定本柳田國男集　第二十八卷（新装版）、筑摩書房、1970､9､20（1978.4.30.13刷）

　

(1)【最新】産業組合通解

　

　

(3)　　　　　自序

　

　今の所謂勞働者保護は、主として職工の保護を以て目的とするものゝ如し。職工は契約に依りて、豫定せる報酬を受けて人の爲に勞働する者、即ち勞働者の一種なり。我國には此種以外の勞働者甚だ多し。地方の居住者たる農業者、工業者、漁業者、林業者、運送業者等の大多數は即ち是にして、皆獨立の經營を以て、産業に從事すれども、而も自ら手足を勞して生計を營む者なり。此等二種の勞働者は、其地位何れを優、何れを劣とする能はざるも、生活の本據一定し且つ日常行動の比較的自由なる點よりして、人は成るべく自營勞働者の境涯を失はざらんことを欲し、國家も亦其總數の減少し、從て所謂賃役勢働者の増加するを以て、憂ふべき、救濟すべき、不幸の現象なりとせり。此見地に由るときは、我國現在の人口分賦の?態の如きは、寧慶すべきが如し。何となれば等しく勞働者と云ふ中にも、自營に生活する者今猶過半を占むればなり。然れども之を以て直に獨立勞働者の生活は安樂なり、之に對する保護の必要は第二次なりと斷定する者あらば誤れり。彼等は職工と同じく勞働に對する報酬の多からざるを患ふると同時に、兼ねて企業の全體の收入の少からざらんことを力めざるべからず。而も新時代の市場の形勢は、常に彼等小規模の産業者に不利にして、信用の制度、交通の方法は、益々開發せらるゝにも拘はらず、其便益は事實上大企業者の壟斷する所となり、彼等が社會より受くる所のものは單純なる壓迫のみ、其永久に抱藏するものは唯人間の不平等に對する怨嗟の念のみなり。殊に小農の徒の如きは概ね僻地に居住して、時勢を觀察するの機會を有せず、經濟界の變遷に適應するの方便に乏しく、一方には内外の競爭の最猛烈なるものに遭遇せるを以て、其弊を被ること極めて甚しく、或は其所得の全部を擧げて普通職工の賃錢の半分にも達せざるもの多し。是に於てか壯丁の氣力ある者は、爭ひて郷土を辭し親族に別れ、都會又は海外に出稼を(4)試むると雖、彼等は必しも十數年の後に於て安樂なる生活に進み得る者に非ず。況や産を成し郷に歸り、再び祖先の業を興すが如きは、其例最稀なり。此傾向は近年著しく發現し、其結果地方經濟の進歩を碍げ、國力の根底を動搖せしむるは勿論、個々の家族に就て言ふも、此轉住の多數は或意味に於ては家道の零落なり、祭祀の滅絶なり、之に伴ふ道義心の消長の如き、若し詳に説くときは憂ふべく悲しむべきもの甚少からざるなり。此現象は西洋諸國に於ては夙に發生したるものにして、其極弊の慘澹たること中々我國の比に非ず、朝野の識者が之を憂ひて劃策する所の事業極めて多かりきと雖、其根原に溯りて救治の途を求むる者は、現今は皆組合共同の方法を以て最適當なりとする点に於て一致したるが如し。

　佛國の農業組合は其起原甚古し、獨逸に在りては産業組合法制定以前にも既に多數の地方組合ありしが、此法の公布を期として猶著しく全國に傳播せり。英國に於ては百年の昔より産業組合の制度行はれたりしも、殆と皆都會又は工業地にのみ存在したりしが、最近の報導に依れば農業衰頽の挽囘策として之を田舍の借地農の間に採用し、現に大地主の義?的に之を奨導援助する者多しといへり。北米合衆國は農業者の最幸福なる國なり、而も地方の繁榮を維持し農作の利益を進捗する爲には、中以下の農業者が其事業の一部又は全部に於て共同連結するを以て、最良の方法なりとせり。其他の諸國の實況は未だ之を知り得ずと雖、各自國内の?勢に鑑みて、外國の輿論に參考する所多かるべきは察するに難からず。

　要するに本邦に於て先年産業組合法の制定せられしは、此大時運の此處にも亦一展開を爲したるものにして、尋常摸倣的立法と同日の觀を爲すべきに非ざるなり。然るに余輩が竊に怪訝の念に勝へざるものは、世の社會改良家を以て自ら標置する者身都門に住し、日夕見聞する所のものは僅に一部賃役勞働者の生活?態に限界さるゝを以て、口を開けば職工の同盟と言ひ、製造家の牽制といひ、一代の國是を擧げて、此種の部分的事業に集注せしめて、乃ち已まんとす。殊に知らず別に大數の自營勞働者ありて、其輕濟上の苦闘奮戰を持續するに堪へず、(5)滔々として其本據を失ひ四方に離散しつゝあることを。産業組合法の公布せられてより既に三星霜を閲す、其間多少の反應無しといふには非ず。所在之に依りて組合を經理するものも、今將た百を以て數ふべしと雖、猶此制度の擴張に對して、終に眞摯なる同情を以て相寄する者あるを見ず。小農小工の多數は徒に煽動家の空論に聽きて精力を銷磨し、却て將來の實利の爲に計ること疎なるが如き、吾人は切に以て邦家の深憂なりとせざる能はず。

　本書の如きは微々たる一小篇のみ、其説く所多くは先人の言議を敷演するに過ぎず、絶えて創見の人を動すに足るものあるに非ず、功無くして恣に大言するの語を免るべからずと雖、この平和の福音とも稱すべき良制度をして、未だ最必要ある國民の階級に普及せしめ得ざるを憾むの餘に出づるものにして、今之を刊行して世に問ふに際し、一方には數ならぬ予輩が勤勞も必しも全然徒爾には屬せざりしことを信ずると共に、他の一方には社會の人の爲す無くして僅に予が如きを倩ひて、目下の必要に應ぜしむに至りしことを歎息せずんば非ず。

　終に一言すべきは現今各地に設立せられたる産業組合の實況を聞くに、其組合員たる者は多くは相當の資産、地位ある者に限り、例へば小作農の如き自己の勤勉と正直との他には、信用の根據とすべきものなき者は殆と皆共同事業の便益に均霑する能はざるが如し。有力者が率先して一郷に唱導することは尤慶賀すべしと雖、法律の主眼は寧此等最小の産業者にして、銀行をも會社をも利用すること能はざる者に、別種の方面より生活改良の手段を得せしむるに在ることは、本文處々に細敍する所の如し。若し此の如くして必要の最急なる者を後にする結果を見ば、極めて遺憾の事なりといふべし。唯彼等が此種の書籍を購讀するの機會は甚少かるべきが故に、予輩は地方の公吏、資産家、有力者、學枚の教師、醫師、僧侶等多少の餘閑を有せらるゝ諸氏に請ひて、義?的に此書の内容を近隣の爲に講説せられんことを希望するや切なり。

　

　　　　　明治三十五年十一月

　

(7)　　　　　序論

　

　人の此世に在るや、誰か窮乏を惡み安樂を欲せざらん。父母あれば之れを養はん事を思ひ、妻子あれば之を育まんことを思ふ亦天然の情のみ。されば彼の生活の計に汲々とし、衣食の途に齷齪するもの、未だ決して賤むべしとせざるなり。然りと雖、人々此願あり、從ひて其間に爭なき能はず。太古地力に餘あり人口未だ多からざりし時代に於ても、猶既に他を排し獨り占めんが爲に?々刀を交へ血を流すの已むを得ざるものありき。況や近世の如く人口は非常に増殖し、且つ人間の欲望は無限に發達し、自然の生産力は之に比して遠く及ばざる時代に於てをや。加之人の性必しも足るを知りて自ら安んずるものに非ず、得れば餘あらんことを欲し、滿てば溢れんことを求む。故に地位勢力の憑むべきものあるときは、終始之を利用し、既に其目的とする所を遂ぐると雖、決して之を休止せず。之が爲に一方には富の充溢あると共に、他の一方には不利の地位に立ち困窮を感ずるものありと雖、生存競爭の當然の結果なりとして、更に之を怪む事無し。弱肉強食の實、境を異にして今猶之を見る、現世輕濟上の?態も亦悲しむべきに非ずや。

　生存競爭の現象は、人類存在の最初より代として之を見ざる無きも、現時の社會に於ては、殊に其慘毒の見るに忍びざるものあり。葢し所謂第十九世紀の文明は、各種の部門に於て人智の開發を誘導したること少小ならざるが中に、殊に技術工藝界に於ては其結果尤著しく、蒸氣電氣其他の動力の性質の發見は夙に機械の精巧を致し、製造運搬の業の之に由りて利便を得たるもの擧げて數ふぺからず。通商の發達は忽にして世界の市場を共通にし、昔時は交通の不便なるが爲に、各地方に割據して手工を以て貨物を産出し生計を營みたる者も一朝機械に由りて製造されたる低價の(8)貨物の競爭に遭ひて、復其業を繼續する事能はず、漸く其獨立の境涯を捨てゝ、賃銀を以て生活する所謂勞役者の階級に下るの止むを得ざるに至れり。此變遷は之を「産業の革命」と稱し、佛國に於ける政治革命と共に、近世社會歴史上二大變局を以て目せらる。而して此革命の餘波は未だ全く平定するに至らず、大勢の上より觀察するときは今猶過渡の時代に在るものといふべく、社會構成の或部分に於ては未だ此新傾向に調和する能はざるものあることは爭ふべからず。此の如く近世の經濟社會に出でて活動するものは、一方には人類本然の必要より、生存の競爭を力めざるべからざると同時に、猶時世の變遷に適應して、産業革命の盤渦中より脱せざるべからず。故に勤勉にして業に精しき者と雖若し時運の向ふ所を察する能はずは、一朝覆没の災を免るゝ能はず。現に我國の如きも今日社會の下層に在りて少額の賃銀に僅に口を糊する者の過半は、祖先以來の貧民に非ずして昔時相應の地位を占めし者落魄して此に至りしなり。之に反して身を微賤より起し巨萬の富を積み優に上流の生活を送る者も亦頗る少からざる車實は共に以て大勢の趨く所、單に泰西諸國に止らざることを證するに足るべし。

　さてこの經濟上の大變動を講究するに當り、最重要なる題目の一として各人の注意を惹くべきものあり。曰く資本の集積、資本の勢力是なり。昔時産業の規模小にして、各人一地方の市場に供給するを以て足れりとせし頃には、資本の效用未だ著しからざりしも、弘く世界の需要を察し、精巧なる機械を運轉し、蒸氣、電氣等の動力を應用して、貨物の製造に從事し、或は運輸交通の業を營むが爲には、必ず豫め其準備として巨額の資本を投ぜざるべからず。資本無き時は假令目前に事業の利益の莫大なることを認むるも、空しく手を拱きて他人の之を?み去るに任せざるべからず。故に各人は爭ひて資本家を歡迎し、事業の利益の大部分は之に分與して顧みず。智力腕力のみを以て産業に加擔する者は、其勞は遙に資力を出す者よりも多くして、其分得する所寧ろ少きを常とす。殊に腕力を提供して生産に參與する者は、大抵資力智力を兼ね有せざるを以て、長期日を經るに非ざれば結果を見ること能はざる産業に從事する場合には、常に其間の生計を維持すること難く、皆資本家と約束して、賃銀の名を以て分配物の立替を乞ふなり。(9)此種の勞働に由りて生活する者は之を勞役者又は賃役者と云ひ、少くとも其事業の進行中は、資本家の爲に其自由を拘束され、自己の判斷を以て損を辭し利に就くこと能はず、生産事業に於ける實力は些も之を有すること無く、分配の割合に於ても甘じて不利を忍ばざるべからず。而も此種の勞働に生活するものは、世界を通じて其數實に夥しく、事業の利潤を收入する所謂企業家の數に比するときは、啻に數百千倍に止らざるなり。

　此の如き形勢を以て進むが故に、資本の集積は數の尤免かれざる所にして、現今經濟社會に於ける富の分配は、多きに加へ少きに減ずるの奇觀を呈せり。之に加ふるに信用の組織は近時十分の發達を遂げ、曾て事業に成功したるものは、愈々自己の名望を利用し、他人の資本を融通して、産業の規模を擴張する事を得るを以て、着實の歩調を採るものは、極めて安全に且容易に其富を利殖することを得べく、之に反して一旦勞役者の階級に籍を列ねたるものは、假令如何に氣力あり計畫ありと雖、世上の信任を受くるの望無きを以て、信用により資本の融通を謀ること能はず、有爲の才を以て徒に賃銀の多少を爭はざる可らず。貧富の差等は超ゆべからざるの一大溝渠を以て二階級を限劃し、絶望の徒不平の輩は或は暴力詭策を以て抵抗を試み、甚しきに至りては公然現時の社會?態の破滅改造せざる可らざるを説く者あるを見る。現今經濟社會の?態は實に此の如き也。抑も國を建て法を布き秩序を一定して其紊亂を防ぐは豈人々をして其途に安じ其能を盡さしむるを期するが爲めならずや。文化の開發は之を助長するに於て些も其非を見ずと雖、之に伴ふの弊にして社會の一部分に此の如きの苦と憂とを與ふるを知らば、速に其救濟の法を講ぜずんばあるべからず。近世歐米諸國に於て、學者が嘖々として社會改良の急務を説き、熱誠なる經世家が諸般の畫策を試み百難を排して、新制度の建設を企つるもの葢し偶然に非ざるなり。

　上述の如く、現代文明の病的傾向は、夙に十九世紀の先覺者をして社會改良の必要を唱導せしめ、既に其計畫に基き一定の組織を具へて、弊害匡制の事に從ふもの、洋の東西を通じ甚其例に乏しからず。産業組合の制度の如きも實に其最重要なるものゝ一にして、其起原は遠く七十年の昔に在り。殊に其結果の良好にして實效の著大なるに至りて(10)は又他に其比を見ず。而も其根本の原則の尤人情に適合するものあるが爲に、國土風習の差異も未だ以て此法の倶通傳播を妨ぐるに足らず、當初の計畫の甚小規模なりしにも拘らず、今や世界の一勢力を以て目せらるゝに至り、社會的幸福の希望は其大部分を擧げて專ら此制度の發達に繋げること極めて爭ふべからずとす。

　抑も社會改良の諸方策には先づ國家權力の發動に依り法規の作用を以て其目的を遂げんとするものと、單に私人の結合協力に由りて其奏效を期するものとあり。又主として賃銀勞役者の窮?に着目し方法を設けて其困苦を輕減せんとするものと、從來の獨立小産業者にして猶其地位を失はず競爭場裡に在りて苦闘を持續せる者に對し、各種の方便を供與して比較的容易に其現　　状を維持せしめんとするものとあり。同じく産業組合の中にも始めて英國に起りたる所謂消費組合（購買組合）に在りては、賃銀により衣食する者をして、生計に必要なる物品を低價に購入せしむるを主たる目的とし、獨乙に起りたる貸付組合（信用組合）及び販賣組合の如きは、小産業者の利益を擴張するを以て其趣旨とせり。唯實行の方法に至りては、産業組合に於ては其名の示せるが如く各種を通して凡て私人の自由に一任し、國家は唯法規を設けて之が軌道を示し能く其當初の目的を遂げて弊害に陷らざるを期するのみ。故に西洋各國に在りては、産業組合法の制定は遙に此組織の發生の後にして、人民各自に稍々其運用を會得し事業の進境に臨みたるの際に在りとす。然れども本邦産業組合の法制は、聊他國と?況を異にするものあり。

　葢し宇内の各國を通じて、小農小商工の數に富めること、我邦の如きは寧ろ稀なる所にして、加ふるに維新の政變の後急激なる西洋文物の輸入ありしより、從來の産業組織は、一として其影響を受けざるものなく、資本の集積勞役者増加の趨勢は歴々として之を認むるを得べきを以て、産業組合の如き適當なる方法を用ゐて、社會の危機を未然に防制することは、決して當今の急務ならざるに非ず。然りと雖如何にせん一部人民の間には舊習の未だ脱し難きものありて、或は自家經濟上の地位を覺知すること能はざるものあり。若し現在の?態に放任するときは、此制度の利便を了解し協同相助の法に依りて各自の經濟を發達し保持するの必要は、近き未來に於ては一般に之を感ぜしむること(11)能はざるぺし。故に先づ之に關する法規を設けて國民の注意を喚起し、一方には各種の便宜を具へて、直接に組合の設立を誘致するの要あり。産業組合法制定の當時に於ける政府當局者の意向も亦略々此邊に存せしが如し。

　此法制定の事の始めて議會の問題となりしは、遠く明治二十四年の交に在り。當時此事に與りて最力ありしは故品川子爵なりとす。子は朝に立ちて熱心に此法の制定を説かれしのみならず、自ら國中を遊説して直接に組合の設立を勸誘せられしを以て、其結果一部人士の間には漸く此問題の重要なることを認め、經濟の術を講ぜんとするものは、先づ目を此制度に注ぐに至れり。此より以前に於ても、二宮尊�ｺ翁の創意に成れる所謂報�ｺ社の組織は、亦貧富懸隔の極弊に備へ、小産業者の利益を保護するの點に於て、産業組合と目的を同くせりと雖、其起原は遠く維新の前に在りて、管理の方法の如き或は現今の?況に適應すること能はず、且つ國民の大數に比するときは、其普及の度も未だ著しからず。唯協力の效用を説き、孤立の?態の各人の地位を安固ならしむべき策に非ざることを知らしめたる點に至りては、現行組合法の實施をして頗る容易ならしめたるものあるのみ。

　余が茲に簡單なる解釋を試みて、些か諸君の參考に資せんとする産業組合法は明治三十三年三月に發布せられ、同年九月より施行せられたるもの也。之が執行に付きては、猶産業組合法施行細則其他の諸命令の存するあり。共に故品川子爵の遺案と相反せざるものなれども、唯彼には信用組合のみを規定し、此には猶諸種の組合をも包含せると、この他に時の進境に適應して、多少の改良を加へられたるの差あり。此法の適用は廣く産業界の全部に及ぶものなれども、當今資本融通の途に乏しく勞働の困難にして利益の少なきこと農業を以て最甚しとするを以て、從て産業組合の制度により其維持と發達とを計るの必要も、農業に於て最適切に感ぜらるゝならんと信ず。余は説明の順序として下の如き方法を採らんとす。即ち先づ總論に於て一般産業組合の性質、種類、構造、運用の四章を分ち次に各論として各種の組合に就き一々其特種の目的と方法とを講じ、最後に産業組合に關する本邦現在の著書論文を列擧して實際家の參考に供すべし。

　

(12)　　　　　總論

　

　　　　　　　第一章　産業組合の概念

　

　産業組合とは同心協力に由りて、各自の生活?態を改良發達せんが爲に、結合したる人の團體なり。現時の社會に在りては、孤立獨行の不利益なることは、各人皆然り。されども彼の企業家と稱して、大なる資本を有し蓄積の力を以て、經濟界に立つものは、其目的を達せんが爲に未だ必ずしも他人と協同することを要せず。之に反して、少額の資本を有するか、又は全く資本を具へず、單に勤勞を以て日々の生計を立つる者は、各個獨立して經濟界に立つときは常に久を持して競爭に堪ふること能はず。假令各種の不便不利益を甘じて、現?を保持することは或は之を能くせんも、漸次に其地位を改良して企業家と肩を比ぶるに至ることは極めて望み難し。而して此?態に在る者をして、多少其生活を安易にし、從ひて其地位を改良發達するの希望を抱かしめ得るものは、唯直接又は間接に其力を結合し、多數の勢力を以て對抗を試みしむるの一法あるのみ。産業組合が中産以下の農工業者の間に於て、最其必要あるは之が爲なり。就中農業の如きは之に從事する者、皆田野の間に散在し、外界との交通少き爲めに氣風自然に保守的に傾き、?々小成に安じ進取を計ること少し。殊に日本の如く小農者の數多き國に在りては、孤立の弊、最著しく組合協同の制度に由りて、其發達を致すべき必要は甚急なりとす。

(13)　團髄の力を以て共同の利益を謀るものは、商事會社を始め各種の組合、凡て皆然らざるは無し。唯其根本の目的に於て、彼等は利益の愈々多からんことを欲する積極的のものなるに反し、産業組合は不利益の成るべく少からんことを力むる消極的のものなるの差異あり。故に「トラスト」株式會社等の商業團體は、結合によりて利益を得ること少きときは隨意に解散すべきも、産業組合は經濟上の?況により或は利益を得ること少きことあるも、決して之を解散すべからず、寧ろ愈々其結合を鞏固にするの必要あり。葢し結合を爲すに至れる理由、彼に在りては全く任意的なるに反し、産業組合の結合は必要的の方法にして、之を捨てゝ他に赴くべきの途なければなり。

　上述の如く社會の中級以下に立ちて、資本に乏しき者が、其生活の?態を改良發達せんが爲に、相結合したる團體は、其直接に目的とする事業の如何なる種類に屬するを問はず、凡て之を産業組合と稱するを得べし。然れども我國に於ては別に法律上の意義ありて、産業組合と稱せらるべきものゝ範圍大に制限さる。産業組合法に於ては、其第一條に信用組合、販賣組合、購買組合、生産組合の四種を限り此他の事業を營むものは、假令其設立の趣意に於て異ること無くとも、之を産業組合と稱することを許さず。而して法律上の産業組合には、法人格を認め、租税を免ずる等各種の特典を與へ、自から他のものと區別せり。我輩が茲に講述するものは主として此狹き法律上の意義に於ける、産業組合に就きて説明を爲すが故に、單に産業組合と稱するときは上に掲げたる四種の目的を以て、設立したる組合に限るものと知るべし。

　我産業組合法に於て産業組合と稱するは、多數の人が申合せて、各自の生活?態を改良發達せしめんが爲に、一金錢の預入及び貸付、二生産物の賣却、三物品の買入竝に四器具機械の使用を目的として、設立したる社團法人をいふ法第一條。即ち法律は此目的を以て團結したる組合體が、成規の手續を履みたるときは之を社團法人なりと認め、社團法人となりたる後始めて之を産業組合と稱するなり。社團法人の如何なるものなるかは下に説くべし。（「以下單に『法』と云ふは産業組合法のことなり」）

(14)　さて上に掲げたる四種の事業は、資本の力無き者にして個々單獨に之を營むときは、不便不利益を見ること最著しきものなれば、國家が法律を定めて人民の共同組合を保護し、十分の利便を與へて其設立を誘導するに當り、先づ此種のものに着目して、他は暫く之を設立者の任意に付したるは蓋し至當なりとす。産業組合法は、此の如く先づ産業組合の範圍を限り、之に當るべき共同團體にして一通りの條件を備へ、地方長官の許可を經且つ登記を爲したるものは、法律上獨立したる人と同樣に看做し、組合の名義を以て財産を所有することを得せしむ。即其組合を社團法人と爲すなり。今多數人の組合にして法人たらざるときは、如何なる結果を生ずべきやといふに、假令組合の申合せに上り、土地、家屋、金錢其他の財産を設けて之を組合に屬すと定むるも法律の目より見るときは、尚其多數人の共有財産なれば、僅に一人の失敗者あるときと雖、其財産は直に債權者の差押を受くる等、他の共同者の迷惑となるは素より、組合の存立も?々之が爲に危くなることあるべし。故に法律が産業組合を認めて、社團法人と爲したることは、一の大なる恩典にして、然らざれば組合は之を永久に維持して、其目的を遂ぐること能はざるなり。

　此他にも産業組合の保護の爲に、營業税及び所得税の免除あり法第六條。商業會社其他の營利を目的とする社團法人ならば、各其所得の割合に準じて、所得税を納め及び營業税法に列記したる種目の業務を行ふものは、夫々營業税を徴せらるゝことは些も一個人と異なることなし。然るに産業組合に在りては、其事業に由りて組合としての所得あり、且つ其事業は皆營業税法中に掲げられたる事業なるにも拘はらず、法律を以て一切之を徴収せざることゝなしたるは、亦組合を構成する者に對し、少なからざる恩典なり。尚又組合の登記を受る場合にも、産業組合は營利を目的とする社團法人にて有りながら、營利を目的とせざる法人と一樣に取扱はれ、其登録税金の額も少なく、且つ組合員名簿の分には全く登録税を納むるを要せざるなり前同條第二項。

　思ふに資本の集積と貧富の懸隔とを以て、自然の傾向已むべからざるものと爲し、社會に於ける生存競爭は本來自由のものなりとせば、大會社又は「トラスト」が巨萬の資金を以て、營業を企つるも微々たる小産業者が零碎の資本(15)を集合して産業祖合を組織するも、共に各自の利益を計るといふ點より見るときは、些も區別の存するもの無きなり。然るを國家が特に法律を設けて、産業組合に限り、成るべく其多數に設立せられんことを希望し、一旦設立せられたる上は十分に其利益を保護して、維持を容易ならしむるを力むといふは抑々理由なくんば非ず。世の中に貧者と富者とあるは多くは、其始は人々の心柄に由るものにして、假令稀には善良精勤にして猶困窮するもの有りとも、此迚も他人の所爲には非らず、要するに各人の運不運に歸するものにて、よしや一方には金ありて安樂をし、他の一方には日々勞働して、猶?々飢凍を免かれざる者ありとも、亦是非なしといへば言はるゝなり。然れども既に國家といふもの在りて、天子、民を治め玉ふからは、成るべく多數の人をして十分の幸福を享けしめ、困窮なる境遇に陷るものゝ一人も少なからんことを期するを以て其理想と爲さゞるべからず。故に西洋諸外國に於ける數十年間の實驗上、小農商工業者の利益を保持し、漸次に其?況を改良して生計に餘裕あらしめ、子弟の教育をも充分に爲し、各自の老後にも安樂に養はるゝの準備を爲すには、適當なる方法なりと認められたる産業組合の制度を採用し、其一般に普及して人民が其利便を覺り、且つ永く之を維持することを得せしめんが爲に出來る限りの保護を盡したる者なり。此趣旨を明にせば又以て産業組合法の規定が、普通私法中組合又は法人に關する規定と同一に論ずべからざるを知るべし。

　猶附記すべきは産業組合と農工銀行との關係なり。農工銀行は各地方に在りて、農業其他の生産業の發達を奨勵する爲、政府の後援を得て長期低利を以て資金を貸付するを目的とする銀行なり。此銀行の性質たる利益の多大ならんよりは、寧ろ存立の安固ならんことを期するが故に、其貸付を請求し得るものは、市町村等の公共團體の他は凡て十分なる擔保物を差出すを必要とせり。然るに産業組合に限りては信用、購買、生産の三種にして、其組織無限責任なるときは無抵當にて資金の貸付を請求することを得。是亦上來述べたると同一の趣旨により、特に産業組合保護の爲に與へられたる便宜なりとす。

　

(16)　　　　　　　第二章　産業組合の種類

　

　前章に説明せる如く資本の力に乏しき、所謂中産以下の農工業者が相助の方法を以て、各自其生活?態を改良せんが爲に、共同して營み得る業務の種類は其數甚多く之を列擧すること難かるべしと雖、既に産業組合法律の規定存する上は法律上産業組合と稱すべきものは、其範圍大に制限されたるを以て業種に從ひて組合の全體を分類することを得べし。法第一條に於ては先づ四種の組合の名を掲ぐ即左の如し。

　一　信用組合　組合員に産業に必要なる資金を貸付し、且つ貯金の便宜を得せしむるを目的とするもの。

　二　販賣組合　組合員の生産したる物に加工し、又は加工せずして之を賣却するを目的とするもの。

　三　購買組合　産業又は生計に必要なる物を購買して、之を組合員に賣却するを目的とするもの。

　四　生産組合　組合員の生産したる物に加工し、又は組合員をして産業に必要なる物を使用せしむるを目的とするもの。

　以上四種の中一信用組合を除くの外、三種の業務は其二若くは三を同時に一組合に於て行ふことを得。斯の如きときは之を販賣購買組合、或は購買生産組合等と稱すべきなり。此等各種の産業組合に就きては後章別に其事業の詳細を説明せんとす。

　産業組合にして從來一の事業を行ひしもの新に他の事業に轉じ、又は一の事業を行ひしものにして、新に他の一又は二の事業を合せて之を行はんと欲するときは、之が爲に特に其組合を解散して新に設立の手續を爲すを要せず。組合定款中、目的、名稱其他必要なる條項を變更し、法第三十九條第三項に依り地方長官の認可を受くべし。定款の變更にして認可を受けたるときは、一の業務より他の種の業務に移り、又は他の業務を合せ行ふことを得るなり。業務(17)の種類に由る産業組合の類別の他に猶一の必要なる類別法あり。即産業組合の責任に基くものなり。法第二條の規定に由れば左の三種あり。

　一　無限責任　組合財産を以て組合の債務を完濟すること能はざる場合に、各組合員全部が達帶して之を負擔するもの。

　二　有限責任　同上の場合にも單に出資金額のみを出して他には責任を負擔せざるもの。

　三　保證責任　同上の場合に各組合員は豫め定め置きたる金額を限り、出資金額以外に責任を負擔するもの。

　是なり。之を組織上の區別と稱す。一の組合が三種の中何れの組織に屬するやは定款を以て豫め之を明足し、官廳の許可を受け登記を受くる者にして、世間の人々は組合と取引を爲すに先だちて既に之を了知し、萬一の場合を目算して代金、利子歩合其他の決定を爲すを得るなり。さて此三種の組織を比較するに二有限責任の組合に在りては組合員をして、出資金額以外には一切の責任を免れしむるを以て、一見する所は最小産業者の、資力の　　状況に適應するものゝ如し。然れども組合が事業の處理方法を誤りて其債權者に對して、義務を履行すること能はず、終に破産の厄に陷ることは、寧ろ非常の場合にして平素事無きの時に際しては、責任の相異は決して各組合員に影響するものに非ず。而も組合事業の執行、例へば信用組合に在りては、貸付資金の借入、販賣組合に在りて物品代價の前借、購買組合に在りては元方勘定の延期及び生産組合に於ては物品代金の猶豫等の如く組合外の人々と取引を爲し、債務を負擔する場合にも連帶無限の責任を負擔する組合は、能く其債權者を安心せしめ得るを以て、交渉を圓滑且つ容易に爲し遂ぐることを得るの利益あり。加之組合員の結合心を堅固にし互に相憑り相助け、若し懶惰不注意等に由り或は身を過またんとする者あるときは、之を戒め之を勵まして共同の目的に赴かしめんが爲には、無限責任の組織を採るに如くはなし。組合員にして其負擔する責任無限なるを知らば、殊に組合事業の盛衰に對し利害の感深く、常に十分の注意を以て其進運を計るべければなり。然れども無限責任に付きでは法第四十九條の規定あり。新に其組合に加入せんとす(18)る者あるときは、必ず總組合員の同意を經ざるべからず。組合員は誰しも信用無き者と其責任を共にするを欲せず、必精密に加入者の人物を審査すべきを以て、從ひて加入は困難にて組合員の數は大抵少數なるべし。故に多少規模を大にして事業を營むべき必要ある産業組合に在りては、無限責任にては十分なる組合員の數を得ること能はず。或は有限責任に由るの已むを得ざる場合もあるべし。さて保證責任は此二種の中間にあり、時としては二者の長處を合して甚便利なることあり。即ち之には加入に總組合員の同意を必要とするの法の規定なきを以て組合員の數を増加すること比較的速なるべく、一方には組合の債權者に對して萬一の場合を擔保すること、或は事實に於て無限責任と些も異らざることあり。組合財産の不足にして巨額に上らざる限は、優に一部の保證金額を以て債權者の請求に應じ得べきを以て、債權者の安心して組合と取引を爲すこと、略々無限責任のときと同じかるべければなり。

　有限責任無限責任、といふことの意義に付きては、株式會社、合名會社の區別等に於て普通世に言ふことなれば、今は詳に之を説かず。唯保證責任なるものは之を法律を以て定むることは、産業組合に限れるを以て、聊之が説明を爲さんとす。保證責任にありては、各組合員が其出資金以外に負擔すべき金額は一定の標準に由り豫め各員に就き之を定め、之を組合員名簿に記載し置くなり法第十五條第二項第五號。其標準は出資一口に付き何程と定むることもあるべく、又は組合員の資産の?況に從ひて等級を設くるも可なり。兎に角成るべく擔保の實效を奏するを期し、無資産の者に到底出すこと能はざるが如き大額を負擔せしむる等のことあるべからず。又保證金額の如きも組合事業の必要に應じ多少あるべしと雖、假令其額一般に稍々大なりとも猶其責任は連帶に非ざるを以て、一人が全金額を取立てられて之を拒むこと能はざるが如きこと無く、組合員にとりては大に便利なりとす。

　要するに以上三種の責任の區別は組合と取引する者をして、豫め其取引の安全なりや否やを占はしむるが爲に缺くべからざる材料となるものなれば、組合設立の當時に定款を以て之を明白になし置くべきは勿論、猶裁判所に登記して弘く之を世に公示すべきものなり。

(19)　組合の組織も亦定款の變更に依りて一より他の一の責任に變ずることを得。唯之に付ては常に必ず組合員總員の同意を得ざるべからず。即ち假令一人にても不承知の者あるときは、負擔重き無限責任より、輕き保證責任又は有限責任に變ずること能はざる者なり。而して組合が債務を負ふ所の債權者に對しては、少なき責任より多き責任に變ずるときは可なるも、若し組織を變更して責任を減少せんとするとき、即ち無限責任、保證責任より、保證責任、有限責任に變ぜんとするときは、之に關する總組合員の同意ありし日より二週間以内に之を債權者に通知し異存あらば二箇月（若くは之より永き期間）以内に其旨を申立てんことを請求せざるべからず。債權者にして組織の變更を承知するか、又は別に苦情を言はざるときは、よけれども、若し之に對し異議を述べたる者あるときは、其債權者には期限に拘らず辨濟を爲すとか、或は其納得するだけの抵當を入れ、又は保證人を立る等、相當の擔保を供するに非ざれば、組織の變更は爲し能はざるなり。若し之に拘らずして變更を爲し終りたるときは、其債權者は之を言立てゝ其變更を無效に歸することを得るなり法第六十八條、第四十一條。

　以上説く所を再述すれば、産業組合の業務に由りて區別したる種類は法律に定められたるもの四、及び二種以上の業務を併せ行ふもの四、合せて八種あり。而して組織によりて區別すれば三種あり。されば今之を無限責任信用組合有限責任生産組合、若くは保證責任販賣購買生産組合といふ如く數へ立るときは、其數三八二十四種あるべし。法第四條には産業組合の名稱中には必ず其組合の組織と目的とを示すべき文字を用ゐるを必要とせり。而して名稱は組合設立の際定款中に之を定め置くべきものなり。

　

(20)　　　　　　　第三章　産業組合の靜態

　

　此章に於ては既に存立せる産業組合に就きて其構造を説かんとす。先づ産業組合は人の結合を以て組成せる一の社團法人なり。故に其第一要素として組合員なかるべからず。次に産業組合は經濟上の活動を以て其生存の目的と爲すものなり。隨て組合が所有する財産あるべし。人の關係と財産の關係とは産業組合の構造を説くに當り最重要なるもの也。猶又組合は其事業を行ふに際して?々外部と取引を爲すものなるが、此對外關係の中にも組合が權利を有して義務者外部にある場合は、別に普通民法商法の規定する所に異るものなしと雖、組合が外部の人に對し債務を負ふ場合、即ち組合債權者なるもの在る場合に關しては、産業組合法に特別の規定存す。是蓋し法人の性質たる其財産の點に於て之を組成する各個人と全く相分立し、債權者との關係を複雜にするを以て、常規を以て之を律すべからざればなり。最後に産業組合法は主務官廳の權限として特に消極積極の監督の制を設く。監督官廳に對する組合の行爲に就きても特に説明を要するものあり。本章を四節に分つ。

　

　　　　　　　　　　第一節　組合員

　

　産業組合の性質たる本來中流以下の人に利便を供するものなれども、法律に於ては些も組合員の種類を限定することなし。大凡我帝國内に住する者にして（北海道には特殊の法規あり、臺灣は除く）七人以上協同合意するときは毎に産業組合を設立して其許可を請ふことを得法、七。設立許可の後組合に加入する者も亦其人の如何なる種類に屬するを問はず。然れども組合自身に於て其申合せたる規約、即ち定款に最初より何々の資格を具ふる者に限り組合員と爲すと定むるは各自の自由なるのみならず、又法律の必要と認むる所なり法、九。例へば二十年以上の男女とか、一(21)家の戸主に限る等の如し。加入の際組合役員の承諾を必要とすと定むるが如き定款も亦有效なり。殊に無限責任の組合に在りては萬一の場合には、出資金額のみにては組合員の責任を盡すこと能はざるを以て、平素より組合員たらんとする者の人物資力を充分に吟味するの必要あり。故に法律は無限責任組合の加入に限り是非とも從來の組合全員の同意を要することゝ爲すべしと命ぜり法、四九。斯の如く定款中に組合加入の資格條件を豫定することは普通なれども組合員の數を百人又は百五十人と定め置き之を超ゆるときは、一切加入を拒むといふが如きは法律の禁ずる所なり法、十。産業組合が普通商事會社其他の營利法人と其性質を同じくせざることは既に之に由りて觀るべきなり。

　前述、組合員の資格に法律上の制限無しといふ事には信用組合に於て一の例外の存するものあり。信用の制度の文明社會の利器にして而も中産以下の徒には之を利用することの困難なるは曾て之を言へり。今組合協力の方法を以て其弱點を補ひ資金の融通を自由ならしめんとせば、勗めて結合力の鞏固なるを期せざるべからず。故に産業組合法は特に信用組合に限り設立の際より其區域を定め、之を定款に明記せしむ法、九ノ二。區域の意義たる組合の活動をして此範圍を出でしめず手廣く其事業を營むを制限するものに非ず。組合の取引は如何なる遠隔の地と之を爲すも勝手なれども、唯其組合に加入する者は必ず其區域内に住所を有する者ならざるべからず。信用組合に在りては組合の區域は一市町村より大なること能はず。即ち市、町、村、區、大字又は小字を以て區域と爲すべく、市と村とを合せて區域とし又は數町村乃至郡等を以て區域とする能はず。其理由は區城中なるときは交通も容易に、常に組合員又は組合員たらんとする者の行?資力を熟知し、怠惰にして業を衰へしめ粗暴にして産を傾けんとする者あらば、豫め警戒を加へ又は相當の匡正方法を設けて、組合全體が外部より不評判、不信用を蒙るの害を免るゝことを得べければなり。要するに産業組合の區域は、組合員の資格に加へたる唯一の例外にして、法律上之を定款中に豫定するを必要とするは無限、有限、保證三種の信用組合に限るなり。此他の産業組合に在りては定款中に組合員を採るべき區域を定むるは勝手なれど、其區域は隨分市町村よりも廣くとも宜しく又全く區域を定めずとも亦可なり。又信用組合にても特別(22)の理由あり、例へば地勢上二以上の町村の關係全く一箇の公共團體の如くあるとか、或は舊來の經濟關係より附近の一二の村落を市の區域に附加するの必要あるが如き場合には、其理由を申立て特に地方長官の見込にて大區域を認可することもあるなり法、九ノ二。區域の序に注意すべきは産業組合は町村又は水利組合等の公法人と異りて、決して區域の重り合ふを厭はず。例へば一の村を區域としての信用組合が起りたりとて最早同じ村に信用組合を設立すること能はざるものには非ず。唯細小なる數組合の一村に竝立するより、合同して強固なる一組合を組成するの利益なるは別問題なり。

　以上の一例外を除きては組合員の資格は法律上一も制限する所なし。故に組合にして偏に組合員の増加に由り事業の擴張を計らんとするときは、定款中資格に關する規定を極めて簡單にし、多數の加入を誘致することを得べし。

　然れども法第一條にも見ゆる如く産業組合は元來組合員の産業經濟の發達を企圖するものなれば之に由りて利便をも享くること能はざる者を加入せしむるは啻に不必要なるのみならず、假令無限又は保證の組織ならずとも出資の掛金を怠るとか納金を滯らしむるとか、種々の財産上の危險を導くの弊あり。凡社會の經濟上の活動には必ず個々の單位あり、竈を構へ棟を別つまでには至らずとも日々の生計向に勘定を引構へて爲す者は可なれども、臍繰金を所有すればとて隱居婆を信用組合員となし、學校用品の需要あればとて親係りの小兒を購買組合に加入せしむるが如きは、抑々産業組合の制度を濫用するものなり。されば組合員の資格を定款に規定するにも先づ此生計の單位に着目するを必要なりとす。

　産業組合は人の集合體なり。法律上、人には自然人と無形人即ち法人との二種あり。上來の説明に於ては常に自然人即ち耳目手足を有する普通の人と稱する者をのみ想像せり。さて法律に由りて人格を與へられたる者即ち法人は産業組合の組合員たることを得べきや否は問題なり。余は社團法人の一般の性質として之を組成する人に制限を附せず、又産業組合法には此點に就き特別の規定無きを以て、社團、財團を問はず營利法人たると公益法人たるとに論なく、(23)又進みては或種の公法人なりとも、法律に依りて認められたる其法人の生存目的にして、各種の産業風合に加入し組合員として行動することを其範圍内に包容し得る限りは、隨意に産業組合の設立者と爲り又は其設立後之に加入することを得べしと信ず。例へば製絲會社が生絲版賣組合の組合員と爲り、信用組合が他の大なる信用組合の組合員となるが如きは、余が意見を以てすれば其組合と加入せんとする法人との間の隨意なり。

　法第九條第一項第九號により産業組合の定款中に規定せられたる資格に該當する者にして、無限責任の組合に在りては、總組合員の同意を得其他の組合に在りては定款に定めたる手續を經たる者は、其組合に加入して組合員と爲ることを得。此外に從來の組合員より其持分の全部又は一部を讓り受けて組合員と爲る者あり。此場合にも法律は之を加入と同樣に取扱はしめ定款に掲げたる資格と手續に缺くる點ある者は其組合員と爲るを拒むことを得せしむ法、一九。資格と手續とに缺くる所あるときは假令持分の讓受は正當に成立つとも其結果之を解除せざるべからず。何となれば組合員に非ざれば組合の持分を所有すること能はざればなり。

　さて斯の如く組合の事業に加擔し同心協力の實を擧げんが爲には、組合と組合員の間及び組合員相互の間に如何なる關係を存在せしむべきやと云ふに、法律は先づ組合員の權利義務として其最必要なるものを定め、苟くも産業組合と稱する以上は少くとも夫だけの權利を組合員に與へ、又夫だけの義務を組合員に負擔せしむべしとせり。此他にも時と場合に由り組合の生存上必要を見るものは之を定款に規定し得ることは論なきなり。

　法律上組合員が負擔すべき義務の最重要なるものは、出資引受の義務なり。組合は其事業を營むが爲に相當の資本を要するを以て組合員をして各自其一部分を出金せしむ、之を出資金といふ。出資金は各口五十圓以内に於て均一に之を定め組合員と爲りたる者は各自必ず一口以上十口以下を引受けざるべからず法、一七。二人又は三人にて一口を共有するが如きは法の禁ずる所なり法、二〇。出資は金錢以外の物を以て之に代ふることを得ず、又加入前に組合より受取るべき貸金等ありとも之と差引せんことを請求する能はず法、一八。常に必ず夫だけの金額を拂込むべきなり。(24)此出資金は組合の事業の資金として運轉さるゝのみならず、若し組合に借金等あるときは最初に其辨濟に充てらるべきものにして、苟くも組合存立の爲必要なるときは出資者は決して其用途に對し故障を述ぶること能はず。又組合の債務ならば自分が加入する以前より存在せる債務に就きても、加入後に生じたるものと聊も異ること無し法、二二。殊に持分讓受に由り組合員と爲りたる者は其持分の舊所有者が負擔せし義務を其まゝ引受けしめ、全く組合に影響を及ぼさゞるを期するなり法、二一。此義務は各種の産業組合を通じて常に組合員が負擔する所なるが保證責任の組織にては此上に各組合員は或限度まで出金して債務を辨濟するの義務を負ひ、無限責任組合の組合員は組合債務の全額に就き連帶保證の義務を豫め負擔するなり。此義務は組合生存の根本とも稱すべきものなれば、法律は極めて周密に其義務の遂行されんことを圖れり。即ち出資金額の全部は素より組合債務の完濟に必要なる擔保金額は組合解散の後と雖其出金を拒むこと能はず。加之擔保の責任は脱退に由り又は持分讓渡に由り、組合員の名簿を削られたる後と雖、少くも二周年間は之を負擔するなり法、五八。此他にも定款中に規定して設立の際其許可を受くるならば隨意に組合員をして必要なる義務を負はしむることを得べし。

　次に組合員の權利として法律を以て其必在を期したるものは一總會に出席し議決に參するの權なり。組合事務の方針を一決し組合の役員を選任する等其他一切の事項に關し組合員の議決權は毎に平等にして十口の出資を引受くる者も僅に一口を存する者より多き權利數を有すること能はず法、三八。組合員にして此權利を侵されたる者は法第二十四條により其議決の取消を請求することを得べし。此權利と關聯して二總會の招集を請求するの權あり。元來總會の招集權は理事、監事の役員の權限に屬するものなれども、單に其見込に一任するときは或は必要なる場合を看過するの虞無しとせず、故に組合員總數の五分の一以上に當る者申合せて、其招集を請求するときは役員も拒むこと能はざるの規定あり法、二三。此五分の一なる數は組合員數甚多きとき之を六分の一又は七分の一と減ずることは定款の自由なれども、組合員如何に少しとて定款を以て之を増し四分の一又は三分の一以上の同意を要すとは定むること能は(25)ざるの趣旨なり。次に財産に關して三組合剰餘金の配當に與るの權あり。事業の利益に由り一年度の終に組合の財産に加へたる部分は之を剰餘金といふ。此金額を定款の規定及び總會の決議に基きて配當するときは各組合員は之を請求するの權あり。猶詳しくは次節に言ふぺし。四持分拂戻を請求するの權は組合員が脱退する場合に組合財産中より相當の金額を受取ることを得せしむるものにして此金額の持分の全部なるべきか、將た一部なるべきかは定款の規定次第なれども、全然一厘も拂戻さずといふこと能はず法、五三。猶五組合財産の分配を受くるの權あり。組合が解散して財産に殘餘ある時は之を各組合員に分配すべし、其割合は定款の規定若くは總會の決議に依る。以上の他にも定款を以て組合員に各種の權利を附與するを得べし。各種組合の事業に由りて、組合員が利益を受くるの權利は元來合同の主眼の目的なれば此權利の常に存すべきは言を須たず。

　最後に組合員の脱退を説くべし。組合員が其加入せし組合を出て協同の縁を絶つ場合には、其組合員の意思に依る者と然らざる者と二の場合あり。第一の場合には持分を全部他人に讓渡したるが爲に其結果脱退となるものと、脱退の意思を表示して脱退するものとの二あり。持分讓渡に因る者は然るべき代人を差入れ權利義務の全體を引繼がしむる者なれば、更に組合の計算設備等の都合に影響を及ぼさず法、二一。從ひて何時之を爲すも勝手とあれども、他の任意脱退にては不意に今が今と脱退を爲さしむる時は組合の目論見にも狂ひを生ずべきなれば、必ず事業年度の終に及びて之を爲さしめ、且少くも六ヶ月前に之を披露せしむ。此「六ヶ月」は組合の都合にて今少し永くしたき時は定款にて二箇年迄は之を延長することを得るなり法、五〇。組合員の意思に因らざる脱退の場合を擧ればイ組合員たる資格の消滅なり。定款に定めたる資格に合せざる者は加入せしめざるなれば加入後ならば之を脱退せしむべし。區域の定ある組合にて組合員が區域外に住所を轉じたるが如きも此中に入るべし。ロ組合員の死亡なり。組合員の權利義務は之を相續せしむること能はず唯遺言を以て之を讓渡すことを得べきのみ。ハ破産、ニ禁治産の宣告を受けたる者は不安心にて組合員としては置き難し、故に之も脱退の事由とす、産業組合の協同するは各員の身分資産あるが爲に(26)非ずして其人物の確實なるを認めたるに由るものなればなり。終にホ除名に由る脱退あり。除名は組合に於ける一の制裁方法にして不都合なる所爲ある組合員は之を退けて共同の利益に與らしめざるの趣旨なり。故に其來由は定款中に隨意之を定めしめ一切組合の申合せに一任せり。されども又十分其處分を愼重にすべき必要あるを以て、特に多數の決議を以て總會にて之を投票し、且つ其結果を公然と除名すべき組合員に通知すべきものとせり法、五一、五二。以上組合員の地位の消滅すべき場合は凡べて七種あり。

　

　　　　　　　　　　第二節　組合財産

　

　凡經濟社會に在りては何事を企つるにも先だつものは金錢にして、如何に精密なる計畫と善美なる方法とを以てするも、財力の供給に於て缺くる所あるときは、滿足なる效果を納め難きは勿論一尺の活動も或は覺束なかるべし。殊に産業組合の如き微力の者が、僅に合同の力を以て生存競爭場裡に立ちて地歩を占めんとするものに在りては、零碎の資本を集合して之を事業の運轉に充つるなれば、出來る限の手段を盡して十分にも十二分にも其金を働かさゞるべからず。若し組合員が非常なる刻苦を以て貯蓄したる金錢も十分なる效用を遂げず、空しく仲間の費用として消耗し行くが如きことあらば、折角の熱心を以て始めたる團結も何の甲斐無く、終には一般の勤勉心をも阻喪せしむるに至るべし。故に組合管理者の技倆と正直なる心掛とは財産處理の點に於て尤其必要を認むるなり。

　産業組合の事業執行の用に供すべき資本金は、組合設立の最初に當りては單に出資金と稱する組合員の掛金より構成せらる。事業が繁昌して年々の計算に餘利を見るに至らば、内部には積金を爲し外に向ひては融通の途も開くべきを以て、漸々規模を擴張し思の儘の活動を爲すを得べきも、最初の計畫は何處迄も實着に麓より峰に向ふの耐忍力なかるべからず。されば出資金一口の高も力めて組合員の資力を參酌して其拂込にさまでの困難の感ぜざる程度に之を定め置くことを要す。元來組合に資本を投ずるは決して有り餘る金錢を利殖するの趣旨には非ざるを以て先づ約十圓(27)二十圓の内外に於て之を定むるが相當なるべく一口五十圓以上にも出るが如きは法の精神に反する所なり則、一。何か特段なる理由存する場合の外は一口五十圓を超ゆ可らず。一口の金額を高きに過ぎざらしめたる理由は相應の工面を爲し得る者にとりては口數は一人にて十口迄を引受け得るなれば大口を少く持つも小口を多く持つも更に影響する所無けれども、資力乏しき者には一口の才覺も中々容易のことに非ず、而も組合員と爲るには必ず少くとも一口は引受けざるべからざるが故に、一口の金額を高くするは自然に金持ばかりの團體と成り小前の者を除外するの結果を生ずる虞あればなり。口數を十口限と定めたる法律の趣意も亦同樣にて、一人の投資額に制限を附せざりしならば少數の富者が加はりて、其勢力を以て組合の事務を左右し團體の調和を攫亂し私利を營むを防ぐこと能はざるぺければなり。株式會社に在りては一株金額は五十圓を最少限とし一人何百株を引受るも自由に、又株數の多少に隨ひて議決權の力を増減することあり、亦以て産業組合と根本の性質に差別あることを認むるに足るべし。（「則、とあるは産業組合法施行規則以下同之」）

　斯の如く出資一口の金高を成るべく少くして貧民にも組合加入を容易ならしめたる上に、法律は亦其拂込につきて數囘分納の便法を許したり。即ち組合の生長發達に支障なき限は出資金を數囘に分ちて必要なる時々に拂込ましむるものにて、之に由り一方には組合に不要なる遊金を存せしめず、他の一方には組合員をして加入以後にも勤倹を以て拂込に必要なる金錢を貯蓄せしむることを得るなり。唯此分納の法とても絶對に設立者の自由に任すときは、又一厘の資本金をも設けずして有名無實の産業組合を設立するの弊もあるべきが故に、一口金高の少くとも十分の一だけは第一囘拂込として設立の許可を受けたる後速に之を拂込ましむべしとせり法、一二及ビ則、二。されば此制限を守り十分の一以上の第一囘拂込さへ爲さば其餘は一錢の日掛とするも五十錢の月掛とするも半季毎に拂込ましむるも又は一時に金額を醵出せしむるも凡て都合次第なり。唯必要も無きに拂込を遷延し爲に組合の計算を錯雜せしむるが如きは善良なる組合管理の法と言ふべからざるのみ。株式會社にも株金分納の法を用ゐることを得れども其第一囘拂込額(28)は十分の一以上に非ずして四分の一以上は必ず拂込まざるぺからず。

　出資金拂込に分納の法を用ゐる爲、一方には未だ組合員より全額を掛け終らざる間に組合の方にては既に其目的とする事業に取掛り居る場合は少からず。組合の事業に由りて得たる收入が元金を超えて餘剰を生じたるときは是は組合の利益にして其年度の終毎に總會の決議次第通常は之を各組合員に配當し得るものなれども、出資拂込の結了せざる場合に限りて其金は之を組合員に手渡しすること無く、直に之を各組合員の拂込に充て組合員の困難を感ぜざる限少しも早く出資金の完納を計るべし。是法律の必要と認むる所なり法、四三。

　前に述べたる如く組合の基本資金は組合員の出資金を以て其主たる部分となし之を用ゐて事業上の運轉に充つるは素より設立の費用乃至は家屋什器の借入、買入費も皆其中より支辨せざるべからず。されども組合の事業の繁昌するに隨ひ漸次に資本金を増加し得るの望あり。蓋し産業組合の目的の爲に出資を爲す者は坐《ゐなが》ら金利の收入に衣食する資本家などとは異りて第一に共同相助の事業の隆盛を計り決して配當の多少を爭ふが如きことあるべきに非ず。故に法律の趣旨も成るべく純益金を消散せしめず之を積立てゝ組合の財産に加ふる所多からんことを希望せり。組合の勘定は必ず一年毎に之を〆切り損益の多寡を算出するを要す。之を事業年度といふ法、四七、則、六。

　收入が支出に超ゆる所あり年度末の計算に剰餘金即ち純益金を生じたるときは其中より少くとも四分の一づゝは先づ之を準備金として積立てざるべからず法、四六。又組合が新加入者より手數料として加入金を徴し或は豫め定款中に約束して脱退者の持分の一部分を殘留せしむるときは其爲に生じたる收入は普通の益金とは性質を異にするを以て直ちに之を準備金の方に組込むべきものとす則、四。準備金の總額は定款に於て豫め之を定め法、九、既に其額に達し居る年度には剰餘金四分の一以上の積立を爲さゞることを得るものなれども法、四六。其額は組合員の出資總額と同額以下に之を定むべからず、必ず出資總額と同額若くは其一倍半、二倍等の額に之を定めざるべからず則、三。準備金の效用は内に在りては組合の資金を豐富にし少々の非運に遭遇するも能く其損失を?補して直ちに傷痍を恢復す(29)ることを得せしめ、外に對しては信用の基礎を成し組合と取引する者をして疑惧の念を抱かしめず隨て組合事業の發達を平易圓滑ならしむるに在り。準備金の積立乏しき組合は平素融通の途備はらず、一旦の蹉跌に由りて忽ち頓挫を來たし終に復た起つこと能はざるに至るべし。故に組合の基礎を鞏固にし永遠の存續を希ふ者は假令法律の必要とする所は單に年々の剰餘金四分の一を積立て出資金同額に達するを以て之を充すを得ると雖、決して配當の大なることを力めず或は準備金積立の率を多くし或は準備金の額を高く定め或は別途積立金の方法を設けて出來得る限組合財産の増加せんことを企圖すべし。されども目前の利益に誘はれ易きは人情の弱點なれば若し剰餘金の處分方法を全然役員の意見と、總會の議決次第に放任せば法、三〇、或は未來の不安全を顧みず、配當の多分ならんことをのみ希望する者多數を占むる場合無きを保し難し、故に配當の額に付きては嚴重なる制限あり各組合員の持分に對し年六分を超ゆることを得ず法、四四、則、一一。されば假令純益如何に大なる年も配當には限あるを以て其餘は積立金に廻すか、然らざれば明年度に繰越すの外無きなり。又缺損ありたる年の次の年は減少したる前年度末の資本金に由りて純益金を算出することを得ず、必ず損失せる部分を補足して從來の額に復し其餘を以て積立配當等に充つべし法、四四。一旦定額に滿ちたる準備金が損失の?補の爲に其額以下に減じたるときは之に對し再剰餘金四分の一以上づゝの積立を始めざるべからざることは勿論なり。

　法律上必要なる準備金の他に、各年度の剰餘金の處分方法として諸種の名稱を以て別途の積立金を設くることは凡て組合の自由なり。されば組合の事業が年を追ひて繁榮に赴くの際には組合の財産は組合員の出資金總額以上に漸次増加し行くものとす。組合財産の管理は準備金其他の積立金が生じて本來の資本金に増加する所のもの多くなるに隨ひて益々其方法を愼密にするの必要なり。例へば組合の資金の豐富なるに任せて無闇に資本を固定し信用を濫用して一切の融通を外部に求め組合の流通資本の不當に減少するを顧みざるが如きは尤戒むべきこととす。殊に準備金の部分は組合存立の基礎を形成し、萬一の事變の爲に擔保と爲るべきものなれば其管理は尤確實なるを要す。若し之に反(30)して其使用の途を愼まず、換價困難なる財産に變形し又は之を以て投機的の利殖を試みるが如きは共に組合の安全なる生存を謀るの策には非ざる也。

　組合財産の増加は單に組合の進運を卜するに足るものにして各組合員の財産に對しては直接には何の影響を及ぼすものに非ずと雖、所謂持分の計算の點よりして間接には又組合員の利益を増進するものなり。持分とは各組合員が組合に對して有する植利義務の關係を總括して名づけたるの語にして元想像的の範圍を表彰するに止り財産の共有者若くは民法上の組合關係、即ち法人格を具へざる團體の間に於て使用さるゝ持分なる語とは全く其意義を異にす。獨立の人格を有する産業組合に在りては組合財産に對する各組合員の持分は假令年々の計算上増加し又は減少するも其結果は組合員の財産の上には直接には影響することなし。唯組合が存立期限の滿了若くは其他の事由を以て解散するときは組合の財産を組合員の間に分配するが爲に現實に持分を算出す、及び各個の組合員が脱退し若くは持分の讓渡を爲すときに際しては其組合員に就き持分の額を計算するの必要を生ずるのみ。又事業年度の終に於て剰餘金の處分を爲し其一部を一同に配當せんとするとき其配當の標準を各組合員の持分の多少に採り之に比例して配當せんとするには又之を計算するの要を見るべし。

　各組合員の持分を定むるには必ずしも各員平等とし又は各口均一と爲すを要せず。出資金拂込額の多少又は加入時期の先後に準じて甲と乙との間に相應の差等を設くるが如きは寧公平なることなるべし。唯差等を設けんとするときは必ず先づ明に其標準を定め之を定款中に掲げ置くことを要す。然らざれば其效無く持分は全然各口均一なるものと認めらるべし。此問題は組合財産の高が出資金總額の以上に超過すること、さまで多からざる場合には如何樣に決するとも、さしたる影響も無けれども準備金其他の積立金が増加して出資總額と同額にも成るときは持分の算定方法如何は甲乙の組合員の利益の消長に關すること少なからざるべし。故に豫め十分精密に其標準を定めおくべきなり。

　以上は組合財産の増加の場合にのみ就きて説明せり。されども組合事業を營む者と雖、必ずしも常に萬全なる畫策(31)をのみ爲すとは限り難く、時に事務の處辨法を誤り或は外部の不景氣に際會して之に對するの用意周到ならず、爲に引續き支出多く收入の之に比して不足なる場合も無しとは言ふぺからず。前にも言へる如く準備金其他の積立金は主として斯る場合に備ふるを目的とするものなれば差詰之を以て損失の?補に充て、成るべく基本資金を減ぜずして恢復を謀るべし。されども損失の高如何にも大にして積立金の全部を擧げても猶其穴を埋むること能はざるときは、或は組合員の出資より成れる基本金をも減少するを免れず。此時には各員の持分の額は其拂込みたる出資金よりも小なることゝなるべく、甚しきに至りては持分の高は皆無より以下と成り各組合員の頭には却りて若干の負債を割當てらるゝこともあるべし。此の如き場合に際しては組合より脱退せんとする者は持分の計算上一厘の拂戻をも受くる能はざるのみならず、反對に不足前《たらずまへ》を拂込むの必要あり法、五六。組合財産の減少には此の如き事實上已むことを得ざる減少と今一つは組合の任意に由る減少との二種あり。任意といふは組合の決議に由るものにて組合資本の高が必要の度より餘分に存するを認むるとか、又は營業の都合上規模を縮少せんとする時などに起る者なり。即ち事業の資本として用ゐられしものに付き配當其他其年度限の處分を爲すなり。準備金の定額を超過せる部分、又は其他の別途積立金の如きは之を減少するは單に總會の議決次第なれども、出資一口の金額を減少し例へば今迄一口三十圓なりしものを二十圓とし十圓を各組合員に返す場合に就きては嚴重なる制限あり法、四〇、四一。是は組合の債權者を保護するが爲に設けたる規定なれば次の節に於て之を説明する筈なれど、つまりは仲間内にて竊に斯る議決を爲し組合に對し貸金ある者等をして擔保財産の減少より意外の不利益を被らしめざらんが爲に、種々の手續を以て出資金減少の企あることを一般に知らしめんとするなり。此手續さへ終らば其他は單に定款變更の認可を受くれば宜しきなり。

　組合財産の減少が積りて負債が資金に超過し其辨濟期に及びて之を辨濟するに途なきときは理事の請求に基き又は之に先だちて裁判所は、破産の宣告を爲す法、六九。破産は普通民法上の法人と同じく破産管財人の手に由りて之を處理す。破産宣告ありたる上は産業組合の組合としての生命は既に絶止したるものにて組合は之に由り解散す法、六(32)二。又破産以外の事由より解散を爲し清算人が殘務を處理する間に偶然組合財産が債務の完濟に不足なることを發見したるときも又清算人より破産宣告を申請せざるべからず法、七四、民、八一。解散の場合につきては次の章に於て之を説明すべし。

　破産の場合の外、組合が解散したるときは、清算人を選任し組合財産の現況を調査し、貸したる者は取立て借りたる物は返辨し、差引餘分ある時は其財産は之を元の組合員に分配すべし。分配の割合は兼ねて定めある各組合の持分に由るべし。持分の性質に就きては前段に之を説明したるを以て再せず。

　

　　　　　　　　　　第三節　組合債權者

　

　前にも處々に組合債權者のことを言ひたれども此節には改めて産業組合に對し債權を有する者は此法規の下に如何なる點まで權利を主張するを得るやを説明せんとす。益し協同合力の事業の美擧にして國家は其臣民の一般の幸福を進捗するの一政策として其保護奨勵を力むべきは前にも言へる如くなれども、さりとて又組合の發達を謀るが爲に一方に組合外の者の利益を殺ぐが如き結果を生ずるに至りては公平の道に合ふものと謂ふべからず。

　加之組合自身の側に立ちて考察するも、假令多數人衆の團結を得て能く經濟界に闊歩し得といふとも、この分業流行の世の中に至りては、全く外部と交渉すること無くしては一日も其存立を保ち得るものに非ず。然るに法規の結果として、組合と取引の關係に來る者ある毎に、組合の方の利益は保護せられて相手方には保護乏しとせば、誰か又好みて此と賣買貸借其他の法律行爲を試みる者あるべきや。故に組合債權者の利益を確保するは間接に又産業組合の利益を謀るの途なり。是に於てか組合に對し債權を有する者をして組合の行爲に由り其利益を減少するの處なく安堵して之と取引を爲すを得せしめ、同時に組合をして寵兒の我儘を逞しくせざらしむるの必要を見るなり。商法典中商事會社に關して債權者保護の爲に數十條の規定あり。産業組合の場合に比して聊か精粗寛嚴の度を異にす。若し之を對(33)照して研究せば大に聞發する所あるぺし。

　産業組合が一の法人として他人と取引の關係に立つが爲には先づ其設立の登記を了らざるべからず。假令地方長官に由り設立を許可せられ既に法人としての生命を有するに至れりとも之を裁判所に登記せざる限は他人に向ひて其人格の存在せることを主張する能はず法、一六、民、四五ノ二。他人の方よりは其都合に由り組合が法人なることを主張するも又其法人なることを認めず獨立して權利を有し義務を負ふこと能はざる團體なりと主張するも共に自由なるに反して、組合の方よりは設立の許可ありし事實を言立てゝ其財産の獨立を主張すること能はざるが故に大なる不利益なり。故に完全なる組合の體面を保つが爲には一日も早く設立の登記を爲さゞるべからず。

　登記は産業組合が負ふ所の義務の尤も著大なる者の一にして、法規が此義務を組合に負はしめたるの趣旨は亦組合と債權債務の關係を成す者をして容易なる手數を以て其組合の財産信用の?況を知悉することを得せしめんが爲なり。組合は之を構成する人の財産と獨立して其財産を有する者なれども事實に於ては二種の財産は同一の人に由りて處理せらるゝなれば或は遣繰《やりくり》を以て私曲を營み他人を欺く者無きを保せず。故を以て其内部の?況は一個私人に比して其公正なることを世間に表彰するの必要多し。組合の設立ありたる上は二週間を出でざる中に法が定めたる事項を其事務所所在地を管轄する區裁判所に登記せざれば罰あり法、一三、一四、及七六。登記は爲したるも其事項を僞り構へたるときは亦罰あり。之は單に設立の時に限らず出張所を新設したる場合登記事項に變更を生じたる場合竝に他の組合と合併し又は解散を爲したる場合も凡て皆然りとす法、一六、民、四五ノ三、法、一四ノ二、六三及六六。

　登記の規定存するが爲に尤便利を受る者は組合と取引を爲す者なり。殊に組合に對し債權を有する者に至りては組合財産の?況は直接に自己の利害に影響すべきなれば出來る限り精密に其變動を知らんことを欲するは人情なるべし。此の如き場合には裁判所に請求して登記簿を一見し其組合には是々の財産存在する故に、幾何迄の貸越賣掛を爲すも安心なりと、胸算することも容易なり。登記が斯くまでも組合債權者にとりて必要なることを知らば法律の規定と官(34)廳の監督とを以て十分に其正確と迅速とを保持すべきものなることは自ら明ならん。

　此外に猶形式は聊異なりて其效力全く登記に等しきものは組合員名簿なり。組合員名簿は其記載の爲めに裁判所の手を煩はすことなく單に組合自身に於て之を調製し其一本を裁判所に差出すを以て十分なりとすれども、其效力に至りては全く登記と異ることなく、組合員の氏名住所、其引受けたる出資口數或は拂込終りたる出資金の高等は之に由るに非ざれば以て外部に對し證明すること能はず。而して之を差出すことを怠り又は不正の記載を爲す者に罰あることも登記と同樣なり。組合の債權者が組合の?況を知らんと欲するときにも組合員名簿の閲覽によりて便利を得ること又少小ならざるべし。

　組合の種類の章にて説明せしが如く組合債權者が組合と取引を爲さんとする際に尤知らんことを欲するものは組合の組織如何なり。例へば一の産業組織が無限責任の組織にして其組合員の中に手堅き人物多からば、よしや現在は組合の事業未だ繁盛の域に達せず其成功の望は單に不定なる將來に屬する場合なりとも、債權者は猶躊躇せずに之と取引を繼續するなるべし。何となれば萬々一組合が直接に辨濟する能はざるに至るも別に之を擔保して債權者をして損失を被らざらしむるの用意存すればなり。保證責任の組合に就きても亦或度までは之と同樣のことを言ふを得べし。之に反して組合員の責任が有限即ち各自の出資金額を以て限度とし其以上には如何に組合の行爲に由りて迷惑する者ありとも之を顧みるを要せざる組合に在りては一旦事業が逆境に陷るときは其原因が全く不時の災難なるか又は組合の事務員の手腕の非凡なることを信ぜられたるものに非ざれば、新に他人の信用を得て借金等を爲すを得ざるは申すまでも無く、恐くは舊來の債權者の信用を繋ぐことも亦甚困難なるべし。

　斯の如く組合の組織即ち各組合員の負擔することを約せる責任は如何なるものなりやは組合取引を爲す者にとりて最重要の問題なれば之を登記の上に表白することは第一に必要なり。この他如何なる種類の人々を以て組合員と爲せりや、其人々の醵出を引受けたる金高は何程なりや、又現在其金額の内幾何まで拂込まれをるや等の組合財産に關す(35)る巨細は、皆之を登記簿及び組合員名簿に由りて取調べ得ることゝなれる也。

　登記簿又は組合員名簿の閲覽を以て組合の?況を知らんと欲する者に便宜を供するは必ずしも組合債權者に限らず。今より組合と取引を始めんとする者、其他一切の外部の人も亦同樣に裁判所に出頭し些少の手數を以て之を利用することを得るなり。されども組合債權者に限りては此上に猶法律の規定を以て聊も自進みて手數を掛くる事なく坐ながら組合の動靜を詳にすることを得せしむ。是は組合債權者にとりて利害の影響する所最適切なる一二の場合に於て存するものにして、即ち出資一口の金額を減少する場合なり、保證責任の産業組合に在りて組合員の保證金額を減少する場合なり、及び組合が他の組合と合併せんとする場合なり法、四〇、四一、四二、及六四。此等の場合は定款の變更又は組合の解散にして之をなす爲には地方長官の認可を受くるを必要とし法、三九ノ三、六五、且つ直ちに其登記を爲すべき者なれば、法、一四ノ二、六六、組合はとても其事實を隱し終すること能はず、債權者も早晩之を知るべきなれども、法律は一日も早く之を債權者に告ぐるの必要ありとし組合が其總會に於て此等の事項を決議したるときは遲くも二週間の中に之を債權者に通知し其承認を求むべし。組合債權者は組合が申出でたる期日迄に異存の有無を自由に返答することを得。債權者が此等の變更に對し異議を述べたるときは組合は其債權に辨濟するか、又は質抵當保證人等の特別の擔保を設けて彼を滿足せしむるに非ざれば其決議を實行すること能はず。若し全然通知を爲さず又は債權者の異議あるにも拘らず、此等の變更を爲したるときは是法律の命ずる所に違反せる行爲なれば其效力無きものなり法、四〇、四一。

　組合が其組織を變更する場合即ち有限が無限保證と爲り保證責任が有限又は無限の責任と爲る場合は定款の變更にはあれども、是非其全部組合員が之に同意するを以て必要條件とすることは前に組合員の節に云へり。組織の變更が組合債權者の利害に影響することは明白なる事實なれども、其變更に由り各組合員の責任が増加し擔保の力を多くする場合は常に債權者の利益なれば、之が爲に債權者の承知不承知を問ふの必要なし。されども組織の變更を以て組合(36)員の責任を減少するとき、即ち無限の責任より保證責任、有限責任となり保證責任より有限責任と變ずる場合の如きは、萬一の折に債務の履行を不十分にするの結果を生ずべきを以て、之も出資各口の金額減少等と同じく亦債權者に通知し、其異議無きを確めて後之を決行せしむ法、六八。若し之に反するときは變更が眞實の變更とは爲らざるなり。

　組合債權者が區裁判所の登記簿に就きて組合の?況を知り、又は或場合に限り坐して組合の通知を受け、之に由りて其利益を保護せらるゝことは以上之を説明せり。此他に債權者は直接に組合自身より其財産信用の實?を調査するを得るものなり。組合の構造を明にせる定款及び組合の行動の方針を定めたる總會の決議録とは之を各事務所（出張所といふも事務所なり）に備へ附け、又組合員年々の出入異動を明にせる組合員名簿即ち産業組合法第十五條に依り裁判所に差出したると同一の書類は之を主たる事務所のみに備附け置くは理事の義務なり法、二九。又組合は其一事業年度を終る毎に會計を整頓し通常總會に報告すべき財産目録、貸借對照表、事業報告書竝に剰餘金處分案を調製し其一本は之を主たる事務所に備へ置くべきものなり法、三〇。出資一口の金額減少、保證金額の減少、組合の合併、又は組織變更に由る責任の減少を決議したる場合に於ても皆常に其決議の日より二週間以内に財産目録と貸借對照表とを調製するを要す法、四〇ノ一。而して組合債權者は凡ての此等の書類の閲覽を組合に對し請求し得るの權利あり。組合役員にして此等の書顆を調製せず、又は調製したるも記載すべき事項を記載せず、或は不正の記載を爲したるときは罰あり法、七六ノ三。故に債權者はまた此方面よりも組合の?況を知ることを得、これに應じて豫め其備を爲すを得べし。例へば組合財産の關係を變更するの決議あり、之れに付き異議の有無を催告せられしときの如き此等の書類を一覽したる後其の返答を決する等の如し。

　組合が負擔せる債務が甚しく其資力に超過し辨濟期限が到來するも其履行を遂ぐること能はざるときは多くは破産に由り解散するものなり。此の如き場合には理事は直に其由を申立て破産の宣告を請求せざるべからず。破産の宣告を下すものは裁判所なり。裁判所は理事の請求に因り又は其職權を以て破産を宣告することもあれど組合債權者も自(37)進みて其請求を裁判所に爲すことを得法、六九、民七〇。債權者は期限に至りても辨濟を受くること能はず最早通常の方法にては之を請求するの途なしと考ふるときは、破産宣告に由りて組合を解散せしめ組合が其業務を繼續する爲に愈々其財産を損失し、從て自分が受取り得る部分の減却する無らんことを欲するなり。破産に關しては産業組合法中には規定する所十分ならざるを以て、民法第七十條第八十一條等特に民法を準用すといふ規定あるものゝ他は破産の手續は商法中法人の破産に關する箇條に依るべきものなるべし法、五。即ち各債權者は其破産財團に加入し、割合に應じて之を分取し得。而して組合の責任は有限ならざるときには其不足の部分は之を舊組合員に請求することを得るなり。

　組合が破産以外の事由法、六二に因りて解散するときは其職務を處理するが爲に必ず清算人を設く。清算人は先づ組合の財産を以て各債權者に辨濟せざるべからず。此際債權者の清算人に知れたる者は皆通知を受け、知れざる者に對しても三囘以上の公告あり。此通知又は公告に接したる組合債權者は、清算人の定めたる期限内に其權利を申出でて辨濟を求むべし。清算人にして此催告を爲さず、又は催告を爲し之れに由りて期限内に申出を爲したる者あるにも拘らず之れに辨濟を爲さず、或は辨濟に十分なる金員を用意し置かずして組合の財産を組合員中に分配したるときは其分配は無效なり法、七二。又假令期限内に申出でずとも現在組合の債權者なることが明かなる者を捨て置くべからず。されど其人が債權者なることは實際清算人も知らざるときには公告が三囘もありたるに之を申出でざりしは其債權者の怠慢不注意なれば之に辨濟せずして辨濟を終り財産の分配に取掛るも清算人の不當とはいふべからず。故に分配が全く終りたる後には之を請求し始むとも最早其效を見ざるなり。唯未だ分配せざる財産ありしときのみ之より辨濟を受くるを得るのみ法、七五。

　解散の場合に組合債權者にとりて清算人は最必要なり。清算人は理事を以て之に充て又は定款の規定に由り若くは總會の決議を以て之を選任するが普通なれども、其清算人が中途に死亡するとか總會の決議又は裁判所の命に由り解(38)任せられて後任未だ定まらざる等、一時其人を缺くこと無しとせず。此の如き場合には組合債權者より裁判所に向ひて其選任を請求することを得。又清算人はあるも其人物不正にして債權者に損失を被らしむるが如き事實ありしときにも亦之を裁判所に請求し其清算人を解任せしむることも債權者の權利として法律の認むる所なり。

　清算人が組合財産を處理するに當り其全部を擧ぐるも猶組合債權者に辨濟し盡すこと能はざることを知りたるときは直ちに破産の宣告を裁判所に請求し其宣告ありし結果破産管財人が選任されたらば之に其事務を引渡すべし。此場合に一二の債權者が既に其辨濟の全部を受けたる者あるも之は再び取戻され破産財團の中に加へられ全體の債權者の間に平等の割合を以て分たれざるべからず。然らざれば債權者の中一二人のみ特に全部の辨濟を得て他の者の分を減じ不公平の結果を生ずぺければなり。

　上來述べ盡したる通り産業組合は國家が法律を以て頗其發達を保護し奨勵する所なりと雖、之が爲に他人の利益と便宜とは聊も犠牲に供すべきに非ざるを以て、法律は亦同時に組合と取引を爲すべき者の爲にも十分に謀る所あり、一旦組合に對し債權を有したる者は組合の行動により其現在未來の利益を聊も損ぜらるゝこと無きを期せり。是又觀察の方面を更へて之を説けば間接には産業組合の活動を完全ならしむるを謀るの途にして、組合と取引するものが安心すれば從ひて組合の信用も大きくなり融通も容易となるべきの理なりといふを得べし。

　

　　　　　　　　　　第四節　監督機關

　

　前にも?々説けるが如く組合事業の美果を收むるに最も必要缺くべからざるものは之に携はる人物の勤勉にして且つ清廉なることなり。組合の役員は申すに及ばず其他の組合員なりとも若し一點私曲の念を挿む者ありて仲間の損失をも顧みず獨自分の懷中を肥さんとするときは共同相助の事實は忽にして支離滅裂に歸し終に組合解散の不幸を誘致すべきのみならず、其結果は延いて組合制度全體の不評判となり、正直にして眞面目なる者をも之が爲に間接の不利(39)益の下に立たしむるに至る、豈に恐れざるべけんや。且つ又假令組合の事業に合同する者にして一人も此の如きなる者無しとするも人間の智慮には限あり、誤解謬見は誰しも多少は免かれざることなれば、時としては判斷其當を失ひ組合の爲め不利益なる計劃を爲し、折角繁昌すべき組合をして見す／＼中途に挫折するの危險に臨ましむることあり。此の如きは凡て皆個々の組合設立者の不注意に基くものにして、之を以て産業組合制度の善惡を決定すべきに非ずと雖、人は必ずしも諸種の情?を斟酌して之を批評せざるが故に、或は此制度の普及の上に著しき障碍を與ふることあるべし。故に法規に於ては一方には出來る限の便利を供して組合の設立を奨勵すると同時に、他の一方に於ては之が設立ありたる後組合員の不注意、怠慢又は心掛の良からざるが爲に自ら邪道に陷り、又は他人を苦しむるが如きこと無く、或は此法規を利用し産業組合の名義の下に不正、不法なる私欲を逞しくする者無からんことを期するが爲め、明文の規定を以て必要なる制限を立て、何々の事は爲すべからずと禁じ、若くは何々の事は必ず之を爲すべしと命ぜり。されば産業組合法竝に同法施行規則中に掲げたる所謂組合の義務は、決して此法人をして餘計なる負擔の下に呻吟せしむるの目的を以て設けられたるものには非ずして、組合は此義務を守り之に遵ひて其事業を營みさへすれば詮ずる所は其利益なり。法律が想像する産業組合の最完美なる結果は此等の義務を行ふに由りて獲らるべきものなり。

　組合が法規の條文に掲げたる義務を遵奉し其範圍内に在りて其行動を爲せりや否やは、是非とも組合の上に立ちて之を注意し監督する者無かるべからず。又關係の複雜にして一の注文のみにては、其常規を定め難きものに對しては各場合に就きて其事情を參酌し、此の如きは然るべし、此の如きは然るべからずといふ判斷を下すの必要あり。此二の目的の爲に法律は或種の國の機關を以て産業組合の監督機關と定め、組合をして法の規定に服從すると同時に、又其機關の指揮の下に行動せしむることゝせり。

　産業組合の監督機關に二種あり。一は司法機關にして他の一は行政機關なり。前者の管掌する所の部分の事項を列(40)擧すれば登記竝に組合員名簿に關する一切の事務及び組合の解散、清算、破産に關する事務なり法、七五、民、八二。此他の場合は一切行政官廳の監督に屬す。葢し司法機關の機能は主として裁判即ち法の適用に在り。故に裁判以外の事務にても既に細密なる法規の存在するものあり、之を解釋して個人の權利義務の限界を明白にし各自の地位利益を安固にするの目的に向ひては、此機關の活動を須つを便とするものあり。然れども之に反して法が一般的の規定を掲ぐるを困難とし個々の場合に就き實際の情況に應じ臨機に當不雷を決定するの必要ありとする事項に付きては司法機關は或は不適任なることあり。例へば新に一の組合を設立する者あるとき其土地の經濟事情乃至は設立者の人物如何を問ひ、果して組合事業に由り望ましき結果を收め得べきものなりや否やを究めて許可を與ふると、否とを決するが如きは是非共平日より人民と接觸して地方の?態に明るき行政官の裁量に須たざるべからざるが如し。換言すれば司法機關は主として個人の權利利益の安寧を確保するを目的とし、行政機關は組合全體の發達繁榮と之と社會一般との間の關係の圓滑ならんことを力むるものといふべし。産業組合を監督する第二種の機關即ち行政官廳は又之を三種に小別することを得べし。其一は組合所在地の郡長なり、其二は同じく所在地の地方長官なり、其三は中央官廳に於て産業組合の事務を主管せる行政長官即ち農商務大臣なり法、五九。此等の官廳は皆共に組合の發達を奨勵する爲に種々の利便を供與するのみならず、若し或は組合事業の進行に關して不審を抱くが如きこと起らば、自ら進みて組合の?況を檢査し又組合に命じて事業の報告を爲さしむる等健全なる組合の生長を遂げしむるに必要なる種々の處置を施すことを得る者なり法、六〇。此等大小上下の官廳には各々其特色あり、大臣は大局に着目して一國經濟の進捗上、施設の急不急を判斷するに足るぺく、郡長は各地方の風習人民の氣風又は地産の適不適等に詳しく個々組合の爲に謀りて最親切妥當なるを得べければ、何れの監督と雖も皆必要ならざるは無かるべけれども、就中法規は特に地方長官の地位を以て、産業組合の利弊を洞察し未來の方針を一定し組合を構成する者をして、之に由りて歩を進め邪道に陷ること無からしむるに最必要なるものとし、監督事務の大部分を擧げて之が權限に屬せしむ。故に産業組合の事業に(41)關しては地方長官の交渉を要する場合を最も多しとす。

　今順序を追ひて略々之が説明を試んに、先づ組合を設立する者あるとき之に許可を與ふるは地方長官なり。地方長官は一方には組合定款の規約如何を見て其目的計畫の穩當なりや否やを確め、一方には設立者の人物、資産等を參酌して果して許可を與へて害なきや否を決するなり法、八。組合にして特別の理由あるが爲出資一口の金額を五十圓以上とせんと欲し、又は事業年度を定むるに暦年に依ること能はず、或は信用組合にして其區域を一市町村よりも大にせんとするときは皆地方長官の認可を受けざるべからず則、一及六、法、九ノ二。後日に至りて定款の箇條に變改加除を爲さんとするときにも亦同じく認可を要す法、三九ノ三。

　産業組合が地方長官の監督の下に立つべき場合は猶多し。今一々之を列擧せんに元來組合の平日の行動は次の章にも説明を爲すべきが如く其大部分は理事の意見に從ひて決せらるべきなれど、理事の行爲は監事常に之を監督して不正を營ましめず、又理事、監事を合せて役員全體の行爲は總會之を監督し定款の約束を破りて一二の組合員に私する等の場合は勿論、其他不當の處置に由り結局組合の發達に害あるが如きことは決して之を黙過すること無かるべく、内部の牽制調攝の方法は粗々備はれり。故を以て國の行政機關が注意を要するは主として組合が全員一致して組合外の者、竝に國家一般の利益を害せんとする場合なり。されども亦組合内の或一二の者が多數の勢力に威壓されて屈辱を蒙るが如き場合に對しても、國の監督は全く之に立入らざるには非ず。法第二十四條に不法不當なる總會の決議は假令一人の不服者なりとも之を申立るときは、地方長官は其決議の取消を言渡すことあり。此他にも法第六十一條に依りて種々の制裁方法を以て組合内の公平を保持せしむるは主務大臣も之を爲せども猶、概して地方長官の任なるべし。

　法規の特別の保護あるを恃み組合が專横なる所爲を以て公益を害すること無からんが爲に、地方長官は組合より各種の報告を徴することを得。この報告徴取の必要は法第六十條に依り個々の組合、個々の事項に就きて地方長官が自(42)ら之を判斷するものもあれども、此他に法規は其必要の特に大なるものに就き一般に是非共之を徴すべきことを規定せり。先づ組合毎事業年度末の財産目録、貸借對照表、事業報告書及び剰餘金處分方法は其次の年の通常總會の討議を以て之を決定したる上は直に地方長官に其寫を差出すべし則、七。

　次に組合に借入金を爲すの必要ありや否や、若し有らば年々其金額の最高限を定め豫め之を報告すべく、信用組合に限りては此上に一組合貝に貸付すべき金額の最高限を豫定して亦共に之を報告するを要す則、九。此等は組合が毎年度に一囘づゝ必ず爲すべきの義務なり。而して或事件に就きては別に其發生の都度之を屆出づるを要する者あり。組合が法律に依り爲したる一切の登記は同時に之を地方長官に屆出づべし則、一六。設立の登記を始め其變更の登記竝に組合の合併、解散、清算人の選任解任の登記等悉く其屆出を地方長官に爲さしむ法、七四、七五、民、七七。此の如く報告、屆出の義務は組合の活動の大部分に關しては必ず伴ふものなりと雖、法規は非常なる不都合の存する場合の外、何れに由るも其結果を公益の上に及さゞるものに在りては成るべく組合の自由に任せ行政機關をして之に容喙干渉せしめざるの方針を採り、設立後に於て地方長官の認可を必要とするものは唯定款の變更のみに限りたり。然れども二以上の組合が合併を爲す場合のみは純然たる解散とも異り、別に新なる一組合を生ずるものなれば、其組織、方法等に付き取締を爲すの要あるを以て、特に認可を經て後始めて之を爲すべきものとせり法、六五。

　以上列擧せるものは凡べて法規の明文に依り監督官廳が自ら進みて要求を爲すを待たずして組合が當然負擔すべき義務なり。而して此等の許可、認可の可否を決し且つ報告、屆出を受るは皆地方長官なり。然れども官廳の監督は常に此だけの事務を以て十分なりとは言ひ難きを以て、必要ある場合には何時にても其以外にも事業に關する報告を徴し又は進みて實地に就き組合の?況を檢査することを得法、六〇。此監督は地方長官のみならず主務大臣も郡長も共に之を爲すの權限を有し之に關する諸種の處分を行ふは固より時としては一般に遵奉せしめて新に組合の行動の範圍を制限するの結果を生ずべき命令をも發することを得。現に産業組合法施行規則（農商務省令）の一部の如きも此法(43)第六十條に依りて發せられたるものにして各府縣に於ても亦同條に依り府縣令を出せるものあり。

　さて斯く種々の方法を以て行政官廳が自動的他動的に監督を爲すも、要するに組合をして健全なる成長を爲し、自分も繁榮し同時に社會をも害せざるの程度に於て其活動を繼續するを期するなれば、若し偶々組合の構造、宜を失ひ運用、當を得ず事業の繼續も困難なりとか又は其行爲が法規の命ずる所、定款の自ら約する所に違反し、乃至は公益に害あるが如き虞あることを發見したるときは、直に之に對して相應の處置を爲すの必要あり。故に法律は主務大臣竝に地方長官の權限として其等の組合に對し總會の決議を取消し、役員代表者の改選を命じ又甚しきものには事業の停止、竝に組合の解散をさへも命ずることを得せしむ法、六一。此等の處分は組合構成者は言ふ迄も無く其他之と關係ある人々に財産上、名譽上、重大なる結果を生ずべき者なれば必ず其前に於て精密なる調査を經るなるべしと圍、上に述べたる各種の屆書、報告書類の内容と之を差出すの義務の勤怠とは大に其處分の決定に材料を供すべし。理事が一方には國家に對して法律上の義務を遵守すると同時に他の一方には組合の體面を保持し其利益を代表する爲、智慮と、道義の光を發揮することは此點に於て最其必要を見るなり。法規が命じたる手續に背き報告、屆出を怠り又は其中に不實の申立を爲すときは理事等の役員は組合の代表者として過料の罰に處せらるべきのみならず法、七六、之が爲め或は官廳の不信認を誘致し終には事業停止解散等の命を被ることもあるべきを以て極めて謹むべきことゝす。

　總會の決議の取消、役員改選の命令又は事業停止解散命令の如き處分を爲すの權限は法第六十一條に依れば唯主務大臣と地方長官との權限にして郡長には此權限無し。郡長は平日最も組合に接近するを以て其監督は極めて適當なるものあるべきも本來此等の處分なるや重大なる結果を生ずるものなれば輕忽に之を決行すべからず。多少の敏活は缺くことありとも寧ろ周到なる商量を必要とすべし。故に郡長は一旦組合の不正を發見するも自ら之に對する處分を下さず、單に之を上級官廳に通告して、之に判斷の參考を供與するのみ。

　組合の監督上地方長官が執るべき事務の最多きことは上來之を説けり。之は行政機關が直接に人民と接觸する場合(44)に就きて言へるなり。此他に又官廳の間接的監督はあり。即ち主務大臣が地方長官に内訓して其管内の組合事業の景況を報告せしめ、又は之をして或組合に對し役員の改選を命ぜしむるが如き、地方長官が管下の郡長をして或組合に臨檢して其財産の?況を調査せしむるが如き此例なり。此等間接に人民の上に效果を生ずべき事務は凡て一般行政官廳の上下隷屬の關係よりして之を説明するを得ぺく、要するに主務大臣は其主管の行政事務に付きては地方長官を指揮監督し、地方長官は又其下なる郡長を指揮監督することを得るなり。されども此上下の關係に付きても法規が特に明文を設けて之を定むるものあり。例へば郡長は組合より地方長官に差出す書類を取次ぐべきこと、又郡長が法第六十條に依り監督調査に必要なる命令處分を發するには之に先だちて地方長官の指揮を請ふを要するが如き則、一七、一四、又地方長官も組合に對し命令を發し處分を行ひたるときは常に直に之を主務大臣に報告すべき則、一五が如き是なり。此の如く官廳上下の關係を明にし精密なる監督を爲せるも、要する所は組合の利益の爲にして下級宮廳の疎漏なる詮議の爲に必要も無きに組合に干渉し又は不公平なる處置の全く無からんことを期するなり。

　

(45)　　　　　　　第四章　産業組合の動態

　

　前の一章にでは既に存在せる一の産業組合に就きて其構造を詳にせんが爲に内外の關係よりして之が説明を試みたりき。次に此章にては産業組合とは如何なる活動を爲すべきものなりや、語を換へて言はゞ茲に多數の人が心を合せ新に一の信用組合又は其他の産業組合を起し之を維持して其最初の目的を遂げんが爲めには如何なる處置に出づべきや、又次ぎては萬一或事情に基きて一旦設けたる組合を罷めんとするには如何なる手續を履むべきやといふ問題に關して略述し以て總論の部分を終らんとす。産業組合なる法人も法律上は自然の人と同じく生命を有するものなれば、此世に生れ出でゝ生存し終には又死去すること法律上些も肉躰を具足する人と異ること無し。此法人生涯の始、中、終の三期に從ひ此章を三節に分つ。一、産業組合の設立。二、産業組合の管理。三、産業組合の解散是なり。

　

　　　　　　　　　　第一節　産業組合の設立

　

　産業組合の設立は法人の誕生なり。民法第三十三條の規定に依れば總べて我國に於ける法人は民法其他の法律の規定に基くに非ざれば、一切其生命を有すること能はず。而して産業組合なる法人は産業組合法と謂ふ法律に依りて其生命を求め得べきものなり。さて今若し茲に産業組合の效能を知れる人々ありて隣保相集まり相圖りて一の組合を設け之を法人に爲さんと欲するならば凡そ如何なる方法に由りて其計畫を實行すれば宜しきや。是れ産業組合法の解釋を須ちて始めて明にすることを得べき問題なり。

　葢し一本の矢の折られ易く一束の矢の折られ難しといふ古き譬の通り、合同協力は常に孤立獨行よりも利益多きこと、及び艱苦に際して、他人の保護、救援を仰ぐよりも對等の人が相結び互に助けて之を凌ぎ行くが人間として遙に(46)立派なることは共に言ふ迄も無きことにて、協同と自助とは世に立ち事を行はんとするものの心掛としては常に勸誘すべきことなれども、唯等しく此方針を以て企てられたる私人の團體の中にても、産業組合法が取分けて便宜を與へんと欲するものは其殊に有要なる或團體の場合にのみ限るなり。されば産業組合として法人の生命を得んとするには先づ其合同の目的が法第一條に列擧したる事業の何れか一つに當る者ならざるべからず。即ち産業資本金の融通とか、生産物の合同販賣とか、原料器具機械若くは日用品の合同買入とか、工場機械等の合同使用とか、此中の一又二を目的として結合する場合に限るなり。次に外部に對する金錢上の關係に付きても法第二條に掲げたる三種の組織の中何れか一に當らざるべからず。此以外の事業を目的とし又此以外の方法を立てゝ財産を獨立せんとすれば假令當人同志の間には産業組合を豫想するも法律は終に之を認むること無かるべし。故を以て目的と組織とが一定の種類の外に出でざることは産業組合設立の第一の要件なり。此等の目的を以て此等の組織に由り他人と協同せんとする考を抱く者、幸にして數人あるときは先づ以て組合設立の望は有りといふべく、此人々の相談が纏まるときは例へば法人の姙娠とも言ふべき時なり。されど此上にも又一の小條件あり、即ち此計畫を爲す人の數なり。既に其地方の誰彼の間に此意見ありて、之を實行するに躊躇せずば、假令最初には極めて少人數なりとも後日組合の效能、明白となるに從ひて追々之に加擔する人を生ずぺければ、何人にても構はざるが如きも、夫にも亦程度あり。僅々四五人の他は説を同じくする者無かりきと言はゞ、其以外の人々は賛否未定と言ふよりも寧ろ何か共同に不便なる障碍物ありて、其爲め同意者の生じ難きものとも想像し得べく、成程、組合の方法は美事には相違なきも、之が計畫に參與する人、之より以上は得難しとありては、其組合の健全なる生長も或は覺束なしと謂ふぺし。故に法は組合設立者の數は少くとも七人より下るべからずとし法、七、必ず何かの方法を以て實際其組合の發起人七人以上なりしことを證據立てしむ。普通は後に謂ふべき設立許可の願書に夫だけの人數を連ねて捺印せしむるなるべし。

　さて此等要件が具備し七人以上の人間が法第一條中の或目的を以て組合を設けんといふ考に一致したる後は如何に(47)すべきやといふに、彼等は是非一度集會して、現在の處置、方針に付き種々の打合せを爲し之に由りて一の定款を作成せざるべからず。定款とは各個の組合の計畫、竝に之を實行する方法と其組合に特殊なる構造とを一定し之を文字の上に明白にしたるものにて、此點は自然人とは違ひ法人は元々人の頭腦より作り出したるものなれば、自然に備はれる生活の進路といふもの無く、而も一旦成立ちたる上は之を作りたる人より獨立して生命を保つもの故、其後勝手に之を變ずべきに非ず、是非共、前以て正確に之を定め置くべきもの也。設立の許可を請ふにも官廳をして其組合は果して如何なる組合なるかを知らしむるの必要あるを以て、必ず之を地方長官に差出すべしとあり法、八。定款の作成は所謂、設立行爲の中最重要なるものにて、設立者は何を措きても其起草に取掛らざるべからず。定款の中には設立者が寄合ひて銘々、異存無く取極めたる事柄は何にてもあれ之を記載することを得。團體を作りて何々の産業組合を設立せんと迄は一致したるも、さて愈々事業を實行すべき方法を細密なる點に亙りて定め置かんとするときは或は種々の説も起るべく、一寸纏り兼ぬる場合もあるべきが、是は豫め約束して此事、其事の外の問題は總體の中何人までの意見が合へば枉げて之に從ふことゝせんと定むるか、又は其場に臨みて誰か折衷の説を立てゝ結局は何とか折合の付く筈なれば、斯くの如くして極まりたる事項は後日の爲に一々之を定款の箇條と爲し置くも不可無し。併しながら定款の中に書込みたる文字は法律の規定の結果として法、三九、容易に之を變更すること能はず、假令一句の加除なりとも皆總會の決議を經、且つ官廳の認可を受けざるべからず。故に時と場合には多少の手加減を爲すの必要あり。且つ敢て差支も無き事項は之を定款の中に掲ぐるは却りて不便なり。之と同時に組合員の權利、財産に影響を及ぼすが如き多少、重大なる事項は之を定款中に定め置き其變更を爲さんとする毎に鄭重なる手續を履ましむるは亦極めて適當なることなり。定款は組合契約の全部を包含すべきものにも非ざれば、上に掲げたるが如き單簡なる事項は定款以外に別に之を記載し、事務取扱規定等の名稱を以て、其變更を爲するにも、何か今少し手輕なる方法に由らしむるは敢て法律の精神に背反する所に非ず。法律は唯特に或十數件の事項を限り此のみは必ず之を定款の中に於て(48)規定すべしと命ぜり法、九。此等の事項を名づけて定款の必要事項といふ。必要事項の他は之を定款に記すると否とは法の問ふ所に非ず。唯各組合の一般の利益より考察して其適當、不適當を決すべきのみ。

　斯くの如く設立者の談合に因りて定まりたる組合行動の方にして之を定款中に明記するの必要ありや否やは、常に其事項の影響の大小に由り輕率なる變更を黙過すべきや否やの問題に歸すべければ、各個の組合毎に場合次第にて如何にともすべきなれども、就中常に最、必要なりと目せられたる事項は法の規定に由り否應無しに之を定款中に規定せしむ。而して此等の事項は如何なるものなるかといふに、

　一　目的　法人は或一定の範圍内に於て法律の力を以て其生存を認めらるゝものなり。此産業組合は如何なる事を行はんが爲に設けられたるかといふことを明に示し置くことは何よりも最必要なり。

　二　名稱　自然人にも夫々姓名ありて甲と乙とを判別するが如く、法人にも亦銘々他と紛れざるが爲に特殊の名稱無かるべからず。而して産業組合の名稱中には必ず其組合の種類を表明するに足るべき文字を入るゝを要す法四ノ一。例へば無限責任何村購買組合等と言ふが如し。

　三　組織　組合が何れの組織に由りて其財産上の責任を負ふかは既に名稱に依りて明白なるべけれど、法は猶、特に一事項として其組織の種類を定款中に掲ぐることを必要とせり。保證責任ならば各組合員の保證金額も亦之を定款中に記載すべし。

　四　事務所　事務所は法人の住居なり。而して住居を一定し且つ之を明白にするは無形の人に在りては殊に必要なり。故に亦之を定款の中に記載せしむ。組合の區域が廣きか、又は其他の業務の都合にて事務所は又之を數箇所に設置さるゝことあらん。此場合には一も殘らず之を列記すべきは勿論なり。而して取引等の關係より法律上、組合の住所を定むべき必要あらば其中にて主たる事務所を以て住所と看做すべきなり。

　五　出資一口の金額及其の拂込の方法　産業組合の組合員と爲る者は各々皆應分の醵金を爲す義務あり。而して其(49)額は一口幾何と均等に之を定め其十口以下一口迄を見込次第に引受くべきことは前に言へり。之は組合計畫の際、第一に約定さるべきものにて直接に財産の損得に影響あるを以て隨分、重要なる事項なり。組合外の人々より謂ふも之を目安として組合財産の概算を立つるなれば度々知らぬ間に容易に其額を變更さるゝ樣にては不都合なり。故に亦、是非共、定款にて發表せしめ其確定不動なることを期すべし。又其出資拂込の方法とても之と同じ理由にて、一時に全部を集金するか、はた何年かの間に分納せしむるか、日掛月掛の方法を採りて生計難義なる者に便宜を供するか、又は夫迄には及ばず年に一囘とか、二囘とかに入れさするか、何とか前以て之を定めしめ、定めたらば定款の中に置かしむべきことなり。

　六　第一囘拂込の金額　出資拂込の方法は大概は組合の都合次第に之を極めさするなれど、兎に角、設立の初に若干の金は入用なれば此部分のみは勝手に任す能はずとし、法は設立許可ありし後直に一口金額の十分の一より以上拂込ましむべきことを命ぜり法、一二、則、二。さて組合が果して此規定に遵ひて居るや否やは定款にて之を見らるゝなり。

　七　剰餘金及損失分配に關する規定　組合が其目的の事業を行ふに當りて收入支出の勘定は少くも年に一度之を精算し、其成績を組合員に發表す可きものなり。事業に利益あらば其金は如何に處理せんか、又不幸にして損耗を被らば亦如何に之を始末せんか、年々其都度に相談しても宜しきが如きも、或は自分勝手の説を通さんとする者あり、苦情も起り易ければ豫め其爲の申合を爲し、大體の手筈を定め置くが適當ならん。又法第四十三條、第四十四條、第四十六條、規則第十一條等の規定もあるを以て之に抵觸すべき分配方法の如きは、假令、組合の爲に都合よく誰一人不承知の者無くとも黙過すべきに非ざれは之も定款に由りて其樣の不都合は無きことを明白にすべきなり。

　八　準備金の額及其積立の方法　準備金は毎年度の剰餘金の少くとも四分の一は必ず之を積立つべく法、四六、唯(50)豫め定めたる金額に達したるときのみ之を止めてもよき也。而して準備金の此豫定額は之を定款中に明記すべしとす。其額の多少は組合構成者の自由とは言ふものゝ出資金總額より低く定むることは不可なり則、三。

　九　組合員たる資格に關する規定

　十　組合員の加入及脱退に關する規定　組合を作るには相互の間の親密にして猜疑、反目の不幸を見ず、常に調和を保つべきことは最必要なれば、假令、法第十條の規定は在りとても自分等が希望せざる人物を我慢して加入せしむるの必要は無けれども、さりとて又加入の申込ありし度毎に之を承諾すべきや、否を一々に決するは穩ならず。故に之も豫め條件と手續とを定め置き、斯くの如き人物ならば斯くの如き方法にて加入せしむべしといふことを前以て發表する也。加入金として出資以外に金員を徴収するは法の禁ぜざる所ながら、之を取らんとせば亦定款の此部分に規定するを可とす。猶一旦組合員たりし者が仲間より脱する場合に付きても之を豫定せしむる也。此點に關しては法第四十九條第五十條等の制限あり。定款にて之と抵觸すべき規約を設くること能はず。

　十一　組合の目的たる事業の執行に關する規定　組合には必ず理事といふ役員を置きて其事務を之に任せ行はしむるなれど、諸事、萬端、凡べて其一存にて之を決行せしむること、恰も商店の主人の如くならしめば、假令其人物、潔白にて專横の害を生ぜざる迄も、之に對する苦情も起り易く却て不調和の基なれば、其肝要なる點のみに付きては兼て方針を一定するの必要あり。又組合全體としても時々の都合次第にて?々仕事の遣り口を變へるやうにては取締も付かざれば、初より申合にて活動の範圍を限定せしめ、其中、殊に重要なる點のみは之を定款の中に掲げしむるなり。

　十二　信用組合に限りての組合の區域　此區域は一市、一町、或は一村よりも小さきは可なれど、之より大なる區域を以て信用組合を設くるには地方長官の認可を受くるに十分なる丈の理由なかるべからず。區域あるときは前(51)にも言へる如く其以外に住居する人を組合員とすること能はず。

　以上の事項は是非共設立者の間にて之を決定し、定款の中に之を記載すべし。其一つにても缺けたるものは完全なる定款には非ざるを以て、法第八條を遵守したるものとは言ひ難し。此外にも設立者は申合にして肝要の事なりと考ふるものは其容易に變更されざる爲に之を定款に掲ぐるは聊も差支なし。殊に或二三の事項は法律の規定を以て定款に掲ぐるに非ざれば其效無しとするものあり。即ち必ず定款の中に記載せよと命ずるには非ざるも定款の明文無きときは各員の申合にて極められたりとも、之を證據として爭ふこと能はざるなり。即ち定款の規約に見えざるを口實として何時横着なる一人の爲に、違約さるゝかも知れざる危險を見るなり。今亦其事項を列記せんに、

　イ　理事監事の任期を特定したるとき　理事は三年監事は一年の任期とするならば定款に書かずとも可なれども之と異りたる任期を定めんとするには之を定款に掲ぐべきなり法、二六。

　ロ　總會會議の採決方法を特定したるとき　役員の選任、定款の變更、組合員の除名竝に組合の解散、合併等重要なる問題に關しては總組合員半數以上の出席と其出席員の四分の三以上の賛成とを以て之を議決し其他の問題は唯出席者の過半數にて決を採るといふ積りならば、別に定款に規定するの要無きも、半數以上を五分の三以上とするとか、四分の三以上を五分の四又は三分の二以上とせんとか、法に示したるものと異りたる方法に由るには亦之を定款中に約束せざれば效無きなり法、二八、三六。

　ハ　理事數人ある場合の職務執行方法　是も定款に特に規定せざる以上は常に過半數の説に從ひて事務を行ふものと看做さる。若し何々の事件のみは理事全員擧りて同意するを要すといふ考ならば定款に明記すべし法、三二、民、五三。

　ニ　理事の代表權を制限せんとするとき　理事は普通一切の事件に關し組合を代表する者なり。されど各個の組合の都合にて此事と其事とに限りては理事をして代表を爲さしめず、別に代表者を置くとか、又は時に臨みて代(52)表者を選ぶとするも不可なし。唯此にも亦定款に前より之を言明するの必要あり法、三二、民、五三、五五。唯理事は組合を代表して行爲を爲さんとするに先だちて、總會に謀ることあるべきを以て此時に際して總會が意見を發表したるときも亦之に從ふべきも、之を知らざる人多かるべければ十分制限の目的を達せんが爲には定款に掲げ置くを適當とす。

　ホ　總會招集の方法　或は廻?を以て案内すとか、何れの地に掲示すとか種々あるべし。之を一定せんとせば定款に掲ぐべし法、三八、民、六二。

　ヘ　總會の議題に關する規定　是も招集の際通知したる議題の外は決議せずといふならば別に定款を要せざれども、若し臨時に役員より又は組合員の方より議案を提出しても議することあるべしといふならば、其場合及び方法を特に規定すべし法、三八、民、六四。

　ト　組合員の除名事由　組合全體の爲に宜しからざる組合員あることを發見したるとき、總會の決議を以て當人の承知不承知を問はず、之を脱退せしめんとするときは、初より定款の中に除名の原因と爲すべき落度の箇條を列記し置くべし。是はさもあるべき事にて單に大勢の者が氣に喰はぬといふ次第にて追出しの決議をさるゝやうにては極めて穩當ならざるべし法、五二。

　チ　理事以外の者を以て解散の場合の清算人に爲さんと欲するとき　尤もこれは其時に臨みて總會にて之を定むることもあるべし法、七五、民七四。

　リ　組合の存立時期又は解散の事由を足めんとせば其時期又は事由　組合は解散が必要なりと考ふるときは其時に臨みて總會にて之れを議決するを得るなれど、此外に又前以て二十年を經ば一旦は解散せんとか或は何々の事實起らば解散せんとか定むることも有るべし。此場合には定款に掲ぐるに非ざれば其效無し法、九。

　始の十二の事項は各々の定款に必ず定め置くべき事項にして次の九の事項は定めたらば必ず定款に掲ぐべき事項な(53)り。猶設立者の見込にて定款に規定する事項も各種の　　　状況に應じて多かるべければ上に列擧したるは單に最少限度なり。少くとも此だけの事は明定し置くべしといふ法の趣旨なり。

　さて斯の如くして設立者の意見合致し定款も出來上りたる時は即ち産業組合は内部に向ひては既に成立したるなり。民法の語にて言へば設立者の間には早既に組合契約が完全に成立し各當事者は皆之に伴ふ權利を有し義務を負ひたるなり。唯組合が外部に對し法人として獨立の資格を備へ之に由りて財産上の權利義務を有するが爲には此上に今一つの手續を必要とす。

　即ち地方長官に就きて其設立の許可を受くべきこと是なり法、八。一團の人の集合體が法人の資格を有すると否とは其結果に於て大なる差異あり。今若し獨立の人格無からんか、各人が醵出して組合の財産として分置したる金錢物件は法律上尚ほ各人の共有財産なれば、假に其中の一人にても失敗して負債を作り終に差押、強制執行等を爲さるゝ場合には、組合財産中の其人の持分も亦共に債權者の手に渡ることとなり、其結果或は不意に組合の業務を障碍さるゝこと無きを保ち難し。同時に又組合が其事業の爲めに負ひたる借金なりとも各員は常に始より頭割にて其辨濟の義務を負擔せざるべからず民、六七五。要するに各人が平生より心掛けて別に財産の一部分を組合の目的の爲に取別けたる甲斐は聊も無きこととなるなり。然るに之れが法人になれば組合と組合員とは財産上全く別々の人と爲り、組合財産の安全なるは元より組合員の方にても假令無限責任の場合にても組合財産が債務の完濟に全く不足なること明になりたる後に非ざれは分擔の義務生ぜず法、二、先づは保證人の如き地位に在る者なれば夫迄に至る中には又快復の途も立つべく、概して危險少くなれるなり。此他にも第一章にて言へる通り、諸税の免除輕減等の恩典もあれば人情利益を惡む者は無く誰も彼も産業組合として法人になりたがるなるべし。併しながら斯くの如き特殊の恩惠を組合構成者に施さんとする前には極めて愼重なる思慮を要することにて、例へば計畫其當を得ず維持の見込も覺束なきか、又は設立者中に心得の宜しからざる者あり名を公益に假りて實は不正を營み、末には大勢の迷惑を惹起すべき虞ある(54)ときは、啻に永續の望も無き事業に手數を掛くるの徒勞なるのみならず、性質惡しき組合に限りて第三者に損害を被らしむる患も多きものなれば、斯る組合は其設立の際に之を禁止するに如かず。故に法律は私人が組合の設立を計畫する毎に之を監督行政磯關に申出でしめ一々其許可を待ちて始めて其目的とする事業の實行に着手せしむ。而して地方長官が此申請に接して甲の組合の設立は之を許可せん、乙の設立には許可を與へざらんと決するには、其判斷の材料として其地の經濟上の?況竝に設立者の人物資産名望等をも參照すべしと雖、尚主として組合の事業の將來の見込を占ふには設立者より差出したる組合の定款に由るなり法、八。定款は内に對しては組合員間の約束を明確にして容易に其變更を爲さゞるを期し、外に對しては官廳の監督の下に其將來の行動の方針を表白して設立の許可を受くべき根據の十分なることを示すべき最重要の書類なれば、其作成には何處迄も念を入れ熟議を凝らさゞるべからず。

　さて定款にも缺點なく組合の發達繁榮の好望を認められて地方長官が其設立を許可したるときは茲に其産業組合は完全に成立したるなり。産業組合といふ一の法律上の人は實に其設立許可の日に於て此世に生れたるなり。所謂組合の設立行爲は此時を以て完了し此時よりして設立者は組合員と爲るなり。唯設立の節の中にて猶説明すべき二三の點あり。今請ふ之を述べん。

　其一は出資金の拂込の問題なり。組合が愈々成立して其活動を開始せんとするに第一に必要なるは資本なり。創業の際には殊に他にも入費多く掛るを以て又之に充つるの資金無かるべからず。今若し設立の許可は受けながら未だ必要なる金員を取集めずば事實に於て業務に從事し始むべき理なく、徒に産業組合の名を盗むものを以て目せらるゝも過當に非ず。或は一時二三の工面善き組合員より立換へ出金し又は外部にて誰か貸付し呉れたる者あらば可なるが如きも是諸々の弊害の基なり。組合員各自の關係は必ず平等にして上下無かるべきは産業組合法の眼目とする所なれば既に組合に加入して一口なりとも引受けたる以上は各口同一の割合にて速に第一囘の拂込を爲すべきなり。産業組合の出資金は大なる商事會社に投入する資本とは異り普通各組合員が日々の所得の中より貯蓄して漸次に之に充つべき(55)額を積立つる場合多かるべきものなれば、其拂込を數囘に細分するは聊も法の禁ぜざる所なるのみならず、第一囘の拂込も各口金額の十分の一以上ならばよしとせり（株式會社にても株金の分納は認むるも第一囘は四分の一以上とす）。唯組合が設立を許可せられたる上は組合員一人も殘らず直に此だけの金額を拂込むべしと命ずるのみ法、一二。此各口十分の一は許し得べき最低限を示したるものなれば則、二、若し出來得べくば組合の計畫ありし始より徐々に之が用意を爲し置き五分の一も四分の一も第一囘に拂込むやうならば組合事業も資本缺乏の爲め創業の困難を感ずるの度大に少かるべく、各組合員にとりても後日の負擔輕くなりて早く利益を收め得るに至るべきなり。

　法人誕生の後最初に負擔する義務は此第一囘拂込を爲さしむるの義務なり。之に次ぎては設立登記を爲すの義務あり。設立登記の義務を履行すべき期限は第一囘拂込の終りたる後二週間以内なり法、一三。組合をして登記を爲さしむるの趣意は前章第三節に於て　　　略々之を説けり。即ち主としては組合と取引の關係に來る者に其組合の實?を知悉するの機會を供せんとするなり。登記を怠りたる組合の役員は法第七十六條により各人五圓以上三百圓以下の過料に處せらるゝ法、七六の外に、主たる組合の事務所の所在地にて登記を終らざる間は假令設立の許可は既に受けたりとも他人は更に之を顧みず、全く法人の資格無き者と同樣に取扱はるゝも之を如何ともする能はざるなり法、一六、四五ノ二。組合設立の際に當りて登記を爲すべき事項は左の如し法、一四。

　一　目的

　二　名稱

　三　組織

　四　事務所

　五　出資一口の金額及び其拂込の方法

　六　設立許可の年月日

(56)　七　理事及び監事の氏名、住所

　此等の事項は組合と取引の關係に來る者が最知らんと欲する所なれば必ず其一項をも缺くこと能はず。されど定款中に規定すべき事項とは異にして此以外に組合の勝手にて登記事項を増加すること能はず。葢し不必要に官廳の手數を煩はすと甲乙組合の事項が増減あるときは整齊を缺き比照に便ならざればなり。尤も組合設立の際には上に擧げたる事項の登記と共に亦組合員名簿といふ者を調製し之を登記裁判所に差出して其保管を乞ふなり法、一五。組合員名簿の記載は法第十五條第三項の規定にて登記と同一に看做さると雖其本來の性質よりして少しく登記と異る所あり。即ち其一の點は登記は組合の申請に應じて裁判所が之を爲すに反して組合員の名簿には組合自身にて其各事項の記載を爲すなり。其二の點は登記は之を官報及び新聞紙上又は掲示場に公告を爲すに反して組合員名簿は單に之を登記裁判所に備付け公衆の請求に應じて閲覽を許すのみ。要するに組合外の人々の爲には組合員名簿に於ける事實は之を知るに比較的困難なり。されど又其記載に不正の事項を掲げたる組合役員に對しては過料の制裁あることは聊も普通の登記に於ける虚僞の場合と異らず。

　組合員名簿中に記載すべき事項は左の如し。

　一　各組合員の氏名、住所

　二　各組合員の出資口數

　三　各組合員の拂込みたる金額及び其拂込の年月日

　四　出資各口に付組合員が之を取得したる年月

　五　保證責任の組合に限り各組合員の保證金額

　此等の事項も亦法第十四條に掲げたる諸事項と共に組合内の財産?況と組合員間の關係を明にするに缺くべからざるの材料なるべし。

(57)　組合設立の登記を乞はんとするときは理事竝に監事の全員の連名を以て之を組合の事務所所在地に於ける區裁判所又は區裁判所出張所に對して之を申請すべし法、八一、七九。組合の事務所が二箇所以上ある時は又各地に於て一々に其登記を申請すべし。設立登記申請書には猶又二三の書類を添附するを要す。即ち、

　一　組合定款

　二　地方長官が與へたる設立許可書又は其認證ある謄本

　三　各組合員が引受けたる出資口數竝に保證責任にては各組合員の保證金額が一々組合員名簿に記載せる所と相違せざることを示すべき書面

　此等の附屬書類を必要とする理由は組合役員の不實なる申立に欺かれて假令一時の間なりとも誤りたる登記を爲し之を公衆に發表するときは、或は之に由りて恢復すべからざる損害を與ふること無しとせざるを以て一應は登記裁判所をして其眞否を吟味せしむるなり。

　設立の許可を受け出資金の第一囘拂込を受取り、次に設立の登記も滯無く濟みたる産業組合は茲に法律上一人前の人となりて世に立ち誰に後指を差さるゝことも無く、其目的たる業務に着手することを得べければ、此にて設立に關して述ぶべき事は無さなり。併し猶一つ注意を爲すべきこと殘れり。即ち設立當時の役員に關する問題なり。組合の役員は總會に於て之を選任すべきものにて總會は理事監事何れかの役員が之を招集するに非ざれば議事を開くこと能はざるものなり。然らば一番始の役員は如何にして選任せんか若くは一番最初の總會は如何にして之を招集すべきか是一の問題なり。組合は一日も機關無くしては生活すること能はず。然るに總會は理事又は監事が招集するに非ざれば他に之を開き得べき場合は法の規定中に見えざれども、役員に付きては設立當時ばかり總會にて之を選任するを要せずといふ規定あり法、二五。但此場合には定款の中に之に關する規定を設けざれば全く其效なし。故に各個の組合にては是非共定款中に設立の際に於ける役員選任の方法を定め置くべきなり。例へば最初の役員に限り設立者間にて(58)互選すべしとか又は直接に理事監事の數名又は全員を指名し置くも可なり。要するに最初の總會を招集する人さへあれば宜しきなり。其任期の如きも之に限り特に短くするも差支無く又普通の任期に由らしむるも可なり。此事を定款中に規定するは所謂法律上の必要事項には非ざるも一般に此方法より他に最初役員を選任するの方法なければ事實に於ては法第九條の各事項と等しく必ず缺くべからざるの一事項なり。

　

　　　　　　　　　　第二節　産業組合の維持

　

　曾て?々世の産業組合に對する評判を聽きしに、此方法の適當なる目的の純正なる能現今各地の生活?態を改良するに足ることは殆と之を疑ふ者無きが如しと雖、多くは最初之を設立するを以て難事業なりとし、現に組合の實益を信ずる者も、手續の面倒なるを見て之に着手するの勇氣を失ふべしと言へり。されど予を以て見れば是或は誤ならん。産業組合は之を組織する爲めに始より多人數を誘導して同意せしめざれば成立たずといふ者に非ず。資本とても同樣にて追々に醵出する方法さへあれば最初には極めて小額の金にても間に合ふべければ此方面には困難の無き筈なり。定款の調製設立認可の申請又は登記の申請の如き煩雜なりと言へば煩雜なれども、一二囘法文を通讀すれば之を會得するを得べく、乃至は先輩より多少の助言を受くれば事足りぬべし。法令にて手續を細密に定めたる場合には其通りにすれば間違無きを以て困難は却りて少なき理なり。實際に於ては守成の業は創立の時代よりも困難にして組合員の骨折を要すること多かるべし。組合が一旦設立を許可せられて愈々定款に掲げたる業務に取掛りて後は法規の取締は設立の際の如く繁からず。日々の問題は組合に於て自由に之を決することを得るなれば其判斷に付きては尠からず思慮を費さゞるべからず。當初の計畫通りに協同の實を擧げ組合員に利益を與ふると、否とは一に運用の巧拙に係るものなれば、我儘勝手の爲に仲間の折合を惡くし、怠惰不注意に因りて利益を減じ、損耗を招かざるやう平生愼むべきは固より、其上にも事務は成るべく敏活に且つ簡略に捗るやう一同共に心掛けざるべからず。組合の維持に關しては(59)法文の規定は寧ろ單純なり。此篇は主として法律の點より説明を爲すを以て設立後の組合が務むべき事項は之に盡きたりとする無からんことを希望す。

　産業組合其他一切の法人は皆法律の力を以て人格を附與せられ權利義務の關係に於て個人と同等の地位に在るものとして取扱はるゝと雖、本來形體を具へざる想像上の者なれば自然人の如く意思を有し言語を發することは事實に於て能はず。故に法律上組合が意思を表示し行爲を爲すべき場合には是非共自然人と異なる或一定の方法に由らざるべからず。其方法は亦常に法律に依りて大體を定められ、之に從ひて爲したる行爲のみを以て法人の法律行爲とは看做すなり。されば自然人が自分の口を以て言ひ自分の手を以て行ふ所を法人にては或他の自然人の口や手を借りて言ひ行ふなり。自然人にては各自の耳目口手を以て機關とすれども、無形なる法人は或自然人を以て自己の機關とし、之に由りて間接に行爲を爲すなり。自然人が五官を具へざれば生活する能はざると同じく、法人も亦機關に由るに非ざれは生存を繼續し得ざるなり。

　産業組合法中組合の管理推持に關する規定は主として法人としての組合の生活に必要なる機關の構造を定む。法は産業組合の生存に最適切なる機關の構造方法を定め、此他の方法に由りて機關を設くること能はざらしむ。産業組合の機關は下の三種とす。

　一　理事

　二　監事

　三　總會

　總會は期設機關と稱し前の二の機關は之を常設機關と謂ふ。此等の機關は人の五官と同じく生活の必要條件にして假令法人の誕生即ち設立の許可は有りとも機關を具へざるときは法人は事實に於て生活すること能はず。殊に常設の機關は設立の當日より一日も之を缺くこと能はざるものなり。就中理事は常に組合を代表して一切の組合の事務を行(60)ひ、定款又は總會の決議を以て反對の趣旨を表明せられざる限は、外部に對して如何なる法律行爲を爲す場合にも凡べて一存の判斷を以て之を決行することを得るものなれば法、三二、民、五三、最必要なる機關なり。出資の第一囘拂込の取立法、一二、設立登記の申請法、一三、一四の如きも理事無ければ之を爲すこと能はず。然るに理事は法律の規定に依り組合總會に於て組合中より適當なる人物を互選すべしとあり。而も總會を招集すべきものは理事なれば最初の理事は此方法に依りて選任すること能はざるなり。故に特に第一囘の理事のみは別の方法にて之を定め此必要に應ずることを得せしむ。但し此場合には是非共之を定款中に記載せざるべからず法、二五。時として或は早速に適當なる人物を選出すること困難ならば、先づ理事の一人又は監事を定款中に定め置き、之をして急に總會を招集せしめ其上にて公平なる選擧を爲さしむるも可なるべし。

　要するに理事の職掌は重要にして其人物の適否は直に組合事業の消長にも關すべき者なれば十分組合内の實情に通じ利害を共にする者の間に於て之を見出すべきは申すに及ばず。責任の大なると同時に其權限も甚だ廣く例へば未成年者の後見人の如くにして而も本人が無形の法人なるだけに其行爲を代理する範圍も之に比して猶廣きものなれば其選任解任の際に極めて鄭重なる審議を經べきは論を須たず。總會に於て之を討議するにも亦特別決議の方法に依るべきを原則とせり法、二八。普通少數村落の區域内に設立する産業組合に在りては適當なる人物を多く求むるも困難に、且事務も比較的簡易なれば理事は一人にても十分なれど區域大にして事務多く分擔を必要とするか又は全體を擧げて一人に任すときは或は判斷を誤り又は專横に流るゝの虞ありとならば之を増して二人三人と爲すも亦可なり。此場合には通例一切の事務を相談に由りて決行すべきものなれども法、三二、民、五二ノ二、事情に從ひ一二重大なる事件の外は當番を定めて一人づつにて之を處決するとか又は信用組合ならば貸付掛貯金掛拂込掛等に事務を分掌するも亦可なるべし。又理事の任期に付ても法律に規定あれども法、二六、各地の事情によりて適當なる人物多からざるか又は改選の面倒を少くせんとならば定款の規約次第にて之を長くするの必要なることもあらん。唯産業組合の性質とし(61)て協同相助を本旨とするものなれば何時迄も人任せにして他人の世話により、坐ながら利益を收むるが如き無責任なる組合員の多く存在するは好ましからざれは、成るべくは組合員が漸次に組合の業務に通曉し、順を追ひて交代に理事の任務を引受くるも差支なきやうに成らんことは極めて望ましき也。

　監事も理事と同じく常設の機關なれども其平常の職務は理事の如く多からず。其文字の示す如く主として理事の仕事を監査し其不注意又は私曲により組合の發達を害すること無きを期するが爲に責任を帶びて取締の地位に立つものなり法、三四、民、五九。元來社團法人は諸種の人の集合より成るものにして各人の利益は時としては相牴觸することあり從ひて自然人の如く意思の統一なるもの存せず。故に已むことを得ず多數の希望を以て全體の希望の如く看做し總會の決議を以て意思を一定すべき最後の標準とはするなり。理事の行爲の監督の如きも總會に其任免の力が存する程なれば素より總會に於て爲し得ざるの理なしと雖總會は之を常設することは事實に於て不能にして平常の監督は猶他の方法に由らざるべからず。監事は此必要に應じて設けられたる組合の機關にて何時にても一切の帳簿を精査し自由に不審を間ひ匡すことを得理事をして專横の振舞無く其責任を盡さしむ。されど又一見監事が理事の行爲を是認したる上は總會に對しては理事と共同の責任を以て辯明の勞を執らざるべからず。要するに監事は組合の事業の統一を計るが爲に理事と總會との中間に在りて調和の任務を帶びたる機關なり。其他理事と組合自體との利害が相反する場合例へば契約を締結し又は訴訟を起すときの如き民法第一〇八條に依りて理事が組合を代表し難き時には監事特に組合を代表して其交渉に當るといふも法、三五、亦此中間機關たる性質よりして之を説明するを得べきなり。

　前述の理由よりして監事は理事と同じく亦必ず總會に於て組合員中より之を互選するを要し、組合員以外の人を依頼して監事と爲すこと能はざれども法、二五、監事と理事とは如何なる場合にも之を相兼ねしむることを得ず。猶又監事は理事以外の事務員ともなることを得ざるなり法、三三。之はさもあるべきことにて然らざれば監査の實を擧ぐること難かるべし。監事の員數及び任期に付きては理事の所に述べたる通りなり。殊に其職務單簡なれば如何なる組(62)合員にも爲し得らるべし。但し其人物の精選法に於て聊異なるべきは、理事は清廉の�ｺに於て缺くる所無き限は、成るべく敏活にして判斷力に富みたる人を選ぶべきなれど、監事に於て重ずべき性格は寧ろ此に在らず。�ｺ望ありて且つ世情にも通じ一般組合員より尊敬さるゝに足る者に非ざれは團體調和の大任を完うすること或は困難なるべし。産業組合法の第二十六條に監事の任期を成るべく短くせんとしたるは此職掌が格別の熟練をも要せざると監事と組合との間に種々の情實因縁を作るを避けしむるとの爲なれども、再選は固より之を禁ぜざるを以て見るも時としては永く一人の適當なる組合員に永く此職務を委ぬるの必要あるべき場合を想像するに難からず。組合内の先輩にして此制度に關する智識經驗に富みたる人あらば創業の當坐は之を理事として實務に當らしめ、追々に後進を養成し相當の後繼者を得るに至らば其上は監事として顧問監督の地位に居らしむるも亦組合發達の爲に適當なる處置ならん。

　さて以上所述の趣旨に基きて理事、監事の常設機關が定められたる上は組合の管理は一に理事の事務なり。組合の事業が能く設立の目的に合し當初企劃せられたる結果を收むると否とは一に理事の責任なり。各組合員は誠實に理事に最適任なる者は誰なるかを判斷して之を選擧したる上は果して之が與望に背かざるや否やを注意すれば足る。理事は又法規の命ずる所に遵ひ定款の申合せに基き總會の希望を考へて監事の監督の下に組合日々の業務に從事すべきなり。或は定款を以て又は總會の決議に由りて事務の一部分に限り理事をして之を行はしめず、特に一の機關を置き又は他の二機關にて之を處決すと定むることあらば理事は其部分に付きては代理の權限を有せず。然りと雖も外部の者が全く之を知らざりし場合には知らざりし者に對しても之を主張すること能はず法、三二、民、五四、況や理事が自分の事務を補助せしむる爲に或事務員を置きたりとも其人々の行爲に付きては外部に對しても、組合に對しても理事常に其責任を負はざるべからず。

　組合の管理上法令の規定に依り理事が必ず爲すべき事務の中に就きて最も重要なる者は總會の招集なり。總會とは組合員全部の集會の意味なれども法律上或一定の人の招集したる會合に非ざれは之を總會とは稱せず。産業組合に於(63)ては總會招集の權限は理事に屬す。但一の例外として監事が總會を招集し得る場合は理事の處置に不整なる廉あり之を組合員全體に報告せんとするときなり法、三四。

　總會は少くとも一年に一度は之を開かざるべからず。組合の事務の結果は必ず一年毎に之を精査し、金錢の收入支出其他一切の?況を詳にし、次ぎては其翌年に於ける活動の方針を決定し置くの要あり。而して之を爲すには少數なる役員のみに任すべきに非ざるを以て、是非共組合員全體の會合に於て愼重に之を討議せしむ。理事は義務として年一囘づつの總會は之を招集せざるべからず法、三二、民、六〇。其期日の如きは豫め何等の規約をも設けざりし時は、理事が適當なりと考ふる時を擇びて可なれども、組合の事業年度は毎年一月に始り十二月に終るを以て原則とするが故に則、六、大抵年度の終の前後即ち十二月下旬若くは一月の上旬中旬の中と定め之を定款の上に規定し置くを然るべしとす。組合の區域小にして組合員を會合するにさして困難を感ぜず且つ會計事務の十分綿密ならんことを欲せば、年一囘の定めを増して二囘、三囘又は毎月一囘と規約するも亦可なり。又一年を二期、三期に分ちて精算するも勝手なり、但法律上の義務は年一囘づつにて盡されたるもの也法、四七。

　斯の如く年々の會計を整頓するが爲に法律の命ずる所に從ひ普通期日を一定して招集せらるゝ總會を通常總會といふ。之に對して臨時總會と稱するものは其名の示す如く會期に拘らず重要なる事件の生じて相談の必要起りたる時に開く總會にして通例理事の見込に由りて之を招集す法、三二、民、六一ノ一。即ち理事は臨時總會を招集するの權限はあれども義務は無きなり。されど例外として組合員の多數が臨時總會の必要ありと考へ其開會を希望したるときは理事は假令其意無くとも之に從ひて招集の手續を爲さゞる可らず。此場合には總會の開會を希望する者全員の五分の一以上にして且つ書面を以て會合の目的及び其必要なる理由を申立つるを要す法、二三。監事が監督の必要上理事の意見に拘らず自身進みて招集することを得る總會法、三四、民、五九も亦之を臨時總會の内に數ふべし。此二種の總會は總會としての權限及び其決議の效力に至りては聊も相異ること無しと雖、唯一は年々の會計事務を討議し他は之(64)を爲さず、一は普通開會の時期一定し、他は一定せざるの點よりして其名稱を異にするのみ。其招集手續竝に決議の方法に於ても亦凡べて異れる所なきなり。

　總會を招集するは理事（稀には監事）の職務なり。招集の手續は法令と定款とを以て之を一定し之に由りて招集せられるものに非ざれば假令事實に於ては總組合員の會同なりとも法律上之を以て總會とは看做さず。是葢し組合の統一を保ち内部の紛亂を避るが爲に必要なることならん。總會の招集は其會日より少くとも五日以前に之を爲すべし法、三八、民、六二。且つ會議の問題となすべき各事項をも豫め通知し置くを要す。産業組合の區域は普通大ならざるを以て其通知は之を會の前日に於てするも間に合はざることはなかるべしと雖、各組合員をして自用を繰合せて成るべく出席の都合を付けしめ、且つ議案に就き前以て多少の勘考を爲さしむるは最必要なれば此五日以前にといふ規定は如何に緊急なる臨時總會の時にも之に從はざるべからず。招集の方法は郵便に由るも廻章を以てするも乃至は掲示口頭の案内を以てするも皆勝手なれども唯定款の中に前より其方法を定め置き之に從ひて爲さゞるべからず。

　總會の決議は定款に次ぎて大なる拘束力を有し?々組合事業の大方針をも變更することを得るものなれば、十二分に愼重なる方法を以て之を爲すを要す。故に若し望み得べくば組合員一人も殘らず之に出席し且つ全員の一致を以て凡ての問題を決することゝせば極めて共同の趣意にも叶ふものなれど、組合員の多くなるに從ひて一人の缺席者も無からんことを期するは甚だ困難となるべく、同時に亦各人の意見の全く一に歸することも極めて稀れなるべし。是を以て何れの合議制にても或數までの出席者あれば乃ち合議を開始し又一の意見に對し或數までの同意者あれば之れを決議と定めて實行するなり。此數を名づけて定足數といふ。産業組合の總會にては、原則として幾人にても出席者のある限にて會議を開き其出席者の半數以上の者が一致したる意見を以て決議と爲す法、三六。出席者過半數の制は最簡單なる採決方法にして如何なる場合にも容易に團體の意思を一決することを得と雖、事件の種類によりては斯の如き決議に一任するときは輕忽不愼重の貶を免かれざるものあり。故に産業組合法に於ても或一定の事項に限りては成(65)るべく丁寧に之を討議せしむる爲め特に其定足數を増加せしむ。即ち定款に特別の申合を置かざる限は左の數項の事件を決するには組合員半數以上の出席あり、且つ其出席者の四分の三以上の同意あるを必要とせり。

　一　役員の選任及び解任法、二八

　二　定款の變更法、三九

　三　組合員の除名法、五二

　四　組合の解散及び無限責任以外の組合の合併法、六二

　法律の規定に依りて特別決議の方法を用ゐしめたるは最重要なる此等の事項のみなれども猶定款を以て其他の事項をも特別決議に由らしむることを得べし。之と反對に此等の事項を決議すべき方法を別に定め或は此定足數を増減するも亦定款の自由なり。此法律は單に定款に何等特別の規定の設け無きときのみ適用せらるべきものなりとす。但重大なる事項を決議するには出席者の過半數といふが如き簡易なる方法を以て輕々に決を採るの不可なるは言を須たざれば十分に問題の種類を判別し決議の定足數に差等を設くるは必要なることなり。定足數を大にすれば時としては出席者の數又は賛成者の數が之に滿たずして決議成立せず、仍りて同一議題に就き再三囘總會を開くの必要を生ずることもあるべし、されど事項の性質によりては斯の如き煩雜の手續を敢てしても成るべく多數者の一致を須つべきものもあるなり。

　總會決議の説明の序に一言を費すべき問題あり。即ち組合の事務の中に就きて或一二の事項のみは組合内の意見を一致する爲に上に擧げたるが如き多數の方法に由ること能はず是非共全組合員各個の同意を經ざるべからざることなり。今之を列擧すれば、

　一　無限責任組合にて新加入者を承諾せんとするとき法、四九

　二　無限責任組合が他の組合と合併せんとするとき法、六二ノ二

(66)　三　組合が其組織を變更せんとするとき法、六八

　是なり。組合の組織即ち責任負擔の程度の如何は直接に各組合員の財産の上に損益の影響を及すべきものなれば假令一人たりとも不承知なる者を強ひて之に向はしむべからず。無限責任の組織にては各組合員の間に密接なる連帶の關係あり、一人の失敗は忽にして他の人々の迷惑を惹起する者なれば是も亦自分が不承知なる人と事を共にするを強ふべきに非ず。二組合間の合併につきても亦同じ理なり。故に假令一人たりとも不同意なるもの有る限は之を決行する能はざらしむ。但し總組合員一人殘らずの同意は單に總會を招集したるのみにては到底之を求め得ざること明かなれば、必ずしも同一時間、同一處に於て之を得る能はずとも、囘?連印の方法を以て順次に之を求むるも可なり。而して第三の場合即ち組織の變更は是定款の變更なれば別に總會にて特別決議の一定するを待ちて地方長官の認可を申請すべき法、三九（參照）ものなるかといふに既に總員の同意ある上は事實に於て總會の決議ありしも同樣なれば復此の形式を履むに及ばずと解して可なるべし。

　組合に出席して辯論し、賛否によりて自己の意見を發表するは各組合員の權利にして、同時に義務なり。組合の利害は早晩皆銘々の身に影響を及ぼすことは如何なる團體に於ても然らざるは無しと雖、殊に産業組合の如き對等の者が協力して各自の利益を伸張するの目的を有する者に在ては、猶更その事業の消長を苟且に附すべからず。總會の議案の如きは一として組合の盛衰に關せざるもの無ければ成るべくは常に出席して利害の關係を審議せざるべからず。唯若し差支ありて會日に出席し難きときは、他の組合員の出席する者に委任して間接に意見を發表することを得法、三七。出席者の定足數を計算するとき若しこの代理を帶びたる者あらば（書面を以て其權限あることを證明すべし）その分をも出席者の中に算入し得。招集の通知中會議の題目が明になり居る場合には前以て自分の一存を定め得べければ、或は代理の組合員に其人の意見と反對なる表決をも委任すること有り得べしと雖、普通委任の實例に徴すれば全然自己の定説は無く萬端を擧げて代理人の勝手に任かせ言はゞ其代理人をして自分の裁決權を自由に利用せしむる(67)者多し。加之總會にては必ずしも招集の際通知したる事項のみを議するとは限らず、定款の定めやう次第して通知せざる事項をも會議するを得る組合も有るべければ法、三九、民、六四、愈々以て此代理表決の方法は自身の出席に代るだけの效能あるものに非ず。況や代理人の撰擇其宜を得ざるが如きことあらんか、其結果は組合の爲に計りて忠實ならざるだけには止らず、猶之に對して害を加ふることゝなるべし。法律にては此代理人たる者も亦同一組合の組合員たるべしと規定あれども、假令組合員なればとて一人にて何十人の代理をも自由に勤め得ることゝすれば、其弊は少數者の專斷となり合議制の趣意にも反し出席者の數及び決議に定足數を設けたるも何の甲斐も無きことに歸すべし。故に定款の申合を以て組合員の數に應じ一人に代理することを得べき人の數を五人、七人と制限し置くことは或は適當なる處置ならん。

　各組合員の議決權は常に一人一個づつとす。如何なる場合に於ても出資口數の多少、加入の前後其他の理由を以て之に差等を設くること能はず法、三八、民、六五ノ一。此點は産業組合と其他の社團法人との間に存する最肝要なる差異なり。民法の法人にては各社員の議決權は原則としては平等なれども定款の規定を以て如何樣にも差等を設くることを許せり。商法の株式會社の如きは持株の多少に應じて株主の議決權を強弱するを以て寧ろ本則とせり。産業組合は序論にも説ける如く元來貧富の懸隔竝に之に伴ふ勢力の強弱より起因する弊害を防制せんが爲に設けられたる制度なれば、其内部に於で再び財産上其他の階級を作り勢力の優劣を認むるが如きことあるべからず。此趣意よりして如何に微賤なる組合員の意見も輕ぜらるゝこと無く一樣に重きを爲すことを得せしめたる也。されば組合事業の擴張縮小より役員の選定合計の監督に至るまで常に其議に與かり、誰も彼も一樣なる力を以て判斷を下すことを得るなり。

　法令と定款とに由りて定められたる手續を履みて總會を招集し、次ぎて合議の方法が亦能く法令竝に定款の規定に反せざるや、否やを注意するはつねに理事の責任なり。總會の決議にして或は議決權平等の原則を破り又は定足數に缺けたる賛成を以て決を採るが如きことあらば理事は之れを執行せざるも差支なし。何となれば斯る決議は法律上所(68)謂總會の決議に非ざればなり。然れども理事は故意又は不注意を以て斯の如き不完全なる決議を黙過し之が執行に着手することもあるべし。此場合には之を知りたる組合員は其由を地方長官に申立て決議の取消を請求することを得。地方長官は之に由りて調査を遂げ果して申立の通りなりと認めなば法第六十一條の權限に由り取消の命令を下すべし。但し此請求は決議のありし日より一箇月以内に之れを爲すを必要とす法、二四。請求が一箇月の期限に後るゝか又は組合員中誰も之を申立る者無かりしときは假令不完全なる決議なりとも監督官廳が自ら心付きて進みて其取消を命ぜざる限は組合内に於ては完全なる拘束力を有するものなり。

　臨時總會は常に豫定の期日無く必要の起る毎に之を開くものなれば、之に於て議せらるべき事項は始より一定すること無し。之に反して通常總會にては年々一囘づつは是非共其議題と爲すべき或種の事件あり。即ち計算書類承認の件法、三一、是なり。理事、監事等の任期も法律の規定に由るも法、二六、又は定款の定むる所に從ふも大抵年を以て數へらるゝを以て、普通年々の通常總會にて其改選を爲すべしと雖、必ずしも年々一囘宛は改選の必要生ずるに非ず。又任期の中途にて死亡し解任せらるゝこともあれば、或は臨時總會にて選任すべき場合もあるべし。故に通常總會に專屬する事項とは稱し難し。又一事業年度に於て組合外より金錢を借入るも必要の有無、若し必要ありとせば其金額の最高限竝に信用組合に在りては一年度内に一組合貝に貸付を爲し得べき金額の最高限は共に年々一囘づつ之を決議し置くを必要とせり則、九と雖之も必ずしも通常總會にて之を議するを要せず。特に臨時總會を開き又は臨時總會を開きたる序に之を議するも可なり。兎に角毎年議決しさへすれば法定の義務は遵奉したるものなり。されば年々の通常總會を是非とも經べき事項は獨り上に擧げたる會計事務に關する書類の承認のみなり。

　計算書類の種類を列擧すれば左の如し。

　一　財産目録

　二　貸借對照表

(69)　三　事業報告書

　四　剰餘金處分案

　此等の書類は各其名の示す如く過去の一事業年度間に於ける組合活動の?況と、組合財産の増減とを明白に發表し、同時に次年度に對しても最適當なる事業の方針を一定すべき材料なれば極めて精密にして毫も違算無きを保たざるべからず。理事は組員の輿望に背かず其責任を全くしたることを公證する爲に之を總會に報告して其承認を受くべし。計算書類は總會期日より一週間以上前に之を調製し其各一通は監事の手に渡して猶其果して確實のものたるや否やを檢せしめ、今一通は之を主たる事務所に備へ置き組合員又は組合債權者にして總會會議の前に之を見んと欲する者あらば必ず其申出に應じて自由に之を閲覽せしむべし法、三〇、三一。

　理事が作成し監事が通覽して之を確實なりと認めたる計算書類を總會に提出したるに組合員の全體又は其多數が之に對して異議を挾まざることを表決したるときは、役員の過去に於ける處置と今後に對する意見には他の組合員も亦同意したるものにして、其一年度に於ける役員の職責は完くせられたるものなり。之を總會の承認とは云ふ。稀なる場合に於ては總會の承認を得るに困難なることあり。剰餘金處分案即ち一年度の總收入を配當し又は積立の方法如何の問題に關して總會の議、理事の意見と合せざるときは、最初の案を變更して衆望に從ふも容易なれども其他の書類の不承認は概ね面倒なる結果を生ずべし。理事監事は出來得る限り丁寧なる説明を與へて、誤算誤記の無きことを保證し、能く事情が一同の腑に落つることを力むべしと雖、萬一それにても猶承認の決議を得る能はざるときは或は役員の辭任解任となり、又組合事業中止の不幸を見ることあらん。何となれば法律の規定に依れば毎事業年度の計算書類は是非共通常總會の承認を受くべく、承認無くして事業を進行すること能はざれば也。

　監事も亦一旦理事の作成せる書類の正確なることを認めたる以上は、總會に對し共同の責任を負ひ辯明の勞を執るべしと雖、其前に在りては合點し難き箇所あらば一々之を指摘し理事の反省を促し又自己の意見を述ぶることあるべ(70)く、若し二者の考が終に一致せざるときは進みて之を總會に發表し、或は監督官廳にも報告することを得法、三四、民、五九。故に理事は平生獨斷を以て組合事務を左右することを得る者なれども、此毎年度末の報告に監事又は總會の承認を得る能はざらんことを思ひて、常に自ら檢束を加へ帳簿の記入を嚴にし敢て疎漏の處置に出でざるべし。此の如きは監事又は總會の本來の性質にして斯の機關の作用に據り、各自私欲と偏見とを去りて組合事業の發達の爲に共同の歩調を取るときは郷黨の繁昌は期して待つべきなり。

　總會の承認を受けたる會計書類は其一通を寫して之を地方長官に差出すことを要す則、七。地方長官は監督機關として亦之を審査し、不都合の點を發見するときは説明を徴し、又は之に就きて組合の?況を檢することあるべきを以て、理事は愈々愼重に其職責を尋すなるべく、又組合員全部が合同して不正の行爲を爲すことも之を防止することを得べし。故意に計算書類の記載を増減し、事實と反せしむるときは理事監事を罰す法、七六ノ三。事業報告書に掲ぐべき事項は施行規則第八條に之を列擧せり。此他にも種々の事實を報告するは隨意なりと雖此事項のみは必ず之を省略する能はず、之が記載を怠り又は虚僞隱蔽を爲すものは罰を受くる也。

　年々の通常總會に於て必ず議すべき事務は前にも言へる如く、此會計に關する承認のみなれども、猶他に事務の性質上概して通常總會に於て議せらるべきものあり。一般組合に於ける一年度借入金の最高限度及び信用組合に於ける一年度内一人に貸付くべき最高限の如きは、共に新年度の初、即ち普通通常總會の期日前後に於て之を決定するの必要あり。然らざれば組合事業の進行を妨ぐるの虞あり。又役員の改選の如きも多く通常總會に由るならん。理事、監事の任期は特に定款に定めざる限は三年と一年と也法、二六。其他多くは年を以て之を計ふべきを以て、常に通常總會に於て計算の承認を終りたる後、直ちに後任と更迭するを便とす。されど又死亡等の不時の原因により補缺の要あることもあるべし。此場合にも其任期の終迄缺位のまゝ進行するか、又は任期の殘務を限り後任者を選任するか便宜定款を以て之を定むるを得べし。役員の給料の如きも選任の際之を決議することゝなるべく、報酬賞與の如きは任期(71)の終、又は解任と同時に之を決議するならん則、六。

　要するに組合活動の大方針と共同財産の處分とは、組合員全體の意見に基きて之を決定し、二三の役員の手に一任せざることは産業組合の性質なれば總會の決議の必要なることは言を須たずと雖、既に協力進歩の目的を以て組合を構成したる以上は、又能く事務分擔の法を設け所謂、分業の利益を收めざるべからず。即ち組合あるが爲に各人平常の事務を増加し、勤勞の時間を之に取らるゝが如きは決して好ましきことに非ず。臨時總會の如き假令一年に數十囘之を開くも、法律上更に差支は無けれども若し能ふべくは年度始の通常總會に於て、成るべく一切の事務を議定し置き、緊急なる變動の不意に起りたる場合の他は之を招集せず、以て組合員の時間と費用とを省くの謀を爲すべし。殊に産業組合にては別に議員を特選せず、全員、皆、會議に列席すべき者なれば、些細の問題の爲に?々議事を爲すは却りて内部の不調和の原因なるのみならず、入費の點よりいふも三囘の會合を一度に減ずるの利益は大なり。其代りに一年一囘の通常總會は正月の休の如き業の閑なる頃に之を聞くことゝし始より期日も分り居ること故、成るべく一人も殘らず參同するやうに心掛くべし。されば通常總會の會議事項として法律の定めたるは、單に計算書類の承認のみなれども、此他にも借入金、貸付金の限度則、九、役員の任免法、二五、給料、報酬、賞與の額等を始として、前に掲げたる諸種の事項も、其原因が不意にして至急に議決を要するものゝ他、豫め想像し得る限は之を通常總會に於て決し置くを適當とす。定款の變更の如きも其必要を發見するは必ずしも年度の終り通常總會の前とは限らざれども、大概は之に對し十分の思慮を加へたる後、通常總會の會議を以て之を決行し、新年度の始より實施するを以て便とするならん。

　されども亦臨時總會の招集の面倒と勞費も之を避くること能はず、是非共、早速に其變更を爲し遂ぐべき場合も無きに非ざるべし。例へば組合事業の都合にて資本金を増加し、又は其拂込方法を變ずるが如き、共に定款事項の變更なれば決議に由るに非ざれば之を爲す能はざれども、新年度の開始を待つ時は機會を失し利益を得る能はず、又は損(72)失を免かる能はざる場合ありて急に總會を開くの要を見ることあるべく、此他にも猶多かるべし。又或組合員を除名せんとするときも通常總會を待つとすれば、其間に除名せらるべき者をして、種々不正なる準備を爲さしむるの虞あり。是亦事態の重大なる時には假令其一事件のみの爲にも臨時總會を開くの必要を見るべし。此他、時と場合に應じ招集權者の見込にて開否を決すべく、又は定款中に略々其條件を明定するも可なり。要するに輕々しく?々臨時總會を催し、時間と入費とを無益に掛くることを愼しむべきのみ。

　臨時總會を招集する必要の萬已む能はざる場合は、概して組合の爲に不幸なる事件の生じたるときと謂ふも不可無し。組合員、全數の五分の一以上に當る者が法津上の權利に據り總會の招集を理事に請求する場合法、二三、の如き亦然りとす。理事にして平常、組合事業の進行に注意を怠らず、且つ組合員の輿望に適應せんことを心掛るときは、此請求を須たずして招集の手續を爲すなるべく、組合員が此權利を援用して理事の承諾の有無を問はず強ひて招集を爲さしむるは、常に組合員と理事と意見合はざるか或は役員全體が臨時總會の開會を不便とする場合なり。理事が招集を爲さゞるに監事が其獨立の招集權法、三四、民、五九ノ四、に據りて臨時總會を開く場合の如きは殊に必ず理事に不正、不信任の行爲ありて後なり。組合内の調和して理事の擧動公明正大に毫も組合員の不平、不人望を引起すこと無き限りは此の如き臨時總會を開くの必要無きなり。

　又思慮ある理事は略々一年内に生ずべき事務の大要を豫想し、皆之を通常總會の議題として決を採り置き?々中途にて臨時總會を煩はすこと無かるべし。此豫想外に生じたる事件の爲め、又は理事の必要を認めざるに猶臨時總會を開くべきあらば恐くは組合の好兆なること稀ならん。實際に於ても監事が招集する臨時總會又は組合員の請求に基くものは共に多くは理事の辭任、解任を以て終るなり。

　法律上必ず總會の決議を要すとする事項は甚多からず。今重ねて之を列擧すれば理事、監事の選任、法、二五、同解任、法、二七、會計事務の承認、法、三一、理事の代表權の制限（但し定款に規定無き場合に限る）法、三二、民(73)五三、複代理の禁止（但し定款に規定無き場合に限る　法三二、民、五五、定款の變更法、三九、これは細別すれば場合甚だ多し、即組合員の除名、法、五二、組合の解散、法、六二、清算人の選任、法、七五、民、七四、清算事務の承認、法、七一、七三、理事、監事に給料、報酬又は賞與を贈ること（但し定款に規定あらばよし）則、五一、年度内借入金の最高限及び信用組合にては一人に對する貸付金の最高額を定むること則、九、の十一項に過ぎず。されど又定款中に此他の或事項は、必ず總會の議決を經べしと定むることも隨分あるべく、又定款には之を約せずとも時々總會に於て其意思を發表するを得、理事は必ず之に從ひて組合事務を處理せざるべからず法、三二、民、五三。唯總會の議事は理事が招集の際に併せて通知を爲したる議題に就きてのみ可否を決するを以て通則とすれば總會の方より進みて其意思を發表する機會なきこと多かるべし法、三八、民、六四。故に時に應じて總會の意向を一定し理事をして之に從はしめんとせば定款中に通知せられたる議題以外に亙りても可否の決を採ることを得る旨を規定するの必要あり。

　上來組合總會の性質と機能とを詳説する間に裡面より略々、理事、監事の職掌、如何を明にするを得たりと信ず。

　要するに理事は産業組合法の規定に從ひ且つ定款の各條項と總會の決議とに基きて組合の事業を行ひ、此他には何等の制肘をも受くる所無く一切の場合に於て組合を代表する也。換言すれば法規、定款及び總會の決議に矛盾せざる限は理事が其職務を以て爲したる行爲は凡て産業組合自身の行爲なり。組合外の人は固より各組合員も監事も之を拒むこと能はず。監事の權限は單に理事の所爲に不正あり又は有りと信じたる時のみ之を行ふことを得る者にして、且つ唯監督官廳又は總會に向ひ自己の意見を發表し得るに止り常に些も理事を指揮するの權無きなり。されば理事の地位は普通商店の支配人、番頭に比すれば遙に重く、時としては主人の爲すべき事をも自由に行ふなり。一例を示せば新に組合に加入せんとする者あるとき無限責任の組合のみは組合員全體の同意有るに非ざれば之を許す能はざる法の規定あれども法、四九、他の保證責任、有限責任の組織に在りては定款に特に條件を定めざる限は皆、理事の考にて之(74)を入れ又は拒むことを得るなり。物品賣買の掛引、約定より貸借の關係迄一切理事の見込に由りて之を決するを常とす法、三二、民五二ノ二。蓋し産業組合は法人にして法律上普通の人と同樣に取扱はると雖、素より耳目、鼻口、手足無きを以て之に代りて見聞し言ひ行ふ者を定むるの要あり、理事を以て之に充てたる也。監事は常設の機關なれども日々の事務には更に與ること無し。組合の?態が順境に在る間は其活動の全部を負擔する者は理事なり。

　理事の事務の中、最主要なるものは各組合の目的たる事業の執行なり。即ち信用組合に在りては組合員に對する金錢の貸付、取立又は利子の收納。販賣組合に在りて組合員が賣却せんと欲する生産物の受入、整理、賣却の取引及び代金の受取竝に其分配。購買組合に在ては組合員が需要する物品買入の取引其分配、代金の取集等。最後に、生産組合に在ては備付機械器具の買入方より之を使用する組合員に對する注意、使用物品の貸渡、受入の如き枚擧に遑あらず。此等の事務は必ずしも理事が自ら手を下すを要せず、別に事務員を雇入れ理事は唯之を指揮し事務の大體に注意するも亦不可なる無しと雖、元來産業組合の物たる郷黨相助を以て其基礎とするを以て團體の大きさは概して十分なる利益を生ずるに足らず。故に經費は出來る限、節減せざれば假令一時の生存には差支無くとも永遠の發達は覺束なきもの多からん。組合創立の當分の間は理事は此等細末の點まで躬、自ら之を行ふを避くべからず。帳簿の記入の如きも年々の決算報告に際し組合員を滿足せしむる爲には十分精確なるを要するを以て亦理事が自ら之を爲すを適當とす。

　此等の理事の事務は、各種の産業組合に就き今一々之を説明すること能はず。後篇各論の中に於て自然に之に説き及ぶことあるべし。此等を除きて凡ての組合に共通なるものゝみを言へば、創立の後敷年間は理事の事務は甚多けれ共、年數を經るに從ひ、一方には事務に熟練して困難を感ずること漸く少くなる上に事務の數も亦大に減ずるなり。先づ設立の許可ありし年度には、第一に第一囘の出資拂込を爲さしめ、其終りたる後直に登記を申請し、且つ組合員名簿を差出すは凡て理事の任なり。第二年度以後も、出資の拂込を終る迄は其取立の事務は極めて煩しく且つ之に伴(75)ひて其都度、登記所に於て組合員名簿の變更を請はざるべからず。此等の事務は永久の生存を爲すべき組合にとりては單に一時のものにして其常務とは言ふべからざれども、目下我國にては法令、新に布かれ、到る處の組合は皆其幼年時代に在るを以て此際選任さるる理事は最も此事務に通ぜざるべからず。組合員名簿には各員が拂込みたる出資金額と其拂込の年月日とを記載せよ法、一五、とあるを以て毎月拂込又は毎週拂込の方法を採るときは亦毎月、毎週に名簿の變更を登記所に請ふの要あるなり。但し此場合に登録税の免除せられあることは法、六、既に前に言へり。

　出資拂込の完了したる後は理事の職務は大に簡單となり、定款、總會の決議録及び組合員名簿の保存法、二九、年度末に於ける各種計算書類の作成、保存法、三〇、竝に監事總會及び監督官廳に對し順次に之を提出すること法、三〇、三一、則七、の如きは其事務の主たるものなり。其他臨時に起り得べき事項にして理事の職務として法規に明定したるものは左に列擧する數項の他に出でず。されど定款に規定し又は總會の決議に由り又は事業の當然の性質より、理事の處辨を必要とするものは極めて千差萬別なるべく、今一々之を述ぶることは難し。

　一　定款變更の決議成立したるときは地方長官に申請して其認可を受け、且つ其變更が法第十四條の登記事項なるときは、速に登記の變更を申請すること法、三九、一四ノ二。

　二　若し定款の變更が出資一口の金額の減少又は保證責任組合にて組合員の保證金額の減少ならば、先づ財産目録と貸借對照表とを作成し、之に減少の理由書と其總會の決議録とを添へて地方長官の認可を申請し、次に組合債權者に此事を通知して異議の有無を問ひ、異議を述ぶる者あらば之に對し相當の處分を爲すこと法、四二、四三、則、一〇。

　三　理事監事の改選新任ありたるときは其登記の變更を申請し且つ之を地方長官に屆け出づること法、一四、則一六。

　四　新加入の申込あり又は組合員に非ずして組合の持分を讓受けんとする者あるときは無限責任組合ならば組合員(76)總員の同意、不同意を問ひて後之に決答を與へ、其他の組合ならば定款の定むる所に從ひ之を許諾又は拒絶すべし。愈々加入したる上は出資の拂込を爲さしめ且つ組合員名簿の記入を爲すこと。

　五　組合員脱退を申出るもの又は持分の讓渡を爲さんとする者あるときは、事業年度の終に於て定款に依り拂戻すべき持分を計算し又は名簿に相當の變更を爲し且つ之を申請すること。

　六　組合員間に持分の異動あるときは帳簿を變更し、且つ名簿の變更を申請すること。

　七　監督官廳の命あるときは組合の事業に關し報告を爲し、其他の命令に從ふこと法、六〇。

　八　組合財産を以て債務を完濟するに足らざることを發見したるときは、破産宣告の請求を裁判所に爲すこと法、六九、民、七〇。

　九　總會が組合の合併を議決したるときは、地方長官に申請して其認可を受け且つ相應の登記を爲すこと法、六五、六六。

　十　破産合併の場合の他、組合が解散したるときは其登記を爲し、次に之を地方長官に屆出ること法、六三、則、一六。

　組合合併の或場合及び破産は共に組合の解散なり。解散に關しては次の章に之を説くべし。

　

　　　　　　　　　　第三節　組合の解散

　

　組合の解散は法人格の消滅なり。法人は自然人の如く外部より生存期を限らるゝこと無く、隨て或時期に至れば早晩、死亡を免かれずといふものには非ず。原則としては寧、永遠の生存を想像し得るもの也。されど組合を組織する者が自ら團體を解き共同事業の繼續を中止せんと欲するにも拘らず、猶之を強ひて最初の?態を推持せしむるの必要は亦之を認むる能はず。或は又資本の缺乏、組合員の減少等に由り事實に於て既に完全なる生活力を失へるに、猶、(77)始に與へたる許可によりて其存在を許容するは、却りて一般社會の爲に害無しとせざるを以て、斯の如き場合には組合をして解散せしむ。

　組合が解散すべき場合は産業組合法に之を列擧せり法、六二。其中直接又は間接に組合の意思に基くもの三と組合の意思如何には拘らず、或事情の發生に由りて直に解散せしむるのもの二とあり。

　一　定款に定めたる事由の發生　組合によりては設立の當初より存立期間を豫定し、十箇年間又は二十箇年間共同せんと年數を限る者あり。或は又組合員の數が十年を過ぐるも増加せざるときとか、何十人以下に減少したるときとか、販賣物品の生産額が幾何以下と減じたるときとか、又は購買物品が村内にて十分に生産せらるゝに至れるときとか、其他種々の條件の成就、不成就を以て解散の事由とすることあらん。此等の事由を豫め定めたるときは必ず之を定款中に記載すべきことは前にも言へり法、九ノ二。而して此定款に定めたる期限が來り、又は事由が發生したるときは別に組合の意思を新に發表するを須たずして解散するなり。されど又此等の期限事由は定款の變更により總會の特別決議を以て何時にでも之れを改め、年數を伸縮し事由を取替へ又は全然之を刪除して無終期の組合と爲すことも凡て自由なり。

　二　總會の決議　假令、定款には何等の解散の事由を豫定せずとも、組合員多數の希望が之に在ることを知るときは、總會の議に附し其可決によりて組合の意思を一定し解散の擧に出づることも亦法律の認むる處なり。唯此決議は、定款の變更、理事、監事の選任、解任等と同じく定款に別段の定め無き限は、半數以上の出席、四分の三以上の多數、即ち所謂、特別決議の法に由りて之を可決すべし法、六二ノ二。猶、定款に別の決議方法を定むるは可なるも、常に普通の決議よりは稍々鄭重にする方針を採るが穩當なることは勿論なり。

　三　組合の合併　合併も亦特別決議の法に由り組合員の大多數が其意向なることを確むるの要あり。無限責任組合にては總員の同意を要し法、六二ノ二、其上猶地方長官の認可を受くるを必要とす法、六五。合併は必ずしも(78)組合の解散とはならず、例へば乙が甲に合併するときは乙組合の爲には解散なれど、甲組合は單に内部に多少の變動を生ぜしのみ。甲と乙とが合併して丙組合となる場合に於て、始て甲乙の組合の爲に共に解散の結果を生ずるなり。

　四　組合員が七人未滿に減じたるとき　組合は七人以上の人が申合すに非ざれば、之を設立する能はざることは前に云へり法、七。蓋し多數人の同意を得がたきの處あるは好望の事業なるを促し難く、且つ組合の利益は多人數協同するに非ざれば之を收め難きが常なるを以て、假令創立當時ばかりなりとも、斯の如き少數にては組合を維持することを許さゞるなり。是と同じ理由にて始は多かりし組合員が、脱退又は死亡して漸次に減少し遂に七人に足らざるに至らば、假令其者等には組合を繼續するの希望十分に有りとも猶解散せしむるなり。

　五　組合の破産　破産とは組合の財産が甚しく減少して零よりも猶少くなり、裁判所より命令を下して強制的に其の財産を處分せらるゝ場合をいふ。即ち組合に現存せる金錢、物件竝に組合が保有せる債權の全體を合するも、組合が負擔せる債務を完濟する能はざるときは、組合理事は直に之を裁判所に報告して破産宣告を請求すべき義務あり。之を隱蔽し又は知りつゝ請求を延引すれば罰せらる。組合債權者は又進みて之を請求することを得。猶又何人の請求無くとも裁判所自ら職權を以て破産の宣告を下すこともあり。組合資本の甚しき缺損は大抵事業の進行を圓滑ならざらしめ、假令皆無には至らずとも既に生活力の大部分を銷磨する者なれども、事業の未來にして有望のものならば、或は借金策を以て一時を彌縫し得ること無しとせず。されど債務の辨濟期限も到着し總勘定に不足を生ずるが如きは、愈々快復の見込も無きものなれば、此破産の宣告を境として組合の意思如何に拘らず解散を爲さしむるなり。

　以上五の場合の何れか一つに該當すれば茲に組合は解散し、法律上の人格は消滅に歸す。而して解散したる組合に對する處置如何の問題は、組合に殘餘財産の存すると否とによりて自ら異らざるを得ず。何となれば財産を合同して(79)組織したる團體に在りては、後始末の事務の中、最肝要なるは財産の分配なればなり。而て分配すべき財産は少しも殘らず却りて不足を告ぐる破産の場合に在りては、關係の及ぶ所廣くして其處分如何は又組合債權着の利害なり。故に之に對して裁判所、十分なる監督を爲し、且つ普通の場合とは異れる方法を以て殘務を結了すべきなり。其他の場合には多少の殘金あり之を公平に組合員間に分附するを以て最後の目的とするなれば仲間の相談を以て何分の決着を見るも難きに非ず。此中にても合併に由る解散に限りては又、聊、?況の異るものあり。合併は二の解散と同じく總會の決議に由りたるものなれど一旦全然解散して後、更に他の組合に加入し、又は他の解散したる組合の組合員と合同して新に一組合を設立するの煩雜を避け、現在の儘にて合併を爲し、帳簿上の計算にて將來の?態を變ぜんとするの趣旨に出でたるものなれば、是も亦精密なる財産分配の手續を經るを要せず。債權者に催告して異議あるものには其際辨濟し、其他の債務は從來の財産と共に之を新組合に引繼がしむれば足る。而して各組合員の權利義務は別に合併前に比して増減する所無きを常とす法、六四、六七。

　破産と合併とを除き其他の三の場合の解散に就きては法律上、共通の處分方法あり。之を清算といふ。法人は解散と同時に既に其人格を失ひ、而して清算は解散ありて後に始るべきものなれば、清算の際には最早、産業組合といふ獨立の財産權の主體なく、處分せらるべき財産は一時舊組合員の共有物となるべき理なれども、此の如きは百事不便なるを以て、所謂、法の擬制を以て清算の結了する迄は清算の目的の範圍内にては法人は猶存續するものと看做さる法、七五、民、七三。即ち法人の資格を以て賣買貸借等の取引を新に爲すことは最早能はざる理なれども、清算の爲に必要なる限は時としては之をも獨立に爲し得る也。一例を云へば組合が從來、建物、地所の如き財産を有せしに之を金錢に換へて借金を辨濟し殘餘を分配するにも、解散と共に法人無くなれりとせば、組合員全體より一々委任?を取るに非ざれば賣買の登記をも爲す能はざるの不便あり。然るに此法文ある爲に斯の場合にも組合代表者の名を以て簡易に手續を終ることを得るなり。

(80)　解散の後、清算の間、存在する組合に於て組合を代表して其事務を執り解散前の理事と同一の地位を占むる者を清算人と云ふ。唯其法人は清算の範圍に於てのみ法人なれば、從て清算人の事務も理事に比して遙に少なきは勿論なり法、七〇。理事は解散の登記と屆出とを爲せし後、事務を清算人に引繼ぎ之を界として其任務は終る。されども普通、清算人となる者は亦理事なり。監事又は他の組合員、其他理事以外の者を清算人と爲さんとならば兼て定款に其事を規定するか、又は其際、特に總會の決議を以て之を選まざるべからず。清算人は理事、監事とは異り必しも組合員間より互選するを要せず。辯護士其他適當なる外部の人を以て之に充るも可なり。清算人には任期、無し。清算事務の片付く迄は長くとも短くとも其任務を繼續するを原則とす。されど亦中途にて辭任し又は總會の決議を以て解任せられ又或は死亡することあり。場合によりては清算を監督する裁判所が自ら進みて清算人を解任することあり法、七五、民、七六。此等の場合に總會が後任者を選擧せず、組合定款にも後任者を定むる條項無きときは、裁判所は其職權にて公に之を選任することあり法、七五、民、七五。

　清算人と爲りたる者は何れの場合にも就職後二週間の内に、解散の原因年月日と共に自己の氏名、住所を登記すべし法、七五、民、七六。前清算人の解任ありて之に代りたる者は又其登記を爲すべし法、七四。且つ凡べて登記を爲したる事項は何に由らず之を地方長官に屆出づべし則、一六。登記を怠りたる清算人は五圓以上三百圓以下の科料に處せらる法、七六。

　清算人は何の爲に選まるゝか。産業組合の清算とは如何なることを謂ふか。法律の定むる所に依れば要するに次の三種の目的の他に出でず。

　一　現務の結了

　二　債權の取立及び債務の辨濟

　三　殘餘財産の引渡

(81)　是なり法、七五、民、七八。現務の結了とは爲しかけたる業務のみは解散ありしにも拘らず進行せしめて之を片付くる也。例へば水車使用を目的とする生産組合にて、既に預入れたる玄米のみは假令、解散ありし後なりとも猶之を精白して返すが如き是なり。次に組合の帳簿に就き財産の在高を見、且つ組合員又は組合員外より受取るべき金錢、物件あらば殘らず之を集む。是、債權の取立なり。されど債權には期限ありて其到着する迄は相手方に履行の義務は生ぜざるものなれば、普通は之を待つ爲に清算には永き時日を要するなり、便宜上相談を以て多少の割引等を爲し期限前に之を受取るが如きは清算人の手加減に在るべし。債務の辨濟にも亦期限の遲速あれば片端より順次に受取りたる物を以て返却に充つるも可なり。辨濟を受くべき組合債權者は帳簿に依りても大抵之を知ることを得べきも猶、精確を期する爲、法律は清算人に公告の義務を負はしむ。即ち二箇月以上の期間を定め組合に對し債權を有する人は之を申出づべく、若し期間を過ぐるも申出を爲さゞる人には辨濟を爲さゞる旨を公告すべし。此公告は繰返し三囘之を爲す。故に如何に急速に清算を終らんとするも六箇月以上の時日を費すの必要あり。

