定本柳田國男集 第二十九卷(新装版)、筑摩書房、1970、10、20(1978.11.30.14刷)
 
(3)   地方文化建設の序説
 
          一
 
 今日の經濟界は國民經濟時代を脱出して國際經濟時代、或は世界經濟時代に進展しつゝあると言はれてゐる。國家、國家が恰も一つの地方の如き觀を呈し、有無相通じ、過不及を自在に相補ふ經濟?態に進展しつゝあるといふことである。これは甚だ結構な事であり、又當然、かゝる?態に進展すべきものと思はれる。しかるに今日に於いては、絶對の主權を持つてゐる國家といふものがそれ/”\獨立して存在し、それ等國家間には絶えず激甚な競爭が續けられて、大きい自然の目で見れば、國際經濟といふ結構な理想に向つて進みつゝあるやうであるが、實際に於いては只、自分一國を富ますため、極端に言へば、一商人が自分自身の利益のため、外國の經濟上の弱點につけこんで品物を賣りこまうといふ商賣の國際時代である。
 だから、終ひには理想的な世界經済時代が出現するとしても、その經過の中には、斯うした國際經濟戰爭の劣敗國が出來るに相違ないのである。村落經濟時代の太古より、國民經濟の今日まで、滅び去つた民族、國家の例は枚擧するに遑ない。それは實に社會進化の原則に伴ふ悲しむべき犧牲者である。而も、この原則は、今後とも變りなく働くであらう。されば悲しむべき犧牲者も亦出る道理である。
 然らば、如何なる國家が、その不運を擔ふのであらうか。この答は明白である――外國の商賣政策に乘ぜられた國(4)家、即ち消費を知つて生産を忘れた國家である。
 
          二
 
 飜つて日本の現?を見渡す時、我等は慄然として眼を掩ふほどの悲しむべき?態を見せつけられる。その?態とは――消費の點のみが徒らに國際化しつゝあるのに對して、生産は今猶、日本風であり地方的であるの一事である。即ち、消費されるあらゆる物品は世界のいづことも相通じてゐるに對して、生産される物品は日本内地に限られてゐるものが多數である。殊に、日本國民の大多數を占めてゐる農民は、限られた地面を耕し、日本人專用の米を作つてゐるのに對し、消費すべき物品は洪水の勢をもつて都會より殺到して來るのである。若し、全人類が米食人種であつたならば、何とか展開の策があるかも知れない。少くとも有無相補ふ世界經濟時代の出現に對して、いくらかの足場手がかりを發見し、圖るべからざる自然の展開策が惠まれるかも知れない。が悲しいかな米の範圍は限られてゐる。これ全世界の農民中、日本の農民が特に背おはされた十字架ではないか。
 これ等の農村事情は、今日矢釜しく論じられてゐる土地の兼併、これより起る地主小作人の紛擾がなくとも、農村破滅の原因とするに足るものである。しからば、これによる農村疲弊、農村行きつまりの展開策は、彼等が生産した農産物の需要者である都會によつて決定されるといふ事になる。若し都會が、農村の經濟?態に應じた經濟組織を持つてゐたならば、假令、米が國際的生産品でなくとも農業經營はさほど困難を伴はないかも知れないのである。
 然るに、都會の經濟組織はさうでない。商工業の發達によつて出來あがつた今日の都市である。市民は商工業の尊きことを知つてゐるが、農業の有難さは知らない。米……それは水の如きものと考へてゐる。生存に必要缺くべからざるものといふことは知つてゐるが、それは水の如きもので、人間が棲むところ必然に神が與ふるものと考へてゐる。飢に泣く貧民すらも、米が農民の手によつて生産されたものとは計算的には考へてゐない。米は米屋にある……否々、(5)彼等が働く工場にあり、街頭にあるものだ。「米は米屋にて製造す」といふ小學兒童の答案は端的に、この消息を語るものではないか。
 
          三
 
 斯樣にして、都會は、生産者としての農民を認めてゐない。が反對に彼等は、彼等が生産し輸送するあらゆる文化的製造品の無限の販路を農村に求めてゐる。其處に何等農村經濟を顧慮するところがない。彼等はあらゆる手段を講じて農民の懷をしぼる。斯うして兩者の關係は、封建時代に於ける領主と農民の奴隷關係に甚だ似通うたところがある。只違ふところは、往時に於いては、農民は只生産の機械としてのみ重視され、今に於いては、消費の袋として重視されることである。
 然らば、何故に都會が農村に對して君主の地位に立ち、農村が奴隷の境遇にあるのであらうか。それは他ならず――都會が農村より高い文化を持つてゐるといふことである。一歩を進めて言へば、都會が常に外國に接してゐてその文化を輸入する關門であるといふことである。
 この事は歴史的にも證明することが出來る。凡そ、日本の政治史は波形の線をもつて現はすことが出來ると言はれてゐる。即ち、中央の權力盛んなれば地方が衰へ、地方興れば、中央が衰へたのである。而して、中央が盛んになつた時代は、外國の文明が盛んに輸入された時代であり、地方が興つた時代は外國文明の輸入が杜絶した時代であつた。大化の新政が布かれて、中央の權力大いに振ひ國家統一の緒についた聖コ太子の御代は、支那の文明が始めて日本に輸入された時代であつた。而して莊園が權力となり、地方の武威が旺盛となつた王朝時代は、外國文明の輸入が全く杜絶した時代であつた。
 この現象は決して偶然の一致ではない。中央都市が誇りとするところは文化である。而もその文化は外國の文化を(6)攝取することによつて充實し維持されるものである。この理法は洋の東西を問はないであらう。新しき藝術、宗教、製造品、一切の新知識、さうしたものを持つて地方に望むとき中央都市の地位は非常に優秀となる。これ等文化の地方普及は經濟的には、地方の財力を都市に吸集して己れを富まし、精神的には都市崇拜の迷信的思想を地方人の頭に發生せしむる。從つて又、政治的にも中央都市の權力は強固となり、都市中心の政策を立てゝ、それを保護することになる。これにより、我等は一國の消費盛んなるは文化が普及したことを知ると同時に、中央興り地方衰ふる事實を知ることが出來るのである。
 これに反して、外國文明の輸入が絶え、消費生産の經濟?態が國内に限られる時、生産者の大部分を占める農家の生産が、總ての基調をなすに至るものである。新鮮の氣を失つた中央都市の文化は、もう既に、頑健にして鈍重な地方を惹きつけることは出來ない。曾つて燦爛たる文化をもつて地方を支配した都市は、今や、農民が生産した米によつて支配されるのである。
 王朝時代における中央都市の衰退、人士の困難は明らかにこの事實を物語つてゐる。その當時の流行語「田舍渡らひ」とは今日で言へば地方出稼ぎに似てゐる。食へなくなつた中央都市の人士が地方へ出かけ行くことである。滑稽にして悲惨なるは源氏物語の夕顔の卷にある一挿話である。
 當時、豐富な財力を持つてゐた地方の豪族は、その財力にまかせて上洛し、地位を買ふのを道樂にしてゐたのであるが、斯うして上洛してゐた某といふ地方豪族が或日、さる地位高き雲上人が、「イモガイでも腹一ぱい食つて見たい」と言つたのを耳にした。そこで某は、早速その雲上人を伴つて國元に行き、百姓共に命じて山なすイモ、お米の塚をつくつて、大釜でイモガイをつくつて馳走した。雲上人はこの仰山な馳走に驚いて逃げ歸つたといふのであるが、この物語は、如何に中央人士が窮迫し、その反對に地方の財力が豐富であつたかを物語つてゐるものである。
 
(7)          四
 
 然るに、由來政治は統一を目標としてゐた。從つて政治的權力は中央集權に向つて進展し、偉大なる政治家の苦心とは、如何によく權力を中央に集め得るかにあつたのである。而して、中央の權力を確立するためには、中央都市の文化をもつて地方の生産力を制へねばならなかつた。そのためには、常に外國の文化を吸收して、文化を新らたにしなければならぬ。從つて又、その政策も都市を保護するものでなければならなかつた。即ち都市中心の諸政策をもつて地方に臨んだのである。由來、中央の權力が衰退を示した時、その主權者の取つた政策が、往々賣國奴的であつたのは、この間の消息を最も赤裸々に語るものである。かく觀ずれば、コ川の末期、家康のあの周到なる政策も、長い間の鎖國に災されて、文化は次第に廢頽して新鮮の氣を失ひ、地方的勢力が漸く強固を加へた時、幕府がとつた開國の主張の一面の理由は、倒れかゝつた幕府の權力を外國文明の輸入によつて文へようとした政策の一端とも思はれるのである。當時、奮起した勤王の諸士が、開國を主張する幕府を賣國奴と罵つた、時代錯誤の叫びも、この理法によつて、はじめて、それとうなづかれるではないか。
 然るに幕府倒るゝと共に攘夷は變じて開國となつた。これ元より開國の事情によるものであるが、新しき中央權力の確立の氣運に相應じたものであつた。
 果然、外國の文化は洪水の勢をもつて殺到し、剰へ、近代商工業の發達は、新興の日本をして忽ち世界強國の一つにまで發展させた。而して日本政府がとつた政策は勿論、商工業を中心とした經濟政策であり、中央集權をもつて政治組織の大本としたのである。が、地方が持つてゐる生産力は意外にも頑強であつたとも言ふことが出來る。なぜなれば、四十有餘年間、兎に角、地方は都會の絶えざる搾取に堪へたのである。しかし、これは地方人(農民)が自ら抗議を都會に提出した時までの期間であつて、その間に於いて少しづつ地方は衰微しつゝあつたのである。
(8) けれ共、我等は又、地方の衰微が諸外國に比して非常に早く到來したとも見ることが出來る。若し、日本の地勢が、歐洲の重なる國々のやうに、比較的平野であり、形が比較的圓く、中央都市と地方との地勢的相違が少かつたならば、例へ政府の方針が都市中心主義であつても、車軸と車輪との關係を思はゞ兩者の間がもつと圓滑に進んだかも知れぬ。
 然るに、日本の地形は非常に細長く、而もそれが大小數千の谷々に區分され、從つて生活の樣式なり經濟事情なりが千差萬別であるので、必然の結果たる都市の搾取に先だつて、政策そのものより來る矛盾により、一層その衰微の時期を早めたかの感がある。こゝに於いては、兩者の關係は軸と輪との關係でなく本國と屬國との關係である。
 現今、社會政策の上より見た社會の分類法は、横の分類法である。即ち、資本家と勞働者、小作人と地主、無産者と有産者の如きものである。これ元より當を得たものであるが、現在の日本の如き?態に於いては、その前に、竪の分類法、即ち地域による分類に從つて政策を施すべきではあるまいか。
 
          五
 
 東京! それは言ふまでもなく、我等の主都、文化の中心である。學問も藝術も、趣味も、權力も、教育もその他一切の文明はこゝに源をおいて地方へ流れ出てゐる。財政の立て方も、政治の布きやうも、生活の樣式も、此處を中心として決定される。
 而して、これを布く爲政者達は、地方と都市とを車軸と車輪に譬へ、その都市中心の諸政策、文化をも、その如く圓滑に運轉しつゝありと信じてゐる。が是れは前に述べたやうに、日本に於いて特に行はれ難い間違つた信念である。
 東京と、その周圖の町村――それは比較的共通した利害を持ち、その經濟政策や、文化を普及するに、さまで間隙を見出されまいが、次第に遠く離れるにつれて、全くの無理を發見することが出來る。
 東京市民の生活を基礎とした女兒の洋服が奨勵された。これは非常な勢であらゆる地方を席捲したが、都市生活者(9)をおいて、一般農村に適當したものであらうか。ひさしのない洋館風の小學校の校合が流行し出した。しかし、日本の如く風雨の強い地域に適したものであらうか。その他、衣食住の一切は地方生活とは趣きを異にする都會風に化しつゝあるのである。これによる不經濟、不便は、地方在住の人々が日常生活の中に數多く發見されることであらう。
 而して、これ等の文化的の流行、製造品は決して、東京獨特のものでなく、多くは歐米文化の輸入によるものである。見よ! 東京人の外國文化輸入の忙がしさよ。あらゆる贅澤品、美術工業品は言ふに及ばず、日常生活の實用品、食糧品に至るまで、昨日の流行品は、もう今日の古物である。かゝる?態は物品のみではない。思想も趣味も主義も主張も新しきを求めて、とゞまることがないのである。而も、この流行變轉の傾向は日を追うて急速に囘轉しつゝあるのである。
 
          六
 
 かゝる流行の急激なる變轉は何を物語るものであるか、その一つの理由は、地方の財力が漸やく枯渇せんとして、購買力を失ひ、且つ都會文化に對して多少の疑惑を抱くやうになつたのに對する、都會人の焦燥狼狽を語るものである。即ち、彼等は、何等か新しき刺激ある文化的樣式をもつて、地方人の好奇心を挑發しようとして、何等の撰擇もなく、外來の文化を輸入しこれを普及しようとあせつてゐるのである。他の一つは、都會の優秀なる地位を保たうとする無意識の衝動と見るべきであらう。
 實に都會人の活躍は噴火口上の舞踏とも言ふべきであらう。今日の不景氣の原因を單に工業の不振、貿易上の輸入超過のみと見るべきではない。彼等が無制限に、地方を搾取した結果であり、都市中心の權力を行使した酬いであり、誤れる文化を輸入して地方に強ひた罰である。さきに言つた――消費のみが國際的であり、生産が國内的である――消費を知つて生産を忘れた國家――とは正に現今の日本の?態、その儘ではないか。
(10) しかし乍ら、都會人のこの恐るべき夢は未だ當分續くであらう。如何に、時の政府が、輸入制限、奢侈の防止、勤儉の精勵を宣傳しても醒めさうに思はれない。その理由は、彼等の無制限な文化の輸入による影響が、直接に響くのは、彼等都會人でなくて地方人であるからである。都會生活が持つ不思議は、何等の生産にたづさはらずして生きて行けるといふことである。又、複雜極る職業の間に處して、曖昧の中に生きて行くことが出來るといふことである。是等都會が持つ避難所は、都會人に對していくらかの安心を與へ、自信を與へて、彼等の夢をつゞけさせる。次に、政治的の權力が彼等を保護し、經濟の組織が彼等を助けることである。
 然るに、地方に於いては、かゝる避難所が設けられてゐない。政治も施設も彼等のための存在ではないのである。往昔、中央の權力が旺んであつた時代には、地方に數知れぬ餓死者を出したといふことである。しかし、その不幸は今や地方を襲ひつつあるではないか。
 
          七
 
 沖繩の窮乏のことは廣く報ぜられるところであるが、これは又直ちに日本全體の地方の?態を語るものである。沖繩窮乏の原因は、單に天災をもつて充つることは出來ぬ。遠くは中央都市の搾取と、その政策の責とであり、近くは、沖繩それ自體の支配階級の消費過多によるものである。彼等は生産の母たる島人より、取るべき總ての物を搾り取つた。もはや、取るべき何者も島人の懷には殘つてゐない。彼等は既に、文字通りの餓死の境に臨んでゐる。と同時に彼等を支配してゐた地主も資本家も、税金によつて維持される官廳も破産にせまつてゐる。實に、これは理の當然と言はなければならぬ。將來經濟的に破滅する國家があつたならば、恐らく沖繩の如き?態をもつて暗き滅亡の淵へ歩み寄るであらう。
 が、それは又、日本その者の?態でもあるのだ。沖繩は比較的地域が大きいから世間の注目を惹き、遂に政府の補(11)助を受くるまでに至つたのであるが、現在、沖繩の如く破産に瀕してゐる村々、谷々が、どの位、世間の目の外にあふれてゐるかも知れないのである。少くとも、かゝる?態へ向つて歩みをつゞけてゐるのである。
 農村の破滅! それは實に恐ろしき近代的の豫言である。しかして、その理由は、前に説いたやうに、地主の横暴のみでなくて、それ等地主階級を包含して破滅の淵へ運ぶものは都會文化の普及そのものである。
 なるほど、文化の中には、彼等に知識を與へ、便利を與へたのみならず多くの惠みを垂れたものもあつたが、彼等の生活樣式に合致しない不經濟なものもあつた。が概して、都會の文化は彼等の經濟を極度に不安なものとした。否消費の増加による收支の不均衡は遂に、彼等を破産に導いた。小作人、小農は、その第一の犧牲者である。
 が、小作人の窮?に劣らず、我等を不安に導くものは、地主階級に屬するとも見える、中産階級――それは主に地方の舊家である、が破滅に瀕しつゝあるの一事である。かゝる中産階級は古來地方文化の保護者とも言ふべきで、地方の秩序を保持すべき、儀禮、諸道コ、權威、郷土精神の家元ともいふべき階級であつた。かゝる家柄の廢滅――これこそ地方文化再建にとつて一大障碍といふべきではないか。
 然も、現在の地方?態は、是等の階級にとつて最も惡い結果を與へつゝあるのである。試みに、斯うした階級の人達の生活を見よ。彼等の風采は、東京の紳士淑女のそれに劣らない。その家庭における生活も、既に文化的の設備がほどこされてゐる。恐らく、彼等の生活費は舊に倍し三倍したであらう。然るにその收入は如何? それは恐らく舊態を保つてゐるに過ぎなからう。彼等が重なる收入である小作料は、これ以上重課することは、小作人の經濟上に於いても、又、彼等の社會的自覺――良心の上に於いても許されぬところである。そこで彼等は山林を賣り土地を賣つてわづかに體面を保持しつゝ、次第に廢滅の淵に歩み寄りつゝあるのである。然らば、心を轉じて農業勞働者になるか。それにしては彼等の肉體は餘りに都會人化してゐるのである。
 
(12)          八
 
 かゝる悲しむべき?態の救濟策――これを都會に望めば、その認識不足の夢の焦燥より醒めその輸入する外國文化を取捨撰擇して、日本の國情、生活の樣式に合致したものを地方の?態を中心として攝取することである。言葉を進めて言へば、東京や大阪の如き大都會をも一つの地方として自ら省みて貰ひたいことである。
 ――これを地方人に望む時、我等は百千の政策を政府に望む前に、先づ、よつて來るべき自らの窮迫を考へ、徒らに都會文化の幻影を追ふを止め、古き郷土の精神に目ざめ地方文化を建設して、これを強固にし、都會人の先天性なる消費癖に打ち勝ち、進んで、彼等に地方人の精神、文化を認めさせよき文明の輸入を委託することである。
 我等は再び、否永遠に、鎭國的方法によつて地方の盛大を期することは出來ないのだ。
 
(13)   都市建設の技術
 
          一
 
 個人の家を建てるに當つても、民族によつて自から巧拙があり、外觀、内部の便利等より見て何等感心すべきものでないに拘はらず、當然のことゝして滿足してゐるものもある。それは人々の趣味器用とは獨立したもので、一種の民族性とでも言ふべきであらう。この特色は町造りと云ふ場合にはもつと露骨にあらはれる。村は元來成り立ちが極く自然のもので、作り方に少しも無理がなく、人工が加はつてゐない。その性質から言へば、例へば用水の量が直ぐに戸數を制限する。日に二十石湧く井戸があると民家の數は五十戸となる。然るに町は集合の必要があるから人工が加はり、技術が加はるので、そこで上手下手が現はれる。この點に就き日本人は下手であると思ふ、否下手といふよりも經驗が無いのかも知れない。特に鎖國政策を唱へない時から既に外國との往來が非常に少く、殆と他の國にその例を見ない。又人口は比較的に(一つの平原に對し)少い、だから一個所にたまる必要がなく、つまり大きい聚落を作る必要がなかつた。計畫を樹てゝその都府を作つた記録は殆と日本の歴史に痕跡が無いといつてもよい。奈良と京都だけは確かに都府事業の跡が見られるけれども、その計畫が完全に實現したかどうかはまだ確かでない。その他の大きい町例へば鎌倉でも博多でもたゞ無理に人が集つたといふ程度で、何時でも自然の法則の方に人間の智慧が讓歩してゐる。尤も西洋の多くの都府のやうに、計畫したところでも多くは時勢に裏切られてゐる。十九世紀以後の都市(14)密集に對してまごつかないものは一つもないのだけれども、我々のはその裏切られた計畫でなくて、寧ろ不用意の暴露といつたやうな貌が常にあつた。その一番甚だしいのは東京だと思ふ。
 江戸を初めて造つた時は、コ川氏の地位は目ぼしい大名の一人といふだけで、日本の中心といふ風な野心はなかつた。その上に地形が非常に大きな町になるやうな處ではなかつた。それを兎も角、全國で七つか八つの大都會に仕上げた力は言はゞあの時代としては成功に違ひない。しかも政治上の澤山の原因が積み重なつて、これ程多くの人間を盛らなければならないといふ風になると、忽ち行詰らなければならないやうな方法が採用せられた。東京の歴史を見ると政治史の偶然といふものが働いてゐて、自然は寧ろ煩はしたり、妨げたりする一因子であつたことが今ではよくわかる。
 
          二
 
 大名が城砦の周圍に置かなければならなかつた民家の數といふものは各自の勢力に比例した至つて小さいものであつた。戰爭の場合、殊に防禦策戰の場合、周圍に澤山置くことは不便である。愈籠城となると薪炭や糧食は遠くから供給し得ないから、なるべく小人數でなければならない。平素の入用からいへば自分の所へ收納する物成《ものなり》の處理方法は豫定して居るのであるから、その他には臨時の事業のために急に入用な勞働者だけを用意して置けばよい、それ以上は居つてもいゝといふ位である。たゞ人民の側から有力な領主の庇護に頼つて來たがるといふことはあるけれども、それは最初から豫期したものではなかつた。計畫が最初から城本位に出來てゐる。關東の方の城下は京都に遠いからやゝ地方經濟上の中心たる觀が早くからあつたやうであるが、それとても要するに、生活要求の低い近傍の經濟に應ずるだけで、特に國全體若しくは大陸諸國との交易等はその要素にはいつてゐないのである。だから何時までも根小屋百姓の感じが去らない。堀の周りを取圍んで城のために用達をする一定の數さへ具足して置けば目的を達した。(15)たゞコ川は日本一の大大名であるだけ他の大名より以上に餘分のものを置いたに過ぎない。
 
          三
 
 昔も今も一貫して都府の苦しんでゐるのは輸送問題である。あれ程久しく續いてた江戸の傳馬制度も完全なところまでいつてゐなかつた、といふのは何時でも城下制度の組織より一歩づつ前へ出た豫想外の膨脹があつたからである。江戸の人口は早くから偉い數にのぼつて一時は何十萬を數へたのであるが、これは都市計畫の範圍外に置かれたもののやうである。有名な參覲交代といふ制度の如きは、歴史の他の半面から見れば、都市組織の上にはやゝ有害のもののやうであつた。收入の根源を田舍に持つといふ人間が江戸に住んでゐることは、實は旅暮しである。これが日本の古くからの社會病の原因となり、その爲めに人民はしないでもいゝ苦勞をしてゐる。この南北に長い國で中央の一點に人を勤番せしめるための無益な輸送に、非常に無駄な勞力が費された。これは中世の京都の假屋制度の惰性といつてもよく、初めて江戸で發見したのでない。田舍士が京都に滯在して居た名殘であつて、それには食物なり衣料なり人夫なりの夫役を遠いところから取寄せねばならないためである。
 
          四
 
 しかも當時都市生活の不安定は一段と加はつてゐた。言はゞ數百年來の引續きで、單に計畫が粗漫であつたといふのみならず、江戸の開發者はこの積弊を避ける方法すらも考へてゐなかつた。明治以後の東京市民は殆と三分の二以上の入替りをしたから、まるで生命が新たになつたやうに見えるが、矢張り昔からの行掛りを脱却することの出來なかつたのは江戸人と同じである。一言を以ていへば地方から臨時の團員を呼び集めて始終寄合をしてゐるやうな氣持を捨てゝしまふことが出來なかつた。自分で都市を造る手段といふやうなものは殆となかつた。現在はその新陳交代(16)の速度が一段と増加したため今更のやうに人が注意し初めただけで、古くから激しい交替はあつたのである。
 同じく人口の増加といつても東京は大阪とは大分その趣を異にしてゐるやうに思ふ。人口の多い少いといふのが何時も繁榮の尺度となつてゐるやうだが、包容力の完備と否とを顧みないでこれを議することは餘程危險である。勿論、日本人の環境適應性といふものも感服するに堪へたるものがあつて、こんな窮屈なゆとり〔三字傍点〕のない壓迫といふ風なものから落着きを見出し、一つの新しい組織を作り出さうといふ傾きは認められるが、それには無益な動搖とか誤つた努力が何時も費される。換言すれば、吾々が最初の計畫が綿密でなかつたため、何時も市民はせずともよい難儀を繰返して來た。故に今すぐに改良の力はなくとも、盲目でこの渦卷の中に入つてゐるよりは自分等の現在の立場を意識してそれから考へなほす方がいゝと思ふ。故に都市問題の研究は日本として、殊に日本の首府としては必要且つ緊切である。
 
          五
 
 市民殊に有識分子と名づくべきものが市政に冷淡だと説く人が多いが、成る程東京としては未だ曾つてその反對であつた例はなかつた。經濟上の優者若しくは消費者として市の經濟の大勢を左右してゐる階級は江戸の昔から全部田舍者である。大名の長家住居もこれを經驗した人はもう故人となつたから書類の上で見るより他はないが、決して普通單純な家ではなかつた。二代三代と續いて住む長家でも僅かに寢起きの出來るといふ程度のものなのであつて、旅中であり陣中であるといふ氣は何時も失せなかつた。彼等は大部分は郷里に廣大な自由な邸宅を有つてゐるか、若くはその記憶を鮮明に持つてゐるものばかりであつて、言はゞ江戸の客なのである。それに使役せられてゐる今一段下級な勞働者に至つては、餘程昔風な忍耐力が豐かでないと、今日から見てはとても堪へられない淋しい生活をしてゐた。具體的に云へばこの人々には本當の家といふものはなかつた。從つて都會の消費趣味といつたもので無聊寂寞を(17)紛らはすことにもなり、又これに對する設備ばかりが矢鱈に要求せられた所以でもある。
 
          六
 
 勞働の供給方法に就いては幾度かこれを講究した政治家があつたらしいが、結局改革の半途で江戸の政治は終つてしまつた。地方の有力者が、地方若しくはなるべく地方に近い生活をしようとすれば、大した勞力を必要とした。初期には普通の城下生活の慣習に從つて勞力の全部をその領地から呼び寄せてゐた。然し九州や奧州の果てから夫役を呼んで使ふといふことは自他ともに非常に大きな浪費であつた。この制度に代るべく無償年期奉公人の組織が發明せらるるやうになつた。これとても勿論田舍者を市民化するには足らない。十年働いて歸るとか、五六年で病氣になるとかするし、殊に妻子を持つても一家を支へる設備が無かつた。何時まで經つてもそれはたゞ田舍者の滯在で、その中に財政が段々無理になつて、さういふ不經濟な人の使方が出來なくなつた。まづ資力の小さいものから段々に市中から臨時の勞力を供給せしめようとなるのが自然だ、さうすると此處に一種の人入稼業が起つて又新たな社會問題が起つて來る。勢力の需要が毎年平均してゐればさほど困難な問題ではなかつたが、事變や災害が突發するので平素最大限度の準備をすることは非常に困難であつた。何時も安全率を踏んで不斷から一萬とか八千とかの用意をするのであるが、なかなかそれが甘く行かない。近國人、即ち關東からいへば越後、越中、信濃諸國の人の江戸出稼ぎは、各地の一般的人口過剰の結果だが、一方にはこの都府勢力組織がこれを促したので、從つて今日中央職業紹介所の一片の通知ではこれを制止することが出來ないやうになつてしまつた。然し冬分數ヶ月間の短期出稼では、たとへその數量が年々平均してゐても用途に自ら制限が出來てくる。職人はこの方法で供給することは不可能となつた。
 最初江戸幕府が考へさせられたのは特種職人の養成であつた。これを引續き利用して臨時不定なる外部の供給を避けんとする傾向が見えたが、もと道筋が開けてゐてこれを調節する手段はないのだから、如何なる場合にも勞力に過(18)剰があつて、ともすれば失業問題を生じ易く、その結果不自然な方法を以て仕事を作るやうな弊害が生じた。例へば身の輕いものが火災を歡迎する氣風は、かういふ壓迫から起つて來る。世が平和なら何時も人口が餘るといふ組織には昔からなつてゐた。かういふ連中の江戸へ入つて來た氣持ちは江戸人を構成しようといふのでなかつたにも拘はらず、江戸人の新陳交代が存外激しいので、ひとり山の手の屋敷のみならず、町方に於いても常に田舍からの補充が行はれた。彼等が少くとも二代三代を重ねて言語がやゝ町風に化したのを以て、我々は普通市民と田舍者との境の線を作らうとしてゐたけれども、この人々とても根本に於いては實はまだ背後に「田舍」のある人が多かつた。城壁を取繞らして内部に於ける獨立生計を計り、町を唯一の生活の基礎にして、その中から安住の計畫を組立てるといふまでには一般の共同心がまだ進んでゐなかつた。これも近世の一つの特種現象たる伊勢商人、近江商人などの出店《でだな》組織も考へて見なければならない。それよりも一般的なのは町屋敷の養子入婿の組織である。家はなる程極く古くからの江戸大阪の家でも、主人は何度となく農村から呼び迎へられてゐるといふ風で、これが恐くは日本の市民家風の發達を妨げた大きな力であつたであらうと思ふ。
 この類の原因は今になつてこれに心付いて改良を加へてどうしようといふ性質のものではない。少くとも現在の政治家が考へてゐるやうに、彼等の利害の加減乘除が即ち市そのものゝ最も適當な進路であるといふ簡單な考へ方を訂正して、別に一つの獨立した標準、若しくは都市生活の理想といふものを樹てなければならない必要が痛切である。又現在のやうな密接した隣保組織の中にも、なほ幾多の撤却せねばならぬ籬があり、開かるべき道路があるといふことを考へさせることが必要である。今の社會の病患の多くのものは、勿論個人に向つて豫見し得なかつた責任を負はすことの出來ぬものがあるが、それ以外に尚市民は、都市建設技術の拙劣を極めた自分たちの祖先の失敗の尻拭ひをしてやらなければならないのである。これが日本の都市政策の特種な困難である。
 
(19)          七
 
 都市を樹木の天狗巣病の如き一種の社會變態と見るならば、文化人がその生活努力の大部分を擧げて、力めてこの自然の傾向に調和しようとした功績は認めることが出來る。けれどもそれは到底後始末であり臨機應變であつて、これを以て都市を一種の藝術作品と見做す理由とすることの出來ぬは勿論、更に將來の計畫をその力に依託することは出來ない。個人の生活には反省といふものがあり、若くは自己抑制があり、對策の樹てにくい傾向にむかつてはあらかじめ自ら加減する途があるけれども、今日の集合生活體には未だそれが考へられて居ない。人が少しく統一整理に努めようとすれば、最初に影響を受くべき末端に居るものが直ちに個人自由を唱へて之に反抗する。勿論法令の力のみで無知なるものを強制することは不可能であるけれども、少くとも學問がかくの如き集合體をも訓練する時代を招き來る必要はある。
 日本人は、ことによつたら天性が大きな都市を作るに適さない人種であるかも知れない。この本質を撓めるか、然らざればもう少し早く群集の無限に一地に集積することを防がねばならない。早い話が食物の問題にしても、西洋の都市の密集し得た重大な要件の一つは竈の合同である。パン屋が一軒あつて、それが二町三町にも間に合ふといふことである。支那でも街頭の茶館で日々の飲食をすまして居る人民が大分ある。それが日本では毎日少くとも一度は温かい飯と味噌汁を必要とする者が來つて町を作つて居るのである。そのために個々の小家に竈があり、煙突があつて、おまけに建物は全部焚付けの如き好燃料である。この?態を放擲して安全な都會を作らうといふことは、すでに空想に近いことである。而かも市民の構成分子は今尚田舍を背負つて入つて來た人のみである。彼等の自由はしば/\西洋などの城壁内の防衛によつて調練せられた代々の市民のもつてるものとは大變違ふ。それは野天の自由、山小屋の自由と同じ自由である。それも然し尊い自由であつて、我々の立場から云ふと、出來得る限りそれを尊重したい。只(20)如何せん遺憾乍らこれを集めて二百萬人の大都市は作れないのである。
 
          八
 
 春に入つて草木が緑すると、晴れた日の光に乘じて野に出でて遊ぶ習慣がある。これは單なる懶惰ではなくて、正月の餅程度に缺くべからざる年中行事である。それを都會の眞中に入つても尚ほ繼續しようとすれば、如何に大きな公園があつても足りるものではない。郊外が遠くなれば汽車電車の雜沓が起るのは免がれない。故に東京大阪などでは公園位物騷がしい、優遊することの出來ないところはないと云つてよいのである。恐らく今の面積を三倍五倍にしても、道路の見えないまで人の群れてくる結果は同じであらう。ひとり地震國としての天然の制限ばかりではない。日本には日本風の要求が、いつでも都市を特色づけて居るのである。
 だから空論ではなくして日本都市の理想といふものは必要となつてくる。全體、如何なる?態に我々の首府をもつて來ることが都市事業の完成であるか。假りに今日までの經過が示して居る通り、困つた點だけを工夫し改良して處理して行くのであるならば、それは明白に事業と名付くべきものではない。衣服で云ふならば、織つたり縫つたりする仕事でなくて、繼《つぎ》をあてる仕事である。自分達は出來ることならば、斯ういふ町を作りたいといふ構圖の如きものを先づ案出して置きたいと思ふのである。
 
          九
 
 自分は食事の特徴を一つの例として擧げたが、これに似た國民天然の特性は幾つもある。例へば都市を作る民族としては、日本人位水を要求する國民はないのである。水の使用量を水道の取口《とりぐち》で計算することは正確のやうで、實は正確でない。雨量の至つて少ない、空中の水分の異に稀薄な國土に於けるが如く、一切のものを流し棄てるのに、必(21)ず遠方の水を必要とするやうなところなら兎に角、日本では斯ういふ外部の水分がありあまつてゐる島國でありながら、その上にまだ幾らでも身の廻り用に水が使へれば使ひたいといふ習性をもつてゐる。温欲の流行は成程近世に始まつたかも知れぬが、我々は昔から人數には拘はらず、必ず一團の邑落には一筋の水の流れを必要としてゐた。何時の世にも天性の要求から、水の畔にばかり都邑をなさうとして居つたのである。その上に、別に泉といふものは神を祭るためにも、酒を釀すためにも絶對に必要であつた。かういふ山丘の重疊した國であるから、幸にして水を見出すことも困難でなかつたやうである。江戸の如きもその初期の建設者が、この場所を選定したのは勿論交通のためでもなければ、特に防禦の地形の優れて居るためでもなかつた。つまりは今日の市の中心をなしてゐる岳陵の周圍に、在來の漁民等の使用量に比して地下水の露頭が著しく豐富であつたといふ點に着眼したものに相違ない。重要ではあるが實に偶然な動機である。然るに百年の間には大小の地變があり、丘の周圍には矢鱈に掘拔井戸を掘つたために、今では山王でも神田でも元の泉の跡さへも埋もれてしまつた。即ち第一次の要件は消滅したのである。さうして水の苦勞はもうその頃から既に始つた。幸にして郊外の丘の蔭に、幾つもの所謂井の頭があつたために、僅かの水路工事をもつてこれを市中に引くことが出來たけれども、人口の増加は?その供給を追越して、やがて今日の多摩上水の大規模なる計畫が始まつたのである。それは、これまで誰人も豫期しなかつたことである。東京程水に惠まれたる都會は國の内外を通じてその例が稀である。武藏野の地層が度々の記録なき地震によつて、これ程複雜に入亂れて居なかつたならば、實は如何樣に政治上の原因が具備して居つても、これ程の大都會が起るわけはなかつた。東京灣頭の沙洲が地下水の放散を食ひ止めて、この一つの盆地に大きな隱れたる水溜を作つて置いてくれたことは、非常に幸福なる現象には相違ないが、それは云はば一個の天佑といふものであつて、偶然にこれを利用し得た市民の今日の成り行き主義を禮讃する理由にはならない。
 
(22)          一〇
 
 これは必ずしも大都會のみの問題ではないが、地方では最近に至るまで、まだ完全に鑿泉の技術が普及して居なかつた。何度かの傳染病の流行に驚いて初めて井溝を埋めてしまふまでは、各戸はめい/\の水汲場を持つて、上流で雜器を洗つた水を汲んで食事の用に使つてゐたのである。さうしてまでも、滌ぎ清めなければ氣の濟まねやうな一種の水に對する信頼をもつてゐる民族で我々はあつた。然るに彼等には何等の前觸れもなく、都市が著しい速力をもつて大河の水を濁らせたのが、とりもなほさず、近世の人口増加である。この無限に豐富なる海と川との清い水を住民から奪つた以上は、これが代償としては澤山の上水を如何程供給しても足りないわけである。然るに現在の我々の水道計畫の規模はどうであるか。明白にその計數によつて判斷すれば、市民をして在來の田舍風の生活を制限せしめない限りは、頻々たる缺乏を豫期せらるゝものであるに拘はらず、これに向つての新らしい生活訓練は未だ用意せられて居らぬらしいのである。要するに、日本の如く水を重んじ水を愛する國で、しかもその半ば以上の供給を空から降るものに依頼して居つた國で、單なる外國の計算法を踏襲することは初めから無理な仕事であつた。しかも市民は未だ必ずしもこの種の模倣の困難なるを知つて徐ろに生活方法を變更しなければならないといふ必要を意識してゐないのである。特にさういふ變更の難儀なやうな連中ばかりがいぢわるく都會には集合して來る傾きをもつてゐる。
 
          一一
 
 一個の民族のための都府、國の「みやこ」といふものを完全にしようといふ欲望は誰しももつてゐる。然し心あるものならば、如何にしてさうするかといふ問題に臨んで、必ず先づ心付くであらうことは、是非ともその都市を今日の如く大きくして行かなければならぬか、否、それよりも更に溯つて、都市が偉大だといふことは、果して人口計り(23)の無理な密集を意味するかどうかといふことである。それは何分にも自然の勢ひであつて、人力を以て左右する望みのないものだといふならば又自から別の論であるが、その場合には單に一部面の外觀を粉飾して、これを時代の文明的才能の産物であるかの如く考へる風習を中止しなければならない。少數の貴人富人が町を支配した時代には、他の反面の哀れなもの慘めなものを包み隱して置いても濟んだかも知れぬが、現代にあつてはこれが盡く暴露するのである。寧ろ稍誇張してまでも表白せられずには濟まないのである。都市がその呻吟の地であり、その哀聲を一時的に忘れるための醉歌漫舞の地である限りは、その年々の成長の如きは殘念ながら寧ろ腫物の膨れるやうなものである。
 
          一二
 
 元より一國の人口とも深い關係をもつてゐるが、若し人口を整理し勤勞を適度に配賦しようとすれば、今日の方法はまだ決して盡されては居らぬ。例へば三流四流の市街地の組織の如き、農村と工場との配合の如き、水上生活者の連絡の如き、いくら日本が行詰つたといつても、まだまだこれを寛げて多數人に處を得せしめる手段はありさうに思はれる。いやしくも都市の改革を口にする人々が、この半面の醜怪と亂雜とを放任していゝ理由はない。恐らくは國民の多數が今尚信じて居るが如く、都市なるものは美しく又氣高く華やかで且つのんびり〔四字傍点〕としたものでなければならない。それには一方の盲目的なる移住者を警戒して、豫め都市生活の用意をさせることも必要であらうが、他の一方に於ては無條件に市區の擴大することを喜ぶ氣風を改める必要がある。理想は到底理想であるから、何時になつても萬全といふことは期し難いかも知れぬが、幸に我々の都市が事實に於て國民全體の休養場であり又學習場である國柄でもあるから、向後代々の市民の心掛け次第で、必ずしも法令の強制を須ゐずして、自然に都市利用者の數と品質とを限定し、國の文化を代表すべき眞の意味の中心點を作り上げることになつて行く望はあるのかも知れない。たゞそれに向つては現在の人工は未だ必ずしも常に有效なる手段だと認めることが出來ないばかりである。別の語でいへば、(24)日本人は役人も平民も、まだ/\少しでも都市建設の技術をもつて居ると自惚れる資格をもたぬかと思ふ。
 
(25)   都市趣味の風靡
 
          ○
 
 以前、二年か三年おきにまことに小さな理由から、幾らでも年號を改めてゐた時代でも、實際はやはり年號を以て差別し得るだけの、時代の特徴といふものはあつたらしい。それがまた改元といふ制度の隱れたる目的でもあつた。
 人の心までが自然に改まらずにはゐなかつたのである。我々が親しくまた懷しい大正の大御代を囘顧して、假りに燈臺もと暗しで、百年と八十年と過ぎてから後でないと、公平な時代觀は出來まいといふことは感じてゐても、少なくとも後世人の眼には如何樣に映ずるだらうかと、想像して見たくなるのも自然である。
 
          ○
 
 明治と大正とは、今までは何の境目も無く、する/\と移り動いたものゝ如く考へてゐたけれども、これもよく見ると可なり著しい時代の差があることが分つた。國民が隅から隅まで、出來るだけ一つ型の生活を營み、共同の前面に向いて進んで出ようとする努力は、成程前も後も大きな差はなかつた。藩が垣根で、山一つ向ふのことは知らず、知つても羨むばかりで、眞似ることも出來なかつた世の中に比べると、それは御一新以後の六十年を一貫した、大きな新らしい特色であることは疑ひが無い。しかもその同じ國民的統一でも、明治と大正ではその中心または生活の標(26)準といふべきものが、異なるといふよりもむしろ右と左と反對になつてゐると思ふ。
 
          ○
 
 明治革新の主たる原動力は地方にあつた。都市はこれに對して被告でありまた弱者であつた。從つて大きな不平は抱いてゐたが、一旦は兎に角征服せられてしまひ、古い住民の子孫は半以上、何處へ往つたか分らなくなつてしまつた。京阪ばかりか二三等の町でも例外なくその通りであつた。その跡へ代つて入つたのは田舍者である。江戸期の太平時代でも、町民は始終補充されてゐたのだが、彼等は片端から町風に同化されてゐた。それが今度は大手をふつて、九州東北から地方人が群をなして入り、その連中は少しも遠慮をしなかつた。即ち田舍風が都會に浸潤したのである。足利氏が室町に屋形を建てた際、その一つ前に鎌倉の武士が六波羅に來て駐屯し始めた時などと、この點は似てゐたのである。即ち都會は外形の繁榮ばかりもとのまゝでも、生活の風習や好尚は一變して、新たに田舍者がこれを作り上げ、町人の子孫は苦笑しつゝこれに從つたのである。
 
          ○
 
 ところが、段々時が進んで、年號が大正と改まるころになると、その根こそげ變化したものがまた固定し始め、諸國持ち寄りの生活趣味の、雜然として終にやゝ調和したものが、堂々と都會風と名乘つて範を全國に示すやうになつた。都市には殊に幾つかの流行の原動力があつたのである。但しこれは必ずしも都鄙勢力の消長と、直接の關係はなかつた。明治初年の方が地方人の吸ひ寄せられる力は、今よりも更に強かつたのだが、彼等は元の生活を携へて入つて來たのみならず、少なくとも各自の故郷に居る者だけは、各自古くから持つものを放さなかつた。實際はむしろその割據が、國の統一を妨げるのを氣遣はれたために、何か特に全國的の標準が求められたのである。さうしてこれを(27)選定するとすれば、やはりやゝ不自然でも都會を押立てゝ、その氣紛れ趣味を尊重するのほかはなかつたのである。
 
          ○
 
 近ごろまでの農村黨は、人が足を都門に踏込みさへしなければ、地方の現?維持は可能なるかの如く考へて、頻りに若い男女の郷里を出て行くことを戒めた。さうまでせずとも、大都市はもう大分入りにくゝなつたのだけれどもそれは少しも町場風が村を侵略することの防ぎにはならなかつた。現在は如何なる山の谷、沖の小島にぢつとして居ても、生計の尺度は知らぬ間に中央の標準を受入れて居る。天然の生産要件は日本ほど地方的に區々なる國は無いのだが、それには頓着せずに私有財産制の許す限り、競うて都市風の消費をした。それをまた都市風に觀察して一詠一歎するところの文學が、全國を風靡してしまつたのである。
 
          ○
 
 大きな國民のもつとも複雜した利害が、かうして少しでも整理せられるなら、統一もまた結構であるが、その代りに我々は全國的の立場から、その標準となるものゝ價値を自由に辨別し得なければならぬ。ところが、大正時代の一特色としては、この批判についてもまた都人の、殊に感覺の鋭い僅な人の言説のみが、耳を傾けられたのである。自分で獨創することはなる程容易な事業でない。目に立つほかの人々のする通りにしてゐれば氣が樂だといふことが、いはゆる流行の底の心理でもあらう。しかしその結果は眞似そこなひもあると覺悟しなければならぬ。日本の隣國は不幸にして國情が大ちがひで、しかも烈しく變化し且つ動搖する趣味をもつてゐる。それをやゝ時おくれて片ツ端から採用したのが、近頃の町風であり、また田舍の生存の手綱であり鞭でもあつた。各人の獨立した立場に照し合せて、少なくとも一度は選擇し批判して見ることが、多分この次の時代のもつとも大きな仕事となるであらう。その間題を(28)後まはしにして置いて、たゞ成るべく大規模の統一の方に進んで見ようとしたのがついこのころまでの時代相であつた。改まつた方がよいのである。もちろん明るい方から考へて見ればよい結果もあつた。あのやゝ無分別な新趣味流行が走らなかつたら、今の自由な研究の廣野に出て來ることも六つかしかつたのである。
 
(29)   二階から見て居た世間
 
 あまり新しい歴史で全景を捉へることが六つかしかつたが、一九一九年は日本に取つても大きな經驗の年であつたらしい。巴里の會議が若し禅宗の道場の如きものであつたならば、我々などは先づ好い修業をして出て來た方である。何れ一度は味はふであらうと思つて居たものゝ、斯んな味だとはまさかに想像してゐなかつたものを、今度は十二分に味はつて見た。個人に在つては最早惡コの中に算へられて居る所の自惚も、國民としては隨分推奬に値するかの樣に考へて見たこともあつたが、やはり好い加減にして置くべきものであつた。さうで無いと夢の覺め際が氣持が惡い。それから又右左を顧みても、一向に利害を共通にする者の居なかつた淋しさ、我々の生活に於ては旅愁などと名づけて居る感情も經驗した。其が一轉して故舊を大切にし、且つ空々しくない友人を求める必要を解せしめるならば、永い間には決して爲にならぬ經驗では無かつたと言つてよからう。
 一方には又手前勝手を常道と心得て居た西洋の外交家たちに、無言の間に若干の約束をさせたのは、兎に角に御手柄であつた。五大國とか三大國とか云ふ話は聞きたくも無いが、何にしても我々の代表もそこに居た爲に辭令の行掛り上、國又は民族などと云ふ語に、二つ以上の意味を持たせることの出來なかつたのはよかつた。恐らくは今後記録中の言質に基いて、弱くても遠くても國は國、唇が厚いから野蠻人とは速斷すべからず、一樣に所謂或程度迄の發達をさせるやうに、有力なる後見國、自ら進んで之を力めるやうになるであらう。幸に豫測の如く時代が此方面に新たになるならば、我々は自惚では無しに、大擧參列の功績を意識することが出來る。尤も人道には國境無く、乃至は信(30)仰の相異の影響も無いことは、よほど前から耶蘇教國でも説いて居て、しかも其が僞善では無かつた。唯一つの故障は幸福と云ふ語の定義であつた。東南洋上の島々に住む土人などは、此語の必要を見ぬ程に幸福であつた爲め、不幸にして?案外なる内容を盛つた幸福を強ひられて居た。其結果として一番困るのは、自分の途を進んで大きくなる見込の絶えたことである。茲で天分の論をする人はどうしても我執である。似合はぬ食物で育てる故に、精々發達して北米のネグロ迄である。人類が地上に生じてからざつと六萬年、民族の文野の差は高々五百年か千年である。六百メートルの競爭で、十メートル位おくれたゞけだと言つた人もある。長い間に些し骨を折れば追付くだらう。と云ふ位の同情を以て引立てゝやる役は、どうも今度の寄合の空氣から推測して、去年の新兵たる日本の親切に期待せられるらしい。さうで無くても多くは古い親類である。どうか誤解せられぬやうな男らしい態度で、それ/”\我隣人たちを立派な人にしたいものだが、果して又其だけの用意が有るかどうか。斯う云ふ反省をしなければならぬ機會も亦、やはり此大正八年に現出したのである。
 處が支那に對する最近の失敗を顧みると、どうも少々心細くならざるを得ぬ。二十七八年の戰役は、日本としては誠に已むを得ざる決斷で、事を好み武を弄ぶべき情勢では無かつたのみならず、講和の後は勿論の話、其以前から出來るだけの注意を以て、彼民族を敵としたのでは無い眞意を表白した筈であるが、外交の修行は短い歳月では旨く行かぬもので、それにいつでも一本調子になる癖があつて、どうも久しい年代の傳續的關係を毀損した樣な傾があつた。無暗に責を他に嫁するのでは無いが、日本は今に明治初年の外國模倣の國是を棄てぬやうな有樣で、殊にあの頃はそんな方針が盛であつた爲に、例へば數十年前の鴉片事件や、乃至は近く起つた安南事件などの後に、英佛等の大國が執つて來た政策を、いゝ氣になつて踏襲したのが惡かつた。此等の事件の當時には、我々は隣國人と共通な感じを以て、少々は過當なる切齒扼腕もした記憶が有るのに、僅かな時代を隔てゝ、自分迄が西洋の外交家と同じ態度に變つたのは、誠に是非も無き次第であつた。尤も先方にも面白くない掛引があつた。舊式の交際振ではすまなかつたかも(31)知れず、又模倣が露骨で且つ下手であつた爲に、段々尻が結ばれぬやうになつたとすれば、其だけまだ正直な所があつたのかも知れぬが、兎に角に支那から見れば、日本迄があんな事をすると云ふ一層の惡感もあらうし、殊に最近のやうに、新しい物を産み出さうとして産の苦みをして居り、個人の家で言へば大取込の最中に、色々の問題が持込まれたのだから、氣が立つて荒くなつたのにも諒とすべき事情がある。其に付けても殘念でならぬのは、同じ東洋から轡を竝べて巴里に乘込みながら、多勢の前で喧嘩をしかけられ、是なら何度でも離間が出來ると、人の惡い者なら考へさうな實例を見せたことである。しかも極東には、二國で共同に擁護せねばならなかつた利害が、無いかと言へばどつさり有る。殊に原則の事たる所謂人種差別撤廃の如き、萬が一にも主張が通るかと思つて、支那人等の爲には一言をも費さなかつたなどは、見切の惡い話であつた。東洋の盟主などと云ふ空な語は、今や自國内でも之を快く聞く者が少い。何もそんな跡形も無いことを考へずとも、單にぢつとして見ては居られぬと云ふべき事件が、既に眼前に幾らもあるでは無いか。
 昔の流行を追ふの愚は、獨り兄貴振り外交の受賣のみでは無い。以前商人が政治を左右して居た二三の國ですら、最早きまりが惡くてこそ/\しか遣らぬ資本輸出の提灯持を、なぜ又日本では大びらに行ふのか。慾と慾との折衝ならば、兩國事業家の間に幾らでも折合點を見出し得る筈である。然るに之を世話せぬと腕の無い外交と評せられるならまだしも、丸で國威を傷けるものゝやうに言つて、痛くも痒くも無い中流迄が力癌を入れるのは、我々には合點の行かぬ行止りである。御蔭で日本は資力の比例以上にいち早く資本家國となり、商品しか知らない男がいゝ氣になつて、政治に啄を容れるやうになつた。しかも此階級を大に助けないと、どうして國が衰へることになるか、乃至は彼等の爲に困ることが、どうすれば親善の楔子になるのか、未だ曾て證明せられたことが無いやうである。幸か不幸か選擧人階級の多數には、知識も少なければ論理的良心も乏しい。何を言つても當分はさうですかと云ふ。酒ばかり呑んで居ても支那から還れば、支那通とし且つ志士とする。併しさういつ迄も煙に捲かれても居るまい。反動は通例不(32)愉快なものだが、其反動を待つやうに追々はなるかも知れぬ。況んやさう云ふ最近の流行が西洋にもあるから、模倣を繼續する時代の中でも、安心しては居られぬ筈である。今日のやうな不定な關係が、永く此儘で居ることはよもや有るまい。
 國内に於ける經驗も、樂觀すれば末の爲にはよさゝうに思ふ。非政府黨は、一から十迄惡政の結果のやうに言ふが、自分等が見ると闘ふべき者が闘ひ、負くべきものが負けて居るやうに思ふ。と言つて捨てゝ置くのは勿論不親切ではあるが、日本の中流位、是迄成行きに盲從したものは無かつた。其連中に、もう盲從してはならぬと、現實が教訓を與へて居るのである。二三年前迄は恰も形勢が逆であつて、他の一半の中流即ち農民が頗る苦しんだ。彼等は祈?又は歎願を知つて要求を解せず、風雨寒暖の不可抗力に服するやうな態度を提げて、この憲法政治の時代に入込んで來た。だから食ふに困つて居る遠縁の老人を推したり、娘に聟を見付ける迄再選してくれと云ふ候補者を議員に出し、或は金を貰ふこともある。二つの政黨が格別政綱の差も無くして、感情で二つに分れて居れば、自分も感情で一方に投票した。恥しいでは無いか。日本では、毎囘政府黨が勝つにきまつて居るのは、多分其を陛下への忠義と解する爲だらうなどと、一知半解の外人が噂をして居る。處が今度は米が高くて、一旦得た利益の味が分つたから、次に反動が來る際は農民は結合するかも知れぬ。した處が當分は至つて卑近な、穀物關税や地租輕減位の要求しか考へられぬに相異ない。現在では主として都會に住む定額收入生活の徒が難儀をして居る。彼等もやはり農村からの分家が多く、横着でも無くあきらめのよいのは美コだが、政治に冷淡なことは一層ひどい。成程日給の人のやうに徒黨をして割増も求められまいが、自分等の力の集合が政治であることを解したら、元に溯つて斯う一方ばかりの困らぬ途を求めたらよからうに、氣の利かぬ者は只蔭口に雷同し、さうで無ければすぐに落首文學にでも走つてしまふ。中橋文相は無茶な事を言はれたと云ふ評判が高い。この物價騰貴で困つて居る者は、十八萬人しか〔二字右○〕無いと言はれたと云ふ。勿論無根の流言に相異ない。あの忙しい大家が、算術をして居る暇があらうとは思はれぬ。御承知でもあらうが日本で、一(33)俵以上米を賣り得る身分の者は三百萬戸位なものだ。其中の僅々五分の一が、倉を持つて米を圍ふ力がある。米を買ふ者が、高くて困らぬ道理があらうか。勿論農家の收入増加につれて、消費者の金も多くならうが、其比例が元通りならば、農家の景氣がよい筈が無い。ぐる/\廻りである。よく地方の景氣などと云ふ漠然たる報告を耳にするが、茶屋小屋の二階の音や、汽車の客などの數で幾らの推論が出來ようか。困る者があつても家で黙つて困つて居るから、車で走る旅人の耳や目に觸れる筈が無い。
 米のやうな一般的の生産品ですらも此通り、況や十萬か十五萬の人の關係して居る衣類や雜品が、高くても障らぬ程の人の收入は自然調節をしない。門へ來てわい/\と騷げば五百人でも驚くに足り、家に居て只塞いで居ては徹底せぬのは、決して相手の感覺の鈍い故では無い。十八萬人は決してしか〔二字右○〕では無い。十八萬人が八萬人でも、是が九州の炭坑坑夫だけ、乃至は東京の印刷工だけの難儀と云ふのであつたら、棄てゝも置かず置かせもすまい。制限選擧制の庇護を受けて、多數職工等の持たぬ力を具へた連中が、上品と言へば上品だが、高を括られて居るのである。煽動するのでは決して無い。又煽動せられるやうな人々でも無いらしい。又物價問題などは今ちつと辛抱すれば、雨が降つて水論の止むやうなものであらうが、斯んな事ぢやもつと根本的の問題、即ち國なり社會なりがどの方向へ進むのが、最も安全であり又正當であるのかは、一體誰が決定することになるのであるか、其を考へてくれぬのが遺憾である。今度は我邦一流の政治家たちが、眼に見えたら身が隱れる程の大荷物を背負つて、巴里から戻られた。之を處理するのも他人では無い。支那との關係などは苦笑も出來ぬ程に行詰まつて居る。此も眞の國民外交で途を開けねばならぬ。後日になつて徒らに大臣の賢愚を批評しても役に立たぬことを、次の選擧迄に急に覺つてもらはねばならぬ。政府の力とても所謂神ならぬ身の少數合議だ。難問題が難問題として永く殘るのも是非ない事である。但し出來ぬなら出來ぬもよいとして、たつた十八萬人以上の政治に没交渉なる者は、顧みて之を導いてもらひたい。又改造同盟の新人諸君にも寄語するが、諸君は既に自身は改造してござる。未だ改造せられざる同胞の爲には、もつと何か緊切な(34)る手段を以て、問題の他人の事で無いことを弘く示してもらひたい。而うしてあまり哲學的ならざることを望む。彼等は現實の繩で縛せられて居るのであるから。
 
(35)   古臭い未來
 
          一
 
 今度の總選學にも、我々は依然として何等の新味をも期待しなかつたが、誠に果せる哉であつた。老人には御一新とか國會開設とか、折々は新鮮なる心の食物を給與したこともある日本が、倅たちには粥や梅干見たやうな物ばかり食はせて置いて、是が衛生とは少しひどいやうである。秦の徐福が六百人の童男童女を引具して、遙々と蓬莱の島に向つて求めに往つた品物は、不死の藥と、今一つは何でありましたか。老いて尚ほ壯者を凌ぐの概ある先輩諸公に御尋ね申したいものである。
 たしか衆議院には、そんな統計表が出來て居たかと思ふ。初期の國會には福島の安倍井さん、伊豫の鈴木氏、其他にも翁と呼ぶべき人が若干あり、江戸の芳野先生などはちよん髷であつたが、それでも全體が若いから、代議士の平均年齡が三十五六歳であつた。處が近年はどうか。福岡から出た中野と云ふ人などは幾つか知らぬが、よもや義經より三つ四つも下と云ふことは無からう。正成や義貞ならば、既に忠節を完うした頃から出て來る者を、悦ぶかと思つて新進人物などと呼んで居る。樞密院の方はまああんな處だから宜しいが、衆議院の圓熟本位、白髪と禿とを暗黙裡の被選資格として居ることは、どう見てもよく無い流行だと思ふ。今囘も何れ平均年齡は五十歳以上であらう。其と謂ふのが先輩には廢業と云ふ慣例が無い爲で、而して又三百六十五囘寢ると、年が一つづつ増加して行く結果である。(36)平均年齡若し心有らば、或は御蔭で發達して行くことを感謝して居るかも知らぬが、他の一方には此節の所謂階級打破論者などは、定めて蔭で沸かし甲斐も無い業を沸かし、彼等政界の萬年新進たちが、責めては盛に變節改論をすること、恰も其口髭の色彩の如くならんことを、望んで居るだらうと思ふと氣の毒である。
 併し年ばかりでは言はれない、と尤もらしい反駁が起るであらう。成程其通りで、而も證據が有る。多勢の年寄の中に交ると、若くても中々老成した考を持つ者が出來る。其が信用と賛成との平坦な通路だからである。昔の田舍でも、十八で家を相續した男などは、嫁を貰つて腰に煙草入れなどを挿して居た。人は早晩老いる者であれば、此は寧ろ作り易い傾向であらう。之と反對の場合、即ち少壯の仲間へいゝ年をした人を引張り込み、どうしても若からざるを得ざらしめる社會心理は、近頃では一寸之を實驗することが六つかしいが、やはり隱れて存在するものと認めてよからう。だから自分等は右の如く、大に新議員の平均年齡を氣にするのである。世を擧つて眼鏡襟卷頭巾杖の有樣では、三人や五人の所謂新進は、燒石に水となるから歎くのである。人心を新にする策としては此次の新選擧法に、五歳が不可能ならば二つでも一つでも、議員の年を若くして見るのも好刺戟かと思つて居る。
 政治は現實である、即ち實力の問題である。斯う云ふ分つたやうな分らぬやうな御説も、亦我々は度々承つて居る。是は多分空論をしてもだめだと云ふ意味かと思ふ。併しさうは容易に推論しにくからう。政治が現實であつて、同時に空論であつたらどうする。實際の政治を動かし得る力が、金でも養ひ得れば門地でも養ひ得ると同時に、浪のうね/\何處にも根の無い人氣などと謂ふものから、支へられて居るのであつたらどうするか。而して其が又近世何十年間の、此國の史實であつたでは無いか。如何に口の達者な人、床屋湯屋見たやうな處に矢鱈に出入する人でも、自分で獨立して物を考へ得ないとすれば、其空論は作ることが出來ぬ。精々は上手な受賣をして出處を匿す位なものである。老人連の多數は氣の毒ながら此組で、何の某の高名とは成らぬ迄も、空論の大きな製造元は、どうしても議員以前の諸秀才であつたらしく見える。
(37) そんなら我慢してもよからう。諸子は既に間接に其志を行つて居るのだからと、或は巧妙なる辯を弄する人があるかも知らぬが、此點は我々、最も力を盡して爭はねばならぬ。餘計な御取次を頼むには及ばぬと云ふ論、縁の下の舞は卓見妙策を誘ふ所以で無いと云ふ論、乃至は諸説競ひ進む場合に、?平凡なる多數説に傾くだらうと云ふ懸念なども有らうが、此等は比較的に小さな理由である。其よりも大切なことは、受賣人が必ず發案者の持つやうな熱と自信とを具へ得ぬ點である。氣根が弱くて根から物もよく考へられず、又一向に本も新聞も讀まず、ひたすらに社交術と柔軟と老猾とを以て武器とする人士に、今日のやうな時代の政治が任されぬ理由は、主として爰に存するのである。壯年でも頓間や偏狹なら何も成らぬなどと謂つて、政客の新陳代謝をさ程重く見ないやうな惡癖を、皆で矯正して貰ひたい理由も全く是である。稍老いんとして居る自分等階級の利害は抛棄して、出來るなら嫡孫承祖の相續をさせたいと思ふのも此爲である。さうせぬと國が亡ぶからである。
 
          二
 
 併し斯んなことを言ふだけなら、言何ぞ容易なるである。つまりは大學の新民の章を敷衍したに過ぎぬと、笑はれるにきまつて居る。處が幸にして不十分ながら我々には、机上に呈出すべき意見がある。絶選擧や解散後の議會と云ふ、幾分人心の動いて居る機會に、其一端を述べて置きたいと思ふ。選擧に際して殊に深く我々の感ずるのは、總國民の利他心の熟睡して居ることである。國家の爲などと言へは漠然に失するかも知らぬが、少なくとも物を知らぬ田舍の人たちが、無意味に其大事な權利を浪費しようとする?態を、我が爲に利用しようとする人は澤山有つても、彼等の爲に警醒するだけの努力をした者が、公私新聞を通じて殆と無かつた。利益で投票を誘ふ者は法の罪人とあるが、利益で誘ふ樣な奴は大ていは外に根據の無い者だと云ふ注意、又は選拳の際にした約束などは、履行されたためしがないから無用だと云ふ注意の如きは、私心なき人が簡單に説明して遣つたなら、隨分有效であつたらうが其面倒を見(38)た者は無い。何を言ふかよく聞いて見よ。若い方の候補者が大抵は道理に親切だと云ふ注意なども、只の一言で戸別訪問を零にするだけの力があつたらうに、其も彼等選擧人の爲に、謀つて忠なる人が無かつた。若干惡癖の夙に生じて居る國としては、此の如き心有る人々の棄權思想ほど、危險なる?勢は先づ無いのである。此次は早くから斯んな用意を民間でしたいものである。
 第二に氣になつてたまらぬのは、青年壯年の間に政治に興味を有つ者の數が、依然として甚しく少ないことである。此は一口に言つてしまへば張合ひが無いからと言へる。老政治家の經驗では、明治十年から二十年の鼓舞激勵は、少々藥が利き過ぎて收拾に大骨折をした。無爲にして化して多數政治の名だけ與へてくれるなら、其方が旨いと或は案じて居るのかも知れぬ。生甲斐の乏しかつた二千年間の平民生活が、折角花咲く春を迎へたのに、騷ぐのは戰爭の時だけで宜しいと云ふやうな態度は、實際老人でゝも無ければ出來ない藝である。
 我々位の年になると、何れかと言へば暗い方面ばかりが見えるものである。淺くて滑り易くて、苦勞が多くて快活で無い。政治は丸で溪川でも渡るやうなものだ。行掛りでも無ければ見物して批評する方がいゝ位に考へたがるものである。獨り歴史の本に讀み耽り、乃至はまだ之をよく覺えて居る程の年齡の人が、一本調子で命を賭けても政治に働きたがる。語を換へて申せば、政治は何れの世になつても、一味のローマンチックを具備して居るので榮えるのである。功名心などと云ふのは適當な國語が無かつた時代に、一端を捉へて形容した粗造の用語である。生活が緊迫して目前に妻子卷屬が愛をねだつて居る境遇で、猶一身を挺して王事に盡さうと云ふ志願兵を採るのには、全體人に書かせた卷紙の原稿を、小さな聲で朗讀するやうな施政方針では、てんからだめであつたのである。勿論空調子が全部であつてはならぬ。政黨は政黨らしく、ちやんと敵黨と判別せしむるだけの具體的政綱を列ねて、公衆の智能に訴へる方法も棄てゝはならぬが、少くとも其御馳走を盛る重箱は、蒔繪のを用ゐて貰ひたかつた。それに近年はどうであるか。よほど打合せをして置かぬと、與黨すらも拍手すべき句切りを見出し得ぬやうな演説ばかりだ。是では結局何(39)何さんならと云ふ類の人的政治になり、永く老人の老いたる不朽を擁護する結果を見ないでは居られまい。要するに第二の策は演説の稽古とでも言ふか。今少し花やかな政治をして、所謂ぢつとして居られぬ人を作るに力めねばならぬ。
 外國を羨むのも感心せぬが、ロイド・ジョオジなどは大デマゴグだけに、いつでも考へてうまい事を言ふやうである。個人としても一分の立たぬやうな惡口を受けながら、第三者に手を廻して打消して貰ふやうな、生温い應酬はしなかつたやうである。どうか日本でも何某氏談で無く、何の某と自署した文章で、而もけなげな事を言つて貰ひたいと思ふが、獨り大人物のみでは無く、若手の實際筆を執つたと思ふ論文でも、いや長いことくどいこと。全體誰が讀んだら本望であるのか。國を濟ふ志のある人ならば、相手の能力も考へてくれねばならぬ。近頃は能力のある程の人は勿論、乏しい人迄が中々忙しい。又は大に疲れて居る。此人々に必要な刺戟だと云ふことを考へたら、若い學者たちも半分は信任?の寫し見たやうな、恐ろしい政治論はもう書かぬだらう。紅葉山人が文章報國の印は、昔は我々には少し古風に感じられたが、今となつては立戻つて又眞實で、國の改造の準備には、文章道の改造が必要になつて來た。小さな形式論のやうだが機運を催す爲には、我々はやはり手の屆く所から始めねばならぬ。
 言論壓迫もなるほど惡いであらう。出版物の背後に算盤が立て掛けてある限りは、抽象的の名論卓説か、又は廻りくどい説明で無ければ書けぬかも知れぬ。論じたくても數十件の所謂禁止事項があつて、單に某重大事件の失態などと謂つて居ては、面白い議論、人を感奮せしめるだけの高い調子は、出し得ないのも尤もなやうである。併し此束縛で主として困るのは攻撃業者だけである。何でもかでも鴉が權兵衛に追隨する如く、後から後から惡く言ふだけを、政論の全部と心得るかの如き人々で無ければ、まだ斯邦の爲に説くべき多くの題目を抱へ得る筈である。殊には朝にも野にも改めて貰ひたい惡い癖の多い時代、全體の傾向の成るたけ夙くから豫防せねばならぬものが幾らも有る時代に、公平にしてしかも無智なる憂國者の希望に應じて、此頃のやうでは末が案じられるとか、又は略安心だとか云(40)ふ風な意見に、證據を擧げるだけならば、大してかの制限が邪魔にはならぬ筈である。そんな事を言つてやはり短慮に走り、親切の説明よりも、皮肉で小股すくひをしようの陰謀を思ひ切らぬ爲に、一層所謂言論の壓迫に腹が立つのでは無いか。是も亦反省をして見ねばならぬ。
 
          三
 
 代議制の眞の效果を收めるのは教育だと言ふこと、この平凡な議論は約四十年の間繰返された。さうして少しく過度に學校の事業を見るやうになつた。其爲に却つて早く實行せられ得たもの迄おくれたのは笑止だが、假に御蔭で至極有效なる國民教育の組織が立つたとしても、自分はやはり當節の難局には十分で無かつたらうと思ふ。何となれば公民たるの心得だけはよく分つても、千九百二十年の公民たる資格には滿たなかつたからである。人もよく知るやうに、日本人は必しも形式的には無學で無かつた。國の實情世界の變化に至つては其上に別に感得すべきものであつて、各自の身の慾に捉はれぬ先輩の、彼等が爲に眼鏡受話器の役をしてくれる人が、今迄は餘りに乏しかつたのである。一軒の家で玄關だけで乘客に接し、あとは家族が只がや/\として居ては、世間は何を求め何を嘲けるかを知り得る方法も無く、結局妙な家風になつてしまふが、國でも話は同じである。全體に國際の道コは個人のそれに比べて、一段と野蠻に且つ一段と輕薄なものであるが、日本のやうな夜郎自大も、一寸近世史上では珍しい。其と言ふのが土佐の闘犬や日向の細島の猪犬と同じく、此迄?む稽古にばかり多く仕込んだので、一時民心の萎縮を慮つた時代の適藥、即ち一本調子の國光宣耀論が、今や稍其弊を見るに至つたのである。一の外國が中流に慾深多く、時としては利の爲に國を忘れたやうな人も有るからと輕蔑して居ると、時には手前の方に其よりもどうやら甚しい先生が現はれて居る。外に出品の適當なものも無い爲に、中世の棚から武士道などを取卸し、妙な繼ぎはぎをして着せて出すと、割に正直な子供たちは恥かしさうに還つて來る。一國内にも矛盾があり、説が分れ感情が區々になるのが、言はゞ新しい(41)國家の常の樣である。それをあわてゝ整頓しようとする無用の杞憂家ばかり多くて、外から見た日本、鏡で寫す日本を、匿すか又は忘れさせようとするのはひどい話だ。全體に國の眞の位地を説かうとする親切な人が少ないのは、恐くは我々の中の最大弱點であらうと思ふ。どうか將來は此の如き同胞に對する消極的のプロパガンダを止め、ちとは氣の毒でも眞の心配をさせ、此ではいゝ加減にしては置かれぬと云ふ感じを、田舍の青年に迄も抱かせたいものである。さうして危い綱渡りをして居る舊人物には、此がとても望まれぬと分つたら、此雜誌にでも物を書かうとする諸君が率先して、其根本的愛國事業に着手して貰ひたいものである。
 二ヶ月程前の或雜誌に、百年後の日本はどうなると云ふ題を出して、大に世の名士を手古摺らせた企てがあつた。多數の答はそんな事がわかるものかと云ふに一致し、僅かに確信ある豫言を爲し得たのは、淺草の鰻屋一人であつたのは滑稽であつた。尤も中にはあまり光彩陸離の前途でも無いと感じて、いやがつて避けた者もあるか知らぬが、多數に對しては殘酷な質問であつた。それが答へられる位ならである。どうか未來を談ずる能力のある人々に、現在に於ても働いて貰ひたいものである。まあ仕方が無いから此次の選擧を待つて見ることにしよう。
 
(42)   特權階級の名
 
          一
 
 故原首相は、確に賢明なる政治家ではありましたが、若し後世歴史家の評論に上るとすれば、恐くは未來を洞察するの力に乏しかつた人と、評せられねばならぬでせう。前年憲政會がたうとう時代の力に動かされ、選擧法の第二の改正案を作り上げ、所謂納税資格の撤廃を主張しまするや、恰も山崎合戰に天王山を占領せられたと同じく、政友會としては最早此に附隨することも出來ず、さりとて正面から其可否を討議することも不利益な爲に、何でもかでも解散と腹をきめて、さて其辭柄としては、ちよつと人の意表に出る語を擇びました。
 彼は曰く、此節の反對黨は、あまりに極端な議論をする。丸で階級の打破を主張するやうに見える。是は國の秩序に有害で、恐くは多數民衆の期望と合せぬだらうと思ふ。依つて議會を解散して改めて民意を問うて見るのだと申しました。
 此は世に所謂一石二鳥の辯でありました。一方には在來の選擧有權者が、之に由つて壓迫の不安を感じ、少しく憲政會がいやになるであらう。第二には、元來普選を欲せざる貴族院の殊に有爵議員たちが、厄介がつて居る論客を玄關から追返して貰つたやうに思つて好意を感謝するであらう。先づかういふ注文であつたやうです。
 處がこの第一の方の鳥は、思ひの外氣樂な鳥であつて、普通選擧の必要も大に感じては居らぬと共に、それが實行(43)せられたにしても、如何に自分たちの上に惡影響を生ずべきか一寸心あたりも無く、同時に自分たち選擧有權者が、原さんの所謂打破せられんとする階級であるとも思はず、從つて何の脅威をも感じては居ませんでした。解散後の總選擧は、相變らず費用や利權の押問答に多忙であつて、其結果は依然として「不自然なる多數黨」といふ惡口を「聞捨てにならぬ」ほどの舊式選擧でありました。
 之に反して上院では、研究會の人々などは大分に原氏をコとした形であつて、右の策略の成功と見えるのは、其後政研二會の提携が、可なり歩を進めたことであります。而も其當時我々少數の者の間には、是は誠に考の足りない解散理由では無いかと、評する者が隨分有つたのであります。
 是は必ずしも大正十三年の今日、この階級打破の起るべきを、豫想した爲でも無かつたのですが、あの頃の社會には、漸くの事で上と下との階級などゝいふ觀念が無くなりかけて、階級といへば經濟上の利害を異にする團體、例へば製造者と消費者、地主と小作人、日給勞働者と資本主と云ふ類の差別だけを意味する傾きを生じて居たのに、今更こんな語を持出して使ふのは、ちやうど大正の世中に、滅びかゝつて居る藩閥と云ふものを、後生大事に保存して置くべく、舊い言葉を棄てゝしまはないのと同一轍で、政黨間の爭ひをいつ迄も感情的のものにして置く弊が有ると考へたからであります。
 處がをかしい事には、當の相手の憲政會では、此攻撃によほど迷惑し、解散を食つた口惜しさ以外に、我黨を貴族者流の眼に惡徒の如く映ぜしめたのは、讒誣中傷であると言つて騷ぎました。而して嘗て一人として、階級打破すべしと論じたがどうした、何が惡いかと大言した者は、無かつたやうに記憶して居ります。
 無暗に故人を引合ひに出しては相濟まぬが、故島田三郎氏などは横濱邊で、大分しやべり過ぎたやうに傳へられ、後に同氏はそんな事は言つた覺えが無いと云ふ、釋明書を公表しました。其辯明を是認する者もあれば、認めない者もありまして、いやはや今日から僅か四年しか懸隔てゝ居らぬ昔ですが、頗る今昔の感を催すべき歴史的の光景であ(44)りました。
 其時分、私は或る相應に新しい一伯爵と逢ひまして、此間題を談じた時に斯んなやうに申しました。全體階級の打破が惡いの良いのと謂ふが、我日本に果して打破の目的物たる階級其物が有るかどうか、私は之を疑ふと申しました。處が其人は容を改めて、然らば君は華族を一の階級に非ずやと言はれるのかと、若し「えゝさうです」とでも答へたら、大議論をしようとする見幕を示しました。私は其頃は役人でも無く、氣兼苦勞の無い人間でしたが、此程度に迄信じ切つて居る華族を、我説に賛成させるのは面倒くさいと考へて、別の話に轉じてしまつたのであります。
 此の如き四年前の形勢が終に今日となつて、特權階級と言はれると華族も自分の事だと思ひ、それを又よい事にして、人をいやがらせるのを職業にして居る人々が、所謂政治改革の運動に早分りする合ひ言葉を發明し、以前原敬氏の些しも豫想しなかつた、現今の新局面を作り上げたのであります。
 
          二
 
 併し實を申せば、上院の組織を改革するのは必要であらうが、此は單に若干の華族を攻めて困らせて見た處で、實現の出來るものでは無い。第一既に近年の政變でも經驗した如く、政治家の中には自分々々の都合上、今のやうな貴族院をそつと其儘にして置き、牽いたり押したり少し働かせて見たり、所謂之を利用するのを名策と考へる人が、院内にも院外にも隨分居る以上は、或は却つて彼等から、どう改良するのか言つて呉れと出た時に、まあさうして居て貰はうと答へねばならぬ連中が多いかも知れぬ。
 元老制度のやうなをかしな舊慣でも、政黨者流までが之を動かすべからざる事實として尊重するやうな世中だから、まだ我々は安心して、今前列に居る政治家に其改革を一任することは出來ぬ。結局は最も自由なる正論を爲し得る選擧人たちが、惰性の惡風習から覺め來つて、正論をしてくれる日を待つの他は無いかも知れませぬ。
(45) 現?を以て言ふならば、日本の上院は非常に消極的の機關である。新しい提案を障碍する力ばかり強く、自ら進んで仕事をする機能は甚だ弱い。此頃二三度の内閣のやうに、上院議員の中から大臣を出すことは本來六つかしく、出ても永く續いては働かれない筈のものです。我々にはもう餘程よく分つたが、今に大臣に爲つた本人も之を實驗し、恐くは智慮の足らぬ虚榮家を除く外、なるたけ出て來ぬやうに爲らうと思ふ。
 さうすると下院に於ける少數黨が、少數黨のまゝで多數黨の内閣にぶつゝかる時も、今のやうな上院が在つて之を利用し得ることを便と考へる場合が有るかも知れぬ。所謂二院縱斷、即ち上院も政黨に由つて分れることを、面白くないと見て居る議論の動機にも、或は右申す如き都合主義が匿れて居るかも知れませぬ。況や下院の多數黨で支へた内閣が、甘く上院を操縱することは、近く原さんが既に十分の實例を示して居る。言はゞ舊式の陰險な政治家に取つては、いつも上院は便利な機關であつてほしいのだから、何とか言ひつつもまだ心から改革論には賛成しない人が、隱れて少しは有るかも知れぬと思ひます。
 然るにも拘らず、我々は代議政治の機能を完全にする爲、流行の語を用ゐれば憲政有終の美を濟す爲に、何とか其方法を講究して、多數民衆の正しき判斷に從ひ、やゝ永續性を具へた、根本の國策を實行するに適した良内閣に、今一般の安定を與へたいと考へて居る。それには何にでも反對し得る上院、何をでも邪魔し得る上院の現在の組織は、不便であると考へて居ります。些々たる一時的の反感などに刺戟される迄も無く、此改革は國を思ふ一般國民の、等しく希望せねばならぬ所であります。
 
          三
 
 實際問題としましては、最初に我々がじつくりと考へて見ねばならぬ一二の要點があります。その一つは貴族院令が憲法に依つて、貴族院一院だけの協賛を以て之を改正することが出來、下院が之に口を挿む餘地が無いと言ふ迄で(46)あります。元來上院には質問攻めとか握り潰しとか云ふ皮肉な障碍方法がよく具はつて居る故、今茲に諸君等上院議員の政治上の權力を殺ぐべき改正案を出すから、賛成をして貰ひたいと言つて提案をしても、素直によからうと賛成をする筈は無く、必ず何とか彼とか邪魔をするだらうといふ懸念。之を飛んだ六つかしい事に考へた末が、一種の憎しみと迄に變形して、今や口八釜しく叩け/\と怒罵して居るのですが、之とても政府に在る者の腹次第で、さ程強力なる反抗を見るとも限らぬやうに思ふ。
 のみならず、若し貴族院令は貴族院のみで決定すると云ふ憲法の規程が妨を爲すとならば、遡つて其根本の改正から議して宜しいのであります。憲法の改正は無論非常に手重にはしてあるが、而も制定の當初より此が改正の必要な時節の來ることを豫想して居ります。我國體は今更之を説く迄も無く、憲法に依つて設定せられたものでも無く、確認せられたのでも無い。其以前からきまつて居るのです。從つて憲法が時運と適應すべく進化することは、國體の基礎とは何の交渉も無いのです。然るにいつの世にか、憲法改正を望むは丸で叛逆ででもあるかの如く考へ始め、之を重要視すると言ふよりも、寧ろ危險視する有樣であるから、却つて政治の事態が一層早く行き詰つてしまふのです。
 そこで我々は、貴族院改造の急が迫つて居るか居らぬかを論ずる前にも、先づ其必要なる改正が、多くの下院政治家の希望の如く、又他の憲法附屬の法律と一樣に、等しく二院の發議、二院の協賛を以て改訂を爲し得るやうに、先づ憲法を改正して置くがよいと思ひます。さうすれば今日の如く、さして陰險な惡黨でも無く、又怖しい程に有害でも無い日本の華族を、國民の公敵の如く言ひ觸らし、一致を不可能にする必要が、先づ無くなるであらうと思ひます。
 
          四
 
 次に私の兼て考へて居ることは、華族とか貴族とかの名稱には、誤解を起し易い響が有るか知らぬが、彼等のみが所謂特權階級であるかの如く信ずるのは明白に誤であります。特殊の階級の存在が、國の幸福で無いと論じたい人は、(47)同時に又此以外にも、よく似た弊害、よく似た濫用の起り得る原因が無いかと、そこらを見渡して見る義務があります。
 貴族の特殊階級なることは、彼等自らも之を信じて居ますが、私の觀る所では、至つて輕微微弱なる特殊性であります。階級と謂ふからは其以外のものとの間に、明瞭なる堺の線が有る筈だのに、此が今日の資本家と勞働者などの間にあるやうな、跨げにくい溝渠を存して居るのでは無いのです。法制を以て附與せられた特權は、少數の中から澤山の議員を選擧する權利、是が最も著しく我々の眼に映じますが、元の市町村會の一級選擧人、或は各府縣の所謂多額納税者などの、似た例が他にもあり、其他の選擧階級と比べても程度の差であつて、今の日本國民の九割五六分を占むる選擧無權者と、三百萬餘の選擧有權者との如き、種類の差では無いのです。
 又假に議員が自分を選擧した選擧人に拘束せられ、彼等ばかりの利害を擁護するの弊がありとしますれば、其弊は恐くは一の狹い地方、又は限られたる階級の如く、經濟?況の特殊である場合ほど、大きい道理でありますが、貴族等には幸にして、特に他の國民と共通で無いやうな、別の利害と云ふものが少ない。從つて手前勝手な主張をしたくも、是ぞといふ種も無いのです。此點から言ふと海運業者とか製絲家とか、一派の職業から出した人に比べて、ずつと態度が自由な筈です。もし困るとすればやはり上下兩院に共通の、弘く國を思ふ良き議員が少なく、狹く私の都合を考へる惡い議員の多いと云ふことであらうと思ひます。
 實際又世間の者が特典として認めるのも、選擧人としての利益では無く、被選擧者としての華族の利益であるやうです。露骨な語で言へば名譽なり歳費なり、彼等の中にのみうまいことをする者が多いと云ふ點が、きつく平民の我々に感ぜられるのです。此とても勿論尋常一樣の羨望とか嫉妬とかいふ私情とは同じからず、殊に斯うして割合多く議員を出せば、勢ひ人物の標準が低くなり、眞裸で比較したら、即ち總選擧で公平な競爭をしたら到底議員にしてくれぬ程の人でも、華族なるが爲に出るかも知れぬと云ふことは、國の立場から見て決して輕々に看過することの出來(48)ぬ點です。勿論制度として何とか改めねばならぬことですが併し庸劣不調法にして誤つて重職に就くといふことが、果して本人の爲に特權であるか否かは大なる疑問です。其爲に苦しい且つまづいことはあつても、此から利益を受けるとは言はれぬからです。
 全體此の如き制度の缺點を、政治の力を以て改めようとする意氣込を持つ人々の口から尚階級とか打破とか騷ぐのは、自家撞看で無い迄も、少なくも誇張である。力瘤を入れて打破などと云ふ目的物が、既にえらく柔かく且つ形の保ちにくい、そつとして置いても端の方から解けて行きさうな、頗る形體の不精確なものなるが故に、何と無く大袈裟なやうに感じられます。
 例へば華族の社會上の地位の如きは、既に國民の態度で上下することが明白になりました。法令を以て保障せられた優遇の如きは、役人其他と差別も無く、之を世襲し得ることは勿論一の特權ですが、其禮遇とてもさう理想的で無いらしく、何かの儀式の際にはいつも華族の不滿足の聲が聞えます。又經濟上の優遇としましては、世襲財産の制度が此人々のみに適用されます。處が此がひどく有難く無いので、東京などではよく此規定をくぐつて、不動産株券を拔出し、融通の用に供したといふ話もあり、何かと言ふと廢止して貰ひたいと云ふ希望が、華族の中から出る位で、誰も之を羨んではをりません。
 之を要するに此人たちも、所謂よい衆、即ち廣い意味の資本家の中に算すべきもので、經濟上に於て自由もあれば之に伴ふ束縛もあること、他の金持等と擇ぶ所は無いのです、つまりは公法上、多額納税者や元の一級選擧人の參政權との差と同じく、程度の差であつて範疇の差ではありません。之を階級といふことはよほど六つかしい。もし此をさう呼ぶならば日本などは眞に階級だらけであります。
 
(49)          五
 
 私の知つて居る限に於ても、外國で貴族と云ふのは、日本のとは概念が少しちがつて居る。佛蘭西は共和國である癖に、今でもまだ若干の何爵閣下があります。勿論國法上の地位は一介の貧民と全然同じで、特權とては少しも無いが、而も彼等の多くは一流の資本家よりもより安全なる財産を有する上に、表面は所謂平民的でありながら、内心はひどく高く止まつて居ます。第一には婚姻縁組に付き、昔からの制限を守つて居り、從つて交際の範圍に於て、水平社の諸君が絶叫するやうな、甚だしい差別心がある。之に反して日本はどうか。何れの華族でも、恐くは父母雙方の血で勘定して、四分の三以上百姓の血を交へて居る。三百年前の華族の血は、只一小部分流れてゐるのみだ。而も三百年前には彼等の大半は何でも無かつた。京都出身の華族でも、古いのは家の名だけで、人の血は代々外部から新しくして貰つて居る。其爲に幸にして、今でも彼等の心持感情は我々と共通で、命も惜く金もすきだ。何が別團體にして置くべき理由か、今では少しも分らない。明治よりも更に以前から、日本では富に於て彼等を凌ぐ者が、町にも村にも澤山に出來て居りました、彼等富豪は外貌の恭謙なこと、恰も佛蘭西共和國の貴族と同じくして、而も財力から養はれた大なる自得と慢心は中々盛であつた。實はどちらが貴族臭かつたか、容易に決しにくい位であります。從つて今日社會に及す害がもしあるならば、多くは二者連帶のものでありませう。
 英國の貴族なども、以前は正しく特權階級でありました。處が近世面白い方法を以て、除々に其所謂打破をなし遂げんとして居ます。即ち二百年以來の政府は、機會さへ有ればどし/\と、日本などよりもつと弘く爵を人に遣りまして、而もあの國には養子や庶子が相續せぬ爲、存外早く舊い家が絶えて、今ではヴヰクトリヤ女王朝以來の貴族は全體の一割にも足らず、其他は皆後に取立てられたものばかり、此頃はもう猶太人の華族さへ有ります。而も彼等は、敍爵と同時に所謂名字の土地を所有せねばならぬ上に、他にも色々の守らねばならぬ社會的の約束がある。戰爭が起(50)れば眞先に志願兵に出て、どし/\と討死をしたのも彼等の子弟なれば、何か必ず家の名聲を揚げるやうな、公共事業に深入りして多分の財と時とを之に捧げたものも彼等です。世間から立てられ羨まれる代りには、其體面上慾を乾くやうな事は出來ず、寄附などはいつも大變にさせられる。故に金持とは言ひ條、あの國では、先づ無害有用の階級と爲つて居ます。それに此仲間には學問をする人の多いのも日本などと違つて居ます。政治家としても遣り手が多いやうである。自由業の中にも若干の貴族が居るが、此前の保守黨内閣などは、殆と貴族ばかりで兎に角に遣つてのけたのであります。
 
          六
 
 此等の點を考へて見ると、特權階級が制度として不條理だと云ふ論と、現今上院の政治家たちに對する批難とは、本來二筋の別な物であります。必ずしも人が階級と看做して居らぬ我々の中にでも、國の爲に役立つことを標準とせずに政治に口を出し、私の感情に基いて賛成反對をするのを當然のやうに考へ、或は又多數國民の好まぬ事でも、出來るものなら遣り遂げようとする者が若し有るならば必ず常に不人望は免れぬでありませう。代議士が斯な事をすれば次の選拳には出られぬ筈であります。そんな代議士を集めた政黨ならば、早晩衰微すべき筈であります。代議士よりも任期が永く又は終身在職し、其選定に付て民衆の批判の加はりにくい上院の議員などに對し、世上の監視が特に嚴格になるのは當然の事であります。幸にして誤解も無く偏頗も無く、又附和雷同も無しに其監視が行はるゝならば、是は明白に政治の進歩であります。
 只この監視者の地位に在る者の、是非とも考へねばならぬことは、政治上他の人々と比較して一段と有利な境遇に居り、而も其境遇をやゝもすれば惡用しさうな者が、貴族以外にもうんと有ることであります。國民多數の希望を代表すなどゝ高言する政黨が、聞いて見れば三百萬ばかりの投票の、其又半分だけを寄せ集めたものである。而も我々(51)の人口は舊日本だけで既に七千萬、此以外に時々忘れられ輕ぜられる異民族が居ります。若しこの代議士等が自分の選擧人ばかり、乃至は地方の有權者のその言ふ所に追從して、他を顧みない癖が有つたとしたら如何であらう。慄然として肌に粟を生ぜざるを得ぬでは有りませんか。
 普通選擧とても或程度までの擴張に過ぎませぬ。只一小部分の不安を寛にするに止まります。私の行つて居た瑞西などは、勿論普選の國でありますが、婦人參政の國ではありませぬ。ジュネブ大學の教授で政治上の大望が有るなどと言はるゝ某と話をした時に、私は斯う申しました。日本には國のデモクラシイは説く者があるが、家のデモクラシイは絶對に認められぬ。處が瑞西でも其通りだ、我々の家庭に於ても、何れ女王の專制政治に惱んで居ると謂つて、傍に居た細君の機嫌を損じてしまつたのは大笑ひでありました。日本の方では之と反對に、男の專制横暴だから不平の聲が小さい。四十年前に國會開設を叫んだ自由黨の志士は、今日尚若干が生き殘つて居る。彼等が主張の根柢は、人類の平等であつたと記憶します。而も自分等の若干が參政權を得てしまへば、忽ち之を以て目的の到達の如く考へて安心し、或は普通選擧には反對し、家に還つては暴君と變じ、日本は國柄がちがふとか、男女各職分があるなどと言つて、感心せぬ用だけを女にさせ、少し新しい女でも見ると、すぐに天下の亂兆のやうに言つて心配する。論理は一貫して居らぬやうであります。
 世の中が如何に進んでも、選擧權は赤ん坊に及ぶわけに行かぬ。婦人や殖民地の住民に迄及ぶのも、事實に於て近い内とは豫想しにくい。我々が別人の爲にも幸福安寧を圖らねばならぬと云ふ大業務を忘れ、選擧人が自分たちの仲間の利害のみを標準として、代議士の甲乙を決するに止まるならば、程度の差こそあれ、我等も亦一の特權階級でありまして、いつかは外からやつつけられる時ありと覺悟をせねばならず、それが怖しくて而も改めることを知らず、只防衛に汲々として日を送るやうであるならば、假令普選で一千萬人に増加しても、尚且つ一千萬人の寡頭政治であります。
 
(52)   政治生活更新の期
 
          一
 
 總選擧の期も今や目前に迫り、世間何と無く騷々しく、我敬愛する市民諸君も、亦實際政戰の渦卷の中に、最も多忙なる數週間を送らるゝことゝなり、とても時局の批判討究の爲に、落付いたる一夕を過すことは六つかしからうと考へて居ました處、今晩は誠に幸なる機會でありまして、此通りの御多數の前で、我々の自由且つ無邪氣なる意見を、陳述することを得ましたのは、感謝の至であります。
 我々は久しい間、よく「國家多事」といふ語を濫用して居ましたが、この過去つた一箇年の如きは正しく文字通りの多事でありました。あの未曾有の大災害と前後して、僅かな間に二度迄も内閣は引くりかへり、議會が解散せられ、其餘震とでも申しませうか、尚近く一囘又は二囘の、政變が豫想せられてゐるのであります。
 斯る境遇に處して、全國の人心が動搖しますのは、固より當然以上の當然であります。日本人は此だけの變化を見ても、まだ感動せぬほどの、無感覺なる國民では無いのであります。が併し、この所謂世上の動搖なるものは、先づ以て是非とも、分析し且つ解剖して見るべきものであります。
 
(53)          二
 
 六十年以前、俗に御一新と稱する日本の大政變の前頃には、伊勢の御祓の札が青天より降り下り京、大阪、中國、四國では、老若男女は大道へ出て、毎日毎晩ヨイヂャナイカ/\と踊りました。私の生地は播州ですが、其時分五十歳以上の祖父や大叔母なども、こつそり手拭を持出して裏口から踊りに出たと申しました。
 又色々の雜説が行はれました。或村では麥がふり小豆がふつたと謂ひ、甚しきははだかの娘が風呂桶ごと降つたと云ふ村さへあつたさうです。
 處がこの御礼の降るといふことは、慶應より以前にも、文政と明和と寶永と慶安と、大略六十年ほどを隔てゝ、くり返して起つた出來ごとで、其結果は大抵殆と狂氣じみたといふ程の、盛なる御蔭參り又は拔け參りでありました。而兩も其度毎に、伊勢の方では必ず平年に數倍する御祓の札が出たといふ話でありました。して見ると天狗か誰かは知らず、實際之を内外宮から受けて來て、天下に撒き散らした者が有つたのであります。
 由井正雪は大きな紙鳶を造り、其下に澤山の御礼を附けて、高山の頂から之を揚げて、各地に落下せしめたといふ説があります。或は又御祓の串に團子などを結び附け、山の上に殘して置いて鳶や烏に、くはへて行かせたとも申します。
 此等は小説か或は單なる想像觀かも知れませぬ。只民衆といふ者は、概して甚しく平和を愛好するにも拘らず、無事太平の際に於て往々にして珍事變事を夢み、假に由井正雪、大鹽平八郎のやうな、猾智に長じたる策士が其策を施さゞる場合に於ても、おのづから酒の酒甕の中に涌くが如くに通例有得べからざる事件、又概して我々の爲に好ましからざる事件が、起るかも知れぬ、起りさうだといふ感じを、持つて來る傾があります。社會心理を研究する今後の學者にとつては、此に上越すほどの興味ある且つ重要なる題目は、外には無いと謂つてよいのであります。
 
(54)          三
 
 而も數千年來の日本支那の政治家におきましても、常に決して之を輕視せず、否寧ろ過當に之を重く視た形跡があります。例へば天變地異の如きは、小は星の飛び、狐の晝鳴くこと迄も、之を政治上の變動を豫告するものゝ如く、信じ又は信ぜしめました。
 今日の政治家は、多くの謠言の中で、自分たちに不便利なものゝみを、行政取締の力を以て禁遏し得べしと考へて居るやうですが、是は妄想に過ぎませぬ。「天に口無し人を以て言はしむ」と云ふ諺があります。この「天」は勿論あの月の照る青空のことではありませぬ。當節の學問で申すならば即ち「社會の法則」であります。二人や三人の口を引裂いても、之をどうすることも出來ぬのは明白であります。
 太平記などには「口さがなき京わらんべの沙汰として」と書いてあります。古くは日本書紀には「童謠に曰く」とあります。今日では小學校の作文のおばけのやうなものを、童謠と名づけて居りますが、古い日本語では童謠とは即ち民心動搖の兆候を意味して居ます。前時代に於ては殆と唯一の政變豫告方法でありました。
 此豫告は、通例隨分よく適中するものと考へられてゐます。併し見やうによつては、豫告が却つて政變の空氣を釀酵せしめたとも謂はれます。又は適中しなかつた分の豫告は人が早く之を忘却し、歴史記録に傳へられないのかも知れませぬ。
 其證據には、我々の近世の經驗に由れば、民心の動搖に伴ふ所の色々の雜説の中、當つたものゝ數は却つて甚だ少なく、あまりに馬鹿々々しくて、さう手輕には我々の忘れ能はぬものも多い。又下手なにせ者が、不出來千萬の流言を出品して、失敗した例も段々ある。
 御託宣と謂へば我々の祖先は、襟を正しうして之を聽いたものである。然るに其後あまりに出鱈目を安賣したので、(55)今日では「ごたく」を竝べるなどゝ、全く滑稽な意味に此語を使ふやうになりました。而も其形式だけを新にして、同じ法則を我々民衆の上に應用せんとする者が、今日の世に至る迄尚絶えませず、我々の看破し排斥せねばならぬ流言は毎日のやうに、尤もらしい髯の階級から流れて出るのであります。
 
          四
 
 我々はいつの頃よりか、愛國者は不平家で無ければならぬと考へさせられました。國を愛すると謂ふは即ち國を憂ふることだと信ぜしめられました。勿論今日のやうな時勢に、又今の如き政治に滿足をして居られるものでは無い。がその同じ不平不滿足といふ中にも、地位を失つた役人などの只それが癪に障るといふ類の、個人的な小規模な不平もうんとまじつて居る。氣に入らぬといへば我子のすることも時には氣に入りませぬ。胃などの惡い人は矢鱈に氣六つかしくなります。それを不平家だから志士だらうと思はせる人は、甚だずるい人だと存じます。
 國を憂ふるといふ中にも、贋物がまぎれ込みやすい。「天下の憂に先だちて憂ふ」といふのは尤も貴い言葉ではありますが、如何なる理由が有つて、何々の點を憂ふるかといふことは、必ず説明せられねばなりませぬ。人生には誠に無限の不安がある。殊に我邦の如きは、天然の原因から、且つは現在の社會組織から、多くの人が神經過敏になる原因もあれば、外部の小さな衝動も絶える時がないのです。斯る薄靄を透して未來を望むのは、恰も黄昏時に野路を行くやうなものであります。この取止めも無い心細さを利用して、矢鱈に人魂や見越入道などの話をして聽かせるのは、心有つてするならば憎いやつ、或は自分も亦少々は不安な爲に、うか/\そんな事を謂ふのならば、是は未練者と申さねばなりませぬ。
 多くの舊式政治家の徒は正に右の二種類の中間に居るかと思はれます。然るに茲に一人が有つてよく練習した聲をふりしぼつて、「憂慮に堪へませぬ」と言つたとする。之に對して首を傾け、又は眼を圓くして不審な顔をする者が既(56)に少數であつて、若し「なぜですか」とでも反問しようものなら忽ち輕薄な人間の如く考へられ、只々感激する者ばかりが、精神家であるかの如く評せられる。こんな野狐禅に新しい人はかぶれてはなりません、個人々々の癖や氣分とはちがつて、直接に社會生活の上に、大きな具體的の變化を及すべき、一國の政治の問題に、不立文字主義、直指人心主義の押賣は實に迷惑千萬であります。
 或は又同じやうな口不調法な政治家の口癖として、折々「人心の機微」といふことを聽きます。京大阪にはもつと碎けた譯語があるか知りませぬが、「人情といふものは妙なもので」などゝ、實に妙な言葉を東京などでは用ゐます。その原語でありまして、兎に角に支那人の名文句の發明には感心します。此文句を使はれると、恰も呪文の如く相手の説明要求を封じてしまひ、機微とは何ぞやとか、機微にはいくつの種類があるかとか、機微の性質と效果とを判別する方法如何とかいふ質問をするのは、野暮非常識の至と笑はれるので、之を恐れて皆が黙々として感心を粧ひます。
 我々は猶太人でも無ければ支那出稼人でも無い。我々の生活を以て國家の生活と終始せしめんとする一國民である。苟くも國家生活をして居る一員に對して、かほど重要なる「人心の機微」を、省察もせず研究もせずに、丸呑にさせようとするのは無理な話であります。
 幸なことには世の中が新しくなるにつれて、假令不完全にでも片端から之を調べて見ようとする人が、次第に多くなつて行くやうでありますが、當分の中はまだ皆が皆、斷じて狐にはつまゝれぬといふ人ばかりで無い。折々は鏡のやうな物を與へて、我々と共に自己の姿を見出させる努力を、この同胞の爲にせねばなりませぬ。而してそれには今日が最も好き機會かと思ふのであります。
 
          五
 
 例へば今日の政局の紛亂、大政黨の分裂であります、之を歎かはしいことのやうに思ふ人は、もう無からうと思ふ(57)のに、利害關係者は時として只自分たちの困ることを、さも國家其物が困つてゐるやうに言つて嚇します。我々は昨年迄の姑息な政權授受方法を、まだ/\當分は續くことゝあきらめてゐたのに、御蔭でまづおしまひと決しました。誰かゞ口癖のやうに言つた「憲政の常道」の東雲が、東山の頂にたなびいて來たのです。元老が寢床の上で、次の首相を指名することは、假令御下問のあつた場合でも、どうもよくないことである。民意に合するか否を確める方法を持たぬ一院が「ハイ是が善政」と謂つて内閣を指導するは宜しくない。多數黨と官僚とが申合せの交代を續けるのは、兎に角に惡い癖である。此等も尚將來行はれることゝ、實はうんざりして居たのに、最早さうすることは六つかしくなつた。つまりは政治上の一轉機に、我々は途上に行逢うたのであります。今の内少しぐらゐの混雜などは辛抱が出來ます。目出たき旅立ち前の取込であります。夕飯の支度の摺鉢の音のやうなものであります。
 大體に世の中は樂觀の出來る世の中になつて參りました。然るに雇上げの壯士でも無い者迄が、亂を好み闘を夢み、この處ほんの五六箇月も待てぬやうな、此まゝで居れば世が潰れるかの如き、悲歌慷慨をするのは何の爲でせうか。恐らくは次の總選撃を些しでも樂にする爲の、一種のまじなひで無いかと疑ふのです。
 又こんな笑ふべき話もあります。政友本黨ではあまり新聞には書かせないが、今度は當然内閣を引受けるだらうと言觸らして、地方の投票者を引附けんとするらしいのです。けしからぬことゝは思ひますが、田舍の選擧人たちは地方利益の爲に政權に近い者の機嫌を取る。此が一つの弱點であります。從つて其宣傳は大にこまると見えて、反對政派の口から、「なーに大丈夫、今迄とても政權は豫定通りに移つては居らぬ。知らぬ間に横合から邪魔が出て、少數黨に内閣の行つた例もある」と、こんな奮い前例を擔ぎ出してゐます。
 其内閣横取はそも/\誰がさせたか。元老と二三不良老年の陰謀では無かつたか。今更この樣な陰謀をあてにしてゐるやうでは、護憲運動も至つて弱いものになり、此内閣を否認することすらも出來なくなります。勿論此説には責任ある署名者もなく、只所謂謠言として之を言觸らして居るのみですが、さうすれば新聞にも現れる。自然に世間が(58)「或はさうかな」とも思ひ得る。先づざつとこんな風であります。
 元來内閣を何れの政黨に作らせるかの問題は、選擧人の全體が決定すべきもので、而も選擧人の判斷は各政黨の主義政綱に依るの他は無い。然るに何れの黨も抽象的の、夏は涼しく冬は暖かにしようと云ふ類の事を列ね、鉢合せが往々にして起る。「おれの方の政綱を取つて行つた」と叫んだ政黨の領袖があります。政綱が同じならば再び合併したらよいでは無いか。まづざつと斯んな發見をさせてくれたのが、今度の政變でございます。
 
          六
 
 解散の仕方が宜しくないと云ふ説がある。なる程イソップ物語の狼と小羊との話のやうに、最初から解散はするつもりで、何と言つても解散してしまつたのは、せられた者に取つてはさぞ憎かつたでありませう。併し正直を言ふと、解散其物の可否は又別の論で、私などは少くとも其結果に於て、今度の解散は結構だと考へて居ます。或は清浦内閣の善政の一では無いかと迄思つて居ます。
 情弊だらけの古い議會などは、どし/\解散して行つて、少しでも新しいものを作らせたい。少なくとも老人や弱朽の「どうか助けると思つて今一期だけ」などゝ言つた人を、さやうならにする好機會であります。鉢合せ的政綱を二つ三つ竝べて、全體どの點に差があるのかを問ひ質し、苦しまぎれに彼等の言明する具體案を登録し、各問題に就て各黨各候補者の正否優劣を、比較判斷するには好き折なり、又最も必要な時節が來たのであります。
 然るに今囘には限らず、解散を以て恰も國の不祥事の如くに考へる風が盛であります。是れ明白に金力候補、乃至は貧候補の親族故舊等の政治觀に、傳染し釣込まれたものであります。「もう又出られまい」といふ舊政客の別離の悲歎を以て、桃太郎の如き新人の首途を送らんとするのは不吉であります。
 但し此新人たるや、斷じて過去の群衆心理に捕はれず、能く天下の難に處して樂親し、國民にその當に憂ふべきも(59)のを指示し、此が解決に付て自信の有ることを、直ちに我々の前に證明せねばなりませぬ。輿論と謠言との差別を確實にし、不安に傾きやすい民衆の心を、あはよくば利用して煙に卷かうとするやうな心掛を、未だ嘗て抱いたことは無いと、良心を以て誓ひ得る人で無ければなりませぬ。
 我々の愛する國家は、目下眞に多事であります。所謂金力候補が如何にも愚劣に其財を放散しながら、漸く當選すれば乃ち「衆望の歸する所」などゝ公言する滑稽劇を、傍觀して冷笑し得る時節ではありませぬ。外を觀ても内を顧ても、一日も早く多數が擁護する堂々たる内閣を作らせ、少くとも問題の數と種類とを明白にして、次では此が對策の提示を其爲政者に迫らねばならぬ。實に氣ぜはしない時代であります。又一期を無意味に過して、國内眞の有識階級を退屈せしめぬやうに、今度こそは一人でも多く、確かな政治家を見出すことに努力したいものと思ひます。
 
          七
 
 此希望は決して我々少數の專有ではありません。何年と無く到る處に於て、世中の事を只「微妙」だの「おつ」だのと見切つてしまはない正直な人々の口から、聽いて居た所であります。獨り怪しむのは、この久しい間、此等の希望が今尚一代の風潮と迄は固まらず、あらゆる流言雜説は競ひ進むにも拘らず、之に對立し反抗する人々は、概して孤獨でありました。又消極的でありました。其結果、宣傳の鼓のみが徒らに音高く、階級的傾向的の政治論のみが各一隅に割據し、誠に不必要に選擧界を混亂せしめんとして居ます。さし掛つての國難の一つは是であります。
 民論輿論といふ語は、昔の通り又は書物の通りなのは名目だけで、用心をせぬと此中にも無茶な宣傳が匿れ潜んで居ます。是につけても新聞に從事する者の大なる責任は、感ぜずには居られません。
 英國は新聞投書の實に盛な國で、又社説の態度の最も鮮明な國であります。而も昨年九月の末、私が通りすがりに參つた頃、二三の英國人は斯う言つて歎息してゐました。曰く此頃のやうに輿論の新聞に反映せぬ時代も珍しい。此(60)が爲にどの位國民は大きな不安を感じてゐるか分らぬと。實際あの時分の新聞には、いくら熟讀して居ても、其後の政變を推察し得る材料はなかつたやうです。三月後の勞働内閣出現は申すに及ばず、二月後の議會解散までも、其時分の讀者には露ほども豫想が出來なかつたのであります。
 翻つて我邦の實?はどうかと申しますと、こんな事は殆と常態と謂つてよいのです。世間も亦略之を承知で、東京などでは政治通と言はれるやうな人は、明けても暮れて各新聞に出ないニウスをあさりまはり、尾鰭を附けて之を人に話しますから、世間の噂話と、之に伴ふ動搖が絶えぬのであります。
 此調子では、安心して普通選擧の世の中に臨むことは頗る六つかしい。願くは公衆の隱れたる威力を以て、徐々に且つ着實に、此の如き惡い傾向を改めて貰ひたいと思ひます。實際どんな新聞を見ても、其購讀者の多數が無意識に編輯して居る部分が、存外に大きいのであります。從つて國々に國の新聞の特色があり、英の新聞と米のそれとは同じ英語でも一目で判別し得られます。
 今若し日本の青年にして、昔のやうに諷刺を愛し逸話の類を好み、恰も江戸時代の落首文學や秀句文學の如き短評に隨喜してゐる間は、到底澤山の政治生活の新材料を新聞から收穫することは六つかしからうと信じます。流言蜚語に由つて新しい政治の前途を妨げられざらんが爲には、理由を附した落付いた意見を公の機會に提供し、且つ留保無く勇氣を以て互に之を批判せねはなりませぬ。
 此方面にはまだ/\未開地が中々廣いやうに思ひます。
 
(61)   普通選擧の準備作業
 
          一
 
 我々は?次新聞記者の口から、政治は芝居よりも面白いと云ふことを聞きます。政治ほど眞面目であるべきものを、芝居などに比較するとはけしからぬと申す人も、其實芝居を觀ては時々泣き、政治に對しては常に其れ程の感動を受けることが無いのです。當節の政治は必ずしも眞面目では無かつたが、假に大眞面目であつたにしても、尚觀察者の之に對する態度では、歴史として視るべくあまりに現實味に富み、而も自然の力と人間の意思と感情とが、色彩鮮明に組合はされて行く政局の變化を、劇的の興味を以て迎へずには居られぬのであります。大戰以後は殊に此感が深い。例へば伊太利ではムッソリニの出現、近く其國會に對する掛引きの如き、まだ筋書を知らぬだけに、一層四幕目大切りを待つて居る興味が深い。或は日本に好意を持つて居る洪牙利の内政の如き、簡單な新聞電報だけでも、尚あはれに花やかなローマンスを繙く感がある。我邦最近二三年間の政局なども、渦卷から立離れて靜かな同情を以て之を眺めると、やはり良い意味に於ての一種の芝居がかりでありました。
 加藤首相の柩を送りて三日の後、世にも怖ろしい大地震大火事で、首府の市民が呻吟の聲を放つて居る中へ、突差の間に計畫を立てゝ山本伯の一團が乘込み、青山御所の芝生の上とかで、新内閣の部署を定めた。さうして第一着手には、大小の政黨に對する方策を立て、やがて普通選擧即行の意の有ることを、非公式に新聞に公表せしめた。其當(62)時私は西洋からの歸り途で、汽車汽船の中で見る小さな電報、かくれて屆く日本の新聞に由つて、後藤子であつたか或は他の智慧者の案であつたか知らず、兎に角こんな場合に場馴れた政治家の考へ出しさうな、面白い一趣向を立てゝ現れて來た一幕には興味が深かつた。數箇月の後には破綻百出で、とんと締めくゝりの附かぬものにはなつたが、最初の上場には中々よく考へた筋書が有つて、此に天然の變化が錯綜して、更に一段とドラマチックであつたのです。
 あまり近い事で十分な批評もしにくいが、先づ第一に外國に出て居る者に、一般に奇異に感ぜられたのは、地震も無い前からの山本伯の擧國一致といふ語であつた。擧國一致は結構だが、どうしてそんな希望を抱き得たかと云ふのが不審であつた。が後に考へて見ると、是は政友會に不一致即ち政局紛亂の責を負はせようとする爲の、先手の一目らしく思はれました。少しく小刀細工の嫌ひはあつたが、政府に普選を即行するの意があることを公表して置いて、之を政友會に反對させようとしたのは、今の世の政治家らしい遣り口でありました。政友會も永らく尚早論を唱へた手前もあり殊に本來が敵黨の主張に基く選擧法改正案を、三月や四月の間に態度を一變して、素直に賛同もしかねる事情がある。さうすると勢ひ此法案で衝突して議會は解散し、結局は大正十三年には舊法の下に總選拳を行ふ。從つて事實は何の仕度は無くとも、内閣では衷心今年から普選を即行する考であつたのに、政友會が頑固の爲に又一期延ばすことになつたと稱し、世間の批難を不從順な政黨に振向け、自分等は好い兒になると云ふ注文で、ずるいかも知れぬが碁で言へば一つの「はめ手」であつたのです。
 此には大兵肥滿の政友會も、大分弱らされてもがきました。そこで水を差して見たり突いて見たり、出來る限りこの一手を使はせぬ内に、内閣を倒してしまはうと企てました。政府としては成るべく早く臨時議會をすませ、片付くべきものは片付けて置いて、愈本義會で正面から爭はうとしたのですが、内部にもごた/\が有つたやうなり、復興豫算にもけちが附き、すらすらと筋書の通りには運ばず、御承知の通りの何んともかんとも言へぬ變な引込みをすることゝなりました。此邊の處は殆と芝居にも何にも成つて居ませぬが、而も山本内閣の置土産の大きな一つは、此(63)次にどんな内閣が起るとしても、選擧法を改正せずに元の儘の制限選擧にして置くことが、到底不可能だといふ?勢を作つてくれたことです。此點だけは前内閣の芝居の當りで、假にあの引責辭職が無く、政友會を叩き付けたと云ふ場合でも、此以上の成功、假へば本年の總選擧から普選を即行するといふわけには行かなかつたのだから、歸着する所は同じであります。
 
          二
 
 併しながら、今一期を遡つて、假に政友會の爲に辯じますと、原總理の普選尚早論なるものは、伸縮自在の巧妙なる對策であつたと思ひます。同氏は自分の記憶する限り、未だ曾て約何箇年ほど早きに過ぎると、年數などを言つたことは無かつた。世の中が急に變化して、どうしても昔の儘の選擧法では承知せぬ時代が來れば、假令内心はいや/\ながらも、もう時分は宜しからうと言つて、実行の期を引上げる考であつたらしい。
 實際又黨内にも、早くせよと云ふ説が中々あつた。今度政友本黨に赴いた松田源治氏などは、其一人だつたと傳へられて居る。同君の歐米見物旅行は花々しいもので、多分其土産談を聽いた人も、世間に多いことであらう。普選に就ては同君は何と言つて居られるか知らぬが、昨年私がジュネブの町で同君と逢つた時は、例の大きな聲でこんな事を言つた。自分は誰にでも言ふのだが、如何に熱心な普選即行論者とても、大正十三年の總選撃から、普選で行はれると豫期する者はあるまい。此と同時に大正十七年の總選擧が、舊法の制限選拳で尚遣れるものと、考へて居る者も一人も無いだらうと。之に對しての私の挨拶は、全く其通りである。だから日本に還つたら、早速それだけのことを宣言するやうに、政友會の有力者たちを説得し、之を實行して少なくとも只徒らに頑冥な政黨で無いことを、公に證明するやうに盡力したまへと申しました。處が政黨などといふものはいつも不必要に餘地を取りたがり、態度を曖昧にすることを能事とするもので、此獻策の如きも、果して黨の幹部が採用しなかつたか、はた松田氏が言はなかつた(64)か、もう分らなくなりました、此態度さへ宣言して居たなら、山本内閣の小策略に苦しめられる憂は無かつた筈であります。所謂穩健着實黨の天下は傾斜し又はひゞ割れずに濟んだことゝ思ひます。
 併しそれは別として、松田前副議長の言は當つて居た。最初から時の問題であつた所の普通選擧は、來ちやいけないと言つても、もう來て門を叩いて居るのです。永年の普選運動者の勞は正に酬いられんとして居ます。私などは實は此問題に對して些し熱が足らず、賛成反對の論も澤山には聽いて居りませぬが、夙くから斯うは考へてゐました。普選の要求は自然であり、從つて力である、時期や得失の論を超越して居る。押返し捻合つて論爭しても、結着する所は今から見えて居る。一方は是非とも即時實行と言ひ、他方は只尚早と言つて居る。はつきりした聲で不賛成だと言つた者は、片隅の田舍にも居なかつた。さすれば今に實現するにきまつて居る。果して然りとせば、是に對して我々は、如何なる準備支度をして置けばよいか。こんなことは毎度考へて居た所であります。
 世の普選論者の多くは、之を實行すれば世の中が善くなる、國の幸福が加はると論じたのだ。彼等は近き將來の成績を以て其言を證明し、其責任を果さねばならぬ。中にはまた結果の善惡は問ふに及ばぬ。遣るべきものだから遣るといふ、荒い議論の人も無いでは無かつた。併しそれでは我々は困る。若し之を實行しても成績がよく無いか、或は更に惡い新影響が生じたとすれば、如何に結構と信じた事でも我々は之を見合はせ、面倒を忍んで尚第三の方案を案出せねばならぬ。出來ることなら折角の普選だから、そんな不滿足不平の無いやうにして見たいものと思ふ。
 
          三
 
 元來普選尚早論の出かたは、四十年前の國會開設尚早の論と略同じでありました。代議制は善い事に相違ない。が之が創立には一般選擧人の教育が先決問題である。故に小學教育の普及する迄、今少し待つがよいと謂ふので、兎に角急いで教育の方に力を入れようとした。今度も同じ傳で、一時喰止めて見ようとする人はあつたが、之が爲には(65)前例が誠に不利益でありました。成程教育は大袈裟な組織で、綿密な調査の後に之を普及することに力め、御蔭でもう投票の文字が書けぬといふ人も殆と無くなつた。が併し其爲に選擧がちつとでも善くなつたとは言はれません。却つて初期の正直な無邪氣な、英雄崇拜的の投票に於ては、大きな勞力無しに、兎に角年の若い當時の一流人物が、議員として出て來たが、此頃はどうであるか。三萬圓と四萬圓と五萬圓との脊競べで、金を持つて來ぬと如何な人にも埒が明かず、金を無法に使ひさへすれば、飛んだ奴が代議士になる。それだけでもいゝ加減耐へられぬのに、地方ではそれが當然と考へて、一人の之を怪しむ者すら無い。だから若し今迄の政府で定めた教育制度が、代議制度の下に活動すべき國民を養成するのを、第一の目的として居たのならば、其結果に於て正しく失敗だつたと言ひ得る。從つて普選は尚早なりなどと言ふ論者、果して待たせた間に何事をする氣であつたのかと、反問せられても一言は無いのであります。
 近頃になつて迄も政府では、思想善導と云ふ類の語を使ひ、和尚などを集めて居られるが、私には是が普選時代の良選擧人を作り出す道だとは、何分にも思はれませぬ。所謂超然内閣の大臣たちに、こんな肝要な事務までも一任せねばならぬやうでは、實の處普通選擧の甲斐も無いわけであります。見やうによつては今日迄の公民教育が、充分な效果を奏し得なかつたと云ふのは、寧ろ普選論の起る以前から、夙に政治の實力の一部が多數民衆の中に移つて居たことを、我も人も心付かなかつた結果なりとも言はれます。即ち選擧の腐敗も平民の恥、投票の賣買も我々の責任で、此弊を匡正し道理に合つた人選をさせると云ふことも、悉く皆選擧人仲間同士の任務であることを、深く考へて見なかつた結果だとも思ひます。
 斯う考へて來ると、選擧取締に關する近頃の政府の訓示などは、不愉快名?すべからざるものであります。嚴刑を以て嚇されて、漸く選擧界の廓正を期し得る迄の淺ましい?態には、果して何人が之を惡導したのであるか。
 
(66)          四
 
 地方々々に往つて見れば、あの男があの奴がと、名を指して憎むべき發頭人が有るかも知れませぬ。而も原因はそんな表層に止らず、我々は尚突進んで、斯る些々たる誘惑にも忽ち感染し、五年十年の短い歳月の間に、今日の選擧の實際に見るやうな、一種組織立つた惡慣習の普及するのには或は何事か民衆生活の環境に於て、此が爲に都合よき一般的の事情が潜在するのでは無いかを考へて見ねはならぬのです。
 例へば棄權者の問題であります。普選になれば此數が殊に増加するのが通例で、瑞西の如く數百年の長き自治の教養ある國民でも、私の滯在して居た一年半の間、いつの選擧にも一般投票にも、毎回三割強の棄權がありました。本來政治に不熱心な人々をして、如何にして公法上の義務を履行せしむるかは誠に難義な問題であつて、此をうるさく無くて結構と思ふ類の人々の、教育に任して置くことは出來ませぬ。我邦などには冷淡な觀察者の中には、國民の半分は何とも考へて居らぬのに、此人たちの爲に普通選擧を主張するは物ずきといふやうな批評をしました。併し我々には斯うして放任して置くことが出來ぬので、昔風の無智の滿足を利用するのは、正しい政治家で無いと思ふのです。
 日本は此通りの小國である爲に、既に制限選擧の時代にも、山奧の五戸七戸の在所から、投票に出て行くのは暇潰しだ、せめて辨當代でも出るならと言ひ、競爭が激しくなればこんな人まで騷出す故に、丸で日當のつもりで無邪氣に金を取つた人も中々多かつた。それが奧在所の人の物を知らぬ爲のみで無く、平場町方の人までが、人を只働かせる法が無いと考へ、いつかの時、何かの方法で、報酬を取つて差支へが無いといふ思想が中々強い。此舊思想が折々法律をさへ無視せしめる。いやな奴の乘ずる所となるのも一つは是で、つまりは古い社會の經濟組織から來た煩累であります。
 所謂選擧運動者の跳梁も、同じ法則の發露であります。此徒は概ね小才覺あり、且つ世渡りに摺れて居て、道コ律(67)のあまり高く無い人物でありますが、單に彼等の個人的能力のみが、斯樣に一世を風靡し、最初は理想選擧とかをやるつもりで起つた人が、寢覺の惡い當選をするに至る迄の、ひどい惡感化を及す筈は無いのです。必ずやそれには一方に於て、日本國民の善い特色でもある所の負けぎらひ痩我慢又は意地などいふものが、餘裕も割引も無く選擧の折には現れて來る外に、他の一方には俗に顔役などと申して平生顔を賣つて置き、こんな時の爲にとてよく人を世話し、又こんな時に大に働くつもりで甘じて世話になつて居る習慣、我々の名づけて被管制度又は名子制度と云ふ舊慣が、殆と封建時代の絶頂の時と同じやうに、恩と義理、親分と子分と云ふ眼に見えぬ網の目となつて、田舍も町も隈なく行渡つて居るからであります。
 是が一概に昔の惡い癖とのみは言はれませぬ。唯古い世の中の必要から發生した爲に、其機能がどこ迄も私法的であります。義理とか人情とか謂ふのは美しい語である。併し我々が之を重ずるのは内容であるのに、通例人の間には時として此が呪文ダラニの如く、惰性を以て外形の束縛を爲して居ります。例へばあの人には媒人をして貰つた、喧嘩の仲裁を頼んだことがある。だからあの人の言つて來た候補者は、馬鹿のやうだが入れねばならぬとか、又は今出られなくなると、あの老人も飯が食へぬやうになる、可愛さうだから投票しようと云ふ如き、極端な例が若しあつたら、人は誰でも無茶だと評するが、實際の場合にも、此半分三分の一ぐらゐ馬鹿げたのが隨分あります。人物や政見の批判が二の次になるから、所謂戸別訪問をして、膝を折つて頼むに如くはなしと云ふことに成り、頼まれゝぱ情に絆され、或は頼み手が一癖有りさうな、よくして置けばよくして呉れさうな人なら、何かの時には世話にもならうからと、乃ち村の顔役の言には背かぬので、金は着服せずとも、是も亦利益交換の條件附きであります。目前に金や物と引換へたら犯罪、「大きに有難かつたきつと恩に着るよ」と言はれて、還つて往つたゞけなら清き一票だとも言はれない事情があります。つまりは此類の安直なる義理人情の爲に、政治以外の動機から甲を斷り乙に就き、乃至はどうでもいゝ人を投票しますのは、悉く精確なる意義に於ける選擧では無いのであります。
 
(68)          五
 
 併しながら私は一箇人として、必ずしも之を責むるに嚴峻ではありませぬ。何となれば此等の行爲の基礎を爲す道コ律は、人が父祖傳來大切に守つて來た舊社會一般のもので、之に背けば他から人非人のやうに謂はれたものばかりだからです。只世の中が立憲代議制になり、一平民までが參政權を得た結果として、或種の新なる社會事務には之を應用しては害があるといふことを、我々よく考へて見なかつた點が惡いだけであります。こんな事ぐらゐを教へるのはわけは無かつた筈です。ほんの只一言注意してやればよかつたのです。尤も人がまだ素直で惡摺れのせぬ間に、之を聽かせる必要はありました。兎に角此をしも怠つてゐた我國近代の公民教育が、あまり感謝に値するので無いことは明白であります。
 勿論捨てゝ置いても永い中には變つて行くと思ひます。例へば親の仇を報ずることは、つい近頃まで社會道コ上是認せられて居ました。之を禁ずる法律はあつても、其適用が最も寛大でありました。つまりは世の中が之を善い事と考へたからであります。然るにさう云ふ中にも、後には親の仇は討つても宜しいと云ふ迄で、討たなければ人で無しの臆病者だと云ふ思想は、既に百年以前から、次第に薄くなつてゐました。又仇討の原因たる被害事件を、道コ的に批判することは、昔はあまり無かつたので、定九郎の倅が早野勘平を親の讎と狙つても、尚是認せられて居ましたが、是も亦世と共に次第に改まり、早い話が芝居などでもかたき役は、權太夫とか剛右衛門とかいふ名の、徹頭徹尾赤面の憎らしい人で無ければならぬことになつてしまひました。
 つまりは今日の如き統一せられた國家の中に、群雄割據時代其儘の復讎心は成立たぬので、保守主義の人の間にすら、少しづつ内容を改めて來たのです。併し古くからの慣習は、抵抗力の薄い部面ではいつ迄も殘るもので、人殺し以外の方法でならば、今日の日本の國民相互の間にも、地方と地方、家と家との間などに、不必要な敵愾心が尚傳は(69)り、此私怨が亦往々にして挙擧の場合などに顯れて來ます。親が自由黨なりし故に子も政友會に投票し、一方の大家が甲黨なる爲ばかりに、第二の家は乙黨に當り、伸違ひをした結果他の黨に行くなどといふ例は、何れの地方でも普通の話です。全體に政黨の黨の字には少し偏頗片意地といふ風な意味もありまして、政見のみで選擧が分れるといふことは六つかしく、從つて適當の大人物を出すよりは、寧ろ承知の上で我黨の與太郎君を推薦せよと云ふことになる。中央に押出してから後まで、根つから政綱政策の相違もなしに、激しくつかみ合ひをすると云ふ結果にもなるのです。
 
