定本柳田國男集　第三卷（新装版）、筑摩書房、1968､8､25（1969.6.15.3刷）

　

(1)　　　水曜手帳

　

(3)　　　　　深見

　

　深見といふ村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、和名鈔にも見えて居る古い郷で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔の深見の郷の中心はどの邊かといふことゝ、以前の鎌倉道は川のどちら側を通つて居たらうかといふことを知りたい爲に、今度は小田急線の鶴間の停留所から下りて、北端の一之關といふ部落に入つて見た。川のへりに四五町歩の稻田があつて、小さな支流が民家との境を流れ、その岸を南北に路が通じ、石橋が架かり、その角の屋敷の端に男女雙體を刻した道祖神が二つ竝んで立つて居る。一つは寛延二年のものでまん中に割れ目があり、今一つは最近昭和十五年三月のもので、男神の袴を青に、女神の裳を黄色に塗つて居る。其後に古い五輪が四つ、是は古風だから立つて熟視して居ると、そこへ五十ばかりの男が自轉車で通りかゝつた。何をして居るのかといふ顔をするから、私は鎌倉時代の道路が、川のどちら側を通つて居たかを考へて居るのだと告白したところ、それはわかつて居る、この道がさうだといと無造作に教へてくれた。それがどうも當つて居るやうに私にも思はれたのである。この邊は寶永の富士山燒けに、澤山に砂の降つたところで、今でもそれを取除けた砂の塚が處々に在り、又その時の帳面が村にあるといふ。つまりそれより古い文書はもう無いのである。しかし境川の流れは變つて居ないといふこと、是は少なくとも事實のやうである。此道を少し南へ下ると、部落のはづれから坂路になつて居て、之をシマン坂と謂ひ、昔鎌倉勢がこゝらまで攻め込んだと言ひ傳へて居るさうである。シマン坂といふ名は坂を上つて向ふが、島津といふ字になつて居るから島津坂であつたらしく、或は四萬といふ響きから斯んな傳説が出來たのかも知らぬが、(4)とにかくに此坂は一つの防衛地點ではあつた。村からやゝ離れて居た境川がこの坂の直下まで曲り近より、支流の水を併呑して今でも淵をなし、それを堰き止めて下の方の田に引く工事がしてある。一之關といふ土地の名も是から出たことは先づ疑ひがない。さうすると現在は林地だけれども、この坂の上の岡あたりが、以前の領主の住居であつて、島津と一之關との二つの村を支配して居たのかも知れない。城山といふ字の地はこゝからは大分北に離れて居るらしく、是に山田伊賀將監が居たのだとこの土地ではいふさうだが、この人の名は近くの寺の釣鐘の銘にもあり、風土記にも出て居るから、それによつて後でつけたのかも知れず、又その人なら戰國時代の武士である。深見といふ家の名は吾妻鏡にも見えない。今もその苗字は折々出逢ふが、爰から出たといふ話も聞いて居ない。鎌倉の人たちが武藏以北と交通するのに、もし私の想像する如く、この境川の溪谷を利用したとすれば、路線の如何に拘らずこゝは重要な切處だから、よつぽど信任の厚い人を住ませて置かなければ、安心のならぬ地點であるが、果してあの頃の有力者中で、誰がこの邊を領して居たことであらうか。歴史は一通りわかつて居るやうに言つて居るが、斯ういふ點になると案外にまつくらなものだ。しかしその御蔭に又我々は、色々な昔の生活事情を想像して見ることを許されても居る。どこまで其想像を眞實に近よせて行くことが出來るか。心もとないやうだが私だけは大きな希望を持つて居る。

　

(5)　　　　　柳明

　

　柳明《やなぎみやう》といふ村だけは、一度諸君にも見せたい。斯ういふ古くて美しくて、人に知られて居ない村も珍しいからである。いつの時代の宛て字か知らぬが、ヤナギミヤウのミヤウはもと開墾地の「名」であらうのに、住民ももう其意味を忘れて居るのである。現在の行政區割は是でも横濱市戸塚區上飯田町の一部になつて居るが、近い頃までは鎌倉郡中和田村大字上飯田のうちで、新編風土記にはもう上飯田の小名となつて出てゐる。しかし地形や隣部落との距離から考へて、家は三十餘りしかないが、やはり獨立した昔の一領だつたと思はれる。さうしてそれを立證すべきあらゆる文書資料が、今は悉く失はれて居るのである。

　小田急江之島線の高座澁谷といふ驛から降りて、ほゞ東北に向つて十四五町も行けばもう此村である。神中線の瀬谷からも、南に向つて一里と少し、その他東へ一里ほど離れた阿久和までは、戸塚からバスも通つて居るのだが、用の無い處だから知つて居る人が少ないのである。我々の仲間なら注意せずには通れないであらう。何よりも珍しいのは村の形、境川の對岸の、岡から眺めると、ほゞ眞直に南北一列に、大きなゆつたりとした屋敷ばかり竝んで居るので、何か昔風の宿場を裏から見るやうな感じがする。村に入つて見ると是が實は表通りで、前をきれいな用水が流れ、家毎に橋を架けて居る。流れに沿うて一筋の村路があるからである。私は此路が中古の往還では無いかと思つて、氣を付けてあるいて見た。土地の人に教へられて知つたことは、村の南手にやゝ大ぶりな小山があつて、それが此邊一帶の風よけになつて居る。南風のひどい土地だから、風下へ風下へと分家をしたので、斯うした一列の村が出來たと謂(6)つて居るが、一部分は本たうの樣である。さうして北のはづれから三軒目の屋敷の石井直吉といふのが、その新しい分家の一つであつて、初代は過去帳を見ると元禄何年かに没して居る。總本家はずつと南の方に在り是は維新よりも前に没落したが、まだ屋敷も門長屋も元のまゝで、代官もしたほどの家柄であつた。金の十六の菊の紋を打つたのを叱られて剥がされたといふ痕が、今でも其門の正面に殘つて居る。現在二十何戸の石井はすべて此家の孫子で、別に羽太といふ一まきが五六戸あるが、それはすべて小山の裾を曲つてから向ふに固まつて居るといふ。石井といふ大百姓の拓いて住んだ村といふことだけは是でわかる。

　村の民家は全部が西を向き、路を隔てた片側の田圃を見守つて居る。さうして其向ふには境川の流れを前に控へて、城山といふ松の茂つた岡があり、其周圍には幽かな土工の名殘も有るといふ。それを和田義盛の居城だといふのは、單に其邊が上和田村だからの想像説かも知れないが、三浦の和田氏は澁谷とは親類である他に、此地との關係は深かつたらしいから、強ちに否定することが出來ない。とにかくに爰へ來て見ると、對岸ではあるが澁谷庄の影響は、大きかつたことが想像し得られる。郡境にはなつて居るものゝ、境川の流れは幅が狹く活?な武士なら跳ね越えられるほどであり、おまけに岸は低くて僅かな田圃を隔てゝ居るだけだから、和田の城山は直接にこの村を押へて居るのである。上和田の方から柳明へ渡る橋を、柳明の人たちは大橋と呼んで居る。こんな橋を大橋といへば誰だつて笑ふが、是も和田城の大手の橋、昔から架つて居た正式の橋だと思へば、私たちにはうなづかれるのである。

　柳明にはもと觀音堂があつて、大石寺といふ大きな寺があつたと傳へられ、現在はそこが鎭守の御社になつて居る。明治の初年に番人の無い佛堂は片づけよといふ御達しがあつて、本尊を阿久和の觀音寺に移したと村の人は謂ふが、成るほど風土記にはまだ上飯田の中に、一つの觀音堂があつてその觀音寺の持だとあるから、是が多分柳明にあつたものであらう。實に見ごとな國寶級のものだといふのはどうであらうか。見える人に見てもらつて、一つこの方面から村の歴史を考へたいと思ふ。

(7)　もつと手輕なところでは、家々の庭樹の中に、古いものゝ多いことに氣が付いた。石井直吉氏の家にも正面に梅の大木が二本花咲き、南の端には形の珍しい古い黄楊があつて、後者は元禄どころでは無いやうである。尤も前代は富裕であつたらしいから移植かも知れない。親爺が顔を賣る爲に段々と産を傾け、おまけに早く死んだ爲に、持つて居たものは皆賣られて、書いたものなどはきれいに無くなつたといひ、それでも堂々たる寺院のやうな蠶室を、今は一家の住居にして居る。この人は白髪まじりだがまだ五十そこ／＼と思はれ、物わかりも早く又氣が若い。私のやうな若い者が昔の話をするのはをかしいと笑はれましたが、八十を越えた祖父と二人で暮して居たので、始終色々の古いことを聽かされましたと、述懷するのが何と無くゆかしかつた。此人ならばゆつくりと話もしてくれようし、又色々な暗示を供してくれるだらう。

　この日（二月十二日）の歸り路に、私はなほ二つの新しい經驗を得た。小さいことだが此序に書き留めて置く。一つは柳明の對岸の宮久保といふ村で、橋の下で葱を洗つて居た四十餘りの女に橋の名を問ふと「橋には名がありません、村は宮久保さう〔二字傍点〕謂ひます」と答へた。中國地方の所謂「と拔け」の他に、或はもと斯ういふ言ひ方があつたかと思つて居たが、それをはつきりと聽いたのは是が初耳である。其次には下瀬谷の北村といふ部落の畠路を歩いて來ると、二人の子供がカバンを掛けて路傍で遊んで居た。是に何か物を言はせて見ようと思つて、立止つて學枚は遠いかと尋ねた。少し大きな方の青ばなを垂らした、九つか十かと思ふのは、もぢ／＼として返事をせず、小さい方が赤い顔になつたが、常ちやんの學校は近い、孝ちやんの方は遠いと答へて、此村に分教場のあることを告げ、更に固有名詞入りで路筋を教へてくれた。それから別れて來ると後の方で何か言つて居るので、振返つて何だときくと、今度は大きな方のが聲をふり上げて、「助かつたんべェ」と謂つた。その意味は私にはよくわかつた。どうして禮を言はぬかといふ、輕い詰問だつたのである。あれは學校へ行くので路をたづねたのではない、おまへたちが毎日通ふのが、どの位なんぎだかきいて見たかつたのだと、さう謂つて別れて來た。

　

(8)　　　　　湯河原

　

　　　　　　　十一月四日

　

　湯河原驛の海の見えるホームで電車を待つて居ると、五十近くのいゝかつぷくの親爺さんが、二つの風呂敷包みを下げて上つて來た。さまで大きな包みでも無いのに、ふう／＼といつて汗を拭いて居る。やがて包みを解くのでそつと覗いて見ると、全部が三寸ばかりの平めな石であつた。是を細繩で斯ういふ風に結はへて、地曳網の底に一つづゝ附けるのだといふ。あんまり丸つこいと轉がるからいけない。みんな是くらゐので揃へるのだから、是だけ拾ひ集めるにも半日はかゝる。昔からこの湯河原の川原へ、この邊の者は拾ひに來るといふ。即ち伊豆と相模との境川の石で、この親方は平塚の網主さんであつた。

　ちやうど七十ばかり有るつもりだ。汽車賃や手ま雜用をかけると、一つが十餞パにつくなどと、獨り言のやうに謂つて私に聽かせる。此邊でもやはりイワと謂ひますかねと尋ねたところ、ちよつと色めいて、いやイワとは謂ひません。イヤですよ。漁師は皆ヤイシと謂つて居ますと答へる。はゝあイワイシだなと謂つただけで、私も講釋がましいことはさし控へた。

　六つばかりの利口さうな女の兒が、母と一しよに脇から見て居て、あれは足を洗ふもの、ねえ母ちやんといふ。はあ、おぢよつちやん、輕石とはちがひますよ。是はね、持つてつて燒いてお砂糖を附けて食べるのですよと、時節柄のしやれも言ふ。一つが大體二百目見當といふから、二包で十三四貫目の荷物であつた。大汗を垂らして來たのも無(9)理は無い。木綿の風呂敷は無茶だと思つたが、斯うして來なければ運賃を拂はねばならない。地曳網の魚を狩り込む部分を、この人はアラテと謂つて居る。以前アラテに藁ミゴを用ゐて居た時代には、下に附けるヤイシも三百目のものが必要であつた。今は木綿絲をおもに使ふから、二百目が頃合ひといふことになつたさうである。それから一しきり、資材の得がたい話などをした。地曳網は本來一年一統と立てゝ居たものだが、この節は古いのを集めて繼ぎ合せてこしらへなほす。シラスと鰺などのとは網の支度が少しちがふさうで、それも簡單に教へてくれたのだが、私には呑込めない所があつた。あんたの方でもまん中のアバ（泛子）は惠比須アバと謂ひますかねと尋ねて見る。いやたゞ大アバといふだけですよ。神棚にも上げては置きません。それでも女などが跨ぐと怒りますがね。この人の考へでは、大アバを特に大きく作るのは、單に袋の口の開きを程よくする爲と思つて居るらしい。（こゝにはミト、ミトグチといふ語は無い。）袋の口があまりまん丸でも、入つた魚が又出て來る。ちやうど好い加減に開くやうに、泛子の大きさ附け方を加減することが大切だと謂つた。シラス網の袋は白い蚊帳だと謂つたのは、目の荒い木綿布を用ゐるといふことであつた。是を平塚などではオーダの袋といふ。太田といふ産地の名ではあるまいかと謂ふのだが、私にも初耳である。今一つの袋の方は何とか袋、是は手帖に付けなかつた爲に記憶を逸した。しかし平塚では、此頃シラス網ばかり曳いて居るらしい。此頃から以後にとれるシラスは、主として撒餌に賣る。ヒラゴ（？）といふ小鰯などは活き餌でないと役に立たぬが、シラスは死んで居ても撒けば魚が寄る。だから鹽にして永く貯へ、又無いときは素麺を短く切つて、?でて持つて行くことさへあるといふ。

　平塚から折々シラスのうでたのを貰ふこと、又茅ヶ崎で疊み鰯を手に入れてうまかつたことなどを話すると、もう是からは疊み鰯は一枚も出ますまい。政府はどうやらもうシラスは捕らせぬ方針らしく見えます。もし二三年も全國で捕らせずに置けば、大へんな漁獲物の増加になるのださうだからとも謂つた。どうして又そんなことがわかるのかときくと、それでも公定相場をちつとも上げてくれないからと、どこまでも善意な解澤をして居る。

(10)　それからまだ色々と實際話をきかせてくれたが、それは爰には書いて置く必要も無い。段々聽いて見るとこの網主はまだ新米で、本來は鰹節商ださうである。この春一戸に一本宛ての鰹節が、三月近くもかゝつて一度しか荷まはりが無いので、是だけでは商ひにならぬと思つて、組合からは離れて居ないが、一方で曳網の方へも手を出したと、鰹節の方の話は中々詳しい。先月メナドから還つた人が、セレベス製の鰹節を三本、持つて來てくれたが上等であつたと、知るまいと思つて餘計な吹聽をすると、掻き置きをしちやいけませんよ。朝とつただしを晩方まで置くとすぐにまづくなります。是は寒い潮を知らずに育つた鰹節の弱點で、其爲に今までは土佐や薩摩の、六割にしか買へなかつた。此頃やつとつかひ方が判つて來て、煮出してすぐに味はへば風味は惡くないといふことになり、まあ八割ぐらゐには買つてもよいといふことになりました。

　などと謂つて居るうちに電車が上つて來る。御客が多くなつていつの間にか、かのヤイシの風呂敷包みも人中に紛れ込んでしまつた。

　

(11)　　　　　武藏關

　

　　　　　　　十一月十一日

　

　西武電車の武藏關で下りて、すぐに東の踏切を北へ越すと、此邊ではちよつと珍しい立派な庚申堂がある。四坪たらずの地所を高い石垣で圍ひ、正面の御堂もまだ新しいコンクリート作りである。普通は三つ辻に石塔だけが立つて居るか、又は祠があつてもごく簡略なむき出しのものが多いのだが、是は道岐れから八九間も東へ入り込んで、石段を設けて登つて行くやうにして居る。僅かな小流れを隔てた南の岡の上に、近年構築せられたカトリックの堂々たる僧院と、何だか對立して負けぬ氣になつて居るやうにも見られる。

　信仰表現の上だけから見ると、小さいけれども此方が立ち優つて居ると言はなければならぬ。第一に遠い國からの補助も寄附も無くて、土地の人ばかりで是だけの御堂を、造立したといふだけでも大きなことだが、今でもお參りは中々多いらしく、多分は講中なども出來て居て、それが相應に久しく續いて居るのかとも思はれた。さう思ふわけは、このコンクリート建物こそは新しいが、中の御本尊は平石の面に半浮彫りに刻み出した青面金剛像で、つまりは前からあつた普通の石塔へ、近頃この樣な大がかりな雨覆ひを掛けたのであつた。錠がおろしてあるので年號は見られなかつたけれども、此邊の庚申塔の最も精巧なものが、大抵は寛政年間の作であることを考へると、それよりもほんの少し手を拔いてあるから、文化何年ぐらゐだらうと私は推測した。

　或は石が良いか又は保存が好くて、實は存外古い時代のものなのかも知れない。さうも考へられる一つの點は、今(12)まで見馴れたものと樣式が少しかはつて居る。普通は耳目口を押へた三疋の猿が、神像の足の下に竝んで蹲まつて居るのに、爰のだけはどういふわけか、そのお猿が二匹である。それもたゞ單なる彫刻者の意匠では無く、一つの信條のやうなものであつたと見えて、後々信者が獻納した石のお猿が、堂の中にも二組あつて共に二體であり、表の鳥居の兩脇にも、ちやうど稻荷社の狐などと同じ樣に、左右一つの石の猿が、可なり高い臺の上に乘つかつて居て、この方は又大きな御幣を捧げた二體の姿が、可なり美術的に彫刻せられて居る。

　斯ういふ種類の事に興味をもつ遠國の會員に、見せたいものだと私の思つたことは、ちやうど其鳥居の左脇の猿の像の北陰に、竹の柄杓のわざ／＼底を拔いたのが、六七本も地に挿してあつたことが一つ、是は東京附近の庚申には折々見かけることではあるが、この時局になつてからは、商品としてはもう影を隱して居る。恐らくは斯うして底を拔いて願掛けにする爲には、特に信者の家で手作りにしたものだらうと思はれる。それから今一つはこの柄杓よりも更に左手に、榊の七八尺のものが一本栽ゑてあつて、その小枝には殆と隙間も無く、白い半紙の引きしごいたのが結び付けられてある。是も稀々には道傍の庚申の木にもするが、多くは村々の氏神の境内に見られることで、やはり心願のある者がその度毎の御幣を捧げる代りに、定まつた御神木を借りるといふ考へから始まつたものと考へられる。遠くからもよく目に着いて、如何にも神樣の有難さが感じ取られるやうな、なつかしい地方色である。庚申樣は道教か佛教か、とにかくに我々の國の神樣で無いのだが、土地の人たちの拜んで居る心持だけには、まだ内外のけぢめは無いのであつた。

　それよりももつと心を打たれたのはこの御堂の中の光景であつた。繪馬に千社札、武運長久の巡拜祈願の紙片れ、繭や松毬を絲に通して、環にして引掛けて置くものなどは、爰にもあるといふだけでさう澤山には見られないが、堂の一隅に何やら眞黒に、重なり合つて一かたまりになつて居るもの、それをぢつと覗いて見ると皆髪の毛であつた。女の數でいへばどうしても十人以上、それを長々と剪つて垂れたものが多い。どういふ人が上げて居るのかは、誰に(13)尋ねずとも私にはすぐに判つたやうな氣がした。つまりは斯ういふ戰時の若い女性の思ひ入つた願ひ事までを、こゝの庚申さまは聽き屆けようとして居られるのである。

　

(14)　　　　　廣袴

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　十　　　　　　　一月二十日

　

　神奈川縣との境になつて居る廣袴といふ村は、何か古い事の探し出せさうな村だが、今は買出し部隊の擾亂が甚だしくて、落ちついて物を問ふことも出來ない。書いたものは一向殘つて居らぬ樣子である。小田原線の鶴川といふ驛から、僅か二十町ほども入つた丘陵地の窪みで、北やゝ東を向いた緩傾斜に據つて居るのは、飲料水の爲だつたかも知れない。今でも相應に廣々とした土地で、日當りの好い場處なら幾らも他にある。わざ／＼爰を擇んだ理由は別に無ければならぬ。古い村だが防衛の爲とは思はれない。

　還つて來てから新篇武藏風土記稿を出して見ると、「東西は打ひらけ、民家二十三戸散住す。土性は黒土にして畠多く田は少なし」とある。さうして現在はもう稻田が遠く連なつて居るのである。察するに立村初期の生活根據は主として西手に續いた十町歩ばかりの臺畠に在つて、村より低くなつて居る廣い田地は、今でも可なり作りにくさうなひどろ田だから、久しいことヤチのまゝで棄てゝあつたのである。廣袴といふやゝ珍しい村名は、或はこの以前の地形から、出たものでは無いかとも考へて見た。即ち岡を取卷いた濕地帶か、又は畠作に適した段丘の上か、どちらかを此邊ではハカマと謂つて居たらしいので、自分だけは多分前の方だらうと想像するが、なほ附近の例を注意しなければならない。

　屋敷の割方が、野方にしてはをかしいほど窮屈で、やゝ矩形の地面が殆と境も無く繋がつて居る。屋敷は文化年間(15)の調査よりもさう増加して居ないらしい。其中を貫いて古い道が一筋、畠場のまん中を西へ通り、突當りにちやんとした寺がある。曹洞宗にしては少しく妙だが、寺の名は妙全院、山號は不動山と謂つて、寺からなほ登つて行く形勝の地に、奧の院のやうになつて不動堂がある。この不動さまと村の人たちとの關係が、よほど變つて居るやうに私には感じられた。

　もう少し氣永に尋ねて見なければならぬと思ふが、ともかくも最近の實情は次の如くである。大正十二年の震災に、この不動堂は倒壞した。その跡へ村の總力を以て、新たに建てたのが今の御堂だが、是は佛閣らしい部分が甚だ少なく、よほど此地方の神社の拜殿と似て居る。但し神殿幣殿に該當する部分は無く、背後は壁になつて居て、正面は木造りの神棚に近い構造である。寺できいて見ると、本尊の不動明王も此中に安置してあるさうだが、高さ五寸ばかりの御像では、どういふ風に納まつて居るかは外からは見えない。堂は板敷になつて居て格子の外には鰐口が掛り、中には奉納不動尊の紅い提灯が、幾つもぶら下つて居るのが目につくだけである。毎月八の日の御縁日には寺僧が登つて來て勤行する外に、村には念佛講といふ女人の團體もあつて、是も此堂に信心の集まりをするのだが、なほ其以外に村の神明社の例祭といふものを、神職を請じて此中で執り行ふといふのが變つて居る。