　又假令此間に申出を爲さずとも帳簿面の上にて知ることを得たる債權者は除斥すること能はず。人の名のみは知れて金額の不明なるときは其人に向ひて之を聞合はすべし法、七五、民、七九。公告を爲さず又は公告に應じて申出を爲す者の有無をも究めずして、早く清算事務を進行せしめんとする者あらば、其清算は無效なるのみならず又科料の罰に處せらるべし。公告の期間も過ぎ債權者の數も債權の金額も明かになり、一方には組合の現在財産及び貸金の高も取調付きたるときは此を以て彼に拂ふべし。さて此場合に借方の分が多きに過ぎ勘定不足を告ぐるときは如何にすべきやは後に破産の所に共に謂ふぺし。差引計算の末多少を問はず殘額を生じたるときは如何。組合債權者にして前に三囘迄も公告ありし期間には申出を爲さず、時過ぎて請求し來りたるときは此中よりのみ支拂を受くることを得。萬一殘額が辨濟に足らず又は皆無なりとも自分にも落度あれば故障を述ぶる能はず法、七五、民、八〇。此等の債權者に對する辨濟も果し、殘餘財産あるときは茲に財産分配の問題は生ず。清算人は法律又は定款の定むる所に依り之(82)を各組合員に分つべし。

　殘餘財産分配の割合は豫め一定せり。組合財産に對する各組合員の權利は財産の増減に拘らず常に不變の比例を存す。是を持分といふ。若し定款に特別の條項無くば商法の趣旨に依り出資口數に應ずべきものならん。されど又出資拂込の前後、加入の前後等を標準として同一口數の間にも多少の差等を設くるも定款の任意なり。さて清算の場合の殘餘金分配も此持分によりて之を處理するなれば新なる問題を生ぜず。殘餘金十圓にして口數百あり且つ持分の割合、等しくば一口十錢宛と割付るが如し。

　貸借の勘定を爲し、殘りの財産を持分に應じて分配すれば夫にて清算人の任務は盡き清算は結了す。清算結了したる時は之を監督官廳に屆出づべし法、七五、民、八三。組合は清算の範圍にては猶、存續し從ひて有效なる總會を開くことを得るなれば法規には何等の規定無きも、清算人は理事と同じく之を招集し清算事務の經過を報告すべき者あらん。此他に裁判所は常に清算を監督し清算人の選任、解任の外に事務の檢査を爲すの權限あり法、七五、民、八二。

　以上は定款に掲げたる解散事由の發生、總會の決議竝に組合員が七人未滿に減じたるときの三の場合に於ける組合解散後の處分なり。破産に由る解散に在りては稍々事態を異にす。破産の宣告は組合財産の不足ありし時、理事又は組合債權者の請求に由り又は裁判所自ら進みて之を下すことあり。清算事務の進行中不足を發見したる時は清算人より破産の宣告を請求すべし。此場合に既に拂渡したる金錢等あらば再び、取戻さるべし法、七五、民、七七。

　破産の手續如何を説明するは稍々困難なり。産業組合法は營利を目的とする法人にして、其性質より言へば商事會社と同じく現行の破産法に依りて處分せらるべき者なるが如し。然れども破産宣告の原因としては單に支拂停止の事實あるを要すとする破産法の規定とは異り、民法の公益法人に準じて財産の不足あるに至る迄は宣告を下さゞるを以て見れば、法律の趣旨は普通の商人とは異りたる取扱を爲さんとするものゝ如し。果して何れに由るべきや。此等の疑團は追て新破産法の制定を見る迄は之を氷解すること困難なるべきを以て、予は之に關する精密なる研究を省略し(83)徐に裁判例の一定するを待たんとす。されど恐くは現在の?態に在りては産業組合の解散には破産法は適用する能はず、かの古き家資分散法を適用するの他は無からん。破産に關聯して一言すべきは無限責任、保證責任組織の結果なり。組合組織の差等ある結果は實際上破産の場合に於て顯はるゝもの多し。破産の手續は如何にもあれ、其終了したる後、組合債權者は唯一部の辨濟を受けたるのみなりとせば其殘額は無限責任なれば何れの組合員に對しても全部を請求することを得、保證責任にては各組合員より其保證したる金額以内の額を請求するを得、組合員は之を拒むこと能はず。重き責任ある組合は平素之に由りて相應の信用を得、便利を感ぜしなれば萬一の場合には此だけの負擔をするは亦已むを得ざるなり。

　債權者は出來る限は懷中都合の良き組合員のみを擇びて此請求を爲すなるべく、而して其請求に應じて辨濟を爲したる者は自分のみ之を負擔して、さて已むべきに非ず。必ず舊組合員一同に對し頭割りを申出るなるべく、法律も亦此權を認む。其分擔の割合は持分と同じく出資口數に應ずべきか。將た他の方法に由るべきかは定款の必要事項として設立の際より之を定め置くべし法、九。保證責任にても亦同樣にて一人が餘分に拂出したるときは他の仲間より割合を以て求償することを得るなり。

　

(84)　　　　　　　附録　北海道に於ける産業組合の特例

　

　北海道に於ける農業者は本土に住する者とは全く異り、大抵最近數十年間に移任し主として開墾に由りて新に業に就きたる者にして、其農法の如きも、比較的、大規模に且つ粗放的なるが爲、之に對する産業組合制の必要と利益とは内地と異ること無き迄も、　　状況の同じからざるに伴ひて、一二構造の點に付き變例を設くるは、最も適當のことなり。産業組合法にても其末條を以て既に之を想像し、次に之に依り明治三十二年勅令第二百五十五號を以て一の特令を設け、後明治三十四年五月内務省令第十三號を以て其施行規則を設く。今普通のものと異れる點を列擧す。其理由の如きは一々之を説明せず。

　一　組織は無限責任に限る。但し左の二條件を具へたるものは、此限に在らず

　　　　　イ　設立後十箇年になること

　　　　　ロ　北海道廳長官の許可あること、勅令、二

　二　設立には二十人以上の合同を要す、勅令、三、一二

　三　勞務を以て出資に充ることを得、勅令、五

　四　出資は各員皆一口宛とす。但、長官の許可あれば此限に在らず、勅令六。一口百圓以下とす、省令、二

　五　長官の許可なき限は理事三名以上監事二名以上たるべし、勅令、七。理事は他の同種の組合の理事を兼ぬることを得ず。但し總組合員の同意あれば此限にあらず、勅令、八

　六　持分拂戻の額は出資額以上に超ゆべからず。又存立時期を定めたるときは總組合員の同意無くば脱退することを得ず、勅令、一〇、一一

(85)　七　出資第一囘拂込金額は二十分一以上のこと、省令、三

　八　組合創業費を官廳より貸附せらるゝことあり、勅令、四、省令、八、九

　其他細末の點にて猶多少の差異あり。

　右は北海道内の土地を耕作する農業者が産業組合を組織する場合に限ることなり、省令、二。されば同じく北海道に設立さるゝ組合にても農業者以外の者の團體ならば普通の法規に從ふべきのみ。

　

(86)　　　　　各論

　

　前編に於ては主として産業組合の法律上の性質を説き、之を設立せんとする者及び既に之を設立して後、其維持を計る者の爲に心得となるべきことをいへり。而して組合の經濟上の性質、即ち之を組織するが爲に如何なる利益を生ずべきや、又充分なる利益を收むるが爲には如何なる方法を以て之を管理すべきやの問題に至りては、唯大體に付きて之を述べたるのみにして未だ詳細の辯明を爲さゞりき。是蓋し産業組合には種類多く其目的も同じからざれば從て其取扱の如きも一々異ならざるを得ず、一概に通説すること能はざりしを以てなり。故に予は茲に各論の一編を設け各種の組合に付き順次に其性質を究んと欲す。章を四に分つ。第一章信用組合、第二章販賣組合、第三章購買組合、第四章生産組合、是なり。二種以上の事業を兼ね行ふ産業組合、即ち販賣購買組合、販賣購買生産組合の如きは、各章説く所を綜合して自ら知るを得べしと雖、或は二目的を兼ねるが爲に特に生ずべき事情の如きは、便宜各組合の章に於て之を明にすべし。各論の解説は順序として法規註釋の後に置きたれども、若し未だ産業組合に從事せざる人にして之を設立して如何の效能あるかに疑を抱くものは、前編第一章を見たる後、直に此各論を讀まば恐くは組合法の精神を理解するに於て少なからざる便を得るならん。

　

(87)　　　　　　　第一章　信用組合

　

　新時代の經濟の一の特色は資本の運轉に在り。昔の金錢は融通の用を爲すよりも寧ろ主として貯蓄の用に供せられ、多くの小判は吉野紙に包まれて手文庫の底に藏せられ、或は壺に入れて縁の下に埋められたりき。成程二三の大都會に在ては商人が仕込の入用に他借を求め、又は職人に前貸を爲し、猶或は江戸と京、大阪との間に爲替の取組も有るには有りたれども、一般地方に於ては更に此事無く、小民は腕一本で稼ぐといひて未だ近世の意味に於ける資本なるものゝ效用を知らざりき。而して小農業者、小工業者とて全く借金をせぬには非ざりしも、其借金を爲さねばならぬ時は彼等の爲には不幸なる時なれば、從て借金といふことは我も人も蛇蝎の如く忌み嫌ひたりき、例へば天變地異の爲に作物の收穫は少きに年貢の取立て嚴しきか、或は肝心の働き人が病氣にて其日の生計にも差支へるとかいふ時の外は、借金は放蕩者でも無ければせぬ者のやうに思ひ、之を以て生産の額を増すなどとは考へにも浮ばぬが普通なりしなり。�ｺ川時代に於ける經濟社會の事情は略々斯くの如し。尤農業以外の物産の早くより起りたる地方にては、稀には例外もありしならんも概して言へば農夫は年々の田畑の作物を以て先づ年貢を納め、其殘りを以て一年の間を食繋ぐなり。此頃の小民の生活は質素なるものにて、自ら耕したるものを食ひ自ら織りたるものを着て外より求むる物少く、僅に市に出でて金錢にて購ふべきものは鹽、油の如き日用品と、二三の農具、家具の他には殆と無しと云も可なり。年々の耕作の爲にも金錢の必要は無く、地代を拂ふ者とても收穫後、物品にて拂ふなり。肥料も多くは下肥、厩肥等手製の物を用ゐて商人より買ふこと稀に、時には干鰯、石灰等を買ふことあるも、之も小作料などと同じく其收穫物にて支拂ふといふ習慣あり。金錢は唯心掛よき農民が餘穀を販ぎて貯蓄を爲し地面を買ふとか、不時の入費に備ふるとかの場合に其用を見るのみ。之を以て新田の開發、土地の改良に充つるものも極々少く、況や之を他人に借(88)りて此等の事業を營むと云ふが如きは更に無きことなりき。工業者とても亦同じく、昔は大抵、手業にて簡易の器具を使用するのみなれば、一度少額の資本を投じて器具と材料とを買入れたる上は、順繰に賣り次ぎて再び資本を要すること無く、生計を繼續することを得たりしなり。借金を以て不祥の事となし信用なるものゝ彼等の間には意味無かりしこと之を以て知るべし。

　舊時代の經濟が一般に斯くの如くなりし理由は其數多かるべきも、最も著しきは交通機關の不完全なりしに在り。各地方の住民は今の世の如く東西に移動せざるを以て其數に限あり。從て貨物の需要も略々一定し其以上に産額を増加したりとて徒に其價を賤くするのみ。さりとて之を遠隔の地に持行きて賣捌かんとするも運賃ばかり多く費して、先方の景況も明かならざれば、利益を得るの望も少く、殊に農民の如き人一倍出精し、高き肥料を多く入れたりとて夫相應の報酬を得らるゝとも限らず。加之他の地味良くして天然に收穫多き田畑と同樣に見做されて檢見の際、石盛を高く附けられ、年貢の額を増さるゝの虞あり。故に或は資本を多く投ずれば收穫の多きことは知ると雖、尚世間一通りの耕作法に從ひて其以上を求めざりしなり。

　此?況は必ずしも舊時代の昔話に非ず。今も地方に行けば此通りの方法を以て單に勞力のみにより農工業を營むもの無きに非ず。否全國の上より統計を取れば今も甚多きなるべし。併しながら現今の世に在りて資本の力を假らずして生産に從事する者は昔とは異り、資本は有りても之を使はぬには非ずして全く資本を得る能はざるが故に之を使はぬなり。當代の小民は資本の效能を知り之を利用して收入を加へ得ることを希望せざるは無しと雖、唯之を求むるの途なきが故に是非無く舊時代の方法を繼續する者なり。昔は農工の物産は種類極めて少く其需要の範圍も亦狹隘にして資本投入の利益を見ること能はざりしに反し、開國以來、海陸の交通は日を追ひて發達し、商人の數は増し外國との貿易も開けたれば、生産の方法にして誤らざる限は、販路を見出すこと能はざるが如き虞なく一方には又從來、質素を旨としたる地方住民も、外界の影響を受けて欲望を増し、交易の容易なるよりして生産の分業は行はれ、産物の(89)大部分は始より之を金錢に換へるの見込を以て生産に從事するものあり。同じく農業者にても桑を栽ゑ茶を作る者は自分の衣料、食料は他より買入れざるべからず、從て金錢を手掛ることは昔時に比して遙に多くなれり。

　今農業に付きて言へば人口が増殖すると共に、穀物其他の農産物の價は騰貴すべく、之と共に地價も高くなる故に、同じ一反の田にても成るべく收穫を多くする工夫を爲すこと必要なり。即ち種子、農具を改良し肥料を多く用ゐ乃至は大仕掛に排水、灌漑の工事を施し地力を十分に利用せざるべからず。而して此場合に最必要なるは資本なり。製造業にても昔の如く手先の仕事にては産額も多からず時間のみ多く費すの損あれば、漸次に精巧なる器械を備へ數でこなすの計を爲すべく、之にも亦資本の入用は多し。殊に外國の競爭あるに及びては生産方法の如何は利害の及ぶ所、甚大に、農家の如きも昔の如く安閑として耕作一方に力を用ゐること能はず、是非共、市場の模樣に注目し?々之に應じて生産の計畫を立てざるべからず。而して資本の力に乏しき者は此の如き自由なる生産組織を以て其業を營むこと殊に困難なり。我國の現　　状は不幸にして市場を觀察する智識と新時代の經營に十分なる資本と二者共に之を具へざる小農、小工の數甚だしく多きを見るなり。

　日本の農業者は現今五百萬戸以上あり。而して其半分は一町以下の地面を耕す小百姓にして、其又大部分は小作人なり。彼等は自ら資本として使用すべき金錢の貯蓄無きのみならず、他より之を借入るゝの能力無き者多し。斯くの如き?態を以て新時代の經濟界に入込みたるは抑々心細しと言ふべし。一國の産業が新に局面を開き、各種の方面に有望なる事業を認め得べく、人心亦活?になりて、各々之に由りて産を興さんと企つる時代に際しては、資本の供給は十分に之に應ずるに足らず、從て金利の高きは極めて自然の勢なり。然るに農業は其性質上よりして金融を利用する上に一の不利益を有す。今之を商業と比較せんに、商人が商品を仕込む爲に借入れたる資本は其商品を賣りたるときは之を返辨することを得、其人の器量次第にて二月、三月の短き期限にても、順次に遣繰、運轉して少額の金額にて間に合することを得べし。之に反し農業には生産期あり。植付の際、肥料として投じたる資本は收穫の後に非ざれ(90)ば之を返すに由なく、況や開墾、土地工事の爲に費すものゝ如きは、五年十年の長日月に漸次に償却するに非ざれば、到底之を回收するの途無し。又商人は機を察するに敏活なれば、自分の見込にて利潤、確なりと信ずれば、短き期限のことなれば、隨分高利の金を借りても引合ふことも有るべきも、農業に至ては利潤は殆と、全國平均し、大なる餘得も無ければ、迚も高利の金を永く借りて居らるゝものに非ず。製造業に於ても機械の据置を爲し、又は山林の植樹業、其他永き年月の間に徐ろに利益を收むべきものは、何れも同樣にして、長期低利の借金を爲すに非ざれば算盤は持てざるなり。普通銀行は尤、便利なる金融機關なれども、其組織たる資本の囘收が頻繁なれば、それだけ利益は多きなれば之に對し商人と競爭して適當の融通を得んとするは抑々無理なり。

　我國に於て近年、勸業銀行、農工銀行、北海道拓殖銀行及び興業銀行の設けられたるは全く此等の實?に鑑みたるものにして、普通都會地の銀行の他に特別の金融機關を設置するに非ざれば、永遠の計畫を有する事業の爲に、必要なる資本を供給すること能はざればなり。殊に勸業、農工の二銀行は、全國の農工業者に長期、低利の資本を貸付るを目的とし其代りには必ず不動産を抵當に取りて貸金の擔保を十分にし、一方には又之を根據として弘く低利の債券を募り、之を運轉して貸付金に充つるの組織なり。即ち基礎の鞏固なる銀行を媒介として農工業者に都合よき融通を與へんとするものにして、我國の如き新進國にては、之に由り利益を受くる者尠少ならざるべし。

　併しながら勸業、農工の二銀行へ抵當を入れて金を借り得る者は、實際、資本の必要ある者の數に比するときは極めて小部分なり。勸業銀行は言ふに及ばず、農工銀行とても十圓、二十圓の小口の貸借の如きは、費用、手數のみ多くかゝり、從て何の效能も無ければ、其申込を辭するなるべく、又成るべく大口の確なる方を先にすべし。殊に全く抵當に入るべき不動産を持たざる小作人の如きは、資本の必要は決して地持農夫に劣らざるも、此等の銀行より金を借ること能はざるなり。抑々信用といひ擔保といふは要するに貸したるものの必ず返却せらるべしといふ安心なり。此點より言へば借主の財産も、借主の正直にして勤勉なる性質も、又其伎倆等も、信用を擔保する上に於て異ること(91)無き筈なれども、無形の財産は有形の財産の如く之を確認すること容易ならず、長年の知合にても稀には人を見損ふことあり、況や遠く離れたる農工銀行等の、安心して無擔保の貸付を爲さゞるは亦無理とは言ふべからず。此故に假令不動産は持たずとも、正直にして働ある小作人、小工業者等に同じく低利長期の借金を爲すことを得せしめんには、勸業銀行、農工銀行の他に別に何かの方法なかるぺからず。而して此必要に應ぜんが爲に設けられたる制度を信用組合とす。

　農工銀行等が債券の發行、不動産の擔保を以て要件とせるが如く、信用組合に於ては組合員の共同貯蓄、郷黨に於ける親密の交際及び其團結心を以て成立の要件とす。所謂對人信用は、都會の銀行に向ひては之を利用すること能はざるも、村閭の間に於ては祖先以來、朝夕相交り、各人の氣質と伎倆とは幼少の時より之が擧動を目撃して相互に知らざる者無ければ、必ずしも質抵當を取らずとも、入用ある者には融通して不安心なることは無けれども、如何にせん銘々多くの餘金も無きこと故、見す／＼其難義の窮?に嗟嘆せざるべからず。さればとて平生より心掛け、各自少額の貯蓄を爲さんにも、元々利潤も多からざれば、小前の者には田地の一枚も買ふには八年、十年の月日を要し、其間には病煩あり、不作あり、捗々しき身上も作り難きは普通なり。然るに同じ僅の貯蓄なりとも、共同して之を積むときは十人が十人一時に其金の入用になるといふことも無ければ、互に相談の上にて、順繰に之を使ふならば、外へ頼みて無理なる才覺をするより、遙に心持も良く、返すといふも本來自分等の共有物なれば、利子といふも要するに其積金を殖すことなり。此の如く多人數申合すときは、互に勵みも生じ張合もあり、其運轉の如きも漸次、人が増すに從ひて益々都合よくなるべし。

　我國に於て昔より行はれし頼母子講、積立講の如きも全く之と同じ趣旨のものなれば、信用組合は其根本に於て決して新しき制度には非ざれども、唯之に法人の人格を附與して財産の獨立を保たしめ、一二の組合員の失敗の爲め全く共同計畫が瓦解するの危險を防ぎ、同時に登記等の方法を以て外部との取引を圓滑ならしめたるは、新法律の力な(92)り。加之舊來、村落に存在せる各種の積金組合にては其利益に對して弊害も多く、第一に不都合なりと思はるゝは、其金を貸出すに當り、如何なる目的を以て之を使用するかを更に問はざることなり。即、積金の一部分を借りて旅行するも、住宅を普請するも、嫁入聟取の祝宴を催すも、乃至は放蕩費の支拂を爲すか、何に使ふも勝手とあらば、誰も彼も我勝に借入を求むべく、積金は幾何ありても、いつも不足なり。即ち本來、産業の資本に非ざる故、算盤に合はぬは承知の上なり、人より先に借る爲には、利子の割合の高くなるも厭はざるべく、自然返濟の時に至りては困難を感じ、或は不義理を爲す者を生じ、久しからずして仲間割れとなる者、十中の八九なり。最初は郷黨の親密を増さんが爲に設けたる講中などの、終には村中の不和を釀し、却つて破廉恥の者を生ずるが如き、�ｺ義上の惡結果は中々少々にあらず。之に反して産業組合に在りては、設立の時よりして、生産業の資本即ち元手としてに非ざれば、貸さぬ借らぬと約束して始むることなれば、此の如き奪合を生ぜず、役員は見込ある事業と見れば之に貸付け、又算盤の持ち難きやうなる計畫ならば、忠告して思ひ留らしむることもあるべく、又一旦貸付けたる後も、始の申出と違ひて、無益なる途に金を使ふ者の如きは、定款を以て之を取締り得るやうになすべきなり。而して此の如く貸出を謹みても猶、資本の望手多く、積金のみにて不足を告ぐるときは、外部より相當の借入を爲すも、返辨に差支ふることも無ければ、自然に信用厚く、便利なる條件にて債務を負ふことを得べし。現に農工銀行法にては、無限責任の信用組合には、抵當無しに貸付を爲すことを許し、既に之によりて低利の融通を得たる組合も少からざるよしなり。予が考にては、保證責任にても同樣に、無抵當にて貸付を爲して危險無かるべしと思へど、農工銀行法は未だ之を許さず。予の知れる一組合にては、組合員中に篤志なる資産家ありて、自己の不動産を擔保として、農工銀行より借入を爲し、同じ利率にて再び組合に貸與せるものあり。即ち有限責任にして組合には未だ擔保とすべき不動産を有せざればなり。

　前編にて説ける如く、産業組合に加入する者は、無限責任にては總組合員の同意を必要とし、其他の組合にても、定款に依りて總會の多數決又は役員の承諾を必要とし、決して普通の株式會社の如く、株の賣買の爲に誰も知らぬ間(93)に新なる仲間が入込むといふ事なし。此理由は、組合に加入せしめ、事業の苦樂を共にするには、是非共本人の人格如何を精細に吟味するの要あればなり。殊に借用組合に在りては入社の初のみならず、之に貸付を爲すには資金の用途を明にするの必要あり。一旦貸付たる後も、萬一之を他の方面に消費すること無きやを監督せざるべからず。監督せらるといへば甚、不見識のやうなれども、若し一點の不都合無く約定に違はざることを認めらるれば、則ち後來、當人の信用を益し、組合の基礎を愈々鞏固ならしむるの理なり。而して此監督は、中々少數役員のみにては、眼の屆くことに非ざれば、必ず仲間一同、互に勵み合ひ戒め合ひ、組合の圓滿に發達することを圖らざるべからず。此等の理由よりして、他の種の産業組合には同一の制限、無きに拘らず、信用組合のみは必ず其區域を定め、一市、一町、一村を出づべからずとせるなり。故に若し能ふべくは、軒竝に悉く加入して、小字限り又は大字限りの住民の團結するは可なれども隣町村、隣郡等平日往來も繁からず、朝夕其行動を審にすること能はざるものは、之を組合員とせざるが原則なり。是蓋し組合別の特色にして、我國の如く數百年の間、養成せられて、而も漸々廢弛せんとする郷黨の結合心を恢復し、社會道�ｺの制裁によりて、個人の弱點を匡正し、唯利的原動力の外に、純粹の對人信用制を設けて、以て國民の品性を上進せしめんとするものなり。組合の制度を以て、單に有形上の利益團體なりとするものゝ誤なることは、獨乙のライフアイゼンの計畫、又は我國に於ける故品川子爵の説等を見て之を知るを得べし。

　信用組合の組織が根本に於て對人信用的なることは、上來、詳述せる所なりと雖、場合によりては必ずしも對物の擔保を全然、排斥すること能はず。何となれば組合の永遠の存立を希望するときは其貸付たる債權の安全なる上にも安全なることを力めざるべからず。加入の際、既に其人物の正しきことを確め、又其資本の用途が十分に産業的なるを知り且つ其使用の約束に反せざることを監督するならば、夫にて足るが如きも、猶萬一外部より意外の障碍、生じて資本を失ふこと無きを保せず。而して組合は小さき世帶なれば、一口の延滯ありても資金の運轉に影響を生ずることあり。此の如き場合に備ふる爲には或は質をとり、抵當を出さしめ、又は保證人を立てしむるも或は必要ならん。(94)殊に創立の際には、出來得る限、萬全の方法を採り、不慮の損害の爲に苗芽を傷くるの悔を防ぐべし。然れども此等の場合の抵當又は保證人等は、既に人的信用に基きて十分に審査したる貸付に猶、其上の用心を添ふるに過ぎざるを以て、其危險、極めて少く、普通の銀行若くは貸金業者が、抵當物さへ有らば人の見界も無く、自分が損せぬだけ内端に、金を貸すといふとは同一の論に非ず。唯組合が外部より借入を爲す際の如き、之あるが爲に大に便利を得ることあるを以て、もし質抵當の如き物的擔保は、多數の組合員は無財産にして之を爲す能はざる時も、保證人による資力の擔保は之を必要とすること或は適當ならん。法律上貸付を受くる組合員は、他の組合員全體より保證せられをる道理なれど其上に猶、特に一二の組合員にして、未だ貸付を受けざる者、又は資力の豐なる者を選みて、引受に立たしむれば、愈々精確に債權の効力を保持することを得べきなり。

　信用組合の貸付金の安全を保つ爲に採るべき方法として、猶一つ説明するの要あり。即ち一人の組合員に對し貸與すべき金高の限度なり。之は法の規定にて是非共、毎年度、組合にて之を豫定し置くべきものなり。之を定むるには第一に其年度内組合の在金の高と組合員の數とを比較せざるべからず。假令貸金は産業の資本とするものに限るとするも、誰しも安き利子の金ならば成べく多く利用したがるべければ、申込の順番等にて幾何にても欲するまゝに貸すべしとせば、後れて我慢をする者は無かるべし。故に略々其範圖を制限し、不公平、無からんことを期し、場合によりては各人に多少の等差を附するも可なり。農商務省が發表したる模範定款には、信用程度表の方法を設け、多くの信用組合は共に此制を採用せり。即ち甲ならば出資金の三倍迄とか、乙は二倍以内とか或は第三級は第一級の信用程度の半以下とか、兼ねて之を定め置くなり。信用程度を定むるには各組合員の資力、業務の大さなども一部の參考と爲すべきなれども、全く之にのみ由るときは、又産業組合の精神に反す。信用組合は財産はなくとも正直勤勉なる者、又は敏活にして技倆ある者には、成るべく資本を得せしむる趣旨なるに之に貸付得べき金高が、財産のみによりて高下すとせば、小民は猶、組合の利益を被るの望、無かるべし。故に各組合員が郷黨に於ける評判、又は其貯蓄に勤む(95)ること、又は出資金、借受金の支拂に期日を誤らざりしこと等も、悉く等級上下の標準中に入れ、一方には之を以て組合員の善行を奨勵するの方法と爲すべし。模範定款にては信用評定の爲には委員を設け其決議は之を秘密にするの方法なれども、思ふに信用の評定は必ずしも之を秘密にするを要せず、等級の上下の如きは制裁の目的としては之を公表すること可なるべし。秘密にするときは稍々役員の地位に勢力を附與するの弊あり。

　以上列記せるが如く第一に資本使用の目的を嚴重に制限し、第二に信用の擔保を精確にし、第三に信用程度を豫定して、猶其貸付の範圍を設くる等、十分に手續を盡したる上は、一方には出來得る限り利子を低くし、期限條件の如きも、凡て借主の便利を困ること必要なり。或は此の如き必要なる資本なれば無利子と爲すも然るべしと思ふ者もあらん。現に二宮翁の遺訓に由りて設立せられたる報�ｺ社の如きは、全く利子の名を以て金錢を徴せず（或は貸金を十に分ち毎年其一分づつ十一年間に返付せしむるものあり）。組合が完全に成長したる上は此も亦可なるべし。然し組合にては、如何に儉約するも多少の入費を要す。且つ漸次組合財産を増殖するが爲には、出資金の拂込のみにては、其進行、甚、遲々たるべく、貯蓄を奨勵する爲には少くも郵便貯金位の利子は附せざるべからず、殊に組合外より借入金を爲すには其利子も拂はねはならず、現今は農工銀行の利子さへも、まだ、九分、一割、一割一分位の間なれば、之を借りて仲間にて利用するにしても相應に利子を取らねば、唯、組合の財産を減ずることゝなるべし。又組合員は互に、或時は借る側に立ち、或時は預ける側に立つなれば、後者に對する報酬として多少の剰餘金、即ち純益を生ずるやうに計算を立つべきなり。而も其純益は再び配當となりて各員の手に歸り、又組合の財産を増して各員の持分を加ふるものなれば、他人より借る場合とは事情大に異なり、要するに二分にても三分にても其土地、普通の金利より安ければ、其だけは借る者が助かるなり。土地の改良、開墾、機械の買入等、永き年月の間に始て資本を囘收し得べき場合は更なり、年々の流通資本にても、例へば小農が肥料を買ふに收穫物を賣りて返すの約束にて商人より借受る時の如き、多くは高き利子を見込まるゝも故障を云ふこと能はず。若し組合より安き金を借受け、現金にて買はんと(96)するときは、品も値も十分に吟味することを得て、損得の差は決して小ならず。此の如きことは喋々と論ぜずとも、實地に當る者は胸算用にて直に之を合點するならん。

　資本の用途が産業的なる以上は、如何なる組合員にも貸すとするときは、今一つ注意の必要なるものあり。即ち工面のよき者が、自分に入用なる金は持ちながら、之を高利にて他人に貸し盡し、入用に臨み、安き金を組合より借りて使ふことなり。之を取締るは困難なることにて、借りたる後に人に轉貸するものは禁じ得べきも、豫め遊金を悉く人に貸し、さて組合より借入るゝものは、道�ｺ上の制裁に由るの外、亦之を如何ともし難し、是必竟するに組合共働の必要を感ぜざる人が、加入したるに原因するものにして、始に同盟者を募るとき、斯る人は成るべく、あと廻しにすべきが本意なれども、創立の際は無財産の者のみにては、假令人數は多くとも、外部に對し如何にも微力なれば、組合の中堅として郷黨内の有力者に加入を請ふの必要あるなり。然れども資産ある者が、組合を利用して、自己の利益を計るときは、則ち此の如き弊害を生じ易し。故に是非共、公共心と義?心とによりて、自分の財産を損失せざる限は、之に相當の助力と忠言とを與へ、自ら先導となりて共同進歩の策を運す覺悟ある人に、依頼せざるべからず。小民は知見も狹く判斷も乏しければ、郷黨の長者を煩はすに非ざれば、何の計畫をも實行する能はず。されば現在、設立せられたる産業組合も、半以上は其發起人は、組合を設けずとも立派に立ち行かるゝ人が、唯一町、一村の爲を思ひて、多數の小農工者を糾合し、事業を共にするものなり。此の如き現象は、其稀に起るべき弊害の爲に、之を排斥すべきに非ざれども、唯時として組合財産を利殖すと稱し、必要無きに各自、組合の金を借りて之に利子を拂ひ、一方には自ら組合に積金、貯蓄を爲すが如き場合あり。之は愚なる話にて、詮ずる所、自分の金を使ふに入費をかけるに同じ。夫よりは確なる銀行に預け置き、徐々に之を利殖し、十分必要を生じたる後、始て之を引出して組合員間にて使ふことゝ爲すべきなり。制度の始て立ちたる際には、何れの場合にも免れざることなれども、呉々も其名の美なるに心醉して、其實益を收むることを忘るゝが如き?態に陷るを愼むべきなり。組合設立者の中に決して入るべか(97)らざる者は、一の私欲を營む者と虚名に流れ易き者となり。

　

(98)　　　　　第二章　販賣組合

　

　低利資本の必要を絶叫する小農工者の爲に、信用組合を設くるは、最、其當を得たる者にして、組合にして一旦基礎を固めたる上は、農工銀行、其他より十分の資本を借入れ、之を運轉して愈々其好結果を得るの望あり。併しながら元來産業組合は自助的の團體にして、外部の慈善に待つ所あるが如き性質の者にあらず。故に其設立の始に於ては、各組合員の積金（出資）と貯蓄とを以て組合の資金を作り、之に由りて徐々に發達するの覺悟なかるべからず。然るに如何にせん我國の現?に在りては、貯蓄、積立といふことは、其原因に於て既に甚困難なり。小民には遠き慮なく、今日の收入は衣食に用ゐ盡し、明日は又如何にとか成るべしといふが如き、不用心の多きは一の事實なれども、夫よりも猶、大なる理由は、彼等は貯へ殘すべき收入無きことなり。競爭の激烈なる、資本の缺乏せる經濟界に立ちて、僅に飢寒を凌ぐの收入を得る者は、五七日の霧雨にも半月の病氣にも、猶且つ路頭に迷はんとする有樣なれば、如何でか遠き將來の計に考へ及ぶべき。貸銀に衣食する者は言ふに及ばず、獨立して生産に從事する小農工たりとも、其利潤といふは極めて微なれば、假令、刻苦して其何分の一を殘すとするも、長き年月の間には之を失ひ易く、中途にして絶望せざるは稀なるべし。是全く現代、自由競爭の極弊にして、無智にして資力に缺けたる者は、市場に立ちて他人の侵入を防ぎ自己の利益を保護するの法を知らず、強者の抑制を甘受して、寧ろ之を以て世道の常態とし、徒に身の不運を嗟嘆するは亦憫むべきに非ずや。

　是を以て假令、信用組合機關組織は完備するも、深く根源に入りて小民の貯蓄能力を開發するに非ざれば、些も其效果を見ること能はず、同じく又名ありて實を擧げざるの批難を免かれざるべし。而して信用組合を設立せんことを希望する者をして、多少貯蓄の餘裕を得せしむるが爲には、産業組合法は亦組合團結の力に由るべしとせり。販賣組(99)合、購買組合、生産組合の三は即ち此目的の爲に設けられたる制度にして、小民が個々、獨立して向ふときは、到底、保つこと能はざる地位を、多數の共同によりて獲得し、能く強力者と競爭して、各自の利益を擴張せしめんとする者なり。

　元來貯蓄の能力は産業純益の多少と比例すべきものなれば、もしある方法を以て、今よりも總收入が多くなり、生産費が今よりも少くなることを得るときは、其差額即ち純益は多くなるべく、從て貯蓄の能力は増加し、信用組合に要する出資金を拂込み、又は貯金を爲すことも漸次、容易になるべし。而して販賣組合は其總收入を多くするを目的とし、之に反し購買組合、生産組合は主として生産費を減少するを目的とす。されば此等三種の組合は、信用組合と相須ちて、始て下級人民の生活を改良し幸福を増進するの結果を收むるを得べく、互に一を缺くべからざるは、恰も鳥の雙翼、車の兩輪の如きなり。例へば信用組合の資金は、他の三種の組合事業に由りて、剰し得たる金を以て之に充つるときは、組合員は些も苦痛を感ぜず、又物品、器械の購入、備付の爲には、信用組合より低利の金を借りて、現金を以て之を計畫するときは、取引の上に利益を見ること多きが如し。然らば信用組合は他の三種の組合と同時に兼ね行ふべからずといふ法律の規定は、甚怪しむべきが如きも、是、唯、計算を混同し彼我の間に資金を流用するときは、帳簿の嚴正を保ち難く、從て或は信用組合の擔保力を傷くる處のあるが爲に、一の組合にて合せて行ふべからずとせるものにして、決して一の組合に加入せる者は他の組合を設立すべからずといふ趣旨には非ざるなり。

　販賣組合は組合員の生産したる物品を共同して賣却するを目的とす。共同賣却の利益は、大農、大製造家の間にても爭ふべからざるものなることは、近來世界各國にトラストと稱する團體の設けらるゝを見ても知るべし。然れども生産者の階級低く規模小なるものに至りては、其利益、愈々著しく、且又必要にして缺くべからざるものなり。手近の例を示さんに、米は東京、大阪の如き都會の相場と、田舍にて農業者が賣拂ひたる相場との間には、大なる懸隔ありて、啻に道中運賃及中間の日數の金利の額だけの差異には非ず。生産者は大抵の場合には、直接に消費者に品物を(100)賣渡し得べきものに非ざれば、商人が二者の媒介を爲し、適當なる時と場所に於て、二面に交易を爲すことの便利なるは素よりなれども、我國現時の有樣にていへば、仲立商人の數は甚しく多きに過ぎ、且つ又?々非常に大なる口錢を取らるゝなり。大地主等は同じ米を賣るにも能く中央の商況を知り、時期を見計らひて一度に賣却を爲す故、小さなる仲買人の手に掛ること無けれど、小前の百姓に至りては、一俵、二俵、又は其よりも、少き穀物を賣るなれば、勢ひ遠く買手を捜索すること能はず、金錢の必要なるときには、蹈倒さるとは知りつゝも、安く賣渡すことあり。殊に收穫後、直に假令、穀物の價賤しきときにも、猶金錢の必要起るとせば、其不利益や又大なり。此事實は米等の農産物には限らず。其他如何なる貨物にても皆同じことにて、問屋は品も揃はず分量も僅少なる品物を、幾度となく手掛くるは面倒のことなれば、大口の取引ならば生産者と直接に取引を爲すも、小口は之を仲買に一任し、集めて其手より買入るゝを便とすべし。小生産者の共同の必要なるは此點なり。彼等は大農ならば當然、自分の手に歸すべき代金の一部を、久しく仲買其他の小商人に拂ひつゝ來りしなり。然らば多數の者、聯合して生産物を合せ、大農と同一の地位を占めたるときは、以後、其分をも自己の收入となすを得べく、即ち總收入を増加し得べきなり。

　此利益は必ずしも米の如き全國一般の生産物に限らず。特に一地方に於て有望なる物産とても、凡て然らざるは無し。近來、政府に於ては物産の發達を奨勵し、各府縣夫々、地の利に應じて種々の貨物を産出するに至れりと雖、若し其生産者にして、販賣方法の不完全なるが爲に、相當の利潤を收むること能はざるときは、其企業の熱心は大に阻碍せらるべきを以て新に起すべき物産に付ては、愈々速に販賣組合を設立するの必要あり。貨物の品等の不揃なることゝ、年々の産出額の多少が一定せざることゝは、其物の市場販路を發見するに困難なることの尤、大なる原因にして、地方産業の中途に挫折するものは、多くは、其生産者が個々獨立して、唯、其生産方法に於て相競ひて更に賣却上の好都合を圖ることに着眼せざるが爲なり。

　共同販賣の組織は、之に加盟する者の數、多きに從ひて、愈々其利益を見る。故に法律に於ても信用組合とは規定(101)を異にし、一市町村以内の區域を必要とせず。圓滑に連絡を保つの見込ある以上は、廣く數郡、數府縣に亙りて組合を設るも亦可なり。而して組合に於ては、同一、品等の物を一纏めにして、品と量とを揃へ、以て遠隔の地の問屋とも取引を爲すべく、又汽船、汽車の如き運送機關とも特約して、出荷の時に便利を得るの望もあり、一方には又一般市場の需要を聞合せ、組合員間にも通知して、成るべく賣口の宜しき、消費者の嗜好に適する物を生産するを力め、之に應ずる爲、多少は生産方法、産物の種類を變化、改良せしむることを得べし。是從來地方の小農工業者が夢にも企て及ばざりし所にして、而も組合を作り適當なる役員を選びて之を取扱はしむるときは、何の造作も無く十分の利益を收むるのみならず、將來に向ひて永く販路を獲得し、世の好評を保つことを得べし。

　共同販賣の今一の利益は荷造の點にあり。荷造は何でも無きことのやうなれど、其精粗は多數の上に於ては大なる損得あり。組合を通じて之を一定するか或は特に巧者なる者を雇ひ置きて全部を之に一任するときは、問屋の氣受よく從て賣渡も樂なり。又貨物の種類によりては、之に技工を加へ精製品として賣るときは、粗製品にて賣るよりも其利益、割合に多きことあり。例へば日本にては小麥は穀のまゝにて市場に出すも、外國よりは小麥粉として輸入するが如し。精製品とすれば嵩も低くなり、不用の部分に運賃を費すことも少く、販路も廣くなる理にて、一方には農閑等にて組合員の勞力に餘剰ある際ならば、之を利用して亦收入を増すことを得べし。此利益は個々の生産者とても之を知らざるには非ざるも、銘々の手にて之を精製すとすれば、それ相應の機械、器具を備へざるべからず、僅少の産額に對しては、利益の或は勞費を償はざること有り。然るに組合に於て必要なる構造、設備を爲し、組合員の勞力を借り、或は不足は外より雇入れても、一纏に之を行ふときは、能く時間、手數、入費を省きて、十分の利益を收むることを得ん。故に法律に於ては販賣組合の事業として、豫め賣却すべき物品に加工し、之を精製して市場に出すことを認む。

　然れども全く加工せずして賣却すべき場合も多し。例へば生菓、野菜、鷄卵の如き、或は細工物などにて既に各組(102)合員の手にて完成せられたるもの、竝に精製すれば利益を見るべき物品なりとも、組合が小さくして機械等を据附るの費用を負擔するに堪へざるときには、其まゝ賣却するも亦可なり。此の如き場合には組合が主として力を用ゐるべきことは、各組合員をして其産出したる貨物に對し、出來るだけ良き價を收入せしむるに在り。小作農及び小き自作農に於て、普通尤不利益なりと認めらるゝは、作物の成熟する以前より、今か／＼と收穫の日を待兼ね、さて取入れたるや否や、直に其大部分を賣りて金に代へ、差當りの入費に充つることなり。收穫後は一年中に於て農産物の價尤賤しき時なるに夫にも拘らず一向《ひたすら》賣急ぐとすれば、其不利益なるや知るべし。此の如き場合に若し組合の力にて之を買取り、或は引受けて前貸を爲し、通當なる方法を以て之を藏置し、後日、相場の良き時を見て賣拂ふとすれば亦大なる利益なり。農家は賣急ぎの不利益を知り、或は我慢して之を持堪へんとする者もあるべきも、小前の者は多くは完全なる貯藏方法に由ること能はず、蟲ばみ、鼠喰ひ等｜耗減《へり》の立つこと夥しきを以て、彼此、考へ合せて、亦早く賣る氣になるなり。然れども貯藏方法の進歩するときは、此耗減は大に之を防ぐことを得るものにて、梅雨に近よりたるが爲に、俄に諸方より出穀を増し、爲に市價を下すといふが如きは、一方には方法の未だ完全せざることを示すものなり。昔時豐作の爲に却て農業者の收入を減じたりといふが如き奇異の現象は、思ふに所謂、穀倉組合（穀物の販賣組合）の發達によりて、再び之を見ること無きに至るべきは、猶彼の常平倉の效用に等しかるべし。此事實は穀物に限らず、一般に生産期のある産業に付ては皆凡べて之を言ふを得べきなり。

　販賣組合は、單に共同販賣の利益を收むることを得ば、其目的を達するものにて、其取扱方法如何に至りては之を問ふを須ゐざるが如きも、今大體に付きて之を説明せば、凡三種の異れる方法あるが如し。而して其中何れを採るべきかは、賣却すべき物品に應じて夫々異るべし。第一には周旋賣買法なり。此れは外國の例によれば、主として牛、馬、羊、豚の如き生畜の賣却の場合に行はる。組合は一定の市場を設け、月に何囘と日を定めて、組合員より申出でたる賣物の目録を廣告して、買主を招待するなり。組合の役員は相當の評債を爲し、賣買の間に立ちて、賣主が無經(103)驗の爲に低價にて賣渡を爲さぬやうに之を保護し、一方には買主の希望を問ひて之に應ずべき物を賣付るの周旋を爲すなり。家畜の如く金目にて、取引も頻繁ならず、且つ組合に預り置くこと困難にして、持主の爲には却て賣れる迄、家に置くを便とするものは、此方法に由るは適當のことなり。此法にては、組合は組合員の賣上金より何分かの歩合金を徴し、實費を支辨し、其餘を積立て、又は年度末の配當に充つるなり。此の如き方法を採れば、組合設立の際には多くの出資金を必要とせず。市場の設備竝に最初の入費に必要なる金額の他に、幾分か用意の金を醵出して、銀行にでも預け置けば夫にて十分なり。

　第二の方法は委托販賣法なり。組合員は其生産したる物を組合に預けて適當の時に於て之を賣却せしむ。賣拂ひたる上は、其代金の中より幾分の歩合金を控除して、之を組合員に渡すなり。此は組合に於て販賣の前に加工を爲すの必要なき物品には最適當なり。物品が出來上りたるときは、これを組合の倉庫其他の貯藏所に入れ、一切の保管を之に委ぬるなり。而して此場合に普通、商法に所謂、委托の販賣の如く、賣拂の時期又は代金の最低限を申出づることを、組合員に許すべきや否は一の問題なり。即ち、何月何日以前に必ず賣拂呉れよとか、何圓何十錢以下の相場ならば賣らぬやうにとか、組合に向ひて指定することを得せしむべきか否かは、物の種類、其他の?況により一概に決すること能はざれども、元來、共同の利益を進捗するを目的とする組合なれば役員の力に信を置く限は、凡、皆其見込に一任し、何も指圖をせぬが適當なること多からん。役員に選ぶ程の人なれば、其才覺、判斷も銘々より優れてあるべく、種々の望を持出すときは、取扱の自由を制肘すること少からず。取引の敏活ならんことを欲すれば、成るべく一切の權限を少數の人に托すべきなり。さて又此方法をとるときは是非共、代金前貸の仕組を設けざるべからず。組合員は身上も小さければ、多くは早く賣拂ひて其代金を得んことを欲すべきに役員の見込に任せ、何時迄も賣れるとき迄待たしむることゝすれば、永遠の利益はさておき、目前の當惑の爲に組合を厭ふに至るべし。故に品物を受入るゝと同時に、金の必要ある者に對しては、之が評價を爲し價格の幾部分を低率の割合を以て前貸し、後日、賣上金を(104)引渡すとき差引勘定を爲すべし。而して此割引の歩合は出來る限り低くするに非ざれば、やはり仲買に蹈倒されて賣ると大差無きことゝなるべきを以て、外部より借入金を爲して前貸の用に供することは困難なり。其金は成るべく永き年月の間に出資金を積立て、又は組合員申合せの上歩合金を積立てゝ之に充つるの策をとるべし。

　此の如くして委托方法には猶、多少の不便を免かれず。物品には種類あり品等あり、又各組合員が委托したる數量は、必ずしも賣却に都合よき高に非ず。彼是、品を揃へ數を揃へて賣りたるときは、代金の分配方、甚面倒なり。又委托の前後によりて順次に賣却せんとするも、市場の都合上、必ずしも之によること能はず。此間に公平を保たんとするには、役員の困難を感ずること少からざるべし。且つ又組合が加工精製して販賣するものゝ如きは、甲の物も乙丙の物も之を混同して分界なきに至るべく、代金の勘定は最、複雜し易かるべし。又委托法にては端數《はした》、賣殘りの始末にも困ることあり。故に第三の方法として、再賣買の法を採るを適當とする場合多し。即ち一旦は組合が買主となりて組合員の物を買取り、再び時期を見て之を市場に賣るなり。即ち組合が自ら問屋又は仲買の地位に立つなり。此の如くするときは、時々組合内の相場を定め置き、之に由りて品物を買取り之を賣りて差額を收入するなれば、代金分配若は歩合金控除、前貸金の差引等計算の手數も無く、組合員は人の惡くない仲買と取引すると同じく、其上組合の收入といふものは持分となりて、間接に自己の財産を増すなり。併しながら品物の全部を買取る爲には、組合に大なる資本無かるべからず。一時他より借り入れ又は荷爲替等の方法もあれど、仕入の時期には何方も金利高ければ、之れにては共同版賣の利益の一部を殺がるべきを以て、亦早く積立により、組合の資金を増殖するの算段を爲すべし。

　以上三の方法は必ずしも一を採れば他を捨つべしといふに非ず。殊に第二と第三との如き、條件を限りて兩者併び行ふことを得べし。要するに第一の法によれば出資金少くても間に合へども、第二、第三の方法にては始に相應なる資金を作らざれば、十分に共同の利を收むる能はざるべし。殊に販賣組合は假令無限の責任にても、農工銀行より無擔保にて金を借ること能はざる現行法の規定なれば、安き利子の金を他借すること稍々困難なり。故に設立後、數年(105)の間は、少しく歩合金を高くして組合の收入を多くし之を積立て、一方には出資金の拂込を勉強して必要なる資本の備付を計るべし、之が爲には一時組合の利益を見る能はざるやうなれど、積立てたる金とても共同の財産なれば行々は勤勉、辛勞の報酬を十分に收むることを得べし。

　必要なる組合の財産も略々備はり、年々の共同販賣の高も増し、之に因る收入多くなるに至れば、漸次に組合の口錢を少くし、組合員の受取るべき金額の僅づつにても増加せんことを力むべし。然れども各組合員は二圓、三圓の金高にて一割や五分の増加ありても、其利益を感ずること甚だ著しからず。此分は從來ならば、當然得ること能はざりしものなれば無きものと看做して貯蓄せんなどといふ考を起す者は先づ少く、多くは何の氣も無しに費消するなるべし。是必竟するに一囘毎の利益があまり僅少なる爲なれば、或は其分を集めて一度に拂戻すといふ方法を採るが可なるべし。斯くするには平日の支拂は組合員が損をせぬだけの額に留め置き、其他は歩合金又は口錢として之を組合に收入し、年度の末に至り剰餘金の中より法定の準備金を取り、其餘は一年中に組合を經て賣却したる物品の數量に比例して、之を各組合員に配當することゝすべし。或は又剰餘金の一半は組合員の持分に應じ、他の一半のみ此の如く販賣物の量に應ずとするも可なり。販賣組合の組合員が傍に又信用組合をも組織せる場合に其出資の拂込に充て、又は貯蓄と爲すに尤適當なるは此部分の餘得なり。信用組合も何も無き場合には、申合せを以て之を配當せず、單に特別會計として積立て置き、組合資本の中に加へて利殖するも可なり。要するに販賣組合の事業は組合員が個々獨立に産物を賣る場合より多少、大なる利益を以て賣却し得たりといふのみにては、能事終れるものには非ず。之によりて現實に組合員の地位を改良し、幸福を増進するの點に達することを期すべし。而して此目的を遂ぐると否とは、一に役員の技倆と總會の判斷とに須つものなり。何となれば此等の管理方法は多くは定款に掲ぐべき事項なれば、理事のみの意見にて之を定むることを得ざればなり。

　委托賣買の方法を採る場合に於て、今一つ生ずべき問題は貨物を組合に引渡したる後の危險は、個々の荷主が負擔(106)すべきや、はた組合にて之を引受くべきやといふことなり。火水難、盗難の如き災害によりて生ずる損失は、物を組合に買取りたる以上は、疑もなく組合の負擔なれども、委托の場合には定款の定めやう次第、何れに歸すとするも自由なり。併し此も共同事業の性質よりいへば尚又損失の負擔も共同と爲すを可とす。前にも言へる如く、貯藏の方法は個人よりも組合の方が遙に完全に近きことを得るなれば、此れのみにても組合の利益は著しきに一旦、物を組合に托したる後は、復之につきて心を勞することを要せずとすれば、大なる幸なるべし。唯、組合の倉庫にては物の分量も多ければ、萬々一、災害に罹るときは其損失の及ぶところ甚大なるぺし。故に組合の事務を取扱ふ者は飽くまでも注意を嚴重にして、災害の豫防に盡力すべきのみならず、もし近傍に確實なる物品保險の業を營む者あらば、適當の條件を以て之を契約することを怠るべからず。販賣組合の發達は是非共、一國に於ける物品保險事業、運送保險事業の進歩と相須たざるべからざるを以て我國の如き現?に於ては、假令組合の區域に制限は無くとも、版賣の大合同を爲すには多少の困難ありといふべし。されど又組合が大なるときは多人數の分擔によりて個々の損害を稀薄にすることを得るの便あり。是、或意味に於ける相互保險にして亦一の合同の利益なり。

　

(107)　　　　　第三章　購買組合

　

　購買組合即ち物品共同購入の事業は四種の産業組合の中に就きて最、容易に其利益を認め得べきものなり。人も知る如く物品の小賣業は甚だ高率の口錢を取るものにて、之に對する小買の不經濟なることは言ふ迄も無し。例へば石油は一函二圓五六十錢なるに、一合づつ買へば一錢五六厘なり、鹽は一俵五十錢内外なるに、一升買は六七錢の相場なり。而して五錢、十錢の市價の低落は小賣値段を變動すること無し。此損得を知る者は誰しも小買を廢すべき筈なれども、さて一家の消費額には限あり、長く貯へ置けば變質、消耗の損失を免れず。猶、又、其日暮しの者には損とは承知しながらも、一種の物品の爲に纏めて金を支拂ふの資力無きものも多かるべし。されば機會ある毎に時々近隣申合せて、共同の購入を爲すものあるは吾人の?々目撃する所なり。併しながら其規模を損張し方法を一定して、利益の愈々大にして且つ永續的ならんことを欲せば、産業組合の組織に基くに非ざれば能はず。以下其大要を述べんとす。共同購入の效能の最、顯著なるは中流以下の生活を爲し、支出の方からも必要の方からも制限ありて一時に一人にて多額の物品を買入れ難き者に在ることは論を須たず。而して其利益は一囘限の共同に於ても必ず之を見るべしと雖、其額、僅少なれば、心掛の萬人に優れたる者に非ざれば、漸々之を蓄積して後日の資本に供せんといふ考も起らざるべく、多くは何の氣も無く之を他の用に供し、格別、其有難味を覺えざれば、從て引續き熱心に共同購入を企てんともせざるなり。然れども塵も積れば山の譬の如く、半期と一年と繼續して之れを行ふときは、則ち其餘得の大なるを悟るべく、又十人にて爲す所は百人乃至二百人が合同するならば、場合によりては組合員の中より自ら直接に大都會に出で行き、數ある店舗に就き品物を吟味し、精々代金を安く買取ることも得べく、往復の費用と時間とを差引きても、猶十二分の利益を見ることも難からず。又追々、購買組合の存在が世間に知らるゝに至らば、商人の方より(108)競爭して之を賣込まんとするなるべく、坐して廉價の良品を買ひ得るの望無きに非ず。而して此の如く大なる團結を爲すには、組合員の取締、竝に財産の安固の爲に、是非共、特別の法律關係に依らざるべからず。産業組合法は又此必要に應じて制定せられたるものにて、一方には既に存在せる共同購買の團體に便宜と保護とを與へ、猶、他の一方には其利益によりて、將來、同種の組合の設立を誘導せんとするの趣旨に他ならず。英國の如きは今より七年前の報告に、既に一千四百五十三の購買組合あり。之に加入せる組合員の總數、百三十七萬八千人餘、一年の賣上金高、三億六千九百四十二萬圓其純益のみにても五千七百二十四萬圓餘なり。目下は又遙に之よりも増加せるや論無し。

　此等の組合は又共同して數艘の汽船を有し、直接に外國と取引して物品を輸入し、内國には製造所を設けて組合員の爲に物品を製造しつゝあり。其盛況は到底本邦人の想像にだも及ばざる程なりといふ。之を以て見れば共同購買の利益は小は一村、一字、十人、二十人の團體より、大は一郡、一縣乃至、數縣を連ねて之を行ふも、如何なる場合に於ても誤らざるものなり。唯、小さき組合よりも大なる組合の方が利益も亦大なり。其理由は數多あれども購買組合の利益が明になりて、一地方の人、多く之に加入するに至れば、自然に小賣業者の反抗を受け、近傍の卸賣業者は大抵、小賣業者の方の希望を容れて購買組合に對しては假令、多量の物品を聲渡すときなりとも成るべく割引を多くせざる方針を採るに至るべく、此困難を脱するには、遠く大都會地に於ける商人と取引を爲す必要あり。斯る場合にして來らんか、組合が大なれば大なるだけ小賣業者の聯合に對抗すること便利なり。其他、事務に熟練せる人物を雇ひ入れ又は囑托して物品の鑑定、代價の引合の任に當らしむるにしても、小組合にては到底、其負擔に堪へ難く又は其費用を償ひて餘剰あるだけの事業は營み難かるべし。

　我國の産業組合法に依れば、購買組合は之を二種に分類することを得べし。

　一　日用品の購買組合

　二　器械原料等の購買組合

(109)　是なり。尤、此二種の事業は同一購買組合にて一時に之を營みて不可なきのみならず、概して之を兼ね行ふを以て利益とすと雖、本來の性質よりいへば二者は全く別種のものなり。即ち前者は生活費の節減を以て目的とし、後者は生産費の節減を以て目的とす。生産費にして節減せらるゝときは、其結果純益を増加し間接に生活費に餘裕を生ず。之に反して日用品の共同購入を爲すときは直接に生活費に餘裕を生ずるなり。唯、終局の利益として組合員に貯蓄の能力を附與する點に於ては兩者一に歸す。自然經濟の餘風が今、猶、行はれ、衣食の一部分は自ら生産したる物を以て之に充て且つ生活費の總額が一般に少き所謂、農業地方に在りては、第二種の購買組合の利益は第一種のものに比して遙に著しく、之に反して官吏、職工等の如く、收入の全部を擧げて金錢を以て之を受取り、一物として金を以て買はざるもの無き人々が、居住せる市街地又は工業地に於ては、日用品共同購買の效能は最、適切に感ぜらるゝなるべし。さて茲に讀者の注意を喚起すべきことあり。一般の産業組合に在りては其組合員と爲る者は、是非とも或種の産業者、即ち物の生産に從事する者に限るべきに反して、日用品の購買組合のみは産業者以外の者も亦之を設立することを得るなり。試に産業組合法第一條を見よ。信用組合の貸付を受くべき金錢は組合員の産業に必要なる資金なり。販賣組合にて共同販賣するは組合員が生産したる物に限るなり。生産組合に於ても、組合員と爲りて共同の利便を受くるは、産業に從事する者の他は有るべからず。若し然らずして、産業以外の業に必要なる資金を貸付け、又は組合員の生産したる物、以外の物を共同販賣する等の事あらば、是、既に産業組合には非ざるなり。器械、原料等の購買組合にても亦同樣にて、必ず組合員の産業に必要ならざるべからず。要するに産業者に非ざる者、例へば官吏、會社員、商人等は、此等の産業組合に加入したりとも、聊も其利益を受くるの望無きなり。全體よりいへば産業組合法は其名の示す如く産業に從事する者を保護するの法律なり。然るに獨り日用品の購買組合のみは、單に生計に必要なる物品の共同購入なれば、如何なる職業種類の人なりとも、皆之に加入し之を設立することを得るなり。而して之によりて便利を得る者は、田舍にも多かるべけれど、殊に都會に於て少額の月給、日給に由りて生活する者、例へば下級(110)の官吏、事務員、職工竝に其他各種の勞働に服する者なりとす。職工の如きは廣き意味にて言へば産業に從事する者なれども、獨立して企業せざるが故に、資本を借る要も無く、生産物を賣却することも無く、原料等を買入るゝにも及ばず、從て他の産業組合の利益は聊も受くること能はざるに反し、日用品の購買組合に加入するときは著しき利益を受くべし。今例を以て之を説明せんに、職工が其日々の賃銀の過半を費消するは食料の代としてなり、而して同じく五十錢の賃銀なりとも、日々之にて購ふ白米が一升、十五錢なるときと十二錢なるときとは、結果に於て大なる相違あり。即ち購買組合の利益は、日給にて四五錢の増給を受けたるに同じく、苦痛無くして之を貯蓄し得ることは、賃錢が増したるに伴ひて自然、生活の程度が上る場合に比して、遙に優れるに非ずや。前に數字を示したる英國の購買組合は、其、全部日用品の購買組合、即ち所謂、消費組合にして、又其大部分は職工の組織したる組合なり。かのストライキを以て雇主に賃銀の増加を逼るの方法も、或場合には必要なりとして許さるべきならんも、其成功、萬全ならず、時としては全然、失敗損害に終ること無しとせず。夫に比するときは購買組合の方法は遙に平和に且つ穩當にして、大抵其目的を完うし職工の地位を改良すること小ならず。加之團體の間には自然に制裁行はれ、正直、勤勉等の美�ｺは年を追ひて之を涵養することを得べきなり。是、予が空想に非ず産業組合制の盛に行はるゝ諸外國に於て既に衆論の認むる所なり。併し我國の現?に在りては職工の困窮は外國の如く甚しからず、從て購買組合設立の計畫の如きも急に之を實行すべき必要に迫られず、概して斯る事業に對しては冷淡なるが如し。日用品共同購入の利益は僅々數月の經驗を以てして直に之を自覺すべきものなれば、必ずしも職工の仲間のみならず、其他の階級に在る人も追々之を始められたきものなり。現に巡査、郵便書配、鐵道職員等の如き薄給に生活する者は各自の日常品に付き此組織を適用せんか、大に目下の窮況を改良することを得、必ずしも外部の力にのみ期待するの要なきことを知らん。獨乙に於ても現時、消費組合の數既に一千四百に達し、官吏、技藝家の如き高等勞働者が、同職業の關係に基きて相聯合し、此共同の利益を得つゝあるものも甚だ多しといふ。

(111)　此の如く同職業の關係に基きて、日用品の購買組合を組織することは必しも最便利なる方法といふには非ず。思ふに都會地に在りては、人の移轉、往來、頻繁にして、同一區域内に居住する者も團結、鞏固ならず、比隣の縁故に因みて事業を共にすること困難なると、今一つは外國には夙に同業組合等の慣習ありて、同業者の關係親密なるが爲に、自然に大工は大工ばかり、左官は左官同士にて購買組合を設立することとなりしなり。我國にても市街地に於て單純なる第一種の購買組合を作るには此方法に由るが可なるべし。然し元來の産業組合の性質より云へば、郷黨間の親密を利用し且つ助長する趣旨にて、地方村落等に於て之を計畫せんには、必ず信用組合等と同じく、一村、一町の區域に基き、漸次に多數の町村を聯合するの方針を取るべきなり。組合員が相接近して居住すれば、物品の分配運搬にも無益の勞費を免かるべし。殊に農業地方は元より、其他、組合員の多數が獨立せる産業者なる場合には、原料等の共同購買をも兼行ふべく、取扱の金高、亦大なれば、さまで多人數の組合を組織する必要なく、小區域に於て質素に堅固に實益を收むることを得べし。

　日用の生計に奢らざる田舍にては、所謂、消費組合よりも、原料等の購買組合の設立は、其必要を感ずること最、急なるべし。我國には小農業者、小工業者の數の甚、多きことは人の能く知る所なり。小規模の生産に從事するものの大生産者に比して不利益なる點は數あれども、器械、材料等を購入するに當り、一時に多量を求むる能はざる爲め、品質代價に付きて十分の撰擇を爲すこと能はず多忙なる時は自ら買出しに行き難きを以て、割の惡きを知りつゝ近傍にて間に合はすことあり。此種の困難は組合を設くるに及びて全く之を免かるゝを得べし。近年、各地に於て或は郡村農會の首唱により、或は篤志者の盡力にて肥料共同購入の事業の比々として行はるゝは、此點に鑑みたるものなり。而して著し其組織を確實にし、且之を永續的となし、組合員、自力を以て之を經營せば、其利益は　　　愈々見るべきものあらん。即ち肥料掛け賣の惡弊の如きも、容易に全滅するを得べく、農具、種子の改良の如きも漸次に行はるべきなり。

(112)　購買組合の事業執行の方法は、販賣組合とは異り、法律の結果、唯一種あるのみ。即ち如何なる場合にも組合は一旦、自ら物品を購入し、更に之を小分して各組合員に賣渡すべく、委托購入又は周旋購入の方法に由ること能はず法第一條。組合は必ず自ら賣主の責任を帶び、普通の小賣商の業務を行ふなり。組合員は正直にして貪らざる小賣店より、安心して物を買ひ、而も其利潤は更に配當せられて再び自己の手に入るなり。斯く購買組合の事業方法を特に法律にて限れる理由は他無し。共同購入の利益は多量に卸賣商より買取らざれば利益を見る能はざると、品物撰擇の便利を組合員に與へんが爲めなり。外國の大なる組合は、大抵陳列所を設けて、時々必要に臨み之に就きて自由に買取ることを得せしむるの仕組なれども、組合の規模、小なる間は之を爲すこと能はざるべければ、平日は見本又は品書の明細表を備付け置き、注文に應じて現物を取寄するも可なり。日用品の如きは略々組合の需要を測定し、前以て買入れ置きて小賣するを可とす。肥料の如き組合員の需要が一期に起るものは、全組合の需要高及種類を調査し、之を以て廣く入札を募るも亦一法なり。英國にては此方法多く行はる。

　物品の小賣に付きて一の問題あり。即ち其代價は卸値に運賃、手數料を加算して賣るべきか、將た地方、普通の相場にて賣るべきかといふことなり。此は何れにしても早晩、組合員の利益となるは同じければ、研究するの要なきが如きも、其實大に然らず。余は代金は其地方普通の額にて賣り、其元値との差は之を利潤として、一旦、組合に收めしむるを可なりと信ず。其理由は色々あれども、第一、低價賣捌に免れ難きは轉賣の弊なり。組合員、以外の者に物品を聲渡すは法律の許さゞる所なれども、一旦自分の名にて買ひ、さて幾分の口錢を取りて組合員外に轉賣する者は、之を制すること能はず。此の如き横着なる組合員有れば、爭ひて自己の入用以外の物を買込みて商賣を爲し、他の組合員に缺乏不便を感ぜしめ、組合員の辛勞は徒に二三奸曲の輩を利することとなるべし。各組合員が協同の趣意を重ずるときは、斯る害は無かるべきも、夫よりも誘惑の源となるべき低價賣渡の法を採らざるに如かず。且つ又時々の買物に一割や八分の費用が安くても、人はあまり大なる有難味を感ぜず、永き月日を積むときは、不知不識、目立ち(113)たる金高となり、自然に安楽に貯蓄を爲すを得ん。元方十錢の物を十二錢に買ひたりとて、其儲は何も他人の手に歸するには非ず、終には又自分の物となるなり。尤之に由て得たる組合の利潤を全然出資口數又は持分に比例して配當　するは不公平なり。何となれば少小しか物を買はぬ組合員も、出資口數多ければ坐ら澤山の配當を得ることとなるを以て、多く買ふ者は寧、低價賣渡を希望すべければなり。故に純益の一部分は、資本の效力に基くものとして、出資口數に配當するも、他の部分は之を別途の配當金とし、各員の購入金高に比例して、毎事業年度乃至二年、三年毎に纏めて之を割戻すべし。或は又定款の規定次第にて、持分に對しては全く配當を爲さず、剰餘金の全部を購入價額に配當するも亦可なり。産業組合に爲したる出資は、株券購入などとは異り、利子を目的としたるものに非ざれば、此も亦理由あり。要するに組合員をして、共同購入によりて得たる利益を、徒に空費せしめず、成るべく完全に之を利用せしむることを得れば可なり。予が意見にては購買組合には格別の固定資本も不必要なれば新に之を試みる者は先づ五年とか七年とかの短き存立時期を定め、其間は單に品物を吟味して普通の市價に賣り利潤は凡べて之を積立て、最後の年に於て始て之を分配することゝせば、平日組合の資本は潤澤にして、圓滑に利益を收むることを得べしと信ず。

　次に購買組合に於て最、重ずべき原則は、物品の賣渡には必ず現金を以て代金を徴すべきことなり。殊に日用品の購買組合に於ては、若し掛賣を許し始むるときは、共同の利益の大半は之を失ふのみならず、甚しきは?々組合の存立を危くすることあり。元來、掛賣の習慣は本邦經濟界の一大弊にして、社會の進運に伴はんとせば、是非とも一般に之を改めざるべからず。毎半期、毎月又は毎週に一度に收入を受取る者は、通帳に非ざれば便利に日用品を求むること能はずと辯護する者あらんも、是、最初の不覺悟を忘れて之を改めんとせざる者なり。人は何も今月末の月給にて必ず今月の勘定を爲さねばならぬものに非ず。始より順練に前月の收入にて生活するの方法をとれば可なり、然るに計茲に出でず、一朝收入を失へば其日より衣食に差支ふべき地位に在りて、危ふしとも感ぜざるは何故ぞや。其爲(114)には商店、商品を自由に撰擇すること能はず、且つ代價の如きも、一箇月又は半期の猶豫を乞ふ爲に、非常に高き利子を見込まれ居るなり。我國の商人は殆と、皆一面には高利貸なるを人皆知らず。

　或は之を覺る者ありても多數が通帳なれば、其勢に卷き込まれて改良する能はず、よく／＼其日暮しの者に非ざれば、現金にて買ふこと無し。商人の仲間同士にて代金を延期するは、一方に相當の運轉を爲すを以て相償ふならんも、其他の者は然らず、現金ならば在高にて支出を制限せんも、掛賣買の出來るときは、必要に迫りて信用のある限りは多く買ふこともありて愈々危險なり。斯る習慣は何か機會の生じたるときに非ざれば破り難きものなれば、購買組合を設立すると同時に、當分の不便は我慢して、金を持たざるときは買はぬ癖を養ふべし。加之、購買組合には現金賣買は殆と第一の必要條件なり。直接に卸賣商と取引して多量に買取るとしても、現金を以てせざれば利益の大半を失ふべし。第一囘の現金は組合の資本を用ゐて間に合はするとするも、賣捌きが掛賣ならば物品の補充を爲す能はず。又掛賣を爲す間には滯納者もありて、組合の財産は漸次之が影響を被り、終には外に對して信用を失墜するに至るべし、愼まざるべけんや。日用品は經常の收入にて支辨すべきものなれば、現金制を守るべきは無論のことなり。猶、原料器械の購買組合にても、亦出來る限は現金にて賣渡すことゝせば、利益も大に、組合員も單に買物の自由なるに任せて、浮々と注文するといふこと無く、十分に見込を付けて後に組合に依頼するに至り、自然に經濟上の獨立心を養ふの效あり。併し原料器械等にては、其必要は目前に迫りながら、差當り代金の調達に途無き者には、例外として一時の延納を許すべきこともあらん。此場合には其買入により果して本人の見込通りの利益あるや否やを究め、且つ他の現金を拂ふ人々との權衡上、低率の延納日歩を附し、其期日も成るたけ短かく且つ嚴格に守らしむべし。

　元來代金現納の原則に例外を設け、數十日の延滯を許すは一種の貸付なり。故に廣く之を許すが如きは、彼の信用組合をして他種の産業組合を兼ねしめざる、法規の精神に違ふの虞、無しとせず。望むらくは豫ねて徐々に必要の金を積立てしめ、一切の購入に現金を以てする原則を貫かんことを。若し又組合員にして、別に信用組合に加入せる者(115)ならば産業に必要なる資本として、之より借受けしめ猶、購買組合の方には現金を以て支拂はしむべし。

　購買組合の出資金は多きを要せず。單に第一囘の仕込に即金を以て支拂を爲すに足るの額あれば十分なり。若し幸にして組合の性質が着實なることを外部より認められたるときは、二分の一又は三分の一の内金を以て、全部の現金と同一の效果を收むることも難からず。又無限責任の購買組合ならば、無擔保にて農工銀行より低利の借入を爲すことも出來るなれば、一方に現金小賣の主義を固守するときは、最初は極めて少額の出資金にても、事業に着手し得る望無きに非ず。但一方に幾分の利子を拂へば、其上に多少の純益を見ることは、甚困難なるのみならず、取引上何かに不便なり。能ふべくは相應の金員を醵出し、其以上は年々の剰餘金より法定準備金及び特別積立金として漸次に増殖し行くならば、外に對して信用も出來、從て取引を圓滑にすることを得べし。されど資本金は多き程善しといふものに非ず。一囘乃至二囘の仕込に即金として拂ひ得べき金額備はらば、其以上多く増加するも、不必要にして却て利用の道に反くべし。運轉資本は豫め人員又は需要額に由り何程と定め、其以上の遊金は確實なる銀行等に預け入るゝも可なり。又存立年限の長き組合ならば、或は出資一口の金額を減少するも可ならん法第四十條第四十一條。無益に組合の資金を多くするも亦弊を生ず。大なる購買組合ならば、中央に物品の陳列所又は事務所を設置する爲、資本の必要なるべきことあるべきも、我國の如き創偬の際に在りては、或は空想の嫌無き能はず。二三町村位の小區域にて事業を營む間は、質素に役員の住宅等を以て事務所に充て、費用を多く出さざる算段を爲すべし。賣捌の責務に當る者も、始は組合員の家族隱居などにて、烈しき勞働に適せざる人に囑托する等、實際は適當ならん。組合員の妻にして幼兒無き者の如き、最適任なれど、我國、中以下の婦人に對しては、智識よりも道念よりも、之を希望すること能はざるは遺憾なり。尤事務員は帳簿の整理、物品の保存等多少綿密なる注意と輕からざる責任とを要する地位なれば組合の規模、稍々成長し、經濟の之を許すに至らば、經驗ある人を有給にて雇入るゝ方が可なり。されど理事監事、等の役員は組合員の義務として、順番に之に任ずることゝし、名譽職と爲すが如き組合の性質に合するものなり。

(116)　購買組合も亦信用組合と異り、區域の制限は無く、最初より一郡、二郡の人々共同するも自由なれど、是恐くは頗困難のことならん。住所、稍々隔たれば事情通じ難く、利害相反し易く共同の歩調を保つ能はざることあり。然れども個々の場合に時々連絡を取るは、害なくして利益あり。農村に於ては物品需要の時期、種類の共通なること?々なれば、三四の購買組合、相談して一時に注文を爲し、又は荷を一纏めにして運搬するが如き、費用手數を省くこと少からず。而して數囘此の如き關係に由りて相交通する中には、自然に意氣投合して、組合合併の機會を與ふるかもしれず、一擧兩得なりといふべし。然らざるも物品の相場、品柄、損得の如きも、一方にて經驗したることは互に他の組合に報知し、常に氣脈を通ずるならば其便利も亦少なからず。購買組合に限らぬことなれども、既に同一目的を抱ける縁故あれば、組合間互に同情を以て交際し、相奨勵鼓舞せば、此制度の發達或は著しきものあらん。

　外國にては購買組合の大なるものは、多くは兼ねて物品製造の業を營む。例へば靴の消費組合が外部より生革を購入し、組合附屬の工場にて靴を作り、或は食品の購買組合が小麥を買ひ入れて自ら製粉し又は?包を製するが如し。英國にては多數の組合が更に共同して大組合を作り、大資本を投じて精巧なる機械を備付け各組合の需要品を製造し、實費を以て組合に分配す。之を卸賣組合と稱す。此起源は亦普通商人の反抗運動を防衛するの方便として、組合が合同を企てたるに始れり。組合が發達して勢力を生ずるに從ひ、商人の之を忌みて排斥せんとする傾も愈々強くなる者なれば、國内何れの地に行くも最早、安き物品を購ふ能はず、是非無く粗製品の市場に出でて利益ある購買を爲すなり。猶、必要あらば國外より直接に原料を輸入せんといふ意氣込なれば、最早、他より屈服せしめらるゝ患なく、小民は共同の力を以て十分に其地位を安固にし得たるものといふべし。日本に於ては未だ斯る盛況に達せざること遠きのみならず、現行法規の解釋として産業組合の聯合組合を設くること能はず。唯、將來に於て全國、肥料取次所の如き非營利的の團體起り、主として購買組合に對し物品の卸賣を爲すこととならば、之と連絡して其利益の安固を謀るべきのみ。又個々の組合が自ら物品の製造を爲すことも法律には何の規定も無し。販賣組合には加工して販賣する場(117)合をも認むれども、購買組合には加工して組合員に賣るといふこと無し。故に購買組合にては必ず完製品をのみ取扱ふべきものゝ如し。然れども此の如きは甚不便のことなり。物によりては製造後は永く保存し難きものあり、或は小賣の際に多少の加工を必要とするものあり。凡べて皆出來上りたる物に非ざれば取次すべからずとするの必要も無く、徒に共同購買事業の一部分は利益を見る能はざる爲に人の企つるもの無きに至らん。予の意見としては假令、法律には何の規定無くとも、組合にて原料を買入れ之を精製し又は加工して賣渡すは不可無しと信ず。即ち組合員が買取りて後、各自に之に加工する代りに組合に於て共同して之に加工するなり。例へば麥、大豆、鹽等を買ひて味噌、?油を作り、野菜、鹽等を買入れて漬物を作り、便宜、組合員に小賣するが如き取締上、何の差支も無く、勞費を省くこと大なりと信ず。然らば肥料の製造の如きも又同じことなれば之を企てゝ不可無きが如し。然れども組合の區域狹く、資本小さき間は實際の問題は起らざるべければ、今の内に當局官廳の解釋を問ひて、其性質を一定し置くこと必要あるべし。予が説く所は單に推測に止るものなればなり。

　購買組合は二種ともに他の産業組合と兼ね營みて、大抵害無くして利益あるが如し（但信用組合は除く）。就中原料、器械等の購買組合は、販賣組合と兼ぬるときは大なる便利を見るべし。普通小さき産業者は其生産したる物を賣拂ひ其代金を以て直に次の生産に必要なる材料を購入するものなれば、販賣の必要と購買の必要は常に時を接して起るなり。殊に資本に豐ならざる者は、之を囘收して永く遊ばせて置く者も無く、遠き未來の爲に材料を仕込みて貯藏するが如きこと無く、次から次に順繰に之を運轉するなれば、其授受の手續を簡略にし、組合に於て拂渡すべき賣上代金を以て、直に買物の仕入に廻すならば甚、便利なるべしと信ず。殊に手形、小切手の利用法を解し、確實なる都會の銀行と取引するに至らば、現金の運搬に伴ふ手數と危險とを免るゝこと多かるべし。始めて村落に起りたる小組合に在りては、當分の間は役員なり事務員なりが頻繁に都會と往復する必要あれば、此場合にも賣込と買入とを一囘にて爲すことを得るを以て、大に時間を省くことを得べく、且つ又共同販賣の法により漸次に販路を開く爲に、生産(118)物の品の揃はんことを希望せば、原料の撰擇に共同の標準を採ること或は必要なるべく、共同購入の事業は此點よりするも亦必要なり。

　日用品の購買組合にても、販賣組合と兼ぬるの利益は亦大なり。從來地方の習慣は月に數囘の市日毎に多少の生産物を携へて市街地に出で、之を金錢に代へて必要なる鹽、油等を購ひ歸るが常なり。唯、各家別々に用を辨じ他人に委托するとしても、稀に一人にて敷戸の依頼を引受くるのみ。産業組合の方法に依れば多々益々辨じ、往復の煩を省くのみならず、平日の需要に於ても有無相通じ山間僻陬の地に在りては、住民の幸福を増進すること少小ならざるべし。

　

(119)　　　　　第四章　生産組合

　

　生産組合の名稱に關しては多少の疑無きに非ず。其名ばかりを聞くときは販賣組合が合同して、物を販賣し、購買組合が合同して物を購入すると同じやうに、合同して物を生産する組合を意味するが如し。普通に生産といへば企業の危險を履み、損得の計算ともに獨立に自己に歸することなれば、生産の共同とは組合員が連帶して企業の責任を負ふこと、例へば製造會社の如きものを謂ふに似たり。然るに法律の明に定むる所を見れば必しも此の如くならず。産業組合法第一條には「組合員の生産したる物に加工し、又は組合員をして産業に必要なる物を使用せしむる」組合を以て生産組合なりとす。故に生産組合の組合員は、或者は生産したる物を早く賣りて損を被り、或者は遲く賣りて利益を收め、又他の者は自ら之を消費して利益も損失も無かりしが如き場合あり。語を更へて言へば組合員の間には些も損益の共同といふこと無きなり。生産組合にては單に組合員の生産したる物に加工することはあれども、之を共同して販賣すること能はず。此點に於て販賣組合と異れり。又組合員をして産業に必要なる物を使用せしむれども、全然之を賣渡すこと能はず。此點に於て購買組合と異れり。之を以て見れば生産組合の目的は、共同して物の生産に從事するに在らずして、單に物の生産方法の一部分に於て共同するに在り。我國に於ける生産組合とは正に斯の如きものをいふなりけり。現今の日本に於て最、多きは小農、小工、小漁、其他の小生産者なり。生産の規模が小なるときは種々の點に付きて大生産者に對し不利益なることは言を待たず。信用の得難きこと、資本の少きこと、市場に關する智識の乏しきこと、凡べて皆小生産者の弱點なり。今共同の力を以て此弱點を補ひ、能く大企業家と對峙せしめんには、小資本を繰合して生産の團體を組織せば或は其目的を達せんも、僅に其生産方法の一部分にのみ共同して、果して幾分の效果を收むることを得べきものなりや、或は之を訝る者も有るべし。然りと雖、此の如く小生産者が生産(120)方法の一部分の共同を爲すは、其利益、甚だ大にして、却つて全部の共同に勝るものあり。今請ふ之を説かん。

　益し小規模の生産者は、其地位其性質よりして、絶對的に生産に不適當なる者には非ず。否、寧多くの點に於て、大規模の生産者よりも、遙に通當に利益なる地位に在る者なり。今其點を列擧すれば、第一、小生産者は自己の勞働を以て生産に從事す。大生産者は勞働者を雇入れ自分は唯之を監督するのみ、或は監督の事をすら他人に一任する者あり。雇はれたる勞働者は一定の給料の爲に働くなれば、差圖通りに手足を動かすを以て專一とし、敢て結果の如何を顧みず、出來るならば少々にても身體の勞苦を避けんとす。之に反して小生産者は勞働の結果は眞に自己に歸するなれば、監督を待たずして力を盡して働くべく、又他人を雇ひ入れて手傳はしむる時も、大工場の監督よりも遙に上手に之を指揮することを得べし。第二、小生産者の注意は綿密なり。例へば器械の取扱、原料の消費に付きても、出來る限り節約し、大切にして、成るべく生産費の少からんことを希望すべし。第三、小生産者の手工は精巧なり。機械は一時に多量に製造し又は品柄を揃へるには適當なれども、其力は隅々の微細なる點までには及ぶこと能はず、其成績は分量に於て手工に數十倍すと雖、品質に於ては遙に之に劣るを常とす。蒔繪、縫箔の如き工藝品より、特殊の耕作法を必要とする農産物の如きは勿論のことなり。其他、品質の優等なるを要する物品は、現今の如き機械の進歩したる世の中にても、猶、人の手を以て之を生産するを便利とするもの多し。此等は皆大生産者の大を以てするも未だ其力を及ぼすこと能はざる部分なり。然るに小生産者が此等の長處を抛棄し、多數の力を以て大生産者と肩を比べんとするは、必しも得策なりといふ能はず。現時の大生産業は機械の精巧にして高價なると、競爭市場の宏大にして勁敵多き爲に、巨額の固定資本、流通資本を以て之に當るの準備を爲すに非ざれば、之を企つること危險なり。故に相當に大なる資本家にても、又多數を合同し、數十萬の資金を拠集するが常なり。而もトラストの如き世界的の大競爭者あるか、又は經濟界の波瀾あるときは、?々倒産の危難を被ることあり。近年小製造會社等の失敗は皆此例證なり。されば小生産業者が其特有の利益を捨て、零細の資本を集めて、此危險なる地位に臨むは不利益なり。農業の如(121)きは一方に土地を相手にする仕事なれば、我國の如く平野の地少く小所有者多き國にては、會社的に大生産を營むは尤困難のことにて、之を企つる者も有るまじけれども、手工業者の間には或は此考を抱く者もあらんが、餘程考へものなり。

　小産業者の共同生産には今一つの困難あり。即ち適當なる管理者を得られぬことなり。勞働者を多く使ふ製造業にては、企業者自ら管理の任に當る者多く、又事業が非常に大なれば、優れたる人物を雇ひ入るゝ爲に高給を支拂ふことも差支なきも、小さき組合等に在りては此の如き資力も無ければ、仲間の中より名譽職として選任するの他無かるべく、果して適當なる指揮者管理者を得るや否やは甚、覺束なく、假に有りとするも、他の仲間の大多數を指揮して、共同生産の目的を達することは、極めて望無しと言ふべし。外國には純然たる共同生産を目的とする産業組合を許したる國もあれども、他の種の組合が着々として成功するに反し共同の生産を目的とするものゝみは、發達思はしからず、?々内部に紛紜を生じ中道にして廢絶する者あり。我が邦の産業組合法が全部共同の生産を目的とする組合を認めずして、單に生産の一部分に於てのみの共同組合を設けたるは、深く此例に鑑みたるものならんと信ず。さて生産方法の一部の共同を以て目的とするは、必ずしも生産組合のみに非ず。或意味より言へば信用組合も原料、器械等の購買組合も販賣組合も亦皆然りとす。即ち近世の用語例に從ひ、生産の範圍を、其最初の着手より終局目的の到達にまで及ぶ者とすれば、信用組合は資本の投入の點に於て小産業者の共同するもの、原料等の購買組合は材料の取得備付に於て共同するものにして、販賣組合は物の價値の増加に付きて共同するものなり。販賣は生産以外の行爲なるが如きも、生産の目的は物の交換を以て終局とせず、交換に由りて得たる物を以て生計を維持するにあるを以て、販賣も亦生産中の一行爲一方法といふを得べし。而して所謂、生産組合の目的は、販賣に先だちて必要なる機械、器具、手段等の使用を共同にするに在り。要するに産業組合は其名の指示する如く、四種の組合ともに（日用品の購買組合は除く）組合員の生産行爲の一の部分、若くは他の部分に於て、共同團結して利益を増進することを目的とするもの(122)なり。唯、生産行爲の全體に付き、始より終まで共同することは、前に述べたる理由に基き、必ずしも現在の小生産者の爲に得策に非ざるを以て之を認められざるのみ。されば如何に完全に産業組合法を應用するも、個々の人は、やはり個々獨立に爲さゞるべからざる生産の部分あり。即ち生産の計畫と實行とにして普通企業と稱せらるゝもの是なり。企業の合同を爲さんとせば、如何に小さき資本にても、皆商事會社の規定に依らざるべからざるなり。

　小生産者が産業組合法に依り、共同して組合を設くることを許されたる場合は、凡べて其地位よりして、大規模の生産者に比すれば不利益にして、從て競爭對抗に困難を感ずべき點のみなり。信用組合以下三種の組合に付きては、夫々共同の必要なることを説けり。生産組合に於ても亦然り。小生産者は器具、機械を利用して勞費を省約すること能はざる點に於て、大に大生産者に劣れり。是、主として其資本が充分ならざるに由るとは雖、又一方には其仕事の規模の小さき爲め、立派なる機械等を備付るも、之を使用して引合ふだけの結果を生ずる能はざるが爲なり。殊に農界に於ては此事實、尤著しとす。我國は小農の多きこと世界第一なり。學者の目算による時は、農民の半數は、五反歩内外の田地を耕作して生活を爲す。今、馬耕、牛耕の利益は人の疑はざる所なれども、夏、冬、二毛作を通じても、二三十日の使役を以て十分とする小農家に、戸々一頭の家畜を飼養せしめんとするも、果して之を能くすべきや。農具、蠶具の類も亦然り。年内十數囘の使用を以て足れりとする者が、之を買入れ備付けたりとて、果して其利子に當る分だけでも、生産額を増加し得べきや、甚、望少しと言はざるべからず。されば假令信用組合の組合員にして都合よき融通の途あり、又は購買組合の組合員にて餘程低價に買取ることを得たりとて、猶之を爲すに躊躇すべきは寧ろ至當なり。何となれば、體裁ばかり大百姓と同く成りたりとて、一年の勘定に於て算盤が持ち難ければなり。世が進むに從ひ愈々完全なる機械、家畜等が出で來ると雖、其代りに價は益々高くなり、愈々小前の者には手の屆かぬことゝなるべければ、其有效なることを確信すればする程、徒らに他人を羨みて傍觀することゝなるべし。斯る場合に近隣、十戸なり十五戸なり申合せ、大勢の仲間が共同して之を備付け、都合の付く限り繰合せて、順番に之を使用する(123)ことゝせば、其利益は面前《まのあたり》なり。買入保存の入費、皆、大勢にて之を分擔するを得ればなり。小工業即ち手工業者に在りても、數へ立つれば斯る例多からん。例へは田舍に住して機を織るに、染屋に對し絲の染賃を前拂すべきのみならず、僻陬ならば往復の手數も多かるべし。自ら絲を製したる者は勿論、然らざる者も、近所に藍壺等ありて隨時に迅速に絲を染上ぐることを得ば、甚便利にして費用少かるべきを信ずれども、之を備付るは個々、織屋の資力の能くする所にあらず、今一村申合はせて共同して之を備へ置き、使用の囘數等に比例して其實費を分擔することゝせば如何。此他生産の準備を迅速にし進行を容易にし、又は時間を省く爲に利用することを得べき一切の手段は、皆此方法により共用の團體を設け得られざるは無かるべし。

　生産組合即ち生産手段の共同使用を目的とする組合は、必ずしも多人數を要せず、例へば耕作用の役畜の如き七八戸の農家が共同すれば足る。此より多ければ却りて需要が多きに過ぎ、不便を感ずべきを以て、寧ろ組合員を制限するの必要あるが如し。然れども購買組合と同じく、多量購入の利益を收めんとするには、少數の組合員にては不可なり。故に八家にて馬一頭を共用するが都合よしとせば、四十家、八十家の生産組合を作り、五頭、十頭の馬を飼育すべし。さすれば相互の間に繰合せを爲すこと愈々便利なるのみならず、管理の諸費用も大に之を節することを得べし。唯、運搬、往來等の都合より云へば、生産組合の區域は無限に之を擴張するを以て、必ずしも常に利なりとする能はず。購買組合、販賣組合の如きは、聯路の方法さへ適當なれば、數郡、數縣に亙るも亦不可なきに反して、生産組合の區域は大抵一二町村の範圍を出づること困難なり。組合員の住所があまりに隔離するときは、使用の際に時間と手數を徒費するの虞あればなり。要するに此等の不便によりて利益を減殺されざる範圍内に於て、成るべく組合を擴張することを力むべきなり。

　生産組合の種類によりては、是非とも多人數の加入を要するものあり。即ち機械、加工場等の設備の爲め、竝に其保存、維持の爲に、巨額の資本を要する場合なり。染工場、精米所、製粉所、屠畜所の如き其例なり。地方にして食(124)肉用の牛豚等を飼養せんに、生畜の運賃は普通、低廉ならず、且つ時候等の都合にて市場を見出し難きことあり。然るに警察上の取締等の爲に個々の飼養者が自ら之を屠殺して生肉を販寶するには費用を要すること多く、從て我國の牧畜業の發達に多少の障碍を與ふるもの無しとせず、斯る場合に共同して完全なる屠畜場を建設し、隨時に之を使用することを得せしめば大なる便利ならん。兼ねて又鹽肉ハム等の製造をも爲すに至らば、愈々販路の充塞の爲に飼畜者を阻喪せしむるが如きこと無かるべし。水産製造の部分に於ても林産物の製造に於ても、共用加工場の利益ある場合は少からず。此等は皆稍々固定資本を要すること多ければ、少數の小生産者にては其分擔に堪へざるべく、最初より廣く同志者を求むるの必要あることなるべし。

　以上講述する所に依りて觀れば、生産手段の共用は必しも單純なる器具、器械等に限らず、複雜なる構造、設備を有する工場の使用の如きも亦之を包含するものなり。而して産業組合法、第一條に依れば、生産組合の目的として二種の事業を別つものゝ如し。即ち、

　一　組合貝の生産したる物に加工すること。

　二　組合員をして産業に必要なる物を使用せしむること。

　是なり。之を一見すれば第二種は疑も無く使用組合なれど、第一種の事業は全く其以外なるが如し。然れども此區別は購買組合の二種の區別の如く、相異れる二種の者を對立せしめたるには非ずして、唯少しく場合と取扱方の異れるを示せるに過ず。第一種の生産組合も亦一の使用組合なり。第一第二共に各自の生産の便に供するは同じけれども、後者の使用は各組合員自ら、手を下し、前者は組合が一時代りて之を行ふのみ。産業に必要なる物を組合員に使用せしむるは、必ずしも小器械、牧畜等の運搬に便なるものゝみならず、一定の場所に据付けたる機械工場、例へば水車等の如く、一時、個々の使用者に全然、貸渡すことを得るものは、皆第二種に屬す。之に反し原動力の供給、機關の操作等に付き、組合が自ら手を下し、其間、加工、製作の行爲を引受る場合は、即ち第一種にして、組合員の生産し(125)たる物に加工するなり。此場合には一度に數組合員の分を共に引受ること多く、從て民法に所謂、混同の問題を生ず。各組合員は自己の委托したる分量に應じて、加工物に對し請求することを得るなり。要するに第二種は単純なる共同使用にして、第一種は複雜なる共同使用なり。組合が加工の事務の爲に技術員等を雇ひ材料を備ふるときは、之をも併せて使用するなり。

　組合員多數なる生産組合にありては、使用の順序、程度等に付き、組合員間に問題を生ずること多し。此間に公平を保つことは頗る困難の業にして、役員の技倆を要する點なりとす。組合内の統一は主として各員の道�ｺ心に依頼せざるべからざるも、又萬一の爭を防止せんとせば、定款に於て各組合員が一時に使用することを得べき程度を定め、或は使用料（又は加工手數料）の率を一定し各員の使用が或限度を超ゆる毎に、漸次其割合を高くし、成るべく一同が其便利に均浴するの方法を、とるも亦一策ならん。（【模範定款を參照せよ】）

　第一種の生産組合に在りて、數人の分を一時に引受けて加工する場合にも、亦特別の注意を要す。何となれば物の混同を免れざる者は、加工物の分配に付き紛紜を生ぜざるやう、兼ねて精密の記載を爲すべく、又物の品質の著しく高下あるものは、混同を避けざるときは、分配に面倒なるのみならず、或は一方をして損失を被らしむることなしとせず。又品等を評定するに於ても、販賣組合の場合の如く、十分、公平に且つ精確ならんことを期すべきなり。

　生産組合は販賣組合とは異り、組合員の生産したる物に加工すれども、之を販賣すること無し。然れども加工を請求する組合員は、多くは其生産物を販賣せんとする者なれば、一旦混同して置きながら再び之を分配して個々に賣却する者は無かるぺく、多くは其儘にて共同版賣を爲さんことを企つるなるべし。若し然りとせば、其生産組合は兼ねて販賣組合と爲ることを便なりとす。否、寧、純然たる販賣組合と爲りて可なり。何となれば販賣組合にても、又組合員の生産物に加工して販賣することを得ればなり。故に第一種の生産組合の一部分は販賣組合を以て之を充すことを得るのみならず、却りて販賣組合に由るを便利なりとす。之を以て觀れば生産組合、即ち生産手段の共用の必要な(126)るは、概して生産の初期にあり。其物の完成に近づくに及びては、之に由らずして販賣組合を設立するを可とすべし。從て事實に於ては困難なる混同の問題はあまり起らざるべし。尤、生産組合に於ては特に第一種又は第二種の一つに限りて之を營むといふこと無く、又等しく共同加工なりとも、或物は直に販賣せんが爲に之をなし、又或物は再び持ち歸りて猶、手工を加ふることもあらん、故に生産と販賣と二の事業を兼ぬることもあるべし。而して或場合の共同加工は果して生産組合として之を爲すか、販賣組合として之を爲すか明にし難きことあるぺし。然るときは第一の使用料、即ち加工手數料を徴收するも差支無く、又は之を徴收せずして販賣の口錢として組合に收入するも亦可なり。要するに生産組合と販賣組合と相兼ぬるは或場合には其必要なきことあれど、之を兼ねたりとて別に弊害、不便は無く、時としては都合のよきこともあるなり。

　生産組合と販賣組合との關係は以上説く所の如し。次に購買組合との關係如何といふに、元來信用組合を除くの外、三種の組合は共に相兼ぬるも差支なき法律の規定なれば、各地方にて三種とも皆、其必要ありとせば、之を別々に設立せずとも兼ねて行ふ方がよかるぺし。管理、維持の爲に勞費を節約し得るは勿論のことなり、組合の資金も彼此、相補ふことを得るを以て、比較的、少額にて三種の事業の必要に應ずるの好都合あり。故に特別の故障、無き限は兼ねて營むを適當なりとす。唯、生産組合が購買組合と兼ぬるによりて、特に著しき便益の生ずべきことは未だ之を想像する能はず。殊に日用品の購買組合に至りては全く別途の目的を有する者なるにより、之を兼ぬるが爲に生産組合に影響を與ふること少し。併しながら原料等の購買組合に於ては稍々謂ふべきもの無きに非ず。例へば購入したる器具、材料等を個々の生産に適用する前に多少の手入れ勞作を施すの必要ありとせんに之に用ふべき物を生産組合に備へ付け、組合員をして共同に使用せしめば便利なり。例へば使役用の馬を購入する購買組合が生産組合を兼ね、蹄鐵用の器具、器械を備へ付け、之を順次に使用せしむるが如し。尤も予は購買組合に於ける共同加工の事業は明文は無きも法律の禁ずる所にあらずと信ずるを以て、單純なる購買組合にても之を爲し得ることを疑はずと雖、若し購買組(127)合は唯、購入して組合員に引渡すのみなりといふ解釋に一定せば、購買生産組合を兼ねて利益を認むべき場合あるべきなり。即ち新に購入したる産業に必要なる物（購買組合）に手入れを爲すが爲に使用する物は、産業に必要なる物（生産組合）なればなり。

　生産組合に於て組合員に使用の便宜を與ふるは一切の「産業に必要なる物」なり。而して法律上、物と稱するは凡べての有體物のことなり民法第八十五條。製造場敷地又は田畑、牧場、森林、養魚池の如き土地も、亦「産業に必要なる物」の一種なり。土地の共同使用を目的とする生産組合も種々あるべきなれども、予は茲に特に耕地の使用に關するもの、即ち所謂、小作組合も亦一の生産組合なること、并に其設立の利益なることを略説せんとす。我國、現今の小作料は、舊來の慣習と小作希望者の多數なるが爲に甚しく高率にして、小作人は普通收穫の過半を地主に拂ひ又市價の高低を問はず。併し地主は年々の小作米の取立及び小作人の監督に非常の面倒を掛るのみならず、?々、不納、滯納、減納の損失あるを以て、平素、此をも見込みて高き年貢米をとるなれば、もし確實なる下受人ありて一切の責任を負ひ、年々正規の小作料を迅速に支拂ひ得るならば、餘程其歩合を引下げても却りて之を喜ぶべし。殊に大地主の自ら管理の勞を取らざる者、又は所謂不在主義とて遠方の地に居住する地主の如きは、尤、之を希望するなるぺし。現に新潟縣等の實例を聞くに、地主と小作人との間には多くは世話人の媒介ありて、地主の收入の一部は此世話人の手數料として引去らるゝ者なりといへり。斯る場合に生産組合を起し、資金を傭へ、責任を負ひて大面積の土地を直接に地主より借受け、之を分割して再び組合員に小作（使用）せしむるは大なる利益なり。普通の小作人は其期限も極めて短かく、且つ其賃借權は翌記せざるを常とするを以て、地位の不安固なる者なるに、若し組合が全部を代表して一時に契約を締結せば、登記を爲すは元より契約條件も個々の場合よりは遙に利益多かるべし。組合の存立年限が永く、責任が無限又は連帶の組織なる時の如きは、又永小作權をも設定することを得べし。永小作と賃貸借との區別は、民法の註解に詳なれば茲に述べずと雖、要するに借人が修繕、其他の費用を負擔する代りには、期限長く、借料(128)少く一般に借入の權利の安固なるは永小作の特性なり。此の如くして借得たる土地を、實費と手數料等とにて組合員に貸附け、又は普通の借料を徴收するも、其差額は組合の收入とせば、長き年月の間には小作人の利得は大なるのみならず、現今の實?の如く、一年、二年毎に契約を更新し、其都度多數の人と競爭を爲すの困難を覺るべし。

　然しながら大面積の田畑を一手に組合に貸付ることを得るが如き大地主は其數も少きのみならず、耕地の所在が東西南北に甚しく隔離せるときは、組合が之を管理し公平に、且つ利益的に組合員をして分割使用せしむることも容易ならず。又地主が片意氣地にして小作人の集合體なれば借料を割引せずと云が如きことも無しとせず。組合を組織して土地を借入るゝも、借料を少くする能はざれは何の甲斐も無きことなれば、此の如き際には組合員は最初の困難を忍び、素地を永小作して自ら開墾を試むべし。生産組合にて組合員をして使用せしむる物は、必ずしも原形のまゝにて之を貸與する場合に限らず。機械を据付け又は工場を建設して組合員の使用に適せしむるは、亦、此法人の生存目的の範圍内なりとす。開墾も亦之と同じく、生産組合は其購入し又は借入れたる土地及び物品を、組合員に小作、若くは使用せしむる爲に、必要なる豫備行爲として、自ら開墾を爲すことを得べきなり。而して組合員は其餘閑を以て之に從事し、組合より相當の勞銀を受取るぺく、一旦出資したる金も再び自己の收入となれば、結局多額の資金を必要とせざる理なり。又都合によりては生産組合は原野等の未開地を買入れ、又は借受け其まゝ之を各組合員に分貸し、徐々に使用料を徴收するの約束を以て、各自に開墾せしむるも可なり。要するに現今の小作料は概して甚、高く、且つ作物を以て現納する習慣なれば、農産物の市價の漸次、騰貴する時代には、益々多額の借料をとられ、且つ競爭者多き爲に其地主に對する地位は不安全なり。今若し小作人が共同して、耕地使用を目的とする生産組合を組織し、且つ販賣組合を兼ねて收穫物を共同販賣し其代金中より一定の使用料を差引きたる金額を分配せらるゝことゝせば、從來地主の下に在りて、作り分けの約束を以て小作せし時よりも利益、遙に大なるべし。購買組合の如きも亦二種ともに之を兼ね行はゞ更に便ならん。日本の小作農家は少くとも二百萬戸あり。若し産業組合法を利用して彼等が間に共(129)同連合する方法、普及せば、我國の所謂小産業者の大多數は、其生活地位を改良發達するの希望を確保したるものなり。

　生産組合の資本は必ずしも多きを要せず。組合に備へ付くべき物の種類によりて一定せざるべしと雖、先づ此が購入又は借入の費用、備付其他準備の費用、竝に創立の當分の間の保存維持の費用を支ふるに足れば可なり。唯一時に資本の大部分を支出すべきは、此組合の特性なれば、他の組合とは異り、第一囘の拂込を多くし、引續き成るべく短き年月間に、出資金額を拂込むことを力むべし。信用組合に加入せる者は此の如き際に便利なり。然らざる者は或方法により多少の貯金を心掛けざるべからず。無限責任の生産組合は、無擔保にて農工銀行より借入るゝの望もあれど、利子の負擔は困難なれば成るべく自力にて徐々に之に應ぜざるべからず。

　生産組合の收入は使用料若くは加工手數料のみなり。稀には不用品の賣拂代金もあれど、是は臨時にして不定なり。組合の經濟は先づ使用料にて之を維持すべきなり。使用料の定め方に付きては、購買組合の小賣代金と同じく世間普通の率によるべきか、或は之よりも低くすべきかの問題あり。予の考にては、生産組合にては購買組合にて轉賣の弊あるとは異り、轉貸の取締は十分に立つことなれば、之に備ふる必要なく、却つて使用料を低くするを以て便利なりとす。即ち、毎年度の組合の支出を補ふに十分なるを標準として、使用料の率を定むべきなり。さすれば配當の方は少くとも可なり。しかし全然、持分に對する配當なしとせば、誰も多數の出資口數を引受くるを欲せず、組合の創業に必要なる資本を拠集すること困難なるべきを以て、幾分の配當は之を見込まざるぺからず。次に又必要なる組合の歳出の一つとして注意すべきは備付物の償却費これなり。土地等は除き、大抵の物には其壽命あり、十年、十五年の後には全く役に立たぬに至るべし。此時に及び、新に創業の際と同じき辛苦を爲すは愚なることなれば、始より用意して、物の減價、消耗の部分に相當する金額を積立て置き、之を補充するの計を爲すべきなり。此の如く論ずれば、定款又は事業執行規程中に使用料を定むるには、先づ一年間に使用せらるべき囘數、時間、分量を豫算し、一方には(130)償却費、事務費、借金あらば其元利、返濟年賦金竝に出資に對する二三分の配當豫定額等を合算し、前の數を以て後の數を除し、其商を以て一囘、一定量の使用料の標準と爲すべし。尤、法律にては償却費又は配當豫定金の如きは、收入剰餘、即ち純益と看做さるべきものなれば、少くも其四分の一は法定準備金と爲さゞるべからず。而して償却費の目的を以て積立てらるゝ金額は、同時に法律上の準備金となるものなり。

　生産組合の存立時期は成るべく長きを利とす。此組合は他の組合とは異り管理、取扱等の爲に特殊の技能を要せず。故に熟練を重ぬれば、組合員の中、誰にても順次、交迭して役員と爲ることを得べく、生産方法に關し種々の觀察を爲すべき機會ありて、自然に一般の改良、進歩を促すの利あり。是を以て全く存立期間を定めざるか、又は長き期間を以て之を定むぺし。使用に供すべき物の性質によりては、短日月の共同にては、全然其效果を收むる能はざるものあり。耕作を目的とする生産組合の如きも其一例にして、始めは大面積の土地を一手に賃借して之を組合員に轉貸せしもの、次には永小作權を設定せしめて組合自ら耕地を經營し、次には素地を借入れて開墾し、又は國より拂下を受け私人より買受けて、新田、新畑を開き、漸次に其利益を收めんとする爲には組合は殆と、永遠に生存するの覺悟を以て進むべきなり。小作農の地位の改善の如きは、天下の難事業にして、薄弱なる用意を以て着手する者には、到底爲し遂げ得べきことに非ず。必ずや一方には利益の希望を確保すると同時に、他の一方には組合員間、相奨導して智�ｺの進歩を力め、永遠の繁榮と幸福とに向ひて努力せしむべきなり。世に小慈善家なる者ありて、?々叫びて曰く、小民救濟せざるべからずと。予を以て見れば、是甚しく彼等を侮蔑するの語なり。予は乃ち答へて曰はんとす。何ぞ彼等をして自ら濟はしめざると。自力、進歩協同相助〔六字右○〕是、實に産業組合の大主眼なり。

　

(131)　　　　　　　産業組合の性質を考究せんとする者に有益なる書籍

　産業組合法要義　　平田東助氏著　　　　東京　元眞社

　産業組合法提要　　月田藤三郎氏著　　　同　　警眼社

　　　以上二書は法律の解釋を主とし兼ねて組合の方法に説及せり

　國民銀行論　　　　東京專門學校譯　　　同　　博文館

　信用組合提要　　　品川、平田二氏合著　同　　同　上

　農業金融論　　　　伊藤清蕨氏著　　　　同　　裳華房

　庶民勸業制度　　　地部駒男氏譯　　　　同　　東京專門學校

　伊國信用組合　　　伊藤平藏氏著　　　　同　　伊學協會

　信用組合論　　　　高橋、横井二氏合著　同　　農學會

　信用組合提要　　　矢板寛氏著　　　　　同　　哲學書院

　　　以上七種の著は主として信用組合の經濟上の性質を説きたるものなり其他の三種の　組合に關し未だ特殊の著述あるを知らず

　各國産業組合統計　　　　　　　　　　　農商務省編纂

　獨逸産業及經濟組合法　　　　　　　　　農商務省譯

　獨逸組合登記簿及登記出願規則　　　　　同　上

　獨逸國産業組合各種定款　　　　　　　　同　上

　

(133)　　　日本産銅史略

　

(135)　　　　　日本産銅史略

　

　　　　　　　緒言

　

　本邦古來物産ノ著名ナルモノソノ數何ゾ限アラン、然ルニ予ガ其中ニ就テ僅ニ一種鋼ノ沿革ヲ研究スルガ爲ニ若干ノ勞力ヲ費スニ至リタルハ、必シモ金屬消費ノ起源ガ直ニ經濟的意義ニ於ケル社會ノ起源ニシテ、金屬生産ノ消長ガ又同時ニ一國經濟力ノ消長ヲ意味ストイフ單純ナル原則アルガ爲ノミニ非ズ、銅ノ生産消費は尚種々ノ點ニ於テ我國ノ經濟發展ノ上ニ特殊ノ關係ヲ有スルモノアルヲ以テナリ、何トナレバ、（一）我國ハ由來銅鑛ニ富ミ過去一千年間連綿トシテ其生産絶エズ現今尚重要物産ノ一ナリ、（ニ）從テ他ノ金屬ガ甲ノ時代ニハ輸出サルヽモ乙ノ時代ニハ却テ外國ノ輸入ヲ仰ギタリシニ反シテ、銅ハ殆ト常ニ國産ヲ以テ國内ノ消費ヲ充シタルノミナラズ、?々其多額ノ餘剰ヲ以テ海外ニ供給セリ、殊ニ所謂開國以前ノ長崎貿易ニハ銅ハ二百年ノ間繼續シテ常ニ輪出物品ノ大部分ヲ占メ、降リテ新時代ノ貿易ニ在リテモ亦輸出品中ノ重要ナルモノヽ一ナリ、（三）貨幣鑄造ノ原料トシテ最多ク且ツ最久シク用ヰラレタルモノハ銅ナリ、加之（四）銅需要ノ性質ガ此ノ如ク確定セル結果トシテ國家ハ其生産ヲ保護奨勵スルノ必要アリ、從テ銅ニ關スル過去ノ法制ハ比較的テ完備シ、一ノ時代ニハ鑛山ヲ官營シ又他ノ時代ニ在リテハ政府ハ合セテ其賣買ヲモ獨占セリ、�ｺ川幕府ノ下ニ於ケル銅坐制度ハ即チ是ナリ、而シテ此綿密ナル國家干渉ノ影響ハ、直接間接ニ一般經濟社(136)會ニ發現セルコトヲ認ムベク、一方二ハ又舊時代ノ經濟學者ガ之ニ關シテ論議ヲ試ミタルモノモ少カラズ、要スルニ銅ノ生産消費ハ夙ニ經濟政策上ノ一大問題タリシコトハ爭フベカラザルナリ、此等ノ理由ヨリシテ予ハ大ナル興味ヲ以テ銅ノ略史ヲ記述スルノミナラズ、尚此小事業ノ學界ノ爲ニ全然無用ノモノナラザルコトヲサヘ信ズルナリ、

　日本ノ銅生産ニ付テハ明ニ四ノ時期ノ存スルコトヲ認メ得ベシ、此時期は直ニ鑛山技術發達ノ段階ヲ意味スルモノニシテ、技術ガ同一ノ程度ニ留レル限ハ産額ハ年月ト共ニ漸々減少スベキコトハ鑛産物ノ自然ノ性ナレバ、從テ舊時期ガ終ヲ告ゲ新ニ次ノ時期ニ入ルニ及ビテヤ、産額ハ一時ニ急激ノ増加ヲナスヲ常トス、而シテ此増加ニ伴ヒテ銅ノ用途ハ多方面トナリ、之ヲ材料トスル技藝ハ進歩シ、之ニ關スル市場ノ繁榮スベキコト亦論ヲ須タザルヲ以テ、銅史研究ノ全體ヲ通ジテ此時期ノ分界ハ常ニ必要ナルコトナリ、サテ四期ノ分界點ヲ言ハヾ、第一ト第二トヲ分ツハ彼有名ナル和銅改元ノ前後（西暦紀元七〇〇頃）ナリ、第二期ハ甚永クシテ、其終リタルハ戰國ノ末天正年間ナルベシ（西暦一五九〇頃）、此ヨリ�ｺ川幕府時代ノ終迄ハ即チ第三期ニシテ、明治維新ハ銅ノ爲ニモ亦一新時期ノ開始ナリトス、新時代ノ事蹟ニハ歴史ノ記述中ニ入ルベキモノ未ダ多カラズ、而シテ中古以前ハ史料殊ニ乏シキヲ以テ、此ニ主トシテ研究セントスルハ第三期間ノ變遷ナリ、而モ此時期ハ實ニ又銅史中最多事ナリシ時代ナリ、

　　　　　　　一　和銅元年ヲ以テ本邦製鋼ノ始ナリトスル説ノ誤――銅消費ノ起源――銅需要増加ノ?況――贖銅ノ制――銅山官營――初期ニ於ケル銅生産――生産額ノ急激ナル減退

　和銅改元ノ原因トナリタル武藏國秩父郡貢銅ノ事ハ歴史上最顯著ナル事蹟ニシテ、實ニ又過去ノ銅生産ニトリテ一ノ重大ナル時點ヲ示スモノナリ、然レドモ之ヲ以テ直ニ我國銅存在ノ起源〔六字傍点〕ナリトスルモノアラバ無論誤ナリ（イ）、而シテ之レヲ以テ我國銅生産ノ始〔五字傍点〕ナリトスル説（ロ）ハ比較的遙ニ有力ナルモノナリト雖モ、愚見ヲ以テスレバ此モ亦頗疑フベキ者アルガ如シ、此説ニ由レバ和銅以前若干ノ銅消費アリタルコトハ之ヲ認ムルモ、此等ハ皆三韓其他ノ外國ヨリ輸入シタルモノニシテ本邦ノ産物ニ非ズト斷言スルナリ、此説ノ由來スル所ハ、思フニ和銅以前ニ銅山ニ關スル史文ノ更(137)ニ見エザル（ハ）ト、和銅改元ノ詔ガ非常ナル朝廷の滿足ヲ表示セルトニ存スルナルベシ、然ルニ此ヨリ前既ニ國内ニ銅ノ産出アリシコトヲ想像セシムベキ根據ハ必シモ一二ナラズ、今簡單ニ其主要ナル點ヲ擧ゲンニ、（第一）三韓ノ地ガ夙ニ金銀ヲ産シ之ヲ以テ日本ニ貢獻セシコトハ?々歴史ニ見ユレドモ其銅ヲ輸入セシコトハ多ク見ル所ナシ（ニ）、其ノ他ノ外國ニ在リテモ亦然り、然ルニ和銅以前ノ銅ノ消費ハ決シテ僅少ノ額ニ非ザルナリ、太古ニ於ケル鏡、劍其他武器ノ材料ガ主トシテ銅ナリシコトハ發掘物等ニ關スル考古家ノ説ニ由リテ之ヲ信ジ得ベシト雖、今ハ假ニ措テ論ゼズ、降リテ佛教渡來ノ後ニ在リテハ、佛像佛具其他ノ器具ヨリ近代各地ニ發掘セラレタル墓誌、骨器ノ類ニ至ル迄（ホ）遺形ノ現存シ年代ノ討ネ得ベキ者極メテ多種多數ナルヲ見テモ、其時代ノ銅使用ガ頗普及セシコトヲ知ルベシ、就中殊ニ注意スベキ二ノ事實アリ、一ハ推古天皇ノ十三年（西暦六〇五）ノ元興寺銅佛ノ鑄造ニシテ、他ハ天武天皇ノ治世ニ於ケル銅錢ノ通用ナリ、鑄佛ノ擧ハ計畫起リテ後僅ニ一ケ年ニシテ成ヲ告ゲ鋼ヲ費スコト二萬三千斤ノ多キニ及ベリ（ヘ）、天武ノ白鳳十二年ノ令ニ銅錢ヲ用ヰ銀錢ヲ禁ズトアルハ、銀ヲ停メテ新鑄ノ銅錢ヲ以テ之レニ代ヘラレシカ、或ハ又從來ノ二種ノ貨幣中一ヲ廢シテ專ラ他ヲ行ハレシカ之ヲ決スルコト能ハズト雖モ、少クモ此時即チ和銅ノ改元ヨリ二十五年ノ前二銅錢ノ通用アリシコトハ明白ナリ、而シテ之ヲ以テ輸入錢ナリトシ又ハ輸入ノ材料ニ由ルモノナリトスル寶貸事略、茅?漫録其他ノ説ハ十分ナル證據アラザレバ信ズベカラザルモノナリ、何トナレバ（第二）我國ノ如ク銅鑛ノ豐富ニシテ近畿ノ地ニモ之ヲ發見スルコト容易ナリシ國ニ於テ、冶鑄ノ技術ノミ先ヅ輸入サレテ採掘ノ法ノ久シキ後マデ傳ハラザリキトイフコトハ甚普通ノ事情ト反スベケレバナリ、次ニ（第三）和銅改元ノ年ニハ又新錢發行ノ事アリ、鑄錢司ハ東西ノ諸國ニ相次デ設置セラレ盛ニ銅錢ヲ鑄タリ、而シテ武藏ノ産銅ノ如キハ近江以下各地ノ鑄錢トハ何等ノ關係アルヲ認ムル能ハズ、全ク偶然ニ年ヲ同クセシニ過ギザルガ如シ、而シテ（第四）和銅以後數十年ノ間ニ銅ノ國内生産ハ其消費ト共ニ著シク増加シタルモ、是ハタ銅錢通用ノ普及ト佛法ノ興隆トガ需要ノ増進ヲ以テ之ヲ刺激シタルガ爲ニシテ、之ニ由リテ直ニ武藏ノ邊陬ノ地ガ我國産銅技術ノ先驅ヲ爲セルモノナリトスルハ、極メテ(138)無理ナル推論ナリ、要スルニ和銅元年ハ決シテ我國ニ於ケル銅山採掘ノ起源ニハ非ズ、此以前ニハ假令國内ノ需要ヲ充スニ足ラズシテ幾分外國ノ補給ヲ仰グノ必要アリキトスルモ、少クモ銅ノ發見ハ既ニ年久シク所在之ヲ採收シテ人ノ用ニ供セシコトハ殆ト疑フベカラザルナリ、而シテ武藏銅ヲ貢スルヤ朝廷之ヲ以テ大ナル慶事ト爲シ爲ニ改元ノ擧アリシガ如キハ果シテ何ニ由ルカト言ハヾ、當時鑄錢鏡又ハ造佛ノ計畫アリシ際圖ラズ東國ヨリ遙ニ此物ヲ貢セシヲ嘉シ玉ヘルカ、然ラザレバ改元ノ詔ノ中ニ「自然ニ作リ成セル和銅ヲ」トアルニ基キテ二三ノ學者ガ推論スル如ク（チ）、珍シキ自然銅ヲ貢セシニヨリ天下ノ奇瑞トシテ之ヲ慶賀セラレタルモノナランカ、奇瑞ニ由リテ年號ヲ改メシ例ハ其前後ニ猶少カラザレバナリ、

　　（イ）　水鏡ニ「日本ニ銅アル始也」トアルヲ此誤ニヨリテ記サレタルモノナリト解スル者アリ（大和事始）

　　（ロ）　新井白石ノ本朝寶貨通用事略ニ「我國ノ銅ハ始テ出タリ……倭國ノ銅之ヲ始トスレバ年號ヲ和銅トハ改メラル云々」ト見ユ、又貝原好古ノ大和事始、茅原定ノ茅?漫録等ニモ亦和銅前ノ銅ヲ以テ外國産ナリトスルガ如シ、近年ノ書ニテハ本朝金石略誌、社會事彙等同説、

　　（ハ）　和銅改元ヨリ十年前文武天皇ノ二年ニ因幡ト周防トヨリ銅鑛ヲ獻ズトアルハ必シモ見落シタルニハ非ザルペキモ、之ハ單純ナル鑛石ニシテ製銅ノ事ト關係ナキガ如ク考フル者多キナリ、

　　（ニ）　三韓ノ貢物ガ史上ニ列記サレタル所ニハ金ト銀トハ必ズ見ユルニ反シテ、貢鋼ノ記載アルハ天武十年、持統二年ノ兩度ノミ、此事實ハ何等ノ證據ヲモ與ヘズトスルモ少クモ銅輸入説ガ單ナル一ノ想像ニ過ギザルモノナルコトヲ知ルヲ得ベシ、

　　（ホ）　金石年表、好古小録、好古日録其他參照、

　　（ヘ）　此時高麗王ガ黄金ヲ貢シテ助勢セシコトハ見ユレドモ銅ヲ貢セシコトヲ記サズ（考古界二ノ十二號所載三宅博士ノ「古代ノ金屬」參照）

　　（ト）　和同開珎餞ヲ以テ此時ノ所鑄ナリトスル説サヘアリ、次章參照、

　　（チ）　本居宣長等説、續日本紀考證ハ之ニ反シ草間直方ノ説ヲ引キテ鍛錬ヲ經テ成レルモノナリトイヘリ、〔入力者注、これらの注は小字になっているが、普通の大きさにした。以下同じ。〕

　

　此ノ如ク和銅以前ニモ既ニ製鋼ノ術ガ行ハレシコトヲ認ムルニ由リ、予ハ此時代ヲ目シテ銅生産ノ第一期ト爲シタリト雖、如何ニセン之ニ關スル歴史ノ記載ハ極メテ乏シク、其生産地ノ如キハ全ク之ヲ知ルコト能ハズ、思フニ上古(139)ニ在リテハ銅ヲ以テ鏡ヲ鑄、劍、鉾、鏃等ノ武器ヲ作リシコトハアレドモ、要スルニ國民生活ノ單純ナルガ爲、其用途ハ極メテ狹隘ノモノナリシヲ、佛教ガ傳來シ次デ唐朝ノ文化ノ輸入セテルヽニ及ビテ一時大ニ其消費ヲ増加シタルナラン、大化二年ニ詔シテ金銀銅鐵ヲ以テ人ヲ葬ルヲ戒メ玉ヒシコト、同三年ニ七色十三階ノ冠制ヲ定メ「大小黒冠ノ鈿ハ銅ヲ以テ之ヲ作リシ」コト等ヲ以テ見レバ、此頃ハ啻ニ宗教上ノ莊嚴ノ爲ノミニ非ズ、世間日常ノ裝飾ニモ用ヰラレテ漸次必要ノ度ヲ加ヘ來リシコトヲ知ル、而シテ銅ヲ以テ貨幣トスルニ至リテハ更ニ其需要ヲ増シタルハ勿論ナリ、天武朝銅錢ハ如何ナル範圍ニ迄通用シタリシカ、今之ヲ詳ニスルコト能ハズト雖、和銅ノ鑄錢ノ如キハ其規模極メテ宏大ニシテ、朝廷ハ力メテ其流通ヲ奨勵セシヲ以テ此ガ爲ニ用ヰラレタル銅ノ額ハ決シテ僅少ナラザリシナリ、

　和銅以後ノ銅消費ニ於テモ鑄錢ニ次デ大ナルハ亦佛像佛具ノ鑄造ナリ（リ）、就中天平十七年（西暦七四五）ニ成リタル東大寺ノ大佛ハ「國銅ヲ盡シテ鎔象ス」ト稱セラレ、熟銅ヲ費スコト實ニ八十六萬斤（ヌ）、計畫ノ偉大ナル亦以テ此時代ニ於ケル鑄銅技工ノ進歩ヲ想像スルニ足ル、朝廷ニ在リテモ大藏省ノ典鑄司（後ニハ内匠寮）竝ニ宮内省ノ鍛冶司（後ニハ木工寮）ニ多數ノ銅工ヲ置キ、年々諸國ノ銅ヲ徴シテ種々ノ器物ヲ作ラシメ給フ、其種類ニ至リテハ固ヨリ之ヲ列擧スベクモ非ザレドモ、例ヘバ各官廳ノ内外ノ官印又ハ度量衡ノ原器ノ如キモ銅ヲ以テ作リタリシガ如シ、降リテ延喜式ノ時代ニ及ビテモ、宮中府中ノ調度、備品ノ銅ヲ以テ製作シ又ハ裝飾シタルモノ其陬甚多シ、而シテ銅ノ消費ハ必シモ官家大寺院ノ獨占ニハ非ズシテ、一般市場ニ於テモ亦交易ノ目的物タリシコトハ、既ニ雜令ノ規定ニ「銀ト銅トヲ量ルニハ大量ヲ用ヰ其他ハ官私悉ク小量ヲ用ヰヨ」トアルヲ以テモ之ヲ推測シ得ルノミナラズ、貞觀十八年ノ太政官符ニハ長門國ノ人民ガ任意ニ銅ヲ採リテ雜器ヲ作り商賈ヲ事トスルヲ以テ鑄錢ノ原料ガ不足ヲ來セシコトヲ言ヘリ、此他銅ノ世上ニ普及セシコトハ、當時ノ刑法ニ於ケル贖銅ノ制度ニ由リテモ亦之ヲ知ルコトヲ得ベシ、贖銅ハ一種ノ恩典ニシテ、一定ノ條件ヲ具備スル者ハ特ニ體刑ヲ免ジ之ニ代ヘテ銅ヲ納メシム、死罪二百斤、流罪百四十乃至百斤以下等差アリ（ル）、贓贖司之ヲ收メ獄舍其他ノ修理ノ用ニ充テ（ヲ）、唯創傷ト誣告トノ場合ノミハ之ヲ被害者ニ(140)與フト言ヘリ（ワ）、或ハ此規定ヲ以テ唐律模倣ノ餘ニ出ヅルモノニシテ、實際始ヨリ現物ヲ收納セシニハ非ズ、大抵價ニ准ジテ、布、稻、錢等ヲ代徴セルモノナリト言フ人アルベキモ、銅ヲ納メタル實例ハ史上ニ現存スルノミナラズ、之ヲ以テ獄舍ヲ修理ストイヒ又式ノ規程ニ於テ姶メテ准錢ノ事ガ見エタルニ由レバ、臣民罪ヲ贖フニ當リ銅ヲ求ムルニ蓋シ必シモ困難ナラザリシナラン、

　　（リ）　大日本古文書卷二ニ見エタル法隆寺資財帳及ビ大安寺資財帳等參照、

　　（ヌ）　朝野群載卷十六ニ見エタル大佛殿前板文、

　　（ル）　日本古代法典二二七頁、

　　（ヲ）　職員令義解、

　　（ワ）　獄令義解、

　

　然レドモ政府ガ最大ナル銅消費者ナリシコトハ亦爭フベカラズ、何トナレバ和銅以後二百五十餘年間ノ銅錢鑄造ヲ始トシテ、内匠木工二寮ノ工作等銅ヲ要スルコト甚多ク、之ニ加フルニ造寺造佛ノ擧ノ如キモ其大ナルモノハ大抵皆國費ノ事業ナリシナリ、サレバ當時市肆ノ組織ハ稍々整頓シタリト雖、政府ガ年々巨額ノ銅ヲ使用スルニハ單ニ普通交易ノ方法ニノミ憑頼スルコト能ハズ、更ニ生産ノ本源ニ就キテ一定ノ供給ヲ確保スルノ必要アリ、是ニ於テカ銅山官營ノ方法即チ採銅使ノ制度ヲ立テタルナリ、蓋シ此時代ニ於テハ、天然物採收ノ利益ハ公私之ヲ共ニスルヲ以テ本則トシ、法ノ特別ノ制限アル場合ノ外ハ、各臣民モ亦隨意ニ之ヲ享有スルコトヲ得タリシナリ、而シテ銅鐡採掘ノ如キハ收穫ニ豫定アリ、且ツ其經營ノ爲ニ若干ノ設備ヲ要スルヲ以テ、政府ガ一旦之ニ着手シタル場所ニハ、人民ハ最早來リテ共ニ之ヲ取ルコトヲ聽サレズト雖モ（カ）、政府ガ點入シテ官鑛ト爲スモノハ一時概ネ五六ケ所ニ過ギザルヲ以テ、其他ノ産銅地ニ在リテハ、人民ハ此時代ニ普通ナル單純ナル器具ヲ携ヘテ爭ヒテ之ヲ採掘シ、他ノ採薪撈魚等ト同ジク、單ニ之ニ充テタル勞働ノ價ノミヲ以テ容易ニ之ヲ各自ノ財産ト爲スコトヲ得タリシナルベク、從テ沽價法ガ定メラレテ銅貨ノ價格ガ騰貴スルニ及ビテハ、民間採銅ノ利益ハ自然ニ權家富豪ノ壟斷スル所トナリシナラン（ヨ）、而シテ私(141)鑄濫造ノ弊害ハ亦此間ニ養成セラレ、官酷刑ヲ以テ之ニ臨ムモ猶禁壓スルコト能ハズ、後終ニ貨幣制度ノ根本ヲ覆ス至レリ、

　　（カ）　雜令ニ曰ク「凡ソ國ノ内銅鐵ヲ出ス處アリテ官未ダ採ラザル者ハ百姓私ニ採ルコトヲ聽セ、若シ銅錢ヲ納レテ庸調ニ折充セントスル者アラバ聽セ、自餘禁處ニ非ザル者ハ山川藪澤ノ利ハ公私之ヲ共ニセヨ」

　　（ヨ）　例ヘバ銀ニ付キテ延喜式ニ「凡ソ對馬島ノ銀ハ百姓ノ私ニ採ルニ任聽ス、但シ國司ハ此例ニ在ラズ」

　採銅使ハ臨時ノ任命ニ由ルモノニシテ常設ノ官ニハ非ズ、凡ソ諸國銅鑛ヲ發見シタルトキハ之ヲ朝ニ報ジ、政府自ラ其ノ採掘ニ從事セントスルニ臨ミテ、乃チ採銅使ヲ任ゼシガ如シ、而シテ國司ヲシテ採銅使ノ任務ヲ兼ネ行ハシメタル例モ亦少カラズ、抹銅使ノ職ハ主トシテ鑄錢ノ目的ニ供スルモノナレバ、鋼ト共ニ又鉛ヲモ併セ採ラシメタリ、鋼鉛採鑛ノ費用ハ、常ニ所在各國ノ正税ヲ以テ直接ニ之ヲ支辨セシメ、最初ハ其實費ヲ以テ支出セシメタルモノナルガ如キモ、後年ハ變ジテ一種請負ノ如キ組織ト爲リ、銅鉛各一斤ノ製錬輸送ノ費用ヲ、稻三束九把餘ト豫定シテ過不足ヲ問ハズ、産銅地ノ各國司ハ比率ヲ以テ輸送銅鉛額ニ乘ジ、之ヲ官稻中ヨリ控除シ、年々ノ會計決算書ニ鑄錢司ノ領收書ヲ添附シテ之ヲ中央ニ報告ス（レ）、國司定額ノ銅ヲ輸送セザル者ハ、其公廨ヲ没シテ之ヲ賠償セシムルノ規定ナリシカドモ、實際銅産ノ振ハザル人力ノ如何トモスル能ハザルモノナルコトヲ知ルニ及ビテ、久シカラズシテ賠償ノ制ハ罷メラレタリ（ソ）、又政府ノ採鑛事業ハ必シモ其所在土地表面ノ領有權又ハ使用權トハ關係ナカリシガ如ク、時トシテハ私人ノ占有地ニ於テ採掘ヲ爲スコトアリキ、

　　（タ）　和銅六年五月諸國郡郷ヲシテ其風土記ヲ作リ其郡内出ス所ノ銀銅等ヲ具録セシム（續紀ノ意ヲ採ル）、其後モ新ニ銅鑛ヲ發見シテ之ヲ報告セシコト?々見ユ、

　　（タ）　

　　（レ）　主税式參照、

　　（ソ）　承和十五年二月格、

　　（ツ）　其證ハ貞觀九年山城岡田ノ採銅地ヲ左大臣源信ニ返賜シ、採銅ノ事ハ舊ニ依リ官之ヲ行ヒタリ、

(142)次ニ此時代ニ於テ政府ノ經營ニ屬セシ産銅地ヲ列記センニ、先ヅ近畿ニ在リテハ山城相樂郡岡田アリ、岡田採銅使ノ始テ歴史ニ見エタルハ貞觀七年（西暦八六五）ナレドモ、此ハ明ニ二度目ノ採掘ニシテ、此ヨリ以前既ニ鑄錢司ノ此地ニ設置セラレタルコトアリ（ネ）、産出ノ中絶セシガ爲錢司モ亦廢セラレシナリ、奈良ノ京ヲ距ルコト僅ニ數里、山城ノ京ヨリモ亦遠カラズ、其ノ便利想フベシ、第二回ノ採銅ハ概シテ鑄貨ノ材料ニ供セラレズ、木工寮勅ヲ奉ジテ之ヲ經營シ以テ器具等ノ雜用ニ充テタリ、元慶五年（西暦八八一）岡田採銅使ハ罷メラレ、爾後廢坑ニ歸シ其跡亦今ニ存セズ、官營銅山ノ最盛大ナリシハ長門周防ノ二國ナリ、長門採銅ノ起源ハ未ダ詳ナラズト雖、天平二年（西暦七三〇）既ニ鑄錢司ノ在ル有リ、爾後天長八年（西暦八三一）ニ近キ頃迄常ニ西國銅産ノ中心點タリシガ、産額ノ稍々衰フルニ及ビテ鑄錢司ハ周防ニ遷サレヌ、周防ハ文武天皇ノ二年既ニ銅鑛ヲ出ス、天平二年ニ至リ其國熊毛郡吉敷郡ノ銅用ヰルニ足ルヲ以テ長門ノ鑄錢料ニ宛ツ、以後産額多クシテ且絶エズ、此二國ニハ現今尚若干ノ銅山アリ、其由來スル所甚久シトイフベシ、長門周防ノ鑄餞司ニ原料ヲ供給セシ國々は、二國ノ外ニ備中、備後、豐前アリ、此中豐前ノ採掘は稍々新シク、其國規矩郡ニ採銅ノ事アリシハ元慶二年ナレド、他ノ二國ハ遙ニ之ニ先ダテリ、備中ノ吉岡及小泉ハ、其山ノ傳説ニ由レバ大同年間（西暦八一〇頃）ノ開坑ニ係ルト稱ス、而モ後年�ｺ川時代ノ全期ヲ通シテ巨額ヲ産出シタルノミナラズ、現今猶屈指ノ銅山ナリ、以上ノ外豐後國ニモ亦採銅使ノ置カレタルコト見エ、美作國眞嶋郡大庭郡、備前國津高郡、石見國美濃郡ニモ官命ヲ以テ採鋼ヲ試ミタルコト見ユレドモ、思フニ此等ハ皆當時未ダ盛大ナルコト能ハズシテ中止シタルモノナランカ、以上官營ノ銅山ノ外ニ、文武天皇ノ二年ニ銅鑛ヲ貢シタル因幡、和銅元年ニ和銅ヲ貢シタル武藏秩父郡ヲ加フルトキハ、當時銅屬ノ分布實ニ十二國ニ瓦レリ、而シテ正史以外ノ書ニ依レバ、例ヘバ東大寺縁起ニ天平大佛ノ原料ハ攝津多田ノ産銅ナリト言ヘルガ如キ、又ハ陸前鳴子銅山、陸奧陽ノ澤銅山、陸中半田ノ銅山ガ共ニ大同年間ノ開坑ニ係ルトイヒ、サテハ陸中尾去澤ノ銅山ガ和銅年間ノ發見ナリトイフ等、漠然タル口碑ノ残存セルモノモ亦少カラズ、此中ノ或モノハ又民間自由採掘ノ遺跡ナリト想像スルモ必シモ大ナル誤(143)ニハ非ザルベシ、

　　（ネ）　穗井田忠友ノ説ニ由レバ、岡田鑄錢司は和同錢ノ晩鑄ヨリ開始セラレ弘仁七年（西暦八一六）ニ至リテ廢セラレタルモノナランカトイヘリ、（中外錢史）

　

　此時代ノ銅生産高は固ヨリ之ヲ詳ニスル能ハズト雖、器具機械ノ簡單ナル坑法ノ不完全ナル到底近世ノ産額ト日ヲ同クシテ語ルベカラズ、奈良ノ大佛ノ原料八十六萬斤ハ、過去ノ蓄積ヲ蒐集シタルモノニテ、之レヲ以テ當時一二年ノ産額ナリト推測スル能ハザレドモ、鑄貸事業ノ初期ニ當リテハ諸國出ス所猶頗多カリシヲ、銅山智識ノ未ダ十分ニ發達セザル時ナレバ、久シカラズシテ豐富ナル鑛脈ヲモ見失ヒ源泉ヲ枯渇セシモノナルベシ、然レドモ鋼市價ノ騰貴ハ一方ニハ民間、射利ノ徒ヲ誘致シ、私掘私販ノ業ハ漸次ニ増加シタルベケレバ、國中一般ノ生産額ハ必シモ官營銅山ノ收穫ト同ジ比例ヲ以テ減退シタル者ナリトハ想像スルコト能ハズ、唯後者ノ減退ニ至リテハ寧驚クベク、弘仁以後ハ鑄錢司ガ收容スル所ノ銅、最多キ年ニシテ僅ニ五萬一千餘斤（ナ）ナレド、是レハタ舊錢ヲ改鑄スル年ノミノ事ニテ舊錢既ニ盡キ新銅ヲ需要スルノ年ハ二萬餘斤ヲ出スノミ、其後下リテ一萬六千餘斤ノ定額トナリシガ、此額猶之ヲ充スコト能ハズ、甚シキニ至リテハ年料僅ニ二千四五百斤ニ過ギズ、延喜式ノ時代ニハ、備中八百斤、長門豐前各二千五百餘斤、合計六千斤弱ヲ以テ定額ト爲セリ、其他ノ用度ニ在リテモ大鑄造ハ漸ク罷ミ、年分大抵熟銅千斤内外ヲ要スルノミ、延喜以後ハ諸國ニ盗起リ、殊ニ銅生産ノ中心タル周防ノ近海ニハ、海賊跳梁ヲ極メ、?々往來ノ官船ヲ劫掠シ周防ノ鑄錢司モ賊ノ爲ニ燒カルヽニ至レリ、（天慶三年、西暦九四〇）、是ニ於テカ銅山官營ノ事業ハ全ク終ヲ告ゲ、貨幣制度ハ亦獨行ハルヽコト能ハズ、世ハ再ビ物々交換ノ舊態ニ復スルノ已ムヲ得ザルモノアリシハ深ク惜ムベキコトナリトス（ラ）

　　（ナ）　讀者ハ此時代ノ銅一斤ハ今ノ一斤ヨリモ稍々重カリシコトヲ記憶セザルベカラズ、穗井田忠友ノ説ニ由レバ和銅六年以後ノ一大斤ハ今ノ一八〇匁ニ當ル、即チ今ノ一斤ヨリモ一二・五％重シ（觀古雜帖）、又古代ノ權衡制度ニ關シテハ法制論第八四二頁小中村博士ノ論文參照、

(144)　　（ラ）　天�ｺ二年（西暦九五八）ニ鑄造セラレシ乾元大寶錢ハ延喜通寶ノ改鑄ニシテ（日本紀略）、又實ニ改鑄ノ外一ノ新銅ヲモ用ヰザリシガ如シ、

　　　　　　　二　「本朝十二銅錢」――和銅年間ノ貨幣政策――私鑄ノ弊――銅銀比價――銅錢ト物價ト――デフレシエション――鑄錢地ト産銅地ト

　予ハ此ヨリ第二期前半ニ於ケル鑄錢ノ沿革ヲ略述セントス、和銅以後村上天皇ノ天�ｺ二年ニ至ルマデ、銅錢錢文ノ改メラレタルコト凡テ十二囘ナリ、所謂本朝ノ十二錢ハ即チ是ナリ、其表左ノ如シ、

　　　　　　　　　　十二銅錢表

　錢文　　始鑄ノ年　鑄造期間（西暦ニヨル）　知レタル鑄錢地　備考

和同閲珎　元明天皇和鋼元年七月　七〇八−？　七三五−七五九　近江、河内、播磨？　太宰府、長門、大和、山城？

萬年通寶　淳仁天皇天平寶字四年十二月　七六〇−七六四　長門、山城？　大和　一ヲ以テ舊錢ノ十ニ當ツ、舊ト竝ビ行フ

神功開寶　稱�ｺ天皇天平神護元年九月　七六五−七八二　七九〇−七九五　長門、山城？　大和　前ノ新錢ト竝ビ行フ

隆平永寶　桓武天皇延暦十五年十月　七九六−八一六　長門、山城？　一ヲ以テ舊錢ノ十ニ當ツ且ツ四年ノ間新舊竝ビ行フ

當壽神寶　嵯峨天皇弘仁九年十一月　八一八−八三四　長門、周防

承和昌寶　仁明天皇承和二年正月　八三五−八四七　長門？　周防　一ヲ以テ舊錢ノ十ニ當ツ新舊竝ビ行フ

長年大寶　同上嘉祥元年九月　八四八−八五八　周防　同上

饒益神寶　清和天皇貞觀元年四月　八五九−八六九　同上　同上

貞觀永寶　同上貞觀十二年正月　八七〇−八八九　周防、山城　同上

(145)寛平大寶　宇多天皇寛平二年五月　八九〇−九〇六　周防、山城？

延喜通寶　醍醐天皇延喜七年十一月　九〇七−九四〇　同上　一ヲ以テ舊錢ノ十ニ當ツ、新舊竝ビ行フ

乾元大寶　村上天皇天�ｺ二年三月　九五八　山城？

　和同開珎ハ錬法技巧共ニ前後ニ比シテ一大進歩ヲ示シ、疑モ無ク支那ヨリ鑄錢工ヲ雇ヒ傳習シテ之ヲ作リタルモノナルコトハ、古錢家ノ一般ニ論證スル所ナリ、而シテ世間普通ニハ此錢ヲ以テ日本最初ノ銅貨ナルガ如ク想像スト雖、此以前既ニ天武朝ノ銅錢アリシコトハ前章ニ之ヲ述ベタリ、加之或ハコノ錢ガ果シテ和銅年中ノ始鑄ナルヤ否ヤニ付キ疑ヲ抱ク者モ無キニ非ズ（ム）、蓋シ和銅鑄錢鏡ノ際ニハ歴史ニ錢文ノ事ヲ戟セザルヲ以テ、時ニ或ハ此疑ヲ挿ムコトヲ得ト雖モ、予ハ猶近世長門國ニテ發見シタル古錢型ニ和同開珎ノ文字ガ顯存セリシ事實（ウ）等ニ由リテ、和同錢ガ和銅年間ノ新鑄ナルコトヲ信ズルモノナリ、和銅以前ノ鑄錢ハ決シテ一時ノモノニハ非ズ、天武天皇十二年ノ銅錢通用令ノ前後ヲ通ジ、鑄錢司ヲ設置シ又ハ鑄錢官ヲ任命セシコト數囘ニシテ（ヰ）銅錢ノ種類モ亦多キガ如シ、サレドモ其規模ノ大サニ至リテハ固ヨリ和銅ノ新設ニ及バザルコト遠シ、和銅ノ鑄錢司ハ一時ニ之ヲ近江、河内、播磨、太宰府、遠江、長門（ノ）等ノ諸國ニ設置シ、此レ等ヲ總括シテ監督スルガ爲ニハ則チ催鑄錢司ノ制度アリ、而シテ一方ニハ其流通ノ區域ヲ擴張シ弘ク從來ノ物品輕濟ノ慣習ヲ打破シテ之ニ代ラシメンガ爲ニ、種々ナル法規ヲ設ケタリ、例ヘバ和銅四年ニハ大ニ貯錢ヲ奨勵シ、十貫文以上ヲ蓄積スル者ニハ或ハ新ニ位ヲ授ケ或ハ階ヲ進ム、郡領ノ材識用ヰルニ堪ヘタル者ト雖貯錢六貫文ニ滿ザル者ハ遷任ヲ得セシメズ（和銅六年）、又諸國ノ公路ニハ郡稻ヲ出シテ之ヲ販賣セシメ、同時ニ往來ノ旅人ニハ必ズ錢ヲ携フベキコトヲ命ジ、或ハ諸國ノ富民ヲ勸誘シテ米ヲ路側ニ賣ラシメ、一年ニ一百斛以上ヲ鬻ギタル者ハ名ヲ以テ朝ニ奏聞セシム、又田地ノ賣買（オ）ニハ必ズ錢ヲ以テ價ヲ拂ハシメ、他物ヲ以テ之レニ代フルトキハ其(146)罰トシテ田貸併セテ官ニ没スルガ如キ、或ハ京師近傍ノ諸國ニハ錢ヲ以テ調（戸税）ヲ納メシメ、又一般ニ庸調ヲ錢ニ換ヘテ送リ來ルコトヲ許シタルガ如キ、其他猶有ルベシ、此等極端ナル種々ノ通用奨勵法ハ、無論速ニ其效ヲ奏シ、人民ハ輒チ貨幣ノ利便ヲ理解シタリト雖、之ト共ニ亦少カラザル弊害ヲモ發生セシメタルナリ、

　　（ム）　中外錢史ノ説ク所ニ由レバ、和同〔二字傍線〕ノ文ヲ以テ鑄造ノ年號ニ由ルモノナリトスルハ普通ノ説ナレドモ、當時年號ヲ以テ錢文トスルノ習慣ハ未ダ盛ナラズ、現ニ此以後ノ數錢モ皆別ニ好字ヲ採レリ、而シテ和同〔二字傍線〕ナル熟字ニハ出處アリ、又字畫ヲ省略シテ銅〔傍線〕ヲ同〔傍線〕トスルガ如キハ當時例少シ、故ニ此錢ヲ和銅ノ所鑄トスル説ハ必シモ俄ニ信ズベカラズト言テ一ノ疑ヲ存セリ、然ルニ和同開珎ヲ以テ天武朝ノ銅錢ナリトスル論者ハ近年始テ出デタリ、大槻如電氏ハ其好古叢誌（三ノ七）ノ論文ニ於テ曰フ、天武ノ朝ハ唐ノ開元通寶ノ世ヲ距ルコト數十年、當時唐化主義ノ盛ナリシ朝廷ニ於テ、無文ノ錢ヲ鑄ルベキ理ナシ云々ト、蓋シ長柄近江ノ二朝ハ革新ノ機運最盛ナル時代ニシテ、支那トノ交通モ頻繁ナレバ、若シ幣制施設ノ計畫ニシテ既ニ此間ニ胚胎セリトセバ、完全ナル銅錢ノ和銅以前ニ成リシモ怪ムニ足ラズ、然レドモ若シ果シテ此ノ如シトセバ、和銅鑄錢ハ先朝ノ錢文ヲ繼承セリトセンカ、或ハ所謂無文錢ナリトセンカ、共ニ猶多少ノ別證ヲ要ストイフベシ、

　　（ウ）　續日本紀考證天平二年三月丁酉ノ條、菅沼貞風氏日本商業史一八九頁、

　　（ヰ）　伊呂波字頬抄ニ「天武希ノ六年始テ鑄錢官ヲ置ク」トアルハ頗臆説ノ嫌アルニ、大日本史職官志ニハ「此説是ニ近シ」ト言ヘリ、濱田健次郎氏ノ古代通貨考ニハ、此時ノ銅錢ハ天智帝ノ世頃ヨリ鑄始メシナラント推測セリ、和銅前ノ鑄錢ニ付キテ古來學者ノ疑ヲ容ルヽ點ハ、文武紀三年十二月ノ文ニ「始テ鑄錢司ヲ置ク」トアルコトナリ、サレドモ鑄錢司ハ臨時設置ノ官廳ナレバ、此ヨリ前ニ年ヲ隔テヽ既ニソノ設置アリキトスルモ妨ゲ無ク（内藤廣前説、續紀考證ニ見ユ）、又前後ノ二者實ヲ同クシテ名ヲ異ニセリトモ言フヲ得ベシ、

　　（ノ）　類聚國史神位部ニ遠江國鑄錢司（地名）ト見ユ、或ハ近江國ノ誤カ、長門ノ鑄錢司ハ起立ノ時明ナラズ、或ハ稍々他所ノモノヨリモ後レタリシカ、

　　（オ）　此時代ノ用語例ニテハ賣買トイヘバ耕地ノ賃貸借ヲモ含ムナリ、或ハ其方ガ大部分ヲ占メシナラン、

　

　上ニ擧ゲタル十二銅錢ノ表ヲ閲スルニ當リ、尤注意スベキ點ハ新舊兩錢ノ比率ナリ、萬年通寶以下改鑄ノ詔下ル毎ニ大抵新舊竝ビ行ヒ舊錢ノ十ハ新錢ノ一ニ當ルコトヲ命ズ、然ルニ古銅錢ノ今ニ遺レルモノヲ見ルニ、其中最精良ナルハ和同開珎ニシテ、萬年通寶ヨリ隆平永寶迄ノ三錢ハ略々之ト伯仲ノ間ニ在リ、其他ニ至リテハ錢形皆輕小ニシテ(147)質劣リ製甚粗ナリ（ク）、是一見甚怪ムベキガ如シト雖モ、予ガ考ル所ヲ以テスレバ、其原因ハ全ク當時私鑄奸濫ノ弊風ニ在リテ存ス、蓋シ私鑄ハ大寶律ニ既ニ禁條アリ、和銅ノ初年ニ在リテハ、主トシテ一方ニ貯錢授位ノ奨勵法アルガ爲ニ、或ハ之ヲ犯ス者アランコトヲ慮リ其制裁ヲ嚴ニセシガ如キ（ヤ）モ其後久シカラズシテ此ヨリモ遙ニ有力ニシテ且ツ實際的ナル動力ノ此ガ誘惑ヲ爲スモノヲ生ジタリキ、即チ（一）此時銅山ノ政府ノ爲ニ指定セラレザルモノ所在猶多ク、人民ハ簡單ナル方法ヲ以テ銅ヲ採取スルコトヲ得、且ツ又官營ノモノニ在リテモ、關係ノ官吏、附近ノ民或ハ竊ニ之ヲ領略スルニ難カラザリシコト、（二）鑄貨技術ガ亦簡單ニシテ私人ガ容易ニ之ヲ模倣スルヲ得タリシコト、竝ニ（三）當時ノ公定沾價法ガ不當ニシテ銅ノ價ハ銀ニ對シ又一般貨物ニ對シ頗高カリシコト等是ナリ、第三ノ理由ハ最重大ナルモノナリト信ズルヲ以テ後段些之ニ説及ボサントス、要スルニ朝廷亦夙ニ私鑄ノ弊ヲ察シ、特ニ其罰ヲ嚴ニシ主犯ハ斬ニ處シ、家族五保ヲ連坐シ、又常ニ大赦ノ恩典ニモ浴セシメザル等畏嚇至ラザル所ナカリシモ、終ニ一ノ效果ヲ見ル能ハズ、犯罪者ハ頻々トシテ諸國ニ出デタリ、桓武天皇ハ英主殊ニ心ヲ幣制ノ改革ニ用ヰ玉ヒ、始ハ鑄錢ノ事業ヲ全廢シテ、錢價ヲ自然ノ作用ニ一任セントセラレシモ、其效ナキコトヲ見ルヤ、新ニ隆平永寶ヲ鑄テ惡錢ヲ掃蕩セントシ、當十制ノ舊慣ハ猶之レヲ襲蹈セザル能ハザリシモ、四年ノ後ヲ限リテ一切ノ舊錢ノ通用ヲ停止シ玉ヘリ（マ）、貯錢授位ノ制度ハ固ヨリ實際ノ?況ニ適應セザリシカバ、思フニ漸ク其實施ヲ見ザルニ至リ、之ニ代リテ貢錢敍位ノ例規ハ何時ト無ク行ハレ來タリシガ、此時ニ及ビテ明ニ之レヲ停止シタルノミナラズ、更ニ進ミテ諸國ノ貯錢ヲ嚴禁セリ（ケ）、凡ソ古代ニ於テ貨幣制度ノ如ク法令ノ緻密ナルモノハ其例稀ナリキト雖根本ノ原因ニシテ?絶セラレザル限ハ、其力モ終ニ及バズ況ヤ後年官鑛所在ノ國々ニ於テ輸送スベキ鋼ノ年額ヲ豫定セラルヽニ及ビテハ、出ス所偶々餘剰アル毎ニ、之ヲ自由ニ處分スルコトヲ得テ愈々私鑄者ニ對スル原料ノ供給ヲ豐ニシ、私鑄ハ年ヲ追ヒテ益々盛ニ、三善清行ガ封事ノ中ニモ猶私鑄ヲ以テ時弊ノ一ニ數ヘタリ、要スルニ私鑄錢ハ徹頭徹尾之ヲ絶滅スルコト能ハズ、二百年間ノ貨幣制度ニ纏綿シテ終ニハ却テ之ヲ倒スニ至レリ、

(148)　　（ク）　古事類苑ニ引用セル泉貸鑑ニ由ル、

　　（ヤ）　和銅四年貯錢敍位ノ詔ノ趣旨ハ「今錢ヲ貯フル者ニ位ヲ進ムルコトヲ許サバ恐クハ百姓利ニ趨リ或ハ私鑄多カラン、而シテ私鑄ノ律猶輕シ、宜シク重法ヲ立テ未然ヲ禁ズベシ」トイフニ在ルガ如シ、（大日本史食貸志ニ由ル）

　　（マ）　此ヨリ前光仁天皇ノ寶龜三年ニモ舊餞ノ通用ヲ停止セシコトアリシガ如キモ（續紀）、此時ノ新舊錢ハ如何ナル標準ヲ以テ之ヲ區別シタリシカ詳ナラズ、

　　（ケ）　延暦十七年ノ貯錢禁止令ハ五畿内及ビ近傍ノ數國ヲ除キ隔遠ノ地方ニノミ之ヲ施行セリ、是全ク地方ノ官吏豪族ガ出ルニ隨ヒテ銅錢ヲ貯蓄シ之ヲ流通ニ供セザルガ爲、中央ノ商業地ガ常ニ缺乏ヲ感ゼシニ因ル、此法規ノ内容ヲ言ハヾ、人民ノ貯錢スル者アラバ國司ハ強制シテ之ヲ買上ゲ、几テ京師ニ輸送ス、賠償及ビ輸送ノ費用ハ正税ヲ以テ之ヲ支辨ス、若シ隱匿シ容認スル者アラバ之ヲ罰シ且ツ物ヲ没收ス、密告者ニハ其價五分ノ一ヲ賞與ストナリ、貞觀九年ニハ重ネテ同ジ令ヲ布キ、告者ノ賞與ヲ三分ノ一ニ増シ、且ツ延暦ノ禁令アルニモ拘ラス犯者猶多カリシコトヲ言ヘリ（貞觀九年格）、

　

　銅ト金トノ比價ハ今之ヲ詳ニスル能ハズ、仲麿政ヲ專ニセシ時代ニ（西暦七六〇）一時金銀銅ノ三錢ヲ併セ行ヒ、金錢一ヲ以テ銀錢ノ十ニ、銀錢一ヲ以テ銅錢ノ十ニ當テ用ヰタルコトアレドモ、金銀錢ノ重量及ビ品位各幾何ナリシカハ實物ノ徴スベキモノ無キヲ以テ知リ難シ（フ）、思フニ金ハ當時價格大ニシテ殆ト貨幣ノ用ニ供スル能ハザリシナラン、銀錢ノ銅錢ト竝ビ行ハレタル者ハ此以前猶二種アリ、天武朝ノ銀錢及ビ和銅ノ銀錢是ナリ、此二種ノ銀錢ハ不思議ニモ同一ナル運命ヲ有シ、共ニ一旦試ミニ其通用ヲ停止サレテ後程無ク其禁ヲ解カレタリ、和銅二年ノ銀錢廢止令ハ、後再ビ之ヲ取消サレシコト歴史ニ明文無シト雖、降リテ養老ノ年ニ及ビテ更ニ銀餞ノ在ル有リ、此年ノ規定ニ依レバ、銀錢一ヲ以テ銅錢二十五ニ當テ、銀一兩ヲ一百錢ニ當ツ、翌六年ニハ更ニ銀一兩ヲ二百錢ニ當テシム（コ）、即僅ニ一年ニシテ銀ニ對スル銅ノ價ハ急ニ其半ヲ減ジタル也、此等ノ事實ヲ綜合スレバ當時銅ノ價ハ銀ニ對シ高キニ失シタル者ナルガ如シ、サレバ國家?々銀錢ヲ發行スルモ、徒ニ富民ノ蓄藏シ又ハ鑄潰スル所トナリテ世ニ行ハレズ、更ニ其用ヲ爲サヾリシナラン、和銅二年ノ制ニハ「凡ソ雜物ヲ交關スルニハ其物價銀錢四文以上ナラバ即チ〔二字傍線〕銀錢ヲ用ヰ、其價三文以下ナラバ皆〔傍線〕銅錢ヲ用ヰヨ」トアリテ、却テ銀錢ノ使用ヲ制限セルガ如キモ、測ルニ是亦銅錢通用奨勵ノ一端ニシ(149)テ、後日ニハ寧反對ノ結果ヲ患フベキニ至リシナランカ、銅ノ普通貨物ニ對スル價格モ、政府ハ亦之ヲ自然ノ變動ニ一任セズ、和銅鑄錢ノ初年ニ當リ、穀布等主要ナル物品ニ就キテハ、市價ノ率ヲ法定シ公私之ニ由ラシム、所謂沽價法是ナリ、例ヘバ和銅四年ニハ銅錢一文ニ穀六升トシ、翌五年ニハ同五文ニ布一常ト定ムルガ如シ（エ）、此等ハ勿論時々其割合ヲ上下シタルナルベシト雖、豐凶過不足ノ常ナラザル、到底精確ニ未然ヲ察知スベカラズ、而モ亦往々錢價ヲ過重スルノ傾アリキ、沽價法ノ完全ニ行ハレシ期間ハ無論久シカラズ、以來唯政府關係ノ計算ニ於テノミ公定物價ノ目アリ、サレド一朝穀價騰貴スルコトアレバ、政府ハ乃チ臨時ニ都會地ノ市價ヲ法定シ、常平所ノ事業モ亦主トシテ力ヲ穀價ノ低減ニ用ヰタリ（テ）、要スルニ銅貨ノ價格ハ時ノ政策ヲ以テ常ニ其自然ノ地位ヨリ高ク維持セラレタルガ如シ、

　　（フ）　此時ノ金錢（開基勝寶）ハ唯一ツ近キ寛政六年ニ大和西大寺ニテ發掘セラレタリ、重量四匁八分ナリトイフ（中外錢史）、銅錢ノ萬年通寶ハ八分乃至一匁ナルニ、之ニ對シテ僅ニ一百倍ノ價格ヲ有セシモノトシテハ甚信ジ難シ、

　　（コ）　此ニ由リテ觀レバ銀錢ハ一兩ヲ以テ四個ヲ作リシナリ、而シテ此時ノ一兩（大兩）ハ今量一八〇匁ノ十六分ノ一ナレバ、銀錢一文ハ二匁八分程ナリ、銅錢一文ノ重量ハ貨物ニ由レバ和同開珎ハ一匁一分程ナリ、若シ含量ガ銀銅二錢相似タリトセパ、養老六年ノ銀銅比價ハ略々銀一銅二十ナルカ、

　　（エ）　公定物價法ハ無論京師其他二三ノ都會地ニノミ行ハレシモノナラン、當時ノ銅錢價格ニ關シテハ既刊大日本古文書ニ由リテ得ル所多シ、今煩ヲ避ケテ之ヲ略ス、

　　（テ）　農業地方ニ天然物經濟ガ行ハルヽ時代ニ於テハ、穀價ノ低下ハ一般ニ喜バルヽ所ナルベシ、

　

　銅錢ノ品位即チ含銅率ニ關シテモ之ヲ詳ニスベキ材料ナシト雖、最初ノ四五種ニ比スルトキハ其以下ノ銅錢ハ其質遙ニ粗惡ナルコトハ爭フベカラズ、承和元年及ビ八年格ニ由レバ、當時二三十年間ノ鑄錢額ヲ明ニスルコトヲ得ベシ、

　此ニ由リテ觀レバ古錢改鑄ノ場合（サ）ニハ銅純分六六％ニシテ新鑄ノ場合ニハ同六五％三ナリ、主税式ニ見エタル鑄錢年料及其率亦之レニ同ジ（キ）、然レドモ是單ニ公稱ニシテ銅ノ缺乏シタルトキハ臨機之ヲ粗惡ニスルコトアルベク殊ニ承和、延喜、乾元ノ三錢ニハ純然タル鉛錢ノ今ニ存スルモノアリトイヘリ（ユ）、

　　（ア）　以下ノ數字ニ由レバ銅鉛合七斤（今ノ一貫二百六十匁）ヲ以テ常ニ一貫文ノ錢ヲ鑄ル計算ナレド、現存セル實物ヲ檢スレ

(150)　　期間　　　　　　　　　　　　　鑄造高（貫文）原料（斤）　　餞名　　　　備考

弘仁九年ヨリ？　同十一年マデ　三ケ年　五、六七〇　不明　　　　富壽神寶

弘仁十二年ヨリ天長五年マデ　八ケ年一（ア）三、五〇〇　銅　一六、三三三餘　鉛　八、一六六餘　　同上　　新銅不足ニヨリ減額ス

天長六年ヨリ承和元年マデ　六ケ年　一一、〇〇〇　銅　五一、三三三餘　鉛　二五、六六六餘　同上　　舊餞ヲ改鑄スルノミ

承和二年ヨリ同　八年迄　七ケ年　一一、〇〇〇　銅　五一、三三三餘　鉛　二五、六六六餘　示和昌寶　同上？

承和九年ヨリ同十四年？　マデ　六ケ年　三、五〇〇　銅　一六、三三三餘　鉛　八、一六六餘　同上？

バ各錢ノ量皆遙ニ輕シ、是原料ノ不十分ナルニ強テ錢數ヲ合セントセシ爲カ、或ハ次ニ言ハントスル理由ニ基クモノナラン、

　　（サ）　古錢ヲ改鑄スルニハ必シモ一旦銅鉛ヲ分析シタル後之ヲ使用スルニハ非ズ、唯舊錢純分率ノ公稱ニ由リテ計算セシモノナラン、サラバ私鑄濫錢ノ偶々混淆スルモノアラバ事實上ノ純分ハ下ルコトアルベシ、

　　（キ）　式ノ規定ニ由レバ備中長門豐前ヨリ出ス銅五、八三三斤餘鉛二、九一六斤餘ナリ、銅鉛合七斤ヲ以テ錢一貫文ヲ造ルトセパ、此ハ一千二百五十貫文ノ料ナリ、

　　（ユ）　泉貸鑑參照、乾元大寶ハ鉛錢ヲ鑄タルコト當時ノ記録ニモ見ユ（九暦）、

　

　蓋シ桓武天皇ノ隆平永寶新鑄ハ幣制改革ノ目的ニ出デタルモノナリトセンモ、其以下ノ新鑄ニ至リテハ此他ニ猶之ヲ以テ歳入増加ノ財源ト爲サント計リタリシガ如シ、サレバ新餞發行サレテ未ダ久シカラザルニ、再ビ之ヲ集メテ改鑄シ、一方ニハ頗錢質ヲ下シ他ノ一方ニハ當十ノ制ヲ布ク等、人民ガ競ヒテ私鑄ヲ事トスルハ政府寧之ヲ挑發シタルノ實ナキニ非ズ、彼擇錢ノ禁令ノ如キ、和銅年中ニ出デタルハ言ハヾ私鑄嚴禁ノ半面ニシテ、單ニ通用ヲ圓滑ナラシムルガ爲ナレド、後年ニ出デタルハ全ク政府ノ粗惡錢ヲ保護スルノ規定ナリ（メ）、此ガ故ニ改鑄ノ詔出デテ數年ナラザルニ新錢既ニ賤シキヲ報ジ（ミ）、例ヘバ貞觀十五年ニ正丁一人ノ徭調新錢（貞觀永寶）十三文ト定メシヲ、翌十六年ニ十五(151)文ト爲シ五年後ノ元慶二年ニハ忽チ三十文ニ増サレタルガ如キヲ以テスルモ、一般物貨ニ與タル影響モ亦タ想像スルニ足ル、此ヲ以テ見レバ村上朝ニ於ケル小規模ノ改鑄ヲ最後トシテ銅錢ノ永ク絶エタルハ、必シモ銅産減退ノ爲ノミニハ非ズ、銅産減退ノ一原因ヲ爲スモノハ私鑄ニシテ政府ノ濫造ハ一方ニ私鑄ヲ誘引スルト同時ニ、他ノ一方ニハ人民ノ間ニ錢貨ニ對スル嫌忌ノ情ヲ養ヒ（シ）以テ幣制ノ全滅ヲ致シタルモノナリ、

　　（メ）　延喜式ノ大藏式ニ「凡ソ鑄錢司貢スル所ノ錢ハ文字不明ナリト雖而モ體勢ヲ失ハズ行用ニ妨無キ者ハ擇ビ棄ツルコトナカレ」トアリ、弘仁十一年及ビ貞觀七年ノ規定ノ趣旨ナルベシ、又同左右京式ニ「几ソ錢文ハ一字明ナルヲ以テ皆通用セシム、若シ擇ビ棄ツルモノアラバ?ニ隨ヒテ科責セヨ」

　　（ミ）　寶龜三年ハ神功開寶錢始鑄ヨリ八年ノ後ナリ、此年「太政官奏シテ曰ク年序　　　稍々積ミ新錢既ニ賤シ――請フ新舊兩錢價ヲ同クシテ施行セン、奏可ス」、寶龜十年亦同一趣旨ノ奏アリ、此ハ桓武朝ヨリモ以前ノ事ナレドモ序ヲ以テ記スナリ、

　　（シ）　貞觀十四年新鑄貞觀錢文字破滅輪郭全キコト無シ、凡ソ賣買ニ在リテ大半ヲ嫌棄ス、鑄錢司ヲ譴責シテ分明ニ鑄作セシム（三代實銀）、

　

　十二銅錢ノ始終ヲ通シテ鑄錢司設置ノ事ノ歴史ニ明徴アルモノ凡テ十ケ所アリ、先ヅ和同錢ニ於ケル近江、河内、太宰府、播磨、之ニ次デ長門アリ、山城岡田ナル鑄錢司モ此頃竝ビ立チシモノヽ如シ、又萬年通寶ノ新鑄ニ先ダツコト二年（天平寶字二年）ニハ、特ニ藤原仲麿ニ錢ヲ鑄ルコトヲ許シ玉フトアレバ、押勝專政ノ世即チ萬年錢ノ全期ニ亙リテ、恐クハ大和ノ内ニ亦此別勅ノ鑄餞處ハアリシナラン、次ニ神功開寶ノ期ニ入リテ大和ニ田原ノ鑄錢長官アリ、爾來鑄錢司ノ廢シテ復置カルヽコト兩度弘仁九年再置ノモノハ亦長門ニ在リ、次デ周防ニ遷リヌ（ヱ）、此レヨリ後鑄錢ノ事務ハ、常ニ銅生産ノ中心ナル西國地方官ノ主管スル所ナリシガ、古錢改鑄ノ業ノミ盛ニシテ銅山トノ聯絡ハ重キヲ爲サヾルニ及ビテ便宜上別ニ鑄錢司ヲ山城葛野郡ニ設ケタリ（貞觀十二年）、最後ノ銅錢乾元大寶ハ多分此地ニテ鑄タルモノナルベシ、以上ノ事實ヨリシテ推論スレバ、最初ハ鑄錢司ヲ置クニ、京師ノ近傍又ハ交通ノ中心タル地ヲ擇ビ、原料ノ銅ヲ産地ヨリ此レニ運ビ來タリシモ、後年ニハ直ニ銅山所在ノ國ニ就キテ鑄造シ、錢ヲ以テ京ニ輪セシナリ（ヒ）、(152)即チ山城岡田、長門、周防ノ三大鑄錢地ハ、共ニ銅ノ産地ニシテ又　　稍々後レテ開始セラレタルモノナリ、若シ銅山官營ノ事業ニシテ、能ク今ノ北陸、東山二道ノ諸鑛山ヲモ網羅スルコトヲ得シナラバ、恐クハ第二ノ方法ヲ採ルコト困難ナルベク、從テ和銅ノ催鑄錢司制度モ夙ニ廢罷セラルヽガ如キコト無ク、或ハ完全ナル發達ヲ見ルヲ得シナラムカ（モ）、

　　（ヱ）　周防鑄錢司ハ少クモ天長八年ヨリ前ニ開カレシナリ（承和二年三月格）、サレド其後承和八年及ビ同十五年ノ官符ヲ見レバ、長門ノ國解ヲ以テ鑄錢事務ヲ上申セリ、二國ノ鑄餞司竝立セシカ、或ハ官署ハ周防ニ在リテ長門國司之ヲ攝セシカ、未ダ詳ナラズ、

　　（ヒ）　�ｺ川時代ノ銅錢鑄造ニモ始ハ中央主義ヲ採リ、後稍々分權主義トナレリ、奇ナル偶合トイフベシ、

　　（モ）　鑄錢司官制ノ沿革ハ大日本史職官志、古事類苑泉貸部等ニ詳ナレバ此ニ之ヲ記セズ、長門、周防ノ鑄餞司ハ其組織概ネ國司ニ准ジ、唯秩限ハ延長シテ六年（技工は無任期？）ト爲セシコト（貞觀格）、鑄錢料ノ雜物ハ近傍數國ノ分擔ナリシコト、（延喜格）、又鑄餞司俸料ハ周防備後及伊豫各正税二萬八千束ヲ分擔セシコト（主税式）等ハ亦省略シテ述ベズ、改錢ノ儀式ニ付テハ西宮記參照、

