して行きたいのは諸國に存する鬼の故跡である。殊に國境などの深山に鬼《き》（ノ）城《じやう》又は鬼《おに》ヶ城《じやう》などゝ云ふ地名の多いことである。此は獨り丹波の大江山のみでは無い。

　全部とは言はぬが鬼ヶ城の或者には石を組み地を平げ幾分住居の地形を構へたものがあるかと思ふ。併し此に關聯した言傳へが何分にも人間離れがして居るので、到底昔の鬼の生活?態を明にすることが出來ぬ。備中吉備郡の東部舊足守領の中に在る鬼《き》（ノ）城《じやう》には鬼の釜と云ふ大釜が二つある（イ）。此釜は金屬で作つたのでは無く形の似たる岩石を意味するらしい。急流を隔てゝの對岸に金の?が一つがひ、金の茶釜と茶筅とがあるが見えるばかりで取りに行くことが出來ぬ。又其岸には鬼が小便をした跡と云つて兩足の跡あり、小便の跡は際立つて見えると言ふ（ロ）。鬼だつて小便をしよう。併し唯一箇所ばかりに跡のあるのは心得られぬ。

(193)　　(イ)(ロ)本朝國語

　備中の此邊には大昔△△△と云ふ鬼が住んで居て吉備津彦が之を退治せられた事績は宮や寺の縁起に豐である（イ）。似たる例は諸國に有つて到る處名を異にして居る。飛騨の國では宿儺と稱し二つの顔と△本の手を持つて人を惱ませた。越後から上野の北部に掛けては八掬脛が荒して居る。△△△の七掬脛と同じく脛の極めて長かつた鬼である。奧州地方では何れの谷に行つても惡路王又は高丸で、何度と無く誄戮を加へられて居る。

　　（イ）備中國志

三〇　大の足跡　奧羽の各縣には塚あれば蝦夷塚と呼び窟あれば蝦夷穴と云ふ例が極めて多い。此は必しも蝦夷人殘留の遺跡と看做すことが出來ぬ。蝦夷征討の歴史は世に行はれた色々の書籍に見えて居る故に、之を讀んで塚や窟の由來を推測することは村の祝《はふり》や僧侶にも六つかしいことで無い。言はゞ惡路王口碑の一變形と考へてよいのである。されば其塚と窟の傳説には共通の點のみ多く、或は五體を切放ちて埋めたと云ひ、或は穴に隱れて人を取り財を掠めたと云ふが如き、取立てゝ注意すべき一々の特色も無く、皆田村將軍に退治せられたと云ひ又は其後八幡殿に誄罰せられたと言ふのである。

　唯茲に是非とも注意せねばならぬのは、遙に掛離れた能登國の村々に蝦夷の大男の物語の殘つて居ることである。彼國では昔蝦夷の大男と云ふ異人が住んで居たと云ひ、△△郡△△村大字向田の蝦夷の岩屋は其住居であつた。そこから△△村大字別所と言ふ山村へ行く路には手（ノ）爪坂と云ふ坂があり、大男の手の跡が石の上に殘つて居る。△△村大字須曾に衣川と云ふ川がある。鮭が多く上るのを大男は捕つて食料として居つた。或時阿曾町臥の行者と云ふ聖が來て鮭を求めた處、大男は惜んで與へなかつた。行者は一首の歌をよんで其地を去つた。其歌は昨日きつ今日もきて見る衣川すそほころびてさけもあがらずと云ふのである。其後は實際鮭の川を上るもの無くなり大男は食料に離れた爲是非なく蝦夷ヶ島へ歸つて行つたと云ふ（イ）。佐渡の海岸にある蝦夷塚では近世之を發いて大きな人骨を見出したこと(194)がある。肅愼隈の昔語も思ひ合さるゝ事實である。

　　（イ）能登國名跡志　　（ロ）佐渡志

　右の如き口碑を聞くと諸國の山の鬼と云ふのも或は故土に取殘された舊土人又は遙々立戻つた北海の孤客では無いかと考へられぬことは無いが、尚明にし難い色々の疑がある。異人の名稱の如きはどう言ふ理由で附けたとも分らぬ。其語ばかりに依つて素性を判定せんとするのは餘程危險なことである。例へば世を騷がせた大力の男の話は九州の南端にも及んで居る。今日薩摩大隅では弘く之を隼人とも呼んで居る。即ち東北の蝦夷に當るのである。然る處言はゞ隼人の本國とも云ふべき種子、屋久の諸島から更に南下しては先島の端にまで猶大男の話は分布して居るのである。八重山島の△△△△退治の話の如きは時代は稍々古いけれども蝦夷のシャグシャインの傳記にも似通つた節があつて、之を近代の實録としても人が承知する程であるが、其中には少からず大人退治の分子を加味して居ることは疑が無い。

　要するに能登に傳へられた蝦夷大男の物語も古今千餘年南北千餘里の間に瀰漫して居る巨人傳説の一片に過ぎぬものと考へるの外は無い。

　薩摩大隅の隼人に付ては塚ありて其誄伐の業績を傳へ之を記念すると云ふ諸所の神祭りの式も尾張津島社の惡路王の古傳と略々同樣に所謂蚩尤傳説の系統に近いものであるが、村民は大抵之を隼人とは謂はずに大人《おほひと》彌五郎と稱して居る。彌五郎の名義は穿鑿することが出來ぬがオホヒトと云ふ語は尤も要領を得て居る。何れの國へ行つても右の如き半人半鬼は必ず大男である。酒?童子茨木童子の名も隨分有名ではあるが、夫よりも大人又は大《おほ》と云ふ方が弘く流通して居るから總稱としては之を用ゐたいと思ふ。

　大人の足跡は勿論何れも大きいが、其大さには著しい差等がある。此から列記する足の寸法を注意して貰ひたい。薩摩の西北隅に當る出水郡阿久根村大字｜波留《はる》の大石ヶ峯八幡神社の庭に大きな平石がある。其面に大人の足跡が附いて居る。足の長さ二尺ばかり五本の指の痕分明で更に人工では無い（イ）。肥後玉名郡荒尾村大字荒尾の山間に大人の足跡(195)があつて其由來は不明である（ロ）。筑前絲島郡今宿村大字�ｺ永の往還の南側にも大人の足形がある。其地には足跡｜畝町《せまち》と稱する小森がある（ハ）。壹岐の△△村大字國分の初丘と云ふ岡に在る大の足跡は極めて偉大である。長さが二十二間で幅の廣い部分が六間、爪先で五問半、踵《かゝと》で二間ある。昔時｜大《おほ》と稱する人が九州から對馬に渡らんとして此島に足を掛けた時の足跡である。故に爪先が北の方へ向いて居る。少し窪んで水などの出る所で外の村にも似たる例が多いと云ふことである（ニ）。

　　（イ）薩隅日地理纂考　　（ロ）肥後國志　　（ハ）筑前續風土記拾遺　　（ニ）壹岐名勝圖誌

　土佐では高岡郡仁井田村に大人の足跡が岩の上に存して居る。長さは六尺幅は三尺ばかり、大指から小指までも具足し踵の痕もあつて泥土に人の足を踏入れた通りである。左の足跡と右の足跡との距離は五町ある。大人は一歩に五町づゝあるくものだと云ふ（イ）。中國に入つては長門豐浦郡瀧部村大字中原字一ツ石に一ツ石と云ふ大岩があつて、其上に大人の足跡と云ふ大きな跡がある（ロ）。周防の熊毛郡大野村では字風呂（ノ）本と字岩村と、何れも山林の中の石に土地の者が大人の足跡と云ふ之に似た窪みがあつて、岩村の方では其窪み水が溜つてをり、其水で疣を洗へば取れると信ぜられて居た（ロ）。安藝佐伯郡大野村大字大野字林ヶ原にも大人足跡と稱する足形に似た凹地があつた。長さ十六間周圍四十三間ばかり、此は石の上では無いが其大指に當る場所には石が二つある。昔から此土地には敢て耕作をしない（ハ）。備後の沼隈郡高須村にも大人跡石と云ふ石がある。紀州に在ると云ふ二箇所も亦土地の窪みである。其一は那賀郡粉川町大字中粉川の北方山中に在つて長さ五六間幅二間ばかり、他の一は同郡中｜貴志《きし》村大字尼寺の北に在る。長さは四五間で此は大人をオビトと呼んで居る。

　　（イ）長門風土記　　（ロ）周防風土記　　（ハ）藝藩通志　　（ニ）紀伊國續風土記

　加賀に在る三歩の大足跡は後に述べようと思ふが、此も石の上では無い。東北には大人の遺跡と云ふのは少ない。新編會津風土記には柳津《やないづ》の虚空藏堂の境内即ち只見川の東岸なる明星石と云ふ岩の上に巨人の跡ありとあるが、果し(196)て土地でオホヒトと云つたか否かゞ疑しい。陸前桃生郡野蒜村大字大塚濱には巨人山足蹤院と云ふ寺がある。此も同樣に所謂｜大人《おほひと》であるか否かは分らぬが、兎に角此系統に屬する傳説は有つたのであらう。曹洞宗で元和九年の開基である。猶單に地名のみに存して未だ口碑の有無を知らぬものは若干ある。

　

　　紀伊南牟婁郡尾呂志村大字中立字｜大人足《おほひとあし》

　

　巨人山足蹤院の寺號は無論支那の巨人の蹤を踐んだ物語などを思合せた命名であらうが、我邦には石に子を祈るの風が最も盛であるにも拘らず、近江の子安神の一例の外には足跡に感じて孕むと云ふ話を知らぬ。此も一概に來由を外國に求めることの出來ぬ證據である。更に考へねばならぬことは我國には近代までオホヒトと云ふ異人種の居たと云ふ説である。今日でも我々が山人又は山男山女などゝ呼ぶ者をオホヒトと稱する地方は中々廣い。飛騨の大人が狩人に撃たれた話などは事實談として徂徠の文を傳へて居る。此は巨人の傳説を山男に迄も及ぼしたのだとも見られぬことは無いが、或は又少しく大なるが故に大人と稱したものを誇張して傳説を作り上げたのかも知れぬ。

　　（イ）視聽草第△△編に出づ

三一　ダイダラボウシの足跡　對馬に渡つた大人に次で偉大なのは、加賀國を三足で横斷した先生である。第一歩は能美郡大杉村大字山入波佐谷の傾斜地に、第二歩は河北郡川北村大字木越の田の中に在り、第三歩は國境栗殻山の打越にある。何れも五指の跡まで鮮かで其窪みには草が生えぬ。殊に木越のは田の中故遠方からも草の生えぬのが著しいが、或は其部分だけ地下に石があるのかも知れぬ。雙方とも歩間は七里以上、滅法な大股であるが、足跡の大さは九尺に四尺位でちと割合が小さ過ぎる。能美郡の方では之をタンタン法師の足跡だと云つて居る（イ）。雲根志には北國に大多《おほた》法師の足跡石多しとあるが恐くは此事で、オホタはダイダの讀誤りであらう。ダイダ法師は關東ではダイラボッ(197)チともデイラ坊とも稱へ此平原には殊に多くの足跡を殘して居る。

　　（イ）三州奇談

　巨人横行の昔話もダイダ坊に至つて殆と淵底を極めたと言つて宜しい。ダイダ坊の足跡は多くは沼を成して居る。常陸東茨城郡稻荷村大字大串の大多《だいだ》坊は千年の由緒を持つて居る。大串は即ち風土記の大櫛岡で（イ）、巨人は身は丘壟の上に居ながら手を延べて海の貝を捕り、棄てた貝殻は岡と爲り、又長さ三十餘歩廣さ二十歩の足跡を殘した。其地に近い大字｜東前《とうまへ》にもダイダラボウの足跡と云ふのがある。今の東前池は即ち是で其前の一足が水戸の千波《せんば》沼である（ロ）。相模野の大沼も昔ダイラボッチが富士山を負はうとして足を踏立てた跡である。此野原に藤の無いのは其折繩にする爲

に藤を求めたが無かつた因縁である（ハ）。京都の廣澤池の巽の方三町ばかり遍照寺の境内にも大道《だいだう》法師の足跡池がある（ニ）。讃岐の舊阿野郡にも舊鵜足郡にも足跡池と云ふ池があつた（ホ）。誰の足跡とも無いが何れ同人の所爲に違ない。

　　（イ）地名辭書　　（ロ）常陸國志　　（ハ）松屋筆記五　　（ニ）都名所圖會　　（ホ）讃岐志

　甲州にもデイラ坊の足跡が多い。東山梨郡の鹽山は昔此大男が藁の莖で二つの大きな土塊を荷ひ信州へ行かうとした時に其一つが拔け落ちて爲つた山である（イ）。土佐香美郡上韮生村大字柳瀬に三つの大磐石がある。立石は山の根に光り石は艮の方の川の中に降石《ぶりいし》は乾の小川の岸に在つたが、寶暦七年の洪水に降石は横になつた。昔ダイドウホウシと云ふ者降石を袂に入れ他の二石を荷つてあるいた處、袂が拔けて石が落ちた故に之を降石と云ふ（ロ）。

　　（イ）野尻某氏報　　（ロ）南路志所引柳瀬貞重筆記

　近江甲賀郡鮎河村大字鮎河と同郡山内村大字黒川との境の山路で字｜提田《さげた》と云ふ所には八尺六面の大石が有つて、石上に一尺ばかりの足跡が鮮に附いて居る。昔ダヽ坊と云ふ大力の僧が熊野に參詣せんとして道に迷ひ此石の上に立ちし跡なりと云ふ（イ）。此は稍々人竝な大足である。此外にも求めたら多からう。山中翁の手扣にあるもので自分の知らぬのは、美濃石津郡大清水村字兜、遠州見附在磐田原赤松氏の地内、上野多胡郡八幡村大字木部の赤沼、信州上諏訪の(198)手長神社等である。福島縣の白川にも昔一人のダイダ坊が居つたと云ふ。觀迹聞老志は漢文である故に巨人あり大瞻子と謂ふなどゝ書いてある。民間に在つて稼穡を好む主之を悦べりともあつて一寸勝手が違つて居る。土地の山を脊負つて持つて行つた。下野の茂邑《もむら》山と云ふのが即ち其荷物だと云ふことで那須野には此者の足跡がある。長さ三尺廣さ一尺云々。

　同書に曰く、陸前名取郡生出村大字茂庭の太白山は太白星の墮ちて成つた山と云ふ。此山にも昔巨人が住んで居た。頂上に跨《またか》つて四方を眺望したとあつて、其腰を掛けた石があるのみならず、左の足跡は麓に存し右の足跡は遠く△△村大字吉田の田の中に殘つて居る。此に就て考へるのは諏訪の手長明神には長い手を延べて湖水に及んだと云ふ口碑があるのでは無からうか。宮城縣伊具郡金山村大字大内の手長明神には常陸風土記の巨人に似た傳説がある。近世の大串のダイダ坊も岡に腰を掛けて足を東海に洗つたと言はれて居る（イ）。此に似た話は奧州の巨人に付ていくらもある。自分の生國播磨の市川では彼の駒ヶ岩より少しく上流に水に臨んだ岩山の下を僅に通ふ路がある。夜分に此下を行くと時として其山に腰を掛けて人の頭越しに毛脛を川で洗ふ者があると云ふ。其地名は千束《せんそく》である。千束は諸國に多き山や荒野の地名で、東京附近にも例のある如く?々｜洗足《せんそく》と書くことがあるのは奇では無いか。洗足は古い語だ。枕の草紙にも見えて居る。地名の起原は明瞭では無いとしても、或は江戸本所の七不思議の一つと系統を同じくする怪談を伴うて居ることは注意して置かねばならぬ。

　　（イ）地名辭書

三二　ダイダの語義　ダイダの記事は平家物語に緒方氏の先祖だと稱する皸童《あかゞりわらは》などが最も古いであらう。此童子は姫嶽の神蛇を父とする人間の龍駒であつた。跣足で山野を歴行したともあれば諸國のダイダの足跡は即ち是だらうと云ふことは早く論じた人がある（イ）。然らば大太童のダイダの如きは元は祖父の鹽田長者が通稱を大太夫と謂つたからで何の意味も無い。併しながら彼の一段は井澤長秀も指摘した如く、或は大三輪神話或は肥前風土記の褶振峯の故事な(199)どに絲を引くもので（ロ）、言はゞ種々の切繼細工を以て緒方の家傳を敷衍したに過ぎぬ。巫祝が自ら神の末だと主張する風はあの時代の大流行で、自分は之を若宮思想と名づけて居る。ことによるとダイダと云ふ巨人の傳説は平家や盛衰記が色々と語り換へられた頃既に地方に流布して居たのかも知れぬ。

　　（イ）落葉集二　　（ロ）太宰管内志

　南方熊楠氏の説に依れば、宇治拾遺物語にも既に大太郎と云ふ盗賊の話がある。當世の與太郎三太郎などゝ同樣に、大男を意味する一般的の綽名であらうと云ふ（イ）。大太の太も太郎の略で中世盛に用ゐられた。大太郎をダイダラと呼ぶは恐くは法師に續く口拍子で、法師は必しも佛徒では無く一種の狎稱として用ゐられ、童名などに多かつたことは例へば織田家の一法師君、さては狂言によく出て來る金法師の類である。米俵の兩端の葢は多分サンダハラであるのを三太郎法師《さんだらぼつち》と云ひ、下總邊で子供の口豆に人が「何だ」と聞くとき「何だらぼつちの柿《かアき》の種、甞めたら甘《あアま》い物、?んだら澁《しぶ》いもの」と囃すのも、自然にタラと云ふ音を重疊して趣を成したのである。序に云ふが新發意などのボッチも法師の轉訛で發意は宛て字では無いであらうか。太郎をタラと訓むことは必しも不自然で無いと見えて、若狹にも太良保《たらのほ》あり、沖繩の戯曲には京太郎《きやうだら》の物語があると云ふことである。

　　（イ）△△△

　又南方氏の言に熊野の山中には一｜本《ほん》ダヽラと云ふ異形の者が住んで居る。其形は見た者が無いが雪の上に徑一尺ばかりの大足跡を一足づゝ印して行く。ダヽラは例の大太郎で一本は足跡が一つであるからの名稱であらう。足の右左を辨別するまでには土人の觀察眼が發達して居なかつたのかも知れぬ。此一本ダヽラを續風土記には一踏鞴と云ふ山賊の大將軍として居るらしい。那智の寺山に住んで久しく社家を荒してゐたのを、色川郷の郷士狩場刑部左衛門と云ふ者が退治したと云ふ。多々良と云ふ地名は諸國に甚多く之に伴つて踏鞴又は鍛冶鑄物師に關する傳説の存するものがあるが、此とは關係が無いらしい。又傳説の存否は知らぬが大太郎の遺跡らしい地名は段々之を見出した。

(200)　　備中阿哲郡｜神代《かうじろ》村大字池野字苅も下小字ダイダラ谷

　　同　川上郡｜富家《ふか》村大字布瀬字ダイダラ久保

　　石見那賀郡｜波佐《はさ》村大字長田字大太郎

　　常陸多賀郡貼川村大字｜油繩子《ゆなし》字ダイダラ

　　陸中岩手郡本宮村大字向中野字臺太郎

　　下總香取郡東大戸村大字山之邊字ダイタラウ

　　下野上都賀郡清洲村大字深程字臺太郎

　　同　同　　　菊澤村大字富岡字代太郎

　　同　鹽谷郡粟山村大字湯西川字ダイトロウシ

　　同　那須郡上江川村大字鹿子畑字大多坊

　　上總市原郡姉崎町大字立野字大田法師

　　尾張知多郡横須賀町大字加木屋字陀々法師

　　大和磯城郡上郷村大字萱森字ダヽボシ

三三　道場法師　ダヽ坊は近江にも足跡がある。是亦大太郎の愈々つゞまつた語と言ふことが出來る。唯南方君の大太郎説と稍々兩立し難いかと思ふのは大道法師である。京の遍照寺の足形池は大道法師のだと云ふこと△△△△にも見えて居るが、此は或はダイダラの名を法師らしからぬのを氣にして僧徒だと信じ切つて居た著者が大膽子と同樣に文字を雅馴にしたのかとも思はれるが、土佐の韮生山の巨人も亦古くからダイドウホウシとある。其他に地名としても、

　　土佐吾川郡弘岡中（ノ）村字大道法師

(201)　　丹波船井郡園部村大字園部字大道法師

　　攝津武庫郡精道村大字打出字大道法師

　　和泉泉北郡｜上神谷《にはたに》村大字鉢ケ峯寺字西奥山小字大道法師

　　同　同　　美木多村大字上字城小字大道星

　　同　泉南郡南｜掃守《かもり》村大字下松字｜下代《しもだい》小字大道星

などがあるのを考へると、或は此大男を大道と云ふ僧だと云ふ説が廣く行はれてゐたかとも思ふ。而して夫も亦決して突飛だとは言はれぬ仔細は、其以前に夙くから道場法師と云ふ大力僧の居たことが記録にあるのである。道場法師も日本靈異記などを見ると、一箇上古に於ける辨慶乃至は魯智深の傳ぐらゐに受取れぬことも無いが、此と殆と同時代の人都島香の道場法師傳を見れば、此僧は生れた時から靈蛇を以て鉢卷とし其鉢卷の端は首と尾と共に後に垂れて居たとあつて、既に立派に傳説の樣式を具へて居る。されば近江石山寺の閼迦井《あかゐ》の側にも道場法師の下駄の跡あり、其井は法師が爪を以て掻出したものと云ふこと台記文安二年九月二十七日の條に既に見えてゐる（イ）。南都元興寺には昔大きな怖しい面が藏せられた。道場法師の物語は之に伴ふもので、「グワゴゼに?ましよ」と子供を畏《おど》す諺のあるのも此から始つたのである。右は小さい頃故約齋先生に聞いて記憶して居るが、何の書に見えて居るのか、今以て出處を見出すことが出來ぬ。

　　（イ）松屋筆記五

　百合若大臣の物語は主として九州に存して居るが亦關東にも及んで居る。上野妙義山の射拔岩又は其麓の足跡石などは古くから有名である。紫の一本には百合若は賤しき者で、大臣即｜大人《だいじん》の意、大太と云ふも同じことである。今云ふダイダボツチのボツチとは礫のこと、大太が大力にしてよく礫を打つたからの名であると見えて居る（イ）。此説は必しも信ぜられぬ。百合若大臣の小説は近代の舶載品でユリシス島巡りの希臘物語を飜譯したものだと云ふ説は二十年前(202)に坪内博士が唱へられて一般に承認せられて居る。併し此が倶通を助けたのも亦恐くはダイダラ法師の強力談で、之を見ても明白である如く、諸國の大人《おほひと》が其名は何と呼ばれようとも到る處山中野中に其偉大なる足跡を殘すには些も差支がなかつたのである。又佛神感應録と云ふ書には巨靈と書いてダイダラボウシと假名を振つてあると云ふ（ロ）。此は前に擧げた華山拆開の傳説などを考へ合すべきものであつて、又以て日本の大多坊が早くから友を異邦に求めて居たことを覗ひ知るに足るのである。

　　（イ）地名辭喜　　（ロ）同三六七七頁

　

(203)　　　　　第四　姥神

　

三四　山姫の布を晒すこと　姥神の傳説にも若干のダイダラ分子を包容して居るかと思はれる。姥神が其足跡を留めた例はまだ聞かぬが、やはり又山村素朴の民を驚歎せしむる爲に、色々の奇特を磐石の上に現はして居る。土佐の韮生郷の内柳瀬の字タチバナと云ふ處では八幡社の邊の岩に幾筋かの溝がある。昔山姥は此岩の上で麥を作つた。溝の形の麥アコ（畝）に似て居るのは其爲である（イ）。因幡の

　　　　　　　△△△　　　　　　　　　　　　　（ロ）

此等の擧動を見れば之を大太法師の姉妹と看做さしむるに足るが、流石に女であれば其する事がよほど優美である。越前吉田郡淨法寺山の上には大なる岩があつて其半分は雪のやうに白い。淨法寺村の人々は之を山姫の布曝し岩と云ふ。雨の降る前には殊に白く、晴れんとする時は赤く見え、夜分は火の燃えることがある（ハ）。同じ郡圓山東村の大字東今泉と北今泉との間を流るゝ荒川の岸には、淵の上と云ふ字がある。それは其下に布淵と云ふ淵があつた爲で、此淵に臨んだ竹藪に時々白布を晒してあつた。人が之を取らうとして近づけば、必ず其淵に溺れたと云つて居る（ニ）。此方は頗る其樣式を箒木傳説に接近せしめて居る。

　　（イ）南路志所引柳瀬貞重筆記　　（ロ）因幡志　　（ハ）（ニ）吉田郡志

　山姫と山姥とは共に山に住む靈異なる女性で、其名の異なるは單に老少の別であらうと信じて居る。山姫が布を晒すと云ふことは決して新しい話ではあるまい。昔も瀧の歌に△…………△なに山姫の布さらすらんともあれば（イ）瀧(204)の姿を布引に譬へるのも常の事である。漢語の瀑布と云ふのもやがて亦曝布の義であらう。姥神を瀧の邊に祀つた例は、土佐の土佐郡土佐山村大字赤尾字横平の山婆の瀧、山の北に小さな岩窟があつて山婆之に住むと信ぜられて居る。毎年九月十七日には山婆祭がある（ロ）。紀伊有田郡田殿村大字田角の北の谷には姥ヶ瀧がある。瀧の側の天神社に姥の靈が合祀してある。此邊は深山であるが昔は奧田と云ふ所に田があつて姥の力に依つて檢地を免かれたと云ふ。

　　（イ）△△△　　（ロ）南路志　　（ハ）紀伊續風土記

三五　姥石　ダイダラが孤立獨歩して法師としても似合しい生活を導いたのに反して、姥神には往々にして茶呑友達がある。山姥は必しも山爺と連れだつては居らぬが、?々深山に在つて子を育てる。四國の山村では冬暖くなれば山姥が子を育てゝ居ると云ひ、閏月のある年には山姥が子を設けるとも云ふ（イ）。道の傍又は社の境内などにある姥石に至つては尉石《じよういし》と相對するものが多い。尉は丈で老人のことである。山爺《やまぢい》を又｜山丈《やまぢやう》と呼ぶ所もある。自分は相模の濱に在つて?々海上の烏帽子岩を眺めた。其形は能く立烏帽子に似ては居るが、諸處の烏帽子嶽烏帽子石は必しも形似の命名で無いと思つて居る。茅ヶ崎邊の老人は今でも之をヂンヂバンバと呼ぶのである。今は孤岩であるが此も元は一對の老いたる女夫岩であつて、何れの歳かの荒波に其偶を失つたものかと思はれる。

　　（イ）笠井高三郎氏報　　（ロ）和訓栞

　姥石の名の由來は樣々である。必しも姥の形をして居る爲ばかりでは無い。馬の蹄や烏帽子などゝは違つて岩が天然に人の風貌を具ふる場合は多くあり得ぬことである。姥石には何とも知れぬ只の石も少くない。之に就ては又別樣の不思議を傳へて居る。岩代耶麻郡△△村大字磨上新田の嫗石《うばいし》は周一丈餘村から二町の西に在る。何れの頃か此石毎夜化けて女に爲つた故に嫗石と云ふ。美濃養老郡多藝村大字｜大墳《おほつか》の莊福寺境内に在る姥石は、今は何でも無い石であるが、昔は石の肌が常に生きた人のやうに暖かであつた。徹書記と云ふ歌人で事の爲に此國に流された法師が之を聞いて「おほぢには逢ふこと難き姥石のさこそ肌のつめたかるらめ」と詠んでから其不思議が無くなつた（ロ）。三馬の戯作(205)に見えた所の鰻に爲りきつた山の芋の類で誠に是非も無き次第であつた。人肌の觀音の類は稀に靈佛に伴ふ奇特であつて、此の如き不思議は些も危險では無いのに、何故に急いで詠み冷《さま》したものか今以て理由が分らぬ。同じ種類の話は足跡に伴つて居るのもある。例へば大和△△△△△では大三輪の神を父とした稚兒の足跡が板の上に殘つて居て、其跡は常に曖いとある（ハ）。姥石は各地に數多く之を列擧するまでもあるまいが、其地名に存するものゝ二三を言へば、

　　豐後北海部郡丹生村大字原字姥石

　　越中東礪波郡井波町入會字祖母石

　　武藏比企郡平村大字西平字姥石

　　下野芳賀郡中川村大字入郷字｜小把石《をばいし》

などの類である。

　　（イ）新編會津風土記　　（ロ）新撰美濃志　　（ハ）和漢三才圖會

　自然の石の姥に似たものは例へば駿河志太郡△△村大字瀬戸新屋の臼祖母石と云ふ巨巖は人の口を開けた形に似て居る。誤つて之に足を掛けると瘧を病む（イ）。岐阜市の上加納の瑞龍寺の上の山即ち岐阜山の中にある姥石は姥の坐つて居る形とあるが人作では無いらしい。其前に在る石を苧桶石《をごけいし》と云ふ（ロ）。國々で美女石姫神などゝ云ふ石も冷淡に看れば類似は最も微弱であるのが常である。然るに或地方には石を以て刻み上げた姥石が少なくない。上總の△△△で關の姥神の石と云ふのは單に四角に削つた石の中程に圖い穴のあるばかりである故に、或は昔設けた關所の跡の礎で、即ち關の小場石であらうと云ふ者がある。然るに舊江戸には正しく姥の像を石に刻した關の姥が幾らも有つた。甲子夜話には之を列記して、先づ第一に著者松浦侯の鳥越邸の門前、同じく鳥越の閻魔堂、姥ヶ池、淺草山宿の小出氏邸内、(206)本所の原庭、稻葉藤堂二家の邸内の七ヶ所までを擧げて居る。殊に松浦家の門前に踞つて居た關の姥は形容最も醜怪で笠を被りたる一尺五寸ばかりの像で、製作は江戸開府前の物とは見えなんだと云ふことである（ニ）。此際靜山老侯の問に答へた行智法師と云ふ山伏は職業に似合はぬ博識な且つ拘習の少なかつた敬服すべき人で、關の姥神は當時咳の病を祈る神として居るが、實は所謂三途の川の奪衣婆と共に道祖神の一變形であると論じて居る。姥神を關の神と言ふのは全く此説の如き由來であらう。逢坂の關の東に百歳堂《もゝとせだう》と云ふのは、今の像は筆と短册とを手に持つた老女であるが、小町壯衰の俚傳などを基として、かの關寺小町の謠の頃より之を小町に附會するに至つたのであらうと云ふことは此も行智法師の説である。

　　（イ）駿國雜志　　（ロ）體尻　　（ハ）上總町村誌　　（ニ）甲子夜話六三

　障塚《しやうづか》の婆樣の信仰は僞經十王經が恐くは根原で、さして古からうとも思はれぬのに、よくも廣く行はれたものである。野路や里中の露臺から取上げられて佛堂の奧に遷された姥神は、殆と殘らず新しい樣式に作り換へられて居る。尾張熱田の裁斷橋はもとは領地の地境の意味であらうが其南の詰の姥子堂は今は時宗の僧侶の管守に歸し安阿彌作と云ふ奪衣婆の像が置いてある。此は川の名の精進川と云ふのから起つたのかも知れぬ（イ）。奧州外南部の恐山の地獄から出て北海へ流るゝ正津川《しやうづがは》の川口に近く、茲にも正津川の婆とて同じ像を祀つた姥堂がある。越中立山も名ある一所の地獄であるが其麓に近い△△△の姥堂には怖しい形相の姥の像があると云ふ。但し此は亡者の衣装を手に持つて居るのでは無い。越後蒲原郡中のデヨと云ふ地には十二間四面の大きな堂があつて、中には物無く唯中央に等身の三途川の婆の像がある。堂の周圍は物凄い古木の森で此像は甚だ靈驗あり、其怒に觸れた者は生きながら衣を剥がれてそれを森の梢に懸け置かるゝと云ふ（ロ）。

　　（イ）尾張名勝志　　（ロ）甲子夜話六二

三六　岩屋の姥　老女の石像の如きは假令三途川の關所と縁が無いとしても、どうせあまり氣味の好いものでは無い。(207)箱根の姥子などを始として姥谷、姥ヶ懷などゝ云ふ土地は十の八九まで寂寞たる山中である。山姥の話などを釀し出すには適當した境地である。從つて姥神の傳説には幽怪なものが多い。岩代耶麻郡の下窪では境見川の岸に長三尺ばかりの石佛を村人は大佛とも姥神とも稱へて居る。諸病の平癒を祈るに靈驗があると云ふことで必ず夜半に參詣することになつて居た（イ）。甲斐の△八代郡井上村には姥塚と云ふ岩窟がある。窟の中には觀世音を安置し、又圓通窟とも稱して居る。傳説に大昔神嫗あり一夜の中に窟を作つたと云ふ。一説にはオンバ塚は御馬塚で甲斐の黒駒を葬つた塚だと云ふ（ロ）。併し説明に過ぎて居る。土佐の土佐山にも窟に住む山婆を祭つたことは前に言つたが、岩穴があれば之を姥神に托する者は隨分多い。信濃

　　　　　　　△△△　　　　　　　　　　　　　　（ハ）

陸中の遠野にも山上の岩の中に老女が住むとあつて折々眼に見えぬ岩戸を開閉する音が聞える。之を安倍貞任の母などゝ云ふ者もある（ニ）。長門厚狹郡小野村大字岩川の官山の内に山姥の岩窟がある。庭は大凡四疊半ほど二階も有之と長門風土記に見えて居る。

　　（イ）新編會津風土記　　（ロ）甲斐名勝志　　（ハ）信濃奇勝録　　（ニ）遠野物語

　岩穴の中に二階があると云ふのは如何なる形であらうか。あまり簡單で想像に苦しむが、此序に注意して置きたいことがある。武藏の松山の百穴は今の處では學者が略々葬穴と決定せられて了つたかと思ふ。廣い山野の中に特に此地のみに狹苦しく死人を集めたと推測するのは可なり骨が折れる。そんなら人の住居かと云ふに此亦割長屋同前の窮屈生活で、處によつては上の穴の床と下の穴の天井との間が二尺にも滿たず、足音も話聲も手に取る如く聞えるのを見ると、よほど仲の善い蠻民でも隣を卜し兼ねたらうと思ふ。一々に就て檢査はして見ぬが百餘の穴の少なくも一部分は後日掘添へたものと見るのが穩當であらう。若し然りとすれば何の爲に掘添へることになつたか。又穴の中の光景が皆一樣なるは何故か。自分の見て來た所では何れの穴にも大凡中程に縱又は横に一線があつて、夫より奧は幾分(208)か高くなつて居ると思ふ。此事實は松山の穴に限つたことで無く、　　　　　△△△

若しや岩穴の二階と云ふのは此部分の高さが比較的顯著なるを謂ふのでは無からうか。葬穴説では此を棺を置いた跡と答へ得るであらうし、住居説では座敷と土間だとも言つて退《の》けられるが、自分は稍々異なる見込を附けて居る。石灰岩なども天然に侵蝕した岩窟は勿論古代の葬處の口の開いたのであれ又は其爲に新に構へたのであれ人工に基く塚穴の中にも神佛の像を安置して其祭を營む風は中世よほど盛に行はれたらしい。此には行法を秘密にする意味も有つて記録に證據を留めては居らぬが、行者は退轉しても像や祭具の遺つて居るのが何程もある。そこで中仕切から奧は其祭壇で、松山の百穴なども事によると少々あつた古横穴を利用し更に追々と其附近に祭場を増設したので、其折に古穴の内部にも若干の加工をしたのでは無いか。あの狹い區域にあれだけの工事を施すにはいくら昔でもよほど統一した計畫を要する筈である。人が遣るから自分もと云ふやうに後から眞似をするなら、あれ迄密集する前に他方面へ發展せねばならぬ。自分はたしか頂上に近い一の穴の壁に唐草のやうな装飾の中に一尺四方はどな立派な文字で照臺の二字が彫刻して有つたのを見て頗る此考を強めたのである。

三七　姥屋敷　岩屋の二階に關する長々しい議論は實は次に言はんとする姥屋敷の説明の準備である。諸國に無數に分布してをる祖母懷姥ヶ懷の地名も自分の考では姥の處の義であらうと思ふが此はまだ十分な證據が無い。併し姥屋敷と云ふ字名に至つては之を姥住地と解して誰とても批難する者はあるまい。大抵昔の里人が土地に命名するには一定の法則が有つて、屋敷とか垣内《かいと》とか云ふ一定の地區に居住者の種類を冠せてあるのは、其人が普通の地割の外に立つ者平民で無い者であることを意味する。地頭莊官の類も此なれば即ち鍛冶鑄物師染屋石切の徒も此である。貴賤の沙汰は別として兎に角此等の職業は特に保護をして招致するの必要があつた爲に別に屋敷を與へたので其事實が顯著なる爲に乃ち地名が生じたのである。例を拾へば長くなるが山伏、巫女、聖、比丘尼なども姥屋敷と同樣に多くの村(209)の地名を作つて居る。姥と云ふのもつまりは只の家の後家隱居のことで無く或特殊の老女のみの名であつたかと思ふ。

　姥屋敷は最も東北地方に多い。奧州の方では姥と云ふのは後世の比丘尼と同じく熊野の行者であつた者が少くないやうである。

　　　　　△△△　　　　　　　　　　（イ）

併し勿論此のみに限つては居なかつたであらう。岩代耶麻郡△△村大字大鹽には村中《むらなか》の大橋の南の詰に老嫗屋敷の跡と云ふ地面がある。今は普通の農家であるが、其家には弘法大師の像と又其大師の作と云ふ姥の像が安置してあるのみならず、邸内に護摩石と稱する高五尺、六尺に四尺程の平石があつて其表には大師の手印だと云ふ手の跡がある（ロ）。

　　（イ）仙臺封内風土記　　（ロ）新編會津風土記

　姥屋敷と云ふ土地に付ては求めたら色々の言傳へが現はれて來ることゝ思ふ。陸中岩手郡厨川村大字下厨川の嫗屋敷は厨川柵址の西方に在り、陸奧話記に△…………………△嫗戸は此だらうと云ふ（イ）。嫗戸の戸も道祖土、山神戸△△△などのトと同じく祭場と云ふことかと思ふ。周防玖珂郡秋中村大字秋掛の字姥屋敷と云ふ部落は西に姥石山あり、北方の山の名にも千人嶽、瞽女ヶ谷障子ヶ嶽などがあつて髣髴として昔の信仰を思はせて居る。猶其他の國々に分布する姥屋敷は

　　　　　△△△

　　　　　△△△

などの例は何程もあるのである。

　　（イ）地名辭書　　（ロ）周防風土記

　姥神は決して新しい神樣では無い。延喜式の神名の中にも既に河内若江郡宇波神社などがあり、伊豆賀茂郡の優婆夷神社も亦一の姥神かと思ふ。前の嫗戸の例を推せば甲斐巨摩郡美濃池田郡等の宇波刀神社も恐くは同じ神で、此姥(210)神は今日信ぜらるゝ如き老女夫自身を祀つたものでは無く、專ら巫女に依つて祭禮祈?をするからの名であらう。而して其姥神社の社殿の中に假に古くから老女の像などを安置して居た例が有つても、夫は些も意外とするに足らぬ。八幡其他の託宣の盛であつた神々の社には、必ず御子神《みこがみ》、姫神、王子宮、若宮等を伴ふと同じく、又は菅原神の白太夫の如き隨從の者を末社に齋ふと同じ例で、尊き神意を宣傳し仲介する者の始祖は亦多くは小さき神として信仰せられたのである。

　姥神姥權現等の社は東西の府縣に殆と無い地方は少なく處に依つて伯母樣とか乳母殿と云ふが如き馴々しい名稱を以て之に近よつて居り、從つて城主没落の折の乳人《めのと》の忠義とか又は長者の妻が一人子を失つた悲願と云ふやうな中古の小説をも發生させ、他の一方では子を祈り乳を求むる願などを掛けることになつて居る。相模足柄下郡穴部村の鎭守は姥權現で其本地佛は十一面觀世音であつた。十一面觀世音を本地とする神には　　略々定つた種類があるかと思ふ。此も亦注意して置かねばならぬ。十一面は

　　　　　△△△

稻荷、子安△………△などは此系統に屬して居る。

　我國中世の田舍に巫女の宗教の盛に行はれて居たことは、書いた物こそ少なけれ、勿論據も無いやうな想像説では無い。例へば金銀とか愛敬とか云ふやうな現世の幸福に關する私の祈願は後々は小野派や立川流の僧徒の任務に移つたが、古くは專ら神に仕ふる巫覡の業で有つたらしい。和泉式部が夫の心を取復《とりかへ》す爲に△……△に秘密の祈?をした時は多くの巫女が女のやうでも無い振舞をして庭燎《にはび》の周圍を繞り、同じ作法を願主にもさせようとした（イ）。新猿樂記を見ると狐神の信仰にも之に似た行をしたものらしい。又｜撫物《なでもの》の思想も修驗道から佛教へ移り、今日では純粹の神祭にも御祓の一樣式として採用せられて居るが、同じく巫女の所管であつたかと思ふ。鏡に姿を映し又は常の衣服を脱いで之を形代《かたしろ》にして災害を禳ふことゝ、土偶又は木偶に自身の災厄を移して之を遠所へ退ける風とは其間に幾分共通の(211)思想が無いでは無いから、明白に分界を立てることは出來ぬが、所謂アガチコ、アマガツ又はハウコと云ふ人形《にんぎやう》の起原は姥神の方に屬する。前に述べた越中立山の麓蘆峅寺の姥堂は、山を地獄と謂ひ前を流るゝ川を三途大川と稱して、殆と奪衣婆に變形しかけて居るが（ロ）、其本尊と云ふのは畏多くも禁裡より下げられた一のハウコであつた。奈良の興福寺などにも天子のハウコが殘つて居るが、ハウコは皇子御降誕に臨みて之を作り祭を行はせらるゝ物であつて、御安産の上は之を棄てた。緑子の枕元に此種の人形を置くことも此が起原らしい（ハ）。ハウコを身代りとするのは必しも産の時ばかりでは無く、村方では疫病が流行するにも稻の蟲を追ふにも凡て人形を利用したであらうと云ふことは現今の民習からも想像することが出來る。併し安産の願は人の最も切なる希望である故に、個人の信仰としては此點が段々著しく現はれ、終には危難を避くる本《もと》の意を忘れて幸福を増進するの意味を以て雛人形などを飾るやうになつたのであらう（ニ）。姥神と子安とは甚だ縁が近い。例へば

　　　　　△△△

　　（イ）△△△　　（ロ）一宮巡詣記　　（ハ）三州奇談　　（ニ）考古學雜誌第一編ノ拙稿「子安石像」參照

　巫女の信仰は今日に至つては愈々邊土に退却して了つた。二三十年前迄は海道の平地にまで普く行巡つて居た竈祓ひ梓神子の徒も今は我々の往來する區域には迹を斂めたやうである。早く別居した我々の同胞沖繩の島人の中にも、キミと云ひノロと云ふ者に對する感じ方が變つて行く。伊豆の海島には今でも醫者は無くてユタのみ居る島がある（イ）。巫女をユタと云ふは東北のイタコなどゝ同じ語原であらう（ロ）。奧州は姥屋敷の最も多く地名を遺して居る地方であるが、老女の民間信仰上の地位はまだ中々高い。村々のイタコの外に念佛門にして秘密の行法を專とする老女が有る（ハ）。又此等と多少の關係ありと思はるゝ者にテンバと云ふ人民もある。テンバは京阪地方でサンカ又はオゲなどゝ云ふ者と同類で、筬《をさ》、箕、?《ざる》、箒、簓などを作つて僅なる收入を得、夫婦親子引連れて河原に小屋を掛け又塚穴や宮寺などに假住しつゝ漂泊する人種である。青森縣△……△天間館《てんまだて》を始めテンマ屋敷などゝ云ふ處々の地名は恐くは此連中で、テ(212)ンマは天魔でもあるまい。天婆などゝ書くのであらう。以前は信仰生活と交渉を有して居たらしい證跡がある。

　　（イ）日本周遊奇談　　（ロ）人類學雜誌第△△號拙稿「イタカ及サンカ」參照　　（ハ）遠野物語

三八　石の枕　姥屋敷の生活の有樣を想像すると、吾人はマクベスの悲劇などに現はれたウィチのことに考へ及ばずには居られぬ。山野の異草に取交ぜて色々の生物の毛や腦《なづき》など煮たり、夜は箒に騎つて烟出しから飛出して星月夜の空を往來したり、彼國の巫女は中々の離れ業をする。此ほどで無いか知らぬが我邦の姥屋敷の中も幽鬱なものであつたらうかと思ふ。總じて賢明なる老婦人は氣味の好くないものである。況や巫女には術が有る。或は眼の光が鋭く或は妙ににこ／＼と笑つてあまり物を言はない。斯うなると何をするか知れぬと云ふ不安心が生ずる。困る時は是非なく祈?を頼むものゝ常には怖しいものだと云ふ感を去ることが出來ぬ。從つて姥屋敷に關する荒唐な傳説も發生することに爲つたのであらう。淺草觀音の繪馬に殘つて居る一つ屋の物語なども一概に安達ヶ原の引移しとして了ふことはならぬ。黒塚の謠曲とても彼の兼盛が一首の歌からは到底あれほど想を構ふることが出來なからうと考へる。必ずや當時倶通して居た鬼婆の話を取入れて所謂格調上の趣味を添へたものであらう。此話の先型としては慈覺大師の纐纈城の遭難さて羅刹國の冒險談なども有つて、決して突飛に現はれた不思議物語では無いのである。岩代北會津郡△△村大字上荒井には姥子屋敷の迹と云ふ地が有る。昔此屋敷に二人の老女が住んで居て旅人を欺き宿せしめ、石の枕をさせて深夜に之を撃殺すを業として居つた。其石枕は今も村に殘つて居る。石の槌は△△村大字小松に在つたが今は失はれたと云ふ。或旅人が將に此難に遭はうとした時に神が牧童となつて歌を歌はれた。其歌は「荒井小松に宿取りやるな、石の枕に槌一つ」と云ふので、「野には臥すとも宿かるな」と云ふ和歌より一段前の形成かと思ふ（ロ）。此例は諸國の社寺の縁起を探したらまだいくらも有るかも知れぬ。

　　（イ）今昔物語（國史大系本）△△頁及△△頁　　（ロ）新編會津風土記

三九　山姥　山姥が單に山丈《やまぢやう》又は山爺《やまぢい》の老いたる配偶者であるだけならば、之に山中で逢つたと云ふ者も走り去つた(213)とか丈が高かつたとか云ふやうな普通の報告ばかりをする筈であるのに、女性の方のみに特に一段の神怪が加はつて居るのは、是亦若干の姥神信仰の分子を交《まじ》へて居るからであらう。諸國の山姥の話は數限りも無いことであるが、それが只こはい怖しいと云ふのみで無く、色々の逸話と特質とを伴つて居ることは輕々に看過すべからざる點である。其主たる箇條を擧ぐるならば、第一には山姥は完全なる靈智を備へて居る。謠の山姥は筆者が理想化したものだとも言はるゝが、實在の山姥に在りても亦能く人情の機微を解し、或者に接しては物柔かに意思を疏通し、偶々威力を示す場合にも夫は唯止むを得ざる手段であつて内心の憤怒が發露したので無いやうに思はるゝのは尋常の變化が到底企て及び難き所である。尤も山男に就ても人の心中を見拔く力があると信ずる地方もあつて、甲斐信濃越後などでは其一名をサトリとも呼んで居るが、概して男の方は愚かしいものゝやうに考へられて居る。第二には山姥は人間に對し好意を持つて居る。或は山賤に樵路に逢つて負搬の勞を分ち或は機婦が窓を訪ひて紡績の苦を助けるとも云ふが（イ）、それ迄の干渉はせずとしても山姥から福を授けられたと云ふ話は折々聞く所である。

　　　　　△△△

所々の山中で山姥を祭るとあるのは思ふに求むる所ある者のする事であらう。第三には山姥は人間の子を生んで居る。坂田金時は足柄山の山姥の子、碓氷貞光は碓氷山の山姥の子である（ロ）。頼光は二人迄山姥族の勇士を使はれた。彼等が父の傳は不分明であるけれども、其生涯に日本人らしからぬ點の少しも無かつたのを見ると、彼等の家庭の國樔《くず》や土蜘蛛の如き者でなかつたことを想像し能ふのである。若し又別に此は人の子が山姥に養はれて此の如く立派に育てられたのだと云ふ説がありとすれば愈々以て妙である。要するに前に擧げた三つの點は共に山姥が野性にして兼ねて姥神の機能を具へて居たことを證すべき事實である。

　　（イ）笠井高三郎氏報　　（ロ）但言集覽

　

(214)　　　　　第五　榎の杖

　

四〇　枚を立てて樹と成る　山姥は山から山へ山巡りをして東西の諸國山として到らぬ山は無いと云ふが、別けても相模の足柄山、又は信州北部の高山地方などは昔より高名な山姥の根據地である。能の山姥には安計呂の山のヒヤクマ山姥とある。此語の意味はまだ分らず、又今日の地圖では何分にも説明することが出來ぬが、古人の信じて居た所に依れば安計呂山は越後に接した越中の高山だと云ふことである。二國の境を流るゝ境川の源頭に此山はあつて、其山中に在る榎の古木は即ち山姥の突いた居た杖であると云ふ。かゝる北國の深山に大木の榎の有ると云ふことは多少の疑も無いでは無いが、夫よりも先づ杖を立てゝそれが成長すると云ふ古傳の由來を考へて見ようと思ふ。

　　（イ）和漢三才圖會卷六八

　肥後菊池郡｜陣内《ぢんない》村大字下陣内と隣大字の陣内との境に榎の杖と稱する大木の榎がある。大昔阿蘇の大神が諸處を巡廻せられた時、其杖を此地に立てられたのが、次第に枝葉繁茂して今の大木と成つたのである（イ）。土佐幡多郡中筋村大字｜九樹《くき》に在る大榎は昔延光寺の明俊僧正と云ふ名僧が榎の杖を路頭に立てゝ歸られたのが次第に繁榮して此の如き大木と成つたので、之を名づけて榎船戸と云ふ（ロ）。フナドは境を守る神の名で、岐神とも書けば道祖と云ふ漢字をも宛ててある。又クナドとも呼び其防陣の神�ｺに基いて塞《さへ》の神と稱へるのも打じ神である（ハ）。

　　（イ）肥後國史　　（ロ）南路志　　（ハ）石神問答△△頁

　榎は椋の同類で、今でも棒などの材にするから杖にも造つたのかも知れぬ。併し之に似た傳説は他の樹に就ても語(215)られて居る。美濃武儀郡下（ノ）保村字殿の高澤山に大日山日龍峯寺と云ふ眞言宗の寺が有る。寺の縁起に依れば上古仁�ｺ天皇の御代に飛騨一國を荒した宿儺と云ふ兩面四臂の巨人は（イ）、此地に來ては意外にも大なる功績が有つた。即ち此山の毒龍を退治し行基菩薩の來着以前に於て既に十分に伽藍の地を經略して置いたのである。高澤山の山中に千本檜と云ふ枝が箒のやうに分れて居る名木は、其異人が杖を突立てゝ置いたのが成長したのである、或は此異人は本尊觀世音の分身だつたとも云ふ。飛騨大野郡大名田村大字花里の白山社は高山町一部の氏神であつて或は一本杉白山社と稱す。境内に在る杉の古木は即ち役行者の杖を立てたのが成長したのである（ハ）。能登羽咋郡土田庄瀧谷村の金榮山妙成寺と云ふ法華寺では、開山の曰乘上人平生用ゐられた槐の杖を土に挿し、若し此寺繁昌すべくは此杖も芽を吹くべしと祝せられた處、次第に生長して大木に成つた。其杖は開山堂の後に杖塚と云ふ塚の上に槐の枯木が久しく殘つて居たのがそれである（ニ）。

　　（イ）日本書紀　　（ロ）新撰美濃志　　（ハ）飛騨の山川　　（ニ）能登國名跡志

　昔の人の杖は今のステッキなどゝは異なり、天然の枝を利用して先を二股にして滑らぬやうにしたのが多かつた故に、此種の傳説を生ずることが一層容易であつたのであらう。又杖の木の榮枯に由つて佛法の盛衰を卜した例は極めて古くからある。昔奈良の東大寺で最初の大佛の開眼供養を行はれた時、大會の講師には新に來朝した婆羅門僧正を行基菩薩が推薦した。次に讀師には誰を命じようかと定め兼ねて居られた處、聖武天皇の御夢に誰でも其朝先づ來た人を讀師にせよと云ふ告があつた。然るに其日遣つて來たのは?に鯖を擔つた老翁である。是はと思つたが示現に從つて呼上げた。鯖賣の翁は其鯖を持つて經机の上に置くと八十の鯖は忽に八十卷の華嚴經に成つた。講説の間に梵語を操るとある。一説には夫は讀師では無く講師であつて後々の華嚴會に講師が堂の後からそつと遁げるのは其老翁の講師が法會の央に形を隱した故事を襲ふのだとも云ふ。さて其鯖賣の翁は今まで突いて居た杖を大佛殿の東の囘廊の前に挿し立てゝ堂に上つたのが忽にして枝葉を生じた。此木は白身《びやくしん》と云ふ木で其榮枯は常に伽藍の興廃に伴つて居た。(216)佛法末世に及んでは殆と枯木同然になつてあつたが、平重衡が攻寄せて大佛を燒亡した際に此木も終に失せて了つたと云ふ（イ）。此話にも多分經文か何かの中に先型があることゝ思ふが今はまだ知らぬ。

　　（イ）今昔物語、宇治拾遺物語、古事談等

四一　諸虚の靈木の由來　枯木囘春の傳説は其根原に溯れば恐くは、萬物の石に化する傳説と表裏を爲すもので神人龍馬の足跡などゝ共に、偉大にして且つ不可思議なる力の表現と見るべきであらうが、夫にしても木で造つた物が木に復すると云ふ話の特に多いのはよく注意して見ねばならぬ。杖が化して樹木と成つた例はまだいくらもあることゝ思ふ。大隅肝屬郡内（ノ）浦村大字南方字｜小田《こだ》の小田（ノ）森の大楠は昔景行天皇行幸の節、高屋の山陵に參拜の途次此森の地に一宿なされ御杖を立て置かれたのが成長したのである。但し現在の楠は二代目で枯跡に生えた蘖である（イ）。薩摩川邊郡川邊村大字野間字下大久保の近衛櫻は近衛關白信輔が都の亂を避けて坊（ノ）津に居られた頃、杖を曳いて此地に遊ばれた其杖である。此も亦二代目で最初の杖の木は二百年ほど前に枯れたが、枝は二椏にわかれ紅白二樣の花を着けたと云ふことである（ロ）。此杖も恐くは末が二つになつて居たのであらう。

　　（イ）（ロ）三國名勝圖會

　鞭を挿して木に成つた例もある。筑後三瀦郡大善寺村大字｜夜明《よあけ》の夜明山朝日寺は寛文四年（一二四六）に神子禅師其名を榮尊と云ふ高僧の開いた寺である。神師は肥前の水上山から馬に乘つて此地に往來せられた。或時松の木の鞭を地に挿して置かれたが根着き榮えたれば之を鞭松と云ふ。鞭松は後に枯れたが其跡に鞭松石と刻んだ記念碑が長く立てられてあつた（イ）。

　　（イ）太宰管内志

　相模津久井郡佐野川村の古山《こやま》は又｜蠶山《こやま》神蟲山とも書いて軍荼利夜叉明王を祀つた山である。古山の前山に幣嶽《ぬさだけ》と云ふ處では明王鎭坐の始湯華を修行し白い御幣を三本の篠の串に挿み之を地上に立てたのが根を生じて蕃茂した。此因(217)縁を以て今に至る迄三本の篠は枯れれば新に生じて其數多からず又少からず正に三珠だけあると云ふ。竹の如き物が根を著けるのは更に一層の奇特である。此も薩摩の川邊郡東加世田村大字宮原は良くも瓊々杵尊の皇居の址とあつて村の鷹屋大明神の御社には古來皇祖を祭つて居る。鷹屋山の西に連る小山を竹刀山と云ふ。木花開耶姫尊が皇子を御生み成された時、竹の刀で御｜臍緒《ほそのを》を切り其竹刀を棄てられたのが今の此山の竹林と成つたのである。此竹は※［竹／?］竹《きんちく》とも笛竹《ふえたけ》とも云ふ特種の竹で、暖國にのみ生じ火繩又は船の綱などに作る竹である。其根は鞭行せず母子一所に叢生するが故に漢名を義竹とも孝竹とも云ふ、挿せばよく著く竹である（ロ）。右の神代の物語は決して近世になつて言始めたものでは無い。既に日本書紀にも御臍緒の竹刀が竹林と成つたと明かに見えて居る。唯加世田の宮原が果して書紀の竹屋の地であるか否かに就て多少の議論があるばかりである。

　　（イ）新編相模風土記　　（ロ）三國名勝圖會

四二　子安木　譬に取るは畏多いけれども、右の竹刀化篁の傳説は即ち皇子の健なる御成長の天意であつたことを意味するものである。神の御末が果も無く繁榮せらるゝ大なる前兆であつた。昔の人は高きも賤しきも子孫の安寧を氣遣ふ餘に此種の奇瑞を求めて止まなかつたのである。而して神を信ずること厚き者は往々にして此奇瑞を見ることを得たのである。筑前糟屋郡宇美村の宇美宮は神功皇后が御凱旋の後應神天皇を御生み成された地である故にウミノ宮と申すとの事であるが、其折皇后は槐の小枝に取縋つて御産を成された（イ）。槐樹の東に引く枝を把れば産が輕いと云ふことは古くから知られて居たと思はれる（ロ）。此時御子にしたまひし槐の枝はやがて根ざして大木に立つた。其後度々植繼はあつたが何れも本の所本の種である。宇瀰宮の槐と云つて貴人御懷姙の節は御産平安の御祈の爲に常に此枝を奉るが例であつて、夫より此槐の木を子安木と稱すると云ふ（ハ）。子安の信仰には木に托したものよりも石に托した例の方が多い（ニ）。子安石のことに付ては猶後にも言はうと思ふ。兎に角小さな枝が親木から離れて安々と成長し繁茂することは誠に此上も無く目出たい例である。紀伊西牟婁郡近野村大字野中の野中王子の社は熊野九十九王子の一であるが、(218)昔は其社頭に秀衡の繼櫻と云ふ名木があつた。二代迄植繼いだけれども今は無くなつて居る。奧州の秀衡が妻を連れて熊野に參詣した時に、劍窟と云ふ所で男の子を生んだ。夫婦は心強くも赤兒を窟の中に棄てゝ參山の途に上つたが、右の野中王子の社頭で櫻の一枝を手折り、彼子恙なく成長すべくんば此枝も枯れざるべしと祝して土に挿して行つた。下向の折に見れば其櫻は根づいて花盛であつたと同時に、其子も窟の中で狼の爲に養育せられ丈夫に成長して居たと云ふ（ホ）。此話には顯はれて居らぬが、秀衡は權現の神力を確信して居た故に、其靈驗を世に耀すべき好機會として此の如く一見惨酷なる所業を敢てしたのであらう。

　　（イ）愚管抄　　（ロ）太宰管内志所引子母秘録　　（ハ）同上八幡本紀　　（ニ）考古學雜誌第△△號卑稿「子安石像」を見よ　　（ホ）南方氏報、紀南郷導記

四三　花立　根も無き樹木の成長を期することは如何にも無理なる注文で、結局神佛の力を試みるやうな穩ならぬ誓事《うけびごと》とも思はれるが、信心の致す所近世にも同じ例が無いでは無い。例へば鹿兒島の醫師橋口杏菴は谷山村大字福元の清泉寺の阿彌陀佛に三十年の間日參をした。然る後堂の前の竹を切つて家の庭に挿し、我道成就すべくは此竹根を生ぜよと祈つた處、果して青々と繁茂したと云ふ（イ）。日向西諸縣郡加久藤村大字長江浦字出水は出水川の源頭である。昔は此邊は水に乏しい地方であつた。書寫の性空上人の行脚せられた時或老婆の家で水を一杯求められた。老婆が水を酌みに行く路は甚だ遠かつた故に、往復の程に雨が降つて來て家に乾した衣が沾れた。上人は之を見て憐憫の情を起し楊枝を加持して土に挿された處、水は混々と湧き出して川に成り下流の田にも漑ぐやうになつた。其時の楊の枝は枝葉繁茂して後に大木に成つた。此を根無柳と云ふ（ロ）。

　　（イ）（ロ）三國名勝圖會

　根無柳の物語に付ては或は斯う言ふ人もあらう。柳の挿木は珍しくも無い。假令今迄水の無かつた土地でも驟雨《にはかあめ》などのある季節に挿せば、性空上人に頼まずとも根着くことであらうと。成程この話などは別に今一の大靈驗即ち石清(219)水の傳説を伴はなかつたならば少々平凡であつたかも知れぬ。前に述べたる如く榎の杖の系統に屬する多くの傳説には全然子安の思想からも分離した如く見えるのがある。語を換へて露骨に言へば、何の爲に此の如き話が發生したかの不明なるものが多い。そこで此等の傳説の趣味を十分に感得する爲には、今一歩を進めて考へて見ねばならぬ。即ち古人が此等の靈木の起原に就て、なぜに夫だけ大なる注意を拂つたかと云ふ問題である。

　美濃加茂郡古井村大字下古井には花立崖と云ふ處がある。飛騨川の急流に臨んだ岸の上である。此地を花立と稱する由來は、昔土岐氏の夫人で小山《こやま》の觀音に祈願を懸け男子出生を求むる者があつた。小山の觀音は下米田村大字小山に在り、寺の名を仁慈山小山寺と云ひ、二月の初午には團子祭のある有名な觀音である。同じ郡ではあるが水を隔てた川の中島に堂がある。或時の洪水に女房は茲まで來て參拜の歩を運ぶこと能はず、是非なく四邊の松杉櫻などを折つて此岸に立て遙拜をしたが、靈驗終に空しからず玉の如き男子を設けた。其子は成長して蜂屋の瑞林寺の開山仁濟和尚と云ふ大智識に成つた。其折土に挿した松杉櫻の枝も皆根を生じて此崖の上に繁茂したと云ふ（イ）。佛に松杉の枝を手向けることは聞馴れぬことであるが今一つ類例がある。相模足柄下郡足柄村大字｜久野《くの》の總世寺は三浦道寸の隱れて居た寺である。道寸滅亡の時其子荒次郎義意も自ら刎ねて死んだ。關東一の荒武者であつた。其首を小田原に懸けさせたのに三年の間生けるが如き姿であつたから、當山第四世の忠實和尚は、「うつゝとも夢とも知らぬ一ねふり浮世のひまをあけほのゝ空」と云ふ一首の歌を以て引導をすると忽にして白骨と成つたと云ふ。其折松と櫻との枝を折つて此首に手向け後に其枝を門前に挿したら枝葉を生じて成長した。櫻は中比に至つて枯れ今は松ばかり大木が二本、大門の入口に立つて居る。

　　（イ）新撰美濃志　　（ロ）新編相模風土記

　右の二の傳説は花立と云ふ地名を説明せんが爲に後世若干の變形を受けたかと思はるゝ。花立と云ふ語は最初は國郡又は邑落の境を意味して居たのを、國民は忘れて了つて強ひて此の如き説明を附したのである。花立のハナは物の(220)端のこと、立は次に言はんとする杖立、矢立又は立石立神などゝ同樣に靈木靈石を境の標《しるし》に立てゝ置くことを意味して居る。從つて其標が天然の生木である場合には、其生立に付て不測の由來を説き、私心ある人間の智力で設定した境堺では無いことを表示するのである。相模鎌倉郡｜小阪《こさか》村大字山（ノ）内字峠には鼻缺地藏と云ふ地藏がある。金澤往還の北側切通しの岩壁に一丈ばかりの尊像が彫附けられてある。此地は正しく武藏相模の國境である。御鼻が缺けて居るから鼻缺地藏であると鎌倉志には見えて居るが、實は花立地藏で新編風土記には里人が香花を供する故に花立だと云ふ。夫では花立地藏で無い地藏は無い筈である。境に地藏尊を安置することは極めて普通の習俗で、現に武相の國境にも三所まで境の地藏があり、同じ東海道の道傍《みちばた》にも有名な鈴鹿の關の地藏は伊勢と近江との境、駿州字津谷峠の地藏は安倍志太二郡の境、箱根塞の河原の地藏は相模駿河の境である。越後西蒲原郡の地藏堂も亦郡の境にして且つ信濃川の渡場である。古くは此處の地藏を狹《せば》の地藏と云つた。セバは信州にも洗馬《せば》あり、瀬場即ち境上の防禦地點である（イ）。花立の境の義であることは諸國に多い同樣の地名を檢すれば分ることである。

　　駿河志太郡瀬戸谷村　花立山

　　上總市原郡高瀧村大字山口字花立｜越《こし》

　　常陸那珂郡長倉村大字長倉字花立峠

　　陸前牡鹿郡渡波町大字祝田濱字花立山

　　（イ）考古學雜誌第△△號卑稿「地藏木」參看

四四　逆さ杉　逆さ杉等の傳説も亦同じ系統に屬するやうである。杉は直なる木であるからスギだと云ふ説は恐くは正しいであらうが、スキと云ふ語には同時に土地の境の意味もあつたが故に、特に此木を境上に栽ゑ又は伐殘したのかと思ふ。逆さ杉のサカに至つては疑も無く境がもとである。境を單にサカと云ふことは阪道祖《さかさひ》、阪迎、阪戸等の例多く、阪即ち傾斜道路をサカと云ふのも其始は境の義から轉じたのである。樹木の枝が稍々下に向いて成長するのを(221)見て逆さ木の傳説の起つたのは亦花立と同樣に後世からの説明であらう。

　神社の境内に此等の樹木のあるのは別の原因とも見られぬことは無いが、此も亦外部の侵蝕から社地を防護するもの即ち佛寺の鎭守又は伽藍神と同じであるのかも知れぬ。香椎宮の綾杉の如きは千年來の神木であるが、やはり神功皇后が此地を點定せられた時天杉を逆さに栽ゑられたのが成長したのだと云ふ説がある。越前今立郡岡本村大字杉尾の杉杜神社の大杉は昔大瀧權現の大杉が嵐の爲に折れた時其梢が峯谷を越えて此地に飛來り逆さに土の上に突立つて其儘根を生じたものである。其爲に枝葉が悉く下を向いて居る。大瀧權現は製紙の祖神として土人の崇敬厚き神樣で其奧院の大杉は杉尾から十餘町ある。泰澄大師登山の時既に大木であつたと云ふ（ロ）。

　　（イ）神社記聞　　（ロ）今立郡志

　越後七不思議の逆さ竹はもと弘法大師の杖であつた。弘法大師でも性空上人でも遠方から行脚して來た異人はよく此の如きものを土の上に挿して行くやうである。多くの杖立《つゑたて》は外來の異人の所業で其地在住の百姓乃至は領主の祖先では無く皆言はゞ境堺問題に關する第三者であることは一寸面白い。日向東臼杵郡伊形村大字土々呂には逆さ松とて周四五尺の松がある。昔女性の異人が來て逆さに植ゑて行つたと云ふことで、今も其根が上の方に在り逆さであることがよく分る（イ）。異人の女性であつたことは殊に注意する値がある。安計呂山の榎の杖も持主は山姥であつた。次に言はうと思ふ八百比丘尼も箸を挿して行つたことがある。