　自分は注意してこの不動さんの境内を見てまはつたが、以前茂つて居た杉の大木の林は伐られ、明るく掃除がよく屆いて是といふ遺物は無い。たつた一つ目につくのは參道の左片脇に、奉獻と彫つた大きな石の手洗鉢、是はたしかに神社のものと思はれるが、是には明治十五年に村から上げたといふ文字がある。それから其後に竝んだ三つ四つの石の小さな祠、御幣ばかりで何さまかは聽けなかつたが、是もいはゆる末社であつて、佛堂に附屬したものでないと思はれた。但しそれから少し離れて入口の處には石地藏が一體立つてござる。妙全院の開山元察和尚といふのは、寛文十二年まで在世の人だといふが、或はその以前に兩部修驗の時代があつて、この神佛混淆には永い歴史があるのかも知れない。教理や學問が餘り干渉をしないで居ると、村人獨自の信仰は斯ういふ風にも展開し、又は萎縮して行く(16)ものだといふ觀測が、何だか我々にも出來さうな氣がする。

　此村には以前上の區に四つ、下の區即ち田を隔てゝ向ふの岡の方に二つ、合せて六つの小社があつて、共に妙全院の進退ある所であつた。その中の一つの神明社といふのが、近世の廣袴のうぶすなになつて居たところ、明治末年の神社合祀によつて、是も能ヶ谷の神社に合併せられてしまつた。隣の住吉谷戸などは其跡地を賣却して、もう民有にして居るのだが、こちらは社地を元のまゝにして置いて、不動さまの境内に石の祠を建て、それを神明社として自分等だけの祭をして居た。ところがつい此頃になつてから、村に病人とか不幸とか色々面白くない事が續くので、誰かが考へ出したか又は伺つてもらつたか、是は神明さまが不動山に居ることを、御好みなされぬ爲だといふことに一決して、早速その祠をもとの社地へ引移して建てた。しかし小さな石の祠だけではしやうが無いので、祭典は今でも不動堂の中で營んで居るのである。寺でこの事實を知りながら、何とも言はないのは流石禅宗だが、それよりも更に奇特なのは、この合祀迹の神明社の別の土地での祭に、能ヶ谷の合祀社の世襲神職が、招請せられて來て式典を擧げて居ることである。もちろん兩處の祭の日が、同じで無いからさういふことも出來るのだが、祝詞の文言はともかくとして、どう謂つた心持で拜み又信心して居るものか。少しの皮肉も無しに私はその眞相が知りたい。諸國の日待といふ祭には、本社の例祭日とは關係なく、氏子の一團づゝが私祭をして、それへ神職に來てもらふものもあるが、是は本社の拜殿を借用するか、さうで無ければ頭屋の民家を祭場とするものが多い。不動堂の場合はそれとも又ちがつて、或は此堂の創立よりもまだ以前から、こゝが村人に取つての一つの靈地で、うぶすなが別の區の神明社ときまつても、又は合祀によつて能ヶ谷の御社に、出征兵士などは參拜することになつても、なほこの一地點を信仰とは無關係のものと、見ることの出來ない感覺があつて、法師は寧ろ曾て之を利用したのでは無かつたらうか。さういふ風に考へて來ると、明治十五年の石の手水鉢といふものが、何かよつぽど大切な手掛りのやうに感じられる。村では其頃に赤ん坊だつた人が、今では古い事を知つて居る者に算へられて居るのである。

(17)　この日の記念として書き留めて置きたい小事件が一つ、廣袴から五六町の下流の打越といふ部落は、地圖には住吉谷戸とあつて、昔から能ヶ谷の小字であつた。こゝの住吉社が合祀せられたことは既に述べたが、私はそれを知らずに都筑郡の方から、山路を越えてちやうど御社の有つた近くに出た。取附きの民家の後の岡に鳥居が見えるので、是が住吉さんかと田を隔てゝ其家の娘に問ふと、さうだといふものだから入つて見ようとした。ところが娘の兄が中から出て、是は私の家の神さま鬼門よけの稻荷樣と此邊でいふものだ、住吉社はあの山だがもう先に合祀してしまつたといふ。それは驚いたと引返して來ようとして居ると、ちやうど晝休みの時刻でこの兩人の父、しかも合祀社の氏子總代だといふ親爺が、話をしようといふ顔で先づ縁先に腰を掛ける。廣袴の神明と不動堂との話なども此人がしてくれた。色々村の容子のわかるやうな話もあつたが、けふは早稻刈らしく、誰も彼も股引を泥にして居るから、遠慮をしてさつさと立退いたのだつたが、豈に測らんや巡査が自轉車に乘つて、不動さんの山まで追跡して來た。部落に何人の出征者があるか、何人死んだかを聽いたのは防牒に觸れるのださうである。それも自然にそんな話になつたので、たしか此方から尋ねたのでは無かつた。それから戰死者の名簿を出せ、どうとかして遣らうといふ神道家が、つい近頃此邊をあるいた後なので、一層警戒して居たのだとも巡査が説明した。袴をはいて白い足袋であることは、買出し部隊にまちがへられない用心にはなるが、其代りには又飛んだ濡衣も着せられる。田舍はまだ我々のやうな理解の有る者に、觀られるだけの支度が出來て居ないのである。斯ういふ時代はまだ暫らくは續くべきものかと思ふ。

　

(18)　　　　　乞田

　

　　　　　　　十月二十七日

　

　南多摩郡の乞田（コツダ）の八幡社は古い御社らしい。同じ多摩村の　　大字貝取と、二村共同の鎭守だつたといふのに、その所在地はずつと奧まつた此村の西南隅で、他の一方の端からは一里以上もある。二百六十年前の再建の棟札もあつたさうだから、今ある多くの民家が出來てからの選定では無かつたのである。江戸時代には二千四百坪、八反歩の除地が附いて居た。現在の境内地と、それに續いた分教場の敷地とを合せても、その三分の一もあるまいと思はれるから、曾てはまはりの廣い畑場までが、御社に屬した無税地だつたことがあるのである。

　近年になつてから、かなりの事情變化があつたものと思はれて、祭などはもう決して盛んだとは言へない。以前角力のあつたといふ舊九月十五日の例祭は、秋の刈入れ以前の新暦九月五日にくり上げられ、村の幣帛供進も此日にある。それ以外には祈年祭その他の、一二の公定の祭があるだけで、神職は三四里も離れた土地の人が兼攝して居るといふ。通例斯ういふ場合には、御社と村の人との親しみは却つて深く、繪馬だの御百度參りの數取りだの、又は色々の上げ物がごちや／＼と掛かつて居たり、東京の近くならば一本の榊の生木に、白紙をしごいて結はへ付けたのが有つたり、個人の信心のしるしが色々と目につくものなのだが、こゝのは又餘りにもさつぱりとして居て、たつた一つ何か法ごとに使つたかと思ふ柴を組んだ御膳が、繩が朽ちて杉の枝にぶら下つて居るのを見るだけである。社殿は明治に入つての改築とおぼしく、相應に廣々としたものだが、まはりには縁もなく階段も無く、又一つの附屬舍も無く(19)て、參詣の者がちよつと立ちやすらふ場所も設けてない。境内は若干の喬木に取圍まれて居るのみで、廣前には一本の草さへなく、まるでたゝき見たやうに踏み固められて居る。さうして又きれいに掃き清められて居るのは、即ち隣の分教場の生徒たちの勤勞奉仕なるものであらう。

　斯ういふ御社こそ、年に一度の祭の日に來合せて、半日位は靜かに見て居なければ、感じ知ることの出來ない信仰であらうと私は思つた。さうして又誰もが心づかずに居るうちに、次第に移り變つて行く信仰でもあらうかと考へて見た。今住む村人は小さい兒までが純朴で、神を粗末にするやうな風は少しも無いが、どういふ點に力を入れて居れば、信仰の支持になるかといふことまではまだ教へられて居ない。だから新しい生活の普遍と共に、自然に消えて行くものを見送ることすらも出來ないのである。一ばん損な話は村が細長くて、その奧の端に鎭守さまが在ることで、或はこの邊が土着は早かつたのかも知らぬが、現在はほんの僅かな家數の孤立した部落で、どこへ通り拔ける道筋でも無くなつた以上は、人が信心深くなればなるほど、却つて近所の小さな祠や堂、又は村以外の名ある御社などへ、歩みを運ぶやうになり勝ちなのも致し方が無い。兵士の出發や歸還の際は、どうして居るのか尋ねて見なかつたが、ともかくも爰らはたしか、出産の兒の初宮參りはせぬやうに聽いて居る。數ある神社の中から、由緒の最も確かなものを指定して、それに特別の保護を與へ、やゝ廣い地域の鎭守として祀らしめることは、舊幕領の神祇政策であつたやうだが、それにはまだ社會事情の變化といふものを少しも豫測しては居なかつたのである。だから今日のやうに大きな變り方のあつた後では、斯ういふ御社が殊に色々と、意外な問題を殘すのではないかと思ふ。

　乞田の八幡社の實例に就て言ふならば、この鎭守さまはもと吉祥院といふ眞言宗の寺の樣であつた。ちやうど小流れを隔てた向ひの丘の端に、御宮と向き合つて今もその寺は立つて居るが、寺領拾石の御朱印は效を失つて、七間に八間半の本堂は大破に及んで居る。庫裡とも謂へないやうな住居の樣子を見ると、まちがひ無く農作を以て生計を立てゝ居るのである。社僧が還俗して御社との關係を續けようとしたのが、我々の知つて居る普通の例であるが、爰で(20)はさういふことも出來なかつたものか。もと／＼檀家といふものをあてにせぬ寺なのだから、斯うなつて行くのは先づ是非が無いであらう。それから今一軒、是はたゞの民家で氏子總代をして居るのがある。屋敷の構へから見ても又位置から見ても、何か古い來歴をもつて居さうな家と見たが、現在はたゞ神官と供進使に座敷を供する以上に、さう祭とは深い關係をもたぬやうなことを言つて居る。以前は勿論吉祥院の權限を、掣肘するやうな力はもたなかつたにきまつて居る。つまりはこの御社には、信仰の指導をするやうな家は、もう久しく無くなつて居るのである。村の住民の個々の敬神が、まだ幽かにでも繋がつて居るうちはよいが、もしも思ひ／＼の信心が是からまだ展開して行くとすると、祭を續けて行くことも或は六つかしくなりはすまいかと思ふ。

　社地の隣へ學校を建てゝ、朝晩に神と親しませることは、少しは森を荒されても、なほ結構なことだと私は思つた。この分教場には三年級までの、七十人餘りの生徒を收容して居る。其中にはいつまでも此附近に住みさうな兒が大分居る。どうかして此兒たちに、忘れることの出來ない好い感じを持たせて置きたいものだと思つた。しかし現在は外からの衝動ばかりが強くて、内に在るものゝ伸び又育つて行くのには、最も都合のよくない時代のやうだから、よほど細かく氣をつけて居ないと、こゝで又色々のものが消えて行くだらうとも思つたことである。

　二つの小さな印象を記し付けて置くならば、この邊の子供どもはめつたによその人を見ないから、近くへ寄つて來て何かと話をしたがる。吉祥院のことを女教員に私が尋ねて居ると、是がお寺の兒だとみんなから押し出されるやうにして、色の白いおも長な眼の大きな小娘が前へ出て來る。あの杉山の中だ。せいの高い柳の木が見えるだらう。あれがうちの寺だとその兒がいふ。あれは櫻ぢやないか、いゝえ柳だとはつきりと其兒が答へるので、不思議に思つて後で行つて見ると、やつぱり大木の枝垂櫻であつた。寺の歴史の何物よりも古さうな、しかも少しの衰へも見せずに、本堂を隱すばかりによく茂つて居る櫻の木を、いつからこの子供どもは柳と覺え込んだものだらうか。或は只シダレとのみこの土地の人が謂ふので、シダレなら柳だと此兒だけが誤解して居るのか。寺の門のそばに枝垂櫻を栽ゑるこ(21)とは、足利期以前からの好みだつたと見えて、京と江戸の清水觀音を始め、國々には其例が多く、信州などにも幾つかの老樹が殘つて居るが、自分はまだ乞田の吉祥院のやうな、見ごとな木振のを見たことが無い。春になつたら美しい花が、學校の窓からもよく見えるであらうのに、それを其寺の娘までに、いつまでもヤナギと謂はせて置くといふことが私には珍しかつた。

　お宮に就ても斯ういふことがまだ有りさうな氣がする。私は寺を出てから裏の畠の中を通り、久保ヶ谷戸の小さな部落を一まはり、どこかに古さうな家は無いかと尋ねて居ると、相かはらず子どもの群がついて來る。その中で赤ん坊をおぶつた二年生位のいゝ眼をして居るのが一人居るので、こゝのお宮の神主さんの家を知つて居るかときいて見た。さうすると合點々々をして、すぐに先に立つて案内をしようとする。悦んで後から行つて見ると、橋を渡つてずん／＼と御社の方へ入つて行くのである。あゝ分つた／＼。おまへお宮を教へてくれるのだらう。お宮には今詣つて來たところなのだよ。カンヌシさんの家をきいたのだ、知らないかねといふとぢつとこちらの顔を見て何とも言はない。この村は神官が遠くから來るだけで、神主といふものは無いのだから、この兒の語彙の中に無かつたのは少しも不思議でないが、外から來た人のいふことは半分しかわからなくとも、其半分で用を足すべきものゝやうに、習慣づけられて居る子どもはかはいさうだと思つた。さうして學校の國語教育の中には、或はもう神主さんといふ單語は、教へる機會が無いのかも知れない。村には古い世からの感じが暗流のやうになつて傳はつて居る。毎日の言葉はその泛子のやうなものだが、この二つはもうよほど古くから、切り離されて居るのではないかといふやうな氣がした。

　

(22)　　　　　王禅寺

　

　王禅寺といふ部落に入つて行かうとする橋の左袂、まだ新しい二階建ちの農家の大戸の上に、墨で小兒の手を捺した白い紙が二枚貼り付けてある。一方は七つか八つ、いま一方はやつと誕生そこ／＼の、うちの孫ぐらゐなちつぽけな手であつた。あんまりいたいけないので立止つてよく觀ると、母の筆かとおぼしく其一枚に、

　　コノ手ノ子ドモハルス

　もう一つの小さい方には、

　　コノ手ノコドモモルス

と片假名字で書いてある。多分ジフテリヤがこの邊には流行りかけて居るので、斯んな事をするのであらう。

　そこで歩きながら考へて見たことだが、この現象は明らかに民俗學の領域に屬する。さうして私には大よそ意味が判るやうだけれども、始めて之を見て珍しがり、又どういふわけでと問ひたがる人は、もう此節では外國人だけで無いであらう。果して滿足に少しもごまかさずに、是に答へることが出來るであらうか。私にはどうも落第しさうな氣がする。

　但し斯ういふことだけは言つても間違ひにはなるまい。この農家の母の所業には古い型があるが、其型は決して單純で無く、少なくとも二つ、よほど發生年代のちがつたものを結び合せて居る。それは何かといふと一つには紙に手を押すこと、この方の方式はたしかに奈良朝期まで遡ることが出來るが、其上へもつて來て子供は留守と書く第二の(23)方式は、せい／”＼百年このかたの風俗であつて、それも早まちがへて應用せられて居る。起りが子をかなしむ純情に在るだけに、どうして又この樣な新舊の混淆が始まつたかは、殊に理解しにくい問題となるのである。

　印をオシデと謂ひ證券をテガタと謂ふ日本語の原義は、すでに其道の學者が説いて居る。手印といふものゝ大昔から殘り傳はつたものも幾つか有る。例へば高野山古文書の第一卷に、寫眞版になつて出て居る後白河法皇の御手印の如きは、うちつけに當年の感動を表示するほどの印象深きものであつた。目的はその一つの寄進?の作成者が、他ならぬ當の御本人であることを明らかにするに在つて、後々省略せられてたゞ無名指の節と節との間の長さを示し、もしくは栂指の指紋だけ、爪の格好だけを留めても足ると認められ、實用には寧ろそれを本式とするやうになつてから後も、なほ嚴肅なる信仰上の誓ひごとは、儀禮として手の全形を顯はす習はしが保存せられ、それが追々とまじなひや法ごとに限るものゝ如く解するに至つた原因をなして居るのである。

　前年同じ高野山の麓の村里を旅行した際にも、單に人間の手のひらだけを墨で捺して、文字は一つも書いてない紙を、門の口に貼つて居る家々を私も見た。是が力士の巨大な掌とか、或はめでたい長壽翁の手とかなら、又それだけでも何ぞの力になるか知らぬが、小さな子供の手では弱さを告白するに過ぎず、まじなひになると云ふ推理は實は出來ない。たゞ一つの切なる願ひを抱く者、又はこの方法によつて是非とも救はれたい者が、現にこの手をもつ兒童でありますと、言はゞ一心を是に集中するといふ方へ、昔の契約の方式が變轉して來て居るのである。

　しかしそれだけではまだ十分な防衛にはならぬやうにうす／＼は不安を感ずる者の多かつたことも亦自然である。日本では中世以前から、正しい力強い大神の御力を頼んで、小さい數多い神々の憤怒を抑へていたゞくといふ信仰が、段々と發達して來て居るのだが、どういふわけでか疫病の神々だけには、別に大神以外の防禦方法を求める傾きがあつた。或は疫神は神とも言へないほどの下級の惡靈であつて、其爲に却つて行動に軌道が無く、單純な統制に服せしめ難いと見たか、但しは又さういふ貴い御力を煩はすまでも無く、人が相對づくに騙してでも追ひ返すことが出來る(24)と見たものか、この流行病の運搬者だけに對しては、地方自治ともいふべき色々の撃退策が、少なくとも近世に入つて盛んに採用せられて居たのである。

　さういふ中でも江戸で大いにもてはやされた釣船清次のやうに、特に疱瘡の神から好意を寄せられて、おまへの姓名を書いて貼つた家だけはよけて通ると言はれたり、又は「山島民譚集」に引用した仁賀保金七郎の如く、彼が其武勇に壓倒せられて、今後は貴君の御宿とわかれば決して入り込みませぬと、謝り證文をしたゝめて去つたといふなどは、たとへ濫用にもせよ約束があるのだから、さういふ名を書いて門の口に貼つて、それで安心して居てもまだよかつたらうが、今でも廣く、行はれて居る鎭西八郎爲朝公御宿に至つては、その薄弱なる根據すらもないのである。

　鎭西八郎はあの通り豪放な大將だから、あとで聞いても笑つてしまふであらう。親が愛する者の爲に斯ういふことをすると知れば、憐み又宥すであらうと思つたのであらうが、ともかくもこれは策略であり話術であつて、よつぽど相手方を甘く見て居る。私などの郷里では、さゝら三八宿と書いて貼つて居た。是は又疱瘡神には心當りがあつたか知らぬが、傳記も逸話も我々には知られて居らぬ人物であつた。北九州のやゝ廣い區域では、笹野歳三といふのがその防禦役の名であつて、是とさゝら三八とは恐らく無關係でない。この方は近松の淨瑠璃にも出て來る青年武人で、乃ち振袖前髪の優美なる姿を版畫にして、頒布して居る者もあるのだが、どうして又この歳三が疱瘡神と相宿を拒み得るのか、わけを説明してくれる人がまだ私には無い。つまりは疫神なんかはよつぽど騙しすかされやすく、出來て居ると考へられて居たらしいのである。

　或はこの笹野歳三の美貌といふことが、一つの手掛りになるのではないかとも考へられる。たしかな記憶ではないが、さゝら三八の方は痘痕の一ぱいある非常な醜い男だつたといふことを、聽いたやうな氣がする。關東地方では明治の初年か、もしくはそれよりも少し前にお染風といふ流行感冒がはやつたことがあつた。その名の起りも明瞭とは云へぬが、多分はお多福風といふ兩頻の脹れる病氣の名前にあつて、それに對して脹れない風邪をさう呼んだか、又(25)は風の神を怒らせないやうに、美人といふ意味で此名を付けたか、何れにしても「久松は留守」といふ文字を紙に書いて、入口に貼るといふまじなひが、何だか戯れのやうに行はれ始めたのである。即ち折角お染さんが訪ねてござつても、久松は居ないのだからつまりますまいなどといふふざけた思ひ付きで、到底まじめに信じた人々の創意とは思へない。それにも拘らず世間では奇妙に利くさうだといふ評判になつて、一時相應に廣く採用せられたのは、つまりはお染久松の芝居がはやつた結果、是だけのことなら誰にでも判つたからで、術者が中間に介在せぬだけに、言はゞまじなひの最も素朴な形が現はれたのであつた。

　留守といふ語が不在の意味に使はれるやうになつたのは、さう古い頃のことでは無い筈である。多分はその珍しい語音の印象も手傳つて、是が何の某の宿と書く、古い方式の貼り札に代ることになつたのであらうが、それにはやはり今一段と素朴に、病の神が目ざして來るだらうと思ふ者の、ルスを使つた事がなほ適切ではないか、といつたやうな考へ方を誘ふ力があつたので、實際今日はもう久松は何處の人、お染はどういふ娘といふことを知らぬ者が多くなつて居るのである。

　東京の町では大震災の前まで、その近郊の村里は現在に至るまで、戸の口に小さな飯杓子を釘で打付けて、それにジフテリア除けのまじなひの文字を書いて置く風習がなほ行ほれて居る。その文字の種類は曾て山中笑翁が古い頃の人類學會雜誌に報告せられたこともあるが、今見ても實にさま／”＼の奇拔なものが見られる。最も普通なのは何の年の女又は男、十五になるまで「クツメキ御めん」と書いたもので、其クツメキは喉をくつ／＼と言はせる病氣の方言なのだが、それを誤つて「キツネ御免」と書いたものが、つい私の家の近所にもある。或はもつと簡單に墨で三つの星を描いたり、又はたゞ「卯の年の男ルス」と書いたりしたものもある。流行病の神が一番訪ねて來たがる小兒を、ルスだと謂つて置いて騙されるものなら、全國の母親は悦んで皆さうしたであらうが、それだけではどうもまだ頼りなかつたのは無理も無く、其補強として小形の杓子とか、又は手の押し形とか、何か不可思議な條件を取添へたもの(26)と思はれる。しかし手の型などは寧ろ居りますといふ自白のやうなもので、何してもルスの宣言とは兩立しない。是を解釋するたつた一つの道は、呪文のきゝめといふものは既に言語の常の作用を超えて、單に斯うして置けば必ずのがれるといふ信仰、もしくは世間では皆さうして免れたからといふ、一種の社會的背景に據つて居るので、それを千金にも替へられぬ我子の爲にするといふ切なる念願が、幾分か無思慮にこの昔風な手の型を、公表させることになつたものかと思ふ。