          六
 
 一方には又義?任侠といふことも、昔は可なり詩的な道コでありました。江戸時代の武士の教育には、この任?の内容を改革して、社會の新事情に適應させる爲に、大なる力が施されました。乃ち貴殿を見込んで折入つて御依頼申すと言つて來ても、善くない事は助けてはいけない。即ち主觀の道義批判を以て、義?心の行動を抑制させたのであります。而も此の如き儒教の教育を受けず、其範圍の外に成長した人々の中には、依然として舊式の、尤も充實した義?心が認められて居た。例へば喧嘩をして人を殺して來ました、匿まつて下さいと言つて來ても、窮鳥懷に入れば獵犬も殺さずとかやなどと言つて、無理な方法を講じて迄も助けます。況や其以下の、雙方先づ五分々々又はどちらが正しいかよく分らぬと云ふ喧嘩なら、必ず頼みに來た方を助ける。交際して居た方を助ける。恩があるから義理があるからなどと言つて、飛出して來て手を貸すのを?客と申しました。
 たまらないのは此習慣を應用せらるゝ今後の選擧であります。此ではいつ迄も、國の爲に政治の爲に、眞に普選の效果を擧げる折はありません。面倒な仕事ですが、我々は徐々に此點の改良をして行かねばなりませぬ。其上にまだ厄介なことは、此に金錢の問題がからみ附いてゐます。關東などでは昔から ?侠客文學が流行し、今でも講釋師の主要なる飯の種であります。自分も常に之を愛讀しますが、氣が附いて見ると、?客博の多くにはねつから經濟問題を取(70)扱つて居りませぬ。國々の大親分になると、立派な家に數十の若者を養ひ、實にすつきりとした服装で押通し、頼んで來る者には常に少なからぬ金錢を呉れる。此は痛快な話には相違ないが、其財源は果してどこにあつたか。ゆすりかたりは斷じてせぬとすればてら錢より外に收入はない筈であります。而して博奕は昔でも惡い事でありました。
 此と同じやうな事は、他の方面に活躍し自ら許して高等?客と稱する地方政治家の中にもあります。凡そ人に恩を施して置くと言へば、其最も論理的な方法は金錢であります。之を?客的に使用するとすれば、大抵の財産家は一代の半分で潰れてしまひます。その殘りの半分はどうするかといへば、人は貧したるが故に?客を廢業せず、おれが何とかしてくると、どこかへ行つて才覺して來ます。それを出す人、取る口實はきまつて居る。誠に警戒を要する話ではありませんか。
 
          七
 
 代議制度などは勿論外國を模倣すべきもので無い。何れの國にも國情もあり特色も有る。之に從つて自國固有の政治運動をするのは當り前です。併し此十年十五年の記憶を辿つて、日本國の特色と認むべきものは、何であつたかと考へて見ると、我々は獨りで居ても自然に顔が赤くなる。考へ込むと寧ろ悲しくなる。誰か年老いたる大臣か何かゞ、其内に改良をしてくれるであらうと、人の事にしてすましては居られぬのです。之に對する今迄の有識階級なるものは、あゝいやなことだと言放つて、忽ち棄權してしまふのが常の事でした。一人ばかり力んで見ても仕方が無いか知らぬが、事は一身一家、乃至は一階級の利害のみでは無い。如何に選擧權が弘く民衆に賦與せられても、理想的の普通選擧にはまだ遠い。我々はいつでも幼弱無告の多數同胞の爲に代つて善き政治の早く發現することを圖らねばならぬのであります。内地は普選になつても日本の領土内には、尚多數の民族が住んで居て、今迄は不完全な代議制の議院に於て、各自の死活問題までも討議せられて居たのである。舊式の選擧に由つて作り上げた政黨者流の爲に、彼等(71)は最も多く迷惑を蒙つて居るのであります。
 此をしも顧みずに、人の爲はどうあれ、自分等だけの都合を考へ、こんな選擧を績けて行くならば、實際普通選擧にしようとする意味も無くなると思ひます。又之を主張した理窟にも合はぬと思ひます。
 どうか自分本位の手前勝手は、垢づき且つ綻びたる寢間着の如く、之を納戸の中に脱ぎすてゝ、身の丈によく合つた、且つ活動に自由なる仕事着を着た心持ちを以て、正に來らんとする新しい明るい世界へ出て來て働いて貰ひたいと思ひます。
 
(72)   移民政策と生活安定
 
       一 我が諸政黨の態度
 
 移民問題は農村振興論などとは違つて、今尚國内普遍の問題となつて居らぬ。地方によつてはひどく熱心に之を論究する者があり、地方によつては一向冷淡に看過して居る處もあつて、それが必ずしも移住者の數、乃至は人口密度の高低と比例はせぬやうに思ふ。自分は當地(中津)が二者何れに屬するかを確かめてゐないが、假に後の場合であつても、もうそろ/\と之を一國の社會問題として、攻究を始められてよろしいかと考へる。それは決して新聞として新しい風潮を首唱しようといふ意味ではない。從來の政黨は概して時代の機運に疎く、いつでも世上の論議が熟し過ぎた頃になつて、漸く追隨して來るのが所謂政治家の癖であるがその遲鈍なる舊政黨までが、既に此題目を口にせずには居られぬやうになつたのだから、よく/\打棄てゝは置かれぬ問題と見てよいのである。
 政友本黨では第五十議會の開會前に、總裁の演説に於て移民植民の急務を説いてゐる。與黨三派の方でもいよ/\選擧法を通過させて、多數の新選擧人の向背を卜することになると、やはり劈頭第一にこの問題を以て新政綱の中に掲げようとする態度を示して居る。勿論例の通り、これが方法に就ては何等の案もないのであるからをかしな話であるが、前の農村振興建議の時と同樣に、朝野の二政派が拳國一致をして、互に問題發見の先後を競うて居る。少くと(73)もそれ程大切なる時事問題であることだけは、十分に證明して居るのである。或はそれだけでも功勞であるのかも知らぬ。併し今日の所謂國民生活の動搖が一半は物價の騰貴に起因すること、その又原因は衣食資料の生産増加が、人口數の増加に及ばないのに在ることは誰の目にも分りきつたことで、單に政治家が此點に盲目で無かつたことを確めたばかりでは安心も出來ない。たゞ心配だけをしてもらつてもさほど有難くは無い。然らば如何なる方策に基いて、目下の行詰りを切開くに足るやうな移民を行はんとするのであるか。我々は篤と各派の意見を聽取つて、其優劣を比較決定すべき必要に迫られて居る。
 現内閣は農村振興の問題についても、政府の力を以て何等かの手段を立て救濟の手を下すに非ざれば、到底其患を除く能はざることだけを認めて置きながら、結局之に對して殆と何事をもしなかつた。行つて果して效果があつたか否かは疑問であるが、斯う云ふ方法もあるなどと二三の案を示しつゝも、それすらも二階から眼藥などと、反對派に惡評せられる程度にしか之を實行することが出來なかつた。尤も非常な財政困難の時節で、消極にも積極にも補助などの新豫算が成立つやうな時節で無いことは、心ある者は之を認めて居た。整理に對しては相應の同情も有つた。即ち無爲無能にも一通りは辯解がついたのである。が併し言ひわけでは時世を濟ふことが出來ない。況や補助金などは假に思ふ存分支出して見た處が、そんなものは急場凌ぎで施設でも何でもない。つまりは問題の憂ふべきを覺つたと云ふのみで、之に處するの策は講ぜられなかつたのである。野黨の方でも不滿足は表明して見たものゝ、やはり對策として提示すべき案の無いことは同じであつた。恐くは折角發見した移民問題に於ても、多分依然として古臭い間に合せの意見のみを雙方から出し合つて、無用の評議に日を送ることであらう。さうして一旦は必ず失敗するであらう。國民に取つての不幸であるが好い實驗である。
 全體此人たちばかりに是ほど重要なる國の問題を一任して置くのがよろしく無い。責は我々人民の方にも在る。各自の研究を以て國論を作らなければならぬ。代議士と謂つたところが我々の中から出て行くのである。我々が賢明に(74)ならぬ限り、いつ迄も彼等が愚であるのは當然である。即ち諸君と共に移民の問題を考へて見ようとする所以である。
 
       二 移民政策と外務省
 
 移民の成績を擧げる爲には、外務省さへ鞭撻すればよいと思つて居た時代がある。如何に氣の利いた外務省であつても、それは筋違ひの無理な註文であつた。從つて其效果のあつた例しが無い。成る程外國に出て居る日本人が難儀をする場合、之を保護するのは彼等の役であり、又出來るならば少しでも多くの便宜を與へてくれるのが任務であるが、出て行くことは個々の國民の決意であつて、外務大臣の力で之を多くも少くも出來る道理が無い。しかも制限する方は或時代の移民局などの事務の一であつた。騙され若くは誤解をして出てから後に苦勞をせぬやうに、注意をしてやる必要が?次あつた。但し國民個々の希望に應じて正確なる情報を供與し、或は故障を排除し便宜の方法を設ける迄は、之をしなければ怠慢と謂つてもよいが、それとても無暗に彼等に依頼することは不利である。
 昨年の日米間の葛藤の如き、我々は一時は不愉快な情に支配せられて、靜かに遠因までを考へて見ることが難かしかつたが、移民の問題などは之を外務省の交渉に託するやうになることが、もう既に一の蹉跌であつた。國が計畫を立てゝ大いに移民を送り込まうとすると云ふ印象を與へることは、往々にして無用の警戒を外國にさせて、寧ろ障碍を多くするかも知れぬ。何かと言ふと外務省はすぐに責められるが、下手な外交を須たずして米國への移民は行詰まらうとして居たのである。その事情を全然洞察し得なかつたか、或は知りながらも之を國民に説明しなかつたか、何れにしても此點は遺憾であるが、それは寧ろ移民問題の相談相手としてこんな機關は完全で無いと云ふ證據になるばかりで、之を改革したところが移民は増加しようとは思はれぬ。これが此頃少しづつ我々の心付いて來た眞實である。
 我が優秀なる同胞が、正しい判斷に基いて選擇した外國生活と職業とが、其望みの通りには獲られない。その行動(75)が制限せられる。是は勿論坐視しては居られぬことである。假令至つて難かしい仕事であつても、その根本の理由に溯つて、少しづつなりとも彼等の自由を援護してやる必要は正に有る。國の内外に亙つて、此種の障碍は千差萬別であるが、殊に國と國との政治的境界は、最も頑強なる一つである。日本の四隣の海を隔てた白人の領地では、無理とも非人情とも評すべき方法を以て、我々に對して門戸を閉鎖する者が既に多い。獨り一身上の利害からと謂はず、公共の爲に又後代の爲に、此態度を改むべき任務は主として日本人の雙片に繋つて居る。我々は最良の移民をその必要ある土地に送り出して、狹量猜疑の外國人に、從前の制限手段を恥ぢ且つ悔いしめるだけの成績を擧げ示す男の意地が有るのであるが、果して此だけの重い責任を負ひ得る迄に移民としての教養準備が具つてゐるかどうか、先づ此點から考へでかゝる必要があるのである。
 日本は平地面積と人口との割合といふやうな外部的條件は移民國らしく見えるが、永年外部と絶縁して居た歴史や、海を越えて出ることを大儀に思ふ久しい習性などの他に、まだ幾つかの弱點が附纏うて居て、世界第一流の移民を出すことの困難なるは勿論、假に竝々の移民をして出て往つても、?蹉跌し?失望して忍耐もその效はなく、惡い先例を殘して内には有爲の青年の決意を鈍らせ、外には事端を釀して、所謂「願はしからぬ來住着」の名を博するやうな虞は無かつたか。之を深く考へて見ることは國氏自身の仕事であつて、一時の問題のみに苦勞する政黨員や、彼等が支配して居る忙しい役所などの了簡次第に任せては置かれぬことである。
 斯ういふ大切なる先決問題が、移民政策の根柢に横はつて居る。之を解決しようとせずに徒らに補助や奨勵を以て、不自然に移民の數を増加すればよいと思つたら、忽ち失敗の憂き目を見ることは慥である。或は又そんなにして見た處が、萬と纏まつたる人數は出て行けない。さうして我邦では年々四五十萬の勞働員が増しつゝある。人口整理の手段としてならば、到底こんなことでは役に立たぬから、移民政策には重きを置くに及ばぬと考へて居る人が無いともいはれぬ。
(76) 勿論年々是ほど増加して行く人口が、國内で仲善くそれ/”\仕事を見付けて行かれるならば、それに越したことはないのであるし、國家は又如何なる場合にも、彼等に生存の資料を保障する任務があるので、移植民の問題さへ注意してをれば、それで片付くといふ程簡單な?態では決してない。併し國内競爭の壓迫は、今や既に隨分窮屈なものとなつてゐる。有爲の青年は現にこの壓迫を憎んで、新なる辛苦を忍んでも別天地に運命を開いて見ようと望んでゐる。その希望は抑制し又は無視することが出來ない。其上に我々は前にも申す如く、假に眼前の必要は急で無くとも、將來の國際經濟自由の爲に、有色人種の先驅となつて、前途の荊棘を芟除する任務を持つのである。互に相助けて此志を遂げしむべく、あらゆる方法を講じなければならぬのである。さうしてそれに向つては現在の政論は、遺憾ながらまだ餘りに空漠である。
 
       三 移民教育の不備
 
 我々の今日迄の實驗では、日本人はどうも移住に不向きなる國民の如く、内からも外からも考へられて居る。米國へは三十年近くもかゝつて、やつと十萬そこ/\も行つて、生活の足場を作つた者がまだ算へる程しか無いのに、既にいけないと云ふ批評が起つて忍ぶべからざる排斥と差別待遇とを受ける。理と非の論は別として、兎に角に衝突無しに進んで行くことが難かしくなつた。他の白人領では早くから用心して、色々の方便を設けて門戸を閉鎖する。そんなら障碍の少い南米の二三國、若くは近隣の植民地はどうかといふと、少しづつ出て行つた者はあるが、其數も頓と増さず、第一に多少の成績を擧げて、後から來る者の模範と爲り、又は嚮導となるべき者が甚だ少い。之には眼に見えぬ意地惡の妨害があるとも思はれるが、よく人のいふ滿蒙方面はどうか、北海道、樺太又は臺灣の東海岸などはどうであるか。外國人などの批評をきくと、日本は成ほど人口が過度に稠密であるが、それは地方的の現象であつて、(77)同じ國内でも端々はまだ明いて居るのに、無暗に人の國のよい部分へせり込まうとすると言ふ。是は或程度まで殘念ながら事實であつて、つまりは國内や手近の地に於て、堅實にして信頼すべき移民であつたことを立證し得なかつたが爲めに、一層不評判の損失を招いたのである。
 排斥は素より非人情ではあるが、現在の領土權の下に於ては、求める方に弱味のあるは致し方が無い。少くとも此方に於ても、出來るだけ移住地の必要に應ずるやうな條件を具へて居らねばならぬ。さうして世間は廣く、我々の勞力才智又は資本を待つて居る土地は、尚幾らも殘つて居る。唯社會上政治上の事情が、國によつて區々であつて、或ものは我々が出て働くに向かぬやうに爲つて居り、或方面に移住するには、我々の生活慣習などが、今のまゝでは之に適しないと云ふ場合が少くないので、個人としても國家一體としても、最初に先づ十分なる準備を以て、移住先の比較選擇をする必要があつたのである。ところが今日の國際知識は、一般にまだ甚しく此研究が足りなかつた。實際奮發して海外へ出ようかと云ふ位の人は、青年の中でも殊に氣力あり、思慮ある部分であるわけであるが、それが皆殆と何の計畫も調査も無しに行つてしまふのであつた。此頃ブラジルなどの淋しい開墾地で、仕事が苦しく金が殘らぬので失望し、不平不滿で日を送つて居る人たちは、何れも單純に人の話を輕信して、外國生活の意外な實?も想像して見ず、況や各自の境涯や要求に適合して居るか否かなどは、丸で考へずに出掛けた者が多い。其内のごく少數は結局成功するか知らぬが、其爲には殘りの大部分が惱み拔かねばならぬ。そんな危險の多い不安心な處へ、親愛なる子弟を遣るに忍びないと、反對する者があるのも寧ろ道理である。
 併しそれは決して移民そのものが惡いのでは無い。選定を誤つたのである。支度が足らぬのである。相當な體力と相當な氣力のある者が、始めから其覺悟で行くやうなら、此類の蹉跌は免れる事を得たのである。移民の爲に臨時の教育をすることは容易な話でないが、全體今の日本のやうな國情で、今の程度の外國地理の教育では、移住を企てない者でも確實なる生活を導くことが不可能である。どうしたものか中小學の地理の科目で、やれニューヨークの人口(78)が何程の、西班牙の首府はどこに在るのと、遠くて縁の乏しい西洋の話なぞは大きな興味を抱かせても、却つて海續きの近隣の、將來交渉の多かるべき方面は、島の名さへも教へられて居らぬ。況やそこに住む今までの土人、支配者との關係、二者の間に立つて正しい生活を爲し得べき移住者の立場などは、考へて見ようにも材料が與へられぬ。廣大なる未開の沃土が遊んで居て、米を作るなら米、棉ならば棉、自分をも養ひ世の中の入用にも應じ得べき機會が、隨分簡單に得られる場合があつたにしても、それを知らぬから百事人の説に一任して、辛抱の甲斐も無いやうな仕事にはまり込んで、一生をむだにする者も出來れば、同情はしつゝも之を指導し救濟することも出來ぬのである。
 そこで必要を前にして迂遠なる手順のやうではあるが、自分は先づ普通教育に於ける外國地理と歴史との教授法を改めて、時間や知識の分量を増すことが出來れば、それに越すことはないが、それが出來なくても、せめて普通の日本國民に適した知識と興味とを精選して附與することにしたいと思ふ。誰も言ふことだが實際日本人の世界に於ける地位は特殊である。國民の此からの希望と理想とは、自から白人の持つものと異なつて居るわけである。廣い海上を勞働場とし、島々の有色人を親友とする爲にも、今のやうな貧弱な知識では仕方がない。それを普通教育に於て與へて置かぬと、其後の機會は殆とないのである。こんな大切な仕事までを怠つて居りながら、補助金でもやつたら移民が増加するかと思ひ、一時増加さへすればそれで問題が片付くやうに考へて居る役人や政治家があつたら、彼等をこそ大に責めて、改心せしめなければならぬのである。
 
       四 何うすれば好いか
 
 移民不振の根本の原因に、教育の不備があつたことは確かであるが、しかもその不備は前にいつたやうな單純のものゝみではない。今一つ背後に更に困難なる經濟教育の改良がある。これを完成するためには愈國民の總努力の必(79)要があるのである。
 日本の移民は至つて短い歴史しかもつてゐないが、これによつて養はれた我々の概念では、移民の成功は所謂錦を着て故郷に還るにあつた。假令本人は早く還ることが出來ずとも、どし/\と郷里へ金を送つて、親族を喜ばせたり土地を買込んだりするのを、目的として人は出て往つた。今年のやうに對外爲香の相場が惡いと、殊に移民の本國送金が増して來る。貿易尻の勘定にはその方が都合がよいので、世間でも好感を以て之を迎へる。それから又色々の品物を本國から取寄せる。太平洋岸の米國では、鯛の刺身まで日本から買つて食つて居る。是が又ひどく出先の國の者に氣になることらしい。支那人は柔和で辛抱強く、或點は移民として我々よりも勝つて居るが、是をやる爲に何れの國でも嫌はれた。本國側から見れば、是れ愛郷心の發露であり、昔を忘れぬ人情の敦厚を意味するのであるが、之を迎へた國としては、いつ迄も他人を家に置いた感じをするから、親みが少く誤解が多く、所謂市民權などは出來るだけ制限して與へまいとする。相手が米人の如き氣儘な者で無くとも、問題と妨碍とはどうしても起り易いのである。
 其上に斯ういふ出稼式の移住勞働には、どうしても向かぬ地方が次第に多くなつて來る。國にはそれ/”\生活の標準があつて、勞働の報酬率の如きもそれに基いて自然にきまる。外國から來て働いて金を殘さうとするには、それよりも低い暮しを爲し得るに限る。早い話が朝鮮人は内地に來て貯蓄を爲し得るが、内地から朝鮮へ行つても單なる勞働では金を殘すことが出來ない。從つて今の日本人がそんな國を捜すとなれば、カリフォルニヤへでも行くの他はない。彼地在來の勞働者に取つては、安い暮しをして略同じ働きの出來る出稼人は、何よりも畏ろしい競爭者である故に、どんな無理をしても之を排斥するので、所謂白人濠洲主義の移民法なども公々然と主旨を言明して居る。あゝいふ國でも企業者資本家の側では、却つて有色人の出稼ぎを歡迎して居るが、政治の上に勞働者の力が行はれて居るから、今のまゝでは排斥を免れることは難い。
 さうすると、第二の選擇は二つしか無い。自分等よりも生活の低い國に在つて、何か別方法で金を儲ける工夫をす(80)るか、さうでなければ、從來の出稼式を改めて、土着してしまふ氣になるかの他はない。支那人も追々に生活を改良して、今では決して最下等の暮しでない。それに南洋の各地も次第に人口が多くなつて、支那人よりも今一段と安い勞働者の居る處が幾らもある。さういふ地方に出稼しては、金をためて還ることも出來ぬわけだが、支那人は極端に辛抱強く、無理な儉約をして小金が出來ると、それに由つて商賣に移つて、永い間には産を爲すのである。ところがそれだけの根氣は竝の日本人に無いから、或は危險を侵し或は無理をして、荒い利得を早くつかまうとする。そこで滿洲や朝鮮などで、地みちな移住者は少しも増加せず誰も彼も官憲や大會社を利用して、割のよい仕事を探すか、さうでなければ此樣な人を相手に、共喰ひをするやうな連中ばかりが横行をして居る有樣であり、北海道や樺太では、いつ迄も土地の開發が思ふやうに進まぬと云ふ結果を見るのである。自國の領土内ならまだ何とかなるが、外國に出かけてそんな濡手で粟と云ふ成功が出來る筈がない。また假に出來るにしても、其樣なことに向く者は日本に幾らも居らず、眞面目な移民にはその眞似は出來ない。そこで米國がたつた一つの行先で、その昨年の排日が、我々の爲には大打撃のやうに感ぜられ、近隣の國土はこれ程廣いにも拘はらず、移民は八方塞がりの行詰りの如く感ぜられるのである。
 前にも申す如く、増加した人口は、出來ることなら國内で職を與へ國内で養ひたい。それがどうしても自由競爭の壓迫を忍びかねて、外へ出た方がよいと考へるに至つたのである。もう其上に彼等に餘分の任務を負はせるのは無理である。永い間には追々出先の生活に入つて、其國の人になることを覺悟させねばならぬ。それを腰掛にして金を作り、再び郷里に持還らうといふ目的をもつて行くと、結局はごく少數の成功の爲に多數が危地を踏んで難澁をすることを、勸めた結果を生ずるのである。
 日本人は南方の人種で、夏の濕氣の多い熱さに馴れ、歐洲人とちがつて足を沾すことを畏れず、熱帶作物の生産には天然の適性を備へてゐる。近來惡くなつたなどといふ者はあるが、その農夫には澤山の優越せる性質がある。一方(81)に世界的なる穀物の不足は來らんとし、土地の未だ利用せられざる大面積は、今なほ經營者を待つてゐる姿である。かうしてなほこの間に有無相通の行はれないのは、他にも若干の原因があるか知らぬが、一つには十年、十五年の短期日に、成功して還つて來ようといふ注文があるからである。是は實のところ眞の移民では無い。生活は至つて樂でも、物價は日本のやうに高い國は、この近所にはない。物の安いのは好いことだが、其代りには多くは收入も少い。土着をして繁榮することは出來ても、財産を金に代へて持つて還らうとすれば僅になつてしまふ。斯ういふ理窟を考へて最初から其積りで、出て行かうといふ者もないのではあるまいが、如何にせん世間が移住を以て、桃太郎の遠征の如く考へ、非常に大きな成績を期待し黄金發見時代の如き痛快なる金儲けがないなら出ても馬鹿々々しいやうに青年を教育して居るので、早今日ではよほど内外に弊害を生じ、此上は隨分苦しい實驗をして見ないと、局面が展開せぬ有樣に迄迫つて居る。自由競爭は強い小賢しい者には結構だが、分の惡い立場に居る者には、處に氣の毒である。限ある國の富を増加する一方の國民で分配しようとすれば、同胞の國にも爭ひがあり、且つ其爭ひが年々に惡化する。國家として力を施さずには居られぬ所以である。
 現在の日本で最も豐かなる産物は、人の智慧と勞力である。之を利用すべき機會は政治家の不注意に由つて諸方面に塞がれて居る。物價の水準を高くして、輸出用の生産を困難にして居ることは其一つである。米國から小楊枝を、獨逸から下駄の臺を輸入して、尚引合ふやうな物價では、手は剰つても之を利用する途はあるまい。之を國外で働かせて見ようにも、この出稼根性では金を溜に行く處がない。從つて僅かのこすい男が山勘の企業ばかりに没頭して、結局は日本人全體の聲價を、豫め傷つけて居るのだから話にならぬ。其弊害の根本に心付いて、早く改良の方法を考へる義務のある者が、それを捨て置くばかりか、寧ろ正しくない連中を世話して居る。物價の方はどうして引下げるかと言へば、需要を減少して下げて行くといふ。其減少すべき需要とは何であるか。奢侈品課税などで抑制し得るものはほんの小部分で、その他は主として日用品ではないか、即ち我々の小兒が餓ゑ、女房が寒がることを意味するの(82)ではないか。如何にも無情なる物價對策と評せねばならぬ。心ある者は、斯の如き無責任を宥恕してはならぬ。一日も早く各自の研究し得たる所を以て、我々の代表者を訓育し指導するやうに心掛け、標語ばかりの移民政策や、内容の乏しい生活安定策を以て一時を糊塗しようとする者を、警戒せねばならぬと思ふ。
 
(83)   文化史上の日向
 
          一
 
 是は一個の旅人としては、些しく大膽なる演題であるが、自分は必ずしも日向の文化史は斯の如しと、言はんとする者でない。此の如き方法、此の如き態度を以て、諸君が此國の過去の文化を考察せられてはどうかと云ふことを述べて見ようと思ふだけである。而も問題は獨り過去の日向人の事蹟のみではない。實は百千年の遠い未來に亙つた、地方の文化が如何に進展して行くべきかを考へる爲にも、自分の意見は尚適用があると信じて居る。即ち諸君の生活の美しさ醜さ、又は正しさと誤りとに、至つて大なる影響を與へる地方々々の文化は、決して中央の人士、殊に都府本位の觀照者の態度を以て、之を研究すべきものでないことゝ、さう云ふ物の見方をする弊害不利益は、地方が端々になればなるほど、愈甚だしくなると云ふことを説きたいのである。さうして我敬愛する宮崎縣人は、此迄果して如何やうなる心持を以て、自分等の過程を考察しつゝあつたか。乃至は又凡そ其樣なる問題は、念頭に置いて見ようともしなかつたかどうか。諸君と共に一たび此點を調べて見たいと思ふ。
 自分は以前既に二度迄も此縣を訪れて居る。其當時の印象に基いて、漠然たる推測を諸君の前に提出して見ようならば、此地方では少くとも三個の特殊なる事情が、必要なる文化研究を遲延せしめて居たのではないかと思ふ。其一つは文獻の豐かでなかつたことである。是は各地方非常に區々なる實?で、概して申せば京都に近いほど、古い記録(84)類に惠まれて居るわけであるが、自分生國の播磨などほ、必ずしも多きを誇るべき地方でなかつた。遠い國でも山形縣の莊内、津輕と南部とには、近世の篤學者の見聞集の類が多かつた。土佐は地形其他の日向に似通うた點があるにも拘らず、學者の古代研究だけは、比べようもない位に進んで居る。吉村春峰と云ふ人が明治に入つてから蒐集分類した「土佐國群書類從」だけでも、一千餘卷六百種内外の、土佐に關する土佐人の著述がある。其以外にも武藤某と云ふ高知の市人の書いた、「南路志」と稱する大部の地誌、それに追加せられた「南路志續篇稿草」の類、よくも僅かの人の手で、是だけ書き集めたと思ふほど、近世三百年間の事業が殘つて居る。但し長曾我部氏以前のものと謂つては、大したものはない。つまり其から後の禄あつて職のない村の郷士などが、閑に任せて郷里の事を尋ねて居たと云ふだけである。
 尤も、記録は古いと云ふことが必ずしも値價《ねうち》でない。却つて年久しく保存せられた文書には、特殊且つ偏頗な動機に出でたものが多いかも知れず、さう云ふ物ばかりが遺つて居るのは、寧ろ誤謬の種になるかも知れない。それよりも物ずきな筆まめ人が道樂半分に、何となく書き留めて置いた隨録類の、偶然の記事が尊いので、それならば今からでも、追々に出來て行く望みは無いではないが、如何にせんもう人に其樣な餘暇が無くなつた。新たに注意を拂ふべき事件が外から現れて、小さな且つ古い事などを顧みて居る氣がしない上に、書いて傳へねばならぬ地方の生活が、寸刻も休まずに變化して居る。全部は變化しきらぬ迄も新しい文明の統一の蔭に隱れて、次第に遠慮深く潜んで往つて、我々の注意を惹くに足らぬやうになつてしまふ。それ故に此地方の如く在來の文獻の乏しいといふことは、人を過去つたる地方の文化に、繋ぐべきセメントの弱いことを意味するものである。
 
          二
 
 第二の特異性とも謂ふべきは、交通の關係である。日向の中原は西に高山の裾野から、東は海の渚に至るまで、隨(85)分宏大なる平野であるにも拘わらず、之を統一するだけの中心といふものが無かつた。今でもまだ無いと謂つてよろしい。其上に周圍の山がどの方面に高く且つ厚く、其外側にも大きな足溜りが無いので、越えて出入をするには張合ひの無い嶺であつた。それ故に往來は專ら水運を以て行はれ、海からばかり世間が之に近よらうとした事情は、海中の孤島に寧ろよく似て居たのである。日向島などゝ云ふ名稱のあつたのも其結果で、從つて亦外部の文化は、船方の上陸して動き得る區域、即ち僅かの海濱一帶を感化するに止まつて居たのである。日豐、日薩の鐵路線が、恐らくは巨大なる變化を爲しとげるだらうと思ふ程、從前の地方生活は特異性を持つて居た。
 水運業者は世間師である割に、寂しい人々であつた。筆まめでもなければ話ずきでもないのが普通である。見て來たものは多くても、還つて語ることは少かつた。水の上に暮す日が多くて、郷土との縁が淺いからであらう。さうした日向島が新時代に入る迄海運までも一時發達を阻止せられて居た。海の口の多くが、世界の一番ひまな方面に向つて開いて居たこと、南北に多くの岬が突出して居て、磯傳ひの頻繁な往來をするのに、辛勞が大であつたことなどが原因であらうか。何れにしても天然の事情が、外界を遮斷せぬ迄も著しく妨害して、早く開かれねばならなかつたものを、いつ迄も、開き殘して置いてくれたのは事實で、その恩惠が此節漸く、諸君の上に及びつゝあるやうに思はれる。それが殆と舊日本の、他の何れの地方にも見られぬ所の、第三の事情の原因とも爲つたのである。
 第三の點は即ち人口の?態である。その最近の急激なる増加である。どう云ふわけであつたか、日向は最近まで、此だけの天惠を持ちながら、常に人の手の缺乏を患ひて居た。無暗に外部の勞働を歡迎する所から、人買船のうそ話さへも噂せられた。人口の稀薄は、通例は餘裕を意味し、一旦は足りなくとも久しからずして人が繁殖する筈であるのに、此地方のみはさうでなかつたらしい。何か生活上の障碍があつたのである。社會史を研究する者には、六つかしいが而も興味ある題目である。察する所孤立作業には色々の天然の制限があり、之を打破るに十分なる協同をするには條件が具足せず、土地は餘りあつて人が尚常に至つて貪しかつたのであらう。日本としては不思議な現象である。(86)南九州には此例は他にもあつた。
 ところが悲惨なる西南戰爭は、偶然にも此地方を全日本に紹介した。中國四國からも九州北半からも此話を聞傳へて急に人が多く移つて來て、中央部の平原に落ち着き、一朝にして繁榮の町村と爲つた。現にこの宮崎市の如きも、殆と各府縣人の共進場の姿があり、五十年内に立派なる都會となつたが、今尚宮崎の方言といふものも無ければ、宮崎の風俗といふものも無い。此點だけは今日の東京とも似て居れば、札幌、旭川、野付牛などゝも似て居る。即ちこの附近一帶の宮崎縣に在つては、郷土の經濟上の相續者は、血の相續者ではない。十年二十年乃至は百年前の新舊住民は、地を隣して住んで居りながら、心持の結合はまだ完成せず、時としては寧ろ相反撥するやうな感情も現れる。公共團體の生存の上には、餘分の複雜さを經驗せねばならぬ場合が多いやうである。
 自分の解する限りでは、二百年ほど前の東北地方が稍此と事情を同じくして居た。あちらでは既に此差別を忘却する迄になつたが、しかも暗々裡に、その融合の不足が、經濟上の一弱點を爲して居るやうに思はれる。ごく具體的に云ふと、親類でない者の割合が多いことが、生存競爭の上に、どうしても餘分の荒々しさを生じ易いのである。しかも地方の特色が多ければ多いほど、府縣として乃至は町村として、共同に攻究すべき利害問題は多い道理であるから、知らずに苦しむよりも早く此事情を自ら意識して、考へて行く方がよいやうである。それには第一に郷土の特長を學び、且つ自分たちの立場を理解することに、一層努力する必要があるので、其點から見れば、今後段々に國外へ出て行つて、新しい村を創設せねはならぬ日本人に取つては日向は先づ一番適當なる練習場と謂つてもよいのである。
 
          三
 
 日本では奈良朝の新政治時代に、支那の制度を多く採用して班田の法などを布かれたとき、日向だけはまだ特殊の事情があるから、全國一樣の法制を適用することを延期するがよいと、仰せ出された記録がある。其頃に隼人族の叛(87)亂が頻發して、其平定は中々簡單でなかつたやうに、宇佐八幡の舊記などにも書いて居る。ずつと大昔の神代の御傳へにも「そじしのむな國」などゝあるのを考へ合せて、以前は蠻人の跳梁する致し方のない地方であつたので、朝廷でも之を御見棄てなされて、中央部の方へ御引移りになつてしまつたやうに、速斷した人もあつたやうだが、荒つぽい物の考へ方である。神武御東征の時から千年以上を隔てゝ後、遠い都の邊に住む人々の語り傳へた物語が、果して地方の實情を寫して居たかどうかは尚此から考へてみねばならぬことで、果して外部の者の想像するやうに、最初の住民が異人種であつたか否かも、實はまだ學術的に證明せられて居らぬのである。のみならず平安朝以降の日向、段々に郡縣化して行つた事情には、少しでも他の諸國も田舍と異つた所はないので單に首府から遠く交通が不便で、從つて開け方が遲かつたのと、文字の恩惠が薄かつた爲に、幾分か其經歴の跡が、分明を缺いて居つたと云ふに過ぎぬのである。然るに幸にして新時代の學問には、必ずしも記録ばかりを當てにせずともよい研究方法が用ゐられるやうになつたのである。此上は全く諸君の親切なる態度、所謂共に榮えんとする志が、地方の爲に特色ある文化を打立てる爲に、前代を囘顧するの勞を取りさへすればよろしいのである。
 人の學問が文字に偏してしまつてから、日本などでは殊に新しい文化の中央集權が甚だしい。政治や行政の統一に比べて、此は一層其必要のないことで、又弊害の大きいものである。自分などは最近の都市生活の紛亂と、自然を疎外する技巧とを淺ましく感じて居る者である故に、殊に地方の人が各自の立場を棄てゝ、一切のものを首府から求めようとする屈從を笑止に思ふ。又さういふ外部の趣味、附け燒刀の教養を標準として、我郷土の生活樣式を批判するやうな人を、地方の指導者とせねばならぬ事情を不本意に感ずる。此點は歐米の制度文物に對する近頃までの日本人の態度と、幾分か似通うた所が有るが、所謂西洋心醉は、如何なるハイカラでも、久しく續けて居るうちには必ず不安を感じ始める。模倣をしてはならぬ部分があることに追々に心付いて、選擇もすれば判別もする。飜つては又國柄の相異、民族の歴史の差に基いて少なくとも自他の優劣を、比較して見ねばならぬ必要に逢着する。それが一國内の(88)大都市と地方との間には、まだ一向に行はれて居なかつたのである。其中でも交通の至つて容易なる中央部に近い府縣で、十人が五人七人まで事情通であり、所謂錦の裏の有難くないところ迄知り拔いた者の話を聽くとか、さうでなければ假に見當ちがひであらうとも、色々の御國自慢があつて、さう/\は都の人ばかりに威張らせないと云ふ自負心を持つ地方ならば、まだ或は無用の屈伏から救はれる見込もあるが、此二つの條件が二つながら缺けて居る地方は災難である。ちやうど今迄選擧權を與へられなかつた民衆と同じやうに、兵役なり、消費税なり、人竝に貢獻はして居りながら、政策は人任せで徒らに運動員の名を成すに止まつた如く、自分たちの境遇に適應した生存の計畫を立てゝ見ることすら自由でなく、上に立つ少數の政治家が、間違つた處分をしてくれぬやうに、祈願をするの他はなかつたこと、殆と領主專制の時代と大きな變りはなかつたのである。
 斯の如き?態で地方の公共生活に大なる騷動も起らず、成績は擧らぬ迄も是といふ障碍もなしに全國統一的の行政が持續し得たのは全く中以下の日本人が珍らしく醇朴な、平和な性情の所有者であつた御蔭で、假に今後も此通りで進行することが出來なくても、寧ろ不思議はないのである。教育を施せば青年が物を考へるやうになる。世間の知識を與へれば幸不幸の比較をするやうになる。さうして利害の牴觸が明白になつた場合に、勝手放題に如何なる手段を以てなりとも、自分々々の便益を講ぜしめて置くならば、公共團體が永く平穩なる生存を續けられよう筈がない。僅かの有力者が強壓を以て統一を保つ場合でない限り、國を固めるにもやはり一種のセメントが入用である。調和と云ふからには個人の場合と同じやうに、地方々々にも亦各自の特性を見出し且つ示さねばならぬ。而して日向の文化の傳統は何であつたか。能く日本の宮崎縣として、全民族の進運に貢獻し得る力は何れの點に存するか。從來は未だ此問題を討究するやうな機會が無かつたらしいのである。
 
(89)          四
 
 舊日向人の境遇は、なるほど必ずしも多幸でなかつた。南國の豐かなる天然を利用して、其恩澤を天下と共に頒つ迄に繁榮する能はずして、久しい年月を過ぎて居た。それを今日の?態迄持つて來たのには、最近の新來住者の力が多いことは認むる。しかも之に由つて住民の二種を區劃し、文化の傳統を遮斷してしまふことの不當であるは申す迄もないのである。此地方へはずつと久しい昔から、人が中央部の方より段々に入り込んで來て居る。不十分なる地理の智識、交通の方法の得にくいにも拘らず、どうにかして我々の仲間が遣つて來て居ることは、數の多少を除くの外、昔も今も變りがないので、それが又江戸時代の初期などの領分割替の頃からでなく、遙か以前の國司時代から、少しづゝだが引續いて居たことは、今後僅かばかり諸君が注意を拂はれるならば、今に必ず明瞭に判つて來ることゝ信ずる。さうして永い間には日本の平民史に最も興味ある數十頁を、新に附添することが出來ると思ふ。
 之を簡單に謂ふならば、日向はもと人口稀薄の地で、其地勢は島のやうであつたけれども、來て住み村を起した人々は、夙くから我々の近親であつた。彼等の感情と信仰との如きも、不思議な位に他の地方の我々と一樣であつて、如何なる部分にも日向式と名づくべき特殊のものは無かつた。例へば近頃自分が注意を拂つて居る所の、口碑や習俗の一面から考へても、澤山の證據が見出される。之を手短に話すことは六つかしいが、前年歩いて見た西臼杵郡の椎葉の山中などは、此地方でも殊に外部からの影馨の少ない部分であるが、平家の殘黨を追撃して那須氏の一族が入つて來て住んだと云ふ迄は確な根據はないけれども、住民が第一自ら移住者なることを信じて居る。さうして所謂平家負の物語、白色を忌とする風習の起源などに、全國各地の山村と共通な言ひ傳へがある。屋敷に地取り家の構へ、爐の周圍の名稱や、筧物洗ひ場のかゝり迄も同樣である。小さい事ではブヨを蚊と呼び、蚊を夜蚊と謂ひ、薇のホドロを藁しべで卷いて、火をくゆらせたのを腰に下げ、其煙で蚊を逐ふものを蚊火と謂つて居たが後年越前の石徹白と云(90)ふ山中に於ても全然此と同じ物、同じ名稱に出違つたのである。他の府縣の山奧の村にも、必ず共通なものがあるので、類似は獨り白山西南の谷のみでないものと思つて居る。耳川流末の美々津の町に往つて見ると、神武大帝は此地から船出遊ばしたと稱して、町には御腰掛石といふがあり、海上の二つ岩の中間は、既ち天皇の御船の過ぎた前例に從ひ、出でゝ再び還らんとする者は、今でも決して此間を通らぬことに爲つて居る。ところが此二種の口碑、二種の石の名は亦弘く全國に分布し、たゞ一つの相異は、之を神武天皇以外の貴人英傑に託して居ることである。既ち此類の傳説の保存せられるのには、各地共通の原因があつたらしいのである。
 それから又日向ときけば必ず聯想する惡七兵衛景清の故跡、即ち所謂生目八幡の縁起も類例が多い。景清眼を抉ると云ふことは、歴史では説明せられて居らぬが、傳説上の景清は到る處に於て眼を傷つけて居る。而して又八幡の從神として、諸國に於て祭らるゝ鎌倉權五郎景政の話と、種々の點に於て似通つて居る。誤つて居るにせよ正しいにせよ、日向の人たちの獨創でないことは確實で、自分などは數百年前に、日本で最も特色ある八幡神の信仰が、かの北方の險山を越え、又は艱難の船路を渡つて、此地方に入つて來た興味ある痕跡なりと考へて居る。それを諸君は珍らしいものとして人には語るものゝ、同時に又其邊土らしい荒唐無稽を笑つて居らるゝであらう。同情の乏しいことである。
 際限が無いからもう一つだけでおしまひにするが、諸縣郡の方面では、和泉式部の逸話を傳ふる靈佛の藥師の御山があることを、たしか三國名勝圖會にも詳しく誌して居る。和泉式部瘡毒を病んで此佛に?つて驗無く、「身より佛の名こそ惜けれ」、即ち私は兎に角、藥師樣の名譽にかゝはりはしませんかと云ふ意味の歌を詠んだ。さうすると佛樣「村雨はたゞひと時のものぞかし、おのがみのかさそこにぬぎおけ」と云ふ歌を御示しなされて、瘡はすぐに全治したと云ふ話で、之に伴ふ遺跡なるものが、附近の地に幾らもある。ところが、此と全然同一の贈答の歌が、全國に亙つて何箇處と無く人口に膾炙し、現に東京近くでも、群馬縣の何とかいふ村にある。靈佛は觀世音であることもあ(91)り、女性は小野小町であることもあれば、或は和泉式部だとも謂ふが、歌人にしてはあまり此は名吟ではない。日向では播州書寫山の性空上人が巡錫したと云ふ口碑が多い。從つて和泉式部までが此邊に來たことになるのであるが、性空か弘法大師かは知らず、兎に角此方面へ、相應有力なる佛徒が入り込んで、住民に大きな感化を殘したことだけは疑ひがない。書物記録は乏しくとも、斯うした痕跡がある以上は、之を推斷することを得るのである。東京では近頃柳宗悦君其他の篤志家の力に由つて、百數十年前の隱れたる佛師・木喰上人五行と云ふ僧が、遠く富士山北の村から出て、此國の國分寺に來り住すること十年、多くの遺物を留められたことが始めて世人に知らるゝに至つた。地方の學問が追々に進んで來るならば、多數の明治時代の移住者に先だつて、豫め此地方の文化を開發して置いてくれた功勞者の事蹟が、尚幾らでも發見せられ、從つて諸君の新郷土に對する愛情を、今よりも一層濃かならしめるであらうと信ずる。
 さうなると問題は更に轉じて、此の如く中部諸國の住民の或者を、まだ交通の至便でなかつた者から、常に引寄せ誘ひ致した日向國の力は、如何なる種類のものであつたかと云ふことになるが、之が亦心ずしも此地方だけに限られた特性ではなかつた。地方の力は要するに人を養ふの力、餘裕を以て遠く施すの力であつた。最近の實例でも極めて明かな如く、中央の文化の根原には、常に國の端々の靜かな田舍に於て育て上げ且つ送り出した屈強なる人の働きがあつたのみならず、之を維持するにも、やはり諸君の絶えざる供給を必要としたのである。日本をより美しくより強くする爲に、地方の加擔した部分は實際大きかつた。都市は單に工場の主人に過ぎなかつたのに、人は之を魔術師の如く仰ぎ視るのが普通であつた。與ふべきものを十二分に自ら持ちながら、尚彼等に向つて乞ひ求め、其恩惠に感謝するのみか、時としては媚びへつらふと云ふ程度に其機嫌を取つた。さうして文化はいつでも中央本位の、隷屬關係に甘んじて來たのである。此弊は日本と西洋との交渉に於て夙に現れて居るが、本國と植民地、乃至は首都と偏鄙の地方との間には、所謂國家統一の美名に絆されて、今尚何人にも怪しまれずに、普選制度の今日迄も看過せられて居(92)る。
 箇々の國民が各自の價値を意識しなければ、眞の國家結合は出來ぬと同じく、各府縣も亦自分の本當の地位を、學問といふ鏡に照して知つてから後でないと、憲法政治の目的を完成することは六つかしいのである。根柢ある地方文化の、尚大に長養せられねばならぬ所以である。
 
          五
 
 所謂地方人の誇り御國自慢と稱するものには、存外子供らしいものが多かつた。風景である、名物である、乃至はタカの知れた名士である。假に宿屋の亭主が説き、都の旅人が感歎しても、それが住民多數の生存とは何の交渉も無い場合が、隨分少しとしなかつたのである。併し之を考へて見ようとする心持は、やがては各地の青年の意識に、憑むべき何物かを與へる時があるであらう。實際此國の如く、意味の深い上代史を持ちながら、後次第に世間から遠ざかつて、以前の因縁と效績が忘れられ、高聲に叫んで漸く顧みられると云ふ例は、九州の端としても珍らしい。と謂ふのは一般の學風が、所謂目を貴び耳を賤しんで、書いたものを唯一の材料とするからでもあつたが、尚一つには、新たに移つた人がまだ郷土に對して十分の親しみをもたぬ爲もあらうと思ふ。どうか他の地方よりも一段と進んで、國に對し又人類全體に對して貢獻し得る仕事は何であるかを、ずつと淵源に溯つて考へるやうな氣風の、次第に成長せんことを希望する。
 日向と云ふ國の一つの特色は、我民族の郷里、即ち前の生活に、少しばかりだが近いと云ふことであらうと思ふ。自分は妙な動機から、十七年前の旅行の時以來、此郡の青島を著名にしたビロウと云ふ木のことを考へて居る。さうして近く此問題について小さな本が出るのである。其本の廣告のやうに聞えてはいやだから、買つて讀まれずともすむやうに、要點だけをお話すると、ビロウは私の見る所では決して南洋などから飛んで來たものでなく、日本在來の(93)植物で、各地に繁茂して居る。豐後水道の東西の島々、九州西側の多くの島にも、此木の成長する處があるのみならず、以前は瀬戸内海にも、幾つかの蒲葵島があつたらしい。それが處によつてはもう絶えたのは、我々の生活の爲に入用が多かつた爲で、僅かに之を今日に保存し得たのは、青島に於て見る如く、信仰の力であつた。
 中世の京都では檳榔毛の車又は輿と稱して、此葉を晒したもので葺き蔽うた乘物が盛んに用ゐられた。近衛殿の莊園、鎭西志摩戸莊に産するものを所望して用ゐたと云ふのは、多分今日の志布志のビロウ島からかと思ふ。併し其より前には太宰府の管内で他の島からも之を貢進したらしい。延喜式には年々之に由つて馬蓑螻蓑の若干を製したとあり、又藥用に其樹實をも納めたとある。伊豫國からも澤山のビロウの葉を貢した。其葉を扇として、天皇陛下の御食事の火を起し、又御飯を煽ぎ冷すとあるのは、何か信仰上の理由があつて是非とも此葉でなければならなかつたことと思ふ。後世まで伊勢神宮で此葉を用ゐて居たと云ふ話もある。しかもあの邊の風土にはもう此植物は適せず、多いのは此から南の島々であるから、此葉を愛用する風習が古いとすれば、それは此民族の曾て南の方に久しく住んで居たことを推測せしめるのである。七島以南の大小の島々に行くと、ビロウの信仰上の地位が次第にハツキリと分り、而も一つとして我々の習慣と相反するものは無いのである。皇祖御東征以來二千六百年の間、此國はその昔の神聖の樹木を保存して來たのみならず、尚絶えず之を以て中央の文化と連絡し來つたのである。さうして又海の勞働を一つの生活要件として居つた。日本の太平洋研究が、是より大いに進まうとする場合に、日向が其先鋒として働くべき使命は、夙に定まつて居たと思ふ。曾て豐沃なる土をもつて同胞を養つて居た如くに、此からは又新しい學問を以て、一國の開發に貢獻せねばならぬ。徒らに中央の文化に隷屬して終るべき土地柄ではないのである。
 
(94)   日本の人口問題
 
       一 政治の實地練習として
 
 人口問題を研究しようとする者に向つては、日本でも相應に確實な資料が備はつて居る。過去五十餘年間の統計局の事業は、殆と今日の爲に用意して居たやうなものであつた。然るに大きな數字の排列は、何か理窟つぽい面倒くさい事柄のやうな感じを與へ、馴れぬ人には是が却つて此間題に近づきにくい原因であつた。しかももうそんな事は謂つて居られぬ世の中になつて居る。故に最初は先づ出來るだけ計表の數字から離れて、如何なる利害又如何なる興味が、我々を此間題に緊ぐかを考へて見るのが順序である。
 世界の多くの國の中でも、今日の日本は殊に人口論の研究に持つて來いの國である。日本人で無い者迄が、多大の注意を我邦に拂つて居ることは事實であつて、單にそれが学問上の經驗であるのみならず、日本現在の傾向は遠からぬ未來に於て、其影響を弘く近隣の國々にも、及ぼすべきものと認められて居るのである。至つて統計には冷淡なる素人たちの眼にも、見遁すことの出來ぬ最近の現象は、所謂人口の増加であるが、日本はほんの僅かな例外を以て、地球上の何れの國、何れの島よりも其増し方が著しい。而して問題の眼目とする所は、人々の増加は其國に取つて、悦ぶべきことか、はた憂ふべきことかである。或は又時と場合とに由つて、結構だと謂ふべきものもあれば、困つた(95)ものだと謂はねばならぬのもあるのか。若しさうだとすれば、我邦の現在は二者何れであるか。全然自然の成行に放任して置いてもよろしいか。もしくは又國として、何とか之に對して處置方策を講じなければならぬか。我々は當の日本人として、之をどつちかに決定せぬ限りは、いつでも人の説に迷はされ、煮え切らぬ政策に引廻されて、失策ではなかつたかと云ふ不安心を抱かねばならぬのである。
 人口増加は善くも無く惡くも無いと謂ふ者、どうなつても構はぬと云ふやうな見方をする者は、此頃はもう無くなつたかと思はれる。さうして斯うどし/\と人が殖えては、何とかせねばなるまいと感ずる者が、追々と多くなるやうである。食物や衣類が、國内の生産だけでは少しづつ不足を告げるやうで、現に物價が甚だ下りにくい。失業者と云ふ名詞は此頃よく耳にするやうになつて、一旦地位仕事を無くした者は、再び有り付くことが中々六つかしい。つまり漠然と人が不景氣と名づけるものが、以前の如く敏活に波?を爲して進退しなくなつた。もしか其根本の原因に、人が多くなり過ぎたと云ふ事實が有るのであるまいか。斯ういふことを考へる人が大分に出來たのである。
 假にもし此推測の通りであるとしたら「何とかしなければならぬ」の「何とか」は何であらうか。第二段には其方法を考へさせられる。國家は大きな權力の主體ではあるが、人の生れて來るのを制止することは出來ない、せい/”\足らぬものを豐かにし、求める人に與へる迄の目算しか立てられぬと謂ふならば、ちやうど此節の政府政治家が、努力して居るのが適當だと云ふことになるかも知らぬ。只其方法は何人も容易に氣付くものであると同時に、いつも成績が思はしく無い。しまひには誰も之を當てにしなくなり、何か今一層名案が有りさうなものと云ふことに歸着する。さうして色々の思ひ切つた意見、例へば金の非常にかゝつて國民の負擔しきれぬもの、或は他の國が苦情を謂ひ出して、邪魔をしようとするやうな、方法なども提案せられる。我々の腹がきまらぬ間は、幾らとも無く此類の議論が發生して、善いにも惡いにも到底實行する見込が立たなくなる。最近日本の人口問題は、恰かも此?態に陷つてしまつたのである。
(96) そこで研究者は心を平らかにして、今一つ根原に溯つて、果して世の所謂生活不安定に、人口の増加が關係を持つて居るかどうか。若しさうだとすればどの點が最も忍び難いかを、篤と考へてかゝる必要がある。それ次第で救濟の方法にも、緩急順序の選擇があるからである。此研究の價値ある點は、單に當面の論議を裁決して、早く社會改良の效を奏するのみでは無い。精確な材料に基いて學問上の法則を實際生活に利用する好い慣習を作ることが一つ、個人の立場からは是といふ利害關係も無い問題で、各自の智能判斷力を一般の爲に用立てることが又一つである。即ち諸君の公人生活の練習、政治の眞の精神の理解の爲に、是ほど好い機會は又と無いのであつて、普通選擧時代の經濟の學問は、此入口から入るのが一番便利だと言つても、決して身勝手の説では無いのである。
 
       二 昔風の考へ方
 
 數多い民族の中には、現在に於ても尚少しも人口の増加せぬものがある。年々きまつて幾らづつか減少して行く人種さへある。
 日本のやうな國ですらも、或時代にはちつとも増加せず、時としては前より少なくなつたこともある。個人の家でも同じことで、原因は千差萬別、中には今以て不明のものもあるが、或時は一人にもなり或時は子孫繁榮する。さうして勿論人の多くなることを目出たいとしてゐた。村でも町でも、愈人が増加してからの結果は別として、少なくとも増加と云ふ事實は平和幸福の兆候であつた。從つて人が自然に多くなるやうな世の中を、悦ぶと云ふ習ひは久しかつた。増加しては困ると謂ふことは、恰かも繁昌しては困ると謂ふと同じやうに、人情に反する言葉に聽えた。其上に人を使ふ者の立場から言へば、いつになつても多くて迷惑と謂ふ時は無い。人の割に土地天然のまだ有り餘る國柄では、働く人の方から見ても、やはり多い程有難かつた。仕事さへあれば家長は常に大家族を悦び、今でも壯年の(97)子女の多い家は羨まれる。所謂貧乏者の子澤山を、歎息せねばならぬやうになつたのは、ほんの近世に入つてからの經驗であつた故に、其以前の久しい年代の慣例は今も強く殘り、殊に誕生を、祝賀する儀式となつて、一般に認められて居る。其間に在つて誰から始まつたとも無しに、人の多過ぎるのが社會の病であるかの如く感ずる者が、此樣に弘まつて來たことは、實は驚くべき變化と申すべく、人に由つては今尚人口の繁殖其ものは、惡いことでは決して無く、たゞ周圍の事情が現在の如く窮屈で、此が爲に難澁もし心配もしなければならぬといふことが、國の不運又は逆境であつて、此方をこそ何とか改革しなければならぬと思ふ者が有るのは、寧ろ人間として自然な考へ方だと謂つてよろしいのである。
 實際のところ、人口問題の多くの議論は、今日の如き國際組織、領土保有の樣式を一定不變のものとして、それから出發して居るのである。もし國と國との境が自由なもので、風が空中を行き潮が洋上を走る如く、人が勝手に動いてあるかれるものであつたら、或一二の國民が特に熱烈に人口政策を講究する必要は無かつた筈で、從つて世界を通じてまだ當分は別に問題として此事件を取扱ふ必要も起らぬのであつた。しかも一國の内又は一町村内では、此は我が土地、あれは他人の土地と早くから分界があつていくら一方が廣く、他の一方が不足をして居ても、容易に借用することの出來ないことはわかつて居たのに反して、國と國との間にはつい近い頃まで、定まつた主の無いかと思はれる大きな地域があつたのを、欲しいと思ふ民族が出かけて行つて取込んで居たので、日本などでもあの小さな小笠原諸島だけは、斯うして自分の版圖に入れたのであつたが、奈何せん時が少しおくれたばかりに、宏大なる北亞細亞の大陸は露西亞、太平洋上の多くの島は英佛其他と云ふやうに、それ/”\の國の領土に爲つてしまつて、勝手に誰でも行つて住むわけに行かず、其結果甲の國は人口の割に土地が廣々とあり、乙國では日本の如く、人口問題を早く何とか解決せねばならぬと云ふ風に、甚だしい國情の相異を生じたのである。
 最近國際移住の障碍に付て、段々と不愉快な實驗をする迄は、多くの日本人はまだこの近世の大なる變遷を、十分(98)に呑込む折を持たなかつた。殊に所謂強大國が、始めて遠方の屬領を獲得した時には、大か小か關係諸民族との間に爭論もあれば無理もあつた。世界全體に通用せぬ理由などで、押取をしたと云ふ話もあつた。と謂ふよりも元はそれが普通であつた。のみならず眼前にも戰爭が行はれて、勝てば領地を廣め得る實例を見る爲に、今後も猶引續いて、外交上の技術や武力の強壓に因り、結局此問題を不必要に爲し得るのでは無いかと、想像する者が有つても不思議は無い。併し、當否を判斷すること迄は、人口論の範圍で無い。我々は單に國と云ふものが濠洲や米國見たやうに手前勝手で、こちらの事情を參酌して移民法の手加減をしてくれぬ場合、即ち一町持つ農夫が一町を耕して、兎に角生存をしなければならぬと同じやうな、現在の國際關係の下に於て、どう云ふ風に計畫して行くことが、一番斯邦の爲に幸福であらうかを、考へて見るだけである。別な説き方をして見れば、日本の人口問題は眼前の實際問題であつて、少なくとも國の政治に携らうとする者だけは、此からの政策の利害得失を鑑定するに必要な素養を持たねばならぬ。茫漠たる悲觀説に苦しめられ、又は實現し難い野望を夢みて、年月を空過して居るのは損だから、先づ少しでも問題の眞相に近づかねはならぬのである。
 
       三 人口の自然増
 
 所謂舊日本の人口は、明治の初年に比べて大凡倍にならうとしてゐるが、それでも氣を付けて見ると山奧の不便な村などには人數の一向に増加せず、甚だしきは却つて少なくなつた處さへもある。即ち小さい一つの國の内でも、人口の割振には著しいむら〔二字傍点〕がある。國と國との間には殊に輕濟事情の差が大きいから、國境を越えて來往することは自由自在として置いても、やはり或程度迄は土地に由つて、住民數の割合に多少が生ずる。世界の人口は全體に於て毎年殖えて行く故に、どの國に行つても同じ傾向を取つて進んでゐるものと思ふ人があるかも知らぬが、實際は決して(99)さうでない。獨り一の國は大に増し他の國は僅かに増すと云ふ差のみならず、同一の速度を以て繁殖してゐる場合とても原因及?況は一つで無い。地誌の知識が精密になり、交通方法が發達してから、何と謂つても人の移動は盛になつた。國から出て行くものゝ數より、國外から入つて來る者の數が超過することに因つて、人口の増加すること恰も神戸門司等の新興都市の膨脹を見るやうな例は幾らも有る。近來頗る制限の方針を示したけれども、米國の如きは現在國民の三割以上が他國で生れて一代の中に入つて來たものである。南米の國々は今正に盛にこの移住者に由つて人口を増加して居る。此れとは反對に日本などでは國内の都會のみは斯うして成長するが、國全體としては單純なる自然増、即ち死んで行く人の數より生れて來る者の數の超過する部分だけを以てこの増殖を形成して居るのである。なる程昔は居なかつた西洋人其他が入つて來て住んで居る。近頃になつては朝鮮から來て働く者の他に、支那人や露西亞人迄が目に立つやうになつたが、それは目に立つと云ふのみで數にしたら何程でも無く、今後とても此原因から、増す部分を大きく見積る必要はない。但し國全體としては人が剰つて、もう澤山と云ふ場合にも、部分々々には何か需要が有り得ること、殊に職業に特色があり生活程度に差等があれば、日本ほど人の多い國に入つて來て、兎に角働いて幾らか貯蓄する外國人も有ると云ふことは、我々の研究に取つては一つの參考であつて、方法さへ立つならば國内勞働の分賦に由つて、今一段と幸福な生存が、出來るかも知れぬと云ふ希望は與へる。けれども結局の所は自然増の場合の方が、移住増よりも國の力で調節のしにくいことだけは、爭はれないことである。
 次に同じく自然増の中にも、國に由つて?況の異同があること、是亦注意を怠るべからざる重要な點である。實例を以て説明する方が簡便であるが、日本近年の自然増率は、一千人に付年十二人強である。歐洲では北方のノルウェー共和國も、殆と同じ割合に増して居る。而も後者に於ては出生率が年に僅かに千人に付二十四人強、之に反して日本では同じく三十五人近く生れる。それが同率の自然増に歸すると云ふのは、つまりは死に方の多少であつて、我邦では一千人に付年に二十二人八分死ぬに對して、ノルゥエーでは十一人九分である。國民生活の實地に向つて、此の(100)如き相異が何の關係も無いと云ふ筈は無い。日本の人は千人に十二三人、全くむだに生れて來ると謂つてもよいのである。産の前後の親の骨折、病んで死ぬ迄の心配や費用が、一方に比べて是だけ加はつて居る。死ぬ者の年齡や境遇、病氣の種類などの細かい點までを究めたら、同じ無益の出産といふ中にも、亦色々の幸福の差等が見出されるかも知れぬが、通例は滿一歳までの赤兒の死ぬ者が多い。醫術の進歩は今日の如く、資力の有る者は其全力を擧げても、親の愛を完うしようとするのが常であるのに、尚日本は珍らしく嬰兒死亡率の高い國である。斯ういふ子供が命だけは取止めて、脾弱に生長すると云ふ場合にも、不幸はやはり同じである。親族の係累損失は別として、本人自身の生存としても、決して十分に滿足であり得ない場合が多いことゝ思ふ。之を考へると人口の増して行く事實も、必ずしも一樣に國民安樂の兆候と見ることは出來ず、同じ自然増の中にも或は更に多量の悲歎憂慮を包含するものもあり、又それの少ない場合もあると云ふことが分り、假令苦闘をする迄も兎に角人數だけは多くして置きたいと希ふ人々でも、恐らくは此樣な減算は悦ぶことが出來ぬであらうと思はれる。
 
       四 自然増の種々なる障碍
 
 出産率の更にノルウェーよりも少ない國がある。大體に於て歐羅巴では、生れる割合は少しづつ減じて行く傾向が有るが、同時に死ぬ數も少なくなつて居る故に、一二の例外を除いては、相應な自然増を保つて居るのである。?況の日本よりも一層惡い國も勿論有る。支那は古くから子供を粗末にするので有名な國である。數字の根據は得にくいが、飢饉でも何でも無い年に、世話の不行屆から死ぬ赤兒の非常に多いことは、宣教師旅人の見聞録に?述べられて居る。さうして亦生れて來る數も、同時に甚だしく多く、爲に人口は次第に増して來るらしいのである。印度も事情が頗るよく似て居る。近年の出産歩合は千人に付四十人内外に及んで居たが、死ぬ方でも日本より遙かに多く、時(101)としては三十二三人の年もあり、大正七年のインフルエンザの年などは其倍になつて、人口が減少した。他國の實例と比較して見ると、始めて自國の弱點は知れるが、大抵の國ではもとは統計も一覽表も無かつたから、之を所謂世の習ひと考へて是だけ死ぬのも通例のやうにあきらめて居た。我邦の昔話の中にも、ある神が誓ひごとをして、一日に五百人づつ殺すと謂ふと、他の神樣は、そんなら一日に一千人づつ生れさせると、揚言せられたといふ話がある。死ぬのは是非が無い。それを補充してまだ餘るほど生れるやうにと謂ふのが、今までの人たちの希望であつて、死なせぬ工風の方は一般に疎かであつたのである。
 日本人には數百年前からの人口數が、不完全乍ら記録に殘つて居る(社會事彙、ジンコウ)。之を見ると大分以前から六十六箇國の人口は二千萬人を越えて居た。今日の速力で増したものならば、明治初年には其倍以上になつてもよいのであつたが、明治五年の計査では三千三百萬であつた。即ち維新以後のやうにどし/\と増すことは無く、時々は逆戻りなどをして、遲々として進んで居たらしいのである。而うして其理由は如何なる點にあつたか。新日本の變化はどういふ好影響を一般の人口に與へ始めたのであつたか。之をよく觀察して見ることは、此間題を研究しようとする人には好い參考であると思ふ。江戸時代以前の人口が、はか/”\しく殖えなかつた主たる原因は、生れ方が少かつたのか、はた死に方が多かつたのか。又は雙方半分々々であつたものか。生れ方の多少は第一に縁組の多少に由る。今日に比べて獨身生活の者が多かつたかと思ふのは、僧尼の數と品行の優つて居た事が一つであるが、其結果は非常に大きかつたとは思はれぬ。次に奉公人には男女とも結婚の遲くなる者が相應に多かつた。是も或程度までは生れる子の數を減じたかも知れぬが、其他の普通の縁組に於ては別に今日よりも妨害が多かつたとは思はれぬ。貧乏な階級の食料は餘程今日よりも粗惡であつた事は疑が無い。母親の營養は妊娠に影響すると考へられて居る。併し凶年の後に出産の少ないのは勞苦が多くて同棲の時が少ない爲もあつて、單なる窮乏が子を持つ力迄も奪ふか否かは未だ確かめられて居らぬのである。それに比べて遙に食物の影響を受け易いものは生れて育たうとする者の生命であつた。
(102) 過去の死亡率の消長に付ては、出産率の方よりも稍確實なる推定をさせる史料がある。就中中古の戰亂の民生繁榮の爲に有害であつたことは、何れの方面から見ても疑が無いのであるが、幸にして我邦では夙くから其災を免れた。秀吉の統一事業が完成する前には、隨分甚だしい人口の減少があつたやうだが、關ヶ原の合戰で全國的の動亂は終を告げ、それからの三百何年間には、恐くは今度の大震災ほど、一つの原因から多人數の死ぬことは、澤山無かつたであらう。戰爭の次には流行病が算へられる。是も記録には強烈に語つて居るが、人口の密度が大に進んでからの安政度のコロリや、又は數年前の西班牙感冒ほどのものは、さう頻々と出現したのでは無い。日本は海で外國と隔てられて、昔から此點には幸福であつた。少しく疫病の蔓延する兆が現れると、極度に警戒し又逃避した。故に個々の邑落の激しく荒された例はあつても、國全體としての人口の上には、著しい痕跡を留める迄は無かつたかと思ふ。
 之に反して第三の原因たる飢饉の害だけは、是も島國であつた御蔭か、存外怖ろしい打撃を與へて居る。近世日本の文化程度を以てして、文字通りの餓?路に横はると云ふことは信じられぬやうであるが、支那でも印度でも瓜哇でも、二十世紀に入つて後、文明政府の眼の前に於て、尚此事があつた。殊に日本のは單純なる貧窶からでは無く、一つには國の内外の交通が自由で無かつた爲もあつた。現に最近天保度の凶事などは、小判の風呂敷包を首に結はへて、餓死して居たと云ふ話さへあつて、全く食料品の缺之であつた。天保の前に近く接して天明度の凶作があり、東部日本の弘い地域に亙つて、隨分澤山の人が死んだ。其前の大きいのは享保十七年の蟲害で、是は近畿中國から、西半分の日本を荒した。此外にも小さい凶歉は無數に有つて、明治に入つてからも幾度か、奧羽地方は其犧牲であつた。日本が氣象の變化の激しい國で、時々の風水害のみならず、?旱魃早冷の襲撃を被むることは、正しく餘分の負擔であつて、獨立小生産業の此からの經濟組織に於ては、蓄積は益六つかしく、食物供給の方法はいつ迄も我々の心配を取去ることが出來ず、從つて未來の人口問題を一段と面倒にすることゝ思ふ。
 併しながら飢饉の直接の妨害は、それでも未だ一時的のものであつた。此が爲に失はれた人の數だけならば、他の(103)多くの災害の場合と同じやうに、遠からず補?して傷痍の痕を見せぬやうにすることも出來た。只それよりも尚影響の大きなるものが、實は尚其他にあつて、引續き日本の人口自然増を制限して居た形である。それが明治の新時代に入つて、突如として取除かれたのが實は顯著なる變化であつた。
 
       五 近世の悲しい實驗
 
 江戸期の農政の書物を見ると、百姓などは何の思慮も無く、有るに任せて圍ひ米でも浪費する者だから、常に戒めなければならぬやうに述べてあるが、實際はさう云ふ大膽な不心得者は、寧ろ例外であつた。少なくとも大凶作の經驗は、質朴な村の人に取つては、其樣にうかと忘れてしまふやうな、なまやさしい印象では無かつた。只彼等の手一杯の生計では、兼て飢饉年(ケカチ年ともガシ年とも謂つた)の用意に貯蓄をすることが出來なかつたかは知らぬが、それは寧ろ彼等心中の危倶不安を加ふべき原因であつて、彼等が災厄を無視して居た證據では無かつた。食物の缺乏に基く多數の死、此ほどの大事件は凡人には他に無かつた。況や受難者は多く親族友人であつたのである。之を考へると何としてなりとも、此次の飢渇の災を遁れたいといふ考が切で、其結論としては頗る足手まとひとなるべき子供の多いことを忌んだやうである。當時の行政廳に於ても、凶作の慘毒は十二分に之を實驗し、直接の被害者に同情はして居たが、其豫防策としては僅かな積米を自ら企て又他に勸めるか、又は代用食晶として野山の草木を指示する位より以上のことは出來なかつた爲めに、勿論公然とでは無いが、百姓の行ふ所の産兒制限法を、或程度までは止むを得ぬ手段として、大目に見て居たのでは無いかと思ふ。
 産兒制限の方法は、今日と雖まだ有效無害といふ迄に進んでは居ないが、以前多くの田舍に行はれて居たものに至つては、殊に亂暴至極のものであつた。彼等の方法はまだ避妊といふ所へも行つて居なかつた。婚期を遲くして生活(104)の準備を萬全にするといふことは、中々實行の六つかしい理想案であつた故に、多くの場合には既に身ごもつてから後に、結果を避くる策を考へ始め、墮胎は固より尋常人には望まれぬ技術藥品の力であつたから、大抵は死んで生れるやうに、又生れる子が死ぬやうに計畫して、之を長養する煩累を遁れようとした。今から考へると無殘なる方法であつた。其爲に嬰兒の成育率は愈少なく中には其死亡を以て親々の故意と責任とに歸せねばならぬ例も多く、明治の世に入つて刑法が成文となつて後も、片田舍の物を知らぬ小民には之に觸れる者が頗るあつて、それが罰せらるべき惡習慣なることを一般に教へる爲に、大變な努力を必要とした事實は、今でも記憶して居る者が少なくないのである。
 自分の尋ねて見た限に於ては、此弊風と百年前の大飢饉の災厄とは、地方的に關係がある。此種の行爲は人に隱して行ふことは出來ぬにも拘らず、久しい後まで社會の道コが之を批難せぬのみか、時としては貧困にして子を多く持てる家を、怪み又は嘲ける者さへあつた。その位だから假に法律に反する所業はもう之を敢てせぬやうになつても、少なくとも生れ兒の保護は十分で無く、殊に母乳の無い場合の如き、代用の養料は至つて不完全なものであつて、從つて世話の屆かぬ故に死ぬ兒は多かつた。而してそれが昔からの習であつたかと思ふ材料は、まだちつともないのである。尤も我々日本人には、死後轉生の思想は強く存在し、水子は罪も報も無いから樂に生れかはると云ふ信仰からか、埋葬の方法なども名を附けて育上げた小兒より更に簡單で、深く其死を悲まぬ風はあつた。此心持が或は嬰兒の選擇を容易にしたかも知らぬが而も此の如き手段を案出せしめたのは全く近世餘りに頻繁であつた所の食物闕乏の脅威であつて、消極一方の農夫の經濟では實は此他に災厄の不安を驅除すべき名案といふものが無かつたのである。
 然るに普通教育の惠澤は極めて容易に、此の如き制限手段が、到底文明國人として恕すべき行爲で無いことを、徹底的に覺らしめ得た上に、更に經濟の一大改善は、過去の悲しい印象を拭ひ去らしむる迄に、食物の供給を安全にしたのである。開墾に基く耕地面積の増加は、國土の狹い爲にさして著しくは無かつたけれども、農法殊に勞力の利用(105)が進んだ結果、一反當りの生産量は、明治に入つてから驚くべく増加して居る。其以外に人の手は色々の新作物の栽培に、又他の方面の製造業に應用せられ、遠近の交易は自由になり、どこからでも日用品を運んで來て、單に増加したる家族に衣食を給し得るだけで無く、其資料が概して品質を改良し、つまりは生活の程度が進んだ。斯うなつても尚子供を返すやうな、非人情なる親たちでは昔から無かつたのである。
 此事實から推論すれば、維新以後の規則正しい人口増加は、明瞭に國民幸福の進度を語るもので、外國交通の危險多き新局面に立つて、一度も見にくい失敗をしたこと無く、學藝産業を盛にして、始めて白人と相對して遜色の無い文明を建設したのも、すべて同じ力の働きであつて、假に今後の人口問題が又々新たなる難局を國民に提出したにしても、之を悔いる理由は些しも無かつた。たゞ強ひて遺憾の點を指摘するならば、國の隆運を意味する人口増加ではあつたが、早くから此傾向を意識して、今少し計畫ある道筋を進ませなかつたことゝ、醫療衛生の技術が是ほど立派に進んだにも拘らず、まだ/\生れて來る者の大部分を、安全且つ堅固に成長せしめて此生を樂しめることが出來ず、依然として若干の罪なき者を、事實は病み苦しむ爲に、又は死んで親々を歎かしむる爲に、此世の中に呼び出した形になつて居ることであるが、此とても追々其原因を究めて行くならば、早晩國民の進化すべき理法と合致した手段を見出して、世界の何人からも迷惑がられずに、尚此以上の増殖を續けられることになるかも知れぬ。
 
       六 人口増加に伴ふ危險
 
 衣食住資料の供給量が、人口増加の一大制限であることは疑が無い。朝鮮半島に於ても近頃著しい自然増を見るが舊日本過古五十年の繁榮の如きも、全く富の生産力の發達が之を可能にしたのである。併し原因は決して是ばかりでは無い。物質上の要件は完全に具備して居り乍ら、種族によつては退縮する一方のものもある。例へば骨骼體貿性能(106)のどの點でも、世界有數と目せられるポリネシア人は、殆と何れの島でも例外なしに減少する。白人の不親切や文明の暗黒面が災ひしたのかと思はれたが、今では出來る限の惡原因を除去しても、やはり生れ方が少なく死に方が多いので、かゝる現象を説明するには一種無形の成長力、即ち芽の中に含まれたる花の發せずには居らぬやうな精分に、民族によつて厚薄があるのか、但しは又永年馴らされたる特殊生活が、異種の文明の干渉には堪へられぬのか、兎に角に百年に十倍したと謂ふ瓜哇人や、死んでも/\生れ越す印度人支那人、其他の亞細亞種と比べると、見逃すべからざる大きな相異が、他の二三の民族にはあつた。
 顧みて更に日本の人口増加の趨勢を考察すると、我々の祖先が久しく苦しめられて居た食料不安の解除でも、新たなる生活興味の生長でも、醫術の進歩でも刑罰の改良でも、一つとして今後は稍手加減をして見てはどうかと思ふやうな、特殊の手段といふものは無く、何れも極めて通常なる文化の進行であつたにも拘らず、斯うして居れば人は自然に殖えて行くので、之を見ると或は個々の民族に具はつた天分とも謂ふべきものが有るのでは無いか。即ち如何なる世になつても彌榮えて、將來尚貴重なる多くの事業を爲し遂ぐべき任務を持つて居るのでは無いかとも考へられる。
 勿論我々は國を愛する餘りに、空漠なる樂觀に陷つてはならぬ。此事を確信する爲には此上更に冷靜なる觀照を續けて見る必要はあるが、固有の文明が何等外部からの拘束を受くること無く、自由に其特性を進展することが、もし民族としての成長繁殖の要件であるならば、幸にして現在の日本は、ほゞ其條件に合致して居る。從つて最も注意深く今日の趨勢を擁護して、無用の障碍物を排除し、歴史が繰返して我々に教へるやうな、避け得べき反動を避けることを心掛けなければならぬのである。
 外をあるく者が家に居る者より危險の多い如く、人口増加の道筋には、進むに從つて障碍が愈多かつた。其一番顧著なる一つは、生活資料の分配方法の失敗である。食料衣料の周圍に豐富なる時代には、如何なる境遇に居る者も(107)其割前には有附き得た故に、分配の拙劣も必ずしも問題とはならなかつたが、生産の量と人の數とが次第に均衡を變じて、一般の需要が加はるに及んでは、往々にして行屆かぬ一隅が出來る。此場合に人間の勤勞が常に一歩を先へ進め、いつも無益の餘剰を保ち得れば格別、さうで無ければ轉じて分配の方法に改良を加へ、出來得る限り全人類の消費を平等にしなければならぬ。然るに百味の飲食を陳列する長者の門の前に、飢ゑたる民が立ちて乞ふといふやうな、偏したる分配が同じ一つの邑落の内にさへ行はれる。況んや國と國との境には最も高い垣根があり、遠く隔たる二地方には、果實は落ちて樹下に朽ち、魚は海岸を埋めて肥料にも用ゐられないのに、其間に有無相通ずる事も出來ぬ場合が多く、區域を限つては?資料の缺乏を見たのである。マルサスと云ふ百年前の學者の如きは、眼前に此類の缺乏を深刻に實見した爲に、人は結局生活資料の制限から、何等かの手段に由つて其數の減少を強ひられねばならぬと云ふ豫言までもしようとした。地球の面積が有限である以上は、數理の上からは人の増加の極度が有ると謂つてよい。しかも今日迄の缺乏なるものは、未だ曾つて生産と分配との新しい方法まで、試みての後の話では無かつた。それ迄行詰まるより遙か以前に、狹い一部の階級又は地方に缺乏の不安と爭奪とが現はれて、それが既に十分に人を不幸にした。國と國とに敵意のみ多くして、寧ろ相手の難澁に比較して自分の方の幸福を味ふやうな世の中では、一層容易に此不幸が我々を苦しめ得る。
 昔の單純なる人たちは、こんな場合には少しも辛抱せず、忽ち命を棄てゝ侵略の戰をした。智慮が稍開けて後も別の園を犧牲にして、我が國を安泰にするのは適當な手段であつた。戰爭が永く絶えなかつた原因も茲に在り、外交が欺く術と考へられたのも此爲であつた。さうして又利害の單位が小なくなれば國内に於ても、必ずしも常に一致して外敵に當るのみでは無かつた。古くは小さな岡や川を隔てゝ領主が相闘つて居たやうに、我が民族の生存を保障すべく他の同國人の機會を犧牲にするなどは、平和なる競爭として今でもまだ許されて居る。從つて其結果の弱い者の不幸を擴大し、一民族としての感情の統一を困難にしたことは、全く人口増加の通弊であつたのである。
 
(108)       七 勞務の均分の必要
 
 一國の人數が多くなつて行くにつれて、生活資料の生産が  愈大切になり、殊に給養の方法が從來普通の技能だけでは濟まなくなることは事實であるが、之を以て直ちに越ゆべからざる行止まりと考へなければならぬ理由は無い。通例學者の概括論に於て、國が自ら養ふ能はざる程度に迄人口の繁殖を放置するのは誤りだと謂つて居るのは、固より國産の穀物織物材木のみを以て、各自の衣食住を支へ得るを限度とせよと主張するのでは無い。古い文明國の多くのものは、現に年久しく大部分の日用品すら國外に仰いで尚ほ榮えてゐる。即ち如何なる種類の生産をしても、交易に因つて各自の生活資料を求め得る途さへ備はればよいのであるが、無限に増加して行く勞力の餘剰を、順次に新しい生産に適用して行くことは、農業其他の手近の直接生産に向けるほど簡單な處置では無かつた。其爲に隣國から懸離れた日本の如き島國に在つては、其度毎に新しい困難を經驗し、一地區限りの烈しい爭奪を繰返さなければならなかつたのである。
 古くからの俗語では此の如き?態を名づけて共食ひと謂つて居た。即ち何か一つの生産が稍盛になると、其周圍にすぐに人が集まつて來て町を作り、分配に參與しようとした。國全體の生産量に何等の交渉も持たぬ消費行爲に向つて、多分の勞力が利用せられて居た。極端な例を擧げるならば新たな石炭山の麓とか、遠洋漁船の船着場などは、いつでも酒や踊に金を落させる場處であつた。大都會と稱するものゝ生活にも之に近いものがある。人間が集まつて來ると先づ第一に、周旋屋とか小賣商とか、娯樂機關とか云ふ類の、少なくて濟めば尚結構と云ふやうな職業ばかりが、殆と際限も無く激増するのは、勿論箇人としては少しでも、手近の樂な仕事を目がける結果であるが、一つには又是が古來の東洋風の弱點で、消費の非常なる不平均をあまり氣にしなかつた惰性である。
(109) 斯う云ふ永い歳月に出來上つた慣習は、或は國の力でも改めることが出來ぬやうに思はれるが、兎に角に此眞相を知ると云ふことが、比較的有效な手段である。人口が増しても養ひ料に不自由をせぬ爲には、生産を多くすることが唯一つの途である。其爲には少しでも多くの勞力が之に向けられねばならぬことは、至つて單純なる道理である。現在の經濟組織で働かずともすむ人、又は働くことの事實出來ない人々が多ければ、如何に天然の恩惠の豐かな國でも人口の増加はすぐに社會の難儀となるであらう。通例我々が失業と名づけて居るのは、働かずには生活し得ぬ人々の、仕事の見付からぬ場合だけに限られて居るが、此以外にも猶多くの働き得る者が何もせずに只暮して居る場合が多い爲に、國全體としての生活資料が缺乏の脅威を受け易い。之を防がうとすれば結局成るべく多くの人を生産の作業に從事させるの他は無い。救濟は單に僅かなる物の讓り合ひであつて、言はゞ困窮の分配に過ぎない。
 國土の面積に割當てゝ人口の多過ぎて來ることは、一つの不便に相違ない。或程度を通り越すと、國内の農産物を以て自給する事が難かしく、働きたくても手近に作業場が見付からぬからである。農を國の本とすることが、次第に不可能になるからである。日本などは力めて衣食の料を外に頼らぬやうにして居たが、久しい前からもう衣類の大部分は不足して居た。穀物はまだ大凡自給して居るが、それも原料たる肥料は輸入を仰いで居る。此等の不足額を取寄せるために、其代りとして何か第二種の生産品を見つけ、それを輸出する必要がある。其品物と方法とに付ては、今まで必要の無かつた心配が生ずる。今まで以上の勇氣と智慮とが必要になつて來る。單に人の頭數ばかりの増加で無く、それは同時に今よりも優良なる勤勞を提供するもので無ければならぬ。もし此用意が無かつたならば、昔の儘の共食ひ流で、生活の不安を免かれること難く、常に弱者の敗亡を座視して、同胞相爭ふの慘劇を見るべきことも覺り得ず、常に不十分なる生存に忍耐して、與へられたる機會をも逸したり、徒らに反動の犧牲に爲つてしまつて民族の使命を遂げる日が無いかも知らぬ。故にもし今日の日本に、人口の増加に伴ふべき危險がありとすれば、此人口政策の分岐點に立つて、前も見ず後も顧みず、一筋より外に行く途が無いかの如く、半ばあきらめて居る人々の心持であ(110)る。
 
       八 國民體質の問題
 
 拙劣なる生産組織が、折角の人口増加を國の爲に却つて有害の原因とする危險を含むことは、或は既に心付いて居る人が多いかも知れぬが、更に社會全體として、大に研究してもらはねばならぬのは、今日迄の消費の惡癖である。一家に於ては男と女子供、團體の中では少數便宜の地位に在る者と、其他の多數との間に、給養の甚だしい等差のあることは、必ずしも正義の純理論だけから、之を批難すべきのみならず、直接之に基因する實際生活の不利益も、決して小さくは無いのである。奢侈と節儉との説には、實はまだ徹底した定義は無いのであるが、少なくとも一方の無意味なる浪費が、他の一方の缺陷を殊に悲慘ならしめる例は多い。此の如きむだの中には、何人の讓歩を要求せずとも、容易に一般の利益に轉用し得べきものが少なくないのである。
 從つて等しく増加の歩調を保つ二民族の間にも、個人幸福の總量には意外なる相違があり得る。英國などは色々の材料に基いて、少青年の平均體質が、百年前よりも著しく改善したと證明せられて居るが、之に對して日本などはどうであらうか。都市中流家庭の女の子が、戸外の生活をするにつれて、立派になつて行くことは認められる。而も地方農村の男子の體質に至つては、まだ精密なる調査は無いけれども、近世又惡くなつたやうに云ふ者が多い。殊に小學兒童の體格は、同じ日本でも地方によつて差を見るほど、營養との關係が著しいやうである。それが青春期に入つて急激に成長し、病身な人と成り、或は強健なれども小兵のまゝで、活動に制限を受ける者が多い。而うして今日の所謂體育は、僅かに其一部分を改良するのみで、まだ大多數の小民の子を救ひ得ない。
 勿論此原因の全部を、消費の不完全に歸することは速斷であるが、國民營養の總量が、常に人口増加と併行する能(111)はざる事實に加ふるに、今のやうな分配方法を以てするのである。假に、前代の如き突發的の飢饉の害は免れたにしても、國内の隅々に猶慢性の貧困の、四百四病に越ゆる苦しみがあるのは是非が無い。それが未來の國民の上に其影響を殘す以上は、人口の増殖は往々にして反比例を以て、勞働力の減退を伴ふの虞無しとせぬのである。
 醫術衛生の進歩の如きは、正しく文明の大なる恩澤であつて、之に向つて感謝を惜む者は有り得ないが、苟くも根本に於て生活力の十分で無い者の生れて來る原因を改めない限は、たま/\生死の境に羸弱の國民を食ひ止めて、却つて一生の艱苦に導く結果を見ぬとも限らぬ。殊に其中でも結核性の諸病は、久しい年月に亙つて壯年男女の生産力を殺ぎ、一般國民の活動に對して大なる係累を加ふるものであるが、統計の示す所に從へば、其傳播の一の原因として、營要の不足が算へられるので、其死亡の最も多い地方は、やはり食料の供給の不確實なる方面なることを考へると、國全體としても、永く舊式の生産分配の方法を、墨守して居られぬ事情がよく分る。
 之を要するに人口の増加して行く國としての用意は、個人も國家も共に、第一には先づ生産事業の擴張を圖り、成るべく多くの人が方面を分ちて、それ/”\の有效なる勤勞に服するやうにせねばならぬ。日本は沃土以外に天然の原料が乏しく、人の新たに經營すべき産業が多くないやうに謂ふが、それはまだ精確で無い。國を取卷く廣大な海洋はすべて未來の我々の作業場で、我々は自由に其産物を利用し得るのみならず、航運事業の發展に由つて、如何なる方面とも交易が出來る。既に一端を試みつゝある如く、外部の原料を喚寄せても、生産を持續する方法はあるので、働きさへすれば尚多くの人は養はれる。單にそれを妨害し又は束縛するやうな原因を除けばよいのである。其原因と云ふのも發見に困難で無い。輸出品の賣れぬのは生産費の高い爲、生産費の高くなるのは地價の高い爲、地價の高いと云ふ事は僅かな土地の面積から、少ない人の勞働に由つて、多くの人が養はれんと欲することを意味する。地主と云ふ階級の人にも、何か相應の方面で働かせる工夫をすれば、食料の價を今の樣に高くして置く必要が無くなるであらう。其以外にも成るべく一人の勞働を以て、少ない人の數を養へばすむやうにせねばならぬ。年老いて休息する者、(112)此から成長して行く者の養育は、自然の必要としていつの世にも續くであらうが、それをも出來るだけ有效にして、辛勞の甲斐があるやうにせねばならぬ。弱い兒を生み、生んでは死なすやうな不幸も、或程度迄は分配と消費との改良に因つて、之を免れる見込がある。其上に我々の社會道コが進んで、本人の爲にも世の中の爲にも、成るべく不幸な人間を送り出さぬやうにすればよいのである。
 
       九 人口調節といふこと
 
 我々の人口問題は、まだ國内で充分に研究をして見ぬうちに、もう國際の問題にならうとして居る。それは單純に人が剰つて困ると思ふ人達が、どこかの國へ移住をさせて、始末を付けようとするからであつて、之に對しては米國などでは、日本は宜しく産兒制限を行ふべしなどと謂つて居る。隨分無遠慮な話であつたが、米國邊の俗論にも、此以外には移民として、自國へ迎へ取るより方法が無いと、思ふ者があるからであらう。
 こんな押問答の無用なることは、深く考へて見ずとも分るであらう。二つの方法は氷炭相容れぬものゝやうに見えるけれども、其共通の誤謬は二者何れの途に由つても、豫期の目的は達し得ないと云ふ點に在る。土地が思はしく無い爲に人が出て行つて、荒れてしまつたといふ愛蘭のやうな例はあるが、人が多くなつて困るから移民を以て之を防いだと云ふ話は聞かない。日本のやうな七十萬人づつ年に増す國で、假に半分で之を食ひ止めようとしたら、人を八九百人づつ積む船を、毎日一艘づつ外國へ仕立てねばならぬ。そんな事が出來るもので無く、それで尚問題は片付かぬのである。殊に内部の經濟組織を改めないで人ばかり出して稼がせたら、直ちに郷里のくつろぎ〔四字傍点〕は遊んで食ふ人で補  填して、出てゐる者だけが餘分になるであらう。又不用だから出すと謂つて、素直に預かる國も少ない。遲いか早いか問題にするわけだ。併し其爲に移民無用の説を立てる理由は無い。人の向々で本國の窮屈な生活よりも、困難と(113)闘つても新天地で運を開きたいと希ふ者に、其志を遂げさせてやるのは同胞の任務である。殊に古くからの社會の約束が、手輕な事では改革が出來ず、獨りで之を爭ふも無益と思ふ者は、人口が増して來れば必ず多くなる。それが移住地の注文に合する條件を以て、出て行くならば助けて宜しい。只それを當てにして人口問題を解決し得たと考へることは誤だといふのみである。
 次には産兒制限といふこと、是も政府の賛成すると否とに論なく、事實西洋の諸國では頗る實行せられてゐるらしいが、それが爲に人口の増加の停止せられた例を知らぬ。生れ方の少ない國では、殊に小兒の死に方がずつと少く、一つの國の内でも、多く生む階級は必ず多く死なせる階級である。佛蘭西は他の隣國に比べて、人口増率の稍低い國であるが、それは決して産兒制限の本場である爲で無い。そんなことをあまり謂はぬ時代から、此國の女親には、子を持つことを好まぬ氣風が稍盛で、少しづつ人口に影響して居つた。大戰爭以來殊に此事を氣遣ふ人が多くなり、産兒制限の運動を制限して居るらしいが、其爲に果して目に見える程、其傾向が改まるや否は覺束ない。
 從つて國内の議論としても、産兒制限が人口を増加させぬ算段と謂ふ者があるなら、可とする者も否とする者も共に見當違ひである。之を濫用して不品行を樂にしたり、又は産まねばならぬ好い兒を生まなかつたりすることは、勿論非難すべき行爲であるが、其防衛手段として赤ん坊を生ませるといふのはひどい。濫用の弊は如何なる場合にも戒めるとして、第一多くの産兒制限行爲には、權力の干渉すべき餘地が殆と無いではないか。サンガー夫人の横濱上陸禁止などは、寧ろ世間の夫婦者の注意を喚起した位であつた。二三の國で既に自ら試みて居るやうに、書册や活動寫眞を以て公然の宣傳をするのは、成程時としては有害な副作用も有るか知れぬが、個々の家庭が其必要を感じて、之を傳習する迄は如何ともすることが出來ない。
 殊に其諸方法の中でも、一番簡明有效なる根本的手段、即ち結婚の延期は行はれざるを得ない。不安定なる生活の間に子を持つた者の苦しみは、先づ注意深い女子の方を動かして、不十分な基礎の下に家を持つことを躊躇させる。(114)其次は子の愛情又は家の幸福の保護の爲に、頻繁な産育を避けようとして、其方法を求めるのは自然の順序である。現在のやうな社會の不完全さに面して、それ位の警戒はする方が至當で、而も終局の結果は國にも損害なく、家の爲にも遙かに安全なのである。
 但し此運動の別方面の缺點としで、折角之を説いても最も必要の多い階級は、却つて之に從はずして無思慮に産育し、結局不適當なる生存者の割合を多くするといふことは、今はまだ殘念ながら認めねばならぬ。しかも其理由が次第に實證せられたならば、彼等が一部分は進んで此主義に參加し、更に他の部分を勸誘し又は強制する時期も來ることゝ思ふ。さうして終には精選した強健なる國民に次の時代を組織させ、最も思慮深く且つ勇敢に、新しい經濟組織を經營するに足る者が多くなれば、今日以上の人口増加も、何等生活の安定を破ること無きのみか、却つて此力に乘じて人類全體の福祉の爲に、更に一段の貢獻を爲し得るの望があるのである。
 
(115)   國際勞働問題の一面
 
          一
 
 戰後多くの國に失業問題が起り、政府當局も組合側も、共に其始末に弱り切つてゐるのを見ると、我々は今更のやうに勞働運動の國際的聯合といふことが、單に美しい一つの理想であつて、此れが實際上の強い力となるのは、まだ程遠い未來であるといふことを感ずる。多數人類の不幸と世の中の不公平とは今日計畫せられて居る一國の政治上の手段だけでは、いつになつても改良することの出來ない程、深い遠い處にまだ根本の原因が潜んで居つて、我々の今一段の努力と深思熟慮とを要するかと思はれると同時に、國際協調の力に多くを期待する熱心なる社會改良家たちが其豫期をうらぎられて、一旦は淋しい失望に陷らねばならぬ時が來はしないかと危まれる。
 佛蘭西でも瑞西でも、又其他の國でも、政府は無理な工夫をして仕事をこしらへ、時としては萬々承知の上で勞働の能率を下げさせ、例へば二人で慥かに出來る市内の塵埃運送車に、四人五人の人夫を附けたりなどして居る。即ち結局は國費を以て失業者を養ふに近い事までもやつて居る。然るにも拘らず、斯うして仕事を與へられる者は、國民中の失業者のみであつて、今一段と?態の不幸なる隣の國から、何かの機會で入つて來て居る勞働者の如きは、一度其地位を失つたとしたら、却々第二の仕事に有付くことが出來ず、又雇主側でも自然に、なるべく國内の者を使ひ、外國人の採用はあと廻しにする傾きがあつて、其連中の多くは、いづれもひどい困窮に陷つたまゝ捨置かれる。即ち(116)是等國外からの出稼人に對して、各本國の組合も世話を燒くことが出來ず、今寄留して居る土地の方でも成るたけ知らぬ顔をして、例へば職業紹介等の機關はあつても、其恩惠は却々是等の者には及ばぬのである。彼等が自暴自棄となつて酒を飲み、又は丸々餓死をしてもしまはぬのは、全く昔風の宗教的慈善團體の多くある御蔭であつて、社會としては出來るだけ説諭したり介抱したりして本國へ還らせるに力め、又新たに入つて來る者に對してはどこの國でも非常に嚴密に取締つて、以て將來の面倒を防いで居る。是は獨り國と國との間でのみならず、一つ國内でも、例へば朝鮮半島と舊日本の島々のやうに生活の水準なり要求に等差の著るしくある場合はやはり自由勞働の移動を制限して今日の日本の雇主の如く、手輕にどこからでも呼寄せる事は出來ぬやうな事情になつて居るらしいが問題が國と國と對立關係である場合には、殊に其警戒乃至は偏頗な取扱が甚しくなつて居るやうである。之を要するに各國の勞働團體が、國際的に互に聲援をし合ふのは、勞働者が境を越えて來て、相手國の組合の獨占地位を弱めんとせざる場合に限ることで、勞働者の團結の威力が發揮せらるればせられる程、其運動は國内的になり、進んだ國で優遇せられて居る勞働者が、條件の劣つた國の仲間を引立てゝやる爲に、力を貸すといふ迄には却々爲りさうにも無い。
 日本の勞働者などは、能率から見ても又氣質から言つても、企業者側に評せしむれば、頗る優良なる勞働者であらうと思はれるが、それがやがて又國際的に同志者からの援助を得にくい強い理由にもなるやうである。而して今後の大勢は、獨り北米合衆國のみならず、他の何れの國からも手を擴げて歡迎せられないといふ結果になり、永く國内の供給超過の爲めに、資本家に對抗して地歩を占ることが出來ず、組合を作らんとしても裏切りする者が多く、常に相手からは足元を見られて、所謂特殊國の苦しみを味はねばならぬかも知れぬ。殊に日本の勞働者の如きは、之を排斥する者には都合のよい口實、即ち人種の差異と云ふことを理由にすることが出來るが假令人種はどうであつても現在のやうな雙方の國情ではやはり不愉快なる日米問題は起り得る。早い話が假に米國が其驕慢の癖を現すこと無く日本の面目を立てゝ南歐羅巴の諸國なみに所謂千八百九十年在住者の二分と云ふ標準を適用したとしても結果に於ては毎(117)年僅百五十人以内といふ制限には服さなければならぬので此有樣では實は日本の勞働問題は解決は出來ぬ。國と國との間の經濟的利害が、今日の如く對立して居る間は、穩健にして漸進的なる方法のみを以て氣永に成功を期するといふ方針が却々立ちにくい。困つたものである。が我々は之を困つたとは言はずにどうかして今一歩進んだ所まで、此問題を持つて行つて、國の永遠の發達の爲に攻究して見なくてはならぬのである。
 
          二
 
 自分の見る所では、日本の社會改良事業の一番大なる障碍は、人口の過多である。又其急激なる近代の増加である。是あるが爲に色々の惡い仕來りも整理し得られない。而して此一大原因に手を着けるとなると、論理の自然として、やはり第一には移民政策を考へねばならぬ。從つて最近の日米の葛藤は、單なる面目問題又は感情のもつれでは無いのである。勿論今度の如き場合には、婦女子のやうな感情問題も手傳つて來るのは普通であるが、結局する所は何れの國と國との間にも存する如き、一國内に存する勞働力の總分量の多寡と、更に之に伴ふ所の區分的利害、即ち雇主の側ではなるべく實際の需要量より、幾分か勞働の供給の多過ぎることを望み、働く人の方では又、實際の入用よりも常に少しばかりは不足することを便利とする、この腹の中の証文と掛引とが、いつも外交の政策を左右することになるやうである。政治家は時勢につれて其態度を二三すると罵られるが、其罵倒は多くは無理である。例へば日本の如く夙くから人の十分にあつた國でも、江戸時代の初期には最も勞働者の不足を恐れ、駈落百姓走り者の詮議が嚴しく、或は捕へて來て首を斬り、或は隣同士の領主の間に、逃亡人引渡の約束をした。それが百年とたゝぬうちに、もう事情が著しくかはり、單に夜逃をして還らぬものは、曲者として人別帳簿から除き、其宅地は没收し、其耕作地は村の責任として、惣作り即ち共同の耕作になし、唯生産が持續し年貢さへ缺損させなければよいと云ふことになつた。其から又或年數を經て、愈田舍の人口が多くなると、出て行く者は構はぬばかりか、寧ろ相手の方であまり來られ(118)ては困るから、何とか制限を設けて他國者を取締らうといふことになつた。此の如く僅の期間に、藩と藩との間に於いてすらも、移民の政策は變化して行かねばならなかつたのである。もとは米合衆國の如きも、此點に於ては至つて氣樂な國であつた。國土むやみに廣く、いつ迄も地面が遊んで居ることは、恰も現今のブラジル、アルゼンチンの如くであつた。從つて何としてゞも人を入れる必要があつた。市民權取得の條件も最も寛大であつた。其爲に東部歐洲や伊太利から、自由自在に人が移住し、殆と各國民の入會地なるが如き、自由國の感じを人に與へ、今も殘つて居る。其樣にしても遠い偏鄙の土地や惡いつらい仕事には出稼人があまりやつて來ない。そこで今日は後悔の種となつて居るが、阿弗利加の西海岸から多數の黒奴を、早に生産本位、天然資源利用の立場から、入れて憚らなかつたのである。西部地方殊に太平洋の沿岸には、一時黄金が馬鹿々々しく出た爲に、大分の白人も移住して來たが、此連中に對してじみな骨の折れる仕事は期待し得られなかつた、而も有餘るほど仕事があつて困つたが故に、其當時は寧ろ尻込をして居た支那のクリーを、百方策をめぐらして連れて來て、彼等の柔順性と又世間の監視の少いのを奇貨として、奴隷同樣の取扱をして、我邦で所謂監獄部屋の虐使をした。此際には働く者なら誰でも使つたので、固より人種差別などは無かつたのである。若し假に人種觀念が彼等にあつたとしたら、寧ろ異人種だから使ひよい、惜げ無く誅求することが出來るぐらゐに考へて居たのである。
 それが僅の年代のうちに、實に怖しいほどの變化であつたと言はねばならぬ。布哇の移民事業の如きも、公平な眼で見て、慥かに日米兩國に取つて、失敗の大なるものであつた。布哇の開發の爲に、大に日本人を入れて見ようと企てたのは、まだ米國の領土にならぬ時代であつたが、やはり米國の事業家であつた。若し之を考へ付かなかつたならば、或は又其當時、今の白色濠洲主義の如き狹隘なる反對運動をするほどに、布哇の在米勞働者の團結が強かつたら、而して又布哇を米國に併合した結果、米國との間の國境がとれてしまつて、一時この在布哇の日本出稼人が、どや/\やとカリフォルニヤに渡つて行かなかつたならば、所謂同化非同化の問題を、特に日本人に限つて八釜しく言ふ必要(119)も起らず、又其後若干の用意して、相當の決心を以て米國に渡つた若き日本人たちに、此の如き大なる煩累を及ぼすことが無かつたらうと思ふ。
 布哇の日本移民とても、本來決して劣等の分子のみを、選り出して送つたわけでは無かつたが、是等は所謂契約移民であつて、最初から出稼先の市民生活に適するや否やは試驗せられず、本國の風習其まゝで、一團を成して他の布哇居住者と分立して居り、一方は少し金を溜めたら還るつもり、他の一方の使用者側でも、なるべくうぶの日本人で他と交通などもせず、只働いて貰へばよろしいとしたので、何時になつても眞の移民では無かつたのである。これが併合の結果亞米利加の門戸が開いた、それ行けと云ふので、中にも稍浮足の、今迄にあまり成績を擧げ得なかつた分子が、子供を背におぶつたり、バケツに風呂敷包をほり込んで下げたりした姿で、がや/\とカリフォルニヤに上陸してしまつたのである。是が少くとも日本人に對して、變な心持を米人に持たせた一の動機であつたやうに思ふ。其當時出張して居た日本の代表者、又は本國に於ける法規行政の力で、何とか相當の工夫をして豫防することは出來なかつたものか。どう考へて見ても是は今日の形勢、この至難なる國際勞働の問題に處すべき適當なる下ごしらへでは無かつた。歴史を振囘つて見ると、色々日本の爲に惜い機會を逸したと思ふ長歎大息の種は多いが、是なども正しく其一つである。
 
          三
 
 併し將來といふものは、いつの世にも豫測しにくいものとなつて居る。誤算は獨り我邦の舊政治家のみの禍ではなかつたのである。どの國でも以前結構と考へた政策の失敗を、追々に覺らしめられて居る。日本では是迄も、時に人口論をする人はあつたが、過去數百年の間、全人口が三千萬を出たり入つたりして居るのを見馴れて、實際算盤を彈いて見れば斯ういふ數字になるのは分つて居たけれども、斯う急速に、僅に我々の一生涯の長さに於てこんな大きな(120)人口にならうとも考へられず、假に又人が増したとしても、何とかそれ/”\片付くものと思つて、昔風な教養を受けた外相農相などの力量才覺が、此の如く一朝にして間に合はなくなる世中に、ぶつゝからうとは思はなかつたのである。此と同時に米合衆國に於ても、建國以後約百年間の移民政策は、明瞭に今日の如き經濟事情を豫想して、之に備ふるが爲の計畫に成つたものとは言はれない。確に或違算があつた。彼にとりては日本人其他の亞細亞人問題よりも、更に數層倍厄介であつて、且つ此が爲により大なる無理な處置をせねばならなかつた問題がある。それは解放せられたる黒人の始末であつた。此等の黒人は、新に入込まうとする異民族とは事かはり、外に何處へも送り還すことの出來ぬ、紛れも無い米人である。而も永年月の教育を與へて見た後になつて、猶所謂同化の不能なることがしみ/”\と判つて來た。其外貌がどこ迄もちがつて居る如く、精神生活の方でも、混同融和と云ふことが望みにくい。其上に彼等は恐るべく多産である。又不用意なる白人が之と交つて、血の雜種は起り、もう今では鼠色の人種と謂つてもよい位になつて居る。さうして盛に北部諸州に入つて來て、僅此數年の間にも紐育、シカゴ、ワシントンなどの町に、此色の雜役勞働者が著るしく殖えたやうである。是は疑ひも無く白色米人にとつて、大なる不安の種である。
 奴隷解放の當時、大西洋對岸の阿弗利加に、リベリヤの共和國を作らせて、大規模の隔離を試みたのも、理想としては立派であつたが、成績から言へば慥かに失敗で、寧ろ白人文明の模型の中に、彼等をはめ込むことの不可能を立證した。三代四代の奴隷の子は、固より還るべき故郷を忘れて居る。而も解放の當時、猶自由勞働者の缺乏してゐた所から、是をよい事にして其儘に米國内に居住させて居た結果が、終に今日の慘憺たる白黒の爭闘を國内で見なければならぬ國柄を、作り上げてしまつたのである。猶太人の待遇に就ても、恐くは或者は最初の不注意を悔いて居ることであらう。其他アルメニヤ人でも希臘人でも又伊太利人でも、凡そ米國の社會をして甚だしく複雜ならしめ且つ新國の割合に早く其文明を混濁ならしめた原因は何れも同一の經濟事情、即ち天然資源の豐富なるを見て、早く之を開かうとあせつた、性急なる經濟政策が之を導いたものである。
(121) 今度の排日の如きは、かの國が恰も國際勞働の問題に就いて過去の誤算を痛感して居る折柄今正に端緒を發したばかりで、まだ今のうちならば、何とかかたが付くらしい日本の移民だけに對して、甚だ遲蒔ながらも警戒を始めたといふ迄であつて、是を人種差別の取扱ひと名づくる如きは、寧ろ偶然の結果を見てさうしたと言ふべきである。平たい語で謂ふと、彼が移民はもう澤山だ、今度來ようとする者があつたら、何とか入れない工夫をしようと氣構へて居る矢先に、圖らずも是から大に移民を送り出す必要を感じて居る國があらば夫が日本で無くとも同じ目に遭ふわけであつたらうと思ふ。日本の問題が何とか落着すれば、其次は伊太利とかバルカンの諸國とか、又事によると、今日尚澤山入つて居るが、獨逸なども方法を設けて排斥せらるゝ順番が來ぬとも限らぬのである。
 
          四
 
 移民を送出すべき國が、國際の交通に於て常に弱味あり、頼み込み御辭儀をしつゝも、どうかすると腹の立つやうな目を見ることが多い經驗から、移民はいやだ、植民の方がよつぽど好いと謂ふ人が折々ある。この二つの語は相對立せしめて考ふべきものか否かを知らぬが、之を説く人の心持は、植民と謂ふのは自國の屬領に向つて、移民を送ることを意味するのである。出來ることならば何かにつけて、其方が便利なるには相違無く又國内の人口調節策としても、領土の全體に亙つて資源を均等に利用することを心掛け、人口の分賦の成るべくむらで無いやうにすることは、勿論必要なる經濟政策であるが、行政の力の今よりも強かつた昔の時代でも、民を移すと云ふことは容易の事業では無かつた。と言ふのは全體にもう人口が多くなれば、無用に放置せられる空閑の地は多く殘らず、單に甲の部分に溢れるからといふ理由だけで、既によほど詰まつて居る乙丙の部分に、人を割込ませようとしても、後者が承服せぬ場合が多い。内地植民に至つては存外に實際上の障害の多いものである。然らば國外に新たに領土を獲てからと言ふと、是がアッチラや成吉思汗の時代であつたらば、有餘る人間は何程か殺されてもよい。之を元手にして人の地面を攻取(122)にしようと言ふ所であるが、今はもう大分久しい以前から、其樣な算盤は採りにくい。徒らに夙く海外に雄飛した國々の權謀詐術、或は拔け驅けの功名に由つて、どし/\新しい沃土を占有して屬領とした先例を羨んで見ても、六日の菖蒲十日の菊、死んだ兒の齡を算へるの讐へに過ぎぬのみならず、此の如き空評定は往々にして他國に餘分の警戒を促して、愈我々の往來交通を不便ならしめる結果になるばかりである。
 其上に多くの日本人がまだ考へぬことであるが、歐羅巴の植民國の先例は必ずしも所謂帝國主義の徒にとつて、好都合なる材料のみを供するものでは無いのである。多くの白人國の領土擴張策は、之に由つて怨みと爭ひとの種を蒔いた割には、豫期しただけの效果を收めては居らぬので、之が爲に若干の資本家をして更に富ましめ、其手から本國の政爭に兵粮を調達させたことはあるだらうが、國民總體の利益として見るときは、存外に投じたる勞と費とに償はぬ結果を見たのである。之を要するに始めにも誤算あり、中頃にも誤算あり、將來とても今の方針が皆正しかつたことを、證明することは六つかしいやうに思はれるのである。
 此歴史を説き盡すことは、とても容易の業では無いが、かいつまんで要點だけを述べると、最初西洋の探檢船が、東方到る處の島々に名を附け、其國旗を高く掲げたときに、第一番に滿足させられたのは中世式の君公將軍等に特有の、領土欲と云ふ虚榮心であつた。危險多き遠征から、無事に還つて來た船長水夫には、大なる名聲尊敬の彼等を待迎へるものがあつた。且老年を養ふに十分なる富は與へられた。而も一葉の扁舟とも名づくべき帆前船に、滿載して戻つたとしてもそれが何程の財貨であらうか。昔の人は慾が淺かつた。言はば詩歌物語を以て喋々として之を説き、彼等の小さい滿足を大きく語り傳へたに過ぎぬのである。山に得らるゝ香木や樹脂、海に得らるゝ珊瑚や眞珠貝は、何れも珍奇なる寶物の類であるが、これ等を隨處に土人から安く買ふと云ふことは、つまり小さな帆船の一年二年に只一度の航海ぐらゐに適する數量であつて、今日我々のいふ貿易商品では無かつた。而も天然物の輸出の如きは、大型汽船の發明をも待たずして、次第に枯渇すべきものであつた。故に年々大量の海外貿易を持續せんとすれば進んで(123)規則正しき毎年の生産を期待せねばならぬ。砂糖や煙草を買はうとするには、既に發達したる農業の存在を前提とする。椰子は護謨などよりも生産方法が簡單であつて、半開の土人等も其若干を供給し得るとは雖も、之を有利に遠方に運搬せんとすれば、産地に於でコプラに製しなければならぬ。何れにしても永く天然だけを相手にして、遠方の領土と往來することは不可能である。海外の屬地を利用せんとすれば、早晩は必ず如何にして勞力を供給すべきかの問題に、逢着せずには居られぬのである。
 所謂植民地分取りの時代には、歐羅巴の各本國にも勤勉なる農夫が多く住んで居た。彼等は營々として子孫を繁殖し、日本の今日ほどでは無いけれども、次第に土地の不足を感じ始め、之に伴つて制度に對する不滿があつた。其上に尚宗教の爭ひがあつて社會を分裂させた。そこで秩序を保持する爲には、一部の國民が出でて新地に就くの必要は、到る處に存したのである。殊にマルサスなどの考へたやうに、將來の人口充溢を豫測するときは、一日も早く屬領を未開の地にかゝへ込み、餘分の人を此に移すの策を講じて置く必要を感じた。だからあの時代の歐羅巴人の豫想の通りであつたならば、もう今頃は世界の隅々まで白人の後裔で一杯になつて居る筈であつた。然るに實際は之に反して、本國の人口は存外に殖えず、英國人は屬領の人口を合せても、日本の割合だけには増加して居らず、佛蘭西などは戰爭が起ると、びく/\する位に人の生れ方が不十分である。其他の國々に於ても、尤も考への無い惡い家庭の他は、皆二人か三人以上に子を生まず、餘つて外に行くべき者は幾らも無い有樣であつて、徒らに無用の沃野を控へ、支那や日本の如く人口の過剰に惱む國の、羨望を買ふに過ぎない?態である。
 
          五
 
 熱帶地方に於ては、白人の住着きにくい事情が殊に多い。北歐羅巴の温度と、夏の乾燥に馴れた者は、南の島々の濕氣と蒸暑さには我々の想像以上に苦しむのである。又熱帶日光の理學的作用は、彼等御自慢の肌の色素を壞すと謂(124)はれて居る。其爲に女性は最も移住を喜ばぬ。フィリッピンなどは此が原因で、いつ迄も米人の家庭が増加せず、成功者は結婚する爲に皆還つてしまふ。前總督某の夫人の如きは、熱帶生活を拒むを理由として、離婚を請求して其訴訟に勝つた。從つて單に勞働者生活の少しく樂だと云ふ事情、又は衣食の費用が稍安いと云ふだけでは、日本人が出て行く如く容易に移住は思ひ立たず、よほど澤山の利得、即ち或年數の辛抱の後は、小企業者から次第に蓄積して、富みて郷に還り得るか、然らざるも一代の間に地位を作り得るが如き條件があつて、初めて熱帶地に往つて辛抱をするのである。和蘭の如きは、本國の人口が六百萬人餘で、今日迄の東印度諸島を維持する爲に、永い間に既に之と同數ぐらゐの人の命を費したと謂ふのに、今日此屬領に土着して居る國人の數は、まだ十萬以内で、其他の來住者の十萬は、高い在勤俸と十分なる養老年金をあてに來て居る會社員や官吏である。所謂外領の諸島、殊にモルッカス以東に於ては、六十年前にウォレス博士が巡遊した頃と、今も同じ位しか白人が入つて居らず、從つて廣漠の土地は大部分まだ處女地のまゝである。或は母國が強制を以つて白人を移住させた島がある。濠洲の東北の一角、南端のタスマニア島其他には、英國は囚徒を送つて之の開發をさせた。佛國は今も此方法に由つて、ニウカレドニヤの島に、若干の勞力を供給して、其天然を利用せんとして居る。其植民手段は成績が決して良好では無いやうである。或は又米國の開祖と稱せらるるメーフラワー號の移民のやうに、純然たる筋肉勞働者が、宗教の壓迫等の特殊の事情の下に、移住した例も稀にはある。亞弗利加大陸の南端に於て、一旦矛を執つて英國と戰ひ、後降伏して其保護の下に特殊の一聯邦を作つた人民なども、元は和蘭からの勞働移民であつて、ブーアと謂ふのは和蘭語で小農のことである。而も彼等は植民土着すれば、久しく其舊地位に甘ずること無く、南亞に於てはあらゆる方法を以て、土人を畏服し懷柔し、其硬骨なる者は放逐し又は除き去り、今日尚彼等が服從を利用して、之を使役しつゝ一種獨得の農業を行つて居る。
 此の如き制度は、何れも所謂植民國の政權保護の下に於て、初めて望むを得べき便宜であつて、之に利用せらるゝ原住民の立場から言へば、誠に忍ぶ可らざる迷惑である。日本近年の朝鮮植民なども、幾分か此嫌ひがある。内地か(125)ら出掛けて往つた植民者は、多くは其郷里にに在つてはそれだけの人を左右し得る資格の無い農夫であるが朝鮮に行つてはヨボヨボと謂つて在來の住民を追廻し、彼等を下に見て手前勝手を敢てし、自分の辛勞を輕くする考をする。凡そ人を使つたことの無い此階級の小事業家が母國人たる威力を挾み、或は本國から來た役人の尻押を憑んで、少しでもうまい事をしようとする態度ほど、無理なるものは無い。南亞共和國では其上に、此種の白人の小農場主に、政治上の勢力があり、且つ黒き土人は壓迫せられても理窟も言へない程、無教育である爲に、我々有色人の眼に餘るほどの無理が有るのである。米國などは早くから土人を征伐し、其一半を殺し他の一半を追ひのけた爲に開拓に使役したくても土人が其邊に居なかつた。其代りとしては黒奴を貨物の如く輸入し、或は惡い勞働條件を辛抱する他の國の移民を喚んでくることになつたのである。
 働くつもりで入込んで來た出稼人ならば、相對づくで之を安く使ふのも仕方が無い。又原住民が朝鮮人ほどの教育知識のある者ならば、最初の暫くは忍耐して黙從するも、やがて負けては居らず起つて理窟を言ふであらう。從つて此等は大なる弊を生ずる迄に永く續けて行くことはあるまい。之に反して無知未開の土人では、此樣な手前勝手な白人と共棲して居ては、どう言ふ目に遭ふか知れたもので無い。熱帶の島々は勿論、阿弗利加大陸でも中央の森林帶に、太古以來の生活を續けて來た者は、曾て他人の爲に働くと言ふ經驗無く、又我爲にも働く必要が無かつた。食物は採れば有り、身は裸なり、うんと永く眠り、起きては丹念に弓箭投槍などを製し、野鳥野獣を獵し、又は隣部落と闘ふことを考へ、折々は祭があつて歌ひ又踊るのである。斯の如き怠惰生活を勿體無いと謂ひ、勤勉を教へるなどと稱して、彼等を引出して無理に使ひ、植民地貿易の根柢たる生産事業を經營したのが、是が最近迄の植民政策であつた。獨り最初自ら働くつもりで渡航した農夫が、熱帶生活にだらけて怠け癖が附き、苦しい仕事を從順な土人にばかりかつげた場合のみならず、通例プランテーションと稱する植民地の生産業は、殆と其全部が土人の勞働をあてにして、本國から同伴する勞働者は至つて少なかつたのである。つまり白人の四海同胞一視同仁は、よほど制限のあつたもの(126)で、多くの欲得づくの移住者の眼には、土人の存在も亦植民地の天惠の一つに算へられたのである。
 
          六
 
 其中でも一番不愉快なる、非人道的の先例は、中部亞弗利加の所謂コンゴー自由國の歴史であつた。スタンレーが長い探檢から還つて來て、此大河の流域の土地の豐饒と土人の蒙昧とを物語るや、或下心を以て先づ之に耳を傾けたのが、白耳義前王のレオポールであつた。乃ち此無主の大地域に文明を普及せしめ、土人の開發を企圖する爲と稱して、宏大なる一獨立國の創建を天下に宣し、自ら擇ばれて其王となつた。其形式は實に僞善文學の極致とも云ふべきものであつて、天下の多くの人道論者は此に隨喜した。而して其結果はどうかと言ふと、專ら獨逸あたりの資本家の爲に、致る處に地を劃して大特權會社を起さしめて生産事業を開始し、王は又兼ねて其大株主であつた。此時代までは、所謂「働かざる者は食ふぺからず」の原則は、小兒よりも猶無智なる赤道直下の原始森林に住む土人にも適用すべきものと考へられた。會社は我區域内に住む土人に一定の勞役を課し、苟くも之を避けて逃隱れる者あれば、直に之を拘束して其妻子眷屬と引離し、鞭と手枷足枷を以て之に臨んだ。幸にして此慘?は早く傳道師などの心付く所と爲り、歐羅巴の社會に大騷ぎを引起し、有名なるカウチュク・サングラン(血の色した護謨)や、人道王國進化史などの著書と爲り、歐洲第一の大慈悲王は、一朝にして鬼よ惡魔よと罵らるゝやうになつた。而も此時の經驗から、一方に於いては宗教家が、土人の庇護者と爲つて事業家に警戒するといふ風習を作り植民地に於ける傳道者の地位は大に重くなると共に、他の一方に於いては成るべく此人たちの諒解を得て、事業半ばに意地の惡い干渉をせられぬ用心をすることが、植民地に於ける農場計畫の一要件を爲すに至り、從つて自國傳道を重んじ、成るべく宗教上の國際問題を避けることを力めるやうになつた。
 此コンゴー自由國の失敗の跡を見ると、其方法の露骨に過ぎ、慘虐に過ぎて居たことも事實であるが、一つには此(127)國際的嫉視に對する警戒が疎かであつて、乘ずべき機會を供與したことも亦爭はれぬ。而も全然レオポール式の手段を施さず、土人と貿易して天産物を買取り、之に對して少しづつの品物を賣込む位では、到底屬領の入費を償ふに足らぬのである。殊に未開人との商賣には、酒類と武器とが最も好き儲け仕事であるのに、此二品とも最早天下晴れては賣込むことが許されぬのである。然らば本國事業の目星しい者を植民地に誘致し、大に此方面に投資させ、利害關係を持たせるには、一體どうすればよいかと言へば、やはり大なり小なり、右の働きたがらざる土人を働かせるの政策を行はねばならぬのであつた。
 白人等の本國に於ては、勞働者の團結の威力日に増し強くなり工場農場を持つ者の面倒と氣苦勞は絶えざる際に於て、假令個々の能率は至つて低くとも、何も言はずに又どんな條件でも出て來て炎天の下に働かうと云ふ土人がある以上は、資本家企業者の立場から判斷して、本國の生産業を次第に屬領の方へ轉じて行かうとするのは、最も自然の勢ひである。現に日本などでも、人多くして仕事足らず、何の工業を營むにも原料を外に仰ぎ、出入二度の運送の爲に、餘分の金を使はねばならぬ。さりとて耕地や森林鑛山等の作業には、もう此上澤山の擴張を望み難いのではあるが、有餘る人の手を遊ばせて置くまいとすれば、どうしても忍んで此不便にも耐へねばならぬ事情であるが、此事情を知るにも拘らず、事業主は何かと言ふと、すぐに上海に工場を移したりなどして、安い支那人の方を使ひ、又工場法の保護を受けない婦人や子兒を働かせようとさへする。つまり此と同一の心理の、今一層強い動機と誘惑とを背負つたものが、現今の所謂植民政策を支持し、植民國の國論を作つて居ると見れば、間違ひが無いのである。
 