　　　　　　　三　外國銅錢通用ノ時代――鐚錢ノ起源――銅消費ノ絶エザリシコト――第二期後半ノ産銅地――銅輸出――銅器製造ノ進歩――西洋貿易ノ影響

　天�ｺ二年（西暦九五八）以後國家再銅錢ヲ鑄ザルコト六百餘年ナリ、此間後醍醐天皇ノ建武元年ニ（西暦一三三四）、乾坤通寶ノ錢ヲ鑄ルノ詔アリト雖、其成否ニ付テハ據リテ考フベキ所ナシ、思フニ早ク實施ニ及バズシテ寢ミタルモノナラン（セ）、彼ノ乾元大寶ノ如キハ鑄造額モ多カラズ、且ツ其製甚粗惡ナリシカバ一般ニ行ハレズ、朝廷之ガ爲ニ一切ノ舊餞ヲ停止シ、專ラ新錢ヲノミ用ヰヨト令シタルモ猶其效無ク（ス）、或ハ神宮諸陵ニ奉幣使ヲ遣ハシ、又ハ十五大寺ノ僧ニ命ジテ銅錢ノ通用センコトヲ祈請セシムルニ至ル、而シテ此時民間交易ノ媒介トシテハ、准錢ト稱シ錢貨ノ計算ヲ以テ米穀布帛ノ類ヲ授受スルノ慣習ヲ生ゼリ、例ヘバ望陀布一段ヲ錢七十文ニ准ジ荏油一斗ヲ一貫文ニ准ズルガ如シ（イ）、代用品ノ種類ニ從ヒ或ハ又之ヲ准布、准米准頴等ト稱セリ、此ノ如キ方法ハ時ト處トニ由リテ價率ノ區々ナルガ爲、其交通ヲ阻碍シ取引ヲ困難ナラシムルヤ定メテ甚大ナリシナラン、然レドモ適當ナル通貨ノ少クシテ物々交換ノ(153)已ム能ハザリシ時代ハ幸ニシテ久シカラザリキ、何トナレバ金銀ノ生産ハ古來有名ナル陸奧對馬等ヲ始トシテ各地ニ猶絶エズ（ロ）、貴族土豪ノ間ニ在リテハ、之ヲ以テ便宜私ニ錢形ノ物ヲ作リ、恐クハ秤量ヲ以テ之ヲ貨幣ニ代用セリ、砂金ノ使用モ亦盛ナリ、加之一方ニハ支那トノ民間貿易ハ此頃頗繁榮シタリシカバ宋朝ノ銅錢ハ多ク彼土ノ商賈ノ齎ス所トナリ中以下ノ人民ノ需要ヲ充セリ、當時或ハ外國錢ノ使用ヲ以テ私鑄ト等シキ行爲ナリトシ之ヲ禁止セントスル法律家ノ意見モアリシカドモ、是尤時情ニ通ゼザルノ論ナレバ、降リテ鎌倉幕府ノ世ニ及ビテハ、北條泰時ハ却テ之ト反對ナル令ヲ發シ、不便ナル准錢計算ノ法ヲ止メ一般ニ銅錢ヲ以テ授受ノ用ニ供セシム（嘉録二年、西暦一二二六）（ハ）、此時支那ノ銅錢ノ我ニ輸入サレタルモノ既ニ甚巨額ナルベキニ猶或ハ商人ノ彼國ニ赴クモノ金ヲ持チ行キテ銅錢ト換ヘ來ルモノアリ（西暦一二七七（ニ））、室町幕府ノ世トナリテハ支那貿易ニ因リ銅貨ノ我國ニ入ルコトハ寧減ジタルベキモ、足利義政ノ如キハ?々公使ヲ遣ハシテ銅錢ヲ明ニ乞ヒ、高麗琉球ノ二國モ亦時々銅錢ヲ以テ來リ寄セタリ、此等ノ錢ハ凡テ東山殿遊宴ノ費用ニ充テラレタルモノニテ、固ヨリ政府財政ノ計畫ニ基キテ輸入セラレタルニハ非ザレドモ、其數量ニ至リテハ却リテ貞觀以下各錢ノ發行額ヨリモ多ク、其轉ジテ民間ノ用ヲ爲スニ至りシヤ又疑ヲ容レザルナリ（ホ）、

　　（セ）　職原抄ニ「鑄錢司、近代常ニ之ヲ任ゼズ云々」トハアレドモ鑄錢長官、同次官ノ任命アリシコトハ大日本史料（此年八月十日ノ條）ニ見ユ、

　　（ス）　日本紀略ニ「永觀二年……近來世間錢ヲ嫌フコト尤甚シ云々」

　　（イ）　東大寺小櫃文書ニ見ユ、准錢ノ事ニ關シテハ皇典講究所講演卷一〇六、小宮氏論文等參照、

　　（ロ）　佐渡ニ金出デシコトハ今昔物語ニ、陸奧對馬ノ金銀ニ付テハ小右記、玉海、吾妻鏡、勘仲記等ニ多ク見ユ、

　　（ハ）　東鑑脱漏ニ見ユ、類聚大補任ニハ此時ノ事ヲ記シテ「諸國一同鳩眼流布スルガ爲ナリ」ト言ヘリ、以テ如何ニ銅錢輸入ノ多カリシカヲ知ルベシ、

　　（ニ）　善隣國寶記ニ引用セル元史ノ文ニ「日本商人ヲ遣ハシ金ヲ持シ來リテ銅錢ニ易フ之ヲ許ス」トアリ、サレド遣ハシタルニハアラジ、

(154)　　（ホ）　日本風土記ニ「倭自鑄ズ、但中國ノ古錢ヲ用ヰルノミ、一千文毎ニ價銀四兩、福建私新錢ノ如キハ千文ニ價銀一兩二錢」ト見ユ、

　

　鎌倉幕府以來民間ノ交易ヲ媒介シタル銅錢ハ決シテ盡ク舶來ノモノニハ非ズ、此中ニハ許多ノ和製品ヲモ混淆シタリシナリ、此等ノ銅錢ハ中央政府ハ勿論地方ノ領主ニモ公ニ之ヲ鑄造セシモノアルコト記録ニ存セザルヲ以テ見レバ、皆民間ノ私鑄ニ係ルモノニシテ、其種類態樣ハ極メテ區々ナレドモ、大抵唐宋ノ錢ヲ以テ母型トシ、粗惡ナル銅ヲ以テ小規模ニ鑄造セルモノナルガ如シ、此他ニ鉛錢アリ、又形似ヲ以テ往々錢トシテ通用セラルヽモノモ少カラズ、此等ノモノハ之ヲ總稱シテ鐚錢（ヘ）トイヒ、後年新ニ輸入サレシ永樂銀トノ間ニ、非常ナル差歩ヲ以テ通用シタルハ皆此類ナリ、而シテ舊渡ノ支那錢ハ半ハ鑄潰サレ半ハ銷磨シテ僞錢ト判ツベカラザルヲ以テ、常ニ又鐚錢ヲ以テ目セラルヽニ至レリ、足利氏ノ末葉ニハ終ニ濫錢ノ弊ニ堪ヘズ、京家并ニ諸國ノ地頭ハ相次デ擇錢ノ禁ヲ布キ、同時ニ最劣等ノモノヲ除外シテ之ヲ用ヰル者ヲ罰セリ、サレドモ普通ノ鐚錢ト永樂錢トノ間ニハ、價格ノ懸格アマリニ甚シクシテ、併用ニ不便ナリシカバ、地方ニヨリテハ專ラ一ヲ行ヒテ他ヲ禁止セリ、例ヘバ關東ニテハ永樂錢ヲ用ヰテ鐚餞（京錢）ヲ禁ジ、京都附近ニテハ主トシテ鐚錢ヲ行ヒ、會津地方ニテハ又永樂錢ヲ措キテ京錢ヲ用ヰシムルガ如シ（ト）、而シテ若シ二種ヲ併用スル場合ニハ、大抵永樂錢一文ニ對シ京錢四文ヲ當ツ、�ｺ川氏ノ世ニ入リテモ鐚錢ノ行ハルヽコト猶盛ニ、爲メニ幣制ヲ紊亂セラルヽモ能ク之ヲ禁絶スルコト無ク、始ハ唯所謂六種ノ最惡錢（チ）ヲノミ禁ジテ、他ハ猶永一鐚四ノ公定率ノ下ニ其通用ヲ認容シタリシモ、寛永錢新鑄ノ時ニ至リ、政府ノ非常ナル努力ニ由リテ、始テ僅ニ之ヲ絶滅スルコトヲ得タリシナリ、

　　（ヘ）　鐚錢始ニハ惡錢トイヘリ、擇錢禁令ノ未ダ嚴ナラザル時代ニハ此中ニ所謂ウチヒラメ、コロコロ〔九字傍線〕、無文、鉛錢等實際錢ニ非ザルモノヲモ含ミシナリ、切錢トイフハ夙ニ弘長三年（西暦一二六三）ノ頃ヨリ有リタレド（東鑑）此モ銅ノ薄板ヲ切リテ錢形ト爲シタルモノニテ、亦此列ニ入ルベキモノナリ、古支那錢ノ精良ナルモノ數種ハ、始ハ精錢ト稱シ之ヲ鐚錢ト分チタリシガ如キモ、永樂錢多ク入リ來ルニ及ビテ、是モ鐚錢ノ中ニ算ヘラルヽコトヽナレリ、永樂錢ニモ後年摸鑄多シ、

(155)　　（ト）　會津四家合考ニ「慶長十五年……永樂通寶錢ヲ捨テ京錢ヲ用ヰル、京錢トハ歴代ノ雜錢ナリ」トアリ、京錢ノ定義ニ付テハ別ニ諸説アレドモ信ジ難シ、

　　（チ）　六種ノ禁錢ハ（一）大カケ（ニ）ワレ錢（三）カタナシ（四）コロ錢（五）新惡錢（六）ナマリ錢是ナリ（東武實録）、

　

　サテ代々ノ鐚錢ノ原料トシテハ、從來ノ銅錢銅器等ノ之ガ爲ニ鑄潰サレタルモノモ隨分多カルベケレド、猶諸國ノ鑛山ニ於テ常ニ新銅ヲ以テ私鑄ノ民ニ供給シタリシナラン、蓋シ官營採銅ノ制罷ミテヨリハ、銅山ノ所在ト盛衰トハ全ク知ルベカラザルニ至レリト雖、此時代ノ銅消費ガ決シテ甚シク衰微セザリシコトハ、種々ノ點ヨリ之ヲ推測スルコトヲ得、就中梵鐘ノ鑄造ハ武家時代ニ於ケル社會風俗史上ノ現象ニシテ、今猶其遺物ノ存スルモノ多ク、試ニ其ノ鐘銘ノ文ニ就キテ研究スルトキハ、能ク當時鑄銅技工ノ進歩シタルコト竝ニ銅原料ノ分布ノ廣大ナルコトヲ認ムベシ（リ）、此他鏡、經筒、鉦鼓、磐、磬、鈴、鰐口等普通製造セラレシ銅器ノ種類ハ枚擧ニ遑アラズ、建久六年（西暦一一九五）ノ奈良ノ大佛再鑄ニ七十四萬斤ノ銅ヲ費セリ（ヌ）トイフハ、或ハ舊銅ヲ用ヰタルモノナリトセンモ、其後嘉禎元年（西暦一二三五）ニ鑄造セシ鎌倉ノ洪鐘ニハ、銅錢ヲ鎔スコト總計三百三十貫文ナリトイヒ、貞和四年（西暦一三四八）山城下醍醐ノ鐘ニモ亦二萬三千斤ノ銅ヲ用ヰタリトイヘリ、又鑄物師ノ職（大工）ヲ世ニスル者ハ、南都ニハ草部信明、同是助アリ、相模ニハ物部季重、國光、依光、信光、光連、國盛等ノ一族アリ、京師ニハ橘則弘、則正及ビ藤井國次等アリ（ル）、或ハ夙ニ紀州ノ地ニ銅細工ノ居住スルモノアリ（ヲ）、足利氏ノ世ニ入リテハ諸國ニ銅坐アリテ生銅銅器販賣ノ獨

占權ヲ附與セラル（ワ）、

　　（リ）　西田直義ガ金石年表及如蘭社話卷十九、二十二ニ見エタル其補遺ノ記載スル所ノミニ由ルモ、天�ｺ以後天正以前ニ鑄ラレタル梵鐘ノ數ハ百五十ニ近ク、且ツ弘ク各時代ニ亙リ東西諸國ニ分布セリ、唯梵鐘ハ必シモ其建立ノ地ニ於テ鑄造セラルトハ限ラズ、例ヘバ文明二年（西暦一四七〇）ノ近江永源寺等ノ鐘銘ニハ「今茲庚寅適巨鐘ヲ以テ貸ニ鬻グ者アリ、道人ノ祖宗之ヲ獲テ以テ施ス云々」

　　（ヌ）　南都名所道筋記ニ見ユ、

　　（ル）　扶桑鐘銘集鐘銘纂等ニ由ル、

(156)　　（ヲ）　東鑑（文治二年八月二十六日ノ條）ニ見ユ、

　　（ワ）　庭訓往來四月五日ノ?ニ新市興行ノ事ヲ言ヒテ「招キ居ウベキ輩ハ……鍛冶、鑄物師……并ニ金銀銅ノ細工云々」トアリ、又同月十一日ノ返書ノ始ニ「藝方七坐ノ店」トアルヲ承應四年（明暦元年）板ノ古註ニハ藝才〔二字二重傍線〕云々ト訓ジテ「凡ソ藝才ハ銅掘、鐵掘ノ事ナリ」ト註セリ、何カ據アルニヤ、

　

　中古銅ノ生産ノ繼續シテ曾テ絶エザリシコトハ容易ニ之ヲ信ズルコトヲ得ト雖、其個々ノ生産地ヲ記載スルニ至リテハ頗困難ノ業ナリ、諸國ノ銅山ニハ口碑記録ノ稍々存スルモノアリ、或ハ又數百年前ノ廢坑ノ幽ニ採掘ノ跡ヲ認メシムベキモノモ固ヨリ無キニ非ザレドモ、之ヲ以テ直ニ此時代ノ製銅業ヲ説クベカラズ、故ニ予ハ暫ラク比較的明白ナル二三ノ銅山ヲ列擧シテ止マントス、攝津ノ銅山ハ天禄年間（西暦九七〇頃）ノ發見ト稱シ早ク長暦元年（西暦一〇三七）ニ銅ヲ貢シテ其名世ニ傳フ（カ）、或ハ多田滿仲ガ開始スル所ナリト言ヘリ、現今舊坑ノ存スルモノ三郡數十村ニ亙リ其數二千ニ近シ、降リテ延元元年（西暦一三三六）ノ前後ニハ此國ニ採銅所ト稱スルモノアリ（ヨ）、思フニ從來領主ノ經營スル所ナリシヲ、建武新政ノ際收公セラレシカ、乾坤通奉鑄錢ノ計畫ノ如キモ多少ノ根據ヲ此ニ有シタリシニ似タリ、所謂多田ノ銅山ノ最盛時ハ遙ニ下リテ豐臣氏支配ノ頃ナレドモ、此山ノ銅生産ノ久シクシテ且ツ豐ナリシハ疑フベカラズトス、備前ノ銅山ハ延久二年（西暦一〇七〇）ニ朝使ヲ遺ハシテ之ヲ試掘セシム、備中ノ諸山亦産銅絶エズ、又石見邇摩郡ノ銅山ハ延慶年間（西暦一三一〇頃）ニ始リ、其銅ガ丸鑛山ハ永享中（西暦一四三〇頃）、大ニ盛ナリ、越前大野郡ノモノハ康永年問（西暦一三四二頃）既ニ開坑セラル、其他丹波丹後但馬紀伊備後周防長門等ノ諸國モ亦銅ヲ産シタリシガ如キモ共ニ確證ナシ、蓋シ戰國割據ノ世津梁?々絶エ商賈遠ク出デテ物ヲ求ムベカラザルニ至リテハ、諸國ノ領主自ラ鑛山ヲ開キテ金錢ヲ得ントスルコト甚切ナリ、而シテ銅モ亦金錢ト共ニ漸ク産額ヲ加ヘ、第二期ノ終ハ頗掉尾ノ現象ヲ呈セリ、例ヘバ大内尼子二氏ノ石見ニ於ケル、上杉氏ノ佐渡ニ於ケル、或ハ金森氏ノ越前飛騨ニ於ケルガ（タ）如キ、共ニ皆銅史發展ノ上ニ大ナル效果ヲ及シ、從テ第三期更始ノ機運ヲ促致シタルモノナリ、

　　　（カ）　百錬鈔ニ由ル、

(157)　　（ヨ）　大日本史料第六編ノ三、七五二頁、

　　（ナ）　石見銀山、佐渡鶴子山、越前面谷、飛脚神岡、畑佐鑛山等ノ舊記、

　

　本邦中古銅政ノ無力ナリシコトヲ想像セシムル一事實ハ、鎌倉幕府以來斯クノ如ク多額ノ銅錢ヲ外國ニ仰ギナガラ、一方ニハ又其原料タル銅ノ輸出ガ却テ少カラザリシコトナリ、宋元二朝ノ時代ニ於ケル我國ノ支那貿易モ、必シモ常ニ受動的ニハ非リシガ、所謂天龍寺船ノ交通ガ開始セラレ（興國三年、西暦一三四二）、次デ朱明ガ命ヲ革メテヨリハ、商賈ノ彼土ニ往航スルモノ漸ク多ク、應永年間（西暦一四〇三頃）通商條約ノ締結セラレ、勘合制度ノ設定セラレテ後ハ、明貿易ハ終ニ我國ノ官業トナリ、同時ニ幕府收入ノ一大財源ヲ爲セリ（レ）、永享以後周防ノ大内氏此事務ヲ管掌シ、諸國ノ守護、五山南都ノ僧、兵庫堺ノ商人等爭ヒテ信符ヲ乞ヒテ貿易ニ從事シ、大内氏モ亦自ラ商船ヲ出セリ、當時ノ貿易方法ヲ言ハヾ、最初ハ十年ニ一航セシガ後略々制限ナシ、船ヲ進貢船ト稱シ物ヲ進貢物ト謂フ、而モ常ニ其對價ヲ給セラル、進貢物ノ外ニ附搭品アリ、又別ニ「公方樣御商賣物」トイフモノアリ、共ニ皆彼官庫ニ納レテ價ヲ受ク、進貢船ハ又多ク商人ノ船ヲ伴フ、之ヲ類船トイヒ各自ニ利ヲ營マシム、輸出品ノ主ナルモノハ大刀、扇子、屏風、漆器、銅、硫黄、瑪瑙、黄金等ナリ、貿易ノ利益ハ頗大ニシテ、殊ニ鋼ハ其一駄ヲ以テ或ハ彼絲四五十斤ニ代フ、而シテ此頃内國ノ市價銅ハ一駄十貫文ニシテ、絲一斤ハ五貫文ナリキ（ソ）、銅ノ輸出ノ盛ナリシコトハ、當時殆ト貿易ノ全權ヲ占メタル大内氏ノ領内ニ許多ノ銅山アリシヲ見テモ之ヲ推測シ得ルノミナラズ、天文十六年ニ設ケラレタル渡唐船法度二十八箇條中ニハ、「公私トモ鋼ノ一駄ハ前ノ一駄ノ事」トイフ規定アリテ、數量ヲ制限シ（ツ）、又此以前、天文八年（西暦一五三九）ノ進貢船三艘ニハ附搭トシテ銅二十九萬八千五百斤ヲ齎セシコト見エタリ、所謂公方樣ハ商賣物トシテモ銅ヲ輸出スルコト多ク、此等ハ諸國ノ獻納品ヲ以テ之ニ充テ、或ハ臨時市場ニ於テ之ヲ買入ルヽヲ常トセリ、

　　（レ）　明朝ノ受動的貿易方法ハ、第三期中貞享二年ノ新貿易制ニ於テ、�ｺ川氏盡ク之ヲ模倣セリ、例ヘバ年々ノ入航船數ヲ限(158)リ豫メ信符ヲ外國商人ニ給セシコト、本方荷物（御定高）脇荷物（雜物替）ノ評價權ヲ政府ニ獨占シテ自由ノ取引ヲ許サヾリシコト等是ナリ、其結果ニ至リテモ二者亦同樣ナル弊ニ苦シメリ、猶詳シクハ後章ニ述ブル所アリ、此條ノ記事ハ皇典講究所講演第八十五ニ見エタル横井文學博士ノ論文及ビ國史眼等ニ依レリ、

　　（ソ）　國見眼第百三十五章ニ由ル、其出所ハ未ダ知ラズ、

　　（ツ）　南海通記ニ出ヅ、同ジ法度中ニ「銅錢は大唐ニ至ルニ身ニ隨フベカラズ」トアリ、

　

　銅器製造ノ技工ハ最初佛教ノ隆興ニ因リテ刺激セテレ、後稍々雜器ヲ作ルニ至ル、武家ノ世トナリテ、武具裝飾等ノ需要ハ更ニ之ガ爲ニ新方面ヲ開キ、諸種ノ工人ハ諸國ニ散布セリ、鑄工ノ事ハ前ニ既ニ之ヲ言ヘリ、此他冶工彫工各其業ヲ分チ技藝愈々精ナリ、室町將軍家ノ奢侈ハ大ニ京師ノ工藝ヲ進歩セシメタルガ中ニ、殊ニ茶道ノ流行ハ銅器ノ發達ヲ致セリ、所謂「三條ノ釜坐」ハ主トシテ鑵子ノ鑄造ニ力ヲ用ヰタルモノナレド、同時ニ又燈籠花瓶其他ノ銅器ヲモ作レリ（ネ）、是ニ於テカ銅使用ノ區域ハ新ニ大ニ擴張シタリ、明貿易ノ時代ニ於テハ銅器ハ既ニ輪出品ノ一ニシテ、同時ニ其製造ニ必要ナル水銀ハ彼ヨリ輸入セラレタリキ（ナ）、豐臣氏ノ工藝奨勵ハ更ニ足利氏ニ超ユ、是ガ爲一時京師ニハ名工輩出シ、銅器ハ又桃山美術ノ一部分ヲ代表セリ、天文年中葡萄牙國船ノ始テ來航シ、次デ御朱印船ノ盛ニ外國ニ交通スルニ及ビテモ、銅ト銅器トハ硫黄、樟腦、麥粉、紙等ト共ニ、重要輸出品ノ中ニ算ヘラレタリキ、對歐羅巴貿易ノ繁榮ハ、啻ニ需要ノ増加ヲ以テ内國銅器ノ生産ヲ刺激シタルノミナラズ、或ハ鳥銃大砲ノ輸入ニ伴ヒテ洋式ノ鑄造術ヲ傳ヘ、天文中泉州ノ堺ニテハ工場ヲ開キ鑄銅ヲ以テ業トスル者アリ、或ハ印度ノ銅器類ヲ輸入シテ爲ニ又技工意匠ノ開發ヲ促シタリ（ラ）、而シテ銅製錬ノ方法ニ至リテハ西洋ノ學術ヲ利用シタルコト更ニ一層大ナリシガ如シ、天正ノ末年（西暦一五九一）ニハ外國人ノ堺港ニ來リ居ル者所謂南蠻吹ノ法ヲ以テ住友氏ノ祖先某ニ傳フ、即チ銀銅吹分ノ法ニシテ、從來我國ニ曾テ存セザリシ所、製鋼輸出ノ利益ハ此ガ爲ニ大ニ加ハリヌ（ム）、思フニ一般鑛山ノ經營ニ在リテモ彼ニ學ビ得タリシモノ決シテ少小ナルベカラズ、何トナレバ�ｺ川氏初期ノ大鑛業家ナル大久保長安ノ如キ、其非凡ナル技倆ハ單ニ彼ガ天稟ヲ發揮シタルモノナリトハ想像スルコト能ハザレバナリ、要スルニ戰國ノ終ニ近ヅキテ(159）ハ銅ノ生産消費ノ額共ニ舊時ノ比ニ非ズ、製作輸出共ニ漸ク盛ナリキト雖、其進歩ヤ最初ハ徐々ニシテ未ダ大ナルモノヲ認メザリシガ、圖ラズモ西洋貿易ノ開始ニ際會シテ機運ハ忽ニ熟シ、豐臣氏ノ統一事業ハ且ツ其傳播ヲ助ケ、茲ニ銅史ノ第二期ハ其終ヲ告グルニ至リシナリ、

　　（ネ）　慶長十一年ノ高臺寺ノ鐘ハ三條釜坐住藤原對馬守國久ノ鑄造（鐘銘ニ見ユ）同十九年ノ方廣寺ノ巨鐘ハ亦釜大工浪越三昌ノ作ナリ、

　　（ナ）　日本風土記ニ由ル、

　　（ラ）　横井文學博士著日本工業史上卷參照、

　　（ム）　近世大阪ノ住友氏ニテ出版セル鼓銅圖録ニ由ル、住友ノ銅賣買ヲ業トセルハ此時ヨリ前天正元年ヨリノ事ナリトイヘリ、横井博士ノ日本商業史ノ記載ハ稍々之ト同ジカラザルモノアリ、

　

　　　　　　　四　第三期ニ於ケル銅生産ノ發達――採鍼權所屬竝ニ經營方法――銅消費――�ｺ川時代前半ノ外國貿易――「銀商賣」「金商賣」――銅輸出再ビ盛ナリ、

　江戸幕府最初ノ事業ノ一ナル鑛山政策ノ擴張ハ、元來貨幣制度改革ノ趣旨ヨリ行ハレタルモノナルガ、其主トシテ力ヲ用ヰタルハ金銀山ニ在リキ、天正中既ニ判金小判其他ノ金銀貸アリ、豐臣氏盛ニ之ヲ流通セシメタリシガ、其制及ビ數量共ニ詳ナラズ、又銅錢ハ天正通寶、文録通寶、慶長通寶、及ビ元和通寶ノ四種相次デ出デタレドモ、何レモ其發行額甚少ク且ツ果シテ政府ノ手ニ成リシヤ否之ヲ明ニスルニ難シ（ウ）、�ｺ川時代ノ通貨トシテハ、慶長四、五、六年ノ交、各種ノ金銀貨、發行セラレタレド、銅錢ハ之ヨリ後ルヽコト三十五六年ニシテ始テ世ニ出デタリ、サレバ大久保長安ガ家康ニ用ヰラレテ鑛山ヲ經營セシ時ニモ、先ヅ其手腕ヲ振ヒタルハ石見ノ銀山、佐渡伊豆ノ金山等ニシテ（ヰ）、銅山ハ徐ニ鑛山技術ノ第二次ノ適用ヲ待チシモノヽ如ク、從テ銅錢ハ諸國出ス所ノ銅竝ニ金銀山ノ副産額ヲ集合スルモ、未ダ新鑄ヲ以テ全國ノ需要ヲ覆ヒ盡スニ足ラズ、幾分ノ制限ノ下ニ猶雜錢ノ跳梁ヲの句人スルノ已ム能ハザル者ナリシナラム、然レドモ此?態ノ持續ハ甚久シカラズ、慶長十五年（西暦一六一〇）ニハ足尾銅山新ニ開坑セラレ、古キ備(160)中吉岡ノ銅山ハ寛永十九年以後幕府ノ直營ニ屬シ、之ニ次デ陸中、陸前、但馬、伊勢、羽後等ニ新坑ノ發見アリ、寛文年間ニハ尾去澤ノ金山ハ變ジテ銅山トナレリ、爾後銅山ノ數ハ愈々増加シ貞享二年（西暦一六八五）ニ至リテハ全國ヲ通ジテ其數三十四箇所アリ、年産額凡九百萬斤ナリトイヘリ（ノ）、サレドモ生産極盛ノ時ハ恐クハ猶之ヨリモ以前ナルベシ、而シテ一般鑛山ノ經營ガ從來ノモノニ比スルトキハ頗大規模ト爲リ爲ニ生産費ヲ減少シタルコト、製錬法ノ進歩ガ金屬生産ノ利益ヲ増加シタルコトハ、共ニ外國交通ノ賚賜ニシテ、假令銅山發達ノ時ガ稍々他ノ金屬ヨリ後レタリトスルモ、其舊坑ノ再興ト新坑ノ發見トガ一時ニ増加シタル原因ハ、共ニ亦全ク此ニ存スルヲ以テ、予ガ第三期ノ開始ヲ天正年間貿易隆盛ノ時代ニ置キタルハ思フニ至當ノ事ナルベシ、

　　（ウ）　泉貸鑑（近代和錢ノ部）參照、此等ノ銅錢ニシテ今ニ存スルモノハ「樂錢ノミ多クシテ坐錢ト見ユルモノ少シ」トイヘリ、

　　（ヰ）　諸侯ノ領内ニテモ加賀、岩代、羽後、薩摩等ノ金銀山ハ大抵慶長前後ニ興リ又ハ其以前ヨリ經營セラレタルモノナリ、（鑛業發達史等ニ由ル）、佐渡ノ鶴子山ハ文禄四年ヨリ寶暦元年迄百六十年間繼續シテ銅ノミヲ出シタレド（銅稼年代記）其産額少カリシガ如シ、

　　（ノ）　史籍集覽第十七卷ノ五百三十三頁ニ載セラレタル正�ｺ以來開書ニ由レリ、

　

　鑛山ノ採掘權ハ將軍直領ニ在リテハ幕府ニ屬シ、私領ニ在ルモノハ各諸侯ニ屬ス、唯社寺領ニ於テハ領主ハ之ヲ採掘スルコト能ハズ、尚幕府ノ處分スル所タリ、又私領内ノ鑛山トイヘドモ場合ニヨリテハ之ヲ幕府ニ返付（上知）セシメ、其代地ヲ給與スルコトアリ、領内鑛山ノ經營ニ二樣ノ組織アリ、一ハ領主ガ自ラ採掘ニ從事スルモノニシテ、他ハ之ヲ私人ノ手ニ委ネ年々定額ノ運上ヲ徴スルモノナリ、前者ヲ御直山《オヂキヤマ》ト言ヒ後者ヲ請負又ハ自分山トイヘリ、請負ニハ年限アリ、其期終ル毎ニ時々ノ便宜ニ從ヒ或ハ收メテ之ヲ公營シ或ハ請負ヲ更新ス、定則アルコト無シ、幕府直營ノ銅山ハ始ハ多カリシモ後年漸ク減少シ、佐渡ノ金山、石見ノ銀山ノ副産トシテ銅ヲ出セシモノヲ除ケバ、文化文政ノ頃ニ現存セルハ下野ノ足尾、攝津ノ多田、出羽ノ幸生等二三ノ銅山ニ過ギズ（オ）、諸侯領内ノモノモ銅坐取締ノ嚴密ナルニ及ビテハ、藩ハ其支配ヲ受クルヲ厭ヒ請負漸ク多ク直營ハ減少セリ、蓋シ銅山公營ノ必要ハ主トシテ鑄貨ノ(161)事業ニ伴ヒテ起リシナリ、政府ノ經理スルモノハ民間ノ企業ニ比スルトキハ入費多ク、産額ノ稍々衰フル毎ニ?々損失ノ危險ヲ虞ヘザルベカラズト雖、造幣所ノ利益ノ豐ニ之ヲ償フモノアリシト同時ニ、原料ノ供給ヲ確保スルノ要アルヨリ、煩雜ナル監督制度ノ下ニ猶之ヲ持續シタリシナリ、サレバ銅坐專賣ノ事行ハルヽニ及ビテハ、必シモ自ラ鑛業ヲ營ムヲ須ヰズ、公定價格ヲ以テ自由ニ需要ヲ充シ得ルヲ以テ、官山ハ漸ク私人ノ企業ニ移リタルナラン、此點ハ各藩ニ於テモ亦同樣ニテ、鑄貨權ノ諸侯ニ特許セラレシ場合ニハ領主ガ自ラ經營スル銅山モ自然ニ多カリシナルベシ、

　　（オ）　一話一言卷ノ三十八、

　

　銅器ノ製作ハ第三期ニ入りテ愈々盛ナリ、曾テ豐臣氏ノ保護ヲ受ケタリシ銅工ハ、一部ハ江戸ト大阪トニ移住シ、他ノ一部ハ前田氏ノ招致スル所ト爲リテ加賀ノ金澤ニ入リ越中ノ高岡ニ傳ハリ、古來此地方ニ存在セシ鐵器鑄造ノ技術ト合體シテ、領主ノ保護ノ下ニ銅器ノ製造ヲ爲セリ、其後又越後ノ燕町ニ銅工アリ、北陸ノ銅器此ヨリ盛ナリ、而シテ京都ノ地ニハ中川金谷ノ二家アリテ、技益々精シク名聲舊時ニ減ゼズ、以テ近年ニ及ベリ、此他�ｺ川氏ノ初期ニ於テ銅ノ用途ノ新ニ加ハリタルモノ猶二アリ、其一ハ銅鑄ノ活字（一字版）ナリ、慶長十一年（西暦一六〇六）ニ�ｺ川家康ハ銅ノ印字九萬餘顆ヲ製シテ之ヲ朝廷ニ獻ズ（ク）、思フニ此前後ニ飜刻セラレタル和漢ノ古書ニハ銅活字ヲ用ヰタルモノ多カルベキナリ、其二ハ銅製ノ瓦ナリ、近代銅瓦ノ我國ニ用ヰラレシハ元和三年（西暦一六一七）日光造營ノ時ヲ以テ始トス（ヤ）、當時足尾ノ銅山新ニ官營ト爲リ、地ハ近ク又寺領ノ縁故アレバ、疑モ無クコノ銅ヲ以テ材料トセシモノナラン、是ヨリ後銅瓦師ノ職アリ、貴族邸宅ノ作事、社寺ノ建築ニ銅ヲ以テ屋ヲ茸クモノ漸ク多シ、江戸城内ノ建造物ノ如キ、一タビ改築ノ擧アル毎ニ、瓦、鋲其他裝飾用トシテ銅ヲ要スルコト無數ナリ（マ）、其一例ヲ言ハヾ慶安三年ニ西ノ丸ノ普請アルヤ、仙臺ノ伊達氏ハ銅六萬二千五百斤、長州ノ毛利氏ハ一萬斤、米澤ノ上杉氏ハ六千二百五十斤ノ銅ヲ獻上シテ工事ノ用ニ供セリ（ケ）、銅合金ノ技術ハ古ク奈良朝ノ時代ヨリ盛ニ行ハレタリシモ、其精巧ハ到底外國ノモノニ及ブ能ハザリシニ銅器鑄造法ノ進歩ト共ニ、或ハ之ヲ發明シ或ハ外人ヨリ傳習シテ、第三期ニ入リテハ殆ト變(162)化ノ妙ヲ極メタリ、

　　（ク）　大日本史料此年六月六日ノ條、

　　（ヤ）　黒川博士ガ工藝史料卷四、

　　（マ）　吹塵餘録第四册ニ見エタル作事方定法参照、

　　（ケ）　千坂隨筆卷五所載慶安三年事記、

　

　銅ノ輸出ハ第三期ニ入リテ始些シク衰ヘ後再大ニ盛ナリ、寛永十年幕府外交ノ方針ヲ一變シ、基督教ノ傳道ト外國渡航トヲ厳禁スルヤ、先ヅ交ヲ葡班、英ノ諸國及其殖民地ト絶チテ、通商國ノ数ヲ制限スルノミナラズ、同時ニ海口ヲ長崎ノ一港ニ限リ、輸出入品ノ種類ニ非常ナル制限ヲ加ヘ、且ツ官吏ヲ派シテ嚴ニ内外ノ取引ヲ監視セシメシカバ、爲ニ大ニ貿易ノ發達ヲ抑止セリ、輸出品ノ中ニハ五穀、絹綿布、漆器等ノ如キ重要物産ハ共ニ皆禁止セラル、而シテ一方ニハ又伊萬利ノ陶器等ノ如ク此ガ爲ニ需要ヲ増シ多少ノ刺激ヲ受ケタルモノモナキニハ非ザレドモ當時唐蘭（フ）二國ノ商賈ガ喜ビテ交易セントセシハ寧此等ノ物ニハ非ズシテ、國人ガ輸入品代價ノ支拂ニ用ヰタル銀ニ在リシナリ、銀ハ最初内國貿易業者ノ眼ニハ單ニ一種ノ媒介物ニシテ、政府ノ目的モ亦之ヲ以テ取引計算ノ標準ト爲スニ在リテ、外人ガ再ビ其銀ヲ以テ尋常輸出ヲ禁ゼラレザル貨物ヲ買去ルコトヲ期セシナレド、内國銀ノ産出額ノ豐富ナルヤ勢貨幣ノ價格ヲ下シ、銀ニ對スル物價ハ支那其他ノ東洋諸國ニ比スル時ハ非常ニ高カリシガ爲ニ唐商ハ直ニ銀ヲ自國ニ持歸ランコトヲ欲シ、歐洲ノ船舶モ亦歸途東洋ノ諸銀貨國ニ寄港シ、更ニ之ヲ金ト交易シテ西洋ニ送ルガ爲ニ再大ナル利益ヲ見ルコトヲ得タリシカバ、亦頻ニ銀ノ輸出ヲ希望シタリキ、此ノ如ク二國ノ商船ガ船脚ノ輕キヲ厭ハズ、容積少キ銀ヲ積ミ還リシ爲ニ一般貨物ノ輸出數量ハ思フニ著シク減退セシナルベク、一時銀ハ殆ト唯一ノ輸出品ナリシガ如シ、サレバ政府モ時勢ノ如何トモスベカラザルヲ知リ久シキ以前ヨリ銀ヲ以テ直ニ輸出貨物ト看做シ、最初ハ貨幣（商鐐）ニ鑄造シテ貿易ノ用ニ供シタリシヲ改メテ、單ニ丁銀ヲ秤量シテ支拂ニ充テシムルニ至レリ（西暦一六〇九）、此時ニ於テハ銅ノ輸出ハ全ク無キニハ非ザリシモ（コ）其額ハ到底舊時自由貿易ノ頃ニ比スベクモアラザリケリ、然ルニ銀ノ輪(163)出ハ殆ト其極端ニ達スルニ及ビテ、漸ク弊害ヲ認メラレ、寛文四年ニハ試ニ和蘭ニ向ヒテ金ヲ輸出シ、同八年（西暦一六六八）ニ至リテハ、終ニ斷然銀ヲ以テ輸入品ニ交易スルコトヲ禁止シ、之ニ代フルニ金ヲ以テシタリ、此改正タルヤ保守的ナル�ｺ川幕府ニトリテハ一英斷ニハ相違ナキモ、要スルニ所謂「羊ヲ以テ之ニ易ヘヨ」ノ姑息策ニ過ギズ、而シテ和蘭ハ元ヨリ金ヲ本國ニ輸送スルノ利アルヲ以テ、必シモ金ヲ受クルコトヲ辭セザリシナランモ、支那其他ノ銀貨國ニ於テハ、事情ノ稍々之ニ異ルモノアリ、金銀ノ二者必シモ擇ム所ナシトイフ能ハズ（エ）、是ニ於テカ漸次ニ金ヲ以テ他ノ貨物ヲ購ヒ別ニ輸出ノ利ヲ收メントスルニ至リシハ自然ノ結果ナリトイフベシ、殊ニ支那ハ寛文三年ニ愛新覺羅氏ガ天下ヲ一統シテヨリ内外ノ施政面目ヲ改メ、海外貿易モ亦大ナル奨勵ヲ受ケタルノミナラズ、時恰モ銅錢新鑄ノ計畫アリシニ、古來有名ナル泗川雲南ノ産銅地ハ陸路隔絶シテ南北ノ二京ニ原料ヲ供給スルコト困難ナルニ反シテ、日本ノ地ニハ海舶ノ往來頻繁ナリシカバ、頗我國ノ銅ヲ招致スルニ意アリシナリ（テ）、サレバ我國ノ鋼ガ再盛ニ外國ニ持去ラルヽノ機運ハ、コノ銀輸出禁止令ノ前後ニ於テ、急激ニ展開セラレタルモノナリト斷定シテ略々誤ナカルベシ、

　　（フ）　所謂唐船ノ中ニハ啻ニ南部支那ノ諸港ヨリ發スルモノノミナラズ、東京、柬埔寨、占城、暹羅等ノ商船ヲモ含ムナリ、前者ヲ名ヅケテ口港、中港ノ船トイヒ、後者ヲ奧港船ト言ヘリ、今故ラニ「唐船」ノ舊稱ヲ襲用セルハ此等ヲ總稱センガ爲ナリ、

　　（コ）　此事ニ付テハ研究スベキ疑點アリ、通航一覽、長崎實録大成等ノ諸書ニハ皆正保三年（西暦一六四六）ニ始テ銅ヲ和蘭ニ賣與ヘタリトアリ、然ラバ此以前ニハ唐船ニノミ銅ヲ渡セシカ、或ハ又一般ニ銅ノ輸出ヲ禁ゼシカ、共ニ更ニ記録ニ存セズ却テ�ｺ川實記（續國史大系本）ニ由レバ、此ヨリ後寛文八年（西暦一六六八）ニ及ビテ新ニ銅ヲ禁制品中ニ加ヘタリト見ユ、然レドモ寛文八年ノ令ハ銅輸出ヲ全禁シタルモノニ非ザルコトハ後ニ擧グル住友氏由緒書ニテモ明ナルノミナラズ、猶此他ニモ貞享二年（西暦一六八五）ノ貿易制度改正以前ニ銅輸出ノ多カリシコトヲ證スベキ論據アリ、所詮ハ別ニ寛文八年ヨリ後ニ銅輸出ノ禁止ヲ解キタル明證ナキ限ハ、假ニ�ｺ川實記ノ記事ヲ否定スルノ外ナシ、或ハ銅トアルハ銀ノ誤ニハアラザルカ、正保三年云々ノ記事ハ口碑ノ誤ヲ傳ヘシモノカ、或ハ別ニ仔細アルカ、

　　（エ）　寛文十二年三月二十三日ノ令ニ「唐物ノ價近年金一兩ニ銀五十八匁ノ定モテ金ヲ與フレドモ、歸帆ノ後彼地ノ銀ノ價騰貴シテ困難スル由歎キ訴フルニヨリ此後ハ銀ヲ以テ與フベシ、若シ金ヲモテ受取ラント乞フモノハ其意ニ任スベシ」トア(164)リ（�ｺ川實記）但シ此頃果シテ舊ニ依リテ銀ヲ輸出セシコトアリヤ否ヤ明徴ナシ、

　　（テ）　若シ當時支那ニ於ケル銅生産ノ?況ヲ明ニシ、進ミテハ銅ノ價ノ日本ヨリ高キコト幾何ナリシカヲ知ルコトヲ得バ、此説明ノ爲ニ非常ナル便宜ヲ與ヘシナランモ、予ハ不幸ニシテ之ヲ詳ニスルノ途ヲ知ラザリキ、

　

　金商賣ノ時代ハ銀商賣ノ時代ニ比スレバ遙ニ短カヽリキ、此間諸國ノ物産ノ奨勵ヲ受ケテ輸出ヲ試ミラレタル者モ、（ア）少カラザリシニ拘ハラズ、寛文四年始テ金ヲ蘭船ニ許シテヨリ二十二年、銀支拂全廢ノ後僅ニ十八年ニシテ、貞享二年ノ大改正トナリ、翌々元禄元年ニハ所謂會所貿易法ハ愈々確定シ金ヲ以テ輸入品ニ交易スル法ハ又罷メラレタリ、會所貿易ノ制度ハ後來銅坐設置ノ原因トナリタル者ニテ、銅ノ歴史ニハ最大ナル關係ヲ有スル者ナルガ、之ヲ説明セントスル時ハ勢貞享以前ノ?況ニ溯リテ知ル所ナカルベカラズ（サ）、元來唐蘭貿易ノ利益ハ長崎ノ市民ガ特權トシテ享有（キ）スル所ノ者ナリ、所謂白絲ノ割符ハ年月ヲ經ルマヽニ漸ク長崎住民ノ獨占ニ歸シ、彼等ハ他國ノ商人ヲ凌駕シテ輸入品ヲ先買シ、之ヲ内地ニ鬻ギテ利ヲ見タリ、次デ生絲輸入ノ稍々衰ヘ輸入物價ノ騰貴スルニ及ビテ、明暦元年（西暦一六五五）以後一時割符ノ制ヲ罷メ、相對商賣ノ法ヲ行ヘリト雖、金商賣ノ令出ヅルヤ市民ハ又「間金」ノ利益ヲ收メタリ、此法タルヤ當時ノ金銀ノ比價金一兩ニ銀六十匁ノ率ナリシヲ、特ニ外國貿易ノミニ付テハ一兩六十八匁ト定メ（ユ）、從來銀ニテ六十八匁ヲ値セシ外國貨物ニ對シ唯金一兩ヲ支拂ヒテ足レリシナレバ、輸入品ヲ購求スル長崎人ノ爲ニハ亦大ナル利益ナリシナリ、寛文十二年貿易法ハ再改メラレ所謂市法賣買ヲ行ヒタリシガ、此法モ亦改良ヲ以テ目スベキハ、單ニ輸入品ノ評價權ヲ特權アル市民ノ團體ニ附與シ、以テ輸入貨物ノ價ノ騰貴ヲ防ギタル點ニ留リ（メ）、輸出ニ關スル便利ハ未ダ十分ニ開カラレザリシナリ、サレバ金銀ノ濫出ヲ苦シミ普通貨物ノ輸出ヲ以テ之ニ代ヘントスルニハ、此等諸法ハ皆適當ナリト言フコト能ハズ、是恐クハ貞享新令ノ出デタル所以ナルベシ、蓋シ一國全體トシテ觀察スルトキハ、當時ノ貿易ノ如ク不利益ナルモノハ其例稀ナリ、輸入品ノ中ニハ藥品、染料、砂糖等民間必需ノ物モ無キニハ非ザレドモ、其他ハ概シテ織物、器玩ノ類貴族奢侈ノ慾ヲ充ス不急ノ物品ノミ、而シテ之ニ對シテハ不利益(165)ナル價格ヲ以テ巨額ノ金錢ヲ支拂ヒタリトスレバ、政府ガ新令ヲ布クト共ニ貿易額竝ニ船數ニ制限ヲ設ケントシタルハ寧至當ナリ、然ルニ長崎ノ市民ハ貿易法ノ變更ヨリモ却テ此制限ノ爲ニ苦シミ、大阪ニ於ケル十三戸ノ銅商人ノ如キモ、貿易額ニ削減ヲ加フルハ將ニ發達セントスル國内産物ノ進路ヲ塞グモノナルコトヲ述ベテ、異議ヲ唱ヘタリシガ（ミ）、政府ノ意ハ專金銀ノ輸出ヲ杜絶スルニ急ナリシカバ、終ニ之ヲ容レザリシナリ、此時ヨリ以後唐蘭ノ貿易ニ銀高、金高ノ最高限ヲ掲グルモ是唯價額ヲ表示スルノ一名目ニ過ギズシテ、一二ノ例外ヲ除キテハ全ク現金銀ヲ輸出セズ、加之後年ニ至リテハ却テ外國ノ金銀ノ輸入ヲ勸誘シ、特ニ銅ヲ出シテ之ト交易シタリ、之ヲ要スルニ貞享以前ノ貿易ニ於テハ内國貨物ノ輸出ノ道未ダ完備セズ、且ツ金銀輸出ノ利益多カリシガ爲ニ、蘭商ハ勿論唐船ニ於テモ金ヲ携ヘテ返ルモノ多ク、從テ國内貴金屬ノ準備ハ減少シ、物價ノ下落ハ當時穀物ノ賣拂ヲ以テ一切ノ財政ヲ經理シタル幕府ト諸藩トヲ苦シマシメ、終ニハ元禄年間ニ於ケル貨幣制度ノ墮落ノ原因ヲ爲シタルモノナルベシ、

　　（ア）　寛文二年伊萬里瓷器商賣ノ者、出島ノ内ニ賣店ヲ出スコトヲ許サル（長崎實録大成）、同十二年ノ令ニヨレバ當時ハ本邦ヨリ古錢、銅、染物、蒔繪ノ器財、今利ノ陶器ヲ輸出セシモノヽ如シ（�ｺ川實記）、

　　（サ）　福地源一郎氏ノ「長崎三百年間」ハ二三ノ誤謬アルカト思ハルレドモ記事周到ニシテ參照スベキ書ナリ、

　　（キ）　「白絲割符」ハ慶長八九年ノ頃ニ始ル、當時白絲ハ輸入品ノ主要ナルモノニシテ京、江戸、大阪、堺、長崎等ノ市民ハ其獨占買入權ヲ有セシナリ、サレド貿易ガ長崎ノ一港ニ限ラレテヨリハ此特權ハ讓渡又ハ商人ノ轉住等ニヨリ次第ニ長崎ニ集注セシモノヽ如シ、

　　（ユ）　金一兩銀六十匁ハ公定比率ナレドモ兩替商ニハ五十八匁迄ニ下スヲ許シ其差額ヲ利セシム、後年ニハ又一兩五十八匁ヲ以テ一般ノ最低限トセリ、サレバ對蘭貿易ニ金ヲ出スニ及ビテハ之ニ對スル銀ノ價ヲ六十八匁トシテ其差額ノ十匁ヲ以テ内國貿易商ノ利得トス、間金トイフハ即チ是ナリ、

　　（メ）　崎陽群談、及ビ横井博士ノ日本商業史等、

　　（ミ）　前ニ擧ゲタル「正�ｺ以來開書」ニ由ル、

　

　新井白石ノ寶貨通用事略ニ由レバ慶安元年（西暦一六四八）ヨリ寶永五年（西暦一七〇八）マデ六十一年間ニ於ケル長崎ノ輸出ハ正金二百三十九萬七千六百兩餘、正銀ハ三十七萬四千二百〇九貫目餘ナリトイヘリ、銅ハ寛文三年（西(166)暦一六六三）ヨリ寶永五年迄ノ四十六年間ニ出ス所一億一千四百十九萬餘斤ナリト稱ス（シ）、貞享二年以後ノ銅輸出額ガ非常ニ大ナリシコトハ諸書ノ證左アレバ假ニ其以後二十四ケ年ハ毎年平均三四百萬斤ヲ出セリトスルモ猶會所貿易法以前ニ若干ノ銅ヲ輸出セシコトヲ知ルベク、而シテ寛文二年前ノ輸出モ亦少カラザルベキコトハ新井氏既ニ之ヲ言ヘリ、大阪ノ住友ハ當時ノ銅商人中最有力ナルモノナリシガ寛永十五年即チ外國貿易ヲ唐蘭ノ二國ニ限リタル際ニ於テ、更ニ銅直輸出ノ許可ヲ得、下リテ寛文八年ニ一般ノ直貿易ガ禁止セラルヽニ及ビテモ猶特ニ鋼ノ輸出ヲ繼續スルコトヲ許サレ同十二年ニ市法賣買ノ行ハルヽヤ又長崎ノ貿易商ニ輸出用ノ鋼ヲ配賦スルコトヲ命ゼラル（ヱ）、此他對馬ノ宗氏ガ對朝鮮貿易竝ニ薩摩ノ島津氏ガ琉球ヲ經テ爲シタル對支那貿易ニモ亦鋼ヲ輸出セシヤ疑ナシ、宗氏ハ地ノ利ニ據リテ久シク朝鮮トノ通商ヲ獨占セシガ、寛永十年後ニ於テモ「藥種取出シ」ノ名義ノ下ニ猶其繼續ヲ特許セラレ、毎年三十萬斤以内ノ銅ハ別ニ幕府ノ承認ヲ乞フコト無クシテ之ヲ愉出スルコトヲ得タリ、薩摩ノ貿易ニハ金銀ノ貿易ヲ主トシタリシガ如クナレドモ、日向地方ノ産銅ハ亦恐クハ海外ニ出デシナラン、而シテ所謂「拔荷ノ商賣」モ此頃既ニ盛ナリトアレバ、諸國ノ海岸ヨリ之ニ由リテ積ミ出サレタル銅ノ量モ亦計リ知ルベカラズ、之ヲ要スルニ銅ヲ以テ貿易ヲ爲スノ計畫ガ確定シタルハ貞享改正ノ後ナレドモ、此ニ先ダチテ國内銅産ノ餘剰アリシコトハ既ニ年久シク、其産額ノ豐富ナル價格ノ低廉ナル若シ貿易ノ方法ニシテ其輸出ニ便ナリシナラバ夙ニ貿易品中ノ主要ナル地位ヲ占ムルコトハ決シテ困難ナラザリシナリ、

　　（シ）　白石先生ノ當時ニハ此計算ノ基礎トナリタル記録ハ必ズ存セシナランモ今ハ之ヲ知ル能ハズ、氏ハ又寛文二年以前慶長六年以後ノ長崎輸出金屬ノ數量ヲ推算シテ金銀ハ共ニ几此二倍、鋼ハ一倍ナリシナラントイヘリ、コノ銅ノ數字ニ付キ疑フベキコトアリ、數種ノ傳寫本竝ニ史籍集覽本ニハ共ニ一億一萬〔二字傍点〕一千四百十九萬八千七百斤ト見エタリ、今假ニ國史眼等ニ從ヒテ之ヲ一億一千萬餘斤トスレドモ、原本果シテ誤記ナリヤ、或ハ當時萬ノ十萬ヲ以テ一億トスルノ記數法アリシカ、猶考究ノ必要アリ、サレド恐クハ今ノ十一億萬斤餘ヲ意味スルモノニハ非ザルベシ、

　　（ヱ）　寛政十一年ニ幕府ニ差出シタル「豫州銅山師泉屋吉次郎由緒書」ニ由ル、泉尾トハ住友ノ商號ナリ、寛文八年ノ直賣禁(167)止ノコトハ他書未ダ見ル所無シ、

　

　　　　　　　五　銅商賣ノ時代――銅ヲ輸出品ト定メタル理由――會所貿易法――銅輸出ノ制限及其原因――海外ニ於ケル銅ノ需要――銅賣價直段――御用銅ノコト――銅輸出統計――朝鮮ニ對スル銅輸出

　寛文八年以前ノ長崎貿易ヲ名ヅケテ銀商賣ノ時代ト言ヒ、其以後貞享二年マデノ間ヲ以テ金商賣ノ時代ト言ヒ得ベクバ貞享二年ノ貿易法改正之ニ次デ元禄元年ノ船敷限定アリテヨリ以後ハ概括シテ之ヲ銅商賣ノ時代ト稱スルコトヲ得ベシ、蓋シ銅ノ輸出ハ決シテ此時ニ始リタルニハ非ズ、又此時以後ト雖銅ノ外ニモ種々ナル貨物ノ輸出アリシコトハ事實ナレドモ、初期以來金銀濫出ノ弊ヲ覺リテ之ガ匡正ノ策ヲ講ジ、一方ニハ貿易ノ年額ヲ制限スルト同時ニ、必要ナル範圍ニ於ケル交易ハ主トシテ銅ノ輸出ニ由リテ之ヲ、繼續セント計リシコトハ、所謂會所貿易制度ノ眼目ト稱シテ可ナレバナリ、

　銅ガ輸出品中第一位ヲ占ムルニ至リシハ單ニ自然ノ趨勢ノミニハ非ズ、國ノ政策モ亦頗之ヲ慫慂スルノ方針ヲ採リシニ因ル、サテ金銀流出ノ防止ハ當時固ヨリ必要ナル處置ナリシナランモ、其身代リトシテ特ニ銅ヲ指示セシ理由ニ至リテハ未ダ之ヲ明白ニスル能ハズ、但予ガ想像ヲ以テスレバ左ノ三ノ事情ノ如キハ與リテ大ニ力アリシナランカ、（一）我國ノ銅ハ久シキ前ヨリ既ニ多少ノ輸出アリテ、其品質海外ノ市場ニ認識セラレ、新ニ販路ヲ擴張スルニ便ナリシコト、（二）衣食ノ材料等日常ノ必需品ヲ輸出スルハ國ノ爲ニ不利益ナリトイフ思想一般ニ行ハレ、其他輸出禁制品ノ種類ハ多クシテ別ニ適當ナル貿易貨物ヲ發見スルコトノ難カリシコト、（三）殊ニ貞享ヨリ以前銅ノ生産ハ一時急激ニ増進シ、其額ハ國内ノ需要ヲ超過シテ猶大ナル餘剰アリ、市價モ從テ非常ニ低廉ナリシコト、即チ是ナリ、第三ノ點ハ稍々臆測ニ過グルニ似タレド、元禄ノ末年足尾別子其他ノ諸銅山産額尚甚豐ナルニモ拘ラズ（ヒ）、輸出銅ハ、既ニ不足ヲ告グルニ至リ、爲ニ從來ノ規模ヲ縮小シ、唐蘭二商ノ希望ニ反シテ次第ニ銅額ヲ削減スルノ必要アリシガ如キ以テ證(168)ト爲スベク（モ）、要スルニ一時ノ現象ニ基キテ永久ノ方針ヲ立テントシタル當局ノ誤ナリ、而シテ國銅ノ貿易ニ不十分ナルコトハ此ノ如ク明白ナル事實トナリタルモ、幕府ハ猶舊章ニ因循シテ更ニ進ンデ第四第五ノ特別輸出品ヲ指定スル勇氣ナク、或ハ俵物其他ノ水産物ヲ奨勵シテ之ヲ輸出セシメタルコトアレドモ、亦僅ニ一部ノ補充ニ止リ未ダ一新方面ヲ開クニ至ラズ、其結果長崎ノ貿易業ハ銅ノ生産ノ衰微ノ外殆ト他ノ原因ナクシテ漸次ニ廢絶ニ歸スルニ至レリ、

　　（ヒ）　元禄十一年ノ別子銅山ノ産額ハ二百五十萬斤ナリ、足尾銅山ノ生産高ハ元禄元年ヨリ同十四年マデハ一年ノ平均二百三十四萬斤、同十五年以後正�ｺ四年迄ハ毎年二百八十一萬斤ナリキ（少年工藝文庫銅山ノ卷ニ由ル）、此外新ニ開カレタル銅山モ少カラズ、サレドモ當時ノ銅輸出高ハ亦非常ノ巨額ナリ、「折焚柴之記」ニ由レバ元禄十年ノ頃銅ノ輸出豫定額ハ年ニ八百九十萬二千斤ナリ、長崎會所ハ種々ナル方法ヲ以テ其蒐集ヲ力メシモ供給終ニ足ラズ、翌年以後再定額ニ達スルコト無カリキ、元緑寶永ノ交貨幣改鑄ノ爲ニ亦多ク銅ヲ費ス、而シテ正�ｺ元年ニハ全國ノ生産總額六百四十萬斤、其中ヨリ國用百六十萬斤ヲ除キ他ハ悉ク長崎ニ集ムルモ猶未ダ需要ニ滿タズ、市價ハ日ニ騰貴セシカバ、幕府ハ是ニ於テ始テ銅ノ供セザルハ運送法ノ不可ナルガ爲ニ非ザルコトヲ覺リシナリ、併シナガラ元禄十年ヨリ以前十數年ノ間ハ兎ニ角八九百萬斤ノ輸出ヲ繼續シ得タリシモノヽ如シ、貞享中ノ全國生産額ガ九百萬斤ナリシコトハ前章ニ言ヘリ、

　　（モ）　蘭船ニ賣渡ス銅ノ定直段ハ百斤ニ付銀六十匁餘、實ニ後年市價ノ三分ノ一、四分ノ一ナリ、此價ハ最初ヨリ一定シテ長崎貿易ノ終マデ動カサヾリシモノナルガ、恐クハ元禄初年ノ市價又ハ生産費ヲ基トシテ定メラレシコトナラン、何トナラバ假令貿易全體ノ利益ハアリトモ、始ヨリ市價ヨリ低ク賣渡價格ヲ公定スル必要ハナケレバナリ、サスレバ此モ亦一ノ證據ト爲スベシ、

　

　所謂銅商賣ヲ實行シテ其趣旨ノ貫徹ヲ期スルガ爲ニハ、會所貿易法ノ組織ハ蓋シ最必要ナル手段ナリシナリ、相對商賣ノ舊制ニ於テハ、内地ノ唐物商等ガ輕貲ヲ帶ビテ長崎ニ往キ、直接ニ外人ニ就キテ購フノ風ヲ禁ズルコト能ハズ、各自競爭ノ結果ハ貿易ノ利益ヲ減少スルノミナラズ、貿易ノ額ヲ制限スルコト能ハザレバ、兼テ又金銀ノ流出ヲ防止スルノ途無カリシナリ、故ニ貞享ノ新令ニテハ先ヅ唐蘭ノ貿易額ヲ限定シ、之ト同時ニ輸出入一切ノ貿易ハ必ズ一タビ長崎會所ノ手ヲ經由スルコトヽ爲シ、個人ガ直按ニ外商ト取引ヲスルコトヲ禁ジタリ、長崎會所（セ）ハ市民ヲ以テ構成スルノ一ノ自治機關（ス）ニシテ、貿易ニ關スル古來ノ特權者ノ利益ハ凡テ之ヲ代表シ、年々貿易ノ利潤ヲ各階級ノ市民ノ(169)間ニ分配スルヲ以テ他ノ一ノ目的トスルモノナリ、會所取引ノ方法ハ前後數次ノ變更ヲ經タリト雖、要スルニ其尤大ナル特色ハ輸出入ノ貨物共ニ豫メ其價格ヲ一定シテ之ヲ變ゼザル點ニ在リ、之ヲ本途直段又ハ定直段トイヘリ、（而シテ品質種類ノ同一ナル貨物ニテモ場合ノ異ルニ從ヒ其定直段ヲ二三ニスルコトアリ、銅ノ如キハ其最著シキ例ナリ）、サレバ後年ニ至リテハ輸出入品ノ普通ノ市價ハ常ニ公定價格ニ數倍シ、從テ貿易銀高ノ制限ハ存スルモ單ニ一ノ目安ニ過ギズ、實際ノ輸出入價額ハ遙ニ之ニ超過シタリシナリ、今寛政年間ノ商賣定例ニ由リテ些シク細目ヲ説明センニ、當時唐船ハ一艘ニ付各銀高二百七十四貫目ニ相當スル貨物ヲ輸入スルコトヲ得、會所ハ其銀額ヲ左ノ如ク區分セリ（イ）、

　　　御定高　　　　銀百十貫目

　　　雑物替　　　　仝三十貫目

　　　八朔禮　　　　仝一貫九百十一匁餘

　　　寄進　　　　　仝十四貫八百三十三匁餘

　　　音物　　　　　仝九貫九百〇三匁餘

　　　銅口餞　　　　仝四貫三百五十匁

　　　日雇　　　　　仝四貫百目

　　　遣用費　　　　仝四貫目

　　　有餘賣　　　　仝九十四貫九百〇一匁餘

　　　　計　　　　　仝二百七十四貫目

　右ノ中八朔禮ハ幕府ニ對スル貢物、寄進ハ長崎ノ諸社寺ニ對スル寄附、音物ハ會所ノ吏員ニ對スル贈遺ノ名目ヲ以テ徴収スルモノニシテ、共ニ一種ノ貿易税ナリ、銅口錢ト日雇トハ取引ノ爲メニ要スル手數料ナリ、此等ノ銀高ニハ(170)對價ヲ給セズ、他ノ四種ノ銀高ニ對シテハ左ノ割合ヲ以テ銅、俵物、諸色ヲ交付ス、

　　　御定高銀百十貫目ノ内

　　　　　銀百〇一貫二百日分　銅八萬八千斤渡（百斤ニ付銀百十五匁）

　　　　　仝五貫二百八十匁分　俵物渡

　　　　　仝三貫五百二十匁分　諸色渡

　　　雑物替高銀三十貫目ノ内

　　　　　銀十三貫八百匁　　　銅一萬二千斤渡（價仝上）

　　　　　仝九貫七百二十匁　　俵物渡

　　　　　仝六貫四百八十匁　　諸色渡

　　　通用費、有餘賣合セテ銀九十八貫九百〇一匁餘

　　　之ニ對シテハ特ニ五割ヲ増額シ銀百四十八貫三百五十一匁トシテ輸出品ヲ渡ス、但シ内銀十四貫三百五十一匁ハ定例金ノ名義ヲ以テ更ニ之ヲ徴收ス、右殘銀百三十四貫目ノ内

　　　　　銀八十貫四百匁　　　俵物渡

　　　　　仝五十三貴六百匁　　諸色渡

　　　右四種ヲ通計シテ輸出總價額銀二百七十四貫目

　　　　内銅十萬斤代　　　　　銀百十五貫目

　　　　俵物代（ロ）　　　　　仝九十五貫四百匁

　　　　諸色代　　　　　　　　仝六十三貫六百匁

　以上ハ唐船一艘ノ商賣定式ニシテ此時唐船ノ數ハ十艘ナリ、和蘭ノ入航船ハ唯一艘アルノミ、其輸入貨物ノ公稱價(171)額ハ銀七百五十貫目ニシテ、其中四十八貫八百二匁ハ亦獻上、進物等ノ名義ヲ以テ之ヲ控除シ、百六十二貫四百八十八匁ハ之ヲ置銀、出島借料等定例ノ拂金ニ充テシメ、其殘額五百二十二貫七百〇四匁ニ對シテノミ内地ノ貨物ヲ給ス、即チ左ノ如シ、

　　　銅六十七萬斤代　銀四百〇三貫六百七十五匁（百斤ニ付銀六十匁二五）

　　　樟腦銅針金、器物類、蒔繪道具、模物、小間物代　仝百十九貫〇二十九匁

　　　　計　　　　　　　　　　仝五百二十二貫七百〇四匁

　サテ此等ノ計算ニ於テ最注意スベキハ、輸出銅ノ價唐ニ對シテハ百斤銀百十五匁、蘭ニ對シテハ仝銀六十匁餘ナリシコトナリ、寛政ノ頃銅坐ニ於ケル御用銅ノ買上代金ハ普通百斤ニ付銀百三十九匁餘ニシテ、之ニ掛入銅（ハ）ノ代、長崎迄ノ運賃雜費等ヲ加フルトキハ、銅百斤ノ爲ニ實際會所ガ支拂ヒタル入費ハ銀百五十一匁餘ニ當ル、サスレバ長崎會所ハ毎百斤ノ輸出ニ付、唐ニ對シテハ銀三十六匁、蘭ニハ九十匁ヅヽノ損失ヲ蒙ルベキモノナリ、是一見殆ト解スベカラザルガ如キモ、輸入貨物ノ公定價格モ亦實際ノ市價ニ比シテ非常ニ低カリシヲ以テ、會所ガ入札ニヨリ之ヲ内地（ニ）商人ニ賣拂フニ當リ、收ムル所ノ差益ハ優ニ之ヲ償却スルコトヲ得タリシナリ、此差益ハ之ヲ名ヅケテ會所ノ出銀ト言フ、寛政度ノ帳簿ニ由レバ、唐方商賣高二千七百四十貫目ニ對シテ、出銀四千四百二十五貫目アリ、和蘭ノ商賣七百貫目ニ對シテハ出銀三千百八十貫目餘、合セテ一年ノ出銀七千六百貫ニ達ス、サレバ此頃ノ如ク貿易ノ既ニ衰ヘタル時代ニ於テモ、一年ノ商賣高唐蘭ヲ合セテ三千五百貫ト稱セシハ單ニ便宜上ノ名目ニ過ギズシテ、其實ハ出銀ト共ニ時價銀一萬一千貫目（金十八萬兩餘）ニ相當スル取引ガ行ハレタリシナリ（ホ）、

　　（セ）　長崎會所元禄十年以前ハ之ヲ割符會所ト稱セリ、是レ白絲ノ商賣ヲ主眼トスル古來ノ沿革ニ基キシモノニシテ、最初ハ絲割符ヲ五ケ所ノ特權者ニ配賦シ此貨物ノミハ特別ノ取扱ヲ認メタリシモ、白絲ノ輸入ガ次第ニ衰微セシ爲終ニ其必要ヲ(172)見ザルニ至リシナリ、

　　（ス）　幕府ノ任命セル官吏長崎奉行ハ會所ヲ指揮監督スルノ權限アレド、實際ノ事務ハ調役以下長崎市民中ヨリ選任セラレタル吏員ノ執行スル所ナリ、

　　（イ）　此ニ掲ゲタルハ厦門船ノ例ナリ、中、奧港ノ唐船ニシテ俵物ヲ希望セザルモノニ付テハ銀高配分ノ割合稍々之ト異リ、從テ銅及諸色ノ渡シ高モ厦門船ヨリ多カリキ、サレド寛政ノ頃ニハ實際ハ俵物ヲ積還ラザル唐船ハ少ナカリシヤウナレバ、恐クハ多數ノモノハコノ厦門ノ例ニ由リシナラン（吹塵録第二十二册參照）寛政ヨリ以前ノ商賣方法ヲ詳ニスル能ハザリシハ最遺憾トスル所ナリ、

　　（ロ）　諸色ノ寶渡價格ハ之ヲ知ル能ハズ、俵物ノ定直段ハ横井氏ノ日本商業史三二二頁ニ見ユレド、此頃行ハレシモノナリヤ否ヤヲ知ラザレバ引照シ難シ、

　　（ハ）　掛入銅ノ慣習ハ其起源ヲ知ラズ、思フニ年貢ノ口米ト同ジ趣旨ノモノナラン、和蘭ニ渡ス銅ニハ百斤ニ付一斤ノ掛入銅ヲ添フ、唐船ニ對スル掛入ハ略々蘭ノ三分ノ一バカリナレド其率ヲ明ニシ難シ、

　　（ニ）　和蘭商賣二十割、唐方商賣四十割トイフコトハ何時ノ頃ヨリ唱ヘ來リシカ（福地氏長崎三百年間一〇四頁）、寛政度ノ出銀ハ蘭ハ五十五割ニ當リ唐ハ平均十七割ニ當ル、唐品入札賣價ノ例ヲ言ハバ明礬ハ普通二十五割以上四十割、平戸佐嘉ノ茶碗藥ハ十八割バカリニ賣拂ハレシナリ、

　　（ホ）　會所ノ出銀ハ寛政ノ頃ニハ大凡下ノ如ク之ヲ配分セリ、

　　　　　　唐方買渡銅百萬斤ニ

　　　　　　掛カリ候償、掛入ノ分共　　銀三百五十四貫目餘（百斤ニ付三十五匁四）

　　　　　　阿蘭陀方六十七斤《（萬缺カ）》ニ對シ同上　　同六百十一貫目餘（百斤ニ付九十一匁餘）

　　　　　　例格上納金一高五千兩代〔十一字傍点〕　　同九百貫目

　　　　　　總町個所割銀〔六字傍点〕　　同五百二十四貫目餘

　　　　　　總町竈割銀〔五字傍点〕　　同三百四十五貫目

　　　　　　諸役人受用助成銀〔八字傍点〕

　　　　　　其他　　同二千九百六十八貫目餘

　

　貞享二年始メテ唐蘭ノ商賣銀高ヲ制限シ、次デ元禄ノ元年ニ入航船數ヲ一定シテヨリ以來、猶十數囘ノ變更アリシガ、多クハ從前ノ數ヲ削減スルモノニシテ増加ノ場合ハ少シ、正�ｺ五年以後ハ更ニ又銅ノ輸出額ヲモ一定シ之ヲ超過(173)　　　關聯シ且ツ同一ノ原因ニ基キテ定メラレタルモノナリ、今其沿革ヲ説クニ先ダチ試ニ左ノ一表ヲ掲ゲテ其年代ヲ明ニセン、

　　　　　長崎貿易額、船數及銅輸出額限定一覽表

　年次　　　　　　　　　　貿易銀額（へ）　　 　　 　　船數　　　　銅輸出額

　　　　　　　　　　　　　唐　　　　　　蘭　　　　　　唐　　蘭　　唐　蘭

貞享二、（西暦一六八五）　六、〇〇〇貫　 三、〇〇〇貫

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（金五萬兩）

元禄元（一六八八）　　　　　　　　　　　　　　　　　　七〇　五

同八（一六九五）　　　　 六、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　 一、〇〇〇

同九（一六九六）　　　　六、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　五、〇〇〇

同十（一六九七）　　　　六、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　二、〇〇〇　　　　　　　　　　八〇　　　 此年輸出豫定額

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 合八、九〇二、〇〇〇斤

同十一（一六九八）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　二、五〇〇、〇〇〇斤一

正�ｺ五（一七一五）　　　六、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　三、〇〇〇　　　　　　　　　　三〇　二　　三、〇〇〇、〇〇〇斤　一、五〇〇、〇〇〇

享保二（一七一七）　　　八、〇〇〇　　　　　　　　　　四〇

同四（一七一九）　　　　四、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　　　七〇〇　　　　　　　　　　二〇（ト）

同六（一七二一）　　　　　　　　　　　 一、七〇〇

　　　　　　　　　　　　　　　　　　此金二萬五千兩　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一、〇〇〇、〇〇〇

(174)享保十八二七三三）　　　　　　 　一、一〇〇　二九

元文元（一七三六）　　　　　　　　　　　　　　　　　二五

同五（一七四〇）　　　　　　　　　　　　　　　　　　二〇

寛保三（一七四三）　　　　　　 ? 　　 　　　五五〇　一〇　　一　　　一、五〇〇、〇〇〇　　六〇〇、〇〇〇

延享三（一七四六）　　　　　　　　　　　　　八〇〇　一〇 　　　　　一、五〇〇、〇〇〇

一〇〇　一〇　　　　　　　 五〇〇、〇〇〇

三五〇　　　　　　　　　　　　　一、一〇〇、〇〇〇

寛延二（一七四九）毎一艘二七四　　　　　　　　　　一五　　　　一、五〇〇、〇〇〇

明和二（一七六五）　　　　　　　　　　　　　　　　一三　　　　一、三〇〇、〇〇〇

明和五（一七六八）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　九〇〇、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　七〇〇、〇〇〇

寛政二（一七九〇）　　　　　　　　　　　　　　　一〇　　　　　　一、〇〇〇、〇〇〇　　六〇〇、〇〇〇

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　七〇、〇〇〇

文政二（一八一九）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　九〇〇、〇〇〇

文政四（一八二一）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 一、一〇〇、〇〇〇

天保二（一八三一）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　七〇〇、〇〇〇

　　（へ）　貿易銀高ハ其時々ノ貨幣制度トノ關係モアレバ前後ヲ比較シテ論ジ難シ、

　　（ト）　享保年間ノ唐船入航實數ハ長崎實録大成ニ由レバ當時ノ定數ヨリモ遙ニ多シ、別ニ若干ノ番外船ヲ許セシモノカ、後考ヲ待ツ、

　

　貿易ノ年額ヲ限定スル以上ハ直ニ又船數ヲモ限定スルノ必要アリ、元禄ノ初年ニハ唐船ヲ七十艘ト限リタリシガ、一船ノ積載量及船貨ノ價格ヨリ計算スルトキハ船數ハ商賣高ニ比シテ頗多キニ失セリ、サレバ後着ノ商船ガ未ダ其貨(175)物ヲ提供セザル間ニ、貿易額ハ早クモ定限ニ滿チ、或者ハ空シク其積荷ノ一部分ヲ持還ラザルベカラズ（チ）、是ニ於テカ怨嗟不平ハ?々起リ、狡猾ナル唐商ハ殘貨ヲ携ヘテ沿海ノ人民ヲ誘惑シ、海上私販ノ禁ヲ犯スモノアリ、元禄八年ニ伏見屋某トイフ商人、銀千貫目ノ額ヲ限トシテコノ唐船ノ殘貨ヲ銅ト交易センコトヲ請ヒ許可ヲ得タリ、之ヲ代物替ト稱ス、代物替ハ外商ノ弱點ニ乘ズルモノナレバ自然ニ利多カリシガ、翌年ハ一萬兩ノ運上金ヲ納ムルノ約ヲ以テ價額ヲ五千貫目ニ増加セシニ、其翌年ハ長崎ノ市民ノ中ニ之ト競爭スル者アリ、二萬兩ノ運上ヲ以テ二千貫目ノ殘貨貿易ヲ爲スノ條件ニヨリテ伏見屋ヲ排除シ、唯之ト同時ニ唐船ノ定數更ニ十艘ニ増加シテ八十艘ト爲セリ、本來幕府ハ會所ノ貿易ニヨリ收入ヲ得ルノ希望ハ無カリシニ、當時財政ノ窮乏セルヤ、容易ニ商人ノ甘言ニ誘ハレ、運上金ノ増收ヲ利トシテ又新ニ船數ヲ増加シタレバ、殘貨代物替ノ最初ノ趣意ハ全ク達セヌコトヽナレリ（リ）、加之此ノ如ク巨額ナル輸入ニ對シ銅ノミヲ以テ交易ヲ爲サンコトハ到底不能ノ業ニシテ當時全國ノ出銅ヲ擧グルモ猶長崎ノ需要ニ應ズベカラズ（ヌ）、之ニ代ルベキ其他ノ輸出品モ生産未ダ豐ナラザレバ、若干ノ不足分ニ對シテハ勢再ビ金銀ヲ以テ支拂ヲ爲サザル能ハズ、若シ之ヲ避ケ成ルベク普通ノ貨物ヲ蒐集シテ交易ヲ爲サントスレバ、取引ハ遲延シ多數ノ外舶ハ港中ニ淹滯シテ或ハ官府ニ愁訴シ或ハ私曲ヲ營ミ殆ト之ヲ制スベカラズ、此等ノ弊害アルニモ拘ラズ、幕府ノ吏員ガ貿易法ノ改正ニ着目セザリシハ一ハ會所運上金ノ收入ヲ貪リシガ爲ナリ（ル）、サレバ新井白石ガ提案ニカヽル正�ｺ五年ノ新令ハ最時弊ニ切ナルモノナリ、此令ノ内容ヲ言ハヾ、唐船ノ數ハ五十艘ヲ減ジテ三十艘ト爲シ、蘭船モ亦三艘ヲ減ジテ二艘ト爲シ、而モ貿易價額ハ共ニ從前ノマヽトス、而シテ唐船一般ノ貨物其價格ヲ超ユルコト銀三十貫目マデハ特ニ代物替ヲ許スト雖、之ニ過グルモノハ故意ニ出ルト否トヲ問ハズ、凡テ之ヲ没收シテ對價ヲ附與スルコト無ク、且ツ唐船ノ殘貨ハ凡テ之ヲ積還ルコトヲ禁ゼリ、輸出銅ニ關シテハ亦其數量ヲ限定シ、唐蘭ヲ合セ一年四百五十萬斤以内トシ、諸國ノ鑛業者ニ命ジテ之ヲ大阪ニ廻送セシメ、大阪ノ吹屋ハ政府ノ監督ノ下ニ之ヲ棹鋼ニ吹立テ、長崎ニ輸送ス、是ニ於テカ貿易ニ必要ナル諸機關ハ略々具足シ其運轉モ亦圓滑トナレリ、然レドモ銅不足ノ事情ノミハ之ヲ如何トモ(176)スル能ハズ、吉宗ガ立チテ將軍トナルヤ、一旦進取ノ方針ヲ採リ船數ヲ増加シ貿易ヲ擴張セントセシモ其翌年ハ銅ノ生産殊ニ進マズ、此ガ爲ニ再ビ銀額船數ノ大削減ヲ行ヒ和蘭ニ對シテハ銅ノ輸出額五十萬斤ヲ減ジテ百萬斤ヲ以テ定額ト爲スニ至レリ、

　　（チ）　和蘭船ト唐船トノ間ノ長崎ニ於ケル取引ハ嚴禁ナリキ、

　　（リ）　元禄八年ニハ貨幣ノ改鑄アリ、金銀貸ノ眞價ハ殆ト其半ヲ減ゼリ、此影響ガ貿易品ノ市價ニ及ビシコトハ疑ナケレドモ、輸入品ノ本途直段ノ之ガ爲ニ變更セラレシヤ否ヤハ知ラズ、

　　（ヌ）　伏見星ノ代物替ノ罷メラレシハ一ハ銅ノ給セザリシ爲ナラン、長崎市民ノ代物替ニハ諸色俵物ヲ用ヰシナリ、元禄ノ末頃ヨリ貿易銅ノ準備ニ關シ如何ニ當局ガ苦心セシカ、又其苦心ガ效無クシテ如何ニ大ナル困難ヲ感ゼシカハ「折焚柴之記」ニ詳ナリ、桔梗屋又八運送請負ノコトハ又大田南畝ノ「瓊浦又綴」ニモ見ユ、

　　（ル）　運上金ハ寶永五年ニ代物替ノ別口交易ガ廢セラレテ後ハ專ラ會所ヨリ之ヲ徴收セリ、其額元禄十一年ニハ三萬五千兩ニ増加シ、次デ五萬兩トナレリ、享保六年ノ貿易削減ノ時、會所ノ利益ノ少クナリシガ爲ニ一時之ヲ免除セシガ、後再ビ徴收セラルヽニ至リ、其額ハ一萬五千兩ナリキ、

　

　銅ノ缺乏ハ鋼商賣ノ初期十數年ノ間ニ於テ既ニ認メテレタル現象ナルガ、之ニ應ズルノ策トシテ幕府ガ先ヅ試ミタルモノハ俵物其他ノ水産物ノ奨勵ナリ、俵物トイフハ煎海參乾鮑、鱶鰭ノ三種ニシテ共ニ支那内地ノ需要品ナリ、蘭商及南海ノ唐商ハ俵物ヲ希望セズ、昆布、鯣、鰹節、鷄冠草、天草及寒天、乾海老等ノ水産物ハ椎茸、樟腦、五倍子、茯苓、酒?油等ノ樽物、蒔繪ノ道具、銅ノ製品等ト共ニ之ヲ諸色ト稱ス、諸色ハ口港ノ唐船以外ノ商船ニテモ輸出スレドモ、其中ノ水産物ハ又蘭船ノ欲セザル所ナリキ、水産物ノ輸出ハ兎ニ角銅ノ不足ヲ補充スルヲ以テ、長崎ノ會所ハ大ニ其奨勵ノ爲ニ力ヲ費シ、俵物會所ヲ特設シテ或ハ資金ヲ之ニ貸附シ、又ハ諸國ニ其役員ヲ派出セシメテ生産者ヲ慫慂スル等奔走至ラザル所ナカリキ、然レドモ蘭商ハ最銅ヲ喜ビ其輸出額ノ減ゼラルヽヲ欲セズ、唐船ハ必シモ俵物ヲ辭セザレドモ、元來彼國ノ政府ガ日清ノ通商ヲ保護奨勵スルノ趣旨ハ、第一ニ貨幣鑄造ノ原料ヲ我ニ獲ルニ在リシカバ、定額ノ鋼ヲ齎シ還ラザル商船ニハ再通航ヲ繼續スルコトヲ許サズ（ヲ）、此ガ爲唐方南ニ於テモ銅ノ輸出ヲ全廢シテ(177)他物ヲ以テ之ニ代フルコトハ亦到底不可能ナリシナリ、吉宗將軍ノ晩年ニハ銅産愈々給セズ、其内國ノ市價ハ享保年間ノソレニ比スレバ略々二倍トナレルニ、會所ノ賣渡價格ニハ兼テ定率アリテ之ヲ引上ルコト能ハズ、已ムコトヲ得ズ、年々ノ出銀ヲ以テ銅買入費ノ不足ヲ補?セリ（ワ）、寛保二年ノ所謂商賣半減ハ此弊害ヲ匡正スルノ趣旨ニ出デタルモノニシテ、當時「バタビヤ」ノ商會ノ代表者ノ如キハ、永年ノ優遇ニ狎レテ殊ニ不平反抗ノ辭氣ヲ示セシモ、幕府ノ態度ハ最強硬ナリシカバ、又之ヲ如何トモスル能ハズ、此ヨリ以後唐蘭二國ノ一商賣高ハ半分トナリ、銅ノ輸出類モ從來四百萬斤ナリシモノ一時ニ減ジテ二百十萬斤トナレリ、此等ノ事實ヲ以テ見ルモ俵物諸色ノ奨勵ノミニヨリテハ貿易ヲ維持シ難カリシコトハ明ニシテ、正�ｺ以來ノ長崎政策ガ徹頭徹尾消極的ナリシモ必シモ責ヲ官吏ノ無能ニノミハ歸スベカラズ、

　　（ヲ）　明和元年出銅不進ノ爲再銅輸出額ヲ減ゼントスルニ當リ、政府ハ唐船ノ船員ヲシテ、從來ノ船數十五艘ニ配賦スベキ銅ヲ減ジテ、各船八萬八千斤トスルト、各船十萬斤ノ舊額ヲ保持シテ船敷ヲ十三艘ニ減ズルト、二者何レヲ希望スルカヲ問ハシメシニ本國荷主ノ答ニハ、船別十萬斤ハ從來官府ニ納入スル定數ナレバ之ヲ減ジ難シ、已ム無クバ船數ヲ減ゼラレヨト言へリ、（大日本通商史類第百三十四册）

　　（ワ）　長崎實禄大成ニ由レバ、享保六年蘭ニ對スル銅ノ定直段現在ノマヽニテハ損失アル故、之ヲ引上グベキ旨、漢文ヲ以テ蘭商ニ通達セリトノコトナリ、サレドモ此計畫ハ終ニ效ヲ奏セザリシモノヽ如シ、之ニ反シテ記録ニハ見エネド唐船ニ對スル銅ノ定直段ハ却リテ此前後ニ於テ引上ゲラレタルモノヽ如シ、

　

　此頃日本銅ノ海外ニ於ケル需要ハ殆ト無限ナリ、貨幣ノ原料トシテ鋼ヲ我ニ仰グモノ清國ノ外ニ猶安南（カ）朝鮮アリ、殊ニ清ハ其康煕五十五年（我ガ享保元年）ニ於テ一歳ニ用ヰル所ノ銅二百七十餘萬斤（ヨ）、而モ既ニ正�ｺ五年ノ輸出額限定ノ結果ヲ承ケテ其必要ノ額ヲ滿タスニ足ラズ、銅錢ノ日ニ貴ク銀ノ日ニ賤シキヲ禁ズル能ハズト稱セリ、思フニ寛保二年ノ半減ノ命令ハ定メテ大ナル影響ヲ彼ガ財政ノ上ニ及セルナルベシ（タ）、蘭船其他南海ノ商船ガ持還ル銅ハ後年ニ至リテハ次第ニ廣東カルカツタ〔五字傍線〕、新嘉坡等ノ市場ニ上リシモ（レ）、蘭人ノ銅ハ其始ニ當リテハ多クハ瓜哇ノ會社ヲ經テ歐(178)羅巴ノ本國ニ輸送サレシモノヽ如シ（ソ）、銅額ノ削減ハ蘭人ノ最苦シミシ所ナリ、寛保明和兩度ノ削減アルヤ、彼等ハ之ニ反抗シテ止マズ、畏嚇譎詐アラユル方法ヲ用ヰテ共ニ程ナク舊額ニ復スルコトヲ得タリ、元來和蘭ノ貿易ニハ銅以外ノ輸出品トテハ僅ニ樟腦アルノミニシテ、其他ハ言フニ足ルモノナシ、サレバ銅輸出ノ制限ヲ嚴ニスレバ或ハ銅錢ヲ希望シ或ハ銅器ヲ輸出セントシ又ハ旅中入用ノ名義ヲ以テ銅針金ヲ購ハンコトヲ請フ、政府ハ乃チ此等ノ物品ニ付テモ亦定限ヲ設ケ其範圍内ニ於テ輸出ヲ認容セリ（ツ）、要スルニ和蘭貿易ノ命脈ハ一ニ繋リテ銅輸出ノ多少ニ在リシコトハ事實ナリ、唐貿易ノ銅ニ對スル關係ハ此ノ如ク緊切ナラズト雖、罰銅ノ制度即チ銅額ノ減少ヲ以テ懲罰ノ方法トナセシ事實ヲ以テ見ルモ亦以テ如何ニ唐商ガ銅ヲ重ゼシカヲ知ルニ足ル、寛政二年再ビ銅ノ輸出ヲ制限シ唐ニ百萬斤蘭ニハ六十萬斤ヲ以テ限トス、銅貿易ノ衰へタルコト此時ヲ以テ最甚シトス、長崎ノ繁榮は一ニ輸入ノ多少ニ繋レルニ、交易ノ利益減ジテヨリハ蘭舶或ハ入航セザル年アリ、唐船ノ數モ亦往々ニシテ定限ニ滿タズ、洋貨ハ缺乏シ商業ハ疲弊セリ、然ルニ此頃幸ニシテ銅ノ餘裕アリシカバ、幕府ハ更ニ蘭ニ許スニ三十萬乃至五十萬斤ノ増銅ヲ以テシ、或ハ「買後レ銅」ト稱シテ前年ノ不足分ヲ一時ニ給與シ以テ貿易ノ恢復ヲ力メ幾分カ其效ヲ奏シタリ、唯唐方貿易ニ至リテハ終ニ其衰運ヲ挽囘スルコト能ハズ、加フルニ彼國ニ戰亂アリテ入航ノ船一時全ク絶エヌ、安政五年新條約ノ成ルヤ、蘭船モ亦他ノ開港場ニ向ヒ、且ツ輸出品目ノ増加セル爲必シモ銅ヲ希望セズ、長崎ノ銅輸出ハ此年ヲ以テ全ク終ヲ告グルニ至レリ、

　　（カ）　元禄元年安南國王ガ書ヲ以テ鑄錢ノ料銅ヲ乞ヒ來リシコト近藤守重ガ筆記ニ見ユ（大日本貨幣史）特ニ我國ニ求メシハ此時ノミナレド、思フニ其前後幾度カ我國ノ銅ヲ購ヒ用ヰシナラン、

　　（ヨ）　此モ近藤守重筆記ニ見ユ、

　　（タ）　吉田漢官ノ近聞雜録ニ由ル、商船ガ購ヒ還ルノ銅は清國官吏之ヲ收容シ各省ニ分運シテ鼓鑄ノ用ニ供フ、此事務ヲ名ヅケテ辨銅之役トイフ、乾隆年間即チ我ガ寛保ノ半減令出デタル後ハ、辨銅ノ事務最困難ナリキトイフコト沈�ｺ潜ノ文集ニ見ユトイヘリ、

(179)　　（レ）　「貿易備考稿本」ニ引用セルマツクロツク〔六字傍線〕ガ商業字彙ニ由ル、日本銅ノ價廣東ノ市場ニテ一擔（百斤）二十弗ナリトイヘルハ、無論�ｺ川氏ノ末季ノ頃ノ事ナルベシ、

　　（ソ）　中陵漫録卷五ニハ瓜哇ニ於テ黒奴一人ノ價ガ棹銅一本ナリシコトヲ記セリ、

　　（ツ）　寛政中ノ定例ニ由レバ銅針金ハ四千斤、銅器ハ六千斤合セテ一萬斤ヲ限トス、此外別ニ出入商人ヨリ銅器二千五百斤ヲ購入スルコトヲ許ス、唐方ニ於テモ一般價銀五百匁ヲ限トシテ青銅黄銅ヲ買渡ルコトヲ得タリ、

　

　前記ノ如ク銅輸出額ノ制限ハ誠ニ餘義ナキモノナルガ、コノ制限額以外ニモ銅ヲ輸出スルノ機會ハ全ク無キニ非ズ、其一例ハ官用品買入ノ場合ナリ、之ヲ御用物トイフ、銅ヲ以テ其代價ヲ給ス、又伽羅代リ、人參代リト稱シテ銅ヲ輸出スルコトアリ、寶暦明和ノ交二國ノ商船ハ幕府ト約シテ金銀ノ輸入ヲ爲ス、之ニ對シテモ亦定額外ニ銅ヲ與フルコトアリキ、元來貞享正�ｺノ貿易法ハ共ニ貴金ノ流出ヲ防グヲ以テ目的トセシモノナレド其後數十年ヲ經テ猶全ク之ヲ杜絶スルコト能ハズ、殊ニ外ニハ輸出スベキ商品ノ少キガ爲ニ、毎年必ズ若干ノ金貨ヲ携ヘ去ルヲ常トセリ、延享二年ヨリハ之ヲ制限シテ一年千兩ト定ム（ネ）、唐船モ亦多少ノ銀ヲ輸出ス、其額ハ寶暦年間ニハ一般ニ一貫百目ヲ以テ限トス、此等ノ輸出ハ銀商賣金商賣ノ時代ニ比スルトキハ固ヨリ同日ノ談ニ非ズト雖、年ヲ積ムニ從テ其量亦侮ルベカラズ、寶暦ノ末年ニ至リテハ終ニ其弊ニ堪ヘズ、是ニ於テカ唐船ノ銀ヲ全廢シ、蘭ノ金千兩ニ對シテハ別ニ銅七萬斤ヲ給スルコトヲ約シテ亦之ヲ罷メ、之ト同時ニ却テ二國ノ船舶ニ命ジテ彼國ノ金銀ヲ輸入セシム、和蘭ノ金銀輸入ハ（ナ）其量モ多カラズ且ツ數年ニシテ中絶シタリシガ之ニ反シテ清國ノ商人ハ彼國鑄錢ノ原料トシテ特ニ銅ヲ請求シ、之ニ對シテ二十年間毎年元絲銀三百貫目ヲ輸入スルコトヲ約セリ、又唐船ニシテ日本ノ舊金貨安南金等ヲ輸入スルモノアリ、其額亦尠カラズ、安南金ハ亦銅ヲ以テ交易ス、我ガ古金ニ對シテハ俵物ヲ給付セリ（ラ）、

　　（ネ）　享保元年ヨリ延享マデハ蘭船ノ金輸出ヲ年三千兩ニ限定セリトイフ説モアレド（大日本通商史類第百八十九册）信ジ難シ、

　　（ナ）　昆陽漫録ニ「寛文年中ノ長崎ノ差出書ヲ見レバ阿蘭舶銀ヲ載セ來ルトアリ、阿蘭陀ハ銀ノ價賤シケレパ我國ノ銅ト交易ヲ爲シテ宜シキ故ナルベシ、或人ハ云ク今モ阿蘭陀ト銅ヲ交易セバ我國ノ一益ナラント」トアリ、是レ寶暦十三年ヲ去ル(180)コト二三十年前ノ説ナリ、

　　（ヲ）　寶暦十三年ヨリ嘉永ノ頃マデニ唐船ニ由りテ輸入シタル高、金ハ一千二百三十六兩、銀ハ一萬〇三百七十四貫目ナリトイフ、

　

　定額外ノ輸出銅ハ其賣價各々相異レリ、同一ノ長崎會所ガ同時ニ賣渡ス銅ニシテ、其定直段ガ一々同ジカラザルハ誠ニ奇異ナルコトナリ、本方商賣ノ銅ガ唐ニ對シテハ百斤銀百十五匁、蘭ニ對シテハ同六十匁二五ナリシコトハ既ニ之ヲ言ヘリ、次ニ唐船ノ御用物代トシテハ百斤銀百三十匁ヲ以テ計算シ、寶暦十三年ノ約定ニ依リテ輸入スル唐銀ニ對シテハ、其二百十貫目ニ銅二十一萬斤ヲ交易スルノ定ナレバ即チ百斤銀百匁ノ割合ナレドモ、元絲銀ノ百匁ハ俵物ヲ賣渡ス場合ニハ之ヲ國内ノ通用銀百八十匁ニ計算セリ、蘭ニ對シテモ本方荷物トシテノ銅ノ價ハ不當ニ低廉ナルニ反シ、脇荷物ニ付テハ百斤二百五十匁替即四倍以上ニ當レリ（ム）、故ヲ以テ蘭船ノ脇荷商賣ニハ銅ヲ希望スルモノ少ク皆寧銅器ヲ以テ交易セラレンコトヲ欲セリ（ウ）、

　　（ム）　文化年間銅輸出定額ノ削減ニヨリ和蘭貿易ノ衰微セシヲ見テ長崎ノ市民中ニハ百斤百五十匁替ノ價ヲ以テ、別ニ二十二萬五千斤ノ銅ヲ増加セシメンコトヲ建議スル者アリシガ行ハレザリキ（婆心秘稿）、文政二年以後實行シタル「増銅」ハ前ノ如ク六十匁替ナリシヤ否ヤ之ヲ知ルコト能ハズ、

　　（ウ）　大日本貨幣史參考卷二十五ニ由ル、

　

　會所貿易法ニ由レバ會所ハ一切ノ輸入貨物ヲ專賣シテ競爭入札ノ利得ヲ收入スルト共ニ、一方ニハ又必要ナル輸出貨物ヲ蒐集シテ外國商人ノ希望ヲ滿タシメザルベカラズ、若シ之ヲ怠リテ貿易ヲ停滯セシムルガ如キコトアラバ則チ長崎奉行ノ責任ナリ（ヰ）、俵物諸色ノ買入竝ニ其生産ノ奨勵ノ如キモ會所吏員ノ苦心ノ存スル所ナレドモ殊ニ銅ノ準備ニ關シテハ古來尤方法ヲ盡セリキ、蓋シ元録寶永中輸出銅ノ?々給セザリシハ無論需要ノ多キニ過ギタルガ爲ナレドモ、運送ノ方法モ亦未ダ完カラザリシナリ、此前後會所ガ採用シタル鋼ノ買入法ニハ二種アリ、一ハ銅座轉運ノ法ニシテ二ハ直仕入ノ法ナリ、共ニ大阪ノ市場ヲ中心トシテ全國ノ産地ヲ總括ス、思フニ中國四圀ノ中ニハ銅ヲ産スル地方ハ(181)多カリシトハ雖、未ダ此ノミヲ以テ長崎ノ需要ニ應スル能ハザルヲ以テ、猶一旦之ヲ中央ニ集合スルノ必要ハアリシナリ、銅座ノ廢置竝ニ組織ニ付テハ第七章ニ之ヲ説カントス、直仕入ハ會所自ラ仲買吹屋ノ手ヨリ必要ノ額ヲ買入ルヽモノニシテ、手續ハ簡略ナレドモ往々供給ノ不定ナルヲ免レズ、正�ｺ年間ノ直仕入ニハ大阪ニ於テ棒銅ヲ吹立テシメタリシガ、享保十年以後元文銅座ノ設置マデハ長崎ニ銅吹所ヲ置キ、大阪ヨリ荒銅ヲ運送シテ會所ハ自ラ棒銅吹立ノ事務ヲ指揮シタリキ（ノ）、

　　（ヰ）　享保十九年長崎奉行大森時長ハ、去年救荒ノ費用トシテ會所ノ積立金ヲ流用セシガ爲、銅買入資金ヲ缺乏セシメ取引ヲ遲延シテ唐船歸航ノ期日ヲ違ハシタルノ廉ヲ以テ、其職ヲ罷メラレ小普請入ヲ命ゼラル、

　　（ノ）　享保十一年ニハ大阪ニ長崎會所ヲ置キ會所ノ吏員ヲ在勤セシメテ銅ノ買入ヲ掌ラシム、銅會所ハ銅座ト異リ單ニ輸出ニ必要ナル額ヲ收容スルノミ、元録ノ銅座ハ名ハ銅座ナレド或ハ却テ之ニ似タルモノニハ非ザリシカ、

　

　元録以來幕府ハ銅産ノ奨勵ノ爲ニ種々ナル方法ヲ講ジ、殊ニ長崎ノ銅ガ不足ヲ告グルトキハ毎ニ令ヲ諸國ノ公私領ニ下シテ頻ニ銅山ノ採掘試掘ヲ奨勵スルヲ常トス、然レドモ年々ノ輸出ニハ必シモ之ヲ以テ直ニ充テントスルニハ非ズ、輸出用ノ銅ニ付テハ豫メ數ケ所ノ銅山ヲ指定シ其産スル所ノモノハ決シテ他ニ使用スルコトヲ許サズ、凡ベテ之ヲ長崎ニ輸送セシム、之ヲ稱シテ御用銅山トイフ、御用銅山ノ起源ハ明ナラザレドモ、足尾別子ノ二山ノ銅ハ久シキ以前ヨリ既ニ輸出用ニ充テラレ、石見ノ笹ケ谷ノ銅モ享保中ニ御用銅トナレリ、御用銅山ノ指定ハ必シモ銅質ノ良否ヲ標準トスルニハ非ズ、年々ノ供給ニ著シキ異動ナク且ツ運送及ビ監督ノ成ルベク簡便ナランコトヲ欲スルガ故ニ力メテ産額ノ豐富ナル大鑛山ヲ撰擇セシノミ、サレバ足尾ハ産額ノ衰ヘタルガ爲ニ早ク罷メラレ笹ケ谷ノ御用銅モ亦久シカラズ、元文四年南部氏（盛岡）領内ノ銅山（オ）ヲ編入シテ御用銅山ト爲シ、其前後佐竹氏（秋田）領内ノ銅山亦之ニ加ハレリ、寶暦元年ノ御用銅ハ秋田、盛岡、別子、柏木吉岡、生野及多田ノ七ケ所ニ採リ、其額荒銅三百萬斤アリ、寶暦四年以後ハ唯初ノ三銅山ヲ存スルノミ、其他ハ皆罷メラレタレバ御用銅ノ額ハ稍々減少シタリ、今其生産高ノ知レタルモノヲ掲ゲンニ、

(182)　　　　　御用銅産出額表　　（單位萬斤）

銅山名／年　寶暦四　　寛政六　　天保十二　　天保十三　　天保十四　　萬延元

秋田　　　　一二五　　一〇〇　　　　四二　　　　六〇　　　　六〇　　　六〇

盛岡　　　　　七三　　　七三　　　　一〇　　廻看・無之　　　三一　　　五三

別子及立川　　七二　　　七二　　　　六七　　　　七二　　　　六一　　　七二

　　計　　　二七〇　　二四五　　　一一九　　　一三二　　　一五二　　一八五

　御用銅山ノ編入ハ稼行者ニトリテハ寧有難迷惑ナリ、命令監督ノ煩瑣ナルニ加ヘテ銅ノ買上代金ニハ兼テ一定ノ率アリ、生産費ノ増減ヲ理由トシテ之ガ變更ヲ求ムルコト能ハズ、例ヘバ別子ノ銅ノ買上代金ハ從來百斤ニ付百八十匁ナリシヲ、寛延三年ニ至リテ一時ニ之ヲ百三十九匁餘ニ減ズ、山ノ持主住友愁訴スレドモ聽カレズ、鑛山ノ利益ハ急激ニ減少セリ、明和六年ニ至リ以後毎年銀九十貫目ノ手當金ヲ下附セラルヽコトトナリタルモ、當時七十萬斤ノ生産高ニ（ク）對シテハ百斤ニ付十三匁ノ増價ニ過ギズ、盛岡ノ御用銅ノ代金ハ別子ト同ジ、秋田ノ銅ノミハ稍々多クシテ百斤百五十六匁餘ナリ、御用銅山ニ對シテハ時トシテ助成金扶助米等ノ下附サルヽコトモアリシガ、買上代金ニハ此ノ如キ定率アリテ如何ナル場合ニモ之ヲ變ズルコト無カリキ、

　　（オ）　盛岡領内ノ銅山ノ數多シ、就中鹿角銅山ハ六ケ所アリ、早クヨリ御用銅ヲ命ゼラレシコト確ナリ（盛岡南部邦内郷村志卷一）

　　（ク）　泉屋吉次郎由緒書、

　

　天保年間ノ御用銅總額ハ當時ノ輸出定額ニ比シテ不足アルガ如キモ、此頃ハ唐船ノ入航スルモノ毎年定數ニ達セズ、(183)爲ニ輸出用銅ニハ却テ餘剰アリシナリ、明和三年銅座設置ノ時ヨリ文久三年マデ九十八ケ年ノ間ニ御用銅トシテ銅座ニ收容セラレシ額ハ一億九千五百四十五萬斤餘ニシテ、其中實際長崎ヘ廻送シテ貿易ニ充テタルモノハ一億五千〇八十二萬斤餘ナリ、其殘餘ハ或ハ對馬拂下ノ分ニ繰換ヘ或ハ江戸ニ廻送シ、或ハ天王寺及難波ノ庫ニ藏メ、又時トシテハ薩摩、肥前等ノ藩ヘ拂下ゲタルコトアリ、安政五年以後ハ銅ノ長崎ヘ廻送セラルヽモノ全ク無クナリ江戸ト對州トヘ送ル分ノ外ハ皆倉庫ニ貯ヘ、或ハ鑄錢ノ用ニ充テ又ハ普請ノ用ニ供ヘタリ（ヤ）、

　　（ヤ）　大阪府誌、

　

　長崎ノ貿易ニ由リテ輸出シタル銅ノ總額ハ到底精確ニ之ヲ算出スルコト能ハズ、唯吹塵録ノ記載スル所ニ由レバ寶暦五年ヨリ天保十年マデ八十五年ノ間輸出スル所ノモノハ左ノ如シ、

　　　　　蘭ヘ　　　　　　　　六六、四六五、四八〇斤

　　　　　唐ヘ　　　　　　　一〇四、五四六、〇五三

而シテ寶暦五年ヨリ明和三年銅座設立ノ年マデノ分ヲ計算スレバ、

　　　　　蘭ヘ　　　　　　　　　一二、八六二、四〇〇斤

　　　　　唐ヘ　　　　　　　　　二二、八〇九、五〇四

　　　　　計　　　　　　　　　　三五、六七一、九〇四

之ニ加フルニ前ニ擧ゲタル明和以後ノ御用銅長崎廻送高ヲ以テスルトキハ、

　　　　　寶暦五年ヨリ

　　　　　安政四年迄　　　　　　　　百〇三年間、蘭、唐銅輸出額

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　一八六、四九九、四六二斤

ナルコトヲ知ル（マ）、此ヨリ以前ノ輸出額ハ單ニ推測ニ止ルト雖、或ハ寶永六年ヨリ明和元年迄五十六年間ノ輸出一年平(184)均二百七十九萬七千斤餘ナリトイフ説（ケ）ヲ以テ事實ニ合スルモノナリトセバ、　　　略々亦�ｺ川氏全期ノ長崎輸出總額ヲ知ルコトヲ得ベシ、

　　自慶長六、至寶永五、百〇八年間　　二二八、九九七、五〇〇斤（白石、寶貸事略説）

　　自寶永六、至明和元、五十六年間　一五六、六三二、〇〇〇（成人ノ説）

　　自明和二、至安政四、九十三年間　一五五、九九三、七一五（實數）

　　通計

　　自慶長六、至安政四、二百五十七年間　五四一、六二八、二一五斤

　　（マ）　銅ノ製品及銅鏡ノ輸出ハ無論此外ナリ、明和二年ヨリ天明三年マデ十九年間ニ蘭ニ輪出セシ銅ノ製品十七萬四千七百八十五斤、銅錢ハ五萬四千七百四十貫文ナリ（大日本貨幣史附録）

　　（ケ）　大日本通商史類第百八十九册ニ見ユ、

　

　朝鮮ニ對スル銅ノ輸出ハ始ヨリ對馬ノ宗氏ガ管掌スル所ニシテ全然長崎貿易ノ外ニ立テリ（フ）、慶長十四年日韓通商條約ヲ締結シ釜山浦ニ和館ヲ置キシ頃ハ、我ヨリ錫、銅、胡椒、丹、朱、角等ヲ輸出シ價ヲ取リテ彼國ノ貨物ヲ購ヒ還ルヲ常トシ（コ）、銅ノ額ニハ定限ナカリシガ寛永十年南蠻船ノ入航ヲ禁ジ一般ニ縮小的方針ヲ採リシ結果トシテ朝鮮ノ貿易モ亦之ヲ所謂「藥種取出シ方」ニ必要ナル範圍ニ制限シ、銅ハ毎年三十萬斤以内ノ輸出ヲ許容セリ、而シテ其貿易ノ價額ハ貞享三年ニ亦之ヲ制限シテ金一萬八千兩ト定メ、次デ元録改貨ノ際ニハ二割七分ヲ増シテ銀一千四百貫目トナシ、元文改貨ノ時更ニ五割ヲ増シテ二千百貫目トセリ（エ）、銅ノ輸出ハ元録ノ初年ニ鑄貨ノ原料トシテ特ニ八十萬斤ヲ許セシコトモアリシガ、此頃ヨリ後ハ毎年十萬斤ヲ以テ定額ト爲シ、宗氏ハ自己ノ資金ヲ以テ之ヲ銅座ヨリ拂下ゲ又ハ直仕入ヲ爲セリ（テ）、明和五年朝鮮又鑄錢料銅五千萬斤ヲ求ム、當時銅之シクシテ之ニ應ズル能ハズ、唯五ケ年間ニ二十萬斤ノ増銅ヲ輸出シタルノミ、此他ニモ彼國ノ物品ヲ購入スルノ必要アル場合ニ特ニ定額以上ノ銅ヲ與ヘシコトア(185)リ、又輸出十萬斤ニ滿タザリシ場合ニハ其部分ハ之ヲ翌年以後ノ輸出ニ加フルヲ許セシコトアリ、要スルニ朝鮮貿易ニ關シテモ成ルベク貨物ヲ以テ交易シ金銀ノ流出ヲ避クルコトハ中期以後幕府ノ方針ナリキト雖、宗氏ハ貿易ノ利益ヲ重ジ必シモ貨幣ノ支拂ヲ辭セザリシヲ以テ、銅缺乏ノ爲ニ貿易額ヲ制限スルガ如キコトハ終ニ有ラザリシガ如シ、明和四年以後文久三年マデ銅座ガ對州藩ニ拂下ゲタル銅ハ荒銅三百十六萬斤吹銅九百十八萬六千斤ニシテ、一年平均略々十三萬斤ヲ出セリ、

　　（フ）　對州貿易ハ長崎貿易トハ正反對ニシテ我往キ彼迎フルノ方法ニ由レリ、所謂釜山浦ノ和館ハ長崎ノ出嶋ノ如ク、朝鮮東莱府ノ官吏ハ恰モ我ガ長崎會所ノ事務ヲ行ヘリ、足利時代ノ明貿易ト其軌ヲ一ニセルモノナリ、

　　（コ）　大日本貨幣史參考卷二十五、

　　（エ）　�ｺ川實記、

　　（テ）　大阪府誌ニ引用セル對州藩書類、

　

(189)　　　農政學

　

　　　　　第一章　農政學の目的

　

　凡そ人間社會の經濟的現象は、時の古今と隔たり、國の東西と異るに從ひて、常に必ず相同じからず、甲の國は富みて榮え、乙の國は貧しくして衰ふ、或は農業の盛にして穀物を境外に輸出するものあり、或は夙に航海の術に長じ人民の多くは出でて商賈に從事するものあり、猶太人は貨殖の道に敏にして而も早く其國を失ひ南洋の蠻民には今猶耕織せずして生活するものあり、抑々人の天性は耳目鼻口の外形より、生を願ひ死を惡み艱苦を避け安逸を欲するの情に至るまで、何れも皆同じからざるは無きに、何が故に此大なる差別あるかと言はゞ、他なし、種々無數の外界の動力は互に相錯綜して常に變動しつゝ社會の上に影響を與へて止まざればなり、而して此等の無數の動力は固より之を列擧し命名すること能はざるものなれども大略之を二種に類別することを得べし、即ち其一は天然的動力にして其二は人爲的動力なり、前者の中には氣候の寒暖、山川湖海の配置等の地理的關係、民種民俗其他の常在のものより、時々の天變地異疫病の如き一時性のものに至る迄を包含して其範圍程度の大小は一ならず、又人爲的動力としては勞働、發明の有益なる、詐僞窃盗の有害なる等一切の個人の行爲を始として、團體に於ける事業の共同竝に監督統一の行爲等其類極めて多し、要するに前者は宇宙の理法に基きて自然に其效果を發生する無意識的の事實にして、後者は(190)人の計畫希望に由る意識的活動の總稱なり、天然は?々人爲を障碍し又は其效果を破壞すると同時に、人爲は能く天然を抑制し誘導して、終に亦之を各自の欲する所に利用す、此人爲の他動的竝に受動的の?態を總稱して、之を人の生活又は人生とは言ふなり、蓋し有形的の生活は元より人の生活の全部には非ざれども、凡そ一國一個人が富めりと言ひ貧しといひ繁榮すといひ衰微すと稱するもの、皆此二種の動力に淵源せざるはあらず、若し精密に人生を分析するならば、同一の場合、同一の原因は必ず同一の結果を生じて誤らず、唯關係の複雜なる變化の激甚なる一刻も同一の?態に於て留らざるものなることを知らん、

　さて經濟學とは社會に於ける經濟的現象即ち人と富との種々なる關係を研究する學問の總稱なるが、其研究の方面の異るに從ひて更に之を類別するときは思ふに左の如くなるべし。

　　　　　　　經濟原論又は純正經濟學

　　　經濟學　經濟史

　　　　　　　應用經濟學

　經濟原論に在りては、其職とする所は單に或一定の現象が或一定の原因（動力）の結果なることを論究するに留り又其他を問はず、經濟史に至りては亦此が具體的説明を以て目的とするものにして、世界又は一國の過去の事蹟に就きて原因と結果との脈絡關係を討尋するに過ぎず、此故に社會の經濟的現象を把へて、其人類の爲に希望すべきものと希望すべからざるものとを判斷し、其希望すべきものは此が未來に到着せんことを期し、或は其發現を促し、希望すべからざるものは豫め力めて之を避け、又は之を撲滅することを計り、且つ其目的に適應するが爲に方針を定めて（即ち意識的に）一定の活動を爲し更に新なる一の人爲的動力を作るは、要するに純粹なる學理の第二次の推論應用にして、前に擧げたる經濟原論と經濟史と二科の部門は之に與らざるなり、而して此の如く人の意識的經濟行爲の巧拙を批判し、終極の利害得失を準據として方法の如何を研究するの學は、即ち所謂應用經濟學なり。

(191)　應用經濟學は更に又之を小分するの必要あり、何となれば同じく是れ人なりと雖も、個々の自然人と其集合體にして特別の生存目的を有する國又は公共團體の如き公法人とは其希望の方向に於て自ら大に異るものあり、個人の生涯は限有り、國家の生存は理想として無窮のものなり、前者の利害區域は甚狹きに反して國家の利害區域は大に弘く、一方には外に對し主張、防衛の必要あると共に、内には亦調和統一の爲に其行爲の大部分を要求せらる、されば個人と國家との間には同一問題に對する解釋も?々相異るものあるを免れず、從て經濟行爲の方針に關する學も亦判然界を分ちて研究せらるべきなり、而して個人に在りては之を私經濟學と言ひ、國家竝に公共圃體に在りては之を經濟政策學と稱す、經濟政策とは前に言へる人爲的動力の中、特に國家及び之に屬する公共團體の行爲を限りて之に附與したる名なり。

　　　　　　　　　私經濟學

　　　應用經濟學　

　　　　　　　　　經濟政策學

　經濟政策は社會に於ける經濟行爲中主要なる部分を占むるものなり、然れども所謂自由貿易主義の學説が一世を支配せし時代に在りては其重要の度は驚くべく輕視せられしなり、此時代は今を去ること未だ甚遠からず、現時も稀には之を奉ずる學者ありて、或は「利益の調和」を説き又は「私益の集合は即ち公益なり」と唱へ、放任を以て最良の方法なりとし、國家の活動を最少區域にまで限局せんと試むる者も無きに非ざれども、如何せん新時代は全く共同事業の時代にして、孤立獨行の無勢力不利益なることは着々として事實によりて證明せらるゝのみならず、經濟力の不平均なる分賦は、多數の弱者をして其地位を維持するは到底自己單獨の力の能ふ所に非ざることを感ぜしむるに至り、人民は寧ろ國家の干渉を歡迎し、各種の階級は爭ひて政府の保護を要求するが世界一般の實況となれり、或は之れを以て一時の反動的現象なりとするものあれども、此機運は久しからずして更に再轉すべきものなりとは思はれざるなり、蓋し古代の經濟政策の多くは所謂警察國の政治方法に由りしものにて、「民をして依らしむべし知らしむべから(192)ず」の原則を以て之を行ひしが爲に、人民は政府の趣旨の在る所を了解する能はず、その微細なる私事にまでも容喙し干渉するを見ては、厭忌の情を禁ぜざりしも、一旦衆議の制度が行はれて政務、歳計の内容が公開さるゝに及びては、最早政策の内容を覺るに難からず、加之各自の希望は表白方法の如何に由りては或程度迄は之を實現せしむることを得て、以て私益を援助することを得たるより、所謂政界に於ては新に「階級利益の爭關」と稱する一傾向を生じ、曾て自由主義の時代には國家の事務は軍備、道路、貨幣、度量衡等僅々數種の範圍内に跼蹐して、活動の餘地の狹隘なることを歎思せしも今は却て其廣汎に失するを以て患とし、人民が政府の保護に憑頼して漸々自力の奮勵を忘るゝの弊を防がざるべからざるに至れり、是に於てか經濟に關する國家の問題は非常に増加し政策の效果の大小を調査すると同時に、其緩急、先後の撰擇竝に干渉の程度の斟酌に關しても亦常に注意する所あらざるべからず、經濟政策學の研究が近代急に其重要の度を加へたるは全く此が爲なりとす、

　個人の經濟行爲の指導者たる私經濟學は、各人職業の種別に從ひて、之を農業經濟學、商業經濟學、工業經濟學等に分つことを得、此等は皆農商工等の實務技術の學と相須ちて、個々の職業教育に缺くべからざるの學科なり、經濟政策學に於ても亦之を農業政策學（農政學）商業政策學（工業政策學）又は金融政策學、勞働政策學、財務政策學（財政學）等に細別して講究するは普通の習慣なれども、此分類の趣意は大に私經濟學のそれと異るものあるを注意せざるべからず、私經濟に於ては農商工等は各個別々に其經濟行爲の主體なれば、純粹に自己の屬する部門の智識を得るを以て足れりとし得るを以て、各分科は獨立の地位を保つべしと雖、經濟政策に在りては之に反し行爲の主體は常に國家なれば、假令其希望の方向は種々なりとも、最後に於て必ず一點に歸着せざるべからず、從て其學を修むる者は決して一分科の智識を以て滿足すること能はず、例へば農業政策學の指示する所は單獨には最後の判斷を與ふること無く、必ず商工其他一切の部門に參酌し利害を打算して後始て之を實行することを得るなり、此故に此類別は完全のものに非ず、經済政策學は所詮一體として研究せらるべきものなり、唯其範圍の廣大にして事實の複雜なる、一時に(193)全體に亙ること能はざるのみならず、又各方面に於て多少專門の知識と特別の研究とを必要とするが爲に、假に之を分ちたるに過ぎず、從て農業政策學の科學としての獨立は未だ之を要求すること能はざるなり。

　　　　　　　　　　　　　　　農業經濟學

　　　　　　　　　私經濟學　　林業經濟學

　　　　　　　　　　　　　　　工業經濟學　等

　　　應用經濟學

　　　　　　　　　　　　　　　農業政策學又は農政學

　　　　　　　　　經濟政策　　工業政策學

　　　　　　　　　　　　　　　商業政策學　等

　　農業が最古き生産業の一なると同じく、農業政策は亦起源の最久しき國家の活動なり、人類發達の順序よりいへば、農業の以前に於て既に天然物採收の時代等が有りしなれども人類の平和なる定住（土着）竝に秩序限界ある集合的生活、語を換へて言はゞ近世的意義に於ける國家の形態は、農業の發生と共に始て具はりたるなり、加之古代に於ける國民の存立は殆と其全部を擧げて農業に依り、農の生産は國民所得の大部分を占めたりしなり、近世に及びては農業が頗る其重要の度を減じたることは爭ふべからずと雖、而も人の最急需要品たる衣食の原料の大部分を供給する生産業なること、竝に巨額の資本と勞力との利用場として、國民多數の生計の源泉なることの二の點に由りて、今猶國家の大なる注意を要求しつゝあるなり、

　現代に於ても農政が國の經濟政策中主要なる地位を占むることは疑なけれども、是を以て直に所謂農業國本論を説明せんとすることは極めて危險なり、世人稍々もすれば日本は農業國なりといひ否商業國なり、工業國なりと説きて大膽なる獨斷の下に國是を推論せんとす、然れども現時の經濟事情に於て單純に農商、又は工を以て國民全體の生業とする能はざるは明白なる事實なれば何人と雖恐くは一を立てゝ他を全滅せんと期する者は有らざるべし、然らば假(194)に重きを國民職業の或一種に置きて特に之を保護し其他は自然の盛衰（恐くは常に衰微）に放任すといふか、又は農工商等の中或一種の不平均なる繁榮と之に伴ふ他の部分の退歩を以て自然の傾向なりとし、更に調攝介助の勞を執るべからずといふの趣意なりとせんか、猶未だ其可なるを見ざるなり、英國に於ては近年に至るまで一國を擧りてアダム、スミス〔六字傍線〕氏が勞働本位説を遵奉し、國富の増殖は勞働效果の増加に由るに非ざれば之を求むる能はずと爲し、分業の利益を極端に重じたる結果、其理論を國際上に應用するに至り、自國は輸入粗製品の加工精製のみを以て專門とし、海外農業國との貿易によりて永久に繁榮し得べしと信じ、且つ其方針を以て政策を行ひたり、世の所謂商工立國策は概ね其模型を此に採れるものなり、然れども此説に對する最有力なる批難は今や事實を以て證明さるゝに至れり、即ち十九世紀の始英國が商工業國として起ちたる時代には、農業國として盛に穀物及粗製品を輸出せし歐大陸の諸國竝に亞細亞、亞米利加の數國は、各々其國内に於て次第に其職業を分化し、人民の一半は新に工業に從事し爲に農産物の輸出を減少し、同時に國内の製造品を以て外國の輸入を排斥するのみならず、次では亦之を輸出して英國と競爭を試むるに至れり、即ち當初英國が永久不變なるべしと信ぜし國際分業の關係は、百年に滿たずして全く一變したるなり、されば分業の發達は此に至りて却て反動の機運を馴致し、勞働が機械的となり商品視さるゝの弊を濟はんが爲に、或は却て合業の必要を説くものあり、實際に於ても少くも國と國との間には分業の行ひ難き場合多く、寧ろ合業の傾向あることは之を認むるに難からざるなり、而して英國が此政策によりて得たる利益は勿論大なれども、之と共に農業の方面に於て受けたる損失は亦甚大なり、何となれば舊國に於ける集約的の農業は、到底土地廣き新開國の粗笨的農業と競爭すること能はざるものなるに、交通機關の進歩は運賃を減少して國際競爭に於ける唯一の防壁を破壞するに至り、而も商工業者に在りては寧ろ食料、原料の廉價を利とし、此内外の競爭を歡迎するの傾あり、製造品の販路は國外輸出を主眼とするを以て、内國田舍の經濟力の減退は必しも彼等が患ふる所に非ず、要するに英國の農業はさしたる壓抑を受けたるには非ず單に商工業の偏重を自然の進行に放任したるの結果として、漸々に哀頽を來たしたる(195)なり、此を以て觀れば一國の經濟政策が僅に其注意を一部分に偏らしめたるのみにても既に此弊あり、況や一方の利益を進むるが爲に他の部分の利益を犠牲に供するに至りては、其結果の恐るべきこと想像するに堪へたり、此點は必ずしも商工が農を凌ぐ場合のみならず、英國の例とは反對に、農業の繁榮を主として他の部門に於ける劃策を怠る場合にも亦同一なるぺし、何となれば何れの國に於ても人口の増殖生活需要の擴張は到底農生産のみに由りて之を支ふること能はず、假令所謂經濟的獨立の必要なることは保護貿易論者が説く如くならずとするも、一國全體としての進歩發達は、決して跛行的繁榮によりて之を求むること能はざるなり、

　一國の經濟政策を考究するに、豫め方針を一定し一の理想に向ひて進むといふことは決して反對すべきことに非ず、然れども所謂國是を決するに當りて、農商工業等の中に就き何れかの一を撰擇し、その繁榮發達を標準として一切の政策を行ふべしといふが如きは非なり、若し或は國民の大多數が從事する職業が農業なる故に其國の經濟政策は專ら農を重ずべしと説く者あらば、是所謂多數の壓制を公認するものにして、其人道問題に交渉する點は假に之を論ぜずとするも、少くも近世國家の任務を無視するの言なり、商工等に就ても亦同じ、此弊は政治の方針を與論の基礎の上に置ける國に在りては往々免かれざる所なり、農業者と商工業者との間には不幸にして?々私益の牴觸あり、一方の爲に便利なる政策は或は他の一方に不利なるものあることは實例の證する所なり、故に此間には常に階級利益の爭ありて相競ひて國政を動かさんとするなり、況や現今の社會組織に在りては多數は必ずしも優勢ならず、政略の巧拙は時として少數黨をして成功せしむることあり、此の如くなれば愈々危險なり、要するに一國の經濟政策は此等階級の利益爭闘よりは常に超然獨立して、別に自ら決するの根據を有せざるべからず、何とならば國民の過半數若くは國民中の有力なる階級の希望の集合は決して國家夫自身の希望すべきものなりといふ能はざればなり、語を代へて言はゞ私益の總計は即ち公益には非ざればなり、極端なる場合を想像せば、假令一時代の國民が全數を擧りて希望する事柄なりとも、必しも之を以て直に國の政策とは爲すべからず、何とならば國家が其存立に因りて代表し、且つ利益を防(196)衛すべき人民は、現時に生存するものゝみには非ず、後世萬々年の間に出産すべき國民も、亦之と共に集合して國家を構成するものなればなり、現代國民の利益は或は未來の住民の爲に損害とならざることを保せず、所謂國益國是が國民を離れて存するものに非ざることは勿論なれども、一部一階級の利害は國の利害とは全く據を異にするものなり、此點は農業政策に付ては特に注意を必要とす、今其理由を述べん、蓋し現今の經濟組織に於ては各國共に私有財産の制度を認め、國内に於る富の汲泉（Resources of national weatth）は之を各個人に分賦し、個人は各々其力に應じて之を占有し、自由に之に由りて生産し其結果を享受することを得、而して國家は其權力を以て各人の利用の範圍を確定し、一方には他人が限界を超えて侵入し來ることを防ぐと同時に、亦利用者本人をして各自其分を守りて貪ること無らしむ、個人占有の最も單純なる形式を所有といひ、國の權力を以て保護せらるゝの?態を名づけて權利と稱す、所有者等は其權利を愼密に確保せらるゝと共に、又自己の權利を行使するによりて他人の權利を害する能はずといふ一大制限（義務）を受く、此二の點は根本の原則にして羅馬法以來私有財産制度には必ず相伴ふべきものとして認められたるのみならず、又決して之と分離すべからざるものなり、私有制を行ふ國家は必ず權利の行使を安全ならしむると同時に、權利の行使に因りて他人が損害を受けざることを期すべきものなり、而して、この他人といふ語は、最初の羅馬法の格言（他人のを害せざる限汝のを利用せよ Utere tuonealterum noceas）に於ては、單に同時代に生息する近傍の住民といふの意味なりしかも知れねど、近世の國家思想に基きていふときは、其内容は自然に擴張せらるべきものなり、先づ第一に權利者の側よりいへば國家も一の他人なり、未來に生息すべき國家の全部も亦他人と稱すべきものにして、現在の人民が其權利を行ふによりて損害を受くることを拒み得るものなり、而して彼等は無論適當に其主張を爲すこと能はざれば國家は其任務として之に代りて豫め備ふる所なかるべからず、又同時代の住民の間にても、今の如く社會組織の複雜なる世の中にては影響の範圍は廣く?態も且つ樣々なれば、各人は損害を覺知して直に自己の防衛に着手する能はざるもの多かるべく、この場合にも國家は又一般國民を代表して自ら之を防衛せざるべ(197)からず、世の中が文明に進むと共に財産法の規定が愈々綿密となり、制限の増加の已む能はざるものあるは實に此が爲なり、殊に未來の國民の利害の如きは?々輕々に看過せらるゝの傾あり、學理の推理に頼らず單に多數者の説に聽くときは、假令如何に熟慮したる計畫なりとも、猶此弊に陷り易きなり、何とならば私有財産としての富の源泉は兼ねて又國の富源なり、私有は之を子々孫々に相續せしむるとしても、之を此物と國家との關係に比ぶるときは遙に短期なり、而して富源の種類によりては個人利用方法の如何は毫も未來に影響を與へざるものあれど、又大なる痕跡を未來に遺すものあり、今之を類別するときは凡そ左の四種となすことを得べし、

　　（一）　無盡藏なる富源、

　　（二）　供給が有限にして且つ再び快復すべからざる富源、

　　（三）　快復することを得れども私人の利用のみに一任するときは漸次衰頽するの虞あるもの、

　　（四）　快復し得るのみならず私人の活動のみに由りて産額を發達せしめ得るもの、

　第一種のものは普通の用語例にては之を富の源泉とは稱せず、例へば空氣、水、土地及び他の自然力の如し、此等は實際富を増加すべき一の條件の如きものにて源泉其ものには非ざるに似たり、土地の如きも茲に言ふは單に其載物性（面積あること）のみにて、而も建築敷地等の場合の外は富源として目せらるゝは此に在らずして其肥養力、（地力）に在るなり、第二種に屬するものは鑛山なり、歐羅巴の石炭は今後二三百年を支ふるに過ぎず、亞米利加合衆國の無煙炭は今より七十五年乃至百年を出でずして盡くべしといへり、池田瓦斯井等も亦此類なり、此種の富源は其利用が直に其絶滅を意味するものなり、語を換へて言はゞ今の人に豐なるときは其結果後の人に乏しからざる能はず、天然山林の伐採、山禽野獣の捕獲竝に漁業は第三種に屬す、人の利用によりて減少したる量は自然に之を補充するの途ありと雖、之を放任するときは久しからずして其供給を枯渇するなるべし、第四種は即ち人の勤勞技巧によりて成りたるものゝ總體にして、集積せられ適用せられたる固定、流通の資本、或は各種の基金其他開明社會に於ける人爲(198)の計劃の多くは是なり、此場合のみは個人の活動は常に其物の改良發達となり、公益と私益とは始て合致するなり、さて土地の肥養力の如きは、元來人の力を須ちて始て其效用を發現し、一見此第四類に入るべきものなるが如きも、經營方法の宜しきを失するときは、假令之が利用は如何に活?なりとも、後漸く其價値を失ふことあるを免れず、土地が既に農業用として確定したる後には、或は其利用を全く個人に委ね國家は唯傍ら之を監督匡正するを以て足れりとせんも、土地の用途が未だ定らず、又は其用途を自由に變更し得る場合に於ては、私人の判斷に基く利用が國家の爲に或は危險なるものあること、更に第三種の富源と異ることなきなり、さて以上四種類の中第一と第四（純然たる）とは個人の自由なる占有が煩を未來に殘すことを患ふるに及ばざれども、其他の物に在りては今の利は後の害となり少數者の希望は一般の希望に反すること多し、而して個人に説くに此事實を以てし、天下後世の利益の爲に私益を犠牲に供すべしといふが如きは、是れ難きを人に責むるものなり、唯國家は永遠の利害を通算するの能力あるものなるを以て、進みて自ら其判斷を實行することを得べき地位に居らざるべからず、是に於てか或は森林國有の説あり、治水狩獵漁業鑛山等の行政には比較的強力なる警察權の行使を必要とするなり、農業に關する法制殊に土地の制度に付て、何れの國にても早くより綿密なる利害の考究を爲し、現在の民を利すると共に力めて損害の未來に及ぶ所なからんことを期したるは、農生産の最重要なる材料たる土地が此の如き性質を有するものなるに因る、されば現時に於ても不動産法は國の重要なる法律たるのみならず、人或は土地私有制の根底に立入りて迄も社會の改良發達を求むべき手段を見出さんとするものあり、各派の土地公有論の如きは即ち是なり、要するに農政の問題が國家に大なる關係を有するは決して一朝一夕の故には非ざるなり。

　以上説く所を以て斯學の性質は略々明になれりと信ず、さて次に農業政策學に在りては、如何なる事項を主として研究すべきかといふに、此は國家が其國内の農業に關し、如何なる現象の發生することを最初に希望すべきかといふことを決すれば、從て自然に此が答を爲すことを得べし、而して國として希望すべきものは又　　略々他の生産業に對す(199)ると同じく、第一には農生産物總額の増加なり、是れ市價の高低とは關係なく、單に物の數量の絶對的の増加は即ち國富の増加となるを以てなり、種類の變化竝に品質の改良も亦此中に屬す、第二には、農生産に因りて個々の人民が成るべく一般に其生活?態を改良し幸福を増加せんこと是なり、農民は元よりのことなり、農民以外に於ても亦之に由りて間接に利益を受くるに至らんことは國の尤希望すべきことなり、今單に産物の總額は増進するも、其利を收むるものは少數の人民にして、他の多數の者は寧比較的に其地位を退歩すること、恰も古代羅馬帝政の時の如くならば、農業政策は其目的の大部分を行ひ得ざりしものと言はざるべからず、第一の目的を以てするものは之を生産政策といふべく、第二は即ち分配政策にして、農以外の生産業に於ても皆必ず此二樣の政策を併行せしむべきものなり、殊に第二のものが第一と同じく、否却りて之よりも優りて注意せらるゝに至りしは、實に新時代文明の恩惠にして、亦社會進歩の一徴候なりとす、現時の實際界に於て見れば、所謂農政上の問題は大小數百千ありと雖、歸する所は此二種類の一に包含せられざるは無く、國利といひ公益といふが如き抽象的の語も、要するに此二大目的に到達するの道を言現はすものに他ならざるなり。

　此故に農業政策學の研究順序としても、予は亦此目的物の分類に從ひて講究するを以て適當なりと信ず、或は農業の經營方法に基き先づ生産の三要素たる土地、資本、勞力に關する政策を説き、次に農民の所得の由て來る所を説き、第三に農業と一般國民との關係を説くといふ順序もなきに非ず、此も亦一の研究方法なりといへども、今は之を採用せず。

　

　　　　　第二章　農業の特性竝に日本農業の現?状

　

　一國の農業政策如何に因りて最大なる影響を受くべきものは言ふ迄も無く農業者の階級なり、故に本論に入るに先(200)だちて一たび農業者の範圍を明白にするの必要あり、而して農業者の範圍を知るには先づ農といふ行爲の意義を決定せざるべからず、農の定義は古來學者の説區々なりと雖、予が信ずる所を以てすれば、農が他の種の生産行爲と異る所以は、その人類の力をて天然物の増殖を圖る〔人類の〜傍点〕といふ點に在り、即ち生物發育繁殖の天然の法則を利用して之に由りて人の慾望を充さんとする點に在り、されば假令萬物化育の原動力は依然として天然に屬するも、之を導き之を撰擇して自己の用に供せんとする人の意思が發動するに及びては、則ち農といふ人の行爲となるなり、此定義に基くときは、無生物即ち生長もせず生殖もせざる天然物の所在を占有して、其物を採取するの行爲、例へば金屬土石の採掘、井を穿ちて水、石油等を汲むこと、又は風水應用等の行爲、竝に人の力を須たずして既に生育せる生物を採取する行爲、例へば天然林の伐木、鳥獣蟲魚の捕獲等の農に非ざることを知るのみならず又生物化育の天則に由らざる物の變形變質を以て、目的とする人の行爲、即ち製造をも農より區別するを得ぺし。

　農の尤主要なるものは耕種と家畜飼養となれども、未開時代に既に行はれしといふ放牧、近世に於て漸く盛なる殖林、養魚又は柞蠶、柘蠶の飼育の如き、普通農の行爲とは稱せざるものも、上の定義に由るときは亦農を以て目すべきものなり、之に反して製麻製粉乃至は藁細工の如き所謂農産製造は、寧農には非ざるなり、或は之を以て實際の?態に反すといふ者あるべけれども、若し現在世の農家と稱するものに共通なる行爲のみを以て農なりとするときは、或は穀作を主とするものあり、或は飼畜に專なるものあり、甲は養蠶に從事し乙は花卉蔬菜を栽培する等其間に大なる差異あるのみならず、殊に我國の如く所謂農家の副業の甚しく複雜なる地に在りては其範圍を定むるに苦しむなるべし、且農として利害の最著しき共通點は、其天然と交渉するところに在るを以て、研究上の便利よりいふも此定義に從ひて可なりとす、或は生産期の長短を以て普通所謂農と殖林等の生産とを區別せんとする者あれども、此も亦當らず、殖林にも薪炭用林の如く年數を要すること短きものあり、一方には又畜類の如きは收穫の爲に數年の經過を必要とするものあり、其他果樹、桑、茶等を列記すれば、到底何れの點を以て二者を分界すべきかを知る能はず。

(201)　家畜の飼養は其性質頗製造に近し、何となれば粗製品なる飼料に加工して、之よりも高價のもの即ち肉毛皮卵繭等に變質するものと見ることを得べければなり、而して之を生物に食はしむといふは、單に一の手段方法にして、黴菌の機能を藉りて酒を釀し　　麹を製すると些も異る所無きなり、然るに酒類釀造の如きは普通之を製造と稱し、畜産は之を農業に列す、是稍々怪むべきに似たり、されども仔細に二者の相異る點を檢すれば、一は天然物の生殖生長を以て第一次の目的とし他は單に之を手段とするに止るとたいふべきか、兎に角後者が全く人の技巧のみに依りて生産を遂ぐるに反して、前者は猶天然の力に憑頼する部分多く從て其生産組織も亦相異らざる能はざるなり、されども若し一層の精確を保たんとせば、前に擧げたる定義に加ふるに、比較的多く土地を要する生産行爲〔比較〜傍点〕なることを以てすれば可なるべし。

　花卉蔬菜の栽培等普通に園藝と稱せらるゝものも、現今は農の特性を有すること漸く少く、或は著しく工業に類似するものあり、即ち集約法を行ふの結果として土地の使用に比するときは資本、勞力の適用さるゝこと非常に多く、或は表土のみを到る處に運搬し、且つ理化學を應用し人力を以て温度を變更し、自由に生産期を短縮する等、天然力の制裁を受くること尤少くして人の技巧に依ること尤多きものあり、此等極端の例のみを見るときは、殆と之を工業と區別するに苦しむと雖、猶其根本に於て一般の耕種と共通する點あり、且つ生産の順序等到底完全に天然の法則の支配を免かるゝこと能はざるものあるを以て、今猶之を農の中に列せり、一派の學者には土地の耕作にして家畜の飼養を伴ふものゝみを以て農と稱し、其他に在りては假令土地を耕作するも凡て之を園藝と稱し、園藝は農に非ずといふものあり、此の如くするときは、例へば我國古來の農業の如き、殆と全部之を園藝と稱せざるべからずして、頗本來の定義に合せず、此説の由て來る所は、地産を以て家畜を飼ひ、同時に家畜より肥料を取るといふ循環の法を以て、唯一完全なる農なりとする學説に基くものなるべきも、現今の如く肥料の供給の複雜になりたる時代に於ては、極めて不必要に農の範圍を狹隘にしたるものと言はざる可らず、加之支那竝に日本に於ける農といふ語の如きは、其傳來(202)の意味には元より牧畜をば含まざるなり。

　農と工とは各々其末端に於ては殆と判別すべからざるものあることは前に言へる如くなれども、大體の上より通覽するときは、農の特別の性質として認むべきもの一にして止らず、今請ふ之を列擧せん、先づ第一には土地を要すること〔土地〜傍点〕なり、製造にも亦無論土地を要すれども、其必要なる點は其面積に在り、其地位（他の地點例へば港口、停車場市街等に對する關係）に在り、唯此のみなれど、農は猶此上に土地の肥養力を必要とす、且つ其數量よりいふも農の要するものは遙に工よりも多し、即ち一定量の勞力、資本と配合するに當り、農の土地は常に工に數倍乃至數十倍す、農法が如何に集約になれりといふも、猶製造の爲に用ゐらるゝ土地よりも多くを要す、語を換へて言はゞ生産手段（Means of Production）としての土地の需要は農に於て常に遙に大なり、此事實よりして土地其物の性質が延いて生産の上に影響を及すこと農に於て更に著しきものあることを想像するに難からず、土地が他の物と異る點即ち其性質は、（一）其人力を以て減失せしむべからざることなり、（二）其増加すべからざることなり、及び（三）其移轉すべからざることなり、減すべからず増すべからざるが故に其占有は愈々重要なり、増すべからず移すべからざるが故に、其供給は有限にして需要の強弱は地方的に區々なり、土地の占有が不完全ながらも一種天然的獨占の性質を有すと稱せられ、又其權利は早くより價格のありしも全く是が爲なり、而して農は常に其影響を被れるなり、土地の性質として此他にも尚一つ注意すべきは所謂報酬遞減の法則の行はるゝことなり、此法則は何れの生産にも理論上存すべきものなれども、土地が重要なる地位を占め且つ一定面積内の活動を主とする農生産に在りては其發現最顯著にして又最早し、此點は一國に付て言ふも個人の上より算定するも同樣なり、例へば我國の耕地が今の五百萬餘町歩なる限は農産物産額の總計は如何に生産方法の進歩したる時代を想像するも必終には一の限度あるべし、否寧國の領土が有限なる間は其農産も亦有限なり、人口の増殖は、一人に對する土地の表面を狹隘ならしめ絶對に生息を困難にするの前に、先づ此法則の爲に著しき障碍を受くべし、かのマルサス〔四字傍線〕氏の人口論は必しも誇張の説に非ず、何となれば或程度以上に産額(203)を増さんとすれば、是非其他の貨物に對する農産物の價を高くせざるべからざればなり、從て農政上の多くの問題が此法則と關聯纏綿せることは少しも怪しむに足らざるなり、

　農の性質として第二に擧ぐべきは、その天然の制裁を被ぶること他の生産に比して遙に多きことなり、農は始めより天然力の利用を以て目的とするものなれば、土地の廣狹竝に構造形?は言ふに及ばず、氣象氣候の如何等は常に最大なる要件を爲せり、近世人智の進歩は能く天然を征服し、其有用なる部分を促進し有害なる部分を防制するに由りて、著しく人力活動の區域を據張し得たりと雖、猶人間の力を以ては到底如何ともすべからざるもの少しと爲さず、例へば風水の害は其起るや突如として豫め此が計を爲す能はざる場合多く、殊に四季の順序に伴ふ生産期〔三字傍点〕なるものは、單に或程度迄は之を變更し又は之を短縮し得るのみにて、到底全く之を没却すること能はず、此が爲に製造業の如く需要の急増に應じて一年の間に繰返し數囘の生産を爲すを得べからず、從て一方には供給の限度をして非常に嚴密なるものたらしむると共に、生産者の活動に大なる制限を與ふるなり、而して其最著しき例は報酬の囘り來るを待つべき期間の長きことなり、即ち農生産に用ゐらるゝ資本は囘收の爲に久しき時日を要し、又其爲に施したる勤勞の效果は數ヶ月を隔てゝ始て發現することなり、此結果として金融の制度竝に勞銀支拂の方法等に付きて、工生産に對するものと頗異なる方針を採るの必要を生ず、

　第三の點として勞働需要の性質に付きても農は大に工と異るものあり、農の勞働も數量の多く種類の複雜なる點に於ては工と異ることなしと雖、其適用の場所（田畑牧場）等が同じくして而も各種勞働の需要の期間が甚永き爲に、分業の便を利用すること能はず、且つ製造業に於て一年間大抵同じ數の勞働者を用ゐ得るとは異りて、農に在りては需要の大小は四季折々によりて一樣ならず、例へば植付、苅入の時には日々十數人を要する耕地にても、其中間の仕事は大抵四五人の手に間に合ふが如し、從て少くも一部分の農勞働者は一年中繼續して其職業を保つこと能はず、生産の盛衰には些も關係なくして、年内の或時期には出でて他に所得の途を求むるの必要あり、而も農の勞働は概して(204)單純にして大なる習練を要せざるを以て、此より彼に移り彼より此に轉ずるには大なる困難なきなり、之に反して工業の勞働者には往々にして特別の技倆を有するものあり、一旦其處を得れば優等なる待遇を受くる代りには、職業移轉の自由には少からざる障碍を被るの例決して稀なりとせず、其他工場に在りては多數の勞働者が一所に集合し、從て彼等の間には接觸同化の機會多きに反し、農場の勞働者は大抵少數分散して業に就くが如き、前者の貸銀は現今普通には全部貨幣を以て爲さるゝに反し、農勞働者の報酬は今猶物品又は使用權を以て計算さるゝ場合も少からざるが如き、二者?況の相異る點は一にして止らず、されば現時の所謂「社會問題の解釋者」が工業勞働者の境涯に就きて爲したる研究の結果を以て、之を農業勞働者の上に推及せんとして往々失敗を免かれざるは全く是が爲なりと言ふべし、例へば小兒、婦人の勞働の如きも、空氣清朗なる田間に在りて植付收穫の最多忙なる時期のみに助勢を爲すことは、啻に無害なるのみならず又必要の事なりとす、又かの「八時間問題」の如きも之を農場に就きて説くこと能はざるなり、

　農の特性の第四の點は其生産物の性質よりして生ずるものなり、主たる産物なる穀類を始として其他大抵の農産物は皆各人生活の必要品なれば、其需要は最大にして又常に豫め其消費額を推算することを得べく、且つ此等の物は其容積の大なるが爲に交通の發達したる今日にても猶多少運送の不便を免かれざれば、勢其供給と消費とは共に地方的なり（例へば我國の米の生産高は年平均凡五千萬石内外なれども實際中央都會の市場に上るものは其四分の一乃至三分の一に過ぎざるぺし）、而して需要が一般的なる結果は多數の生産者が軒を比べて生活するにも拘らず、工業に於けるが如き激烈なる競爭を見ること無く、各自獨立に其業に勤勉なる限は他に患ふべき所なきなり、農業が平和なる職業なりと稱せらるゝ理由は全く此に存し、農民が概して質朴にして世智に敏ならざるも亦實に比が爲なり、

　農業が平和なる職業なりといふ人々は、又同時に夫が安全なる職業なりといふことを意味せるが如し、先づ農産物に對する需要の量が一定して漸進的なる爲に價格の激變なきこと、次には土地が不滅の性を有する爲に生産の根據の(205)確固なること等は一見此説の眞なるを信ぜしむるものゝ如し、然れども農産物の價格は最早昔時の如く高低の一樣なるものに非ず、殊に年の豐凶即ち産額の著しき増減は大半天然の事實に起因するを以て進歩せる科學の力を以てするも之を免かるゝこと能はず、昔は供給の區域の狹かりしが爲に、凶年には價騰り豐年には價下り、農家にとりては其所得前後相平均して、自然に一種保險的の作用を爲せしも、交通機關の進歩と共に、國内に於て東西常に相補充するのみならず、更に外國品の輸入せらるゝありて、市價の高低は年産の増減と伴ふこと能はず、故に豐年の收入が昔に比して非常に大なると共に、凶年には一時に之を減少し、其差極めて著しく、個々の農民に就て言へば、企業の危險は却て工業よりも大なり、又土地に在りても假令全然減失することは無しとするも、其價格は收益の大小に伴ひて常に高低し、農業者の財産は往々著しき増減あるを免かれず、此等の理由より見れば農業が安全なりといふことは決して頼むぺからざるものなり、

　以上説述する所を以て大凡「農」の意義を明にせり、更に之を簡單に言はゞ廣義の農は土地其他の天然の力を利用して、生物の育成を力むる一切の人の行爲を包含するものなれども、時代の進歩と共に農の中にも亦分科あり、習慣上其主たるもの即ち田畑の耕作、家畜家禽、蠶の飼育等のみを以て農と稱するに至れり、而して此等のものも最初は一戸の農家に於て兼て之を行ひたりしも、農法の集約に赴くと共に、注意を一方面に集むべき必要より、亦個々の專門を分ち、耕と牧とは本來殆と相分つべからざるものゝ如く考へられしも、化學肥料の發明等の爲に又自然に分化獨立するの傾あり、同じく耕種の中にても或は穀作を主とするあり、或は工業原料、果實蔬菜等のみを特作するものありて、更に大に農の種類を複雜ならしめたり、

　さて如何なる人々を以て農業者と稱すべきかといふ問題は「農」の範圍が一定する上は、苟も其行爲を爲す人は皆此中に算ふべければ、容易に之を答ふることを得るが如きも實際は中々面倒なるものなり、何とならば先づ第一に昔の農業者と今の農業者とは其性質に於て大に相異るものあり、否今のものを以て農業者といふとせば、昔のものは恐(206)くは農業者と稱すべからざるなり、昔の農は嚴格なる意義に於て人の業には非ず、今我國の歴史に付て言はんに、太古部曲の共同耕作の時代は言ふに及ばず、大化班田の制度立ちて後も、土地は單に人民を養ふが爲に給與せられたるものにして、各人が其自由の撰擇に基き利潤を得るの目的を以て占有するものには非ざりしなり、されば上は最高の貴族より下は最下級の奴婢に至るまで、人に應じて必ず口分あり、各人は勞働に因りて得たる物の一部を以て官に奉り、其他を以て自ら養ひ、力餘ある者にして始て工、商を爲せり、工商は此時より既に職業なりしなれども、農は此の如き社會と對立的の地位には非ず、唯生活の一の?態とも言ふべきものなりしなり、（今の世の例にて言はゞ各人が井を鑿りて水を汲むが如きか）、降りて莊園に私民を收容する世となりても、農夫は恰も領主の雇人の如く其勞働に對して産物の一半を日用することを許さるゝのみにて、未だ企業を以て目すべきに至らず、而して此時全國の人民は此等の農夫に非ざれば他は殆と皆領主又は其臣屬なりしなり、後京鎌倉、博多等の大都會に專門の商、工業者あるに及びて、農産物の市場は稍々擴張し、農民の地位は稍々對立的となりたれども、其大多數は猶一般經濟界より孤立して自ら養ふの材料を得るのみ、交易品としての農産物は恐くは領主の手よりのみ出でしならん、要するに中世の農民は唯生産の成るべく容易にして收穫の成るべく多からんことを力むるのみにて、生産物の販賣によりて企業の利潤を得んとするものなく、今の農業者と比ぶるときは、生産的技術〔五字傍点〕を應用する點は相同じきも、他の半面即ち經濟的技術〔五字傍点〕は未だ之を施すの場合なかりしなり、此?態は其繼續甚久しく�ｺ川氏の世を終るまで、農民の大部分は自ら耕して食ひ自ら織りて衣し、自己の生産物以外に於て需むる所甚少かりしなり、獨逸の學者は此?態を名づけて自然經濟（Naturwirtschaft）と稱せり、而して我國の田舍が斯くの如く久しく自然經濟の時代を脱すること能はざりし理由は多かるべしと雖、就中各農戸の經營が小規模なりしことは其最著しきものなり、地租の大部分（田は殆と全部、畑は一部分）が物納法なりしことは亦與りて力あり、多くの水呑百姓は米を以て年貢を拂ふときは殘す所幾何も有らざれば、亦他物を求むるの餘裕なく、且つ各藩は境を守りて故々に交通を阻却せしかば、外界と接觸すべき機會少く、(207)慾望を刺激して生活の程度を増進せしむべき凡ての動力は奪ひ去られしなり、明治の世に入りて、人口の増加は極めて急激にして、商工一時に起り、從來の農民に對する社會の希望は全く一變したれば、假令農場の小規模なることは昔と異ること無きまでも、農民が市場の爲に、利潤の爲に其生産を爲すの誘因は十分なりしを以て、是に於でか農は始て完全なる一の生産業と爲り、製造、鑛山、漁業等と相對立して、國民生産の一分科を形成するに至りしなり、されば若し「農業者」といふ語に「農の生産に由りて生活する人」といふ弘き定義を下すときは、舊時代の人民の全部も亦其中に入るべきなれども、之に反して業といふ語に經濟學上の「企業」といふ意義を附與せんとすれば、其範圍は著しく縮小せざるべからず、何となれば換價、代金、交易といふ事實を離れては「職業」といひ「企業」といふ語は之を想像する能はざればなり、

　現時の經濟界に於ても農業者の意義には猶廣狹の二樣あるべし、前者は弘く農生産に關係して生計を營む者の全體を含み、後者は其中に於て特に生産經營の主體となる者、即ち企業者のみを指すの稱なり、而して二者共に農の收入に由り生活の全部若くは大部分を支ふる者のみをいふべきか、はた僅に收入の一部分のみを得るも猶農業者と稱するに十分なるや否は、別に又一の問題なり、廣義の農業者の中には、狹義の農業者即ち自ら生産の經營に當り利潤を收め又は危險を負擔する者の外に、猶二種の人民を包含す、其一は普通之を地主といふ、農用地を所有して之を人に貸し使用料（地代）を收むる者なり、其二は農勞役者なり、他人の農場に力作して賃銀を得て生活するものなり、狹義の農業者は亦之を自作農と借地農（小作人）とに細別することを得べく、勞役者も之を農僕（婢）と日雇とに區別することを得、我國に於ては農業の規模の概して細小なるより、農勞役者の數は甚多からざりしが、近年各種の事業の勃興して所謂不熟練の勞働者も其需要頓に増加したるが爲、愈々其數を減少するに至れり、而して地主即ち農用地の貸付のみによりて生活する人民は、之と轉比例を爲し稍々其數を加へたるが如きも、元來これも亦甚しく多からず、故に日本に於ては廣義の農業者の最大部分は同時に又狹義の農業者なり、今外國の例を參照するに、英國の如きは全く(208)我國と正反對にして、地主（Landlord）狹義の農業者（Farmer）、勞働者（Laboure）は判然別々の階級を構成す、佛國にては農區概して小さく、自ら土地を所有する小農の多き國なり、獨逸帝國の西部南部地方も亦然り、此他の國々にても企業者が其所有地を自作するもの少からず、又企業者にして自ら耕作の勞を取る者も無きに非ざれども、未だ我國の如きは有らず、我國にては耕地所有者の數は甚多く、其大部分は必ず兼て自ら農の經營に當るのみならず、耕作の勞働をも亦自ら爲すを常とす、即ち純然たる地主、純然たる勞役者は殆と無しといふも可なり、是れ日本の農業の一の特色なり、

　從來の世間の用語例に由れば、苟くも農に關聯して生計を立つる者は、凡て之を農業者と稱せるが如きも、若し廣狹二種の範圍を區別するの必要ありとせば、農業者の名稱は之を狹義のものに附與するを以て穩當なりとす、而して我國の如き實?に在りては必しも之を區別するに及ばざるが如きも然らず、例へば農業者としての利害は地主としての利害と同じからざるが如く、政策學上の地位は三者各々相異るものあるを以て、假令一人にしてその二、三を兼ぬるときと雖、之を區別して研究するの必要あるなり、

　以上説く所に由れば、農業者とは自己の土地を耕すと否と、自己の勞働を以てすると否とを問はず、自己の計算を以て農の生産に從事し其利益を以て生活する人を言ふなり（農業者の家族、農地を所有して貸付を爲す者、勞役者、竝に此等のものゝ家族等弘く農に由りて生活する者の全體を總稱するときは、假に之を農民〔二字傍点〕と稱すべきか）、日本にては農業者の數は全國戸數の六十％内外を占むと稱せらるゝも、未だ完全なる統計あること無し、農業者は?々他の職業を兼ね行ふ、例へば所有地の一部分を貸付けて小作料を收入し、又は耕作の暇に他人の農場に雇はれて勞働を爲し或は農産物の加工精製（農産製造）を爲すが如きは、極めて普通の?態にして、猶進みては全く農以外の職業に從事するものあり、海岸の村落に於て漁業を兼ね營み、沿道の農夫が農業の傍に運送業、商業等を爲すは、吾人が常に目撃する所、此等の者は之を總括して兼業農といふ、さて人民の生活費の源が苟くも農業より得らるゝ限は、假令僅(209)々其一小部分に過ぎざるも、猶凡て之を農業者と稱すべきや否やは、職業の定義の中に「獨立」といふことを一要件とするや否やに依りて定まるべく、今は假に之を論ぜざるも、政策學の研究に於ては農業者の純粹に能のみによりて生活するものと、他に種々の生活の源を有するものとは、決して之を同一視すべからず、而して其最著しき場合は生産技術の進歩に關して之を認むることを得、一國の農業の盛衰は政策の保護奨勵に由るの前に、先づ個々の農業者が直接に私益を増進するの目的を以て活動する行爲に頼らざるべからず、而して一國人民の多數に於て農業が僅に一部分の生計を支ふるに留まるものなりとせば、從て其熱心の度の十分ならざるべきを知るに見る、我國の農業は不幸にも多數の兼業者の手によりて經營せられつゝあるなり、

　昔の農業と今の農業とは其間に大なる差異の點を有すると同時に、今の世に於ても世界諸國の農業は各々相異れり、經濟政策の學は本來國民的（National）にして、一國に就きて特に研究すべきものなれば、農政學に於ても農の通有性を明にしたる次には、猶個々の國に於ける特別の?況を知るの必要あり、何とならば現在及未來の農政問題は此の特別の?況夫自身に付きて起るか、然らざれば必ず此と大なる關係を有するものなればなり、

　さて日本農業の現今の?況は如何といふに、前にも説ける如く、農民の中に地主又は勞役者といふ特別の階級は殆と全く存せずして、地主は大抵農業者にして農業者は又多くは自己の勞働を以て耕作を爲すものなること、竝に農業者の他の職業を兼ね營むもの甚多きことは、共に我國の農業の特色にして、二者は又同一なる原因に基きて起りたるものなり、此原因といふは他に在らず、全國民の數竝に農民の數に比して農用地の面積の狹きに失すること是なり、人口の増加は維新以降殊に著しきものなれども、農民の數は決して之と比例して、増加したるには非ず（相對的には寧減少せり）、然るに耕地の面積は明治の前後に於て大なる變動無かりしを以て見れば、各農戸の平均耕作反別の小なりしことは、數十年來既に繼續せる現象なりといふべし、外國に於ても農民が全人口の半以上を占むる國は少なからざるも、此等の國にては其耕地の面積も亦甚廣きを常とす、第二十二統計年鑑に由れば、我國の有租地中にて田は(210)二百七十八萬町餘、畑は二百三十萬町餘なり（臺灣を除く）之に加ふるに荒地、鍬下年期地等の減免税地竝に僅少なる官有耕地を以てするも、合計五百十萬町歩内外なるべし、即ち全国（臺灣は除く）の總地積に對しては一八％餘のみ、之に反して佛國の耕地面積は全國面積に比して五三％、白耳義も亦五三％、獨逸は四九％、洪牙利は四三％、澳地利は三七％、和蘭は三一％、農業衰微せりと稱せらるゝ英國に於てすら猶二六％あり、加之此等の國には此他に猶廣き放牧地ありて農業者の用を爲す、我國にては牧場を以て目すべき原野は殆と皆無なり、而して現時の農戸数は明ならざれども、明治二十三年に成りたる農事調査表によれば、三府及三十六縣（愛知、和歌山、熊本、鹿兒島等は此中に入らず）を通じて一農戸が耕作する田畑面積は平均僅に九反八畝のみ、英國は大農制の行はるゝ國なるが、農場の大さ五十エークル（二十町歩）以下のものは、全農場数の二六％に留り、其他の七四％の農戸は皆各々二十町歩以上の面積を経營するものなり、一千八百九十五年の獨逸帝國の統計に由れば、彼邦農地の分配は左の如し、

　　　（面積）　　　　　　（【農業總戸數に對する戸數割合】）（【農用地總面積に對する面積割合】）

　　二町歩以下を耕すもの　　　五八・二三％　　　五・五六％

　　二町歩乃至五町歩同上　　　一八・二八〃　　一〇・一一〃

　　五町歩乃至二十町歩同上　　一七・九七〃　　二九・九〇〃

　　二十町歩乃至百町歩同上　　　五・〇七〃　　三〇・三五〃

　　百町歩以上を耕すもの　　　　〇・四五〃　　二四・〇八〃

　即ち二町歩以下の小農の数は半以上を占むと雖、此等の大部分は其力を葡萄、甜菜其他の特用作物に用ゐるものにして、我國の如く穀作を主とするには非ず、且つ面積よりいへば全國の四割、戸数よりいへば全國の三割五分までは中農として土地を耕作するものなることを見るを得べし、次に一千八百八十二年の佛蘭西の統計に由れば左の如し、

　　　（面積）　　　　　（【農業總戸數に對する戸數割合】）（【農用地總面積に對する面積割合】）

(211)　　一町歩以下を耕すもの　　三八・二％　　　二・二％

　　一町歩乃至十町歩同上　　四六・五″　　二二・七〃

　　十町歩乃至四十町歩同上　一二・九��　　二九・九〃

　　四十町歩以上を耕すもの　　二・四��　　四五・二〃

　佛國は小農の多きを以て有名なる國なり、而して猶農業者の大多数を占むるものは一町歩以上の耕作を爲すものなり、日本の農業者は現今の農法にては、其一戸にして三町歩以上の田畑を耕作し得るものは、北海道臺灣を除くの外は恐くは之を見ること能はざるべし、

　さて一國の耕地面積が人口の増加に伴ひて擴張せざるときは農産物に對する國内の需用は、勢田畑一反當りの生産額の増加を要求せざる能はず、而して一方には耕地総面積に比して農民の過多なる事實は、労働の供給を増加するの結果を生ずるを以て、此二面の力は相合して我國の農法をして早くより甚收約的ならしめたるなり、然るに現今我國の農生産は各種の耕作物に通じて僅に國内の需要に應ずるに止まり、餘す所幾何も有るなく殊に最重要なる需要品即ち穀類に至りては或は之を外國の補充に仰ぐ場合も無きに非ず、一方には農民の全数は此だけの面積に由りては十分に其生活を支ふるに足らず、農に從事する勤労の総額は多きに過ぎて、之を悉く五百萬町歩の田畑に適用し盡すことは極めて困難となれり、是に於てか農民が傍他の職業を兼ね其收入を以て生活費の一部分を補足することは殆と必要の已むべからざるものあり、又各農業者は一人にて大なる土地の面積を占有すること能はざるが故に、自己又は自己の家族の勞働を用ゐるの外、外部の勞役者を雇入るゝ場合甚少きなり、

　土地に關して存する我國の農業の今一つの特色は、一戸の農業者が經營する耕地が一所に集合せずして非常に分散せること是なり、即ち所謂田區が細小にして且つ其所在の錯綜せることなり、例へば茲に一町歩の土地を耕作する農業者あれば、七畝歩の田は川上に在り、六畝の田は川下に在り、麥畑は山の麓に接し菜園は村の端に在るが如く、一(212)の耕作を終りて他に移るが爲には數時間を費す場合も少からず、此事實の因て來たる所は古來稻を以て主作とし水田を設くるの必要より大なる區劃を保つ能はざりしこと、國内の地勢上廣大なる平原に乏しきこと、村落の組織が上古より集合制にして且つ村民甲乙の間に土地の移轉し易かりしこと、割地換地の制度が久しく採用されしこと、數子分割相續の法が行はれしこと等の點に在るべきも、亦同時に一農家の占有使用し得べき地面の大なる能はざりしことも之に與りて力あり、農事調査表に依れば、彼の三府三十六縣内に於て、田は、

　　一筆一段歩以上のもの　　七、三〇二、一六九　　全數の二一％

　　同　五畝歩以上のもの　一〇、八〇二、一三三　　同　　二六％

　　同　五畝歩以下のもの　二三、八六九、二八〇　　同　　五三％

　畑は

　　一筆二段歩以上のもの　二、〇五六、二五〇　　全數の　八％

　　同一段歩以上のもの　　五、〇四六、九二〇　　同　　一八％

　　同一段歩以下のもの　二四、五〇四、六三〇　　同　　七四％

　而して各々一筆の田畑は耕作上必ず相分立するのみならず、往々一枚の田畑を分ちて異なる作物を栽培することあり（例へば東京近傍の蔬菜栽培地の如き是なり）、此?態が勞働の效果を減少し無益の失費を増し、且つ勞働者の監督指揮を困難ならしめ、更に又農法の改良に大なる障碍を與ふることは爭ふべからず、されども因習の久しき、人民は此不利益を覺知せざるもの多きを以て、國の政策の早晩力を此が改正に用ゐんことは極めて望ましきことなり、

　農産物の種類は風土氣候の影響を受け又は民俗に基きて各國皆同じからず、工藝原料を栽培するものは早くより通商を事とし、食料を耕作するものは久しく狹隱なる天地に生息して自然經濟の?態を墨守するの傾あり、其起源を溯るときは多くは自然の發達、偶然の普及に因るとはいへども、其一般に及ぼす結果は頗著大なるものあり、今我國に(213)於て生産せらるゝ農産物の主要なるものを列擧すれば左の如し、

　　（種類）（調査年度）　　　　（耕作反別又は頭數）

　　米　　　（明治三十五年）　三百八十五萬町歩

　　麥類　　（同上）　　　　　　　百八十萬町歩

　　豆類　　（明治三十四年）　　　　六十萬町歩

　　粟　　　（同上）　　　　　　　二十三萬町歩

　　蕎麥　　（同上）　　　　　　　　十七萬町歩

　　稗　　　（同上）　　　　　　　六萬八千町歩

　　黍　　　（同上）　　　　　　　三萬七千町歩

　　甘藷　　（同上）　　　　　　　二十七萬町歩

　　馬鈴薯　（同上）　　　　　　　三萬九千町歩

　　實棉　　（同上）　　　　　　　二萬四千町歩

　　大麻　　（同上）　　　　　　　一萬八千町歩

　　葉藍　　（同上）　　　　　　　四萬一千町歩

　　烟草　　（同上）　　　　　　　二萬四千町歩

　　菜種　　（同上）　　　　　　　一萬六千町歩

　　桑　　　（明治三十五年）　二十三萬七千町歩

　　茶　　　（同上）　　　　　　　三萬二千町歩

　　牛　　　（明治三十四年）　　　百二十八萬頭

(214)　　馬　　（明治三十四年）　　百五十三萬頭

　　山羊　　（同上）　　　　　　　　五萬五千頭

　　豚　　　（同上）　　　　　　　　　二十萬頭

　　鷄　　　　――　　　　　　　　　　　　未詳

　　　　　　　　　　　（第二十二帝國統計年鑑に由る、臺灣を除く）

　此等の作物には過去三千年の間に幾多の消長あり或は曾て盛にして今衰へたるものあり、例へば上古衣服の材料たりし穀麻《かぢあさ》の類又は近年外國産の染料の爲に壓倒せられたる紅花、葉藍の如き是なり、或は中世外國より移し來りて今は全國に普及せるものあり、例へば棉、茶、烟草、甘藷等の如し、されども其中にても米の耕作が全國農用地の大部分を占むることのみは昔も今も變らず、日本の人民は他の東洋諸國の人民と同じく、早くより米を以て主食とし、稻田の經營を以て農の中心と爲せり、されば、大化大寶の土地制度にても、各人民に班ちたりし口分田を始として、位田職田功田賜田神田寺田等に至るまで、凡て水田を以て之を給與し、畑は此以外に宅地に附隨して有るに隨ひて之を分與し、普通六年一班の例には由らざりしが如し、其後人口の益々多く米産の稍々不足を告ぐるに及びて、次第に麥、蕎麥等の雜穀を栽培し、畑地は漸く重ぜらるゝに至れり、封建の世に於ても所謂知行の貫高石高は尚皆水田を單位として計算せられ、畑地は之に比して大に石盛《こくもり》（公定收穫高）の率を減ぜられしなり、而して稻田は他の農用地と異り、特に灌漑の必要なること等の理由よりして、常に別種の經營を受けざるべからざるを以て、從て耕地の區劃形?を特別にし、現今所謂自由農産の世となりて、市場の?況を豫察して往々作物の取捨撰擇を爲すべき時に當り、種々なる不便を以て農の生産を制限するの傾あり、然るに一方には米の國内の需要は近來益々増加せんとす、是は單に人口の増加のみに因由するには非ず各人の米を食ふ割合も亦昔より遙に増加せるが爲なり、

　　大學の講師エッケルト博士が其著「日本土地改良論」に於て、日本人の平均米食消費高は其食物全量の五三％に(215)當るならんと言ひしは現に今よりも十七八年前の事にして、今は又之よりも遙に加はりしなるべし、米食増加の原因は多かるべきも、其主なるものは（一）生活程度の増進（二）交通機關の改良（三）市街地人口の増加（四）麥類市價の騰貴（五）農兵の制度等なるべし、猶明治三十四年十一月十五日の官報に見えたる米消費高の統計を參照すべし、

　上に列擧したる農産物の中にて棉、茶、甘藷、馬鈴薯、煙草の五種は中世以降外國より輸入せられしものなれども其他は起源概ね甚古し、棉と藍とは明治以後外國産の競爭によりて非常に其生産を減じ今や將に消滅に近づかんとす、茶も亦稍々減退の傾あり、煙草は官專賣制度の結果として�ｺ川氏の後半期に比ぶれば頗其産額を減じ、菜種の需要も亦昔より大に少く從て其生産を減ぜり、麥は稍々衰勢を示すと雖未だ大に減ずるには至らざるべく其他の農産物は大抵皆増加の勢あり、殊に桑は生絲の輸出に伴ひて近年大に其耕作面積を増加せり、