　　（イ）太宰管内志

四五　枚立と云ふ地名　此次には杖のことを考へて見ようと思ふ。杖を立てゝ境を標すると云ふ風習は、強ひて杖の字に拘泥すれば不可解になるが、ツヱは必しも歩行者の扶木では無く、英語のステッキなども同樣に、單に一の木の棒を意味するものと見ればよいのである。榜示と云ひ串と云ふのもつまりは同じことで、境の目標には顯著な方がよいから、兼て構へる者は削つて白木にしたことであらう。併し早速の用を辨ずるには四邊の樹の枝を折つて直に之を(222)用ゐたらしい。柴と云ひ栞と云ふのは主として此方を指すやうであるが、其趣旨に至つては共通である。境の劃定には何れ信仰を伴つて居るから、其兩側に住む者は通行の度毎に一定の場所に柴を折添へて敬神の意を表したことゝ思はれる。筑後八女郡矢部村大字北矢部の御前嶽《ごぜんだけ》は高山である。日本書紀の景行天皇行幸の條に八女縣《やめのあがた》前山とあるのは此山だらうと云ふ説がある。村の中の字｜上御側名《かみおそばみやう》から五十餘町登つた處を俗に杖棄阪と呼ぶ。山に登る者此より上には杖を突くことを許されぬと云つて、棄てゝ行く處の杖が積つて塚に成つて居る。此より少し登れば土の質も變り石楠の外草木を生ぜぬと云ふ（イ）。古くからの仕來りでそこへ來れば無意識に前の人の行爲に習ふと云ふのも一の群衆心理であらう。陸前の藏王嶽では青根温泉から登つた山腹の僅な平地に塞の河原と云つて參拜者の草鞋を履き更へて行く場處がある。草鞋が集積して小さな塚を爲して居る。峠の頂上などの人の休む場處にも此の如き例が多いことである。併し山路の半途に杖を棄てゝ行く風習は猶一段の由緒が無くてはならぬ。思ふに此も亦勸進柴の遺風であらう。行人が路傍に柴を手向けて行く風は既に境堺劃定の意味を失つて後も久しく殘存して居つた。今日も山間の村々にはまだ行はれて居る。或場合には小石を積んで行くものもある。柴を折添へて行くものは右の石塚に對して柴塚と呼んで居る。此風は獨り日本に限られたものでは無く、蒙古でも峠《タバ》の頂上に此種の塚《オボ》がある。或は石を積み或は樹の枝を積み重ねて何時となく大きな塚を爲して居る（ロ）。今は佛法の囘向に件ふこと恰も我邦の田舍の念佛車などゝ同じであると云ふ。ボルネオ島のダイヤクス族は虚言を惡むこと最も甚しく、虚言者あれば其人の惡を表する爲に路傍に樹枝を置くと通行の者は段々其上に枝を折添へて忽に塚を爲し本人死後迄も殘る。之を虚言者塚 tugong bula と云ふ。セラトクとセベタンとの間に在りし塚は其枝崩れ懸り通行に邪魔なる故之を燒棄てしに久しからずして其灰の上に再び枝の塚が出來たと云ふ（ハ）。

　　（イ）筑後志　　（ロ）蒙古紀行　　（ハ）“Nature”一九一一年六月號、南方氏より聞く

　諸國の杖立又は杖突と云ふ地が大抵國郡等の境に在るのは此意味に於て了解することが出來る。肥後阿蘇都北小國(223)村の杖立温泉は豐後との國境を流るゝ枚立川の岸に有る。此温泉の效能が顯著で病人も杖を立て置いて歸るから之を杖立と呼ぶと云つて居る。阿波麻植郡｜木屋平《こやだひら》村の西の境に在る杖立峠は郡の境である。其他石見美濃郡豐川村大字久々茂字杖立（ノ）溢《えき》

　　　　　△△△

　　陸中西磐井郡嚴美村大字猪（ノ）岡字杖立原

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なども境上の地であると思ふ。杖突峠は信濃の諏訪郡と上伊那郡との境の峠である。單に險阻であるから枚突と云ふと説明せられて居る。伊勢の杖衝阪は能褒野の東鈴鹿と三重との郡境である。倭建命が御病中杖を突いて御歩行なされた故に杖衝と云ふと古事記に見えて居る。因幡氣高郡末恒村大字｜御熊《みくま》の枚突阪の鼻は海に臨んだ國の限である。神代に三熊大人命が隱岐島へ石の橋を掛けようとせられた場處である（イ）。此は此神の社が所謂材木巖の露頭に立てられてあるより出來た傳説である。地名の説明は右の如く一樣で無いが、突くと云ふも立つると云ふも共に榜示の木を地上に挿すことで、凡て皆｜皇祖《すめみま》の神が御杖を投げ棄てたまひ其杖が衝立《つきたて》船戸神と成つたと云ふ思想と根原を同じくするものである。

　　（イ）因幡志

四六　矢立杉　近江國の地名を檢すれば神立《かんだち》、床立、札立、鉾立、幣立《ぬさたち》、榎立《えのきたち》、塚立等の地名が中々多い。此等も杖立と命名の趣旨を同じくするものと思ふ。薩摩の指宿には柴立温泉がある。村の西を限る丘陵の端である。又射立と云ふ地名もある。此序に是非一言せねばならぬのは矢立杉のことである。此名の靈木の所在を尋ねると、多くは國郡の境上である。北方では奧州の津輕と羽後の北秋田との境の矢立峠、頂上に矢立杉あり其木の半分を以て國境とす。田村將軍が杉の木に矢を射立てゝ境を定められたと言傳へて居る。相馬大作が津輕侯を待伏した山路である（イ）。羽後の(224)仙北平原と羽前の最上との分水嶺｜莅《のぞき》峠も一名は杉峠で坂路に矢立杉がある。旅人が道中の安全を祈念する場所と云ふ（ロ）。甲州の笹子峠即ち郡内と國中との境にも矢立杉がある。七抱半の名木である（ハ）。箱根山中にも三ヶ所まで矢立杉があつた。相模と伊豆との境に在るものは古くは名所方角抄に見えて居る。湖畔漕入山に在る矢立杉は駿河との境かと思はれる。中頃枯れた爲に伊豆境の矢立杉の實生の苗を移植した。今一本は山口の湯本村にあつた。曾我物語に見えて居るのは此木である。東海道の側に在つて有名な矢立杉であるが惜い哉亦枯れて了つた。田村將軍も頼義も頼朝も曾我兄弟も戰に向ふ際には表指《いはざし》の矢を此杉に射立てゝ前途を祝したのである。箱根ばかりの古例であるやうに權現縁起に見えて居るのは誤である。志州磯部の矢立の茶屋信州碓氷峠の沓掛の矢立明神は杉の有無は知らぬが國境である。越中西礪波郡埴生村大字埴生字｜長《ちやう》の矢立山は加賀へ越ゆる間道があつて之を矢立越と云ふ。昔石動の城から射た遠矢が立つた處だとも云ふ。

　　（イ）（ロ）地名辭書　　（ハ）俚言集覽　　（ニ）新編相模風土記　　（ホ）越の下草

　武家が祈願の爲に上指の矢を神に奉ることは、太平記などにも見えてあの時代一般の風習であつたが、其以前にはやはり箱根の矢立杉などの如く其矢を樹木に射立てるのを以て神に對する作法としたらしい。此は樹木が神體でなかつた一の證據である。相模足柄上郡岡本村大字沼田の八乙女社はもとの名は矢留權現であつた。村の西念寺の境内に矢留杉と云ふ古木がある。戰國の頃には神は其陰に在つて杉の木で矢を受留めたと云ふ口碑がある。併し近世に至るまで願事のある者白羽の矢二筋を供物とする風があつたのを見ると此も一の矢立杉であつたらう（イ）。陸前名取郡｜愛島《めでしま》村大字笠島の道祖神は實方中將に祟を爲した有名な神である。此社の西に當る川内澤にも一の矢立杉があつた。奧州の秀衡が京に上るとき此杉に矢を射立てゝ首途を祝し從者も皆之に倣つたと云ふ言傳へがある。�ｺ川時代の明暦年中に土地の者は船を造る爲に此木に斧を入れた處、隣村に聞えるやうな大きな聲で鳴動した。其後も色々の不思議があつて幾程も無く船は破壞した。此木の幹からは澤山の矢の根が出て來たと云ふ（ロ）。薩摩日置郡中伊集院村大字清藤では道(225)路の傍の大迫畠と云ふ所に一本杉二本杉と云ふ杉の古木があつた。其間は三町餘もあるが昔島津殿の命に由り玉川伊豫と云ふ者が二本の矢を遠矢に射た故跡だと稱して居る。二本杉は二本の矢の達した所、一本杉は矢を射た處と云ふけれども此も亦首途の矢立の祭場であらう。

　　(イ)新編相模風土記　　(ロ)奧羽觀迹聞老志　　（ハ）三國名勝圖會

四七　矢指土及矢越　矢を射て行路の安全を祈ることは此亦杖立と同じく木を挿して境を標するの神事に基くものであつて、杉の木等に之を射著けたのは即ち柴折添の一變形であらうと思ふ。其證據には木に向て射ることは必しも矢立の要件で無かつた。或は直接に土の上に矢を挿したと云ふ例もある。陸前牡鹿郡石卷町大字湊では川の岸に多くの小石がある所を矢祭石又は矢筈石と呼んで居る。八幡太郎が此地に來た時、軍士たち各々矢を投じて川の神を祭つた。其矢が石と成つたのが此だと言傳へて居る。下總香取郡久賀村大字次浦の矢指塚には矢を立てゝ境を定めた物語が所謂九十九傳説の衣裳を着けて殘つて居る。源頼義が奧州征伐の歸りに上總の濱に上陸し其海岸の一里毎に一本づゝの矢を指して其百本目を此塚に挿したと云ふのである（ロ）。九十九里の濱には此種の話が弘く行はれて居たと見えて昔の椿海の岸にも歌によまれた矢指浦があり、匝瑳郡蓮沼村の矢筈神社にも頼朝が九十九本の矢を立てゝ此濱を測量したと云ふ傳説がある（ハ）。此例は獨り下總の海岸のみならず東西の國々に及んで居ると思はれるのは、肥後下益城郡豐田村大字塚原の九十九塚《つくもづか》でも百ヶ所あるべき塚に百本の串を立てゝ行くと必ず一本餘ると言つて居る。矢と串とはもと／＼同じ物で、矢は主として軍用に供せらるゝ一種の串といふばかりである。此を境の標に用ゐることに成れば二の物に全然差別は無いのである。

　　相模足柄上郡岡本村大字塚原字矢佐芝

　　下總香取郡香西村大字長山字矢佐志堂

　　上總夷隅郡東海村大字深堀字矢指戸

(226)　　安房安房郡豐房村大字神餘字池田小字矢指度

　　三河渥美都田原町大字豐島字谷差道

　此等の地名は何れも矢を指して神を祭り境を定めた場所を示すものと見てよろしい。小食土と書いてヤサシドと訓む國村の名もあるがまだ其意味が分らぬ。

　　（イ）仙臺封内風土記　　（ロ）香取郡志　　（ハ）再蓮沼村誌　　（ニ）肥後國志　　（ホ）考古學雜誌第△△號卑稿「矢立峠」參看

　土地の鎭護に矢を用ゐる例は目前に於ては棟上の祭式がある。大隅姶良郡加治木村大字小山田字猪目の猪目地藏堂に就てはこんな口碑がある（イ）。此地は恰も加治木一郷の中央に當つて居る。地藏堂の建立は正�ｺ二年（一七一二）と云へばさして古い事で無い。其時領内安全の爲に鳴弦の秘法を行ひ其矢を郷の四方と中央とに埋めた。其中央なる地藏堂の地には印として一本の櫻を栽ゑたと云ふ。陸中東磐井郡矢越村の矢越山は同郡大津保村との境である。此山の矢越明神は八幡太郎の征矢を以て神體として居る（ロ）。矢越の越は峠のことで矢を射越す意味では無からうと思ふ。矢越と云ふ境の山は東西に猶一ヶ所づゝあるのを知つて居る。其一は肥後菊池郡｜護川《もりかは》村の矢越山で、古くは檜垣嫗の歌にも「我戀の思ひしことの通らぬは矢越の山のあればなりけり」とあれば即ち界障の義である。郡の東境に聳え今は矢護山と呼ばれて居る。此山の神は荒神《あらがみ》で不時に暴風を起すことがある（ハ）。渡島の上磯郡と松前郡との境には海に突出して矢越岬と云ふ山がある。昔此岬に惡い神が居て海上が通ぜなかつたのを、源義經が一箭を以て航路を開いたと云ふ。今も其故事に因んで往來の船から岬に向つて矢を放つと云ふ（ニ）。此も多分は考違で矢を放つのは祈?の意味であつたらう。越前吉田郡河合村大字河合鷲塚の矢放明神は大己貴命を祀る。大昔丘の上の槻の木に鷲が棲んで敦賀から能登へ行く旅人を害したのを此神が矢を射て退治せられたとあつて境内に鷲塚がある（ホ）。此等も些しく説明が變化して行つた一例である。

　　（イ）三國名勝圖會　　（ロ）觀迹聞老志　　（ハ）地名辭書　　（ニ）同上續篇　　（ホ）吉田郡志

(227)　蝦夷地に矢越峠のあるは別に怪しむに及ばぬ。彼島の各地にあるイナホ峠も亦一種の矢立に他ならぬのである。渡島上磯郡木古内村から同檜山郡上（ノ）國村へ越ゆる峠は木古内峠一名稻穗峠、同國山越郡國縫村の上流から後志の瀬棚郡へ越える峠も稻穗峠、後志の岩内郡と余市郡との境にも稻穗峠がある。同じ岩内都の岩内と磯谷郡のシリベツとの分水嶺もルベシベ又は稻穗峠と云ふ。安政四年の松浦氏紀行にも「余も一柄を立てゝ下る」と見えて居る。イナホは我々の所謂創り掛、即ちアイヌの中の御幣である。アイヌも亦境の山を越える際には之を立てゝ行途の平安を祈つたのである。猶稻穗岬と云ふ海角は渡島茅部郡｜落部《おとへ》村、後志岩内郡岩内町の西北海岸、同國奧尻島の北東端等にある（イ）。

　　（イ）地名辭書續篇

四八　榎は境の木　土に挿した矢の成長したと云ふ傳説はまだ聞いたことが無い。俊頼朝臣の歌に「唐國に有りけることはまだ知らず東の奧に生ふる石竹」と詠んだのは島田時主が石を射た話に基いたものであらうと藻鹽草に見えて居る。此も詳しいことは世に傳はつて居らぬが、石の靈の人を惱すものがあつて、其石に矢を射著けたら拔けずして終に花が咲いたと云ふことである（イ）。矢立の木が榎であつた例も唯一つある。越中東礪波郡｜庄下《しやうげ》村大字矢木の諏訪明神の森に千年木と云ふ古い榎があつた。大伴家持が越中守で居た頃は此邊はまだ廣漠たる野原だつた。春の日に狩をして此野で雉を射るに、何度射ても矢は雉に中らずして此榎の幹にばかり立つので、終に土地の名まで矢木と云ふことになつた。近世には此木を取つて魔除の守とし效驗が有つたと云ふ（ロ）。

　　（イ）傍廂後篇　　（ロ）越の下草

　そこで立戻つて榎船戸の話をしたいと思ふ。榎は何故か知らず昔も今も道祖神の常の神木であつた。此木を境に栽ゑる風習は全國に行亙つて居る。國郡郷村の境は多くは山の峯であるが、之を横ぎる峠の名には、中國などでは道祖峠《さいのたを》と云ふのが最も多く、之に次では榎峠が多い。外の地方にも往々榎峠がある。

　　（イ）後深安郡吉津村　榎峠（地藏堂あり）

(228)　　備後沼隈郡瀬戸村大字地頭分　榎才峠

　　因幡岩美郡朽葉村大字｜百谷《もゝたに》　榎峠

　　丹波氷上郡遠阪村　榎峠

　　越後古志郡六日市村大字妙見　榎峠

　　肥後八代郡上松求麻村　榎峠

　峠の頂上に在ると云ふ榎は恐くは自然生の伐殘されたのでは無く下から持つて來て栽ゑたものであらう。關東の平野にも道祖神の石の祠の上に草鞋などを引掛けた古榎が多いのみならず、榎戸と云ふ地名が無數にあつて何れも舊道の傍である。榎戸は即ち榎の立つ處で、部落の入口などに今日注連繩を張り祈?札を張るのと同じ趣旨を以て人が榎を栽ゑたのであらう。東京でも赤阪の榎阪町に電車の通る時まで江連を掛けた大木の榎が路の上に有つた。牛込榎町にも以前は大きな榎があつた。昔の鎌倉街道と云ふことである（イ）。芝の二本榎も同樣であらうと思ふ。

　　（イ）南向茶話

　東國の一里塚は何れも雙?である。此塚の上には榎の木があつて官道の兩側を守ること山門の仁王の如くであつた。戰國の末驛路の大に改良せられた際諸國に一里塚を築き、松でも栽ゑませうかと伺つたら、時の將軍が餘《よ》の木にするがよいと言はれた。他の木にと云ふことだつたのを榎をヨノ木と云ふ地方の人が早合點をして、夫から榎を栽ゑることに成つたと云ふのは一種の落し話である。塚の上には昔から榎を栽ゑる風があつた。例へば大永六年（一五二六）里見攻入の折の戰死者を埋めたと云ふ相州玉繩村岡本の首塚、朝鮮征伐の分捕首を埋めたと云ふ對州佐須奈村西津屋の千人塚、太閤の愛馬村雨を埋めたと云ふ肥後宮原町｜栫《かこひ》の馬の神、眞言山伏を殺して埋めたと云ふ同國池龜村柿原の山伏塚近くは東京北豐島郡尾久村の經塚など何れも塚の上に榎を栽ゑて印にしたと云ふ。榎竝と云ひ二本榎と云ひ夫婦榎などゝ云ふも、所謂二子塚の思想に基くもので、境の塚には昔から對立したのが多いのである。道祖神の祭處に栽(229)ゑた木は通例之を才の木と云ふ。下總印幡郡富里村大字十倉字｜サ榎《さえのき》は即ち才（ノ）木の榎で、備中阿哲郡草間村大字土橋字下阻小字小榎は即ち越《こえ》の木の榎である。

　境の木の榎で無ければならなんだ理由は此から研究するとしても、兎に角に其杖が大木と成つたのは境の神の信仰に基くと云ふだけは先づ疑はあるまい。薩摩川邊郡田布施村大字｜尾下《をくだり》の勝手明神の近所には方違の榎と云ふ榎がある。天文七年の暮島津家が世田攻の時に、味方利分少かりし故當社に祈?して方違の行法を勤められた榎は其故跡である（イ）。方違とは方角が惡くて一時假に居所を變へることを云ふ。方角の沙汰は古くは神武東征の御時から明治の今日まで絶えざる日本人の習俗である。塞の神を荒神だと云ふのも、罷りまちがへば味方に對しても怖しい神罰があるからで、我々の祖先も此神に仕へるには中々心を痛めたものである。板橋の縁切榎は中仙道の路傍であるから、もとは普通の一里塚などであつたかも知れぬが、後には男女の間を隔絶する境の神と成り、現に和宮の御降嫁の折にも迂囘して此木の下を避けられた。近頃では又惡い縁なら切らうが良縁なら結ばうと仰せある。信心次第追々と神�ｺも發展して終に行路安全の方が留守になつて了つた。中國街道にも備中と、備後との國境に大榎があつたと云ふ（ロ）。今は如何なる祈願を掛けられて居るやら、路線も變つて見に行く人もなくなつた。

　　（イ）三國名勝圖會　　（ロ）福山志料

　

(230)　　　　　　　第六　八百比丘尼

　

　榎と椋　板橋の縁切榎は、大道の傍に在る流行神《はやりがみ》で、萬人の見る所なるにも拘らず、或は榎では無く槻の木だと云ふ説がある（イ）。如何に生體も無い古木でも、落ちて來る實なり葉なりを見たら、果して榎であるか否か、決せられなかつた筈が無い。奇妙な話である。能登鳳至郡諸橋村大字前波の稻荷の社に近き海岸に、諸橋の一本木と稱する大木が有る。此木は昔白比丘尼と云ふ尼が來て栽ゑて往つたもので、木は正しく槻であるが榎の實が生《な》る。「榎の實が千俵なつても木は槻」と云ふ諺は此から起つたと云ふ話だ（ロ）。全體此俚諺は如何なる場合に用ゐられたものか。近世の語調から推測して見ると、何か甚しく強情な人の言草のやうに聞えるが、夫とも別に仔細があつたものかも知れぬ。此と似たやうな諺には「榎の實は生らば生れ、樹は椋の木（ハ）」又は「榎の實は生つたれども樹は椋の木（ニ）」と云ふのも有る。此は此二種の木が甚だよく似て居る爲であらう。榎と椋とは槻とよりも一層近く似て、關東の人は折々之を取違へて居る。例へば椋の葉磨きと謂ひながら榎の葉を用ゐることもある。椋鳥と云ふ島は榎の實を好んで食ふ故に越後などでは之を榎實喰と呼ぶと云ふ。右の二種の木は單に其類を同じくするのみならず、何か此のやうな諺を引起すだけの因縁があつたのでは無いかと思ふ。昔の連歌に怖しきものと云ふ題で、「闇の夜の大椋の木の下ゆかし」と云ふ下の句に、「えのきもあへぬことにぞ思ふ」と云ふのがある。此關係が明白になつたら榎の蔭の問題は大に解き易くなるであらう。

　　（イ）武藏演路　　（ロ）能登國名跡志　　（ハ）和漢古諺　　（ニ）東雅　　（ホ）越後名寄

(231)　白比丘尼の栽ゑた木　白比丘尼は又の名を八百比丘尼と云ふ。八百歳までは生存して居たことを人が知つて居る。常に十六七の娘のやうに肌の色が美しかつたから白比丘尼とも呼ばれた。長生の奇特の外に弘法大師にも劣らぬ大旅行家である。今此人の事歴を尋ぬるに當つて、先づ榎の杖と關係ある部分を述べようと思ふ。八百比丘尼の手栽の樹は老木となつて東西の諸國に殘つて居た。同じ能登の半島でも、珠洲《すゞ》郡上田村大字北方の光性寺の門前、田の中に在る大木の杉は白比丘尼が食事の後に箸を土中に挿したのが成長したもので、此は能登の一本木と呼ばれて居る（イ）。同じく鳳至郡輪島町大字阿井町に在る比丘尼松も若狹の白比丘尼が植ゑたと云ふ。前の諸橋村の中にも諏訪明神の大きな森は悉く椎の木で白比丘尼が栽ゑたと云ふ。但し皆枯木に成つたとある（ハ）。羽咋郡｜富來《とうき》村から北へ行く海岸の路には二里に亙る椿原がある。どうして植ゑたか此も比丘尼の事業としてある（ニ）。椿は取別けて此尼の愛する木であつた。隣國加賀の白山にも若狹の尼杉があれば、越中の富山、美濃の郡上《ぐじやう》、石見の濱田にも似たる遺迹があると云ふが（ホ）、詳しいことは知らない。隱岐の岩津と云ふ海岸、總社大明神の社地には昔若狹から人魚を食つたと云ふ比丘尼が來て栽ゑた杉がある。八百年の後に再び來て見ようと誓つて去つたと謂へば、多分は同じ比丘尼であらう。此杉は寶永二年（一七〇五）の紀行に七抱餘とある（ヘ）。夫より百餘年後の記事に依れば、大さは十三拱、樹身の洞に成つた由で十三｜梯子《ばしご》を取廻すことが出來たとあつて（ト）、少しく成長率が疑はしいが、兎に角此杉は至極の老木であれば、口碑の如く白比丘尼の眞《しん》の娘盛り、即ち所謂人魚の食ひたてに來て栽ゑたものと見てよからう。惜しい哉野火に延燒して土地の好事家は其殘片を分けてしまつた。

　　（イ）（ロ）（ハ）（ニ）能登國名跡志　　（ホ）（ト）若狹志伴侶友書入　　（ヘ）おきのすさび

　東國に於ける八百比丘尼　下野日光山の二本杉と云ふ大木も八百比丘尼が栽ゑたと云ふ（イ）。武藏東部の低地には恰も後世の江戸東京の繁盛を豫期したかの如く、殊に澤山の痕跡を殘して往つて居る。例へば北足立郡植水村大字水｜判士《はた》の地藏堂境内には、比丘尼手植の木が枯損じて僅に殘つて居た。其木理を見ると榎のやうであつたと云ふ（ロ）。此地藏は(232)一寸八分の黄金像で、本來は八百比丘尼の守護佛、故に人呼んで壽地藏と云ふ。同郡新郷村大字峯の八幡宮の側には同人が栽ゑた所の周二丈數尺の古鴨脚樹があつた（ハ）。其隣の大字東貝塚にも八百比丘尼の船繋松が有つた。此透まで以前は海であつたと云ふことで貝塚と云ふ貝の多い塚がある（ニ）。又同郡日進村大字櫛引の觀音堂の前に在つた二本の古槻は圍各二丈八尺、其名を神願木と稱し、是亦八百比丘尼の栽ゑたもので、乳の乏しき婦人は此木に願掛をすることであつた（ホ）。荒川を南に渡つて北豐島郡岩淵町大字袋の安養寺の阿彌陀堂の前にも此尼手植の松があつたが、此は夙く枯れてしまつた。右の阿彌陀は是亦若狹の比丘尼の看經佛でおまけに行基菩薩の作である。だから大事にして別の像の腹腹寵に入れてある（ヘ）。

　　（イ）俚言集覽　　（ロ）−（ヘ）新編武藏風土記稿

　相州箱根の塞の河原には八百比丘尼の石塔がある。比丘尼が立てたのか、比丘尼の爲に立てたのか、文字が漫滅してちつとも分らぬ。兎に角古さうなものである（イ）。比丘尼は女の身で此阪路を越え遙々の旅をした。北は奧州の會津までも足跡が及んで居る。耶麻郡駒形村大字金橋字金川の金川寺は應永年中（一四〇〇頃）に若狹の小濱《をばま》から八百比丘尼が來て立てたと云ふ説がある。本尊の阿彌陀は同人の作と傳へ、「會津山ふもとの里の阿彌陀堂霞かくれの鶴淵の駒」と云ふ上下の續かぬ一首の歌も比丘尼が詠んだと言はれて居る。鶴淵は金川寺前の潭の名である。其岸に駒形岩と云ふ岩は形奔馬の如くなるを以て此名あり、村の東の駒形山と因縁があるらしい。

　　（イ）新編相模風土記　　（ロ）會津風土記　　（ハ）新編會津風土記

　八百比丘尼の行衛　此比丘尼は八百歳の後も確かに示寂したと云ふ記録が無い。恰も年齡が八百である頃に一時非常に有名になつたのみで、其前後の經歴に付ては異説に滿ちて居る。第一に其故郷に付ても、若狹の者と云ふのが多數の説であるが、反對の口碑も中々多い。例へば伯耆では夜見濱半島の洲崎と云ふ所の民の妻であつたと云ふ。或時不思議の魚の肉を食つた爲に命長く七世の孫も亦老いたれば、家を離れて諸國を遊行し、終に若狹の小濱から雲に乘(233)つて隱岐の方へ渡つたとある（イ）。土佐香美郡岸本町の上人塚には左の如き傳説がある。昔出雲から八百比丘尼と云ふ尼が某の上人と共に此國へ來た。歸りの船路に難風に遭ひ、上人は海に溺れて死し比丘尼は浪を踏んで去つた。此塚は其上人の墓である（ロ）。伊勢の鈴鹿の關の地藏堂には白比丘尼自筆の額《がく》がある（ハ）。外宮の近くに在る比丘尼池は、八百比丘尼の身を投げた所と傳へて居るが、此は恐くは誤で、只の熊野比丘尼が溺れたのだといふことである（ニ）。越中の立山にも此に似た話が殘つて居る。併し此には八百比丘尼とは謂はず、單に若狹小濱の比丘尼其名を止宇呂の尼と呼ぶ者とある（ホ）。立山登山の路に材木阪と云ふ處は、曾て女人堂を建てんが爲下から材木を運んだのが一夜にして石に化した場所である。此附近に熊野權現の祠がある。止宇呂の尼は一人の婦人と一人の童女とを連れて、強ひて女人結界の靈山に昇らうとしたが、其婦人は此處まで來て立つて居る間に杉の木に化して了つた。美女杉と云ふのが夫である。比丘尼は一人で國見阪と云ふ所まで登つたが、終に額《ひたひ》に角を生じ化して石と成つた。今其處を姥ヶ懷と云ひ石を姥石と云ふ。同じ小濱の町にも永い年代の間には幾人かの比丘尼が住んだであらう。比等の遺迹はとても之を一人の生涯に綜合して考へることが出來ぬと思ふ。

　　（イ）おきのすさび　　（ロ）南路志　　（ハ）伊勢名所圖會　　（ニ）宮川夜話草　　（ホ）和漢三才圖會

　東國比丘尼　昔今の比丘尼に關する珍奇なる事蹟は恐くは其中で最も有名なる一人の白比丘尼に集合して了つたのであらう。白比丘尼の評判が天下に響いた時代に別に今一人の奇持な比丘尼があつて、京都に來て持て囃されたやうである。此比丘尼の傳記は一層不明であるが、若し事實であるとすれば東國に於ける故迹の一半は或は右の所謂東國比丘尼に屬すべきものかも知れぬ。會津の金川寺に關する一説には、八百比丘尼は此地方で生れたと云ふ。比丘尼の父は日光を開いた勝道上人で、即ち秦の川勝の子である。養老二年（七一八）の正月元日に此女を設けたと云へば、丁度足利時代の中頃には七百何十歳で理窟は合ふ。勝道上人は庚申の信者で庚申講を勸進して居ると、或時駒形岩の邊鶴淵の底から龍神が出現して上人を饗應した。其御馳走の中に九の穴ある貝があつた。比丘尼の八百まで生きたのは(234)此貝を食べた爲である（イ）。下野上都賀郡眞名子村の地福寺の縁起にも八百｜美久人《にくに》が此村から出たと云ふ説がある。此村には昔朝日長者夕日長者と云ふ二人の長者があつた。八百美久人は其朝日長者の娘で、尼では無く唯長壽の美人である。仙藥の力を以て命永く、十七人の夫を持つたと云ふ。後世眞名子の近村粕尾村には緑事保玄と云ふ醫者があつた。此人は天性美國《てんしやうびくに》の遺方を傳へた神醫であると云へば、美國は即ち右の美久人のことであらゝう（ロ）。文字の用ゐ方の如何にも窮屈なのは多分口から耳への話を近代になつて筆録したのであらう。東京の附近には八百比丘尼が住んだと云ふ場所がまだ二ヶ所ある。北豐島郡尾久村大字上尾久と西ヶ原との間に在る比丘尼山は其一で、北足立郡鳩ヶ谷町の比丘尼町は其二である（ハ）。此等に至つては甚しく證據が乏しい。單に比丘尼と云ふ地名を以て八百比丘尼の遺迹とすれば、諸國到る處にいくらも其例がある。中世の比丘尼は夫ほど數の少ない職業では無かつたのである。

　　（イ）新編會津風土記　　（ロ）若狹志伴信友書入　　（ハ）さへづり草

　昔の比丘尼　白比丘尼は清淨なる女僧であつたかも知れぬ。併し中世の比丘尼を以て皆此類と考へ今日の所謂「尼さん」を以て之に宛てんとする者が有れば誤である。例へば賜�ｺ川時代の初期に於ける一種の遊女に熊野比丘尼と云ふ者などは、頭は剃つて居たが何れも郷里の紀州に亭主を持つてをつた（イ）。箱根の駒形權現の坊中にも修驗者が比丘尼と共に住んで居た（ロ）。此等の場合に於ては比丘尼と云ふ語は即ち山伏の細君を意味して居る。又假に都合上獨身で住む者も大家の未亡人などの法體した尼公と同樣に道�ｺ殊勝であつたか否かは疑問である。或は熊野比丘尼等の職業の似合はぬのを批難し佛法末世を嗟歎した人もあるが（ハ）、少々無理かと思はれる。役行者以來、優婆塞と云ふ語に特殊の意味が有つたと同樣に、比丘又は比丘尼も亦普通の僧尼とは區別せられた名稱である。殊に後世に及んでは餘程賤しい階級であつたかと思ふ。勿論それは貴族の記録に基いて云ふことで、取りも直さず彼等の一段と平民に接近して居たことを意味して居る。此とよく似た者は高野聖又は聖坊主などのヒジリである。正式の得度を爲さゞる低い身分の佛教篤信者を聖と云ひ、今昔物語などには又持經者とも呼んで居る。何れの宗門にも屬せず、隨分と民間の渇仰を受けな(235)がら女房子が有つた。即ち門徒宗などの先型である。比丘尼の生活の種は何であつたか。自分の想像する所では第一には祈?と符?の配布であつたらう。頼まれゝば吉凶を占ひ、婦女に近づき易い爲に武家の家庭にも立入り、人の信心を起す爲に八百萬の神佛の名を唱へ縁起を説いたやうである。彼の熊野の比丘尼なども一方には三所權現の御礼を配りながら、或時は三世因果の繪卷物を繰りひろげて功�ｺを勸進してあるいた。山鳥の尾羽《をばね》を手に持つて地獄極樂の繪解をして聞かせ、物悲しい節を附けて冥途の淋しい旅物語に女や年寄の袖をしぼらせた。

　

　熊野の信仰には昔から不可解なる特色が多かつた。殊に奧羽西海の邊土に至つては傳道の路すがら樣々の地方的色彩を附加して行つたやうである。而して此事業の大半が婦女の手に由つて成し遂げられたらしいのは更に注意すべきことである。所謂峯人の難行は古今共に強壯なる男山伏の專業であつたにも拘らず、平野の邑落に於ける熊野堂の創立には靈嫗傳説を伴なふ者が決して少くない。故に自分の如きは?々頭の毛の問題から超脱して此等の姥神を以て八百比丘尼と全然系統を同じくする者也と斷定したくなるのである。修驗道は秘密が多く書傳が少く、教義が茫漠として變化の甚しかつた爲、誠に政府の公認を得にくい宗教であつた。明治五年の禁止の前本當の二派が佛教に從屬したのも隨分久しい事である。併し根原に溯つて見れば儼然として一つの獨立した宗教であつて、其國民の下層を開拓せんとした計畫は却つて兩端の二宗教よりも早かつたかと思ふ。權現と稱する多くの村々の神は勿論今日では神道からも佛教からも其性質を説明することが出來ようが、實は右修驗道の信仰の標的で、有名無名の多數の比丘尼等が依つて以て其生活の根據としたものゝやうである。

　比丘尼塚　熊野の崇敬は決して彼徒の自稱するが如く古い由緒の無いものかも知れぬ。併し神道と佛教の中間を行くやうな特殊の比丘尼は上代から有つた。例へば和氣清麻呂の姉の法均尼である。此尼は道鏡事件の以前から八幡神の新勢力を内廷に代表して居た一種の巫女らしい。吉野の都藍尼は神と爭ひ勝つて金峯《こんぶ》の靈山に其蹤を留めた。尼と(236)は謂ひながら紛れも無い仙女である。柘植の仙女と其光を競ふべき者である。都藍尼が杖を投げて大木と成つたと云ふ物語は、諸國の杖立傳説に不思議の女性を伴なふ最古の一例であつて巫女が結界を破つたと云ふ物語は即ち多くの姥石由來に共通のものであるが、此は其成功したる唯一の例である。

　比丘尼が尋常の女僧で無かつた今一つの證據は東西の諸國に多い比丘尼塚である。村々の昔の地頭或は舊家の祖先の如き大事な人々でも其墓所は勿論のこと、灰の行方さへ不明であるのに、獨り一無名の比丘尼塚ばかりが永く一區の空閑を占めて居るのは、何等か庶民の侵觸を制止するだけの畏敬の種が無くてはならぬ。塚と謂へば必ず葬地と考へるのは近世普通の誤謬であるから、或は單純なる一種の祭壇で土の下には土器などの外何も無いのかも知れぬ。兎に角此等の比丘尼塚の上には幽怪なる口碑の存する者が少く無い。例へば岩代安積郡三和村大字下守谷の比丘尼墓は妙見の神體を負ひあるいた比丘尼の墓と云ふ（イ）。妙見は北極星で或は之を天御中主神にも大元神にも玄武神にも擬して居る。越中西礪波郡宮島村大字久利須字出合谷の比丘尼塚は俊寛僧都の娘の墓と云ふ（ロ）。此國から能登へ掛けては何故か俊寛父子の塚が甚多い。越前松岡の比丘尼塚は九頭龍川の岸に在る。此堤があまりに崩れ易かつた爲に旅の尼を捉へて生きながら築き籠めたと云ふ塚である（ハ）。肥後飽託郡池田村字柿原の尼公塚は石碑の面に數多の法名を刻んである。山鹿街道より見れば夜は此塚に一點の火が見える（ニ）。夫は何故かは知らぬが此地は古戰場で袁な落城の物語がある。武藏では西多摩郡小曾木村大字冨岡、比企郡大岡村大字｜大谷《おほや》などに比丘尼塚があるが何れも由來不明である。幸手町の比丘尼沼には塚は無いけれども昔此沼から比丘尼の形をした物が牛に乘つて出現し災を爲したと云ふ話である。國府間《こふま》の正福寺の秀宥和尚が法力を以て之を退治した。同寺の什寶たる珍しい華鬘は其牛を繋いだ鎖を以て鑄たと傳へて居る（ホ）。

　　尾張丹羽郡西成村大字淺野字比丘尼塚

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(237)　比丘尼屋敷又は比丘人城《びくにんじやう》と云ふ地名も全國に分布して居る。比丘人城のジヤウは鬼ヶ城、猿ヶ城などゝ共にジヤウの口などのジヤウで門戸の義であらう。元は城砦の地では無く是も比丘尼が土地の鎭護の爲に祈?をした場所のことであらうと思ふ。

　　(イ)相生集　　(ロ)越の下草　　(ハ)吉田郡志　　(ニ)肥後國志　　（ホ）新編風土記

　健康山室印寺　比丘尼が神靈の力に頼つて長壽を得た例は何程多くとも不思議は無い。併し少くとも若狹の小濱にも一人の八百比丘尼の住んで居たことは事實である。此事實は二百年前の學者も既に之を承認して居る。貝原益軒は元禄年中に此地方に來て比丘尼の像を見た。小濱の町から三町の西南に熊野山と云ふ社がある。本社は神明であるが境内に役行者を祭り八百比丘尼の像は其脇侍であつた。比丘尼十八歳の像と謂へば未來の長命を豫測したのである（イ）。花帽子を被り左右の手に玉と蓮花やうの物を持つた坐像であつた（ロ）。別當寺を健康山空印寺と云ひ長壽の祈願を勸めるに適した縁起を藏して居た。境内には又比丘尼の隱れたと云ふ岩窟がある（ハ）。此處にも一つの石碑があつた（ニ）。此地は今の遠敷郡今宮村大字伏原で、後の山は即ち歌名所の後瀬山である（ホ）。後瀬山には古くから玉椿を詠み合せて居る。故に一名を白椿山《はくちんざん》とも稱して居る。白椿山は恐くは空印寺の最初の山號で、健康山と云ふのは後世之を一層適切なる名に改めたものであらう。比丘尼の像の手に持たせた蓮花やうの物も多分は此白椿の花で之を以て長命の象徴《シンボル》に用ゐたのかと思ふ。能登の海岸に比丘尼の栽ゑた椿原のあるのも、此尼が越中黒部の玉椿莊で生れたと云ふ一説も亦同じ因縁であらう。八犬傳の著者は如何にも亂暴に靈尼の史料を取扱つて居るが、狸の變化と稱する比丘尼の法名を妙椿と附けたのは、やはり傳説の拘束を甘受したものである。支那の椿《ちん》は日本の椿《つばき》では無いと云ふことであるが、其椿樹にも夙くから長壽の傳説を伴なつて居る。全體若狹國に不老の神仙が住んだと云ふ物語は決して近世の起原では無いかと思ふ。和漢三才圖會の引用した此國の風土記と云ふのは例の僞撰の書かも知らぬが、大昔此國に夫婦があつて永遠に若かつた、後に神と成つて今の一宮に祀られた、即ち若狹彦命若狹媛命である。因つて此國をば若狹と云ふなりとあ(238)る。或は八百比丘尼は八百姫明神で即ち古事記の若狹｜那《？》賣神だと云ふ説もある。「若狹路や白玉椿八千代經て又も越えなん矢田の阪かは」と云ふ歌は八百姫の神詠であると云ふ（ヘ）。併し此歌の調子は悲しい調子である。人の命の八千代なり難きを歎じた歌らしいから疑しい。さて雙神不老の口碑は國名に據つて後に構へたものか、但しは彼説の如く國名の理由と成つたものか、とても容易に決することは出來ぬ。

　　（イ）（ニ）西北紀行　　（ロ）笈埃隨筆八　　（ハ）（ホ）若狹郡縣志等　　（ヘ）鹽尻五

　八百比丘尼の年代　此比丘尼の如きは、只の一度でも果して死んだことが有るか否か疑問であるのに、或地方に其墓所が有ると云ひ、甚しきは八百比丘尼が身を投げた池などゝ稱するのは理由なき話と言はねばならぬ。此種の比丘尼塚を説明する方法は二つだけである。即ち諸國の異《こと》比丘尼を以て右の一人に附會したと見るか、然らざれば單に若狹の比丘尼が其築造に參與したものと見るの他は無い。讃岐三豐郡勝間村大字下勝間に十六重二丈七尺の石塔がある。若狹の八百比丘の建立と言傳へ側に比丘の塚も有る。比丘は比丘尼の誤で無いかも知らぬが、夫にしてはあまりに似寄つた名前である。此石の塔には永和四年（一三七八）三月六日施之と刻してあると云ふ（イ）。越後柏崎の町の四辻に自然石の大石佛が立つて居る。腰より下は土中に埋まり、鹿島の要石と同じく其深さを知らぬとも云ふ（ロ）。此石にも大同二年（八〇七）八百比丘尼建立と刻んであると云ふ噂である。大同二年は何故かは知らぬが我邦の傳説の上で極めて多事なる年である。殊に東北地方では弘法大師も田村將軍も共に此年を期して大に活動して居る。若狹の比丘尼が大同年間に既に八百歳であつたと云ふことは、何分にも他の地方の故迹談と調和を保ちにくい。前に掲げた武藏の水判士《すゐはた》の地藏堂では中古一旦紛失して居つた本尊佛を�ｺ川八代將軍の時代に於て圖らずも土中から發掘した。其像は岩洞の形の中に安置し、岩の背面には大化元年、八百比丘尼と云ふ文字が左右に刻してある。但し秘佛であつた爲に之を見たと云ふ人は無い。多くの矛盾する記録中右は最古のもので、大同二年よりも又百五六十年の前に比丘尼の八百歳を置かんとするのである。

(239)　　(イ)西讃府志　　(ロ)笈埃隨筆

　さて若し此等の刻文が拵《こしら》へ物で無いとすれば同名異人であらうが、我々の八百比丘尼は恰も右の大化と大同との中間に生れた人でなければならぬ。何となれば比丘尼が山城の京に來て世人に持て囃されたのは正しく寶�ｺ元年（文安六年、西暦一四四九）の夏である。此事實は當時の記録に三種まで見えて居る。先づ第一に臥雲日件録の七月二十六日の條には、近時八百歳の老尼若州より入洛す、洛中爭ひ覩る、居る所の門戸を堅く閉ぢ人をして容易に看せしめず、故《かるがゆゑ》に菜者は百錢を出し賤者は十錢を出す、然らざれば則ち門に入るを得ざる也とある。次に庸橋綱光卿記の六月八日の條には、白比丘尼御所に參る云々、年八百歳の由申す、怪異《けい》の事也、今日國に歸る云々、定めて篇解《へんげ》の物《もの》か云々、不吉の事也、不審の沙汰條々ある者也、言ふ莫れ／＼とある（イ）。此を以て見れば八百歳は證人の無い自稱であつて、殊に比丘尼の身を以て御所に參るに至つては頗る保守派の人々の同情を失ふ所以であつたと見える。更に中原康富記の同年五月二十六日の記事には左の如く出て居る。曰く或は云ふ此二十日頃若狹國より白比丘尼とて二百餘歳の比丘尼上洛せしむ。諸人奇異の思を爲す、仍て守護召上ぐるか、二條｜東洞院北頬《ひがしのといきたがは》の大地藏堂に於て鼠戸を結び人別に料足を取り一見せらる云々。古老云く往年聞く所の白比丘尼なり云々。白髪なるの間白比丘尼と號する歟云々。官務行向ひ之を見る云々。然るべからざるの由巷説あるの間今日若狹國に下向す云々（ロ）。歸ると謂つて中々歸らなかつたのである。右の二百餘歳は誠に異聞である。自筆本と云ふから誤寫もあるまいが、如何に金利の高かつた�ｺ政時代でも、まさか四十割の懸値は無からうから、傳説の方面に於ては先づ／＼世上の八百歳を信用して置くのである。

　　（イ）櫻井秀君注意　　（ロ）帝國圖書館本に依る

　八百比丘尼の生立　比丘尼の父は長者だとも云へば漁師だとも云ひ、或は此國根來村の道滿と云ふ人の娘とも傳へられて居る（イ）。道滿は亦一箇の傳説上の中心人物で、安倍晴明と併立して陰陽道の靈異を代表し、諸國に其遺迹がある。比丘尼を其娘と云ふのは會津の勝道上人説と共に注意すべきことである。併し假に蘆屋道滿の家族としても、夫のみ(240)では長壽の理由には成りにくい。或説には比丘尼は熱心なる延命地藏の信者で一千の小石を集めて多年の供養を重ねた爲其功�ｺを以て妙齡不老であつたと云ふ。延命地藏の信仰は比丘尼老後の足利時代の流行であれば、此説明は原因と結果が?倒して居る。恐くは二條東洞院の地藏堂などで利用せられた一説であらう。人魚を食べて長命したと云ふ話は之に比すれば一層信を執り易いが、夫にも少しづゝの相異が無いではない。例へば比丘尼の生地を小松原なりとする説では、父の漁師が濱に出て怪しい魚を釣り此を其穉い娘に食はせたとある。貝原益軒翁の書留では、此が形を變じて一筋の長者譚となつて居る。昔若狹に六人の福�ｺ長者が住んで、時々參會して寶物を競《くら》べ爭つた其中の一人の家の會に人魚を調味して饗應したのを他の六人は物陰より覗つて怪しき物と思ひ、誰も箸を下さなんだが、一人の長者が家の者に見せようと思つて持ち歸つたのを無邪氣な長者の娘が竊かに取つて食べ、自分ばかり八百年も生きたと云ふ。越中玉椿の古傳も稍々此に似て居る。昔は黒部川の湊口に玉椿千軒と云ふ繁華の地があつた。此里の長者或年上洛の歸り路に不思議の道連を得た。夫は越後の妙香山に住む千年の狐で形は老翁の如くであつた。長者と別懇に成つて度々訪ねて來る中に、玉椿の近所に一宇の小亭を建築して或日長者を招待した。其御馳走の中に仙樂の人魚があつたのを、長者は料理の樣子を覗ひ見て人肉を料理するかと氣味惡く思ひ、どうしても辭退して之を食べなかつた。老狐は幾度も歎息して夫より終に來なくなつた。其人魚の肉を竊に食べたのが即ち八百比丘尼である。此話は能登の繩又でも同樣に傳へられて居る（ロ）。

　　（イ）若狹志　　（ロ）能登國名跡志

　人魚のこと　本朝神社考と笈埃隨筆との二書は　　略々益軒の時代を中心にして前後へ五六十年づゝ隔たつて居るが、此三つの記事を比較して見れば所謂傳説進化の跡を見ることが出來る。前者に依れば比丘尼の父が山中に入つて隱里を見た。隱里の異人は彼に一物を與へた、夫が人魚であつた。敢て之を食はず袖にして家に歸りたるに其女之を食ふとある。前の玉椿の人魚にも幽ながら隱里傳説の影がさして居る。笈埃隨筆に至つては頗る現代的色彩を添へて來た。(241)若狹の今濱の洲崎と云ふ海岸に一人の漁師體の者が移住して來て或時村の人々を饗應した。彼が臺所を覗くと人の頭をした物を料理して居るので、驚きて一同語り合せ一人も之を食ふ者がなかつた。其中の一人に之を持つて歸つて棚の上に置いた者があつたが、其女房は仔細を知らず常の苞と思つて之を食つた。初食するとき味甘露の如く食し終れば五體とろけて夢の如く久しくして漸く覺れば氣骨健に眼は遠きに精しく耳は密に聞く、胸中は明鏡の如く顔色殊に麗し云々とある。夫より命長く夫も死し子も先だちて七世の孫も亦老たれば獨り海仙と成つて山水に遊行すともある（イ）。例へば木瓜や花菱が古代の織物の紋樣から拔け出して家々の紋所と成つたと同樣に、人魚の奇特も亦終に此の如くして日本傳説の組織の外に獨立することゝなつたのである。

　　（イ）「おきのすさび」には伯耆小濱の事とせり

　人魚の動物學的研究は自分の任務では無いが、茲には只南方熊楠氏の説を附記して置く。人魚は琉球ではザンノイヲとも云ふ。魚とは稱すれども實は胎生で漢名は儒艮、シレン類に屬する一種の海獣である。我邦の海濱に寄つたと云ふ記事は嘉元記にも見えて居るが、本來暖地の海に住む物なれば日本海で捕つたと云ふのは疑しい。紀州で大灘魚《おほなうを》と稱する美味なる魚を女魚《をんなうを》と誤り稱する例も有れば、若狹や能登に現はれたのは或は海狗か何かであらう云々。人魚が寒潮に住み得ぬことは事實としても無形の傳説のみは之を移すに差支がない。此物を保命長生の藥にするのは元は南支那などの風であつたかも知れぬが、其信仰に至つては久しい昔から我邦一般の所有であつたらしい。喜谷の實母散などは今日迄も人魚を看板にして居る。同じ若狹國にも八百比丘尼と無關係に別に一の人魚談がある。此國大飯郡の御山《みせん》と云ふ山は所謂魔所として八分目以上には登る者が無かつた。此山の明神の使者は人魚であつた。昔寶永年中に内浦村大字｜吉海《おとみ》の漁夫漁に出でゝ怪しい物を見た。頭は人間にして襟に鷄冠《とさか》の如くひら／＼と赤き物を纏ひ、それから下は魚の形をした物が岩の上に寢て居つた。櫂を以て打殺し海へ投げ入れて歸つた處、其日より大風が吹出し海の鳴ること一七日、三十日の後には大地震が有つて地面が裂けて一村悉く陷没したと云ふ（イ）。

(242)　　（イ）諸國里人談一

　南方氏は更に碧山日録の長禄四年（一四六〇）六月の條を引いて、當時一方には人魚の出現を以て不吉の兆とする風が有つたと言はるゝ。此を事實とすれば二の思想は兩立し得ぬから、一方は後代の發生と見ねばならぬことになる。併し彼書には單に人面魚身にして鳥趾也とのみ有つて、人魚とは言つて無い。此は事によると人魚では無く海坊主であつたかも知れぬ。海坊主一名は和尚魚、人魚とちがつて男性である。?は鼈に似て身の色紅赤に、潮汐に從つて來ると云ふ（イ）。近くは寶暦二年（一七五二）の五月にも越後寺泊邊の海岸に來たことがある。頭は人に似て居る故に之を海坊主と呼び、稀に此物の出現することあれば漁業不利であると信じて彼地方の漁夫は之を忌むで居る。怒るときは眼大きく極めて怖しい物であると云ふ（ロ）。

　　（イ）和漢三才圖會　　（ロ）越後名寄十七

　筑前庄浦の仙女　白比丘尼の傳説には人魚は必しも要件では無かつたと見える。現に會津の金川寺の寺傳には九つの穴ある貝を食べたとある。白比丘尼一たび京を去つて以來既に六百年に近いが、人魚でも食つたのでは無いかと言はれた人は段々有るが、實際に於て之を立證した者はまだ一人も無かつた。然るに貝を食つて長命したと云ふ婦人が近代になつて不意に今一人現はれた。夫は天明二年（一七八二）五月の事である。筑前蘆屋邊の船方が伊萬里の陶器を船に積み奧州津輕に上陸して町在を賣りあるいた時に、其中の一人が山路に踏み迷ひ、谷川の岸で洗濯をする三十ばかりの婦人に逢つて一夜の宿をして貰つた。其女は旅人を筑前の者と聞いて非常になつかしがり、永い身上話をして聞かせた。此女も六百三四十年前に同國遠賀郡島郷村大字乙丸字庄浦と云ふ處に生れた者であつた。或時病氣をして食が進まんで困つて居ると、子供が孝行者で濱に出て大きな貝を拾つて歸り料理をして母親に食べさせた。其爲に女は年を經ても老いると云ふこと無く夫も死に子も孫も追々に先だつて世の中が誠に淋しくなつた。そこで是非も無く家出をして九州の果から四國に渡り中國に行き因幡の某地で縁あつて人の女房にも成つたが、あまり年を取らぬ故に(243)魔法使かと疑はれ再び奧州の果までも漂泊し三度目に又縁付いてやはり昔の如く中年増で暮して居る所である。其貝の殻は家を出る時に村の社の神主に預けて置いた。社は盛衰があつても松は千年の物と云ふから今でもあるであらう。神功皇后が御休息せられた船留の松と云ふ古木である。歸つて聞いて見よと云ふ話であつた。其後乙丸村に行つて此話をすると、果して松もあり其側に社もあるのみならず、村民傳次と云ふ者の家に何かは知らず古く且つ大なる貝があつた。其貝の法螺の貝であつたのは天然に痛切なことである。此貝を吹くと近村迄來た流行病がはたと熄み、此貝に水を入れて呑む人は皆無病である爲に傳次の家族は代々普通の長生であつた。六百年の後までも夫だけの奇特はあつたのである（イ）。此仙女の談話は猶色々の點に於て歴史の缺を補ふことが出來た。乙丸村の社は小さいけれども多乙丸《おほのおとまる》の建立で神功皇后以來の物であることが偶然にも傍證せられたのみならず、此女の眞の世盛りは恰も源平合戰の最中であつた爲に安�ｺ天皇が假宮を蘆屋町大字山鹿の地に構へて居られたと云ふ盛衰記にすら見えない事實が明白になつた。若狹の仙女も奇妙に源平時代のことのみを記憶して居つた。九郎判官が山臥の形をして郷里を通過したのを目撃したと云ひ、猶詳細に彼時代の事蹟を語ることが出來た。此二人は四五百年ちがひの姉妹で、少くも三百年程の間は狹い日本の中《うち》に共に住んで居たのであるが、終に只の一度も相會して話をしたと云ふことが傳へられて居らぬ。

　　（イ）兎園小説、野翁物語、兼葭堂雜録其他

　

(247)　　　俗聖沿革史

　

　　　　　　　一　三州の俗聖

　

　三河國の念佛宗の起原は、親鸞聖人の時代よりは確に舊い。親鸞が生れた承安三年より百七十年前の寛弘元年に、此國には既に俗聖《ぞくひじり》と云ふ者があつて、在家生活に於て盛に念佛を修して居た。俗聖に多數熱信の同行があつた證據には、「三州俗聖起請十二箇條事」と題する一種の宣言書が門徒の筆に因つて今日迄傳つてをる。此起請文の始には、内心に問答して案ずる所云々とあるけれども、實は外聞に對して俗聖の立場を明にする爲に、此の如き自問自答の體を取つたものである。而して其中には、如法の僧ならば問題にすべからざる多くの問題を問題にしてをる。例へば酒を斷つべきや否と云ふに對して、加行の便としては少しは用ゐてよろしいと答へてある。婦人は飲酒の縁に依つて多人の命を救ふ事があり、老翁は此を以て壽を延べ寒苦を凌ぎ得べし云々と書いてある。又田畠を耕作すべきや否と云ふ問を設けて、出家の輩はともかく、世俗に於て法を久住せしめんとせば、生活の便に農作の務を抛つ事は出來ぬと云つて居る。更に色慾と肉食とに就ては、此俗聖の老人は此二者を退けて、既に五六年の間全く此を斷つたと述べてゐるからつまりは其以前に於ては、女を持ち魚鳥蒜宍を食つて居たのである。頭髪の問題に關してはこんな事を謂つてをる。「四衆誰か佛弟子にあらざらん、只道心の有無を以て實不實を定めんのみ、故にたま／＼道心あらば、必しも(248)出家すべからず、小乘心の者の如きは、出家の功�ｺを得ん爲に萬事を抛ちて早く出家すべし、一髪を切るの間に四萬億の罪を斷つが故也、老翁は苟くも、大乘に安住すれば、白髪を頂くと雖邪見に墮ちず、穴賢々々。」誠に勝手過ぎた理窟である。而も半生を浮世の塵の中で送った此老翁の人柄のなつかしいことは、起請文の各條に添へてある和歌の中にもよく顯れて居て、なる程其言葉の通り、貌は農夫で心は上人であつたことがよくわかる。

　　朝ボラケ草バニカヽル露ヨリモ仇ナル身ナリナモヤアミダブ行末ノ長キクルシビシラヌ人イデヤアハレヤナモヤアミダブ

　俗聖はつまり此「ナモヤアミダブ」に因つて、全部の救濟を期して居た人々であつた。俗聖の俗の字は、申す迄もなく俗物の俗ではなくして、僧俗の俗であつた。出家聖に對する在家聖の事であつた。昔は普通に用ゐられてゐた語と見えて、現に源氏物語の橋姫の卷にも、「そくひしり」と云ふ語がある。千鳥抄には之を註釋して「そくひしり、身は在家、心は出家、これ優婆塞也」と記してある。優婆塞は後世は特殊の階級の如く考へられてゐたけれ共、實は三州の俗聖の如く、自然に發生した民間の佛教信者の事であつて、日本中世の國情は、此種類の人を多數に作り出すに適してゐたのである。俗ヒジリに對立して僧ヒジリとも名づくべき者も原より數多くあつたが、近世に至つてはヒジリは僧侶の中の特に�ｺの高い者を斥して云ふ樣になつた。自分の考へて見た結果では、無論時代々々に由つて變遷はあるが、此名稱の起りはそれ程單純なものではなかつたやうである。先づヒジリと云ふ語が最も盛に用ゐられた鎌倉時代の前後について言ふと、ヒジリは即ち淨行僧の別名であつて、上人と云ふのも全く同意味であつた。その證據は無數にあるが、面白さうな二三を述べて見ると、例へば太平記の劍の卷に、白河院が熊野に御參詣なされ、此山に別當ありやとお尋ねなされた時、未だ候らはずと申したので、折しも權現の御前に花を供へて籠つてゐた山伏を別當になされた。其時の勅命に、別當は重代すべきもの也。ヒジリにては叶ふべからず〔十二字傍点〕、妻を合せよとて、源爲義が娘を合せられたとある。今昔物語には京極太政大臣宗輔、若い頃に雲居寺で膽西上人が屋根を葺いて居るのを見て戯に、「ヒ(249)ジリの屋をばめかくしに葺け」と云ふ下の句を贈られたところが、上人が即答に「あめの下にも漏りてきこゆる事もあり」と付けたと云ふ話がある。此は屋根の目を隱すことと妻を隱すと云ふことをもぢつた口合で、つまり此時代の或上人には淨行を以て世間の信用をつなぎながら、其實隱し妻をもつ樣な事が、往々あつたから、ひやかしたのである。沙石集の卷の四には、又滑稽な話がのせてある。男山の附近に住む某上人、「名の下に實無くして妻をもちけるが、惱むことありて亡せにけり、人弔ひて、淺ましく候こと哉、上人の御房の御前におくれたまへると謂へば、如何にとし候はんぞ、妻もたぬひじりにてこそ候らはめと謂ひける」と書いて、其後に無住がこんな皮肉な批評をしてをる。「勿論に覺えてをかしけれども、末代には妻もたぬ上人年を逐うて稀にこそ聞えし、後白河法皇は、隱すは上人、せぬは佛と仰せられけるとか、此ひじりはかくす迄もなかりけり、今の世にはかくす上人尚少く、せぬ佛愈々稀なりけり」とある。同じ沙石集の中に又こんな話もある。或上人が上人でありながら子が出來た。人が其子を評して、あの上人の子は如何にも智者にてひじりなりと云ふと、他の一人が「父に似てひじるべからず」と惡口を云つた。所が又別人が「さらば一生不犯のひじりの故、父に似てひじらんずらん」と云つて笑つたとある。一生不犯であればこそヒジリであつたのに、其ヒジリに子が生れて親に似る似ぬの詮議を必要としたのを、笑の種としたのである。要するに沙彌の淨行の種類は、必しも一生不犯に限られたものではないが、肉食其他の在家生活は、之を問ふ途もない處から、自然に右の如きヒジルヒジラヌの意味が生じ獨身生活をするのを「ひじる」などゝ謂つて見たのである。ヒジリの獨身生活を意味した又一つの證據は、昔の士大夫の住宅の入口には妻戸と云ふ戸が立つてゐた。左右兩開きの戸である。之に對して今日吾々の家等にある樣な片開きの板戸のことをヒジリ戸と謂つてをつたのである。すなはち妻戸の雙扉に對する一枚戸だから、ヒジリ戸で、ヒジリと云へば無妻を意味した時代の遺物である。

　

(250)　　　　　　　二　阿彌陀の聖

　

　併し此意味のヒジリがヒジリの本體であつたならば、三州の俗聖等は名稱に於て既に自家撞着を見るわけであるが、此は要するに或時代に限つて、殊にヒジリの獨身生活に重きを置いたといふ事を示す迄であつて、都にも田舍にもずつと其以前から必しも一生不犯で無いヒジリと云ふものが廣く分布してゐたのである。今昔物語や沙石集といくらも隔たらぬ時代に、民間に行はれてゐた歌謠の類でも、ヒジリの名が單に一種顆の修行僧に限られてゐなかつた事がよく解る。例へば梁塵秘抄の二の卷にはヒジリの好むものと云ふ歌がある。

　　ヒジリの好むもの、きのふしわたづのしかのかは、みのかさしやくぢやう木蓮子、ひうちけいはやのこけのころも

　ひうちけ〔四字傍点〕は燧箱の事である。燧箱をもち錫杖をつき、木蓮子の珠數を携へ、苔の衣で岩窟の中に修行をするヒジリは、即ち我々の謂ふ山伏である。山伏の獨身生活は近世に於ても尚例外であつた。而も此類の山中の修行者をも、ヒジリと名づけてゐたのであるから、俗ヒジリと云ふ語も亦存在し得たのである。只此歌の中で、更に注意すべき事項は、前の句の中のわたづのとしかのかはである。木の節だけは如何に用ゐられたものか未だ知らぬがわたづのに至つては或は「わさづの」とも書き又「またぶり」とも名づけて上の方が二つに岐れ又は枝になつた長い杖の事である。嶮岨を往來する山伏にとつても、必要の具であつたが、更に尚別種のヒジリ、即ち空也上人の門徒に於ても、亦盛に之を使用してをつた。其用途の一つは、古い繪卷などで往々見る如く、其杖の頭に物を引掛けるのだが、尚又野宿の假小舍をかけるときに、假の柱としても用ゐたやうである。「わさづの」の名が示す如く此杖の頭には時として鹿の角を用ゐて居た。よつて虎杖と書いてかせづゑ〔四字傍点〕とも稱へてをる。空也上人の傳記には、上人と鹿との關係が綾をなして(251)織込まれてをる。鹿の皮の方は近世迄山伏も尻當などに之を用ゐて居たけれ共、主としては其他のヒジリが之を使用して居たと云ふ記録がある。京都で有名な革上人又皮ヒジリとも謂つた行圓上人などは、右の三州の俗聖と略々同じ頃の人で、最も嚴肅なる意味に於けるヒジリとして萬人の信仰を集めて居た事は高僧傳に明である。而も革上人の特に有名なのは、上人としての�ｺが高かつた結果であつて、當時の有名ならざる上人の中にも、鹿の皮を持つて身を包んでゐたものが、相應に多かつた樣に思はれる。今昔物語を見ると、此の如く世間的には最も賤しい服装をして、低い境遇に甘じ、而も熱心に念佛の信仰を宣傳してをつた一種のヒジリが、田舍には多かつたとある。是をば當時阿彌陀のヒジリ〔三字傍点〕と名づけてをつた。空也上人の或傳記には、上人は鹿の杖をつき鹿の皮衣を着て市中に起き伏し、雜人の輩に向つて所謂踊躍念佛を勸めたに因つて、世人は之を市上人とも稀へ又は阿彌陀のヒジリとも名づけたと記してをる。市上人乃至阿彌陀のヒジリは、疑もなく一人に限られた名稱ではなかつた。空也遷化の後、其�ｺを仰いでをつた多數の末輩が、少なくも形式だけは此と同樣の生活を續けて居たのを、等しく此名を以て呼んで居たのである。それが又官寺勅願所の恩惠に洩れた偏卑な地に於て佛法の宣傳上大きな勢力であつた事は、色々の點から推測が出來る。かの三州の俗聖の如きも即ち亦一派の市上人阿彌陀のヒジリであつて、機縁に應じて俗衆に念佛を勸めつゝ、徐に後世淨土教の普及の爲に、素地を造つて居たらしい事は、此から追々お話をする事實に由つて推測し得らるゝのである。

　

　　　　　　　三　勸進聖

　

　今昔物語には、阿彌陀聖が人を殺した話がある。九州で盗賊をして居つた男が、後にヒジリとなつた話もある。ヒジリ必しも常に篤信の佛教徒には限らなかつたのである。然るに或時代に入つてはヒジリと云へば、普通の僧侶より尚一段と戒行の嚴重なるものと解せらるゝ樣になつたのは、どう云ふ譯かといふと、是は平易に申せば、本朝の佛教(252)が少しく衰へかゝつた事を意味するものである。常人が善根を修するのに、寺に赴かずして此等身分の無い上人達にすがる樣になつたことは、恰も今日國學院等を卒業した立派な神主は、御祭より外何の爲す事も無く、神の教を聞く爲に素性の怪しい民間の神道家に行くのと、同じ樣な事情があつたからである。玉葉其他源平時代の日記類を看ると、京都の貴族等の、佛教信仰は、孰れも此類の上人に由つて指導せられ、教養せられて居つた樣である。月輪の關白家へは、佛嚴上人などと云ふ人が、時々山里から來て、百萬遍を勸め、又は有名なる南都の俊乘坊阿彌陀佛もしきりと出入りをして居つた。此等の人々は當時最も確なるヒジリであつた。而して朝廷から紫の衣又は高い官位を頂くものは別として、單に一箇の平僧として、苟も多人數の信仰を繋ぐ爲には、何れの點から見ても行?に一點の曇りが無く、且つ所謂道力の勝れたことが十分に社會から認められた者でなければならぬ。即ち之を世俗的に説明すれば、佛教の勢力を維持するに足るだけの費用を、政府以外の一般の寄進から造らうとする爲には、一種の群衆心理を利用して、凡人を驚かすだけの評判を作らなければならぬ。此が爲には、人の最も難しとする女犯を禁斷し若くは其事を標榜するのが一番簡單であつたのである。故に一方裏面から見ると、折々其世評が作り事で、人に看破せられた話も殘つてをる。日本人は今日でも眞面目な人に兎角けちを附けて喜ぶの癖があるが、中世の逸話集の中にも、或は情慾の根を斷ち切つたと僞つて居たヒジリや、五穀を食はぬと僞つて居たと云ふ米糞上人の話などが、幾らも殘つてをるのである。京都の街の錦小路と云ふ處は、以前は糞の小路と謂つたのが、餘りにきたないから名を改めたものと云ふ。此は穀斷ちのヒジリとは正反對に、極端に大食をやるので人にあやしまれたヒジリが、其實自分が食ふのでは無くて、眼に見えぬ多くの餓鬼畜生の靈が、ヒジリに附いて來て齋の御馳走に與つてゐたのだと云ふ話が、宇治拾遺にも出て居つて、或は同じ話の異なつたる二つの批判では無いかと思はれる。それは兎も角も、此類のヒジリが?々都邑に現はれ人心を動かし、佛教を民衆化しつゝあつたことは、特に此時代の社會相であつた。

　ヒジリが此の如く難行苦行を標榜して人望を集めたのは、抑も何の故かと云ふと、一言で云へば即ち勸進が目的で(253)あつた。勸進の歴史は即ちヒジリの歴史である。二者共に時代を追うて其内容に著しい變化があつた。最初空也上人を鼻祖とする多數の阿彌陀ヒジリは、單に念佛のみを勸進して居つた樣である。此時代の勸進は文字通りに、念佛を勸めたのである。理想的の民間説法である。面白く節をつけて、市に出て歌ひ且つ踊る。すると次第に群集が此に參同して、大なる勢力を爲したのである。併し此のみでも行かなかつた事情は、第一に勸進のヒジリも生存しなければならぬ。少數の者が所謂乞食の境涯に甘ずれば兎も角も、だん／＼ヒジリの數が増加して、且つやゝ優良なる生活をする爲には、何か今一段と纏まつた仕事をする必要がある。其爲のみでもあるまいが、後世には一定の期間の念佛修行が終ると、其地に念佛塚と名づけた小さな塚や、石塔を建てゝ供養をする事が始まつた。日本全國に亙つて敷多き念佛塔、又は今日考古學者の熱心に捜索し研究する經塚經筒の金石文等は、いづれも此の如くして活動した勸進ヒジリの遺跡である。近くは關東の平野地方でも、各地に掘り出した如法經の經筒に、多數の勸進聖の名前の彫刻せられてをるのは、矢張三州俗聖の出た寛弘前後から、沙石集でヒジリの僞善を罵倒した鎌倉中期の間にかけてであつた。此を名づけて經筒期と謂つても、又勸進時代と謂つてもよい程である。此等の金石文を見ると、或は大勸進小勸進の階級があり、又勸進僧と勸進聖とを列記した例もある。或は又勸進聖人と書いた例もある。この聖人は恐らくは亦シヤウニンと讀まれたので、儒教の聖人《せいじん》とは全然別で、ヒジリを聖とも書き、又上人とも書いた結果、二者を混同して此二字を用ゐはじめたのである。此等の聖人の勸進したものは勿論、經筒ばかりではなかつた筈である。時としては本尊の木佛金佛の造立、或は此を安置すべき堂を建て、或は佛具を造進し、或は大般若經を寫すと云ふやうな事も、皆同じ方法を以て企てた事と思ふ。即ち主として此に關與したものは立派な寺の住職では無かつた。旅から旅と漂泊生活を送つた無名の佛徒が、祈?の驗と淨行の譽を以て先づ人心を引きつけ、次には巧なる説法と麗しい念佛の聲とを以て、心理學的に素朴な田舍人を感動せしめ、次第に善根の金錢を集め、自分も其一分を以てかすかな生活をして行つたことは明かである。是も亦今日種々なる寄附事業の勸誘員と、略々相似たる一種の職業であつた。