　王禅寺といふ部落には古い大きな寺があり、又禅寺丸といふ甘柿の名の源でもあつた。今ではその柿の樹も少なくなり、寺もやゝ荒れて門前百姓も多くは退轉して居る。今ある山門のすぐ外の廣々とした梅林は、恐らくは諸堂伽藍の跡であらうが、樹下の道も無く栽ゑられたまゝに繁茂して居る。北原白秋の遺作集の中には、この花の盛りを見に來た歌が、十敷首も載せられて居るが、私が訪ねて行つた時にはまだ冬木立で、たゞ物靜かな山ふところといふに過ぎなかつた。「昔」は斯ういふ處に埋没したまゝで、つひに發掘せられずにしまふものも多いことであらう。

　

(27)　　　　　野中の清水

　

　　　　　　　　　　一

　

　六郷用水を、今でも次大夫堀といふ人は多い。慶長六年に小泉次大夫といふ御代官が計劃した灌漑事業である。帝都南端の國道沿線などは、これに由つて始めて田園となつたので、この時まではまだ一望の荒野であつた。古い記録では堀の幅が約三間、下流は幾つもの小溝に分ち引かれて、落口も通路も不明になつて居るが、多摩川に面した南の丘の邸宅地帶では、この水が門前を流れ、小さな石橋を架け梅や垂柳を栽ゑて、風情を成して居るものも多い。少しづゝ登つて來ると人家がとだえて、折々はせゝらぎの音を立てゝ居る處もあり、水草が靡いて鶺鴒の遊んで居るのも見られる。市中に入つて行く菜大根の一部はこの水で洗はれる。私見たやうな閑人で、午後にはこの流れの岸を逍遙して居る人も少なくはないことゝ思ふ。

　小田原急行電車の鐵橋の決袂、和泉多摩川といふ驛の少し上に、所謂次大夫堀の取入れ口がもとは有つたのである。水門の傍の舊家が、玉翠園と稱して庭苑を公開し、あの「たま川にさらす手つくりさら／＼に」といふ萬葉集の歌の碑も、ちやうどその門の前に立つて居る。川もこのあたりに來て大きく屈曲し、なるほど形勝の地だと思はれるが、水路の要衝としては今はもう大きな役をして居ない。慶長の昔に比べると、川の流れが細く又低くなつて、砂利ばかり際限も無く積り、それを又掘つては運んで居るのである。もしこればかりを宛てにして居たら、六郷の田圃はとつ(28)くに涸れ乾いて居たかも知れない。ところがよくしたものでこの水には補給があつた。或は當初の設計のうちであつたかも知れぬが、現在私などの住む丘陵の左右にも、大小三つの流れがあつて共にこの用水に參加して居る。別に我々がどうしたといふわけでも無いから、ちつとでも威張ることは出來ないが、もしもこれ等の自然の流れが助けなかつたら、乃ちもう六郷用水は無いのである。世上の水源を談ずる者は、往々にしてこの種の事實を無視する。一方には繪圖があり文書記録があり、又小泉次大夫があつて名を留めて居る。さうして他の一方は續まれもせぬのに勝手に入つて來て、黙々として效果を擧げて居るのである。民衆の力といふものは概ねこの部類に屬する。一たびは彼等の爲に、流れを溯つて見なければならぬ所以である。

　

　　　　　　　　　　二

　

　私はこんな平々凡々たる眞實を考へつゝ、いつも一人で野の中の小路をあるいて居る。喜多見の村はづれで六郷用水に合する三つの小川のうち、二つまでは甲州街道の向ふの、仙川といふ村の地名から出て居て、二つとも無名である。これでも子供が雜魚をすくひ、又は水車があつて精米などをする。私の家などの盆の精靈樣は、毎年この岸から立つて海へ出て行かれる。二箇の漢字を竝べて形容してもよい程の水の量があるのだが、何分にも規模が小さくて、半日の散歩で源頭が究められるので問題にならない。私だけは假に東川西川と命名して置くけれども、人が知つて居ないから話をすることが出來ぬ。その西川の水上は段々小さくなつて、水草ばかりが一杯に茂つて居るし、東川の方は昨年行つて見ると、一戸の移住者が借用して、養魚池と釣堀とを營んで居る。何れも立派な地下水の露頭で、最初は氏神の御社の管轄に屬して居たことが、四邊の?況からでもよく判るのだが、それがもう忘却せられて居るのである。

　第三の流れはこの二つに比べるとずつと大きく野川といふなつかしい名が地圖の上に記され、しかもその水源は久(29)しい間、私にとつてはテルラ・インコグニタであつた。六郷用水に落ちて來る少し上手でも、兩岸にはまだ萱原笹原が殘り、川楊の根株を洗つて居るやうな處もあつて、いかにも野川の名がふさはしく感じられる。それを新しい地主さんたちが、色々と樂しみに改良して行かうとして居るのである。今の大東京の市域を出離れると、すぐに覺東・小足立といふ二つの部落になる。雙方の民居は交錯して居て、別にこの川を以て境して居るやうな樣子も無いが、或は以前の出水によつて、水路をかへて居るのかも知れぬ。それ程にも自由自在に屈曲して流れて居る。梅桃すもゝや栗の木の多い、至つて靜かな黒土の村である。

　

　　　　　　　　　　三

　

　この小足立の箕和田《みのわた》といふ處で、私は意外な發見をしたことがある。戰前ミシガン大學のホールといふ教授が、學生を五六人つれて遊びに來たときに、どこか武藏野の古い大きな農家を案内してくれといふので、ふと訪ねて見たのが冨永といふ人の宅であつた。記録は別になく、只小田原城から落ちて來て、こゝに土着したといふ口碑を持つて居る。後に分家をして屋敷を二つに切つて居るが、非常に大きな松があり、その崖の端を下ると、なほ若干の稻田が帶のやうに連なつて居て、その外を繞つて流れるのが野川であつた。岸は隙間も無く篠竹が茂り、その境の土居を五箇所ばかり、正三角形に突出させてあるのは明白に人工であつた。恐ろしい話だ、これで籠城するつもりであつたと見えると、三百年前の土豪の荒々しい生活も想像せられ、アメリカ人のみか我々までも、舌を卷いて驚いたことであつた。武藏が世界でも珍しい大都市を育て上げた、一つの條件はこゝにも在ると思はれた。土質はさう良くも無い廣漠の野ではあるが、かういふ水流が縱横に窪地を貫いて、それを傳はつて行けば米だけは作ることが出來る。おまけにその水筋を付けかへて見ようといふ程の、氣力の逞ましい人が入つて來て住んで居たのである。

　しかし天然の制約は勿論受けずには居られなかつた。以前は水量も多くこのあたり一帶は低濕で、少しづゝは水筋(30)を替へ得たらうが、これから上へ登ると谷の方向はほゞ定まり、大體に流れは多摩川と併行して居る。地下の隱れた割れ目は恐らくは一つで、それを上置きの僅かな高地が、幾つにも區切つて居るのであらう。近世の驛路が出來るだけ高い岡を通らうとして居るのに反して、この水筋の兩側にはやゝ古さうな村里が列なつて居る。甲州街道では金子の少し西、所謂五宿に入つて行かうとする緩傾斜の、最も低い部分が野川との交叉點であつた。手すりも標石も無い石の橋を架けて、まるで存在を無視したやうな待遇をして居り、岸にはあるけるほどの横路も附いて居らぬが、それでも氣をつけて左右を見渡すと、この流れを前にした集落の數は多く、それを結び合せる一筋路が、少しく水を離れてさまで曲りくねらずに續いて居る。地方の交通としてはこの路の方が早く開け、又自然でもあつたことがわかるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　詳しい話は地圖が無くでは出來ず、地圖を見れば又説明は不用だが、ほんの二つ三つの心づいたことを記して置くと、前の箕和田の冨永家から少し上つて行けば、大町といふ村が川の左岸に在つて、四辻や横町をもつて居る。明らかに以前の市立の跡と思はれるが、今では鎌倉の大町から移つたといふやうな口碑しか無い。それから電車と國道とを横ぎつて、金子・柴崎・佐須と西北に連なり、深大寺への參詣路として知られて居るが、その方は右へ折れ、本路はなほずつと野川に沿うて、又住といふ村に入つて行く。又住は岡を後に控へた南向きで、流れが前に迫り對岸は開けて居る。武士が好んで占據する要害とも切所《せつしよ》とも謂ふべき地形であつた。屋敷の地取りも何と無く落付いて居る。或は相應に年久しい土着かと思ふ。

　京王線の調布の驛から、境と吉祥寺へ通ふ乘合が、ちやうど此脇の坂を走つて居るがこれは新道である。野川は爰でも暗渠に伏せられて、有るか無きかの姿でコンクリートの下を潜つて居るが、それから上の方は比較的自由に、昔(31)のまゝの林の中を流れて來る區域が多い。無論現在もどし／＼と變つて居る。大澤の天文臺は東の丘の上から見降し、多磨墓地は又西の岸近くまで押し寄せ、その中間を多摩線といふ電車が、粗末な橋を架けて走つて居る。これからどうなつて行くのかは何分にも見當が付かない。少なくとも爰を根城にした微々たる生物には、もう大きな影響が及んで居ることゝ思ふが、それを尋ねて見る方便も私には無いのである。

　かういふ道草を食つて居ると、愈々川上の話が遲くなるから、よい加減に切上げてさきへ行かう。私は幾日も幾日も、出直してはこの探究を續けて居るのだが、何しろ川端には細路も無いのだから、水を見ようとすればいつも大廻りをして、近よつて行かなければならない。幸ひにして何本もの大きな道が横ぎり、あぶなくない橋が架つて居ることは、ちやうど國史に關ヶ原合戰とか、鎌倉幕府の創設とかゞあるやうなものだが、これを變化の一區切りと見て、前後を代表させることは少なくとも野川に於ては出來ない。道なり橋なりは大事件には相違ないが、たゞ盲滅法に突拔けて行くだけで、流れは依然として構ひ付けずに置かれるからである。省線小金井の驛から十町ほど南で、大きな坂を降るのが、野川の窪地である。水は片岸に細々と流れて居て、多磨墓地の西門と前原といふ古い村とへ行く道が、石橋でこれを渡つて居る。金井原の古戰場といふのがこのあたりださうで、橋の袂に近く史蹟保存の標柱が立ち、さうして村の子供たちがメダカなどをすくつて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　國分寺の驛のあたりでも、地形は大よそ小金井の方と似て居て、舊い寺跡の在る國分寺の村は、ちやうど野川の南の岸に擴がつて居る。今の停車場はそれからずつと北へ寄つた丘の上である。私などの持つてあるく測量部の二萬五千分一圖には、この丘の西の裾、鐵道線よりも南に水源がある樣に出て居るが、行つて見るとそれは省略であつた。こゝでも徑七八尺の太い土管を鐵道敷の下に伏せて、水は北の方から瀧見たやうになつて落ちて居る。さうしてそこ(32)を越えて向ふへ出ると、何だ戀が窪だつたのかと、言つてもよい位に有名な、我々の戀が窪村に到達するのである。一つの水系はこれで先づ明らかになつた。たつた一言に記述してしまふならば、野川の水上が戀が窪の清水だつたのである。

　汽車は川越線といふのがこの窪地の東の部分を横ぎつて居る。下は蘆眞菰で水はその中を自在に走り、少なくとも三つ以上の湧水が池を湛へて溢れて居る。線路に最も近い一つが例の姿見の池といふのであらう。村の更生計劃でこれを養魚場に改造したと謂つて、墻で圍つて傍まで行けぬやうにしてある。そこをまはつて西表の方へ出ると、もう一面の田で突當りを大道が北へ通り、右手の岡の端には名木一つ葉の松が高く聳え、その根元には書物で御馴染の牛頭天王の祠がある。その地續きの鈴木といふ家が舊家らしく、調布日記に里正某とあるのがこれだらうと思はれた。日あたりの前栽畠に鷄が幾つも遊んで居るが、もう殘らず白い羽をしたものばかりであり、門の片脇には又御醫者のダットサンが引入れてある。時代は先まはりをしてちやんとこの水源の池へも來て居るのである。

　さういふ中にも何かまだ古いものが、まじつては居ないかと捜して見る位であつた。この邊の天王樣はどれもこれも、神輿をしまつて置く御庫のやうなもので、それだけが京の祇園の遠い歴史を思ひ起させる。一つ葉松の下の祠でも、まん中に金色の小さな神輿を安置し、常の日もそれへ參詣するやうになつて居る。その左右には最近の祭の諸道具が、雜然として立て掛けてあつて、地口行燈のまだ破れないのが二三本まじつて居る。こいつは少しばかり古風だわいと、覗き込んで讀んで見た。雀が振袖を着て釣鐘を見て居るのが「雀道成寺」、これはあんまり淡白で格別をかしくもない。その隣には翁の面を被つた人に、右の手に扇子、左に茄子を持たせて、「なすはおきなのたつみ風」と題して居る。それを見たら思はず一人で笑つてしまつた。今ではもう忘れて居る人が多いけれども、これは江戸でも名吟のうちに算へられた、

　　　きのふきた風けふみなみ風

(33)　　　　あすはうき名のたつみかぜ

といふ歌のもぢりであつた。風の術語にまるで素人だから、港の民謠で無いことは確かだが、多分はその「たつみ」とか品川とかの、海の見える色町でうたはれて居たものと思ふ。それが又どうした手順でこんな野中の村の、地口行燈などには殘つて居たのであらうか。古い表紙の破れた一册の種本を、克明に毎年模寫して居るやうな親爺でも居るのか。それとものらくら者が町で喰ひ詰めて、このあたりに來て年老いつゝあるのか。或は又土地にかういつた趣味が前からあつて、存外にひねつた文句を珍重する旦那衆でも居るのか。何だか知らぬがこれなどはまさしく江戸文化の破片であつた。それが國分寺の畠の瓦以上に埋没して居る。俗耳鼓吹や假名世説の著者にもう一度來てもらはぬ限り、他にはこれををかしがつて、書き留めて置かうといふ人も先づ無ささうである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　大田南畝は文化六年の二月二十四日、ちやうど本卦歸りの誕生日に今十日といふ日に、わざ／＼府中の宿舍から、この戀が窪村を訪れて居る。かねて先祖の書き殘した文書に、大田の名字有る處、武藏國多西の郡小郷、鯉がくぼより出づるさむらひ也云々とあるので、それをどの邊であらうと尋ねて居たことが、既に瀬田問答などにも見えて居る。江戸を去ること八里あまり、街道の宿場からはほんの一里ほどの入込みだが、六十になるまで來て見る折が無かつたのである。

　　今日いかなる日にして始めて此地に來りしこと、古へを懷ひ首を囘らして、涙も落るばかりになん。この村の中に大田といへる名字の農家ありやと問ふに無しといふ。もしくは大田といへる字《あざな》などなしやと、里正に問ふにふつに無し。歸る路すがらにして布目ある瓦と、青き石の缺けたるを得たり。嘉慶二年といふ文字あり云々

といふやうな記事が調布日記にある。この青石といふのは即ち板碑の斷片で、とにかくに古い土地だつたといふこと(34)だけは、誰の目にもよく判つたのである。以前府中の北境を圍ふ丘陵地が、巨木荊棘を以て蔽はれ、野川の水量がまだ豐かであつた時代には、これが天然の障壁であり塹壕であつたらうが、その代りにはこれから北武上毛信越の方へ通ふ路は、この戀が窪の流れに沿うた低地を、進んで行くより他は無かつた。だから國分寺の水に臨んだ集落に續いて、この一帶の濕原が田に拓かれ、數々の遺物遺蹟が、早期の人生を跡づけて居たのである。大田家の祖先が小田原北條の統制に服し、三百貫文の食禄を保有して居たといふのも、恐らくは草分けの開發地主ではなかつたのか。とにかくこゝにはもう一つの足痕も留めず、たゞ畠山重忠の評判ばかりが、むやみに高くなつてゐたのは、先生には少し御氣の毒であつた。實際は重忠などよりもまだ大分古いのではないかと思ふ。戀が窪といふやうな物好きな地名を、最初の耕作者が付けた筈は無い。起りは單純に水を意味し、もしくは泥が深いのでコヒヂであつたかも知れぬのを、誰かゞ戀といふ文字を宛てたばかりに、塚は傾城塚、池があれば姿見の池、後には美人が別れを悲しんで、身を投げて死んだといふ物語までが土着して、それをうそだと評すると怒りさうな人が多くなつた。さうして他の昔の事件などは、すつぱりと忘れきつてゐるのである。時代は民衆に取つては全く大きな武器であつた。彼等はこれを帶びるとどんなえらい事でもする。重忠は秩父方面の大地主だつたらしいから、こゝから府中を通つて鎌倉へ往來したことも毎度であつたらう。それに相愛の遊女を添はせて、優にやさしい一場の悲劇を演ぜしめる位は、言はゞ朝飯前の空想に過ぎない。しかも戀が窪の地名が無かつたら、かゝる野中の泉の傍に、傾城の面影を思ひ浮べることは出來なかつたらう。曾我や盛衰記の熟讀に始まつて、阿古屋の琴責めに至つて完成した、これも江戸文化の一つの落ちこぼれと、見るまでは恐らく異議はあるまい。たゞ我々にはその細々とした水筋がゆかしいのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　人がこの新都の郊外の生活に注意し出したのは、古松軒の四神地名録などが多分早い方であらう。その以前はたゞ(35)武藏野の歌名所を、列記したやうなのが地誌であつた。江戸人の遠足もあの頃からやゝ盛んになつて居る。私などが面白いと思ふのは、もとは多摩川を國中《くになか》の流れと見て居た故に、これを境とする樣な感じが今よりも薄かつたことである。大田蜀山が年を取つてから、この川筋の水路巡視を命ぜられて、川崎六郷を足がかりに、四箇月の間この沿岸の村々をあるいた際にも、橋も無いのに毎日のやうにこの川を渡つて居る。仕事は大體に對岸の神奈川縣側に多かつたらしいが、折々はこちらへ來て私の今住む近所の村にも泊り、又は府中へ出て旅籠屋の酒を飲み、花が咲き出すと小金井にも遊びに行き、更に年頃の念願であつた戀が窪の舊地も尋ねたのである。上流の方では羽村拜島、今日大東京の市民の生命線とする地點にも出かけては居るが、こゝにはまだ大きな關心も無かつたと見えて、書畫や古器類を見せてもらつて簡單に引き上げてゐる。綿密なこの老人の日記の中に、野川の記述が殆と一行も見えず、その水源が我祖先の地に在ることをも、省みなかつたのは不思議な位である。地圖の不自由な、村から村への案内者の得にくかつた時世では、自身で湛念に流れを溯つて試みぬ限り、上と下との一續きを突留めることが出來なかつたので、察するに所謂次大夫堀の本流は、當時まだ豐かに供給せられて居たものかと思はれる。

　物をやたらにシムボリックに觀ようとするのは惡い癖かも知らぬが、この間題に於ても百年の變遷は極めて著しい。私が約半歳の探險を重ねて、やつと發見したと思つた戀が窪の源頭は、地元に行つて見るともうちやんと知つて居た。路傍で立話を試みた中年の農家の主人は、へえこの水が六郷用水になるのですと、いとも無雜作に答へてくれたのでがつかりした。まさか流れを傳はつて確かめたのでもあるまいが、この形勝の地に立つて居ると、自然に學ぶ機會が多かつたのである。村では夙く地續きの丘陵を畠に開いて、住民の一部を移任させて居たが、省線が通じてから此方が入口のやうになつて、中心が少しづゝ東北へ寄つて行くやうに見える。その坂路に沿うて又一筋の小流れが、いゝ勢ひで走り下り、家々はこゝへ出て食器などを洗つて居る。この水も末は勿論野川に入つてしまふのだが、これは新しい土工の痕さへ殘つて居て、戀が窪の清水からいへば明らかに異分子であつた。世の水源を論ずる人々には、かう(36)いふのが?々問題になる。どこに分堺を設けるのがよいのかと、少しばかり私は考へ込んで見たが、これに對する村人の言葉も簡單なものであつた。なあにやつぱり多摩川の水ですよ。砂川の方から引いて來ますがね、これもあれもみんな一つの水ですよと。成程さういへば確かにその通りで、段々溯つて行くと猫に名を付ける昔話のやうに、野川の源は野川だといふことになつてしまふかも知れない。とにかくに廣い武藏野の處々の泉が、地下に通ふといふことをこの人たちはもう知つて居る。逃水や堀兼の井の昔の名所は、こゝだかしこだと今でも爭つて居る人があるが、流れて止まざるものに、定まつた場處や變らぬ形が有らう筈は無い。たゞその地下といふ未知數の全體を實驗する方法が無いばかりに、まだ當分は細い水筋を辿つて、古い世の名歌を口ずさまなければならぬのである。

　　　いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心を知る人ぞ汲む

　

(37)　　　　　榎戸懷古

　

　どうかしてこの五反田節を、もう一ぺん若返らせて見たいものと思ふが、其爲にも發生の時と事情、今の流行言葉で「場」といふものゝ研究が必要であらう。ほんの二つ三つの心づきを言つて見ると、五反田といふ村の名が、大よそ年代の上限をきめてくれるといふこと、是がその一つである。最近にも上毛民俗學會の會報で、この類の地名を討査した人があつたが、是は共同開墾事業の約款を表示するもの、即ち一戸當り五反づゝ分配し得られるやうな新田場といふことで、是には現在の地形がおのづから當時の社會組織の中心點を推定せしめるだけで無く、更に斯うした平和なる土着が可能になつたのも、戰國の末期、いはゆる北條家分限帳などよりは前でなく、もしも多摩川流路の北遷が、天正十八年を以て最終とするならば、それよりも後の事だつたと考へ得られる。その五反田の村がやゝ繁昌して、酒屋が立つやうになつてからでないと、斯んな歌が生れなかつたことは先づ確かであらう。

　之に對して登戸といふ地名の方は、少なくとも名前だけは、もつと古かつたらうと私は思つて居る。千葉の近くの登戸はさうでもないらしいが、捜せば東國にはまだ幾らも有りさうな地名であり、坂の登り口に出來た部落といふ以上に、隱れた意味も考へられぬ地名である。坂本坂梨（坂足）が昔から驛場だつたやうに、支度足ごしらへにおのづから往來の人が淀むので、のちこゝに一かたまりの部落が出來た、純然たる農村でなかつたことが察せられる。現在は平場だから人が訝かるけれども、是は水害によつて村を取られ、新たに川のこちらに附いた空地へ引移つたもので、住所の地筋と記憶とは絶えなかつたといふ、めでたい記念とさへ見られるのである。

(38)　二箇領用水の掘鑿はたしか慶長六年の前後だから、もう其際には登戸は現實の坂の登り口の地には無かつたと見られる。しかもこの水路は舊川敷を利用したものとすれば、以前の村の所在は他に求めやうも無い。從つてあの石橋を渡つて向ふ、かつての大榎を圍繞した一群の集落が、最初から五反田であつたかどうかゞ私には疑問になる。或は是も亦今日の登戸と同じに、先づ入つて住んだ家が五反田の出であつた故に、其名を以て呼び、自然に村の境を附けかへたのかもしれない。それが出來る位なら、前の人が住みつゞけて居りさうなものと言ふ者もあらうが、災害の當座の不安は大きかつたのみならず、耕地を取られてしまつては、生活の設計を立て直す必要もあつて、一旦は全部立退き、やゝ暫らくは無主の荒地であつた時代が有るのである。