　家畜の頭數は其人口一人に對する割合西洋諸國に比ぶれば今尚甚少し、而も此數は明治以後に於て著しく増加したる者なり、西洋諸國にては久しき以前より畜産は耕作と相須ちて殆と分離す可らざるものゝ如く考へらるれども我國の舊時代に在りては家畜耕作の如きは寧例外にして、田畑に必要なる勞働は大部分人力を以て之に應ぜしめ且つ肥料供給の手段としても、副産物の利用方法としても、亦殆と家畜の必要を認めざりしなり、古代の日本に於ても牛馬は共に特別の用途ありて（例へば馬は軍用に牛は車を牽かしむる爲に）社會の需要決して無きには非ざりしも、其飼養は別の方法に由り、農民の耕作と相關聯すること泰西諸國の如く密接ならざりき、此點は東西の農業發達史上最顯著なる差異にして、延いては今日の農業?態にも大なる影響を及せるものなるを以て、農政の研究の前程として先づ注意すべき問題なり、予が見解を以てすれば我國に畜産の盛ならざりし原因は大略左の數點に在るなるべし、第一には上古肉を食ひ皮を衣るの習慣が十分に盛ならざりしことなり、而して其理由は又氣候の温和にして他の衣服の原料も早くより發見され、山禽野獣の肉は或程度までの需要を充し、魚介も亦豐に植物性の食料はた多かりしことに在るなるべし、第二には佛教の影響なり、此宗教が熱帶の天竺より起り殺生を戒め清淨淡泊の生活を勸めしことは更に家畜(216)の必要を滅却せしならん、第三には人口の數に比較して利用せらるゝ土地の面積狹きに失し、農業に動物を使役するの機會少かりしことなり、第四には肥料として夙に人糞の施用せられしことなり、此第四の原因は或は又前三者の結果なりとも言ふを得べし、兎に角人の排泄物を以て肥培の用に供せしは久しき以前よりの習慣にして、之を以て西洋に於ける家畜飼養の手段に代へ、自然に養力循環の理法に合せしなり、

　終に臨みて日本現在の農民は如何なる分子より構成せられたるかといふことを考究するの必要あり、太古部曲制の時代に於ても農以外の生業を營む者無きには非ざりしが、思ふに傍に幾分の土地を耕作せず全く交易に由り外部よりのみ衣食の材料を得るが如き者は殆と無かりしならん、然れども伴緒《とものを》（族長）其他優等なる人民には或は官務に就き或は武職に入り自ら農以外に立つ者あり全國皆農なりとはいふ能はざりしなり、大化の田制が各人に對し悉く口分田を給せしことは前に之を言へり、此前後外國より歸化したる人民は甚多かりしが其大部分は各地に散居して農となれり、然れども此時には世襲官吏の家甚多く、養老以後の政府の奨勵に應じて盛に開墾を爲し、他の地方の豪族、又は退職官吏の土着したる者と共に、皆大なる地主と爲り、貸地の收入によりて生活する一の階級を生ずるに至れり、而して當時朝廷の崇信を受けたる諸國の神社大寺も亦此等の地主の中なり、大地主は土地を小作に付するのみならず、同時に家人奴婢を使役して農を營ましめ、或は又俘浪の民を招致し、各地の莊園には次第に多數の私民を收容するに至れり、莊園の擴張兼併は從て國の公田の面積を減少せしめ、公田を耕す者の負擔は加はり、且つ班田の制度も年を經るに從ひて自然に行はれざるに至りしかば、良民は其田を持ちて遁れて莊園の保護の下に入ること、恰も歐洲八九世紀頃の形勢に同じく、次で所謂院政の頃に及びては全國殆と莊園を以て滿たされ、朝廷が其殘存せる公田に臨むは恰も領家が其莊園に臨むに同じかりき、而して領家の多數は京師の居住者にして、遠隔の地に在る領地の事務は其地の有力者をして之を處理せしめ、且つ領内の人民より壯丁を點出して京師其他の警護の役を課せしかば、此等莊園の管理者にして收税兵役の事務に當れる者は自然に實力を養成し、後漸く武家といふ階級を作るに至れり、鎌倉幕府の(217)時代には諸國に守護を置き各々莊園に地頭を置き、領家の爲に收入其他の事務を處理すると共に、一方には幕府の監督に服從せしめたりしかば、領家の勢力は却て莊園に及ぶこと弱く地頭の收入は愈々多く、恰も第二の領主の如き觀あり、幕府も亦地頭の職の授受を以て唯一の恩賞供給の方法となせり、南北戰亂の以後は京師の領家の命令は地方に及ぶこと能はず、元の地頭は漸く純然たる領家の地位を占むるに至り、他の或ものは領家と談判して其領地を折半し、各々一方の領主となりしかば、是に於てか地頭の名は存するも其實舊來の領家と異ること無きに至れり、此時代には全國の人民は若干の商工業者を除きては、其他は悉く領主と農民とのみなり、領主の數は多くして皆小さく、彼等は一般に農生産物の一半を農民より取りて自己の生活費に供せしなり、足利氏の末、諸國に戰亂相次ぎ小弱なる多數の領主は自立して其地位を保つこと能はざりしかば、次第に其土地を携へて大名の配下に附屬し其一半は武士として兵事に從ひ、他は土着して以前の知行地に於て自ら農生産を經營せり、江戸幕府の下に平和の時代が恢復してよりは各藩の領内に多數の郷士あり、此等は大抵以前獨立せる小領主なりしが、自然に兼併せられて昔の公法的の領土權は其形を一變し、普通私法的の土地使用權のみを留めしなり、此時には又多數の武士は其主人を失ひて浪人となり、農民の間に混淆せり、農民の間にも久しき年月を經て種々なる盛衰は有りしならんも、大體の上よりいふときは、小作に由りて農を爲し又は小面積の自作を爲す多數の小農は、中世莊園の中に居住せし私民が幾度か上に戴く領主を代へつゝ今に至れるものにして、此他に地主として、小作貸付を以て主たる收入の源とし、�ｺ川氏時代には名主莊屋等の職を世襲せる所謂「由緒ある舊家」は多くは昔時の小地頭の政治的勢力を失ひて、自然に大地頭の配下に附屬せるものなり、而して莊園の私民といふは大寶令の時代に於ける普通の良民、賤民俘浪歸化人等より成り、地頭の階級は概して言へば國造、郡領或は其以後の地方官吏が官を罷めて土着せるものの末なり、維新以後土地の所有者を變換すること常律なく、今や殆と之を以て區別すること能はざれども、其起源を言ふときは凡そ此の如きなり、廢藩の際士族の歸農する者亦甚多く、從來土地を以て俸禄を給せられしもの、又は新開地國境等に土着せるものは其儘に普通の地主(218)となるものあり、或は小さき土地を新に取得して小農となれるものも亦少からず、而して舊時代の小農は生活程度の改良を希望する毎に必ず都會に出でて他の職業を擇び取りしが、殊に明治の代となりて轉業移住の容易となりては、其多數のものは農を罷め今も猶盛に他の職業に移りつゝあるなり、

　

　　　　　第三章　土地財産制度

　

　近代の經濟學者の中には富の生産の要件として第四のものあることを唱へ「國家」又は「政府」を以て是なりとする者あり、此論は單に國家權力の存在が人民に與ふるに平和と秩序とを以てし、今の生産をして昔の掠奪と異る所あらしむる事をのみ意味するものには非ず、既に國家の統治あれば必ず人と物との關係を定め人民は其希望する所のもの即ち財産に對して或限度内に於て權利を有することを許さるゝを以てなり、而して此權利の限度たるや時代により國によりて必ずしも同一率に出ること無し、今其最重要なる事例を擧げんに、人が自己の勞働の結果を自ら享有すといふことは、野にある果を摘み山の獣を捕へたる太古の蠻民も今の世の生産者も少しも異る所無く、自然の?態にして國家の力によりて定められたるものに非ずといふ者あるべきも、是決して然らず、人類存在の始より強と弱と威壓と屈服との上下關係は既に存し、一の天幕一の部落は皆或意味に於ける小國家なりしに相違無きも若し假にルウソオ〔四字傍線〕等の説くが如き自由不覊の太古人有りとすれば彼等が勞働の結果を受用することは或は誠に天然の一事實に過ぎざりしならん、之に反して國家ありて後の人民は必しも其勞働の結果を自ら收むるとは限らず、例へば貢獻又は租税なり、人は收穫の一部分を捧げて君主の用に供し或は政府の費用を支ふ、されども是は或は各人の自由意思による一種の消費なりと言ふ者も有らん、然らば猶他の例あり古代社會に於ては奴隷は勞働を爲せども其結果を享受すること能はず、其主人は勞働を爲さずして奴隷の作る所のものを收む、又朝鮮に於ける平作の法我國の小作慣習の如きに在りては、(219)收益の一半は亦勞働者以外の者に歸す、今の世の農勞働者にても其勞働の結果の全部を以て自己の物と爲さんとせば、人と土地との關係は必ず民法上所謂所有の場合に限るなり、而して何に因りて此の如くなるかと言へば全く國家ありて之を定むればなり、或は之に對し正義の指示する所當に然あるぺければなりと答ふる人あらんも、其説の可否は今假に之を論ぜずとしても少くも正義に合する?態を維持して、善人惡人をして共に之を守らしむるを得るは果して何の力ぞと言へば、一方には各人活動の區域を限定し、他の一方には司法の機關を設けて甲乙の相犯さゞらんことを期するもの即ち國の法律制度の存するが爲なり、

　人が其勤勞を施さんとするや、常に豫め其結果を推測し苦痛と快樂とを計算して後始めて去就を決するなれば、一國の法制殊に財産制度の如何が生産の上に大なる影響を及すことは言ふ迄も無きことなり、併しながら國家の機能其物を以て直に天然資本勞力と同じ列に加へ之を以て一の生産要件なりとする説に至りては聊賛成に躊躇せざる能はず、

　何となれば他の三者が生産に寄與する所のものは數量的にして、此は品質的なり、不適當なる財産制度は生産を助くること無くして却て之を害す、前者の存在は天然的動力即ち事實に基けども後者に至りては純然たる人爲的の原因なり、加之財産の制度が生産に影響するは寧間接的にして、其主たる目的は却つて生産物の分配消費の方面に在りて存す、國家の機能竝に其發現たる法律制度は所謂生産の三要件よりは猶一層根本的のものにして、全社會の經濟組織は悉く其基礎を此上に有するなり、生産といひ分配といふも人と物との關係が明白に定まりたる後のことにして資本といひ不動産といふも所有使用の權利が平穩に行使せらるるに由りて始めて其名を生じたるなり、

　財産の制度は國の力によりて存在するものにして、廣義の經濟政策中には無論包含せらるべきものなれども、其起るや殆と國家の存在と時を同じくし、其始に當りては或は全く國民經濟の發達を計るといふ自覺に由らずして設定せられたるもの多し、後年に及びては時代の經濟事情に對し歩調を合せ必要ある場合には部分的の修正變更を見ること決して稀ならずと雖其大原則に至りては一國存立の一要件の如く看做されて傳説的に尊崇せられ長年月の間の自然の(220)慣習的推移に由るか又は革命的の變動に基くに非ざれば、力めて其舊態を保存するの傾ありて、稍々又時々の政策問題と異るが如き觀無しとせず、殊に十五六世紀以來羅馬法研究の風が歐羅巴に行はれてよりは、各國の法制は漸次に此法の主義を繼承し、十九世紀に入りては世界開明國の大多數は完全に私有財産制、自由契約制を採用し、同じ世紀の終に近づきては、從來隔絶したりし極東の日本國すら、遲蒔乍ら此系統の中に加入せり、羅馬法が夙に個人主義自由主義の風潮に適合せしこと竝に其法理の研究の綿密にして論理の一貫せしことは、元より有力なる原動力には相違なきも、兎に角昔時世界の一隅に於て一種の民族の間に確定せし制度は、今や偶然にも殆と全世界を掩ふに至りしなり、羅馬法の主義殊に其土地に關する制度に至りては、其現今の如く全世界に行はるゝに至りしは僅に一百年來の事なれども學者によりては之を以て最良く人の性情に適し從て萬古不變のものなるべしと信じ、國の經済政策の力は之を動かす能はず、却つて此範圍内に在りて活動すべきものなりと言ふ者あるに至れり、此説の可否に就ては亦之を後に讓るべけれど、兎に角今の財産法上の大原則のみは之を他の經濟政策より別ちて別に其由來性質結果等を考究するは便利なるのみならず、又其が一國の經済組織の根本を爲せる點より言ふも至當の順序なるべしと信ずるなり、

　私有財産の制度は現時の開明諸國を通じて之を認めざるもの無く且つ私有の目的としては一切の有體物を包含し其間に殆と何等の區別差等を設けざるを常とす、然れども家屋器財商品の如き人の行爲に由りて成りたる物と土地の如き天然に存在する物との間には、其私有權の發逢せし次第に於て大に相異るものあるなり、普通に民法に於て動産不動産の名目あるは（日本民法第八十六條）元來此區別に基く者なれど、今に於ては僅に其形質上の差異により當然生ずべき取扱上の區別あるに過ぎずして之に對する私有權の效果に至りては凡そ異る所あるを見ず、而して其茲に至りたるは極めて近世の變遷なり、蓋し動産私有の思想は其物の性質より自然に發達したるものにして其起源最久しきなり、何となれば動産の價格は人が之を生産すると同時に、又は夫よりも以前に既に存するのみならず其生産者の意思よりするも又は其利用の方法より言ふも之が私有に歸するは極めて自然の經路なり、之に反して土地は其存在の最初(221)に於ては未だ價格を發生せず部落の土着によりて領土の思想が起りたる後に至りても、個々の土地使用者の間には、占有を以て區域を爭ふまでには土地を重要視せざりしなり、語を換へて言はゞ土地其物の利益は一部落又は一民族が團體として享有する所にして、其生産物其他の動産に在りて、始て之を一家一人の所有と爲し、動産と不動産とは兩々併び立ちて全く其所屬の方向を異にしたりしなり、人智の稍々進むと共に或は未來の計畫の爲に土地に勞力資本を加ふるものあり、又は收穫前の農作物を保護するが爲に個人の間にも土地に付きて獨占排他を爲すの必要を生じたりと雖、猶土地の占有は頗動産の占有とは同じからざるものあり、一國の法制が物の占有者に許容せる權利も亦二者の間に著しき差異ありしなり、然るに人口が愈々増加して土地の表面が不足を告ぐるに伴ひ、其價格も亦頻に増加し現在に於ては何等人の用を爲さゞる土地までも之を無主の?態に置くことを許さゞるの形勢となり、諸文明國の立法は土地の占有者に附與するに動産占有者の權利と殆と相等しき〔六字右○〕權利を以てするを最適當なる法制なりと信ずるに至り、或は自然の慣習を認め、或は成文法の新制是を以て一般に現今の土地私有制度を行ふことゝなりたるなり、

　さて私有財産の制度即ち個人が物を所有すといふことは如何なる意義を有するかといふに、我が民法（第二百六條）に依れば其物を使用し其物に由りて利益を收め且つ其物を處分し得るの自由を謂ふなり、而して使用と收益との自由は必しも所有權者にのみ限られたるものには非ず、例へば賃借權者地上權者等の如きも猶之を爲すことを得るを以て見れば、所有の要素は主として物の處分の自由に在りと謂ふべし、此處分の範圍は極めて廣く所有者は原則としては其物に對し如何なる行爲をも爲すことを得るなり、即ち其物に付き別に一の權利を新設し、又は權利の全部を擧げて之を他人に附與することを得るは勿論（法律上の處分）、其物の實體を變更し又は其一部若は全部を破壞し消滅せしむることも亦自由なり（實質上の處分）、而してこの處分の自由を所有者に確保するの必要よりして所有權は永久のもの（Permanent）なるべしといふ法理を生ずるに至れり、古代の領土權は亦土地に對する絶對の權利にして殊に土地が小部落に屬し其族長が自由に之を管理し得るが如き場合に在りては、多くの點に於て現今の土地所有權と類(222)似するものあるを以て或は此二の者を混同して説明を試むる者ありと雖、前者に於ては少くとも其處分自由の範圍に於て大なる制限の存するものありしことを認めざるべからず、要するに人の生産したる動産に在りては其多數は物の消滅を以て用途の終點とするものなれば、此が絶對の處分權を認め所謂永久の占有を可能ならしむるは決して怪しむに足らずと雖、之を天然に存在し且つ不滅なる土地の表面に及さんとするに當りては幾分の論理上の擴張を必要とせざるべからず、而して此制度が精密なる近世法學の研究の力を假りて始めて實行を見るに至りたるは、他の一方には又經濟上の理由の之を要求するもの有りたるが爲なりとす、

　蓋し近代自然法學の歐洲に流行するや、國家の立法權の上に別に一勢力の存することを認め一國法制の根據を正義に求めんとするの傾ありき、是に於てか私有財産制に付きても亦學者の此方面より其由來を説明せんとする者多し、例へば所有權は自然の?態に在る物を最初に領略したる者の特權たるべしといふ者あり、之を占有説と云ふ、又所有權者は其物に付き勢力を加へたるに由りて之を所有することを得るなりといふ者あり之を勞力説といふ、或は又占有し且つ勞力を加へたるが合せて所有權の根據を爲すなりといふ折衷説あり、此等の説は動産に付きて見れば、多くは實際と合し假令單純なる正義のみが所有權の主張を遂げしむるの力なりといふ能はざるも、少くも國法が之を認むるに至りたる理由は或は此間に存するものなりとせん、然れども土地の所有權に至りては忽ち推論の困難なることを感ずべし、何となれば土地の占有は私有の以前より既に久しく存するのみならず、一方には土地に付きて私人の所有權が要求するものは常に勞力に基くもの以外にまでも及ばんとすればなり、實利派の學者は以上の三説に反對し此の如く一切の物に對し個人の所有を認むるは社會の爲はた個人の爲に最便利なるを以ての故に此制度は有るなり、若し正義に基かざるべからずと云はゞ必要は即ち正義なりといへり、此説は一見極端なる學説の如きも又一面の眞理を表白するものにして此の如き制度を採用するに非ざれば十分に生産の道を遂ぐる能はずと信じたるにより、國家は其法律を以て一私人が物に對する關係を此の如き?態に於て維持したるなり、而して物が何人の私有に屬すべきかといふこ(223)とに付きては、國は勿論正義の指示する所に從はざる能はざりしとは雖、之を或程度の縁由に基きて何れかの私人の所有と爲すことを得ば其目的の大部分は既に達せられたるものなるを以て、必ずしも深く立入りて私人占有の最初が強力の占有又は掠奪に由りしか否かを問はざりしなり、故に我輩は若し私有制の起源を説くの要ありとせば其根據を一國の立法權に置かんとす、即ち法律説を採らんとするものなり、此等の學説の比較は無用の論辯なるが如きも決して然らず、若し私有制度が絶對に人類の正義に合したるに由りて成立するものなりとせば、之を措きて他に變更を求むべき餘地に乏しく、所謂私有制の保護は完全なるべしと雖、既に國の法律に基きて始めて存するものなりとせば、法律は時勢と國情とに由りて成りたるものにして、國家權力の存續する限は立法は二者の變遷と相伴ふべきものなれば、現今の私有制度は少くも常在不變のものには非ざることを知るべし、近世の社會主義の論又は土地公有論の如き其説の當不當可否は別問題として、假令全然私有財産を消滅せしむべしといふものありとも、必しも一部の學者が驚駭するが如き無謀の破壞論なりと速斷すること能はざるなり、

　土地に對し一般に私有權を認むるの法制は極めて近世の發達なることは前にも言へるが如しと雖、之に類似する私人の權利は少くとも土地の一部分に付きては遙昔の時代より存立したりしなり、例へば封建時代に於ける地下《ぢげ》の作人の權利、又は大寶令時代の墾田者の權利の如きは法理上は何處迄も普通の土地使用者と異ること無けれども、其使用に期限なき點に於て竝に或程度迄の處分を許されたる點に於て、實質上はさまで現今の土地所有者と異らざりしなり、併しながら是唯耕地のみに關してなり、其以外の土地には私人の財産權を認むる場合は寧例外にして、國内の山林原野の大部分は直接に領主に屬し、或は郷持村持となり、或は入會地となりて個人が單獨に占有するものは甚少かりしなり、明治の初年地制を改革するに當りて、各藩領又は社寺領の山林原野は之を上知せしめて凡て國の所有と爲し、町村持のものは其權利の明確なるものは之を町村の所有地〔三字傍点〕と爲し其他は亦之を國有とす、而して耕地に在りては一切舊來の占有者を以て所有者と認めしを以て、是に於てか全國の土地は悉く私有の目的物となるに至れり、維新以前に(224)於ては耕地といへども必しも個人の永久の占有に屬するものゝみに非ず、地方によりては近世まで割地、換地の制を行ひ、其全部を以て町村の共有と爲すの慣習も無きに非ざりしなり、殊に其以前に溯るときは何れの國に於ても土地の上に私人が行なふことを得るの權利は極めて狹隘なる使用權のみにして、其他の權利は領土權と合體して國、部落又は領主に屬せしなり、此事實は田畑に付ても亦異ることなし、支那古代に於ける井田の制の如きは其一例なり、羅馬に於ても其最初の土地制度に由れば公田は國有にして市民は唯之を使用するの權を與へられたるのみなりしが後には次第に其占有に由りて私有權を主張するに至りしなり、支那の唐朝の口分、永業の制、又は之に倣ひたる我國の班田制度に於ても、土地の或もの（田）は身死すれば國に復し、他の或もの（園宅、功田、墾田等）は戸絶すれば國に復す、又他の或ものは全然私人の占有を認めず、公私其利を共にするを以て原則とするものあり、山林藪澤の地は即ち是なり、此の如く私人には使用以上の權利を許さゞるが、寧古代に於ける土地制度の通規なりしなり、

　蓋し、公法私法の區別の觀念が未だ發達せざりし時代には土地の收益權も亦領土權の中に包含するものとして考へられ、土地の領主が其權利を完全に行はんが爲に人民の行爲を極端に制限するを必要とせしことは恐くは私有制が古代に存せざりし一の原因なりといふことを得べし、而して猶他の一の理由は土地の面積が十分にして個人が其占有を保護せられんとする要求が後世の如く強力ならざりし點に在ることは無論なり、此故に土地は其用途に從ひて之に對する個人の權利の強弱にも差等あり、最初に長期の占有を許されたるものは生活の根據たる宅地なり、農民が耕地に對し永續的利益の目的を以て資本と勤勞とを投ずるに及びて、耕地も亦次第に長期の占有を爲さしむることゝなれり、而して土地の缺乏が漸く顯著となるに從ひて、終に其以外の土地にも及び原野山林の如き始は先づ町村の間に私法的の共有を爲して他人を排除するに止りしも後には猶進みて之を各主私人の間に分割して占有を爲すに至れり、英國に於ては十七八世紀の頃より既に所謂土地圍込法（Act of Enclosure）を行ひ次第に其共有地を減縮し、獨逸に於ても十九世紀に入りて所謂土地の解放の行はるゝと共に亦共有地分割法を實施せり（例へば普魯西の千八百二十一年七月(225)の法律）、町村以外の關係に於ても土地の共有といふことは古來極めて普及せる現象なりしが、昨世紀の開初に那破倫法典《コオド・ナポレオン》の出でて一般に共有物分割請求の權を附與してより後、諸國は相次で此制を採用し、我民法第二百五十六條亦之に由り、現今に至りては物の私有といふことは一切の土地に就ても亦通則となれり、殊に土地の使用處分に付きて聊も動産と區別する所無きが如きは、之を從來の制度に比するときは全く根本的の改革にして、少なくも其實行當時の人心に新奇の感を抱かしむるの度に至りては、今の所謂土地國有論と擇む所無く、唯前者は既に國民の判斷に由りて適當と認められて實際に行はれ、後者は之に反し現在猶社會の一提案として此が是非得失を研究するの餘地ありといふの差に過ぎざるのみ、

　土地公有論は現社會の一大問題なり、殊にヘンリイ、ジョオジ〔八字傍線〕の學説は其理論の單純なる爲に多數の賛同者を得、一時英米の二國を通じて一の大なる勢力を爲せりき、然れども土地を神賦なりとし人類の一小部分が之を獨占するは正義に反するものなりといふ趣旨を以て、單に自然法理を根據として國有論を辯明せんとする者あらば、夫は私有制度を辯護するに自然法を以てする説と同じく亦誤れるものなり、何となれば進化して止まざる社會の組織は、決して永久不變の法則の存在を許さゞればなり、次に過去の人類が土地の公有制度（寧無主制度）の下に幸福と繁榮とを保ち得たりといふ事實に由り現在發生せる社會の不幸も亦再公有制を復興するときは之を消滅せしめ得べしと推論する歴史派の説も、同一の理由を以て之れを破ることを得べきのみならず、猶却りて私有制が一般に行はるゝに至りしは、此が現在の社會に適するが爲なりといふ反對説を助くるの結果を生ずべし、近年世上の公有論は少くも此二つの批難よりは免かれたるものにして、其説く所概ねより多く實着に抽象的の論理に基くよりも寧經濟的理論を以て其理由を説明せんと力むるものゝ如し、さて一概に土地公有諭と稱せらるゝが中にも、少くも三つの説ありて各々其目的と方法とに於て全く相異れり、蓋し土地の所有權には性質上二の方面あり、一は土地より收入を得るの權にして（Right of revenue）他の一は隨意に土地を使用處分するの權なり（Right of directiOn）、ヘンリイ、ジョオジ〔八字傍線〕の説く所は此(226)二種の權の中、前のものゝみを收公して、後者は尚之を私人に許容するに在り、其理由に曰く、現社會に於ける貧富の懸隔勞働者の困窮は其基く所土地私有制度が土地より生ずる富の餘剰を所有者の獨占に歸せしむるが爲なり、故に此餘剰を收めて社會全般の利益に歸せしむることを得るならば、世の中に不當なる壓迫の爲に苦しむ者は存せざるに至るべしとなり、而して其方法としては土地の收益の中直接に資本又は勞力の投入に基きて生じたる部分を除き、其他は悉く租税として之を國に收入すべしといへり、何となれば此の如くするときは土地の使用處分の權は從來のまゝ之を各個人の手に置くも其弊害を生ぜず、土地獨占の利益が全く存せざるが爲に兼併も起らず、各人は其必要に臨みて自在に土地を占有することを得べければなり云々、第二に英國人ウォレェス〔五字傍線〕の國有説といふは全然ジョオジ〔四字傍線〕の學説とは正反對なるものなり、ウォレェス〔五字傍線〕も亦下級社會の不幸は其基く所一部少數の人民が土地を獨占するに在りとし、土地を有せざる人民の地位をして愈々不利不安全ならしむるものは土地兼併の趨勢なりといふ點に於ては第一の説と略々相似たるも、之を救濟するには土地の使用處分の自由を悉く國家に移し、弘く一般の利害に基きて土地利用の方法を定むべしと爲し、其收益の權に至りては既に一たび社會によりて承認せられたるものにして正當なる由來あるのみならず、又之を私人より奪ひ去るの必要無しと爲し、之に對しては貨幣を以て一定の補償を給付すべしと言へり、

　以上の二説が各々土地所有權の一方面のみを私人の手より取り去るを以て最後の目的と爲せるに反して此二者を合せて悉く私有の權利を消滅せしめんとするものは社會主義の説なり、此説に於ては必しも土地に限らず、一切の生産手段即ち收益財産の私有を以て不當にして且つ有害なる社會の特權なりとし、之を没却するに非ざれば社會の幸福は得て望むべからずとするものなり、社會主義の中にても稍々温和にして實行を主とする流派に在りては、或は先づ市街宅地の公有の必要を説き又は賠償は已む能はずと言ひ、或は單に小農地の取得を容易ならしむるのみを以て足れりと爲す者もあれど、此等の者も亦其理想の極致としては土地全部の公有を希望し、要するに私有財産制を全滅せしめんことを期するものなり、以上三種の國有論は其論據竝に目的互に全く矛盾せるを以て常に相攻撃し、今尚鴉の雌雄(227)を辨ずること能はず。

　蓋し土地公有論の價値は固より俄に之を決定すること能はずと雖、現今の開明諸國に於て往々に此説を唱導する者あり、又他の部分に於て熱心なる此が賛成者を得るに難からざりしは、思ふに亦社會經濟上の機運の然らしむる所なり、何とならば土地は人類の生存上絶對的に必要なるものなるに拘らず國民が生長し人口が増殖するに及びては漸く土地所有の利益を被らざる者を生じ、處分の自由の範圍が擴張すると共に集積したる資本を以て土地に換價し次第に兼併の現象を呈するに至り、一方には土地の所有を希望しつゝも終に之を得る能はざる者の數は益々増加せり、而して土地を所有する者と所有せざる者との問には、非常なる便利利益の差等あり、前者の地位は獨占的特權を以て維持せらるゝに反し、後者は徒に羨望の眼を以て之を傍觀せざる能はず、是に於てか社會改良の業を以て自ら任ずる者は、先づ此私有制度の破壞に着眼するに至りしなり、

　此點より觀察するときは私有制度の廢罷を促さんとする社會の事情は兼て又私有制の確立を致したるものと同一の事情なり、即ち人口が稀薄にして素地の餘剰ある間は人は必しも一定の地積に戀々たらず、後年稍々土地を貴重し境界の重ずべきを感ずるに至りても其占有を主張する者は始は猶國又は村落、組合の如き公的團體なりき、之に次ぎては家族を以て土地占有權の主體と爲すの思想起れり、我國上古の族制は此例には當らずとしても、羅馬の如きは其始は不動産を以て人の權利とは爲さず、家の權利と看做し唯之を家長の處分に委ねしのみ、所謂家督相續の制度も亦土地に就て其必要を認められたるものにして、土地が收入の唯一根原たりし間は、其占有の利益を以て家族の維持の目的に供し、其結果個人と土地との關係に於ては種々の制限を免るゝこと能はざりき（例へば世襲財産制の如き、又は土地永代賣の禁制の如き）、而して一家に屬する地域が稍々廣くして優に多數の族人を養ふに足りし間は、此制度も繼續して行はるゝことを得たりしなれど、人口が愈々増加して農家の二三男等は十分なる生活を營むこと能はず、土地は?々不適當なる人の手に止り、技倆あり氣力ある者も往々にして徒手爲す無きを歎ぜざるべからざるに至りては、(228)土地財産權の上に存する多くの制限は終に堪ふぺからざるものとなり、占有者をして生前竝に死後に於て自由に其土地を處分せしむるの必要は一般に認められ、範圍の最弘き現今の所有權制度は茲に於てか開明諸國普通の法則とは爲りたるなり、然れども一利一害の相伴ふことは如何ともすべからず、此の如く分割と移轉とに對して何等の制限も無くなれば、從て所有者の大小に非常なる差等を生じ易く、殊に人口が更に一層の増加を爲すに及びては、多數の小民の些も私有制度の恩惠に浴すること能はざるものを出し、爲に或は新に別種の制度の必要を唱ふる者あるに至る、社會の進化は年と共に其速度を加へ、十九世紀に入りて後は愈々變遷の激烈なりしことは何れの方面に於ても然らざるなしと雖、若し果して世の國有論者の説くが如く、目下の事情の切迫せるものなりとせば、土地私有制の命運や甚短しと言ふべきなり、

　さて土地私有制度の辯護説として最有力なるものは、該制度が經濟上の一大要件に適合せるものなりと言ふに在り、其一大要件といふは「土地に對する勞働の結果は何等の制限も無く凡て勞働の主體に歸屬せざるべからず」といふことにて、此要件に合するは土地の占有者と經營者とが同一人なる場合に限り、二者が同一人なることを得るは私有制に由るの他無きを以て、語を換へて言へば土地を自由に處分し且つ永久に之を占有し得る者に非ざれば其勞働の結果を制限無しに收得すること能はず、而して勞働の效果を安全に保障せらるゝ者にして姶て忠實に且つ勤勉に其土地を輕營することを欲すべきなれば、最十分なる生産の效果を奏せしむるには最自由なる土地の占有を保護せざるべからずといふことは、古來千百人の學者が共に論辯する所なり、土地國有論者は亦決して此事實を無視せんとする者に非ず、唯生産發達の效果が果して國民の全體に及び得るか、個人が私有制度に由り地力の利用を完全ならしむることは、社會全體にとりても亦必ず利益のことなりや否やを疑ふのみ、蓋し絶對に一國の總生産額に就てのみ言ふときは、其増加の喜ぶべく減退の悲しむべきは論を須たずと雖、飜て各人民の生活に付き生産増加の恩惠の及ぶ所幾何なりやと見るときは、國民の幸福の總計は必しも生産總額に伴ひて増進せざることを知るべければなり、要するに土地公有論(229)は生産の問題には非ずして分配の問題なり、「幸福なる分配」即ち成るべく多數の者の成るべく大なる滿足を得るが爲には如何なる程度までに「幸福なる生産」を犠牲とすべきやといふ權衡論なり、されば若し土地公有論に對し公平なる批評家を以て自ら居らんとせば、第一に現行の私有財産制の下に於ては、分配の改良を爲し個人をして地力を完全に利用せしむると同時に、兼て其利益を多數者に及ぼし得るの途なきや否やを檢し、第二には土地公有論を實施するときは果して豫期の如く善美なる分配?態を將來すことを得べきや否やを問ひ、第三には假に公有制度の功績は擧りたりとするも、之と同時に國富力の忍ぶべからざる減退を致すこと無きや否やを考へざるべからず、吾人の社會は進化發展して極なきものなるに、常に一定の法則の下に之を率せんとする者あらば、無論頑陋の語を免る能はざるべしと雖、同時に又世相の一端より速斷して無用の杞憂を抱き、不適當なる方法の實行を企つるが如き者あらば、假令其心事には公益、増進の外些の邪念無しとするも、猶社會の一罪人にして、之を賛成する者は無謀の雷同者なりと言はざるべからず、

　ヘンリイ、ジョオジ〔八字傍線〕の説は其目的に由りて觀れば一種の税法改正案にして、嚴格なる意義に於ける土地公有論には非ず、何とならば所有權の特色たる處分の自由及永久の占有は終に之を個人より取去ること無ければなり、而して其實行の手段なりとする單税賦課の法は、理路の簡明なるにも似ず、實際の計算の上に於て到底其目的を遂ぐる能はざるものなり、即ち過去の資本にも由らず勞力にも因らざる生産物の部分（リカルドオ〔五字傍線〕の所謂地代に同じ）は無論有りとしても、其數量を明確にすることは到底不能なり、若し其額にして多きに過ぐれば、人の勞働の果實を奪ひ去る不正の行爲と爲るべく、又其額に幾分の不公平あらば忽にして土地占有の撰擇となり競爭となり獨占となること、毫も從前の?況と異ること無かるべく、要するに此説は所謂土地の不當増益（Unearned Increment）をして成るべく個人の?斷する所とならしめざる爲に、累進遺産税、累進地租又は所謂増價税（Betterment Tax）を徴收すべしといふ説に對し有力なる應援を與ふるに止り、最初其名の告ぐるが如き土地私有制の存在に反對するものには非ざるなり、

(230)　然らば他の二種の公有論は如何と言ふに、ウォレェス〔五字傍線〕の賠償説が國家の財政に大なる損失を與へ、到底一方に生ずる利益を以て之を補ふに足らざるべきことは暫く措て之を論ぜず、假に二者を合せ論ぜんに、若し全國の土地を以て國有又は地方團體の所有と爲さんに、如何に之を經營して地力の利用を完からしむべきか、今若し之を各人民に分割附與して無期限に使用せしむること恰も我が�ｺ川時代以前の田制の如くならしめば、殆と制限ある私有財産制と擇ぶ所あらざるを以て、勢之を以て有期の小作に附するか、然らざれば極端なる社會主義に於て説くが如く、土地を以て一體の公生産場と爲し、公吏を置きて之を經營せしめ、人民の雇傭的勞働を以て其生産に從事せざるべからず、公生産場は比較的狹き場所に集合し綿密なる規律の下に生産を爲すべき製造業に於ても、既に到底良結果を見ること能はざりしなり、況や地域の廣汎にして分裂の已む能はざる農業に於てをや、又有期小作の法を行ふとすれば、現今の小作の盛なる地方の　　状況と比して、地主が個人に非ずして國家なりといふの外、何等の異る所あるを見ざるぺし、何とならば、多數小作希望者の競爭に對し如何なる順位を以て土地を給すべきか、小作契約の履行に付き如何に之を監視すべきかといへば、國家は非常なる大地主なるを以て寧舊來の地主よりも煩雜なる干渉を爲さゞるべからず、若し一切の條件を寛大にして成るべく既定の借地者の便利を圖るとすれば、是亦終には今の土地所有者とさまで異らざる特權制度を保持するに至るべし、而して假に一歩を退き、人民は衣食足るを以て漸く禮節を知るに至り、公�ｺの發達の爲にさまで國の機關を煩すこと無くして小作關係の圓滿を期し得べしとするも、各人の借地農場は果して繁榮し得べきや否やは猶一の疑問なり、歐洲の公有論者の中には、獨乙國有地の小作農が近年滿足なる成績を擧げ得たりし實例を以て之に應答せんとする者あれども、此と彼とは固より日を同じくして語る可らず、現今獨逸の國有地（Domänen）は其地積狹きを以て政府は之に對して常に綿密なる注意を拂ふべく、且つ適當なる小作人を撰擇するの方法は具はれり、而して其小作人は概して豐富なる資本を備へ、生産の經營に適せる學識經驗を有するのみならず、其各農場の借用面積も亦大なり、小作人が獨立して幸福なる農業を營み得るには、資本の潤澤にして借地の稍々廣きを必要と(231)す、然るに元來全部國有論の起りたるは、多數の貧民が耕地を取得すべき途無くして、其不利なる地位に絶望せんとするに由り、之を救濟するの目的に出でたるものなれば、若し其趣旨を貫徹せんとするときは、とても各一人の小作に大なる面積の農湯を貸與すること能はず、假りに三分の一乃至四分の一の小作希望者が依然として舊の如く農を營むこと能はざるに終るは已む能はずとするも、人口の次第に増加するに當りては、何を以て之に應ぜんとするか、加之此の如き時々の占有者の變更は、爲に農村人口の移動を誘致すること今よりも烈しかるべく、現今の土地所有者が獨占排他の利益を有すると共に、一方には稍々其土地に拘束さるゝの實ありて、所有地所在の村落を以て安住の地とし、生活の根據とし、變更を好まず、政治上に於ては保守的の分子を形成し、一國平和の擔保者たるの地位は全く失はれ、農技術の進歩に對する大なる刺激物も消滅し去り、土地の粗收益純收益は共に舊の如く大なる能はずとすれば、國有論の提案は、現今の提案のまゝにては未だ其實行を強請するの資格無しと言はざるべからず、

　一國の經濟組織に於て、土地と人との關係は之を二の方面より觀察するの必要あり、第一は生産の要素としての人と土地との關係なり、人口の増殖は勞働の供給を増加するも、土地の數量は有限にして、領土の擴張を別問題とすれば、生産用の土地面積は、時代の進むと共に相對的には寧減少するものなり、從て特別に土地を要する生産業は亦比較的に次第に減退せざる能はず、第二には消費者としての人と土地との關係なり、即ち人口の増加と共に、有限なる土地の面積よりして愈々多量の貨物を生産するの必要あり、蓋し不足の已む能はざるものあらば、之を外國産の補充に須つことは、今の時代に於ては猶可能の事なりと雖、土地の生産物は概して最重要にして且つ最緊要なる需要品なれば、出來得る限は簡單にして安全なる内國の供給を以て之に應ずるの策なかるべからず、是に於てか自給を以て生産の標準とする舊來の細農制を改めて、農を以て一の獨立の生産職業と爲し、分業の理法に從ひ專門的に其生産方法の發達を計らしむるの必要あるなり、是れ昔日の日本の農政と現代の農政との間に、根柢に於て一の差別を存する所以なり、今の我國に於て患ふべきは農戸の數の減少には非ずして、各農戸が其職業の獨立に必要なる地積を占有し能(232)はざるに在り、即ち寧農戸の數の減少せざるを以て患とすべきなり、然るに國有論の計畫に從はんとすれば、土地の分割は却りて今よりも猶盛にして、到底職業としての農の發達維持を期すること能はず、勞働の過剰に對しては常に土地を以て之に應ずべからざるは已むを得ざることなれば、寧自然の趨勢に從ひ、職業の分化に由りて之が爲に適用の場所を供與し、唯生産額の増加と生産費の減少とを以て間接に土地所有者の利益を彼等の上にも分賦すべきのみ、

　土地の所有者が其特權を頼みて威壓を逞くし、土地を有せざる多數の人民を不安全なる地位に置くといふ斷定は人をして私有制度に對し殊に不快の念を抱かしむるものなり、然りと雖現今の開明諸國に於ては是れ少くも非常なる誇大の言なり、何とならば所有者と借地者との間の契約は多くの場合には公平自由なり得るものにして、法律の力は又借地者の權利を其程度に應じて保護せり、共有地の減少消滅は下級人民の生活に損失を與へたることは爭ふべからざれども、之を從來の?態に維持するときは、其利益の分配に付更に一層の不公平を生ぜしことを想像し得べく、加之一方には道路の改良公園の増設は必要なる社會事業と認められ、又學校寺院等一般人民の共同の便益の爲に使用せらるゝ土地を保存するを以て、今や多數の人民は生涯土地を有せざるの不幸を覺らずして過ぐることを得べし、土地の賣價及使用料の額も、概して言へば、當時の純收益と普通の金利率とを以て計算の基礎と爲すものにて（收益價格）、若し地方の?況に由り或は競爭の極此以上の對價を徴せらるゝこと有りとせば、地主の獨占的勢力は無論之に與りて力あるものなれども、尚此外にも適當なる勞働の配賦と勞働者の智力の開發とによりて之を救濟し得べき場合少しとせず、且つ又一方には地力評價法の進歩に由るときは、有期土地使用者が交替の際に被ぶるべき損失は大に之を防衛し得べく、更に職業、住所の自由が法律上竝に經濟上より、より多く保護せらるゝの時至らば、現在の小農の苦痛の如きは、必しも所有制の全廢を須たずして之を消滅せしむるの望無しとせざるなり、然れども土地が往々にして直接の使用者以外の者の所有に屬すといふことは、處分自由の法制に伴ふ一の弊害にして、同一地積の生産によりて、地主と小作人と二戸の家族の生計を支へしむるは、國民勞力の配賦の點よりいふも、職業の獨立を計るといふ點よりし(233)ても、共に面白からざる現象なり、日本の農業には殊に小作増加の兆あり、資本の貸借に於ても其結果坐食の人民を生ずといふ批難は免かる能はず、過去の勞働の餘力に由りて養はるゝ稍々長き休息時間なりといふ道義上の辨明は、土地と資本と二者異るもの無きが如しと雖、猶他の方面より比較するときは其間又一の區別無しとせず、何となれば（一）資本は數量に於て限度無し而して土地は然らず、（二）現今の生産組織に於ては、個々の人の蓄積する所の資本は之を集合して始て效果ある場合稀なりとせず（例へば株券、社債等）、之に反して土地の貸付は大抵集合の必要なるが爲には非ずして、却りて分割の結果を生ずるものなり、語を換へて言はゞ、人的原因を除くの他、土地は其所有者の直接使用に不適當なる場合甚少きなり、即ち土地貸借の制限は少くも資本貸借の制限よりは、より多く可能なり、苟も一般の國民經濟の爲に利益なることを認めば、耕地の所有權は成るべく〔四字傍点〕農業者の手に屬せしむるの計を立つべし、其方法としては地方團體の介助によりて所謂地代買取法を行ふが如き、又は累進登録税累進地租其他の手段を以て土地の兼併を防止するが如き、決して二三に止らざるべく、而して或程度まで此目的を實行する爲には、必しも私有制度を變革するを要とせざるなり、

　思ふに均等なる分配は毎に幸福なる分配なりと想像するは誤なり、土地の如きも之を公有とし希望者の全部を滿足せしめんとすれば、殆と其效用を無に歸する迄之を細分せざるべからず、而も今の土地希望者の趣旨は今の所有者と同じき利益ある地位を得んとするに在りて必しも絶對的に其所有を欲するには非ず、若し此の如く細分したる土地を附與せば、彼等は久しからずして其不必要を感ずるのみならず、更に其不便を訴ふるならん、幸福なる富の分配が之に由りて求むべからざるや明なり、況や外國の競爭に對し經濟的獨立を維持し、一國富源の利用を完からしむる爲には、農業を以て鞏固にして且つ快活なる一職業たらしむるの必要あり、此手段として予は寧或制限の下に現在の私有制を保存し利用することの適當なることを信ずるなり、蓋し所有權を以て絶對にして且つ神聖なりとする思想は既に過去に屬せり、一國の政策は之を論議するの資格無しといふことの誤なることは最早之を信ぜざるもの無し、私有制(234)を維持するの力ある國の立法權は、又之に對して必要なる制限を加ふるの力あり、而して農用土地に對する其制限の程度範圍如何は我等の學問が研究せんとする所なり、

　處分自由權の發動として最著しきものは人力に由る物の消滅なり、土地の面積は性質上破壞すべからざるものなれども、その用法に從ふ性質は人爲を以て之を消滅せしめ得べし、我國の現行法に於ては之に對して何等の制限を設けず、唯田畑を抛擲して荒蕪と爲し又は之を變更して價値の劣れる土地と爲したる後は其地租の減少を請求する爲之を政府に申告すべきのみ、此點は各所有者の利己心に一任するも不可無しと認めたるが爲なれども、若し假に英國の例の如く一方には之を變更して不生産地又は生産力の劣れる土地と爲す富者ありて、他の一方には土地の需要を滿たすこと能はざる多くの人民有りとせば、之を所有者の自由意思に放任することは時としては有害又は危險なることもあるべきなり、併しながら生産力の増減は所有者各自の計算に從ふの他なきを以て、多くの場合には之に對し適當の干渉を爲すこと困難なり、我民法に依れば、物が遺棄に因りて無主物と爲ることは動産に付きてのみ之を認む、是れ思ふに遺棄は常に主觀的無價値に基くものなりとし、土地は如何なる場合にも價値を失ふこと無しとする爲ならんが、有害なる抛擲は之を遺棄と同一視するは寧相當の事なり、所有權に就きては消滅時效を認めざるが如きは其立法の趣旨は極めて單純なれば、將來土地の必要の度が愈々加はるに至らば先以て改正せらるべきは此點に在るならん、

　土地の分割に關しては我が民法には特別の規定を設けず、凡て動産と同一の規定に依らしむ、物の共有は一般に其利用を障碍するものなりと認められ、五年以上の不分割契約を爲すことを許さず（民二五六）、而して不分割契約の爲に拘束せられざる限は共有者の一人の意思は物の分割を遂行するの力あり、唯之を爲すことを得ざる場合は物の性質上分つ能はざるか、又は裁判所が現物分配を以て共有者の爲に不利益なりと認めたる時のみ（民二五八）、土地の分割は性質上可能にして、多くの場合には著しく價格を損ずるの虞なければ〔著し〜傍点〕恐くは常に分割さるゝならん、我國には共有の原因と爲るべき慣習又は法律の規定は多からず、共有の性質を有する入會地は特に所在地方の慣習に從ひて、(235)必しも分割するを要せざるなれども、今となりては慣習を證明すること困難なれば、多くは又分割に歸するならん、單獨所有者の場合に至りては、土地の分割は絶對的に自由なり、而して其立法の趣意は假令之れを各當事者の意見に一任すとも、價格の減少は自ら經濟上の制限となりて極端なる細分を見ること無かるべしといふに在り、然れども個人の私經濟上の判斷は必しも國民經濟上の判斷と一致せず、殊に過小農の増加竝に兼業農の増加が農業の進歩を障碍するの弊ある時代に際し、政策を以て其傾向を抑止し、活?にして發達に適せる中農を養成するの必要ある場合には先づ着眼すべきは分割自由に對する法律上の制限なり、西洋諸國の農政に在りては夙に土地區劃の最小限を定むべしといふ説あり、例へば一八五四年制定のバアデン〔四字傍線〕公國の現行法にては耕地は四分の一モルゲン〔四字傍線〕原野は十モルゲン〔四字傍線〕より小さく之を區劃することを許さす、此制度に對しては種々の批難無きに非ず、其主なるものを言へば、財産の自由に制限を加ふるは必要已む能はずとするも、現今の如く頻繁なる土地の移轉に付き、一々警察的の監視を保つことは、其勞と費とに堪へざるのみならず、又公平に其目的を達するを期し難し、且つ土地の種類に付き一々限度を異にすべきは勿論、市街地附近其他交通の便利なる地方と、山間僻陬の地方との間にも、限度を二三にせざるべからず、又經濟上の?況も時々刻々に變遷するものなれば、如何に機敏に之に應ぜんとするも、到底人力の及ばざるものあるべく、加之此等の限度たるや大抵國が許し得べき最低限を示すものなるに、之を許す以上は却て多くの土地の區割をして非常に法律の限度に近接せしむるの結果を生ずるかもしれず、要するに當初の目的は十分に達せられずして徒に人民を束縛するに至るべしと言ふに在り、而して農民は餘力ある毎に普通其附近の土地に放資するの慣習あるものなれば、此傾向は能く土地細分の弊害を調和するに足り、必しも所有者の自由を制限するを要せずと言ふ者あり、併しながら土地は之を自然の需要に放任するときは、未だ決して其分割の傾向を停止すること能はず、而も分割の極めて容易なるに反して、其場合は最困難なるものなり、所有地單位の小なることは必しも大中農の行はるゝを杜絶するものには非ざれども、普通小農又は細小農を發生せしむる最大なる原因は是なり、殊に我國の如く耕區の散在に由りて生産費(236)の大部分を徒費するものに在りては、少くとも農用土地に付きては、適當なる方法を以て其細分を防ぐは、所有者の爲にも亦其永遠の利益を保護するの途なり、

　土地細小面積の限定は勞働を施すに適當なる大さの耕區を保存するを以て其主たる目的と爲すに反して、相續其他の場合に於ける分割の制限は此上に猶大なる一の目的を有す、即ち農業を營むに必要なる土地の大さを保存すること是なり、語を換へて言はゞ、農業者をして其職業の獨立〔六字傍点〕に適當なる土地を占有し得せしむることなり、農民が自ら其耕地を縮小することは或は之を各自の自由計算に任ずるも可なりと雖、相續によりて不十分なる土地を得たる者に至りては、一方には是れ有るが爲に却りて進取の氣を阻み、退きて之に由りて農を營まんとすれば又之のみにては生活を支ふるに足らず、其結果小弱なる多數の小農を作るは極めて不幸なる現象と言はざるべからず、されば獨佛其他分割相續法の認めらるゝ諸國に於ては早くより土地に關して特別の法制を設け、相續人中の一人は他の共同相續人に賠償して被相續人の有せし土地の全部を取得することを得せしむ、之を特定相續法 Anerbenrecht といふ（此制度に對しても近代の自由財産主義の影響は極めて明白にして、最初は特別の表意無き限は凡て此法に因りて相續せしむるが常なりしに、後には之に由ると否とは被相續人の明示の撰擇に任せ、若し表意なきときは之を適用せぬことゝせり、或は新に此制度を廢罷したる國も多し）、我國の相續法は始より單獨相續制を認め、戸主に屬せし財産は動不動を論ぜず總括して長子又は其系統に歸す（家督相續）、被相續人は唯其遺言又は生前處分に由り其財産の一部分を以て他の者に附與することを得るのみ、家族の財産の相續（遺産相續）は家督の場合と異り諸子に均分するを以て原則とすれども、土地は多くの場合に於ては戸主の財産なるを以て相續によりて土地の細分することは我國に於ては未だ甚多からざるべし、併しながら是唯偶然の結果にして、我國の相續法は必しも農業政策學上の見解に基きて制定せられたるものには非ざるべし、其家督相續の別によりて家の結合存立を確保し財産の分散を防ぎたるの點は、寧大に所謂世襲財産制の趣旨と一致するものなり、

(237)　世襲財産制は多くは長系相續制と相伴ひて行はる、最初此慣習の起りたる理由は極めて單純なり、即ち父の死亡に由りて公務の履行に差支無からしめんが爲（客觀的必要）にして又家の地位と勢力とを維持せんが爲（主觀的必要）なり、封建の時代に於ては財産の分割は直に勢力の分割を意味せり、而して土地以外の財産は未だ重要ならず且つ其獨立を確保すること困難なりし爲、世襲の目的と爲りしものは主として土地なりき、此制度により利益を受くることを得又受けしむるの必要ありしは貴族なり、近世に至りても此沿革に基き、且つ舊家の家名を保存せんことを希望する者に對し猶、此權利を附與し、大地主の所有地に世襲財産法を認むるものあり、我國の華族世襲財産法（一九、勅）の如きも亦其一例なり、此法に依れば田畑山林宅地等の不動産竝に公債其他權利の明確に且つ永續する債權にして純收益五百圓以上のものは、之を所有する華族戸主年二十以上のものゝ意思表示に依り之を世襲財産と爲すことを得、世襲財産は家督相續人の外之を相續すること能はず、之を他人に賣買讓與し質入書入すること能はず、又後の所有者の意思を以て之を廢止すること能はず、唯其純收益の三分の一以内を限り之を擔保として負債を爲すことを得るのみ、而して男子家督相續人の曠缺、失爵、除族及條件消滅の場合にのみ始て普通の財産の性質に復するなり、

　世襲財産制の作用は徹頭徹尾消極的なり、所有者の極端なる零落を防ぐといふ點に於ては盡せりと雖、一方には其經濟的活動を拘束すること少小に非ず、土地又は有價證券の換價竝に書入の不能なる爲に職業の撰擇を不自由ならしむるは勿論、土地は現在の?態にては其面積稍々大なるときは之に就きて自ら農業を輕營することも亦不能なり、故につまる所此制度は所有者をして徒食の民たらしむるの他なきなり、而して其一般社會に對する害は更に家に對する害よりも大にして、其弊害は世襲土地の面積が増加するに伴ひて愈々加はるべきことも亦論を須たずとす、家督相續の法も特定相續の法も共に十分に相續人が農を營むに適する者なりや否やを吟味する能はざる點に於て、多少之と共同の弊害を免るゝ能はず、要するに相續に關する現今諸國の法制は單に所謂耕地整理の事業と相待ちて、中農以上の農場の發生する機會を多くすといふに止り、未だ全く生活力に乏しき細小農の階級を消滅せしむるの力なきことは勿(238)論なり、我國現今の純地主の多數は寧此種の相續制に因りて養成せられたるものなり、

　然れども小作農の發生には猶他の原因を擧ぐることを得、即ち公共團體寺院其他の法人が土地を所有すること是なり、町村の財産として舊來の共有地を保存し且つ擴張することは我國現今の地方行政の一の方針なり、此等の町村有地は概して森林又は原野なれども、其一部分を農業的に使用するの時代は遠からず來るなるべし、國有の耕地は全部の土地國有論とは離れて適當なる事業なりと認めらるゝものゝ如し、所謂「死人の手」に土地の所有せらるゝの可否は又別の問題なりと雖、多少の小作農の存在は私有制の下には終に免かるべからざるものなり、是に於てか小作に關する法律の制定如何といふことは、農政學上に重要なる問題の一を爲すに至れるなり、

　從來漸進派の地制改良意見と稱するものに二説あり、時の順序よりいへば、小所有地の發生を奨勵し、天下の農業者をして悉く所謂地持小農たらしむるを以て理想とするものを第一説とす、此説は農業に於ける自然經濟の組織を前提とするを以て、純然たる農業國なるもの若し有りとせば或は之を行ふを得んも、非農業者の階級の増加と共に交易の機運が田舍を風靡するの時代には到底存立すべくもあらず、殊に精巧なる機械を適用する大農國の産物と競爭して尤困窮するものは所謂地持小農なり、次に第二の説は第一説に對し稍々反動の氣味を帶びたる大農説にして、殊に農業者が土地所有者たることを必要とせざる等、全然前者と正反對のものなり、此説に由れば土地は寧少數の大地主の手に集合せらるゝを可なりとし、國家の力は單に完全なる小作契約法を制定するの方面に向ひて活動し、之によりて資本に豐富なる大借地農を養成し、以て工業的經營法を農業の上にも適用すべしと言へり、此説は多くの點に於て批難すべき餘地あり、殊に經濟上の民主主義の趨勢は漸次其力を加へたる今日、大地主の獨占的地位に對する反抗は、到底此説の實行を許さず、されば、大農法の最良模型と稱せられたる英國の大地主制すらも、今や其希望の大半を失へり、而して諸國の事情は多少の等差はあれども、究竟する所此二説の中間に於て、其農業發達の根據を求むるの他無きものゝ如し、蓋し大小農の可否得失の如きはとても絶對的に之を斷定し得べきものに非ず、一國の地位と時代と(239)に伴ひて、其適度の區々たるべきは復論ずるを要せず、甲の國に於ては所謂自由土地の主義を極端に行ふを要すると同時に、乙の國に於ては分割の自由を制限して、相續法は元より賣買貸借の上にも猶一層の干渉を行ふの必要あることも有るべく、必しも一定の法則を以て萬國を率し難し、是れ農業政策學の殊に國民的 national なる所以にして、我輩が其特別の研究を唱ふる理由も亦茲に存せり、さて我が日本に於て最希望すべき農經營の大さは如何といふ問題は、予が此より其一端を説明せんとする所にして、此理想に到達するが爲には如何なる制限を以て土地私有制に加ふるを可なりとするかといふことは、國家が吾人に對して提出する最眞面目なる問題の一なり、

　

　　　　　第四章　農生産増殖策

　

　發達する國家に於ては、農産物の總額の増加を力むることを以て、其最大なる任務の一と爲さゞるべからず、現世紀は勿論上代の國家に於ても「國の領土」なるものは、其經濟的意義を離れて之を想像すること能はず、而して土地直接の生産は領土の機能の最主要なるものなれば、從て、土地利用法の進歩は人口の増加と併行して國の成長の必然的徴候を以て目すべきものなりとす、然るに從來農産總額の増加は必ず平均生産費の増加に伴ふべきものなりとし、一國の農法の集約に赴かざるべからざるは、供給の不十分、市價の騰貴に因りて促さるゝ不幸なる現象なれば、土地の利用が未だ完からず、農法の粗笨なる　　状態は、寧有望なる未來を有するものなりとするが如き説あり、此説やリカルドオ〔五字傍線〕の法則に基きて極めて狹隘なる演繹を爲したるものにして、少くも現在の如き土地財産制度の下に在りては當らざる推論なり、されば歴史の事實に徴するも反對の例證は多く、殊に世界的通商の行はるゝ今日に在りては、所謂耕境の移動は必ずしも農産物市價の一高一低によりてのみ左右せらるゝものには非ざるなり、

　リカルドオ〔五字傍線〕の法則の完全に發現するは、全國の農業者が最優等にして明敏なる智力により、全社會の情勢を通察(240)比較することを得、且つ土地が其生産力に於て明白なる段階を有する場合に限るなり、而も猶農法の變遷、交通機關の發達は常に土地の等級的關係を複雜ならしむるを以て、如何なる場合にも耕地の増加するは毎に報酬遞滅則の發現に基くものなりとはいふ能はず、殊に一旦増加したる耕地の面積は、大抵の事情にては再減少すること無きは吾人の目撃する所なり、

　我國現在の?態を觀るに、農産額の増加は年々人口の増加と歩調を同じくする能はず、最近數年の間に於て、次第に其不足の度を加へつゝあるものゝ如し、明治三十一年より三十五年に至る五ヶ年の間に、米の輸出は二百五十餘萬石にして、輸入は九百三十萬石、麥類の輸出は二萬八千石にして、輸入は十九萬石、豆類の輸出は三萬七千石にして、輸入は四百萬石以上なり、即ち五ヶ年を平均して一年の輸入超過は米百三十萬石、麥三萬二千石、豆九十萬石なり、而して年々の豐凶の影響を離れて觀察するも、次第に輸入を増加するの傾向あり、又衣服の原料としては綿及綿絲の輸入あり（綿三百萬擔、絲二百五十萬斤）、其一部分は製品として再輸出せらるれども、國民の消費する所のものも殆と皆外國産なり、又絹絲、絹織物には巨額の餘剰あれども、其代りには殆と一切の毛布は凡べて源を輸入に仰ぐものなり、輸入品の或物は風土の適不適等の原因より、國内の供給を望み難きものあらんも、少くも食料穀物に就て言ふときは、現在の不足は之を未來に於て補充しうべきものなり、

　食品の一部分を外に仰ぐの危險は、世の軍國的觀察をなす者が最盛に唱ふる所なり、然れども此説には反對も少からず、又國土の狹隘にして、地力を以て國民の全部を養ふこと能はざる場合の如き、稀なる戰時の爲に計りて、常に不利益なる農業を保護するが如きは、必しも賛成すべきことに非ず、唯土地の餘力が猶豐に存するに利用の途を講ぜず、一時の市場の形勢を以て動かすべからざるものゝ如くに考へ、一般に保守的なる農業の因習上の?態を繼續せしめんとするは抑々亦誤れり、されば我國の如く農産額の不足を訴ふる國に在りては先づ何故に生産の進まざるやを考へ、次で其原因に就きて障碍を排除し、便宜を助長するの方法を發見すること、即ち本章に説かんとする生産政策の(241)問題は殊に緊切なる必要を有するものあることは今や人の之を疑ふものなきなり、

　さて等しく生産の障碍と稱せらるゝものゝ中にも、種々事情を區別して考へざるぺからず、新なる生産費の増加が從來の總收益と同じ割合を以て收益を増加するに足らざる場合は是れ所謂遞減則の發現せる場合なれば、恐くは一旦増殖を斷念して、徐に農學の進歩を待つべきこともあらん、然れども農業者が單に因習に拘泥して擴張の途あるを覺らざる場合も無きに非ず、又同じく純收益の割合の減退を虞ふる場合なりとも、生産費の支出は必しも全く之を省略しがたきものゝみに非ず、生産費の中には種々の元素あり、例へば地租其他の公課の農地の負擔となるものは之を減免するの法あり、資本の利子は特別なる信用機關の設立によりて現に著しく低減し得るの望あり、又新に他人の土地の所有を取得せんとするときは、現今の自由契約制の下に於ては殆と純益の大部分を以て、地價借地料に充てざるべからざる事實あれども、國竝に私人の計畫にかゝる多くの制度は今の自由財産制の下に於ても、之を匡正し得ざるに非ず、此等の方法の一部分をも試みずして説を立つるが故に、今の農業保護論も、又其反對説（國内農業の憑むに足らざるを唱ふるもの）も共に根據の薄弱なるを免かれざるなり、

　予は先に農業政策の目的に生産と分配との二方面あることを述べたりしが、此二つの者は必しも相矛盾するものには非ず、寧多くの場合に於ては、一國生産總額の増加は同時に個人所得の増加なり、個人をして各々其生産を改良せしむることを得ば、國の生産政策は兼て其目的を達するものなり、國家の政策にして、若し私人の判斷と計算とを無視するが如き嫌あらば、假令百年の計としては萬全のものなりとも、之を實際に行ひ難きや論なし、而して人は最自己の利益を講ずるに敏なるものにして、少數の懶惰無頼の徒を除けば各々皆孜々として生計の爲に力むるに、何が故に此間に國家の立法行政を煩すの必要あるかと言はゞ他無し、人の智慧は神を去ること遠く、迷あり誤ありて、不知不識不利益なる行爲を爲すこと多ければなり、されば之に關する經濟政策は取分け開發誘導を以て主眼と爲し、直接又は間接に教育的の方法を用ゐ、終には人民をして強ひずして自ら到るの境（自助）に達せしめざるべからず、強力(242)なる警察的の命令、又は露骨なる奨勵金の制度は、效少くして弊多ければ、緊急にして必要なる場合の外は力めて之を避くべきなり、唯所謂農事奨勵の必要は、大農の行はるゝ國（又は地方）に於てよりも、中小農の多き國に於て遙に大なることは自然の理にして、日本の如き智識の普及せず、地方の人民が一般に舊慣を尊重するに過ぎたる國に在りては、生産増加の必要が目前に迫れる時代には煩雜なる各種の法規の施設を見るも亦幾分の理由なしとせざるなり、

　茲に生産増殖策といふ語には、積極消極の二方面あり、即ち生産費を減じ又は生産量を増すを目的とするものと生産費の増加を防ぎ生産額の減退を防ぐものと是なり、今の通用語にては之を總括して農事改良といへり、農事改良は別に之を區別するときは、土地の改良と方法の改良と品種の改良との三つとなる、農事改良に由りて國及個人が得る所は必しも數量の増加のみに非ず、品質の改良、種類の増加の如きも、今の經濟組織に在りては同じく富の増殖にして、從て之に反對する現象を豫防するは皆消極的生産政策の目的なり、

　生産の多少は常に土地資本勞力の三要素の多少に由ることは既に人の知る所なり、殊に土地は農業の爲に最主要なる機能を有するものにして、他の二の者の效力は?々土地の爲に制限を受く、而して土地は其性質上有限のものなれば、生産政策の努力も亦一の終極を有するに似たり、然れども土地の増加は必しも原野又は、荒蕪地の開墾のみに止らず、各種の土地改良によりて品質的に其生産力を加ふるを得べし、此等の事業は多く資本と勞力との力を假るを以て、地域占有の爲に必要なる資本即ち土地買入資金と合せて近世の農業に於ては資本及勞力は次第に重要の度を加へ、生産の問題は多くは資本利用法如何の問題に歸着するに至れり、

　農用地積の増加は、我國に於ては今尚多くの望あり、開墾は古來何れの政府に於ても之が奨勵策を採らざる時代なく、常荒を恢復し、草野、寄洲を開拓するもの比々として其人有りきと雖、二三の障碍有るが爲に未だ十分に普及せず、其障碍の主なるものは、農民が米作を重ずること及び開墾者の資力足らずして規模を大にすること難き等是なり、此爲に水邊其他卑濕の地を使用し終ると共に一頓挫を來し、偶々新に水路を通じて大面積を拓く者あるも、次で起る(243)者少かりしなり、北海道の拓殖に於ても小規模の開墾者を招致せんとするを以て、所謂適耕地の區域に著しき制限を受け或は農以外の企業者の大開墾を爲さんとする者あるも、亦小作移住者を得難きが爲に利を見ること難し、

　近年耕作物の市場の好景氣なるにも拘らず、耕地の増加は極めて微々たり、

　　　　　○耕地面積の増加又は減少　　　　　（單位千町歩）

　　　　　　　　有税田及畑　　　　　　　新開及荒田畑（減免税地）　　　　計

明治二十七年　　　五、〇二九　　　　　　　九三　　　　　　　　　　　　五、一二二

同　二十八年　　　五、〇三七　　　　　　　九三　　　　　　　　　　　　五、一三〇　

同　二十九年　　　五、〇〇九　　　　　　一一〇　　　　　　　　　　　　五、一一九

同　三十年　　　　五、〇二一　　　　　　　九五　　　　　　　　　　　　五、一一六

同　三十一年　　　四、九九二　　　　　　一一九　　　　　　　　　　　　五、一一一

同　三十二年　　　五、〇三一　　　　　　一一八　　　　　　　　　　　　五、一四九

同　三十三年　　　五、〇六四　　　　　　　九八　　　　　　　　　　　　五、一六二

同　三十四年　　　五、〇八二　　　　　　　九〇　　　　　　　　　　　　五、一七二

　開墾の増進は是非共一般土地利用の進歩に待つ所なかるべからず、例へば町村有の原野は未だ一般に農の爲に貸付られず、又所謂土取場草刈場の如きも、從來肥料採取所として缺くべからざるものなりしも今後は金肥を以て之に代へ、他の目的に其土地を利用することを得べく、又市街地附近の平地には薪炭産地の存するは已むを得ざるものなれども、殖林方法の改良、交通の發達は其土地の幾分を割きて一層有利の用に供せしむるに至るべし、而して此轉用の爲に最大なる妨となるものは、所謂土地投機者の占有なりとす、

　現行の鍬下年期の制は開墾費の間接の助勢なれども、既に小規模の開墾によりて、効を奏すべき土地の減少したる(244)上は能く目的を達すること難し、機械の應用によりて一時に大面積の耕地を得せしむるには之に必要なる資金を低利長期を以て供給するの途を講ずるも無論有益なれど、之に先だちて土地の缺乏を感ずる多數の小農の間に組合を設けしめ、共同の事業を以て開拓をなさしむるは目下の急務なり、何となれば世の所謂企業家が其注意を開墾に向くることは、近き未來に於て之を望み難きのみならず、法人又は大資本家の地主を作るは、徒に小作の關係を複雜ならしむるの嫌ありて好ましからざればなり、

　耕地整理法（明治三二、法八二）は近年の立法に係るものなれど、其普及稍々著しく結果も亦頗有望なり、耕地整理の目的は土地の分合交換にあり、前に、も言へる如く、我國の耕地は到る處細少なる面積に區劃せられ、多くの地主の所有地は互に相錯綜して、田畑の形　　状方向は勞作に不利益なるもの多く、無用の畦畔地は從て亦甚多し、而して之を改良するには個人の獨力に由ること能はざれば、法律は同一地區内に於ける土地所有者の合同を奨勵し、一定の形式を具備するときは、其變更したる土地建物に付き登録税を免除し、増加したる土地の反別に對しては別に地租を増課せず、且必要ある場合には總數三分の一以内の所有者を強制して、組合に加入せしむることを得せしむ、又國有の道路溝渠堤塘は任意に之を私有地と交換することを許し、其他一般の土地と雖、必要ある場合には所有者の意思に反しても、之を整理地區に編入することを得せしむ（但例外あり）、

　耕地整理の利益は地域の大なるに從ひて愈々著しきことは言を須たず、土地の分合交換は少數所有者の間に在りては之を完全に行ふ能はず、而して事業の進行に對する障碍は大地主が勢力を振ふこと土地所有者が土地の交換を避けんとすること、及法律上の手續の煩雜なること等にあれども、近來地方の官廳は自ら手を下し當事者を誘導勸諭し又は費用及事務に付て、補助する所あるを以て、次第に成績を擧ぐるに至れり、唯地主が從前の基地を去るを欲せざるを以て、所有地の錯綜は整理完了後と雖未だ十分に之を免かるゝこと能はざるを憾とす、

　土地の分合交換の效果の第一は畦畔の省略なり、今若し同一土地所有者に屬する土地が相接するときは、役畜機械(245)の應用が進歩すると共に、次第に畦畔を撤し、有用面積を擴張することも容易なり、第二には、耕地區劃の整頓なり、維新以後道路鐵道水路等の工事頻繁なるを以て、田畑の形?が殊に不整となりたることは、常に吾人の目撃する所なり、而して之が改良により生産力を改良せんとするには、亦先づ土地の交換を爲さゞるべからず、第三には耕道溝渠の改修なり、長き年月の間に自然に作られたる新道溝渠は、多くは屈曲して不必要に廣き面積を占む、之を整頓して直線ならしめ、且つ田畑の形?を改良して成るべく其一面を道路に接せしむることを力むるときは、道幅溝幅は前よりも、廣くしても、猶多少の有用面積を剰すことを得べし、次に耕地整理の費用は大部分人の勞力に對して支拂はるべきものなれば、若し整理組合員が農間に際して、自ら其勞力を提供するならば、爲に著しく費用を節約することを得べし、

　現今各地方の耕地整理組合が、之と共に灌漑排水の事業を同時に計畫するは、極めて適當のことなり、畑地を變更して田と爲すことは、畑作の未だ進歩せざる時代に於ては、又猶土地利用法の一進歩なり、畑地牧草地の灌漑は亦必要なる改良法の一なり、排水の事業はその發達灌漑事業に比すれば遙に遲く、近世に至りて之を説く者始めて多し、水田の排水は目下の急務にして我國の土地生産力を増加すること之に過ぐるもの無しとす、水利事業の利益は個人經營に由るも猶之を認め得べき場合多しと雖之に關しては私人間の利益最衝突し易く高地の排水は或は低地をして卑濕に苦しましめ右岸の灌漑引水は左岸の缺乏の原因となる場合多く又小規模の改良は時としては全體の爲に有害なるものなしとせず、古來何れの國に於ても、早くより國の事業として水利の改良を企つるは必しも費用の點のみに基するには非ず、全體の?況を通觀して根本に就て改良を施すべき必要あるを以てなり、耕地整理組合に於て計畫せらるゝ水利工事も、猶亦時として耕地者の反抗を招くこと無きに非ずと雖、事業の規模が大にして利害を共同にするものが其數を加ふるに從ひて、之に對する障碍は次第に減少すべきなり、故に法律は耕地整理組合が其機會を利用して排水灌漑の工事を企つるを妨げざるのみならず寧之を奨勵して一擧兩得の策を講ぜんとするなり、

(246)　共同水利事業の他の一種は市町村、町村組合又は水利組合にて行ふ所のものなり、用惡水の工事は必しも農業の爲のみならず、一般に居住民の便宜又は土地の利用保護の目的に出づるものなれば、普通は市町村又は町村組合の執行すべき事務なれども、若し利害の共通なる區域が市町村の區域と同一ならざる場合に於ては、水利組合條例（明治二三、法四六）は、之が爲に特殊の公共團體の存立を期し、市町村と同じく公法人の人格に由り、費用を徴收支出し、時としては公債を起して之に由りて事業を行ふことを得せしむ、之を名づけて普通水利組合といふ、例へば同一の河水、溜池等を引用する者、同一の溪谷に居住する者は、町村の區域に關係なく共同することを得れども、同一町村の住民にても一の丘陵を隔て又は著しく地盤の高低を異にする者の間に於ては、少くも水利に關しては利害の共通なるもの存すること無きを以て此の如くして水利組合を設けしむるなり、而して目的の認定即ち組合設立の必要に付きての判斷は其一部を各土地所有者の集合的意思に讓り、國は必しも之を強制せず、唯一旦必要ありとして之を設立せしめたる以上は、一方には之に對し諸種の便宜と保護とを與ふると同時に、其事業竝に財政に關して嚴格なる監督を爲すなり、

　普通水利組合は其組合員として其區域内に在る一切の土地の所有者を包含するものなれども、之に由りて最多く利益を受くべきもの、即ち組合設立の必要を最速に感ずる者は田畑の所有者なり、從て水利組合の事業の效を奏することは、多くの場合に於て農生産増殖の目的に合するものなり、市町村又は水利組合の共同水利事業が、耕地整理組合の水利事業と異なる點は後者が改良工事の終了と共に解散する一時的の組合なるに反して、法人として財産を獨立し、單に排水灌漑の新施設を共同にするのみならず、其前後に於て用惡水路其他の水利機關を維持管理するの目的を以て、永遠の生存を繼續するに在り、一旦の工事は完美するも、外界の事情の變動に適應して隨時に規模を修正し且つ天災人爲に基く頽破を防衛すること能はざるは耕地整理組合の弱點なり、然れども水利組合に於ても亦平常の小事務に追はれて、根本的改良に着眼するの餘裕無き點は、耕地整理の組合が、利益の顯著なる他の工事と併合して之を行ふが(247)爲、設計及作事に要する勞費の負擔を感ぜしむる比較的輕微なるに比すれば、大に劣れりと言はざるべからず、既に土地改良の效成の擧がりたる後は兎も角、普通我國の耕地に於て見るが如き不完全の?態に於ては、水利組合の入費は或は極めて不經濟的に彌縫姑息的に使用さるゝの嫌あり、要するに市町村、町村組合又は水利組合に於ける共同事業が、區域設計等の凡ての點に於で、耕地整理の組合と何等の聯絡をも有せざることは、大なる不利益なりと言はざるべからず、

　水利改良の效果は直に農産物の産額の上に於て發現し、多くの場合に於ては頗有利なる資本の利用方法なるにも拘はらず、共同の事業の起ること未だ盛なる能はざるは別に又一の理由あり、前記二種の組合は共に土地所有者の合意を以て成立の要件とし、土地所有者以外の組合員を認めざるものなるが、小作に付したる土地に至りては、地主が改良の利益を感ずることは稍々微弱にして、小作人にとりては理由の如何なるを問はず常に小作料の引上を喜ばざるの傾あり、故に地主に十分なる計算と決斷との力ある場合の外は、小作の盛なる地方は、勢改良工事の普及を見ること遲し、然らば小作人をもこの共同事業の一部に加擔することを得せしめば如何といふに、現今の慣行にては小作の期限短かきに過ぎ、且つ小作人の資力乏しくして、遠き未來の利益を計ることを得せしめず、故に之に對する策としては、地主小作人間の特別の契約を以て、後者をして工事の爲に農閑の勞働を提供せしめ、之に對しては或期間小作料の引上を爲さず、又は増加の率を低くし、自然に生産増加の利を覺るに及びて、漸次に改良資本の囘收を計らしめば則ち可ならん、

　土地に關する生産政策の消極的方面は（第一）面積の減少を防ぎ（第二）土地生産力の減退を防ぐに在り、尤必要なる土地改良を爲さゞること、例へば乾燥地の灌漑を力めず、又は濕地を天然のまゝに放任するが如きは、亦生産力を減殺すること大なれば、從て其改良の工事は殆と之を損失防衛の手段と同一視すべき場合も往々にして無きに非ざれども、普通地積及地力の減少の原因として目すべきは、時々の天變地異なり、毎年の作物に對する風害旱害蟲害火災(248)等は除き、永久の土地の生産力を減ずるものは洪水高潮等による氾濫、陷没の害なり、我國は地勢上洪水の危害甚多く之に基く年々の損失は少からず、

　　　　　　　○洪水に由る耕地の被害、内務省第十七統計表に由る、單位は町

（年次）　　　流亡せし耕地　　　年季荒（【恢復の爲に數年を要するもの】）　生毛損耗

明治三十年　　　一〇、五四七　　三八、二九四　　　　三六六、一一三

同三十一年　　一九四、四二二　　三〇、八六七　　　　六七三、五〇八

同三十二年　　　　九、八一八　　四四、二一五　　　　五二一、九一二

同三十三年　　　　一、九四七　　　三、〇九五　　　　一一四、二三〇

同三十五年　　　二一、二五八　　　三、七六〇　　　　四〇五、八九九

　水害の防衛に付ては個人の努力は殆と何の效をも有せず、一局部の堤防の破壞は其結果を廣大なる面積に及ぼすことあり、十數里の流域に亙りて同一の低地に居住する者は、常に共通の利害を有すれども、而も其區域の大に失するが爲に、却て共同の事業を企て難きものあり、故に河川法（明治二九、法七一）、砂防法（明治三〇、法二九）は全國の河川中損害の及ぶ所最廣くして、事業の費用の最大なるべきものを指定し、各其所在府縣をして其水害に對する豫防工事を經營管理せしめ、關係する所數府縣に亙るとき、其他必用と認むる場合には、中央政府自ら其任に當ることあり、而して之に要する費用は府縣全體をして平等又は不均一に之を負擔せしめ、其額の非常に大なるものは國庫之を補助し、又時としては自ら其全部を負擔することあり。

　利害關係の比較的小なるもの、即ち河川法等による指定以外の土地に於ては、水害の豫防は府縣以下の公共團體の任意の事務なり、而して其區域が市町村の區域と一致せざるものに在りては、此が爲に亦一の水利組合を設立することを得、之を稱して水害豫防組合といふ、水害豫防組合の組合員は、區域内に於ける凡べての土地家屋の所有者を網(249)羅し、此等の者をして共に其の費用を負擔せしむと雖、農地防護の手段としては、現今に在りては之を以て比較的完全なる機關なりとす、然るに水利組合の他の一種なる普通水利組合は、其事業を稍々永久的の方面に及ぼしたるものあれども、水害豫防組合に至りては各地共に概ね姑息彌縫にして、僅に急激なる危難に應ずるに足るのみ、是れ一は事業の未だ發達せざるに原因すとは雖、又物の性質上小部分の活動に適せざること、尋常排水灌漑工事の比に非ざればなり、況や個人の防衛の如きは水害に對しては殆と全く無能力なり、而し國家が之に代りて自ら保護の任に當るは必しも私人の利益の爲のみに非ず、兼て又必要なる國の事業なればなり、洪水の氾濫は其發現の豫測し難きこと、他の天災と同じけれども、方法の宜しきを得るものあらば其害を免かるゝを得ること、風害旱害等よりも遙に容易なり、されば水害豫防組合の設立の必要なる場合には、成るべく廣き地方を區域として十分なる資力を備へしめ、且つ其團結聯絡の周密なるを期すべく、次には各公共團體の工事を監督して、其目的に合せしめ、尚國自身に於ても、大局の地勢より判斷して、最適當なる除害方法を計畫すべし、森林制度に對する不注意が土地財産の上に及ぼしたる間接の影響は、近き過去に於て既に十分に之を經驗せり、今や國が四十八萬町歩の保安林の爲に地租の減少するを辭せざるは、其最大なる理由は實に水害の根本的豫防に在るなり、

　現時の農場組織に於ては、生産の要件は凡て生産費なる名稱の下に資本を以て之を計算するを常とす、此觀察點に從へば、土地の損失は即ち資本の減少にして、一方よりいへば生産費の増加、純益率の減少なり、外部の事情に基く危險の中には、到底人力を以て之を防止する能はず、少くも保險料の形を以て生産費の中に包含せらるべきものありと雖、其大部分に至りては、全く各人の智識注意の不完全なることによりて、之を助長し之を誘致するの實あるなり、されば人識發達の結果は、早晩此方面に就て國家の行爲を仰ぐの必要なき時代の到着するあるべしと雖、今の時に在ては決して之を各人の自由判斷に放任し難く、教育開導の漸進的事業の他に猶緊急の必要ありと認むるときは、別種の方法を以て目前の危險を減少すべき場合あり、

(250)　農が他の生産と異る最大なる特色は、その天然との交渉が頻繁なる點にあり、其結果として生産の上に及ぼす危險にも亦特種のもの多し、土地を滅失せしむる水害の外に、年々の作物家畜乃至は建造物器具機械等を攻撃して、生産の進行に障碍を與ふるものは一にして止らず、中に就て社會の進歩に伴ひて却て増進するの傾あるものは病害蟲害なり、交通が開け人里が相近接し、生産の機會が加はると共に、此種の危險も亦其機會を加へ、作物家畜が優等となれば、侵害に對する抵抗力は愈々減少す、而して此等の害毒は蔓延の勢甚盛にして多數の生産者は夙に其害惡を覺り之が備を爲すに怠らざる場合と雖、若し極めて、少數の人が不注意なるときは、一般の防禦は何の效も無し、我國には一般農業の盛衰に對して大なる利害を感ぜざる多數の耕作者あり、此等の者に對しては、尋常の説論勸解は其效大ならざるを以て、國は猶進みて其警察權を應用し、社會の爲に危險を防衛するなり、此目的の爲に制定せられたる法律を列擧すれば左の如し、

　　　蠶種檢査法（明治三三、法四五）

　　　種牡馬檢査法（明治三〇、法一二）

　　　獣疫豫防法（明治二九、法六〇）

　　　畜牛結核病豫防法（明治三四、法三五）

　　　害蟲驅除豫防法（明治二九、法一七）等

　蠶種檢査法に於ては、凡て賣買、讓與の目的を以てする蠶種は、法律に定めたる條件を具備し、且特設の機關（蠶種檢査所）の檢査を經ることを要す、之を犯す者は罰を受く、蠶種製造者以外の者が自家用とする蠶種と雖、單に檢査を要せざるのみにして、亦此條件を具備するを要す、種牡馬檢査法に依れば、毎年檢査を受け合格の證明を有する牡馬に非ざれば、之を種付に使用することを得ず、之を犯したる者は罰あり、獣疫豫防法に於ては、法律に定めたる種類の獣疫に罹り、又は其疑ある家畜は、或ものは警察官獣醫等の指揮に從ひ、或ものは地方長官の命令に由りて、(251)所有者又は管理人之を撲殺し、且つ之と觸接する物品は之を破毀するを要す、此物に對しては地方長官は三人の評價人の評價に基き其評價額三分の一乃至五分の四の手當金を付與す、若し命に從はざる者あらば、官廳自ら此處分を爲し且つ之に對しては補償する所無し、此他健獣との隔離、廢棄物の取扱等に關して綿密なる規定あり、之に違反したる者は、撲殺の命に從はざりし者と共に、亦處罰を受くべし、畜牛結核病豫防法に依れば、特に乳用牛種牡牛等に付ては、平目個々の飼畜者に就て健康診斷を爲し、病?の重大なるものは所有者に命じて之を撲殺せしめ、同時に二分の一以内の手當を給すること、獣疫豫防法に同じ、其他の牛は結核に罹り又は其疑あるとき、所有者をして之を屆出でしめ、亦此法を通用す、若し屆出を爲さず、其他取締の規定に違ひたるものは罰金の刑に處せらる、害蟲驅除豫防法は作用の危險に對する唯一の防禦手段にして、府縣知事は害蟲發生の兆候あるに際し、作人を指揮し、規律ある方法を以て其豫防及除害に從事せしむることを得、而して之に要する費用は利害關係を有する者より徴收し、其事業に必要なる土地の使用は、所有者之を拒むことを得ず、行政官廳の命令は亦罰金の規定を以て之を強行す、

　以上の他、此等の法律と同一の精神に基き、主務大臣は時々の必要に臨み命令を出すことあり、地方長官も亦各地特別の事情に應じて、危險豫防の爲に命令することあり、植物の病害は從來蔓延移動の少なかるべき想像を以て、之を恐るゝ事蟲害の如くならざりしが、實際に於ては其害毒の極めて猛烈なるもの少からず、殊に苗木種子の交換が盛に行はるゝに及びては往々にして新種の病毒を遠隔の地より運搬し來ること無しとせず、而も、我國にては、海口及國内各所の檢疫の如きは、未だ完備せざるもの多きなり、

　資本の増加は、耕地其物の増加と異りて、必しも常に生産の増加を伴ひ得べきものに非ざることは、上來説く所に由るも既に明なり、生産に對する多くの障碍は、資本の力のみにては之を排除し能はざるのみならず、或は却て農法の收約に赴くと共に、其危害の程度を加ふるものあり、併しながら單に此理由のみならば未だ農業に對する資本の増加を制限するを要とせざれども、他に猶一の注意すべき理由あるが爲に、資本の絶對の増加は生産の爲に不必要なる(252)ことあり、又時としては不利益なる場合すら無しとせざるなり、而して其理由といふは地積地力の有限なること、語を換へて言へば報酬遞減の法則に基きて存するものにして、農業活動の範圍が、之を適用すべき土地の數量によりて限界せらるゝ上は、之に投ぜらるゝ資本のみ獨無限に大なる能はず、其間自ら一定の適度ありて、若し之を超過する部分ありとせば、之に對する報酬の率は必しも急激に減退せざる迄も、之を農以外の投資方法に由る場合と比して、不利益なるを免れざるなり、而して此適度は各時代の經濟事情と、之に伴ふ生産組織の如何に由りて、無論一樣なる能はず、又之を明確に算定することは多くは困難なり、然れども現在の農業輕濟學又は評價學の智識に由れば、國内に尤普通なる大さの農場の?況を通察して、略々之に適當すべき資本の限度を知ることを得べし、

　農業資本の適度を算定するには、思ふに三の觀察點あるべし、一切の生産手段を凡べて資本に評價し、一定の耕地面積に對する總資本の額を見出すものは其一なり、一定の土地資本に對する輕營資本の割合を知らんとするものは其二なり、一定の固定資本（土地資本を包含せざる）に對する流通資本の適度を定むるものは其三なり、三者何れに由るも歸する所は同じと雖、元來土地の一切の價格を資本として計算するは、單に現今の農場簿記法に於いて便宜とするに留まり、完成せる耕地を新に購入するか、又は素地を開拓して農業を開始する少數の場合の外は、實際に適切ならざるの方法なり、而して經營資本に在りては、其固定資本と流通資本との間には、?々轉換流用を必要とすることありて、其境界を決し難きを以て、寧第二の點に基き一定の土地資本又は土地の面積に對する經營資本の適度を算出するを以て尤適當なりとす、

　併しながら我國に於ては、農業資本の適度を論じ其之を超過するを戒しむるが如きは無用の辯なり、現今農業の資本は其適度に達せざること甚謠にして、其増加の速力も亦極めて遲々たり、之が補充の第一策としては、外部の資本を招致して之に供給する爲、特別の信用機關を設くるに如くなしと雖、所謂農業金融の特色は、不幸にして十分に發揮せられざるなり、農業者自身の手に於ける餘力の集積は、既に工業の如く急速なる發達を望むこと能はず、農工銀(253)行信用組合報�ｺ社の類も、亦一般に多數小農の需要に應ずるに足らずとすれば、之に次ぎては如何なる策を取るべきかといふに、現在農業者が利用し得べき資本の效果をして、成るべく十分に發揮せしむることを圖り、他の一方に於ては事情の許す限り、從來の生産額を減退せしめざる限り、資本の使用を省略し、之を轉じて新に生産増殖の用に供せしむることを力めざるべからず、而して我國の農民は實に近年に至るまで、此不十分なる資本を以て、時に或は不必要なる費用に充てたりしなり、之に對する救濟の手段は必しも困難ならず、此點に關する改良の利益は容易に各人をして之を覺らしめ得べきを以て、單に農民の智力の開發を力むることによりて、間接に其效果を擧げ得たるの例は、亦二三にあらざるなり、今其尤著しきものを言はゞ、種苗の數量は、些も生産の額を損ふこと無くして、近年大に之を省略することを得たり、肥料の撰擇が次第に其當を得るに至りし爲、及び收穫物の調製竝に販賣の方法に注意を加へたるが爲に増加したる利益は亦決して少からず、勞力に於ても亦效果を害すること無くして其一部を省略し得たりき、此等は多くは僅々十數年來の進歩にして、未だ數字に由りて之を證明し得べきもの無しと雖、何人も之を認めて疑ふ者は有らざるなり、併しながら生産方法の改良せらるべき點は決して之に止らず、現今農學の智識を以てするも、此以外に於て、更に實際に適用して利益の顯著なる者甚多きのみならず、今後學藝の發達すると共に國家が優者先覺者として行ふべき助長の事務は猶無數なるべきなり、

　農家が使用する種苗及び肥料の大部分が、市場の賣買に由りて取得すべきことゝなりてよりは、之に關する國家の任務は別に又重要なる一箇を加へたり、即ち買主に對して撰擇に關する忠告を與ふるの外に、又賣主の不正なる行爲に因り僞物を混淆し又は劣等品を高價に賣付くることを妨ぐること是なり、商人の商品に關する智識は、無論常に買主よりも優れるものなれば、之を惡事に濫用せんとすれば、到底各自の力を以て之を防禦すること能はざるべきを以て國家は特に自ら代りて市場の取引を監督し、農民をして、其利益を奪はれざらしむると同時に、正直にして勤勉なる商人をして、亦不正なる競爭を免れて繁榮せしむることを期するなり、此目的の爲には行政廳は往々にして特殊の(254)罰則を以て之に臨み、警察の力を動かして綿密なる取締を爲すことあれども、本來此危害たるや、之を作物の病害蟲害等に比すれば、自ら緩急の度を異にするあるを以て、各地方の事情に應じ下級の官廳をして、臨機の命令を設けしむる場合も少からず、唯其影響する所の最廣汎なるものに限り、法律を制定して國中一般に同一の規定の下に取締を試むるなり、前に言へる蠶種取締法の如きは、一面に於ては不正なる種紙販賣者の爲に、不知不識の間に農民が損害を被ぶるを防衛するものなれば、又此目的の爲に設けられたるものなりと言ふを得べし、肥料取締法（明治三二、法九七）、の如きに至りては、單純に此目的の爲に制定せられたるものにして、而も目下の事情に對し尤適切なるものなり、今其内容を略述せんに、肥料の製造販賣を業とする者は、凡べて地方長官の免許を受けたるものならざるべからず、地方長官は犯則者の營業を禁止停止し得べきのみならず、又隨時に部下の官吏を派して各營業所に就きて商品及帳簿の檢査を爲さしむることを得、肥料を僞造し又は故意に效力無き物質を混和したる者は、十五日乃至一年の重禁錮又は十圓乃至三百圓の罰金の刑に處せらる、又或種類の肥料には、製造者又は輸入者保證票と稱するものを附して、其成分の最少限を保證するの義務あり（明治三四、農商務省令五）、

　肥料取締法の規定が寛嚴宜しきに合し、能く其制定の目的を達し得るや否やは、未だ之を判斷するに十分なる材料を存せずと雖、若し保證票の制度にして適當なる運用を受くるを得せしめば、單に農業者をして安全且つ有效に其資本を利用せしむるのみならず、猶一方には農藝の知識の進歩と相待ちて更に一層の資本の節約を爲さしむるならん、而して此と同種の取締法が、亦種子苗木の販賣に關しても行はれんことは、現今の事情が最其必要を訴ふる所なり、

　資本利用法の増進は、不正なる商人の詐欺より農業者を防衛するのみにては、未だ十分ならず、農業の組織が新に變遷して、多くの生産材料を市場に仰ぐの世となりては、法律が許したる商業の競爭の爲にも、猶農民は種々なる誘惑によりて、不利益を被ぶることあり、肥料種苗等は勿論、新種の農具器械竝に役畜の如きも、之を適用する方法と共に、其有効の度に於て必ず無數の等級あるべけれども、之を撰擇取捨して常に正當を誤らざらしむるは困難なり、(255)此點に關しても、補助者又は顧問としての國の行為は甚必要なり、即ち國が助長の事務として、公平に此等の價値を試檢し制定し、或は地方、地質による適不適、又は作物との關係等を指示し、進みては優等なる種類の普及を力むるが爲に、或は實際の成績を公表し、又は其取得を容易ならしむるが如きは、其效能の大なること、決して私人の團體の及ぶ所に非ず、現在設立せらるゝ各地の國立種馬所、國立種牛所の如きは實に此目的に出でたるものにして、公共團體が之に倣ひて設立したるものと共に、我國の畜種改良の爲に與へたる援助は甚大なりとす、

　農業の技術は之を工業に比するときは、元來非常に粗大なるものなり、近年農業が集約に進むと共に、頗緻密なる工夫を施すものありと雖、猶概括していふときは、生産の方法竝に材料の中に於て、改良すべき餘地乏しからざるなり、而して今後專門の知識が進歩すると共に、此部面に於ける發明發見の奨勵は、亦國家の一大任務なり、創意者の利益を保護するの法は、必しも特許に由るを要せず、若し久しき期間の專賣を許すを以て、其普及を妨ぐとせば、或は奨勵金の法を採るも可なり、唯之に對しても亦國の機關として幾分か其價値優劣を批判するの機會を得せしむることは希望すべきことなり、

　併しながら茲に一の注意すべきことあり、國が有益なる方法又は材料の適用の普及を希望するの餘、個々の農業者を奨勵するに直接の補助を以てすることは、其效果顯著なるが如くにして實は弊害無しとせず、元來改良の目的は資本の效力を大ならしむるに在るに、旁より金錢の利益を以て之を誘ふが如きは、終に農業者の計算を誤らしむるものなり、改良の利益は彼等が即坐に之を豫算することを得、又は久しからずして實際に知得することを得るものならざるべからず、補助に誘はれて爲したる採用又は撰擇は、其根底に於て更に健全なるものに非ず、補助の廢罷と共に?々舊態に復するのみならず、企業者の自立の念を殺ぐこと著しきものあるなり、

　土地に對する資本の利用方法の宜きを得ざることは、舊慣に拘泥する農界の最大なる弱點なり、一時歐洲に於て自作小農の價値を過重したるの結果、土地の代金の爲に資本金の最大部分を費したるものあり、又勞働者の土着を勸誘(256)し、而も小區劃短期の借地農慣習を放任せし結果、不當に高き小作料を支拂はしめ、純益率を減少せしめたることあり、此等は皆新時代の經驗にして、今や之に對する調和的手段を講ずるの必要を感ぜり、殊に土地取得の爲に資金の大部分を投じ、又は巨額なる負擔を爲せる農業者は、之が爲に必要なる土地の改良工事を爲すの餘裕無きは固より、直接年々の生産に必要なる流通資本にすら非常の缺乏を感ずる者あり、從て市場を目的とする所謂自由農法の經營に於て彼等が被るべき障碍は甚大なり、之が匡濟の策を講ずるは土地分賦の問題に屬すと雖、猶資本利用の點より觀察するときは、農業者が土地占有の爲に費すべき資本を、出來る限節約することを力むるは、亦國の政策に屬す、抑々土地の所有が漸々少數者の手に集合せらるゝ傾向は、多少何れの國に於ても認めらるゝ現象にして、兼併の度が加はるに從ひて、土地使用者の地位は愈々不利なり、語を換へて言はゞ、大なる地主と小さき買主、借主との契約關係は、法律上は何處までも、對等なれども、經濟上の實務に於ては強弱あり、殊に小作期間の短に失するは借地人の不安全なるのみならず、地主の爲にも究竟する處利益に非ずといふものあれど、多數の地主は猶短期を好み、期間の改まる毎に市場の?況を利用し、希望者の競爭を利用して、出來る限多き收入を求むるなり、此結果が一國の生産力たる地力の減退となるは別の問題として、猶又生産増殖の方針とも正に相反對するものなり、故に適當なる小作條例の制定は、之に伴ふ土地所有者の權利の制限を忍びても、猶資本に窮乏せざる小作人を作るが爲に必要なるものと認めらる、農業者の土地買入に付ては、國は自ら資金を供與し、又は自ら保證の地に立ちて、長期年賦法の圓滑に行はるゝことを期し、或は協同組合の團結を慫慂して、成るべく合理の計算に基く土地の賣買の行はれん事を期するは、今や世界諸國普通の政策となれり、我國に於ては此等の點に關する法制は不幸にして未だ、成立せざるなり、

　前にも言ふが如く、生産増殖の利益は其現はるゝ事稍々遲きものあれども、要するに皆其結果を農業者に持來すものなれば、之を目的とする努力も原則としては生産者自身の努力ならざる可らず、此間に於る國の任務は、迷を去り誤を正し、唯個人の力及ばざる部分に付てのみ助力を與ふべきものにして、如何に輿論が干渉を忌まざる國に於ても、(257)政策の範圍は甚弘大ならざるを常とす、語を換へて言はゞ、放任は寧事の自然の?態なり、されば當業者の智識が各々其時代に適應せる農業を行ふことを得るならば、是最幸福なる農業國にして、國家は少くも此部分に於ては其活動の區域の減縮するを喜ぶべきものなり、故に一方に必要已むべからざる事務は、自ら之に當ると雖、他の一方には農業者の地位が之を要せざるに至らんことを計り、單に經驗による自然の進歩を須つに留らず、猶其智識の開發の爲に積極的方法を講ずるなり、土地と資本と勞力とは生産の三の要素なりと雖、前の二者を適用して效果を收むるは勞力なり、勞力の效力を増加するは、之に由りて直接に生産増加の目的を達するのみならず、間接には土地と資本の效力を増すの手段なり、而して勞力の改良は個人の事業としては最困難なり、人は自己を支配することも、或は能はざることあり、況や他人の上に於ては、之を指揮し左右する事は、決して物體を移動せしむるが如く、容易ならず、農業教育に關する國家の事務は、此の如くにして未だ俄に其重要の度を失ふこと能はざるなり、

　

　　　　　第五章　勞力改良に由る生産増殖策殊に農業教育

　

　農地に對する勞力の適度は資本の適度に比するときは一層速に發現するを常とす、如何なる機會に乘じ如何なる方法に由るも、或數量以上の勞力は之を一定の地域の上に適用すること能はず、故に生産増殖の手段としては多くの場合に於ては之が數量的の増加を説くこと能はず、寧其品質の改良に依り個々の勞力の效果を増進するを以て主眼とすべきなり、今過去の農業の發達史に徴するに生活が單純にして地力の豐沃なりし時代には農生産殊に耕耘の方面に在ては人の精神的勤勞に對する要求は極めて僅微なるものなりき、後漸く資本の使用せらるゝに及びても、農場の組織監督は極めて簡單にして、之が爲に特殊の技能を要すること無く、小農の力耕を事とする者に在りては、單に周圍の趨向と祖先以來の因習に動かされて、半ば本能的に其手足を勞するのみ、之を他の工藝的生産に從事する者が、數年(258)の修業練熟を積みて、始て獨立の生計を立て得るの事實に比するときは、其技巧智力を施すの點に於て優劣なき能はず、從て單に尋常の勞働者として觀察するときは、農民の地位は一般今猶下級のものなるかの如く考へらるゝ傾なしとせず、此事情たる、元より農業其ものゝ性質に原因せることは明なりと雖、又一方には國家竝に社會の之に對する態度が、常に其地位を保護し尊重するに在りしに基くものなれば、一旦經濟の組織が變動して、農と工と田舍と都會との間に存せし障壁が撤却せられたる後は、新に起りたる社會の?況に適應するが爲には、最大なる困難を感ずるものは、亦實に彼等の勞働に從事するものならざるべからず、

　土地と資本が重きを農生産の上に爲せることは、既に述べたるが如しと雖、之を綜合按排して其效果を完からしむるものは人の行爲なり、此點よりして言ふときは、勞力は生産の根本要件なり、かの大工場の如く、智力優れたる少數者の指揮の下に、軍隊的訓練を以て生産を營むものに於ては、勞働が單調にして、機械の作用又は家畜の動作と多く異るを見ざる場合も時として無きには非ざれども、其他の場合に在りては、勞力の優劣は直に生産の上に影響すべきものにして、殊に中以下の農場主の如き、自ら生産の責任を負擔する勞働者に於て然りとす、されば一切の生産増殖策を講ぜんとすれば、必ずや或程度迄發達せる農勞働者の存在を前提とせざるべからず、國家が勞力の品質的増進を希望するの理由は先づ此點に存し、其效果の増加によりて生産費を節約し之を他の方面に利用するの趣旨は、其重要の度に於て寧第二次に在るものなり、

　さて此點に關する國家の期望は、如何にして達せらるべきかといふに、各個人の能力は著しく不充分なり、先づ被養成者が自ら到達すべき境涯を知る事能はざるは勿論、直接誘導の任に當る者と雖、之に適當なる資格と方法とを具ふること稀なり、元來國民の教育の方針は根本の國是と一致せしむるが爲に、國家が自ら其大綱を總攬するの必要あり、又其機關の設備、方法の撰擇に至りても、之をして最經濟的にして且つ時勢に適切ならしむるには、多くの場合に於ては國家は其事務に任ずるを以て當を得たるものなりとす、況や毫も教育の意志を有せず、單に父兄の農場に在(259)りて狹隘なる見聞を收拾するが如きは、平穩靜止の時代に於ても猶?々滿足なる結果を見る能はず、殊に外界市場の刺激が頻繁にして、之に對する敏活なる適應を必要とする世の中に在りては、何の利益をも認むる能はざるのみならず、時としては弊害無しとせず、從來農業が最保守的なる生産を以て目せられたるにも拘はらず、之に關する特別の教育の問題が、他の實業教育に先だちて比較的早くより國家の注目する所と爲りたるは、全く之が爲にして、其結果が一般社會に發現し、私人の事業も亦之に併行して國家の目的に寄與すること今日の　　状況の如くなるに至りても、猶政策學上其研究の重要視せらるゝは決して偶然に非ざるなり、

　當初農業教育事業の發生を促し、今猶其堅牢なる根底を形成するものは、言ふ迄も無く農學の發達なり、農學の研究は次第に深遠綿密となり、其科目は亦分岐して止る所を知らざるが如しと雖、一言以て其關鍵を明にせんとすれば、土地の生産は一般自然科學の法則殊に物理學及化學の法則の爲に支配せらるゝものなるを以て此法則に順ひて生産を計るべきものなりといふに在り、蓋し今日に於て之を見れば、平凡自明の言の如きも、かのテエル、リービッヒ〔八字傍線〕等の學者が始めて此説を爲せし時は、誠に驚くべき大發見にして、此事實の認識は取も直さず、農産技術の順序的研究の端緒なり、此以前に於ても農に關する諸家の著述は少きには非ざれども、其最優越なるものと雖、單に確實なる經驗の記録といふに止り、未だ十分なる將來の擴張を豫期するに足らず、推論證明の二の方法を利用して、以て現今の如き學問の繁榮を來したるは、悉く咋世紀以降の事業なり、而して農業教育の目的は要するに此原理を明らめて同時に一國の人民に之を利用し遵奉するの必要を會得せしめ、兼て又一般社會に對する農生産業の地位竝に關係を明白ならしめ、之に由りて各人生活の根據を安全ならしめんとするものなり、

　近世學藝の進歩が人類の幸福を増進する上に於て、偉大なる勢力を有することは、普く世の認むる所なるが、殊に農學の研究は其效果を及す事弘く、開明國の人民にして多少其恩澤に浴せざるものは有ることなし、而して農業政策の問題として其感化の方向を注目すべきものも決して二三點に止らず、今之を總括して廣義の農業教育と稱すること(260)を得は、其中に就て正に中堅の地位を占むるものは學校の教育なり、學校の教授は若し其方法の宜しきに合するものあらば、能く智力開發の方向を統一し、人類進歩の機會を平等ならしめ、國家存立の基礎を安固ならしむるのみならず、兼て分業の理法に從ひ學費を節約するの大利益あり、大多數の人民に必要なる智識を附與するには、之を措きて他に手段の存するものなし、國家は所謂普通教育に關する任務を盡したる後、之に次ぎて又或程度の職業教育の附與を以て其必要なる任務とせり、故に適當なる私人の事業が代りて其任に當るものあれば即ち之を奨勵保護し、若し之を缺くときは即ち必ず自ら其必要に應ずるを以て常とす、而して其方法分賦等の問題の如きも、亦國家が自ら全般の利益に鑑みて之を決すべきものなり、

　國が其農學校の組織方法如何を決するに當り、第一に參酌すべき事情は言ふ迄も無く國民の需要なり、されば大中小農の多少農民資力の強弱其他國情の異るに從ひて、適當なる階級の分割といひ、完全なる機關の設備と稱すべきものも、各國を通じて一定すること無し、唯此中に就きて從來の研究に由り得られたる限の學問を保存し、且つ之を發達せしめ、猶廣く世界の諸國と交通して新に發見せられたる一切の結果報告を網羅し、兼て之を批判し取捨するが爲に、常に優等なる學者の傳銃を絶たざることは、教育の根本を爲すものなれば、此點に關しては國は必しも個人の希望を問ふを須ひざるなり、農科大學は即ち此目的を以て建設せらるゝものなり、此次に必要なるものは高等の農業教育を與ふる學枚なり、第一のものに比すれば稍々學年を短縮し、程度を低くして、廣く農事の全般に亙る智識を綜合するの機會を比較的多數の青年に與ふるものなり、中央地方の官廳其他の公の機關に勤務すべき農務の吏員、竝に、下級農學校の教員は、之によりて養成せらる、大なる農場に於ける管理人も亦此中より出づべし、此二の階級の學校は、生産増殖の目的の爲には、間接なれども根本の必要を存するものにして、如何なる場合に於ても之を缺くこと能はず、日本に於ては其數は甚少しと雖、現今相應なる效果を以て其任務を盡しつゝあるものなり、

　此二種の學校に於ては、其規模の大にして設備の完全なる上に、受業者の數は少ければ、其便益を受くる者のみに(261)ては、無論其費用を負擔すること能はず、又其效果の及ぶべき範圍が弘くして、組織の困難なる點より言ふも、國家自身に非ざれば之が經營の任に當るべきものを求め難し、第三級以下の農學校に於ても、純然たる私人の設立に係るものは、普通亦其存續を望む能はずと雖、其利益の及ぶ所が適切にして其設備の比較的簡易なるが爲に、各地方小區域の團體に由りて之を設立維持する事は難きに非ず、實業學校令（明治三二、勅二九後改正あり）に依りて農業學校と稱するものは、之を甲種乙種の二階級に分つ、國は時として自ら之を設置し又は府縣に之が設置を命ずることあり、大小の地方團體及私人は、皆共に監督官廳の認可を經て、之を設置するを得と雖、立法當初の趣旨を察するに、前者は主として府縣をして之を維持せしめ、後者は郡以下の團體をして之を維持せしむるに在るが如し、而して一定の條件を具備するものに對しては、國庫より其費用の半額以内を補助す（實業教育費國庫補助法、明治二七、法二一、後改正あり）、現今甲種農業學校の數は五十七あり、乙種は四十四なり、前者は七千四百人の生徒を收容し、後者は二千七百人を收容す、甲種は高等小學校卒業程度の者を容れ、乙種も亦普通教育を通算して六七箇年の在學を必要とするものなり、

　甲乙の農業學校が直接に未來の農業者を養成するを以て、主なる目的と爲すことは疑を容れざる所なるが、今其果して我國現在の需要に適合せりや否やを問ふに先だちて、知らざるべからざる事は農業學校教員の缺乏是なり、我國の農業學校の數は、近年急激に増加したるものにして、之に對し適當なる教員の數の不足なるは、誠に勢の已む能はざるものなり、高等農業學校の卒業生は、其數未だ多からずして、官廳其他の需要且多く、特別師範教育の機關は既に設けられたりと雖、未だ其效果を收むるに至らず、思ふに甲種農業學校の卒業生は、現今の所其一部分は農業教員の補充を爲し、猶他のものは俸給を受けて他の公務に從事せるならむ、然れども此の如き?態は久しく繼續し得べきものに非ずとせば、數年後に於ける彼等が需要は必ず變動を見るなるべし、予が意見を以てすれば、我國の甲種程度の農業學校は其數少しく本來の需要に超過せり、元來日本普通の農場は其大さに於てかくまでの學問技藝を必要とす(262)るものは甚多からず、教育の必要以上に超過するは少しも差支無きが如きも、一方には又多くの農業者は、自己の補助者後繼者たらしめんとする子弟の爲に、甲種農業學校の教育を與ふべき資力の餘裕無し、又自ら家族を率ゐて耕作に從事するものには、子弟の永き不在を忍ぶこと困難なり、故に此學校の人學者の中には、始より父兄の農場へ歸らず、他に出でて職業を求むるの希望を有する者も少からず、然らざるも卒業の後自己の農場が小にして其力を施すに足らざることを歎息するもの多かるべし、此點より言へば乙種の農學校は寧多數の希望に適當せる程度にして、高等小學程度の教育と併行して簡易なる農學の智識を以て、十五六歳前後の少年に教へ、同時に耕作飼畜の勞作を實習せしむるものなり、農業學校の設立者竝に入學者が、實際の適否を考ふること無く徒に優等のものを望むの風は、寧此二階級制の有るが爲なれば、此區別は之を罷め、一般に設備の條件を簡易にして、從來の乙種程度のものを増加せば最小農の養成に適するの機關たるべし、而して現今の甲種學枚の或ものは、專ら農業教員、事務員の養成の爲に之を保存し、其程度は稍々之を高めて實業專門學校に近からしむべきなり、

　農村の高等小學校に於ては農業科を附設して隨意科と爲すを許し、各地方には之に由りて多少農學の智識を與へんと計るものもあれども、種々の方面を有する男女の生徒を合せて統一的の教育を爲すの必要ある小學校にては之が爲に大なる力を用ゐる事能はず、又此科目の爲に別に教員を置くに非ざれば普通の教員は大抵其任に堪へず、農業補習學校は乙種農業學校よりも今一層低き農業教育を爲すの機關なり、或は農業學校又は中學校に附設し或は各町村に在て小學校の設備を利用して、成るべく少額の費用を以て、一年の中或季節を限り又は休日夜間等を利用して最簡易なる農の智識を授くるを以て目的とす、之に付ては特に修業年限を定めず、學科の撰擇も極めて自由なり、下級勞働者の家族にして生活の爲に勞働するの必要ある年少者の如きも、之に依り其餘暇を以て教育を受くるを得るものなれば、若し方法の宜しきを得るものあらば、優等なる未來の農勞働者を作るが爲には極めて適當なるものなり、然れども授業の繼續せざる爲、少年をして趣味を感ぜしむる事少く、且つ亦適當なる教員を得る能はざるを以てその缺點とす、

(263)　大小各級の農場が錯綜併立せる國柄に於ては、資力ありて且つ完全なる普通教育を有する中流以上の農家の子弟に對し十分の注意を以て與へたる農事の教育は、早晩其影響を傍近地方の全般に及ぼし之に接近する下級の農民は、必しも大なる觀察力を要せず、不知不識の間に見聞によりで其智議を弘め、國は間接に教育の效果を收むることを得べきも、若し事情が之に反し、小農が軒を列ね境を接すること我國の内地の如きに在りては、個々の農民の能力を改良するの途は前に言へる如く困難なり、根本の問題たる土地分配の改革が未だ決行せられざる間、即ち日本農業固有の面目を保つ間は之に對する教育の方針は、外國の制度の採擇によりて之を定め得るの餘地極めて乏しきなり、國家は農學校の設置を奨勵し、各地方と共に其費用を分擔し、適當なる教員と教科書とを之に供給し、猶進みては認可其他の行政行爲に因り、一般に方法設備の適否を監督するも、之を以て未だ足れりとする能はざるの理由は、此等機關を利用するの意思を有せず、又は絶對に其能力を缺ける大部分の農業者が常に改良の事業より除外されて、直接にも間接にも其恩澤に浴する事無ければなり、此缺漏を補ふが爲に國が爲すべき任務は猶多かるべく、現制の維持の外に日本の農政學に於ては、之に關して研究すべき範圍甚廣大なり、例へば各地方の農事試驗場の如きも其普通の事務の外に、進みて地方を感化すべき大なる責任あるものなれど、時に或は十分に其地位を自覺せざるものあるが如きは遺憾の事なり、

　教育の方法組織が稍々補習學校に類似して、其效果を納むる事却て之に優れるものは所謂農事講習なり、農事講習が他の機關と異る點は、其既に職業に就ける、成年者をして、業務の餘閑に際して、特に一科又は數科の智識を修得せしむるに在り、講習を受くる者は普通一定の經驗と學力とを有するものなれば、實地の練習の爲に大なる力を用ゐるを要せず、從て比較的短き期間を以て、有要なる智議を授くることを得べく且つ之を應用して其效果を收むることも亦速なり、府縣郡が其費用を以て農事講習所を常設したるときは、國は其事務に任ずる役員に對して、國の官吏と同一の待遇を與ふ、講習所には特に一定の地に校舍を設置し、一年中繼續して授業するものと、單に役員のみを置き(264)時々場所と期間とを撰定して講習を爲すものとあれど、前者は新なる生産技術を地方に輸入するの際の如きは或は一定の年月間此法に依るの必要を見るべきも、農事に關しては概して其要無きのみならず、此の如くんば其性質頗一般の農業學校に近似し、特に講習所の制を立てたる本來の趣旨と矛盾するの嫌あり、後者に至りては必しも之が爲に役員を常置するを須ひず他の部面に於ける技術家をして之を兼ねしむることも困難ならざるを以て、結局農事講習所なるものは一定の地に之を特設せざるを利とす、現今の如く之に代ふるに臨時の講習會を以てして、各地方の需要に應ずれば可なり、而して實驗に於ては此種の講習は?々地方團體又は私人の團體に於て計畫せられ、通常郡以下の小區域内に於て、二三週間の短期を限りて之を行ふものなり、國又は地方の試驗場等の技師の如きは、各地を巡廻し依頼に應じて講話を爲すを以て一の任務とし、農學校の教員亦其常務の餘力を以て之を助勢することあり、此が爲に壯年の農業者にして講習によりて多少の新なる學識を得たるもの、今や全國を通じて其數漸く多く、學校に於て教育を受くるの機會を有せざりし者にとりては誠に通當なる補充方法なり、唯其機關が統一を缺くことは其免るゝ能はざる弱點にして、又教員の數に乏しく、從て一箇所の講習が甚しく短期ならざるべからざるが如きは尚改良の餘地ある點なりといふべし、

　農事講習が尤適切に農業者の希望に合し難き理由は猶一點あり、一般農學の原理と各人の農場に於て實驗せらるべき種々なる現象との間に存する關係を明白に了解することは、如何なる時代に於ても普通農業者の智力を以てすれば困難の業なるに、現日本に於て目撃するが如く一方には因習的生産方法を襲踏しつつ、他の一方には變遷を經たる經濟界に應接するの必要ある場合には農學教科書の記載に漏れたる多くの原因は、常に其影響を農場に及ぼし、豫期せられざる失敗は、往々農業者をして大なる疑惑に陷らしむる事あり、而して彼等は其説明を求むる事最切なるにも拘はらず、其原因の大部分は、個々の地方的事情と關聯して一概に學者の推斷を許さゞるものあり、此場合には學理に秀でたる研究家よりも、却て長き年月の見聞によりて土地の情況に精通せる實際家の意見判斷を聽くの有益なるを見(265)る、所謂農事巡囘教師の制度は實に此理由に基けるものにして、我國に於ては、普通郡は其費用を以て特に一定の教育ある技術者を招聘し、親しく郡内及附近の市場の?況を調査せしめたる後、作物、方法の撰擇其他の問題に付、實例によりて學理を解説せしめ地方の農業者をして向ふ所を決することを得せしむ、各地方に於て必しも其人に乏しからざる所謂老農なるものは、尤此任に適せるが如きも、一方に學理の順序的研究に於て或は缺くる所あると共に、猶比較に必要なる全國一般の事情、竝に他地方の事情に關する智識を具備せざる事多きを以て、大抵之を外部に於て求めざるべからず、されば國は巡回教師に對しても、亦官吏と同じき待遇を與ふ、然れども猶此以上に長期の勤續を有益なりと認むるときは地方に於ても別に相應の奨勵方法を設くるを以て可なりとす、獨逸の如きは、冬期農業學校の教員をして兼て巡囘教師に任ぜしめ、夏期管内を巡りて農場を視察し、傍顧問として個々の實際問題に應答せしむ、蓋し講習の事業の如きは若し其人を得るときは、其效果の大なること、巡囘教師に過ぐるものあるべからず、若し彼の補習學校の事務と兼ね行ふことを得ば、稍々十分なる給料を以て、優等なる人物を聘することを得べし、

　農業學校の教育は、他の職業教育と同じく、其必要は極めて顯著なるに拘はらず、猶單獨に之にのみ依頼する能はざる所以は、學校に在りては勢原理の注入に偏し易く、將來生徒が實地の生産に從事するに臨みては、自ら發明し解釋すべき事項の甚少からざるに在ることは既に之を述べたり、殊に多數の小農の資力に相應する簡易の教育に在りては、到底之が十分の效果を納むる能はず、僅に他日の開發の爲に基礎を形成すといふに留るべし、然れども此利益や亦決して小に非ず、第一に農學の智議は直接に生産を稗益すべきものにして、安全なる推論は時として數十年の實驗を省略し得ることを覺らしめ、之に次では各人の能力の許す限之を利用して生産の結果を改良するの希望を抱かしむるが如きは皆其力なり、唯其效果を完成するが爲に別に各種の方面より必要なる材料を供給するに非ざれば、假令一般道義上の發達に因りて、勤勉細心等の美�ｺが聞發せらるゝも、生産の上には終に何等の得る所なかるべし、巡囘教師の制度は尋常時々の講習の外に猶重大なる目的を有することは又疑を容れざるなり、

(266)　學者實際家の著述、時事に關する意見、試驗場の報告其他各種の出版物の影響は、或程度以上の教育ある農業者の階級に向ひては殊に有效なり、印刷術の進歩は多數の有益なる智識と共に、比較的利益の少きもの、又時としては有害なる言論をも全國に普及せしむることあれども、國は其取捨撰擇に關して自ら其力を施すべき方法を有せず、又之を必要なりとせざるなり、然れども之を各個人獨立の意向に放任するときは同じき社會の進歩によりて利益を享有すること、各人の間に非常の差等あるを免れざるを以て、各地各階級の農業者の間には、成るべく圓滑にして簡便なる交通方法を設け、智識の同化によりて間接に效果の普及を力むることは多くの國に於ては必要の政策なり、所謂農事團體の如き其或ものは外部に對して階級の利益を代表主張するを以て目的とするもの無しとせざれども、其大多數は又協力相助の方法に由りて、學藝技術の改良進歩を弘く一般に及さんとするものにして、國は之に對しては單に相當の便宜を供し障碍を除却するの外は、概ね當事者自身の盡力に由りて其事業を行はしめ、學校教育に對するが如き干渉的態度を取らず、蓋し團體の組織にして適當なる以上は、多數の團體員の間には必ず智識經驗の優れたるものありて、次第に他の者を誘導感化し得べきことを信ずればなり、現今全國農業者の大半を網羅すと稱せらるゝ所謂系統的農會なるものは此種の農事團體中最完全に近きものなり、一市町村内に居住して耕作牧畜を營み、然らざるも耕地牧場を所有する者は、其總數の二分の一以上の同意を得たるときは、其區域を以て市又は町村農會を組織することを得、郡農會は郡内の町村農會の共同により、府縣農會は其府縣内の郡市農會の共同に由りて組織せらる、凡べて農會は法人格を有し、營利的事業を爲さゞる限り、財産を蓄積し及び之を使用することを得、又其事業は種類を限らず、弘く農業の全般に亙り、一方には生産技術の得失を商量し、其優れたるものゝ採用實行を期すると共に、他の一方には材料竝に産物の市場との關係を研究し、各生産物の利益と所得とを増加すべき方法、即ち所謂經濟技術の改良に付ても、亦共同の力によりて其功を收めんとするものなり、而して農會の效果の最顯著なるべきは、言ふ迄も無く町村の農會にして、各種の地方的事情を參酌して適切なる判斷を下し、更に之を實際に行はんとすれば、この力に依るに非ざれ(267)ば不可なり、而して事業が廣汎にして猶一層大なる共同を要するときに於て、始めて郡府縣農會の活動に由るべきなり、唯此種の事業たるや、創設の初年に於ては種々なる障碍を排除するの必要ありて、速に其利益を發現せしむること能はざるを以て、下級農會の多數は現今猶未だ熱心なる會員を得る能はず、費用の不十分を濟はんが爲に法律が與ふることを約したる國庫の補助金（明治三三、省令二）は便宜上之を上級の農會に附與するを以て、下級のものに於ては成績愈々擧らず、生産改良の目的の爲に個々の農業者の技能を進歩せしむるの方法は、遺憾ながら今尚十分に具はらざるなり、

　耕地整理の爲に設けらるゝ一時的の組合、二種の水利組合、農業者の設立する重要物産同業組合、産業組合、産牛馬組合等は、各自別に一定の目物を以て組織せらるゝ農業團體なりと雖、その組合員の上に及ぼすべき教育的效果は又決して輕ずべからず、殊に産業組合は其起原を小農者又は勞働者の自助的合同に有し、後年一般の政策と爲りたる國の保護事業と相對峙して、組合の獨立行爲によりて組合員の地位の維持發達を圖るを以て、其眼目とし、其經營に關しても更に他人の力を仰がず、組合貝は交互に業務執行の任に當り重要なる事項は總員の決議を以て之を定むるものなれば、組合員間の同情は勢最厚く、各人平日の行爲に對しても、道義上竝に實利上の影響は極めて大なり、されば一人の經驗智識は久しからずして全部の利益となり、之によりて郷黨地方を同化するの力は、殆と他に之と比すべきもの無しと言へり、我國の法律（明治三三、法三四）は之に對して財産上の補助をも給與せりと雖、艱苦の間に成長したる産業組合は其教育的效力に於ては寧此の如く保護を受くるものに比して優るものあるべし、唯全國の小農をして一般此制度の利便を解して之を採用せしむるが爲には、補助によりて之を誘致するが如き必要も亦存するなり、

　

(268)　　　　　第六章　農業分配政策概論

　

　經濟政策學上分配の問題が近時殊に大なる注意を喚起するに至りし理由は、數多あるべけれども、其根底を爲す者は國家原理に關する思想の發達なり、臣民の各員は悉く皆國家の一盛一衰に付きて責任を分擔し、國家生存の目的の爲に應分の寄與を爲すべき義務あることが明白に認識せられたると同時に、國の進歩の結果即ち増加したる利益に對しても亦、各臣民は遍く其分配に與らんことを要求し、其要求は至當と認めらるゝに至れり、語を換へて言はゞ、國民は完全なる相頼相助の?態に生活するの外、或一階級の勤勉が單に他の階級の利益を増進するの手段に供せらるゝが如きことは決して有る可らざることとなれり、奴隷使役の慣習は既に遠き昔の事となりぬ、民主の思想を些も加味せざる近古の政治に於ても、下民の生業を保護し其地位を安全ならしむるを以て最必要の政策と爲すもの甚多く、或は救荒賑濟の機關を完備し、或は水利土木の事業を興隆する等、恩澤の郷村に及ぶもの頗其例ありと雖、猶一面に於ては彼等が租税の負擔力を涵養する一の手段と爲すが如き嫌無しとせず、況や數階級の利害が矛盾相容れざる場合の如き、其判斷の標準とする所のもの必しも公平なる調和に非ざるを以て、一の階級が過當に擁護せられ他の階級が過當に抑制せらるゝことあるを免がれざりき、個人主義の傳播は其流弊の匡制を必要とするもの無しとせざれども、少くも近年諸國の經濟政策に發現したる結果は良好のものなりき、即ち臣民の經濟的行爲は原則としては自由にして國家が或は其制限を必要とする場合には、各部分の希望は殆と同時に主張せられ、又殆と同等の勢力を以て影響を及ぼすべきが故に、其結果國民總體の利害は自然に折衷調和せられざる能はず、此が爲に國が?々困難なる問題に逢着すべきことは事實なりと雖、公明なる理想を表榜して國民の論議批判を容れ從て經濟政策學の進歩を促進し得たることは爭ふべからざるなり、

(269)　特權ある階級の消滅、個人人格の尊重に伴ひて國民の各部より相競ひて提出すべき分配の要求が、一國の經濟政策の上に及ぼしたる效果は、究竟する所各種利害の調和なり、この調和たるや彼の自由主義の經濟學者が信ずるが如き無爲放任の下に漸次に歸着すべき自然の?態には非ず、人間の判斷と努力とに由りて始て到達し得べき理想的の境界にして、又實に我が經濟政策學の極致なり、昔時大地主には特權あり、組合は獨占の利益を有し、其他煩瑣なる法律上の條件手續は一般人民の勞働を制限せし時代には、多くの學者は皆此等の制限だに無くならば、全國民は平等に繁榮すべしと思へり、而して實際に於ても自由主義の新法制は一時其好結果を見たり、然れども斯かる消極的の政策のみにては未だ必しも凡べての國民の幸福を進捗するに足らざることは、所謂勞働者問題の實例に由りて夙に之を證せられたり、自由競爭の下に於ては、人は急激に零落し又急激に當を増加せり、集積せる資本の力は、法律の掩護を須たずして、自由契約の名を以て他の資本無き人民を壓迫することを得たり、職工同盟の諸計畫は唯不完全に小民を救濟し得たるのみ、是に於てか彼等は壓迫を援助すべき法制の廢罷を主張するのみならず、猶特に自己の地位を保護するが爲に、國の積極的政策を希望するに至れり、此の如くにして不當なる放任は不當なる干渉よりもより多く嫌惡せられ、貧弱なる勞働者に非ざるものまでが、自由なる競爭を爲すよりも、却りて法律の後援の下に其利益を講ぜんとするの風を生じ、政策を實行すべき國の機關は再び甚多事となれり、

　この一般の機運の變轉は、農業政策の部面に於ても、亦之を感受せざる能はざりしや勿論なり、所謂生産増殖の政策は、國が國としての生存を保持するが爲に、缺くべからざるものなりと雖、如何に輕微なる法令の規定又は行政の方法なりとも、一として個人利害の見地よりする批判を免かるゝこと能はず、即ち其政策を行ふに當りては、如何なる末梢の影響と雖之を看過すること能はず、而して現在國民の多數の聲は決して直に國の政策を構成するものに非ざることは、既に第一章に於て説述せるが如く、國の立法に參與する臣民の任務は、各自の私欲を遂行するに在らざることは亦多言を要せずと雖、而も猶彼等が利害は常に最愼密なる注意を以て研究せらるべきものにして、大小貧富の(270)各階級に亙り、其希望の異同を明にして其趣旨を究め、若し或は一時多數の利益と相反すべき政策を行ふの必要ある場合の如きは、十分にして安全なる根據を示して、官吏をして執行に躊躇せしむること無く、一般人民をして制限を甘受せしむるの用意なかるべからず、而して之に必要なる智識は悉く經濟政策學の研究に須つべき者なり、殊に農民非農民の利害の衝突の如きは現時にも未來にも頻々發生すべき實際問題にして、二者の主張各々一分の理ありて得失略々相半し、精微なる比較商量に因り、始て緩急前後を決すべき場合に於て、若し偏狹なる從來の保護論者の如く、農政家は農の爲に辯護し、商工政家は商工の爲に説を爲し、結局の斷案は公平なる門外者に仰がざるべからずとせば、是殊更に活動の範圍を縮小する者にして極めて學問本來の性質に非ざるなり、前にも言へる如く經濟政策學は農工商以下の各部を綜合して、一科の學を爲す者にして、偶々區域の宏大なる爲、便宜上之を分割したるものなれば、個々の政策の可否得失は、其所屬各部に於て終局まで之を討尋せざるべからず、例へば穀物關税課否の問題の如き、其目的とする所或は消費者の便益を計るに在るも、其影響の及ぶ所農業に於て最大なれば、則ち農政學に於て其絶對の解答を與ふること恰も小作制度改良の問題が、地主借人何れの利益に歸するを問はず、常に終局まで論議せらるゝと同じかるべきなり、

　以上講究し得たる所に由りて觀れば、農業政策上生産政策と言ひ分配政策と言ふは、各自相異りたる種類の政策に與へられたる二個の名稱には非ずして、單に個々の政策に對する觀察點の區別なり、否寧觀察の方向は同じくして一は主として總括的に理由を説明し、他は專ら特別的に理由を説明するの差あるに過ぎざるが如し、何となれば國家の希望する所は如何なる場合にも常に生産の増殖に在り、即ち國富の増加に在り、農業政策にして生産の増殖を以て終局の目的とせざるものは一も存すること無く、而も何が爲に生産の増殖を企圖するかと言はゞ要するに個々の人民をして今よりも一層幸福なる境涯に生息せしむることを欲すればなり、此の如く言ふときは別に分配政策の章を設けて、同一の問題を二處に論ずるは無用の煩なるが如し、併しながら最近經濟界の趨勢として、農生産業の部分に於ては、(271)分配の調和に屬し二三の困難なる問題を生ぜり、此事情たる必しも農業に止らず、他の生産業に於ても亦等しく類似の現象を見るものなるが、一言を以て之を盡さんとせば、科學の進歩交通方法の完備其他近代に始りたる數多の原因は、大なる影響を一國の生産業の上に及ぼし、著しき事情の變化の爲に、舊來の經濟組織と之に伴ふ舊來の法制の儘にては、到底存立し發達すること能はざる或階級の人民を生じ、而も之を其窮乏困敗に委するときは、延いて國家の存立を撼がすが如き重大なる結果を導くべき虞あるを以て、之を救濟して再び安全なる地位に復するが爲に、特に國の消極的政策を要すること是なり、此政策も歸する所は生産の増殖に在りといふべきも、其直接の目的は分配の改良に在り、從て主として純正經濟學に於ける分配の理法を應用して解説すべき事項多きに居るを以て、特別に之を講究するの必要あるなり（學者によりては單に此間題の研究のみを以て農政學と稱する者さへあり、然れども無論其當を得ず）、さて今政策の力を假りて救濟を謀るの必要ある地位に在る者を列擧するに、農界に於ては其數甚多し、先づ第一に所謂舊國の農企業者は、其經營の大小を問はず、概して非常に僅少なる利潤を以て其生産を繼續しつゝあり、學術の進歩は未だ全く天然を征服して凶歉を消滅せしむるに足らず、平年にも僅に生計を維持するに止り、餘裕を蓄積して資本を増加する能はざる農業者は、一旦凶作に遭遇するときは、忽ち蹉跌して復た起つこと能はず、不利益なる條件を以て農場に別かるゝか、然らざれば更に一層無氣力なる農民となりて、辛うじて窮乏の生活を送らざるべからず、蓋し此の如く農企業の利潤の少なくなりしことは、最近數十年間の現象なるを以て、多くの學者は專ら其原因を外國農産物の競爭に歸し、保護關税を以て國内の市價を保持すべしといふ説を爲し、又能く之を實際に行へり、併し一部の學者の言に從へば、外國の競爭は單に農業の困難に陷いることを促したる近因に過ぎずして、其遠因は猶以前より既に根本に於て横はりしなりといへり、二説を綜合して考ふれば、利潤即ち純收益の減少の原因は、一方には總收益の減少より來り、他の一方には生産費の増加より來る、農業の生産費の大部分を占むるものは地價なり、地價の性たる、自由なる賣買制の下に在りては、常に農産物の市價によりて決せらる、故に一旦農産物の高き市價に伴ひ(272)て到達したる高き地價が、更に前者の低落に件ひて低落したるときは、其當時の土地占有者は必ず豫算を誤り損失を受くべし、此事實は必しむ外國の競爭を須つものに非ず、農産物の市價が常に騰貴して止まざるか或は一點に固定するかに非ざれば到底之を避くる能はず、　　稍々大なる市價の動搖ある毎に、必ず其弊を受くる者を生ずべきは當然なり、他の種の固定資本例へば建築物、工場の機械の如きは、供給に制限あること無く、從て其生産費によりて決すべき一定の正價（normal price）あるを以て、其以上の價格を有すること稀に、又存續に期間ありて大なる市價の變動を見るの暇なし、會社の株券は收益によりて價格を決定し、外部の事情即ち配當の多少が、株主の財産に影響する點は、全く土地に同じきが如きも、物の本來の性質よりいふときは、株主も亦一種の企業者にして、企業の巧拙に基く責任を分擔するものに他ならず、土地に至りては稍々之と異り、其獨占的性質により、機會ある毎に地價を無限に増殖することを得、而も農業に從事する者の需要は概して甚急にして之を拒むこと能はず、一旦市價の低落に逢へば、新占有者は悉く損失を負はざるべからず、殊に負債を以て土地を買得したるものは其困難最痛切なり、減少したる收益は之を以て昔の高かりし地價額に對して相當の利息を拂はざるべからざればなり、而して歐洲大陸諸國殊に獨逸の農政に於て、大小の農場が滔々として救濟を喚叫せりと稱するは、多くは此收益の減少に伴ふ負債の苦痛なりと言へり、而して農業者が此の如く土地の爲に大なる債務を負ふに至りたる原因は、かの特定相續法の制度も亦與りて力無きに非ずと雖、猶十九世紀の初頭に於ける自由なる土地法制の下に、新に進歩したる農學を應用して、一時農業が空前の好景氣を呈せしより、之を以て常在の?態なりと妄信する者多く、資本無き者が借金を以て新に土地を購ひ、又は所有地を擔保として流通資本を外に仰ぎたるの結果にして、フォン、デル、ゴルツ〔八字傍線〕の如きは頻に彼等が土地を不適當に高く評價したるを批難せり、日本の農業者はその自ら困窮と稱するもの、今尚決して歐洲諸國の如く甚しからず、外國農産物の競爭は未だ著大ならず、内國品の市價は多く昇りて少しく降れり、而して如何なる場合にも好事は永續するものに非ずとすれば、現今の地價の騰貴は決して好兆に非ず、外國の覆轍に鑑み、害に未然に遠ざからんが爲には、(273)此問題の研究の必要は、却て事後の處理を要する國よりも大なり、

　分配の調和の爲に特に農業政策の活動を要する第二の點は所謂貧民問題なり、資力の最小にして?々自活の途を失はんとする下級の農民を助けて其地位を改良するを得せしめ、或は已むを得ずんば現?を保持して、其更に一層困難なる階級、即ち國家の直接の救濟を要する窮民の境遇に墜落することを防止するが爲には、如何なる方法を以てすべきかといふこと是なり、日本の洋學者が口にする所の社會政策（Sozialpolitik）なる語は、其字義の弘きにも似ず主として工場に勞働する所謂賃役者（Lohnarbeiter）の地位の改良策を意味し、偶々之を農場に説き及ぼすことあるも、亦常に賃役者に限らるゝが如し、是思ふに勞銀に生活する者は概して恒の産無き者にして、社會の下層に於て國民の大多數を占むるものなれば、政治上よりいふも道義上より論ずるも、共に第一着の救濟を要すとするが爲ならん、併しながら此推定は少くも日本の現?に付きては當を矢へり、日本には貸役勞働者よりも猶一層貧弱なる多數の獨立勞働者を存す、工業漁業等に於ける小生産者の地位は猶稍々可なり、農業に在りては其?殆と坐視すべからず、大部分の小作農竝に一部の自作農は、名のみは獨立の企業者なりと雖、其占有する土地は狹小にして、且つ殆と資本と名づくべきものを有せず、其智力は低度にして之を開發するの機無く、學藝の進歩を利用して生産を改良すべき希望は全く之を有せざるなり、地價の高き舊國に在りては、組織の完全なる農場と雖猶?々純益の減退を免がれざるに、況や不十分なる資本を以て狹小の地積を舊式に耕作し、單に過度なる勞働のみを以て農業を持續せんとす、其辛うじて劣等なる生計を支へ、又他を顧みるに遑あらざるは寧當然にして、此が爲に國富の増進を障碍するの大なることも亦想像するに難からず、而して彼等が全數を擧げて工場の賃役に服し又は外國等に轉任せんと欲せざるは、其工業に適當なる技巧熟練を有せざると、第二には轉業移住の計畫を爲すべき能力を缺如せるが爲にして、かの都會地人口の集注といひ、海外出稼希望者の増加といふ現象の如き、共に彼等が現法制の下に在りては之を以て唯一の避難方法と頼めることを覺り得べし、蓋し自然の調和自然の救濟なるものは、實際上決してマンチェスタア〔七字傍線〕學派が唱ふるが如く平和(274)にして幸福なるものに非ず、過渡の時代に際しては多くの個人は之が犠牲として非常なる苦痛を甞めざるべからず、政策の介助の必要なるは全く此が爲にして、若し彼等の從來の地位に於て直に之を保護することを得ば、其恩惠や最大なるべく、假に轉住の已む能はざるものあるを認むとせば、豫め之が爲に安全なる地を設けて之を迎ふるは亦必要なる國の任務なり、

　我國の細小農を助けて其困厄の地位を脱せしむるが爲に、特に分配政策上の研究を爲すの必要は既に疑ふぺからざるものなりとすれば、之に先だちて吾人が解答すべき二の重要なる問題あり、其一は安全にして同時に國の爲に有益なる農業を營まんが爲には、個々の企業者は少くも幾何の土地面積を占有せざるべからざるかといふことにして、其二は全國（又は一地方）の農用地總面積は現在の進歩程度に於て、幾何の農民の勞力を適用せしむるに足り又幾何の農業者をして之に由りて生活を營ましむるに足るかといふことなり、此二問題は兩々相關聯す、一は土地分配の問題にして他は勞力配賦の問題なり、之に附隨して資本配賦の問題あり、併しながら資本には定量なく、又流通して一所に定着せざるを以て、其農企業に及ぼすべき影響は單に其供給方法の如何に伴ふものなるが如し、唯其多少により、農場の面積、勞力の數量の限度を算定する上に若干の異動を生ずることは言を須たず、土地配賦の問題は、大中小農の可否として、早くより論究せられたり、然れども予を以て見れば大中小農の可否を決定することは、一般世人が想像するが如く實際に適切なるものに非ず、今假に國家が全國農場の大多數の中小農ならんことを以て最希望すべき　　状態なりと認むるも、人欲の自然として各農業者が自己の地積を擴張せんとするの努力を拒むこと能はず、殊に我國に於ては農場の大さに著しき差等なく、全國略々相似たる小農を以て充滿するが故に、此研究によりて利する所甚少し、之に比するときは農場の最小限を發見し其以下に位するが爲に到底自力を以て發達するの見込なき農業者を援助して、改良の機會を得せしめ、若し能はずば別に比較的幸福なる業務に轉ぜしむることは、一層時情に適合せる處置なりといふべし、何とならば僅に飢寒を支ふるに汲々とし、又は半分の注意を割きて補助的收入を求むるの必要あるものに(275)は、學術の開導は何の變化をも與ふること能はず、此種の農民が多數を占むる國にては、何十百年を經るも終に生産を増進せしむるの望無ければなり、而して此限度以上の農場に於ては、各自其境遇に相應なる方法と組織とを以て生産を經營し、能ふべくば次第に擴張し次第に富を増加せんことは國としても亦希望すべきことなれども、之を説くは凡べて私經濟學の任務にして、政策學は之に與からず、唯若し此間に於て猶國の特別の注意を要するもの有りとせば、是れ前にも説けるが如く、一般農業の純益減少を救ふが爲に、政策の施設を須つべき場合にして、能く外國の競爭に堪へ、農産物市價の動搖に適應し、或は生産の方法を變じ、或は作物の種類を改め、所謂自由農業を自由に行はんが爲には、大中小何れの農場が尤適當なりやといふ問に答ふるの必要を生ずることならん、然れども此結果直に不適當なるものを撲滅し、適當なるものゝみを存立せしむべしといふが如き亂暴なる手段を採るべきに非ず、寧不適當なるものに對して特別の援護を與ふべき理由を明白にするに過ぎざるなり、而して現今之に關して略々一定したる説は、負債なき農場ならば愈々大にして愈々抵抗力多しとするに在るが如し、若し果して然らば農政上貧民問題の解決は同時に此外國競爭の難問題に對しても、一道の光明を與へ得べきなり、

　第二に勞力配賦の問題に付きて一言せんに、此問題の實際上の利益は、現在田舍の人口は陸續都市又は工業地に向ひて集注するが一般の趨勢なるが、此趨勢は如何なる點まで之を自然に放任し又は積極的に之を慫慂すべきか、如何なる點に於て始て之を防止すべきかを決するに當り、必要なる標準を明示するの點に在り、今一國の見地より論ずるも個人の性情傾向は千差萬別なれば、世の開明に伴ひて人の職業が分化に分化を重ぬるは、極めて利益なることなり、何とならば此の如くするときは、各人より要求せらるゝ勞力の量には加ふる所なくして、收めらるゝ效果は大なるべければなり、されども工業の如き生産に在りては、勞力の需要は産物市場の時々の?況につれて異動し、之を一定すること能はず、之に反して土地を基礎とする生産に於ては之に由りて大略所要勞力の數量を算定することを得、古來農業の勞力は常に多少の餘剰あり、必要あるごとに之を以て百工に供給し來れることは事實なり、是れ其の農業が概(276)して悠長にして、幾分の増減を黙過するの餘地ありしが爲なり（例へば老人兒女は手不足なれば出でて働き、十分なれば安逸す、同一の面積を有する一農戸にして、五口なるも四口なるもあれども、生産の上には大なる異同なきが如き是なり）、然れども稍々著しき過剰を感ずるときは、自然の刺激によりて境外に溢れ、又は新田《しんでん》を開發し出村《でむら》を興行するが常なりき、唯交通不便なる時代には各地方毎に?況區々にして、勞力過剰の現象は今の如く全國一齊に發生すること無かりし爲、其跡甚著しからざりしなり、明治維新の後、田舍の人々は特別の理由よりして急激に増加したるに、新田開發の餘地は既に乏しく、單に時々の移住の如き緩慢なる手段にては未だ十分に停滯を疏通するに足らず、終に現今の形勢を馴致したるが如し、國家が人民に職業を與ふるの義務は、佛國革命時代に於ける輿論の如き嚴正なるものに非ずと雖、略々大體の需要を考へ、一方には其充溢より生ずる競爭の激烈を豫防し、他の一方には隱れたる機會を發見して之を覺り得ざる小民に教示し、此の如くにして漸次に新なる生産の方面を開くが如きは、政策の力に頼るの外、他に之に任ずべき者有らざるなり、或は之に對して疑を抱く者あらん、勞働者の職業の撰擇を誤り、競ひて一方に偏注するが爲に、却りて各自の不幸を招くが如きは、必ずしも農界に於てのみ虞ふべき現象には非ず、弘く經濟組織の全般に亙り、需給の關係は時々刻々に變動して止まず、一々其跡を追ひて之を未然に調攝せんことは、到底人力の企つべからざることならんと、併しながら勞働の種類竝に其精粗の程度よりいふも、農と他の生産業とを區劃する障壁は、各種の工業の間に存するものに比するときは、之を超えて相移ること遙に困難なり、田舍の住民はよく／＼の壓迫を感ずるまでは、其故土に離るゝことを好まず、從て自然の成行に由り轉移を必要とする時は彼等が許多の艱苦を經盡したる後なり、且つ工業勞働の供給過多は、或は生産の上に良好なる影響を與へ、更に將來の樂地を見出し得るの望あるに反して、土地の面積によりて制限を受け、ともすれば收益遞減の現象に遭遇せんとする農業の如きに在りては、勞働の過多は其過少と等しく大なる注意を以て、之に備へざるべからず、況や勞働者の過半が今尚農によりて生活する我國の如きに在りては勞力配賦の問題を研究するを以て、農政策學の任務とすることは、決して(277)不當には非ざるなり、

　以上説述せるが如く、個々の農場の利潤の減少と之に伴ふ農業の衰頽とを防ぐこと及び農業の勞働者の地位を改良して、現今の農業不振の大原因を除き、同時に國家の進歩の後方に不幸なる窮民の一團を殘留せざらんことを力むることは、共に現代の重要事業にして、所謂分配政策の特に研究せらるべき理由は之にて十分なり、而して此以外に事態の重大なることは二者に讓らずして、其解決の更に一層困難なる一間題を存す、即ち世に所謂食料問題は是なり、此問題の困難なるは之に關する一社會内の利害が明白に相表裏し抵觸せるが爲なり、之を簡單に言はゞ、安く買はんとする消費者の希望と、高く賣らんとする生産者の希望と、方向の正に相反する二者の主張を包容して、要するに一國總體の幸福と平和とを全くせんとするの計なればなり、衣食住の三は人の生活に缺くべからざるは同じけれども、中に就きて食を最緊切なりとす、エンゲル〔四字傍線〕の法則が示す所に依れば、一家の生計が愈々小なるに從ひ收入の食費に充てらるべき部分は愈々大なり、下級の勞働者は收入の五十乃至六十％を以て食物の爲に費す（此點に就て詳しく知らんとせば早稻田叢書中のメエヨ、スミス〔六字傍線〕著社會統計學を讀むべし）、從て穀物市價の高低が下級人民の生計に大なる影響を與ふべきは多言を要せず、されば國家は單純に國内の農産物を豐にするの任務を負ふに留らず、兼て廉價なる農産物を以て彼等を養ふの用意なかるぺからず、昔の勞銀鐵則の説に耳を傾くるの學者は或は思へらく、勞銀は必要生活費の額を下ること能はず、從て食物市價の貴きは煩を勞働者に爲さゞるべしと、併ながら勞銀高低の最下限を爲すと稱せらるゝ所謂飢餓點（Starving point）は、想像する所現今最下級の人民の生活よりも猶數層劣惡なるものならざるべからず、今食品市價の騰貴によりて所謂實的勞銀（Real wages）を低落せしめ、其極勞働の供給を減少し再び反動の勢を喚起して、更に名的勞銀（Nominal wages）を騰昂せしむる迄には、必ずや其變動の渦中に彷徨する者の間より多くの犠牲を要求することなるべし、我國近年に於ける農産物市場の事情は、稍々此説明と異る印象を吾人に與ふるを以て、或は此推論を疑ひて當を失すとするものあらん、最近十數年以來米麥等の主要なる農産物の市價は、(278)時々多少の變動有りとは言へ、一般に騰貴の趨勢を取れり、土地を耕作し、又は耕作せざる現在の地主、及び長期借地農業者（若し有らば）は、共に之によりて其純益を増し從て其生活程度を昂進することを得たり、我國に於ては土地の利益は今猶國民の大多數の間に配賦せらるゝを以て、農産物價の騰貴は所謂田舍の好景氣を喚起し、間接に一般經濟界に著しき影響を及すを常とす、されば貸銀勞役者其他の消費者は、高き食物を買はねばならぬ代りには、一方には地方の需要の増加によりて、總所得を増加することを得るが故に、結局農産物騰貴の苦痛を感ぜずに過ぐることを得べく、且つ之に反對なる現象即ち一時市價の低落あるときは、其結果も亦頗顯著に發現して、急激に市場の景氣を沈衰せしむるを以て、之を恐るゝの甚しき却て彼等消費者をして寧農産物市價の騰貴を喜ばしむるに至れるなり、現今我國の事情は實に此の如し、併しながら是唯一時代の現象のみ、高き穀物の市價は決して常に多き純益を伴ふものに非ざるなり、土地の所得の豐なることが繼續するか或は繼續すべき見込あるときは、地價は競爭に因りて高くなり、高くなりたる地價にて土地の權利を取得したる者には、高き農産物の市價も單に通常の純益を與ふるに留り、而も一旦農産物價の低落に逢ふときは却りて忽ち損失を受くることは前にも言へるが如し、されば消費者が農産物の市價騰貴によりて生活の困難を感ずべき事情は、今も未來も同じかるべくして、之によりて間接に所得の増加を致すの望は、久しからずして之を斷たざるべからず、何となれば今日の如き騰貴の趨勢は、決して際限も無く繼續すること能はざればなり、殊に現今に於ても農産物價の騰貴にして必しも生産者の純益の増加に相伴はざるものあり、不作に基く騰貴は即ち是なり、

　交通機關の不完全なりし昔の時代の不作は、その農生産者を苦しむるの前に、先づ大に消費者を苦しむるを常とせり、米麥の類は所謂需要の彈力（Elasticity of Demand）の甚だ微弱なるものなるが上に、價格に比して容積の大なるが爲に、一地方の缺乏は未だ隣境の供給を誘致せざる前に、既に激烈なる市價の騰貴を引起す、故に農業者は非常なる凶荒にしてその種穀、夫食《ぶじき》をあげて悉く之を失ふべき危險あるが如き場合の外は、大抵市價の騰貴によりて收穫(279)量の減少を償ひ、結局金錢所得に於ては大なる影響を受けざることを得たり、農業者以外にして米を收入せし階級、例へば�ｺ川時代の武家又は大地主の如きは、不作の年には年貢米、小作米の幾分の減少を免かれざるにも拘はらず、米價の高くして收入の多からんことを希望する爲に、却りて豐作を惡むが如き、奇異なる現象ありき、然れども現今に至りては事情は全く一變せり、海陸輸送方法の發達は東西の僻境をして有無相通ずることを得せしむるのみならず、現物納税の制罷みて農業者が唯一の賣主となりてより後は、彼等は必要に迫られて追々市場の掛引竝に貯藏の方法に就て智識を増せり、故に如何なる大豐作の年なりとも地方的供給偏剰の爲に市價の暴落を苦しむが如きこと無き代りには、不作の年に於ても亦非常なる高價を得て收穫の減額を償ふことは出來ぬことゝなれり、市價は全國の間に自然に相平均するのみならず、猶外國輸入品の競爭を受くるが故に、年の豐凶と地方的過不足とは今も昔に變らざるにも拘らず、市價の昂低の範圍は頗昔よりも小さくなれり、是に於てか農産不作の結果は生産者のみ重く之を負擔することゝなり、消費者は頗其苦痛を免れ得たるが如き感あり、然れども是唯皮相の觀察にして苟くも輕濟界の大勢力たる農業者の階級の苦痛が、其間接の影響を全組織に及ぼさずして終るべき理なければ、農以外の生産業に於ても忽ち需要を減じ、殊に之に從事する勞働者は、其所得は之を増加し得べき望なくして幾分騰貴する食料品を購はざるべからず、其苦痛の度に至りては必しも昔の時代に減ずといふ能はざるなり、

　救荒の政策は東洋の諸國殊に支那に在りでは古來朝野の學者によりて研究せられ殆と完備の域に達せり、我國亦之を採擇して多くの飢饉を救ひたりき、近年に至りて、交通機關の進歩により、饑孚の途に横はるが如き絶對の缺乏に遭遇するの虞無きが爲に、諸般の政道が駸々として進める中に、獨り救荒の政のみは稍々退歩したるの實無きに非ず、多くの學者が言へる如く、舊時代に於ても荒政の眞意は決して發廩賑濟の如き事後の除害行爲に在りて存せず、穀貴くして民を害するに至らず、穀賤しくして農を傷ふに至らざる程度に於て、農非農の二階級をして共に其私經濟を鞏固ならしめ、偏に平生の政策によりて自然に時々の凶歉に堪ふるの力を養ふを以て其根本とす、之を名づけて常平の(280)政と言ふ、常平は夙に其制度ありて而も能く實效を收め得たる時代は稀なりしと雖、要するに國政の介助を以て出來る限主要農産物の市價を一定せしめ、年々の豐凶によりて大なる動搖無からしむるを期せり、此手段としては特別の基金を常設し、政府は之を以て自ら餘剰ある年に買入れ、之を貯藏して不足ある年に發賣するを以て、最適當なりとせり、然れども民間商業の智識が十分に開發せられたる時代に於ては、必しも此方法に依るを須ひず、現今に至りては例へば穀物取引所の監督の如き寧全く新なる徑路に由りて此目的に到達することを圖るの必要あるべし、而して市價の如何なる程度を以て此常平制の標準とすべきかは最困難なる問題の一にして、兼て又農業分配政策が吾人の特別の研究を要する一の理由なり、

　此點に關しては各時代に於ける經濟界の要求は洩無く參酌せらるべきは言ふ迄も無しと雖、予が意見を以てすれば、農生産業に投ぜられたる勞力と資本とが相應なる報償を受くる限は農産物の市價は成るべく低き點に於て定めらるゝを以て利なりとす、土地占有の價は獨占的にして豫定の限度無ければ、高率の利潤は如何なる場合にも競爭によりて産物の市價を低くすること無く、普通工業の生産ならば、消費者の間に分配せらるべき利益は、悉く地價の増加に歸着し、而も私有財産制の下に在りては當時の所有者のみ、獨り大なる利益を受くるに留り、餘澤を未來に傳ふること能はず、語を換へて言はゞ一旦騰貴したる農産物の市價は土地の新占有者を損失せしむること無しに之を低落せしむるの望全く無く、若し此間に處して常平の政を行はんとすれば、勢此市價を維持して、成るべく著しき低落無きことを力めざるべからず、此不便は獨り消費者の困難を増すの點に存するのみならず、殊に外國農産物の競爭ある時代に於ては、生産者も亦穀價の騰貴すると共に愈々企業の危險を増加するの理にして、結局人も我も共に利すること能はず、唯不健全なる土地投機業（Land-speculation）の氣風を馴致するの患あるのみ、此弊を避けんとすれば、發足點に於て農産市價の成るべく低からんことを希望すべきは、又已む能はざる所なり、而して市街に住する消費者が食料の騰貴する時代を目して好景氣と言ひ、低落する場合を以て不景氣と稱するが如き奇異なる現今の事情は、偶々以て(281)一旦昂りたる市價は如何に之を降すに困難なるかを證明するに足り、決して之に因りて穀物市價の騰貴を歡迎するの理由と爲す能はざるなり、

　以上列記したる三大問題即ち如何にして農企業の純益の減少を防ぐべきか、如何にして細小農の窮?を濟ふべきか及び如何にして農業者を傷くること無しに國民をして常に廉價の食物を得せしむべきかといふ問題は共に日本の國運を左右すべき緊急要件にして、苟くも斯道の研究に從ふ者は必ず最初に此が解決に着眼せざるべからず、而して時々の政論の小題目の如きは、固より無數なるべきも概ね此根本問題の解決に從ひて自然に其當を矢はざるに至るべし、併しながら此等重要事項の解釋は猶未來の研究に期待すべきもの甚多く、現在に在りては未だ之に關しては學説の統一を得る能はざるは大なる不幸とす、海外の諸國殊に歐羅巴の舊國に於ては其歴史地勢の相異るに伴ひて、無論問題の種類を同じくせずと雖、農政上亦各々其困難なる二三の分配問題を有せざるなし、然れども之を移して直に我國の實況を解説する能はざるのみならず、彼等の國に於ても、主要なる根本問題は、何れも各派の學者の論點にして、時としては全く相容れざる數種の意見が殆と同等の勢力を以て世に唱へられつゝあり、此理由たる一は政策の學が多くの自然科學と異りて、國家の生命健康を以て實驗の犠牲と爲す能はざるが爲に、長く水掛論の紛亂を容すに基すと雖、又一は此の如き困難なる問題の發生が世界の各國を通じて、共に最近百年來の國情の變遷に由るが爲なりとす、前にも言へる如く農政學の起源は決して新しからざれども、其研究の中心は、貨幣經濟組織の倶通、私有土地財産制の確立と共に、著しき推移を爲し、爲に殆と斯學全體の外觀を變化せしむるに至れるなり、

　此點に關しては我國に所謂「地方《ぢかた》の學」の變革は、彼の獨逸に於る政務學（Kameral wissenschaft）の發達とは頗其趣を異にせり、�ｺ川三百年間の平和は彼の國が數囘の戰亂を經過したるとは異りて、田園部落の荒廢民衆の離散を患とし之が復興を圖るの必要の如きは聊も存せず、寧却りて徐々に増加したる田舍の人々に對し、十分に活動の區域を供する能はざるを以て一の困難とせり、而して其結果として、夙に市街的産業の繁榮を見、市街に居住する諸侯武(282)士の階級は不知不識生計の度を高め、舊來の收入に不足を告ぐるに至り、各藩の財政は一般に窮厄に陷りたるを以て、農に對する政策は勢地租の増收を力め、減收を防ぐを以て第一の要件とするに至れり、此場合に於て獨逸の諸侯が有せし如き、廣大なる直營地（Domäne）の存するもの有りしならんには、農政の發展は無論異なる方向を取りしならんも、我國に於ては領主直營の風は早くより行はれず、偏に年貢運上に依りてのみ國用を支へ來りしを以て、農業が根本的の改良を受べき機會は甚少かりき、されば此時代に於て、最良好なりと稱せられし農業政策は、農民の生計の安全を保障するに在り、農村舊來の秩序を持するに在り、農民は水旱蟲霜の害によりて、其産業を失ふべき危險に際しては、最熱心なる援助を與へらるゝも其地位を改良するが爲に或は居所を轉じ職業を改めんとするときは、即ち常に甚不便なる制止を受けたり、之が爲に農業者の地位は之を今日に比して遙に安全なりしと雖、一般生産の進歩に至りては極めて遲々たるものあり、彼等が勤勉と節儉とは單に道�ｺとして奨勵せられ、何等有形的の效果を將來せざるの觀あり、是今日の政治學の原則より言ふときは、殆と政策と稱する價値なき迄不當なれども、當時の?勢に在りては苟も封建の制度を存置する限は此の如き保守的方針を維持するの他に適當なる方法の存するもの無かりしなり、

　明治の維新は政體の改革と同時に亦農業政策に對しても根本的の變動を引起せり、第一に土地の權利の賣買を自由にして（明治五、布告）勞力の移轉を敏活ならしめ、地租を金納にし作物の制限を撤却して同時に農業の爲めに海の内外に廣大なる市場を開けり、茶生絲の生産の非常なる擴張を爲せるは即ち其一の效果なり、而して此變動の爲に舊時代の農政に在りては困難なる事業なりし生産増殖の問題は、比較的容易に解釋せられ得るに至りたれど、其代りには一層困難なる分配の問題は新に發生して、次第に學者實際家の注意を牽くに至り、農政學をして殆と其面目を一變せしめたり、而て世界の各部分に於ける經濟社會の事情は交通方法の進歩と共に漸次共通の點を増加し我國の如きも假令數十年來の歴史と之に養はれたる特殊の民俗とは、到底外來の新勢力によりて同化せられ能はざる多くの特色を殘留すと雖、獨現在の農政問題に就て觀るときは外國のそれと類似する點彼の鎖國の昔に比して遙に多くなれるなり、(283)之によりて外國に於ける失敗の歴史は我に採りては貴重なる教訓と爲り、彼が後悔の囘顧は?々我が豫防手段の參考となるの利益あり、若し世用の大小を以て學問の價値を論ずべしとすれば、日本の農政學は亦極めて有望なる前途を有するものといふべし、

　さて今假に身を明治初年の過渡の時點に置きて、新舊二時代に於ける農業界の?勢を比較するに最初に吾人の注意を惹くものは、此前後に於ける農生産の意義の差異なり、完全なる自然經濟の下に在りては、各個人の生産の目的は國家の生産政策の目的と共に其方向を同じくす、後年漸く農以外の種々の職業が對立して相互の交換に貨幣の媒介を要するに至りても、農は猶久しく舊來の面目を保持し、個々の農場は市府より獨立して一の小さき經濟單位を爲せり、殊に租税物納の制は各國を通じて自然經濟と分離すべからざる一の特性にして、農戸が其收穫の一半を捧げて直に公課に應ずる場合には、國も亦或意味に於ける生産の加擔者にして、從て生産の效果に對する利害の感は、國と個人と全く相同じきものを存せり、語を換へて言はゞ生産政策の理想は自然に各個人の幸福と相合せしなり、之に反して農業者が生産物の大部分を市場に提出して價を問ひ、同時に生活の需要の大部分を外部より充足せんとする今日の現?に在りては、農生産の目的は必しも收穫の多量に非ず、農業者は唯其金銀收入の増加を致すべき重なる理由として收穫の増加を希望するのみ、例へば供給の過多が市價を暴落せしめ、却て收入の總額を減ずるが如き虞ある場合には決して收穫の多量を希望せざるべきや無論なり、此點は或學者が近代の農業が漸々工業と接近類似するに至れりと言ひ、又は農の生産組織に一商的法則（Commercial principles）が加味せられたりと稱する所以にして、若し生産なる語に定義を下して富の増加を目的とする人の行爲なりと言ふならば、貨幣經濟の下に於ては、農業者は他の凡ての生産業者と共に皆直接生産を爲す者に非ずして、眞成なる生産は却りて生産政策に指導せらるゝ國といふ大團體のみが之に從事するものなりといふ推論に到らざる能はず、即ち個人が生産を事とするは本來之に由りて各自の生活を遂げんとするの趣旨に外ならざれば、若し豫め精密なる約束に依りて終局の結果を保障せらるゝを得るならば、必しも其手段の(284)如何を顧みるの要無きなり、經濟原論の學者が無形の財貨無形の富（Immaterial goods, wealth）なる語を以てミルが所謂不生産的勞力の全部を打消さんと力むるは、全く「各人は生産を目的とせず」といふ一見奇異なる斷定を避けんが爲なれども、余が所見を以てすれば單に學者文人の如き一小部分の國民のみの勤勞が不生産的なるには非ずして、新なる經濟社會に於ける殆と凡ての個人の活動は、少くも直接には生産を以て其目的とせず、唯彼等が其生活を保存し改良せんとする努力は最多くの場合に於て自ら生産の道と合致し、且つ之を總合するときは常に生産の結果を生ずといふに過ぎざるなり、是寧新なる意義に於ける「職業」の正に有すべき性質にして、文化の進歩に伴ひて社合の組織が益々鞏固緻密となりつゝあることを表明するものに外ならず、

　農業が自然經濟の舊態を出でて、複雜なる經濟組織の一部を構成するに至りしは、極めて近世の出來事なるを以て、此事情の變遷は最明白に認めらるゝことを得、一國としての農生産の増殖は必しも著しき積極の政策を須たずして、過去數十年の間に既に大なる結果を擧げ得たるにも拘らず、農業者の多數は未だ之と同じ比例を以て其幸福を増進する能はざりしが如きは、貨幣經濟の下に於て始めて遭遇し得べき現象にして、之と反對に各人の利益を増加せんとする計畫が、時としては國の生産政策の希望と相容れざるが如き場合も、今後は往々にして發生することなるべし、何とならば、國が國としでの希望は、國富の總額が未來は現在より増加するに在れども各人の希望は簿記の示す所に從ひ各自が支出したる金銀の總額に超過する金錢の收入即ち純益なり、若くは之によりて購はるべき外部の財貨の量なり、即ち生産せらるゝ物の數量品質の外に、常に生産材料の市價（生産費）と生産物の市價（總收入）とを計算の中に入れざるべからず、是に於てか農業政策の研究には新に重要なる一方面を加へ、單に生産政策の實效を期するに留らず、猶別に分配の歸趣に注意し、時としては一部の國民の壓迫を救濟するが爲に、幾分生産の進歩を犠牲とすべき必要をも生ずるなり、而して何が故に此の如くすべきかと言はゞ、國が生産の増殖を以て政策の目途とするは、之に由りて猶一層大なる目的即ち國民總體の幸福を進むるの用に供するが爲にして、生産其物は個人にとりても國にとりて(285)も決して其終局の目的に非ざるを以てなり、

　

(289)　　　農業政策學

　

　　　　　第一章　農業政策學ノ本旨

　

　最初ニ農業政策ノ意義ヲ明ニスルノ必要アリ世間ニテ農政ト云ヒ農政學ト云フハ予ハ農業政策、農業政策學ト云フト同シ意味ナリト解セリ尤モ農業政策ト云フハ近世ニ於テ始テ用ヰラルヽ語ニシテ農政ナル文字ハ支那ニモ我邦ニモ早クヨリ存在セリ其一二ノ例ヲ謂ハヽ佐藤信淵ノ農政本論六卷水戸ノ人小宮山昌秀ノ農政坐右三卷ノ如キ共ニ�ｺ川後期ノ好著ニシテ明治年代ニ至リテ出版シ世ニ行ハル其他尚ホ之ニ類似スル書物ノ名多シ時代ノ相異ハアレトモ大抵我々ノ研究ト範圍ヲ同ウスルニ似タリ併シ現今ノ學者ノ多クカ農業政策ト云ハスシテ特ニ農政學ト稱スルニハ此舊來ノ慣用ニ從ヒタル外ニ尚ホ或ハ別ノ理由カ有ルカモシレス

　其レハ政策ト云フトキハ單ニ一時目前ノ國家經濟ノ必要ニ應スル臨機應變ノ手段計リノ如ク解セラレ農政ト云ヘハ別ニ農業政策ノ根本トナルへキ土地財産制度ノ如キ永久的ノ立法ヲモ含ムカ如クニモ思ハルレハナリ去レト農業政策ノ學問ハ決シテ土地制度ノ如キ重要ナル問題ヲ除外スヘキモノニアラサルハ勿論ナレハ此懸念ハ不必要ナリ尤モ和漢ノ古キ農政書ヲ見ルニ些シク此根本問題ニ重キヲ置キ過キテアルコトハ事實ナリ西洋ニテモ近年マテ同樣ノ現象アリ例ヘハ Agrarian Legislation ト云ヘハ農ニ關スル立法ト云フコトナリ然ルニ之ヲ單ニ農地大小論又ハ土地分配論ト(290)解セシ時代アリ是ハ極ク大昔羅馬共和政時代ニグラックス〔五字傍線〕兄弟ナトカ主張セシ均田法ヲ斯ノ如ク唱ヘシコトアリテ其思想カ文字ト共ニ傳ハリシモノナリ現ニ佛蘭西革命ノ時代ナトニハ此文字ヲ非常ニ忌ミ嫌ヒ自由主義ニ反スルモノナリトシテ是ヲ論スルヲ禁遏セシコトアリ更ニ獨逸ニテモ Agrapolitik ト云ヘハ之ヲ日本ニ直譯スレハ農業政策ト云フノ外ナキ語ナルニモ拘ラス近頃ニ至ルマテハ之ヲスタイン〔四字傍線〕及ハルテンベルグ〔七字傍線〕等ニ由リテ實行セラレタル土地制度ノ改正即チ舊封建制度ノ時代ニ存セシ煩雜ナル土地法規ノ整理改廢ノ事業ノミニ限ルカ如クニモ解セラレタリ十數年前和田維四郎氏ノ譯セラレタル獨逸農政要略ノ如キハ此意味ノ農政ナリ勿論之モ大ナル農政上ノ問題ナレト獨逸ノ農政書ハ今日ニ於テモ之ニ重キヲ置キ過クルコト恰モ�ｺ川時代ノ農政書カ土地殊ニ地租ノ問題ニ偏重スルト頗ル相似タリ正シキ意味ニ於ケル農業政策學ハ無論土地等ニ闘スル根本ノ問題ヲ疎外セサルト同時ニ此外ニ苟モ農ニ關スル國家經濟ノ問題ハ几テ周到ニ且平均ニ之ヲ研究スヘキモノナリ從テ別ニ農政ト云フ語ヲ設ケ異リタル意味ヲ持タスル必要ハ更ニ無シ故ニ予ハ農政ト云フ文字ヲ農業政策ノ略語トシテ使用ス蓋近世的ノ語ナル商業政策、工業政策、殖民政策ナトヽ對立シテ用ヰルニハ此方計リ農政ニテハ少シク體裁ヲ失フヲ以テ矢張リ長クトモ農業政策、農業政策學ト云フ方カ都合宜シキナリ