          七
 
 而も本國一般の民衆とても、全然土人を憫れまぬのでは無いが、第一に土地が隔絶して事情甚だ明かで無い。英國などの大新聞でも、植民地の通信はごく大事件だけである。一つ新に植民地の問題を問題にさせようとするには、相(128)應に智慮のある者が、更に金を使つて宣傳をしてかゝらねばならぬ。土人自身の力では到底社會に其愁苦を訴へることは出來ぬのである。第二に白人の間には、土人は別物といふ考へが強い。現に勞働者自身からして、植民地に働いて居る有色人を、決して我仲間なりとは考へて居らぬ。自分たちと共通の利害を有する者だ、行く/\相助けて進まねばならぬ者だとは、曾て思つて見たことが無いのである。
 又土人が文明國で言ふ意味に於て、働かずに居りたがると言ふ事には、同情をする者が至つて少い。此だけ文明人の世話になり保護を受けるのだから、働く位は仕方が無いと思ひ、若くは將來の生活の爲に、仕事を教へて貰ふのは結構だとも考へて居る。併し土人とても、決して全然の怠け者では無い。自分々々の風習に從つては、時としては白人も及ばぬ根氣を以て、心身を極度に働かせる。戰爭や狩獵の如き半分樂しみの骨折は勿論吹矢筒とか太鼓とかの工藝品中にも、二年三年掛つて完成する美しい物が少くない。船なども立派にほり上る土人は多くある。農作牧畜の如きも、皆自分々々の慣習に從つて、精を出して遣つて居る。只だしぬけに引出されて意味の判らぬ機械的の作業に、時計で働かされることは、馴れないから迚も忍ぶことが出來ぬのである。それに生活が概して樂である。要求が至つて尠い。我々文明國人の最も厄介とする所の食物を獲る手段でも、例へば一本のサゴ椰子の樹を伐倒すと、じつとして食つて居て一家族數週を支へるだけの澱粉がとれる。半分食ひかけて退屈して第二の樹を倒し、或はわざと腐らせてそれに發生する茸などを賞玩する。パプア、メラネシヤの住む島々には、こんな境遇の者がまだ却々多いのである。
 彼等の慣習に合はぬと云ふ點から論ずれば、所謂組織的勞働は却つて奴隷制よりも甚だしい。奴隷には五六千年以上の歴史がある。彼等は只戰ひの爲に異部落と戰ひ、負ければ殺されて食はれるか、又は奴隷に成るものだと云ふことは、少くともよく合點をして居る。災難には相異無いが、遭ひつけて居る災難である。又運さへ好ければ相手をさうする見込もある。博奕の一種であるが、永い間にはバランスが取れて居る。然るに歐米人の彼等に對し申譯の無いことは元は海岸に住む土人に銃砲火藥を與へ、且つ之に酒を飲ませて勇氣をつけ、常に内陸に居る土人が負けるやう(129)にして、此バランスを破り、之に由つて黒人の奴隷の供給を得ようとしたことである。今や黒人を奴隷として賣買することは恕すべからざる非人道と認めらるゝに至つたが、猶其地元に行つて彼等を強ひて働かしめることは、結局の恩惠と見て居るのである。少くとも土人側の論理には合はない矛盾であつた。
 併し白人側の論理は又別であつた。濠洲やニゥジーランドの如き温帶の植民地ならば兎に角、今のこの八釜しい白人の勞働者をつれて往つて、熱帶の植民地で働かせることは、とても今後は出來ることで無い。又到底眞面目な勞働者は行かない。而も概して土地廣漠たる屬領で、農業の如き天然相手の生産には、機械を適用し得られぬ場合が多い。土人を働かせる他は無いぢや無いか。折角天惠は豐かでも勞働が無ければ何にもならぬ。土人が使はれぬやうなら植民地などは無いも同然だと考へ又論じて居るのである。そこで例のコンゴー自由國の如き、無茶にして且拙劣なる土人虐使法はいかぬとならば、何か其他の方法を案出して見ようと言ふことになつて居る。
 あまり露骨で無い所の土人利用法は、之からも尚當分は續かせようとすることと思ふ。それが果して眞に有色人自身の爲に、結構であるか否かの批判は、したい人があるならして見るがよい。よく聽いた上で又考へて見てもよろしい、と言ふ位の處まで今では進んで居る。而して宣教師の中の本當の土人の友は若干名は確にあるが、皆敬して遠ざけられ、或は陰には「常識が無い老人だ」などと評せられて居る。他國から來た宣教師には一層用心して居る。又土人保護協會と云ふものがある。倫敦にも一つあつて却々活動し、又ジュネブにも古くからある。瑞西の方は前に申したレオポール王のコンゴー問題が、天下に眞相を暴露した後に、其非法に激成せられて起つたものと云ふことで、何れも慥かに其志は純であるらしいが、一般の白人からは今以て徒らに事を好む事業の如く考へられて居るのは笑止である。
 
(130)          八
 
 此の如くして土人の幸福を本位とする植民地の經營法は、兎に角に次第に其實現を見んとして居るのである。今迄の遣口では、もう世間が承知をせぬやうになつて來た。今度の大戰後の講和條約で、獨逸が以前持つて居た太平洋と亞弗利加の屬領は、五大國が共同して之を引繼ぐことになつた。是は實はどの國でも自分に欲しい、故に誰にも遣ることが出來ず、相談の結果國際聯盟が管理することになつた。聯盟には手足が無いから、之を色々の縁故に因つて、關係ある七箇國に委任して統治させることになつた。人で言へばちやうど里子のやうなものである。自分の參與して居た委任統治常設委員會と謂ふのは、つまり此委任統治の政府から年々の報告を受けて意見を言ふ機關であつた。日本でも赤道以北の太平洋の三つの群島を預つて居る。文字通りの粟散邊土で、島の數が大小約七百で、其面積の總計が神奈川一縣よりも大きく無い。而も海面の廣さは歐羅巴大陸全體より少し小さい位のところへ散布して居り、是に五萬人弱の土人が分れて住んで居る。是等の土人は法律上最早獨逸の臣民で無い如く、又委任を受けて居る國の臣民でも無い。我々は世話をして彼等を成長させるのである。彼等の福祉を増加させるやうな統治をする役目を委託されて居るのである。今日迄も書物の上では、歐洲各國の海外領土が、丸で本國の爲に存在するが如く考へられるのは宜しくない。之に住む土人を鵜飼の鵜、養蠶家の蠶の如き意味で愛養し保護して居たのは申譯が無い。是からは必らず土人本位の輕濟政策を樹てねばならぬと云ふことが、理論としては既に説かれて居た。而も是迄の各本國の議會では、いつでも植民地に斯う金が掛つては困ると云ふ苦情が絶えたことが無い。實際我臺灣や朝鮮のやうに、其地で取立てた税其他の收入で、政費を支辨し得るやうな領地は多くない。道路でも衛生設備でも、人の割に土地が廣いから中々多額の支出を要するので、直接關係の無い本國の納税者は、どうかすると之を贅澤事業の如く考へるのである。そこで當局者の辯明としては、常に本國の事業家の利益が是々の高に上るから、經費を償うて餘があるのだと云ふ點を力(131)説して、此不平を抑へようとする。即ち植民地の原住民たちは、文明國人に支配をして貰ふ御禮として、其事業家の爲に大に働かされると云ふことになるのである。有難き仕合せである。處が今度は全く之と違つて、先進國人の神聖なる使命として、委託を受けたる大切な預り物である。日本などは赤道直下に土地を持つと云ふ物珍しさからか、或は別に微妙なる心理作用があるのか、年々二百萬三百萬圓の持出しをしても、之を委任せられたことを悦んで居る。此地域内の統治は、列國共同の監視があつて自分ばかりの手前勝手は出來ず、一には土人の福祉、二には彼等の發達を目標として統治せねばならぬので、乃ち先づ武器を賣らず酒を賣らず、兵に使用せず信教には干渉せぬ等の約束があり、其上に勞働に關しては、強制勞務を課すべからずといふことに定められて居る。つまりコンゴー河流域などに行はれた特權會社制の如きは、成立つ餘地の無いことになるのであるが、是は實はもうどこの國でも、もう眞似て見ようとはして居らぬのである。其以外の場合としては、どこ迄が強制であり、どうして使へば強制で無いかには問題が有る。我々の委員會に於ては、別に深く議論もせずに、金錢を拂ひさへすれば強制で無いと云ふことに、多數が解して居た。處が是も實は適切な標準とは言ひ難い。いやがる人間、働かずともすむ人間を、嚇してつれて來て働かせ、五錢か八錢を持たせて歸しても、相對づくであつたとは言ひにくい。而もこんな實例は隨分ある。通例能率が甚だ低く役に立たぬからではあるが、土人勞働の報酬は非常に低い。是が又本國の企業者がプランテーションに引附けられ、投資をする氣になる一誘因である。賃錢が高く無いと出て來て働かず、高くしてやれば甘んじて遣つて來ると云ふ所まで、或地方の土人の智力は進んでは居ない。又第三者の批評としても、別に賃錢に相場があるわけも無く、土人の生活費に標準があるわけでも無く、最初は多くは金は入らぬといふ土人であるから、何と比較して安い安くないとも言はれぬが、もし生産の效果と云ふものから割出すならば、彼等の分前は決して正當であるとは見られぬものが多い。
 一例を引いて見ると東亞弗利加領で、醫藥治療の手當が行屆き、無料同然の醫院があるといふ處で、一囘の診療費が一シルリングとある。同じ地方は土人に十分の報酬を支拂ふと言つて居るが、男子一日の手當、多きは一シルリング(132)を受くる者ありと謂つて居る。文明人と接近して住むと、どうしても病氣に罹る機會が多いのだが、一日煩へば次の一日又は一日半は、其爲に只で働くべき結果になるのである。
 
          九
 
 此種の勞働者を雇入れる方法は、勿論廣告募集などでは役に立たぬ。通例は酋長の部落民に對する權力を、不斷からよく保護して置いて、間接に之を利用するのである。酋長は元は生殺の全權までも持つて居たものがある。彼の言ふ事ならば、餘程のいやな事でも土人は聽く。つまり怖しいからである。此怖しさを成るたけ保存させて置き、而も農場主の方では之を懷柔して平素から恩威を施し、甚だしきは一人の勞働者に付何程と云ふ手數料までも拂ふ。事に由ると酋長等が心持では、其だけの手數料の額で、一人の部下を賣渡したと思つて居るかも知れぬ。人口がよい程に分布し、農場附近の部落から、通つて働き得るやうな場合は問題にならぬ。のみならず此が好感化を與へて、土人の經済生活を改良し得るかも知れぬ。併し普通は農場は大きな空地を占め、寧ろ從來土人に使用せられなかつた方面を選定する故に、そこらの人手では用に足らず、從つて出稼と云ふ問題が起るが、是を皆此方法で徴募して居たらしいのである。地理を知らぬほどの人々には、部落を離れると云ふことは、我々の想像以上の大事件である。勿論路がわかれば大抵遁げて戻る、そこで簡便なる足留策として別の島へ送ることにする。ニウギニヤの委任領、即ちもと獨逸でビスマルク群島と稱へた地方なども、此方法が大に行はれた。其爲に元の部落には女の數が剰り、尚其他の原因も加はつて、結婚をせぬ者、しても子を生まぬ者が多く、著るしく人口が減少してしまつた。濠洲が其委任統治に當ることになつてから、頻りに其弊害を指摘して居るが、然らば御自分たちは斷然此方法を行はぬつもりかと云ふと、酋長懷柔策の弊を警戒し、募集人を取締る上に、あまり遠方の島へは出稼をさせぬ方針だと謂ふ迄である。本國の役人の頭腦から考へると、一つの民政官を戴く行政區域ならば、例へば種子ヶ島も屋久島も、甑島もコ之島も、同じ鹿兒(133)島縣管内だから差支へは無からうとなるかも知れぬが、住民等に取つては丸々知らぬ他國で、やはり高天原も夜見國も同じことである。さう迄は無くても海を隔てゝ舟を失へば楚囚である。此?態で人々働かせながら、猶便利なる植民地經營法は是なりと、思つて居る者がまだ當節にも在るのである。
 英領の南太平洋では、ソロモン群島バンクス諸島邊に住むメラネシヤ人が、一番よく引出されるやうである。是は第一人口が多いのと、少しは出稼心が有つて、附近の島の地理にも通じ、外へ出ることを命を取られる程には怖がらないで、元はオウストラリヤの大陸にも往つて、若干の成績を示したのであるが、所謂白色濠洲主義を主張する彼地の勞働黨が八釜しいので、追々に又之を送り返し、今では土人徴募の方針を中止した。多くの白人と共棲して働く地方ならば、彼等の境遇を感化に由つて改良するからと云ふ口實も立つが、實際に於ては熱帶の白人もあまり行かぬ處の方が必要も多く、白い勞働者の居る區域では、排斥があつて事業家の計畫を妨げるから行はれないのである。
 赤道のすぐ南、南緯零度二七分の邊に、ナウルと謂ふ一小孤島がある。以前は獨領で、今の日本の管轄のマーシャル群島の一部を爲して居たのが、例の赤道以北といふ條約の結果、引離されて英國の委任統治に屬して居る。非常に豐富な燐礦の産地で、我がアンガウルなどの比では無い。是に土人が千人ほど居るが、働く必要を感ぜぬので、今は少しも働かないが、而も古くからの住民では無く、元は出稼に來た者の子孫であるらしい。何でも獨逸時代には右申す土人徴募方法で、日本領になつたカロリン群島などから、連れて行つて働かせたものらしいが、今日では別々の所管と爲り、國際關係がうるさいものだから之を中止し、受任國では非常な遠方のニウギニヤ領の島から、特に或數の土人を徴募して行くことを許したと言つて居る。此土人たちが文明國の貧民と同じく、眞に生活に窮し妻子を育む必要から、或は利慾の念があつて金の爲に出て來るので無い限り、此の如く澁々來る者を天涯萬里の地から運搬するといふことは、八釜しく論ずるならば是も亦強制の勞働で、奴隷制を罪惡なりと説いた手前から言つて、之を黙認して居る顔であるが、而も各國の經濟政策は、此の如き植民地經營の法を必要とするので、かの人種の異同差別の如きは、(134)寧ろ之を顧みては居ないのである。
 それよりも更に思ひ切つて居るのは、愈太平洋の土人が安樂を愛して慾を知らず、豐富なる弘い土地を棄てゝ利用せず、而も一方色々の故障の爲に、急に土人の人口も増加する見込が無いと見るや、其開發の爲には遠くから人を喚んで、前年米國の企業家等が布哇で試して、評判の惡かつた契約移民の方法をも繰返して居るのである。例へばフィジーへは、もう久しい前から印度勞働者の數千が入れられて居る。サモアには新に香港改廳の世話で女房をつれない數百の支那苦力が來て居る。ナウルの燐礦島へも同じく支那人をつれて來た。勿論十分の用意を以て、隔離した宿舍を與へ、土人との仲が惡くもなく、又餘りに好過ぎもせぬ?態を保たせ、契約年限を終れば直に返すやうにしてゐるとは謂ふが、先例に由つて想像すると、果してどうなるかは分らない。出稼人の方でも居心がよく、もつと居りたいと言ふ。使ふ者の方では馴れた者が便利で、又運賃の儉約にもなるから、年期の繼ぎたしをさせたがる。さうすれば結局一部の出稼人は、何とかして其儘留まり、土人の中に住むことになるかも知れぬ。現にニウギニヤなどにも若干の馬來人支那人の居るのは、皆獨逸時代の出稼人の後である。つまり植民地の原住民の數が多からず、又無理に之を使役しようとすれば世間が八釜しいとすれば、資本家はそれで事業を止めようとはせずに、何とか理窟をつけて、排斥するのが普通の亞細亞人を迄も喚ぶのである。かの白色濠洲の主義の如きは、謂はゞ資本家側の本心では無いので、我々の移民事業の障碍は、此方面に何も無いのである。
 
          一〇
 
 此等の點から考へて、自分は今後の日本に取つて最も重要な移民の問題に就ても、近年の經驗のみを基礎として簡單な斷定を下すことは出來ぬと思つて居る。時代の進展につれて尚局面の大なる變化を豫測する餘地があると思ふ。殊に熱帶地の土地經營に關しては、白人に二つの誤算があつた。其一は到底歐羅巴の勞力を之へ移すことは出來ぬの(135)も知らなかつたこと。其二は土人の勤勞が印度や爪哇の苦力の如く自由に利用し得るものと思つて居たことである。更に意外であつたらうと思ふことは、白人と接觸してから後、土人の人口がとんと増加せず、寧ろ多くの地で著るしく減少の傾向を示して居ることである。自分は決して此等の弱點に乘じようと主張するのでは無いが、我邦將來の勞力人智の利用に就いて、或る可能性を示して居るものと思ふのである。是が此間題の研究に値する所以である。
 太平洋の島々の如きは、言ふ迄も無く土人が其主人である。彼等が今よりも遙に進んだ民族となつて其天與の生産力を挾み、目下次第に缺乏を告げつゝある所の粗製品の供給者として、文明諸國に對して地歩を占めて行くことは、彼等當然の權利である。我々は國が近く血が近く、古今の境遇に相似たる點の多いことを考へて、公平なる同情者と成りて、彼等の立場から彼等の利益の爲に考へて遣らねばならぬことは、何人も否定することは出來ぬ。而も現在の?態を以てすれば、白人は勿論、土人自身にも利用することの不可能なる廣漠の地が、無始の昔の儘で放置してあるのである。支那人は其勤勉力行の爲に、外國で嫌はれる程によく働くが、或は海島多濕の風土には堪へても、勞働の種類に由つては向かぬものがあるやうだ。爪哇は人口の過多なること寧ろ日本にも勝り、土人は固より熱帶島の生活に馴て居るが、如何せん氣力に乏しく善く煩ひ、現に附近の島々に往つても、是迄成功した經驗が少い。白人は殆と言ふに足らぬのである。南に生れた伊太利人でも、尚靴なしには暮すことが出來ぬのは、國柄の致す所仕方が無い。斯る境遇に在りて我邦の人は、尚適應の見込あり、又働かんとする考へがある。殊に米の栽培にかけては最も卓越した技倆を持つて居る。將來世界全體に亙つて、食糧需要の急が更に一段を加へた時、即ちビルマ、カムボヂヤ等に人が増加して、印度本土と同じやうになり、輸出すべき米穀が少くなつて、世界の米食人種に此上の供給をする必要が起つた時、此等熱帶未開地の天然資源を導き出すべく、却て先方から助力を求て來る世の中となるかも知れぬ。斯る想像も必ずしも空想では無い。カリフォルニヤの蔬菜草苺の如き、又は所謂帝國渓谷のカンタロープ栽培の如き、現に日本人の勞力を須ちて初めて十分なる生産があつた。又或はトルレス海峽及アル島附近の眞珠貝採取の如きも、今(136)日既に日本人に待つの外なき有樣であつて、問題は要するに世界的土地利用の進歩如何に在り、特殊勞力の需要如何に在り、働く念慮の無い土人を驅使することが、どの點迄公認せられるかに在るのであつて、人種差別の制限の如きは、到底永く我々の活動を抑壓することが出來ぬのである。
 只考へねばならぬことは、樂をして金を儲けようとする者、又は本國の名聲と勢力とを利用して、無理でも爲し遂げようと云ふ人物が、所謂濡手で粟の野心を以て、土人の中に入り込むことである。此の如きは新に白人三百年間の弊害と不正義とを、今更模倣して繰返さうとするもので、之を企てる限りは爭關と怨恨とは絶えず、又到底白人國の先取權を抑制することが出來ぬのみならず、一方有色人全體の爲に其個々の天賦の權利を主張して、相共に太平洋の天惠を享受するの日を期することが出來ぬのである。一般民衆の立場から見れば、日本が遲く世界の舞臺に立出でた爲、歐羅巴の諸國と相競うて、屬領の割取に參與しなかつたことも、一の大なる幸ひと考へねばならぬ。何となれば我領地が出來れば必ず之を開くに事業家の力を借りることとなるべく、事業家は又其投資を有利ならしめんが爲に、必ず土人虐使の拙策に出でて、將來の人種論爭を誘發するなるべく、從つて平等無差別の正義を高唱すべき場合に、我邦の發言權が無くなつてしまふかも知れぬからである。現在の多くの文明國の勞働者の如く、自分等だけの防衛に没頭して、其艱苦を國外の同業に轉嫁して顧みないのも、要するに舊い國民侵略主義の餘殃であつて、今更に之を學び乃至は之を羨むべきものでは無いのである。
 
(137)   農村往來に題す
 
          一
 
 如何なる心持で「農村往來」といふ雜誌の名を案出せられたか知らぬが、少なくとも中世の庭訓往來若くは近世の商賣往來などの如く、書札の樣式と術語の羅列とを以て、目的の全部としては居ないものと信ずる。今日は既に文字の傳統の如きは、無視してもよい時代になつて居るのだから、若し幸ひに世間が之に由つて、自由勝手な解釋を下してくれるならば、此標題も亦確かに幸福なる思ひ付といふことが出來る。
 けだし日本の農民教育の過去現在を語るに際して、今まで不當に我々が省察を怠つて居たのは、村と村との間の交通であつた。多くの場合には相接する二つの村は、成程存立の條件を異にし、時としては經濟の利害の相容れぬものさへあつた。例へば岡の傾斜地に於ては雨を喜ぶのに、其下流に住む者は寧ろ旱を優とすることがあり、一方の作物のはづれたやうな年は却つて他方の生産が順調だといふこともあつたかも知れぬ。從つて隣村の批判は概して深酷であり、それと對抗する爲に我村の結合に努力したといふ利益もあつたか知らぬが、こんな態度で弘く世間を視ることは、大體から言つて農村の損であつた。
 故にもし日本の百姓の多くが、古い移住の日の記念を愛護して、永遠に土着の地に保守して居たとしたら、其進歩は實は知れたものであつた。ところが千年以上の昔から、彼等は制度の必要上、常に遠方の地と往來しなければなら(138)なかつたのである。如何にも前代の旅行は悲しむべき浪費であつたには相違ない。無代なればこそ優良なる勞働民が、九州奧羽の果から貢物を運搬して、半年と十月を費して之を中央に納めに來た。官道の幹線にも是だといふ施設は無く途に病み賊に劫かされ、あらゆる不安と辛勞とを經驗したことは、古い記録に澤山の事例があつた。それにも拘らず彼等は都を見た。のみならず往きと還りとには、沿道の農村を通つて、異郷の生活を觀察することが出來たのである。
 それが一旦各地に割據して後の、農村文化の普及を助けたことは、假に何等の記憶は存在せずとも、今ある痕跡からだけでも十分に之を推測することが出來る。例へば作物の品種でも、此ほど澤山の外來のものがいやしくも天然が許す限り全國の隅々に行き亙つて經路を尋ねることさへ難い。其他肥培の法であり農具であり、乃至は生産の指導管理分配の事務の如きも、何れの地方が開發が古いから、古い慣習が殘つて居ると、指示し得るものの無い位に、東西南北の同化は完成して居るのである。個々の農民の祖先が旅行に際して實驗し、若くはその智識を間接に利用したと見る以外に、何人の力をも想像することは出來ぬのである。
 
          二
 
 中世の武家の勸農政策には、或はこの農民の往來を計畫し且つ援助したかと思ふ姿がある。即ち新恩加給の地を特に遠隔の場處に於て與へた結果、單に中央都市への一本の路筋だけで無く、關東の武士は九州に往つても住めば、或は越後奧羽の野山にも入つて往つた。さうして此武士が平時には農を營み今の百姓の先祖にもなつたのである。
 戰爭が盛んになつてからは、旅行を專門にする者は農村の平和なる技術に遠ざかり、また亂雛の民は到底其經驗を生産の爲に利用し得ず、一時穴居の如き生活を續けて居たことは確かであるが、それは同時に京都の勢力の大に衰へた時代で所謂田舍わたらひの輩が、幾らとなく村々に向つて入つて來た。即ち世間を知らぬ農民の相談相手としては(139)宗教家も文人も、後には又中小の行商人も、それ/”\に土産の代りに新奇なる他處の見聞を持つて來たのである。
 今日まだ殘つて居る日本の田舍の外客款待には、暗々裡に旅から來た人の良友であつたことを語るものがある。彼等の多くは或は欺いたのかも知らぬ。結局は不當にうまいことをして去つたのかも知れぬが、少なくとも騷け出の山伏や行脚僧、高野聖や座頭の坊の徒が村を訪はなかつたら、農村の無聊は忍び難いものであつたらうと思ふ程に、村に住む人々の感覺は既に進んで居た。遠方の財貨は常に重んぜられた。人間幸福の理想といふものにも、山の奧の村に住む故を以て、特に憫れむべく低いといふことは無かつた。さうして非常に現在の生活の惡くして不滿な者は、飛び出して外へ行くだけの勇氣の準備があつたことは、到底今日の海外出稼の臆病さの比では無かつた。
 亂國のさ中にも熊野參りは盛んであり、之に次で伊勢道者といふものが始まつた。都一見といふことは生活の一つの樂みであり、處々の神社佛閣名所温泉などが人を誘うた。全體に我々は旅ずきであつた。無錢旅行の方法も色々あつた。地圖の精確なものこそは具はらなかつたが、簡略な日本地誌は文字を借らずして頭に入つて居たのである。
 たゞ其割には生産物の交易が十分に行はれず、土地々々の消費は孤立して居た爲に、誤まつて知識も亦自給自足して居たかの如く、妄斷した人があつただけである。それの事實で無いことは、江戸時代に始まつた各種の新産物が、恰も稻妻の海を行く如く、至つて短かい期間に全國に普及し、假に品物は入らずとも名稱と方法、又は思想として偏卑の田舍まで浸潤して居るのを見れば、思ひ半ばであると思ふ。
 
          三
 
 明治以後の中央集權制は、寧ろ此千年來の風習を阻碍しようとした形があつた。首都に向つては用のある者も、無い者も、子の如く又蟻の甘きに赴く如く、我も我もと集まつて來るが、縣境を越えての互ひの交通は、各藩が番所を設けた時代よりも、尚一段とよそよそしいものであつた。汽車は成程人の心を遠く誘ひ單なる動搖性とも名づくべき(140)ものは、或は以前に加ふる所があつたが、其行く先は町で無ければ所謂名所古跡の遊覽地で、少しでも多分に都會趣味の充ち溢れた部分のみを拾つて居た。舊同窓の各地に分散した場合にも、ちがつた境遇に在る者だけが、ゆかしがられなつかしがられる。農民は到底他郷の農民の中に友人を持ち得なかつた。心の赤毛布はいつ迄も、落付いたる對談を許さなかつたのである。從つて旅から還つて來た人の村の話の、村風で無かつたのは當然で、それが僅かの年數に忽ち農村を都市の從屬者としてしまつた。
 近世になつてから特に農業の視察團が出た。地方の代表者が一堂に集まつて、意見を交換する催しも?あつた。しかも今日まだ其效果の是ぞと指摘し得る者の無いのは、要するに辭令が過多であつて、其印象が尚薄かつたか、さうで無ければ中央の感化の方が、より有力に働いて居たのである。自分たちは地方の官吏、殊に技術者教員たちの頻々たる轉任は假令彼等に取つては、厄介なことにもせよ、少なくとも土地々々のちがつた經驗、公平なる觀察の結果を遠方へ分配する點に於て好結果があるものと豫期して居た。併しそれさへも今となつて囘顧すると、直接農民の教育に益するものは少なかつたらしい。をかしい事には數千里外の異國の農民の、生活の斷片などが却つて先づ知られて居り、日本の篤農の五十年間の新らしい實驗は、いつ迄も郷黨限りのものであつた。我々は北緯五十度の近くまでも米を作らんとし、桑でも茶でも評判をきいて皆之を眞似て、時には有害なる全國一律に流れるが、しかも風土は甚だしい變化があり、人の心持ちも色々の制限があつて、如何に大まかなる獨斷家にも奧羽と九州との農業が一つだとは考へられぬが、實際は各地の政治家の腹を探ると都市と對立させる農村といふものは、常に我村を標本とした不精確なる概念を以て、全國土を概括しようとして居るのである。是で普選時代に入るとすれば、農村の利害は何人の企計を待たずして當然に離間せられ孤立させられる事は知れて居る。
 
(141)          四
 
 政治は恐らくは今後も要求であり又運動であると思ふ。しかも現在までの要求は往々にして無知無算當であつたのみか大抵は他の地方と抵觸することを顧みなかつた結果、相殺せられて其力が弱かつた。是を共同の前線に持つて來ようとして、全國を一貫せしめるやうな政策には、愚なる抽象的の、言葉ばかりの議論が多かつた。つまりは鏡を手に取つて我姿を映して見る場合に、目を包み鼻を隱して、わざと片端だけをしげ/\と見て居たのである。
 聯合の力を得んとするならば、先づ互ひに知り學ばなければならぬ。等しく小農の苦惱といふ中にも、急迫は地方に於て事情を異にする。人を頼んで其言を聽く限りは政策にすら流行があつて、時を得ない問題は棄てられる。小作の問題が農政の只一つの標的となつて居るうちに、日本の農民の主要部であつた自作農が、取返しのつかぬ激變を受けつゝあるかも知らぬ。二階から目藥式の自作農創成の一方には、在來の地持はどし/\と持地と手を切つて、未來の小作騷ぎの種を播いて居るので無いか。農業の合理化と稱すべき生産組織の改良は、外から考へる人がもう無くなつて居る。さうすれば小農場主等の最近の苦しい經驗は、いよ/\以て大切な知識である。それを狹い一地域の隱れた寶として置いてはならぬ。
 要するに今日の農民教育は、是非とも當事者の要求を基礎とせねばならぬのに、公人は之を顧みず個々の農民も亦何を要求すべきかを知らぬ。不必要なる謙遜といはねばならぬ。學校以外の教育だけは、責めては實地の生活から出發して先づ現在の村民養成に缺けて居る知識を補つて行くべきである。
 何が缺けて居るかは簡單に答へられる。日本の農民はまだ本當に日本の農業を知らぬのだ。出來合ひの料理を食つて五十年を過ごしたのだ。自分は今新聞に關係がある故に特に心づくが、地方の生活に一番に必要なものに、一度として他の府縣の消息が報道せられたことが無い。縣境の村に居ても隣の村の事さへわからぬ。それが今日の新聞であ(142)るが、それでは困ると不滿を述べたものが一人もない。こんな?態を放置せぬのが所謂「農村往來」の中心の使命であらんことを望む。
 
(143)   青年と語る
 
          ◇
 
 毎日の普通生活は、澤山の問題を我々に提出する。其中には繰返して何遍と無く、又何人の前にも現れる大きな問題が有つて、それを先づ片付けて置かぬと、他の小問題の解決が、折々之に由つて妨げられることは事實であるが、さりとて今日の學者のするやうに、成るたけ之を六つかしく考へようとするのは不必要であり、わざと之を面倒くさく説かうとするのは惡い癖である。我々は他人に對して忠實であるべき如く、内は自分に向つても亦正直で無ければならぬ。學問が身を益し且つ世を濟ふべしと信ずる者は、何を差置いても第一に、眼前の疑を散ずる爲の智識から、求めてかゝる必要がある。書物と自分の問題との間に、まだ弘い距離が有るやうに感じた場合には、本は脇に遣つて問題の方をじつと見る方がよいと思ふ。答は多く問題の近くに匿れて居る。但し獨りで考へて誤つた判斷をすることを恐れるならば、?友人たちと經驗を語り合ふのもよいであらう。近頃の日本のやうに書いた物ばかり無暗に多く、實際問題の却つて此が爲に、一層複雜になつて行くことを悲しむ人々は、何とかして少しでも斯ういふ適切な研究方法、樂な效果の多い學問を普及させる必要を見るのである。そこでほんの試みとして、少しばかり自身の經驗を述べて見たいと思ふ。
 
(144)          ◇
 
 私が勞働問題を考へ始めるやうになつたのは、實は妙な經驗からであつた。八年ほど前に支那を旅行して、色々の新しい經濟現象に接したあげくに、北京では武英殿に入つて、有名な前帝室の貨物の陳列を見た。日本の富豪等が數萬圓の金を投じて、爭うて求めて居る古書畫や佛像、陶器銅器の類の如何なる逸品よりも、更に何層倍か立派なものが、各室の各陳列棚に幾つと無く轉がつて居た。どんな成金が金に飽かして、一生涯かゝつて集めても、之に比べたら知れたものだと思つた。殊に目を驚かしたのは珠玉であつた。廣い國土に有る限の寶石類を集めて、之に精巧なる細工を施して、數十個の植木鉢と植木とが作つてある。何と云ふ物ずきの沙汰であつたか、本物ならば幾らでも、もつと活々としたものが獲られたであらうのに、わざ/\千金の玉を用ゐて、凡そ技藝の許す限り、最も寫實式に色も形も似せて造らせてある。今でも眼に殘るのは高さ一尺餘の枇杷の木に、實は黄玉を丸く削り、葉は翡翠か何かを彫刻して、一寸見ると正の物かと思ふやうに出來て居た。つまり皆帝王の玩具に他ならぬ。日本などには斷じて見ぬことである。
 
          ◇
 
 自分は惘然として立つて思考した。定めて此一鉢の爲にも、何十人かの優良な工人の技能を要したことであらうが、假に一人あつて專門に此仕事に掛かつたとしたらどうであらう。恐らくは早朝から夜分まで働いて、尚人生の五十年には之を完成し得ず、其子が之を引續がねばならなかつたかも知らぬ。この愚劣なる一種の趣味の爲に、天分ある一個の人生が、萬一全部を消費せられても尚足らなかつたと云ふことは、情無い話だと思つた。斯ういふ目的の爲になら、生れて來ない方がよかつたと迄考へた。併し他の一方から考へると、何百年かの前に死んだこの細工人は、恐ら(145)くは一生の間に、一度も私の感ずるやうなことを感じなかつたに相違ない。自分は帝室御用の技藝員として、地位も收入も遙かに他の同職の者に超え、安樂に家族を養ひ得たであらうのみならず、取扱ふ品物は天下に類の無いほど見事な寶玉で、仕事の成績は貴人の賞讃を博し得るとすれば、同じ辛勞にも働き甲斐があり名が遺るから、當時は必ず多くの人に羨まれ、自分も之を心から悦んだことゝ思はれる。さうすれば彼等を幸福にした此類の製作は、假令無意味な物ずきであるにしても、尚恩澤と名づくることを得るのでは無いか。況や西部國境の深山に入つて、岩石を斫り開いて此等の原料を得る爲に働いた人、之を運送した人夫、或は盗難火災の防禦を命ぜられて、何等の手柄をする折も無しに終つた役人までを加へると、一言を以て總括すれば多數の人生が、曾て斯んな玩具に由つて支へられて居たのである。假に人君が由無き慰みの愚を覺つて此企てを中止したとしたら、業を失つて悲しまねばならぬ者が少小では無かつたのである。
 
          ◇
 
 併し現在の我々の感情では、どんな事があつても此の如き馬鹿げた人力の消耗を宥恕することが出來ぬ。成るほど寶石は天然の中の美しい物の一つで、之を愛玩するのは人間の情であらうが、此樣な餘分の手數を掛けて、しかも寶物として大切に藏して置くべき理由は無い。日本は簡素な國でつい近頃まで、こんな物が粧飾になることを知らず、山には水晶海には珊瑚と眞珠が、空しく棄てゝ置かれたのであつたが、大陸の諸國では西も東も、之に對する極度の蒐集熱が昔からあつて、其爲に不必要なる價の騰貴と濫用とがあつた。笑つてよければ二十世紀の女性でも笑はれる。貴族を讎敵の如くに苦しめた赤い露西亞でも、最初の臨時收入は没收の寶石から得た。鑛物界の貴族は依然として因習的の價値を認められ、如何なる人間も能ふべくんば之を求めんとし、こんな重くて冷かな物をがら/\と、寢臥も自由で無い迄に身に着けて得意になつて居る。さうして此が爲には尚多くの人の勤勞が、費されて居るのである。
 
(146)          ◇
 
 我々の問題の一つは先づ此現象に基いて發生する。手短かに言へば此が後にはどうなるかである。いゝ物かも知れぬがそんなに大なる價のあるべき物で無い。第一に堅くて小さくて取扱ひにくい石などに、色々不自然な細工をするのは愚な話だ。人間の短かい生存期間を、之に費すのは如何にしても惜い。こんな事の爲に働かずともすむやうに、世中を改良することが出來ればした方がよい。但し如何なる順序を以て之を實行するかは、日本などでは中々決しにくい。と言ふものは寶石業ほどに極端で無くとも、ほゞ之に近い本當は無益の勞働に、今尚澤山の人の一生が用ゐられ、之を止める爲には別に其代りの仕事を用意して置かぬと、やはり突然と珠玉の禁絶を斷行した場合のやうに、難澁をする者を生ずるからである。
 
          ◇
 
 そこで第二の私の經驗を述べると、大正十年の春には鹿兒島縣の大島をあるいて居て、右申す北京の記憶を、痛切に喚起せねばならぬ機會に出遭つた。大島の西海岸の安室(アムロ)と謂ふ村で、一夜の宿を乞うた家は機屋であつた。土地の娘を五六人契約して、私の寢た二階の片隅で例の大島絣を織らせて居た。人も知る如く此反物は、材料も染色も量目も一つであつて、單に織模樣の變化に因つて非常な値段の差異がある。簡單な絣ならば一日に一丈も一丈五尺も織れるものが、手の込んだ珍柄になると、横絲の一本毎にをさ〔二字傍点〕の手を離して、兩端を手に持つて染絲の配り方をきめねばならぬので、中には暗くなる迄働いて、日に四五寸しか織れぬものもある。一反八十圓の九十圓のと云ふ大島は、結局この貧乏な島の娘の、心血を着るやうなものであつた。ところが斯うした絣の美術には、別に深い根柢が有るのでない。觸りの柔かさや色の澁み、乃至は持ちの長短などは何れも同じことで、偶染模樣や縞に飽きた都(147)會人が、派手な絣に目を移したのが縁になつて、次々に新しい奇拔な意匠が此に加へられ、今日の機械萬能の時勢に對抗して、殆と織物とも謂はれぬ程の、一本竝べの辛氣な勞働を必要とするに至つたのである。普通の反物より工賃の割がよく、又銘々の技能が役に立てばこそ、斯んな仕事を悦んでする女もあるので、それは所謂經濟の自由だと謂つてもよいのだが、やはり目的があまり詰らぬ爲に、此で年を取つてしまふ人々の氣の毒さを感ぜざるを得ぬ。
 
          ◇
 
 そこで更に考へさせられることは、やがて來るべき流行の變化である。反物星さんには不愉快な話かも知れぬが、毒蛇の斑紋などを聯想せしめる大島絣が、さういつ迄も珍重せられようとは思はれぬ。今に人がも少し單簡な柄や模樣を好むやうになつた時、從前一疋に三月も費して居た島の女の勞力を、悉く安物の數物の生産に、振向けることが出來るであらうか。世間の方から言へば入用の分量はきまつて居る。殊に衣類などは安くなつたからとて、三枚も五枚も着られるもので無い。即ち人が無益の趣味を改良して、贅澤を必要の限度に引下げると、其爲に仕事が無くなつて、困らなければならぬ者が出來さうになるのである。我々の賛成し得ない馬鹿げた生活でも、彼等の爲には其繼續を願はなければならぬ場合は、獨り支那の昔の玉造りだけでは無いのである。かなり進んだやうに思つて居る日本の社會にも、同じ類の行掛かりが、まだ幾らも殘つて居る。よほど準備をして掛からぬと、折角人間が賢くならうとしても、意外の邊から苦情が出て之を妨げる虞がある。
 
          ◇
 
 日本の人口はこの五十年の間に倍になつたが、よほど昔の方が人間を粗末に使つて居た。昔の錦繪などを見て居ると、たつた一人の紳士が外出をするのに、鎗を立てたり挾み箱を擔いだり、馬や駕籠の前後に數十人の家來がくつゝ(148)いて行つた。白晝護衛も提灯も必要が無い時でも、身分の有る人は決して一人ではあるかなかつた。家の中でも同じことで、江戸などでは武士が狹い窮屈な長屋に住みながら、或數の雇人を使はぬと體面を保つことが出來ず、村に於ては尚更のことで、古い建築では座敷から臺所まで、澤山の僕婢が居て働くやうに出來て居る爲に、今以て昔風に一家の經濟の支へ得る限り、多くの人を使ふ必要を見るのである。其人數の大部分は、あたかも大島紬の珍柄と同樣に、是非とも無くてかなはぬものでは勿論無かつた。
 
          ◇
 
 昔の陶侃と云ふ將軍は、毎日一百の大きな甕を、朝は家の後から表口へ、夕方には表から裏へ運ばしめた。なんにもせずに居るよりは善いと云ふ意見からであつた。働かなければ食はれぬと云ふ考は、此時代でも有つたのであるが、世の中から見ればこんな勞働は仕事でもなんでも無い。若し人間の遊んで居ることが、子供のやうに發育となり、又は有益な觀察となり推理となるならば、こんな勞役に人を苦しめるよりは、幾ら優つて居るか知れないのであるが、いつでも食ふ爲には何かの勤めがあつた。しかも其理由が遊ばせて置くと、惡いことを考へるからと云ふ親切からでは無く、全く只では分配に與からせまいとする社會の法則が早くから存在し、さうして又澤山の人の手が、無用に剰つて居た結果である。
 
          ◇
 
 此點から考へると、日本と云ふ國の最近の進歩がよく分かる。これ程著しく増加した人口に、兎に角以前より遙かに尤もらしい仕事を與へて、夫々生活をさせて今日迄は遣つて來た。併し此進歩が、永遠に續くことは六つかしいのである。現に此頃になつて漸く事が面倒になつたのは、要は國土の面積が國民の奮闘を妨げるからである。
(149) 今まで好都合に運んで居たと云ふことは、將來に向つての安心を受合ふには足らぬやうである。勿論絶對に不可能といふ理由は無いが、人が増加すれば段々に好い仕事が得にくゝなるのみか、國土の生産が全體として、其養育に十分で無くなるのは自然である。其場合に再び元へ戻つて、如何なる情無い骨折りをしてゞも、乏しい分配に與かつて滿足しようといふことは、到底出來ない。爲に自然に人と人との爭ひが、烈しくならざるを得ない。東洋風の社會生活は如何に美しい點が殘つて居るにしても、之を永續するには事實上の障碍が多いのだから仕方が無い。
 
          ◇
 
 大きな問題は爰にも一つある。足りても足りなくても有るだけの物で、どこ迄も一同の者が食つて行かうといふ分配法は、既に西洋では疾くの昔に滅びてしまつて居るが、最近まで我々の社會に於ては、それが當然の話であつた。實際の處は凶年や大の不景氣に際しては、救濟の手が屆かずして飢ゑ凍えて死ぬ者が、國の片隅には有つたけれども、原則としては其難儀は辭する所でなかつた。併し乍ら、一方に富の私有と個人の勝手とを認めつゝ、無理に此樣な籠城の方針を續けて行かうとすれば、どうしても多くの人のまづしい生活と、馬鹿げた勞働とを是認することになるのであつて、國全體の立場から之を悲しむより以前に、第一其衝に立つべき人たちが忍耐して居ることが出來なくなつてしまふ。誰しも折角生れて來て、知りつゝ自分を粗末にしたいものは無い。我も人も殘らずが思ひ通りに生活し得ないと分かつたら、自分たちだけはと思ふのが、人情である。そこで人情の敦いので有名な國なれ共、今は村落にまで仲間を押退けて、獨りうまいことをしようとする者が現れたり、世の中の爲にと稱しつゝ一身の利を圖るやうな表裏者が出て來て、時々は我々をして民族協同の未來をさへ疑はしめる。是は皆外部に力強い原因が潜んで居る故であつて、必ずしも個人の道コばかりを責めるわけには行かぬ。老人たちのよく歎息する人情の頽廢にも、やはり經濟上の理由があつたのである。
 
(150)          ◇
 
 國を愛する青年の本務は、單に一身の行動を清くするだけでは足らぬと思ふ。しつかりとした學問と省察に由つて、第一には我々の間に高尚にして且つ實效ある生産の作業の、どし/\と新たに増加して、剰つて行く人の手を活用させることを考へねばならぬが、いよ/\國の内に働く餘地が乏しくなつたとすれば、進んでは國外の何れかの方面に向つて、最も適當した人々を送り出す方法を攻究せねばならぬ。自分たちが移民を社會の事業であると思ひ、從來の方法だけではだめだと考へ出したのも、全く斯ういふ經驗からであつた。それに付ては折を見て、まだ語らねばならぬことが澤山に殘つて居る。
 
(151)   青年團の自覺を望む
 
          一
 
 此頃になつて都會人士も大分注意するやうになつた、所謂町村青年會の將來は、我々にとつて非常に大きな社會問題である。他人は知らず、自分等はまだ/\青年會の現?を以て到達とも完成とも見て居らぬ。さて何處かに青年問題に通曉したやうな顔をした人が居るから、自分は其人に聞いて見たいと思つて居る。「是迄久しい間、村々に若い衆仲間、或は若連中などの名を以て、青年の團體がありましたが、あれと此節の青年會とは同じものですかどうですか。違ふとすれば二者の關係はどうなつて居るのですか。」そしたら先生たち、何と答へるであらうか。
 若し全然同じだよと考へるとする。青年會とは要するに若連中の新式名だ、改良するつもりだから先づ名を改めて人心を新たにするのだと言ふとする。自分は眉を聳かして果して然るかを疑はざるを得ないのである。改良と云ふからには、輪廓なり方向なり、殊には根底に於て二者同一だとせねばなるまい。それが大きに信じにくいのである。第一に所謂若い衆團體は元服即ち成年式と闘聯した根強い舊慣の上に成立つて居るものである。男が大人になるには、肩揚げをとり、犢鼻褌を掻かねばならぬと同じやうな當然で、何かは知らず父も祖父も曾祖父も、若い衆を通つて來て、さて後に夫となり父となつたから己れも亦さうすると云ふやうな超意識の行動であつた。新人物の知慧から割出した集合體とは基礎がまるで違ふ。成程國も日本程進んで居ては、社會關係の複雜さも一通りではないから、長い間(152)の特色も失はれ、若しくは稀薄になつたものが多いに相違ない、少くも開けた地方ではさうかも知れぬ。併し少くも若連中と云ふ者の存する限りは、先づは此仲間を作る者は、十五歳から女房を持つ迄、獨身者の活躍することだけは定まつて居た。是からの青年會では、若くて細君のある位な資産家の若主人乃至は尤もらしい青年をどう處理することであらうか。三十五にもなつた青年會員は可笑しいと云ふやうな評が段々出たやうであるが、或はそれ程年齡が根本的の要件だと思つて居る人は少いかと思ふ。然るに右の昔風の青年結合は、今日の家族制度などよりもずつと起原の古い社會組織であつて、部落の氣風が今よりも遙かに荒く且つ頑固であつた時に、ちやうど新時代の徴兵制度などと同じやうに、子孫の繁殖と養育に比較的交渉の少い若者を團結させて、先頭で闘はせ又は死なせた慣例の殘つたもので、從つて此圍體の平常村民間に尊重せられ忌憚せられて居たことも、中々今日の比では無かつたのである。臺灣の生蕃其他未開民族の類例を引くと人が厭がるから見合せるが、近くは薩摩で二才《にせ》などと言つて、殆と家を忘れる程に鞏固な共同團體を青年が作り、女を嫌ひ卑怯を憎むこと極度に達し、其結果立派な命の棄て方をした一種の武士道の如きも、基く所は恐らくは世界に共通な年齡階級に他ならぬのである。
 
          二
 
 國が文明になると教育に暇がかゝる。我々の目からは十五歳抔はまだ東西も分らぬ子供である。假に體質は  略々一人前であるにしても、人も自分も決して出來上つた男とは考へて居らぬ。其結果として所謂青年會指導者の之に對する態度は、根本的に昔と違つて居る。彼等は誰憚らず常に言うて居る。青年會を以て未成品を仕揚る機關だと見て居る。さう見られて誰も怪しむ人が無い。それだけ世の中が此三四十年の内に激變したのである。
 處が若連中の本の形はそんなものでは無かつた。村の祭禮でも盆踊りでも休日の遊び方でも、乃至は男女關係其他に就ての道コ上の制裁でも、常に一邑一郷の中堅を以つて自身も任じ他も認めて居た。其行動の當不當に至つては、(153)世相が變れば批評を勿論變らねばならぬが、よく常に村で憎まれて居る家などに、石地藏を擔ぎ込んだり、馬の糞の重箱を贈つたりするのは、決して蔭に隱れて教唆する人があるからしたのではなく若い者の評定が自然に社會道コの標準を立てるに適して居たからである。
 言ふ迄も無く彼等は進取的では無かつた。書物その他の教育からでなければ得られぬ改良進歩には彼等の手の屆かぬ部分が多々あつた。併し少く共彼等は昔ならば村の防衛者、後々ならば舊制度の保持者たるの任務は引受けて、よく盡して居たのである。從つて假令古風な若い衆團には厭はしい幾多の弊風があつたにしても、日本と云ふ國を三千年後の今日まで、この形の儘に持つて來た保守的の動勞に對しては、我々は前代の武將政治家に感謝すると同樣に又彼等に向つて禮を言ふ必要がある。この頃も或學者によつて秘密結社などと譯されて一寸ぎつくりした南島野蠻人民の成年式などにはよく現はれて居るが、死んで行く故老先輩が、村の因習傳説を殘し傳へて今日迄來つたのは、全く此の如き青年の團體があつた爲めで、女子や小兒がこれを窺へば、死を以て罰したと云ふのも、言はゞ神聖の極貴重の極たる或物を、一人前の責任ある男ばかりで保存して行かうとした努力である。而してこれ等の痕跡の日本の若連中の中にも若干存留するのを見て、嘲り笑ひ乃至は眉を顰めるやうに思ひ遣りの無い人たちが、果して能く之を青年會と改稱せしめて目的を達するかどうか。新らしい事を學ばせようと云ふ目的で、古いことを保存せんとする團體を利用するのだから、よほど巧妙な調和方法が入る筈であるが、誰がこの調和を引受けて下さるのか知りたい。これが第二の自分の疑惑である。
 
          三
 
 第三には若連中の組織に於ては、その團の一員は團その物に對しては非常に從順であると同時に、團以外即ち社會に對しては又非常に積極的且強硬であつた。是は苟しくも此組織名稱の存する限りは、日本でも今でもさうである。(154)之に反して折謂理想の青年團に於ては、團以外に畏服尊敬せねばならぬ人の多きに堪へぬ有樣である。而も會の内部の組織はどうかと云ふと、若衆頭が無い。僅かな年齡の差異は權力の多少とは關係が無い。共和制のやうでその實多數の力と云ふものも鈍い。要するに内に統一が無く、從つて結合が弛緩で、郡役所の人か村の吏員が外から來て導いてくれねば集るだけの自力も無い。夫と云ふのも教育の不足又大に學ばねばならぬと云ふ、弱點の自覺もあるからであるが、やたらに講話ばかり聞きたがつて、青年以外のものに對し、自分は何等の主張もせぬやうになつた。譬へで申せば新らしい青年會はよい形であるが、要するに一つの容器である。昔の若連中は品の善惡は別として、兎に角に何かの品物であつた。この二つを古今名稱の差のみと解したる誤謬、さうでなくともさうして了ふと云ふのなら、少々妙計過ぎて居るやうに思ふ。
 そんなら立戻つて青年會は改良若連中で無いと云ふ答を得たとする。
 茲に於てか二個の團體は併立し得るか否かと云ふ問題が起る。人が年をとつて死ぬ如く、古いものゝ滅びて行くのは是非が無いとするか。國が永遠の生命を保たねばならぬやうに、其特質は何でも保持して行かねばならぬとするか。何とこれを彼の先輩たちに決して貰はうではないか。英俊の時勢を達觀し得る人は必ず日本にも居る。彼等が豫め其智謀の最善を盡したならば、右に向かんとする傾きを左の適當な方に轉ぜしむることは難くないと信ずる。が假りにそんな人が根つから働かずして、今の氣運が成長して行くとすると事實は仕方が無いと云ふことになる。自分は古い若連中の制度は、次第になくなると思ふ。前にも云ふ如く新らしい人の感情から觀ると、無茶なことも中々多かつた。若連中は、時と共に衰亡して歴史ばかりになるとしても、自分は必ずしも之を惜んで其影を追慕すべしとは云はぬ。併し唯一つ、聲を張り上げて自分等の言ひたいのは、その若連中制度の滅びた跡に代りとすべきものは何かと云ふことである。もつと具體的に申せば、先輩の説く書物の教へ、之を透して來る新文明の影響によつて右にも左にも推し廻され得る青年會、之も機敏に打てば響く如く到達することが、都會に比ぶれば五年も七年も遲く來る文明の所謂恩澤(155)ばかりを期待して兼て持ち傳へたものは悉く片付けて、果して自らを空しくして居て、それで結構かと云ふ問になる。
 
          四
 
 自分は惡口を言ふのは餘り好かぬが、吾邦では會と云ふ語は珍らしく新らしい意味を有つて居る。發起人と云ふ人の中に名を貸したのだと云ふ人がある。幹事だけでいつも集會決議をして居る會がある。會員と云ふことは金を取られると云ふことゝ解して居る人もある。而して地方にはいつも百ほど何々會があり、平和な多くの村民は知らぬ間に澤山の會の會員である。夫も亦宜しいと言ひたいが、一體全體滅亡した若連中の代りは何がするのであるか。集まつては國柄ともなり元氣ともなる村々の仕來りを、最も活?に且つ最も敬虔に傳へ/\て行くのは誰か。選擧なり地方問題などの起るたびに、村が下心あつて我こそ一郷有志の總代と云うて廻る人々が、果して能く單純にして正直なる青年、日本の生命を發育させて行くに足る人か否かは、今後如何なる機關が之を判斷することになるのであらうか。
 青年をして自分の足らざることを深く自覺せしめ、永く其向上心を失はしめぬ樣にしたのは、誠に當代の識者の力であつた。併し自分等の腹を云へば、どうか教育は學校でして貰ひたい、學校と言つても立派な建物の中ばかりが學校でない。機會ある毎に彼等を指導して新らしい事物を教へるのは、先進の力に仰がねばならぬことは勿論である。併し青年が既に子供でないこと、否國民の中で最も利害打算に疎い純朴なる中堅であることを考へたら、どうか一部面には彼等をして自ら發達し、自ら修養して行く機會をも與へて貰ひたい。此の如くして今日の日本は出來たのである。
 會と云ふ名を付けて外から世話ばかり燒くのは、何か御し易い團體を作る野心でもあるやうで誠に面白くない。我國の未來の爲めに新に作りたいと云ふ眞の青年會は、最初から特定の目的を脊負はされたもので無いと云ふことが必要である。
 
(159)   國語史論
 
          一
 
 國語史と云ふ語は、二十世紀に入り世界的に用ゐられるやうになつた。日本に於ても多勢使ふ者があり、現に京都の吉澤君の本にも國語史といふ題のものが見られるやうに、是は一部の者の獨占すべきものではなかつた。この語の内容につき吟味して見ると、一々違ひがあるが、要するに、所謂國語學に於ける國語史の地位を大きく見るか小さく見るかに依るのであつて、その相違は人々の流儀によつて非常に異る。私などは、最も廣く是を國語學の全部と解釋してゐるものであつて、この點から、諸君の考へとは大分違ふと思ふ。今迄は實は極りが惡いので自分の率直な庚を表白しなかつたが、國語學と言語學とは別であらうか何うであらうかと、夙くから疑つてゐたのである。日本のやうに、國語學の造詣ありと信ずる人が、私は言語學の方は一向不得手でなどと云ひ切る事が出來るか何うかを疑ふのである。も一つの疑ひは、現在の國語學が學であるか何うかといふ事である。日本では物識りを何でも學と云ひたがつて、養鷄學だの紋章學だのと云ふ。だから學の字をさう嚴密に取扱ふ事は出來ない。然し國語の場合に於ても、單に國語の材料を古いもの新しいものと竝べるだけのことでは、歴史かも知れないが學では無い樣である。
 何故か言語の方の事に就いては、夙く學と云ひ度がり、横濱の波止場をうろ/\してゐる樣な人間にも、少し英語でも話すと語學が出來るなどと云ふ。かうした有樣で、神聖な言語學者もその仲間であるかのやうに誤解される風の(160)あるのは不愉快である。かうは云つても一利一害で、既に學の字が出來て見ると、良心からしてもその學の字に添ふ樣に努力するだらうといふ事が考へられるから、國語學と稱する事は將來の爲には善いであらう。然し現在のものが學で無い事は認めなければならない。然らば、全然この中から學は作り出せないであらうか。我々の見る所では、日本人の心持で日本人の言語の方則を知るといふ事は可能である。廣く、自分等と縁の無い樣な一般的ならぬ自國語に就いての研究を、自分でやつて見る事が、或る特殊な學問になる事には望がある。別な言葉で云ふならば、國語學といふものが、判然形を決めて、國語史と日本言語學とに成る事が望ましいのである。その道筋として、殘り物となつてゐる國語史を判然させておくことが必要となる。是を何ういふものかと知り切つた後に於て、初めて嚴格な意味の日本言語學が現はれて來ると思ふ。是が、今囘かうした演題で話す趣意である。大體話を二つに分ち、談義がかつた、理窟理論めいた事を早く片附けて、その後實例を多く竝ぺて申して見たい積りであるが、例が豐かでない爲に、屁理窟になるかも知れない。
 國語史とは何か。是を考へるには、今日迄の歴史に對する我々の心持の正否を再檢討する事が必要である。日本では凡ての學問に對し一般人の要求期待が大きいにも拘らず、即ち哲學は汎ゆる事を教へ、科學は一切の要求を滿すと考へてゐるのに、今迄史學に對する要求だけが小さかつた。人智の十分に發達しない時代に得て居たそれより以上のものを要求しないのである。是は古くからの習慣で、史學に對しては十分なものゝ要求を憚つてゐるのであつて、新しい學問に對しては無限の要求をする人々が、史學に對しては極めて僅かの要求しかしなかつたのである。從つて國語史に對しても、史學に於けると同樣、それ以上の要求をしなかつた。然し我々の持つ歴史と、國語の歴史との間には非常に大きな差別がある。その著しい一つを云ふならば、平民史――是は國語史と同樣に考へられる――の場合に於けると同樣である。即ち國語の歴史に於ては、大事件は一つも無い。朝鮮征伐・大化の改新などと云ふやうな事は(161)なく、じり/\と目に見えずに變るのである。所が、今迄の歴史は大事件を記載するものであつた。國語史に於ては、司馬温公の樣に、後世から考へてその歴史を知らせようとする者は一人も無い。若し有つたとすれば、偶然記録で、圖らずもこんな材料が有つたといふだけの事であつて、例へば、近松の淨瑠璃の中から上方の商人氣質を知るとか、太平記で天狗の迷信を知るとかいふ風な事と同じなのである。天狗の迷信なり大阪商人の氣貿なりを記述し後世に傳へようといふのが彼の書物の目的ではなかつた。凡ての國語資料は、傳へようとして書いたものではなく、ほんの偶然に現れてゐるだけの事で、丁度、火事に逢つた甲乙の本の或る箇所が、丙丁の本に存してゐるといふのと變らない。さういふものを、今日殘る書紀・古事記などの樣に、我々に示されたものとして取扱ふ事は出來ない。今日の國語史を取扱ふ者は、是を整理さへすれば、國語史は自ら明白となる樣に思つてゐる。それも或は必要であらうが、それだけには據れないのである。
 今一つの大きな相違は、今日迄の我々に遺された歴史は、目的が尠くとも判然してゐた。頑な目的かも知れないが、歴史を讀むのは國の治亂興亡の跡を知つて、今日の參考に資せんが爲であつた。所が、かうした在來の歴史の目的を直ぐ國語史の上に應用する事は出來ない。國語の歴史を調べても治亂興亡の跡が知れるわけではなく、又將來の善い政治の參考になるわけでもない。國語史には國語史特殊の目的があるべきである。一體何のために國語史を調べるのであらうか。この事を今迄は考へて見なかつた。哲人は高尚な目的を持つかも知れないが、我々の如き實際的の者の目的は極めて小さく卑近なのである。で、我々は最初に、何のために國語史をやるかを考へて見る事が必要である。又今日の國語學は事實は國語史であるから、何のために國語學をやるかを調べて見る事が必要である。或は自分の考へてゐる事は、諸君の心持と喰違ふかも知れないが、この邊で可いと思ふ事を二三擧げて見よう。
 是は國語史丈でなく、今日起らうとしてゐる廣い意味の史學の目的も、この他を出ないのである。畢り、史學に對する我々の態度の問題である。其目的の一つとして、何よりも大切に考へなければならないのは、現在を説明すると(162)いふ事である。學問は我々の生活の爲のものであり、生活を過去より善く美しくしようといふ爲のもの、即ち文化促進の爲のものである。我々の現在を説明するために歴史が要るのであつて、是が畢り歴史の社會的意義なのである。是を、實在の國の言語の實際に當て嵌めると、日本語の現?は是で可いか、是では行き詰りか。又是で完成したのか、是では未完成なのか。未完成ならば、何ういふ風に完成したらば宜しいか。現在の日本語で自分等の用が思ふ樣に足りるか何うか。文章家・演説家にとつて是で差閊へないか何うか。家庭内に於ても是で差閊へないか何うか。即ち日本語は是でもう十分か、或はもつと良くする見込があるか何うかといふやうに、畢り廣義に於ける國語改良の問題になる。現在國語改良の問題が云はれてはゐる。それならば何處を變へようと云ふのであらうか。
 實を云ふと、私など文章修業をしてゐる者には、日本語は實際不滿足な言葉である。頭の中は細かに別れてゐるのに、表はすべき言葉が無い。筆に臨んで茫として、其方法を知らぬ事が多い。一見巧く云はうなどと思つたが最後、惱まざるを得ないのであつて、何んなにしても巧くは云へない。演説は何のピリオドもである〔三字傍点〕と云ふ。こんな讀んで面白くない文章しか書けない國語は改良するのが當然であらう。文章には何處の國にも癖はある。然し、私は新聞記者に混つて生活してゐるので經驗があるが、日本語は不完全だから文が書けないなどと云つた者は一人も無い。皆腹の中では苦しくても口には出さない。本道は困つてゐるのである。文士・辯士など皆同樣の氣持であらう。だから改良すべき點が改良出來ないでゐるのである。然し時々、語彙が不足だと云ふ者はある。近頃は新聞記者・雜誌記者など我儘で、今迄に無い新語を遣ふが、讀者も直ぐそれを遣ふ。此頃流行る言葉は皆歴史が分るのであつて、ほんの十年を出でないものである。そして哲學する、文學する等と、變であるとはしても單語の方は乏しきに困らぬのであるが、只言ひ表はし方が簡單で困る。さう云ふ話を欠伸せずに聞くのは、聽手にも天分ありと云ふべきである。長いものに成ると、同じ句ばかり繰返されてゐて、少しも波瀾や變化が無い。こんな?態で、日本人が、五人や七人の秀れた人はとにかく、皆擧つて立派な文化人になる事は望めないのである。從つて、國語は大いに批評し、改良の意味を(163)よく納得させ、次第に良くして行かなければならないのであつて、是をするのが國語史の問題である。この事は、上代、畢り萬葉や源氏だけでは解決出來ない。尠くとも昨日迄の歴史の問題である。
 もう一つ概括的な現在の疑問は、何故國語は變化しなければならなかつたかと云ふ事である。昔の國語は、狂言を見ても分るが、我々が今云ふ言葉とは大變違ふ。又明治初年と大正の初めとでも、諸君の言ひ方は變つてゐる。何故國語はこの樣に迅速激烈に變らなければならなかつたか。是を知らなければ、將來何う變つて行くかを知る事は出來ない。何故に國語が此の樣に變化したかといふ問題について、私共は先づ今迄の考へ、即ち雅俗の辯と闘はなければならない。文雅の士といふものを敵にし、俗衆の側に立つて云はなければならない。此間題は一言で云へば、何故變つたかと云ふと、それは變る必要があつたからだ、と云へる。文化が不必要に變る事は認められない。善くなつたか何うかは價値學の方の問題であるが、とにかく變るのは生活上の必要からである。變へなければならない、變へた方が善いといふので變つて來てゐるのである。この分り切つた理由に對しても、多くの人々は誤つてゐて、愚であるから變へた、鄙人であるから變へた、又、無教育であるから誤り、忘れたり、眞似損つたりして變へた、と考へたのである。この樣に自分の遣つてゐるものを卑劣と見、古代のものを尊敬し、農村の言葉を卑しめ、都會の方の言葉を尊重するといふ風にして來てゐる。此事は非常に大きな民衆心理に源を持つのであつて、凡ての方面にこの誤解がある。二つを較べて何方が善いかと云ふのは別の問題であり、そして、或る正しいものが惡く成つたのだと最初から決めてかかるのも誤りである。或者の目から見たら正しく無い樣な事も、爲なければならぬ必要が我々の過去には有つたのだ。未だ是れ以上に細かく考へると、國語上の疑問は比々として起る筈である。是に就いての問題は皆寄せ集めて持つて來たが、今囘は國語教育の問題の側から、現在の疑問を考へて見たい。
 今日國語を全國の學校の教課目に置くが、唯一つの目的は此處にある。と云ふのは、國語の利用を完全にさせようといふ所にあるのである。云ふ迄も無いが、言語も一つの社會事物である。我々が主で、言語は從である。換言すれ(164)ば、言語は我々の道具で、我々の生活する爲に具つてゐるものである。此利用を不完全ならしめ、此利用を妨げる事を心掛けたものが、或時代、或地方の國語教育であつたとするならば、それは普通教育の中から追放されねばならない。小學校教育の實際化と云ふ事が、是迄云はれて來た。然し普通教育の中で、かういふ事を云ふのは、平手で顔を逆に撫でた程の侮辱なのである。然も是は悲しむべきではあるが、實際化以外に、或目的があつたかの如く誤解せしめるものがあるのである。こんな事を云はれるのも恥辱であり、云ふも恥辱である。尠くも是丈は外國の人間に聞かせたくないと私は考へる。それで、もう五十年來研究を重ねた國語教育、小學校教育ではあらうが、己を空しくして、もう一遍國語教育の本來の目的を考へて見るべきである。實際化と云ふ事を他人から云はれて、撥返す位の用意のある人に對しては云へないが、今頃に成つて實際化を云はれても、何も云へないで黙つてゐなければならぬ樣な?態にある人は、國語教育を何のために我々の子弟に與へるのであるかを熟と考へて見なければならないであらう。我々が何のために國語教育をするかを考へて見なければならぬ理由は此處にある。
 國語史の第三の目的、普通の考へからすれば、是は私が云ひ落したのでは無いかと懸念されてゐる諸君もあるかと思ふが、さうではなく、第三番目の目的として述べるために、今迄は云ふ事を控へてゐたのである。この第三の目的は、現在の國語の起源を説くため、と云ふ事である。此事は、私は全然不必要とは考へてはゐない。起源の知識を持たなければ、今日の疑問の解けない事もあるが、多くの事を爲なければならない多忙な人間は、こんな問題は無視しても差閊へない。是は古來の歴史は一般にさうであるが、起源の久しい事を矜る癖がある。貝原益軒の中華事始の樣に、何々天皇の御代に始まりなどと云つて、古いと云ふ事を以て凡て正しいとする風があつた。郷土史の方で云ふと、直ぐに古い所へ持つて行き度がり、例へば寺に白鳳年間とでも云ふ記録があると、寺の創建を白鳳年間だと説いて安心し、其他の事は餘り考へない。其他、國の歴史の上に於ても、非常に古くからあると云ふ事を聞いて安心する癖があつた。それに附け込み、古代史にのみ浮身を窶する事が近年は盛である。殊に厄介なのは、鐵道を作る樣になつて、(165)其處らを掘り、崩しなどして、矢根石や人骨でも出て來ると、直ぐアイヌ云々といふ樣な事を云ふ。それで地方では、アイヌが住み石器・土器を使用してゐたなどと古代の事を云つて居れば、それが歴史だと考へてゐる。實際はこんな古い事を知つても仕方が無い。又、日本人はアリアン人種でギリシャから系統を引いてゐる等と考へる人もある。私などから見れば、さういふ人にもう一遍歴史の目的を訊いて見度くなる。國語史にしても、國語の起源を調べるためだと云ふならば、起源を調べて何になるかと訊きたくなる。國語利用といふ點からすれば、凡そ我々の生活とは没交渉な事で、語源などは、分りもせず、又分つたにしても仕方の無い事である。それを今迄多くの人がやつてゐたのである。それで、無論是も國語史の目的の中に考へても可いが、私は後廻しにして態と云はなかつたのである。
 一番大きな問題は、多數の人に關係を持つ國語教育にからまる問題である。今の教育が惡いとするならば、何故現在迄に國語教育を持つて來たかゞ、歴史上の非常に大切な問題となる。惡かれとしたのでなく、お爲善かれと考へた計畫が、何故今日のやうに能率の上らない事に成つたか。此事から考へて行くべきである。もと/\各人の子弟を教育機關に委託する考は分つてゐる。此子を一人前にして貰ひたい。世の中に出て、親より少しでも良い生活が出來る善い新しい人間にして貰ひたいと云ふのに違ひない。此子供を世の中の善い人にし、積極的な生活の出來る人にするためには、今のやうな國語教育の仕方で果して可いであらうか。此事は、良心の有る人ならば考へずには居られぬ事であり、實際、現在苦悶してゐる人もある。村々の事を實驗してもよく分る事であるが、能く見ると饒舌な、囂しい程の少年がゐるが、多勢の知らない人の前に置くと、何も云へない子供となる。赧い顔をして、子供らしい事も云へず、又大人らしい事も云へない。小學校の間は可いが、中學生以上になると、此事は激《ひど》い。陰では引切無しに饒舌してゐる人間が、公の所に出ると擧措度を失ふ。へどもどして云はねばならぬ事も云へない。尠くもこの結果から見ても、國語教育は左樣に效を奏してゐないのである。今迄有り、今日缺けてゐる何物かゞあるのである。是は言葉一つ一つの問題では無しに、物の云ひ方の問題である。
(166) 私共子供の頃、父親は世間を厭がり、社交的な場所へ出なかつたので、私共が人の居る所へ行かねばならぬ事が多かつた。その時は母に何う云へば可いかと訊き、今日はかう云ふのだと、云ひ方を教へて貰つて行つたものであつた。例へば講中ならば、今日は皆樣御苦勞樣でございますと云ふのだ、と云ふ風に、其時と場合に應じて母の教育を受けたのである。馬鹿壻話が出來るのも、かうした母親の教育があつたからで、少し愚な壻は、母に教へられた通りに云はうとして、馬の尻に、十三佛を貼つたら宜うございませう等と云ふのである。この母親の教育は實物に當り、未然に教へたものであつた。所が郷黨の教育はもつと嚴しい實地教育であつて、一度馬鹿な事を云はせてから、どつと笑つたものであつた。で青年達は、自分達の仲間の得手でゐる者の云ふ事に氣を附けてゐて、皆から笑はれぬ樣にその眞似をする。是で、方言の國語教育だけは出來てゐたのである。だから如何なる僻村でも、平素は黙つてゐても改まつた時に云ふべき事を云ひ損つて恥をかく樣な者は無かつたのである。是れが、馬鹿であるかないかの岐れ目であり、嫁が貰へるか貰へぬかの境であつた。只其缺點は、云ひ方に型があり、東筑は東筑、北安は北安風であつたりするので、中央の役人が來て其前に出た場合などには、「長頭を廻はせ」と云つた樣な滑稽も有る事であつた。所が、今の國語教育の始めの目的は、全國同一にして教育しようとするにあつた。是も達して了へば可いであらうが、其樣な事は私には考へられない。山の中の者の言葉が東京人の言葉と一緒に成る迄には、言葉が何方附かずの鵺的のものに成つて了ふ。此樣に、其言葉を中途半端なものにして、笑ひものにする樣な教育を何故するのであらうか。田舍から若い女を連れて來て奉公させると、私達には笑ふ事など出來ない。標準語にするならば、何處の人間も笑はれずに自分の言葉が言へる樣に、復た笑はれると思つて云ひたい事を言はないで辛棒してゐる樣な事の無いやうに、愼ましくても云ひたい事が云へ、能ふぺくんば、少しでも巧に相手を動かせる樣に言ひ得るごとく教育すべきである。それをしてやらなければ國語教育とは云へない。是は丁度、人間を足が動き目が見えるやうにしてやる事と同樣である。母の言葉や土地の言葉で遠慮無く云へる子供はよいが、偉い人の前に出ると喋言れぬ子供を作る樣な教育は殘酷である。
(167) 我々の國語教育は、何故こんな風に成つて來たのであらうか。今日、人の心の中は益細かくなつて、農夫と雖も、感覺の複雜に成つて來た事は、明治の頃と比較すれば何倍かに成つてゐる。然るに、何時も云ひたい事は云へないで、自分の云ふべき事をも云はないで、成人《おはき》くなつてしまふのは、國語教育の不十分な點である。それと云ふのも、今日迄の小學枚の事業が寺子屋の引繼ぎであるから不可いのである。寺子屋は目的が異ふ。寺子屋へ行つて一生懸命に手習し、字の書けるやうに成らうと云ふ者は、特別な目的を持つた者であつて、さういふ者は幾らも居なかつた。醫者や坊主にしようと云ふ特別な者の外の普通の人間は、さう學問は不要いから、半年、一年やつた位で止めて仕舞つて、その效果を問はない。寺子屋教育は、人間を一人前にする爲で、職業教育であつた。それが木に竹を繼いだ樣に現在の小學校教育に引繼がれて來たのである。文部省の日本教育史は寺子屋を卷頭に書く。そして小學校で教へるものも、寺子屋同樣、讀・書・算であつた。この樣に或職業教育が引繼がれて小學校教育と成つてゐたのである。此理由は、明治の初世、新政治に入つたばかりで多くの人が要るために、少し學問のある者は採用したので、文字の一寸でも讀める事が出世の基と考へ、大きな聲で素讀が出來れば可いとか、手紙が書ければ可いとかいふので、讀・書・算に力を入れ過ぎた事がこの誤りの因であつた。此事は國語教育完成のために、何うしてももう一遍考へて見るべきである。所が、一方不幸にも、國語學・國文學が發達し、何の爲に國語を讀むかを少しも考へずに、讃む者は讀む事それ自身が出世や人間完成の道であると考へ、餘す所なく古い文學を讀む。確かに暇や趣味のある人、野心ある人には、一生を費しても可い學問、事業であるが、萬人がその通りにやる必要はない。それにも拘らず皆やる必要のある樣に考へるのは、何が爲に古文を學ぶかと云ふ事に考へ違ひがあるからである。東洋風の學問では古くからの仕來りで、本の中には善い事ばかりが書いてあると考へてゐる。確かに竹に小刀で刻んだ時代には、何うでもよい樣な事は書くわけが無く、是だけは是非傳へなければならぬと云ふ格言の樣なものばかりを書いた。が、時代を經て紙などが多くある樣になると、川柳でも何でも書く。かうした時代に成つても、昔の考へが働いて文字に書かれたものは、内容の善い(168)ものであるから皆殘さねばならぬといふ風に知らず/\考へてゐる。かういふわけであるから、爲に成る事實を知るために文を讀むと云ふのは嘘である。又、源氏は誨淫の書で、男女の淫奔な事を書いてあるから讀ませるなと云ふ者もあるが、國文學を是非内容の上から讀むべきものとするならば、讀むと云ふ事の基礎が動く。源氏等に近い内容のものを中等學校では教へてゐる。是は、若し内容を教へるならば、何故教へるかと疑惑を抱き、反逆しても可い事である。然し實際教へる趣旨目的は是とは違ひ、或る事實を何う現はし得るか、知つてゐる事と書いた事とは何んな違ひがあるか、といふ樣な事を知らしめんとするのである。日本では、心の中にある事を言はうとして言ひ表はせない時には、云ふに云はれぬ等といふ言葉を使つて腹の中にあるものを出さうとする。この樣に、心中に思ふ事と表現とが違ふので、其表現法を知るためには、上述の如きものも參考になるのである。然し多くの人はかうは考へない。讀んで面白いからと云ふ。事實がグロテスクで面白いものもあるが、多くの場合日本の文學は然うではなく、何方かと云ふと、上手に書いてあるからと云ふ風に、事實の面白さではなしに、或事實を説明する説明の仕方が面白いといふ事に依るのである。大體古文藝は饒舌が少い。短い言葉で、文人畫の樣に、是非共言はなければならぬ所にタッチして書いてある。で、面白いと云ふのは、其事實に丁度適するやうに書いてある事を云ふ。即ち内容の表はし方に面白味があるのである。心行くばかりに書いてある場合に、我々は非常に感心する。この點から云ふと、内容は讀む者に親しみがあり、少しでも關心を持つてゐるもので無ければならない。此點、源氏は落第である。畢りその内容が餘り我々と疎遠なのである。で、上手に文章を書いてあると見せるには、内容も讀者に了解出來るものでなければならない。何う考へて見ても、中世の宮廷の女の文章が、今日の教育に向くか何うか不明である。鴨長明の方丈記にしても、亦然う云へる。簡單に云ふと、日本の國文學は、我々の桎梏なのである。それだのに、古代を崇拜する我々の心持から、やらないで可い擬古文や歌をやる事になる。以前は、教育があると、直ぐその知つた言葉を遣つたものであつた。例へば浮世風呂を見ると、けり子かも子といふ二人が萬葉調の歌を作つてゐる。
(169)   うまじものあべ川もちはあさもよしきな粉まぶして晝食ふもよし
 この樣に國文が時代と逆行して、かうした形の行き違つた文章が出來た。更に此處から出て來て、今日の樣な自由な言ひ表はしの世の中になるには、即ち多數の凡人大衆が文章の昔の桎梏から脱して現在に迄達するには、有數の國學者は別として、可成悲壯な歴史上の場面があるのである。政治上に於ける維新の改革と同樣に、文章を此處迄持つて來るには、隱れたる志士、浪士の惱みがあるのであつて、この事は國語學上の大事件として國學に志ある者は先づ注意すべきである。今日我々がこの樣に話し文章が書ける迄に文章を持つて來たのは、日本の國語學の歴史の上では可成華かな數頁であつた。或は國語學から云ふと若干縁遠いかも知れないが、インテリの遣ふ國語は文章道の影響を受け、口でも筆でも、常に古代の句を出してゐた。この影響が謂はゞ凧の絲の樣に、高く揚らうとする國語を引止めておいたのである。それで一通りだけ日本の文章道の沿革に就いて考へなければならない。
 日本の文章道の上で、一番重要な事は、漢字問題即ち男文字の問題である。この事は文章といふ技術を知り初めるや否や直ぐ問題と成つたので、男文字でなくては文章を書く事が出來なかつたのである。是は大きな犠牲であり、束縛であつた。尤も、文字の實際的方面には假名も出來ては來たが、これは有ると云ふだけの事で、公文書は勿論悉く漢文で書き、さうでなくとも、判然と目的を達しようと云ふ際には漢文を書いた。然し、支那人と同じ樣な漢文を書いた時代は短かつた。日本人には漢文は巧く書けないのだから、後には漢文としては誤つてゐる日本式の漢文と成り、もつと下つては字だけでも漢字で書かうといふ樣に成つて、かうした不文の約束は明治から大正の後迄も續いて來てゐた。それ故教育を受けた人は相變らず漢文で書いたが、他の一方には、漢字と假名とを混へた書下し文が書かれる樣に成つては來た。私など役人をしてゐて實際に拘束を受けたものであるが、一字も假名を使はず、何々乃件、仰公裁等と書いたのであつて、是が大正時代迄の役人の本式の文章であつた。本式の文章は是程漢字を旨としてゐたのであつて、假名が自由に使へる世の中と成つても、文章の上で先づ問題になるのは漢字であつたのである。是に就いて(170)興味を起させるのは東鑑である。讀まない人が多いが面白い本で、假名を避けて全部を漢字で書いてあり、一切の事を殆と漢字だけで書かうとしたので變な文章に成つてゐる。更に面白い事には、東鑑は少し餘裕があり、少し感動せねばならぬ時には、漢詩にある樣な兮や焉等を使ふ。そして感動した樣な顔をしてゐるが、よく見るとそんなものは使はないでも可いのである。日本語を書きたい要求を持ち乍ら、表す時には凡て漢字で書くと云ふならば、假名として漢字を使つた萬葉人の方が幸福であつた。然し東鑑でも分るやうに、鎌倉時代の公卿にしても、心持は委曲を盡さう、言ひ切らう、然し字は漢字を使はうと苦心したのであつて、そして苦しい乍ら、その中から文章道は發達して來たのである。
 色々薦める本はあるが、その中試みに讀んで貰ひたいのは、信州に關係のあるもので、安居院神道集の最後の一卷諏訪縁起である。是が東鑑式の其れよりもう少しひどいもので、愈假名を使はねばならぬ時には、宣命や祝詞式に横に小さく書いてゐる。この縁起は延文年間のもので、今日の假名の諏訪縁起と同樣であるが、全部を漢字で書いてゐる。假名で書いてあつてさへ分らぬものを、安居院の神道集は漢字で書いたから尚更分らぬのであるが、然しかうして語物を漢字で書いた爲に古い物は殘つたのである。この漢字で書くといふ?態は長く續く。江戸時代になつて、林道春の本朝通鑑は、漢文でよく書いてはあるが和臭がある。善い意味の和臭の泰斗は黒川道祐で、その著日次記事の文章は餘程漢文の影響を受けて改良はしてあるが、尚日本の癖の拔け切らぬものである。和漢三才圖會等も純粹の漢文とは云へない。道祐や羅山のものは、少々の缺點はあるが漢文と云ふ事は出來る。是と對立して和臭紛々としてゐるものに候文がある。エクスプレッションの上からは候文が主であつて、國民生活に於ける意志表示の殆と凡ては候文であつた。是が又全漢字式であつて、近世少し假名を混へはしたが、それ迄は返點を附け、被遊御座等と殘らず漢字で書いたのである。是をやるには大變な努力であつた。といふわけは、それで凡ての用を足さなければならなかつたから。凡ゆる用事を漢文で書くといふ事は苦しい事であつたが、この國の人々は頑として漢文を捨てず、今日の(171)ローマ字論者よりも尚頑固であつた。いろは〔三字傍点〕節用はかうした 漢字主義の爲に出來たもので、やつかい〔四字傍点〕は厄介、あんばい〔四字傍点〕は鹽梅と書くと云ふ風な事を教へてゐる。即ち是は、自分の云はうとする事を文章にするには漢字で書かなければならぬ、といふ必要から出來たものなのである。で、昔の人はこのいろは〔三字傍点〕節用を、後には段々増補されたが、常に座右に置いたのであつた。こんな物を持たなければ書けないのは可成不幸な事ではあるが、さうかと云つて假名混りの手紙を取交はす事も出來なかつた。然し又、或點抵抗をする國民であるから、充分是で用を足して、可成複雜な云ひ表はし方をも漢字で能くしてゐたのである。
 餘り窮屈な話ばかりして來たから、此處で一寸諸君を微笑ませるやうな話をして見よう。私の友人で、北海道の役人をしてゐた大塚さんから常に聞かされた事であるが、今時の若い者は駄目だ。公文書等も漢文崩しの口調で書く。其處へ行くと流石に昔の役人は偉い。何んな事でも皆候文で書いた。裁判所の記録を見ると分るが、裁判所に持出される世の中の込入つた千差萬別の事を、皆候文で書いてゐる。と云つて、こんな記録を聞かせて呉れた。それは熊本の在方で間男をした女の口書で――私儀去る何月何日の早朝背戸に水汲みに罷り候に、何某あり肩をたゝき何うぢやなと申し候につき、フヽンと申し候所云々――と云ふのである。是を假名などは混へないやうな候文で書いてあるのであるが、こんな市井の小事迄漢字で自由自在に書けたのである。
 コ川時代に成つて見ると、東鑑や神道集の文章は滑稽で下手に見えて仕方がない。で何うしたら可いかと苦心したが、思ひ切つて漢字を止めれば可いがそれも出來ず、却つて漢字は益使つて、そして此文章上の難關を努力によつて突破しようとした。其成績は上つた。江戸時代の學者の努力には實に偉いものがある。彼等は難しい方へ/\と進み、徂徠頃に成ると文章は可成自由になつて來た。が、此處に注意されてよい一つの異色――今日の目から見れば普通であるが、其當時としては敬服に値する――を示したのは益軒・白石等で、書く方で幾ら漢文が書けても、讀む方で困れば意味を爲さないとして、假名混りの平易な文を發明した。折焚く柴の記とか藩翰譜とか、益軒の色々の著書(172)等、あの當時自らへり下つてあゝしたものを書き、相手の理解を先として自己の自慢を後にした態度は手本とするに足りる。然し大部分の學者は是とは違つて、漢文でも俺は書けるぞと、その書ける事を矜るといふ風であつた。支那に於ても、近世の支那人には口語と文語とに違ひがあつたが、擬古文の書き方ならば、日本人も支那人には負けない。實際、孟子・史記・諸子百家等を日本人は刻苦精勵して讀んで自分のものとしてゐたのである。コ川時代の下半期の漢學者は多くの人が馬鹿にしてゐるが、文章道の上から見れば華かな成功時代を作り出した人々であつた。山陽の外史等――是は徂徠時代からの引繼であるが、史記や十八史略といふやうな支那に於て重んぜられてゐるものを用ゐて、日本の複雜した生活を書かうとしてゐる。外史のあの源平の段など支那の古典の中の言葉を用ゐて書いてゐるのである。支那の言葉を組合せてあれだけの日本の文章を書くのは偉いが、時としては原文の意味と違つてゐるのを違はないらしく見せようと努めてゐる處もある。讀者の喜ぶのは、讀者のよく知つてゐる左傳や史記の一部を巧く使つてあると云ふ事にあるのであつて、平家や源氏の事實がぴつたり表はれる樣に上手に譯してゐるか何うかは問題にしてゐない。此の外史の行き方は詰り形式主義であつた。是と對立するのは、精勵派とも云ふべきもので、山陽より一段と巧い者に中井履軒がある。その著昔々春秋は、桃太郎・舌切雀・猿蟹合戰と云ふ樣なお伽話を左氏傳の形式で書いたもので、實に巧く左傳の文を使つてある。とにかく、戯文ではあるが是れ程迄に我々は出來たのである。この樣に漢文を諳じ、驅使し、漢文の格調を壞さずに我々の文章を表はさうとしたのであるが、時々馬脚を現はして笑を催させるものもあつた。更に是と對立して、實質は精勵派であるが、思ふ事を思つた通りに表はさうとした者がある。それには黒川道祐、新らしい所では松崎慊堂などが擧げられる。松崎氏の日暦を讀んで見ると、日本の文章道の苦心が分る。是は一切の人事を悉く漢文で書かうといふ決心の下に出來たもので、その事が文法にさへ背いてゐなければ何んな風にでも書かうとし、人名等さへも漢文風に書いてゐる。そして松崎氏は日本人の文章に和臭は當然であつて、無ければ却つて可笑い、と云つてゐる。然し是は文法や字に誤らないといふ自信のある人の云ふ事であつた。英語や獨(173)逸語の場合にも同樣であつて、英人通り獨逸人通りといふ事は不要ないのであつて、和臭はあるのが當然である。黒川、松崎等のかうした時代には、表はすべき事が多いのに文章に困るやうでは不可いと云ふので、文章を非常に修業してゐる。武者修業同樣、文章の方の武者修業も行はれて、此方から出て行つて、日本全國を歩き、見た事を何でも文章にしようとした學者もあつた。平澤元ト、明治になつては青山八洲等がさうで、八洲には大八洲記がある。是等の人は、何でも書かうといふ氣持で歩いてゐたのである。斯の樣にして歩きながら、なほ男文字に曳摺られてゐた事は情ない事であつた。時代の力は恐しいもので、假名を使へば何んなに樂か知れないのに、漢字が捨てられないのである。是には才子の自慢もあるのであつて、寺門靜軒は江戸市井記を漢文で書き、一方宿屋飯盛は、醉うた/\五勺の酒にといふやうな唄を王朝時代の古文で書いて、酒をたうべつ、たべ醉ひつ、と云ふ風に書いてゐる。斯の樣に書ける、と云ふ自慢の心持も有つたのであらうが、とにかく、一方では文章で人を動かさうとする要求が可成痛烈であつたにも拘らず、なほ男文字を捨てずに明治に至つたのである。
 明治初年の文章は、今迄の拘束を解いて、もう一段樂にしたものであつた。男が書いても假名混りでよく、即ち書下し文に成つたのである。素讀の時耳で覺えたその口調を假名混りで書下しにすれば可かつた。明治二十何年頃迄は是で來てゐる。一方官廳の方は、未だ難しく漢字を用ゐたが、其他に於ては大抵是で間に合はせた。書下し文も、今から云へば難しいが、あの當時に在つては解放であつたのである。五の束縛を三位解放された樣な平易さがあつた。新に得た自由に醉ひ、是でやつて行かうと云ふのが、日本の新聞の初期の文章であつた。今でも時々書下し文のものがあり、恐多いがお上から下るものが矢張書下し文である。官廳等でも意見書等は書下し文であり、報告書等も然うである。官廳で、御座いますといふ樣な文を書いたのは三上參次氏だけであらう。所が、かういふ書下し文では何うしても困ると云ふ連中が出て來た。恐らく是では思つた事が云へないのではなからうかといふので。即ち、古い時代の言葉では新しい時代の事物に對して物が云へず、又その感情も云へない、是では駄目だといふ、自分の内から湧き(174)出て來る要求を抑へる事が出來なかつたのである。山田美妙齋が口語體を書いた時、皆笑つたものであるが、今は皆口語體で書くやうに成つた。そして政府の法律文を口語體にしたら宜からう等と云ふ樣に迄なつて來てゐる。
 かうして現はれて來た口語體の文章は皆同じかと云ふとさうは云へなかつた。書下しの下にである〔三字傍点〕を附けて、云はざるべけんやである〔三字傍点〕等と尻丈を口語體にしたものが使はれてゐたりする。かうした、文からの拘束は、日常話してゐる間にも現はれ、演説等になつて壇上に上ると、書下しとか莊重とか云ふ考へから、口調が改まる。壇に上らなくても然うである。又村會等でも其時丈は氣持が改まり、何兵衛、何作と言つて隣合つて住んでる者に對つて、諸君等と云ふ。實際不思議でなければならない。今我々の惱んでゐるのは其處である。何う教へたら可からうか。何う自分を言ひ表はす樣に教へたら可からうか。それは、方言で素直に言ひ表はす樣に教へれば可いわけではあるが、一方改まつた言葉があり、それを言へなければ笑はれるのである。こんな風に言葉を二道に分けて教へ知らしめねばならぬ樣な?態では、我々の惱みの解決には遠いと云はなければならない。とにかく我々は解放されつつはあるのであつて、不自由ではない。が、現在の?態は過程の?態である。此處に、國語教育の目前の可成大きな問題があるのである。
一體、演説は日本に急に入つて發達しなければならなかつた爲に、妙な難關に遭遇してゐる。私共が諸君の前で話してゐるのは一つの修業なのである。私は演説社會に接してゐたため、考へる機會もあつたのであるが、大體演説には二つの系統がある。一つは形式派とも云ふべきもので、上手に、即ち巧く型に捉はれて云ふと受が好いのであつて、誰かの眞似をした、格調のある、所謂格調派である。他の一つは格調を破つて、成るべく口語に近く口語に近くとするのであつて、是は自然派或は内容派とも云ふべきもので、この二派のある事は、江戸時代の漢文によく似てゐる。議會に於てもこの二通りの演説の型がある。この二つのものゝ優劣に就いては云ふを俟たないのであつて、永く我々は形式に捉はれてゐるべきではなく、演説も成るべく口語に近くしなければならないのである。政治家の中にも、座談は上手だが演説は下手だといふ人がある。あの野田大塊などは然うであつた。何故上手な口語が直ぐ演説にならな(175)いのであらうか。又文章にならないのであらうか。その大きな煩ひとなつてゐるものは雅俗の辯なのである。我々は此處に於ても、方言の起源を人間の無知、無教育と考へる考へを捨てなければならない。相手に印象の深い、氣持のよい清い佳い言葉を選んで使はうとする事は必要であるが、平常の言葉だから他所行の時に出してはならないといふ考へは不可い。さう考へるのは、名刺の代りにばかり使ふ言葉が多く、人間の心持を通じ合ふ事をしなかつた事から來てゐる。とにかく今迄は、文章の自由に成つて行く道だけを開いておいて、根本では人に遠慮をさせてゐたのである。そんな氣特のある限りは、人間同士の言葉としての、又自由に心持を表現する言葉としての第一義に到達せしめる事は出來ないのである。是等の事は非常に大きな問題に違ひない。
 私は、一番肝要な事は、古代の言葉が今日の?態に成つた事實を知るは勿論、何うしてこの樣に變つて行つたかといふ事を知るを以て、國語史の主要な問題とするにあると思ふ。その變遷の理由を明かにしない以上、只教へさへすれば可いといふ事に成つては困る。一體古文學が國語教育に必要なのは、云ひ表はし方の技術の點にある。その點古文學を輕蔑する事は出來ない。然し古文學の由來する所を究めないで教へるのは不可い。古文學と今の文學の由來する所を知らないで教へてゐるために、古文學を無闇と讃めて、少年をして尚古派たらしめずんば止まないのである。教へるならば、お前が學ぶのはこの世の中の一人前の人間になる爲であると教へ、口語が現實語であり、此處迄來るのには其れ相當の道筋があり、讀本はその道筋を教へてゐるのだといふ事を解らせ、又昔の人はかう云つたが今はかう云はなければならないと云つた風に教へ、かうして文章語と口語との事を判然させなければならないのである。そして、その方言に代るべきものは正しい標準語でなければならない。
 更に云はなければならないのは、一番閑却されてゐる言葉の力、即ち話をした時に人を動かす力に就いてゞある。それを考へず、2+3=5の樣に、低く云つても高く云つても同じ力しか持たないと考へる事は不可いのである。である〔三字傍点〕ばかり續けても、眞實に人を動かす事は出來ない。眞實に我々の心を相手に與へる爲には、先づ文章を變へる道を(176)執らなければならない。實際、自分の氣持を他人に傳へる事が出來る樣に教へなければ、子供が可哀相である。是は、何うしても國語教育の立場から、小學校教育の實際化を叫ばなければならないのである。
 言葉の力は、實際は口語に有つて、演説や文章語には無いものである。その例として、文章には使はないね〔傍点〕と言ふ言葉を考へて見る事が出來る。是は口語では使はずには居られぬものであつて、このね〔傍点〕を、人に依つて、長く云つたり、短くしたり、加減して話の中に入れて行く。ね〔傍点〕と云ふのは、私はかう云つてゐるが聞いてゐるだらうね、といふ風に云つてゐる事なのである。この語の歴史は、行はれてゐる方言を調べて見ると分る。この語が無かつたなら、言葉の力は半分に成るであらう。源氏などの時代にも、何かこのね〔傍点〕に代る言葉があつたに違ひないのだが、その事はまだ考へられてゐない。ね〔傍点〕と云ふ時には瞳を見てゐる。そして話が生き/\と相手に解つて行くのである。元來國語史といふものは、文獻資料が無ければ尋ねて行く道が無いとは云へないのであつて、地方の言語現象を調べる事によつて判つて來るのである。是が方言研究の意味である。北アルプスの高山植物が樺太では海岸の雜草である樣に、或所では古代の言語を方言として殘す。新しいものが入つて來なければ古い物が殘ると云ふのが我々の地方の事情である。ね〔傍点〕と云ふ言葉の地方的變化は、な、なもし、なんし〔七字傍点〕等色々で、何れも言葉の後に附けて、自分の言葉の效果を生じさせようとしてゐるのである。佐賀の方言ではね〔傍点〕は使はないが、何處へ行くんですかあんた〔三字傍点〕、と云つた樣な云ひ方をする。東京では女は、ね〔傍点〕あなた等と云ふ。それで、ね〔傍点〕と云ふのは動詞がさう成るのだと説く人もあるが、とにかく物を云ふ時には、口語としてはそれ丈の武器を使はないと效果が生じなかつたのである。所が文章や演説の時にはそれを皆除つて了ふ。丁度武器を取上げておいて戰爭させる樣なものである。外國でも人名を云ふのに、このね〔傍点〕と同じ樣な用法があつて、佛蘭西では矢鱈にムッシューを使ひ、英國では何でもサーと云ひ、伊太利ではシュニヨールと云ふ。是が矢張ね〔傍点〕である。
 かうしたね〔傍点〕の一例の他にも、口語にしか無い言葉の力があるのであつて、それを考へないで國語教育をする事の無(177)理は、丁度ロボットに物を言はせようとする樣なものである。感動の無い言葉ばかりで、言ふべき事だけを言ふといふやうな事に成る。それでも一應の義理はすむが、人々を親しませ、結びつけ、相手を動かすと云ふ事の爲には、是では口語は半分しか言葉の役目を果さないのである。で、先づ國語史の研究は生きてゐる言葉から始めるべきである。言葉と云ふのは即ち物云ふ言葉であつて、文章はその言葉の影であり、演説も同樣その寫影である。從つて國語教育の骨子は、物言ひにおくべきである。そしてその物言ひには地方的の差があるから、その差を認めなければならない。是が方言であつて、言語のこの地方的事實にもつと目を着けるならば、國語教育は確かに改良されると思ふ。
 
          二
 
 今日は主として事實に就いて、何處から聞いても可い樣に話して見たい。
 國語史の精査に必要な資料の、採集、分類、排列は、差當り二つの目的に役立つ。その一つは比較言語學の方面である。この我々の國の言語の持つてゐる特徴が、何處の國の何の言語と何れ丈け似てゐるかは、是を濟ませてゞなければ判らぬのである。
 現在行はれてゐる我國の言語を他國の言語と比較しようとすると、場合によつては滑稽な事が起こる。今から十數年前、語源研究といふ雜誌上で、或人が、ペルシャ語と日本語とを比較して、日本人はペルシャ人なりと結論を持つて行かうとした。その當時學友ネフスキイの話では、その比較してゐるペルシャ語は新ペルシャ語で、西暦七世紀頃に始まつたものであるといふ事であつた。そんな頃日本にペルシャ語の行はれるわけは無く、更に可笑しい事には、その比較に供した日本語は大正年代の東京語であつた。所が、このペルシャ人と日本人とは同一なりと云ふ事に感心して、その雜誌の費用を負擔した人があつた事であつた。若しも二つの言葉を比較し、その親近性を説かうと云ふならば、各の言葉をもつと溯つて見なければならないのである。日向の高千穗峯に天降つてより以來は、我が民族は(178)他所の國土を漂泊ふことはなかつたのであるが、とにかくその頃迄國語を持つて行かなければ實際比較は出來ないわけである。が、そんな二千五百年も前迄言語を持つて行つて見る事は到底出來ない事であり、文法にしても同樣である。今日我々の使ふ文法と千年前の文法とは勿論違つてゐる。我々としては、この樣な變遷常なきものを物指にする事は出來ない。この場合變らずに遣つてゐるのは、日本語の傾向であり、癖である。是をこそ以て尺度とすべきであつて、是は文獻國語史では決して分らない所のものである。我々は、二千年前が何うの、何人種と何うしたのと云ふ樣な、そんな空虚な問題よりも、もう少し實際的の問題を考へて見る必要がある。即ち、將來我々の國語は何う變化しようとしてゐるか、又將來は如何に導いて行つたら良いか等の問題である。そして所謂國語政策、國語運動の上に於ては、是から先づ我々の國語史の精密な調査が前提を爲すものなのである。
 國語史研究の最初の事業は、何ういふ方面に向けられるべきであるかと云ふ事は、方法論としては面倒な議論を伴ふが、實際に於ては是を決定するのは難しくはない。多くの人が、方法論に就いて兎や角云ふのは、謂はゞその問題に興味の入らぬ中の事であつて、即ち問題の入口でぐづ/\してゐるからである。只何と無しにでもこの間題に入り込んで來ると、先後の問題は自ら解決されて來る。私などは學問上の自然主義者で、野外へ出るに先立つて強ひて部屋の中で野外の事を規定しては置かない。偖、誰でも言語現象に手を染める者が必ず起す疑問は、何故この樣に變遷したかと云ふ事であるが、此處から問題は起る。如何なる力が根本にあつて、この五六百年の間にさしもに完成してゐた平家や太平記の言語が今の樣な形に變つて來たのであらうか。かうした大事實は、自然の歴史の上には見られない。我々は人の眞似をし/\、今迄通りの行がかりに捉はれよう/\としてゐるのに、五六百年ばかりの間に或方面では別の言語だと思はれる樣に變つて來たのは何故か。先づこの問題を考へないではゐられないのである。恐らくテーブルの上で評議しても、是が矢張重要問題と成るであらう。又そんな評議に時間を費さないとしても、各地方の言語現象に觸れるならば誰にでもこの考へが起る。この間題の答として、農民は無教育だからと簡單に片附けるのは不(179)可い。言語が今日迄に至る道を考へて見るのに、その變遷は一色ではなかつた。我々はその變遷の種類を定め、種類毎に原因を究めなければならないのである。是に就いて、私の知識は僅かの採集によるものではあるが、ともかく現在持つてゐるだけの知識で、何んなに變遷してゐるかを話して見たいと思ふ。
 標準語との差異、文法との差異、中央の文藝語と地方語との差異が、我々の云ふ方言なのであつて、方言といふ語は廣く日本語と成つて使はれてゐるから私も使つておくが、是は地方的言語現象、即ち各個別的の言語現象ではないのである。言語地理學を云ふ人々の中には、言語の中には必ず地理學的要素を伴ふ樣に考へてゐる向もあるが、その事は未だ判然しない。何れだけが地理、何れだけが社會、法制等を原因としてゐるかは考へて見なければならない事である。とにかく、言語地理學の知識で言語が解釋出來ると考へてゐるのは不可ない。是を各地方別に見られる言語現象と解するならば可からう。然し是には、言語地理學を以て解する事の出來る國と出來ない國とがある事を考へておかなければならない。佛蘭西が一番言語地理學といふ言葉を使つてゐるが、佛蘭西は陸續きの國を隣に持ち、過去千年間の歴史に於てはその國土は?兵馬に蹂躙され、人種の移動は烈しかつたのである。その移動のさ中で出來上つた佛蘭西語であるから、諸方と接觸があつて、此點日本語とは方式が全で違ふ。この佛蘭西と同じ樣な事が日本に於ても云はれるであらうか。日本に全く外人が立寄らなかつたか何うかは分らないが、とにかく國内の移動は仲々盛であつた。然し此間題は、佛蘭西で云ふやうな言語地理學の中に入れては考へられない。只その中で著しく認められる事は、方言の變化が全國的でなしに、一地域的現象として起つてゐる事である。一地域的といふ事も、この山を越えて飛騨へ行けば必ず異つてゐるとか、國の遠近によつて異つてゐるとかいふ事ではないのである。從つて此の問題は、現象を狹い土地に限つて研究する、換言すれば郷土研究の目的として行ふのが一番便宜である。
 其處で、立戻つて實例であるが、何ういふ變化が目に着くであらうか。是に就いて一番先に云はねばならないのは、保存といふ事である。保存は變化ではないが、尠くとも現在、文獻史學的に調べてゐる日本語以外に於ては、或點で(180)保存も變化である。古語が邊鄙な土地に保存されてゐる事實は、本居宣長が玉勝間で説いて有名である。その言葉は我々に對しては力強い激勵であるが、さう説いた當時の學者の心持を推量つて見ると、古い言葉が殘つてゐると云ふ事は、古事記等に現はれてゐるものが現在使はれてゐると云ふ事であつた。其れならば澤山ある。最古の文獻に見えてゐる語で、今も存してゐるものは千や其處らはあるであらう。松・烏等々。所が我々が保存と云ふのは、古文獻の中に一度も姿を出さないにしても尚且古い記録以前の言葉が、中央では變遷改良されはしたものゝ、地方に於てはさうした事無しに、元の姿を止めて居るといふ事である。理論上は勿論、實際の上にもかうした事はあるのである。一例を云ふと、更級地方で採集した時の事であつたが、東京でカタクリと云ふのを、カタコユリと云つてゐた。カタコは粉の意味で、ユリは百合である。このカタコユリがカタクリになつたものである事は誰にでも分る。それで、中央に於て倭名抄にカタクリと有つたにしても、この語が其れ以前のものである事が知られる。カタコユリとはその葉が互生してゐるからの名であつた。是は信州がたま/\古語を保存してゐた例である。それから木通、東京ではアクビと云ふ。土地によつては又アキビとも云ふ。私は最初アクビと聞いた時、口を開けてゐるからかと思つたが、實はアケビ・アクビ・アキビと云つても元の起りは一つであつた。後に隱岐の國ではアキムベと聞いた。ムベと云ふものとアケビは近い植物である。實際よく似てゐてそんなに似寄つてゐるのに名が違ふのは何故であらうかと思つた事であるが、隱岐で分つた事は、アケビとは秋出來るムベの意味であるといふ事であつた。アキムベに對し普通のムベをフユベとも云ふ。事實アケビは、普通のムベよりは少し早く出來るのである。薩摩ではアケビをアケスンベと云ふ。スの意味は分らないが、恐らく是も秋のムベといふ事であらう。ムベ・アケビ共に日本の古語であつて、このムベと云ふ語の忘れられた時分には、アケビを何の意か知らずに使つてゐたのである。知らずに使つてゐると言葉は變化する。アクビは口を開けたものといふ風に連想したからに違ひない。下總では、アックリと云ふ。是は確かに口を開けてゐる所からの連想である。一體言葉は古い形のものは保存し惡い。文字で支持されるものは可いが、口の上に於ては飽(181)きられる。或は禿《ちび》るとも云へる。ともかく單獨の言葉は消える傾を持つ。
 又、言葉が組合せ、或は句になつて保存されてゐる例は澤山ある。衣服の事をキヌと云ふのは、麻から御衣等と成つたと同樣、絹から來てゐると説くが、然うでは無いと思ふ。キモノは新しい言葉で、其前はキヌであつた。沖繩では麻でも芭蕉布でも、着物は皆キヌと云ふ。キヌと判然云ふのは沖繩本島だけで、首里ではチンと云ふ。南の八重山の方ではシン・スィンとなつたりしてゐる。内地では、文學の言葉か何かでなければキヌとは云はないが、複合したものとしては口語の中に殘つてゐる。富山縣の方では箪笥の事をキンビツと云ふ。箪笥は外來の新語である。それから蛇の拔殻の事をヘビノキンと云ふ。かういふ複合の場合に於て、古語が保存されてゐる例は多い。多くは地方の言語現象の中から發見される。
I 次に音韻の保存の事を考へて見るべきである。此事は、中央では通常横訛と云はれる。事實それもあらう。大根をデエコン・デアコン、大工をデエクと云ふ樣な例がある。是等から類推して、地方語の中に横訛だと思はれるものもないことはないが、又古語の殘つたものもある。是に就いては、シンブンがスンブンと聞えるやうな奧州の言葉がその好い例を示す。何故奧州ではイ・ウをその中間音Ïと發音するかと云ふと、Ïなる音が有るからである。同じ樣な例としてkを考へれば、是が又、二つ有つたり三つ有つたりする。是は最近になり多くの人の試みた愉快な發見であるが、沖繩の南の方へ行く程、ギといふ音が二三に分れてゐたり、日本語としては通例無い樣なものがある。かうしたものが横訛であるとか、或は元は無かつたものが新に附加したのだ等とは考へられない。この音韻の事實に於ては、複雜から簡單に遷るのが普通で、言語ばかりは、人と附合ふ爲に成るべく簡單にしようとした事は著しいのである。幾つもあつたkが一つになつたり、sが一つに成つて來たりしたのもその爲である。ダ行のヂか、ザ行のジか、今は區別しない處が多くなつて來たが、是も亦此處から考へられる。今では纔かにあそこと彼處とに殘ると云ふ樣なこのジとヂとの差別は、以前から一般的のことであつたらうか。或はその所だけの事を學んで、或時にその差別が一般的(182)になつたのだらうか。是に就いては、元は一つであつたのをヂ・ジと云ひ分けたのだ、即ち後から附加へたのだ、と云ふ樣な事は有り得べからざる事であつた。全體に音は消えて行く。我々の前の時代には、今の我々が考へて見ようともしない色々な複雜な音が存在してゐたのである。所が文字を使用する場合に於ては一つのキの字で、二色あるキの音を表はすといふ樣な事になる。先づ、文字を使用し始めた時の整理を想像する事が出來る。又かうした複雜な音は五十音圖を定める時にも整理されたであらう。それで中央に見られない樣な音の存在は、整理されなかつた地方に殘つてゐたものだと見る事が出來る。その例も多いが、一例として虹を考へて見よう。
 虹といふ言葉がニジと成つたのは、京都の文學でも新しい事であつた。古い所ではヌジとも云ふ。とかく確定し惡い音であつた。日本全國的に比較して見ると、なほ今でも虹の發音?態が判然辿れる。大體を云ふと、文學を學んでニジが正しいと知るその以前からニジと云つてゐた地方は少かつた。然し京都地方は以前からさうであつた。標準語として京都でニジと云ふ他に、確か七八通りの云ひ方がある。方言の顯著な境は、靜岡縣の薩陀峠で、此處から西、近江へかけてはネジと云ひ、薩陀峠から東はノジである。このノジが日本海岸に出ようとするのを妨げた地方が、山形縣から始まり越後、富山、福井などで、此處ではミョウジと云ふ。是は丹波迄行つてゐる。京都に近い山村ではミョゥジン等と云ふ所がある。尚ミョウジは山陰道の出雲邊迄ひろがつてゐる。越後は全體にウ列がオ列になる所で、ジュン/\をジョン/\等と云ふ。信州でも川中島邊にはこの影響がある。山陰のミョウジの隣りにはビュウジと云ふ島根縣の一部分があり、中國山脈を越えて岡山縣の方へ迄行つてゐる。是はmがbに近附いたのである。九州には再びミョウジがある。是は九州の北部から山口へかけての地方である。然し間違へて、ニュウジ・ミュウジ・リウジ等とも云ふ。このやうに今考へただけでも、ニジの他に尠くとも三色はあるわけであるが、日本海岸と九州の北部がmに成つてゐる理由は何であらうか。大體沖繩諸島はmでモジと云つたり、モギと云つたりしてゐる。日本語の特徴ではないかも知れないが、一體日本ではマ行とナ行が常に入り替る。現在沖繩でマ行がナ行に入り替つてゐるものは(183)多い。即ちミアグスクをナアグスク、イマキジンをナキジンなどと云ふ。沖繩の他、九州の北部、及び日本海岸は總じてnがmである。偖、何故ノジ・ネジ等がニジと成つたのであらうかといふと、それは昔の言葉が其等の言葉の中間の音であつたからであると云へる。モジをモージと長く引張つてもゐたが、ノジ、ネジ等も矢張り氣懸りな中間の音であつたのだらう。阿波の大部分、伊豆大島、陸中上閉伊郡の一部分等には、ニウジ、ニュウジと發音する所もある。是など妙な言葉ではあるが、五十音圖に示す假名の數の範圍に於て表はす約束の無かつた時には、云へるから皆云つてゐたのである。所が歌にするには是では拙いので、ネジ・ニジと云ふ樣に二音節にした。そして更に、ノジ・ネジでも何んだか拙いのでニジとし、それが文書に載り、今度は一旦文書から言葉を學んだ者は自分等の今迄のものを不正として、ニジに近附かうとする。然しさうした文字に關係の無い地方では相變らず色々に云ふのである。さうして見ると、ニジが一番古い言葉で無いと云ふ事は、可成有力に了解される。その保存されてゐた言葉の中では、太平洋沿岸のニウジが一番廣く行はれてゐる樣である。斯の樣に、中央と地方の音の相違は、横訛も有るであらうが、然うではなしに、古くからの音を保有してゐるものゝ有る事も思はれるのである。それが、然も現在制限されてゐる標準語と違ふ所から方言と成るのであつて、可笑しい事ではあるが、古い音を保存してゐる故に方言と云はれるのである。
 次に變化、即ち言葉は有り乍ら、その言葉の意味が變つて行く例を考へて見たい。是も只變化と云つただけでは概括に過ぎる。この變化といふ言葉の中には、是だけの物を斯う云ふといふ、その包括してゐる内容の方が變る場合と、全體の名を他の一部分に與へて前とは別の名となる場合とがある。畢り意味の推移が考へられるのであつて、昔からの意味を保存し、新しい意味を取つて附けると云ふ樣な事が行はれるのである。この事は標準語にも地方語にも考へられる。是に就いては、標準語は文學に助けられてその儘昔の意味を殘してゐるのに地方語の方が變つたり、又地方に昔の意味が保存されてゐるのに標準語の方で變つたりする等の事がある。次に例に就いて考へて見よう。
(184) キザと云ふ言葉を、東京では惡い意味に用ゐて、氣障などと書いてゐる。元はキザが惡い、と云ふ風に使つた。所によるとギザとも云つた。この言葉は恐らくは信州にもあるであらう。岐阜にもあるが、其處ではキザと云ふ事は善い意味で、縁喜と方言には譯されてゐる。昔を考へて見ると、とにかくキザといふ事は善いといふ事であつた。例へば畑を耕すのに、もう二畝位で終らうと云ふのに雨が降つて仕事を止めなければならぬ樣なことにでもなると、あゝキザが惡いと云ふ。又半間な仕事をした時にもさう云ふ。要するにキザはキダで、極りを附ける、段落を附けると云ふ事で、それだけの事をやつて仕舞はねばならぬ意味であらう。それを現在のやうに抽象的に使つて來てゐるのであつて、元はと云へば、凡そ極つた事を、キチン/\とやつて行く事であつたのである。キタナイは地方ではキサナイ或はキシサナイ等と云ふが、是は汚らはしいといふ事ではなく、キタナイと云ふのは、だらしがない、極りが附かないと云ふ事なのである。判然と正しい惡いの分つてゐる事が正しいと云ふ事であつて、その境を分らぬ樣にしてゐる事が、古く溯ればキタナイとの意味であつて、泥塗れの意では無かつたのであるが、それが今は泥塗れの意味と成つて了つた。このキタナイのキタとキザとは同樣である。この事は、東京だけでは分らぬが、全國でキザを何う使つてゐるかを調べて見ると分つて來る。三重縣、愛知縣などではキザの元の意味を保ち、東京のは變化させてゐる例である。又反對に地方の方が變化させてゐる例もある。かうした變化は生活上の必要から來るのであつて、初め漠たる意味のキザが、狹い意味に用ゐられるやうになり、終にはキザな奴などとなつたのである。
 又地方人が笑つて報告して來る言葉に、ウトマシイといふのがある。ウトマシイはウトムから出てゐて、ウトムは嫌な事、非難する事である。で、ウトマシイはウトミたくなると云ふ意味で、何でも彼でも賛成出來ないものは皆是である筈である。所が、是は元は善い言葉と見え、色々違つた使ひ方をしてゐる。私の郷里ではオトマシイと云つた。傭ひ婆が、客の三人も來るとオトマシイと云つたりしたものである。ウトミたくなると言ふのは、多くはもつと狹い意味で、子供が母に煩さくねだつたりすると、ウトマシイ子だ等と云ふ。北陸の石川縣地方では、ウトマシイを物を(185)貰つた時に云ふ。是は言葉の間に推移があるからであるが、その地方の人は方言だと心得て、直さう/\としてゐる。斯う云ふ迄になるには順序がある。元は浪費者を見るとウトマシイと云つたものであつた。ウトマシキ浪費の意である。後になるとこの言葉が適切に響くのは人から物を貰ふ時であつて、自分を卑下してウトマシイと云ふのである。纔かの事をしてあげたばかりなのに、私等の樣な者にこんなにして下さるのは、ウトマシイ浪費であるといふ意味であつた。又ウタテイ事だとも云ふ。とにかくその中間に、人の浪費を見てウトマシ、ウタテと云つた事のあるのを考へれば、この推移はよくわかるのである。このウトマシイと同じ樣に、近頃でも餘分の物を人に遣ると、申し譯ないといふ事を云ふ。これはその前に相濟みません、恐れ入ります等とあるから分る。通例、日本人は他人から恩惠を受けると不安に感ずるのであり、又それを表はすのが禮儀だと考へてゐた。只それを表はす言葉は時に從つて違つて來たのである。申し譯ないと云ふ謝罪の言葉をこんな所に用ゐた樣に、善い言葉を適切に用ゐようとして、ウトマシイがお禮の言葉と成つたのである。この樣に禮の言葉と成つて了つてゐるから、福井で物を貰はぬ時にウトマシイなどと云へば笑はれるであらう。
 かうした言葉の推移を知るのは、經路さへ考へれば何んでも無い。然し、言葉が如何に推移するかと云ふ事、是は何うしても明かにせねばならぬ問題である。この推移といふ事が、方言變化の可成重要な部分となつてゐる。そして、是に保存が伴ふ。中央で消えた言葉が地方に保存され、然も意味の推移があるので、標準語を使ふ人にはとても分らなく成つてゐる。
 第三の重要な例として是非數ふべきは分化である。以前は草を全部カヤと云つた。それが後になると、或種の草だけを云ふやうになつた。全國申合せてその或草をカヤと云はうとするならば標準語になるが、銘々勝手に用ゐるので、言葉は一つでも内容は色々であつた。事實が目の前に有つて話す時には可いが、實物から離れて話す時には、言葉は同じでもそれと頭に描けぬので、自分の知識範圍で考へて其處から分化が行はれて來る。スヾメは初めは殘らずの鳥(186)の名であつたひチュン/\と小さく鳴いた小島の名であつた。そのスヾメの名が、後には村雀、家雀、山雀、磯雀、薮雀等と色々の方面に呼ばれたが、さうしてゐる中に、日本人は長い名を使ひ度がらないから、家雀だけを雀と云ひ、他は別の名を呼ぶ樣に成つた。其他かうした例は澤山ある。桃は、以前は稍大きな形をした圓い形の果《このみ》といふ事であつた。それが今云ふ桃だけに限られて、他の物には別の名が出來た。かういふ例の中、日本の社會制度を考へる者が最初に考へて見なければならないものに、ウバと云ふ言葉がある。今ではウバは乳母《めのと》の意味に成つてゐるが、文學の上では老女を云ひ、又祖母を云つた。ウバと云ふ言葉の起源は、稍年長けた女の全體を云ふ意味だつたのである。所が、此の國の文化全體が各地一樣では無い爲に、ウバの意味が又違つた意味を持つ樣になつた。群馬縣ではオバと云ふと、家の次女でその家の跡繼はせず、何處かに行かねばならぬ者を意味した。で、オバと云ひ乍らほんの子供であつたりする。このオバはウバと同じであつたのであるが、是に親の姉妹達が紛れ込んで來るので、オバちやんとヲバちやんとで分けて表はしてゐる。是れ以外にオバは山形にある。あのおばこ〔三字傍点〕節のオバコは、婚姻に適する若い娘の事である。所が山形では、オバは又一種の賣笑婦であつた。で山形で娘にオバ等と云ふと叱られる恐がある。この樣に纔かづつ違へて其間の區別をしてゐるのである。是れだけでなく、もう少し古く溯ると、このオバは、殆と成長した女の凡てを呼ぶ言葉だつたかとさへ思はれる。又母と云ふ事も、アモと云ふ事が文獻に見えて居り、沖繩ではアモ・アンマーが、貴女或は年上の女に云はれた。岩手縣の方でもアンマ、アッパーと云ふ。皆かうして一つの言葉を色々に分け、その場に居合さぬ人の話をするときにも、人に誤解させぬ樣にしたのである。伊豆や佐渡では、母の事をウマイと云ふ。ウマイと云ふのは、乳を呉れるからだなどと地方的には云つてゐるが、矢張起源は、母親にウバと云つた名殘であつた。所が文學ではウバを怖ろしい物にしか云はぬ樣に成つてゐる。又一方では、女中の一種で乳を呉れる者をオバさんなどとも云ふ。是を見ても分る通り、全國一致して變へるならば可いが、さうでなしに地方々々の心持で變へるから解らなくもなるのである。信州や甲州では、ボコといふ事を云ふ。ウブコ即ち嬰兒の意である。(187)後には蠶をボコと云ふ。東京で初心者をオボコと云ひ、信州で蠶をボコと云ひ、東北で子供を生む事を、オボコナスと云ふ。この樣に、皆別の意味に成つて來てゐる。是は、皆が相手に誤解させぬやうに、狹く/\と言葉を限つて行つたからである。
 桑の實、即ち桑ヅミを、グミ、ヅミ、メド、ミヅ、ドドメ等色々云ふ。是等の中、グミとヅミと云ふ言葉が非常に近い。元一つの言葉であつた事が想像がつくのであつて、今もガマヅミだの、ヤマヅミだのと云ひ乍ら、一方ではグミと變化させて行つてゐる。元の起源は桃が一色の桃ではなかつたと同樣、小さな果實が群集して木に生る植物を皆かう云つたのである。是を關東方面ではドドメと云つて、ドドメ色等とも云ふ。そしてヅミを桑の實だけに限らうとしてゐる。柘《つみ》もこの仲間であつた。言葉がこんなに大まかだと用が足りなかつたのではないかと思はれるが、凡ての者が野に山に在る時には、ヅミとだけ云へばそれと直ぐ解つたのである。所が群が揃つてする生活から、朝出て晩に出會ふ樣な生活に變つて來て、爐邊等で目の前に無い物を話題にする時、始めて何のヅミかと云ふ事が必要に成つた。即ちヅミかグミかドドメかを決める必要が起るのである。かういふわけであるから、以前は纔かの言葉で話してゐたのだと考へる事は可いとしても、それは文化の尺度にはならないのである。雀が幾つにも成つた時、最も知れ切つたものにその名を占有させて了ふといふ樣な事は、實際有り勝の事である。
 蟲。我々が蟲と考へる物凡てがムシではなく、其中にウジと云ふのがある。是も蟲の一種ではあるが、ウジ、ムシと判然しなかつた時代に、大體はムシと云ひ乍ら、一色の蟲に限つてはその名を及ぼさずにウジと云つて、今日にそのウジの名を遺したのである。この樣に分化する場合には、新しい名をその全部に附けると總稱に成つて可いのだが、昔の人は入用なだけしか附けないので、何處かに古いものが殘つた。この點に於ては忘却者ではなく保存者であつて、其の保存する努力の強かつた一例に?燭がある。是は支那から渡來したもので、最初は僧などラッソクと云ひ、後にローソクと成つたのである。岡山縣地方では兩方を云ひ、ラッソクは松脂で作つた方、?で作つた方はローソクであ(188)つた。この樣に少しの違ひで二つの物を示す。この例はまだ澤山ある。然し言葉を分化させて、古い言葉を遺し新しい言葉を作る事は割合に少い。何と云つても多いのは新語であつて、誰かゞ名づけると、それが新語と成る。方言、國語史を研究する人が、新語が何うして出來るかに注意しないのは損な事である。日本人は新語製作者として優れた技能を示してゐるのである。
 我々の新語製作力は非凡であつた。それにも拘らず、今有るだけの言葉を使はせ、それより以上を作る事を戒めてゐたのが今迄の國語教育であつて、そのため、つまらない人間が日本人の初物喰ひの弱點に乘じ、馬鹿々々しい新語を全國に充滿させた。グロテスクだの、エロティックだのと。是は從來の新語造製力を認めず又は抑制せんとした爲に起つた現象である。然し横濱の輸入商や、カフェーの屋根の下ばかりで作られたものではなしに、實際に於ては新語が行はれてゐる。例へば、發動機船は纔か廿數年の間に、在來の舟を追ひのけ全國に弘まつたのであるが、その發動機船といふ名一つで可いかといふと、日本人はそれでは滿足せず、タンタン舟・ポッポ船・ポンンポン等と銘々呼んでゐるのである。鳥打帽子にも澤山名前がある。トリウチ帽子といふのは東京附近丈で、チャンコ帽子・小僧帽子・ナマイキ帽子・ヂレコ帽子等といふ。植物・動物の如きでも、研究室等に於ける或る限られた人間の間に利用される物には名は無いが、民間に流布すると、彼らは自分の滿足する樣に名を附ける。この樣に新語を附ける事は誰も制限しないのに、一度發動機船といふ樣な標準語があると、他の自然發生の言葉は、凡て方言である、矯正すべきである等と云ふのである。
 新語の中には思はず微笑みを催させられる樣な可憐なものもある。都會の子供にはセルロイドの玩具など不思議ではないが、山の中などでは物珍らしいものであつて、それにも新名を附けてゐる。この新名は必ずしも新に發見したものに附けるばかりでなく、今迄名のあつたものでも、言語は餘り使ふと鋭利でなくなり飽きるので、新名を附ける。テッセンといふ花の事をクンシャウ花と云つたのは、日清・日露の役から後の事であらうか。この樣に新語には微笑(189)を禁じ得ぬものが澤山ある。要するに此處迄來ると新語の附與は一つの言語藝術である。民謠・諺・謎・昔話等と同系統に竝べても差閊へないものだと云ふ事が分る。その發生の具合も似てゐて、各人の云はんとする所を云ひ得、各人はそれが我意を得た時には採用するのである。この樣に、人の喜ぶ心を云ひ表はさうとした處は、一つの言語藝術と云つて可からう。新語は生活上、物質上の必要からばかり出來るものではなくで、審美主義即ち新しい物を愛する藝術的な氣持も斟酌して出來た事を考へて見なければならない。その好い例に鴨頭草がある。それに就いて染屋の事を云はなければならないが、その日本へ入つた歴史は分る。昔は山野にある物を採り手染にしたもので、褐《かちん》などの色が主であつた。後、燻んだ色でなく、鮮かな色を欲するやうになつた時に乘じて入つて來たのが染屋であつた。そして三ヶ村に一軒とか、五ヶ村に一軒とかいふ風にして出來たのであるが、村人には染屋は非常に印象深いものであつて、さうした時代の子供の歌や民謠には、染星を歌つたものが多い。その頃の事と思ふが、鴨跖草の名を、名古屋では紺屋《こうや》の嫁《おかた》、或は染屋の嫁と云つてゐた。到らざる所の無い名前であつた。青い物の中からコバルト色の花が覗いてゐる樣子は、染屋を考へさせ、その上嫁入つて來たばかりの女を聯想させたのである。この名の附く迄に幾つかの名が有つたのであるが、一度染屋の嫁といふ名が出來ると、他のものは辭職して了つた。越後出雲崎地方では、トテッコと云つてゐたが、とにかくかうした氣の利いた名が出ると他の名は消える樣に出來てゐる。曼珠沙華等も色々の名がある。彼岸の頃咲くので、ヒガン花と云ひ、水邊に在つて好まないので、妖怪の名を附けて、河童花、エンコ花等とも云ふ。我々は狐のタイマツ、狐のカミソリ等と呼んでゐたのであるが、その狐の松明といふ言葉を見ると昔の生活が判る。昔松明を持つて歩いてゐた頃には、大きさこそ違へ、あの花の樣に松明が燃えてゐたのである。それで、曼珠沙華を見て、一種の文藝家が狐の松明といふ名を附けたのだ。附けると他の名は皆失くなる。とにかく現に名前は有り乍ら、藝術的な氣持から附けるのであつて、新名は生活上の必要からばかりではなかつた。この樣にして、昔からの名があつたのに何故こんな名に成つたかと思はれる程に變るのである。翁草。是は昔から有るが、翁の語に飽(190)き、色々と新しい名が附けられた。この草の名が、東北ばかりでも採集したら五十もあつた。そして何れもウバガシラ・チゴガシラ・ガンドウ草等と、芝居に出て來る、自分の知つてゐる髪の長いものを云つてゐるのである。かうして新しい名前が出來て皆が賛成すると、その名だけが蔓つたのである。この樣に思ひ附きで名を附けるから、新語製造を尺度にして、生活の必要から作つたのだとばかり考へて國民生活を卜して行かうとするのは愚かしい事である。必要上から名を附ける事はあつても、それは少いのである。併ら、この藝術的な區域は存外狹い。何方かと云ふと、何うしても言葉が無ければ困るといふ樣な物に餘計に附いてゐる。今迄は名詞だけに就いて述べ、如何にも名詞道樂の樣に思はれたが、實際は、言葉の必要は名詞以外の、動詞の細かな差別にある。名詞に於て必要に應じて新語を作るとすれば、他の方面に於てもそれが見られなければならない。既に、日本が新文化に浸らうとする前から我々の動詞は増えてゐる。形容詞は増え方が少いが、動詞は非常に細かい所迄増えてゐる。然し明治になり、標準語と成つてからは動詞が減り、農民の持つてゐる知識よりも内輪に成つた。この動詞は、文學的には附けられない。名詞は事物毎に名があるので可いが、動詞が減ると不自由な人間になる。野蠻人ならば動詞の三十か五十かで濟むが、日本の平民の子弟は、例へば打つといふ事にしても、單なる打つと云ふ事以上に細かく頭が岐れ、打つ動作の度合を意識し、ニュアンスを意識してゐるのである。それに對して、適する言葉を與へないのは、口を半分縫つておいて飯を與へる樣な殘酷さである。成る程標準語は名詞は増えてゐる。然し動詞は減少させんとしてゐる傾があるのである。例へば、私の子供の頃使つてゐた幾つかの動詞が、一に成つてしまつた事がある。私共の地方では轉び方に三つあつた。アタケルといふのは縁側などから落ちる事、マクレルは土手などの傾斜から轉げる事、コケルは平な所で躓いたりして立つてゐるものが倒れる事であつた。然るに東京の子供には着物の汚し方は一つしか無い。何うして汚したと訊かれゝば、アタケたのでも、マクレたのでも、コケたのでも、たゞ轉んだ〔三字傍点〕と云ふより他無い。廣島の或人も、痛いと云ふ言葉が標準語には一つしか無くて困ると云ふことを云つてゐた。廣島の痛い〔二字傍点〕には三通りはある。ニガルはしく/\痛む(191)事で、腹がニガルなどと云ふ。ハシルは齒などの差込む樣に痛むのを云ひ、齒がハシルと云ふ。ウヅクは腫物などの痛むに云ふ。この區別の出來ぬ樣な者は低能とされるのである。所が標準語はこの區別が出來ないから低能だとも云へる。一區を標準にして言葉を少くするからこんな無理が出來るのである。我々は成長する程感じが複雜に成る。行爲や想像が概念を複雜にしてゐる時に、一つきりしか言葉を與へないのは、人間を無口にし其處から延いては人前に出てへどもどさせる事になる。今迄の動詞は、概念で説明するから適切に行かなかつた。が、ニガつてゐる最中に、この場合にはこの言葉を使ふものだと教へられるので、何時も誤らずに使ふ樣になる。演説等の空疎に聞えるのは、その言葉が聞えの善さを欲する附燒刃だからである。百人に一人、二百人に一人、物が云へなくなる者のあるのは、この附燒刃ばかりを教へて、心持にぴつたり合ふ言葉を見附けて遣らぬからである。是は國語教育の根本的の弱點である。人を正直にしようとするならば、今持つてゐるものに名を附けてやらなければならない。他事はさておき、要するに今迄の話は自然に任せておいたなら、人間は言葉をどし/\作るものである、此方から與へなくても日本人はどし/\作るものであると云ふ事を述べたのであつた。それで中央に地方のものにぴつたりと適ふ言葉が無いならば、標準語辭典の中にどし/\地方の言葉を採用して貰ふ樣にすると可いのである。
 鼻ウゴメカスと云ふ言葉は、鼻をひよこ/\させる、鼻を動くやうな風にするといふ事であり、メカスはさう見せかける、さういふ樣子をさせるといふ事であつて、辭書では五六の用例しか擧げては無いが、日本人は盛に是を使つてゐる。又ワメクと云ふ言葉は中國の方で餘計に遣ふ。是と同じ樣な言葉にオメクがあるが、是はオといふ樣な聲をする事である。ワメク・オメクを所によつては、ウナルと云ふ樣な意味に遣ふ。又ワメクは婆さんががみ/\叱るのを云つたり、子供が大聲で泣くのに云ふ事もある。日向の霧島山中では、此邊で云ふ吾《あ》子鳥をバメキ鳥と言ふ。囂しく群つて來るのをワメイて來ると感じたのである。遠い所へ行くと、九州の島原ではソソメクと云ひ、又同じ九州でもササメクといふ所があり、壹岐ではドメクといふ。ウメク、是は廣く行はれてゐる。九州熊本邊りではオメクであ(192)るが、何方かといふとワメクに近い。大聲で怒鳴る事である。オメクを大聲で呼ぶ意味に使ふ所には、熊本、壹岐、紀州の東牟婁郡等がある。島原ではウナルといふ樣な意味に用ゐてゐる。又今日の樣な暑い日をホメクと云ふが、是は方々で使ふ。九州の日向では熱いの意味である。ホは火で熱いものだからであらう。又九州には、ホメイてゐるが病氣か等と云ふ使ひ方もする。ホトメク。是は九州の佐賀縣、それから福岡縣の南の方に行はれ、歡待する事、ちやほや〔四字傍点〕する事である。是は古くから行はれてゐるかも知れない。岩手縣では、胸をどき/\させる事をワクメカスと云ふ。又ホク/\メカスは嬉し相な顔をする事、よい氣に成る事である。この樣にメク・メカスといふ言葉があると、自然にホやホク/\等を附けて言葉を作る。そして、胸をワクメカスと云ふのを人が聞いてゐて、善いと思へば自分も使ひ、かうして誰もが使ふ樣になる。ワクメキ等は地名にも遺つてゐる。地名では、川の水が狹く淺く流れてゐる樣な所を、ザワメキ・サワメキ、又サラメキ・ザウメキ等云ふ。是は徒渉するに可い樣な所である。反對に淵に成つた樣な所を、ドドメキ・ドーメキ等云ふ。ドドと音して水の落ちる所である。かう云ふ所は城など作り防衛するに都合が好かつたから、ドドメキと云ふ地名は全國的である。そして今述べたやうな川の場所の名前は何れも地名として非常に多い。ドドメキを百百などと書く所もある。トト即ち十十から考へてゐるのだ。尚ドドメキは、ドドメカス、ガラメカス等とは使はず、ドドメキと云ふ名詞形だけで使つてゐる。
 今述べただけで私は全部の例を引いたわけではないが、メカス一つを知つてゐると、その上に何か動詞や形容詞を附けて新語を作る事の出來る事だけは了解されたと思ふ。衆人一致すべき言語藝術は直ぐ出來るのである。標準語のキラメク・ヒラメク、是等も或る氣の利いた者が作つたものであらう。ホメクでもワクメクでも皆さうであつた。尠く共日本語はかうして出來て行くものなのである。キラメク等の標準語と、ワクメク等との間には、何れだけの差があるであらうか。その間に差等は附けられないのである。
 ドナルといふ標準語は新しいかと思はれるが、ウナルは古くからある。越前・能登・若狹にかけてはワナルは泣く(193)事であつた。又、ガナルと云ふがあり、ジナルと云ふもある。ジナルは叱る事で、ドナルと大して違ひはない。ナルといふのは、恐らく音をさせる事であらう。そして、その上にジとかドとか、その場合に近い音を載せると新動詞が造作なく出來るのである。ボナルは茨城、福島方面で云ひ、泣く事。一體泣く事を嫌ふので、それを下品に云はうとし、ボナルと云へば憎らしく聞えるからボを持つて來たものであらう。オガムと云ふ言葉は、日本に古くから有つて大切な言葉であるが、何うも、カガム・セガム等とある所を見ると、ガムとあつた所にオを附けて――オはオーと言つて人を尊む意味に考へられてゐるから――畏怖崇敬と云つた樣な意味を表はしたものかと思ふ。イドムの挑一字だけを見ると、イドムといふ何か一つの動作がある樣に見えるが、是もドムにイを附けたものであらう。ウドムとは唸る事。で、ドムも何か音をさせる事であり、イは齒を見せる事で、怖くないと云ふので齒を出してイと云ふ事をする事ではないかと思ふ。ヨドムも淀になる事と説明されてゐるが、右から推すとドムが有り、其れにヨを附けたかも知れないのである。この他、我々の動詞の中には、下半分が同じ形で出來てゐるものが澤山ある。ワカヤグ、イトナム、ハシャグ等々。是等は皆別々の言葉として、一つ/\教へて行くのはつまらぬ事である。是をガムの上にオ、メクの上にキラと附けると云つておけば、稍鋭敏な子供ならば、その氣持の時に何メクと使ふであらう。それを聞いて他の人が感心すれば、その人もその氣持の起つた時には、その言葉を使ふ。この樣にして新語が出來て行くのである。
 所で、日本人は新しい印象に忠實な國民であり、稍異樣な、聞きつけぬ言葉の面白味に惹き附けられる國民であつたから、今述べた樣な新語にも惹き附けられると共に、つまらぬ者の云ふ馬鹿々々しい事にも感心した。それで、日本は新語の行はれる國であると共に、新語の跋扈する國でもあつた。英語は國語に交へて盛に行はれるが、村には稀な、中學でも卒業した青年の始めて英語を使つた態度は、その場の氣持を表はさうと云ふ古代に於ける新語造製者の態度ではなく、知つてゐるから使はうとしただけの事であつて、他の者も、それ位は俺も知つてゐるといふ負けない氣持から皆使ふ樣になり、全然英語を知らない人迄も、善い言葉だ相なと云つて使つたのであるが、正しい使ひ方(194)はさうは出來なかつた。例へば、カンニングにしても、本道は試驗場でのあんな意味ではなかつたし、又オールドミスなどといふ英語は無いのである。この樣な間違つた英語は澤山ある。そして帽子屋の廣告に、弊店は正直と勤勉をモットーとし等と使はれる樣な事にもなる。こんな事になるのは、教育の方針の間違つてゐた結果、明けても暮れても同じ言葉ばかり使つてゐて、言葉の選擇權を捨てゝ了つたからである。併ら如何にも言葉の淺薄と云ふ事が氣にかゝる。グロとかエロとかいふ言葉の流行した動機は分る。新しい、自分が偉さうに見える言葉を覺えると、早く使つて見たくて堪らない。そこでその機會を待ち構へてゐて使ふと、その場合が間違つてゐるといふ樣な具合なのだ。センチメンタル等いふ言葉もさうである。農村の青年など、頻りに是を使ふが、日本の農村にはセンチメンタルと云ふべき感情など有りはしない。是などは人間の使ふ言葉を極度に惡用したものである。こんな事をしてゐると終ひには鸚鵡と同じになる。即ち、お竹さんとかお早うとかいふ口眞似と同じ事をしてゐるのだから。若し全級の小學生が悉くこの態度を執る樣に成つたなら國は終ひである。是をさせぬ樣にするには、言語を大切にし、自分の心に有るものを忠實に表はす樣にさせる事を國語教育の第一要諦としなければならない。云ひたくても云へない事を何と云へばよいか、その事を教へる樣にすべきである。漢字は判然我々の心を表はして呉れない。但し正直、義理等といふ樣な支那の言葉も、永く使つてゐると、我々の心持しか表はさぬ樣には成るが、是迄になるには仲々の事である。
 國語を成長させる爲には、新語の出來て來る事を抑へる必要はない。抑へなければならないのは、不自然な健全ならぬ言葉の出來て來る事である。そしてこの事は單に作る方の言語藝術ばかりでなく、聞く方の言語藝術にも頼らなければならない。言葉の生命――などと云へば詩人的の云ひ方であるが、意味は此處に在つて、言葉は生きた言葉でなければならないのである。我々は外國語を習つても、眞に自分の心を表はす事は出來ない。病氣で痛いときに、痛いといふ事を外國語で云ふ樣な事は決してない。弱みがあつて感情の出る時には、白國の言葉を用ゐる。言葉は、肺腑から出、感覺から裏打された場合に、始めて生きた言葉であり、自分の言葉であるのだ。我々が、平素自分の裏打(195)されぬ言葉を使つて居れば、それが既に外國語である。非常に大きな、問題の境目は此處であると思ふ。凡ての小學校の教育が皆こんな風だとは云はないが、こんな暑いホメク日には、是位強く誇張して言はなければ、諸君の頭にも判然同感を呼ぶ事が出來ないと思ふのでかう云ふのである。諸君が言語を殺して教へてゐるとは云はない。然しその傾向は見えてゐる。その傾向は撲滅しなければならない。
 要するに、次の國民が正直に自由な物言ひの出來る樣に教育するのが國語教育の目的であつて、其れによつて思つた事を自由に云ひ得る時代の來る事を望んで止まないのである。
 