　榎戸の問題は、久しい以前から私も考へて居るが、關東殊に東京の四周には、同じ地名が多く、又現實に古榎も多かつた。近年伐つたり枯れたりして居るけれども、まだ／＼其記憶を辿つて、昔の交通線を跡づけることは不可能でなく、それが又この方面の舊事を探る上に、有力な足がかりともなるのである。五反田節の歌謠に詠歎せられた「あの榎の木」が、果して葦天大人などの記憶に存する榎戸の古木であつたかどうか。それさへも實は問題にする餘地が有る。それ程にも道傍の大榎はもとは各地に多かつた。たとへば東都の郊外では、王子西ヶ原の一里塚の榎、是などは史蹟記念物として保存を説かれて居たが、何處を起點としての一里塚かも判明しなかつた。本郷追分の三叉路頭、ちやうど今日の大學農學部の正門と相對して、高崎屋といふ酒店の角にも一里塚迹があり、私の學生時代にはたしかに榎の古株があつた。そこと王子とでは距離が近過ぎるので、みんなが不審に思つて居たことをよく覺えて居る。江戸幕府の交通政策の整備に伴なひ、新たに道を開き里?を築いたことは事實だらうが、松を栽ゑませうか、いやよの木〔三字傍点〕を栽ゑいといふ將軍の指令を、誤解したといふ俗傳は作りごとである。一里塚で無くとも塚の木は多くは榎であり、又塚の無い處にも大きな榎があり、又榎戸といふ地名がある。つまりは是が大昔以來の路傍の樹だつたのである。栽ゑてよく根づき成長が早く、燃料として火勢が強いから、特に軍陣の用に保護したなどといふのも信じられない。何(39)か今一段と遠い所に、信仰上の理由があつたらしいことは、今日傳はつて居る色々の用途からも推測せられ、私は久しくこの木の所在に注意して居るのである。數多くの榎戸に就いて調べて見てもわかることだらうが、もとは里程標といふよりも路分れ、もしくは榜示即ち村々の地境に、わざ／＼手植せられるのが普通で、屋敷や神の森には?々喬木を見かけるが、是ほど實こぼれが多く、又よく小鳥に啄まれて行くにも拘らず、不思議なほど山野に野生する榎は少ない。記録の證據は無いけれども、事によると是は始めから人間の爲の木として、遠く携へて此島國に、運んで來たものかもしれない。少なくとも斯ういふ古い榎の存在には、眼に見えぬ我々同胞の意思が加はつて居る。五反田榎戸の名木の榎なども、話の樣子ではよほどの年數を經て居たらしいから、恐らくはこの界隈隨一の故老であり、物こそ言はぬがさま／”＼の世の中の變化を、ぢつと見おろして立つて居たのであつた。人は到底それほどの長命はできないが、其代りには記憶があり傳承があり、言葉があり又推理があると、言つて安心して居たいところだけれども、今日の?態ではやつぱりまだ何も話すことが無い。此點に於ては枯れた榎も同じことである。

　いはゆる多摩の横山の尾根づたひをあるいて見ると、之を横ぎつて登つて行く路が、目に立つものだけでも十幾筋かあるやうだが、それが同時に利用せられるのは現代だけで、一つ／＼の年齡は兄弟どころか、高祖と玄孫といふ以上にもちがつて居る。大戰のさなかに相模原の病院へ、石原の橋を渡つて矢之口坂濱黒川と、自動車を飛ばせて居た路などは最も新しいが、之に對して一方にはまだ鎌倉の無かつた時代に、相武二國の國府を繋いだ路線などは、開始の年月までが記録に載つて居るのに、何處をどう通つたかは誰も知つて居ない。多分は相模川の左岸を田名のあたりまで溯つて、淵野邊の近くで境川の流れを横ぎり、小山田から由木莊へ越えたので、現在唐木田といふ山間の村から、乞田へ出て來るのが其通路かと私は思つて居るが、その證跡はまだ少しも發見せられない。鎌倉が愈々東國に號令するやうになつては、必然に境川の水域が利用せられるやうになつた。甲州一國を除いて、上州信越、事によると越中能登との交通にも、一旦は武藏の府中を經由して居た。それには今日の原町田の附近まで此流れを傳ひ、それから多(40)分は小野路を通つて、現在の關戸の谷へ下つて多摩川を渡つたのである。是には遺跡があり又數々の記録も傳はり、たとへば眞字本の曾我物語さへも、武藏の國府以北、上州松井田邊までの順路を細密に記述して居るから、まだあの頃までは是が主要なる官道であつたことが察せられる。しかしその鎌倉が持氏滅亡以後、段々と重要性を失つて、六浦金澤への水運はなほ續いても、ここを起點とした陸上の交通が、次第に分散の傾向を示したことは、それが久しからずして神奈川の港に、中心を移した一事を見てもわかる。鶴見川流域の稻作がこの一帶の文化を進め、やがては水源地の僅かばかりの谿間にまで、五反田一丁田の新墾を展開せしめ、爰に新たな交通路を一つ、附け添へる因縁を作つたものと私は見て居る。多摩川南岸は灌漑の便に惠まれ、こゝに水田の計畫せられたことは、既に吾妻鏡の中にも見えて居る。たゞ人口はまだ乏しく、消費の中心たる府中は小さかつたので、江戸が新たに大きくなるまでは、十分な展開をしなかつたらしいが、其兆候だけはもう鋭敏なる武略政治家に感じられたものと見える。小田原よりも鎌倉よりも、遙かに未來に富む積極的な都府の候補地が、蘆と荻とに覆はれた武藏野東端の岡の裾に在ることを、或日�ｺ川家康の耳に囁いたといふ猿面の老關白なども、事によると既にこの稻田登戸のやうな幾つかのさこの通路が、頻りに遠近の旅人によつて利用せられ出したことを聽き知つて、誰よりも深くそれに注意して居たのかもしれない。

　しかもその江戸城の威力が築き上げられると、伏見や大阪はやがて下風に立たねばならなかつたやうに、船は隅田の川口に入つて來て、神奈川の湊は先づ衰へ、そこを目ざして居た岡越しの往還は、次第にたゞの草苅路作場路となつて、どうして斯んな處に旅の歌、酒屋の民謠などが浮遊して居るのかを、寧ろ怪しまれるやうになつて來た。この中頃の世の中の推移を、ぢつと見て居たのは、獨り榎戸の古榎だけであつた。それが又今は枯れて株跡さへ無くなつたのである。言葉にはたゞ外形を持傳へて、中味や語感のまるで變つたものが多い。たとへばこの民謠の「酒屋」なども、今ならば石垣白壁の堂々たる家構へを想像せしめるだらうが、さういふ資本事業の農村に入つて來たのは百年以來、精々江戸後期から始まつた變遷であつて、それも技術や販路の制限が多く、假に資力があり又希望があつても、(41)場處によつては今でもまだ成功して居ない。以前の酒屋といふのは是も路傍の店で、どちらかといふと繩暖簾の方に近いものだつた。今日の罎詰流行に先だち、白鳥�ｺ利とか白木の一升樽とかによつて、少しづゝは量り賣りも始まつて居たが、大體は居酒を飲ませるのが主であつた。居酒の風習は、足利末の戰陣時代に普及したらうことは疑はれぬが、起原はもつと古く、登山物詣での下向路、やはり疲れたる旅人の需要がもとで、是には取賣りといひ、關西では又六などと謂つて、他處で造つた酒を持つて來て販ぐものもあつたが、容器の關係から、もとはさう遠くへは運べなかつた。四斗樽が無ければ馬にも人の背にも負はすことが出來ず、桶結ひの技術はやはり大きな造り酒屋が、出來てからの發達であつた。最初は恐らく竹柴長者の物語りにもあるやうに、三つ二つの酒甕を庭の土に掘りすゑて、それに釀したものを掬んで飲ませたものであらう。稻が此頃見たいにやかましくなるまでは、斯んな小規模の酒屋が田舍にも、又江戸の市中にもあつた。居酒には行く先々の地酒を試みることが出來て、それが又一つの旅の樂しみでもあつたかと思ふ。前代の文藝を味はふ人たちは、時として勝手放題な胸の繪を描いて居るが、この五反田の酒屋の小娘子などは、決して長者どのゝまな娘では無かつた。女性が釀造を掌つたことは、上古以來の日本の風であり、それが最近の御酌はたぼといつた時代まで、零落しつゝもなほ殘つて居たことは、數々の例證がある。加賀の菊酒なども?々諸國の民謠の題材となつて居るが、是も亦佛御前と言はるゝほどの美女が、白山詣りの旅人の袖を引留めて、自ら造つた酒を勤めたといふ語り傳へをもつて居た。醉客の心理はいつの世にも單純で、斯んな些細な事を歌にして居た。又さういふことを繰返さなければ、彼等の興味は一致しなかつたのである。

　問題はたゞ我々しらふの者から見て、どうして此一章の歌曲が忘れずに、今の樣な時世にまで保存せられて居たかに歸着するが、是には土地の名の誇り、又は幽かなる戀の情といふ以外に、古來女の人たちが歌謠から受けて居た感銘が、下に隱れてなほ久しく流れつゞけて居たことを意味するものではなからうか。彼女等はすでに酒の管理を職業の者に委ね去り、又自ら聲を揚げて、勸酒の歌を諷ふことはしなくなつたけれども、なほ家々のめでたい儀式が、歌(42)無くしては完成せぬといふことを、深く意識の底に於て記憶して居たのかと思ふ。酒の用法目途はもう一變してしまつた。第一に風味がよくなつて之を嗜む者が多く、飲みたいと思へばいつでも飲めるやうになつては、勝手にまかせて置けばよささうなものなのに、今でも固い人たちは勸めるのを作法と心得、又強ひられるのを侍つて居る者もある。殊に定まつた祝宴の日の酒などは、かねて用意の一瓶を傾け盡し、主客陶然と共に醉ふのでなければ、何か物足らぬやうに家の者が先づ考へる。さうして存分に人を醉はしめる力を、以前は所謂おさかなの歌謠に託して居たのである。さういふ中でも是さま節、町田嘉章氏も五反田の原形と認められたこの祝歌などは有力であり、又歴然たる由緒を備へて居た。ほんの僅かな語辭の變更を以て、遠く上代史の新室ほぎ、又は酒ほがひの大御歌に繋がつて居る。人が想像し得る限りの最大の富貴と幸福とを、現實にそこに在るやうに敍述する歌の詞が、直ちに興奮の刺戟となつて、殆と不可能に近い大盃を呑み乾さしめたのであつた。それが一部の階級では郢曲や謠とさしかへられて、たゞ餘興の如く見られるやうになつてからも、なほ世離れた村里だけは、古い形と感じ方とを改めなかつた。それが私たちの理解する是さま節の心理である。

　ところが又一つの新しい變遷は、酒杯の好みと酒會即ち飲酒の作法の上に現はれて、いはゆる鯨飲を賞美する風が衰へた。一つには塗盃の工藝の進み、次には陶盃の流行にも由るであらうが、もつと皮肉な原因を尋ねるならば、酒の味が段々とうまくなり、早く飲みたいといふげび藏が待ち兼ねて、座席の順まはりに一人づゝ呑みまはす時間を、早く切上げようとしたものと思ふ。一獻三獻といふ類の方式は名のみとなり、膳に最初から小盃を附けて置いて、下戸が列坐の中から脱けて行くのも構はず、自分たちばかりで勝手に獻酬するやうになると、席が亂れぬまでも祝宴が長くなつて、たつた一つの是さま節を、際限も無くくり返しては居られず、次々と新しい替歌を作り出す必要が生じたものと私は思ふ。

　五反田節の人望と保存とには、又別の理由が有るにしても、少なくとも是が始めて生れたのには條件があり、それ(43)とかけ構ひなしに斯んな歌が、考へ出されたものと見ることは出來ない。多分は江戸を食ひ詰めた遊び坊主、座頭といふ者などの思ひ付きかと思ふのは、文句の選擇にも發想の形式にも、僅かながら文字文藝の習氣があつて、純然たる野の聲とは見られぬからで、少なくとも是は座敷の産物、のちあの五反田の大榎の樹下、もしくはその近くの酒賣る店の軒から、ゆくりなく迸り出たものでは無いやうに思ふ。土地を愛する者の感覺からいふと、ごたんだといふ四つの語音が、いかにもしつくりとこの民謠の氣分にはまつて居る。或は其以前にも、五反田の酒屋といふ話題があり、もしくは之を詠じた他の歌謠があつて、それは既に埋没して居るのかもしれない。

　「はつせ」と呼ばれる歌が、是さま節の變化の一つであることは、私も夙くから氣づいて居たが、本文にも説いて居られるから、餘分のことは述べない。たゞ一言だけ言つて見たいのは、五反田は其地元の人によつて記憶せられ、初瀬は關東の多くの在所に行はれて、却つて大和の方では知られて居ない事情である。近年の何々小唄、又は磯で名所は大洗節の如く、最初大和の初瀬で始まつたかの如く、もしも町田さんが見られたのだつたら誤りであらう。是は旅の歌、作者は少なくとも旅人の一人だから、主題の地に知られないのは寧ろ當り前で、さういふ樂しい記憶をもつ人たちが中心となつて、酒宴の感興を添へようとした歌が、この初瀬のやうに弘く流布して居るのは、ちやうど伊勢は津でもつの歌も同じに、間接にでも初瀬の事を知つて居る人が多かつた結果であり、この點五反田節の府中附近にまで進出して居たのを、珍しい現象と見なければならぬのとは、事情が又別で、此方は恐らく蔦が榎にからまるといふ類の、氣取つた文句が人を引付けたので、五反田の地名に興味をもつたわけでないから、結局はたゞ限地的に、この邊の人たちに愛撫せられる他はないものと思ふ。初瀬といふ替歌が今日はもう古物になつて居るのも、旅人の彼地を知る者が、近頃は追々少なくなつて來たからである。榎戸の榎がまだ青々として居た時代に、此等の歌を若返らすことは、事によつたら出來ない相談かもしれぬが、葦天大人も私も、決してそれをたゞ一つの念願として居るのでは無い。今までとかくこの樣な古いものが殘つて居たといふ、珍しい發見を以て滿足してしまふ傾きがあつたけれども、(44)今度はもう一歩是を足がかりに、三つ三通りの是さま節が、順つぎに此土地に傳はり弘まり、又は新たに歌ひ替へられて、人の心を樂しませて居た、その世の姿に近よつて見たいので、それも我々の心掛け次第で、望み無きには非ずだと思つて居る。榎戸の榎は古木であつたといふが、それでも一ぺんは若木であり、人が路傍の神の御しるしに、之を手植した時代はあつたらう。私はそれを多摩川の岸がなほ近く、こゝを川船の船場として居た時代だつたかと思つて居る。それが或年の大水に荒されて、村は以前の對岸の地へ移り、其跡は久しく曠野になつて居た。榎は其間にも段々と成長して、岡を南に越えて行く旅の者が、まだ陸續と去來して居る頃に、すでに遠くからの目標となり、又其樹蔭の居酒屋を有名にし、やがては五反田節といふやうな新たなる勸酒歌を、發生せしめる素地を作つたのではなからうか。斯ういふ推定の當れりや否やを決するのは、是から芽を吹くべき大川崎市の郷土研究でなければならぬ。最後になは一言、初瀬節の起原に一人の女性の參與して居るといふことは、たしかに鄙雜曾俎の誤讀かと思はれるから、私はそれを問題にしなかつた。

　

(45)　　　　　旅と故郷

　

　庭に來年の花の木を栽ゑようとして、土を掘かへして見ると色々の土器の破片が出てくる。この中には數千年も前に、貝を主食として居た人の造つたものも有るといふが、たゞの茶碗や擂鉢見たやうなかけらでも、どうしてこんな所に落ち散つて居たのか、理由のわかつて居るものなどは一つも無い。我々は單に無數の隱れたる意思の、積み重なりを感ずるばかりである。

　この草の根の朽ちて成つた黒土には、富士や淺間のある時代の火花が、今は灰になつて交つて居る。さうしてその底には奧多摩の山の岩の兄弟が、あどけなく睡つて居るのである。彼等の故郷の谿間から流れて出て、人知れずその小石の群を訪ね寄る水こそは、我々の空の昨日の雲であつた。それを掬みあげて我々は、再びこの庭前の花に灌がうとして居るのである。

　曾てこの野の林が國境の嶺まで續いて居た頃には、濕地を慕うて多くの山の獣が遊びに來た。喜多見世田ヶ谷の殿樣たちはそれを獵する面白さに由つて、家の零落を忘れようとして居たやうである。その獵人も獣も去つて後、こゝは暫くの間もつとも淋しく、又安らかなる田舍であつた。私などもまだ學生の時に、どこかこの高臺のはづれに來て、晴れたる川の水煙を眺めたことがある。或はくぬぎ原の暖い草地に寢ころんで、年とつてからどこに行つて住むだらうかを、考へて見たこともあつた。その林の間には、めつたに人の通らない細路があつた。それがちやうど今の家の、庭のあたりであつた樣な氣がして仕方がない。

(46)　我々の歴史がこれから出來ようとする心持、それが共に住む者の感覺以外には、跡を遺さぬだらうといふ心持が、故郷といふものゝ本の味では無かつたか。もしさうだとすれば現在に限らるゝ人生は、幾ら珍しくてもやつぱり旅である。

　

(47)　　　　　海と小舟と船頭さん

　　　　　　　　（大野若三郎君を憶ふ）

　

　大野君は以前ずつと元氣だつた頃でも、根つから警句などは吐かうとせぬ人だつたが、其する事は往々にして有形の警句であつた。今更註釋を試みるのも悲しい徒勞である。大野君の舊友の中には、自分たちのやうに「一生懸命」を以て美�ｺと心得て居る者が若干有つた。之に對して同君は、そんなに迄完成がして見たいかね、と言ひすてゝ逝つたやうな氣持がする。實際この忙がしい一生涯に、完成してしまふやうな仕事なら大したもので無い。あれへ往つて一休みなどと思つて居ると、此世は終にモルモットの車である。我々はたゞ到達の爲に齷齪して居つた。智慧が無かつたのかも知れぬ。

　「同人」には確かに行程と云ふやうな窮屈なものは無かつた。併し今でこそ峠に掛かつて掛茶屋を思ふ如き情に堪へないが、當初大野君が此雜誌を出す時、目的とは何ぞやと謂つたやうな顔をして居るのを見て、驚いたのは自分だけでは無かつたらう。處が人世には神秘な事が多い。この少しも存在せざる大野君の目的に對して、第一に賛助員と爲つたのは田舍に居た老いたる御父さんだつた。親と云ふ者は誠によく賛成をする者だと思つた。我々若干の俗物共は、折角大野君が江東の子弟三千人と謂つた風で、貰つた金を懷にして國から戻つて來たのに、まあ其金が盡きたら罷めるつもりで遣るのだねなどと、まだそんな事を謂つて居たものである。

　さうすると同君は眼を左右に動かして、如何にも合點の行かぬと云ふ樣子をしたやうに記憶する。實際之を濟まし(48)てさて次は何をするか、毛頭も考へて居なかつたのだから其筈である。雜誌を出す氣になつて雜誌を出す。止めれば生活にぽかんと穴があくに違ひ無い。そんな事が出來るものかと思つたのであらう。然るに今や其「同人」を廢刊しても、椅別大なる空隙を生ずるの虞れが無くなつた。問題と解決とが融合してしまつた。無期限の期限が來た。かの飄然たる一葉の扁舟の人に取つては、風が出たから櫓を引揚げて帆を懸けたと云ふ迄かも知らぬが、濱に立つ我々はいつ迄も、この漫々たる大海を眺めつゝ、曾て舷を叩いて歌つて居た大野君を、追想せざるを得ぬのである。

　

(49)　　　　　大きな?の語

　

　メラネシアの荒海の彼方で、三十年の冒險生活を續けて居る小嶺磯吉君が、やさしいでは無いか、私に子供の時の話をした。それは松浦《まつら》彼杵《そのき》の處々の入江に、今も水上の漂泊をして居る家船《えふね》と云ふ部曲の事を談じた序であつた。此人十四歳の時と云ふから、明治十二年の出來事である。肥前は中五島の奈留島《なるしま》の椿浦で、小嶺氏の從兄が鮪《しび》の大敷網を建てたことがある。水際に併行して弓形に引廻らした長い網の、右の出口が幅十八間あつて、何とか謂ふ別の網を張り、磯山の上から差圖をして、爰で出ようとする魚の群を揃へるのである。船で此樣子を見に往つて居ると、後にも先にも見たことの無い大きな赤?が、背中を出して此横網に引罹つた。其長さがちやうど十八間だけあつた。其背中には鯨などと同じやうに、筒の形をした一種の蠣が無數に附いて居る。小船から飛移つて其貝を十ばかり引剥がし、持つて還つて後に食つたらうまかつた。大よそ兩手の指を合せて圍む程もあつたと云ふ。

　五島方面の家船を、小嶺氏が見たのは此時が始であつた。船の數にして四十何艘と云ふものが、此日恰かも此浦に來て舳を連ねて繋つて居た。彼等は皆鉾を用ゐて魚を取るのを以て知られて居る。斯んな大きな赤?を捕へようとすれば、網を破られるに違ひ無い。どうした物であらうと評定をして居る處へ遣つて來て、是非とも自分たちに貰ひたい。殺して取つて油を搾るからと言つたが、到頭彼等の希望を退けて、網を解いて逃がしてしまつたと云ふことである。多分はあまり大きいので少々氣味が惡かつた爲であらうと思はれる。

　同じ小嶺君の話に、一丈から二丈ぐらゐ迄の大赤?は、其後も度々見たことがある。凡そ海底に沈んで勞働する者(50)に取つて、此魚ほど怖い敵は無いさうである。鱶などは?々潜水者の近くに寄つて來ることがあつても、其危險は身一つを守れば之を防ぎ得るが、?に至つてはどう云ふ積りであるか知らず、多くは其尾にある鋭い劍を以て送氣管を切らうとする。他の大きな魚の齒は見た處は箆などの如くなまくらであつて、しかもあれだけ怖しい害をするのであるが、?の尾の劍は觸れて見ても膚に引掛かゝるほどの、例へば剃刀などのやうな鋭さである。それが勢ひを以てすつと切るのだからたまつたものでは無い。海の底はよほど深い處でも存外明るいものである。眞珠貝の採取者等が、熱心に緑の光の中で働いて居ると、不時に手元の暗くなるやうに物蔭が出來ることがある。はて空模樣でも惡いのかと、水面の方を見上げると、この二丈もある赤?が、三つ五つと群をなして、鰭を飜へして十｜尋《ひろ》十五尋の頭の上を泳いで通る。斯う云ふ場合には直ちに身を後斜めに反り返して、足で水底の細かな泥を、力一杯に掘起すのである。さうすると濁つた水が押上げて、忽ち魚の居るあたりに屆くから、ついと外へ退いて行くのである。海の底にはまだ色々の世に知られぬ生活があるのだと、小嶺君はしみ／”＼と私に話されたことであるが、陸の上の人生とても何の遍く世に知られては居らう。例へば東海の津々浦々に、行き到らぬ處も無からうと思ふ海部《あまべ》の事蹟すらも、僅かに數百艘の家船を殘して、今や正に消え行かうとして居るのである。