　

(254)　　　　　　　四　勸進の元祖と末流

　

　奈良東大寺の俊乘坊重源は、勸進上人の最も偉大なるものであつた。平家に燒かれた奈良の大佛を再建する爲に、周防一箇國の材料を朝廷から賜はつて、能く當時の不可能事を成就した。後世大勸進上人と云へば即ち此人の如く考へられたのは、無理もない事ではあるが、而も大勸進を以て代々の重職として居た寺は、決して東大寺ばかりではなかつた。京の東寺にも、法勝寺にも念佛三昧院にも、それ／”＼大勸進職のあつたことは、鎌倉時代の古文書に見え、尚小さい處では武州高幡の金剛寺、又は福島縣の飯坂等から出た此時代の經筒にも、大勸進上人と云ふ銘を刻んだものが何程もある。又或は後世になつて言ひ始めたものかもしらぬが、奈良朝時代の行基菩薩が、既に此名を以て呼ばれてをる。例へば前にも擧げた沙石集の行基傳には、「成人して東大寺大佛殿等の勸進聖となし玉へりと云々」とある。俊乘坊は言はゞ其後を襲うた一人の勸進上人に過ぎない。同じ東大寺では、又鷲に抓まれて助かつたと云ふ良辨僧正をも、勸進聖の一人に數へてをる。要するに後世一切の見境もなく、必ず弘法大師に託した所の行脚の高僧の生活は、つまりは何物かの勸進を目的としたヒジリの巡國であつて、其個人の單なる信仰から出たのではなかつたのである。この俊乘坊は自ら俊乘坊阿彌陀佛と署名してをるが、此も亦勸進聖の由來を推定せしむる一個の材料である。即ち大佛再建の如き大事業も、やはり阿彌陀の名號を稱へて、民間の機縁を募つたものである。當時のヒジリ等は皆悉く此行爲に出て居たから、そこで自他を區別する爲に、其上に一字を添へて、妙阿彌陀佛とか、蓮阿彌陀佛とか、それぞれの名をつけた。東京から近い野方の法提寺に、連阿彌陀佛聖などと書いた至つて古い石塔がある。これではあまり名が長いので、多くの場合には略して連阿妙阿などと書く、即ち時宗に所謂他阿上人其阿上人等も、此慣習を以て寺規としたものに他ならぬ。愚管抄には何阿と云ふ類の名は俊乘坊に始まると謂つてをるが、此も恐らくは事實ではあ(255)るまい。當時既に髪刺をすれば多くは阿の一字をつける風習のあつたことは、東鑑其他の書に隨分見えてをる。即ち流行の起りはもつと古い。

　勸進の貴い職分であつたことは、行基重源の傳記を見てもよく解るが、それにも拘らず名を勸進に託して、各自の生活を計るに急であつた凡僧が多かつたがために、次第に勸進の意味を賤しくしたことは、是非もなき成行であつた。それと言ふのも今日の如く寄附金募集に對する法令の取締が十分で無かつた爲に、低級なるヒジリの田舍を歩くものがむやみに多かつたからであらう。後世に及んでは勸進の目的は殆と至らざる所がなかつた。其中でも面白い一二の例を言ふと、橋の勸進と云ふ事があつた。京都では加茂川の五條の橋の如きは常に東山の清水の本願で、近世西郷と共に薩摩の海で身を投げた僧月照の住んだ寺の成就院と云ふのが代々の勸進職であつた。庶民に乞ひて米錢を集め經營したに因つて、橋の名を勸進橋と謂つたと雍州府志などに書いてある。太閤秀吉が國費を以て此を架け更へて以來、其慣例は絶えたとある。四條の橋も永治二年に、初めて勸進聖の沙汰として之を架けたと云ふことが、祇園の社家の記録に見えてをる。伊勢の神宮では御裳濯川の御橋が、法師乘兼の誓願に依り、十方檀那の助縁を勸進して之を架けたことが文明三年の内宮引斥に見えてをる。伊勢の如き立派な宮でも、亂世には神官たちのみの力では遷宮なども思ふにまかせず、此は又比丘尼の勸進に依つて再建をしたことが何度かあつた。慶光院と云ふ尼寺は、其功に由つて最上の寺格を與へられたが、原は勸進比丘尼と云ふ一種低級の女ヒジリであつて、熊野から伊勢へかけて無數に發生し、全國を遍歴して色々不思議な生活をして居た者であることは、別に一編の歴史を書くほど長い物語があるのである。

　現今に於ては、相撲ばかりが勸進元と云ふ名を保存してをるが、以前は一切の人寄せ興行の類は凡てこの勸進に依つて行はれ、起原は全く一つである。芝居は即ち草原に座つて見物をする事である。その見る物は必ずしも今云ふ演劇のみではなかつた。その動機も又決して娯樂だけではなかつたので、歌舞伎の元祖が出雲のお國と云ふ念佛踊の徒であつた如く、下品の衆生をしてワザクレの中に菩提の種を求めしめる爲に、此の如き勸進をもするものと、少くも(256)表面には稱へてをつたものである。昔風の人たちが、芝居と云へば必ず勸善懲惡をせねばならぬ樣に考へたのも、由つて來る所は甚だ久しいものである。其證據の一として、自分の擧げることの出來るものは、寛正五年の四月に京の河原で行はれた勸進の猿樂である。群書類從の中には此時の記録が幾通ものこつてをるが、足利公方を始め歴々の見物があつて、當時の盛觀であつたらしい。その而も發起人は、鞍馬寺から出た勸進聖で、青松院の善盛法印年九十八歳と録せられてをる。猿樂も後に獨立して一派の藝術となる迄には、大寺に從屬して常に勸進に引囘されて居た永い間の歴史がある。其以前の型は所謂呪師である、呪師も全く寺のもので、法會の莊嚴の爲に其技を示したものである。

　勸進聖は又色々の法會などを起した。雲林院の菩提講は野府記の長元四年の條にも既に見えて、慈雲と云ふ聖が雜用を勸進したと記してをる。此人と同じかどうかは知らぬが、此講を始めた聖人は、もと鎭西の人で極惡の盗人の發心したものだと、今昔物語には書いてある。即ち熱心に斯う云ふ事業を起した人には變つた經歴の人が多かつた。三國佛祖傳集や叢林集などを見ると、念佛二十四流の中に勸進聖と云ふ一派があり、今の世の十穀聖是なりと書いてある。此名稱は如何にして起つたか眞宗側の學匠に説明してもらひたいが、自分等は或は右申す如き造營法會等に必要なる穀類を、集めたからの名ではないかと想像してをる。それは兎も角も、地位ある僧たちが爲すことを憚つて居た事業、即ち下級の人民から僅かの法施を喜び受ける煩勞は、全く此階級のヒジリの信心からの活動である。尾張の津島天王の應永十三年の遷宮次第記を見ても「供御米は勸進聖の法師進らす」とあつて、神社でも此輩を利用して居つたのである。言繼卿記の天文二十二年の條には、北嵯峨の釋迦堂の大念佛に詣つたらば非常な雜沓で、往還の兩側には、市勸進乞食種々無盡と書いてある。起原に於ては空也上人の市道場と趣意を同じくするにも拘らず、最早此時代には乞食と列べて最も下賤なる階級の名にせられて居るのである。乞食をガンジン又はクワンジと云ふ地方は何程でもある。自他共に本來の信心を忘れると、斯う云ふ氣の毒な處まで落ちて行く。併し當初から勸進聖の地位は、實は決して高いものではなかつた。著聞集の十五には、�ｺ大寺公衡の西行法師との問答を述べて、頭を剃りたいのだが、(257)亡母の爲めに佛堂を一つ建てゝしまふまで、之を斷行せぬのは、頭髪を剃つてから堂を建てると、勸進法師のやうで見ともないからと云ふ意味の話が書いてある。勸進法師は即ち勸進聖である。當時の貴族たちは身分の惡い彼等を、斯の如く輕蔑して其信仰と事業とを省みなかつた。

　

　　　　　　　五　廻國聖と遊行聖

　

　勸進を目的とする聖が、常に旅行の生涯を送つて居たことは訝しむに足らぬ。近世に至つては特に廻國聖と稱する一種のヒジリが發生した、六十六部今略して六部とも云ふのが即ち此である。日本六十六國の靈場を遍歴し、一部づつの如法經を納めて歩くと云ふ趣意で、到る處の農民に其費用を勸進するヒジリであつた。頭を布でつゝみ白衣に笈を背負ひ鉦を叩いて、善根を勸進しつゝ歩く一種特別の服装であつたが、自分はこの半僧半俗、と云ふよりも殆と居士に近い施行者の出立ちが、三百年や四百年此方の新意匠であるとは考へぬ。つまりヒジリの數はふえる。勸進の種類には限がある。平民の作善の力には限がある。その間に立つて最も簡便な勸化方法のものが最も榮えたと云ふに過ぎぬので、即ち亦行基菩薩以來勸進聖の一小分派に他ならぬと思ふ。此等の六部の中には、芝居でする樣に曲者も混つてをれば讐打ちの武士も形をかへて入つて居たであらう。而もよほど早くから、本物の廻國聖でも事實六十六國を廻り盡した者は殆と無く、況や事實上八卷の經典を書寫して、正式に之を奉納することは、全くなかつたらしい。只僞つて居ても人が信じないから、僅かの料金を納めて形式ばかりの寺や社の受取を持つて歩いたりなどしてをつた樣である。併してその一段と前には、此もヒジリの大本願の一つで、滯りなく事業を完成した曉には、記念として立派な廻國供養塔を立てた遺跡も多いから、此風も又時代と共に漸く廢退した事は疑はれぬ。法華宗などで千箇寺詣りと稱して、其實二三箇所の大きな寺に半生を暮して居た一種の乞食なども、以前は文字通り一千箇所の寺へ巡拜してを(258)つたのであるから、ヒジリにして若し第一に生活、第二に信心と云ふ樣に順序を?倒すれば、何れも末には此の如き分際に墮つべき道理である。ところが獨り斯の如き末法の世に處して、毅然として本來の趣旨を守つて居たものは、遊行派の上人である。此派の特長は幾つもあるが、要するに中古以來彼等の内典の研究が進んで、時宗と稱し遊行と云ふ名目に於ても六つかしい説明を下し、少くも其の門徒だけは之を信じて居たけれども、遊行と云ふ文字が此派の本の性質をよく語つてをる。遊行は日本語で云へば、うかれ歩くと云ふことで、一所不住且つ道程を豫定せずに、先から先へ旅をして歩くことを意味してをるのである。即ち阿彌陀の聖以來、苟もヒジリと謂へば必ず遊行の生活であつたのが、此派のみが特に此をその名目とすると共に、嚴重に遊行説法の主義を立て通していつたのである。臈次の法則の最も嚴重な宗派であつて、一臈の他阿彌陀佛即ち他阿上人となるのは、大抵衰老の後であつて、從つて世代の頻繁なことは羅馬の法皇も三舍を避ける。而もこの老境に臨んでから殆と一日も本寺に留まると云ふことはなかつた。若い僧たちに取つては或は快活な旅行でも、此等の老僧の爲には難行苦行であつたが、それをも忍んで旅に死ぬのを本意としてをつた。從つて藤澤の道場に居る者は、其阿上人以下の留守居であつた。たゞ幸ひな事には江戸の將軍家が、因縁あつて特に遊行上人を保護し、到る處の諸侯をして此に十分の便宜を供し、禮遇を厚くせしめたが、之に因つて内外の情勢から、愈々宗旨を固守することになつたのである。併し之を要するに遊行上人は廻國聖と同義別語であつて、單にヒジリの最も優良なる者を云ふに過ぎなかつたのである。此派は色々の點に於て空也上人の空也宗と類似して居つた。京の空也堂の留守居等が、自由な俗生活をして居たと同じく、藤澤でも留守居のヒジリ等は、それぞれ在家の職を以て活計を立てゝ居たのが、後若干の寺産が出來て、其必要を見なくなつた迄である。その證據には、今日四院五軒十室等の事々しい塔頭の名目が出來たのは、第四十二世の上人の時以後で、其以前に於いては最も簡單に、引手屋箸屋楊枝屋編手屋筒屋等の名を以て呼ばれ、それ／”＼此職で生活してをつたこと、御影堂の扇子打茶箸作りと同じかつたことを想像せしめるのである。近世に於ても同じ時宗の末寺には、尚此等の俗聖が多く住んで居つて、(259)關東に於ては一般に此を鉦打と呼んで居た。鉦打聖に就ては後に今少しく精しく述べようと思ふが、之を要するに、遊行派では祖師の一遍上人が、衆生濟度の爲にわざ／＼在俗卑賤の生活に甘んじて、佛法の眞諦を民間に説かうとして事業の中心を高聲念佛の處作に置き、必らずしも戒律に束縛せられなかつた點は、三河の俗聖とよく似てをる。茲に擧げた叢林集の二十四流の念佛の中にも、鸞聖人の本末四家の次に遊行派を擧げ、一遍坊智心、一向坊優性の名を擧げてをる。今となつて如何に説明せられようとも、中世の或時代には此等諸派相互の差が至つて僅かであつた事は疑を容れぬのである。而も我日本の國々を漂泊して、寺の無い宗教生活を續けて居たものは、必ずしも此等の阿彌陀の聖系統のものばかりではなかつた。山伏も亦一種のヒジリであつて、山野の跋渉を生命としてをつた。天台眞言の大きな寺々に住む半僧半俗の所謂侍法師にも、國名と云ふものが附いて居た。即ち得度して戒名を授與せらるゝ以前の?態は、近い頃迄丹波法師とか淡路法師とか國々の名を以て呼ばれて居たのである。勿論後には此が一種の符號となつてをるが、共起原を尋ねて見ると、やはり旅行の生活であるかと思ふ。

　

　　　　　　　六　高野聖

　

　高野聖は慧空の擧げた二十四流の第二十二に、道心義とあるもの即ち是である。明遍派とも書いてあるが、西譽の三國佛祖傳集には、高野山の明遍僧都道心義を立て道心宗と號す。今の世の高野聖是なりとある。但し高野の聖は明遍の一派のみではなかつた。刈萱堂の聖と稱して由良の法燈國師の從者の末と云ふ聖もあつた。後には遊行派のヒジリにも此山に入込み生活をしてをつたものがある。後世度々の訴訟を經たけれども、尚一部の勢力を保つて居たが、其根本は全く一種の宿借りで、單に世の亂を避け靜に念佛を修する爲に、廣い伽藍の片隅を許されたと云ふに過ぎぬと、彼等自身でも云つて居る。教相の研究が稍々衰へた戰國の時代には、高野の念佛聖は大に榮え、さしもの密教の(260)大道場に、念佛鉦鼓の音ばかり囂しいのは聞くに忍びぬと應永廿一年百廿世の檢校のとき、之を禁止したことがある。�ｺ川幕府になつても、慶長年間に法令を發して、ヒジリの高野に住むのはしかたが無いが、念佛門は出てしまへと達せられた記録もある。此輩の自ら其由緒を述べた近世の書に、非事吏事歴と云ふ本がある。非事吏は即ちヒジリであつて、聖の字を用ゐしむるに適しないと認められて、久しい以前から此三字で呼んで居たが、當字には相違ないけれども兎も角も彼等が生活?態を推測せしむる材料である。高野には世中の所謂あふれ者が逃げ込んだ例はなる程多いから、諸國を漂浪した阿彌陀の聖どもが、來り住んだこともないとは云はれぬが、少くとも自分は此一派の起原を、それ程薄弱なるものとは思はぬ。沙石集其他の鎌倉時代の書物には、高野聖の往來が見えてをる。明遍僧都は修學の爲に此山に住んで居た人であるから、或は其從者と云ふ者もあつたことは事實であらうが、少くも高野のヒジリはその當時から他の遊行派の末輩の如き生活をしてをつたことは疑はしい。沙石集に高野檜笠に脛高なる黒衣を着て、異樣なる風態であつたと云ふのが、むしろ山伏の方に近く思はれる。處が此山には三方と稱して學僧と非事吏との間に、今一つ行人と云ふ一團があつた。行人方と聖方とは全々別で、後には相爭つてをり、山伏に近い生活をするのはむしろ行人の方であつたが、中古以前の眞言念佛の繁榮を考へて見ると、此二派の間には本來著しい差別のあつたものとは思はれぬ。因つて想像を進めて見れば、應永廿一年若くは以前に、同じヒジリの中でも念佛を主として淨土門に近よつたものと、念佛以外の修行を主にするものとに分れて行く機會が有つたのではないか。別の言葉で云へば、今日の行人も、高野聖の中に數へられて居たのではないかと思ふ。

　

　　　　　　　七　高野聖と呉服聖

　

　非事吏事歴には高野聖の徒が財産を持たぬ爲に善根を修するのたよりを得ず、依つて諸國の路次に骨を暴す無縁の(261)枯骨を拾つて、此を高野の靈場に納め菩提の資糧に擬した。彼等が背に負ふ笈は其骨を運ぶ爲に作つたものだと、室町日記に出て居ると云つてをる。繪で見る高野聖は成程悉く、安宅關の辨慶の一行、或は近世の六十六部の如き大きな笈を背負うてをるが、此が最初から白骨の運搬の爲に設けられたものとは信ぜられぬ事である。恐らくは寺社奉行の記録「祠曹雜識」に云ふ如く、諸國を遊行するのは別に生活上の動機があつたので、其道々俗人の尊敬を求める爲に此の如く昔の人のいやがる仕事をして歩いただけで笈には何か別に勸進の爲の必要があつたものと見るべきであらう。江戸時代に入つては高野聖は數も勢力も著しく衰へたのであるが、而も不思議な事には近世迄立つて居た長崎出島の和蘭居留地の制札に、「一傾城の他一切女不可入事、一高野聖の他出家山伏不可入事」とある事である。傾城の出島に出入した理由はよくわかつた。他の一般の僧侶を禁止して、獨り高野聖のみを外國商人に近づけしめたのは抑も何故であつたらうか。興味ある問題である。自分の推測では此は決して宗教上の任務からではなかつた。高野聖は其當時或は呉服聖とも呼ばれた程の大俗聖である。故に商業機關の未だ發達しなかつた江戸時代の初期に於ては、彼等をして外國貿易の一小部分に參與せしめたものではないかと思ふ。高野山から三人五人の本物のヒジリが出れば、百人の僞者が此に混つて高野聖を僭稱するは、當時にあつては不思議もない事で、必ずしも本物の不名譽にならぬかもしらぬが、隨分と如何はしい批評もあつたものである。高野聖は後には殆と惡者の別名の如く見なさるゝ時代もあつた。三浦淨心の見聞集に、天正末頃の事を書いて關東地方に戰亂があつて、普通の旅客は往來を妨げられた時代に多くの高野聖は笈を背負ひ、高祖弘法大師の修行の御形と稱して、弓矢の中を自由に通行した。笈の中には色々の金襴錦の切れはしが押込まれてあつた。ヒジリは此を以て高野山の寺々で三世の諸佛の繪像を表装する表具の裁ちのこしであるから、少しなりとも身につけてをれば、惡魔鬼神は恐れて退くなどと稱へ、一寸二寸の切を高く賣りつける、それを子供等の守袋のはし等に縫附ける風があつた。呉服を商ふ人に衣聖《きぬひじり》と稱する者のあるのは此爲であらうと書いてある。併し必ずしも、此樣な僞り事はせずとも、多數の高野聖が信仰上の勸進をするだけでは生活が出來なかつた(262)から、頼まれて遠地の武家どうしの文通を仲立し若くは今云ふ探偵となつて敵方の?況を報告する等、常に關所の自由を利用し俗世界の職務を執つたが爲に、普通の商人ならば負擔すべき運上金をも免され、此類の交易をするのに都合がよかつたのであらうと思ふ。「當代記」の天正九年八月十七日の條には、織田信長が多數の高野聖を殺戮した事が記してある。其頃から彼等の職業が次第に平和的になつて、主として衣類以下の物を背負つて賣ること、今の古着商の如く、中には大きな荷物を馬に積んで國々を上下し、殆と此でも弘法大師の教を説かうとするのかと思はるる樣な姿であつたとある。江戸では後世の所謂糶呉服商人を時としてはヒジリと呼ぶ風習があつた。それが今日の考へではヒジリに似つかはしからぬので、人によつては此の如く只の荷物をおふ形が、高野聖の笈を背負うた貌に似て居るから、例へば溝や沼にをる田鼈と云ふ蟲を俗に高野聖と呼ぶ如く、此をも聖と云つたのだらうと云ふ説があるが、それは反つて元の事情を忘れてしまつた説であつて、高野聖が本來の職務から、次第に世に所謂呉服聖若くは商聖となつたことは、いくらも證據があるのである。

　舊い制度が時代と共に移り變る例は此ばかりではないが、高野聖の末路に至つては殊に著しいものがある。尾州犬山の針綱神社の祭に、呉服商ばかりが頭に花を頂いて祭の行列に加はるのを、近頃ヒジリと名づけて居た。江戸でも寛文八年の町觸に、高價な衣服を禁制して、「呉服竝に聖ども手前三百文以上の小袖表御攻に付町中に呉服聖方より預置候ものこれあるものに於ては早々其主方へ返し申す可き事」とある。さうして町に住む商聖には、久しい間頭を剃つて僧形をしてをるものがあつた。しかも彼が商品は必ずしも絹布だけではなかつたと見えて、駿州等では紀州高野の寺から附子と云ふ解毒の藥を賣りに來る者が、旅僧の貌で竹で作つた圓形の籠を背に負ひ、其籠の上にはちやうど頭の日蓋ひとなる樣な幕を張るしかけになつて居た、と此頃出來た安倍郡誌に書いてあるが、嬉遊笑覽に引用した和州西岩寺の古澗法師が書いた、職人盡しの繪の絹賣の風態が、やはり此に近いのは奇妙である。即ち背中の荷物から長い竹を立てゝ、それに色々の絹切をぶらさげてをること四手の如しと書いてある。處が越前から美濃、越中から(263)飛騨等の中央山脈を越えて、荷物を運搬するボッカと云ふ運搬夫も、自分の曾て見たものは此の如き簡便なる日蓋を用ゐて居た。高野聖の時代には馬や車の通る道が少くて、普通の旅人でもやはり背中で物を運んだのであるが、此類の巧妙なる工夫は恐らくは旅ヒジリに學んだのであらう。

　斯の如く同じヒジリの中でも、高野を本山としてをる者などは最も甚しい墮落を見たが、此とても原の形は尊いものであつた。後鑑に引いてある室町日記の永禄四年の條には、高野山の大塔奧院竝に諸堂破損の爲、諸國を勸進する場合の關所の免?がのせてある。宛名は諸關所中とあつて其文言には、「高野山聖衆、諸伽藍爲修理諸國令勸進候往反之事、從往古諸國津渡等其煩無之上者、今以仔細有間數候、若違犯之輩於有之者、可被加御成敗由、被仰出候也、仍免?如件」とある。此程いかめしかつたもので、從つて高野聖も又如法の勸進聖であつたのである。高野に於ては最初恐らくは此を利用して居ながら、諸國からの寄進を集めて居たこと、恰も伊勢熊野で勸進比丘尼を利用した通りであつたのが、弊害次第に多く利益は次第に少く、田舍に於ける高野聖と高野に於ける本物との間には、力めて廣い溝渠を設けて此を區別せねばならぬ必要を見たので、本山に認められぬヒジリどもは、愈々甚しい墮落をすることになつたのであらう。

　

　　　　　　　八　三昧聖

　

　高野山の麓の村里には、更に今一種のヒジリが近い頃まで住んで居た。此は紛れも無い俗聖であつた。紀州の學者本居内遠は、共著賤者考の中に、同國日高郡萩原村などにヒジリと稱して人の賤しむ民戸のあつたことを記して、多分は世を欺き財を貪り、非如法至極の生活をした高野聖の名殘であらうと謂つて居るが、證據も何も無い想像説である。高野聖が一定の地に土著し、妻帶し世襲をしたことはまだ聞いたことが無い。家を構へる以上は生業が無ければ(264)ならぬが、本居氏は之を尋ねて居なかつたのである。此地方に於てヒジリと稱し、假令農作を以て主たる活計として居ても、猶常民が縁組を躊躇する一種の家は必ず別に特殊なる職業を兼ねて居た。例へば伊都都神野々の聖村は職業がオンバウ即ち火葬取扱人で、其土地の小學は極樂菴である。葛城山の麓に接した那賀郡山崎庄の原村なども、慶長の檢地帳には聖村とあり、村民は行基菩薩の教を奉じて居るから、聖の教に從ふ村と云ふ意味だと謂つたさうだが、世間からは又之をオンバウ村とも呼んで居たのは即ち所謂御坊聖の村だつたことを證して居る。此村十何戸かの住民は、全部がオンバウの職に從事して居たのでも無かつたけれども、世間からは一括して別待遇をして居たらしい。村の口碑では、太閤秀吉紀州入の時、敵に攻められて危難に陷り、福島正則之を負ひて此村の人燒場へ遁込んで助かつた。其由緒を以て後代天下の人燒場より此村へ運上を納めることになつたと謂つて居る。即ち自らオンバウの元締を以て任じたのである。

　行基をオンバウの開祖と主張するのは決して爰ばかりで無いが、此ヒジリ村にも行基が建てたと云ふ眞言新義の一寺があつて、僞作の聖武天皇御綸旨と共に、又行基の伏三昧《ふせざんまい》の説を傳へて居た。行基の教を奉じて設けた墓地では、土葬に棺が半分露出するやうな埋め方をしても、鳥獣などに荒らされる患が無いと云ふのである。處が同郡長田村大字南志野に於ても、行基の伏三昧は日本に唯三つ有つて、自分の村が其一つだと主張する者が住んで居た。是も亦近畿七箇國の御坊聖の取締總代までした斯道の名門で、量阿彌と稱した人の家である。近く明治の元年に京都に提出した由緒書の寫しを傳へて居るが、之に依れば御坊聖の取立は、行基大僧正の法弟と稱する、志阿彌法師に始まつて居る。以前は寺號山號も有る立派な者であつたが、後世いつと無く有髪がちに爲つた。南都東大寺の大勸進職龍松院と云ふのが古來の本寺で、近畿七箇國に於て五百何箇所の御坊聖は、毎年此に登山して祖師を拜禮するが、此以外にも同職業の者で、全然自分等の派には屬せず、從つて取締の方法の丸で附かぬ者が澤山に居るので困る云々と訴へて居る。此等多數のヒジリは、悉く三昧所即ち墓所の番人で公式の名は惣三昧御坊聖、火葬の火燒きと共に土葬の穴掘り(265)をも兼營み、全く其が爲に些し世間から別扱ひにせられてゐたらしいのである。

　此種のヒジリが殆と皆行基を以て發願の祖師と傳へながら、而も尚東大寺の大勸進職に從屬せぬ者の幾らも有つたのは面白い。大阪の郊外では南濱村の淨瑠璃山源光寺、三昧の本山と稱し三昧院と云ふ額もあつた。是は一派獨立の淨土宗であつて、開山の行基僧正三昧火坑を始めたる遺跡と謂ひ、仍て濱本山などゝも唱へて居た。而も本尊の彌陀の繪像は播磨で有名なる古代の念佛聖、賀古の教信が大和吉野の子守勝手明神から感得する所などと傳ふるを見れば、夙くから念佛門に屬して居たのである。京都には此派ばかりは別に本山とても無かつたやうだが、五三昧と稱してオンバウの居住地が五箇所あつた。其中でももと鳥邊野の煙と和歌にまで詠ぜられた有名な火葬場は、慶長の初年豐國社の建立の際、其臭氣と不淨とを忌んで之を建仁寺の門前に移し、更に又三條の通りの西の端まで追遣られてしまつた。寶幅寺と云ふ寺が之に屬し、是は又時宗であつた。第三世他阿上人が住持したのが始と謂ふから、隨分古いことに相違無いが、而も創立者はやはり行基で、念佛と行基とが爰でも結合をして居る。東山では黒谷の東に中山の荼毘所、是も吉田に神祇官祭場が出來る爲此地に移される迄は、眞如堂と吉田との間、東近衛の地に在つたので、今でも近衛阪を俗にオンボ阪と謂ふさうである。此火葬場にもオンバウが六軒居り、家には行基の作成したと云ふ條目を傳へ、行基の時からと稱して火屋に屬する延壽堂を自ら管理して居たのである。宗旨は何であつたか知らぬが、少くとも南都の龍松院の配下では無かつたであらう。其他の三昧にも皆オンバウは居たがいづれも毛のある在家の主人であつたらしい。

　右の如く一部の御坊聖は亦念佛の徒であつた。三國佛祖傳集の念佛諸流の條に、「薩生法眼三昧義を立つ、三昧衆と稱す。今の世の三昧聖是なり、又御坊聖と名づく」云々とある。恐くは彼等の墓場に往つて修行をしたのが三昧衆と云ふ名の起りであらう。信仰の上から凡人のいやがる死人の始末をしたことは近世の高野聖、乃至は他の色々のヒジリと同樣でも、俗間の生活に安住して廻國勸進の務にはおろそかであつた。それは夙くから歴とした職業が有つて、(266)斯うすれば妻子を育くむことが出來たからである。雍州府志には京ではオンバウ藥と名づけて、今ならば警察が禁止するやうないやな黒燒を、此輩が賣つて居たことが記してある。此通り朝夕の暮しには些しも僧らしい處も無く、頭といへば所謂有髪がちなり女房は有ると云ふので、世人は殆とオンバウの名の起りを認むる能はず、或は　塩坊と書き又は陰房、隱亡などゝも字を當てゝ、其に相應したこじつけ理窟やら由來やらを説いて居たが、本來はやつぱり今の坊主と云ふ語が、知らぬ間に多少輕蔑の語感を帶びたのと同樣に、以前は一般に法師又は上人を斯く呼んだものが、追々に此連中獨得のものと爲り下つた迄であらう。但し黒川氏を始め二三の學者が古代に葬事は僧侶の職分であつた時御坊と呼んだのが、後に土人に其仕事をさせるやうになつても附いて移つたのだと説明したのは信じ難い。何となれば佛教の盛な頃の正式僧は、中々穴掘りや人燒きの樣な惡い業務をしたと思はれぬ以上は、何れの世にも所謂土人オンバウの階級は有つたに相違ないからで、結局御坊の頭に毛のあるのは、毛が有つてもオンバウと呼ぶのを妨げなかつたか、又は後世次第に毛が延びたかの、二つに一つであらうと思はれる。但し此徒をオンバウと呼ぶのは關東の方迄も一樣で、「オンボも燒き賃」などの諺は弘く通じて居るが、而も猶現代に至る迄、所謂墓ヒジリに非ざる者をさう呼んだ地方があつた。例へば諺語大辭典に、周防で行はるゝ俗諺に、「オンバウの袋で胴を結びきつてる」と謂ふオンバウは、穢多を意味する方言だと謂ひ、文部省の俚謠集に、安藝國安佐郡の田植歌の、

　　　オンバウ京に上るなーら

　　　びやばこ（琵琶筥）なんぞは置いて行け

　　　あとでツルリやツンツルリや

　　　彈いてなり慰まう

とあるのは明白に座頭の坊の盲人のことである。よもや墓番は兼營して居なかつたであらう。又他の一方に於ては、オンバウと人燒きが、單に俗人であつたばかりで無く、どう見ても、佛教の徒とは認められぬ場合もあつた。例へば(267)攝州川邊郡の森本村の共同墓地には、以前は森本隱坊と稱する者が住んで居た。其地は安倍晴明の屋敷迹であつたと名所圖會にあるのは、即ち此徒が陰陽師の亞流であつたことを意味して居る。前に掲げた紀州北境のヒジリ村に就ては、緘石録と云ふ隨筆にオンバウは即ち燒亡師《しよもじ》であると謂つて居る。シヨモジは普通には唱門師と書き、近畿地方に分布する土御門家配下の者である。此に燒亡師の字を當てたのは無理な當て字に相違ないが、恐くはどこでか此職業の者をシヨモジと謂ひ、又は唱門師にして火葬を掌つて居た者があつたから云ふのであらう。

　百年以前の寺社奉行の書類に依れば、備中地方には死人の取扱ひをするオンバウを、俗に茶筅《ちやせん》と呼んで居た村が少くなかつた。茶筅は中國一帶に幾らもある一種の部落で、竹細工に巧で春の始など茶筅を作り、村中の家々に配つて錢や穀物を貰ひ集めるよりの名であつた。人別帳の表向きには隱亡と書き、他國のオンバウのする仕事もして居た者も、引きくるめて斯く呼んだのは、即ち茶筅の徒も御坊であつた證據である。但し彼等近世の生活は如何にも佛教ばなれがして居たが、而も根原は亦念佛の徒であつた。茶筅一名は鉢屋、又鉢叩きとも稱し、空也上人の宗旨と斷つべからざる歴史的關係があつた。自ら進んで、死人處分の任に當り、?々三昧所を以て道場として居つた。而して其所作が最も多く、次に述べんとする鉦打のヒジリと似通つて居たのである。

　

　　　　　　　九　鉦打と謂ふヒジリ

　

　關東の平原に於ては、カネウチと謂ふのが一派の俗聖であつた。地方に由つては之をカニユチとも呼んで居たが、鍛冶のカヌチとは少しも關係は無い。文字では鉦打、若くは磬打などゝ書いて居る。之を表向の文書には、被慈利と書いてヒジリと呼んで居る。即ち高野山でヒジリを非事吏と書いて居たと同じく、聖の字を付與するのは上等過ぎる故に、便宜此樣な當て字を誰かゞ發明したもので、こじつけには相違無いが、佛法の慈悲利益を被る者と云ふ意味に、(268)解釋させようとした努力の痕は窺はれる。

　鉦打の被慈利は悉く時宗に屬し、江戸は淺草の日輪寺が、弘い區域に亙つて此徒を管轄して居つた。安永七年に此日輪寺から、寺社奉行所に差出した書上に、沙彌由緒之事と云ふ一篇が有る。其要處だけを書拔いて見ると、一遊行上人下沙彌の儀、別名被慈利と申候。或は又當時俗に呼んで磬打と申候云々とある。右沙彌共儀、妻帶に罷在候へば、子孫類族次第に多く相成候故、本業の和讃念佛を唱へ信施を受け候ばかりにては、渡世相送りかね候。之に依つて或は耕作、或は商賣等の渡世産業を仕り候爲、剃髪に限らず、或は惣髪或は俗髪にても罷在候とも書いてある。之を見ると此種のヒジリは、女房の點だけでは夙くから俗聖で、頭の毛の方は後の都合に因つたやうに見えるが、それは尚詳しく尋ねて見なければ、確かにさうと信じられぬ。

　但し髪の毛の問題よりも、如何して今まで生活して居たかの方が、更に重要である。彼等が和讃念佛を以て本業と爲し、信施に由つてのみ衣食した時代が、果して有つたのであらうか。東京近傍の十里二十里の間にも鉦打は到る處に小部落を爲して住んで居た。現在は何れへか移住し去り、又故の地に止まつて居る者も、大抵常人と差別する所無きに至つたが、彼等が此の如き只の農民に爲つて了ふ前には、極めて複雜なる經歴があつた筈である。野州足利の寺中と云ふ地に、以前十六戸集まり住んで居た鉦打などは、助戸村の時宗寺眞敬寺の檀徒と云ふ以外に、特に此派の信仰との關係を存せず、又市街地だけに農作は出來ず、飴屋だの鑄掛屋だの箍屋だのと云ふ出商賣に從事し、或は祈?の御礼配りもすれば、漉返し紙の製造もすると云ふ風に、是と定まつた職業も無いのを人は賤んで、或は鉦打の七變化などゝ云ふ俚諺さへも有つた。

　既によく開けた地方へ後から入つて來た爲に、此の如く土地との緑が薄くて職業が不定なのか、或は又元來漂泊性を具へた彼等なるが故に、此類の卑業にも滿足して責任を輕くして居るのか、原因は何れ此二つの中だらうと思ふが、而も彼等にも隨分古い由緒を持つ者がある。例へば上州高崎市弓町の北、九藏町の東、舊稱磬打町に住んだ磬打など(269)は、元祖玉阿彌なる者慶長四年に箕輪から、慶存なる者は上和田から、爰に移住して來て今の十王堂を建立し、其傍に住居して時宗の念佛を修行した。此二人の子孫ださうである。而して箕輪も上和田も、共に高崎よりは更に古い城下であつた。高崎志の記す所に從へば、磬打には有髪と剃髪との二種が有つて、有髪の方は世の營みの爲に、農工商買の業に從ふことを許されて居る。沙彌又は被慈利と稱するは剃髪した磬打のみのことで、其名を某阿彌と附け、編綴衣を著し沙門の境界であるが、而も妻帶無戒だつたとある。先祖が勸進した十王堂の堂守をして、其供物などで衣食したものであらう。此堂には十王倶生神奪衣婆などの怖しい木像の外に、又地藏尊をも安置してあつた。

　武藏の寄居の町に近い末野と云ふ村のカネウチも、亦隨分と古いものであつた。其首領株の名は三阿彌、家には天正元年に鉢形城から出した免許?を傳へて居る。其宛名に、末野鐘打鐘阿彌とあるのが、其先祖の名であつた。當領分の鐘打のつかさと爲し、又屋敷分の土地を下さるゝに由つて、月に五度づゝの飛脚御用を勤むべしとある。年代不明の第二の文書は、之よりも更に前に出たものらしく、廿人の飛脚かね打共踞るべく候、只今ちやうり踞り候、屋敷共に下され候。山共嚴密に守り申すべく候。花園山共に仰付けらるゝ者也仍如件とある。踞るはウヅクマルで定住のこと、ちやうりは即ち穢多のことで、以前穢多を置いてあつた屋敷も一括して、二十戸迄の鉦打は爰に住んで宜しいと云ふのである。即ち鉢形城の傍に居た鉦打は、定期の飛脚の役と共に、山番畠番の任務を負うて、右の如き保護を受けたのであつて、而も信仰上に於ては何をして居たか明瞭で無い。

　右の三箇所の以外にも、中古の武家が其居城の近くに、鉦打の輩を住ましめた例はある。坊主頭で飛脚をさせるのに便利であつたことは、即ち高野聖を密偵に使つたと同じ事情であらうが、夫ばかりの爲に特に之を置いたものとは思はれぬ。其由來を明かにする爲には、其時衆と謂ふ團體の職分を考へて見ねばならぬが、それは後廻しとする。上州では前橋の附近にも鉦打が元は居た。伊勢崎の本町南裏にも鉦打郭と云ふ一郭があつた。下野の小山にも鉦打曲輪あり、鉦打修行者と云ふ者七戸、近年まで爰に住んで居た。武藏では忍の城下にも、鉦打橋と云ふ地があつて、昔は(270)鉦打聖此に住居し、後に埼玉村へ移住した。川越の鉦打町にも、以前心阿彌陀佛と稱する遊行派の道心者、兩三人の同行者と共に住んで居たと傳へ、其心阿彌が勸請したと云ふ本阿彌稻荷の祠も殘つて居た。此通り地名にまで爲つて居るのだから、固より偶然に來り集まつたものとは見られねのである。

　

　　　　　一〇　遊行上人と鉦打

　

　鉦打聖の社會上の地位は、やはり餘り高いものでは無かつた。仲間同士で無いと婚姻も出來なかつた位である。寺の方でも或村では之を檀家と謂ひ、或處では配下と呼んで居た。上州板鼻の聞名寺などに於ては、之を出入の者と稱へて居た。而も此徒の稍々頭立つた者の家に、語り傳ふる由緒は略々一樣であつて、只の特殊部落のやうに、世間から安く見られる理由は無いのである。彼等の主張に依れば祖先は時宗の開祖一遍上人が諸國遊行の際之に隨從して薪水の役を勤めて居たものである。一遍遷化の後各々故郷に還り、上人の遺戒を奉じて銅磬を頸に掛け、和讃を唱へ踊躍念佛して村里を廻り、信施を受けて活計相續したと謂つて居る。此話が全然の作り事で無い證據は幾つかある。第一には時宗では昔から右の如き在家沙彌を以て、其傳道の重要機關と爲し、又俗中の産業を以て生活を營むことを宗規に反するものとは見なかつた。現に藤澤の本寺に於てすら、以前色々の商賣に從事して居た痕跡の有ることは前にも述べた。京都では扇折を以て聞えた御影堂の新善光寺、或は丸山の安養寺の如き、寺とは名が付いても其實半僧半俗の生活であつたことは、東國の鉦打も一つであつて、只後者が世中に重ぜられなかつたのを不思議とするばかりである。安養寺が六坊何れも尼と法師との夫婦暮しで、座敷庭園を見事にし、かき餅豆腐などを名産とし、客の求めに應じて酒飯を鬻いで居たことは、古くから有名な話であつたが、明治に入つてからは正阿彌と也阿彌とは西洋風のホテルと爲り、度々の火事に遭つて後に潰れ、左阿彌の長壽院だけは今でも一流の料理屋になつて殘つて居る。歴史が(271)有つて此宗派のみは、此の如き浮世渡りも怪まれなかつたのである。

　第二には此門徒に女房子のあること、是亦久しい話である。御影堂などは平敦盛の未亡人を以て元祖と傳へ、女の方が寧ろ初の頃の主人で、兩も殆と記憶以前から、在家同樣の家庭が有つた。一遍上人は在俗の時に、二人の女性の髪の毛が、睡中に蛇と化して相爭ふの樣を見そなはし、忽ち發心の髻を切りたまふと傳へられるが、其二人の女も後に出家して、上人に隨從したなどゝ信ずる人さへあつた。それ程に妻帶は珍しからぬ例であつた。從つて此が爲に鉦打が、宗派の外に出てしまはねばならぬ理由は無かつたのである。第三には此輩が曾て自分も亦諸國遊行の生活をして居たこと、此は少しも疑ふの餘地が無い。只假の火宅の宿りにもせよ、斯して五戸と十戸とかたまつて、一地に土著するに至つたのには、單に杖柱と頼む上人に別れたと云ふ以外に、今一段の因縁が無ければならなかつたと思ふのみである。

　第四には鉦打が後世に至る迄、時宗の寺に從屬して渝らなかつたと云ふことは、夫自身が此由來談の事を證明する。武藏下總にはまだ各地に鉦打が居たのだが、煩しいから一々は申さぬ。相模では厚木の在の温水《ぬるみつ》村專念寺の配下に、中郡石田の鉦打文悦、同じく上岡田の磬打金阿彌、同林阿彌などが知られて居た。彼等も前述の如き由緒を主張するので無く、代々の遊行上人廻國して其地に到れば、乃ち出でて薪水の役に服するを例として居つた。他の村々のも皆其通りであつたことと思ふが、今存する記録だけでは明かで無い。同國足柄下郡｜成田《なるた》村には、米穀山米穀寺と云ふ珍しい名の時宗の寺があつた。本尊は昔越後の米山から負うて來たと云ふ藥師佛を安置し、住僧と云ふものが無くて、磬打の金阿彌なる者が境内に住んで守護して居た。此家には第三十世の遊行上人が、慶長十九年に出した一通の文書を傳へて居た。其文言に依れば、諸國所々の磬打座衆は遊行の客僚として末代に事へ、契約に違ふべからざるの趣、後證の爲印手を以て一行を書き與ふるもの也とある。客僚と云ふ語は山伏を客僧と云ふと同じく、鉦打聖の此宗門に於ける地位を、或程度まで言ひ現したものである。江戸期の宗教政策はいつでも中央に、淺草日輪寺の樣な責任者を(272)定めて置いて、若干の役�ｺを此に認める代りには、一つの系統の下に散在の法師達を統御しようとしたのであるが、清淨持律の藤澤の本道場に取つては、昔の通りの自由なる田舍の門徒を、餘り確實に支配することは六つかしかつたので、右の如き漠然たる契約を以て、之を繋ぎ留めて居たかつたことゝ思ふ。と謂ふのが村に住んで百姓同然の職業を執つて居ては、迚も時代の一般智識に適應するだけの學問修行は出來ず、隨分雜駁なる又出鱈目の教義を以て、狹い區域だけの勸進生活をして居たらしい鉦打どもを、悉く弟子同樣には見ることが出來ず、さりとて又丸きり彼等と絶縁しては廻國の傳道も效果が少ないので、此の如く檀徒ともつかず末寺ともつかぬ?態に於て、僅かな保護を續けて居たからで、而も中世の大きな寺には、此類の半從屬者が、他にもまた色々あつたのである。

　

　　　　　　　一一　鉦打の鉦

　

　一向宗と時宗との一盛一衰には、此の如き隱れた理由もあつた。即ち前者に在ては、國々の俗聖たちを糾合し統率する點に於て、何人も企て及ばざる巧妙な組織が立つて居た。單簡に念佛は好い事とだけ考へて居た田舍者には、甲を去り乙に赴くは何でも無かつた。其中で最後まで一遍上人に忠實だつた鉦打等が、今や殆と何故に自分がカネウチであるかを忘れようとして居る。武州八王子に接する子安村などには少なくも百年ほど前迄は二三家の鉦打が住んで居た。然るに其祖先の墓だらうなどゝ元は謂つた所の、同村字鉦打場の鉦打塚は今もあるが、土地では昔廻國の六部が土中入定をして、其叩く鉦の音が、永い間聞えて居た故に鉦打塚だなどゝ謂つて居る。

　昔は念佛の供養の折に、碑を建て若くは塚を築くのは常の習であつた。其念佛塚が今でも多くの村に殘つて居り、又毎年一度以上塚處に來て村の念佛を營んで居る。遊行派の開拓した地方ならば、其勸進元は勿論被慈利等で無ければならぬ。然るにもう此樣な不思議譚を語るのである。遠州榛原郡阪部村の原中にも、やはり六部塚一名鉦打塚があ(273)つて、同じ六部の鉦の音を言ひ傳へて居る。而も塚の數が二十六箇、略々一列に南から北へ竝び、八月二十六日には爰で念佛の供養が今も行はれる。念佛勸進の道心者を鉦打と呼ぶ風がもう絶えた證據である。處が爰から至つて近い東海道の佐夜の中山には、八梃鉦或は八からかねと名づけて、金鼓念佛の古い形式が、形式ばかり名物と爲つて傳はつて居た。さうして此鉦打には時宗の支配は及んでは居なかつた。

　佐夜の中山の八からかねは、江戸の一向宗の老僧の文政七年の紀行に、二十八年前に通つた時にはまだ有つたが、もう今は無くなつたと書いて居る。年の頃三十餘りの惣髪の男が、腰の周りに長さ五寸ばかりの紐八筋を下げ、紐のさきには八つの伏鉦をくゝり付けて坐し往來の人影を見るとくる／＼と急に體をまはし、之につれて八つ鉦の平らに動くのを、左右の手に撞木を以て拍子面白く順々に打鳴し、旅人の錢を乞ふのであつた。曾ては道中雙六の繪にも見えたものだが、今は八からかねの名ばかりが殘るとある。掛川志も同じ時代の地誌であるが、此には八からかねに出るのは中山村民家の子弟、年十二三歳の者ばかりで、一人は鉦に合せて鼓を打つと記して居る。東海道の旅人の目には只珍しい物貰ひとしか見えなかつた。

　京都でも以前は春の三月の間、八柄鉦の舞重なるものが町をあるいて居た。辻説經や辻談義と同じ類の一派の勸進の徒であつて、念佛はもう唱へなかつたやうだが、訓蒙圖彙などの説に依れば、本來は歌念佛などの類であつた。念佛の合の手に節面白く打つて踊つたのが、いつの間にか口に唱ふる佛名は省略して、無二無三に踊るを手柄とするやうになつたと謂つて、多くの鉦を首に掛けた若衆が、之を打鳴しつゝ廻る有樣を圖にしてあつた。道中雙六の繪にあつたのも、此圖であつたと嬉遊笑覽には謂つて居る。關東平原の鉦打聖たちが、一遍上人に御別れ申した後、鉦を頸に掛けて村々を巡つたと云ふのは、今一段と眞面目な念佛の爲であつたか知らぬが、而も面白く、樂しく踊るのは、亦此宗の本旨でもあつた。

　中古には京都の貴賤男女、百寺の金鼓を打つと稱して北山東山をうかれあるいたのは、やはり春の盛りの頃の風俗で(274)あつた。其節奏は今の世に傳はらぬけれども、如何にも面白さうな流行であつたことは、多くの記録から想像せられる。

　　　かた山に畑燒くをのこかの見ゆるみ山さくらはよきて畑やけ

　斯云ふ調子の和歌などを詠んだ人もある。恐くは足拍子をかしく、興ある念佛の踊であつたらう。而も之を土民に教へたのは初祖の遊行上人よりも遙かに前の、阿彌陀のヒジリたちであつたのである、それから今の世に至る迄、鉦は各派の念佛と伴うて離れぬ樂器であつたのだ。然るに東國に於ては如何なる理由があつて、鉦打と謂へば必ず時宗の門徒ときまつてしまつたか。是は研究して見なければならぬ問題である。

　西部日本にも田舍には稀に鉦打と云ふ者が居たやうだが、是は必ずしも時宗では無かつた。土佐の長岡郡では葬式の時に、鉦打と稱する者が遣つて來て、行列に加はり鉦を叩いてあるくと、豐永郷葬事略記には記してある。他の地方で謂ふ道心坊主のやうなものらしい。阿波の鉦打山と云ふ地には、鉦打座と云ふ團體が住んで居た。相州足柄邊の磬打座衆とはちがひ、奇妙な事には是は人形舞しを業とするものであつた。京都で鐘伐山と謂つたのは、毎年盆の聖靈會に、船の形の送火を燈すので有名な、川上の妙見堂の後の山であつた。此日山の上で鐘を敲いて念佛を申す故に、此名が有ると云つて居るが、多分は其役を勤める者が居たのであらう。併し大體に於て、現今は念佛の鉦を「叩く」と謂つて、上方では「打つ」とは謂はぬやうである。子供の頃の遊び言にも、

　　　鴉はかあ／＼かん三郎

　　　雀はちう／＼ちう三郎

　　　とんびは熊野の鉦たゝき

と謂つたり、或は又、

　　　鵜は熊野の鉦たゝき　　　一日叩いて米一升

などゝも謂つて居るのは、やはり熊野と遊行派との關係を傳へたものである。古くは卜養の狂歌集にも、

(275)　　　鉦たゝき金が無ければ鉦たゝく金さへ有れば鉦はたゝかじ

などとあつて、打つと云ふ昔の語は、久しく西では用ゐなくなつて居たのである。之に比べると一段と元に近い鉦打と云ふ語の、關東方面にのみ行はれて居たのは、自分は此階級の古くから存在し、却つて後代念佛宗派の地方的分立により、一時最も優勢であつた藤澤寺の門未に、統括せらるゝに至つたのでは無いかと思つて居る。

　

　　　　　　　一二　遊行派と空也派

　

　此の如く推測する根據は二つ三つもある。前橋風土記の附録を見ると、前橋近傍の鉦打は、一名を誓願寺とも又茶筌坊とも呼ばれて、村では下り人として取扱はれて居た。茶筌坊と謂つたわけは、彼等は江戸期の中頃まで、毎年正月には茶筌三本を持參して、城内の大家役人衆の所へ禮に出たからだと謂つて居る。處が一方には西京以西に爲ると、村々にやはり茶筌と名づけて此物製作を一の生業とし、年の始には之を携へて囘禮する所の所謂下り人が多かつた。此仲間の事に付ては猶詳しく話をする材料が控へて居るが、要するに皆東國の鉦打等とは別宗派の、空也念佛から出た者であつて、或は鉢屋とも鉢叩きとも謂ふ者であつた。鉢叩きは俳諧にもあつて人の知る通り、鉢ふくべを叩いて念佛の拍子を取り、下根の産を勸進する又一種の俗聖で、京では空也堂の周圍に居住し、茶筌を販いで在家生活をして居た。謂はば鉦打とは相對立した一團であつた。其名樣が混同して用ゐられるのは、一見奇妙な事のやうである。

　併し考へて見れば、野山の竹を伐つて茶筌に作る位は、誰にも出來る職業である。鉦打部落のやうな十分の田畑も持たぬ者の生活に之を作つたのは當然の思付で、寧ろ何故に空也派のヒジリばかりの專業に歸したかを怪むべきである。殊に茶筌の用途は昔は今よりも遙かに多かつた。煎じ茶の上茶を平民が用ゐたのは近年のことで、其前は茶釜で眞黒になつた茶の汁を茶筌でかきまはし泡を立てゝ飲んだから、何れの家庭にも必要のある器具であつた。故に奧羽(276)の或地方では、もと馬聖などゝも謂つた低級の薦僧が、之を作つて正月に配つて居た所もある。阿波などの人形舞しの團體にも、一方に鉦打座と云ふのがあるかと思ふと、他の一方には茶筌屋敷と呼ばれたものもあつた。即ち中國筋などの茶筌が空也派であるのは、是亦鉦打の遊行派と同じく後年の統一であつて、一種此物を製作する人民の散在して居たのは、其よりも前からの事であつたかと思ふ。

　しかのみならず鉦が念佛の要具であつたことは、一遍上人發心よりもずつと前からで、殆と何れの派にも共通であつた。空也の徒も亦ふくべのみを叩いて居たのでは無い。現に此宗旨の俗説には、念佛の鉦は空也上人に始まるとさへ謂つて居る、松尾明神が御自身此上人に御歸依なされ、神殿の鰐口を二つに割いて、其半面を寄進せられたのが元と謂ふのである。鰐口を金口又は金鼓と謂つたことは事實だが、倭名鈔には又金鼓をヒラガネと訓んで居て、所謂伏鉦も昔から念佛に用ゐて居たのだが兎に角に空也が一の阿彌陀聖であつた以上、鉦を打つて居たことは確かである。江州｜左目《さめ》の兩明神社は、一名を御鉦の社と謂ひ空也上人の敲き鉦を祭つて居た。雨乞には之を取出して打つと必ず降つたと謂つて居る。之を要するに獨り時宗のヒジリのみを鉦打と呼ぶ理由の無いことは、茶筌を空也派の專業とするわけが無いと同じで、念佛各派の分立が新しい制度であつたことは、是だけでも分る。

　殊に此二派の元祖上人は、時代を大に異にするだけで經歴が最もよく似て居る。一遍聖の繪卷を見ても、遁世の始に空也上人は我先達なりと仰せられたと書いてある。單に京都の市屋道場が作阿上人の歸依に由つて後に遊行派に屬したと云ふのみで無い。二聖共に生涯の大部分を旅の空に送り、歡喜踊躍の愉快なる佛法を遽土の民に教へ、殊には熊野の權現、又は男山八幡の如き有力なる神々の靈旨に基いて、率直又簡易なる救世の事業を遂行したことも同じである。一向宗と日蓮宗との如き相容れざる競爭者では無く、寧ろ一は他の阿彌陀聖の相續着であつた。�ｺ川幕府の干渉さへ無かつたら、無學な田舍の俗聖等は、夢中で鉦を叩きながら、自在に甲から乙へ移り得たであらう。其が政策と社會事情で、今のやうに分化し又固定した爲に、俗聖の近世史は甚しく複雜になつたのである。

　

　　　賽の河原の話

　

　昨年の一月から五月迄、本誌に俗聖沿革史を續けて書いたが五月になつて、急に瑞西の方へ行くことになり、秋には歸るつもりのが、年を越えて歸つた樣な譯で、非常に多忙で書くことも出來なかつた。さうして、また此五月から再び瑞西の方へ行く樣になつてゐるので、今續きを書いても亦五月になると、中止せなければならぬから、それよりも今度洋行して歸つてからゆつくりと書くことにして、今度は別の話をする。

　在來の歴史や傳説舊跡などを調べて見ると、色々珍しい話や面白い話、不思議な話、奇怪な話などがある。懷胎して死んだ女を埋めると、其土中から赤子の泣聲が聞えたり、孕み女が斬られて、傷口から子供が生れ、その子を地藏菩薩や、觀音菩薩が救うて育てると云ふことや、或は子供の足跡や手の跡が天井や床に着いてあつたと云ふ話がいくらもある。而もさうした不思議なことが、場所を定めて現れると云ふことが往々にしてある。箱根の賽の河原などは正に其一例である。此賽の河原は街道の東西上り下りの衝に在つた爲に、佐夜の中山の如くよく人に知られてゐた。但し、外國人の紀行に寫眞まで出た今の賽の河原は、元和の初年に蘆の湖の南を通るやうになつてから引き越して來たもので、茲にも多くの石地藏と、小石を積み重ねる風習とはあるが、私の言はうとするのは元箱根の舊道、權現坂の邊りにあるものである。此山中には右の新舊二箇處の外に、姥子にも賽の河原があつて、六地藏外十一の石地藏があつたが、獨元箱根の上に在つて、或は誤つて曾我兄弟の墓など謂ひ、鎌倉末頃の年號ある二三の石塔も立つて居る。所謂元賽の河原の地だけに此話はあるのである。官道が南へ遷つてから後も、毎年七月の二十三日には、近郷の人々(278)が此へ集り來り、地藏の供養をした。夜更けてから子供の幽靈が出ると云ふ話で、翌朝見ると必らず其足跡があつたり、或は夜更けには時々子供の足跡を見ると云ふ説もあつた。併しそれは猿の足跡だとも言つて居る。成る程參詣の人が散じて、食物などの落ち散つた處だから猿なども出ぬとは云はぬが、少くとも其足跡を見て、小兒の幽靈を心附くだけの事情はあつたのである。

　以上箱根の賽の河原の話であるが、日本中には、此外に噴火などの怖しさに基いたものや、高山には?々此世の地獄を説いてゐる。越中の立山に地獄があると云ふは隨分古くから傳へられてゐるが、富士にも、白山にも同じ樣な話があるが、是以外南部の宇曾利山から、南は九州の鶴見、阿蘇、雲仙等に至る迄、今ある地獄の名は多くは、新しい火山である。

　さうして、此賽の河原と云ふのが、其地獄の一部分として存する位ならば、話は極めて簡單であるけれども、よく注意して觀ると、さうした火山の一部分の地獄とは趣きを異にした河川の流域や、坦々たる平野地方にも散在して居るのであるから、此賽の河原は、元佛教の地獄の中に有つたものでは無いと云ふことも知られる。又、誰が作つたか知らぬが、淨土和讃の物悲しい章句の中に、

　　三つや五つの稚子《をさなご》が、賽の河原に集りて、晝の三時の問には大石運びて塚に築く。夜の三時の間には、小石を拾ひて塔を積む。一つ積んでは父の爲め、二つ積んでは母の爲め……云々

と、あるのは歴史にも經文にも、少しも據り所を持たぬ創作だと云ふことを意味するもので、其が民心を動かし了つた今日となつては、それが創作であり、或は出鱈目であると、否とを問はず、兎に角此和製の地獄には、矢張り國産の原料がうんと入つて居ることを認めねばならぬ。

　それであるから、かうした賽の河原が幾何もある。能登の波竝村の海添ひの路に面して、地藏堂の前に小石を多く積んだ賽の河原では、毎夜子供の多く啼く聲がすると云ひ傳へてゐる。

　又、信州飯綱山の御頂上の宮の脇に、例の粟飯の出る所を賽の河原と云ひ、笠を地に伏せると五六歳の子供の足跡がつくと云ふ。笠を伏せると云ふのは、どう云ふ譯か分らぬが、矢張り通幻源翁の袈裟や、木曾の中子を笠で隱した類では無いかと思ふ。他の地方の賽の河原でも、岩の上に子供の足跡の永久に殘つた例もある。甲州菩提山の路にある關の地藏尊の前の大石や、又次に云ふ越後の浦濱の洞穴などは夫れであつて、元々明瞭に足跡と決定し得る程の凹みでも無いのを、言ひ合した樣にどの田舍でも人が意を以つて迎へる爲に、さうしたものとなるのであつて、そこには、どうしても根底に横はる古い信仰のある爲で、私だけは、賽の河原と云ふ土地の人の名稱が、よく此意味を物語つて居るものゝ樣に思つてゐる。

　越後には、殊に路傍の賽の河原が多くあるが、前に擧げた角田の洞穴などは國上山へ拔けて居ると云ふ位の深い穴で、七面明神出現の地などゝも傳へて居る。その奧深く入ると、數多の小石が誰が積むともなく、累々として而も其位置が變るとさへも傳へられてゐる。

　又信州和田峠の麓にある道祖《さへの》河原なども、路の左右に小石を何箇處とも無く積重ねてあつて、旅人が是を崩しても亦夜の中に元の樣に積んであるとのことである。勿論精密な實驗ではないが、少くとも志して積むと云ふ人は無いのに、かうした小石塚が出來たのである。

　奧州では有名な恐山の地獄谷に、拳ほどの小石を集めて、塔を造つた所を又賽の河原と呼んでゐて、幾百とも知れぬ其塔が、崩せば又何時の間にか元の樣に積んであると云ふ。

　更に海峽を渡つて北海道｜渡島《おしま》の横泊りの浦にも、石子積みと名づけて同じ樣な所がある。又、後志《しりべし》の川白崎にカムイミンダラ即ち神庭と稱へて、晝崩せば夜は元の如くになる積石があつて、水夫等は之を西院の河原と云うてゐたが、之は今ではもう出來ぬ樣になつたと云ふ。

　斯樣に遠い蝦夷が島でも、尚吾々の祖先が見れば賽の河原であつた。併し、九州の果てに行くと、此話は及ばなか(280)つたと見えて、大隅の田代村、鵜戸權現社の窟の口には時々石を積み累ねてあるのを、此神に從屬するカハタロの仕業であると、信じてゐたと云ふ。カハタロとは、河童のことである。

　旅をして知つてゐる各地の賽の河原の中でも、遠州奧山街道の鳥井河原通りで見たものは、一度水が出ると流されさうな河原に、成るたけ平たい石を拾つて、五段も六段も重ねてゐる。近く子を失つた父母が此路を通ると、思はず悲しくなつて、石を拾つて積んで行くと云ふことである。箱根の峠の如きは誠に浮世の衢であつたから、元和以來の新店の賽の河原にも、尚念佛を申し石を積んで通る人が極めて多かつたのである。之を今一つ前に溯つて、考へて見ると、元箱根の權現坂にあるものなどは、時を定めて、人が供養に集る風習になつてゐた。又、越後北蒲原の華報寺參詣道の賽の河原に至つては、石を積んで早世の者の菩提を弔ふ爲に、毎年四五月の間は里人が群集するのであつて、此頃になると、寺の坊さんは水施餓鬼を行ふ例であつて、又、菩提追善の爲に、薄板の小塔婆を書いて之を賣つて、一般の人達に納めさせたと云ふ。併しどう云ふ譯で石を積むのであるか、坊さんも信者も、實はよく知らずに、而も年々缺かさずに行はれてゐたと云ふのは、民間因習の強い力であつて、或は之を先天的であるとまで呼ばれてゐた。

　東北地方の人は、此賽の河原が、道祖神の祠のある所に附隨してある所から、其地名の道祖神に起つたことを知つて居るものが多かつた樣であるが、關西の山村には、峠の道祖《さへ》の乢《たわ》などゝ呼ぶものが、各郡に二つ三つも有つたに拘らず、是と、淨土和讃などに取り込んだサヒノカハラと、同じ起源であるのに心附いた人が無い樣である。從つて、京都西南の佐比の里が、京都墓地である所から、之を取つて、子供の地獄の名にしたものであるとか、甚だしいのは、石を積むことが雙六の賽に似て居るから戯れに呼ぶのだとも謂はれてゐる。全く、何故石を積むのであるか、又、何故地獄にさうした所があるのかと云ふことも分らぬ樣である。私の考へるには支那で道祖と云つたのは、單純に道の神であつたのかも知れぬが、此漢字を宛てた日本のサヘノカミは、同時に境を護る神であつた。サヘと云ふは塞障のことで、障る遮ると云ふと同じ語源から出て居る。であるから之を祭るには村の境や、山の峠、又は橋の袂の樣な人(281)間が防衛するにしても好都合な、通路の一地點を擇んだのである。

　中國などでは、道祖神は石でも瓦でも多い方を悦ばれると云つて、矢張り其前を通る人たちは、其類の物を携へて往つて積み重ねる。或は初めは、神樣の防禦工事の手傳の意味であつたかも知れぬが、若しさうでなくとも、佛教とは少しも關係のなかつたものゝ樣である。

　兎に角、此賽の河原の道祖信仰から出たことは、決して話ばかりでは無い。日本の地藏樣と道祖神とは似ぬ點の方が少い位によく似てゐる。眞言一流の説明では、地藏は道祖神の本地、道祖は地藏の垂迹であるとしてゐる。殊に子安地藏とか子育地藏とか言つて、永久に人の親の憂愁を救ふ役目は、道祖神も古くから之を掌つてゐたのである。法體の地藏には似合はしからぬ縁結びや、生れる子供の運を定める仕事などは、素より道祖の管轄する所であつた。だから、或地方の賽の河原で地藏堂の前に小兒の啼き聲や、足跡があると共に、佐夜の中山や因幡の黄楊《つげ》の道祖に於て、夜啼石や塚から子の生れた話が殘つて居るので、後世の人が歴史を尊び、偉人を慕ふの餘り、出來るならば、誰か名の高い人のことにしようとした爲に、そんなに似た話が幾つもあるものかと、輕蔑する樣にはなつたが、今一つ以前に戻つて考へて見ると、何か我々の祖先が、石のごろ／＼と有る境の神の祭場附近に於て、深夜赤子の聲を聞いたり、岩の上に其可愛い足跡が留まるやうに、思はねばならぬ事情が有つたのでは無いか、茲が今一歩進めて考へるべき問題の存する所である。兎に角、是に依つて考へて見ると、死んだ子の行く遠い處とのみ思つてゐた賽の河原も、却つて子を求むる極めて近い、道祖の神の祭場と其根源の一つであると云ふことが略々判るのである。

　

(282)　　　子安の石像

　

　水戸を出でゝ西の方那珂川の右岸を溯り、石塚、鹽子より下野の茂木町へ越ゆる道にて珍しき辻の神を見たり。髪を長く垂れたる上代樣の婦人が嬰兒を抱ける像を扁石の表に浮彫する者也。神の名を土人に問ふに「子安さま」と答ふ。馬頭觀音青面金剛などゝ共に多くは橋の袂又は道の辻に立てり、就中最も水戸の町に近く袴塚の兵營の門より少し西なるは石神問答の出版よりは後即ち明治四十三年八月の建立にて鮮明に彩色を施したり。石の面には何れも年月日と何村女人講中と記する外他の文字無し。この女人講は即ち香取郡志に所謂子安講是れなるべし。同書に曰く、下總香取地方にては男子の日侍に對して女子の子安講あり。閑日に婦女集會して歡娯雜談一日を消するをかく云ふ云々。

　増補忍名所圖會に依れば、武藏北埼玉郡星宮村大字池守なる子安明神は神體一寸八分の金銅像にして、嬰兒に乳を含ませたまふ天女の姿なり。神功皇后なりと稱す。神寶に子安の玉あり。質水晶の如く徑八分。又子育石あり。長二寸ばかり内一寸ほどは色濃黒、形平らにして金粉を置きたるが如き筋あり云々。婦人の子育を祈るに驗ありと云へり、神に子寶を授けられんことを願ひ又は生まれし子の平安を祈るは普通のことなれど、右の如き神像の樣式は慥に特異なり。多くの社殿には鏡、幣を正體としさては本地佛などを安置し日本風の衣冠の像あるすら甚稀なれば、法師たちが之を引きて我田の水としたがるは無理ならぬことなり。古渡の切支丹宗にても或は亦之を利用し附會して傳道せしことあるにや。子安はマドンナの秘密崇拜なりと云ふ説ありしことを聞けり。但し未だ何の書に出でたるかを知らず。