(199)   國語史のために
 
          一
 
 もう年をとつてしまつて、ほんの切れ/\の話しかできなくなり、從つて是を學會の記録に保存する希望は無い。たゞけふの皆さんの印象だけがたよりである。
 日本の最初の方言辭典、東條操氏の永年の辛苦が實を結んだことは、公私大小くさ/”\の喜びではあるが、自分などは其中の特に一つの點、即ち是が日本語の素質、能力、從つて次々如何に成長して行く希望があるかを明かにする學問、我々の名づけて國語史と呼ばんとするものゝ、門出であり第一歩であるといふ點に、慶賀の意を集注したいと思つて居る。五十年百年の後から囘顧した場合に、是が恐らくは飛拔けて重要なる一史實と、なつて居るだらうことを信じて居る。
 國語史といふ言葉は、すでに三四十年も以前から、堂々と之を口にする人があることは、勿論私もようく知つて居る。しかしあらゆる國史がさうである樣に、是はたゞ文獻記録を史料として、明かにし得る部分のみの沿革であり、しかも其史料は僅かに十數世紀以降の、一部の最もよく開けた地域階級の人たちの間のみに限られて居て、不十分といふ以上に、時としては誤つたる判斷にさへも導き得る。正しい全般の理解に到達する爲の、方言は少くとも大切な手掛りといふべきものだつた。それを東條氏は、恐らくは何人よりも早く、又誠實に期待して居られたのである。
(200) 曾てこの大地の上に存し、又は今も現に行はれて居る數多くの「國語」のそれ/”\の特徴、殊にその一つ/\の間の差異と類似を推究し、甲から乙丙丁へと傳はり移り、動き改まつた跡をたどつて、微細に系統立てゝ見ようとする學問は、西洋ではこの百年以來、羨ましいほど進み且つ成果を擧げて居る。我邦でも當然に其感化を受け、殊に日本人がどの方面から渡つて來たかゞ、今なほ少しも判つて居ない爲に、同じ方法に據つて何とかしてそれを明らかにしたいといふ願ひも強く、多くの諸君が深い處まで入つて行かうとして居られる。但し日本語の源流が是によつて突留められ、何處かに從兄弟があり、再從兄弟が未だ散亂せずに、ほゞ古い形の言葉を保存して居ることが確められたとしても、是は僅かに國語の上古史に過ぎない。島に上つて來てからの數千年、我々の親たち先祖たちが、是たゞ一種の言語に活きることによつて、積み貯へて來た經驗は無用にならぬ筈である。それを一度でも反省して見るやうな機會が無かつたばかりに、今に至るまで國語は斯ういふ風に變化して來るより他に、別の途筋は丸で無かつたかの如く、思つて居る人が少なくない。私だけは絶對にそんなことは有り得ぬと信ずるのである。永い年代に亙つた所謂世情の組合せが、偶然に今ある變化を作り出したので、誰が責任者と名ざすことは勿論出來ぬだらうが、ともかくも他にも幾筋かの行く手の途があつたのに、斯う歩んで來たのは我々の選擇、といふよりも無意識の突進であつた。
 前代の國語學者たちは、或は少し強調せられ過ぎたかも知れないが、ともかくも日本語の本有の素質、又は成長素とも名づくべきものが、他にまだ色々の可能性を含んで居たことは、是だけの變化の中からでも、なほ立證し得られるものと私等は思つて居る。時代環境の外壓は是非に及ばぬとしても、單なる一部の指導者の誤謬もしくは心得ちがひから、伸ばし得るものを伸ばさなかつたり、不必要に自らを抑制したり、氣が利いたつもりで人眞似をしたりして、をかしなしかも不自由な?態を作り上げて居た場合があつたとすれば、この歴史だけは先づ精確にして置かなければならない。今となつては詮も無い後悔のやうに、思ふ人も無いとは言はれぬが、是は政治とは事かはり、毎日のやうにくり返さるゝ生活で、しかも我々の多數が正しい經驗をもつて居たならば、同じ失敗は二度とは侵さぬであらうこ(201)との、期待し得られる領域であつた。獨り國語史の部面のみと言はず、一般に歴史といふ學問の最初の動機は、人生を正しく導かんが爲に、この知識を利用することであつた。少なくとも東方の諸舊國に於ては、殷鑑遠からずとか、前車の覆へるは後者の戎めとか、それを證明する古い格言が幾つも傳はつて居る。しかも一方には我々の國語のやうに、こまつて迷うてどう切拔けて出るかを、早く見定める必要があり、斯うもして居たならばあゝはなるまいにと、心づくやうなことが次々と、この眼の前の豐富な史料の中から、拾ひ出される場合も實は稀なので、もしも方言辭典の編纂が今何年か遲延して居たならば、或はもう間に合はなかつたのでは無いかと、いふ位の待遠しさを以て、私はこの出現を歡迎する。國語學會の主流から見れば、國語教育の如きは一つの大いなる應用に過ぎず、それに力瘤を入れ過ぎるのも本末?倒のやうに、肩を聳かす向きも無いとは言はれぬが、我々俗人はそんな評には平氣である。實際に又今日の普通教育に於て、最も多く働くのはこの會の諸君であり、國語の健全なる成長の爲に、世上の期待して居るのも亦諸君である。
 
          二
 
 但し私などの大いに欣ぶのは、方言をたゞ小さな珍奇とは見ずに、是を或數量集めてさて考へて見ようとする、新たなる機運の生れ出たことで、是を机の端に置いても本がよく讀めるわけで無く、又持つてあるいても旅行が有效に出來るわけでも無い。世の常の辭書とは選を異にし、又索引の目的にも合はない。けち〔二字傍点〕を附ける氣持は少しも無いが、是をたゞ五十音順に竝べて見たところで、同系の言葉が皆集められるといふ望みは無い。それに本來は受身の記録であつた爲に、注意がやゝ一隅に偏して、必ずしも全國を綜攬したとは言へない。誰しも最初に自分の郷里の言葉を當つて見ればすぐにわかるが、たとへば自分の生れ故郷播磨神崎郡などは、是まで一度も採集が公表せられなかつた土地なるが爲に、同じ語がこゝにも有るといふ列記には必ず洩れて居るのみか、疑問のカをコと發言して、「行かんコ」(202)「見んのコ」と言つたり、動詞のテ留め活用形の名詞化かと思はれる「來てやない」「居つてだす」の如き、地域的な特色が採録せられて居らぬ。東京の周邊殊に神奈川縣なども、誰も報告した人が無かつた爲か、郡毎流域毎の異同が珍らしいことを、この集録の中からは心づく道がなく、言はゞ是からなほ積極的に討査したならば、定めて得る所が多いだらうといふやうな、知識欲の刺戟を喜ぶまでのものが多い。言はゞ今後の採訪をもつと組織的に、より強力なる手を以て實行しなければならぬといふ結論に到達すべく先づこの程度の資料の活用を諸君の熱意に期待する他は無いのである。
 幸ひなことには所謂舊日本の端々、北では青森秋田の二縣、南では薩摩天草、一方は土佐とか熊野とか、他方は又對馬壹岐五島、それから隱岐佐渡や處々の岬角の言語が、比較的綿密に記録せられて居て、それ/”\の差異と變化の跡が見合はせられる。最初一度は同時同形の言語が全域を支配した期間があつたといふことは證明し難いまでも、少なくとも終始一つの軌道の上を、おくれ先だつて歩んで來て、異同はむしろ距離や交通障碍の特殊性によつて、各地それ/”\の成長を遂げたものといふまでは略推測し得られ、從つて世情が今日の如く改まつて來れば、統一は自然の勢ひであり、今少しく迅速にも行はれてよかつたのであり、それを力説し干渉しつゝも、なほ是ほどの永い歳月を要したのは、何かまだ/\心付かれぬ事情、就中人が標準語と名づくるものゝ方に、この弘通を妨げるやうな原因が、隱れ潜んで居たのではないかといふことも反省せられる。
 この原因にも若干の心當りは私には有るのだが、短い時間では説き盡すことが出來ない。たつた一言だけ切目を入れて置くならば、所謂「よい言葉」は大體に新らしく、さうで無いまでも書册から復歸した言葉が多い。始めてそれを使つて標準を示した人は、必ずしも國中のあらゆる生活者の理解を予期しては居なかつた。最も從順なる模倣者を以て充ちて居る國柄でも、意味のつかまれぬ言葉はさう急速には口眞似はしない。以前は個々の小社會の中に居て、常民の心意を熟知した長老たちから、提案せられる言葉が多いので呑込が早く、採用同化にも時がかゝらなかつたが、(203)明治の一新を境として、其權能が忽然と、漢學書生見たやうな若者の手に移つたのである。
 今からもう七十年近くも前、私の故郷の村ではこんなドドイツがはやり、酒の席ではよく歌はれたので、まだ記憶に殘つて居る。
  今の議員のはやりの言葉
  イハユル・ガンチク・ヤムヲエズ
 この三つの新語のうち、ガンチクだけはもう廢れてしまつたが、字に書けば多分は含蓄で、近年の意味深重などと同じく、一種説明力の不足をごまかした、思はせぶりのものいひであつた。文字を知つて居ればこそ、たまには眞似て見ようかといふ氣にもなるが、もと/\必要も無く、第一にどうして出來たのかも全く知らぬのだから、久しい間それを自分たちの國語として、利用しようとせぬ者が多かつたわけである。若い學校にかよふ女の子までが、モチロンだのダンゼンだのと言ひ出したのは、周圍にもう以前の言葉を使ふ者が居なくなつた爲で、よかれあしかれ是は教育の效果であつた。副詞といふやうな一つ/\取離して差替へられる單語から、先づ變つて來たのにも意味があらう。とにかくに田舍はそれでもまだぐず/\して居るといふだけで、大きな都會のまん中などは、たつた半世紀の間にも、國語の外貌はよほど改まつて居る。何が標準語だともう一度立ちどまつて考へて見なければならない。單語の生滅が國語史の全部で無いことは言ふ迄も無い。たゞ今度のやうな方言辭典の中にも、簡單には表示し難い聲の出し万、音の上げ下げ、微細な母音の使ひ分け等は、それが保存であり、推移であり、新たなる感化であるを問はず、常に顯著なる特徴で、從つて又缺くべからざる史料ではあるが、大抵の場合には當人は心付かず、又容易には改めることが出來ない。之に對して一方の個々の單語、又はその色々の組合せは選擇であり、次々の取捨であつた。相手が承知すれば、又時々は後から承知させるつもりで、むしろやゝ短慮に取替へて行くことが出來る。人間の智惠分別の永く後代に痕を引くもの、言はゞ歴史中の歴史とも名づくべきものが、たゞ斯ういふ遺物の間から見出し得ら(204)れるのである。現代の制度文物、あらゆる其運用は批判せられる中に、國語に對してのみは案外に不平不滿が少ない。是が唯一つの與へられたるもので、斯うより他には變りやうが無いものと思ふからだらうが、絶對にそんなことは有り得ない。事實今日は又惡くなりかゝつて居る。良くすることだけが出來ないといふ氣遣ひは無いのである。
 
          三
 
 園語を自然の成長にまかせて置けば、必ずしも次第に良くなつて行くとも限らぬことは、やはり方言辭典の中から窺ひ知ることが出來る。言葉の良し惡しは誰がきめるかと、意地わるなことを言はうとする者も出て來ようが、大體に先づ弘い區域に亙つて、古く久しく行はれて居て、新たに色々と言ひかへて見ようとせられぬものが、ともかくも平易で又適切な語といふことが許されるであらう。ところが新語の交替といふことは昔にも有つて、人はむしろあまりなる連用によつて、却つて人望の多い語に飽き、代りのものを歡迎するやうにもなつたかと思ふ例もある。人が寄合つて話をする機會は、近代ほどではないが少しづつ多くなつて來て、わざと耳新らしい形のものを記憶して、注意を引かうとした傾きもあつたらしく、京都が疲弊して所謂田舍わたらひの多くなつた室町後期などに、それこそ取寄せたと言つてもよい新語が、克明に今なほ保存せられて居る例も少なくはない。一二の國語家が曾てはさう信じたやうに、地方獨自の必要によつて新たに申合せた用語などは、絶無でもあるまいがさう落ち散つても居らぬと思ふ。永い年月の間には多くの土地では忘れ果て、偶然にたゞ限られた地域のみに、保存せられて居た古語といふものが、有つたとして格別不思議は無い。たゞ之を安全に證出する爲には、やはり一語毎の檢討が煩はしいだけである。古語の消えたる原因は數多く中には人間の所爲とも言へぬものもあらうが、都府は殊に古い語の飽きられやすく、氣が利いて人が眞似して見たくなるやうな新語が、次々に出ては引込んで行く地域でもある。そこにもう無いからといふ理由一つで、方言を標準語から引離し、しかも一方を押付けられてはたまつたものでない。かつてはもつと落付いた人た(205)ちの永い體驗が働き、是なら間に合ふといふ判斷が一致してから言葉は今いふ民主的に、きまつたものだつたことを考へて見なければならぬ。
 古語はなつかしいが、たゞ書いたものゝ上に殘つて居るだけでは話にならない。それがいつとも無く人間の口から消え去つた理由は、今はまだ説明し得る者が居らぬといふばかりで、何か隱れてそれ/”\に有つたにちがひない。多くの場合にはもつと精密に又は適切に、思ひ又は感じたまゝを言ひ現はせるやうな代りの語が出來たからで、入用が稀な爲に忘れてしまつたものも少しはあらうが、今見たやうに誰それが使つたから、急いで眞似をしなくちや損だといふ類の新語採用は、もとは少なくとも地方には無かつたらう。そこで私などは方言集録の事業に附隨して、どうかして一つ/\の單語の壽命年齡、たとへ中頃の或時代に生れたにしても、それから以後の何百年、何故に活きて働きつゞけて居るかといふことを調べて、其綜合によつて日本語の持前、どういふ形のものが長く役立ち、又容易には代りのものが出て來ないで、調寶せられて居るかを探つて見たいのである。少し時間のかゝる、老人などには向かぬ仕事だが、思ひの外に手掛りは多く、從つて又樂しみは多い。殊に一つの語が長く生きて居るといふことは、大體にその分布の地域の廣さに伴なひ、たつた一つの盆地なり小島なりに、水底の珠の如く光つて居るものなどはめつたに無く、有つても恐らくは看過されるであらう。是からなほ一段の積極的調査が必要であることは勿論ながら、今度の方言辭典だけからでも、弘い全國内の分布は見出され、又推測することが容易である。もしも自分の假定して居るやうに、單なる地域の廣さといふ以上に、數は少なくとも分布距離、國の一方の端と他の端とに、互ひに相知らずに保存して居るものを、長く生き殘つた證據と見得るやうになつたら、更に色々の古い經驗が蘇ることであらうが、是にはまだ幾つもの制約があつて、今はたゞ未來の夢を濃やかにするに過ぎない。
 是もその一つの夢として聽いていたゞきたいが、舊沖繩縣の島々には、土地又は地面といふ意味をもつたミザといふ一語がある。沖繩本島などではンジャ又はンダと發音し、何か濕地のムダ・ヌタ・ウダとも通ふやうに思はれるが、(206)遠い先島の群島には今尚ミザの形を存し、一方八丈島に於ても地面はミザであるといふ。但し此島には源爲朝の鬼島往來の傳説がある他に、なほ五つ六つの一致した語例があるので、さてこそ鎭西八郎の輸入文化と、言ひさうな學者もまだちつとは居るが、更に日本海に隔絶した佐渡が島のミザだけはどうすることも出來ない。それから氣を付けて居ると信州の北部、上水内郡の山村にもツチミザといふ方言が活きて居た。もう是だけだらうとは私等には言へない。天地をアメツチと唱へたことは由緒ある古訓だけれども、この平たい廣々としたものを、土と呼んだのでは何分にも用が足りない。故に現在は少なくともさういふ人は居らぬが、ヂもヂメンもすべて王仁以後のものである。ヂベタも變な言葉ではあるけれども、むしろその變なところに隱れて、大昔のミザが活きながらへて居たのである。ミザは恐らくは元はミサで、格別言ひにくい語でも無いのに、何故にそれが中央の文藝から押のけられてしまつたか。問題はなほ無限に後を引くやうで、それにつけても新たに出た方言辭典が、たゞ聊かの語音の置き換へのために、ちがつたそちこちに頭を出し竝べても見られぬのを、實は物足らず私たちは思つて居る。
 
          四
 
 東條さんはずつと以前、たしか私たちの雜誌に一文を寄せて、虹の各地の方言差を、綿密に比照せられたことがある。虹を意味する日本語は、國初以來たつた一つで、それが全版圖に亙つて無數の異なる發音を以て表示せられて居る。西南一帶にはナ行をマ行にかへたものが多く、又時々はザ行をガ行に改めた例もある。東北には秋田縣の海岸部に一つ飛離れてモギといふ語も採集せられて居るが、是は或る移住者の携帶かもしれない。大體にはやゝ日本海側に偏して、中部以西が、ミュウジ・ミョウジ、又ミョウジンといふものもあり、其中間に帶のやうになつて、ビュウジ・ビョウジなどとmをbに取つた地域が、少なくとも二筋は通つて居る。一方ナ行子音の地域も亦區々の變化があつて、其主流はノジとネジ、是にごく僅かのニュウジ地域が、四國と伊勢灣と東北の或海岸とに、飛び/\に發見せ(207)られて居る。斯うした事實から誰にでも推定せられることは、虹の日本語の昔の型は、よつぽど新制定の五十音圖にははまりにくい發音だつたらしく、一旦はヌジと書いて見たが納まらず、ニジときめて見ても、さうですかと言はぬ者が田舍には多かつた。しかし文字の教育といふのは有力なもので程無くネジやノジを笑ひ得るやうになり、學校でも骨折つてニジと言はせることにして、數十種の珍らかなる虹方言は、忽ち其虹の如く消え去らうとして居る。それが惜しいといふものはもう無いかも知れぬが、少なくとも是を曾ての東條氏の如く、集めて比べて見る人が無かつたならば、この一小部面の國語史は埋もれるのである。文化文政以降の酢豆腐時代に、出來ては忽ち忘れられた流行言葉などと一列に、この久しい年歴を重ねた前代の共通語を、竝べて置くことには弊害があらう。殊に近代の如く書物を書く人に自信があつて、有合せの漢字を二つ合せると書き言葉が出來、それを少しくくり返せば人が眞似て、忽ち口言葉になると思つて居るやうな世の中になると、國語は變貌といふ以上に、たゞ現在あるものがそれだと言はねばならぬことになり、改良の計畫はおろか、以前經て來た色々の變つた經驗まで、思ひ出すことが出來なくなるかも知れない。さうして是だけは少なくとも國語學會の問題である。
 今から十年ばかり前に、或一人の國語教育家が、日本語の一つの弱點は、造語力の乏しいことだと、或講座に公表したことがある、私は之を讀んで慨然として志を起し、それから今日まで、どうしたら先生に斯んなことを言はせずにすむかを考へつゞけて居る。外國の類例は僅かしか知らぬが、日本ほど無雜作に新語をこしらへて、永く流布させて居た國も珍らしからう。物の名の付け方にも機智はきらめくが、それは時々の思ひ付きだから法則性は無い。之に反して動詞と形容詞とは、殆と入用に臨んでこしらへたらうと思ふものが、次々と生れてしかも活きて居る。最初の設定者は一人であらうから、?提出して承認せられず、空しく消えた試みも無論多かつたらうが、今傳はつて居るものとても、さう大きな苦心經營を重ねたとも思はれず、中には前以ての打合せも無く、ふと言ひ出して相手が合點し、又面白がつてすぐに自分も使つたかと思はれるものさへある。それといふのが定まつた語尾の形、私が假に臺と(208)呼んで居るものが、形動兩方とも大よそ二十足らずもあつて、其上に載せて出す前半の語又は音の、場合に相應したものが成功するのである。例を幾つか出すと話は早いのだが、成るべくは別の折に念を入れて説いて見たい。とにかくに日本が言靈説の?現はれるほど、語の要素が單純で且つ統一がある故に、斯ういふ技術も行はれやすかつたのであらうが、遠い昔の文獻に始まり、近くは地方のそれ/”\の方言として、をかしがられて居る澤山の新語にまで、是ほど顯著なる造語法が一貫して行はれるのを、ちつとも氣付かずに居たのはどうかして居る。是が將來まで永續して、同じ活?さを以て利用し得られるか否かは、改めて學會の諸君に討究してもらはねばならぬまでも、少なくとも過去に是ほどの事實又體驗があつたと説くだけは、指導者の義務であり、又全國方言辭典の效果でも無ければならぬ。前にも私は此點を説いて見たが、方言が何か特殊の法則に基づいて發生し又成長するものの如く、何の根據も無く臆測して居る人が今も若干は居る。そんな?態を放置したのが、考へて見れば我々の恥であつた。
 
          五
 
 自分の記憶が誤つて居らぬならば、東條氏はたしか沖繩諸島の言語を、日本語の方言の一種なりと、明言した最初の人だつた。耳でふと聽くとあまりにも語音の差異が大きく、おまけに雙方互ひに聯絡無しに、考へ出し使ひ始めた單語も少なからず、是だけ離れて居るからには別の言語と、きめてかゝる者はアメリカ人ばかりでは決して無かつた。八十年前の宜野灣朝保翁は言ふに及ばず、近くは我々の推服する伊波普猷君までが、始めは幾つかの共通單語を拾ひ上げて、日琉同祖の立證をして居たのであつた。幸ひにして今はもはやその繁瑣の路を歩むに及ばず、文字に痕づけられる近世直接の輸入語の他には、たとへば日輪をテダといひ、銀をナムジヤといふが如き、極めて顯著なる少量の變異の、由つて來る所を詮索して行けばよい迄になつた。最も大きな岐れ路は、主として慣行に基づく用法のちがひ、殊に意味の少しづつのずれ〔二字傍点〕、それよりも大きなのは島毎邑毎の音韻の變化であるが、是には當然に法則の一貫するも(209)のがあつて、更に此方のいはゆる訛語の經路を痕付けしめる。衣服をキモノといひ又キリモンなどと謂ふのは、少しも打合せをしない此方だけの新語であつた。あちらは元のまゝのキヌが、たゞシヌとなり、或はチヌ・チン・ヂン等となつてまだ傳はつて居る。イマ(今)といふ言葉の頭書イは、イダク(抱)・イヅル(出)・イヅコ・イヅレ等の濁音を和げようとしたイも同じもので、四隣の語族との共通性が注意せられるが、其イマが沖繩の島々ではナーとなつて居る。之に對して向ふではニハ(庭・場)をすべてミャー、乃ちMNの二子音の近さが、昔は今よりも著しかつたことを暗示している。陸地の面積こそは僅かなものだが、端と端との距離は九州から、信州越後にも比ぶべき空間に、散らばつて代を重ねた人々の言語が、この程度になほ繋がつて居るのは奇特と言ふべきで、しかも一方には宮良岩倉其他の諸君の、あれほど綿密な記録が出て居るにも拘らず、全國方言辭典が其中の特に意外なもの珍らしいもの、たとへば風俗畫報の方言報告のやうに、むしろ手が付けられぬほど變つて居るものゝ少量を陳列して、聊かも比較の手がかりを示さないのは、單に五十音順の排列の爲ばかりとは言へない。惡くすると地方の珍習奇俗をもてはやすやうな、昔の都人士趣味に迎合するものと、誤解せられる虞れがあると思ふ。
 日本では特に方言の國語史的價値の高いのは、文字記號の教育が遲く始まり、しかも國民の言語生活が、永い間に著しく進歩して居た結果である。本を讀まずとも文章は書けずとも、物のよくわかつた確かな人といふのが、農民漁民の間にも澤山に居た。明治以來文字を教へることを唯一の教育と心得、口言葉の力・美しさ・光といふものを粗末に見たことが、國語退化の悲しむべき原因だつたのである。幸ひにしてさうなつたのは日が淺い。さうして國民は又既に反省の能力をもち、今日は殊に其反省の好時期でもある。如何なる可能性、如何なる成長素を我々の國語が具へて居たかを知ることは、必ずしも將來の國語政策の爲ではない。純なる知識としても興味深き追究ではあらう。しかし私たちのやうに、國の進路が引曲げられ、個人の價値がいつまでも平等に認められないのを、主として表現の不備又は片重りに基づくと感ずる者には、横道かは知らぬが先づこの知識を母語の改良に利用したくてたまらない。
(210) さて餘計なことを言ひ出して、話が少しもつれた。御詫びに一つだけ、最近の話題を提供して、方言の必ず比較すべきものなることを説明して見よう。沖繩では人が多く海を隔てた領域が廣く、文字記號の約束を守り得る仲間が小さかつた爲に、一つの語の變化が大きく、又時としてその經路の不明になつたものもある。神を祀つた靈地を島尻郡ではウガン、國頭以北でははつきりとオガミといふに對して、八重山の群島などではオーンと謂つて居る。どれが古いか又正しいかは別として、少なくとも一つの語であつたことは先づ疑ひが無いが、稀には一地ではなほ存し、他の區域では既に消えた例もある。近頃「新嘗研究會」の人々の中で、新嘗はニフナミとも、ニハナヘとも訓んで居るから、ニヒはただ一種の萬葉假字であつて、寧ろ稻積、稻村を意味するニホ又はニフが、この祭の式場であつたことを推定せしめるものでないかといふ一説が出て來た。其證據かと思ふのは二つの點、一つは古く記録に見えた壬生部又は乳部といふ部曲の名が、貴人の産屋の守りから出たらしく、一方丹生の山田といふ地名も單なる赤埴の採取地では無く、古く稻の神の祭をした特別の田地と思はれることである。第二には東南亞細亞の稻作を重視する諸民族に於て、稻の收穫と播種との中間に行はれる大祭の根柢には、?穀母が穀童を産むといふ信仰が強く存し、現に宇野圓空師の「マライシヤの稻米儀禮」には、地を隔てた三十何ヶ處かの例を擧げ、更に又北歐欧其他の小麥地帶でも同種の信仰は既に百年來の發見が積み重なつて居ることは、故フレエザー教授の穀靈考の中に詳かで、要するにニホは稻の産屋、新嘗は乃ち稻の神誕生の饗宴だといふ觀念が、久しくこの東大陸の一端にも行はれて居たとも見られる。ただ丹生とか壬生とかいふ地名は全國に多いといふのみで、これが此種の原始信仰の遺跡だといふことを、確證するまでにはまだ若干の距離がある。
 そこで當然に、そんなら沖繩の島々では、ニホは何と謂ひ、それでどの樣な式典が行はれて居るかを、尋ねて見る順序になるのだが、沖繩本島では米作地のまだ續いて居る村々では之をイニマヂン、即ち稻眞積と謂つて、其構造もほゞ此方の穗ニホ又は本ニホといふものに近いが、たゞ余りにも作人の居住と、接近して居るのが異樣であり、又是(211)といふほどの行事も殘つては居らぬかと思はれた。舊日本の稻ニホの方には、曾てはこゝで祭の行はれた三百年前までの證據はあるが、現在は既に單純なる藁の堆積場と化し、稻を穗のまゝで野外に置く例は、今はごく稀々にしか傳はらず、又期間も短くなつて、形は古いまゝでも之を維持する心理は全く變つて居る。沖繩本島の稻眞積の如きも、或は盗害防止等の新なる事情から、場處を移し儀式を省略したことがあるかと思ふが、それはまだ確かめられない。とにかく今ある名稱は、九州地方のものと近く、是には稻の産屋といふやうな痕跡は留めて居ない。九州では北部から中國の一端にかけてニホをトシャク、南部は一帶にコヅミと謂つて居るが、前者はどうやら稻積の漢字音らしく、コヅミも穗積からの轉訛かとも思はれるが、現在はもう柴や枯草などにも、コヅムといふ動詞を通用させて居る。
 
          六
 
 其次には中間の奄美群島の稻貯藏法として、高倉といふ特殊の建物があるが、此方はまだ調べて居らず、問題が更に擴大するから今は省略して置く。最後になほ一つ、南の端の八重山諸島に於て、稻の屋外貯藏場をシラと稱し、是には幾つかの信仰行事を伴なひ、且つ其シラは同時に人々の産屋のことでもあつた。其點を私は述べて見たいのである。島々の稻の收量は始めからさう多くなく、公租の一部と神祭りの用途に供すればそれでおしまひになり、常食といふには遙かであつたけれども、なほ島人は米の豐收を神に祈り、是たゞ一つの成果によつて、其一年の幸福を卜定する習はしさへあつた。苅入は通例舊暦六月の半ば頃、それから次の播種期までの間に大祭が三つあり、その第三の種取りといふのが、最もよく此方の新嘗と似て居る。稻積のシラは種取りの日、即ち舊九月の末頃までまだ殘つて居り、農民は其穗の一部を米にして、之を炊いてイバツ(飯初か)を神に供へ、又一家親族で分ち食ひ、更に其一部を結びにしてシラの上に置き、子供らに取つて食べさせる。さうして此頃のサンタクロースのやうに、夜の間に北の國から渡り鷹が持つて來て置いたと戯れ語るのを例として居る。
(212) シラがどういふわけで神聖なる稻積を意味し、同時に人間の産屋を意味するかは、まだ私に説明してくれた人は無いが、ニホとニフとの繋がりを考へる上に於て、ともかくも心強い暗示であつた。それから氣をつけてシラといふ語の分布を尋ねて居るが、先づ今のところ稻村をシラといふ例は、八重山の諸島以外に見つからない。稻を全く作り得ない島もすでに多く、曾ては相應に作つて居た宮古島なども、度々の地變と人の移動とがあつて、今も絶無とまでは言へぬが、古い記憶は殘つて居らぬらしく、更に一方には前に擧げたイニマヂンのやうな、改稱さへあつたのである。之に對して産屋もしくは分娩の忌籠りをシラといふ例は、人に伴なふものだけに、所謂三十六島のすべてに行渡つて明かな分布が見られるのみならず、更に舊日本の西南部にまでも、かつては此語の行はれたらしい痕跡が見られる。現在はもう輕く視られがちになつた産の穢れをシラ不淨と謂つて居るのがそれである。不淨は勿論近世の新語だが、喪に在る人々のクロ不淨、女の月事のアカ不淨と共に、もとは晴の式には參加を憚るべき?態であつたのを、成るたけ物遠く言ひ現はさうとした言葉で、從つて語原がはつきりとしなかつた。黒赤は寧ろ一方を白だと解して後に、類推によつて追加せられたかもしれず、本來は單にシラの障り、もしくはシラの忌といふことに過ぎなかつたとも考へられる。
 是からなほ一歩を進めて行くと、名山の名の白根・白山なども、むしろ東日本の方に偏して多く、雪の高嶺の遠く望まれるによつたものゝ如く、歌よみたちには解せられて居るが、事によつたら今少し神秘な名の起りがあるのかも知れぬ。津輕秋田の方面には、里から遠く望まれる山の名に、新穗(ニヒボ)・乳穗(ニウボ)といふものが幾つかある。嶺の形が乳房に似、もしくは秋苅る稻のニホを思はせるからと説明せられ、しかも暮春の消え殘る形によつて、田打ち種播きの日を候し、或は一年の豐凶を卜する風習さへあつた。
 山を農神の去來の路と信じ、もしくは冬の御座とする言傳へは、全國の農村に行渡り、それを研究する學徒も此頃は多くなつた。新たな心付きは是からもなほ重ねられると思ふが、近年有名になつた三河の北設樂の花祭なども、以(213)前は霜月の祭であつて、是には何年かを隔てゝシラヤマ樣といふ大規模な祭山が作られたといふ話を早川氏の『花祭』にも記録して居る。加賀の白山とは關係が無いらしく、信心の人々は「生れ清まはり」と稱して、この作り山の中に入り、設けられた棧橋の上を行道して他の一方の口から出る。是を修驗の方では又「胎内くぐり」とも謂つたらしい。霜月祭は素より民間の農祭であつて、全國何處の村でも豐かな一年の稔りの感謝と共に、更に次の年の望みを新たにするのだから、それに産屋を意味するシラの名を付けたのも、偶然とは云へぬやうな氣がする。私は昨年の春、大白神考といふ論文集を公刊して、今も東北の端の方に盛んに行はれて居るオシラサマといふ信仰の起原を説かうとしたことがある。兼ねての考へでは、オシラは蠶の神の名で、其根原を説かうとした名馬と美しい姫の物語が、たま/\一派の巫女に採用せられて流行したばかりに、其女性の手に持つた一種の木の執り物が、次第に偶像のやうになり又其名にもなつたのだといふのであつたが、新たに南島のシラの問題を尋ねて行くうちに、次第に第二の部分だけは、訂正しなければならぬ時が來さうに思はれる。南部八戸の小井川潤次郎君などの調査では、オシラは春の始めに稻の種を持つて下りて來られる神で、それ故に三月十六日の農神降りの日に祭をする。村によつては此神をシラヤマ神と呼び、しかもハクサン樣とは全く別と解して居る。蠶をオシラといふことは關東方面、その他の廣い區域の確かな事實で、その縁起が東北の端々の盲の巫女の語り物になつて居ることもまちがひは無いが、それだけで今あるオシラ神の名が、始まつたといふのは私の速斷だつたかもしれぬ。シラが西南端の群島に見られる如く、産屋であり又稻の産屋のことでもあることが、もしもこちらでもニフ・ニホと併存し、もしくはその一つ前の日本語の事實であつたならば、斯ういふ奇異なる色々の殘留も、或は一時に解釋せられて、國語史ばかりか、我々の農民文化の沿革もよほど又多くの見通しが付くからである。
 話し方が下手だつた爲に長くなり又國語學會の領域から逸出しさうになつたが、私の述べたかつたのは記號教育の普及しなかつた時代又は地域では、單語の變化が殊に急速に行はれ、しかも小社會毎に固定しやすかつた。其經路を(214)明らかにするには多くの事例の綜合歸納によつて、音韻法則の確率を高めるのが必要なことは勿論だが、其比較は狹隘であり又は獨斷であつてはならぬ。殊にたゞ所謂標準語の推移のみが、國語成長の本道であるかのやうに、思つて居てはならぬといふことであつた。シラが産屋のことだつたなどは、不可解のやうにもしくは法外のやうに思つて見切つてしまふ人もあらうが、是はDR子音の行通ひといふ一事を、考へに置けば何でも無い。ソダツ・ソダテルといふ中央語はいつの頃からか用途が限られて、すでに生れたものゝ大きくなることだけの意味になつて居るが、是は多分タツといふ語を「臺」にした新造語、目立つ、巣立つの類と認めた誤解がもとであつて、西南の諸島に於けるスデユンはもつと範圍が弘く、たとへば卵から雛の出ることもスデルであつた。おもろの中などで我々に知られた、人間をスヂヤといふ語の如きも、弘く生を受けたる者の義で、即ち始め無きものに對立する名であり、シデ果報のシデも亦、新たに生れたる幸福の喜びであらう。沖繩方言には英獨語などの−er に該當する agenda の意味に、アの單母音を附ける風が非常に發達して居て、必ずしも此方のヤカマシヤ・ハニカミヤのやうに、何屋の感じを伴なはない。産屋のシラなどもスデヤで無くても又シダであつてもよかつた。しかし其シラの語音の分布が、遠く奧州の果までも及んでゐるやうでは、このDとRとの行通ひは昔はもつと自在であり、或は佐渡國のサロノクニよりも、却つてドンゴやドウソクの論語・?燭に該當するものだつたかもしれない。ともかくも産屋のシラと接近して、スデユンといふ言葉も共に行はれて居たのだから、シラだけは多分夙く分化し、且つ固定して居たものと思はれる。我々のソダツの方にも、やゝ久しくこの分立が續いて居た。たとへばスヂといふ一語は、今はたゞ線といふ漢語に近いやうにしか用ゐられないが、信濃川流域のかなり弘い村里や、遠く離れて肥前西彼杵の平島などでは、稻の種俵をスヂダハラ・スヂといふのも傳はつて行く系統のことであつた。此地方だけには限らぬが、正月はこのスヂ俵の上に松を立てゝ歳の神を祭り、それを大切に管理して置いて、一半は苗代に播き、他の一半は五月田植の日に飯に炊いで神と人とが相饗する。其祭の場は神棚の下又は床の前、或は倉の中で行はれ、野外のニホ即ち苅庵は用ゐなくなつて居るが、正月の(215)歳の神を、農神であり又祖神であると感じて居る人たちは今も決して少なくはない。今後もなほ續けて、新甞の根元を究めたいと念じて居る我々には、國語が偶然に保存して居た史料が、何にもまして大切である。
 
(216)   國語の管理者
       ――某高等學校の辯論部に於て――
 
          一
 
 今日の如き會合に於て、一度は話をして見たいものだと、豫てから考へて居た問題が一つある。諸君は此話を聽き又之を批評するのに、最も適した人々である。
 自分は日本の學問文學に對して、尺寸の功勞も無い者であるが、それでも尚職業の上から澤山の苦勞をして居る。殊に明治大正といふが如き移り變りの時代に生れた爲に、書いたり話したりすることに就て、日本人でなければ到底味ふことが出來なかつたらうと思ふ苦い經驗をうんと嘗めて居る。其經驗が若し一部分なりとも諸君に役だつて、諸君が結局同じ結論に達する爲に、今更同一の苦勞を繰返して、生涯の一番大切な部分を浪費することが避け得られるならば、自分が爰へ御話に來た目的は、それで達したわけである。
 私の考へて見た所では、日本といふ國の社會生活の特色の一つは、多數住民の氣持又は感覺に、著しい共通性のあることである。氣が合ふといふか仲が良いといふか、一處に集まつて居る人間が、いつも珍しい程互ひに相手の腹をよく知つて居ることである。これは斯邦の永い歴史からも、又島國の地勢天然からも、尋ねて見たら必ず原因を見出すことが難くなからうと思ふ。
(217) 人口七千萬に近い人の集團で、しかも個人教養の是だけ迄重ぜられ、一方各人に於ても、異を立て群を拔かうとする努力が可なり盛んになつて來た今日の世の中まで、尚「常識」とか「世間なみ」といふやうな、内容の實は甚だ空漠たる言葉が、此樣にたくましい拘束力を持つて居る國は、他所にはあまり類例が無いやうである。
 人と人との日常の交通を注意して觀て居ても、?「言はず語らずの間に」とか、「何と無く」とか「誰言ふと無く」といふ類の不精確なる説明が、簡單に問題の全部を處理してしまふ場合が多い。つまりは我々日本人の感情は、早くから最も豐富ではあつたのだけれども、大抵の場合には、萬人の印象が不思議に共通であつた爲に、手數を掛けて事情を言ひ現さうとせずともほんの僅かな暗示を以て、甲から乙に意中を傳へることが出來たのである。
 其結果は和歌などの如きも、三十一文字あれば充分だといふことになつた。「春風ぞ吹く」とさへいふならば、雲雀啼き菜の花が麥の青葉と映じ、水の色がしつとりとして、山にはちらりほらりと山櫻が散つて居るやうな、あらゆる光景が時としては作者以上に、聽く人の幻しに浮んで來る。又「秋の夜の月」といふ一句さへ示せば、あの込入つた感覺と情味が、細大洩す所なく陳列せられた時と同樣に、早くも相手が承知してくれるのである。言葉だけには決して其樣な内容は無かつたのを、餘韻などと名づけて聽く人の諒解せねばならぬ義務に押付けてしまつたのである。
 それだけでも驚くべきであるのに、三十一字ではまだくどい〔三字傍点〕とあつて、後には詩を十七綴りの長さに切詰める運動が大に起つた。しかも日本語は支那語と違つて、三字四字を合せて一つの意味しか運べない場合が多いのだ。實に珍らしい短い詩形である。文學の背後に永年の民族的約束が横たはり、且つ互ひに善意を以つて他人と同感しようとする態度が無かつたならば、到底斯んな呪文見たいな文句で、我を人に知らしめる事は出來なかつたわけである。其證據には幾ら上手に飜譯してやつても現に外國人の大多數に解らぬ。解つたといふ人は極度に敏感な人か、然らざれば半可通かであり、又實際は滿足に譯することが望まれない。
 考へて見れば重寶な園もあつたものである。勿論多數の人の中には、鋭敏な者も居れば遲鈍な者も居る。又早合點(218)もあれば知つたかぶりもあり、又ごまかしもある。ずるい男になると、「御承知の通り」だの「君ならば大抵察してくれることゝ思ふが」などと謂つて、説明陳述の面倒を逃れ、若くは責任を避けようとした者も無いではなかつたが、ともかくも先づそれで今日迄の世の中は濟んで居たのである。が併し將來も是で行けるものとは先づ何としても考へられぬ。若し萬一にも是から後の日本も其調子で行くものならば、實はこの辯論部なども氣の毒なものだ。無用の時間つぶしに非ずんば、單なる青年の遊戯に終るからである。
 
          二
 
 元來この雄辯術なるものが、實際の人間生活と交渉をもち始めたのは、西洋なんかでもさう古い歴史で無い。希臘羅馬の昔は別として、所謂古典復興の時代に入つてから後も、之を利用した者は主として耶蘇教の僧侶であつた。しかも説法といふものは專ら指導的のもので、始から信じようと欲する人々に向つて、ほゞ豫期せられたことを説くのであつた。教義の爭が漸く盛んになつて、始めて相手を説き伏せ又は動かすべき眞劍の演説が入用になつたのだが、それとても結局は側で聽いて居る多數群衆がたよりで、之を目標として説法をして居れば、自然に人氣の方で判決をしてくれたのである。安土の宗論などと謂つた佛教徒の議論でも、勝つた負けたはつまり素人の共鳴を得ると否とであつた。日本でも天台宗などは古い頃に、辯論の練習を以て重要學科の一とし、所謂論義といふ晴れの試合に於て、其技能を人に示す儀式もあつたが、久しからずしてそれが形式化し去り、今では謠曲の節まはしの中に、ロンギといふ名稱になつて殘つて居る。鎌倉時代に出來た沙石集といふ本にも、もう其論義が遊び半分のものになつて居た馬鹿げた例が出て居るのである。
 此以外に於ては「言ひ合ひ」は先づ感心せぬ行爲であつた。惡コでは無いまでも美コでは決して無かつた。あの人は何だか理窟ばる人だといふことは、拙劣な社交術を意味して居た。日本人が以前「演舌」と名づけて、最も表現方(219)法の洗練に力めて居たのは、平生あまり往來しない人同士の、應對交渉の場合に適用する口上といふもので、出來るだけ流暢に、且つ揚げ足を取られぬ用心をするのが主眼であつた。アイヌ族で昔から行はれて居たチャランケを、討論と解する人もあるらしいが、是も實際は口上であつて、雙方が勝手自由にいつ迄でも立板に水を流す如く、何か言つて居ればよかつたので、我々の俗語で言へば「へらず口」の達者といふことを彼等は酋長の修養の一つに算へて居た迄である。諸君の所謂辯論に比べて見ると、口上は著しく敍情的のものだつた。又詩や文章で言ふ所の、樣式格調法則といふものゝ拘束が甚だしくて、到底自由に自由人の意見感情を吐露するに足らぬものであつた。
 取捨判別の自由を有する民衆の中に立つて、自分一人のみが考へ若くは感じて居ることを、敢然として言ひ現はすといふ必要は、實はこの新時代に入つてから、始めて發生したものであつた。さうして日本に於ては是も亦他の多くの技術と同樣に、物眞似模倣を以て始まつて居るのである。模倣は勿論そら/”\しいものであるが故に、その人の好奇心に投合した初期の時代に於てすらも、尚演説は何だか日本語では無いかの如き感じがした。
 是と同時に日本語といふものが、元來演説に向かぬ國語では無からうかといふ感じもしたのである。それを兎に角に今日の帝國議會内の政治論の程度にまで進化させたのは、自惚でも何でも無く、たしかに日本人の手腕能力であつた。しかも只長たらしく、根氣よくしやべるといふ一點だけが、世界各國の何れに比べても、圖拔けて居る所の長處であつた。是こそ文字通りの長處ではあるが、心細いことには今まで國民の印象に殘り、又は心から人を動かして、左へ行かうとした者を右へ向はしめた程の、有效なる名論卓説には出逢はなかつたのである。
 
          三
 
 自分は故原敬氏の演説を、最も注意深く聽いて居た一人であつて、今以てあの人の率直な態度には心醉して居る。原氏には少なくとも芝居氣が無かつた。作つた痕跡の無い演説であつた。他の大多數の政治家の演説には、芝居氣が(220)あり斧鑿の痕が露骨であつた。併し一方に原氏ほどの座談の名人でありながら、又自己表現に忠實でありながら、やはり永遠の印象を留めた演説の殆と一つも無いのは、必ずしもあの政治家の氣質性格の然らしむる所では無く、或は日本語そのものが、未だ我々の内に輝き燃えるものを、精確に彩色し得るまでに發逢して居ない結果ではあるまいかと、考へて見るやうな場合が多かつた。
 何れにもせよ、此樣な調子の低い、具體的印象的で無い政治論が、世の中に持てはやされるやうでは、國の政治は發達しないかも知れぬと思つた。現に議院の中で聽いて居てすら、感動が至つて微弱である。況んや新聞や速記録で間接に之を傳へては、天下多數の青年をして政治の壯烈なる興味を感ぜしめ、奮起して其跡を繼がしめるだけの機運は、到底之を促進することが出來まいと考へた。
 譬へを前代に採つて見るならば、戰場に出て傷き又は討死するといふことは、何と考へても個人に取つてはいやな事である。然るに多くの若武者は猛進して勇ましく傷き又死んで居る。事業その物に否むべからざる心地よさがあるからである。卯の花縅しの鎧着てとか、金覆輪の鞍置いたる連錢葦毛の駒にゆらりと打跨がりなどと、書いてあるものを讀み、語るのを聽いて居るうちに、その花やかなる生活趣味に引附けられて、多くの若者が命などは顧みなくなるのである。國の政治も家々に取つては犠牲である。大切なるものゝ提供である。之を促す爲に今日の如く、利欲虚名を以て誘致すべきで無い。我々の純なる子弟を感激せしめるだけの、一種の陶醉を必要とするのである。
 然るに一國の與論の前線に立つて、顧みて滿天下の血性男兒を麾くべき者の演説が此通り、丸で在所の寺の説教見たやうでは、議會生活などといふものは、じみなくすみきつた鼠色の小紋ぐらゐにしか國人の眼には映じまい。是ではおれも一つと謂つて、飛出して來る青年もあるまい。困つたものだなと考へて居ると、果して私等の豫想は適中して、一癖も二癖もある者だけしか、政治に興味を持たぬといふ世の中になつてしまつた。即ち作り聲作り文句の、舞臺の上へでも追上げてやりたいやうな、女や子供に聽かせたら、思はず知らずくすりと笑ふやうな、ちつとも人の胸(221)へは響かぬ、實生活とは縁も無いやうな言葉を暗誦して、いつ迄も多數の通常人に、演説とは元來斯んなものだといふ誤解を抱かせて置くか、然らざれば、何と無く憂慮に堪へぬだの、一種名?すべからざる感に打たれるだのと謂つて、兼々からの同志者ばかりから拍手を送られるといふ連中が、最初から結果の明かな議決の爲に、無益の時間を潰すことになつてしまつた。
 學校の講義なども同じことで、教師が直接に諸君の頭腦に運び込まんとするものは、書けば文字に書き現し得るやうな裸の事實だけでは無い。之に伴ふ所の力である。新しい興味である。それを添へて諸君に與ふる故に價値がある。それが往々にして只の機械的の書取になつてしまふ故に、それ位なら寧ろ夜分などに、靜かに獨りで本を讀んで居る方が便利だと考へるやうな、一種別樣のなまけ者を生ずることになる。講演講話でも同じことだ。つまり今見たやうな平凡な形式でよいとして置く以上は、時間ばかりむだに費やされて、聽衆は坐睡や欠伸を何とも思はなくなるのみならず、更に色々の惡い結果、例へはひやかし半分に顔を見に來るとか、判斷の力を弱めて何をきいても受賣したがるといふことにもならぬとは限らぬ。さうなれば國民は別に何等かの方法を講じ、例へば腕力や金力を以て、我意を通さうとする樣な、間違ひきつたことをする奴が、出て來るかも知れぬのである。
 斯く考へて見る場合に於て、茲に始めて諸君の辯論部の共同努力は、大なる社會上の意義を生ずることになる。何となれば諸君はその活??地の生氣を以て、沈滯した公論界を引立てる必要に迫られて居るからである。さうして同時に又諸君は是から五十年間の、日本語の管理者であるからである。
 
          四
 
 圖語は國家生命の主要なる一部分である。如何にして其機能を完了せしむべきかといふ問題は、決して二三政論家輩の手に委ねて置くべきものでは無い。然るにも拘らず、世の所謂辯論の大家の群に於てすらも、實は意外千萬なる(222)投げ遣りがあつた。諸君の辯論部の如きも或は亦、只の世間竝を標準として、上手下手を考へようとして居るのではないか。是はそんな簡單な問題では斷じて無いのである。
 筆を執る方の人々の中では、もう餘程以前から、既に此問題では苦しみ惱んで居る。我々の文化がまだ西洋の影響を受けぬ前でも、島國の永い住民である爲か、日本人の智慧と情操とは、普通の者にも中々細かく働いて居た。偶然に書殘された色々の書物の中に、それがよく證據立てられてある。我々は決して他の多くの國の農民の如く、粗野にして又無智ではなかつた。只いざとなると順序よく文字を以て心の中を外に運び出すことが出來なかつた。それは全く文字が借物であつた爲である。
 其影響の最も情無かつたことは、文字の利用が少數の所謂文人によつて獨占せられた。さうして同じ國民の言ひ現しを、雅と俗と、風流と野鄙とに差別するやうな惡癖を生じ、平素は隨分米味噌の話もする者が、いざ文章を書く段になると、忽ち其態度をよそ〔二字傍点〕行きにした。平民の常の言葉などは文字を以て現すの價値も無きかの如く考へて居た。是くらゐ馬鹿げた心得違ひは無かつたのである。
 所謂漢學の、是が最も恕すべからざる短處であつた。賀茂眞淵本居宣長等の國學者は起つて勇敢に之を爭つたことは事實であるが、しかも此一派も亦、現代に通用せぬ古文を復活したばかりで、所謂俗人の之に親しみ得なかつたことは同然であつた。政府が改まつて愈國民の全數に教育を與へる方針を確定した結果、彼等に向つて説かねばならぬ事は日に月に多くなり、文章の無能力は次第に目に立つて來た。此際に當つて言文一致といふ運動の起つたのは、極めて自然の現象であつた。
 其運動が二十何年間の努力を積重ねて、やつとのことで一般の風習となり、新聞雜誌までが口語のみを以て、我々の言葉の通りを印刷する迄になつたのである。しかも最初の山田美妙齋といふやうな人の時分には、あの當時の演説つかひも使はぬやうな變てこな日本語であつた。近頃になつても耳で聽いたゞけでは何事だか解らぬ文句に、徒らに(223)「であります」を取附けたばかりで、何が口語體だと惡口を言はれるやうな文章がまだ多い。つまりは言ひ現しを文雅ならしむべしといふ古來の約束が、まだ根づよく下に横たはり、單に流行に誘はれる程度の文人は、之を脱却することが出來なかつたからである。
 自分たちの實驗では、根岸派俳人の一派、即ち正岡子規を中心にして發逢した雜誌ホトトギスの寫生文は、最も感謝すべき解放運動の一つであつた。當時の功勞者には高濱虚子寒川鼠骨等の諸君が、自分の友人でありまだ盛んに働いて居り、御世辭にきこえるとまづいから多くを語らぬが、言はゞ彼等は俳諧文學の大切な長處を、現代の交通に賢明に應用したので、久しく我々の閑却して居た事業、即ち文章と生活との結合が、單に可能であるのみならず、又必要であることを證明してくれたのである。世の所謂雄辯家、殊に古風政治家と謂ふことが、きざにきこえ又いやみ〔三字傍点〕に感ぜられるに至つたのも、全く其頃から顯れた變化であつて、假令實行はせぬ迄も我々の腹の中に在る文章の標準は改まつて居たのである。たゞ奈何せん日本人の思想感情は、日を追うて精細緻密を加うるにも拘らず、之を如實に表はすことは、益困難になるばかりである。此點は繪なども同じことで、我々が物の色を細かく見分け、且つ之を寫生して見たいといふ考が出て來るにつれて、いつも感ずるのは繪具の不足である。新たな材料を捜すか、色々の配合を工夫するか、何れにもせよ此儘にして置くことは出來なくなつた。
 そこで心の無い者には日本語の不完全を恨み罵る者さへ出て來たやうな次第である。併しほんの只少しばかり、歴史の考察をして見たならば、そんな事は言へた義理で無いことが直ぐわかる。我々の歴史の夜が明けた頃には、日本語はもう決して幼稚なる國語では無かつた。古代文法の研究者としては、東北大學の山田孝雄氏などが居られる。萬葉集の研究には外にも段々學者があるが、今日遺つた僅少なる文獻からでも、仔細に調べて行くときは、奈良朝以前の我々の國語が、語彙にも語法にも既に十分に豐富で、且つ立派に生活力を持つて居たことが證明せられるのである。然るに其中から込入つた現し方を面倒臭がつて抛擲し、徒らに新らしい輸入ものを好み用ゐた結果、重要な部分が消(224)え去つたのみならず、時勢に通底して成長して行く能力をさへ弱めたのである。何物によらず、持主が粗末にすれば惡くなるにきまつて居るのである。
 奈良朝時代の有識階級なども、著しい世の中の變遷に遭遇して、如何にして最も敏活に是と調和して行かうかに付て苦勞したことは、今日の我々と同じかつたことゝ思ふ。さうしてやはり明治大正の有識階級と同じ樣に、少しばかりの智識の獨占に據つて他の同胞に向つて優越權を振廻はし、外國産の既成品たる漢文のみを模倣して、民族固有の言語の未來の爲に、多く慮かる所が無かつたのである。あれから以後の數百年間は、古事記と少々の宣命などの他には、日本語で書いた文章の殆と絶無といふべき時代である。歌の方でも古今集を以て萬葉に比べて見ると、最もよく目につくのは、句形の單純化である。所謂千篇一律である。それから又語彙の驚くべき減少である。國の一般の文明は進みながら、文章の道は却つて日に衰へつゝあつたことを否み得ない。是は全く言語を外國に借りた罰である。
 
          五
 
 然らばそれ程まで骨を折つて學んだ漢文ならば、果して南瓜や西瓜の種を外國から輸入した農作物の如くに、完全に我々の畠の産物と謂ひ得るだけになつたかと問ふと、さう認めてもよいのはごく/\少數の優れた人のみが、文章道に携はつて居た短期間のことであつた。具體的に言へば六國史の時代、或は菅原道眞頃までと言ふのが適當であらう。つまり借物は到底借物であつた。其から以後、筆を執るべき場合は益多く、書かねばならぬ事柄は益複雜となつたにも拘らず、眞似の方は常に新たなることを得なかつたのである。
 中世の文人は互ひに褒め合ひばかりして居るから、囚はれざる評價を下すことが六つかしいが、要するに全般を通じて、歎かはしき樣式化があつた。すべての文學は型にはまつてしまつた。政治や法律の如き實生活に伴ふべき文章さへ、全部粉本があり熟字がありきまり文句があつた。たま/\巧妙に自由な事を述べようとすれば、自己流な無理(225)な書き方をする他は無い。そんなにして迄も尚漢文だと思はれたがつて居たのである。だから中世には實はまだ豐富な文獻があるのだが、今日では特別の練習が無いと漢學者でも讀んで解することが出來ない。さういふ鵺見たやうな和製漢文が久しく一代を支配して居た。最近まで殘つて居た所謂候文は、其糟粕の最も見苦しいものであつた。
 故に平安京時代の千年間の、公家武家の記録日記の類には、まだ幾らでも、我々の歴史が傳はつて居るのだが、之を讀んで前代の生活に親しまうとする人は誠に少ないのである。多くは文章が無茶で且つ癖ばかりあつて、讀みこなすことが容易で無いからである。尤も朝廷の儀式典禮を詳しく記したものなどは、内容にも興味が乏しいかも知れぬが、例へば歌人定家卿の明月記の如きは、至つて變化に富んだあの頃の社會生活が、筆者の學問見識を透して、感慨深く且つ十分自由に寫し出されて居り、如何にも活き/\とした見聞録であるにも拘らず、尚何故に當時の日本語を以て書いて置いてはくれなかつたと、殘念に思ふ點ばかり多い。恐らくは此頃もう文章の用語に大分缺乏して居たから、使ひたくとも日本語では文章は書けなかつたので、しかも借物の漢語とても、決して選擇自在といふ程には當時の漢學は進んで居なかつた。つまり今日となつては餘程の推察を加へないと、是から實情を會得することは六つかしく、あまり骨が折れる故に諸君等は少しも讀まないのである。
 併し源平時代以後日本の漢學の大に衰へたことは、却つて一種の國文を發達せしめる方便でもあつた。前に御話申した沙石集などは其一例で、是は梶原景時の孫とかいふ無住法師の著述であるが、現在我々がして居ると同樣に、若干外國單語の補充を忍んで、所謂假字まじり文といふ形により、少しなりとも口で話す言葉と相接近せしめようとしたものである。其以前の今昔物語なども同じ趣旨で、不完全ながら之を見ると、古人の話を聽いて居る心持が少しはする。然るに全國が一般に此方に變つて行かうとは中々しなかつた。一方には尚根強く、漢文で物を書かうといふ努力も續けられた。ところが其實それは決して漢文でも何でも無かつた。一番をかしいのは安居院作の神道集などといふもので、作者自身が脇に假字をつけて置くことは、今日の我々の漢語使用と同じく、振がな無しに棄てゝ置いたら(226)人が決してさうは讀んでくれない。是は南北朝終り頃の本である。それからずつと下つて江戸時代に入つても、知識の上で我々が常に感謝する林道春、黒川道祐などといふ學者でも、文章だけはやはり此類であつて、本人は漢文の積りで居ても、勿論支那人にも讀んでわからぬのだから、つまり和製の模擬品であつた。あの頃には既に日本文も普及して居たのに、何で又此樣な眞似をする氣になつたか。流行といふものは怖ろしいものだと思ふ。
 
          六
 
 然るに幸か不幸か江戸時代の約三百年は、明清交通の感化を受けて、再び漢文學の隆盛に集注してしまつた。少し纏まつた智識を書物から得ようとすると、先づ外國語の爲に苦勞をしなければならぬことは、當節の學生諸君も同じであつた。外國語を知らぬ青年に向つては、學問の大部分が遮斷せられて居た。此の如き悲しむべき大勢に反抗して、學問上の國權快復を企てた人に貝原益軒がある。今日から見れば當り前の事のやうであるが、漢文萬能のあの時代としては、一人進んで所謂俗樣の假名まじり文を以て、智識の敍述を平易にしたことは、言はゞ學者の威嚴の抛棄であり又一種の犠牲であつたと同時に、同胞に對する感謝すべき親切であつた。ところが一般の傾向は格別之に由つて改まらず、どこ迄も漢文漢學の方へ延びて行つて、文藝の天分が少しでもある者は、滔々として其力を漢文に傾けたのである。
 是が大體に於て明治初年までの日本の實情であつた。固より本居平田の二先生を祖述する一派の努力があつたが、尚漢語尊敬の氣風を抑制することが六つかしかつた。あの人は學問がある又はえらい〔三字傍点〕といふことゝ、あの人は漢語を使ふといふことゝは外部からは一つのやうに見えた。ちやうど此節の青年が、少しは本を讀んで居るといふことを認められんが爲に、日本人同士でも英語を使ふやうなものである。別に深い目論見があるわけでは勿論無いが、馬鹿げた流行なることだけは確かである。
(227) 公平な眼から見れば、これは寧ろえらくない〔五字傍点〕證據である。何となれば彼は自分の思ふことを、我がもつ國語ですらも言ひ表はすことの出來ぬ男だからである。萬人が九千九百九十人以上、皆々日本語のみで物を言ひ得る社會であつたら、嘸かし多勢から彼は嘲り笑はれたであらう。ところが全體に言はず語らずの間に、日本語が不信用である爲に、「英語まで使はねば言ひ現はすことの出來ぬほど複雜な心持を抱いてゐる御人」といふ風に、解してもらはれる場合も生ずるのである。其癖そんな連中の多くは、許すから勝手に英語を使へと言はれても、格別さう澤山には英語で話せもしないのである。つまりは内外雙方に向いて片輪なのである。
 世界の獨立國の中では、日本ほど自分の國語を冷遇虐待した國も珍しい。日本ほど外國語に從順であつた國も無いかと思ふ。言語だけからいふと昔は支那の屬國、今は英國の屬領であつても、是以上の奉公は爲し得られなかつたらうと思ふ。埃及は氣の毒な半獨立國で、英國の勢力は狐憑きの如く蔽ひかぶさつて居るが、ポートサイドのやうな神戸以上の國際地帶であるが、それでも一つの外國語に向つて日本ほどの優越權は認めて居ない。國有鐵道の掲示板に、麗々と英語を書いた獨立國は、日本の他には近隣に一二ヶ國もあらうか。瑞西のやうなホテル業本位の國でも、其樣な讓歩は辛棒し得ないやうである。
 實利圭義一點張りの目から見ても、是は決して何でも無いことで無い。現に漢語尊崇の弊としては、我々は大切な國語を片輪にしてのけた。御蔭で我々の日常の物の言ひ方にも、歸化人見たやうな片言が入つて來て、古い語法の端から消えようとして居る。それよりも更に困るのは、語の數の缺乏である。新しい事物には大抵は日本の名前が無い。毎日使ふ杓子でも茶碗でも、漢語漢音の儘でなければ、多く其誤つた適用だ。從つて漢字全廢の不可能は勿論、其制限すらも今は決して容易で無い。それが著しく印刷事業の改良發達を阻碍して居ることは既に世人の知る通りである。
 將來に向つて憂ふべき弊害は、今一つ一段と重大なものがある。それは言語の彈力とも名づくべきもの、即ち新しい事物思想に對する適應性が、永年の怠慢に因つてすつかり衰へて居ることである。何か新しい現象が起り、機械が(228)發明せられ問題が唱へられると、寄つてたかつて無埋な二字以上の漢語を、くゝりつけてしまはぬと承知をせぬ。そんな無理な組合せだから字を見ても何だか分らぬ。故にすでに明日から註釋を必要とし、智識を口傳化してしまふのである。此惡癖、此衰弱を恢復することは、將來の日本人には大困難でしかも國民生活の獨立の爲に避くべからざるの事業である。之を要するに愛する我々の日本語は、新たに諸君の花園に於て、水灌ぎ土かひ養ひ育てゝ行く必要があるのだが、當校辯論部の諸君には、果して如何なる用意と支度とがあるか。自分は多大なる好奇心を以て、之を詳かに知りたいと思つて居る。
 
          七
 
 自分たちの同志者間の國語運動には、別に是ぞと謂つて誇るに足るものもまだ無いが、先づ第一には外國語の必要を、最少限度まで制限しようとして居る。其爲には國の學問の獨立、是を主眼と考へて居る。英語フランス語獨乙語の大事にされ、又外國人の我々から呪文同然に渇仰せられるのも、一言を以て言へば優秀なる學者が、我々外國の者も讀まずには居られぬ良書を著すからである。世界的の價値ある研究さへ發表すれば日本語を外人に學ばしめる事をも出來る。それは第二の目的としても、責めては國内の者、殊に專門家で無い多數青年には、何だかわけの分らぬ受賣又は飜譯書で無しに、日本語だけで理解し得るに十分な書物を供給せねばならぬ。それをせぬ間は永く智識の乞食として、馬鹿にせられなければならぬ。
 次には外國の本を讀むことは必要だらうが、本を讀む序を以て、しやべり且つ書くことも出來るやうにといふ慾の深い野心は、斷念した方が結局は得かと考へる。ぶたれてアイタといふ語が英語で出るやうにするには、やはり彼等の中に居て折々は打たれても見なければならぬ。さうするには彼の有名なる「我が英國」と謂つたやうな日本人も作らねばならぬことになる。それも時としては職業上必要であらうが、それはホテルの使用人案内人通譯在外商店の店(229)員外交官といふ類の者になる人の外、斷念してもよろしく、斷念せぬならば是ばかりの修業では足らぬのである。
 併し今日のやうな國際交通の盛んな時代に、何時西洋人と對話する用事が起らぬとも限らぬ。一つだけは何語かを覺えて置く方がよいといふわけならば其目的の爲には成るたけ手輕に學び得られ、且つ少しでも弘く役に立つ國際語を知つて置く方がよい。是が自分たちのエスペランチストと爲つて働いて居る理由である。エスペラントもよいが、根つから役に立つて居ないぢやないかといふ人がある。それは日本が英語なら通用する國のやうに、餘りに兼々の評判が高いからである。それを名譽な事のやうに吹聽する者が多いからである。勿論今のまゝでエスペラントを國際語に採用して見たところが、效能が見えぬは知れきつて居る。其前に一段の準備として、相棒を外人の間に一人でも多く作つて置く必要は正しくある。それを我々は今企てゝ居るのである。是が爲にも世界的に入用なる智識を、我々から供給してやる計畫をしたいと思ふ。今日のやうな燒直し受賣ばかりでは、エスペラントに譯しても英佛語に譯しても、元の木阿彌に戻つてしまふではないか。
 
          八
 
 故に此趣意を忘れて日本人同士が、エスペラントで話をしたり、文通をして悦んで居るのは、是亦相變らずの物ずきで、「新しい女」と謂つて居たのをモダーンガールなどとしやれたり、島崎藤村君が老孃といふ語をこしらへたのを、わざ/\オールドミスなどと有りもせぬ英語に變へて見たりして、流行させるやうなものだ。練習の爲なら別の話だが、日本人と日本人とで他の語を使ふなどは、笑つても笑ひきれぬほどべら棒のことだと思ふ。
 話が長くなり過ぎたからもう切上げる。或はもう分りきつたことかも知れぬが、自分は改めて諸君に御勸め申す。日本國の文化を、どの點から見ても一流とする爲には、國民交通の最も主要なる武器を鋭利ならしめねばならぬ。自ら國語を輕蔑するやうでは、次に來るものは異國趣味に對する屈從だ。國語を愛育しようとするならば、先づ平素か(230)ら心がけて、正しい意味の言行一致、即ち言ふことゝ行ふことゝの間に矛盾なからしめると同じ樣に、考へる言葉と説く言葉と書く言葉とをも出來るだけ相近づけて、思ひさへすればすぐに書け、又すぐに人に語れるやうにと力めて行かねばならぬ。勿論それには修業がいる。互ひに相助けて練習を積まねばならぬ。辯論部の練習には、第一には用語と語法との撰擇辨別批判を要件として、仲間に氣障半可通な流行などの入込まぬやうに、常に穩當で且つ有效な日本語が、口を突いて自然に出て來るやうに心掛くべきだと思ふ。是が自分の最も熱心なる勸告である。
 
          九
 
 併しそんな練習だけでは、とても今日の如く痩せ衰へて杖ばかり突いてあるいて居るやうな日本語を、丸々と丈夫に太らせることが出來まいといふならば、新たなる滋養分としては國民相互の同情を加味するに限る。多くの古代人の眞面目な言葉を力めて諒解し玩味するやうにするに限る。即ち出來るだけ多くの日本の書物を讀んで見るに限るのである。又本には前にいふ如く、困つた作り物も多く、眞面目といふ本が見つけにくいといふならば、成るたけ注意して違つた境遇に在る人の話を聽いて見るのもよいであらう。彼等の言ふことも?有觸れて居るかも知れぬ。話ずきといふだけで私などの如く、内容に澤山の新しい智識を含んで居らぬかも知れぬ。結論は或は諸君と反對かも知れぬ。しかも彼等の多くは自分と同樣に、其言を是認して貰ひたい一心に、成るたけ有效に日本語を利用して、成るたけ多くの理解者を得んと力めるだらう。さうすれば少なくても其談話方法には、若干の參考とすべきものがある道理である。
 
(231)   日本が分擔すべき任務
 
 島國の普通の住民には、外國人と話して見て、此言語の成程有效だといふことを、實驗し得る機會は至つて少ない。日本語の出來る少數の傳道者と、英語の勢力を過信して居る者とより他は、滅多に遣つて來る者が無いからである。エスペラントが如何なるものであるかを、説明することは困難で無い。たゞそれがどれ程まで、我々の生活を助けるかといふことを、理解せしむる途が乏しいのである。何か有益な讀み物でもあるかと、必ず我々の友人たちは尋ねる。それは幾らでも望み次第と、答へることが出來るやうにしたいものだ。
 以前は日本にも練習用のもの以外に、是といふほどの書物は捜しても無かつた。近年はそちこちに同志の書店が出來て、有るだけの良書は求めれば與へられる。此上は個々の團體の力の許す限りに於て、小さな文庫を設けて土地の人々の求めて居る智識が、エスペラントに由つて直ちに得られることを、感ぜしめる方法を立てたいものだと思ふ。
 私は日本の學會の第二期の事業が、殊に此方面に向けられることを望んで居る。學問をする青年たちが、外國語の爲に費す力と時とは莫大である。それが若し一つの簡易なる國際語でも間に合ふことを知り得たならば、其普及には聊かの宣傳をも必要とせぬであらう。況んやエスペラントに由らなければ、學ぶことの出來ない新しい智識がもしあつたら即座にそれだけづつ他の煩雜なる外國語は、不用に歸して行くことは明かである。故に我々はどんな骨折をしても、先づ全世界のエスペラント文獻目録を、編纂して公表することを企てねばならぬ。その内容の大體の解説と優れたもの必要なものゝ頒布仲介は、それに續いての必要なる仕事である。さうすると其顯著なる效果と反響とは、必(232)ず久しからずして此苦勞を張合ひのある苦勞とするであらうと信ずる。
 此間題は既に歐羅巴に居た時にも、二三の熱心なる同志者に向つて之を論じたことがある。勿論一人として是認せぬ者は無かつたのだが、奈何せん實際に於て、我々の爲に缺くべからずといふ程の良書が、まださう色々は出て居ないのである。日本には限らず世界を通じても、是でこそエスペラントを學修した甲斐があつたと、考へ得るほどの著述は多くは無い。故に集めたり取次いだりするだけには止まらず、今一段と根本に溯つて、學問上重要なる文獻の年々の増加を、自ら企畫しなければならぬのであつた。之を別の方面から説明すれば、一つには我々エスペランチストの中から一流の學者、著述者を出すことゝ、二には優秀なる筆の人頭腦の人を同志者にすることゝを、將來の運動の目標とせねばならぬのであつた。
 少なくとも日本一國に在つては、是は決して實際に遠い空想では無い。現在多數の青年會員は、行く行く學問に携はつて、社會の重き地位に就くやうな人々である。其上に我々だけの持つて居る新しい事實又は智識で、單に日本語が無暗に學習の困難な國語であるばかりに、外國の學者たちの敢て近づかうとしない部分が幾らでも未だ殘つて居るのである。假に科學の何れの方面にもと言ふことは出來なくとも、幸ひにして今までの如く、人の業績を利用することばかり心掛けず、少しは自分で働いて人に施す樣な發見をして行くならば、それを我々の國際語で書いたものが、即ちエスペラント界の優秀文獻であり、學者の之を讀まんが爲にエスペラントを學ぶ人が、一人づつでも増して來れば、同時に世界の諸國に向つて、最も根本的なる宣傳をしたことになるのである。
 智識の上でも交易の法則は同じである。我々が何物かを輸出するときは、則ち新たに何物かの輸入せられる時である。今まで單に有力なる外國語が書けぬ爲に、世界的に化し得なかつた學問は、亦他の國々にも隱れて居るであらう。それが追々に國際共用のものになつたら、我國に於てもエスペラントを學ぶ利益と興味とが、急な勢ひを以て増進して來るに相異ない。方法は直接で無いといふだけでちつとも迂遠では無いのである。若き同志者の學問上の責任は重(233)い。殊に日本の如く率先してこの大切なる任務に當り得る國は、世界を見渡してまだ澤山には無いのである。此境遇を意識して働かなければ、たゞ熱心なだけではだめだと思ふ。
 
(234)   當面の國際語問題
 
          一
 
 今週の土曜を初日として、かねて評判の高かつた極東熱帶病學會が、東京に開かれる。日本では第一囘の國際學術會議であり、數十名の優れた學者が、打そろうて隣領からやつて來るといふ機會も、今まではなかつたので、政府においても少からず肩を入れ、經費の十何萬圓を補助するのみか、經理大臣が進んでその名譽會頭となることを承知した。殊に最近コレラの流行によつて、散々に脅かされてゐた市民が、深くこの催しの時とところを得たことを悦び、あるひは買ひ被つてその效果を消毒藥以上、乃至は今の防疫設備以上に、重んじようとしたことも不思議はない。何となれば我々が今惱んでゐる多數の惡い病は、皆本來國際的のものであつたからである。
 しかし空なる期待は恩澤でも何でもない。この種の國際會同が果して結構な事業か否かは、すべて未來の問題であつて、理事者側の手腕と抱負とは、まだ少しも公表せられてゐないのである。來年は引續いて、一層大規模な太平洋學術會議が我國に開かれるはずで、すでにその準備に着手せられてゐる。開いてさてどうするのかといふ點を、今から一般の研究題目にして置いて、能ふ限り他日失望の不幸を防いで見たいと思ふ。
 
(235)          二
 
 受賣飜譯の非難は常にあるけれども、實は日本自身の學問とても、理科、文科のあらゆる部門に亙つて、今だに萬國會議の亭主役を勤められぬほどに、貧弱なのでは決してなかつた。二三學匠の名聲が早く世界的であつたほかに、少壯專門家の熱烈な研究の中にも斷じて模はうといふ可らざるものが多々あつて、たま/\その一端を聞知して異國の學者等は、いづれもこれを床しくまた心惡く思ふのであつた。こちらにも無論若干の自信と自重とはできてゐる。開かうと思へば開き得た國際學術會議が、從前我國で主催せられなかつたのには別の理由があつた。いはゆる有色人の國が輕しめられたからではなく、第一の故障は即ち入費であつた。何にせよ大きな海を越え、多分の日子を費して來る人には、めい/\の雜用が容易のことでない。だから日本の方からのみ、何べんでも御客に出かけ、中には何か返禮の方法を考へぬと、肩身が狹いと感ずるものもあつたのである。先方でも事情が許すならば、珍らしい國へ來て會同したいと、思ふものが大分あつたらしい。それがつもつてたうとうこの催しとはなつたので、いふまでもない話だが日本に取つては、今さら及第でも鬼の首でもなく、いはばこの種の國際會議が、追々と社交味を加へて來た結果である。
 學者の行脚修業の時代は疾くにすぎてゐる。はる/”\と遠國を囘歴し、隱君子の顔を見て、物を尋ねなければならぬと思ふ篤志家はます/\希有にならうとしてゐる。この文章の豐富なる、印刷の精確なる、また郵送の便利なる時世に際して、長い間故郷の研究室を離れ、かうしていはゆる一堂に會しに來るのには、何か讀書と通信とでは間に合はぬよく/\大切な目的があるからで、しかも諸民族間の眞の協調が、まづ學者の聯絡からはじまるべきことを信ずる我々は、假にその目的の一つが友情であり、また單なる好奇心であつても、なほ國として大に歡迎し、大に周旋するの必要を認めざるを得ぬのである。
 
(236)          三
 
 但しそれならば明かにその趣旨によつて、御客の居心地を考へてやればよいのに、當節の學會ではいづれの國に從つても、妙に昔風の形式が殘してある。日本でも全國の醫學會、または史學大會などといふのがその例で、いはゆる會議はよい季節の四日五日をつぶし、細かに部を分けて、各部で十分演説とかをやりとほす。座長は終始時計ばかりを氣にしてゐる。禮儀の許す限り聽衆は少く聽かうとし、聽かさう逃げようの暗闘が見苦しい。さうして末に食事をして、御世辭をいつて別れてゆくのである。
 今度の熱帶病會議でも、もしかそんなことをさせるつもりでないか。承れば出席者は三百名たらず、外人は支那人を加へてそのうちの九十名ほどで、これに百七十名以上の日本人が、もう講演を申込んでゐるといふ。秋の日の短さでは、月末まで打とほしても、やはり十分か、惡くすると五分かも知れぬ。そんなしゆ〔二字傍点〕玉の如く、また丸藥の如き微小なる名説が、澤山に轉んでゐるならば惜いものではないか。何ゆゑにこれは別にちやんとした一書册として、途中船車のうちでゝも一讀をこふことゝし、その時間を以て國際會議の主要なる目的、殊に隣接各領土の權威たる學者が、多數集合した場合でないと、打合はすことの出來ぬ問題だけに力を入れないのか。偏つた成長をしてゐる日本の學問の爲に是非さうしてもらひたい事項が現に多い。今後の交通の大切なる手段としての、用語の問題なども協議して置かねばなるまい。
 
          四
 
 今まで日本に國際會議の開かれなかつた、他の一つの理由には用語の困難がある。即ち通辯はどうしようかの問題であつた。日本としてはいづれ我々の一生の間に、きつと現れて來る問題だとは思つたが、かくまで早速に實際化し(237)ようとは想像しなかつた。これなどは正しく今度の會議の、目に見えた效能といつて差支がない。
 會議といふからには雙方の心持の、諒解せられるのが何よりの要件だが、通譯を用ゐれば一つ毎に時間が倍になる。その方の時間は惜む人が多く、現に今までの規則では、英佛獨の三つだけが用語で第五囘の蘭領印度で昨年開いた時にも、地元の官話たるオランダ語の使用を提議したものがあつたが、それさへも斥けたといふ話である。日本ではさすがにそんなことをすればやかましいことを知つて、早くから日本語を加へたのは好用意であつたが、さてその實際の適用はどうであつたか。
 豫て薄々は氣にせぬこともなかつたけれども、日本のこの五十年間のアングリスト運動が、これほどにも見事に前進し奏效してをらうとは、自分たちは考へてゐなかつた。醫事雜誌の豫報によれば、日本人百七十何名の講演申込のうちで、百三十八名までが英語でやるつもりらしく、演題を英語で公表してゐる。更に佛語で四人、ドイツ語で三十人あるから、殘るところはほとんどないのである。しかも前にもいふとほり、聽衆としては四分の一弱の出席外人があるだけだから、つまり多數の日本人に向つて、日本人が英語でいと短く新説を聽かせることになるのでこれで欠伸が出ず涙がこぼれなかつたら、寧ろ物の不思議と申してもよいくらゐのものである。
 
          五
 
 今の今まで世間のものは、日本の醫學者といへばきつとドイツ語を聯想してゐた。世界戰爭の半にある時すら、あまりさびしいからといつて、ドイッチェ・アーベントとかを催したのもこの仲間であつた。教養のしからしむるところ、學問用には母語よりもドイツ語が便利だと認めて、これを使ふといふのならまだ少しばかり合點がゆくが、いかに天分が豐かでも皆が皆英語の方が得意とは考へられぬから、即ち驚くべき技能以外に、別に世相を看破して、效果の多きにつき得るだけの眼力を備へてゐることを意味し、從つて日本の學界における英語の潜勢力を卜せしむるに足(238)るものである。
 この點は、神戸、横濱等の波止場とホテル、若くは、小賣の店先などでは、もういたし方のないものと我々はあきらめられてゐた。何しろ四隣どちらを向いても英語領か準英語領で、逢ふほどの人はまづ英語ならば用が足りる。對等とはいひながら小國の取引には弱味がある。頑固に見識を立てゝ、彼をして吾語を用ゐしめんのみと、辛抱比べをしてゐる餘力がない。そこで子弟の海外に志しあるものを教育するには無理な骨折を以て實用の英語をたゝき込むこと、これもまた止むを得ぬことゝ考へられてゐたかも知れぬ。
 
          六
 
 次には外交官一味の人々が、還つて來てゐても盛んに英語を使ふこと、これも練習の必要から恕せられてゐる。實際のところ支那と日本では、いかに機會均等の時代が來ても、外交官が世襲の業となつてゆく傾向を防ぐことはできぬ。何となれば彼等は必ず、政治家にして同時に通譯を兼ねなければならぬからで、それが尋常の國民には、一寸企てにくい難修業であるからである。三四の東ヨーロッパの新國では、實際問題が多いだけに日本よりも一層弱つてゐる。學術の會合なればこそ、めい/\が勝手なことを述べて引下れるが、數囘の押問答と論辯をする段になれば、借りた言葉では專門の技師でも閉口する。永い間には結局どうすればよろしいか。國民としてこの至大な問題を一考もして見ずに、いつまでも今だけ優秀なる外交官の輩出を、期し得るものとするならば誤りである。
 汎太平洋協會の類の團體の、親切な妥協ぶりには世間でも不滿があつた。東京の眞中で諸國の人と付合ふのに、多數の日本人が申し合せて、ある一外國の語を使ふことは、なるほどかなり珍らしい。よほど博識でないと、似た例を他の國で見出し得ないかも知れぬ。しかし今日のやうに、愛國者であればあるほど、英語をしやべらねば親交も出來ず、從つて御用にも立ち得ない?態にして置いて、二三の氣の弱いもののみを責めて見たところで仕方がない。それ(239)よりも今のうちに、この流水の如き大なる英語化傾向を、凡そどの邊の限界で食ひ止めたらよいかを、篤と考へて置くのが近道ではあるまいか。
 とにかく久しい未解決の弊害が今囘醫學者の會議で現れた。それでよろしいから今後もどし/\とこんな國際會議を開いて見せよといひさうな人が少くなかつた。あるひはあんまり日本語の演説がなくて體裁がよくないから、中華民國人に頼んで日本語でしやべつてもらはうかといふ企てがあるやうにも傳へられ、嘘とは思ふがちつとばかり驚かされる。
 
          七
 
 誰だつて相手に解らぬ演説を、して見たい人はありはしない。問題はしからばなにゆゑに、通譯の支度をしてから、國際會議の催しに取掛からなかつたといふことに歸着する。日本ではそとゝ交通するのに、電報料であれ、船賃であれ、いづれも他の國に數倍するものを甘んじて負擔してゐる。さうしなければ話がわからぬゆゑにいづれも是非がないのである。しからばかうした大切の會議ばかりわかるわからぬは問ひもせずに、通譯拔きとはコレはどうだ、英語でもわかるとは限るまいが、もし國の體面を尊重して日本語でやつたらなはちんぷんかん〔六字傍点〕で別れてしまはねばならぬ。こんな?態で國際會議などは、つまり少しくまんがち〔四字傍点〕であつた。
 第二の問題は通譯の時間浪費が何としても忍び難いといふ理由で直に英語の一點張りになつてしまはうとした動機である。日本では英語は普通の知識だからといふのは、大きな間違ひであつて、我々の學校の語學は本を見るためのもので滿足に書けず語れぬのは止むを得ぬとしてある。從つて交際職業以外に、英語で考へたり表現し得るものは至つて少いので、これを學問上の精密な論證に利用し得るのは、眞に有數なる多數の醫學者くらゐのものである。ましてや日本人同士の間にそんな無理なことが望めるわけがない。
 
(240)          八
 
 しからば第三に何故に日本語を今少し學びやすく親しみ易く、せめて歐洲語同士のところまで、持つてゆかうとは努力せぬか。さてこそあれとローマ字論者はいふだらうが、内容を價多くしなければローマ字にして見たところで學びはしない。必要があればもつと骨折なエヂプト字でもサンスクリットでも讀んだ。だから日本人が英獨佛語に屈するやうに學ぶに足るものを多く盛ることを力めねばならぬ。しかも最近我々の學問は次第にそれが空想でないことを示してゐるではないか。
 それまでは私等にはできないといふ人は、そんならば國際用語の協定といふことを、考へて置くがよい。それも用意せずして急に會議を開くから、始末のつかぬことになつてしまつた。英佛獨等の自負した國では、金を使つても自國語の流通を策してゐる。彼等が中立語の設定に不得心なのは、いはゞ若干の野望があるからである。しかるに全然その利害には參與し得ぬ日本人、しかも不完全な語學のために、子弟の顔をやつれしめてゐる日本人が、自分獨自の立場からまた東洋諸國の共通の利害から、曾て國際語の可能不可能をも攻究して見なかつたのは手落であつた。同じアングリストでもベルギーやスカンヂナヴィヤの運動は考慮し計算した上での選擇であつたが、日本のは文字どほりの盲動だからやり切れない。
 
          九
 
 近頃大分流行するやうにいはれるエスペラントなども、この問題にかけては頓とまだ頼りにならぬものだ。初物食ひだと評せられても仕方がないほど、早い時代から我邦には入つて來てゐたが今でも若干の若い熱心家の他は、知らぬ人には依然として知られない。初期の熱心家がずつと同じ態度であつたら、このごろはいづれかの方面で必ず國際(241)交通の故障に遭遇し自らも信じ人にも説き得るだけの方法を、實地に適用して見ようとしたはずであり、少くとも現在歎息してゐるやうな機會と手段との缺乏を見なかつたことゝ思ふが、それは遺憾ながら第一期の人の弱點であつたのみならず、第二期、第三期の同信者までが、今以て次々に立ち更つて、或年輩以上の先進になると、例へば遊藝などを卒業したと同じく、丸で心を入れ替へていはゆる實際社會に入つてしまひ、あとには青年の學生だけが僅かな群をなして宗教的にこれを讃美してゐる。さうして今頃なほ彼等の面前において、極東熱帶病會議の如き奇現象があるのである。
 日本は有名な老人國、髭でもなければいふことを聽いてくれぬ國だつたが、このやうなをかしなことをした場合には、小兒でも指摘して理窟がいはれる。必ずしも直にエスペラントを採用せよといふ結論に來なくとも、學問を以て世界のあらゆる國と、對等に交を結ぶべき日本が、いよ/\國際會議を開く間際まで、まだ用語の問題を解決してゐなかつた事實を擧示すれば、自然に今後の國際語が、何であるべきかの問題を考へられる。しかうしてその候補者としては現在のところ、他に競爭者も有り得ぬといふことは、すでに諸君の固く信じ、また強く説き得るところではないか。
 國と國との公正なる交際のために、この難事業を完成せんとすれば、無論大なる努力と辛抱とが要求せられる。しかも現在の一機會ものがしてはならぬ。少くもエスペラントの眞相だけでも、一般に理解させるには絶好の折だが、さて各地同志の青年たちは、今何をしてゐるのであるか。
 
(245)   今日の郷土研究
 
          一
 
 最近に於ける郷土研究は實際に進歩して居る。我々のいふ郷土研究は稍もすると一部の郷土研究の如く云はれるが、その批評を甘受するせぬは別問題としても、我々が研究機關として發行して居た「郷土研究」誌(大正二年から四年間)時代に比べて、今日の郷土研究の進歩は著しい。うたゝ隔世の感がある程である。今日一般史學の研究の進歩して居ることは、人のよく知つて居るところであるが、その研究は微に入り細を穿つといふ有樣である。地方の郷土研究にたづさはつて居る人々の方法にしても、だん/\精密になつて來て、以前はたゞ珍奇をあさり、珍品を集積することをひたすらに目的として居たが、今日ではそんな風は失せて、目的が學問的になつて來て居る。そして郷土史の三百年、或は二百年この方のことを、その隅々に至るまで明かにしようと欲するやうになつて居る。また以前は――十年前までは――殆と郷土研究とは何等關係を持つて居なかつた教育者達が、今日では皆この研究に關心を持ち、熱心にやつて居る?態である。小學校の教員諸君は實際忙しいに拘らず、何處へ行つても研究心に燃えて居る人に出會す。又中等學校の教員は外部から來たものが多く、土地とは關係は薄いのであるが、矢張り短期間に土地のことを知らうとして努力して居る。これは學問の爲に誠によい傾向だといはざるを得ない。この郷土研究の進歩は、調査研究が今日までで完了して居らず、尚大變多くの新しい問題が殘されて居ることを人々に氣附かしめた。そして在來の(246)方法だけでは、どうしても手の屆かぬ隅々の殘ることも爭へぬ事實とわかつて來たのである。
 郷土研究は今や第二期に入つて居るといふべきである。今までの研究だけでは、未解決で不思議の團塊《かたまり》の如きものが存して居る。如何にしてそれに近づくべきかを問題とする時機が來たのである。よしその核心に觸れることは困難であるとしても、その團塊を解決しようといふ勇猛心から、我々フオクロリスト達も矢張り一般文化科學の進歩に伴つて、學問方法の改革の必要を感じ始めて居るのである。今までは漠然とした豫測の如きものがあつて、各地の切れ切れの資料の報告が、その豫測を裏書して呉れることを願つて居た。そしていつになつたら目的が達せられるかの見當もつかないのに、資料の集るのを一意待つて居たのである。これは實際迂遠といふか、待遠しいといふか、呑氣過ぎることである。現在に合はないことは明かである。果して、受身になつていつまでも各地の資料の集つて來るのを待つて居られぬといふ氣持は、期せずして皆の心に湧いて來たのであつた。この過程は獨逸・英國を始め何處の國でも皆同じ順序を踏んで來て居るやうである。即ち計畫ある調査を始めようとする機運が今や何處にも顯れて來て居るのである。「族と傳説」といふ雜誌の如きも、刊行の最初は趣味本位に偏つた人々が多く支持し、積極的研究の態度の少ない雜誌であつた。しかしそれすら最近は一つ一つ特殊な問題を取扱ふやうになつて來て居る。例へば結婚式又は葬制に關する問題を、方々の地方の人々から集めて居るが、斯うして集めて見ると、今までとはまるで異つたものが、言はず語らずの間に、各人の心中に釀成せられて居たことが看取せられるのである。
 
          二
 
 或る特殊な現象が自分の郷土にある場合、人によつて自分の郷土だけに孤立してそれが存すると思ふ人と、又自分の土地にある生活ぶりは何によらず何處にもある普通のものと考へる人と、二つの種類があるやうだが、兩方ともその想像は過ちであることがもうわかつて來た。年中行事のうちの、例へば盆の行事にしても各地の實地調査が面白い(247)結果を示して居る。南豫地方で「盆飯」或は「お夏飯」と云ひ、香川縣小豆島で「餓鬼飯」といふ屋外の共同食事は、信州の南境の山村の、「河原飯」、遠州濱名湖周圍の「精靈飯《しやうろめし》」、東美濃の、「辻飯」、和歌山縣日高郡の「門飯《かどめし》」、伊豆の北部の「盆釜」、大隅肝屬地方の「盆羽釜」、備前御津郡の「ボニクド」(盆籠)、對馬の阿連村などの「盆どこ〔三字傍点〕」、岩手縣北部の「カマコヤキ」等と同一根源の行事である。これは又山形縣の飛島にある正月小屋などと相似た阿波の「盆小屋」或は「牛飼小屋」(牛飼坊又は牛打坊といふ惡靈が、農家の牛に害を與へるのを防ぐ目的で、その小屋を燒くといふのが今日普通の説明であるが、舊記には山神の祭だとある。正月の左義長の小屋と同じく盆の火祭の際にこの小屋を燒く)の中での食事とも通ずるものである。
 右の例によつても明かなる如く、可なりに珍しいと思へるものが、互に遠く相距つて、何等脈絡もなくひよつ〔三字傍点〕とあるのである。實際何處でもかうだと思へるやうなことを、その周圍の地では行はず、遠隔の地に行つて居る樣な習俗はいくらも發見せられて居る。かうなると餘程の知つたか振りの人にでも、疑惑が起つて來てその説明がほしくなつて來るものである。そして自分で何とか説明しようとしても、自分で出來ないとなると學問研究しようといふ考が起つて來る。とに角計畫の結果でなく、偶然からでも學問に向ふ傾向が生じて來て、知識を學問化しようといふことになるのである。かうなつて來ると一部分だけわかれば滿足しようとして居た人々も、周圍に促されて新たなる疑惑を懷かずには居られなくなる。我々はかういふ學問上結構な時代に生れ合せたことを感謝するのが當然であるといへる。かうして次から次へと新しい慾求によつて學問を進めることが出來るのである。年中行事を我國で問題にし始めたのは、五百年位前のことであり、又外國で結婚の儀式に就いて社會の注意が集るやうになつたのは可なり古い時代からである。しかしそれらの注意觀察は學問的でなく體系をなして居なかつた。今日はこれと同じものが尚他にもないだらうかといふ捜査的氣特になつて、計畫的調査が叫ばれるやうになつて來た。この機運は實際自然である。しかもそれは、我々の學問ばかりではないのである。それは最近の世相に結びつけても云へる所であつて、公の機關までが非(248)常時非常時と云ひ出してこの方、我々にひゞくものは、形は無いが或一種の日本らしさである。抽象的に日本文化とか、日本精神とかいへばよいやうだが、一寸説明の出來ぬものである。實際かういふ時の潮流はわかるが、それを何が起すのかはわからないのである。しかしそれが昔から存するもので、單なる惰性でない事はわかるし、所謂神話的殘留物でないことも明かである。その善し惡しは二の次として、何だかはつきりせぬまでも、それが現實の力であることは確かだが、これに名をつけることも出來ず、その輪廓もはつきりさせ得ず、分類するに由もない。これがわからないでは我々は實際文化人だと威張つて居れないのである。これが少數の中央政治家の手によつて國政が處理せられて居た時分なら所謂バイオグラフィカル・スタディ即ち傳記的研究ですまして居れるかも知れないが、今日の如く、政權が一般平民の頭に分配せられた後に、尚此現象があるのだから、實に新問題といはざるを得ない。進んで討究調査することが必要である。
 
          三
 
 學問上の常識といふやうなものが、假に嘗てはあつたとしても、今日はそれが根本的に搖がされる時代になつて居る。從うて國の經歴といふやうなものを調べる場合、既に型の出來上つて居る興味深い題目だけに、陶醉して居るといふわけには行かないのである。だから以前は砂礫の中から砂金を採り出すやうな氣持であつたのであるが、今後は鑛脈の豐かな所へ入つて行かうといふ心持になつて來て居るのである。即ちいつ現れるかも知れない稀有な發見を待望し頼りにせず、鑛脈の豐富な所に手をつけて見ようとするのである。これは誠に自然な推理だといへる。
 日本は幸にして地理學的の情況から云つても古いものゝ保存に適して居る故に、先づ交通の開けず且つ新しい文化の影響の比較的に乏しかつた地方、社會組織の少しでも單純な部分を求めて、積極的にこちらから探らうとする所まで、今日の我々の學的事業は進歩の道を辿つて來たのである。ところが勿論これにも固より困難は多いことを豫想せ(249)ねばならぬ。過去五十年の歴史を辿れば、郷土生活者には普通教育にたづさはつて居る人々は好意を持つた敵(といふかアンタゴニスト)であつた。彼等は古いものの以前からの仕來りを正面に置いて、新しい仕事に夢中になつて居た。固よりこの人達の觀察を通さぬと、日本の田舍の固有生活は見えなかつたのである。今後の郷土研究の發展にはこの多數の教育者達の態度が非常に大きなモメント(きつかけ)になつて居ることは爭へない。在來の實際教育の方法が、郷土の彼等(子供及びその父兄達)に對して、何事かを知らせてやるといふことが餘りにも主になつて居て、相手方即ち郷土人たちの知らんと欲することを語らしめ、打開けさせる氣持の少なかつたことは、最近の地方の動搖の中に顯著に表れて居るところである。村の教員は村に對して最も同情ある觀察者であるべきに拘らず、信州の如き教育國を以て任ずる地方に於てさへ、教育者は村人の目の仇となつて居る。その道理のないことは明かである。その由つて來る所以を忌憚なく云へば、中央の與へんとする者の力が餘りにも強過ぎたのである。而して地方の欲求を汲み取る器物が小さきに過ぎたのであつた。
 
          四
 
 その影響を一番に多く受けて居るのは國語教育の問題である。話す言葉で話し手の感じて居ることを正直に運び出せないといふのであつたら、どんな國語教育と雖もそれは失敗だといはねばならぬ。田舍の人々が先祖代々から持ちつゞけて居る彼等自身の言葉でさへ、尚描寫することの出來ぬ複雜な内部生活は、いくら良い言葉だつたつて外部から與へられたもので表現出來るわけのものではない。小學校の言語教育國語教育が、自然に言葉が統一され、馴致される機會を待たずに、強ひて與へようとした傾向が餘りに強過ぎたことは遺憾千萬であつた。一分一厘でも田舍人の實際の欲求と合はなければ、それは彼等の口を壓へたことになる。少しでも在來のものと喰違ふならば、それは彼等の表現に垣をしたことになる。國語教育にたづさはる人々が、この點に氣づかなかつたことは國語教育の大損失だつ(250)たと云はざるを得ない。
 それに就いて思ひ出すことであるが、自分の郷里には轉び方を表す方言が三つある、アダケルといふのは縁側などから落ちること、マクレルといふのは土堤や傾斜地から轉げること、コケルといふのは平地で躓いたりなにかして倒れることである。東京の子供はこの三種の轉げ方について各の場合に各適切な語を持つて居るだらうか。所謂標準語なるものが不便なものであることは、これだけの例によつても感じられる。
 實際郷土人は自分の眞の生活を今日まで外部に説明して貰へなかつた。目に見ることが出來、繪にし寫眞に寫すことの出來るものゝ紹介などは問題ではない。さういふ形態の問題ならば假に説明に喰違ひがあり誤差があつても、それは間違つて居るといへば改訂は容易である。言葉の誤にしてさへもその間違ひは補足し訂正することは出來る。ところが千年來一度も記録されようとしたことのない、平民生活の無形の事實、心情や感覺といつたやうなものは、我々が平素考へて居る概念と符合し同じであるかどうかは甚だ心もとなく不安である。よし似て居るとしてもその内容に程度の差があるとすれば同じといふことが出來ず、その程度も實際に大きな問題である。
 故に根本に於て言語教育國語教育の理想を、理解解釋のみに置いて、滿足なる表現といふことに置かなかつたならば、その表現の壓へられ閉塞せられたものが、何處かに爆發せずには居られなくなるのである。意外な斷定のやうに思はれるかも知れぬが、今日の社會不安の基礎には國語教育の失敗が積つて居るといへるのである。これはしかし一朝一夕に改良することの困難な問題ではあるが、少なくとも地方人の自然に口に上す言葉を、もう一囘吟味し調査して、それが何を意味するかをはつきりさせる必要があるのである。曾て本誌上で自分の説いた郷土研究と郷土教育の意義は、こゝに盡きるともいへるのであつて、教育の手段としての言葉が、郷土の實地に就いて調査されない限りは、惜しや金と努力がその能率を割引せられる結果にならざるを得ない。この點から云へば單語の採集を以て能事了れりといふやうに、それに中心を置いて行はれて來た在來の方言の採集及び調査は、實はまだ至つて不完全なものといは(251)ざるを得ないのである。言葉がどういふ場合に用ゐられるかを知らせる爲に、一語々々にそれとは同義語と思はれる標準語を列記しただけでは、その方言と標準語との間の語義の相違や誤りは發見出來ない。如何なる英雄豪傑の行動をも支配して居る時々の氣持や感じ、或は子供時代から養はれて來た趣味や嗜好や好き嫌ひ、大きく云へば幸福の理想といつたやうなものは、新規な言葉で解説出來る氣遣はない。一つの語の意義――形容詞或は無形名詞の眞の意義内容――を知るには、その土地の數十人の用ゐる言葉の用ゐ方を集めて見て、その前後がどうであるか、その場合場合がどうか考へ合せて、所謂重ね撮り寫眞を作製せねばならぬ。
 かういふ言葉の研究は偶然の採集をたゞ待つて居るといふのでは駄目である。理想を云へばタレントを持つた人が、長年の春秋を通じて一定の土地の言語現象を見て來ることであるが、それは仲々容易なことではない。從うてそれが出來なくとも、計畫ある客觀、即ち觀察するための觀察をする必要があるのである。これには單なる通りすがりの觀察は決して成功しない、早呑込みと速斷の笑ひの種を蒔くに過ぎないだらう。この意味からも計畫的調査にわざ/\出かける必要が大いに要求せられるのである。
 
          五
 
 我々に一番に興味のある問題は、普通人即ち常民の社會觀或は人生觀が、新文化の氾濫した最近の半世紀の間に、どんな風に推移し、變化して居るかといふことである。これはしかし實際に直接觀察し難いものである。といふのは當人が未だ曾てさういふ意識で物を考へたことのない人であつて、從うてそれを知る爲にも、またそれを組織して居る零細の經驗、極く薄い素養、下敷になつて埋れ隱れて目には見えぬものを探る必要があるのである。もつと遡つて考へれば、これらを研究する爲には今日知られて居らぬ精神遺傳といふやうなものにまで入つて行く必要があるのである。これを一つ一つ新しい文化科學の圓熟するのを待つて解決しようとすると時間が間に合はない。
(252) 我々がこの事實の小さな記述、小さい事象そのものを基礎にしようとするのは、惡くいへば恰も砂で家を建てるやうなものかも知れないが、それを表裝するのに言語を以てすれば、言語は一般性普遍性歴史性を持つて居るが故に、遂には何物かをそこから造り上げる基礎になると思はれるのである。郷土研究のこの新しい轉換期に乘じて、心ある社會學者が試みてよい事實は、これが唯一とはいはれないけれども大切なことであるといふことだけは確かである。
 近頃自分が計畫して居る山村生活に關する調査は、少しでも少ない努力でもつて豐かな成績を擧げたいと思つて居る。この爲に出來るなら同じ方向に志す近接同種調査事業が、各地に競爭的にあらはれて、結果に於て、自分等の氣おつたこの仕事を、目立たない小さなものにして了つて呉れることが望ましい。僻陬の地にはまだまだ舊習は意外に存し、日本人に特有の心意は豫想以上に殘つて居るかも知れない。この山村の計畫的調査の成功を自分は望んでやまぬ次第である。
 
(253)   エクスプレッション其他
 
 古來の日本人が持つてゐる精神美を科學的に分析して話を徹底させることは、慌しい短い時間ではとても覺束ない。それで私はこゝで一人の旅行好きな男が、旅をしながら折にふれて感じたことを、漫然と頭に浮べて見る。
 私が先年大隅の佐多岬を歩いてゐたときのことである。恰度一月二日の早朝で、私は曉の光を拜むつもりで、海岸から次第に山の中へ入り込んでゆくうちに、まるで人氣のない崖の上に來かかつた。その時ふと何處からともなく澄んだ美しい唄の聲が聞えてくるのである。しかもそれは女の聲である。驚いて崖の淵から谷底を覗いてみると、その谷底に僅か一枚か二枚の畠があつて、その中に白手拭を被つた二十七八の女が、しきりに畑を耕しながら夢中になつて俗謠を歌つてゐるのである。これなどは一つの例であるが、さういふ鬱然とした明方の谷の底にゐて、唯一人で鍬をとりながらも自然の中に自分を没却して唄を歌へる平和な心は日本人――殊に原始的な日本人――の特有な氣持である。私は世界の何處の田舍を歩いた時にもこの光景には出遇はなかつた。
 又二三年前の冬、私が宮古島へ遊びに行つた時のことである。川滿の里と云つて僅か三四軒の農家が散在してゐる瓦礫の多い道を馬で通つた時、やはり思ひがけない歌聲に驚かされて垣根に近づいてみた。すると中には四十四五になる盲目の男が一人ゐて兩手でしきりに碾臼を廻しながら籾摺をしてゐたが、朗かな歌はその男の口から出てゐるのである。更によく見るとその男の顔は微笑を含んでゐるのである。私はさういふ盲目の四十四五にもなる男が、どう(254)して笑つて歌ふ氣になるのかと、其時も心を動かされたのであるが、それは要するに他と比較する心や爭ふ氣持を持たないからである。これも日本人が持つてゐる美しいエクスプレッションの一つである。
 それからもう一つ日本人特有の美しい心持を感じた例をあげると、それは駿河の島田町で見た光景である。島田町では四年に一度づゝ帶祭といふのがある。その帶祭の催物として町では、男連中だけが集つて、白粉に紅友禅などを着けて踊りをすることになつてゐる。ある年の帶祭に、私が一人で町を歩いてゐると、ふと向ふの電信柱の下に一人の女が立つて何かしきりにブツ/\言つてゐるのが見える。木綿縞の半纏を着た三十ばかりの女であつたが、祭をじいつと見ながら、しきりに唇を動かしてゐる。近づいてみると女は遠くから祭の囃子を一緒に囃してゐたのであるが、かういふ氣持は、社會心理から云へば、一種のちがつた心理で、例へば祭のやうなものであるが、その女はたしかに土地の女ではなかつた。それが音樂もあり、足調子もある囃子を遠くから一人で合せてゐる姿はたしかに面白い。かういふ女の氣持は諦めとは違ふ、諦めも何も知らずに、物事に屈託しない暢かな氣持の現れで、西洋の男にも女にもみられない表現である。
 
 日本の田舍では今でも例のあることだが、一昔前までは村の祭事には必ず一人か二人の、祭文讀みの青年を、その村中の若者の中から、選擧することになつてゐた。さういふ場合には村人の中の誰か一人が、「今年の祭文讀にはあの若者を選ばう」と言ひだすと、期せずして村人の考へがその青年の上に一致してゐたものである。一番心持の正直さうな、從つて容貌も端正で、神靈に捧げる祭文を讀むにふさはしい青年が、澤山の村人の中から、一つの爭議もなしに自らたゞ一人選び出されるといふのはたしかに美しい事實である。從つてその頃村の若者達は努めて邪心を拂つて、心を正しく保つことを心掛けてゐたので、脊中を撫でてやりたいやうなエクスプレッション(顔立ばかりではな(255)く全體の容子である)を持つた青年が、女よりも男に一層多かつたが、此頃はめつたにさういふ青年を見なくなつた。世界中でたゞ瑞西の南方の田舍を歩いた時、自分はよく、さういふエクスプレッションを持つた青年や尼さん達を見たが、今の日本の京都あたりにみかける尼さんは、爭はない者の氣高い美しさを持つてゐない。
 
 著者は忘れたが、書物の名は「北東サイベリア」である。これは日本美の話を少し離れるが、自分は嘗てこの本を讀みながら、びどく感動したものである。
 北東サイベリアといふのは北緯七十度より北で、チュクチ人種などの住んでゐるところであるが、凡て動植物の盛りといふものは北極に近づく程非常に短いものである。日本の海岸に咲く濱茄の花などは、あの香氣の高い紅い花を十分觀賞することが出來るが、オホーツク海の沿岸などでは夢のやうに咲いたと思ふと幻のやうに散つてゆくのである。北東サイベリアなどでは、一株の植物の上の方には今、花が蕾んで、蝶が飛んでゐるかと思ふと、中程には早、紅い花が滿開の香氣を放つてゐる。かと思ふと下にはもう實が生つて獣がそれを喰つてゐるといふ程に、慌しく植物の一生が過ぎ去るものである。それと同樣に、人間の盛りも非常に短くて、女が十七八になると急に花が開いたやうに艶かに美しくなつて、又急に衰へてゆくのである。それでかういふ國にふさはしい年中の催しとして、春五六月、野が青くなつて、月がほの/”\と照る晩には歌垣をやるのである。若い男女が相集つて春の月影の中で歌をうたひかはし、舞踏をするのであるが、その晩には、北東サイベリアの老婆達は亦、若い者と一緒になつて野に出かけるのである。そして若い男女の心を汲むやうに「どうせ人生は短いものだ。自分達も一度はお前達のやうな時があつたのだが、もうこんなになつてしまつた。どうせ人生は夢のやうに短いものだ、踊るのも歌ふのも今のうちだから、若い者よ、踊れ、踊れ。」といふ意味の歌をうたふのださうであるが、私はこのサイベリアの老婆の氣持が、日本人にもあると思ふ。殊に田舍の老人に著しい。
(256) 風儀上の問題はともかくとして、若い者の遊ぶのを見て靜かに樂しむ氣持は、日本の老人のかくすことの出來ない氣持である。
 日本の國民性とか、固有美が、單に數卷の書物や、僅かばかりの政治家や、軍人の傳記によつてつくられてきたやうに論ずる人があつたら、自分はそれに反對する。河竹の寄り〔二字傍点〕の話のやうに、又古來の名人がその末期に誰かに秘術を傳へて死んでゆく話のやうに、人間は年をとると一體に話ずきになるものである。年寄がよく若い者を相手に話をしたがるのを見て、「又自慢話が始つた」と一概に云ふやうだが、私は年寄りの話好きは自慢よりは今少し團體的なものだと思つてゐる。年寄は隣の息子を相手にでも自分の考へを傳へずには氣がすまないのである。それは或意味で若い日本人が眞先に戰ひに死んでゆかうとした品性と同じ品性の現れだと思ふ。例へば山の中の藥用植物が、今日まで役だつて來たのも年寄の教へたがる氣持の遺産であるやうに、日本の國民性は決して、數卷の書物や、數人の傳記で代表されるものではない。
 それは恰も沼澤に生ひしげつてゐる眞菰のやうなものである。眞菰の生ひしげつてゐる下を覗いてみると、眞菰の根や何かゞ朽ち果てゝ土となつたその上から/\と新らしい眞菰が繁殖してゐるやうに、植物が細胞の核子になるものと、肥料になるものとが相伴うて非常に複雜に發展するのと同じ理由である。
 
 序に思ひ出したが、誰でも知つてゐるやうに、ハーンの書いたものの中で、一番西洋人が不思議がつてゐるのは、ジャパニース・スマヰルスである。横濱の外人の家にゐたある女中が良人が亡くなつた報知を受けとつたのに、別に悲しさうな顔もせずに微笑んでゐたといふので、外人の奧さんから散々叱られて、追出されたといふあゝいふ性質の微笑は、今の日本の女の人からはだん/\少くなつてゆくやうである。
 
   再婚の是非
 
 日本などは迚も話に成らぬ。あの臆面も無いモルモン門徒ですらも、今日のやうに生活費が高くては、高々三人か五人かである。一夫多妻の本場は、どうしても西南部阿弗利加と極まつたやうである。バンツーの各種族に至つては、妻の少ない者は富豪で無い。王樣には必ず千人以上の黒い夫人があり、子の數も百を以て算するを常として居る。
 處が奇妙なことには、彼等の中でも、家の杓子を掌握する者は、やはり日本と同じく、儼然として唯一人である場合が多い。某宣教師が其一人に向つて、御子樣は何人と尋ねた處が、五人ですと答へた。即ち嫡妻の所出だけを擧げたのである。又バスト族の一酋長は、私は鰥夫だと言つたことがある。即ち其六十何人の小妻をば、計算の外に置いた次第である。凶年其他一家の非運に際すれば、片端から女房を賣つて行くのは普通の例であるが、是非とも賣殘すべき者は、最初の妻だけであるといふ。是は決して其既に老いて醜くゝなつて居る爲では無い。恐くは男の干與し能はざる一小團體の經營にも、やはり之を主宰する中心權力の必要な爲に、所謂?より以内の統帥者を設けたので、此點から見れば、一夫一婦は天理なりとも論じ得ると同時に、近年頗る妾を隱すやうになつた我邦ばかりが、ひどく道コが高いとも言はれない結果になる。
 時に某名士の再婚問題は、無暗に無造作に輿論が確定したでは無いか。先づは別に反對者も無く、少しく早過ぎたと云ふことになつたやうだが、是などは當節の道コ研究の、著しく新聞記者風に傾いた一の證據だと私は思ふ。個人の生活に迄立入つて批判しようと云ふ先生が、まあさうだな位の責任では誠に困る。誰か良い辯護士は無いものか。(258)辯護の材料としては特にバストの酋長を喚んで來る迄も無い。日本にだつて、其わけを話してくれる人がうんと居る筈だ。獨り條件附の辛抱をして居る者の多いのでは無く、現に御立派な家で、主人代々の無妻主義があつた。さうして又子が有つたのである。
 まあよく其樣な餘裕があると、新しい閨秀たちは言つて居るらしい。併し其を推して論ずると、親の喪中にでも生れた子女は、棄てねばならぬことになるかも知れぬ。なるほど夫婦の情愛は又別である。よく云ふ百年の誓は、死後にも若干の義務を遺すであらう。だから昔は幽靈となつても、違反不履行を責めたのである。現に印度のパンジャブなどでは、貞女は多く之を怖れて孤節を守つて居る。再婚をしたい男女は、其前に一度、無花果其他の樹木と婚姻の式を擧げて、怨靈の怒を非情の物に轉嫁することを力める。さうして迄も人は配偶を求める者である。不自然なる拘束を常の人に強ひる前に、我々は先づ化けてでも出られる程、靈の力を集中して置きたいものである。
 女に財産は分けてやらず、職業の教育は與へず、   偶々職業や財産のある女があれば、尻に敷くだらうと言うて敬して近づけず、天が下の淑女をして、滔々として百年の苦樂を他人に頼らしめ、淋しくてたまらぬか、然らざれば大に安く賣らうといふ者を澤山に造つて置きながら、表面ばかりの通用せぬ議論をするから、少しく道樂な男がどつさり出來る。それよりも法制審議會にでもねだつて、女戸主の増加を謀つてもらつたらどうか。近くは西洋の例でもわかる。女に頼むべきものさへ有れば、モノガミーはまだおろか、ボリアンドリーでも企てられぬことは無い。
 斯う云ふ議論をして歸つた人があるが、如何です。
 