　

(51)　　　　　笑はれる馬

　

　馬の屁を笑ふと、晴の場所で恥を掻く、と常陸などでは謂つて居る。笑ふ種の誠に尠ない凡人生涯に於て、これ位の些細な事は、許されてもよからうにと思ふ。それにしても誰が最初に此經驗をしたものか。あの屁さへ笑はなかつたら、こんな目には遭ふまいと思ひ得る人が、果して有つたかどうか。それは只教訓であると老人などは言ふ。其樣な無作法者なればこそ、恥もかくのだと言つてもよいが、それは後の説明と云ふもので、原因の馬たり屁たる道理を、解せしむるには足らぬのである。

　上方では子供などの口の脇の爛れて白くなるのを、アクチが切れると謂ひ、鴉の口眞似をするとアクチが切れると云ふ。信州などでは之をゴキズレと謂ふ。ゴキとは飯椀のことである。やはり鴉の口眞似の制裁として弘く信ぜられ、ゴキズレの出來た者は鴉を見かけて、鴉のゴキズレ御返し申すと、三遍言へば治るとも傳へて居る。成る程よく見ると、彼の口脇も些し無用に裂けて居る。殊に幼少の鴉には白い處が著しい。聲を似せると形まで似るやうに、昔の人は考へて居たのかも知れぬ。

　併し丸でさうは思はなかつたらしい地方もある。例へば駿州上州磐城平などで、鴉の眞似をすると口に灸をすゑられると云ふ。誰にとは無いが、勿論鴉が竊かにすゑるのである。さうすれば我々の祖先は、必ずしも當初感染を怖れて、カアカアの口眞似を戒めたのでは無かつた。又鷄の啼眞似をさせぬ地方もある。霞浦の岸では之を犯せば火事があると言ふ。梟の聲を眞似ると啼き負けた方が死ぬと言ひ、時鳥の聲も同樣とする例は多い。微々たる鶯でさへも、(52)口眞似をすると鶯が死ぬと、越前などでは傳へて居る。

　講釋では無いが、眞似には二つの種類が有る。知らず識らずに似て行く分は、感化即ち敬服であるが、知りつゝする眞似は毎に失禮に當る。即ち相手の思はくには構はず、自分ばかりか、他人にも笑はせようとする時に行なふのである。殊に古人は暇多く眞似が上手で、眞似て見たい特色には、をかしいものが昔は猶多かつた。我々の行儀作法には笑はれて改良して來たものが多いのである。

　但し人ならば其も分つて居る。口眞似をせられて腹の立たぬことは無いが、鴉などならばよささうなものである。如何にしてアクチや灸の如き迷惑千萬の制裁があるか。是れ第二の難問である。自分の解答は、一切の故事が書物に出て居ると、思ふ人々とは談じても徒爾であるが、先づは人間と此等の動物と、對等以上の交際をして居た時代の遺風で、理由があまりに奇拔にして、しかも結果が永く我々の惱む所であつた爲に、今までも記憶して居たものと思つて居る。中世に心學者見たやうなリクルグズが居つて、竊かに之を制定し公布したものとは、到底推論することが出來ぬのである。

　動物を笑つてはならぬと云ふ禁忌は、多くの南方の島々に、一段と濃厚な痕跡を遺して居る。例へば中央セレベスのボソ湖の邊では、大小奇形の立石を目して、昔此地に榮えた大部落の名殘となし、曾て床の下へ針を落した者、猫に命じて之を拾ひ來らしめ、猫が針を持つて還つたのを人々大に笑つたによつて、家と人とは石に化し、村の地は水の下になつたと云ひ、ミンダナオの島では狩人山に入つて猪を捕り槍を損じ、小河の岸に休んで之を修理する折柄、蛙の啼聲を聽付けて之を口眞似し、そんな閑があるなら來て手傳ふがよいと嘲つて去ると、忽ち多數の小石に追掛けられて自分も終に石と化したと云ひ、又同じ島人が川舟に乘つて下る時、岩の上に猫と猿との闘ふを見て、之を笑つた處が、忽ち舟覆つて石に化したと云ふの類、まだ何程も語り傳へられて居る。

　制裁は必ずしも犯人を石と化するばかりでは無かつた。又迅雨雷霆を以て一村を覆没せしめた例も多い。此等の例(53)を集めて研究した若いペリイの説では、傳説は何れも新來の異民族に對する土人等の誤つた觀察に基づくものでは無いかと云ふことである。即ち無智なる先住者は彼等が石を斫つて祭壇を造るを見て、人を石にする術ありとし、彼等が能く風雨を祈り、兼て或種の動物を尊信するを知つて彼の災害は此を侮蔑するに基く如く考へたので無いかと言つて居る。其斷定の正しいか否かは、後の人が決するであらう。我々は唯此類の小さな風俗の、空しく忘れ去らるゝを防げば足るのである。

　蘇馬答刺《スマトラ》西海のニアスの島に、昔或女孕むことあつて異味を求め、雷が食べたいと其夫にねだつた。之を捕へる法には、犬に犢鼻褌をかゝせ、又猫を屋根の上に踊らしめ、終に其目的を達したと云ふ話が殘つて居る。ボルネオ島のピノオ地方では、昔神其名をアパン・ガンデイと呼ぶ者猿を捕へて帶と鉢卷をさせたるに、土人集まり見て大に之を笑ふ。神々之を怒り、忽ち雷雨を降し又若干の人を石に化せしめたと傳へて居る。此二個の蠻民の口碑は一方には小子部栖輕《ちひさこべのすがる》の不可思議な冒險談を説明し、他の一方には東亞細亞一帶の奇風俗、猿を舞はしめて厩の神を祭ると云ふ習はしと、何等か關係のあるもので無いかを考へさせる。人間の物忘れは、やはり一つの運命である。所謂三年前の鴉に問うても、何故に彼等が小兒の嘲を免れて居るかを、答へることは到底出來まいと思ふ。

　

(54)　　　　　大日塚の話

　

　和田君の以前の住居では座敷の床の間に棚を釣つて澤山の埴輪が陳列してあつた。二十幾つの埴輪には一つ／＼苦心の歴史があつて、素人には分らぬが尊い物であるさうだ。中には茲に言ふことを憚るやうな珍品もある。その珍品は高崎在の皮作村から手に入れた。婦人左袵の土偶は下野の東部に於て得たる一の逸品である。惜むべきことには所々に小さい破損がある上、腰から下は無くてその左前の袵の端が少々不足して居る。採集當時の一部始終は手控に存して居た故、八年餘過ぎてから遙々と其土地へ行つて見たら、これだから田舍は面白いのである。噂に聞いた柿の樹の下に依然として八年前の埴輪の破片があつた。三つか四つに毀れて居るが、同じ種類の人形の下半分である。何でも同じ物が二つ有つたやうで、今一つ滿足な腰から下の埴輪が倒にして植木鉢に代用して有つた。此屋敷の主は野寺茂兵衛と云ふ老人で、方々の古墳を掘りあるきよく採集者を案内した男であつたが、ずつと前に故人になつて第二世の爺は當時の小倅がなれの果であつた。右の埴輪の植木鉢には大きな茶の木が栽ゑてあつて、底の方は土中へ生け込み、茶の木を引き拔けば埴輪が毀れる。この茶の木は先代茂兵衛老人の遺愛であるさうで、何が何でも棄てることは忍びぬと云ふ話であつたが、やはりそれは無代で授受すべき場合に關する意見であつて、少々の金員を提供することが明白になつたら、即時に鋸を持出して容易くその名木を伐つてくれた。さて埴輪の土を拂ひ除けて見ると、案の定袵の端が少しばかり殘つて居たので嬉しかつた。三尺にも餘る大土偶である。最初此土偶を發見した場所は柿の樹から四五間を隔てた畠の高みに在る古塚であつて、一時は塚の上に祀つて居たことがあるらしい。塚の名を大日塚と云(55)ふのは、其土偶が大日如來の尊像に似て居た爲だらうと和田君は言はれる。塚の頂上には此前には三角柱が立つて居たが、これも既に小さな石の測量標に變つてをつた。測量の邪魔になるので其像を塚の中腹の今は牛蒡畑となつて居るあたりへ移し、それから段々と東京の小石川まで出て來たのである。塚の上は一面の茅であつたが草の中へ手を入れて探つて居る中に、小さな土器の破片を二つ三つ見出した。よく氣を付けて見ると、其一つは人形の角髪《みづら》の端で今一つは腕の毀れた所、どちらも家の埴輪の缺けて居る部分であつた。縁と云ふものは偶然の遭遇では無くて人間が進んで求むべきものであると見える。さてこの大きな埴輪をどうして持つて歸らうかと思つた。此村は下野國芳賀郡中村大字若旅で鬼怒川の岸までは十町あまりある。其渡し場迄は繩で結はへて子供が持つて來てくれた。渡し場の船頭に聞くと、此川を折々東京へ下る船が通ると云ふことだから、運賃は品物を受取つた上と云ふ傳言を添へて、そんな船へ積込んで貰ふことを渡し場へ頼み、持合せの葉書へ豫め未見の船乘の爲に自分の家へ宛てた通知?を代筆して遣つて、隅田川の河岸へ着いたとき、問屋の所番地だけを書入れて出してもらふことにして置いた。併しながら此葉書は東京へ歸つて後一月ばかりも屆かぬので、内々心細くなつて居る處へ漸とのことでやつて來た。大悦びで出掛けて見ると、其船は芳賀郡の益子から陶器を運んで來る高瀬であつて、同類の毀れ物の中に交じり無難無事に安着して居つた。更に好都合なことにはどうせ瀬戸物類を小石川邊の取引先へ屆けるから、其車力に附けて送つて上げませうと云ふ話であつて、これも頼んで歸つて來た。處が何と此折角の埴輪が、僅か大河から小石川までの途中で、車からでも轉がし落したものか、散々に毀れて來たのである。他行をして戻つて見ると、ばら／＼になつて縁の上に列べてあつた。彫塑家の吉田君はみんな集めて附けてやる、譯は無い事だと言つて呉れるが、まだ其まゝにしてあると云ふ。

　

(56)　　　　　村の址

　

　今年の神嘗祭の前日に舊友の松本君と二人、秩父へ遊びに行くとて、高麗川の谷を登り上古の高麗人の殖民地を通過した。雨の折々降つて來る日であつた。吾野の宿は昔の秩父街道の大驛である。今は汽車の爲に旅客を奪はれたけれども、絹と杉材との取引が盛な爲に、尚市場の面目を失つては居らぬ。此夏の大水には、此部落は一たび沼の底になつた。それは此坂石町分の下手で對岸の山が山半分崩れた爲に、一時高麗川の流を斷切つたからである。川のこちらの岸には、まだ建てゝ間の無い家が數戸押潰されて、二十四人土中に埋められた。大雨の眞夜中であつた故に一人も救はれなかつたのである。さて其土を人も掘り川の水も押流すけれども、まだ一人の姿をも見ることが出來ぬさうである。大きな四角な卒塔婆をその天然の大塚の上に立て、引接のつもりであらう、布の綱を傍の大木へ引渡してある。生死の問題に冷淡であると思つた松本君が、悄然として帽を脱いだ。自分も一つには此人々の薄運を悲しみ、又一つには文明人の天然を征服するといふことも、存外根據の無いものだと云ふことを知つて寂しい心持がした。

　松本君よ。此の如き例は近代の歴史に決して稀有なものでは無い。自分はまだ多くの類型を知つて居る。あまり悲しい物語である故に、山中の旅行ではわざと云はなかつたのである。昨年六月の初に自分は飛騨の白川村に入り、此名の通りに水の色の蒼白い莊川の岸を下つた。折柄の梅雨で、霧のやうなしぶきが傘の蔭まで滿ちわたつた。飯島荻の町の盆地を過ぎると、兩岸の山が再び狹まつて、椿原の下流では人家の無い岨路が中々長い。闊葉樹の林地の中には處々に地理書に所謂扇?地の小さいのがある。僅かに雜草に蔽はれて居るが、其下はすぐに稜のある小石原で踏め(57)ばぐわら／＼と草鞋に響く。近年の出水で作られたものである。對岸は常盤木が多く、此邊へ來ると、姫小松が段々に減つて、赤松が多くなつて居る。赤松の赭い幹は岩と水の色によく映えてゐた。其岸に一個所山の頂上から眞直に切下げたやうな大薙があつて、裾には其土で作つた少しの平地に二、三十年の赤松林があつた。自分の荷持は越中のボッカであつた故に、詳しい事實は知らなかつたが、此山崩れは百年ばかり前のことで、この土の下には一つの町があつたと云ふ。水害の後に來て見たら、跡形も無かつたのださうである。川荒れの土の上には、翌年は草が生え、十年すれば林になり、五十年を過ぐれば、埴土が耕作を誘ふやうになる。人の烈しい悲歎と畏怖も、亦略々右の年數で忘却せられるのである。

　琴を輝く鈴木皷村君の竹馬の友で、後に仙臺の兵營に於て再び舊交を温めた人に、本吉郡唐桑村の良家の若主人があつた。鈴木君は大海嘯のすぐ後に、此村に見舞に行つて見ると、此半島の村の小山には帆の破れた船が乘上げられてあつた。里には一軒の家も殘つて居なかつた。山の麓に有つた友人の屋敷も、唯の荒地であつたさうである。其後何の消息も聞かぬのは、或は家内殘らず此災害に遭つたのでは無いかと思ふさうである。

　同じ人が明治二十二年の十一月に、演習で岩代の檜原湖の岸に泊つて、翌日小舟で湖水を渡つたことがある。此湖水のある所は其前年七月の磐梯山噴火の前迄は峠の頂上であつた。山崩れが川の流を塞いだ爲に、窪みの水が次第に増して來た。政府で注意をして、高い所に代地を與へ村民を引移らせようとした頃には、最早家を解いて引越すだけの暇が無かつた。三百餘級の石段を登つた八幡の社地が、不忍の辨天樣のやうになつてしまつた。次の日、小舟の中から覗くと、秋の水の澄んでゐる爲めに水底に、土藏の瓦屋根が見える。枝振の面白い柿の樹が見える。何とか云ふ名木の松は梢の端ばかりを水の上に出して、まだ青かつたさうである。此湖と其岸の山の下とには、可なり大きな村が埋まつて居るのである。

　函樽鐵道の汽車で駒ヶ嶽の大沼小沼の間を行くと、水底に大きな蝦夷松の林が見える。殘つて居るのは幹ばかりで、(58)略々五六十年木の密林である。駿河の愛鷹山から神代杉の出るのも、一度は此の如き?態を經て來たのでは無いかと思ふ。

　肥前島原半島の寛政度の山燒の後、新に出來た平地の上に建築をしようとした人が、頻に地形を築いて居る中に、一ヶ所下が空洞な場所があつて、やがて表土を築毀したら、それは恰も一棟の酒庫であつた。其中から白々と痩せ衰へた人が三人出て來た。一年の餘酒の粕に由つて命を續いでゐたのである。地上に出て程なく死んださうである。薩摩の櫻島は噴火の後久しく來て住む者が無かつた。今は富裕平穩なる村になつて居るが、土地の人はまだ二百年前の恐怖を記憶して居る。伊豆の大島は水の乏しい島である。此村で試みに井を穿ると、三十尺も下から木の葉に交つて物の灰が出て來る。野増の海岸の絶壁には一丈數尺の赤い熔岩の下に厚さ五寸ばかりの埴土がある。此中から色々の古代住民の遺物が出た。又其下の浪打際にも、更に一層の人の住んだ土があるやうである。爲朝の流されてゐた頃の住居は、今は數町先の海上であらうと云ふことである。

　地の利乏しくして村の絶えた地はいくらもある。天草を旅行するとき山中の松林の中に土窟の跡石垣などをいくらも見た。宮古八重山の島々にも、石で圍つた屋敷の中に、どれも／＼家のない所があつた事を、近年笹森氏の紀行に書いて居る。是は傳染病の爲である。駿河江尻町の東にあつた辻村と云ふ村も明和九年に疫病で死絶えて、屋敷地が畑になつた。此國志太郡の奧遠州榛原郡の奧にも十戸二十戸の小村で、亡所になつた村がある。其或ものは猛獣の爲だと言つて居る。丹波氷上郡黒井村に近き平松と云ふ村も無くなつた。因幡八頭郡の中島村、氣高郡の雁津村は水害の爲めに退轉したとある。常陸多賀郡高岡村の西に上田代新田と云ふ村は、寛永年間の新田であつたが、享保十八年に人口が全く絶えて、村が無くなつた。東西十町南北二十町の地域であつた。こんな例は外に何ほどもあるのである。

　十五年以前に、一夏自分が生活した三河の伊良湖崎の古い村も無くなつた。是は陸軍の用地に圍はれた爲である。村の人は十分な代償を受けて滿足して立退いたでもあらうが、あの明神山の蔭のつめたい清水は再び汲みに行くこと(59)が出來ぬ。數十匹の兎に出逢つた小山の麓の小松原にも永久に遊びに行くことが出來ぬ。あの年の紀行は村民の子孫にとつても大事な記念になつた。世の中の進むと云ふことには、色々の意味を含んで居るものである。

　

(60)　　　　　將來のチョコレート

　　　　　　　　（歡迎會席上談）

　

　瑞西には數ヶ月居ましたが、ジュネブの町以外はあまり見物して居りません。ジュネブの名物は、何と申してもチョコレートであります。勿論さう古くからでは有りますまいが、通な人が土産に求めて還ります。茲のをたぺては外のはたべられぬなどとよく申します。處が名物にはよく有る話で、佛蘭西領に來ると又處々の町で、同じやうなことを聞きます。里昂《リオン》には殊に澤山賣つて居ます。それからずつと南へ下つて、ドデーのタルタランで有名になつたタラスコンの停車場近くにも、巨大なる森永式の工場と廣告とがあります。どうも妙な次第で、原料のココアは一粒だつて歐羅巴には出來ないのですが、南アルプスの裾野には、一帶に佳い牛乳が産する爲に、遙々と阿弗利加の品物を此へ呼寄せて、斯うして盛にチョコレートを嘗めさせるやうになつたのであります。さうして見ると、私の久しく遊んで居たジュネブの湖水、之を南佛蘭西に導くローヌの大川、さては其川口に近く、昔から榮えたマルセーユ其他の港が、こんな微細の生活にまで、蔭ながら有力なる口を利いて居たことが、始めて分るのであります。

　バイロンの「ローヌ川を下る」と云ふ長い詩は、少年の頃に讀んだことがあります。此詩人の舊栖は今もジュネブの郊外に岡の中腹からレマン湖の緑の水を臨んで、半ば喬木と藪カラシの紅葉とに蔽はれて立つて居ます。ローヌ川は東方遠く高山の谿を出でて、此湖水に注ぐ前から、既にローヌと呼ばれて居ます。諏訪湖で言ふならば西岸の平野岡谷の邊が即ちジュネブの城下で、其から出て行く天龍川をも、同じくローヌ川と謂ふのであります。湖水の落口か(61)ら六七町の下流で、アルブといふ川が落合ひます。此方は反對に濁りきつた水で、しかも氷河の端から僅か十時間で來ると云ふので、眞夏にも此川の風だけは氷です。昔は舟運が專らであつたやうです。ジュネブから里昂までは汽車ならば六時間、些しの隧道を出ると、いかめしい税關や警察はありますが、元々瑞佛の國境などは政治的のもので、天然には只一續きの、上サボアの盆地であります。百姓の風俗なども一つで、古風な村の娘は白い布の衣裳に、紅金巾の布帽子をして、隣國のジュネブの町の市に來ます。隣國とはいつても二哩も郊外に出るともう佛蘭西で、日も月も佛國の山から出て、佛國の山に入ります。

　斯うしてジュネブと里昂は古くから、川上と川下に居て相競うて居ました。ジュネブは昔から獨立心の強い自由市でした。そこでサボアの殿樣は之を困らせる爲に、中世に著名であつた此町の市を奪つて、其權利を里昂に與へました。其が今日の里昂の大市の起原です。春秋二度の市であります。私はちやうど秋市の絡頃に往つて見ましたが、何の事は無い屋外の大共進會、臨時の一市街であつて、秋は主として機械類を賣ります。それが又ローヌの岸の、大公園の一角に在るのです。里昂は靜かな古風な、京都のやうな感じのする町です。他國者も相應に入つては居ますが、一體に質素な人柄で、近邊の工場も絹布や手廻り品などの、綺麗な品が多いのです。岡の上には大昔の城迹や寺院があつて、それから眺望すると東には群山が起伏して、自然に水の道がわかります。ソーヌと云ふ川が今一つ町の中を流れて居ます。フランス人の語ではソーヌは女性でローヌが男性にしてあります。町を僅か出た處で二つの川は合しますが、そこをマリアージ（婚姻）と呼んで居るのはしやれたものです。

　里昂附近の田舍は葡萄園が多うございます。私は十月半の日曜にあるいて見ましたが、村々では酒の神の祭禮をして居ました。門に二本の樅の枝を挿すこと、日本の松飾の如く、尾花で葺いた屋臺を牡牛に牽かせ、バックスに出立つた男は歌に合せて「新しぼり」を飲み、行列を取卷いて若い男女と少年が踊ります。なんぼ世界大戰でも、此祭だけはこはし得なかつたと見えます。町に入つて來ると二つの川の橋本の掛茶屋には、「新酒あり」の看板が、紅い燈(62)火に照されてゐます。此新酒は甘いもので、米の酒なら甘酒の方に近いものだと云ふことです。