　東國には到る處子安無き地方あらざれども、十の八九は佛寺の祀る所に屬せり。子安地藏は最も多く之に次では子(283)安觀音、子安釋迦あり。今其有名なる二三を言はば、東京附近にては北足立郡戸田村大字新曾の妙顯寺寺内に子安釋迦堂あり。文化文政の頃繁昌し安産の護符を出す（嘉陵紀行三編の一）。西京清水寺中の子安觀音堂は承和四年（八三七）の建立と稱し、皇子平産の報賽なりと云ふこと盛衰記等に見えたり。三州岡崎の伊賀村八幡宮には昔は如意輪子安觀音あり。東照公信仰の秘像なりと云ふ（三河聰視録卷一）。美濃惠那郡阿木村大字飯沼の子安佛は觀音像にして邑人の之に平産を祈る者多し（巖邑府志）。會津領柳津の虚空藏堂の境内にも子安觀音あり。奧州の子安佛は會津風土記奧相志等に多く之を載す。諸國の子安地藏に至りては百を以て數ふべく、到底其一部分をも列記する能はず。常陸の「子安さま」の石體の中にも、頭に寶冠らしき物を附し、傾きて手を乳の所に按じたる姿の如意輪觀音に酷似せるものあり。更に下野芳賀郡に入りては變じて石地藏の子を抱く像となる。例へば益子の塙に在りしは等身にして左手に七八寸の石の小坊主をかゝへたりき。之に就きて想起すは甲州谷村町の南端に地藏堂あり。塞神の守札などを雜然と打込みたる中に、二體の人形を入れ置きたり。節句雛の五人囃かとも思はるゝ小兒の坐像にて鮮麗なる衣裳甚だ傍の石地藏と似付かず。其折には子を失ひたる親などの哀なる思ひ付かと考へしが、歸途相模津久井郡の山村にて道の傍なる堂の中に同樣の人形ありしを見て始て此地方の風俗なることを知れり。辻堂に人形を置くは或はアガチコの遺習なるやも測り難しと雖、之を地藏の側に置きて拜祀するは頗る子安信仰に近し。

　子安地藏の由來はかの賽の河原の傳説のみにても一應は之を説明することを得、幽界に在りても幼兒の保護者たる菩薩なれば、心は闇なる人の親が此世に於て地藏を頼みまゐらするは自然の事なり。併しながら賽の河原の思想は松屋筆記などに依れば僅々三四百年來の發生に係る。我々は何故に賽の河原を以て子供の地獄と見做すに至りしかと云ふ根本の問題を考ふる要あり。而して子安の名は決して此の如く新しからず。清水寺の泰産堂の縁起は中古の造説なりとするも、三代實録貞觀十八年（八七六）七月十一日の條には既に美濃國の兒安神に神階を授けられし記事あり。百莖根に依れば右の兒安は現今不破郡赤阪町に在るもの是なるべしと稱す。此國南宮山の攝社を始とし地藏は勿論他の(284)佛たちとも些も關係無き子安神の諸國に散在する事實を考へ合すも、此信仰の根原がかく單純なるものに非ざることを想像するに足れり。自分の信ずる所にては子安地藏の本地は却つて此方に在り。而して古人が此二種の信仰を結合せしむるに至りたる媒介は、賽の河原の傳説と同じく石の崇拜即ち是なるべし。請ふ其仔細を陳述せん。

　平田翁は玉襷卷四に伊豆の岩神を説きて曰く、延喜式の神名帳に加茂郡伊波乃比�盗_社とあるは文�ｺ天皇の嘉祥二年に授位の沙汰ありし御神にて、雲見村の雲見嶽に鎭ります姫神なり。土地の口碑を綜合すれば大山祇命の御女岩長姫命なりと思はる。又同じ郡伊波比�当ｽ神社は現今某村に於て子安明神と祀れる神にて其御靈代は申すも畏けれど子安貝の如き小貝の奇しく凝りたる?の石なりと秋山氏の伊豆志に見ゆ。疑も無く同じ神と聞えたり云々。之に因りて見れば或一種の貝の名を子安貝と呼ぶは其形?が子安神の神體に類似せるが爲にて、而も其正體は後世斟酌多く有頓著なる紳士等の所爲と反し、路傍の要處々々に安置して露はに之を拜せしものには非ざるか。

　子安貝は新井白石の東雅に曰く、コヤスガヒ、又タカラガヒとも云ふ。倭名紗の紫貝一名大貝にして和名をウマノクボガヒと云ふ。本草和名に曰く。「ウマノクボガヒ一名ウマノツボガヒ云々」。卑考にツボはツビなるべし。催馬樂の久保之名等を引用して説明するは容易なれども略す。本朝食鑑卷十に依れば、紫貝古くはウマノクボと訓ず、今世は之を子安貝と云ふ。肉は食ふに堪へず。唯其殻を婦人求め蓄へて以て臨産の備と爲すのみ。主治、産に臨むの時之を持てば則ち子を生むこと最も易し、故に俗に之を子安貝と稱す云々。増補俚言集覽には頓醫抄を引きて子安貝の別名をべゝ貝と云ふと記し、へゝは見苦しき物の一名にて「昨日は今日の物語」にも其頃此語ありし證あることを明にせり。相州などにて藁屋の棟に栽ゑたるいちはつ（鳶尾）と云ふ草は倭名鈔以下の諸書に和語コヤスグサと云ふよしは和訓栞に見ゆ。是も其花の形似に基く名なること恰も蘭の花をヂヽバヽと云ふに同じかるべし。文政頃の江戸人の隨筆、雜事記卷四十に、品川歩行新宿の清藏と云ふ者、鈴ヶ森の沖、前津と云ふ處にて釣針にて、引掛け上げたる貝の中に一寸七八分の地藏尊ありしことを記し、其圖を掲げたり。貝には海草あまた附生せり。貝の名はアブノと云ふ(285)よし見ゆれど、圖に依れば正しく子安貝なり。此等の事實を綜合推究すれば、感情粗大なる昔の田舍人は、單に清靜にして長壽なる石其物を拜するを以て足れりとせず。特に奇怪なる形?を具へたる物を選擇して次第に其靈能を分化せしめたる結果、或は先住民が使用せし石棒を見て天然物なりと驚歎し、或は又浸蝕せる石灰石の塊などの子安的なるものを拾ひ來りて之を祀り、後には自ら石を刻して愈々類似の精緻を期するに至りしならんか。品川の清藏氏が手に入れたりと云ふ佛像に至りては、若し此假定を當れりとすれば、正しく信仰發展の過渡期に屬するものと謂ふべき也。伊豆志の子安神の神體の如きは今之を論ずるを欲せざれども、強ひて言はゞ此貝化石には非ずして寧ろ人工に成りたる當初の神體なるべし。若し夫れ竹取物語に所謂燕の子安貝に至りては古來の諸註殆と信を取るに由なし。仄に聞く紀州の南方熊楠氏先年燕石考の著ありて既に海外の篤學者に喧傳せらると、願はくは一日も早く名論を譯出して我徒の蒙を啓かれんことを。

　子安を石神とする例は獨り伊波比�当ｽ神に止らず。近江滋賀郡阪本村大字阪本の岩神社は、近江與地誌略に日吉記の文を引用して子安是也と云へり。而して岩神を以て岩長姫なりとする説も亦山家の密教に出づるが如し。此説や單に女神として石體を尊崇せし舊俗の一端を髣髴せしむるに止り、假に一段の臆測を進むるも之と大山祇即ち山神との因縁ありしことを意味すと云ひ得べきのみ。誠に子安神は自ら女性なりしのみならず、深溪又は樹林に就きて祭壇を設け秘密の祈?を事とせし巫女の宗教と關係あるが如し。下野芳賀郡祖母ヶ井村の子安明神は又祖母神と稱す。側に祖母ヶ井の水あり。村名之に起因すと云ふ。ウバはもと老女の義なり。之を祖母又は乳母と書するは後世の通例にして、乳母神の稱は即ち又子安の神�ｺを言現すものなるべし。神奈川の子安は往復人の耳に親し。此村の觀福寺に子安佛あり。寺の名を浦島寺と云ひ附近に浦島塚あり。浦島の故跡は木曾寢覺の床にもあり。仙人は到らざる處無かるべしと雖東國の邊土に足跡あるは事稍々奇に過ぎたり。思ふに是れ亦長壽者を意味する口碑の表形にして、かの八百比丘尼傳説と共に姥神即ち靈巫の傳説に屬するものなるべし。浦島塚に關しては故平子氏の説ありと聞けど、未だ之を(286)見ること能はず。

　子安にして神か佛かよくは分らぬものあり。其二三の例を擧げんに、仙臺封内風土記に依れば磐城刈田郡小原村大字小原の兒坂峠には坂の上に不動堂あり。昔貝田宿の女此阪の上にて安産せしことあり。今も安産を祈る者此山より小石土塊などを家に持歸る。又の名を子安阪と云ふ云々。肥後國志に依れば、今の鹿本郡米田村大字志々岐に子安木と云ふ地あり。村外れ東の方に四尺ばかりの岩井二つ竝べり。當村熊野權現の御手洗にて、孕める婦女此水を飲めば安産すと云ふ。志々岐は肥前なる志々岐神を勸請せし爲の村名なるべく、其神名はかの安倍晴明等が使ひしと云ふシキ神と同じく、又大和河内の境に在りて境の神なる昆沙門天を祀れる信貴山に於て其例を見る如く、シキと云ふ語は境を意味するなり。九州殊に肥後地方にては神の木多く、諸國の女夫石に對して女夫木あり、一里塚に對して里數木あり、木を栽ゑて境を標する風盛なりと見えたり。紀伊國續風土記に曰く、那賀郡南野上村大字冷水に産幸《うめさい》の松とて大さ五抱ばかりの古松街道の傍なる崖の上より垂下せり。土人の傳説に東上谷村なる極樂寺の觀音は子安觀音と稱し靈佛なり。因りて龜川五ヶ村には古より難産なし。其寺の境地此松を限とす。小兒の夜啼する者此松葉を燒きて照せば啼止むと云ひて遠近來り求む。ウメサイの名義は子安に基けるにや。此外さま／”＼の説あり云々。思ふにウメサイのサイは幸の字には非ずして、境標なるが故に即ちサヘなるべし。境に木を栽ゑて之を道祖の木又は才の木と稱するは諸國普通の例なり。仙臺領の兒坂峠の如きももとは境の子安神なるべし。石の如く動かざるものが夙に退轉して人間の信仰の如く變り易きものが久しく留れるは不思議なれど、子を願ひ子をいとほしむ人の情が萬古不變なる故に即ち此の如き也。上總の木更津より南の方佐貫へ越ゆる山路を子安峠と云ふ。左に鹿野山を見て好風景なり。此も郡の境かと思ふ。

　子安神を辻に祭るも亦境の神なればなるべし。境の石に子を祈るは勿論其石が境に在る爲めには非ざるべきも、神秘なる生産力ある物の形に似たる靈石なるが故に、之を境上に奉祀すれば守護防鎭の效更に常の石よりも大なるべし(287)と信じ、之に加味するに雙神障碍の思想を以てせしものか。石生長の信仰は轉じて石誕生の信仰を生ぜしことは本年一月の「太陽」に之を論じたり。子持と云ふ地名又は石の名は境上に在るもの多し。例へば上野白井の子持山は峠路の頂上にして子持明神を祭る。萬葉の子持山若かへるでのもみづまでの歌は此地なりと云ふ。駿河の岡部には子持阪あり。上州妙義にも子持越あり。常陸久慈郡磯初村大字高貫にも子持柵あり。陸前登米郡石越〔二字傍点〕村には大小の二石あり。之を石神社に祀り石の名を子持石と云ふ。此も亦境の子持石なり。幼兒の塞の河原に行くと云ふも其始は此思想に起るなるべし。

　

(288)　　　地藏の新和讃

　

　此頃牛込邊へ來る親子伴三人の女乞食は、かの二本榎の親子地藏の縁起を和讃にして諷つて來る。今迄は何の氣も附かずに、大慈大悲の地藏尊惡趣に出現なしたまひ云々の昔からの物かと思つて居たが、よく聞くと斯んなことを言つて居る。頃は明治の四十二年、霜月二十日の夜半とかや、噂も高輪ほど近き、二本榎の何とかにと言ふのである。さても此和讃は誰が作つたものか。又如何にして乙女乞食にそれを諷はせるに至つたか。東京にもまだ妙な世界がある。田舍の諸君は御存知もあるまいが、二本榎の話と云ふのは、たしか船長をしてゐる主人の留守に、其家に來て妻子五人を惨殺した者があつた。主人は悲歎の餘りに五體の石地藏を造つて供養をしたのである。其が和讃になつて新しい哀傷を催すのはまだ此菩薩の法力の衰へない證據である。二本榎と云ふ地名は亦偶然にも地藏樣に縁がある。

　

(289)　　　地藏殿の苗字

　

　自分の郷里には祖母の代から交際のある地藏さんが堰溝の岸の松樹の下に立つて居られた。毎年夏の或日堂の前に筵を敷きて老若集り、かん／＼と鐘を叩き小豆の飯の握飯を食べる。半袖後紐の我々は地藏さんが右の手に持つて御坐る三角な物もやはり握飯の類かなどと思つて居た。子供にも年寄にも一番心安い佛樣である。日本全國の地藏樣の數は事によると常備軍の數ほども有るかも知れぬ。一處に千體ある處もいくらもある。此等多數の御像を我々は一箇の聖者の分靈として見るべくあまりに馴染が深かつた。坐つたり立つたり丈が高かつたり低かつたり又は石屋の巧者に由つて面長丸顔色々であるのを見て、恰も親しい郷黨の知音に對すると同じく、それ／”＼に個性を附與してあの地藏この地藏を區別した。處々の地藏も靈驗に消極積極段々の特色があると共に、我々も此菩薩の名を呼ぶのに必ずしも何坂何橋の所在地を以てせず、妙に適切なる形樣の語を用ゐてゐることは人の熟知する所である。高木君は之を地藏殿の苗字と言はれた。苗字か名乘か知らぬが、之を集めて地藏の戸籍を作つて見ると、同時に又近世の民間傳説の一種の目録が出來るのは興味の深い事である。

　江戸と云ふ大町は地藏靈驗のまだあらたかな時代に地藏信仰の盛んな地方に出來た城下である。此因縁が果を結んで後から後から若い地藏が生れた。人の代は何度改まつても地藏の繁殖は止まない。繻子の股引に扇子ぱち／＼の洒落本時代を通り越して、明治となり大正と遷つても依然として地藏の像を頼まれる石屋がある。文化文政の頃の書十方菴遊歴雜記第三編の下にも界隈の多くの地藏の苗字を擧げて居る。所謂子守地痺子育地藏腹帶地藏の數は子安の系(290)統に屬することが分るが、日限地藏艶書地藏頬燒地藏落涙地藏鹽嘗地藏｜蕃椒《たうがらし》地藏水飴地藏に至つては、名の由來に一々の隱れたる傳説があるらしい。其所在地と共に山中先生にでも聞かねば分らぬ。場所の知れて居るのでは、深川本誓寺の花掛地藏、武江年表には鼻缺地藏とあつて、享保三年二月十五日より流行し始めたと見えて居る。同じく六間堀要津寺の拍子木地藏、此は御禮に拍子木を奉納する。淺草砂利場の文箱地藏は艶書地藏の亞流であらう。又此近所に水掛地藏がある。早稻田には賢勝寺の疣地藏、又落馬地藏と云ふのもある。地藏の氣風の甚しく荒かつた時代の遺物である。駒込では土物店常�ｺ寺の身代地藏、又片町大圓寺の炮烙地藏は此寺門外の石地藏は笠の代りに炮烙を被つて御坐つた。小石川には餌差町善雄寺の引接地藏、同じく戸崎町喜運寺の豆腐地藏は、豆腐が御好とて之を獻納する者多く、寺僧豆腐には不自由せなんだと云ふ。之に就て一條の話がある。享保年中此寺門前の豆腐屋に毎日夕方八九歳の子供が豆腐を半梃づつ買ひに來る。勘定の時見ると錢箱の中に小石六つ七つ雜つて居る。きつと化物と云ふことで或夕待伏せて豆腐庖丁で子供を斫つた處が後で見ると古びた石の破片が落ちてをり、堂の中なる石地藏が右の肩先を切取られて居たと云ふ。石地藏の化けて斬られたと云ふ昔話には深い仔細があるかと思ふ。

　田舍の地藏樣は今些し施行又は農作と云ふものに關係が多いやうである。其話は後の爲に貯へて置き又讀者諸君からの報告を待たうと思ふ。唯一寸小口を開いて見たいのは、同じ遊歴雜記第二編の上に、今の埼玉縣南埼玉郡萩島村大字野島の淨山寺の延命地藏は慈覺大師一刀三禮の御作、俗名は片目地藏、攝化隨縁の御方便さま／”＼にして、或時は茶畑に入つて眼を損じ、之を洗はんと門外の池水を掬びたまひしより、今に至つて池の魚も皆片眼である。此地藏夜な／＼出でて隣里を遊化せらるゝを以て、住職紛失を恐れ御背に釘を打ち鎖にて繋ぎしかば忽業病に罹つて死す云々。信徒の者子を設けたる時は、地藏に向つて請?を出し、其子を地藏の奉公人として置けば無病息災であると云ふ。此話には金岡の馬の物語、所謂化地藏の物語、片目の魚の話などが雜然と織込まれてある外に、近頃迄存して居る假に子を棄て子を拾ふ風習、或は路人に子を賣ると云ふ言傳へが、やはり子安地藏の信仰に關聯することを示してゐる。(291)地藏は常に子供の友達であつた。賽の河原の昔話は到底簡單に説明することは出來ぬやうである。

　

(292)　　　水引地藏

　

　數ある地藏殿の苗字の中、人間の苗字伊藤小林に該當する者は所謂身代り地藏の一黨である。其靈驗が言はゞ常識に富んで居て、近世の有難連にもよく理解し得る有難味である。其代りに話が平凡である。併し猶一段の細別を試みると、此中にも幾分家風の變つた一派があつて、遠く其血脈をかの徒然草の土大根に引いて居るものがある。之を假に足泥流と名づけたいと思ふ。次の一例を代表者と見るならば又水引氏と名づけても宜しい。天正の昔筑後が大旱魃であつた時、三瀦郡流村正覺寺の住職三甫禅師、深く供田の退轉せんことを憂ひ、本尊地藏菩薩に祈請した。或朝佛壇の泥に汚れたるを怪み、厨子を聞いて見れば本尊腰より下泥まみれにして蓮坐もよごれて居た。植ゑ置いた田を見ると水湛へて畔に溢れたり、此より正覺寺の水引地藏と稱すとある（筑後地鑑上）。

　萬民の爲めに雨を降らす迄は力及ばなかつたのか、兎に角地藏が寺の者に代つて水を引いて下されたのである。薩州鹿兒島の西郊江月門と云ふ處の農夫、一日田を耕すに牛勞れて鞭うてども行かず、日も夕に傾かんとす、素より村長の譴責急なれば甚憂ひ苦しんだ。時に一人の小僧忽然として來り牛の鼻を取り之を牽けば、進むこと常に倍し容易く數畝の田を耕し終つた。寺の名を問へども莞爾として答へずに去る。家に歸つて後日頃信心する地藏を拜するに御脛泥によごれて居た云々。今の西田村茶園迫にある鼻取地藏堂は即ち此菩薩である（三國名勝圖會六）。大和の金剛山七坊の中、朝原寺の田植昆沙門は古は自身田を植ゑられた。故に今でも御足に土が附いて居る（大和名所圖會五）。此も地藏ではないがやはり奉仕者の手助の爲であらう。陸中の遠野郷ではオクナイサマと云ふ神が、小僧の姿で家主の(293)田植を手傳はれ、縁から座敷へ泥の足跡が殘された（遠野物語）。此等の話の特色は神又は佛が特に之にかしづく或人にのみ厚い惠を施されたと云ふ點である。金光明や、仁王經の靈驗とは方向のちがつて居る處である。此では寺は何の爲に建てたものかよほど分らなくなつて居る。此も薩州高城郡水引村の泰平寺の鹽大黒天は同じ一例である。昔此寺に鹽が缺乏した時、本物の小僧が戯に地藏に向つて、かく安坐してゐたまふよりは鹽でも持つて來られたら如何と言つたら、其後數日の間大黒の姿が寺に見えなかつた。不思議の折柄に甑島から鹽が一般到着した。船の者に訊ねると泰平寺の僧と名乘る一人の法師が島中を巡つて鹽を勸進した。其僧も同じ船で歸つて今寺へ入られましたと云ふ。驚いて大黒天を見れば御足泥土に染み壇上に足跡があつた（三國名勝圖會）。武州國分寺の本尊藥師佛の縁起に依れば、源頼義奧州征伐の時深く此藥師に訴願して出陣した。其日から本堂の東の山の頂に日々甲冑を着し北方を見つめて立つて居る人がある。山に上つて見れば更に人の影も無い。或雨の日朝に十二神の神將の珊底羅大將の御足を見ると土が附いて居る。又後の雨の日に氣を附けると外の大將たちも泥足になつて御坐る、是に於てか十二神の北征を加護したまへるを知り山を人見山と名づけたと云ふ（遊歴雜記二編下）。愛國心の爲に管轄を忘れられたとも思はれぬ。救世の本願弘大なるべき國分寺の本尊までが、世降つてはいつしか護持佛の個人的關係に立たれるのを見れば、地藏が一人一職の靈驗を提げて比丘比丘尼の徒の爲に南山の四皓となられるのも是非が無いと思ふ。

　江州愛知郡安孫子庄岩倉村の地藏は、縁起に依れば領主平師道の歸依する所であつた。師道戰場に臨み散々に敗北して主從只六騎となり、萬死一生と見えたる境に、一人の小法師例の忽然として現れ、敵味方の矢を悉く拾ひ取り師道に與へしかば、之に力を得て不慮の勝利となる。軍の庭より直に地藏堂に詣で、先づ寶前に禮拜して御戸を開くに、御足に泥つき御背に白羽の矢一筋立てたり云々。此より世人岩倉の矢取地藏と申唱へたと云ふ（淡海木間攫五）。此地藏は其足を泥にし其背を矢にして居る。江戸時代の末まで一門繁昌を極めた身代り流の地藏は、或は此矢取殿などを中興の三星にして居るのではあるまいか。日本周遊奇談に依れば伊豫桑原村字畑寺に泥打地藏と云ふ石像が田の中に(294)在る。其側を通る者必ず泥を握つて之に打附ける。是が地藏の本願であると云ふ。名や形は水引系のやうにもあるが、自分は之を今一流の由緒ある地藏の後裔と信じて居る。

　

(295)　　　廻り地藏

　

　田舍にゐた頃、或家の庭前の石燈籠の袋に何やら佛體の彫刻してあるのを見た。主人の話に此は六地藏形と云ふよほど珍しい石燈籠だと言つた。何故に珍しいのか、誰か茶事に通じた老人にでも尋ねたいと思ひつゝ、既に二十五六年に及んだ。全く子供の時のことだから今までも覺えて居たのである。近頃になつて裏見寒話を讀んだら其第六卷に斯な話が見えて居た。曰く韮崎（甲州）を經て新府の舊城へ行く間に石燈籠あり火袋に六地藏を彫り附けたり。此は弘法大師當國へ來たりし折、石工をして之を刻ましめたりと云ふ。此火袋は日月の如く、常に循環して暫くも止ること無く、萬代不易弘法流布の證跡とすと云ふ。然りと雖權者の妙工なればかの燈籠のめぐると云ふこと人眼には見え難し。唯往く時に印の紙を附けて置き歸るときに之を見れば、西に在りし紙は東に廻りてありと云ふ（以上）。此話は東京でもよく言ふ枕返しの怪などと系統を同じくする者である。越中礪波の某地には踊松とて松樹の丸く輪を爲して立つて居る處があつた。其松は色々の姿をして居るが何度往つて見ても同じ處に同じ松は無いから、之を踊松と云ふと越乃下草に見えて居た。陸中和賀郡横川目村字グルメキにある和泉式部の塚と云ふ石塔は、其表に彫刻したる梵字日影に隨ひて巡つたと云ふ（二郡郷村志）。但し寛永度の開發に取除けられて夙に無いとある。此も亦次に云ふ廻塚の名稱から出た話であらう。甲州の六地藏なども只一つだけなら珍しくも無いが、實は爰に頗る幽玄なる意味が潜んで居るのである。其事を述べて見たい。

　若狹郡縣志の遠敷郡の條に曰く、玉置庄に地藏の像あり。日笠神谷天�ｺ寺井（ノ）口（以上は今の三宅村の大字）、加(296)福録兼田蟲生玉置（以上は今の野木村の大字）の八ヶ村の村民一宇毎に、一日一夜の間米を供へ香を奠し之を拜して隣家に送る。此の如くにして一村を廻り盡せば次の村に行き廻り盡す期なし。土人之を廻地藏と稱す。堂宇無し云々。之とよく似た例が多くの國にある。故に自分は右石燈籠の怪談を以て何か特殊の由來あるものと考へ始めたのである。御迷惑ながら知つて居るだけの事例を擧げると、出羽の庄内に於ては東田川郡本郷村に一つある。四五十年前の著なる三郡雜記卷下に依れば、本郷組には廻り地藏あり。七寸六分の立像なり。又｜本久佛《ほんきうぶつ》とも云ふ。本久はもと加賀の人にて、攝津の人難波權頭なる者と共に堰を築き、此邊の田地を開きし人なり、晩年入道して死す。之を地藏に祀る。八ヶ村を巡囘して今以て一家に七日づつ留めて祭るとある。此八ヶ村は本郷村の大字本郷砂川大針行澤上名川及下名川と小綱木川上の二つの字で、總高千六百八十石餘である。古い人類學會の報告第六に、當時はまだ學生であつた箕作元八博士が、備中阿哲郡上市村大字井村の婚姻慣習を載せて居られる。嫁取の節の村の若連中其家へ石地藏の類を擔ぎ込み酒を飲むとあるは、外の地方にもある水祝石祝と似ては居るが、亭主上下を着し出で迎へて地藏に向ひ、久しぶりによう御出下され有難く存じますと云ひ牡丹餅を供へるとあるは、此亦右の廻地藏らしき話である。

　土地に功勞のあつた人を村民が順次に祀ると云ふ例も右の庄内の一つだけでは無い。伴信友翁の神名帳考證、尾張知多郡阿久比神社の條に、集説の説を引用して、今の英比《あくひ》庄｜稗宮《ひえみや》村の八幡社是かと云ひ、其次に英比《あくひ》庄の土俗古より英比殿と號する男女二?の小像を奉じ、庄内十六ヶ村の民家毎戸一日一夜を以て交轉して之を祀る。蓋し昔日社ありて亡びたるものか云々と記して居る。尾張志にも同じ事實を載せて次の如く云ふ。菅公の子英比麿は英比郷の開發にして英比殿と云ひ一郡を領す云々。後世英比殿の木像を作り、郷中數十村の民家一日づつ順番に此像を宿し、立臼の上に安置して禮拜す。之を廻り地頭と云ひ、又僧形に似たるを以て廻地藏とも云ふ。知多郡志は二十年ばかり前の著であるが同じ話を録し、今に至りて其事絶えず奇と云ふべしと言つて居る。英比殿は知多出身の華族久松氏の先祖と稱して此地方の誇とする偉人であるが、之を地頭と呼ぶのは寧ろ附會の感がある。地藏と云ふのにも固より確かな(297)根據は無いけれども、右の如く隔絶した各地に於て同じ名目のあることだけは注意せねばならぬ。思ふに氏子が順番に神を迎へて祭ることは多くある例である。只此の如く寧日も無く頻繁に家を移す點が異なつて居るのみである。鎭守の祭の頭屋頭人或は近世的に當番などと呼ぶ家では、單に出て社の儀式に仕へるのみならず、當日家内を淨め神酒鏡餅で神を迎へる仕度を爲し、或は獅子頭などを出して飾つて置く例が多い。此獅子頭は又氏子の家を軒別に訪問してあるいたものらしい。之に就いても自分には永々しき話がある。陸中遠野では之を權現樣と呼び、其宿をした家で五升桝を伏せて安置したら夜分火伏せの奇特があつたと云ふ話も遠野物語に見えて居る。越後の長岡領の村々では王神と云ふ神を祀る風があつた。役高三十石以上の百姓鬮引にて一年交代に之を家に迎へる。延寶頃までは矛を牛の角にくゝり附け、其牛の心の儘に入つた家で之を祀る定であつたとも云ふ。此事は越後風俗志其他多くの書に見えて居る。此王神は八幡では無く藏王權現一言主の神であつたやうである。一言主は亦託宣の神である。越中婦負郡長岡村附近の口碑には、兄弟の家で牛頭天王を交互に祀り、或は角力を以て一年間の神宿を定めた。今の百塚村の天王社に角力のあるのは其痕跡だと云ふことが、詳しく肯構泉達録卷二に見えて居る。紀州高野山には巡寺八幡宮及び巡寺大黒天があつた。續風土記中の此山行人方記録の六に見えて居る。一寺に半年づつ留りて祀られる。八幡は二月七日と七月二十日、大黒は五日と霜月の晦日に、祭の行列を以て次の寺へ送る云々。此等は皆地藏に限らず多くの神體が定まつた社なく行く／＼祭を享けられた古來の例である。

　自分の見る所では、神巡幸の風習と廻地藏の名目とは名實二種の古傳の混同であらうと思ふ。後者は寧ろ諸國に多く殘存する廻塚廻神の信仰に縁がありさうだ。神都名勝誌を見ると、伊勢の山田には十二ヶ所の廻神があつた。社の址とも云ふ所が多くは路傍の置石である。伊勢濱荻などに依れば、昔は内外の宮の周圍に此神甚多くあり、古くは外宮儀式帳にも宮廻りの神總て二百餘前と見えて居る。内宮にも百二十餘前の廻神があつた。即ち今日の學者の説をきけば廻神は即ち道祖神のことだと言つて疑つて居らぬ。紀伊海草郡椒村大字椒濱の廻神社なども、續風土記の編者は(298)天一太白神即ち一夜廻の星の神ならんと云ふが、社家の説では祭神猿田彦である。而して村の名のハシカミは端神即ち境の神の義であるらしい。村の境をメグリと云ひ、境の木を廻木と云つて氏神神幸の靈場とする例は甲州東八代郡もと圭林村の熊野社にもあつた（山梨縣市町村誌）。道祖も猿田彦も地藏も共に境の神であるから、廻地藏は單に境の地藏と云ふことに過ぎなかつたのを、何時の世にか巡りて祀を享くる由緒不明の神像に其名を轉用するに至つたのかと考へる。盛衰記に西光法師當時有難き願を起す。七道の辻毎に六體の地藏菩薩を造り奉り、卒都婆の上に道場を構へて大悲の專像を据ゑ奉り、之を廻地藏と名づけて七所に安置すとある。山城の名勝志に其地を列擧して居るのを見ると、共に京都の市街の境である。即ち大津路には山科の四宮鳥河原、宇治道には木幡里六地藏町、攝津路には上羽の造道、長阪路には蓮臺野、鞍馬路には美曾呂池、丹波路には西七條、龍華越には西坂本であつて、第四と七とは今は絶えたとある。要するに廻り地藏の境地藏であることは大略明かである。而もそれが轉じて石燈籠の怪談となるまでの長い變遷には、中々複雜なる來歴のある次第である。

　

(299)　　　子安地藏

　

　我々の地藏は子供がお好で大人には存外嚴格である。南路志續篇稿草卷二十二に採録したる怪談抄の中に、土州山内家家中乾氏の表石垣の邊の一所、物無くして人のよく蹶く所あり。或年の夏門涼のとき、若黨爰にて假睡してありしに僧來りて連夕告る所あり。之に由りて地を掘り見るに、平石に地藏の半身彫りてあるが石垣の内に在り。乃て淨洗して小丁稚に命じて常通寺へ遣りしが、此子供中途地藏の包薦に繩を附けて引摺つて行く。傍輩の仲間途中に出會ひ之を戒め自ら肩に擔はんとすれば、兩足しびれ歩行ならず。再び小者に渡しければ又繩を附けて行きけり。其仲間屋敷へ歸るや否、俄かに發熟して譫言を云ふやう、折角丁稚に引張られて面白く思ひしに、無用の誠を與へしゆゑ祟るぞとの仰なり。乃ちかの丁稚に頼み深く詫びければ無事になれり。其地藏は今も常通寺（高知）にありと云ふ。此話を見た人は或は思ひ出されるかも知らぬ。以前佐々木君の遠野雜記の中に（人類學雜誌二八卷四號）遠野のカクラサマは野天に在りて、夏は子供らの爲に舟の用を勤めて川に浮び、冬は又橇に代用せられて走らせらる。而も之を悦びて之を叱る大人に對しては機嫌よからず。土淵村字大洞の野中のカクラサマなどは、斯して子供等の爲に川に流され、今は臺石と松の木のみあり。此神は諸々の神たちの道中したまふときの休場の神なりと云ふ（以上）。奧州のカクラサマは路傍の神には珍らしい木像である。しかとは判らぬが圓頭の御姿であつた。地藏の一族でないまでも、其外戚の道祖神とは縁が近さうだ。駿河新風土記に、今の安部郡豐田村大字曲金の軍陳坊社、比も路傍の荒神である。此社神體は常に子供の弄び物となり、之を叱つた老人に祟のあつたこと、其書物の出來た弘化年中より更に六七十年前の事(300)實だと言ひ、又程近い不二見村大字北矢部の十八祖社の神體たる烏帽子直衣の木像にも、同じ出來事があつたと記してある。遠江では小笠郡大池村、東光寺の藥師堂の古い木像に付ても同じ傳説のあること、此掛川志に見えて居る。信濃奇勝録卷一には、西筑摩郡の射手の彌陀堂の本尊の木像、五體既に完からず。春分の日兒童小弓にて之を射る。此日醴を造り兒童をもてなす。木像平日は菰の上に置く。繩にて樹上につるしなどすとある。此も同じ例である。

　佛像虐待の慣習は如何にも不審な話であるが、晴雨を?り乃至は瘧《おこり》を落す目的を以て、之を行ふと云ふ例今も稀では無い。それが又石地藏に多いやうである。化地藏切られ地藏の類に至つては、殆と言語道斷の冷遇であつて、何の爲に菩薩として置くのか判らぬ位である。併しそれにも然るべき中世的理由があつたのであらう。我々はそれを忘れた。十方菴遊歴雜記の初篇の中卷に、江戸淺草山谷の玉姫稻荷の北側になる峽通りに、出山釋迦の石像があつた。以前は露佛で曾て小兒が戯れに棒で首を打落したるを、あわてゝ元の所に繼いだれば其まゝ附いた。其首些し右へ向き筋の跡がある。安永年中の出來事ならんと書いてある。首の取れた石佛は何處にも見かけるが、又附いたと云ふのは奇瑞である。房總志料續編卷五に、今の長生郡西村大字佐坪の邊に、ヘボロ地藏と云ふのがあつた。里人曰く、地藏の石像御首缺けて落ちけるを、童子ども集りてヘボロを粘して附けけるに、よく附きて後落ちず。因て願ある人ヘボロを捧げて祈る。見るにヘボロの玉を絲に通し珠數の如く御首に掛けてあつたと云ふ。ヘボロは方言であらうが何物であるか。あの地方の人に承りたいものである。

　さて右等の石佛木佛は何故に小兒にのみ論外に寛大であつたのであらうか。此間に臨んでは人は先づ子安地藏の事を考へるであらう。地藏は賽の河原に於ても又此世でも、殊に子供を憫れまれた。赤子を抱いた地藏樣もよく見るし、時によつては御自身も涎掛けなどを掛けて御座る。併しそれは唯罪の無い赤子に對する慈悲と云ふ迄で、世にも不思議な意氣の投合は、とても尋常の教理からは説明ができぬやうに思ふ。猶進んで云ふと、子安が特に地藏の任務になつたと云ふのが、既に理由を知り難い。尤も子安は地藏に多いと云ふのみで、外に子安觀音も子安釋迦もある。ごく(301)古い所を尋ねると、兒安神と云ふ神もある。此等の名ある神佛に對しては、古今ともに子育安産を願つたに相違ないが、其理由は全體如何であつたか。試に自分の假定説を述べて置かう。凡そ世中に子供御好と云ふのは、佛道では地藏さま、神の中では道祖神、而して此御二方は、かのサヘノカワラの語でも推測せられる如く、本地垂跡の御間柄で共に行路の守護者である。道祖神の祭は何れの地方でも子供が神主である。正月十四十五の左義長には子供等が集まつて小屋を掛け、村中を勸進して米錢を貰ひ集め、或地方では旅人を抑留して無體に賽錢をはたり、或は棒を以て花嫁花聟の尻を叩き妙な祝ひ詞を唱へるのを吉例としてゐる。信州松本の幸神祭などは、今はどうか知らぬが、以前は子供の中より一人を選定して柱の下で神託を宣べさせたと鹽尻に見えてゐる。蓋し小兒を依坐とすることは勿論道祖神のみの祭ではない（郷土研究一卷二五〇頁以下）。けれども今日でも著しく遺風を存してゐる如く、此種の路傍の神の祭に殊に幼童を用ゐることが多かつた結果、大人よりも遙かに神の心に通じて居るものと認られ、大人には大失禮と見える行爲でも、何か相應な仔細があつて神意に叶ふのだとせられたのでは無いか。而も子供は棄てゝ置けばよい事にしてどんな惡戯でもする。後世の神主等が意識して惡い事をしたのとは違ふが、此は無邪氣に神意を矯めて行つたので、何れにしても神と人との距離を擴大し、神を人情に遠いものにしたことは同じである。地藏や阿彌陀に就いては次第に託宣と云ふことが行はれぬやうになつたが、此等も子供を介して佛意を伺つたらしいことは、射手の阿彌陀堂の彼岸の弓の行事でも想像せられ、佛にも一種の倅別當のあつたことは、是亦房總志料續篇に、夷隅郡名阿の瀧泉寺の觀音堂、堂守無く、子供賽錢を取りて飴菓子等を買喰す、大人之を取る時は祟ありとあるのを見ても略々わかる。子安と云ふ神�ｺ佛�ｺは即ち寧ろ此慣習の結果の方で、後日靈託宣傳の職務に就くべく豫約して、安産と赤子の生育を願つたのが、轉じて所謂申し兒の信仰となつたのかと思ふ（同一卷四二五頁參照）。若し然りとすれば、武藏南埼玉郡野島村の延命地藏に、子供を奉公人として請?を差出し、其子の無事息災の祈?にすると云ふ奇なる風習も（同一卷二二三頁）簡單に解説し得るやうに思ふ。

　

(302)　　　黒地藏白地藏

　

　馬琴が昔話質屋の庫の挿畫に、化地藏の旅人に斬らるゝ處があつた。少年の頃此書を見て、凡そ世中には是ほど有得べからざる事は有得ぬと感じたが、今とても其感は同じである。只如何せん此話は諸方で聞く。例へば堺鑑に、堺の北莊皇子が飢《ママ》の北の邊に、昔は辻堂あり順禮などの休所なりしに、夜な／＼奇怪あり或夜道行人行き合ひ化生の者を切る。明けて見れば即ち地藏なり。故に首切地藏と名づく。諸願の祈に驗あらずといふこと無し。其時の太刀の痕現に拜まれたまふとある。伊豆志卷四にも、仁田村の束束そ（？）と云ふ所の藥師堂の傍に、昔は石地藏あり、夜深に鬼女に化け通行人の髪を引く。狩野領の若侍に手を切落され林中に遁げ入る。夜明けて見るに地藏の手田畔に在りしと云ふ。故に手無佛と云ふ。後に人盗み去るとある。此類の話に於て最も注目すべき點は、それ等非社交的の地藏が終に此が爲に庶人の尊信を失はなかつたことである。即ち人間の刀刃に由て威嚴を失墜した廉は顧みず、化ける程あらたかな地藏として永く之に憑頼して居たのは、不思議と言はゞそれ迄だが、何か仔細が無くては叶はぬ。但し人に斬られたと云ふ一條のみを以て、此一派の出自を千年來の名門たる身代り地藏の系統に求めんとするのは亦速斷であらう。身代りの方には熱心なる歸依者があつたから其爲に劍下に立つたのだ。何等此種の約束無くして首を切られ手を落された地藏を、之と同列に視るのは如何である。試に自分の意見を言ふならば、此派の地藏の特色は單に人に切られると云ふに在つた。我々がそれを無意味と考ふると同じく、昔の人も夙くより其趣旨を解し兼ね、何もせぬのに切られる筈が無いと。幸ひ地藏所在地の近旁に通例存在する化物の話を取つて附け、化けて通行人を劫かしたから(303)斬れたのだと、近世普通の社會の法則を以て其説明を試みたのである。是は切られた地藏に取つては實に二重の迷惑である。併し今日ならばまだ幸ひに反證を擧げ得る。即ち惡い地藏で無い證據には切られても信者があるのみならず、明白に何も惡い事をせぬ地藏でやはり同樣の虐待を受ける例は、前に子安地藏の篇で列擧した如く段々ある。是が所謂闡提の徒に取つて地藏の最も有難い點である。地藏は要するに、理想的の社會改良者であつた。聖者の聖たることを解せぬやうな無智蒙昧の者を得度するのが其御誓願であつた。故に?々好んで右樣の虐遇を受けられた。其例として今囘述べるのは、一つには相州鎌倉二階堂圓覺寺の黒地藏、地獄を廻りて罪人の苦しむさまを見、自ら火中に投じ救はれしより、火にくすぼりて色黒し、幾度彩色を改むるも一夜の中に色黒く元の如し、又火燒地藏とも云ふ（東海道名所圖會）。山海里卷十に火燒地藏又は黒地藏とあるのと多分は同じ地藏であらうが、此には地獄の罪人の苦みを輕めん爲に獄卒に代つて火を燒きたまふとある。地獄往來のことは他日文筥地藏を説く場合に言はう。此説明は要するに説明にならぬ。浪華百事談七に依れば、野中觀音堂の門前に在つた石地藏は墨汁を注ぎかけられ常に眞黒なり。願成就の時には必ず墨汁を持來り洒《そゝ》ぐ。故に墨掛地藏と申す由。近世は知らず、鎌倉の黒地藏も以前は此類の虐待を受けた爲に其名があるのであらう。之に對して伊豫の道後には粉附地藏がある。粉附地藏は或は子好地藏かとの説もある（日本周遊奇談）。羽柴翁の報ぜられた莊内のもろみ〔三字傍点〕地藏（郷土研究二卷四九五頁）の如きも恐らくは此亞流で、古い由緒のあることらしい。駿州鈴川の附近にも小僧〔二字傍点〕に化けたと云ふ石地藏、是亦白粉にて化粧せられ（田子の古道）、大阪天王寺の地藏も十一月十六日の朝面に米の粉を塗られ、其夕方には又藁火を燒きて顔をいぶし明年の／＼と囃し踊りし由（浪華百事談九）。攝津落穗集四には之を地藏とは言はず、道碌神の祭と言つて居る。道碌神は即ち道祖神のことで、地藏と道祖神との間柄はラフカヂオ・ハーンと小泉八雲氏との間柄である。羽後苅和野の町では上元の祭の日に米の粉で道祖神の木主を塗る風があつた。道祖神は子供の勸進する神である。從つて子好地藏の附會も多少の意味が無いとは言はれぬ。此派の地藏にはまだ／＼面白い種々の歴史があるやうだ。次にはそれに及ばうと思ふ。

　

(304)　　　掛神の信仰に就て

　

　本誌上に於て甞て加藤博士は日本の宗教發展の一例證として人の贄のことを言はれたれど、古くは奇稻田姫の物語又は今昔に見えたる美濃の猿神、美作の中山神の祭の話などが聊も傳説化せられざる實事談にして、從つて現今諸國の杜に遺れる人を神に供ふる儀式は右等慘酷なる殺戮の舊慣を緩和したるものと云ふことは容易に下す能はざる斷定也。

　人身御供の古式と稱するものは諸國を求めば數十の例あるべし。自分の知れる中にても和訓栞に引用せる伯耆國汗入郡某社の話と云ふは假令其廢絶が近く元龜年中に在りと云ふも其樣式全然例の八俣蛇以下の物語と同類なるを以て見れば謠の「生贄」に見えたりと云ふ駿河元吉原の六神子祠の舊傳と共に一の小説に外ならざるべし。此話は岩見重太郎の武勇傳中にも在りて幼時村芝居にて見たることあり。

　能登國名跡志に依れば同國輪島河合町の重藏宮二月七日の大祭には山中の神泉を汲みて櫃に入れ其上に肩衣一具と珠數一連とを載せ深夜に之を神に供ふるを昔の人の贄の遺風なりと云へり。右の神秘なる古傳を信ずとせば是亦佛教の化導が民間の蠻風を攝伏せし一例なるべく即ち八俣蛇傳説の一變形なりとも云ふを得。而も其口碑の漠然たるだけ中世造説の餘地は豐にある也。

　又之に反して最も露骨に古傳を表現する者は上總君津郡檜原村大字坂戸市場の坂戸明神の祭の式なり。房總志料に依るに昔人身御供ありし名殘とて村民の鬮に當りたる者を神前に引出し俎の上に載せ巫祝屠刀を揮ひて裁割の眞似を(305)爲す云々。此例などは誠に人の肉を神に供へしことあるを推測せしむるに足ると云ふべきも餘りに奇拔に過ぐるが故に却つて信ぜられず。之に就て一考を要するは此神の本原なり。坂戸明神は一には逆手明神とも稱す。サカド、サカテは數多の例ありて邑境の義なり。武藏入間郡の坂戸町と共に邑落の境なるが爲に即ち市場ありし也。而して境上に祀らるゝ神は多くの場合には外敵防禦の神なり。東京東郊の逆井《さかさゐ》村又上野邑樂郡多々良村字｜坂齋《さかさい》等多くのサカサイは即ち境道祖にして境上の鎭防神を意味する地名なり。坂戸の坂は宛字に過ぎず。右の假定の下に諸國の人の贄の祭式を比較すれば其供物となる人が多くは他所者なることは最も吾々の注意を惹く也。例へば年中行事大成に見えたる尾張中島郡國府宮の直會祭と云ふは行旅の人を捕へて之を神に供へ之を放ち還す折には土にて作りたる大なる鏡餅に錢一貫文を添へ首に掛けさせて遣るに其人走りて必ず一たびは道傍に倒れ絶入す。其倒れたる所に彼土の鏡餅を埋め塚を築く。是れ社家深秘の神事なり云々。右の道傍に塚を築くと云ふは亦境上鎭護の祭式なるが如し。今日の境塚には單に目標の用を爲すに止り信仰上の意味無きものあれど自分は中世無數に築造せられたる葬處ならざる塚の名稱を比較して多くの塚の境に築かるゝと同時に總て境の神の祭祀に因あることを知れり。序を追ひて其説を公にせんとす。次に同じく年中行事大成に山城葛野郡東梅津村の蒸講の式見えたり。氏神松尾神社の例祭二月の中の酉の日には頭屋に當りたる者の家に大釜を据ゑ小兒又は他郷の人を捕へ之を抱きて彼釜の上にて三度蒸す眞似を爲す。疱瘡痲疹の禁厭なりと云ひ其事に與る者は悉く婦人なり。此式の後頭屋にて高盛の飯を食し鉦大鼓を鳴して念佛し發願經を誦す云々。昔は疫病は悉く外人に伴ひて侵入する者と信じ境上に於て邪神を祭却するの際は最も他所者と接觸することを忌みたり。鉦鼓踊躍を以て疫神を送るも全然之と同じ意なり。されば梅津の蒸講の如きは蒸すには非ずして淨め祓ふの式なること彼大化の勅書中に見えたると同じかるべし。婦人に限り此式に携はるも亦此祭の巫女の信仰と因あるものなることを想像せしむ。

　大和龍田の社の近世の祭にも通り合せたる旅人を強ひて引來りて神に供ふる例あること曾て見たれども今書名を記(306)憶せず。此種の慣習は求むれば外にも存するなるべく此祭に用ゐられたる人は天壽を縮むるなど云ふ風説あるが故に土地の者は之を厭ひ他所の人を代理せしむる也とも想像し得ざるに非ざるも、此の如き手前勝手なる理由は決して特權として公認せらるべきものに非ず。前に擧げたる上總の坂戸市場の祭又は和田千吉氏の話されし播州姫路附近の某村の祭の如く氏子の中より順番又は抽籤を以て神に供ふべき人を出すの風は恐くは却つて外人を得ること難くなりて後の變例と目すぺく最初は何れも他郷の人を以て供物と爲せしこと駿州元吉原の神が海道を上り行く旅人を贄とせしと同じきものならん。邪神が貢物を要求せりと云ふ中山神其他の傳説に至りては此反對の側より見たる觀察即ち他郷に行きて此の如き義務を負はされたる者の記事より誇張したるものなるべし。

　此假定を助くべき人祭の例は筑前那珂郡住吉社の鬼平《おにむけ》の祭又は同國香椎宮の鬼の神事なり。共に正月七日の祭禮にて人を捕へ鬼と稱し之を追ひて捕縛し神前に牽來る者なり。追儺又は鬼追と稱して敵人を假設し神人之を驅逐するの祭典は全國に數多くありて最も古式なり。此式の趣旨は全く外來の邪神を攘却するに在りて昔時部外の人民に對し不安不信の念を抱き一切の害惡は彼等の將來する所なりと信ぜし遺意にして神社の機能は主として之を防衛するに在りしなれば其靈�ｺを表現する爲に年々外敵征伏の神事を假装するに至りしものなるべし。

　併しながら此等の儀式が外敵征伏の趣旨を含むと云ふ一事を以て直に上古人を屠りて神に饗するの餘風と斷ずるは甚不當なり。積極的の證據なき限は種々なる供物は各其用法に從ひて之を奉獻するものと推定すべし。語を換へて言はゞ人の肉や血は何れの時代の思想にても我國では決して御馳走には非ず。鳥や獣を神に供ふるは之を神の食物と爲さん爲なりとて人の供物も亦然りと云ふことは無理なれば、生きたる人を供ふるは寧之を以て神奴と爲さん爲なりと目すべし。俘囚を大廟に獻ぜられし記事など思ひ合すべきなり。要するに自分は魚鳥獣の生贄と人の供物とは到底同一の系統の者と考ふること能はず。彼慣習は此一改良にしてかの「羊を以て之に換へよ」の意又は野見宿禰の埴輪の趣旨などゝ同一視することは出來ぬ也。

(307)　鳥獣を以て神に供ふるの神事は其例少からず。神宮にては宍を忌み血を穢とすること久しき以前よりの思想なるが如きにも拘はらず、由緒ある社にして此慣習を傳ふるものあり。例へば信濃の上諏訪の神の三月酉日の祭には鹿の頭を七十五俎に載せたるまゝ供物とし又別に其宍をも盛りて供ふ。同じ國飯田の鎭守にても大なる鹿の頭の作り物を引出すは之と同じ祭にて恐くは狩に因あるものなるべし。三河官社考集説に依れば寶飯郡小坂井村の神は式の菟足《うなたり》社なるべし。其社の祭には雀を生贄とす。之を風祭と謂ふ云々。宇治拾遺物語に昔此國の守が國神の風祭に猪を生けながら神に供するを見て無常の感を起せしこと見ゆ。菟足社の雀も元は大なる獣にてかの古語拾遺に大歳神を祭るに白馬白猪白鷄を用ゐしなど同じ慣習なるべし。生贄は生けたまゝにて奉る贄にて食物の新鮮を保障する誠意ならん。伊勢の皇太神の御物にも生贄あることは儀式帳等に見ゆれど、此等の大なる動物を屠るが如き慘酷なる慣習は少くも我々が浸染したる日本の神道とは相容れず。思ふに式以前の神道なるものは決して平田先生などの唱へられし如く單純一元の信仰に非ざりし也。正史の記事に見えたる牛を殺して漢神を祭るの風を始として色々の神社が雜然として併立せしことは諸國大社の官祭に於てすら既に著しく祭式及供物等の區々なるにても之を察すべし。皇室御自の祭さへも御巫の奉仕するもの迄を加ふれば彼此甚しく一樣ならざりし也。況や信仰の問題に關してはあまり干渉を加へられざる民間下級の生活殊に田舍の神祭にはよほど奇怪なるものもありしなるべし。佛教は本來貴族の宗教にて念佛宗の起りし頃迄は一部寺領内の住民等を除くの外は、田舍人は甚しく時代の高僧偉人たちとは縁遠く迚も加藤氏の謂はれし如き良好なる感化を受くべき機會は無かりしものと信ず。

　さればその鳥獣殺戮の神事の如きは假令食人習慣の痕跡として珍重する能はずとするも血穢の忌嚴重なる祖神の教とも離れ殺生の戒律八釜しき佛教とも獨立して古くより連綿せし事實夫自身に於て十分趣味ある研究題目なり。眞言宗の信仰などが其渡來の後に於て更に此等の外道と習合せし形跡あるを見ても、自分は日本佛教史の背景として是非とも此等所謂淫祀の歴史を調査する必要ありと考ふる者なり。

(308)　卑見にては生贄の神事は多く狩獵と關係あり。狩の前又は後に祭祀するは即ち山神なるべし。此山神は近代の神道家が言ふ如く大山祇とは縁ありとも思はれず。大山祇に關する古史の記事には些も後世の山神祭と共通なる特色なし。山の神が荒き神にて境を守りて人の入來に對し諸種の條件を附する點は寧ろ道教中の山神に似たり。而も此山口祭は我國に於ては延喜式以前より存せるなり。

　今生贄祭に關する二三の近代事實を掲げんに、石見外記に依れば彼國濱田の城下に近き那賀郡石見村大字黒川に三宮《さんぐう》と云へる神社あり。諏訪の神なりと稱す。祭は十二月二十六日にして其前日には村民出でゝ山野を狩し祭日には神前に棹打渡し獲物の鳥獣を之に掛け列ねて供物とす。此式をば贄狩と云へり。土佐香美郡の山村｜韮生《にらふ》郷にも之に似たる神事あり。南路志に引用せる柳瀬貞重筆記に依れば此郷の川上大明神の祭には昔は猪鹿の肉を供物とす。祭の前に狩の獲物なきときは祭禮も延引せし也。或年猪鹿捕れずとて牛の子を屠り之を代用せしに神慮に叶はずして祟あり。其時より此祭の式は止む。此祭の式をカケジヽと謂ふ云々。川上大明神は貞觀八年八月授位ありし大川上美良布神なりと謂へり。石見の三宮も山宮なるべきか。

　薩隅日地理纂考に依れば、今の大隅姶良郡東｜襲山《そのやま》村大字重久の止上《とがみ》神社の正月十四日の祭にも贄祭の式あり。社の西方に僅なる平地あり。地名を眞名板《まないた》と云ふ。田間に隼人塚と云ふ塚あり。里民初獵の獲物の肉を三十三本の串に貫き牲として之を祭る。或は隼人の靈を祭るとも云ひ或は隼人退治の故事をまねぶなりとも云ふ。隼人の靈を祭ると云ふは塚の名に基く附會にして塚は却りて串を立つべき場所即ち祭壇なるべし。只此に就きて注意すべきは串の數の三十三なること及神の名のトガミなること也。三十三塚と云ふ塚は諸國に多くあり。十三塚とは縁ありや否を知らざるも塚の數の此の如く多かりしには非ざるが如く地方によりては首塚と稱し戰場にて得たる首の數が三十三に達すれば塚を築きて供養せしなりとも云ふ。又トガミは門神即ち境の神なるべし。霧島山の山々に在りて山に入りて獣を狩る者山の神を祭りしならん。中々古き社なり。

(309)　狩の後獲物を以て山神を祭ることは現在にもあること曾て日向那須の猪狩に關する小編を以て之を報告したり。彼の山村にては此祭を爲すに定れる家あり。之を小田床《をだどこ》と謂ふ。猪は丸のまゝ之を小田床の家の軒に掛けて供ふ。但し猪を解く時にも亦山神を祭る呪文あり。之に關しては他日別に少しく述ぶる所あるべし。石見及土佐の祭は贄の爲に狩を爲すものなれど最初は亦大隅の贄祭日向の小田床と同じく狩に伴ふ祭典なりしが狩の業次第に衰へて唯神事のみ儼存せしならんか。肥後阿蘇宮の神事に下野《しもの》の狩あり。此も亦中世には神事を目的とせし狩なるが如きも其起源に於ては狩の爲に行ひし神事なりしなるべし。

　以上の諸事例の中殊に注意すべきは土佐川上神の神事がカケジヽと稱せらるゝことなり。シヽは食用の獣の總稱にしてカケは石見の三宮にて見る如く神前に懸列ねて供物とするよりの語なるべし。此慣習は諸國に行はれたりしと覺しく、今日地名として現存せるもの少からず、例へば、

　　備前御津郡圓城村大字船津字鹽谷西小字｜猪掛場《しゝかけば》

　　同　同　　同　　大字高富字藤田　小字｜鹿掛場《しかかけば》

　　播磨佐用郡佐用村大字本位田字｜鹿々掛《しゝがけ》

　　同　明石郡垂水村大字鹽屋　字獅子掛

　　上總夷隅郡浪花村大字岩船　字鹿掛

　　常陸多賀郡北中郷村大字磯原字｜猪掛《しゝかけ》

等の如し、此等は中世何れの時代にか韮生と同樣に掛猪の神祭ありし地にて恐くは狩人の往來集合するに便なる地なりしならん。

　神に物を供ふるに之を樹木又は巖などに引掛くると云ふは甚だ顯著なる特性なり。今日の神祭にても通例は假の折敷又は木葉などの上に供物を盛ることなるに一種物を木の枝などに掛けて祭る神あり。東京の近郊にても散歩の序に(310)多く之を見ることあり。大抵道神なれば路傍に在りてよく目につくなり。駿州富士郡の大宮にては境内清泉の岸に老木ありて其枝に藁苞其他種々の物を掛けたるありき。甲斐の道志にても路傍の木に竹の筒を二つ下げたりしを何かと問へば山神に神酒を奉ると答へき。かゝる例は枚擧に堪へず就中最多きは人又は馬の鞋を掛くることなり。藁鞋は供物としては似つかはしからざれば或は之を怪しむものあらん。諸國に沓掛と云ふ地名の多きことはよく人の知る所なるが、地名辭書には之を解して官道の側にして昔沓を掛けて之を行人に鬻ぎしよりの地名ならんといへり（碓氷峠沓掛の條に見ゆ）。此説は現今道祖神の小杜などに沓を掛け又は寺の仁王門に沓を掛くるの習慣あることを些も參照せられざりし説にて此流にて説明せば、

　　丹後船井郡摩氣村大字口司字鎌掛

　　三河額田郡形野村大字南大須字豆掛

　　同　北設樂郡田口町大字清崎字鞍掛

　　甲斐北都留郡梁川村字斧釜小字矢掛

　　伊勢飯南郡櫛田村大字清水字錢掛松

　　尾張名古屋市南區西熱田字幣掛

などの類は何といふべきか、而もかゝる掛（ノ）木、掛石の例は決して各種數ヶ所に止らぬなり。又沓掛の中にても相州箱根の畑宿｜西海子《さいかち》阪に沓掛石あり。同愛甲郡愛川村大字田代の沓掛阪が八管山の修驗者の行處なりしこと（共に新編相模風土記）などは如何に解すべきか、併しながら此説は獨り近世の吉田博士に限らず、たしか五雜俎なりしかと記憶す、草鞋大王といふ神のことを記し路人が戯に木に引掛けし草鞋が神として祀られてありしことを云へり。かゝる偶然の事實は日本などにて全國到る處に之を掛けて神を祭るに至りし由來の説明とはならぬなり。草鞋は不束なるものなれど之を信仰の具とするには深き仔細あるかと思はる。昨年秩父の山村にて或家の臺所に大なる馬の沓の新しきを引掛けたりしを見、之を問へば竈神樣なりと答へたり。竈神の信仰は古くは式の記事に存し御巫の徒既に皇室の爲に之を祭祀せり。之と馬の沓との關係は未だ明ならざれど恐くは馬蹄の痕が竈の形に似たるより言ひ出でたるものならん。

　又諸國の地名の中に掛神、掛王子などいふもの間々現存するは即ち右の如く草鞋其他色々の品物或は狩の獲物などを引掛けて祭りし神の祭地なるべし。掛くるといふことが此等の小祠の特色なりし故に自然に此一種の神道の名稱となりしものなるべければ此點より捜索せば或は其傳來を詳にすることを得んか。自分は此頃國々に存する塚の名を蒐集比較して其大部分が築造の當時より既に其名稱を以て呼ばれ決して通例學者の速斷するが如く後日偶然に附與したるものに非ざることを知れり。其證一に非ざるも先づ多くの塚の名は其附近に存する神の名と共通なり。一々の地名を擧ぐるは煩しければ敢てせず、唯其種類のみをいへば、

　　　戸塚　　　　戸神　　　　犬塚　　　犬神

　　　牛塚　　　　牛神　　　　狐塚　　　狐神

　　　ハシ塚　　　ハシ神　　　錢塚　　　錢神

　　　藤塚　　　　藤神　　　　松塚　　　松神

　　　カナイ塚　　カナイ神　　ソバ塚　　ソバ神

の類なり。此例を以て推せば諸國の掛塚と云ふ塚も亦右の掛神の祭壇として築きたる塚なるべく從つて此信仰は中古盛に行はれし封土教の一樣式と假定して今後の研究を繼續して可ならんか。自分が加藤氏の人の牲の説に付思ひ寄る所を言へば略々此の如し。

　

(312)　　　忌と物忌の話

　

　前にも此雜誌で述べたやうに、我々の採集は學問の爲の採集であり、又學問に由る採集であることを要する。さうして唯此點を以て、他の道樂の暇潰しと、區別せられなければならぬのである。

　採集の順序として、旅人の手帖が各村人の注意に劣る所以は、耳が始まりで目が其次の役をしか勤めないからである。式には時刻があり祭には季節があつて、偶然にそれに行き合せることは望み難い。單に旅人が目で見るものとしては、路ばたの信仰遺物、たとへば樹の枝に布を結はへ、片袖を手向けるの類、さては疱瘡神を送り境の神を祭るなど、何れも其時は過ぎ興奮が去り、熱心が薄れた後で無いと氣が付かない。又家々の門口の札、杓子に小兒の名を書いて貼り付けたもの、家に入つて火處の周圍、流し元や井戸の側にもよく色々の變つた風習の痕を見るが、是等の行事は概ね日を限つて居る故に、現場を見に行くことが容易で無い。從うて不確實な傳聞が多いわけである。

　耳で聽くものとして尤も最初の形をよく保存するものは、文藝の方面である。文藝は主として形式を以て保存せられる。故に器物に次いで久しく殘つて居る。歌は勿論一つ間違つてもすぐに訂正せられる。遊びの折に使はれる詞、それから仕事に伴なふ囃し言葉の類も、古風なものほど勝手には改めにくゝなつて居る。話にも定まつた形式がある。近年大いにこはれたが、併しまだ殘つて居る。外國では之を蓄音器に取つて置かうとする試みもあつたやうだが、それも思つたほど確實な方法で無い。速記や符號を使ふことも、まだほんの一部にしか行はれなかつた。我々はこの成るべく純なものを後代に傳へようとして、それは／＼大きな骨折をして居るのである。

(313)　手輕な採集には最も小さな文藝、たとへば物の名の付け方やコトワザがある。殊に諺は短かい美文であつて、一度耳にしたら忘れ難いやうに出來て居る。日本の採集家の爲に幸ひなことには、今まで地方で殘して置いてくれた諺には、至つて種類が雜駁である代りに、人が忘れかゝつて居る古來の俗信がまじつて居ることである。其中でも何等事物の形跡を留めないもの、たとへば一つ火一本花をきらひ、櫛を拾ふのは苦を拾ふのだといふ類、「忌み」を語り傳へた諺は實際は諺では無いけれども、今となつては大切な唯一の記録である。此部分が目を以て見てあるかうとする採集の計畫に、一番に差支へるものであり、村の人々の耳の働きに、最も多くたよらなければならぬものである。

　人が企てゝ行はうとする積極的の行爲は、大きな儀式的は勿論のこと、至つて手輕な作法や手わざでも、何れは誰かの眞似だから記憶せられて居り、又氣を付けて居れば見られる。まじなひは秘傳と稱しつゝも、しかも口から口へは常に傳はつて居る。日々の生活行爲などに伴なふ古い慣習で、事情を知らぬ者には無用に見えるしぐさ、例へば鹽花をふり切火を打つといふ類のことは、却つて餘計に目に立ち記述せられ又は語られる。之に反して我々の戒め愼んで敢てしない行爲、即ち消極的の「忌み」といふ方は、外から旅して來た者には氣が付かず、又理由を尋ねて見ようも無い。其忌みが活きて働いて居れば居るほど、其問題は外には表はれないのである。故にこの雜然たる俚諺の中にでも交つて殘らなかつたら、一番に早く消えて無くなるべきものであつた。といふわけは禁忌の必要は多くは時を定めて起るからで、たとへば姙娠中に何々を忌むといひ、或は火事のある際に我身に觸れてはならぬといふが如きことは、一度其規則を守らぬ者が出ると、次のさういふ機會までには時がある故に、もう其間に子女は之を忘れてしまふ。即ち禁忌は弛み易く盛んに消えて行くべきものであつた。それが俚諺として記憶されて居たお蔭に思ひがけず、我々にも傳り教へてくれるのである。

　しかも自分が此方面から、氣を付けて集めて見たものは、案外に其數が多く、又奇妙に全國がよく似て居るのであつた。たとへば小兒が蚯蚓に限つて小便をしかけてはならぬといふ戒め、及び之を犯した場合の制裁の如き、どこへ(314)行つても同じといつてよかつた。さうして其中には可なり肝要な古い信仰の含まれて居るかと思ふものも幾つかあつた。それで集めて見た以上は是非とも分類をして見なければならぬと思つたのであるが其方法には一寸迷はざるを得なかつた。

　最初には佛蘭西のセビオ氏などのやつた樣に、問題となる事物によつて分類しようとして見たが、是は結局無理だといふことが判つた。たとへば小兒が頭に被つていけないといふ道具には、桝もあり箕もあり籠もあり笊もある。それを一々の品によりて別のものと見るわけには行かない。屋敷の内に栽ゑるのはよろしくないといふ植物なども土地によつて一樣でなく、畠に作らぬといふ作物なども胡麻もあり玉蜀黍もあり大根もあるが、それをどうしてかと尋ねて見ると話は最もよく相似て居る。殺してはよくないといふ蟲や鳥、是も同じであり又異なつたものがあり、其習はしを破つた者の制裁が區々になつて居る。要するに忌みと稱して人が戒めて居るのは行爲であつて目的物ではないのだから、其行爲によつて分けるなら分けて見るより他には無かつたのである。

　忌する行爲には、通例は三つの要素が伴なうて居るやうである。即ち蚯蚓とか胡麻とかいふ目的物そのものの他に行爲者の身分?態、即ち女だから又は身持ちだから、同い年だから喪中だからといふやうに或人に限つて戒められる場合が多い。第三の要素は時であつて、忌は一般に誰にでも課せられる場合があつても、其強制は必ずしも連續的で無い。この第三の要素だけは、近世の傳承には稍々輕く考へられる傾きがあるが、是には自然の原因のあることで、或一定の時に嚴重に戒められ、それを犯すとひどい制裁がある行爲は、其記憶のある限り、常の日もする氣にならぬやうになるからである。しかしもう一時代前に溯ると、或時の忌の強い警戒は、却て其他の期間の正反對の自由を以て、印象づけられて居たらしいのである。たとへば夜の蜘蛛は親に似て居ても殺せなどと謂ひ、之を説明する昔話も出來て居るが殺せといふ命令が古くからあつたとは思はれない。つまりは夜分なら幾ら殺してもよいが、朝の間だけは決して殺すなといふ戒めを、斯んな形で記憶して居たのである。大抵は一日の間ならば朝のうち、食事の時刻、月(315)でいふなら滿月の夜もしくは無月の夜、即ち月の朔日と十五日、一年で言ふならば折目即ち式のある日それから又何か重大な仕事に取りかゝる前の日に、この一般的の忌が認められた。仕事の中では祭禮が最も大いなるものであつた。それから戰の前、狩獵に行く日の朝、田植の日稻刈の日なども大切であつて、よく氣を付けて見ると幾通りかの愼みが遺つて居る。