(259)   人の顔
 
          一
 
 なる程考へて見ると、旅する人の數は至つて多いが、私たちの境涯は少し變るものであつた。下手をすると藝人や政治家のやうに、見に行くと言ひつゝ見られに行く結果になる虞がある。それに大抵の場合は中々肩の張る仕事で、其屈托の爲に先づ片途だけは、旅のやうな氣持がしない。時間のひどく切詰められて居ることもある。斯う云ふ單純極まる移動を、旅行として味はうとするには、實は若干の用意がなければならぬのであつた。私は幸にして最初から旅行がすきで、寧ろ講演を口實にした場合が多く、又何とかずるい工夫をして、骨折のあとでは三日か五日、口直しとでも名づくべき普通の旅をして居たから、今までは後に考へて見て、空な馬鹿げた往來であつたと、思ふやうな經驗は少ない。先づ幸福な記念ばかり多い。
 其代りには氣樂な旅行のつもりであるいて居て、不意に講演につかまへられて、通行税見たやうなものを拂はせられることもあつた。一つには偏鄙な村などを、好んで通過して見る爲もあつたらうが、今はどう變つたか知らぬが數年前までは、人に短册や扇などを書かせると同じ意味で、半ば愛想のつもりで話をさせたがる人が地方に居た。ちよつと拒絶しにくいものだが、こんな時は多くは成績がよくない。つまりはまごつくからである。若い頃に越後の或郡で、變な目に遭つたことがある。一つ奧の町へ入つて翌日同じ路を引返して來ると、途中へ人が出て居て是非寄つて(260)話をせよとある。初夏の晴れた日の午後で、農家の相應に忙しい時であつた。うつかりと承諾して會場と云ふ寺に入つて待つと、中々人が寄つて來ない。是には發起人側が先づ困つたと見えて、やがて寺の本堂の端にある太鼓を叩かせたものであつた。さうすると見て居るうちに、ぞろ/\と來るには來たが、それが大部分は子供達と、其世話を燒く老女たちであつた。隨分大きな村であつたから、その人たちで寺がほゞ一杯になつた。だから致し方無しに始めたものゝ、實は前以て考へて見たからとて、此聽衆では話のしやうも無かつたのである。ちつとも解らぬからすぐにきよときよとする。其邊の木魚や佛具をいぢりまはす。さうして後から叱られる。立つてあるく。太鼓にさはつて音がする。くつ/\と笑ふ。何とも早や始末がつかなかつた。そこで頗る計畫者の無責任を憤つて見たりしたが、今になつて思ひ出すと自分にもをかしい。
 それから暫くは無暗に聽衆の種類と云ふことが氣になつて、全體どんな人たちが來るのかと、必ず尋ねたものであつた。併し公開である以上は、其豫測などは付かぬ方が當り前だ。當日の天候や風の向でも出て來る人は變るのである。さうして大抵の場合には至つて雜駁なものだ。如何な加藤咄堂さんでも、其みんなに向くやうな題目、乃至は話し方は無い筈である。但し我々の同胞國民には面白い習性があつて、人が笑ふ時には思はず御附合ひに笑ふ者が多いから、結局は誰かを笑はせる話をすれば、統一が保てると云ふことになる。しかも氣を付けて見るとさう云ふ時にも、若干の坐睡者と、欠伸をする者が必ずまじつて居て、元來講演などは人數で價値を卜すべきもので無く、又全體に效果の至つて稀薄なものだと云ふことを考へさせられる。
 
          二
 
 此點は題目が如何に重要であり又は清新であつても、如何に講師の辯舌が卓越して居ても、聽衆が選ばれたる少數の、特殊の會合で無い限は常に同じである。歴史的の種々なる社會行事が衰へてしまつて、只群集して見たいと云ふ(261)人の嗜好だけが、強く殘つて居る日本では、よほど前から講演會の濫用は既に現れて居たのである。聽いても感ぜず又早く忘れてしまふので無かつたら、とても今日のやうに澤山の、此種の催しを負擔し得る道理が無いので、此中に於て自分の話ばかりが、獨り異常の印象と感激とを與へ得んことを期する者は、樂天的野心家とも評すべき人だけである。そんならこの概して無用なる公開講演者の、受取るべき無形の報酬、即ち滿足はどの邊から見出し得るかと謂ふと、私などは地方の多くの人の、ちつとも修飾の無い普通の顔を、見る點に在ると思つて居る。假令暫くの間なりとも、此だけの同種民族と一堂に對面して、別に心置も無くほゞ共通の話題で、話し合ふと云ふことは兎に角にサムシングである上に、自分が其集團に於ける中心で無い迄も、少なくとも一方の代表であつて、自分の爲に人がごく手輕に集まつて來てくれるのである。世間を見たい、時代を知りたいと謂つたところで、本を讀んで考へる一事を除いては、此ほどに有效の手段が他に有らうか。旅行の目的と謂ふのも要するにこれ迄のことで、人は鳥などと違ふから、天然の中ばかり飛んであるいて居られるもので無い。人間を見に出て人間をうんと見るのである。だから滿足すべきことで無ければならぬ。
 杉村楚人冠氏などは優れた旅行家だから、よほど以前から旅は人を見る事業なりと喝破して居つた。行脚を以て人間修行と考へた法師や俳人の群も、表現に拙だから言ふことが空に聞えるが、夙に同じやうな事を經驗して居たに相違無い。此節の遊説や勸誘を商賣にして居る者が、旅をして居るうちに少しづゝ、胸の廣い話のわかる人になつて來るのも、無意識ながらやはり此效果を實證して居るのである。
 但し同じ人を見ると謂ふにも、實は色々の注文がある。山や野原をあるいても、畫家と植物學者と獵人とは、それぞれ觸れんとする所が違ふやうなものである。旅をすればこそ見られる、他には別にもつと簡便な手段が無いと云ふやうな、有難味のある旅の見ものは、一億全體人間生活の、如何なる方面どんな部分に在るのか。其問題をこなひだから私は考へて居る。
(262) 人を見るのを芝居を見ると云ふのと、近いものに考へて居るならば、ほんたうに都から外へ、出て行くがものは無い。地方にはめつたに佳い役者が住んで居らぬのと同じく、鑑賞の中心は大市街に在るから、藝術の練磨も其傍で行はれる。修飾に必要なる諸材料、之に伴はねばならぬ特殊の光線なども、悉く此方に具はつて居る。つまり見せようとする者を見る爲ならば、「見せ」と名の付く家の多く固まつて居る處を求めねばならぬことは、至つて單純なる理窟である。永遠に都市の生活は、廣い意味での見合ひである。此途を通るより他に、好い將來に歩み入ることの出來ぬ人が、多過ぎる位に集まつて居るのが、昔からの町の特色であつた。從つて優劣の微妙な差等と、其判別の力とがどこ迄も發達して行く。それを趣味とか風雅とか稱へて、大に珍重して居たのである。田舍が淋しいなどゝ云ふ原因には、こんなものゝ缺乏があつた。之を考へても旅行が其方面の探究には適しないことがよくわかる。
 
          三
 
 しかも旅行をして見ても、やつぱり改まつた顔に先づ出逢ふ。見知らぬ人に近づくにも、新しい感興を見出すにも、一度は必ず平凡なる此手順を經なければならぬ。それが相應におつくうである爲に、旅は中々疲れるものである。小説にもよく書くやうに、馴々しく話しかける者があつたなどゝ、さうすることが異常を以て目せられる。勿論是にも理由の有ることで、よそ行きの時によそ行きの顔をするのは、紋服で祝宴に出るのと、同じ程度の慣習だから、寧ろ律義な話だと感心してもよいのであるが、自由を申すならば特に此だけの爲に、幾らでも人がすまして見せられる都の地を離れて、所謂人見の修行に出る張合が無いのである。
 尤も此方面の人間の技藝にも、日進月歩があり又流派がある。地方のは概して古風でなつかしく、其上に土地限りの標準もあり、好みも區々であつて、若し其比較研究が系統的に行はれたなら、たしかに旅行の大なる所得であらう。がそれ迄の計畫は大抵の人が立てゝ居らず、結局は淋しい氣づまりな思ひをしに、珍しくも無いものを見に行つたこ(263)とになるのである。殊に辭儀や挨拶には固定した型が多く、それがどうしても地方では遲く眞似られる。百遍も既に拜聽したものを百一遍目に、少しくまづくして聽かねばならぬとなると、誰でも今更の如く人の一生の氣ぜはしさを感じ、同じことなら此時間で、今一皮めくつた下の個人性、さも無ければせめてもう少しは考へさせられる共通性に、觸れて見たいと思はぬ者は無いであらう。
 ところが昔の旅僧などは親切なものであつた。人が自然に馴れてしまつて、心を置かなくなる迄辛抱して待つた。さうして堤も堰も無い性靈の源頭から、おのづと湧いて流れるものを汲まうとした。此實驗の尊いことは、私たちにでもよく解る。人間の情が如何なる谷あひでも磯の崎でも、常に一つの道の上だけを動いて居ると云ふ類のさとりよりも、彼もやつぱり泣く人だつた、喜ぶ人だつたと云ふ端的の發見が、百卷の書にまさつた感動を與へることがあるので、旅を修行とは考へたのであらう。唯如何せん其樣な機縁は、我々には惠まれない。最明寺時頼なら、破れ衣で微行をするとか、若くは微行の必要もない微々たる貧法師であつて、生涯を謙遜な旅に捧げて居なければ、それ迄に氣を許させることが容易で無く、山に入つて落花に逢ひ、野を行いて杜鵑《ほとゝぎす》を聽くと云ふ邂逅の幸福は、中々之を望むことが出來ない。尤も笑ふだけならば日本人はよく笑ふが、大抵は例のそら笑ひである。怒らせることならば是も亦、必ずしも困難ではないが、何の役にも立たぬ話である。強ひて求めるならば其他の感情でも、相當に濃厚なものを發露させて見る方法があるか知らぬが、此方に人の惡い作爲が有つては、只見てあるくので無いから旅では無い。それはやつぱり所望した舞の類で、私たちが渇仰して居る自然の姿では無いのである。
 
          四
 
 私たちの旅の日記には、永年の癖があつて書込まぬことになつて居るが、細々と誌してある峠や海邊の風景などよりも一字を傭はずして今尚あり/\と記憶に印して居るものは、折々の眞率な人の感情であつた。人に談るにはあま(264)りに繁雜であつて、自分だけには殆とまぼろしの蓋のやうになつて居る。時としてはこんなに迄強く、痕を留めずともと思ふこともある。他の諸君の經驗はどうであるか。私などには今は重荷で、此上必ずしも其種を求めようとは欲しない。それよりも何でも無い人の只の顔、普通の生活の不斷着の姿、寫眞機の前に立つた時で無いやうな、有りの儘の平凡ならば、まだ幾らでも見てあるきたいと思つて居る。汽車は全體に落付かぬ旅ではあるが、通りすがりに村を見、町を見るのには何よりの便宜である。小兒などの自然の姿は、斯うした瞬間の物の隙からで無いと、實は之を窺ひ知ることが難いのである。自分の眷屬ばかりが無性に親しく且つ憎み難いのも、他に色々の微妙な道理もあらうが、一つにはこの所謂心の隔てが無くて、常に最も安らかな、如何にも普通な生活を見せてくれるからであらう。之を思ふと我々の國内の旅にも、まだ何かフラッシュライトのやうなものが、必要であるかと思ふ。以前亞米利加などの寫眞道樂が、深い樹林に入つて猛獣の行動を寫し、或は人を怖れる小鳥の巣に近づいて、雛と母島との恩愛のさまを寫し取つたやうな、何か新しい工夫が必要で無いかと思ふ。さうで無ければ折角の旅が、空しき辛勞に終るかも知れぬ。
 講演などにはやはり晴着を装うた人ばかり、よそ行きの顔を持つて集まつて來るのだが、それでも話が進んで行くうちには、多くは單純な心持になつて導かれてあるく。それにこちらが何人であるかゞわかつて居て、初對面の儀式も面倒で無く、みんなが一方を向いて居れば、互に見合ふやうな心づかひも無用である。僅かな若い人たちを別にして、大抵は氣樂さうな樣子を見せてくれるから愉快である。飽きた顔でも睡くなつた顔でも、正直である故にいやで無い。何しに來たかと思ふやうな顔もあるが、意味も無くにこ/\して居たり、中には少し見て居ると、思はず知らずうなづき出すやうな無邪氣な顔もある。そんならおまへは話などはよそ心で、人の顔にばかり氣を取られて居るかと謂はれても困るが、實は斯ういふ樂みもあるから、出てあるくやうな場合が多いのである。他にも地方の常の生活を、靜かに見てあるかれる旅行方法が、發見せられる迄は致し方があるまい。
 
(265)   潟に關する聯想
 
△日本海岸風景の特色は潟に集まる 日本海岸では風景の特色が潟に集まつて居ります。妙な事には太平洋岸の潟と日本海岸の潟とは趣が全く違つて居るのです。例へば鳴海潟や清見潟などの如きは遠淺で開いて居りますが、日本海岸の潟はすつかり之と趣を異にして居るのであります。一體日本の潟には二種ありますが、地理學者は多く一方の太平洋岸でいふ潟の意味に使つて居るのであります。併し北海岸を旅行しますると、潟の趣味を深く感ぜずには居られないのであります。
△潟の生成する原因 學理上から此原因を説いたならば面白い談話も出來るのでありますが、兎に角北海岸の潟は、潮差の少い事と、一定の方向、殊に海岸線に沿うた風の烈しい事とが、潟を作つた主な原因であらうと思ひます。此日本海岸には、渇が非常に澤山あつて、二十萬分一の地圖に載らないやうな小さい潟は實に無數でありますが、其大きいものに就て申しましても、オコツク海に面した北見の猿間湖の如きも、砂嘴を以て新に作られた潟であります。渇湖の特色は、其一片を作つて居る指しが海岸線に沿うて出來て、それが灣口を塞ぐので出來るのであります。
△羽前の象潟 本土に入つては、先づ青森の十三潟と秋田の八郎潟とでありますが、此二つの潟は大きな潟ですが、自分は實地を調べて居りませぬ。それから南に下つて象潟は、松島を壓するといふ位風情のある景色であつたやうですが、文政年中鳥海山の噴火で以て、陸地と平行になつてしまひました。記録を見ますると、僅かな水道で海水と連なつて居つて、今の松島の多島海のやうに、松、紅葉、櫻などの繁茂せる數十の島が點綴して居つて、其間の水に鳥(266)海山の雪が映るといふ艶麗な景色であつたらしい。今日は其潟が悉く水田になつてしまつて、當時此風景の中心であつた蚶滿寺といふ寺なども、今は枯木寒草の中に埋められて荒廢を極めて居るのです。
△越後の干潟 それから下つて越後に來ますと、潟の數が非常に多いのです。新潟が即ち地變を受けた潟の變じて干陸になつた一例であります。其證據には、砂丘と信濃川との間に廣い水澤の地を抱へて居るのを見てもわかるのであります。またそれから南の月潟などいふ潟は、角兵衛獅子の産地として有名でありますが、今は干潟となつて居ります。此傍に現存の潟があります。即ち北蒲原郡の泊潟、西蒲原郡の鎧潟を始め、現存して居る潟があるのですが、其周圍が次第々々に水田に占有せられつゝありまして、其一半を割いて交通路、漁網の刺地に當てゝあります。今の蒲原五郡の平地が、大部分は陸地と水との中間にあるといつてもよろしい。少しく雨の多い時は稻穗を歿する位の水が漲つて、到底舟でなければ田の中を歩くことが出來ない有樣であります。
△潟の生成變遷する地文上の趨向 此地方を歩いて見ますると、潟が出來てはまた無くなる地文上の趨向が善くわかるのです。全體に南から北へ海岸線に沿うて吹く風が常に多いと見えまして、信濃川でも阿賀川でも、川口が皆屈曲して西北に向つて水が入つて居ります。さうして漸次に左岸を飛砂の爲に壓迫されて、川筋を曲げつゝ行つた形跡がよくわかるのであります。
 現に信濃川の如きも、上流十數里にある三條の町が、海岸を距ること僅かに三里計でありまして、其下流が殆と海岸と平行して流れて居るのです。隨つて此から下流の海岸は、彌彦の神山を除くの外は、總て砂丘から成立つといつても、差支がない。是を以て見ましても、同じ埋立の新田でも、廣島や蟹江の新田とは趣が異つて居ることがわかるのであります。
 東海岸の新田は川口が吐く泥で出來る。北海岸は砂で先づ天然の潮除堤を作つて、その中が次第に干くやうになつて居ります。
(267)△潟を見ざる越中の國 越中》は、立山山脈の餘波を受けて、海岸までが傾斜地となつて居ります。汽車で海岸線を通過しますると、大小の河が、皆河上で突つ立つて眼前に駢列して居つて、地勢の頗る越後と異るものあるを示して居ります。隨つて海岸に陷没地を作る餘地がありませぬから、潟が一つもありませぬが、能登から加賀へ移つて行きますと、又澤山な渇が現はれて居るのであります。
△能登の邑知渇と七尾灣 能登の邑知潟の如きは東西の二方から砂山で壓し付けられたやうな形で、以前能登半島が一の島であつた面影が、未だに歴然として殘つて居るのであります。能登の國府といふのは、丁度島の繼ぎ目に當つて居るのであります。七尾灣を船で歩いて見ますと、灣が深く入つて居る外、大小の島々が灣口に横はつて、如何にも潟の生成した有樣がよく分るのであります。幾千年か、數萬年の後かには、確に潟となるの運命を有すると思はれるのであります。
△加賀の河北潟と三湖 加賀の河北潟は北見の猿間湖と其?勢が酷似して居つて、殆と異る所を見ないのであります。海に通ずる口が小さくなれば久しからずして淡水の湖水となつて仕舞ふと思はれます。それから南に下つて三湖の如きも、成立の順序が少しも外の潟と異らない。海岸の丘陵、樹林、民家等が相錯綜して、遺憾なく潟の美點を發揮して居るのであります。しかも湖水の縁を水田が侵蝕して居る模樣は、天然と人間との交渉を研究するに於て非常に趣味があるのです。此地の景色は實に天下の美景で、北國人が大に誇とすべき所であらうと思ひます。
 昔の安宅の關所趾が海中に没して居るといふ説がありますが、予は北陸の海岸ではさういふ事があるとは思へない。もう少し南にあると信ずるのであります。
△北國門徒の聖地たりし吉崎の今昔 それから一つ下ると吉崎の北潟が、越前と加賀との境上に立つて大聖寺川の餘勢を借り、學問上非常に意味深い地形を作つて居る樣に見えるのです。吉崎の道場は、北國の門徒に取つては、恰かも基督教徒に於けるゼルサレムの樣な聖地であつて、今行つて見ても城廓のやうなお寺があるのです。吉崎が斯かる(268)勢力を得た主なる原因は、此地が平調な北國の海岸に、稀に見るの港場であつて、交通の上から、中世の繁華を一手に集めて居つたからであります。然るに今日では海との縁が殆と絶えて唯寂寞たる門前町に變化して仕舞つたのです。土地の者に聞くと、此著しい變遷は主として近年福井侯が港口を占切つたからといつて居りますが、予には能く了解することが出來ない。兎に角海の口に横はつて居る鹿島と對岸なる濱坂の丘陵との間は、百年の昔までは?を取つた所でありますが、今は葦が繁つて小舟も通はなくなつて居るのであります。
△若越の海岸と三方湖 越前の海岸は山脈が海に迫つて居つて、自から別樣の風景を示して居りますが、再び敦賀に參りますと、又非常に深い海灣が羅列して居るのです。殊に若狹に入りますと、岬と灣とは送迎に遑がない位で、然かも灣口は風向に僅かな差違のある事と、附近に澤山の砂を作る川のない事とによつて、海から鎖されることを免れて居るのであります。就中三方湖の如きは、古い時代に同一の手順を以て作られた潟であつて、郡の名が示す如く此潟が餘程著しい地方の特色をなして居るのであります。三方とは稱しまするが、實は潟が四つあるのです。唯其一は小さくて少しかけ離れて居りまするが、他の三つは連珠のやうに、南北に駢列して、海岸で幅三間計の川で以て海に續いて居るのであります。以前は此三湖の水が、各獨立して居りましたが、有名な行方久兵衛氏の設計で、中の湖の水を下の久々子湖に落した爲に澤山な新田を作ることが出來たのであります。近年又水利組合の事業として、水道を開き、さうして更に行方氏の業を完美しようとして居ります。
 此潟は四圍が稍々高い山であるが爲め、石川縣の潟とは餘程風景を異にして居りまするが、暖かで種々の果樹や、櫨や、油桐などの生々繁茂せる點は、加賀の三湖と同じであります。
△天橋の風景 若狹から丹後にかけては、略同じ樣な地形が續いて居りまするが、唯花崗岩が漸々多くなり、風景が明るくなり、松が愈美しくなるばかりであります。かの天の橋立の如きは、將に完成せんとする一の潟に過ぎないのであります。與謝の海の如きも、砂嘴で作つた潟に過ぎないので、一半の水が淡水で、海に近い他の一半も鹹氣(269)が極薄いのであります。此地方は有史以後も度々の地變があつたかとも思はれて、周圍の關係が能くわからない。現に我々の知つて居る國府の故地で、此國程寂寞たるものが少くない。多くの國で、國府がなくなつても、再び繁榮なる邑落を作るのが普通でありますが、丹後の方は丘山が潟に迫まつて居つて、民政の發展する餘地が少かつたのであります。
△天橋の意義と傳説 此に行つて予の心付いた事は、天の橋立なるものが、松の生えて居る長い砂嘴を意味して居るかどうか疑はしい事であります。古語の「ハシ」は、水平の橋梁を意味するの外、梯とか、石階とかを意味して居つたのであります。さらば「ハシタテ」といふ以上は、常に雲梯(山に登る道)を意味して居るものであります。それで「丹後風土記」を見ますると、神樣が天に懸けようとした橋が、倒れて海上に横はつたのであると書いてありますが、此のやうな傳説によるの外は、あれを橋立といふことが當らぬ。それよりも、今では山頂の寺の名になつて居りますが、成相寺の成相といふ語が、もとは成合であつて、即ち兩陸の相接續することを意味することで、此方が寧ろ適當な名であると思はれます。
 成相寺の眺望が異つて居る點は、眞の橋立が山蔭になつて見えずに、更に對岸の岬角が、別に大きな橋立を作つて居ることであります。
△橋立と經濟上の關係 橋立の潟を經濟上の關係から詳しく調べて見ると面白いと思ふ。水面の占有が二三部落に專屬して居る事で、此等村々の漁業が、圓滿に行つて居つて、共同して養殖事業をやつて居るのです。例へば外海から鰯を取つて來て放したり鰻の子を放したりして、一種の養魚地に當てゝ居るのであります。先年牡蠣の養殖を試みましたが、是は失敗に歸したのであります。
△久美濱も亦一の天橋立なり 更に西に進むと、但馬境の久美濱が、又一種變はつた風景で、海岸に橋立よりは稍々幅の廣い砂嘴が突出して居つて、將に久美濱灣を一の潟にしようとして居る。土地の者は、經濟上の關係から、天然(270)の傾向に反抗して灣口を切開し、巨額の金を費やして居る樣であります。之を天橋に比べますると、一は東に向つて砂嘴が北から突出して居るのと、他は北に向つて砂嘴が東から突出して居るのとの違はありますけれども、周圍の形勢及水面の形が、稍奧の方で窄まつて、略桃の形をして居る點がよく似て居つて、久美濱のものは、矢張り天橋といつて居るのです。併し此砂嘴の出來たのが新らしい事でない證據は、此砂嘴が石器類の豐富なる散布地であつて、現に久美濱郵便局長の織田といふ人が、此濱から主に取つた石器類で一の小さな石器館を拵らへて居るのであります。此潟の側には、東西に僅かな海灣があつて、東の方を朝日の港、西の方を夕日の港といつて居るのであります。地方の人達が熱心に水路の交通をやらうとして居るのは、久美濱と朝日港との間であります。
△但馬の地勢 國境を越えて但馬に入りますと此國は有名な山國であつて、無數の小さい谿を抱いた山彙に過ぎないのでありますが、しかも此にも一の横長い渇が作られております。それは?出石、豐岡地方を浸害する丸山川の下流であつて、地質の自から然らしむる所でありませうが、長くもない水流が、中流に於て既に海面の高さに近くなつて、水を海に掃き切る事が出來ないで、據所なく水を下流に蓄積して居ります。
 城崎温泉場の附近は、川といふより寧ろ入江といふ方が適當である樣に、深く且廣いので、害のある代りに、交通を助けて居る。
 總じて北海の川は、長さの割に川口が廣い。由良川の如きも、海口由良の湊即ち山莊太夫が故地の近邊で、海上から見ると如何なる大河かと思はるゝ位川幅が廣い。洪水を以て上流地方を禍することは、能く丸山川に似て居る。
△出雲國宍道湖、中の海は共に一の潟に過ぎず 但馬以西はまだ踏査しない地方だから、地圖に就て調査するより外はないのですが、同種の潟も隨分多い樣で、因幡、石見にも漸次小さい潟はありますが、殊に著しいのは出雲の海で、宍道湖は湖といひ、中の海は海といつて居ります。しかし是亦潟に外ならぬのであります。
△伯耆の夜見ヶ濱も亦一の天橋なり 有名な伯耆の夜見濱が、亦他の與謝、久美濱と同じく一の天橋であります。宍(271)道湖の水は僅か水道によつて東西の海と交通して居つて、島根の半島が、昔は海であつたことを證據立てまするのみならず、「出雲風土記」に見えたる、素盞嗚尊が國曳の古傳説も、眞に自然の發生に適合したものであります。
△九州の海岸 九州に入つても、矢張り同じ樣な關係を見ることが出來る。古代史で關係の深い洞海は、其關係が全く天橋と同じでありまして、今日では其沿岸が大分乾いて陸になつて居ります。それから西は博多灣の如きも、志賀島の突出して居る工合が、全く天橋と同一趣向になつて居るのであります。
 西松浦灣の方になりますと、海岸の陷没地が澤山あつて、此にまた多島海を現出して居るのです。
 要するに日本海岸の風景に於る特色は、他の何を以て答ふるよりも、潟といふ一言で盡きる。之を研究するならば、單に天然を樂む上からいつても、民政との關係からいつても、優に地理學者の一省に値するものであると思ふ。
 常陸の霞ヶ浦、北浦の風景は東京人の熟知する所でありますが、西北岸には之よりもモツト複雜した地形が、南北六百里の間に連接して、殆と旅行者をして倦ましめないのであります。
 
(272)   佐渡の海府から
 
          一
 
 昨年出來たと云ふ野崎の燈臺は、元の海軍望樓の隣の丘の上で、草花の野に取圍まれて居る。松などは風の強い爲に、栽ゑてもよく育たぬらしく、全體に樹木は乏しい方である。沖から見たら寂しい荒濱に相違無いが、而も天然の色彩の豐かなことは、亦驚くばかりであつた。何の花でも繁殖が自由な故か、それ/”\に廣い領分を持つて群を爲して咲いて居る。殊に萱草が多く傾斜地の全面を占めて居る。百合は少ない方であつた。特に香氣の高いものには  攻魂や蔓荊の外に、名を知らぬ白い草花の續いて居る部分もある。紅や桃色の花でも野蒜のやうな花、小町草の更に小さいやうなものもある。舊暦五月の初で、其が悉く盛りである。
 此間を牧者の無い老幼の牛の群が遊んで居る。日の照る野で近くよらぬと氣付かぬ程、物靜かに時を送つて居るのである。願《ねげ》の北の濱には二つ龜と云ふ草山の島がある。北海道に行く帆船が子《ね》の一枚で、始終「とも山」に取つて行く顯著な島であるが潮干の磯を踐んで此島に遊ぶ者は、やはり野牛の群だけであると云ふ。佐渡の人は一體に牛の鑑賞者である。海府巡りの遺著たちは牛以上の路草食ひで、あのベコはえゝ牛になるなどゝ評しながら、?通路を遮斷してをる牛のませ垣を、不平な顔もせずに越えつゝ往來して居る。
 關東などで耕地と謂ふ所を、佐渡では一般にデンヂ(田地)と呼んで居る。山路から田地へ出ようとする處には、(273)大抵石のませ垣が有つて、粗末な梯子を踏んで我々は之を越さねばならぬ。つまりは東京などで汽車だけに許した氣の儘を、海府では牛の群に對して認めて居る。田でも星敷畠でも必要な區域だけは圍つて、其他は彼等の自由に任せてある。尤も此以外にも草原の一部分を限り、來年以後の牛の爲に取除けて置くものが處々に有る。此にも丁寧に垣根を取繞らし、殊に其道路に面した一方だけは、往々にして石垣に爲つて居ること、例へば熊野あたりの鹿垣のやうで、中には色々の苔や蔦の類で其石に時代が附き、此樣に數多くさへ無かつたならば、或は昔の某の屋敷の荒跡とでも謂ひさうなものもある。
 自分が北鵜島の村の南の岡を登り、松のばら/\と有る林の路を歩んで、植ゑて間の無い田地の緑を望みつゝ、一足さきへ行く前の濱の衆に追付いて見ると、一同は今や道傍の古い石垣の前に立留まつて、何かよつぽど決し兼ねたらしい問題を論じて居る。さうして彼等の上に日が照り、靜かな海の風が吹いて居る。足の弱い私は、之を機會に又爰で休息した。
 
          二
 
 前の濱の若い衆と謂ふべき場合だが、此中には五十二歳の菊池幸藏氏もまじつて居る。總勢は五人である。此島には眞言宗の信者が多い。伊勢と金毘羅と京大阪の見物とを取合せて、大師や觀音の靈場巡りを、一生に一度はするのが習ひで、此人たちは百日二百兩の時と金とを使つて、安藝の宮島錦帶橋までも見た人である。他國の旅をして還れば、きつと又島内の巡拜をも企てねばならぬ。十年近くも其を延ばして居る間に、もう連中に最後の旅立をした者も出來たので、驚いて本年は出て來たと謂つて居る。さうして我々のやうに活版の名所案内を持參し、路々之を見て書いてある處ばかりを尋ね、而も日記を書くのだと謂つて居る。
 昨夜鷲崎の小さな宿屋では、自分は發勤機船の便宜にまかせて、大きな革嚢を持つて來たのを悔いて居た。其上に(274)靴も荷物にせねばならぬのに、海に仕事のある季節で、若い者は荷持などに雇はれようとせぬ。此人なら行くと謂ひますと、宿屋の女房の指さしたのは、五十に近い如何にも痩せた女性である。強力と云ふ名とは兩立し得ざる痛々しい樣子をして居る。話相手等には迚もなるまいと思はれた。當惑をして室の中に立つて居ると、廊下も無い隣の室に、元氣な風で飯を食つて居たのが右申す五人の一行であつた。わけも無い話だ。私等が代り合つて擔いであげませう。濱のものは子供でも皆力が有りますと云ふ。宿屋の客などゝ云ふ者は、互に體面を重じて第一に相手の身元を知りたがり、中々容易に懇意にはなれぬものだが、之は又法外に無造作な親切で、まだ何處の人間かも知る筈は無いのに、まるで隣の傳言でも頼まれる樣な面白づくで、頻りと約束の女の方を斷はれと謂ふ。氣を附けて見ると五人の中のどの顔にも、餘計な事を言出したと云ふ表情が無い。ちやうど好い道連れぢや無いかなどゝ謂ひ、まだ自分がもじ/\して居ると、荷物は十貫目も有るかなどゝ、反語を使つて激勵してくれた。
 朝になつて支度をして出かけると、今一遍氣の毒に感ぜねばならぬやうであつた。前の晩は裸だつたがけさ見ると、單物にインバネスなどを引掛けて居る。帽子に洋傘に小さなカバン、何れも格別自分の方が上等でも無いやうだ。自分のカバンは三年前に上海で間に合せに買つた品である。英人の店だつたが戰時中のことだから、或は大阪あたりの出來合ひか、形の如き粗製である。靴のクリームのやうな物が塗つてあつて、初めはわしが持つと威勢よく肌脱ぎになつた山本君の白いシャツが、すぐに赤く汚れてしまつた。是だけは意外であつたが、皆まあ擔いだ證據が殘つたと、後に苦笑ひをして言つて居た。それでも自分が村に入るたびに立止つて、代りの人足を求めようとする毎に、今日だけはそんな事をするに及ばぬぢや無いかと、眞面目な顔をして其交渉を制止した。成程自慢ほどあつて達者な足である。自分等は速力は早いがすぐ休みたくなるのに、此人たちは重い荷物を背負つても、肩の輕い連中と同じやうに話してあるいて居る。辨當まで預けてあるので、自分も骨を折つてくつゝいて行つた。
 
(275)          三
 
 併し自分は?無言になつて、又來ることの少し六つかしい田舍の風物を視て置かうとした。處が不思議なことには、兼て好奇心を抱いて居た村や民家の樣子よりも、いつ考へてもよいやうな東京の勞働問題などが頭に浮んで來る。歴史に無關心な顔をした田や濱の人を見ても、頻りに二十年後にはどう變るかと云ふやうな想像ばかりが起る。さうして終にこの複雜なる石垣論の中に飛込んだのである。なる程問題になつてもよい石垣であつた。長さは七八十間も續いて居り、我々の乳ぐらゐの高さである。村中の立石などならば百年内外と見るべき古びであるが、今少しは若いのかも知らぬ。上列には手頃の石を竝べて、下の石は何れもすばらしく大きく、土が流れたものか若干は根が入つて居る。こんなでかい物をわざ/\運んで來る道理が無い。それでも同じ高さに積み上げたのはどうだ。是が決し得なかつた論點であつたが、結局は半分だけが人間の力、大きな石の分は天然だと云ふ折衷説で、十五分間ほどのがや/\は終つた。前濱の衆は正しく「天然」と云ふ言語を使用したのである。さうして此に對立する語が「人の力」であることも知つて居る。私などが如何しても明確に差別し得ないものに、ちやんと堺線を引くだけの教育を受けて居る。教育といへば恐ろしいもので、斯う云ふ意味の有る、幾らでも考へて見たいやうな出來事に臨んだ場合にも、私などは何だか此機會に、自分の持つて居る智識が出して見せたいやうな氣がした。併しこの海府の道傍で講釋をしたら妙なものであつたらう。諸君には成るほど珍しからうが、日比谷の幸門の中には此岩を七つも合せた程なのが、立派に面を取つて立てゝある。あれは見附の石垣の石だ。御所の中にはもつと大きいのもある。何れも將軍の力で、天然よりは今少し不自然な力であつた。もつと田舍に往つても、古い時分にはやはり同じ例がある。例へば忍の行田の東南の林で、近頃掘つて見た大塚には、一丈四方も有る石を載せて墓穴が造つてあつた。秩父から出る青石で、江戸や大阪の城の石とは違つて、船で運ぶ手段は無いから、人が集まつて遠路を曳いたのである。先達つても周防の三田尻か(276)ら、少し大きな石の手水鉢を獻上した人があつたが、汐留から櫻田門までに七日ほどかゝり、牛が八疋も出て橋や道を損じながら曳いた。車の路の無い時代ならいくらの勞働が掛つたか分らぬ。九州では神籠石などゝ謂つて騷いだことがある。是よりも大きなやつを山の中腹に、何十町も列べたものださうな、よく見ると關東にも有るらしい話だ。まだ其よりもえらい話は、埃及のピラミツトと謂つてなどゝ相槌を催促しつゝ斯んな話を續けて居たら、何も考へずに私の旅行はおしまひになつたかも知れぬ。
 幸にして自分には、それよりも先に、獨りで考へねばならぬことが現はれた。なるほど僅か牛の草を來年迄のけて置く爲に九人も十人も協力せねばならぬ大石を、山から下して一筋に竝べるなどは、果して事實かと疑ふほどの事實でもあらう。併し諸君とても不思議を世中に殘さうとして居る。窮屈な二階で一晩だけ、同じ系統の蚤に?まれ、同じ方角に退散すると云ふ縁故で、シャツを赭くして大きなカバンを背負つてやるとは是はどうだ。足首にがら/\と太い鍵を下げて、泣きながら働いた大昔の勢働者でも無ければ、斯うせぬと最愛の者が餓ゑると云ふ無形の拘束も無くして、猶餘分の汗を海の日影に乾かさねばならぬのは其は何か。一つには勿論信心に根ざした親切、二つには仕事好き、即ち用の無い徒然を何かで充したい心持ちだ。前者が善知識の破片ならば、後者は手で野の物を食つた生活の幽かな影である。私としての感謝は別問題で、善惡共に永い代からの因習では無いか。歴史派が憫れむべき豫言者なる如く、理論が我々の苦難を濟ふことも程遠い。諸君と共に道を行く爲には、どんな事をしても此因習の始末を附けてしまはねばならぬやうな氣がする。
 
          四
 
 一年に五十日は働かせてもよい下人を、五十人だけ抱へて居た豪士が、太平無事の在所に住んで居たとすれば、晉の陶侃が水瓶を運ばしめたやうな、無益な命令を出しても慣例を保持したかも知れぬ。青砥藤綱の經濟論は、同時代(277)人の松下禅尼の意見よりも遙かに失敬なものである。今日は軍隊より外に、人の力をそんな風に觀察する者は無いから、是ばかりの石垣でも問題になるが、自己の勞働の雇主たる小農の境涯に於ては、つい今の前まで似た事があつた。一年中の働いた日數を以て一年中の所得を割つて見ると、五錢か七錢にしかならぬことを承知して、百姓をする者もあつた。分外に大きな溜と云ふものを穿つて置いて、田畠の用の終つた後は何日でも肥料を汲んだ村もある。所謂町の「せゝなぎ」までを汲み盡して、或日は海の水まで擔ぎ込むと云つた例もある。單に遊食が不道コと見られたのみならず、祭や盆のやうな共同の休日で無ければ、手を束ねて居てもちつとも面白くない。年寄などは暇では爲にならぬと謂ふだけを知つて、新しい仕事などは求める力が無かつた。一段と威張つた階級にも、同じやうな欠伸の不幸はあつた。圖書館などで始末に困る大部分な寫本の類には、斯う云ふ人々の無害な勞作も大分にまじつて居る。五十年前の改革は言はば幸福なる改革で、何か有らば働かうと云ふ剰つた力を自由に處分し、殊に田舍では人口増加の上に休日までへらして、所謂農事改良の成績を擧げた。併しそれがいつ迄續くものか、二つ以上の仕事があれば、評價を比較するだけの算術は教へられて居る。例へば雪が深くて外に仕事は無い時でも、繩や草履は馬鹿げた仕事だと云ふ迄になつた。是の時にうんと働けばよいなどゝ謂つて護謨底の足袋などを買つて居る。最早海府の眞更川の石垣などはどんな日にも來て築く者は無いだらう。唯斯うなつても猶解決せぬ問題は、何かに向けねばならぬ剰つた力の始末である。時間外の増給と引換にしたい間は、四十六時間の主張もむだな話だ。なる程資本家の方でもいや操業短縮だの、さては錘數の限定だのと憎いことをするから、勞力の方でも和蘭の東印度會社が、莫大の香料を燒棄てたやうに、或は波斯の賢人が秘傳の卷物の數を減じて賣りに來たやうに、出來るだけ供給を乏しくするのも對抗策ではあるが、人の力は花よりも果物よりも早く古びる。經典などゝ違つて名山石室に藏して、百年の後を期することは出來ぬものだ。よほど確かな善いことに使ふ用意をして置いて、さて此同胞を閑にしたいものだ。人を所在の無い?態に置くのは、やはり第二の牢獄では無いか。此指導には未だ任ずる慷慨家が無い。殊に村では結局夜明けの遲いのを喜ぶやう(278)な態度が、まだ父兄の親切の中にも見えて居る。こんな氣の毒を見棄てゝ、僅かな人ばかりが高く飛ぶのは、如何に俗な事を言つても仙人であつたのだ。
 又つまらぬ考を始めて居る中に、元氣のよい前濱連は早や小さく見えるほど遠くへ歩いて居る。此邊の磯山には石楠が路傍に咲いて居る。あの人たちが折つたと見えて、新しいのが棄てゝある。一年の中に幾日も無いほどの好い日なのに、炭燒より外に人に逢はぬ山路だ。海にも一艘の船も見えぬ。なるほど冬は淋しい處であらう。此種類の昔からは、中々容易に脱し得られさうも無い。
 
(279)   越中と民俗
 
 富山縣は民俗研究上に面白い特徴を持つた地帶であつて、私なども以前から深い關心を抱いて居る。たゞ殘念なのは未だ採集が他の地方に比して著しく遲れて居る爲に、其興味ある諸特徴が具體的に證明されずに、今に到つて居ることである。越中の海岸地方は近畿から東北地方への通路として、頻繁な交通が古くから開け、夙に文化の波に洗はれて居た。また越中人自身も昔からよく旅に出る習はしを持つて居たやうである。それは後々には前田藩の賣藥政策の結果として益旺盛になつたことは爭へないが、逆に既に其風が存し、其結果として賣藥事業の發生と成功とが得られたことを忘れてはならない。私は以前蝸牛の方言を全國的に集めて比較したことがある。それにはデデムシ系統のもの、マイマイ系統のもの、ツブリ系統、ナメクジ系統、カタツムリ系統のものと、五つの系統の方言が全國に分布して居るが、其最も豐富な地帶の一つは越中であつた。カタツムリ系統を除いた四つの系統に屬する訛語が幾十もあつて、礪波や氷見地方などは村毎に字毎に異なる語を持つて居るとさへ言へるほどである。此事は單に蝸牛ばかりでなく、蟷螂及び雀についても同樣である。越中を除いては關東の利根川流域、三河の碧海郡に於いても相似た事象がある。かゝる言語現象の渦卷といふものは、或る種の幾つかの文化圏の觸接地帶に、即ち方言領域の觸接面に、また遠方旅客の來訪の繁き地方に往々見られるものであつて、交通と移住との歴史を究める上に若干の光明を與へて呉れるのである。
 一方越中南部の山間には、近年發電事業の勃興するまで、古い生活樣式が沈澱して保存されて來たのであつて、海(280)岸平野部に對して著しい相異を持つて居た。分家をアジチといふ地方は、現在までの調査では全國に於いて、飛騨北部と越中とを除いては、越前大野郡の山間の狹い區域しか判つて居ない。アジチは多分畦内、即ち土地を分けた分家といふ意味だらうと思ふ。兎に角に此兩地域の間に何等かの脈絡のあつたことは先づ想像されよう。玉蜀黍といふ植物が日本へ輸入されたのはポルトガル貿易以後のことであらうが、此方言は矢張り全國に多いのであるが、トナワ(唐の粟)と呼んで居る地域は畦内地域と一致して居るのである。中間の加賀の山間部を調査したら、或は是等の語が使はれて居るかも知れないが、使はれて居ないとしても一地方から他方へ傳搬されたものに相違ない。其等が海岸線を辿つて進みそして谷の奧まで廣がり、やがて平地部には新系統の語彙が現れて古語がたゞ山間部のみに殘留し得たものか、それとも山添ひの別の系路を傳はつたものか未だ不明であるが、何時かは是等の疑問に答へ得る日も來ることであらう。
 東海の靜岡縣、山陽の廣島縣といへば、誰しもよく開けた地方といふ感じを受けるのであるが、實際によく開けたのは平地部であつて、北半の山間部に到つては古風な生活が豐かに殘存して居ることが、近年我々の同志の採訪によつて次第に明らかになつた。富山縣に於ても實地に即した民俗研究が本誌を通じて遂行されてゆくことを、私は期待して居る。右は動植物の万言を例としたのであるが、今後の調査の進行に伴つて、常民の日常生活の各部面に於いて、富山縣の興味ある特色が明かにされてゆくことを念じて居る。
 
(283)   小さい問題の登録
 
 この月報は將來成長してずつと有力なものになつても、なほ各地の採集記録や研究報告とは獨立して、どこ迄も聯絡の任務の爲に働くことにしたい。といふのが初期世話人等の念願である。さうして遠からず學會と名乘つても恥しからぬ堂々たる發表機關と、それに相應した内容をもつ諸業績が、別にこの以外に印行せられるといふことは、何人よりも切に我々の待望する所ではあるが、それにも亦一つの缺くべからざる準備事業として此の如き用心深い水先案内を必要とするのである。
 地方の同志たちの久しく被つて居た損失、今となつてはもう匿しきれない内心の不安は、「斯んなことをして居ても果して何ぞの役に立つだらうか」といふ心もとなさである。其爲に既に多くの人が手を下して居る仕事なら先づ大丈夫であらうと、手分けの必要な廣汎なる學界に於て、いつ迄も流行の題目に集注する傾きがあるのである。知りつゝ又は丸で知らずに、とかく前人の足跡ばかりを踏む者が多く、資料は偏重してまだ無量の未開地が殘つて居るにも拘らず、自他ともに早一通りの捜査が濟んだやうな感じを抱かしめられるのである。是を防いで適材を適處に、且つ有效に働かしめる策としては、團體の力によつて大よそは全國の事情を明かにし、各人の境涯能力趣味に照らして、どの部分を分擔するのが最も自分にはふさはしいかを、決定する便宜を供するの他はあるまいと思ふ。
 勿論問題は或一員が壟斷すべきもので無く、又決して獨占し得るものでも無いが、今後同志が互ひに少しづゝ知り合つて、あの人ならばやゝ容易に結果が得られるだらうといふことになると、切れ/”\の材料はいつと無くそこに集(284)つて來て、自然の知識交易が營まれるかも知れない。少なくとも自分はさういふ愉快な場合のみ想像して居る。本誌の紙面は各地の問題を持ち寄り、乃至自分を紹介して新たなる支持者を獲ようとするには少しく狹ま過ぎる。是にも別に研究の經過を世に公けにする舞臺は必要であらうが、永い間には誰が何を心がけて居るか、斯ういふ調査には既に手を着けて居る人が、有るか無いか位は判つて來ることゝ思ふ。編輯者も亦多分の注意力を、その方に拂ふべきである。書物や雜誌の本當の値打ちなども、今いふ廣告だけでは十分には知ることが出來ない。是にも無駄を防ぐだけの手引を供與して、この會に參加する人々の利得としたいものである。
 其意味に於て我々は、日本民俗學上の諸問題の登録を、この小さな月刊物の一つの事業にしたい。但し問題は大小無數にあるであらうが、其中でもあまり古びない、且つ何人もが省みて居なかつた樣な、手頃のものから採つて行くのが至當で、願はくは將來この學問の前線が、是によつて一個所の隙間も無いやうにしたいと思ふ。いふにも及ばぬことだが、問題は學問上のものに限らなければならぬ。さうして出來ることならば、是が明かになつたら此點が一つ、今まで打棄つてあつた人類の知識を増加し得るといふ希望を掲げ示されることが望ましい。一つの假定を立てゝ目標とするのはよからうが、信じて疑はぬといふやうな結論のあるものなら、それはもう教科書の方へまはした方がよい。本誌とは用が無いわけである。私などは多くの論文を讀み通す苦難を免れる手段として、先づ日本の事實の既に知られて居るものが、どれだけ迄其中に援用せられてあるかを見ることにして居る。多くの見落しをしながら斷定にのみ勇敢なものは、半分で投げ去つても殆と皆、損をせぬものばかりだと思つて居る。是から協力して新たに理解しようといふ人々の爲に、さういふものを紹介するのは罪である。已むなくんばたゞ單なる問題として之を取扱ふに止めたいと思ふ。
 此方針は、或は故意に何人も解説し得ないやうな、六つかしい疑問の提出を競ふ傾きを養ふかも知らぬが、目的が學問に在る限り、それは少しも惡い風では無い。遲いか早いかのちがひは有らうとも、大よそ研究の力を以て判り切(285)らぬ問題などゝいふものは、絶對に無いものと私たちは信じて居るからである。たゞ自分などの場合は、それを現世に於て明かにし得る見込は無いに拘らず、努めて有る限りの興味ある問題を捜し出して、遠い將來の解決を望み樂しむので、それには民族の幸福を以て共同の目標とする一つの結合體の、存すると否とは大いなる結果の差になるのである。民間傳承の會の新たに産れたる悦びを記念すべく、出して登録して置きたい問題は數へ切れぬほど多い。初號にも一つ味噌たきのユヒのことを提出する約束であつたが、前置きが長くなつたから後々の號へまはすことにする。
 
   銕輪區域
 
▽此頃山村調査の諸君の間で、カナワの區域又はカナワ期といふことが、より/\問題になり始めて居る。
?ン・ゲネップ等の唱へた分布圖式調査法は、ちよつと早わかりのする方法なるが故に、日本でも試みようとする人が時々あるが、狹い地域では價値が乏しい上に、是に取掛かる用意も、少しくかの國とは異なつて居なければならぬ。
▽佛蘭西ではこの地方的變化が、或は種族の相異を意味する古來のものかも知れぬに反して、日本では普通文化圏の波紋の、一つ/\の小さな區切りとしか見えぬことが多いからである。
▽土地に固有の特色ともいふべきものがあることを豫期して、この地方差を記入して居ると、?飛んでもない遠方の一致に面くらふことがあると共に甲から乙への大切なる推移の跡を、見落してしまふことも有り得る。題目はよほど考へてからきめなければならぬと思ふ。
(286)▽たとへば正月樣を迎へる方法に、臼を伏せて其上に箕や薦を敷く地域と、棚をつり下げて、しかも年々の吉方に向ける地域とがあるが、是がもし最初から斯うちがつて居たのだつたら、何か深い理由があるわけだが、私は此頃では棚の方が後の改良のやうに考へかけて居る。
▽町の手狹な住居に入つた人々が、内庭に女の觸れない臨時聖地を設けることは六つかしいので、斯んな考案をしたのかとも思はれるからである。
▽サイハヒ木もしくは十二節などゝいふ正月の食料を引掛けて置く掛竿なども、會ては九州から四國一部だけの、限地的現象の如く考へられて居たが、氣を付けて見るとちがふのは名前だけで、近畿地方にもこの横棒はちやんとある。たゞそれを注連飾の一種と見てしまつて居るのである。單なる注連ならば竿をとほしたのもをかしく、又やたらに食物を括りつける筈もない。東京あたりの海老や橙を取付けた門口の注連飾も、順に見て行くとやはり幸木の系統であつた。
▽つまり食物の趣味が變り、又正月早々から買物が出來るので、そんな伊勢海老や昆布を、取卸して食はなくなつただけの推移であつた。
▽我々の作成する分布圖は、西洋の劃地調査者などの豫期するやうな、住民本質の異同を指示する目標とはなり得ない。單に或一つの時點に於ける文化浸潤の?勢がわかるだけの、何度もくり返して見て始めて效果のある、しかも中々大切なる準備作業だと私は思つて居る。
▽たゞ其爲には出來るだけ全國的な、何處に往つても見られる樣な現象で、しかも變化の段階のはつきりとしたものを題目にしないと、文字で無いだけに一段と人を誤つた印象に誘ひやすいのである。
▽貴君の見て來た村にはヰロリがあつたかといふことは、もう久しい以前からの我々の合言葉のやうなものであつた。「爐があるほどの土地」といふ一言が、ごく大まかながら、或一つの生計?態を推察せしめるからである。
(287)▽實際我々は爐の有無によつて、家人に物を問ふ心構へを、無意識にちがへて居る。それは自然であり又さうあつてよいと思ふが、しかしまだ其程度の區分では精確とは言はれない。
▽爐無しにも庭竈から電氣裝置まであるやうに、爐はあるけれども炊事にはもう使はぬ家、横座女房座の名目はありながら、席次の亂雜はちつとも氣にせぬ家といふ風な、幾つかの等差が有りさうに考へられるが、その堺目は稍ぼやけて居る。家にもよらうし時の都合もあつて、土地の特徴とまではいふことが出來ないからである。
▽一つの目標は鉤《かぎ》の形、是には自在といふ鉤がよく/\普及して居るが、それでもまだ村一樣に、手製の木の鉤にぎざ/\を附けて、鍋や釜の弦を上下して居る地方もあり、又自在鈎のこしらへにも種類と次々の改良とが見られる。是を所謂火の文化の、それ/”\の段階と見てはどうだらうかと思つて居る。
▽鉤を全廢した例は、最初櫻田氏が美濃のコ山から報告した。あの山村ではカナワをカナゴと發音して居る。飛騨の庄川筋の圍爐裏もカナワであることは、瀬川さんの記文に見え、伊勢と大和の國境の村でも、銕輪が普通であることは最上氏が見て來られ、それから近江の東小椋なども、同じ大きな五コであることを關氏が歸つて話された。
▽氣をつけて見ると近畿の方言集にも一二その例はあつたのであるが、土地の人は一樣に是を普通と思ひ、カナワといふ語も珍奇ではないから、鉤の使用せられる若干の山村を、知つた人でないと目につかぬのである。
▽鍛冶の工藝と其商品の普及とが、もしも一定の條件を要するものとすればカナワの分布地域を地圖の上に明示して置くことは、或は今後の豫察と積極的の調査とに、何等かの手引を與へるかも知れない。
 
(288)   採集手帳のこと
 
一 民間傳東の會では、今後色々の採集手帳をこしらへて、同志の間に分配しようとして居る。會員諸君は勿論、會以外にも之を利用して見ようといふ人があれば、欣んでその希望に應じ、且つ必要なる質疑に答へるつもりである。同時同樣式の一再調査が、自他の爲に便宜有效であり、且つ著しく時と勞力とを省くものであることは、最近の實驗によつて愈確かになつた。さうして各地の郷土研究者も亦斯ういふものを頻りに要求して居るのである。
一 今囘の採集手帳は、現在木曜會の人々が、第三年度の山村調査に使用して居るものと同じで、前年印刷して少部數を希望者に頒つたこともあるが、それと比べると若干の増補があり、且つ僅かながら新しい解説が加へてある。それでも始めての採集者には幾分か細密に過ぎるかも知れない。さういふ場合には其中の特に興味の多い部分だけを利用するもよく、又二人以上で手分けをして見るのもよいと思ふ。趣意の何れに在るかを知り難い個條だけは、省略せられても差支は無い。
一 此次にはもつと一般的な、多數の採集者を本位とした手帳を次々に出して行くつもりである。目下準備中のものは昔話採集手帳、民話採集手帳、年中行事採集手帳、海村生活語彙採集手帳などがある。そのうちの只一册を持つてあるいても、全國各地の同種作業を綜合すると、其效果は相應に豐富で優に個々の觀測記録者の勞苦を報いるに至るものがあらうと思ふ。
一 民間傳承の會は、實費を以て此等の手帳を頒布するだけで無く、尚進んで二つの任務に服するの用意がある。其(289)一つは利用者の實際上の疑問に答へ又は其注意に基づいて不備の點を討究し、今後改版の都度その部分を改訂して、出來るだけ完全に近い採集者の手引草を、次の代の爲に遺して置くこと。其二は國内各地の調査、もしくは一地多數者のもたらし來たる成績を整頓して、最も精確なる綜合記録を作成し、財政の許す限り之を印刷して世に保存することである。計畫ある或一地域の郷土研究に對して、その手帳の資料を如何に利用すべきかの意見を述べるなども、希望があれば是に應ずるの用意がある。但し世話人たちは何れも本務のある者で、僅かに餘暇を割いて此會の爲に働いて居る?態だから、十日半月の返答の遲延は前以て承知をして居てほしい。
一 個人として採集して居る地方の同志には、往々にしてこの手帳を藏ひ込んで、別に其收穫の利用を念としない人があるかと思ふが是は最も惜しむべきことである。さういふ諸君に願つて置きたいのは、たとへ半分で中絶せられた場合とても、少なくとも一册は副本をこしらへて別の處に保存し、折角の素志の雲消霧散するを防がれんことである。之に關しても會は二つの提案をする。その一は是で一通り採集が終つたと思はれる際に、日限を定めて會へ又は在京世話人の一人へ、其手帳を貸與せられたいこと、それがもし不安なら第二の方法として、自身副本を取つて會へ寄託せられたいことである。是に對しては會から新らしい手帳を送付するは勿論、その筆寫の勞に報いるぺく、他種の採集手帳なり其他の會の刊行物なりを贈ることにする。さうして責任ある誠實の記録だけは、永く學界の公有物にして置きたいのが我々の念願である。
一 それから將來の多くの採集手帳には、出來るだけ色々の實例を擧示してその各郷土の異同を精密に知ることが、どれだけ有價値であるかを明かにすると共に、既に明白になりきつて居る事實の爲に、餘分な勞苦を掛けしめないやうにしたいと思つて居る。最近十年餘りの間に、地方の民俗の世に顯はれて來たものは隨分多い。中には自分の郷土にも既に優良なる調査者があつて成績を世に公表し、新たな採集家のみが却つて之を知らずに居たり或は知つて居ても他の者はまだだらうと思つて、それを受賣しようとしたりする者があり、人も自分もむだな時をそれに費して居る。(290)さういふ懸念の無いやうに、一日で今までの採集結果、現在公知の知識だけが明かにし得られる索引の如きものが備はつて居るとよいのだが、それまでを小さな手帳の片端には書けない。故に民間傳承の會では行く/\さういふ各部門の語彙を編輯して、篤志者の努力を其以外の部面に進展せしめようとして居るので、是もこの會の實力が加はつて來るにつれて、遠からず諸君の參考に供し得る手筈になつて居る。隱れたる各地の同志のこの共同機關を支持し又善用せられんことを切望する所以である。
 
   村の個性
 
 方言調査の仕事が、關東はまだ存外進んで居ないといふことを毎度聽くが考へて見ると、獨り言葉の村々の差異ばかりで無く、總體に此地方の住民の生活實?は、決して隅々まで知れ渡つて居るとはいへないのである。是を調べる方法が一通り備はり、又遠方の風習などが、追々とわかつて來て問題になると、自然にこの比較的退歩が目に立たざるを得ない。我々の關東に關してもつ現在の知識は、大半は百年前の古書に基づいて居る。だからたま/\武藏風土記稿とか、常陸國誌とかいふ類の昔の「新編」が、注意して置いてくれた事項ならば精確だが、その他は却つて奧羽の山奧、九州の島地などよりも茫漠で、多分は東京近在と似たりよつたりだらう位に、他處の人からは推測せられて居る。しかも歩いて見ると、その東京近在の暮しぶりとても、既に土地毎によほどまち/\に發達して居るのである。
 我々が新奇を遠い田舍に索め、いつでも探り得られる燈臺の下を、暗いまゝにして置いたのも惡かつたらうが、それよりも根本的に一つの概念の誤りを、關東の住民が持つて居たのである。概念の所謂關東ッ兒は、江戸か、せいぜ(291)い其四周の邑落に於て成立した。さうして地理の教科書の關東平野は、實は關東の半分にも足りなかつたのである。是ほど山阪の多く入り野のよく開けて居る地方を、平野と教へたのも粗末な話だが、その平野の中にすら田どころと畑所、及び岡と窪との程よく入り交つた所とがあつて、村毎の農法は立前から異なつて居る。單に海邊の山地との、條件の差のみではないのである。それを一貫した通有性が假にあるとしたら、よつぽど抽象的な、何とでも註解の付くやうなものに過ぎぬだらう。
 其上に人が八方から、近代になつて入つて來て居るのである。是は此地域の中國近畿と比べて、より複雜な展開を豫想せられる點だが、關東の交通は最近半世紀の間に急激に開け、土地の剰つた人口は平野が之を吸收した結果山間の經營が一般にまだ後れて居る。今でも空つぽの谷は多いらしいが、一部は夙くから是を隣接地方の、移住民に任せたらしい形跡がある。乃ち内側には求心的の力が盛んに働いて居たに對して、其周邊の地に在つては、どの方角に向いてもそれ/”\の境外交通がもとはあつて、地圖で彩られた程には明白な輪廓をもつては居らぬのである。だからもし實地の觀察が行はれず、たつた一つか二つの經驗で他を類推しようとする者を制止しなかつたら、關東の生活眞相は?誤られ、毎度私はそんなのぢや無いと、慌てゝ叫ばねはならぬ必要が起るであらうし、それを構はずに少年に教へたら、彼等は必ず迷ふであらう。
 村に樂しく住む計畫を立てようとするには、是非とも先づ我郷土の生れつきを知らなければならぬ。それには先代の踏んで來た跡を看るのが、何よりも大きな參考になるのだが、其以外にも方法は幾らもある。假に我土地の生活樣式が、附近の通例といふものとは變つて居ようとも、是が單獨の發明とは見られぬ限り、捜せば山の彼方か別の水筋かに、必ず同じ流儀を以て同じ環境に順應して居る者が、續々と見つかつて來る筈である。それを互ひに知り合ふといふことは、是亦心強い將來の相談相手である。乃ち諸君の愛郷心は、當然に今少しく弘い區域の、知識の獲得に向けられるべきであつた。
(292) 近世開發の新たに進んだ地方では、村の事情は隣同士、寧ろ相應に異なつて居るのを常とする。他部落縁組がやゝ盛んになつて、母や祖母の力で風習を統一する傾きは著しいが、それでも一軒や二軒の改革では、動かし得ないものが村々にはあつた。言葉のちがひや訛りなども一つだけれども、それよりも大切なのはその言葉に包まれ、もしくは代表せられて居る村民の感覺趣味、及び久しい年月の定まつた活き方を、支持し續けて居る思想、思想といふのが大袈裟ならば、或る考へ方であつた。是を外から來た者に突留めてもらはうとするのは無理であると共に、土地に生れて働いて居る人々が心づかずに居ることもどうかして居る。ましてやそれとは關係も無い概括的な推斷を黙つて承認して居る不利益は大きいのである。個人が?半生を囘顧するやうに、郷土も亦過去の活き方を自ら知らなければならぬ。それが現實の問題を解く唯一の手段であることを知つて、まだ其方法を得ない人々には、我々は、先づ相互の援助と聯絡とを勸めようとする者である。
 
   セビオの方法
 
 言葉によつて一國の民間傳承を採集し保存し、比較し又整理するといふ我々の方法は、今日の所謂民族學と、日本民俗學とを區別する、最も明瞭なる目標と思はれるにも拘らず、自分の知つて居る限りに於ては、他の國々ではその各自のフォルクスクンデを記録するに際して、こちら程熱心に此方法を採用しようとしない。其理由の一つは或は現在は殘留するものが既に乏しく日本で見るやうな隅々の隔絶したる一致を拾ひ出すことがめつたには無いので、分類綜合の意義も、又其興味も少なく、自然と氣が進まぬのではないかと思ふ。
(293) しかし其以外にも、まだ何か我々の心づかぬ理由が無いとは限らぬ。いよ/\此方法を普遍化しようとするには一層注意深く考へてかかる必要があるのである。
 この四五年來の私の經驗では、誕生婚姻葬式とか、親類一門の共同の生活とか、年中行事又は村の神々に仕へる作法とかの樣に、近世に入つてから急激に變化しようとして居るものは、大抵は新舊二つの名稱が併存し土地々々の言葉を精確に採集して來て之を自然の順序に排列して見ることによつて、端的に國民の踏んで來た段階を跡つけることが出來るやうであるがこの他にまだ幾つかのさういふ便宜の得にくい區域がある。あまり標準語に無い言葉、辭典が見落して居る方言のみを當てにして居ると、注意が偏してしまつて若干の大切な現象を看過する虞が無しとせぬ。たとへば東京人の江戸時代から引繼いで居るフオクロアなどは、今日は却つて一番見あらはし難いものゝ一つとなつて居る。
 私は民俗語彙の整理に當つて、特に困つて居る題目は、「ことわざ」、唱へごと謎の類の、一般的性質又は代表的の特徴を、どういふ風にして紹介しようかといふことであるが、是は言葉の藝術だから、たとへ名稱といふものは無くとも、煩を厭はずして其若干のものゝ全文を掲げてもすむ。それよりももつと厄介なのは、日本人の持傳へて居る所謂俗信の中で、國としても由緒が古く、又遠い異民族との間にも比較を進め得られるもので、單に其分布が廣く根柢が深く、都市と村落とに共通して、しかも必ずしも定まつた言葉を以て傳はつて居ない故に、注意深い人の耳にも留らぬ場合の多いものがあることである。
 例を以て説明すれば、松植ゑず、胡麻作らず、?を飼はぬ村といふ類の、今でも可なり大きな制裁を以て信奉せられて居る事實が、聽き出す機會が無くてまだ多く埋もれて居る。鳶とか鴉とかの極めて普通な鳥、枇杷とか柘榴とかの全國を通じて一つしか名の無い植物に、是はと驚くやうな言ひ傳へがあつて、比べる方法が無いので前に知つた分を忘れて居ることも多い。我々の語彙主義は、爰で何等かの補助方法を傭はなければならぬのである。
(294) 佛蘭西の民俗學などは、一般にさうだと迄はまだ斷言が出來ぬが、少なくともポウル・セビオの大著に採用せられて居る方法といふのは、大よそこちらの行き方とは反對のものである。いやしくも都市人乃至は讀書階級の常識で、通例で無いと感ずるやうな事實に遭遇すると、すべて湛念に筆録公表するので、いつになつても社交界の語り草といふ形態を脱しない。惡くいへばそれが稀有であり初耳であることを希ふやうな嫌ひがある。
 日本でも初期には新年毎に干支に因んで、猿に關する民俗とか犬に就いての奇事異聞とか題し何でもかでも順序も無く列記して、博識を示さうとした人もあつたが、それは傳承の採訪がまだ普及しなかつた頃の事で、今日の如くそこにも、こゝにも、さういふ話なら有りますといふ?態になつては、聽く者が第一承知をせぬのである。そこで原因の討究となり比較となつて漸く學問の一歩を踏出すのだが、セビオなどの分類法の如く、獣とか木とか石とか天體とか、一つ一つの事物に關するフオクロルは、何でも皆一ところに集めて置くといふことになると、資料が豐かになるほど知識は紛亂して印象が弱くなり、又全部の理解を不可能にするのである。
 索引の一目柄然たるものを作り得ないのが、此方法の大きな缺點かと思ふ。殊に幾つかの類を異にする事物に共通して、同じ古風な考へ方や習はしの存する場合には不便を生ずる。恐らくあの國でも今一段と採集が效を奏すれば、出來るだけ手短かに概念を與へようとする標語の、選定を企てずには居られぬであらう。さうしてマナやトテムが現今世界化して居るやうに、やがては一國の學問にも是が數多く役立つ時が來るであらう。それの適當なものが見つからぬ間、又どうしても得られない區域に於ては、暫らく佛蘭西の方法をまじへ用ゐることも是非が無い。
 
(295)   感覺の記録
 
 感覺と言葉と、この二つの大切なものゝ間には、歳月に伴なふ僅かづゝのず〔二字傍点〕れがあつて、永古に不變なる例は却つて少ないといふことは、曾てメイエ氏の細かな研究もあるが、日本などは種族の混亂が無く、兩者ともに元の姿を保つものが多いので、殊にこの點を考察するのに都合がよい。言葉も感覺も、ものは手付かずに殘つて居て、しかもその關係が移り動いて居るといふことは、古書によつて昔を知らうとする者をまごつかせる難はあるが、それと同時にその移動の跡を辿ることによつて、今は別々と見られて居る幾つかの大きな感覺の、隱れたる鏈鎖を見出すといふ興味は深いのである。民間傳承の會の新らしい針路として、次にはこの方面に進み入るのが順序のやうに思ふ。
 試みに現在の社交用語に、可なりよく働いて居るアリガタイといふ形容詞を考へて見る。是は辭典に皆掲げて居る如く、中古に始まつた語で、もとは神佛を拜む語であつた。有難しは即ち又と無い、もしくは尋常を絶するといふ意味なることも想像し得られる。今でも出雲の美保が關とか、佐渡の外海府とかでは、神コ讃歎の詞として用ゐられて居るといふのみで無く、中央都府の住民の神樣のアリガタサを説くのも、必ずしも恩寵を蒙つてから後の感謝の場合だけに限られては居らぬので、即ち古い用法は氣を付けて居ると、今も、まだ併存して居ることを知るのである。
 次にカタジケナイといふ形容詞は語原は明かでないが、この兩用の?態がやゝ有難いに似て居て、流行が既に衰へた爲か、幾分か古い方への片よりが強い。かの有名な「何ごとのおはしますかは知らねども」の歌を聯想する人々は、容易にその最初の意味を會得して居る筈だが、それでも芝居などは少し身分の低い相手に、禮をいふ場合の忝けない(296)をよく知つて居て、別に雙方の類を異にすることを怪しまうともせぬのである。或は本來は神の惠みを感謝する時に限つて居た言葉を、いつと無く擴張して平人對等の場合にも用ゐ出したので、あまり勿體ないから元の方をさし控へるやうになつたと、解して居る人も有るか知らぬが、私などはやゝ異なつた考へ方をして居る。
 人に世話になり又は物を貰つた場合に、有難しかたじけなしの語を發する風は、少しく濫用せられ又口癖のやうになつて居たでもあらうが、もとはやはり神をたゝへる目的であつたと思ふ。それを相手が自分に向つて言はれるものと心えて、「何のあなた」だの「どう致しまして」だのと、いゝ氣になつて居るのが新らしい變遷かと思ふ。此點は佛蘭西語のメルシもよく似て居る。伊太利語でも、我々異教徒までが、禮をいふ時はグラチエであり、それに對しては必ずニエンテと答へるが、是も其樣に神を讃歎せられるほどの事でもありませんの意味で、決して凡人にさういふ物々しいコ力を認めたわけでは無いのである。日本では是が可なりはつきりして居る。たとへば東北では鹿角北秋田邊の農民は、今でも物を貰つてトドゴジャンス又はドドゴザンスといふ者があり、伊豆の田方郡でも近い頃まで、小兒は貰つた物を目より高く揚げてトートヤと謂つて居た。「尊とや」は勿論以前の神を拜む詞であつた。
 是と同樣の場合に伊豆から以西、駿遠參のやゝ弘い區域では、是も小兒に限つてメッタイと謂ひ、又その行爲をメッタイスルとも謂つて居た。信州南部ではアメッタといふ者もあつた。メデタイといふ形容詞に新たな色々の内容が附いてから、區別の爲に是だけはメッタイと謂はせて居るが疑ひ無くもとは一語であつた。島根縣では松江周圍、薩摩も谷山附近などは、共にメンタシといふのが兒語の「有難う」であつた。曾てはこのメデタシも神を拜む語だつたと見えて、豐後の海人などは網を打つ際に「おえぴす、メンタイス」と唱へたと瀬川さんが報じて居られる。他の地方の漁民は「トウヤえびす」、もしくは「ツヤえびす」などゝいふが是は尊とやから出た語かと思はれる。何れも神をたゝへる言葉が、後々謝禮の辭としで用ゐられた點は、有難し忝けなしと一致して居るのである。
 民間傳承といふ用語が、夙く我邦では承認せられて、是が殘留であるといふことを考へる人のまだ少ないことは我(297)々にも大きな責任があるが、理由は全く之を説明するよい例が得られなかつたからである。いよ/\研究が無形文化の領域に踏込むことになると、其機會は次第に多くなるのではないかと思ふ。殘留は或は形の殘留と質の殘留とに分けて考へることが出來て、前者を足掛りとして後者を探り出すと、是が民俗學の所謂民族學と、區別せられ得る眼目なのではあるまいか。エスノグラフィーは今に依つて古を尋ねることが、一國同胞の觀察のやうに、容易であらうとは思はれず、又實際さういふ企ては尠ないやうである。
 
   ことわざ採集の要領
 
 古いことわざは、存外に今も殘つて居る。或ものは少しばかり意味をちがへて用ゐられ、又他のものは言葉は本のまゝで無く、一部分を此頃風に言ひ改め、もしくは全然同じ趣旨を新らしい方式で表現しようとしたものもある。さうして話主は大抵の場合に、まるで其由來を知らずに使用して居るのである。その興味ある幾つかの例は既に發見せられた。是からもなほ永く續くことゝ思ふ。
 しかし日本民俗學の目的は、この一つ/\の古物の蒐集と愛玩では無い。我々の究めなければならぬのは、ことわざを必要缺くべからざるものとした人生もしくは社會事情である。文章演説のこの通り發達した現代になつてすらまだ一部には國語をこの形で利用しなければ、一ぱいに活きて行けない人が居るといふことは、言語の機能の問題でもあれば、同時に又精神文化の埋もれたる半面でもある。是を一通り明かにした上でないと、實は大きな議論は出來なかつたのである。ことわざは果して不用に歸しつゝあるか。もしさうだとすると、何がその代りの役を勤めることに(298)なつて居るか。是に答へる爲には先づ沿革を知ることが急務なので、個々の實例の如きはどこまでも資料である。たゞその採集が今はちと投げ遣りになつて居る故に、集めてさてどういふことがわかつて來るかといふ、大よその見當を述べて置く必要を感ずるだけである。
 最初に知つて置いてよいのは、ことわざ利用の目途が單一で無かつたといふことである。外形は時として互ひによく似て居ながら、或ものは人生觀照の最も嚴肅なる練習を扶けようとするものから、他の一端にはたゞの輕口、言はゞ聽く人の耳を樂しましむることを能事とした、娯樂用ともいふべきものがあり、その中間にも批判と訓戒、指導と慰撫、又は自分の苦しい立場を擁護し、もしくは率直に言へば稜立つことを、笑ひに紛らして言つてしまはうとする樣な、勸説用とも名づくべきもの等、細かく區分すれば十種に近い種類があつて、それを口にする者は申すに及ばず、相手も之を聽き分けて、めつたに取りちがへることは無いのである。然るに今までの研究者の中には、ことわざを格言などゝいふものと同一視して、時と場合に構はず、誰と誰との間にも、常に貨幣の如く自由に流通するものゝ如く、誤解して居た人が多かつた。是は全く書いたものばかりを通して、ことわざの存在を學んで居た結果であつて、そんなことをすれば永久に、ことわざが何によつて起り、どうして此樣にいつまでも棄てられないで居るかを、明かにする機會は來ない。昔から今日まで、大よそ書物の學問をする人々は、一人殘らずといつてよいほどにコトワザを輕蔑し、しかもをかしいことには自分たちも、無意識には之を利用して居る。この二つの文藝の間の塹壕が、口を開けたまゝで永く殘つて居たのである。新らしい文化研究の發足點としては、是などはちやうど此節の空地利用のやうなもので、必ずしも有難くない事とも言へない。
 但しその代りには今後の採集は、是非とも實地の生活から、直接に資料を見つけ出さなければならぬ。自分も聽手の一人となつて、先づその印象を受け、一つ一つの動機と效果とを突留めなければならぬ。さういふ機會が果して有らうかと、危む人も有るか知らぬが、私たちの經驗では、東京のまん中にもまだ數十のコトワザが活きて行はれ、現(299)に自分などもうつかりと、之を利用して居ることに心付くのである。勿論人によつて此傾きは強く弱く、又地方によつてはまだ平凡でない幾つかの例が、新たに拾はるゝ處があることゝ信ずる。さういふ好都合な境涯に置かれた人たちが、改めてこの民間文藝の小さくない使命を理解し得るであらう。
 採集者の普通の弱點は、たゞ分量をふやすのに熱中することだが、そんな必要はコトワザに於ては全く無い。折角ためて見たところで、何れの土地にも有るものだつたり、又は藤井乙男さんの諺語大辭典に、既に出て居たりして居てさう澤山の數は望まれない。それよりも大切なことは如何なる場合に如何なる要求があつて之を使ひ、さうして又どれほどの效果を収めて居るかといふ點を確めることで、其記録がもし幸ひに我々の公有となつたら、今までの私たちの假定の正しいか否かゞ、やがて明かになる時が來るだらう。
 私たちの假定も色々ある。ことわざの最初の目的は、第一に口數を少なくする。つまらぬことをくどくと述べることを、技能と認めて居た民族も他にはあるが、日本人にはもとは口不調法が美コであつた。短い文句で同じだけの效果が擧げられるなら、それに依らうといふ考へは誰にもあつた。第二には印象を強めること、言葉がいつまでも耳に殘り、又時あつて再び用ゐられるには、幾つかの選擇上の要件があつた筈である。是は「かたりもの」にも「となへごと」にも共通して居たか知らぬが、ことわざは常人の技藝である故に、その優劣の比較が特に盛んでしかもすぐれたものが永く活き殘つたことは、記録の無いだけに一段と花やかな勝利であつた。第三に是も日本の特色と見られるが、言葉のをかしみといふことに非常に力が入れられて居る。笑ひがもと日本人の一生の、最重要の事件であつた爲と、私などは解して居るのだが、それは前にも説いたことがあり、又長くもなるから爰には述べない。ともかくも個々の實例を竝べ比べた上で、分類をして見ることが順序のやうに思はれる。他日機會を見つけてもう一度具體的にその分類の案といふのを考へて見たい。
 
(300)   新たなる目標
 
 今までこの雜誌が力を傾けて居たのは、主として地方文化の消え去るものゝ保存、及び之を集録せんとする人々の相互援助であつた。ところが我々少數者の協同では、思ふやうに資料が集めにくゝ、是非とも外部の理解者を得なければならぬのと、一方には又時運が大いに改まらうとして、衣食生産の日常生活から、信仰藝術社交禮法等、あらゆる問題の未來を考究する必要が起り、それには一般民衆の前代生活に就て、もつと盛んに民間傳承の知識を利用しなければならぬといふことを、認める人が多くなつて來た。この二つの刺戟から、今度いよ/\この雜誌の編輯ぶりを更へて、改めて世の中にまみえることになつたのである。
 我々は單にこの方法と努力とを續けてさへ行けば、今まで積み重ねた國民の經驗が、更に一段と明白になり、又有力なる參考になると信ずるだけで、現在既に何等かの價値ある發見を、爲し得たとまでは思つて居ない。しかし日本人としていつかは解かねはならぬ色々の問題と、之を解き得べしといふ希望とは我々がもつて居る。それを先づ弘く同胞の間に分配することを、第一次の目標にして、「民間傳承」は出發する。
 
(301)   傳統と文化
 
 制度文物の新たなる創定が、數限りも無く必要とせられる時代に生れ合せ、しかも古來の傳銃を、今もなほ漠然たる意識の下に感じて居る我々としては、所謂新文化と固有信仰との相剋は、いつの場合にも後者の退縮を以て終るのではないかといふ氣遣はしさを抱かしめられる。假に一方がそれほど大きな力を具へないものであつても、なほ我々の中に在るものを、一段と深く包み厚く覆うて、人をまちがつた推測に導きやすいといふ懸念だけは加はるからである。
 この不安に對するたつた一つの救援は、學問への期待であると思ふ。我々一派の朗らかなる樂觀では、正しく知るといふことだけが過去を清算して、その中の嬉しく樂しいものばかりを保存させてくれる。未來に向つての好ましからぬ結果を、免れ避ける道を指示してくれる。史學の目的は、本來それ以外のものが何かあつたらうか。國の經歴が長く久しくなるにつれて、この研究の作業は無論段々とむつかしくなつて來る。異説は競ひ易く疑問は生れやすい。だから更に數歩を進めてその立證の方法を、安全確實なものにするの他は無いのである。徒らに過程の煩累を憚かつて獨斷を事とし、古來何等の沿革を見なかつたやうなことを説く者は、單に黔首を愚にするだけで無く、同時に又自ら人間最古の學問の眞價を否認することにもなるのである。もしも古今の變遷が無いものなら、史學は頼まずとも暗記さへすればよいからである。
 
(302)   信仰と學問
 
 世界何れの民族の何れの時代を見比べても、現代日本の如く正々堂々と、今が昔のまゝで無いといふことを、公言し得る場合は無いのであつた。それもたゞ偶然に斯くの如くなつて來たのでは無しに、その基づくところは高く貴とく、しかも萬民は欣び擧つて、   各々その涓滴の微を是に捧げて居る。乃ち聖謨は今まさに成つたのである。もしも此樣なうれしい有難い御計畫に逆行して、我々國民の學問であれ考へ方であれ、少しでも昔の世に見劣りするものがあるとすれば、愧ぢて速かに改めなければならぬのは當然であると共に、更に他の一面に於ては、この最も輝かしい時代の大變遷の中に在つてすらも、なほ一筋の清く澄みきつたものが、千古を貫いて流れて居るといふことを見出し得たとすれば、是は又言辭を絶したる深い感激でなくてはならぬのである。然るにこの明暗二つの共に異常なるものが、不思議千萬にもまだ現在は混合して居る。必ず斯くあるべきだといふことを確信する者が、往々にして其發見と立證とを怠つて居る。世上若干の口舌の雄と稱するものに至つては、或はわざと同胞を鈍感ならしめんとするかと、思はれるやうな獨斷の説を立てゝ居る。戒愼すべき事態と言はなければならぬ。國民の疑問と知識欲とを、睡らせて置かうと努めるやうな人々は、實はまだ研究の結果について、安らかなる期待のもてない不信者だつたのである。
 
(303)   昔を尋ねる道
 
 前代生活に關する精確なる知識の、今日の如く痛切に必要な時節は無い。何が發達であり、何が又退歩であるかを決するのは、各人或は身勝手な見解を、挾み得る餘地が無いとは限らぬが、少なくともたつた一つ、何が國民と伴なつて昔から今の日まで、變らずに傳はつて居たかといふ問ひばかりは、答へが幾通りもあらうわけは無く、之を發見し又は立證する方法も亦區々では有り得ない。私たちの考へてゐるのは、明白に後に變つたことの證明し得られるものを順々に引き去つて、しまひに殘つたものがそれであるといふことで是を否み得る者は先づ一人もあるまい。今日の學者に之を試みようとせぬ者は多いが、それは、必ずしも手數を厭ふ爲のことと思へない。追々さうして附け加はつたものを取り除けて行くと、最後に何も殘らぬことになつても困るといふ、臆病心も少しは手傳つて居るかと察せられるが、さういふ心配は絶對に無用である。
 文化複合の次々の異分子が、國民生活の外貌に影響して居ることは子供にもわかる。それで居て是をなほ昔のまゝだと言はうとする説が、必ずしも大きな反對を受けないのは、言はゞまだはつきりと前代の事實を知らぬからである。今日の文化が固有の姿で無く、近世が又中古以前のものゝ踏襲で無いことを、確かめる方法は幾らもある。國は廣いから其片隅には、變らずに殘つて居るものがまだ大分ある。たゞそれを今までみずに居たのが惡いのである。
 
(304)   氏神樣と教育者
 
  以下は信州東筑摩郡の教育會に於て、調査委員の人々の爲に話をした、手控の三分の一ほどを清書したものである。長すぎるのと時が足らぬのとで、殘りは他の機會に公表することにした。
 
          一
 
 諸君の調査計畫に對しては、東京の方にまだ多くの同情者が居る。さういふ人たちは是からも折々遣つて來て、いろ/\意見又は忠言を述べられるであらう。ところが私はもうあまり來られない。其人たちの言ひさうなことを、さき走つて話して見るのはむだな事だと思ふから、今日は努めて自分でないと言へぬやうなことばかりを言つて置かうと思ふ。ことわる迄も無く、是は諸君の今から取掛からうとする仕事の問題なのだから、不審が有るなら何度でも聽き返して、すつかり呑込んでもらはないと困るのである。たゞいつもの通り「有力なる暗示を得た」だけでは始まらぬのである。
 問題をはつきりと把へることも、可なり大切な仕事だと私は認めて居る。又多忙を極めた諸君のやうな人々を働かせるのは、先づ十分にその必要が證明せられねばならぬと思ふ。今から十數年前、世の中のもつと悠長であつた時代に、この團體が共同に調査をした問題は、家名や地名でも、又子供の遊戯や行事でも、若者組織の實?でも、すべて一應は資料だけを蒐集して置いて、後でゆつくりと誰かに考へてもらはうといふものばかりであつた。其爲に一部の(305)資料は、まだ其まゝで私の手もとに殘つて居る。或は今頃返されても、只保存して置くより他は無いものが多いかも知れぬ。之に反して今年の事業は、利用が何よりも大きな動機であり、その爲にこそ諸君は、忙がしい中で働いて見ようとするのである。乃ちわかつたことだけは、皆當代の役に立たなければならない。この一區域の住民の氏神信仰が、現在如何なる?態に在るかを明かにするに止まらず、更にどういふ風に移り動かうとして居るかを知り、なほ出來るならば是からさき、どう改まることが期待せられ、又は要望せられて居るかまでを、考へて見るべき機會なのである。さうして其答を待つ者は、決して世間少數の民俗學徒だけでは無いのである。
 
          二
 
 もと/\是は教育者諸君に、非常に近い問題であり、是非知つて居なければならぬ事柄でもあつた。ちやうど物質文化でいふならば、生徒又はその親兄弟が、何を食つて居るか何を着て居るかに該當する生活ぶりであり、必ず何とかあるにちがひない事實でもあつた。我々の毎日耳にする道義といふものと、ほゞ輪廓を同じうする「今までのもの」、又は信仰といふ言葉さへ使はぬ人たちの、古くからたゞ抱いて居る同種感覺が、今日どういふ風に動き働いて居るかを知らうといふのである。今まで知らずに濟み、今更之を知らうとすることが、實はをかしい位の日常の知識なのである。
 信仰が戰爭には缺くべからざることを、今度こそはしみ/”\と我々は經驗させられた。我々は既に心からの祈願を始めて居る。その最も有難い御手本は、畏れ多くも大御門が夙に之を御示しになつて居る。是は儼たる一つの事實であつて、理論ではもう無いのであつた。ところが我邦の師範教育なるものは、その淵源に於て合理主義、むしろ唯智主義とも名づくべきものであつた。そんな道理は無い、それは有り得べからざることだと言はれると、もうそれですべての話は打切りになる教育であつた。事實は其通りだが理由はまだどうしても判らぬと言ふことの、殆と出來ない(306)やうな考へ方を養成して來た。人を平時に賢こくし又勇氣づけたのもこの教育であるが、今日の如き時勢に入つて來ると、すべてを理論づけようとする弊害はやがて現はれ、自分自らが先づその信じにくさを感じて、他の色々の方法で之を補強せんと試み、又聽手には我言葉を鵜呑にさせようとする。それが全くこの合理主義教育の效果と言つてよいのである。人が全能で無く、今後新たに覺るべきものが少しでも殘つて居る以上、まだ説明の出來ないくさ/”\の事實が、この非常時に續出するのは當然のことである。何だか知らぬが斯ういふ事實がある。自分には説明し得ないが、かゝる法則の行はれて居ることは確かだ。乃至は人生には隱れてまだ斯んな力が有るといふことを、率直に言へなくなつたのもこの教育の御蔭なのである。もう一度深く考へて見なければならない。
 
          三
 
 我々が知りたいのは、神は信ずべきか否かの理論では無くて、神の信仰がまだ國民の間に活きて居るか否かの事實である。この神といふのは、無論日本の神樣のことである。その信仰が古來變らずに居るか否かは、是非とも明かにしたいことではあるが、それを究める爲にも、先づ以て信仰の存在を認めてからで無ければならぬ。もちろん國民一人も殘らずといふことは言はれない。現に外來の異なる信仰に熱中する者もあり、その中には是より他のことを信じてはならぬと、教へられて居るものも少なからず、又今までの科學の教養によつて、自ら體驗せぬことは信じられぬと、きめて居る人も既に多いからである。この點がはや一つの、昔と今との同じからざる例かも知れぬが、とにかくこゝではどれだけ多くの人又は如何なる部類の人々の間に、日本古來の神の信仰が活きて居るかといふことが問題になるので、數と層との二つの條件は、國が一團となつて戰つて居る時代には特に意義がある。即ち國民の最大多數、殊に兵士を構成する常民の間に、本人とその家族とを通じて神の信仰がどの程度にまで、今も活き/\と傳はつて居るかといふことが、知らずには居られぬ重要な事實となるのである。是は必ずしも彼等を教育し又指導しようといふ(307)人ばかりの問題ではない。日本國民が自ら知るといふ機會、即ちめい/\が生れながらにして、又は周圍の感化によつて、自然に心に抱いて居る至純の感覺といふものが、果しておのればかりのものか、はた又國の隅々に行亙つて多數の同胞の均しく備へて居るものであるかといふことをつき留める爲にも是が唯一つの手段であつて、皆と一緒だといふことを知るだけでも大きな強みである。ましてや是が二千六百年よりも更に遙かなる昔から、祖先が持ち傳へて居たものと、大きなちがひは無いと判つたとすると、その悦びと誇りとは、どの位まで擴がり伸びるか測られぬのである。
 
          四
 
 神樣といふ言葉の内容が、世と共に複雜になつて行くことは爭はれない。殊に少年少女等の書物から與へられる知識では、今日はよほどはつきりとせぬものになつて居る。以前も漢學をした人々には、一つの漠然たる概念のやうなものがあつた。上帝上天といふのが神のことだと教へられると、是は唯一普遍のものであるが身の近くでは無い。人によつては是を人間味から全く超脱した、強いしかしながら冷かなる、知り難い法則の如くにも解して居る者があつて、斯うなると毎度現實の生活體驗とは牴觸するのである。我々が親殊に母親から、又は老いたる人々から、指示せられる神さまはさういふもので無かつた。眼にこそ見えね神は信心の者に示現なされ、祭を仕ふれば降つて御受けなされる。もつと大事なことは其御力が惠みであつて、是も亦縁故の有る人々に深いものとなつて居る。さういふのが神樣だと教へられ來つた人たちが、時としては「神も佛も無いものか」と歎いたり、又「神ほとけが有るものならば」と誓ひ言を立てたりするのだが、その佛の方は本を讀めば段々わかつて來るに反して、他の一方は實は有識者になればなるほど、段々に意義が不明になつて來て居たのである。
 尤も我邦で神といふ語には、始めからやゝ廣い内容があつた。或は一つ一つ、機能に別の名がついたのかとも思ふ(308)が、迷はし神とか死に神とかいふものも早くから知られて居た。お産には山の神と箒の神とが立ち會ひたまふといふ言ひ傳へも廣く、又泉の神・地の神・橋の神などゝ、色々の場合の神が想像せられても居た。しかしさういふ中に在つてたゞ一つ、何等の限定詞を添へることなくして、たゞ神さまと謂へば人にも仲間にも通ずるものがあつて、それが我々の祭る氏神のことでは無かつたか。この點を一つ確かめて見たいのである。八十萬又は八百萬とさへ唱へた神の數は國家のもので、個々の人民から見れば祭る神は定まつて居り、從つて郷社とか神の森とか、神主とかいふものは、各自に一定したものが有つたのではないか。他人の祭り仕へる神々を尊重するのが敬神で、自ら我神に祈願を掛け報賽をするのは、その敬神よりも、更に一歩を進めたものなのではなかつたか。内外二つの神に對する我々の考へ方には、少なくとも階段が有つたので無いかどうか。斯ういふ點が私には確かめて見たいのである。
 
          五
 
 それには氏子といふ名目の、どの程度まで行はれて居るかを知る必要がある。注意しなければならぬのは此語の新らしい用法で、現在の制度としては或一つの神社の下に、定まつた區域内に住む者は皆氏子とし、從つて移住によつて他の一つの神社の氏子に變るか、又は所謂二重氏子を認めるか、何れにしても今までには考へられなかつたことをさせて居るが、爰に我々の調べて見ようとするのはそれで無く、もとから氏子と謂つたものが有るか否か、又はどういふものを氏子と謂つて居たか、どうしたら其氏子になるとして居たか、斯ういふことを知つて置きたいのである。地方によつてはさういふ名が無かつたかも知れない。殊に東筑摩などは祝ひ殿さまが分立して居るから、この名目は入用が無かつたかも知れない。
 氏子は勿論氏神に對しての稱へ、平たく考へれば氏神の「子」といふことであらう。いつから始まつたかは知らぬがさう古いものでは無いらしく、前には之に當るものが氏人であつたが、何れにしても本の意は一つの氏に屬する者(309)を謂つたことはほゞ疑ひが無い。さうで無ければ氏名の生ずるわけがないからである。氏神の最初は明かに一氏一神であつた。原則としては始祖高祖を神として祭つたやうだが、次々には他の神を祭つた氏神も出來て居る。多分はその家の祖神の在世の日に既に祭つて居た神を祭ることが、祖神を祭るのと同じと解せられた結果であらう。ところが村といふものゝ進化に伴なうて、異なる數氏の氏人がその氏神を合同し、或は最も力強い一つの氏族の神を他の幾つかの異姓が共に祭るといふことになると、先組を祭つたものよりも此方が認められやすかつた。それが村々の現在の氏神社が、中世以前に氏神と謂つて居たものと、全く別ものゝやうになつて來た原因ではないかと私は思つて居る。勿論是はたゞ一つの推測であつて當るか否かもすべて今後の調査によつて決する。諸君の仕事は一郡に限られて居ても、斯ういふものが段々と積み重なつて行けば、やがては國總體の今もまだ決しかねて居るものを、明かにする力になるのである。自重しなければならぬ。
 
(310)   教育の原始性
 
 日本の原始的なシツケの問題に、始めて注意させたのも日本民俗學、是をわかり易く解説しなければならぬ責任も、到底他の文化諸學に轉嫁することは出來ない。平たく言ふならば、現在はまだ第二の方法が無いからである。
 どんなシツケを我々の祖先が受けたかといふことを、文書に書いて殘した人は殆と無いと言つてよい。たま/\逸話のやうなものは文章になつて居ることが有るかも知らぬが、それだけから擴大して古いシツケの方式を説かうとするのは危險だ。それで今日は既に衰へ、又は頗る省みられずにあることを知りつゝも、やはり現代人めい/\の體驗を反省し、又綜合して見る必要があるので、それをする學問といへば、我々の民俗學より他に無いのである。
 シツケといふ言葉は、一方に田畠の作物の栽付けなどに使はれ又はしつけ奉公などといふ名も有つて、本來は人を一人前にするのを意味したこと明かなるにも拘らず、他の一方に私たちは、親に叱られ又往々にして罰せられることをシツケだと思つて居た。さうして子供などが是を眞似て「いぢめてやる」といふ意味に、シツケルといふやうな方言さへ出來て居る。どうして斯うなつて來たかといふことは、大切なる觀點ではないかと思ふ。即ち今ある學校の教育とは反對に、あたりまへのことは少しも教へずに、あたりまへで無いことを言ひ又は行つたときに、誡め又はさとすのが、シツケの法則だつたのである。小さな頃から我々は自分の眼耳又は力を以て、この當然なるものを學ばなければならなかつたのである。さうして是には今日のコ目のやうな語は具はらず、たゞ心持を以て會得して居るものが多かつた。即ち日本の傳統には、文字は勿論口言葉にも表はされないで、黙々と傳はつて居るものがあつたのである。
(311) 前代のシツケの教育が引込んで、是に代つて新らしい手を取つて教へる教育が起つたと思ふのは誤つて居る。シツケの最も盛んだつた社會でも、書物は固より精巧なる技藝や、天然現象の理解その他のやうに、積極的に言つて聽かすものが多かつたと同樣に學校萬能の當世に在つても、なほ親々や世の中總體から、與へられるシツケは幾らも有る。たゞそれを日本の知識階級が注意せず又それを訓育の最も古風なる一方式だと思はなかつただけである。結果から見れば國民は一人として、この表裏陰陽二通りの陶冶を受けて、大きくならぬ者は無いのである。
 だからシツケの歴史を明かにするといふことは、決して過去日本人の生活を考へることでは無い。未來の百千年にかけて、この一つの教育法をどれだけまで應用し、又效果づけるかといふ問題の爲であり、更に現在の弱點にあてはめて言ふならば、是に環境だの感化だのといふ漠然たる名を付けて、折角千年も二千年も續き又進歩して居る人の育成方式を、何の統一も無く又亂難なもののやうに、速斷せしめない警戒の爲でもある。この一點だけからでも、日本民俗學はもつと苦闘しなければならない。
 
(312)   木曜會だより
 
 民間傳承の再興に際しては、何よりも前に戰中戰後、諸君が學問の繼續のために、どれくらゐ苦慮せられたかを聽くのが人情であるが、その答へは自分たちの場合から類推して、さう晴れやかなもので無いことも想像せられ、それを尋ねるのが何と無く氣が重い。つまりは戰亂は日本民俗學にとつて、どのみち幸福な刺戟だつたと言へないのである。しかし兎も角も我々は活き殘つた。さうして新たに以前の會員に對する信頼が、少しも裏切られなかつたことを經驗する機會を得たのである。この悦びを再出發の勇氣として、爰で一つ働かなければならない。
 近來は或はたゞの購讀者の氣持を以て、參加した人も少しはあつたか知らぬが、大體にこの會の同志はよく協力して居る。いつも會報の紙面の三分の二近くは、會員自發の報告類を以て充され、寧ろ彼等が編輯の方針を指導する姿があつた。
 世話人たちは樂といへば樂だつたらうが、時勢の影響は其爲に至つて大きく、果して世が改まつても元の通りに、榮えて行くかどうかの氣づかはしいものがある。幸ひにして其點は受合つてもらふことが出來たけれども、さて是からさきも今までの行き方だけで、安心して居られるか否かが問題にならざるを得ぬのである。
 最近の木曜會に於ては、誰いふと無く、是からどうして行けばよいかといふことが、一同の考へ込まねばならぬ話の種になつた。採集記録の集積といふことは、民間傳承の主たる事業であり、又唯一の樂しみといふべきものだつたが、是にはどうやら茲で一つの區切りが付いたやうな感じがする。第一には旅行の甚だ六つかしくなつたことで、新(313)らしい土地を目ざして故老を訪ひ寄ることが、在京者は言ふに及ばず、地方でも中々企てにくゝなり、その故老の數も亦歳と共に凋落せんとして居る。觀察はもちろん深く又鋭どくなつて居るだらうが、一つの土地に坐り込んで、朝暮に見聞を續けて居る人たちには、何と言つても資料が手薄になつて、水甕でいふならば柄杓のから/\と、底に觸れる音を聽くやうなのも稀なりとしない。よその採集に對する關心は先づ衰へて、後にはことさらに奇を好むやうな、道樂じみた傾向も現はれて來ぬとは限らぬ。それは今まで我々の、極力避けようとして居たものであつた。この忙しい大切な時代に、さういふ讀物が又一つ數を加へるのは、無益といふ以上に有害でさへ有るかも知れぬからである。
 そこで橋浦君等にも話して同意を得て置いたことだが、今度は改めて會の事業を、幾分か擴大してやゝ間口廣く、又複雜にしてかゝる必要の有ることが考へられる。採集は素より怠るわけには行かぬが、それを大よそ目的を持つて遂行する爲にも、是までに既に集まつて居る資料を、ちつとでも多く利用することを心掛けねばならぬ。初期の東京人類學會誌以來、我邦に於て見られ聞かれた民間傳承の事實は、考へて見るともう可なりの數量に達して居るのだが、それが今なほ案外に、我々の共有財産として役立つて居ない。そんな古いものは捜し出せないとしても、近い處のものでも殆と皆忘れてしまつて、時にはちやんと手帖につけて置きながら、始めて知つたやうに珍らしがる場合が自分たちにもあり、從つて毎度むだをして居る。前年この會で計畫實行した分類民俗語彙の敷册は、さういふ無益な重複を防ぐ爲に、今までの採集結果を載録して、索引ですぐにわかるやうにして置かうといふ企てゞあつたのだが、當時まだ微力で頒布の部數も少なく、又持つて居る人もまだ存分に利用して居ないのは、是でも範圍がなほ廣きに過ぎたからであらう。もつと自分に適切な問題を限つて、それだけは空でも覺えて居るやうに、さうして新たな資料への渇きと印象とを濃くするやうに、なつて行くのが理想だと思ふ。斯んな小さな會報でもその一部を割いて、以前の妖怪語彙のやうなものを連載して行く方法はあるが、それでは何時になつたらめい/\の入用な部面にまはつて來るかわからぬ。やはり各人が最も興味をもつ區域をきめて、それだけは責めてカードを作り、各地の會員が三人五人、互ひ(314)に問題とするものを知らせて置いて、援け合ふやうにしたらきつと面白い結果が擧がるであらう。會員名簿は物賣りの通信廣告に惡用せられるを恐れて、わざと久しく所番地を出さぬやうにして居たが、幸か不幸か郵税がべらぼうに高くなつて、もうさういふ心配が無くなつたから、早くそれをこしらへて入用な人に分つことにしてほしい。といふわけは兼て知つて居る近隣の土地よりも、ちよつと行くことも出來ない遠隔の處の同人と、知識の交換をする方が興味も深く、又得るところも多いだらうからである。
 ともかくも今まで我々が辛苦して、拾ひためた民俗學の資料が甚だ利用度の低い?態に在ることは、この際殊に考へて見なければならぬことである。私などは早くからの閑人で、何でも一通りは皆集めて置かうといふやうな計畫も立てることが出來たが、それでもやはり仕事が年齡にあまつた。中央に一つさういふものさへ備はつて居れば、各人が同じ勞苦をくり返す必要は無い。つまり會員が仲よく分業を精確にして、且つ共同に一つの研究を成立たせようと志を持つならば、たとへ久延彦の如く足一歩も村の外を踏まずとも、なほ總國の爲に學問を前進させて、過去文化の知解を有效なものとすることが出來る。さうしてそれに必要なる協力を、我會の諸君に期待することは、決して夢のやうな不可能事ではあるまい。事柄が第一至つて自然なる平和時代の社交に屬するからである。
 條件はたゞ一つ、何を相手の人々が問題にして居るかを知つて居て、いつでも思ひ出し又助けようとすることである。さうすればきつと自分も亦助けられる。かつて私はこの會報の中に、小さな問題の登録といふことを説いて見た。登録も一つの方式ではあるが、數が多くなると輕く看過されやすい。それよりも僅かづつ、自分の問題に興味をもつ人を、普通の書信によつてふやして行く方が簡便かも知れない。日本ではずつと以前からも、友を遠方に求めて一生涯、知識の交遊を續けた人はたくさん有つた。新井白石とか大田南畝とかには、さういふ書簡を丹念に保存したものがあつて、版になつて世に傳はつて居る。明治の時代にも其例はずつと増加したが、時々はその知識が偏し、又は一方の人のみが利益を得ることになり、もしくは趣味が似過ぎて張合ひになり、いはゆる同好の間柄には、氣まづい仲(315)たがひも有りがちであつた。始めから手分けをして行けば二人で二つ、五人で五つの課題を進めて行く望みがある。たゞそれには根柢に於て學問の統一を認め研究が一世を代表するやうな、適切なるテーマに向はなければならぬだけである。
 斯ういふ氣づかはしい世の中になるまでは、我々の事業にもたしかに一部の遊びがあつた。殊に私などは舊來史學の有限性に懲りて、やゝ反動的に問題の前面を擴げようとした。いやしくもこの民族の過去世の生活に關する限り、如何なる問ひにでも答へられるやうに、即座に答へられずとも追々にその答へが得られるやうに、用意することを以て民俗學の目途として居た。さうなることを厭ふ理由はさら/\無いが、やはり緩急の順序を立てゝ、目前に有益なるものを先にする必要はあつたのである。誰がその順序をきめるかといふことを、もとは考へる人が少なかつた。從つて學者が氣まぐれな、又我儘な選擇を許されたのであつた。ところが今度といふ今度は疑問百出、大は何故に國が敗れたかといふやうな、百年かゝり切つても釋けないものから、小はなぜ我々は飢ゑるかといふ、毎日の最近世史まで、民俗學でならば答へられさうなものと、人から思はれて居る題目が山とあつて、根據も無い假の解説のみが、大手を振つてあるいて居る。さういふ中から自分ならば是を先づといふものを受持つて、ちやうど間に合ふうちに何人もうなづくやうな答へを出さうと、志ざすとすれば今が潮時である。何でもござれといふ風に手を擴げぬ方がよい。あまり早急でも無く、さう氣永にもして居られぬといふ、好い現實の問題は行く手に轉がつて居る。徒らに流行の跡を追はぬやうに、分業と協力とを併せ進めて、結局はこのすべての過去に對する疑惑を、ほゞ明確な歴史と變形して見たい。といふのが我々の新らしい願望である。
 その願望が頗る夢に近く、聽いて危ぶみ又嘲る者が多いといふことも、考へやうによつては一つの仕合せである。何が出來るものかと始めから高をくゝり、相手にせぬ者は是は縁無き衆生である。ちつとはいぢめる積りか何かで、然らばこれは如何、斯ういふことも民俗學で判るかと、問ふやうな中にもなほよい問題があるかも知れぬ。ましてや(316)在來の歴史教育に望みを絶ち、常民の經驗の今まで省みられなかつたものを、物ずき同然に調べて居た學問が、存外に多く答へてくれるのかも知れぬと、半ば望みを掛けて居る人が今日は次第に増加しつゝある。彼等の試みこそは難題として忌避してはならぬ。しかもなほこの方の眞の能力に對して、正しい理解をもたぬ人の問ひには、常に受身にばかり立つては居られない。我々の仲間は寧ろ彼等に代り、又は汎く一世の惱む者に代つて、一見不可能なやうな疑問までを取上げて、志を同じうする者に打當り、互ひの能力を試して見るやうにしなければならぬと思ふ。未來を測定するまでは民俗學の領分でないが、その學徒であるが爲に我々は未來への關心を棄權しない。今は力の限りその未來への計畫の爲に、入用なる過去知識だけを、先づ精確にして置くべき時節ではないかと思ふ。
 雜誌は小さいのに言ふことだけは大きい。しかしこの方向に進んで行く限りは、雜誌其ものも今に大きくなるであらう。十年以來の私たちの願ひは、早く一方に純學問的な學報を、せめては年一囘づつでも出して行き、やがては日本民俗學會といふ名を名のつても、少しも笑はれないやうな團體に成ることであつた。諸君の研究が終に實を結んで、立派な論文の民間傳承には載せて置けないものが、幾つか集まつて來れば今でもそれは出來る。たゞさうするのには準備がいるのである。或はその前に簡單な民俗學教本が、三つも五つも世の中へ送られて、それが段々に選擇せられ、又改良せられる時期があるのではないかと思ふ。我が敬愛する會員諸君が、進んで其トーナメントに加はり、切瑳琢磨せられんことを私は希望する。單なる樂しみの讀者といふものは、老人とか少年とかの一部に、今は制限して行くべき時代ではなからうかと思ふ。
 
(317)   民俗學研究所の成立ち
 
 是までに出來て居る研究所の幾つかの畑に依ることの出來なかつた理由は色々ある。先づ第一には民俗學には既成の學者、出來上がつた人といふ者があまりに少なく、私を始め何れも研究の半途に在り、うつかりすると後戻りさへしかねない。その原因としては間口の廣過ぎること、從つて綜合の容易でないこと、是が第二の理由になる。しかも第三の理由には是では甚だ困る、目下世の中の要求は非常に差迫つて居て、ゆつくりといつでも出來た時でよろしいといふ樣な、氣の永い御注文では無いこと。この少なくとも三つの理由が有る故に、少し無理だつたが急いで旗揚げをしたのである。
 この第三の理由は諸君もすでに御認めであらう。日本の普通教育にはこの四月から、小學校の歴史科が無くなつた。戰爭がもたらした最も大きな結果の一つである。是に代つて設けられる社會科といふものは、米國などの例を聽いて見ると、あんな新國でもやはり歴史を包含して居る。三つの構成分子といふことが明示せられて居る。つまりは我邦の「歴史」といふ名稱だけが除去させられたので、實質上の歴史を子供に教へてはいけないといふ意味では無いのであつた。しかし世の中には誤解する者が多いかも知れない。誤解はしなくとも、何を如何に教へたらよいのかを、考へ付かぬ人は更に多いかも知れない。ところが我々の仲間だけはもうよほど以前から、政治史戰役史等より他の歴史、國民全體が今のやうな生活ぶりをすることになつた由來といふやうなものを主として尋ねて居た。是は一方の政治史などとちがつて、記録文獻といふものは至つて乏しいものだが、無ければ又無いで別の資料、別の方法を以てかゝれ(318)ば判つて來るといふことを信じ、その實驗を續けてやゝ成績を擧げて來たのである。勿論半信半疑の人も多いのだが、ともかくもそれを試みに言つて見ないかといふ注文が、忽然として諸方から集まつて來たのは自然である。危ぶまれることは嬉しくもないが、こちらは是でほゞ社會科の全部がまかなはれる位に思つて居る處だから、是を自分等の立場を説くまことに好い機會だと、悦ばずには居られないのである。
 今からもう十年餘りも前から私は民俗學を師範學枚の隨意科目にして見てはどうかと提唱して居たのだが、とかく邪魔が入つて實現しなかつた。是が行はれて居たら本も色々出來、又上の學校に講座も設けられて、專門家を作り出す因縁にもなつたわけだが、實はあの當時の事情としては、さういふ需要が生じても、まだ推薦し得る教師が少なく、且つ資料も足らぬだらうと、内々恐れをなして居た爲に、勢ひこちらの主張もさう強烈では無かつた。それが今度はもう先方もこちらも、そんないゝ加減なところにとまつて居られなくなつたのである。
 民俗學研究所の計畫も是と同樣に、弱腰ながらももう十年前から始まつて居る。昭和十年以降三四年に亙つて、日本學術振興會は私たちの希望を容れて、民俗調査の爲に三萬圓ばかりの補助を支出してくれられた。それを旅費にして全國五十以上の山村、三十幾つの島や海岸の村へ、同じ質問要項の手帳を携へて、十何人の同志がやゝ長期の調査に出かけた。我々の間では是を同時採訪とも積極調査とも名づけ、今まで受身の有合せの資料のみをあてにして居た慣例に、一つの大變革を與へたものとして、之を記念すべき一時期と見て居る。さうして其際にも何か共同の名が無くてはならないからと謂つて、我々はこの團體を郷土生活研究所と稱して居た。今度の民俗學研究所は形からいふと、是が成長して斯うなつたものと言ひ得るが、事業の内容は今のはあれとよほどちがつて居る。
 十年前と比べると、今は資料が著しく集めにくくなり、又若干は滅失しても居る。しかし其代りには、かの同時採訪が機縁となつて、その後の十年間に集まつて來た資料が可なりまとまり、又片端は整頓せられて居る。今日は寧ろその資料の利用が進まず或はそれを知らずに同種の勞苦をくり返し、又は全部を見ないで不精確な推論を下す者さへ(319)多くなり、一方兵火の災にかゝつて資料は再び散佚し、之を利用することが前よりはよほど困難にもなつて居る。少くとも中央に一つ比較的完全に近い材料置場があつて、それが出來るだけ利用しやすい?態に在るといふことを、今度の研究所の目的の一つに、しなければならぬ必要は新しいものであつた。
 
 單に此學問を普及する、又は關心を抱く人々を多くするといふだけならば、今のまゝで居ても望まれぬことではない。たゞ愈專門にこの爲に働ける人を出さうとすると、是だけではどうしても足らない。それで第二のより大きなる目的として、此點を研究所が考へなければならぬのである。西洋のどこの國でも大體に似たりよつたりであるが、フオルクロアといふ學問は始めは素人の間に起つた。別に職業のある者が片手間に、一生かゝつて或ところ迄達すればよいといふつもりで皆やつて居る。早く開けてしまつた資料の乏しい國ならばそれも是非も無いが、日本は急激に外國かぶれした國だけあつて、資料も豐富であり、系統だつた採集も決して困難でないのだから、さうあきらめてしまふには早く、一方には又ちやうど之に由つて得られるやうな文化知識の殘留に缺けて居り、それを急いで補給しなければならぬ國でもある。現實の需要が無くてさへなほすゝめたいと思ふことが、ちやうど世の中から求められ始めたのである。義理にもたゞの趣味人、ヂレッタントを少なくし、指導の出來る人を多くしなければならぬ場合である。そこで我々は型破りといふことを承知の上で、その研究員を作り出すことを主たる事業としなければならぬのである。
 さういふ立場から考へると、生活費の保障もまだ出來ないのに、研究所を開いて研究員を入れるといふことも、さう理窟に合はぬことゝは言はれないと思ふ。彼等が實際にこの團體から期待して居るのは、援助であり忠言であり激勵であり又時としては指導養成であつて、それだけの用意は少なくとももう出來て居る。勿論片手間仕事ではさう早い成績は擧がらず、短い期間に物にするには彼等に衣食の苦勞をさせぬに限るが、それが可能になるのを待つといつて、又數年を空しく過すことは出來ない。それ故に發起人等の腹では、この先一人分でも二人分でも、さういふ豫算(320)が立てばそれだけづつかゝりきりの研究員を置くべしと考へつゝも、それが出來るまでは研究所を開かずに置かうといふ氣にはならぬのである。其上に彼等はさういふことの出來る日が、存外近く來るものと樂觀して居る。この最初の一年にも、すでに日本學術振興會と、農林省綜合農業研究所との兩方から豫期以上の援助を得て居るのだが、勝手なことをいふならば、是はいはゆる既成の學者に、新たなる一つの業績を加へさせようといふ尻押しで、やがてさういふ仕事の出來る人を今から造り出さしめようといぶ迄の動力でない。具體的にいふと一年こつきり、こちらは少くとも五年間は脇目を振らずに、一つの途を進ませて見たい故に、それに入用な經費をまだ慾深く捜さうとして居るのである。
 財團法人といふものゝ未來に就いては、諸氏も多分もう御考へになつて居るであらう。金利がどうなるか預金がどうなるか未定であり凍結とか封鎖とかといふ怖ろしい言葉が常用せられる今日、大きな基金を積んで其のあがりで食つて行かうなどといふことは、なんぼ公益團體でも望まれぬことなのかもしれない。事業の永遠性、無盡思想などといふものは、もつと秩序の安定した社會でいふべきことである。私はむしろ先のない老人だつた爲か、そんなに先の先まで見越す必要はあるまいと、早くから考へて居たのである。斯ういふ事業は有期で結構だ。永くて二十年、早ければ五年ぐらゐで使ひ切り、それでもう自活が出來るか、もしくは永續の必要が新たに認められるやうでなければ、一旦打切つた方が却つてよいとさへ思つて居る。何れ法人制度などは近く改められるであらうから、先づそれまでは活きられるだけ活きて見るといふ主義で、この研究所なども經營させて見たい。
 
 今一つこの序に私一個の經驗を述べたいのは、民俗學の資料は動植物學ともよく似て、都會よりも村里、平地よりも山間海角に多く現存する。旅行の容易で無くなつた今日は勿論、さうで無くとも少しでもこの資料の所在に近い處に居る人がこの研究を續けやすい。之に對する故障としては、田舍は刺戟の乏しいこと、早く得意になりやすいこと、(321)今日では又話が聽けず本や印刷物が集めにくゝて、正直な人ほど自信がもてなくなり、從つて早く斷念してしまふこと等、それもこれも僅かな中央からの援助によつてへ救はれ得る場合が非常に多い。それをこの研究所は極力遣つて見ようとして居るのである。ところが是に一番大きな妨げになるものは通信料金のべらぼうな引上げで、私などはつく/”\と是が非凡なる惡政治だといふことを感じ始めて居る。紙や印刷費の方はまだ一時的のもので、やがて復舊する見込もあるが、郵税の方はまだ當分の間災ひするであらう。決して自分たちばかりの利害からで無しに、もう少し物のわかつた政治家の、權力を持つ時代を待望せざるを得ない。
 
 話は長くなつて恐縮だが、諸君の聲望に據つてこの研究所の信用を世の中に高めようとするには、もう少し細かに研究所の活計、小さいながらに正しく活きて行けるといふ實?を述べて、世話人たちの責任を明かにして置きたい。豫算の歳入は今年は參萬圓、そのうちにはすでに同人間の醵金も若干はあるが、それよりも大きく當てになるのは出版收入で、本年はもう二、三種のものが出かゝつて居る。以前から民間傳承の會で出したものにも、重版の可能なものは數種あり、又郷土生活研究所時代に出すべくして、まだ出ずに居るものもあり、現在計畫中で次年には多分出來るものもある。是は學問の普及と併行するもので、研究所がよく働けば多く賣れる。勿論精選はしなければならぬが、良いものが出れば追々賣れ高が増加し、しかも現實に勞力を提供する人々を搾取するやうなことは無いつもりで居る。さういふ中で一つ、私の十年前から樂しみにして居るのは民俗語彙、是は分類の形でもう十一種まで出して居るが、その一つ/\は部外の人々にも熱心に求められて居て、その全部が今日は絶版で、古本相場が極端に高いので二つ三つは増補版を出す計畫がある。殘りの七、八種も出揃つてしまふと、まとめて一部の綜合語彙と爲し、之を次々に改訂増補して、結局は現存の民俗資料の完全なる臺帳とする考で、是は事業としても研究所にふさはしく、同時に又毎年の經常費と、プラス若干の豫備資金を作り出す、樂しみな勞作にもなることゝ思はれる。あんまりちつぽけな事な(322)のでくだ/\しくは説かうとせぬが、是は決して内幕でも策略でも何でも無く、尤も男らしい文化團體の社會に對する公約のつもりである。一つの危險は仲間割れによつてこの研究所の活動力の鈍ることであるが、仕事が調子よく進みさへすれば、大抵のいざこざは吹飛んでしまふものと信ずる。願はくは諸君の同情と力とによつて、創業期の勞苦を忘れ、一方には又少しでも世の中からの反應を早めて、一段と我々の希望を確實にしたい。是が私の尤も切なる願ひである。
 
(323)   民俗學研究所の事業に就いて
 
          一
 
 多年の宿望の如く、民俗學研究所も愈財團法人となつて獨立しました。小生は外に在つて存分の聲援をする趣旨から、わざと理事にも所長にもなつて居りません。今度は改めてこゝの事業の進展ぶりを批評しなければなりませんが、それにも一通りは當初の計畫、寧ろ野心ともいふべきものを陳述して、參考に供する必要があります。
 申すまでも無く研究の持續、その成績が一日も速かに、時世の艱苦を超克することが、主たる目途であることは他の研究所と異なるところは有りませんが、たゞ一點の特色として、この日本民俗學といふものゝ成立ち、及びその今日の?態が、聊か力の入れどころをちがへさせて居るといふことを、明かにして置かなければなりません。
 現在の民俗學徒は、すでに相應の數になつて居りますが、その半分以上は都府には住んで居りません。それは問題への關心が先づ田園の間に起り、それを解決すべきくさ/”\の資料も、まだ地方に散亂して居りまして、之を集拾整理する作業が僅かに個人の手で始められたばかりであつた爲で、つまりは笈を負うて中央に留學するの必要が無かつたのであります。飛び/\に地方に孤立する同志たちの境遇は、戰時中は殊に落漠たるものでありました。中道にして沮喪した者も少なくは無いやうであります。一部の資料書籍は散佚したのみならず、研究の便宜は戰後になつても、まだ些しも補充せられて居りません。是をしもなほ忍耐して、志を學問に絶たなかつた人々は、將來に向つての貴重(324)なる種子であります。如何なる方法を講じてもその事業を大成せしめなければなりません。祈究所の創立が夙に其必要を認められたのも、主たる理由の一つは茲に在りました。
 
          二
 
 中央に於ても、民俗學はもと民間布衣の學を以て目せられ、いはゆる恒の産無き者の、全心を之に傾くることを許されぬものゝ如く、考へられて居りました。この學問の社會的需要がほゞ一般に承認せられてから後も、なほ舊習に因つて功程の遲々たることを患とせず、素質の優れた者までが、一生に一つか二つの小さな研究を成就すればよいといふ樣な、悠長なる氣持を持ち續け、從つて又結果に於てたゞの道樂と擇ぶ所の無い實例が輩出したのであります。是もこの學問の一つの長處と見られ、將來の餘裕ある勤勞者の間から、先づ多數の支持者理解者を招き入れるのも、斯道からであらうとは思ひますが、もし萬人が皆この態度をもつてかゝるとしますれば、四分五裂どころか民俗學はやがて衰頽してしまひます。如何なる手段を表してゞも、是非とも中堅を樹立し、公議を綜合して進路を明かにするだけの道を設けなければなりません。專門の研究者を育て上げて行かぬ限り、幾ら民俗學會を作つても、今の多數の學會がさうであるやうに、徒らに會報購讀者の群を、まとめたに過ぎぬことになるだらうと思つて居ります。
 志を立てゝ專念にこの學に進まうとする人が、今日までは實際甚だ乏しかつたのであります。それ故に地方の同學の擁護支援の爲にも、先づ最初に中央の研究員を、後顧の虞無く純一に、この一つの學問の爲に働かせるやうにしなければなりません。是が私などの夢想して居た、民俗學研究所の新事業でありまして、今や幸ひにその夢は實現しようとして居るのであります。
 最初は恐らくは少しの人員しか收容する力が無いと思ひます。之を増加するには設備の擴大が先づ條件であり、又その必要もたゞ徐々にしか現れて來ませんが、何か好い機會があつて研究所の能力が加はつて來ますれば、それを遲(325)滯無くこの方面に利用し得るやうに、豫め用意をして置かなければなりません。とへば中央の研究員も甲乙に分ち、乙種は自力で生活を續けつゝも、次第に全部の時間を專門の研究に費し得るやうにして行くといふ、方法を立てるのがよいかも知れません。養成の問題は是とからみ合つて居りまして、この點でもよそで大きくした人を呼んで來ることが出來ぬといふ、一つの特殊性をこの研究所はもつて居ります。
 
          三
 
 研究所の事業は、必然に地方と交渉をもつものが多いことゝ思ひます。都市自らの社會傳承も、今までのやうに冷淡にして居ることは許されませんが、我邦だけでは町の住民の構成から考へて、地方に根ざさぬ民俗はごく少ないのであります。田園生活の精確なる知識は基礎であつて、それが現在はまだ半分しか踏査せられて居ないのです。折角企てられた全國の同時調査は、歎かはしい故障によつて中絶しました。さうして十年足らずの空間に世相は一變し、素人の表面採訪は功を奏し難くなりました。再興の機運は漸く萌しつゝも、之を利用する準備はまだ我々には整ひません。地方研究者の分布には偏よりが有り、大切な保守地帶の其調査圏外に在るものが、氣がもめる位に多く指摘せられて居るのであります。今日の當局の交通政策は、全國の交通を阻碍せんとするかと、疑はれるものばかりであります。いつまでも一級の政治家の出現を待つては居られぬとすれば、かゝる難局に對しても、なほ研究所は奮勵しなければなりません。是が相應に苦しい負擔であります。
 一つの方法はやはり現在の地方研究員の助力を借ることでありませう。勿論どこまでも彼等の利益を本位としなければなりませんが、この人たちが學問に一段の興味をもち、今よりも更に活?に注意の目を働かすやうになれば、その收穫はおのづから我々も之を分つことが出來ます。それ故に全體の利害から見ましても、この各地の同志に對する援助は、十分に緻密且つ懇切なものでなければならぬのであります。
(326) 大體に今からでも豫測し得られることは五つほどあります。其一つは研究の批判、新に取上げたテエマに就いては勿論、前から續けて居る研究であつても、もし意見を問はれるならば、遠慮の無い苦言を呈することであります。問題があまりに小さいとか、聊か好事に過ぎるとか、それよりも一層適切で早く解釋に近よるべきものが他に有るとか、場合は幾らも想像し得られますが、實際に最も多く起り得るのは、既に同種の事項について、或程度までの研究が進んで居ることを知らず、重複して又初めからそれを繰返さうとして居る場合で、是を注意することは自他の爲の利益であります。題目の選定に際して特にこの批判は必要でありますが、進行の中途に於ても疑問は有り得ます。是から新たに民俗學の同志に加はつて來る人に對しては、その豫備知識や熱心の度を知る爲にも、研究所の批判は十分に親切なものでなければならず、又責任も重いのであります。相當愼重な手續を履むべきであらうと思ひます。
 
          四
 
 地方の研究員の要望するであらう第二の援助は、資料の供給であります。民俗學の書籍はたゞ雜然と多く、又?一般の刊行物の中にも、參考になる記事がまじつて居ります。それを殘りなく揃へてかゝることは固より出來ない上に、捜せば見付かるかもしれぬといふ心當りはあつて、利用すべき圖書館は全く備はつて居りません。さういふ要求のすべてを充すことが出來なくとも、之を充すといふことを研究所の理想として置いてよいと思ひます。最初に不足なのは人の手であり、次には參考書の數量と、索引の便宜などでありませうが、此等のものは研究所の力さへ加はつて來れば、徐々にでも完備に向つて行くことが出來、なほ後々はこちらから進んで、當の本人がまだ氣付かずに居る資料まで、送つて悦ばせることが出來るかと思つて居ります。
 第三には國の端々に、互ひに扶け合ふ知友を見つけさせる援助であります。さういふ問題ならば何某氏が詳しい。あの地方の事が知りたければ誰に頼んだらよからうといふ類の助言も研究所なら與へられますが、それよりも各人の(327)研究項目を一目で知るやうな登録制を設けて、寧ろ進んで氣の付いた方から知らせるまでの、慣習を作つたらさぞよからうと思ひます。この事は以前も何囘か試みたことがありましたが、一部に我儘な、自分は何も與へないで、やたらにつまらぬ事で相手に迷惑をかける人があつて、つひに返事の無い場合を多くしましたが、それでも此縁で遠方未見の人々が、今に音信をして居る例は少なくはありません。研究所が仲に立つて世話をすれば惡用は少なく、調査旅行の省略までは出來なくとも、互ひに自分の研究の刺戟になつて、割據自得の陋態には陷らずにすむでせう。地方に孤立する學徒の流弊の一つは、是によつて濟ふことが出來ます。
 第四の援助は又一段と重要なもの、即ち各人の研究結果を、社會と繋ぐ方法であります。研究所が仲に立ちませぬと、地方の研究成果は埋没してしまはぬまでも、?不釣合な公表に終ります。俗勢力のある者だけが立派な本を出し得るので、折々には人を誤つた判斷に導くことがあります。研究所は學問の權威の爲に、努めて眞率なる判斷を下す習慣を付けなければなりません。あんまり微弱なものは忠告して、再び出なほさせるやうにするとよいのですが、それまでは出來なくとも、單に記録として其まゝ保存するもの、何か中央の雜誌に仲介してよいもの、紀要に掲げて學界に頒つもの、及び單行本として世に送るべきもの、この四つの階級には分けてよいかと思ひます。問題が民俗學の範圍に屬する限り、其判別をすることも明かに我々の研究のうちであります。
 終りになほ一つ、第五には物質上の援助といふことがあります。是も研究所に金が出來るか否かゞ條件でありますが、少なくとも一部の經費は補給して、この學問をする爲に損をさせぬやうにだけは心掛くべきであります。政府その他の外部の補助には、研究所の意見を參考とするものもあり、又用途を指定した寄附金も必ず有ることゝ思ひます。斯ういふ機會を最も有效に、我々の事業に活用したいものです。
 