　農業政策ト云フ語ハ精確ニ言ハヽ農業經濟政策ナリ國又ハ公共團體ノ政策ニハ經濟政策ナラヌ政策モ無キニアラス多クノ政策ハ經濟上ノ必要ニ基クモノナレト其外ニモ衛生ニ關シ文教、風化ニ關スル政策アリ農業政策ハ言フマテモ無ク國民經濟ノ直接ノ必要ヨリ出テタルモノナレハ農業經濟政策ト云ハサレハ或ハ文字ノ爲メニ廣キニ過クル解釋ヲセラルヽノ虞アリ去レト農業經濟政策ト云ハントスルトキハ大ニ注意スヘキコトアリ其レハ農業經濟ニ關スル政策ト云フカ如キ意味ニ誤解シテハ思想ノ混亂ヲ生スル恐アルコトナリ近頃立派ナ新聞雜誌ニヨク農政經濟ト云フ文字ヲ見ル忌憚ナク言ハヽ是レ文字ノ俗用ナリ「農業政策ト農業經濟ト」ト云フ意味ナラハ農政ハ分リタリ經濟カ分ラヌナリ恐クハ農業政策ト農業經濟トヲ混同シテ一ノ物ノ如クニ看做セルカ爲ナラン此二者ハ混同セラレテハ大ニ困ルナリ成(291)程文字ハ公ノ物ナレハ誰テモ農業經濟ト云フ文字ニ新シキ意味定義ヲ付與スルハ勝手ノ樣ナレトモ通例學問アル人竝ニ我々カ解スル農業經濟トハ農業者ノ經濟ト云フコトナリ農業輕濟學トハ農業ヲ經營スル者ニ必要ナル經済上ノ智識ヲ研究スル科目ト云フコトナリ農業政策ハ文字自體ノ示ス如ク國家又ハ府縣町村ノ如キ公共團體ヲ主體トシタル經濟問題ニシテ他ノモノハ所謂私經濟ノ一部門即チ個人又ハ私團體ヲ主體トシタル經濟問題ナリ丸テ方角ノ異レルモノナリ其例ハ石坂氏ノ農業經濟學又ハ博文館ノ百科全書ノ中ニテ澤村博士ノ農業經濟學ナトハ最モヨク人ノ知ル所古クハ佛蘭西ノ「ルクトア」ヲ飜譯セシ農業經濟論ト云フ書アリ農科大學ノ科目ニモ農業經濟學アリ是等ハ皆一私人カ自己ノ農業ヲ經營スルニ當テ必要ナル智識ヲ羅列シタルモノニシテ即チ一私人カ農業上ノ參考ニ資スルニ過キス彼ノ工業經濟學ト云ヒ甚タシキハ蠶業經濟學ト云フカ如キ皆私經濟ノ一部門タルノミサテ何故ニ農業政策學ト農業經濟學トハ之ヲ混同スヘカラサルカ今是ヲ説述スルニ當リ其前提トシテ先ツ些シク經濟學ノ分類ニ就テ考ヘサルヘカラス經濟學ハ通例ノ研究方法トシテハ之ヲ二大別シ一ヲ純正經濟學又ハ經濟原論ト云ヒ他ヲ應用經濟學又ハ經濟各論ト云フ此分類ハ大體ニ於テ適當ナルヘシ即チ前者ハ世上森羅萬象ノ經濟現象ヲ一貫スル法則ヲ發見シ因果ノ理法ヲ明ニスルヲ以テ目的トシ後者ハ豫メ一定ノ目的ヲ定メ斯ノ如キ結果ヲ得ントスルニハ如何ナル原因ノ發生ニ須ツヘキカ一定ノ目的ノ爲メニ必要ナル或現象ノ發生、或現象ノ不發生ヲ期スルニハ如何ナル手段ヲ採ルヘキカ語ヲ換ヘテ言ヘハ此世ノ中ノ經濟的現象ハ如何ナル程度ニマテ人力ヲ以テ支配シ得ルモノナルカヲ研究スル學問ニシテ即チ前者ニ於テ知リ得タル法則ヲ人生ノ實際ニ應用スルノ學問ナリ元來人間社會ノ關係ハ極テ複雜ナリ

　從テ之ニ伴フ社會ノ經濟現象モ亦千差萬別ニシテ殆ト枚擧スルコト能ハサルモ大凡之ヲ天然ト人爲トノ二ツニ別ツコトヲ得ヘシ天然トハ風雨寒喧、四季ノ變遷ヨリ生物ノ繁殖一國ノ廣狹、經緯度ノ差ノ如キ凡テ自然ニ發現シテ而モ人間ノ生活ニ影響ヲ及スヘキ現象ノ全部ヲ總稱シ人爲トハ則チ人ノ智ト力ヲ以テ爲シ出シタル結果ヲ謂フナリ人間ノ行爲ニハ其結果ヲ豫期シテ爲スモノト豫期セサルモノトアリ即チ自覺シタル行爲ト自覺ナキ行爲トアリ前者ハ之ヲ天(292)然的經濟現象中ニ入ルヽモ可ナランモ人ノ行爲ハ縱令誤謬又ハ不正ニ基クトスルモ何等カ生活上ノ目的ノ下ニ爲ス意識的活動タリ人類ハ宇宙ノ大ニ對比スルトキハ微物ナリ否寧ロ天然ノ現象其物ニ外ナラス從テ人ノ行爲ハ天然ニ對シテ常ニ甚タ微弱ナルカ如キモ世ノ中ノ進化ニ連レ漸次ニ天然ノ中ニテ有力ナル地位ヲ占ムルニ至ル太古ニ在テハ人間モ動物モ殆ト其生活?態ヲ一ニシ之ヲ制抑スル天然ノ力ハ頗ル大ナリシカ集合生活ノ結果トシテ人類ノミハ頻ニ其生活ヲ改良發展シ世ノ進ムト共ニ人力ハ次第ニ多ク天然ヲ征服シ得ルニ至ルナリ此點ヨリ言フトキハ所謂一國ノ文明ナルモノハ人力カ天然ヲ征服スルコト即チ天然力ニ對スル人力ノ勝利ノ進行ナリト云ヒ得ヘキナリ太古ヨリ永遠ニ發現シツヽアル天然ノ現象中特ニ人間ノ發達ノ爲メ都合好キ部分ハ力メテ之ニ障碍ヲ與ヘス更ニ又其増進ヲ促スト同時ニ都合惡キ天然ノ現象ハ出來ル限リ之ヲ妨ケ之ヲ外ツシ其再現ヲ避クル樣ニスルハ人爲的經濟現象即チ所謂輕濟行爲ノ主タルキノナリ而シテ茲ニ應用經濟學ト稱スル部分ノ經濟學ハ斯ノ如ク人間カ自己ノ欲スル輕濟現象ヲ惹起スヘキ手段ヲ特ニ講究スル學問ナリ人間ノ生活ニ有用ナル特殊ノ經濟現象ヲ發生セシムヘキ方法ニ關スル學問ナリ同シク特殊ノ現象ト稱スルモ勿論人ニ依リ場合ニ依リテ一樣ナラス日本人ノ欲スル所ハ必スシモ外國人ノ望ム所ニアラス我欲スル所ハ又隣人ノ欲スルモノトモ異レリ同シ百圓ノ金モ甲ハ之カ甲ノ所有トナルヲ欲シ乙ハ乙ニ屬センコトヲ欲ス求ムル所ハ乃チ同シカラス從テ其手段ヲ異ニスルハ當然ナリ殊ニ其主體タルヘキ人ノ種類ヲ異ニスルトキハ其生存ノ目的モ亦大ニ異リ之ニ必要ナル手段ニ於テモ更ニ著シキ差別アルヲ見ル國家又ハ公共圖體ノ如キ共同生活體ト各私人トノ如キハ其最極端ナル場合ナリ個々ノ人民ノ生存計劃ト共同生活體ノ生存計劃トハ決シテ其揆ヲ一ニセス何人モ生存ヲ欲シ又其生存中安樂ト繁榮トヲ希ハサルモノハナケレトモ個人ト國家トノ間ニハ自ラ大ナル差別アリ其結果トシテ二者ハ均シク應用經濟學ノ範圍内ニ在リト雖モ頗ル研究ノ方向ヲ異ニスルノ必要アリ國ト私人トハ第一生命ノ長短ノ差アリ人間ノ生命ハ限アレトモ國家ノ生命ハ理想トシテハ永遠ナリ個人ハ百年ノ身計ヲ爲ス必要ナキモ國家ハ常ニ永遠ノ幸福ノ爲ニ企劃セサルヘカラス第二ニハ内部統一ノ難易大ナリ個人ノ耳目手足ハ既ニ統一其モノナリ何人モ自己ノ(293)身體を統一スル爲ニ何等ノ困難ヲ感スルコトナシ國家ハ然ラス國家モ亦一ノ生活體ニハ相違ナキモ其内部ノ統一ヲ保ツカ爲ニハ常ニ甚タ大ナル勞力ヲ拂ハサルヘカラス國家ノ包容スル國民ノ中ニハ利害關係ノ相容レサル種々ナル階級アリ所謂甲是乙非ハ何レノ時代ニモ起ルナリ此複雜ナル利害關係ノ上ニ立ツテ所謂經濟行爲ノ適否ヲ決スルニハ必ス國家ニ特殊ノ標準ナカルヘカラス各個人ノ可トシ否トスル所ニ全然從フコト能ハサルハ當然ノ理ナリ此ニ於テカ應用經濟學ハ少ナクモ更ニ之ヲ公經濟學及私經濟學ノ二ツニ分別スルノ必要アリ多數ノ學者モ亦此區別ヲ認ム或ハ外國ノ學者中ニハ經濟政策學トハ國竝ニ個人カ其生活ノ爲ニ必要トスル經濟現象ノ發見ヲ促ス爲ニ採ルヘキ手段ノ研究ヲ合セ含ムモノトシ即チ茲ニ言フ公私ノ應用經濟學ヲ區別セサルカ如キ説モアレトモ獨逸ナトノ Politik ト云フ文字ニハ斯ノ如キ廣キ意味アリトスルモ少ナクモ之ヲ政策又ハ政策ノ學ト譯スルトキハ私人ノ爲ニスル研究ハ包含セシムルコト能ハス而モ亦今日ノ如ク國ノ生活力カ益重且大トナル以上ハ其生活方法ハ私人ノ利害問題ト分別シテ研究スルノ必要十分ニ存在ス又少ナクモ二者ノ本來ノ面目ハ全然別箇ノモノナリサテ此公經濟學ハ即チ前ニ云フ經濟政策ノ學問ナリ其中ニハ農業政策、商業政策、工業政策等ノ外ニ所謂財政ノ學其他研究スヘキ部門多々アリ他ノ一方ニハ私輕濟學ニ在テモ個人ノ主タル業體ノ種類ニ從ヒテ或ハ農業或ハ工業等夫レ／＼ノ部類アルヘキ理ナリ之ヲ通例ハ農業經濟學又は工業經濟學等ト呼ヒ來レリ語ノ精密ニ當レリヤ否ヤハ知ラス日本ニテハ之テ通スルナリツマリ農業、工業等ノ經營法ト云フコトナリ併シ此小分類ハ前ノ應用經濟學ノ二大別ホト明確且周到ナル分類ニハアラス又總對ニ必要ナルモノニモアラサルナリ要スルニ以上ノ説明ニテ公經濟學ニ農業政策ト私經濟學ニ屬スル農業經濟トノ關係及各自ノ地位ハ略明白ニナリシナラン而シテ此二者ヲ混同スルコトハ單ニ研究者ノ頭腦ヲ混雜セシムルノミナラス實際上ニ於テモ面白カラサル結果ヲ生スヘシ故ニ最初ニ此區別ヲ能ク會得スルコトヲ必要トスルナリ

　蓋經濟學ノ分類カ今日ノ如ク精細ナラサル時代ニハ所謂應用經濟學ハ別ニ獨立ノ一部門トシテ研究セラレス若シ經濟學ノ一般的研究ノ中ニ若干ノ應用的部分アリトスルモ夫レハ主トシテ私經濟學上ノ智識ニシテ茲ニ云フ經濟政策ノ(294)問題ノ如キハ多クハ其中ニ卷込マレ唯序ヲ以テ時々議論セラルヽノミ却テ實際家ノ談話ヤ記者ノ筆ニ現ハルヽニ止リタリ偶應用ノ部面ヲ研究スル學者アルモ私輕濟ノ問題ヲ以テ主トシ政策ノ問題ヲ以テ從トス殊ニ英國ノ如キハ國ノ政府ハ個人各自ノ利害ノミニ著目スレハヨシト云フ樣ナル思想久シク行ハレ來レリ彼國ニテハ古クハ穀物關税ノ問題トカ自由貿易、保護貿易ノ可否論トカ近年ニナリテモチェンバレン〔六字傍線〕ノ帝國關税聯合トカバルフォア〔五字傍線〕ノ報復關税策トカ又ハ國内ニ在リテモ地方税問題、小作地問題等政治上ノ大問題絶ユルコトナキニモ拘ラス未タ經濟政策ノ學ヲ獨立シテ研究セントスル學者及著書ナシ此國百年來ノ學者ノ通説ハ個人ノ利害ハ結局調和スヘキモノニテ衝突スルモノニアラス彼等ノ自由ノ活動ニ放任スルモ其結果ハ善良ナリト云フニ在リテ政策即チ國家ノ行爲カ國民經濟ノ上ニ及ホスヘキ效能及害ヲ甚シク輕視ス一言ニテ云ヘハ私益ノ總計ヲ以テ公益其物ナリトスルカ故ニ特ニ公益ノ如何ノミヲ研究スル一科目ヲ必要トセサルニ似タリ非常ニ樂天的ノ議論ナリ去ラハ我々ハ安心シテ輕濟自由ノ主義ニ從フヘキカト云フニ聊懸念アリ我々目前ノ見聞ヲ正シトセハ同シク一國民ノ間ニモ各私人ノ利害ハ徹頭徹尾相容レサルモノアリ傘屋カ雨ヲ喜ヒ草履屋カ雨ヲ惡ムカ如キ例ハ甚タ多シ所謂經濟調和説ノ論據ハ個人カ需要供給ノ變ニ應シテ自在ニ模樣替ヲ爲シ得ト云フ點ニ在レト多クノ模樣替ハ損失ニシテ弱キモノヽ苦痛ナリ模樣替ノ必要ナキモノヽ利益ニシテ喜悦ナリ同シ一ノ國家ノ行爲ニテモ彼ノ關税ノ高低ノ如キ或人ハ其關税ニ關係セサル業ヲ營ミ或人ハ關税引上、引下ノ影響ヲ被ルヘキモノナルトキハ其各個人ハ即チ相異ル利害ヲ有スルナリ又關税ノ高キヲ利トスル生産者アリ低キヲ利トスル消費者アリ又生産者ニシテ兼消費者ナルアリ曾テハ人民カ國家ノ干渉ヲ好マス勝手ニ思フ通リヲ行ハントセシ時代アリシカ今日ハ却テ人民ヨリ國家ニ向テ種々ノ行爲ヲ要求スルヲ常トス從テ國家ノ行爲即チ政策ニシテ其結果ヲ甲者ノ注文ニ合シ乙者ノ注文ニ背クヘキ場合ハ多クナレリ或ハ此場合ニハ多數者ノ利益トスル所ヲ以テ又國ノ利益トシテ可ナリト云フ者アレト其果シテ國民ノ多數ノ希望ニ合スルヤ否ヤヲ知ルコトハ難シ又少數者ノ利益ヲ無視スルモ謂レナシ加之國家ハ現在生活スル國民ノミヲ以テ構成ストハ云ヒ難シ死シ去リタル我々ノ祖先モ國民ナリ其希望モ容レサルヘ(295)カラス又國家ハ永遠ノモノナレハ將來生レイツヘキ我々ノ子孫モ國民ナリ其利益モ保護セサルヘカラス要スルニ所謂與論ナルモノカ若シ各人自己ノ利害ヨリ打算スル説ナラハ政策ハ必スシモ其赴ク所ニ從フヲ要セス各人ノ利害相反シ相容レスト見タル場合ニハ別ニ自ラ其手段ノ可否ヲ決スヘキ標準ヲ立テサルヘカラス是レ經濟政策ノ學問カ一箇獨立シタル地位ヲ有シ得ヘキ所以ニシテ又農業政策等ノ學カ所謂農業經濟學等ト分立シ別居セサルヘカラサル所以ナリ之ヲ混同スル樣ナ人ニ限リテ農政ノ學者ヲ農業黨ノ如ク考フルナリ併シ農業政策ノ學ハ單ニ國家ニ限ラス府縣、郡、市町村等ノ公共團體ニ於ケル經濟行爲ノ研究ヲモ包含ス殊ニ町村ノ如キハ國ノ政策ニ追隨シテ其目的ヲ行フト同時ニ一方ニハ國ト對立シテ各自ノ生存ニ必要ナル政策ヲ行フモノナルノミナラス其生活ハ極テ個人ノ私經濟ト接近セルヲ以テ之ヲ研究スルハ一層ノ興味ト必要トアルヘキナリ其他各種ノ農事團體、農會ノ如キハ一方ニハ農業者各自ノ私益ヲ代表スルト同時ニ他ノ一方ニ於テハ公共ノ利益ノ爲ニ企圖畫策シ且公私ノ利益ヲ調和セシムルノ任務ヲ有ス個人ト雖モ國ノ爲ニ計ル者ハ皆然リ故ニ農業政策ノ問題ハ國家又ハ公共團體竝ニ各種ノ農事團體等總テニ通シテ研究ノ必要アル科目ナリ而シテ農業政策ニ依リ直接ノ影響ヲ受クヘキ個々ノ農業者ニ取リテモ必要ナル智識ナルコトハ言ヲ須タストス今假ニ定義ヲ示サハ

　農業政策トハ國家又ハ公共團體カ其生存、發達、繁榮ニ付テ農業ニ關シテ採ルヘキ經濟行爲（政策）ノ方針ヲ研究スルノ學問ナリ

ト言フヲ得ヘキナリ

　

　　　　　第二章　農業ノ性質

　

　經濟政策ノ分類ハ到底完全ニ之ヲ爲スコト能ハス農漁工商ヲ始トシテ國民ノ箇々ノ生業ニ就キ各一科ノ經濟政策ヲ(296)研究スルコトハ不可能ナリ唯其中ニ於テ特ニ一國ノ經濟ノ爲ニ重要ナルモノニ限リ之ヲ主題トシテ特別ノ研究ヲ試ムルコトヲ得ルノミ而シテ農業政策ノ學カ特ニ一科トシテ多少專門的ノ研究ヲ爲スヲ必要トスルヤ否ヤハ農業其物ノ性質ヲ説明セハ自然ニ明白ニナルヘキカ故ニ先ツ此一章ヲ設ク

　多クノ經濟學ノ教科書ニハ物ノ生産ヲ分類シテ農業ト製造業トヲ相對立スルモノヽ如ク説明スルカ常ナリ或ハ製造業ニ對シテ一方ヲ抽出的産業（Extractive industries）ノ中ニ數ヘ或ハ精製業ト粗製業トヲ分チテ農業ヲ後者ニ屬セシムル等農業ヲ以テ粗製晶ノ産出ヲ掌ル原始的又ハ第一次ノ産業ニシテ製造業トハ少ナクモ生産行爲ノ階段ニ於テ明白ナル順位ノ差別アルモノヽ如ク論スル説ハ往々ニシテ之ヲ耳ニス去レト斯ノ如キ分類方法ニハ從ハサルヲ利トス先ツ第一ニ天然ノ生成物ヲ採收スル普通ノ漁撈、狩獵乃至ハ金石ノ採掘ト農ノ生産トヲ一括シテ之ヲ抽出的産業ト總稱スルカ如キハ分類ノ目的ヲ達シ得サルモノナリ農業ハ前數者ノ如ク天然生成ノ結果ニ就テ單ニ採收ノ勞ノミヲ加フルモノニアラス遙ニ其以前ヨリ一定ノ計畫ト努力トヲ以テ利益ヲ豫期スルモノナリ農ノ産物ハ出來タル物ニアラスシテ作リタルモノナリ人ハ何物ヲモ創造スル能ハスト云フナラハ工業ト雖モ亦然リ故ニ此名稱ハ當ラス之ニ比フレハ原始的産業ト云フ名ハ稍尤ラシク聞ユレトモ是レ亦精確ナリトハ云フ能ハス今農業ト製造業トヲ比較スルニ後者カ或比較的低價ノ物品ニ勞力ヲ加ヘテ一層高價ノ物トナスコト即チ所謂第二次ノ産業ナルコトハ事實ナルモ是レ決シテ製造業ノミニ限レルモノニアラス農業ニ於テモ亦此事アリ元來粗製晶ト云ヒ精製品ト云フモ原料ト云ヒ生産品ト云フモ全ク程度ノ上下ノミ比較ノ語ノミナルホト繭ト云フ農産物ハ製絲ト云フ工業ノ原料ニ相違ナシ去レト其生絲モ亦絹織業ノ原料ナリ又其製品タル織物モ手巾、「レース」、造花、下駄ノ鼻緒等ノ製造業ヨリ見レハ所謂粗製品ニ他ナラス若シ強ヒテ言フナラハ農業ノ生産物ニハ更ニ之ヲ原料トシテ他ノ物品ニ精製スル場合比較的多ク製造業ニハ最早吾人ノ消費享受ノ爲ニ此上ノ加工ヲ要セサル物品ヲ生産スル場合前ノ者ヨリモ多シト云フヘキノミ農産物ニテモ果實、蔬菜、肉乳等其儘消費ニ充テ得ヘキモノ決シテ少ナカラストス

(297)　現在の?況ニ於テハ農業モ亦一定ノ原料ニ加工シテ優良ナル物品ヲ産出スル點ニ於テハ一ニ所謂製造業ニ同シ唯之ヲ原料ト云ハス精製ト言ハサルハ慣習ノミ然ラハ何ヲカ農生産ノ原料ト云フヘキ第一ニハ土地ナリ農業者ハ天然ニ存在スル土地ヲ領有シ之ニ勞力ヲ加ヘテ種々ナル植物ヲ産出ス土地ノ物理的作用即チ物ヲ載セ物ヲ保ツノ力ハ恰モ石炭カ熟ヲ出シテ機械ヲ動スニ同シク其化學的作用即チ肥力ヲ變形シテ植物ノ養分トナス點ハ恰モ鐵カ刃物トナリ針金トナルト異ルコトナシ加之農業ニ用ヰラルヽ土地ハ常ニ天然ノ儘ニアラス之ヲ田トシ畑トスルニハ久シキ間ニ中々ノ勞力ト資本トヲ要セシナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ土地ト云フ原料ハ既ニ亦一種ノ精製品ナリ第二ニハ肥料モ亦大事ナル原料ナリ農夫カ田畑ニ肥ヲ施スハ決シテ祈?ヤ咒ニハアラス肥料ノ中ニ窒素、燐酸、加里等植物ノ實、葉、根等ヲ構成スルニ必要ナル物質アリテ之ヲ變形シテ作物トナシ得ルノ見込アルカ爲ナリ即チ植物ノ生産ハ一面ニハ肥料ト云フ原料ニ對スル加工ナリ此理ハ青刈大豆ノ一例ヲ擧クレハ最容易ニ會得シ得ヘシ大豆ハ今一二个月ノ後ニ於テハ立派ナル穀物トシテ收穫セラルヘキモノナルニ之ヲ惜氣モ無ク畑ニ投スルハ算盤ノ計算上豆トシテ生産スルヨリモ他ノ作物ノ養料トスル方一層高價ノ生産品ヲ得ヘケレハナリ是即チ精製ナリ豆粒ヲ肥料トスルニ至リテハ之ヲ豆腐?油ノ原料トスルト趣旨ニ於テ些ノ異ルモノアルナシ第三ニ苗木、種子ノ如キハ殊ニ爭フヘカラサル原料ナリ殆説明ヲ要セス更ニ一歩ヲ進メテ畜産業ニ就テ見ルトキハ此關係亦明確ナリ牧草ヲ牛ニ飼フハ肉、乳乃至ハ角、骨、蹄、皮等ヲ得ンカ爲ナリ飼料ヲ與ヘサレハ家畜ハ成長セス又繁殖セス故ニ慣習、感情ヲ離レタル推理ヲ以テ言ヘハ牛馬羊豚ノ類ハ一種ノ機械ナリ飼料ト云フ原料ニ加工シテ肉又ハ乳ト稱スル生産品ヲ作ルニ缺クヘカラサル設備ニ過キス（横井博士）之ニ依リテ負擔牽輓ノ畜力ヲ待ルハ亦恰モ石炭ヲ焚キテ蒸氣電氣ノ動力ヲ得ルト同シキノミ以上ノ例ヲ以テ言フモ原料加工トイフ點ヲ以テ製造業ヲ農業ヨリ區別スル能ハサルコトハ明ナリ普通ニ酒ノ釀造ハ之ヲ製造業トナシ畜産ハ言フ迄モナク農業ナリト稱セリサレト「バクテリヤ」ニ食物ヲ與ヘテ成長繁殖セシメ其生活活動ノ結果ニ成リタル酒ヲ收得スルト牛馬ニ飼料ヲ與ヘテ之ヲ成長繁殖セシメ其生活ノ結果ナル肉ヤ皮ヤヲ收メ又ハ植物ニ肥料ヲ與ヘテ其成長ノ結果(298)ヲ收穫スルト少シモ異ナル所アルナシ三者ハ同シク生物ナリ若シ強ヒテ區別アリト言ハヽ一方ハ極テ微細ニテ久シク人ノ注意ヲ惹カサリシ點アルノミ

　要スルニ農業ハ生産業ノ最新シクシテ且複雜ナル種類ナル工業トモ殆何等ノ區別ナシ農業ハ土地ヲ要ス工業ハ之ヲ要セストイフカ如キ點ハ亦二者ノ區別トナスコト能ハス工業モ必ス土地ヲ要ス工場ヤ事務所ハ空中ニ在ル能ハス農業ハ大ニ土地ヲ要シ工業ハ少シク之ヲ要ストイフコトモ必シモアテニナラス工業ハ都會ノ如ク土地ノ價大ナル所ニ行ハルヽ場合多キカ故ニ狹キ地積ニテ我慢スルナリ若シ自由ニ土地ヲ占有シウル田舍ナトナラハ隨分廣大ナル面積ヲ使用スルナリ斯ノ如キ點ニ於テ二者ヲ區別セントスルトキハ必ス數多ノ例外又ハ矛盾ニ逢著シテ説明ニ苦シムヲ免カレサルヘシ

　サラハ農業ト製造業トノ如キ一見全ク別物ナルモノモ終ニ之力區別ヲ立ル能ハサルカトイフニ必スシモ然ラス且學問ノ客體トシテハ先ツ農業ノ範圍ヲ一定スルノ必要アリ予カ下サントスル定義ニ依レハ農トハ人カ動植物ヲ養成シテ其結果ヲ收取スルノ行爲ナリ生物ヲ化育スル原動力ハ勿論天然ニ在ルモ之ヲ導クハ人間ナリ即チ人カ養成スルナリ斯ノ如ク定義ヲ下ストキハ動植物ヲ以テ生産ノ目的物トスル點ニ於テ容易ニ製造業ト區別シ得ヘク養成ト云フ點ニ於テ漁獵等ノ所謂抽出的産業ト區別スルヲ得ヘシト信ス山野ニ禽獣ヲ捕獲シ草根樹實ヲ採集スルカ如キハ趣ハ相肖タレトキ其物ノ生成ハ別段人間カ之ヲ導キタルニアラス即チ養成シタルモノニアラサルナリ但此定義ニ依レハ從來普通ニ農ト稱セサルモノ例ヘハ殖林、養魚、釀造ノ如キハ新ニ之ヲ農行爲ノ中ニ加ヘサルヘカラス樹木ノ栽培ノ中ニテモ桑茶楮ノ類果樹等ノ如キハ之ヲ農ト稱シテ人之ヲ怪マス又筍ノ收穫ヲ目的トスル竹林椎蕈ノ養成ノ如キ生産ノ規模竝ニ用意ニ於テ農ト異ルコトナキナリ柞蠶ノ飼養、鯉魚、蠣ナトノ養殖ハ養蠶ト類ヲ同シクス之ヲ農業ノ範圍ニ屬セシムルモ不倫ト云フヘカラスサテ又他ノ一方ニハ從來普通ニ農業ノ中ニ入レタル生産業ニシテ改メテ之ヲ除外スヘキモノアリ例ヘハ製鹽業ノ如キハ大藏省ニテハ農業ナリト稱セリ恐クハ土地ヲ使用スル有樣カヤヽ似タル爲ナランモ本來當ヲ(299)得サルカ如シ又例ヘハ所謂農産製造ノ如キモ農産物ヲ原料トシ通常農業者カ兼營スル製造業ナリトイフヘシ近世ノ傾向ハ内外國ヲ問ハス農産製造ハ次第ニ農場ヨリ分離シテ都會ノ地ニ入リテ獨立スルニ在ルカ如シ我國ニ於テ最著シキハ木棉ノ製絲及織物ナリ棉ノ輸入盛ニナリ國内ノ栽培カ衰ヘテヨリ僅二十數年ノ間ニ紡績及綿織物ハ殆皆工場ノ業ト變シタリ少シク遲レテ之ト同一ノ趨勢ヲ示スモノハ絹絲、絹織物ナリ外國ニ於テハ乳池《バター》乾酪《チ―ズ》ノ如キハ此傾向甚著シ北米合衆國ニテハ今ヨリ五六十年前ニハ二者ノ産額一億磅ニシテ其殆ト全部ハ箇々ノ農場ノ生産ナリシカ前世紀ノ終ニハ産額三億磅ニ増加シタレトモ其ノ九十六七％マテハ獨立ノ工場ニテ生産セラルヽニ至レリ（一八九九年内國農事年報）斯ノ如キ現象ハ一國ノ爲得失ノ二面ヲ有ス日本ノ如ク農業ノ單位ノ小サキ國ニテハ收入補足ノ道トシテ何カ兼業ヲ要ス之ニハ農ノ生産ト最縁故深キ所謂農産製造ノ如キハ最都合宜シキナリ從テ其分離獨立ノ傾向ハ餘程注意シテ研究スヘキ題目ナリ

　世間通例ノ用語トシテハ農産製造ヲモ農業ノ範圍ニ屬スルモノト爲シ或ハ之ヲモ農ノ副業ト稱セリ而シテ全然農トハ縁故ナシト認メラルヽ職業例ヘハ商業、漁業ノ如キ運送業ノ如キハ之ヲ農ノ兼業ト言ヘリサレトモ此ノ副業ト兼業トノ範圍ハ甚明瞭ナラス從テ此ノ區別ニ基キテ作リタル統計ノ如キハ農民ノ生活?態ヲ知ル爲ニ十分ナル材料トナス能ハス思フニ其原因ハ主トシテ農ノ意義範圍ヲ明定セサルニ在ルヘシ今試ニ農業トハ何ソヤト問ハンニ多クノ人ハ唯農家ノ營ム主業ト答フルノ外ナカルヘク而シテ農家トハ何ソト言ハヽ又農業ヲ營ム家トイフノ外ナカラム殊ニ都會ノ人ノ如キハ百姓トハ米ヲ作ル人ナリトイフ位ナ答ニテモ滿足スルナルヘシ斯ノ如キ漠然タル意味ヲ以テ研究ヲ開始スルトキハ複雜ナル利害關係ノ或ハ甲乙相抵觸スルアルニ際シテ良好ナル解決ヲ爲ス能ハサルハ勿論時トシテハ問題ノ眞相ヲモ理解シ得サルニ至ルヘシ故ニ予ハ假ニ上ノ定義ニ合スルモノヲ農ト爲シ之ニ依リテ生計ヲ營ム目的ヲ以テ此行爲ヲ計畫シ實行スル人ヲ農業者ト稱シ其職業ヲ農業ト稱セント欲スルナリ

　サテ此定義ヲ採用スルトシテ大體農業ナルモノヽ範圍ヲ定ムルトキニハ其次ニハ猶詳細ニ農業ノ性質ヲ推論スルコ(300)トヲ得ヘキナリ先ツ第一ニ農業ハ天然ニ存在セル生物ヲ發育セシムルモノナレハ其養成ノ方法モ亦天然ノ法則ニ從ハサルヘカラス即チ農業ハ天然ト共同シテ生産ヲ營ムモノト言フモ可ナリ然レトモ亦一方ヨリ見レハ天然ハ必スシモ農業ノ共同者ニアラスシテ乾濕風霜ノ損失ヲ與ヘ害蟲雜草ヲ繁殖セシムル等?農業ノ障碍ヲ爲スモノナリ之ニ對シテハ人力ノ防衛ナカルヘカラス故ニ農業ハ時トシテハ天然ヲ味方共同者トシ時トシテハ相手方、敵トシテ其生産ヲ營ムヘキモノナリ之ヲ要スルニ製造業等ニ比シテ天然トノ關係甚タ深キモノアルハ疑ナキトコロナリ動植物ト土地トカ永古其關係ヲ絶ツヲ得サル如ク農業ト天然殊ニ土地トハ最大ナル交渉ヲ有スルナリ或ハ二階ノ物干場ニ置ク茄子ヤ蕃椒ノ植木鉢ノ如ク土地ノ表面トハ關係ヲ絶ツコト無キニシモ非サルモ少クモ土地ノ肥力トハ絶對ニ離ルヘカラス土地ノ肥力ナケレハ生物ナク生物ナケレハ又農業ナシ是レ所謂製造業ニ於テハ存セサル事實ナリ

　農業カ天然ト斯ノ如キ密接ノ關係ヲ有スル結果トシテ第二ニ生スヘキ特質ハ生産期ノ問題タリ農ノ生産ニ於テ生産期トイフ分子カ非常ニ重大ナル地位ヲ占メテ居ルコト是ナリ工業ニ於テモ必ス生産期間ハアリサレト人間ノ力ヲ以テ之ヲ短縮延長スルコト頗ル自在ナルニ反シテ農業ニ在リテハ如何ニ人力ヲ盡スモ必ス一定ノ期間ヲ待タサルヘカラス或ハ暖室栽培ノ如ク幾分カ期間ヲ短縮シ得ルコトアルモ其短縮ノ程度甚タ有限ナリ殊ニ畜産ニ於テ然リトス其結果トシテ一ニハ市場需要ノ變動ニ應スルコト敏活ナリトイフ能ハス二ニハ勞動供給ノ關係ニ於テ分業ノ利益ヲ十分ニ收ムルコト能ハス如何ニ人ノ手カ餘アリテモ汝ハ苗代ヲ作レ我ハ田ヲ刈ラント手分ヲ爲スコトハ出來ス即チ生熟ノ期間ヲ待ツヘキ必要アル爲メニ分業法ハ大ナル制限ヲ受クルナリ三ニハ資本ノ關係ナリ生産期ハ普通少クモ一年ノ半ヲ要スル爲メニ之ニ伴ヒテ資本囘收ノ期間モ長シ商工業カ年ニ四度モ五度モ資本ヲ運轉シ得ルニ反シテ農業ニテハ一年ニ多クモ二度以上ノ運轉ヲ爲スコト難シ從テ同一ノ利潤ヲ收メ同一ノ生計ヲ營ム爲メニハ農業ニテハ商工業ヨリモ多額ノ資本ヲ抱ヘテ從事セサルヘカラサル理窟トナルナリ

　以上ハ農ノ根本ノ性質ニ伴フ最顯著ナル事情ヲ例示セルニ過キサルモ之ニ依リテ略農業ナルモノハ如何ニ他ノ生産(301)業ト異リタル事情ノ中ニ在ルモノナルカヲ明ニスルコトヲ得ン而シテ斯ノ如ク一種特別ナル經濟利害ノ下ニ立ツヘキ人民ノ階級ハ勿論農ノ生産ヲ以テ職業ト爲ス者即チ其損益ノ主體トシテ農企業ニ依ル收入ヲ以テ生活ヲ立ル者ニ限ルナリ然ルニ現在世間ニテ農業者ト稱スル者ノ中ニハ時トシテは農企業者以外ノ者例ハ土地ヲ農企業者ニ貸ス者（地主）ヲモ包含セシムルコトアリ是レ沿革ニ基キタル一種ノ慣例ナリサレト用語ノ精確ヲ期スル爲ニハ農業者トイヘハ農企業ノ主體即チ實際ノ農家ノ主人ノミヲ指シ其家族ノ者竝ニ地主ノ如ク弘ク農業ニ依テ生活ヲ爲ス人全體ヲサストキニハ別ニ之ヲ農民ト稱スルヲ當レリトス而シテ地主カ農民ナラハ農雇人農業ノ資本ヲ貸ス人モ亦農民ナリヤ否ヤハ改メテ研究スヘキ六ツカシキ問題ノ一ナリ

　近年流行ノ農業國本説ノ可否ハ我々ノ研究ノ範圍外ナリサレト試ニ其一端ヲ講説センニ先ツ第一ニ農業、農業者ノ何タルカヲ明確ニセスシテ此論ヲスルハ本末ノ?倒ナリ而シテ農ハ國ノ本ナリト云フ理由ニモ種々アリ農業ハ人生ニ缺クヘカラサル必要品即衣食及工業ノ原料ヲ産出スルモノナルカ故ニ貴フヘシト云フ説アリ人生ノ必要ハ時ト處トニ應シテ其程度ニ異同アリ如何ナル生産物ト雖モ絶對ニ不必要ナルモノハ有ルコトナシ故ニ一切ノ國民ノ勤勞カ國ノ本ナリトハ言ヒ得ルモ農業ノミカ然リト言フ能ハス次ニ農産物カ一國總所得ノ大部分ヲ占ムルコト又ハ農民カ一國人口ノ過半ヲ占ムル現在ノ國?ヲ以テ農本主義ノ論據トスル者アレト是モ安全ナラス何トナレハ一國カ發達スト云ヒ開明ニ向フト云フコトハ一面ヨリ見レハ農業以外ノ生産業ノ發達スルコトナリ人口カ増殖シ資本カ貯積シ勞力ノ效果カ加ハリ技巧機械ノ援助カ加ハリテ一國ノ勞力總額ノ内農業ニ用ヰラルヽ部分カ割合ニ少ナクナリ他ノ部分ハ工業其他農以外ノ生産ニ從事シ得ル?態ヲ名ケテ國ノ繁榮ト謂フナリ故ニ國カ進メハ進ム程農業生産及農業人口ノ割合カ減退スルハ自然ナリ從テ此議論ノ裏面ヨリ國カ發達スレハ最早農ヲ大事ニスルニ及ハストイフ議論ニ賛成セサルヘカラサルコトヽナリテ自繩自縛ナリ歐米ノ諸國農民カ人口ノ五割以上ヲ占ムルモノハ甚少シサレト之ヲ理由トシテ農業ヲ輕視スル國アルコトナシ次ニ田舍ノ生活ハ國民ノ健康強壯ニ益スルコト遙ニ都會ノ居住ニ優レリ故ニ農業ヲ繁榮セシメサ(302)ルヘカラスト云フ説ハ慥ニ一面ノ眞理アリ都會ハ死亡率多ク生者ノ體質亦劣レリ常ニ田舍ヨリノ補充ヲ必要トスルハ事實ナリサレト又田舍ノ居住者ニモ農以外ノ生活ヲ爲ス者漸次多クナリツヽアルコト及田舍ニハ田舍相應ノ不健全分子アリ精神上ノ弱點ハ別問題トスルモ不攝生ニ基ク疾病等ノ防衛ヲ必要トスルモノアルヲ注意セサルヘカラス小民ノ生活改良ニ關スル社會ノ注意ハ内外國トモニ都會ノ方ニ偏セリ窮民ノ最窮セル者ハ却ツテ田舍ニ在リ田舍ナリトテ決シテ安心ハスヘカラス次ニ農業ニ勞働セル者ハ最善艮ナル兵士ノ候補者ナレハ其地位ヲ愛護スヘシト云フ國防上ノ説モ一部分ノ理由アリサレト戰爭カ段々機械的トナリ科學的トナレル今日ニ於テハ工兵、砲兵其他ノ特科兵ニハ少々體質ハ劣ルモ工業ノ勞働者ノ如ク幾分機械ニ關スル智識アル者ヲ重スヘキ場合モナキニ非ス（【ゴルツ〔三字傍線〕農政學】）

　以上ノ外農業ノ重セサルヘカラサル所以ヲ説ク者決シテ少ナカラスト雖（新渡戸博士農業本論、河上氏日本尊農論ヲ見ヨ）予ノ見ル所ヲ以テスレハ多クハ唯理由ノ一端ニ過キス而シテ別ニ猶重要ナル一ノ觀察點アリテ人之ヲ注意セサルニ似タリ元來一國カ地球ノ表面ノ一部分ヲ限リテ存立スル以上ハ是非トモ果サヽルヘカラサル一ノ使命アリ即其ノ土地ト云フ利源ヲ十分ニ利用スルコト是ナリ國家ハ人民ト領土トヲ以テ之ヲ構成ス領土ハ單ニ人民ノ入レ物ニ非ス統治權ノ及フ所ヲ明ニスルノミノ手段ニハ非ス夫自身亦國ノ元素ヲ爲スモノナリ國民ノ側ヨリ見ルモ土地在ルカ爲メニ始メテ集合シテ繁榮スルコトヲ得啻ニ集合スルノミニテハ不可ナリ更ニ其土地ニ於テ幸福ナル生活ヲ爲サシメンニハ土地ヲ利用セサルヘカラス國家ト謂ヘハ必ス領土アリ國民ノ幸福カ領土ノ廣狹ト相消長スル所以ハ實ニ是ニ在リ而シテ土地ノ利用方法ノ最完全周密ナルモノハ農業ナリ林業、漁獵業ハ疎ナリ鑛業、運輸業等ハ偏セリ農業盛ナラサレハ大ナル領土モ小サキ領土ニ異ナラス故ニ之ヲ貴重スヘキナリ又更ニ他ノ方面ヨリ論センニ領土ト國民トヲ連結スルニハ必ス人民ヲシテ領土ノ上ニ定著セシムルヲ要ス土著ハ即國家存在ノ要素ナリ土著アリテ始テ茲ニ近世的意義ニ於ケル國家ハ確立スルナリ而シテ此ノ土著ノ起源ヲ爲スモノハ亦農業ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ土地ト人民トヲ連結セシムルハ農業ナリ國民ノ浮動的分子ハ農業ノ衰微ト共ニ増加スヘシ農業ハ國民ノ錨ナリ思フニ此ノ二ノ論點ハ所謂農本論(303)者ノ根據トスヘキ所ニシテ同時ニ又農業政策ノ研究カ特ニ諸君ノ貴重ナル時間ニ値スル所以ナリ

　

　　　　　第三章　農業ト土地トノ關係

　

　土地ノ使用カ農業ノミニ限ラレサルコトハ前章之ヲ説ケリ然レトモ種々ナル生産業ノ中ニテ土地カ最重要ナル地位ヲ占ムルモノハ尚ホ農業ニ他ナラサルヲ以テ從テ古來土地ニ關スル一切ノ經濟問題ハ凡テ農業政策學又ハ農業經濟學ノ任務ナルカ如ク考ヘタリ併シナカラ實際上一國ノ土地ノ農業ト交渉スル部分ハ必シモ大ナラス日本帝國ニ就テ言ヘハ其廣サハ臺灣ヲ除キテ二萬七千七百七十一方里、一方里ノ平面面積ハ一千五百五十五町歩餘ナルカ故ニ全國ノ地積ハ約四千萬町歩内外ナリ此ノ四千萬町歩ノ中實際農業ニ使用セラルヽ幾何ナリヤト言フニ主税局年報ニ依レハ三十九年一月現在民有有租地反別中田地二百八十三萬町歩、畑地二百四十萬町歩アリ此外ニ郡村宅地三十六萬町歩餘ノ中其一部ハ亦農業ノ爲メニ使用セラル次ニ原野及牧場百十七萬町歩此ニ牧場ト云フモ必スシモ全部畜産ノ用ニ供セラルヽニアラス原野ノ多クノモノモ亦何等ノ利用ヲ爲サヽルモノアリト雖少クモ此等ノ土地ノ一部分ハ草刈場肥料採收場トシテ間接ニ農業ノ用ヲ爲セリ又地租條例ニ依ル山林ト原野トノ地目別ハ?名實相混同シ名ハ山林ニシテ原野トシテ農業ニ使用セラルヽモノモ無キニアラス猶國有林野ノ一部分竝ニ林野以外ノ官有土地ニシテ政府自ラ農業的ニ之ヲ經營シ或ハ個人ノ用益權ヲ許容セルモノ若干アルヘシ此以外ニ殖林養魚ノ如キ廣義ノ農業ニ使用セラルヽ林地又ハ水面モアルヘケレトモ凡テ其數量ヲ詳ニスルコト能ハス要スルニ前述田畑反別ノ外更ニ多少農業ニ關係アル種々ナル土地ヲ合算スルモ六百萬以上七百萬町歩ヲ超ユルコト無カルヘシト信ス即チ全國面積ノ十七乃至十八％ニシテ之ヲ獨逸ノ五十五％佛蘭酉ノ六十二％英國ノ三十四％等ニ比スレハ利用ノ度更ニ遙ニ低シ元來我國ハ山嶽丘陵多ク平地ノ極メテ少ナキ國ナリ例ヘハ信濃ノ更級郡西部備中小田郡ノ海岸等ニ於テ見ル如ク甚シキ傾斜地マテモ利用シタル上ニテ猶僅ニ(304)以上ノ農業使用地アルニ過キサルナリ（恒藤博士著「日本耕地ノ將來」ニハ現在耕地ノ面積ハ全國地積ノ九分ノ一ニシテ若シ將來十五度以内ノ傾斜地ヲ大部分利用スルナラハ更ニ四百餘萬町歩ノ田畑ヲ増加シ得ヘシトアリ）是ニ因テ見レハ土地ノ性質ノ研究ハ全部農業政策學カ引受クヘキモノニアラサルニ似タリ土地ノ使用ハ農業以外ニ於テモ亦自ラ重大ナル問題ヲ爲スモノナリ殊ニ市街宅地ノ漸次其價格ヲ高ムルニ伴ヒ勞働者其他資産乏シキモノヽ都會ニ於ケル生活ヲ一層困難ナラシムル現象ノ如キハ我國ニ於テモ既ニ到著シタル一大社會問題ニシテ此等ハ大體農業ノ關係スル所ニアラス更ニ又面積ノ點ヨリ言フトキハ土地カ林業ノ爲メニ利用セラレツヽアル面積ハ非常ニ宏大ニシテ之ヲ田畑ニ比スレハ殆ト十倍ニ及フヘシサレトモ其輕營ニ至テハ甚粗笨ニシテ從ヒテ國家經濟上ヨリ云フトキハ田畑ノ面積ハ縱令小ナリトモ其利害ノ影響スル所決シテ同日ノ談ニアラス語ヲ換ヘテ言ハヽ林業ニ於テハ土地ハ未タ經濟上ノ問題トナルホトニ重キヲ爲サヽルナリ之ニ反シテ工業ニ於ケル土地利用ノ度ハ決シテ農業ノソレニ劣ルモノニハアラス然レトモ工業ノ土地ニ關スル關係ト農業ノ土地ニ關スル關係トハ其間自然ニ一定ノ區別アリ今之ヲ略述セン

　元來土地カ人間ニ提供スル效用ニハ二ノ方面アリ其一ハ土地カ物ヲ容レ物ヲ載スルノ力即チ地積ニシテ其二ハ土地カ物ヲ生シ物ヲ成長セシムルノ力即チ地力ナリ此二ノ效用中ノ工業ニ於テ利用スル所ハ單ニ第一ノ地積ノミ工場ノ建設ニハ必シモ敷地ノ赤土ナルト砂土ナルトヲ問ハサルナリ之ニ反シ農業ノ必要トスル所ハ地積ト地力トヲ共ニ利用スルニ在リ此區別ハ最モ明白ナリ學者ニ由リテハ土地ノ效用ノ第三ノ方面トシテ土地ノ所在、他ノ地點トノ關係即チ地位ヲ擧クルキノアリ例ハ土地カ山間僻陬ニ在ルコト又ハ國道、水路、市場ニ接近セルコトノ如キ是ナリ併シ地位ハ土地其物ノ性質ニアラス寧ロ外部ノ事情ナリ成ホト面積地味ハ以前ノマヽナルニ例ヘハ那須野ノ原ヲ鐵道ノ貫通スルカ如ク俄然トシテ其效用ノ變スルコトヲ得ルカ故ニ之ヲ別種ノモノトシテ觀察スルコトヲ得ルモ土地其物ノ所在トシテハ更ニ異動ナキヲ以テ地位モ亦第一ノ效用ノ中ニ包含スルモノトシテ差支ナシ次ニ鑛業ニ於ケル土地ノ利用ハ聊又農業トモ異レリ土地ノ中ニ包含スル物質ヲ採取スル場合ニ於ケル土地ノ効用ハ更ニ之ヲ第四ノモノトシテ取扱フコトヲ(305)得漁撈業ニ於ケル土地（水面）ノ利用モ亦多少異ル所アリ然レトモ此等ノモノニ就テハ今詳ニ之ヲ論セス要スルニ他ノ生産業ニ於テモ土地ノ化學的性質ヲ多少利用スルモノ無キニアラサレトモ少クモ工業ノ土地利用ニ於テハ全然之ヲ缺クノミナラス地力ノ問題ノ生産ト重要ナル關係ヲ有スルハ殆ト農業ニ限ルトイフモ不可ナシ所謂土地ノ肥瘠ニ關スル考慮ハ農業ニシテ始テ必要ナル問題トナル古來農業ハ土地ト關係アル生産業ナリト言ヘルハ固ヨリ精確ナル定義ニハアラサルモ此意味ニ於テハ即チ眞ナリ此點ニ於テハ農業ノ土地ニ關スル關係ト他ノ産業ノ土地ニ對スル關係トハ大ニ其趣ヲ異ニシ從テ土地ニ關スル經濟上ノ問題ハ農業ニ於テ最重要視セラレ且久シク研究セラレタリシナリ

　元來土地ハ他ノ財貨ト比較シテ頗ル特異ナル種々ノ性質ヲ有ス第一ハ其人力ヲ以テ消滅セシメ得サルコトナリ地力即チ土地ノ肥培力ナルモノハ或程度マテハ之ヲ消滅セシメ得ト言ヒ得ンモ其絶滅ハ決シテ終局的ノモノニアラス古代ノ思想ニ於テハ地力ノ採收即チ絶滅ヲ以テ農業ナリト爲シタルカ如シ令ノ班田ノ規定ニ依レハ地味ノ善惡ニ從ヒ普通ハ一人ニ二段ヲ原則トスルモ瘠地ニ於テハ一人ニ四段ヲ給與シ年ヲ隔テヽ各半分ヲ耕作シ他ノ半分ヲ休閑トス之ヲ易田ト稱セリ即チ或程度迄ハ地力ノ全部ヲ消滅セシムルヲ目的トスルナリ現在諸國ノ山地又ハ伊豆ノ大島等ニ行ハルヽ切替畑ノ農法ノ如キハ一層單純ナル易田ナリ然レトモ其消滅ニ歸シタル地力ハ直ニ又休閑ニ由リテ自然ニ恢復スルモノニシテ人間ノ力ハ唯一時之ヲ消滅セシメ得ルニ過キス地積ノ消滅セシムル能ハサルハ論ヲ須タス山ヲ崩セハ平地トナリ平地ノ土ヲ取去レハ坑トナリテ兎ニ角最初ノ面積ハ消滅スルコト無キナリ第二ニハ土地カ人力ヲ以テ増加シ得サルコトナリ地力ハ増加シ得ンモ土地其物ハ増加シ得ス偶マ増加シ得タルノ觀ヲ呈スルコトアルハ單ニ其利用方法ノ進歩ニ外ナラサルナリ第三ニハ土地カ人力ヲ以テ移轉スル能ハサルコトナリ土地ノ移轉シ得サルハ今更説明ヲ要セス不動産トイフ語ハ此ニ由テ生シタリ肥料ヲ施シ客土ヲ搬入スルカ如キハ單ニ地力ノ移轉ニシテ土地其物ノ移轉ニハアラサルナリ

　以上三種ノ特質即チ土地ノ不滅不生不動ハ共ニ農業ニ大ナル影響ヲ與フルモノナリ先ツ第一ノ點ヨリシテ土地ノ占(306)有ハ重要ナル經濟上ノ意義ヲ有シ根本ノ土地ノ財産權ニ關シテハ夙クヨリ永代（Permanence）ト云フカ如キ法律上ノ思想ヲ生シタリ第二第三ノ點ノ結果トシテハ土地ノ供給ハ有限ナリト言フ事實ヲ生シタリ土地ノ供給ハ一國家トシテ有限ナルハ勿論一地方トシテモ亦有限ナリ即チ人口ノ多少ニ伴ヒ其不足ニ著シキ緩急アリ從テ土地ノ價格ハ地方的ニ極メテ烈シキ異同ヲ生スヘシ北海道ノ如キ新開地ニ於テハ其價格低廉ナルヘク樺太ノ如キニ至テハ殆ト價ヲ有セス内地ニ於テモ甲ノ村ハ貧民多ク土地ノ購入ヲ希望スル者少キカ爲地價廉ニ乙ノ村ハ出稼人ノ送金絶エサルカ故ニ土地ノ需用多ク從テ地價非常ニ高キカ如キ境ヲ接シテ此如キ差異ヲ見ルコト必スシモ稀異ノ例ニアラス皆是土地ノ増ス能ハス移ス能ハサルノ結果ナリ近世ノ發達シタル國家ト稱スルハ人口必ス稠密ニ交通機關必ス完備シ資本必ス豐富ナルヲ以テ從テ土地ノ需用多ク到ル處地價ハ騰貴シ其國ニ於テ昔ヨリ土地ヲ占有スル者ハ以前僅少ナル費用ヲ投シ又ハ何等ノ出捐ヲ爲サヽル者ト雖坐シテ騰貴ノ利益ヲ受クルカ如キ幸福ナル者少ナカラス此等ノ利益ハ人間普通ノ法則ニ由リ自己ノ勤勞又ハ才覺ヲ以テ獲得シタルモノニ非ス全ク社會全體ノ發達シタル御蔭ナレハトテ之ヲ不當増益（Unearned increment）ト稱シ本人ノ懷ヨリ吐出サシムル手段ヲ採ルヘシト主張スル論者多シ蓋シ人口カ多クナレハ土地所有者ノ數ハ割合ニ少クナルカ故ニ土地ヲ有セサル多數ノ者カ幸福ナル少數ノ者ニ對シ反感ヲ抱クハ極メテ自然ノ傾向ナレトモ此點ハ獨リ土地ニ限ラス株テモ公債テモ同シ事ナリ又土地ハ必スシモ不當増益ヲ爲スト限ラス市街ノ衰微等ノ結果ハ又以前ヨリ價ノ下ルコトモ多シ之ヲ不當損失ナリト稱シテ補償ヲ求ムルトモ社會豈ニ之ニ應センヤ或ハ又土地ノ所有ハ一種ノ獨占ナリト稱シ獨占ノ社會ニ對スル害ヲ論シテ其永代ノ所有ニ反對スルモノアリ如何ニモ土地ハ或點ニ於テハ獨占ニ類似セリサレト獨占トシテハ甚薄弱ナル獨占ナリ所謂「トラスト」ニ於テ見ルカ如ク獨占ノ特色ハ其物ノ統一的支配（Unity of control）ニ在リ土地ニハ統一的ノ支配ナシ多クノ人カ各其小部分ヲ分有セルニ過キス若シ一地方ノ地主ノ間ニ申合アリテ賣價、借料ノ競爭ヲ爲サス即チ支配ヲ統一スルコトヲ得ル場合ナラハ之ヲ獨占ト言フモ不可ナケレトモ然ラサル限ハ完全ナル獨占トハ言ヒ得サルナリ

(307)　有名ナルリカルドオ〔五字傍線〕ノ報酬漸減ノ法則ナルモノハ余カ所見ヲ以テスレハ土地ノ供給カ絶對的ニ有限ナルカ爲ニ夙ニ學者ニ因テ觀察セラレタル一ノ經濟現象ナリ併シ此法則ハ必スシモ農業ニノミ限ラレタルモノニ非ス又土地ニノミ伴ヒテ起ル現象ニ非ス凡テノ生産業ニ於テ必ス想像シ得ヘク且ツ勞力及資本ニ付テモ亦同樣ニ行ハルヽ法則ナリ唯其法則ノ發現スル時期ニハ遲速アリ蓋シ資本ト勞力トノ供給ニハ定量ナク時々刻々ニ變動シ得ル（variable）モノナルニ反シテ土地ノ數量ハ有限ニシテ其供給モ略定量アルカ故ニ土地ニ就テハ報酬漸減ノ法則ノ比較的容易ニ且ツ明白ニ認知セラルナリ即農業ニ於テハ此現象カ顯著ナリトイフニ止ルナリサテ此法則ハ之ヲ實際ノ社會事情ニ通用シテ説明スルトキハ頗困難ナル問題ヲ生ス「農業ノ收益ハ之ニ投スル資本ト勞力トノ増加ニ因リテ際限モ無ク増加シウヘキモノニ非ス却ツテ或程度以上ヲ超ユレハ増加シタル資本ト勞力トニ對スル報酬ノ割合ハ次第ニ減少ス」トイフ法則ハ此「報酬」ナル語ヲ金錢ノ收入ト見ル場合ト農産物其物ト見ル場合トニ依テ大ニ意味ヲ異ニス後ノ場合ナラハ生産方法ノ改良ニ因リ一旦漸減ノ傾ヲ示セル報酬ノ割合ヲ再ヒ引戻スコトヲ得レトモモシ報酬ヲ金錢ニテ計算スルナラハ一般ノ生産方法ノ改良ニ基ク利益ハ?競爭ノ結果地代ノ増額ニ變形シ從テ生産費ヲ増加スルコトヽナリテ報酬漸減ノ傾向ヲ匡正スルコト能ハサルヘシ語ヲ換ヘテ言ハヽ土地ヲ所有スル人ノ農業ト借リテ作ル人又ハ新ニ買テ作ル人ノ農業トノ間ニ大ナル區別ヲ生スルコトトナルナリ且ツ生産方法ヲ如何ニ改良スルモ竟ニ防止シ得サルハ土地ノ分量ノ有限ナル事實ナリ兎ニモ角ニモ土地ヨリ生産セラルヽ財貨ノ數量ニハ限度アリ人間ノ増殖カ食料ノ數量ノ爲ニ制限ヲ受クヘシトイフマルサス〔四字傍線〕ノ説ハ理論トシテハ眞ナリ此ノ如キ時期ハ之ヲ想像シ得唯其到達カ何時マテ延期シウヘキカヽ未定ナルノミ

　右ニ述ヘタル事實ハ一國ノ農業政策ニ對シ重大ナル問題ヲ提供ス蓋シ國ノ領土ハ有限ナリ人口増加ノ趨勢ニハ本來ノ限度ナシ從テ彼ノ有限ノ領土ヲ以テ如何ニシテ此ノ無限ニ増加スル人口ヲ養ハンカトイフ問題ハ日々ニ其解答ヲ要求スルコト急ナリ之レヲ以テ見ルモ一國ノ領土ナルモノハ單ニ權力ノ疆域ニ非ス單ニ國民ノ入レ物ニ非ス別ニ其ノ經(308)濟上ノ意義トシテ注意スヘキモノアルコトヲ解スルニ足ルヘク國民對領土ノ關係ノ頗研究ニ値スルモノタルコト亦明ナリ

　思フニ國民對領土ノ關係即人カ土地ニ對スル要求ハ明ニ二ノ方面アリ其一ハ消費者トシテノ人カ土地ニ對スル關係ナリ一人カ生活ニ必要ナル衣食ノ料ヲ得ルニハ現在幾何ノ土地ニテ十分ナリヤ國トシテ言ハヽ日本ノ四千餘萬町ノ土地ハ目下何千萬人ノ生活ニ充ツルニ足ルヤトイフ問題ナリ例ヘハ人口二千萬人アリトセンニ人口カ平ニ配賦セラレテ居ルモノトシテ一人二町歩餘ニ當ル此時代ニハ別ニ山野ヲ開墾シテ新耕地ヲ作ルノ必要モナク農法モ頗粗笨ニテ差支ナカリシ然ルニ漸次人口カ増加シ四千萬人トナレハ一人約一町歩トナリ同一ノ地積ヨリ略以前ニ倍スル産物ヲ擧ケサルヘカラス此?態ヲ名ケテ學問上農法カ集約（intensive）ニ爲ルトイフ集約ニ對スル語ヲ粗放（extensive）トイフ即チ寒暖トイフカ如ク比較的ノ語ナリツマリ農法ノ精度ノ高下ナリ一定ノ地積ヨリ多量ノ生産ヲ爲サンニハ是非共之ニ投スヘキ資本ト勞力トヲ増加セサルヘカラス故ニ農法カ集約ニ爲ルトイフコトは一面ヨリ見レハ土地ノ割合ニ資本又ハ勞力ノ一又ハ二カ以前ヨリモ多ク用ヰラルヽコトヲ意味ス而シテ農法精度ノ増進ヲ誘フモノハ多クハ食物需要ノ増加ニシテ其ノ又原因ハ大抵人口ノ増加ナリ食物需要ノ増加ハ必ス農産物市價ノ騰貴的趨勢トナリテ農法ヲ集約ニ誘フナリ今有限ノ土地面積ヲ以テ需要ノ増加ニ應スルタケノ生産ヲ得ントセハ少クモ一時ハ生産費ノ増加ハ之ヲ免ルヽコト能ハス又已ムヲ得サルコトヽ認メラル即チ一定量ノ生産額ニ付テハ純益ノ割合ハ少ナクナルモ收益總量ヲ増加セシメ從テ純益ノ全額ヲ多クスル農法ヲ行ハシムルニ至ルナリ此故ニ領土面積ニ比シ人口多キ國ノ農法ハ人口少キ國ノソレヨリモ常ニヨリ多ク集約ニシテ農産物ノ市價も高シ一言ニテ云ヘハ農法ノ精度及農産物價ハ國ノ人口稠度ト正比例ヲ爲スト認メラル交通方法ノ完備シ遠距離運賃ノ低落セル時代トナレハ人口多キ舊國ト人口少キ新國トノ間ニ最烈シキ競爭ノ生スルハ主トシテ農産物及之ヲ原料トセル工産物ナリ現在保護關税ノ問題カ重大ナル意味ヲ有スルニ至リシハ全ク前述ノ如ク二國間ニ農産物市價ノ天然ノ異同アルカ爲ニシテ實ニ又土地ノ數量ノ有限ナル事實之カ原因ヲ爲セ(309)ルナリ

　第二ノ方面ハ勞力ノ主體トシテノ人ト土地トノ關係ナリ即チ一人ノ勞力カ適當ニ利用セラレウヘキ土地ノ面積ハ幾何ノ問題ナリ國トシテ言フトキハ一國ノ領土ハ能ク幾何ノ農民ノ生計ヲ維持スルカトイフ問題ナリ此問題ハ農業政策ノ研究トシテ及フ所甚宏シ即チ一ニハ土地ノ分配ニ關スルモノナリ國ノ土地ハ少數ノ大地主ニ持タシムルヲ可トスルカ多數ノ小地主ニ分タルヽヲ可トスルカトイフ問題ハ非常ニ有名ニシテ而モ困難ナル問題ナリ二ニハ農場大小ノ可否論ナリ三ニハ自作小作優劣論ナリ三者ハ相關聯ス大地主カ自ラ一手ニ耕作スルト一手ニ人ニ貸付ルト小サク分劃シテ多數ノ小作人ニ作ラスルト小地主カ自己ノ所有地ヲ耕作スルト自分ノ土地ハ賣リ又ハ貸シテ小作農ヲ營ムト何レカ國トシテ最希望スヘキ　　状態ナリヤトイフ問題ハ政策學ノ必ス解決セサルヘカラサル問題ニシテ而モ皆此點ヨリ發生スルモノナリ蓋シ一人ノ消費ニ要スル地積ハ現在ノ農法ニ於テハ計算上一定ノ最少限アルカ如クニ一人ノ生計丈ニ必要ナル地積モ亦時代々々ニ於テ一定ノ最少限度アリ如何ニ小農ヲ可トスルモ一家ノ耕ス所ノ土地其限度ヲ下ルトキハ言フ迄モ無ク農業ハ獨立スルコト能ハス但農法カ集約トナレハ此限度モ次第ニ小サクナルヘシ例ヘハ二十年二年ノ切替畑ナラハ一家ノ生計ニハ二十町歩ノ土地ヲ要センモ易田法ナラハ四町歩ニテ足レリ猶三圃農法ナラハ三町日本普通ノ一毛作ナラハ二町二毛作ナラハ一町ノ耕作ニテ同一ノ生活ヲ營ムヲ得ヘク園藝農ナラハ五反歩ニテモ或ハ十分ナリ從テ等シク五百萬町歩ノ田畑ニテモ農法ノ如何ニ依り三百萬戸四百萬戸ノ農民ニ職業ヲ與フルモ難シトセス唯注意スヘキハ農戸一家ノ勞働者敷、各勞働者ノ一年中ノ勞働シウヘキ日數ノ全部カ略十分二利用セラレ得ヘキタケノ地積ヲ一戸ニ付與スルニ非サレハ農業ノミニテ生活ヲ維持セシムル能ハス從テ商工漁等他ノ職業ヲ兼ネテ收入ノ補充ヲ計ルニ至リ農業ハ職業ノ獨立ヲ失フニ至ルヘシ以上述フル所ニ依レハ一國ノ土地殊ニ農用地ノ面積ニシテ増加スル能ハスハ之ニ依リテ生計ヲ立ツヘキ農戸ノ數モ亦制限ヲ受クヘシ農業者ノ數ヲ合理的ニ増加スルノ要件ハ耕地ヲ贈加スルカ然ラスハ農法ノ集約ト爲ルヲ待ツノ外他ニ存スルコト無キナリ日本ノ農戸ハ耕地ニ比シテ多キニ過キ從テ所謂兼業農甚多(310)キカ如シ

　要スルニ一國ノ領土カ農業政策ニ向ツテ提供スル問題ハ二アリ一ハ此タケノ面積ニテ幾何ノ人ヲ養ヒウルカニシテ二ハ此タケノ面積ニテ幾何ノ人ヲ働カセ得ルカナリ是レ實ニ又研究ノ發足點ナリトス

　

　　　　　第四章　農ノ發展

　

　農業ハ既ニ抽出的産業ニ非スト雖而カモ二者ノ關係ニ至テハ頗ル密接ナルモノアルナリ人類最初ノ生活ハ勿論天然ノ生物採收ニ依テ之ヲ維持セリ漸ク子孫ノ繁殖スルニ及ヒテ食物衣料ノ捜索ハ稍困難トナリ勢明日ノ計ヲ爲サヽルヲ得ス而シテ一方ニハ又捕獲採取ヨリモ一層輕易ナル勞力トシテ貯藏ノ慣習ヲ生シタリ生物ハ之ヲ生存セシムルカ最便宜ナル貯藏方法ナルノミナラス此ノ如ク貯藏スル間ニハ生長シ又孳殖ス此經驗ハ次第ニ生物ノ馴化（domestication）ト稱スル智巧ヲ發達セシメタルカ如シ之ヲ農ノ起源トス

　動物は奔リ飛ヒ植物ハ一所ニ定著シテ遁ケサル故ニ動物ノ馴化ハ植物ノ馴化ヨリモ早ク始マレリ即チ牧畜トイフ農ハ耕種ヨリモ其起源古シ牛馬豚犬?ノ類ハ其原種トモ稱スヘキモノカ依然トシテ野生的生活ヲ爲セルヲ認メラルト雖羊ノ如キハ其原種ハ最早何レノ山野ニモ存在セス思フニ最古クヨリ人間ノ用ヲ爲セシハ羊ナラン大體ヨリ言ヘハ動物馴化ノ最初ノ目的ハ衣食用ニ在リテ之ヲ使役ノ用ニ充ツルニ至リシハ又一段ノ進歩ナリ近世ニ至リテ始テ馴化セラレタリト思ハルヽハ家鴨七面鳥ナリ小鳥ノ中ニテ「カナリヤ」ノ如キハ既ニ全ク馴化セラレ居ルモ其他ノ小鳥ハ籠裡ノ生活ヲ爲スモ未タ野性ヲ失ハス馴化ノ中途ニ在リトイフヘシ魚類ニテハ金魚ノ如キハ例外ニシテ近年介類ト共ニ次第ニ人工養殖ニ依リテ馴化作用ヲ受ケツヽアリ蟲類ニテハ蠶先ツ馴化セラレ柞蠶柏蠶ノ類ハ亦尚其中途ニ在リ

　放牧時代ノ人類ニハ未タ土着トイフ必要ヲ生セス此點ハ現在ノ農ト著シク異ル點ナリ而シテ眞成ノ土着ハ植物ノ馴(311)化ニ伴フモノナリ植物ハ繁殖ノ形式稍複雜ナルカ故ニ之ヲ馴化スルニハ一層進ミタル智巧ヲ要ス其起源ノ最久シキハ穀物ナリ九州ノ或山間ニハ今尚稻ノ原種存在セリト言フ人アレト恐クハ一旦馴化セラレタル稻カ放擲ノ爲再ヒ野生ニ復セシモノニシテ其馴化ハ我々ノ祖先カ其原住地ニ於テ既ニ之ヲ遂行セシモノナラン穀物馴化ノ起源ハ隨分興味アル題目ナリ思フニ最初ハ野生ノ種子ヲ採リテ食料ニ供セシニ貯藏中又ハ廢棄シタル殘物ヨリ端ナク以前ノ物ト同一ナル植物ヲ發生セシヲ見テ初メテ栽培ノ利益ヲ感セシナランカ元來植物ノ養成ト動物ノ養成トハ大ニ其趣ヲ殊ニシ動物ノ養成ニハ所謂水草ヲ逐ヒテ隨時隨處ニ移轉スルノ必要アルニ反シ植物ノ養成ニ在リテハ少クモ生産期間ハ其土地ヲ去ルヲ得ス又土地ノ肥瘠時候ノ適否等ノ關係ヨリ頗收穫ニ差等ヲ生スルヲ以テ土地選擇ノ必要アリ終ニ一定ノ土地ニ固着シテ居住スルノ思想ヲ生セシナリサレトモ土着ノ思想ハ其初ヤ甚茫漠タルモノニシテ僅ニ次ノ收穫期迄即チ一年間ノ土着ニ過キサリシカ次第ニ附近ノ山川風土ト相識ルニ至リ土地ニ對スル一種ノ愛着心ヲ生シ茲ニ先ツ一定ノ地方ヲ限リ永住ヲ爲スニ至リヌ是レ今ノ所謂國家ナルモノヽ始ナリ然レトモ其始ニ於テハ一定ノ地域内ニ於ケル移動ハ尚盛二行ハレシカ到ル處人口ノ次第ニ充滿スルニ從ヒ其移動ノ區域ハ更ニ一層狹隘トナリ遂ニ今日ノ村即チ部落ナルモノヲ構成スルコトトナレリ而シテ彼等カ土着シテ村ヲ爲シタル結果ニ就テ見レハ大體北海道ナトノ殖民地ト異ルコト無シト言ヒ得ヘキモ今ト昔トノ著シキ差異ハ個人カ土地ニ對スル關係ナリ上古ノ土着ニ在テハ人ハ一部落トシテ一定ノ地域ヲ占有スレトモ其部落内ノ個人ハ必シモ一定ノ土地ヲ限リ占有セス宅地以外ノ土地ハ甲ト乙トノ間ニ?交換割替又ハ共同使用ノ行ハルヽハ何レノ國民ニテモ尤普通ノ現象ナリキ我國ニ於テモ此事實ハ必シモ古代ノ傳説ニハ非スシテ極メテ近年マテ全國到ル處ニ此種ノ慣習ヲ保存セリ而シテ斯ノ如キ?態ヲ以テ所謂土着ノ最完全ナル域ニ達シタリトイフニハ必シモ誤ニ非サルコトハ追々ニ之ヲ述フヘシ

　一體農業ノ發展ヲ研究スルニ尤重要ナル觀察點ハ人ト土地トノ關係ニ在リ人口カ増シ地面カ割合ニ狹クナレハ勢ヒ以前ノ農法ヲ行フコト能ハス即チ農法ハ常ニ時代ニ從テ變遷スヘキ筈ナリ此變遷ヲ説明スルニモ種々ノ方法アルナラ(312)ンカ

　予ハ本章ニ於テハ試ニ之ヲ肥料ノ關係ヨリ説キテ見ント思フナリ肥料ノ農業ニ用ヰラルヽヤ否ヤニヨリテ農法變遷ノ時期ヲ區分スレハ明ニ三ノ時期アルヲ認ム第一ハ肥料ヲ給セサル時代ナリ第二ハ肥料ヲ農場ノ中ノミニテ作リ之ヲ施ス時代ナリ第三ニハ農場ノ外部ヨリ肥料ヲ得テ之ヲ使フ今ノ時代ナリ順ヲ追テ之ヲ説明セン

　第一期　肥料不給ノ時代　人口ノ稀薄ナル古代ニ於テハ人ハ土地ヲ得ルニ苦勞セサルカ故ニ必シモ一定ノ土地ニ於テ其地力ノ枯渇スルコトヲ恐レス弘キ面積ヲ占メ之ニ僅ナル勞力ヲ加ヘテ耕作シ一旦地力衰フルトキハ一時其地ヲ抛棄シテ他ノ部分ニ向フナリ昔ノ所謂燒畑切替畑ノ類ハ多クハ是ニシテ即チ地力ノ天然ノ存在ト其天然ノ恢復トニ一任スル農業ナリ日本ハ土地ノ最豐沃ナル國トシテ瑞穗國ノ名アリシモ今ヤ殆其實ヲ存セサルハ久シキ間斯ノ如キ無肥料耕作ヲ行ヒシ結果ナリ殊ニ水田ノ施肥ハ極メテ近代ニ姶リシコトニテ其以前ハ灌漑水ノ中ニ含メル少分ノ肥料ノ外外部ヨリ地力ヲ補充スルコト無カリシナリ斯ノ如キ時代ハ何レノ國ニ於テモ永ク繼續セシノミナラス現在ニ於テモ猶此農法ノ行ハルヽ地方無キニ非ス例ヘハ我カ北海道ノ村落又ハ北米合衆國西部ノ新開地等ニ於テハ今尚肥料ヲ施スコトヲ爲サヽルモノアリ唯其ノ古代ノ事情ト異ルハ彼ハ農ノ智識幼稚ニシテ且ツ必要ニ迫ラレサル爲ニ無意識ニ斯ノ如キ粗放ナル農法ヲ採レルニ反シテ此ハ計算上自覺的ニ此方法ヲ實行スルコトナリ實際個人ノ利益トシテハ土地カ澤山ニシテ人ノ手ノ少キ時代ニハ肥料ヲ施サスシテ一反當リノ收穫ハ少クトモ成ルヘク廣キ面積ヲ使用スルニ限ルナリ然シ今ノ世ノ中ニ於テ斯ノ如キ　　状態ハ到底永ク續クヘキニ非ス土地ノ價値カ次第ニ高マルト共ニ地力保存ノ問題ハ近キ將來ニ於テ必ス起ルヘク殊ニ米國等ニ於テ若シ一般ニ施肥ノ必要ヲ感スルニ至ラハ此ノ問題ノ解決ハ定メテ偉大ナル影響ヲ諸國ノ經濟ニ及スコトナルヘシ

　第二期　肥料自給ノ時代　人口ノ増加ニ伴フ第一ノ變化ハ土地所有ノ形式カ次第ニ確實トナルコトナリ此ノ如クナレハ始テ肥料ヲ施ストイフ考ヲ生セシムヘシ割地換地ノ行ハレシ時代ニハ速效ナキ肥料ヲ投スルモ何人ノ利益トナル(313)カ分ラヌ故之ヲ用ヰル者ナカルヘシ況ヤ土地ノ所有カ單ニ共同的ニシテ個人ハ一期ノ作物ニ對シテノミ權利ヲ有スル時代ニハ施肥トイフ考ノ起ラサリシハ宜ナリ然ルニ一區々々ノ地ヲ限リテ一ヲ甲ニ他ノ一ヲ乙ニ專屬セシメ之ヲ子孫ニ傳ヘシムルコトヽナレハ何テモカテモ其土地カラ收穫ヲ得ルノ算段ヲ爲サヽルヘカラス更ニ又地力以外ノ土地ノ效用例ヘハ地位地勢ノ利ヲ認メ之ヲ重スルヤウニナリテハ一層人力ニ依リテ其土地ノ地力ヲ維持スルノ必要ヲ感スルニ至ルノ理ナリ此ノ如クニシテ先ツ差當リ農場内ニテ得ラルヘキ肥料ハ成ルヘク多ク之ヲ作土ノ中ヘ集積スルノ風ヲ生シ予カ所謂肥料自給ノ時代ハ始レリ

　サテ「コエ」ト云ヒ「コヤシ」ト稱シテ人間ヤ動物ノ肥瘠ト同一視シタル命名法ハ稍複雜ナル智識ヲ必要トス人カ如何ナル實驗ヨリ肥料ノ效用ヲ覺リシカハ趣味アル研究題目ナルヘシ予カ信スル所ヲ言ヘハ最初ノ施肥ハ所謂客土法ニ始リシナラン掃溜其他ニ在ル腐殖土ニ植物ノ茂生スルヲ見テハ其土ヲ田畑ニ運ヒ入ルヽノ考ハ自然ニ生スヘシ人ノ排泄物ヲ利用スル我國ノ習慣モ間接ニ此方面ヨリ思ヒ付キシモノト想像シ得ルナリ歐洲古代ノ三圃農法ニテモ休閑地ニ牛馬羊豚ヲ放牧セシハ最初ハ單ニ監視ヲ容易ニシ且ツ飼料ヲ節約スルノ目的ナリシモノカ翌年其土地ニ種栽シテ地力ノ増加セルヲ知リシ實驗ヨリ家畜ノ糞尿ヲ肥料トスルノ利益ヲ解セシカ彼モ此モ自然ニ養力循環ノ理法ニ合シ數十百年繼續シテ同一ノ土地ヲ耕作スル爲ニハ必要缺クヘカラサル手段ト爲リ終ニ過去十數世紀間ノ農法ヲ形ツクルニ至リシナリ

　農場内ニ於テ自給セラルヽ肥料ハ勿論糞尿ヲ以テ主タルモノトスレトモ其外ニモ看過スヘカラサル一要素アリ即チ農場内ノ勞力是ナリ勞力ヲ肥料トスルト言ヘハ語トシテ奇怪ナレトモ此時代ノ肥料ハ今日ノ如ク資本ヲ變形シタルモノニハ非スシテ明ニ勞力ヲ變形シタルモノナリ其例ヲ言ハヽ農家ノ勞働者カ耕作ノ餘力ヲ以テ客土ヲ搬入シ草木ノ葉ヲ刈込ムカ如キ是ナリ現在モ市街地ノ汚水ヲ運搬スルカ如キアリ人手ニ餘剰アル海岸地方ナトニテハ海水ヲサヘ農場ニ汲込ムモノアリ殊ニ村々ニハ草苅場士取場ノ附屬スルモノアリテ住民ハ自由ニ之ヲ採收スルコトヲ得肥料其物ニハ(314)値ハ無ケレトモ之ヲ運搬スル勢力カ別ニ他ニ一層有利ナル利用法アル限ハ此種ノ肥料ハ用ヰラレスツマリハ自家ノ勞力ヲ肥料トシテ元ノ田地ヘ還スコトナレハ亦一種間接ノ養力循環ナリ此外ニ藁糠ノ類ヲ肥料トスルモ諸國共通ニ行ハルヽ重要ナル肥力還元ノ一手段ナリ日本ニテハ燒土ノ施肥法行ハル此等不用物ヲ土ト混シテ燃燒シ其灰ヲ施用スルナリ不輕濟ニ養分ヲ放散セシムレトモ肥料ノ速效ヲ收ムルノ道ナリ要スルニ收穫ニ依リ土地ヨリ奪ヒ去リタル肥力ハ如何ナル方法ヲ以テスルモ全部之ヲ還元スルコト能ハス故ニ農場内ノ勞力ヲ利用シテ其補充ヲ計ルノ必要アリ事實上ハ農湯外ヨリ肥料ヲ得ルモノナレトモ斯ノ如キ勞力ノ利用モ亦之ヲ肥料ノ自給ト稱スルヲ妨ケス何トナレハ農場内ノ材料ナリ勞力ナリノ許ス限ニ於テノミ肥料ヲ施ストイフ點カ此時代ノ特色ナレハナリサレハ此時代ニハ資本有ル者土地所有ノ利益ヲ知リテ新ニ開墾ヲ試ミントスルモ頗肥料ノ供給手段ニ於テ困難ヲ感セリ海邊ノ新田ナラハ泥土ノ中ニ肥力アル故當分素作リヲ許スト雖原野ノ開發ニ在リテハ内外何レヨリモ殆ト肥料ヲ得ルノ道ナシ故ニ此時代ニハ先ツ飯米ヲ與ヘテ多クノ農民ノ家族ヲ移住セシムルノ外人里ニ遠キ原野ヲ新墾スル手段ナシト稱セラレタリ明治維新ノ頃マテ諸國ニ廣キ山野ノ殘リアリシハ思フニ各農場カ其肥料ニ於テ割據自立シ餘力ヲ他ニ及ホスコト能ハサリシコト慥ニ其一原因ナラン

　第三期　肥料外給ノ時代　人口ノ今一層ノ増殖ハ更ニ農法ノ一變遷ヲ必要トス蓋シ農産物ノ全部ヲ各農場内ニ於テ自ラ消費スルコトヲ得セシムルナラハ第二期ノ農法ノ下ニ於ケル施肥ノミニテ永遠ニ地力ヲ保持シ得ルノ理ナリ語ヲ換へテ言ハヽ肥料自給ノ農生産組織ハ完全ナル自然經濟ノ?態ニ於テノミ存續スルコトヲ得ルモノナリ然ルニ人口ノ増加ハ直ニ農ヲ營マサル戸口ヲ多クシ從テ生産物ヲ農場外ヘ搬出スルノ必要ヲ生ス生産物ノ搬出ハ地力ノ搬出ヲ意味ス穀物ナリ藁糠ナリ家畜ナリカ農場以外ニ於テ消費セラルヽニ於テハ其中ニ含マレタル肥養力タケハ到底肥料トシテ元ノ土地ニ還ルノ期ナク地力ヲ舊?ニ復スルニハ勢別ニ他ノ方面ヨリ肥料ヲ得來リテ補充セサルヘカラス此ニ於テカ第三期ノ肥料ヲ外部ヨリ供給スルノ農法ハ始ルナリ農場内ノ勞働者カ一時又ハ長期農場外ニ出テ、生活スルモ間接ニ(315)養力循環ノ舊?ヲ障碍スルモノナリ即チ單ニ農場内ノ下肥ノ量ヲ減少スルノミナラス其勞力ヲ變形シテ肥料ト爲スコトモ亦能ハサルニ至レハナリ

　而シテ生産物ノ消費ニ於テモ勞力ノ利用ニ於テモ絶對ニ孤立自給スル農場トイフモノハ古代トイヘトモ之ヲ見出シ難シ多少ノ例外ハ早クヨリ有リ日本ニ於テ言ハヽ第一ニハ租税ナリ莊園ノ領主モ租米ヲ徴求ス戰國ニナリテハ軍用ノ藁、糠ヲモ農場外ニ出スカ故ニ僅ニ山野ノ産物ヲ以テ地力ヲ補充セリ然ルニ農民自身ノ生活需要ハ次第ニ増加シ鹽、油、刃物、紙ナトノ必要品ノ外ニ外部ヨリ農産物ト交換シタキ物品ハ多クナルハカリニテ一方ニハ商工其他ノ非農民ハ領主貴族ノミヲ以テ花客トセス漸次農家ヲ相手ニ生産スルニ至リ結局農場生産物ノ外部ニ搬出セラルヽ數量ハ年一年ト増加スル傾アリ從テ之カ爲ニ消耗セシ土地ノ肥カハ昔ノ如ク農場内ニテ獨立ニ之ヲ補充シ難クナリタリ

　以前ノ農ハ先ツ自家消費ノ爲ニ生産シ餘剰ヲ得テ始テ之ヲ賣却セシモノナルカ其餘剰部分ノ割合時代ノ進ムト共ニ段々多クナリ終ニハ餘剰ヲ生スルヲ農生産ノ一目的トナスニ至リ更ニ進ミテハ全部市場ノ爲ニ耕作ヲ營ムノ農業ト變化セリ此變遷ノ中途ヨリ所謂金肥ナルモノ起レリ金肥ナル語ハ勞力簿記法ヨリ金錢簿記ニ移リ行クノ目標ナリ�ｺ川時代ノ金肥ノ主ナルモノハ魚粕ナリ蝦夷地ノ開發ニ伴ヒ饒多ナル漁獲物ハ肥料トナリテ全國ニ配布セラレタリ猶菜種其他ノ糟類アリ都會居住者ノ排泄物モ市價ヲ生シテ金肥トナレリ最初ノ金肥ハ蔬菜果實殊ニハ工藝材料ノ生産ニ用ヰラレシヤ勿論ナレト次第ニ普通ノ穀作ニモ及ヒ今日トナリテハ硝石ヤ燐礦ヤトーマスメール〔七字傍線〕ヤ支那ノ大豆、大豆粕等ノ輸入ハ極メテ多額ナリ此ニ於テカ肥料ハ年々農業ノ流通資本ノ大部分ヲ占ムルコト恰モ工業ニ於ケル原料ノ如ク農業ト所謂製造業トノ區別ハ愈少クナレリ

　前述ノ如ク肥料供給ノ?態ハ個々農場ノ自給ヨリ次第ニ其關係ヲ擴張シテ今日ニテハ既ニ世界ノ市場ヨリノ供給トナリ如何ナル細民モ之カ影響ヲ受ケサルナキニ至レルモ猶進歩ハ其速度ヲ緩メス今ヤ更ニ第四期トモ稱スヘキ時代ニ入ラントス今之ヲ説明スルニ先チ猶一言スヘキハ小作農ト肥料トノ關係ナリ日本ノ小作ハ其ノ出入必シモ頻繁ナラサ(316)ルモ契約上期限ノ利益安固ナラス何時所有者ノ通知ニ依リテ土地ヲ返還スヘキヤモ知レサル?態ニ在ル故或ハ自己カ肥料トシテ投シタル資本ヲ囘收スルヲ得サルノ處アリ且通例資力ニ乏シキカ故ニ小作ニ付シタル土地ハ自作地ニ比シテ肥料ノ施用少シ加之多クノ小作人ハ能フ限リ從來存在セル地力ヲ枯渇シテ之カ補充ヲ力メス是レ金肥時代ニハ免レ能ハサル現象ニシテ農業者カ肥料ニ關スル計算能力ノ進ムホト小作ニ關スル契約モ亦精密ナラサルヘカラサル所以ナリ然ルニ我國ノ慣習ハ土地ノ貸借ニ當リ單ニ面積ヲ問ヒテ地力ヲ問ハス而モ小作期間永カラサルヲ以テ此現象ハ一層甚シキナリ諸外國ノ小作法ハ此點ニ關シテ豫メ地主小作人ノ紛議ヲ防ク爲地力評價ノ方法ヲ定メ出入共ニ之ニ依ラシムルコト恰モ東京ノ借家ニ於ケル造作賣買ノ方法ノ如クシ更ニ英國ノ如キハ藁ノ搬出ヲ禁シ畜肥ノ他用ヲ防ク等ヲ以テ小作契約普通ノ條款ト爲セリ思フニ一般ニ肥料ノ施用ヲ盛ナラシムルニハ此等ノ方法ニ依ルノ外猶小作期間成ルヘク永クシテ借地人ヲシテ自分ノ投下シタル資本ノ利益ヲ確保セシメサルヘカラス此點ハ吾人ノ研究ヲ要スル一問題ナリトス

　農業者カ肥料ニ對スル考ノ進ムト共ニ土地ト使用者ノ關係モ亦變遷スヘキハ自然ノ事ナリ例ヘハ最初ハ土地ノ貸借ハ所謂地力ノ受用ナリシモノ將來ハ或ハ単ニ一定ノ面積ノ使用ノミトナルコト亦製造業ニ於ケル敷地ノ貸借ト同一トナルヤモ知レス現ニ巴里其他ノ歐洲ノ市街附近ニテハ植木屋カ其ノ借地ヲ去ルニ臨ミテハ其圃場十數寸ノ表土ハ之ヲ携ヘ行クヲ以テ普通ノ慣習トナセリ（セリグマン〔五字傍線〕輕濟學原論四四頁）是レ表土ノ地力タル當初借地人ノ資本ヲ以テ作リタルモノナレハナリ此ノ如クナレハ土地ノ一部分ハ既ニ生産ノ要素中天然トイフ階級ニ屬セス工業ニ於ケル機械建物ト同シク資本トシテ取扱ハルヽニ至レルナリ此ノ如キハ即チ又肥料ニ對スル觀念ノ發展ナリ肥料供給?態ノ研究ハ鐡、石炭ニ關スル研究ト同シク國民經濟上ノ急務ニシテ如何ニシテ多クノ農産物ヲ得ヘキカノ問題ハ如何ニシテ善良且適當ナル肥料ヲ得ルヤノ問題ト殆ト一致セントス而シテ現在進歩セル諸國ニ於ケル肥料ノ國内的供給ハ概シテ十分ナラス殊ニ窒素肥料ニ於テ然リトス我邦ハ地勢上殊ニ肥料ノ減少ヲ來スヘキ事情アリ即チ急流ノ肥土ヲ海中ニ放出ス(317)ルモノ多キコト是ナリ（志賀氏）蒸發等ニ由リ空中ニ歸スヘキ肥分モ亦少カラス空氣中ニハ無限ノ窒素カアリナカラ數千年來之ヲ農業ニ利用スルノ途ヲ知ラス殆ト手ヲ束ネテ人智ノ有限ヲ歎スルノミナリシニ近世科學ノ力ハ頗此間題ニ傾注シ種々ナル方法ヲ以テ天然ニ存在スル窒素ヲ攝取スル手段ヲ發見シツヽアリ例ヘハ窒素石灰、石灰窒素ノ製造ニ由リテ可溶性ノ窒素ヲ得ルコト其一ナリ黴菌ノ飼養ニ由ル窒素ノ攝取ハ其二ナリ荳科植物類ノ緑肥トシテノ肥效ハ久シク人ノ認ムル所ナリシモ其理由ハ一種ノ微生物カ根瘤中ニ繁殖シ其生活作用ニ由リ空中ノ窒素ヲ集積スルモノナルコトヲ知リテヨリ之カ養成ハ漸次盛ニナレリ更ニ近年ニナリテハ他ノ種ノ「バクテリヤ」ノ必シモ荳科植物ヲ待タスシテ土中ニ繁殖スルモノアルヲ發見シ現ニ北米合衆國ノケンタッキー〔六字二重傍線〕州ノ如キハ此種「バクテリア」ノ單純ナル移植ニ由リ從來不毛ノ地ヲ變シテ肥土ト爲シ得タルモノアリト稱セリサレハ今若シ此等ノ實驗ニ干與セル學者ノ所説ニシテ一旦確立シ弘ク世界ニ行ハルヽニ至ランカ土地肥培ノ費用ハ必ス大ニ減スヘク從テ又農業ハ全然其經營方法ヲ一變スルニ至ルヘシ是レ明ニ發展ノ第四期ニシテ吾人ハ其ノ何レカノ形ヲ以テ近キ將來ニ於テ必ス發現スヘキモノナルコトヲ

　

　　　　　五章　日本農業ノ現?

　

　外國ノ學者カ解スル農業ハ必ス作物ト家畜トノ間ニ養分ノ循環アルコトヲ要件トス我邦ニテモ明治初年ノ農學者ハ多ク所謂混同農業ノ説ヲ爲シ家畜ヲ飼養セサル我邦ノ農業ヲ以テサモサモ不具不完全ノモノヽ如ク批評セリ此説ハ勿論僻見ナルモ要スルニ土地廣ク人少キ新開國ヲ除クノ外ハ動物ト植物トノ間ニ肥力ノ循環ヲ行ハシメスハ到底永續シテ農業ヲ行フコト能ハサルノ趣旨ニ外ナラサルヘシ唯日本ニテハ家畜ト作物トノ間ニ循環ヲ行フ代リニ作物ト人間トノ内ニ之ヲ行ヒシナリ語ヲ換レハ牛馬ノ排泄物ヲ肥料トスル代リニ人ノ糞尿ヲ利用セシナリ決シテ此理法ニ背キテ農(318)業ヲ行ヒ來リシニハアラス日本人ノ祖先ハ主トシテ南方ヨリ來リシナルヘシ衣ニ毛皮ヲ用ヰルコト少ク且ツ沿海漁利多ク山野ニ獵獲アリテ必シモ家畜ノ肉ヲ要セス次テ佛教ノ渡來ハ殺生ヲ戒ムルノ風ヲ長シ舊來ノ宗教モ亦血ヲ忌ミ羶ヲ惡ミシカハ愈以テ家畜ノ需要ヲ減少セリ維新ノ前迄穢多ト稱セシ階級アリ穢多ハ餌取ノ轉訛ナリ犬鷹ノ爲ニ餌ヲ取ルナリ餌取ノミハ家畜ノ肉ヲ食ヘリ（今昔物語）恐クハ牧畜ヲ常習トセル別ノ民族ナルヘシ彼等カ此ノ爲ニ社會ヨリ賤視セラレシヲ見テモ肉食ノ風ノ久シク行ハレサリシヲ知ル既ニ毛皮ト肉トヲ常用セストスレハ家畜ノ用途ハ極メテ限リアリ其ノ耕作ノ擴張ニ伴ハサリシハ自然ナリトイフヘシ牛馬ノ牧畜ハ中古迄各地ニ存在セシモ馬ハ軍用ヲ主トシ牛ハ輓用ヲ主トス牛馬ノ皮革ハ兵器ニ用ヰラレシノミ牛蘇即乳酪ノ貢獻ハ令ト式トノ規定ニ見ユレト久シカラスシテ絶エタリ耕作其他農用ニ使役セシ牛馬ハ甚少シ?ノ飼養ハ行ハレシモ寧晨ヲ報セシムル時計用ニ止リシカ如シ羊ト豚トハ�ｺ川氏時代ニテハ支那ノ書物ニテ名ヲ知ルノミナリキ

　前述ノ如ク牛馬ノ農民ニ由リテ飼養セラルヽモノハ甚少カリシカ故ニ其排泄物ノ肥料ニ供セラルヽハ決シテ一般ノ現象ニハ非サリシナリ之ニ反シテ人糞尿ハ夙ニ農用ニ供セラレタリ延喜式（西暦九一〇頃）ニハ菜園ニ糞尿ヲ施肥スルコト見エ降リテ鎌倉時代（西暦一二五〇頃）ニ成リタル沙石集ニハ人糞ヲ田地ニ運ヒタルコト見エ馬ハ牛ニ比シテ數多ク戰國時代トナリテハ軍用トシテ愈盛ニ飼育セラレタリト雖未タ其ノ農用ニ使役セラレタルヲ聞カス牛ハ農用トシテ飼育スル者アリシモ其肥料ヲ目的ト爲セルハ近世ノ事ナルニ似タリ農法ノ進ムヤ寧却テ外部ノ補給ニ著眼シ河土、海土、青草、海草、魚肥等ノ使用ヲ力メ以テ近年ノ新ナル肥料ノ供給即チ所謂金肥ノ時代ニ至リシナリサレハ日本ノ農業ハ終ニ作物ト家畜トノ間ノ聯絡循環ノ作用ヲ理解セスシテ今日迄發達シ來リシモノトイフヘシ現在日本ニ於ケル肥料トシテノ人糞尿ノ總價格ハ莫大ナリ頗重要ナル國ノ財源ナリ若シ此物ノ利用ヲ知ラスハ海運ヲ杜絶セラレテ二年間ノ戰爭ヲ持續シ得ラレサリシヤモ計ラレス是レ尤著明ナル我國農業ノ特色ナリ

　各國ノ經濟組織ハソレソレ沿革上獨立ノ根據ヲ有スルハ此點ヲ見テモ明白ナリ日本ノ建築其他我レノ生活方法モ其(319)ノ影響スル所ヲ千思萬考シタル後ニ非サレハ容易ニ改ムヘキニ非ス所謂混同農法ノ説ヲ爲セシ者ハ西洋ノ方法ヲ過重セシニ過キス西洋ノ學者カ自國ノ現?ヲ以テ世界共通ノ常態トスルモ怪シムニ足ラサルモ受賣ハ罪深シ殊ニ人糞使用ヲ以テ野蠻ナリトイフノ理由ノミヲ以テ畜肥ノ施用ニ改メントスル説ノ如キハ誠ニ無分別ニシテ且ツ忌ムヘキ歐化主義ナリ元來家畜ノ數ハ人口ノ増殖ト反比例ヲ爲シテ減少スヘキモノナリ從テ家畜ト耕作物トノ間ニノミ肥料ノ循環ヲ爲シテ足レリトスル能ハス從來未タ日本風ノ肥料ヲ用ヰサル國々ニテモ進テ人間ト植物トノ間ニモ肥料ノ循環ヲ行フノ必要アリ故ニ近年ハ歐米ニ於テモ亦所謂無畜耕作法ヲ唱フル學者アルニ至レリ又近年農業上ノ問題タル市街附近ノ下水灌漑ノ方法ノ如キ亦然リ西洋ノ下水ハ人ノ糞尿ヲモ含メリベルリン〔四字二重傍線〕ニ於テ市ノ下水ヲ整理シテ之レヲ以テ郊外不毛ノ地五萬「エークル」ヲ耕地ニ變シタリト云フカ如キ其他ノ諸國ニ於テモ漸次人ノ排泄物ヲ肥料トナスノ問題ニ著眼スルニ至レルハ蓋シ日本ヤ支那ノ農法ニ學フ所アリト言フヘシ

　然レトモ家畜ノ飼養モ亦決シテ等閑ニ付スヘキ問題ニアラス近年ノ農作物ハ單ニ食用ニ供セラルヽノミナラス又盛ニ工業用ニモ供セラルヽカ爲ニ栽培セラルヽヲ以テ土地ノ肥力ヲ外部ニ搬出スルコト多ク從テ肥料ノ點ヨリ云フモ人ノ排泄物ノミヲ以テハ充分ナリト云フコトヲ得ス又近年肉類ノ消費高ハ頻ニ増加シ加フルニ皮毛骨角ノ需要亦甚シク増加シ共ニ外國ノ輸入ヲ仰クノ有樣ナルノミナラス戰爭以來馬匹ノ改良軍馬ノ育成ヲ必要トシ既ニ馬政局ト稱スル競馬奨勵ノ機關ノ設ケラルヽアリ是モ亦時勢ノ然ラシムル所ニシテ我國ニ於テモ事實上畜産増殖ノ必要ヲ感シツヽアルノ兆候ナルヘシ唯我國目下ノ事情トシテハ農民ニ耕作ト飼畜トヲ調和シテ行ハシメントスルノ提案ハ種々ナル困難ヲ伴フモノノ如シ何トナレハ耕地面積増加ノ急ハ大ニ牧草ノ栽培地ヲ設クヘキ餘裕ナク而モ牧草ニ關スル農民ノ智識ハ殆ト皆無ナリ既ニ國防又ハ對外的ノ性質ヲ帶ヒタル問題ナリトスレハ一層ノ研究ヲ經テ此等ノ困難ヲ處辨セサルヘカラス牧羊ハ殆日本ニハ望ナシ故ニ毛織物ノ消費ハ到底國内農業ノ問題ニ非ス其ノ輸入ヲ仰クヘキハ是非ナキコトヽ言フヘシ

(320)　次ニ各種農産物ニ就テ我國ノ農業ノ特色ヲ説カンニ先ツ米ハ最重要ナル作物ナリ我國民ハ古來米ヲ以テ常食トセリ農民土着ノ最初ノ要件ハ其地味ノ米作ニ適スルヤ否ヤニ在リ水田ノ不足ナル地ニ於テハ陸稻ヲモ栽培シテマテモ米ヲ食ハサレハ承知セスサレハ田ハ最大事ナル農用地ナリ大寶令ノ班田ノ規定ヲ見ルモ園地（畑）ハ宅地ニ附隨シ定量ヲ以テ分給スルハ水田ノミ以テ古來如何ニ田カ重要視セラレクルカヲ知ルヘシ米ニ次テ重要ナルモノハ麥ナリ關東地方ハアマリ麥ヲ食セスト雖モ關西地方ニ至リテハ麥ハ重要ナル食物ノ一種ナリ又地方ニヨリテハ稗、粟等ヲモ雜ヘ食ス其他甘藷、芋、大根、豆、干菜等ヲモ一部分ノ常食トナス地方少カラス此等ノ雜食ヲ俗ニ糧飯（又搗飯、カテメシ）ト稱セリ昔時交通方法不十分ナリシ時代ニハ一地方ノ生産不足即チ飢饉ハ殆ト年トシテ之有ラサルハナク農民ハ此苦痛ヲ免レムカ爲ニ貯穀ノ用意ヲ怠ラス平時ヨリ米ノ消費ヲ節約シ如何ニシテ米ヲ「食延ハス」ヘキカヲ大ナル問題トス救荒本草ノ研究ハ昔ノ農政學ノ一要項ナリ（近年ノ著書ニテハ石川理紀之助翁ノ菴ノ手鍋アリ之ヲ見レハ其一端ヲ知リ得ヘシ）

　此ノ如ク米ハ我國民ノ主食ニハ相違ナキモ決シテ其全部ニハアラスエッゲルト〔五字傍線〕氏ノ Land Reforms in japan ニハ米ハ國民食物ノ平均五十三％ヲ占ムト云ヘリ其計算ノ根據ヲ知ラサルモ多分年産額ヲ以テ根據トセシナラン唯米ハ飯トシテ用ヰラルヽノミナラス又酒、餅、菓子等ノ原料トシテ用ヰラルヽヲ以テ精確ナル數字ヲ以テ雜食ノ程度ヲ云フコトハ不能ナリ次ニ此計算ニハ貯穀ノ數量ヲ看過セリ又統計年鑑ニ依レハ米ノ平年ノ年産額ヲ四千萬石餘トナセトモ余ノ見ル所ヲ以テスレハ確ニ平年五千萬石以上ナルヘシ舊時代ニハ土地ノ收穫平均高ヲ以テ久シク租税算出ノ基礎トセシカ故ニ農民ハ力メテ實際ヨリ少キ收穫ヲ報告スルノ風アリ自然ニ今日ニ及ヘルハ事實ナリ全國ヲ通シ一反二石ノ平均産額アルコトハ學者モ實際家モ共ニ疑ハサル所ナレハ余モ亦常ニ平年五千萬石ヲ以テ目安ト爲セリ更ニ又エッゲルト〔五字傍線〕ノ計算ハ二十年前ノ國?ニ基クモノナレハ今日ニテ都會又ハ都會風ノ生活ノ増加ノ結果トシテ米食ノ割合ハ決シテ五十三％ニハ止ラサルヘシ

　

(321)　日本ノ農産物中米ノ最重要ナルコトハ勿論ナリサレハ學者、政治家ガ常ニ此問題ノ研究ヲ怠ラサルハ至當ノ事ニ屬ス然レトモ其反對ニ麥、豆等ノ問題カ常ニ頗等閑ニ付セラルヽノ風アルハ遺憾ナリ麥、豆其他ノ雜穀カ米ニ次ク主食ナルコトハ前述ノ如クナルノミナラス近年此等ノ穀物ノ輸入ノ増加ハ殊ニ之ニ關スル社會ノ注意ヲ要求ス（此モ統計年鑑ヲ見ヨ）饂飩ヤ鰻頭トシテノ食用ハ今モ昔ニカハラス更ニ?包類ノ流行ト共ニ小麥ノ消費ハ年々増加セリ其他ノ麥モ麥酒トシテ更ニ馬糧トシテ新ニ用途ヲ増シ從テ麥ノ重要ノ度ヲ加フルニ至リタリ唯現在ハ麥ノ栽培ハ利益少シト稱セラル我國麥栽培季ニ於ケル濕暑ハ優等ナル穀物ヲ得ルニ適セス從テ舊日本ノ地域ニテハ需要多キニ拘ハラス年産額増加セス裸麥は北緯三十七度即チ奧羽ノ南境以北ニハ適セス夏麥ハ北地ニ於テモ未タ試ミラレス品種改良ノ必要ハ目下米ヨリモ却テ麥ニ多シ麥藁ノ工藝用トシテノ用途ハ近年著シク増加セリ其他概シテ用途ノ上ニ大ナル變遷ヲ受ケツヽアルハ米以外ノ穀物ナリ米ニ於テモ副産物タル藁ノ用途ハ近年著シク擴張シ從テ肥料自給ノ問題ニ少カラサル影響ヲ及シツヽアリ

　次ニ所謂特用農作物ノ中ニ就テ一言ヲ要スルモノハ木綿ナリ木綿ノ初テ輸入セラレタルハ平安朝ノ初期ナレト其ノ一般ニ栽培セラルヽニ至リシハ遙ニ後代ニシテ第二囘目ノ新輸入ノ際ニ在リトス上代ノ衣服原料トシテハ栲、楮等樹木ノ繊維ナリ絹、眞綿ハ夙ニ在リシモ貴人ノ用ノミ栽培セラレタル衣服ノ原料ハ麻ノ類ノミサレハ木綿ノ輸入ノ國民一般ニ及セシ便益ハ食料トシテノ甘藷ト相似タリ從テ久シカラスシテ全國ニ普及セリ次ニ絹絲ハ太古ヨリ一部ノ國民ニ使用セラレシモ足利時代ヨリ�ｺ川時代ノ初迄ハ猶輸入品ナリキ所謂白絲ノ貿易ト稱シテ長崎、京、大阪、堺ノ商人ヲ富マセシハ即チ是ナリ絹絲カ反對ニ輸出品トナリシハ最近ノ開國以後ノ現象ナリトス其後年々輸出ノ量ヲ増加シ現今ニ於テハ我國輸出品ノ最重要ナルモノトナリタリ（一億圓以上ノ輸出高ヲ有スルモノハ生絲ノ外ニナシ）從テ桑ノ栽培ハ近年著シク増加シ明治ノ十二三年頃ハ桑栽培ノ反別米ノ五％ニ過キサリシニ明治二十年前後ニハ六％以上トナリ明治三十年前後ニハ一〇％餘トナリ明治三十六年ニハ十一％以上ニ増加シタリ信州南部ノ如キ水田ヲ變シテ桑畑ト(322)ナスモノ日ニ増加スト云フ以テ其全貌ヲ知ルヘキナリ

　之ニ反シ染料農産物ハ一般ニ衰微セリ其中ニ就テ紅花ハ古來重要ナル農作物ノ一種ナリシモ近年種々ナル染料ヲ輸入スル結果トシテ最初ニ衰ヘタルハ紅花ノ栽培ナリ其結果紅染ニ使ヒシ梅實ノ用途モ減シ月瀬其他ノ梅林ハ僅ニ見物人ノ爲維持スルノミ次ニ藍ハ阿波其他ノ地方ニ多ク産セシモ是レ亦最初ハ印度藍ノ爲ニ次ニハ獨逸ノ製造藍ノ爲ニ漸次衰況ニ向ヘリ

　製紙原料タル楮、三椏、雁皮栽培モ亦既ニ衰運ニ向ヘリ次ニ製油原料トシテハ最初胡麻ノ栽培尤盛ナリ一部海岸地方等ノ魚油ヲ使用スルモノヲ除ク外大昔ノ燈油ハ殆皆胡麻ヨリ製セリ殊ニ寺院領ニ於テハ油料ノ胡麻ノ栽培ヲ最重シタリ然レトモ一旦�壼Vノ輸入アルヤ燈油用トシテハ胡麻油ノ需要ハ全ク消滅シ其代リニ菜種ノ栽培ハ全國ノ春郊ヲ彩レリ然ルニ此菜種モ亦石油ノ輸入竝ニ國内生産ニ敵スル能ハス今ヤ如何ナル邊土ニテモ石油ヲ使用セサルモノ無ク�壼Vノ栽培ハ大ニ衰ヘタリ唯近時工場鐵道等ノ隆盛トナルニ從ヒ機關用トシテ漸次其需要ヲ増加シ爲ニ全滅ノ悲運ニ陷ラサルノミ

　嗜好品トシテハ茶ノ栽培ハ頗古シ而シテ今モ昔ノ如ク農家ノ副業トシテ各地方ニ生産セラル維新以來生絲ト共ニ重要輸出品ノ一ニ算ヘラレシモ競爭多クシテ現今ハ最初ノ如ク有望ナル能ハス煙草ハ所謂南蠻貿易時代ノ輸入ニ係ルモ其普及極メテ廣ク�ｺ川ノ後半ニハ國内各地ニ産出シ各特色ヲ以テ需要ヲ有セシモ一旦專賣法ノ制定セラルヽヤ先ツ其耕作區域ヲ制限シ煙草産量モ産地モ共ニ頗昔ヨリ減セリ（女ノ喫煙ノ風ハ段々少クナレリ）

　以上ハ我國各種農産物ノ現況ナリ此等農産物ノ盛衰消長ヲ知ルハ興味アリ且有益ナル研究ナリ（帝國統計年鑑ヲ參考セヨ）世界各國一般ノ近世ノ傾向ハ何レモ相似タリ即チ所謂圃藝業 Market gardening ノ發達ナリ我國モ此例ニ漏レス所謂畑作ノ革進ハ一ノ氣運ヲ爲セリ是レ主トシテ市街ノ生活殊ニ工業ノ發展ニ伴フ現象ニシテ其結果一方ニハ主食供給ノ問題ハ愈政策ノ解決ヲ必要トシ他ノ一方ニハ政策ノ保護スヘキ農業者ノ經濟?態ハ愈複雜トナレリ而シテ之(323)ニ關聯シテ最後ニ注意ヲ要スルハ多クノ學者實際家カ單ニ米ノミノ年産額ノ増減ヲ以テ直ニ農業ノ盛衰ナルカ如クニ論斷スルノ誤謬ナリ勿論米ノ産額ノ減少ハ時トシテ農業ノ衰微ニ基クコトアリ然レトモ農業ノ範圍ハ弘シ收入ノ源トシテ見ルモ生産物ノ國民ニ對スル效果ヨリイフモ此ノ如キ單純ナル推論ハ決シテ適當ナリトイフ能ハス研究者ノ注意スヘキ點ナリトス

　

　　　　　第六章　日本農民ノ構成

　

　我々ハ?「農民」ノ二字ヲ口ニスレトモ其概念ハ甚茫漠タリ或ハ之ヲ以テ有力且ツ強健ナル國民ノ中堅ノ如ク言ヒ或ハ又營々トシテ牛馬ニ近キ貧生活ヲ爲ス下級人民ノ如クニモ思ヘリ結局種々ナル慣習上ノ思想ニ左右セラレテ終ニ其本質ヲ認識セサルナリ然ルニ此語ノ範圍ヲ明確ニスルコトハ農業政策ノ攻究ニ際シテノ第一ノ用意ナリ國々ニハ何レモ特別ノ國情アリ沿革アリ從テ農民トイフ者ノ定義モ亦甲國學者ノ説ヲ假リテ之ヲ乙國ノ經濟ニ適用スルコト能ハサルナリ日本ノ農政ノ發足點トシテハ必特ニ日本ノ農民ノ成立チヲ知ラサルヘカラス

　日本ノ農民ヲ區別シテ地主ト小作人トノ二階級トスルハ普通ノ説ナリ便利ナル方法ナレトモ實際ニ於テハ二者ハ經濟上明白ナル分界ヲ有セス純然タル地主、純然タル小作人ハ現今少シク生シタリト雖多クノ地主ハ同時ニ小作人ト同等ノ小農ナリ又小作人ノ多數ハ居村ニ少シノ土地例へハ自己ノ宅地ヲ所有シ其土着ノ確實ナル點ニ於テハ所謂地持小農ト甲乙無キモノアリ故ニ假ニ前ノ如キ二階級ノ區別ヲ爲スハ可ナリトスルモ西洋殊ニ英國ナトニ於ケル地主ト小作人ノ觀念ヲ以テ其關係ヲ論スルコトハ出來ヌナリ

　併シナカラ日本ノ農民ノ中ニハ略之ト類似スル二ノ階級ノ存在スルコトハ事實ナリ即チ其一ハ稍大區域ノ土地ヲ有シ他人ヨリ土地ヲ借ラスシテ耕作ニ從事シ又ハ其所有地ノ貸付ニ依リテ生活ヲ立ル者地方ニ由リ旦那衆ト云ヒ長《ヲサ》百姓(324)ト云ヒ又ハ舊家ト云フモノ是ナリ其二ハ極メテ少許ノ土地ヲ所有シ又ハ少シモ所有セス其收入ノ大部分ヲ借地ノ耕作ヨリ得ル者即チ或ハ小前ノ者ト云ヒ或ハ水呑百姓ト云フモノ是ナリ此區別ハ元ヨリ所有地積ノ廣狹ニ依ルナレト精密ニ限界ヲ定ムル能ハス一見漠然タルカ如シト雖實際上二者ノ區別ハ明ニ存シ昔ヨリ今日ニ及ヘリ而シテ二階級ノ社會上ノ地位ノ差等ハ必シモ財産ノ多少ニ比例セス寧遙ニ其以上ニ懸隔セリ近年經濟上ノ變動ニ伴ヒテ二者ノ何レニモ屬セサル農民多ク生シ社會上ニハ所謂四民平等ノ思想發達シ更ニ又家ノ榮枯盛衰カ甚シカリシ爲頗大ナル混亂ヲ引起シタリト雖猶農村ニ就テ仔細ニ觀察スルトキハ此區別ノ存在ヲ認ムルコト困難ナラス此制度慣習ノ正當不正當ハ別問題トシ先ツ其由テ來ル所ヲ説明シテ以テ將來ニ對スル政策決定ノ材料ト爲サムトス

　農民ニ二階級アルハ疑モ無ク古代日本ノ賤民制ノ痕跡ナリ之ニ基キテ發生セル莊園時代ノ被管制ノ變化ニ他ナラス上古ノ社會?態ハ詳ニシ難キモ大寶令ノ規定ニ依レハ良民即チ百姓ト稱スルハ今ノ貴族ニ當ル其數甚少ク國民ノ一半ハ賤民ナリ賤民ニ五種アリ官戸、雜戸、官奴婢家人及奴婢是ナリ所謂五種ノ賤民トハイヘトモ其實ハ家人卜奴婢トノ二種ナリ官戸ト雜戸トハ官ノ家人ニ他ナラス家人ト奴婢トノ區別ハ明白ナリ即チ賤民カ家族ヲ有シ獨立ノ生計ヲ營ム能力アルト否トナリ私ノ家人ニ關シテハ令ノ規定ニ「盡頭ニ使役スルコトヲ得ス」トアリテ主人ハ家人ヲ使役スルモ同時彼等ヲシテ自ラ其家ヲ維持セシムルコトヲ許サヽルヘカラス官ノ家人ノ能力ハ無論私ノ家人ヨリモ大ナリシナラム官奴婢、私奴婢ハ之ニ反シテ強制ノ一生奉公ナリ盡頭使役セラルヽノミナラス其子其孫モ尚主人ノ奴婢ナリキ然ルニ賤民優遇ノ法頗具ハリシ爲良民カ租税課役ノ負擔ヲ免レムカ爲自ラ進ミテ賤民ノ籍ニ入ル者多ク結局社會上經済上良民ノ貧ナルモノヨリハ勢家、富豪ニ屬スル賤民ノ方カ有難クナレリ一方ニハ又賤民中ノ二種ノ區別モ漸次消滅シ昔ノ奴婢ノ階級ハ無クナリ家人ノ思想ノミハ永續シテ今日ニモ及ヘリ�ｺ川時代ニ於テ御家人トイへハ將軍直屬ノ士族ナリ鎌倉時代ニハ全國ノ武士一人トシテ將軍ノ家人ト爲ルヲ欲セサルモノ無シ後年ニ及ヒテハ家人ハ皆名家ニシテ中々賤民トコロノ沙汰ニ非ス而シテ名ハ家人ト稱セサレトモ諸侯以下土着ノ武士ニ至ルマテ皆一方ニハ誰カノ家人ニシテ(325)他ノ一方ニハ自己モ其家人ヲ有セリ郎從ト云ヒ家來トイフハ總テ譜第ノ從屬者ナリ出入ノ者ト云フモ亦是ナリ分家出店モ亦此思想ヨリ起レリ此思想ハ遠ク奈良ノ朝廷ノ以前ヨリ明治ノ維新迄引續キ人心ヲ支配セリ而シテ明治ノ維新ハ此ノ家人ノ制度ヲ全廢セシ點ニ於テ最大ナル社會上ノ意義ヲ有スルモノナリ而シテ人心ノ自ラ然ラシムル所カハタ偶然ノ暗合ナルカ歐羅巴北部ノ諸國ノ歴史ニ於テモ一度ハ何レモ同一ノ時代ヲ經歴セリ即チ封建ノ制度ト云フモノ是ナリ外國ニ於テハ專門ニ之ヲ研究セル學者多キモ我國ニテハ未タ闡明セラレサル點少カラス因テ諸子カ經濟史ニ於テ追々講究セラルヽトシテモ茲ニ簡單ニ現在ノ農民ニ階級ヲ發生セシメタル由來ノミヲ説明スルハ不必要ニ非サルヘシト信ス

　最古キ時代ニ於ケル農ハ部曲（族）ヲ以テ單位トシタル共同ノ耕作ナリシコトハ多クノ學者ノ一致スル所ナリト雖確固タル根據ナク又夫マテ溯ルノ要ナシ大寶令以後ニ於テハ戸（家）ハ即チ農ノ單位ニシテ各戸ハ其人數ニ應シ均等ナル田地ノ配分ヲ受ケ家族及家人、奴婢ヲ率ヰテ耕作ニ從事シタリ而シテ班田ノ法ニ依ルトキハ良民ハ何レモ均等ノ機會ヲ與ヘラルヽカ故ニ其經濟上ノ實力モ亦略平等ナルヘキ理ナレトモ事實ハ全ク之ニ反スヘキ情勢アリキ其原因ノ主ナルキノヲ擧レハ第一平等ノ分配ヲ爲スハ田ノミニテ宅地、畑地ハ皆舊?ノマヽニテ大小ノ差アリシコトナリ第二良民ノ中ニ官ニ就クモノト就カサルモノトアリシコトナリ官吏ニハ口分田ノ外更ニ職田、位田ヲ給セラル誰テモ官吏ニ爲ルコトヲ得ルナレト在官者ノ子孫ハ官吏トナリ得ル機會多キ爲自然ニ官吏非官吏ノ區別ヲ生セリ官吏ノ功勞アル者ハ更ニ功田ヲ受ク功田ハ或モノハ之ヲ子孫ニ傳ヘ家ノ財産ヲ増加スルコトヲ得タリ第三ニハ神田ト寺田トハ班田ノ列ニ在ラス且ツ其量ニモ限度ナケレハ神社寺院ハ寄進ヤ買得ニ由リ次第ニ大ナル地主トナリシコトナリ第四ニハ養老、天平二度ノ格ニ依リ開墾奨勵ノ政策トシテ開墾地ヲ私財トシテ永遠ニ家ニ傳フルヲ許シ爲ニ田地班授ノ原則ニ大ナル例外ヲ設ケシコトナリ田地ノ荒蕪シタルモノハ山野トナル一切ノ山野ハ公私ノ共用ナリ故ニ良民ハ何人モ開墾シテ其地ヲ私財ト爲スノ機會ヲ有スルカ如キモ事實ハ之ニ反シ權力アル家又ハ資力アル富者ニ非サレハ開墾ノ利ヲ知ルモ之(326)ヲ行フコト能ハス此等ノ結果大地主ト爲ルハ少數ノ百姓ノミニシテ他ハ悉ク賤民ト擇フコトナキ者トナレリ

　奈良朝時代ヨリ平安朝時代ノ初期ヘカケテ前ノ天平十五年ノ格ニ依リ墾田ヲ作リテ私財ト爲セシ人ノ種類ヲ擧クレハ第一ニ地方ノ土豪ナリ昔ノ國造ヤ縣主ノ子孫ハ政府ノ方針トシテ成ルヘク之ヲ郡ノ官吏（郡司）ニ任用ス郡ノ大少領主政主帳等ノ官吏ハ事實ニ於テ世襲ナリ彼等ハ家族多ク以前ヨリノ家人奴婢ヲ多ク有スレハ之ヲ使役シテ必ス開墾ノ利ヲ占ム第二ニハ赴任シタル地方官（國司）ナリ地方官カ其地位ヲ挿ミテ開墾地ヲ所得スルハ禁令ナリシモ名義ハ何トテモ附ケラルヽナリ實際ニ於テ在官者ノ勢力ハ甚優越ナリ故ニ中世武家時代ニ於ケル地方ノ武士ハ大部分昔ノ地方官ノ子孫カ祖先ノ開墾地ニ居住スルモノナリ第三ニハ京都ニ居住セシ權官ナリ地方官ハ地方ニ勢力ハアレト中央ニテハ勢力少シ故ニ特許其他法律上ノ手續ハ京都ノ大家ノ力ヲ假ルヲ便トス京官ハ又此ノ如キ機會ヲ利用シテ自己ノ開墾地ヲ地方ニ作ルナリ第四ニハ皇族ヤ高貴ノ女官ナリ此モ同樣ノ理由ヲ以テ開墾地ヲ占領セリ第五ニハ社寺ナリ社寺ハ自己ノ家人奴婢ヲ養ヒ之ヲ利用シテ又ハ地方ノ勢力者ト結合シテ澤山ノ開墾ヲ爲セリ第六ニハ政府自身ノ開墾地アリ天皇上皇ノ勅旨ニ依ル開墾アリ此等ノ開墾地ハ之ヲ莊園ト稱ス源平時代ニナリテハ莊園ハ日本ノ領土ノ十分ノ七八ヲ占ム此ノ如ク廣大ナル土地カ悉ク天平以後ノ開墾ナリトイフコトハ奇異ナルカ如キモ舊來ノ土地ニ課税重クナリ現在ノ耕作者カ之ヲ抛棄シテ荒レシムレハ其次ニ之ヲ田ニ復スルハ即チ開墾ニシテ直ニ莊園トシテ取扱ハルヽナリ又官廳ノ目ヲ盗ミテ舊來ノ公田ヲ開墾地ノ中ヘ編入セシモノモ少カラス故ニ莊園ノ大キサハ官廳ニテハ町歩ニテ計算スルヲ取締上便ナリトスルモ人民ハ四至ノ?示又ハ繪圖ニ依リテ區域ヲ定ムルヲ利トナセリ

　サテ此等ノ大地主ハ如何ニシテ其莊園ヲ利用セシカトイフニ疑モナク其模範ヲ政府ノ公田輕營法ニ採レリ公田ニハ人民ニ分配セシ殘餘即チ乘田其他政府ノ自ラ管理スヘキモノ少カラス而シテ其方法ニハ二種アリ其一ハ直營法ナリ官ニ屬スル家人奴婢ヲ使役シ又ハ百姓ノ課役ニ由リテ政府ノ爲ニ耕作ヲ爲サシムルナリ其二ハ貸付法ナリ地子即チ借料トシテ收穫ノ五分ノ一ヲ徴収セリ社寺其他ノ大地主カ所領地ヲ利用スルニモ此以外ノ方法ハ先ツ想像シ難シ唯最初ハ(327)各自舊來ノ家人奴婢ヲ使役シテ足リシモノカ開發ノ結果大莊園ノ起ルニ及ヒテハ勢勞力ノ不足ヲ感シ種々ノ方法ヲ以テ外部ヨリ移住者ヲ誘致セリ寺ニ屬スル賤民ハ早クヨリ優遇セラル其他ノ大地主モ奴婢ヲ引上ケテ家人ト爲シ一戸ヲ構ヘシメ直營田ニ使役スル傍之ニ土地ヲ貸付シテ地子ヲ徴スルハ雙方ノ利益ナリ又家人中才覺アルモノニハ帳簿ヤ監督ノ事務ヲ掌ラシメシカハ賤民トハ名ノミニテ此等ノ家人ハ人モ羨ム富ト勢力トヲ有セリ加之奴婢ハ固ヨリ家人モ亦本來一家ノ私民ナレハ當時最大ノ苦痛ナリシ課役ノ負擔ナシ故ニ良民ハ機會アレハ富豪ノ莊園ニ入リテ私民トナリ課役ヲ免レンコトヲ圖リ良民ノ數減スレハ個々ノ良民ノ負擔ハ又年々ニ多クナレリ從テ其間ニハ負擔ノ重キニ堪ヘス給與セラレシ口分田ヲ打捨テヽ逃亡スル者即チ所謂浮浪、浪人ノ徒ハ多クナレリ浮浪ノ打捨テタル田地ハ一旦荒蕪ニ屬スレハ再ヒ之ヲ田トスレハ既ニ私財ナリ浮浪カ再ヒ土着スレハ必ス或莊園ノ私民トナルナリ此ノ如クニシテ莊園ハ天下ニ滿チ僅ニ殘リタル公田モ亦一種國ニ屬スル莊園ノ如ク考ヘラルヽニ至レリ從テ莊園ニ住スル私民ト公田ニ住スル公民トノ間ニハ何等良賤ノ區別無ク共ニ之ヲ百姓ト稱シ身分アル良民モ人ノ家人トナルヲ恥トセサルノミナラス寧之ヲ希望セリ

　中世ノ物語ニ於テ最モ活動セル所謂武士ノ階級ハ一方ニ小地區ノ領主ナルト同時ニ多クハ大ナル領主ノ家人ナリ京師ノ貴族又ハ大社寺ハ自ラ遠國ノ莊園ヲ經營スル能ハス必ス所在地方ノ豪族ヲ家人トシテ之ヲ管理セシム之ヲ下司又ハ地頭ト云フ鎌倉幕府ノ始頼朝は全國ノ莊園ノ管理者即チ地頭ヲ補任スルノ權限ヲ有シ領主ノ意思ニ拘ハラス凡テ自己ノ家人ヲ以テ之ニ任シタリ此頃ヨリ地頭カ領主ニ對スル關係ハ主ト家人トノ關係テハ無ク對立的トナレリ併シ幕府ノ威令ノ行ハレシ間ハ地頭ハ一定ノ給分ノ外領主ノ利益ヲ犯サス莊園ノ收入ノ大半ハ必ス之ヲ領主ヘ輸送セシカ南北朝兵亂ノ頃トナリテハ次第ニ利益ヲ壟斷シ末ニハ管理地ノ全部ヲ横領スルモノ多クサラヌモ領主トノ間ニ諍訟絶エサリシカハ之ヲ解決スル方法トシテ一種和解契約ハ流行シ諍園ノ地主ハ本來全部自己ノ領スヘキ土地ナカラ收入ノ割合ニ應シ其一半ヲ地頭ニ割與シ雙方互ニ他ノ部分ヲ綺《イロ》ハヌコトヽナリテ分立セリ之ヲ下地ノ中分ト云フ下地トハ今ノ語(328)ニテ云ヘハ土地ノ占有權ヲ意味ス此結果トシテ多クノ莊園ハ少クモ二ツノ獨立セル領地トナリ地頭ト云フ語ハ領主トイフ語ト全然同シ意味ニ解セラレタリサレハ地頭カ以前ノ身分ヲ表示セシ家人トイフ語モ之ト伴ヒテ眞ニ高尚ナル階級ノ稱呼ト解セラルヽニ至レリ

　中世廣大ナル莊園カ分割セラレテ小サクナリタル原因ハ右ニ擧ケタル下地ノ中分ノ外ニ今一ツアリ即チ分割相續ノ慣習ナリ令時代ノ相續法モヨク今ノ民法ト似タリ武家ニテハ女子ノ土地相續ヲ制限セントセシモ行ハレス戸主ノ死後財産上ニ最勢力アルハ其後家ナリキ長子ハ稍大ナル分割地ヲ受ケ且ツ政治上軍事上統括ノ權ハアレト終ニハ尾大振ハサルノ有樣ナリ此ノ如クシテ大ナル領地ハ次第ニ小サクナリタリ諸君ハ郷里ニ近キ地名ニ注意セヨ相模ノ小田原附近ニ松田總領、松田庶子トイフ二大字ノ相接セルハ明白ニ彼地ノ地頭松田氏ノ分割相續ノ痕跡ナリ此ノ如キ地名ハ他ノ地方ニモ少カラス又武藏ヲ始メ諸國ニ一分方、二分方、南方、北方ナト云フ地名アリ之モ同種ノ遺物ナリ武藏遠江越前能登等ノ村ノ名ニ何々領家何々地頭ナトヽイフアリ是レ彼ノ下地ノ中分ノ結果ヲ示スモノナリサテ次ニハ中世ノ開發竝内地殖民ノ史實ト最大ナル關係ヲ有ス「名」ト云フモノニ付テ述ヘンニ莊園ノ開發者ハ富豪權門ナレハ開發ノ權利ハ容易ニ之ヲ取得シタルモ實際土地ヲ開クノ勞ハ自ラ之ニ當ルコト無ク遠近便宜ノ地ヨリ人民ヲ招致シテ之ニ開墾ノ下請ヲ爲サシメタリ最初ヨリノ移民ニハ比較的優越ナル土地用益權ヲ付與セリ莊園設立ノ特許ヲ受クレハ先ツ四至ヲ測定シ境界ニ?示ヲ立テ其中ノ土地ヲ區劃シテ之ヲ多數ノ開墾豫定地ト爲シ移住民中ノ有力者ニ其一又ハ二三ヲ付與シ開墾セシム之ヲ名ト稱ス今ノ小字ナリ多クハ直接ノ開墾人タル下請人ノ名ヲ以テ地名トス太郎丸名ト云ヒ延末名ト云フカ如シ最初ノ開墾下請人ノ子孫ニシテ引續キ其名ヲ耕作スル者之ヲ名主ト云ヒ其權利ヲ名主職ト稱ス名主ハ今ナラハ永小作人ナリ年貢モ割ニ低ク其土地ハ罪無ケレハ領主モ引上ルコト能ハス子孫ニ相續ス一族多ク勢力アル土豪ハ始ヨリ成ヘク大面積ノ下請ヲ爲ス大ナル名又ハ多數ノ名ヲ耕作スル名主ヲ大名ト云ヒ然ラサルハ小名トイフ大名小名トイフ語ハ既ニ吾妻鏡ニモアマタ見ユ此等ノ大小名ハ同時ニ又鎌倉ノ家人ニシテ且ツ多クノ莊園ノ地頭ナリキ

(329)　小名ノ最小サキモノハ自ラ其土地ヲ耕作シテ生活ス稍大ナル者ヨリ以上ハ又自己ノ郎從即チ家人アリ之ニ土地ヲ分與シテ耕作セシメ自分ハ專門ニ武事ヲ講ス亂世トナリテハ武士ハ其土地ヲ經營スルノ暇ナク最下級ノ家人即チ下人又ハ土民ト稱スル者ニ耕作ヲ爲サシメ自分ハ其年貢ヲ以テ戰爭ヲ爲セリ而シテ勝利ヲ得タル少數ノ大名ハ近隣ノ領地ヲ併呑シテ殆ト農業トハ縁ナキ一種ノ貴族ト爲リタレト其他ノ多數ハ皆以前ノ地位ヲ失ヒ多クハ舊領ノ一部分ヲ耕作シツヽ次第ニ大名ノ領内ニ没入シ其領民トナリ了レリ�ｺ川幕府ノ始諸侯カ新ナル國土ニ封セラルヽヤ其先ツ苦心シタル問題ハ封内ニ生活セル多數ノ小サキ地侍ノ統御策ナリキ地侍トハ獨立權ヲ失ヒタル昔ノ小名ナリ其一部分ハ新ナル領主ヨリ招カレテ出テヽ仕ヘ普通ノ藩士トナリ他ノ一部分ハ舊土ニ留リ舊地ヲ耕作セリ而シテ此殘留者は最早武士トシテハ待遇セラレス例外ハアレト多クハ百姓トシテ刀モ帶ルコト能ハス純然タル農民トナリ了レリ最モ彼等トテモ居村ニ於テハ相應ノ尊敬ヲ受ケ富モ亦從來ノ土民ニ優ルコト遠カリシカハ多クハ昔通リ名主ノ稱ヲ以テ村治ニ與リ或モノハ帶刀ヲ公認セラレ或モノハ名字（今ノ姓トイフモノ）ヲ唱フルコトヲ許サレタリ是レ實ニ舊時代ノ武士ノ末路ニシテ又實ニ今ノ所謂相應ナル百姓ノ起原ナリトス

　此ノ如ク昔ノ小名即チ地侍カ士ト農トノ二階級ニ分立シタル後前者ハ世ノ進ムト共ニ其俸緑ニテハ澤山ノ家人ヲ養フコト能ハサルニ至リシニ反シ土着者ハ一種特別ノ土地經營法ニ由リ何時迄モ其ノ身内ノ者ヲ扶持スルコトヲ得タリ其方法トイフハ一方ニハ彼等ヲ自家ノ農場ニ傭入レテ報酬ヲ與ヘ他ノ一方ニハ所有地ノ一小部分ヲ貸付シテ小作ヲ爲サシムルコトナリサレハ何レノ村ニテモ同シク小農トイフ中ニモ二種アリテ以前ノ小名ノ段々零落シタル者ハ兎ニ角獨立ノ地主ナレハ格式高ク長《ヲサ》百姓ト稱シテ村ノ相談ニモ與リタリト雖地主ノ扶持ノ下ニ小作スル者ハ或ハ門屋ト云ヒ庭子ト云ヒ抱ヘ百姓ト云ヒ或ハ被管ト稱シテ一段低キ身分ヲ有セリ此等ノ農業者ヲ又｜分附《ブンツケ》百姓トモ稱ス現今ノ法律思想ヨリイヘハ等シク土地ノ所有者ナリトイフヘキモ舊時代ノ地籍ニ在リテハ其土地ハ舊主ノ名ヲ以テ登録セラレ何ノ某分某ト附ケラルヽカ故ニ分附ト云フナリ分附百姓ノ中ニハ分家新宅ノ或モノヲモ含ム古來ノ思想ニテハ分家ノ古キ(330)モノト家人トハ同樣ニ取扱ハレタリシナリ此ノ如キ關係ニ於ケル小作農ハ固ヨリ單純ナル土地賃貸借ヲ以テ之ヲ論スヘカラス言ハヽ一種ノ共同經營ニシテ保護者被保護者ノ間ノ情誼ハ頗敦厚ナルモノアリ從テ小農ノ危險ハ存外ニ少ク大小無數ノ凶歉ノ如キモ此カ爲ニ其慘害ヲ免レ來リシナリ

　以上ノ記述ニ依レハ現在各地方ノ村落ニ於ケル農民ノ種類及其性質モ略之ヲ明ニスルヲ得ヘシ今若シ長キ年月ノ間ニ於ケル舊家富豪ノ零落ト一代分限者ノ成功等所謂榮枯盛衰ノ變ヲ度外視シテ概括ノ論ヲ爲ストセハ第一種ノ農業者ハ太古ノ國造縣主等ノ族長、土着シタル地方官等ノ子孫ニシテ莊園ノ事務員トナリ終ニハ其領主トナリタル者ノ後ニシテ第二種ノ農業者ハ即チ前者ノ部曲ニ屬シ又ハ普通ノ良民ノ本居ヲ去リテ新ニ莊園ノ中ニ招致セラレタル者等所謂莊民ノ後ナリト言フヘシ但シ此ノ沿革的事實ハ何等彼等現在ノ地位ニ影響スヘキモノニ非サルハ勿論ナルモ二者ノ私經濟ノ變遷ヲ觀察シ將來ノ政策ヲ立テントスルニ當リテハ必ス此ノ如キ區分ノ存スルモノナルコトヲ知ラサルヘカラス

　

　　　　　第七章　職業トシテノ農業

　

　古今農生産ノ變遷ヲ對比スルニ其間ニ著シキ差異アルコトヲ知ル一言ニシテ云ヘハ古代ニ於ケル農ハ皆自己ノ爲メニスル生産ナリ之ニ反シテ近代ニ於ケル農ハ其大部分他人ノ爲ニスル生産ナリ農ノ直接ノ目的一ハ自己ノ消費ニ在リテ他ハ即チ他人ノ消費ニ在リ人ノ爲ニ春衣ヲ縫フハ昔ハ不幸ノ現象ナリトセリ況ヤ人ノ爲ニ耕織スルコトヲヤ然ルニ今日ニ於テハ是レ極メテ普通ノ現象ナリ此ノ變遷ハ實ニ職業トイフ觀念ノ由テ起ル所ナリトス職業ノ定義ハ諸説未タ一ニ歸セスト雖要スルニ經濟行爲ノ分立ナリ甲ハ農ヲ營ミ乙ハ工ヲ營ミテ始テ職業ハ在ルナリ即チ其要件トスル所ハ彼ト此トノ對立ナリ對立アリテ始テ交易アリ、換價アリサレハ衣食住ノ材料ヲ悉ク自ラ撮取セシ太古ニ於テハ職業ナ(331)ル思想アルコトナシ此時代ニ於テモ家族ヤ奴隷ノ間ニハ分業ハアリシナランモ生活ノ單位トシテノ家ニ於テハ完全ニ自給ナリ外部ニ仰ク所モナク外部ニ供給スル所モ亦無カリシナリ天然ノ産物カ人ノ生活欲望ヲ充足スル能ハサルニ至リ此ニ農ハ始リタリサレト農業ハ未タ起ラサリシナリ昔ノ農ノ田ヲ耕スハ恰モ今ノ人カ井ヲ穿チテ水ヲ汲ムニ同シ又各人ノ家ニ米ヲ炊キテ飯ヲ作ルニ似タリ而シテ之ニ比フレハ今ノ農ハ?包屋カ?包ヲ作ルニ當レリ即チ農業ナリ令ノ土地制度ヲ見ルニ苟モ人トイヘハ孩兒奴隷ニマテモ土地ヲ給與ス農ハ各人ノ必ス營ム所ニシテ職業ニハ非サリシナリ

　職業ノ思想ハ先ツ農以外ノ生産ニ就テ起リタリ人間ニトリテ食物衣類ヨリモ比較的急ナラサル物ノ生産ハ早ク之ヲ專門ニ他人ノ分マテモ引受ケテ從事スル者アリ所謂百工ナリ工商ノ徒モ始ハ必ス自ラ衣食ヲ生産セシナランモ後ニハ之ヲ他ノ人ヨリ仰クニ至レリ即チ交易ノ途開ケタルナリ此等工藝品ノ生産カ職業トナリタルハ農ニ先ツコト極メテ早シト雖而モ其職業ヲシテ發現スルニ至ラシメシ原由ハ亦農ニ在リトス何トナレハ農ハ天然ノ制肘ヲ受ケテ年ニ豐凶アルヲ免レサルカ故ニ其用意トシ農民ハ夙ニ自家ノ需要量ヨリ稍多キ分量ヲ生産スルノ計畫ヲ立ツ此餘剰ノ生産ハ即チ農以外ノ職業ヲ成立セシムルノ基礎タリ而シテ生活ノ欲望カ増進シ一方ニハ交換ノ慣習カ普及スルト共ニ其手段方法ノ次第ニ具備スルニ至ルヤ當初常ニ自己ノ消費ヲ限度トシテ生産ヲナセシ農民ハ漸次他人ノ消費ヲモ其生産ノ目的ト爲スニ至リ終ニ今日ノ如ク農モ亦立派ナル一種ノ職業ト爲ルニ至リシナリ之ヲ要スルニ農生産ノ餘剰ハ夙ニ農以外ノ職業ノ發生セシ原因ニシテ同時ニ又農カ職業ト爲ルニ至リシ原因ナリ

　此ノ生産ノ増加ハ今日ノ語ニテ言ハヽ農民ノ購買力ナリ農民ノ生産スル食物衣料ニ餘分アリテ始テ之ト交換スル爲ニ他ノ物品ヲ生産スル者竝ニ專ラ交易ノ仲介ニ任スル者ノ階級ヲ生ス而シテ農民モ亦其餘剰ヲ携ヘテ交易ニ從事シ此結果農ハ次第ニ對立的地位ヲ有スルニ至レリ然レトモ是レ單ニ兵力職業的ノ一面ヲ具ヘタルニ過キスシテ農民自身ノ覺悟ト用意トハ尚未タ職業トシテ農ヲ經營スルモノニハアラス生産ニ餘剰アレハ之ヲ農産物以外ノ物ト交換セントスルニ過キサルカ故ニ未タ之ヲ以テ近世ノ意味ニ於ケル職業トハ稱スヘカラスサラハ如何ナル事情ノ下ニ農ハ始テ精確(332)ナル意義ニ於ケル農業ト爲ルノカト言ハヽ他ナシ生産ニ自然ノ餘裕ヲ希望スル外ニ更ニ進ミテ其餘剰ヲ自覺的ニ増加スルニ在リ始ヨリ交換買賣ヲ豫期シテ餘剰生産ノ計畫ヲ立ルニ在リ今一段進メハ酒米スシ米トシテ米ヲ栽培シ又ハ全力ヲ擧ケテ羊ノミヲ飼フ蠶ノミヲ養フトイフコトニナル此ノ如クナレハ純然タル職業ナリ

　農カ職業ト爲リ他ノ種々ナル職業ト對等ノ地位ニ立ツニ至リテヤ茲ニ農業ト他ノ職業トノ優劣ノ比較撰擇ハ起ル職業ノ撰擇ハ久シク政策ノ制限ヲ被リシカ今ヤ其自由ハ殆一般ノ傾向トナレリ職業ノ撰定ヲ個人ノ自由ニ委ヌルトキハ各種職業間ノ均衡ハ政策上困難且重大ノ問題トナル自由派ノ説ニ依レハ此問題モ亦自然ノ調和ニ放任シテ可ナリトイフモ甲乙職業ノ間ニ利益ノ差等絶エサルトキ之ヲ各人ノ判斷ト競爭トニ任ストキハ必ス此異動ノ犠牲ト爲ル者ヲ生スヘク此動搖夫自身モ亦既ニ社會ノ一不幸ナリ之ヲ防衛スル爲ニハ大體各時代ノ經濟事情ニ基キテ職業分布ノ歸著點ヲ豫見シ常ニ勢ノ極リテ始テ反動ノ生スルヲ避ケサルヘカラス而シテ農業ノ純所得ト他ノ各種ノ職業ノ利潤純益トノ間ニ存スル甚シキ不權衡ヲ除クカ如キハ即チ農業者ノ減少ヲ防キ又ハ彼等カ轉業ノ爲ニ經驗セサルヘカラサル苦痛ト不幸トヲ輕減スヘキ一ノ手段ナルコトハ勿論ニシテ經濟政策ノ其力ヲ施シウル點亦茲ニ存スルナリ現代ノ開明諸國ニ於テ或ハ内外ノ殖民ニ由テ過剰ナル農民ヲ他ニ移シ或ハ土地ノ制度ヲ改革シ或ハ特ニ農業者ノ或モノヲ保護シテ其生産ヲ容易又ハ有利ナラシムルモ多クハ此標準ニ基クモノニシテ必シモ國是トシテ農業國ヲ以テ立ツトイヒ工業國ニ改ムトイフカ如キ一ヲ採リ他ヲ排スルノ主義ニ出ツルモノニハ非サルナリ蓋シ分業ノ思想ハ時トシテ國ノ政策ニ災セリ一國トシテ既ニ食物ノ自給ヲ斷念シ言ハヽ農業ヲ廢シタルモノ例ヘハ英國ノ如キアリ併シナカラ國家トイヘハ必ス領土アリ國カ其土地ノ利用ヲ廢スルハ決シテ之ヲ農業者カ他ノ職業ニ轉スルト同一視スヘカラス國ノ領土ハ何レノ場合ニ於テモ之ヲ使用セヌタケ損失ナリ故ニ此意味ニ於テナラハ凡テノ國ハ必ス農業國タラサルヘカラス唯同時ニ又工業國タリ商業國タルコトヲ些モ妨ケサルノミ同シク國内ノ生産食料ノミニテ自給スルコト能ハサル國ニテモ人口多ク土地カ狹キモノト領土甚豐カニシテ尚ホ多分ノ不足ヲ外部ニ仰クモノトハ事情ノ大ニ異ナルモノアルナリ

(333)　現在ノ?態ニ於テ日本ノ農ハ全然職業ナリト云フコトヲ得ス我カ農民ハ自己消費ノ爲ニスル生産ヲ以テ第一ノ目的トシ其以外ニ餘剰アリテ始テ産物ヲ賣ルモノナリ然レトモ若シ農産物ノ市價ニシテ騰貴センカ一時自己ノ消費スヘキ部分ヲモ賣却スルモ差支無ク此ノ如キ場合ニハ之ヲ他ノ純然タル職業ト區別スル能ハサレハ大體ニ於テハ農ハ既ニ一種ノ職業トナリタリト云フコトヲ得ヘシ即チ農業モ工業、鑛業其他ノ職業ト併立對等ノ地位ヲ占メ從テ其經營方法ノ如キモ亦一般職業ノ經營ト其ノ根本ノ法則ヲ共ニスヘキナリ此法則ハ手輕ニ言ヘハ安ク作リ高ク賣リ澤山ニ儲ケルコトナリ或ハ企業トイフ語ヲ以テ農業以外ノ職業ニノミ限ルモノヽ如ク考フルモ明カニ誤ナリ企業ト言フハ各自ノ器量才覺次第成ルヘク多額ノ純益ヲ求ムルコトニ他ナラス農業トテモ此外ニ立ツヘキ理ナキナリ

　農ノ企業ハ右ノ如ク商工業等ト相對立スルト同時ニ更ニ又其中ニ於テ分業ヲ爲シツヽアリ例ヘハ蔬菜花卉ノミヲ栽培シ又ハ栽桑養蠶ノミヲ專門トシ米麦ハ却テ之ヲ他ノ農業者ノ供給ヲ仰クモノアリ專門ノ範圍カ小サクナレハソレタケ技術モ進ミ各自ノ長處ヲ發揮スルニハ便ナレトモ之ト同時ニ一國農産物ノ各種顆ノ間ニ於テ又農業ト其他ノ生産業トノ間ニ生スルカ如キ均衡問題ヲ生スヘシ語ヲ換ヘテ言ハヽ各種農産物ノ生産ニ於テ純益ニ差等アル結果或種ノ農業ハ盛ニナリ他ノ種ノ農業ハ衰フルニ至ルヘク是ニ於テカ國内ノ農業人口ハ多ク土地ノ利用モ十分ナルニ拘ハラス食物ハ國産ヲ以テ自給スルコト能ハス之ヲ外國ノ輸入ニ仰クノ必要ヲ見ル場合モ無シトセス所謂農産獨立ノ國是ハ是カ爲ニ時々動搖セサル能ハサルナリ丁抹ニ於ケル酪農ノ發達ハ近世最著明ナル現象ナリ此國ニ於テハ一千八百七十六年後ノ二十五个年ニ牝牛ノ數ニ於テ四十萬ヲ増加セルモ之ト共ニ羊ハ其七十萬ヲ減セリ又牧草地及ライ麦作付反別ノ非常ナル増加ト共ニ大小麦ノ作付面積ハ大ニ減少シ殊ニ小麦作付反別ハ四分ノ一以下トナレリ（グリーン〔四字傍線〕農業ト關税一三三頁）サレハ若シ外國農産物ノ輸入ヲ防止シ食料ノ獨立ヲ保持セントセハ食物ノ慣習ヲ能フ限變更スルカ然ラスハ此ノ如キ有利ノ酪農業ヲ制限シテモ猶穀作ノ衰亡ヲ防カサルヘカラス而シテ主食物ノ生産ヲ以テ農業政策ノ本體トスルカ果シテ宜シキカ否カハ我々ノ今ヨリ研究スヘキ問題ナリトス日本ニテハ數年前ニ水田ヲ變シ桑圃ト爲スヘシトイフ(334)議論出テ世間ニテハ其ノ突飛ナルヲ笑ヘリ然レトモ此説ハ必シモ空論ニ非サリシ證據ニハ信州其他養蠶ノ盛ナル地方ニハ少シツヽ此事實アリ實際米ノ産額ノ増加カ近年甚タ遲々タルハ其ノ一原因ハ此ニ在リ果樹蔬菜ノ栽培竝ニ藺ノ栽培モ亦幾分カ水田ノ耕作ヲ侵食シツヽアリ殊ニ麥類ノ生産ニ至リテハ他ノ農産物ノ生産ニ壓セラレテ殆其増加ヲ見ルコト能ハス此ノ如キ傾向ヲ以テ進ムトキハ農業ハ繁榮スルモ國産ノ食料ハ不足スルコト恰モ丁抹ノ?態ト同シキニ至ルヤモ圖ラレサルナリ

　現在ノ所ハ日本ノ主食物生産ハ先ツ國内ノ消費ニ應スルニ足ル併シ是レハ全國ヲ通計シテノ話ナリ一府縣一地方ニ在リテハ生産ノ需要ニ達セサルモノ甚多シ例ヘハ日本海岸殊ニ越前以北ノ諸縣ニテハ米ノ生産カ地方的消費ニ超ユルコト七八割ナルニ反シテ太平洋岸ノ地方ハ人口多ク米ノ不足ハ甚著シサレハ日本全國トシテハ農産ハ獨立ストイフヘキモ箇々ノ地方ニ於テ過不及ナキ生産ヲ望ミ得ヘキ時代ハ既ニ過去リタル如シ�ｺ川時代ニ於テモ各藩領ニ於テ自給ノ?態ヲ維持スルコトハ中々ノ骨折ナリキ煙草菓樹其他不急作物ノ栽培ヲ禁止シテ米産地ヲ多クシ更ニ麥食雜食ヲ奨勵シテ米ノ消費ヲ節約セシモ猶米ヲ買フ地方アリシナリ況ヤ職業ノ自由ヨリモ一層自由ナル作物ノ撰擇ヲ農業者ニ許ス以上ハ地方的自給?態ノ保チ能ハサルハ當然ナリ茲ニ於テカ農産物ヲ取扱フ商業運送業ハ次第ニ盛ニナレリ農民モ亦此等ノ者ニ對シ市場ニ對シ常ニ取引者ノ關係ニ立タサルヘカラス然ルニ農業者ハ舊時代ノ農生産者ノ子孫ニシテ未タ新時代ノ輕濟ニ熟セス市場ニ對抗スヘキ手段竝ニ智識ニ於テ凡テ缺如セリ今ヤ農産物運搬ノ問題ハ何レノ國ニ於テモ甚大ナル問題トナレルニモ拘ハラス個人ノ力ハ僅ニ其一端ヲタニ解決セス所謂大量輸送ノ機關、品揃ヘ、荷造リ方ノ如キ共同手段ハ小農ノ多キ我國ニハ最必要ナリ又交通ノ敏活トナルト共ニ病蟲害ノ蔓延ヲ防止スヘキ檢疫其他ノ方法モ極メテ必要ナリ此等ハ皆古代ノ農政ノ殆想及ハサリシ點ニシテ而モ現時ノ國情ニ於テハ一日モ速ク正當ナル解決ヲ爲スヘキ須要問題ナリトス

　

(335)　　　　　第八章　鼻ノ資本的經營

　

　農業ニ限ラス凡テノ生産ノ經營ニハ必ス二ノ方面ノ事務アリ其ノ一ハ技術的事務ニシテ其ノ二ハ經濟的事務ナリ農業ニ就テ言ハヽ事務ノ技術的方面等 Practical side トイフハ農産物ノ年々ノ生産高ヲ出來ル限多額ナラシムルコト及其生産物ヲシテ最モ人ノ消費ニ適合セシメントスル努力ナリ經濟的方面 Economic side トイフハ該生産物ノ價値ヲ成ルヘク高カラシメ且ツ此カ生産ニ要スル損失ヲ成ルヘク少額ナラシメントスル努力即チ金錢ノ計算ニテ謂フトキハ總收入ト生産費トノ差ヲ成ルヘク多クスルコトナリ第一ノ方面ニ於テハ世間ヨリ云フモ本人ヨリ見ルモ求ムル所ハ一ツニシテ即チ國家ト個人トノ希望ハ一致スルモ第二ノ方面即チ經濟的努カニ至リテハ是レ獨リ企業者自身ノ立場ヨリシテ言フコトニシテ社會ノ利害ハ直接ニハ之ニ與ラス是レ凡テノ生産業ノ常ノ有樣ナリ然ルニ純然タル自然經濟　　状態即チ「職業ナラサル農」ノ時代ニ於テハ農ノ力ムル所ハ唯技術的ノ方面ノミ人ノ勞力ノ全部ハ始ヨリ食料生産ノ爲ニ提供セラルヽナリ其後人カ其餘力ヲ以テ農以外ノ生産ニ向ヒ更ニ農産物以外ノ種々ナル欲望ヲ感スルニ及ヒ始メテ勞力ノ價値ヲ計算シ且其價値ニ内外ノ別アリテ之ヲ比較スヘキコトヲ知レリ勞力ノ内的價値トハ骨折ナリ、苦痛ナリ、手間ナリ其外的價値トイフハ生産物ノ量其他勞力ニ依リテ得ル對價ナリ從テ單ニ艮キ物ヲ作ルトイフノ外ニ成ルヘク各自ノ農生産ノ容易ナランコトヲ望ムニ至ル所謂仕事ノ手ヲ省クトイフコトハ最單純ナル經濟的努カニシテ又農カ職業的要素ヲ具フルニ至ル端緒ナリ然レトモ現時ノ産業ニ於ケルカ如ク價値ノ差額即チ企業利潤ヲ最初ヨリノ目安トシテ生産ニ着手スルノ?態ハ金錢記帳法ノ一般ニ行ハレタル後ノ事ニシテ農業カ製造業其他ノ生産職業ト對立スルニ至リテ始テ經濟的事務ノ重要ナルコトヲ解スヘキ必要ハ生シタルナリ

　農業ニ於テハ殊ニ資本トイフ思想今日モ尚普及セス元手トイフ語ハ商工業ニ限ルモノヽ如ク解セラル尤地主ニハ早(336)クヨリ稍資本ノ觀念發達セリ近年土地ヲ買得セル都會居住者ハ勿論昔モ商人ノ新田開發ハ禁條ナリシニモ拘ハラス事實算盤ヲ彈キテ土地ヲ持ツ資本家少ナカラサリキ唯實際ノ耕作者ニハ殆資本トイフ考無ク然ラサルモ之ニ付キ甚不完全ナル概念ヲ有スルモノ多シ而シテ其原因ヲ爲スモノハ全ク前代ニ於ケル政策ノ方針ナリ�ｺ川時代ニハ土地ノ兼併ヲ恐ルヽコト甚シク其爲力メテ多數ノ細小農ヲ維持セリ極小サキ農場ニハ資本ノ作用顯著ナラサルハ當然ナリ是其ノ一ナリ其ノ二ハ租税ノ穀納ナリシコト竝ニ之ニ伴ヒテ小作料ノ亦穀納ナリシコトナリ主タル支出カ現物ナレハ金錢ニ換算スル必要ヲ感セサルナリ其ノ三ハ儉約ノ法令?出テシコトナリ農民ノ生活欲望ハ之ニ因リテ出來ル限其増進ヲ止メラレタリ從テ自家ノ消費以上ニ生産ヲ擴張スルコトナク從テ舊來ノ規模以上ニ新ニ資本ヲ投スルノ必要少カリシナリ其ノ四ハ借金ヲ忌ムノ風ナリ此ハ奢侈禁止令ノ結果ニシテ又原因ナリ此ノ如クニシテ生存セシ農業者ノ間ニ資本ノ思想ノ普及セサリシハ決シテ怪シムニ足ラス

　元來農業ハ安全ナル職業ナリトハヨク人ノ言フ所ナレト是レ極メテ消極的ノ思想ナリ土地ハ不動産ニテ滅失セス食物ハ手ニ在リテ市場ノ變動ニ左右セラレサルカ故農ニ從事スル者ハ凍死セス餓死セサル生活ノ最少限度ヲ保障セラルトイフヘシ即チ働キサヘスレハ食フニハ困ラヌ筈ナリサレト若シ進ンテ自家ノ生活?態ヲ改良シ幸福ヲ増スカ爲ニハ此事實ハ何等ノ便宜ヲ與ヘス農モ亦他ノ職業ト異ル所無ク智巧ノ優劣即チ經濟的事務ノ適否ニ依リ或ハ幸福ニ或ハ不幸ナル結果ヲ生スヘシ職業トシテハ農業ハ決シテ他ノ職業ヨリモ安樂ニ非ス唯職業ニ非サル農カ一般ニ行ハレシ時代ニハ其ノ生活ノ安全ナル基礎ナルコトハ事實ナレト之ヲ今日ニ於テ唱フルハ舊思想ノ無意識ノ遺傳ニ過キサルナリ故ニ此思想ヲ敷衍シテ農業ニ競爭ナシトイフカ如キハ大ニ現代ノ事實ト反セリ農業ノ競爭ハ正ニコレ有リ其證據ニハ農産物ノ代價ヲ定ムル原動力ハ農業者自身ノ中ニ非スシテ外部ニ在リ即チ市場ノ形勢次第ニテ相場カ決スルナリ其市場ノ區域モ年ト共ニ擴張シ國内ニ於テ奧羽ト九州トカ競爭スルノミナラス支那、米國ノ農業者トモ競爭セサルヘカラスナルホト農産物ハ大抵需要ノ最多ク且ツ最急ナルモノナレハ賣リテ賣レヌトイフコトハ常ニ無カルヘシト雖高ク賣ラ(337)ネハ引合ハヌ物ヲ外部ニ安キ賣品多キ爲ニ是非ナク安ク賣ラネハナラヌトイフ心配ハ?農業者ノ感スル所ナリ是レ即チ競爭ニ非スシテ何ソヤ

　サテ斯ノ如ク農業者モ市場ニ於ケル競爭者ニ對抗シテ職業ノ安寧ヲ保護スル必要生シタリトスレハ亦商工業者ト同シク算盤ヲ以テ豫定計畫ヲ立ル必要アリ又金錢ヲ以テ簿記ヲ附ケサルヘカラス昔ハ算盤ヲ持タヌ農業多カリシカ今ハ甚必要ニナレリ殊ニ簿記智識ノ缺乏ニ至リテハ殆堪ヘカタキモノアルヲ見ル簿記ノ方法ハ必シモ一種ニ非ス小農ノ所有地ヲ自作スル者ニ在リテハ土地ヲ土地トシテ取扱ヒ自家ノ勞力ヲモ亦計算ノ内ニ入レス唯年々ノ生産ノ爲ニ使用スヘキ其他ノ資料ノミヲ出トシ年々收穫スル産物ノ代價ノミヲ入トシテ其差額多少ヲ算出スルハ最モ自然ノ方法ナルヘシサレト又一切ノ生産資料即チ所有地竝ニ自家勞力ヲモ悉ク金錢ニ換算シ之ヲ生産費トシ收穫ノ總價額ト對比シテ殘ル所有アリヤ否ヤヲ檢出スルハ簡單明白ニ企業ノ?態ヲ知ラシムル便アル故ニ現在ハ一般ニ此法ヲ採用セリ茲ニ於テカ農業評價ノ必要ハ起ルナリ評價トハ言ハヽ假想的ノ支出及收入ナリ自己ノ土地ヲ自己ニ貸シ自家ノ勞力ヲ自己カ雇入レタリト假想シテ之ニ拂フヘキ報酬ヲモ生産費ノ支出中ニ算スル場合ニ最多ク其必要ヲ見ルモノナリ我カ同胞農業者ノ評價ノ法ニ疎キハ實ニ驚クヘシ土地ノ用料ノ如キハ殊ニ誤多シ土地ハ古クヨリ持傳ヘタルト新ニ買入レタルト其持主ニトリテノ價ニハ大ナル相違アリ從テ舊所有地ニテ農ヲ營メハ相應ニ餘得アル場合ニモ新ニ土地ヲ買入レテ之ヲ營ムトスレハ到底成立タサルコトアリ之ヲ區別シテ考ヘサルハ評價ノ根據ニ於テ誤レル考存スルカ爲ナリ利潤ノ問題ニ付テモ?誤レル觀念ヲ抱クモノアリ大規模ノ企業ニ於テハ所謂企業者ノ所得 Unternehmersgewinn アレト之ヲ日本ノ如キ細小ナル農業ニ求ムルハ誤レリ企業者所得トハ企業ノ規模カ大ニシテ之ヲ組織シ統括スル爲ニ特別ナル技倆手腕ヲ要スル場合ニ此管理者ニ支拂ハルヽ一種ノ高等勞銀ヲイフナリ從テ自家ノ勞力ヲ以テ單純極マレル小農ヲ營ム者ニ企業者所得ノ無キハ當然ナリ小農ノ所得ハ主トシテ土地ノ所有ヨリ來ルナリ小作農ニ在リテハ單ニ其勞力ニ對スル報酬カ少シク給料雇ノ定額ヨリ多カリ得トイフニ過キサルナリ

(338)　農業簿記ノ方法ハ必シモ一定ノ規則アルナシ農業カ他ノ職業又ハ勞働ト比シテ利多キヤ少キヤ若シ少シトセハ何カ故ニ少ナカリシカヲ明白ニ知ルコトヲ得ルナラハ其目的ハ達スルナリ其手段トシテハ現在行ハルヽ所ノ方法ヲ採ルモ必シモ害ナシ要スルニ今日ノ農經營ハ少クモ其ノ一部分ハ資本的計算即チ金錢簿記法ヲ以テ之ヲ説明スルノ必要アルコトハ疑ナキ所ナリ併シ予カ茲ニ云フ資本的經營ナル語ハ弘ク農業ノ此ノ如キ?態ヲ稱スルモノニハ非ス別ニ稍狹キ一定ノ意味アリ即チ今後ノ農業ハ一層資本ニ重キヲ置キタル企業トナルヘキ傾向アルコトヲイフ最初ノ農生産ニ於テハ勞力カ生産要件ノ第一位ヲ占メシカ中世ニナリテハ土地ヲ以テ最モ主タルモノトセリ其爲ニ一定不動ノ農法即チ農ノ形式 System ナルモノヲ生セリ近代ノ農業ニ於テハ勞力、土地ノ二者ニ比シテ資本ハ次第ニ重要ノ度ヲ増加セリ西洋ニテ最久シク行ハレシ農法ハ三圃法ナリ農場ヲ三分シテ年々其ノ一ヲ休閑地トス主トシテ土地肥力ノ關係ヨリ來ルモノナリ之ニ次キテ起リシ輪栽法ハ此ノ休閑地ヲ廢スルコトヲ得タレハ大ナル改良ナリサレト猶地力ノ制限ヲ脱スルコト能ハス肥料ノ外部供給力容易トナリテヨリ更ニ進ンテ所謂自由農法ノ世トナレリ自由農法ハ實ハ最早農法ニハ非ス地力ノ拘束ヨリ全然脱却シタル上ハ一定ノ農法ヲ守ルヘキ必要アラサルナリ故ニ其生産ハ自由ニシテ資本ノ加減ヲ以テ如何樣ニモ年々ノ生産計畫ヲ變ヘ得ル時代トナレリ此ノ如キ自由ナル農業ヲ名ケテ或ハ之ヲ Commercial Agriculture ト謂フ此英語ヲ商業的農業ト譯スルハ惡シ市場的農業ト譯セハ當ランカ即チ農業自身ノ消費ノ如キハ眼中ニ置カサル生産ナリ全然市場ニ販クノ豫定ヲ以テ著手スル企業ナリ製造業ヤ鑛業ト同一ノ立場ニ在ル生産ナリ日本ノ農業ニ於テモ其ノ一部分ハ既ニ其境涯ニ達セリ而モ市場ニ關スル智識ハ舊來ノ商工業者ニ劣ルコト遙ナリ是レ其ノ不利ヲ免レ難キ所以ナリ要スルニ未來ノ農業ノ發展ハ土地、勞力ノ増加モアレトモソレヨリモ資本ノ作用如何ニ係ル所最多シ農業ニ於ケル資本トイフモノヽ意義ハ益々増加セントス農場ノ大ナルト小ナルトヲ問ハス資本ヲ如何ニ増加スヘキカ如何ニ之ヲ利用スヘキカトイフコトハ常ニ今後ニ於ケル農業經濟上ノ大問題タルヘシ

　サテ前述スルカ如キ立場ニ於テ更ニ農ト工トノ企業トシテノ差異ヲ攻究センニ土地ノ農業ニ於ケルハ恰モ工場及機(339)械ノ工業ニ於ケルト相似タリト雖其利用方法ノ變化多キ點ニ於テハ土地ハ遙ニ優レリ機械ノ用途ハ極メテ制限セラル織物ノ機械ハ製紙ニ變用スル能ハス來年織物ヲ止ムレハ其機械ハ不用品ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ農法ハ自由トナル時代アリテモ工法ハ常ニ自由ナルコト能ハス唯其例外ハ我國ナトノ水田ナリ水田ノ用途ハ甚シク制限セラル稻ノ外ニハ藺、蓮、慈姑ノ如キ少數ノ作物アルノミ茲ニ於テカ水田排水ノ工事ハ經濟上甚重大ノ問題タリ舊來ノ排水ハ單ニ裏作ノミノ乾田ナリ之ニ一歩ヲ進メテ一年中任意ニ乾田ト爲スコトヲ得セシメハ農業ノ自由ハ大ニ増加スヘシ畑地耕作ノ將來ハ之ト同一ノ理由ヲ以テ注目セラル畑地ハ任意ニ水稻栽培地ト爲ス能ハサル不自由ハアレト稻以外ノ夏作物ノ選擇區域ハ頗廣シ現在ノ畑利用ハ田ニ劣ルヲ通例トスレトモ資本的經營ノ結果トシテ其ノ擴張ノ餘地猶甚多キナリ

　次ニ注意スヘキハエ業原料用ノ農産物ナリ今日ノ如キ自由ナル農業ヲ促進シタルハ必シモ食料農産物ノ需要ノミニ非ス大都會ノ發達、非農民ノ増加其他食物需給ノ地方的過不及モナルホト農業ト市場トヲ接近セシメ聯結セシメタルニ相違ナキモ食料ノ市場ハ實ハ比較的狹隘ナリ日本ノ如キハ穀類ノ中央大市場ニ上ルハ生産總量ノ六七分ノ一ニ過キス其需要ハ多クシテ且ツ急ナリト雖一定ノ限度アリ人口ノ増加歩合ハ常ニ年々ノ生産量ヲ制限ス之ニ反シテ工業原料トシテノ農産物ハ新ナル用途ノ増加殆限度ナシ加之其需要ノ増加ハ此カラナリ其ノ一二ノ例ヲ言ハヽルーマニア〔五字二重傍線〕ニ於テ生産スル?卵ハ近年蛋白ノ原料トシテ需要ヲ生シタリ卵白七磅ヨリ生スル蛋白ハ一磅ニシテ其ノ百磅ノ市價ハ五六十圓ナリ其用途ハ織物ノ捺染、陶器ノ製造、砂糖ノ精白其他甚多シ副産物タル卵黄ハ手袋ノ皮ノ精製用ニ用ヰラル次ニ獨逸ニ於ケル馬鈴薯ノ栽培ハ酒精製造ノ原料トシテ近年非常ニ擴張セリ彼國ニテハ點燈煖室又ハ料理用ニ馬鈴薯ヨリ製シタル酒精ヲ需要スルコト益大ニシテ數年前ノ統計ニ依レハ酒精製造ニ供セラルヽ馬鈴薯ノ總量ハ毎年二百萬噸ヲ越エ其價ハ二千五百萬圓ニ達セリ而シテ其ノ殘滓ハ貴重ナル飼料トシテ養豚業ヲ盛ナラシム其他舍利別、砂糖、「デキストリン」、?粉等ノ製造原料トシテモ馬鈴薯ノ需要甚タ小ナラストイヘリ此等ノ例ニテモ明ナルカ如ク新時代ノ農法カ全然企業者ノ自由ニ歸シタル結果其ノ將來ニ於ケル發展ハ殆ト豫測スヘカラサルモノアリ農業ハ終ニ一國ノ(340)境域ヲ以テ其活動ヲ制限セラルヘキモノニ非サルコト些モ製造業ト異ル所ナシ唯今後此ノ如キ新農業ニ從事スヘキ農民ニハ如何ナル用意ト訓練トヲ必要トスルカ舊農民ノ子孫ハ如何ナル點ニ於テ此發展ヲ力ムヘキ資格ヲ缺乏セルカハ吾人カ特ニ研究スヘキ大問題ナルノミ

　

　　　　　第九章　國家ノ農ニ對スル任務

　

　現在行ハルヽ農業政策ノ實際ヲ觀察スルトキハ此カ分類綜合ノ如キハ殆ト不可能ニシテ且ツ不必要ノ感ナクンハアラス何トナレハ如何ナル法治國ノ政府ト雖豫メ一切ノ農政問題ニ對シテ總括的ノ方針ヲ決定シ組織的法制ノ下ニ全般ノ事務ヲ遂行セントスルカ如キモノナカルヘケレハナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ今ノ經濟政策ハ常ニ臨機應變主義ナリ政治家カ必要急ナリト認ムル所世論ノ最モ八釜シキ問題カ先ツ解決セラルヽナリ而シテ此ノ世論ナルモノハ頗ル一面ニ偏局シ易キモノナリ個人ノ心理現象ニモ存スルカ如ク社會ニモ亦雷同的彌次馬的傾向ナシトセス例ヘハ二十年程前ニハ日本ニハ地價修正ノ問題最モ沸騰セリ朝野ノ論議ハ悉ク之ニ集注シ此問題ノ外ニ又農政問題ナキカ如キ觀アリキ然レトモ與論ニ由テ喚起セラレタル問題ハ其解決モ亦他動的ナルヲ免レス然ラサルモ目前ノ急ニ對スル處置ハ勢ヒ彌縫的ナリ姑息ナリサレハ近年ニ至リテ漸ク自動的ノ政策ヲ研究スルノ風ヲ生セリ自動的トイフハ目前ニ必シモ解決ヲ迫ル者アラサルモ而モ政府トシテハ必ス早晩力ヲ致サヽル能ハサル問題ノ處理ナリ所謂天下ノ憂ニ先チテ憂フルモノナリ日本ハ幸ニモ後進國ナレハ西洋ノ先進國カ久シク研究シタル結果ヲ採擇スルコトヲ得テ現ニ近年ノ農業政策ニハ存外根底アル自動的ノモノ少シトセス但シ先例ノ踏襲ハ其程度ヲ過ルトキハ勿論弊アリ殊ニ彼ト我ト國情ノ異ナルモノアルヲ鑑ミサルヘカラス又前例ヲ採用スルニハ十分其精神ヲ會得セサルヘカラス此ノ二點ハ最モ戒ムヘキ所ナリ要スルニ行政ノ局ニ當ル者ヨリ言ヘハ實際問題ノ發現ハ個々獨立ニシテ決シテ先後緩急ノ順序アルヘキモノニ非サルヲ以テ(341)之ヲ解決スルニ必要ナル用意トシテハ政策ハ其日暮シナルヘカラス一定ノ組織的判斷ニ基クコトヲ要ス此ニ於テカ學問トシテ系統的ニ之ヲ研究スルノ要アリ而シテ農業政策ノ分類綜合ハ實際上ノ必要ハ兎ニ角學問トシテ組織的ニ研究スル爲ニハ最初ニ之ヲ試ミサルヘカラサルナリ