　其後外國から暦即ち日の計算法が入つて來て、始めて十干十二支によつて警戒すべき日が定められ、如何なる理由でか今日に至るまで、最も強い法則となつて守られて居る。多分は之を指示する專門の職業の者が、どこの田舍にも住んで居て、日の善惡を盛んに説法した結果だつたらう。日の吉凶を選定する職分の者が、國民の行爲に干渉した事例は歴史にも多く傳はつて居るが、干支以前にはどうして之を知つたか、其術はもう傳つて居ない。今日は國の隅々まで皆干支制になつて居る。沖繩縣南端の八重山郡白保村では、波照間島から移住して來たといふ巫女までが、甲乙丙丁だけで日の適不適を算へて居る。沖繩群島は一般に十二支の方には重きを置かぬらしい。之に反して内地には十干の方をさまで重要視せず、單に寅の日や申の日がよいとか惡いとか謂ふのが、農民普通の風である。尤も十二種の動物の日は概括的によい日と惡い日とに分たれて居るのでは無い。行爲によつて日の善惡が一樣で無く葬式によくない日も旅立ちにはよいといふ樣な例もある。其他山に入つてはいけない日、苗を栽ゑるには向かぬ日、衣服を裁つことを見合すべき日がある。それから十二支とは關係なしに、いや三隣亡だとか十方暮れだとか、又金神とかクマワウとかいふ方角も日によつてかはり、不成日も忌まれゝば、年日即ち自分の生れた十二支の日も愼んで居る。つまり新舊の選日法が、土地と場合とによつて混亂して居るのである。一地方の俗信だけからでは到底説明はつかぬが多くの言ひ傳へを集めて比較して行くうちに自然に今一つ以前にはどう考へて居たかを、略々たしかめる目途はあるのである。

　兎に角に是等の日忌は上世の輸入に相違ないが、是によつて忌といふ俗信まで新に現はれたとは言はれない。日忌(316)も亦一種の「忌み」であつて、忌とは或人が或時に愼みて或行爲を爲さざる習はしの總稱だから、我日本には記憶もない大昔から既に存して居たのである。

　右の行爲者の範圍にも、廣いと狹いと色々の種類がある。たとへば或一門の同族に限つて元日に餅を食はぬ門松を飾らぬ、もしくは畠に何々の作物を播かぬといふものがあつて、尋ねて見るとまだ何か傳説の記憶せられて居る場合がある。或は又部落限り、即ち一つの氏神の氏子は殘らず白馬を飼はぬ、蘆毛の馬は育てぬといふものもあれば、又は鷄は飼ふが其肉は勿論、卵も決して食はぬといふもあり、或は或魚類を食ふと必ず病むといふもある。宮城縣下の北部各郡などは、大抵の村の鎭守にそれ／”＼の特別の動物があつて、氏子はそれだけは決して食はない。或は自分の守り本尊といふ佛菩薩があつて、その御使はしめの鳥とか魚とが定まつて居り、是だけは非常に大切にする。どうして食つてはいけないかときくと、其説明には神佛が愛したまふ故、もしくは其反對に御嫌ひだからといふ者もある。其上に土地によつては、もう一段と進んで神秘的なる理由を傳へ且つ信じようとして居る。土地の神樣が或時代に、大根に蹴つまづいて茶の木で眼を突いて片目に御成りなされた。それ故に今でも大根を作らず、茶の木は栽ゑないといふ風な例もあれば、一方には先祖が海に漂流して鮭の魚の背に載せられて戻つて來た。だから決して鮭は食はぬといふ傳説もある。トテムといふ語をよくも考へずに使はうとする人は、何かといふと斯ういふ一つ話を引くのである。

　實際この東北の鮭に助けられた話や、鮭と共に祀られて居る先祖の兄弟の話などを見るとよほど北米の土人の間に存するトテムの信仰と似て居る。フレエザー先生などのトテム考には、此程度の事實が有れば、トテム信仰の昔あつた痕跡だと認めて居られる。しかしそれは今後の興味ある研究問題といふのみで、今はまだ少しでも確定した事實でも何でもない。其前に先づ我々は忌がタブーと全然同じものか否かを、もつと多くの事例によつて確めなければならぬ。タブーは成るほどトテムの一つの特徴であつて、トテムの信仰をもつ者は通例各自の族靈に對し、一期又は常在の禁忌を守つて居る。たゞ之を逆かにして禁忌の存する所、必ず族靈に對する信仰があるとは言はれぬのである。先(317)祖が或種の動植物と深い關係があつたといふ言傳へは薄れて行く一方であるに反して、忌は今日でも新たに生れつゝあるのであつて、其動機も亦從つて一樣ではなかつた。齒の病を戸隱樣に願掛けすれば梨子を絶ち、虚空藏菩薩を信ずれば鰻を食はぬといふ。忌はタブーと同じとも言ひ難いと共に、それが有るから何れトテムであらうとも言はれない。斯んな外國の名前などには囚はれず、やはり日本では日本の事を明かにしてかゝるが順序である。

　日本の若い學徒に向つて民間傳承が最も樂しみな學問であることは、たつた一つの「忌み」の問題を少し詳しく考へて見てもわかる。忌を自ら知り又解して居る日本人が參加しなかつたら、いつ迄もタブーの定義は動き、範圍ははつきりとする時が來ないかも知れぬ。我々だけはさして大いなる苦勞なしに自分の兄弟從兄弟の慣習の中から澤山のちがつた適切の例を見出しまだ今のうちなら其由來を尋ね究めることが出來るのである。

　日本の語でイミといふことは一見矛盾するかと思ふやうな色々の珍らしい場合に用ゐられて居る。古い記録を見ても、忌機殿は神に捧ぐる貴い衣を織る場處であり、諱は口にしてはならぬ尊い御名であり、忌部齋部は神々に仕ふる家の名であつて、しかも一方には血族に死者があり、妻が産をした爲に特に行動を惧まなければならぬ場合をもイミと謂つて居る。今日ではイミといへば主として此方になつたやうだが、尚至つてめでたい神の祭の日の前の謹愼をも忌籠《いごもり》と謂ひ、潮水を汲んで朝毎の家を淨めるのをシホイと稱へて居るが、是も亦同じ語であつた。この祭典の準備として必要なイミだけは、中世以後は特に物忌と謂ふのが普通であつた。伊勢や春日の神事の使にさゝれた人の家などに、物忌間を立てゝ客人の出入を謝絶したことは、幾らともなく日記類に見えて居る。さうかと思ふと又一方では、五體不具とか犬の産といふが如き、見まじきものを見て所謂觸穢となり、特に或期間精神上の危險を警戒することをも物忌と言つたのである。或は陰陽師の徒に注意せられて、今日明日いみじき御物忌といふ例も、今昔物語などを讀めば幾らもある。この二つの物忌は、單に名稱と同じきのみに非ず、多くの法則に於ても一致して居た。即ち此際に限つて忌むべきこと、爲してはならぬ事が急に其數を増して來るのである。

(318)　物忌といふ語は尚此以外に於ても一種の徽章の名として用ゐられて居る。たとへば祭の日に物見車に附け、又は御殿の簾に垂れた紙のシデ又は絲、或種の植物の小枝などで此中に居る人は物忌をして居るといふことを表示するものをも、直接に亦同じ名を以て呼んで居た。近世擧行せられた大甞の御式に於ても、職事の宮人が束帶の上に着た小忌衣大忌衣なども、この物忌をつけた衣であつた。白い麻の單衣の袖に、山藍を以て一種の植物の葉を模樣に摺つて居た。もとは實物を附したものと思ふ。是も其人が物忌をして居るしるしであつて、小忌衣を着た者は一段と神に近づく故に、其忌も亦一層に嚴重であつた。物忌は則ちこの殊別隔離の必要を表したもので、是を外に示すことは他人に向つての警戒であつた點は、最もよく他の未開諸民族のタブーと似て居た。さうして日本では更に國限りの特色ある發達をして居るのである。たとへば五月節供の日に軒に蓬と菖蒲を挿す風は、引つゞいて今日まで行はれて居るが、是と四月八日の天道花の躑躅山吹、乃至は節分や六日年の晩の戸口の柊、豆がら鰯の頭とは異なつた趣旨はない。今日は單に物忌の名を以て呼ばぬ爲に、色々の新らしい解説が生れたといふのみである。

　此種の標識法は又凶事の場合にも傳はつて居る。たとへば喪に服する人の白衣と鈍色は常の日には是と紛らはしいものを避ける位に目に立つた。今では腕に紗のきれを卷いたり、又黒いリボンの蝶形を附けたりすることになつたが、古風な土地ではシハンだのゴマシホだのと謂つて、三角の紙冠を近親のみが被り、後には死者のみに是を附けさせて、幽靈の一つの看板のやうになつて居るが、本來は何れも之をつけた者が「忌み」であることの表示に過ぎなかつた。忌といふ漢字は其本國に於ても、もとは右と同樣に雙方に用ゐられたかと思ふが、後には主として喪に在る者の穢れた場合のみを意味し、忌む忌はしきなどといふ日本語も、是につれて凶事のいやなことだけに限られることになつた。此結果は　　　愈々以て神事の忌といふことが不可解になつたのは事實だが、しかもよく見ると雙方の共に忌であつた點はたしかに認められる。めでたいめでたくないの二つの兩端に在る出來事でも、是に携はるべき者の境涯が特殊であり、從つて是非とも常人と別置せられなければならぬといふ必要だけは一致して居たのである。

(319)　我々日本人は今でもこの忌み慣習のまつたゞ中に住んで居るのだが、どうかするとこの二つの者の共通點には心づかずに居る。しかも是が只偶然な名稱の混同でなかつたことは、ハフリの葬を意味し又神主を意味したことからでも察せられる。葬るは今日ホームル、一方の神主は昔ながらにハフリであるけれども、諏訪では重代の大役をオーホーリ、沖繩の諸島でも初夏の農祭をプーリ・フーリと謂つて、文字には穗利祭などと書いて居る。ホームルのハフルは同時に又、祭の前の齋忌をも意味して居たのである。是に祝といふ字を宛てたのが正しいかどうかは知らず、兎に角に小竹祝、天野祝などの名稱は古くからあつた。イハフといふ日本語も先輩が既に説かれたやうに、やはり本來は忌むことであり、後世にもさういふ意味に使ふ人があつた。イハヒとハフリと何だか兩端のものゝやうに感じられるが、もとは一つの精神?態の名であつたのである。いはひ來し神はまつりつあすよりはくみの緒しでて遊べたちはき。おきつきにすめ神たちをいはひ來し心は今ぞ樂しかりける。この二つの採物の歌などは、共に物忌が過ぎて漸く豐の明りの宴樂に入つて行く悦ばしさを歌つたもの、同時に又イハヒの如何に窮屈なる約束であつたかを語るものである。誰ぞこの屋の戸おさふるにうなみに我せを遣りていはふこの戸を。是は六つかしい歌と言はれて居るが、やはり又主人が出て行つて新甞の祭をする間、家に居る妻女が戸を閉ぢて物忌をして居ることを敍べたのでその謹愼屏居して居る間の心の?態に於ては、吉事も凶事と異なる所がなかつたのである。私の想像が當つて居るならば、イミはもと外から見た語で、即ち此人に觸れてはならぬことイハヒは即ち自ら感ずる語で、人に近より觸れられてはならぬといふことであつた。二者が混同して且つ解しにくゝなつたのは、共に是に宛てたる漢字の影響かと思はれる。

　それからもう一つ、物忌といふ語には第三の用途があつた。即ち神に使ふる巫女、女はふりのことを古くから物忌と謂つて居る。即ち常に物忌をすべき人のことである。常陸の鹿島神宮では、東といふ家から引續いて其物忌を出した。最後の物忌は九十幾歳になつて、今から二十年ほど前に歿し、それからは古い制度が行はれなくなつたやうである。此神人は信仰の力によつて、女の常の穢から累はされることがなかつたと言はれて居る。又斯ういふ一生清淨の(320)女性で無いと、神殿の内陣に入つて親しく奉仕することを得ぬものと、考へられて居たのである。伊勢の兩宮に於ては此爲に特に幼ない女性を選定して、朝夕の神饌に奉仕せしめた。それを亦正式には物忌と謂ひ、其介添として勤務した親たちを物忌父物忌母と謂つて居る。別に子良とも書き通例はオコラコと呼ぶが表向には物忌と録せられて居るのである。齋宮はこの物忌の首長で、イツキノミヤと古くから訓ませて居るが、是をも亦モノイミの宮と稱へ申したかも知れぬ、少なくとも漢字の上から見れば一つの名であつた。是と同じ例はまだ外にも幾つか列擧し得られるが、もう煩はしいからこの主要なる二つに止めて置く。

　兎も角も是れだけの材料によつても忌といふ語の古い心持は大よそは推測し得られる。即ち普通人の普通にして居る事を、特に志す所あつて避けるのが忌である。避けなければ災が身に及び、又は弘く人の世に及ぶことを恐れたる戒愼である。もう少し今風に説明するならば人間の生活には?々遭遇し、又方法を以て之を免れ得る不時の災害の原因を、斯ういふ行爲不行爲に在るものゝ如く、解して居た時代が曾てあつたのである。從うて人が此種の苦しい手段によつて、其の災害を避けようとしたのであつた。等しく人類の欲求ではあるが、是はまじなひや唱へごとの積極的に好事の出現を招致せんとしたのとは正反對に、只ぢつとして居て凶事の不出現を期し望んだのであつた。此の如き風習の起原は、率直に物を考へる人ならば容易く之を見つけることが出來る。我々の祖先がまだ荒野の小動物の如く無力であつた頃、最も自然なる危害の囘避法は、只ぢつとして潜んで居ることであつた。小鳥や兎などには依然として此風がある。蜘蛛なども手を觸れるとすぐにさうする。又人間の子供でも恐ろしい物には目をつぶり身を潜めるやうな擧動が自然に現はれる。殊に外部の危害が奮闘して克ち、奔つて遁げ避けること能はざる過大なもの、目に見え遠く望むことの出來ぬものに對しては、出來るだけ靜かに小さくなつて居て、それを遣り過さうとしたのは動物以來の智能であつた。併しその怖るべき危害といふ中にも、實は色々の差等があつた。大小速力方向その他、わづかなる機會のちがひに由つて、或は免れ得べく或は免れることのやゝ難いものがあり得た。それを追々に判別して、出來る(321)だけ無用の自己檢束を、少なくしようとしたのも亦自然である。人類の進歩はこの畏怖の制限、勇氣と自由との徐々の克服の上に表はれて居る。即ちこの謹愼ツツシミの改良といふことが時と共に我々を活?にし、一方には又警戒すべきものを警戒せしめた。忌みはその最後の殘壘といふことが言へる。一番早い經驗は自己の力、積極的手段としての技術の發見である。武勇は自分のもつ能力が、どこ迄役に立つかを意識した結果に外ならぬ。耳や目の感覺が鋭くなつて、相手がどれ程きついかを知るといふことも、其能力の主要なる一部であつた。この自信が少しづゝ成長するにつれて、單なる防衛より追々と進取の試みに移つて行くこと、是が太古から今日までの、文化展開の全貌と言つても過言では無い。しかも人間は此間に於て尚若干の人力以上のものの存在を認め是から發源する障碍と攻撃とに對しては、依然として、雷鳴の時には蚊帳をつるといふ類の、在來の對策を保持する場合が多かつたのである。

　昔ほどでは無いけれども、この見當の付かぬ警戒は尚必要であつた。古人が我々の警戒すべき時期、最も大切な時刻と考へて居たのは、一日の中では夜が不安なもの、殊に深夜の外に黄昏は物のまだ動く時刻として油斷をしなかつた。曉更も心もと無さは同じやうだが、此方は少し待つて居れば明るくなるので、それ程に氣にしなかつた。それから次には仕事の取掛り、一年の中では重要なる生産の日、田植とか物蒔きとか、つまり將來の不定の最も大きな時を以て、危險の原因の潜む時と考へたのである。次には狩に出る日、山に入る日、戰ひに臨む際、人間の一生でいへば産の前、婚姻の前又は成年に入らうとする折などには常に以前の災害の記憶が蘇へつて特に未然の豫防に力を入れ、出來る限り目に見えぬ壓迫の元を究めようとしたのである。神は我々の祖先に對しては本來最も怖るべき術師であつた。人や物の精と同樣に其形を示さない。之を見出さうとする努力、次に之を見出し得たりとする信仰、それが個々の民族に美しい多くの神話を供給して居る。古代人の信仰に於ては、神の習性は彼等の頭目と似て居り、又頭目の靈とは尚より多く似て居た、好意は持つて居るが怒り易く怒ると又どんな事でもした、特殊の謹愼を必要とする所以であつた。さうして如何に謹愼すべきかといふと、一言で盡せば閉息であつた。出しやばらぬことであつた。小賢しい(322)計畫をせず又提議をせぬことであつた。常の日の生活には毎々必要である此等の擧動を、すべて引込めて居れば　　　稍々安穩と解せられて居たのである。

　日本の固有信仰に於ては、之に加ふるに清淨であり、又新鮮であることを條件としたやうである。是はもと此民族の自分も大いに悦ぶ所であつた故に、自然に神も亦之を好みたまふべしと思ふに至つたのである。祭の前の齋忌を見ると、水と火とを清くして、外部の穢れを避くことに全力を傾けて居た。其中でも水の清めは比較的容易である。我々の海に對する考へ方は、今でもまだ傳はつて居る。是は無盡藏の水であり、其末は天に續いて居り且つ絶えず來り代つて居る。是に觸るれば何物をも洗ひ淨めるやうに思つて居たのも自然であつた。海に近く住む者が御潮齋と稱して、潮を汲み砂をすくひ海の草を結ぶ外に、たとへば遠州の山住のやうな奧山の御社でも、尚遙かに出でて海の水を汲んで居た。山中の鹽井が地底の大海と通ずることを思はせ、深い洞穴の底から流れ出るものを、源は天に在る如く信じさせたのも、高さに對する一つの誤解からであつた。眞鹽を浪の花として、之を撒くことを洗滌と同視したやうに、流るゝ水の清さも亦是を大いなる力の分れと見た。だから其泉の源頭を此上もなく重視したのである。中にも或特定の泉を指定して、是を神の泉とし、又其傍に神を祭る風は、世が改まつても少しも衰へようとはしなかつた。獨り之によつて人間の穢れが、淨まるといふに止まらず、此水を以て炊いだ飯、此水を以て釀した酒も亦完全に清く、更に又誕生井の傳説と稱して、神御自ら此清水のほとりに、初めて出現なされたといふ信仰をも生ぜしめたのである。

　火の方は之と反對に、水の如く常に清くあることが出來なかつた。火は古いもの續くものさうして新らしく作ることの容易でなかつた習はしから、清き火を清く保つことは六つかしいものと考へられて居たらしい。兎に角に火の忌は我邦の珍らしい一つの特色であつて、是に基いた若干の法則、即ち火に燒くことを嫌ふといふ物のさま／”＼が、今も、我々の感情によつて記憶せられ、此點は外國の人には最も會得しにくい。民族によつては、火が燒いて物を燒き淨めるといふ考へ方もあるらしいが、我々の方では火ほど穢れに染み易いものは無かつたのである。切火を打つとい(323)ふことは古い火を罷める意味で、鹽花をふるのとは目的が別になつて居る。一つ火を忌むといつた思想の起りはまだ説明し得ぬが、兎も角に古い火に對する不信任は大きかつた。合火の忌と名づけて同じ火を以て、前に穢れある人の食物を調へたとわかれば早又自分も穢れて居る。喪のある家で飲食すれば乙の穢れ、喪に居る人と合火すれば丙の穢れとなつた。そこで別火と稱して新に火を作り、又は神の火を請ひうけて我家の燈火を點じ、もしくは歳の境に火を取替へるなど、何れも古い火の穢れに對する忌だつたことを示して居る。所謂不斷火の慣習は實は此思想とは兩立しない。其中でも佛殿の常燈明は趣旨起原が全く別である。常民の家に於ても時として五代七代火を絶やさぬことを誇りとして居るものはあるが、是はさういふ危險の多いのに尚家の清淨を侵されなかつたといふ點に苦心の痕がある。恐らく凶事などの場合にも尤も戒愼して其穢れに觸れさせぬやうな方法を講じたことと思ふ。さうして田屋産屋の慣習が絶えて、斯ういふ防衛は紹對に望み難くなつた。

　此等の點から想像を進めて行くと、我民族の物忌の嚴重さ、即ち是を強行しなければならぬ必要の迫力は、或は中古以來却つて増大したものでは無いかと思ふ。但し其代りには範圍は段々と狹くなつて居る。即ちもとは多くは平日の物忌であつたのを、次第に祭典儀式の日の前に集注して來る。人に就いても是と同樣で、或一定の警戒すべき期節には、部落全體の警戒を強制したものが、後漸く一二の代表者を選んで之を行はしめ、所謂物忌の役は起つたかと思ふ。一村が擧つて産土の神を祭る場合にも、山城祝園の忌籠や、上總安房の村々のミカハリ、又は羽後の大物忌、小物忌の社のやうに、全部が一人殘らず極度の物忌をする土地は自分の算へ得る限りでは、もう十箇所餘りしか殘つて居ない。其以外の場合は頭屋と稱して、其年の祭典に關與すべき家だけが、永いものでは丸一年間、短いのは一月三週日の前から此規則に從うて行爲を謹愼するだけで、他の同村人はすべて自由な生活を續けて居たのである。一家のうちに在つても此義務は主として主人夫婦に專屬して居る例が多い。さうして其束縛すらも、もう又追々に弛み破れようとして居るのである。

(324)　是を以て見れば今日殘存する所の我々の禁忌は、言はゞ二段の崩壞を經た破片である。即ち右の祭の日、祭の役の者だけの守つて居る古い約束の外に、尚そのもう一つ以前、齋忌が今一段と廣汎に必要を認められて居た頃のものが、何か然るべき理由あつて久しく殘り傳はつて、若干は今も有るのである。さうして自分などは此種の禁制の中で、意味の既に不明になつてしまつたものが、一層古く又大切なもののやうに感じて居る。神道の學者たちの如く自分の學問で説明し得るものだけを正しいとも思はず、又他の多くの通俗學者のやうに、をかしいから直ぐに笑ひ又は嘲らうとはしないのである。現在の我々の知能では解し難いもの、それが新に發掘し出さるべき知識であると信じて居る。

　例を澤山に擧げるのは六つかしいが、たとへば五月を物忌の月といふことなど、「さつき」のサといふ神の信仰が、今ではすつかり崩れてしまつて居るので、是へ押付けて解すれば、どんな解釋でも立つが、少なくとも田植のわざと直接に關係の無いものが其中にある。今日知られて居るのは機を織らぬこと、機の道具を運搬しないこと、それが傳説になつて珍らしがられて居る以外に、現に尚之を非常に嫌ふ土地がある。又之と大抵は相伴なうて、牛を使はぬことと牛を使ふ道具を運ばぬことが、古風な土地の禁制となつて居る。機は此月は神の衣を織る月である故に、常人の用には供しなかつたのかも知れぬが、牛の方はまだ少しもわからぬ。此月はしかも牛の仕事の入用な月である。牛に關する信仰は多く消えたと見えて、地方の人が忘れて居るわりには、牛石牛塚などの古跡の傳はつて居るものが多い。

　動物の禁忌の中でも、村限り鷄を飼はなかつたり、或一定の色をした馬を飼つては惡いといふ土地があつた。其理由を氏神が嫌ひたまふ故とするものと、非常に御好みなされる故といふものとが併存するのは面白いことだと思ふ。植物では前にも述べたやうに、神樣が是で目を突き片目に御成りなされたからと、惡い記念の方にのみ解説せられるが、是とても果して元のまゝか否かはわからない。是も事によつて神事に關してのみ用ゐられた木なり草なりである爲に、常人の常の用に供するのを遠慮したのかも知れぬ。兎に角に斯ういふ條理の通つて居ない話の殘つて居るものこそ、却つて隱れたる事實の暗示であつて、少なくとも神が眼を突いて片目になられたといふやうな口碑は、日本で(325)無ければ遭遇し得られない珍らしい事實である。我々は全體に生き花を玩ぶことを忌んで居た。殊に椿や桔梗などの一輪花を、髪に挿すことは今でもいやがる。

　沖繩では草の花を家に入れるだけでも、海の潮みそぎに行かなければならぬほどのゆゝしい行爲である。花を斯樣にまで愛する國民、花を見て大きな感動を起す日本人としては、是は如何にも不可解な話のやうにあるが、是なども祭の日式の日に、一本花が重要なる徽章であつた故に、常に用ゐるには之を避けたのである。

　盆の十三日には多くの田舍では野山に出て草の花を折つて來て魂棚のまはりを飾つた。その美しく又哀れな風情は、次第に人をして此日花を瓶に立てゝ賞玩する趣好を養はしめたが其の爲に後々は却つてこの古くからの禁忌を不可解のものならしめた。精靈が土に根ざし空に向つて延びて行く草木に宿り、その花の色あでやかに開く時が、即ち人間に向つて未知の世界の消息を語らうとする機會であると信じて居たのが、もしも我々の祖先たちであつたとするならば、是を輕々しく常の日の飾りとしなかつたのには深い理由がある。

　何にもせよ現在はもう其理由を説くことが出來なくて、しかも我々の感覺では尚之を敢てし得ないといふ類の幾つかの仕來りは多い。それを今日の調査者のやうな冷淡な見方をすることは、人の情にも背くのみならず、又學問の爲にも大いなる不利である。

　事實は眼に見え形に傳はると否とを問はず、もう少し尊重せられなければいけない。否形に表はれない心の中の現象こそ、殊に同國人の同情を以て、精細に理解しなければならぬものである。

　

(326)　　　勝善神

　

　奧州にソウゼン或はオソウゼンサマと云ふ神あり。馬の保護神なるに似たり。此神の由來を明にしたき希望を持ちて旅行又は讀書の際に注意したる二三の事項を述べて地方研究者の批正を求めんとす。始めて此神のあることを知りしは奧相志の記事に依る。相馬領にては村々に勝善小善又は想善と云ふ小祠あり。土地の字にも此名あり。但し如何なる神なりとも記さず。次に仙臺封内風土記を見るに亦宗善杜總善社多くあり、或は勝善堂と云ふもあり。之を彼地方の人に尋ぬるに馬の神なりと云へり。盛岡市の附近にも此小祠二三あり。下北半島の田名部地方にもオソウゼンありて共に祭日には遠近の農民飼馬を飾り立て曳き來りて參拜すとのことなり。吉田氏の地名辭書には一箇の宗善塚を採録す。此塚は三戸の本木平《もときだい》に在り。寛保中に輸入したるハルシヤ産の種牡馬を葬る石碑の銘に曰く奉新造馬頭觀世尊異國｜春砂《はるしや》追善と。即ち關東地方の馬頭觀音と同じきなり。北奧道中記の繪圖を檢するに官道の傍に祀れる蒼前祠は沼宮内《ぬまくない》と三戸との間のみにても六ヶ所あり。分けても今の縣境に近き木下村の蒼前の如きは大社にして飾馬の參詣夥しとあり。轉じて秋田縣下を捜索するに久保田領郡邑記にも既に數ヶ所の想善社を録せり。現存の地名中にも相善｜岱《だい》相染森等多し。山方石之助氏の談に秋田邊にては或は相染をアヒゼンと湯桶訓みして愛染明王の信仰と混同するものもあれどソウゼンと稱する相染も何程も存在す。繪馬の類には奉納駒形神社と書するを今の例とす云々。

　此神の名義は誠に知り難し。奧羽には元來珍しき神の名少からず。ウンナンと云ひホウリヤウと云ひランバと云ひオニワタリと云ふ神の如き皆關東には之を聞くこと稀なり。されば此蒼前神の如きも亦奧羽地方にのみ限りたる名稱(327)ならんと思ひしなり。然るに其後他府縣の地名を蒐集するに及び其分布の猶廣かるべきを知れり。下總の如きは殊に其地名多し。所謂、

　　下總香取郡豐里村大字諸持字勝善

　　同　猿島郡幸島村大字仁連字宗善越

　　同　結城郡下結城村大字平塚字惣前

　下野の東部にも亦二三の同種地名あり。但し地名のみにては果して其地が此神の祠又は祭壇なりしか否かを確定し難かりしに自分は昨年の五月に至り、同國芳賀郡茂木町より益子町に行く田の中の追分に於て正しく勝善神と刻したる一基の石塔を見たり。之を車夫に問ふに馬の神なるべしと答へたり。毎月何日かに近村の馬持之を祀る由。此石塔は至つて新しきものにて二十年を出でずと思はれたり。而して此地方は馬頭觀音の信仰最も盛なる所なり。

　越後北蒲原郡に總前山と云ふ山あり。此は同じ神の信仰に由る地名と認めて可なり。次に、

　　石見那賀郡古市場村字上古市小字｜正善《しやうぜん》

　　同　同　　雲城村大字上來原字正善

　　土佐香美郡田村字正善

　　同　吾川郡長濱村大字長濱字ソヲゼン

に至りでは餘りに所在の隔絶するが故に或は偶合とも考ふべきも自分は次の一例あるを以て亦之を此神分布の一證とせり。三國名勝圖會に依れば薩摩川邊郡東南方村大字鹿籠に宗前嶽《そうぜんだけ》あり。此山は舊藩の馬牧の域内に在りて中腹に牧の神を祀れり。此を以て見れば所謂蒼前神の信仰は少くも時代を前後して舊日本の殆と全部に普及したりしなり。

　さてソウゼンとシャウゼンと何れが原にして何れが訛ならんか。此神の名義を明にするには先づ之を決するの要あり。自分は未だ確證を得ざるも先づは前者を正しと思へり。駿府の猿屋の徒が此神を勝善神と云ふことは後に言はんと(328)する所なるが、同地淺間神社にては節分の夜杜人出でゝ豆を打ち「關東のソウゼン奧のソウゼン」と唱ふる由是れ厩牧の神なりとかやと和訓栞の節分の條に見えたり。シヤウゼンと呼ぶは相善想善など書きてより後なるべし。青森縣下にては蒼前と書くが最多き例なり。シャウゼンに勝善の文字宛てたるは多少尤らしき理窟を言ふ人の所爲なるべければ恐く後の事ならん。

　蒼前の由來は和賀稗貫二郡志などにも未だ詳ならずとあり。古來の學者にして之が説明を試みたる人を知らざるのみならず之に留意したる人すら誠に稀なり。然るに自分は偶然のことより少しく端緒を得たり。そは全く駿國雜志の御蔭なり。此書は何れの點に於ても周到親切なる風土誌なるが殊に比較的に研究の進まざる所謂特殊部落の由緒に關し多くの貴重なる材料を蒐集したる功は没すべからず。此書卷七に依れば今の靜岡市傳馬町の内猿屋町に猿引の頭猿屋惣左衛門居住す。此家に古き一卷の傳書あり。前後字切蟲喰あり且怪しげなる足利時代の漢文なれど其中に勝善神のこと些しく見ゆ。駿府の猿屋は今川氏の頃より連綿する家筋にして貴志の甚兵衛などよりも却つて古し。所謂紀州の甚兵衛猿は高名の者なれど紀伊續風土記に依れば慶長年間に奧熊野即ち東牟婁郡高山村より移住し來りし者なり。故に猿舞の故實は此方に傳ふるもの寧ろ確なりと云ふべし。彼等の説に由れば正五九の三月猿引は厩にあり勝膳經を讀誦して猿を舞しめ祈?を爲す。是れ馬に病災無らしむる也云々。人猿を迎へて祈?さする時神酒初穗の餞白米幣に用ゐる白紙を出して與ふ。守護神に供するなり。此神を勝膳神と云ふ。即ち厩神なり。もと天竺の神にして達磨尊者の傳法なり。十月四五の兩日を縁日とす云々。同じ駿國雜志には又江戸淺草猿屋町の猿牽頭瀧口長大夫の談を載す。曰く猿引は紀州を始とす。其後此業を繼ぐ者多く出來て諸國に散在す。天正十一年の頃駿府に於て東照宮御召馬三疋病あり。時に家祖長大夫上莊總天羽郡佐貫領花貝村に在り。農事の暇猿引を業として國中の厩祓す。最も堪能なる由御聽に達するの間召して祈?すべき旨仰を蒙る。乃ち當職の守護神なる勝先神の呪を唱へ丹精を凝して祈?せしかば日あらずして平癒す云々。勝善神とは日吉山王を謂ふなりとあり。

(329)　江戸開府の始風雲に際會せし上總の田舍猿牽の稱する所と駿府の門閥猿牽の由緒との間に若干の齟齬あるが如きは聊も驚くに足らず。右の一卷の猿屋傳書の中にても今日の條理を以てするときは殆と綜合する能はざる區々の説あり。今其大略を述べんに、猿屋の始祖を小山判官政氏と稱す。聖�ｺ太子の臣下なり。太子が片岡山の路にして達磨尊者の權化と邂逅したまひし時政氏は實に其扈從の列に在りき。政氏は一の白猿を養へり。神靈の托する所なり。後之を牽きて諸國を巡廻す。或時白猿黒駒に乘りて太子の御前に來り命に依り其黒駒を獻じて去る。元來猿は靈畜の隨一にして日域にては猿田彦命猿女命の神靈を厩の守神とするも此爲なり。猿田彦命は即ち山王日吉權現にして外國には五岳大山王神と崇むるも此神なり。大昔天の岩戸の前にて渦女命が槽底に上り拍子を蹈みて舞ひ玉ひしは是れ舞臺の最初猿舞の根原なり。渦女命とは即ち猿女命の御事にして猿田彦命の御妻春日大明神の御母なり。天照大神より二百八萬歳以前の神なり。此男女の神は諸神達に勝先す。故に勝先神と號す云々。小山の家はもと鷹飼の家の兄弟にして業を分ちしものなり。政氏八十九歳にして大和の高市に歿す。紀州日高郡の人熊野冠者清治を弟子とす。此時にかの白猿を失ひしかば夫より外の猿の子を引くことと成れり。清治の子清氏山城に住し秦河勝の後裔河次を弟子となす。猿牽の家は此より小山と秦の二家に分れ其流は共に猿を連れて諸國を巡り厩の祈念を爲し厩師と號す。伊勢の兩大神宮正月三日の猿舞は同國清水及棚橋に住する兩家の者之を勤任し猿飼村を以て當日の料足とす禁裏正月五日の三番の猿舞は大和城上郡山本村の小山氏之を勤む云々。此傳書は紀伊海部郡の猿牽小山政綱なるもの熊野及三輪の神に祈り更に始祖政氏の神靈たる高市明神の告に由りて書寫したりしを天正三年に美濃多藝郡大塚に住する秦某と云ふ者傳寫せしなり。

　猿牽に限らず、凡そ土御門家の支配下に立つ各種の巫覡等は何れも其信條此の如く曖昧至極のものなり。此間に於ては到底一貫せる論理を見出すこと能はず。唯もし幸にして所謂佛説勝膳經なるものを一見するの機會あらば何故に此徒が勝先神を以て厩の守護神と唱ふるに至りしかを明にするを得んか。當今の猿牽道の如きは現に陋卷の木賃宿に(330)滯在し苟くも一地に土着して舊政府の庇護を受けたる程の頭目の家に在りて、亦此世業を以て面目とせざるに至りしが故に、今にして熱心なる捜索尋問を力めざれば或は永遠に文明史上の一事項を捕捉し得ざるの虞あり。猿牽の部屬は其聯絡約束の審密なる點に於てかの座頭盲僧の階級と相似たり。近代の盲人は毎月巳の日に妙音講と稱して辨才天を祀る外に雨夜尊を祖神とし且司宮神若くは十宮神とも云ふ神を拜す。中國九州にて竈拂の祈?をする盲僧は京江戸の所謂當道より却りて由來古きが如く而も今日に至る迄尚行はる。此徒が春秋の土用に民家を廻りて讀誦する佛説地神經なるものは之を實驗したる周防の青木氏の談に正しく最勝金光明經中の第十八堅牢地神品なりきと云へり。自分は此簡單なる一事實より頗る前代社會に於ける盲人の生活を覗知ることを得たれば猿牽の經典たる佛説勝膳經に付ても亦大なる期待を有するなり。

　猿牽の達磨尊者に對するは亦座頭の辨才天に對する信仰に似たり。達磨の齋日は何故か十月の四日五日なり。此日は全國の猿屋共各處に集合して一種の法會を營むと云ふ。此達磨は恐くは禅宗佛教とは些も關係なく始より聖�ｺ太子の故事に據りたるものならん。太子が甲斐の黒駒に召して諸國を歴遊したまへりと云ふ傳説は古く且つ廣く存在す。甲州は勿論他の國々にも黒駒の塚又は蹄の跡ある石あり。常陸水戸附近、相模西境の山村など太子の石塔又は太子堂あり。太子講とて信者の團體あり。何れも馬の祈願にして恰も他の地方の馬頭觀音勢至菩薩乃至はオコマサマに該當す。眞澄遊覽記に依れば陸中岩谷堂町の附近に秀衡建立と稱する太子堂及達磨堂ありと云ふ。此も亦馬の守神として祭りたる一例なるべし。猿田猿女の男女神に至つては太子及達磨の古傳とは如何にも結合させにくし。猿田彦命の面勝目勝と云ふことは神代卷中の肝要事なりと見えて、往々にして此神號を以て唱へらるゝ猿田彦神の社あり。奧相志などには此神に七の名あり。軍陣の神としては面勝目勝神と云ふことあり。然れども此を勝先神と稱するは理由を知るに苦しむ。或はもと神の名の猿に據り更にソウゼン又はシヤウセンの語あるより新に附會の説を立てたるものならんか。唯爰に一考を要するは或有力なる一の國神に向つて何故に猿を以て名を附せしかと云ふことなり。所謂高等批(331)評家の説に從ひ此神代史の史料は本來伊勢に住せし猿女部曲の家乘に據れるものと假定するも猶進んで何故に此部曲が猿女と稱せられしかと云ふ問題は殘る。之に對する最自然なる推測としてはやはり彼等一群の巫覡の中には猿を飼ひて之を舞はせ祈?を爲すの風ありしものと見るべきなり。

　當代の猿舞しは馬を飼養せざる我々の玄關にも入來り徒に兒女を笑はしめて歸ること萬歳と一樣なるも此二者は元來共に厩の祈?の爲に祝言を述べ舞を舞ふ者なりしことは澤山の例證あり。有名なる團左ェ門の書上とは病馬平復の祈?の爲度々猿牽を召連れ柳營に出頭せしことを記せり。此文書は僞作なれども�ｺ川氏に關する部分は眞實なるべし。加賀金澤の猿牽は越中射水郡二上庄に住せしことは越の下草に見え、上杉家の厩御祈?は米澤猿ヶ町の彦兵衛之を勤めしこと米府鹿子に見ゆ。昨年中刊行の風俗志林に自分は二囘まで越前萬歳のことを述べ此徒の元祖は宇津保舞を舞ひ厩の祝言を唱へ且猿女神を祭る者なることを録せり。尤も彼等が由緒書中には一言も猿を牽きしことを記載せずと雖宇津保はもとより猿の舞に關係あり。狂言の靭猿の猿牽の章句には春駒云々の語あり。此狂言には猿に靱の舞を舞はす由來を例の賢明なる大名の逸話に取合せ面白く作意したれど何人も之を以て靱舞の起原とは見ざるべし。ウツボと云ふ語には何か別の意味ありしものか、或は早くより猿の皮の靱は馬の守として騎乘用に限り用ゐられし仔細などありしならんか。

　近頃ふとしたる思付にて自分は河童に關する傳説の蒐集を試みたるに、此物が民家の馬を水に引込まんとして失敗したる話の奧羽より四國九州にかけて最も廣く分布することを知れり。其三十に近き例を比較するに其中に共通なる二箇の事項あり。其一は河童は必ず馬の端綱を曳きて之を連れ行かんとせしことにして其二は必ず失敗し謝罪して將來一村の馬に災せざるべきを誓ひて免されしと云ふことなり。長門の或村にては其河童の詫證文あり。之を板行して馬の守護の符とす。而して其形?鳴聲共に猿に似たりと云ふもの最も多きのみならず諸國の方言中エンコウ又は川猿などゝ云ふ地方あり。仍て思ふに此傳説は厩の口に張る所の守札の猿が馬の綱を曳く畫と關係あるべし。自分は郷里(332)なる播州に於て時にかゝる守札を目撃せしことあり。近頃山中翁の蒐集帖に就きて捜索するに猿馬を引くの守札播州生石子神社即ち石の寶殿より出せしもの一葉あり。自分が見たるもの亦此札なりしかも知れず。但し外の地方にも例のあることなり。又新編武藏風土記稿に見えたる西多摩郡西秋留村大字引田の日吉山王社天正十七年の繪馬の圖は鳥居の前にて猿が騰馬の綱を持ちて坐するさまなり。駿府の猿屋傳書中にも「我朝にては伊勢國細沙神宮の時甲斐國巨摩郡より白黒二疋の猿白黒二疋の馬を導き來りて神馬に引き奉る即ち是繪馬の最初なり」とあり。癖ある馬病起りし馬などの首を高く擧げ後足にて立ちなどするを猿が難なく引留むる畫なれども古拙なる筆なれば反對に猿に惡意ありて馬が之に抵抗するものと解せしなるべし。武州引田の繪馬の如きは最も斯く推測するに適せる畫樣なり。恐くは此種の厩守を見て猿に似たる魔物が馬を侵さんとして敗北せし記念畫と目せしならん。又駒引錢と云ふ繪錢あり。其中には猿が馬を引けるもの數種あること馬島翁の繪錢譜に見ゆ。支那にも馬の繪餞は多けれど未だ此に似たるを知らず。彼國にて錢に馬を畫くは所謂日行千里の意味を現はせしものならんも、我邦にては馬を大事にする武家の氣風に加ふるに馬の繁殖又は賣買を以て當を作りし長者の話など多く語り傳ふるより愈々由緒久しき馬の保護神を錢の繪樣として珍重することゝなりしならん。

　猿を以て厩馬安全の手段とすることは廣く且つ久しき風習なり。其思想は輸入の時代如何は別問題として兎に角支那より來りしものなるが如し。温故要略卷四に曰く和朝の武家厩に猿を養ふこと今に至るまで絶えず。五雜俎卷九にも狙を厩に置けば馬をして疫せざらしむ云々とあり。又本草綱目卷五十一にも此事見ゆ云々。越後名寄卷十一?猴の條には本草綱目の文を擧ぐる外馬經潜確叢書などの中にも厩中に母猿を飼ふは馬の疫を辟くる爲と見ゆる由を云へり。母猴とは沐猴と云ふも同じく牝猿のことには非ざる由なれど舞を教ふる猿は必ず牝なり。長門東南の某山村には今も其學校ありときく。彼地方の人に尋ねたきものなり。落葉集と題する抄物に出處を示さゞるも馬を守る神を馬櫪神と云ひ馬を災する神を馬歩神と云ふ由を云へり。塵添?嚢抄卷三にも猿を馬の守とて馬屋に掛るは如何と云ふ問に(333)對して、馬櫪神とて厩の神在す。其形像を圖するには兩足の下に猿と鶺鴒とを蹈ませて二手に劍を持たしめたり。宋朝には之を馬の守とす。此神の蹈める物なれば猿ばかりをも用ゐるにやとあり。されど此説明は原因の?倒なるべし。厩に置くべき猿なるが故に馬櫪神のシンボルとせしならんのみ。梅村載筆には猿を厩に繋げば馬の爲よしと云ふこと周禮注疏に在り又白樂天が詩にも見ゆと云へり。未だ之を檢出することを得ざるも果して然りとすれば支那にても古今千年に亙れる民俗なりと云ふべし。又安齋隨筆を始め�ｺ川後期の江戸隨筆に引用せる獨異志と云ふ唐代の小説に東晉の大將軍趙固の愛馬暴に死す道士郭撲の教に從ひ林に入りて一種猿の如き一獣を捕へ來り之を死馬の前に置くに其物鼻を以て馬を吸ひ馬忽ち起躍すること見ゆと云へり。井澤の俗説辨などにも不精確ながら之を引用して何れも?猴を厩に置く根原此に在りと云へり。靱猿の狂言と同じく小説なれば據とするにも及ばざれど亦以て此種の巫術の由來久しきを察すべし。南方熊楠氏は此風習安南暹羅印度にも及べることを注意せられたり。東京人類學會雜誌第二百九十一號同氏の論文に依れば一八二一年クロウフォード使節紀行に暹羅王の白象厩に二猿を飼ふ。之を國人に尋ぬるに象の病難豫防の爲なりと稱する由見えたり。佛經の中にも亦類例あり。例へば摩訶僧祇律卷五に過去世に一王あり十?猴を飼ふ。寵衰へて後之を馬槽柱に繋しむ云々。菩薩本行經中の譬喩談にも婦女薪の火を羊に投じて象厩を燒き災厩の猿に及びしことを記せり。二經は共に郭撲が其術を行ひたる東晉時代の譯本なり。而して高木敏雄氏の談によればパンチヤタントラムにも出で象には非ずして馬厩と成れりと云ふ。

　我邦に於ても猿を厩に繋ぐこと鎌倉時代に既に見えたり。古今著聞集卷二十に曰く足利左馬頭入道義氏美作より母猿の舞を能くするものを得來りて之を將軍に奉る云々。之を能登守光村に預け置かれしを厩に繋ぎ置きたるに如何にしけん馬に背中を食はれ其後舞ふことも無りしと見ゆ。蓋し比の如き習俗は決して前代の學者の信ぜし如く讀書や僧侶學者の談話などより始り得べきものに非ず。實際久しき間民間に行はれ來るには今一段と直接なる手本を要する筈なり。されば亦人が猿を捕へて飼養し又は舞はしむるに至りし動機其慣習の根原に溯りて攻究するの必要あるべきな(334)り。

　最後に云ふべきは所謂相馬の術なり。此術も支那にては古くより發達し澤山の著書あり。我邦にも傳はりて馬の毛を忌み旋毛《つぢ》を詮議する俗信と變化せり。白き馬又は葦毛を飼ふを嫌ふ村多し。其理由は色々あり讃岐の某村にては崇�ｺ院を害しまつりし武士の馬白かりし故院の御憤ありと云ひ有馬山中にては山神を追ひし武士の馬白かりし故神の惡みありと云ふ。玉川附近の馬引澤にては頼朝の乘馬の白かりしが此地にて暴に死すと云ふ。其他は多くは白馬は神の乘りたまふ料なりとて之を避くるなり。又神佛の奇特にて馬の毛色を更ふると云ふ傳説あり。此も府中の猿屋傳書の中に、厩師を勤めんとせば諸人性の相生及馬の毛色を知るべきなりとて馬の毛色の目を列記し其末に此外毛色數多なりと雖五色の外は無し。?《あしげ》に至つては分別あるなり。何となれば?は一たび死馬となりて皮を用ゐ白樂天呪文を唱へて蘇る馬なり一説には龍馬に同じと云ふ云々とあり。此白樂天は勿論伯樂との混同ならんも我邦に此詩人の渡り來りしなど云ふ話は古くよりあるなり。右の傳書の中にも太子鞍を作りたまふことを記し「白樂天日本に來るは馬鞍教の爲なり」などゝもあり。死馬を蘇せしことは少しく形をかへて我邦にも傳へらる。三國名勝圖會に依れば薩摩伊佐郡山崎の馬頭觀音は有名なる馬の守護神にして正體二箇の石像なり。昔玄心玄參と云ふ兄弟馬を療するに巧なり。死馬の既に皮を剥がれたるを見て此馬猶生氣ありと稱し紙袋を以て之を覆ひ呪文を唱ふれば忽にして蘇る。村人畏れ且つ憚りて終に之を殺し而も神として其靈驗を祈りしとなり。思ふに馬の病を療治することも元は厩師の職掌の一なりしが後代漸く分業を見るに至りしならんか。葦毛を龍馬に同じと云ふこと亦注意すべきなり。名馬を龍種と云ふことは昔の人の思想にては決して譬喩の言に非ず。諸國の池月磨墨の生地と稱する所は南は薩州より北は奧羽迄數十ヶ所に及べるが何れも池沼又は海川に接したる所にて神馬出現して胤を遺すと云ふこと恰も支那に於て大宛?池の駿足に就きて語るものに同じ。現に中國四國の某々藩などは名馬を得んが爲に島に牧を置けり。是れ今より僅に百年前のことなり。古代の牧の海邊又は湖邊なるものは皆同じ趣旨なりと見えたり。白馬の傳説は世界的の産物なれど我國にても(335)亦著しく發展してあるなり。而して飜つてソウゼン神との關係を説かんに、最近に盛岡の人小川久太郎氏の報ずる所に依れば、市に近き岩手郡瀧澤村鬼越山の麓の駒形神社は舊稱ソウゼンにして慶長二年二月初午及五月五日に祭ありしこと古き記録に見ゆ。其の本尊は一尺ばかりの木像にして猿か人か列明し難きも馬に乘りたる形なり。社家の説に依るに俗に蒼前※［馬＋蒼］前、※［馬＋相］※［馬＋前］などゝ書するは正しからず、正しくは?前と書くべし。即ち葦毛馬のことなり。田村將軍の乘馬を祭ると云ふ。一説には葦毛の立往生したるを祭ると云ふ云々。此報告は猿又は葦毛に關する自分の假定説を聞かざる人の言なれば一段と有力なり。自分は暫く以上の材料に由りソウゼンを以て葦毛馬の神と解し厩師即ち猿牽の之を祀るも亦此が爲なりと論結せんとす。但し?前の前の字は未だ説明を得ず。字書には※［馬＋前］は四白即ち四蹄の白き馬のことを謂ふとありて亦一の神馬の特徴なれどあまりに耳遠し。南部の三戸には總前彌左エ門と云ふ舊家あり。領主入部の際より吉例ありて毎春元旦に粟糠の餅を獻ずる由有斐齋剳記に見ゆ。此總前を眞澄遊覽記には相米と書けり。或は此と因縁あるか。此疑問はやがて勝膳經の發現と共に氷釋するの日あらんことを切望す。

　

(336)　　　猿廻しの話

　

　猿廻しも今では女子供の眼を樂しませるものゝ一となつてゐるが、昔は立派な一つの儀式であつた。かのマンザイなどよりも、もつと嚴格な儀式であつた。京都では朝廷に於ても正月の三日に之を行はせられ、江戸の幕府でも年々その儀式が行はれてゐたのであつた。それは何のための儀式であつたかと云ふと馬の安全息災を祈る爲のものであつたのである。其證據には現在でも厩の口に猿が馬を引いてゐる處の札を貼つてゐるのが、あちらこちらで見受けらるるのでも分る。現に播磨の石の寶殿社の守札の如く今尚行はれてゐるものが少くない。

　新編武藏風土記稿、多摩郡卷之一百八に、日吉山王權現社には古い繪馬があると云ふ記事が出てゐて、又その繪馬の圖までも書いてある。その繪馬を見ると、馬が狂ひ出さうとしてゐるのを、猿が引き留めてゐるのである。あれなども猿が馬の守りをすると云ふ思想を表はしたものであらうと思ふ。私の考ではあの猿の話と例の河童、中國地方で云ふエンコとは全く同じものだと思ふのであるが、それは少し話が餘談に亙るから略するとして、とにかく猿は馬屋の番に使はれたものだと云ふ事は確實である。

　相驥經と云ふ本には猿の排泄物を馬がくふと馬が健全だと云ふ事すらかいてある。著聞集の二十卷には足利義氏が美作から猿をもつて來て將軍頼家に戯上し、之を厩につないだと云ふ事が出てゐる。此樣に猿を厩の口につなぐと云ふ事は古くから行はれてゐたのであるが、さて何時の頃から之を舞はせる樣になつたかと云ふと、それははつきりとした事は分らないが、梁塵秘抄二の卷に白拍子の歌が出てゐるのに、こんなのがある。

(337)　　『御厩の隅なる飼猿は、きづな離れて、さぞ遊ぶ』云々

　これでみると、もうその頃は猿が舞ひ遊んでゐたと云ふ事が分る。尚此事は日本や支那ばかりでなく、暹羅印度等東亞の諸國に行はれてゐたらしい。十九世紀の初に英人が暹羅に行つた時に、象舍の口に猿をつないであつたと云ふ話があり、印度の古い本にもこんな話がいろ／＼と出てゐる。

　昔から動物を笑ふと罰が當ると云ふ話がある。日本では馬の屁を笑ふと人中で恥をかくとか、フクロの泣き聲をまねると人が死ぬか、フクロが死ぬかするとか、文烏の鳴き聲をまねると口に灸をすゑらるゝと云ふ樣な話が澤山あるし、南洋でも蛙を笑つた爲に洪水が出たとか、猫を笑つた爲に人が石になつたとか云ふ事がある。それらの話がセレベス、スマトラ、日本等に廣がつてゐる。ミンダナオと云ふ處では、神樣のつれてゐらるゝ猿を舞はした所が、それを笑つた爲に、土人に罰が當つて石になつたと云ふ事が出てゐる。かう云ふ風に、笑つた原因に、猿が舞ふのを見て笑つたと云ふ事が出てゐる。こゝが注意しなければならぬ點である。

　こんな話を詮索してゐると隨分いろ／＼と面白い話もあるがとにかく日本許りでなく外國にも、あゝした思想があり、そして猿を舞はしてゐたと云ふ事もあつたわけである。然もその舞ふのが単なる餘興でなく神に關係したものであつたと云ふ事も注意すべき事である。

　

　猿引きと云ふものが何時頃から起つたかそしてその由來がどうなつてゐるかと云ふ事は頗る興味ある問題であるが、どうも慥な例證をあげてお話する事は出來ない。然し私の此頃の研究によると、猿引の大元は近江の小野氏に起り、小野氏が下野に移つてそして今日の猿引の元祖をなしたものだと思ふ。今日の猿引連中は皆系圖と稱するものをもつてゐる。そしてその系圖が何れも似せ物ばかりであらうが、何れも小野氏の紋章なる右二つ巴の紋を附けてゐる。世(338)に所謂猿引きの大元と稱し一地方に於ける斯道の權威なるものが美濃、大和、紀伊、尾張などに存するがそれらの家の記録には悉く先祖は下野より出づとしてある。然し乍ら今日下野に行つてみると何等そんな痕跡は殘つてゐない。だが然し下野には古來何か猿をいぢくつた家があつたに違ひあるまいと想像されるのである。只今日では小野の猿丸太夫が日光の神樣を助けたと云ふローマンスが殘つてゐるが、その話も近江からもつて來たのらしい。

　所で、其下野では、猿丸太夫の苗字を小野と稱してゐる。その猿丸太夫の子孫は今も尚宇都宮にあるが小野姓を名乘つてゐる。そこで此小野氏と猿丸太夫との間に何か關係があるのではないかと云ふのが私の着眼點であつた。元來猿丸太夫と云ふのは何であるかと云ふに、丸とは人間らしく聞える樣にくつつけただけのもので只猿と云ふに同じく、太夫と云ふのは朝廷に仕へてゐたものゝ事であるから猿――太夫――小野家とかう考へ合せて見るとそこに何かの云はれがなくてはならぬ。由來小野の一族は宗教に關係ある一族であり、その大元は近江大津の湖水の西、滋賀郡小野村に在るのだが、その一族が全國各地の神社に關係ある小野族の祖である。その小野家が猿女君氏と結合したのである。（猿女君氏は天鈿女命と猿田彦の結婚によつて生じた子孫だと自ら稱してゐる）然るに從來縫殿寮の管轄に屬する朝廷の舞女があつたが、その舞女は年々猿女君氏から出したものである。そしてその猿女君氏には近江の小野に養田が附けられてあつた。處が小野家と猿女君氏とが結合して以來、その舞女は年々小野家から出す樣になつた。處がこれは小野家が小野の養田を猿女君氏から奪はん爲にしたものである。如何にも不都合だから舞女を猿女君氏以外から出す事は止めてほしいと云ふ願書を、京都なる小野の一族から提出した。そしてその時の格と云ふものが今も尚殘つてゐる。

　そこで此近江の小野と下野のそれと如何に關係があるかと云ふ事になるのであるが、一帶近江と下野とは昔から種々關係が多い。俵藤太もさうであるし、蒲生氏郷なども新らしい處だがさうである。俵藤太の子孫などは常に近江と下野との間を往來してゐた。で小野家も亦此の如く近江から日光へ行つたものであらうと云ふ事が考へらるゝのであ(339)る。即ち俵藤太秀郷は小野と云ふ信仰的一家族を引きつれて近江より下野に移住したのであらう。然して小野家は猿女君氏と結合したので、この一族が抑も今日の猿引の元祖であり、その猿女――舞女かう云ふ關係から猿廻しの儀式が初つたものではなからうか。然して此時代に於ては猿引は勿論一の宗教的儀式であつたと云ふ事は初めにのべた通りである。

　話が少し混雜したが、要するに宇都宮には小野と云ふ猿丸太夫の子孫があり、その小野家は今日各地にある猿引きの家の本家本元である。然しこの小野家が猿引きの元祖であると云ふのは、小野家は元來神事を掌つてゐた家であり、その家が猿女君氏と結合した爲に朝廷に出て舞を舞つてゐたのであるが、この舞ひと云ふのは、即ち猿がやつてゐたのではなからうか。何となれば猿丸太夫と云ふ名そのものが、之を表はしてゐるのであると云ふのである。

　かくの如く猿の舞は朝廷の儀式であつたのであるが、それが一般に馬の息災を念ずる爲のものであつたためにだん／＼と廣がり、小野の一族から岐れて各地にこの事をなすものが出て來る樣になつたのであらう。

　�ｺ川家康が初めて江戸に入つた頃は、武藏野はまだ草原で猿引きをする家がなかつた。そこで馬の病氣に際して困つたさうである。（その頃馬が病氣にかゝると猿廻しが來て祈?をしたものだ）そこで上總の瀧口長太夫と云ふのがやつて來て、淺草に住まひ、度々將軍家に上つて馬の病氣をなほしたと云ふ話がある。

　此猿引きが、今日の猿芝居となつたのは、極く新らしい事と思ふ。つまり猿引の數がふえで來て一定の繩張り内ではやつて行けぬ樣になつた爲に、それらが猿芝居と云ふものを考へ出して一般觀客を相手にする樣になつたのであらう。文化年間に紀州から芝居の帳場がやつて來て江戸で興行しようとしたら、例の淺草の長太夫から故障が出て、さし止められた話がある。結局紀州の芝居屋は若干の金を長太夫に出して興行したと云ふ事である。

　古來猿廻しは我國民文藝上にいろ／＼と表はれてゐる。淨瑠璃のお俊傳兵衛、猿芝居の春駒、狂言のウツボ猿、等夫々面白い。ウツボ猿は室町時代の作であらう。あの時代まではまだ猿芝居はなかつたであらう。然し猿を引いて巡(340)りあくのを商賣にしてゐるものが既にあつたと云ふ事はあれでも分るわけである。

　

(341)　　　繪馬と馬

　

　ヱマは果して書物にある通り、馬を繪に描いて獻納したのが原であつたらうか。本物の馬を差し上げることの出來ぬ者が、繪馬を代用に供するやうになつた時まで、畫板を神佛に奉る風習は、存在しなかつたと言つてよいのであらうか。但しは又ヱマといふ京都語が地方に行はれて、前の名前を隱してしまつた結果、自然にさう考へる人を多くしたのでは無いか。

　少くとも之を問題にしてもいゝだけに、もう今日の繪馬研究は進んで居るのである。それだけに採集の大家たちは、依然として採集にばかり熱心で、まだこの點を疑つて見ようともしない。

　馬で無いヱマには一體どういふものがあるか。最も普通に誰でも知つて居るのは、目藥屋の看板と共通な御藥師堂の眼の額、平假字の「め」の字を左右から八つ、又は十二も書いた印象的なものもある。

　足利の水使さまなどの下の病を?るヱマは、全面に女の帶から下を畫いて居る。あるひは同處大手神社には手だけを描いたヱマもある。あるひはこれを繪で無しに、木彫にして納めて居る例がある。男鹿の赤神山の山門などでは、仁王の石像も埋もれるばかりに、木で作つた無數の手と足とが持つて來て積んである。

　西洋でもカトリックの古い寺院に?細工の手足や乳房などを、盛んに奉納してあるのは同じ目的で、何れも其部分に病苦のある者が、斯うすればよくなるものと信じてすることである。これが獻上であつた氣遣ひは無い。神樣こそ誠に御迷惑な話である。「納め奉る」が決して贈呈の意味で無かつたことは、單にこれだけの例からでも想像するこ(342)とが出來る。他の色々の珍しい掛畫などでも、直接納める人の心持に入つて考へてさへ見たならば、馬の繪の眞似で無いこと位は、いと容易に解つた筈である。近頃よく見る杯に鍵、骨牌を縛つた上に「心」といふ字を書いたヱマなどを始めとして、あるひは母親が乳をしぼつて居る處、幼兒が社前に手を合せて居る姿の如き、何れも今日の語でいふならば記念または銘記即ち神樣もどうか共々に、この事實を念頭に留めて下さいといふ、希望の表白に他ならぬのであつた。

　此意味から見て日本今日の數百種のヱマの繪も、始めて國民の内部生活の微妙さを、窺ひ知るたよりとはなるのである。それを馬一種の後々の變化と解して、尚珍重して居る人たちの氣持はわからない。

　併し一方には馬の繪を神佛にさゝげる地方が多いこと、それがヱマといふ標準語の發生を促した理由も、同時にまた興味の深い問題であつた。競べ馬の起りであつたと思ふ神馬十列、馬を祭の式に缺くべからざるものとした風習にも、もう一つ以前の原因はあつたので、我々の祖先が特に馬の繪に一種の宗教的興奮を感じなかつたなら、ヱマといふ語も實は出來なかつたかも知れぬのである。

　海から渡つて來たらしい日本人ではあるが、不思議に神々のみは馬に騎つて、高い山の嶺から降りたまふものと信じて居た。それが飾り馬の背上に、未だ畫かれざる神を幻覺した理由でもあれば、同時にまた繪馬を大神への贈呈の如く、考へるに至つた原因でもあるが、最初は是もまた神�ｺ讃歎の、主要なる記念方法であつたのである。

　山の神が馬に召すといふ信仰は今でもある。奧州の民家では御産のある前には空馬を牽いて山の神樣を迎へに行く風習がある。或時は一日半日山深く分け入り、またある時は里はづれの林などで、その馬が立止まり耳を動かし尾を振るを見ると、それを山の神が既に乘りたまふ知らせとして、直に引返して家に戻つて來る。さうしてその保護の下に安産をしたのである。馬をヱマに畫くべき動機は十分に備はつて居たのである。

　自分はたゞ馬だけがヱマの藝術の根原だといふ通説を認めないのである。キリスト教國などの如く神馬降臨を信じ(343)得ない人民でも、ヱマと譯すべき畫板はやはり奉納して居る。のみならずそれが現在の掛額畫風の最初でもあつた。

　日本の繪畫にはつとに掛軸の流行があつた爲に、ヱマは一部の畫工のみがこれに携はつて、板繪は十分に發達しなかつたのである。しかも古い形だけは、今でもまだ無數に殘つて居る。

　宗教畫の起源を考究する外國の學者が、留學をしてもよい程に豐富なる資料がある。然るに日本の上古文化の研究者が、徒らに歐洲岩窟の石器時代人の壁畫ばかり、珍しがつて居るのは氣が知れない。あれだつてやはりある一種のヱマに過ぎぬでは無いか。

　

(344)　　　板繪沿革

　

　　　　　　　　　　一

　

　繪馬の額の上縁が山形になつて居るのは、多分厩舍の正面の屋根を表はしたのがもとで、是たゞ一つから考へても、ヱマが繪馬から出た語だらうといふ通説は否認することが出來ない。東北の如く馬以外の繪馬の無數に多い地方でも、方言は普通にマツコであつて、五月稻田の水口に、竹に挾んで立てる出馬入馬の繪を印刷した紙と、共通の名を持つて居る。古い中央の記録、たとへば今昔物語の紀州の道の神の奇瑞譚にも、馬の繪を板に描いて上げてあつたことが見えて居る。だから以前は斯ういふ語が一般化するほど、ヱマに馬の繪が多かつたといふことは、先づまちがひのない推定であらう。

　たゞ私は近世の多くの隨筆家のやうに、所謂ヱマを神前に掛ける風習が、すべて皆馬を神樣に獻ずる信仰行事から、出發して居るものとする説に從ふことが出來ないのである。假にさういふ解釋の如くならば、實はこの問題の民俗學上の意義は、甚だ小さなものになつてしまふのである。さうで無いかも知れぬといふ立場から、實は私たちは今まだ各地に傳はつて居る繪馬の諸現象を、もう一度注意して見ようとして居るのである。

　馬が我邦の信仰の上に活躍して居た場面も決して狹小だとは言へない。第一には今なほ傳はつて居る神馬の思想、神々が日を定めて高い山の嶺から、又は蒼天の彼方から地上に御降りなさるのに、必ず靈ある馬に召して來られると(345)いふ考へ方は、遠い離れ小島の果にまで傳説として記憶せられ、又現實の幻覺となつても保存せられて居る。そこで其降臨を望み易くする爲に、御神馬を上げるといふ慣例も起り、後にはそれを繪にかいて上げてもよいことになつたのが、あの出馬入馬の繪紙などの元だつたかも知れぬが、其以外の今一つ競べ馬と稱して、幾匹かの馬を一度に走らせて、神の思し召しの何れに在るかを窺ひ知らうとする祭式も夙くから始まつて居る。

　繪馬には通例たゞ一頭の駿馬を描いたのが多いが、私の生れた村の氏神の拜殿などには赤黒三匹の馬が竝んで驅けて居る處を、繪にしたものも古くから掛けられてあつた。更に其以外にも農家が馬を養ふ地方では、猿曳馬と稱して猿が馬の綱を執る處をかいて上げるものがあつたり、又は良い仔馬の次々に生れるやうにといふ願掛けに、特に母子馬の額を上げるといふことも稀でない。

　同じ一種の馬の繪馬ですらも、之を進獻せんとする信徒の動機には、古今幾通りかの變遷があることは察せられるのである。つまりは我々の信仰は活きて居るが故に、之に伴なうてこの表現の樣式が、世と共に動き變つて居るのである。單なる因習の痕跡の如く、小さく取扱はうとすることには自分などは反對する。

　

　　　　　　　　　　二

　

　關東平原の限られたる區域に於ても、繪馬の繪樣の著しい變遷があつたことは、現に蒐集家たちの目前に體驗したところであらう。大體に大量生産の影響を受けて、品が粗末になり圖柄が單純に且つ種類が少くなり、どこの堂宮へも見境ひ無く、同じものを持參するやうになつたが、その一つ以前には土地々々の特色が著しく、又個人の心持を表はしたものが多かつたことは、また殘留の中からでも容易に之を感知し得られ、それが又之を集めて見ようとする人々の誘惑でもあつたらしい。ただ彼等はこの奇拔にして興味の多い變化を以て、すべて近昔の新らしい現象の如く見ようとするらしい傾きがある。或はさうかも知れぬが又さうで無いものが、傳はつて居らぬとも斷定は出來ない。ど(346)こに境目があるかゞ實は最も大切な問題なのである。

　平假名の「め」の字を八つ竝べた藥師の繪馬、或は母の乳が瀧の如く耳盥に送り入るところ、風呂に子供がおとなしく入つて居るところ、さては盃や賽ころや女の字に、錠前をおろした繪馬などは、いかにも江戸期庶人の思ひ付きのやうであるが、さて斯ういふ繪をかいて神佛に納め奉れば、乃ちそれ／”＼の效果があるべしといふ豫期はどうして養はれたとするか。隱れてその背後に是が基礎となるものゝ、久しく持續して居たことを考へずには居られない。それを我々は何とかして見て行きたいのである。

　最初に先づ念頭に置かなければならぬことは、時代々々の信仰の特徴であらう。一箇所の神社佛閣が遠くからの參詣人を集め、信心に一種の流行ともいふべき片寄りを生じたこと、是だけは中世以來、殊に現代に近づくほどづつ段々と盛んになつて來たと見てよろしい。それが捧げ物の上に及ぼした影響は、人のする通りをしようといふ風習となり、一つの感動深き繪馬の繪樣が、忽ち眞似られて優劣を生じ、やがては敷物又はげてものゝ素地を作つたことであらう。或は繪馬屋といふ商賣の成立つかどうかといふことに歸するのかも知らぬが、始めは土地毎に又は門前の職人毎に、まだ若干の個性を示し得たものが、今一歩を進めると卸賣の商品となり、どことも知れない土地から仕入れて來ることになつて、末には今日の如く繪馬でさへあれば、願掛けする人の心持はちつとも現れて居なくとも、又はたゞ單に當人の十二支を描いたものでも、上げてすまして居ることになるのである。

　是が零落した末期の姿であることは言ふにも及ばぬが、多くの蒐集家の珍重して居る品とても、言はゞさうなつてしまふ一歩手前の既に類型化しかゝつて居る時代の産で、是が本來の繪馬の具へて居た性質を、みんな殘して居るものとは到底考へられぬ。たゞ斯うしてまだ古い色々の變化の保たれて居る中から、少しは其一つ以前の實?が窺はれるかと思ふだけで、是には幸ひに又遠くの地方の資料の、新たなる比較を許すものが若干はあるのである。