　斯ういふ秋の樂の中を出て、物の一時とも立たぬのに、長い隧道を一つだけ南へ越しますと、四邊の?況はすつかり變り、同じローヌの川の邊とも思はれぬ位になります。此からが所謂プロバンスで、日の光も野山の色も段々と南方化して行きます。土は全體に白々として、細かな土埃が立ちます。オランジュと云ふ停車場は、柑橘の産地と見えますが、此邊は殊に眞白な路の塵が屋根にも垣根にも積つて居ます。此に日が日本の夏のやうに光りますので、心なしか阿弗利加近しと深く感じたことであります。阿弗利加の影響としては人は先づシロコと云ふ風のことを説きます。此風が吹き始めますと、草木が皆凋れると申します。砂漠を通つて來たひどい乾燥したぬくい風で、人畜ともにじつとして働いては居られぬやうだと申します。里昂近くまでも吹いて來るのが普通で、罪を犯してもシロコの日であつたと證明すると、我刑法の酩酊中と同じく、刑を宥恕せられるなどと云ふ話さへあります。中世に法皇が亂を避けて都を遷して居たア?ニオンの町、破戒無殘の色々の物語が、雄大なローヌの風光に織込まれて、無限の史趣を形成して居る故迹も、亦このシロコの眞只中に在るのです。それから下つてはタラスコンの町、茲には有名な祭禮の獅子舞があつて、其繪葉書を賣つて居ます。ドデーの「水卓小屋からの手紙」は、此附近の田舍を多く書いたものです。美しい村の娘が山の羊飼の小屋に泊つて、星の話を聽いたと云ふ話、以前大野君が飜譯した一篇なども、舞臺はこの東の方に聳ゆるルベロンの山であります。

　汽車がタラスコンから岐れて、一時間ほども野の中を西へ走ると、ニームの古い町があります。トルバドールの昔から、近くはミストラルの思ひ出まで、歌に因みの深い土地でありますが、其又土の底には、羅馬の海の勇者たちが遺して去つた、無數の金石文が睡つて居ました。見事なる地方法院の大建築に竝んで、千敷百年のアレナが在ります。私の尋ねた日は日曜で、闘牛を遣つて樂んでゐました。今の町民の數には大き過ぎる觀覽場で、こゝに一團そこに數家族と、子供まじりに腰をかけて見てゐる者があれば、高い處にたつた二人、青天井を背景にして若い男女が、睦ま(63)じく見物してゐるなど、昔もかくやの情趣でありました。アールと云ふ町も舊跡であります。此から又幹線になつて、二時間足らずでマルセーユの港です。地中海の岸には幾つとなく、斯う云ふ町を羅馬人は遺したのです。東へ寄るとカンヌやニース、アンチーブにも昔の城迹があります。此が世に謂ふコートダジュル、即ち瑠璃の濱でありまして、海は深緑で日は暖く照り、香水と橄欖油の産地です。緯度は札幌ぐらゐだが處々に椰子が繁茂し、此邊ばかりは歐羅巴でも柿がなります。

　此等多くの船津の中から、マルセーユ港だけが近世風に發達したのです。現代の阿弗利加は、此港から歐羅巴に入ります。ローヌの水筋は乃ち之を導いて、遠く奧地と繋いだのであります。雜沓の模樣が上海とよく似た町で、これに黒人と近東の諸人種、伊太利希臘などから來た低い勞働者、西班牙あたりの下品な快樂を、つきまぜたものが馬耳塞であります。活動などを覗いて見ましても、ドデーのシドニーなどと續けて、熱帶の明るい放縱な情味を、奇怪なる趣向によつて綴つたものが、喝采せられてゐます。誠にアルゼリヤやタンジールの、隣の港であることがよく分りました。歐羅巴人の阿弗利加を理解して居ることは、想像以上でありました。大阪神戸に居て滿洲の話をきく以上に、利害の感を深く持つてゐます。さうして其一半は佛蘭西の中次であつたのです。佛人は阿弗利加の北から入込んで、次第に南進して英國の利害と衝突しました。此相撲が赤道の直下で水になつたのが、即ち我々の關係して居る委任統治であります。澤山の人の智慧で、此が國際聯盟の所管に歸し、一昨年からジュネブで此問題を攻究することになりました。恰もアルプスの麓の原の酪農場へ、サハラ以南のココアを輸入して、チョコレートを作るやうなわけです。交通の路は天然に具はつてゐても、時節が來ぬと牛乳が菓子にはなれませぬ。之を考へるとつまらぬチョコレートの話も、何かの謎のやうに感ぜられます。

　私が此話をしますと、横から口を出して、チョコレートの繁昌には今一つ、原料の砂糖の税と云ふことを考へて見ねばならぬ、と言つた人があります。なるほど其砂糖は我々に近い東南亞細亞から盛に行き、又亞米利加の眞中から(64)も入込んで、たつた一種の小事業にも、各大陸の協同が必要なことを證據立てゝゐます。此に餘分の厄介な税と云ふものが無くなるのが、所謂人種差別の撤廢であつて、ジュネブの良い御菓子は、此から賣れ出すのかも知れませぬ。

　

(65)　　　　　扇と人の命

　　　　　　　（松本市坐談）

　

　それでは何を話して居るのか分らぬやうな話を一つ致しませう。私の爰に持つて參つた扇子は、一昨年の九月山陰道を旅行した際に貰つて來た品で、鳥取温泉十周年記念とございます。之を見て思ひ出しましたことは、鳥取市から一つ西の停車場の湖山《こやま》と云ふ處に、湖山池と云ふ風景の好い湖水があります。千代川の汎濫と所謂吹上げの砂洲とを以て作り上げた、北海岸に數ある潟湖《かたこ》の一つでありますが、土地では是を以て湖山長者の田の跡と傳説して居ります。湖山長者は昔此湖岸の岡の麓に住んで居た大金持であります。其長者が一朝にして没落し、千町の田は陷つて此湖水になつたと申すので、色々の書物にも其物語を載せて居ります。長者は榮華の餘りに道に背いた望み事をした爲に、天の憎しみを受けて夢のやうに滅亡したと云ふのです。因幡志などを見ると、長者は毎年の田植時に多勢の早少女を集めて、千町歩の田面を一日に植ゑるのを名聞《みやうもん》として居た處、或年どうしても植ゑ終ることの出來ぬ内に既に夕方にならんとする。それを殘念に思つて、黄金の扇をさつと開いて山の入日を招き返しました。すると其威光によつて日は三反ばかりも後戻りをしたが、其と同時に湖山長者の運は傾いたと云つて居ります。而うして其年に限つてどうして又千町の田を植ゑ終ることが出來なかつたかと申しますのに、書名は失念しましたが近頃見た一書には猿の祟りだと云ふことを記して居ります。此日長者の千町田の中の道を、人の長《たけ》ほどある大猿が子猿を負うて通つた。早少女等之を見付けてあれ／＼と珍しがつて居る間に多勢の人數のことゝて大分植ゑはかが遲れました。つまりさうさせよう(66)として大猿が子を負うて來たのであります。

　此話は奇拔ではありますが、此やうな細かしい算勘は、長者の話とは調和して居りませぬ。後世風の思想の混入でありまして、傳説としては價値の低いものであります。是と同種の話は有名な相州の代官蓑笠之助と云ふ人の農家貫行か何かに有つたと記憶します。或山村に於て田主《たぬし》が出て田植を見廻はつて居りますと、ある山陰の林から一羽の大鷲が兎を引捉んで飛騰りました。傍の者があれを御覽なされと袖を引くのを、田主はそしらぬ顔をして返事すらもしませぬ。何として彼ほど珍しい見物を顧みられなんだかと後で申しますと、さて／＼貴殿は思慮の無いことを言はれる。今此だけの早少女が總勢手を休めて空を仰ぎ見たとすれば、其間にどれ程の苗が植ゑおくれると思はれるか、其やうなことで作大將の業が勤められるかと言つて、相手を赤面させたと書いてありました。

　蓑笠之助翁の時代としては是はさもあるべき一佳話であります。江戸時代も後半期になりましては、生活上の餘裕はそれ程にも少なくなつて居り、從つて農家主人の經濟的頭腦もそこ迄進んで居たものが稀では無かつたのであります。時世が斯う云ふ細かい算勘をも必要とさせたのであります。唯是を千年の昔の、湖山長者が境涯に持つて行くと、繼目の露骨な不調和なる話になります。殊に田植などは半分は勞作で半分は祭でありました。腹一杯食飲みをして腹一杯歌ひ、多勢で面白く賑かに騷ぐのが昔の田植でありました。餘裕のある共同娯樂の日に、斯る殺風景な挿話を持込んだのを不調和と認めるので、それで後代の小賢しい農民などの、取附けた説明であることが露はれるのであります。

　人足などを勘定するのによく延人員何程と申しますが、今日の時代は此單位も日で無くして時又は分を以てせねばならぬやうになりました。今では田植なども純然たる勞作になつて了ひましたから、此話は世が降るほどよく理解し得らるゝことになりませう。今一つ細かい事を申せば、一日の勤勞には飽き又は疲れた夕方の心持も有ますが、午前九時とか十時とかのごく良い時間の積算は、實價に於ては一人の一日、又は十何時間と云ふよりも遙かに優つて居る(67)と言はねばなりませぬ。之を知つて利用し又は省約するのが諸君の任務であります。

　そこで本日の晝間、私の致した四時間の講話のことになりますが、私は本人ですから到底あれを無價値のもの、三百人の聽衆の善い時間を傾けるに足らざること、たとへば子猿を負うた大猿の通行、又は兎を捉んだ鷲などと、比すべきものだとは考へることが出來ませぬ。しかし不幸にしてそれは唯の自惚で、第三者から見て何の用も無いものであつたならば、是が爲に費された一千時間あまりの、優良なる人の命は徒費になります。だから講話は良いものだなどと云ふ漠たる概念に囚はれずに、又は盛況を祝すなどとたゞ多勢の集まることを專一とせずに、少なく費しても濟む算段、又は丸々節約してしまふ思案をもせられねばならぬと思ひます。實際今日は人の價値がそれ程貴くなつて居るのです。殘念ながら一年の休みの、百日もあつた娯樂勝手次第の大昔では無いのであります。娯樂ならば五人十人の小勢で分散するよりは、一處に固まつて時を送る方がまさしく效果は多いが、勞作ならば少しでも延人員の費を節して、同じ效果を收めることを期せねばなりませぬ。

　是も同じ一昨年九月の旅行に、私は山口縣の小郡と云ふ町で講演をしました。朝の十時前後の良い時刻に汽車が着きますと、何だかプラットホームが非常な群集であります。是は振袖を着た美しい娘が鐵道往生をしたのか、乃至は又某老公と某大將が手を繋いででも還られたのかと思つて居りますと、不幸にしてそれが悉く私の出迎でありました。私は如何にしてこの莫大なる好意に應酬しようかと當感をして居りました處、一人の注意深い人が進んで來て、私の手に厚さ一寸もあるかと思ふ名刺の塊りを贈られ、此人々が君の勞を犒ふのだと言はれたので、私は之を幸として一同に對し、大きな辭儀を五箇ほど致しまして、其名刺の塊りを隱しに入れました。其時私と同行して來た一人の英國の文士が居りました。宿で寢ようとするときになつて私に申しますには、英吉利などで君ぐらゐの人が地方の都會に演説に來るときは、電報を打つて置いた處がせい／”＼一人の舊知が迎へに出る位なものだ。其晩は其友人の家について家の者と一緒に夕食を食うて泊る迄である。日本ではえらい事をすると申しますから、憚りながらまだ我々は、珍(68)客と相會するの快樂を多數で共に味ふだけの餘裕を有つて居ると答へてやりました。すると又、我々の國では名刺と云ふ物は、口で自慢らしく身分を名乘ることも出來ぬやうな場合だけに使ふのにと申します。貴君は東洋の諸國で人の名を諱むと云ふ舊風習があるのを知らぬからそんな事を言ふのである。日本では古くから二字を捧げるとも又名簿を奉るとも謂つて、拙者の名前は今後御遠慮なく御呼び下さつて宜しいと云ふ意味で、名刺を出すのを以て長者に對する敬意の表白方法として居るのであると教へましたら、成るほどそんな譯かと言つてしまひましたが、其節私の内心ひやひやして居りましたのは、彼が更に今一つ問を起して、その下積みになつて君のボケットにある名刺の人は結局どうなるのかと聞いた時に、何と答へたものかと云ふことでありまして、私は氣が咎めたあまりに、後で再びその數十枚の名刺を取出して、つく／”＼と其人たちの事を考へた次第であります。

　私は惡い癖ではありますが、兎角世中のことを物質的に解釋して行けません。人と資本、人と仕事との割合が國によつて非常に違つて居ります中に、人の値が高くて物の値が割合に低い國の方が、何だか有難いやうな心持ちが致してなりませぬ。日本の事は申しにくいが、希臘や羅馬の昔の文明のやうに、澤山の奴隷を使役して少數の市民ばかりが到達した高い文明は、どうも不經濟なやうに感じます。個人の價値を一帶に高く見積ることの出來る國に成つて、始めて世が開けたと言ひ得るやうにも感じます。支那の話は今日もさん／”＼致しましたが、民國とは申して居りますが、どうもまだ人の命が粗末に扱はれて居るやうに思ひます。先頃撫順の大山坑が發火して三千人餘りの苦力が死にました時、係員たちの第一に心痛しましたのはそれが土地の人氣に障りはせぬかと云ふことでありましたが、奉天邊の官吏の言ふのを聽くと、世中には色々な物の觀方もあるものだと云ふことが分りました。曰く何と言つても支那は大國である。一寸災害が有つても此だけの人がすぐ死ぬと、寧ろ得々として居つたと申します。つまり昔も今もあの國で有餘つて居るのは人の命で、至つて安く活き至つて安く死ぬ者が國土に充滿して居ります爲に、民權と云ふ語が今尚空な響ばかりを傳へて居るのであります。杜子美の詩の中で、私の今でも吟ずるたびに胸が一杯になりますのは、

(69)　　孟冬十郡良家の子、血は作る陳陶澤中の水、野曠しく天清くして戰の聲無し、四萬の義軍同日に死す、群胡歸り來りて血は箭を洗ふ、仍て胡歌を唱へて都市に飲む云々

と云ふ一篇であります。今日では袁が帝位を企てた時でも、それほど激しい殺戮はありませんでしたが、貴重なる時間即ち集まつては立派な英傑の一生涯にも相當る程のものを、日々無意味に費銷して居ることは、情無いが彼地の實際であります。

　しかし一面から見ますると、それ程尊い人の命の切り身を、塵塚に棄てるやうな浪費をし得るのは仕合せな餘裕ある社會だ、むだに出來る間はむだにしてもよいでは無いかと云ふ説も成立ちます。山林に悠遊する鳥獣の生活は、?々美しいと思はれる時があります。大昔の我々の祖先も其通りで、食物を覓めるのに一日に一時間か二時間、其他は妻を問ひ暖く眠れば十分であつたので、至つて餘裕の多い物を、言はゞ惜氣も無く使つたのであります。しかし其ではすまぬ時代が現に到來して居ります。これからも追々年一年と人の力が惜くなります。私のあなた方に申したいのは、既に貴重になつたものを今なほ粗末にせられては居らぬか否かと云ふことである。

　今夕の御連中には、十六年前に御目にかゝつたまゝの方が二人もある。此兩君は私の頭の上にまだこの三倍ほど、髪の毛のあつたことを御承知の人であります。微々たる小生が如き者の生涯でも、空しく費した若い時代に對しては、必ずしも私慾一遍では無い所の悔恨があります。況んや身も心も屈強な今を盛りの若い人々の、一人づゝにしては僅かでも、集積して千時間二千時間となる正味のよい部分を、餘裕があるならば國の爲にも使はずに、湖山長者の早乙女等が大猿を見たやうに、無意味に棄てさせることがあつては大事件であります。之を指揮左右すべき地位に在る諸君等が此點を念頭に置かず、用途の適不適の攻究がよい加減で、もしも此時代が空しく過ぎるやうでは、いざと云ふ間際に黄金の扇を開いて、徒らに西山の日をさし招いた所で、後の世の物語になるばかりで何の詮も無いことゝ思ひます。今から御警戒になつてよろしからうと考へます。話はたつた是だけであります。

　

(70)　　　　　對馬北部見聞

　

　古い旅の手帖を、是から樂しみに少しづゝ整理して見ようと思ふ。是は昭和六年の四月中旬、釜山から對馬へ渡つた時の記録に僅かばかりの記録を加味したもの、或は誤りがあるかも知れない。

　集合倉庫　豐崎村比田勝に上陸して、先づ西（ノ）泊といふ部落を訪れて見た。村のはづれの少し高みになつて居る處に、幾棟かの木造建築の倉が竝んで居る。家々では衣類のやうな物まで是へ納めて置くといふことで、大きな鍵を持つて現に婦人の物を出して行くのも見られた。此島一圓の風だといふのが他では見ることが出來なかつた。東北では會津の檜枝岐をはじめ、斯ういふ例のあることを折々聽いて居る。瑞西でもジュネブの私の滯在して居た旅館から、アルブの流を隔てた川向ふに、是とよく似た木の倉が澤山に建つて居た。火事をよける目的にちがひないのだが彼處でも其敷地のすぐ隣は墓地であつた。

　墓地　西（ノ）泊でも倉場の上の岡が墓場になつて居る。是はたゞ偶然の一致であらうが、二つが離れて居るよりは氣を付けやすいから便利である。新しい墓の上には家形の覆ひを設け、それをこゝではスヤと謂ふ。墓の上にはカブリイシを載せてある。信州諏訪などで屋根に葺くやうな平石をむき出しに置くのである。二度は使はぬと見えて二つ以上に碎いたものが散亂して居る。此邊の年忌終（とぶらひげ）は五十年で、大體その頃になると振返して新たに使ふ。陶棺である故に是も碎いて片づけなければならぬ。

　石塔　死者の俗名を彫り付けた古い石塔が處々に見られる。戒名を石に刻する風習が普及しなかつたものと思はれ(71)る。又石の碑の上半分に佛像を浮彫したものが、諸處の路ばたなどに見られる。何れも小兒の供養に立てたもので、青と赤とで彩色したごく新しいものもあつた。因果經の繪卷を見るやうな感じがした。

　サナブリ　此附近には田は全く無いが、山畑の蒔付けの終つた日を、サナブリと謂つて祝つて居る。初夏にもあるが秋のサナブリもある。

　上張り　女の仕事着には今でも麻布のひとへを着て居るのが目につく。是をウハハリと教へてくれたが、或は別に名があるのかも知れぬ。

　社交　佐須奈で外部又は世間といふことを皆タビと謂ふ。爰は入寄留者の多い所なるが故に、タビから來た人といふ語を盛んに用ゐて居る。新たにタビから來た者が仲間入りの時にする饗應をモチユーといふと聽いたが語原は明らかでない。人を喚ぶ掛聲に、ナモシとナモと兩方とも使ふ。ナモがナモシの略であることはよく感じられる。

　木の名　正月七日の夜、門の口に挿すのはヘボノキ、榧とよく似て居るといふから「ひようび」のことである。齒朶の葉をモロクといふ語はあつて、楪葉をツルノハといふ名は無い。トベラの木は少なく年越にも用ゐぬやうである。枳殻は爰でもゲズといふ。泰山府君といふ櫻をそちこちでタイザンボクと謂つて居るのを聽いた。誤りからも方言は生れる。

　

(72)　　　　　古い手帖から

　

　是も昭和六年春の旅中見聞である。島には小規模の公けで無い移民が、何度かあつたらしいといふことが氣付かれた。たとへば對馬の北部には朝鮮人の貧しい家庭が幾らも見られ、子供は小學校にも多く入つて居る。生業は主として炭燒で、中には併合の初期からずつと續いて居る者もある。計數はもう判つて居るかと思ふが、とにかく少しづゝ加はつて來たもので、一度にどつと押渡つたのではない。其以外に、南端の淺藻などには、濟州島の海女が來て小屋を掛け海藻を採つて居る。こゝには私の行つた時は女十四人男八人、内海の方にも若干は早くから入つて居て、全島を合せると百人を超えるといふ巡査の話。是には親方があつて船で來往するので、取締も計算も可能であるといふ。

　沖繩からは又絲滿人も來て居る。佐須奈の港にも若干は來て家を持つて居る。何か特長の認められたものがあるのか、こちらからわざ／＼雇ひに行つてつれて來ることもあるといふ。

　家船の者も佐須奈の港内に五六艘、もうよほど久しい前から來て居る。三根の海岸にも若干艘は住んで居る。西彼杵の瀬戸松島から來たらしいといふが、古く居るのだから確かなことは知れない。物を頭に載せる習慣は無く、たゞ目籠を横にかゝへてあるく。

　在來の海女といふのは嚴原のすぐ近くに曲といふ部落があつた一つだけで、他には全く無いのが寧ろ意外である。曲は由緒も公けに認められ、もとは若干の特權を持つて居た。養和のみかどを奉戴して來たといふことも、此部落の言ひ傳へである。壹岐島でも蘆邊と八幡と渡良の小崎と、この三箇處の濱にしか海女は居ない。何か農民とは一しよ(73)に住まぬ理由があつたものと思はれる。

　壹岐では對岸の松浦地方から、船に乘つて乞食が來たといふ話を聽いた。船を艤装する位だから單獨では無く、又丸々の窮民でなかつたことも察せられる。斯ういふ微細な事實は知つて居る人もすぐ無くなり、今に社會として忘却してしまふと思ふ。惜しいものだと竊かに歎息した。海女や家船のもつやうな特色の無い者は、來ても程なく紛れ込んでしまふのである。

　壹岐で聽いた話で後にも?々思ひ出すのは、烏賊が十月十日夜の念佛を聽聞しに來ると謂つて、其頃に濱で毎年澤山に捕られる。是は蘆邊浦の東南の海岸の話だが、同じ話は又隱岐にもあつた。島後の東郷の或浦にも、それで有名な念佛堂があり、又島前の浦郷にも烏賊が由良姫樣の祭禮に群をなして參詣するといふ話があつた。今は勿論よほど不信心になつて居ることゝ思ふが、顯著な事實だから是はまだ知つて居るものが多い。他でもこの話は時々聽くやうである。

　又海豚の墓參り佛參りといふこと、是も越後の柏崎の附近、その他方々で聽いて少しづゝは私も書き留めて居る。壹岐島でも渡良の灣内にての話があつた。日はいつの頃であつたか、もう一度問うて記して置きたいと思ふが、何でも海の底に墓があるので、それへ御參りに來るのだといふことであつた。この動物が數多く行列を作つて、同じ方角へ進んで行く容子が、どこか物詣りの如き印象を與へたからかと思ふが、それにしても遠く懸離れた土地に數多く同じ言ひ傳へのあるのは面白いことだと思つた。

　壹岐では庚申の夜の夜咄は、鷄の鳴くまでして居るものだと謂つて居る。又此晩に限つて鷄は啼かぬといふ人もあつた。

　氏神樣は常は坐睡をして御出でになるといふことを壹岐では謂ふ。參詣の人が神前の鈴の緒を引く習はしと關係のありさうな言ひ傳へである。産れ兒の初宮詣りには必ず其兒を啼かしめなければならぬ、或はつねつて啼かせる者も(74)あるといふ。他の地方では抓るといふことまでは聽かぬが、往々にして、緑兒を神前に轉がして置いて啼き出すまで拜んで居るといふ話はある。馬を牽いて參詣する者も馬が嘶き又は耳を振り尾を振り蹄を踏み鳴らすなどの擧動を示すまで、ぢつと拜んで立つて居るといふ風があつたやうに思ふがどうであらうか。少なくともこの緑兒の聲を立てることを、成人ならば何か物を言ふのと、同じ意味に昔の人は解して居たやうである。向ふ樣の注意せられると否とを考へずに、たゞ其方角に向つて遙拜すればよいといふ儀式は、古い日本人から見れば恐らくは虚禮であつたらう。