(328)          五
 
 資料の完備といふことに就いても、研究所のなほ大いに働かねばならぬ區域があります。第一に外國の同種及び關係諸學の文獻などは、最初から決して豐富とは言へないのですが、最近の十數年は全然その供給が杜絶して居りました。是を集めて行くことは中々の大きな仕事であります。我々は少しの餘力をも是に向ける他に、なほ同情ある内外の援助に期待しますが、其爲にもやはり同情に値する成績、殊に今あるものゝ十分なる活用によつて、もつと耀かしい研究の結果を示さなければなりません。
 今まではまだ檢索手段の不備なる爲に、遺憾ながら資料の全部を使ひこなすことが出來ず、寄つてたかつて同じ一つの隅ばかりを、つゝ突いて居る嫌ひがありました。さうして國内の文獻の方は、不足をかこつよりも寧ろ利用の困難を克服しなければならぬ?態に在ります。前年來つゞいて出版した十一種の分類民俗語彙は、其對策の一つでありましたが、初版は夙に賣り切れ、之を増補改修すべき資料は、何れも倍近くもたまつて居ります。是からの研究所の事務としては、是等の第二版を編輯刊行すると共に、なほ他の部類の未だ公けにしないものに及び、更に之を基底として日本の綜合民俗語彙を纏め上げてもらひたいと思ひます。この語彙の總敷は、恐らくは六萬語内外、是が備はれば可なり學徒の捜索の時間を省き得るのみならず、需要は廣く社會科學の全般にもあつて、僅かながらもこの法人の歳入を増すことが出來るかと思つて居ります。是に委員を設けて毎年の改訂を重ねて行き、もはや格別の追加を必要としなくなつた時が、民俗學の進出の愈軌道に乘つた時と見てよいので、遲かれ早かれそれは必ず到來しなければならぬのであります。
 但し是が完成を期するには、前にも申した如く、なほ國土の總面積の約半分を跋渉しなければなりません。その未調査地帶には、或は今まで注意せられなかつた意外の事物名稱、又は全然新たなる解説の、潜んで發見を待つて居る(329)ものが絶無とは言はれませんが、大體に於ては既に知られたものゝ分布を擴げ、珍しい一隅の例と見たものを尋常とし、又は存在を確認するまでのものが多いかと思ひます。たゞ是によつて我々の解釋は非常に進み、安心して前代日本人の生活樣式の次々の變轉が説けるやうになり、從つて又是を足場に、四周の諸民族との親近性を、推究することも可能になりますから、是だけはたとへ各地の篤志家の手を煩はすにしても、中央の研究員たちも是非とも干與しなければなりません。以前の採訪に比べますと、最近は一般に古い生活振りが消え薄れ、又はやゝ深部に沈んで居ると思ひます。新たなる地方觀察には、或は若干の豫習をしてかゝる必要があるかも知れません。
 
          六
 
 是からの採訪は、以前に比べると頗る貴重なものであります。其效果を十分に收めようとするには、こゝで我々は一苦勞しなければなりません。過去六十年ばかりの間に、各方面で集められた資料は、決して僅かな分量ではないのですが、不幸にしてそれは皆非常に埋没しやすい?態に置かれて居ります。同じ事實を二度三度、前のを知らずに同じ土地で採訪し、しかも却つて不精確になつて居るものさへあります。時には心もとないものを確かめるといふ利益もありますが、それにしたところで大部分の徒勞はして居るので、人が一通りの豫備知識をもつて觀察に取掛かるのと、價値に於て大きなちがひであります。是だけのことはもう判つて居る、既に證明せられて共同の知識になつて居るといふことを、一目で知ることが出來るやうな方法さへ立つて居れば、どれだけ餘分の力が民俗學の進展の方に、振向け得られるか知れないので、今日の場合、ことに其むだを省く必要が大きいのであります。
 「民間傳承」といふ雜誌は、主として其目的の爲に今日まで働いて來たのですが、なほ其中にすら稀には無用の重複があります。書信や寫本の形で殘つて居るよりも、活字にして置いた方が散佚は少ないわけですが、それ等の古い出版物は顧みる者が少なく、檢索は次第に困難になつて來ます。確かな又第一次の資料だけは、書册の形にして保存す(330)るに越したことはありません。研究所の是に關する任務は、早く各方面の刊行物に心づき、公平に其價値を評定し又紹介して、是は新らしいと思ふものだけは、進んでその頒布にも助力することでせうが、或はいま一歩を進めて、自ら保存に値するものを出版するのもよからうかと思ひます。同じ叢書の形で揃へて行くとなると、研究所からの本はよほど出やすく、又當然に或程度の保障にもなります。昨年から計畫せられて居る各地民俗誌なども其試みの一つで、是までにも漁村山村の民俗誌、又は壹岐五島天草その他の島々の民俗誌も出ては居りますが、狹い一つの地域を目標に、出來る限りわかつたことの全部を記述して置かうとする試みも、個々の旅人に應分の働きをさせるといふ意味に於て面白いかと思ひます。一つの問題の全國に亙つた樣相を考へ究めようとすることは、短い歳月では完結し難く、其間には古い印象は薄くなり、又一部の忘却を伴なふからであります。但し場所の選定といふことに注意を拂はぬと、末には似寄つたものばかり幾つも出來て、讀み物としての興味を失ふのみか、新鮮なる暗示力を備へないものになるかもしれません。私などの希望としては、努めて世に知られず、從うて又内外の文獻に惠まれない部落を見つけ出して、そこを詳しく又誠實に記述して置きたいと思ひます。斯うした記録を積重ねて行くことが、即ち日本の全貌を知るといふことになるのですが、是は恐らくは我民俗學研究所が干與して、始めて可能であることゝ思ひます。何となれば今日地方に分散する研究者としても、大抵はもう少し開けた土地の住民であり、彼等も亦中央の若い學徒と同じに、やはり苦しい調査旅行をしなければならぬからであります。
 
          七
 
 それからもう一つだけ、この際研究所をして企てしめたい出版事業は、ごく簡單なハンドブックの公表であります。民俗學に總論の書が備はつて居ないことを、世間では非常に苦にしてくれますが、實は當人たちはさほどにも思つて居なかつたのであります。無くても私などは隨分働いて來ました。さうして自分のして居る仕事の、どれまでが民俗(331)學であるかに迷つたことは無く、又第二の學とまじつたつてよいとも思つて居ります。定義は要するに百科辭彙の仕事であります。しかし少なくとも新たに志を立てゝ、この道に入つて來ようといふ人たちだけには、手引の書が無くてはなりません。損なまはり路をして時を費したり、まちがつた事を教へられて倦み又は失望したりせぬやうに、介抱するだけの必要は確かにあります。それにはこの研究所の如く、この本を讀む者の反覆の質疑に對し、責任を以てはつきりとした答を與へられる者が、干與することが有效であらうと思ひます。
 しかし一旦この學問に入つて來た以上は、もうそれからは自力を以て、進ましめる方針を執らねばなりません。いつまでも長者に指導の權を有たしめることは、却つて分裂を招く危險があります。養成といふことは、本來は技藝の爲に出來た言葉です。人に教へるのは技藝である故に、進んで感化を受け模倣を努め、又監督のある練習を、永く續けた方がよいかも知れません。採集も亦一つの技術であります。從つて是も先輩から口傳のやうなものを學び取り、少しでも早く效果を擧げるやうに心掛けた方がよいでせう。たゞその序を以て彼等の解釋を、押付けられることは警戒すべきであります。社會科學の多くのものに、系統が無やみにあつて對立論爭を事として居るのは、寧ろ批評精神の缺如を意味します。判斷は各自の自力に依るといふ習慣を付けることは、學問の展開の爲に必要であります。古風な師弟道の殻を脱け出さぬ限り、學説改良の歩みは遲々として、折角優秀な新進を引入れた甲斐が無いといふことになります。
 研究所の養成事業はこの意味に於て、終始初心の青少年を育て上げるのを目標とし、力をこの學問の興味を體得させることに傾けてよいかと思ひます。斯うして自由な天地に押出された者の中には、生涯を民俗學に繋ぎ付けようとするのは少ないかも知れませんが、それも一種の下地であり又は縁であつて、やがては世の中に新たなる人生の見方、歴史の利用方法が有るといふ常識を定着させて、間接に我々の事業を支持する力にもなります。さうして一方には教育の職に携はる人々、又は採集其ものに特別の興味をもつ人々のやうに、技術としていつまでも協同の練磨を積まう(332)とする者が、是からは愈數を加へて來ますから、研究所は決して淋しくはならず、又後繼者の選擇にも苦勞するやうなことは無いと思ひます。
 
          八
 
 皆さまの理解を得たいあまりに、聊かくだくだしく設立當初の計畫を述べ立てましたが、是は要するに研究所の對社會事業の一小部分に過ぎません。地方研究員の援護にしても、資材圖書等の整備にしても、紀要、民俗語彙などの出版にしても、又新人の養成にしても、目途は簡明でありまして、一旦軌道の上に載せさへすれば、少數事務の人たちの手に委ねて置けるものゝみで、程なく專任研究員は其樣な煩累から離れて、各自の研究に没頭し得る手配になつて居ります。たゞ今日のやうな時代の變り目、殊に九年の義務教育の樞要なる新科目が、あらゆる問題に亙つて民俗學の進言を要望して居りますのに、まだ此方には其注文の全部に、應じられるまでの用意が無いといふことは告白しなければなりません。つまり此學問の前面は廣きに過ぎ、研究はなほもつと多數の同志者の、參加分擔を必要とするのであります。
 我々は最小限度の準備を以て發足いたしました。現在の維持員は既に二百に近く、同情は溢るゝばかりでありますが、勿論物質上の援助までは豫期して居りません。たゞ設立當初の若干の醵金と、出版物の收入とがあり、又或額の補助と寄附とが期待し得られますので、ともかくも小規模の存續だけは確かになりました。この上の念願としましては、專任研究員の數を五人以上とし、研究項目の増加を圖ると共に、手分けをして國内を巡歴し、地方の同學との聯絡と、兼て未調査地域の調査を進めたいのであります。次に望まれることは國内資料の補充追加、更に又外國文獻の大規模な購入でありますが、現在の書庫書棚が既に一杯に近く、新たに是だけのものを收容するには、早急なる擴張が必要になつて、あまりに巨額の金を此方面に割くことも都合が惡く、一方には又今あるものだけを十分に消化しつ(333)つ、空腹の感をもう一段と旺んにするのもよいかと思ひますので、爰暫らくの間は、徐々たる自然の増加に任せて行くのも、よんどころ無いかも知れません。
 とにかく研究所自らとしては、國が豐かなる補助を給し、國内各方面の同情者たちが、進んで心からの寄附をせられるのに値ひするほどの事業成績を、出來るだけ短い期間に擧げるといふことが急務でありまして、假にも學問の本願に背き、人を確實なる智識に導くことを怠り、徒らに談理に自得するばかりで、當代の切に要望するところにも應じ得られぬやうならば、法人は寧ろ其爲に生れたものだけに、活きて行けなくなるのは當り前であります。がしかしさういふ「假に」は有り得ませぬ。どうか願はくは好意を以て見守つて下さい。さうして幸ひに皆さまの期待に副ひまするならば、もつと働くやうに激勵して下さい。無論かういふ宣言などはせず、黙つて實績を御目に掛ける方が、ずつと男らしいことはよく知つて居りますが、私はすでに年をとつて氣ぜはしなく、且つ又この事業の第一歩の踏出しを見た嬉しさの爲に、うつかりと腹に有ることを言つてしまつたのであります。是が諸君のこの上の同情を強要するもので無いことは諒解して下さると思ひます。我々はたゞ斯うした新らしい學問の機關が、再建第三年の日本に現はれて居るといふことを、もつと多くの人に知つてもらひたいのであります。
 
(334)   垣内の話
 
          一
 
 垣内(カイト)は思ひの外こみ入つた問題であつた。最初からもし是がわかつて居たら、或はまだ暫らくは手を着けずに居たかもしれない。私たちが興味を持ち始めた動機は、
(一) 垣内が日本の可なり弘い區域に亙つて、分布して居る事實又は少なくとも其痕跡であるにも拘らず、之に氣づいて居る人はまだ少なく、今までに發表せられた二三の研究、たとへば小川、中山、野村氏等のそれは、たゞ或一方だけの現象を説明しようとしたに過ぎぬ故に、推定がやゝ不安なるを免れなかつた。今幸ひに民間傳東の會の、各地の同志の協力が得られたならば、新たなる資料が追々に出現して、比較が可能になり、よほど確實に近い事が言へるやうになるであらうといふことが一つである。
(二) 次には中世以前の垣内に就いては、やゝ豐富に過ぐといふ程の古文書の資料が傳はつて居て、現在はまだ整理と綜合が進んでは居らぬらしい。それを民俗學の手で成し遂げるまでは望み難いが、少くとも當代にもなほ跡を引いて居る不審であることを明かにしたならば、自然に文書史學の興味を刺戟することにもなつて、雙方から歩み寄つて、この一つの未墾地を開拓することにならうと思つた。
 それから今一つは政策とからみ合つた問題であるが、
(335)(三) 新時代の農地制度に於ては、農場の單位といふことが、全然と言つてもよい程省みられて居ない。斯うして放任して置いても農業は進歩し、國の生産計畫は立つものかどうか。さういふ疑問に答へるが爲にも、一通りは今までどうして居たかを明かにしなければならぬのだが、是には何よりも先に垣内といふものの成立と、是が次第に農村生活の表相から、消え隱れて來た經過とを、明かにして置く必要があるかと私は思つた。最近山口彌一郎君等の手によつて調査せられた北上川右岸の農村地帶、或はそれよりも大分以前に、自分等が一瞥して居る關東東部の近世初期の開發地などには、以前の垣内制を憶はしめるやうな屋敷地取りの方式がなほ折々は見出される。是がたゞ單なる因習の持續ではなかつたとすれば、この問題は實はまだ活きて居るのである。勿論時世に相應した幾つかの補充訂正を以て、更に未來の可能性を討究すべき現實の案件であつたのかもしれない。單なる史上の閑題目として、空しく閑人の手に委ね去るべきものでは無いのかもしれない。
 
          二
 
 垣内の問題は少くとも現代にも入用が有る。假に將來の村構成に、之を利用し得るといふまでは望まれぬとしても、何故に是が幾つかの改造を經つゝも、今までなほ殘つて居るのかといふことは眼前の不審であり、其疑問は今からでも之を釋くことが出來る。さうして其方法は民俗學のものであつた。今まで全く知らなかつた多くの事實が、僅か一年足らずの間にももう大分心づかれ、それを我々は實地に就いて、何度でも確かめる事が出來るだけでなく、其比較に依つてなほ隱れたものを、見つけ出すことが許されるのである。たとへば自分等が當初豫想して居たのは、垣内は中世の莊園解體期を世盛りとして、一旦は國土の廣い面積に行渡つた制度であつて、後漸く存立の意義を失ふに至つたけれども、別に根こげに變更しなければならぬほどの必要もなかつた爲に、或ものは名を存し、又は外形の一部ばかりを、今に傳へて居るだけであらうといふことであつた。ところがほんの一部の比較に依つて、この想像はほゞ覆(336)つてしまつたのである。もしも現在二三の土地に於て、垣内の特徴の如く見られて居る事實が、共に中世の垣内の殘形に過ぎぬとすると、是等を綜合して居た本の姿といふものは、よほど茫漠として把捉し難いものになつてしまふのである。つまりは或一つの時代を經てから後も、土地の事情によつて更に次々の成長をして居ると見るのでなければ、證明の出來ない變化が色々と起つて居るのである。「上毛の民俗」の最近の活字號に、列擧せられた記事などは好い例であつた。群馬縣は各部にカイトといふ地域名が多く、殊に赤城山の周圍にあるものは注意せられて居るが、甲の村では畠地の間に挾まつた水田の一區がカイトであり、乙の村ではそれと反對に、まはりが水田ばかりの中にやゝ小高い一かたまりの桑畠、即ち久しく附屬草地として開かれずにゐたらしい土地だけがカイトである。さうかと思ふと、又一つの村には田畠と農家の二三戸を合せたカイトがあるのみか別に又山間未開の家も田畠もないカイトも一方にはあつて、單に土地の一區割の名と、いふより以上には定義し得られない現在の?態である。竹田君が近頃討査した、甲州西山の奈良田などでは、たゞ常畠の所在だけがカイトで、それは民居の外であり、田は其中に含まれず、新たに切添へられた切替畑も亦カイトとは區別せられて居る。しかも隣の下湯島の方には、家の屋號の何垣内も一つあると言ふ。垣内の中心地の如く見られて居る奈良、和歌山の二縣なども、村の少部落を意味するカイトの名が、一方には普及して居りながら、同時に個々の民家の多くのものが、今も通稱何カイトと呼ばれて居るのは、考へて見るとよほど不可思議なことである。中部以東の方々の田舍に於て、家から往還に出るまでの少しの通路を、カイドと言つてゐる例が多いのも、今では垣内とは別にしか考へられて居ないが、是をわざ/\カイドグチと謂ふ者があり、佐渡の北部などでも家の前の廣場を、カイロ(カイド)と謂つて居るのを見ると、是も元來は屋敷のことだつたらしい。東北の各縣にはカクチといふ語があつて、通例は家の背後をいふやうに聽えるが、是も土地利用の上から、此部分が多く問題になつただけで、精しくいへば是はソデカクチ、即ち背戸のカクチであり、カクチはやはり垣内で、屋敷全體のことであつたかと思はれる。文字や言葉によつて考へると、斯う解するのがむしろ自然であつた。それがどういふ路(337)筋を通つて、ついに今見る如きさま/”\の内容をもつに至つたか。問題の中心は、恐らく爰に在るのではなからうかと思ふ。
 
          三
 
 出來るだけ單純な又わかりやすい側面から、近よつて行く習慣を我々の間では付けることにしたい。六つかしく考へないと學問ではないといふやうな、魯かな迷信から脱出する手始めに、先づこの面倒くさい問題を、出來るだけ素朴に處理して見よう。
 全國各時代の垣内現象を一貫して、最も著しい共通點は何かと言ふと、私は個々の垣内の呼び名ではないかと思ふ。古い文書にそれは數多く、又近頃の地名採集にも追々と出て來るが、それには爭ふべからざる古今の類似がある。大體に是を三通りの命名法に、分けて見ることはさう無理では無い。その第一は方角と所在、地圖の上に現はさずとも大よそは配置がわかり、つまりは全土を悉く、垣内に分けたのではないことを認めさせる。第二には人名を冠するもの、この人名は多分持主であつて、折々は改稱もあつたかしらぬが、大抵は始めてその垣内を設定した日を記念して居る。單なる人名も土地にとつては歴史だらうが、外から窺ふことはやゝ困難である。眼に留るのは大小の地役人、社寺の從屬者の他に、鍛冶垣内紺屋垣内といふ類の諸職の名が多い。村に彼等を定住せしめるには、何か收益の保障が必要だつたらうことを考へると、垣内が一つの特權であつたことも少しわかるのだが、是はもう少し事實を集めた上でないと、はつきりとしたことは未だ言へない。
 終りに第三の種類はやや見のがされやすいものだが、垣内の名前には植物の名を付けたれいが多く、それも自然に生ひ茂つたものよりも、遠くからの目標になるやうな樹木の、わざ/\栽ゑるか伐り殘さなければ、無いやうなものがよく用ゐられてゐる。是が或は前の二つと共に、垣内を理解する手掛りにならうかと思ふ。垣内は文字通り、垣で(338)圍つた土地の區割といふことだつたにしても、それが今日の生籬や建仁寺垣の如き、勞費のかゝつたものであつた氣づかひは無い。一つの垣内の中には畠もあれば田も含まれ、又?未聞未測量の荒野といふものが附屬して居た。それを標識して占有を明かにするには、寧ろ朽ちたり倒れたりせぬやうな、立木を見通しに殘す方が便利だつた筈である。最初は事に依ると居住を主とし、それを防衛する爲の垣だつたのかも知れぬが、垣津田といふものは既に萬葉集の頃からあり、それを養ふべき池の堤までが用意せられて居た。さうして稻作は特に日蔭を忌み、又周圍にやゝ廣い草地を存することが古い時代の農法でもあつたことは、この問題を考へて見る爲に、是非とも用意してかゝるべき豫備知識である。
 始めてカキツ又はカキウチといふ言葉が入用になつた時と、是が一つの土地制度として、頻々と文書の上に其姿を現はした時と、同じだつたといふ證據はどこにもない。むしろ莊園の例でも見られるやうに、新たな要求は古くからあつたものを變形させ、又はその變形を可能ならしめた事情が、次々と加はつて來たらうと、思はるゝ根據は幾つかある。たとへば畠作農業の生産力の加はつて來たなどは近世の現象であつた。今ある作物には輸入の歴史の新しいものが多く、山野はなほ廣々として自然の採取に委ねられてゐた。麥の普及を勸誘したあの有名な勅令が出たのは、平安京の初頃であつたけれども、それから以後の數百年、或は千年を越えるまで、人は自在に原や林の奧に入つて、亂暴なる燒作りを續け、粟稗の種を播き散らして、五年三年の食料を確保して居たのである。土地の占有は、この方面に於ては甚だしく意義が薄く、たゞ田圃ばかりを有難がるやうな氣風は、今だつてまだ殘つて居る。垣内の重要性が世と共に漸く加はり、一方には又少しづつ、其構造が複雜になつて來たらうことは、是から我々の集めて行かうとする資料に據らなくとも、此一つの點からでも一通りは想像し得られるかと思ふ。
 
(339)          四
 
 しかし民俗學の仕事としては、是はたゞ一つの見當といふべきもので、むだな勞力を省く爲に、なるたけ斯ういふ直覺を粗末にせぬやうにするが、證據としでは必ずもつと精確な一つ/\の事實を求める。それがまだ現在は出揃つたとは言へぬのである。カイト・カイチといふ類の言葉が、今でも行はれて居る地域は思つたより廣いけれども、それでも國の端々には分布が少なく、九州の南半にはまだ明白な實例を見出さず、四國にも有るといふだけは判つてゐて、それがどういふ風に働いて居るかゞ知られて居ない。東北には前にも言つたやうに、カクチといふ語だけはたしかにあるが、それはたゞ屋敷地のことであつて、それ以上の内容をもつて居たらしい形跡は無い。さうしてこの他の土地でも、有るといふ點のみは一致して居て、地方毎の異同が可なり著しいのである。日本の國内移住は中古に於て相應に活?だつたから、一旦は國土の大部分に此制度は普遍して居たのが、年經て思ひ/\の變化退縮の途を辿つたのであらうか。はた又最初からまだ劃一の?態にまでは達し得ず、依然として、今も各自の段階に止まつて居るわけであらうか。古代史の闡明には必ずしも勇敢ならず、大抵の史學者の斷定にいつも警戒してゐる私たちではあるが、もし幸ひにしてこの第二の推定が成立つとすれば、こゝでは偶然にも中央文化の、もう一つ以前の?態が窺ひ得られることになるのである。上手に問題を説明することが、出來るかどうかは甚だ心もとないが、少なくとも是には興味あり、又記述して置くはりあひがある。さうして關敬吾君などのいふ地誌的方法(メトード・カルトグラフィック)が、大いに活躍し得る餘地も亦あるのである。
 
          五
 
 薩隅地方の中世文書を見て居ると、あの地方には垣内といふ名目は殆と見當らなくて、是に代るとおぼしき薗(ソ(340)ノ又はソン)といふ言葉が盛んに出て來る。さうして又現在の地名にも多く殘つて居る。居薗(ヰソノ)といふ語がしば/\用ゐられるのを見ると、居薗に非ざるもの即ち人の居住に供せられない園がもう出來て居たことは、中世近畿の垣内と同じかつたらしいが、此點は少なくとも一つの進化である。人も知る如く、初期の公地法では園と宅とは不可分であり、又二つのものは同じ待遇を受けて居た。家屋の周邊に附屬した苑地は用途も少なく、從つて又面積も僅かなものだつた。延喜式に出て居る貴人の菜園でも、こゝで栽培すべき作物は幾らもない。多分は家用の麻を播き、又時として數珠の桑を栽ゑて置く位のもので、家との關係は飲水の井戸や、庭の飛石などと近いものだつたかと思はれる。それが畠作需要の増進につれて、先づ新たに設けられる大家族の屋敷地が擴大し、それを制限する法令が必要となり、一方には又是を一つの特權として、生産増加の政策に利用するやうにもなつたのかと思はれる。
 是は莊園の場合も同じことであるが、園に田地を包容するやうになつたのは、又新たなる一段の變化でなければならぬ。家を構へんが爲の附屬の園地ではなしに、畠を作るが爲に便宜の居住地を求めるとなると、そこには少しづつの稻作適地が見出される。さうして水田の増加は更により多く望ましいものであつた故に、垣内は追々に其方面にも伸びたのであらう。ともかくも垣内には畠が最も多かつたけれども、垣内の田といふものも決して稀ではない。それが僅かな面積だけ引離されて、賣買寄進せられる實例が數を増して、後には垣内が田の所在を示す地區名であるかの如き、觀を呈するに至つたものかと見られる。つまりは斯ういつた中頃の變化があつた故に、現在の各地の垣内は、一段と説明し難いものとなつて居るのである。
 
          六
 
 垣内の創設者は個人であつた筈だが、それを一括して處分したといふ文書は我々の捜して見た限りに於ては至つて數が少ない。多分は堺が漠として居たので段々と大きくなり、又其中には色々の權利が挾まり入組んで、始末がしに(341)くゝなつて居た爲だらうと思ふ。さうした中に於ても我々に氣づかれることは、紀州や大和の垣内には家地田畑以外に、必ず荒野といふものが含まれて居るのみか、一部の田畠を沽却する場合にも、慣習として野地を取添へた場合があつたらしく、時としてその對價の非常に高いものがある。勿論斯ういふのは垣内本來の性質でなく、つまりは墾田奨勵の假裝的な政策によつて、是が一種の開發權の別名となつて來たので、この點はやゝ大小前後の差こそあれ、莊園その物の發達とよく似て居る。否或は莊園といふものゝ日本名が、もとはカキツ又は垣内であつたのかもしれない。莊も田舍に在る持家のことであり其中には、神なびの清き御田屋の垣津田の………といつた樣に、神の田を作る爲に設けられたものもあらうが、他の多くは臨時の滯留の用意に過ぎなかつた。それを計畫的に利用するやうになつて、莊家はたゞ管理者の占據する所となつた。その御田屋(オタヤ)の遺風は南部領などに久しく存し、飛騨の高山の周圍にも、その名稱だけは此頃まであつた。それがさまでの政治的煩累にもならずに、小さく保存せられて居たのが垣内だつたと見てよからう。弊害と由來とを混同して、先づ名稱を毛ぎらひするやうなあわて者たちとは、此問題を話し合ふことは出來ない。
 今では過ぎ去つた必要になつてしまつたが、垣内はもと一つの農村の成長力であつた。古く開けた村には垣内がなく、新らしい土地でも全部が垣内には分割せられて居ない。垣内の在る所は大抵は片端に偏して、古くからのヰナカを取圍んで居る。是を設けた爲に人は働く場處を得、食料の補給を外に仰ぎ、又は行方も無く外に散つてしまはずにすんだ。もちろん爰にも細小農の分裂は行はれたが、垣内山の存在はなほ一つの餘裕であつて、他に比べると共住者の相助がやゝ容易に行はれ、大地主の壓迫は垣内以外の地よりも少なかつたかと思はれる。現在もなほ續いてゐる部落組織は、多くは近世になつてからの發明らしく、それも將來を支配するまでの力は無いかもしれぬが、少し手を掛けたら日本再建の、足場ぐらゐは得られよう。ともかくも今はまちがはない知識を、ちつとでも多く積み貯へて置きたい。さうして民間傳承の會ならばそれは出來ることだと思ふ。
(342)○どういふ點に注意をすればよいかといふ質問が方々から來る。その答へにはまだ十分ではないが、さしあたり自分の興味を引かれることを、少しづつ書き竝べて見る。結局は垣内又はカイト・カイチといふ言葉があるといふ以上に、それが斯ういふものだといふことが、片端でもわかればよいのだが、追々と集めて比べて見ないと、力の入れどころがきめられないであらう。此次には今までにわかつて來た各地の事實を、少しづつ整理して行く計畫がある。疑問はそれに基づいて又新たに生れ出ることだらう。屋敷又は家地といふのと、垣内との關係を先づ考へて見るのが順序ではないかと思ふ。
 
(343)   採訪の新らしい意味
 
 むかしフオクロアを土俗學などと謂はうとした時代には、仲間に必ず何人かの道樂者があつて、よく旅行し又會にもよく出て來て、一ばん熱心に採集の話をして居た。集古會といふ團體などは、永い間さういふ連中が牛耳を執り、私たちのやうに自分は持ち物が少しも無い癖に、ただ見物して興味を感じ、起原を考へたり分布を調べようとしたりする者を、「おえら方」などと呼んで輕蔑した。土俗玩具といふ妙な名を流行させたものも、旅と傳説といふ雜誌に何囘か玩具特輯號を出させたりしたのも彼等の力だつた。大戰を一區切りに、さういふ人たちは跡を隱したけれども、この氣風だけはまだ殘つて居る。學會の方針がただ一種の理解者の域を脱するために、各會員の分擔をきめ、是はあの人に尋ねたらよいといふ題目を、一つはめいめいに持たせることにしたのは尤もだが、用心をしてかからぬと是も道樂に陷る懸念が無しとしない。無形の慣習でも、口碑でも同じことだが、よもやあの方面にはあるまいと思ふ土地から、同種の事實が見つかると誰でも一度は昂奮する。其ケースが數を増せば、人に説くのにも張合ひがあるから、もつと集めて見ようといふ氣になるのも人情であらうが、數ばかりに力を入れて、それで一生が暮れてしまつては、玩具集めも同然である。御大師水の傳説などで既に經驗したやうに、結局は方々に有るのが當り前で、むしろどうしてどこそこの土地には、跡形も無くなつて居るのかを、尋ねて見る方が必要といふことにもならう。或は眞野長者の物語のやうに、久しく九州地方の産物と信じられて居たものが、何故に東北の果までも流れ傳はつて居るのか、その運送人は誰かといふことを、先づ知りたくなる人も現在はもう多くなつた。それよりも我々の合同作業として效果の(344)大きいのは、今ある殘留を珍重するの餘り、殊に行きにくい島や片田舍に發見せられたものを、最初の形のままと認めやすい弱點を補ふ爲に、類似共通の點よりも、むしろ一つ一つの特異性、どうして互ひどうし斯ういふちがひが有るのを知らず、こちらが當然でよそは誤り傳へて居るかの如く、思ふやうになつて來たのか、といふ問題に少しでも早く、行き當つて見ることだと思ふ。不完全でもよいから早く中央の機關に、今までの採訪によつて判つたことだけを整頓して、それを是から出て行く人々の支度にさせたいと、私などの願つて居る理由はここに在る。始めのうち暫らくはむだな骨折をするのも止むを得ないが、ならうことならば少しでも早く、ここ迄はもう判つて居る、是から明かにしたいのはこの點だといふことが、一目で知れるやうな手頃な案内書がほしく、それがもし待遠ならば、あの人なら此問題は知つて居るといふ、係りのやうな者があるとよいと思ふ。是から先の採訪をもつと有效なものにすることは、日本民俗學の推進に最も必要な手段であり、「民間傳承」は實はその問合せの爲に出來たと言つてよい機關なのである。永年むだばかりして來た自分としては、この點に於て雜誌の利用者が、まだ多くないことがひどく淋しい。
 
(345)   人を喚ぶ力
 
 三十年前に、陸中海岸の大槌附近にて聽く。不幸のあつた家で、近親の者が湯灌の水を汲みに行く際には、必ず三度はこれを喚ぶことにしてゐる(多分は早く戻つて來いよといふ類のことをいふのであらう)。それ故に、平日は決して水を汲みに行く者は喚ばない。又便所に入つてゐる者も喚ばぬことにしてゐる。この風習は二つとも、山を隔てた遠野地方にもあつたといふ。遠野では便所にゐるときに喚ばれると、出て來てから鹽氣の物を嘗めるといひ、また便所で轉んだときも同樣であつた。東京その他の土地でも、便所に入つてゐると知れば勿論喚ばないが、知らずに喚ぶ者があつても、返事は決してせぬやうにしてゐる。凶事以外の場合に、水を汲みに行つた者は喚ばないのが普通らしいが、かういふことは中々目に立たない。葬式の日に限つて、わざと水汲みに出た者を喚ぶといふ習慣は、もう他の多くの土地では消えてしまつたであらうか。もしまだ殘り傳はつてゐるならば、その當人たちの氣持を、今のうちによく尋ねて置きたいものである。
 
(349)   祭禮名彙と其分類
 
 現在我々の同胞の持傳へて居る生活ぶりの中から、どの程度にまで固有信仰のうぷな姿と、永い歳月に亙つた變遷の跡とを、窺ひ知ることが出來るかといふことは、日本民俗學の最も大切な力だめしであるが、私たちは是に二つの相助ける手段があると思つて居る。その一つは人の平常の言葉や考へ方の中に殆と無意識に保留して居る昔風の名殘を集めて見ることで、此方はよその國でも盛んに試みて居るが、なほ其中堅ともいふべき傳説といふ一群の資料が、斯んなにも豐富で又適切で、自由に利用し得られる國はさう多くあるまい。其上に更に第二の方法が日本には具はつて居るのである。上古以來の神祭りの方式は、中代の幾多の改定を經たとは言ひながらも、なほ間斷無く持續して、現にその推移のあらゆる段階に於て、過去の形態の各或一つを守つて居るらしいのである。廣く且つ細かな比較といふものが、其變化の順序と系統とを、我々に學び知らしめる希望は大きい。私などの計畫は、遠近各地方の異同を詳かにする爲に、先づ若干の重要なる標目を立てゝ、其一つ一つの關係を考へて見ようとするのだが、何が重要な觀察點であるかを決するにも、出來るならば自分たちの判斷を用ゐずに、世間の向ふ所に從つて行かうと思つて居る。それで最初には祭禮の俗稱、即ち外部で勝手に呼んで居る名前が、大體に如何なる特徴に目をつけて居たかを、明かにしようとするのである。私の蒐集は不完全であるが、それでも全部を列記すると紙面を取り過ぎるので、たゞ二三の例を掲げるに止める。他日諸君の援助の下に、別に一册子として纏めて見たいと思ふ。
一、祭日又は季節に基づく名稱
(350) 節供祭   舊三月三日、播磨北條住吉神社
 たのも祭    八月朔日、羽前三山神社等
 つゆの祭    栗花落祭、飛騨栗原神社等
 雪祭      正月十五日、信州新野伊豆神社
 だら/”\祭  七日間の祭、下總千葉神社など
二、祭地祭揚
 是には明かに二通りの式がある。神屋御旅所等の社地以外の場所に、神事を仰ぐものは別に名がある。常の御社の中で祭を仕へ申す場合には、新たに齋刺の式を行ふ例が多い。
 おしめ祭    美作久米郡
 榊祭      山形市
 尾花祭     越後南魚沼郡
 やたての神事  肥後阿蘇神社その他
三、物忌精進(祭前齋忌)
 かいごもり祭  備中阿哲郡
 忌除祭     筑前牧野神社
 をこしや祭   攝津西宮神社等。近世では腰をつねり合ふといふのも、もとは睡眠を禁ずる趣意だつたらしい。即ち起しあひである。
 寢祭      三河久丸神社など、起き出してはならぬ祭
 戸たて祭    攝津歌垣村
(351)四、神供と食物
 團子祭     加賀米丸村神田神社
 燒餅祭     因幡若櫻神社
 はも祭     丹波篠山澤田八幡
 え祭      大和八木その他
 棒鱈祭     越後津川住吉神社
 鯰祭      近江新儀村
 泥鰌祭     伊豫西條町等
 つぶ(田螺)祭 羽後男鹿大倉村
 芋煮の神事   長門吉部八幡
 うど(獨活)祭 諏訪御座石神社
 わさび祭    丹波知井村
 いたどり祭   山城貴船神社
 すもも(李)祭 武藏府中
五、神態ノ一
 炭置の神事   安房安房神社
 鳥乞の神事   甲州玉緒神社
 もも手祭    九州四國處々
 歩射祭     是も方々にあり
(352) 御毬の神事 三宅島
 玉取祭     筑前筥崎宮等
 綱掛の神事   又綱曳祭多し
 鉤曳の神事   伊勢伊賀近江
六、神態ノ二
 火祭      多し
 おたひ祭    備後鞆祇園社
 たひまつ祭   多し
 火箱祭     加賀田島天神社
七、神態ノ三
 御田植祭    例多し
 鍬打神事    石城花園社等
 御鍬祭     美濃土田村白髭社など
 種蒔祭     薩摩阿久根等
 ぞんべら祭   能登鬼屋神社
 蝗刺し祭    甲州大草村南宮社等
八、神態ノ四
 鬼祭      備中葦高神社秋祭、三河各地は正月祭
 護法祭     作州の村々
(353) 鬼すべ祭  太宰府天滿宮その他
 盗人祭     播州曾根天滿宮等
 白?祭     下總香取
 ねだり祭    又イドリ祭、醉翁祭、諸處に在り
 笑ひ祭     紀州其他、又オホホ祭
 泣き祭     遠州大石村等
 葬禮祭     若狹内外海村
九、神態ノ五
 押し祭     又押合ひ祭、聟押し神事
 はだか祭    尾張・信濃・紀州など
 喧嘩祭     豐前宇佐、美濃美江寺等
 惡態祭     常陸岩間愛宕神社など
 尻つみ祭    伊豆伊東音無神社その他
一〇、神渡御
 濱出祭     又濱降り祭、御出祭等多し
 通ひ祭     又ウハナリ祭、行逢祭など
 おたりや祭   下野宇都宮
 青山祭     信州犀川流域各地
 花つみ祭    和泉鳳神社
(354) 鉾祭    是も方々にいふ
 帶祭      又大名行列、駿河島田等 
 いりこ祭    能登安宅町、又麥こがし祭
 灰ふり祭    肥前東松浦等
 石あげ祭    又石取祭、石つり祭、尾張・伊勢
一一、風流と演伎
 かぶき祭    又ガフ祭、シャギリコ等
 てんてん祭   或はヒンココ祭、ボンボコ祭、ツウクラ祭、ボテボテ祭、此類多し
 やアやア祭   出雲美保諸手舟神事、又ホウオウエンヤなど
 きねこさ祭   まら祭などいふ所もある
 尻振り祭    豐前井出浦
 うなごじ祭   三州牛窪
一二、神供分配
 御鳥喰ひの神事 安藝宮島その他多し、前の鳥乞神事も同じかも知れぬ
 鴉祭      是も各地に在り、祭終りて行ふものをこゝに入れる
 引合ひ餅の神事 大和葛村引合八幡
一三、雜及び未定
 此項はまだ當分必要だが、他日それ/”\に分屬せしめ、又は新しい目を立てなければならぬ。各地古くからの名稱で、由來の明かでないものは暫く是に入れて置かうと思ふ。二三のやゝ珍らしいものを例示して、成るたけ多くの今(355)後の追加を希望する。
 槍祭      東京王子神社初秋の祭、小さな木の槍を買ひ、社に納めて古いものを貰つて來る
 子授け祭    土佐吉良川八幡社御田祭、酒絞り女の子を産む所作がある。其人形を子のほしい女が奪ひ合ふ
 目くされ祭   秋田男鹿のくわう神樣、此祭の日に目の惡い人が多く參籠する
 夕立祭     尾張米野村生田神社、馬方が落雷の災を免れた記念といふ
 をこじよ祭   加賀小松山王社、此町の功勞者某の爲の祭といふが、名の起りはまだ明かで無い
 水かけ祭    陸前大原町、嚴冬に參拜者に水を掛ける。以前の大火災の記念ともいふ
 
 以上列記した祭禮は、何れも土地以外の人々に知られ、何か名を付けずには濟まなかつたもの、即ち有名なる祭ばかりである。有名になつた特徴は止めるわけに行かず、永く古い頃の方式を保持する。さうして又見聞が少數人だけに限られて居ない故に、我々の共同研究の出發點とするにふさはしい。出來るだけ數多く此等の例を集めて置きたいと思ふ。
 
(356)   服装語彙分類案
 
一、晴着、よそ行き
 最初晴着をどういふ場合にこしらへ、又如何なる場合に是非着たかを、注意してかゝる必要がある。現在行はれて居るものは形が皆新らしく、是によつて經過を察することは六つかしい。晴着を着る時は多くなつて來て居る。始めて用意した際の目的に、重きを置くのが至當である。
二、ふだん着
 田舍では不斷には是を着ないから別の名がある。是を着るのは雨の日か夜か。とにかく外見をかまはぬ場合が多く、從つて之を見ると實際の内の要求のどこに在つたかゞわかる。
三、仕事着
 勞働の種類及び態樣の、如何に變つて來たかは仕事着からも見て行かれる。それが又今日の普通のキモノと大いに變つて居る點でもある。
四、筒袖と卷袖
 この以前にもう一つ廣袖の半袖があつた。それが筒となり次にモヂリとなつたのには、我々の生き方の發達が原因をなして居る。古い仕事着の形も現在はまだ根こそぎには無くなつて居ない。
五、袖無しと背負ひ
(357) この古くからあつた衣服を、色々と工夫し改良して來た歴史は、細かく各地の例を比較して行くとやゝ明かになる。
六、長着物と寢具
 常民の休息といふことが、この現象から少しづゝ考へられる。是を着て居る期間に世の中は段々に變つて行つたやうである。
七、身支度の簡易化
 急いで仕事をしたり止めたりする者が多くなつて、仕事着の不便が感じられ始めた。今日の割烹着が生れるまでに我々はまだ色々の試みをして居る。襷が晴着から仕事用に轉落した。
八、袴の種類と變化
 袴に不斷着と近いものが出來て、元は一つのものとは思はれぬ程に外形の變化が區々になつた。都市に全く用ゐぬ人が多くなつて、此問題は不當に看過せられて居る。各地の實?を詳しく記述して置く必要がある。
九、前掛と下物
 女が改良した男袴を共用するやうになつて、在來の女袴は追々に廢れたやうである。が、今でもまだ名なり形なりが限地的には殘つて居る。内外二種の裳があつて、其上に更に前掛腰卷の類があつたのが、三者は可なり混同して居るやうに思はれる。今の名稱は多くは當らぬものでも、歴史だけは推測せしめる。
一〇、帶紐の類
 帶はどういふ徑路を通つて、今日のやうな奇怪なる形?に變じて來たか。多くの現實の例から推すと、是にも突如たる發明は一つも無かつたやうである。
一一、子負帶など
 小兒の爲に特に古い生活儀式の取殘されてある湯合が認められる。國の南北の子負ひ帶などが其一つの例である。
(358)一二、衣服の着こなし
 人の笑つたりいやがつたりする身なりを集めて見ると、以前の生活標準が可なりよくわかる。昔の人は我々よりも遙かに外形に敏感であつた。
一三、衣服管理
 箪笥といふものが出來るまで、衣紋竿といふものが普及するまでの?況。麻の衣は長持ちがする故に、洗濯や保存の技術が、今日よりも重要であつた。
 
(359)   食料名彙
 
 序 諸君の食習採集手帖が整理せられたら、この語彙は又大いに増加することであらうが、それを促す意味を以て、先づ自分の今までに控へて置いたものを竝べて見る。此中には救荒食物は入つて居ない。又所謂いかもの食ひの食へば食へるといふものも入れてない。我々の目的は通常の生活を明かにするに在る故で、又昔食つたといふだけのものも入れない。
マスモノ 五穀の總稱として桝物といふ語がある(土佐方言の研究)。佐渡でもマスノモノ。米麥などの桝で量るもののことである。亥の子の日には桝の物を一切外に出さぬなどといふ。
キチマイ 吉米。よき米といふことをいつの頃よりか音でいふ。是糯米と區別する名といふのは(淡路)、後の解であらう。もとは常の日は粳米より惡いものを食つて居たからで、それには屑米又粟、稗の類も算へられたことゝ思ふ。
シャクノコメ 粳米をシャクの米といふことは四國ばかりで無い。鹿兒島縣十島の惡石島でも、粟に糯と粳との二種があり、後者をサコアハ又はシャアクともいふ(民族學研究二卷三號)。シャクは瓢のことで、「ひさご」といふ語から導かれて居る。是も桝物と同じに瓢で量つて使ふ粟の義と思はれる。器を以てはかるのは、人別に定量があつたことを意味する。即ちそれが桝の最初の用途である。
ヨネスル ヨネは農家では稻米だけに限つては居なかつた。たとへば信州遠山では、粟などの搗いて外皮を剥いたものもヨネである(方言六卷一號)。天龍川を越えて三河の北設樂郡でも、稗、麦共に皮をとつて精げることをヨネスル(360)と謂ふ。ヨネしたものは家の中の物置に置く。籾のまゝなのは外のアラモノ庫に入れて置く。アラモノとは脱?せぬ穀物の總稱である。
イマズリ 籾で貯へて置いて、盆の頃になつて籾摺したものをエマズリ即ち今摺といふ(頸城方言集)。普通の食料には早くからまとめて摺つて置き、且つ色々の調合をしてすぐに炊けるやうにして貯へてあつたのである。
ケシネ 語原はケ(褻)の稻であらうから、米だけに限つたものであらうが、信州でも越後でも又九州は福岡大分佐賀の三縣でも共に弘く雜食の穀物を含めていふことは、ちやうど標準語のハンマイ(飯米)も同じである。東北では發音をケセネ又はキスネと訛つていふ者が多く、岩手縣北部の諸郡でそれを稗のことだといひ、又米以外の穀物に限るやうにもいふ土地があるのは(野邊地方言葉)、つまりは常の日にそれを食して居ることを意味するものである。南秋田郡にはケシネゴメといふ語があつて、是は不幸の場合などの贈り物に、布の袋に入れて持つて行くものに限つた名として居る。さうして其中には又粟を入れることもあるのである。家の經濟に應じて屑米雜穀の割合をきめ、かねて多量を調合して貯藏し置き、端から桝又は古椀の類を以て量り出す。その容器にはケセネギツ、もしくはキシネビツといふのもある。ヒツもキツも本來は同じ言葉なのだが、今は一方を大きな箱の類、他は家屋に作り附けの、落し戸の押入れのやうなものゝ名として居る地方が東北には多い。九州の方のケシネは甕に入れ貯藏する。之をケシネガメと謂つて居る。
ケシネツツキ 飯米を貯藏用に精げて置くことをケシネスル(久留米方言考)、又はケシネ搗くといふ。忙しい折柄にこのケシネが絶えると、農家ではまごつくのである。千葉縣には霧雨をケシネツツキといふ言葉さへ出來て居た(上總國誌稿)。外の作業は出來なくて、たゞ飯米を搗いてくらす時といふ意味らしい。佐渡の海府地方では飯米が絶えて、俄かに稻を扱き籾を摺つて食べる米だけをケシネと謂つて居る。熊本縣などにも、飯米をケシネといふ語は既に行はれなくなつて、ケシネといへば只穀類を搗き又は摺る作業の名になつて居る(肥後方言集)。そのケシネには勿論米だ(361)けで無く、麦や粟を精げる仕事も含まれて居た。しかも標準語でヂゴヱ(地聲)といふところを、ケシネ聲といふ語なども行はれて居るから(肥後南關方言巣)、まだケシネをふだんの食物と解する記憶は或は殘つて居るのである。
カテゴメ カテとは飯にまぜる色々の雜物のことである筈だが、越後の蒲原地方などでは、粗惡な米をカテゴメ、米の碎けをカテとも謂つて居る。多分はカテ飯を炊ぐ時の米といふ意味であらう。だからそのカテ飯に入れる菜大根の類をシタガテとも謂ふのであるが、別にゴンダと稱してそのカテ米だけを、味噌汁で煮て食べることもある(さと言葉)。
デハ 宮崎縣などでは、デハといふのがこの食用米のことである(日向の言葉卷三)。ところが壹岐の島に行くと芋と穀類の粉とを釜の中で練つたものをデェハと謂つて居る(方言集)。二語は關係があるらしいが語原が知れない。
フチカタマイ 農家で自家用に取りのける米を、扶持方米といふ處がある(岡山方言)。扶持方即ち一家眷屬を養ふ食料である。
ナカシマイ 能登の鹿島郡などで、仲仕米といふのはダイトマイのことだといふ。大唐米はトウボシ又赤米とも稱し多産劣質の新種である。仲仕のやうなうんと食ふ者には特に用意して斯ういふ米を向けるのである。土佐などでいふキチマイは、このダイト米に對する語だといつて居る。
ウシカタマイ 東北地方の牛方は一種の行商で、主として鹽、鹽魚などを賣つてあるいた。その牛方に與へて鹽と交易する爲に、用意して置く劣等品を牛方米と謂つたのである。土地によつてはその米も無くて、稗や粟を以て鹽を買ふところもあつた(鹽俗問答集)。
カヂゴメ 鍛冶米である。越後などには農具の貸付制が行はれて居て、鋤鍬を鍛冶から借りて使ふ農家も多かつた。その借料をも年貢と謂つて居た。秋の收穫後に鍛冶屋がその米ネンゴを集めに來る。それに渡す爲に多少無理な調製をした粗惡米を用意して置くのが鍛冶米である。此米を又堰科とか入會料米などに充てることもある(金塚友之亟君)。
(362)ヲケヤゴメ 飛騨の高山附近など、あまり上等でない米を、特に桶屋の支拂の爲にのけて置いた。それが桶屋米である。桶屋は秋收の後に、橇を曳いて此米を集めに来た。今はもう日當で金を拂ふ者も多くなって居る。
マチマイ 越後の舊新發田領などには、年貢米と町米とにも差等があった。前者は一俵四斗と二三升で、俵は二重、之を散田作りといひ、後者は一重俵で六斗入であった。今日は無論一樣に四斗入となつて居る。
ニギザゴメ 昔は穀物を食ひ延ばす方法として、毎日炊事に際して一握みづゝの飯米を別にのけて置く風習があつたといふ(山口縣阿武郡)。鹿兒島縣では之を猪口米とも謂つて居る。報コ社などたこのチョコ米を勸説した。
フカシモンゴメ 米穀調製の際に出來る粗質の碎け米を越後蒲原地方では又フカシモン米とも謂ふ。ばら/\して居て是ばかりでは炊けぬから、カテ飯を炊ぐときに、この米を上に載せてふかすやうにした。カテゴメといふのも同じであらう。
ダゴノモン 加賀の河北郡の農村では米を搗くときに臼の外へ飛び散つた分を拾ひ集め、之を團子のものといふ。團子の粉に挽くより利用のし方が無いからであらうが、注意すべきことには正月七日の株團子のやうな、式の日の定まつた食物も是でこしらへたことは(風俗畫報二二五號)、東北などでいふツツボダンゴも同じであつた。なほこの地ではダゴノモンを、又アラモトともいふさうである。
ヨナドリ 岡山地方でヨナドリといふのは、籾摺の際に最後まで殘つた米まじりの籾、他の地方でアラともアラモトともいふものゝことである。此名の起りは私には判らない。
カシラ 又ヒキガシラともいふ。唐臼で籾を挽いて米を取つた殘りを、中國地方は一般にさう謂つて居る。頭といふ名はよいけれども、何囘も唐箕や萬石を通して、最後に篩の上になる屑籾のことなのである。今日は牛や鷄に食はせる家が多いが、以前は是に粉米やシヒナ(粃)を合せて粉に挽いて、テンコ餅といふものをこしらへて食ひ、又は其粉を糯米にまぜても食つた(粒々辛苦)。安藝の山縣都では是に粃を合せて、粉にして作つたものをヒキモノ餅と謂つ(363)て居る。何れも決しておいしいものでは無いが、シヒナやユリヌカに比べると、カシラはまだそれでも上等の部であつた。
アラ 文字は古くから粡の字を書いて居る。本來は玄米に對する籾粒のことだつたらしいが、それが問題になるのは、僅かづゝ米にまじつた場合で、籾搗き時代には之を無くするのが骨折であつた。アラモトといふ語は類聚名義抄にも見えて居る。此方が多分米にまじつた籾のことであらう。それが多いのをアラが高いと謂つた。人の缺點をアラといふのも、此方から轉用した名である。
  飯のアラを食べると腹を破る
といふ信州上伊那の諺なども(民俗學四卷三號)、人のアラと對立させて興を催した言葉のやうである。
カイナゴ 加賀の大根布のイタダキの女などの、在へ魚を賣りにまはつて農産物と交換する人々の、カイナゴと謂つて居るのは米のことだといふが(ひだびと六卷三號)、是も何れ質の劣つた米なのであらう。能登の方へ行くとカイノゴといふ者が多く、カイは匙即ち臼の中のものをかき出す器の名らしいから、本來は團子の粉のことゝいふ方が正しく、つまりはカイノゴ用の米といふことを省略した名かと思はれる。しかし現在は能登でもその米の粉だけで無く之に供せられる三番以下の籾まじりの米を、やはりカイノゴと呼んで居る。此地方に行はれる粉挽唄に、
  夏のカイノゴ三升が限り
  五升を出たやら鷄やうたふ
といふのがある(鹿島郡誌)。即ちカイノゴ挽きは樂な仕事ではなかつたのである。
ユリゴ 屑米又は米の極めて粗惡なるものを、滋賀縣湖南地方などはユリゴと呼んで居る。飛騨では元はユルコ今はイリゴ、越中でもイルコ又はエリゴ、越後ではイルコ・イリゴ又はイリマイと謂つて居る。土臼で籾を摺つた時代にも澤山のエリゴが出來たが、以前の手杵で搗いた時代はなほ更であつたらう。米を苧絲の篩でふるふときに出るもの(364)と謂つて居るが(飛州志)、さういふ道具の普及せぬ頃にはユリといふ楕圓形の木の盆で、米と籾とをゆり分けたので、其ユリの奧に滑り落ちずに止まつたものを、ユリゴと呼ぶやうになつたのである。めんつう其他すべての楕圓形のものを、ユリナリといふのも是から出た語で、最初の必要は米だけを搖り落す爲に、斯ういふ形を考へ出させたやうに思ふ。近世は色々のもつと便利な器具が發明せられてユリは主として祭祀用のものとなつたが、なほ是に食物を入れて頭に載せて運ぶのには由緒があつた。ユリゴには碎け米や粃、又は色々の屑ばかりが殘るから、飯に炊くことはとても出來ない。挽いて粉にして置いて糯粟などを加へ澤山の蓬や山牛蒡の葉を搗き込んで草餅として、米マタジ即ち補食用に供するか(ひだびと四卷五號・六卷二號)、さうでなければ蕎麦粉などゝ共に練つて、手毬ほどの大さに丸め、藁火や爐の中に轉がして燒いて一朝の飯の代りにした。祭や祝ごとの日には、特に小豆や菜のあへもの、鹽辛や蛸などを入れてこの團子をこしらへることもあつた(頸城郡誌稿)。或は小さいイリゴダンゴを入れて團子汁を作り、又はイリゴガテと稱して飯の上に載せて共に蒸すことも越後などにはあつた。南魚沼郡では苗代の種籾の殘りを乾して炒つて、特に石臼で荒く挽いたイリ米といふものがあつた。是は粥に煮て病人の食餌にしたといふから(高志路三卷七號)、名は同じでも別のものである。
イロヌカ 米の碎けを石見の邑智郡の一部でイロヌカといふのはユリヌカであつた。又ユリヌカと謂つて居る土地も此地方には多い。唐臼で挽いた時に、すくもの屑などゝ共に殘る小米のことで、斯ういふのはヒキグヒ即ち粉食にするより他に用途は無かつた。
チチウコ 土穗即ち土にまみれた稻の落穗を、發音が六つかしいので色々な言ひ方をして居る。ツツボといふ土地が最も多く、それでこしらへた團子をツボ團子ともいふが、是でも元の意味がもう不明になつて、庭の掃き寄せのすべての屑米までを含むやうにも解せられて居る。越後の三島郡などでチチウコといふのもその一つで、チチウは稻架場の落穗のことで、それを粉に挽いたのがチチウコだとはいふが、文字は地中粉などゝ書いて居るさうである。昔は寺(365)子屋への附屆けは、歳暮の禮に、この地中粉が一袋であつた。
 それで此郡の諺にも、
  チチウ粉を運ばなければチチウを運べ
といふのがあるさうで、其意味は「寺子屋に行かぬ者は落穗拾ひをする他なし」といふことだと語つて居る(高志路七卷二號)。舊暦二月一日の犬の子ついたちといふ日に、此粉を以て團子をこしらへる風習は、相應に弘く行はれて居るが、中越では是をもチチウ團子と稱し、北越月令には又土生圃子と書いて居る。岩船郡の方でチジョ團子といふのも同じ日の食物で、チジョは落穗米又は掃き米のことだといふ。現在はそればかりで作るわけでも無いが、本來は之を用ゐるのが恒例であつたことは名稱からも察せられる。之を茄でるのに十二月といふ新春の呪ひ木を焚き、又家に飼つて居る鳥けものにも之を食べさせたといふことである(布部郷土誌)。岩手縣上閉伊郡で、秋の稻こきの時に足元に散る殘穀から製するといふツンジョオダンゴも(遠野方言誌)、土穗の訛語であることは明かだが、是は如何なる機會に作るのか、まだ確かめられて居ない。
コメザイ 佐渡の島の中部で、米の屑のことをいふ。語の起りは米のサイでは無く、メザイに「小」を冠したものらしい。
メザキ 米を篩にかけて殘つた屑をさういふ處もあるが(長門豐浦郡)、恐らくは粉米を意味する東京などのメンザイと同じ語であらう。尾張の日間賀島でも、メザイとコゴメとは同じで、是と小麥糟、大豆の粃などを合せ蒸して糠味噌を作るといふ。
 或は又麥のメザイもある。麥粒の芽の部分の碎けたものといふから、メザキ・メンザイも共に芽先の意にちがひない。滋賀縣の湖北には又蕎麥のメンヂャがある。是は十分實の入らぬ粒、即ち粃のことだと謂つて居る。米に混じて飯に炊いで食べる(高島郡誌)。長崎縣松浦の島々で、メザケ・ミザケ又はミジャケといふのも、碎け米もしくは粉米(366)のことである。
ミヨサ 滋賀縣南部の各郡から、伊賀の阿山郡にかけて、粃をミヨサといふ。大和和泉の方ではミオサといふが、語原が不明なのだから何れが正しいとも言へぬ。たゞ北陸では富山縣でミヨーシ、關東では上總房州の方でミヨセといふのがやはり粃のことらしく、ミヨサの方が類例は多いのである。房州などのミヨセは、粃に限らず庭に落ち散つた屑米を總稱し、今は少なくとも實寄せといふ感じで使つて居るらしい。ミヨシ團子は土穗團子も同樣に、初冬の神祭の式の食物ともなつて居る。
シンダ 粃の「しひな」は、もと發音のしにくい語音だつたと見えて、地方毎に大分ちがつた形にかへられて居る。たとへば中國九州で一般にシイラ、それで農民の好んで食ふ「しいら」といふ魚の名を忌んで、この方をマンビキと呼びかへて居る。東北は岩手縣の大部分では粃をシヒタ、秋田縣の男鹿半島などはシダと謂つて居る。二番籾を唐箕にかけて、その中の一番を「人のシダ」と呼び、是からは米の粉を取つて、ネレゲ其他の餅に作つて食べる。その又二番は「馬のシダ」と呼び、馬に食はせる(寒風山麓農民手記)。能登半島の各郡では、粃をシンダとも發音して居る。それで考へるのは東京でいふ糠味噌、關西でジンダともいふ粗惡な味噌は、本來はその材料にする粃から出た名であつたらしい。今日は漬物の床にしか使はぬやうになつたが、以前は食料であり、今も伊豫石鎚山麓の村々などに、之を食べて居る者があるといふことである。
イタジイラ 粃は事によるとシヒナよりもシイラの方が前であつたかも知れぬ。籾の屑では無いが、籾そのものをシラといふ言葉は八重山諸島にもある。現在はその籾の貯藏方法に、頴のまゝで積んだものだけをシラと謂ふので、別の解釋も起つて居るが、沖繩の神歌などにシラチャネと詠じたのも、單なる白色の種をいふことでは無かつたらしい。熊本縣の葦北郡でも、今は籾殻のことをシラといふが是も最初はやゝ實のあるものまで、包括して居たことは疑はれぬのである。中國では岡山地方に、イタジイラといふ語がある。  北の中の又屑であつて、男鹿半島の馬のシダに當る(367)ものだが、之をさう呼ぶのは板の如く扁平な粃の意では無く、もとは汰板(ゆりいた)の上に殘留するシラのことで、乃ちシラが普通の籾であつたことを推測せしめる。
ジャバ 越後の刈羽地方などで、粃の一種の幾分か實のあるものをさういふ。唐箕の二番口へ出て來るのが多くはそれで、之を石臼にかけて粉とし、ジャバ團子をこしらへる(高志路四卷八號)。
イカシ 粃をイカシと呼んで居る地方もある(但馬方言集)。イカシバットウといふのは之を粉に挽いたもので、此地方のハットウは多分炒粉であらう。臼でひく以前には杵ではたいて居たので、ハットウといふ語は起つたものと思ふ。
ミケ 肥前上五島でミケといふのは碎米のことである。或は前に擧げたミザケなどの訛音かも知れぬ。
イスンカ 伯耆中津の山村などには、屑米をイスンカといふ語があつて、イリゴも同じだといふが、この方は凶年に多く出來るものだといふから、多少の差異はありさうである。以前は普通の食事にも食べて居たといふが、現在は其粉に蓬や野葡萄の葉の干したのを交ぜて、圓くしてオヤキに燒き、味噌砂糖などを附けて食べる。東京などでよく聽く「粉糠三合あれば養子に行くな」といふ諺を、こゝでは「イスンカ三合あれば聟になるな」といふさうだから、イスンカの粉糠に近いものであることはわかる。出雲の能美郡でも屑米又は碎け米をイシンカ。恐らくはもと臼糠であつて石糠では無いだらう。ヌカは今日では主として粉糠のことをいふが、古い用法ではアラヌカの方がヌカで、玄米を精げる時に出來る方が特別であり限定詞を被つて居たのである。篩のまだ精巧で無かつた時代には、粉糠には微細の米屑を多く交へて居たので、その全體を食料の外に置くことが出來なかつたのである。
テノコ 千葉縣東上總方面では糠をテノコといふ(千葉方言)。恐らくは籾殻だけをヌカと謂つて居たので、所謂粉糠には別に斯ういふ名が入用だつたのであらう。或は手糠で、手に附く糠の義であつたのを、ヌカともいひにくいので手の粉のやうに感じ始めたのかも知れぬ。
 
(368)          ○
 
ハワケ 飛騨丹生川谷では、稗と米とを半々にまぜたものに限つてハワケと謂ふ(採訪日誌)。かねて飯米の爲に大量を調合して置く場合の名らしい。米と麥とを併せ炊く飯をハンバグといふのも、起りは半麥でも半白でも無くて、やはりこのハワケだつたらうかと思ふ。
スリヌギ 稗の粉の最も精選したものを佐渡の外海府などではスリヌギと謂ふ。搗いた稗を何回も石臼にかけたもので、淡い水色を帶びた美しい色の粉である。赤兒の乳の代りに用ゐ、又病人も稗のスリヌギを食べても全快せぬやうなのは、醫者に見せても見込は無いと謂つて居た。
トウキピゴメ 阿蘇火山の東側面の陸田地方は、玉蜀黍を主食にして居る。粉にひいても食ふが多くは米粒大に碎いて飯に炊ぐ。それを唐黍米といふが、唐黍は此地方では玉蜀黍のことである。遠目には美しい色をして居るが、トウキビ米はさう旨いもので無い。
コザネ 阿蘇に接した日向の高千穗方面では、麥や玉蜀黍をすり割つたものをコザネと謂つて居る(旅と傳説六卷八號)。豐後の方ではコザネといへばたゞ割麥のことである。ヒキワリといふ名は挽臼が普及してから後の名であらうが、其前にも割麥はあつたのである。コザネは古い言葉かと思はれる。近年になつては穀實をサネとは謂はない。
コクレン 玉蜀黍には數多の地方名のあることは、「方言覺書」中にもう發表した。其中ではコウレンといふのが不明で、或は高麗黍の名が元はあつて、それを訛つたのかとも思ふが、越後西蒲原にはコクレンといふ語さへあり、地藏堂の町のコクデングヮシといふのも、玉蜀黍で製した菓子の名であつた(高志路一卷六號)。
サナゴ 東京西郊の農村では、小麥の挽いた粉をサナゴと謂ひ、もとは之を午後の間食にもして居たといふが(北豐島郡誌)、是は少しばかり變化した用語法であつた。サナゴは靜岡縣西部の山村では、粉をふるふ時に篩に殘る荒い粉(369)のことで、又フキガスといふ者もある。小麥のサナゴは多くは鷄の飼料であつた(土の色一二卷三號)。山形縣の東田川郡でも、米や蕎麥の粉の篩の滓がサナゴ(土の香一六卷三號)、上總の一宮邊でも豆の粉を挽いた殘りの滓がサナゴである。サナはサマと同じに元は窓又は目のあるもの、たとへば焜爐の中じきりの網樣の底を、近江の北部ではサナと呼んで居る。だから篩の目から出ずにしまつたものが、サナゴと呼ばれることは、ユリゴなども同じである。ところが其言葉が次第に不明に歸して、長門の豐浦郡でも東京でママコといふもの、即ち粉を水に和したときに、小粒となつてよく水に交らぬものをサナゴと謂つて居る。
メゴナ 麥の引割を作るときに粉が出來る。それを相州津久井地方で、メゴナと謂ふのは新語である。即ち臼の目にたまる粉の意である。
メカス 目糟も挽臼に殘る滓のことだつたらうが、現在は是だけをもう一度臼にかけるので、其意味が説明しにくゝなつた。佐渡の島などのメカスは專ら蕎麥の粃のことで、之を粉にしてメカス團子といふものを作つて居る(佐渡の民謠)。外海府に行はれる民謠の一つに、
  稗粉するときや嘗め/\摺るが
       メカス摺るときやならが出る
といふのがある。ナラは涙、この島ではダ行をラ行に發音するのである。蕎麦のメカスは臼にかけても中々すりにくく、しかも稗粉ほど旨くは無いのが悲しいといふ意味であつた。越後の岩船郡では、米の精白の際に生ずる粉米碎け米もメカスといひ、蕎麦のメカスも亦粉をひく前に取つてのけるといふが(布部郷土誌)、それはこのメカス摺りに取りかゝる前までの話であらう。信州の下伊那郡で、蕎麦のメクソと謂つて居るのもこのメカスのことで、此地では蕎麦粉は水車の挽臼にかけて挽くが、それへ遣る前に先づメクソを取ることをカヂュウスルと謂つて居る。粒を石臼に入れて杵でこねるのだといふが、實際を見ないからどういふ風にするのか私にはわからぬ。このメクソだけは別に粉(370)に挽いて、かい餅などにして食べるといふ(伊那一五三號)。ところが石川縣の石川郡などでは、其樣に二つに分けて挽かなかつたと見えて、蕎麦を篩にかけて殘つた滓がメクソだと謂つて居る(風俗畫報二三〇號)。察するところ以前は一樣に、蕎麦もメクソも同じ臼を以て、一續きに粉にして居たのである。
モミヂコ 關東の方ではフスマといふもの、即ち小麦の粉を取つた殘りの外皮を、上方では一般にモミヂと謂ふやうである。其色の少し赤味を帶びたのを、紅葉にたとへた風流の名らしい。そのモミヂからも惡い粉を取つて食料にした。是をモミヂコとも又フスマコとも、兩樣の名を以て呼んで居る地方もある(紀伊日高部)。
スマ 小麥の外皮をフスマといふわけは、まだ明かでないが、麩といふ食物の名と關係があるだけは想像することが出來る。現に埼玉縣の東部農村には、小麥粉を取つたあとの糟を、スマと謂つて居る例もある(幸手方言集)。フスマは現在は家禽などに遣つてしまふけれども、以前は此中から色々の入用なものを取つた。その一つは即ち麩、その殘りの粗惡品からは、糊にする生麩(しやうふ)が出來た。是は麩を製するとき水の底に澱んだものを、乾して曝して貯藏するのであつた。石の挽臼が行き渡らなかつた世には、搗臼によつて得られる小麥粉の量は少なく、麩になり生麩になる部分が今よりも遙かに多いので、フスマも當然に食料の中に入れなければならなかつたのである。しかしそれをスマといふ名で呼んだかどうかはまだ明かでない。
コムギシラコ 土佐の高岡郡では、フスマ即ち小麥の皮を水で捏ねて、其ねばりを黐の代りにする。子供が蜻?をさすのは、通例はこの小麥シラコであるといふ。このシラコも白い色から出た名ではないらしい。
トドリ 麥を磨いだ磨ぎ汁の底に沈澱するものを、長門の島々ではトドリと謂ひ、之に蓬の葉を入れて餅に搗いたのを、トドリ餅といふ處もある(見島聞書)。
 
(371)          ○
 
ノムギ 信州から飛騨に越える野麥峠の地名なども、この野生の食料によつて出來た名といふ(信濃地名考)。野麥はミヤコザサといふ一種の笹の實で、普通に篶《すず》の實といふものの方言である。皮は薄赤く、中に白い粉があつてやゝ小麥と似て居る。山地の住民は之を穀物に交へて麺に作つて食べて居た(伊那一五三號)。
エノコ 隱岐の島前では葛の根をエノコと謂ふ(昔話研究一卷九號)。この名稱は他の地方ではまだ聽かない。
ズリ 長門の大津郡などで、根から澱粉を採取する野生植物の一つ、「かたくり」のことだといふが、西の方で此名を以て呼ぶのは、山慈姑だけには限らぬやうだからまだ心もとない。ズリといふ名は他にもあるかどうか。
ウルネ ウルネカヅラといふ野生植物の根だといふことで、昔の飢饉年には是から片栗粉を取つて食べたといふ話が、紀州の上山路などにはある。カヅラといふ以上は本物の片栗で無いことは明かである。南河内の山村でカラウ又はウリネといふものと同じであらう。
カネ 葛の粉をカネ又はカンネといふ土地は弘く、九州は一般に葛をカンネカヅラと謂ふやうであるが、果して此一種に限るか、又は根塊類の澱粉をすべてカネといふのかは問題である。鳥取縣の東伯郡などには、蕨のカネといふ語があり、鹿兒島縣でも特にクヅノカネと明示して居るから、少なくとも長門の豐浦郡のやうに、之をカヅネとはつきりと發音し、葛根の語音の如く考へるのは誤りであらう。しかし注意して見ると野生のものに限り、栽培品の芋などにはさう謂はぬらしい。全體にこの所謂カネを、常食とする風は意外に少ないやうである。飛騨の白川などは葛の粉はクヅネで、カネといふ語は行はれないが、是から製した澱粉はコといふものには入れて居ない。さうして明治の末頃までは、たゞ凶年の補食として大事にするのみで、殆と常用にはして居なかつた(ひだびと五卷六號)。カネの語原は或は斯ういふ處にあるのでは無いかと思ふ。
(372)ハチグヮツバナ 野生の澱粉をハナといふ區域は中々弘い。それが同じ物をカネと謂はぬ地方にのみ行はれて居るのを見ると、或はこの二語はもと一つのものかも知れない。飛騨で八月バナといふのは蕨粉のことで、多分は採取の季節から出た名であらうが、大體にハナとたゞ謂ふと、此地方では蕨の粉のことである。しかし信州の伊那遠山などでは、クヅノハナといふのが葛粉のことであり、東北には又特に根バナといふ名もあるから、元は範圍のずつと弘かつた語と想像せられる。たゞそれが米小麥稗蕎麥などの、澱粉にまで及んだかどうかは疑問であつて、後に此區別を立てない土地が少しはあつても、それは新たなる延長かも知れぬのである。熊本縣の南部等に於て、人が死ぬと直ぐに作る枕團子を、オハナといふのは忌言葉であらう。乃ち斯ういふ必要から、いつと無く米の粉もハナと謂ふやうになり得るのである。
タテハナ 飛騨で蕨粉のハナを製する方法は、もうよほど進んで居る(ひだびと七卷二號)。是の水の中に沈澱させる装置をハナ桶、其前に垂れ槽の中で攪拌する櫂の樣な木をハナ起しといふなど、色々の道具が具はつて居る。製品の中では上等品をシロバナ、多少土などもまじつた二番粉を黒バナと謂ふ。タテハナのタテはもとかきまぜることで、斯うして作る粉の全體の名かと思はれるのに、現在は二種を分離した第二等のものゝ名だといふ。即ち黒バナとの中間に又一つの品種が認められたのは、段々製法が改良せられて、優等の商品が出來たことを意味するのであらう。
ネバナ 蕨の粉をネバナといふのは東北一圓のやうで、是で製した餅をネバナ餅、岩手縣の下閉伊郡では、又ネ餅とも謂つて居る(民俗研究九號)。秋田縣の山本郡などには、今から百數十年も前に、もうこの蕨ネバナを、商品として賣り出す村があつた(霞む月星)。ネバナが蕨の粉に限るやうになつたのは、或は是だけが早く商品化した結果では無いかと思ふ。その時代より前には、津輕では葛かづらの根の餅を、ハナモチと謂つて居たこともある(率土が濱風)。
クサノハナ 相州の津久井から、富士の山麓地方にかけて、草のハナといふのが蓬即ち餅草のことである。蕨粉などのハナと共通の點といへば、餅になるといふことだけであつた。それで我々はハナ又はカネといふ語が、何か補食料(373)の意味をもつかと想像するのである。
ササメ 青森縣の上北郡などで、蕨の根から澱粉を取つた殘りの、一番滓をアモ、二番滓をササメと謂ふ。無能な人を罵つてアモクソといひ(野邊地方言集)、ササメとは言はないのは、ササメ以上はまだ之を食料に用ゐる餘地があつたものと思はれる。
ヲノネ 美濃揖斐郡の山間の村で、ヲノネといふのは、「からむし」の根のことである。晒して粉にして食用に供した。
カラウ 和名木烏瓜といふ。カラウは瓜呂などゝも書く。一名ウリネともいへば、前に掲げたウルネカヅラと同じものであらう。二尺ほどもある大きな芋が出來る。それを掘り出して鉈ではつり、唐臼でつき、水に浸けて粗皮を取去り、底に溜つたものを握つて食べた。まことに苦いものであつたといふ(南河内郡瀧畑村古老談)。是が我々の知つて居るたつた一つの記述である。烏瓜は九州の方ではニガゴリといふ方言がある。やはり其根を食用とした經驗からの名でなかつたか。
ヘボッチョ 瓜類の末なりの小さなものを、此名で呼ぶことは他の地方にも例があるが、信州北安曇郡の小谷地方では、烏瓜のこともさう謂つて居る。食用又は藥用にするのは其果實で、根の澱粉は所謂天花粉である(郷土一卷四號)。
オシグリ 搗栗(かちぐり)のことを岩手縣九戸郡ではさういふ(郡誌)。臼に入れて杵で搗くことをカツといふ地方ならば「かちぐり」、オスといふのも多分同じ處理法の地方名であらう。
クリノコ 栗の粉、搗粟を更に着いて粉にしたもの、青森縣の五戸地方では商品になつて居た(ひだびと六卷一〇號)。
コザハシ 栃の實をさはして澁を拔き、食用として貯藏するもの、其さはし方には二通りあり、粒のまゝ灰水の中に永く浸して置いて澁を拔くのをマルザハシ、一方最初から粉にしてさはすのが粉ざはしである。粉のさはし方は煮てどろ/\にして上から水を當てる。之に用ゐる簀を栃棚といひ、楮の皮で編んで布が敷いてある(ひだびと六卷二號)。是を十分に乾燥して後に貯藏するものと思はれる。楢の實も同じやうな處理をして居るやうだが、なほ栃の粉ざはし(374)の方が多く用ゐられ又有名である。此語の行はれる區域は中々弘く、岐阜富山新潟の三縣に亙つて、山村には今なほこの製法を記憶して居る者があり、殊に越中五箇山の奧、越中加津良、飛騨桂といふあたりには、
  嫁に行くなら桂へおいで
      栃の粉さはし我がまゝよ
などゝいふ、少し皮肉な民謠さへ殘つて居る。即ちこの粉の用法は餅に入れたり團子にこねたり、其他色々の手數のかゝるものがあるのだが(旅と傳説九卷四號)、此土地だけは最も簡單に、いつでも自由に粉のまゝを頬張つて居たといふので此歌があるのである。
ドワ 穀粉などの?酵して固まることを、出雲大原郡ではドワニナルといふ。標準語には之に該當するものが無い。ママコといふのは只水にゆるめた場合だけの名のやうである。
ゴマメ 筑前早良郡などで、黒豆のことをゴマメといふのは、大豆を摺りつぶしたのをゴといふことゝ關係があるらしい。即ち特にゴとして食ふに適した豆の意か。
ゴト 陸前本吉郡などでは、?油の滓をゴトと謂つてよく食べる。ヒシホ・モロミなどゝ同じだといふが、勿論一段と粗末なものであらう。糠味噂をゴトミソといふ地方もあるのを見ると、ゴといふものゝ範圍は豆だけに限らなかつたか、もしくはこのものにも元は豆を入れて居たかである。鹿角の毛馬内あたりでは、豆粢《まめしとぎ》の柔かなものをジンダと呼び、正月十六日にはカユノシルの中へ、是を燒いて切つて入れた(ひだびと九卷一號)。他の地方でいふジンダは米の粉糠を寢かせたもので、今では主として漬物用であるが、古くは之も補食品であつた。さうして此語の起りはまだ判つて居ない。
ザウジモノ 文字には雜事と書く中世の上品語で、今日いふ副へもの・オカズを意味する。地方には弘くまだ殘つて居るが、專ら野菜に限つて用ゐられる。たとへば廣島邊では我々の謂ふ八百屋をザウジヤ又はザウジ賣りといひ、越(375)中高岡でも野菜ものをゾウズモン、越後の蒲原地方でも、汁に入れて煮るべき野菜がザウジだと謂つて居る(さと言葉)。熊本縣南部の山村でも青物をザウシモノと謂ひ、特に親戚の不幸の折に、米一升に添へて持つて行く青物をさう呼んで居る。中部地方でも飛騨の清見村有巣などは、芋牛蒡大根の類を他家へ贈るのをゾジと稱し、吉凶ともに酒米は持參せず、たゞこのゾジと?油だけを持つて行くといふ(ひだびと五卷一號)。斯ういふ山間の村に於て、雜事に栽培蔬菜を用ゐ始めたのは古いことではあるまい。現に伯耆の中津の奧などでは、ソウジモノと謂へば山で採る野菜の總稱になつて居て、其中には獨活・山の芋・蕨・ゼンマイ・蕗・タラの芽・ムカゴ・スズノコから艾・ハハコまでが含まれて居て、人に贈りものにする場合だけには限らなかつたことは(山村生活の研究二八〇頁)、青物といふのも同樣である。
サイノクサ 丹波の北桑田郡でも、不幸の家へ米一升に副へて持つて行く食品をサイノクサと謂つて居る。現在は商品の瓜大根、又は乾物などもあらうが、それをなほ菜の草といふのは古風のまゝである。
クサモノ 飛騨の丹生川の山里では、吉凶ともに人の家へ青物を贈るが、祝ひ事には之をセンザイモノと呼び、葬式の時に限つて之をクサモノといふさうである。センザイは多分千歳の音に近いのをめでたので、それで凶事には避けたものかと思ふ。
カデクサ クサモノのクサも元來は草から出た名であらうが、後には弘く副食品のくさぐさを意味するやうになつた。青森縣の津輕地方には、オカズ即ち飯の副へものを一般にカデクサといふ名があり、秋田縣の北部でも、汁に入れて食べる青物類を汁クサといふ語が知られて居るのみならず、更に大阪府下泉南の山村の如きは、正月元日に年始に訪れる人に、串柿二つ蜜柑二つを供するのを、クサといふ風さへある(口承文學二號)。カデクサのカデは飯に添へるものゝ意で、オカズといふ語とも元は一つのやうだが、地方によつては是をやゝちがつた意味に用ゐて居る。
ヤマカデ 山野で採取する野生のカデクサのことゝ思はれるが、越後の東蒲原郡などでさう謂つたのは、單なる副食(376)用のもので無く、アザミ・カヘロッパ・コゴミ等の、飯に炊き込んで食ふ種類のものだけを、もとは山カデと呼んで居たさうである。カテルといふ語の用ゐ方が、土地によつてちがつて居るので、之を補食用の意味にカテ飯などゝいふのは、比較的新らしいことかと思ふ。北蒲原の出湯附近で、春早く採つて食用にする一種の草に、カテナといふのがあるといふが(高志路二卷九號)、是などは多分菜(サイ)にする方のカデであらう。雪國では野生が嫩く柔かくて、今でも副食用として採取せられる山の青物が多い。ミヅ・アイ・ホナ・シホデの類、算へ上げると二十種以上もあるが、是は既に分類山村語彙に載せたから、爰には再び説かない。中部以南の暖かい土地にも芹とかヨメナ・タンポポといふやうな栽培せぬ野菜は今も存外多く、又ヒユナやアカザの類の、特別の場合だけに食用とするものも若干ある。
アヲカテ 陸中東磐井地方で青カテと謂つて居るのは、大根の葉の鹽漬にして貯へられたものゝことである。之を小く刻み大根と共に米の飯に交へて食べる(岩手藤澤誌)。大根の葉は乾しても貯藏し、之を赤葉といふから、それに對した語であらう。
アヲモノトリ 野菜のもと野生であつたことは文字からでもわかる。それを又青物と謂つて居たのは、雪の多い地方としては最も自然の名であつた。越後北蒲原地方の山の青物には、アヅキナ・コゴミ、ミヅ・シドケ・小ウルヒ・本ウルヒ等があり、信州北安曇郡ではこの以外に、ウトウブキ・ウド・アザミ・蕨や筍までを其中にかぞへて居る。さうして青物採りといふ語は東北から此地方にまで及んで居た。一時に大擧して採り集め、之を鹽にして置いて年中に食料にした。それで又「無鹽の青物」といふ珍らしい言葉もあるのである。漬物といふ特色ある食品の日本に發達したのも、起原は全くこの青物採取の期間が、畠とはちがつて甚だしく短いからであつた。
アヲヤ 栽培する蔬菜にも青物といふ名を延長し、之を鬻ぐ店を青物屋といふことは、東日本一般の風であつたが、東京などはいつの間にか之をヤホヤといふやうになつた。種類が多いから八百屋だと解する人が多いが、それは後からのこじつけである。會津の若松などは今でも青屋と謂つて居る。實は今一つ青屋といふ職業があつて、それは一つ(377)の下り職であつた故に、まちがへられては困るのでヤホヤと言ひかへたのかと思ふ。
アヲクサヤ 加賀の金澤などは、所謂八百屋を青くさ屋と謂つて居る。多分は青物をもと青クサとも謂つたのである。クサは食品のことだつたから、この方が一段と具體的だつたともいへる。
シャエンモノ コ島愛媛の二縣などには、蔬菜類をシャエンモノといふ語がある。シャエンは菜園の漢字音だけれども、其方はもう使はずに、略してシャエンと謂つてもやはり蔬菜のことであつた。佐渡の島でも所謂野菜の意味にサエンといふ語を使ひ、之に伴なうてサエン畠・サエン賣りなどの語があつた(方言集)。大和宇陀郡などで野菜をサイクサといふのも、事によると一度このサエンといふ語を通つて來て居るのであらう。
センザイモノ 是も東京附近で蔬菜のことをいふ名である。前栽は中世の上品な新語で、もとは庭園のことであつたのだが、農家では屋敷に接した汁の實用の畠を、この前栽の名で呼んで居たのである。
デアヒモノ 季節の食物といふ意味に、出合ひ物といふ語を使つて居る土地がある(但馬大杉谷)。魚類にもあるが植物には殊にシュン又はスといふことを重んずるのは、もと/\採取の時期が限られて居たからかと思ふ。
フクタチ 莖立即ち蔬菜の春になつて薹に立つことであるが、それをククタチと呼んだのは古く、東北では又一般に始めのクをハ行に發音して居て、時としては畠の菜をすべてフクタチといふ人さへある。雪の中から急いで伸びるので、野山の青物も同じやうに、殊に寒國では菜の莖が柔かいのであらう。しかし中國の方でも、稀には小松菜をフクタチナといふ處もあるから(岡山方言)、名の起りは新しいものでない。
クキナ 山形縣の多くの郡では菜漬をクキナ、之を細かく刻んで味噌で煮たものをクキニともいふ。莖立の菜には限らず、生えて間も無い大根をまびいたのも、デコグキと謂ひ、又大根葉の乾したのをクキバとも謂つて居る。何れも他の地方同樣に味噌汁に入れ、又は煮付けて食べる。(土の香一六卷二號)。島根縣の邑智郡などでいふクキタチも、必ずしも薹に立つた葉だけでは無く、三月頃麻じりの畠に殘つて居る蕪菜を拔いて漬けて置くものゝことであり、もと(378)は田植の頃の食物となつて居た。さうして漬物用の菜を一般にヒラグキとも呼んで居る(粒々辛苦)。能登の舳倉島の海女がフキと謂つて居るのは薩摩薯の蔓のことで、之を塩漬にし又はフキ汁にして食べるさうである(島二卷)。
カンヅケ いはゆる澤庵漬のことを、九州北部では一般に寒漬とさういふ。今では菜類にも冬に入つてから貯藏にとりかゝるものが多くなつて居るが、以前の野菜は春の終りに漬けて、古くしてから食べなければならなかつた。同じ漬物でも寒漬の方が、まだ若干の新鮮味を保つて居たので、是も食物文化の一つの進境であつた。
ヤタロウ 一旦鹽漬にしたものを出して、甘酒の中に酒粕を入れたものへ漬直すのを、どういふわけでかヤタロウといふ土地がある(富山市近在方言集)。斯ういふ漬物にも色々あるが、何れも新らしい方法かと思はれる。
トウブンヅケ 大根や茄子を鹽少なく漬けたものを當分漬(出雲方言考)、味はよいが長くは貯へられぬ。或は當座漬又は淺漬といふ處も多い。つまり漬物は年を越すやうに鹽辛くつけるのを、本則として居たのである。
カンダイコ 大根も寒中に一旦煮て、凍らせて乾して貯へる風が東北にはある。之を春さきの汁の實に入れるのである(旅と傳説一一卷九號)。
カケダイコ 正月歳神樣や惠比須大黒樣に、掛大根と稱して二本、ちやうど掛の魚のやうに竿に掛けて上げる地方がある(岡山縣川上郡など)。一つは美觀であらうが、もとは斯ういふ短期の貯藏法も、暖かい地方にはあつたのである。いはゆる澤庵漬の大根は今でもたゞ掛けて乾して居る。
ツルクシダイコ 又單にツルクシとも謂ふは乾大根のことである(愛知縣碧海郡誌)。土地によつてはこの簡單な方法によつて、貯藏に堪へるものを作ることが出來るのである。しかし現在はたゞツルクシ又はツルシといへば、乾柿を意味する處の方が多い。
サキボシ 岐阜縣東部などに、乾大根をサキボシといふ語があるのは(民族一卷三號)、裂き乾しである。小さく切つて乾すかはりに、株の根もとを一つにして取扱ひに便にしたのは、小さいながらも近世の考案であつた。
(379)ミノボシ 大根の切乾しのことだと報ぜられて居るが(信州上田附近方言集)、起りは美濃乾し又は蓑乾しであつて、やはり一本のまゝで纏めて乾すやうに、竪に長く割いたものかと想像する。
タコノテ 山口縣の一部で乾大根をさう呼んで居る(阿武郡誌)。是も蛸の手のやうに竪に割つてあるからの戯語であらう。
ムジン 越中の五箇山では、刻み乾大根をムジンといふ。語原はわからぬ。
カッポジ 信州でカッポジといふのは蕪の切乾しのことである。燕乾しかと思ふが確かでない。
カンコロ 薩摩薯の切乾しをさう呼んで居る地域は、九州北部から島々にかけて甚だ弘い。名の起りはまだ明かで無いが、さう古くからの食品でも無いから、或は外の物からの轉用とも考へられる。現に馬鈴薯にも、早又カンプラ薯の名が出來て居るのである。薩摩の伊唐島ではこの切乾しをコッパ、此名も相應に弘く知られて居るが、是は手斧のはつり屑を、東京あたりでさう謂ふのと同じに、木の葉のことゝも解せられる。同じ地方では又大根を薄く切つて乾したものを、切る前に暫らく鹽水に漬けて置くので、カンヅケと呼んで居る例もあるから、或は斯ういふ方面から移つた名とも見られる。何れにしても語音に人望のあつた爲に、記憶しやすく又流布しやすかつたことは爭へない。
ホシカ さつま薯を皮のまゝ切つて乾したものを、土佐ではホシカと謂ふ處がある。大和吉野郡の天川村あたりにも同じ名は行はれ、爰では皮は剥いて居るが、適宜の薄さに竪に切つて、大根や串柿と同樣に、軒に下げて乾して居るのが眼につく。十分乾燥してから貯へて置いて、春さき副食物の乏しくなつた頃、湯でもどしておかずにするといふ(大阪民俗談話會報一〇)。土佐では多くは餅にして食べるといふが、或は切る前に一度蒸して置いて、菓子代用にする薯切乾しも他にはある。ホシカといふ語は一般に、肥料用の干鰊の名になつて居るので、此方を誤用のやうに解する人もあらうが、實はその肥料のホシカとても新らしい名であり、又その由來も明白でないのである。
カチイモ 靜岡縣氣多の山村などでカチ芋といふのは、普通の里芋、この邊でエゴ芋といふものゝ乾したのである。(380)最初に一度蒸し、火棚へ上げて十分乾燥させてから、臼で搗いて外皮を去つたもの、即ちこのカチは搗栗のカチであつた。俵につめて何俵と無く貯藏し、五十年前までは是がこの地方住民の主たる食糧であつた。今も堅い家では若干は之を續けて居る。
ケイモ 宮崎縣の一部には、里芋をさう呼ぶ處がある。ケ芋のケはハレに對するケ、即ち日常用といふことで、以前は此芋が單なる副食物で無かつたことを推測せしめる。
ワンナ 千葉、茨城二縣の農村で、芋殻一名ズイキの乾したのをワンナと謂つて居る。今では語原を知る者は無いが、割菜であらうと思ふ。多くのナの中で此物だけが、裂いて細くして食べるものだつた時からの名と見られる。備中の笠岡あたりでは、産後一ばんの食物は白味噌の汁にズイキを入れたもので、是をワリナと呼び、古血を下す效があると謂つて居た。紀州の熊野の太地邊でも、舊十月十五日の此神祭の供物には、この割菜と鯨の皮とを入れた味噌汁を、今でも必ず供へることにして居る。ワンナも恐らくは乾して貯へるものに限らず、以前はもつと弘く用ゐられた食料だつたらしい。
イモジ 里芋の莖を蔭乾しにしたものを、信州下伊那地方ではイモジと謂ふ。五月頃野菜ものゝ乏しい際に、之を出して味噌あへなどにして食べる(日本農業雜誌二卷一三號)。莖立ちをクモジと謂つた類とも考へられるが、イモジは古くは鑄懸屋のことであつた。多分は此名に托して食物のわびしさを紛らさうとしたのであらう。鑄物師をオイモヤサンと戯れた手毬歌なども處々に殘つて居る。
ダツ 愛知縣の市郡から飛騨にかけて、芋殻即ち里芋の莖をダツと謂つて居る。名の起りはまだわからない。
フワイ 喜界島では今でも芋田があつて田芋を作つて居る。芋餅は五月五日の定まつた食物にもなつて居るが、別にその莖を食料にすることも栽培の一つの目的であるらしい。この芋莖をフワイといふのは(同島食事日誌)、くわゐ(即ち慈姑)の轉用のやうにも見られるが、どちらが前であつたかは實はきめられぬのである。
(381)タホド 津輕では慈姑を田ホドと謂つて居る。野生のホド芋は見たことも無い人が多くなつたが、阿波の劍山周圍その他の山村では、之を掘つて食つた記憶が新らしく、殆と馬鈴薯に逐はれたと言つてもよい。東北の瓜子姫昔話には、通例爺と婆とのホドを掘つて來て食はせる一條を伴なうて居る。
ギワ 黒くわゐといふものの別名、まだ實物を見て居ない。子供がその球根を掘つて食ふ地方がある(岡山方言)。
ツシダマ 阿波の祖谷山で、菎蒻玉のことをさう謂つて居る。是も野生の一種ではないかと思ふ。
チブシ 箒草の實といふが、或は特に食用に適した一種があるのかも知れない。字には地膚子などゝ書いて居るけれども、少しも宛てにならぬ宛て字で、多分は齒に當つてツブ/\とする感じの形容であらう。東北では可なり人望のある食品で、味噌で煮たり、又はわさび?油や大根おろしで味を附け、飯の上に載せて食べる。三戸郡などの狹い區域に限られるものゝやうにいふのは誤りで(旅と傳説九卷四號)、土地によつて少しづゝ名稱がちがつて居るのである。秋田縣の南部に來ると之をトンブリと謂ふ。トンブリを七日七夜煮ると、馬の眼玉ほど大きくなるといふ話もあるから、大體にさつと煮て食べるものと思はれる。中部以西にも全く無い食料とは言へまい。
オヤス 大豆の「もやし」、地方によつては夙くから之を食料にし、從つて育成の方法もよく研究せられて居た。鹿兒島縣肝屬郡などでオヤスといふのも、モヤシの音變化ではあらうが、同時に豆を併せてこの物を作る行爲をもオヤスと謂つて居て、二つの動詞の元は一つであつたことを心づかせる。
ダイヂガラ 佐渡の小泊などでは、蕨の乾したものを水に浸けたのをさういふ。之を二本づゝ結び合せて、節分の夕の膳には、是と七粒の大豆とを必ず添へることになつて居るさうである。
シホモノ 春のうち野山から採つて來た蕨・蕗・いたどり・エニヨなどゝいふ類の若芽を、一度水で煮てから鹽に漬けて置くものを、東北では一般に鹽物と謂つて居る。夏になると茄子や夕顔なども斯うして貯へることがある。秋田の男鹿地方などは、正月十五日の前夕、一晩がかりでこの鹽物を大鍋に煮て置いて、正月中之を食べて居るといふ。
(382)ビエン 又はブエン、字には無鹽と書いて普通には鹽にせぬ生鮮の魚のことだが、やはり東北には無鹽の青物がある。採取期の極めて限られた自然の野菜は、鹽に貯藏して食用にする日が多く、取り立ての珍重せられたことは魚類と異なる所がなかつたのである。
アヒモノ 又アヒノモノ、古い文書には合物と書いた例が多く、或は相物とも書いて居るが、意味は採取期と採取期との中間の食物、即ち主として乾して貯へてある魚類海産物、鰹節乾海老の類をさう呼んだのである。鹽魚鹽漬類はもとはこの合物の中では無かつたと見えて、鹽合物といふ用語例も殘つて居る。しかし四十物と書いてアイモノと訓ませるやうになると、此品目の中には鹽物も入つて居たかも知れぬ。隱岐の合物船のことは太平記の御船出の條で有名である。
アエダラ 今なら鱈の燻製とでもいふべきものを、以前青森縣下でアエダラと謂つたのも(尾駁の牧)アヒモノの鱈といふことであらう。寒地では日光乾燥が間に合はなくて、地爐の煙に當てゝ防腐したものと思はれる。年越肴煤取祝の膳には、この合鱈を用意したことが記録せられて居る。
クグシ 喜界島では鰆その他の大きな魚を捕つたとき、良いところは皆一定の大さに切つて、串に刺し火の側に立て、好い色に炙れると拔いて保存して置く。折目や客をする日の料理に限つて使ふので、わざ/\無鹽の魚を斯うして食ふことさへある(食事日誌)。長く保存する爲には時々出して日に乾す(旅と傳説、盆號)。
カケガラシ 能登の西海岸などで現在掛けがらしと謂つて居るのは、一旦鹽漬にしてから乾した魚である。主としてハチメといふ魚で、之を四五尾づゝ一連にして、掛けて乾し上げたものである(水産界六六四號)。
カラガケ 鰛を鹽に漬けてから上げて汁を切り、更に鹽をまぶして壓搾したもの。正月の幸ひ木の飾りには缺くべからざるものとなつて居る(績壹岐島方言集)。所謂懸の魚は、本來は貯藏の?態のまゝの姿と思はれる。
ツツミジヒラ 山陰地方で弘く用ゐられる正月肴の一つ。シヒラを鹽にして藁で包んで貯藏したもの。北陸では鰤も(383)同じ目途に供せられ、之をマキイナダと謂つて居る。鮭や鱒にも以前はこの貯藏方法が盛んであつたらしく、今もアラマキといふ語が知られて居る。アラマキは淺漬と同じくあらく鹽をふり撒いたからの名かとも思つたが、マクはやはり藁を以て卷くことであつたのが、この包みシヒラの類推によつてわかつた。八月頃に盛んに漁れる魚で、農家と親しみが多く、瀬戸内海沿岸ではこの魚の名が稻の粃(シヒナ、シヒラ)と近いのを憎んで、マンビキといふ別稱を用ゐて居る。マンビキは此魚の群來性に基づき、或は又クマビキともいふ。
ホウドシ 所謂目ざし鰯のことを、福島縣相馬地方でホウドシと謂ふのは頬通しである。目も頬も大よそ同じで、或は又ホウザシと呼ぶ地方もある。小魚を一尾づゝ乾す煩はしさを省く爲に、串を使つたのは近世の發明らしい。
イリボシ 汁の調味料に使ふ小魚を、イリコ又は炒り乾しといふ處は多い。少ない水と強い火で一旦煮て乾すから又ニボシともいふのである。コワイジャコといふ名は上方に弘く行はれて居るが、語原はまだ確かめられぬ。
イリガラ 大阪と其附近では、鯨の肉の油を取つたあとを、古くから炒り殻と謂つて居たが(浪花聞書)、本來は是だけには限らなかつたらしく、東北は石卷大槌などでも、田作りの名をもつゴマメといふ小魚の乾したのをたゞガラと呼んで居る。殻といふからには多分魚燈の池を搾るやうになつて後の名と思はれる。
ニガヒ 甲府韮崎あたりの名物として知られて居る煮貝は、富士川の水運を利用して入つて來たものだが、まだその蚫の生産地はどこであるか知らぬ。コ島縣海部地方の商ひ船では、隱岐の某地に渡つて蚫を採り、煮貝を製して持つて來たことが記憶せられて居る。古くからの貯藏法の一つと思はれる。
チギリ 血切りか、魚類を割き血を洗はずに其のまゝ鹽漬にしたもの、播磨でも土佐でも共に此名がある。
ツケドミ 信州の山村にも知れ渡つた食物、所謂四十物(アヒモノ)の一つ、長鰯を粉糠と鹽とで漬けたもので、主として越後西頸城の海濱から、歩荷の肩で運び入れられた(郷土一卷四號)。越後の方では是を又ナシモノとも呼んで居る。妙な言葉だが魚無し時の食物の意で、やはり又合物と同趣旨の命名らしい。ツケドミの粉糠は洗ひ落さずに、(384)其まゝ燒いて糠も共に食べた。東京では現在鰯の粟漬といふものが、以前は粟の代りに粉糠を用ゐた時代がある。是は酢漬で燒かずに食べるのだが、漬け物材料まで食つてしまふ點は相似て居る。酢といふものゝ起りも是であり、鹽魚も元は鹽は洗ひ棄てゝは居なかつた。我々の食習は、いつの間にか大いに變つて居るのである。
キリゴミ 東北ではほゞ一般に、所謂鹽辛を切込みと謂つて居る。是も亦魚も漬けしろも共に食べてしまふ一例である。佐渡島では特に烏賊の鹽辛だけをキリゴメと謂ふさうだが、是は鹽と?と烏賊のわたとを合せたものへ、生烏賊を小さく刻んで入れ、瓶の中で?酵させたものといふから今の普通の製法とはちがひ、よほど黒作りと呼んで居るものに近い。
ハラスマイ 奧州の氣仙地方で鹽辛又は「ひしは」のことだといふ。語原は不明。
ニトリ 鰹節を作るときに、釜で煮た煮汁の底に沈澱したもの。集めて味を附けて酒の肴にする(阿波の言葉)。同じ地方で又酒盗などといふのも同じ物らしく、是は商人の廣告用命名で、現在は其類の珍らしい名が多い。
 
          ○
 
ツトクヅシ 卷蒲鉾のことを、肥前の唐津などではさういふ。クヅシは西國一般に魚の肉を叩いて集めたもの、即ち東で蒲鉾といふものゝことで、それを苞で包むから苞クヅシである。蒲鉾といふ名も蒲の穗の形によそへたのであらうから、寧ろ今いふチクワが是に該當する。だから西の方は是だけをイタと謂つて居る。板にクヅシを載せるやうな小さな改良も、新らしい文化の一つの現はれであつた。
ハシトウフ 豆腐の粕を取らずに堅めて作つたものを、喜界島では何故かハシ豆腐と謂ふ。もとは屋普請や農繁時にはよく作られた(食事日誌)。全體に西南地方の豆腐は今でも固く、藁で十文字に結はへて下げてあるくのを?見かける。多分鹽を多く使ひ、又目の粗い布の袋で漉すのであらう。都會では近い頃まで絹漉し豆腐の名があつた。今の(385)葛湯に近い豆腐は新らしい現象である。
ヒユシ 豆腐を厚みに切つて油で揚げたものを、鹿兒島附近でヒユシといふのは、多分ヒリョウズのR子音脱落であらう。しかしその所謂飛龍頭の名の起りも不明、是を葡萄牙語といふのも出たらめらしい。東京でガンモドキといふのは商品名であらうか。モドキは「よく似て居るもの」のことだから、或は雁の味がするとでも謂つたのであらう。この位の誇張は商品には有りがちである。
ケンゾ 越前から能登の半島にかけて、おから即ち豆腐の殻をケンゾと謂ふ語が行はれて居る。その語原は究め難いが、信州松本附近でいふキジといふ語を仲に置いて、どうやら京華語のキラズとの關係が考へられる。之を「切らず」と解したのは後のことかも知れない。
ココロボチ 越前の三國港附近で、石花菜即ち「てんぐさ」をさういつて居る。この單語にはをかしい歴史がある。中世以前の日本語はブト、今でも九州から沖繩にかけて、まだ口言葉に傳はつて居る。此草を煮とらかすとよく凝るので、「ここりぶと」からココロブトと謂ひ出した時代が久しく、意味とは何の關係も無しに、心太の文字を使ひ出したのが、文字は其まゝにして置いて、之をトコロブトと謂ふ者が多くなつたものらしい。コゴルは「煮こごり」などの複合形でまだ殘つて居るが、コルといふ動詞に新たな内容が出來て、普通カタマルといふ語を代用し段々もとの意味が不明になつたのと、一方には野老(トコロ)といふぬる/\するものが知られて居るので、終にトコロテンが標準語になつてしまつたのである。テンといふのも音が面白いので流行したまでで古い語では無く、或は心太の大の字を、天と誤つたのが始めでは無いかとも想像せられる。
イゴサラシ イゴは一種の海草、植物圖譜にエゴノリとあるものかと思はれる。用途はてん草と同じく、東日本の各地では盆の月の食品とし缺くべからざるものである。海から遠い村々にも商品として持込まれて居る。濱では採つて洗つて日に乾し、天氣つゞきなればわざと夜露にあてる。白く晒したものを寒天のやうに練つて、細かく刻んで酢味(386)噌あへなどにする。佐渡ではイゴネリと稱して、張板や餅板の上に練つたイゴを薄く延ばしたものを、切つて?油で煮て食べる食法もあつたが、それよりも普通なのはカガミイゴ、即ちこの液體を皿類の中で凝らせて、圓い鏡の形のまゝを供するもので、越後でも信州でも、又奧州の南部領でも、今以て之を盆の正式の供物の一つにして居る。圓いといふ點に何か信仰上の意義があつたものらしい。
イギス 東北は秋田の男鹿半島でも、エギスといふ海草を汁くさとして食べて居たといふ記事が殘つて居る(恩荷奴金風)。九州にも此名は處々に知られ、島原半島などは誤つてイギリスと呼んで居る。大分縣速見郡でイギスといふのは、椿やくぬぎの實を叩いて粉にしたもので、之を水に浸けて置くと固まるといふが、それは疑はしいことで、多分是にも海草のイギスを加へて凝結せしめるのであらう。イギスとエゴノリとは、科を同じくし種を異にして居るが、以前はこの區別を立てず、二者同じものゝ地方名の變化だつたかと思ふ。オゴといふ海草も現在は別種のものであるが、言葉は一つのものから次第に分化して來たやうである。
イムラ 又イグラともいふ。植物學の分類ではヒバマタ科のイシゲといふものであるが、イゴ又はイギスと外形が少し似て居る。壹岐では明治の初めまで、そのイグラを乾して粉にしたものを團子に入れ、又は飯の中にまぜて食べた(民俗誌)。
メノコ 岩手縣の海岸地方では、昆布を細かく刻んで米粟稗などゝ共に飯に炊いて食べた。之をメノコと謂つて居たが、近頃は殆と廢れて居る(下閉伊郡誌)。單に昆布の惡いのをメノコに乾したともいへば(民俗研究九)、或は昆布の根を細かく切つて乾したともいつて居る(新岩手人二卷四號)。つまりもう覺えて居らぬ者が多くなつたのである。
ハマナ 庄内地方で、海苔を濱菜といふとあるが(山形縣方言集)、是も紫海苔だけには限つて居なかつたものと思ふ。
テントコ 鳥取縣の中津山村では、胡椒をテントコと謂つて居る。此地でコショウといふのは蕃椒即ちトウガラシのことである。蕃椒をコショウと呼ぶ地域は存外に弘い。中部地方では木曾信濃二川の流域、京都附近にも飛び飛びに(387)痕跡がある。九州は大髄にトウガラシをコショウといふ地域であり、その南部にはカウレエグス、即ち高麗胡椒の名がある。其他の地方では東海道の一部から北陸奧羽の全體に亙つて、ナンバン又はナンバがあの赤い蕃椒のことである。トウガラシといふ地域は、全國の五分の二にも足りない。
ツブカラシ 會津地方では、蕃椒をもとカラシと呼んで居た。之に對して標準語のカラシに當るものを、特にツブカラシと謂ふさうである(新篇風土記)。
アキビアブラ 秋田縣鹿角地方では、「あけび」の種子から油を搾つて食用にした。小正月には特に此油を以て附け揚げをこしらへて佛さまに上げた(民俗學二卷二號)。
メダレ 以前の食鹽は製し方が粗末で「にがり」が多く之を貯藏することが容易でなかつた。越後地方では木を刳つて作つた鹽槽の上に鹽を叺のまゝで置き、其底にたまる鹹汁をメダレと呼んで居た。メダレの用途は土臼を卷く粘土の中に入れ、又は除雪用のコイスキに塗つて雪の凍み付くを防ぎ、或は皮膚の水蟲よけに塗つたりしたが、別に食用としては豆腐の製造に之を利用したさうである。
スマシ 現在は?油で調へた汁だけがスマシで始めから澄んで居るのだが、以前は濁つた汁を澄ましたものが?油であつて、味噌と?油とは本來は別々のものでなかつたのである。或はこのスマシ取る爲に、始めからやゝ水分の多い味噌を仕込んだこともあるらしいが、普通には味噌を水で薄めてから、布の袋を二度ぐらゐ透してオスマシの汁を作つて居る。秋田縣北部などでは其袋をスマスブクロと謂ひ、又味噌漉しといふ一種の竹籠も、其爲に作られたと思はれるから、スマシとは謂つても十分に澄明なものでは無かつた筈である。しかし是だけでは今日の?油のやうに、濃淡を自由にすることは出來ない。それで今一種のタマリといふ方法があつて、味噌桶の中へ細長い竹笊をさし入れて置き、佛事の日などには其筒形の中に溜つたものを汲み出して使つたのである。中部地方などで?油屋をタマリ屋といふ語が今でもなほ行はれて居るのほ、この方式のよほど久しく續いて居たことを意味する。
(388)シラトリ ?油の表面に浮ぶ白い黴を、上方ではシラトリ又はシラトといふ者が多い。關東から奧羽地方へかけては之をササミといふ。語原はわからぬがササミとシラトとはもと一つの語だつたやうである。きたない例だが虱をシラミ、その蟲の子をキサザなどゝいひ、東北では今でもシラミをシヤメと發音する人が稀でない。
コシ 鹿兒島附近では黴も?も共にコシと謂ひ、又色々の皮膚の病にもコシ・コセカキ・コシキヤマヒといふ語がある。?を今の假名遣ひでカウヂと書いて居るのは、最初からの名では無かつたかも知れぬ。各語それ/”\の獨立した起原は考へられぬからである。
トモゲ 岡山方言に、トモゲは?の種のことだと報じて居る。トモはこの種を米にまじへると皆?に化するから、仲間にするといふ意味で、トモといふ語も同じであらうが、ゲといふ語がまだ判らぬ。或はカウヂの舊語であらうか。以前の?作りは今よりも一段と神秘なもので、たとへば壹岐島のテモヤシの如く(民間傳承一卷八號)、家はそれ/”\の口傳があつて、空中の酵母の自然に來り着くに任せて居た。從つて所謂トモゲの經驗は、食物文化の一つの進歩であつた。
アマカス 甘酒はもとは堅練りが普通であつたらしい。東日本では是を甘粕又は甘粥といふ名が弘く行はれて居る。秋田縣の男鹿半島の甘粕の製法はlつの例だが、米をケメシ(粥飯)に煮て甕に入れてさましてから、同じ量の?を入れてかきまぜ、何か被せものをして二日ほど置いてから食べるといふ(農民日録)。水にうすめて湯にして飲むのが普通だが、諏訪の古い祭では、之を木の葉に包んで供へたことが記録に見えて居る。
アマリ 酢をアマリといふことは、上方では夜分の忌言葉として殘つて居るだけだが(民俗學四卷六號など)、中國九州に行くと是が普通の名であり、鹿兒島縣と南の島々では又アマンとも謂つて居る。米の飯や薯なども餘りの物を、壺の中に貯へて作るからと、五島あたりでは説明して居るが、やはり酸くなる前に一旦甘くなるので、アマリと謂つたのでは無いかとも想像せられる。腐るをアメルといふ動詞も東北にはある。
(389)カキズ 熟柿を甕の中に貯へて作る酢があつて、廣島縣では之を柿酢と呼んで居る。柚を關西ではたゞユウといひ、九州ではユース、東の方ではユズといふ者が多いのは、柚子といふ漢語の音讀では無く、この果實から最も簡單に酢が取れるからの名であつたことが、是によつて類推し得られる。橙をコウブツなどゝいふのも、最初はカブスでは無かつたかと思ふ。カブは九年母とも書いてもとは外來語らしい。
シバス 柴酢。コ島縣奧木頭の山村で、ユルデ即ち白膠木(ぬるで)の葉から酢を搾りそれをさう呼んで居た(人類學雜誌一九〇號)。何か簡單な酢が手に入るやうになれば、當然に斯ういふものは忘れられて行くのである。
オコウ 味噌は製法の地方差以上に、名稱が各地區々である。オムシ又はムシといふのが中央部には弘く行はれて居るが、佐賀縣ではオコウ、鹿兒島縣でもオコ、さうして其語の起りはまだわかつて居らぬ。八丈島では之をダシ(八丈の寢覺草)、東北は氣仙郡でオエンソといふのは塩噌の古稱である。津輕では又ジンゴベイといふ名もある。
ジンダミソ 甲州では陣立味噌と書き、又一夜味噌とも謂つて、武田信玄の古法だといふ説がある(續甲斐昔話集二八九頁)。小麥粉の花つけ(?)を戰場に携へ、塩と水とを合せて、之をジンダを掻くと謂つたといふが、他の地方の例を見比べると、是ではまだ一般の解説にならぬ。たとへば岩手縣の稗貫郡では枝豆餅、即ち若い豆を潰して餅につけて食ふのをジンダ餅とよぴ、飛騨でも大豆を煮てつぶしたのをジンダと謂ふ、中世の記録に糂?などの字をあてたのは、多くは米の粉糠を鹽に合せて?酵させたもの、今日の所謂糠味噌のことをいふやうである。糠味噌は現在は單に漬物の床であるが、もとは是をも食料に供した土地が多かつたやうである。
ヒナタミソ 廣島縣の一部では、「ひしほ」のことをさう呼んで居るといふ。?のヒシホの「ヒ」も日であつて、曾ては日温を以て之を促成して居た故の名ではないかと思ふ。
ナッツ 納豆ともと一つの言葉であらうが、秋田地方には別にナッツと稱して、鹽辛と鮓とのあひの子のやうな食物がある。製法はまだ我々にわからぬが、何か穀類を使つて?酵させたものらしく、是に川魚や草などを漬けて貯藏す(390)るといふ(族と傳説八卷六號)。所謂納豆にも豆を使はなかつた時代があるのではなからうか。
ナットノヲトコ 越後の各郡では歳の暮に納豆を寢せるのに、藁を引結んだものを其苞の中に入れ、之を納豆の男と謂つて居る。この「男」を入れると納豆がよく出來るといふのは實驗であらう(越後三條南郷談)。薩摩の黒島でも燒酎釀造の際に、笹を結んで  麹の上に刺すのをムスビと謂ふ。ムスビを多くさすほど燒酎の出來がよいといふ(くろしま一四八頁)。數千年間のバクテリヤは、斯んな簡單な方式を以て傳はつて居たのである。
ミソカスモチ 東北ではスマシを取つた味噌の搾り滓に蕃椒や山椒の實を入れて摺り、それを丸く平たく握つて乾したものを、味噌滓餅と謂つて貯へて置き、炙つて飯の菜にして居る(鹿角方言集)。
ヨカンベイ 酒の粕は酒の價が高くなると、湯に解いて酒の代りに飲む者が益多くなる。東北では一般にドベといふ。山上憶良のカスユ酒もやはり是であらう。福井縣の坂井郡などで、酒の粕をヨカンベイといふのは、やはり此用途の爲に出來た名で、隱語で無いまでも、恥を包む戯語であらうと思ふ。
ナンバンショノカス 越後では我々のいふ味醂粕のことをさう呼んで居る(出雲崎)。ナンバンショは即ち南蠻酒で、この酒製法の輸入の際に出來た名である。
トウライ 味噌豆の煮汁の底に澱んだものを多くの土地では、アメ、美濃のコ山村ではトウライと呼ぶ部落がある。子供がそれを貰ひあるいて食べる。
エガス 荏糟。荏胡麻の實を臼に入れて搗き締木にかけて油を搾つた殘りを、やはりその多くの産地では子供が貰つて喜んで食べた。多く食べると下痢をしやすいものだつたといふ(三州奧郡風俗圖繪)。
アメガタ 水飴は早く起り、之を固形にする技術は久しく普及しなかつた。飴形といふ言葉は、後者が子供にも親にも珍重せられた名殘で、西國は一般にこの名を以て今も行はれて居る。菓子を總括してアメといふ地方も弘い。所謂飴形以外に是といふ種類の菓子も無かつた時代があるのである。この固形の飴が始まつてから、急に小兒の食物が變(391)化し、町の小商人の才覺が農村を風靡したことも想像し得られる。たとへば彩色を利用して、横斷面に人の顔を出すやうにした飴の棒、東京では「おたさんと金太さんが飛んで出たよ」などゝ謂つて、縁日で賣つて居たものが、僅かの間に全國の隅々にまで普及し、中國でも九州でもよく見られるやうになつた。東北では男鹿半島の農村で、テゴコアメ又はフトコアメと謂つて、市の日に要りに來たのも是であつた(農民日録)。フトコは「人」といふことで、即ち小兒の付けたらしい名である。
タグリアメ 水飴は段々と固くなつて來た。タグリ飴といふ名は今も東北に殘つて居て、箆か箸のさきに附けてたぐり取るほどのゆるさであつたものが、後にはケヅリ飴と謂つて鑿を以て削り取り、目方で賣るまでになつた。容器も始めは碗や皿であつたのが、コバ飴といつて鉋屑に包み、又は笹の葉や竹の皮に挾んで運ぶのを珍重するやうになつた。それが愈形を作り、又練つて白い色のものを作ることが出來て、粉をまぶして數を算へ賣れるやうな商品になつてしまつたのである。
ギョウセン 今でも水飴の方をギョウセンもしくはヂョウセンと謂つて居る土地は甚だ弘い。上方などでは竹の皮に引き伸ばした飴、或は固飴のことをさういふ處も稀にはあるが、四國九州では水飴に限つた名であるらしい。起りは地黄煎、即ち地黄といふ苦い藥を煎じたのに、水飴を混じて飲みやすくしたものの名であつたといふ(浮世鏡三)。地黄は藥と言はうよりも寧ろ強壯剤であつた。是が商品として流行した事情は、可なり近世の肝油飴と似て居る。多分は後者が地黄煎の故智を學んだものであらう。その事情が既に不明になつて名のみ殘り、賣藥の盛んな富山縣などでさへ、淨宣寺又は行仙寺といふ寺で、製し始めたのが元で此名が出來たといふ説を信ずる人が居る。しかし液體の水飴ならば古い頃からあつた。たゞこの藥の煎汁を混じ始めた頃から、是が人望ある商品となり、同時に竹の皮を飴の皮と呼ぶ位に、やゝ固形に近くなつて來ただけが進化なのである。
シホガキ 砂糖以前にも飴の普及があつて、食料の甘味は徐々と増加して來たが、その以前は今から想像もし難いほ(392)ど淋しいものであつた。柿の實の食法の今よりも多岐であつたなども、この甘味の不足を補充する手段であつたかと思はれる。あまづらとか蜂蜜とかも記録にあるのみで、全く是を知らぬ土地は少なくなかつたのである。信州川中島附近には鹽柿と稱して、柿を埋藏する風が今でもある。此柿は或は澁柿のよく熟したのを、此方法によつて甘くするのかと思はれるが、奧州八戸附近でいふ漬柿は、ミャウタンなどゝいふ木ざはしの柿が多く用ゐられる。鹽を少し入れて貯へて置き、冬中氷を割つて出して食べるといふ(ミネルヴァ一卷八號)。
ヂンヂイガキ 甲州北巨摩郡あたりで爺柿といふのは、燒柿のことである。柿を燒いて食べる風はもう稀になつたが、是も恐らくは澁柿の調理法であらう。樹の實で齒の無い者にも食べられるものは、以前は甚だ少なかつた上に、木練り即ち樹上で甘くなる柿の種類も乏しく、何か手をかける必要があつたのである。
トンコ 熟柿は多くの土地ではジュクシ又はヅクシと謂つて居るが、是は漢語だから新らしい名と見られる。もとは別の名をもたぬ位に、是が普通の柿であつたのかと思ふ。越後の三面村ではこの熟柿をトンコと呼んで居る。コウセン即ち麥の炒粉に、このトンコを合せ練つて、甘味をつけて食べるといふ(布部郷土誌)。この食法は信州美濃等にも弘く行はれて居る。ネルといふ言葉は、或は斯うした穀粉の食法から始まつて居るのではあるまいか。
ネリガキ コネリ即ち木練りといふ名は、既に柿系圖にも見えて居て古い言葉であり、又今も九州には行はれて居る。信州でも一種小粒の砲彈形のものに其名がある(上田附近方言集)。東京近郊でも甘柿をキザハシ、即ち樹上でサハシた柿といふ名を以て呼んで居るが、サハスといふのは元來は樽などに入れ又は酒精を注射して、澁柿を甘くする技術のことであつた。京阪地方では是をアハスと謂ひ、九州でも佐賀縣などはネルと謂つて居る。その澁柿を練つたネリ柿に對して、自然の甘く熟する柿の方はネレ柿と謂ふさうである。つまりは乾柿その他の柿を甘くする方法が既に擴張してから後に、樹の上で甘くなる品種が普及した歴史を語るものである。岡山縣の西部などでは、サトウ柿といふのは所謂あはし柿のことであつた(備中北部方言集)。砂糖の名を知る頃まで、なほ澁柿を以て之に代用して居たのだ(393)から、ネル又はアハスといふ技術の大切であつたことはわかる。
グヮンザン 熊本では澁柿のアヲシ柿に對して、木ねり、木ざはしの柿をグヮンザンと呼んで居る。この語の意味はまだ明かでない。
カブチ 橙を志摩の和具村などでカブチといふのは、此地方としては珍らしいが、是に近い名は九州の海岸と諸島には行き渡り、或は香物又は好物と解してコウブツといふ者も多い、九年母は中央部では橙とは別種と言はれるが、西國ではこの區別は無いやうであり、是にも亦クニブといふ類の地方名がある。或は兩者もと一つの系統の、外來の歴史を示す語では無いかと思ふ。ダイダイといふ名なども實は由來が判つて居ない。好ましい音だから弘く行はれたまでのやうである。
ツング 子供が取つて食ふ木の實には、曾ては成人にも入用のあつたものが多いやうである。九州の島々には我々の知らぬものも色々ある。ツングといふのは「あこの木」の實のことだが、他にもこの名を以て呼ばれて居るものがあるらしく、肥前江島などでは今も小兒が採つて食べて居る。又インタといふ葡萄の實に似て小さいものも食べる。
コウシキ 中國地方の山の村で、子供が秋の山に入つて採る樹の實も色々あるが、其中で色が赤く肉が柔かで、低い灌木になるコウシキといふなどは忘れ難い。今から考へて見ると形がやゝ甑《こしき》と似て居る。甑はもう使用する人が無いから、至つて古い命名であることがわかる。
ヤラフ 蘇銕の實である。是は今でも穀食を補つて居る。沖永良部島などの味噌は、專らヤラフを用ゐ、此實の取れる十月前後に、味噌を搗くことになつて居る(シマの生活誌)。又粉にして貯へて凶作の備へともする。
ハマチャ 島根縣一帶に知られて居る茶の代用品で、クサネムといふものだといひ(出雲方言)、或はカハラケツメイのことゝもいふ。石見三瓶山の裾野の産がよく知られて居る(郷、一卷三號)。郡によつてはコーカ茶といひ、又カーカ茶とも謂ふ。コーカ又はカーカは多分中國各地のコウゲも同じで、草原のことであり、東北でいふカヌカ又はカッ(394)カと共に古語の殘りと解せられる。即ちさういふ土地に野生する茶の代用品で、茶に伴なうて其利用が始まつたのである。
モクダ 青森縣津輕の農村には、斯ういふ名の茶代用品が元はあつた。普通には山茶ともいひ、煎じたものを茶筅で泡立てゝ飲むことは、以前の茶の用ゐ方も同じであり、又たゞの茶に交へて煎じることもあつた。漢名は赤竹麻、山に野生する、トリノアシといふ草に似たものといふ(外濱奇勝)。
 
(395)   宅地の經済上の意義
 
 此から諸君の助力の下に屋敷と云ふ問題を少しづつ研究して行きたいと思ふ。經濟の學者が米作を農業の如く考へると同じく、地方道《ぢかただう》を説く人々は田の事ばかりに重を置いて居た。彼等は畠の問題にさへ甚疎であつた。況や宅地の如きは單に農民の容器ぐらゐに考へて居る。併し少くも中世の百姓は屋敷を其生活上非常に重要なものと認めねばならなんだ。其理由は幾つもあるが、第一には昔は我々の中に盛に行はるゝが如き土地の賃貸借と云ふものが一向に無かつた。人が一處に起臥の場所を定め妻を持ち子を育てんが爲には、是非とも誰かに奉公して其主人から土地を使はせて貰はねはならぬ。一旦の住所を矢へば代を見付けることは容易で無いから、宅地の使用權は極めて永く且つ安全なものであらねばならぬ。從つて始めて之に有附くことは簡單な手續きでは無かつた。次には屋敷は啻に住宅の敷地の用を爲すのみでは無く、又物置物乾の場所であるのみならず、其外に必多少の餘地があつて之を生産の用に供することが出來た。所謂五畝の宅之に樹るに桑を以てせば五十の者以て帛を衣とすべしで、我邦でも夙くより屋敷に桑を栽ることを奨勵せられた。次には柿栗の類の果樹で、砂糖の無い時代の必要なる食料である。更に又瓜や菜を作る。令の規定に於ては園地は宅地の外ではあるが、法律上の取扱は全然之と同樣で、田地と違つて年期割替の制度もなく、戸の存在と終始して居るのみならず、其割渡には原則として屋敷の地積を給せられあること近世の所謂汁實畠と同じかつたらしく、後には屋敷と云へば幾分の畠地も附屬して居ることとなつたやうである。其爲であるか否かは知らず、今日も如何に窮屈な村方でも百姓家の端には必地味と日當の良い番のしやすい往復の最も樂な些の畠があるのが普通(396)である。野方場の在所の舊家とも云はれる家では、其地面が存分に取つてある。竹も筍も桐も槻も樫も松杉も屋敷の中から生産する。村に由つては長百姓の垣内には所謂門田があつて、飲水の餘を以て之を養ひ、正月の餅米だけは此で作る者もある。此種の大な宅地でも又其幾分を割いて勞働者の家族を安住させる。即門男若は庭子などゝ稱する者である。第三に數ふべき屋敷の有難味は所謂惣山惣藪に對する權利である。此が多くは屋敷の居住權に伴つて居た。家用の薪、家畜の秣、屋根葺替の茅、時々の建築修繕に要する木材、農具器物を作るべき木や石は、個々の屋敷に住む者にして始めて採取することが出來た。のみならず惣山を開拓することは黙つて居れば惣百姓の權利である。用水排水の工事などに多くの資本が入るやうになる迄は、山野は專惣開であつた。必要なる勞力は賦役として出さゝれる代には、子孫に至るまで其分配に對して一本の鬮《くじ》を持つて居た。闕所跡の田地の如きも其屋敷の承繼人が出來るまでは村の惣作に付するのが近い頃までの慣例であつた。税が重くして後にはそれが連帶の義務になつたが、以前は疑もなく其村に屋敷を持つ者の共有の權利であつた。此等の點から見て昔の農夫が宅地などはどうでもよいと言はなかつた事情がよく分る。又最初から一の屋敷の主であるのと借りて住むのとの間に、借料の支拂以外にどのくらゐの經濟上の差別があつたかと云ふことも想像に難くない。軒役の割賦に面倒な勘定があり、地子の免除が町興行の重い條件であつた理由も皆此邊から出て來るかと思ふ。百姓屋敷の問題は地頭に取つても亦決して手輕なものでは無かつたやうである。
 