　

(347)　　　　　　　　　　三

　

　九州四國の繪馬は現在どうなつて居ることであらうか。或はもう全體によほど廢れて居るのではないかと思ふが、もし片田舍にでも跡を留めて居たら、可なり有力な參考であらうと、私は將來の調査に望みを囑して居る。

　奧羽地方の繪馬などは、たしかに別途の發達をして居る。といふよりもすべての民俗と同樣に、今はまだ一時代古い?況に踏み止まつて居る。即ち大量供給の商業機關が之に干與せず、且つ一つの堂宮に千二千の小繪馬が積重ねられて居るといふやうな、流行神現象といふものがまだ見られず、それ／”＼の參詣者が各自の心持を、一枚毎の繪馬によつて表白せんとして居る。津輕繪馬の蒐集家松野武雄君の經驗は、私には力強い暗示であつたが、本人が既に研究の要領を公表して居るから（旅と傳説三卷一〇號）、爰では其受賣はさし控へる。たゞ中央部との大きな差異だけを言ふと、この地方の繪馬は全部が誂へものであつて、出來合ひを買つて納めるといふことは、もう南部領の方には有るが、津輕には殆と絶無のやうである。

　それならその繪樣は誰がきめるかといふと、勿論心願ある本人が繪馬師の所へ行つて注文するのだが、それには先づいたこ〔三字傍点〕といふ盲女や御夢想《ごみそ》といふ者に相談して、其意見に基づいて斯んな繪をといふことをきめるのである。繪馬師は畫工であり又時としては佛師でもあつた。彼等の技藝にも制限があつて、何を依頼せられてもかけるといふわけにも行かなかつたらうが、それよりも大きな約束は、一方の巫覡の空想にも大よその範圍があり、又常人の常識にも行止まりがあるから自然に繪になる題材は重複し、若干の分類が可能になるのである。

　つまりは松野君のやうな湛念な整頓分類によつて、津輕地方の信仰生活が、あらましは繪馬の上に反映して來るのである。私などが之によつて教へられたことは、一つには繪馬は願掛け即ち願ひ事の表示が目的であつて、中央部に於て考へられて居るやうな、御禮參りの奉謝の供物ではないことである。是は恐らくは古い世からの仕來りで、大願(348)成就とあつても成就しましたの意味では無く、成就せよかしといふ心中の祈念を、先づ文字に現はしたものと見てよいのだが、馬を繪にかいて上げたといふことが、如何にも御禮のやうに取れるところから、學者先生だけがさう解して、一世の誤りを爲したものらしい。津輕繪馬の繪は此點が誠にはつきりして居る。

　蛇の祟りだといふと蛇の畫をかくのみか、時としては其まん中に色青ざめた娘の姿をかき、殺生の罰だといふときは水中の魚などを數多寫生に描いて額にして上げる。つまりは現在切に心の中に思ひ惱むことを、其ままに繪にして置けば人ばかりか、神樣佛樣をも動かすだらうと思つて居たのである。

　次に今一つ古風ではないかと思ふことは、堂宮の管理者等は、この捧げものに對して必ずしも深い關心を抱いて居ない。信者の側でも是を神佛と直接の交渉として、稀に金錢を添へて管理者の承認を乞ふこともあるが、多くは任意であり又掛ける場所も自由にきめ、或は路傍の縁や老樹にも掛け、又は巫女御夢想の家に置いて來る者もある。是を松野君等は地方的の變化のやうに考へて居るやうだが、私は寧ろ古い頃からの仕來りかと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　四

　

　人が心の中の思ひを力強くする爲に、之を繪にして永く殘る形にして置かうとすることは、獨り繪馬だけではなく、繪といふものゝ全般の起原であつたかも知れぬ。たゞ是を具現する技能が足らぬと感じた者から、追々と是を特別の藝を持つ者に依頼することになつて、繪は發達した代りにめい／＼の期する所と遠ざかつて來たのかと私は思ふ。非常に六つかしい問題ではあるが、さういふ研究を進める資料は、必ずしも日本には消え盡して居ない。

　私は東北の大津波から二十五年の後に、其慘害の最も甚だしかつた上閉伊の或村に行つて、村の寺の本堂に掲げられて居る數多くの掛額を見た。繪馬とは別のものと見られて居るが、此繪の中には親子夫婦、明るい室に坐して茶を飲んだり、仲睦まじく顔を見合せて居る圖が多く、それがすべて皆この災厄にあつて死に別れ、生き殘つた人々の上(349)げたものであつた。日清日露の大戰役の後は、是には主として寫眞を用ゐたやうだが、それも多くの友だちと共に撮影したものだつたり、又はその前後の戰場の光景を、銅版にしたやうなものを好んで掲げたやうである。是と津輕繪馬の圖がらとは、動機に於てどこか共通のものが有るやうな氣がする。

　それから最後に今一つ、忘れ難い逸話がある。是は福島縣の海に近い農村で、或男が稻刈りに出て居て手負猪に襲はれたことがあつた。其時他の男女は皆樹に登つて避けたが、たつた一人遁げそこなつて溝の中に突伏し、牙でしたたかに臀を切られた。漸く療治をして症は治つたが、其時の打撃からすつかり元氣を失ひ、久しくぶら／＼として居たさうである。其男が自分で考へ出して繪師を頼み、大きな繪馬をかゝせて村の社に納めたのは、富士の卷狩で仁田四郎忠常が、野猪の背に乘つて劍を以て退治する所であつたといふ。その心持は私にもほゞわかるやうに思つた。

　繪馬を神に上げたいと思ふ動機と、今でも小説に挿畫を入れ、物語を舞にまふやうな風習とは、本來は一つの起りではなかつたらうか。言葉はまだ我々の心の中のものを、同じ強さではつきりと言ひあらはすことが出來ない。人に效果が無いことは神樣にも亦屆かぬかも知れぬ。それを補充し又は代表するのが古い世から行はれた繪馬では無かつたらうか。板に繪を描いて納めて、馬を獻上したつもりになれないことは、昔の人でも知つて居たらう。寧ろ力が許すならば、馬でもさし上げようものといふ心持を、斯うして畫にして少しでも有效にしたのでは無いか。

　現在の資料だけで證據は十分といふのでは決して無い。たゞ此方角に向つてもう少し注意をつゞけ考察を進めて行つたなら、末には繪畫の起原といふが如き大きな問題でも、わかる時が來るかもしれぬといふこと、それが私たちの學問の希望である。

　

(350)　　　龍王と水の神

　

　私は子供の時分から、雨乞ひに就ては、大きな印象を受けてゐる爲に、雨乞ひの唱へ言は、既に早くから蒐めるともなしに蒐めて來てゐる。

　雨乞は、通例は夜になつてから、松明の行列で山へ登つて行き、高い處に少しの間居てまた下りて來るのだが、これが山の上で火を焚くセンダタキ（千駄焚き）又はセンバタキ（千把焚き）といふものと、同じ趣旨なることは明かである。土地によつては、薪を山の上に擔ぎあげて、大きな火を焚くのを專らとして居る所もあるが、私の郷里（中部播州）のは里から松明にして、銘々が二三本づつ持つて山の上に登つて行き、暫らくして又下りて來る。田舍の夜の行事としてはこれ程美しく感じられるものはない。それに行列の人々の合唱があるものだから、子供にとつては大變印象の深いものであつた。

　少年の頃から不思議に思つてゐたのは、その雨乞ひの日の言葉であるが、これは、各地共通であつて、しかも村々少しづつは違つてゐる。たとへば私などの部落では、

　　あめたんもれ　じうもんど

　　　　　くもに汁けは無いかいな

　これは?々耳にしたもので、下の句はよく解るが上の句は少し不明で、又土地により少しづつ異つてゐる。私は「じうもんど」は鈴木主水などゝいふ主水かと思ひ、十人の主水のことかとも考へて居たが、隣の部落では、(351)

　　あめたんもれ　じうおいの

と謂つて「十王」のやうにも聞えるから、どういふ譯かと思つてゐたら、父があれは龍王樣のことだといふ。成るほど又「りうおいの」と謂つてゐる所もあるから、それにちがひないのであつた。

　こんな記憶もある爲に、私の蒐めた雨乞の唱へごとは大變な數にのぼつてゐる。唱へごとはどこでも片端は似て居て、それが又頗る廣い區域に行はれる。どこらまで擴がつてゐるのか、一度は必ず調べてみるべきだと思つてゐる。

　最近の「大阪民俗談話會報」に出てゐる和泉の父鬼では、

　　あめたんもれ　じうおんど

　　さつさとたんもれよ

と謂つて居り、但馬では、

　　あめふらせ　じうがんど

と謂つて居る。

　稻の耕作には水が大切であつて又多過ぎても困る。日本の農民生活にとつては是くらゐ關係の深いものは無く、雨乞の願ひも古くからあつたことに違ひない。といふことは先づ雨乞ひの言葉の、咒文の最も原始的なものであるのを見たゞけでも簡單にわかる。

　

　そこで問題になるのがその「龍王」である。これは無論外來語であるから、恐らくは中古、學問ある僧侶修驗の徒が謂ひ出し、それを、彼等の法力の高さを認めるが爲に一番尊い言葉のつもりで使ひ出したに違ひないのである。

　ところが「りゆう」は、日本人には最も發音しにくい言葉だ。西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を發吾し難く、漁師などには、リヨウ又はリユウと發音してゐる者は少く、ジウゴウサンと謂つて十五夜と混同して、月(352)の十五日を祭日にしてゐる所もある。此例が非常に多いのである。東京近くの海岸地帶でも「りゆうごさま」に近い語音で呼ばれてゐる。この發音の困難が、いつの世からとも無く、水の神の思想を混亂させて居るのであるまいか。即ち龍宮といふ言葉などの今のやうに弘く行はれたのもその一つではないかと思ふ。

　龍王といふ語は無論支那の方にも古くからある言葉だが、龍宮は實は少し珍らしい。W子音をGに變へる癖は我邦にはよくあることだから、或はこの古い「りゆうわう」が龍宮といふ名を普通にしたのではなからうか。龍宮の語は、支那の書物にも全然無いとは言へまいが、水中の靈境は「わたつみの宮」である。「たつのみや」といふ言葉が先づ出來て、それから「りゆう宮」となつたとは私には考へられない。

　之に反して龍王の方は明かに借物である。借りものゝ言葉が我々の生活に入つて、民俗となることはあり得ないやうだが、これだけは例外といつてよからう。さうすると、どうして入つたかゞ問題であると同時にもし龍王の名が新らしいとすると、其名を採用する以前にはこの神樣を何と呼んで居たらうかといふ問題になつて來る。つまり、我々の大昔以來の非常に大事な神の名が、今日はもう忘れられ消えてゐるのであつて生活にとつて重要なものゝ名でも、何か理由があれば改まり、必ず殘るとは言へないのである。

　勿論、實質からいへば、前には「水の神」といつたと思ふが、水の神では歌にも唱へごとにもならない。もう少し口にしやすく、聽いて印象の鮮かな、その水の神を意味する民間の言葉があつて、それが少くとも日本の大部分の土地では忘れられて居る、と見てよいのである。

　日本の昔話の中では、龍宮の乙姫樣ほどよく子供にも知られてゐるものはないが、なにしろ其名稱が「龍宮」なので、考へない人は皆外國の文藝の輸入のやうに思つてゐる。これだけは、南の島々の研究が進んだ御蔭で解つたのである。龍宮に該當する言葉は、岩倉君の郷里（喜界島）その他の島では「にいや」といひ、根屋などゝ書いて居る。根(353)の國との關係が想像せられ、全然今日の龍宮と同じとまでは言へまいが、つまり海底にある靈境と解されてゐる。是は實はR子音の脱落で、もつと南では「ねりや」「にらや」といふ言葉に續いて居り、即ちおもろ草紙以來の「にらいかない」又儀來河内といふ文字を記したものもある。「かない」は對句である。奄美大島では「なるこてるこ」といふのも一つらしい。「にいや」と「にらや」とが同じことであることは、きゝ正して見れば沖永良部、又は喜界の人たちでもまだ認めて居るであらう。

　その「ねりや」、「にらや」のもとの「にいる」は形容詞として先島の人々にはまだ其感覺が殘つてゐる。例へば、非常に深い井戸の底に水が光つてゐるのがニーラ、即ちたゞ遠い／＼といふ意味であつたのだ。

　是で今いふ龍宮の以前の名は解つたやうだが、さて「龍王」の原形は解らない。或はわたつみの神とか水の神とか、謂つたかとも考へられるが、雨乞ひの歌などはもつと簡單な言葉が入要なのだから、是等の言葉では適切でない。捜すなら「りゆうわういの」と入れ換への可能な言葉を求めるべきで、常に心掛けてはゐるが、まだ今日まで見つからない。斯ういふものを尋ねるのが日本民俗學の一つの役目である。

　

　大體からいふと我々の水の神は、古くは一つしか考へられなかつた筈である。海の神も、流れの神も我々に水を井戸から供給する神も、恐らくは又助ける神もいかる神も、元は一つに考へてゐたのであるが、生活が複雜化するにつれて、追々と兩者を分けて考へるやうになつて來た。即ちカハの神とか井の神とか、湧水の「おすゞの神」とか又は、淵の底には龍宮とかいふ風に考へ方が分れて行つた。かうなると昔の言葉では既に我々の感覺が分れた爲に、一つでは通用しなくなつて、古い總括的の言葉を消してしまつたのではないか。言葉を換へていふならば、日本ほど水の神の威�ｺを深く感じなければならぬ國はないのに、我々の學問でも、神道でも、歴史でも、この信仰の變遷が現在は不明に屬して居るのである。他の總ての問題に就いては解りきつてゐるといふ考へを持つてゐる人でも、少なくとも水(354)の神の信仰に關する限り、子供の質問にも答へることは出來ぬと思はなければならない。

　然も、決して希望のないわけではない。少し忍耐して比較を進めて行つたならば、徐々にではあるが、今に分つて來るものと思ふ。

　河童は、今でこそフオクロアの好題目となつたが、これと水の神との關係は、笑ひ興ずるだけで今までは省みる人はゐなかつた。私の言ひ方は今までいさゝか遠慮深かつたからかも知れぬが、今日妖怪變化の下等なものとしか見られてゐない河童が、以前はすぐれた神聖な民間信仰の仲介者であつたことを認めなければ古史に「わたつみの神」を「海童」「少童」と書く理由は訣らないのである。若し昔から斯んな劣等な、惡戯しか知らぬ妖魔だつたら、少童の文字が傳はつて居る理由がない。子供を代表者とした遠い遠い國の神であつたればこそ、今でも日本人が其畏怖を棄てられないので、これは單なる物好きの問題ではない。禍福共に、これ程強く水の影響を受けてゐる民族は日本人の他にはなかつたのである。だから水の神の信仰に就ては、將來堂々と國學の人々が、世の疑問を解き得るまでに、其學問を進めて行かねばならぬ。

　かうした意味で、今度の國學院雜誌の民間信仰號の計畫に、私は強い賛成の意を表したのであるが、それにしてはこの一文は力が足りない。

　

(355)　　　片葉蘆考

　

　諸國七不思議の一として折々數へられる片葉の蘆は、片目の鰻又は片身の鮒などゝは大きな違で、根つから珍しい物とも思はれぬ。どこの海川の蘆葉でも、若葉の頃から風に癖附けられて、多くは葉が莖の一方に片寄つて居る。たしか利根川圖誌の中にも、片葉蘆の圖とあつて、をかしいことには普通の蘆の畫が描いてあつた。畫工だつても困つたであらう。越後居多濱の日丸名號の縁起に、親鸞上人此地に行脚して瀧の下の助惣なる者の家に宿し、居多明神に祈つて、我念願を守らせたまふとならば其奇瑞を現じたまへと申しければ、社地の蘆一夜の中に片葉と變じたとある。此類の話は一寸見ると有難さうではあるが、由緒も無い世間の蘆と比べて格別の相異が無いとすれば、此だけでは理窟に合はぬ。要するに此も所謂片男浪の亞流であるらしく、不思議は寧ろ此名を傳へ説く人々の心である。近頃本多博士の集められた大日本老樹名木誌を見ると、志州磯部の伊雜宮の口碑が載せてある。自分は之に由つて一の暗示を得たやうに思ふ。今先づ其話の大要を記さんに、垂仁天皇二十七年の秋九月、伊雜の方葦原の中に鳥の鳴く聲しきり也。倭姫命之を怪みたまひ、大幡王命と舍人麻命とに命じて之を覓めしめたまふに、一羽の眞名鶴一穗の稻を含み來りて之を命に獻ず。命之を瑞祥として其傍に池を掘り之を作らしめたまふ云々。其池今は水洞れて僅かに凹地あり。傍に老木の樟あり、之を御神木と稱す。毎歳御田植祭執行のときは、必ず一莖の早苗を此神木の前に奉獻するを例とすと云ふ。此話は單に大歳神の神�ｺとする所の鶴の稻穗譚の一樣式に過ぎぬやうではあるが、同時に又方葦原の名に由つて、片葉の蘆の元の思想を現はして居るやうに思ふ。次に自分が説き試みんとする如く、片葉のカタは諸葉のモ(356)ロ即ち二つと云ふことに對する一つを意味する語で、啻に神の奇瑞と云ふだけでは無く、直接に神の出現を意味する神聖なる物體であつたらしいのである。

　右の假定説に對する第一の批難は、早苗と蘆との二つが何の縁も無さゝうに見えることであらう。併し多くの神社の祭式に於ては此二つと萱とは常に同じ目的に用ゐられて居る。其理由は三種の植物が共に穗に出づると云ふ特性を持つて居る爲かと思ふが、之れはまだ斷言することが出來ぬ。何れにしても片葉の蘆は蘆にのみ限つたことで無い證據には、別に又片葉の薄と云ふ話もある。信府統記卷十九に、今の信州東筑摩郡里山邊村大字薄町の事を記して、「此郷未だ開けざりし時、三里あまり奧の大明神と云ふ地に神の垂跡あり。降臨のとき薄の葉に召され、薄川の流につきて今の薄畑と云ふ所に至り、後當社に遷りたまふ云々。社地の傍に片葉の薄あり。則ち之を神體と云ひ傳ふ云々。神詠とて傳ふるは、

　　　出雲路や八雲八重垣たちけしてそのうらすゝき今は穗星野に」

とある。ウラスヽキは多分占薄であらう。日本語のウラは卜占を意味し同時に神意を意味して居る。即ち「うら悲し」などのウラである。神が薄の葉に召して降られたと云ふのは、必しも初度の勸請のときでは無く、年々の祭に此物を以て神の依坐としたものらしい（郷土研究一卷二五七頁參照）。松本地方は諏訪の信仰の最も盛な處であるから、右の歌の穗屋野と云ふのもやはり薄を苅る神事より出た語で、つまり此一章は秋の祭の日に唱へて居た歌曲であつたのを、後世神詠などゝ傳へたものかと思ふ。諏訪の穗屋野の神事は近世までも嚴重に行はれて居た。毎年舊暦の七月二十六日に、社から一里ばかり離れた御射山と云ふ處に往つて、山野の尾花を苅取つて小屋を葺き、其中に入つて精進をする。一の小屋は神職、二の宇は社僧、三の宇は巫女の居る處と定める。薄の穗を以て葺き渡すが故に之を穗屋と名づく。市人も各穗屋を構へて雨露を凌ぐ便とすと云ふ（遊嚢※［謄の月が目言が貝］記所引木曾乃山布美）。一本の薄を苅取つて神前に立てる儀式は、穗屋の花やかなる光景に消押されて人が注意しなくなつたが、此神事の中心は寧ろ此に在つたやうである。(357)例へば諏訪舊跡志が引用した上社記に、七月二十六日は五官の祝等前宮溝上社に詣でゝ芒藻の幣ありと云ひ、同二十七日には毛髪萱穗を以て奉幣ありとも見えて居る。更に遡つては諏訪明神繪詞の祭禮の卷にも、正月元日深更に及びて御室に還り、先萩組の座にして神長御占を行ふ。薄の穗一束掌内に奉る。大祝對して誦文あり、外人に聞かしめずとも書いてあつて、薄を神代とする由來の久しきことを示して居る。此が即ち片葉の蘆の眞の根原かと自分は思ふ。

　二十年ほど前に出來た越後風俗志と云ふ雜誌の第六號に、越後昔話と云ふ書を引いて斯な記事がある。「諏訪の神はスヽキを好ませられしと云ひ傳ふる故に、其神裔たる者は薄を貴重の物とし、家の名も之に因み來りしを、後に鈴木の名字に誤り來りしものなり云々。」此簡單なる一條は日本に數多い鈴木氏の歴史に就て甚だ重要なる資料である。自分は今まで鈴木は悉く熊野から出たものと考へて居たが、諏訪の神人にも此名字があるとは珍しい話である。鈴木と云ふ家名の由來に關しては昔から既に神秘の説もあると云ふことは、曾て穗積陳重先生から聞いたことがある。穗積博士の家はもと仙臺の鈴木氏で、伊達殿に附いて伊豫の新領に移られた。穗積は維新後に姓氏録の舊姓に復せられたのだと云ふ。熊野の鈴木氏が自ら稱ふる一説に依れば、鈴木は即ち稻の隱語である。稻の穗の形が巫女などの持つ鈴に似て居る故に之を鈴の木と云ふので、穗積の本姓とも若干の因縁があると云ふ。併し越後昔話の鈴木の説明は之に比べると今一段と直截簡明であつて、而も自分の見る所では必しも鈴なりの米の木説と兩立し得ぬもので無い。鈴木氏が熊野から出たと云ふことは義經記などが言始めであらう。平家物語には無くて盛衰記には出て居る。併し勿論根の無い話で無いことは段々の證據がある。熊野では新宮川の左岸の川口の邊を以て鈴木氏の故地と傳へて居て、彼家も亦新宮權現の社家である。而して此新宮こそは亦一箇の薄神事の行はるゝ社である。繪葉書の寫眞さへあるのを見れば今日も昔の通りであらう。此社九月十六日の西御前の御祭に神輿の渡御あり、其行列の中にオヒトツモノと云ふものがある。編笠を被つた人形を馬に乘せて渡すもので、衆徒永田氏の役であつた。暫くは若き人を人形の代りに乘らしめたと云ふ。紀伊續風土記にも寛文記を引いて、「一物は金襴の狩衣を着て、萱の穗十二本に牛王十二枚を挿(358)み腰にさして、飾馬に乘り御輿の先に立つ。其萱穗は大島より獻ずるを、衆徒等七日の間神前に籠り祈?して出す云々。今は一本なれどもとは十二本なりしか」とある。十二は熊野權現の十二所を表示するものらしく、此文面では一人が十二本持つやうにも見えるがそれは信じにくい。併し少なくも萱の穗を腰にさすと云ふことは昔から今日までの條件であるらしい。之に就て考へ合すのは陸中平泉の白山權現の四月の祭に、七歳の童兒に潔齋させて腰に蘆の葉を挿ませ、飾馬に乘せて社前に牽いて行くのを御一箇馬と名づけたことである（郷土研究一卷二〇五頁參照）。美しい稚子が飾馬に乘つて行く方に眼を奪はれて、腰にさした一本の蘆には注意が疎かであつたらうが、右の御一箇馬の名の起りもやはり熊野と同じくオヒトツモノであるやうだ。新宮でも今は或は一物とは腰にさした萱の穗のことであることを忘れて居るかも知らぬ。此社では明�ｺ元年注進の神寶目録の中に既に一物装束一具在唐槽とあつて、其色目を擧げ、衣裳と馬具との外に綾蘭笠山鳥尾及び腰指花など列記してあるが、萱の穗は年々の進獻であるから無論掲げてはない。故に他の地方の多くの例を比較するに非ざれば、此文書のみではヒトツモノの名の由來は解らぬわけである。

　熊野新宮の一物は特定の土地に生ずるものを奉るが例であつた。同じ續風土記の卷七十七東牟婁郡大島浦の條に、「地方の西一町ばかりに權現島あり、一名は堂島、又人形島とも謂ふ。周百十間の大岩にして上に樹木茂生す。古人傳へ云ふ、熊野權現此島に降りたまひそれより新宮へ鎭座したまふと。古より今に至り毎年新宮の祭禮九月十五日に、此島の茅の穗一本と魚三掛、外に魚七十五尾を權現へ奉獻するを例とす」と見えて居る。以前は十二本だと云ふ説は此からも誤らしく見える。之に似たる例は外にもある。西讃府志卷三風俗の部に、讃岐琴彈八幡宮の祭にさるべき童兒を選び、前つ方より重く物忌を爲さしめ、祭の日には鳥の尾さしたる笠を着せ、此が額と笠とに八の字をかき、馬に乘せて神輿の前に立たしむ。之を一つ物と云ふとある。此童子も腰に蘆又は茅をさしたとは無いが、更に其記事の續きに、同國三豐郡笠田村大字笠岡の村の祭の時、村民五郎八と云ふ者一つ物と稱する茅を持來りて神輿に隨ふ。此茅は彼が家の巽の方に廣さ三間長さ五間ばかりの堀あり、其中に塚ありて其塚に生ひたる茅である。熊岡八幡宮の祭(359)の日にもかの五郎八之を持行くと見えて居る。此から押して見れば、信州松本在の薄町に、神が乘つて降られたと云ふ片葉の薄も、越後の居多濱に於て神の奇瑞を親鸞に示されたと云ふ片葉の蘆も、元は皆ヨリマシが手に執つた手草のことで（郷土研究一卷六五頁以下參照）、由緒あつて此が採取地と定まつて居た場所を靈異視したことが、今の片葉蘆の名所に變じたものである。此まで注意した人は無いやうだが、諸國の一本芒又は二又竹の傳説も、片葉蘆と共に前代の祭の慣習から説明すべきものと思ふ。近頃出來た安房志に、今の安房郡西岬村大字洲崎、洲崎神社の宮寺なる養老寺は役小角の創建と傳へ、山脚の岩窟に行者の像を安置し、傍に銀水又は獨鈷水と云ふ靈水あり、此邊蘆葦莽然たり然れども叢生せず、必ず一根を抽くによつて一本芒の名があると云ふ。文章に些しく不明の處があつて葦か薄かよく分らず、又此地に頼朝が晝の餉の薄の箸を捨てたのが成長したと云ふ口碑もあつて、一本か二本かもはきとせぬが、兎に角ある地の薄若くは蘆は、刈らずに其まゝ神の用としたものもあるらしい。大和石上の在原寺の堂の前には一叢薄の生ひたる塚があつた。千種日記に採録したる縁起に依れば、業平もと此地に住し後に山城の京に移りて歿したれば、亡骸は京に葬り此地には其冠のみを埋めて冠塚と名づく。其後夢の告あつて遙かに京の東山から遺骨を持來つて此塚に納めた。其塚は今の古寺より一町ばかり東の田中にあつたが、いつの頃にか其塚の薄ばかりを堂の前へ移し栽ゑたと云ふ。又一説には業平は或朝吉野川の上に往きしまゝ歸つて來なかつた。そこで因縁の人々此塚を築いて一村薄を栽ゑ後の世までも殘したのだとも云ふ。何れにしても此薄が塚の神の爲に重要であつたことがよく分る。業平から聯想して更に言ふと、かの有名なるあなめ／＼の物語に、小町の髑髏の目の穴から薄が生えて、風に吹かれる音が歌のやうに聞えたと云ふのも、右の一本芒の元の思想が尚明瞭であつた時代には、非常に意味の深い靈異譚であつたかと思ふ。小町のマチは他日諸國の小町塚の由來として猶講究したいと思ふが、要するに巫女に當る古語であつたらしいのである。

　播州姫路の總社の祭に一つ山と云ふものがある。たしか六十一年目に一度の大祭であつたかと思ふ。此は大甞會の(360)標の山と同じく、社頭に作立る作物である。之に對して二つ山と云ふのは中間の二十一年目に行ふものかと思ふが、何分幼少の頃の耳聞で記憶が確かでは無い。右の一ツ山は或はヒトツモノと云ふ語の説明の助ではあるまいか。又フタツモノと云ふ語もある。秩父三峰の獅子舞の歌の曲に見えて居る（郷土研究一卷五四九頁參照）。

　　　十七の前にさがりし二つ物二つたもれ聲のくすりに

　下の句の「二つ」は或は「一つ」の誤かも知れぬが上句の方は誤ではあるまい。但し聲の藥と云ふのは何分判明せぬ。之と關係があるらしいのは、前にも武藏野雜談の中に擧げられた所謂箸立の傳説で（同二卷一〇九頁參照）、或英雄又は名僧が食事をして記念に箸を地に挿すと、それが根附いて成長したと云ふ話である。此中でも二本杉二本松の類は、特に二本の同齡の木を併植して、村の境などの目標としたのに、後に神秘の解説を加へたものであらう。即ち所謂相生の由來は物質的にも推測することが出來る。之に反して年々生ひ易る篠竹又は蘆などの必ず其跡から二本づつ生えると云ふに至つては、あり得べき事實でも無いから、寧ろ傳説の万が先づ起つて、人が意を以て之をしか迎へ見たとするの外は無い。然らば其傳説は何に由つて來たかと言ふと、一本の蘆又は薄の代りに二本の蘆又は竹を立てた神事もあつたのが其原因だらうと思ふ。伊豫の久萬山の二本の矢竹、相州石櫃山の二本の竹串などは、別に箸立の傳説をも伴はずに、やはり昔から二本より多からず少なからざる篠竹の生ずるのを神の力に託して居る。さうして見ると神に由つて又は託宣の種類に由つて、或は一本の又は二本の蘆芒篠などを用ゐたのであらうか。古代人の信仰生活の幽玄なることは、今更ながら學問の力の及び難いことを感ずるばかりである。箸に關する色々の傳説は他日改めて之を述べよう。唯茲にはフタツモノの關係のあるらしいことを言へば、房州では新箸と云ひ越後では青箸と名づけて、毎年一定の日に茅を以て箸を作り食事をする風俗である。諏訪の繪詞の中にも、正月一日に神長御箸と唱ふる聲を聞いて大祝御者を机の飯に立て衆人之に隨ふと云ふことがある。昔の祭には飯盛と云ふ行事が多かつた。今日田舍の葬式に箸を盛飯に突挿すことは何か死靈の送迎と關係のあることでは無いか。猶考へて見たいと思ふ。

(361)　最後に諏訪の穗屋野と同じく蘆を苅つて神を祭つた一二の例を擧げよう。前述の安房志に、長尾村大字瀧口字犬澤の小鷹神社四月の祭の時、古よりの例として蘆葭を苅取り之を氏神及び諸神に獻ずるをサウリと云ふとある。サウリは自分の信ずる所では切替畑のことである。甲信駿遠より武藏にかけて云ふ語で、奧州でも山畑を休めておくことをソラスと云ふ。蘆を苅るのをサウリと云ふのも何か其因縁があるかと思ふ。蘆を苅つて神に奉る例は尾州津島社の祭が有名だと聞いた。本年活版になつた張州府志を見ると、同じ國にもまだ類例がある。即ち熱田神宮六月五日の御葭神事も津島の社のと同じく、山車の行列の中に之を携へて行くらしく、翌六日の曉には天王社の前に於て神人祝詞を唱へ御葭を東北の池の中に流すと云ふ。愛知郡幡山村大字本地の御蘆天王の社は寛文十一年の建立である。此社に就て同書に曰く、「津島神社及び愛知郡戸部天王社六月の祭には、共に蘆を束ねて海に放す、其蘆流に隨ひて去れば民人蘆の止れる所に於て之を祭り呼んで御蘆と云ふ。此社も亦其蘆の流れ來つて留つた地である」と。之とよく似た習慣は更に三河にもある。中山美石の三河吉田領風俗答書に、豐橋の横町と云ふ地にある牛頭天王社、六月晦日の祓祭に茅輪を潜らする神事の外、拜殿には薄を長さ二尺四五寸に切り葭にて根の所を包み廻り八九寸程にして下をよく揃へ、之に紙雛の如き紙の人形を附け、青黄赤の紙の幣を添へ、徑一尺二三寸の盥に水を入れカラムシの枝を浮け、其眞中に彼葭を立て置く。此夜九つ過茅輪と共に葭をも豐川に流す。其葭流着きたる川下の村では、其日は日待の如く垢離をとり業を休み、川より葭を取上げて生土神の社地内に假宮を作りて之を納め置きて參詣す。七十五日の間は毎夜燈を獻ずとある。此等は何れも蘆や薄の一本に神が託して往來すると信じた例で、手草の起原も此外にはあるまいと思ふ。八月十五夜に萱穗を缺くべからざる物とする東國の風習も、自分は此方面からでなければ説明が出來ぬと考へて居る。

　

(362)　　　諸國の片葉の蘆

　

　七不思議目録の増加につれて、片葉の蘆などは之を珍とする人の心もちが却つて珍だと云ふことにはなるやうだが、其説明又は由來談には是と云うて我々の研究（郷土研究二卷一九三頁以下）を補ふべきものが現はれぬのは氣がゝりである。其後自分の心づいた各地の片葉の話を、此には單に備忘の爲に書集めて置く。先づ東京では淺草花川戸大長屋の裏なる達磨ヶ池の舊跡、文政の頃には御室院家眞珠菴の抱屋敷の庭に、片葉蘆があると御府内備考卷十三にある。或は達磨ヶ淵とも云ふとある。即ち洗足又千束とも稱する馬神の舊祭場であらう。同所馬道淺茅ヶ原にもあると云ふのは同じ地を指すか否かわからぬ。其他尚淺草の慶印寺内、深川木場邊、芝の金杉橋の附近にも片葉蘆があつたと云ひ、又本所七不思議の一つにも數へられて居るが、所在は明白で無い。次に下總印旛郡阿蘇村大字村上の阿蘇沼には今でも片葉の蘆を生ずると云ふ。此沼では昔獵人が鴛鴦《をしどり》の雄を射殺した處、其夜雌鳥が婦人の姿となつて夢枕に立ち、例に由つて例の如く「日暮るればさそひしものをあそ沼の云々」と云ふ歌を詠んで泣いたと云ふ故跡であつて、其蘆も亦夫に離れた鴛鴦の遺念によつて生ずと云ふ。以前は頗る廣大な沼であつたと傳へ、今も俗に片葉の辨天と稱する水の神の社がある。磐城刈田郡白石町字本郷の田の中に芳ヶ池と云ふ小さな池がある。昔は此池に偏葉の葦を生ぜしが今は然らずと封内風土記にあるから古い話である。芳ヶ池の芳は葦のことであらう。山奧の地名に芳ヶ平と云ふ處が多いのは注意すべきことゝ思うて居る。同郡｜越河《こすがう》村大字越河字大佛には石大佛ある藥師堂がある。觀迹聞老志には泉の傍に蘆葦を生ず、其葉皆偏生なり、郷人偏葉蘆と稱す。人頭山路の東に在り云々と見えて居る（以上刈田郡案内）。(363)近畿地方には外にもあらうが、自分の聞いたのは河内北河内郡友呂岐村大字木屋の出口の善光寺にも片葉の蘆がある。昔此地に大蛇住み一年に一人づゝ人を取つて食うて居たのを、蓮如上人來つて之を退治したと云ふ。其時大蛇は上人と約束して、此村の蘆の片葉を貰ひうけて昇天し其以後此地の蘆は永く片葉である（故郷見聞録）。攝津川邊立花村大字東難波の八幡社内に、亦片葉の蘆があつて、所謂難波の蘆は即ち是なりとの説もある。攝陽群談には、尼崎附近難波村かけて島々に生ひたる蘆、莖葉同じく片葉なり、世に難波の蘆も伊勢の濱荻と云ふ。伊勢では片葉に生ずる蘆を殯荻と云ふとあるのは愈々妙な話である。又大阪阿彌陀ヶ池に於ても同じ蘆の話があると云ふことである（以上川邊郡誌）。蘆が水邊に生ずる植物である爲でもあらうか。此種の話には水の神の祭に伴ふものが多い。玉移良比賣を祭ると云ふ伊勢内宮の末社｜葦多弖《あしたて》神社の例などを考へて見ると、伊雜の方葦原の稻穗の祭の傳説は、やはり所謂ヒトツモノの性質を説明する重要なる關鏈であるやうに思ふ。

　

(364)　　　七難の揃毛

　

　七難がソヽゲと稱する至つて長い毛を藏する社寺のこと、下總石下の東光寺と稱する親鸞門徒豐田四郎の開基の寺の外、江州竹生島信州戸隱相州箱根の權現などにも、古くよりあると和漢三才圖會に之を載せ、其後此物は何かと云ふが學者の問題になつて居る。阿波國式社略考に依れば、大和の布留《ふる》の社にも一筋の髪毛あつて之をソヽゲと云ふ。或者は猿田彦大神の神毛ならんと云ひ、又或者は素盞嗚尊の御毛にしてソヽゲは即ち素尊毛ならんと判定したさうである。阿州奇事雜話にも出て居るが、同國三好郡加茂村の下の宮と云ふは亦牛頭天王を祭るとも云ひ、神寶の中に麻桶に入れた毛一筋あり、土俗或は之を御神體とも云ふ。神意穩かならぬ時は此毛岐を分ちて大に延び、麻桶の蓋を突いて夥しく外に餘り、神意靜かなれば又只一筋になると言うた由。東京を北に隔つこと遠からざる葛飾郡新里と云ふ村に以前毛長明神と稱する社があつた。四神地名録に云ふ、昔は此社の神體は箱に入れた毛髪であつた。或時代の別當、不淨の毛を御神體とするはあるまじきことゝて、出水の折之を今毛長沼と云ふ沼に流した云々。何故に不淨としたかは記して無いが、或はソヽゲの意味を通俗的に解したのでは無からうか。閑?瑣談には一の驚くべき記事がある。上州甘樂郡山中領楢原村（新羽郷）で慶長年間の大洪水に神流川へ三十三尋の黒い毛が流れて來たのを同村野栗權現の流したまふ陰毛なる由、湯立の巫が言ふによつて寶物となし、六月十五日の例祭には毎年神輿と共に之を渡したとある。日向兒湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神大山祇命及び岩長姫命と云ふ。姫世を憤りたまひ此地の御池の淵に身を投げたまふと傳へ、往時は神寶として亦一の毛髪があつたが、此も元禄十六年の大水に流失して(365)今は無い。其毛の存せし間は神威殊に著しく、不淨は勿論外人殊に下日向の人を憎み、一歩も領内に入るを許されなかつたと云ふ。此等は共に七難と云ふことを言はぬが、越前平泉寺口の白山登路に七難の窟あり、美濃根尾谷の能郷白山の路にも七難岩あるなど、或は此名稱の巫女信仰に屬するものならぬかを思はしめる。又山城吉祥院村の天神社には七難田の古名を傳へ、飛騨水無瀬神社の鬼川原には七難と云ふ妖鬼平定の故事が存して居る。喪葬令の集解に長谷天皇崩御の時御式に仕へた皆氣和氣なる女を遊部君と名づけられたことを記して、「爾時詔、自今日以後、手足毛成八束毛〔七字右○〕遊詔也、改名遊部君是也」とあるのは、毛の長きを靈巫の徴とした一例である。扶桑略記治承三年の條にあると云ふ此和子（？）の陰毛「宛如蔓不知寸尺」も、或は後世の七難では無いかと海録二などには言うて居る。

　

(366)　　　民俗覺書

　

　　　　　　　　　　一

　

　東熊野の須賀利といふ漁村で、十日餘りの踏査を續けて來た牧田茂君の報告に、あの村の住民が神を拜む言葉は、金毘羅大權現だけは上に南無を附けるが、其他はすべて「ツヤ八幡さま」、「ツヤ高宮大明神」といふやうに、ツヤといふ語を添へて神の名を呼ぶさうである。其例は果して他にも有るかどうか。是からは是非とも氣を付けて行きたいと思ふが、今の所では我々一同には初耳であつた。

　それでどういふわけかといふ評定が始まつたのだが、早速ながら一つの解説を提出する。勿論假定であり、又寧ろ一つの問題の入口に過ぎぬが、斯ういふことがあると、うちの方ではどうだつたらうかと、ふと反省して見る氣にもなるのである。以前私は伊勢の大廟に詣でゝ、田舍の人らしい婦人の、ナム天照皇大神さまと謂つて拜んで居るのを聽き、非常に氣にして還つて來たことがある。それで質問紙を作つて五百枚ほど、全國の山村と離れ島との小學校に、何と謂つて拜むかを問ひ合せて見た。その大要もたしか北原氏主宰の『近代風景』に出して置いたと思ふが、自分も忘れかゝつて居る位だから、讀者にはもう幽かな印象もあるまい。かいつまんでいふと、このナム以外に、中央部ではもう似つかはしい言葉が殘つて居ないのである。よもや大昔から斯うであつた筈は無いと思つて居る。

　ところが日本の南北兩端、たとへば沖繩縣の諸島、肥前の五島から平戸大島、及び九州主陸のほんの一部分と、東(367)北では秋田津輕南部の村落などに、アアトウトといふ語があり、奧羽はそれをアトウダイとも發音して、其下に直ぐに今拜んで居る神の名を唱へる。明らかに上代の「あなたふと」である。是によつて神佛をトデサマ、月をアトサン幾つなどゝ喚びかける童詞も出來て居り、その他氣をつけて居ると、痕跡だけならばまだそちこちに見られるやうである。斯ういふ心からの、又嚴肅な言葉までが、やはり時世とゝもに消長して居たのである。ナムといふ語は無論佛法から出て居るであらう。最初は法師が佛に向つて、唱へて居たものを採用したことも疑ひが無い。しかも今日では十分に日本化しきつて居る。日本化といふことは借りものといふ意識無しに、自分たちの國語で心から自然に、さう謂つてもよいでは無くて、さう謂ふのがよい樣になつて居る?態を意味する。多分は偶然にこの方の國語でも、Nの子音に遠く喚びかける意が含まれて居た結果であつて、即ち我國土の土性地味が、この移植にふさはしかつた爲だらうと私は思つて居る。中世の?りの言葉は、人に言ふやうにノウノウといふ語で始まるのが慣例であり、それが又現在も僻地には傳はつて居る。さうして其痕跡として神佛をノノサマ、巫女をノノウといひ、僧をノノといふ小兒語が、弘く國中に分布して居るのかと私は思ふ。このノウノウとナムとはよく似て居る。しかも前者は外來語では無いのである。とにかく今日までは何の考へも無しに、思はず知らずナムと謂つて神を拜んで居た。さうして本を讀む者だけが氣にして居たのである。將來はこの一つの國語がどういふ風に變化して行くであらうか。深い興味を以て私たちは是を實驗して見ようとして居る。

　

　　　　　　　　　　二

　

　そこで立戻つて「ツヤ高宮明神」などの、來由を尋ねて見たいのであるが、假にこの類例がなほ若干の土地から現はれて來ようとも、自分はなほ之を以て、古い日本の一般的な用語だつたらうとは思はない。さうして多分は海沿ひの村だけに、近世行はれ始めた言葉かと考へて居る。紀州須賀利の漁村でも、是は本來海の上での言葉で、陸の人た(368)ちが使ふのは新らしいといふさうである。近畿周邊の海ではまだ聽かぬが、九州各地の釣漁師などは、針に餌を挿して海に投げ入れる際に、初度には少なくともチユウチユウと唇を吸ふ音をさせる。今では是もたしか鼠鳴きと謂つて通じて居る。如何なる動機からのまじなひであるか判らなかつたが、起りはすなどりの神に海の幸を、祈念する作法であつたと思はれる。私の想像ではツヤのツも、其音を言語に現はしたので、もう一歩を進めて考へると、人が何物かを欲求する場合に、我知らず出て來る生理上の發作を、わざと力強く意識して表示したのが、そのチユウチユウの音のもとであつたかも知れぬ。斯ういふ小さな擧動は當人も問題にせず、ましてや外の人には注意せられる折も少ないが、その願ひごとをする際の感じだけは、親子孫の間に追々と相續せられて、貴い陸上の神々を拜む場合にまで、特に企てずして自然に同じ形を以て、發露することになつたのではあるまいか。

　都市の標準語に生息する人々の中では、鼠鳴きは下品なものとして、もう殆と之を試みる者が無い。原因は恐らく或階級の人たちが、あまりにも露骨に又事々しく之を利用したからで、以前は、もつと普通に行はれて居た證據が、文獻の上からも何程も拾ひ上げられる。大切な婚姻の方式であつた盃事を始めとして、古い風習の遊女等によつて保存せられ、從つて輕しめ賤しめられて居るものは多い。しかも根源に溯つて見ると、彼等ばかりが獨立して、よく似た動作を考案し、又流行させたらうとは思はれない。我々の祖先が誰も彼も、まださういふことを平氣でして居た時代から、しなれたことを今も守つて居るのか。たゞしは又一部海上の勞務者の間に、特に盛んにくり返して行はれるやうになつてから、それを見習うてめいめいの生活に取入れたか。其信仰の力がまだ全くは亡びて居ない故に、私は多分第二の場合であつたらうと思ふ。

　鼠鳴きの起原は至つて小さな問題かも知らぬが、ともかくも其背後には千を以て算へるほどの、久しい年代を繋いだ民族の歴史が横たはつて居る。さうして今でも是を生存の技術に織込んで、世を渡らうとして居る者があるのである。神に向つてツヤと言はうとするやうな心持ち、その念願はまだ充たされて居らぬのみならず、之を必要とする經(369)驗も丸々はまだ覆へされて居ない。遠い昔の文化はやゝ其形を引歪めつゝも、斯ういふ區域にこそ若干は殘つて居る。それを一望の下に見渡すやうな記録は未だ無い故に、我々は常に最も小さな事實に注意して居なければならぬのである。漁民の風習には全國を通じての一致が多い。是が紀州以東のどの邊まで及んで居るか。山や平原で働いて居る人の間にも、時あつてこの鼠鳴きの行事が見られるか。心ある歌人たちにも氣をつけて居ていたゞきたいと思ふ。

　

(370)　　　所謂特殊部落ノ種類

　

　　　　　　　　　　一

　

　穢多非人ノ問題ハ必シモ單ニ歴史上ノ珍タルニ止ラズ、現在ノ社會生活ニ對シテモ大ナル交渉アリ。例ヘバ「エタ」ト云フ語ハ、塵添?嚢抄以來ノ通説ニ由レバ、犬鷹ノ爲ニ食料ノ肉ヲ供給スル職業即チ餌取ノ轉訛ナリト稱ス。佛道ノ教義ニ照セバ罪深キ行爲ナルベキモ、未ダ之ニ從事スル階級ヲ賤視スベキ理由トハナラズ。餌取ト云フ文字ニハ別ニ賤シキ者トイフ内容ヲ具ヘザルナリ。然ルニ久シキ以前ヨリ之ニ宛ツルニ穢《ケガレ》多シト云フ漢字ヲ以テシタリ。明治ノ世トナリテ公ニ革太或ハ穢多ナル文字ノ使用ヲ廢セラルヽヤ彼徒ハ歡呼セリ。而モ久シカラズシテ其代用タル新平民ト云フ語ハ小兒ナドガ人ヲ惡罵スルトキノ用語トナレリ。近頃内務省ハ又之ヲ避ケテ特殊部落ノ文字ヲ用ヰ始メタルニ、程無ク此語モ亦甚シク彼等ノ忌嫌フモノトナリ、終ニハ細民部落ト書キ下ニ括弧シテ小サク特殊ナドヽ書クニ至レリ。要スルニ彼等ガ部落ヲ特殊ナリトスル一般ノ思想存スル限ハ、百ノ用語ヲ代フルモ無益ニシテ、事實ニ於テハ今日ト雖彼等ガ部落ハ特殊ナリ。

　此故ニ今ノ最完全ナル改良方法ハ論理上目的物ノ消滅ノ他ニ之ヲ求ムベカラズ。即チ特殊ナル階級ヲ普通ナルモノト變ズルヨリ他ニヨキ手段ナシ。是レ決シテ望ミ難キ事ニハ非ズ。近クハ北海道ノ平原ニ又ハ大都會ノ人ノ波ノ裡ニ、古クハ關東奧羽ノ廣漠タル未開地ニ入込ミタル多クノ特殊部落ハ、此ノ如クニシテ始テ助カリタリ。即チ最初ニハ外(371)部ヨリノ觀察ノ絶縁ヲ以テ、次ニハ内部ニ於ケル傳説ノ忘却ニ由リ、新時代ノ彼等ガ兄弟ハ常人ノ積リヲ以テ其武陵桃源ヨリ出來レリ。此點ヨリ推論スルトキハ抛擲ハ寧ロ最上ノ策ニシテ行政廳其他ノ格段ナル調査注意ハ却リテ右ノ目的ニ反スト謂フベシ。殊ニ況ヤ今ニ於テ此徒ノ來歴ヲ闡明スルガ如キハ、事學會ノ外ニ漏ルヽニ於テハ其結果或ハ無害ナルヲ保シ難シ。唯如何セン現時ノ地方吏員等直接此案件ニ接觸スル者未ダ十分ニ問題ノ幅ト深サトヲ會得セズ、所謂特殊部落ノ改善ガ我々ノ社會ニトリテ何程ノ意義ヲ有スルカヲ知ラザルガ爲ニ、時トシテ當ラザル判斷處分アリ、頗ル學徒ノ言説ノ無用ナラザルヲ感ゼシム。而シテ此間題ノ尋常慈善團體ノ處理ニ一任シ能ハザル理由モ亦茲ニ存スルナリ。

　現時ノ當局者ノ中ニハ往々ニシテ特殊部落ノ賤シマルヽ理由ヲ最モ簡單ニ解釋シ、（イ）職業ノ不愉快ナルガ故ニ（ロ）生活ガ粗野ナルガ故ニ及ビ（ハ）貧窮ナルガ故ニ此ノ如シトナシ、此三點ダニ改良スレバ即チ可ナルモノヽ如ク考フル者アルガ如シ。彼等自身ニ於テモ亦久シク如是觀ヲ爲シ、所謂同族廓清會等ノ手段ハ概ネ之ニ由ラントセザル無カリキ。是レ決シテ不良ナル改良ニハ非ズ。此徒ノ生活ハ夫ダケハ慥ニ上進スベシ。併シナガラ若シ之ニ由リテ彼等ノ經濟力ガ増加シ之ニ伴ヒテ政治上ノ勢力ヲ生ジ更ニ其職業ノ如キモ他ノ平民ト異ナル無キニ至ラバ、乃チ果シテ交際通婚等相互對等トナルベキカ否、是レ大ナル疑問ナリ。彼等ノ中ニモ既ニ相應ノ生計ヲ營ム者アリ、職業ノ如キハ最初ヨリ別ニ賤シカラザル者モ多キ也。加之此種ノ改善ガ果シテ全數ノ上ニ及ビ得ベキヤハ覺束ナシ。如何ナル政策モ一町村ノ全戸ヲ富者ト爲ス能ハザルト同ジク、此徒ニ在ツテモ亦一半ノ同族ハ永ク舊來ノ下等生活ニ留リテ在ランニ、他ノ半分ノ優良ナル家族ノミガ社會ノ上層ニ浮ビ出デンコトハ愈々想像ニ難シトス。而シテ事態ノ憂フベキハ決シテ此ニ止ラズ。第一ニ懸念セラルヽハ彼等ノ抱持スル反社會的感情ナリ。此感情ヤ人ハ之ヲ目シテ法制ノ壓迫ニ養ハレタルモノト爲スモ余輩ハ今些シク深キ根柢アルモノト考フ。今日ノ概測ニ依レバ彼等ノ數ハ七十萬アリト謂ヘリ。即チ人口七十人ニ一人ノ割合ナリ。若シ彼等ノ智力進ミ同族内ノ統制力加ハラバ或ハ侮ルベカラザル一勢力タランカ。前代(372)ノ黔首ヲ愚ニスルノ政策ノ如キモ半面ノ理ナシトセズ。是レ實ニ根本ノ大問題ナリ。第二ノ問題モ亦決シテ小ナラズ。即チ勞力ノ供給者トシテノ彼等ガ地位是レナリ。此點ニ付テ彼等ガ只ノ平民ニ比シ顯著ナル特性ハ三アリ。即チ（イ）生殖率ノ大ナルラシキコト（ロ）其勞力ニ割合シテ土地ヲ占有スルコト甚少ナキコト及ビ（ハ）移動性ニ富メルコト是ナリ。此三者ハ或程度迄ハ原因結果ヲ相爲セルモ別ニ又夫々ノ來由アリ。舊時代ノ田舍ノ勞力ハ一般ニ利用ノ疎ナルモノナリキ。殊ニ此部落ニハ餘剰多カリシモ、今後若シ彼等ノ生活ガ改良セラレ慾望ガ増進スルニ至ラバ、勿論其利用ハ著シク進ムナルベク、從ツテ地方ノ經濟組織ノ上ニ小ナラザル影響ヲ及スベキハ必セリ。故ニ右改善事業ノ實行ハ少ナクトモ此等ノ重要ナル轉歸ヲ意識シテノ上ナラザルベカラズ。而モ今日ノ調査ハ政策上精微ナル判斷ノ資料ニ供スベキモノ未ダ具ハラズ、少々ハ暗中模索ノ嫌ナキニ非ザルハ不本意千萬ナリ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　鄙見ヲ以テスレバ現今等シク特殊部落ト稱セラルヽ階級ノ中二モ、著シク其經濟上ノ條件又ハ社會上ノ地位ヲ異ニスル色々ノ種類アリ。其中ニ於テ最多數且有力ナルモノハ勿論舊穢多ナリ。其他ノ特殊部落ハ地方ニ由リテ名稱竝ニ生活?態甚シク區々ナリ。且之ヲ細別スレバ數十ノ種類アルカト思ハル。之ヲ總稱シテ簡單ニ何ト呼ブガ可ナルカハ未ダ考ヘ得ズ。非人ト云フ語ハ少ナクモ近世ノ用法トシテハ單ニ其中ノ一小階級ヲノミ指セシモノヽ如キモ、穢多非人ト云フ熟語ハ通俗且便宜ナレバ、假ニ穢多以外ノ特殊部落ヲ概括シテ非人ト名ヅケントス。素ヨリ彼等ニハ内々ノ使用ナリ。

　穢多ト非人トハ全然異ナリタル種族ナリトスルハ此迄ノ通説ナリキ。而モ余輩ハ未ダ之ヲ信ズベキ十分ナル根據ヲ見出ス能ハズ。二者ノ區別トシテハ仔細ニ比較スレバ色々ノ點アレド、其最モ見易キモノハ穢多ハ死畜ヲ取扱ヒ他ハ然ラザルコト是レナリ。此故ニ前者ヲ皮商賣又は革太革坊革屋ナドヽ呼ブ。今日モ大體ニ於テ革ヲ製セザル者ハ皆穢(373)多ニ非ズ。或ハ又穢多ハ死獣ヲ取扱ヒ非人ハ死人ヲ取扱フト云フ者アリ。此モ大ナル誤ナシ。但シ二者何レニモ關係セザル特殊部落モ少ナカラザルコトヲ忘ルベカラズ。穢多ハ何レノ地方ニ於テモ部落比較的ニ大キク、其生活ノ異風ハ顯著ナルガ故ニ人ニ注意セラレ易シ。之ニ反シテ非人ノ事ハ誠ニ世人ノ觀察ヲ逸セリ。其結果トシテ特殊部落ト謂ヘバ即チ穢多ノコトヽ考フル者アリ。柳君ノ著「穢多非人」ハ二十餘年前ノ研究トシテハ奇特千萬ノ書ナレドモ、此二者ノ區別ヲ怠リ混同多シ。而モ實際問題トシテモ學問上ノ調査トシテモ右ハ左樣ニ輕視セラルベキ事柄ニハ非ザルナリ。�ｺ川時代ニハ江戸ニ彈左衛門アリテ穢多ヲ總ベ、車善七及ビ品川ノ松右衛門アリテ非人ヲ統領セシコトハ人善ク之ヲ知ル。彈ノ部屬ハ今日モ存在シ其首領ハ人之ヲ彈サント呼ビ昔ナガラノ淺草區ノ紳士ナリ。然ルニ善七松右衛門ガ黨類ハ全ク分散シ盡シタルモノヽ如ク、彼等ハ其後如何ニ成行キシカ此間ノ消息ハ之ヲ解スル人多カラズ。抑モ江戸時代ノ非人トハ如何ナル者カ。普通｜非人《ヒニン》乞食《コツジキ》ト云フ語アリ、非人トハ乞食ノコトヽ思フ者アリ、或ハ又常人ガ貧乏シテ乞食ヲスル?態ヲ意味スル者ト思フ者アリ。江戸時代ノ武家ノ法制トシテ情死ヲ仕損ジタル者其他ノ犯罪者等ヲ非人ノ仲間ニ降シ入ルヽコトアリシガ故ニ、之ヲ以テ彼等ノ常態ト爲シ、非人ハモト此等ノ常人ヨリ構成スル者ナレバ、外部ノ壓迫ニシテ撤セラルレバ忽元ノ古巣ニ立戻ルコト恰モ勘當ヲ受ケタル不良少年ガ親ノ家ニ歸ルガ如ク解スル人モアルベシ。成程芋ヲ洗フガ如キ大都ノ社會ナレバ、人間ノ屑ノ掃溜ニ集ル者モ少小ニハ非ザリシナランモ、斯ル烏合ノ連中ノミニテハ昔トテモ一箇ノ階級ヲ作ルコト能ハザリシハ明ナリ。殊ニ田舍ノ小團體ノ非人部落ニ在リテハ、右ノ如キ時々ノ供給ヲ豫期スルコト難ク、必ヤ別ニ其團體ヲ構成スルダケノ本來ノ中堅ナカルベカラズ。乞食モ本物ノ乞食ハ世襲ナリ。況ヤ廣義ノ非人ノ中ニハ昔ヨリ些モ新分子ヲ加ヘザリシ明證アル者多シ。決シテ通俗ノ説ノ如ク常人ノ零落シタル者ノ世ヲ忍ブ假ノ名ナリト認ムル能ハズ。然ラバ此等非人ハ如何ニシテ此國ニ存在スルニ至リシカ、此問ニ答ヘ得レバ江戸ノ非人ノ後日物語モ自然ニ判明スベキカト考ヘラル。

　

(374)　　　　　　　　　　三

　

　先ヅ順序トシテ穢多ノ方面ヨリ説キ出サン。穢多ト非人トノ異同優劣如何ハ、滑稽ナル話ナレド彼等ガ間ニテハ頗ル重要ナル問題ナリキ。江戸ニテハ彈左衛門ハ幕府ノ非常ニ厚キ保護ヲ受ケテ勢力アリ。車善七ト訴訟シテ勝チタルハ有名ナル話ナリ。其寛文年中ニ差出シタリト云フ由緒書及證文ニ於テハ鎌倉ニ於テ頼朝ヨリ免許?ヲ得タリト主張ス。カノ宛名ヲ頼兼ト認メタル源氏ノ下シ文ナルモノハ、形式ヨリ判斷シテ疑モ無キ僞物ナリ。但シ稍々古キ時代ノ僞物ナリ。此下シ文ニハ我々ガ假ニ非人ノ總稱ノ中ニ包含セシメタル鉦打鉢叩簑作渡守其他二十九種ノ職業ハ悉ク彼ガ支配ノ下ニ立タシムベシトアリテ、穢多總取締ノ非常ナル大勢力ヲ示セリ。然ルニ田舍ニ於テハ之ト正反對ナル慣行少ナカラズ。例ヘバ鉢叩ト同種ナル茶筅又ハ鉢屋ノ類ハ一般ニ穢多ヨリハ一段上ノ者ト認メラレ、通婚ハセヌ迄モ相火《アヒビ》ヲ忌マズ、彼等モ亦農作ヲ營ミ人別帳ハ分離シテモ百姓同志ノ交際ハ公認セラルヽアリ。南都奈良阪ノ「シユク」ノ如キハ、穢多ニ臨ムコト恰モ平人ガ彼等ニ對スルト同ジ位ニ威張リ、今日ハ外見殆ト普通ノ小農ニ同ジク、只些シク筋惡シトテ縁談ナドハ六ツカシキモ、金錢ノ都合ニテハ必シモ之ヲ避ケズ。伊勢ニテモ之ト同樣ニテ、曾テ竹葉寅一郎君ヨリ受ケタル報告ニハ、「シユク」ハ特殊部落ニテハ無之候トアリキ。備中ノ「サンカ」ハ穢多卜同視セラレテ大ニ怒リタリ。備後モ福山領マデハ茶筅ハ一級上流ト認メラレタレド、廣島領ニ入レバ舊藩ノ公簿ニハ穢多ト茶筅鉢屋トヲ區別スルコトナク、藝藩通志ニハ悉ク之ヲ屠者ト記シ、近頃内務省ガ受取リタル調査書ニハ某村革屋一名茶筅ナドヽモ見エタリ。斯ノ如ク舊慣ハ地方的ニ區々ナレドモ、一般ノ感ジヨリ言ヘバ先ヅ穢多ヲ以テ最モ低キモノトスルガ如ク、而モ彼等ノ根源元ハ一ツナリト言ハヾ、雙方トモニ驚キテ之ニ抗議ヲ爲スベキハ今猶咋ノ如キナリ。

　賤者考ノ著者其他此迄ノ學者ニモ稀ニハ此區別ニ留意シタル者アレド、其人々ハ必ズ一々ノ部落ガ其名稱ヲ異ニスル毎ニ各別箇ノ由來アルガ如ク解スルヲ常トス。名稱ニ基ク推測ニハ從ヒ難キモノ多シ。蓋シ特殊部落ノ名稱ハ未ダ(375)彼等ノ自稱ニ出ヅト信ジ得ベキモノアラズ。若シ近郷百姓ノ附與シタル名ナリトセバ、其他ノ方言ト同樣ニ地方的ニ區々ナルハ當然ノ事ニシテ、之ヲ以テ一々ノ來由ヲ推論スルハ稍々困難ナリト云フベシ。「エタ」は「エトリ」ノ轉訛トスル通説ノ如キモ疑ヲ容ルベキ餘地ナキニ非ズ。殊ニ某博士等ノ如ク「エタ」ハ餌取ナルガ故ニ古ノ犬養部鷹飼部ナドノ雜戸ノ末ナリト云フハ速斷ナルベシ。倭名鈔ニハ「エトリ」ハ漢語ノ屠兒ニ當リ牛馬ノ肉ヲ販グ〔二字傍点〕者トアリ。是ハ寧ロ唐土ノ屠兒ノ註脚ナルベク、之ニ由ツテ犬養鷹飼ヲ想像スルハ恐クハ餌取ノ文字ニ拘泥シタル説タリ。尤モ今昔物語ノ「エトリ」ト稱スル食肉法師ノ生活ト後世ノ「エタ」ノ生活トハ似タル點アルモ、此トテモ外部ヨリノ稱呼ナレバ甲ハ乙ノ先祖トハ言ヒ難シ。始メテ穢多ノ文字ヲ用ヰタル師守記ニ依レバ彼等ガ職業ハ井戸掘ナリ。語ノ上ヨリ見ルモ「エトリ」ノ「エタ」ト移ルハ些シク不自然ナリ。假ニ説ヲ立レバ「エタ」ハ下級ノ巫祝ノ名タル「イタカ」又ハ「ユタ」或ハ薩州ナドニテ婢女ノ通稱トスル「エダ」ナドト關係ナキヲ保セズ。要スルニ彼等ガ生活上ノ他ノ諸種ノ特色ヲモ併セテ比照スルニ非ザレバ容易ニ其本源ヲ定ムルコト能ハザルベキナリ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　穢多ト他ノ特殊部落トノ間ニハ多クノ肝要ナル點ニ於テ相似アリ。其第一ハ土着ノ形式ナリ。彼等ガ居住地ニハ略々一定ノ特色アリ。都會ノ周圍ニハ一箇ノ獨立セル大字ヲ爲ス程ノ大部落、例ヘバ京都ノ田中村鞍馬口村、大阪ノ渡邊、松阪ノ鈴止《スヾトメ》村、姫路ノ高木村ノ如キモアレド、他ノ多クノ部落ハ必或村ノ枝郷ニシテ、而モ其村ノ地域中最モ不用ナル空閑ヲ占ム。例ヘバ村境ノ原ノ中、山林ノ外レ、濕地川原ノ如キ多クハ耕作ニ不利ナル物陰ノ地ニシテ、見馴レタル者ハ村ノ外見ニテ此徒ノ住地ナルコトヲ知リ得。丹波因幡其他ニテハ穢多村ニ何島トイフ地名多シ。島トハ洪水ノ跡ニ新生スル川原ノコトニシテ、地味ハ肥エタレド水害ニ對スル保障ナク、大抵ノ百姓ノ土着ヲ欲セザル地ナリ。下總邊ニテハ何村ノ「ヤハラ」ト謂ヘバ穢多ヲ意味スル例多シ。「ヤハラ」ハ一ニ「アハラ」トモ稱シ越中能登ナ(376)ドニ湶ノ字ヲ宛ツル地名ニシテ沼地ノコトナリ。此ノ如キ地ニ穢多ノ住ム國アルナリ。淡路ノ笑原《ヤハラ》村ナドモ此類ナリト聞ク。又「トウボシ」ト稱スル一種濕地ニ適スル劣等多産ノ稻アリ。或ハ土坊師ト云フ漂泊種族ト關係アルニ非ズヤト考ヘラル。河原者ト云フ語ハ古クハ又穢多ヲモ意味セシコト職人盡歌合ニ證據アリ。後代ハ遊藝ニ生活スル一種ノ漂泊民ノ名トナリ、莊内鶴ヶ岡ナドニテハ河原町ニ住スル河原者ノ卑賤ナル雜役ヲ勤ムル部落ナリキ。穢多トハ全ク異ナル特殊部落ニモ村ハヅレノ不用地ニ占據スル例多シ。

　前ニ擧ゲタル鉢屋又ハ鉢トイフ種族ハ一ニ鉢叩ト云ヒ、後ニハ瓢箪ヲ叩キテ念佛ヲスルモ以前ハ鉢ヲ叩キタリト解セラル。而モ鉢ヲ叩キシトイフ證據ハ無シ、自分ノ見ル所ニテハ「ハチ」ハ即チ邑落ノ堺ノコトナリ。近畿ニ多キ「シユク」トイフ賤民ハ守戸《シユコ》即チ隱戸ナリトモ、屍倶即チ殉死義務アリシ者トモ云ヘド、是モ亦山ノ「ソキ」野ノ「ソキ」ナドノ「ソキ」ト共ニ地境ヲ意味スルガ如シ。甲州ニハ現ニ「ソキ」ト呼ブ賤民アリ。算所又ハ産所トイフ部落モ元ハ散所ニシテ不用地ニ住セシヨリノ名ナルガ如ク、「サンカ」ヲ一ニ川原乞食ト云フハ川原ニ小屋掛セシニ基クカト思ハル。備後双三郡三良阪村ニハ番太ト云フ階級ニ屬スル十數戸ノ部落川原ニ住シ竹ニテ小屋ヲ造ル。川原ノ石ハ此徒ノ領スル所ニシテ、村ノ農家ハ年々水田ノ水口ニ置クベキ石ヲ採取スル對價トシテ彼等ニ少分ノ穀物ヲ拂フト云ヘリ。此等ノ例ニテ見レバ、此輩ノ土着ハ思フニ各町村最後ノ開發ヨリハ猶後ナリシナルベシ。東北ナドノ人口稀少ナリシ地方ハ別トシテ、其他ノ場合ニハ既ニ普通民ノ居住セル土地ニ後ヨリ來リ、其明示又ハ黙示ノ許容ノ下ニ土着セシモノナルベク、若シ公然荒野ノ開拓ニ從事セリトスレバ、到底斯ル不利益ノ條件ニ甘ズベシトハ考ヘラレザルナリ。

　更ニ他ノ點ヨリ觀察スルモ、多クノ穢多ノ土着ハ足利時代ノ末頃ナランカト思フ由アリ。地方々々ノ小領主ガ武具兵器ノ製作原料トシテ皮革角爪ノ類ヲ其領内ニ供給セシムル必要ヲ生ズルヤ、所謂皮作衆ノ招致ハ始メテ斷行セラレシナリ。軍備ガ統一スルカ又ハ平和ナル交易ノ行ハルヽ時代ナラバ郷毎ニ皮太ヲ住マシムルノ要ナケレバ也。而シテ此事實ヲ證スル文書ハ武藏相模等ニ往々存在ス。思フニ兵亂ノ結果トシテ居民離散シ荒蕪多ク、天然ノ威力盛ニシテ(377)島又は川原ハ年々新生シタレバ、此等ノ地ニ皮作ヲ土着セシメ皮革ノ課役ヲ徴セシナリ。其後世ノ中太平ト爲リ畜類孳殖スルニ及ビ、彼徒ノ生計ハ又別樣ノ便宜ヲ得タリ。革類ノ需要減ズル頃ニハ取棄料ヲ添ヘテ死獣ヲ引取ル慣行ヲ生ジタリ。死シタル獣類ノ肉ヲ食フコトハ亦彼等ガ生活上ノ一便宜ナリキ。他ノ特殊部落ト比ベテ現在人口ノ多キハ一ニハ食料問題ノ解決ガ簡易ナリシ爲ナラン。維新以降牛鍋盛ニ用ヰラレ靴流行シ、更ニ日清日露ノ戰役ヲ經テ大金持ニナリシ穢多多ク、從テ其政治上ノ力モ著シク加ハリタレバ、強ヒテ舊來ノ職業ヲ廢セシムルコトハ困難ニシテ且不必要ノ觀アリ。