　

(75)　　　　　紋つきの村

　

　土藏の白壁に家の紋をつける風習は、現在はもう大分普及してゐる。私たちの仲間の旅行家は、皆珍しくないと言つてゐるが、さてどの地方で見たかときくとはつきりした記憶をもたぬのである。けだし北部信州のある山村のやうに十棟も二十棟も一つの部落の中に竝んで立つてゐたならば誰でも印象を受けるが、さういふ例はまだ少いのであらう。之にも地方的な趣味の一致と、又技術の發達とが考へられる。

　紋つきの村といふ言葉は、何となくほゝゑましい。實際羽織やかみしもならちやうど背筋の、衿から心もち下つたと思ふところに、この土藏の紋も同じ割合の大きさでついてゐる。黒と白とは勿論逆になつてゐるが、人の紋つき姿を後から見送つて、あゝ立派だなと感嘆した經驗が、やがてこの第二の應用を誘つたかとも考へられる。始めて斯ういふ新たなる装ひを凝らして、視られに人中に出て行かうとする嬉しさ晴がましさには、何か雙方共通な、いはゆる農民心理がありさうだからである。

　しかしその想像はまだ確かとは言へない。私などの知つてゐる限りでは土藏の横壁には家紋でなく、家じるしを描いたものが町場には多かつた。もつと廣告の目的を加へたものには、店の名を文字で書き、たゞまん中に商標などを入れて、遠くから來る人の眼を惹かうとするのが、今でもまだ都會地の普通の例になつてゐる。村ではさういふ必要は全くないが、さりとて無紋のまゝでも間がぬけるから、ちやうど有合せのものを飾りにつけたのかも知れない。

　それから今一つの根原としては、火伏せのまじなひに、水とか龍とかの文字、又は愛宕さん、秋葉さんの神紋をつ(76)けてゐた習はしも考へられる。之は茅葺き板葺きなどの火事の惧れの最も多い住家で、大抵は破風板のまん中に彫刻したもので、もとは新築の際には缺くべからざる要件であり之に伴ふ行詰りもあつたやうだが、家が古くなるとさういふ信仰も薄れ、新しい大工は之をたゞ一つの樣式のやうに考へてゐる。土藏は言はゞ人力を以て、火伏せの信仰の弱味を補強せんとしたものだから、之を眞似するのも自信の無いわけなのだが、近頃になつては之が一種の飾りで、無くて何だか寂しいといふ感じがあるばかりに、それを色々と模樣化して、しかもなほ母屋ならば破風板のある場所につけてゐたのが、いつとも無くもつと個性のある家々の紋所に、取つて代られたものとも見られぬことは無い。家々の歴史にとつては倉を建てるといふことは悦ばしい大事件であつた。代々の農夫の精勵忍苦も、言はず語らずの間に之を一つの目標としてゐたことは、歌や諺の端々にも現はれて居る。だから又土藏建築術の近世の進歩が、少からずその誘惑を強めてゐるのである。

　以前の村々の倉庫といふのは、安全だつたらうが見窄らしいものであつた。屋根まで塗り籠めた土の塊のやうなもので、上には板屋又は茅葺きの雨覆ひをして之だけは火事で燒けても致し方の無いものとしてあつた。二階は無いのが普通で壁も從つて低く、且つ念入りに上塗りをしても、白くは無いから紋などは遠くから見えなかつた。之がくつきりと黒く白地の上に描かれるやうになつたのは、いはゆる漆喰の技術が進み、その職人が田舍にも來だしてから後のことである。

　土藏の瓦屋根は士塗りの代りとして、果して防火の目的を達するかどうかは、今はまだ試驗中と言つてもよいのだが、それでも漆喰の御蔭に段々と信用が増して來て、少くとも都會地だけには、もう上覆ひのある古風の土藏は見られなくなつた。しかも木材の豐かな山郷に入つて行くと、その過渡期の?態がまだこの通り殘つてゐるのである。

　昔は白壁造りといふ名があつたけれども、それと今日の土藏の白壁とは物がちがふ。一方はたゞ出來るだけ白い土を精選して、それを上塗りに用ゐたもの、こちらは新しく始つた細工で、原料が單なる壁土ではないのである。シッ(77)クイは石灰といふ漢語の近世音だと、辭書に出てゐるのは少々怪しいが、とにかくに石の灰か貝灰か、何か白い塗料を多く加へて、池で練つてゐることは確かである。

　他にも何をまぜ又それをどういふ風に仕上げるかは、弟子入りしない私にはわからぬが、外から見た所は印肉などとよく似てゐて、從つて又赤青鼠色にも色づけて使ふことが出來る。それを昔の左官の知らなかつたやうな、小さな色々の鏝を使つて、大小好みの形を作り立てゝ行くのである。遠くから看る場合が多い故に、黒と白との效果に最も力を入れるが、色の取合せといふ點からは畫工に近い。伊豆出身の一人の名工などは、今でも鑑賞せられるほどの作品を多く遺して居る。

　漆喰の建築界へ進出したのはさう新しいことゝは言へまいが、ともかくも城の櫓の白壁よりは後のことで、之が遠望の美觀となつた平和時代から、段々と都市の家屋にも應用せられたのだが、最初は多分家々の竈の改造によつて、多數の職工を養成したものかと思ふ。從つてその手がやゝ剰つて農村にまで進出したのは、百年以後の現象といふことが出來る。つまり田舍の土藏の白壁は一足飛びに、今ある漆喰細工の時代に入つて來たのである。

　この新式の白壁の特長は、ちやうど舊家の内庭の塗り竈のやうに、白黒鮮明で汚れ目が目立たず、表がすべ／＼と光澤をもつことで、之が秋半ばの美しい午後の日に照され、眞白な尾花や染めかけた山の樹を背景に、次々取入れられて行く田や畠や園の中の、色々の風物と配合して、巧まざる一幅の繪をなしてゐるのを見ては、無心な子供でも樂しくならずにはゐない。ましてこの方面に苦勞をした旅人が、之に陶醉してしまふのは自然である。

　日本は本當に好い図だ。たゞ私が言つて見たかつたのは、この美しい風景には、近世が作り出したものが多いといふことである。

　今後も之をなほ一段と美しく、樂しいものにする望みは豐かであると共に、一旦得たものを荒し失はぬやうに、護り續けて行く必要は昔よりも痛切になつてゐるのである。考へて見なければならぬと思ふ。

　

(78)　　　　　竝木の衰微

　

　田村寛貞氏の報告に由つて、西武藏の一隅にまた恐るべき天然の大殺戮が行はれようとして居ることを知り、しかも多分は命ごひがもう間に合はぬであらうと考へて、無限の嘆息をして居る者は澤山ある。

　何一つ故郷を美しくする事業は企てたことも無く、機會さへあれば昔から在るものを、打毀してしまはうとする人ばかりが、地方を預かつて居るかの如く我々には見える。たま／＼古物を玩ぶ者があれば、それは公共の手から樂みを取上げて、私人の自慢に藏しようとする連中だけである。

　東京郊外の竝木路が荒れる一方で、殊に晩秋初冬の風光を美しくした榎、けやき〔三字傍点〕の老木が伐り盡されたことは、獨り遠方の入間地方のみを貴めにくいやうであるが、土地が個人に利用されて居る場合には、その處分自由を制止し得ぬ理由もある。折角縣で管理をして居りながら、私慾一ぺん〔二字傍点〕の徒と競爭して、僅の收入の爲に取返しの付かぬ記念物をたゝき賣るのは、本務を解しない話である。

　武藏は中世には上州と鎌倉との交通の爲に、主として西部の高地が利用せられた。多摩の横山を北に越えて、村山の麓に沿ひ、入間のやゝ西寄りを通つて荒川の低地には出たのであつて、あの一帶には單に天然が色々の歴史を宿すのみか、村民の生活の中にも尚保存せられたる前代の樣式が多い。然るに汽車水運等の關係から、埼玉縣の利害は最近著るしく東半分にかたより、この邊の事情は兎角輕んぜられる形がある。今日の無茶な企てなども、要するに片田舍に對する冷淡の結果かと思ふ。

(79)　村が昔のやうで無くなることは、住民の腰を浮せずには止まぬ。何人を土地との親しみを感ぜぬやうになつてから、今さらの如く愛郷心を説き、歴史の尊重を説いては何にもならぬ。我々は決して少數遊歩者の趣味などから論ずるのでは無い。地方住民全體の爲に、今少しく我々をして、この國土を愛し得るやうに、仕向けてもらひたいと要求するのである。

　

(80)　　　　　古い家と古い村

　

　昨年十二月調べに行つた、武藏五日市邊の入野の舊家は、村では中以下の百姓家であつたが、家の向つて右後に、青木の森のやうな繁みがあつて、其眞中に、木の祠があり、神體は一つの圓石であつた。此家には、昔此神を負うて來たものだ、と傳へてゐる古い擔ひ繩がある。とり出して貰つて見た處、編みの細かい丈夫な、麻繩のやうな物であつた。胸の兩側に當る處は、稍々太く造つてある。其家では、此繩を寶物のやうに、大切にしてゐる。戸主の名を問うた處が、代々、市倉彌五郎であるとの事。よしありげな名だ、と考へた。

　又、比企郡高坂は、松山から坂田へ拔ける道に在つて、山の根方の高みに據つた村で、高坂と言ふ名に適しい地形であつた。如何にも、古い村らしく思はれる。此處の家は皆、屋敷は五間三尺間口に、奧行あり次第と言ふことにきまつてゐる。村の四つ角から南は、新田である爲か、間口は廣くて、制限はなかつた。此邊一體は、すべて地爐で煮焚きをしてゐる。二方壁で防火に備へ、天井には横木を亙して、幾つもの變つた自在鉤を吊りさげて、鍋釜はじめ皆、蔓で此自在にかけることになつてゐる。殊におもしろいのは焙　　　で、其内側に三つの耳がついてゐた。正月の名刺受けには、恰好なものだ、と笑うたことである。

　

(81)　　　　　津久井の山村より

　

　内郷《うちがう》村へ來てから、今日で三日になるが、まだいくらも御報告申すやうな事がない。此村で、オソウデンサマ〔七字傍点〕と云ふは、臺所の一隅、高所に在る小さき神棚、他地方の荒神さまのやうである。此郡根小屋村に住むイチコ〔三字傍点〕といふ者が、毎年暮に、人を近郷に廻らせて配布する繪札を、此に貼つて置く。鳥居の前に、壯丁が馬を曳く所で、御乘込ミ〔四字傍点〕とて、其馬の首が内に向ふ樣に貼りつけるを、よいとして居る。此イチコは、頼まれて近村の祭に來り、神樂・湯立を勤むる家筋である。口寄せもするか否かは、確かで無いが、「外法《げほふ》箱をかゝへ、地獄のたよりをお聞きなされぬか」と言つて奨めてあるく住所不明の口寄せイチコ〔六字傍点〕とは、全く別の者である。根小屋のイチコは、同時に又「エビス大黒」の札をも配らせる。「エビス大黒」は二組は受けぬものだといひ、又假令土でく〔三字傍点〕のエビス大黒でも、既に在る家では、此御礼はことわつて受けぬ。此村では、以前は助郷の傳馬を出し、又駄賃づけの馬も、若干飼つて居たが、今では、殆と牛ばかり飼ふやうになつて居る。それにも拘らず、昔の馬神信仰が、形ばかり殘つて居るので、此他に又單に、飾馬だけを版繪にした、津島の繪札がある。今でも、毎年尾張の津島から、鬚の長い御師が巡つて來て、此札を置いて行くのを、牛舍の戸に、又は牛馬なき家の入口にも、貼つて置く。此御師が贋物でない證據は、今でも此社に參詣の村民が、御師の家を宿坊にして居ることである。此外に、武州御嶽・此國阿夫利山からも、札を配る。伊勢と富士とは、昔は來て、今は來なくなつた。伊勢の御師は、萬金丹賣となつて、今でも毎年來る。

　此外に、オヒジリ〔四字傍点〕と謂つて、色々の物を背に負つた者が、今も、高野から來る。子供は、此をヤトウカ〔四字傍点〕と呼び、怖(82)い者にして居る。婦女月水除の御礼、其他不淨よけの守りなどといふものを配り、隨分よく人を騙すもの、と評判せられて居る。

　此村には、共同墓地といふものが、殆と無い。山と畑との堺、時としては人家に接近し、或は屋敷の一隅にも、各家の墓地がある。葬儀には、寺の本堂は使はず、殆と全部の儀式は、喪家の庭で執り行ふ。棺を送る人の中で、殊に近い關係の若干名は、七八寸の竹の片端を削り、此に紙片を挾んだものを、襟に挿して墓地に行き、歸りにはこれを、道の辻、又は家の門前などに一所に刺しておく。是は、トモグシ〔四字傍点〕といふべきものであるが、土地の人は、金剛杖と呼んで居る。金剛杖とは、本來は近親の者が、墓場まで突いて行く杖で、又死人の爲に一本、棺の中へ入れてやるものの名であるが、其名稱が轉じて、此串にも用ゐられるのだ、と寺の和尚は言ふ。串を立てる場合には、又墓地へ穿いて行つた草履をぬぎ、片方の鼻緒を切つて捨てるといふ。串に挿む紙には、寺に頼んで書いて貰ふ文字がある。眞言宗では、「南無大師遍照金剛」などと書いて居る相だが、自分の見たのは、臨濟禅家のであつたから、「大道透長安」と書いてあつた。四句の法語を書く筈であるが、略して一句だけですますのである、と是も和尚の語である。

　

(83)　　　北國紀行

　

(85)　　　　　自序

　

　この日記に出て來るのは、半分以上は土地の人、他日同じ土地を又おとづれて行かぬ限り、もう再びは逢はれまいと、思ふやうな人ばかりであつた。さうして私の必ずあるいて見ようとして居た土地は、其頃はまだ無限に多かつたのである。僅かに名と處とのみを日記の上に留めて、それでいつまでも憶ひ出すことが出來るであらうと思つたのは、一つには彼等の風貌と動作、殊に言葉の力と味はひとが、深い印象を切り刻んだからであつたが、それにもまして自分などを安心させたのは、是が次々とくり返して、現はれて來るであらう地方の型であり、やがては類別によつて覺えやすく、又解説しやすくなる時が、やつて來さうにも想像せられたからであつた。

　都市の群居生活に放ては、斯ういふ人間の型の如きものが、しば／＼心付かれることは事實であるが、こちらは廣々とした山野の旅に在つて、たまさかに行き觸れたる生活の片影に過ぎない。それが積もり重なつて人とは斯ういふもの、もしくは日本の田舍者は、大よそ此樣な癖と長處を持つと、言つてもよいやうには何時になつたらなれよう。人國記一流の著者ばかりを笑ふことは出來ない。私たちも實はさういふ空な夢を抱いて、まだ久しい間、旅の長路に行き疲れて居たのであつた。

　斯邦の旅行史をふりかへつて見ると、さうした時代すらもあまり永くは續かなかつた。土地で荷持ちを頼み草鞋を一足讓つてもらつて、急に旅装を改めて山脈の向ふ側へ、越えて見るといふやうな事は今はもう望み難くなつた。家を出るときから重苦しい足ごしらへ、途中で用も足せねやうな身なりをしないと山に登つて見ることも出來ぬ人たちばかりが、仲間をさそつてわや／＼と僻村をあるき、其他の人々は大抵は口もとから引返すやうになつた。日本は珍しく、峠路の多い國であつたのだが、便利がよくなつて却つて大部分が不用に歸してしまつた。(86)山一重を隔てた二つの土地の消息は、まはりまはつてしか傳はつて來ず、まして雙方を比べて見ようとするやうな旅人は、もう稀々にも通つては行かない。今から考へると私などの時代は、前にも例が少なく、今は又遠く過ぎ去つて、ちやうど中間の僅かな丁場であつたことが心付かれる。さうして山河風物のみはほゞ昔のまゝで、そこに安住して居た人だけが入れ替つて居るのである。日記を粗略にしかつけて置かなかつたことが、今となつては甚だ心殘りである。

　もちろんこの中には記憶がなほ鮮かに、其日の光景がほゝゑましいまでに、胸に浮ぶ場合も少しはあり、又は外山君の歌集の序のやうに、何か機縁があつて語り傳へたものも幾つかあるが、それを全體に瓦つてやゝ詳かにしようとすると、自分にも精確を期しがたいので手を下す氣になれない。その上に世の中はもう既に全く變つて居る。個々の舊知の上にも豫想し得なかつた變化が起つて、その大半の事情は私の見聞の外である。今は單にかかる現實が曾ては有り、今は既に四十年の昔に遠ざかつて居るといふことを、明らかにし得たことを以て滿足するの他は無い。この點に關しては、自分も亦一箇の讀者である。

　

　　　　　昭和二十三年八月

　

(87)　　　　　越後へ

　　　　　　　　――明治四十年――

　

　五月十九日　好晴、日よう

　朝八時二十分上野發の汽車、車中福田庫文司と同行、新婦をつれて武藏本莊へ行くところ。

　碓水山中の桐畠は、葉は少しも無くて花ばかり也。南の風吹渡り、滿山の竹樹皆動く。既に夏の意なり。鶯の聲谷を隔て、藤は喬木の梢に花さけり。輕井澤に來ると辛夷《こぶし》、八重の櫻なほ盛りなり。

　坂城以北、若緑の山に躑躅まじり咲く。始めて此花の風情を解す。下水内に入りて柿の若葉おもしろく、桐の花も多し。背後には妙高山の雪。

　田口で待合せ二十分、去年來て休んだ櫻屋は障子を立てゝ森閑として居る。あたりは薄暮の水の音、蛙の聲。

　八時になつて高田に着く。宿は清香園別邸といふ。郊外のいぶせき古屋ながら、庭は物さびて楓の花、梅の若葉もよし。田の蛙しきりに鳴く。

　五月二十日　晴、夜雨

　朝農學校を見に行く。校長菊池氏案内なり。茨城縣久慈郡の人といふ。次に稻田といふ處に、都農會の試驗場を見に行く。場長鈴木氏は遠州の人、報�ｺ道に熱心なり、この二人の人に色々の話を聽く。

　農學校は昨年まで郡立、新たに縣立となる。年經費僅かに一萬一千圓、内一割が國の補助。卒業生百名のうち、專(88)賣官吏となるもの四十五、縣郡吏員三十四、他に小學校教員も若干、農作に就く者殆と無し。甲種農學校の普通學では、實は官吏となるに十分ならず、高等小學校を終へてすぐ來る者あり、二十四五歳にもなつて入る者多し。中學校に比べて希望者少なく、もとは教員たち勸誘にあるき、英語も教へるといふ言ひわけばかりに、一週三時間の英語科あれど效果は無し。其上に國語の時間などもありて、是では專門の教育は困難かと思はる。

　講習會は盛んなる地方なり。長いのは十日間、一日きりのものもあり、婦人の講習もありて、何れも農事を教へる。昨年一年中にも講習は十個所以上、人員は六七百人、同じ人が二度三度、一大字から七八十人もつれ立つて來ることあり、五十以上の老人も出て來る。今では青年で一囘以上の講習を受けぬ者殆と無くなるといふ。この傾向は大いに利用し得られるが、今は何分にも科目が複雜で時間が短い。長野縣との交易、こちらから行くものばかり多し。先づ米の可なり大量、魚類に重油、薪炭さへ輸出して居る。長野の方からは來るもの少なく、金で拂つて居る樣子也。元來新潟縣は自給の地方で、建築材の一部分を秋田から取るのと、鹽の出來ぬことなどを除けば、衣食住の必需品の爰にて産せぬもの無し。縣下には河沼湖水の水面九十萬町歩餘あれども、養魚の事業などは少しも行はれず、此點著しく長野縣とはちがふが、それにも理由はあるといふ。つまり魚類の多いといふことか。高田は高田町と高城村とで出來て居る。村は士族町、それを三方から高田町が取圍んで居る。すべての官衙學校、新設の師團なども皆高城村の方に在り。町人と伍を爲すを欲せずといふ理由なれど、實は士族中に有力者無く、商人たちに支配されるのを厭ふ也。その士族も段々移住し去り、現存する者には産業に從事する者無く、多くは教員や小役人のみ。其間に外から宅地を買つて入込む者、又官吏等の寄寓する者あり、寄寓者の村税特に重し。師團の新設に際し、町の方では間接の利得を眼中に置くに反して、村民はたゞ地所を高く賣ることしか考へず。陸軍の方でも、練兵場をずつと遠くへもつて行くべしなどと謂つて牽制して居る。城地は舊藩主の私有から、一旦士族に讓與したれども、すぐに樹木を伐り去つて荒れ放題とし、橋を毀して木材を取り、土地は畠にしたのみならず、なほ之を他に賣らうとせし故、榊原氏は再び之を(89)取上げ、單に無償の利用だけを許して居る。維新の際にも無條件の明渡しを承諾しながら、後で建物に火をかけた者さへあつた。つまり人物が無いからだと評するのが通例なれど、是は教育の衰頽といふべきものなり。

　高田附近の地主は、家のまはりに木を栽ゑること盛んなり。此木の大さにて家の古さを示さうとする風あり。尤も風強く雪の多いのも一つの説明ならんも、全く樹に圍まれざる家も無きに非ず、それにても住める也。とにかくに山には大きな山林も無きに拘らず、この爲に木材の供給は乏しからず、大家の零落する際には、先づ屋敷の木から賣つて行くといふ話。

　土地の手入の惡いことは、此邊のやうなのも珍し。少しく表土を掻きまはしたばかりで、深耕をせぬ故に、地力の衰へたるは一通りに非ず。杉菜が到る處に生えて居る。尤も甚だしい粘土質にて、少し雨が無いと起した土が固まる。それを槌のやうなもので叩いて崩して居る。田を打つ畠を打つといふ文字通り也。是も川砂などを僅か交へたら改良し得られると思ふのに、まだ之を試みる者は無きよし。田はすべて一毛作なるが如し。畠の小作は勞多きを以て之を好まず。處によつては田を貸すを條件に強ひて畠を作らする地主もあり。畠の地價の安いのも理由がある。尤も此頃の季候でも、朝起きて見るに草の葉に露少なし。雨がやゝ乏しいと、畠作は何でも出來そこなふといふ。蔬菜が少なく、大根の生干を東京から輸入するなどといふのも怪しむに足らず。