　此ノ分類ノ方法ハ何レノ教科書モ區々ニシテ一定セス之ヲ論定スルハ尚ホ我々ノ自由ナリ最卑近ナルハ土地ニ關スル農政、勞力ニ關スル農政、資本ニ關スル農政トイフカ如ク生産ノ要素ニ付キテ部門ヲ分ツコトナリ此ノ如キハ分類ニハ非ス寧ロ列記ナリ日本ニ飜譯アルフオン、デル、ゴルツ〔八字傍線〕氏ノ農政學ノ如キモ稍之ニ近キ分類ナリ勿論此分類ニハ國ニヨリテ特別ナル便宜ト必要トヲ參酌セサルヘカラス勞力不足ノ國ニテハ其保護ニ重キヲ置キ資本ノ少キ國ナラハ農業金融ノ問題ヲ主トスルカ如キ是ナリサレト是レ唯重要ノ度カ何レノ部分ニ大ナルカノ問題ニシテ根本ノ分類方法ニ至リテハ論理ノ共通ナルト同シク何レノ國ニモ等シク適用セラレウヘキ筈ナリ而シテ其方法トイフハ要スルニ研究ノ順序ナリ成ルヘク少キ勞力ヲ以テ成ルヘク多クノ解決ヲ得ヘキ手段ナレハ人々ノ考ニ依リ種々ノ説ノ存スルハ怪シムニ足ラス茲ニハ試ニ予カ最モ便宜ナリト信スル方法ヲ述ヘン

　凡ソ國トシテ最モ希望スヘキコトハ生産ノ増加即チ國富ノ増進ナリ生産ノ増殖ハ國民ニトリテ如何ナル意義ヲ有スルカト言ハヽ先ツ第一ニハ消費ノ總額ノ増加ニ在リ消費ノ増加ハ取リモ直サス效用ノ増加ニシテ國民全體ニトリテノ幸福ノ増加ナリ第二ノ意義ハ即チ生産資力ノ蓄積ニ在リ是カ爲ニ來年度ノ生産増殖ノ骨折ヲシテ今年度ヨリモ一層容易ナラシムルコトヲ得ヘシサレハ若シ一國ノ生産統計ニシテ精確ナルモノナランカ其増減ノ數字ヲ以テ其國ノ盛衰ヲ測量セントスル古來ノ慣習思想ハ大體ニ於テ誤ナシ從テ國トシテハ各種ノ職業ニ就キ其生産總額ノ増加ハ一般ニ希望スヘキモノタルヤ疑ナク國ノ政策カ最初ニ之カ爲ニ力ヲ盡スハ至當ナリ故ニ予ハ之ヲ農業政策ノ第一方面トシ假ニ生産増殖策又ハ生産政策ト名ク

　併シナカラ是レ唯農業政策ノ一面ニ過キス猶之ニ引續キテ直ニ考察スヘキ第二ノ方面アルコトヲ忘ルヘカラス元來(342)國トシテ國富ノ年々増殖スルヲ希望スヘキハ全ク國富ノ増殖カ國民ノ幸福ト爲ルカ爲ナリ而シテ國民ノ幸福トハ抑モ何ヲイフカ日本ノ國民トハ我々個人ノ總テノモノヲ謂フト同時ニ又我々カ構成スル一個ノ集合體ヲ意味ス而シ其集合體ノ一部分ニ於ケル幸福ヲ指シテ直ニ國民ノ幸福ナリト言フ能ハサルハ勿論ナリ然ルニ國富ノ總生産額ト國民ノ幸福トハ必シモ常ニ正比例ヲ爲サス同シク生産ノ増加ニテモ國民相互間ノ關係ノ異ナルニ從ヒ效果モ亦異ナルナリ國民ノ全部ノ幸福増進ハ言フ迄モナク理想ノ極致ナリサレト幸福トイフ語モ程度ノ語ニシテ何ヲ幸福トイヒ何ヲ不幸トイフカノ問題ハ容易ニ之ニ答フルコト能ハスト雖若シ外部ヨリ言ハヽ各人ヲシテ生活ノ現　　状ヲ改良セシムルコトニシテ個人自身ヨリ言ハヽ自ラ幸福ナリト感セシムルコトナリト説明セハ可ナランカ一國生産ノ増加カ國民ノ全數ヲシテ能ク此ノ如キ?態ニ在ラシメハ大ナル幸ナリ若シ已ムナクハ出來ル限大多數ノ國民ヲ此ノ如クナラシムルヲ力ムヘキナリ從テ之ニ反スル結果ヲ生シタル生産ノ増殖ハ決シテ有難キモノニ非ス例ヘハ國ノ富ハ年毎ニ倍?スルモ悉ク少數富豪ノ手ニ歸シ他ノ多數ハ更ニ現?ヲ改良スル能ハス寧ロ幸福ヲ増進シタル少數者ト比較シテ地位ノ愈低下スルカ如ク感セラルヽヤウナラハ生産ノ増殖ハ全然之ヲ希望スヘキ理由ヲ失フモノト言ハサルヘカラス故ニ生産ノ政策ヲ講究スル國家ハ同時ニ又其效果ノ個々ノ國民ニ對シテ最モ良好ナランコトヲ力ムヘシ之ヲ農業政策ノ第二方面トシ假ニ分配均衡策又ハ分配政策ト名ク

　分配ノ問題ハ此ノ四五十年來始メテ多ク論究セラレ多ク注意セラルヽモノニシテ即チ新時代文明ノ恩惠ノ一ナリ古クハ唯生産ノ從トシテ手段トシテノミ研究セラレシナリ一部ノ論者ニハ右二ノ經濟政策ハ兩々對立シテ相容レサルモノヽ如ク言フモノアレト誤ナリ衡平ナル分配ヲシテ行ハルヽコトヲ得セシムルハ即チ善良ナル生産ナリ分配モ亦生産ノ效果ナリ生産政策ニ次キテ分配政策ヲ講スヘシトイフハ偶々講究ノ便宜ノ爲ニ觀察ノ方面ヲ別ツニ過キスシテ要ハ唯分配ノ如何ヲ願ミサル生産ヲ不可トスルノミ

　第二ノ政策問題ハ新シキト同時ニ困難ナリト稱セラル一概ニ困難ナリトハイフ能ハサランモ少クトモ政策ノ必要不(343)必要ヲ説明スルコトヽ一旦行ヒタル政策ノ成績如何ヲ明ニスルコトヽハ比較的面倒ナリ何トナレハ分配ノ?態ハ箇々ノ離レタル事實ニシテ統計的綜合ヲ許サヽルモノ多ケレハナリ加之生産政策ノ效果ハ増減ノ數字明白ニシテ議論ノ餘地少キニ反シテ當ノ分配ノ?態ハ觀察者ノ態度如何ニ依リ何レノ程度ニテモ滿足スルコトヲ得サルニ非ス是レ分配政策ニ關スル議論ノ種々ニ分ルヽ所以ナリ例ヘハ彼ノ社會主義ノ論者ハ現今行ハルヽ經濟組織ニ於テハ如何ナル場合ニモ滿足セス根本ノ改革ヲ必要トスルヲ以テ其攻撃最モ烈シク其他ノ社會改良論者ハ漸進的改良ニモ滿足スヘク世ノ所謂慈善家ハ氣ノ毒ナルモノタケ救濟スレハ今ノ儘ニテモ仕方ナシト思フヘク利己一點張ノ人ハ他人ノ難儀ハ一向ニ頓著スル所ナク時トシテハ今ヨリ一層不平衡ナル分配ヲモ希望スルカモシレサルカ如シ然レトモ理論トシテハ自ラ一定ノ標準ナシトセス即チ各人〔二字右○〕ノ生活?態カ昨年ト比較シテ一段ノ改良ヲ爲シタルヲ認メ得ルトキハ分配政策ハ其宜ヲ得タルモノト云フコトヲ得ヘシ而シテ之ヲ實際ニ知リ得ヘキ手段ハ統計上ニ現ハルヽ所謂社會凶事又ハ社會病 Social evils ノ増減ニ在リ社會凶事ノ増減トイフハ窮民ノ數ナリ死亡率殊ニ自殺者ノ數ナリ犯罪件數ナリ公私債務ノ不履行ナリ凡ソ此等ノ數字ノ減少ハ大部分個人生活ノ安樂ニ伴フモノナレハ先ツ以テ分配ノ良好ナル兆ト爲スヲ妨ケス要スルニ此等種々ナル徴候ヲ以テ適當ナル分配ノ行ハルヽコトヲ信シ得ル場合ニ非サレハ單獨ニ豐富ナル生産ノミニテハ未タ以テ一國政策ノ目的ト爲スニ足ラサルナリ

　分配ノ政策ハ更ニ又二ノ方面ヨリ之ヲ觀察スルコトヲ得ヘシ一ハ生産者ノ側ヨリ觀タル分配即チ各生産者カ生産ニ依リテ得ヘキ幸福如何ノ問題ニシテ二ハ消費者ノ側ヨリ觀タル分配即チ各消費者カ消費ニ依リテ得ヘキ幸福如何ノ問題ナリ今農業ニ就テ言フトキハ生産者ハ必亦同時ニ消費者ナリト雖消費者ノ大部分ハ即チ生産者ニ非サルナリ而シテ生産者ト消費者トノ利益ハ對立シテ互ニ相容レサルモノヽ如ク考ヘラルヽヲ常トスト雖總括的ニハ無論然リトイフコト能ハス唯二者觀察點ノ異ナル結果トシテ箇々ノ私經濟ニ於テハ時ニ或ハ此現象アルヲ免ルヽコト能ハス而シテ國ノ政策ノ力ハ如何ナル程度ニ迄雙方ノ利害ヲ調和スルコトヲ得ヘキカハ一ノ大ナル問題ナリ假ニ一ノ例ヲ設ケテ之ヲ説(344)カンニ今農産物ノ市價ノ決定ニ關シテハ生産者ノ希望ト消費者ノ注文トハ常ニ氷炭相客レサルカ如ク見ユ然ルニ試ニ生産費減少ノ結果ヲ想像スルニ甲ノ利トスル所ハ兼テ又乙ノ不利トスル所ニ非ス生産費ノ減少ハ同時ニ生産者ノ消費者トシテノ利益ニシテ且ツ消費者ノ生産者トシテノ利益ナリ而シテ農業政策ノ最モ力ヲ用ヰツヽアル題目ハ實ニ又此ノ生産費ノ減少ニ外ナラサルナリ

　以上論スル所頗ル多岐ナリト雖要スルニ農業ニ關シ國家カ自ラ任スヘキ職務ハ此ノ三點ノ一ヲ出テサルヘシ其ノ一ハ農ノ生産ヲ増殖スルノ道ナリ古來物産ヲ興ストイフ政治ハ則チ是ナリ其ノ二ハ此生産ニ因リテ農民ヲ繁榮セシムルノ道ナリ其ノ三ハ之ニ因リテ一般ニ社會ヲ繁榮セシムルノ道ナリ此ノ分類ハ何レノ産業ニ適用スルモ不可ナキモノナリト雖就中第三ノ點ハ殊ニ農業政策ニ於テハ最重キ國ノ任務ナリ其理由ハ農ノ生産物カ社會人生ニ最モ須要ナルモノナルコト及此産業カ國ノ最重要ナル利源即チ土地ノ利用ヲ目的トスルコトニ在リ土地ハ國民カ是非トモ利用セサルヘカラサル格段ナル財源ナルコトハ前章既ニ説述シタル通ナリ

　最後ニ猶イフヘキコトアリ理論上農業政策ノ分類ハ之ニ盡キタリト雖古來ノ慣習トシテ更ニ此三者ノ根本ニ横ハレル國家ノ法制アリト考ヘラル即チ土地財産權ニ關スル問題是レナリ財産權ノ問題ハ人民ノ參政權自由權ト共ニ一國組織ノ基礎ヲ爲スモノトシテ之ヲ憲法ト稱シ一般ニ法律以上ノ問題ナリト認メラル從テ時々ノ政策トハ區別シテ特ニ此制度ニ關スル問題ヲ取扱ハントスル説少カラス之ニ對シテハ議論無キニ非サルモ暫ク慣例ニ從ヒ豫メ總論ニ於テ之ニ關シ多少ノ研究ヲ試ミントス

　

　　　　　第十章　土地財産制度

　

　土地ノ上ニ存スル財産權ニ關シテハ農業政策上論議スヘキ問題少カラス學者ニヨリテハ此間題ノ研究ニ非常ニ重キ(345)ヲ置キ或者ハ所謂私有制度ノ辯護ヲ以テ又或者ハ私有制度ノ不當ヲ説明スルコトヲ以テ殆ト此學問ノ發足點又ハ基礎ト看做スアリ是レ雙方共ニ現在ノ土地財産制度ヲ以テ尋常ノ農業政策ノ上ニ超脱セル根本ノ大原則ナリトスルカ爲ナランモ予ヲ以テ見レハ農業政策ニハ決シテ此ノ如キ大小ノ二種アルコトナシ實際上諸文明國ノ法制ニ於テモ此ノ傳説上神聖視セラルヽ私有財産制度ニ對シ時々ノ經濟上ノ必要ニ應シテ?著シキ制限又ハ變更ヲ加ヘ其效果ノ及フ所亦甚小ナラサルモノアリ例ヘハ日本ノ憲法第二十七條ニ財産權ノ自由ニ對シテハ法律ヲ以テ公益上必要ナル處分ヲ爲スコトヲ規定シ現ニ民法第二百〇七條ノ如キハ土地所有權ニ對シテ一般ニ命令ヲ以テ制限ヲ爲シ得ルコトヲ豫想セリ而シテ土地私有ノ範圍ヲ制限セル命令ハ甚多キナリ農業政策ハ既ニ此ノ如キ假想的ノ根本原則ニ拘束セラルヽノ必要ナシトスレハ土地財産ニ關スル現行法制ノ可否得失竝ニ土地財産權ノ將來ノ樣式如何等ハ凡テ個々ノ問題トシテ必要ニ應シ之ヲ分配政策ノ各章ニ於テ攻究スルコトヽシ總論トシテハ簡単ニ不動産ノ所有權ノ性質ト今日此カ改正變更ヲ目的トスル諸種ノ提案トヲ説明スルヲ以テ滿足スヘキナリ

　不動産トイフ語ノ起原ハ古シ動産ト不動産トノ區別ハ現代ノ民法ニ於テハサシテ重要ナル問題ニハ非スト雖少クモ土地財産權ノ傳來的説明 Generic explanation ノ爲ニハ甚タ重要ナル題目ナリ實際此區別ハ洋ノ東西ニ於テ全然無關係ニ發達セル亞細亞ト歐羅巴ノ國々ノ法制ニ於テモ共通ニ久シク存在セシモノナリ今其原因ヲ尋ヌルニ此ハ必シモ土地ト他ノ物ト價値ノ大小ノ差アリシカ爲ニハ非サルヘシ價値トシテハ大面積ノ土地ヨリモ動産タル金銀珠玉ノ方カ遙ニ大ナリ蓋シ土地ト其以外ノ財貨トハ之ニ對スル人ノ關係ヲ名ケテ共ニ所有權ト稱セシ場合ニモ其權利ノ内容ニハ必ス著シキ差異アリ又差異アラサルヘカラサルコトカ認メラレタルカ爲ナラン新シキ民法ノ主義ハ能フ限此二種ノ所有權ノ差異ヲ少クセントスルニ在リ例ヘハ我民法ニ依レハ無主ノ場合ニ於ケル歸屬ノ法ヲ異ニシ及登記ノ道ヲ開キ之ニ依リテ土地ノ上ニ限リ特殊ノ物權ト特殊ノ債權（登記ノ保護アル債權）トヲ認ムル等二三ノ點ニ於ケル差別ハアレトモ結局所有權其物ノ内容ニ至リテハ動不動ノ間ニ區別ヲ存セス雙方共ニ所有權ヲ以テ終局ノ權利即チ所謂根本ノ權(346)利ナリトセリ飜テ前代ノ法律家ノ思想ヲ捜ルニ動産所有權ノ内容ハ昔モ今モ殆ト異ルコトナク甚單純ナレト不動産即チ土地ニ關シテハ頗ル之ニ反スルモノアリ土地ノ所有權トイフ思想ハ極メテ新シトイフヘキカ又は土地所有權トイフ語ノ内容ハ大ナル變遷ヲ爲セリトイフヘキカ兩者其一ヲ出テス今日ノ意味ニ於ケル土地ノ所有トイフコトハ民法法典以來始テ存セリ其以前ニモ土地ノ所有トイフ文字ハ?用ヰラル例ヘハ明治元年十二月ノ布告ニモ「百姓所有ノ地タルヘシ」トアレハ此布告ノ所有トイフ語ニハ今日ノ如キ内容ナシ佛蘭西民法ヲ學ヒタル司法官カ次第ニ今日ノ思想ニ近キ解釋ヲ下シタルノミ之ヲ以テ見レハ明治時代ノ法制ハ古キ土地所有トイフ語ニ動産ノ所有ト酷似セル内容ヲ付與シタルナリ今順序ヲ追ヒテ其異同ヲ辯セントス

　蓋シ古代ノ單純ナル經濟社會ニ在リテハ一切ノ財産中唯土地ノミカ極メテ特異ノ性質ヲ備ヘタリ普通ノ動産ハ其ノ價値ヲ生スル要件即チ其ノ人ノ財産トナリタル原由更ニ語ヲ換ヘテ言ハヽ其物ノ用法ハ大抵其物ノ滅失、減少又ハ變形ニ在リ從テ其物ニ對スル人ノ權利ハ是非トモ此ノ如キ滅失變形等ヲ可能ナラシムルニ十分ナルタケノ内容ヲ有セサルヘカラス即チ完全ナル處分權ヲ包含スルノ必要始ヨリアリシナリ之ニ反シテ土地ハ此ノ如キ滅失變形等ノ結果ヲ生セスシテ十分ニ其ノ財産タル目的ヲ達スルコトヲ得ヘシ從テ土地ノ權利ノ限度ハ所謂使用收益ヲ以テ足レリトセリ又一方ニハ土地カ永古不滅ノ性質ヲ具フル爲夙クヨリ所謂年紀（有期）占有ノ思想發達シ土地貸借ノ慣習ハ消費貸借ヨリモ遙ニ先チテ一般ニ行ハレタリ要スルニ土地ニ對スル人ノ權利ハ久シキ間現今ノ所謂所有權ト同一ノ限度ニ進ムルノ必要ヲ見サリシヲ以テ其内容ニハ完全ナル處分（破壞滅失）ノ權利迄ヲ包含セス動産ノ所有權カ唯横ニノミ細分シ得タリシニ反シテ土地ノ權利ハ縱ニモ之ヲ細分スルコトヲ得大寶令ノ規定ヲ見ルモ一年又ハ一作ノ期間ヲ單位トシテ計算セラレ賣買セラレシナリ

　明治新政以後現民法施行以前ニ於ケル所謂土地所有權ハ今日ノモノト殆ト内容ニ於テ大ナル差異ナキカ如ク想像セラレ佛國民法ヲ學ヒタル法官カ所謂條理ニ依リテ下シタル裁判ハ亦此?態ヲ以テ當然ト目シタルヘキモツラツラ其根(347)原ニ溯ルトキハ古來ノ百姓カ其持地ニ對シテ行ヒタル所謂所有權ハ一種不定ノ期限ヲ有スル用益權ニシテ此カ根本權ハ寧ロ領主ニ在リトイフヘキモノナリ唯後者カ百姓ニ付與シタル土地ニ對シ其ノ殘留權ヲ行フハ久シキ間年貢ノ徴收ニノミ限ラレ其他ノ點ニ於テハ百姓ノ土地ニ對スル關係ハ極メテ自由ナリシ爲次第ニ此?態ヲ以テ今日ノ意味ニ於ケル所有權ト同シキカ如ク世ノ中ヨリ承認スルニ至リシナリ而シテ此ノ如キ慣習法ノ解釋ヨリ吏ニ進ミテ民法ノ明文ト爲ルニ至リタル原因ハ政治上竝ニ社會上ヨリ觀察スルモ種々アルヘシト雖殊ニ注意スヘキハ明治時代ノ法學者カ公權ト私權トノ區別ヲ絶對的ニ明白ナラシメントシタル大ナル努力ナリ此法理論ノ結果トシテ從來ノ思想ニ基ク土地利用者ノ階級即チ

　國――武家――給人――※［縦の破線アリ］作人――小作人

ヲ點線ノ處ヨリ中斷シ作人ノ權利ヲ以テ私權ノ行止リ即チ根本權ト爲シタルナリ此事實ハ獨リ我國ニ止ラス西洋ノ諸國ニ於テモ最近百年ノ間ニ其ノ領土高權ノ思想ハ烈シキ變形ヲ受ケ公用徴收、無主土地ノ歸屬又ハ没收ノ如キモ既ニ個々別々ノ權利ト看做サルヽニ至レリ獨逸ニ於ケル騎士領地（Rittergut）ノ如キハ今猶公權ト私權トノ中間ニ在リテ法律家ノ説明ヲ困難ナラシムルモノ亦此變遷ノ紀念ニ他ナラス臺灣ニ於ケル土地財産權ノ問題ハ殊ニ面白シ該島開發ノ沿革上支那ノ法理ニ基キ土地ニ對スル私人ノ權利ノ階段數級アリシヲ政府ハ熟考ノ結果其ノ中特ニ小租權者トイフ者ヲ以テ所有者ノ如ク看做シ此方針ヲ以テ新法ヲ制定シツヽアルモ而モ小租權者ヲ所有權者トセンカ大租權者ヲ以テ所有權者トセンカハ法律上ノ理論ニハ非スシテ單ニ便宜ノ撰擇問題ナリシカ如シ（臺灣舊慣制度調査書參照）要スルニ土地ヲ使用收益スル者ノ權利ハ名ハ所有權ト稱スルモ稱セサルモ其内容ハ國ニ依リ時代ニ依リテ甚タ一定セス此點頗ル動産ノ所有權ノ古今ヲ通シテ單純ナルニ似サルナリ此ニ由テ之ヲ觀ルモ本來物權ノ内容ハ其國其時代ノ經濟上ノ必要ニ基キ如何樣ニモ定メラルヘキモノナリ殊ニ動産ノ?態ヲ以テ直ニ土地ヲ推論シ或一定ノ樣式ヲ以テ萬古動カスヘカラサル天則ナルカ如ク豫斷スルハ誤ナリ從テ個人ノ私有ヲ以テ原則トスル今日ノ法制ノ如キモ亦必ス現在ノ經(348)濟上ノ必要ヲ以テ嚴正ニ擁護辯明セラルヘキモノナルコトハ勿論ナリ

　土地ノ根本權即チ廣義ニ於ケル所有權ノ内容ハ古來種々ナル變遷ヲ經タルコトハ前述ノ如シ而シテ之ト同時ニ一方ニハ其權利ノ主體タルヘキ者モ亦幾度ト無ク異動シテ始テ今日ノ如キ個人所有ノ?態ニハ立至リシナリ而シテ現今ニ於テハ人ハ恐クハ苟クモ開明國ト言ヘハ其國内ニ在ル一切ノ土地ハ悉ク個人カ又ハ法人ノ個人的所有カニ屬スルモノト思フナランモ其實ハ猶未タ然ラサルナリ近代ノ如ク土地ノ價値カ充分人ニ認識セラレタル世ノ中ニ於テモ尚何人ノ所有ニモ屬セサル多分ノ土地アリ例ヘハ海濱ニ在ル砂濱河川法ニ依ル河川ノ區域ノ如キ是ナリ是等ノ土地ヲ人ハ一概ニ官有地ト稱スルモ此ニ官有地トイフハ必シモ民法ニ所謂所有權ノ客體タル土地ノミヲ云フニハアラサルヘシ余ノ見ル所ヲ以テスレハ法令ニ所謂官有地ニ二種アリ一ハ國ノ所有地二ハ單ニ國ニ屬スル土地ナリ第二種ノ土地ヲ官ノ所有權ノ客體トスルニハ一定ノ意思表示ヲ要ス之ヲ私人ノ所有トスルニハ勿論ノコトナリ數十年ノ前迄ハ此ノ第二種ニ屬スル土地甚タ廣ク個人ノ所有ニ屬スルモノハ殆ト武家、町人、百姓ノ宅地竝ニ田畑ニ限ラレ其以外ノ地種例ヘハ山林、原野等ニシテ個人ノ持地タルモノハ極メテ少カリシナリ猶溯リテ農業發展ノ第一期ニ於テハ一切ノ土地ハ凡テ皆國民ノ團體又ハ其一部落ニ屬シ私人ノ之ニ對スル思想ハ恰モ今日吾人カ空氣又ハ水ニ對スルト何ノ異ル所無カリシナリ即チ現在ノ意義ニ於ケル無主ノ土地ニ外ナラサリシナリ而シテ此ノ如キ土地公有ノ?態ハ必シモ農ノ個人的經營ト兩立シ能ハサルモノニ非ス作毛ハ動産ナルヲ以テ個人ノ私有ヲ認メラレ得ヘケレハナリ然レトモ收穫物ノ將來ノ私有ヲ保障スルノ方法トシテ少クモ土地ノ一時的占有ヲ認ムルニ至リ又家屋ノ私有ヲシテ完全ナラシメンカ爲ニハ其基礎タル宅地ノ一時的占有ヲ認メサル能ハス是レ國民ノ土着ノ進行ニ伴フ自然ノ現象ニシテ亦實ニ現時ノ私有制度ノ萌芽ナリトスサレハ大寶令ノ規定ニ於テモ天下ノ土地ヲ三種ニ區別シ第一ニ宅地及之ニ附屬スル園地ハ戸即チ本貫ニ住スル家ノ在ル限其私的占有ヲ認メ第二ニ水田ハ口分トシテ各人ニ班給シ其身ノ在ル限之ヲ占有セシメ第三ニ園宅田地以外ノ土地ハ「山川藪澤之利公私共之」トアリテ一般ニ公用ニ供スルノミニシテ原則トシテハ私占ヲ許サス而シテ領土ノ大(349)部分ハ實ニ第三種ニ屬スルモノニシテ私的占有ヲ許サレタル土地ハ極メテ僅少ノ面積ニ過キサリシナリ園地宅地ハ最初ハ公田ト同シク一時的ノ占有ナレハ戸絶スルトキハ再ヒ官ニ歸スヘカリシモノナレト其性質上最夙クヨリ永財トナレリ次テ天平中墾田私財ノ格出テテヨリ長期私有ノ土地即チ明白ニ公有ノ制度ニ對立スルモノ始テ現ハレタリシナリ此ノ如クテンテ（第一）公有公用ノ土地即チ山野（第二）公有私用ノ土地即チ公田（第三）私有私用ノ土地即チ墾田ノ三種ニ分顆スヘキ必要ヲ生シタリ此分類ハ歐洲諸國ノ古キ土地制度トモ偶合セリ然レトモ此時代ノ私有制ハ寧ロ例外ナリ面積ヨリ言ヘハ公有公用ノ土地ハ他ノ二種ニ數十倍セシナリ

　莊園ノ盛ナルヤ墾田ノ外ニ之ト接續セル大面積ノ開墾豫定地（墾地）ヲモ點定シテ之ヲ私領ト爲シタルモ其莊園ノ内部ニ於テハ亦前者ト同一ノ關係存在シ莊民カ個人トシテ用益ノ權ヲ有スルハ單ニ地域内ノ一部分ニ止リ耕地宅地以外ノ土地ニ至リテハ領主カ將來ノ開墾利用權ヲ留保スルノ外凡テ之ヲ以テ莊民ノ共同使用ニ供シ唯他領ノ住民ノ侵入ニ對シテノミ一體トシテ權利ノ防衛ヲ力メタルニ過キス大化改新ノ以前各部曲カ占有セシ土地ノ關係モ恐クハ亦之ト同一ナリシナラン

　此ノ如キ?態ハ大體ニ於テ明治ノ維新後迄モ繼續セリ即チ村持ノ新山秣場ト稱スル土地ハ外部ニ對シテハ村ヲ以テ其用益權ノ主體トシ内部ニ於テハ村民ノ公有公用ニ供シ私占ヲ認メス入會地ト稱スルハ數ケ村團結シテ内外ニ於テ此ト同シ權利ヲ行フモノナリ而シテ明治初年ノ地制改正ナルモノハ此等大面積ノ公有公用ノ土地ニ對シ一齊ニ個人私有ノ思想ヲ敷衍シタル點ニ於テ經濟史上非常ニ大ナル意義ヲ有ストイフヘシ昔ノ御直山御林《オヂキヤマオハヤシ》ハ單ニ人民ノ採收ヲ禁止セシニ過キサリシニ此改正ニ際シ凡テ之ヲ國有地トセリ村民ノ公用ヲ許セシ林野ニシテ又之ト共ニ國有トナリタルモノモ少カラス全體昔ハ國ノ所有又ハ官ノ所有トイフ思想ハナカリシナリ若シアリトスレハ領地ノ全體ヲ意味セシナリ國カ民法上ノ所有權ノ主體トナルハ此時ヲ始トス村有トイフコトモ此意味ニ於テ昔ノ村持トハ異ナリ即チ自村ノ人民ニ對シテモ村ハ其權利ヲ主張スルニ至リシナリ昔ノ村持地ハ多クハ村有トナリ村有ハ町村合併ノ結果所謂區有財産トナ(350)リ今ヤ地方行政上ノ一問題ナリ次ニ土地ノ共有トイフコトモ此際ニ起レリ共有ニ二種アリ其一ハ村ト村トノ共有ナリ昔ノ入會ノ名殘ナリ其二ハ個人ノ共同所有ナリ此種ノ共有ハ一ノ大字又ハ大字ノ一部分ニ屬スヘキ土地カ少シク權利ノ?態ヲ變シテ此ノ如クナリタルモノナリ事實ニ於テ區有又ハ村有ト異ナル所ナキモ臺帳ニハ何某外何十何名ノ所有ト記シ純然タル私財ナリ從テ分割ノ傾向ヲ有シ又新移住者ヲ其利用ヨリ排除ス個人所有ノ土地モ此際大ニ増加セリ社寺ノ領地ハ大部分ハ私領ト同シク之ヲ上地セシモ猶其一部分ヲ法人トシテ所有セリ又華族士族又ハ土豪ニシテ所謂由緒地ノ私有ヲ認メラレタルモノ多シ此ノ如クニシテ次第ニ昔ノ領地ノ大部分ハ官カ民カ個人カ法人カ苟クモ誰カノ私有トナリ之ト同時ニ從來ノ慣習ニテハ家ニ屬セシメタル土地ノ私有權ヲ純然タル個人ノ權利ト爲シ家督相續ノ制ハアレトモ戸主ニアラサル家族ノ地主ヲ認ムルニ至リタリ古ハ家族ニ土地ヲ與ヘントスレハ分家ヲナスノ外ニ途無カリシナリ此改正ニ引續キ羅馬法學ノ間接ノ影響トシテ不動産權ニ關スル思想ノ上ニ起リタル變遷ハ亦頗ル注意スヘキモノナリ所謂「Right to use and abuse（最自由ナル處分權）ハ單ニ動産ノ所有ニ限ラレタルモノナリシニ土地ニ對シテモ同一程度ノ處分權ヲ認ムルニ至レリ今其細目ノ一二ヲ言ハンニ相續ノ自由ハ夙クヨリ認メラレタリト言フヘキカ又ハ土地カ家ニ屬スル當然ノ結果ト言フヘキカ兎ニ角既ニ存在セリ生前處分ニハ大ナル制限アリ�ｺ川氏ノ直領ニハ一圓ニ土地ニ永代賣ヲ禁シ之ヲ犯ス者アレハ其土地ヲ官没ス諸侯領ノ中ニハ之ヲ禁セサルモ官ノ許可ヲ要件トスルモノアリキ擔保ニ就テモ制限アリ年紀ヲ限リテ書入質入ヲ許スモ流質ト爲スコトヲ得ス用途ノ變更ニ至リテハ唯利用ヲ進ムル場合ノミヲ認メラル破壞ト抛棄トハ共ニ自由ニ非スシテ之ヲ爲スハ作人ノ義務違反ナルノミナラス現行地租條例ノ如ク地類變換ニ依リ耕地ヲ原野ニ復スルコトスラ公認セラレサリシナリ此等ノ法制ヲ見テモ明瞭ナルハ舊時代ノ思想ニテハ土地ハ必ス之ヲ利用スル者カ其利用ノ間ノミ所有スルコトヲ得ルヲ原則トセシナリ然ルニ一朝ニシテ自由處分ノ原則ヲ不動産ニモ認メシヨリ其ノ自然ノ結果トシテ所謂身分違ノ地主トイフ階級ヲ生スルニ至リタリ明治元年十二月ノ布告ニ「拜領地社寺地等ノ外村々ノ地面ハ之ヨリ凡テ百姓所有ノ地タルヘシ身分違ノ者買取ルトキハ名代ヲ出シ(351)テ村内ノ諸役障碍ナク務ムヘシ」トアルハ此傾向ヲ明示スルモノニシテ經濟上極メテ重大ナル現象ナリシナリ

　以上ノ如キ變遷ハ形式コソ異ナレ歐洲何レノ國ニ於テモ最近二三百年ノ間ニ於テ皆之ヲ經歴セリ而シテ其ノ然ル所以ノモノハ亦各國ノ間ニ略共通ノ原因ノ在ルアリシカ爲ナリ

　即チ一ニハ人口ノ繁殖二ニハ土地利用方法ノ増加三ニハ其ノ増進的趨勢ノ豫想是レナリ此等ノ原因ハ次第ニ人ヲシテ土地私有制度ヲ一般ニ承認セシムルニ至ラシメ時代ノ學者モ亦時代ノ思想ニ基キテ頻ニ之ヲ説明セリ學者ノ土地私有制擁護説ハ種々アレトモ要スルニ個人自由ノ思想ノ一適用ノミ猶少シク説明セハ第一ニ勞力及資本ノ自由ナル活動第二此二者ニ對スル報償ノ自由ナル收得、此二者ヲ保障スル爲ニハ土地ノ處分ヲ凡テ所有者ノ任意トスルノ法制ニ依ラサルヘカラスト言フニ在ルナリ國即チ一ノ社會トシテ見ルモ土地ノ生産ニ因リ最多キ總收益ヲ得從テ最多キ純益ヲ得ルノ機會ヲ作ルニハ亦自由處分ノ制度ニ依ラサルヘカラサルハ事實ナリ此ノ如クセサレハ生産技術ハ進歩鈍カルヘケレハナリ即チ國ノ生産政策トシテハ私有制ヲ賛成スルノ外ナキナリ然レトモ更ニ進ミテ分配政策ノ側ヨリ觀レハ如何主觀的ニ農民ノ幸福ニ及ス影響ヲ考フレハ身分違ノ地主ニ土地ヲ分配スルトキハ夫タケノ借地農ヲ生シ一定ノ地積ノ收入ヲ以テ二戸ノ生活ヲ支フヘキコトヽナルヘク他人ニ貸シ又ハ賣ルノ目的ノミヲ以テ土地ヲ所有スル者ヲ生スレハ土地ノ取得對價ハ多少ノ増加ヲ免レサルカ其得失ハ如何又客觀的ニ土地ヲ有セサル者農産物ヲ購フヘキ者ノ利益ハ此ノ如キ身分違ノ者ノ私有ヲ許スノ制度ニ因リ影響スル所如何此ノ二點ヨリ攻究スルトキハ中々容易ニ賛否ヲ決スル能ハサルナリ蓋シ一國トシテノ純益總量ノ増加ヲ以テ直ニ良好ナル分配ヲ意味ストスル説ハ到底之ヲ信スル能ハス從テ吾人カ生産政策トシテハ申分ナキ土地私有制ニ就キテモ猶若干ノ批判ヲ加ヘ果シテ之ヲ永久ニ承認スヘキヤ否ヤヲ論斷スルハ勿論不必要ノ業ニハ非サルナリ

　近世土地ノ自由處分カ完全ニ認メラレタルヨリ賣買讓渡其他土地移轉ノ件數ノ非常ニ増加シタルコトハ事實ナリ土地ノ價格ハ之ヲ自然ニ放任スルモ人口ノ増殖ト土地利用方法ノ増加トノ爲ニ次第ニ昇進スヘキ偏向アリ現今ノ土地ヲ(352)買フ者ニハ二ノ種類アリ即チ其一ハ自己ノ耕作利用ニ供スル爲ニ土地ヲ買フ者ニシテ其二ハ當初ヨリ之ヲ他人ニ轉賣スルヲ目的トシテ土地ヲ買フ者ナリ後者ハ全ク近年ノ現象ニシテ其大部分ハ之ヲ土地投機業者ト稱スヘキモノナリ土地カ合理的ニ次第ニ其價ヲ高ムルコトハ是レ固ヨリ止ムヲ得サル事實ナリト雖投機者流ニ在リテハ或ハ術數ニ因リテ一層其昂騰ノ勢ヲ促進ス是レ頗注意スヘキ點ナリトス既ニ土地ノ價格ノ増加ハ社會ノ進歩ニ伴フ自然ノ結果ナリトスレハ其利益ハ舊來偶然ニ又ハ故意ニ土地ヲ買占メタル少數者ノ手ニノミ歸スルヲ以テ好マシカラサル?況ナリトスル論議ハ到底之ヲ壓抑スルコト能ハス而シテ此ノ如キ議論ハ五十年來種々ナル形式ヲ以テ各國ニ沸騰シツヽアリ此利益ヲ以テ國又ハ公共團體ニ歸スヘシトスル説ハ米國ノヘンリー、ジヨージ〔八字傍線〕カ先ツ之ヲ唱ヘ近來歐大陸ニモ之ニ左袒スル者多シ即チ一種ノ課税法ヲ以テ土地ノ自然的増價部分ハ凡テ之ヲ徴收シ去リ從テ身分違ノ者カ投機ノ目的ヲ以テ土地ヲ所有スル動機ヲ消滅セントスルモノニシテ之ヲ地制改良黨ト稱ス獨逸ノ膠州灣租借地ノ如キハ一部之ヲ實行セリト稱ス以テ其機運ヲ察スヘシ第二ニハ土地將來ノ増益ハ凡テ之ヲ直接ノ利用者ニ歸セシムヘシトスルモノニシテ英國ノワレース〔四字傍線〕等ノ主張スル所之カ爲ニハ一旦現在ノ所有者ヨリ其土地ヲ買上ケ更ニ各人ニ對シ其利用ノ期間之ヲ貸與スルノ制ヲ立テントス此論者ヲ土地快復黨ト稱スコックス〔四字傍線〕ノ土地公有論ニ依レハ公有論ニモ三種アリジヨージ〔四字傍線〕ノ説ハ地利ヲ公有ニシテ其處分權ハ私人ニ屬セシメワレース〔四字傍線〕ノ説ハ之ト正反對ナリ而シテ社會主義者ノ説ハ兩者ヲ併セテ收公セントストイヘリ此等ノ三説ニ對スル主タル反對論ハ實行ノ困難トイヒ又ハ現制度必シモ大ナル弊ナシトイフノミニ在ルカ如キモ未タ以テ周到ナル研究ト言フヘカラス此等ノ説ノ何レカニシテ其究極ノ目的ヲ達シタル後一國生産ノ?態ハ必シモ大ナル阻碍ヲ受ケス更ニ分配ノ?態ニ於テ若干ノ改良ヲ生スヘキ見込アラハ其實行方法ノ攻究ニ至リテハ更二第二段ノ事業トシテ可ナリ要スルニ吾人ノ研究セントスル所ハ土地ノ自由處分制ハ如何ナル程度ニマテ之ヲ制限スルヲ以テ現在ノ國家ニ適當ナリトスルヤ或ハ又全然之ヲ現制度ニ放任シテ差支ナキヤニ在リ之ニ對シテ順序的ノ討究ハ尤必要ニシテ感情ニ驅ラレタル速斷説ハ力メテ避クヘキハ復言ヲ須タサルナリ

　

(353)　　　　　第十一章　所謂農事改良ノ範圍

　

　現今普通ニ使用セラルヽ農事改良ナル文字ハ意味極メテ不正確ニシテ且若干ノ誤謬混同ヲ含ムヲ以テ之ヲ解析スルノ必要アリ世人ハ多ク農事改良ノ目的ヲ以テ其生産ノ増殖ニ在リトスルカ如キモ今日ノ世ニ於テハ生産トイフコトニモ二ノ方面アルコトヲ知ラサルヘカラス即チ其一ハ國ノ生産ナリ之ハ舊來ノ思想ト同シク貨物ヲ作リ出スコトナリ絶對的價値ノ増加ナリ其二ハ個人ノ生産ニシテ全然之ト趣ヲ異ニス個人カ生産ヲ爲スヤ其目的ハ生活ニ在リ故ニ生活ニ必要ナル貨物ヲ自ラ生産セシ所謂自給時代ニ於テハ國家ノ上ヨリ見ルモ個人ノ上ヨリ見ルモ其差ナカリシト雖今日ノ如ク交換ヲ目的トシテ生産ニ從事スル時代ニ於テハ個人ノ方面ヨリ見タル生産ハ則チ比較的價値ノ増加ナリ單純ナル生産ハ個人ノ目的ニアラスシテ手段ナリ從テ同シク生産ノ増殖ト稱スルモ國家ト個人トノ間ニハ其注文ノ異ナルモノアルヲ注意セサルヘカラス例ヘハ國家ハ年五千萬石ノ米カ六千萬石トナリ又ハ粗米ノ良米トナルヲ欲スルモ個人ハ必シモ産額品質ヲ言ハス唯其市價カ高ク又ハ之ト交換シテ消費スヘキ外部ノ貨物ノ市價カ低クナリテモ良キナリ但多クノ場合ニ於テハ農産物ノ價ノミ轉比例ニ高クナルコトナキヲ以テ農家收入ノ増加ノ爲ニハ亦其生産額ノ増加ヲ望マサルヘカラス是レ偶然國家ノ希望ト個人ノ希望ト一致シタルモノニシテ必然ノ結果ニアラス何トナレハ國家ハ能フ限リ農産物殊ニ食料品ヲ騰貴セサラシムルノ必要アルニ反シテ個人ハ常ニ騰貴ヲ希望スヘキ理由アリ此點ヨリ見ルモ國ノ生産ニ關スル利害ト個人ノソレトハ背馳スルコト稀ナリトセス然ルニ今ノ所謂農事改良ナルモノハ?其國ノ爲ニ説クヘキモノト個人ノ爲ニ講スへキモノトヲ混同セリ更ニ例ヲ以テ之ヲ説カンニ開墾又ハ機械ノ使用ニ依リテ農産額ノ増加スルコトハ國トシテハ常ニ望マシキコトニシテ而モ其爲ニ農産ノ市價ノ騰貴ヲ伴ハスハ愈好都合ナリ然レトモ産額カ増加スルモ其收入ニ於テ増加スルコトナクンハ誰カ開墾ニ從事スル者アランヤ故ニ個人トシテモ利益ノ計算上算盤(354)ニ合フノ機會ニ非サレハ國ノ政策ハ力ヲ施スコト能ハス故ニ力メテ二者ノ利益ノ合致スヘキ點ヲ求メ出スノ必要アリ而シテ國家ノ必要ノミヲ以テ個人ニ生産ノ改良ヲ勘ムルノ難キト同シク個人ノ利益トナルトイフ理由ノミヲ以テ國ノ生産政策ノ方針ヲ決スル能ハス要スルニ農事改良ノ終局ノ目的ハ國家ノ利益ニアリ唯其手段トシテハ個人ノ利害ヲモ考究スルノ必要アルノミ此本末ノ關係ハ之ヲ誤ルヘカラストス

　サテ一國ノ立場ヨリ生産増殖ヲ觀察スレハ其目安トスル所ハ第一ハ農産物ノ總額ノ増加ナリ第二ニ農産物ノ品質ノ改良ナリ第三ニ農産物ノ種類ノ増加ナリ第四ニハ以上三者ノ逆行ヲ防クコトナリ而シテ此目的ヲ達スルニ如何ナル手段ヲ採ルヘキカハ所謂生産ノ要件ニ遡リテ研究セサルヘカラス即チ第一ニ天然ニ關シテハ適當ナル土地ノ選擇ナリ次ニハ耕地數量ノ増加及品質ノ増進ナリ耕地ノ形?ヲシテ耕作ニ適當ナラシメ灌漑排水ニ便ナラシムルカ如キ是ナリ次ニハ天然ノ障害ヲ除去シ又ハ防止スルコトモ亦必要ナリ第二ニ心身ノ勞力ニ付テ言ハヽ其數量カ農業ノ現?ニ對シ過不及如何トイフコトハ大ニ研究ヲ要スル問題ナリ日本ノ如キハ全體トシテハ稍過分ノ觀アリト雖尚地方ニ依リテハ不足セル地方アリ元來農業ハ此カ根底タル土地ニ限度アル故ニ之ヲ利用スヘキ勞力ニモ亦限度ナカルヘカラス如何ナル限度ニ於テ之ヲ供給スヘキカハ國?ニ因テ異ルカ故ニ政策上大ニ研究ヲ要スヘシ數量ノ増加ヨリモ更ニ必要ナルハ品質ノ増加ナリ即チ汎義ノ實業教育ノ問題ナリ次ニハ此二者ノ減退ヲ防止スルコトナリ次ニハ勞力利用方法ノ改良ナリ第三ニ資本ニ關シ先ツ考究スヘキハ其供給ノ増加ナリ自己ノ貯蓄テ問ニ合ハヽ最結構ナレト外部ノ資本ヲ使用スル場合ニハ更ニ利子ノ問題アリ算盤ニ合ハサル利子ニテハ供給アリト稱スル能ハサルハ勿論ナリ次ニハ資本利用方法ノ改良ナリ即チ以前ヨリモ一層適當ナル條件ノ下ニ土地、機械、種苗、肥料等ヲ買ハシムルコトナリ次ニハ資本ニ對スル利用上ノ障碍ヲ除去スルコトナリ資本ノ減少ヲ防止スルコトナリ人爲的原因ノ外ニ尚天然ニ基ク減少ノ原因アリ即チ災害是ナリ

　以上列記シタル條件ハ個々ノ農業者ニトリテモ亦其幸福ヲ増進スヘキ手段トシテ必要ナレトモ個人ノ獨力ニテハ到(355)底其成就ヲ期シ難キモノトシテ久シク斷念セラレタリ然ルニ農業者ノ智識進歩スルト共ニ勞力ノ品質ヲ改良シ資本ノ利用法ヲ改良シ更ニ自家資本ヲ貯蓄スル等ノ傾向次第ニ發現シ殊ニハ公私ノ團體農會組合等ノ合同的努力近年中々盛ニシテ良好ナル效果ヲ農事改良ノ上ニ及ホセリ然レトモ個人又ハ少數者ノ合同ニテハ到底實行シ難キモノ又ハ其效果ノ甚少キモノアリ此點ニ關シ政策ノ力ヲ施サントスル近年我國ノ傾向ハ當ヲ得タリトイフヘシ唯其事項ニ就キ選擇ヲ誤ラスハ幸ナリ國ノ資力ト雖有限ナリ先後緩急ニ關スル判斷ハ必要ナリ今些シク之ヲ説カン

　元來私人ハ其計畫カ直ニ各自ノ利益ニ歸シ且ツ近ク其效果ヲ生スルノ見込立タサレハ著手セス國家ハ之ニ反シ其目的ニ對スル手段カ間接且迂遠ナレハナルホト之ヲ自己ニ引受クヘキ理由ト必要トアリ故ニ國ノ政策或ハ迂遠ナリト爲ス批難ハ時トシテハ無理ナリ然ルニ普通效果ノ早速ナル手段又ハ露骨ナル生産増殖策ハ却テ先ツ採用セラルヽノ弊アリ其例ハ博覽會、共進會、品評會ノ如キ品質ノ改良ヲ促スノ利アレト一方ニハ生産費ヲ考ヘサル改良品引合ハサル優等品ヲ出シ甚シキハ詐僞受賞ノ徒ヲ出ス次ニハ補助金、奨勵金、貸付金ノ如キモ農産物ノ種類増加ヲ促スノ利アレトモ時トシテハ其種類ヲ誤リ又或ハ在來ノ作物ニ無用ノ奨勵ヲ爲スコトアリ

　以上二種ノ政策ノ如キハ産物ノ種類ト品質トノ増加ヲ期スルコトヲ得ルモ産額其モノヽ増加ヲ期スルコト能ハス而モ時トシテハ不自然不適當ナル農産物ノ爲ニ一時無用ノ勞費ヲ致スコト無シトセス此等速效的手段ハ要スルニ全力ヲ傾注スヘキモノニ非サルナリ

　然ラハ何ヲカ急務トシ何ヲカ農事改良ノ根本的政策ト爲スヘキカトイフニ國又ハ公共團體トシテ先ツ決スヘキ題目ハ第一ニハ農産物ノ種類及範圍ノ豫定ナリ農業者ハ?目前ノ?況ニ誤ラル故ニ其永久ノ利害ヲ代表スル機關ハ此カ爲ニ在來ノ種類中土地ニ適スルモノヲ保有スルハ更ナリ尚新種ノ適否ヲ選定スルカ爲或ハ栽培ノ試驗ヲ爲シ或ハ市場ノ調査ヲ爲シ力メテ利益多キ種類ニ一般ノ努力ヲ集注セシムヘシ補助奨勵ノ如キ若シ必要ナリトセハ此後ニ於テ起ルヘキ問題ナリトス第二ニハ農産物全體ノ總産額ヲ増加セシムル爲之ニ對スル障碍ヲ除却シ便宜ヲ助長セシムルコトナリ(356)殊ニ（イ）個人智力ノ不十分ナル點例ハ金融保險等ノ機關ノ創設（ロ）個人資力ノ不十分ナル點例ハ道路ノ主ナルモノ排水工事ノ如キ事業（ハ）個人ノ爲ス能ハサル強制例ハ同業組合耕地整理ニ關スル統一、土地收用等又は（ニ）個人カ爲ス能ハサル防止例ハ病蟲害、獣疫等ニ對スル處置ノ如キハ如何ニ非干渉ヲ標?スル國家ニ於テモ到底之ヲ度外視スル能ハス何トナレハ國ヨリ外之ヲ行フヘキ適任者存セサレハナリ

　要スルニ一國ノ生産増殖策ハ大體以上ノ事項ヲ以テ根本ト爲スヘシ品質改良ノ問題ノ如キハ必シモ國家ノ力ヲ須タス市場ノ力ハ張ク之ヲ解決スヘシ何トナレハ市價ノ高キモノニシテ始メテ品質優レタリトイフヘク品質ノ優レタルモノハ自然ニ市價高カルヘケレハ令セスシテ自ラ國中ニ行ハルヘケレハナリ唯現在生産増加ノ速度カ未タ十分ナラサル原因ハ猶一層根本ニ於テ横ハルモノアルコトヲ忘ルヘカラス即チ國民ト國土トノ關係ニ關スル制度是レナリ此間題ノ研究ハ今日尚概シテ疎ナリ

　

　　　　　第十二章　土地利用ノ進歩及退歩

　

　耕地面積ノ増加カ農産増殖策ノ一大要點ナルコトハ深ク説明スルノ要ナシト雖單ニ面積ノ數字ノミヲ以テ唯一ノ標準ト爲スコト能ハサルハ論ナシ日本ノ田畑ノ五百萬町歩ヲ六百萬町歩ニ増加スルノミヲ農産増殖策ノ唯一ノ目的ト考フヘカラス此外ニ一定面積ノ生産力ノ増減モ亦觀察ヲ怠ルヘカラサル重要ナル點ナリトス生産力ノ多少ハ一方ニハ農法ノ如何即チ資本及勞力ノ供給、?態ニ由リテ左右セラルヽト雖其外ニ土地夫自身ノ能力ノ如何ニ由ルコト最多シ開發ト云フ語ハ古クヨリ用ヰラルツマリ此ノ土地ノ能力ヲ開發スルナリ故ニ今日吾人カ開墾トイフモノヽ如ク野地林叢ヲ耕地ト爲スモノヽ外ニ從來ノ耕地ノ能力ヲモ増進セシムルモ亦一種ノ開發開墾ナリト云フヘシ現行地租條例ニ於テハ第二類地ヨリ第一類地ニ變スル場合ノミヲ開墾ナリトセリ併シ經濟上ノ意義ニ於テハ地租條例ニ所謂開墾ト從來ノ(357)田畑ヲ一層生産力ノ大ナル田畑トスルコト又ハ未タ直接田畑ニハ爲サストモ以前ヨリモ一層田畑ト爲シ易キ?態ニ變スルコト或ハ尚廣ク不用地ノ用途ヲ發揮スルノ凡テノ場合トヲ區別スルノ必要ハナキナリ例ハ白耳義ナトニ行ハレタル砂濱ヲ草原ト爲ス改良、禿山ニ樹ヲ植付ル事業又ハ大原野ニ水路、道路ヲ通スルカ如キ皆其目的效果ニ於テ開發ト同シキナリ實際上現在ノ田畑面積何程トイフカ如キハ寧重ヲ置クニ足ラス耕地ハ直ニ荒レ易ク又開カレ易シ現在ノ耕地面積ノミヲ以テ其國土地利用ノ程度ヲ云々スルハ早計タラスンハアラス要ハ國民カ全體トシテ國土ヲ利用セントスル志即チ傾向如何ヲ見ルヘキノミ我國ノ如キ小サキ國ニ於テハ已ニ開發ノ餘地少ナク開發ハ今後ノ農政上重要ナル問題ニアラサルカ如ク論スル者アリト雖モ是レ開發ヲ狹義ニ解スルヨリスル誤リナリ加之田畑ハ今尚全國土ノ小部分ニ過キサレハ現在ノ田畑以外ノ土地ニ付其利用程度ヲ増進スルコトハ一層根本的ノ問題ナリト謂フヘシ

　今迄ノ土地ノ利用ト云モノハ極メテ消極的ナリキ土地ノ天然ノ?況カ既ニ耕作ニ適スル箇所ヲ使用シタルノミ之ニ次キテ極メテ僅ナル又ハ成ヘク僅ナル人工ヲ要スル土地ヲ選定セリ人ノ力即チ勞力ト資本トカ今日ノ如ク稍豐富ニナリテ後徐々ニ利用ニ供スル區域ヲ擴張シ行クノ傾アルカ今日ノ實?ナリ或土地カ農ノ利用ニ適スル要件トシテハ學者或ハ化學的條件ト物理的條件トノ二アリトイフ而シテ天然ニ此二條件ヲ具備スル土地ハ勿論少ナシ第三ノ經濟的條件ニシテ而モ前ノ二條件ニモ代リ得ルモノハ勞力及資本ノ價ナリ資本ト勞力トカ廉ニナリテ從來ハ滿足スル能ハサリシ報償ニテ滿足スルヤウニナレハ必ス開墾ハ起ルナリ又必スシモ其價カ廉クナラストモ合同作業ニヨリ又ハ個人ノ進歩セル智巧ニ由リテ始メテ滿足スヘキ報償カ得ラレ開墾開發カ出來ルコトアリ國又ハ公共團體ノ事業ノ如キハ合同作業ノ例ニシテ農法ノ改良、勞力利用法ノ改良ハ後者ノ例ナリ和蘭カ人力ヲ以テ海ヨリ奪返シタル國ナルコトハ有名ナ話ナリ人智ノ許ス限リ尺寸ノ土地ト雖モ各其力ヲ致サヽルナキノ日ヲ期セハ日本ノ如キ舊國ニテモマタマタ研究スヘキ餘地多シ此間題ハ農政學トイフ學問ニ於テモ亦實ニ將來ノ良田畑ニシテ目下ノ荒野ナリ

　茲ニ一言スヘキハ土地利用ノ問題ヲ研究スルニハ其限界ヲ農ノミニ限ル能ハサルコトナリ或土地ノ現在ノ利用カ完(358)全ナリヤ否ヤヲ明ニスル爲ニハ一切ノ生産部面ニ亙リ比較ヲ爲スノ必要アリ例ヘハ繁華ナル市街地ヲ田畑トスルハ利用ノ進歩ニ非スト雖時トシテハ高價ナル草花ヲ作ル爲ニ宅地ヲ畑トスルコトモアリ漁利アル池沼ヲ埋立テヽ田トスルハ必シモ感心スヘキコトニ非ス悦フ者アレト困ル者モ亦多シ又或ハ石油ノ採掘精製ノ爲ニ大面積ノ美田ヲ荒スコトハ得失如何トイフカ如キ三間幅ノ道路ハ必要ナレト之ヲ五間隔トシテ田畑ヲ潰スハ損ナリトイフカ如キ時ニ應シテ廣ク判斷ノ材料ヲ求メサルヘカラス是レ緒論ニモ言ヘルカ如ク各種ノ經濟政策ハ相對立スヘキモノニ非スシテ併立併存スヘキモノナリトイフ所以ナリ要スルニ一國トシテノ土地利用問題ハ農業ニ關聯スルモノ最重且大ナリト雖、サリトテ農業ノ利益ノミヲ本位トシテ之ヲ論斷スルコト能ハス土地利用ニ關シテ國是ヲ一定スルニモ土地現在ノ利用?況ヲ知ルニモ統計ハ尤必要ナリ併シ今ノ統計年鑑ヤ勸業税務ノ年報類ニテハ材料マダ如何ニモ不十分ナリ假ニ數字ハ精確ナリトスルモ土地ノ分類方法ニ缺點アルカ故ニ一目シテ我國ノ土地利用?況ヲ知ルコト能ハサルハ勿論其大體ヲ推論スルコトモ困難ナリ蓋シ全國ノ總計ハ勞費多クシテ效能少キモノナリ夫レヨリモ或ハ模型的ノ小地域ニ於テ調査ヲ爲シ之ヲ一府縣數府縣ノ上ニ推論スル方却テ當ヲウルコトアリ兎ニ角余ハ將來ノ統計ニ於テ利用ノ進歩及退歩竝ニ利用ヲ進ムヘキ手段ヲ研究スル者ノ爲ニ統計上土地ノ分類方法ヲ左ノ如ク改良セラレムコトヲ希望セサル能ハス

　余カ最モ便利ナリト思惟スル土地ノ分類法ハ先ツ一國ノ領土ヲ分チテ所有權ノ目的ト爲サヽル土地ト所有權ノ目的ト爲セル土地トノ二トナスナリ此事は前章ニ於テモ之ヲ説ケリ是レ恰モ地球ノ全表面ヲ區別シテ一國ノ領土ト爲サヽル土地ト一國ノ領土ト爲セル土地トニ二分スルト同シ系統ニ屬スルナリ此ニ「爲サヽル」ト云フハ事實上爲スコト能ハサルモノヽ外ニ人カ其意思又ハ判斷ニ由リテ爲サヽルモノモアルヲ意味ス所有權ノ目的ト爲サヽル國ノ領土ニハ三種アリ第一事實上民法ニ依ル所有ヲ爲ス能ハサル?況ニ在ル土地ナリ第二法律上ノ不能ナリ即チ國ノ意思ヲ以テ或地域ノ上ニハ所有權ヲ存在セシメサル場合ナリ河川法ニ依ル河川ノ區域ノ如シ第三ニハ法律ノ之ヲ禁スルニモアラス又事實上所有ヲ爲スコトハ不能ニアラサルモ個人ハ誰モ其土地ニ對シテ所有權ヲ行フヲ必要トセサル爲ニ所有權ノ目的(359)ト爲ラサル土地ニシテ語ヲ換ヘテ言ハヽ無價ノ土地ナリ此ノ三ノ場合ハ民法第二百三十九條ニ所謂無主ノ不動産トハ異ナレリ無主ノ不動産ハ國庫ノ所有〔二字右○〕ニ屬スル故ヤハリ所有權ノ目的ト爲ス土地ナリ此ハ土地カ既ニ不動産即チ所有權ノ目的物ト爲リタル上ノコトナリ民法ノ第八十六條ニ土地及其定著物ハ不動産トストアレト勿論之ハ領土内ノ水陸ノ全部ヲ意味スルニハアラサルヘク言ハヽ人ノ欲シカル土地、人カ私有シ得ル土地トイフコトヲ略セシモノニシテ此ニイフ第二種ノ土地ニ限リタルナリ次ニ河川法第三條ニ河川及敷地流水ハ私權ノ目的ト爲ルコトヲ得ストスル其私權ナルモノハ民法第一條、第二條ノ私權ト同樣ナルヤ否ヤハ問題ナリ債權其他ノ財産權河川ノ上ニモ存在シ得例ヘハ河川法第十八條ニ依リ敷地流水ヲ使用スル者及其承繼人ノ權利ハ明ニ民法ニ所謂私權ナリ從テ河川法第三條ノ趣旨ハ物ヲ目的トスル私權即チ物權ノ内殊ニ其根本タル所有權ノ存在ヲ禁止シタルナリト解スヘシ河川法ハ或外國ノ法律ノ模倣ナリトイヘト其ノ第三條ノ規定ハ兎ニ角我國古來ノ慣習法トモ一致ス我國ノ舊法制ニテハ水面ハ原則トシテ所有權ノ目的ト爲サス唯例外トシテハ地主カ自ラ掘鑿セル溜池又ハ水路ノ如キアリカヽル水面ニハ年貢アリ又公益ノ爲ナレハ年貢ヲ特免セラルヽコトアリ又私人ノ田畑宅地等カ天災ノ爲一時海川湖水トナレルモノモ例外ナリ此ハ免租年期及繼年期ヲ過キテ猶原?ニ復スル能ハサルトキハ地租條例第二十四條ニ依リ恐クハ土地臺帳（即チ第二種ノ土地ノ臺帳）ヨリ削除スルナルヘシ而シテ若シ舊持主カ反對ノ意思ヲ表示スルナラハ其水面ハ之ヲ第二類地トシテ少分ノ地租ヲ徴スルコトモアルヘキナリ道路モ亦所有權ノ目的ト爲サヽル土地ノ主ナルモノナリキ今日トナリテハ私有道路ナルモノアリ又個人ノ所有地ヲ道路ニ買上ケテ其マヽニ國ノ私有ナルカ如キ形ヲ示スモノアリ要スルニ明治前ノ法律思想ニテハ土地ノ所有トイフコトハ個人ニ限リ其條件トシテハ一ニ私用二ニ納租ノ二ヲ以テ區分ヲ明白ニセシモ新時代ノ法制ニハ共有ノ思想ヲ擴張シ更ニ町村其他法人ノ所有竝ニ國ノ所有ヲモ認メシ爲區別ノ堺線ハ無クナリタリ殊ニ地租條例第四條ノ近年ノ改正ノ如キハ公用ニ供シタル土地ニハ凡テ納租ノ義務ヲ負ハシメサルニモ拘ハラス猶其ノ私有ヲ認ムルヲ以テ土地ノ所有權ノ目的タルモノヽ範圍ハ殊ニ廣ク且複雜スルニ及ヘリサレト何人モ疑ハサルハ吾人カ領海ト稱(360)スル海面、海岸ノ沙濱、火山ノ頂上ノ如キハ少クモ所有權ノ日的ト爲ス土地ノ中ニハ入ルヽコト能ハサルナリ

　土地名稱區分ト稱スル明治七年ノ法律アリ其後法ト抵觸セサル部分ハ今日モ存續スルモノト見テ可ナルカ私見ヲ以テスレハ區分ニハ非スシテ多クノ混亂ナリ全部ノ土地ヲ網羅セサル上ニ分類モ亦精確ナラス殊ニ水面ト陸地トヲ區別シテ前者ヲ除外セルカ如キハ如何ニモ當ヲ得ス水陸ノ分界ハ決シテ學理的ニ立テ難シ海岸ノ陸地ハ潮汐ノ干滿ニテ増減ス雨大ニフレハ汎濫アリ川原沼ノ岸ハ時々刻々ニ異動ス山中ノ道路ニハ雨季ニ川トナルモノ多シ土地ヲ乾陸ノミニ限ルトスレハ到底完全ナル統計ヲ作ル望ナシ明治二十三年ノ勅令官有地取扱規則ナルモノハ稍進歩セル思想ニ據レリ其第十一條ニハ「官ニ屬スル公有地及公有水面」トアリ同第十二條ニハ「官ニ屬スル公有水面」トアリ又第十三條ニハ「官ニ屬スル私有水面」ナル文字アリ而シテ是等ノ「公有」トイフ文字ノ意味ハアマリ精確ナラサレトモ予カ解スル所ニテハ凡ソ官有地トイフ土地ノ中ニハ公有ノ土地及水面ト「私有ノ土地及水面」トノ二種アリ官ニ屬スル私有ノ土地及水面ハ官有財産管理規則第一條ニ國ノ所有ニ屬スル土地トアルト同シモノナルヘシ而シテ所謂公有ノ土地又ハ水面ニハ私人ニ屬スルモノハ有リ得サルカ故ニ結局

　　　　　　　　　　第一　公有地即チ所有權ノ目的ト爲サヽル土地

土地（水面ヲ含ム）｛

　　　　　　　　　　第二私有地｛國ノ所有ニ屬スル土地

　　　　　　　　　　　　　　　　國以外ノ者ノ所有ニ屬スル土地

ト分類セントスル予カ意見ハ官有地取扱規則ノ趣旨トハ抵觸セス故ニ假ニ公有地私有地ノ文字ヲ用ヰテ以下ノ説明ヲ爲スヘシ實際行政上ノ取扱ハ「官有財産即チ國ノ私有地」ト「公有地」トノ間ニ區別ヲ立テアルカ如キモ内務省ノ統計ニテハ官有地トシテ此ノ二者ノ區別ヲ混同セルカ如シ

　サテ右ニ所謂公有地（即チ所有權ノ目的ト爲サヽル土地水面）ハ之ヲ小別スルニ二種ノ方法アルヘシ其一ハ土地ノ現?ニ依ルモノニシテ例ヘハ湖、寄洲ト云ヒ抹硫黄地、採藻地ト云フカ如キモノニシテ千差萬別到底分類ノ目的ヲ達(361)スルコトヲ得ス他ノ一ハ利用ノ?況ニ基クモノナリ此方法ニヨレハ略研究者ノ希望ニ合スル分類ヲ得ヘシ

　一　私用地（私用公有地）私人ノ外ニ各種ノ團體モ公有地ヲ私用ス借料ノ關係ヨリ見レハ二又ハ三ノ一種ナリトモイヒ得ヘシサレト多クハ借料ナク又僅少ナリ專用漁業權ノ區域ノ如キ此一例ナルカ

　二　公用地（公用公有地）

　　イ　一般ノ公用地　航海漁業ニ供スル海面ノ道路ノ如キモノ

　　ロ　特別ノ公用地　多クハ地方的ニ特別ナリ溝渠溜池等ニ此類アリ

　三　官用地（官用公有地）見方ニヨリテハ一ニモ屬スヘク間接ニハ二ノ（イ）ナリトモイフヘキモ便宜上別置ス

　四　不用地（不用公有地）

　斯ノ如ク分類シテ略其面積ヲ測算スルコトヲ得ルナラハ第四種ノ公有地積ノ減少カ直ニ土地利用ノ進歩ナルコトヲ一目シテ知ルヘキナリ

　次ニ他ノ一面ニ於テ所有權ノ目的ト爲セル土地即チ予カ所謂私有地ノ分類ヲ試ミム私有地ニ付テハ前ノ如ク現在ノ利用者ヲ標準トスルニ先チテ尚ホ一層根本ナル所有權ノ所屬ニ依ルヲ便ナリトス所有權ノ所屬別ニスレハ私有地ハ五種ニ分チ得

　一　國ノ所有地　寧國庫ノ所有ト云フヘシ現在ノ取扱ハ之ヲ

　　イ　國有林野

　　ロ　國有林野以外ノ官有財産タル土地

　　ノ二ニ區別シ全然別箇ノ法規ニ俵リテ之ヲ管理セリ而シテ茲ニ一言スヘキハ國有林野ト公用公有地及不用公有地トノ區別ハ現在尚未タ明瞭ナラサルモノアルコト是ナリ然レトモ是ノ點ハ法令ノ趣旨ノ完全ナル遂行ニ因リテ他日自ラ明瞭ナリ得ヘキ望アリ荒蕪地其他ノ公有地ノ或モノハ之ヲ國有林野ニ編入シ效用少キ林野ハ之ト反對ニ公(362)有地ト爲シ又ハ私人ノ所有トスルコトハ土地ノ利用ヲ主眼トセル國有林野法ノ本旨ナルカ如シ

　二　皇室ノ所有地　普天ノ下王土ニ非サルナシトイフ古代ニハ無論御料地ハ有ラサリシナリ三十餘年前ニ國有地ノ一部分ヲ點定シテ始メテ之ヲ御料ト爲ス多クハ森林ナレト又宮邸用地及耕地アリ其ノ後者ハ第五種ノ私有地ト同シク耕作者ニ貸付シテ使用セシム此使用者ノ地位ハ借料ノ稍普通ノ率ヨリモ低ク年限ノ長キ爲ニ有償ニテ移轉セラルヽ等多少土地ノ所有ニ近キ性質ヲ帶フ磐城ノ岩瀬郡、石狩ノ上川郡ニ在ル御料地ナトハ其例ナリ一定ノ土地ニ對シ此ノ如ク上下數段ノ所有權樺アルカ如キハ現代ノ私法思想トハ相容レサルモ寧古代ニ普通ナリシ現象ナリ

　三　公共團體ノ所有地　府縣、郡、市町村皆各土地ヲ所有ス水利組合ハ日本ニテハ公共團體ニテ此モ亦土地ヲ所有スルモノアリ夫ヨリモ一層異數トスへキハ市町村ノ一部分大字又ハ小字カ土地ヲ所有スルコトニシテ所謂區有ノ土地ナルモノハ中々ノ大面積ナルコトナリ

　四　其他ノ法人ノ所有地　此中ニ注目スヘキハ社寺ノ所有地ナリ社寺カ土地ニ對スル地位ハ昔ト大ニ變レリ多クノ社寺ハ昔ハ領主トシテ現在國カ有スル地位ト地主カ有スル地位トヲ兼有シ其經濟上ノ意義亦大ナルモノアリシカ今日ハ其土地利用ニ付テノ關係ハ普通ノ私法人ト同シクナリ國トハ勿論公共團體トモ大ニ趣ヲ異ニセリ大小ノ差ハアレトモ稍第二種私有地ト經營方法ヲ同シクス

　五　私人ノ所有地　私人カ單獨ニ又ハ多數共同シテ所有スル土地ナリ即チ狹義ノ私有地ナリ此ノ如ク實際ノ利用者ノ何人ナルカヲ問ハス所有權主體ノ分類ニ基キテ私有地ヲ區別スルニハ相應ノ理由アルコトナリ何トナレハ單純ナル使用收益ノ權利ヨリモ尚一層根底ニ横ハレル權利即チ處分ノ權能ヲモ包括セル所有權カ何人ニ屬スルカトイフコトハ頗ル土地將來ノ利用如何ニ影響スルモノアレハナリ而シテ此題目ハ經濟政策上ノ問題トシテ近代最多ク論議セラレタル所ナリ學者多クハ曰フ土地ハ之ヲ個人ノ所有ニ屬セシムルニ非サレハ到底其利用ヲ完クスルコトヲ得ス是レ確ニ一分ノ眞理ヲ包含スルノ説ナリ蓋シ土地利用ノ上ニ於テ期限ノ長短ト有無トハ重大ナル關係ヲ(363)有ス土地占有カ無期限ナルカ然ラサルモ甚タ長キトキハ其土地ヲ使用スル人ハ必ス遠キ未來ノ利益迄ヲ考テ決シテ其地力ヲ枯渇スルカ如キ利用法ヲ採ルコトナカランモ若シ其期限ニシテ短キトキハ期間中在ラン限ノ方法ヲ以テ一時ニ地利ヲ吸收スルコトヲ力ムヘク要スルニ子孫ニ利益ヲ遺サントスルノ希望ハ個人ノ努力ヲ奨勵スヘキ最有效ノ手段ナルヲ以テ無期ノ占有ヲ保障スル所有權ヲ個人ニ付與シテ其活動勤勉ヲ促スヘシト云フニ在リ然レトモ是レ必シモ所有權ニ限リ生スヘキ結果ニハ非ス借權ニモ期間ノ長キモノアリ我民法ノ賃借權ノ二十年ハ或ハ短シト言ハンモ永小作權ニ至リテハ一時ニ五十年ノ契約ヲ許ス五十年ハ戸主ノ二代ニ亙ルヘク今日ノ人情ニ於テハ略永久ト同一視シテ可ナリ況ヤ此契約ハ之ヲ更新スルコトヲ得更ニ地上權ニ至リテハ千年ノ期限モ現ニ實例アリ一方ニ於テハ所有權ニモ條件期限ヲ附シ難シト云フ能ハス故ニ此點ノミヲ以テ個人所有權制度ノ優越ヲ説クコト能ハサルナリ唯土地利用ノ完全且周到ヲ期スル爲ニハ土地ト其利用者トノ關係カ能フ限密接ナルコトヲ要スルコトノミハ爭フヘカラサル事實ナリ即チ一ノ土地ノ區域ノ比較的狹キモノハ廣大ナルモノニ優リ其所在カ利用者ノ居所ニ比較的近キモノハ遠キモノニ優リ又土地占有ノ期間比較的長キモノハ短キモノニ優レリ何トナレハ此ノ如クナレハ能ク其土地ノ性質殊ニ外界ノ?況ニ對應スルノ長所短所ヲ熟知シ又之ヲ研究スルヲ得ルヲ以テ利用ヲ完全ニスルノ希望ハ多ケレハナリ今其ノ一ノ旁證ヲ擧レハ國有地ノ利用ナリ國家ハ所有者ナレトモ利用ノ法ハ疎シ利用ニ他人ヲ使ヘハ費用等ニ於テ不利益ヲ免レス法人ナリトモ土地ニ接近セル小サキ法人ナレハ其利用ニハ稍注意スヘシ要スルニ目的物カ小サクシテ其所在カ密接スレハスルホト語ヲ換ヘテ言ハヽ普通ノ個人所有?態ニ近ツケハ近ツクホト利用ハ進歩スルノ望アリ從テ個人所有ノ土地ニテモ大面積ニシテ所在ノ隔絶スルモノハ却リテ善良ナル町村ヨリモ利用劣レリ古來ノ政策カ所謂土地ノ兼併ヲ防キ或程度迄ノ細分ヲ利益トスルハ全ク此理由ニ基クモノナリ

　以上ノ説明ニ基キテ土地分類表ヲ示セハ次ノ如シ

(364)　　　　　　　私用地

　　　　　　　　　公用地｛　一般的公用地

　　　　　公有地｛官用地　　地方的公用地

　　　　　　　　　不用地

一國ノ領土｛

　　　　　　　　　國有地　　　　府縣有地

　　　　　　　　　御料地　　　　郡有地

　　　　　私有地　公共團體有地｛市町村有地　　　

　　　　（廣義）　　　　　　　　其他

　　　　　　　　　　　　　　　　　社寺有地

　　　　　　　　　其他ノ法人有地｛公益法人有地

　　　　　　　　　　　　　　　　　會社有地

　　　　　　　　　　　　　　　　　其他

　　　　　　　　　私有地｛共有

　　　　　　　　（狹義）　單獨

(365)　現今我國ニ存スル統計ニテハ此分類表中公有地ニ付テハ其細目ハ勿論全體ヲモ知ルコト能ハス國有地ノ中ニハ公有地ノ一部分ヲ混同シ又廣義ノ私有地中最後ノ二者ヲ合セ民有地トシテ統計ヲ示セルモ其民有地中ニハ性質上公共團體有地ト同一視スヘキ多クノ共有地ヲ含メリサレハ將來ニ於ケル土地利用ノ問題ヲ講究スル爲ニハ是非トモ如上ノ分類ニ基キタル統計ノ發表セラレンコトヲ切望セサル能ハス

　地租條例第三條ニ規定スル地種別ト此ニ余カ爲セル分類トハ如何ナル關係ヲ有スルヤハ次ニ起ルヘキ問題ナリ余ノ見ル所ヲ以テスレハ地租條例ノ分類ノ如キハ上述ノ分類法在リテ後ノ小別ニ過キスサレハ此ノ如ク大體ノ利用問題ヲ觀察シタル後ニハ更ニ進ミテ地種變換ノ問題即チ地租條例ノ各地種ノ間ニ於ケル利用ノ優劣ヲ研究スルヲ順序ナリトス予ハ地類地目ノ變換ノ當否ヲ知ルヘキ標準トシテ便宜上土地ノ利用ヲ二種ニ分ツ一ハ直接生産用ニシテ二ハ間接生産用ナリ前者ハ説明ヲ要トセス後者ハ即チ道路、水路、鐵道、溝渠、堤塘、溜池ノ如キモノ其主ニ居ル宅地ノ大部分亦然リ直接生産用ノ土地ノ效果ハ大略其面積ト比例ス之ニ反シテ間接生産用ノ土地ハ能フ限其面積ヲ節約スルニ利アリ相併行スル道路、鐵道等ハ單ニ土地利用ノ點ノミヨリ見ルモ之ヲ忌ムヘキ理由アリ又地租條例ニ所謂開墾ノ如キモ單ニ面積ノ増加ヲ以テ土地利用ノ増進ヲ卜スヘキニ非ス何トナレハ第一類地中ニハ宅地ヲモ包含シ直接生産用ノ森林原野ヲ變シテ宅地ト爲スコトモ亦開墾ナレハナリ元來私輕濟上普通ノ思想ハ土地ノ賣買價格ヲ増加シ得ルヲ以テ直ニ利用ノ進歩ナリト目スル傾アリ例ヘハ田舍ニテ畠地ヲ田地トシ市街地附近ニテ田畠ヲ變シテ宅地ト爲スカ如キ是ナリサレト土地利用ノ進歩ト退歩ハ必シモ市價ノ高低ノミヲ以テ卜スヘカラス市街ノ擴張停車場ノ新設等將來ノ市價騰貴ヲ見越シテ土地ヲ購入スルモノハ必シモ現在ノ利用ヲ顧ミス從テ東京ノ中央ニ龍ノ口ノ原アリ西京三條通ノ西端ニモ田畠ノ荒蕪セルモノ多シ土地ノ最缺乏セル箇所ニ於テ却テ雜草ノ生スル荒地ヲ見ル此ノ如キハ言フ迄モ無ク土地利用ノ上ヨリ言ヘハ退歩ナリ更ニ進ンテ各地種ニ就キテ利用ノ問題ヲ講究センニ

(366)　（イ）　宅地　宅地カ其一部分ハ直接ノ生産用地タルコトハ郡村宅地ニ於テ殊ニ明白ナリ田舍ニテハ屋敷ノ中ニ菜園竹山薪山アリ桑茶果樹ヲ栽ウルモ古代ヨリノ事ナリ更ニ農家ニ就テ言ハヽ穀物ヲ乾燥スル爲ノ乾場、生産物、生産用具ヲ藏スヘキ納屋物置場ノ敷地ノ如キハ最完全ニ近キ利用ナリ然レトモ宅地過大ナルモノニ在リテハ其一部分ハ利用概ネ疎ナリ個人トシテハ庭園門墻ノ装飾モ亦一種ノ所得ナレト一國ノ經濟ヨリ見レハ何等ノ生産ヲモ爲サス故ニ國内ノ宅地面積統計ノ増加ハ決シテ之ヲ利用ノ進歩ト推定スヘカラス寧他ノ間接生産用地ト同シク能フ限之ヲ省略スルコト吾人カ能フ限睡眠時間ヲ省略スルノ必要アルト同シカルヘキナリ

　（ロ）　山林　通例山林ハ原野ニ比較シテ一層利用ノ進ミタルモノナリト目セラル然レトモ殖樹ノ必要ニハ一定ノ限度アリ一方ニハ又原野ニハ他ニ殖林ニ優レル利用法多シ近年山林ノ事業長足ノ進歩ヲナシタレトモ亦相適當ナル風潮ヲ認メントス唯町村其他ノ公共團體ノ所有地ニ在リテハ現在或ハ之ヨリ以上ノ利用方法ヲ望ムコト能ハサルノ事情アルカ實際ニ於テ少數ノ新開ノ地方ヲ除クノ外ハ田畠ヲ所有セル公共團體ハ少シ田畠ニハ年々ノ豐凶アリテ凶年ニ小作料ヲ輕減スルノ習慣アル我國ニ於テハ規模小ナル公共團體ノ財政ヲシテ往々豫算執行ヲ困難ナラシムルノ不便アリ然レトモ廣ク統計上ノ徴候トシテハ山林面積ノ増加ハ直ニ荒蕪地面積ノ減少ト同一ノ程度ニ於テ歡迎スヘキモノニ非ス猶又荒蕪地禿山ノ利用ハ普通殖林ヲ以テ捷徑トスト雖今ノ地租條例ニ於テハ原野及雜種地ト山林トノ區別不明白ナルヲ以テ此ノ種ノ地目變換ノ事實ハ直ニ土地臺帳ノ上ニ發現セス從テ統計ノ數字ノ此點ニ於テモ當テニナラサルコトヲ注意セサルヘカラス

　（ハ）　原野　原野ニ關シテハ國民經濟上注意スヘキ點多シ一般ニ原野面積ノ減少ハ土地利用ノ進歩トシテ認メラルト雖農業ニ取リテハ或程度迄ハ其保存ヲ必要トス即チ直接ニハ緑草、肥土等肥料ノ採取地トシテ間接ニハ家畜飼料ノ供給地トシテ農業ノ現?ヲ維持スルニ缺クヘカラサルモノアルナリ元來我國ノ低地部ハ面積ノ割合ニ民居多ク村附屬ノ秣場ハ最少限度ニ迄削減セラレ從テ頗ル畜産ノ發達ヲ抑止シタリ而モ農業ニ於ケル土地ノ新ナル利用(367)ニハ畜産ヲ以テ要件トスルカ故ニ（横井博士）原野面積ノ減少ノ喜フヘキカ否カハ一ニ肥料及畜産物ノ外部供給ノ?況如何ニ係ルナリ例ハ運搬交通ノ關係上幾分ノ自然經濟ノ農業ヲ存續スヘキ地方ニ在リテハ原野ハ決シテ之ヲ失フヘカラス勿論大面積ノ土地ヲ素地ノ儘ニテ牧羊等ノ如キ粗惡ナル畜産業ニ充用スルハ忍フヘカラサレトモ原野ヲ原野トシテ其利用ヲ増進スヘキ道尚存ス此方法ニ依レハ亦容易ニ原野面積ヲ合理的ニ減少スルコトヲ得ヘシ

　　所謂原野改良ハ恐クハ將來ノ農業政策上ノ大問題ナラン學者ノ提案ハ第一ニ荊棘ノ除去ナリ東北ノ産馬地方ニ於テ見ルカ如ク荊棘ノ害ハ啻ニ面積ヲ徒費スルノミナラス虻蚋ノ類ヲ養ヒテ畜類ノ成育ヲ妨クルコト大ナルニ在リ第二ハ草ノ改良ナリ我國現在ノ草種ハ養分乏シク産量少クシテ一頭ノ家畜ノ爲ニ比較的大ナル面積ヲ要ス而シテ良種ノ牧草ヲ移植スルカ爲ニハ原野地方ノ補給ヲ須ツカ故ニ更ニ進ミテハ第三ニ原野ノ灌漑等ノ問題ヲ生スヘシ水分ハ土地ノ温度ヲ増シ且水中ニ包含スル肥料ヲ供給スルカ故ニ良好ナル牧草ヲ生育セシムル爲ニハ原野ハ簡單ナル装置ヲ以テ灌漑ヲ施スヲ可トス地租條例ニテハ原野ト牧場トノ區別アレトモ恐クハ我國ノ觀念ニアラサルヘシ今日土地臺帳ノ上ニ牧場トシテ記入セラルヽ土地ハ多カラス且必シモ改良セラレタル原野ヲ意味セス蓋我國ニテ原野ト稱スルハ本來土地ノ天然?態ヲ云フナラン以前ハ殆ト原野ノ改良トイフ思想ナカリシカ今後前述ノ如キ改良ヲ之ニ加フルモ尚且原野トイフノ他ナシ語ヲ換ヘテ言ハヽ原野ハ多クノ階段アリ天然ノ素地ハ勿論田畠宅地モ荒蕪スレハ事實上ハ原野ナリコレヨリ進ミテ種々ナル改良ヲ加ヘタルモノ迄ヲ想像スルトキハ此等ノモノヽ間ニ區別ヲ設クルコトナクシテ一概ニ其ノ減少ト増加トヲ以テ土地利用ノ進歩退歩ヲ推論スルカ如キハ頗ル不精確ナル研究法ト言ハサルヘカラス

　余ハ以下更ニ研究ノ歩ヲ進メ所謂狹義ノ土地改良ニ付テ述フル所アラントス今日ノ狹義ノ土地改良ト云フハ田畠ノ改良ナリ現在ノ慣例ハ既成ノ田畠ノ改良ノミヲ以テ土地ノ改良ト爲シ土地ノ肥培ノ如キハ最必要ナル土地ノ改良ナル(368)ニモ拘ハラス之ヲ包含スルコトナシ蓋土地ニ必要ナル化學的變性ハ物理學的ノ變性ト比較シテ一時的ノ性質ヲ帶フルモノナリト認メラレ除外セラルヽナラン又土地ニ適當ナル作物ノ撰擇農具ノ選定ノ如キモ亦同一方向ヲ有スル利用者ノ行爲ナリト雖勿論之ヲ算入スルコトナシ而シテ通例世人カ目シテ土地改良ト爲スモノハ次ニ述フル二三ノ事業ニ限ラレタルナリ

　（イ）　水利　現在ノ所謂土地改良ノ中最重要視セラルヽモノハ水利ナリ水利ニ灌漑、排水ノ二アリ灌漑ノ主タル目的ハ水ノ時々ノ缺乏ニ備ヘ以テ旱魃ノ害ヲ防クニ在リ次ニ從來ノ畠地ニ水ノ供給ヲ自由ニシテ之ヲ田地ニ變更スルコト之ナリ畠地ヲ田地ニ變スルハ我國現在ノ經濟?態ニ於テハ尚之ヲ土地利用ノ増進ナリト云フコトヲ得ヘシ何トナレハ普通田地ノ生産物ノ價額ハ畠地ノ生産ニ勝レルカ故ナリ余ハ單ニ之ヲ現在ノ?態ト云フ如何ナル場合ニモ常ニ此ノ如クナルヘシト云フ能ハサルノミナラス今日ト雖越後ノ柏崎、三條等ノ村落ノ如キ水田多クシテ同時ニ畠ノ生産物ノ需要多キ所ナトニテハ田ヨリモ畠ヲ貴ヘリ一般ニ畠地ハ田地ニ比シテ用途ノ變化多ク從テ其利用方法如何ニ依リテハ田地ヨリモ大ナル價値ヲ産出シ得ヘキ機會決シテ少ナカラサルナリ

　　次ニ排水ノ主タル目的ハ所謂水腐場ノ生産力ヲ増加スルニ在リ元來自由農法ノ活動シ得ヘキ範圍ハ水陸田ノ用途ノ共通ニ因リテ最多ク擴張シ得ヘキハ前ニ述フル如クナレハ主トシテ此點ニ者目シテ之ヲ實行スヘキモノナレトモ近年ノ排水事業ハ單ニ水田ニ裏作ヲ爲サムカ爲ニ之ヲ行フモノヽ如シ裏作ニハ必シモ穀物ノミナラス或ハ肥料トシテノ豆類紫雲英ノ如キモノヲ栽培シ外部ノ供給ニ仰クヘキ肥料ヲ省略スルモ普通ノ例ナリサレト排水ノ利ハ此ニ止ラス地温ヲ増加シテ作物ノ生育ヲ促進シ或ハ穀物ノ品質ヲ改良スルコトヲ得排水ノ事業ハ近年ニ至リテ始テ大ニ行ハルヽモノニシテ灌漑工事ノ如ク久シキ歴史ヲ有セス其直接ノ事業トシテハ灌漑ノ如ク大規模ナルコトヲ要セサルヲ以テ個人ノ事業ニ適セリト雖其間接ノ援助誘導ニ至リテハ國ノ政策ノ力ヲ須ツヘキ點中々多シトス

(369)　（ロ）　交土法　我國ニハ海邊ノ砂洲火山麓ノ荒野ノ如ク單ニ地積ノミアリテ農業ニ必要ナル地力ヲ具ヘサル部分少ナカラス農業カ段々集約トナレハ外部ヨリ良土ヲ搬入シテ一部ノ土性ヲ改良スルコトカ適當ナル事業ナル場合ヲ生スヘシ此種ノ土地改良ハ大規模ニ之ヲ計畫スルノ必要モ無ク又不可能ナリ所謂精農ノ徒ハ久シク之ヲ心掛ケ今日ニ於テモ之ヲ實行スルモノ少ナカラス其方法トシテハ直接ノ客土搬入ノ外ニ或ハ野草ノ繁殖ヲ促進シ或ハ松樹「ウツギ」等ヲ植ヱテ飛砂ヲ防キ腐殖土ノ生成ヲ助クルカ如キ手段ヲ採ル者古來多シ

　（ハ）　土地ノ整形　是レ當節流行ノ題目ナリ元來畠地ニハ必シモ明確ナル區劃ヲ要セサレトモ水田ニ在リテハ水ヲ湛フル爲始ヨリ一定ノ畦畔ヲ具ヘサルヘカラサルハ米作國ノ特色ナリ而シテ日本ノ如キ舊國ニ於テハ水田ノ區劃ハ極メテ亂雜ナルカ常ナリ地形ニヨリ谷間ヤ山腹ニ水田ヲ作ルトキハ他ニ方法ナキカ故ニ始ヨリ田區ノ亂雜ナルモ已ムヲ得スト雖平地ニ於テハ最モ改良ノ餘地アリ又必要アリ我國ノ田畠ハ形?ノ亂雜ナルト同時ニ一區ノ面積普通極メテ小ナリ是レ或ハ道路ノ鑿開等ニモ起因スヘシト雖主トシテハ相續其他ノ移轉ノ際ニ於テ法制上耕地ノ分割ニ何等ノ制限ナカリシニ由來スルモノナリ故ニ新開ノ村ニハ耕地ニ區ノ形?比較的整齊ナリ明治二十年頃ノ調査表ニ依レハ三十六ノ府縣ヲ平均シテ耕地一筆ノ平均面積ハ五畝歩餘一人ノ所有スル耕地平均十四筆餘ニ區分セラルト云フ其内畠ハ平均一筆八畝内外ニシテ田ハ從テ之ヨリモ遙ニ小サク一筆平均四畝ニ足ラス宮城縣ノ如キハ極端ニシテ一人平均五十一筆餘ノ耕地ヲ有シ一筆平均二畝餘ナリ田畑ノ形?カ亂雜ニシテ其區域ノ小ナルカ爲ニ起ル作業上ノ不利不便ハ種々アルヘシト雖第一ニハ牛馬ヲ使役シ機械ヲ應用スル農法ヲ行ヒ難キコトナリ第二ニハ耕地ノ細分ハ所在ノ隔離ヲ免ルヽ能ハス往復ノ爲ニ徒費スル勞力ノ多キコトナリ第三ニハ畦畔ノ爲ニ徒費スル地積ノ多キコトナリ此等ノ不利益ヲ除却スルカ爲ニ近年ノ政策ハ專ラ其力ヲ田畠地區ノ整形擴張ニ用ヰルニ至レリ而シテ上野氏ノ調査ニ俵レハ耕地ノ最適當ナル形?ハ三ト二トノ割合ヲ有スル長方形ニシテ一區ノ面積ハ少ナクモ一段歩以上ナルヘク能フヘクハ猶之ヨリモ大ナラシムルヲ可トスト云ヘリ此説ニハ異見ナキニアラス通風(370)或ハ害蟲驅除ノ爲ニハ畦畔ノ空地少ナキハ或ハ多少ノ不利アルヘシト農法ニ因リテ之ヲ免カレ得ヘキモノ多シ唯田畠ノ形?ヲ整ヘ且之ヲ擴張スル爲ニハ常ニ隣地ノ合併ヲ必要トスルモノナルニ通例各隣地ハ其所有者ヲ異ニスルヲ以テ土地交換ノ爲ニ困難ナル問題ヲ生シ爲ニ十分ニ耕地整理ノ目的ヲ達スルコト能ハサル場合多シ現行耕地整理法（【三二、法八二】）ノ執行ハ耕地交換分合ノ點ニ於テ未タ完全ニ其效果ヲ擧クルコト能ハスト雖一方ニ水利ノ方面ニ於ケル土地改良ヲ兼ネ行フ爲稍費用ヲ節約シ得ル望アリ此點ハ甚好都合ナレトモ最肝要ナル耕地ノ集合ヲ實現シ得サルヲ以テ農業者ヲシテ新時代ニ適應スル農法ヲ採用セシムルノ道ニ缺クル所アリ整理ノ後モ尚舊型ノ小作ニ放任セサル能ハサルハ遺憾ナリ元來畦畔ヲ省略シテ直接生産用ノ面積ヲ増加スルカ如キハ從タル利益ナリ而モ地方ニヨリテハ必シモ増歩ノ結果ヲ生セサルモノモ甚タ多キナリ

　耕地ノ整理カ時代ニ適切ナル事業ナリトスレハ之ニ關聯シテ注意ヲ怠ルヘカラサル點尚二三アリ其一ハ此ノ如クシテ取得シタル耕地ノ?況ノ維持ナリ耕地整理組合ノ即時ノ解散ハ已ムコトヲ得ストスルモ國又ハ地方廳ハ間接ニ舊組合員ヲ指導シテ折角ノ好成績ヲ破壞セサルヤウ常ニ注意セサルヘカラス其二ハ更ニ根本ニ溯リテ再ヒ耕地整理ヲ必要ナラシムルカ如キ原因ノ除却ナリ即チ不規則散漫ナル分割ヲ制限スル法制ノ必要アリ若シ依然トシテ之ヲ各人ノ自由ニ放任スルナラハ加入ヲ強制シ其他命令權ヲ以テ個人ノ行爲ニ迄モ干渉シ保護ヲ與ヘタル政策ハ何ノ甲斐モナキコトナルヘケレハナリ其三ニハ水利ノ點ナリ水利ノ關係殊ニ用水ノ權ハ久シキ年代ニ次第ニ發達シ以テ今日ノ現?ヲ呈スルモノニシテ事情極メテ複雜ナルモノアリ今後ノ耕地整理ハ到底水利ノ問題ト何等ノ交渉ナシニ之ヲ實行シ得ヘキニアラサレハ力メテ此關係ノ改良ニ心掛クルカ然ラサルモ少ナクモ現?ヲ動搖セシメサル注意ヲ必要トス地盤ノ變更等ニヨリ水流ノ方向ヲ變シ又ハ用水ノ需要ヲ過大ナラシメ以テ地方ノ紛紜ヲ惹起スカ如キ耕地整理ハ假令他ノ點ニ於テハ好都合ナレト之ヲ避ケサルヘカラス要スルニ耕地整理法ハ現代生産増殖策中最重要ノ項目タルコトハ疑ナキモ同時ニ又精確ナル私經濟的計算ノ問題ナルカ故ニ其實行ヲ促スカ爲ニハ(371)先ツ其計算ノ基礎ヲ確實ニシ如何ナル點ヨリ見ルモ之ヲ實行シテ一ノ不可ナキヲ先途トスヘキナリ若シ果シテ此要件ニ適合セハ之ニ因リテ改良シ得タル田畠ハ假令其數量ニ於テ加ハル所ナクトモ猶大ナル利用ノ増進タルコトヲ失ハサルヘキナリ

　

　　　　　第十三章　地力ノ維持

　

　農業ノ立場ヨリ考フルトキハ所謂土地ノ化學的性質ノ増進及維持ハ其物理學的性質ノ増進及維持即チ狹義ノ土地改良ヨリモ一層重要ナリ何トナレハ地力ハ年々ニ消耗シ從テ年々ニ之ヲ補充スル必要アレハナリ土地ノ物理的性質ノ改良ハ一タヒ之ヲ施セハ大抵永續スルモノナルニ反シテ其化學的性質ニ至リテハ年々ニ代替消耗シテ止マサルコト恰モ潮汐ノ干滿ノ如キモノアリ要スルニ地力ノ減退ハ農業ノ本質ナリ又目的ナリ適當ナル農業ニハ必ス伴ヒテ離ルヘカラサル現象ナリ故ニ些シク補充ノ注意ヲ怠レハ忽チ其良性質ヲ失フハ當然ノ結果ナリ而シテ土地ノ肥培ハ其年々ノ生産ヲ以テ之ニ充ツル程度ニ於テハ極メテ易々タリト雖若此程度以上ノ補充ヲ要スルカ如キ?態ニ立至ルトキハ地力ノ囘復ハ急ニ困難トナルモノナリ二年分以上ノ地力ヲ一時ニ補充スルコトハ普通ノ農法ノ許サヽル所ナリ

　本來生産ノ要件トシテノ土地ノ意義ニ二アリ土地ノ肥瘠ト土地ノ廣狹トハ即チ是ニシテ農業上ノ觀察點トシテ其重要ノ度二者甲乙ナシ昔ハ土地ノ肥瘠ヲ以テ全ク天然ノ事實ト見タリシ時代モアリタリト雖今日ニ於テハ總テ人間ノ意思ニ因リテ左右セラルヽモノナルコトヲ疑フ者ナシ日本ハ古來瑞穗ノ國ノ稱アリ地味ノ膏腴ヲ以テ聞エタル國ナルモ今日トナリテハ特ニ他國ニ超越スル所アルヲ見ス而シテ何故ニ斯クノ如クナリヤト云フニ全ク地力ノ年々ノ補充不充分ナリシカ爲ナリ永キ間無肥料耕作ヲ續ケタルカ爲ナリ然レトモ是寧ロ世界普通ノ?態ニシテ必シモ我々ノ祖先ヲ責ムヘカラス要スルニ皆私經濟上ノ計算ノ結果ナリ自己ノ周圍ニ僅少ナル勞力ヲ投シテ利用スルコトヲ得ル土地カ澤山(372)ニ在ル間ハ耕作者ノ肥培ニ腐心セサルハ當然ナリ借地農ニ在リテモ契約ノ條項極メテ簡単ニシテ何時ニテモ他ヨリ借入ルヽコトヲ得ル土地ノ存在スル間ハ其ノ請作地ニ肥料ヲ施サヽルハ當然ノコトナリ而シテ中世我國ノ農ハ大多數借地農トシテ行ハレシナリ從テ耕作スル土地ハ早晩返スヘキ人ノ地ナリ求ムレハ幾ラモ得ラルヘキ人ノ地ナリ有ル限ノ地力ヲ收穫シ盡シテ返スハ人情ノ常ナリ然ルニ時ノ經過ト共ニ農民境ヲ按シテ各一定ノ土地ヲ永遠ニ使用セサルヘカラサルニ至リ始メテ地力推持ノ道ヲ講スル必要ヲ感スルニ至レリ是レヤガテ今日ノ?態ナリ

　元來人カ勝手ニ自己所有ノ土地ヲ瘠セシムルコトハ貴ムヘキニアラサルカ如キモ是レ唯私經濟上ヨリ觀タル議論ニシテ國トシテハ常ニ大ニ此問題ヲ討究セサルヘカラス地力ノ減退、肥力ノ濫費ハ古今東西ヲ問ハス何レノ時代何レノ國家ニトリテモ必ス國ノ損失ナリ殊ニ精確ナル豫算ノ下ニ年々ノ農生産ニ從事スヘキ時代ニハ少ナクモ地力ノ現在ノ?態ハ連年之ヲ持續スル必要アリ之ニ加フルニ更ニ地力ヲ増進シテ人口ノ増殖ニ適應スル爲其生産額ノ増加ヲ期セサルヘカラサル時代トサヘナリタルナリ之ニ由テ觀ルモ單ニ耕地面積ノ數量的増加ノミヲ以テ直ニ土地利用ノ進歩ヲ卜シ農業ノ發達ヲ云フヘカラサルコトハ明白ナリ獨逸ノ學者ハ此間題ヲ Bodenstatik ノ問題ト云ヘリ要スルニ地力維持ノ問題ハ必ス國家ノ問題ニシテ個人ノ問題ニアラス各個人ノ算盤ニテハ時ニ或ハ肥料ヲ使用セス掠奪農法ヲ行フ方反ツテ利益アルコトアラン例ハ高利ノ資本ヲ借ラネハナラヌトキ又ハ肥料カ無暗ニ高價ナルトキ又ハ其土地ヲ、ヤガテ賣リ又ハ返サントスルトキノ如キ是ナリ然レトモ一國ニトリテハ如何ナル場合ニ在リテモ永久ノ減退ハ決シテ忍フヘカラサル現象ナリ

　思フニ肥料ノ絶對的ニ得ラレサル時代トイフモノハ之ヲ想像スルコトヲ得ス殊ニ外國ヨリ供給ヲ仰クコトヲ得ル時代ナリ國内ニテモ無論何處カニ在ルナリ唯問題ハ斯クノ如キ肥料カ個人ニ收支償フノ使用ヲ許スヤ否ヤニ在リ國家トシテノ任務ハ肥料トイフ品物サヘ取揃ヘテ置ケハ足ルニハアラス必スヤ更ニ肥料ノ適當ナル種類、肥料ノ適當ナル使用ヲモ確保スヘキ必要アルナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ效能アリテ引合フ肥料ニアラサレハ勸メテモ農家カ使ハヌナリ現在(373)竝ニ將來ノ肥料問題ハ是非共此クノ如キ標準ニ依リテ之ヲ考究セサルヘカラストス

　一國ノ耕地全體ヨリ觀察シテ年々消失スル地力ハ抑モ幾何ナリヤ先ツ第一ニハ其放散ト浸潤トナリ此原因ハ或程度迄ハ免ルヽ能ハサルモ適當ナル方法ニ依リ力メテ之ヲ制限シ得ルノ日ヲ望マサル能ハス第二ニハ肥料分ノ流失ナリ我國ノ如キハ殊ニ水田ノ耕作ノ爲ニ最モ甚タシトス水ヲ引クコト多キニ過クルカ爲モアレト或ハ降雨ニ因リ流失スルモノアリ天氣豫報ハ此弊ヲ減スル點ニ於テ有效ナリト云フヘシ第三ニ地力ノ減退スルハ作物ノ吸收ニ俵ル消失ナリ此消失ハ農業本來ノ目的ナリ然シテ又囘收ノ途アルモノナリ若土地ヨリ收穫シタル作物ニシテ人カ一定ノ用法ニ依リ之ヲ消費シタル後悉ク其不要部分ヲ還元スルコトヲ得ルモノナラハ最初ノ二原因ニ基ク消失ハ必スシモ大ナル問題ニアラス然レトモ地力ノ減退シテ再ヒ本ノ土ニ歸ラサルハ一ハ作物ノ他所ニ於ケル消費ノ爲ナリ此點ヨリ見ルトキハ大都會ノ發生ハ地力囘收ヲ困難ニス何トナレハ下水ハ大都會ニ於テハ衛生、装飾其他ノ理由ヨリ必スシモ再之ヲ肥料ト爲スコトヲ許サヽレハナリ次ニ循環方法ノ不備ハ亦地力囘收ヲシテ困難ナラシム穀物竝ニ菜類ノ如キハ人類カ消化シテ後之ヲ土地カ吸收シ易キ肥料ト爲シ得ルモ家畜ニ非サレハ消費スルコトヲ得サルカ如キ作物ニ至リテハ人々ニ比シテ家畜ノ數少ナキ我國ニ於テハ循環ハ不充分ナリト云ハサルヘカラス其他藁莖ノ類ハ之ヲ土地ニ還元スルコト比較的難シ殊ニ籾殻ノ如キハ其量殆ト穀物ト同量ナルモ今尚如何ニシテ適當ニ之ヲ還元スヘキヤヲ研究シ得ス次ニ不注意ニ因ル抛擲モ其額豫想外ニ大ナリ是等ノ原因ノ爲作物ハ決シテ其全部ヲ土地ニ還元スルコトヲ得ス而シテ我國ニ於テハ斯ノ如キ?態ニテ二千有餘年ヲ經過シタルナリ瑞穗ノ國モ亦瘠土トナラサルヲ得ス勢此ノ如クナレハ各耕地カ年々同一ノ地力ヲ維持スル爲ニハ尠ナカラサル外部ノ補給ヲ仰カサルヘカラス其手段トシテハ第一ニハ田畠以外ノ土地ヲ利用セリ即チ礦物トシテハ池沼、川床等ノ泥土ヲ採リ植物トシテは野草、水草、木葉ヲ採リ更ニ動物ノ廢棄物又ハ鳥糞等ヲ採収セリ（例、伊勢神島ノ鵜ノ糞採取）永年ノ間山野、河海ノ間接ニ農業ニ貢獻シタル所ハ大ナリ其爲ニ此等ノ土地モ大半ハ地力ヲ衰ヘシメタリ然ルニ近年ノ趨勢ハ能フ限此等ノ土地ニ人力ヲ加ヘテ之ヲ田畠ニ利用センコトヲ力ム昔(374)ノ開墾ハ沃土開墾ナレハ少ナクモ初年ハ肥料ヲ施スヲ要セサリシモ近年ハ皆不毛ノ地ノ開墾ナルヲ以テ開墾ノ第一年ヨリ既ニ肥料ヲ要シ從テ肥力補供源泉ノ減少即チ開墾ノ増加ト共ニ更ニ肥料ノ需要ヲ急増スルニ至リタルナリナルホト我國ノ田畠ハマダ全國面積ノ八ニシテ一ナリ所謂第二類地ハ尚多キモ既ニ地方的缺乏ヲ認ム人口ノ密度ハ地方々々ニ依リ甚シク不齊一ナリ事情前述ノ如クナレハ茲ニ於テカ肥料ノ運搬トイフ問題ハ起レリ學者ノ所謂肥料ノ可搬性 Portability ハ肥料ノ種類ニ依リ一樣ナラス我國ニ於テ肥料ノ最モ重要ナルモノハ下肥ナリ今日ハ比較的遠方迄モ下肥ヲ運搬ス汽車ニテ下肥ヲ大宮在邊マテモ運搬シ葛西ノ糞船ハ大川ニ絶ユルコトナシ然レトモ其容積ト送賃ト市價トノ關係上此可搬性ニモ限度アリ此點ニ於テハ?糞ノ如キハ人糞ニ優リ又米糠ハ秋田新潟ヨリ東京迄モ送リ來ル濃厚肥料ノ必要ハ茲ニ發生シ其商業ハ優勢ヲ占ムルニ至ル要スルニ皆可搬性ノ優レルモノヽ勝利ナリ

　今日ニテハ肥料ノ舶來ハ殆ト普通ノ?態トナレリ多クノ金肥ノ市價ヲ分析スレハ其大部分ハ運賃ナリ現今ノ?態ハ金肥ヲ施用スルヲ以テ優等ノ農業ノ如ク思考スレトモ時トシテハ勞力ノ不必要ナル使用、石炭ノ浪費ナルコト無キニアラス各農場ニ於ケル金肥ノ勝利ハ或ハ必要且適當ノ現象ナルコトアラムモ?肥料會社ノ誘説員ノ計算表ニ因リテ誘惑セラルヽコトナシトセス此計算表ハ單ニ金肥ノ引合フコトヲ立證スルノミニシテ更ニ之ヨリモ好ク引合フモノアリトモ之ヲ隱蔽ス人情トシテ農民モ亦煩雜ヲ厭ヒ不潔ヲ惡ミ計算ノ單純ヲ喜ヒ小サキ滿足ヲ以テ滿足ス此ノ如クニシテ農場又ハ其附近ニ於テ自給シ得ラルヽ材料ハ多ク放棄セラルヽノ風アリ國トシテハ深ク考察スヘキ點ナリ何トナレハ農産物價ノ低下ト農家ノ純益ノ増加ト併立シテ相容レ得ルノ機會ハ肥料ノ撰擇ノ當否ニ係ルコト大ナレハナリ不必要ナル資本、勞力ノ節約ハ生産費ヲ平穩ニ減少シ得レハナリ所謂餘剰販賣ノ農業カ一變シテ市場ノ爲ニスル農業トナリタル今日ニ在リテハ肥料ノ外給ハ數ノ免ルヽ能ハサル所ナリト雖猶原則トシテハ能フ限自給ノ肥料ヲ以テ農業ノ中心トスヘキナリ此自給ニハ勞力ヲ變シテ肥料トナス准自給ヲモ包含ス農業ノ如ク生産期ニ拘束セラルヽ勞力ハ成ルヘク種々ナル方法ヲ以テ餘閑ノ利用ヲ力メサレハ非常ナル高價ノ勞力ト爲ルノ虞アルカ故ニ之ヲ利用シテ肥料ヲ作ルハ適(375)當ナル勞力ノ換價法ナリ

　更ニ進テ自給ノ方面ニ於ケル肥料ノ供給方法ニ付多少ノ研究ヲ試ミムニ第一ニハ肥料ノ節約ナリ適當ナル肥料ノ種類ヲ選擇シ作物ニ不必要ナル成分ヲ永ク土中ニ置カシメス更ニ肥料ノ無益ノ消失ヲ防止スル爲降雨ニ注意シ掛水ヲ適度ナラシメ兼テ過度ノ施肥ヲ注意スヘシ天下ニ「肥料マケ」ホト愚ナルコトナシ第二ニハ肥料ノ蒐集調製法ノ改良ナリ言ハヽ掃溜ノ注意ノ周到ナリ近年堆肥小屋改良ノ氣運全國ニ盛ニシテ地方ニヨリテハ奨勵金ヲ付與シ或ハ罰條ヲ設ク共ニ極端ナレトモ方針ハ如何ニモ此ニ在ルヘキナリ第三ニハ或程度迄ノ家畜ノ飼養ナリ農場ノ規模ニ照シ合理的ニ存在シ得ル以上ハ牛馬ヲ飼ヒテ一方ニハ勞力ノ供給ヲ十分ニシ更ニ豆糟牧草等ヲ一旦其飼育ニ利用セシムヘシ石灰ノ施用ニ付テモ罰則ヲ設ケテ之ヲ禁スル府縣アリ石灰ノ利弊ハ未決ナリト云フ假令害アルコト明白ナルモ罰ヲ以テ強フヘキモノニ非ス所詮ハ農業智識ノ増進ト普及トヲ以テ之ニ處スルハ迂策ニ非ス農民ヲシテ自ラ自家頭上ノ蠅ヲ追ハシムヘシ次ニ注意スヘキハ雜草ニ因ル地力ノ損失ナリ

　此損害ハ害蟲ノ如ク急ナラサルモ結果ニ於テハ相擇フ所ナシ又其種類ノ絶滅ヲ計ルニハ個人ノ力ハ不能ナリ從テ國ノ政策ノ活動スル必要アルナリ雜草條例ヲ布クノ例ハ、ニウジーランド〔七字二重傍線〕等ニ在リ思フニ此種警察的ノ法令ノ他更ニ原野改良ノ事業ト共ニ積極的ノ施設ヲ必要トスルナラン農法ノ進歩セル平野地方ニ於テハ害蟲、害草ノ驅除豫防ノ外最早生産政策ヲ施スヘキ餘地ナキモノ我國ニハ少ナカラス

　

　　　　　第十四章　農法ノ精度

　

　此ニ違法ノ精度（Intensity of cultivation）ト謂フハ一定ノ地積ニ對シテ利用セラルヽ勞力及資本ノ分量ノ多少ナリ精度ノ比較的低キ場合ヲ農法カ粗放ナリト云ヒ比較的進メル場合ヲ農法カ集約ナリト謂フ同シク集約ナル農法ニテ(376)モ主トシテ資本ノ點ニ於テ集約ナルモノアリ又勞力ノ點ニ於テハ極メテ集約ナレト資本ノ點ニ於テハ稍粗放ナルモノアリ日本現在ノ農業ノ如キハ後者ノ例ニ屬ス之ト全ク正反對ナルハ米合衆國ノ農業ナトナリ若シ彼國ノ農場ノ或モノニシテ集約的農法ヲ行フト言ハヽソハ主トシテ資本ニ就テナリ一定ノ地積ニ投スル勞力ノ分量ニ至リテハ何レノ國ヨリモ少シ

　農法ノ精度ハ本來個々ノ農場ノ經營者ノ意見ニ因リテ定マルヘキモノナレトモ一國一時代ニ於ケル農法普通ノ精度ハ略凡テ同一水平線上ニ止マルヘキ理由アリ何トナレハ農産物ノ市價、資本ノ利率、勞銀ハ悉ク水平的傾向ヲ具フルノミナラス更ニ農業上ノ智識技巧亦具通的ノモノニシテ個々ノ地方ニ於ケル特別ノ發達ヲ許サス而モ耕作ノ精粗ハ此等四ノ要件即チ其國其時代ニ於ケル經濟ノ事情ヲ基礎トシテ自ラ定マル所アレハナリ然レトモ歴史上之ニ反對ナル現象モ決シテ存セサリシニハアラス例ヘハ近クハ各藩割據ノ時代ニ於テハ個々ノ領分ハ境ヲ接シテ上述ノ四要件ニ著シキ差等アリ從テ農法ノ精粗ニモ大ナル異同アルヲ免レス現ニ其餘波ハ今日ト雖猶殘存シ例ヘハ東北地方ノ農法ト近畿ノ農法トノ間ニハ一見ノ旅行者ニモ注意スルヲ得ヘキ差異アリ是レ全ク根本ノ要件ニ若干ノ相違アルカ爲ニシテ今ヤ漸ク普遍的傾向ヲ加ヘツヽアリト雖米穀ノ市價ノ東西相等シカラス金利勞銀ノ如キ亦地方的區々ナルヲ免レス殊ニ農業上ノ智識技巧ニ至リテハ遺傳及訓練ノ多少ニ從ヒ地方的ニ甲乙アルハ爭フヘカラサル事實ニシテ此結果或ハ相隣スル村ト村トノ間ニモ精度ノ差異アルヲ認ム學者或ハ此差異ノ因由ヲ以テ單ニ地味、氣候等ニノミ歸セントスルハ當ヲ得タルノ説ニ非ス

　一國生産ノ増殖ノ點ヨリ觀レハ農法ノ精度ノ増進ハ土地利用ノ増進殊ニ開墾面積ノ増加ト全然同一ノ方向ヲ有スルモノナリ即チ現在ノ六百萬町歩ニ對シ更ニ資本勞力ノ投下量（doses）ヲ増加スルコトハ更ニ田昌ヲ切添ヘテ六百五十萬又は七百萬町歩ト爲スト同一ノ效果ヲ生シ得ヘケレハナリ而シテ此二方法中何レノ一ヲ採ルヘキカハ啻ニ個人ノ選擇問題タルノミナラス兼テ一國生産政策ノ問題ナリ例ヘハ米ノ年産ヲ七千萬石トスル爲ニハ田積ヲ増サンカ開墾費、(377)水利費幾何、農法ヲ増スカ利ナルカ勞銀、金利竝ニ企業ノ危險ノ増加幾何トイフコトハ何レノ場合ニモ權衡問題ナレハナリ更ニ又國ヲ一體トシテ見ルトキハ開墾ノ増加モ亦廣義ニ於ケル精度ノ増進ナリト云フコトヲ得何トナレハ假令耕地ハ増シタリトモ此カ爲ニ舊來ノ田畠ニ投シツヽアリシ資本、勞力ノ一部ヲ引上ケテ之ヲ新田畠ニ投スルニ於テハ勢ヒ總面積ニ對スル勞力資本ノ分量ハ稀薄トナルヘキヲ以テ農法ハ以前ヨリモ粗放トナリ生産額ハ開墾ニ因リテ増加スル所殆ナカルヘキカ故ニ通例耕地面積ノ増加ハ常ニ農業全體ニ使用スル勞力資本ノ増加ヲ伴フヘケレハナリサレハ一國人口ノ増加カ農産物ノ需要ヲ増加スル場合ニ之ニ伴ヒテ發生スル自然ノ現象ハ耕地面積ノ増加ニアラスンハ即チ農法精度ノ増進ナリ唯茲ニ注意スヘキハ人口ノ増加ハ常ニ農法精度ヲ増進セシムル原動力ニハ相違ナキモ猶是間接ノ原因タルニ過キス直ニ精度ニ影響スヘキモノハ大體前述ノ四要件ナリサレハ例ヘハ國外輸送ノ増加、貯藏法ノ進歩又ハ新用途ノ發見ノ如キ原因アラハ假令人口ハ増加セストモ市價ニ影響シテ農法ノ精度ヲ進ムヘク之ト反對ニ低廉ナル輸入品アリ又ハ金利勞銀ノ高キ等ノ原因アルトキハ人口ハ増加スルモ精度ハ却テ退歩スルコトアラン要スルニ農業者ハ其私經濟ノ許ス範圍内ニ於テ常ニ多産ヲ望ムカ故ニ農法精度ノ増進ハ天然ノ傾向ナリト謂フコトヲ得ヘシ更ニ考察ヲ要スル一ノ點ハ農法ノ精度ハ其性移動力ニ乏シキコト是ナリ慣習ノ惰性モ此一原因ナレト農業ニ投シタル資本勞力ノ一部殊ニ土地改良ニ投シタルモノヽ如何ナル場合ニモ之ヲ撤囘スルコト能ハス即チ農法ハ天然ニ其精度ヲ増進スヘキ傾向アルノミナラス一度増進シタル精度ハ時計ノ旋條《ゼンマイ》ナトノ如ク後ニ戻スコト難キ性質ヲ有スルナリ

　日本ニ於ケル近時ノ農法精度ノ増進ハ著シキ事實ナリ先ツ資本ノ點ヨリ云ハンニ日本ノ農業ハ大體資本ニ不充分ナリト雖一農湯ノ大サハ昔ノマヽナルニ流通資本トシテハ金肥種苗ノ購入、固定資本トシテハ家畜、機械等ノ購入又ハ土地改良ノ爲ニ投スルモノ兎ニ角次第ニ増加シツヽアリ勞力ノ方面ハ古來殆集約ノ極度ニ達シ又加フヘキ所無キカ如キモ一方ニ肥料ノ自給ニ要セシ勞力等ヲ資本ヲ以テ代替省略スルト共ニ他ノ一方ニハ病蟲害ノ驅除又ハ除草等ノ爲ニ使用スル量ヲ増加セリ其結果産額ノ増加ハ著シク生産統計ノ不完全ナルヲ以テスルモ之ヲ認メ得ヘク事實ハ更ニ之ニ(378)超ユルモノアルヘシ但シ生産ノ消長ヲ知ルニハ平均年産ニ由ルヘキハ勿論ナレト最豐最凶ノ差率ノ如キモ十分ニ之ヲ調査シテ精度増進ニ伴フ危險ノ多少ヲモ考量スルノ必要アリトス

　吾人カ通例耳ニスル市價ニ重ヲ置ク農法精粗論ハ大體ニ於テ誤ラサルヘキモ同時ニ他ノ要件ヲモ忘却スヘカラス農法ノ精粗ハ必シモ市價ノ波動ニ比例セス市價ニハ常ニ變動アリテ農法ノ進歩ハ少クモ一生産期ヲ一階トス殊ニ世ニ謂フ農産物ノ市價ナルモノハ直接ニ農場トハ交渉ナキモノナリ新聞ヤ經濟雜誌ノ市價ハ中央市場ノ商人カ取扱フモノニシテ農法ノ精度ニ影響スヘキハ事實農業者カ受取ルヘキ代價ナレハ二者ノ間ニ種々ナル喰違アルハ當然ナリ例ヘハ各地方ト中央市場トノ距離ノ遠近、運賃ノ高低ナリ農産物取引ノ慣習殊ニハ賣手買手ノ勢力ノ強弱ナリ此等ノ事情如何ニ由リテハ中央ノ高キ市價ハ低キ田舍ノ代價トモナリ又然ラサルコトキアリテ結果ハ決シテ一樣ナヲサルヘシ予カ特ニ此點ニ注意スルハ單ニ輕濟史ノ説明ニ必要ナルカ爲ノミニ非ス又直接ニ政策ノ根據トシテモ亦重大ナル關係ヲ有スレハナリ從來ノ思想ニテハ生産増殖ノ手段トシテ農ノ精度ヲ進ムルニハ農産物市價ノ引上ニ依ルノ他一ノ道ナシトスルモノアリ關税保護論ノ根據亦此ニ在リトイヘリ市價ノ騰貴カ農業總收益ヲ増加スルコトハ概シテ疑ナシ但シ總收益ノ増加ハ他ノ條件殊ニ生産費ノ必要量カ前日ト同一ナル場合ニ於テ純收益ノ増加トナルモノニシテ而モ農業者ヲシテ精度ノ一段ヲ推進ムルノ決心ヲ起サシムルモノハコノ純收益ノ増加ニ在リ農産物ノ騰貴ニ伴ヒテ必ス起ルヘキ生産費ノ増加ニハ現ニ種子代ノ如キ顯著ナルモノアリ勞銀竝ニ勞力ノ製作品ハ此ホトハ明白ナラサルモ勞働者必需品ノ騰貴ニ伴ヒテ騰貴セサル能ハサル理アルナリ

　更ニ他ノ方面ヨリ觀レハ農業ノ純收益ハ市價ノ騰貴以外ニモ之ヲ増加シ得ル原因多ク存ス總收益ノ額ハ前日ノマヽナルモ生産費ノ減少ハ即チ純收益ヲ増シ得ヘシ生産費中常ニ騰貴ノ傾向ヲ有スルモノハ勞銀ナリ人口ノ増加ハ勞力ノ供給ヲ増加シ勞銀ヲ低カラシメ得ルカ如キモ實際増加シタル人口ハ少クモ十數年後ノ供給ナリ假ニ之ヲ直接ノ供給ト見ルモ農業ニ於テ増加シタル勞力ハ則チ生産ノ餘剰ヲ多クシ之ト交易スヘキ他ノ生産業ヲ促スヲ以テ久シカラスシテ(379)他ニ勞力ノ需用者ヲ生スヘク又生活費最少限ノ漸次ニ引上ケラルヽ事實ハ假令勞銀ノ騰貴ヲ惹起スノ力ハ無クトモ少クモ其低落ヲ妨クルノ力アリ要スルニ機械代用其他ノ手段ニヨリ一時的ニハ勞銀ヲ引下クヘキ原因アランモ永久的ニハ低下ノ傾向ヲ有セスト認メテ可ナリ我國ニ於テモ工場地、都會地ノ移住ヲ誘フ引力ノ強キハ亦其一兆候ニシテ小サキ農業者カ略自家ノ勞力ヲ評價シ得ル以上ハ之ヲ以テ單ニ雇傭勞働者ノミノ問題ナリトスルハ誤ナリ

　前述ノ如ク勞銀ハ常ニ騰貴ノ傾向ヲ有シ到底生産費ノ減少ノ原因タリ得サルカ如シト雖モ勞力ノ效果ノ増進即チ勞力ノ改良ハ此傾向ヲ償フニ十分ナリ勞力ノ改良ニハ二種アリ一ハ勞力ノ品質改良即チ健康、熟練、判斷力ノ養成ノ如キモノニシテ他ノ一ハ即チ勞力利用法ノ改良例ヘハ疲勞ヲ防ク手段、衛生醫療方法ノ完備適當ナル指揮ノ如キモノ是ナリ前者ハ通例勞銀ノ騰貴ヲ伴フト稱セラルヽモ後者ハ然ラス殊ニ勞力夫自身ノ改良ト云フモ勞力利用法ノ如何ニ須ツ所多シ故ニ自己ノ勞力又ハ家族ノ勞力ノミヲ利用スルコト我國ノ農業ノ如キニ在リテ利用方法ノ改良ハ其意義殊ニ多シ次ニ資本ノ助力共同ニ因リテ勞力生産費ヲ減少スルノ希望ハ亦顯著ナルモノアリ殊ニ機械、器具ノ利用ニ因リ劣等ナル勞力ヲ優等有效ノモノニ改良シ從テ生産ノ效果ヲ増シ得タル例ハ甚多シ

　金利ハ勞銀トハ反對ニ常ニ低下スヘキ傾向ヲ有ス此傾向ハ農業ノ生産費ヲ減少シ得ルノ希望ヲ與ヘ從ツテ農法ノ精度ヲ増進セシムルノ力アリ殊ニ農業ニ對スル外部資本ノ供給ノ如キハ此ノ如キ?況ノ下ニ在リテ始テ之ヲ望ミ得ヘキモノナリ唯次ノ章ニ於テ説クカ如ク資本ノ農業ニ對スル供給關係ハ商工業ニ於ケル場合ト大ニ異ナルモノアリ既ニ商工業ニ投資シテ餘アルニ非サレハ之ヲ農業ニ投下スルコト能ハサルカ如キ事實アリ其結果農業ニ關シテハ特ニ適當ナル資本供給ノ方法ヲ講究スルノ必要ヲ生ス即チ資本ノ自家供給即チ貯蓄トイフ問題ハ農業ニ於テハ他ノ職業ニ就テヨリモ遙ニ重大ナル意義ヲ有ス外部ヨリノ供給方法トシテモ通例諸國ノ農政ニ於テハ特殊ノ金融磯關ヲ設ケテ農企業者ノ需要ニ應スルヲ適當ナリトセリ次ニ金利ノ率ニハ何等ノ變動ナキ場合ニ於テモ資本ノ效果ヲ増進セシムルノ手段ハ亦能ク生産費ノ上ニ好影響ヲ及ホシ得ヘシ物價ノ下落ノ如キハ自然ニ資本ノ效果ヲ加フヘキ顯著ナル一例ナレト其上(380)ニ猶資本使用ニ伴ヒテ起ルヘキ種々ナル誤謬ヲ避ケ適當ナル物品ヲ撰擇シテ適當ナル時期ニ之ヲ購入スルカ如キ注意ヲ怠ラシメス又ハ資本ノ囘收期間ヲ能フ限短縮シ轉用度敷ヲ能フ限多クスルナラハ之ニ因リテ頗ル純益ノ増加ヲ期スルコトヲ得ヘシ

　次ニ農法ノ改良ハ亦農ノ精度ヲ増進セシムヘキ有效ナル一ノ機會ナリ農法ノ改良トハ結局廣義ニ於ケル資本及勞力ノ效果ノ増進ナリ舊來ノ分量ヲ以テ一層多量ノ結果ヲ擧クルノ謂ニ他ナラスト雖之ヲ經營者自身ノ統括的技能及判斷ニ須ツノ點ニ於テ前ノ二者ト異ナリ若シ農業者ニシテ勞力、資本ノ活用ノ術ヲ會得シ著々之ヲ實地ニ應用スルナラハ外界ノ經濟事情ハ依然タル時代ニ於テモ能ク生産費ヲ減少シ得ルノ望アリテ終ニハ一段ノ精度ヲ進捗セシムルノ機運ヲ生スヘシ企業者自身ノ心的勤勞モ亦一種ノ勞力ナルヲ以テ或ハ之ヲ以テ勞力ノ改良ト見ルモ可ナリ之ヲ要スルニ一國ノ生産増殖政策トシテ力ヲ用ヰルヘキ點ハ必シモ農産物市價ノ引上ニ在ラス農法ノ精度ヲ進マシムルニハ資本、勞力、農法ノ點ヨリ生産費ヲ減少シ其結果純益ヲ増加シテ以テ資本及勞力ノ投下ヲ一層集約ナラシムルノ道モアリテ而モソノ一般國民經濟ノ上ニ及ホス影響ハ遙ニ人爲的市價引上策ヨリモ良好ナリ

　サテ本章ニ於テ説明スヘキモノニシテ未タ説カサリシ一點ハ土地ニ對スル報償ニ關スル生産費節約ノ問題ナリ此問題ヲ討究スルニハ是非トモ二ツノ場合ヲ區別セサルヘカラサル其一ハ自己所有ノ土地ヲ經營スル場合ニシテ其二ハ他人ノ土地ヲ一定ノ期間借用シテ經營スルノ場合ナリ前者ニ在リテハ經濟原論ノ所謂地代ハ純益ナレト借地農ニ在リテハ地代ハ明ニ生産費ナリ從テ同シク地代ノ増減ト稱スルモ二種ノ農業ニ對スル影響ハ全然其趣ヲ異ニス小作人ハ一旦收得シタル純益ノ中ヨリ小作料即チ事實上ノ地代ヲ地主ニ再分配スヘキ必要アルヲ以テ折角他ノ方面ニ於テ純益増加ノ手段ヲ講シタルコトモ小作契約次第何ニモナラヌコトヽナリ從テ精度ヲ進ムヘキ原動力トナラサル場合アリ此點ヨリ見レハ小作料ハ自作農カ最初ニ支拂フヘキ土地買得代金ト相似タリ殊ニ其代金ヲ年賦ニテ返濟スルモノハ殆小作ト異ナル所ナシ借地農業年々ノ簿記ニ於ケル小作料ハ非常ナル長年賦ノ買得代金ノ一部ノ如シ唯土地買取ノ場合ニハ其(381)價ハ一旦定マレハ變セサルニ反シテ日本ノ小作料ハ折々改定ヲ受ク假ニ小作料カ年々改定セラルトスレハ其借地農ハ事實年々ノ新經營トナリ其都度新ニ計畫ヲ立テ直サヽルヘカラス此點ニ於テハ自作農ノ企業ハ遙ニ安固ナリ一旦合理的代價ヲ以テ取得シタル土地ハ終始變スルコトナク假令後日此方面ニ於テ生産費ノ節約ヲ爲シ得ルノ見込ハ無シトスルモ少ナクモ之ニ因リテ純益割合ニ動搖ヲ生スルコトナケレハナリ借地農ハ之ニ反シ既ニ小作料ノ改定ニ基ク生産費ノ増加ヲ如何トモスル能ハサルノミナラス日本ニハ更ニ米ヲ以テ小作料ヲ算定スル普通ノ慣習アリテ一層生産費ノ問題ヲ複雜ニセリ其詳細ノ點ニ至リテハ之ヲ分配政策ノ章ニ讓ルヘキモ要スルニ今日ノ如ク小作希望者ノ數多ク其競爭ニ因リテ農業純益ノ全部ヲ擧ケテ之ヲ地代ニ支拂フノ已ム能ハサルニ至ラハ小作農業者ノ地位ノ如キハ尋常雇傭勞役者ト擇ム所ナクシテ而モ企業ノ危險ノミハ企業者トシテ之ヲ負擔セサルヘカラサルカ如キ奇異ナル現象ヲ生スヘシ

　借地農業者ノ地位前述ノ如ク殊ニ現今我國ノ小作ニ在リテハ純益ノ常ニ甚タ少ク且ツ之ヲ豫定シ能ハサルノ事實アルカ故ニ彼等カ農場ニ於テハ到底本章ノ理論通リノ段階ヲ經テ集約農ニ向フコト能ハサルカ如ク考フル者アルヘキモ予カ見ル所ヲ以テスレハ生産費ノ減少ノ純益増加トナリ從テ農業ニ投セラルヽ勞力資本ノ増加ヲ誘フヘキハ此場合モ亦同樣ナリ即チ自作農ニ在リテハ當初土地買得ノ爲ノ代價、小作農ニ在リテハ年々ノ小作料ノ減少トイフコトハ共ニ亦農ノ精度ヲ増進スヘキ一事由タルコトヲ失ハサルナリ唯現實ノ傾向ハ需要ト供給トノ權衡ニ依リ少シク純益増加ノ實アレハ地價、地代ノ騰貴ト成リテ之ヲ減少セシムヘキ勢力ハ極メテ少ナキナリ

　

　　　　　第十五章　農業資本ノ供給

　

　日本農業ノ精度ハ現在ハ先ツ資本ノ方面ニ於テ之ヲ進ムルノ必要アリ勞力的ニハ既ニ十二分ニ集約ナリト雖更ニ資本的ニ集約ナラシムルヲ要スサレハ今日農業資本需要ノ増加ハ果シテ最顯著ナル傾向ト成レリ蓋シ農産物ノ外部ヘノ(382)搬出ハ之ヲ單純ナル地力ノ販賣トスレハ到底ソノ職業トシテノ永續ヲ豫想スルコト能ハス若シ此ノ如キ生産ノ永續ヲ期スレハ必スヤ別ニ適當ナル地力補充ノ途ヲ見出サヽルヘカラス而シテ之ニ關スル天然ノ助力ハ甚タ限有リ昔ノ經濟組織ニテハ專ラ勞力ヲ以テ地力ノ補充ヲ爲セシモ今日ニ於テハ殆凡テ資本ノ問題ト爲レリ即チ代金ヲ支拂ヒテ外部ヨリ肥料ノ供給ヲ仰クニ非サレハ到底地力ノ耗失ヲ快復スル能ハサルコトヽナレリ加之種子、苗樹ノ如キ器具、機械ノ如キ何レモ昔ノ農業經營ノ上ニ於テ大ナル意義ヲ有セサリシモノ今ヤ肥料ト共ニ殆年々ノ企業ノ全幅ヲ占ムルニ至レリ

　新時代ノ農業ニ在リテハ更ニ考察ヲ加ヘサルヘカラサルハ土地ニ關スル資本ノ問題ナリ所謂土地改良ニ要スル資本ハ既ニ莫大ナリ開墾費トシテハ材料及外部ノ勞力ニ支拂フヘキ資金ナリ耕地整理ヲ爲セハ反別ニ應シテ費用ヲ分擔スヘク水利ヲ改良スレハ井料、水路維持費ヲ増加ス更ニ土地取得ニ要スル資本ニ至リテハ其需要殆限度ナシトイフモ可ナリ新ニ土地ヲ購入スル者ハ勿論一時的ノ取得トモ云フヘキ小作地ノ借料竝ニ從來自己ノ土地カ負擔セル債務ノ免責輕減ニ要スル資本ニ至ルマテ此カ爲ニ農業ニ投下セラレツヽアル資本ノ量ハ年ニ幾億ナルヲ知ラス殊ニ土地ノ賣買價格ハ年ト共ニ昂騰スルノミナラス其騰貴ノ趨勢ハ極メテ自由奔放ナリ所謂土地ノ相場ナルモノハ市場ノ取引ノ如クニ多數ノ賣主買主ノ競合ニ由リテ公平ニ落著シタル指價ニハ非ス賣價ト買價トノ間ニハ大ナル差ハアレトモ要スルニ附近地方ニ取引セラレタル最高キ價カ標準トナル故ニ其眞實ノ價値ヨリモ呼價ハ常ニ高キヲ例トス是レ新ニ土着シテ農業ヲ開始セムトスル者ニトリテハ最大ナル障碍ナリ舊來ノ農業者ヲシテ其農法ヲ集約ニスルト同時ニ其農場ノ面積ヲ擴張セシムルコトモ必要ナレト猶又廢業者ノ補充トシテ新智識ノ適用トシテ及舊農民ノ刺激トシテ新ニ農業ニ從事スル者ヲ招致スルノ必要ハ我國ニ於テハ甚タ大ナリ然ルニ企業ノ規模ノ小サキ割合ニ開業資本ヲ多分ニ要スル職業ハ恐クハ農業ニ過クルモノナカルヘシ小作農ナトハ空拳ニテモ著手シ得ルカ如ク考フル者モアレト此トテモ滿足ナル條件ノ下ニ安シテ生産ヲ持續セムトスレハヤハリ大分ノ資本ヲ挿ミテ地主ニ對立セサルヘカラサルナリ而シテ地價騰貴ノ(383)趨勢ハ?舊農業者ノ規模擴張及新農業者ノ土着ヲ妨ケ一國農業ノ進歩スヘキ機會ヲ制限スルモノナリ

　サテ近年ハ國内ノ資本ハヨホト増加セリ外國ヨリノ供給モ亦之ヲ期待スルコトヲ得此等ノ資本カ流轉シテ需要ノ最急ナル所ニ就クハ自然ノ理法ナレハ既ニ或程度迄ノ充實アラハ直ニ農業ノ爲ニモ相當ナル供給ヲ見ルヘキカ如キモ實際ハ然ラス是レ全ク農業資本ノ性質カ一種特別ニシテ工業其他ノ資本ト相同シカラサルノ結果ナリ前ニモ些シク述ヘタルカ如ク農業ノ資本ハ工業ノ資本ニ比シテ一般ニ囘收期長シ年々流通資本ニ就テ見ルモ農作物ノ生産期ハ一年一囘ニシテ且少ナクモ數月ヲ要ス此點ハ人力ヲ以テ左右スルコト困難ニシテ酒、?油ノ釀造ノ如キ屋内ノ作業又ハ硝子業ノ作業ナラハ温度ノ加減ヲ施シ得ムモ廣野ノ上ニ於テハ機械ノ力モ及ハス此結果トシテ商業ノ融通ハ日ヲ以テ數ヘ工業ニハ週又ハ月ヲ以テ數フルモ農業ニ於テ遠キ收穫ノ日ヲ指定セサルヘカラス工業ハ次第ニ生産ノ階級ヲ細分シテ分業ヲ爲シウルモ農ニ在リテハ播種ト除草ト專門ヲ分ツコト能ハス常ニ比較的長期ノ借入ヲ必要トス土地改良ノ爲ニ投セラルヘキ資本ニ至リテハ事業利益カ長ク繼續スヘキモノナルタケニ年々ニ之ヨリ收メ得ヘキ償還ハ極メテ少額ナルヲ常トス既ニ久シク昔ノ農業者ノ注意ヲ逸シ來レルニテモ明ナルカ如ク十年、十五年ニテ全部ノ資本ヲ囘收シ得ルカ如キ簡單ナル投資機會ハ殆有ルコトナシ之ヲ工業資本ノ中堅タル機械カ通例十數年ヲ以テ償却スルノ計算ヲ立ルコトヲ得家屋ヤ船舶ノ生命カ三十年、五十年ニ限ラルヽニ比スレハ概シテ囘收期ハ永ク而モ結果カ大ナルタケニ最初ニ投スヘキ資本ノ量ハ隨分多キナリ更ニ進ミテ土地取得ノ爲ニ要スル資本ヲ觀レハ土地ノ價値即チ一旦投下シタル資本ノ效果ハ永遠ニ存スルカ故ニ之ニ相當スル報償モ亦其土地ノ永遠ノ經營ニ由リテ始テ之ヲ囘收シ得ヘキモノナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ若シ土地取得ノ代金ニシテ實際所有者カ之ヨリ收メ得ヘキ利益ノ全部ニ相當スヘキモノナラハ其土地ノ存在スル期間即チ無期ノ經營ニ由リテ始テ之ヲ支拂ヒ得ヘキモノニシテ如何ニ長期ニテモ之ヲ年賦ニ割リテ償還スルコトハ不能ナルヘキ理ナリ要スルニ土地ニ要スル資本ハ二ナカラ共ニ甚タ永キ期間ニ於テ僅ニ其全部ヲ囘收シ得ヘキ性質ノモノニシテ而モ工業ヤ商業ト比較スルトキハ農業ハ此種ノ固定資本ヲ要スル割合非常ニ多キナリ

(384)　前述ノ如キ資本性質ノ差異ハ農業金融ニ關シ困難ナル問題ヲ生ス資本囘收期ノ永キハ危險多キモノヽ如ク感セラル是レ必スシモ理由ナキニアラス永キ間ニハ債務者ノ資力ハ變動スヘク且之ヲ吟味撰擇スルノ機會ハ起ラサルナリ凡人ノ金貸ハ度々金ノ顔ヲ見テ安心シタカルノ風アリ人情トシテ同シコトナラハ短期ノ貸付ヲ好ムナリ殊ニ所謂土地資本ニ在リテハ其用途ノ性質上定期償還ヲ不便トス土地ニ投シタル資本ハ物カソコニ常在スル故ニ本來其囘收不能ナルヘキモノナリ一杯ノモノヲ二杯ニスルノ算段アルニ非サレハ物ヲ留メツヽ其物ニ由リテ生シタル負擔ヲ免カルヽコト能ハス故ニ將來ニ向ツテノ大ナル割引即チ普通ノ割合ヨリ稍低キ利率始メテ元金ノ一部ツヽノ償還ヲ期スルコトヲ得ヘシ要スルニ臨時ノ天災ヲ度外視スルモ極メテ長期間ノ定期償還カ然ラサレハ極メテ少額ツヽノ年賦償還カナルコトヲ要スル上ニ猶利率稍低カルヘシト云フ三ノ難義ナル注文ナリ農業ハ利潤ノ少ナキモノ故貸金ノ利子ヲ低クスヘシト云フ説ハ政策論トシテモ不當ニシテ且ツ無根據ナリ然レトモ其償還ヲ可能ナラシムル爲ニハ此ノ如キ條件ヲ捜索スヘキ據ナキ必要ハアルナリ

　然ルニ退キテ資本家ノ立場ヨリ觀察スルニ一方ニ必スシモ長期ヲ要セス又年賦償還法ヲ要トセサル別種ノ需要アルニモ拘ハラス尚同率又ハ同率以下ナル金利ヲ以テ農業者ニ金ヲ貸ス篤志者アリヤ殊ニ日本人ハ未タ定期金ノ思想ニ慣レス元金永久据置ノ方法ノ如キハ殆其ノ夢想タニセサル所ナリ此ノ如キ資本家ニ向ツテ全然期限ノ利益ヲ債務者ニ屬セシメ通告權ヲ抛棄シテ辨濟ヲ債務者ノ任意トナス注文ナリ此問題ノ解決シカタキヤ宜ナリ

　然ラハ今迄ノ農業者ハ如何ニシテ資本ノ供給ヲ得タルカ以前ノ農業ニ於テハ資本ノ生産ニ於ケル重要ノ度低ク總收益ノ中資本トシテ囘收スヘキ部分甚タ少ナク其中ニモ外部ノ供給ニ須ツ部分ハ更ニ少ナカリシナリ故ニ定期ニシテ且ツ比較的短期ノ償還ニモ苦シマス年賦償却法ノ如キハ單ニ支拂困難ノ場合ニ於ケル整理ノ方法ニ止ルモノトシテ大ナル困難ヲ感セサリシナリ今ヤ此事情ノ大ニ改マリタルハ説明ヲ要セス次ニ注意スヘキコトハ昔ハ資本ニ二筋ノ流レ Curreney カアリシコトナリ田舍ノ資本ハ都會ノ資本ニ對シテ明ニ特立ノ地位ヲ保チシコトナリ田舍ノ資本家ハ今日(385)ニ比スレハ遙ニ都會市場ニ關スル智識ニ乏シク常ニ不知ニ對スル畏怖ト懸念トヲ抱キ安固ヲ第一義トシタル財産ノ管理法ニ依リ利殖ノ效果ヲ犠牲トスルモ尚且安固ヲ求メシナリ彼等カ金融ノ根柢ニハ�ｺ義上ノ關係アリ所謂本家、分家其他同族ノ關係又ハ保護者、被保護者ノ關係ヨリ先ツ此等ノ者ノ需要ニ應スルヲ正當トシ又安全トセリ此時代ニハ今日トハ異ナリ資本ノ有高竝ニ效力ハ都會ノ方遙ニ田舍ニ超エタリシモ格別都會ノ資本ヲ田舍ヘ招致スルノ必要ハ感セラレサリシナリ其上�ｺ川幕府ノ行政官ハ都會資本ノ田舍ヘ流レ入ルヲ防止スルノ政策ヲ採用セリ其手段ノ一二ヲ言ハヽ農民生活方法ノ制限ナリ奢侈ヲ禁シ村方ニ小賣商人ノ發生スルコトヲ妨クル等農ノ交易ノ發達ニ干渉セリ次ニハ商人ノ土地ヲ持ツコトヲ許サス又ハ限定シ田畠ノ擔保力ハ閉鎖セラレタリ又町人ノ新田ノ開發ヲ禁止シタル法令モ多シ此等ノ事情モ亦今ヤ大ニ變遷セリ其順序ヲ言ハヽ先ツ田舍資本ノ分量ハ土地ノ自由ナル賣買ノ開カレシコト農産物販路ノ擴張等ニ由リ大増加ヲ爲セリ之ニ對シ田舍資本ノ需要ハ急ニ之ニ伴ヒテ増加スルコト無カリシヲ以テ勢此ニ至レハ田舍資本ノ餘分ハ都會ノ商工業ニ向ツテ投資セラレサル能ハス而シテ一方ニハ都會ノ資本モ漸ヲ以テ田舍ニ入リ資本ノ二ノ流ハ合流シ更ニ職業ノ撰擇カ自由トナリ全國市場トノ交通カ田舍人ノ經濟上ノ智識ヲ弘ムルニ及ヒテハ甲乙二樣ノ投資方法ハ時々ノ撰擇ニ因リテ決セラルヘキモノトナリタリ

　更ニ時勢ノ變ヲ察知スヘキ一ノ點アリ昔ハ債權ノ擔保トシテ土地カ唯一ノモノタリシ時代アリキ土地ハ容易ニ其存在ヲ失ハス且ツ其價ノ低落スル場合少シ此事實ハ一方ニハ土地ノ需要ヲ増加シテ其市價ヲ引上クルト共ニ他ノ一方ニ於テハ土地ニ對スル借付ノ利率稍低ク其期間ノ稍長キ不便ヲ償フニ足ルモノト認メシメタリ何レノ時代ニモ資本家ハ最遊惰ナルモノナリ又法人其他ノ財團ニシテ貸付ノ外利殖ノ方便ナク而モ利益ノ多キヨリモ安全ヲ專トスルモノ例ヘハ名目銀、祠堂金ノ類ハ甚タ多カリシナリ然ルニ擔保力トシテノ性質ニ於テ土地ト安全ノ度ヲ競フヘキモノコソハ現ハレタレ各種ノ有價證券殊ニ公債ノ如キハ安全ノ點ニ於テハ些モ劣ルコト無クシテ取扱上ノ便利ハ多ク所謂ノ時々ノ利殖方法トシテハ遙ニ土地ニ優レリ近年株式其他匿名ノ資本ノ爲ニ田舍ノ資本ノ中央市場ニ集注スルハ普通ノ現象ニ(386)シテ此カ爲ニ農業資本ノ供給ノ困難トナリタルコトハ非常ナリ

　農業資本ノ需要増加ハ近年殊ニ痛切ニ感セラル田舍ヲ旅行スレハ郡役所モ無キ位ノ小市街ニ地名ヲ帶ヒタル小銀行ノアルヲ見ル銀行ハ本來商業ノ爲ニ起リタルモノナリ資本頻繁ナル囘收投下ニ由リテ始テ利益ヲ見ルコトヲ得ヘキモノナリ工業ハ或ハ此恩澤ニ浴シ得ヘシ是レ其原料及製品ノ頻繁ナル運轉アレハナリ若シ銀行ニシテ土地ヲ擔保トシテ長期ノ事業ニ投資センカ殆ト本來ノ任務ヲ繼績シ能ハサルノ不便アルヘシ故ニ多クノ場合ニハ農業者ノ方ヨリ讓歩シテ其期限ニ關スル特色ヲハ全然無視シタル取引方法ニ甘シ甚シキハ約束手形ヲ以テ土地改良資本ヲ借入ルヽニ至ル殊ニ銀行カ囘收緩慢ノ不利ヲ補フカ爲ニ高率ノ利子ヲ要求シタル結果ハ極メテ光景ノ惨又憺ナルモノアリ現在農民ノ負債ノ額竝ニ其苦痛ハ主トシテ之ニ基ケリ土地所有權ノ移動ノ烈シキモ亦此カ爲ナリ一旦生シタル弊害ハ之ヲ癒スコト容易ナラス

　サレハ日本ノ國論ハ十數年ノ前ヨリ之ニ注目セリ外國ノ事情ノ研究ハ先ツ試ミラレタリ西洋ニ於テモ舊國ハ多ク曾テ之ト同シキ經驗ヲ爲シタリ殊ニ佛蘭西、獨逸ノ如キハ非常ノ苦闘ヲ以テ漸ク之ニ對スル政策ヲ發見セシナリ借金ノ爲ニハ大農モ勿論疲弊シタレトモ殊ニ中小農ハ借金ニ堪ヘス田舍ニ居住スル金貸業ハ百方彼等ヲ誅求シテ利益ヲ收メタルコト我國ニ於ケル肥料商、穀商ノ前貸取引ト大同小異ナリキ獨逸ニ於テ夙ニ設立セラレタル農合業者姐 Landschaft ナルモノ、趣旨は（一）土地ノ擔保力ヲ基礎トシ（二）大ナル財團ノ信用ヲ以テ無記名社債ヲ發行シ組合ノ内外ヨリ資本ヲ喚フニ在リ債權ニシテ容易ニ市場ニ於テ換價シ得ヘキ望アレハ必シモ最後ノ債務者又ハ仲介者タル法人ヨリ定期ノ償還ヲ請求スルノ必要ナク組合ハ又債務者ノ財産殊ニ土地ヲ擔保ニ取リテアルカ故ニ其信用ノ基礎ハ堅シト認メラレシナリ其後諸國ニ設ケラレタル種々ノ農業金融機關モ名稱ハ色々異ナリト雖要スルニ右ノ二ノ趣旨ノ外ニ出テス唯其機關ノ大ナレハ大ナルホト經營上ノ危險少ナク信用ノ基礎堅キカ故ニ不動産銀行ヲ國立ト爲スモノ然ラサルモ國家ノ保障ヲ基礎トスルモノハ其效果最大ナルコトヲ認メタリ是レ等シク公債ト稱スルモ國債ハ市町村債ヨリモ(387)利子低ク市場ニ於ケル勢力ノ大ナルト同一ノ理由ニシテ國ト云フ最大團體ノ裏書ニ依リ孤立ニテハ得ラレヌ信用ヲ得タル次第ナリツマリ擔保トシテノ土地ノ價値ハ國債其他ノ有價證券ニ如カサルカ爲前者カ後者ノ助力ヲ仰キテ僅ニ立行キタル姿ナリ

　日本ニ於ケル農業金融政策ハ日清戰役後ニ至リテ最活躍セリ明治二十八九年ノ議會ニハ之ニ關スル三種ノ法律案ハ同一趣旨ノ下ニ相次テ提出セラレタリ其中勸業銀行法ト農工銀行法トハ通過シ信用組合法ノミハ延期トナリ後三年ヲ經テ産業組合法トシテ物ニ成リタリ日本勸業銀行法（【明治二九、法八二】）ニ依レハ之ニ對スル國家ノ介助ハ第一ニ設立委員ノ指定ナリ第二ニ株式ノ引受ナリ第三ニ年々ノ經營ニ付テハ役員ノ選任等ニ付特別ノ監督アリ貸出ノ目途ニハ大ナル制限アリ農業工業ノ改良發達ノ爲ニスルニ非サレハ貸付ヲ爲ス能ハストセリ農業ト工業トヲ同視セシニハ思フニ若干ノ情實アルヘシ工業ハ必シモ此ノ如キ特別銀行ノ世話ニ成ルコトヲ要セス次ニ債權ノ擔保トシテハ必ス不動産ノ第一抵當ヲ要トス其例外ハ市町村其他ノ公共團體及耕地整理ノ爲ニスル場合ナリ次ニ此銀行ノ特典ニシテ最異色アルモノハ拂込資本金額ノ十倍以内ノ債券ヲ發行シ得ルコトニシテ該債券ニハ特ニ割増金ヲ附スルコトヲ許容シ以テ其募集ヲ容易ナラシム最後ニ政府ハ此銀行ニ對シ創立後十ケ年間年五分ニ達スルマテノ配當ヲ保證ス然レトモ實際ノ營業成績ハ一度モ配當カ五分以下ナリシコトナク勸業銀行トシテハ即チ好成績ト云フコトヲ得ヘケンモ同時ニ其利率ノ點ニ於テ十分ニ設立ノ精神ニ合致スル能ハサリシコトヲ推測シ得ヘシ但シ既ニ株式會社ノ組織ヲ採用シタル以上ハ是非ナキコトナリ此他過去十數年ノ實驗上日本勸業銀行ノ缺點ト言ヒ得ヘキモノヲ擧レハ貸出一口ノ金額ノ最少限カ高キニ過タルコトナリコレハ此機關カ全國ニ唯一個所ナル結果トモ言ハンカ擔保物ノ鑑定、公證登記ノ手續等毎囘往復ノ費用ヲ要スル爲貸出一口ノ高ヲ低クスルトキハ事實上低利率ノ利益ヲ期スルコト能ハサルカ故ニ勢ヒ例ヘハ一萬圓以下ノ貸出ヲ謝絶スルカ如キ方針ニ出ルナリ然ルニ農業界ニ於ケル資本需要者ノ規模ハ殊ニ小サク固定資本ニアレ流通資本ニアレ通例一人カ一時ニ五百圓ト纏リタル資本ヲ借ル者ハ極メテ少ナシ又臨時ニ連帶ノ借主ヲ捜索スルモ容易ノ業ニ非ス(388)結局勸業銀行ハ農業資本ノ供給者ヲ以テ任スルニ拘ハラス其效果ハ概ネ間接ナリ即チ地主ノ土地取得地主ノ土地改良又ハ開墾地主ノ土地負擔輕減等ノ爲ニハ便宜ヲ與フルコトアレトモ自分ノ農業ノ經營ノ爲ニ此銀行ノ金ヲ引出シ得ル農業者ハ恐クハ僅少ナルヘシ唯後年ノ法律改正ニ因リテ耕地整理等ノ場合ニ小農カ連帶ノ借入ヲ爲スノ便宜ヲ供與シタルハ好都合ノコトナリ

　前述ノ如ク勸業銀行ノ一囘取引高ハ銀行ノ都合上大分高キカ故ニ此機關ノ恩惠ヲ實際ノ農業者ニ及ホス爲ニハ是非トモ一ノ仲介者ヲ要トス而シテ各地ノ農工銀行ナルモノハ現在勸業銀行ノ代理店トシテ漸ク生存ノ目的ヲ完ウシツヽアレトモ其設立當初ノ趣旨ハ必シモ然ラス勸業銀行カ全國一ケ所ニシテ其作用ヲ地方ノ隅々ニ施ス能ハサルノ缺點ヲ補フ爲中央機關ノ爲ス能ハサル任務ニ當ラシメントシタルモノナリ生産ノ規模概シテ小ニ中央ノ大市場ト何等ノ聯絡ヲ有セサル日本ノ小農ハ專ラ之ニ因リテ其弱點ヲ扶助セラルヘカリシナリ農工銀行法（【明治二九、法八三】）ノ規定ニ依レハ此銀行ハ勸業銀行ト次ニ述ヘントスル信用組合トノ中間ニ在リテ雙方ノ性質ヲ折衷シテ具有スヘキ筈ナリキ即チ個々ノ農工銀行ノ營業區域ハ略之ヲ一府縣ノ區域ニ限リ政府ハ府縣ヲ補助奨勵シテ其大株主タラシムルノミナラス其監理官ニハ當該府縣ニ勤務スル高等官ヲ選任シ國ノ意思ヲ代表シテ監督ヲ爲サシメ又郡市町村等ヲシテ力メテ農工銀行ノ株式ヲ引受ケシムルノミナラス更ニ他ノ株主ノ身元ヲ限定シテ右營業區域内ニ原籍及住所ヲ有スル者ニ非サレハ農工銀行ノ株ヲ有スルコト能ハストイフ窮屈ナル特例ヲサヘ設ケシナリ蓋シ利害分立ノ現況ヨリ言フトキハ一府縣ノ區域ハ稍大ニ過キ之ヲ以テ經濟上ノ一郷黨ト目スルコト能ハサルカ如シト雖要スルニ國家立法ノ趣旨ハ全ク相助協同ノ思想ニ因リテ個人營利ノ欲ヲ牽制シ尋常資本家ノ團體ニ於テハ免カルヽコト能ハサル取込主義ノ外ニ幾分ナリトモ借主側ノ利害ヲ其團體内ニ代表セシメントシタルモノニ外ナラス然ルニ農工銀行ハ果シテコノ立法ノ精神ヲ徹底シ得ルヤ否ヤヲ試ミルニ先チ先ツ既ニ一ノ障碍ニ遭ヘリ即チ貸付資金ノ缺乏是ナリ政黨ノ爭奪ノ如キハ弊ハ弊ナリト雖害ノ及フ所遙ニ之ヨリモ小ナリソレヨリモ大ナル困難ハ債券ニ依ル資金募集ノ點ニ在リキ拂込濟資本五倍以内ノ社債券發行ハ法(389)ノ認容スル所ナルモ未タ一囘ノ發行ヲモ試ミサル農工銀行アリ一度ハ發行シタルモ第二囘以後ノ發行不能ニシテ發行力ヲ徒爾ナラシムルモノ亦少カラス其原因ハ内部ノ紛紜カ信用ヲ害シタルコト又ハ地方債ノ利率トノ關係等モアレト主トシテハ勸業銀行ノ債券トノ比較ニ在リ二銀行ノ債券ハ當初額面金額ニ於テ差アリ農工債券ハ五圓、勸業債券ハ初ハ五十圓中頃久シク二十圓トナリ近年十圓トナル十圓ニテハ農工債券ノ特徴ヲ奪フノ形ナルモ既ニ奪ハレテモ困ラヌ時代ナリ割増金アル數千萬圓ノ勸業債券ハ今ヤ全國ニ普及セリ同性質ニシテ唯融通ノ區域狹ク且ツ割増ヲ伴ハサル農工債券ノ賣レサルハ當然ナリ此ノ如キ?況ナレハ農工銀行ノ多數ハ僅ニ府縣公金ノ取扱ヲ爲シテ配當利益ヲ補充スルニ止リ資本家ノ勢力強キコトハ些モ普通銀行ト異ナルコト無ク借主ノ利害ノ如キハ殆問題トモ爲ラス辛ウシテ監督官廳ノ強制ニ依リ甚シク金利ヲ引上ケサルノミ近年頻ニ力ヲ用ヰテ勸業銀行ノ代理店トナリ又政府ヨリ少分ノ資金ヲ借リテ之ヲ沙漠ノ雨ノ如ク地方ニ散布ス其効果ノ未タ農業者ノ階級ニ普遍セサルヤ想フヘキノミ

　然ルニ右ノ勸業債券ノ如キモ近年ノ實?ハ頗ル將來ヲ悲觀セシムルニ足ルモノアリ何トナレハ當リ籤ノ數ハ甚タ少クシテ未タ射倖ノ徒ヲ誘フニ足ラス假ニ利子ヲ稍低クシ割増ヲ稍多クスレハ可ナランモ此トテモ全然利子ヲ見サルモノ又ハ元金ヲサヘ没收スルモノ例ヘハ馬券ヤ普通ノ賭博ニ及ハサルコト遙ナリ或ハ債券ヲ無利子トスルノ案モアレト是レ既ニ債券ニ非サルノミナラス此ノ如キ方法ハ到底大金ヲ集中スヘキ手段ニハ非サルナリ元來一國ノ工業カ進歩發達スヘクシテ唯資本ノ缺乏ノミカ其障碍ヲ爲スノ時代ニハ社債トイフモノヽ低利ニ募集シ得サルハ寧當然ナリ株式會社ノ株ニハ二割モ二割五分モノ配當スル計畫アレト社債ノ利子ハ定額ナリ纏マリタル資金ヲ以テ射倖ヲ心掛クルナラハ株ニ手ヲ出ス方カ遙ニ割増債券ヨリハ面白シ株式會社ノ盛ニ起ル時代ニハ株主ハ社債ヲ好マスシテ増株ヲ望ムハ同一ノ理由ナリ勸業債券ハ普通ノ社債ヨリモ性質稍國債ニ近シ近頃國債ヲ額面擔保ト爲ス勅令出テヽ大ニ侵害ヲ受ケタレト政府ニ對シ時價擔保ト爲ス等取扱上ノ特典ヲ有シ言ハヽ國ノ保障アル債權ナリサレト元ヨリ其力ハ國債ヨリハ劣レリ市場ニ於テモ應募者ノ計算ニ於テ稍國債ヨリハ輕視セラル而シテ一國内ノ應募資力ハ勿論共通ニシテ且ツ有限ノ(390)モノナレハ今日二十億萬ノ國債ト一億餘萬ノ郵便貯金トハ勸業債券ノ發行ヲ不況ニセサレハ止マサルナリ割増ノ附カサリシ債券ハ利率四分之ヲ賣ラントスレハ一割以上ノ割引アリ郵便貯金ノ利子ハ五、〇四％ナリ如何ニ其額面ヲ低クスルモ何時ニテモ額面ニテ換價シ得ル郵便貯金ト競爭シテ所謂零碎ノ資金ヲ招クコトハ困難ナリ茲ニ至リテカ土地ハ擔保物トシテモ既ニ他ノ輕キ擔保ニ及ハサルノ實ヲ示ス勸業銀行農工銀行ノ活動ノ不滿足ナルコトハ田舍資本ノ都會資本ノ爲ニ併呑セラレントスル傾向ヲ立證スルモノナリ而シテ農業ニ於ケル資本ノ需要ハ日一日ト増加スルコト前ニ述フル所ノ如シ

　サテ假ニ土地ノ擔保カ能ク外部ノ資本ヲ誘致ストスルモ猶一ノ問題ヲ殘ス即チ土地カ債務ヲ負フ結果如何トイフコト是ナリ土地カ擔保トシテ安全ナル所以ノモノハ何時ニテモ他ニ賣レルカ爲ナリ即チ土地ノ移動ヲ意味ス而シテ土地所有ノ移動ハ明ニ農業ノ純益ヲ少ナクス（シ元來土地ノ價カ高シ低シトイフニモ二ノ場合アリ一ハ主觀的ノモノ即チ賣リモセヌ地主ノ自家評價ナリ何等生産費ノ問題ト爲ラス其二ハ客觀的ノモノニシテコレカラ買フ人ノ實際仕拂フ價ナリ直ニ重要ナル生産費ノ問題トナルナリ地味地積相等シキ土地ナリトモ安キ時ニ買ヒタル農業者ノ經營ト高クナリテ後ニ買ヒタル農業者ノ經營トノ間ニハ頗ル純益ノ異ナルモノアリ而シテ土地ハ大體常ニ騰貴ノ傾向ヲ有シ土地ノ所有者ハ騰貴セサレハ賣ルコトナク從テ土地所有權ノ移動ハ其都度地價ヲ高クシ從テ農業ノ純益ヲ減少ス此點ハ負債ノ利子カ低ケレハ良シ高ケレハ困ルト云フ單純ナル理論ノ外ニ更ニ國家トシテ最細心ニ討究スヘキ點ナリ

　一國内二於ケル資本ノ分配ヲ平準ナラシムルヲ以テ任務トスル國家ノ政策ニ在リテ次ニ注意スヘキ點ハ所謂對物信用即チ農業界ニテ言ハヽ勸業銀行、農工銀行等ノ採用スルカ如キ融通方法ニ對立シテ別ニ健全ナル對人信用ノ融通方法ヲ發達セシムルコトナリ借地農ノ五割ヲ占ムル我邦ノ農業ニ在リテハ對人信用ノ意義ハ甚大ナリ普通世ニ對人信用ト稱スルモノニハ債務者ノ資産ニ豐ナルコトヲ頼ムモノ又ハ有力者ノ保證又ハ連帶ヲ宛ニスルモノアリ是レ實ハ准對物信用ナリ眞成ノ對人信用ハ其人物ノ正直ニシテ勤勉ナルコト及其資本ヲ要スル事業カ確實有望ナルコトニ信頼シテ(391)資本ヲ融通スルモノナリ對物信用准對物信用ハ之ニ反シテ專ラ不履行ノ危險ヲ防衛スルコトヲ力ムルカ故ニ事業ノ利不利投資方法ノ適否ヲ問サルハ勿論甚シキニ至リテハ債務者ノ勤惰正直不正直ノ吟味ヲサヘ輕視シ閑却スルモノアリ一國ノ立場ヨリ觀察スルトキハ此ノ如キ盲目的ノ貸付投資ハ決シテ限アル資本ヲ有效ニ分賦スル所以二非サルヲ以テ力メテ之ヲ節制セサルヘカラス

　田舍資本即チ特別ノ農業資本ヲ保存シ且ツ健全ナル對人信用ノ農業界ニ行ハレンコトヲ期スルニハ農工銀行ヨリモ尚一層小區域ニ於ケル利害團體ヲ組織スルヲ必要トス何レノ國ニ於テモ資本ハ常ニ中央ニ集注スルノ傾向ヲ有シ其結果ハ地方經濟ニ於ケル相頼相屬ノ關係ヲ弛緩セシム日本ニ於テハ此弊殊ニ甚シク公債租税ハ勿論各種ノ料金又ハ郵便貯金ノ如キモ殆ト皆中央ニ吸收セラル民間ノ事業ニ在リテモ銀行ノ預金、保險ノ掛金等ノ如キ近年殊ニ此傾向ヲ助成ス而シテ此等ノ資金カ他ノ何等カノ方法ニ依リテ再ヒ地方ニ分配セラルヽナラハ議論ナシト雖一旦集中シタル資金ハ未タ國内ノ需要ヲ充實セサルニ先チテ或ハ國外ノ投資ト爲ルモノアリ國外發展ヲ以テ國是トスル所謂帝國主義ノ國家ニハ免カルヘカラサル特色ナリ故ニ金融ノ問題ニ付テハ或程度迄ノ地方分權ヲ斷行スル必要アリ地方ニ個々ノ小中心アリテ市街地勞働者ノ貯蓄ハ村落ノ資金ニ利用セラレ農業者カ收穫後等ニ於テ短期藏置スヘキ餘力ハ之ヲ商工業者ニ供與スルコトヲ得ルナラハ二者ノ關係ハ今日ノ如ク單ニ購買力ノ一面ノミヲ以テ相接觸シ常ニ相手ノ無智ニシテ損ヲセンコトヲ願フカ如キ悲シムヘキ利害牴觸ハ生セサルヘキナリ本邦ニ於ケル地方貯蓄機關ノ現?ヲ觀ルニ郵便貯金ノ全國ヲ擧ケテ中央政府ノ處分ニ一任スルコトハ前述ノ如シ貯蓄銀行其他ノ銀行ハ現ニ危險多ク政策亦之ヲ制肘スルヲ以テ地方ノ小銀行ヨリモ大都會ノ銀行ノ支店又ハ此カ機關トシテ使役セラルヽ銀行ノミ人望アリ從ツテ集ムル所ハ田舍ニシテ利用スル所ハ亦是レ大都會ナリ中央集注ノ勢ヤ養ハルヽコト久シトイフヘシ而シテ農民ヲ一體トシテ達觀スレハ農民ハ既ニ貯蓄力ニ乏シク其乏少ナル貯蓄力ハ間接ニモ彼等自身ノ生産ニ益スルコト無ク皆他ノ方面ニ利用セラルヽナリ

(392)　サレハ現在ノ政策トシテ國家ノ計畫スヘキ點ハ第一ニハ貯蓄ノ増加ナリ即チ外部ノ供給ニ先チテ自家資本ノ作成ヲ力メシムルコト肝要ナリ貯蓄ノ要素ニ二アリ一ハ貯蓄心ニシテ二ハ貯蓄力ナリ貯蓄心アルモ貯蓄力無クハ徒ニ苦惱ヲ増スノミ貯蓄力トハ生活ノ餘剰ナリ生活ノ餘剰ヲ作ルニハ勿論節約ヲ以テ生計費ヲ減スルヲ第一義トスレトモ節儉ニハ限度アリ次ニハ純益ヲ増スノ手段アリ純收益ハ粗收益ヲ増シテモ之ヲ増加スルコトヲ得生産費ヲ減シテモ之ヲ増スコトヲ得其手段ヲ講スルハ主トシテ個人ノ工夫ト勤勉トニ在レト外部ノ原因即物價ノ低落ノ如キモ此機會ヲ與フルコトアリ貯蓄力即チ生活ノ餘剰ハ正ニ此ノ如クシテ要件ヲ具備シ得ルナリ