　飜ツテ他ノ特殊部落ノ歴史ヲ考フルニ、其土着ノ條件ノ如キハ當初略々同樣ナリシナランモ、其後ノ事情ハ前者ノ如ク必シモ好都合ナラザリシニ似タリ。此徒ノ職業ハ穢多ヨリモ大分上品ナリシモ、上品ナルダケニ多數ノ人口ヲ支フルコト難ク、年々其繁殖スル家族ヲ他ノ地方ニ移動セシムルノ必要ヲ生ジ、而モ時勢ノ變遷モ亦甚シク彼等ニ不利ナリキ。非人ノ職業ノ沿革ヲ明ニスルコトハ實ハ民間信仰史ノ任務ニシテ、茲ニハ其一端ヲ述ブルノ外ナキモ、要スルニ彼等ガ飯ノ種ハ俗間ノ幼穉ナル信仰ニ基礎ヲ有シ其基礎ハ教育ノ發達ト共ニ容易ニ變動スベキモノナリキ。此點ニ付テハ未解決ノ問題多キモ、我輩ノ想像ニテハ彼等ハ一ノ宗教團體ト言ハンヨリモ寧ロ行事ヲ主トスル一種ノ魔術團體ニシテ、其口ニスル教義ハ神道佛教陰陽道等手當リ次第ニ取交ゼタル空漠タルモノナリシガ如シ。現時ノ社會ニ於テモ此古代ノ?勢ヲ推測セシムルニ足ルベキ現象ナキニ非ズト言ハヾ、明敏ナル讀者ハ點頭セラルヽナラン。此團體ノ名稱ハ昔ヨリ區々ナリ。或ハ「ハカセ」ト云ヒ「陰陽師」ト云ヒ、唱門師ト云ヒ「シユク」ト云ヒ「サン所」ト云ヒ、院内ト云ヒ舞々トモ萬歳トモ云フ。皆多クノ共通ノ特色ヲ有ス。彼等ガ任務トシテ最モ普通ナルハ禁厭祈?及ビ卜占ナリ。疫病風雨旱蝗ヲ防ギ五穀牛馬ノ増殖ヲ求ムル者ノ爲ニ、年々村々ノ民ニ守リ札ヲ配リ慣例トシテ少許ノ農産物ヲ貰受ク。普通ニ之ヲ札配り又ハ配當ト稱セリ。祈?ノ手段トシテハ色々ノ唱ヘ言ヲ爲シ且舞ヲ舞ヒテ神ヲ悦バシムルノ術ヲ爲セリ。殊ニ今日ハ殆ト絶エタル郊野ニ於ケル神祭ハ概シテ此徒ノ職業ナリシカト思ハル。「シユク」ヲ守(378)戸ナリト云ヒ又ハ戸倶ノ轉ナリトイフハ此者ガ古家ノ側ニ多ク住スルガ爲ナレド、塚ハ古墳ト新造トヲ問ハズ共ニ中代ノ祭神壇ニシテ、法律上ハ所謂除地ナリシガ故ニ、彼等ハ無税ニテ其域内ニ住スルコトヲ得終ニ永久ニ土着セシ迄ノ事ナリ。此徒ノ中ニハ追々土民ノ信ヲ繋ギテ終ニ一箇ノ法印ト爲リスマシ、或ハ吉田家ナドニ因縁シテ立派ナ神主トナリシ者モ勿論多カランガ、モト一郷ニ一戸ハアルベクシテ二戸三戸ハ不用ナレバ、近村ニ分家シ得ル限ハ兎ニ角、其他ノ餘剰人員ハ如何ニモ切ナキ生活ヲ爲サヾルベカラズ。而モ漂泊ハ彼等ガ永年ノ風習ナリシカバ、此ノ如クニシテ多クノ旅稼ノ遊藝人乞食芝居ノ徒ハ此中ヨリ出デタリ。

　彼等ガ中ニハ又大社大寺ノ保護ノ下ニ群居セシモノアリ。祇園ノ犬神人、高野ノ聖、鞍馬ノ願人《グワンニン》ヲ始トシテ其近世マデ關係ヲ繼續セシ者モ多々アリ。院内ト云フ部落ノ如キモ元ハ寺ノ境内ニ居住セシヨリノ名カト思ハル。白山權現モ古クハ此類ノ特殊部落ヲ養ヒシカト思シク、其配札ニ假托スル者諸國ヲ巡行シ、白山相人ト稱スル賤民各地ニ居住ス。此中ニテモ奇麗ニ足ヲ洗ヒ今ハ上流ニ取濟シテ在ル者ノ歴史ハ強テ説クニモ及バズ、世間ヨリ特殊ト認メラルヽ彼等ガ部落ニシテ最モ顯著ナル二種ハ鉦打ト鉢叩トナリ。前者ハ東國ニ多ク、モト藤澤ノ遊行上人ニ隨從ス。後者ハ京以西ニ多シ。即チ空也上人ノ流ヲ汲ム者ナリ。何レモ能ハ大勢集合シテ念佛シ踊リ廻ルニ在リテ如何ニモ氣樂ナル職業ナリ。鉦打ハ一ニ沙彌トモ「ヒジリ」トモ云フ。頗ル起原ノ古キ者ニシテ今昔物語ニモ阿彌陀ノ聖ト稱スル一種ノ下賤ナル法師アリシコト數箇所ニ見ユ。蓋シ課口ノ減少ヲ防グノ策トシテ僧徒得度ノ制ノ極メテ嚴密ナリシ時代ニハ、身分ナク學問ナク保護者乏シキ沙彌ニシテ生涯僧トナル能ハザリシ者ハ甚多カリキ。而モ彼等ハ信心道力ニ由リテ竝々ノ寺僧ヨリハ却リテ民間ノ尊敬歸依ヲ得ルコト多ク、村々ニ寺院ノ少ナカリシ世ナレバ迎ヘラレテ田舍ヲ旅シ巡リシナリ。空也及ビ融通念佛ガ此徒ヲ利用セシハ如何ニモ巧妙ナル傳道手段ニシテ、恰モ松井源水ガ見物人ノ中ニ我仲間ヲ忍ビ込マセ贋彌次馬ト爲スト同ジク、此機關ヲ以テ群衆心理ヲ利用シ下層農民ノ間ニ一種ノ信仰勢力ヲ作リシモノ也。而モ機會ノアル毎ニ都合ヨキ土地ヲ見計ラヒ五戸三戸ヅヽ念佛ノ聖ヲ土着セシメシモノ、即チ今ノ鉦打及(379)鉢叩ノ元祖ナリ。彼等ハ女房アリテ農作ヲ業トシ、而モ普通民ト通婚セズ。但シ此ダケノ事實ニテハ彼等ノ階級ノモト低カリシ理由ハ不明ナリ。此序ニ言ハンニ、唱門師モ廣義ノ非人ノ一種ナレド、其名稱ノ由來ハ恐クハ峯相記ナドニ所謂「暗誦ノ禅師唱文ノ法師」ト云フ語ニ出デ、單ニ經文ヲ讀ミ且理解スル能ハザル下級ノ準僧侶トイフニ過ギザルベク、其賤視セラルヽニ至リシ原因ハ何カ別ニ存在セシモノカト思ハル。

　武家關亂ノ殺伐ナル時代ニハ人皆戰爭ノ慘毒ヲ目撃シ、所謂御靈ノ思想ノ壓迫ニ堪ヘズ死者ノ�詩ｰヲ鎭ムル爲ニハ念佛講ノ行法ハ最モ手輕ナル供養祈?ナリトシテ盛ニ行ハレタリ。關東東北等ニハ今尚種々ナル念佛講アリ。東京ニテモ彼岸ニ六阿彌陀ノ寺ニ詣ヅレバ謠曲隅田川ヲ想起セシムルガ如キ村老野嫗ノ念佛ヲ聞得ベシ。千葉茨城邊ニテ葬式ニ頼マルヽ念佛ノ衆ハ勿論皆常人ナレド、鉦打ハ以前此事務ト深キ關係ヲ有セシカト察セラル。此徒ノ生活ハ稍々僧侶ニ近シ。常ハ只ノ百姓ノ如クナレドモ藤澤道場トノ關係絶エズ、公ノ場合ニハ小サキ袈裟ヲ掛ケテ出デ、念佛シテ信施ヲ受クルヲ本業トス。鉢叩ニ至リテハ之ヲ支配セシ京都ノ空也寺夙クヨリ微力ニシテ之ヲ世話スル能ハズ、迚モ宗旨ニテハ飯ガ食ヘヌ故ニ、久シキ間色々ノ兼業ヲ爲セリ。是レ一ニハ其居住地方ノ然ラシムル所耕地ニ餘裕ナクシテ普通ノ農作ヲ爲シ能ハザリシ爲ナランカ。此徒ヲ別ニ茶筅又ハ「サヽラ」ト呼ブハ斯ル竹製品ヲ作リテ生活ヲ立テシ爲ナリ。鉢叩ハ發句ノ題トナリテ有名ナリ。其茶筅ヲ賣ルハ本來之ヲ以テ瓢箪ヲ叩キシニ起ルトイフ説アレド同意シ難シ。奧州ニテハ薦僧ガ此物ヲ賣リシト云フ話ナリ。茶筅ハ又多クハ所謂番太ノ任務ヲ爲ス、即チ牢屋刑場ノ番人變死人ノ取片付葬場墓穴ノ世話道路ノ掃除山野溜池ノ番ヲ爲ス。斯ル勤務ニテ公ヨリ及村ノ各戸ヨリ若干ノ給料ヲ受ク。固ヨリ心細キ職業ナレドモ収入ノ源　稍々數多キ爲ニ中國地方ニテハ革屋ニ次テ大ナル部落ヲ作ル。鉦打ニ在リテハ之ニ似タル大集團ヲ見ルコト能ハズ。

　又村々ニ番太ト稱スル一種ノ民アリ。其中ニハ鉢屋茶筅ノ右ノ如ク轉業セシモアレド、單純ニ番太トシテ來住セシ者モ多シ。此類ハ此徒ノ土着ノ最新ノ形式ナリ。其始ヲ考フルニ、別ニ番太ヲ募集スト云フ廣告ノ手段アルニ非ズ。(380)唯年々村ハヅレニ來テ小屋ヲ掛クル非人ノ中ニ、ドウヤラ實體ラシキ爺アリテ顔馴染ト爲リ、然ラバ永クソコニ住ミテ野荒シ盗伐等ノ番ヲ爲スベシ、其地ハ無代ニテ作リ又年々毎戸二合三合ノ米麥ヲ遣ハサンナドト約束ス。村ニ由リテハ此外ニ三昧場ニ近クシテ人ノ好マザル空地ナドヲ與ヘ、穴掘リ湯灌火葬ノ役行倒人ノ始末ノ如キ凡ソ村ノ者ガ夫役ニテ引受ケ難キ事務ヲ掌ラシム。此二者相兼ヌルアリ又併存スルアリ。後ノ場合ニハ番太ト謂ハズ「オンボウ」ト謂フ。即チ御坊ニシテ例ノ「シユク」ナドヲ何々法師ト云フト同ジカルベシ。此等ノ職業ハ如何ニモ安全ナル保障アル土着ナレドモ、一村ニ二戸以上ヲ要トセズ。部落トシテハ昔ヨリ殆ト發達ノ見込ナカリシ者ナリ。而モ地方警察ノ制具ハリテハ番太ハ不要トナリタレバ、明治以後再ビ此者ノ引上ゲ去リ葬式ノ節ナド村ノ者ノ飛ダ不自由ヲスル例往々アリ。其以前ニモ雙方色々ノ都合ニテ?々村ヲ立退クコトアリ、要スルニ完全ナル土着ニテハ非ザリシナリ。

　此外ニ更ニ一層不完全ナル一種ノ土着アリ。ソレハ村人トノ間ニ別ニ何等ノ申合セモ無ク、通行人少ナキ川原、寺ノ山ナドニ小屋ヲ掛ケテ住ム者アリ。此等ノ徒ハ主トシテ川漁ニ由リテ生ヲ爲ス。「サンカ」ハ其最モ弘ク行ハルヽ稱呼ナルガ、鼈ヲ捕ルニ妙ヲ得タル爲「ポンス」ナド云フ別名アリ。又竹細工ニ巧ナリ。川岸ニハ川除ノ竹藪多キガ常ナレバ勝手ニ之ヲ採取シテ「サヽラ」籠笊ノ類ヲ作り、山ニ入リテ藤蔓ヲ取リ竹ヲ結ビテ箒箕ナドヲ製シテ賣ル。箕直シ或ハ箕作リト稱スルモ此徒ナリ。總體ニ指先器用ニシテ最モ高尚ナル者ハ梭ヲ掻ク。故ニ一ニ梭掻トモ謂フ。乞食モスレバ野荒シモ敢テ辭セズ。番太ヲ置ク必要ハ寧ロ此ガ爲ニシテ、恰モ盗賊ノ一人ヲ懷柔シテ眼明シト爲スト一樣ナリ。彼等ガ土着ハ土着ト名ヅクベク餘リニ不安定ナリ。殊ニ河川法ノ實施セラレタル川ハ勿論、其他ノ地方モ開墾盛ニシテ竹藪少ナクナリ、水害減ジテ燃料ノ流木ニ乏シク、且所有權ノ主張緊迫ニナリタレバ、他人ノ土地ニ久シク無斷ニテ住ムコトハ誠ニ難儀ナリ。其爲ニ夏冬ノ間居ヲ南北ニ移ス外、一季中ニモ段々寢處ヲ轉ジアルク必要アリ。即チ最モ完全ナル漂泊生涯ニシテ、警察ノ追逐烈シキ爲ニ却ツテ旅中ニ子ヲ産シテ無宿者ヲ生ジ、イツ迄モ本當ノ國民ト爲リ得ズ。而モ自分ノ信ズル所ニテハ、彼等ガ漂泊ハ今更新時代ノ壓迫ニ因リテ始リタル現象ニ非ズ、是レ(381)實ニ特殊部落生活ノ最モ古キ形式ヲ存スル者ナリ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　穢多ト他ノ特殊部落トノ生活上ノ相似ハ獨リ土着ノ形式ノミニ非ズ。猶注意スベキ二三ノ肝要ナル點アリ。其一ハ彼等自身ノ信仰生活ナリ。穢多村ノ佛教ハ全國共ニ近代ニナリテ一向宗ト日蓮宗トガ傳道ノ手ヲ擴ゲタレバ、極メテ稀ナル除外例ヲ以テ今ハ皆此二宗旨ニ屬ス。此二派ハ主義トシテ信徒ノ雜行雜習ヲ禁止シ、爲ニ多クノ舊慣ヲ湮滅セシメタルハ遺憾ナレドモ、神社ノ方ニハ尋ヌレバ幾分昔ノ痕跡アラン。關東地方ハ穢多部落ノ氏神ハ例ノ淺草新谷町ヲ姶トシテ多クハ白山神社ヲ祀レリ。此點ハ頗ル興味アル事實ニシテ他ノ特殊部落ニモ此神ヲ崇祀スル例少ナカラズ。讃州木田都下高岡村ノ白山相人ハ極メテ卑賤ナル陰陽師ニシテ白山ニ仕フ。生計ノ爲ニ箕ヲ作ル。奧州地方ノ「モリコ」又ハ「イタコ」ト名ヅクル一種ノ巫女ハ口寄ヲ爲スニ白山明神ノ名ヲ唱ヘテ祈ル。又甲州ニ昔白神筋ト稱スル特殊部落アリシガ如キ、何レモ偶合ニハ非ザルベシ。第二ニ日常ノ經濟生活トシテモ、二種ノ部落ニ明瞭ナル區劃ナシ。例ヘバ出雲石見ニテハ現今ニ至ルマデ弦ノ製造販賣ハ革太ノ業ナルニ京ノ祇園ノ犬神人ハ一ニ「ツルメソ」又ハ弦指ト稱シテ之ヲ業トス。此者曾テ穢多ト死人ノ衣ヲ取得スル權利ヲ爭ヒシコトアリテ全ク別部落ナリ。又穢多ヲシテ葬式ノ穴掘ヲ爲サシムル地方アリ。陸中遠野ナドニテハ、牢番ノ如キモ此者ノ勤ムル所ナリ。道路ノ掃除ヲ穢多ガ引受ケシ例ハ土佐ニアリキ。

　夫ヨリモ更ニ顯著ナルハ物貰美ノ二者ニ共通ノモノナリシコト也。毎年一定ノ時間ニ人家ニ物ヲ貰ヒニ來ル職業ニハ色々ノ名アリ。鳥追「セキゾロ」厄拂「門ホメ」「庭ホメ」福吉ナドノ如シ。萬歳猿牽ノ如キモ高尚ナレドモ亦同業ナリ。鳥追福吉等ノ職ヲ穢多ノ中ヨリ務ムル地方ト、他ノ非人ガ行フ地方トアリ。其歌ノ章句ノ如キ小異アリテ趣旨ノ大體相同ジキハ面白キコトナリ。元來「コジキ」ト云フ日本語ハ佛經中ノ漢字ヲ音讀シタルガ始ニシテ比較的新シ(382)キ語ナリ。「ホイト」トイフ方遙ニ古シ。倭名鈔ニ乞兒――「ホガヒビト」トアリ。狩谷翁ノ箋註ニハ今「ホイト」ト謂フハ亦「ホギビト」ノ約マレルナラント説カレタリ。「ホグ」トハ祝スルコト「ホガヒ」トハ壽詞ヲ陳ブルコト也。即チ何カ縁起ノ善キ文句ヲ唱フルハ本來乞食ノ要素モアアリシナリ。乞食ニ對スル我々ノ思想ハ近世一變セリ。乞食ハモト明ニ一箇ノ職業ニシテ、禁厭ノ札ヲ民家ニ配リテ米錢ヲ乞受クルモ趣旨ハ一ナリ。今日ノ如キ自由ナル考ニテハ勝手ニ札ヲ配リ又ハ祝言ヲ唱ヘ來ル者ニ對價ヲ拂フ義務アルハ不思議ナルガ如キモ前代ハ此モ亦一ノ因習ノ拘束ニシテ單獨ニ之ヲ脱却スルヲ得ザリシモノナリ。乞食又ハ配札ノ方ニテモ亦誰カラニテモ物ヲ貰ハントハセズ。彼等ガ決シテ配當ヲ取リニ來ヌ家アリ。即チ所謂特殊部落ノ者ハ出ス氣ガアリテモ相手之ヲ受ケズ。要スルニ「ホイト」ノ職業ハ一種仕來リノ交易ナリシナリ。佛教ノ方ノ功�ｺノ爲ニ惠ヲ施ストイフ思想段々弘ク行ハレ、終ニハ現代ノ所謂慈善ノ如キモノトナリ、從ツテ「ホイト」ハ愈々陋劣ノ生活ト目セラルヽニ至リシモ、以前ハ賤シキナガラ兎ニ角一箇ノ職業ニテアリシ也。勿論當初ヨリサマデ有利ナル又ハ名譽多キ職業ニ非ザリシコトハ事實ナレドモ、其社會上ノ地位今日ノ如ク低級ナラザリシ間ハ、之ニ從事スル者マタ中々多ク、吾人ノ所謂特殊部落ノ如キハ其全部ヲ包容シタリシカト思ハル。

　

　　　　　　　　　　六

　

　所謂「ホイト」業ノ發達史ニハ從來學者ノ注意ヲ脱シタル點多シ○○《（二字缺）》モ其沿革ハ他ノ諸種ノ職業ト頗ル徑路ヲ異ニスルモノアリ。足利時代以降世ニ玩バレタル繪卷ノ中ニ職人盡歌合ト稱スルモノ數種アリ。此歌合ニハ普通我々ガ職人ト稱スル多クノ手工業者ヲ載スル外、一方ニハ神主陰陽師修驗者醫師等ヲ擧グルト同時ニ、他ノ一方ニハ「イタカ」地者餌取皮作リノ如キ者ヲ載ス。今日ノ思想ヲ以テスレバ殆ト恕ス可ラザル不備ノ排列ナリ。而モ其一貫共通ノ特性ヨリシテ中古ノ職人ナルモノ、概念ヲ推測スルニ、要スルニ公家武家社家寺家及農民ニ非ザル者、語ヲ換ヘテ言(383)ヘバ土地ニ據リテ生活ヲ營マザル階級ノ全體ヲ意味セシモノヽ如シ。思フニ莊園ノ時代ニ當リ土地ノ占有ヲ以テ生活ノ要件ト爲スコト能ハザリシ者ハ、勢ヒ一處ニ定住スルノ必要モ無ク又權能モ無キガ故ニ、輕微ナル動機ニ基キテ?々其居ヲ移シ、終生旅人ノ如キ生活ヲ營ムガ爲ニ其性情モ自然ニ輕薄ニシテ恒ノ心無ク、殊ニ小領主ガ地方ニ割據シテ相闘ヒシ場合ニハ常ニ猜疑不安ノ眼ヲ以テ視ラレ易ク、或ハ政略軍略ノ都合ヨリ時ニ一地ニ招居ヱラルヽコト無キニ非ゲルモ、是レ唯一小部分ニ止リ、其他ノ者ハ概シテ排斥ヲ受ケテ到ル處權力者ノ保護ヲ被ムル能ハザリシモノナラン。若シ然リトスレバ村々ノ農民ガ彼等ヲ輕蔑シテ容易ニ其團體ニ參加セシメザリシハ寧ロ此結果ニシテ、「ホイト」等ヲ賤民ナリトスル諸種ノ理由ノ如キハ、却ツテ他ノ多クノ民間慣習ニ隨伴スル説明的傳説ト共ニ後代ノ發生ニ係ルモノナルべシ。此迄ノ學者ハ兎角記録ノ完備セル六國史時代ノ名目ノミニ由ツテ今ノ社會現象ノ根原ヲ解釋セントスルノ癖アレドモ、中古七八百年ノ永キ期間ハ、史料コソ乏少ナレ、政治上經濟上極メテ變動ノ多カリシ時代ナレバ、其間何等ノ影響ヲモ受クルコト無ク安閑トシテ舊態ヲ保持シ來レリト云フガ如キハ誠ニ立證シ難キ論斷ナリ。

　前ニ擧ゲタル阿彌陀ノ聖ノ如キ漂泊者ガ空也一遍等ノ平民佛教ノ傳道ニ利用セラレタルガ如キハ一ノ大ナル事實ナリ。戰國ノ時代ニ一處不住ノ客僧等ガ密書ノ使ヲ勤メシハ隱ナキ事ナリ。近江ニハ此目的ノ爲ニ領主ノ保護ヲ受ケタル山伏ノ一村アリ。音曲ヲ以テ諸大名ニ近ヅキタル坐頭ノ徒ガ?々細作反間ノ用ヲ爲セシコトハ軍書ノ類ニ見ユ。薩摩大隅ニハ其功ヲ以テ大ニ取立テラレタル盲僧ノ寺多ク、其舊記ハ頗ル當時ノ戰略ノ裡面ヲ語レリ。曾テ備前ニ於テ大規模ノ穢多殺戮ヲ行ヒ、池田家ノ二士主命ヲ奉ジテ一村ノ穢多ヲ根絶シセシコト因幡志ニ見エタリ。固ヨリ Outlawry ノ結果トシテ人命ヲ粗末ニセシ爲ナランモ、亦以テ當時ノ政治ト大ナル交渉アリシモノナルコトヲ察スベシ。近世ノ風習トシテモ普通ノ百姓ガ婚姻ヲ忌避スル階級ハ意外ニ多ク、其範圍往々ニシテカノ職人盡ニ列記スル者ノ大部分ニ及ベルガ如キハ、到底從來ノ餌取説或ハ朝鮮捕虜説等ノ解シ得ベカラザル疑問ナリ。彈左衛門ノ由緒書ニ今日ノ手工業者ノ多數ヲ以テ其支配ノ下ニ立ツ者ト主張スルガ如キ、或ハ狂妄ノ言トシテ笑過スル者アランモ、既ニ小田原ノ舞(384)々天十郎ガ家藏文書ニモ、北條氏ガ彼ヲ保護シテ各種ノ漂泊生業者ノ）細作ノ疑アル者ノ取締ヲ爲サシメタル例アレバ、以テ此類ノ職人ノ中ニ今日ノ如ク顯著ナル軒輊ナカリシコトヲ推測スベク、�ｺ川第一世ノ將軍ガ其巧妙ナル政治手腕ヲ以テ特ニ其中ノ一團體ヲ有力ニシ、間接ニ其力ヲ利用シテ他ノ多クノ一所不定者ヲ制御シタルハ、恰モ諸國ノ城下町ノ新立ニ必少數ノ此徒ヲ安住セシメ、彼等ノ自治ニ由リテ城内ノ平安ヲ計リタルト同一系統ニ屬スル政策ナリト認ムベシ。

　巫女山伏坐頭等ノ部類ヲ以テ所謂穢多非人ト同一視スルハ、聊カ前者ニ對シテ失禮ノ感ナキニ非ザルモ、予ガ此等ノ者ヲ同列ニ置クノ理由ハ、即チ後者ヲ賤民トスルノ深キ根抵ナキ説ナルコトヲ主張スルニ在リ。社會ノ進歩ニ少數ノ落伍者ヲ生ズルハ免レ難キ數ニシテ、之ヲ以テ優秀者ノ價値ナキコトヲ推論スルハ勿論不當ナリ。吾人ハ既ニ久シク土地ヲ寶物トスル中世思想ノ桎梏ヲ脱シ、職業居處ノ移轉ヲ以テ憲法上ノ權能ト考フル者ナルニ、今更他所者排斥ノ趣味ノミヲ墨守シテ此憐ムベキ同國人ニ臨ムベキニ非ズ。成程此徒ノ永年ノ間土地ト密着セザリシハ或ハ別ニ種族上ノ理由アラン。或ハ手工其他ノ藝能ノ頼ムベカリシモノアリシ爲、或ハ久シク耕作ニ親マザリシ爲、機會アルモ農業ヲ嫌忌シテ之ニ就カザリシハ、最初ヨリ漂泊ヲ性ト爲セル外來ノ人民ナリシニ基ストモ推測シ得ラレザルニ非ザルモ、歸化人ニシテ朝廷ノ保護ノ下ニ開拓殖民シ一地方ニ血脈ヲ傳フル者少カラズ、他ノ一方ニハ本來ノ日本人種ニシテ課役ヲ避ケ浮浪ト爲リシ者甚シク多カリシコトハ古史ニ明カナレバ、別ニ有カナル傍證ヲ見ザル限ハ未ダ直ニ特殊部落ノ異人種ナルコトヲ斷定シ難ク、要スルニ土地ト絶縁シテ久シク諸國ヲ移動シツヽアル間ニ、偶然新移住者ヲ警戒シ虐遇スル時節トナリ、主トシテ外部ノ原因ノ爲ニ著シク社會上ノ地位ヲ低下セルモノト解シテ彼等ガ今ノ境涯ヲ憐マザルベカラズ。

　彈左衛門ノ支配セリト云フ二十九種ノ職業中、過去三百年ノ間ニ完全ニ其社會上ノ地位ヲ恢復セシモノ多キハ例ヲ擧ゲル迄モ無シ。尤モ其中ニハ身分ハ賤シカラズシテ業ノミ下《サガ》リ職ナリト稱セラルヽモノアリ。即チ其職ヲ廢スレバ(385)即坐ニ常人ニ復ストイフ思想ナリ。此事ハ幕府時代ノ最後ノ坐頭ノ殘存スル者ヨリ直接ニ之ヲ聞ケリ。坐頭ノ所謂下リ職ハ些シク彈家ノ所録ト異ナルモ、要スルニ卑職ノ家ヨリ弟子ヲ取ルベカラズ、其住セシ屋敷ヲ買ヒテ住ムベカラズト云フナリ。然ルニ此坐頭ナル一階級ハ江戸時代ニ至リ大ニ地位ヲ改良シタル一箇ノ所謂職人ナリ。此徒ハ好機會ヲ把ヘテ其配當ヲ受クル權利ヲ職務ト分離セシメ、一躍シテ「ホイト」ノ域ヲ蝉脱セシモノナリ。曾テ阿波侯ノ能役者ノ家ニ配當ヲ取リニ行カザリシ爲紛紜ヲ引起セシコトアリ。同類間相互ニ配當ヲ乞ハザル舊習ヲ利用シテ大ニ其地位ノ高キコトヲ立證セシハ、盲人ノ仲間ニハ代々智慧者ノ絶エザリシコトヲ知ルベシ。然レドモ坐頭ノ中ニモ一種盲僧ト稱スル在野ノ琵琶法師アリテ、此輩ノ以前ノ生活?態ヲ示セリ。山伏ニモ亦本當二派ニ屬セザル一種ノ野山伏アリ。薦僧ニモ職人盡歌合時代ノ原?ヲ示スベキ野生ノ一類アリ。此等ハ皆江戸幕府ノ特權政策統一主義ニ僥倖シテ少ナクモ其有力ナル大部分ガ地位ヲ恢復シタル實例ナリ。其他ノ殘存セル部類ニ在リテモ、外部社會ノ態度既ニ「ホイト」ノ本旨ヲ忘却セシヨリ、力メテ嗟來ノ辱ヲ避クルコトニ苦心シ、或ハ形ヲ舞曲演劇ノ如キ遊藝ニ變ヘ、或ハ機會ヲ求メテ農作ニ從ヒ、カノ死畜取扱ノ如キ捨ツルニ忍ビザル有利ノ生業アル場合ノ外ハ、常人ト職業上ノ差別ナカランコトヲ期スルニ至リ、此ニ至ツテカ留リテ乞食ノ道ニ甘ズル者ハ、其心情生活共ニ零落ヲ極ムルニ至リシナリ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　話ハ再ビ乞食ノ事ニ戻リテ此論ヲ終ルベシ。曾テ鎌倉ニ於テ乞食ト立談セシ好事家アリ。乞食自ラ其齒ヲ指シテ曰ク、乞食モ齒ガ此ノ如キ色艶ニナルニ至ラザレバ仲間ニ幅ガ聞カズト。其人ノ説明ニ依レバ其乞食ノ齒ハ妙ニ白々トシテ動物ナドノ齒ニ似タリ。蓋シ永年ノ露宿冷食ノ然ラシムル所ニシテ、此ノ如クナルニハ少ナクモ三代相傳ヲ要スル由ナリ。又曾テ乞食ガ携フル袋ニ注意シタル人アリ。其説ニ木綿ノ袋ヲ持ツ乞食ハ一代ノ乞食ナリ。「スマ袋」トイフヲ有スルハ世襲ノ乞食ナリト云フ。番太ガ配當ヲ貰ヒアルク袋モ昔ハ此二種アリテ、布ノ袋ヲ携フル番太ハ業ヲ(386)廢スレバ常人ニ復シ他ハ然ラズト謂フ。「スマ袋」ハ自分ハ見タルコト無キモ二説アリ。一ハ縫方異ナリト云ヒ他ハ材料異ナリト云フ。後説恐クハ是ニシテ其説ニ依レバ一種ノ蔓草ノ如キモノニテ製スト云ヘリ。此袋ハヤガテ融通縁起ノ繪ナドニ鉢叩ノ腰ニスル所ノ一物ニシテ、又中世ノ漂泊民タル傀儡師ガ「クヾツ」ト稱セラルヽ本來ノ理由ナラン。「クヾツ」トイフ特殊部落ハ近世迄現存ス。其徒ニ美女多ク賣笑ヲ以テ生活ヲ爲セリト稱スルモ、此ハ唯婦人ノ若キ者ニ限ルベキコトニシテ、老女及男子ノ業ハ山野ノ竹蔓等ヲ材料トシテ籠等「サヽラ」箕又ハ梭ヲ作ルニ在リ。此者ガ今ノ所謂「サンカ」、他ノ地方ニテ「オゲ」「ノアヒ」川原乞食「スマ」「ノブスマ」「テンバ乞食」ナドヽ稱スル漂泊民ノ事ナルコトハ、前年東京人類學會雜誌ニ之ヲ述ベタレバ細述セズ。夏ト冬ト必所住ノ地ヲ轉ズル外、食物ニ導カレ警察ニ追ハレテ純然タル漂泊生涯ヲ送レルコト前述スル所ノ如シ。此徒ハ即チ今日ノ乞食團體ノ中堅ニシテ東京大阪ノ如キ大都ノ周圍ニハ多數集合シ、朝夕市内ニ出入シアラユル下級ノ生活ヲ爲ス。但シ人ガアマリ惠與ヲ爲サヾル爲ニ今ヤ彼等モ亦到底乞食ハ子孫ニ傳フベキ職業ニ非ザルヲ自覺シ、身體力量ノ之ニ適スル者ハ往々ニシテ他ノ業務即チ感心シ難キ窃盗詐僞等ノ方面ニ向ハントスルモノヽ如ク何レノ地方ニテモ「サンカ」ト謂ヘバ即チ犯罪者ノ別名詞ナルガ如ク解スルニ至レリ。

　余ガ見ル所ヲ以テスレバ、特殊部落ノ問題中最モ解決シ難キハ此等ノ未定住者ナリ。穢多ハ敷ニ於テハ甚大ナリト雖、其改良ハ唯一歩ニシテ、或ハ中古傳説ノ忘却又ハ其成立ニ關スル理解ヲ以テ簡單ニ之ヲ常人階級ニ迎入ルヽ望アリ。其上ハ尋常ノ救貧政策ヲ以テ一樣ニ之ヲ善導シ得ベシ。之ニ反シテ「サンカ」ノ徒ニ至リテハ今尚一所不住ナルガ爲ニ其生活?態ヲ監視スル能ハズ、之ニ對スル壓迫ガ長期且強烈ナリシ爲、彼等ノ反社會的感情モ亦深ク、而モ一般ニ社會的教育ヲ缺クガ故ニ一朝ニシテ非法ヲ企ツルトキハ其作害深酷ニシテ、普通ノ盗賊ノ徒ノ如ク目的ト手段トノ權衡ヲ考ヘズ、譬ヘバ數錢ノ物ヲ奪ハンガ爲ニ家ヲ燒キ人ヲ殺傷スルガ如キ、同胞間ノ盗賊ノ幸ニ具ヘ居ルガ如キ良心ヲスラ具ヘ居ラズ。其結果トシテ我々ハ?々「ボルネオ」「セレベス」ノ隘勇線ニ接近シテ居住スル白人種ノ不安(387)ヲ大都ノ中央ニ於テ抱カシメラルヽコトアリ。殊ニ此徒ノ數ハ少ナクモ十萬ニ近ク、又鞏固ナル團體約束存シ犯人庇隱ノ方法巧妙ナリト聽クニ至リテハ、單ニ平凡ナル文明装飾的善政ノミニ信頼シテ在ルコト能ハザルカト思ハル。之ニ對スル必須ノ政策ハ順ヲ追ヒテ多々アルベキモ、何ヨリモ必要ナルハ編貫ノ事業ナリ。土着ハ既ニ彼等ガ同類ノ大多數ガ到達セル第一ノ進境ナレバ、少ナクモ此點迄ハ急速ニ此等ノ落伍者ヲ收容シ、次ニハ所謂特殊部落ノ特殊タル所以ハカノ印度等ニ存スルガ如キ先天的ノ階級制度ニ在ラザルコトヲ自他ニ開示シテ、以テ三四百年來ノ不愉快ナル藩籬ヲ撤却スルノ遣ヲ講ズベキカ。前日埼玉縣内ノ某村ニ赴キ其郷土誌ヲ閲セシニ、特殊部落ノ項下ニ其村字陣屋ノ地ニ住スル舊藩所屬ノ數戸ノ士族ヲ擧ゲタルヲ見キ。此村ハ此外ニ士族モ無ク他ニ何等ノ特殊部落モ無キ村ナリ。願ハクは將來何レノ村ニテモ此ノ如キ錯誤ヲ演出セヌコトヲ。

　

(388)　　　木地屋物語

　

　　　　　　　　　　一

　

　風が吹けば家に居り波が高ければ岸を去る平地の我々に取つて、動くのは心ばかりのやうに思はれるが山の中へ行けば雲が峯を渡り水が流れて里へ出るのも極めて顯著なる事實である、動かざること山の如しとは云ふけれども山の中では物が皆動いて居る、其中でも人はよく動く、鳥獣は元の在處に歸るが人は永久に去年の小屋を見棄て行く、數千年來定住を求め其爲に宜き國を建立した我々であるけれどもまだ身の中には制し難い漂泊性がある、土地の鏈鎖は嬉しいものであるが力が弱い、雪の深い北國の若者は多くは渡り鳥の如き生活をして居る、冬は暖い海岸の地で働き夏は山里へ歸つて林の中で歌つて居る、炭燒木挽が同じ山で二囘の活計を立てることは先づ珍しい、谷川で岩魚を釣る人は小さい所帶を背負て歩行き到る處の樹の蔭に寢るのである、内田貢氏の話に或人は深山の谿問で妻子を連れた釣人を見た、木の下で子供に本を教へて居たと云ふ、彼等にも村と家とがあるのかは知らぬが其生活はよほどジプシイに似て居る、伊能嘉矩氏の話では早地峯山の中腹には岩穴に小屋を掛けて住んで居る者があつた、暫くして行つて見たら殘らず立退いて居た、又今西龍君の郷里美濃の揖斐郡の池田地方では毎年冬になると間の山の乞食と云ふ者が何處からとも無く遣つて來た、此者は只の物貰ひと違ひ食物の外家具でも衣類でも何でも欲しがる故に色々な物ねだりをする子供を丸で間の山の乞食のやうだと云つたさうである、間の山とは近江境などの山地のことであらうか、自(389)分の思ふには此乞食は多分木地屋であらう、深山で雪の深い爲に仕事をすることが出來ず、冬の間は出て來て人の惠を求める者もあるのであらう、木地屋の本國は近江の南境の山であるが近代は全國の隅々迄も分散して、中には歸ることを忘れてしまつた者が多い、もとは決して賤民では無いが彼等も時としては自分の由緒を記憶して居らぬ、況や平地の人には此珍しい生活の片端をも知らぬ者が多いであらう、茲に私の知つて居る限を話して見よう、冬の夜には似つかはしい物語である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　木地屋は世の中の變遷を知らぬからまだ奧山の木を斫ることが盗伐の罪であることを知らぬかもしれぬ、里の人の彼等につらいのは昔からの事で、其爲に人に逢はぬ山の中ばかりを往來して居つた、山主が稀に森林の中を歩行いて見ると一區劃の山腹を切開いた跡がある、小屋掛をして永く火を燒《た》いた灰などが遺つて居る、又木地屋めが來て居たな、と怒つて見ても、其部落は既に五里も七里も離れた山に移つて居る、一年に一度か二年に一度持主の追ひに來る頃はとくに材料の盡きた時である、町に盆椀の木地を買入れる者のある限は斯んな活計が續くのである、山が深く區域が廣くて見廻りの最も行屆かぬのは國有林や御料林である、江崎政忠氏に聞いたが三河の段戸山の麓には殊に此部落の數が多かつた、時々の制止はとても效の無いことを知つたので後には畑に開くべき土地を給與して農業を營ませた、翌年の稔に絆されて土地に繋がれるやうになれば木地屋の居處が知れる、盗めば罰せらるゝやうになると伐つてもよい木の拂下げを求むることになり、漸く一段落がついて御料林の中に小さな新村がいくつも出來たさうである、さて戸籍を拵へて見ると彼等の苗字は殆と總てが小倉氏であつた、妙な事であると言はれた、それは必しも不思議では無い、小倉は耳で聞いた爲の誤で實は小椋某と書くべきかも知れぬ、彼等の出處が近江の小椋郷であることを意味するものである。

(390)　木地屋の根源は滋賀縣愛知郡東小椋村大字君ヶ畑である、此事は百井塘雨の笈埃隨筆にも見えて居る、此書物は南谿の東西遊記の先型であるがあれ程は人が愛讀して居らぬ、君ヶ畑の記事には奇怪な傳説も交つて居るが、其中で信を取ることの出來るのは昔はこの伊勢境の山谷に三百戸の轆轤師が住んで居て挽物を以て生計を立てゝ居た、今は山中の樹木を採り盡した爲に活計の便が薄くなつたけれども、古い免許?があつて諸國の山林に心の儘に立入り木を伐ることが出來るので、追々に國外へ出て行き歸らぬ者が多くなつた、中にも木曾山に入つて挽物をして居る者が多い、併し村の氏神には年々嚴重の祭事があつて此祭を勤める爲二三十軒の村民だけは交代して村に歸つて住むと云ふことである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　君ヶ畑の木地挽は何れの時代から此地に居を占めたか、村の氏神大公大明神を彼等は清和天皇の御兄惟喬親王であると云つて居る、有り得べきことでは無いが皇子は世の中を疎み玉ひ二人の近臣を連れて此山里に隱れられた、村人に挽物の手業を教へられたのは此宮で、村民は皆當時の隨臣小倉の大臣の末であると云ふ、此信仰は中々強いもので現に近代まで江戸大阪の木具屋などが勸進して奉納した鳥居や水盤があることを近江與地誌略に話して居る、明治の今日でも此風があるか否か、一つ黒江屋の番頭にでも聞いてみたいものである。

　惟喬親王は小椋に十九年住はれて元慶六年に薨ぜられたと云ふことは獨り近江ばかりで無く遠國の移住者も之を言傳へて居る、併し自分は之を信ぜぬ上に此に「みこ」と言つて居るのは皇族の御ことでは無くやはり巫覡の「みこ」であらうと思ふ、枝葉の談であるが巫覡を「みこ」と云ふのは本來彼が神の血族であると云ふ信仰に基く名稱で、王子若宮などゝ云ふ末社の多いのと同じく、神の子なるが故に一般人民に神意を宣傳する機能を持つのだと考へたのである、然るに其巫を中世には田舍で「きみ」とも稱へたと見えて、塚に君塚と云ふ塚が多く君ヶ畑君ヶ澤などゝ云ふ山(391)奧の地名は決して此處ばかりでは無い、巫女教の祭場は清くして且つ靜かなる山中を擇ぶのが例である、又木地屋の手で作られる杓子なるものはいつの頃よりか民間信仰の對象であつた、山の神に杓子を貰つたと云ひ杓子が北辰の形に似て居ると云ひ同じ近江の多賀神社の杓子を始め此物を守に出す社は諸國にある、飯盛と云ふ不思議の神の名塚の名も極めて多いが亦杓子に因があるのかも知れぬ、此二つの點から私は木地屋が君ヶ畑の深山に廣大な地を占めて挽物の業を始めたのは必ず信仰に基くものであらうと信じて居る。

　

　　　　　　　　　　四

　

　君ヶ畑開闢の時代は容易に決定することが出來ぬが木地の製造は古いことで轆轤の使用も亦存外早くからあるのである、無論古代の食器は土製であらう、金屬の碗も木よりは前かも知れぬ、併し轆轤も亦少なくも初期の國際貿易時代に渡來したもので、其文字が珍しい漢音である爲に後代の物のやうに考へられるが、既に倭名鈔に、轆轤俗に六路と云ふ圓轉木機なりともあり、轆轤師と云ふ語は空穗物語にも用ゐて居る、北國其他の山中に六呂師六郎木などゝ云ふ地名の殘つて居るのが澤山ある、皆昔時挽物をした土地である、近江でも君ヶ畑の西南に近き日野の町は古くから木具類の市場であつて、近頃まで因幡の山奧に住む木地挽がわざわざ椀類を日野迄廻送して交易する風のあつたことを因幡志に書いて居る、日野椀、日野折敷と云ふことは庭訓往來にも見えて居る、折敷は今謂ふ御膳である、折敷三寶の外に柄杓面桶の類すべて薄い板を曲げて之を樺櫻の皮で綴ぢる者を昔の人は檜物と云つた、檜の木が最も曲げ易く且つ良い香がするから主として之を用ゐたのである、木が段々と乏しくなつて桶となりバケツとなつたが以前は檜物の用途は廣かつた、日本橋區の檜物町などは其商人が集つて居た町である、近江の檜物庄は古い莊園で、地名辭書には甲賀郡であらうとあるが、東の方は今の日野町邊に及んでゐたので、京都に近い爲に宮廷御用の檜物を調進したのが地名の由來であらう。君ヶ畑の杓子は此機會を利用して之を進獻した處、段々先例になつて且は縁起もよし且は(392)奇特もあると云ふのでいつの時代かに其製造者が過分の特權を附與せられて村の繁昌となつたものであらう。

　

　　　　　　　　　　五

　

　近江の人に尋ねても分らなかつた君ヶ畑の古文書は却つて土佐國の木地屋が傳へて居る、南路志の卷三十五に見えてをる、其中で承平五年（西暦九百三十五年）の綸旨と云ふのには小椋圧の轆轤師職の頭は小野宮の由緒も有る故に西は櫓櫂の立つ程、東は駒の蹄の通ふ限諸國の山に入ることを免許すると云ふのである、承久二年（西暦千二百二十年）の文書は拙い漢文の記録である、是には宮が君ヶ畑に隱遁せられた後に小椋郷の境域を定められたことを記してある、東は八風峠の雲分から西は百濟寺堺の峯の雲分迄が此郷の榜示であつた、此二通は明白に僞作であるが第三の延文三年（西暦千三百五十八年）の足利尊氏の免許?は本物らしい、それには諸國の木地挽には山手は定規の如く其沙汰をする、前々の如く諸役と關とは免除すると云ふ文言である、宛名は江州小椋一類君畑木地挽中とある、君ヶ畑宛の免?が土佐にあること、諸國の木地屋に對する特許?を近江へ出したのは注意すべきことである。

　内閣文庫にある轆轤師文書六通は多くは足利の末頃のもので宛名は轆轤師内木小太郎殿とある、御用の挽物杓子を調進したに依つて前々の如き特權を與へて置くと云ふのである、此も勿論近江に住んでゐた者であらう。

　

　　　　　　　　　　六

　

　土佐山中の木地屋が近江から來たことは此等の文書が證據である、其隣縣阿波の美馬郡にも三百餘年以前に近江から移住した者が居る、明治二十四年に此郡半田村の大久保某に藍綬褒章を賜はつた、其時の上申書に元龜三年（西暦千五百七十二年）の免許　状の寫がある、之も宛名が小野宮社務とあつて君ヶ畑の舊傳と合つて居る、其後引續いて挽物の業に勤めた家で所謂半田塗の元祖である、福島縣會津の漆器も近江の木地屋が始めたのである、新編會津風土記(393)に依れば天正十八年（西暦千五百九十年）に時の領主の蒲生家が其郷里と云ふ縁故から江州君ヶ畑の木地頭佐藤和泉同新助の兩人と木地挽五人とを連れて来て、最初は城下の七日町に住はせ山に入って木を挽かせた、常に山林に就いて小屋を掛け良木盡れば他山に遷り住處を定めぬ、其居を移すことを飛と云ふとある、併し其中でも稍々久しく一定の土地に留り傍農作を營んだ者があつて其村の名を皆木地小屋と云つて居る、例へば耶麻郡檜原村の小野川は木地屋の殖民地であつたらしい、同郡酸川野の木地小屋は享保三年（西暦千七百十八年）に、大沼郡東尾股の木地小屋は寶暦年中へ西暦千七百六十年前後）に何れも此小野川から來たと云つて居る、此等は百年二百年の間飛をしなかつた異例の木地屋であつて、其他の者は今でも南會津の奧山をあちこちと引越して居るのであらう、信州秋山の山民は峯傳ひに奧州の方から来たと云つて居るが、彼等も或は此分派では無からうか、尤も只見川の水源地は全國稀有の深山であるから何が住んで居たか知れたものでない、別に交際をする隣村があるでは無し近年になつて始めて世間の人に見出されたばかりであるから或は木地屋よりも古い地主即ち山男の子孫かも知れぬ、越後にも奧州にもこんな不思議な部落はいくつもあるのである。

　信濃と遠江との境は遠山と稱する廣漠なる山地である、寛政年中に京の本願寺の役僧が寺の普請の大木を探しに濱松の方から此山に入つた、其折の探檢談に遠山奇談と云ふ五册の本がある、挿畫は皆畫空事で話にも大分掛値があるが、其中に池口山の奧で此先に奇人の家があると聞いて大に驚いたらそれは木地挽の藤右衝門と云ふ者の小屋であつた、此山中では木地屋をきじんと云ふとある、諸州探藥記にも遠州千頭の山奧に木地挽が住んでゐて其生活はよほど世間と違つて居たとある、千頭は遠山の東である、本朝國語には伊勢多氣郡の藤小屋と云ふ村は杓子を作つて生活をして居る、惟喬親王の臣倉橋左大臣の後である故に山に行つて自由に木を採る特權があると書いて居る、之も古く近江から分れた故に其傳説の半分だけを記憶して居るのである、石見外記には石見美濃郡の檜木見谷の奧に木地引と云ふ賤民が住んで居るとある、陸地測量部の五萬分一地圖を見ると中國の山々には木地屋木地山と云ふ地名が所々にあ(394)る、何れも谷川の殆と行止りである、此等は木地師が長く一處に留つて村を爲した者である、九州にのみはまだ此部落のあることを聞いて居らぬ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　木地屋も段々と土著の有難味を解するやうになつたのである、寂しい山中に安じて住み得る天性だけを利用して木が無くなつても其地を去らず、次第に小さな村を作つて其國の人になり終に郷里を忘れた、併し昔から里に居た人々は機會があつても彼等と附合はず、半ば畏れ半ば彼等を賤しんだ、木地屋が落人を打殺して武具を奪つたとか違つた道を教へたとか、良くない噂を今でもして居る、伯耆志を見ると米子の町を始め村々に鉢屋と云ふ人民が居るが、一種別階級の部落と見て居るらしいのはやはり右の木地屋の末であらう、併し一方には藩で木地屋を利用した處もある、美作から因幡へ越える山路で二百年程以前に開かれた峠はあまり人里に遠い爲に旅客が難儀したのを頂上に木地屋を住ませて之に保護を與へ茶屋を開かせた、之を木地茶屋と云ふとたしか東作志に見えて居る、山陰山陽の國境に村を作つて居る木地屋は恐くは多くは何か相當の利益を保障して行旅の便宜の爲に住ませたのであらう。

　伊豆の天城山の北側には御料林の中に近頃新に小さな村が出來て轆轤細工をして居る、彼等も右の歴史ある木地屋の子孫ではあるまいか、野州の鹽原にも日光にも近年他國から來たと云ふ此商賣の家があつた、明治の木地屋は生活に骨が折れる、人は最早古證文を承認して無代で木を伐ることを許容せぬ、岩代三代村の持山の中にゐた木地屋は村と契約をして住んでゐた、宮島や箱根の杓子師は古い由緒のあるもので何れも社寺との特約の下に招かれて其門前に移住して來た者に違ない、即ち彼等の杓子製造は信仰の餘勢である、而も箱根の杓子町などもやはり近江との縁故があると見えて斯んな話を聞いた、横田香苗翁の昔話に彦根の井伊家で輕い者に抱へられた君ヶ畑生れの男があつた、此者が或時金の入用があると言つて東京からふらりと箱根の宿へ出掛け、何と話をしたものか若干の金錢を取つて歸(395)つた事がある、それは彼地の杓子師からである、維新前後の事であるが多分は其若者の懷にはかの轆轤師文書に見えるやうな古い書付が有つた爲であらう、之を以て見ても近江の木地屋の威力は近年まで存續して居たことがわかるのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　馬鹿なことを言ふやうであるが、自分はつく／”＼と髭が生えて居るのが殘念に思ふ、諸國の木地屋はきつと珍しい深山の見聞を澤山に持つて居るに違ないが、折角暇を潰し骨を折つて山中に入り彼等の在處を突き止めても、彼等は恐くは永年の習慣の惰性で隱れまはつて逢つて呉れぬであらう、又漸くの事で彼等と爐の縁で對坐する機會があつても或は苦笑し或はもじ／＼して何も話しては呉れぬであらう、天地寥廓たる冬の夜などに彼等が聞いた瀧の音風の音の神秘は我々に取つては殆とゼネガムビヤの古傳説と同じ位に縁遠いものである、實際何十代の山の中の生活の間には如何に鷹揚な彼等にも傳へずには居られぬ色々の不思議があつたらう、又彼等には不思議とも思はぬやうな有りふれた事柄でもきつと氣の遠くなる程耳新しい話が澤山あるに違ないが殆と聞き出す手段が無い、實際彼等の面會する人又は物の中でボタンの附いた筒袖を着て居る我々仲間ほど縁の少ない氣味の惡い心の置ける相手方は外にはあるまいから何と云つても仕方がない、木地屋の中にも一人位は歴史家があつてもよさゝうなものだ。

　

(396)　　　木地屋土着の一二例

　

　美濃武儀都下牧村大字片知は戸數三百ばかり、何れも小椋氏である。木地屋の末かと思はれる。同國郡上郡西川村大字内ヶ谷にも小椋氏が三十戸ほどある。今は三井の林業所であるが皆木地屋で自ら平家の落人だなどと云ふ。兎に角他所から來た木地屋である。今は死絶えてしまつた。伊勢の大西君の話に、多氣郡では山間地方に限つて小椋と云ふ苗字の家が多いと云ふ。此邊には木地屋が近江から來たと云ふ口碑が少くないかと思ふ。

　

(397)　　　マタギと云ふ部落

　

　十和田湖から鹿角の大湯へ下る路傍の部落、大湯村字大樂前は所謂又木である。八之太郎を出したと云ふ此村大字草木の又木は（郷土研究四卷二五三頁參照）即ち此地の事であらう。

　マタギばかりの部落は、此外に北秋田郡阿仁町字根子等、此附近にも幾つかある。彼等は夏中は耕作に從事し冬だけマタギに出るので、常民と著しく變つた所は無い。強ひて特色を求むれば年中犬を連れあるくと云ふ位なものである。此は大湯温泉龜屋の主人が自分に話した所であるが、少なくも百年前迄は彼等は今少し著しい特色があつたやうである。眞澄の遊覽記卷三十二の下には、右の根子村の條下に次の如く記して居る。曰く「根子と云ふ村は皆マタギと稱へて冬獵をする獵人の宿なり。又鬼《またぎ》の長の家に傳ふる卷物あり、彦火々出見尊より系を引けり云々。」此村では庄屋を肝入と謂ひ其次席たる村長を地主と云ふなど、寧ろ古い土着制度を存して居るのに、不思議なことには獣肉を

サチノミ・米をクサノミなど云ふ所謂山詞の外、多くの蝦夷語が行はれて居たとある。著者菅江氏は若干のアイヌ語を知つて居た人だから誤聞では無からう。同書卷二十二北秋田郡十二所町正月十四日の條にも、著者がマタギを見た記事がある。長文ながら之を抄出する必要を認める。曰く「見目《みめ》ことがら清げなる女のかたらひて行まじりたるを、皮衣《かはごろも》著たる荒雄ら犬引き具したるが來かゝり彳《たゝず》みて、よき女よ、サツタテをホロにしてネヽツプをケアハセたしと言ひて、はと打笑ひて過ぎたり、其等は又鬼とて獵人なり、其マタギ言葉をもて言ひける也。ネヽツプは女の元、サツタテは雄の元、ホロは大なるを謂ひケアハセはまくはへることをいふ、彼等が業には雪降れば深山に分け入りて山(398)羊《あをしゝ》を追ひ、春のサネ雪をカチキに蹈みて熊を追ひ、手刀《タテ》てふものにて突めり、クラカヒとて長き布の袋の中に金餅《かねもち》と云ふものを入れて常に腹卷とし、雪の大嶽小岳を馳せて大雪に降り籠められ、又は己が友にも逢はざる時は雪にまみれて臥し明すこともあり。空腹にてクサノミ（米）食むこと能はざれば、之を命ともてるクサガヒのカネモチをぞ食ふめる。熊をイタチ・猿をサネ・鹿をカゴ・山羊《あをしゝ》をケチなど謂ひて山に入ればそれ／”＼忌詞多かりけるとそれ等が語りぬ」（以上）。津輕風俗を記した奧民圖彙と云ふ書に、彼等が使用する什器の二三を圖示して居る。タテと云ふのは短い穗槍のことで、腰刀は之をマキリと謂ふ。柄も鞘も共に樺の皮を以て卷き、鞘には通例二つの鉤が附いて居る云々。又人類學會雜誌の第四十四號には南津輕郡山形村大字沖浦邊の山の者の忌詞が出て居るが、其中にも水をワカと謂ひ犬をヘタと謂ひ杓子をカクミと云ふなどアイヌ語らしく、單に「山の者」とはあるがマタギを意味するらしい。津輕及び南部の山村に亙つて今も若干のマタギは住んで居るのである。

　偖てこのマタギと云ふ名稱の根源に就ては自分はまだ疑問をもつて居る。十和田周圍の人々にも聞いて見たが、誰も皆マタギとは獵人だとのみ云ふ。青森縣方言訛語にも南部方言集にも、「マタギ、獵夫のこと」と説いてある。アイヌが山獵をマタギと謂ふことは、現に最近の人類學會雜誌三五四號三五六頁の吉田巖君の話の中にも例がある。（但しバチュラア氏語彙の中は見えて居らぬ）。併し此語がアイヌ固有のものか否かは尚金田一君などの意見を聽きたいと思ふ。奧民圖彙の中には此山民米を獣皮肉などと交易するに、以前は米を積み其上を跨いで一マタギ二マタギと量つた故に、彼等をもマタギと謂ふのだとも説いて居る。しかし自分は兼ねてシナの木の皮を以て織つた粗い布即ち古くから級布などと呼ぶものを、東北の或地方ではマダヌノと云ふことを注意して居つたので、十和田湖から大湯迄の途で「マダの木」があつたら教へてくれと車夫に頼むと、あれは作つたのしか此邊には無いと云ふ。即ち既に楮｜三椏《みつまた》のやうに栽培植物となつて居るので、而も此道筋では前に言ふ字大樂前のマタギ部落の周圍の畠でのみ之を見ることを得たのである。更に尋ねて見ると、マタギで無い者も此木を作り且つ布を織りはするが、マタギがマダヌノを織る(399)事は最も普通であるらしい。此木は此邊でもシナと謂つても通じ、地名には級木と書いてマダノキと訓むものもある。マタギのタは濁つて呼ぶやうに聞える。マダの木とマダキとは兼々何か關係がありはせぬかと思つて居る所へマダキがマダを栽培利用して居る例を見た爲に、愈々其想像が深くなつた。事によるとシナの木をマダと云ふのは股木の意で、此木を以て占の木即ち divining rod の如きものを作る風習があつたからの名ではあるまいか。新撰字鏡にも「※［木＋勿］　万太木」と云ふがあり、又マタブリを杖にして旅稼をする者は昔は多かつたのである。

　

(400)　　　竹籠を作る者

　

　上州吾妻川の上流、信濃境から二里餘、吾妻郡嬬戀村大字大笹の村はづれに、老たる籠屋が小さな弟子を相手に頻と背負籠を編んでゐた。出寄留の多い此山村へ、老人は十八年前に高崎附近から移住して來たのである。竹は二里下流の大字三原にも細い者はあるが、折れやすくて原料にならぬ。故に南上州の利根川畔などから、馬の背で取寄せると一駄の運賃が一圓四五十錢もかゝり、八寸まはりの竹なら一本三十錢以上にもつく。籠の端を結ふのはオホバヤナギの皮である。五月から七月の間に採取して置けば、柔くして丈夫である。使ふに先だつて水に浸ける。此ばかりは村の山に無盡藏の原料があつたが、それも昔のことである。一時岩鼻の火藥製造所へ灰を作る爲に此楊をいくらでも買ふと云ふ噂が立つて、此老人は駄目だと止めたが、大きな木を殆と伐盡して輕井澤の停車場まで運び出したけれども、ちつとも買上が無くて仲買も馬方も村一同に損をした。それからは思ふやうにヤナギの皮が得られない。何ニレとか云ふ樹の皮も籠を結ふのに用ゐられる。此は年中いつ剥いでもよいさうである。

　

(403)　　　上野中之條の口碑

　

　吾妻軌道の馬車の乘合で、中之條町の隣區｜五段田《ごたんだ》と云ふ處の御婆さんに色々の昔話を聞いた。此町の北に當つて峯の三つになつて居る高い山はタケ山である、あれでも頂上に大分の平地がある。大きな穴があつて中に無數の白骨のあるのは昔此山に城があつた時のものである。矢の根なども掘出したことがある。いつの世のことか知らぬ、敵が町の東の青山に陣取つて此城を攻め、水の手を絶切つてしまつた。始のうちは白米を山から落して瀧がある如く見せて居たが、麓の百姓の話で寄手が欺かれなくなつた爲に、終に水の缺乏に由つて落城し城の者は悉く今の白骨となつたのである。岩櫃山には吾妻太郎と云ふ大豪傑が住んで居た。此も後には敵に滅された。此人の首は吾妻川の岸まで飛んで來たのを今でも首塚權現と名づけて社に祀つて居る。岩井堂と云ふ岩山の神さまは天狗である。此山の下に在る古い堂は年毎の祭に神樂を上げた神樂堂である。新道の其下を通る前は、堂の西の岩穴の中に常に乞食や惡者が住んで居て、女などは一人歩きが出來なかつた。市域のサイカチは昔からの名木である。但し何故に有名であるかは知らない云々。御婆さんの話だけに些も書物の臭味が無くてうぶなものであるから御報告申す。

　

(404)　　　ツク舞について

　

　ツク舞を行ふ所の神社、上總には尚二三あること、房總志料及續編に見ゆ。此書は深川氏の見聞漫録と共に、近刊の房總叢書第二編に輯録せられてあり。下總北相馬郡布川町の明神にも、夏祭にツク祭あり。布川の人赤松氏の著書利根川圖誌に詳に記載せらるゝのみならず、此は明治の後まであり、十八九年前には編者も數度之を見たり。鍋釜の市とは關係なかりしことを疑はず。但し装束は青色にして面は雨龍《あまりよう》と云ふことなり。夏祭なる故雨乞の意味あるにや。或は雨蛙の所作を學ぶものと説く老人もありき。支那の鞦韆と同じものか否かは問題であるが、柱の上にて舞をする例は秋田などにもあり、但しツクとは言はず。ツクは恐くはツクシにて標木のことならん。即ち澪標《みをつくし》などのツクシなり。然らば其社（？）の神官が土筆舞と説明するも多少の根據あり。東京にて一月消防の出初式に行ふ梯子乘なども、其由來を調べたら何かツク舞と因縁があることが分るかも知れず。兎に角屋根屋さんは面白し。

　

(405)　　　高見山近傍の口碑

　

　大正五年四月七日、大和と伊勢との堺なる高見峠を越ゆる際、荷持ちの男より左の話を聽いた。此者は吉野郡小川村大字木津川の生れで、二十年程前から同村大字鷲家口に出て住んで居る桶屋にして、此頃は人力車夫を兼業する四十餘の至つて實體さうな男である。

○杉谷（同郡高見村大字、高見峠の西麓に在り）と云ふ村の名はもと伊勢の大神宮樣《だいじんぐうさん》の附けて下さつた名で、杉の谷と書くのは間違ひださうだ。昔奈良の春日樣《かすがさん》が大和は狹いと云うて隣國へ向いて領分せゝりに行かれた。伊勢は大神宮樣の領分だから、大神宮樣にすこしばかり地面を分けて下されと云ふと、以前から水分れが裁面としてあつて此上に讓りようも無いと言はれるのを、たつてせがまれるので其ならば此處迄と云ふと、今ちつと今ちつとゝ所望して果しが無いから、いつそのこと出合ひ裁面として堺を附け直さうと相談をなされた。春日樣は鹿に乘つてお出でになる。伊勢は神馬で驅けて來られるから、是は何でもよほど早く立たねば負けると、夜の明けぬうちから出立して行かれたので、却つて春日の方が先に伊勢境に入られた。宮前村（伊勢飯南郡宮前村大字）の此方にある峠を「めづらし峠」と呼んで居る。伊勢と春日はちやうど此峠の上で御出會ひなされ、大神宮樣が「おゝ春日はん、珍らしい」と聲を掛けられたので、それで此峠を今でもめづらし峠と云ふのである。併し此山を堺にしてはあまり伊勢國が狹くなるので、今度は大神宮樣の方から御頼みがあり、笹舟を作つて水の上に浮せ、其舟の著いた處を堺にしようと相談がきまつた。（其頃はまだ此邊がずつと一面の水であつた）。そこで其笹舟は今の舟戸（飯南郡波瀬村大字）に止り、水だけが少し(406)高見の山を越えて大和の方へ流れた。其時御伊勢樣が「舟は舟戸、水は過ぎたに」と仰せられたによつて、今でも伊勢の方の村を舟戸と言ひ、大和の方をスギタニと云ふので、此二村だけは大神宮の御附けなされた名前だと云ふ。

○此話は伊勢の人から前に聽いたのだが、熊野の方でも同じやうな話があるらしい。其後母親が熊野參りをして聞いて來た話に、春日樣は熊野樣とも同じやうな約束をして、熊野では烏に乘つて飛んでござるから遲くなつてはなるまいと、夜の明けぬうちに急いで鹿に乘つて行かれた處、熊野樣は油斷をしてまだ休んでござつた、それでも軒の下までが大和になつては何分困ると云ふことで、熊野がたつて春日樣へ御頼みなされ、熊野の烏が飛んで止る處まで返してもらふことにはなつたが、其爲に今以て大和が遙かに南の方へ廣く、紀州の方は堺まで至つて近いことになつたのだと云うて居るさうだ。

○伊勢の大神宮が春日樣と二度目の約束をして、笹舟を水の上に浮べられた時に、水が靜かで其舟が少しも動かなかつた。そこで御伊勢樣は一つの石を取つて、「此は男石」と言うて水の中へ投げられたら、其波で舟が搖いで終に舟戸に著いた。めづらし峠の舊道の傍に今でも男石と云ふ石があるのが其石である。誠に男のやうな事だから男石と仰せられたものらしい。千貫からの大石である。新路を通つても此石はよく見える。女房の腹に子のある者が、小石を拾つて此男石に打付けると、若し其子が男ならば、新路からはよほど遠いけれども、きつと其小石が中る。

○男石の傍には古い榊の木があつた。大神宮樣が神馬に乘つて此處へ御出でになつた時、榊の枝を鞭にしてござつたのを一寸地に挿して置かれたのが、其まゝ成長して大木になつたと云ふことで、枝が皆下の方を向いて居た。逆樣になつて成長したから逆木と言うたのが、此樹をサカキと云うた始であると、男石の近くに在る家で聞いたことがある。此家では明治八年まで大神宮から鍵を預つて居たが、其後は無關係になつた。榊は明治二十八年の嵐に倒れ、株だけは其後までも横になつて居たのを、明治三十年に棄てゝしまつたと云ふ話である。

○高見峠の路傍のちやうど高見山の登り口に近い處に、大きな岩があつて無數の小石が其上に載つて居るのは搖ぎ石(407)である。斯うせぬと此石が動くと云うて、通行の人が小石を拾つて載せるのである。高見山は多武峯とは敵同志で、此山へ參つた者は多武峯へ參ることがならぬと云ふ。高見樣は荒い神樣で、首を切られて其首が此山の上迄飛んで騰つたとも云ひ、今でも願を掛けると首から上の病はきつと治して下さると言つて信心する者が多い。此外に力を授けて下さるとも言うて居るが、力を授かるのは中々一通の信心では行かぬらしい。平野（高見村大字）の彌五惣と云ふ者などは高見山に願掛けをして力を授かつた人である。此人の力は敵一倍であつた。今でもよく言ふ話に、路を通つて難儀をして働いて居る者を見て笑つて行く故、なぜ笑ふかと云ふと戻つて來て、打つて居る物を突込んだり、曳いて居る物を下げて來たりしたと云ふ。此山に參詣する日は四月八日と八月十五日とである。山は寒いので卯月八日の參詣の時にはまだ何の木も芽を出して居らぬ。

　