(397)   屋敷地割の二樣式
 
 曾て自分は我國都市の成長を論じて、町は要するに或特定の目的の爲に區劃せられたる村の一部分であると言つたことがあるが、更に考へて見ると此説には若干の訂正を加へねばならぬ。或種の村落に在つては、其一區劃を以て町と爲すが爲には、先以て殆と村の當初の面目を一變する程の土地割替を行はねばならぬ。然らずんば以前宅地の無かつた野原などの間に、舊來の本村と全く樣式を異にした屋敷地を設けねばならぬ。宅地其物の形?若くは排列の點から見れば、村と町とには根本の差異がある。少くとも村の中には如何に發達しても其儘町とは成り得ない種類がある。故に此種の村方に就て言へば、町はもと村地域の一區劃であると云ふ迄は正しいが、村が變じて町に成るとは言はれぬ。何となれば昔の語では村とは民居の集團を意味し、田や畑や山や原野は單に村の地であつて村其物では無いからである。併しながら村の中にも別に其儘に成長して大小の町と成り得る種類もあることを忘れてはならぬ。近き三四十年間にも我々は澤山の實例を目撃して居る。以前は單に多少の人家が一筋に竝んで居ると云ふばかりでどう見ても村と呼ぶの外は無かつた在所が、交通又は産物等の關係から市が立ち人馬が往來し家の數が多くなつて、僅のうちに名實共に立派な町と成ることもある。今日の一千二百の町の中には勿論始から町にする積で作つた町もあるが、偶然に停車場に通ふ近道に當つたり或は奧の鑛山が榮えたりした爲に豫期せられざる都會となり、而も從來の村民が坐して其結果を受けるやうな場合も少くは無いのである。
 年代から言へば此第二種の村は他の者よりも起立が較新しいかも知れぬ。併し自分は此とても今の町と云ふものゝ(398)新しい程には新しくは無いと信ずる。語を換へて言へば京鎌倉と二三の船津との外には全國に町の無かつた莊園時代にも、所謂村の中には町となり易かるべき村と成り難かるべき村との二種があつたかと思ふ。さて此二種別の由つて來る所は決して或學者の想像するが如き交通路の關係では無かつた。今日の新道が平野を直線に横斷し、從つて四辻又は橋本坂本に後から多くの出屋敷が出來て町形になる例を見て、昔からの連簷村落《れんえんそんらく》も亦此通と思ふのは誤である。水路には或は天然の約束があつたかも知らぬが、陸路は少くとも元は在所と在所との聯路であつた。本州を縱斷する程の官道でも曲り曲つて人の住む里を辿つたもので、通運からの收入で居民の生計を維持し得ざる限は、耕作を離れての在所を作ることが出來ないから、所謂驛家はどうしても既存の郷村の中から選定せねばならなかつたのである。然らばこの道路開通に便利であつた一種の村は如何にして發生したか。地方の都會の種子とも謂ふべき一線の上に竝列した村を作つた原因は何であるか。自分は之を以て屋敷地割の樣式、從つて開發企畫者の勞力及資本に對する地位に基くものと認める。
 此差別は幾分か自作小作の關係と似て居るやうである。免許?の券面に現はれた名義人の誰であるを問はず、開墾の實權を總括する社家なり武家なりが、自分で農作を直營するの志がある場合と、自分は遠方に住んで居て秋毎に作料を取立てに行くつもりで開く場合とに由つて、どうしても村の地割は變らねばならぬ。自作大地主に取つて必要なるは今の語で言へば日傭人足と其世話人である。之に反して全部又は大部分の新開地を下作に渡す場合は澤山の獨立した農家を要する。
 即一の莊園を大な一個の農場で經營するか、或は數十の小な中心に分配するかに由つて、始から村の形が違ふ筈である。又後世の總受新田のやうに、一家一村から分れた一團の百姓で其間に主從上下の關係の無い者が共同して開發をする場合にも、農作の中心が分立する點は同じである。村の形を圓くするときは勢耕地に近い家と遠い家が出來る。それを避けんとすれば地面を何番にも細別して點々に持たねばならぬ。何れにしても往復の勞力の損である。故に些(399)も國道、縣道と關係が無くとも、なるたけ村の形を細長くして屋敷の耕地に接する面を多くするのである。然るに戰國時代を經て大農が段々無くなり、直營農場の農僕も請負作を爲し、獨立した小農の中にも借地農が出來て、二種の農村の農法の差別が不明となり、持地も遠近錯雜した爲に、村の圓いと長いとは別に意味も無い者のやうに考へらるるに至つたのである。
 此區別は又一の莊園の中にも存立し得る。普通百町二百町の山野を開發する場合には、必附近の武士に名田の特權を豫約して設計又は浮浪招集の事務を管理させる故に、莊内には只の作人の部落と名主の得分と大小二種類の農場が出來る筈である。從つて名主の垣内は農僕の小屋を周圍に集めて所謂圓い村を爲し、其隣の作人部落では新田路の幹線に沿うてどんぐりの背競をする農家が出來る。而も武士は武備の便宜をも考へるから、多少往來のしにくい高處又は入野に屋敷を構へたが爲に後世は却つて小百姓の村の方が平和の經濟には有利な地位を占め得たのである。戰國時代に牢人が郎從を連れて隱れたと云ふ村なども、やはり多くは圓い村になつて居るかと思ふ。斯な村方ではよほど宅地の大割替をせねば市も立て得ず往來の道路も導き得ない。故に追々と之を長く引延さうとする傾向がある。即便利のよさゝうな側面へ新屋敷を出して行く。内地では良い例を思出し得ぬが、伊豆大島の本村(新島村)などは、たしか百二三十戸の家が僅五番地に分れて居る。一筆の大な宅地は路を以て圍まれ、それ/”\澤山の小宅地が各側面から入袖になつて箝入して居る。明治の世に分筆して何番地の一、何番地の二と獨立したが、もとは本家の屋敷の片端に尻を差して住んで居た從屬者である。今日では段々と主たる道路が出來て、多くの家が其路傍へ面を出したから外見だけではもとの地割が分らない。長い村の例はいくらもあるが、周防玖珂郡藤河村大字|御莊《みしやう》などは著い例である。丘に沿うた片側家竝で、一軒前の間口は一定し、屋敷の後の新山から前は道路を隔てたる菜園、溝を越えての田地まで、同じ幅で突通した土地が一戸の持分であつたらしい。武藏南多摩郡鶴川村大字小野路の如きも、家は谷底の道路の兩側に簷《のき》を連ね、各戸の持地は細長く後の岡の上まで間口の幅で通つて居る。松平信綱の治世に開けたと云ふ野火止宿(400)の地割も之とよく似て居る。昔の城下の町などは城山に密接して地割が窮屈であつたにも拘らず、折れ曲つて山の裾に細長く民居を構へて居る。上總の成東から南は帆丘《ほんのう》の邊まで、以前の海岸であつたらしい丘陵の端に小さな砦の跡が無數に續いて居るが、其麓には各主の領主の保護の下に此種の長い村が蛙の卵のやうに繋がつて居る。其村々を縫つて行くものは即此邊で肝要なる交通路で、新に出來た鐵道もやはりそれに絆つて居る。中にも東金の町の如きは殊に奇拔な長い町で、米國などの新町興行とは大分趣を異にした今迄の行掛りが顯著に推定し得らるゝのである。
 
(401)   規則正しい屋敷地割
 
 「竹の花」の中に引かれた栃木縣芳賀郡益子町大字塙は、村の道路が廣く且つ眞直で屋敷の形が皆方形である。其一軒前の面積は中々大い。南側とも奧行は後の新山まで打通し七八十間、間口は十九間又は其二倍か三倍である。土地の人も何故に此の如く地割が規則正しいのであるかを知らない。尤も此村は古い土着であるにも拘らず、今住む者は何れも六七十年此かた越後邊から移住して來た者で、其前からの村民は三四戸に過ぎない。こんな有樣であるから昔の事もわからなくなつたのであらう。
 
(402)   馬の寄託
 
 淺間山の周圍又は八ヶ嶽の裾野などの草山には大きな牧場が多く、所謂アルプス農業を行つて居る。諏訪郡南部の村の人の話に、あの邊で夏蠶の忙しい頃には馬の世話をする手も無い爲に、二月三月を限つて馬を甲州の牧場へ預ける。八ヶ嶽の麓を横ぎつて北巨摩郡の東北隅念場ヶ原附近の牧へ一日がかりに曳いて行くのである。二三月の自由な生活の後にも、馬は主人をよく覺えて居り、又おとなしく昔の通り働くので、強ひて何かの癖が出來たかと云へば、無暗に路傍の水を呑みたがるぐらゐなものであると云ふ。
 
(403)   人狸同盟將に成らんとす
 
 狸の化けた憑いたは皆大いなる冤罪で、永い間人と狸との感情を疎遠せしめて居た主因は「カチ/\山童話」であつたと云ふことが、此頃漸く明瞭ならんとするのは自他の爲慶すべき傾向である。狸は人間に於て渡瀬理科大學教授の外に、更に一箇の有力且つ善良なる同情者を得た。それは史蹟天然記念物保存會の戸川殘花翁である。翁は此頃タヌキ考の稿本を自費印刷して我々に頒ち、狸が我々に取つて百の愛すべきあつて一つの憎むべき無きことを理解せしめんと努力して居られる。而して猶全國の同志と聯路を取つて不當なる誤解を匡正し、且つ今後は大に彼の隱れたる好意を利用しようとせられるのは、大體に於て我々の賛意を吝まざる處である。今些しく二團體間の不幸なる關係に就て史的考察を下すに、垂仁紀の足徂の侵撃以來我々が犬を以て最も信頼すべき附庸と認め、其軍事行動に對し注意深き?束を加へなかつたことが其大なる原因であるらしい。狸汁又は狸皮の首卷の如きは我々が是非とも彼等から要求せねばならぬ必需品ではない。毛筆の材料の如きは恐くは有害なる野鼠の髭を以て之に代へて一擧兩得し得るであらう。文明の國民はあまりトラジションに拘へられてはならぬ。願はくは現在の愉快なるアンタントコルジアルを一段と有效に擴張し、少々は養狸業の牧場でも各地に見るやうになつたならば農作の害敵どもは次第に退縮し、其結果として腹鼓は彼等のみの民族的遊戯では無くなるであらうと思ふ。
 
(404)   鴻の巣
 
 第八號に高木君が「魔除の酒」の説明として引かれた仙臺地方の昔話に付いては、自分は又別の方面から深く報告者たる菅野氏の勞を謝すべき理由をもつて居る。あの話の全體の組立は所謂 Beast and Beauty 系統から別れた一つの動物報恩譚で、蟹滿寺《かいまんじ》の縁起以來我邦にもありふれたるものではあるが、其中心なる一節に「蛙の易者の入智慧で、裏の桂の樹に巣を食つて居る鴻の鳥の卵を、蛇の婿に取らせに遣る。婿は蛇の形を現はして木に登り、鴻の巣に首を入れると、忽ち親鳥に其頭を啄かれて落ちて死んだ」と云ふ條《くだり》は、あまり外では見なかつた型である。自分は兼々これに就て南方氏などの御意見が聞きたいと思つて居た。此奇拔な鳥と蛇との闘爭《あらそひ》の話は、傳説の形を以て二三の地方に分布して居るのであるが、どうもまだ由來が判らない。手控にあるだけを序に此へ列べて置かうと思ふ。新編武藏風土記稿卷百四十八、今の北足立郡鴻巣町大字鴻巣の條に、鎭守氷川社一名鴻の宮は土地の名に由つて起る所と記し、更に羅山文集を引いて次の話を載せて居る。
 「傳説す、昔大樹あり、樹神と稱す、民飲食を以て之を祭る。しかせざれば則ち人を害す、一旦鵠來つて枝上に巣《すく》ふ、巨蛇其卵を呑まんと欲す。啄みて之を殺す、是より神人を害せず、是に於てか鵠が害を除き益あるを以ての故に鵠巣と號し、遂に社に名づけ又地號と爲す云々。」鵠の字を用ゐたのは道春先生の考へからで、實際は始から鴻巣と書いて居た。今の社傳も略同樣で、行嚢抄にある話は之よりも一段奇怪だと風土記にあるから、念のため其内に彼書を見ようと思ふ。此話だけでは蛇又は鴻と今の社との關係はまだ不明であるが、次の備前の話を見ると、此戰闘は即ち(405)神社の爭奪であつたことが知れる。備陽記(享保六年自序あり)卷六に曰く、「備前見島郡(琴浦村  大字)下村の八幡宮は又の名を鴻の宮と云ふ。昔の氏神は正體大蛇なりしが、鴻常に此宮山に巣を掛け寶殿も鳥の糞に穢し、其上氏子の參詣も鴻の雛あるときは、恐れて怠りぬ。氏子共歎きて神に祈りけるは、如何にして氏神鳥類に惱されたまふぞや(中略)神力正にあらば忽ち鴻を亡したまふべしと申しければ、其夜氏子共が夢に神現れ出でゝ、汝等祈る所至極せり、然らば明日辰の一天に鴻を退治すべし、汝等出でゝ見よとあらたかに告げたまふ。氏子も奇異の思を爲し殘らず神前に蹲踞して心を澄ます所に寶殿震動して大蛇一つ現れ出で、鴻の巣掛けたる大木に登り互に暫し戰ふ所に、鴻ども多く來りて終に神蛇を突殺しぬ。夫よりして鴻の宮と謂ふと所の老翁共語る。此段不審なれども書き記し置かざれば此説を知らざるかと言はれんこと恥かし」とある。近頃出版せられた東洋口碑大全上卷に、大和怪異記を引いて大要左の如き話が載せてある。下總の三の社と云ふ宮にて、社の木に鴻棲み、蛇や石龜を食ひ散して社地を穢す。氏子之を見て次第に神威を疑はんとするとき、神託あり日を期して鴻を治罰せんと云ふ。其日の巳の刻となり、白蛇あり舌を閃かして其木に登る。雌雄の鴻之を見て急ぎ蛇を捕へ、骨のみ殘して食ひ盡す。それより其鴻を神に祀り鴻の巣と呼ぶ(以上)。靈鳥が蛇を滅したと云ふだけの話ならばさして珍しくは無い。白井眞澄の紀行|鰐田乃苅寢《あきたのかりね》、羽後飽海郡遊佐郷、永泉寺の條に、昔鳥海山に手長足長と云ふ毒蛇住み往來の人を害す。諸天萬神之を憫みたまひ、梢に怪しの鳥を棲ませて、毒蛇居れば有哉《うや》と鳴き、在らぬときは無哉《むや》と鳴かしむ。故に其地を有哉無哉關と云ふとある。但し此話には寺臭がある。通例手長足長は害敵の名に用ゐられぬ。多くの社の末社に手長明神あり、二體あるときに手長足長の神といふ。それは仲居即ち侍者の義かと思ふ。此話なども元の形ではやはり鳥の方が毒鳥であつたのではなからうか。兎に角に三つの鴻の宮の口碑が共通に神の敗北の記事を傳へて居るのは妙では無いか。氏子が元の氏神を見限つて新なる優勝者を迎へたと云ふ點は、通例の毒龍譚と一括しては説きにくい。何か幽玄なる意味のある話であらうと信じ、些でも考へ附いたことがあつたら又報告したいと思ふ。
 
(406)   動物盛衰
 
 日光御獵場の老監守の話に、四十年程前までは大谷川の奧にも又小來川大蘆川の入にも猪鹿は事の外多かつた。然るに明治七年か八年の頃に猪の仲間に烈しい流行病が起つたらしく、どの谷に入つて見ても二頭三頭の猪の斃れて居るのを見ぬことは無かつた。それを獵師共は一々穴を掘つて埋めてやつたが、其以後は殆と猪の影を見た者がない。鹿も同じ頃に一冬非常に雪の深い年があつて、多くの鹿が大谷川の水筋に沿うて下つて來たのを、里人が出て手槍などでいくらも突殺したことがあつた。それから著しく數が減じて一時は殆と捕れないと云つて居たが、十五六年も經つうちに此秋は三頭翌年は五頭と追々に獲物が増して、明治二十七八年頃には晴の御獵に七十餘の鹿を撃つたこともある。一場處に十八頭捕れたと云ふのが今までの語草である。それから又々減じて、今では格別技が以前に劣つたわけでもあるまいが、一季の獲物が三つとか五つとか云ふやうになつてしまつた。寂光の七瀧から羽黒の瀧へ行く右の山に、一時柵を設けて放養してあつた鹿は北獨逸の種であつた。三十五六頭にまで繁殖して居たのが、どうしたものか次第に斃れて行くので、終に其世話を廢された。其殘黨は廣い野山に走り込んで、後々の狩の獲物の中にもまじり、或は遠く利根郡の山で捕られたものもあり、今は亦其消息が絶えてしまつた。岩の鼻まで電車の通ふと云ふことは此山の獵に取つては容易ならぬ事實である。馬返の後の山の木に猿の遊んで居るのを見るなどと云ふことは、もはや返らぬ昔話となつた云々。
 
(407)   若殿原
 
 近世の軍書類に、よく「はやりにはやる若殿原を制しつつ」と云ふやうな文句のあるのを、人は單に若武者と同じ意味と考へ、或は又若殿に原の字を添へたので、緋縅の鎧でも着た連中と解して居るかも知らぬが、少くも語の成立はさうでなく、殿原と呼ぶ一種の兵卒があつて、其元氣の好いのを若殿原と言つたらしい。常陸鹿島郡輕野村の一部秋谷と云ふ地の住民は、鹿島神社の物忌職の被管であるが、周圍の村方から別種扱ひにせられて居た。其者の名稱は殿原と謂つた。是はもと彼等が互に殿原と喚んだ爲で、他から附與した賤稱では無かつたさうである。常陸國志には此事を記し、一種低級の神部を殿原と名づけた古い例として、安東郡專當沙汰文の中に、安濃津に宿泊した伊勢の神官の從者に、家子何人中見何人殿原何人と記したことを擧げて居る。此名目が神職配下に限られてあつたか否は別として、殿と云ふ字の宛字であることは少くも疑が無い。殿は御所、屋形、家又は館などと同じく、嶷々乎たる居宅を指したのが起原であるから、所在地名を添へずに多數人を呼ぶ筈が無い。故にトノバラのトノは恐くは全く別物で、トネ・オトナなどと云ふ稱呼に縁のあるもの、事によるとトネバラの一轉訛かも知れぬ。村の長又は之より低い今なら區長組頭等を勤める所謂長百姓をトネと呼んだ例は近頃までも多い。周防岩國領には天保の風土記の頃も村々に刀禰と云ふ村役人があつた。多分は大内家の遺制だらうと云ふ。例へば玖珂郡本郷村大字本郷を中心とする俗に山代と云ふ一地域は、六郷七畑とも五ヶ八ヶとも唱へて十三ヶ村に分れ、是に十三人の刀禰が居た。本郷區の刀禰は山代某で、刀禰の名目を表向莊屋と改めた後も、本郷を以て庄元とした爲に、此十三ヶ村を總括して之をば山代宰列と名づ(408)けた。同郡都濃郡鹿野村大字大潮戸禰は、音戸禰職の者累代住居の地故に地名となる。越前にも敦賀郡より丹生郡へ掛けて沿海の村に、舊家にして刀禰と稱する者が多かつた。敦賀八景略記の元禄十一年の奧書にも橘姓刀禰彦右衝門と見えて居ると云ふ。能登の海邊の村々にも刀禰と云ふ門閥があつた。狼烟村と寺家村との間なる鹽津と云ふ部落にも刀禰の傳兵衛居住し、高屋村の古い百姓の傳へた正コ二年の石動山由緒書にも、高屋刀禰先祖當山申傳の覺とある由。此等の刀禰は高野山文書の猿川三郷の分に多く見ゆる刀禰職と同じく、單に重立つた百姓で總代にでも出ようと云ふ手合であつたのが、追々に格式ある家の稱呼となり、他の一方では領主の許に出て仕へると、澤山さうに刀禰輩《とねばら》と呼ばれたのが、終に微役を世襲する者の家に遺留したのであらう。而して其古に溯れば、刀禰は或は六位以上の朝臣とも主典以上の官吏ともあつて、今ならば紳士と云ふ位の者の稱呼であつた。今酒造家の勞働者の名とまで零落したトジと云ふ語は、恰も若殿原などのトネと對立した古語かと思ふ。
 
(409)   用水と航路
 
 我邦の河川が交通に無用であるとの評は、日本が珍しく多くの水を使ふ國であることを考へると、已を得ぬ事のやうに思ふ。總じて何れの河川にも縱の利害と横の利害とは常に相爭つて居る。縱とは川を上り降る舟路筏筋のこと、横とは用水を田に引く農村の要求である。魚を捕る簗及び建網又は水力電氣の工事なども亦横の方の味方である。縱の利害の方が力強い例は寧ろ大に乏《とも》しい。關東では利根川江戸川などはそれであるが、是は兩岸の地が低濕で水を引くに及ばぬからで、木曾川の中流や新宮川などは又堤も要ぬやうな高岸の地である御陰に、舟筏が自由に水路を使ひ得るのである。之に反して用水者が通航者を威壓してゐる例は隨分多からうと思ふ。近い處では武藏の多摩川なども、羽村の堰で大都の飲料に澤山の水を取られ、下流で處々の田の水を引かれる爲、よく大水の出る川のわりに常は流が細く、且つ堰の側は早瀬になつて、曳ても舟を上せること六つかしく、下して解いて了ふ筏すらも、雨を待つて漸く通ると云ふ有樣だから、西多摩の材木も次第に水路と併行した鐵道の方に荷を取られて行く。美濃の揖斐川の如きは殊に甚しく、自分七月の初に揖斐の町から池野赤阪の方に向つて此川を渡つたときなどは、橋の上の車の上から見渡す限り一滴の水も川に無かつた。夏中は常に此通りとの事故、苗代の始まる頃から九月迄、山奧の杉丸太迄悉く荷馬車で運ばねばならず、從つて縣道開築の要求が絶えぬのである。三河の豐川|矢作《やはぎ》川などは流の緩い所謂大川だが、舟が通ふと云ふのは名ばかりで、永年の舟方どもはよくも反抗せぬと感心するほどえらい冷遇を受けて居る。豐川では豐橋市の周圍に亙つて大きな水利組合がある。其用水の取入口は一鍬田と云ふ村の前にあつて、斜に州の流を斷ち切(410)り、舟の路としては幅二間足らずの板樋を三四ヶ所水中に伏せ、何時でも其水をも塞ぎ得るやうにしてある。川舟は此まで來て一旦積荷を石河原の上へ卸し、登りには猶二三人で曳かねばならぬ。矢作は美濃まで入込み得るよい航路であるにも拘らず、枝下《しだれ》と明治の二大用水の爲に、是亦大部分の水を横取せられ交通が大難儀である。殊に明治用水は三郡數萬石の田を潤すべき大用水である。十四五年前したゝか者の郡長が組合管理者であつた頃、色々の故障を排して川の流を完全に堰き留めてしまつた。水門の下へ行つて見ると殆と空川になつて居るが、それでも取入口の大石垣の下までは川舟が遣つて來る。川上から下つた船は堰の上手まで來て居つて、石垣の上下で荷役が始まり、雙方の舟は荷物を取かへて各引返すと云ふ奇觀がある。此等の例は何れも一つの縣の中の事で、言はゞ多數政治の折合から弱い方が我慢したものだが、右縱横の二利害が二縣に分れて居るときは、一方の氣の毒が愈著しく感ぜられる。例へば九州の筑後川はあれだけの大川であるが、やはり南岸の田の爲に處々に堰が出來て居る。朝倉郡の朝倉附近即ち平地から國境の山地に入込まうとする境目に、水利組合の工作物が幾つかある。此邊を通る川舟は多くは大分縣日田地方の舟であつて、川口に近い久留米又は若津まで往復する者であるが、歸航には荷のある舟は勿論のこと、空舟さへも大に惱むのである。筏なども堰に打付けて綱が解け木材を散失することが度々である。其上に猶福岡縣では旱の年には全部水流を塞ぎ止め得る慣習上の權利を持つて居て、愈交通を杜絶した場合にも、只告示の寫しを大分縣へ送附すればそれでよいことになつて居る。尤も近年は之を實行したことが無いと云ふ。此等の例は中古農作を重んじた時代の十分なる特典であとより入來つた舟方等は素より其不自由を承知の上で業を始めたのであらうが、何か今少し穩當なる折合の點が有りさうに思ふ。地方の讀者より之に似たる實例又は經驗を報告せられんことを望んで居る。水の問題は我輩が久しく注意して居る所である。
 
(411)   蟹?
 
 芝田君の大唐米談の中に、蟹の害を避ける爲に此稻を田の周匝ばかりに栽ゑるとあつた。此動物の害は近頃あまり之を説く者は無いが、昔は其繁殖が今より盛んで、諸國山間の清水掛りの田など往々にして其跳梁を患ひたのではあるまいか。山城蟹滿寺の古い縁起譚はともかく、狂言の蟹山伏を始として、所謂八足二足の妖怪譚が各地に語り傳へられてゐるのを見ると、其民俗思想と交渉する所必ずしも僅微で無かつたのである。之を書物がもたらした外來のものと見ることは、簡單であるが自然では無い。肥後の天草下島の西海岸、天草島鏡の編者が住んで居た高濱村に於て自分は蟹?の害と云ふものを目撃した。此邊の水田は多くは例の棚田であつて、上の田の境は必ず五尺三寸の石垣である。蟹は其石垣の隙間に隱れ住み、夜分出で來つて苗の根元を?み倒す。別に食料にするでも無いやうであるが、一夜の中に幾十株の稻を流し而も之を防ぐ方法はまだ無いと云ふことであつた。鷺なども田螺や泥鰌を捕るのはよいが、其爲に苗代を流すことは非常である。武藏杉山社の田植祭の歌などを見ても、此鳥が如何に百姓を苦しめたかはよく分る。故に自分は怖れたから祭つたのが諸國の鷺森の最初の由來だと思つて居る。(郷土研究二卷六一頁參照)
 
(412)   山に住んだ武士
 
 天鹽十勝の人氣少ない田舍までも、山嶺を以て行政區劃を定めるやうな時節になつては、人の頭の中にも一種の地圖が出來て、所謂青垣山の思想は愈強くなるばかりであるが、日本の如き山國に五千萬からの人口を盛ることが、此では益難儀になることであらう。平地の戰亂を避けて山奧に入つた多くの武家の外に、中世には特に山地を撰擇した所謂開發領主も少なくなかつたやうである。九州へ往つて見ると、征西將軍宮を輔翼して苦節を全うした五條氏の末裔が、今でも筑後八女郡の矢部村大淵に住んで居る。五條頼元の最初の領地は豐後玖珠郡の津江の山村であつたが、常に阿蘇火山の外輪山を跋渉して肥後の菊池と聯絡を取り、猶筑後に越えては矢部の大淵、筑前では朝倉郡の三奈木莊、更に日向に於ては飫肥邊にも所領があつた。險しい境の山々を縱にも横にも越えて往來したのである。尤もこの場合は平地が敵であつたからの據無い交通手段とも言はば言はれるが、全然此種の壓迫を受けなかつた者でも、山を自分の世界として氣樂に住んだ武士は隨分あつたらしい。例へば肥後國志に依れば、邊春某と云ふ地侍は筑後八女郡の邊春村が名字の地であつて、而も其領分は今の肥後玉名郡緑村大字山十町・中十町等の村々に及び、國境に近い肥後分の山十町村阪本と云ふ處に居城があつた。其邊春氏の親族には和仁某と云ふ家があつた。此家の領地は今の玉名郡春宮村大字和仁を中心として、筑後側の八女郡白木村の邊に及んで居た。肥後の國境には比類の家が、外にもあつたやうである。彼等は何れも狹小の耕地を以て多くの剛勇を扶持し、戰國時代の動搖に耐へて永く家督を保つて居たが、佐々加藤の入部の時に種々の手段を以て滅されてしまつた。江戸時代の國郡統治策の一は境界の劃定に在つ(413)たらしい。此後二句國に亙つた山越しに諸侯を封ずることは愼んで居たらしく、自分の力を以て永い間に開拓した土豪が武器を棄てゝ農人となつた場合は格別、他所から入込んで新に山地の主となることは殆と不能の業であつたらしい。此の如くして諸國の山越の交通は次第に杜絶した。汽車などのまだ出來ぬ中から、足弱に引かれて平地を大迂囘する人が多くなつて居た。今日草苅路などの幽かに山腹で消えて行くものも、必ずしも歴史と交渉の無い散漫なる人の足跡ばかりだとは思はれぬ。要するに山を國境にするのは平地人の思想である。
 
(414)   美濃紙現?
 
 美濃ノ和紙ハ年産百五十萬圓ト稱ス而シテ其十ノ九ハ長良川右岸六七ヶ村ノ製造ニ係リ武儀郡上牧下牧二村ノ出ス所又其半ヲ占ム此等ノ村落ハ元是レ寥々タル溪山ニシテ製紙ノ業起ラスンハ到底今日ノ如キ人口ノ充溢ヲ期スル能ハス工業ノ必シモ大都ニ據ルヲ要セサルコト及地積ノ制限ヲ超脱シテ多數ノ人口ヲ養ヒ得ルノ點ニ於テ遙ニ農業ニ優レルモノアルコトハ此事實之ヲ證シテ餘アリ、蓋シ美濃紙ノ今日アルハ尋常牧民者ノ辛勞ノ外ニ猶數多ノ原由アリ試ニ之ヲ列記スレハ
一ニハ原料供給ノ便ナリ
二ニハ永年ノ練熟ニ依ル技巧ナリ
三ニハ販賣機關ノ整備ナリ
 而シテ品質ノ優良ニ至リテハ皮相論者ノ常ニ口ニスル所ナルモ是レ唯賣價ノ低廉ト同ジク一時的且比較的ノ語ニ過キサルヲ以テ之ヲ永久ノ原因ニ算スル能ハサルナリ
 美濃紙ハ極メテ變化多キ歴史ヲ有スルモノノ如シ其現在ノ?況中最モ人ヲシテ奇異ヲ感セシムルハ原料ノ殆ト全部ガ縣外ヨリ供給セラルヽコトナリ紙ノ主産地ハ明白ニ之ヲ二分スルコトヲ得、牧谷即チ板取川ノ二村(上下牧村)ハ長良川ノ舟運ニ依リ上有知《カウヅチ》ヲ經テ原料ヲ招致ス、南方武儀谷ノ數ケ村ニ至リテハ岐阜ノ停車場ヲ去ルコト近キニモ拘ハラス車道ニ峻坂ヲ越エ輸送ノ勞却ツテ多シト謂ヘリ、上有知ト岐阜トハ原料ノ市場タルト同時ニ又製品ノ市場トシ(415)テ南北ニ分立シ各一方ニ割據シ村々ノ生産者ハ原料ト製品ト往復二重ノ運賃ヲ負擔セリ楮ノ供給者ハ全國ニ散在ス一年數十萬圓ノ所要ハ到底一地方ノ剰餘ヲ以テ之ニ應スル能ハサルノミナラズ原料仲買者ハ各地ノ相場ヲ比較スルヲ利トスルカ故ニ此ノ如キ事實アルナリ、楮ハ那須物(常陸及下野ノ産)及備後物ヲ以テ上品トス運賃ノ少カラサルヲ知ルヘシ三椏は近年頓ニ消費高ヲ増加セリ主トシテ伊豫土佐ヨリ之ヲ仰クモ彼地方ニ於テハ自ラ良品ヲ使用シ力メテ粗惡品ヲ輸出スルモノノ如ク當業者ハ常ニ其不便ヲ感ズトイフ
 縣主任者ノ言ニ依レハ美濃ニハ昔ヨリ紙ノ原料ヲ産セス之ヲ他國ニ仰グノ風早ク行ハルト云フモ小官ノ觀ル所ハ然ラズ勿論近年ノ産額増加カ附近ノ原料ヲ超過スルコト數十倍セルコトハ事實ナランモ楮栽培ノ著シク減退シタルヤ亦爭フベカラストス古代ノ交通ニ於テハ自ラ原料ノ頼ムヘキモノナクシテ其生産ノ規模ヲ擴張スルノ理ナキノミナラズ此地方ニハ楮栽植ノ痕跡今尚歴然タリ例ヘハ上有知ノ東方津保川ノ谷ハ紙ヲ製セズシテ少量ノ楮ヲ産出ス長良川ノ上流ニハ沿道處々ニ此植物ノ退化シテ將ニ野生ニ復歸セントシツヽアルヲ認ム思フニ郡上一郡ノ山村ニシテ楮ヲ栽ウルコト伊豫土佐ノ境ノ如クナリキトスレハ款乃一聲直ニ之ヲ下流ノ工業村ニ致スコト容易ナレハ負搬ノ勞遙ニ今日ニ勝レルモノアリシナラン而シテ楮ヲ驅逐シテ跡ヲ絶タシメタルハ恐クハ其兄弟タル桑ノ所爲ナルヘシ試ニ開國當初ノ貿易策ハ無分別ナル養蠶ノ奨勵ニ在リキ其餘波今日ニ及ヒ地方農業ノ盛ヲ卜セムトスル者米ニ次テハ直ニ繭ノ産額ヲ問ヒ地方人ハ又如何ナル場合ニ於テモ之カ増産ヲ以テ誇リ得ヘキモノト爲セリ美濃紙原料ノ缺乏ハ責ヲ之ニ歸シテ誤ナシ
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 美濃紙ハ幸ニモ其産額ノ増加ト共ニ著シク販路ヲ擴張スルコトヲ得テ此カ用途亦從テ大ニ加ハレリ例ヘハ都會ニ於ケル書册用又ハ障子紙用ノ如キ必シモ耐久力ノ大小ヲ究ムル者ナク却テ外見ノ美ヲ賞賛スル者多キカ故ニ「ポルプ」ノ混用ハ決シテ之ヲ粗製ナリトセス此點ニ於テハ近年ノ改良ハ寧成功セルモノトシテ可ナリ然レドモ之ト同時ニ他府縣ノ生産卜區別セラルベキ特性ヲ失ヒ從テ遠方ノ地ニ意外ノ競爭者ヲ生ジタルコトハ亦爭フベカラサル事實ナリ要スルニ多クノ生産改良ハ地方名産ノ同化ヲ意味ス例ヘハ之ヲ瀬戸ノ陶器ニ就テ見ルニ原料ト製法ト共ニ之ヲ他地方ニ仰キタル結果九谷薩摩雜然トシテ競ヒ進ミ都人ノ無知ヲ利用シテ優ニ本場ヲ壓倒スルノ力アリ然レトモ一朝地ノ利ヲ失ヒテ市場ノ爭奪ニ敗レタル場合ヲ想像スレハ退キテ守ルニ足ルベキ特色無キカ故ニ時トシテハ覆没ノ患ヲ免カレザルベシ、美濃ノ紙ガ既ニ二重運送ノ不利ヲ負ヒテ競爭場裡ニ立ツガ爲ニ?促トシテ粗品ノ大量製造ヲ企畫シ以テ之ニ當(417)テントスルハ至當ノ策ト謂フヘキモ抑又自ラ危地ニ進入スルノ評ヲ免レサルハ即チ是カ爲ナリ加之所謂改良ハ時ニ失敗ナキ能ハス越前大野郡ノ穴馬谷《アナマダニ》及西ノ谷ハ帳紙ノ産地ニシテ古來京阪ノ老舗ヲ花客トス色黒ク不細工ナリト雖丈夫ニシテ水ニ浸スコト三日ナルモ些ノ變形ヲ見ス然ルニ製紙技師ハ來リテ之ニ改良方法ヲ教ヘ「ポルプ」入ノ紙ヲ作ラシメタル結果忽然トシテ其販路ヲ閉塞セラレ大野ノ仲買ニシテ之カ爲ニ産ヲ失ヒタル者アリ生産者ノ未ダ仕切ヲ取ラサル者ニ對シテハ再ビ山中ニ向ツテ品物ヲ積戻シ著シク其年ノ收入ヲ減シタルカ爲山民ハ之ニ懲リテ直ニ舊法ニ復シ改良ノ一語ハ爲ニ何物ノ生産ニモ歡迎セラレサルニ至レリ此ノ如キハ舊來ノ優品ノ販路アルヲ知リテ未タ粗品ノ爲ニ豫メ別販路ヲ設ケス漫ニ生産ノ容易ヲ計リテ蹉跌シタルノ一例ニシテ彼ノ優品カ販路ヲ失ヒタル後ニ在リテ粗製濫造ノ盛ナルヲ歎ズル者ト相對立スル誤謬ナリ
 生産改良ノ説キ難キコトハ更ニ勞力ノ點ニ就キテ之ヲ認ムルヲ得立派ナル生産者ハ必ス機械ヲ使用スルカ故ニ機械ノ使用ヲ以テ一ノ改良ナリト斷言スルハ危險ナリ産業組合ノ發達及之ニ對スル政府ノ保護ハ小民ヲシテ機械ノ共同使用ヲ爲シ得セシメ結構ナルカ如キモ働クヘキ地積ニ限度アル農民ハ勿論其他ノ職業ニ在リテモ先以テ勞力ノ配布ニ付將來ノ爲ニ計劃スル所アルニ非サレハ容易ニ之ヲ行ヒ難シ言フ迄モナク機械ノ作用ハ人勞ノ省約ニ在リ外部ヨリ人ヲ雇フモノハ之ヲ節シテ機械ニ依ルハ何レノ場合ニモ好都合ナランモ勞働者自身ノ立場ヨリ言ハヽ無暗ニ省約セラレテハ大變ナリ省約シタルダケノ勞力ハ直ニ別途ニ利用スル手段ノ併存セサル限ハ休息安逸ハ甚ダ迷惑ナルヘシ例ヘハ美濃紙ニ就テ言ハヽ百五十萬圓ヲ二百萬圓ニシテモ尚以前ト同樣ノ賣行ヲ見ルカ然ラサレハ附近ノ土地ニ力作シ乃至ハ他業ノ收入ヲ補充シ得ル者アルコトヲ以テ機械利用ノ要件トス繁忙時ニ於テ臨時ニ雇入ヲ爲スノ要アリ又ハ功程ヲ促進シテ轉シテ第二種ノ生産ニ向ハントスル者ニシテ始テ機械ノ有難味ヲ感スヘキ理ナレドモ隣人ニシテ既ニ機械ヲ利用シ生産費ヲ減シ得ル以上ハ自ラハ手先ノミヲ以テ生産シタルヲ根據トシテ一段ノ高價ヲ要求スル能ハサルハ當然ナルヲ以テ純然タル家庭工業ノ家ニ於テモ手ヲ餘スカ又ハ餘分ヲ生産スルカ二ノ一ヲ甘受シテ亦機械使用ノ仲間入ヲ爲(418)スベク而モ生産過多ノ責任ハ小規模ノ生産者到底之ヲ負フノ途ヲ知ラサルニモ拘ラス大勢ノ壓迫ヲ如何トモスル能ハス所謂品澤山ノ不景氣ニ逢着シテ延テハ機械又ハ改良ノ語ヲ忌ムニ至ルナリ
 紙産地ノ人口ハ地積ニ比シテ著シク充溢セリ個々ノ小工業者ハ慣習上白ラ農ト稱スルモ其農地ノ一戸當リハ極メテ微小ナリ而シテ製紙ノ季節ハ今ヤ次第ニ擴張シテ又舊時ノ如ク冬季農閑ニ限ラサルニ村々ノ農法ハ些モ純農村ノソレト異ナルコト無キカ爲亦勞力所要ノ重複ヲ來セルカ如シ之ニ比ブルトキハ養蠶地方ノ農法ノ如キハ遙ニ新意ヲ出スコト多シ桑ノ葉ノ賣買モ其弊ナキニ非サルモ之ヲ美濃ノ楮ニ比スレハ十分ニ自給的ナリ三季ノ蠶ヲ飼フ農家モ傍必ス桑園ヲ耕セリ美濃ノ紙工カ村ニ住シナカラ全然楮ノ栽培ヲ忘却シタルハ殆ント恢復スヘカラサル過去ノ事實ナリ從テ機械使用ノ間接ノ利用ヲ此方面ニ收ムルハ現?ニ於テハ稍困難ナル問題ナリ勞力ノ省約カ必シモ彼等小民ノ希望スル所ニ非ザルコトハ一ノ事實之ヲ證明ス岐阜縣ノ傘ハ重要物産ノ一ニシテ原料ヲ國産ニ仰グノ利ハ製紙モ之ニ及ハス然ルニ蛇ノ目ノ傘ニ在リテハ以前ヨリ染紙ヲ用ヰ近年用紙ノ昔ニ比シテ粗薄ト爲ルニ伴ヒテ力メテ多量ノ染料ヲ施シ糊ノ力ヲ以テ外見ヲ丈夫ラシク見セシムル傾アリ之ニ要スル勞力甚ダ多キニ過クルヲ以テ同業組合ノ試驗場ハ傘用ノ色漉紙ヲ發明シ特許ヲ受ケ之ヲ使用シテ色染ノ手間ヲ省カシメントシタルモ斯ノ如クシテハ紙ノ薄キヲ蔽フ能ハサルト勞力ヲ他ノ資本ニ奪ハルヽノ實アルカ爲ニ其法極メテ不人望ナリトイヘリ此ノ如キ私心ハ必シモ之ヲ擁護スルノ要ナキニ似タルモ自家ノ勞力ノミヲ利用スル生産者カ其職ノ一部ヲ奪ハルヽヲ苦シムハ察セサルヘカラス成ホト總産額ノ増加ハ多クノ場合ニハ喜フヘキ現象ナレトモ之ト共ニ單價ヲ減少シ或ハ勞力收入ノ率ヲ低クスルノ虞アリトセハ政策トシテハ必シモ之ヲ歡迎スル能ハサルナリ
 販賣機關ノ充滿ニハ多クノ年月ヲ要シ如何ニ巧妙ナル介助ヲ以テスルモ到底一朝ニ其目的ヲ達スル能ハサルハ事實ナリ此點ハ即チ舊生産地カ他ノ競爭ニ對スル一ノ武器ニシテ美濃紙今日ノ盛大ヲ見ルモ亦之カ爲ナリ然レトモ其弊モ亦少カラス例ヘハ小工産者ニ取リテ最便利ナル前借豫約ノ販賣法ハ常ニ仲買人ノ勢力ヲ増長シ販路撰擇ノ自由ヲ奪ヒ(419)經營者ノ技倆ヲ制限スルコト大ナリ農界ニ於ケル地方小市街ノ穀商兼肥料商ノ如キ夙ニ共害ヲ認メラルヽモ猶多數ノ同業者間甲乙相制スルノ實アリ紙産地ノ小工ノ如キハ原料買入ノ資金ヲ借ルニモ製品ヲ賣渡スニモ終始一定ノ取引先ノ外求ムヘキ道ナク名ハ獨立ノ企業者ニシテ實ハ所謂飢渇勞銀ヲ甘受シ永古貧苦ヲ脱却スル能ハサル者甚多シ而シテ同業組合ノ組合員中ニハ此?態ノ保守ヲ希望スル分子即チ純然タル商人又ハ少數ノ親方的大生産者ノ勢力優越シ彼等カ視テ以テ弊害ナリトスル眼前微細ノ弊害ニ對シ消極的手段ヲ講スルノ外一國一地方ノ利益ト一致スルカ如キ根本的改革ハ到底之ヲ此種ノ團體ニ期待スルコト能ハサルナリ
 以上ノ事實ニ依レハ美濃紙ノ將來ニ對シテハ何分ニモ樂觀ヲ下スコト能ハス殊ニ此産業ト此地方トノ連鎖ニ至リテ今ヤ實ハ皆無ニ歸シ唯無知ニシテ因習ニ拘束セラレタル小民カ未タ覺醒シテ自ラ境涯ノ改善ヲ力メサルノ間少時ノ苟安ヲ保ツニ止レリ誠ニ今日ノ如クハ鐡道ヲ去ルコト稍遠キ山谷ノ地ニ入リテ生産ニ從事スルノ理由ハ一モ存スルコトナシ假ニ勞働者ノ一部ヲ消費地又ハ運送ノ便ナル地ニ移ストセハ忽ニシテ本元ヲ壓迫スルニ足ルベク自ラ移ラサルモ他府縣人ノ地位一段ト優レル者ハ行々頗ル増加スヘク而モ確乎タル原料ノ供給地ヲ有セス天下同型ノ製品ヲ出シ尚不景氣ノ潮流ノ外ニ立タント欲スルハ蟲ノ善キ話ナリ紙商人ハ此外部ノ競争ニ對抗スルヲ難シトシ内ニ抵抗力少キ生産者ニ向テ其禍ヲ嫁セントスルカ故ニ山間太平ノ民モ浮世ノ波ニ飜弄セテレサル能ハサルナリ
 此ノ如キ際ニ當リテハ政策ハ誠ニ其力ヲ施シ難シ然レトモ暫ク其比較的行ヒ易キモノヲ求ムトセハ原料ヲ獨立セシメ從テ其供給市場ト製品ノ販賣市場トヲ分離セシムルニ如クハナシ小規模ノ生産者カ最モ前借ノ必要ヲ感スルハ原料買入ノ資本ニ在リ資本家ハ其威望ヲ挾ミテ一方ニハ楮三椏等ノ專賣權ヲ行ヒ他ノ一方ニハ製品ノ專買權ヲ濫用シ得ルナリ語ヲ換ヘテ言ハヽ現在ノ原料供給、?態ノ下ニ在リテハ産業組合殊ニ購買信用ノ組合ノ如キハ誠ニ效果ヲ奏スルコト難ク而モ容易ニ有力ナル障碍ヲ被リ易キナリ又製紙業全體ノ上ヨリ見ルモ交通ノ便比較的劣レル山間ニ在リテ他地方ノ製造業者ト遠方ノ販路ヲ爭フヘキ際ニ於テ原料ヲ外ニ仰グノ不利ヤ大ナリ生産者ハ次第ニ移住シテ樂地ヲ見出(420)シ得ンモ縣トシテハ永ク其所得ヲ保持シ難シ土地利用ノ點ヨリ見ルモ此ノ如キ需要ノ確實ナル特用地産ヲ閑却シテ新ニ他ノ作物ヲ捜索スルハ迂ナリトイフヘシ或ハ此地方紙原料ノ栽培ニ適セストイフ者アリ而レトモ近代ノ風土誌ヲ見ルモ少クモ楮ノ栽培ハ廣ク行ハレタル證アリ、之ニ代リタルモノハ疑モナク桑畑ナリ、養蠶ハ此縣重要産物ノ一ニシテ今ヤ既ニ製絲業ノ之ニ伴ヒテ起レルアリ、再ヒ之ヲ壓抑シテ舊?ノ恢復ヲ期スルコトハ恐クハ難事ナラン、然レトモ上流ノ林地ニシテ開キテ紙原料ヲ生産スヘキ地ハ尚多シ或ハ謂ク紙産地ハ勞力ノ別ニ原料生産ニ充ツヘキモノナク紙産地以外ニ在リテハ其栽培ニ冷淡ナリト是レ正シク縣政策ノ其力ヲ施スヘキ最好機會ニシテ苟モ縣ノ産業方針ヲ云々スルニ當リ徒ニ各町村人民ノ短視的判斷ニ聽容シテ大局ノ統一ヲ計ルナクンハ勸業行政ハ其存在ノ理由ナキナリ、一府縣ノ住民ヲシテ相頼ノ感ヲ深カラシメ同胞ノ盛衰ニ對シ大ナル利害ヲ抱カシムルコトハ政治ノ上ニモ亦必要ナリ殊ニ此縣板取川長良川等ノ上流ニ在リテハ山林ノ收入今尚甚少ク之カ利用如何ハ將來未決ノ問題ナルニ林務ノ主任ハ他ノ産業トハ没交渉ニ常套ノ踏襲ヲ以テ能事トナシ杉檜ヲ植ヱテ六七十年ノ後ヲ待ツニ非サレハ即チ運賃ニ奉公スヘキ薪炭ノ産出ヲ以テ終局ノ目的ト爲シ而モ林業者ノ無能不活?ヲ歎息セントシ農業ノ主任ハ又餘地アレハ乃チ桑ヲ栽ヱヨト謂ヒ絶テ思ヲ製紙ノ原料ニ及ホサス個々ノ技術官ハ皆獨立シテ其狹キ事務ノ中ニ彷徨スルカ故ニ産業ノ方針ハ永ク樹立セス府縣ヲ以テ一ノ公共團體ト爲シタル經濟上ノ意義ヲ没却シテ顧ミサルハ遺憾千萬ナリト云フヘシ此弊ハ各府縣ノ通有スル所ナレトモ美濃紙原料ノ問題カ慘酷ニ忘却セラレタルヲ見テ切ニ勸業行政ノ多頭制度ノ害ヲ感シタリ仍テ案スルニ此縣ノ如キハ先ツ各地ノ山村ニ楮三椏雁皮等ノ栽培試驗場ヲ設ケ其成績ヲ公表シ耕作方法ヲ傳習セシメ種苗買入ノ便ヲ與ヘ産物賣捌ノ方法ヲ簡易ニスル等器具機械ノ貸與ニ先チテ畫策スヘキ事業猶多キナリ、此ノ如クスルモ年額六七十萬圓ノ原料ヲ自産スルコトハ到底之ヲ近キ未來ニ期スル能ハサランモ運賃差額ノ利ハ優ニ不慣ノ農民ヲ誘ヒテ此栽培ニ赴カシメ更ニ又縣内紙産額ノ増加ヲ期スルコトヲ得ヘキナリ近來苅桑ノ樹皮ヲ以テ紙ノ原料ニ充ルノ試驗頗好望ナリト聞ク若シ果シテ然リトセハ桑ノ跋扈、楮ノ敗北モ必シモ縣産業ノ統一ヲ害スルコトナク二策ハ(421)竝行シテ大ニ村落ヲ富シ得ルノ望アリ故ニ是モ亦縣カ進ミテ急々ノ調査ヲ爲スヘキ一題目ナリト言フヘキナリ
 
(422)   茨城縣西茨城郡七會村
 
 常野ノ國境ハ一ノ高原ノミ溪谷錯綜シテ縱横ニ嶺ヲ爲シ許多ノ通路アリ、兩側ノ民居地形略相同シク從テ方言信仰家屋ノ構造耕作物ノ種類等一切ノ生活態樣ニ於テ堺線ノ存スルモノヲ認メス例ヘハ各戸煙草ヲ栽培スルコト(イ)、之ト兩立セスト稱シテ蠶ヲ養ハサルコト(ロ)、從テ稍勞力ノ餘剰アルコト(ハ)、馬ノ飼養盛ナレトモ未タ之ヲ耕作ニ利用セサルコト(ニ)、牡馬多ク産馬ノ事業行ハレサルコト(ホ)、林地多ケレトモ用材ヲ産セサルコト(ヘ)、勞力ノ餘剰ヲ製炭ニ利用スル者多キコト(ト)、到ル處雜木山多キコト(チ)、及普請用ノ粗石材ヲ斫リ出スコト(リ)、等ハ茨城縣西茨城郡ノ西部モ栃木縣芳賀郡ノ東端モ殆ト相異ナル事ナシ、此結果トシテ兩國間ノ山路ハ極メテ安易ナルニ拘ラス人馬ノ往來少ナシ、蓋シ産業?況ノ一樣ナルカ爲ニ有無相通ノ必要少ナキコト是カ主因ナルヘク更ニ鐵道ノ引力カ略國境ノ邊ニ於テ均等ヲ保テルカ第二ノ原因ニシテ郡衙所在市街ノ統一力ノ如キハ必シモ大ニ之ニ與カレリト謂フ能ハサルナリ
 製炭ノ事實ハ正シク地ノ利ヲ得タリ七會ノ一村ニ就テ檢スルニ笠間停車場ニ達スル茨一俵(三貫五百目)ノ運賃三銭乃至三錢五厘ニシテ一俵ノ燒歩(請負勞銀)ハ九錢又ハ十錢ナリ、……………
 原料ヲ山主ニ買ヒ自己ノ計算ヲ以テ從事スル者ノ所得モ亦殆ト右ノ額ニ過グルコトナシ、從テ山林ノ收益ハ道志村ニ比シ遙ニ大ナリ、道志ニ於テハ舊御料林ノ製炭原料拂下代ハ前年ハ一棚三十錢ニシテ今ハ三十五錢ナリ、七會村民有林ニ於ケル炭ノ木ノ代價ハ櫪二圓以上楢一圓五十錢内外其他ノ雜木ニ在リテモ猶七八十錢ニ及ベリ從テ雜木山ノ仕(423)立ハ現在最利益アル林地ノ經營法ナリ、普通ノ櫪林ハ植栽後七八年ニシテ之ヲ伐リ其後略同一ノ間隔ヲ以テ連收スルコトヲ得資本回收ノ敏活ナルコト殆ト農ニ劣ラズ川筋ノ木流シニ適スル者無ク木材運搬ノ技術ニ疎ナル村民カ未ダ附近國有林ニ模倣シテ針葉樹ノ殖栽ニ着手セサルハ寧自然ナリト謂フベシ、那珂川以北ノ山地ニ在リテハ勞銀ノ?況ハ假ニ七會卜同シトスルモ運賃倍増シ到底汽車ニ近接セル南部地方ノ如キ收益ヲ得ル能ハサルハ勿論ナリト雖下館支線ノ延長ニ伴ヒ同一ノ條件ハ漸次其區域ヲ擴張スルノ望アリ
 七會村ノ特産トシテ目スヘキモノニ藤蔓ノ採取アリ、藤蔓ハ皮ヲ剥ギテ之ヲ眞田ニ編ミ麻裏草履ノ原料トス、藤ハ雜木林ノ經營ニ害アル爲古來之力採取ヲ禁セス其作業ハ甚簡ニシテ老幼女子ニ適セリ、養蠶ノ行ハレサル村落トシテハ農閑勞力ノ一利用方法タルヲ失ハス、然レトモ其産額ハ増進ノ見込少ナク且收入過少ナルカ故ニ恐クハ永續ヲ期スルコト能ハス藤ノ眞田ハ通例七丈五尺ヲ以テ一房トシ一房ノ代僅ニ七八銭ナリト謂ヘリ
 葛布原料タル葛繊維ノ採取ハ十年以來ノ開始ニ係リ稍資本ヲ具フル者近隣ノ勞力ヲ雇用シテ之ニ從事ス、葛モ亦藤ト同シク山野ニ充滿セルモ從來之ヲ利用スルノ方法ヲ知ラサリシニ遠州ノ商人アリ遠ク來リテ村民ヲ勸誘シ之カ採取生産ヲ試ミシメタルニ次第ニ其利ヲ解スル者多ク今ヤ既ニ仲買ノ其蒐集ヲ專業ト爲ス者アルニ至レリ遠州掛川ノ葛布ハ數百年來ノ名産ナレト所在ノ原料ハ既ニ久シク之ニ供給スルニ足ラス而モ猶古來ノ技巧ト名聲トヲ利用スルヲ怠ラス此ノ如ク自ラ進ンテ原料ノ捜索ヲ爲スニ至レリ、依テ思フニ産業集注ノ結果トシテ諸國ノ原料ハ今ヤ多クハ非常ノ過不及ヲ生セリ而モ現?ノ維持又ハ擴張ニ熱心ナルコト掛川ノ葛布生産者ノ如キハ寧稀有ニ屬ス故ニ若シ東西諸縣ノ間ニ於テ原料ノ需要製品ノ供給等ニ關シ相互ニ確實ナル情報ヲ交換スルコトヲ得セシメハ山村ノ地利ヲ増進セシムルト同時ニ地方ノ製造業者ヲシテ平穩ニ其企業ヲ繼續セシムルコトヲ得ヘキモノ少カラサルヘシ而シテ此ノ如キ産物ハ必シモ中央大市場ノ媒介ヲ要トセス又彼ノ大間屋ノ徒カ微トシテ看過スル所ノモノナリ、府縣ノ生産政策ハ一種物産ノ總價額ニノミ着目スルカ故ニ一二萬圓ノ産物ハ假令特定ノ一村ニトリテハ重要ナル産物ナリトスルモ其區域ノ大ナ(424)ラサル結果之カ爲ニ介助ノ手ヲ下サヽル場合往々ニシテ存ス若シ郡又ハ町村)行政廳ニシテ一意上旨ヲ奉行シ又他ヲ顧ミストスレハ平凡ナル同化作用ノ下ニ各村ノ特産物ハ退歩スルノ虞アリト謂フヘシ
 七會村ハ北隣岩船村ト共ニ重石(Tungstein)ノ産地トシテ稍其名ヲ知ラル、鑛業ノ問題カ山村人心ヲ刺激動搖セシムルコトハ豫想外ニ大ナリ、鑛業ニハ烈シキ波瀾アリ其盛時ニ際シ村民勞力ノ一半カ之ニ向フトスレハ假令風教上ノ效果ハ暫ク之ヲ問ハストスルモ其農家經濟ノ上ニ及ス影響モ亦必シモ好望ナラス七會村ノ如キハ今後勞力報酬ノ一旦甚豐ナル時代ヲ經驗セハ藤蔓眞田ノ製造ノ如キハ一朝ニシテ必ス廢セラルヘク鑛山ノ勞力需要ハ減退シタル後ニ在リテモ猶再ヒ一俵十銭ノ燒歩ニ滿足シテ山ニ入リテ炭ヲ燒クノ舊?ニ復スル者或ハ甚少ク寧村外ニ於テ別種ノ職業ヲ捜索スル者多カルヘシ
 葛蔓ノ採取ニモ限度アリ火入ノ禁ハ著シク其發生ヲ滅シタルカ爲村民ハ今日既ニ遠ク北方ノ山村ニ人リテ之ヲ蒐集スルヲ常トス國有林ニ於テハ昨年地拵ヘノ爲火ヲ入レタル箇所アリテ臨時ニ四五千貫目ノ葛蔓ノ拂下ヲ爲セリ一貫目ノ生蔓ヨリ絲約四十匁ヲ得ト謂フ之ヲ主産物トスル林地ノ利用法ハ到底今日ニ在リテハ之ヲ望ミ難シトス
 
(425)   親のしつけ
 
 先ごろわれわれの會の共同課題に「以前のしつけ方」といふのが出て皆で考へて見たが、もうこのシツケといふ一語は全國にわたつて不明になり、また不明になりかゝつてゐるやうである。殊にこの言葉の本場即ち發生地のやうにかね/”\私などが思つてゐた上方の會員中に、はつきりとした語感を持つてゐる人の一人もなかつたことは、少からず我々を驚かせ、同時にこの調査の急を要することを痛感せしめた。
 シツケといふ言葉の元の意味を文獻の中から見つけ出すまでは必ずしも難事でない。たとへば近松の世話ものとか、心學の道話とかを丹念に捜して見ても、二十や三十の實例はあるであらう。たゞそれだけではかつてかういふ語の入用な社會事情が存したといふことが推定せられるのみで、それがどういふ風に引繼がれ、もしくは何故に無用になつたかを知ることは出來ない。世の中の移り變りの、境目に立つ人に聽き、またその人たちにも考へて見てもらはなければならぬ必要はここにある。あれほど大切にわれわれの先代が考へまた守つてゐた生活方法の一つが、名前はともかくも實質まで、消えて滅びてしまはうとは私たちには思はれぬからである。
 もちろんシツケといふ名前それ自身も、決して最初からのものではない。關西でも多分同じかと思ふが、五月田植の前後の農作業を一括して、これをシツケと呼んでゐる村は東京以北にも多い。苗を苗代から田に遷して、一株立ちにすることが要件と考へられたものか、蕎麥や大根などの他の作物には、シツケといつた例をあまり耳にしない。すなはち人間をシツケルといふ言葉が、第二の轉用であつたことが考へられるので、或は農業の方がやゝ古く、一方は(426)若干の滑稽味をもつて、新たにその意味を擴張したのかも知れない。
 しかしまた「シツケ奉公」といふ語も、時々はまだ覺えてゐる者がある。主人の側からいふとシツケ約束といひ、行く/\一軒の家をもたせる豫定の下に、比較的年の行かぬ子女を預つて長く働かせることで、かういふのは無論一期半期の渡り奉公とは區別せられてゐる。村を構成する分家百姓の中にも、古いのは幾らもこれがまじつてゐて、血を分けた家との境目もはつきりせぬ場合が多く、以前は村開發の重要な手段であつたかと思はれるのだが、土地には限りがありまた肉親の愛が主になつて、後には却つて町方にばかり、いはゆる暖簾を分ける風習となつて永く殘つたのである。シツケが人を養成しまた一人前にすることを意味してゐた痕跡は、實は京、大阪にならばまだ見られるだらうと、私などは想像してゐたのである。或は老人らのこの言葉を聽いて、むしやうに子供のころをなつかしがる者が、まだどこか隅にゐるのではあるまいか。もう一度とつくりと捜して見たいものである。
 草深い山野に成長した少年の、夢のねぐらとも名づくべきものが、シツケであつた時代は隨分と永く續いたやうである。あの御家はとほうもないシツケがきびしさうやと噂しつゝも、なほ敢然として愛する子女をこれへ向けて送りつけてゐた實例は、私たちもまだ目撃してゐる。しかもそのシツケの内容は時とともに變化してゐたのである。武家や商家の彼らに要求するところが、それ/”\異なつてゐたのはいふまでもない。身扁に美などと書く新らしい宛て字が和製せられるころから、シツケは追々と行儀作法の別名の如くなつて、外で眞黒になつて働く男たちには、關係のないものゝやうに考へる者が出來、町と在所との注文は喰ひちがひはじめた。富は積んでも修養は少しもないといふ者が、幾らあつても驚かなくなつたのは、實はほん近頃からのことで、出世をしたと聞けばさぞまア難儀をしたらうと思ふやうな考へ方は、今でも田舍だけにはまだ殘つてゐるのである。
 
 われ/\の問題にしてゐる親のシツケといふのは人中へ出て鹽を踏むシツケとは別のやうだが、やはり一方の經濟(427)組織の展開に促されて起つたもので、今の言葉でいふならば社會教育の豫備教育とでも名づくべきものであつたらしい。
 生家に留まつて先祖の業を引繼ぐだけならば單なる感化でも踏襲でも用はすむ、早晩外へ出て他人の飯を食ひ、家の援護の及ばぬところで大きくならなければならぬ者であるゆゑに、少しでもその冒險を危險少く、痛苦を意外なものとせぬやうに早めに馴らして置かうといふ、親の愛情の現れであつたのである。
 家を離れてしまふと大抵の人にはこれが氣がつくのだが、子供にはそんな想像がないから、一旦は皆この親のシツケを嫌ふ。第一に特に娘や年のいかぬ者ばかりを責め、事によると總領息子とは若干の差別を立てる、さうして何かといふと人が笑ふとかまたは人が憎むといつて外部の批判を標準に置いて必ずしも當人のためにいふのではないやうな氣がしたのである。
 親のシツケが惡いといひ、よいといふ言葉が通例嫁聟の出入に際して最も多く聞かれたのも、本來は全く個人と社會との調和、それを出來るだけ平易にまた圓滑に、なし遂げさせようといふ親切な計畫であつたからであるが、人は全智でないからこれにも若干の思ひちがひや考へ過ぎが家によつてはありがちであつて、終に多くの少年はシツケとはたゞむつかしいことをいつて叱られること、乃至はお灸をすゑられることゝ解し、或は惡太郎が小さい者を突き飛ばしてシツケてやつたなどといふやうにもなつたのである。單語の用法としては確かに變遷してゐるが、それよりも大きいのはこれを裏打した大衆の心理の世に伴ふ動き方であつた。それゆゑに私たちの、至つて遲蒔きのまたまはりくどい方法ではあるが、すでに文書には何らの記録が無いとすれば、かうした親方の眞情の中にまだかすかに殘つてゐるものを通して、近世の社會道コの發達史を探つて行くのほかないと思つたのである。
 人が十人竝の常民となつて行くために、どれだけの條件を具備しなければならなかつたかを知るには無論名士の生ひ立ちの記を讀んで類推することは出來ない。稀にはさういふ經驗をした人もあらうがそれと確かにちがつた經驗を(428)もつものがあつて、その方が遙に多數なのである。それをどういふ人たちがいかなる形をもつて、今でも記憶してゐるか。または小學校教育の隙間を縫つて、今でもどういふ風に少しづつ持續してゐるかが次の問題になる。おそらく意識してその舊式のシツケを私がしてゐるといひ得る人はもうないであらうが、それを銘記して決して忘れず、新たに感謝の念を以て若い頃を同想し得る人は、中流の家庭にはまだ多く殊に盛りを過去にもつ舊家の女性などには、寧ろよろこんでこれを心を許す者だけに、語り殘さうとする人が多いと思ふ。われ/\はそれを集めて比較をして見たかつたのである。
 
 近世いはゆる親のシツケが必要になつて來たころから、新たに生れたかと想はれる無形容詞、または形容詞の數といふものは非常に數多い、それがまた大部分はこのシツケに使用せられ、もしくはこれと結びつけて記憶せられてゐる語であつた、これは私たちには少しも意外なことでない。
 殊に形容詞などは滿座の人々が忽ち共同の感じを抱いて、そんな、あんなを以て用を辨じ得る限りは作つて置く必要が無かつたのである、蔭口や評判の盛んになるにつれて細かな感覺の分化が、個々の方言の上にも現れて來るのである。それが大體において人のあら弱點を指摘する側に數多く發達してゐたのも考へて見れば不思議はない。人からさういふ言葉を以て名づけられ、または形容せられぬやうに用心させるには、親も始終また、これを口にしなければならなかつた。さうしてわれ/\の教育の目途は、そんな評の一つも適用せられぬやうな人竝の者を作り上げるにあつたのである。だから澤山のこんな言葉を寄せ集めて見れば、昔の理想の男らしさと女らしさとの輪郭は、段々とはつきりして來るのである。
 
(429)          ◇
 
 私たちの日本民俗學は、別に今一つの民族學と紛らはしく、世間で混同するのみか仲間でさへ時々誤植する。この不便を避けるためには無論どちらかの改名を必要とするのだが、これはまだめい/\の力には及ばない。已なく事々しいが此方だけは日本を冠してゐる。民族學の方はどこの國でも專ら異民族の生活を調べるものだからである。しかしそんな事をするよりも民族學の方法では到底企てられない心意の現象、殊にそれを表出する言葉の感じ、同じ國語の千年の幼馴染によつて、始めて掬み取ることの出來る辭書以上の意味を、資料とするやうな研究に入つて行くことが、もつと利益の多い獨立の道だつたのである。信仰の方面にも國人自らでないと、會得することのむつかしい精微なる國の固有色はあるが、殊に道義律の體系においては、誰にも頼めない我々の問題の、是から深く考へて行かなければならぬものがある。志ある人々の成るたけ多數をかういふ研究に參加せしめるためには先づ以て問題の興味を例示することが必要であらうかと我々は考へてゐる。
 
(430)   日本の母性
 
          一
 
 この空前の大戰役に奉仕することによつて、始めて國民の自覺し得たる尊といものが幾つもある。新たなる大御代のコ澤の下に、養ひ導かれて來た人間能力のすばらしい展開にも無論驚かされるが、是はまだ豫め測定し又は期待して居た人が少しはあるだらう。いつの昔からとも無く持ち傳へて、曾て我々の意識にも上らず、記録にも言説にも、まだ適當な敍述の言葉をもたなかつたやうな、普通の日本人の考へ方、國と時代に對する根本の信念ともいふべきものが、是ほど明瞭に數多い實例によつて、體驗せられる機會は今までは無かつたのである。
 さういふ中でも殊に母の道は埋もれて居た。斯うでなければならぬといふことを説きたがる人々でも、實はまだ斯うまでは要求して居なかつた。
 今から僅三、四年前に世界の母の日といふものを制定しようといふ運動が起つたことがある。其日といふのが日本とあまりにも縁がなかつたので、私などは是に賛成しなかつたけれども其本旨だけは解つたやうな氣がして居た。母が我子をかなしむの情ばかりは、民族分野の境を超越した、人類共通のものであらうと思つたのである。其誤りはもう簡單に立證せられて居る。日本には歴然たる日本の母の道があつて、しかも今日のやうな輝かしい異常時代にならぬと、顯れても出ぬやうなつつましい、又古風なものであつたのである。私たちは是をたゞ絶大の感激といふ如き、(431)茫漠たる言葉を以て形容して置いてもなほ或期間は是を後世へ運び送ることが出來ると信じては居るが、今はちやうど又時代の轉囘期でもあつて日々の印象が殆と整理しきれぬほどに複雜になつて居る。うつかり看過してしまはぬうちに、もう少し近よつて此問題を考察し、成るべくは心づいたことを手記して置くやうに、次の代に働くべき人々、殊に年若な女の人たちに勸めたい。
 
          二
 
 今まで我々の誤解してゐたことの一つは、今だからもう白?してもよいが、日本の女性は諦めがよくて、自分の力ではどうしても防ぐことの出來ぬ不運不幸を靜かに耐へ忍ぶ消極的な勇氣だけ十二分に備へてゐるものと考へて、たゞ讃歎を惜しまなかつたことである。いはば男子の男らしい事業と承認して、これに無益の牽制を加へようとしなかつたくらゐを以て、女の美コと見てゐたのは偏見であつた。
 多くの軍國の母の言葉行ひを見て行くと、自ら前線に出て働くことは出來ないで、常に男性を透してその國家に對する志を行はうとした人々の、日ごろの心構へと思ひ遣りの中には、むしろ我々の經驗を超えた、悲壯なものゝあつたことがわかるのである。めつたに實際には現はれず、しかも複雜な問題である故に、迷つたり誤つたりする者があつても不思議は無いのだがそれが大體に同じ一つの方向へ、整然として歩を進んでゐる。この日本の母の道の、隱れたる指導力の源はどこにあり、伏流はまたどこをどう通つて、現代に及んでゐるのか。これに答へて見ようとすると、しみじみと國の學問の未發達を感ぜずにはゐられない。
 近世のいはゆる個人主義は、我邦ではやゝ簡略に受入れられた形があるが、一たびこれを男女の對立といふことに結びつけて見ると推論は決してさう容易なものでなかつた。たとへば二十年來の文藝作品、殊に小説といふものは殆と例外も無しに、異性相互の牽制を似て主調としてゐる。中古の文學に遡つて見ても、單純なる信服を歌にしたもの(432)はむしろ少く、いづれも輕々しくは許さず、安くは見られまいとする抗爭の態度をほのめかしてゐる。これ等はまだ他人であり、縁を結ばうといふ以前の警戒だから是非もないが、いよいよ寄り添うて一家を作つて後まで、一方には女は男のために存するごとく斷言する者があるかと思ふと、他の一方には少しは女の望むとほりに、男が働いてくれるのが相當のやうに、説き立ててゐる國も珍らしくはない。
 かういふ男女各別の利害が、もしも絶對に統一し得ないものだつたら、偉大な難事業は大抵は企てられない。女には花は盛りといふ時が短い。女個人の一代のしあはせから割出したら「何れの日か胡虜を平らげて、良人遠征を罷めん」といふ類の詩の句を、口ずさまずにはゐられなかつたはずである。
 ところが今度の發見で明かになつたやうに、國民の間には性のけぢめを超越した、大きな共同の利害があつたのみならず、女にはまた自己を空しうした、男への期待要求といふものがあつたのである。單なる戀愛の前奏曲としてではなく、我子我夫のために完全なる一生を計畫し、男たる者は國の厄難に際會して、かくのごとく活躍し、かくのごとく生死すべきものだといふことを、恐らくは彼等自らよりも痛切に考へかつ信じてゐたのである。女が男のために考へるといふことは、まだ學校の教科書には書いてない。だから私などは古くからの仕來たりだらうと思つてゐる。さうしてむつかしい漢語からは離脱してゐるだけに、むしろ無學者の間にも通用した、もつとも具體的なる國民道義の基礎だつたらうとも思つてゐる。
 
          三
 
 古風なことを笑はぬ世の中になつたから、もう心置きなく明言することが私には出來る。西洋はおろかのこと、支那にもあまり例を見ない特色が、日本の家庭には二つある。その一つは主婦が誰よりも率先して家を大切に守ること、この「家」といふものの中にはすでに世を去つた歴代の親々、未だ生れて來ぬ孫彦の末までが含まれてゐる。父母を(433)安らかに見送るといふことは、今でも家刀自の大役と考へられてゐるが、それにも劣らぬのは先祖の祭家の昔の傳はる限りのものを、正しく記憶して後裔に語り嗣ぐことであつた。これが激勵となつて衰へたる家を興し、身を立て名を清うした例は、以前の世にも稀でなかつた。勿論家長も同じ心ではあつたらうが彼等には外へ出て働く仕事が多い。家を守る母の親切にこの任務を委ねて置いて安心してをられたのは國柄であらうと思ふ。さう思つてもよい證跡は古い歴史にもある。
 第二の特色と認めてもよいのは、母が單なる一門の歴史家である以上に、更にその歴史を將來に向つて、清く汚れなく編み續けようとする念慮であつた。家の名家の聲が祖先への感謝となつたやうに永く子孫の記憶に値するやうな一代を積み重ねることは、いはゆる血食の信仰をもつ民族即ちいつまでも血筋の者から祭つてもらはうと願ふ人々の、必然の條件と考へられてゐたのである。國恩といふやうな言葉は一生涯口にもせず、またその必要もしばしば起らなかつたけれども、これが人間最高の義理であつて、一朝危急の國に迫るものがあれば、命に換へてもその義理を立て貫くのが男だといふことを、いつの間にか彼等は教へられ、また心の底に銘記してゐたのである。涙を流したといふことは失敗でも何でもない。むしろさういふ悲しい結果を豫期しつゝも、勇を鼓して愛する人々を戰の場に向はしめた、自制の力をこそ讃歎すべきである。かういふ修養は果していつの世の教育のたまものであつたらうか。古風な義理堅い家庭のしきたりが、たまたま凝集してなほその力を散らさずゐたのか。但しはまた花嫁本位の近ごろの女子教育が、偶然にも大勢に從順ならしめた結果であるのか。未來百年の平和を計畫する人々は、もう一度微細にまた具體的に、この點を考へて見なければならない。
 
(434)   狗の心
 
  ――佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より歸りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間も無きにや、そこよりはまだ湯氣立てり。租父の曰く、これは狼が食ひたるなり。此皮ほしけれども、御犬は必ずどこか此近所に、隱れて見てをるに相違なければ、取ることが出來ぬと云へり――遠野物語第三九。
 この一話を筆記した時から、私は是が果して人間の單なる想像であるか、但しは又度々の經驗を積み重ねた、正しい知識であるかを確かめたいと思つて居た。この二つのものの境目は、存外にはつきりとして居ない場合が多い。我々の經驗といふものにも、?隱れたる誘因があつて、所謂さもあらんの事實ばかりが、比較的容易に承認せられる傾きをもつて居る。他の色々の問題についても、今まで日本人は可なりこの習癖に惱まされて來たが、是も或は其例の一つかも知れない。山で狼の喰ひ殘したかと思ふ獲物を、見つけたといふ迄の話ならば、諸國の老いたる獵人のよく知つて居ることで、果して狼の所業かどうかと、疑へはまだ疑へぬことも無いが、他にはさういふことをしさうな猛獣も居ない國だから、是だけは事實と見てもよからう。信州の南山地方では、それを持つて歸らうとするには、鹽を三合か五合、代りに其場處に置いて來なければならぬと謂つて居る。いつ發見するとも知れない喰ひ殘しの鹿の肉の爲に、餘分の鹽を用意して山に來る者も有るまいから、是は殆と持つて來てはならぬといふ戒めとしか解せられぬのだが、話は却つて別の方面に展開して居る。この天然の交易法則を無視して、黙つて狼の獲物を横取りして來た者(435)が、手嚴しく報復せられた實例といふものが幾つもある。さういふ不正な事をした者の家を、不思議に狼はちやんと知つて居て、連夜その家の周圍を吼えてまはるので、怖ろしくて睡れなんだといふ話もあれば、或は土臺の下に大きな穴を掘つて、一晩に三頭の馬を咬み殺して去つたなどゝも謂つて居る。斯うなつて來るともう動物學上の現象では無くなるのだが、曾て狼を靈物と信じて居た山村の住民には、是さへも尚經驗し得べき事實に屬して居たのである。
 狼が大きな獲物を喰ひ剰して、時を置いて又喰ひに出るといふことは、如何にも危險な經驗だと思ふが、之を知つて居る人が昔は多かつた。是はソマ棄場へ斃馬を棄てると、毎夜その附近に狼の鳴く聲が高かつたり、或は刑場が使用せられた當座、急に狼の出没が目に立つなどゝいふ所から、類推したものとも考へられるが、それにしては山民の知識は具體的であつた。是も奧州の北上川沿ひの村で、農家の女房が狼を打殺して、我兒の仇を復した百餘年前の實録が傳はつて居る。林の奧に入つて見ると、見覺えのある衣類や脛巾に包まれて、喰はれた子供の足や手が落ち散つて居る。それをわざと取り片付けずに置いて、必ず今夜も之を喰ひに出るだらうと思つて、匿れて待つて居たら果して出て來たと書いてあるのは、事實有りのまゝとしか思はれない。即ち此婦人も狼が獲物の置き處を記憶して、再び來る習性のあることを知つて居たのである。
 しかもこの習性といふものが、實はさう古くからの、狼固有のものとも言はれない理由がある。私の推定がもし誤つて居ないとすれば、狼には曾て一樣に群の生活があり、その群は前に遡るほど大きかつた。それが外界の壓迫に因つて、次第に崩壞して屬員を分散せしめ、從うて繁殖を困難にし、且つその絶滅を促したのである。孤狼は著しく舊來の食性を變ぜざる限り、他方に徐々として其攝取の手段を改良しなければならなかつた。乃ち彼が行動の陰險狡猾を加へ、人類の立場から見て不正の侵撃が多くなると共に、獲物の處理法も元のまゝでは有り得なかつた所以である。群が彼等の狩獵に協力して居た時代には、獲物を求めることがいと容易であつた代りに、其配分も亦即座に終了して、貯藏や喰ひ剰しの問題は無かつた。ところが一疋狼になると、大抵の食料は一度分には大き過ぎ、しかもそれに有り(436)付く磯會は、元に比べて遙かに乏しかつた筈である。一部を殘して置いて之を見張りして居る必要は、こゝに至つてか始めて生じたと見てよい。是を人間が學び知つたとすれば、其經驗は極めて近世のものでなければならぬのだが、果してさういふ場合が有り、又是を仲間共有の知識とする場合があつたのであらうか。何だかよつぽど不安心な學説のやうに、實は最初には私なども感じて居た。
 尤も獣類の食に對する執着は、一般に我々などよりは強烈である。小猫の漸く乳離れをしたものでも、鼠や魚を食ひにかゝると、人影を見てさへ警戒してうなる。うちの飼犬のくはへて居る骨を取上げようとして、私も一度手を?まれたことがある、前年山林の座談會の席上で、佐藤林學博士から聽いた狼の話などは、その實例としては殊に適切なものであつた。明治の中頃のことださうである。伊勢の宮川の上流に入つて、小屋を掛けて伐採の作業に就いて居られた際に、怖いもの知らずの人足が數人申し合せ、夜更けに松明をともして、狼の獲物を横取りに往つたことがある。小屋から二里も登つたかと思ふ谷陰の岩の上で、唸る聲がするから近寄つて見ると、數疋の狼が輪になつて鹿を食つて居る。それを逐ひ散らして食ひかけの鹿を取つてかつぎ、早足で戻つて來ようとすると、大きな足音をさせてその狼の群が、走つて後から跟いて來る。炬火を振りまはせば少し退き、あるき出さうとすれば又追ひついて、終に山小屋の近くになつて、漸くあきらめたか歸つて往つたといふ。其頃は尚あのあたり山に小さいながらも群を爲して住んで居たのである。それから暫らくの間はこの小屋の人たちは、毎晩のやうに狼の聲を聞き、氣味が惡くて一人では出られなかつたさうである。しかし此樣な無法な事をすれば、狼で無くとも憤り且つ吼えるのは當り前で、是だけではまだ實は參考にならない。私が問題にするのは狼の記憶力、もしくは入用が無くなつてからの意思の持續で、是が野獣の間にも人間と同じに、既に發逢して居るものと認める爲には、更に又一つの經驗を積まなければならなかつたのである。
 
(437)          ○
 
 然るに私の家のモリといふ秋田犬は、至つて我儘な荒犬であつたが、此點にかけては相應によく主人の實驗を指導してくれた。最初に心づいた奇妙な癖の一つは、庭の芝生に出て小兒たちが走りまはつて居ると、必ず近くへ來て興味を以てそれを眺めて居る。それだけなら別に不思議は無いやうなものだが、その子供が何かの拍子に躓いて轉ぶと、すぐに一足飛びに其上へ飛びかゝるのである。始めのうちは是も戯れにすることゝ思つて居たが、あまり眞劍に見え、又たゞ横になつて居ても遣つては來ぬので、少しばかり氣味が惡くなつた。諸國の世間話に殘つて居る送り狼の話、夜分に山路を來ると少し離れてどこ迄も附いて來る。轉べば必ず飛びかゝつて食ふから、大事に足を踏んで轉ばぬやうにしなければならぬとか、もしも轉んだならドツコイナと聲を掛けて、腰を休めたやうに見せかけねばならぬとかいふのが、如何にも思ひ當るやうな氣がして來た。モリは毛が赭く耳は垂れ、土佐か何かの混血の名殘が有り、その外貌には狼らしい特徴も殆と無いのだが、兎に角こんな習性は教養によつて得たもので無い。しかも山に棲んで單獨で餌を求めるとすれば、是ほど調寶な又手輕な技術は無いのである。必要は無くなつても遺傳は尚續き得たものと思はれる。送り狼が轉べば飛びかゝるといふ經驗などは、あぶなくて何人も是に任ずることは出來ぬであらうのに、さも/\眞實として弘く信じられて居るのは、或は我々よりも日本犬の系圖に明るい人が、こちらの經驗を以て彼の生活を類推したので、それも亦決して誤つた方法で無かつたことが、やがては歸納によつて確かめられる時が來るのかも知れぬ。犬に關する限りは企てゝ此實驗をして見ることも出來る。是非とも狼についてしなければうそだと言ふなら、永久にそんな機會は我々には到來せぬのである。平岩米吉氏はもう大分以前から、朝鮮のヌクテを飼育して居られる。是が殆と犬のやうに馴れて居るのに、やはりあの家の芝生で遊んで居て、全然同じい擧動をするといふ話である。ヌクテならばさも有らうと言つてしまふ前に、もう少し我々の在來種に於て、この習性がどれだけ保存せられて(438)居るかを、確かめて置くのが順序では無いかと私は思ふ。
 
          ○
 
 但し私のさし當つての目的は、我々の仲間でいふ傳承者評價、即ちこの一頭の秋田犬の、實驗體としての價値を示す爲に、こんな古風な犬だつたといふことを説けばよいのである。モリは見かけによらず遠い先代の或性癖を保持して居る犬であつた。然らば問題の個人所有權の觀念が、彼にはどんな形で體得せられて居るだらうか。是を知らうと思つて二三の觀察を私は試みたのである。記録としてはまだ不完全であるが、もう其モリも居なくなつた今日、是より以上の改良は望まれぬから、忘れぬうちに書いて殘して置きたい。
 或は私が訓練を怠つた爲かも知らぬが、モリは獵犬としては感心せぬ財産の管理法を知つて居た。他處から氣に入つたものを咬へて還る習慣はもつて居たが、是を主人の前に出して褒められようとせずに、成るたけ匿して置かうとする癖があつた。或時は食物の入つたハンケチ包みを拾つて來て、それを覗かうとしたお孃さんの腕を?んだ。或時は隣の兒の紐靴をくはへて行くのを見たが、どこへ遣つたか捜しても判らない。それが畠の片隅に紐ばかりを出して深く埋めてあるのを後になつて發見した。格別珍らしい癖でも無いが、穴を掘ることが小狗の時からすきで、全體に何をでも埋めて置かうとする。其中でも食物は少し大ぶりなものは常に埋めて居た。場處の記憶は二日とは續かなかつた樣に思ふが、其代りに埋めた當座だけは嚴重に見張りをして居る。それも一概にそこばかり見つめて居るので無く、横になつたり居睡りをしたりして居ても、人が近づくと怖ろしい顔をして飛んで來る。迷惑な話には何も知らずにその傍を通つて、疑はれ吼えられる人が何度もあつた。あまり怒るから其場處を目じるしして置いて、次の日往つて發掘して見ると、どこから持つて來たか大きなパンが埋めてあつたこともある。陸中遠野の山の御犬も同樣に、腹が一ぱいでもう喰ひたくも無くなつても、尚その殘餘を貯藏して番をするのであるが、家畜であるだけに幾分かその(439)記憶の期間が短くなつて居たのかも知れない。是とたゞ實力ばかりで私有を確促しようとする點とだけが、人間の文化?態とは明かにちがつて居る。
 
          ○
 
 モリの私財觀念には、意外なる延長があつた。うちの裏口の下水ポンプの把手は、ちやうど腹匍ひをした彼の顔の高さであり、それに八つ手の樹の葉陰で夏は涼しいので、始終こゝへ來ては退屈しのぎにそれを?んで遊んで居た。彼の齒の跡が隙間も無くそれに附いて居る。しかも紛れも無い主家の器具であるのだが、彼のみはこの因縁を以て、是を自分の私財と心得て居たらしい。家の者が出て行つて之に手を掛けても、何とも言はぬから氣が附かずに居たのだが、或時土地の警官のよく彼を愛撫してくれる人が、檢査に遣つて來てこのハンドルを動かすと、それは怖ろしい劍幕で遠方から飛んで來て、其手を離すまでは怒嗷を止めなかつた。我々二人はこの新らしい經驗にびつくりして、後でいつ迄も此問題を考へて見たことであつた。無法はたしかに無法だが、彼だけは心から是を私有と信じて居るのである。
 次にもう一つ、彼の最初の配偶期が過ぎてしまつて、却つてやゝ沈鬱に軒先に横たはつて居た頃に、小さな雜種の牝犬が一頭だけ毎日の樣に遣つて來て、彼の飯鉢の飯を遠慮無く食つて居る。よその犬にはいつも機嫌が惡く、庭の片隅をそつと通つても、出て行つて逐ふ位に威張つて居るのに、どうして此犬ばかりには此樣に寛大なのかと、試みに足踏みをして叱りつけ、杖を振上げて打たうとする擬勢を示すと、相手が遁げるよりも前に、モリの方が怒つて大いに唸つた。是で理由はほゞ明かになつたのだが、果してこの小さな女犬が、後にモリに似た仔を生んだのである。所謂改良せられた家畜の中では、片親育ちが通則のやうになつて居る。野獣の自然に於ても熊などは明かに父無し子である。妻の産期をいたはるだけの約束が、犬の親族制にも有るといふことは發見であるが、是も或は今日尚神秘の(440)裡にある、山の狼の家庭生活を、片なりに保存して居るものでは無かつたらうか。何にもせよ私の家の犬の私有財産は、或條件の下には是を他の犬と共同に、享受せられ又處分せられるものであつたのである。
 モリは餘り多くの人や犬を?んで、非常に立場を惡くして追放せられてしまつた。彼の子を生んだ母犬ももう居ないやうである。尻尾が少しばかり細いばかりで、大きさも斑も同じやうな彼の一子はこの近所の家に飼はれて居て、折々私の門の外を通る。モリが居たならば彼とどうするであらうか。眞の親子だけれども喧嘩をするか。それとも特別に仲よくすることが出來るかどうか。この觀察だけは、終に之を試みる折を得なかつたのが殘念である。
 
(441)   喜談小品
 
     ヤセウマ
 
 痩馬と名の付くものに、三通りの全く關係の無い物品がある。その一つは樹の枝で造つた背負梯子、朝鮮のチゲと同系の古風な道具、この名は方々で聞いたやうだが、場所は今覺えてゐない、全體に長い脚の付いた物を馬にたとへるのは自然の思ひ付きであらう。第二には信州北半で、二月涅槃の日にこしらへる一種の團子、これは風習が弘くて名前のみ地方的である。普通に手で握つて細長い形にするところから、これを馬の形に見立てたものかと思はれる。二月は山の祭、殊に馬を牽いて山に登る慣行があるので、物の名をこの動物に托しやすかつた。團子も必ずしも佛示寂とは縁が無かつたのであるが、今ではその記念の日をヤショウマといふ者さへ出來て來た。私たちの生れた中國の或村では、田植終りのサノボリといふ祝の日に、小麥の粉をねつて手で握つた團子を、馬のせなかと稱へてゐたのが印象的であつた。とにかくにさすつて圓くしないのが特色であつたことは信州の痩馬も同じであつた故に、多分名の起りも一つかと思ふ。さうして又小兒か其親友かで無ければ、かういふ奇拔な名の付け方はしなかつたらう。
 第三の痩馬は、古くから秋田地方にあつた。正月に親類や近所の子供が禮に來る際に、年玉又はトビを捻ると稱して、餅だの餞だのを紙に包んで與へるのは昔風であるが、その品物は幼い空想から刺載せられて、年と共に進化して(442)ゐる。詳しく各地の實例を比べて見れば、是だけでも一篇の兒童史は書けさうに私は思つてゐる。羽後では今から百五十年も以前、松の葉に二三文の穴錢を通して、この馬痩せて候と戯れつつ、小兒に引出物とする習はしがあつた。物は僅かでも春の興味は深かつたのである。穴あき錢の通用が衰へて、多分はこの風も絶えたことゝ思つてゐると、武藤銕城君の話では、今でも角館《かくのだて》附近にはこの名稱があるといふ。正月にその松の葉の痩馬を爐の縁に立て、わきを敲いてじり/\と動きまはらせて、子供たちの眼を悦ばしめるのださうな。これが贈り物のあまりに輕少なのを紛らすために、後に考へ出された餘興であるかどうかは、さう簡單には決することが出來ない。雪深い村の新年には錢などは實際何の用も無かつた。むしろ古風な民族が銀貨を首飾とし、または釦として樂しんだやうに、子供はかういふ意外な玩具を得たことを始めから幸福と思つてゐたのかも知れぬ。しかし一方には又江戸や京都の諺に、心さしは松の葉といふ言葉があるのを見ると、松葉に穴錢を繋いで人に與へた風習も、昔はどうやら弘く行はれてゐたらしいのである。自分等が少年のころ、角力人形と稱して小さな土人形の、腰から下を馬の毛で支へさせて、疊を叩くと獨りで動き、勝つたり負けたりするものが流行り出した。これなども今から考へて見ると、あの松の葉の痩馬から、誰かが思ひ付いた趣向の相續であつたらしい。
 
     マヒタケ
 
 三馬の浮世風呂では獨り者のあたじけ無しが、舞茸を食つて躍り出した話を、趣向にした一節が有名であるが、此作者は多くの江戸人と同樣に、まだ舞と踊との區別をよくは考へてゐない。この話は既に近世文學の研究者が心づいてゐる如く、最もありふれた前代の説話集から借用してゐるのだが、二つを比べて見るとまだ一方の話の面白味が、十分に消化せられてゐない感がある。
(443) 三人の木樵が連れ立つて山に入つて行くと、向ふから三人の尼が手に何物かを持つて、舞ひながら山を降りて來る。これはどうしたことかと尋ねて見たところが、今この大きな菌を食べたら、急にかうして舞ひたくなつて、自分でも止めることが出來ぬのだといふ。それは不思議だと男たちも貰つて食つて見る。果せるかな、無性に舞ひ始めて、末には男女六人が山中を狂ひまはつたといふ話。これなどは經驗でも無くまた事實談でも有り得ない。舞茸の成分に假に今日の生物學者を成ほどといはせるやうな、一種の昂奮剤を含んでゐるにしても、我々がはじめてその事實を知るのには、何かまた別途の機會がなくてはならなかつた。さうしてこの意味有りげなる中世の一話は、いはゞその知識の應用に過ぎなかつたのである。
 尼と山人とは人間の最も舞ひ難き階級に屬してゐる。それが六人も入り亂れて舞つたといふ點に、この説話の可笑し味はあつたのだらうが、なほその以外に群といふものゝ力がこんなことをさせたといふところにも意味がある。幾ら自然が靈妙であつても、人を舞はしめる植物までは用意しなかつたらう。これには社會の無意識の計畫があつて、驚いてこの效果に參與させたものと、解して置くのが先づ穩當である。以前私がまだ田舍にゐた時に、隣に剽輕な人に可愛がられる小僧がゐた。それが女たちの多く集まる家に來て、庭さきの朝鮮なすびの實を採つて食つた。これはキチガヒナスビともいふさうだが本當だらうか。私は食べて見るといつて一|握《つか》みほどの種子を生呑みにした、さうするとまだ消化してもしまふまいと思ふ間に、もう發狂して三日ばかり大騷ぎをしたことがある。これなどは確かに傳承の暗示であつた。蘭領インドの東の島々の土人は、囘教の信仰があるので自殺することが出來ず、どうしても死にたいといふ際には大麻の種子を服して、狂人になつて人を斬つてまはり、しまひには鐵砲で打ち取られて望み通り死ぬといふ。これをアモック(amok)と稱して珍らしい社會現象となつてゐるが、これもまた半分しか麻の實に責は無かつたのである。
 だから何故に舞茸と謂ふかの問ひに對して、食べると舞ふからといふ答へは確實でない。食へば舞ひたくなると我(444)々が信じてゐたばかりである。佐渡の相川では滅多な菌を食ふと、顎の掛金をはづすといふ諺があり、曾て笑茸を食つて一家八人、杓子を持つて踊り跳ね笑つたといふ話も傳はつてゐる。笑茸が笑ひ藥になつたまではよいが、杓子はどういふわけでこれを手にしたのであらうか。これだけはどうしても説明し得ない。前のアモックに比べると遙に朗らかではあるが、恐らくこれなども豫め計畫せられてゐたのである。
 人が杓子を持つて舞ふ場合は、山の神の祭に限られてゐる。さうして大抵は笑ふべき舞であつた。笑茸と舞茸とは、自分は同じものゝやうに思つてゐるが、岩手の或部落では八月の山神祭の日に必ずこの茸を採つて食ふことになつてゐた。ならの木に生ずる大きな菌でこれを見付けた時は三度舞を舞つてから、取らねはならぬ故に舞茸といふのだと説明せられてゐる。これと嶺一重を隔てた仙北の山村でも、この菌を發見するとよいころに取るやうに、また他人に取られぬやうに小屋を掛けて番をする。あまり嬉しいので舞を舞つて取る故に、それで舞茸といふのだとも傳へられる。覺めたる人々には食つても舞ひたくはならぬためにかうした第二の解釋が必要になつて來たのかと思ふ。
 
 この五月の月の初めになつても、冬の姿のまゝで眠つて居るのは合歡木、棗もまだ一向に芽を出さうとしない。柘榴と百日紅とは漸うこの二三日、それから無花果も梧桐も今ほんの僅かばかり、枝のさきがほぐれようとして居るところである。
 何かこの六名の樹木の間に、申し合せでもあるやうな疑ひが起る。それほどにも彼等の素性は相近く、閲歴に似通うた點が認められるのである。何處からいつ遣つて來たかは無論はつきりとして居ないが、とにかくこの連中は共にもと山野の木でなかつた。その中でもネムだけは種子が落ち散つて、路や川端にも出て行つて茂らうとするが、それでもまだ林の中までは移住を試みない。他の五種に至つては、庭では相應に我儘をしてゐるが、人が手を掛けない限(445)り遠くへは進出せぬのである。 私の家のアヲギリなどは身元がよく判つて居る。以前市谷の舊宅に二三本の老大木があつて、その種が風に吹飛ばされて、縁の戸袋の下に集まつて苗になつて居た。斯んなところに梧桐が生えて居るよ。喜多見へもつて行つてやらうと謂つて栽ゑたのがさて成長した。惡いものを栽ゑましたねと、上海から來た或奧樣が眉をひそめた。此木に附く蟲と、洋服に穴をあける蟲とは、同類なのださうである。それは冤罪かどうか、まだ證據は擧がつては居ないが、とにかくいやに伸び大きな露をこぼし、下に居る植木を皆いぢめる。遲く芽を吹くのが仕合せな位のものである。この間はたうとう置いとけなくなつて、一本は伐つて生垣の柱にしてしまつた。
 イチジクも見ると欲しくなる木だが、新しい主人にはさほど忠義でない。第一に移し時がむつかしくて、彦ばえの幾らも出る割には幹が枯れやすい。從つて實を見るのが可なり待遠である。それよりも困ることは、あの觸角のむやみに長い、甲らの縞の美しい、ぎい/\と啼く芯喰ひ蟲が、この木を本據にして附近を侵略する。自分は平氣で居て隣の木へ迷惑をかける。御蔭でよい楓を三四本も枯らしてしまつた。きつと庭中の嫌はれ者になつて居ることゝ思ふ。
 ナツメは又變な繁殖のし方をする。實はよく熟して落ちてもとんと芽を吹かうとせずに、いつも逞ましい地下運動を續けて居る。二間三間と離れた畠の中などから、幾らとも無く親に似た姿で現れて來る。この邊の農家ではまだ棗の味を經驗して居らぬと見えて、たま/\老樹を見かけても皆ままこ立ちの、五本七本の叢生であつて、近畿中國の子供たちが、好んで登つて居るやうな大木は一つも無い。どれも是もこの芽生えのまゝで、ほつたらかして置いたと思ふものばかりである。私の庭にあるのは追々に細いのから伐つて、しまひに一本立ちの高い太い、蕪村の連句にあるやうな木にして見たいと思つて居るが、さうなるのはいつのことか見當が付かぬ。どうせ空想に終る位ならば、寧ろ斯ういふ木を何百株、なんにも無い空地に栽ゑて置いて、勝手放題に根を匐はせて見たら痛快だらうとも思つて居る。柔かな葉をして居るが小枝には痛い刺があつて、外來のくせに隨分と排他的な木である。
(446) それに比べると柘榴などはよほど遠慮深い。根分けか挿木か、とにかくに人の意思を待つて、始めて分家をしようといふ愼みがあるやうに見られる。その上に葉を最も美しく、花を極端に鮮かに咲いて人の心を惹かうとし、しかも他の樹が緑になつてしまふまで、長い間靜かに冬の姿で控へて居る。とにかくに何か異色をもち特徴を具へなければ、斯うして外から入つて來て、此土に安堵することは、植木でもやはり出來なかつたのである。
 
(447)   喜談日録
 
 この頃ぼつ/\と久しぶりの人が訪ねて來るやうになつたが、聽いたり告げたりすることが餘りにも多い故に、話を是からどうするかといふ方へ、持つて行くやうな機會がまだ誠に少ない。何とかして其問題の芽か苗の如きものを、冬中枯らさぬやうに、又出來るなら少しでも育てゝ置くやうに、心安い人たちだけにでも勸説して見たい。それがこの日記の片端のやうなものを、殘し留めようとする私の趣意である。
 
 自分ほどの者の力でも、少しは今後の御役に立たうかと思ふ仕事が三つほどある。その一つは國民の固有信仰、遠い昔から有つたにちがひ無いもの、是が今までどういふ風に、引きゆがめられて居たかといふ點に心づくこと、勿論たしかな證據が無いと、うつかりしたことは言へないので、辛苦して今材料を集めて見ようとして居る。もう一つは人の心を和らげる文學、如何なる窮乏と憂愁の生活へでも、なほ時々の微笑を配給するやうな、優雅な藝術が、日本には何か有りはしなかつたか(芭蕉翁の俳諧などはもしか其一つではなかつたか)といふやうなことも考へて見ようとして居る。
 信仰と和氣と、この二つは國民の活きて行く力、心の最少限度の榮養素とまで、私たちは考へて居るのだが、或は是をすらなほ後廻しにすべきものゝやうに、眼前の急務では無いかのやうに、輕しめて居る人が無いとは限らない。今はそれも致し方が無いのか知らぬが、第三のものだけは何としてもさうは言つて居られない。それは何かといふと(448)國語の普通教育、國語を是からの少年青年に、どういふ風に教へるのが最も良いか。國を健全なる成長に導くが爲には、如何なる道筋を進むのがよいかといふ問題である。聽いて見れば成るほどさうだつたと、思はぬ人は恐らくは無いであらうほど、今が一ばんこの問題を考へて見るべき、大切な潮時であると自分は信じて居る。
 言論の自由、誰でも思つた事を思つた通りに言へるといふ世の中を、うれしいものだと悦ばうとするには、先づ最初に「誰でも」といふ點に、力を入れて考へなければならない。もしも澤山の民衆の中に、よく口の利ける少しの人と、多くの物が言へない人々とが、入り交つて居たとすればどうなるか。事によると一同が黙りこくつて居た前の時代よりも、却つて不公平がひどくなることがあるかも知れない。自由には是非とも均等が伴なはなければならぬ。故に急いで先づ思ふことの言へる者を出來るだけ澤山に作り上げる必要がある。
 いつの世になつても、我々の能力には、差等は免れぬだらう。さうして人は必ずしも手前勝手ばかり、述べ立てる者でないことは勿論である。あなたの思ふことは私がよく知つて居る。代つて言つてあげませうといふ親切な人が、これからは殊に數多くなることも想像せられる。さういふ場合にどこがちがふ、又はどういふのが最も我意を得て居るを決定するには、先づ以て國語を細かに聽き分ける能力を備へて居なければならぬ。まして平生自分の口不調法を知り、もしくは到底思つたことは言へぬものと、斷念して居る人の中には、ついそこ迄は、まだ考へて見なかつた、といふ者も多いのである。即ち聽く力の修練に先だつて、各自に考へるといふ習慣を付ける必要があり、それには又めい/\の思ふ言葉といふものを、十分に持たせて置く必要があつた。國語教育といふ語が發見せられてから、五十年はもう確かに過ぎて居るのだけれども、この二つのものを與へる學校は、實はまだ日本には無かつたのである。
 さうして是をたゞ家庭と親類、乃至は郷黨の感化力に委ねたきりで、その古風な法式のどこに弱點があり、どの點が最も新らしい時代の要求に、相應しないのかを究めようともしなかつた。今でもその説明のつかぬことは同じだが、兎も角も是ではいかぬといふだけは明かになり、どうかしなければならぬといふ意見だけは強くなつた。ちやうど小(449)學校が國民學校と改名した際に、話し方といふ一科目が新たに設けられたのも其爲であつたが、それを斯うして授けるといふ方法が明示せられぬうちに、この大きな戰亂の渦卷の中へ、何もかも卷き込まれてしまつて、もう又過ぎ去つた事のやうに、思ふ人ばかりが多くなつた。
 さうして一方には話し方の意味を取りちがへて、童話の暗記をさせて居るといふ類の、うそ見たいな風説を聽くのである。それ程にも生きた毎日の日本語を教へることに、御互ひに無關心であつた。それといふのは、古人の書いたものを讀み、その言はうとしたことを把握させるのが、今日までの所謂「國語」だつたからである。文章は出來るだけふだんの物言ひに近よせるやうに、私などは心掛けて居るのだが、それも相應にむつかしいことであるのみならず、人によつてはわざと耳遠い、字引にも無いやうな文字を竝べて、深遠を粧ふ者もまだ無いとは言へない。それをこちらでばかり大骨を折つて解らうとし、解らぬとたゞ自分が惡いのだと思つて自ら責め、又は解つたつもりか何かですまして居る者もあつた。斯んなことをして居ても、少しづゝは覺えて行かれるだらうが、それは間接の效果であり又應用である故に、それまでの働きは無い人が多く、忽ちにして國民は物の言へる者と、言へない者との二立てに分れて來るのである。直接に國語を以て考へ又言ふことの出來るやうに、みんなを教へ込むに越したことは無く、それが又話し方の當然の目的でもあつたのだが、其點は奇妙なほど今までの人が考へてくれなかつた。結果に於ては單に口眞似が上手で、人とちがつたことは思つても見ないといふ者を、澤山に作ることばかりに熱心であつたと、見られても文句は言へないのである。
 日本の歴史には、さうして置いても少しも差支の無い時代が、可なり久しく續いて居たことも事實である。國家の進路には天然の指示するものがあつて、それとちがつた方向を案じ出すことは誰にも出來ず、たゞ多數の歩みに附いて行くことが安全で、思慮や言説の必要があまり感じられない世の中がいつの間にか固定しかゝつて居た。近世少しづゝ新たな計畫を立てゝ見る人が出たけれども、周圍が何分この通りであつたから、それをよくわきまへて支持しよ(450)うといふ所までは中々行かない。革新はいつでも非常に大がゝりのもので、其效果は存外に小さくしかも動搖の犠牲はあまりにも大きかつた。是から後はその革新を、是非とも手輕で且つ手際よく、何度でもやり直して少しも副作用の無いやうな、平易又簡明なものにしなければならない。乃ち國民總員の自由に思ひ又言ひ得る國語を、新たに教育しなければならぬ所以である。
 今までの所謂軍國主義を、惡く言はねばならぬ理由は幾つでも有るだらうが、たゞ我々の擧國一致を以て、悉く言論抑壓の結果なりと、見ることだけは事實に反して居る。獨り利害の念に絆されやすかつた社會人だけでは無く、純情にして死をだも辭せざる若い人たちまでが、口を揃へてたゞ一種の言葉だけを唱へ續けて居たのは、勿論強ひられたのでも欺かれたのでも無い。言はゞ是以外の思ひ方言ひ方を、修練するやうな機會を與へられなかつたのである。
 一方には又或少數者の異なる意見といふものは、國に聽き方の教育が少しも進んで居ない爲に、抑壓せられるまでも無く、最初から發表しようとする者が無かつたのである。斯ういふ?態がもしもなほ續くならば、どの樣な不健全な擧國一致が、是から後にも現はれて來ぬとは限らず、歴史に忍び難い悔恨の數十頁を留めることは、必ずしも是をたゞ一度とするわけには行かぬかも知れない。盗人を捕へての繩どころか、是はもう遁げ去つてからの繩かも知れないが、それでもなほ我々は近き將來の爲に、爰でみつしりと一つ所謂話し方の教育、活きた國語の覺え方を、考究して置かなければならぬと思ふ。
 一億時宗などゝいふやうな不可能な標語を、強ひて流布せしめる必要は昔の戰爭には無かつた。乃ち民心の歸向が戰非戰を決すべき、大きな力であることは認められて居たのである。それを知りつゝも甘んじてこの薄暗い谷底まで、降りて來た國民も心からだと言へようが、言葉を思つた通りに使はせようとしなかつた、教育にも大半の責はある。果して當路の人々はもうそれに氣づいて居るのかどうか。氣が付いて居るにしてはまだ少しばかり、懺悔が足りないやうにも思はれる。しかしさういふ押問答をして居て、時を費すことは我々には惜しい。それだけの根氣を利用した(451)ならば、現在の未定の?態の下でも、まだ相應な仕事が出來さうに思はれる。確かな學理や法則が打立てられるまでの間、ぢつと待つては居られぬから心づいた點だけを、早く少しでも實行に移して見たい。
 
 四つになる兒のいふことを聽いて居ると、どうして此樣に言葉を覺えるのだらうと、不思議に思ふことが毎度ある。その癖はたの者がかゝつて教へることは、長い爲もあらうが忘れたりまちがへたり、又言はうとしなかつたりするのに、一つ一つの單語だけはずん/\と數を増して、それを今までの文句の中へ、ほゞ正確にはめ込んで行くのである。最初は勿論物の名や人の名が多いが、動詞が入り始めると言ふことが複雜になつて、よほど又成人と近くなつて來る。形容詞や副詞は加減もので、我々でも常に必ず適切を期し難いのに、それさへも言へる限りは、大抵はをかしく無く用ゐて居る。さうしてあの時に聽いて居たのだなと、いふやうな心當りは無い方が多い。子どもの居る處ではうつかりしたことは言へないと、よく昔から人がいふことだが、實際我々のうつかりして居た場合が、かなり多いものと思はれた。
 小兒の覺える日本語には對譯が無い。暗記といつたところで試みやうも無いことである。單に自分の内部の茫漠たるものに、それ/”\の區劃を設けて、それを言葉にして行くだけで、成人には寧ろ望み難い技能のやうである。この特長は年をとるにつれて、段々に稀薄になつて行くべき彼等ばかりのものであるか。又は保護すればもう少し永く久しく、我々の國語修得に利用し得られるものであるか。さういふことを問題にする必要を私は今感じて居る。
 現今は七歳で子供を學枚へ入れた日から、國語の教へ方が際立つて變ることになつて居るが、以前はその堺目の全く無い時代が、いつからとも無く續いて居たのである。字を識る字を習ふといつた寺小屋などは、いふまでも無く其必要の有る者だけの學校であつて、そこで新たに言葉を教へてもらふことを、豫期して居た者はまづ一人も無かつた。(452)之に對して個々の家庭では、無論若干の文句は口授するが、それは改まつた席上の辭儀應答とか、又は心の置かれる他人と逢つた場合の、所謂よそ行きの言葉に限られて居て、他の大部分は當人たちの自修、聽いて自然に覺えて行くにまかせて、飯を食べさせる程度の世話すらも、親たちは燒かうとしなかつた。それで居ていつの間にか、年に相應した生活に必要なだけの、國語を覺えて行つたのだから、是も亦一つの教育の樣式であつたと、私たちの仲間では認めて居るのである。この?態が學校によつて中斷せられずに、曾てはよつぽど大きくなる迄も繼續し、今日もまだ細々ながら殘り傳はつて居るのである。場所や職業を變へつゝ世の中へ出て行く者などは、自分でもしかとは意識せずに、再びこの少年少女時代の能力を復活させて、效果を擧げて居る例が幾らも有る。つまりは此以外にまだ一つの代案も出來て居ない故に、斯んな原始的な方法が、依然として役に立つて居るのである。さうして置いてまづ安心だと、私なども決して思つて居るわけでない。昔の社會では是でも十分に間に合つて居たけれども、今のやうに外部の情勢が變つて來れば、もはや斯ういふ古風なものだけに、據つて居ることは出來ないのかも知れない。どこに補強すべき弱點が潜み、もしくは踏襲してもよい長處がなほ存するか。それを決定するのには外國の理論はさう參考にならない。やはり一たびは根本に立ち戻つて、特に自分たちの國語が通つて來た、路筋といふものを考へて見るの他は無いと思ふ。
 或はこの教育法があまりにも素朴であり、事實があまりにも有りふれて居る爲に、是を人間の作爲を超越した、自然の傾きのやうに見てしまふ人も有るらしいが、假にさうだつたとしても適用は意思である。是で國民の活きて行く支度に、十分であつた時代も確かにあつたが、後々はそれでは足らぬといふ以上に、今まであつたものさへも改定して、新たな組織を立てなければならぬ國、又は社會情勢があり得ることも、又否まれない現實である。乃ち過ぎ去つたものを正しく認識し又評價する必要が、國語教育の方面にもあつて、それをどうやら御互ひは怠つて居たやうである。
(453) 一ばんをかしいと思ふことは、模倣といふならば今日の學校教育ほど、模倣の甚だしいものは他には無いのに、なほこの從來の家と郷黨との感化を、模倣の一語を以て評し去らうとした者の多かつたことである。そんなことを言つて居るから、今度のやうな話方復興に際して、たゞ官廳の指示ばかりを待ち焦れ、各自の良い判斷を働かすことが出來ないのである。成人の場合までは請合はぬが、小さい子供の言葉を覺えるのは、自修であり又體驗であつて、斷じて口眞似ではないのである。私などの知つて居る限り、何處でも幼ない者は口眞似は嫌ひでないが、それはたゞ戯れか人をからかふかに試みるだけで、自分の用を言ふ時は腹から出た言葉を使ふのである。たとへ確かにあの時覺えたなと思ふ場合でも、當人は却つて口眞似だといふことを意識して居ない。眞似は眞劍で無いことをよく知つて居るのである。現に斯うお言ひと母などに命ぜられても、人の前でははにかんで言はぬ兒の方が多い。
 マナブといふ動詞がもう久しい前から、文語として知られて居たにも拘らず、今なほ口言葉に之を使はうとする人が無いのも、偶然でないと私は思つて居る。つまりはマナブがマネブ又はマネルといふ語に、あんまり近いので避けるらしいのである。御經の暗誦とか漢籍の素讀とか、口眞似をして教へてもらふ學業が多くなつて、マナブをいやな事とも思つては居られぬ世の中が到來した。學校は乃ちその最も完備した機關となつたのだが、なほ一方には昔ながらの、聽いてオボエルといふ方式も不用には歸してしまはず、毎日の生活に必要なだけの、口語の補給を續けて居てくれたのである。だから其方式がもしも時世の影響を受け、殊に一般の無關心によつて、たゞ棄てつぽかしにして置かれるやうだつたら、或は日本人の言葉の生活は、今よりももつと悲しい零落に陷るかも知れない。さういふことを考へると、話方教育の實行方法がまだ容易に決定せられず、多くの當事者が去就に迷つて居るといふことも、亦一つの覺醒の好機會と言へぬことも無い。
 國語教育の歴史を知らうとするには、國の政治の沿革も同じ樣に、是非とも眼前の最も適切な疑問、即ちどうして斯くあるかの理由から發足しなければならぬ。さうしてほんの僅かな注意の向け方によつて、自分や身のまはりの判(454)り切つた事實の中からでも、或答へは得られる。答へとまでは行かずとも、問題を更に細かく、答へやすい?態に分けて考へて見ることが出來る。私たちの年來の研究法は是であつた。一つ二つの例なら今でも擧げられるが、たとへば御互ひが、何かやゝ面白いことを言つてのけたと思ふ場合に、(言つてしまはぬ前ならなほ好いのだが)全體この言葉はいつ覺えたらうか、どういふ折に是を自分のものにして居たか、といふことを反省して見るなども有效であらう。學者くさい人なら、先日讀んで居た本の中から、ちよいと借用して我言葉にしたといふこともあるが、大抵は前に誰かゞさういふ語を用ゐたのに、感心させられた結果といふもの、その中には父や叔父さん、その他の親しかつた人の口つきに、我ながら似て居るなと思ふこともあつて、存外小さな頃の埋もれた記憶の、多く蘇へることに氣づくであらう。いゝや是ばかりは自分の獨創、今まで斯んな風な言ひ方をした者は無い筈と、力んで見ても反對は誰もせぬだらうが、實際は外からでも氣を付けて居ればわかる。多くの若い人の使つて居る文句などは、何遍かどこかで聽いたものが多く、しかもそれは學枚で學んだものゝ他である。口眞似教育の最も濃厚な效能が、今や既に讀み書き綴り方より外の方まではみ出して居るのである。國の未來の幸福は、是に懸つて居るとまで、我々のあてにして居る話方の教育が、萬が一にもこの筆法で推し進められるならば、形は全くちがへて、又第二の擧國一致が出現するかも知れない。戰慄すべきことである。
 話が少しづゝ枝葉に入るので、又要點が後まはしになつてしまつた。私が諸君に考へて見てもらはうと思ふことは、國民相互の正しい交通の爲に、古人はどれだけの準備教育を、與ふべきものとして居たかといふことである。それには最も手近に居る最も率直な小さな人たちに就いて、彼等がどういふ風に言葉を貯へ、又之を出して使つて居るかを見るのがよい。能力には多少の等差があらうが、順序と結果とはどこの兒もほゞ同じであらう。其見當が大よそ付けば、次には自分はどうだつたかといふことが、考へられずに居らぬと思ふ。話方教育の背後には、先づ聽方教育といふ大切なものがあり、その二つのものゝまん中に、更に最も嚴肅なる思ひ方教育、考へ又は感ずるに入用な言葉の修(455)得が、有るといふことは發見でも何でも無い。たゞ近年の標準語運動者等が、言葉はたゞ口先のものだと誤解して居ただけである。彼等が失敗の經驗も我々は利用しなければならない。
 
 歴史にも無いやうな大きな事件の連發によつて、實は國民は今大分くたびれて居る。無事に苦しんだ常の時ならば、革新といふ言葉だけでも人の心は引立つたであらうが、現在は寧ろその反對に、茲はまづそつとして置いてくれと、言ひたさうな樣子が各處に見られる。斯ういふ時代に於ける物の説き方は、早く實現させたいと思へば、なほ更注意し又加減しなければならない。一國總體の改良などといふことは、之を企つれば議論が永びくでもあらうし、又さう迄する必要は少しも無い。しかも御互ひの僅かな力を揮つても、結構この世の爲になる仕事の出來るのは、國語教育の方面より他に、今はまづ無いと言つてよいのである。浪人風な氣樂な態度と評せられるかは知らぬが、自分などはただ一人でも多く、國語を本當に利用し得る者を殖やして置けば、もと/\ごく自然な望みなのだから、末は雪達磨の如く大きくなつて、やがて國民の精神生活は充實するものと信じて居る。いつ出るとも知れない文部省の訓令なんか、待つて居るにも及ばぬと思つて居る。
 もちろん幾人かの協力が無くては、始められないことも確かだが、一ばん最初に頼まなければならぬのは、國語の講義をする先生と言はれる人たちで、是に今までのやうなむつかしい談義を續けられ、又は世上の是からの變りを胸に置いて、いとど解釋の餘地の多い、高遠な學理を説かれては非常に困るのである。國語の應用は大切な生活技術であり、之を教へることも亦貴い一つの技術であること、即ち學問そのものでは無いといふことを、彼等に認めて貫はぬと困るのである。
 現代の職業の何と比べて見ても、師範學校の生徒ほど見習期間の短いものは他に無い。學校の門を出るや否や、す(456)ぐに我々の最も大きな寶ものに、一生涯の型を付與する業務に就くのである。鑄金彫金などといふ職人が是とやや似て居るが、此方は遣りそこなふと叱られるだけで、鑄潰せばまだ手間と些しの損だけですむ。之に反して他の一方は、人を片輪にしてしまふことが有るのである。今までも實地の修錬などといふ語を聽くたびに、ひやりとした者は私の他にも多かつたらう。實驗といふからにはいづれ成績が零、又はマイナスの場合もあるわけだが、何をそも/\其實驗の材料に、使つて居るのか、と思ふと心細くなる。斯ういふ技術者にこそ豫め十分以上の自信をもたせ、少しもためらはずに手腕を振はせること、恰も劍術の道場では一ぺんも人を斬らぬが、しまひには平氣で惡者退治に出て行かれるのと、同じ程度の腕前にしてやらねばならぬ。大よそ世の中に、談理の五里霧中に引張り込んではならぬ人は幾らもあらうが、それが危險であり又その弊のすでに聊か現はれて居るのは、數が多いだけに教育方面が筆頭ではないかと思ふ。それが今や時代の轉囘期に遭遇し、おまけに學校も昇格したことだし、學年も延びたことだし、も少し高尚なことを言つて聽かせないと、體裁を爲さぬといふやうな考へから、更に何割かの哲學とも名づくべきものを、加味せられることになつたらどうであらう。損をするのは決して最愛の兒を持つ親だけでは無いと思ふ。
 書物の感謝しなければならぬのは、結局は我々の惑ひを解いてくれる點に在る。爰に我生の疑問が起つて、始めて前賢の是に答へた言葉が光を放つのである。ただ用に臨んでそれを求めたのでは間に合はぬことが多く、且つ豫めその起るべき問題が想像し得られるので、いはゆる是だけは心得置くべし、一つの修養として前以て授けておいた方がよいといふ迄である。出來ることならば平明なる要約と良い索引とを以て、この爲に費される時を節約し、少しでも渉獵の野を廣くさせて、偏した一派の見に囚はれぬやうにしてやる方が今は急務であらう。無論學問が人を賢くし、世を幸福に導く唯一の手段であること、もしも餘力があるなら半生を之に捧ぐべきことを、説き訓へることは非常に必要だが、是で肝腎な職業の練習時間を、削り略してよろしいといふ理由は絶對に無いのである。日本の青年には好い指導者が乏しくて、不安や苦悶が有るとただ本を讀み、それが自分の疑惑に答へるものか否かを、顧みない者が折(457)々あつた。國民學校の教員だけには、それをさせたくないと切望して居るのだが、自分などの試みに讀んで見た限りでは、却つて此方面に判りにくい著述が多いやうである。親しい友人の言語學者と、此點では私は毎度議論をした。言語は相手にわからせるのが、たつた一つの役目では無いか。わからない言語學なんか自家撞着だと言つたものだつたが、それでもその途方も無いむつかしい本が、澤山に賣れて行くのださうである。だから今のところ、まづ私は負けである。がしかし少なくとも少國民の活きる日本語ばかりは、到底是では教へられぬと、まだ頑強に私は信じて居る。
 然らばどうするか。是は私には詰問でも何でも無い。寧ろさう言はせてから一つの案を出さうと待つて居た。固より是が唯一のものとは思つて居ない。又非難の幾つかを參考として、改訂することを期して居る。ただ自分が動かぬ眞理かと思つて居るのは、國語を教へるには國語を知つて居なければならぬことで、當り前だといふ人も有らうが、私にはそれを如何にして學んで居るかが、今はまだ不明なのである。以前は街頭で人の物いふのを、採集することは容易でなかつた。式亭三馬が寫生した程度に、江戸の口語を知らうとすれば、人から變なやつだと怪しまれなければならなかつた。ところが今日はラジオがあり蓄音器の盤があり、速記もあり音譜もある。科學者にふさはしい實驗さへも、しようと思へば出來る。まして此國語にどれだけの特徴、乃至はどれだけの癖と弱點が生じて居るか位なら、注意さへして居れば手無しにでも觀測し得られる。しかもそれだけの事すら、まだ試みたといふ例を私は聽いて居ない。何の事は無い、少年少女よりも比較的久しく活き、比較的多く聽き、多くしやべつたといふだけの經歴が、人を教員にして居るのである。讀方ならそれでも教へられようが、話方の師としては少し足りない、と思ふのだが誤つて居るだらうか。
 もつと多くの準備時間を、掛けてもらはぬと困ると私は主張するのである。それが窮屈な、諳記の必要な、又睡を誘ふやうな講釋ならば、誠に氣の毒なと斟酌する必要もあらうが、この實驗は相應に興味のある、從つて印象の深い(458)ものだらうと私は思つて居る。ともかくも全く新らしい試みであるが故か、初期の何年間かは多くの手が掛り、累を名論卓説の時間に及ぼさぬとも限らぬけれども、少し忍耐すれば追々と事實が精確になつて、一方に隅々に殘つた問題を際立たせ、他の一方には又時が國語の上に與へる影響も顯著になつて、讀めもせぬ異國の言葉を例證に引くやうな、情けない受賣は必要が無くなつてしまふかも知れない。
 土地の言葉の調査は、今までも少しはして居た。それを全く無益なものとは言へないが、是と當面の話方教育との交渉を考へて見ると、實際に何の爲にさうしたかとききたい樣な、淡い且つ遠い效果しかもたらして居ない。其理由は誰でも認める如く、方言は本來一つ/\の單語、又は特別な文句に伴なふ現象であつて、たとへば鮮人が鮮語で物を言ふやうに、是ばかりで用をすます人などは昔でも決して無かつた。ただ幾分かそのまじる分量が多くて、聽手にすら/\と通じない會話を、一括して方言と謂つただけである。故に方言の採録は、汎く全國の事實を比較綜合した場合に意義がある。しかも各地の方言家なる者に、他處を識らうとした者は甚だ稀であつた。或者はわざ/\片田舍に入つて、人の驚くやうな實例を拾つて來ようとし、又或者は東京でも始終耳にする言葉までを網羅して、是も土語だからと謂つて澄まして居た。つまりは、人が現在如何なる國語に由つて、生活して居るかの事實までは考へなかつたのである。今度はしかしさういふ斷片までが、一種の補助資料としてもう少し役に立つだらう。
 口語教育のこつを覺える準備には、もう少し一般的な、又適切な課題をもたなければならない。さうして出來るならば一地方の利害だけで無しに、僅かな用意を添へて他の府縣にまでも、適用し得られるやうな事案を、互ひに扶け合つて一日も早く、確認するやうにしたいものである。問題は勿論自分の中に生じたもの、將來解かずには居られぬものを、先づ片付けて行くに越したことは無いのだが、馴れない人たちにもし見當が付かぬといふならば、幸ひ茲に自分などの、まだ半分の根據しか無くて、斷定をさし控へて居るものが幾つもある。たとへば形容詞や動詞の數が減じて來て、壯年の男子だけならともかくも、女や年寄が段々と不自由をしては居ないか。兒童用の副詞といふものが(459)非常に乏しく、ませた口をきく子が多くなつては居ないか。歌に用ゐてよい綺麗な音の語が無くなりかかつては居ないか。それよりももつと一般的に、口言葉は五十年百年の前と比べて、可なり著しく貧弱になつて、もう文語を借りないと思つたことが言へなくなつて居るのではないか。斯ういふのが今すぐにも大きな問題として用立つだらう。
 