　第二ニハ適當ナル貯蓄機關ノ設備ナリ共同ノ貯蓄ハ古來我邦ノ經濟組織ノ一部ヲ爲セリ各種ノ積金講殊ニ頼母子ノ制度ハ久シキ以前ヨリ存在ス中世憑支ト稱スルモノハ即チ是ナリ現在ノ頼母子慣習ニハ弊多ク有無相通ノ道ニ於テ圓滑ヲ缺ク所アリト雖其根本ノ思想タル資本需要者ノ協力ハ正ニ現代ノ要求ニ應スルモノナリ蓋シ貯蓄ノ效果ハ貯蓄者ノ協同ニ因リテ最モ早ク生スヘキコトハ爭フヘカラス資本ヲ他借スルノ必要アル者カ貸主ニナルト云フコトハ自家撞著ノ如キモ資本家ノ聯合體タル普通銀行等ノ強壓ニ對抗シテ借主ノ利益ヲ保護スルカ爲ニハ此ノ如キ手段ニ出ツルノ已ム能ハサルモノアリ而シテ頼母子其他ノ講ハ實ニ借主本位ノ融通機關ナリト云フヘシ要スルニ農業資本ハ之ヲ外部ヨリ招致スルノ道乏シキヲ以テ力メテ農業者ヲシテ自家貯蓄ノ共同的利用ヲ主トスル機關ヲ具備セシムルノ必要アルナリ

　以上二ノ目的ヲ最モ完全ニ成就セシメ得ヘキ望アルモノハ即チ産業組合ナリ現在ノ農業組合ハ其?態必シモ間然スル所ナシトイフ能ハサルモ當初此制度ヲ我國ニ行ハントシタル趣旨ハ全ク此ニ在リ今日ノ産業組合ノ缺點ハ其成績ヲ擧クルニ急ナルニ在リ與論カ其大ニ必要ナルヲ承認スルヤ朝野ノ思想ハ其迅速ナル普及ヲ望ムノ餘些シク不自然ナル助長ノ手段ヲ採レリ又多クノ産業組合ハ外部資本ノ供給アルコトヲ確保スルニ非サレハ之ヲ組織セス自己ノ貯蓄ノ如キハ不當ニ輕視セラレタリ近年勸業農工二銀行法ノ改正ノ如キモ此思想ニ促サレタルモノニシテ甚シキニ至リテハ容(393)易ニ兩銀行ヨリ貸付ヲ受ケ得ンカ爲ノミニ組合ヲ作ルモノアリ冠履ヲ?倒スルモノト云フヘシ日本ノ産業組合ハ概シテ他力ヲ頼ムノ風アリト雖其本來ノ性質ヨリ論スルトキハ迂ニ似テ決シテ迂ナラサルモノハ組合ノ自助ナリ農業者ノ多數ハ純益ノ既ニ少ナキヲ歎スル最中ニシテトテモ貯蓄ヲ爲スノ餘力ナキカ如キモ販賣組合ヲ以テ總收入ヲ増加シ購買組合及生産組合ヲ以テ生産費及生計費ヲ節約スルコトヲ得更ニ信用組合ヲ以テ外部ニ拂フヘキ利子ヲ節約シ得ルナラハ從前ニ比シ必ス若干ノ生計餘剰ヲ生シ得ヘク之ヲ共同ニ貯蓄シテ始メテ將來ノ爲ニ純然タル農業資本ヲ準備スルノ日ヲ期シ得ヘキナリ世人或ハ信用組合ノ便益ヲ理解スト云フ者往々ニシテ他ノ種ノ組合トノ間ニ此ノ如キ密接ノ關係アルコトヲ知ラスト雖信用組合ノ妙味ハ到底外部ノ資本ヲ運轉スル間ニハ之ヲ味フコト能ハサルナリ

　信用組合ノ區域ヲ一市町村ノ區域ニ限定スルノ規定ニハ深意ノ存スルモノアリ蓋シ組合カ郷黨ノ交通ヲ以テ基礎トスルトキハ能ク理想的ノ對人信用ヲ行フコトヲ得ヘシ即チ平生相互ニ人物ヲ熟知シ更ニ資本ヲ利用スヘキ事業ノ適否ヲ吟味シ得ル上ニ更ニ不履行ノ制裁ニ至リテモ尋常擔保權ノ執行ヨリモ遙ニ有效ノモノアリ加之共同貯蓄ノ效ヲ收ムル爲ニ夙ニ小額資本ノ利用ヲ爲サントスレハ是非トモ郷黨ノ情愛ニ依ラサルヘカラス所謂報�ｺ社ノ徒カ推讓ト稱スルモ即チ是ニシテ需要ノ最急ナル者ヲ先ツ救援スルノ方針ヲ採ラントスレハ單ニ組合員ノ權利義務ノミヲ盡シテ之ニ處スルコト能ハス郷黨ノ組合ニ道義的分子ノ入ルコトハ當然ニシテ且自然ナルコトナリ現在ノ信用組合ハ時トシテ頗ル此覺悟ヲ缺クコトアリ加入ノ當初ヨリ全組合員ハ皆相當ノ貸付アルヘキコトヲ豫想スルカ故ニ乃チ外部ノ資本ニ憑頼シ兼テ貯蓄ヲ爲スノ熱心ニ乏シク且ツ組合員ノ數ヲ制限スルヲ以テ組合ハ概シテ微小ニシテ費用ヲ支フルコト難ク爲ニ或ハ全然貯蓄ノ事務ヲ行ハサル信用組合アリ組合ノ數既ニ數千ニ達シ其分布全國ニ遍キニモ拘ハラス今日未タ十分ノ效果ヲ農業ノ上ニ示スコトヲ得サルハ原因スル所無キニ非サルナリ

　農業ニ對スル融通機關トシテノ販賣組合ノ效用ハ比較的世人ノ注意ヲ逸セリ販賣組合ハ大量取引ノ便益ト同時ニ代金ノ前渡、割引、荷爲替等ノ方法ニ由リテ資金ヲ農家ニ供給ス次ニ所謂生産組合カ器具機械又ハ工場ノ設備ヲ組合員(394)ニ貸與シテ以テ後者ノ資本需要高ヲ節約スルハ亦一種ノ融通ナリ（現物融通トモ云フヘキカ）而シテ此等ノ組合ニ對シテ勸業銀行農工銀行ノ如キ大機關カ資本ヲ供給スルハ信用組合ニ對スル仲次的貸付ヨリモ一層有效ナリ信用組合ハ單ニ大銀行ノ資本ヲ農業者ニ周旋スルニ過キサレトモ販賣生産ノ二組合ニ在リテハ此ノ借入資本ヲ稍商工業的ニ敏活ニ利用スルコトヲ得ヘケレハナリ要スルニ良好ナル産業組合ノ多ク全國ニ發生スルハ即チ勸業農工二銀行ノ恩澤ヲ確實ナラシムル所以ニシテ二銀行法近年ノ改正ノ如キ一方ニ産業組合設立者ノ心掛ヲ警醒スルニ非サレハ豫定ノ目的ヲ達スル能ハサルヘキモノナリ

　現代ノ政府カ農業資本ノ供給ニ關シ力ヲ用ヰタルヤ頗ル周到ナリ以上説ク所ノ外政府カ一定ノ條件ノ下ニ土地ヲ貸與シ若クハ低價ニ拂下ケ機械ヲ貸付シ家畜殊ニ種牡畜ノ使用ヲ容易ニシ又ハ種畜種苗ノ類ヲ拂下クルカ如キ歸スル所凡テ資本供給ノ一形式ニシテ縱令金錢ヲ以テ計算セサルモ其農業者ノ資本缺乏ヲ救援シ得ルハ一ナリ此事業ハ中央政府ノ外更ニ府縣以下ノ公共團體ニ於テモ數年來著々之ヲ實行シ相應ニ其效果ヲ收メツヽアルハ最モ喜フヘキ現象ナリ蓋シ金錢ハ其用途不定ニシテ果シテ豫定ノ資本ニ用ヰラルヽヤ否ヤヲ確ムルコト能ハサルヲ以テ最モ必要ナル物件ノ種類ニシテ明白ナル以上ハ現物ヲ以テ資本ヲ供給スルハ亦效果ヲ確保スルノ一手段ナリトイフヘシ

　

　　　　　第十六章　資本利用ノ問題

　

　前章詳論スルカ如ク供給ノ極メテ有限ナル農業資本ヲ如何ニ利用セシムヘキカト云フコトハ國家ニテ大ニ研究ヲ要スル問題ナリ現在ノ供給量ニテモ若シ其利用方法ニシテ當ヲ得ルナラハ今ヨリ一層大ナル效果ヲ收ムヘキ望アリ資本利用法ノ進歩ハ一面ヨリ見レハ亦一ノ資本供給ナリ何トナレハ其不用部分ヲ能フ限リ節約シテ之ヲ比較的有效ナル方面ニ投資スルコトヲ得セシムルモノナレハナリ

(395)　現今資本利用方法ノ缺點ハ一ニシテ足ラスト雖結局其一切ノ原因ハ私經濟學上ノ智識ノ不足ニ在リ而シテ個人智識ノ範圍ニ於テハ國ノ政策ハ其力ヲ施スコト能ハサルモノ無シトセス政策學ノ立場ヨリシテ注意スヘキ肝要ナル點ヲ列擧スレハ左ノ如シ

　第一ニハ資本配布ノ不適當ナリ其中農工漁鑛ノ如キ各種職業ノ間ニ於ケル資本配布ノ問題ハ既ニ説ケル如ク資本本來ノ性質ヨリ生スル自然ノ傾向ナレトモ而モ政策トシテ其傾向ヲ節制スルノ道アルコトハ想像スルニ足レリ所詮ハ農業ニ對スル特別金融機關ノ問題ニシテ兼テ又分配政策ノ問題ナリ次ニ個々ノ農業ノ經營ニ於ケル資本配布ノ問題ハ其重要ノ度ニ於テ前者ニ讓ラサルモノナリ通例個々農場ニ於ケル資本ハ學問上次ノ如ク區分ス

　　　　　　　　　　土地取得資本

　　　　　土地資本｛

　　　　　　　　　　土地改良資本

農業資本｛　　　　　　　　　　有生（使役家畜）

　　　　　　　　　　備付資本｛

　　　　　　　　　　　　　　　無生（建物、器具等）

　　　　　經營資本｛

　　　　　　　　　　運轉資本（勞銀、肥料、種子、孳殖家畜等）

　試ニ右ノ表ニ就キ現在資本ノ配布?況ヲ檢セヨ同シク土地資本ノ中ニ於テモ改良資本ト取得資本ト配布ノ不權衡アルハ常ノ現象ナリ多クノ場合ニ於テ小地區農地ノ賣價ハ所謂合理的ノ評定價ヨリモ高ク少クモ之ヨリ低キコト無シ從テ從來所有スル土地カ改良ヲ爲スヘキ必要尚多キニモ拘ハラス其新取得ノ爲ニ限アル資本ヲ使用スルハ先ツ不利ナリ所謂土地ニ對スル渇キハ殊ニ小農ノ病ナリ尤又時トシテハ之ト正反對ノ場合モ無キニ非ス例ヘハ土地ノ改良ハ徐ロニ其效果ヲ收メ得ルニ過キス素地ノ取得ニハ?一定ノ好機會アリテ之ヲ過レハ再ヒ同一ノ條件ヲ以テ之ヲ得ル能ハサル場合アレハナリ土地資本ト經營資本トノ配布ノ不權衡モ亦常ニ之ヲ見ル地價高キ土地ト云フコトハツマリ資本的ニ集約ナル農業ヲ意味ス而シテ集約ナル農業ヲ存立セシムル爲ニハ勿論其經營全體ノ集約ナルコトヲ要ス語ヲ換ヘテ言ハ(396)ヽ高ク土地ヲ取得スレハスルホト其年々ノ經營ノ爲ニモ亦多クノ資本ヲ使用セサルヘカラス從テ土地ノ買價即チ取得資本ト經營資本トノ間ニハ自ラ一定ノ比例存セサルヘカラス否寧後者ニ於テ更ニ一段ノ累進ヲ爲スヘキ必要アリ現在農業ノ最モ大ナル缺陷ハ經營資本カ常ニ必要比例ニ達セサルコト甚タ遠キニ在リ之ニ反シテ經營資本ノ過多トイフ場合ハ殆之ヲ想像スルコト能ハス次ニ所謂固定資本即チ土地資本ト備付資本トノ和ト流通資本トノ割合モ亦常ニ不權衡ナリ

　土地ニ關スル前ノ説明ハ機械建築物等ノ固定資本ニ就テモ亦之ヲ適用スルコトヲ得殊ニ機械建物使用ノ増加ハ土地資本ノ増加ト同シク國家ニトリテ二面ノ意義ヲ有ス即チ年々ノ生産總額ノ過不及ノ差ヲ減少シ重要品市價ノ變動ニ基ク經濟界ノ動搖ヲ防衛スルノ功アルト同時ニ一方ニハ農業經營ノ自由ヲ制限ス其ノ最極端ナル場合ハ所謂土地ノ桎枷ナルモノナリ少分ノ土地所有ハ在住ノ困窮ヲ來シツヽ而モ轉業ヲ障碍ス尤モ右ノ撰擇自由ノ制限ニモ緩急アリ農業ヲ廢シテ他業ニ就ク場合ハ假ニ之ヲ論セストスルモ一農場ノ生産スル品目數多ナレハ頗ル此弊ヲ免ルヽコトヲ得例ヘハ農具置場ヲ變シテ?舍厩舍トシ水田ヲ排水シテ桑ヲ植ウルカ如キ大ナル費用ナクシテ固定資本ノ拘束ヲ免ルヽコトヲ得ヘシ唯此活動ヲ制限スルコト最モ甚シキモノハ機械ナリ

　土地アリテ其上ニ使用スヘキ資本ノ準備ナキ者、農業資本既ニ固定シテ年々ノ運轉資本ニ差支フル者ハ共ニ其多キニ苦シムカ我國一般ノ現況ナリ此等ノ徒カ自己ヲ救濟スヘキ私經濟上ノ策トシテハ現在ノ土地ヲ換價シテ新資力ヲ作ルモ一方法ナリコブデン〔四字傍線〕倶樂部ノ論集ニ見エタル愛蘭ノ小農ノ如キハ之ヲ以テ智慮アル判斷ト認メラレタリ然レトモ其弊モ亦無キニ非ス即チ農民ノ地位カ内外ヨリ比較的不安固ニナランコト是ナリサレハ臨機此手段ヲ採ラシメントスルニハ先ツ以テ借地農業者ノ地位ノ安固ヲ保障スルヲ前提トス要スルニ各種農業資本ノ間ニ適當ナル分賦?態ヲ保タシムルハ政策トシテモ必要ナリ尤モ個々ノ農場ノ事情ハ千差萬別ナリ市街地近傍ノ圃藝業ト山村ノ雜穀耕作トハ其流通資本ノ割合決シテ同一率ヲ適用スヘカラサルハ勿論ナリサレトモ全國ヲ通シテ言フトキハ大體用途變更ノ自由ナル(397)ヘキ資本等ト其準備量過少ナルカ弊害ナリ土地ノ爲ノ資本ハ比較的最モ豐ニ其他ノ固定資本ハ之ニ次テ多ク流通資本最モ缺乏ス流通資本ノ用ハ肥料、種苗代、害蟲驅除費等モアレト最モ重要ナルモノ、一ハ公課ナリ地租ハ納期ノ問題ヲ考察スルノ要アリ現行法ノ納期ハ主トシテ滯納ヲ防止スルノ目的ニ出ツ次ニハ小作料ナリ其年收穫物ヲ夙ニ分割シテ支出スルカ故ニ農業者ノ對市場力ヲ制肘スルコト頗顯著ナリ小作料ハ之ヲ流通資本トシテ前納セシムルコトヲ得ハ其企業上ノ利益ハ小ニ非サルヘシ更ニ重要ナル流通資本ノ用途ハ夫食《ブジキ》即チ生産期間ノ食料ナリ是恰モ工場ニ於ケル勞銀ニ當ルモノニシテ亦重要ナル一ノ資本ナリ夫食ノ乏少ハ殊ニ仲買ノ專横ヲ招ク此現象ハ恐クハ小農國ニ免ルヽコト能ハサル病源ナリ資本準備ノ一樣式トシテ注意スヘキハ又生産物ノ貯藏ナリ穀物其他ノ農産物ハ最モ容易ニ現金ニ變シ得ヘキ自由ナル資本ナレハ若シ其貯藏方法ヲ改良シ藏置中ノ減耗ヲ防止スルコトヲ得セシメ兼テ農業者ノ私經濟ヲシテ有利ナル期間其貯蓄ノ繼續ヲ可能ナラシメ得ルナラハ農業資本ノ難問題ハ大部分之ニ由リテ解決スルコトヲ得ヘク更ニ家畜植木ノ類ニ至リテハ其貯藏ハ同時ニ適當ナル利殖ノ方法ナルカ故ニ運轉資本増加ノ手段トシテ殊ニ肝要ナリトス

　農業機械ノ問題ハソノ勞力トノ關係上更ニ精細ナル攻究ヲ必要トス日本ノ如キ國ニテハ何レノ時代ニ於テモ機械ノ使用ヲ想像スル能ハストイフハ今ノ通説ナリ是農場ノ規模概シテ細小ニ勞力ノ常ニ饒多ナルカ爲ニシテ勞力ノ價格ノ騰貴ハ勿論機械使用ノ前提ナレハ勞力ノ供給過多ナル間ハ到底此事ナシトスルナルヘシ然レトモ機械ノ價格ノ低下竝ニ其效果ノ増加ハ尚其普及ヲ促スノ力アリ殊ニ農場ノ小サキコトヲ以テ絶對ニ機械ノ使用ヲ遮斷スルモノト認ムルハ正シカラス機械ニモ大小ノ種類アリ且耕地整理ノ結果及共同ノ購入、共同ノ使用ハ凡テ機械ノ用途ヲ擴張セシムヘキモノナリ加之努力ノ價格モ次第ニ増進シ得元來勞力用途ノ増加スルコト及一定ノ生産ニ要スヘキ勞力總量ノ節約セラルヽコトハ共ニ一國全體ヨリ考ヘテ望マシキコトナリ國民ノ努力ハ思フニ次第ニ機械ノ使用ノ爲ニ餘地ヲ設クルコトナラン唯現在農業ノ實況ヨリ判斷シテ如何ナル程度ニ迄機械ヲ使用スルカ可ナルカハ別問題ナルノミ此間題ハ結局是(398)非トモ農業ニ由リテ生活スヘキ人ノ數ノ問題ナリ

　國民ノ中ニハ趣味ノ上ヨリ又ハ體力智力ヨリ如何ニスルモ田舍以外ノ生活ニハ適セサル特定ノ部分アリ又土地所有權分布ノ?況ヨリ例ヘハ多數ノ地主カ他人ニ委託シテ管理セシムルニ足ルタケノ大面積ノ土地ヲ所有セサル場合ニハ其所在地ヲ去リテ遠隔ノ地ニ居住スルコト能ハス其者ト之ニ二倍乃至三倍スル其家族トハ是非トモ地元ニ生活セサルヘカラス又國ノ立場ヨリ言ヘハ兵士ノ徴募等ノ必要上都會ト田舍トノ間ニ人口ノ適度ニ分布スルコトヲ望マサルヘカラス此等ノ事情ヨリシテ各時代毎ニ必ス農業勞働者ノ豫定最少限度ナルモノアルヘキ理ナリ從テ若シ假ニ此限度以内ニ勞力ヲ省略スルカ如キ機械ノ使用ヲ促ストセンカ必勞働ノ價格ヲ減少セシメ農民ヲ不幸ナラシムヘキナリ故ニ如何ナル場合ニモ機械ノ使用ヲ奨勵補助シテ常ニ可ナリトイフ能ハサルハ勿論ナリ

　機械ノ作用タルヤ常ニ單純ナリ農業ノ中ニテモ特ニ一部分ノ作業ニ就テノミ人力ニ代ルナリ其他ノ部分ハヤハリ人力ヲ要ス若シ全部ノ作業ニ到ル處機械力ヲ用ヰントセハ其種類ノ煩雜ナルニ堪ヘサルヘシ況ヤ機械ハ無心ニシテ如何ナル工夫結構ヲ凝スルモ其運動ハ單一ナリ複雜精巧ノ點ニ於テハ常ニ人カニ劣ルコト一歩ナリ從テ機械ノ應用ハ?々農ノ精度ニ於テ一段ノ退歩ヲ意味ス此モ亦忍フヘカラサルコトナリ而シテ機械ト人力トヲ併用スル場合ニ於テモ農ノ作業タル其生産期トノ關係上同一ノ運動ノ繰返シ少クシテ而モ勢力ノ需要量ハ同一生産期ノ前後ニ於テ大ナル不同アリ日本ニ於テハ所謂田植稻苅時、他ノ寒國ニテハ收穫時ハ多忙ナルモノナリ此時期ニ於ケル勞力供給ハ昔ヨリ困難ナル問題ト認メラルサレハ我邦ノ如キ密集村落ニテハ一部分ノ勞力共同ハ夙ニ行ハル手傳又ハ手間替ト云フモノ是ナリ此等ノ方法ハ若干ノ缺乏ヲ補ヒ得ルモ尚或程度迄ハ臨時ノ供給法ヲ講セサルヘカラス所謂巡業勞働者例ヘハ英國ニ在リテ Gangs ト云ヒ獨逸ニ於テ Sachseng　anger ト稱スルモノ恰モ信越地方ヨリ都會地ニ出稼スル勞働者ト正反對ニシテ而モ農業勞力ノ需要ノ年内不平均ナルコトヲ示スノ點ハ相同シ殊ニ臨時ニ遠方ヨリ勞働者ヲ雇人ルヽ方法ノ如キハ企業者ノ計畫ヲ不確定ナラシムルノミナラス被雇者ノ側ヨリ見ルモ不便ナル事情ニシテ從テ勞銀ハ永續的ノ仕事ニ(399)比シ割合高カラサルウ能ハス或ハ假ニ十分ナル供給アリトスレハ又其ノ地元小民ニ與フヘキ惡影響アリ地元ノ小民ハ外來ノ人足ニ仕事ヲ奪ハレ其生計ヲ補充スヘキ收入ヲ矢ヘハナリ此等種々ナル不便ハ漸ク諸國ノ政府及當業者ニ匡正策ノ必要ヲ感セシメ平生ヨリ勞働者ノ全部ヲ地元ニ土着セシムル爲例ヘハ小區耕地貸與法等ヲ制定スルニ至レリ英國ニ於ケル此政策ノ如キハツマリ現在ノ日本ノ農村ノ現?ニ近カラシムルヲ目的ト爲セルナリ然ルニ此ノ勞力準備ニ伴ヒテ起ル問題ハ其分量ノ算定ナリ一年内最大ナル需要ヲ標準トセンカ其他ノ期間ニ於テハ餘剰部分ノ勞力ヲ別ニ利用セシメサルヘカラスサリトテ之ヨリ少ナキ準備ニ出テンカ所謂農繁時ニハ別ニ外部ノ供給ヲ須ツノ要アリ日本ニテモ養蠶ノ普及ト共ニ一時ニ米麥栽培ノ作業ト重複シ且手傳ノ慣習漸次弛援シタル爲一年内勞力需要ノ波動ハ昔ヨリモ遙ニ大キクナリ茲ニ於テカ機械ノ使用ハ攷究スヘキ問題トナレルナリ此點ヨリ觀ルトキハ勞力ヲ省約スヘキ機械ノ必要ハ主トシテ植付又ハ收穫ノ如ク勞力ノ需要最多量ナルトキハ使用スヘキモノニ限ルヘシ何トナレハ若シ其以外ノ勞力ヲ省約スヘキ機械ナルトキハ愈一年内ノ需要量ノ差ヲ大ナラシメ益勞力供給ノ問題ヲ困難ナラシムヘキ虞アレハナリ之ヲ要スルニ機械ノ使用ハ我國ノ農業ニ於テハ實際ノ問題トシテ外國ノ如クサマテ重大ナラサレトモ田舍ニ居住スル勞働者ト農業トノ關係ヲ今日ヨリモ一層密接ナラシメンカ爲ニハ却テ或程度迄ハ其使用ヲ開始スル必要アリトイフヘシ

　次ニ云フヘキハ所謂厭フヘキ勞力ニ代ル機械ノ問題ナリ日本ニテハ下肥ヲ施シテ水田ヲ作ル實ノ所外國ノ農作業ヨリモ一層厭フヘキ勞務多キナリ而シテ勞力ノ市場モ資本ト同シク次第ニ都鄙ノ間ニ共通ニナルヘキ傾向アリテ農以外ノ勞働ト比較選擇シ假令全然甲ヲ罷メテ乙ニ就カヌマテモ少ナクモ其苦痛ニ相當スルタケノ對償ヲ要求スヘシ此ノ如ク勞銀ノ率カ農業ニ在リテモ亦外部ノ　　状況ニ由リテ決定スヘキ時代ト爲ルナラハ厭フヘキ作業ニ對スル報酬ハ勢昂騰スルニ至ルヘク從テ國民ノ審美的見地ヲ立離レテ考察スルモ機械代用ノ發端ハ思フニ此部分ニアルナラン例ヘハ排水ヲ自由ニスへキ手段アラハ腹部迄泥水ニ漬ルノ不愉快ハナカルヘク簡單ナル施肥器ヲ備付ルトキハ手ニテ汚物ヲ取扱フノ苦ミハ無クナルヘシ此點ハ道�ｺノ問題トシテハ勿論論議ノ餘地猶存スルナランモ要スルニ他ノ條件ノ之ヲ許ス限(400)ハ機械ノ農業ニ使用セラルヽハ必ス先ツ此方面ナルヘシ

　資本利用方法ノ第二ノ缺點ハ其用途ノ不適當ナルコトナリ是亦小區域ニ於ケル配布ノ不權衡トモ見ルコトヲ得ヘシソノ一ハ選擇ノ誤ナリ肥料ニ於テ最此弊アリ折角金肥ニ多分ノ資本ヲ費シナカラ若シ假ニ作物ニ適應セサル調合ナリトスレハ不要部分ハ徒費ニ歸スヘシ此事實ハ種子苗木等ニモヨルヘキコトニテ近年東北地方ニ起リタル早稻晩稻優劣論ノ如キ亦結局此問題ナリ土地ノ資本ニ就テモ選擇ノ當ヲ得サルコトハ往々吾人ノ目撃スル所ナリ其二ハ價格評定ノ誤ニ基因スルモノナリ全然選擇ヲ誤リタルニハ非サルモ本來安カルヘキモノヲ高ク購入スルカ如キ失敗ナク新種ノ動植物ヲ輸入スル際等ニ於テ農業者ノ陷リ易キ誤ニシテ其結果之ニヨリテ生シタル收益ノ増加ヲ以テ到底元資ヲ囘收シ難キニ至ルナリソノ三ハ詐僞ニ由ル誤謬ナリ農業者ハ資本ヲ利用スヘキ方面多キヲ以テ各專門業者ノ如キ精細ナル智識辨別力ヲ有セサルニ乘シ不正ノ手段ヲ以テ資本ノ用法ヲ誤ラシムルモノナリ不正肥料ニ關シテハ明治三十四年以來肥料取締法ノ制定アリ販賣者ハ成分保證票ヲ添付スルノ義務ヲ負ヒ實際上ノ成分卜差アルトキ容易ニ詐僞者ヲ以テ目スルコトヲ得セシム不正種苗ニ關シテハ我國ニハ未タ右ト同シキ國權ノ干渉ヲ見ス蓋シ此等ノ取締ハ正直忠實ナル商人ノ保護ノ爲ニモ亦必要ナル政策ニシテ必シモ農民ノ利益ノミニハアラス而シテ檢微鏡ノ取扱ニ至リテハ農業者ノ多數ハ到底之ヲ企ツル能ハサルヲ以テ商人ノ正不正ヲ發見セントスルニモ其手段ニ乏シキカ常ナレハ次ニハ公設鑑定所ヲ置キ無料又ハ低料ニテ肥料種苗ノ鑑定ヲ爲スノ政策ハ必要ナリ以上ノ三點ノ外殊ニ我國ニ於テ必要ナル問題ハ農具ノ改良ナリ日本ノ農具ニハ千年來同型ノモノ多シト云地方ニヨリ非常ニ多數ノ變形アルコトハ事實ナルモ皆無意味ナル因襲ニシテ決シテ地質氣候等ニ適應シテ加ヘラレタル改良ニハ非ス此故ニ將來ハ寧其不便不適當ナル大部分ヲ廢絶シ之ニ代ルヘキモノヲ發明セシムヘキ要アリ此目的ノ爲ニハ先年既ニ農具圖彙ノ編纂アリト雖農具陳列場ヲ所々ニ設置シ又ハ新ニ農具試驗場ヲ開キテ大ニ專門ノ研究ヲ促スヘキナリ

　資本利用ニ關スル第三ノ缺點ハ其補充手段ノ缺乏ニ在リ今ノ農業者ノ私輕濟的智識ニ於テハ保有年限ノ思想未タ確(401)實ナラス聊モ償却積立ノ考無キカ普通ナルヲ以テ新ニ備付資本ヲ補充スルニハ大ナル苦痛ヲ感ス殊ニ固定資本ノ不時ノ滅失減少ニ對シテハ殆何ノ用意モナシ保險ノ問題ハ我國民ニハ極メテ新シキモノナリ近年他ノ保險事業ハ雨後ノ筍ナレトモ農業保險ニ關シテハパウル、マイエット〔八字傍線〕ノ著書モ少シモ注意ヲ惹クコト能ハサリキ蓋シ農業ニ於テ保險ノ久シク行ハレサルハ此職業ニ伴フ危險ノ性質カ之ヲ妨クルアルカ如シ農業ニハ一般的ノ危險少カラス風害水害ノ如キモ其及フ地域常ニ稍廣シ植物ノ病蟲害ハ其蔓延ノ限度ヲ想像スル能ハス畜病ノ如キモ傳染又ハ流行性ノモノハ危險率多ケレハ之ヲ保險スルコト困難ナリ之ニ對スル手段トシテハ地域ヲ大ニシテ遠隔ノ地相補充スルカ又ハ特發性ノ危險ノミニ對シテ保險ヲ爲スニアランモ後ノ方法ノ如キハ多クノ場合ニ於ケル資本補充ノ途ト爲スニ足ラス唯漸次全般ノ危險ニ對シ精巧ナル保險組織ヲ研究スヘキ端緒トシテ先ツ特發的ノ危險例ヘハ農場農産物ノ火災又ハ勞働者ノ病氣等ニ付キ保險ヲ試ミ更ニ傳染病ノ場合ニ付キテハ特別條款ヲ設ケテ家畜ノ保險ヲ爲サシムルカ如キハ當ヲ得タルモノナリトス

　元來保險ハ拂出ノ條件ヲ制限シタル一種ノ貯蓄ナリ從テ其貯蓄資本カ農業ノ爲ニ利用セラルヽコト無クハ假令保險トシテハ完全ナルモ其效果僅ニ一ナルニ反シテ之ヲ農業資本ニ利用スルノ道アラハ即チ兩面ノ功能アルヘシ相互保險ノ妙味モ亦此ニ存ス而シテ信用組合ノ機關ハ地域ノ制限アルノ不便ハアレトモ之ヲ保險ニ利用シ得ルノ望アリ獨逸ニテハ産業組合ノ一種ニ保險組合アレトモ我邦ニテハ相互保險會社ハ全ク別ノ法人トセラル我産業組合法ニ依リ資本補充ノ目的ヲ以テ保險的契約ヲ爲サントスルニハ組合トシテハ無償ノ贈與ヲ爲ス能ハサル故利子ヲ低減シ又ハ辨濟期限及方法ヲ寛大ニシタル貸付ノ豫約ヲ爲スコトヽシ之ニ對スル約因トシテハ平生ハ引出ヲ爲サヽル別途貯金ヲ積立テシムル信用組合ヲ設クレハ可ナリ

　

(402)　　　　　第十七章　農事教育

　

　近時農村ノ衰微ヲ憂フル者ノ説ハ主トシテ農民ノ數ノ減少ニ留意スレトモ農業勞力ノ品質上ノ退歩ハ之ヨリ一層重大ナル現象ナリ土地ノ利用ニシテ一定ノ程度ニ達シタル後ハ年々ノ人口増殖ハ必ス農村ノ勞力ニ一部ノ餘剰ヲ生セサルヘカラス而シテ最良ク轉業轉住ニ適スル者ハ概シテ言ハヽ其中ノ優良ナル部分ナリ才氣アレハ野心アリ技倆アル者ハ斷行ノ自信アルヘキ理ナリ一方ニハ又農業純益ノ割合ハ通例新立ノ農業者ニ不利ナルコトハ前ニ述フルカ如シ多クノ家ノ次三男ハ其勤勉ト才智トヲ農業利益ノ開發ノ方面ニハ適用セス却テ新奇ヲ好ムノ情又ハ舊來ノ社會組織ニ對スル不滿ノ情ニ驅ラレテ其郷土ヲ去ルノ傾アリサレハ我國農村ノ勞力ハ數ニ於テ外間ヨリ之ヲ補充スルノ必要ハ永ク生スルコトナカルヘキ其品質ニ於テハ之ヲ自然ニ放任スルトキハトテモ段々ノ減退ヲ防クコト能ハス此點ハ腕力ニ付キテ既ニ然リ壯年者ノ一時的不在壯年者ノミノ移住ハ?之ヲ見聞ス更ニ智力ニ於テモ所謂精農老農ハ漸ク減少セントス智巧ヲ農以外ニ適用スヘキ機會ハ益増加スヘケレハナリ

　農業勞力ノ改良ハ前述ノ事情ニ由リ單ニ消極的ノ目的ヲ以テスルモ近年其急ヲ感セサル能ハス加之更ニ其積極的ノ必要アルナリ即チ（イ）職業トシテ農ノ新ナル經營ヲ爲スニ當リ之ニ要スル智識ヲ供給スルノ外ニ（ロ）生産増殖ノ政策トシテ勞力ノ效果ヲ増スノ必要アレハナリ（イ）ハ主トシテ個人ノ方面ヨリ觀タルキノナレト（ロ）ハ國ノ方面ヨリ見タルモノ即チ以下本章ニ於テ説カントスル所ナリ

　サテ同シク勞力ノ改良ト云フモ二樣ノ觀察點アリ其一ハ勞働者トシテノ勞力ノ效果ヲ増スコトニシテ其二ハ企業主體トシテノ勞力ヲ改良スルコト是ナリ前者ハ比較的單純ノ問題ナリ勞力品質ノ不足ハ數ヲ以テ之ヲ補フモ可ナリ良キ働ヲスル者一人ニ高キ報酬ヲ與フルモ不十分ナル働ヲ爲ス女ヤ老人ヲ安ク澤山ニ使フモ同シコトナレハ結局勞銀割合(403)ノ問題ニシテ我國ノ如キ必然的農勞働者多キ國ニテハ此解決ハサマテ困難ナラス之ニ反シテ企業主體トシテノ勞力ノ改良ト云フ點ヨリ見レハ極メテ我國ニ於テ急要ナル政策問題ナリト言ハサルヘカラス土地竝ニ資本ノ利用方法ノ適不適語ヲ換ヘテ言ハヽ農業經營法ノ進歩退歩ハ歸スル所凡テ經營者自身ノ智識及心掛ノ問題ニ外ナラス個々ノ農場ノ盛衰ハ言フ迄モ無ク經營方法ノ如何ニ由リテ定マルモノニシテ政策ノ力カ之ニ及ス影響ニ至リテハ間接ニシテ且ツ比較的微弱ナリ加之我國ノ農業者ハ其殆全部ハ皆小農ナリ即チ企業者自身及其家族ノ勞働ヲ自ラ利用スヘキ農業ナリ之ヲ一面ヨリ言ハヽ勞働者カ自ラ企業ノ危險ヲ冒シテ成功ノ利ヲ收ムヘキ勞働ナリ從テ勞働者ノ勞力ノ改良即チ勞力ノ效果ノ増進ハ常ニ利益ナリ一人ノ高キ勞働者ヲ使フ方二人ノ安キ勞働者ヲ使フヨリモ此場合ニハ常ニ利益ナリ要スルニ勞力改良ノ利益ハ小農ヲ以テ充滿セル我國ニ在リテハ二ノ方面ヨリ同時ニ之ヲ收ムルコトヲ得即チ勞働者トシテ收得スル報酬ヲ多クシ更ニ企業者トシテ收得スル純益ヲ多クスルモノナリ

　勞力ノ改良ハ亦其大體ニ於テハ各個人自身ノ勞力ニ須ツヘキモノ多キハ論ナシ唯個人ノ力カ自ラ決スルコト能ハサル部分ニ就キ國又ハ公共團體ノ政策ハ其力ヲ施スナリ其項目ヲ擧クレハ例ヘハ一般經濟上ノ傾向ノ豫察ナリ之ニ伴フ大體ノ計畫ナリ其計畫ヲ實行スヘキ費用ノ支出若ハ補給ナリ又此問題ニ關スル國民ノ誤リタル判斷ノ匡正ナリ而シテ衛生行政、風俗警察ノ如キモ勿論此中ニ包含セラルト雖モ教育ノ政策ハ實ニ其主要ナル部分ヲ占ムルナリ蓋シ廣義ノ農業教育ハ廣ク農業ニ關スル智識ノ普及判斷力ノ養成熟練ノ増進竝ニ養生治家ノ術ノ如キ苟クモ農民ノ生活ヲ改良シ其幸福ヲ増加スヘキ一切ノ手段ノ付與ヲ總括シ而モ如何ナル機會方法ニ由ルヲ問ハサルヘキモ就中特ニ被同化力ノ最強クシテ更ニ開發ノ必要ノ最急ナル國民即チ年少ノ徒ニ對シテ一定ノ規律アル方法ヲ以テ此等ノ手段ヲ講スルモノニ限リ之ヲ狹義ニ於ケル農業教育ト稱スルハ普通ノ習慣ナリ今ハ主トシテ此部分ヲ説明スヘシ

　大中小各階級ノ農場カ併立スル國例ヘハ獨逸ノ如キニ在リテハ國ノ制度トシテハ農業ノ學校モ亦企業ノ規模ニ應シテ少クモ之ヲ三段ニ分ツヘキ必要アランモ此點ニ關シテハ我國ノ如キハ幸カ不幸カハ別トシテ極メテ簡單ナル制度ニ(404)テ濟ムナリ日本ニテモ外國ノ顰ニ倣ヒテ農學校ノ階級ヲ別ツノ説アレトモ職業教育トシテハ此ノ如ク細別スルノ要ナシ小農ノミノ國ナレハ小農ヲ養成スル學校タケニテ充分ナリ或ハ此カ爲ニ小農カ成長シテ中農ト爲ルヘキ機會ヲ杜絶スヘシト言ハンモ勉強シテ農場ヲ擴張スルノ術ハ勿論小農ノ學校ノ必須課目タルヘシ二箇所ノ農科大學、數箇所ノ高等專門學枚ハ我國ニテハ此學科ノ專門的研究ヲ繼續シ傳來ノ智識ヲ保存スル外更ニ時勢ニ應シテ此智識ヲ改良増加シ行クノ任務ヲ有スルノミ外國ニ於テハ此等最高ノ學校ハ大農場主又ハ其管理人ヲモ養成スルノ任務アリ即チ一方ニハ職業教育ヲ授與スル例多シト雖モ日本ニテ言ハヽ實ハ學者ト吏員ト教員トヲ作レハヨキナリ純粹ナル學理ノ發達以上ニ政策ノ實行機關トシテ官吏教員ノ増加ハ數ニ於テモ品質ニ於テモ共ニ非常ニ必要ナリ

　大學ノ研究ニハ程度ト云フモノ無シ出來ル限深ク且廣カルヘシ之ニ反シテ職業教育ニハ程度アリ誰シモ多ク學ヒテ害アリト云フ者ハ無ケレトモ教育ヲ受クヘキ者ノ輕濟上ノ地位ハ明ニ之ヲ制限ス其一ハ（イ）期間ナリ農家ノ子弟ニハ何時迄モ學校ニ遣ツテ置クコト能ハサル種々ナル事情アリ貧民ノ子ハ八九歳ヨリ既ニ農繁ニハ雜用ニ使役セラル是レ近年迄義務教育ヲ六年ニ延長スルコト能ハサリシ主タル理由ニシテ收穫季節休校ノ慣習ノ止ム能ハサル所以ナリ又居村ノ小學校タケハ可能ナリトシテモ稍成長シテ相應ニ家ノ手助ト爲ルヘキトキ永ク之ヲ學校ノ生徒ト爲スコト父兄ノ忍フ能ハサル所ナリ金持ノ子ハ生涯親ノ財産ニテ食ヒ中産者ハ相續ノ時ヲ限トシ小民ハ十五六ヨリ既ニ自活シ窮民ハ生レ落ルヨリ親ニハ養ハレス教育ノ年限カ人ノ身分ニ伴フヘキモノナルコトハ多言ヲ要セス次ニハ（ロ）費用ナリ授業料ヤ教科書等ノ費用ハ比較的輕微ノ負擔ナレトモ最困難ナルハ寄宿ノ費用ナリ設備ノ完全ナル農學校ハ一府縣ニテハ到底一又二以上之ヲ維持スルコト能ハス多數ノ人民ノ子弟ハ教育ヲ受クルカ爲ニハ現金ニテ寄宿費ヲ支出セサルヘカラス通學對寄宿ノ問題ハ他ノ點ヨリ見ルモ重要ナリ子弟ノ一年中ノ不在ハ其休日ノ勞力ヲモ利用セシムルコト能ハス勢此ノ如クナレハ將來ノ小農ハ到底此種遠隔地ノ學校ヨリ恩惠ヲ受クルコト能ハサルヘシ第三ニハ（ハ）青年將來ノ地位ナリ家主ノ力作ニ依リ僅ニ繼續スル小サキ農業者ノ子弟ハ自分モ亦之ト同シ境遇ヨリ出立セサルヘカラス從(405)テ其職業ニ必要ナル教育ハ最單純ナル勞働ニ對スル訓練ヲモ含マサルヘカラス資本ノ運用外部ノ勞働者ノ指揮監督等ヲ主トスル農業經營法ノ彼等ニ適切ナラサルハ勿論ナリ而シテ教育期間ノ大部分ハ實際ノ作業ノ爲ニ費サヽルヘカラストスレハ學科ノ教育ヲ制限スルノ不便アリ現在農學校ノ弊ハ勞働殊ニ腕力ノ熟練工疎ナルニ在リ田植苅入ノ多忙時ニハ一日十時間モ十二時間モ勞働スヘキ農家ノ子弟ニ對シ三年ノ長キ且感化ヲ受ケ易キ期間一日僅ニ二時間、三時間ノ實習ヲ課スルナリ其學校ヲ出テヽ直ニ普通ノ意味ニ於ケル農夫トナル能ハサルハ當然ナリ此カ爲ニ偶農學校ニ入ルコトヲ得タル子弟ハ地主其他現ニ農業ヲ爲サヽル家ニ生レタル者ニシテ新ニ其智識ヲ應用シテ農業ヲ開始スル者無キハ勿論農業ノ家テ生レタル者ト雖モ卒業後家ニ歸リテ業ニ就ク者ハ甚少シ甲種農學校ノ出身者ハ教員ト成リ府縣技手其他ノ吏員トナリ或ハ役場員、小學教員ト成レルモノ大部分ヲ占ム人或ハ彼等カ父兄トノ間ニ新舊思想ノ衝突アリテ家ニ在ルコトヲ妨クルカ如ク云フモ父兄ハ漸々退隱スヘク自然ニ農學校卒業生ノ農業ヲ營ムヘキ時代ハ來ルヘキ筈ナレトモ事實ハ然ラス原因ハ寧他ニ在リ即チ職業教育カ所謂疝氣筋ナルカ爲ナリ多數ノ農業者ノ求ムル所又ハ求メサルヘカラサル所ト今ノ農學校ノ與フル所ト全然齟齬スルノ致ス所ナリ要スルニ日本ノ農業者カ要求スル教育ハ（一）成ルヘク農場ノ勞力ヲ減少セサルコト（二）成ルヘク農場ノ支出ヲ多クセサルコト（三）主トシテ勞力ノ練習ヲ重スルコト以上ノ三點ニ在リ此等ノ條件ハ隨分不便ナルモノニ相違ナキモ我國農業者ノ境遇ヨリイヘハ到底之ヲ無視スルコト能ハス

　併シナカラ他ノ一方ヨリ見レハ國家ノ農業教育ノ方ニモ亦之ヨリ以下ニハ省略スル能ハスト云フ最少限度アルヘシ農藝ニ關スル根本的ノ智識タケハ一定ノ系統ノ下ニ其全部ヲ付與セサレハ寧害アリ農事ニモ一定ノ integrity アルナリ試ニ其範圍ヲ言ハヽ即チ（イ）動植物ノ生長繁殖スル理由ナリ簡單ニ之ヲ説明スルニ足ルヘキ理化學上ノ智識ナリ（ロ）動植物ノ生長繁殖ヲ障碍スヘキ天然及人爲ノ現象ナリ（ハ）其障碍ヲ除去シ更ニ生長繁殖ヲ助長スヘキ手段ナリ作物ノ種類カ愈改良セラレ其人力ニ依頼スルコト愈多クナリタル時代即チ農業進歩ノ時代ニ在リテハ前三點ニ關スル(406)精確ナル智識ヲ具ヘスハ如何ニ勤勉且精確ナル農業者モ到底損失ノ危險ヲ免レ難シ而シテ職業トシテ農ヲ營ム者ニハ更ニ左ノ二點ニ関スル智識モ缺クヘカラス即チ（ニ）生物養成ニ關スル各種ノ手段ノ優劣ナリ（ホ）市場ノ智識ナリ以上五ノ點ハ如何ニ簡略ニテモ宜シ是非トモ之ニ關スル確實ナル智識ヲ與ヘ置カサルヘカラス少クモ將來之ヲ研究自得スル準備手段タケハ青年ヲシテ之ヲ獲得セシメサルヘカラス而シテ前述ノ如キ制限ノ下ニ此タケノ智識ヲ付與セントスル農業教育ノ問題ノ甚容易ナラサルヤ察スヘキノミ

　現在農業教育ノ政策トシテハ先ツ實業教育國庫補助法アリ府縣其他ノ團體ニ於テ適當ナル農學校ヲ設立維持スルノ費用ハ到底授業料收入ヲ以テ之ヲ支フル能ハサルハ當然ナリ或ハ學校ニ附屬スルニ大ナル農場ヲ以テシ其收入ヲ以テ經常ノ支出ニ充テントスル方法モアレト日本ニテハ年々費用ノ大部分ヲ國費ヨリ補給スルノ方針ヲ採レリ郡以下ノ經營スル農學校ニハ更ニ府縣費ノ補助アルヲ常トス學校ハ多クハ授業料ノ輕減免除ヲ爲シ他ノ一方ニハ郡市町村ニテ入學生ニ對シテ學費ヲ補助シテ奨勵スルアリ此等ハ皆費用ノ點ニ於ケル經濟上ノ制限ヲ成ルヘク緩和セントスル手段ニ他ナラスト雖モ他ノ二ノ制限ニ關シテハ國又ハ公共團體ノ政策ハ未タ其力ヲ施スコト能ハサルナリ

　茲ニ少シク現在ノ農業教育機關ヲ説明センニ大學及高等專門學校ハ純然タル又ハ直接ノ職業教育ニ非サレハ之ヲ省キ其中心ト爲レルモノハ第一ニ實業學校ナリ實業學校令ノ規定ニ依レハ農業學校ハ甲乙ノ二種ニ分チ國ハ重キヲ甲種ノ農業學校ニ置ケルカ如シ此學校ハ郡村立又ハ私立モアレト大抵ハ府縣ヲシテ之ヲ經營セシム前ニモ述ヘタル如ク甲種農學校ノ感化力ハ其及フ所所在郡及隣郡ニ止リ一府縣全體ニ平均ノ恩澤ヲ施スコト能ハサルカ故ニ常ニ増設ノ希望多ケレトモ之ヲ以テ直ニ此制度カ最事情ニ適スルモノナリトハ斷定スルコト能ハス而シテ入學スヘキ生徒ハ高等小學校ヲ了ヘタル者ナレハ少クモ十四以上ニシテ十七八歳ノ者モ多ク此等ノ青年ヲシテ三个年ノ寄宿生活ヲ爲サシムルモノナレハ最著シク經濟上ノ三制限ト牴觸ス乙種農學校ハ之ニ反シ多クハ所在地附近ヲ相手トシ通學ヲ主トスルカ故ニ費用少ク又學齡ハ十二年以上ナル故第一ノ制限ニモ合シ且又農家ノ子弟カ勞働教育ヲ必要トスル年頃ヨリモ前ナレハ(407)共ニ甲種ノ缺點ヲ補ヒ得ルカ如クナレト而モ生徒ノ準備智識ノ不足ナル爲功程如何ニモ十分ナラス從テ人望少ク其數モ却テ減少セリ此ニ於テカ第二ニ注意スヘキハ農業補習學校ニ在リ此學校ノ補習ト云フハ思フニ小學教育ヲ補フノ意味ニハ非スシテ圃場ニ於ケル實地ノ訓練ヲ補充スルノ義ナリ其特色トスル所ハ主トシテ（イ）小學校其他ノ設備ヲ利用シテ入費ヲ節約スルコト（ロ）夜間又ハ冬季ノ如キ不用ノ時間ヲ利用シ生徒カ生活ノ爲ニスル勞働力作ノ妨ヲ爲ササルコトニ在リ此點ヨリ觀レハ日本農業ノ現情ニ合スル點ニ於テ寧前者ニ勝レリトイフヘシ唯其缺點モ亦無キニ非ス

　農業補習學校ハ要スルニ從來ノ夜學ノ類ナリ十歳以上老壯ノ區別ヲ問ハス苟クモ餘暇ヲ以テ學問上ノ智識ヲ得ントスル者ハ凡テ之ヲ利用スルコトヲ得ヘシ殊ニ中學校實業學校等ノ設備ヲ利用スルトキハ大分ノ經費ヲ節約シ得テ能ク町村ノ如キ小公共團體ノ負擔ニ適セシム然レトモ本來不規則ナル集團ナル故ニ系統的ノ訓育ヲ施スニ難ク且現在ノ缺點トシテハ世人カ重キヲ此機關ニ置カサル上ニ將來ニ向テ更ニ困難ヲ感スヘキハ教員供給ノ問題ナリ補習學校ノ教員ハ性質上遠方ノ掛持ヲ許サス少クモ學校ノ近村ニ居住セシムルノ必要アリ從テ優良ナル教員ヲ得ントスレハ夫タケニテモ稍大ナル費用ナリ之ニ對スル政策トシテハ土地出身ノ先輩ニシテ餘暇ヲ以テ之ニ任スル者ヲ慫慂スルハ上ナリ甲種農學校ノ卒業生ハ追々此方ニ振向クヘシ國以下ノ行政廳ニ於テ良教員ノ修學費又ハ俸給ノ一部分ヲ補助スルハ中ナリ國以下ノ補習ヲ仰クトセハ此點最有效ナリ次ニハ小學教員ニ農業教育ノ大體ヲ授ケ之ヲ補習學校ノ教師ニ充ツルハ差當リノ下策ナリ而シテ教授方法ノ指導及其改良ノ計畫竝ニ教科書ノ整頓及其時々ノ訂正ハ共ニ大ニ前者ノ缺點ヲ補フニ足リ比較的技倆少キ人ヲモ教授ノ任ニ當ラシムルコトヲ得ヘキナリ唯此等ノ政策ハ國カ自ラ統一的ニ之ヲ行フハ必シモ可ナラス寧府縣以下ノ事業トシテ地方特殊ノ經濟事情ヲ參酌シ之ニ應シテ科目期間等ヲ適宜ニ變更スルノ必要アルヘシ

　第三ニ注意スヘキハ所謂農事講習ナリ農事講習ハ前二者ニ比シテ更ニ一層不規則且一見散漫ナル機關ナリ常設ノ農事講習所ハ久シキ以前ヨリ存スレトモ其敷モ少ク事實ハ名ヲ異ニセル實業學校ニ外ナラス官制ノ講習所ハ稍之ニ異ナ(408)レト其他二三ノ府縣ニ在ル者ハ實業學校令以前ノ實業學校農商務所管ノ實業學校トモ云フヘキモノナリ臨時ノ講習ニ至テハ頗ル之ト趣ヲ異ニス此機關ニ付テハ何等法令ノ存スルモノナク府縣以下ノ公共團體ハ何等國庫ノ補助ヲ受ケスシテ全部自ラ之ヲ經營セルナリ其方法タル農事ノ稍閑ナル時期ニ郡又ハ縣ヨリ講師ヲ派シ數日又は數週ノ間篤志者ニ對シテ農事智識ノ極大體ヲ講説スルナリ一時府縣又ハ郡ニ巡囘教師ヲ置キテ主トシテ此任務ニ就カシメタルコトアリシカ今日ハ之ニ相當スル農業技師ヲ置キ此外ニ農事試驗場ノ技師技手實業學校ノ教員農會ノ技術員其他ノ者ヲ各地方ニ配布シテ講師ト爲ス講習ノ方法ハ府縣ニ由リ其區々ナリ統一的ノ法制ノ存セサルコトハ利害相半セリ或ハ一郡一箇所位ニ稍長期ノ講習會ヲ開キ或ハ一二个村一箇所ノ割ニテ極メテ短期ノモノヲ開設スルアリ後者ノ利益ハ老人女子ノ如キ者迄ヲ網羅シ得ルノ利益アレトモ予カ見ル所ヲ以テスレハ前者ノ方效果多シ即チ能フヘクハ些少ニテモ學校ニ近似セシムルヲ可トス講習ノ效果ハ豫想外ニ大ナリ少壯農業者ノ中ニハ曾テ一囘又ハ數囘ノ講習ヲ受ケタル者今ヤ甚多シ所謂農事改良ノ進歩ハ此數ニ比例スルノ實例少カラス各地ニ現在スル農友會興農會等ノ大團體ハ皆講習ヲ受ケタル者ノ集合ニシテ雜誌其他ノ刊行物ノ購讀者ト爲リ農業ニ趣味ヲ有スル農夫ハ概ネ此徒ナルノミナラス多クノ農事行政ノ施行又ハ調査事業ノ如キ往々ニシテ之ヲ利用シ却リテ法令ヲ以テ設ケタル農會ヨリモ優ルコトアリ

　農事講習ヲ農業補習學校ト比較スルニ教員ノ點ニ於テハ遙ニ彼ニ勝レリ生徒モ業ヲ休ミ旅費ヲ支出シ多少ノ負擔ヲ甘スル代リニハ町村ニテハ到底雇フコト能ハサル良教員ノ教授ヲ受クルコトヲ得レハナリサレト其教授法ニ至リテ補習學校ト同シク改良ノ餘地尚多ク存ス元來講習ノ期間ハ甚短キナリ此間ニ與フヘキ智識ハ粹ヲ拔キ要ヲ摘ミ而カモ之ヲ卑近ノ實例ニ適用シテ説明スヘキカ故ニ頗ル取捨撰擇ヲ必要トス然ルニ今日農事ノ講習ニ付テハ教案教科書ノ完備セサルハ惜ムヘキナリ殊ニ未タ進級ノ方法ヲ採ラサル地方多ク貴重ナル時間ヲ割キタル熱心ナル農民ヲシテ年々同型類似ノ講習ヲ聽カシムルハ不當ナリトイフヘシ現在一府縣ニシテ講習終了ノ者萬ヲ以テ數フル地方モ稀ナラス此等ハ皆實際ノ農業者又ハ農家ニ留ルヘキ子弟ナリ之ニ對スル教授法ノ一段ノ改良ハ實ニ大ナル利益ナリ次ニハ教員ノ供給(409)ヲ増加スルコトハ講習ニ付テモ亦急務ナリ要スルニ此ノ如ク最簡易ニシテ且短期ナル農事教育ハ將來政策カ一層其力ヲ用ヰルヘキ點ナリ是レ我國現時ノ農事?態ノ自然ナル要求ナリ

　第四ニハ更ニ農業教育ニ對スル準備トシテ小學校ノ教育ニ注意セサルヘカラス元來都鄙統一ノ學制ニハ一面ノ弊アリ僻村ノ兒童モ都會ノ少年ト同シク商店ノ手代ニ必要ナルカ如キ算筆ヲ教フルハ偶以テ村落ヨリ優良ノ勞働者ヲ失フ所以ナリト云フハ英國等ニ於ケル農村恢復論者ノ批難ナリ然レトモ假ニ農村ニ別派ノ小學教育ヲ與フルトシテモサシテ大ナル變更ヲ意味スルモノニ非ス單純ナル農事概念ノ注入ヲ以テ足レリトスルナリ例ヘハ農事二物ノ名稱ノ如キ將來新聞雜誌ヲ讀ミテ?遭遇スルカ如キ專門語ヲ理解シ農學校ニ入リテ始メテ之ヲ口授シ書取ノ爲ニ大ナル時間ヲ費サヽルヲ期セシムレハ即チ可ナリ要スルニ小學校ト農場トノ聯絡ナリ農村事物ニ對スル注意心ノ養成ナリ此等一見簡單ナル用意モ今ノ小學教育ニハ十分ニ存在セス終ニ少年ヲシテ村落ニ成長シナカラ村落ノ生活ニハ何等ノ趣味ヲ感セサラシムルニ至ルナリ其一例トシテ言ハヽ小學及中等ノ普通教育ニ於ケル地理ノ科目ノ如キ生徒ハ常ニ遠隔ノ地ニ好奇心ヲ有シ教員モ亦之ヲ利用スル故ニ却リテ燈臺元暗シノ感アリ居所ヲ中心トシタル地理、大中小ノ市場所在其特色之ト連結スル水陸ノ交通路ノ説明ノ如キ一所ニ定住スヘキ農業者ニハ殊ニ必要ナリ更ニ歴史ノ科目ニ就テ言フモ亦居所ヲ中心トスルノ必要ハ現代ヲ中心トスル教育ノ必要ナルト同シ理由ニテ之ヲ認メサルヘカラス何故ニ茲ニ居住スルカ如何ニシテ生活シ來リシカハ如何ニシテ今後茲ニ居住シ且生活シ行クヘキカヲ説明スヘキ最適當ノ材料ナリ經濟ノ教育ト云フモ此カ爲ニ五年七年ノ大勉強ヲ支拂フナラハ格別暗記的ニ新文字ヲ詰込ムモ大ナル益ナシ夫ヨリモ實際ノ事實ヲ以テ實際ノ生活ヲ解説スル爲ニハ此方面ヨリ生活ノ觀念ヲ入ルヽヲ以テ當ヲ得タリトス全體短期ノ教育ニ對シ無暗ニ多クノ科目ヲ獨立サスルハ弊害ナリ農學校ノ教授要項ニテモ此弊ハ甚著シ教育ノ要ハ農業者ヲシテ進ミテヨリ多クヲ知ラントスル希望ヲ抱カシムルヲ以テ先途トスヘキナリ學フ段ニナリテハ一生學ヒテモ足ラス卒業ト云フ語ハ語弊アリ一定ノ職業ニ對シテ稍間ニ合フト云フニ過キサル語ナリ

(410)　成長シタル國民ニ於テモ今日ノ所ハ尚時代ニ必要ナル智識ノ最少限度ヲ有スル人スラ甚少シ徴兵檢査ニ於ケル壯丁ノ教育?態ハ能ク之ヲ示ス新聞ヲ讀マヌ人ハ國民全數ノ九割以上ナリ新聞ヲ讀ム農業者トテモ皆職業ニ付キ正シキ智識ヲ有ストハ限ラス大人ノ教育ハ時トシテハ少年ノヨリモ急務ナリ之ニ對シテハ大體ニ於テ時代ノ進ミ子供ノ成長スルヲ待ツノ外無カランモ先ツ專門ノ著書論説ハ著シキ好影響アルヲ認ムヘシ此等ノモノ、普及ヲ容易ニスル爲ニハ政府自身ノ刊行其無代又ハ低價ノ販賣ヨリ更ニ郵送ノ方法ニ便宜ヲ與ヘ其營業ニ免税スル等ノ方法モアランカ之ヲ自然ニ放任スルモ猶盛ニナルノ望アリ唯善惡適否ノ批判ノミハ政策ノ力ヲ施スコト極メテ困難ナリ次ニハ時々ノ講話、農會ノ共同研究、試驗場ノ事業ノ如キ亦幾分カ大人ヲ教育スルニ足ル試驗場ノ目的ハ一面ニハ個人ノ智力ヲ以テ爲シ能ハサル事業ヲ率先シテ試ミ其成績ヲ公表スルニ在リ現在ノ制度ニ於テハ國ハ大體ニ於テ一國農業ノ方法ヲ研究シ府縣ノ試驗場ニ更ニ之ヲ地方ノ特殊ナル事情ニ應用スルノ可否ヲ試ムルナリ府縣郡試驗場ノ事業ハ各地往々ニ重複シテ無用勞費ヲ投セルカ如キモ其地方ニ對スル教育ノ手段トシテハ一々ニ付テ效果アリ

　

　　　　　第十八章　農産増殖ニ對スル障碍

　

　進化論ノ法則ニ從ヘハ生物繁殖ノ速度カ加ハレハ之ニ對スル天然ノ障碍ハ從テ亦激烈ト爲ルヘキ理ナリ更ニ又人工ニ因リテ到達シタル品質ノ優良ハ外敵ノ侵害ニ對シテ感シ易ク防キ難キ地位ニ動植物ヲ置クモノナリ全體品質ノ優良ト云フハ人類ノ用ヲ標準トシタル語ニテ生物自身ヨリ見ルトキハ多クノ優等品は夫自身既ニ病ナリ又ハ不具ナリサレハ世ノ所謂生産増殖ノ政策ハ同時ニ生産ニ對スル障碍ト云フ反動ヲ自ラ招クモノト言ハサルヘカラス天然ノ力ハ本來物ト人トノ間ニ偏頗ナキカ故ニ人間ハ其利害ノ標準ヨリ判斷シテ常ニ自ラ好マシカラサル現象ヲ排除セサルヘカラス農夫ノ天然トノ爭ハ最初ヨリ中々烈シキモノナリキ唯經營ノ粗放ナリシ時代ニ比スレハ今日ハ天然ノ障碍ノ波及スル(411)所大ニシテ且遙ニ痛切ナリ何トナレハ地積ハ一所ニ限ラレ去ツテ他ニ往クコト能ハス資本ヲ其上ニ集積シ業主ノ全力ヲ之ニ注クナリ而モ各人ノ利害ハ孤立シテ相反スルコト益多シ要スルニ此爭ハ死活ノ問題ト成レルナリ

　昔ノ農民ノ天然ニ對スル態度ハ極メテ敬虔ナリキ彼等ハ之ニ對スル無力ヲ自覺シタル結果單純ナル畏怖ヲ以テ之ニ接シ神罰ト云フカ如キ思想ヲ以テ手ヲ束ネテ天然ノ妨害ヲ受ケタリ今日ニ於テモ宗教心ハ村落ヲ根據トスルノ實アリ豐年ヲ所ル神事五穀成就ノ爲ノ法會ハ久シク朝廷ノ大典タリシナリ然ルニ人口ノ増殖スルニ伴ヒ此障碍ハ愈多クナレリ歴史ノ記載ハ必シモ昔ニ疎ニ今ニ密ナルニ非ス人カ多クナルト共ニ天然ノ障碍モ益シタルナリ農民ハ終ニ防キ得ル限之ヲ防クヘキ必要ヲ感シ且ツ其方法ノ一部分ヲ發見セリ此發見ヤ當初ハ多クハ數囘ノ實驗ニ基クモノナリシモ近世ニナリテハ次第ニ學術上ノ根據ヲ得ルニ至レリ大藏永常ノ除蝗録ノ如キ其一例ナリ而シテ此種ノ外敵防衛ノ問程等ク人カ個人孤立ノ無力ナルコトヲ痛切ニ感セシコト無キナリ天然ノ障碍ハ害ノ及フ區域大ク其傳播ハ急ニシテ殆皆共同的ノ努カニ非サレハ防衛ハ效ヲ奏セス即チ政策ノ力ニ憑頼セサル能ハサル顯著ナル事例ナリ國家ニ取リテモ障碍ノ發現ハ重要ナル財貨ノ損失ナリ多數人民ノ生存ノ危險ナリ農業國本説ヲ信スルモ信セサルモ共ニ之ヲ一國ノ大患ト認メサル能ハス是ニ於テカ之ニ對スル出來ル限ノ豫防及發現ノ後ニ於ケル處置ニ付キ常ニアラユル方法ヲ講究スルヲ必要トセリ獨逸ノ學者ノ所謂農業警察 Landwirtschaftspolizei ハ障害ノ未然ノ防制ニ對シ必要ナル政策ノ全部ヲ包含スレトモ所謂事後ノ荒政ニ至リテハ之ヲ一般ノ救貧行政ニ委ヌ此點康濟録等ノ學説カ周到ナルニ比シテ西ハ東ニ及ハサルヲ覺ユ

　天變地異ノ害ハ職業ニ由リテ及フ所異ナルト同時ニ場所及時代ニ由り亦其程度ヲ異ニス地震ト火事トハ主トシテ市街地ノ畏怖ナリ農屋ハ孤立シテ空地廣ク野火ノ害ハ禾穀ニ及フコト少シ山野ノ火事ハ却リテ人口ノ少カリシ時代ニ害多ク現ハレタリサレハ山火事ノ手當トシテ防火設備ヲ命スルノ政策モ行ハレシカ今ハ却リテ之ヲ特設スル者ナシ風害ハ之ニ比スレハ遙ニ大ナリ其果樹穀物等ニ及フ所昔モ今モ異ナル所ナシ唯年々一定ノ時期アルハ人ノ知ル所ニシテ今(412)日ノ風害ハ内務統計ヲ見ルモ中々輕視シ難キニモ拘ハラス史上ノ記載少ナキハ不思議ナリ而シテ此害ニ對スル方法ハ少ナシ作物ノ撰定ノ如キハ僅ニ其一ナリ（田尻博士經濟應用新論、最早舊論ナレト意味ハ新ナリ）作物ノ撰定ハ何レノ障碍ニ對シテモ必要ナリ近年東北ニ於テ討究セラルヽカ如ク天象ニ對スル防衛ノ手段トシテハ其季節ト收穫季節トノ關係ヲ考フルハ最適當ナリ但早晩霜ノ害雹霾ノ害ノ如キ季節ヲ以テ豫測スヘカラサルモノアリ此等ニ天氣豫報ノ效果ハ極メテ貴重ナリ近年殊ニ此方面ノ研究ヲ力ムル者多クナレリサレトモ天氣豫報ヲ利用ストスルモ唯風雨ニ先チテ苅入貯藏ヲ行フ位ニ止、政策ノ力ヲ以テ防止ヲ一般的ニ行フヘキ必要ハ尚少シ

　洪水ノ害ハ前者ト異ナリテ時代ノ進ムト共ニ愈増大ス其原因ハヨク人ノ言フカ如ク水源涵養ノ漸ク疎ナルニ在ルヤ疑ナシト雖要スルニ土地利用ノ進歩ニ併發スル重大ナル反動ナリ即チ木材需要ノ急増ノ爲水源ノ山ヲ伐採スル外ニ猶開墾ノ増加ノ爲｜川除地《カハヨケチ》ヲ減少シ副堤ヲ省略シ若ハ境側ノ竹樹ヲ伐拂ヒテ耕地ノ便トスル等精巧ニ過キタル水防ヲ以テ成ルヘク多クノ土地ヲ直接生産ノ用ニ供セントスルノ致ス所ナリ故ニ完全ナル土地ノ利用ハ此等反動ノ激發ヲ避クルノ手段ヲ伴フモノナラサルヘカラス日本ノ河川ハ急流ニシテ短ケレハ殊ニ害多シ内務統計ニモ詳ナルカ如ク永荒年季荒當作荒ノ外ニ更ニ土地肥力ノ流失アリ水急ナレハ沈澱スル場合少クナイル〔三字二重傍線〕川ノ如キ恩惠ハ之ヲ日本ノ多ク河ニ望ムコト能ハス洪水ノ間接ノ害トシテハ更ニ内水ノ浸漬アリ出水時ハ勿論平時モ亦川床ト堤ノ高マリタル爲ニ堤防内ノ低地ノ排水ヲ困難ナラシメ多クノ耕地ヲシテ作物ノ成育ニ適セサルニ至ラシム洪水ノ豫防政策トシテ顯著ナルハ河川法砂防法ノ規定ナリ水害ノ最大ニシテ且廣キ地域ヲ指定シ所在府縣ヲシテ特ニ綿密ナル豫防工事ヲ施サシメ國ハ此カ爲ニ大部分ノ費用ヲ分擔スルノミナラス經營者ニ認ムルニ工事ノ遂行ニ必要ナル種々ノ特權ヲ以テセリ然レトモ此二法ニ依リ指定セラルヽ地域ハ多カラス其他ノ場合ニ於テ主トシテ水害ノ衝ニ當ル者ハ町村ナリ町村ハ多クハ資力足ラス害ノ及フ所亦弘キヲ常トスルカ故或ハ組合ヲ作リ又ハ府縣郡ヨリ介助補給ヲ受ク利害共通ノ區域カ町村ノ區域ト大ニ異ナル場合ニハ及チ又水利組合法ニ依リ水害豫防組合ヲ作リ豫防ノ事務ヲ町村ヨリ之ニ移サシム水利組合ニハ略町村(413)ト同樣ノ權力ヲ認メ關係者ノ加入ヲ強制シ且必要ナル費用ヲ賦課ス

　旱害ハ水害ト正ニ相反シ多雨ノ害ニ對スル少雨ノ害ナリ外國ニテハ中々大ナル問題ナレト我國ノ如キハ最之ヲ免レ易キ國ナリ所謂水論ノ八釜シカリシ時代ハ過キントス水田ハ一日モ水ヲ缺ク能ハサルモ之ニ要スル水ハ乏シカラス小地域ノ經營トシテハ貯水灌漑ノ方法ハ堪ヘサル所ナレトモ稍ヤ長距離ノ溝渠ヲ作ルノ計畫アレハ之ニ對スル根本ノ防衛策ヲ行フニ難カラス此事業ハ百年以來非常ニ進メリ以前ノ貯水方法ハ大抵小規模ノ溜池ニシテ地表ノ雨水ヲ集合スルニ過キサリシモ溝渠ト連結スル貯水場ハ必要ニ應シテ供給ヲ加減シ一ノ河水ノ恩惠ヲ多數ノ農民ト分配スルヲ得ルニ至レリ又農法ノ集約トナルニ伴ヒ二三ノ畠地ノ爲メニ井ヲ穿チテ水ヲ汲ムモノアリ水車ヲ以テ高地ニ水ヲ揚クルアリ單純ナル人力ヲ用ヰシ龍骨車ハ蒸汽ヲ以テ運轉スル大「ポムプ」ト爲レリ是レ皆近年ノ進歩ニシテ共ニ旱害ノ區域ノ未然ノ減少ニ貢獻スルモノナリ唯タ之ニ伴フ困難ナル問題ニシテ將來ノ農政ヲ以テ解決スヘキモノ一アリ即チ既存水權ノ整理是ナリ

　次ニハ動物ノ害ナリ人口ノ増加ト共ニ鳥獣ノ害ハ次第ニ減少ス今モ威銃ヲ使用スル山村モ無キニ非サレトモ案山子、鳴子ノ類ハ既ニ一般ニ閑却セラル之ニ反シテ蟲害ハ非常ニ増加セリ是一ニハ鳥類減少ノ結果ナリ國ノ豫算ヲ見レハ年々莫大ナル害蟲驅除費ヲ支出セリ府縣以下ノ地方團體カ負擔スル費用更ニ之ニ倍スヘシ其原因ハ勿論亦蟲ノ食料ノ増加ニ歸スヘキモ蟲ヲ食料トスル動物ノ人爲的減少モ與リテ大ニ力アリ狩獵法中保護鳥類ニ關スル規定此法律ノ所管ヲ農務局ニ置ケル精神ハ本來此害ヲ虞ヘタレハナリ然ルニ此法意ハ十分ニ農民ニ理解セラレス保護鳥ハ多ク保護セラレス燕「五十ガラ」ノ類は一羽一年十萬ノ蟲ヲ捕食ス然ルニ此等ノ小鳥ノ捕獲ハ殆自由ニシテ毎年剥製トシテ海外ニ輸出スルモノ二百萬羽ヲ超ユ外國人モ之ニハ大ニ驚ケリ實際日本ホド樹多クシテ小鳥ノ聲少キ國ハ少ナシト云ヘリ蟲害直接ノ防衛トシテハ害蟲驅除豫防法（明治二九法一七アリ）地方長官ハ個人ニ驅除ヲ命スルコトヲ得又市町村ニ對シ共同ノ驅除ヲ命スルノ權ヲ有シ其執行指揮ノ任ニ當リ更ニ費用夫役ノ徴収其他驅除豫防ノ爲必要ナル限度ニ於テ個人(414)財産權ノ侵害ヲ認容シ一方ニハ費用ノ一半ヲ上級廳ヨリ補助スルノ規定アリ此法律ハ隨分強大ナル權能ヲ以テ行政廳ニ付與シタルモノナルカ若シ現今其效果ニシテ猶多少不十分ナルモノアリトスレハ其原因ハ蓋シ（イ）驅除方法ノ適當ナラサルコト（ロ）驅除者ノ歩調ノ統一セサルコト等ニアルヘシ併シナカラ費用ノ制限ニ付テハ注意ヲ拂フノ要アリ若シ驅除ノ完全ヲ期スレハ即チ農業ニトリテ非常ナル生産費ノ増加ナリ而シテ純益ノ割合ヲ惡クスルカ如キ程度ノ驅除豫防ハ到底之ヲ農業者ニ強制スヘカラサルハ亦論ヲ須タス從テ最適當ナル驅除方法ト云フヘキハ費用ノ最少ナクシテスムモノナラサルヘカラス是レ必シモ無理ナル注文ニ非ス現ニ益鳥ノ保護ノ如キハ其一ニシテ又近年米國等ニ於テ頻ニ實行シツヽアルカ如キ害蟲ニ對スル害蟲ノ養成ノ如キモ他ノ一例ナリ殊ニ原因ノ撲滅ハ文明諸國ノ今後大ニ採用セントスル須要ナル方法ニシテ萬國農業會議ノ如キ現ニ之ヲ以テ討議ノ一題目ト爲セリ海關ニ於ケル檢査ノ勵行ヲ以テ嫌疑品ノ輸入ヲ拒絶スルハ今ヤ一般ニ至當ナル國權ノ行動ト認メラル新種農産物ノ輸入ニハ新害蟲ヲ隨伴スルハ免カルヽ能ハサル所ナリ日本ハ殊ニ此カ育成ニ適シ既ニ立派ナル世界ノ害蟲國トナレリ之ニ伴フ海外貿易ノ損失ハ實ニ二重ノ損失ナリ要スルニ驅除ノ不熱心ハ國民ノ不注意殊ニ無智識ニ起因ス勞力品質ノ改良ノ必要ナルコト此點ニ於テモ亦大ナリ

　植物ノ病害モ亦前者ト同シ?況ニ在リ而モ驅除ノ困難ハ之ヨリモ甚シク蔓延ノ害ハ些モ之ニ劣ラス普通ノ防衛方法ハ病ニ罹リタル植物ノ廢棄滅失ニアレト其損害ハ病毒ノ極メテ恐ルヘキモノナルコトヲ知リ且共同防衛ノ必要ヲ十分ニ理解スルニ非サレハ個人トシテ之ヲ忍フ能ハス病ニ罹リテモ若干ノ收入ハアルニ他人ノ爲メ天下ノ爲ニ之ヲ斷念スルニハ公�ｺ心ノ旺盛ナルコトヲ要スルナリ現在ノ政策ハ害蟲驅除豫防法ヲ植物ノ病害ニモ適用シ病毒ヲ受ケタル財産ノ廢棄ヲ強制セリ然レトモ猶此外ニ海關檢疫ノ方法ヲ實行シ國内ノ驅除豫防ト併行セシムルニ非サレハ十分ニ目的ヲ達スルコト能ハサルヘシ

　動物ノ病害殊ニ傳染性ノモノニ對シテハ檢疫竝ニ撲滅ノ方法相具ハレリ獣疫豫防法ニハ五種ノ家畜ト十種ノ獣疫ト(415)ヲ指定シ先ツ（一）強制ヲ以テ病畜ノ撲殺ヲ命シ（二）之ニ對スル一定額ノ補償ヲ以テ隱蔽ノ弊ヲ防キ（三）運搬竝ニ畜産ニ關聯スル事業ヲ制限シ（四）健獣ノ檢査ヲ強制シ更ニ（五）檢疫及輸入禁止ノ權能ヲ行政廳ニ付與セリ牛ノ病害ハ單ニ農産ノ障碍トイフ他更ニ人體ニ對スル危險ヲ包含スルカ故ニ別ニ之ニ對シ綿密ナル警察ヲ行ヘリ畜牛結核豫防法ハ主トシテ力ヲ乳用牛外國種牛及雜種牛ニ用フ是レ前者ハ人體ニ直接ニ影響シ後ニ者ハ主トシテ未來ノ牛種ノ改良ニ用ヰラルヽカ爲ナリ此三種ノ牛ニ對シテハ政府ハ健康診斷ヲ行フノ權能アリ其他ノ牛ハ現ニ結核病ニ罹リ又ハ其疑アルトキニ限リ檢疫ヲ強制ス病ニ罹リタル牛ハ重キハ撲殺シ輕キハ鎖錮ヲ命シ猶汚染物ノ處分ヲ嚴重ニス飼養者ノ損失ノ一部ハ之ヲ補償ス

　獣疫豫防法中ニ犬ヲ入レ?ヲ除外シタル奇異ナル現象ナリ養禽事業ハ日本ニ於テハ近年非常ニ進歩シタルニ拘ハラス未タ其病害ノ損失ニ對スル防制ノ法策ナシ養蠶ニ付テ蠶病豫防法アリ

　此法津モ前二法ト目的ヲ同シクスルモノニシテ現時ノ我國ニ在テハ必要最大ナリ近年夏秋蠶飼育ノ普及ハ殊ニ病害ヲ累進セシメタリ（本多學士）此法律ハ專ラ他人ノ爲ニ蠶種ヲ製造スル者ニ對シテ取締ヲ爲シ（一）製造方法ヲ指定シ（二）製品ニ對スル檢査ヲ強制シ（三）不合格品ヲ廢棄スルコトヲ得セシム此法規モ亦害蟲驅除ト同シク蠶業ノ生産費ヲ増加スルノ結果アレトモ蠶業ノ生産費中種紙代金ノ占ムル部分ハ桑ナトニ比シテ遙ニ小ナレハ其苦痛ハ顯著ナラスツマリ障碍ノ原因ニ溯リタル最有效ニシテ且比較的費用少ナキ防衛方法ナリト云フヲ得ヘシ

　日本ノ農業警察ニ於ケル一ノ缺漏ハ雜草除去ニ關スル法制ノ未タ存セサル點ニ在リ雜草ノ農業ニ對スル害ハ今ヤ病害蟲害ト大ニ異ナルコト無キ程度ニ達セリ肥料カ植物栽培費中重要ナル部分ヲ占ムル時代ト爲テハ其效果ヲ侵害スル雜草ノ害ハ決シテ小サキ問題ニ非ス加之往々ニシテ蟲害病害ノ媒介ト爲ルノ虞アリ此等ノ損失ハ從來既ニ存シタル雜草ノ害即地積ヲ狹メ通氣ヲ阻碍スル等ノ害ノ上ニ新ニ更ニ加ハリタルモノナリ以前ハ雜草ハ單ニ個人生産費ノ問題ナリキ個人ニシテ除去ノ費用ヲ惜マハ打棄テ置キテ我收穫ヲ少クスルモ可ナリシナレト今日ハ一般的ノ問題トナリ原因(416)ニ溯テ共同ニ其害ヲ防止スルノ必要ヲ生セリ故ニ法律ノ力ヲ以テ雜草種子ノ頒布ヲ防キ若シ能フヘクハ其種類ヲ滅絶スルコトヲ計ルヘシ日本ハ害蟲國ナルト同時ニ又雜草國ナリ杉菜ノ如キ恐ルヘキ在來種ノ外ニ所謂錢道草ノ如キ恐ルヘキ新種ヲ舶來セリ政策トシテノ雜草ノ除去ハ又土地利用ノ問題及原野改良ノ問題ト關聯ス即チ同シク野草ニテモ次第ニ比較的害少ク利多キモノト取代ヘテ行クヘキ必要ハ全國一般ニ存スルナリ外國ニテハ雜草除去ニ關スル種々ナル法令アリ一九〇四年ニ公布セラレシ新西蘭ノ雜草條例 Weeds Act ノ如キ雜草ヲ二種ニ分チ（一）有害種ハ其絶滅ヲ期シ（二）隨意種ハ許可ヲ受ケスシテ種子ノ移轉輸送ヲ爲スヲ禁スルノミ空地ニ於ケル雜草ノ除去ハ所有者ノ義務ニシテ道路ノ雜草ハ隣接地主ヲシテ其芟除ノ義務ヲ負ハシム

　

　　　　　第十九章　凶作

　

　穀物ノ生産ハ古來多クノ國ニ於テ農業ノ中心ヲ爲スモノナルカ故ニ其收穫ニ對スル天然ノ障碍ハ特ニ之ヲ凶作ト稱シ無限ノ畏怖ヲ以テ迎ヘラレタリキ農業ノ生産ハ生産期ノ共通ナルコト及同形ナル多數ノ生産場カ境ヲ接シテ併立スルコト共ニ他ノ産業ニ類ヲ見サル所ナルヲ以テ之ニ對スル障碍ハ常ニ一般的ニ稍廣キ區域ニ於テ同時ニ發現ス日本ハ南北ニ長キ國ナレハ緯度ノ異ナルニ從ヒ天象地勢ノ變化アリテ凶作ノ害全國ヲ蔽フカ如キコトハ殆無ク此點ハ丸キ國又ハ横ニ長キ國ヨリモ利ナリサレトモ又交通運輸ハ此カ爲ニ比較的不便ニシテ殊ニ其未タ發達セサリシ時代ニハ凶作ノ慘害ハ少クモ其當面ノ地方ニ對シテハ一層甚シキモノアリキ加之我國ノ地勢カ山脈ノ隔絶等ニ由リ輕濟上ノ孤立ヲ誘ヒ易キ上ニ小區劃ノ領主カ境ヲ守リテ對立スルノ時代久シク續キタリシカハ凶作ニ對スル合同防衛ノ手段ハ甚不完全ニシテ從テ一局部ニ對スル打撃ハ愈大ナリキサレハ凡テノ農民カ今尚之ニ對シテ傳説的ノ畏怖ヲ抱ケルハ無理ナラス近クハ天明天保ノ二大凶作ハ人ノ記憶ニ新ナル所ナリ凶作ノ起ルアレハ獨農民ノミナラス領主モ商工モ悉ク其害ヲ(417)被ラサルハ無シ年凶ナレハ民ハ必ス饑ヱタリシカ故ニ直ニ之ヲ飢饉年ト稱シ今モ其語ハ行ハル今日ノ思想ニテハ收穫ノ減少ト云フコトヽ飢餓トハ必シモ相伴フモノト考ヘラレサレトモ而モ日本ノ歴史ニ記載セラルヽカ如キ凶作カ印度ヤ露國ニノミアリテ欧米ノ所謂文明國ニ無キヲ以テ直ニ之ヲ以テ半開時代ニ限ラレタル現象ノ如ク考フルハ甚シキ速斷ナリ新時代ノ經濟ニ基キテモ更ニ之ヲ研究スルノ必要ハアルナリ

　文明ノ恩惠ヲ過重スル者ハ最早日本ニハ飢饉ト云フ文字使用スヘキ時代ハ過去レリト思ヒシニ近年二囘迄引續キタル東北ニ於ケル凶作ニ對シテハ再ヒ飢饉大飢饉ト云フ語ヲ使用セサル能ハサリシナリ是レ大ナル參考ナリ蓋シ世ニ謂フ天然ノ障碍ハ先ツ風水旱蟲病ノ五害ナリ風害ハ及フ所比較的小ナリ他ノ四者ハ略原因モ分明セリ防衛ノ手段モ研究セラレタリ現在尚十分ナラスト云フノミニシテ兎ニ角人ノ力殊ニハ共同ノ力ニテ之ヲ免ルヽノ見込ハ立チタリ然ルニ文明ノ學術モ未タ手ヲ下ス能ハサル猶一ノ大原因ヲ存ス即チ低温是ナリ多雨タケナラハ水害ノ防備アリ排水ノ手段アレハ可ナルカ如キモ之ニ伴フ多濕、日射時間ノ乏少殊ニ夏期温度ノ不時ノ低下ニ至リテハ豫測既ニ難ク防衛更ニ難シ昔ヨリ日本ノ凶作原因ハ蝗ニモアラス旱ニモアラス多クハ温度ノ低キニ在リ所謂六月陰寒ハ最忌ムヘシ此害ヤ及フ所ノ地域最廣ク而モ之ニ對シテハ未タ積極的手段ナシ恐クハ將來モ亦久シク此ノ如クナラン唯望ヲ屬スヘキハ電氣學ノ研究ナリ

　右ノ如キ天然ノ現象ニハ勿論古今ノ差ハ無キ筈ナリ唯之ニ對スル國民ノ觀察ハ明ニ今ト昔ト異ナレリ（一）昔ハ年ノ凶歉ニ遭ヘハ非農民モ農民ト共ニ苦シメリ其理由ハ（イ）一方ニハ「田舍ヲ頼メル」職業多ク非農民ノ數少クシテ其相互間ノ交易ハ盛ナルコト能ハス貴族ハ凡テ農民ノ利害ヲ共ニセリ（ロ）穀物ノ市價ハ其需要ノ彈力少キト交通機關ノ不備トノ爲常ニ地方的ニ飛騰シタリシカ爲消費者ノ受クヘキ惡影響ハ大ナリシナリ然ルニコノ二ノ理由ハ共ニ無クナリ年ノ豐凶ハ非農民ノ休戚テハ無クナリタリ殊ニ外國トノ貿易ヲ重シ遠隔地ノ運搬ヲ期スルニ至テハ往々ニシテ凶年ヲ喜フ者ヲ生シタリ（二）近代年ノ豐凶ヲ説ク者ニ全國ヲ通シテ判斷ヲ下ス風ヲ生シタリ農以外ノ生産品ノ増加竝(418)ニ穀物以外ノ農産物ノ増加ハ頗ル人ヲシテ凶作ヲ輕ク視ルニ至ラシメタリ中央集權ノ政治ニ於テハ國ノ注意ハ一地方ニ對シテ專ナル能ハス一二府縣ニ於ケル全部ノ損毛モ國トシテ言ヘハ一小部分ニ止ルコトアリ此等ノ變遷ハ共ニ凶作問題ノ解決ニ對シ大ナル影響ヲ與フヘキモノナリ殊ニ凶作ト穀物市價トノ關係ハ心ヲ潜メテ研究スル價値アリ地方的ニ穀價ノ昂低セシ時代ニハ幾分カ産額ノ減少ヲ補フニ代價ノ騰貴ヲ以テスルノ風アリテ一種保險ノ如キ作用ヲ爲シタリシニ今ハ殆其事ナクナレルナリ

　凶作ノ害カ未タ人力ヲ以テ滅絶スルコト能ハストスレハ政策ハ更ニ其不幸ナル結果ヲ救濟スルノ途ニ出テサルヘカラサルハ當然ナリ前ニモ言ヘル如ク文明ノ恩惠カ凶作ノ害ヲ輕減シ得タリト云ヒ得ヘキハ主トシテ消費者ノ側ヨリ觀タル場合ニシテ生産者ノ側ヨリ觀レハ寧其猛烈ノ度ヲ加ヘタリト云フヘシ凶作ハ單ニ農業純益ノ全部ヲ奪ヒ去ルノミナラス又折角蓄積準備セル資本ヲモ減少セシムルナリ土地ト勞力トヲ主トセシ昔ノ農業ニテモ夫食及種籾ノ缺乏ハ?農業ヲ繼續スルコト能ハサラシムルヲ以テ官ハ何ヲ置キテモ此二者ノ補給ヲ爲スヘキ必要ヲ認メタリキ況ヤ近代ノ如ク農業ニ於ケル資本ノ地位カ重要トナリタル上ハ其減少又ハ囘收ノ不能ハ忽ニシテ多數ノ農民ヲシテ窮民ト爲ラシムルモノナリ工業ニ於テハ資本迄モ減少スルカ如キ損失ハ少ク殊ニ災害ノ多クハ偶發性ノモノナリ尤農業ニ於テモ僅少ナル場合ヲ除クノ外凶作ニ因リテ資本ノ全部ヲ喪失シ盡スト云フコトハ無シ土地ハ固ヨリナリ肥料ノ如キモ其一部分ハ其效力ヲ翌年ニ殘スナリサレト年ニ一度ハ囘收スヘキ計畫ノ流通資本ヲ全然囘收スルコト能ハサラシムルハ殆資本ノ效果ノ大部分ヲ奪フモノナリ殊ニ固定資本ニ至リテハ任意ニ之ヲ撤囘シ變形スルコト能ハサルヲ以テ少クモ其一年間ハアレトモ無キニ同シキナリ故ニ予カ所見ヲ以テスレハ今後ト雖農業ノ平穩ナル繼續ヲ困難ナラシムルモノハ恐クハ凶作ナラン假令平年ニ於ケル純益歩合カ今ヨリ遙ニ良クナルトモ十年二十年ニ一度發現スル凶作ノ害ヲ免レシムル能ハスハ猶農業ハ國民ヲシテ安頓シテ從事セシメ得ヘキ職業ニ非サルヘシ數十年間ヲ平均シタル純益ハ相應ナリトシテモ此ノ如キ不時ノ純益ノ減少資本活動ノ休止ハ殆農業ノ經濟ヲ根本ヨリ?覆セシメ得ヘキナリ

(419)　昔ノ農業ヲ根據トセル國家ニハ凶作ノ救濟ハ殆其死活問題ナリキ其急ヨリ論スレハ國防ト擇フ所ナカリシナリ今日トナリテハ國民經濟ノ基礎ハ既ニ複雜ナリ例ヘハ租税ノ一點ヨリ見ルモ地租及農業所得税ノ如キハ歳入ノ一部分ニ止ル從テ此等トノ必要ハ有ルマシキカ如キモ農業ヲ以テ國家ノ爲必要ナル事業ト認メ宏大ナル地域ノ利用多數ノ國民ノ幸福カ繋ル所此ニ在ルヲ思フトキハ少クトモ昔ト同等ノ注意ヲ以テ凶作ノ豫防ト救濟トヲ畫策セサルヘカラス而モ經濟利害ノ多岐ニ亙リタル今ノ時勢ニテハ所謂荒政ノ研究ハ到底昔時ニ及フコト能ハス抑我國ニ於テ荒政ノ研究カ最秩序的ニ行ハレシハ�ｺ川時代ナリ必シモ内務行政ノ局ニ當ル者ノミナラス朝野共ニ此機運ノ普及セシコトヲ認ムヘキハ荒政書ノ飜刻ナリ日本人ノ著書モ中々多シ此等ノ書物ヲ見ルトキハ略當時ノ政策ノ範圍ヲ知ルコトヲ得ヘシ今極メテ簡單ニ其項目ヲ擧クレハ救荒本草ノ研究ノ如キハ別トシテ政策トシテ明ニ認メラレシモノ（一）ニハ租税ノ免除ナリ政府トシテハ非常ニ大ナル犠牲ナレトモ而モ大凶歉ニ對シテハ此ノミニテハ未タ以テ民ノ塗炭ヲ濟フニ足ラス（二）ニハ夫食種籾ノ補給ナリ進ミテハ更ニ救助小屋ヲ建テ窮民ヲ收容スルコトアリ民ノ獨立心ヲ害スルノ弊ヲ生セリ故ニ（三）農民ニ何カ臨時ノ職業ヲ與フル爲時トシテ不急ノ土木ヲ官營シ彼等ヲ雇人ルヽコトアリ又之ニ伴テ（四）穀物ヲ低價ニ賣渡スコトアリ明治三十八年ノ東北凶作ノ際ニモ現ニ上記ノ四方策ハ共ニ採用セラレタリシカ如シ今ノ政府ナラハ之ヲ行フモ必シモ困難ナラサラン昔ノ政府ハ主トシテ農民ヨリノ租税ヲ以テ其財政ヲ維持シツヽアルニ一方ニハ收入ノ源ヲ絶チ他ノ一方ニハ更ニ臨時費ノ大支出ヲ爲スハ容易ノ業ニ非ス故ニ六年ノ儲無キヲ急トイヒ三年ノ儲ナケレハ國ハ國ニ非ストマテ言ハレシナリ即チ此カ爲ニ平時不急ノ收斂ヲ爲スヲ敢テスルカ然ラサレハ大ナル救濟ヲ斷念セサルヘカラス故ニ或ハ一策トシテ官爵榮典ヲ懸ケテ富豪ノ義捐ヲ勸メタリシモ此ニモ亦限アリ此ニ於テカ人民ノ平時ニ於ケル共同貯蓄ヨリハ夙ニ奨勵セラレタリ義倉ノ制度ハ即チ是ナリ我邦ニ於テモ大化革新ノ後當時ノ先進國タリシ唐朝ノ文明ノ採用セラルヽヤ義倉制度ノ如キモ彼國ハ既ニ完備シテアリシ故之ヲ輸入シテ大寶令ニハ大體之ト同シキ法規ヲ設ケタリ先ツ人民ヲ上中下ノ上中下九級ニ別チ各級一定ノ率ヲ以テ共同ニ籾ヲ蓄積セシム之ヲ義倉穀ト謂フ(420)地方廳ハ此カ保管ノ任ニ當リ飢饉ノ年ニハ倉ヲ開キテ賑恤ス此時ハ全國ノ百姓悉ク義倉納粟ノ義務ヲ負擔シ相互ノ救濟ニ依リ獨立心ヲ害スルコト無クシテ凶年ニ備フルノ趣旨ナリシカ後年中下戸以下ノ者ニハ蓄積ノ義務ヲ免除スルニ至リ大ニ最初ノ自助ノ精神ニ反セリ一方ニハ官穀ノ救濟殊ニ助貸ノ法行ハレ政府ハ同時ニ之ヲ以テ收入ノ一財源ト爲セシ爲義倉ノ制ハ久シカラスシテ廢シタリ此時代ノ義倉ハ貸與ニハ非スシテ給與ナリ從テ永ク貯穀ヲ利用スルコト能ハス凶歉續發スルトキハ資力之ヲ支フルニ足ラス人民ハ納粟ヲ以テ増税ノ如ク考ヘ給與ヲ以テ之ト關係ナキ一種ノ恩惠ノ如ク考ヘ共同相助ノ精神ニ疎カリシカハ其行ハルヽコト久シカラサリシハ宜ナリ然ルニ日本ニテ義倉カ久シク中絶セシニ反シテ支那ニテハ歴朝此制度ノ研究ヲ怠ラス殆缺クヘカラサル一要項トナレリ尤名義ハ同シク義倉ト稱スルモ實質ハ時代ト共ニ多少ノ變遷アリ後代ノ荒政書ヲ見レハ三倉トイフ名目アリ所謂義倉社倉常平倉ニシテ三者ハ常ニ救荒政策ノ中堅ヲ形成セリ三倉ノ稱ハ分析的研究ノ行ハレテ後研究者カ付與シタル名目ニ過キス即チ凶荒ノ賑恤手段ヲ分類シテ三種ト爲シ（イ）極貧ノ者ニハ賑給シ（ロ）恢復スヘキ望アル者ニハ賑貸シ（ハ）現ニ資力アル者ニハ賑糴ストシテ三倉ノ用ハ各其一ヲ掌ルヤウニ見タルナリ常平倉ハ字ノ如ク穀物ノ市價ヲ平準スルヲ目的トスル貯穀倉ナリ地方的豐凶ニ基ク市價ノ亂高下ヲ防ク爲一定ノ基金ヲ備ヘ之ヲ以テ豐年ニ買入レタル穀物ヲ凶年ニ安キ價ニテ賣出スナリ主トシテ凶年ニ於ケル市街地又ハ非農民ノ救濟ナリ農民ハ大不作即チ全亡ノ年ノミ或ハ其恩惠ヲ受クレト時トシテハ寧此カ爲ニ不利ヲ受クルコト無シトセス日本ニテモ臨時此制度ヲ行ヒシコトアリ

　義倉ト社倉トハ本來同シモノナリ社倉ハ社即チ町村カ經營スル義倉ナリ義倉カ地方長官ノ所管ニ爲リテハ其恩惠ハ勢末端ニ及ハス故ニ町村ハ別ニ自治ヲ以テ共同貯蓄ノ法ヲ講セシナリ此點頗今ノ信用組合ニ似タリ社倉ト云フ名稱ハ大ニ古シサレト其カ賑貸ヲ以テ原則ト爲スニ至リシハ先ツ宋ノ朱晦菴ニ始ル日本ハ幸ニ�ｺ川時代ニ入リテ朱子ノ學最盛ニ行ハレシ爲自然ニ詳ニ朱子ノ社倉ヲ研究セシ學者多シ山崎闇齋以下此カ解説ヲ世ニ公ニシタル者亦少ナカラス中井竹山ノ社倉私議ハ近年ノ好著ニシテ朱子ヨリ得タルモノナレト社即チ町村ノ自營トイフ點ニ重キヲ置カス諸侯ノ政(421)廳ヲシテ之ヲ經營セシムルノ案ナリサスレハ賑貸ヲ原則トスル點ハ朱子ノ社倉ト似タルモ實ハ社倉ニハ非スシテ義倉ナリ義倉モ岡山水戸米澤等ノ各藩ニ行ハレタリキ又名ハ社倉トモ義倉トモ稱セス又基金基穀ヲ置カサルモ夫食種籾ノ賑貸ノ如キハ�ｺ川三百年ヲ通シ幕府領ニ行ハレタリ明治維新ノ際ニモ最初ノ仁政トシテ此制度ヲ全國ニ布ケリ救恤規則ノ類法令ノ數極メテ多シ是有名ナル備荒儲蓄法ノ前身ナリ備荒儲蓄法ハ正ニ亦一種ノ義倉ナリ賑給賑貸ヲ目的トシテ平年人民ヲシテ一定ノ金錢ヲ官庫ニ貯蓄セシムルコト良ク大寶令ノ義倉穀ト似タリ後其基金ヲ運用シテ更ニ賑糴ヲ爲シ常平倉ノ事業ヲモ兼ネントシタルコトアリ此頃ヨリ人望漸ク少ク明治三十二年廢止シ罹災救助基金法ハ之ニ代リテ出テタリ此法ノ目的ハ純然タル賑給ノミトナリ一方ニハ災害地地租免除法連年續發シタル社會的共同救濟ノ事業ニ至リテハ凡テ之ヲ國民ノ自營ニ委ヌルコトヽナリ政府ハ單ニ貯蓄ヲ人民ニ奨勵スルノミ此ノ如ク凶年救濟ノ平時計畫ハ先ツ以テ人民ノ自由ナル活動ニ一任スルコトヽナリ防衛ノ方法ノ稍退歩シタルハ事實ナリ信用組合ノ制度ノ如キモ最初此趣旨ヲ含ミテ勸誘セラレシモノナレト凶年ノ用意ヨリモ之ニ先チテ農民ハ平年ヨリ資本ノ缺乏ニ苦シムヲ以テ未タ其點迄考及フ能ハサルナリ唯追々凶作ノ危害ノ甚恐ルヘキモノナルコトヲ知ルニ至リ次第ニ此制度ヲ其防衛ニ利用スルニ至ルヘキナリ信用組合ニ在リテ穀物ヲ以テ貯藏スルハ無用ナリ運輸ノ方法略具ハリテ現物ノ缺乏ヲ虞ヒサル上穀類ハ金錢ヨリモ保存不便ニシテ利殖困難ナリ而シテ收穫物ヲ換價シ之ヲ共同貯蓄ノ用ニ供ストスレハ之ニ關聯シテ更ニ利用シ得ヘキハ昔ノ常平ノ制度ナリ市價低キ年ノ穀物ハ賣ラスニ之ヲ貯ヘ年々能フ限新穀ト代ヘテ以テ貯藏ノ損失ヲ免レ市價好況ノ時之ヲ賣リ轉シテ社倉ニ貯蓄ス今日ノ語ニテ言ハヽ即チ信用販賣組合ナリ獨逸ニ於ケル穀倉組合ノ如キモ全ク之ト同シ方式ナリ唯之ヲ凶年ノ防備ニ利用シ得ル點ニ至リテハ全ク日本支那ノ歴史カ教ヘタル好教訓ノ恩惠ナリトス

　

(425)　　　農業政策

　

　　　　　第一章　緒論

　

　農業政策ノ學ト農業經濟ノ學トノ間ニハ明確ナル區別アルヘキナリ農業經濟ノ學ハ農業者本位ナリ社會ノ事情ノ許ス限アラユル手段ヲ以テ農業者ヲ富スノ策ヲ研究ス之ニ反シテ農政學ハ經濟政策ノ學問ナリ國ヲ本位トス一國ノ農業ヲシテ如何ナル程度ニ迄國家ノ進運ニ貢獻セシムルコトヲ得ルカノ問題ヲ研究スルモノナリ

　現在ノ國家ハ極メテ能ク活動ス人ニテ言ハヽ口モ八丁手モ八丁ノ活動振ナリ其活動ノ結果タル國ノ法制ナルモノヽ力ハ理論上如何ナル事ヲモ爲シ得ルモノト認メラル從フテ農業政策學ノ研究ハ殆ト一國ノ農業問題ノ全部ヲ解決シ得ルモノト云フヲ得ヘシ併ナカラ時代ニ依リ國ニ依リテハソレ程迄ニ國ノ政策ノ力ヲ重大視セサリシ時代ナキニアラス如何ニ國家ノ意思ニテモ個人ニ對シテ其欲セサル事ヲ強フルコト能ハス又個人ノ希望ニシテ最多數、最有力ナルモノハ縱令政策カ之ヲ社會ニ向ツテ通辯セストモ自然ニ何時トナク行ハルヽナルヘク又偶々二以上ノ相容レサル國民中ノ希望カ同時ニ存在スルトキニ於テモ其利害ハ自然ニ良キ程ノ所ニテ折合フコトヲ得ヘキカ故ニ國トシテハ特ニ自ラ之カ仲裁者トシテ其間ニ臨ム迄モナシト考ヘ唯一個人ノ力ニテハ到底實行スルコト能ハサル事業例ヘハ軍備又ハ全國ヲ貫通スル大道路、貨幣ノ鑄造、度量衡ヲ定ムル事等ノ如キモノタケヲ國家ニ引受ケテ貰ヒサヘスレハ其外ノ經濟問題(426)ニ付テハ何モ政策ノ厄介ニ爲ラサルモ可ナリトイフカ如キ考ヲ一般ニ抱持シタル時代モアリキ國モアリシナリ國ノ政策ニ對スル斯ノ如キ態度ヲ名ケテ學者間ニテハ自由主義ノ經濟論トモ云ヒ又經濟上ノ天然調和論トモ云ヘリ

　併ナカラ錯雜ニシテ且勘定ニ困難ナル甲乙丙丁等ノ希望ハ果シテ論者ノ説ノ如ク捨テヽ置クモ自然ニ適當ナル結論ニ落著スヘキモノナリヤ假ニ又落著スルモノトスルモ其動搖ノ際ニ迷惑シ難義スル者ヲ生スルカ如キ事ナキヤ又更ニ一歩ヲ退キテ其通リ簡單ニ定マリ得ルモノト假定スルモ多數ノ個人的希望ノ總勘定カ果シテ一國トシテ最モ希望スヘキ經濟上ノ方針ニ合スルヤ否ヤ是レ又大疑問ナリ是等ノ問題ニ對シテハ總テ否ト答ヲ爲ス者段々多クナリ行クカ如シ從フテ國ハ別ニ現代ヲ超越シタル立場ヨリ一國ノ經濟生活ノ方針ヲ決定スルヲ至當トスト云フ説ハ一般ニ承認セラレ各個人モ亦實驗上銘々ノ押問答ノミニテハ到底相反スル利害ノ調和ヲ望ミ難キコトヲ悟リ國トイフ最有力ニシテ且最親切ナル第三人格ヲ頼ミ出來得ルナラハ各自ノ希望注文ヲ達セント努ムルニ至レリ而シテ一方ニ於テハ國家ノ獨立ノ判斷ト云フモ要スルニ國民總體ノ滿足又ハ幸福ヲ期スルヨリ外ニ何等他ノ目的アルニ非サルカ故ニ國ハ能フ限リ各方面ヨリ異ナリタル希望注文ヲ聞合セテ之ヲ集合シ以テ其政策ノ方針ヲ決定スルコトヽ成ルナリ注文ト云ヒ希望ト云フ以上ハ要スルニ未タ國民ノ全部若クハ一部カ現在ノ?態ニ滿足シ居ラヌコト語ヲ換ヘテ言ヘハ現在?態カ完全ナラス從テ改良ノ餘地アリトイフコトヲ意味シ國ノ立場ヨリ言ヘハ尚進歩スヘキ將來アリトイフコトニ歸著スルナリ

　國カ其農政ノ大方針ヲ決セントスル際ニハ何レノ時代ニテモ何レノ國ニ於テモ常ニ國民中ヨリ二ノ異リタル希望二ノ相反スル注文ノ聲ヲ聞ク其一ハ農産物ノ價高シ故ニ今少シ安ク買ハルヽ樣ニシテ貰ヒタシトイフ注文ナリ他ノ一ハ農産物ノ價安クシテ利益尠ナシ今少シ高ク賣レル樣ニシテ貰ヒタシトイフ希望ナリ後者ハ説明スル迄モナク農民中ヨリ起ルモノニシテ概シテ言ハヽ田舍ノ聲ナリ前者ハ主トシテ市街ノ居住者ヨリ發スル聲ニシテ所謂生活困難ノ痛マシキ叫ナリサテ此二ツノ叫聲ハ何レモ一方ノミヲ聞ケハ共ニ甚タ尤ニ聞ユ國ノ爲ニ忠誠ノ情ヲ抱ク者ハ之ニ對シテ何トカ處置シテヤラネハ止ミ難キ感ヲ起スヘキモノナリ日本ニテモ前代ノ善政、美政トイフモノハ何レモ是等ノ希望ニ耳(427)ヲ傾ケ時トシテハ前者ノ爲ニ又時トシテハ後者ノ爲ニ其時相應ノ法令ヲ施行シタルコトヲ意味スルナリ而シテ此二種ノ希望ハ一見氷炭相容レサルモノヽ如クナルカ右ハ果シテ假令國家ノ權力ヲ以テスルモ終ニ妥協セシムルコトヲ得サル衝突ナリヤ否ヤ是レ一ノ問題ナリ如何ニ安キ程宜シト云フモ只ニテ呉レト云フカ如キ蟲ノ善キ者ナク又如何ニ慾張リノ百姓ニテモ有ルタケノ金ヲ皆ヨコセト云フ者ハアラス時ト場合ニ依リ一定セサルモ其間自ラ雙方ノ讓歩シ得ル點アル筈ナリ況ヤ政策カ世話ヲ燒クナラハ容易ク調和シテ折合フ所アルヘキ筈ナルニモ拘ラス殆ト何レノ時代ニモ最早滿足也ト云ヒテ引取ルカ如キコトハ雙方共ニ無シ是非共唯一テ無クテハナラヌ相場ニ對シ甲ハ高シト叫ヒ乙ハ安シト叫フコト?ナリ是レ果シテ何レカ正當ニシテ何レカ無理ナルカ農政ノ眼目ハ實ニ此面倒ナル利害衝突ノ問題ヲ解決スルニ在リ之ヲ此學問研究ノ出發點ト爲ス

　經濟ノ學問ニテハ右ノ「安カレ黨」ヲ名ケテ消費者ト云ヒ「高カレ黨」ヲハ生産者ト云フ此二者ハ總テノ職業ニ付テ必存スル表裏ノ二面ナリ一切ノ生産ハ消費ヲ目的トスルモノナルカ故ニ生キルヲ人間ノ目的ナリトスレハ消費ハ一切ノ經濟行爲ノ根源ト稱スルモ可ナリサテ右ノ二ノ分類ニ付テ前ニ田舍ノ聲、市街ノ聲ト言ヒシカ成程市街ハ農産物ノ消費者ノ集合地ナルニハ相違ナキモ都會ト田舍トヲ以テ此區別ノ目標ト爲スハ少シク粗キニ過クルノ嫌アリ田舍ニモ澤山ノ消費者アルナリ元來消費者ト云フ中ニモ色々ノ種類アリ一々ノ農産物ニ付テ言フナラハ農業者ノ中ニモ純粋ナル農産物消費者尠カラス例ヘハ當節ノ養蠶家カ米ヲ買ヒテ食フカ如キ梨、林檎等ノ果實ヲ村落ノ中央ニテ賣ルカ如キ又ハ耕作者ノ多數カ牛馬ヲ買入ルヽカ如キ農業者自身モ隨分農産物ノ大ナル消費者ナリ又生産者自身ト雖モ同時ニ一種ノ消費者ナリ是レ農業ノ一ノ特色ナリ紺屋ノ白袴ナトヽ稱シ他ノ生産業ニ於テハ自ラ其生産物ヲ消費スルモノ少ナケレト多クノ農家ハ之ニ反シ其生産物中ヨリ日常ノ自家用料ヲ引去リテ其殘部ヲ賣出スナリ即チ生産者兼消費者タリ唯二者ノ中消費者トシテノ希望ヨリモ寧ロ生産者トシテノ希望ノ方カ常ニ優越ナリトイフニ過キス此現象ハ自家用ノ餘剰カ段々増加スルニ從テ愈旗幟鮮明トナルナリ故ニ消費者ヲ分テ（一）純消費者ト（二）生産消費者トノ二ト爲サヽ(428)ルヘカラス此外日本ニテハ今一種類ノ消費者アリ之ヲ假ニ（三）臨時的消費者ト名クルヲ得ヘシ主トシテ小作農其他ノ小農ノ間ニ見ラルヽ者ナルカ其年ノ内ニ入用ノ事アルコトヲ知リツヽ一旦ハ生産物ヲ賣拂ヒ後ニ復タ買フ者ナリ此種類ニ屬スル消費者ハ一時ハ高カレ黨ニ籍ヲ置クモ其後ハ安キヲ希望スル者ノ仲間ナリ又田舍ニテハ概シテ下落ヲ歡迎スル聲ヲ聞カスト雖モ之ヲ以テ直ニ純消費者ノ存在ヲ否認スヘキニ非ス又都會住者ノ中ニテモ往々ニシテ「穀物カ高イヤウテ無ケレハ景氣宜シカラス」ト云フコトヲ耳ニス小賣商人、旅人宿、料理店等殊ニ農業者ヲ相手トスル輩ニ在リテハ農産ノ騰貴ト共ニ之ト交易スル諸財貨ノ市價ヲモ騰貴スルノ理法ヲ能ク呑込ミ結局彼等ニ取リテハ農産物ノ騰貴ハ自分收入ノ増加ヲ以テ之ヲ無ニスルコトヲ得ルカ故ニ單ニ取引増加ノ恩惠ノミヲ受クルヲ得ルヲ知レルナリ實際農産物ノ騰貴ノ最大ナル影響ハ之カ延イテ他ノ種類ノ物價ノ引上ヲ伴フ點ニ在リ茲ニ於テカ所謂純消費者モ再ヒ之ヲ細別スレハ又二種ト爲スコトヲ得一ヲ（イ）交換消費者ト云ヒ他ヲ（ロ）購買消費者トモ云フヘキカ後者ハ一定ノ金銀收入ヲ以テ消費品ヲ悉ク購入スル者ナリ其大部分ヲ占ムル者ハ各級ノ勞働者、資本家ナリ此徒ト雖モ農産物ノ騰貴ニ伴フ生活費ノ増加ヲ理由トシテ報酬ノ増加ヲ要求シ其望ヲ達シ得サルニ非サルモ前者ノ如ク敏活ニ其變動ニ應スルコトヲ得ス又前者ト雖モ際限モナク消費品ノ騰貴スル傾向ニ對シ無頓著ナル能ハス一國又ハ一地方ノ物價ノ一般的ノ騰貴ハ必ス外部ヨリノ競爭勢力ヲ誘フモノニシテ一タヒ思ヲ國際交易ノ問題ニ及ストキハ他ノ事情ノ同シキ限ハヤハリ亦農産物モ安ク之ニ交易スル者モ亦從テ安キ方結局ノ好都合ナリ要スルニ消費者ニシテ「高カレ黨」ニ裏切スルカ如キハ一時ノ變態ニ過キサルモノニシテ消費者トシテノ利害ニハ程度ノ差コソアレ總テ皆生産物ノ安キヲ望マサルヘカラサル筈ナリ

　サテ右ノ生産者ト消費者ト二種ノ希望ノ牴觸ハ到底希望者ノ頭數ヲ計算シ其少キ方ニ我慢セシムルト云フカ如キ簡單ナル方法ヲ以テ解決スルコト難シ第一少數者ハ壓迫スヘキモノナリト云フ前提カ不當ナリ昔カラ農業者ハ國民ノ過半數ヲ占ムルモノナルカ故ニ其希望ハ之ヲ容レサルヘカラスト云フ議論ハ往々ニシテ行ハルヽモ最早今日トナリテハ(429)米ナラ米ノ一品ニ就テ言フモ果シテ其市價ノ高キヲ希望スル者カ低キヲ希望スル者ヨリモ多キカ否カ頗ル覺束ナクナリタリ況ヤ其他ノ農産物ニ至リテハ何レモ生産者ノ數ハ思ノ外尠ナシ是レ當然ノ事ナリ近世生産技藝ノ進歩ハ能ク一人ノ勞働ヲ以テ數百人、數千人ノ需要ニ應セシムルヲ以テ其目途トスルモノナレハナリ且ヤ今後ノ人口増加ハ其大部ヲシテ是非共農以外ノ生産ニ向ハシムルニ至ルヘキヲ以テ多數ヲ楯ニ取リ相手ヲ抑ヘントスル議論ハ所謂自繩自縛ナリ殊ニ肉類ノ如キハ我國ニ於テハ極メテ少數ノ農家ノ生産ニ屬ス食肉用牛、豚ノ如キ之ヲ飼養スル者實ニ僅少ナリ蔬菜、果實、茶、楮ノ如キモ亦然リ「高カレ黨」ハ常ニ少數黨ナリ然レトモ其爲ニ消費者ノ注文ニ從フ能ハサルナリ是等農産物ノ騰貴ハ所謂生計困難ノ聲ヲ喚起シ其低落ハ又農業不振ノ聲ヲ喚起シサリトテ同所ニ止マレハ雙方ヨリソレ以上ヲ希望シ注文シ結局農政ノ研究者ニ向ツテ極メテ六ツカシキ問題ヲ提供スルコトヽ成レルナリ

　

　　　　　第二章　農産物ノ消費

　

　農業ニ於ケル消費ノ問題ノ最モ著シク他ノ生産業ト異ナルハ其産物ノ大部分カ全國民共通ノ需要品ナリト云フ點ニ在リ米穀カ生活ノ根本ニシテ人ノ一日モ缺クヘカラサルモノナリト云フ事實ノ上ニ打立テラレタル尊農説ハ極メテ夙クヨリ日本ニ存シタリ古代ニ在リテハ農ハ勿論最重要ナル生産ナリキ植物、動物ヲ養殖シテ之ヲ人生ノ需要ニ供スルコトハ人類文明ノ第一關門ナリ天然ノ恩惠カ動物中特ニ人類ノミニ施サレタルハ農業ヲ以テ初トス所謂農ハ國ノ本ナリトノ格言ハ感情ヲ離レテ見ルナラハ其根據全ク茲ニ在リ新シキ意味ノ國家即チ地ニ據リ國ヲ爲ス社會ハ農業ノ始マル以前ニハ無カリシナリ從テ國カ今日ノ　　状態ニ迄發展スル爲ニハ農ノ力大ニ之ニ與レルナリ農業國本説ニ伴ヒテ貴穀説ハ起レリ此説ヲ導キタルハ過去ニ於ケル飢饉ノ苦キ經驗ナリ空氣ヤ水モ人ノ必要品ナレトモ飲水ヤ空氣ニハ凶作ナルモノナシ之ニ反シ食物缺乏ノ困厄ハ過去二百年ノ間ニモ吾祖先ハ?之ヲ經驗シタル也此恐怖ハ慥ニ吾々ノ血ノ中ニ(430)遺傳シテアリ即チ缺乏其自身ヨリモ先以テ缺乏ノ懸念、困厄ノ豫想カ消費者ノ心裡?態ニ大ナル影響ヲ與フルヲ見ル

　此點ニ關シテハ學者ノ所謂需要ノ彈力（Elasticity of demand）ヲ説明スルノ要アリ不急ノ消費物品ハ市價ノ高低ニ應シテ需要ノ量ニ著シキ増減アリ即チ需用ニ彈力多キナリ其一例ハ奢侈品ナリ價高クナレハ其消費ヲ見合ス者ヲ生ス又代用品アル品物ナラハ之ヲ代用スヘシ必需品又ハ代用品ナキ品物即チ彈力ニ乏シキ物件ハ其缺乏ニ伴フ供給ノ減少ハ市價ノ騰貴ヲ誘フコト遙ニ比例以上ナリ從テ將來ノ缺乏ノ豫測ハ既ニ市價ノ引上ヲ誘フニ充分ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ通例ノ取引關係ニ於テモ賣方ノ勢力ハ常ニ優越トナリ易ク買主ニハ常ニ一分ノ弱味アリ殊ニ市街ニ居住スル消費者ノ地位ハ最モ風聲鶴唳ノ弊ヲ受ケ易シ何トナレハ既ニ彈力少キ以上ハ市價カ安クナレハトテ新ニ著シキ需要ノ増加ヲ誘フヘキ餘地ナク從テ供給ノ増加ハ同樣ニ市價ヲ低落セシメ竟ニハ所謂豐歉出來過キノ災ヲモ惹起スヘキ理窟ナレトモ實際ハ大都會ノ住民ニハ此機會ヲ利用スルノ手段ニ乏シ全體吾國ナトニハ消費者ノ間ニ未タ充分ニ消費者氣質トモ云フヘキモノヲ養成セス例ヘハ米ニ付テ言フナラハ此五六十年前迄ノ米供給者ノ主ナル者ハ今日ノ所謂士族ナリ俸禄ヲ米ニテ支給セラレ自家用食料ノ殘部ヲ賣却シテ大小ノ財政ヲ計畫スレトモ彼等ニハ貯藏値待トイフカ如キ掛引極メテ少カリシ即チ此方面ヨリ來ル供給ハ安全ニシテ且豫測スルコトノ出來得ルモノナリ都會ニ住スル消費者ハ主トシテ此供給ニ依リテ養ハレタリキ其他ノ供給者トシテ勿論之ヲ生産スル農家アレト今日トハ異ナリテ昔ノ農家ハ殆ト一ノ例外ナク生産者兼消費者ナリキ農家ニ於テハ士族、町人カ米穀ヲ貯藏セサルト正反對ニ少ナクモ翌年分ノ種籾ト食料トヲ貯藏スルヲ以テ良農ノ理想トセリ從テ其貯穀カ缺乏スレハ甚シキ不安ヲ感シタリキ而シテ今日都會ノ消費者ヲ構成スル者ハ是等ノ從來穀物ヲ過重視シタル農業者ノ子孫、禄米ノ制度ニ離レタル武家ノ子孫及久シキ間安全ナル供給ヲ受クルニ馴レ而モ之ヨリ離レタル舊町人ノ子孫ナリ是等ノ人々カ飢饉ノ歴史ヲ深ク腦裏ニ印シテ而モ時々ノ不安ヲ禁スル能ハサル　　状態ハ頗ル小賣價格ノ引上ニ好都合ナリ

　更ニ上古ノ農村ニ遡リテ見レハ所謂自耕自織ノ生計方法最モ完全ニ行ハレ如何ナル貴人ニテモ皆家々ノ田園ヲ有シ(431)タリ即チ所謂口分田ノ制度ナリ此?態ハ程ナク僅少ナル例外ヲ生シタルモ猶ホ全國ノ農業ハ極メテ同樣式（Homogeneous）ナリキ此傾向ハ今日ニ至リテモ存在ス北海道ニモ東北ニモ中國九州ト同シク水田ヲ作ルコト海岸ノ低地ニモ山間ノ傾斜地ニモ等シク米ヲ栽培スルコト皆其證跡ナリ之ニ加フルニ國民ノ數ハ國土ノ面積ニ比シテ夙クヨリ多カリシ故ニ箇々ノ農家ハ殆ト皆僅ニ自ラ給スルタケノ小農ニシテ而モ其生産物ノ半分ヲ割キテ領主ヲ養ハサルヘカラサリキ此點ヨリ見ルモ所謂百工ヲ養フヘキ餘裕カ如何ニ少カリシカヲ知ルヘシ維新前全國ノ大部ニテ行ハレシ地租ハ一種ノ生産歩合税ナリシカ故ニ其結果各個人ヲシテ衆ニ抽テヽ農法ヲ集約ナラシムルコト能ハサリシモ明治ニ成リテ此制度正ニ廢レ地租ハ一般ニ定免即チ定額税トナリ茲ニ始テ自由ナル生産ヲ爲スニ至リシナリ最近四十年間ノ農産殊ニ米ノ生産増加ハ極メテ著シキモノアリ内ニ在リテ之ヲ促シタルハ全ク右ノ如ク農業者ノ經濟的行動カ著シク自由トナリタルノ事實ナリ而シテ更ニ又外部ヨリ之ヲ誘ヒタル一原因アリ市街ノ居住者ノ消費即チ是ナリ

　近世ノ消費カ農業ノ進歩ニ助力シタルコトハ意外ニ大ナリ例ハ肉食ノ風ナリ三四十年前迄ハ少クモ日本人ノ大部分ハ牛ヲ食フコトナカリシ又鷄肉ノ消費モ極メテ僅少ナリシナリ然ルニ一旦其需要増加ノ傾向ヲ示スヤ食料家畜ノ増殖ハ忽ニシテ以前ニ數十倍セリ次ニ果實、蔬菜類ノ生産増加モ全ク市衙地ノ爲ト稱シテ可ナリ果實ノ類ハ村落ニテモ之ヲ消費セサルニハアラサルモ割合甚タ少ナシ所謂圃藝業（Market gardenings）ノ發達スル場所ハ常ニ大都會ノ郊外ナリ東京ニ於ケル練馬大根、三河島菜、京都ニ於ケル壬生菜、竹ノ子ノ類皆然リ又其生産地ニシテ交通ノ便ニ乘シテ起リシモノモ少カラス岡山市附近ノ水蜜桃ノ如キ瀬戸内諸島ノ桃夏蜜柑ノ如キ又山城ノ南部駿遠地方等ノ柑橘類東北地方ニテハ庭坂ノ梨、山形ノ櫻實、弘前ノ林檎ノ類ナリ此等ノ消費者ハ殆ト皆都人ナリ都會ニ於ケル所謂水菓子屋ノ陳列品ハ僅々十年ノ間ニ著シク面目ヲ改メタリ「バナヽ」ノ如キ生ノ「パインアップル」ノ如キ昔ハ非常ナ珍品ナリシモ今ハ都會ニ來リテ中以下ノ市民迄カ之ヲ消費セリ而モ田舍ノ人ハ之カ爲ニ金ヲ拂フコト極メテ少額ナリ今年ノ如ク米カ高クナレハ葡萄ヤ桃ナトノ市價カ急ニ反比例ニ低落スルヲ見テモ此等ノ果物ヲ需要スル人カ米價ノ高キニ因リテ(432)打撃ヲ受クル階級ニ屬スルコトヲ知ルナリ此等ノ特種農産物増加ノ結果トシテ一部ノ地方ニ於テハ畑地ノ價ノ方カ田地ヨリ高クナリ水田ノ耕作ニ在リテハ比較的退歩シタルモノ無キニ非ス此外ニ維新以來海外ノ消費即チ蠶、茶等ノ輸出ハ更ニ又畑地農業ノ發達ヲ促セリ農業ニ於テ水田ノ耕作ヨリ以上ノ收利アルモノヲ發見シタルハ實ニ明治年間ニ始マリシモノナリ尚此序ニ述ヘタキハ甘藷ノ事ナリ甘藷ハ最近ノ輸入作物ノ一ニシテ日本ニ於テハ百五十年程ノ歴史ヲ有スルノミ而モ初メテ之ヲ内地ニ栽培セシハ飢饉ノ用意、米穀ノ代用品トスルノ目的ニ過キサリシナルニ今日ニ於テハ最早完全ナル商品ト化了シ居レリ

　米ノ生産モ勿論増加シタルニハ相違ナシ左レト前掲諸種ノ作物ト比較シテ稍ヤ進歩ノ度劣レリ其一ノ理由ハ即チ米作ヨリモ尚有利ナルモノカ追々ニ現出シ來リシ爲ナレト其他ニモ大ナル理由アリ米ノ如ク需要ノ彈力ニ乏シキ品物ハ其生産ノ増加カ少シニテモ毎年ノ需要高ヲ超ユルハ農業者ニトリテ非常ノ不利益ナルコト前述ノ如シ國内ノ米産ニシテ常ニ若干ノ餘分ヲ生ストセハ之ヲ輸出用ニ供シテ利ヲ見ルヘク必シモ生産ノ増加ヲ怖ルヘキ理由ナキニ似タレト而モ國内市價ノ趨勢ハ常ニ輸出ヲ妨クルノ結果ヲ見ルナリ明治年間ニ於ケル米ノ輸出ニ付テハ餘程面白キ歴史アリ開國ノ初ニハ國内食料ノ缺乏ヲ惧レテ政府ハ其輸出ヲ禁止セントセリ而モ外國トノ關係上其目的ヲ達セス僅ニ輸入無税トイフコトヽシテ缺乏防止ノ策ヲ採レリ免税ノ制度ハ日露戰爭前迄繼續シタリシモ明治ノ初年ニハ輸入ハ少ナクシテ寧ロ輸出ノ方多カリシ爲十分ニ其效果ヲ生セス之ニ反シ近年ノ如ク輸入税ヲ課シテ多少其輸入ヲ不便ニセントスルニ至リテ却テ輸出ハ減シ輸入ハ激増シタルナリ併シナカラ輸入ノ増加輸出ノ減少ノ事實ヲ以テ直ニ吾國ニ於ケル米生産ノ進歩セサルコトヲ推測セントスル者アラハ誤ナリ又近年内國米作ノ増加セサルヲ見テ以テ直ニ日本農業ノ衰微ヲ悲シムカ如キハ言フ迄モナク甚シキ不道理ナリ米ノミカ農業ニアラサレハナリ農産物ノ品目ハ近來著シク増加シツヽアリ農業進歩ノ度ヲ明ニスル爲ニハ統計年鑑ニモ列擧セラレサル雜品ヲモ眼中ニ置カサルヘカラス要スルニ農産物ノ總收入ノ増減ニ依ラサレハ農業ノ盛衰ヲ決スルコト能ハサルナリ凡ソ米麥ノ類ハ凶年ノ準備、凶年ノ爲ニスル貯藏ヲ除ク(433)外ハ略ホ一年ノ需要ヲ目安トシテ之ヲ生産スルハ自然ニシテ又至當ノ事ナリ昔ノ日本人ハ貯藏ノ必要ヲ過重視シタルカ故ニ生産過多ヲ悦ヒタレトモ若シ進ンテ國内又ハ國外ノ消費ヲ促進シ需要ヲ増加シ得ヘキ産物ナラハ其方法ヲ講シ手段ヲ盡シテ後始メテ生産ノ増加ヲ望ムコトヲ得ヘク如何ナル場合ニモ需要増サヽルニ生産ノ増スコトナシ穀物ニ就キテ言ハヽ輸出ハ勿論消費増加ノ一手段ナレト假ニ外國ヨリ高キ爲輸出カ困難ナリトスレハ市價ノ騰貴ハ必シモ著シキ生産ノ増加ヲ誘フコト能ハサルハ當然ナリ之ニ反シ工業ノ原料タル農産物ノ如ク需要ノ彈力アリテ安ケレハ買手ヲ増シ得且加工シ又ハ加工セスシテ貯藏スルコトヲ得ル物ニ在テハ毎年ノ需要高ノ必シモ右ノ如ク嚴重ニ年産額ヲ束縛セス要スルニ米ハ最モ早ク需要ノ極限ニ達シ易キ農産物ナリ

　米ノ消費カ最近二三十年間ニ於テ頗ル増進シタルコトハ事實ナリ昔ハ一反歩當リノ生産額モ少カリシ�ｺ川時代ノ地方《ヂカタ》ノ書物ニハ所謂｜石盛《コクモリ》十五ヲ以テ普通ノ上田ト爲セリ石盛十五トハ一反ノ産米一石五斗ノコトナリ是レ大寶令時代以來殆ト變セサル米ノ通例産額ナリ或學者ノ説ニ依レハ昔一反歩ヲ三百六十歩トセシハ一人一年ノ食料ヲ基トセシナリト云ヘリ成程考ヘテ見レハ維新前迄モ一人扶持ト云ヘハ一石八斗即チ昔ノ一反ノ收穫ニ相當スルナリ石盛十五トイフ率ハ勿論課税ノ標準トイフニ止リ實數ニ於テハ一反歩當リノ産米ハ夙クヨリ増加シ居リシモノナレトモ之ヲ盛ニ肥料ヲ施用スル現今ニ比スレハ亦遙ニ及ハサリシナリ然ルニ此事實ハ統計ノ上ニ現ハレ居ラス統計表ノ一反歩當リノ産額ハ依然トシテ一石八九斗ヲ上下シ居レリ農民ハ永年ノ慣習上米ノ産額ヲ過少ニ報告スル傾アリ併シ事實ニ於テ一反歩二石三四斗約六俵ヲ生産スルハ決シテ上田ニ非ス中等ノ田ニテモ珍シカラヌ例ナルヲ以テ今日ノ所ハ先ツ平年ノ米産額ハ六千萬石ト見テ差支ナシ此外ニ於テ開墾面積モ漸次ニ増加シ來レリ年々水害荒ノ多キニ拘ラス米ノ耕地ハ漸次ニ増加シツヽアルナリ

　サテ飜テ米ノ消費ノ側ヨリ見ルニ人口ノ増加ハ確ニ不變ノ需要増加ナリ現在ノ日本ニ於テハ毎年千人ニ付十二三人ツヽ米ヲ食フ大人カ増シツヽアリ約六十年ニシテ人口ハ倍加スル譯ナリ從ツテ今日ノ如キ消費ノ割合ヲ以テ進ムモ六(434)十年目ニハ倍額ノ米ヲ要スル筈ナリ之ニ加ヘテ猶一ノ看過スヘカラサル事實ハ米食率即チ各人平均消費高ノ増加ナリエッゲルト〔五字傍線〕Eggert 氏ハ今ヨリ二十餘年前ニ米カ日本人總體ノ食物ノ約五割五分ヲ占ムルコトヲ測定シタリ然ルニ其後ノ二十年間ニハ我國ハ急激ニハ非サルモ而モ顯著ナル變遷ヲ經タリ其一ハ都會及準都會ノ非常ナル増加膨脹ナリ前後ノ統計表ヲ比照スレハ分明ナル如ク人口二萬以上ノ町村ハ盛ニ増加シ來レリ次ニ生活程度ノ上進殊ニ衣食ニ對スル趣味ノ變遷ハ種々ナル雜食慣習ヲシテ殆皆今ハ昔ノ歴史ニ化セシメタリ例ヘハ最モ普通ナル引割麥飯ノ如キモ今日猶行ハルトハ言ヘ段々ニ其混合ノ割合ヲ減シタリ兵營ニ於テハ力メテ麥ヲ食フ慣習ヲ保存スル由ナルモ其麥飯ハ米多キ麥飯、脚氣豫防ノ麥飯ニシテ全體ヨリ言ヘハ寧ロ米消費ノ割合ヲ多クスル原因ナリ人ノ最モ厭フ生活タル監獄ニ於テモ同樣ナリ又市價カ安クシテ麥ノ方ニ近キ下等米ノ輸入モ追々米食慣習ヲ誘フノ原因タルヘシ今日ノ如ク白米ノ調合カ盛ニナリテハ南京米ヨリ普通ノ米食ニ移ルハ極メテ容易ナリ斯ノ如キ原因ハ交通上ノ刺撃又ハ生活趣味ノ感染トイフカ如キ事實ノ絶エサル國ニ於テハ今後尚進ムヘキ傾向ヲ有スルモノト云ハサルヘカラス今日ノ普通ノ計算ニテハ男女老幼ヲ通シ一人ノ平均消費高ヲ一石ト爲セリ尤モ此中ニ酒、菓子等ノ原料ヲモ含ム故ニ若シ余カ想像シタル如ク米ノ年産額カ六千萬石内外ナリトスレハ少シク餘ル理窟ナルニ其實年々持越米ノ蓄積セラレ行ク形跡ハ認メラレス是レ恐クハ平均消費高一人一石トイフ推定ノ誤謬ナルヘシ一人一石トイフ計算ハモト公稱年産額ノ五千萬石ヲ以テ基礎トシタルモノナレハ要スルニ米ノ需要ノ彈力、供給ノ彈力共ニ最モ微弱ナルモノナレト雜食歩合ノ増減ハ尚些シク之ヲ左右スル餘地アリ唯市街地居住ノ消費者即チ純消費者ニ至テハ如何ナル缺乏ノ年ニモ其平年ノ需要額ヲ節約スルノ餘地乏シキカ故ニ國民中ニ此部分ノ増加ストイフ事實ハ愈以テ農産物市價ノ變動カ一國經濟生活ノ上ニ及ス影響ヲ痛切ナラシムルモノナリ

　

(435)　　　　　第三章　農産物ノ市價

　

　消費者カ農産物ニ對シテ支拂フ代金ハ言フ迄モ無ク生産者カソレヨリ受クル所ノ收入即チ所謂百姓ノ手取ト同シモノニアラス此二者ノ間ニハ常ニ著シキ距離アルノミナラス二種ノ金額ノ高低モ亦同一ノ比例ヲ繼續スルコト無ク時々ノ?況ニ伴ヒテ種々ナル分配方法ハ此間ニ行ハルヽナリ而シテ生産者ノ側ニ於テ高キコトヲ望ムトイフ市價ハ彼等ノ賣價ノコトニシテ消費者側ノ安キコトヲ希望ストイフ市價ハ又彼等ノ買入ノ價ヲ意味スル也故ニ消費者カ市價騰貴ノ責任ヲ生産者ニ負ハシムルコトヲ得サル場合ハ往々ニシテアリ從ツテ生産者カ消費者側ノ讓歩我慢ヲ求ムルニ非サレハ其利益ヲ伸張スルヲ得サルカノ如ク考フルモ亦謬ナリ小賣價格ノ騰貴ハ通例〔二字右○〕農業ノ收入増加ニ伴フ結果ナリト云フノミヲ以テ農業者カ常ニ小賣價格ノ引上ヲ歡迎スルカ如キモ當ヲ失ヘル考ナリトス農産物ノ市價ニハ距離ノ遠近ニ基ク地方的ノ相異アルト同樣ニ取引ノ種類ニ從フ數階段ノ差等アリ此差異ノ由テ來ル所ハ一ニハ取引數量ノ大小ニ在リ又之ニ伴フ手數ノ難易ニ在リ所謂卸相場、小賣相場ノ差ハ即チ是ナリ商人カ取引ノ爲ニ要スル手數即チ勤勞ノ上ノミヨリ考フルモ其囘數ニ應シテ彼等カ得分ヲ増加スヘキハ當然ナリ此外ニ商人側ニハ尚多クノ勤勞ヲ必要トス例ヘハ箇々ノ消費者ノ嗜好ヲ判斷スルコト嗜好ニ應スル分類ノ爲ノ勤勞ノ如シ之ニ加フルニ尚運轉資本ノ問題アリ小賣ニハ普通元金立換ノ期間長シ殊ニ日本ニテハ通帳掛寶ノ弊風アリ是レ其一ナリ次ニ嗜好ノ變遷其他ノ原因ニ基ク損失ノ準備アリ更ニ廣告其他ノ費用アリ加之農産物ノ消費殊ニ大都會ニ於ケル消費ハ別ニ著シキ費用ヲ要ス即チ運搬、貯藏、陳列、配達等ノ間ニ生スル品質ノ劣退ナリ動植物性ノ商品ニハ單純ナル流行ノ變遷以外ニ於テ腐敗等二因ル大ナル損失ヲ豫期セサルへカラス所謂「ローズ物」ノハネ出シニ基ク損失ハ中々多額ナリ商人ハ自家ノ勤勞ニ對スル對價ノ外此等ノ入費ヲモ口錢トシテ消費者ニ分擔セシムルモノニシテ消費者側ヨリ言ヘハ最初ノ生産者カ甘シテ其品物ヲ引渡ス(436)ヘキ値段以上ニ此タケノ餘分ヲ支拂フノ必要アリ又生産者ノ立場ヨリ見レハ彼等ハ消費者カ支出ヲ肯シタル代金中ヨリ商人ノ爲ニ此タケノ割引ヲ承引スヘク餘儀ナクセラルヽナリ

　次ニ所謂農産物ノ市價ノ高サニハ右ノ外尚一ツ生産者ノ與リ知ラサル部分アリ即チ運賃ナリ今日ノ取引慣習ニテハ多クノ場合ニ運賃モ商人カ一時立換ヘ置キ後日之ヲ消費者ニ分課シ元來何レノ地方ノ生産物ヲ以テ何レノ地方ノ消費ニ供スヘキカトイフ問題ハ我國今日ノ政策ニ於テハ一切之ヲ分配者ニ一任シテアリ而モ運賃ノ市價ニ於ケル地位ハ交通ノ便利トナリシ今日ニテモ決シテ其重要ノ度ヲ減セサルナリ何トナレハ交通方法カ手輕且廉價トナリシ事實ハ偶々之ニ相應スルタケノ遠方ヨリ品物ノ移動ヲ惹起スコトヽナリタレハナリ之ヲ市場ノ擴張 Extention of maeket ト云フ市場ノ擴張ニ付テハ別ニ述フヘキモ大體一ノ小谿谷ト隣ノ谿谷トノ有無相通ヨリ進ミテ府縣ノ如キ一地域内ノ自由ナル交易トナリ次ニハ境ヲ越エテ中央ニ集リ更ニ又各地方間ノ相互補充トナリ最後ニ至テ國際間ノ輸送ナルモノカ起ル是レ市場擴張ノ普通ノ順序ナリ

　以上ノ事實ヨリシテ先ツ茲ニ明白トナリシハ一ノ農産物ノ市價トイフ語ノ中ニモ賣値即チ生産者ノ手取ト買値即チ消費者ノ支拂トノ全ク相異ナレル二種アリテ其差率ハ時々ノ取引、懸引ノ如何ニ因リ極メテ動キ易キモノナル事即チ是ナリ商人ノ利得ハ苟モ今日ノ如キ貨物ノ分配方法ヲ必要トスル以上ハ其正當ナル存在理由ヲ承認セサルヘカラサルハ勿論ナリト雖モ此間ニ於ケル差率ノ決定ニ關シテハ必シモ一定ノ規律アル譯ニアラス從ツテ之ヲ分析シ批判シ取捨シ若クハ省略シ得ルノ餘地甚多キコトモ亦之ヲ認ムヘキナリ例ヘハ運賃ハ距離ニ伴フモノナリトスレハ其運送距離ノ短縮又ハ短縮ト同樣ノ效果ヲ生シ得ヘキ通路ノ改良更ニ能フヘクンハ賃率其他ノ費用ノ節約然ラサレハ輸送ノ爲ニ要スル日數ノ短縮是等ハ皆運搬ノ方面ヨリ二種ノ市價ノ差率ヲ少クシ得ル手段ナリ又流通資本ヲ少クスルニハ輸送ノ外貯藏、配達ニ要スル期間ノ短縮ノ如キ又廣告、注文取等ノ入費ノ節約ノ如キ今一歩ヲ進メテ言ヘハ趣味ノ判斷、流行ノ豫測ニ關スル智識ノ養成從ツテ此等ノ危險ニ對スル準備資本ノ省約アリ此等諸方面ニ於ケル勞力ト資本ノ節約ハ何(437)レモ皆聊モ農民ノ收入ヲ減スルコトナクシテ消費者即チ「安カレ党」ノ希望ニ合スヘキ手段ナリ殊ニ今一ツ是非共論セサルヘカラサルハ商人ノ數及商人ノ階級ノ省略ナリ農産物ノ販賣ニ於テハ最モ少キ場合ニ於テモ中間ノ二ツノ問屋ト兩端ノ仲買及小賣トノ四階級（地方ニ依リテハ尚之ニ一二段ヲ加フ）アリ箇々ノ階級ハ各々之ニ相當スル日數ト報酬トヲ要スルハ勿論ナリ從ツテ前述ノ諸種ノ手段中最モ根本的ナル問題ハ此階級ト數トヲ減少セシメントスル試ミ也吾國ニ於テハ都會ノ發達ニ伴ヒテ商人殊ニ小賣商人増加ノ度少シク過多ノ傾ヲ示セリ個々ノ商人ヨリ言ヘハ轉業ハ不便ニシテ外部ヨリノ壓迫ナキ限現?ヲ維持セントシ減少政策ニ反抗スルハ當然ナリ故ニ政策ハ第一次ニハ少クトモ今後ノ増進ヲ防止スルノ必要アリ在來ノモノヲ次第ニ廢業セシムル事ハ困難ナルカ故ニ第二次ノ問題ナリ

　要スルニ市價決定ニ對スル根本ノ原動力ハ勿論需要ト供給トノ比照均衡ナレトモ右ニ述ヘタル如ク市價ノ差異ノ上ニ著シキ影響ヲ及スヘキ種々ナル原因ヲ打捨テ何等ノ處置ヲ爲サス單ニ根本ノ理法ノミヲ攻究セントスルハ實際ニ當ラサル考ナリ殊ニ高シト云フ者ト安クテ困ルト云フ者トノ爭ノ目的物カ斯ノ如ク變動定リナキモノナル以上ハ先以テ此點ノ攻究ヲ要スルハ當然ナリトス

　

　　　　　第四章　農業ト市場

　

　農業ハ最由緒アル職業ナレトモ市場ニ於テハ農業者ハ比較的新參者ナリ農民ノ市場ニ對スル關係ノ親密トナルニ至リシハ極メテ近代ノ事トス其原因ノ主ナルモノニ三アリ其一ハ交通ノ發達ナリ其二ハ生産餘剰ノ増加即チ農ノ生産力ノ進歩ナリ其三ハ農法ノ分化即チ産物ノ種類ノ増加ナリ僅々百年ノ昔ニ於ケル國ノ?況ヲ囘顧スルモ右ノ三條件ハ共ニ餘リ顧著ナヲサリシナリ蓋一國生産ノ?態カ彼此同樣式ナル間ハ稍廣キ平原ニ於テモ交易ハ起ラス從ツテ交通方法ヲ改良シ行カントスル動機ニ乏シ此等ノ障碍ノ漸次撤シ去ラルヽニ及ヒテ始テ農業者ハ市價ノ高低ニ付一部ノ責任ヲ(438)感シ一部ノ利害ヲ主張シ得ルコトヽナルナリ語ヲ換ヘテ言ヘハ市場トイフ舞臺ニ顔ヲ出ス身分トナルナリ日本ノ農場 farm ハ概シテ細小ナリ上古以來常ニ一個人ノ經營スル面積ハ僅ニ一戸ノ生計ヲ推持スルヲ以テ標準ト爲シタリシナリ從ツテ生産餘剰ノ生スヘキ機會少カリシ上ニ更ニ租税トシテ原物ヲ以テ官ニ收メタリシナリ租税金納ノ制度ト成リテ始テ米ノ賣主トナリタル農家ハ甚多シ今日ニテモ猶主タル賣主ハ少數ノ地主ニ限ラルト雖（約十萬戸）此以外ノ小賣主即チ自作農ノ數ヲ合スレハ大名ヤ知行取等ノ昔ノ賣主ノ數ニ比スレハ尚數十百倍セリ（二百五十萬戸）加之農業者ノ賣ルヘキ品物ノ増加ハ亦非常ニ増加セリ明治ニナリテ作物ノ種類ニ關スル法制上及經濟上ノ制限ハ一時ニ皆無ト爲リタルハ注意スヘキ現象ナリ茲ニ於テカ農業者ハ始テ市場取引ノ利益及趣味ヲ感スルニ至リシナリ前代ノ所謂勸農行政ハ專ラ「作ルコト」ニ關シ「賣ルコト」ニ關シテハ未タ毫モ考慮ヲ及ホサヽリシモノナルニ將來ノ農政ハ大ナル力ヲ此點ニ注クヘキ必要ヲ生セシ也

　今日ノ市場ト比較スヘキ販賣ノ機關ハ前代ニ在リテハ同シ文字ヲ用ヰテ之ヲ「イチバ」ト稱セリ其數ハ無暗ニ多ク今日僻村ニ至ルマテ市場、町屋、五日市、六日町ナトヽ云フ地名アルハ皆其痕跡ニシテ何レモ一ケ月ノ中三日又ハ六日ヲ限リテ現物ノ賣買又ハ交換ヲ爲セシナリ右ノ市バハ昔ハ專ラ城下ノ物貸供給ヲ豐富ニスル策トシテ興行セラレシモノナレトモ而モ其時代ニ於テ主タル農産物例ヘハ米糠、藁、大豆ナトノ如キハ領主ハ現物ヲ人民ニ徴シ市バヲ經由スルノ要ナク從ツテ此等ハ多クハ市バ商品ノ外ナリシ也即チ市場ノ特色トモ云フヘキハ農産物取引高ノ甚シク少カリシコト是也而シテ運送ノ費用カ農民ノ支拂フヘキ生産費中ニ籠メラレタリシ間ハ僅ナル分量ノ貨物ニ澤山ノ勞力ヲ費スコト能ハサルカ故ニ市バハ大抵半日程（五里位）ニ約一箇處ノ割合ナリシ一日ト二日トノ費用ノ差ニハ宿賃トイフ割増アリ到底一日程以上ヲ運搬スルニ耐ヘサリシナリ諸國ノ市バノ運搬ニ多ク女ヲ使用セシ風アルハ主トシテ勞銀ヲ省ク爲ナレトモ之ニ依リ其貨物ノ分量ノ極少額ナリシコトヲモ推知スルニ足ルサテ交通ノ漸ク開クルト共ニ市バハ却テ著シク衰ヘタリ多數ノ小市バ中ニハ極メテ烈シキ生存競爭アリ其結果大體ニ於テ穀屋ノ住スル小市バハ勝利ヲ得タ(439)リ所謂貢米ノ津出シ場又ハ藏元代官役所所在地ノ如キ是ナリ之ト同時ニ遠方ノ市バニ對スル空想ハ盛ニナリ交通障碍ノ除去セラルヽト共ニ遠地取引ハ非常ニ流行シ田舍ノ品物ハ賣ル物モ買フ物モ來往共ニ大旅行ヲ爲スノ風ヲ生セリ而シテ此間ニ際シ國ノ政策モ亦幾分之ヲ助長セシ傾アリシヲ見ル元來交易ナルモノハ事情ヲ異ニスル二ツノ谿、二ツノ地方ノ間ニ非サレハ起ルコト能ハサルモノナリ然ルニ谿ニ沿ヒテ道ヲ通シ力メテ數多キ峠道ヲ避ケントスルハ道路行政トシテ實ニ止ムヲ得ス從テ交易ヨリモ通過ノ方カ活?ニナリ輸送ノ方面ニ於テノ競爭ハ先ツ起リタリ而モ運賃ノ一般ノ低落ハ更ニ此競爭ニ便利ヲ與ヘシナリ要スルニ市バト道路トノ性質上ノ差異即チ一ハ溜り一ハ走ルノ反對性ヨリ道路ノ開通ハ竟ニ小市場ノ衰微ニ對シ重大ナル原因トナリシ也

　更ニ他ノ一面ヨリ觀レハ多クノ小市場ニテハ元來此ノ如ク増加シタル産物ヲ收容スルタケノ資力ヲ有セサリシナリ此所ニテハ買フコトヲ得サル品物多ク（例ヘハ?ナレハ買フ商人アレト七面鳥ナレハ無シトイフカ如キ）又賣ラサル品物多カリシカハ（例ヘハ木綿物ハアレト絹物ハ無シトイフカ如キ）中以上ノ市場ニ比シテ其作用著シク單純トナリ從テ多數ノ小都會ハ段々ニ無用トナリ只ノ農村ニ立戻リシモノ多シ茲ニ於テカ多數ノ農家ニテハ全ク望ヲ自家運送ニ絶チ農業者ハ新時代ニ入リテ以來却テ取引ノ事情ニ疎クナルカ如キ奇現象ヲ呈シ之ニ伴ヒ仲買人及小賣人トイフ階級増加シ來リ日限市《ヒギリイチ》ニ對シテ常市《ジヤウイチ》起り其町ノ商品ノ種類モ段々ノ變改ヲ見ルニ至レリ仲買人ハ取引カ專門ナレハ販路ノ選擇又ハ需要ノ測定ニ付テ遙ニ農民ヨリ巧妙ナリ然レトモ取引分量ノ關係上即チ資本ノ常ニ多カラサル結果トシテ更ニ第二段ノ仲買商所謂問屋トイフモノヲ求メ之ニ依頼スルニ至レリ而シテ仲買及小賣ノ口錢ハ通例豐ナリシカ爲此等二種ノ商人ノ數カ激増シ從ツテ競爭烈シク之ニ伴フ費用夥シキニモ拘ラス猶之ヲ償フヘキ十分ノ利益アリ日本ハ狹キ國ナレハ第二段ノ仲買即チ問屋ハ久シカラスシテ略全國ニ亙リテ市場智識ヲ有スルニ至リ此カ爲新シキ意味ニ於ケル市場ハ容易ニ其勢ヲ作ルコトヲ得タリ横濱神戸ノ如キ新都會ハ勿論東京大阪ノ如キ古キ市街ト雖仔細ニ之ヲ觀察スレハ其商業上ノ作用ハ決シテ舊?態ノ繼續ニ非ス即チ商品ノ種類ハ著シク増加シ取引先モ亦増加シテ今迄ノ十數倍數十(440)倍トナレリ

　元來西洋諸國ニテハ何レノ國ニテモ東京神戸ノ如キ大市場ト田舍ノ小市場トノ間ニカナリ勢力アル中流ノ市場トイフモノ存スレトモ我國ニテハ竟ニ今日迄此カ發生スルノ機會ナカリキ中市場ハ或ハ之ヲ連鎖市場 Junction Market 又ハ配賦市場 Distribution Market ト云フ配賦ノ任務ハ一國ノ勞力經濟ノ點ヨリ言ハヽ小市場ニ於テ行ハルヽヲ最モ便利トスルモノナレトモ此ハ稍困難ナル話ナリ殊ニ農業ニ於テ然リトス比隣皆同種ノ物ヲ作ルヲ普通トスルモノナレハ之ヲ生産地附近ノミニ配賦スルコト到底工産物ノ如クナル能ハス故ニ之ニ代ルヘキ中市場ノ任務ハ極メテ重要ナリ即チ無益ナル輸送ヲ省キテ勞力ノ徒費ヲ避ケ且大市場ノ勢力ヲ牽制スル爲ニ最モ必要ナリ然ルニ我國ニテハ中市場ラシキモノ未タ充分ニ發達セス爲ニ正ニ反對ノ結果ヲ生シタリ元來邊鄙ナル山村ト東京大阪ノ如キ大都會トハ全體餘リニ縁遠ク一方ノ力ヲ以テ他方ノ住民ノ運命ヲ支配スルモノトシテハ餘リニ親密ヲ缺ケリ一國國民カ相依リ相助クルノ利益ハ同時ニ國ノ各地方カ相依リ相助クルノ主義ヲ生セサルヘカラス然ルニ府縣ハ政治上ニ於テハ既ニ統一ヲ保チ居ルニモ拘ラス經濟單位トシテハ未タ此點ニ覺醒セサルニ似タリ中央市場ノ勢力ヲ助ケシ今一ノ原因ハ外國貿易ナリ殊ニ開港場ノ數カ制限セラレ輸入品ハ必ス此關門ヲ通過スヘキコトヽ定メラレタル結果ハ二三ノ大ナル都會ノミカ其賣主トシテ地方ニ君臨スルノ姿トナレリ而モ彼等ハ其勢力ヲ買方ニ利用濫用シツヽアリ之ニ反シテ一般ニ今猶統一ヲ缺キ且箇々ノ力ノ微弱ナル田舍ハ今日ノ所ニテハ賣買共ニ其利益ヲ中央部ニ代表セシムヘキ手段ヲ有セサルナリ

　次ニ考ヘサルヘカラサルハ取引所ノ制度ナリ現在農産物ノ穀物取引所ハ其數五十ニ近ケレトモ其中ノ二三ノ大ナルモノヲ除ケハ其他ノ取引所ハ殆ト有名無實ノモノニシテ弟ト云ハンヨリ子トカ孫トカ云フヘク即チ自分一人ニテ獨立ノ活動ハ出來ス事實上中央ノ支配ヲ受ケツヽアリ併ナカラ取引所ハ之ヲ善導スルトキハ幸ニ田舍ノ利益ヲ代表セシムルニ難カラス勿論偶然ノ結果ニハ過キサレトモ現在ノ取引所ニ於テモ農産物ノ賣主ハ事實上他日ノ買主タリ肥料等ノ買主ハ革質上他日ノ賣主ニ他ナラサルニ拘ラス目前ニ於テハ兎ニ角農業者ト其利害ヲ同シクシ而モ一方ニ割據シテ立(441)派ニ勢力ヲ振ヒ居レリ大都會カ消費者ノ大本營ニテアリナカラ必シモ田舍ノ住民ニ向ツテ暴壓ヲ事トセサルハ一ハ賣主買主ノ對立スル取引所ノ制度アルカ爲ナリ今若シ斯ノ如キ偉大ナル統一機關ナカリキトセハ箇々ノ取引ニ於テハ資力彌豐ニシテ對陣ニ耐ヘ且懸引ニ巧妙ナル商人ハ其消費者ニ對シ如何ナル態度ニ出ルカハ別問題トシテ先ツ差當リ生産者ニ向ヒテ思フ儘ノ機略ヲ弄シテ之ニ成功シ常ニ農産物ノ市價ヲ低ク爲シ得ルノ機會多カリシコトナラン故ニ之ニ對スル牽制手段トシテ公明正大ナル相場ノ成立ヲ期スルカ爲ニハ取引所ハ甚タ必要ナル機關ナリ此點ハ消費者ノ方面ニ對シテモ同樣ニシテ取引所ハ無意識ナカラ防禦力ニ乏シキ消費者ヲ擁護シ賣主ノ威壓ノ外ニ立チテ安住セシムルコトヲ得ルノ機關ナリ

　取引所ノ利益トシテ一般ニ認メラルヽモノ三アリ其一ハ物産ノ市場ヲ發達セシムルコトナリ世間ニ現ハレサル生産者ヲ紹介シテ之カ需要ノミアリテ之ヲ充スノ方法ヲ知ラサル消費者ニ接近セシムルコト即チ是ナリ言フ迄モナク取引所ノ物品ハ略其時代ニ於ケル重要物産 Staple goods ヲノミ採用スルヲ常トスレトモ而モ取引所ノ一商品トナリシ爲著シク其取引高ヲ増加シ愈々之ヲ重要ナラシメタル例ハ多シ第二ノ利益ハ物價ノ動搖ヲ能フ限小ナラシムルトイフ點ナリ取引所ノ取引ハ常ニ甚公明ナリ其市價決定ノ手續ニハ些ノ隱密モナキ筈ナリ而モ其四周ヨリ各種ノ勢力ノ競ヒ進ミテ常ニ相牽制スルアリ從テ前述ノ如ク地方ニ分散セル小生産者ノ殆ト無防禦力ナル利益竝ニ個々ノ消費者ノ殆ト斷念シタル主張ト雖此取引所ニ於テハ皆夫々ニ代表セラルヽコトヽナリ一人ノ智巧ハ縱令如何ニ衆人ニ超ユルモノアルモ大抵其策ヲ施スニ由ナキナリ而モ取引所ハ此等無數ノ小動力ニ對シ極メテ鋭敏ナル感覺ヲ有ス從ツテ多クノ場合ニ於テハ食料ノ如キ需要彈力ノ少キ貨物ノ?遭遇シ易キ市價ノ激變ヲ著シク緩和スルノ效能アルナリ第三ノ利益トシテハ取引所ハ更ニ其機能ヲ擴張シテ異時異處ノ市價ノ上ニモ其均衡調和ノ力ヲ施サントスルコトナリ所謂定期取引即チ賣買ノ豫約、現存セサル物品ノ取引ハ主トシテ此結果ヲ持來スモノナリ若シ此制度ニシテ具備セサリシナラハ縱令一時毎ノ決定ニハ公正ヲ期シ得ルトモ日々又ハ月々ノ激變ヲ防止スルコトヲ得ス故ニ將來新ニ發生シ豫メ測定スルヲ得サ(442)ル原因ニ由リ影響ヲ受クルコトアルハ到底之ヲ免レストスルモ少クモ現在ニ於テ最モ完全ナル材料ヲ集メ之ニ依リテ將來ノ市價ヲ判定スルハ此機關ニ依ルノ外ナキモノナリ

　以上三ツノ利益ハ生産者ノ側ヨリモ又消費者ノ側ヨリモ直接ニ又間接ニ十分之ヲ利用スルコトヲ得即チ現ニ賣ラントシ又ハ買ハントスル物品ハ其分量ノ大小ニ顧慮スルコトナク目前ノ相場ニ依リテ直ニ其取引ヲ結了シ得ルノミナラス尚ホ將來ノ取引ヲ豫約シテ今後ニ生スヘキ危險ヲ免ルヽコトヲ得例ヘハ未タ收穫ニ至ラサル産物、荷積ヲ爲シ未タ到著セサル輸入品等ノ賣渡或ハ將來ノ必要ニ應スル買入ヲ爲シテ計畫ノ不定分子ヲ少クスル場合殊ニ鑛山、林業、航海等ノ如ク稍々長キ年月ニ瓦リテ豫算ヲ立テ之ニ基キテ事業ニ著手セムトスル消費者ニ在リテハ如何ナル場合ニモ此機關ヲ利用スルノ外ナキナリ

　通例之ヲ準備取引又ハ確保取引ト云フ以上ハ理論上取引所カ農産物ノ分配ノ上ニ貢獻スヘキ點トス是ヲ以テ觀レハ取引所ヲ利用シ之ニ出入スヘキ者ハ先以テ大生産者ト大消費者ナラサルヘカラス原料トシテ農産物ノ大量ヲ使用スル者又ハ其代表者カ殊ニ其常顧客タルヘキ筈ナリ小生産者、小消費者ノ多キ日本ニテハ彼等ノ希望ヲ集合代表スル商人ノ亦之ニ加ハルヘキハ勿論ナリ又鞘取仲買ノ類カ他人ノ依頼ヲ受ケ又ハ他人ノ爲ニセントスル計畫ヲ以テ之ヲ利用スルモ當然ノ事ナリ然ルニ我國ノ農産物取引所ニ於テハ實際以上ノ何レニモ屬セサル者殆ト取引所ニ出入スルコトノミヲ專門トセル一種ノ人民アリ又一方ニ何等ノ計畫ヲモ有セス單ニ取引所ノ取引ニ依リ金ヲ儲ケントスルタケノ常業又ハ臨時ノ客トイフ者甚多シ否多シト云ハンヨリハ取引所ハ全部殆彼等ノミヲ以テ充滿ス此客ナル者ノ中ニハ田舍ノ大地主又ハ米屋ノ亭主等モ無キニ非サレトモ何レモ自分ノ生産物ヲ賣リ又ハ自分ノ商品ヲ買ハントスル目的アルニ非スシテ只時々ノ相場ノ變動ニ因ル差額ノ收入ヲ利センカ爲ニ來レルナリ從テ取引ノ總高ハ常ニ實際ノ受渡額ニ十數倍、數十倍セリ即チ定期ニ就テ言ハヽ約束期限ノ到來スル前買主ハ之ヲ轉賣シ賣主ハ之ヲ買戻シテ雙方共取引ノ大部分ヲ帳消トスルナリ直取引ニ於テモ亦之ト同樣ニ預合ト稱シ物品受授ノ手續ヲ次ノ期ニ繰越スナリ故ニ東京、大阪ノ如キ(443)大取引所ニ於テモ受渡額ハ極メテ少ナク年々二千萬石内外ノ取引アリテ實際ノ受渡額ハ百萬石ヲ出テス況ヤ地方ノ取引所ニ至リテハ一粒ノ米スラ受渡セサルコト決シテ珍シカラス是レ全ク當事者ノ中ニ當初ヨリ差額利益ノ勝負ノ爲ニ此機關ヲ利用セントスル者ノ多キ結果ナリ尤モ外國ニ於テモ取引高ノ全部ヲ受渡セサルコトハ勿論ニシテ事實ニ於テ差額ノ損得ノミニ歸著スル取引少カラス然レトモ取引所ノ取引カ所謂空米相場タリ賭博類似ノモノタルカ否カハ未タ此結果ノミヲ以テ判斷スヘカラス要ハ之ニ從事スル者ノ心懸ノ如何即チ動機ニ依テ判斷スルノ外ナシ蓋最初ヨリ差額ノ射倖ヲ目的トシテ取引所ニ立入ル者ニ在テハ勢ヒ雙方共相場ノ變動ノ最激シキコトヲ望ムナリ其變動カ自分等ノ思ハクト反對ニ激シキコトハ之ヲ望ムモノニ非サランモツマリ短期間ニ烈シキ上下ノ動搖アルヲ期スニ非サレハ單ニ差額利益ノ目的ノミヲ以テ取引所ニ出入スル氣ノ起ラサル筈ナリ殊ニ資本少クシテ一時ニ多額ノ取引ヲ企ツルコト能ハサル者ニ在テハ一層變動ノ烈シキヲ希望セサルヲ得ス而シテ今日ノ取引所ノ?勢ハ不幸ニシテ能ク此等ノ徒ノ注文ニ合ヘリ是レ正シク取引所本來ノ任務ト相容レサルモノナリ取引所ノ理想ハ前述ノ如ク相場ノ平準ヲ保チ其動搖ヲ小ニスルニ在ルナレハ差益收得ヲ以テ主タル目的トスル者ノ便トスル所ハ決シテ此制度ノ期スル所ニ非サルナリ此カ爲平穩ナル生産者、消費者ハ共ニ此機關ヲ利用スルヲ危險トシテ別ニ相應ノ準備取引乃至ハ確保取引ノ方法ヲ計畫シ穀物取引所以外ニ種々ナル現物取引機關ヲ設ケシムルニ至レリ要スルニ農産物ノ市價ハ元來非常ニ感シ易ク動キ易キ性質ヲ有スルモノナルニ其勢力全國ヲ蔽フニ足ルヘキ中央ノ取引所カ寧ロ其動搖ヲ誘フカ如キ事實アルニ於テハ農政ノ根本問題トシテ先ツ此點ノ改良ニ著手セサルヘカラサルハ多言ヲ要セサル所ナリ

　

　　　　　第五章　競爭

　

　農業者カ市場ト交渉ヲ生スルニ至レリト云フコトハ即チ競爭ノ必然免ルヘカラサルモノナルコトヲ意味ス市場ノ交(444)渉カ繁且密トナリタリト云フコトハ即チ農民カ昔ニ比シテ一層烈シキ競爭ニ遭遇スルコトヲ意味スルナリ學者中ニハ近キ頃マテ農業ニハ競爭ナシト言ヒシ人アリキ此説ハ昔ノ自給經濟ヲ主トセシ時代ニ於テハ正シク眞實ナリキ此時代ニ在リテハ農民ハ各自其境涯ヲ守リテ相侵ササルカ故ニ隣人ノ世間ニ對スル態度ニ注意スルノ必要モ無ク從ツテ之ニ應シテ自己ノ經營ニ變更ヲ加フルノ必要モナカリシナリ所謂半自給ノ經済即チ一定ノ計畫ノ下ニ餘剰ヲ生産スル今日ノ世ノ中ニ於テモ通例隣人同士ノ間ニハ先ハ競爭無シト言ヒテ差支ナシ商工ノ徒カ軒ヲ列ネテ相競ヒ組合規約ノ下ニ僅ニ其弊害ヲ防クコト恰モ敵國間ノ休戰?態ノ如クナルニ比ヘテハ著シキ相違ナリ此事實ハ農村生活ノ平穩ノ爲ニ最重要ナル基礎ヲ爲スモノニシテ農業其者ノ一ノ妙味ナリ併シナカラ之ヲ以テ農生産其者ノ當然ノ性質ナルカ如ク考フル者アラハ大ナル誤謬ナリ蓋シ土地面積カ有限ナリトイフ事實ハ田舍ノ生活ノ變化乏シキ事實ト相挨チテ一地方ノ生産量ヲシテ年々略々過不及無カラシムルカ故ニ久シキ期間例ヘハ三十年、五十年ニ亙リテ其消費及賣捌ノ方法ハ大抵一定ノ徑路ヲ有シ必シモ附近ノ同業者ヲ排斥セサレハ進ムコトヲ得サルカ如キ事情ノ存セサルヲ以テナリ下肥ヲ取リニ來ル近村ノ百姓カ毎年家用ノ大根ヤ餅米ヲ其代トシテ持來ルト云フカ如キハ極端ナル一例ナレト實際某々等ノ生産品カ某々等ノ消費ニ充テラルトイフコトハ昔ハ大略一定シ居リシナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ特ニ日本ナトニ於テハ農業ノ生産カ餘リ著シク増進セス其進歩ノ遲々タルノ結果トシテ此ノ如ク競爭力少ナカリシ也製造業等ニ於テモ生産増進ノ望少キ場合ニハヤハリ亦競爭モ烈シカラサルナリ例ヘハ奈良ノ名物古梅園ノ墨、桑名ノ燒蛤ト云フカ如キ諸國ノ特産物或ハ峠ノ力餅、家傳ノ賣藥等ノ如キハ即チ是ナリ此事實ハ一國ノ農業全體ヲ通シテモ理論トシテハ亦存在ス何トナレハ米ノ如キ主タル生産品ノ年産額ハ略々一國ノ需要高ト相當タルヲ常トシ如何ニ機ヲ察スルニ緩慢ナル百姓ニテモ他人ノ先占ニ因リテ其所得ヲ失墜スルカ如キ虞ナキ筈ナレハナリ併シナカラ實際ニ於テハ如何ニ永年ノ販路ナリトモ決シテ神社ノ氏子ヤ寺ノ檀徒ノ如ク確定不動ノモノニ非ス從ツテ茲ニ一ノ市街、工場或ハ兵營ノ如キ消費者ノ集團アリトスレハ單ニ距離ノ關係ノミヨリ見ルモ之ヲ得意先トスルコトヲ最利益トシテ熱望スル者ハ其消費地ノ東西南北四(445)方八側ニ在ル筈ニシテ其多クノ供給希望者中ニハ色々ノ特色例ヘハ廣告ノ巧拙、注文ノ便不便、男前ノ喜惡等取引ニ影響スヘキ種々ノ關係アルコトヲモ想像スルヲ得ヘキ也殊ニ市場カ集中シテ全國交通ノ中心ニ立チタル以上ハ之ニ向ツテ進ム者ハ益々多ク市場自身モ亦消費者トシテ最鋭敏ナル取捨選擇ヲ爲スカ故ニ縱令絶對ニ一人ノ買手ヲモ見出スコト能ハサルカ如キ場合ハ無シトスルモ競爭ノ爲ニ比較的便利ナル地方即チ利益アル販路ヲ他ニ奪ハルヽノ虞常ニ存スルナリ而シテ競爭トイフ語ハ若シ之ヲ廣義ニ解スルナラハ苟クモ交換アリ賣買アレハ如何ナル場合ノ取引ニモ常ニ存在スト言ヒ得ヘシ安ク買ハントスル人ノ努力ハ決シテ高ク賣ラントスル人ノ望ヲ失ハシムルコトヲ憚ラス智巧方便到ラサル所ナカルヘク其爲ニハ必シモ競爭スルコトヲ欲セサル數人ノ同業者ヲ指嗾シテ相凌カシムルニ至ルコト決シテ珍シカラス即チ競爭ノ不安ハ農業ト雖之ヲ兎ルヽコトヲ得サルモノナリ