（再記）　此話は出來るだけ桶屋の話した通りに、最も新しい記憶によつて書いて見た。恐くは一度も文字ある者の口又は耳を通過しなかつた古傳であらう。此話を聞いた時の自分の興味を書添へるならば、高見山に蘇我入鹿を祀ると云ふ話は久しい前から不審に思つて居たが、是は多武峯が藤原鎌足の廟所である爲で、本來はやはり一種の山爭ひ譚であつた。入鹿の首が飛んだと云ふ話で思ひ合せるのは、羽後の飛島の傳説である。鳥海山が富士山と背競べをした時、少しく及ばぬを憤つて頂上が海へ飛んで此島になつたと云ふのである。搖ぎ石を小石で押へて置くと云ふのも、黒崎氏の常陸紀行にある石成長の話などに、石が高さを競はんとするのを憎んで、神が其尖を蹴折つたと云ふの類で、是亦所謂たけくらべ傳説であるらしい。高見山の姿が最も勇ましく見えるのは伊勢からでも無ければ上市邊からでも無く、却つて吉野川下流の五條下市間であることを考へると、多武峯との山爭ひを言ひ始めた人民は即ち此邊に住した者であることが察せられる。恰も富士と筑波との爭を語り傳へた者が、武藏下總邊の古住民であるらしいのと同じである。山爭ひの話は高木文學士の日本傳説集にも幾つか採録せられて居る。

　

(408)　　　淀橋の橋姫祭

　

　府下淀橋の詰に住する淺田政吉氏は、本家の主人が此橋を越えて花嫁を迎へねばならぬ必要から、橋の下手に美しい棧敷を掛けて、古風な鎭め祭を營んだ。近い頃迄の書物を見ても、中野長者の傳説の中には橋姫の嫉と云ふことは記して無いが、實際今日では縁が切れ易いと云ふ俗信から嫁入の行列は決して此橋を渡らなかつたさうである。因て此祭を以て神の心を和げ、今後誰彼の縁組にも永く故障の無いやうにしたいと云ふ公益事業であつたが、祭の翌日即ち十一月二十二日には先以て淺田家の嫁入が自動車を列ねて、花々しく渡つた筈である。此祭は如何にも行屆いた且つ費用を惜まぬ儀式であつた。見に往つた人々の中には此事蹟が永く此橋に因んだ一つ話として殘るに相違ないと云ふ者が多かつた。然るに次の日の新聞に二號活字で「迷信の打破」などと見出しを掲げて此日の記事を載せてゐたのは滑稽なことであつた。どこの西門豹が發明したかは知らぬが、記者はあんな親切な迷信の毀し方を見たことが無い。迎ひ酒をアルコール中毒の藥などゝ云ふ連中には話しても駄目であるが、有害な不便な迷信を有益な且つ心持のよい迷信に取換へつゝ進むと云ふ社會的努力は昔からあつた。長者傳説の發生は實は多く此努力に伴ふ現象である。一體迷信などゝ云ふ語がよくない。無差別に迷信を罪惡なりと考へるのは、それこそ明治十六七年頃の迷信である。

　

(409)　　　上げ山の風習

　

　森林の荒廢を患ふべき地方でも、不思議に二本三本の松などが遺つて、山の姿を装うて居るものがあり、其名を問へば山の神だと答へることは、よく遭遇する例である。此等の老木の伐殘された理由には、よほど深く研究すべきものがあるやうに思ふ。曾て日向の山村を旅行した時には斯んな話を聞いた。里人が山に入つて木場伐《こばき》り（燒畑作業）をする際、木から落ちて變死などした場所は、其後再び切開くことをせず、常に樹林のまゝに放置する。これを「上げ山」と云ふとのことである。此と似たる風習は駿河安倍都の山奧仙ヶ俣、梅ヶ島などにも行はれて居る。山中笑翁の仙梅日記に曰く、山地に癖地《くせち》と稱する場所あり、此に山畑を作り、又はヤブを伐るとて雜木を切拂ひなどするときは、必ず災害死亡等ありとて畏れて作る者無し。賣地に出づれば至極の安價なるも買ふ人無しと云へり。元來この癖地と云ふは、山小屋に住せし者死亡して、仲間の者其死體を山地に葬り、形ばかりの墓印に杉又檜を植ゑ置きたるが、他の樹木は伐ることあるも此木のみは殘して置く習にて、其が大木となり、或は墓木なることを知らずして伐倒し根株のみ存する地をさして斯謂ふ也。癖地を拓くには小祠を作り災害無きやうに?りて後の事なりと云ふ（以上）。此で見ると癖地はかの病田《やまひだ》（郷土研究二卷四三一頁等）の類であつて、持主が單に縁喜を擔いで之を避ける迄のやうにあるが、其地に小祠を建てると云ふのを見ても、最初から此だけの思想に由つたものとは思はれぬ。東北地方に於て人が山神に逢つて怪我などした場所に山神塔の石を建てたのと同じく、木を伐らず地を開かぬ理由は、死んだ人よりも寧ろ人を死なせた原因に向つての畏敬であること、日向の上げ山の名が示す通りだらうと思ふ。之に類似する事實は、(410)以前久米氏の擧げられた信州｜三分《みわけ》峠の麓に天狗の栗栖《くるす》と稱して人が枝に觸れなかつた小さな林（郷土研究一卷三五二頁）又は甲州北巨摩郡大泉村の谷戸組と西井出組との境の山に在る泉權現の洞穴の前に神木と稱する橡の老樹あつて、其實落つれば神女之を拾ふと云ひ、若し之を取る者あれば必ず災害を受けると云ふが如き（甲斐國志廿九）、さては一年の中に一日又は二日、山神の木算《きかぞ》へといふ日があつて、此日山に入ると木と共に數へ込まれて還ることがならぬと云ふ等、次から次へ何程でも有るやうである。對馬では此の如き聖地又は墓地が多く、之を總稱して茂《しげ》と謂うて居たのは面白いことである。例へば今は嚴原町の一部分となつて居る天道茂と云ふ町は、即ち天道神の茂であつた。津島記事に曰く、「凡そ州中の地、未だ墾せざるものを神地と爲し、之を天道茂又は茂地又は祟地《たゝりち》と云ふ。其地勢を察するに、皆風を防ぎ、溢を制するの要、因つて其名を神にし人をして濫《みだり》に手を下すことなからしむ。海岸衝要の地亦神地に比し其木を伐ることを禁ず。走れ即ち貞和中中村宗香の繼ぎ修むる所、一は以て防守の爲にし、一は以て漁利の爲にす。かの天狗の馳道《とほりみち》、河童の角觝場等の如きと皆是一意なり。」又曰く「天道茂町はもと伊豆原と稱す。蓋し古八幡宮の磐境《いはさか》なり。神地禁あるを州俗に茂或は天道茂と稱す。神蹟に據るなり云々。」同じ書を見ると?知《けち》村には?知の七茂と云ふのがあつた。所謂上（ノ）茂・御輿（ノ）茂・柴草《いば》（ノ）茂・矛（ノ）茂・中原茂・宮前原茂及び裏茂是である。此類の靈地は上縣下縣の二島に充滿して居つた。或は之をオソロシドコロと云ひ、又は御前《みさき》とも云うた。後世の標は石塔を立てるものが多かつたが古くは矛を立てゝ境を劃したと傳へ、矛（ノ）茂等の地名が遺つて居る。海鳥諸國記に此島の風俗を記して、罪人走つて神堂に入れば則ち敢て追捕せずとあるが、是は唯シゲの作用の一端を示すのみで、恐らくは外國寺院の匿囚權などに比すべき者で無いことは、「境畔を過る者葉を銜みて枚《ばい》に易へ、騎者必ず下り喪ある者必ず避け遺《おと》したる者は拾はず」などとあるを見ても明白である。私は決して實際の政策を批判する者では無いが、古い神社の境内を調査する人は、是非とも右の如き將に滅びんとする思想をも腦底に置いて物を見ねばならぬ。今では山を祭つたに違ひない社までが、嶽の頂上に迄小さな祠を建てゝ之を奧院と云ひ、甚しきは一つの神の各所に止宿したま(411)ふと云はねばならぬのを避けんが爲に、口の宮と奧の宮と祭神異なりなどと主張するは嘆息すべき不穿鑿である。スキートが馬來巫術篇に詳しく説いたクラマット（靈地）なるものは沖繩で言へばヲガン（拜所）であらう。舊日本に於ては之を伏拜《ふしをかみ》と呼んで居る。後世之を遙拜所と解して居るが、遠い目當ての神が無い伏拜も尠なくないので、結局は全然社殿と云ふものが無くして神を祀つた時代を推定するのでなければ、觸るれば祟ありと云ふ多くの塚や石は、終に其の國民との交渉を語ること能はずして再び本の天然に復つて了ふかも知れぬ。

　

(412)　　　蛙の居らぬ池

　

　紀州小倉の七不思議の一に、寺の蓮池に住む蝦蟆、上人に叱られてより聲を出さずと云ひ（郷土研究三卷五六一頁）、伊豫松山城の濠の蛙も殿樣の沙汰で鳴かなくなつたと云ふ（同五六三、四頁）。上州太田の呑龍樣にも同じやうな話がある。かゝる譯も無い事柄が諸國に取囃されて居るのは、それこそ却つて不思議である。總別水に住む蛙は所謂妻を呼ぶ時の外は何處でも鳴かない。又｜遊牝《さかり》の季節になると集まる所があつて、どこの池でも躁ぐとはきまつて居らぬ。蛙の鳴かぬ池などは寧ろ七平凡の一に數ふべきものである。但し各地でそれを不思議と認むるに至つたのは、別に何等かの仔細が無くてはならぬ。近江野洲郡篠原村大字｜大篠原《おじのはら》の島橋の東に、不歸の池と云ふ東西に長い池がある。池の東の岡を夕日（ノ）岡と謂ひ、同じく西を朝日（ノ）岡と呼ぶ。齋藤實盛の首洗池と云ふ口碑もあるが、池の名の由來として傳ふるは、此郡兵主村大字五條の兵主の神、毎日三度づつ此池へ影向あつて、歸りたまふを見ず、故に歸らずの池と呼ぶ。一説には此池神池にして蛙住まず、故に蛙不入池とも云ふ由（近江國輿地誌略六十八）。たつた一つの例では勿論斷定は能はぬけれども、事によると蛙が鳴かぬと云ふ各地の不思議は、右と同樣に歸らずの池の意味が不確かになつてからの後の造説であるかも知れぬ。歸らずと云ふ語の神靈降臨を意味するらしき事は、前に大和在原寺の一村薄《ひとむらすゝき》の由來に關聯して之を述べた（郷土研究二卷一九九頁）。即ち業平が或朝吉野川の上に往つたまゝ歸つて來なかつた故に、塚を築いて薄を栽ゑたと云ふのである。橋占の場所を意味するらしき姿不見橋に出でて歸らざりし下部の話を傳へ（同二卷六〇三頁）、或は奧州三戸郡の淺水橋に、前夜來て宿つた旅人が朝になると見えぬと云うて居た如き（同上）、何(413)れもこの簡單に失する地名の爲に、或は長者の寶埋め、或は一つ家の石の枕と云ふやうな意外の方面に話が移つて行つたが、實際は何れも神靈去來の跡の凡眼には認め難いことを意味したもので、自分は同じ例の中に數ふべきものと考へて居る。中にも蛙不入の如きは下手な解釋で譯も無く反證が擧げ得られた爲に、轉じては「居ても鳴かぬ」と云ふことに説き始めたのであらう。日毎に三度づつと云ふのは食時の時と云ふことで、所謂｜朝饌問夕饌問《あさげとひゆふげとひ》の語の通り、神は祭を享けたまふ機會にのみ此世の人に應接せられるのが、日本の古い習であつたのである（郷土研究一卷二〇五頁）。同じ近江の地誌には兵主明神に就て又こんな話を記して居る。源の頼朝が平治の没落の際此地を過ぎた時、歸らずの池の畔に於てどうしても馬が進まぬのに不審し土地の者に聞くと、此神一日に三度づつ池へ影向あれば、今が或は其時であらうかとの答であつた。依つて下馬禮拜して武運を祈り、天下一統の後社殿を造營せられたと云ふ（近江國輿地誌略六十九）。巫覡を意味するヨリマシと云ふ語が、飛んでも無い地方に源三位頼政を神とする原因となつたことは曾て説いたが（郷土研究一卷五二一頁）それと同じ錯誤で神輿の前に立つ童兒を頼朝と云ふ實例も多いことである。又神を水邊に迎へて祭をすることも古來常の事であつた。此等の點に就ては更に證據を具へて又述べるつもりであるが、今は單に?の蛙の起源として此だけの推定を下し、反對論の有無を伺うて見る迄である。

　

(414)　　　鯨の位牌の話

　

　狩の前後の儀式には各國とも珍しい慣習が伴つて居る。山狩の後で山の神を祀る祭を弘く狩直し祭と謂ふ。ナホシは機嫌を直すなどのナホシで、物の命を絶つても災をせぬやうにとの趣意であるらしい。佛教と獨立したよほど古い思想であることは改めて述べたいと思ふが、爰には就中奇拔の一事を擧げて置く。東京人類學會雜誌第百十一號秩父紀行浦山村の條に、獵師熊鹿などを捕りし時には、殺した獣の生肝を取出して山の神に供へ、スハノモン、マイコノモンと唱へるとある。スハ、諏訪であることは次の話でわかるが、マイコはメイゴでは無いか。何のことであるか知らぬが、日向の椎葉山でも、熊の紐解の秘傳として、ナムメイゴノモンと三度唱へる。此事は後狩詞記に載せて置いた。此山村でも獲物の心臓を山の神に供へる。又矢開の祭の祭文の中に、グウグセヒノ物助クルトイヘド助カラズ、人ニ食シテ佛果ニ至レと云ふ語がある。或は引導と稱してヒガフグニセイノ物助クルトイヘド云々とも云ふ。帝國書院本の鹽尻卷五十に、信州諏訪の祠官鹿食無穢の章を出し妄に火を穢す。恐くは佛家の意より出でたり、今其札と云ふを見るに神代の故に非ず、業盡有情、雖放無生、故宿生身、同證佛果と書きたり、是全く佛者の方便の説なりとある。竹抓子《ちくはし》と題する或江戸人の隨筆に、諏訪の神と宇都宮とは祭に鳥獣を供へる。諏訪では中の酉の日の大祭に鹿の頭三｜十《（？）》五を生板の上に列べて神前に供へ、別に鹿の肉を料理して社人之を食す、他人も神官より箸を受けて食へば穢無し、又鹿を食ふ者に與へる札がある。業盡有情、雖放不生、故宿人中、同證佛果とあるのは大般若經の文句である云々。大般若經は驚入るが、諏訪の信仰は九州でも天草又は薩摩に迄及んで居るから、椎葉山の祭文も是れから出た(415)ものである。

　業の盡きたる有情は放つと雖生きず、故に人中に宿して同じく佛果を證せよと云ふのは諏訪明神の託宣であると云ふことは、以前何かの本で見たことがあるが本の名を忘れた。（甲賀三郎終篇）然るに右の山の神の呪文を直に海の獣に對して應用した例がある。長門風土記に依れば、此國大津郡通島は鯨取の盛な島である。此浦の向岸寺の抱なる觀音堂の中に、元禄五年に安置した鯨の位牌がある。立派な位牌で上に梵字を書き眞中に南無阿彌陀佛とあつて、其左右に業盡有情、雖放不生、故宿人天、同證佛果と書いてある。長門仙崎の寺にも之と同樣の位牌があつて、雙方共に毎年三月に鯨の供養をする例であつた。人天は人中よりも大分哲學的であるが、兎に角手前勝手な文句である。一休和尚の逸事にも之に似た話がある。手前勝手とは云ひながら之をすら遣らない今の人は笑ふ事は出來ぬ。殺すけれども化けるなは少なくとも一箇の挨拶であつた。昔者は此の如く非類とも精神上の附合をして居たのである。羽後の男鹿半島の光飯寺では毎年十月、朔日に鰰の祭をした。鰰は秋田名物八森鰰云々の歌もあつて、此海で澤山に捕られる魚である。風俗問?答に依れば、此日は浦々の漁民めい／＼小石を多く持來る、寺の僧此石に光明眞言を一字づつ書し神前に法樂加持す、漁民之を持歸り五穀を添へ己が漁場の海中へ散し入る。是漁業の利を得んことを折り、且つ數萬の魚の爲に冥福を囘向するとなりとある。米を散すと云ふ一點からも魚の精靈に對する浦人の態度がよく窺はれるのである。

　

(416)　　　馬力神

　

　下野上都賀郡加蘇村で、馬力神と刻んだ路傍の石塔を二つ見た。一つは大蘆の古蜂原《こぶがはら》、路から分れて入つたばかりの處にあつて、明治三十四年の物、今一つは石裂《をさく》より下流の上久我の里中で、同四十三年の建立である。馬力神は即馬櫪神の變名であることは疑ふまでもない。此地方ではイとエとは皆まちがつて居る。陛下が蝦夷菊を御覽になつたと云ふ日光の電話が、東京の新聞には悉く磯菊となつて居る。而して荷馬車のことを馬力と云ふ關東の方言は、其目的物と共に明治以後のもので、人の曳く車を人力車と稱へてから後に之に對して出來た語である。馬の供養の馬頭觀音が再び元の形の馬櫪神に返るのに、斯くの如き路筋を通つたのは面白いでは無いか。少くもあの邊の山間には馬の神の信仰は活きて居る。

　

(417)　　　隣の姥

　

　獣が同壘の皮又は毛の燒ける臭氣を忌むは有り得べきことであるが、日本では其事實が幾分誇張せられて居る。越前灰帽子峠の麓の山畑で、僅ばかりの粟生に、五種の鳥獣害防禦法が講ぜられてあるのを自分は見た。一には山水を筧にて引き其湛へて落つる度に石油の罐を叩かせる所謂サコン太郎の仕掛である。（二には風で動かす鳴子である。三には處々に石を置いて石灰の水に解いたのが澆ぎかけてある。兎を喫驚させる目的である。四には赤く枯れた杉の小枝が斜に釣下げてある。鳥類をして鼬の飛ぶやうに思はせる趣向である。五には即ち右に言ふ毛皮の小片を燒いて串の尖に挿んだものである。たしか之をカヾシと言つたかと記憶する。日向のある山村で見たものは、人の毛髪を少く束ねて串の先に挿み、ちよつと燒いたものを畑の周圍に立てゝ置く。それは名を聞いたらヤヱジメと答へた。ヤヱジメは燒占に相違ない。飛騨では之をヤキタテと云ふと飛州志卷七に見えて居る。野猪の皮を少しづゝ串に挿み火に焙りて田畠の周圍に立つ云々とある。又和訓栞にヤイズミ、今田間鹿を怖すには竹に鹿の油を煤に和し塗り附け立置くものをヤイズミと云ふ。燒炭の義なるべしとある。何れの地方の風習かは知らぬが、此も燒占の語のなまりであらうと思ふ。此等の例から推すと、カヾシは嗅がしむる意味の語に違ない。案山子の字をそれに宛てた結果、妙に元の意味が不明になり、甚しきは「鹿遁し」の約《つづ》まつた語かなどとこじつける人がある。同じ和訓栞には此説を載せ、而も其すぐ次に斯う書いて居る。信濃にては節分の夜鰯豆稈を刺すをヤツカヾシと云ふ。燒カヾシの義なり。鰯を燒けば魑魅《ちみ》の畏ると言傳ふる意なりとある。此まで知りながらカヾシの本義を附會せねばならぬとは考の無いことだ。節分(418)の夜の鰯の頭は今では必しも燒かぬが、當初の目的は臭氣を發するために違ひない。尾籠な話ながら、何とかして隣の婆が屁をひつた、ふやらのふやらのふんふんなどと云ふ文句、つい近い頃まで處々の節分に於て唱へられたのは全く其爲で、言はゞ或臭氣を以て惡鬼を退散せしめたのである。駿州富士郡厚原村の邊、節分に豆を焙るとき毛を燒きて云ふに、ヤーカヾシも候、長々も候、長門の國で鬼の首燒、それ臭いやれ臭い（吉居雜話）。コノシロと云ふ魚を燒いて死んで火葬をすると思はせたと云ふ話、色々の形を以て昔から多く行ほれて居る。一段と想像を逞しくすれば、灸又はヤイトと云ふ外來の醫術も、體内の惡鬼を閉口せしむる爲の古い呪法を、所謂經絡家が理窟を付けて事後承認したものでは無からうか。

　

(419)　　　京都の耳塚の史實

　

　南方氏の書信に由つて知り得たる寺石正路氏の説に依れば、予が京都の耳塚の由來を後世の噂話にして據無きものの如く斷じたのは、（郷土研究三卷六六二頁）誤斷であつた。其證は家々の開書覺書類の外當時の文書の中にも、敵人の鼻を多く切取つて驗としたことが?々見え、更に韓人李?光の著書にも「平秀吉、令諸倭割鼻以代首級、故倭卒遇我國人、輒殺（不殺？）而割鼻泗鹽、送于秀吉云々、是時我國人無鼻而得生亦多矣。」などとある。即ち耳と鼻との差はあるが、之を集めて内地へ送つたのは明かである。塚を築いた證據は、相國寺長老承兌の文集日用集の中に有る慶長二年九月二十八日の耳塚卒都婆文で、將士首切を上るべしと雖、江海遼遠なるを以て之を?り大相國の高覽に供ふと云ひ、又供養の塚を築き之を鼻塚と云ふとも見えて居る由。

　

(420)　　　坐頭制度の末路

　

　自分は旅に出て老いたる按摩と話すことを好むが、もはや今日の盲人の中には所謂當道の事を知る者は殆と見出し得ないやうである。一昨年の正月遠江の相良湊に於て出逢つた按摩｜富之都《とみのいち》は、僅かばかり舊事を記憶して居つた。彼は恐くは坐頭制度の適用を受けた最後の一人である。年は忘れたと云ふが維新後の事には相違ない。彼の親は當時價の甚しく下落して居つた太政官札を、半分價を以て買集め、之を納金として富之都が爲に官位を受けてやつた。其頃は自身京登をするに及ばず、郵便を以て其金を京へ送つたら、官記と共に坐頭の規則書を送つて來たと云ふ。規則書の内容を尋ねて見たが頗る迂漏であつた。必ずしも信ずることは出來ぬが、其一二を言ふと、サガリの子は弟子に取つては成らぬ。二十八種のサガリ職の者の子弟も同樣である。サガリ職とは身分はサガリでは無いが職がサガリである故に、其職を罷めぬ限は常人と同じ列には取扱はるゝことが出來ぬ者である。此等の者の住んだ屋敷は主を三度替へた後でなければ坐頭之を買取ること能はず。筬作り・石切り・紫染め・青紺屋・クツワ屋などは右の二十八職の内であつた。青紺屋とは布を染める染屋のことかと思ふ。絲を染める紺屋はサガリ職では無かつた云々。富之都又曰く、坐頭の團體は久しからずして廢罷せられた。其際天台宗の本山から役僧が下つて、昔の縁故を説明し此から保護をして遣るから請印をせよと談じられたことがあつたが、其後何の沙汰も無かつた云々。此一條は盲僧の歴史に於て極めて重要な意味を持つて居る。他日之を詳論して見たいと思つて居る。

　

(421)　　　白い鷄

　

　これまで神祇官系統の國學者に由つて、「名も無き藪神の類」などと輕しめられて居た諸國の里の祠には、我々の父祖の田園生活を明かにしようとする者の爲に、最も重要なる意味を有する名稱が、一貫して保存せられて居るやうに思ふ。殊に奧羽地方の風土記を繙く人々は些しく注意すれば必ず此問題の趣味を理解するであらう。今僅に其一例を擧げて見よう。白川風土記に依れば、城の西北方に當つてたしか庭渡山と云ふ山に、彼邊の農家の信仰する山の神が祀つてあつて、領内の村々に庭渡社・庭足社又は荷渡社と云ふ祠多く、或は此山の神を勸請したものかと思はれる。之に伴うて鷄の傳説の多く存するのを見ると、文字は違ふが鷄の信仰に基くもので無いかと云ふ想像を起さしめる。而して此神は獨り白河地方ばかりの神で無い。二本松領では天保十二年に成つた相生集に、三渡明神、御渡明神又は見渡權現の社が各地に在ることを記載して居る。鬼渡はニワタリの尊稱のオを附したものであることは他の多くの例からよく分る。一々所在の村の名を掲げることは出來ぬ故、必要ある人には原書の一覺を乞ふの外は無い。磐城相馬地方の郷土誌としては精密なる奧相志がある。此書にも村々に荷渡權現多く、又鷄足權現とも鷄足明神とも漢字を宛てゝ居る。今より五十年前の記事であるからまだ殘つて居る社もあらう。太田村大字高の荷渡神の如きは、本地を勝軍地藏とし、下總舊相馬郡の都部《いちぶ》から移したと云ふが、元の地に其社があるや否、今井幸則氏にでも調べて戴きたい。會津地方に在つては新編風土記に、亦二渡神・見渡神多きことを記し、南會津郡松川村（旭田村の大字か）の鬼渡神社などは、祭神天八十萬魂命と云ふこちたき社傳を作つて居る。境を越えて越後の東蒲原郡にも亦二渡神がある。更(422)に北して仙臺領に入れば、同じ神は愈々多く、少くとも封内風土記の出來た百六七十年前には、殆と村毎に一箇のニワタリがあつた。之に宛てた漢字は甚だ區々で、仁和多利權現・新渡權現・似當權現とも書き、又二渡・見渡・宮當・鬼渡又は海渡などともあつて、當時此信仰の既に統一を失つて居たことを示して居るが、又正直に鷄鳥權現と書いたのもある。この分布の弘い事實は恐らくは本源の一箇の山で無いことを證するものであらう。日光道中略記に依れば、江戸日光間の官道の附近にも多くの鷄渡神社・新渡大權現又は鷄權現あることを記して居る。猶尋ねたら關東の他の地方にもあることゝ思ふ。

　さて第一に何故にニハトリをニワタリと書いたかの問題であるが、自分は多くの佛寺の名に鷄足山又は鷄足寺があつて、單に天竺の靈地の名を移したと言はず、更に岩石に印した靈鷄の足の跡を傳説することを聯想するの外は無い。要するに鷄足の「足」からタリと呼ばねばならぬやうになつたので無いかと思ふ。何れにしても神の名として鷄ではあまり單純であると感ずるやうになつて、追々と雜説が附添したことと思ふ。神祇全集第四輯に採録した信夫伊達二郡の神名帳（文政十三年）には、、ミワタリ神には悉く水雲の字を宛て、「祭神は天水分大神《あめのみくまりおほかみ》にてますべし」とあるのに、近年編纂の郡案内の類を見ると、何れもさう極めてしまひ、或は三渡神社と書いて祭神は天水分尊・國水分命及び村雲命の三座として居るなど、天八十萬魂より一層骨の折れた當推量と言はねばならぬ。併しながら鷄を神に祀つた最初の動機も誠に知りにくい。深山に鷄鳴を聞くと云ひ岩窟の奧に黄金の鷄が居るといふ話はよく聞くが、其傳説の由つて來る所からが大きな疑問である。自分は近頃刈田郡案内と云ふ一書を見て居つて、ふと心附いたことがあるから試に説を立てゝ見ようと思ふ。磐城刈田郡越河村大字五箇字中郷良の白鳥神社は倭建尊外五神を祀ると云ふが由緒詳かならず。故老の傳説に依れば大昔倭建命東夷征伐の途次此地に憩はせられ、折節寒氣烈しかりしかば焚火をして御身を暖めたまふ。因て名づけて身暖と言ひしを、今改めて神嘗と書すと云ふ。神嘗をミアタリとは殊に苦しい説明であるが、もと此社の名のミアタリであつた事を、之に由つて推定し得る者とすれば、次には白鳥のことを考へて見ね(423)ばならぬ。此地方には荷田嶽を中心として白鳥の信仰が弘く行はれて居り、畏多くも用明天皇潜幸の故事を傳へ、或は其妃玉世姫白鳥に化したまふとも、又王子を兒投川へ投じたるに白鳥に化したまふとも云ふ。此天皇が特に東西の邊土に御名を遺したまへる理由は我々には分らぬが、同じ白鳥の傳説を存する豐後の田野にも、たしかこの天皇を記念する縁起があつたことを記憶する。所が奧州では用明天皇を理由の無いことゝ考へたか、今は日本武尊の方をよく通用する。併し此は白鳥の故事を知つて居た吉川惟足あたりの新説らしいことである。申すまでもなく尊の白鳥は鷺か何かの飛ぶ鳥であるが、特に右の奧州の白鳥神社の分は白い鷄であつて、大昔の白鷄を牲とする風習が、いつの世にか生《いけ》たるまゝ神に奉るやうになり、終には神山の鷄を以て直接に神の本體と崇むやうになつたのではあるまいかと思ふ。

　

(424)　　　神符降臨の話

　

　伊勢の御祓の降ることが御蔭參りの發端であつたことは、寶永神異記明和神異記文政神異記其他當時の聞書類にも見えて居る。此三度の御蔭年は略々六十年を隔てゝ似たやうな現象が繰返された。然るに慶應元年度のは少しく早過ぎたのみならず伊勢參りとは深い關係が無かつたらしい。何か人爲の民心衝動策では無かつたかと云ふ疑は夙くから有つたが、如何にも規模が大きくして傳來が久しい爲に、今に文明史上の一不解事として殘つて居る。郷土研究が若し此問題を討究せられるならば我々は尚多くの材料を提供したいと思ふ。武州金澤泥龜新田の開發者たる永島龜代司氏の家に於て、自分は現に同氏の老母より聞いた。此邊へ慶應度に降つた御礼は伊勢の劍先もあつたが、近い大山石尊の札が殊に多かつた。或家では軒先に或家では窓の櫺子に、又生垣の上などにも降つたが、土の上に落ちて居たものは一つも無かつた。永島氏では或朝起きて見たら石尊の御礼がちやんと林の間の壁に立掛けてあつた云々。姉崎博士が郷里の老人に聞かれた所に依れば、京都北郊の村々でも此頃盛に御礼が降つた。降つた家では近隣の人が集り來つて祝宴をして踊つた。或家では主人が酒食の費を厭うて降つた御礼を隱して置いた處、罰が當つて大に煩ひ、早々之を披露して盛な振舞をしたら全快した云々。明治三十年の夏自分は三河の伊良湖崎に於て酒井某と云ふメソヂスト教會の老牧師に逢つて數日閑談したことがある。此老人はもと紀州の藩士であつて、幕末人心の騷然たる時節に伊勢の松阪に市中警備の任に當つて居た。毎日々々そこでもこゝでも御祓が降つたと云つて人が騷ぐのが、或朝支度をして玄關を立出で、送つて出た家の者がまだ内へ入らぬ位の處で、何か鼻の先へ白い物が上から落ちて來たのを、思は(425)ず知らず手に取つて見ると御祓であつた。是は困つたと思うたが兎に角送りに出た家の者に粗末にするなと言つて渡し置き、其日も夕方迄所々をあるいて還つて見ると、家は湧き返るやうな騷ぎであつた。どうして聞いたか御祓の降つたことが知れ渡り、三井其他の大家から酒樽や何かを祝ひに持込まれ、迷惑ながら來た人々に飲食ひをさせて居たので、是ばかりは自分の實驗であるから耶蘇教の教義でも否定することが出來ぬと言つて居た。

　

(426)　　　三家分流の古傳

　

　琉球神道記に「シネリキユ・アマシキユの男女始めて此島に相住みて自《おのづか》ら三子を生ず、一人は所々の主の始、次は祝《のろ》の始、第三の子は土民《どみん》の始」とあるのは、或は誤傳であるかも知れぬ。中山世鑑などに採用せられた三男二女の分統が正しい言傳へと見るべきものかも知れぬ。但し國王と按司と及び君《きみ》と祝《のろ》とを異なつた家筋と見ることは或は後代の思想の體現ではあるまいか。日本書紀の神代記事にも既に之と善く似た二男三女神の神話はあるが、之を實際の民間信仰に參照して見ると、本來の三女神の話に後から取添へたらしい趣が窺はれるのである。沖繩に於ても宮古島の最初の神はやはり三女神であつて、之れが例の三輪山式神話と結合して居ると伊波普猷氏は言はれた（古琉球三八八頁）。自分の考へる所では、宗像其他の三座の神の信仰は、同時に諸國の大社に言傳へらるゝ三家同祖の口碑と根原を一にするものであらう。蓋し他の民族の例を以て推せば、右の三神の古傳は本來人類の最初を説明する極めて重要な神話であつたものが、諾册二尊の國作りを承認するの結果として、次第に不必要な小さいものになつてしまつた。諸國の神社に存留する三子傳説などは、多くは神に事《つか》ふる者が神の裔であることを説く爲に（郷土研究一卷二四頁參照）僅かに忘却の不幸を免れ得たものに他ならぬ。此實例として自分の知つて居るのは、一には信州の諏訪である。山崎闇齋の垂加草には、何に基いて書いたのか知らぬが、諏訪の神に三子あり、長は諏訪に居り仲は有賀に住し季は眞志野に居り各其地名を氏とす、諏訪氏に大祝《おほはふり》を置き有賀に大市《おほいち》を置いて明神に奉事す、之を神家《じんけ》と謂ふ。諏訪氏絶ゆれば有賀氏之を繼ぎ、有賀氏絶ゆれば眞志野氏之を繼ぐを家法とし、其裔今に傳ふとある（地名辭書有賀の條所引）。第二に(427)加賀の白山である。越前石徹白村の舊記に依れば、昔此山中に古喜美と云ふ者あり、名を武比古と謂ふ。景行天皇の十二年正月十五日に、神託に由つて舟岡中居の地を平げ一の宮殿を作り、六月十五日大神を神殿に奉齋した。武比古三子あり。長を村｜宇斯《《うし》と云ふ。遠遲羅川の上流に居る。次を田畑宇斯と云ふ。馬場の上に居る。次を山宇斯と云ふ。下島の邊の名主となる云々。即ち三子が村と田畠と山との幸を分ち領したのである。石徹白は中世迄白山神人の村であつた（郷土研究二卷四一〇頁）。此傳説のもと白山のものであつたことは、此川上に箱根と同じく三人の神仙が住んで居たと云ふ昔話（續古事談）からも想像せられる。山に住んだ三神仙の話は、箱根と白山との他に更に白山より程遠からぬ越前大野郡飯降山にもあるが、此は女性である。昔此山に三人の尼あつて行をするに、天神の惠を以て毎日飯が降つた。之を三人に分つを悋んで二人の尼相語らひて他の一人の尼を谷底に突落した處、それより飯の降ること減ずるに由り更に一人の尼が他の一人を突落したら、終に全く降らなくなつた。此谷を比丘尼《びくに》落しと稱し第三の尼が飢ゑてよろぼひ下りし里をよぼろの村と云ふ云々（深山木）。此等の物語の比丘尼とか上人とかは誠に名ばかりで、佛法の潤飾も未だ及ばざる隈の多いことは容易に之を認めることが出來る。石徹白で三人の宇斯《うし》の父を古喜美と云ふのは何を意味するかまだ分らぬが、此と何かの關係があらうかと思ふのは、白山の北麓｜尾添《をぞふ》村の西なる馬牧《うままき》の西部に、オシロヤシキと云ふ一地がある。半町ばかりの平坦であるが、土人の傳に昔マユミ・コユミと云ふ二王子があつて、常に此に居て護摩の法を修したと云ふことである（白山遊覧圖記六）。オシロは即ち白米のことであれば（郷土研究一卷二六二頁參照）、右の二王子も或は亦三人のミコの訛傳であつたかも知れぬ。

　神系三分の第三の例としては更に熊野の新宮を擧げることが出來る。新宮の社家に傳ふる古系圖は固より後作には相違あるまいが、其中にも同種の傳説が採録してある。彼等の開祖は其名を千與定《ちよさだ》とも又｜千與包《ちよかね》とも呼ばるゝ者で三人の子があつた。長子は雅顯長者、次子は裸形上人、那智にも同じ上人の古傳があり榎本氏の祖とも云ひ或は日本靈異記の牟婁沙彌は此人だとの説もある。第三子は長寛長者であるが、其曾孫にも眞俊兼純貞勝の三兄弟があつて、(428)各々榎本宇井鈴木三氏の祖となつたとある（紀伊續風土記稿七十九）。第四の例は九州の阿蘇である。此社は十二の末社があつて各々大神の眷屬であると云ふが、就中一宮健磐龍命《いちのみやたけいはたつのみこと》は大宮司の祖神、三宮《さんのみや》國龍明神は權大宮司の祖神、九宮《くのみや》若彦明神は社家中の祖神とあるのは（玄察物語）即ち亦三家分流説の存在を示すものである。神人巫は社家の流と云ふが、若彦明神の名義より推せば、巫覡を出すのが寧社家の本分であつて、九宮は即ち沖繩などの祝の家筋に當るものであらう。

　此等は東西南北の著しい大社のみを擧げたが、此他淺草の三社權現に濱成の三兄弟を祀ると云ふが如き例は多く、要するに無意識の間に永く民心に浸染し居り、何かの機會には一種傳説上の流行模樣の如く發現したものでは無いかと思ふ。房總志料續篇を見ると、上總市原郡の飯給《いたぶ》と云ふ地に、不通峯白山大權現と云ふ社がある。白山と稱しながら實は大友皇子の三人の御子を祀り、三社の名を黄神宮、祝子宮、及び?の宮と謂ふ。大友皇子は如何なる仔細あつてか此地方に傳説上の御遺跡が甚多い（郷土研究二卷五六三頁參照）。此地の土民度々皇子に飯を捧げたによつて、三人の御子の仰として村の名を飯給と命ぜられた云々。同書君津郡久留里町大字浦田の妙見杜の條に、久留里を引用して又左の如き説も見えて居る。平新王將門佐倉在城の頃、オモガ池の畔に遊覽して天女の羽衣を脱いで遊ぶを見る。將門其羽衣を奪つて返さゞりし故に、天女是非もなく來つて彼が妻となる。十年の内に子三人を生む。惣領は千葉介次男は相馬三男は東少輔《とうのせういふ》、此三人は母天女氏である。天女は此三人を生んで後羽衣を請受けて上天す。後日に星の交つた石に三通の文を添へて天より下されたのが、佐倉の勝瀧寺に遺つて居る。其天女を妙見と祝ひ千葉相馬の一統之を氏神とす云々。將門は後に水戸氏を娶つて又三子を擧げた。竹志野尻松崎三家の祖である。前の三子と合せて之を千葉の六流と稱へたと云ふ。此類の話がたつた一つなら或は男三人又は女三人の兄弟などは世の常のことだと言つてもよいが、神に祀られ又は神に仕へた三人の子が分れて三家の祖となると云ふ話の根柢は、存外單純なもので無いやうに自分は思ふのである。

(429)　此因に於て自分は潜かに考へる。諾册二尊を人の始とする我邦公認の神話は、勿論陰陽二極と云ふやうな人作の哲理に由つて解説すべきもので無い。臺灣の山中に棲息する蕃民の中にも、兄妹の兩人が知らぬ國に只二人漂著して來て部落の始祖となつたと云ふ話は、最も弘く且つ種々の變形を以て行はれてゐる。即ち我國では今昔物語に土佐の妹背島の話として傳へらるゝ者と同じで、恐くは人類起原譚の最も普通な一形式であらう。而して此と三子分流の傳説とは固より相容るべき者では無いので、つまりは日本には古くから朝野又は都鄙に立分れて、二子神話と三子神話とが競ひ行はれて居たのである。書紀の編纂に際しては二子説は正統と認められ、他の一派は大に讓歩して片隅に引込んだが、而も上古以來此國の田舍を優勢に風化して居た信仰は、宗像でも諏訪でも白山でも熊野でも阿蘇でも、必ず三社又は三神孫の教條を保持して居たのは奇妙である。八幡なども祭神の説明がいと六つかしいに拘らずやはり三所であつた。此二樣の古傳を或派の學者の流義で出雲系と大和系とかに片付けて了ふことは、自分微力の及ぶ限で無いが、事によると此が日本の國民を分析する一つの目安になり得るのかも知らぬ。石の神の種類を見ても明白に二つ即ち女夫石の系統と、三つ石即ち竈神などの類との間に區別があるやうに思はれる。

　

(430)　　　木曾山中の境塚

　

　曾つて境に塚を築く風習を説いた際、木曾王瀧川の溪奧、飛騨と美濃との三國峠から東北を指して、十數箇の列塚のあることを實見に基いて述べ、築造の年代を明かにする記録が見たいと申したが（郷土研究一卷一五五頁）、其記録は容易に手に入るべきものであつたのを知らなかつた。吉蘇志略卷三附録｜三浦山《みうれやま》の條に、「三浦山、本は王瀧に隷す、是濃州飛州信州三國の境なり、其山廣大にして間或は良材を盗む者あり、然れども王瀧山を隔てゝ之を制すること能はず、故に享保中有司濃州の三村氏に命じて之を監護せしむ。加子母の郷豪内木氏專ら其事を掌る。遂に經界を正し九?を築き、直ちに御嶽の東北麓（？）に達す。是に於て分界始めて定る。今其概を述ぶれば曰く、加子母の屬邑中郷に山あり、名づけて梯子阪と曰ふ、先づ此阪を登りて一峯に到る。名づけて拜殿と云ふ。云ふ古御嶽の遙拜殿あり故に名づくと。又高嶺に登る、是飛濃信三州の堺なり。標を建てゝ之を誌す。而して山を下ること八町一培?あり、是れ九?の第一なり。其下に澗あり水無澤と曰ふ。小板屋あり、是れ有司巡視する者此に止宿す。又高嶺に登る。或は上り或は下りて一峯に至る。鉅岩あり烏帽子岩と曰ふ。之に登れば即ち四方の峯轡歴々として見るべき也。駿の富士・越の立山白山の如き皆望むべきなり。第六?に至れば澗あり琴澤と曰ふ。又一板屋あり、有司此に憩宿す。既にして高嶺に登る。其間岩を截つて徑を成し或は梯を架して?と爲すあり。艱難辛苦名?すべからず、漸く第九?に至る。此邊は山高峻を極むと雖、地平にして大道の如し。然して此を過ぎて以上は奧倉崖と曰ふ、乃ち御嶽の岬なり。其路左邊は飛州に屬す。其上嶺を飛州嶽と曰ふ。乃ち飛騨川此に出づ。其路右邊は信州に屬す。其上嶺を繼子嶽と曰(431)ふ。其下に瀑布あり。飛沫霧の撤ずるが如し。名づけて百間瀧と曰ふ。是れ王瀧川の源なり。下流は木曾大河と合す。其上嶺石壁屹立し攀躋すべからず。飛信の堺此に止る。大凡第一?より第九?に至る迄、行程殆と十里、三村の役夫年々樹を伐り篠を芟り以て通路と爲す。是を以て分界嶄然として敢へて材を竊む者無し云々」とある。之を見れば此封土が奧州｜人首《ひとかべ》寛永十八年の築塚（郷土研究一卷一五五頁）などと同じく純然たる經濟上の境塚であつて、我々の考研せんとする七人塚や首塚胴塚足塚の如く、古い信仰に基いて居るもので無い事が明瞭になつた。但し境の神を塚に於て祀る風習が古今を通じて最も自然なる理據のあることは、やはり此例も亦之を側證して居るのである。

　

(432)　　　御札降り年代記

　

　遠藤冬花君の報告せられた阿波の御下りは、慶應度の記事ばかりであるが（郷土研究三卷四三四頁）、老若男女が盛に拔參りをしたと云ふ天保元年にも、やはり大いに御礼の降つたことは、宮崎成身の視聽草の中にも、大阪在住者の書簡之を詳報したのが載せてあつたかと記憶する。又甲子夜話續編卷四十五にも、文政十三年阿波で御礼が所々に降つた事を記し、其は何者かが御札に團子又は油揚を取附けて高山の上に置き、鳥類をして啄み去らせたのだと云ふ噂があつたと書いてある。文政十三年は十二月になつて天保と改元せられた。即ち同じ年の記事である。此文の中に文政十三年から六十年前にも阿波に御礼が降つた。兩度とも阿波が原だとある。六十年前とあるのは正確に云へば五十九年前の明和八年卯年のことであらう。此年も亦殆と中央部一圓の拔參の年で、且つ諸處に御礼が降つた。一例は小松邑志の伊豫周桑郡小松町竹村氏平右衛門が家の記事に、「明和八年六月三日小雨あり（今夏旱す）此日毛諸方へ降る。色白くして長さ五六寸、平右衛門の家之を所持す。此年六月二十日西迎寺屋吉郎衛門宅の屋根に、御幣串八本降る。夫より拔參宮始る」とある。天保元年度には東海道の三河にも降つた。三河聽視録岡崎の辨財天社の條に、「文政十三年夏數度大神宮の御祓天降りたまふ。故に社を立てゝ此側に埋む。九月十六日のこと也。」又同處蛭兒天神社内金毘羅社の條に「文政十三年五月十五日御礼天降る」とあり、猶他の條には、「文政十三年閏三月二十一日の夜、大神宮御祓岡崎祐金町鶴田七郎兵衛、十王町長坂新次郎兩家屋敷の中にふる。それより七間御門の内、其外城内町々裏々に至る迄ふりける故、男女大小人とも參宮す」ともある。猶増補武江年表を見ると、勿論江戸のみの記事では無いが、「天(433)保元年春の頃より伊勢大神宮御蔭參流行、江戸にも及ぶ、阿州に始ると云ふ。」「明和八年三月初旬より伊勢參宮流行、五月上旬一日に二十四萬人云々。」「享保三年春より伊勢參宮はやり出して諸國より群參することおびたゞし。」「寶永二年、今年伊勢宗廟諸國より參詣多し、これを俗に御蔭參と云ふ。和漢合運其他の書に詳なり」と云ひ、猶此年御祓箱の降つたこと、寶永千載記・玉勝間にも之を記してあるとある。其以前に於ては「寛文元年、二月より伊勢宗廟へ男女參詣することおびたゞし。」慶安三年、寛永十五六年の記事亦是と大同小異である。和訓栞には伊勢三重軍鹿間村に三百年前（今より四百年前）の御蔭參の幟があると云ふ話を載せて居るが、是はまだ容易に信用出來ぬが、兎に角寛永十五年（西暦一六三八年）慶安三年（一六五〇）寛文元年（一六六一）寶永二年（一七〇五）享保三年（一七一八）明和八年（一七七一）天保元年（一八三〇）慶應二年（一八六六）の八度は略々相類した民衆動搖のあつたことは確かで、六十年目とか寅歳とか云ふことは、近い頃人が言ひ始めた話であるらしく思はれる。

　

(434)　　　常陸の甲賀三郎

　

　明治二十一年に茨城縣廳で刊行した茨城名勝誌の中に左の記事がある。常陸多賀郡鮎河村大字諏訪の西北方、字大平太と云ふ地に神仙洞と云ふ穴がある。洞の口一丈餘、松明を照して内に入れば、百五六十歩にして漸く狹隘となり、尚九十歩にして水深く洞蹙まり遊者其奧を究むる能はずして止む。相傳ふ、建長中本村諏訪神社の神主｜高利《たかとし》なる者あり、萬年大夫と稱す。其妻と共に此洞に入りて終に出で來らず、故に神仙洞の名あり。土俗に呼んで諏訪の水穴と云ふ。即ち信州諏訪の水穴に通うて居ると云ふのである云々。甲賀三郎の名は見えないが、洞穴が地下に通ふと云ふことゝ、妻を伴うたと云ふ點と、諏訪の神を説く所から、是も同じ説話の斷片では無からうかと思ふ。兎に角諏訪を龍神と考へた時代はあつたのである。

　

(435)　　　鮭と兄弟と

　

　羽柴翁の「オースケコースケ今｜上《のぽ》る」の話（郷土研究四卷三七三頁）を見て思出すは、加藤咄堂氏日本宗教風俗志に、陸奧三戸郡湊村の大祐明神は工藤祐經の子犬房丸大祐を祭ると云ふ説である。昔大祐の此地に來り寓するや、從者の又次郎長才の兄弟あり、漁を以て其主を養ふ。二人共に頗る漁に巧にして、或時は新井田川に於て兄は鮭千本弟は八百本を漁したことがある。仍て今も漁夫等鮭を得るとき、惠比須槌を以て其魚の頭を打ち、「干魚又次郎八百長才」の九字を唱へ、大漁を希ふ神呪とするとある。鮭を秋祭の供御にする例は多い（郷土研究三卷一二〇頁）。曾ては平瀬君も報ぜられた木曾福島水無祭の神輿舁ぎの詞の「宗助幸助」（同三卷七六六頁）は島崎藤村君の詩文にも見えて居る。枕草紙にも警蹕の聲を「オホサキコサキ」と呼ぶともあつて、鮭とは關係はあるまいが、或地方では鮭をも亦スケと謂うたやうに思ふ。

　

(436)　　　小さな峠の上から

　

　「郷土研究」が兎に角三箇年の長途を歩み、此迄辿り著いたのは豫期以上の幸である。既に賑やかな世界から餘程遠ざかり、我々の一群は決して多勢とは言はれなかつたが、それでも道々面白く仲よく笑語して淋しい心持もせずに遣つて來た。併し此から何方へ向いて進めばよいのであらう。最初我々は漫遊の興味を貪るの餘りに、わざと細密に地圖も作らずに發足した。到る所の鳥の聲や水の音は我々を誘ひ、成るほど自由なる旅には疲勞も少なかつた。但し野に出て見ればやはり一筋の道を取つて進まねばならぬ。前年最も新しい題目と思つて手を著けた研究も、探れば　　愈々終點が遠くなるやうに感ぜらるゝにも拘らず、他の一方には早些しく馴れて古くさくなつた虞がある。纏まつた一卷の書物ならばよろしいが、雜誌に於て材料の一局に偏するのは好ましくない。讀者は幸にして或はそれでも好いと言はるるかも知れぬが、有用なる學問を地方に喚起するの手段としては、此の如き深入は反省すべきものであるかと思ふ。勿論我々が希望する事業の大部分は、此雜誌などが衰へ倒れて後、第二第三の郷土研究が出て十分に爲し遂げるであらう。それにしても我々も亦應分に本來の任務を盡して置かねばならぬ。此雜誌は最初に此の如く宣言した。今日の日本は如何にして出來たか。殊に最も日本人らしい日本人即ち村に住む農民は、如何なる生活を經歴して今のやうな社會　　状態に到達したか。之を少しでも明白にしたいのが我々の願であつた。斯くして得たる智識を適當に利用することは別の人の仕事としてもよろしい。少なくも誤つた前提に基いて將來の計畫を立てることだけは、掛換の無い國民生活に取つて是非とも避くべきことで、而も其前提の大部分を占め居る國情如何と云ふことは、我々でなければ(437)正しい材料を供給し得る者が無からうと云ふこと、是が竊かに持つて居た我々の抱負であつた。大なり小なり本誌の爲に働いた人は今や百人を超えて居る。此等諸君の援助に由つて、目的の一半は些しく端緒を見出したと云うて宜しい。即ち最も謙遜なる生活をして居る我同胞の、信仰的精神的の?況に付ては、郡長村長も知られぬやうな新しい發見が段々あつた。之に反して他の半面の經濟的物質的生活に付いては、本誌は是までに大した辛勞を拂つて居なかつた。此方は人も多く知り從つて記述も多く、新しい勢力の混同も多く從つて珍しく無いと云ふわけか、但しは又斯んな雜誌を手にする人には所謂世事に疎い人が多い爲であらうか。過渡時代故老がまだ生存する今日で無ければ、到底手に入るまいと思ふ有益なる昔話が、根つから我々の編輯室に集まらなかつたのである。尤も此三年の期間に既に大分寄稿者及び讀者の嗜好と傾向とを作つてしまつたから、今となつて無理に不得手な方面に押進めることも六つかしいであらうが、出來るならば一部分なりとも、此迄注意の行屆かなかつた方面に、若干の努力を分つて見たいものと思ふ。そこで具體的に讀者諸君と御相談をしたいことは、第四卷には時々經濟生活に關する田舍の記事を報告せられては如何と云ふことである。殊に昔は斯くあつたが今は斯くなつたと云ふ話が面白からうと思ふ。生活要求の發展に伴ふ産物の種類及び其供給方法の變遷、交通の異動の如き、同じ地に同じやうにして住んで居る人に取つては定めて顯著なる印象影響であらうと思ふ。其類の話の珍しいものを成るべく多く集めて置きたいと考へるのである。又此までは一地に定住する人の四圍の?況が主として報ぜられたが、それも出來ることなら旅人として又隣人友人として外から見て目新しいと思ふことを、假令幾分の不精確を免れ得ずとしても、折々は交へて見たいと思ふ。此雜誌の編輯人などは、もと單なる旅人の團體から出た者である。汽車や車で走ることが多くなつて見聞録の愈々散漫になる結果、村限りの精密な記述に對して恥ぢて多くを語らなかつたが、概覽通觀にも亦其方の利益興味はある。比較に由らなければ價値の定まらぬ事實は田舍に少なくないのである。故に文章を讀まさうとせぬやうな、益軒の「諸國めぐり」の如き質素な紀行はどこ迄も本誌で保存して置かうと思ふ。此外にも「郷土研究」の活動區域を擴張するやうな趣向は(438)尚ほ追々と考へて行かうと思ふ。但し此がために今迄折角進んで來た信仰俗信に關する新しい研究を怠らんとする考はちつとも無いと云ふことを斷つて置く。只國が古くなるやうに雜誌までが古くなつてはたまらぬから、假令今後一年でも二年でも生きて居る間は若々しく働いて見たいと思ふばかりである。

　

(439)　　　沓掛の信仰

　

　熊野と八幡との最も著しい相異は、前者が奧羽九州の果までも略々同樣式の信仰を保つて居るに反して、八幡には名を同じくして質の區々なる社が多いことである。江州三井寺の若宮八幡に源八と云ふ聾《つんぼ》の男を祭ると云ひ、土佐吾川郡の若宮八幡が惡源太を祭神とすと云ふの類は、熊野權現に付ては曾て聞かぬ所である。此原因は恐らくは宣教者團體の組織聯合方法の差異に歸すべきもので、之を時代に伴ふ變遷と見て土著の先後を推論せんとするのは正しくない。但し何れにしても邊土に行くほど特殊の信仰樣式の多くなる事は爭はれぬ。菅江眞澄の紀行を見ると、南秋田の濁川と云ふ村で道路の傍に在つた若宮八幡などは、「社も無く石積の宮處にして、馬の沓のみを願ひ事に掛くると云ふ。八幡の神にや馬の神にや」とある。濁川附近にもと中野目と云ふ僅か二三戸の村があつた。後に退轉して濁川へ移つてしまつたが、其村迹の地にも亦一つの若宮八幡があつた。「神體は露石《はだかいし》にして道祖神の如く、馬牛の病を祈りかけて、牛馬の藁沓を手向けぬ」と記して、樹木の梢に多數の沓を掛けた樣を挿畫として居る。此社では五月五日に馬の祭を行うたが、又八月十五日の例祭あること八幡本社と同樣であつた。沓を路傍の木に引掛ける習俗は日本の全土に分布して居つて、成程道祖神の信仰に最も縁が近い。併し是が出羽北部に於て特に八幡に變形したので無いことは、此邊でも道の神の手向に此物の用ゐられて居たので分る。例へば同郡北浦町大字眞山と云ふ村では、折から天然痘流行の最中で、家々の門口に?（クヒ？）を立てわらうだ（圓座）を笠とし、草鞋を重ね結び蕃椒《たうがらし》を二つ挿んであつた。此は蕃椒のやうに赤く疱瘡が揚がることを願ふ爲と云ふ。山本郡東雲村大字須田では、疱瘡草鞋と稱して一つ乳(440)の大草鞋を軒に掛け、輕部安右衛門宿と書いた札を差し、紅い紙の御幣を立てゝ居たとある。又同郡鵜川村大字鵜川の一民家では、主人伊勢參宮の留守に道途の平安を祈る爲、庭上に五本の幣を立て注連を引渡し、此は四つ乳の藁沓を戸口の方に先を向け置き、其中央の左右に小石を載せ水を打つて清めて居たと云ふ。此等は他の府縣に今も弘く行はるるものと大同小異で、即ち他地方で道の神にした祭を秋田で八幡にのこしたのでは無く、寧ろ八幡も亦一種の道の神として拜せられて居たと見るべきである。沓掛と云ふ地名は大字にも小字にも非常に數多い名で、現在も道路の傍に在るもの諸國に例乏しからず、猶進んでは此地名の分布に由つて昔の通路を辿り得る位である。是も通行人が一種の群衆心理で誰も彼も同じ場處に來て古沓を引掛けて行く故のやうに想像する人があるか知らぬが誤つて居る。又地名辭書山城老（ノ）阪の沓掛の條に、沓掛は履を掛けて賣る店で、即ち驛亭の意とあるのも證據無き想像説である。自分の知る限りで沓は必ず神の杜の樹木に掛けて居る。而して其沓は必ず常に新しいもので又?々片足である（郷土研究四卷五四一頁）。東京近くでも北埼玉の羽生邊で自分の二三見たのは皆道祖神又は庚申の祠の上の木であつたが、必しもそれに限らぬらしいのは、秩父の子《ね》（ノ）權現で足を丈夫にして貰ふ願掛けに奉納する爲、境内で專ら其用に供する麁末な草鞋を賣つたと云ふ（遊歴雜記三ノ中）のでも分る。京都でも祇園の攝社美御前に疱瘡を祈り、報賽として「はしきれ草履」を奉ると云ひ（次嶺經三）又姉小路新町西の相逢社では迷子を尋ねるに願掛けして草履を獻じ、此所から探し始めると速に見出すなど云つて（都名所圖會拾遺一）共に羽後の田舍の風といくらも違はぬことを示して居る。而してどうして此樣な信仰が永く存して居るかに就ては、まだ／＼多くの言傳へを集めて比較して見ねばならぬ。

　

(441)　　　人丸の社

　

　柿本以外に人丸と云ふ名の人が何人も有つたといふことを穿鑿した人があつたが（西國名所圖會五等）、其は未だ人丸の社の國々に多い事の説明にはならぬと思ふ。自分も兼々妙だと思つて居るのは、和歌に縁も無い大社の攝杜にも此祠の往々あることが一つ、第二には人丸に就ては殊に神體感得の口碑の多いことである。下野の國には黍稈で眼を傷つけた人丸大明神の他に、更に藤原定家が奉じて來たと云ふ人丸社もある。定家卿は何故か知らぬが、上野下野で處々に故迹を遺して居る。或は人丸の名の方が寧ろ先で、歌の神に仕へた藤原氏なる故に定家と後に推定したのではないか。宇都宮の二荒神社も和漢三才圖會六十六などには祭神柿本人麿靈とある。是は當社の寶庫に古い人麿の畫像があるのを神體と誤認したのだらうと云ふが（下野國誌三）、此地方で尤もらしく傳へ居る一説では、宇都宮氏の始祖宗圓阿闍梨の父藤原兼房、歌道執心の餘り夢に神像を見、後明石より勸請したと云ふのである。斯の如く言ふならば、山城大和の人丸社などは皆説明し得るか知らぬが、それにしてもあまりに數多く、又周防長門などに在る祠などは、歌とは何かも知らぬ農民が信じ祭つて居る。猶注意して見ると、大和河内に在る多くの人丸社は塚が元で、仍つて歌聖終焉の地と認め近世になつて社を建てることになつたらしい。京都でも今日住吉町に在つて人丸御靈などと呼ぶ社は、古い地誌類に坊城高辻南の人丸塚、其由來を詳にせずとあるものゝ後らしく、八坂の法觀寺の境内に在つたと云ふ人丸社の地には、一名烏帽子塚と云ふ塚現在し、老木の櫻あつて之を人丸櫻と呼んで居る。而も此杜は古くは日蓮宗本國寺の境内、町の名も柿本町と稱する地に在つたと云ひ、其地にも一つの人丸塚がある。本國寺の舊記に依れば、(442)此寺第二代上人日靜なる僧、鎌倉松葉谷から寺を遷すとて本尊を奉じ來り、小船に載せて一條堀川に至り、更に其舟の著く所に於て寺を建てる考で水の流に任せた處、此人丸塚の下に舟止つて動かなかつたと云ひ（雍州府志）、又一説には此人丸塚の上に在つた社は貫之の勸請した古社で、其も洪水に漂蕩して社壇のみ殘つたとも言傳へ居る（坊目誌下三）。何れにしても正體漂流の口碑に伴うて居るのである。又一箇人丸寺と稱する寺が中立賣千本西入三間町と云ふにあつた。本名は西光院、淨土宗である。人丸の木像がある故の名である（京町鑑）。一説には石像とも云ふ。享保六年三月十六日、藁苞に入れて此寺門前に捨てゝあつたものと云ふ（名所圖會拾遺一）。人丸の忌日と云ふのは三月十八日であつた（日次記事）。正月には俗人の家でも人丸を禮拜するが此時代の風であつた（ツギネフ二）。さりとては名歌も出なかつたつまらぬ時世に、不時に出現したと云ふのが新種の奇瑞である。石見の本國に於ては柿本神社は美濃郡高津村に在つて縣杜である。但し此地に社あるは延寶九年以後の事で、其前は松崎と云ふ地にあつた。今から八百九十年前の萬壽年間迄は、高角港口鴨島の山上に鎭座し別當人丸寺もあつたが、烈しい海嘯が起つて神社覆没し、僅かに御神體の漂著する地を相して右の松崎に第二の社を建てた。今の地に移したのもやはり前の災に懲りたからだと云ふが（島根縣美濃郡案内）、其間六百五十年を隔てゝ何分確かならぬ話である。神體漂著譚と共に尚宿題として置くべきものかと考へる。

　

(443)　　　神佛を盗むこと

　

　神の像を盗まれた盗んだと云ふ話は決して道祖神のみで無い（郷土研究四卷六六七頁）。八幡では伊勢鈴鹿郡落針村の鎭守（三國地誌三十三）上總市原郡八幡町の八幡の如き（上總國神社誌料）。何れも神體は遠方から盗んで來たことに言ひ傳へて居る。併し作州苫田郡林田村の大隅大明神では、上下二宮相接してあり、神體の青石を二社の間に度々取合ひして居るうちに、終に紛失したと傳へて居るのは（作陽志）、この盗奪と云ふことが本來は何か信仰上の儀式では無かつたかを思はしめる。佛像に就ても同種の話が、京都鳥部山の阿彌陀堂（雍州府志一）、これは今山科の小堂に安置すると云ひ、尾張知多郡矢梨村法華寺の金剛力士は、盗まれて勢州朝熊寺にあるとも云ふ（張州府志三十）。此方にも仔細あつて後に返つて來たと云ふ話が多い。例へば武州品川永月寺の觀音（江戸名所記）。今の雜司ヶ谷の鬼子母神（遊歴雜記五の中）、或は津輕｜乳井《にゆうゐ》村の毘沙門天の如き（津輕俗説千八百解）、共に靈威によつて元に復したことになつて居る。事によると尊像を一定の地に安置せず時に臨みて暫く他處から迎へ來るのを、盗む盗まれると言つたのでは無いかと思ふ。此例に引くのは失禮であるが、豐後邊の俗諺に、盗んだ猫で無いと鼠を捕らぬ、と云ふのがある（諺語大辭典）。在り得べからざることであるが、何か此の如き俗信を起した信仰上の誤解があつたのでは無いか。盗人が本尊の手を切つたと云ふ古い話が、相州では御手藥師の話として傳へて居ると大野君は報ぜられ（郷土研究三卷一八〇頁）之と反對に手だけ殘つたと云ふ口碑が、武藏南多摩郡高幡村の御手觀音にもあつて（共古日録）、手一切の病と手業の上達とを祈ると云ふのは、無意味な偶合では無くして、正體の取遣が二箇の村の間の申合せであつたことを思はしめる。江(444)戸では淺草の市の大黒像は盗んで來て祭れば靈驗があるとの迷信があつた。小石川牛天神社内の貧乏神も盗まれた後には禿倉が空であつたと云ふ話がある（道聽塗説九）。若し虚誕で無いならば、此も考へ合せて見ねばならぬ。

　

(445)　　　第二十七卷　内容細目

　

後狩詞記〔1909年3月、非売品、自費出版〕

　　序…………………………………………………………………………三

　　土地の名目……………………………………………………………一三

　　狩ことば………………………………………………………………一九

　　狩の作法………………………………………………………………二三

　　色々の口傳……………………………………………………………二九

　　附録……………………………………………………………………三三

　

山島民譚集（一）〔1914年7月、甲寅叢書刊行所〕

　　小序

　　再版序

　　河童駒引………………………………………………………………四九

　　馬蹄石………………………………………………………………一一一

　

(446)山島民譚集（二）（草案稿本）

　　第三　大太法師……………………………………………………一八三

　　第四　姥神…………………………………………………………二〇三

　　第五　榎の杖………………………………………………………二一四

　　第六　八百比丘尼…………………………………………………二三〇

　

俗聖沿革史（大正十年一月〜五月、中央佛教五卷一號〜五號）…二四七

　

賽の河原の話（大正十一年四月、中央佛教六卷四號）……………二七七

　

子安の石像（明治四十四年七月、考古學雜誌一卷十一號）………二八二

　

地藏の新和讃（大正二年四月、郷土研究一卷二號）………………二八八

　

地藏殿の苗字（大正二年六月、郷土研究一卷四號）………………二八九

　

(447)水引地藏（大正二年十一月、郷土研究一卷九號）……………二九二

　

廻り地藏（大正三年五月、郷土研究二卷三號）……………………二九五

　

子安地藏（大正三年八月、郷土研究二卷六號）……………………二九九

　

黒地戒白地藏（大正四年一月、郷土研究二卷十一號）……………三〇二

　

掛神の信仰に就て（明治四十四年十一月、佛教史學一編八號）…三〇四

　

忌と物忌の話（昭和八年五月、土の香五十號）……………………三一二

　

勝善神（明治四十五年六月、考古學雜誌二卷十號）………………三二六

　

猿廻しの話（大正九年一月、教育畫報九卷五號）…………………三三六

　

(448)繪馬と馬（昭和五年一月八日、アサヒグラフ十四卷二號）…三四一

　

板繪沿革（昭和十六年五月、造形藝術三卷五號）…………………三四四

　

龍王と水の神（昭和十六年十月、國學院雜誌四十七卷十號）……三五〇

　

片葉蘆考（大正三年六月、郷土研究二卷四號）……………………三五五

　

諸國の片葉の蘆（大正五年一月、郷土研究三卷十號）……………三六二

　

七難の揃毛（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）………………三六四

　

民俗覺書（昭和十二年十月、多磨五卷十號）………………………三六六

　

所謂特殊部落ノ種類（大正二年五月、國家學會雜誌二十七卷五號）…三七〇

　

(449)木地屋物語（明治四十四年一月、文章世界六卷一號）………三八八

　

木地屋土着の一二例（大正二年五月、郷土研究一卷五號）………三九六

　

マタギと云ふ部落（大正五年十二月、郷土研究四卷九號）………三九七

　

竹籠を作る者（大正二年十二月、郷土研究一卷十號）……………四〇〇

　

郷土研究小篇

　　上野中之條の口碑（大正三年四月、郷土研究二卷二號）……四〇三

　　ツク舞について（大正三年八月、郷土研究二卷六號）………四〇四

　　高見山近傍の口碑（大正五年五月、郷土研究四卷二號）……四〇五

　　淀橋の橋姫祭（大正二年十二月、郷土研究一卷十號）………四〇八

　　上げ山の風習（大正五年五月、郷土研究四卷二號）…………四〇九

　　蛙の居らぬ池（大正五年二月、郷土研究三卷十一號）………四一二

　　鯨の位牌の話（大正二年四月、郷土研究一卷二號）…………四一四

　　馬力神（大正二年十月、郷土研究一卷八號）…………………四一六

(450)　　隣の姥（大正三年四月、郷土研究二卷二號）……………四一七

　　京都の耳塚の史實（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）…四一九

　　坐頭制度の末路（大正三年九月、郷土研究二卷七號）………四二〇

　　白い鷄（大正三年十月、郷土研究二卷八號）…………………四二一

　　神符降臨の話（大正四年六月、郷土研究三卷四號）…………四二四

　　三家分流の古傳（大正四年七月、郷土研究三卷五號）………四二六

　　木曾山中の境塚（大正四年八月、郷土研究三卷六號）………四三〇

　　御札降り年代記（大正四年十月、郷土研究三卷八號）………四三二

　　常陸の甲賀三郎（大正五年三月、郷土研究三卷十二號）……四三四

　　鮭と兄弟と（大正五年十月、郷土研究四卷七號）……………四三五

　　小さな峠の上から（大正五年三月、郷土研究三卷十二號）…四三六

　　沓掛の信仰（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）…………四三九

　　人丸の社（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）……………四四一

　　神佛を盗むこと（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）……四四三

　　　　　　　　　　　〔2015年6月27日午後3時20分、入力終了〕