 若い是からの國語の教員に、是非何とかして體驗させたいと思ふ一事は、言葉は時代により又時代人の心掛け如何によつて、良くもなれば惡くもなるものだといふことである。良くなることだけは大丈夫、惡くなることは萬々有るまいといふ樣な、そんな氣樂な考へは持つて居られないといふことを、單なる取越苦勞では無しに、各人が思び知るやうな方法が、もし有るものならばそれを早く見つけさせてやりたい。
 書き言葉即ち文章道の零落といふことは、?之を慨歎した人が其時代にもあつた。時過ぎてからならば誰にでもそれは心づかれ、書いたものは殘るから證據に引くことも出來る。しかし漢文とか擬古文とかは、利用者が始めから限られて居る。言はば個人の技術なり素養なりの問題であつて、國民總體の言語能力などは、極めて間接にしか其上に現はれて居ない。さうして我々の茲で問題にして居るのは、その國民の言語能力なのである。多數の普通人に必要であつた文章、たとへば書札とか證文とかは、いつも俗用などと稱して省みられず、從つて僅かしか傳はつても居ないが、たつたそれだけのものを比較して見ても、是が江戸時代の下半期に入つて、急に自由になり又力強くなつたことは否まれない。讀み書き手習ひの寺小屋教育が、是に大いに働いて居ることも確かであるが、それただ一つの原因からで無かつたことは、明治の學校普及の時代になつて、却つて一般の文章が單調無味、印象微弱になつて居るのを見てもわかる。つまりは此以外に心の用ゐ方、殊に口言葉からの支持といふものが、殆と望み難くなつた結果かと思ふ。
(460) いはゆる言文一致の運動なるものは、確かに其趣旨に於て適切であり、從つて又明治の文化諸運動中の、效果の目ざましかつたものの一つに算へ得られる。御蔭で私たちは一生の間に、胸に沁み入るやうな新らしい文章の、幾つかを記憶することが出來た。しかし斯ういふ文人たちの、まだ考へようとしなかつたことは、文の相手の言即ち口言葉といふものが、如何に粗末に又投げ遣りに、荒れすさぶにまかせてあるかといふことで、其爲に人は些しく小賢しいことを言はうとすると、すぐに言葉を文章の中から借用して、自然な腹の底のものを發することが出來ず、誰も彼も言ふことが皆御揃ひで、個人の表現といふものに接することが愈むつかしい。一方に今日の口語體なるものは、單に也をであるに改め、でありますに取替へただけのものになりかかつて居る。國内の老若男女が明けても暮れても、この調子で物を言つてくれるやうになつたら、それも亦一種の言文一致かも知れぬが、何と考へても私などは、さういふ時節の到來を待つて居る氣になれない。
 口言葉には最初から、ふだんとよそ行きとの二通りのものがあり、一方はちやうど仕事着に對する晴の衣裳のやうに、本來は用ゐる日が至つて少なく、且つ幾分かうはべだけの、空々しいものにならうとして居たことを考へて見なければならぬ。世が改まつて交通往來が繁くなれば、晴言葉の需要の多くなるのは已むを得ない。それが片端から形式に流れてしまつては、困ることもよく判つて居る。だから追々に羽織袴で無くても、客の前へ出られるやうに、しようといふのならば道理があるが、今まではちやうど其反對に、なん時入用が有るかも知れないから、朝晩禮服で横へて居れと、教へようとしたのである。今日までの外形教育などは、寧ろ成功しなかつたのを慶賀すべきもので、あれが大略五分の一程度、即ち一軒の家なら亭主一人ぐらゐが、是にかぶれただけでももう相應に、結果は悲慘なものだつた。我々日本人はすんでのことに、九官鳥にならうとしで居たのである。
 靜かにこの原因を反省して見る以前に、御互ひはまづ我邦の常用口言葉が、果して衰頽の一途を歩んで居たと、言へるかどうか明かにして置くべきかも知れぬ。普通に其認識を誤らしめようとして居たのは、俗に謂ふ口きき又は口(461)達者の増加であらう。成るほど以前には無口といふ人が最も多く、たま/\物を言つてももどかしいほど間が伸びて、調子に乘るといふ場合が甚だ稀であつた。是を或は田舍者の特徴ででもあるやうに、思つて居た時代もあつたけれども、町でも大部分の人は皆この通りで、早口は單なる一つの藝に過ぎなかつたことは、豆藏といふ言葉の歴史からでも知れる。無口といふ中には、思慮ある人物が多くまじつて居た。彼等がよそ行きの場合も同じやうに、使ふに先だつて言葉を點檢し又選擇をしたのは警戒だけではなかつた。其上になほ最小限度の言葉を以て、最大の效を擧げようとする趣味をさへもつて居たのである。さういふ趣味が輕んぜられ、又警戒を無用ならしめんとしたのは酒間であつた。乃ち早口そのものの發源地も、ほぼ之によつて想像し得られるのである。
 近世の社交が都市のまん中の、いはゆる狹斜の巷で育てられたといふことは、恥がましいことだが事實である。之に附け加へて主客の序列が、複雜になつたといふよりも段々と對等に近くなり、それがいつと無く會話の樣式を變化させて居ることは、氣をつけて居れば文藝の作品からでも窺はれる。近世初期の平和時代にも、すでに夜咄の會は盛んになつて居たが、是には最初から話し手と聽き手、又は問ふ人答へる人の對立が豫期せられて居た。其後に始まつた各藩留守居役の交際とか、又は國から登つて來た志士連中の款談とかいふものは、體面もあるので互ひに黙つてばかりは居らず、いはゆる一言居士の發生を促したのである。向ふが何か言ふなら此方も是非一言といふやうな、短い會話の交換が流行になつてしまひ、際どい間合ひを見て言ひたいことを言つてのけるといふ類の、現代のおしやべりを養成したものと思はれる。
 斯ういふ歴史は若い人には用が無いかもしれぬが、とにかく口達者は必ずしも話方教育の成功で無いばかりか、今見る口言葉の零落の中には、原因をそこに求むべきものが多いといふことは考へて見なければならぬ。古來少年の敏捷が愛せられた逸話は、和漢ともに其數に乏しくないが、それは突嗟の間に選擇した用語が、簡明にして又剴切であつたからで、それを普通の者が眞似そこなつて、笑はれたといふ話も亦多いのである。人が笑つてでも批判してくれ(462)るうちはまだ害が無い。一旦斯ういふとんちきが當り前となり、珍らしくも無くなつたらそれこそ事である。さうして私一人だけは少なくとも、現在がまさにそれだと思つて悲しんで居る。
 しかし幸ひにしてまだ過渡期に屬する故に、今ならば五十年前の記録、乃至は古風な人たちの物言ひぶりと比べ合せて、退化か進歩かの實驗をして見ることも出來る。私のこの長話がちやうど見本である樣に、人を倦きさせずにしまひまで、我が言ひたいことを言ひ盡すといふことは、今日の口言葉では出來なくなつて居る。五年三年の苦しい旅から、やつと還つて來たといふやうな家族があつても、まはりの人がよほど親切な問ひを、たび/\掛けてやらぬとその感想の五分の一も、傳へることが望まれない。始終同一の境涯に共に住めばこそ、氣心を知つたとも言つて居られるが、僅か職業なり立場なりがちがへば、義理より外には親類の繋がりが無くなる。つまりは互ひに理解しあふだけの機能を、我々の口言葉はもう果して居ないのである。               國語の先生ばかりは文法を説くけれども、それは毎日の言葉には適用が無い。強ひて言ふならば省略形ばかりである。コンマは時折有つてもペリオドといふものは殆と出くはさず、活字に寫すならば點線だらけになつて、それも中途で氣が替ると、ずる/\と次の文句へ移つて行くことは、教育の有るといふ人も變りは無い。是では折角の言文一致が始まつても、文の方で愛想をつかして、勝手なことを書くのも致し方が無いと思ふ。
 古人も簡潔な表現を珍重して、何かといふと感動詞の連發になつたことは事實だが、それですまさうといふには嚴密な選定をしなければならなかつた。ところが今日はそれが甚だ不精確で、たま/\好い語が使へたと思ふと、つい嬉しさに何べんもくり返して、重複が如何に印象を損ふものかといふことを考へない。それといふのが早口に言葉を連ねるから、價値を十分に知つて置く餘裕が無いのである。
 語彙の缺乏といふことは、今日は想像の出來ぬことで、聽けばどうやら解るといふ語句ならば、とつくに以前の四倍五倍にもなつて居る筈なのに、それを本當にはまだ自分のものにして居ないのである。耳言葉の整理分配といふこ(463)とが、話方教育の基礎になる理由は茲に在る。
 或はまだ疑つて居る人は無いとも限らぬが、それも是も今からの實驗が決定する。假にも私の悲しむやうな事實があるとわかつてからは、それでも棄て置くべしといふ人は無からうからである。
 
(464)   地方見聞集
 
     一 池掛り
 
 日本にて一番溜池の多きは讃岐なるべし。讃岐志と云ふ昔の地理書は誠に奇特なる本にて悉く池の所在と名稱とを列記せり。之に依れば小豆島を除きたる六郡即ち以前の十一郡の中に池の數大小二千八百五十七あり。其内百五十二は湧水なり。湧水は比較的面積を要すること少なけれど、溜池は略灌漑面積の二十五分一乃至三十分一の面積を要すぺし。之を見ても此國の米生産者が如何に多く水の爲に價を拂へるかが分るなり。
 讃岐に次ぎて池の多きは淡路なり、和泉なり、河内の南部なり、大和の北部なり。此一帶の地は海を隔つれども地質の構造もと相似たりと聞く。疑も無く地質と溜池とは關係あるなるべし。先年奈良縣に於て土工を起し稍大規模の溝渠を以て水を遠くまで送り大部分の池を省略して之を田に墾くの計畫ありしことを聞けり。其後如何に進行せしか又他の地方にても同じ計畫ありや否やを知らず。
 陸地測量部の二萬分一圖河内の「金田」圖幅に依るに一枚即ち約四平万里半の面積に於て池の數が二百八十餘箇あり。面積に於ても九分の一以上を占む。其南は即ち「狹山」圖幅にして國境に近づき丘陵多ければ池の數稍少なきも此中には有名なる狹山池あり。狹山池は國史に見えたる最古の溜池の一なり。此地方にては一つの池の灌漑區域を(465)「ノリ」と稱す。狹山池の「ノリ」に屬する丹比村大字郡戸の人畑田保次君の談を聞くに用水の權利は田地の處分に伴ひて移轉す。即ち古田《こでん》の一特權なり。新田を開く者は自分の費用を以て新に池を設けざる限は假令池の隣に在る田にても其用水に參加することを得ず。而も水を得ることは大抵の場合に至難なるを以て此邊にて新田と謂へば即ち畠を意味す。上方にては西瓜の上等品を新田西瓜と稱す。最も乾燥したる畠場の産を良しとする也。新潟縣の中部愛知縣の西南部等に於て新田は排水の困難なる濕地を意味すると大なる相異なり。
 個々の池の「ノリ」は即ち一の組合なり。一の部落一の農家にて同時に二三の「ノリ」に屬するは決して珍しからず。總別川の水は低くして灌漑に適せざる故田を持つ者は色々の工夫をして成るべく便宜多き「ノリ」を擇び之に加入せし也。組合には細密且嚴重なる不文の約束あり。理事者に弘大なる權限を認む。即ち所謂顔役なる者なり。雨多き年は勿論問題少なきも、少しく天氣の續きて蒸發の盛なる季節に入れば水の配分には中々面倒なる計算を必要とす。昔の神樣の中に「ミクマリノカミ」あり。「ミクマリ」は即ち「水配り」なり。各戸に不平なく出來る限所要の量を供給するは實際神樣ほどの智慧と公平とを要すと見えたり。近世の米國に於ける灌漑書を見るに水量の測定は彼國にても實際に適する方法なきに苦しめるが如し。數學が發達すればする程其計算が實行しにくきものとなれば也。我國などは大體何れの農家も皆呑氣かと思ひしが決して然らず。田の主は前以て田土の表面を均らすに至大の注意を拂ふ。さて愈今日は一寸の水を半日間掛けると云ふことになれば、管理者は※[鍬のような図有り]此の如き道具を携へ行き之を田の中の任意の所に立てて水の深さを測る也。中には全部に一寸の水を掛ける代りに隔日に二寸の水を半分の地積に掛けんことを求むる者あり。此場合には田の中央に低き泥土の堤を作りて水を限ると云ふ。水下の村にては水上より落したる水を掛る故遲くして且つ量少なき上に色々と水上の村の機嫌を取ること笑止の至なり。例へば旱年水を引く季節には毎戸出でて水番をするに水下の村にては水上の村の分までも代りて水番を勤め、水上では樂をしつつ劍突などを食はすことあり。流末の部落に至りては實際遣り切れずと云ふ。
(466) 池の大さは非常に差等あり。地圖のみにて見れば何故に今少しく之を擴張せざるかと訝るべき所もあり。池の深さも亦地形に應じ一樣ならず。概して南河内にては東南高く西北に向つて傾斜せり。故に池は邑居の西部北部にあるもの多し。東南の二面は天然のままにて村中の雨水が次第に池に入るやうにし、西北二側のみは堤防を築く。因みに云ふ、堤を「ツツミ」と云ふは水を包むと云ふ意味なり。地方によりては池のことを「ツツミ」と云ふ所あり。此場合には堤塘を「トモ」と云ふ。未だ其意味を明にせず。稍大なる池には中央部を横斷して南北に中切れたる一本の堤を設く。此は西風が浪を起し岸を破壞せぬ用心なりと云ふ。場合によりては一の池が此堤の爲に全く二分せらるることあり。地圖には見えざれども下にて水通ふものもあるに似たり。又中堤の代りに中島を築くものあり。中島は一には掘上げたる土の置所と云ふ意味もあれど、一には又風除浪除の目的もあるべし。其中島に辨天樣水神樣などを祀るものは不用地を利用せしにて昔の人の勘定高きこと驚くの外なし。又恐多き話なるが山陵の周圍なる湟の水を溜池同樣に利用せしこともありと見えて、陵の周圍の池著しく廣くなり主たる陵が却りて中島の如く見ゆる所もあり。勿論此は幕末山陵修復の以前の事なるべく今はかかることは許されざるならんも、無名の古墓の中には遂に池と變じ又は田と變じ僅に中央に封土の跡を認むる者地圖の上に見えたり。池の維持は中々樂な事業に非ず。地方《ぢかた》の書物を見れば冬中一旦之を乾かし底土を築き堅め置けば水洩らずしてよく持つとあり。然れども河内などの池は年中の水は殆と全部を溜め置く必要あるを以て、とても之を乾かすこと能はず。且寒中の水は性よろしく、若き水は田地の爲によからずとも云ふ。此は古き水は段々蒸發して之に含有する養分濃厚となるべきにより幾分肥料を節約し得るが爲ならん。温度以外に別に新舊により水の效果の差異あるべしとは思はれず。狹山池は二千年の古池なれど太閤時代に大修繕あり。今日此池の「ノリ」が恩惠を受くるは主として其時の工事の手丈夫なりし爲なり。此池は堤高く水深く水門三段にあり。下段の水門は既に土中に埋没し中段のも之を利用すること少なく主として上段のを使ふ。此池のみは毎年一囘水を乾かすなり。其折に附近の村にては底土を採取し歸り之を各自の田に容土するの權利を有する者あり。沃土を肥料(467)に使ふ例は諸國にもあり。地表を流走したる水の沈澱物は殊に養分多かるべき理なり。
 今日の如く地價の高き時代には溜池は恐くは最も高價なる灌漑法なるべし。從つて池掛りの田多き地は稲作の利益の最も多き地方なり。河内は大阪を近く控へ諸國の米と比べて運賃だけ餘分の收入あり。併し此運賃が次第に低減し畠作物の中に追々中央市場に向き、而も運賃の差異の米より多きもの、例へば果實蔬菜の類段々に多くなれば斯く迄苦心して池の水を引く必要は次第に減ずべく、一方には同じ水田を作るにしても水上の村の壓迫あまり強ければ、夫よりは簡單なる「ポンプ」などを使用して水位低き川の水を使用するに至らんこと正に近きにあり。併し今の所にては農家が何を置きても田を大事にする故、用水權の價値はまだまだ容易に失墜することなかるべく、從つてあまり不均衡なる配水法の行はるる地方にては多少外部より世話を燒き水の供給を安全にする必要あらんが、南河内にても或村は用水權の多き割には田少なく餘分を下流に賣りて立派に生活するだけの收入ある村あり。白壁多く全村有福なり。又畑田君の叔父さんの如きは水上の村に住み水の組合の世話人なる故勢力大にあり。喧嘩などは一寸顔を出せばすぐに納まり又今年は私が府會議員になりたいと云へば奔走をせずしてすぐに成れると云ふ。用水問題の社會上重要なることは此一事に徴しても明瞭なり。
 
     二 屋根を葺く材料
 
 拙者幼少の時郷里に於て之を聞く。或山家の兒父に伴ひて始めて里に出で、酒屋の庫などの瓦葺なるを見て驚きて父に向ひ「おとうよ此處らは皆十能で屋根を葺いとるのう」と言ひたりとか。蓋し此兒の家にては唯一枚の瓦を所有しそれを火取の用に供してありし也。今日にてはトンネルだらけの山間を汽車にて通行して見ても餘程右の十能の屋根が多くなりたり。瓦輸入の最初に在りては之を使用するは寺のみなりき。故に寺のことを「瓦ぶき」と謂へり。瓦(468)は商品に非ざりしが故に大寺を建立する前には先づ製瓦所を設置する必要ありし也。唐風の建築を採用することとなりて宮殿官署には瓦を用ゐるもの出來たれども、普通の住宅は尚久しく之を葺くことなかりしが、時代の進むと共に次第に瓦屋根増加せり。其原因の一は個人開基の小佛寺、小佛堂甚だ多くなり神社建築の風も段々佛閣を摸倣するに至り如何なる田舍でも瓦は珍しからぬ物となりしこと也。第二には製瓦の技術進み且つ粗製となりて安物の瓦が澤山に供給せられしこと也。第三には瓦を葺くは家の格式にて只の平民の之を用ゐるは資力の許さぬ外に世間より僭越なりと批難せらるる次第なりしに、明治になりて此の如き不文法廢絶に歸し小百姓は反動的に瓦を以て其家を裝飾するに至りしこと也。第四の原因は即ち市街地の防火警察に基く所謂屋上制限なり。此は最近の現象にして東京などは大都會なれど高架鐵道の上から見れば瓦葺の數は未だ甚少なく其割合は却つて土佐邊の山村にも及ばず。
 屋根の樣式は手近の問題なれども空に向いて居る故に人は鳶烏等ほど之に注意せず。屋根葺職は地方的の者にして彼等に聞くも屋根原料の種類を悉すことは困難なり。日本の家の數は約一千萬あり。屋根の數は一家平均二棟餘なるべく住宅以外の建築物を加へて先づは二千五百萬棟あるべし。自分の推算に依れば瓦葺は其七分の一乃至六分の一ならんと思へり。其他の二千餘萬は一言を以て言へば燒け易き屋根なり。即ち植物質を以て葺けるもの也。亞鉛板又は石油鑵のブリキなどを用ゐ黒ペンキを塗りたる非美術的の屋根は幸に思の外多からず。スレエトの如きは殊に僅なものなり。銅瓦は昔より有りしも銅の市價騰貴するを以て今日は最早無くなりたるならんか。
 數の上より言へば草葦又は茅葺と云ふ屋根最も多かるべし。此にも多くの種類あり。其中にて眞の萱を用ゐるものは次第に減少する傾あり。藁類を用ゐるは増しもせず減ずることも著しからずと雖、結局全數の上にては幾分づつ瓦に變形しつつある也。萱葺を維持するには廣き原野を存置せざるべからず。人口多く開發の盛なる地方にては到底之を望み難し。萱葺は小さな百姓家にても一戸の屋根に四反五反の面積と之を苅るべき多くの勞力とを要す。村の舊家などは名聞の爲に二尺五寸三尺の厚さに葺くものあり。其入用は莫大なり。然れども念入に葺けば二十年以上保存せ(469)らる。普通の萱屋にても、時々僅少の修繕を加ふれば十五年位はもつなり。萱野萱山は多くは部落の共有地にして古來ユヒと稱し之を葺く爲にも村中に於て勞力上の協同組合を設くるを例とす。五十戸の字にては毎年三戸又は四戸の葺換を爲す順序なるが故に、其爲には二町歩内外の沃野を存置せざるべからず。之に比ぶれば藁屋は便宜なり。藁はもと穀作の副産物なれば入用の有無に拘らず之を收穫す。即ち苅取までの勞力は屋根葺費に於て之を負擔するに及ばず。加之昔は藁屋は極めて見すぼらしきものにて今日の田小屋などの如く單に藁の束を投上げ一時の雨露を防ぐ假の屋根なりしも萱葺同樣に段々技術が進み小麥の稈を以て葺きたる屋根の如きは外見殆と萱と異なる所無きに至れり。尤も保存年限は幾分か短かかるべし。米麥の稈は本來成るべく早く腐りて耕地の肥となるを詮とすれば、之を風雨に暴露して端の方より朽ち行くは是非も無きこと也。併し副産利用を以て萱野を節約し得る外に冬季餘閑ある農村にては葺換の勞力を投ずれば容易に結構なる煤藁の肥料を得るが故に山村に於ける草苅、下木苅《したきかり》の作業の代りとして之を以て手間肥を作る也。東京近村を今頃旅行して?此屋根換の煤を浴びるは吾人の經驗する所なり。大麥裸麥の藁屋根は保存も小麥に劣り體裁も惡けれど此點に於ける利益は却つて多かるべし。つまりは屋根を以て一種の堆肥置場と爲す農業なり。樺太の露人などは牧草を以て畜舍の屋根とせり。冬中段々に屋根を引下して牛馬に食はせ春になれば厩は露天となる也。
 稲の藁は最も腐敗早きが故に屋根に適せざるやうなれど大和南部などにては萱屋の上に一通り薄く之を蔽へるものあり。此邊の屋根は形?も外とは異なりたる切妻《きりつま》なり。遠くより見れば白々として特色あり。或は之を以て下の萱を保護するか。能登の七尾邊にては藁屋に竹の葉を交へ葺くものあり。此も同じ目的ならんが早く腐りて苔などを生じ却つて丈夫になると見えたり。兎にも角にも草屋根は勞力の問題なり。冬季にも副業起り、一般に勞力の評價高くなれば此の如く頻繁なる葺換更に頻繁なる補葺を必要とする屋根は假令若干の肥料收入ありとも次第に引合はぬこととなるべき也。米麥の藁は近頃用途多くなり大分高價になれり。海岸の埋立新田の如く燃料の拂底なる地方では亦藁を(470)用ゐ難し。
 歴史上の地位より言へば木の屋根は草屋よりも時代古し。農業を營まぬ人民も岩窟のみには住せず。始は樹の皮が最も簡便なる屋根なりしならん。北海道に行くと今でも少々は之を見る。杉皮|檜肌《ひはだ》の屋根は之より進化せしものなり。神社の古式を守るものの外は今は庇に葺く位にて其消費増加せず。之に反して板葺は草屋に次で多し。板にも色々あり。廣き板を打附けたるは作業簡單にして體裁よきに似たれど一重にては破損し易く薄弱なり。故に小さき薄板を幾重にも重ねて葺くが一般の風なり。屋根用の板は始より一定の形式を具へ萱藁と異なりて商品なり。寸法に基きて或は之を三五とも稱す。鋸を以て之を挽くこと無く必ず木の柾目に沿ひて之を割る故にソギ板又は曾木と云ふ。枌の字を宛てたり。又※[木+朮の点無し]とも柿とも書しコケラと訓む。コケラとは木の削り屑のことなり。東京にては誤りてカキ板と云ふ。木材が現今の如く高くなりては之を使用するは不輕濟のやうなれど製材所にては製材の作業上副産物として是非出來るなり。樽丸にても枕木にても節《ふし》去《さ》り其他木取りの都合より此|端榑《はしくれ》を生じ、今後と雖供給は潤澤なり。東京にても廢物の古電柱を用ゐ之を作ると云ふ。燃料にするか柿板にするかと云ふ境なれば火事に對しては全然無防禦なること想像に餘あり。日本海岸の町に大火多きは一は風位と居住との關係なれど一には此爲なり。板屋の葺き方は昔のまま也。釘を以て打附けては補葺に不便なるのみならず割れ易く腐れ易し。故に只之を重ね合せ細き材木を横へて之を押へ更に風に吹飛ばされぬ爲に枝附の木を載せ、又は石を以て重《おもし》とす。越前勝山町邊は平石多きを以て東京ならば石碑にでもすべき天然石を殆と板の見えぬ迄に敷きつめたる家あり。其他の地方は多くは川原の丸石を使用す。横木を以て其轉落を防ぐ外に成るべく屋根の傾斜を緩にする故に材料の輕き割合には梁も柱も存外強力を必要とす。屋根の形?は材料と大關係あり。所謂千木勝男木は要するに此板などの飛ばぬ用心なり。關東の海岸石無き地方にては石の代りに蠣の殻を置く。遠望すれば板は見えず殆と蠣葺とも稱すべきものあり。加賀の金澤などは屋根の石の數殊に多く此も石を以て葺けりと云ふも可なる位なり。火事の時は石落ちて危險には非ずやと思はる。
(471) 昔は柴を以て屋根を葺きしも有りと云へど、今ありや否やを知らず。越前日野川流域の如き麻の産地にては麻の稈を以て葺く。其葺き方は萱屋に同じと聞けど恐くは柴屋を學びたるなるべし。又竹を以て葺くものあり。九州中央の山間部に於て之を見る。但し自分の見たるは廂のみにして屋根の全部竹なるは見ず。大なる竹を二つに割り節を拔き之を斷面下の如く組合すなり。※[図有り]即ち上を向きたる竹は雨水を流す樋竹の用を爲し、草葺板葺の如く水分を浸潤せしめて腐敗を招くの虞無く此點に於ては瓦と其便を同じくす。瓦も元來右の竹葺などより發明せしには非ずやと云ふ説あり。今日普通の平瓦にては此關係不明なれど昔は瓦に牡瓦《をがはら》牝瓦《めがはら》の二種あり。之を交互上下に組合せて葺きし也。日本にて今丸瓦と云ふは牡瓦なり。一の屋根に左右二筋位装飾的に之を葺けども朝鮮などは今でも全部之を用ゐることは寫眞を見て知るべし。瓦の數を節約する爲に後には牝瓦の幅大に廣く且つ其丸みも少くなり終に今の平瓦の如く雌雄を一枚にて兼ねたる瓦を作るに至れり。瓦の横斷面甲圖の如くなる平瓦は、乙圖の牡瓦と牝瓦を繼合せたるものなり。※[図有り]故に若し將來長き半土管の如きものを組合せて屋根を葺くことに成らば恐くは再び明白に竹の屋根との類似を發見するに至るべし。瓦普及に對する最も大なる障碍は其製の粗?にして寒氣に耐へざる點に在りしが近來は釉藥を塗りて丈夫なる紫紅色の瓦を生産し寒國又は山村にても次第に板葺を之に改むるに至れり。今一段進みて材料の重量を輕減するを得ば愈結構なるべきが亞鉛板、ブリキ板は如何にも情なし。幾分にても日本建築の美觀を保持する爲めには瓦を改良して使用に便ならしむべき也。併し瓦は暑熱を透し寒氣を防がず。住心地の最良きはやはり昔風の厚き萱葺なり。雨雪の日などは暗けれども靜かにてよきもの也。
 
(472)   文明の批評
 
          一
 
 文明は批評すべきものであるといふことを御話したいと思ひます。さうして若し能ふべくば、文明は果して如何なる態度を以て、之を批評するのが正しいかを、諸君と共に討究して見たいと思ひます。
 我々が日本の次の代を考へる毎に、いつも青空に一片の雲を見るが如き感じがするのは、是はそも/\何であるか。所謂文明の暗黒面なるものは、苟くも文明あれば則ち必ず之に伴ふべきものであつて、如何に我々が最愛の子供たちの爲に努力しても、豫め之を防ぎ又は除いて置いてやることは出來ないものであるかどうか。即ち世中が進むといふことは、何でもかんでもいやな事の多くなることを意味するものであるかどうか。皆樣が之を考へて見ねばならぬ時代が、愈やつて來たやうに思ひます。
 物をむつかしく考へて見る風習は、結構なやうだが實は損でありました。其爲に日本などには、大に考へ込む至つて少數の人と、最初から別に考へて見ようともしない多數の人々と、二つ相對立した組が出來てしまひました。是は簡明な單語に乏しい日本語の性質が、さういふ風にしたのでは無いかと私は思ひますが、一つには又我々があまりに多忙で、さうして世渡りに疲れる爲もありませう。そこで若し系統の立つた生活哲學を打立てる餘裕が無いとすれば、どうしても簡單に一つづゝ當面の題目をきめて行く工夫をせねばなりますまい。と私は思ひますが、皆樣の御考は如(473)何でありますか。どうか此機會に先づ之を考へていたゞきたい。
 私の見る所では、第一に文明は實際問題であります。魚が水に住み、小鳥が樹に遊ぶ如く、よかれ惡かれ我々は其外に出て生息することは出來ない。だから此問題を學者に考へてもらつて、さうですかと謂つてすませて置くわけには行かない。第二に、文明は變つて行くものです。即ち昨日の文明はもう明日の文明では無い。從つて良くならなければ惡くなるかも知れません。時代が進めば會て良かつたものが惡くなると共に、今良くないと思ふものが、他日大に改良して我々を幸福にしてくれる見込があります。多勢の人の力が合致すれば、雨乞ひや豐年の祈?などよりはたしかにより大なる效果が有ることは、是迄の經驗が之を證明いたします。故に出來るだけ綿密なる研究を以て、常に改革の爲に協力せねばなりませぬ。
 第三に文明は澤山の制度や仕來りの組合せであります。而して片端から其部分々々が、常に變つて行くものであります。故に又至つて容易に改良の效果を見ることが出來るのであります。それを凡人の力ではまるで動かすこともならぬやうに考へさせ、我々をして久しい間、夢中で此間を辿らしめようとしたのは、所謂先覺者の恕し難き誤であります。
 第四に文明は要するに摸倣であります。眞似といふと何か安つぽくも聞えますが、個人が單獨に發明し、又は只一つの團體が之を利用するだけでは、まだ我々の文明ではありませぬ。知つて之を採用する者が一般的になつて、始めて世中は此が爲に改まるのです。即ち我々は極めて自在なる、模倣權とも名づくべきものをもつて居るのであります。國と國、民族と民族とが新たに接觸した場合に於て、殊に此問題は大に起るのでありまして、日本人は大昔から、決して摸倣の下手な國民ではなかつたのです。歴史を見ると幾度か著しい前例があります。但しよく教科書などに、唐制摸倣時代などゝ特に時代を限つて、摸倣の盛であつたやうに謂ひますのは、あれは單に時の當局者が、政治上の力を働かして寧ろ稍不自然に、摸倣を爲し遂げた時代のみを意味するので、其他の時にもやはり少しづゝ常に他民族(474)の文明を採用しては居たのであります。
 併しさういふ中にも明治の初年から、殊に所謂條約改正の前頃から、つい此頃までの數十年間の外國摸倣は、恐くは後世の歴史に於ても、著しい例として傳へられることゝ思ひます。かう云ふ時代になると、先づ文明の實質よりも名目を、精神よりも形骸を、さきに輸入して來る傾きがあるやうです。それも亦一種の方便と考へられたのでありませう。即ち取敢へず名目と形體とを入れて置けば、其實質と精神はおのづから之に附いて來ると思つたのかも知れません。併し結果は必しも常に其通りで無かつたのみならず、此の如き方法に伴ふ弊害としては、多數の國民は、何故に此の如き新しい生活をせねばならぬかを、よくも考へて見ること無く、隣の人もさうするからと言ふ理由のみで、ふらふらと附いて來ると云ふ點であります。即ち往々にして我々の批評の力が鈍るといふ弊があるのであります。
 
          二
 
 世中には何でも新しければ即ち善いものだと速斷する人がある。又多數の人々のとくと考へて見ようとせぬのをいゝ事にして、自分たちの都合にばかり忠實であつた摸倣者もあります。今日までに輸入せられた新文明の中には、大分これが有るのです。そこで目下は大に之を整理するの必要が生じたのであります。
 是に於てか更に根本的の問題として、全體我々の文明はどう成ればよいのか、と云ふことをきめてかゝらねばなりません。世中が進んだと云ふことは、果して何を意味するのか、又意味せねばならぬかを、知つて置く必要があります。是も私はごく簡單に斯う考へて居ります。萬人が萬人共に滿足し得るやうな文明ならば尤も結構、それが六つかしいとならば、出來るだけ多くの人たちが、此變化に由つて今一段と安樂な生活を爲し得ること、今一段と上品な生活を爲し得ること、即ち自分等と眷屬の者だけでは無く、多くの他人も亦同時に之に由つて悦び得るやうになれば、其を文化が進んだと名づけてよろしい。何となれば此より以外には、我々が集まつて世中を爲し國を作つて居る意義(475)は無いからであります。
 そこで問題になるのは、大昔の希臘や埃及のやうに、何千何萬といふ奴隷を働かせて、其力で磨き上げた文明はどうかと云ふことです。掃溜に鶴と云ふ譬の通りに、無數の哀れなる者、無數の慘澹たる者の間からずば拔けて、ほんの一人か二人の優秀なる藝術家や思想家の出て來るのを見ても、我々は其ひどい社會を「進んだ社會」と呼ぶでは無いか。是はどうかと云ふ評が有るかも知れぬ。併しそんな事は分りきつて居る。それは何も無いよりは善いと謂ふだけで、それが元で更に善くなる見込が有るから結構なので、そんな處でじつと止まられてはたまらない。それに我々の辛抱我慢の力も今日では大層弱くなりました。結局する所、更に不平黨の數を増すやうな新文明は、早速取替へねばならぬ文明だと云ふことになるのです。
 併しながら新舊の文明の價値を比較することは、其中に住む者に取つてさう手輕な仕事では無い。人に由つて第一に見方がちがふ。又精々正しい判斷をするつもりでも、或は弘く物を觀る力が無い爲に、各自の身勝手に陷いることも無いとは言はれぬ。そこで意見衝突の面倒な爭を避ける爲に、いつそ昔の如き所謂明君賢相乃至は先覺者なるものに任せて置かうと云ふ傾きが、つい近頃までも有つたやうですが、而も此委任は全くの失敗でありました。
 人間の賢愚に大なる差等の有つた時代でも、賢人は五百年に一人ぐらゐの割にしか出ないと、孟子などは申して居られます。人は先づ平均三十年しか働かぬとすると、殘りの四百七十年ほどは亂脈な、指導者の無い世中の續くのを忍んだわけであります。今時そんな人をあてにして居るわけには行きませぬ。假令への字なりにでも、くの字なりにでも、兎に角時代々々の我々が自ら此鑑定の仕事を片付けるの他はありません。現に各地方の傑物の世に出でゝ名士となつて居る者を見てもよく分る。彼等は名こそ名士でも、單に地位を作り、稀には金持と爲り、肝腎我々の期待する國の爲の判斷、社會の爲にする文明の選擇は、第一に勇を鼓して其任に當らうともせぬのが通例であります。政治家などゝ云ふ者は、いつでも階級戰のどちらかの先棒であつて、信用して公平の意見を聽きに行くことが出來ませぬ。
(476) そんなら政府の人はどうかと言ふと、先づ世中が彼等の爲に大き過ぎる。僅かな間に意外に複雜なものになつたことも事實だが、必しも此人々の智者として缺くる所ある爲ばかりでは無く、役人には皆分擔があり分業組織に爲つて居る。權能を付與せられた方面だけは、何とか遣つて行くのであるから、此問題の解決には無能であつても、別に責められるわけは無いと考へて居るやうだ。而も世中には、知事の所管にも屬せず、文相の職掌にも非ずして、國民全體の管轄すべき偉大なる社會問題がある。それがいつ迄も捨てゝ置かれるのである。此は抑誰がきめるべきものであるか。
 
          三
 
 諸君の見らるゝ所は知らず、是も自分だけは至つて簡單に答へることが出來ます。即ち直接利害の衝に當る國民としての我々は、誰もきめる人が無いから其儘にして置かうと云ふわけには行きませぬ。此は責任と云ふやうな重苦しい問題では無いので、打遣つて置けぬから御互の間でどうにかするのであります。勿論個人の一人々々に、さうすべき義務があるのでは無いが、何處かで始まりさうなものだと、人の事にして傍觀して居るわけには行かぬ。然るに我々は此からどう變化するかの見當も無しに、唯徒らに暗中摸索をして居るのであります。是が今日の社會不安の原因であると、自分等は思つてゐます。
 現在の選擧制度などは、名は立派でも實は心細いものです。我々は既に自ら政治上の代表者を選定して置きながら、肝腎の本人が國の政治をどう進めて貰つたらよいのか、とつおいつ氣迷ひに日を送り、又は丸で空々寂々として居るやうでは、假に名士が名士らしく、我々の態度を國に代表しようとしても、どうしてよいのか分りませぬ。普通選擧も今や理論としては反對し得る者が殆と無い。反對をするにしても、僅かに目前の故障を云々するのみで、之を要するに時の問題であります。然るに幸にして近き未來に、凡そ此國の成長した男子は悉く、選擧に參與し得る時代が來(477)たにしても、その折角權能を得た者が、今日の多數の如くに無我夢中で、それは知らぬと謂つて居ては、政治にも何にもならぬことは明であります。現在の選擧人たちは財産ばかりか、智力に於ても概して此から加はつて來る人々に比べて、一頭地を拔いて居る筈であるのに、それが多くの地方に於ては全くの無批判で、或は懇意づくとか折入つて頼まれたからとか、又は一二の顔役の説に雷同し、印形を以て役場へ來いと言はれて何分然るべくと謂ふやうな選學をして居るのであります。是では普選が始まつても國は改まりさうに思はれませぬ。我々は此の如き古風な生活方法を罷めて、力の限の正しい批評に由り、少しは役に立つ見込のある政治家を、前へ出すことを心掛けさせねばならぬと思つて居ます。即ち國及び地方團體の普通選擧の爲には、先づ以て大なる實際上の準備が必要なりと思つて居ます。諸君の地方の實情は、自分はまだ一々に就て詳かにし得ないが、兎に角今日まであるいて來た府縣に於ては、存外に此の如き警告の適切であることを認めました。
 演説などはどこの地方でも、二十年此かた只大に流行して居る。話をする人の方では、或は黙々として皆が謹聽してくれるのを悦ぶかも知らぬが、それだけでは眞に時間の損であります。彼等は?我々に分らぬことを言ひ、又は無理な註文をしたかも知れない。少くとも現今各地方を講演して廻つて居る人々の中には、甲と乙と氷炭相容れざることを説いて廻つた者も有る筈であります。此場合に、たとへ即座にでは無くとも、成るべく早く皆樣は、何れが當を得たる説、何れが當を得ざる説といふことを決定せらるゝ必要が有る。否尚一歩を進めて、いち早く當を得たる説を採用して之に由り、其他を排斥せられねばならぬのであります。處が其勇氣が缺けて居らぬ人でも、之を實現することにかけては、秤の物の目を表す如く、敏活に其判斷を發表し得る者の至つて稀であるのは、全く平生からの準備が足らぬ爲のやうに思はれる。我々は是非ともその準備をして置かねはなりませぬ。
 
(478)          四
 
 自分の觀察も誤つて居ないとは申されぬ。出來ることならばとくと諸君に批評をして貰ひたいのですが、今日日本の對外關係はよほど惡い。數十年來尤もよくない時節のやうに思ふ。政府が氣をもんで、成るたけ國内で發行する新聞には、色々の噂を書かせぬやうにしますが、外字新聞さへ見れば、何でもかでも筒拔けにわかる。殊に上海天津などの新聞紙には、うそかも知れぬが國民として、うれしく無い評判が毎日のやうに出て居ます。一言で申せば、日本は多くの外國に於て惡く言はれ、支那や露西亞の問題でも、其他の事件でも、何を言出しても一つとして行はれたことが無い。言ふことが無理なのか、説き方が拙なのか、兎に角に淋しい國際的孤立はもう實現し始めたのであります。例へば先頃の尼港虐殺事件の如き、全國の青年が正義の爲に血を涌かして居るやうな侵害をすら、一言に冷評しさつて、日本の態度が誤つて居たのだから、自業自得だと言つた者さへあるのです。
 處が此ほどはげしい國際上の不利な地位、ごく粗末に日々の新聞を讀んで居ても、あたりの空氣からでも少しづゝは感ぜられる位の國の否運を、匿すだけでも惡いと思ふのに、わざと誤つて報ぜんとする人があります。例へば或地方では、與黨の代議士が戻つて來て演説をして、近來の外交は着々成功だと言ひ、或は不可抗力の外の事件は、皆うまく結末を告げるらしいと言ひ、或は米合衆國が近來殊に日本の移民を排斥するのは、普選即行の民論があまり過激だからだなどゝ言ひます。果して其通りでせうかと聞かれて、返答に困つたことが何度もありました。
 つまりは一種の演説中毒であると、私は思ひます。演説をする位の人は、皆先覺者だからと言ふやうな考、耳は働かせて居ながら心は働かせず、自分たちの質朴を標準にして、あんな大きな強い聲を出して、うそを言ふ筈が無いなどゝ、何でも信じようとする善良なる癖が、今や心術の正しからず、或は爲にする所ある者の爲に、附け込まれんとして居るのであります。故に政治生活を一新せんとするには、此際先づ大に各自が批評の風を養はねばならぬと考へ(479)ます。
 
          五
 
 耳ばかりでは無く、目も亦さうであります。今の日本人ほど、プロパガンダのよくきく國民は、他に無いかも知れません。少しく新聞を辯護することになりますが、新聞は決して宣傳の手先となることを甘んずる者では無い。明かに宣傳とわかれば勿論最初から之を顧みませず、又あらゆる方面からの報道を比較して、一番正しいと認めたものを傳へることに力めます。而も少しでも早く又少しでも多く、報道を傳へたい爲に、時々は巧なる宣傳に引かゝることもあります。又其失敗が後にわかつた時に、あれは實は乘ぜられたのであつたとは言はず、知らぬ顔をして後を續けて居るのは、惡い痩我慢には相違ないが、そんな時でも、少し落ち付いて二三日の記事を見て行くと、所謂先入主となるやうな人で無い限、大抵は後になつてハヽアと合點が出來ます。のみならず疑はしい記事を用心して丸々掲載しないよりも、之を見る人に批評の力さへ段々養成せられてあるならば、却つて宣傳の種類性質に由つて、裏面の眞相を看破し得るの便もあります。例へば新規な或事業の見込が盛に説立てられることは、此に必要なる資金が得にくいことを意味して居るのが普通です。何となれば資本家には、好い儲け口は成るたけ内證で、小人數でやつてのけようとする心理が有るからであります。
 以前我邦の新聞が、始めて電報を以て世界の通信を取らうとした頃には、恐くは何人も之を計畫はして居なかつたことゝ思ひますが、兎に角最近殊に大戰爭以來は、西洋の諸國の國際宣傳は、誠に虚々實々の妙技を盡して居ます。之を讀んで居ると、へたな小説などよりも遙に面白いのは、作者が同時に二人以上あつて、何人も趣向の變化を自ら豫測することが出來ぬからであります。日本の方でも此節漸く此文明の摸倣を始めたやうですが、新入生だけにどうも不細工で、多くは何か事件が世に現れた後、其説明又は辯解見たやうな、誰が見ても出處の一目で知れるものばか(480)りで、而も其練習のつもりか、時々は國内宣傳と稱して、我々の氣を引いて見たり迷はせて見たりするやうな、目的のある、單純で無い報道を流布する者がある。昔風な新聞の記事に、某大官談とか、某所着電などゝいふ類は、赤嘘であつても尻の持つて行き處も無く、而も一時的には印象が強い。其他諸君の判斷を、大に煩さねばならぬ記事が、毎日中々多く出るのであります。
 其はけしからぬ、それでは困るで無いかと言ふ人があるかも知れぬ。又さう言つて憤慨する人の盛に出ることを、自分としては望みます。而も盲信的に之を信ぜんとする者が世中に有る限は、遺憾ながら此風習は、今後も猶進むことゝ思ふ。現に新聞には、何々派の機關と云ふものがある。堂々とさう名乘つて居るのはまだ男らしい方で、名乘を揚げずして一黨一派の走狗と爲つて居る者も隨分ある。もつと甚しいのは一二の者が、表面はどこ迄も中立又は甲の味方と稱しつゝ、獨り潜かに乙の派の爲に助勢して居るのさへ有ります。自分の僅かな經驗の中でも、記者にして金錢の爲に動かされた實例が、曾ては些しばかり有りました。今はもうそんな奴は無い筈ですが、同じ一つの時事問題の批判でも、少數者の間の意見であるのを、多數の者が一致賛同して居るかの如く、見せかける位のことは、此からもやるであらうと思ひます。宣傳といふ語は、現に惡事とは認められて居りませぬ。嘘はつかぬ迄も、大に誇張し且つ競爭者を排斥することを、大に宣傳をするつもりだなどゝ、當人が自ら謂ふのです。宣傳を受ける者こそよい迷惑であります。
 勿論責むべき者は手前勝手な彼等であります。併し彼等の方が惡い、惡いのは自分等で無いからと謂つて、仕方が無いから騙されて置く、誤つたる判斷に陷つてやらうなどと、そんな讓歩をする法は無いのです。右のやうな場合に、如何にして我々は自ら保護すべきか、如何にして獨立自主の公生涯を完うすべきか。是につけても一日も早く、黙從黙聽のあまりに遠慮深い境涯を脱却したいと思ひます。さうして先づ大に脱却の手段を講じたいものと思ひます。
 
(481)          六
 
 尤も自分などは、此までも常に讀者側の利害を代表して、?所謂新聞の誤報に對して苦情を唱へ、其關係者と此點を論議したことがありました。或時の如きは某有力者が、怒つて斯う言つたこともあります。それでも君は新聞無用論を主張することは出來まいと。成るほど是は名言であつた。世には一面の弊害の爲に、制度其物を棄てゝしまふことの出來ぬ物が隨分と有る。而して新聞は其尤なる者の一つです。だから我々は、心有る人々の協力を以て、改良の策を立てゝ貰ふことを望んで居るのであります。
 爰に幸なることは、世中に新聞ほど與論に對して弱いものは無いと云ふ一事です。或は内輪の秘密を洩すことになるかも知れませぬが、此は獨り日本の新聞のみで無く、何れの國に在つても、新聞と云ふ物がそんな性質なのだから、言つてしまつてもよいでせう。數萬數十萬の大部數を發行する大新聞でありましても、常に五人七人の批評、それも智識經驗から出た理由ある批評で無くとも、凡人の感覺に基く漠たる好き嫌ひの如き説にも、至つて忠實に耳を傾けるものであります。多いと謂つても高々五十通か三十通の讀者の投書に由つて、新聞の拵へ方を變へるほど、批評には動かされ易いのです。
 それと言ふのが新聞事業の企業化の結果、微細なる人氣の兆候をも、察知するに汲々として居るからではありますが、一方には又年來の經驗から推して、かね/”\讀者の水準を見て居る故に、たま/\一萬人に一人、二萬人に一人の人の出す批評が、略全體の讀者の意向乃至は趣味を代表して居るものと、強く信ずるやうになつたのです。だから極めて内々の話ですが、此急處が我々に由つて感づかれ利用せられ出したら、實は新聞は往生であります。至つて容易に短時日に、讀者の思ふやうな新聞になる。此改良の如きは批評力の發達に由つて、いくらでも外部から爲し遂げられると信じます。
(482) 例へば前に申す無意識又は故意の宣傳に次いで、我々が平素讀者として、又新聞の友人として不滿を抱くのは、新聞に眞の新しみの乏しいことである。國民の高尚なる生活を促進するやうな記事の豐かで無いことである。地方の事情の十分に中央に傳へられぬことである。一の地方と他の地方との間に、精神上の交通の缺けて居ることである。要するにもちつと變化の多い有益なる材料を増加して貫はぬと困ると言ふと、之に對しては只何分紙面が狹いものだからと謂ふ。何の狹いことが有るものか、續き物の小説を毎日三つも載せ、講談などには五寸四方も有る木版の挿畫を入れ、時々は又一面ぶつ通しの、足袋や齒磨粉や女の雜誌の廣告なども出すのです。處が變な話で、講談などは間違ひだらけの、歴史でも無ければ文藝でも無く、ちつとも新しいもので無く、日々見て行く必要は無く、若し又樂しみに少しづゝ讀みたいのなら、大きな「めくり暦」のやうな形に一年の始に印刷して、引掛けて置いてもよかりさうに思ふのに、未だ曾て一遍も讀者から、講談なんか止めてくれといふ葉書投書などを受取つたことが無いと、多くの關係者が明言して居るのであります。つまり何百萬の讀者が、申合せて此樣な非現代的の現象を存續させて居るのです。
 同じ樣なことは他にも色々ありますが、つまりは世中の人が、賢明に批評して猶之を必要とするのでは無く、始から批評を斷念して居る爲に、改め得るものが改まらぬのです。廣告なども素人の自分にはよくは分りませぬが、現在は大きいだけ人が多く買ふさうで、全體ならば書籍の如きは教師學院と同じで、智識を求める方の人から、蟲眼鏡を持つて捜してもよいものなのを、是も亦宣傳に都合のよい今日の人心が利用せられて、無暗に廣告を大きくせぬと名著で無いやうな感じを養成し、貧乏な購讀者までが高い廣告費を、あたま割りで分擔せねばならぬやうにしてしまひました。外國から來る新しい報道の如きも、大きな見出しを附けぬと大事件で無いやうに思ふ處があつて、矢鱈に場處を取るから澤山は出ず、而も議會で取組合ひがあり蛇が投げられたなどゝ言へば、すぐに多くの電報をすてゝ馬鹿騷ぎの爲に、我々の智議の筧を斷水させるのです。こんな風な微細なやうで而も我々の日常生活に大關係のある、又此から世中の事を追々學ばうとする人の爲に必要なる改良が、單に我々の批判權の抛棄と云ふことの爲に、今尚實現(483)すべくして實現をせぬのは、如何にも殘念なことであります。
 
          七
 
 私が爰で新聞の例を引きましたのは、別に深い意味が有るので無く、單に只今念頭に此問題が有つたから、之を引合ひに出した迄であります。此以外に於ても、諸君の判斷がいとも容易に其效果を擧げて、着々と生活改良の目的を達しさせてくれる場合があります。例へば代議士の如きも、自分の觀る所に依れば、元來與論に對しては至つて從順なるべき性質のものです。それを一部一階級一地方の人々が、僅かに自分の關係ある小さな手前勝手の註文、例へば鐡道を近くへ敷け、停車場を置かせろの、やれ學校を昇格させろの、郷社を縣社にせよのと、おほやけでも無く國家的でも無い一時のはした仕事の爲に働かせようとする爲に、それを恩に着せてしまつて、「だからえらくは無いけれども、今度も我輩を選擧すべき義理が有る」などゝ、言つて來るやうになる。殊にいつでも小さな地方問題の、雙方から反對の希望が出て、取捨に迷ふやうな地位に置く爲に、結局右と左とから支柱をして貰つた形になり、煮え切らぬ態度で居つても少しも恥かしいと思はぬやうになるのです。
 此選擧區などは慥かな代議士を出して居られるから問題では無いかも知れぬが、我々は常に國民として考へた時に、一つの問題に對しての正しい答は、右か左か兎に角にたつた一つしか無いことを十分に認め、又彼等政治家をして之を認めしめた後、批判をするから君の意見を述べて見よと言ふやうになつたら、眞に自信ある正直な人が代議士として出で來り、少しでも心細い戸別訪問以上の能の無い者は、自然に引下つてしまふことゝ思ひます。此練習は普通選擧の來るよりずつと前に、是非とも豫めして置く必要があります。或は假に選擧權は當分諸君の或部分に得られずとも、我々の批評が正しく且つ確かならば、漠たる人氣にすら動かされる程の弱い商賣の政治家であるから、いつと無く自然に之に動かされずには居らぬことゝ考へます。
(484) それもわざ/\議論を吹掛けて、試驗をして見るにも及ばぬので、幸にして彼等は常にしやべつて居るから、第一に其賢愚、及び公明と邪侫とはすぐに鏡に映ずる如く現れて來る。我々は單に言論と行動の是非優劣を辨別する能力を、出來る限り注意して具備して居ればよろしい。是には勿論智識の新しい供給が必要でありますが、諸君の態度さへ眞率且つ熱心であるならば、之を供給する途は、今日の日本と雖決して乏しきを患ひぬのである。
 之を要するに我々の持つべき態度は、多くの修練を積まねばならぬやうな面倒なもので無い。即ち日本の青年の持ち前の美點、それを失はぬやうにして居れば澤山なのであります。諸君は誰に頼まれなくても、十分に率直である。さうして智識を欲求して居る。只諸君の感情は美しいがよく走る。其感情に餘分な物を載せて走らせてはならぬ。行掛りと云ふものに拘束せられぬやうに、いつも感情の宮殿を掃き淨めて、來りて影を投ずる物を、鏡の如く映し出さねばならぬ。或は公平と云ふことは老功の人で無いと期せられぬやうに言ふが、それも誤であります。若き人には私が少ない。偏つたる物の觀方をする必要が殆と無いのです。若し其判斷を誤まらすものが有りとすれば、それは智識の缺乏から來る過信と未信とであります。故にどうしても先づ智識を求めねはなりませぬ。此國の本來の面目、現在立つて居る國際上の地位などは、之を明瞭に諸君に説明すべき任務を持つ者があるのです。彼等が其智識の供給を怠るやうな事があれば、我々は率先して之を貴めようと考へて居ます。故に諸君の方でも亦、安閑として今日までの生活を續けられぬやうに願ひます。(大正九年十二月 福岡にて)
 
(485)   準備なき外交
 
          一
 
 私は此節旅行ばかりしてゐまして、碌な本も讀んで居らず、從つて到底書齋のドアをあけて、今出て來た人のやうな話は出來ませんが、それでもこんな折があつたら、御話をして見たいと思つて居たことが、色々あります。
 地方をあるいて見ると、日本が若し島國で無かつたなら、とても今日迄は殘つては居なかつたらうと思ふほど、澤山の古代生活の痕跡が見られます。是だけの爲にも私は大に旅行を御勸め申したいと思つて居る。我々は曾て此等の無形の遺物を採集し登録し、又能ふべくは之を保存すべきことを力説したことがある。單にそれだけの事業でも、立派な一つの良い學問であると、今以て信じて居ます。
 併しながら、囘顧や保存は決してこの新しい時代の生活の主たる目的では無い。我々は何よりも先に、この古い昔から傳はつた所のものを、今後の生活の爲に善用せねばなりませぬ。其隱れたる眞の意味を見出さねばなりませぬ。さうして大に覺る所が無ければならぬのであります。日本には保守黨で無ければ愛國者であり得ないやうなことを言ふ人が、今でも少しばかりあります。さうして到底避くること能はざる改革の全部までをつゝくるめて、之を考案する者を惡化と評し去らんとする甚だ不親切な人も居るのです。其樣な人たちに取つては、此學問は氣の毒ながら有害であります。
(486) 私は獨り田舍の片隅に於てのみでなく、折々は都會の眞中に於てさへも、是がそも/\世界史に永く殘る堂々たるヴェルサイユの會議に於て、所謂人種差別撤廢を主張した國民の一員であるかと驚くほどに、人種と云ふことに無理解な人に出逢ふことがあります。我々の外交はいつも官吏まかせで、而も陳紛漢に近い六つかしい飜譯文で、遲くなつてから其報告を聽く爲に、とてもまだ問題に出逢つて教育を受けることが出來ないのです。
 日本の代表者は、其後も國際聯盟の總會に於て、この差別問題に就ては議論はしようと思はぬが、此から先も機會ある毎に何遍でも、人種平等の主張を持出すであらうと、宣言したとやらせぬとやら傳へられて居る。實に慘澹たる經驗でありました。尤も單に體面論として考へるならば、是は單に日本一國の體面のみではありません。平生立派な人道論を唱へて居た諸外國の大政治家連の多くが、何人にも納得の出來ぬやうな屁理窟をつけて、こんな大きな問題の討議を避け、臆病者の醜名を千載に流したのは同じですが、それでも問題の出しやうがぶま〔二字傍点〕であつて、斯云ふ變な結末に陷らせたのは、主として日本の責任でありました。そこで若し西園寺牧野以下の代表員に、斷じて用意不足の批難が無いとするならば、即ち皆兼て我々が、世界の諸人種が如何に分れ如何に合し、如何に戰ひ如何に調和しつゝあつたかを研究しても置かずに、漫然としてこの至難至重の問題、譬へば二百七十斤の鐡の棒の如きものを、?袴の子弟に振りまはさせようとしたやうな、無考の結果であります。
 我々が人種に關する學問は、此十年二十年の間に、どの位の進歩をして居たか。どこに之を研究する若き又は老いたる學徒が有つたか。日本人の先組が北から來たか南から來たか、乃至は希臘人であつたか否か、波斯から來たかうそかを論議した外に、何も學んでは居なかつたと言つてしまつても、殆と過言では無いのです。
 
          二
 
 世には釋迦に説法、兩替屋に算盤などゝ云ふ諺があります。一九一九年の我々の人種差別撤廢論は、一種の歎願で(487)あつて、説話では無かつた。而して相手方の米國其他も亦、決してお釋迦樣では無かつたのだから、此譬へを引いて之を評することは出來ませんが、彼等はまづ兩替屋ぐらゐの所ではあつた。我々は無鐡砲にも、之に向つて算盤を教へようとしたのです。日本などゝは違つて、所謂列強は其國内に於て、又は植民地に於て、永い間實際上の苦勞をし、今も大に苦勞をして居ます。人間が單に動物であつた時代以來、本能的にどうしても自制することを得なかつた異民族に對する毛ぎらひ、即ち日本で謂へば攘夷熱を、如何にすれば基督教の道コと調和兩立させ得るか。少くとも辭令の上になりとも、自分たちの屬する民族の爲に、他の異人種を利用することが、新しい人道主義と背反せぬものだと云ふ名義を立てようとして、非常に骨を折つて來たものであります。さうして何か二以上の人種に、平等の待遇を與へるわけには行かぬと云ふ、天然の論據がありさうなものだと、諸國の學者の研究室を聞合せて見ても、どうも何も無いやうだと答へられて、さうかなアと言つて少し弱つて居た處であつたのです。
 北米合衆國の一例を取つて見ても、所謂亞細亞移民の問題には百年間の歴史があります。移民の出て行く支那印度等の本國では、國としては殆と無意識に、溢れてこぼれて流れて行つたと云ふ迄ですが、之を受取つた國の方では、それが悉く當局及び利害關係者の、忘るゝ能はざる實驗でありました。最初は躊躇して必しも移住を喜ばなかつた支那クーリーを、西部地方の新事業の爲に、すかし勸めて連れて行つた時代がある。今居る支那人の多くは其子孫でせう。それが或年月の後に非常に厭はしくなつて、實にひどい手段を以て支那移民を打切り締出しを食はせ、日本人だけは來ても宜しいなどゝ言つて居ました。それが今度はさう遣つて來られてはたまらぬと言ふ程になり、あちらの人種との利害感情の衝突が段々繁く、終には何でもかんでも日本人は之を驅逐し且つ國内から全滅させたくなつたのであります。人間で言ふと金持の子供などによくある氣の儘で、初は來い/\と喚びに來り、後にはもう還れと言つてわめくやうなものであります。立派な一人前の人間同士では出來ぬことながら、實は國家の道コは一般に、今ちやうど人で言へば子供時代くらゐにしか發達しで居らぬのです。
(488) それでも米國は其氣の儘が、まだ十分に通らぬ所も有り、少くとも通すには手數が掛るので、あれでもやはり隣國の加奈陀や濠洲や、南亞共和國などを羨んで居るのです。それほど又我々亞細亞人は、此等の國に於ては夙に且つ最も鮮かに排斥せられて居るのであります。而も日本人は、決してあきらめの惡い國民とは言はれませぬ。所謂白濠洲主義の論客などは、氣が強いばかりか意地も惡い。單にまあ早く縁を切つて置いてよかつたと悦ぶだけで無く、毎年一定の期節になると、定期風の如く惡口を電報で打つて來る。之をしも聞流して我々は、二十何年の間仲よく日英同盟を續け、大戰中は太平洋上の運送船までを介抱してやりました。
 又國と國との通商條約には、雙方の國民の渡來居住を自由にして居ますが、此は本國にのみ適用せられ、植民地は初から之に加はつて居なかつたのです。是は何を意味するかと言ふと、條約で此原則を立てゝ置くと、出稼人の爲に別に何かの手續きを以て、取極めをして置く面倒がある。そこで米國が、カナダなどは羨しい、議論をせずに早く片付けてしまつたと、まだそんなことを言つて居るのです。成ほど米國で特に一二の國の移民を制限しようとすれば、中々の手數がかゝる。乃ち前年の學童問題ともなれば所謂紳士協約ともなつたので、今日迄の排日には實は段々の手順があつたのです。そこで鋭敏なる人は第三國人でも、大凡此間題の成行は豫測することが出來たのであります。問題の起つた時のみ火の附いたやうに騷ぎ、一時停頓すれば之を解決と心得、氣をもんでくれた老人を團扇であふぎ、さうして當分は事件を引出しにしまひ込んで、成るたけ考へさせぬやうにして居た爲に、我々の企つべき人種間題の研究が十年以上おくれ、殆と註文通りと言つてもよい位に、泥棒を見て繩を綯ふ結果を生じたのであります。
 
          三
 
 日本人全體が迂闊であつて、全體に此研究がおくれて居たのですから、やはり外務省の人々は先覺者でありました。一九一九年頃、この少數の先覺者が氣をもみまして、ウイルソン大統領の人道宣言の尾に附いて、兎も角も人種差別(489)撤廢の主義を、國際的に認めさせようと巧みました。巧んだと謂つては嫌ふ人があるかも知れませぬが、此主張は少くとも、肺腑を突いて思はず知らず走り出でたと云ふ程に、突詰めたもので無かつたことは確かです。ヴェルサイユ會議の我代表者たちは、此主張には例の移民問題は卷込まぬと明言しました。誰に念を押されたか頼まれたかは分りませぬ。會議の前後の形勢に照して、或は諒とすべきものがあつたかも知れませぬ。が併し是はどう見ても煮え切らぬ弱い話でありました。
 何となれば若し日本と二三の強國との間に、移民に關する永年のいやな歴史と行掛りが無かつたら、我々の仲間には實は其樣な純理論を提案するだけの、素養も無ければ資格も無かつたのであります。現に國内屈指の識者たち迄が、人種差別と言へばすぐに移民困難を聯想するほどに、其他の人種差別、例へば朝鮮人アイヌ等の待遇問題などは、棚に上げて居たのであります。それが移民は含まぬと言つたのだから、我々如きは成ほど外交は掛引だなアと思ひました。但し屁理窟を申せば、移民問題は此當時、最早解決の必要を見ぬ迄に、解決せられて居たとも言へる。即ちカナダ濠洲等は丸々の拒絶、米國へは花嫁其他僅かの身内の者を喚ぶことだけ許された。だから其爲には萬國會議にも及ばなかつた。殘る所は既に渡つて居る日本人の、日々に感ずる所の壓迫だけが何とかしたかつた。從つて移民問題には關係なしと宣言しても、差支が無いでは無いかと言ふことが出來たかも知れませぬ。
 我々は既に渡つて居る日本人の問題も、尚移民の問題と別物とは考へて居ないが、まアさう見てもよいとして置きます。處が又どうであるか。話がいよ/\行詰つて先方の連中、そんな事は各國の内政問題だ、國際條約の干渉すべきもので無いと申しますと、それも其通り、單に主義として之を承認し、前文にでも一言して貰へばよろしと言ふことになつたらしいのです。我々の同胞が他國に行き人種の差に基いていぢめられる。其を先方の國内問題だからとて口を出さずに置くとすれば、其他に通交條約できめることは何が有るか。此に口を出さずに居ては領事などは交換する必要も無いやうなものである。
(490) どうして又此點まで折れ合つたことであつたか。成ほど心理は六つかしい學問で、私には之を鑑定すること能はぬが、後世の歴史家の少くとも一部分は、此記録を見て必ず斯う想像するであらう。當時平和會議に於ける空氣が、日本の使節たちにはどうやら成功しさうに見えたので、何とかして此を物にして還らうと、折角取懸つたものがどうもすらすらと行かぬので、ほんの少しづゝ讓歩して見たが、やはり成立しなかつたのだ。斯う推定せられても致し方の無いやうに、結果だけはなつてしまつたのであります。
 
          四
 
 而もこの人種差別撤廃は、主義として世界の各民族の爲、又後世百代の爲に、是非とも我々の唱へねばならなかつた大原則であつて、假に斯うもしたら成立する見込が確かでも、今日二割、明日三割と割引をして買上げて貰ふやうな、一時的の問題では無かつたのであります。歐羅巴人の船が始めて喜望峰の鼻を廻つてから、否それよりもずつと大昔から、所謂土人を人と獣との間に位せしめ、打つのを救ふと云ふやうな、白人仲間には通用せぬ原則で取扱つて居たのを、時到つて總勘定的に、天下をして其非を判定せしめようとするのであります。少々ぐらゐの説明によつて、左樣の義ならばと言ふ筈は、初手から無かつたのであります。
 又近世の國際交通の歴史に就て言へば、過去に於ては勿論、現在に於ても此差別待遇の被害者には、日本人よりも數倍のえらい目を見た者がある。猶太人の問題は、宗教的にも輕濟の方から見ても、非常に込入つて居ますから一概には論斷を下し得ませぬが、其以外に現に我々の眼前に於て、最大の枉屈を忍んで居る者には支那人が有ります。まだ我々の多數が世界の事情をよく解しなかつた時代の出來事であり、又力も乏しくして其當時は如何ともすることが出來なかつたのは是非ないが、何故に今囘此の如き千載一遇の大機會に於て、我々は弘く有色人全體の爲に、人道の正義を呼號しなかつたか。私は決して之に由つて我隣國人の歡心を買つて置いて、其後に現れた山東還付論などの、(491)内輪喧嘩同然のまづい場面を、列國の御客たちに見せずにすまさうとしなかつたかと云ふやうな、小さな策略などから之を評するのではありませぬ。全體に負けても戰はうと云ふ勇氣に乏しく、正義の論を掛引の臺に載せ、轉んでも只は起きぬと申さうか、若くは拾ひ物をせんが爲にわざと轉んだと言ひませうか、折角の立派な主張を、最初から何なら安く賣つてもよろしいと云ふ態度で、持出したらしいのを惜むのであります。
 それと申すがあまりに無造作に、四百年來の歴史を忘れ、或は始から歴史には心を潜めても見ず、ちやうど昔話にある孔雀に交際しようとした烏見たやうに、五大國の一などゝ誰かゝら言はれるともう嬉しがつて、他の同じ壓迫の下にある國民を差別待遇して、自分たちの國の便利のみを考へ、弘く東方諸民族の未來の爲に、憂ひ歎かなかつた結果でありまして、つまりは人種平等案を提出する位の國民が、根つから人種の異同と、之に伴ふ久しい不幸と云ふことを考へて居なかつた罰であらうと思ひます。一人や二人の代表者を責め憎んで、それですますやうな小事件ではなかつたのであります。
 
          五
 
 そこで自分ども考へてゐますのは、もう切齒扼腕はいゝ加減にして置きたい。是があまりに眼前の且つ露骨なる屈辱で、我慢の出來ぬは重々尤もではあるが、希くは是を菩提の種と爲し、今後は國民として今少し賢くなり、今少し將來の形勢を洞察した、且つ今一層高尚な事を考へて見るやうにしたい。是がせめての願であります。
 全體今度の加州排日なども、もう斯う迄なつてからは政府の無能も有能もありませぬ。考へるとすれば其一つ源まで遡つて見ねばなりませぬ。早いたとへが御互の間でも、爰に二戸の邸宅が溝を一つ隔てゝある。甲は四五十坪の庭で子供澤山なり、乙も大家内ながら屋敷がうんと廣く、庭は美しい花園と芝生である。昔は甲家の子供たちに來て遊べと言つたこともある。併し此頃では何かと苦情が出て、早速に垣根を結ひ滅多に木戸口を開けない。たま/\遊び(492)に往つて居ると、こはい顔をして睨み、或は親のしつけが惡いの鼻たらしだのと、無遠慮なことを言ひ追返さうとする。人情の無いやつ等だなアとは勿論言つてよろしい。併し何でも斯でも入れて遊ばせよとは言はれませぬ。個人に貧民と富民ある如く、國に大小強弱の有る間は、先づは人間の常理に據つて、彼の好意と親切に期待する位のもので、怒鳴り込んで見た處で仕方が無い。今に此方へ來て見ろ、きつと仕返しをしてやると、言つて見たところで、乙の方の子供たちはとんと遊びにも來ませぬ。凡人ならば垣根越しに、あてこすりを聞えよがしに言ふ位が精々であります。
 然らば此口惜しさが骨身にしみて、此方も大に發奮して一つ彼を見返す程な邸を手に入れようとしても、今や處々方々は既に開拓し盡され、手頃の空地などは無いのみか、おまけに裏の家では、二丈五尺もある板塀に忍び返しなどをつけて、しんかん〔四字傍点〕として知らぬ顔をして居る。それだけでもいやなのに、何かと言ふと「油斷がならぬ」などゝ、こそ/\言つて居るのが聞える。彼等とても決して代々の大地主でも無かつた。まだ世間のあまり八釜しくなかつた時節に、住み勝手よく地取りをしてしまつて、而も何時何に使ふといふあても無く、廣い地面を只圍つて置く。さうして子供の多いのは困るだらうが、おれたちの知つたことでも無いからなと、氣樂なことを言ふのであります。而も是が現今の領土權と云ふものゝ性質から、誰に遠慮も無くさう言つてもよいのであります。
 實際國勢調査の結果を見ましても、日本では人の數がこの五十年間に倍になりました。其穀物を作る土地は一割五分ほどしか増して居りませぬ。開墾助成法が捻鉢卷で、やつと目的を達したにしてももう一割か、それで一切合切であります。此だけの土地の産物では、働かすにも足らず養ふにも足りませぬ。少しは氣のせゐも有らうが色々のいやな事が、全く人口の過多から來てゐるやうに考へられ、どうかして少し透かせて見たらと、思ふやうな場合が多い。つまり日本には多いは人ばかりで、其爲に他の國が味ひたくても味はれぬ、此樣な經驗をするのであります。
 
(493)          六
 
 是が昔であつたならば、我々はどうしたであらうかと考へて見ると、勿論病氣で幼少の内に多く死にもしますが、其外に極めて僅微なる衝突で戰闘をして、雙方好い若い者が澤山に傷き死し、自然に悲しむべき調節をしたのであります。だから今でも子を持たず又は至つて冷血な少數の人たちの自由になるものならば、今の日本は尤も無法な侵略軍を起すのに邁當な?勢に在るのであります。而も今日は最早決して其樣な事の出來る時代でも無いのに、一種の無法者が例の「切取り強盗武士の習」などゝ云ふ古い諺を口にしたり、或は又譽められてたやすく死ぬことばかりを、さも/\武士道の精髓の如く言つたりする爲に、其樣な人がいくら有るか、よくも當つて見もせぬ癖に、早合點の外國人の中に「さてこそな」と云ふ邪推が起る。少しは氣が咎める爲に一層この邪推をするのであります。
 全體軍國主義と云ふ語などは、從來の用法をしらべて見てもわかりますが、單に外異國の侮りを防ぐと云ふ迄で、決してミリタリズムなどゝ譯せらるべき語でないのです。其をいつの間にか右の邪推の種にしてしまひました。但し少々は武に誇る者、乃至は拔かぬ太刀の功名をして見たいと云ふ小策士もあつたかもしれませぬ。それよりも笑止なのは、武の外には別に自ら頼む所も無いと云ふやうな情ない感じを抱く者が、時々はあても無しに、今に見ろなどゝ言つたのを、まに受けた者があつたのは災難でありました。併し相手の方でも、少々は身に覺えの有ることなので、幾分か餘計の不安を感じたかも知れません。つまりは高利貸などゝ憎まれる物持が、高塀をかこひ猛犬を飼ひながら、夜分よく睡れなかつたりするやうなもので、黄鍋論などゝ云ふものは、多くは白禍の策源地近くから出るものだとアナトール・フランスが申したのと、似たやうな事情であります。
 併し嘘から出た誠と謂ふこともある。心にもない憎まれ口を交換して居る間には、或は感情が昂ぶつて眞劍の騷ぎにならぬとも限りませぬ。殊に日本では、今まで考へるよりも聽く讀むに專らなる人が多かつた。雄辯なる政治家に(494)動かされると、どんな無分別に出るか知れなかつたのであります。幸にして今度と云ふ今度は、獨逸の鐵血政策の末路をよく見て、世中に戰爭ほどなさけなくも又馬鹿々々しいものは無いと云ふことを學びましたが、若し此經驗が無かつたならば、或は苦しまぎれ口惜しまぎれに、思切つたことをして居たかも知れないのです。併しいくら苦しまぎれと言つても、我々の苦みも元はと言へば生存せんが爲である。子孫の爲に今一段と幸福なる境涯を得てやりたい爲であります。是が以前には、求めても求めても到底獲られない時代が、永く續きました。獨り日本人のみと言はず、この廣い太平洋の上に住む土人たちの運命も、例外無しにすべて皆是でありました。其中には右に向いても左へ進んでも、絶滅は一なりと言ふので、戰つて絶滅したやうな哀れな民族もありました。それが兎に角に暗夜も東雲に近くなり、遙かの海天の境に一筋の光明を見出す時代まで、どうか斯うかこらへて來たのであります。假に僞善にもせよ正面から、人種差別撤廃の論を否認することの出來ない時節まで、漸くのことで漕ぎつけて來たのです。もう短氣を起して打毀しをすべき場合ではありません。今度の計畫が失敗であつたら、此次はもつと準備をして、何としてなりともこの有色人種の生存權を、今少しく巧妙に且つ有效に、主張して行くことを試みなければならぬ。未來には此一筋より他の途が無いことを、我々が圖らず學ぶことの出來たのも、大なる天佑であります。
 
          七
 
 亞米利加の排日黨たちも常に公言して居ります。我々は亞細亞人の文明を尊敬する。民族の特長も認める。が何分にも我々とは性情を異にし歴史を異にする人民である。雙方の利筈の衝突を避けるには、失禮ながら排斥をさせてもらはぬと困ると、斯う申すのであります。それならば其で是非に及ばぬ。我々亞細あ人、否汎く有色人種の方でも、尤も衝突の少ない方法を發見して、之に由つて各自の存在を認めて貰ふことに力めようではありませぬか。文化を與へると稱して永年の習慣を奪ひ、土人の生活力を弱め、自分たちの國では既に頽廢に瀕して居る宗教を持込んで、恩(495)威と智巧を以て之を押賣し、土人の社會組織を解體させて、弱い淋しい孤立の人類を作り出したなどは、彼等から求めた衝突ではありませんか。我々は先づ何よりも、此が幸福だと稱して意外の生活を強ひられて居る島々の異民族の爲に説いて、彼等をして自ら好む所に就き、次第に自分たちの文明に進んで行く權能を得させてやりたいと思ひます。日本ばかりが買收せられて白人文明國の端に列し、共々に土人を見下げて之を利用しようとするやうな、義?心に缺けた態度に出ないと云ふ、確かな覺悟を以て進みたいと思ひます。
 島に住む者の苦しい經驗は、全體日本人が尤もよく味はつて居る筈であります。我々は時々東洋の英國などゝ言はれて、さうかなと思ふことがありますが、よく考へて見ると、どこが似て居るかと聞きたい位であります。本物の英國は歴史をきくと、言はゞ北欧人の離れ座敷見たやうなもので、大陸の一大名が遣つて來て獨立したのです。色々として孤立しようとしても、本家との關係は中々切れませぬ。それに近世よい潮時に宏大な屬領を圍ひ込み、大手を振つてどの大陸へも往來してゐます。之に反して日本などは眞の孤立でありました。つい出て行くのが面倒な爲に、よくよく人間が中で詰つてしまふ迄、遠征といふことを思はない。今から考へると恰も好しといふ機會も有つたのに、將來の結果に不安を感じて、強ひて自ら箱詰めになつてしまつた。又進んで事を隣國と構へるには、地勢が之を妨げたのであります。故に孤立の許さるゝ時代だけは、兎に角それで太平であつたが、一旦海上の路が開けて來るとなると、浪と共に四方の海から寄せて來るものは、無限の心の動搖であり新しい自意識でありました。
 只一つ、若し我邦に大なる幸があつたとするならば、それはこの三百年の間、洋中の離れ島に立て籠つて、自然に異分子との接觸が少く、能く事大主義の犠牲となることを免れて、段々と國家を成長させ得たことである。時に失敬な西洋人が目を圓くして訝るやうに、自分たちの力ばかりで、爰まで文明を持つて來たことである。是は人種の然らしむる所であるやうに、考へて居る人が國内には勿論、外人の中にも稀には有つて、だから高加索種であらうなどゝ云ふ、馬鹿々々しい説さへ出た。私は必しも強ひて「選ばれたる民」と云ふ思想を裏切らうとも思ひませぬが、飜つ(496)て遠近の島々に分散し、愁苦の中に年を經て居る色々の土人の境遇を考へて見ますと、彼等の多くが我々と同じき自尊心を、養つて行くことの出來なかつた原因は、一概に其天分の乏しかつた爲でも無いやうに思ふ。我すめみまの尊が日向の笠沙に御上陸なされず、何かの御都合で他の沖の島を御見出しになつたとしたら、やはり其島に日本帝國が榮えたかどうか、些しく疑はしいやうにも考へられぬことは無いのです。
 
          八
 
 我々の高祖が、當初永住の地としてこの大八島を選定したことも、説く人に由つては是れ神々の導きと説くかも知れませぬ。併し若し假に四國九州の南に續いて、更に幾つかの大きな島が有つたとしたら、或は又「最終の島」を意味するらしい南端の波照間(ハテルマ)の島が、假に列島のおしまひで無かつたとしたならば、即ち臺灣の東海面に今幾つかの飛石が有つて、紅頭嶼からフィリッピン群島の北部まで、浪の靜かな日は島づたひが出來たとしたならば、果して我々は何れの島に落着いても、今のやうな日本國を建立することを得たでせうか。米は大昔からの我々の主食であつて、而もずつと暖い地方の産物です。津輕最上の雪國にまで、田を作り稻を栽ゑるには一通りならぬ苦闘を要しました。さう迄せずとも樂に住める土地が、自由に且つ容易に發見し得られたとしたら、多分は原始人たちは千年二千年後の事などは豫想せずに、目前の天惠の豐かな方へ赴いたに相違ないのです。さすれば日に近い南の方の大島小島で、現在物悲しい生存を續けて居る人たちの、あゝした運命にも一つの大なる原因があり、つまりは地理の偶然が此幸不幸を作つたものと見られます。
 日本人は又船乘があまり上手でなかつた。いつも大洋を畏れて居た。殊に囘歸線以北の色々の風が吹き、波の荒々しい海を控へては、來るにも往くにも交通は冒險でありまして、それに此島々が稍大い處から、先づ暫くは内を拓いて、外を忘れる生活を續けたのです。南の方では風は即ち方向を示す所の定期風です。赤道の直下に近づけば無風(497)帶になります。此邊の小島に成長した勇氣ある若者等が、海を友だちとして小さな舟で之を乘切り、或時は飛ぶ鳥に導かれて水平線の外に在る新しい土地に辿り付き、女を伴つて居た場合にはすぐに定住して、次第々々に次の島の先祖と爲つたのは、彼等としては決して誤では無かつたのです。只不幸にして多くの島々は小さかつた。少しばかり繁榮すると、すぐに人が餘つて相闘ひ、或は外部から發見せられて侵略せられました。それでも智力や武器が大抵同じ位で、言語や習慣の稍近い間は、どうやらバランスも取れ又或程度までの調和も得られたが、其内に遠い/\西の果から、最も優秀なる征服者が乘込んで參りました。靜かに落付いて自分の文明に培ふ餘裕も無い間に、夢にも見たことが無い新奇極まる文明が、大魔法の如く飛んで來て、彼等を羽がひ締めにしたのであります。
 人種としては夙くから混淆して居ました。島と島との戰が起るたびに、襲はれた方では男は多く死に、或は捕虜となつて屠られ又は虐使せられたが、女子は無慘に用ゐられました。二部落間の怨恨が深ければ深いほど、其間に生れた合の子の精神は變なものでありました。而もまだ境涯のよく似た生活をして居る者の間には、同化作用が少しづゝ行はれて、勝つた民族の爲に愛國心を感ずるやうにもなりますが、誠に淺ましいのは半白人の子孫です。西洋人を父と慕つても彼等からは疎まれ、母の一族には近づく氣にもなれず、舊い社會生活の樂みは凡て失つて、之に代るべき新しいものが無い。さうで無くても半分教育を受けた土人等も、やはり之に似た寂寞無聊を感じまして、最早生殘つた昔風の豪傑を中心にして、固有の文明をもり立てゝ行く氣力も手段も無くなり、別に是と云ふ原因も無しに、日本のアイヌなどゝ同じやうに、追々減少して行く土人も多いのであります。
 弱者は亡びると簡單明瞭に、此等の現象を見てしまふことの出來ないのは、多くの太平洋上の蠻民が孤島に住み、白人と接して制御せられなければならなかつたのは、悉く地理と歴史との外部からの偶然でありまして、彼等の素質乃至は心掛けが、之を促したので無いからであります。假にさうであつても憫まなければならぬ。又此儘の成行きに置くことも出來ませぬ。殊に亞細亞の大陸に於ても、必ず同じ事情のあることと思ひますが、力の強いものが境を定(498)めて、此だけは我領地と自由に主張し得る法則が、今は歴史として遠慮なく批評せられるやうな世中になつて、猶民族の運不運、出來た事は是非が無いと、現に迷ひ且つ惱んで居る無知の土人たちの、將來の爲に憂へずに居ることは、斷じて人種差別の非を説く國民の、採るべき態度では無いと信じます。
 
          九
 
 それには御承知の通り、今日までの我々の心掛けが完全では無かつた。我々の攘夷論はこの五六十年の間に、もはや醒めたる夢となつてしまひましたが、悲しい哉それは皆、我より強く優つたる各國に對してだけであつて、相手が弱く小さく且つ蒙昧なりときまると、之を山の獣野の鳥と同じく、愛らしければ親しみ、憎らしければすぐに撃つと云ふ、太古時代からの考へ方を廢しませぬ。是とても人類の自然で、現に我々はつい此頃まで、人種の異同などゝは些しも關係なく、他所者を賤しみ又警戒し、時々は攻めたり討つたりもしたのであつて、學ばず考へずして此風が改まらぬのは無理も無い。是非とも今のやうな國運に際會して、大に學び且つ考へてもらひたいと思ひます。
 心有る者は又既に考へても居る。人と名の付くからは何色でも何髪でも、少しでも永く且つ樂しく生きたい、妻子の可愛いには差別は無い。之を差別視するのは人情で無いと、聞けば答へる人が多いにも拘らず、國民中の少數の無法者、少數の我欲の徒が、異民族を欺き虐げるのを看過して居ました。少くとも同胞隣人が欺かれ虐げられるよりは輕く見ます。殊に困るのは本國に於て、同じ民族の中でする事業、一商賣なり農業なりが、十分の利益を見ぬとなると、きつと自由のきく異人種の間に往つて遣つて見ようとする。と謂ふのはつまり少し無理をしようとするのであります。歐羅巴人の植民地なども、最初は勞働者の内では働き切れない分を、出して働かせようと云ふ注文であつたのが、國内の資本家企業者たち、兎角勞働者の結合力が強く、色々の要求をして思ふやうに儲けさせてくれぬ處から、成るべく物の分らぬ愚味な土人の集まつた地に行つて、思の儘に從順な勞働者を得て、時々は鞭を賃銀の代りにして、樂な(499)生産をする上に、一方は品物を値よく賣付けようとするのであります。此目的でコンゴーには自由國と云ふ國が出來たこともあります。亞弗利加でも印度でも決して金剛石の磧では無い。濡手で粟と云ふことは即ち土人の驅使を意味して居たのを、社會政策に狂奔する人迄が、同胞の間に於ける不法ほどに、強く問題にはしなかつた。此氣風が本國の政治を左右したのが、近頃までの西洋の植民政策で、我國でも例の通り、少しづゝ之を眞似ようとしたのであります。
 此程度の國際道コに於て、人種差別の問題を論ずるのは、爲にする所ある方便論だと、見くびられても仕方が無いのです。今少し賢明なる外交家が居つたならば、成功したものをと殘念がるのは自惚であります。君の國ではどうして居ると問はれた時に、知つて居れば知つて居るほど、我々は面を赭くして答へることに躊躇せねばならぬ。而もこの日本は、歴史から見ても現在の立場から見ても、差別撤廢を高唱し得る只一つの國なのであります。白人の文明と對立して有色人種が到達し得る最も人間らしい境涯を、實證し得べき地位に在る一番見込のある國なのです。誤謬だらけの何百年間の干渉が無かつたら、現に人らしくも取扱はれて居らぬ國々島々の有色人でも、ほんの少しおくれてもつと立派な國が作れたのにと云ふことを、主張し得る資格のあるのは我邦です。それが徒らに遠い國の植民策の餘弊をまねて、遲蒔に自ら人種の差別をして居ることは、今囘の屈辱が無くても口惜しいことです。それと言ふのも内外の政治がいつも忙しくて、所謂特殊の事情にある日本の外交には、本來此だけの準備が必要であつたことを、自分たちも心付かず、況や人には猶更説き勸めることが出來ず、差あたり我身一つを何とかしようとする、行當りばつたりの才覺ばかりで國は大きくなるものと、考へて居た結果です。日本の國民は此だけの物の道理もわからず、又生存競爭の重荷の上に、此だけ大きな壓迫を受けて、惱むばかりか將に滅びんとする多くの有色人の實?を知り、而も彼等の天賦は決して他に劣らず、情愛や心持ちには文明人よりも尊い所のあることを知りながら、猶昔のまゝに彼等を利用しようとし、或は之を孤獨無援の?態に打棄てゝ置かうと思ふほど、義?心の乏しい國民では無いのです。全く教へず學ばんとしなかつた誤から、こんな恥を見ることになつたのだと思ひます。(大正九年十月 東京にて)
 
(500)   蒼海を望みて思ふ
 
          一
 
 私はいつかこんな折が有つたら、御話をして見たいと思つて居たことがあります。日本が四箇の大なる島から成立つて居るやうに考へることは誤つて居る。此誤は何時の時代からか知らぬが、兎に角全國圖と云ふものゝ出來てから後の事と思ひます。恐くは又例の通り、我邦の事を外國人の本から、教へてもらつて知つた位のことでありませう。少し考へて見たら分る如く、我々の住む島は、臺灣から千島に亙つて、稍大きなものが五百近くあり、其過半は現に住んで居るのです。此誤は國家の成長するにつれて、自然に放任して置いても斯うなつて行くべきものだつたかも知れませぬが、今になつて囘顧して見ますと、是が現在我々の一大問題、即ち日本の世界的孤立と云ふ形勢を生じた、一原因では無かつたかと思ふのであります。
 斯邦の人は、大昔土工の技術を韓人から學んだとあります。而も多くの職業は世襲秘傳でありましたので、其術が汎く一般の利益に行渡らなかつたのです。全體に雨の多い國なので、飲水に困ると云ふことは無かつたが、其代り大部分の農民は、水の害を防いで平地に安住するの方法を知らぬ前、又遠國に美田となるべき土地の在ることを、知る手段の具はらぬ時代には、川の流に沿ひ海岸から離れて、上の方へ上の方へ入らうと力めたやうであります。又地形も之を促したやうに思ひます。大阪を始めとし、今日の稍廣い一帶の耕作地は、歴史時代の海又は遠干潟でありま(501)した。ほんの近世に堤が出來て、稻を作り得るやうになつたのであります。
 大昔の田代は必ず山々の谷に在りました。川岸を溯つて谷に入ればもう海は見えなくなる。二三代もすると海を忘れ、自ら稱して山國の者などゝ謂ひます。尤も山で取圍んだ甲斐信濃などに入りますと、實際そんな感じがします。美濃とか上州とかの人たちでも、どうも感冒がよくなほらぬ。少し海岸の空氣を吸はなければ、などゝ言つて濱邊へ出て來ます。いづくんぞ知らんやあの邊で村里にも、ちやんと海の風が吹いて居るのであります。でも海のはたへ來ると、目に見えてよくなるぢや無いかと謂ふ。それは空氣が町中のやうに濁つて居らず、魚を食つて呑氣にして居る爲で、あちらが海國で無い證據にはなりませぬ。
 日本の武家は狩獵がすきであつた。是れ我々が本來の山人であつた一の證據なりと申します。然るに猪猿鹿が山の奧へ逃げ込んだのはほんの近年のことで、以前は彼等も亦海岸の住民でありました。土佐にも阿波にも備前にも、今尚鹿の住む鹿島があります。陸前の金華山や安藝の宮島は皆樣も御承知、鹿島と云ふ郡は二つ以上あつて、共に皆海岸であります。對馬には以前野猪が多くて其害に堪へなかつた。島の端から端へ木柵を作り、之を一隅に追詰めてやつと全滅させたのは江戸期の中頃の事です。三河の伊良湖岬では明治になつて、辛うじて野猪退治に成功しました。青森縣の外南部では、今でも年に幾つかの大熊を捕りますが、いづれも冬分に北海道から泳いで來るのだと申しました。是はまちがひとしても、兎も角海岸にも山あり野獣住み、狩で生活するから海の人で無いとは言はれぬのです。
 
          二
 
 こんな簡單なこと迄忘れてしまふ程の人々と、日本人の起原を説くのは張合ひの無い話ですが、私の言ひたいのは、少くとも船は最初の我々の友人でなければならぬと云ふことです。即ち此頃折々聞く「日本は海國」と云ふ語は、偶然かも知れぬが當つて居ます。かの神孫が御降りなされたと云ふ高千穗の二上峰、あれは日向の霧島山のことだ、或(502)は同國西臼杵郡の高原、今謂ふ高千穗村の邊にちがひ無いと論じます。はてどちらであらうかななどゝ、首を傾けて案じて見る人はもう有りますまい。何となれば人が空から降りて來たと云ふことは、神話に過ぎぬからであります。然るに自分は先頃中の旅行に於て、古事記日本書紀には何とあらうとも、日本人の祖先が海外から移つて來たなどゝ云ふことは信ぜられぬと、きつぱり斷言した學者に出逢つたのであります。決して是は笑ひ事ではありませぬ。我々は是ほどに迄この小さい島を、更に小さく狹くして今日までは居たのであります。
 所謂倭寇の時代が今すこし永く續き、我々の海の勇者が、支那の海賊船や歐羅巴の冒險船などゝ、今少し永く相撲をとつて居たならば、其結果はどうであつたらうか、興味有る問題に相違ない。が併し此調子では、大して望を囑し得られたらうとも思はれませぬ。元來人を久しく海岸の地に引留め得るものは、やはり漁業生活でありませう。ところが日本人の、少くとも中堅とも目すべき部分は、漁業者で無かつたと見えまして、今以て我國には別に漁業專門の部落が到る處に居ります。運送の如きも主として此連中が、片手わざに引受けて居たかと思はれます。是も人に由つては、舟があつて漁業が無いことがあるかと、有り得べからざるやうに思ふ人があるかも知れぬが、實際の例はいくらでも擧げ得られるのであります。
 さうすると我々は、曾て久米博士などの考へられた、陸つゞきで亞細亞大陸の奧の方から、支那海岸に出て朝鮮半島の端まで大廻りを爲し、あの渡し場を九州北岸へ渡つたらうと云ふ説が、有力になるやうでありますが、私だけはさうは思つて居りませぬ。何となれば我々の祖先の移住土着は、山越しで無く海からでありました。幾つもの小舟でやつて來て、一度に一箇所に上陸したのでは無く、必しも皆北の海岸からで無く、寧ろ多くの場合には南に面した濱から、入つて來たらしい跡が有るからであります。即ち漁業はねつから遣らなくとも、やはり海の人であつたと考へて居るのであります。
 
(503)          三
 
 さてそんならば最初どうして來たらうかに就て、三十年ほども前から、沿海の潮流などの方向に由つて、我々の出發地を考へて見ようとした人がある。紀州土佐又は日向の海岸などに、折々熱帶の植物の枝、椰子の實の生なのなどが流れ寄ることがある。自然の運搬に任せても南方の島から出た物が、終には此土へ到着する。人も斯うして此島を見出したらうかと、考へた者も多かつた。併しながら移住は到底漂着と見ることが六つかしい。九州から南の島々では、前からこんな風に信じ又は傳へて居る人もありましたが、妻子眷屬をつれて漂着して來ると云ふことは、少し想像しにくいことで、もし又計畫の下に行はれた引越しであつたとしたら、神託や夢の告に導かれたと信ずべき場合の外、通例は行く先に關する前以ての智識、即ち近ければ遙かに山の影を望み得たとか、若し又水と空との相接する外ならば、何かの機會に豫備交通をして居た處でなければならぬやうであります。
 近世の長崎貿易の時代ですらも、船が大海を航走するのは年に一度の定期風の力でありました。此風を頼りにして島も見えぬ洋上に浮ぶことは、小舟の力の難しとする所であります。そこで若し計畫ある移民ならば、必や島から島へ、岬から次の岬へ、時日などには構はず、氣永に進んで行つたものと見るのが當然であります。さうなれば此國へ渡つて來る海路は一筋か二筋、北を廻つたとしても精々三筋しかありませぬ。即ち我々は以前此附近の、今少し小さく或は不便なる島の島人であつたと云ふことが、追々立證せられる時代が來はすまいかと思ふのであります。
 英國でも此節の人類學者の中に、エリオット・スミス博士の一派などは、一寸木村鷹太郎氏と近いやうな説を立てて居ます。但し決して語音の類似、風習の一二の共通だけを、唯一の根據として居るのでは無い。先づ第一には舟と云ふ物が、よほど古い時代から、使用せられて居たことを論證し、次には移動にはたしかな目的のあつたこと、即ち或宗教上の必要から眞珠や香料を遠く求めなければならなかつたことを言ひ、更に又多くの文明の特長、例へば大巖石(504)の工作物、太陽の崇拜、黥の風習、人を木乃伊にする技術、其他數箇條の現象が、常に組合せを以て多くの異民族の間に分布せられて居ることを説いて、此だけ込入つた文明の特色が、幾つも組合つて存在するのを、偶然の一致とは見られぬ。多分進んだ文明を持つた或民族が、舟に乘つて弘く移りあるき、此技術や考へ方を教へて去つたので、それは古代の埃及人か、さうで無ければ埃及に永く住み、十分彼の文化の影響を受けた他民族であらうと主張して居る。如何にも奇拔な説のやうでありますが、進んだ土俗學の研究の結果に基いて、段々に其證據になりさうな材料を出して來る人が多くなりました。
 
(505)   國民性論
 
          一
 
 敗戰の原因を推究して見るには、時期は無論まだ早いにきまつて居るが、少なくとも今日までの普通教育の方式に、缺陷があつたらしいといふことだけは、是からの改良の支度の爲急いで確かめて置く必要が有る。私たちの立場から見ると、普通教育といふ言葉は、もう久しく使用して居りながら、その普通、即ち尋常平凡といふものに對する研究が、一般に甚だしく粗漏であつた。いはゆる國家有用の材を作るといふ前代の方針は踏襲せられ、其解釋が又格別改まつても居なかつた。學校の數が多くなると共に、たしかに成功歩合はうんと増加して居るのだが、なほその背後に滓といひ裁ち屑とも名づくべきものが、どつさり出來ることを氣にしなかつた點は、昔の通りといつてもよかつた。何でも今に偉い人になるのだといふ類の大望が、年少者の間に普通したのは新らしい時世の樂しさであつたが、人は存外に早く身を知り分に安んじ、いとも從順に古來の法則に服してしまふ。しかも實際には斯ういふ斷念派が、今更驚くやうな大きな仕事をして居たのである。
 世間なみ、又は十人竝みといふ言葉が、ちつとも批評せられずに、久しく行はれて居たのは不幸なことだつた。殊に氣持の惡いのは、「御多分に洩れぬ」といふ文句で、起原が殆と不明になつて居る今日でも、なほ下品な自嘲の笑ひを帶びてゞないと、之を口にする者の無いのを見ても明かなやうに、是は舊幕末期の頽廢時代に、卑怯で無節操な武(506)人たちが、護身の爲に用ゐ始めた辭令であり、眞似をする價値などの無いものである。たとへば理由の無い利得、私曲又は奸計、自分は決して進んで主張する者では無いが、諸君が申合せてそれを斷行せられるなら、獨り仲間の外に立つて居るわけにも行かぬ、といふのがその「御多分にもれぬ」であつて、衆議が正しい場合にはそんなことは當り前で、いふ必要も無い話、言はゞ私慾の口實だから、笑はれさうな氣がして、先づ自ら笑つてかゝるのである。是が流行すれば世の中は忽ち惡くなる。いはゆる滿場一致の弊害を、未然に告白して置いてくれたやうな、痛ましい一つの世相である。
 
          二
 
 斯んな文句が今も幽かに傳はつて居た如く、さういつた態度がなほ存在を認められ、口にはしないでもさう心得て居る者が、現在もまだ若干は有るかどうか。もし有るとしたらどう之を處理するか。是は將來の爲に何よりも大事な問題なのであるが、不幸にして今日までの教育は、斯ういふ凡庸を相手としなかつた。彼等に向つての教育の效果を問ひ、責任を負はうとする者は何處にも居なかつた。しかもさうした無責任な人たちに限つて、いとも容易に國がらだの、國民性だのといふ概括論に、耳を傾けようとするのである。迷惑千萬な話と言はなければならぬ。棄てつぽかしにして置けば、大抵のものは皆惡くなる。始めからそんなけちな奴ばかりで、こしらへ上げた社會といふものが有らうか。ちよいと考へて見ても判ることで、つまりはまだ事實の變遷を知らずに居るのである。
 或は附和雷同性といふやうな言葉で、斯ういふ惡い癖までを包容させる者もあらうが、大きなまちがひである。雷同は文字の示す通り、高い聲でどなることである。判斷が働かず又は氣勢に押されて、誤り思ひちがへ口眞似もするが、ともかくも公けに明言して憚るところ無く、それと賤しみ嘲ける者などは周圍には居ない。之に對して一方は隱し事、成るべく輕く視られ、早く過ぎ去ることを期して居る。根本に溯れば一つだつたとも言へようが、茲まで遣つ(507)て來ると後暗さが附纏うて居る。外から觀る人の分類はどうであれ、當事者たちは明確に、この境目を意識して居たのである。
 以前私などが田舍をあるきまはつて居た頃に、一ばん不思議に又氣がゝりに思はれたのは、村の青年の風儀といふものが部落毎に、隣を接してくつきりとちがつたものゝ多いことであつた。今から考へると原因は些細なことで、たつた三人か五人の我儘な、隱れてなら何でもしようといふ者が出て來れば、それが年がしらになる頃までに、仲間の多くはかぶれてしまひ、人は順ぐりに代つて行つても、惡い癖だけは後に殘るのである。之に反してすぐ隣の部落では、最初に先づ批判があり、次には又警戒がある故に、自然と對立の形を成し、むしろ新たなる發生を防ぐ作用さへあつたのかと思ふ。人竝み世間竝みといふやうな廣い言葉を用ゐつゝも、いつも手本を僅かな區域に求め、しかもそれを批判の外に置いたといふことは、珍らしく古風な心理であるが、斯ういふ殘留があるおかげに、幾分か變遷が辿りやすく、又將來の教育にも利用しやすいのである。
 
          三
 
 村には今日すでにいろ/\の異分子新分子が來り加はり、又しぱ/\勢力の分裂對立があつたにも拘らず、そこに住み續けて居る人々の内部生活、物の觀方や感じ方の上には、昔ながらの協同性とも名づくべきものが、不思議なほど根強く殘つて居る。人が故郷を出てしまつてから後も無論必要なる改訂を經てゞはあるが、其特徴を保存した者は多く、都市工場地の住民の過半は田舍出なのだから、つまりは是が日本人の著しい一つの通有性といふことが出來る。私たちはかつて之を「淋しがり屋」の癖と呼んで見たこともあるが、ぴたりとは當つて居ないやうである。獨りになつては堪へられぬといふ民族は幾らもあらう。こちらは其仲間が小さく又限られ、それと一體を成す程度に、團結して居ないと氣がすまなかつたのだからちがつて居る。
(508) 草木鳥蟲の天然の生活にも、是とよく似た群の孤立があるから、或は古い形のまんまかと思つたのだが、この對比は無理だつたかもしれない。とにかくに我々も生活を完成するために、手近な最も自然な結合を心がけて、それ以上のものを久しく求めずに居た。日本は地形の然らしむるところ、實は統一の非常に困難な國であつた。永い年間の經驗と學問と、やゝ強度の中央集權とを以て、漸く最近の?態まで持つて來たのだけれども、なほ隅々の目に立たぬ利害が、大局の爲に犠牲となつて、無視せられることを免れなかつた。人が郷黨の煩瑣なる拘束に服して、群の平凡と同化することを甘んじなかつたら、或はこの新らしい時代の動搖に堪へるだけの、生活の支柱を失つて居たかもしれない。我邦が代議政治の沃土ではないやうに、多數決の效果の心もとない國であるかの如く、かつて氣づかはれた事情は斯ういふところに潜んで居る。もはや其樣な事は言つて居られぬ時節が到來したとすれば、今度は取越苦勞を無用にするだけの、萬全の計を立てなくてはならぬ。それを成し遂げるのも私は教育だと思つて居る。
 今までの方法といふのはベシベカラズ、或は斯ういふ立派な前例が有る。以て模範とするに足るなどゝ、いゝ加減眞似に熱心な人たちに、附いて行くべき方角まで教へて居た。その樣にせずとも小さな社會では、仲間の思はくには實現の力が有つた。彼は斯うするだらうといふ周圍の豫想に、ちがつた事をするのは裏切りであつた。選擧の前日には多くの村々で、ほゞ精確に票數の計算が出來て居た。一つには毎日の事件が少なく、呑氣さうに見えても案外に僅かな變化に氣づき、それが又風評の種にもなつて、結局は人の内部の問題にまで通曉することになるのであらうが、それよりも先づ人はめつたに軌道の外に出て行かうとしなかつたのである。行爲思考の型があることは何處も同じだが、村では其種類が極めて少なく、之を忠實に守る者はずつと多く、をかしい話だがさういふいつからとも知れぬ約束を、常識とさへ呼んで居る。
 
(509)          四
 
 方式は全くちがつて居たけれども、是も一種の前代教育といふことは出來る。郷黨の教育は、先づ智識の面に於て、大半を新たなる學校講習會に委讓し、それに次いで舊來の指導者を、無勢力にしたことは事實だが、其爲に今までの機能が停止したのでは決して無い。群は何等かの眼に見えぬ感化によつて、依然として人心の陶冶を續けて居る。さういふ中でも女性の力などは、或は一段の效果を増加したかとさへ思はれる。日本の母の發言權は、此頃世間で言ふやうな貧弱なものでは決してなかつた。よその國では見られない特長だつたかもしれぬが、彼女等には相手の立場に立つて、物を考へるといふ修養を持つて居た。亭主に食つてかゝることを怠つて居たといふばかりで、娘の將來の幸福の爲に、計畫することは周到で、又かなり積極的だつた。よその同じ年頃の者の言動は、始終參考になり比較になり批判の的にもなつた。あゝいふことはすべきでないといふ以上に、斯うあるのが當り前といふ類の、あるべき形をまで要求して居た。息子に對しては年齡の制約もあつて、元服以後にはやゝ控へ目にもなつたらうが、それでも親切の餘りに何かの機會を捉へて、男は斯くあるべきだといふことを、吹き込むことは忘れなかつた。我々のいはゆる常識の中には、よかれ惡しかれ母の言葉から拾ひ取つたものが、一生涯を通じて附き纏うて居る。もと/\自分への要求では無く、たゞ當人の斯くあれかしを念ずるのだから、爲にならない筈は無いのだが、たゞ一つの缺點は平和主義、中古の烈婦傳に見るやうな、闘へ死んで來いといふ類の教訓は稀であつたのみか、人に魁けして危險を犯すことをすらも、口ではとにかく心では、勸めることが出來なかつた。しかも一方には人に笑はれ、仲間に輕しめられることも、身を切られるほどにつらいから、結局は皆のする通りに、後れを取るなといふだけを、ふだんにもよそ行きにも、くり返しかきくどいて居たのであつて、つまりは人竝み教育の御本山は、茲であつたと認めて大きな誤りは無いのである。
(510) 母の教訓に耳を假さうとせず、殊に人前では不機嫌な顔をする風は、是もやゝ奇拔な流行であつたが、是にも實際は二通りあつて、腹から粗末にしてかゝる者、又は馬鹿にされるやうな母をもつた息子は、大抵は幸福でなかつたやうである。女なんかに口をきかせてといふ非難は、もとは多分女房孝行の弱々しさを、嘲ける習はしに始まり、後にはまだ老い切らぬ母親をも含めたのであらうが、實際には妻のいはゆる内助の功、氣永に蔭から發せられる説話の教化には、負けてしまはぬ男は少なかつたらしいことは、たま/\有つたら一つ話になつて或るのを見てもわかる。それよりも更に有力だつたのは、未婚時代の娘たちの批評だつたことは、やゝ詳しく前にも説いて見たことがある。村の娘たちの品定めは、小聲であるくせに流布しやすく、經驗が少ないので輿論としてすぐに統一する。こゝで惡い點を附けられたら最後、誰でもいやがるから配偶が得にくゝ、もしくはごくまづい選擇をしなければならぬ。しかも豫め教訓として聽くやうな折は無く、たゞ空氣の如く傳はるだけだから、いつも幾分か餘計の效果を以て受取られたので、村の通婚區域が擴大するにつれて、この影響だけが若い者の常識養成の上に、働かなくなつたことは大きな變化である。仕事が達者だとか才覺が有るとか、又は男前が立派だとかはいつの場合にも通用するが、さういふのは僅かな數であつた。其他の通常のものには、言ふにも足らぬやうな小さな出來事が條件となつて、差等がつき順位が定まらなければならなかつた。新たに成長する家庭を計畫する者が、漠たる世評に敏感になつて、之を母の言葉よりも重要視し、母も亦共々に氣つかつたのは尤もなことであるが、殘念なことには是が又、肉親の意見などよりは更に一段と消極的なものであつた。
 私はかつて是を笑ひの教育と名づけたことがある。斯ういふ群の中では、何につけても目に立つことが無く、一度も問題にならぬといふことが言はゞ美コであつた。しくじりまちがひが有れば無論笑はれるが、さうで無くても珍らしいこと、今まで誰もせぬやうなことをすれば、きつと注意が集まり、其中には何かとぼけたことを言ひ出す者が有るのが通例で、さうすると先づ急いで笑はうとするのが若い娘たちであつた。この心理はまだ説明をしなかつたが、(511)是も男性の求婚者と同じに、極度に笑ひの目標となることを厭ひ、しやれや諺の意味もまだ判らぬうちから、是非とも笑ふ側に廻らうとするのである。少女のよく笑ふ癖はどこの國にもあらう。それを艶麗の一つの粧ひのやうに、解する人も有るやうだが、少なくとも日本にはより重要な動機があつた。即ちこの人に笑はれるつらさを利用して、爲になることを覺え込ませようとする計畫が、特に若い人たちを笑ひに敏活ならしめて居たのである。
 
          五
 
 人を尋常無問題の、型にはまつた者に仕上げようとした施設は、一應は完備して居たと言つてよい。是が當時の爲政者の望む所でもあつたことは證據があるが、さりとて彼等自ら手を下し、乃至は他を使役してさうさせたと言へば冤罪になるであらう。多くの協同體は、それ自身「事」を好まなかつた。單に事といへば惡い方が九割だといふやうな經驗や打算からでは無しに、よつぽど結構なことでも土地にとつては格別有難くなかつたのである。鈴鹿の萬吉や内山の龜松のやうな、奇特な少年がたつた一人出ても、村役書役の事務は草臥れるほど多くなる。まして項羽の如き猛將が飛び出せば、江東の子弟三千人、生きて還る者無しといふやうなことにもなる。英雄の故郷は荒れやすかつた。戰國以來の無數の爭奪は、一つとして流離間關の種でなかつたものは無い。それを切拔けてやつと一定の耕土に取附いた人々が、無事を愛したのは些しでも不當でない。中部地方の或川筋では、毎年一度のサガ流しを、蟲送りや病ひ神送りと同じやうに執行して居た。サガは漢字では善惡とさへ書いて、何によらず事件といふものを意味した。それを春秋の吉日を期して、思ひ切つてすべて前以て流し送らうとしたのであつた。とかく近所に事なかれだの、出ず入らずといふやうな口碑の存するのは、つまりは好ましいものを代價に拂つて、他の有難からぬものをすべて避けたのである。我々の平和主義は全く徹底して居た。
 或は是によつて睡つたやうな田園の沈滯を推定する者があるが、それだけは確かに誤つて居た。祭や節日の歡喜は(512)いふに及ばず、汗と境にまみれる苅入れ植付けの勞働でも、時を隔てゝ豫定の日が回つて來る故に、一樣に樂しい行事として待ち迎へられた。四時の巡環でも同じことで、花見や山行きのやうな小さな一日の遊びでも、之を準備しつゝ段々に其日に近よる心のときめきは、都市の常住の昂奮よりも遙かに鮮かであつた。大きな行事のあとには必ず休息が來る。その反動の靜かさといふものは、やはり大きな音樂の一節であつた。それを外から偶然に來て見た人などが、堪へられない沈滯と報じたのかもしれない。ともかくも日本の村々の平凡は多彩であつた。むしろこの豫期し得られる年々の變化に紛れて、それを一貫した活き方考へ方の單調を、退屈せずに過ぎて來られたのかとも思はれる。たゞそれにしても問題になるのは、如何にしてあの永い歳月の間、型を履み人のする通りを見習つて居て、活きて行かれるやうな社會が續いて居たかといふことが一つ、次に今一つは愈時運が動いて、局面は全く改まり、意外といふにも餘りある新らしい變化に突き當つても、少しはまごつくがやがて立ち直り、ともかくも又先へ進んで出ようとする元氣が、今までは一體どこに貯へられて居たらうかといふ不審である。是がもし二三の指導者の力だつたら、天才と名づけて讃歎しても居られようが、さういふものはもう捜しても居ない。今まで觀察したことも無いけれども、民族にもやはり素質があり適性が有つて、愁苦を力に變へ、困窮を計畫の齒車に移すやうな、離れわざを可能にしたか。それともたゞのまぐれ當り、小さな諸種の?況が偶然に落ち合つて、是ほどの便宜を供與したものか。ぢつと見て居たら何れともやがて判るであらう。願つても無い實驗の機會であり、古い學問だけでは解き切れない問題でもある。
 
(513)   兒量語彙解説
 
     外遊び
 
 或は庭遊びと謂つた方が、軒遊びに對してわかりがよいかも知れない。ホカもソトも本來はさう遠くのことでは無く、なほ屋敷うち、家のまはりだけを意味して居た。九州地方ではホカといふのが表庭の物乾し場のことであり、他の府縣でも屋内の内庭と區別して、こゝをソトとも外庭ともいふ者が多い。つまりは兒童の生活の、獨立して行く中間の一段階である。ところがさういふホカ又はソトを持たない小家が多くなつて、追々と彼等は路上に出た。道路で遊んではいけませんと言はれるやうになつて、外遊びは少しづゝ變質して來たやうだが、田舍では實は道路ほど、この年頃の子供にふさはしい遊び場は無く、從つて又我々にとつて、彼等の自由な行動を觀察するのに、最も得やすい機會でもあつたのである。是が少しづゝ抑制せられるやうになると、小學校の校庭はちやうど好都合な代用になるが、こゝでは次の章にいふ「辻遊び」の影響が強過ぎる上に、加入者の年齡が幾分か高く切上げられる嫌ひがあつた。いはゆる外遊びの效果の最も大きかつたのは、滿四年前後に始まり、それからの三年四年ほどが、人を社會人に仕立てる適切な期間だつたやうに私には考へられる。大げさな語でいふならば平等思想、又は正義感の客觀價値ともいふべきものが、徐々に體驗せられるのもこゝであつた。幼稚園託兒所の設備が完全になつても、果して以前だけの效果が(514)擧げられるかどうか。舊式な自分等はなほ大いに危ぶんでゐる。具體的な例を一つ出すと、外遊びの幼兒等の最も喜ばなかつたことは、兄姉から親祖父母までの、一切の年長者の干渉であつた。もちろん腹を立てたり言ひつけたり、泣いて歸つたりする子も澤山あつたが、それをすると此次の遊びが、目に見えて面白くなくなる。故によつぽどあまやかされる家の子でも、この群の樂しみといふ共同の大事業の爲に、性來のやんちや我儘を自ら抑制しようとしたのである。親の教へなかつた言葉や行動を、こゝで學んで來ることは相應に多い。それを一括して皆有害のやうに、斷定して居たのが近世の中流常識であつたが、それを防衛するのには、隔離が唯一の對策であつたかどうか。又之に伴なふ損失はあるか無いか。有るとするならば何で補充をしなければならなかつたか。それ等はすべて皆是からの問題である故に、ここには其參考になるやうな、以前の外遊びの若干の例を拾つて見た。是が一つ/\、すべて古い兒童からの相續であつて、成人指導者の裁定を經たものでないところに、この本の編者たちは、言ひしらぬ興趣を感じて居る。さうして同時に現在人生の最も省みられざる期間が、斯んな無心にあどけない年齡の頃にあることを、歎き悲しまうとして居る。
 
     辻わざ
 
 辻は和製字の一つで十字路頭のことであるが、國語のツジ・ツムジといふのは意味が少しく弘く、方々から人の集まつて來る場處の名だつたと思はれて、現在は山の頂上、家の屋根裏もツジであるのみならず、旋風や頭の旋毛にもツムジといふ語がある。或は邑里の中の少し小高い處を、市場とか色々の集まりとかに、使はうとした名殘りかもしれない。沖繩島でも特に此目的の爲に、十字路を幅廣にして居るが、普通には之を馬場と呼び、ツジはたゞ岡の頂點などの名になつて居る。爰でも或は馬を馳せることが、辻の見ものゝ主要なるものであつたものかどうか。本州の方(515)にも馬場といふ地名は多いが、それは神社や城砦の前面などの、現實に馬を乘りまはす場處に限られ、たゞ稀に山中のやゝ開けた通路を、戯れて猿が馬場などゝいふ者が有るのみである。辻と馬場と、もとはこの二つの語の意味が近かつたのであらう。私たちのこゝに「辻わざ」といふのも、その路の辻の遊戯であり、馬場も常の日は是に使はれるから、乃ち外遊びの中に算へてよいのであるが、此方は群が大きくなる傾向をもち、從つて個々の兒童から遠くなり、是に携はる子の年齡にも制限が付くと共に、更に今一段と著しい差異は、是が成長して群と群との對立となり、單なる通りがゝりの見物といふ以上に、背後に關心を持つ者の聲援が期待せられ、次第に今日のファンといひ、選手といふものが現はれて來ることである。それから今一つは技術の錬修の可能なこと、或は最初に訓育の方法として、又は少なくとも壯丁の身のたしなみとして、遊戯としてで無く始められたものを、其必要を認めなくなつて後まで、兒童だけが保存して居るのかと思はれることである。小さい人たちの生活の中には、他にもこの種類に屬するものが多い。現在はすでに模倣では無いけれども、かつて成人と共に、又は其傍に於て、同じ形を以て行ひ試みた行動が、御手本はすでに消えて、寫しばかりがなほ傳はつて居るとすれば、それを見て居る人たちの興味も深く、兒童もまた其背後の眼を豫期して、勢ひ餘分の注意努力をすることになる。年齡の上から見ても是が一つの段階をなし、單なる外遊びの幼稚な連中は、幾らか輕視せられ、疎外せられることにもなるのである。ワザは技術のことでもあると同時に、見せる見られるといふ意識が、其行爲の底にあることを意味する。さういふ點からでも通例の外遊びと、引離して考へる必要が有るのである。「小さき者の聲」といふ一書の中に、かつて私は足けん/\といふ童戯が、武藝の一つであつた時代が、あるのでは無いかと考へて見たことがある。角力の如きは現に一方にはまだいはゆる國技として行はれ、それが又小兒のこの遊戯の興を高めても居る。私の今住む住宅地の中央の廣場でも、夕方から先づ少年、それから段々と若い衆親爺たちの、力競べになつて行く素人相撲が、毎年夏になると必ずくり返されて居る。綱曳も多くはそれであれば、はま矢なども最初は同じだつたかと思はれる。分類兒童語彙の第二の用途として、或はこの方面からも、(516)前代常民の生活ぶりに、近より親しみ視ることが出來るやうになるのかもしれない。
 
     鬼ごと
 
 明かに是も「辻わざ」の一種であるが、他の多くのものと異なる點は、群が二つに分れて對峙することなく、いつも一人のシテの役を立てゝ、それに特別に重い任務をもたせ、手足や心の働きを試みようとすることであつて、この試錬は兒童の發育の上に、相應の效果をもつて居たかと思はれる。今一つの相異は其起原で、是も本來は成人の行事であつたのを、後々時にも場所にも構はずに、小さい人たちが眞似し且つ保存したことは同じでも、此方には單なる競技といふ以上に、見る目を悦ばしめる色々の所作の加はつて居るのは、御手本になつた行事の性質に基づくのである。鬼ごとと名づけてもよい成人の同種演技は、全國數十箇處の神社の信仰行事として、つい此頃までも現存して居た。私たちは是を總稱して鬼祭と呼んで居るが、土地によつては鬼追ひとも又鬼むけ祭とも、其他色々の名を設けて、子供の鬼ゴツコとは別のものゝやうな印象を與へて居る。終局には神の威光を以て邪鬼を退治したことを、記念する演技ではあつたけれども、それに歸着するまでには多量の自由を鬼に認めて、盛んにあばれまはらせ、女や子供たちは巧みに鬼の手から逃げあるくことを、其日の昂奮の中心にして居た。是と現在の童戯との聯絡は、證明するまでも無くまだ之を意識して居る者も多いのである。隱れ鬼は後の發明、もしくは別種の遊びとの融合だつたかもしれぬが、今一つの盲鬼だけは、假面を被つて居た鬼の所作を保存して居る。神態の鬼の面の中には、眼の穴をあけたものと、全く外の見えないものとがあつたらしく、後者は殊に無鐡砲に人を追ひまはして居たかと思ふ。私の生れ故郷の文珠堂の正月の追儺などは、赤鬼はこはくないが青は特に怖ろしいと謂つてゐた。勿論熟練があり口傳があつて、めつたに怪我は無かつたらうが、是には特別のスリルがあつて痛快であつた。さうして外遊びのハマ矢などゝ同じく、一年(517)一度の運だめしのやうな意味もあつたらしい。その遠い昔の成人の感動を、兒童の遊戯が幽かながら傳へて居るのだが、それは屋外の廣場や路上で、時とも無く行はれるとなると、盲は何分にもあぶなく、次第に眼を開けて飛びまはる方が盛んになり、それにはちやうど學校の庭などがふさはしく、競技の流行する以前の或期間に、鬼ごとは特に我邦で發達し、種類も多く又規則も細かくなつた。この中には勿論先生たちの考案も入つて居るが、もと/\此遊びはワザヲギであり、之に參加する者の智巧と趣味とが流露する機會でもあつた。それで色々の口實を構へて、幼童の仲間に加はるのを防ぎ、一方には同じ年頃の女の兒の間に、この遊びの廣がつて行くのを妨げなかつた。それが又普通の辻わざとの目に立つた一つの差別である。
 
(519)   第二十九卷 内容細目
 
地方文化建設の序説(大正十四年十月、地方三十三卷十號)……………………………三
都市建設の技術(昭和二年二月、三月、都市問題四卷二號、三號)…………………一三
都市趣味の風靡(昭和二年一月、週刊朝日十一卷六號)………………………………二五
二階から見て居た世間(大正九年一月、東方時論五卷一號)…………………………二九
古臭い未来(大正九年六月、東方時論五卷六號)………………………………………三五
特権階級の名(大正十三年三月、「時局問題批判」)……………………………………四二
政治生活更新の期(大正十三年三月、「時局問題批判」)………………………………五二
普通選擧の準備作業(大正十三年三月、「時局問題批判」)……………………………六一
移民政策と生活安定(大正十四年六月、「成人教育」)…………………………………七二
文化史上の日向(大正十四年六月、「成人教育」)………………………………………八三
日本の人口問題(大正十四年八月一日、十五日、通俗經濟講座第九輯、第十輯)…九四
國際労働問題の一面(大正十三年十月、東京朝日新聞)……………………………一一五
農村往来に題す(昭和二年八月、農村往来創刊號)…………………………………一三七
青年と語る(大正十四年十二月、新政二十四號)……………………………………一四三
青年團の自覺を望む(大正五年七月、奉公一六三號)………………………………一五一
(520)国語史論(昭和九年四月、「國語學講習録」岡書院)…………………………一五九
國語史のために(昭和二十八年七月、國語學第十二輯)……………………………一九九
国語の管理者(大正十六年一月<昭和二年一月>、新政四卷一號)………………二一六
日本が分擔すべき任務(昭和二年一月、ラ・レヴォ・オリエンタ八年一號)……二三一
當面の國際語問題(大正十四年十月六日〜八日、朝日新聞)………………………二三四
今日の郷土研究(昭和九年五月、郷土教育四十三號)………………………………二四五
エクスプレッション其他(大正十三年八月、女性改造三卷八號)…………………二五三
再婚の是非(大正八年九月、同人第三十九號)(原題、「小さな手帖から(五)」)二五七
人の顔(大正十四年八月、女性八卷二號)……………………………………………二五九
潟に関する聯想(昭治四十二年十一月、斯民四卷十號)……………………………二六五
佐渡の海府から(大正九年八月、解放二卷八號)……………………………………二七二
越中と民俗(昭和十二年一月、高志人二卷一號)……………………………………二七九
小さい問題の登録(昭和十年九月、民間傳承一號)…………………………………二八三
銕輪區域(昭和十一年一月、民間傳承五號)…………………………………………二八五
採集手帳のこと(昭和十一年五月、民間傳承九號)…………………………………二八八
村の個性(昭和十一年八月、民間傳承十二號)………‥……………………………二九〇
セビオの方法(昭和十三年四月、民間傳承三卷八號)………………………………二九二
感覚の記録(昭和十五年十月、民間傳承六卷一號)…………………………………二九五
(521)ことわざ採集の要領(昭和十六年十一月、民間傳承七卷二號)………………二九七
新たなる目標(昭和十七年六月、民間傳承八卷二號)…………………………………三〇〇
傳統と文化(昭和十七年十一月、民間傳承八卷七號)………………………………三〇一
信仰と學問(昭和十七年十二月、民間傳承八卷八號)………………………………三〇二
昔を尋ねる道(昭和十八年一月、民間傳承八卷九號)………………………………三〇三
氏神様と教育者(昭和十九年一月、民間傳承十卷一號)……………………………三〇四
教育の原始性(昭和二十一年八月、民間傳承十一卷一號)…………………………三一〇
木曜會だより(昭和二十一年八月、民間傳承十一卷一號)…………………………三一二
民俗學研究所の成立ち(昭和二十二年八月、民間傳承十一卷六・七號)…………三一七
民俗学研究所の事業に就いて(昭和二十三年七月、民間傳承十二卷七號)………三二三
垣内の話(昭和二十三年九月、民間傳承十二卷八・九號)…………………………三三四
採訪の新らしい意味(昭和二十五年六月、民間傳承十四卷六號)…………………三四三
人を喚ぶ力(昭和二十五年十一月、民間傳承十四卷十一號)………………………三四五
祭禮名彙と其分類(昭和十一年七月、民間傳承十一號)……………………………三四九
服装語彙分類案(昭和十三年二月、三月、民間傳承三卷六號、七號)……………三五六
食料名彙(昭和十七年六月、七月、八月、九月、十月、十一月、十二月、民間傳承八卷二號、三號、四號、五號、六號、七號、八號)…………………………………………三五九
宅地の經濟上の意義(大正二年三月、郷土研究一卷一號)…………………………三九五
(522)屋敷地割の二様式(大正二年五月、郷土研究一卷三號)………………………三九七
規則正しい屋敷地割(大正二年十月、郷土研究一卷八號)…………………………四〇一
馬の寄託(大正二年十月、郷土研究一卷八號)………………………………………四〇二
人狸同盟將に成らんとす(大正二年十月、郷土研究一卷八號)……………………四〇三
鴻の巣(大正二年十二月、郷土研究一卷十號)………………………………………四〇四
動物盛衰(大正二年十一月、郷土研究一卷九號)……………………………………四〇六
若殿原(大正三年十二月、郷土研究二卷十號)………………………………………四〇七
用水と航路(大正三年八月、郷土研究二卷六號)……………………………………四〇九
蟹?(大正三年九月、郷土研究二卷七號)……………………………………………四一一
山に住んだ武士(大正四年七月、郷土研究三卷五號)………………………………四一二
美濃紙現?(明治四十二年)……………………………………………………………四一四
茨城縣西茨城郡七會村(明治四十二年)…………………‥…………………………四二二
親のしつけ(昭和十四年十月三、四、五日、大阪朝日新聞)………………………四二五
日本の母性(昭和十七年十二月、週刊朝日四十二卷二十五號)……………………四三〇
狗の心(昭和九年八月、早稻田文學一卷三號)………………………………………四三四
喜談小品(昭和八年四月、週刊朝日二十三卷二十一號、昭和十四年五月十七日、アサヒグラフ三十二卷二十號)……………………………………………………………………四四一
書談日録(昭和二十一年一月、二月、三月、四月、展望一號、二號、三號、四號)四四七
(523)地方見聞集(明治四十四年、四十五年、法學新報)……………………………四六四
文明の批評(未刊草稿)…………………………………………………………………四七二
準備なき外交(未刊草稿)………………………………………………………………四八五
蒼海を望みて思ふ(未刊草稿)…………………………………………………………五〇〇
國民性論(未刊草稿)……………………………………………………………………五〇五
兒童語彙解説(未刊草稿)………………………………………………………………五一三
 
  「時局問題批判」1924年3月、朝日新聞社
  「成人教育」朝日新聞社
  「通俗經濟講座」日本評論社
 
〔2015年11月2日(月)午後4時25分、入力終了〕