　前章ニモ述ヘタル如ク競爭ハ單ニ取引雙方ノ當事者間ニ止ラス賣手同士、買手同士ノ間ニモ古クヨリ行ハレタリシコトハ事實ナリ唯交通ノ大ニ進マサリシ時代ニハ此消費者相互間ニ於ケル生産物ノ競望ハ偶々以テ生産者間ノ競爭ヲ防止スルノ結果ニ歸著セシノミ此事實ハ所謂凶年ニ於テ最著シク現ハレタリ例ヘハ或天然ノ現象ヨリ又ハ政策ノ異同即チ行政ノ結果ヨリ境ヲ接シタル二ツノ領分ニ於テ其一方ニノミ著シク生産ノ不足ヲ告ケタリト假定センニ其地方ノ消費者トシテモ又隣國ノ生産者トシテモ人情必ス境外ノ輸送ヲ計畫スルニ相違ナシ即チ甲地ニ於ケル缺乏ハ乙地ニ於ケル供給ヲ減少シ乙地ニテモ亦農産物ノ市價ヲ高ムルノ傾向アリシナリ斯ル場合ニ於テ若シ乙地ノ消費ノ利害ヲ本位トスレハ隣境即チ甲地ノ凶作ノ影響ヲ成ルヘク少ナク受ケンコトヲ希望スルカ故ニ舊藩時代ノ食料政策トシテハ往々ニシテ所謂穀留ノ令ヲ布キタリキ明治初年迄ノ政治家ハ國家トシテモ甲乙國間ノ供給平衡ヲ喜ハサリシ形跡アリ支那ニ於テハ今日猶防穀令ノ存在スルヲ見ル往年故田口博士ト大岡育造氏等トカ支那米輸入問題ニ付キ一ハ自由貿易ノ主張ヨリ一ハ農民保護ノ立場ヨリ兩々相對シテ論戰久シキニ亙リシハ實ニ此防穀令解禁ノ運動ニ關シテナリキ舊韓國時代ニモ曾テ防穀令ノ爲ニ一事件ヲ惹起セシコトアリ右ノ如キ地方的防穀政策ノ行ハルヽ場合ニハ生産者間ノ競爭ハ事(446)實ニ於テ格別烈シカラサルコトヲ得ルナリ

　併シナカラ斯ノ如キ政策ハ個人自由ノ保證セラレタル現代ニ於テハ到底之ヲ行フコトヲ得サル上ニ通信報道ノ手段完備シテ些少ノ缺之ニ際シテモ直ニ遠方ヨリ之ヲ補充シ得ルコトヽナリテヨリ農産物ノ如キ嵩高ノ商品モ往々ニシテ數百里ノ海陸ヲ旅スルコトアリ而モ其補給區域カ廣クナレハ愈々以テ生産地方ノ消費者ヲシテ反抗セシムル程ノ影響ヲ引起スノ虞少ナカルヘク更ニ運賃カ安クナレハ餘程遠クヨリモ少シツヽノ餘剰ヲ集メ來ルコトヲ得ル譯ナリ茲ニ至リテ農産物ノ市價ハ如何ナル場合ニモ地方的ニハ決定セス比較的便利ナル地位、好都合ナル天候ノ下ニ生産セラレタル貨物ハ縱令意識的ニ非ストスルモ常ニ其境遇ノ之ニ劣レル地方ノ生産物ヲ壓迫スルコトヽナリシ也即チ農業ニ於テモ競爭ナルモノヽ結果カ極メテ顯著ニ發露スルコトヽナリシ也

　蓋シ生産者ノ地位即チ農場ト市場トノ距離、土地ノ肥瘠等ノ如キ永續的ノ原因ニ就テ言ハヽ彼等農業者間ノ競爭ニハ略々夫々ノ抑制方法即チ「ハンヂキャップ」アリリカルド〔四字傍線〕ノ所謂純地代ナルモノハ略々之ニ當ル地位ノ良好ナル農場ニハ必ス高キ地代ヲ伴フナリ故ニ新ニ農業ヲ始ムル者ノ立場ヨリ言ハヽ都會附近ノ如キ地價ノ高キ所ニテ之ヲ始ムルモ又ハ邊鄙ノ田舍若クハ瘠地ノ地價極メテ安キ所ニテ農業ニ從事スルモ實際ノ利益ハ何等擇フ所ナシ小作料即チ年々拂ノ地代ニ付テハ事情ノ稍複雜スルモノアレトモ理論トシテハ概シテ年々農業ヲ始ムルト同シ事情ノ下ニ立ツ道理ナリ併シ所謂自作農即チ土地ヨリノ利益ト農業ヨリノ利益トヲ一括シテ收入スルモノニ就テ言ハヽ良キ境遇ニ居ルト云フコトハ結局競爭ニ對シテノ永遠ノ強味ナリ況ヤ年々臨時ノ事情ニ基ク生産上ノ優劣ハ此等地代ノ昂低ヲ引起シテ均衡ヲ保持スル餘地ナキカ故ニ頗ル競爭ノ結果ヲ猛烈ナラシムルモノアリ殊ニ日本ノ如ク小山脈ノ縱横セル國ニテハ甲ノ縣ニハ晩霜アリシ結果トシテ桑園ノ收入減少シ無事ナリシ乙縣ノ半分ニモ屆カサルコト往々アリ米麥ニ就テモ斯ル例多シ農産物ノ市場カ各地方ノ小區域ニ限ラレシ所謂防穀令時代ナリセハ收穫不況ノ年ハ一般ニ該産物市價ノ騰貴スル年ナルヘキヲ以テ收穫皆無ノ大凶作ノ場合ニ非サル限ハヨホドノ程度迄生産損失ヲ保險セラルヽノ事實アリシ也(447)即チ産物ノ減收ハ市價ノ騰貴ニ由リテ補償セラレ所謂農家ノ手取ニ於テハ格別増減スル所ナカリシナリ然ルニ今ヤ此事ハ全ク其跡ヲ絶テリ市場ノ擴張ト共ニ競爭勢力モ亦擴大ス平穩無事ナリシ地方ノ生産物ノ爲舊來ノ販路ヲ侵略セラレサラント欲セハ農家ハ自己ノ内情ヲ願ミス所謂世上ノ相場ニ服從セネハナラヌコトヽナレリ尤モ農産物ノ種類ニ依リテハ此結果モ亦一樣ナラス例ヘハ果實、蔬菜等ノ如ク其性質上市場區域ノ一地方ニ限ラルヽモノハ聊カ事情ヲ異ニス又同シ穀物ニテモ所謂雜穀ハ米麥ヨリモ稍市場狹ケレハ從ツテ右ニ述フルカ如キ不作ニ對スル保險或程度マテ行ハル金澤ノ大根如何ニ豐作ナルモ東京ノ相場ニ何等ノ變動ヲ與ヘス野菜類ハ地方的天候ニ因リ諸地方ノ相場ニ甚シキ異同ヲ生スルヲ常トスルナリ

　サテ右ニ所謂世上ノ相場即チ中央大市場ノ市價ナルモノハ全國又ハ全區域ノ供給量ノ總高ニ於テ減少シタル場合ニ非サレハ結局其變勤ヲ促サルヽコトナキモノナリ若シ奧羽地方ノ不作ト同時ニ九州四國ニ大豐作アリシトセハ現今ニ於テハ前者即チ東北ハ競爭ノ爲ニ其減收ト市價ノ低落ト二重ノ壓迫ヲ被ルコトアリ得ルナリ故ニ縱令全國ノ總收穫高ニ於テ増減ナシトスルモ同一地方ニ於ケル連年ノ凶作ハ其打撃ノ甚シキコト舊時ノ比ニ非ス唯新時代ニ在リテハ國内ノ資本ト勞力トカ略々均衡ヲ保ツカ故ニ大數ニ於テハ甲乙相制シ相補充シテ甚シキ慘害ヲ示スニ至ラサルヘシト云フヘキノミ要スルニ農業ノ形式及精度即チ集約ノ程度カ略々一樣ナル一國内ニ於テサヘモ市場ノ擴張ハ此ノ如キ競爭ヲ意味スルナリ況ヤ天然及人事上ノ?況ノ全ク相異ナレル外國トノ間ニ於テ追々市場カ共通トナルニ至ラハ競爭ノ此間ニ激烈ナルヘキハ殆ト説明ヲ要セストス

　蓋シ近世ニ於ケル自由競爭ノ作用カ實際人類ノ進歩發達ヲ促進シタルコトハ極メテ顯著ナルモノアリ人間ノ智巧ハ決シテ目的ナシニ發現スルモノニ非ス勢ノ窮マリテ大ナル努力ヲ用ヰルニ非サレハ自ラ救フコト能ハストイフカ如キハメニ陷リテ始メテ大ニ現ハルヽモノナリ腹ニ大望ヲ抱キ足ルコトヲ知リ分ニ安スルヲ得サル人々ニシテモ生産ノ改良等ヲ以テ他人ヨリモ一層優越セル地位ニ到達スルノ望ナキ間ハ決シテ此カ爲ニ大ナル努力ヲ爲サヽルハ當然ナリサ(448)レハ農業ニ於テモ他ノ生産業ト同樣ニ競爭ニ勝チ得ルノ豫想カ其進歩ヲ促シタルコトハ隨分大ナリト想像シ得唯是ト同時ニ一方ニ於テ其弊害ノ及フ所農ハ他ノ製造業等ト異レル點アルコトヲ注意スヘシ即チ日本ノ如キ舊國ノ農業ニ於テモ氣候地質其他外界ノ事情ハ到底製造業ノ如ク一樣ナルコト能ハス春ノ末ニ苗代ヲ作リ冬ノ初麥ヲ蒔クカ如キハ全國一般ノ風ナルモ而モ之ヲ傘ヤ下駄ノ製造ノ如キ全然同一ノ競爭立場ニ在ルモノト比較スレハ此ニハ著シキ差等アルヲ知ル況ヤ之ヲ新ニ開ケタル國又ハ古クヨリ繁榮シタル他國ノ農業ト比較スルトキハ其懸隔一層著シキヲ見ルヘク從ツテ競爭上ノ武器又ハ手段ハ極メテ複雜ナルヲ以テ通例人ノ智慧才覺ノミニテハ多クノ場合ニ於テ對等ノ勝負ヲ爲ス能ハサルコトアリ之ヲ自由ナル優勝劣敗ニ放任スヘカラスト云フ説ノ殊ニ舊國ノ農業ニ就テ盛ナルハ全ク此カ爲ナリトス

　

　　　　　第六章　外國貿易

　

　外國貿易ノ問題ヲ攻究スルニ當リ專ラ農産市場ニ於ケル競爭ノ利害卜云フ點ノミヨリ觀察スルハ勿論當ヲ得タルモノニ非ス蓋シ國際間ノ商業ハ國内ノ商業ト同樣ニ國民經濟進化ノ徑路トシテ早晩必ス開ケサルヘカラサルモノナリ更ニ之ヲ具體的ニ言ハヽ領土ノ面積ニ對スル人口ノ陬カ或限度ヲ超ユルトキニハ是非トモ到達セサルヘカラサル一ノ境遇ナリ我邦ニ於テハ所謂開國ノ動機ナルモノハ主トシテ外部ニ存シ其根原カ受動的ナリシノミナラス更ニ國際ノ交通ヲ必要トスルニ至リタル原因トシテ政治上ノ理由ノミ特ニ顯著ナリシカ爲ニ或ハ之ヲ以テ特種ノ事情ニ基クモノ即チ一種ノ機運ナルカノ如ク想像スル者モアリタレトモ元來人口ノ増加ハ最モ自然ノ現象ニシテ國土ノ之ヲ容ルヽ面積カ有限ナル以上ハ此ノ如キ　　状態ハ早晩必ス何等カノ形式ヲ以テ現ハレ來ラサルヘカラサルモノナリシナリ即チ和蘭ノ海上勢力衰ヘテ英佛ノ之ニ代ルモノ無シトスルモ露國ノ東方經略カ長足ノ進歩ヲ見ストスルモ尚若干期間ノ遷延ノ後日(449)本ノ開港ハ行ハレサルヘカラサリシモノナリ蓋シ一定地積ノ産物ヲ以テ人民ヲ養ヒ得ルノ力ハ無論伸張スルノ餘地尚有ルヘキモノナレトモ地球表面ノ各部分ニ於テ農業ノ精度ノ差異カ甚シクナレハナルホト之ヲ平均セントスルノ力モ亦段々強クナルヘキ道理ナレハ洋海ノ隔絶ノミヲ根據トシテ永遠ニ孤島ノ孤立經濟ヲ支持シ得ル能ハサリシナリ我國ノ如ク過去五十年間ニ約二倍トナリシ人口カ全部昔ノ儘ノ千萬町歩ノ農業地ヨリ若クハ三千八百萬町歩ノ領土ヨリ其衣食ノ材料ヲ得ンコトハ餘程骨ノ折レル事業ナリ人口増殖ノ結果ハ先ツ第一ニ勢力ノ餘剰ヲ生ス勞力ニシテ餘剰ヲ生セハ舊國ノ人民ハ其一半ヲ割キテ農以外ノ生産ニ從事セシムルコトヽナリ從ツテ農ヲ以テ一ノ對立的職業タラシムルニ至ルヘク更ニ一方ニハ其餘分ノ勞力ヲ以テ外國産ノ食料又ハ衣料ト交換スヘキ物品ノ生産ニ從事スルコトヽ爲ルヘシ語ヲ換ヘテ言ハヽ製造業ノ起リ國際貿易ノ始マルト云フコトハ其利害問題ハ別トシテ到底免カルヘカラサル人口増殖ノ結果ナリ之ヲ避ケンカ爲ニハ生殖防制ノ風習ヲ寛假スルカ然ラサレハ餘分ノ勞力カ勞力ノ儘外圖ヘ輸出セラルヽコト即チ移民ノ激増ヲ放任シ置カサルヘカラサルナリ

　サレハ國際貿易ニハ前ノ議論ヨリ推シテ明ニ二種ノ樣式アリト云フヘキナリ其一ハ上述ノ如キ能動的ノモノ其二ハ之ニ應シテ起リタル新開國ノ受動的貿易ナリ國土カ廣大ニシテ人口ノ少ナキ國ニテハ人口ノ充滿セル國トハ反對ニ兎ニ角全然外國トノ交通ヨリ孤立シテ農林漁獵ノ如キ單純ナル材料ヲ以テ粗野ナル生活ヲ爲シ得ルコトモ想像シ得ラレサルニ非ス即チ鎖國時代ノ日本ノ如キ?態ヲ續ケルコトモ彼等ニ在リテハ必シモ難カラス唯交通ノ盛トナリ外國貿易ノ便利ナルコトヲ知ルカ故ニ相手國ノ要求ヲ容レテ受動的ニ交通ヲ開始スルコトヲ辭セサリシニ過キサルナリ新開國ニ於テハ或ハ外國ヨリ勞力ノミヲ輸入スルコトモ出來レハ亦多少ノ年月ヲ費シテ國内ニテ諸種ノ生産ヲ起スコトモ亦差支ナシ例ヘハ北米合衆國ノ近代ノ政策ノ如ク外國ノ産物ノ進路ヲ阻碍シテ追々ニ内國ノ産物ヲ以テ之ニ代フルコトモ不可能ニハ非ス是レ即チ廣大ナル領土ヲ包有スル國ノ最顯著ナル利益ニシテ從ツテ近世所謂帝國主義ノ説カ盛ニ唱ヘラレ各國カ競ヒテ海外ノ未開地ヲ自己ノ權力ノ下ニ置カントスル所以ナリ此故ニ所謂工業國本又ハ商工立國トイフ(450)カ如キ文字ニハ語弊アリ且許多ノ謬リタル推論ヲ伴フノ虞ハアリト雖結局人口ノ増加ニ對スル唯一ノ處置即チ勞力配賦ノ肝要ナル一方法トシテ舊國カ重キヲ國際貿易ニ置クニ至リタルハ洵ニ止ムヲ得サル次第ナリト謂フヘシ

　日本ノ農産物輸出カ米其他ノ穀物ニ付テハ開國ノ後久シカラスシテ先ツ止ミ之ニ代リテ比較的多量ノ勞力ヲ施シタル農産物例ヘハ製茶、生絲ノ類ニ移リ尚進テハ外國ノ地産ヲ原料トスル所ノ純製造業例ヘハ米國ノ綿ヲ原料トスル紡績業、支那ノ大豆ヲ原料トスル?油製造等ニ移リシハ之ヲ大勢ノ上ヨリ批判スルトキハ必シモ一時的政策ノ善惡ニ基因スル不慮ノ結果ナリト云フコト能ハス是レ皆市場ノ擴張及國ノ内外ニ於ケル市場ノ共通ニ伴ヒテ各國ノ農法カ次第ニ其效果ヲ平均セントスルノ結果ニ外ナラサル也蓋シ如何ナル場合ニ於テモ農法ノ精度ヲ進ムル爲ニハ必ス市價ノ騰貴ノ之ヲ誘フモノアルヲ要ス所謂收益遞減ノ法則ニ依レハ或程度迄ハ生産費ノ割合ヲ些シモ増スコトナクシテ産額ヲ増スコトヲ得ルモノナレトモ金錢簿記ノ時代トナリテ餘得即チ總收入ト生産費トノ差益カ悉ク地價ニ變形スヘキ場合ニ於テハリカルド〔四字傍線〕ノ所謂耕境ハ事實上常ニ到達シテアルモノト云フヘク之ニ對抗スル勢力トシテハ農技術ノ改良アレトモ是レ單ユ外部ノ壓迫ニ對スル一遁路ト謂フノミニテ其改良ノ結果カ常態トナルニ至レハ亦地價ノ計算中ニ追加セラルヽ譯トナルナリ此故ニ市場カ共通トナリ一國又ハ一地方内ノ人口割合即チ需要ノ程度ノミオヲ以テ農産物ノ市價ヲ決定スルコトヲ得サル時代トナレハ斯ノ如キ國際的市價ニ適當セサル生産費ヲ投シツヽアリシ農業ハ（イ）之ヲ中止スルカ（ロ）農技術ノ改良ヲ以テ生産費節約ノ策ヲ講スルカ又ハ（ハ）地價ノ低減ヲ以テ之ニ應スルコトヽ爲サヽルヘカラス然ラサルモ少ナクトモ新ニ生産ノ擴張ヲ爲サントスル者ニ取リテハ甚タ大ナル障碍トナルカ故ニ終ニハ別方面ニ向ツテ餘剰ノ勞力ヲ仕向ケサルヘカラサル結果トナルヘシ之ニ由ツテ見レハ或種ノ農産物ヲ限リテ輸出シ他種類ノモノハ之ヲ輸入スルトイフカ如キ自由ナルコトハ特ニ多クノ勞力ヲ要スル農業又ハ特殊ノ風土、技能等ヲ必要トスルカ如キ僅少ナル例外ノ生産ヲ除クノ外ハ多クハ之ヲ永遠ニ期スルコトヲ得サルナリ要スルニ國際貿易ノ問題ハ生産者利益ト消費者利益トノ行ク／＼衝突爭闘スヘキ一事端ニシテ市場ノ擴張ヲ喜フ者ハ新國ニ於テハ生産者ナルト同時ニ(451)舊國ニ在リテハ消費者ナリ舊國ナル語ハツマリ此消費者ノ多キ國ヲ意味スルヲ以テ之カ爲ニ結局農業ハ強力ナル國外ノ競爭者ニ對戰スルト共ニ更ニ侮ルヘカラサル反應者ヲ自國民中ニモ有シ居ルコトヽナル也サレハ若シ世界ノ産物ニシテ悉ク萬國共通ノ消費者ヲ有スルモノトスレハ其市場ニ於ケル關係ハ略々國内ノ市場ニ付テ前章ニ説明シタルト同シカルヘシ然レトモ農産物ノ中ニハ農民ノ爲ニハ甚タ幸ニ國際的商品トシテ目スヘキモノハ極メテ少數ナリ加之内外ノ市場ヲ完全ニ共通ナラシムル爲ニハ此外ニモ猶種々ナル障害アリ其一トシテ擧クヘキハ彼此生活?態ノ相異ナリ又ハ國民的嗜好ノ異同ナリ第二ニハ氣候風土即チ國柄ノ異ルコトナリ例ハ「ココア」、珈琲等ハ歐洲ニハ産セス其供給國ニハ限アリ之ニ由リテ各國農ヲ營マサルモノハ無ケレトモ必シモ其間ニ常ニ相競爭スルコトヲ要セサルナリ第三ニハ程度ノ問題ナレトモ距離ノ遠近ヲモ考ヘサルヘカラス外國ノ生産地ハ概シテ内地ノソレヨリモ消費者ニ遠シ故ニ距離ハ如何ナル場合ニ於テモ一ノ障壁ナリ唯其間ニ内外ノ區別無ク遠キ内國ハ近キ外國ニ如カサルノミ且交通ノ進歩ト共ニ漸ク其差異ヲ減少シ距離ノ遠シト云フコトノ經濟上ノ意義ハ小サクナレリ殊ニ水運ハ一般ニ陸運ヨリモ簡單容易ナルコトヲ考フレハ縱令日本ノ如ク隣國ノ遠キ離島ニテモ其事實ニ憑頼シテ之ヲ永久ノ防禦物ト爲シ難キコトヲ覺ルヘシ第四ニハ國民的偏頗トイフコトモ亦國際貿易ノ效果ヲ阻碍スル一原因タリ即チ平等ノ立場ナラハ爲シ得ヘキ國際競爭モ此カ爲ニ行ハレニクキ也輕濟政策ハ言フ迄モナク國民ヲ本位トスルモノナリ尋常同胞相愛ノ感情ノ外ニ猶進ミテ一國全體トシテノ利益ノ爲ニハ他國ノ利害ヲ從タラシムルコトヲ憚ラサルハ今日ノ如ク親密ナル國交ニ於テモ免レサル所ナリ而シテ内外市場ノ共通ヲ利トスル場合即チ自國ノ安キ賣値ヲ以テ他國ノ高キ賣値ニ臨ミ自國ノ高キ買値ヲ避ケテ外國ノ安キ買値ヲ迎ヘントスル場合アラハ勿論國ハ自然ノ成行ニ放任スルニ止ラス進ミテ内外ノ連絡ヲ容易クスルノ策ヲ運ラシ例ハ輸出ノ便宜ヲ供與シ奨勵ヲ加ヘ又ハ輸入ヲ招致スルノ手段ヲ取ルニ至ランモ若シ事情カ之ト反對スル場合ニ際シテハ出來ルタケ市場ノ擴張融合ヲ不便ニシ有利ノ地位ニアル外國人ノ壓迫ニ由リテ自國ノ生産者又ハ消費者カ心ナラスモ不利益ナル取引條件ニ甘ンスルカ如キコト無カラシムルヲ期スルナリ而シテ其最普通ナル形式ハ(452)關税ナリ保護税ノ目的ハ其文字ノ示ス如ク全ク消極的ノモノナリ國内ノ商品カ出テヽ他國ノ同種類ノ物品ト販路ノ爭奪ヲ企テ得ルカ如キ優勝ナル地位ニ在ラサル場合ニ已ムコトヲ得ス力メテ戰ヲ避クルノ途ニ出ルモノナリ前ニモ言ヘルカ如ク農業ノ生産ニ於テハ新國ト舊國トノ間ニ競爭力ノ差異既ニ著シク到底相撲ニナラサルナリ穀物ノ一定量ニ對スル生産費ハ國ニ依リ大ナル差アリ例ヘハ最大ナル國際市場ヲ有スル小麥ニ就テ言ハヽ英國ニテハ「一エークル」（四反歩強）ノ生産費七磅乃至八磅ナリト云フニ米合衆國ノ小麥産地ニ於テハ近年ノ英國農務省ノ報告ニ依レハ最高四磅最低一磅ナリ斯ノ如キ場合ニ舊國ノ生産者タル者カ其市場ノ共通ヲ欲セサルハ當然ノ事ト云フヘシ日本モ　　　略々英國ト同シ位カ或ハ少シク之ヨリ多キカモ知レス併シ産額僅少ニシテ國内ノ消費ニモ足ラサレハ未タ甚シキ競爭ニ遭遇セサルナリ

　穀物ノ關税ノ問題ハ我國ニ於テモ近年ノ大問題ナリキ此間題ノ最困難ナル點ハヤハリ生産者ト消費者トノ利害ノ永久ニ相容レサルニ在リ生産者カ尤モ甚シク市場ノ共通ヲ嫌フノ時ハ即チ常ニ消費者カ比較的廉ナル物品ノ爲ニ門戸ノ開放ヲ希望スルノ場合ナリ之ニ反シテ製造業ニ於テハ二者ノ利害ハ終ニハ之ヲ妥協セシメ得ルノ途アリ所謂幼稚ナル産業ノ助長ハ或時期ヲ待ツノ後國内ノ供給増加ヲ以テ次第ニ消費者ノ希望ニ合スル迄其市價ヲ低下シ得ルコトヲ意味ス從ツテ之ヲ消費者ノ義侠心乃至ハ國民ノ同情ニ訴ヘ得ルノ術モアルナリ然ルニ農業ニ於テハ保護ノ爲ニ收メ得ル所ノモノハ所謂耕境ノ推進ナリ即チ關税ノ助力ヲ以テ達シ得タル高キ市價ヲ持續シ行クニ非サレハ國内ニ於ケル増加人口ノ需要ニ應シ得サルナリ即チ消費者ノ忍耐ヲ勸誘スヘキ理由甚乏シキナリ次ニ農業ノ苦シキコトハ農以外ノ生産ニ對スル保護ハ其眞意ニ在リテハ經濟的鎖國ナリ國内ノ交易ヲ以テ主トシ獨立孤存シテ生産ヲ持續シテモ可ナリト云フ自信アル者ノ態度ナリ之ニ反シテ人口既ニ稠密ニ食料ノ國内供給ヲ維持スル爲ニ其市價ノ騰貴ヲ忍ハサルヘカラサル國柄ニテハ其勞力ノ餘剰即チ農業ノ爲ニ用ヰ盡スコト能ハサリシ勞力ハ之ヲ他ノ方面ノ生産ニ充テ其産物ヲ出シテ之ヲ國外ノ消費者ノ用ニ供セサルヘカラス即チ國際貿易ヲ爲サヽルヘカラサル能動的ノ必要存スルナリ而シテ輸出ノミ(453)ヲ常ニ盛ニスルト云フコトハ到底不可能ナリ其對償トシテハ是非トモ自分モ亦消費者トシテノ立場ヨリ或種類ノ物品ニ付テ市場ノ共通ヲ計ラサルヘカラス語ヲ換ヘテ言ハヽ食料ヲ外國ニ仰カントスル傾向カ農業者ニ非サル者ノ間ニ盛ニナリ行クコトハ自然ノ結果ト云ハサルヘカラサルナリ

　消費者カ如何ナル場合ニ於テモ市場ノ成長スルコトヲ悦フヘキコトハ既ニ述ヘタルカ如シ而シテ其努力ノ最明白ニ且意識的ニ發現スルハ即チ國際貿易ノ場合ナリ殊ニ製造業及商業ノ方面ニ於テ大企業ノ盛ニ起リシヨリハ此等商工ノ徒ノ自ラ消費スヘキ物品即チ農産物ニ於テハ最顯著ナル動搖影響ヲ受クルニ至レリ即チ一時ニ多量ノ農産物ヲ需要スル消費者ノ團體ハ此方面ニ多ク現ハレ來リシナリ更ニ進ミテ農産物ヲ原料トスル製造業又ハ農産物ヲ商品トスル商業カ統一セラレタル大市場ノ中心ニ據リテ其大規模ノ經營ヲ始ムルコトヽナレハ外國品ノ輸入ヲ誘致スルコト一層盛ニナル譯ナリ日本ノ輸入問題中尤モ世人ノ注意ヲ惹クモノハ米ナレト所謂南京米ハ實ハ日本ノ米ト精確ニ同種品ニハ非ス寧ロ一種ノ代用品トモ云フヘキモノナリ從ツテ「米」ノ市場ハ未タ完全ニ内外共通トナレリト云フヲ得ス此故ニ獨逸ナトノ農業保護論者カ小麥ニ付テ唱フルカ如キ所謂不必要ナル輸入ヲ促スノ弊ハ少キナリ不必要ナル輸入トハ獨逸ニ限ラス歐羅巴諸國ニテ大ナル製粉所、大ナル釀造所ニ於ケル小麥ノ需要ハ常ニ多量ノ同品質物ノ取揃ヲ利益トスルニ小農多キ國ニテハ各地方ノ農場ハ區々獨立シテ其生産物ノ品質ニ無數ノ階段アリ到底此希望ニ合スル能ハス爲ニ穀商ノ輩ハ運賃ヤ値段ノ引合フ限ハ國内ノ生産品ニ猶餘裕アル場合ニ早クモ外國品ヲ注文スルナリ英國ニ於ケル「バター」ノ輸入ニ付テモ同樣ノ事實アリ取引ノ經費ハ決シテ數量ニ比例スルモノニ非ス資本ノ力アル者ハ一時ニ多量ヲ取扱フヲ以テ利益トス我國ニテハ米以外ノ農産物ニ付テモ未タ取引ノ便宜ノ爲ニ大量ノ取引ヲ望ムノ時代ニ達シ居ラス併シナカラ例ヘハ綿絲紡績カ工場組織トナリタル上ハ縱令内國産ノ綿花カ繊維ノ細クシテ且ツ長キコト米國産ニ讓ラサリシトスルモ到底之ヲ各地方ノ小農ヨリ買集ムルノ面倒ヲ忍フコト能ハサルナリ故ニ綿作ノ衰亡ヲ以テ獨リ其輸入税ノ免除ノ結果ノミニ歸スルハ當ラサル説ナリ一旦多量ノ買入ヲ以テ便トスル大工揚カ現ハレタル以上ハ其經營者ノ(454)利害トシテハ國家ニ向ツテ輸入税ノ免除ヲ迫ルニ至ルハ極メテ自然ノ推移ナリトス藍作ノ衰亡ノ如キモ亦「バター」ノ例ト酷似セリ藍ノ税ハ元々安カリシモ無税テハナカリシナリ而モ其輸入カ國内生産ヲ壓迫セシハ實ハ商人カ多量取引ノ便宜ヲ利用シテ愈々多ク低廉ナル外國染料ヲ輸入スルコトヲ得タリシ爲ニ外ナラス支那大豆ヲ?油釀造ノ用ニ供スルカ如キモ目前現實ノ例ナリ若シ最有爲ナル?油釀造家アリテ一定ノ大豆ノ種類ヲ選擇スル程度ニマテ生産技術進ミテアルナラハ國産大豆ノ餘剰アルヲモ願ミス又必シモ内外値段ノ開キヲ要トセスシテ輸入品ヲ招致シタリシナラン麥酒ノ釀造ノ原料ノ如キハ正シク此例ニ當レリ原料トシテ農産物ヲ消費スル者ノ數多ク諸方ニ分散シ居リテ必シモ大量ノ取引ヲ利トスルニ至ラサルモノ例ヘハ豆腐用ノ大豆トカ小豆トカ鷄卵トカイフ種類ノモノニ在リテ此傾向ハサシテ著シカラサルノミ

　不必要ナル輸入ハ生産者ノ最モ忍ヒ難シトスル所ナリ其弊ノ極マル所或ハ内地ノ生産ヲ絶對ニ不可能ナラシメ其方面ニ於テ土地ノ利用ヲ廢セシムルカ如キ場合ニハ國ハ自ラ進ミテ或程度迄ノ交通ヲ遮斷シ輸入ヲ困難ナラシムルノ策ヲ採ルヘキ必要アルコトアラン併シナカラ若シ之ニ反シテ國内ノ消費ニハ常ニ若干ノ不足アリ國トシテ何等カノ方法ヲ以テ之ヲ補充セサルヘカラサル場合ニ於テハ輸入税可否ノ論ハ自ラ別箇ノ問題ニ屬スヘシ何トナレハ前者ハ現?ノ保持ナリ即チ消極的ノ策ナリ後者ハ將來ノ方針ナリ即チ積極的ノ謀ナリ此二者ハ區別シテ考究スルコトヲ要ス蓋シ實際ノ政治ニ於テハ所謂既成ノ?態ナルモノハ甚タ大ナル意義ヲ有ス假令理論上有力ナル根據アル方策ニテモ所謂保守派ノ立場ヲ覆ヘシテ之ヲ實行スルコトハ事實ニ於テ決シテ容易ナラス一國ノ經濟?態カ未タ外部ノ影響ヲ受ケサリシ間ニ既ニ或程度迄ノ集約生産方法ニ到達シ其産物カ或高サノ市價ニ昇リタル以上ハ新ニ外國ノ市場ト聯合シテ此二者即チ農ノ精度ト市價トヲ以前ノ?態ニ引戻スト云フコトハ必シモ不可能ニハ非サレトモ多クノ場合ニ於テ國ノ爲不利ナリ土地ノ價ハ年々ノ平均收益ニ因リテ既ニ改算セラレタリ此改算ヲ根據トスル多クノ取引ハ既ニ行ハレタリ各農家ノ私經濟ノ豫算ハ之ニ基キテ立テラレタリ故ニ其主張ノ正義ニ合スルヤ否ヤハ別問題トシテ彼等カ極力現?ヲ維持セ(455)ントスルハ當然ノ事ナリ國家ノ立場ヨリ見ルモ急激ナル市場ノ擴張ニ因リテ生スル農業經濟ノ動搖ヲ防止スヘキ必要ヲ見ルコト多キナリ尤モ此議論ハ一種ノ仲裁説ニシテ勿論徹底シタル理論ニハ非ス國ハ固ヨリ消費者ノ希望ヲ無視スルコト能ハス又縱令消費者カ其希望ヲ表示セストスルモ彼等カ市價ノ低落ヲ喜ハヌ道理ハナキカ故ニ若シ漸ヲ以テ市價ヲ低クシ得ルノ機會アラハ常ニ注意シテ之ヲ利用セサルヘカラス殊ニ將來ニ於テ内外不權衡ナル國産品ノ騰貴ヲ防止スルノ必要アルハ勿論ナリ唯急激ナル變動ヲ避ケ能フヘクハ現在ノ市價ノ維持ニ力ムヘク之ヲ限度トスル保護税ノ制度ハ或ハ止ムコトヲ得スト云フヘキナリ而シテ人口カ愈々増殖シテ更ニ一段ノ供給ヲ増サネハナラヌ場合ニ於テハ自ラ解決ヲ異ニスヘシ國外ニ低價ヲ以テ供給シ得ヘキ同種類ノ農産物ノ多ク存スルニモ拘ラス之ヲ拒ミテ生産費ノ多ク掛ル國内品ヲ増産セシメムカ爲ニ市價ノ騰貴ヲ保障スルニ足ルタケノ關税ノ引上ヲ爲スニ至リテハ是レ消費者ノ既得?態ヲ無視シタル政策ニシテヤハリ同樣ニ激烈ナル保守的ノ反抗ヲ招クコトハ分リキツタルコトナリ然ルニ現今ノ保護論者ノ期スル所ハ頗ル此説ト同シカラス彼等カ主張ニ依レハ若シ農業ヲ保護スルナラハ現在ノ耕地ハ更ニ其面積ノ幾割ヲ増加スヘク一反歩當リノ穀物ノ收穫モ亦同シク其幾割ヲ増加スヘシト稱ス例ヘハ米ヲ七千萬石トシ八千萬石トシテ以テ人口ノ増加ニ應スルコトモ敢テ困難ニハ非スト云ヘリ若シ此生産増加ニシテ生産費ノ割合ヲ増スコトナク語ヲ換ヘテ言ハヽ市價ノ騰貴ヲ必要トスルコトナクシテ單ニ技術上ノ改良等ノ力ヲ以テ成遂クルコトヲ得ルナラハ是レ正シク國民ノ何レノ部分ニ對シテモ共通ニ幸福ナルコトナリ結構千萬ナリ併シ之ニ反シテ生産増加ノ爲ニ更ニ一段ノ保護ヲ加フルノ必要ヲ喚起スモノトセハ消費者ノ側ヨリ言ヘハ則チ更ニ一段ノ保護ヲ奪ヒ去ルコトヽナリテ公平ヲ缺キタル論ナリ此ノ如キ手段ハ即チ二者ノ利害衝突ヲシテ愈々猛烈ナラシムルモノニシテ竟ニハ一國ノ力ヲ以テスルモ之ヲ調和スル能ハサルカ如キ難儀ヲ釀スコトヽナルヘク容易ニ採用スヘカラサル保護策ナリ

　右ノ如キ保護説ニ對シテ茲ニ一ノ最有力ナル勢援ヲ與フル議論アリ所謂食料獨立論即チ是ナリ曰ク世界ノ平和カ未タ期シ難シトセハ四面環海ノ國ニ於テ食料ノ如キ年々ノ必需品ヲ外國ニ仰クハ甚シク不安ナリ英國ノ如キハ廣大ナル(456)殖民地アリ又資本力的ニ從屬セル多クノ友邦ヲ有スルニ拘ラス食料品ノ供給ヲ確保スル爲ニハ常ニ無言ノ裡ニ海軍擴張ヲ以テ國是ト爲シ優越ナル制海權ヲ持續スルニ汲々トセリ是レ全ク國トシテ此龍城ノ用意ナクハ其命脈ヲ保ツコトヲ得サルカ爲ナリ故ニ如何ナル犠牲ヲ拂ヒテモ國内ノ需要ヲ充スタケノ食料ハ平年ヨリ之ヲ作リ行カスンハアルヘカラスト此説ハ今日ニ於テモ不幸ニモ尚之ヲ承認セサルヘカラス然レトモ人口ノ増加ハ自然ノモノニシテ終止スル所ヲ知ラス此理論ニ從ヘハ到底百年二百年後ノ計ヲ立ツルコト能ハス又食料ニ於テハ假ニ獨立スルヲ得トスルモ食料ノ食料タル肥料ニ於テ亦同時ニ獨立スト云フコトハ一層ノ困難ナリ輸入肥料ハ現在既ニ四千萬圓ノ巨額ニ上レリ此輸入ナカリセハ我國ノ如キハヤハリ其生産ヲ持續スルヲ得サルナリ肥料ノ供給ニ付テハ或ハ將來科學ノ進歩ニ依リ難問題ヲ解決シ得ルノ時アラン併シナカラ之ト同時ニ生産費ノ問題ヲモ亦近キ將來ニ於テ解決シ置クニ非サレハ段々數少ナクナリ行ク外國トノ戰爭ヲ憂フルニ先チテ國内ノ二階級間ノ不斷ノ戰爭ヲ患ヘサルヘカラサルコトヽナラン也

　

　　　　　第七章　農産物ノ運送

　

　交通機關ノ改良カ如何ナル場合ニモ必ス消費者階級ヨリ歡迎セラルヘキモノナルコトハ既ニ之ヲ明ニセリ而シテ此事實ヲ以テ直ニ生産者ノ悦ハサルモノヽ如ク推論スルヲ得ス生産者側ヨリ言フモ交通ノ發達ハ一般ニ利益ナリ蓋シ運送ニ要スル時間ノ短縮ト費用ノ節約トハ必シモ遠方ヨリノ競爭ヲ容易ニシ生産者ノ經濟ニ不確定ノ分子ヲ増加スルノ結果ヲ見ルニ止ラス市場ノ擴張ハ一般ノ生産者ニ公平ニ競爭ノ機會及武器ヲ與フルモノナレハナリ即チ攻ル者モ守ル者モ共ニ均シク力強クセラレタレハナリ生産者ハ遠方同業者ノ生産物ニ依リテ侵撃ヲ受クルト共ニ又自ラ出テヽ遠方ノ販路ヲ開拓スルコトヲ得ルナリ最近數十年ノ間ニ於テ農産物ノ種類カ著シク増加シ所謂有利ナル作物ノ栽培カ盛ニ普及シ土地ノ利用カ進ミ農法力精巧且複雜トナリシハ全ク此カ爲ナリ

(457)　元來地方市場ノ分立割據ヲ餘義ナクセシ交通ノ障碍ナルモノハ決シテ天然不變ノ?勢ニテハ非サリシナリ人間ノ力ヲ以テスレハ渡ルヘカラサル海川モナケレハ越エラレサル山脈モナキ道理ニテ要ハ唯此カ爲ニ要スル費用ノ問題ナリシノミ從ツテ此費用タニ節約シ得ルノ方法立ツナラハ需要ノ在ル所ニハ滔々トシテ供給ノ之ニ向フモノアルヘク即チ忽ニシテ市場ハ擴張シ得ヘカリシナリ競爭ナルモノハ一面ヨリ見レハ從來ハ附近少數ノ生産者ニ非サレハ承諾スルコトノ出來サリシ條件ヲ以テ消費者ノ注文ニ應シ得ルモノヽ増加ヲ意味ス即チ生産者ノ純益ニハ何等ノ影響ヲ及ホスコトナクシテ消費者ノ支出ヲ減シ得ル機會ノ増加ヲ意味スルナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ二者ノ利益ヲ調和シ得ヘキ最好ノ手段タリ一國ノ立場ヨリ見テ交通ノ改良ノ最モ希望スヘキ點ハ全ク右ノ生産費ノ一般節約トイフ點ニ在ルナリ殊ニ農業ニ在テハ交通ノ改良ハ此上ニ別ニ大ナル一ノ意義ヲ有ス徒歩又は馬背ノ運送ヲ專トセシ時代ニ在リテハ限アル一平原内ニテモ農ノ生産方法ニ顯著ナル差等アルコト全ク現今新舊二別國ノ間ニ於テ見ル所ノモノト同樣ナリキ市街地ノ中ニ介在シ又ハ之ニ接近セル農地ニ於テハ紫蘇、酸奨其他如何ナル農作物ニテモ價ヲ有セサルモノナキニ反シテ些シク山間ニ入込ミタル農家ニ於テハ米麥ノ如キ主タル穀物スラ之ヲ換價スルノ手段ナキカ爲止ムコトヲ得ス完全ナル自給經濟ヲ強行シ所謂餘剰ノ生産ヲ全ク斷念セシモノナリ米國ノミネソタ〔四字傍線〕邊ニテ「玉蜀黍ヨリ安キ燃料ナシ」ト云ヒシ時代アリシコトハ有名ナル話ナリ我國ニテモ斯ル例隨分多カリシ然ルニ生産費ノ中ニ於テ運賃カ占ムル部分愈々小サクナレハ都鄙遠近ノ差ニ因リテ農法ヲ異ニスヘキ必要ハ次第ニ少クナリ從來不便ナリシ地方ニ於テ著シク土地ノ利用ヲ進ムルコトヲ得ルナリ尤モ此結果トシテハ以前ヨリ消費地ニ近カリシ農業者ノミカ競爭ノ弊ヲ受ケ府縣ト府縣トノ間乃至郡ト郡トノ間ニモ前ニ國際貿易ニ付テ述ヘタルト同樣ニ結局保護ヲ必要トスル弱者ヲ生スヘキ理ナレトモ國内生産者ノ利害ヲ一體トシテ達觀スルトキハ勿論右ノ如キ農法ノ同化ニ因リテ利益ヲ受クル者ノ方カ遙ニ多キノミナラス消費者ノ集合スル土地即チ市街モ亦交通ノ改良ト共ニ著シク成長スヘク從テ其需要力ハ増加スヘキヲ以テ如何ナル時代トナルモ所謂郊外農業ノ活動シ得ヘキ餘地ハ十分ニ存在ス此カ爲ニ交通發達ノ弊ヲ憂フルニハ及ハサルナリ數多キ(458)農産物ノ中ニハ永久ニ遠地ノ供給即チ市場ノ擴張ニ適セサルモノアリ所謂チューネン〔五字傍線〕ノ獨立國ノ法則ヲ適用スルモ需要量ノ極メテ少キモノ、價格ノ餘リニ安キモノ、新鮮ナラサレハ價値少ナキモノ即チ迅速ナル供給ヲ要スルモノ又ハ容積ノ過大ナルモノ等ノ類ハ永久ニ消費地ヲ中心トスル第一圏内ノミノ生産ニ適スルナリ要スルニ交通改良ノ效果ハ全國農經濟ノ同化、土地利用度ノ平均ニ在ルカ故ニ縱令一小部分ニ於テ却テ土地利用ノ退歩ヲ見ルコトアリトスルモ猶一國ノ爲ニ之ヲ歡迎スヘキナリ

　併シナカラ如何ナル文明的事業ニモ必ス之ニ伴フ暗黒面アルコトハ數ノ免レサル所ニシテ殊ニ其利益ノ大ナルモノニ在テハ却テ動モスレハ其缺點ヲ埋没シ長所ノミヲ過重視スルノ弊ヲ見ルヲ常トス鐵道軌道ノ建設ノ如キハ從來ノ山村ヲシテ居ナカラニシテ都會附近ト同等ノ利便ヲ受ケシムルコト宛モ仙家ノ縮地術ノ如キモノアリト雖之ト共ニ一方ニハ其便益ヲ濫用スル者ヲ生シ往々ニシテ不必要ナル輸送ヲ誘フノ處アリ蓋シ如何ニ劣惡ナル鐵道ニテモ人車ヨリハ遙ニ費用少ナク徒歩ヨリハ遙ニ安樂ナルヲ以テ從來ノ?況ト比較スレハ常ニ必ス有利ナリ故ニ全國一樣ニ經濟事情ノ變遷アリタルコトニ心附カサル地方人ハ唯舊來ノ難義トノミ比較シテ如何ナル條件ニテモ之ヲ取引シテ悔イス言ハヽ一種ノ好奇心流行風ニ追ハルヽコトアリ即チ急速ヲ要セサルモノ又ハ遠方ニ送ルニ及ハヌモノヲモ擧テ之ヲ鐡道ニ委ヌルカ如キハ?々起リ得ル弊ナリ此結果ノ最モ著シキハ或地方ニ於ケル水運ノ衰弱ナリ乃至ハ其一般ノ不振ナリ此カ爲ニ鐵道ト竝行セル航路ハ皆振ハス二三ノ開港場ヲ除クノ外ハ昔繁榮シタル國内ノ港灣ハ今日却テ閑却セラル農産物ノ如キ一般ニ嵩高ナル貨物カ水運ヲ利用スルニ不熱心ナルハ好マシキ現象ニ非ス鐵道軌道ノ不必要ナル利用ハ確ニ第一ノ弊害ナリ之ニ次テハ幹線過重ノ弊ナリ殊ニ歩道ト鐡道トヲ比較スルンミ前者ノ効果ハ實ニ微々タリト雖其代りニハ其分布ハ周到ナリ府縣郡等ノ境ニハ許多ノ峠路アリ例ヘハ近江一國ニハ四十八線ノ通路アリキ然ルニ急送機關ハ其中ノ二三ヲ採用シ其他ヲ廢滅ニ歸セシメタリ從ツテ以前繁昌セシ中山又ハ坂本ナトヽ稱スル驛亭ノ多數ヲ袋ノ底ノ如キ地位ニ置ケリ此點ヨリ見レハ交通機關今日ノ發達ハ其本來ノ目的ト異リタル結果ヲ生シタルナリ此ノ如キ結果ハ或程(459)度迄ハ止ムコトヲ得スト言フ者アラン而モ之ト伴ヒテ第三ノ弊害即チ終點驛ヲ過重視スルノ傾向ヲ生スルニ及ヒテハ愈々以テ地方經濟ノ動搖ヲ甚シカラシメスンハアラサルナリ蓋シ遠距離遞減ノ運賃率ハ若シ其程度ヲ超エンカ其中間地方ヲシテ競爭上ノ利益ヲ失ハシム更ニ若シ之ト共ニ大量割引殊ニ一車貸切ノ如キ著シキ利益ヲ與フルトキハ少數大市場ノ勢力及壓迫ヲ助長スルノ傾甚タ大ナルヘシ元來鐵道國有ノ意義ハ言フ迄モナク一部資本家カ收得スヘキ將來ノ利益ヲ國ニ屬セシムルニ止ラス貨車其他ノ點ニ關シテモ直接ニ之ヲ一般生産ヲ誘導開發スルノ手段ニ供セシメントスルニ在リシナリサレハ理想トシテハ出來得ル限其便益ヲ普通ノ道路水路ト同シクシ最少實費ノ補償ヲ以テ甘ンスルノ境迄進マサルヘカラス此ト同時ニ賃率ノ定メ方、取扱ノ方法等モ凡テ皆一國全體ノ利益ヲ本位トスヘキハ勿論ニシテ特ニ一地方ノ爲ニ私スルコト英國等ノ大私設會社ノ如クナルコトヲ避クルハ其最モ大ナル目的タルヘキナリ大驛ト大驛トノ間ニハ始ヨリ種々ナル荷扱上ノ便利アル上ニ更ニ之ヲ誘フニ割引ノ利ヲ以テストセハ中間ノ小區域ノ貨物ハ不必要ニ餘分ノ旅行ヲ爲シ而モ問屋ノ爲?々其死命ヲ制セラルヽニ至ルヘシ此結果ハ獨リ國内ニ於テ分配ノ順序ヲ誤ルニ止ラス時トシテハ又外國品ノ競爭ノ爲ニ不公平ナル助勢ヲ附與スルコトヽナリ折角消費者ノ利益ヲ犠牲トシテマテモ賦課シタル保護關税ノ效果ヲ或程度迄無ニ歸セシムルノ不都合ヲ釀スモノナリ此弱點ヲ匡正シ中等市場ノ間ニ成ルへク近距離ニ於テ有無相通セシムルコトハ日本ニ於テ大ナル必要アリ而シテ軌道又ハ小鐡道ノ一ノ利益ハ全ク此ニ存シ又歩道カ何時迄モ重要ノ度ニ於テ甚シク昔ニ減セサルモ亦此カ爲ナリトス然ルニ現在我邦ノ國道ノ大部分ハ鐵道ト竝行セリ汽車ノ窓ヨリ一見スルモ寂莫トシテ行人ナク小賣行商ノ徒ノ外貨物ノ運搬ニ之ヲ利用スル者殆トアルコト無シ而モ府縣ノ之ヲ維持スルカ爲負擔ハ頗大ナリ現在ノ國道ヲ存續スル必要ハ一ハ國防上ヨリ來リ一ハ又其兩側ニ發達シタル經濟?態ノ維持ノ爲トアリテ容易ニ之ヲ省略スル能ハサルナランモ思フニ將來ノ道路ハ昔ニ比シテ餘程形勢ヲ異ニシ追々ハ竝行線ヨリモ交叉線ニ一層重キヲ置カサルヘカラサルコトヽ成ルヘキハ明ナリ是レ所謂縣道ナルモノカ地方ノ經濟生活ノ爲ニ重要ナル所以ナリ然ルニ多クノ縣道ニ在リテハ府縣ト府縣トノ聯絡極メテ不完全ナリ一ノ峠ノ(460)表ト裏トハ常ニ經濟事情ヲ異ニシ交易ノ起リ易キモノナルニ右ノ如キ近隣ノ山越交通ヲ顧ミサルノ傾アルハ多クノ場合ニ於テ不利益ナリト云ハサルヘカラス之ヲ要スルニ現在ノ交通機關ハ如何ナル場合ニ於テモ商人ノ爲ニ便利ナルハ爭フヘカラサル所ナレトモ更ニ生産者ト消費者トヲ相接近セシメ且此二者ノ利害ヲ調和セシムル手段トシテハ猶缺クル所些少ナラサルカ如キナリ

　

　　　　　第八章　市場組織ノ改良

　

　新時代ニ於テハ職業ハ人ニ固著スルモノニ非サルカ故ニ或一ノ職業ノ利益保護ニ關スル問題ハ常ニ國民ノ一部ニ對スル問題ニハ非スシテ一國全體ノ問題ナリ即チ國民勞力ノ配賦ノ問題ナリ農業者ノ如ク比較的轉業ノ困難ナル階級ニ在リテハ或ハ一階級トシテ國ノ保護ヲ要求スルヲ得ト云フヘキモ他ノ資本ヲ提ケテ先カラ先ヘ展轉シ行ク職業ニ在リテハ一方國ニ對シテ保護ヲ要求シツヽ他方ニハ早ヤ既ニ第二ノ轉業ヲ企ツル者アル常ノ事ナリ即チ利潤ノ多キ乃至ハ都合ノ宜シキ職業ニ在リテハ新ニ之ニ就ク者群ヲ爲シ仲間ノ競爭ヲ爲スカ故ニ再ヒ又利益少ナクナリ又去ツテ他ノ業ニ移ルニ至ルヘキナリサレハ吾人カ一概ニ商人ト云ヒ製造家ト呼フ者モ其一代ノ間ニ商品又ハ製品ヲ何囘モ變更シ行クコトハ珍シカラス故ニ職業ノ分配ニ付テモ自然ノ成行ニ放任シ置カハ競爭ノ結果終ニ公平ナル所得ノ均分ヲ求メ得ヘキ理ナリ國カ現在ノ市場組織ニ於テ缺點ヲ認メ此カ改良ヲ期シ殊ニ所謂中間業者 Middlemen ノ數ノ省略ヲ望ミ此カ爲ニ政策ノ力ヲ施サントスルニ當リ自由主義ノ論者ヨリ提出シ來ル反對論ノ根本ハ即チ茲ニ在リ併シナカラ職業選擇ノ自由ハ單ニ一ノ法則タルニ止ル此法則アレハトテ如何ナル職業ニモ任意ニ取附キ得トイフ結果ヲ生スルコトハナシ各種ノ業務ノ中ニハ轉業ノ難易ノ差ハ極メテ大ナリ農業ハ就中其最モ不便ナルモノナリ資本投下ノ樣式ハ之ヲシテ然ラシム殊ニ其資本中ニテモ固定資本ノ固定スル部分割合最多キ爲之ヲ原形ニ復スルコトカ至難ナリ固定資本ノ目的(461)カ特定スルノ點ヨリ言ハヽ機械ハ土地ヨリモ甚シ然レトモ機械ハ使用期限短シ長キモ十五年二十年間ニハ大抵償却スルノ計算ナレハ其終期ニ近クニ從ヒ如何ニシテ資本ヲ囘收スヘキカノ問題ハ段々ニ輕微トナリ行ク道理ナリ土地ノ用途ハ機械ニ比スレハ幾分カ多岐ナレトモ其價値カ常在ニシテ年期ナキ上ニ形質及所在ヲ變スルコト能ハサルカ故ニ常ニ多クノ需要者ヲ見出スコト能ハス買ハントスレハ高ク賣ラントスレハ安キハ諸君ノ熟知セラルヽ所ナリ次ニ轉業ノ計畫ニ必要ナル外部ノ情報ヲ得ルノ點ニ於テモ農業者ハ最不適當ノ地位ニ在リ從ツテ空想多シ次ニ職業教育ノ準備ニ就テモ農ハ最初ヨリ頗其趣ヲ異ニセリ即チ精農ハ必シモ敏活ナル商人ト爲ルヲ得サルナリ此等ノ不便不利アルニモ拘ラス農民ノ轉シテ他ノ業ニ就ク者アルカ如キハ思フニ餘程ノ好機會ニ接スルカ又ハ餘程ノ損失ヲ忍フタケノ強キ誘導又ハ壓迫ヲ受ケタル者ニ限ルヘシ他ノ職業ニ在リテモ家屋、船舶、機械其他ノ固定セル資本ハ凡テ職業ノ移轉ニ對スル足枷ノ一種ナリ商人ノ顧客ノ如キモノモ亦極メテ換價ニ適セサル固定資本ノ一ナリ尚一段ノ細論ヲ試ミルトセハ人カ現在ノ業ニ不滿ヲ感シ始メテヨリ他ノ職業ノ利益ヲ比較討査シ愈々轉業ヲ決行シテ新ナル職業ニ於テ生活ノ基礎ヲ固ムル迄ノ期間ハ短キモ數箇月長キハ數年ニ亙リ其間ハ充分ナル有償作業ニ從事スルコトヲ得ス此動搖ニ伴フ不熱心及不熟錬ノ損失ト移轉ノ失費トハ凡テ轉業ニ對スル大ナル障碍物ニシテ一國ニ取リテモ亦富力ノ絶對ノ減少ニ歸スヘキカ故ニ能フ限之ヲ避クル必要アリ殊ニ轉シテ又轉スルカ如キ轉業ハ公私共ニ最大ナル不利益ナリ

　一ノ職業ニ從事スル者ノ數カ一國ノ立場ヨリ見テ必要以上ニ多キ現象ハ即座ニ内部ノ競爭ヲ惹起シ其餘分ナルモノヲ離脱シ適度ノ數ヲ保ツヘシト云フ推測ハ一ノ理論ノ演繹タルニ止マリ未タ必シモ實際ニ合セサルナリ實社會ニ於テハ此法則ノ發現ヲ妨クヘキ種々ナル原因アルナリ今其一端ヲ言ハヽ例ヘハ（イ）競爭ノ不能ナリ小賣商等カ各自小區域ノ中ニ割據シテ雙方共競爭スルタケノ資力モ氣力モナキ場合ハ尠カラス次ニハ（ロ）競爭ノ自覺的制限ナリ即チ組合ノ申合セ等ヲ以テ一定ノ市價ヲ下リテハ取引ヲ爲サヽルヲ約シ甚シキニ至リテハ供給ノ總量ヲ制限シテ始ヨリ競爭ノ原因ヲ斷タントスルモノアリ斯ノ如キモノハ既ニ一種ノ企業合同ナリ（ハ）尚一段進ンテ強固ナル合同ヲ爲スモノ(462)アリ小資本家カ會社ヲ組織スル場合ハ企業者ノ數ヨリ言ハヽ一國ノ注文通リニ不必要ナル人ノ勤勞ヲ節約シ得タリト云フモ可ナリト雖其結果適當ナル職業ノ配賦ヲ遂ケ得タリト云フ能ハサル場合多シ更ニ考ヘサルヘカラサルハ（ニ）外部ノ牽制ノ缺乏ニ基キテ競爭ヲ不必要タラシムル場合ノ多キコト是ナリ商人ノ中ニテモ最モ過多ナル部分ハ小賣商ナリ而シテ此ニ接觸スル消費者ハ所謂素人ナレハ決シテ經濟原論ニ豫想スルカ如キ機敏且論理的ナル取引ノ相手方ニハ非ス二人以上ノ商人ヲ指嗾シテ競爭格闘セシムル程精確ニ物ノ價ヲ比較商量シ得ルモノニハ非サルナリ商業ノ經營ニハ秘密多シ商品ノ一種類毎ニ外間ノ者ニハ窺知ル能ハサル取引上ノ慣行又ハ呼吸アリ之ヲ知ラサル消費者ニ取リテハ強硬ナル態度ヲ持シテ徐ニ市價ノ歸著點ヲ待ツコトハ實際困難ナルカ故ニ通例彼等ノ力ヲ以テ烈シキ競爭ヲ小賣商ノ間ニ引起サシムルコトハ到底不可能ナリ要スルニ職業ノ異動ハ水カ平準ヲ保チ又ハ秤器カ微細ナル増減ニ感スルカ如ク的確ニ均衡ヲ保チ得ヘキモノニ非ス勢ノ極マリ弊ノ著シキニ及ヒテ始メテ大異動ヲ生スルヲ常トスルカ故ニ一國ニ取リテハ轉業ノ損失ハ愈々忍フヘカラサルモノト成ルナリ

　蓋シ一國ノ立場ヨリ職業ノ配賦ヲ論スレハ生産者ノ手ヨリ直接ニ、然ラサルモ能フ限手短ニ物カ消費者ノ手ニ歸スルニ如クナキハ勿論ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ所謂中間商人ノ階級ハ少ナケレハ少ナキ程愈々生産及消費ノ目的ニ合スルナリ分配職業ニ屬スル勤勞ハ國トシテ言ヘハ一ノ失費ナリ從ツテ常ニ之ヲ節約スルヲ以テ利トスルナリ併シナカラ既ニ市場交通ノ區域カ殆ト無限ニ擴張シ行ク今ノ時ニ際シテハ絶對ニ此仲介者ヲ省クコトハ到底不可能ナルノミナラス多數消費者ノ箇々ノ希望ニ應スヘキ手段ハ現在ノ小賣方法ヲ離レテ之ヲ求ムルコトハ餘程困難ナリ尤モ消費者ノ集合スル大市街ニ在リテハ漸ヲ以テ小賣方法ノ改良ヲ試ミントスル傾向アリ「デパートメント、ストーア」ノ問題ノ如キ此十年來ノ發現ナリ而モ農産物ニ在リテハ多クノ場合ニ此機關ヲ利用スルコト能ハス故ニ之カ補充トシテ市場《イチバ》公設ノ策ヲ主張スル者アリ「イチバ」ハ最モ古キ機關ナレトモ近世ニ至リテハ消費者カ之ヲ利用スルコト困難ニナレリ消費者ノ少ナキ小市街以下ニテハ殊ニ實行シ易カラス次ニ消費組合ナルモノハ理想上最モ吾々ノ所期ニ近キモノニシテツ(463)マリハ消費者ノ利益ヲ本位トシタル小賣機關ナリ然レトモ消費品目ノ多キ爲小資本ノ經營ニ適セス從ツテヤハリ消費者多キ大都會ノミ其利益ヲ受ク此等ノ改良ハ甲乙優劣アレトモ要スルニ生産者ヲシテ今一段消費者ニ接近セシムルノ點及分配ノ費用ヲ節約シ得ルノ點ニ於テ最モ好マシキモノナリ

　飜ツテ商品蒐集ノ方面ヲ見ルニ日本ノ如キ國柄ニ於テハ其困難ハ殆ト分配ノ場合ニ減セス前ニモ述ヘタル如ク農民ハ生産者トシテ國内最古ノ者ナレト販賣者トシテハ不馴ナル新米ナリ其對市場ノ懸引ニ適セサルコト市街ニ住ス消費者ヨリモ亦一段劣レリ從ツテ其努力ヲ以テ産物蒐集ニ關スル中間商人ノ勤勞ヲ省略スルコトハ頗六ツカシ之ニ加フルニ農業本來ノ性質トシテ今猶商人ノ智識ニ依頼スルノ必要アル事項甚多シ世ノ中カ進ミシヨリ消費者ノ趣味嗜好ハ著シク發達セリエ業等ノ生産品ノ多數ハ感覺ノ粗野ナル田舍者ヲ相手トス出來損ヒノ道具ヤ流行ニ後レタル反物或ハ極端ニ鹽カラキ鹽魚ノ類モ稍賣價ヲ低クスレハ之ヲ在郷ニ賣捌クコトヲ得ヘシ從ツテ「ローズ物ノハネ出シ」ハ最モ少シ之ニ反シテ都會ノ居住者ハ天然ノ慰藉少キ爲五感ノ欲ノミ鋭クナリ其鑑賞ノ力ハ他ノ意識トハ不權衡ニ發達セリ例ヘハ食料ニ付テ言フモ單ニ食卓上ノ品目カ多種ト成レルノミナラス同種農産物ニ對シテモ富ト習慣トノ異ルニ從ヒテ種々雜多ノ好ミアリ然ルニ工業者ハ此等消費者ノ意向ヲ察シ又ハ新意匠ヲ以テ其心ヲ迎ヘ其産物ノ種類ヲ變更シテ一ニハ消費ノ増加ヲ促シ二ニハ取引ヲ容易ニスルコトヲ得レトモ我農業者ニ在テハ不幸ニモ其生産物ハ一歩家ノ門ヲ出レハ如何ナル階級ノ人ノ消費ニ供セラルヽカヲ探知スルヲ得サルモノ多シ又假ニ之ヲ知リ得タリトスルモ消費者ノ注文ヲ參酌シテ生産ノ方法ヲ變更スルコトハ困難ナリ農産物ニハ土質ニ依リ味ヲ異ニスル煙草ノ如キアリ又天然ニ依リ色ヤ形?ヲ異ニスルモノ多シ近來品種改良トイフ問題ハ農界ニ於テ?々論セラルヽニ至レリ品種改良ナルモノハ工業等ニ在リテハ當事者ノ工夫ニ放任シテ容易ニ行ハルヽニ反シテ農業ニ在リテハ之ヲ國ノ政策カ自ラ世話ヲ燒カサレハ行ハレス而モ現在農政ニ於ケル品種改良ノ如キハ幾分美術的トモ云フヘキ別箇ノ標準ヲ加味シ單ニ賣レ易クスル爲又ハ消費者ノ希望ニ合スル爲ト云フ外ニ何ノ當モナク立派ナル優等品ヲ作ラシムルコトヲ努ムル傾向カ品評會共進會等(464)ニ現ハルヽニ至レリ元來消費者ノ希望ハ甚區々ニシテ或ハ惡クトモ安キ物ヲト望ム者モ中々多ク農産物ニ於テモ斯ノ如キ呼聲ハ決シテ弱クハナキナリ

　品種改良、種子交換ノ政策ハ先以テ農産物ノ類ト種トヲ昔ヨリモ一層多數ナラシメタリ各農家ハ戸主ノ見込次第思ヒ思ヒノ種ヲ蒔クカ故ニ一郡内ノ大根ニモ短クシテ蕪ノ如キモノヨリ長キコト槍ノ如キモノ迄カ栽培セラレ路ノ二十町モ散歩スル中ニハ十數種ノ?ヲ見ルコトハ決シテ珍シカラス此等各種ノ生産ノ一部ハ幸ニシテ消費者ノ歡迎スル所トナルヘキモ他ノ部分ハ愈々以テ特定ノ注文ヲ捜索スルノ面倒ヲ生スルニ至レリ種類統一ノ必要ハ是ニ於テカ起リタリ少ナクモ一地方ニテ一定量ノ同種品ヲ供給シ得ル計畫ヲ立テ而モ其種類ニハ地方的特色ヲ有シ永ク消費者ヲシテ愛好セシムヘキ種類ヲ發見シ且普及スルノ必要ハ漸ク認メラルヽニ至レリ

　品種ノ統一ハ勿論利益ナルモ政策ヲ以テ之ヲ決定斷行スルハ甚困難ナリ萬人ノ反抗ヲ受クルコトナク而モ將來消費者嗜好ノ變遷ニ因リテ損失ヲ受ケサルコトヲ保障スルハ當局ノ責任者ニ取リテハ隨分苦シキ任務ナリ殊ニ市場ノ最大ナル商品ニ在リテハ品種ニ關スル地方的苦心ハ往々ニシテ没却セラル例ヘハ米ニ就テ言ハヽ三十俵五十俵ツヽ品種ノ異ナレル米モ大ナル穀商ナラハ諸方ヨリ同類ヲ集メテ自ラ品揃ヲ爲スコトヲ得ン然シ品揃、等級區分ノ煩勞ヲ商人ニ一任スルトキハ農民ハ單ニ之ニ要スル費用ヲ負擔サセラルヽノミナラス其販賣方法ニ付テ彼等商人ニ憑頼セサルヘカラサル點一段多キヲ加フル道理ニシテ市場選擇ニ對スル一種ノ束縛ヲ増スコトヽナルヘケレハ也

　生産者即チ第一囘ノ賣主トシテノ農民ノ不利ハ吾國ニ於テハ企業規模ノ小ナルニ起因スルモノ多シ小農ノ多キ結果トシテハ一人カ市場ニ提供シ得ル分量少ナク之ヲ集メテ大量ノ商品ト爲スニハ特ニ經費ヲ要ス自給經濟ノ猶盛ニ行ハルヽ我國ニ於テハ此事實ハ殊ニ著シ所謂餘剰ノ生産ハ一旦之ヲ意識的ニ行ヒ始ルト共ニ次第ニ増加シ行クヘキ理ナレトモ今日ニ於テモ米ノ六千萬石ノ半分、麥ノ三千五百萬石ノ六割迄ハ絶對ニ商品ニハ非サルナリ其他ノ生産物ニ至テハ殊ニ生産場ノ散點セルカ故ニ蒐集ニ不便ナリ此等ノ物品ヲ一旦綜合シテ之ヲ各地方各階級ノ需要ニ應シテ按排スル(465)コトハ到底少數小生産者ノ協議ニ依ル能ハサルヤ明白ナリ多クノ小農國例ヘハ獨逸ノ西南部、和蘭、丁抹、白耳義等ニテハ産業組合ノ方法ニ依リテ生産者ノ利益ヲ本位トシタル蒐集機關ヲ作り品揃、等級別ケ、荷造等ノ事業迄モ共同シテ以テ商人ノ手ヲ省キ此難問題ノ必シモ解決シ難キモノニ非サルコトヲ立證セリ近年我國ノ政策ニ於テモ古來存在セル所ノ郷黨ノ懇親ヲ基礎トシテ此種ノ組合ノ設立ヲ勸誘シ將ニ其成績ヲ擧ケントセリ而シテ此事業ニ對スル最大ナル障害如何ト考フルニ立歸リテヤハリ亦農業者ノ商的智識ノ缺乏ニ存スルヲ見ルナリ

　最近ニ於ケル經濟組織ノ變遷ハ新ニ市場ニ接觸シタル農業者ニ向ツテ急激ニ種々ナル條件ヲ提出セリ英國ナトノ如ク夙クヨリ資本的農經營ノ行ハレシ國ナラハ兎モ角モ日本ノ農業者ノ多數ニ向ヒテ巧妙ナル市場取引ヲ望ムハ餘程ノ無理ナリ小工ハ始ヨリ都會ニ住シテ相應ニ市場ノ景氣ヲ理解スレトモ而モ商取引ニ關シ技倆手腕ヲ必要トスルコトハ田舍者ニ比シテ遙ニ少ナシ農民ハ嵩高クシテ變敗シ易キ物品ヲ抱ヘテ機敏ニ之ヲ處理セサルヘカラサルコト小工ノ比ニ非ス假令彼等カ資本乏シカラスシテ所謂｜値頃《ネゴロ》ヲ待ツノ餘裕アリトシテモ更ニ其上ニ機ヲ察スルノ眼識ト市況ヲ豫測スルノ思慮トヲ要求セラル語ヲ換ヘテ言ハヽ生産者ニシテ且商人ノ智識ヲ兼ヌルコトヲ小農ニ望ムナリ勞力ヲ以テ生産ノ基礎トスル小農ニ在リテハ五日ニ一度、十日ニ一度ナリトモ一日ヲ「イチバ」ノ往復ニ費スコトハ大ナル生産費ナリ而モ小サキ市ノ收容力ハ有限ナレハ前述ノ如キ大量取引ノ利益又ハ生産ノ改良増加ノ結果ヲ完全ニ收メントスルニハ情報ノ愈々得ニクキ一段ノ遠方ヲ以テ取引ノ相手方トセサルヘカラス故ニ少ナクトモ過渡時代ノ二三十年間ニ在リテハ此點ニ關スル經濟學ノ教育ハ彼等ノ爲ニハ勿論國トシテモ最大ナル意義ヲ有スルナリ何トナレハ過去ニ於ケル販賣組合失敗ノ歴史ハ日本ニテモ外國ニテモ多ク其原因ヲ茲ニ有スルヲ以テナリ

　「イチバ」往復ノ問題ハ組合ヲ利用スルコトヲ得サル小農ニ取リテハ更ニ生産費トシテノ勞力ノ問題ヲ生スルコトハ前述ノ如シ昔ノ農湯ニ於テハ最豐富ナルモノハ勞力ナリキ故ニ之ヲ租税ニモ變形スレハ又肥料ニモ飼料ニモ器械ニモ運賃ニモ變形シテ猶休ミテ遊フ日カ多カリシ也此事實ハ日本ノ農業經濟ヲ研究スル者カ從來未タ注目セサリシ大切ナ(466)ル且趣味アル點ナリ近代ノ農業生産ノ増加ハ主トシテ此餘裕ヲ利シテ得タルモノナリ從ツテ今日トナリテハ次第ニ勞力ノ餘分減少シ其評價高クナレリ少量ノ産物ヲ運搬スルカ爲ニ利用スヘキ勞力ノ如キハ次第ニ供給不足ヲ告クルニ至レリ近來農民カ「イチバ」ヲ利用スルコト次第ニ少ナク博勞《バクロウ》其他ノ小仲買人ヲシテ村落ニ入リテ譎詐ヲ逞ウセシムルハ一ニハ苟クモ商業ニ近似スル行爲ヲ以テ村民ノ淳朴ニ害アリトシ退守ノ氣風一般ニ瀰漫セシ爲ナレトモ更ニ又右ノ如キ經濟上ノ事情ノ之ニ添加スルモノアリシカ爲ニシテ誠ニ止ムヲ得サル傾向ナリ唯其弊タルヤ愈々彼等カ取引上ノ技倆ヲ萎縮セシメ外間ノ指値ノ壓迫トナリ又他ノ販路ヲ比較スルノ策モナク果實ノ如キ集約ナル農業ニ苦心シナカラ木ニテ賣リ畑ニテ賣リ品揃、荷造其他ノ勤勞機會ヲ全然他人ニ讓リテ顧ミサル者多ク外國農村ノ事情ニ通曉スル者ヲシテ頗ル怪訝ノ念ヲ抱カシム

　販賣組合ノ各種ノ方法ハ一方ニ於テハ右ノ勞力ノ問題ヲ解決シ他ノ一方ニ於テハ市場智識ノ養成ニ便ナラシムルカ故ニ恐クハ一定ノ期間ノ後ニハ大ナル效果ヲ示スコトナラン元來農産物ハ容積ノ大ナルモノ腐敗ノ早キモノ多キ上ニ一般ニ貯藏ノ便ヲ缺ケリ間斷ナキ生産アル物品ニテハ新舊生産品ノ區別不明ナレトモ季節アルコト農産物ノ如キモノニ在リテハ新茶、新米ノ出ルト共ニ古茶古米ハ直ニ「ヒネ」トナリ一箇年ノ間ニ殆ト全部ヲ手離シテ了フ必要アルノ外ニ梅雨期ニ入ルニ先チ競ヒテ之ヲ賣リ又租税納期ノ爲ニ販賣時期ノ自由ヲ制限セラルヽナリ而シテ是等ノ難問題ニ對シテモ販賣組合ハ亦大ナル貢獻ヲ爲スヘク期待セラルヽナリ

　蓋シ健全ナル農業者ノ團體カ彼等ニ取リテ最重要ナル一問題即チ資本ノ蒐集及利用ノ問題ヲ適當ニ解決シタル後生産者本位ノ共同倉庫ヲ設ケ其地方ノ大供給者タル地位ヲ挾ミテ市場ニ臨ムニ至ラハ穀物ノ如キ複雜ナル取引ニ於テモ終ニハ商機ノ樞軸ヲ握ルコトヲ得煩雜ナル手引案内者ヲ要セサル結果トシテハ能ク消費者ノ希望注文ニ應シツヽモ自分ニ取リテモ又一段ト滿足ナル賣買ヲ爲シ得ルニ至ルヘキコトハ殆ト疑ヲ容レス唯此種ノ改革運動カ米穀商ノ如ク極テ善ク發達シタル市場ニ在リテ其效ヲ奏スルコトハ他ノ商品ニ於ケルヨリモ遙ニ困難ナルヘキハ事理ノ當然ナリ三人(467)寄レハ文殊ノ智慧ト云フ諺アレトモ永年錬熟セル專門ノ商人ト括抗シテ錙銖ノ利ヲ爭フコトハ到底農民ノ長所ニハ非サルナリ故ニ先ツ市場ノ比較的完備セサル從ツテ抵抗ノ少キ部分例ヘハ所謂特用農産物ノ方面ニ於テ其力ヲ用ヰルヲ可トスヘシ東京ノ如キ大都會ニテモ稀ニハ生産者直接ノ供給ヲ必要トスル物品アリ其他ノ都會ニ行カハ此種類　　愈々多カルヘシ又縦令商人ヲ省略スル能ハサル迄モ消費者トノ距離極テ近ク販路ノ事情ヲ知ルニ苦マサルモノハ多シ將來ニ於ケル農民ノ商業教育ハ恐クハ此方面ニ於ケル實驗ヨリ得ル所大ナルヘシ殊ニ所謂農産製造ノ側ニ在リテハ市場ハ常ニ生産者ノ眼前ニ横ハル今日ノ田舍ニ於テ若シ聊ニテモ善意ニ於ケル商人的氣風カ存在スルアリトセハ其ハ皆古來此種ノ副業カ微々トシテ斷絶セサリシ御蔭ナリ（酒、油、?油等ノ生産販賣ハ昔ハ農家ノ副業ナリシ）故ニ所謂農ノ商化ナルモノカ若シ早晩免ルヘカラサル經濟上ノ機運ナリトセハ徒ニ職業ノ純粹ヲ保持スルコトヲノミ努メテ之ヲ疎外シ餘分ノ勞力原料ノ利用方法タル此等ノ産業ヲ都會資本家ノ手ニ委ヌヘキニ非サルナリ今日新ニ起リタル物産ニハ必ス夫々仲買問屋ナトノ商業機關ヲ伴フノ風アリ此現象ハ資本ノ問題其原因タルコト勿論ナレト一方ニハ又生産者自身側ニ共同ノ手段薄キ結果タラスンハアラサル也若シ此弊ヲ改メテ幾分ニテモ中間業者ノ數ヲ省クコトヲ得ハ啻ニ消費者トノ間ニ利害ノ調和ヲ計リ得ルノ望アルノミナラス新ニ其商業ニ向ハントスル者ノ勤勞ヲ轉シテ之ヲ他ノ生産業ニ向ハシメ今ヨリハ一層適當ナル分業ヲ見從ツテ農産物消費者ノ數ヲ増加シ得ル結果トナルヘケレハ國トシテハ結構千萬ナルコト也

　要スルニ國民ノ一半カ既ニ農以外ノ職業ニ就キ農産物ノ一部分カ既ニ商品トナリタル以上ハ其根本供給者タル農民ハ到底何時迄モ今日ノ如ク市場ノ?況ニ迂ナルコトヲ得ス所謂消費者利害ノ壓迫力斯ノ如ク促進シタル以上ハ之ニ對峙スヘキ平和手段ヲ求ムルニハ先以テ取引ノ系統ヲ明了ニスル必要アルナリ唯此ト同時ニ決シテ注意ヲ怠ルヘカラサルハ市場ノ利便ト市場ノ勢力トヲ過重視スルノ弊ナリ都會ニ遠キ村落ニ於テ今猶持續スレハ持續スルコトヲ得ヘキ或程度迄ノ自給經濟ヨリ急激ニ脱却センコトヲ欲シ必要以上ニ市場ノ利用ヲ開始スルカ如キコトハ深ク之ヲ戒メサルヘ(468)カラス小農ノ數多ク且之ヲ保存スル必要アル日本ノ如キ國ニテハ此ノ如キ一種ノ退嬰策モ洵ニ止ムコトヲ得ス然ルニ現在ノ農業政策ニテハ必シモ市場組織ノ改良ヲ努メスシテ之ニ先チテ市場ノ思惑ヲ過度ニ鼓吹セリ此弊ハ殊ニ農家ノ購入取引ニ於テ顯著ナルカ如ク感セラル

　

　　　　　第九章　私經濟ノ擁護

　

　一國生産政策ノ立場ヨリ觀レハ現今ノ帝國統計ニ掲クルカ如ク價額ヲ以テ表示シタル生産統計ハ餘リ適切ナル意義ヲ有スルモノニ非ス農産物價ノ昂低ノ激シキ國ニテハ金錢收入ノ増減ハ之ヲ以テ直ニ生産ノ盛衰ヲ卜スルコトヲ得ス一國全體トシテ希望スヘキコトハ直接ノ國民生活ヲ支持シ得ヘキ物料ノ豐富ニ在リテ其評價額ノ異同ハ問フ所ニ非サレハ也併シナカラ飜ツテ之ヲ箇々ノ國民階級ノ上ヨリ觀レハ生産物單價ノ増減カ極メテ重要ナル關係ヲ有スルコトハ前ニ述ヘタルカ如シ語ヲ換ヘテ言ハヽ農産物市價ノ問題ハ分配政策上ノ問題ニシテ生産政策上ノ問題ニ非ス國民總體ノ問題ニハ非スシテ部分的ノ問題也勿論或程度ノ市價ハ生産者ノ經濟?況ニ照シテ低キニ過キ之ヲ繼續シ行カハ終ニハ從來ノ生産額ヲ將來ニ維持スルコトヲ得サルノ處アリテ時トシテ生産政策ノ立場ヨリ市價ノ引上ヲ希望セサルヘカラサル場合ハアリ然レトモ幸ニシテ若シ之ヲ我慢スルヲ得トスレハ如何ナル場合ニモ國トシテ望ムヘキハ所謂供給ノ増加ナリ即チ消費者ノ買易キコト也何トナレハ國家ノ繁盛トイフハ要スルニ國民ノ全部又ハ其最大部分ノ幸福ノ増進ニシテ之ヲ物質上ヨリ言ヘハ消費ヲ容易ニスルコトハ即チ國民幸福ノ増進ニ外ナラサレハナリ

　貨幣經濟ノ發達シタル今日ニ於テハ各種物品ノ生産者ノ側ヨリ言ヘハ其産物ノ市價ノ騰貴ハ直ニ彼等階級ノ消費ヲ容易ナラシムルノ觀アリ假ニ外界ノ事情ニシテ一モ變スルナシトスレハ其騰貴シタル産物其代金ニ由リテ交換シ得ヘキ物料ノ額即チ所謂彼等ノ購買力ハ此カ爲ニ一層増加スヘキ筈ナレハナリ併シナカラ農業ニ於テハ此ノ如キ推測ヲ下(469)スニ先チテ第一ニ考慮ヲ加フヘキハ農場内ノ消費ナリ農産物殊ニ五穀ノ如キ必需品ニ在リテハ貨幣經濟ノ時代トナリテモ或程度迄ノ天然物經濟ヲ廢スル能ハス此部分ニ付テハ金錢簿記ノ理論ヲ徹底スレハ自分ヨリ自分ヘ高ク賣リシタケソレタケ自分カ自分カラ高ク買ハネハナラヌコトヽナル也之ニ次テ考ヘサルヘカラサルハ一般物價ノ相互的關係ナリ箇々ノ物價ハ孤立的ニ昂低スルコトハ甚シク稀ナリ殊ニ食料ノ價格ハ殆ト總テノ生産ニ於テ生産費中重要ナル分子ヲ構成スルヲ以テ此カ昂低ハ常ニ一般ノ物價ノ趨勢ヲ動カスヘキ筈ナリ故ニ時々ノ小異動ヲ除算シ大體ノ觀察ヲ下ストキハ單ニ農民ノ階級ノミニ付テ言フモ市價ノ騰貴ヲ以テ彼等ノ消費ヲ容易ニスルコトハ必シモ之ヲ望ム能ハス況ヤ今日ノ如ク一國ノ物價カ全般ニ通シテ騰貴ノ傾向ヲ有スル時代ニ於テハ徒ニ其收入ノ増加ノミニ著眼スルハ殊ニ不當ナリ農民ハ古來ノ天然經濟ノ生活ニ養成セラレタル思想ヲ以テ生産ノ豐凶即チ總生産量ノ多少ニ重キヲ置クコト既ニ其度ニ過キタリ他人ノ爲ニスル生産力愈々擴張スルニ及ヒテハ乃チ專ラ金錢總收入ノ多少ヲ以テ主眼トスルノ傾向ヲ生シ來レリ併シナカラ個人ノ經濟ニ於テモ亦結局スル所其目的ハヤハリ消費ノ容易即チ活計《クラシ》ノ安樂ニ存スルヤ疑ナシ而シテ金錢收入ノ増加ハ必シモ交換ノ有利ヲ意味セサルコトハ前述ノ如シ農以外ノ生産業ニ於テモ市價ノ騰貴ヲ希望スルハ一ナリト雖是レ唯他ノ條件ノ一定不變ナル場合ニ於テノミ望ムヘキモノナルヲ能ク知レリ即チ此ハ只一ノ手段又ハ便宜ト云フニ止リ最終ノ目的ハ別ニ存在スルコトヲ理解セリ例ヘハ茲ニ總收入ノ不時ノ増加アリトスルモ之ニ伴ヒテ或ハ之ヨリ一段烈シキ生産費ノ増加アリトセンカ市價ノ騰貴ハ何等生産者ヲ益スルコトナキ也之ヲ以テ觀ルモ明瞭ナルカ如ク純益ハ實ニ私經濟ノ唯一ノ目的ナリ農業カ職業トシテノ形態ヲ具ヘ他ノ生産業ト對立シテ交換ヲ以テ其地歩ヲ占メントスルニハ亦之ト同一ノ法則ニ從フヘキハ當然ノ事ナルニ實際ノ國情ハ農ト商工ト恰モ全然別箇ノ立脚地ヲ有スルモノヽ如ク考察シ斯ル思想ヲ以テ市場ニ臨ム者多シ是レ全ク過去ノ短年月間ニ進行シタル經濟上ノ變遷ニ對スル覺醒ノ足ラサルカ爲ナリ而モ一國ノ輿論カ亦此氣風ニ牽制セラレントスル傾アルハ悲シムニ餘アリトスサレハ新ニ計畫セラルヽ各種ノ工業會社等ニ在リテハ生産費ノ題目ハ豫メ最モ綿密ニ考究セラルヽニ獨リ我農業經濟ニ在リ(470)テハ此點ノ調査著シク粗略ナリ殊ニ生産費ノ性質ハ農業經濟ニ於テハ一層解明スルニ困難ナルモノアリ此生産ニ於テ最モ重大ナル地位ヲ占ムル土地ノ價ナルモノハ一種特別ノ性質ヲ有ス從ツテ農業ノ純益ヲ豫算スルニ當リテ頗ル大ナル混雑ヲ與フ故ニ若シ農業ヲシテ滿足スヘキ純益率ノ上ニ其安固ナル生産ヲ繼續セシメントスレハ是非トモ土地問題ノ攻究ヲ以テ其發足點ト爲サヽルヘカラサルナリ

　サテ愈々純益ハ凡テノ生産業ノ眼目ニシテ農業ニ於テモ此カ増加乃至ハ不減少ヲ以テ目的トスヘキコト他ノ産業ト同様ナリトスレハ農産物價ノ異動ハ明ニ第二次ノ論點ナリ今式ヲ以テ之ヲ示セハ

　　　（收穫高×市價）−生産費＝純益

ナリ即チ收穫高ヲ増加スルモ其市價ヲ高クスルモ生産費ヲ減少スルモ其純益ノ上ニ好影響ヲ及ス點ハ一ナリ而シテ此ハ單ニ個々ノ生産者ノ側ヨリ觀タル斷定ニシテ一國ノ側ヨリ觀レハ三者ノ價値ハ極メテ著シキ差等アリ産額ノ増加ハ生産政策ノ上ヨリ最モ望マシキコトナリ殊ニ人口無限ニ増加スル國ニ在テハ積極的ニ必要ナリ之ニ反シテ市價ノ騰貴ハ國トシテハ好マシキコトニ非ス生産費ノ少ナクナルト云フコトモ亦消費ノ困難ヲ減スル一原因ニシテ産量増加ニ次テ希望スヘキコトナリ即チ公私二者ノ利害ヲ調和スル點ヨリ言ヘハ能フヘクハ收穫ノ増加ニ因ル純益ノ増加其次ニハ生産費ノ減少ニ因ル純益ノ増加ヲ以テ結構ナルコトヽセサルヘカラス個人ノ立場ヨリスレハ純益増加ノ手段機會幾ツモアルトキハ其中ニ就キ比較的容易ナルモノヲ擇フハ人情ノ自然ナリ面倒ナル土地ノ問題ヲ包含セル生産費ノ方面ニ於テ今迄アマリ力ヲ用ヰサリシハ此カ爲ナリ國家ハ又ヒタスラ産額増加ニ熱中シ來リシモ此カ手段トシテ必シモ市價ノ騰貴ヲ忌マサルノミナラス寧ロ之ヲ希望セシ形アリシカ爲終ニ現今ノ如ク市價ノ騰貴ニ由ルニ非サレハ農業ノ繁榮ヲ期スル能ハサルカノ如キ通俗ノ論ヲ流行セシムルニ至リシ也農業経濟中分配問題ノ研究ノ必要ナル所以ハ之ヲ以テスルモ覗知ルニ難カラス然レトモ國家カ農民ノ私經濟ヲ擁護スルノ途ハ決シテ高キ市價ノ維持ニ限ルモノニ非ス否寧ロ彼等ヲシテ他ノ階級ノ利害ト調和シテ其永遠ノ繁榮ヲ遂ケシムル爲ニハ他ノ半面ノ研究殊ニ純益増加方法ノ攻究ニ(471)力ヲ用ヰル必要アルノミナラス生産政策本來ノ目的ヨリ云フモ今日ノ如ク消費者ノ利益ヲ長ク等閑ニ付スルヲ許サヽル也

　

　　　　　第十章　農場ノ選擇及經營

　

　國際貿易ノ發展ニ伴ヒ各國ニ於ケル農産物ノ市價ハ世界的ニ漸次接近スル傾向アリ殊ニ小麥ノ如キハ今ヤ殆ト世界ヲ統一シテ一ノ市場ト爲セル姿アリ其大輸入國タル英吉利ノ相場ハ此カ輸出ヲ専門トスル北米合衆國又ハ亞然丁共和國ノ相場トノ間ニ殆ト大ナル差異ナク歐羅巴大陸ノ保護關税ヲ課スル國ニテモ外國トノ間ニ於ケル其平均價格ノ差ハ通例ハ税額ヨリ低シ英國ニテハ一九一〇年ノ相場小麥一「クオーター」（一石四斗餘）カ三十六志十一片（十八圓五十錢）ナルハ近年ノ最高ニシテ一九一一年ハ此ヨリモ稍々降レリ一九一〇年伯林ノ一千「キロ」（七石弱）二百十二「マルク」（百五圓）推也納ノ二百十九「マルク」巴里ノ二百十三「マルク」ハ凡テ輸入税ノ増價ナリ其原價ヲ以テ比較スレハ紐育ノ百七十三「マルク」ブエノスアイレス〔八字二重傍線〕ノ百五十五「マルク」リガ〔二字二重傍線〕ノ百五十二「マルク」オデツサ〔四字二重傍線〕ノ百四十七「マルク」ト比ヘテ必シモ運賃タケハ高價ナラス（エルステル〔五字二重傍線〕經濟事彙ニ依ル）此等ノ産地ノ相場ハ何レモ一石十圓以下ニシテ此ヲ日本近年ノ市價即チ一圓ニ八升乃至九升又ハ一斗ト比シテ差異アルコトナシ而シテ一方ニ此カ生産ニ適用セラルヽ勞力ノ報酬ヲ比較スルニ日本ニテハ特ニ小麥ノ爲ノミニ調査セシ表ハナケレトモ通例農業勞働者ノ日當ハ賄附カスニ四十錢乃至四十五錢ナリ英國近年ノ勞銀ハ數十ノ地方ニ於テ調査セシモノハ十一志乃至二十志平均凡ソ一週十五志（七圓五十錢）ナリ更ニ北米合衆國ニテハ東部地方ノ普通ノ農業ニ於テ一日ノ勞銀一弗半乃至二弗ナリト云ヘリ此等ノ計數ヲ比較シテ何人ニモ起ルヘキ疑問ハ存外解答ニ困難ナルモノナリ小麥一石ノ價ニハ此ノ如ク内外大ナル差ナシトスレハ何故ニ日本ヤ英國ノ小麥耕作ハ今一層北米合衆國ノ勞銀ニ接近シタル報酬ヲ其勞働者ニ與フルコト(472)ヲ得サルカ是レ素人ノ疑問ニシテ學者ニ取リテモ亦面倒ナル問題ナリ今試ニ諸君ト共ニ其理由ノ存スル所ヲ考究セン

　先ツ第一ニ農企業ノ側ヨリ考ヘテ農業者ハ彼ニ在リテハ能ク少額ノ純益ヲ以テ滿足シ我ニテハヨリ以上ノ勞銀ヲ生産費トシテ支出シテハ其農業ヲ持續スルコトヲ得サル?態ナリヤ否ヤ即チ露骨ニ言ヘハ日本ノ農業者カ彼國ヨリモ慾張ナルニ非サルカ如何此ハ固ヨリ然ラス日本ノ農業ハ外國ヨリモ有利ナリト云フコト些モナシ何レノ國ニテモ農民ハ貧乏ナルモノナレト生活?態ヨリ判斷スレハ彼ハ我ヨリモ常ニ安樂ナリト云ヒ得テ殊ニ現在ノ日本ニテハ穀物栽培ノ爲ニ企業者カ賃銀ヲ拂ヒテ外部ヨリ勞働者ヲ雇フカ如キ實例少ナシ從ツテ右ノ四十五錢内外ノ日當トイフ相場モ傭主ト被雇者トノ間ニ押問答ニ依リテ決定シタル事實上ノ賃銀ニハ非スシテ生産ノ結果ニ基キテ評定シタル想像上ノ收入ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ何人モ此カ引上ニ對シ故障ヲ云フ者ナキ相場ニシテ企業者ノ慾張ヨリ來リシモノニハ非サルナリ第二ニハ企業ノ規模ニハ諸國非常ニ著シキ差異アリ大農國ニ於テハ毎一石ノ生産ノ純益ハ甚シク低ケレトモ一人ノ企業者ヨリ能ク莫大ナル産額ヲ擧ケ得ルカ故ニ總體ニ於テ小農國ノ小麥耕作者ヨリモ純收入ノ總額多キカ爲高キ勞銀ノ爲ニ生産費ヲ割キ得ルノ餘裕アルニハ非サルカ如何此事實ハ多少存セサルニ非ス併シナカラ人ノ生活程度竝ニ社會上ノ地位ハ常ニ其企業ノ大サニ比例シ大ナル生産ヲ爲ス者ハ大ナル生活ヲ爲ス故ニ其純益ノ總額モ比例的ニ多キヲ要求スヘク右ノ如ク一石當リノ純益ノ少キヲ我慢スルモノニ非ス假ニ然ラスシテ若シ企業規模ノ大ナルニ依リテ始メテ高キ勞銀ヲ拂ヒ得ルトセハ即チ純益ノ割引ナルモノヲ行ヒ得ルトセハ比較的小ナル農場ハ到底大農場ニ對立シテ存在スルコトヲ得サル理ナリ然ルニ實際小ナル農場ト雖大農場ノ傍ニ併存スルヲ以テ見レハ此推測モ十分ナル根據ナキナリ第三ニ大ナル農場ニハ自然ニ粗笨ナル農法カ行ハレ易キモノニシテ從ツテ人ノ勞力ヲ需要スルコト集約農ノ如ク大ナラサルヘク爲ニ右ノ如キ高キ賃率ニテモサマテ生産費ニ影響ヲ及サヽルニ非サルカ如何此事實ハ一應之ヲ認ムルコトヲ得ヘシ然レトモ單ニ土地面積ノ大小ノミニ依リテハ大中小農ノ區別ヲ定ムルヲ得ス甲ノ國ニテハ十町二十町ノ農地ヲ耕ス者モ猶小農ニ屬シ乙ノ國ニテハ五町ヲ耕セハ既ニ中農以上ナルコトアリ而モ大農國ノ農業カ一概ニ粗笨ナリ(473)ト云フコトヲ得ス一反當リノ收穫量ヲ標準トシテ比較スレハ米國ノ小麥耕作必シモ常ニ粗放ニハ非ス我國ノ統計ニテハ反一石二三斗ヲ平均トスルニ一「エークル」ニ三十「ブッシエル」（反ニ一石二三斗）ハ彼國ニテモサマテ珍シカラス我國ノミ獨リ極端ニ集約ナルモノトハ認ムルコトヲ得ス故ニ一石當リノ勞力ノ費用ヲ彼ニ於テ甚シク輕視スルコトヲ得サルナリ第四ニハ假ニ一反當リノ生産額ニハ大ナル差ナシトスルモ彼ト我トノ農場ノ生産組織ヨリ見テ勞力ノ地位ニ大ナル差アリ機械其他ノ資本ヲ以テ勞力ニ代ヘ更ニ之ト共ニ勞力ノ效果ヲ發揮スルコト彼ニ於テ遙ニ著シク勞銀ノ高キハ其市價ニ相當ニシテ彼此大ナル差ナキニハ非サルカ如何機械ノ使用ハ勿論生産費ニ對スル勞銀ノ影響ヲ少クスルノ傾アレトモ其代リ一方ニハ其需要ヲ減少スルカ故ニ之ニ依テ直ニ勞銀ヲ彼ノ如ク高カラシムルノ理由ナキナリ併シナカラ機械ヲ併用スルトキハ專ラ勞力ノミニテ生産スル場合ヨリモ功程遙ニ大ナルヘキ道理ナレハ自然ニ生産純益ニ影響スル所ナクシテ賃銀ヲ引上クルコトヲ得サルニ非ス實際大小農ノ間ニ於ケル最モ著シキ經濟上ノ差異ハ一石ヲ生産スル爲ニ要スル勞力ノ分量ニ在リ然ラハ我國ノ如キニ在リテモ大ニ勞力ヲ節約シ縦令大機械ヲ用ヰルコトヲ得サルモ或程度迄資本ノ利用ヲ以テ勞力ニ代フルノ餘地アル筈ナルニ未タ之ヲ實際ニ行フ能ハサルハ如何ナル障碍ニ基クカ是亦一ノ問題ナリ第五ニ一定量ノ穀物ノ生産費ニシテ諸國相同シトスレハ即チ一石當リノ純益カ略々相同シトスレハ更ニ考フヘキハ此ノ如キ勞銀率ノ異同ハ其由テ來ル所生産費中勞銀以外ノ部分ニ付テ我國カ他ノ國ヨリモ差増多キニハ非サルカト云フ問題ナリ農産物ノ市價ハ一國特有ノモノニ非サル限ハ少數ノ生産者ノ意思ヲ以テ之ヲ決定スルコトハ到底不可能ナリ外部ノ情況ニ因リテ決セラルヘキ市價ハ又自然ニ生産費ノ總額ヲモ決定スヘシ語ヲ換ヘテ言ハヽ農業勞銀ノ率ハ他ノ生産費即チ種々ナル材料ノ價殊ニ集約農法ノ下ニ於テ最重要ナル地位ヲ占ムル土地ノ價及此等ノ資本ニ對スル金利ノ割合等ト相消長スヘキモノナリト言ハサルヘカラス現在ニ於テハ世界ノ端々ニハ曠野猶廣ク此カ適當ナル經營ヲ以テ食料ノ供給ヲ豐富ニスルハ極メテ容易ナル事ナルカ故ニ段々交通カ開ケ行クト共ニ歐洲大陸ノ如キ舊國ニテモ一時ハ却ツテ穀價ノ低落ヲ示シ彼ノマルサス〔四字傍線〕人口論ニ説キタルカ如キ食物缺乏ノ豫測ハ全然杞憂ナ(474)リシカ如ク見ユルナリ然レトモ大體ニ於テハ穀物ノ價ハ次第ニ騰貴スヘキ傾向ヲ有スルハ爭フヘカラス故ニ農民ニシテ若シ此ノ大勢ヲ利用スルノ術ヲ知ルナラハ其前途ハ極メテ好望ナルヘキニ我國ノ如キハ事實ハ頗ル之ニ反シ企業所得ハ増ス所ナク勞働ノ報酬モ亦前述ノ如ク何レノ國ヨリモ遙ニ少ナシトスレハ國民將來ノ計トシテハ是非トモ其根本ノ原因ト認ムヘキ生産費ノ問題ニ著眼セサルヘカラサルナリ蓋シ大農場ノ經營ニ於テハ企業者ノ目的トスル所ハ單ニ純益ノ増加ニ在レハ兎角生産費ノ減少ヲ以テ此目的ヲ達スヘキナリ而シテ生産費ヲ減少セシムルノ手段トシテハ或ハ土地資本ヲ節約スルモ可ナリ或ハ金利ノ低減ヲ力ムルモ可ナリ或ハ又勞銀ノ爲ニ支拂フヘキ費用ヲ少ナクスルモ亦可ナリ何レニシテモ結果ニ於テハ一樣ニシテ其利益ハ同シキ理ナレハ假ニ土地ノ價甚シク高ケレハトテ勞銀スラ思フ存分安ケレハ差支ナキ筈ナリ併シナカラ日本ノ如キ小農國ニテハ然ラス我國ノ農業者ハ殆ト自家ノ勞力ノミヲ使用スル者ナレハ勞力報酬ノ多少ハ即チ自家ノ利害ナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ勞力報酬ノ増加ハ純益ノ多キコトヽ同シ結果ヲ彼等ニ持來スナリ從ツテ外部ノ勞力ヲ雇人ルヽ農場ニ比シテハ一層多ク勞力以外ノ生産費ノ節約ニ苦心セサルヘカラス彼等ノ職業ヲ繁榮セシメ其地位ヲ上進セシムルノ餘力ハ必ス此間ヨリ之ヲ求ムヘキモノナリ更ニ他ノ方面ヨリ言ハヽ小作農ニ取リテ小作料ノ安キカ幸福ナルト同樣ニ自作農ニ取リテハ土地ノ價ノ低キカ幸福ナル筈ナリ資金ノ利率カ低キト同樣ニ土地ノ値段ノ安キヲ喜ハサルヘカラサルナリ凡テノ生産事業ノ成功不成功ハ勿論年々ノ經營方法ノ當否及經營者ノ注意、勤勉ノ程度ニ依ルヘキモ如何ニ技倆手腕具備スル者ニテモ豫算上不當ニ巨額ノ生産費ヲ要スヘキ農場ニ於テハ到底引合フヘキ生産ヲ繼續シ得ルノ理由ナキナリ此事ハ諸君モ見ラルヽ如ク最モ明白ナル論理ナルニモ拘ラス多クノ農業者ハ未タ之ヲ理解スルコト能ハサルモノヽ如シ今日ノ實際ニ於テハ自作農ニ在リテハ地價ノ低落ヲ喜フコト小作人カ小作料ノ輕減ヲ喜フカ如クナラス而シテ其理由ヲ尋ヌレハ多クノ農業者ハ祖先以外ノ農地ヲ所有シ自ラ土地ヨリノ收入ヲモ併セ收ムルカ故ニ地價ノ騰貴ニ因リテ一方ニ費ス所ノ生産費ハ他ノ一方ニ於テヤハリ自分ニ之ヲ取得スルヲ以テ大ナル利害ヲ感スル能ハス而モ地價騰貴ハ通例農業ノ總收入ノ増加ヲ伴フ現象ナルカ故ニ其原因ヲ喜フ(475)ノ餘リ其結果ヲサヘモ歡迎スルニ至リシ也然レトモ斯ノ如キ自作農ニ於ケル地價ノ引上ハ要スルニ一種想像上ノ利益ナリ單ニ何等ノ實益ヲ齎ラサヽルノミナラハ我慢スヘキモ往々ニシテ不利益ナル結果ヲ見ルコトアリ即チ一旦農湯ヲ擴張セントシ又ハ新ニ農業ニ從事セントスル者ニ在リテハ地價即チ土地生産費ノ増加ハ常ニ著シキ企業ノ障碍ナリ近年自作農ノ割合カ次第ニ減少スル傾向アルハ即チ此事實ヲ意味スルモノナリ職業ノ移動ハ兎ニモ角ニモ今ハ昔ヨリ多シ然ルニ去ル者ニハ格別ノ障碍ナク來ル者ニハ斯ル障碍アルナリ土地ヲ自作スル者ハ減少セサラント欲スルモ能ハサルヘシ

　實際近世ニ於ケル農政上ノ難問題ハ主トシテ職業選擇ノ自由ニ起因セリ一國國民ノ無限ノ増殖ニ對シ常ニ食料ノ大部分ヲ國内ニテ供給スルノ方針ヲ維持スルヲ以テ利ナリトスレハ一國ノ生産政策ハ時代ノ進ムト共ニ次第ニ面倒ニ成り行クヘキハ當然ノ事ナリ新ニ耕地ヲ開發スル場合ハ勿論從來ノ田畑ヨリ餘分ノ生産ヲ擧ケシメントセハ或ハ優良ナル小農ヲシテ其從來ノ農場ヲ擴張セシメ或ハ又農地カ最モ適當ナル若クハ最モ熱心ナル人ノ手ニ歸屬スルコトヲ期セサルヘカラス單ニ地方經濟界ノ平穩ヲ望ムノ策トシテハ力メテ前述ノ如キ從前ノ農業者即チ自家ノ勞力ヲ以テ父祖傳來ノ所有地ヲ經營スル者ヲ保護シ其轉業離散ヲ防クヲ以テ足レリトセンモ既ニ生産總額ノ幾割カノ増殖ヲ要スト云ヘハ即チ必ス新ナル資本、新ナル智識又ハ勤勞ノ外部ヨリ補給セラルヽヲ須タサルヘカラス茲ニ於テカ往々ニシテ農場選擇ノ問題ハ起ル殊ニ我國農場ノ一半ヲ占ムル小作農業ニ在リテハ少クトモ土地生産費ノ點ニ就テハ企業者ハ毎年右ノ選擇問題ニ逢著スル譯ナリ尤モ勞力ノ換價ニ依リテ衣食スル所ノ下層人民ハ通例充分ナル取引上ノ自由ヲ有セス?々不利益ナル條件ニ甘ンセサルヘカラサル事情アリト雖教育ノ進ムト共ニ次第ニ一地方ノ經濟ニ通曉シ少クモ附近ノ他ノ生産業ト比較シテ其勤勞ノ報酬ノ少シテモ多キモノヲ擇ヒ必シモ永年ノ慣行ナリトノ理由ノミヲ以テ無意味ニ農業ニ固著シテハ居ラサルヘシ而モ農業者ノ頻繁ナル更替ハ啻ニ生産上ノ動搖ヲ引起スノミナラス所謂農村ノ氣風ニ影響スル所尠カラス一國トシテハ決シテ悦フヘキ現象ニ非サルナリ小作ノ盛ナル地方ニテハ不幸ニシテ昔ヨリ此事尠(476)カラサリキ而シテ能ク此傾向ヲ防止シ餘リ顯著ナル結果ヲ生セシメサリシ主ナル反對動力ハ一ハ比較又ハ選擇スヘキ第二ノ職業ノ多カラス又ハ不利益ナリシコトナリ二ニハ土地ノ所有ヲ熱望スルノ氣風アリシ事ナリ此二者ナカリセハ封建制度ニ固有ナル主從關係ノミニテハ村落住民ノ動搖ヲ防止スルコトハ蓋シ困難ナリシナラン然ルニ右二ノ原因中前者カ今日ト成リテハ重大ナル原因ヲ以テ目スヘカラサルハ亦説明ヲ要セス第二ノ原因ハ直接ニハ經濟上ノ原因ナリト云フヘカラス土地ノ所有ニ伴フ無形ノ利益ハ土地ノ權利カ唯一ノ安固ナル財産ナリシ事實ト共ニ今ヤ既ニ過去ノ社會?態ニ過キスト雖因習ハ殆ト第二ノ天性ヲ爲シ苟クモ餘力アラハ悉ク之ヲ土地ノ價ニ投スルノ風ハ今以テ田舍ニ瀰漫セリ此ハ勿論一種ノ民衆心理上ノ現象ニ外ナラスト雖土地カ常ニ割合 rational 以上ノ評價ヲ有スル原因ハ全ク此ニ存スルナリ併シナカラ斯ノ如キ因習ノ存續スル限ハ自家勞力ヲ基礎トスル我國ノ小農ニ於テハ到底其勤勞ヲ有利ニ換價シテ以テ農業將來ノ發達ノ資ト爲スコト能ハス故ニ今日ノ場合ニ於テハ農村ノ動搖ニ伴フ多少ノ不利益ヲ忍ヒテモ經濟上ニ健全ナル農場選擇ノ行ハルヽコトヲ努メサルヘカラス斯ノ如クニシテ始メテ農ノ職業タル意義ハ現ハルヘク地價ノ騰貴は斯クノ如クニシテ始メテ國家ノ爲常ニ悦ハシキ現象ト見ルコトヲ得ルニ至ル也

　個人ノ經済ヨリ論スレハ農法ハ如何ナル場合ニモ土地ノ價ニ伴ヒテ之ヲ變セシメサルヘカラス即ヲ土地ノ賣買價格ノ餘リ高キ地方ニテハ能フ限土地ノ使用ヲ節約シテ其需要ヲ減シ此ト同時ニ資本ナリ勞力ナリ供給ノ稍々多キモノヲ餘分ニ利用スル農業ヲ行ハサルヘカラス語ヲ換ヘテ言ハヽ所謂生産ノ三要素ノ配合増減ハ即チ農場組織ノ骨子ナリ然ルニ我國ノ農業者ノ多クハ此點ニ於テモ未タ時勢ノ變ニ應スルノ技倆ヲ現ハサス一例ヲ以テ言ハヽ資本ハ其供給ノ量遙ニ勞力ノソレニ及ハサルニモ拘ラス新ニ農業ニ就キ又ハ舊農場ヲ擴張セントスル者ハ先ツ其ノ有限ナル資本ノ大部分ヲ擧ケテ之ヲ固定資本中最モ變通ノ作用ニ乏シキ土地ニ投下シ更ニ又之ヲ以テ常ニ餘剰アル勞力ニ代用シテ愈々勞力ノ價値ヲ減殺セントスルノ傾アリ斯ノ如キ經營方法ハ如何ナル場合ニモ農業ヲ成功セシムルノ所以ニ非ス更ニ農業者ノ經濟教育カ不十分ニシテ各自ノ發意判斷ヲ用ヰルコト少ナキ結果トシテハ我國ノ農場組織ハ都鄙ヲ通シテ著シク(477)單調ナリ之ニ伴フ勸農行政モ全國均一ニ傾キ易キ弊アリ村々ニハ今日モ精農又ハ老農ト稱スヘキ者住シ居リ啻ニ農事ニ對スル熱心ニ於テ模範的ナルノミナラス所謂家風トシテ代々耕作ノ方法ヲ研究シ來レル爲其年々ノ成績ハ優ニ一地方ニ卓越ス新時代ノ農事改良モ亦多クハ彼等カ率先著手スル所タリ故ニ一國又ハ一府縣ノ政策トシテハ成ルヘク此等少數ナル優良農家ヲ勸誘シテ先ツ自ラ其經濟ヲ改進セシメ以テ間接ニ他ノ多數平凡ナル農民ヲ感化セシムルハ策ノ得タルモノナルニ似タリ然レトモ斯ノ如キ模範的農場ハ果シテ多數生産者ノ經濟ヲ改良セシムルタケノ效果アリヤ否ヤハ疑ハシ農業ニハ秘密ナシトハヨク人ノ言フ所ナレトモ模倣ノ效ヲ奏スルハ彼ト此ト其生産ノ立場ヲ同シクスル場合ニ限レリ既ニ生産ノ條件カ相同シカラサル場合ニハ固ヨリ同一ナル經營方法ヲ採用シテ共ニ利益アリトスルコトハ困難ナリ假ニ生産ノ技術ニ於テハ完全ニ彼ニ倣ヒ得ヘシトスルモ農場全體ノ組織ニ關シテハ尚且個々ノ企業者毎ニ相異ナラサルヘカラサルカ故ニ無差別ナル模倣ハ却ツテ失敗ヲ招キ易シトス

　近年地方ノ?況ヲ見レハ箇々ノ農場ニ於ケル生産條件ノ差異ハ追々ニ顯著トナレリ殊ニ耕地面積ニ對スル人口ノ割合ハ殆ト各大字各字毎ニ異ナレリ勞力ノ需要ノ少ナク農業以外ニハ何等ノ稼キナキ在所アリ之ト反對ニ仕事ノ多キ上ニ父通ノ盛トナルニ伴ヒ出稼盛トナリ勞力ノ次第ニ減少スル村アリ此結果トシテ及其他ノ原因ヨリ土地ノ賣買價格ニハ地方ニ依リ甚シキ相異アリ農業者ノ土地ニ對スル關係モ亦一定シ居ラス即ヲ以前ヨリ稍廣キ面積ヲ所有スル者アリ又一方ニハ分外ニ狹隘ニシテ新ニ買入レ若クハ借入ルヽニ非サレハ農場ヲ擴張スルコトノ到底不可能ナル者アリ而モ又作物ノ種類ハ段々ニ増加シ選擇ノ範圍ハ頗ル廣クナレルカ故ニ平生隣人ノ所作ニ注意シテ其成功シタル方法ヲ採用スルコトハ　　　愈々以テ常ニ利益テアルトハ言ヒ得サル次第ナリ

　農カ既ニ純益ヲ目的トスル一箇ノ職業トナリタル地方ニ於テハ箇々ノ農場ノ?況ヨリ判定シタル生産方法ノ相違ハ夙ニ存在スヘキ筈ナリキ例ヘハ水田ニハ米ヨリ外ノ作物ハ栽培シ得サルカ如キモ少ナクモ日本ノ田ノ面積ノ半分ハ極僅ナル土工ヲ施シテ又ハ全然之ヲ施スコトヲ要セスシテ自由ニ畑トシテ使用シ得ヘキモノナリ併シナカラ昔ハ本田ニ(478)ハ概シテ作物ノ拘束アリキ租税ニハ米ヲ要求セラレタル爲今日ニ至ルマテ米ヲ作ラサレハ農ニ非サルカノ如キ觀念ヲ保持シ來レリ今假ニ過去ノ因習ヨリ脱却シ且社會ノ要求ヨリモ獨立シテ純然タル個人ノ立場ヨリ觀察スルモ米作ヲ以テ農經營ノ中心トスルコトハ多クノ場合ニ於テ利益ナラン稻ハ同一ノ土地ニ連作スルコトヲ得ルノミナラス自由ニ著シク其精度ヲ伸縮スルコトヲ得ルカ故ニ狹隘ナル地積ニ依テ立ツ所ノ小農ノ爲ニハ好都合ナリ第二ニハ需要カ多ク販路カ確實ニシテ外國ノ競爭ヲ受クルコト比較的少ナキカ故ニ市場ノ智識ニ乏シキ者ニテモ餘リ大ナル不利益ヲ被ルコトナクシテ此カ生産ニ從事スルコトヲ得ルナリ第三ニハ比較的ニ病蟲害ニ對抗スルノカ強ク且科學的智識少キ者ニモ古來蓄積シタル實驗ニ基キテ完全ナル生産ヲ爲スコトヲ得ルナリ是等ノ特色ヲ有スルヲ以テ他ニ特段ニ有利ト認ムヘキ作物ナキ間ハ先ツ／＼米ヲ作リテ居レハ大ナル怪我ナキナリ併シナカラ同シ米作ノ中ニテモ土質、氣候、市場ノ關係等ヨリ早、中、晩ノ三種類ノ選擇ハ勿論收穫期ヲ同シクスル稻種ノ中ニテモ或ハ多産ノ劣種ヲ取ランカ或ハ將タ優良ニシテ産額ノ稍少キモノヲ採用スルヲ可トセンカ等ノ選擇問題アル外ニ更ニ一段ヲ進メテ精密ナル考慮ヲ下ストセハ資本ト勞力トノ關係上全然他ノ作物ヲ選フヲ利トスル場合ナシトセス例ヘハ米作ハ一般ニ年々ノ流通資本ヲ要スルコト他ノ作物ニ比シテ少ナキハ利益ナルカ如キモ土地買入當時ノ代價ノ高キハ兎ニ角時々ノ土木費ヲ要スルコト他ノ作物ヨリ多ク從ツテ資本ヲ固定スルコト甚シクシテ生産ノ自由ヲ拘束スル傾アリ又稻作ハ勞力ノ過不及甚シキ爲如何ニ其生産ヲ擴張スルモ全ク他ノ副業ヲ廢シ注意ヲ米作ノ一點ニ專ニスルコト能ハス此等ノ事實及田ノ地價カ多クノ場合ニ於テ畑ヨリモ遙ニ高キ事實トヲ考ヘ合ストキハ少ナクモ新ニ著手シ又ハ擴張スヘキ農場ニ於テハ米作ヲ以テ經營ノ中心トセサルヲ可トスル場合モ多カラント思ハル殊ニ今後ノ撰擇作物トシテ稻作ト對立スヘキモノハ多クハ特用作物ナルカ故ニ新ニ市場ノ開發シテ先占ノ利益ヲ收ムル望アリ値段高キカ故ニ運送費用ノ割合ヲ少ナクシ得ル望アリ又工業用ノ原料品ナラハ生産地ニ於テ之ヲ使用スルコトヲ得又副産物ノ利用ニ勞力ヲ用ヰ得ルノ利益アリ殊ニ農村勞力ノ尚餘分多キ場合ノ如キハ米作ノ擴張ノミニテハ之ヲ十分有利ニ適用スルヲ得サル場合?々起ルナリ

(479)　一國ノ農法ノ趨勢ハ勿論國民生活ノ?態殊ニ其食物ノ慣習ニ伴フヘキモノナルカ故ニ米食ノ風カ改ラサル限ハ全國ヲ通シテ水田ヲ中心トスル農業ハ今後モ之ヲ減少スルコト能ハサラン又大部分農家ハ少ナクモ食料自給ノ程度ニ於テハ此カ耕作ヲ廢スルコトヲ得サルヘキモ現在次第ニ増進シツヽアル所ノ肉食ノ風習モ亦之ヲ看過スルコトヲ得ス而モ米作中心ノ農業ト牧畜トハ性質上稍兩立シ難キモノナルニ似タリ將來ノ人口増進ニ適應スル策トシテ假ニ耕地面積ノ三割五割ノ増加ヲ要ストセハ其新耕地ノ大部分ハドウシテモ畑地ナルヘシ日本ハ比較的灌漑ノ自由ナル國ナレトモ今日ノ所謂餘地ナルモノハ多クハ水ノ關係ヨリ其開墾ヲ延期セラレシモノナリ故ニ今後農民ノ數ヲ多ク増スコトナクシテ是等ノ土地ヲ利用スルニハ如何ニスレハ宜シキカト言ヘハ第一ニハ勞力ノ適當ナル配賦ヲ考ヘ見サルヘカラス第二ニハ地力ノ自營的保持ノ必要ヲモ考慮セサルヘカラス外國ノ肥料ヲ仰カネハナラヌヤウナラハ大開墾ハ殆ト食料ノ輸入ト異ナル所ナシ第三ニハ勞力ノ配賦ト地力ノ維持ト此二ツノ目的ヲ達シ兼テ人口増加ニ伴フ食料ノ需要ニ應スル爲ニハ大ニ牧畜ノ作業ヲ加味スルノ必要アリ今是等ノ要件ニ適合スル所ノ將來ノ農業トシテハ是非トモ畑作ノ改良ニ著眼セサルヘカラス水田ハ所謂改良輪作法ヲ行ヒ又ハ進ミテ自由ナル農法ヲ行フニハ適セス小農ノ斯ノ如ク小サキハ我國ノ農業ノ弱點ニシテ米作ヲ中心トスル經營方法ニ在リテハ將來企業者ノ技倆ヲ發揮スヘキ餘地カ何分少ナシ三町歩以上ノ中農ハ水田地方ニテハ到底其發生ヲ望ムコトヲ得サルナリ

　

　　　　　第十一章　小農ノ將來

　

　農産増殖ノ方法如何ト云フコトハ我國ニ取リテハ殊ニ困難ナル問題ナリ日本ニテハ苟モ農政ニ參與スル朝野ノ學者ハ一人トシテ此問題ヲ輕々ニ看過スル者ナキハ勿論ナルモ而モ其將來ニ對スル解決ト稱スルモノハ僅々三十年五十年ノ豫算ニ止り未タ一國永遠ノ爲ニ一般ノ方針ヲ立ツルコト能ハサル現?ナリ然ルニ如何ナル樂天家ト雖我國ノ米麥産(480)額カ今日ニ二倍スルノ日アルヘキヲ斷言スルコトヲ得サルニ拘ラス人口ハ今日ノ増率ヲ以テ進マハ六十年ヲ出テスシテ一億萬トナルヘキ計算ナリ是ヲ以テ見ルモ此問題カ決シテ机上ノ空論ニ非サルコトハ明ナリ今過去十年間ノ經過ヲ顧ミルニ一國ノ輿論ハ常ニ食料増産ノ急務ナルコトヲ認メ之ヲ誘致スヘキ方法ヲ講シ而シテ又必ス其效果ヲ擧ケ得ヘキコトヲ豫期セシニ其成績タルヤ必シモ顯著ナラス米麥ニ於テハ所謂豐凶ノ異動甚シキカ故ニ實際ノ傾向ヲ知ルニ難ケレトモ其年々ノ増加率ハ寧却テ勸農政策殊ニ農事改良ノ奨勵カサマテ盛ナラサリシ二十年、三十年ノ前ニ比シ稍劣ル所アルカ如シ而モ一國ノ戸口ハ何等大ナル障碍ナク著々トシテ増加シツヽアリテ少ナクモ二三十年ノ未來ニ至ル迄ハ恐ラクハ略々此情勢ヲ以テ進行スルコトナルヘク從ツテ若シ之ヲ防止スルタケノ反動的原因アリトセハ其ハ必ス國家ニ取リテノ不祥事タラサルヘカラサルナリ

　人ノ數カ多クナレハ之ニ比例シテ衣料食料ノ消費ヲ増スヘキコトハ絶對ノ眞實ナリ故ニ如何ニシテ將來ノ消費問題ヲ解決セントスルカハ決シテ學問上假設ノ議論ニハ非ス吾人ハ自ラ此實際問題ニ逢著スル爲ニ必シモ大ニ長生スルコトヲ要セス否寧今日刻下ノ問題ナリト云フモ不可ナシ吾々ハ既ニ過去ニ於テ衣料ノ國内供給ヲ斷念シタリキ日本人ノ衣服原料ニハ略々二種類アリ其中最モ上品ニシテ用途少キモノヽミカ國内ニテ生産セラルヽニ過キサルナリ次テ食料ノ國内供給ヲ保持スル爲ニハ之ニ要スル肥料ノ國外供給モ亦止ムコトヲ得スト認ムルニ至レリ更ニ又食料ソレ自身ニ於テモ若干ノ外國補給ヲ仰カサルヘカラサルニ至レリ即チ目下ノ趨勢ハ既ニ所謂食料獨立ノ益々困難ナルコトヲ示セルナリ然ルニ此ノ如キ現?ヲスラモ之ヲ五十年ノ後マテ保持スルノ策既ニ立タス況ヤ之ヲ十年二十年以前ノ?態ニ引戻スコトハ殆望ミ難カルヘシ今適當ナル國ノ政策ヲ行フナラハ之ニ對シ果シテ幾許ノ實效ヲ奏シ得ルカハ別問題トシテ兎ニ角一部ノ論者ノ如ク解決ノ困難ナルヲ理由トシテ此間題ヲ自然ノ調和解決ニ放任セントスルカ如キ態度ヲ採ルハ國ノ爲最モ親切ナラサルモノナリ自然ニハ奇跡少ナシ將來ハ略々推測シ得如何ニ工夫ヲ凝スモ次ニ示ス三ノ場合ノ外想像スルヲ得ス即チ需要減少ノ策ヲ採ルカ又ハ國外ヨリ不足分ヲ仰クコトヽスルカ或ハ又如何ニシテモ最初ノ計畫(481)通リ生産増加ニ努ムルカ是ナリ植民ニ由リ國内ニ養フヘキ人口ヲ減スルハ古來ノ俗論ナリ民ヲ河ノ東西ニ相移スコトハ孟子ニモ見ユ日本ノ村々ニテモ飯米ノ不足スル毎ニ定期又ハ臨時ニ出稼又ハ移住ヲ爲ス風アリ然レトモ是皆一國内各地方間ノ問題ナリ國外ニ踏出シテ餘レル人口ヲ處分スルカ如キハ又自ラ別個ノ問題ナリ世界ノ未開地カ既ニ略々充溢セル今日ニ於テ昔年英國ノ採用シタルカ如キ屬地ノ植民ヲ計ルナラハ歸スル所ハ常ニ戰爭又ハ武装ニシテ最モ大ナル費用ヲ要ス外國移住殊ニ歸化ニ至リテハ一ノ自然ノ成行ニ過キス國ノ政策トシテ國民經濟ノ手段トシテ自ラ畫策スヘキモノニ非ス出稼ノ奨勵ノ如キモ矢張姑息ノ解決方法ニ過キス而モ右三者ハ事情共通ナル各舊國ノ間ニ於テハ最モ利害ノ衝突ヲ生シ易ク假ニ國カ之ヲ遂行スルノ決心アリトスルモ久シカラスシテ障碍ニ遭遇スヘキハ必然ノ理ナリ次ニ食物ノ種類ノ變更ハ亦農産物ノ需要ヲ節約シ得ヘキ手段トシテ人ノ往々ニシテ著眼スル所ナリ元來海ハ陸ヨリ廣ク空間ハ又遙ニ海ヨリモ廣キヲ以テ新ニ海中空中ヨリ人間ノ養料ヲ攝取シ得ルノ策アラハ稍長キ期間終局ノ解決ヲ延期スルコトヲ得ヘシ學問ノ力ハ無限ナリ此等ハ必シモ空想不能ノ事ニテハ非サルナリ殊ニ所謂海上耕作又ハ海上牧畜ニ至ツテハ我國ノ如キハ其地位上頗ル此カ先鞭ヲ著クルニ適セリ次ニ均シク農産物ヲ以テ常ノ食料トスルトシテモ成ルヘク米以外ノ物ノ消費ヲ盛ニシテ供給問題ノ比較的困難ナル米ノ需要ヲ省カントスル説アリ此説ニハ容易ニ雷同附和スルコトヲ得ス從來米作ノ爲ニ利用シタル程度ニ於テ新種ノ食料ノ爲ニモ土地ヲ利用スルコトヲ得ルノ見込十分ナラサル以上ハ世界ノ大市場ニ參加シテ其一隅ニ割據シ一國ノ農業ヲ維持セントスルノ困難ハ時トシテ今日ヨリモ更ニ大ナルコト無シトセサレハナリ要スルニ縦令此等ノ方法ノ新ナル研究ニ由リ幾分カ現在ノ需要率ヲ減退シ得ルノ途アリトスルモ此等ハ皆人口ノ増加ニ對スル方策トシテハ極メテ少時間ノ解決ノ延期ニ過キサルナリ

　次ニ食料ノ國外補給ノ策ニ至リテハ事新シク説クマテモナク既ニ數多ノ先例アリ英國ノ如キハ百年前ヨリ意識的ニ此方法ヲ採用シタリシコトハ人ノ善ク知ル所ナリ他ノ二三ノ國ニ於テモ成行上止ムコトヲ得スシテ次第ニ輸入ヲ以テ必要缺クヘカラサル供給方法ト見サルヘカラサルニ至レリ我國ニ於テモ國内ノ議論ハ區々ニシテ未タ一定セスト雖事(482)實ハ最早之ヲ可決シタルモ同然ナリ即チ輸入ヲ不可トスルモ論者ハ暗黙ノ間ニ次第ニ敗北セントシツヽアルナリ或ハ所謂食料獨立ノ論ヲ以テ單ニ國防軍略ノ必要ヲ主トスルモノニシテ經濟上ノ理由ナシト爲シ之ト同時ニ望ヲ世界的平和ノ完備ニ屬シ久シカラスシテ此論ノ自然ニ其根據ヲ失フヘキヲ豫期スル者アリ併シナカラ是レ其一ヲ知テ未タ其二ヲ知ラサルナリ國外供給ノ國内ノ生産ト異ナル所ノモノハ日本ノ如ク隣國ニ遠キ國ニテハ經濟上ヨリ見ルモ頗ル顯著ナルモノアルナリ何トナレハ關税其他ノ墻壁ハ假ニ國家ノ意思ヲ以テ撤却スルコトヲ得ルトスルモ又此カ運搬ハ迅速且廉價ト爲リ得トスルモ何レノ時代ニ於テモ奈何トモスル能ハサル一事ハ外部ノ供給カ國内ノ供給ニ比シテ一段ノ不安定分子ヲ加フル點ニ在リ殊ニ米ハ其生産地即チ輸入品ノ原産地カ今日ニ於テハ何レモ農法ノ未タ進歩セサル熱帶地方ニシテ最モ天然ノ勢力ニ支配セラレ易ク一旦ノ凶作ニ際シテハ全然其輸出ヲ杜絶スルノ虞アリ而シテ外國米カ取引所ノ格附ニ入リテ國内ノ優良品ト數等ノ割引ヲ以テ角逐スルニ至ラハ是等ノ不定分子ハ愈々市價ノ變動ヲ激烈ナラシメ生産者消費者共ニ其弊ヲ被ルコト却ツテ今日ニ過クルモノアルヘシ第二ニ外國産ノ補給カ次第ニ増加スレハ國内ニ於ケル生産者ノ利害ヲ不當ニ壓迫スルノ虞アリ即チ國民總數ノ中ニテ農業ニ從事スル者ノ割合カ愈々少ナクナリ之ト同時ニ内國生産品ニ依頼セサル消費者カ愈々多クナルニ至ラハ國内ニ於ケル現在ノ集約農法ヲ維持スルノ力次第ニ減シ從ツテ一國トシテ領土ノ利用ヲ疎ナラシムル結果ヲ見ルナルヘシ語ヲ換ヘテ言ハヽ精巧ナル國内ノ農業ヲシテ粗笨ナル外國ノ生産方法ト平均スル所マテ次第ニ退歩セシメ再ヒ一國固有ノ生産力ヲ減少セシムルノ虞アルヘキナリ是ヲ以テ觀レハ縦令國防上ノ關係ヲ外ニシテモ猶事情ノ許ス限努メテ國内ノ生産ヲ維持シ土地産物ノ自給ヲ力ムヘキ理由ハ十分ナリ況ヤ個々ノ農業者ノ立場ヨリ見レハ彼等カ其政治上ノ勢力ヲ利用シテ現?ヲ維持スルコトヲ努ムルハ至當ノ動機アリト云フヘシ

　併シナカヲ農業政策ノ研究トシテハ前條後段ノ事實ハ言ハヽ單ニ一ノ比較問題ナリ即チ消費者ノ利害ヲ無視シテマテモ國内生産ヲ強行セサルヘカラサルノ理由アルコトナシ消費者ノ利害又ハ要求ト公平ニ妥協シ得ル程度ニ於テ如何(483)ニスレハ國土ノ利用ヲ失墜セシムルコトナク農業者トイフ國民ノ大階級ノ生産者ノ地位ヲ安泰ナラシメ得ルカト云フコトヲ攻究スレハ宜シキナリ所謂農業保護論者ハ其根底ニ於テ何レモ非常ニ科學ノ效力ヲ過重視シ縦令具體的ノ腹案ハ有セサルモ近キ將來ニ於テ學術ノ發達ニ依リテ此難問題カ自然ニ解決シ得ラルヽコトヲ期待スル者ナリ而シテ是レ亦敢テ不當ナル希望ニハ非サルヘシ過去ノ百年間ハ誠ニ農業技術大發展ノ時期ナリキ機械工業ナトヨリハ少シク後レ且ソレホト目覺マシクハ非サリシモ物理、化學、生物學殊ニ微生物學ノ進歩竝ニ進化遺傳ノ學理ノ應用ハ世界ノ農學ニ猶ホ奧深キ將來アルコトヲ想像セシムルニ充分ナリキ收益遞減ノ法則ハ各國ノ領土境界ノ確定セラレシ新世紀ニ於テハ時々刻々ニ國民ノ進運ニ肉迫シテ所謂民種問題ノ將來ニ對シ頗ル暗澹タル影ヲ投ケツヽアリト雖モ一方ニハ農業ニ於ケル生産改良ノ顯著ナルモノアリテ何囘トナク問題解決ノ困難ヲ救ヒタリキ併シナカラ所謂農法ノ改良ハ決シテ空虚ナル咒文ノ類ニハ非ス此カ經濟上ノ效果ヲ確ムル爲ニハ如何ナル社會現象ニモ必然ニ伴フカ如キ夫レ相應ノ準備又ハ前提條件ヲ必要トスルナリ即チ如何ナル場合ニ於テモ種ノナキ所ニ物ヲ生セシムルコト能ハス生産ノ増殖ヲ圖ルニハ土地其他ノ天然ニ新ニ人ノ技術ヲ加フル餘裕アルカ又ハ其改良ヲ實行スルニ適シタル人又ハ材料ノ備ハレルコトヲ要スルハ勿論ナリ殊ニ人ノ要素ハ最モ重要ナリ縦令將來資本ノ供給カ如何ニ豐富トナリ得ルトスルモ到底ソレタケニテハ學術ノ進歩ノ效果ヲ收メテ無限ニ有利ナル集約農法ヲ繼續スルコトヲ得ス例ヘハ家畜ノ使役ハ著シク一日ノ功程ヲ増加シ又器具機械ノ利用ハ更ニ著シク人ノ勞力ヲ省略スヘキヲ以テ資本ノ效果ハ乃チ萬能ナリト云ヒ得ルカ如キモ苟モ是等ノ手段ヲシテ其時期ト適用トヲ誤ラサラシメン爲ニハ尚且人ノ智力判斷ニ須ツ所ノモノ多ク結局農業經營ノ中堅ヲ爲スヘキモノハ何レノ時代ニ於テモ勞働就中所謂不熟錬ノ勞働者ノ機械的動作ヨリ一歩ヲ進メタル優等ナル勞働ニシテ農産増殖ノ目的ヲ達スル爲ニハ將來ノ農業勞働者ニ對スル要求ハ分量ニ於テハ或ハ少シク退クヤモ知レサレトモ其代リニハ品質ニ於テハ遙ニ今日ヨリ進マサルヘカラサルナリ

　農業カ其生産場トシテ廣キ面積ヲ必要トスルコトハ其最モ著シク製造業ト異ナル點ノ一ナリ此カ爲ニ作業ノ指揮統(484)一ノ問題ハ他ニ比シテ一層大ナル意義ヲ有ス殊ニ集約農ニ必要ナル精巧ノ勞作ニ至リテハ之ヲ義務一片ノ外部ノ勞力ニ待ツ場合ニハ亦餘程巧妙ナル監督方法ヲ以テ之ニ臨ムニ非サレハ些モ其成績ヲ擧クルコトヲ得サルヘシ從テ大體ニ於テハ集約農法ハ大農場ニ不適當ナリト云ハサルヘカラス次ニ農業カ一般人民ノ必需品ヲ生産スルモノナル結果トシテ此カ増産ヲ促スヘキ市價ノ騰貴ハ同時ニ勞銀率ノ昇騰ヲ伴フカ故ニ少ナクトモ勞力生産費ノ範圍ニ於テハ外部勞力ノ雇傭ヲ基礎トスル大農ニ於テハ十分ニ市價ノ利益ヲ收ムルコト困難ナリ之ニ反シテ勞働ノ報酬ヲ合セテ收得スヘキ小農ノ階級ニ於テハ生産物價ノ騰貴ノ利益ハ共ニ自己ニ歸スヘシ此二ツノ點ヨリ觀レハ生産増殖ノ政策ハ之ヲ大農國ニ行フハ小農國ニ行フヨリモ稍困難ナル筈ナリ但シ大農場ノ經營者ハ高等ナル農學ヲ吸收シ得ル點ニ於テ遙ニ小農ニ優レリ彼等ハ又一小部分ノ土地、資本ヲ割キテ新シキ生産技術ノ試驗ニ供スルノ餘裕アル上ニ能ク遠方ノ大市場ト交通シテ更ニ所謂集合生産ノ利益ヲ收メ得ル地位ニ在ルナリ併シナカラ一旦進ミテ其力ヲ生産増加ノ上ニ施サントスルニ當リテハ右ノ如キ不便アルヲ免レス之ニ反シテ小農ニハ保守的ノ氣風前者ヨリモ一層強ク存在シ之ヲ誘掖シテ各時代ノ經濟?況ニ適應セシムルコトハ多少大農ヨリ困難ナルモ而モ彼等ノ綿密ナル注意力ト自家經營ニ基ク趣味ト熱心トハ其生産ノ效果ヲ擧クルカ爲ニ極メテ必要ナリ農業教育ノ問題カ小農國ノ生産政策トシテ至極重要ナル地位ヲ占ムルハ全ク此カ爲ナリ然レトモ教育ノ意味ヲ狹隘ニ解シテ之ヲ教場内ノ感化ノミニ限レルモノトスルハ小規模ノ生産者ニ對シテ殊ニ不當ナリ學校ヲサヘ卒業スレハ立派ナ小農ト爲リ得ヘシト思フハ大ナル誤ナリ所謂學枚ノ實習ニ最モ不適當ナルモノハ農工其他ノ私經濟學上ノ智識ナリ一私人ノ經濟ハ統括セラレタル一體ニシテ其一部分ノ改良進歩ハ單ニ何等ノ成績ヲモ擧ケ得サル場合多キノミナラス往々ニシテ却ツテ全部ノ爲有害ナルコトアリ從テ箇々ノ農場ニ適用シテ差支ナキカ如キ概括的ノ理論ヲ以テ小農ノ私經濟學ヲ口授スルコトハ甚タ容易ナラス此カ爲ニ從來ノ政策ニ在リテハ專ラ補助金又ハ奨勵金ノ下付トイフカ如キ極メテ露骨ニシテ且贅澤ナル方法ヲ以テ當業者ヲ誘導シ以テ經濟教育手段ノ缺ヲ補ハント力メシ也補助金政策ノ效果ハ勿論急速ニ發現スルモ而モ永續ニ困難ナリ何トナレハ此ノ如キ不自(485)然ナル純益ノ増加ハ却ツテ生産者ヲシテ其經營方法ヲ改良シテ新シキ外部ノ情況ニ適應スルコトヲ努ムルヲ要セサラシムレハナリ唯此方法ノ教育的效果ヲ收メ得ヘキ場合ハ一ニハ經營方法變更ニ對スル費用ノ補?又ハ危險ノ保障二ニハ市場ニ對スル新ナル關係ノ開發ニ在リ語ヲ換ヘテ言ハヽ小農カ未タ其農法ヲ集約ニスルノ利益ヲ覺ラス或ハ又之ヲ危フミテ躊躇スル場合ニ彼等ノ進路ヲ平夷圓滑ナラシムルニハ或ハ一時國費公費ヲ以テ私經濟ニ助力スルヲ要スヘキノミ而シテ斯ノ如キ必要ハ大農場ニ對シテハ誠ニ尠ナキナリ

　自給經濟ノ或程度マテ行ハルヽ農場ニ於テハ其規模ノ小サケレハ小サキ程市價ノ騰貴ハ大ナル影響ヲ之ニ及スコト能ハス舊來ノ生産方法ヲ變更スル面倒ヲ爲シ危險ヲ冒シテマテモ新シキ作物ヲ作リ又ハ新シキ生産方法ヲ實行スルタケノ勇氣カ彼等小農ノ間ニ起リ難キハ誠ニ自然ノ理ナリ一ノ農湯カ市場ノ利害ヲ痛切ニ感シ得ル爲ニハヤハリ一定ノ生産規模ヲ要スルナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ所謂小農ナルモノニモ理想上ノ限度アリ此限度ヨリ下レハ輕營者ハ單ニ世間普通ノ生産方法ヲ無意識ニ採用スルノ外生産ノ爲ニ大ナル努力ヲ敢テセス故ニ國トシテ所謂農事改良ノ效果ヲ擧ケントスルニハ是非トモ先ツ農場ノ一定ノ大サヲ維持セシメサルヘカラス即チ農トイフ職業ノ獨立ヲ標準トシ之ヲ下ル小農ノ増加ヲ防クヘキ也此カ方策トシテハ農場分割ノ防止ノ爲ニスル所有地ノ分割ノ防止又ハ所有地兼併ノ防止、最小農場併合ノ誘導等ハ或ハ必要ナラン而シテ村落居住者ノ生活需要カ増進スルト共ニ右ノ限度ハ次第ニ上昂スルノ傾アリ從ツテ細小農ハ別ニ其收入ノ補足ノ爲ニ兼業ヲ必要トス而モ兼業ハ如何ナル村落ニモ常ニ存スルモノトハ限ラサルカ故ニ所謂出稼又ハ外部移住ハ起ルナリ純然タル農村ニ於テハ此傾向ハ今後モ次第ニ盛ナランカト思ハル從ツテ自然ニ放任スルモ農場ノ多少ノ集合ハ行ハルヘキ筈ナリ近來耕地所有者數ノ減少シ最小地主ノ消滅スル傾向アルハ恐クハ右ノ過小農ノ減少ニ伴フ所ノ現象ニシテ必シモ不健全ナル傾向トシテ悲觀スルヲ要セス或ハ之ヲ以テ直ニ所謂土地兼併ノ傾向ト云フ人アレトモ寧ロ誇張シタル言ニシテ職業ノ便益ニ必要ナル限度ヲ下リタル最小農カ其業ヲ廢スルノ事實ハ單ニ止ム能ハサルノ結果ナルノミナラス集約ニ適セサル大農場カ之ニ伴ヒテ増加セサル限ハ此ハ寧ロ自然ニ一國(486)生産増殖政策ノ方針ト合致スル好現象ト見ルヘキモノナリ

　

　　　　　第十二章　小作制度ノ不利

　

　農場分合ノ傾向カ假ニ一國生産政策ノ爲好都合ニ進ミツヽアリトスルモ此事實ハ未タ以テ土地配分ノ問題カ之ト同時ニ適當ニ解決セラレツヽアリト想像セシムルコトヲ得ス所謂大小地主ノ割合ハ決シテ大農小農ノ割合ト竝行セサルノミナラス所有地ノ分配ノ?況如何ハ時トシテ適當ナル小農制ヨリ豫期シ得ヘキ國民經濟上ノ利益ヲ阻碍スルコトナシトセス蓋シ大規模ノ農場カ集約經營ニ不便ナリトイフ事實ハ偶々以テ舊來ノ土地所有者ヲシテ直接利用以外ノ土地管理方法ヲ採用セシムルノ原因トナルコトハ多クノ實例之ヲ證明セリ單ニ一種ノ收益財産トシテ見レハ土地モ亦他ノ凡テノ資本ト同樣ニ集合ノ利益ハ累進スルモノナリ例ヘハ買入ノ當初ヨリ其年々ノ貸付、使用料ノ取立其他一切ノ管理費用ニ至ルマテ之ヲ一人ノ手ニ取纏ルトキハ其單價即チ一反當リノ平均負擔ハ常ニ割安ナリ故ニ生産ノ事情カ絶對ニ大農ニ不便ナル場合ニ於テモ所謂土地ノ兼併ハ常ニ行ハレ得ヘシ而シテ斯ノ如キ土地取得、最初ヨリ自家ノ生産用ニ供セサル目的ヲ以テ土地ヲ買入ルヽモノ即チ一種ノ投資方法トシテノ土地購入カ増加シタルコトハ我國ニ限ラス一般ニ新時代ノ風潮ナリト認メラル

　今土地カ少數資本家ノ買占ニ歸シツヽアルカハタ略々從前ト同樣ニ甲ノ小農ヨリ乙ノ小農ノ手ニ移リツヽアルカハ次ノ問題トシテ今日ノ如ク職業及住居ノ移轉カ無制限ナル時代ニ於テハ土地ノ賣物ハ常ニ多クアリ維新以降ノ經濟界ノ變動ニ因リ所謂舊家豪農ノ零落セシモノハ決シテ少カラヌ上ニ前章ニモ述ヘシ如ク過小農ノ廢業ニ因リテ不用トナリシ地面モ多キナリ之ニ加フルニ漸ク資本經營ノ利益ヲ解シ始メタル小農ハ次第々々ニ過分ノ資本ヲ土地ノ上ニ固定セシムルノ不利益ナルヲ知リ寧ロ舊來ノ所有地ノ全部又ハ一部ヲ以テ流通資本ニ代ヘントスル傾向ヲ生シ來レリ尤モ(487)斯ノ如キ處分ハ計算上縦令當ヲ得テ居ル場合ニモ多クノ農家ハ必シモ冷靜ニ之ヲ斷行スル勇氣ナキモ或時資本ノ需要ニ迫ラレ土地ヲ擔保トシテ借入ヲ爲ス者カ半ハ無意識ニ此結果ニ到達スル例ハ甚多カルヘシ此故ニ元來微細ニ分割セラレタル我國ノ耕地ノ中ニモ比較的小面積ノモノカ殊ニ其移動頻繁ナリ大地主ノ方ハ轉業又ハ移住ノ爲ニ所有地ヲ處分スルヲ要セサレハ資産ニ缺損ヲ生シタル場合ニ於テノミ始メテ土地ノ賣拂ヲ必要トスルニ反シテ小地主ハ其平常ノ?態ニ在リテモ管理又ハ經濟方法ノ變更ニ伴ヒ往々ニシテ土地ヲ換價スルノ必要ヲ見ル譯ナリ而シテ之ニ對スル買主トシテハ他ニ資本ノ用途ノ多キ小農ニ在リテハ新ニ土地ヲ購入スヘキ餘裕甚タ乏シク資本ノ上ニ眠リ安逸ナル生活ヲ送ラントスル者ニ比フレハ所謂購買力ノ大小ニ著シキ差アリ從ツテ他ニ特別ノ事情ナキ限ハ土地ノ賣物ハ概シテ大ナル資本家又ハ大分ノ面積ヲ所有セル附近ノ地主ノ手ニ歸スルナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ農地ハ何レノ場合ニ於テモ兼併ノ傾向ヲ具ヘ居ルモノトス

　此事實ヲ他ノ一面ヨリ立證スルモノハ小作ノ戸數及小作反別ノ増加ナリ二十年前ノ統計ニ於テハ全國ノ農家中ノ自作兼小作トイフモノ總數ノ四割六分餘アリシニ明治四十三年ニ至リ三割九分餘ニ減シ其減シタル部分タケ純然タル小作戸數ハ増加セリ又面積ノ上ヨリ見ルモ田畑ノ面積ハ年々多少ノ増加アルカ中ニ自作農ニ於ケル増加ハ小作面積ノ増加ヨリモ遙ニ少ナキコト左表ノ示スカ如シ

　　　　　　　明治三十六年　　　　　　同　四十三年

　　　　　田　一、三四八、三二一町　　一、四三二、八二三町

自作｛　　畑　一、四一六、一〇九　　　一、六四七、二六四

　　　　　計　二、七六四、四三〇　　　三、〇八〇、〇八七

　

　　　　　田　一、三〇六、二三六　　　一、四六八、八二一

小作｛　　畑　　　八九四、九三〇　　　一、一〇九、四八〇

(488)　　 計　二、二〇一、一六六　　　二、五七八、三〇一

　即チ自作小作ノ割合田ニ於テハ五〇、八ト四九、二トカ四九、四ト五〇、六トナリ畑ニ於テハ六一、三ト三八、七トカ五九、七ト四〇、三ト成レルナリ小作面積ノ増率は一割七分以上ナルニ自作ニテハ一割二分以下ナリ

　地主カ其所有土地ヲ自ラ經營セスシテ之ヲ他人ノ使用ニ供スルノ動機ハ必シモ地積ノ大小ノミニ依リテ推測スルコトヲ得ス第一ニハ自作利益ノ減少殊ニ此ト貸付ノ利益即チ小作收入トノ差額ノ減少ナリ第二ニハ所有地ト住所トノ關係遠近ヲモ參酌セサルヘカラス然レトモ大地主ハ前述ノ如ク自營ノ利益ニ於テハ小地主ニ劣リ貸地ノ管理ニ於テハ彼ニ優ルカ故ニ大地主ニ在テハ右二種ノ所得ノ差ハ愈々少ナカルヘキノミナラス所謂不在地主ノ存立シ得ルハ概シテ大地積ノ所有ニ在リ地主ノ中ニハ絶對ニ耕作ノ業ニ不適當ナル者アリ身分違ノ地主ヲ許シ且公私法人ノ數カ今日ノ如ク増加スルコトヽナリテハ此類ノ所有地積ハ頓ニ増加スルハ當然ナリ此種ノ地主ハ假ニ一町二町ノ小面積ヲ所有ストシテモ其土地ノ管理方法ヲ變更スルノ自由ヲ有セサル點ニ於テ既ニ大地主ニ近キ上ニ其間ニ於テモ亦所有權集合ノ傾向著シク存スルニ似タリ要スルニ現在ノ?況ハ縦令英國ニ存スルカ如キ廣大ナル地積ノ所有者ヲ發生スルコトハ斷シテ無シトスルモ全體ニ於テ土地所有者ノ數カ漸次ニ減少シ且ツ稍上級ニ於テ増加シツヽアルコトハ事實ナリ

　土地ヲ自ラ經營利用スルコトヲ得ス又ハ少ナクトモ之ヲ不利トスル地主ノ増加之ニ伴フ借地農ノ階級ノ増加ハ國家ニ取リテ大體ニ於テ不利益ナリ唯其弊害ノ大小及此ト相殺スヘキ利便ノ有無カ時ト處トニ由リ區々ナルノミミル〔二字傍線〕氏以來自作農ノ利益ヲ唱道スル者ハ何レモ有期ノ賃借權者カ其土地ヲ愛護シテ利用ヲ完ウスルコトハ到底永久ノ占有者ニ及ハサルヘキコトヲ理由トセリ土地改良其他資本ノ囘收ヲ永年ノ後ニ期スルノ必要カ増加シタル生産方法ノ下ニ於テハ勿論此事實ハ決シテ輕々ニ之ヲ看過スルコトヲ得ス然レトモ單ニ此ノミノ理由ナラハ古來我國ニ行ハレシカ如キ非常ニ長キ借地又ハ永小作權ノ制度ノ如キハ優ニ其害ヲ防クコトヲ得ルノ理ナリ然ラサルモ或ハ貸主ノ通告權ヲ制限シ又ハ借主カ投下シタル各種ノ改良資本ニ對スル評價方法ニシテ完備スルナラハ小作人ハ安シテ其技能ヲ施スコト自己(489)ノ所有地ニ對スルト略々同樣ナルヘキ時代ニ到達スルコトモ困難ナラス然レトモ斯ノ如キ保障ノ下ニ在リテモ猶小作制度ニ不利ナル點ハアリ即チ前ニモ述ヘタル所ノ小農場ノ大キサノ經濟限度ノ引上ヲ必要トスルニ至ルコト是ナリ斯ノ如キ觀察ハ不幸ニシテ我邦ニ限リ殊ニ必要ナリ例ヘハ同シク八反歩ノ農場ニテモ自作農ナラハ勞働ノ報酬ノ外ニ更ニ土地ノ所得ヲモ併セ收ムルニ反シテ小作農ニ於テハ其收穫ノ一半ヲ地主ニ支拂ヒ僅ニ他ノ一半ヲ以テ其生活ヲ維持セサルヘカラサルカ故ニ彼等カ　　略々一軒ノ家ノ生活ヲ支フル爲ニハ別ニ何カ自作農ノ土地收入ニ近キ額ヲ他ノ方面ヨリ補充セサルヘカラス語ヲ換ヘテ言ハヽ其職業ノ獨立ヲ保タシムルニハ更ニ五割乃至七割ノ面積ヲ擴張セシムルノ必要アルナリ

　外國競爭ニ對スル自作小農ノ苦闘ヲ憐ミ所謂土地拘束ノ不利益ヲ痛切ニ感シタル學者等カ頻ニ借地農業ノ寧便利ナルヲ説クハ主トシテ英吉利等ノ如ク農業者必シモ資本ノ供給ニ苦シムコトナクシテ其農場ヲ自由ニ擴張シ得ル場合ニ於テ始テ之ヲ豫想シ得ルナリ所謂生産三要素ノ分立ハ斯ノ如キ場合ニ於テ若干ノ意味アルモノナレトモ日本ナトノ實際ニ於テハ今後非常ナル農業勞力ノ減少ヲ見サル限ハ小作農場ヲ一町歩以上ニ擴張シテ借地大農論者ノ豫期スルカ如キ結果ヲ收ムルノ望無シ而モ現在ノ法制ニ在リテハ借地者ノ地位ノ擁護必シモ完全ナラス其權利ハ甚シク不確定ニシテ普通ノ小作契約ノ條項中ニハ地主カ必要ト認ムル場合ニハ當作後無條件ニテ土地ヲ返還スヘキ義務ヲ負フカ如キハ稀有ノ例ニ非スサレハ假ニ一國生産政策ノ方針トシテ今後ノ農收穫量ヲ増加スヘシト決定スルモ小作農カ之ニ應シテ其農法ヲ集約ニスルニハ餘リニ誘因ニ乏シキナリ

　次ニ小作契約ノ條件カ我レノ希望ノ如ク固定資本ノ安全ヲ保障シ更ニ箇々ノ農場カ相應ニ大キクシテ企業者ノ注意力ヲ專ラ農業ニ傾ケシムルニ足レリト假定スルモ尚考ヘサルヘカラサル一點アリ元來小作制度ナルモノハ新ニ農業ニ就カントスル者ニ容易ニ其機會ヲ得セシムルノ利アリト稱セラルヽモノナリ土地購入ノ資本ヲ具ヘス又ハ賣地捜索ノ煩ナクシテ希望次第直ニ其生産ヲ開始シ得ルカ故ニ農村ノ勞力ノ缺乏ヲ外部ヨリ補充スルカ爲ニモ亦便利ナルカ如シ(490)然レトモ此事實ハ他ノ一面ヨリ見レハ即チ現在ノ農業勞力ヲシテ以前ヨリモ一層自由ニ農業ト分離セシムルモノナルコトヲ意味ス日本現在ノ小作人ハ必シモ去來常ナキ浮浪人ニハ非ス遠方ヨリ小作人ノ移住シ來ルコトハ大面積ノ新田又ハ北海道ナトノ外ニハ甚タ少ナシ然レトモ此階級ノ増加ハ要スルニ國民中浮動的分子ノ増加ナリ今後何カノ新ナル動機カ加ハル毎ニ格別ノ大ナル面倒ナクシテ職業ヲ變ヘ得ル者ハ此階級ナリ小作人缺乏ノ聲ハ地方ニ依リテハ既ニ聞エ始メタリ縦令農家全部ノ廢業ハ之ヲ見サルモ各戸年々ノ小作面積ハ?々増減ス故ニ假ニ何カ市場ノ景氣ノ變動シ易キ製造業ノ竝立スルモノアリトセハ農村ノ勞力ハ彼此ノ間ニ著シキ流動アルヲ免レス而シテ新時代ノ農業ノ要求スル所ノモノハ決シテ所謂不熟錬ノ勞働ニ非ス天然ヲ相手トシテ毎年僅ニ一囘宛ノ經驗ヲ積ミ而モ能ク時勢ト適合シタル生産ヲ遂ケシメンカ爲ニハ農民ノ頻繁ナル轉業ハ最モ希望スヘキモノニ非サルナリ

　借地農ノ轉業又ハ移轉ヲ促スヘキ理由ハ猶一アリ其ハ啻ニ引移ニ障碍少ナシト云フニ止ラス更ニ積極的ニ彼等ヲ外ヘ推出スカ如キ動力アルコトニシテ地價ノ影響ハ即チ是ナリ土地ノ賣買値段ナルモノハ農企業ニ取リテ固ヨリ重要ナル要素ニハ相違ナキモ自作農ニテハ一旦之ヲ取得シタル上ハ其相場ノ時々ノ變動ハ其計算ノ上ニ直接ノ關係ヲ及ホサス小作農ニ於テハ之ニ反シ如何ニ滿足ナル小作契約ニ於テモ或期間經過ノ後ハ毎囘小作料ノ率ヲ更定ス即チ小作農ハ如何ナル場合ニ於テモ常ニ有期ノ買主ト同シ彼等ハ斯ル機會毎ニ所有者カ投下シタル資本ニ對スル普通ノ報酬ノ外所謂自然ノ増價即何等地主ノ勞力ニ歸スヘカラサル土地ノ新價値ニ對シテモ併セテ使用料ヲ拂ハサルヘカラス加之時トシテハ小作人自身ノ工夫又ハ失費ヲ以テ土地ニ附添シタル價値ノ全部又ハ一部ヲモ支拂ハシメラルヽコトアリ例ヘハ小作人ノ施セシ土地ノ改良カ當ヲ得テ永ク其效果ヲ現ハシタル場合ナトニ一期經過ノ後ニ於テ他ノ小作希望者カ高キ入札ヲ以テ之ヲ引受ケントスルトキノ如キハ地主ハ別ニ奸策ヲ施スコトナクシテ自然ニ地代引上ノ利ヲ收メ得ヘシ假ニ斯ノ如キ事例ハ少ナシトスルモ交通若クハ市場關係ノ改善ノ如キ利益カ結局將來ノ地代ヲ高メ頗ル借地農ノ安住心ヲ害スルコトアルヘキハ疑フヘカラサル事實ナリ

(491)　以上論スルカ如キ生産増殖策ニ反スル小作農ノ弊害ハ國ノ種々ナル施設ヲ以テ或程度迄ハ之ヲ防キ得サルニ非ス小作ヲシテ成ルヘク自作ニ近キ利益ヲ受ケシムル手段、過小農ヲシテ成ヘク稍大ナル農場ト同樣ノ利益ヲ受ケシムル手段ハ何レノ國家ニ於テモ夙ニ其必要ヲ認メ頻ニ攻究シツヽアル所ナリ第一種ノ政策トシテ土地國有論者等ノ首唱スル公地主説ノ如キハ最モ根本的ノモノナリ土地ノ賣買貸借ノ價格ヲ普通ノ市場競爭ニ委スルトキハ單ニ自然増價ノ利益ノ全部ヲ舊所有者ノ取得ニ歸シ了ルノミナラス往々ニシテ新ニ土地ノ買入借入ヲ希望スル者ニ對シテモ彼等ノ資本又ハ勞力ヲ壓迫シテ其分前ヲ減少セシムルノ虞アリ故ニ私益ヲ超脱シテ一般ノ幸福ヲ目標トセル團體即チ國又は公共團體ヲシテ專ラ此カ管理處分ノ權能ヲ行ハシメ以テ土地使用者ノ地位ヲ保護セントスルハ公有説ノ眼目トスル所ナリ其手段トシテハ時ノ相場ヲ以テ總テノ私有地ヲ買收スルコト近年我國ニ行ハレシ鐵道國有ノ如クセントスル説ト何等報酬ヲ與フルコトナク全然無條件ニ土地私有制ヲ廢セントスル極端説トアリ前者ハ夙ク A.R.Wallace 翁等ノ首唱シタル所ナリ此説ニテハ土地カ將來モ尚騰貴スヘキモノナルコトヲ豫測シ過去ノ私人ノ利益ハ之ヲ斷念シテ既得權ニ委付セントスルモノニシテ言ハヽ社會黨等ノ唱フルカ如キ第二ノ説ヲ中途ニテ見切リタルカ如キ形ナリ從テ理論トシテハ徹底セス唯秩序ノ烈シキ動亂ヲ避ケテ此方策ヲ行ヒ易カラシメントスル便利論ノ如ク考ヘラルヽモ其レタケ又實際ニ近ク或程度迄ノ實行ハ之ヲ期スルコトヲ得例ヘハ全國ニ於テ一時ニ之ヲ行フハ不利且不便ナル場合ニモ好キ機會ヲ見テ計算上利益ニシテ且實行ニ妨少ナキ地方ニノミ之ヲ試ミルヲ得ルカ如キ是ナリ併シナカラ結局ノ理想トシテハ所謂地持小農（Peasant Proprietor）ヲ可トスル説トハ正反對ニ國内ノ農場ヲシテ大小ノ別ナク悉ク小作タラシメントスルモノナルカ故ニ此方法ニシテ假ニ行ハレ得トセハ借地者ハ安心シテ其資本ト勞力トヲ永久ニ利用シ得ヘキ理ナリ唯如何ニシテ地代ノ率ヲ決定スヘキカニ付テハ個人地主ノ場合ヨリモ却テ一層大ナル實際上ノ困難アルヘシ何トナレハ所謂土地ノ合理價格ハ根本ニ於テ收穫物ノ市價ニ比例スヘキモノナレハ假令一々ノ地面ニ付テ地代ヲ勘定シ得ルトスルモ久シカラスシテ直ニ過不及ヲ生スヘク而モ之ニ對スル勞銀金利ノ率モ亦他ノ生産業トノ權衡ニ由リテ定マリ素(492)ヨリ一定ノ標準ナキヲ以テ結局箇々ノ土地ノ借賃ハ希望者ノ競爭ニ因リテ眞價以上ニ引上ケラルヽコトアルヘキハ恰モ惡意ナキ個人地主ノ場合ト擇フコトナカルヘシ又競爭ヲ杜絶シテ或期間現在ノ先占者ノ地位ヲ尊重ストセハ其間ニハ經濟上所有權ト些モ異ナラサル一種ノ用益權ヲ生シ勢轉貸ノ風ヲ禁スルコトヲ得サルヘク斯クナレハ最早土地ヲ公有ト爲シタル甲斐ハナキコトヽナルナリ

　右ノ如キ計算上ノ不便ハ Henry George 氏ノ一派カ主張セシ所謂單一地税説ニ於ケル税額算定ノ問題ニ付テモ同樣ニ之ヲ認メサル（カラス此派ノ最初ノ意見ニテハ現在ノ各土地所有者ヲシテ彼等自ラ之ヲ耕作利用スルニ非サレハ一錢ノ利益ヲモ見ルコト能ハサルヘキ程度ニ迄土地ニ課税スルコトヽセハ結局土地ノ私有ハ無意味ノモノト成リ自然ニ事實上ノ農作者ノミカ土地ヲ保有シ其他ノ者ハ之ヲ欲セサルニ至ルヘシト云フニ在リシ也然ルニ右ノ如ク地租ノ額ヲシテ常ニ所謂不當増益 unnearned increment ノ量卜合致セシメンコトハ到底不可能ナリ少シニテモ精確ヲ缺キ超過又ハ不足分ヲ生セハ乃チ不當ニシテ且有害ナル結果ヲ見ルヘシ此故ニ最近ノ改良手段トシテハ新市街地又ハ其附近等ニ於ケル土地ノ増價ニ對シ能フ限高率ノ課税ヲ爲シ以テ或程度迄此趣旨ヲ達セントス土地増價税ノ制度ナルモノハ即チ是ナリ但シ此ニテハ所謂地主ナル階級ハ決シテ絶滅セス土地公有ノ方策モ亦此ト同シ意味ニ於テ單ニ其目的ノ一端ノミヲ達シ得サルニ非ス即チ成ルヘク私益專門ニ非サル機關ヲシテ土地所有者タラシムルヲ力メ一方ニハ能フ限企業者ノ分配ヲ裕ニスル爲ニ低キ地代ヲ徴シ他ノ一方ニハ土地ノ爲借地者ヲ撰擇スルニ借料ノ多少以外ノ標準ヲ參酌セシメ例ヘハ一町以上ノ借主ヲ先ニシ二町以下ノ借主ヲ先ニシ地元住民ヲ先ニシ又ハ勤勉正直其他ノ人的條件ヲモ參酌スルカ如キ是ナリ併シナカラ特ニ此種ノ目的ヲ以テ公益法人ヲ設ケ又ハ町村ヲシテ永久ニ此ノ如キ新任務ヲ負ハシムルカ如キハ更ニ進ンテ小作人ヲ自作農タラシムルノ策即チ所謂小農地分與法ヲ行フノ簡便ナルニ如カス若シ絶對ニ地主トイフ階級ヲ存置セシメストスレハ乃チ止ム假ニ現在ノ私有制ヲ改良シテ承認スルトナラハ此ノ如クシテ生シタル自作小農ハ國トシテ最好マシキ土地所有者ナリ土地ノ年賦買入ニ際シ若シ國又ハ公共團體ノ信用ヲ以テ低利ノ資本ヲ(493)利用スルコトヲ得ハ農民ハ年々小作料ノ額ヨリハアマリ高カラサル金額ヲ支拂ヒツヽ或期間ノ後其土地ノ所有權ヲ取得スルノ望アリ且國民トシテハ之ニ由リ土地管理ノ爲ニ要スル勞費ヲ節約シ而モ今ノ借地農ヨリハ一段優良ナル小農ヲ作リ得ルナリ只此ノ如ク簡便ナル方法ヲ以テ地主トナリタル者カ更ニ其地位ヲ挾ミテ新ナル土地希望者ニ臨ムカ如キ弊ハ頗ル警戒ヲ要ス之ニ對シテハ豫メ仲介機關ニ先買先借ノ權ヲ留保シ或ハ始ヨリ買受人ノ直接耕作ヲ以テ保有ノ條件ト爲シ利用ヲ廢スレハ直ニ買戻スコトヽ定ムルモ可ナリ且最初ヨリ一人ノ買入レ得ヘキ面積ノ最大限度ヲ低ク定メ置カハ恐クハ大ナル弊ヲ生スルニ至ラサルヘシ

　此等種々ナル方法ハ今日ノ如ク土地實際ノ市價カ他ノ無形ノ理由ノ爲ニ合理價格以上ニ引上ケラルヽ時代ニ於テハ極メテ之ヲ行ヒ難シ現在ハ如何ニ安キ資金ニテモ外借シテ土地ヲ買置ケハ年々少シツヽ損ヲスル形ナリ此?勢ノ續ク間ハ小作農ノ増加ハ誠ニ之ヲ制止シカタシ然レトモ地代ハ理論上終ニハ勞銀率ノ一般ノ趨勢ニ由リテ決セラルヘキカ故ニ今ノ小作人等ヲシテ能ク農場内外ノ經濟事情ニ通曉シ損得ヲ打算シテ報償ノ多キニ就カシムルコトヽナラハ一方ニハ又貸地者ニ對シ正當ニ其利益ヲ主張スルヲ得ルニ至ルヘク要スルニ經濟智識ノ普及ハ早晩地價ヲ收益價格ト同程度ニ引下ケサレハ止マサルヘシ現在ノ小作農ハ甚シク此ノ如キ計算ニ疎ク且對等取引ノ手段ニ乏シ彼等ノ間ニハ多クノ惰性的慣行アリ例（ハ現物小作料ノ問題ノ如キハ甚シク農場經營ノ豫算ヲ紛雜セシメ又彼等ノ市場關係ヲ疎漫ナラシムルモノナレト未タ此カ改良ヲ試ミル者ナシ又小作米｜歩引《ブビキ》ノ如キ不定ナル交渉事項アリ滯納ノ事例亦極メテ多シ此等ノ因習ノ多クハ一方ニハ地主小作人間ノ關係カ必シモ利益一方ノ取引ニハ非サリシコトヲ表示スルモノナリ所謂地主會ナトノ保護事業は隱約ノ間ニ過小農ノ弊害ヲ匡濟シ其存在ヲ容易ナラシメタル功ハアレトモ兎ニ角嚴格ナル意味ニ於ケル職業ノ發展ヲ期スルニハ此ノ如キ一時ノ過渡期ノ彌縫的平和ニハ安スルコト能ハス況ヤ今後ノ新ナル地主ト新ナル借地農トノ間ニハ到底此ノ如キ舊關係ノ持續ヲ望ムコト能ハサルカ故ニ一國百千年ノ爲ニ謀ル者ハ決シテ現?ヲ以テ滿足スヘキニ非サル也

　

(495)　第二十八卷　内容細目

　

最新産業組合通解〔1902年12月、大日本實業學會刊行〕

　自序

　序論……………………………………………………………………七

　線論……………………………………………………………………一二

　　第一章　産業組合の概念…………………………………………一二

　　第二章　産業組合の種類…………………………………………一六

　　第三章　産業組合の静態…………………………………………二〇

　　　第一節　組合員…………………………………………………二〇

　　　第二節　組合財産………………………………………………二六

　　　第三節　組合債権者……………………………………………三二

　　　第四節　監督磯關………………………………………………三八

　　第四章　産業組合の動態…………………………………………四五

　　　第一節　産業組合の設立………………………………………四五

　　　第二節　産業組合の維持………………………………………五八

　　　第三節　組合の解散……………………………………………七六

　　附録　北海道に於ける産業組合の特例…………………………八四

　各論……………………………………………………………………八六

(496)　第一章　信用組合………………………………………………八七

　　第二章　販賣組合…………………………………………………九八

　　第三章　購買組合………………………………………………一〇七

　　第四章　生産祖合………………………………………………一一九

　

日本産銅史略…………………………………………………………一三五

　

農政學〔早稻田大學出版部、1902年〜1905年〕

　　第一章　農政學の目的…………………………………………一八九

　　第二章　農業の特性竝に日本農業の現?……………………一九九

　　第三章　土地財産制度…………………………………………二一八

　　第四章　農生産増殖策…………………………………………二三九

　　第五章　勞力改良に由る生産増殖策殊に農業教育…………二五七

　　第六章　農業分配政策概論……………………………………二六八

　

農業政策學

　　第一章　農業政策學ノ本旨……………………………………二八九

　　第二章　農業ノ性質……………………………………………二九五

　　第三章　農業ト土地トノ關係…………………………………三〇三

　　第四章　農ノ發展………………………………………………三一〇

　　第五章　日本農業ノ現?………………………………………三一七

　　第六章　日本農民ノ構成………………………………………三二三

(497)　　第七章　職業トシテノ農業………………………………三三〇

　　第八章　農ノ資本的経營………………………………………三三五

　　第九章　國家ノ農ニ對スル任務………………………………三四〇

　　第十章　土地財産制度…………………………………………三四四

　　第十一章　所謂農事改良ノ範圍………………………………三五三

　　第十二章　土地利用ノ進歩及退歩……………………………三五六

　　第十三章　地力ノ維持…………………………………………三七一

　　第十四章　農法ノ精度…………………………………………三七五

　　第十五章　農業資本ノ供給……………………………………三八一

　　第十六章　資本利用ノ問題……………………………………三九四

　　第十七章　農事教育……………………………………………四〇二

　　第十八章　農産増殖ニ對スル障碍……………………………四一〇

　　第十九章　凶作…………………………………………………四一六

　

農業政策〔中央大學発行講義録、発刊年不明〕

　　　

　　第一章　緒論……………………………………………………四二五

　　第二章　農産物ノ消費…………………………………………四二九

　　第三章　農産物ノ市價…………………………………………四三五

　　第四章　農業ト市場……………………………………………四三七

　　第五章　競爭……………………………………………………四四三

　　第六章　外國貿易………………………………………………四四八

　　第七章　農産物ノ運送…………………………………………四五六

(498)　第八章　市場組織ノ改良………………………………………四六〇

　　第九章　私經濟ノ擁護…………………………………………四六八

　　第十章　農場ノ選擇及經營……………………………………四七一

　　第十一章　小農ノ將來…………………………………………四七九

　　第十二章　小作制度ノ不利……………………………………四八六

　

　　　　　　　　　〔2015年9月14日（月）午後4時59分、入力終了〕