　午後講演。産業組合に就いて説く。是が今度の役目、縣農會との約束にて、其代りに何處をどう見てまはつてもよきなり。但し西頸城上流魚沼二郡、東蒲原郡を殘すことになつたのは心殘り也。けふはどうしたか聽衆百人に滿たず。演説も少々不出來なりき。

　四時半に高田を立ち、汽車にて柏崎に向ふ。鉢崎あたりの海岸｜?瑰《はまなす》多く咲けり。去年の北邊の旅を想ひ起す。又諏訪湖畔にても見たる紫の花も多し。未だ名を知らず。

　鯨波柏崎の間などの田に、所々一間徑ばかりの圓形に土を圍ひ、そこばかり古株のまゝに耕さずに置くが目につく。(90)是は肥料の流散を防ぐために、成るべく遲くまで肥土をそつとして置くなりといふ。或は雪中肥曳きの風習の名殘かもしれず。以前は田は春になつて打つたのが、近年仕事の都合にて、こゝだけ殘して早く打つて置くことになつたものか。柏崎着。天野屋京兵衛方とまり。

　五月二十一日、晴

　午前中、縣から案内の相原瀞君と共に町を見物す。

　柏崎中學校に行き參觀、校長と談る。十三學級生徒五百人、良き學校なり。

　郡農會の試驗場を行きて見る。場長木田氏、石川縣の人。

　富永君中村君あとより來る。

　午後講話、六十人ほど、新聞記者筆記す。郡農會副會長内山氏に逢ふ。

　富永君祖父は富永｜春部《はるとも》といふ。諸國郡郷考の著者なり。存採叢書の中にて之を刊行す。この本をもらふ約束をして、氏と爰で別る。

　柏崎は古い都會、三國街道との追分、町の中ほどに在り、小賣店軒を連ぬるうちに、不思議に古道具屋多し。現在の繁榮は石油の爲なれど、以前は越後縮の産地として聞え、又行商を多く出す處。中學生徒も實業志望多く、奨勵の結果やゝ軍人にもなつて居る。商業上の利害を一にする村、相接して三つあり。取引の上では柏崎を名のるも、課税の關係からまだ一體となることが出來ず。

　柏崎の漆器は木地も漆も、大方は外から取よせて造る。世間へは輪島といつて賣つて居る。しかし技術は精巧にして、少しも輪島の名聲を傷つけるものでないといふ。

　五時二十分の汽車にて柏崎を立ち小千谷に向ふ。塚山のトンネルある山には、紅い谷うつぎ咲き滿ち、藤も多し。來迎寺の驛についたのは六時二十分、名を知られたる土地の長老高橋九郎翁迎へに出て來られる。

(91)　人力車で小千谷へ三里、暗くなつて着く。電燈はあれども光弱く淋しい町、物みな古し。久しく火災を免れたる爲に、さま／”＼の推新前の俤を殘せり。宿は信濃川に臨める山田屋、入口古風にて蛙の聲など遠くにきこゆ。

　五月二十二日、夜來雨、後又折々降る。

　宿の湯殿の水桶にきれいな水を引き、金魚を放し、テンマリバナといふ白い花を、多く折つて來て漬けてある。それが灯の光に映じて何とも言はれず美しかつたことを記憶する。

　長い橋あり、名を旭橋といふ。早朝に渡つて見ると、中洲には千鳥飛びて鳴き、川にはかじかの聲がする。向ふの堤には楊の木が多く、その花がもうほゝけて居る。始めて柳絮の風情を知る。

　中學校に行きて參觀す。校長は同窓の江口俊博、もう五年も爰に居るといふ。又女子及び男子の小學校も見てまはる。

　町役場に行きて町長にあふ。昨日の高橋老人あとより來る。

　三島郡書記、片貝村の助役を伴なひ來り、午後歸途にエキストラの話をしてくれと頼む。

　西脇建治君訪來。七百萬圓の分限者の弟のよし。專修學校にて予が講義を聽いた人。小千谷は又木村�ｺ衛君の家郷也。

　午後に講話。百二十人ほど聽いてくれる。そのあとくさ／”＼の談話。

　高橋氏の話。この地方の習ひ、新田は一定の年期後に外新田となり、又或年數を過ぎて古新田となる。故にさういふ地名、今もそちこちに殘つて居る也。

　魚沼郡の畠地小作料、一反に米にて年三斗より八升くらゐのものさへあり。畠多くして惡し。長岡附近に行くと、一石五斗までの小作畠あり。それでも作人の利益魚沼より多しといへり。柏崎附近も畠少なし。田の上に三尺以上の土を置いて作つても引合ふほどなり。その土は遙かなる川上から運ぶなり。

(92)　又高橋翁話。古志と魚沼三郡農民には、ユカ無き家に住む者多し（即ち土を掘り籾殻と藁とを敷きて其上に寢るもの）。官之を説諭すれども中々改めず。古志一郡にても八萬人は有るべしといふ。斯ういふ村々にても皆常食は米なり。全體に麥の産額は少なく、その栽培を擴張する爲に、麥食を勸むれども未だ行はれず。中頸城郡の試驗場にはやつと此頃壓搾機を入れたり。つぶして食へば幾分か食ひよしといふ。

　八海山の麓、南魚沼郡大崎村のあたり。山の水が冬も温かく、是が爲に雪少なきこと著しく周圍と異なれり。家毎に其水を引きめぐらし、又之を利用して菜を作る。この地方の名物となつて居る。

　小千谷縮はもとは柏崎附近の製造多く、こちらは主として其賣買に參與せり。山の中ながら小千谷は商賣が上手なりき。風少なく火災の無い土地なれども、この二十年來戸數はちつとも増さず、近頃は僅かづゝ減つて居る。出稼と移住とは、魚沼三郡などは盛んな方なり。

　小千谷の中學校は創立僅かに五年、募集まだ定員に滿たず、魚沼三郡の生徒は五分の一、他は海岸部などの餘りを拾ふのみ。寄宿舍生活でも費用は月八圓以上かゝり、町に下宿すれば九圓を超ゆ。遠くへ遊學さすると大したちがひ無し。町の小學校にすら高等科三年四年に止まり、中學に入らうとせぬ者まだ多きはどういふわけであらうか。

　中學校の門を出る頃、雨降り出して松の花がしきりに散る。それが雨水に浮んで石の窪みにたまつて居たるは珍しい光景なりき。

　四時半頃、いよ／＼こゝを立ち、片貝に來る。路傍の肴屋に憩ひて飯を喫す。コロモガヤといふ菓子、この土地の名物、買求めて家に送らしむ。その他の名物は羊かん及び仙桃酒。こゝで粟盛といふはみりんを精製したものゝこと也。石黒忠悳翁の出身地もこゝ也。

　淨照寺といふ眞宗の寺にて講話。聽衆は二百人以上、但し老婆子供もまじり、その子供拍手す。寺の太鼓を叩きて人を集めしなど、好記念といふべし。

(93)　夜十時頃になりて來迎寺に歸り來る。旅宿西九は滿員、やむなく高橋氏の別邸にとまる。夜おそくまでビールを飲みて話す。

　五月二十三日、又雨

　起きて出て見るに、好き山莊なり。松の花の盛り、楓の赤き花、又｜厚朴《ほゝ》の木の花も見ごとなり。

　七時五十二分の汽車にのり、加茂に來て下車。こゝにて中村氏と別れる。

　農林學校參觀。校長赤星氏と談る。寄宿舍の組織など特色ある學校なり。頼まれて生徒に話をする。

　一時十六分で長岡に引返す。藤井當平氏出迎。山本といふ家に投宿。

　五月二十四日、晴、風少しあり。

　相原君と共に中學校を訪ふ。校長は不在。教頭竹村修氏に面會、大學の寄宿舍にて面識あり。たしか子規派の俳人なりしとおぼゆ。

　女子師範學校を參觀、けふは授業無し。此學校の數學教員某君と共に女學校を見に行く。こゝも校長不在。次に此學校の書記某君が經營せる戰時記念の長陵園を見る。地積五百坪、借地なり。百圓の債券二十口を土地の人より出してもらひ鷄を飼へり。一口に付き毎日卵一つを利子として出す（一箇二錢八厘）。現在はその二十箇の鷄卵の他に、繁殖用にのこし又販賣する餘分あり。是と老?の賣拂代を收入とし、原本は既に四分一を償却す。?糞一羽につき五十目、收入の一割を働く者に與へる。この利益分配法を採る前には二十目に過ぎざりしが、今では是だけでも一羽一圓の收入あり。六十歳くらゐと十八ばかりと二人の男を雇ひ、その外は細君と女中と共に働くなり。温室は粗末ながら蒸氣を用ゐるもの二棟あり。燃料は石油、雪にも堪ふるつもりの由。

　�壼Vは收穫が遲く、この地方では二毛作の裏作とすること能はず。それにも拘らず古志郡では盛んに栽培せられて居る。試驗場では秋田のハラキといふ品種を試みて居る。是は早期にて有望なりといふ。

(94)　來迎寺の神谷信用組合の理事高橋逸平氏及び岡村義彦氏來る。高橋は九郎翁の弟。

　午後商業會議所樓上にて講話す。百二三十人の聽衆、途中で立つ者が多く不愉快なり。室があんまり廣く、聲を費して困つた。

　古志郡長阿部氏に逢ふ。伊藤祐敬翁の甥、中島氏の出なりと告ぐ。市助役河島氏にも面會。是はもとどこかの縣の書記官だつた人なり。市長は舊藩主牧野子爵といふ。

　寶田石油會社の高山・小秋元・山田などといふ人々にも逢ふ。小秋元は獨逸協會學校の卒業生で、社會政策學會の仲間、山田は我々より二三年後の法學士で、亡田邊慶彌の友人、會議所の書記長より、近頃この社に入り鑛山課長となつた人なり。寶田にては近頃畑鑛山といふを買入れ經營することゝなりし也。

　この山田の後任となつた頼久一郎といふ法學士は、山陽先生の曾孫のよし（支峯の孫なるべし）。夜此等の人々に招かれて學士會に列席す。内田といふは古き法學士、谷口は醫學博士なり。この谷口氏から美人のカノンといふものを説法せられる。

　けさ學校からの歸途、相原と共にあるきて、あらかた市の全部を見たり。今の停車場の處は城址なり。河合繼之助の墓も近くに在り。市となる以前には長岡本町、千手など、幾つかの町となつて相隣したりき。本町が士族ばかりの町なりしことは、高田村上なども同じ。

　五月二十五日、晴、土よう

　長岡より車にて與板へ行く、四里。高橋九郎氏同行、相原君はつゞいて毎日共にあるく。長生橋を渡る。新潟の萬代橋よりも長しといへど、古く朽ちたる橋なり。まん中にしきりありて車なやむ。あまり長いので荷車など中途に休み妨げとなる。信濃川を渡れば土地一樣に低濕、里川に水盈ち、あやめの花あまた水に映じて咲けり。

　與板は信濃川に沿へる昔の川湊、近郷の米の集まる處なり。今も汽船はこゝまで上り來れども、汽車の制壓を受け(95)てすでに衰へたり。汽車以前には、川船汽船が最も便利なる交通方法なりし故に、道路は此邊存外發達して居らず。

　蒲原地方の水腐場、最も惡きものは臺帳地價反七八圓、賣價もほゞ同じくらゐなり。然るに小作料がやはり六七斗なるは不釣合なれど、是は一種の思はくにて、旱の年には二石も取れることあり。大抵の年には毛見にて減額す。濕地の埋立事業といふもの計畫せらる。モッコの土運び、二町以内の距離にて、一立方間の土を持つのに、人夫賃三口にて九十錢を要す。トロで土を運べば距離は遠くても同じことで、勞銀は其九分の一ですむといふ。しかし實際はさういふ土取場を見付けることが六つかしいかと思はる。

　與板の町の背後は岡なり。宿の主人は才幹ありげなる男、銀行の支配人を兼ぬ。自ら案内して町の實?を説き示す。岡に據れるは一萬石の大名屋敷なり。小學校の後より登る。以前醫者の住みし屋敷とて、梅多くある谷あり。池に蛙多く鳴き、荒れて物がなし。寺の庭を通りて外に出づ。此寺の六地藏を、町の爲に好ましからぬ家の門に舁きすゑて制裁を爲すこと、昔よりの慣習なりといふ。

　近い頃破産して與板銀行に迷惑をかけたといふ大金持二戸あり。家はすでに取毀たれて菜種畠となれり。その一人にて元議員なりし某の山莊に登つて見る。川を隔てゝ東方に守門の連嶺を望むべし。稲掛けの榛の林のあなたには、汽車の煙も遠く見ゆ。こゝの主人は京へ遁れ行きてもう居らず。最も高い處に堂をいかめしくしつらへて、由緒ある觀音大士を安置す。正東に向ひませる御像の白毫の珠、守門嶽の雪に映じ、寂寞いはん方なし。詣づる人もあるか賽錢など落ち散り、それを集むる者も無し。

　小學校にて講話、百人あまりの聽衆なり。縣の輸出米檢査所長江口英房といふ人に逢ふ。この四月まで佐渡郡長なりし人。其前は千葉縣の香取安房などの郡長なりき。老骨なれども元氣みちたる人物なり。

　五時に爰を辭して見附の停車場に向ふ。高橋老とはこゝにて別る。川原より舟にて信濃川を越ゆ。小舟あやふげ也。この近村の富家某、けふしも庄田の酒井家より嫁を迎ふとて、人力車皆出拂ひたりといふもをかし。以前は此あたり(96)にも三百輌はありしが、今はやつと百あまりなり。

　南蒲原郡に渡り、中之島村を過ぐ。排水し難き水田遠く連なる。日暮の汽車にて新潟に入る、縣の第三部の小林・有元、農會の島口、林靜治などといふ人々迎に出てくれる。篠田旅館に投宿、大橋の見ゆる川沿ひの清らかなる室なり。

　けふ聽いて來た話。湛水地の最も多きは中蒲原郡、北西南蒲原郡にも一部分、三島郡は與板町の附近なり。潟といふもの多し。西蒲原郡には鎧潟大潟あり。新潟も元はその一つの名か。月潟村は角兵衛獅子を出す理由を有す。北蒲原の福島潟などは海面との差僅かに三尺、海は全體に干滿の潮差少なく、内水の排除容易ならず。信濃川は屈曲し、與板附近なども、一旦は非常に海に近くなる。どこかその一箇所を切つて海に導かうとするのが、夙くからの計畫なりし也。大河津の今度の工事がどの程度に疏水の效を收め得べきかは、人によつて豫測區々なれど、其必要を認めざる者無し。

　現在の水腐地概算二萬町、濕地を加へて約五萬町。道路を通ずるに先づ大いなる困難を感ず。土を得る場所の無き爲なり。されば此地方に限つて、耕地整理にも特殊の約束あり。一つには畠地が少なくなること、二には全體としての減歩を免れざること也。現在も畠地の分布は著しく不均一にして、農法の上に大きな制限を與へて居る。

　西川と中（ノ）口川との二つの運河にも、第二の目的として内水排除と土の獲得が考へられしかと思はる。地藏堂と燕町とが、分水線の起點を爭ふのも、各地區の利害の根ざす所は深き也。

　蒲原平野の古地圖といふもの、假に想像上のものとしても、それから以後の歴史を考ふる者には興味多し。

　五月二十六日、曇、微雨、日よう

　竹内進君訪來、市長吉田氏も來る。午後市役所樓上にて講話、二百人以上の聞手、大出來なりき。

　夜鍋茶屋にて市長以下よりの招宴、知事も出席す。櫻井市作といふ産業組合中央會新潟支部其他の役員にて有力者、(97)曾て沼垂停車場を破壞して牢に入れられた人なれど、金持にて侠氣あれば人に畏敬せらる。心もちの好い男なり。

　五月二十七日、晴

　終日逗留。けふも諸學校參觀。中學校長は長澤市藏氏、今より十六七年前に、郁文館にて英語を教へてもらつた先生なり。高等女學校商業學校にも行く。師範學校では小學六年の單級授業の實驗を見たり。

　物産陳列場を見る。縣農會は此建物の中に在るなり。陳列の箱を一つ買求め家に送らしむ。

　縣廳に行き清棲知事に逢ふ。又竹内君にも逢ひ、耕地整理の事業に就いていろ／＼聽く。

　出口吉久といふ判事、不在中に宿へ訪ね來る。

　五月二十八日、晴

　相川竹内二君と同行して、車にて卷町に向ふ。七里。彌彦山の正面なり。信濃川の岸には製油所あまたあり。きたないもの也。

　路は西川に沿ひて上る。此川は地藏堂で信濃川から岐れて卷町の傍を通る堀川なり。内野といふ處の近くにて、大潟より來る流れと十文字になる、所謂底樋川也。

　曾根は相應な町場、そこを過ぎて正午に卷に着く。

　郡農會の試驗場を見る。田中といふ場長案内す。藺作に熱心な人なり。一體に西蒲原は藺作盛ん也。販賣組合の計畫あり。菅も植ゑてあり。郡役所樓上にて講話。終つてすぐ三條に向ふ。此路四里半。吉田と燕の町を過ぐ。いはゆる第十九大區の低濕地の南端を通る。瑞雲橋を渡る。川の中に瓦斯あまた出づ。五十嵐川は此あたりにて合流する也。

　日の暮に三條に入る。宿は越前屋、古風な落付いた小座敷なり。縣廳の小林氏先に來てあり。

　けふの見聞中、農事講習の問題心に留まる。西蒲原は耕地多く農閑少なく、十二月に入らぬと講習會を開催し難し。それでも一年に十三四箇所、一箇所平均七日、この地方は學科單純にて、主として米作の改良、是に關聯して土工肥(98)料の知識を授く。害蟲を別科としたるは專門の講師ある爲か。ともかくもあまり六つかしいことは説かぬ樣子なり。最近に一囘終つた村では幾分か程度を高くす。一箇所三十五名位の豫定、實數はもつと多く、小學教員などの、勸めないのに出て來る者も少なからず。經費の少ないのが一つの特色、講師は縣の技師技手教員のみで、是には一文も金を拂はず。或郡では聽講者に若干の補助を出して居るが、西蒲原郡ではそれも無し。炭と茶とは村農會に負擔せしむ。

　講習會を利用して藺蓆の生産奨勵をして居る。岡山から工場の經驗ある教員を聘し、土地産の藺を以て蓆を織らせて講習生に見せる。この生産高昨年は八千圓といふ。藺の收穫は八月、其あとに稲を作る。遲い田植なれど、それでも反一石に近い收量ありといふ。但し藺の栽植は前年十月、さうでないと三月になり、春植の分は收穫がおくれるから、米の裏作を斷念せざるべからず。つまりは二毛作はやはり困難なの也。蓆織の講習も別にして居るが是はやゝ長期、甲種の精良品は六ヶ月、試驗場で教へて居る。乙種は三十日、この方は巡囘の講習もする。どの程度に藺作が普及するかは、今のところちよつと見込立たず。

　又ハセ木の話を聽く。改良前の水田では、田間に稻乾し用の竿を立てることが出來ず、今まで稻を掛けて居た自然木（ハンノキ・タモ）も、大抵は民居の近くにのみあつて、村のまはりは丸で林の如く、それを村民に割當てゝ重い生のまゝの苅稻をこゝまで擔いで來て掛けて居た故に、勞力の上から見ても此邊のハセ木の利益は大なり。其上に自然木だと一本に九尺平方くらゐの土地を要し、且つ近くの田の蔭になり、田主はそれには苦情が言へなかつたの也。

　五月二十九日、晴

　外山且正君井上の兄の紹介にて逢ひに來る。こゝより一里ばかりなる本成寺村の人なり。無理に短册を書かせられる。裏館村の耕地整理を見てありく。藤塚某案内、場長の高山氏竹内君も同行す。

　耕地整理の結果、小字の必要が無くなり、又現に無くなつたものも多しといふ話を聽く。此地方にて小字の又下に、御供田とか三反田とかいふ類の地名あり。之を名處と謂ひき。それは全く消滅す。地主は整理地區圖を印刷し、之を(99)小作契約書に利用すること、ちやうど芝居の棧敷掛の如し。

　河砂を水田に入れる改良行事、少しづゝ行はる。高田附近にはまだこの事無し。

　彌彦角田方面の山腹には畠作行はる。主として麥と菜種の栽培の盛んなるはこのあたりなり。

　歸途町の書店樋口に立寄りて本を見る。主人は確に學者なり。午後某寺の本堂にて講話。聽衆二百人に近し。夜かの本屋訪ねて來て話をする。

　五月三十日、雨

　十時の汽車、小林竹内の二君と停車場にて別る。藤崎部長と矢代田まで同車、こちらは新津にて下車。

　午後郡役所にて講話。桑原一部長馬瀬技師新潟より來り會す。夕方の汽車にて新潟へ還りてとまる。

　五月三十一日、好晴

　馬瀬技師相原縣屬と共に、新發田に向ひ出發、馬瀬君は自轉車なり。濁川村濁川新田に眞島桂次郎氏を訪ひ、村中見物。この人は名望ある中地主にて縣農會長なり。二百年前に此地を開發したりとて、庭前に樅の大木あり。但しこのあたりツツガといふ蟲の多い處。その除害工作の苦心談を聽く。小學校參觀。高等科で農業科の教授をして居る。

　眞島氏自轉車にて同行、木崎村の梨畠を見に行く。ボルドー液の使用作業を見る。こゝには昨年の梨果まだ貯藏せられてあり。

　新發田着、長谷川旅館とまり。江口英房老先に來てあり。

　六月一日、好晴

　又郡農會の試驗場を見に行く。森といふ場長と交談す。今は田植の盛りなり。

　中學校參觀。教頭幸田文時君に逢ふ。第一高等學枚の舊知なり。今井君といふ英語の教師は、三十四年十一月長野にて逢ひし速記者なり。

(100)　午後郡役所にて講話。けふは小作組合の話なり。夜眞島氏來る。馬瀬君等と共に碁を打つ。

　六月二日、けふも好晴、日よう

　新發田より村上へ車。

　稲荷岡（紫雲寺）といふ所にて國道に出づ。到る處桐の花多く咲けり。又鐵扇花を處々に見る。

　乙《きのと》村の乙寶寺、大日如來の御堂を拜す。三重の塔あり。城氏の菩提所もこの寺なり。

　胎内川といふ處に至りて海を見る。荒川の月見橋のあたり、沙川廣く雲雀啼き、?瑰の花かゞやけり。この川二十四五年前に海に直流するやうになり、輯製二十萬分一圖と全くちがつて居る。

　岩船は昔の事思ひ出さるゝ港なり。其こなたに鹽谷港あり。岩船には石舟神社あり。石舟潟今は小さくなれり。

　瀬波の松山といふ處に、最近に開かれたりといふ温泉場に行きてとまる。宿はまだ假普請。こゝに郷里の代議士内藤利八來てありときゝ、行きて對面す。

　岩船郡長金森輝夫君訪來る。戰中佐渡丸に乘り捕虜となつて居た人。その時は鐵道書記だつたといふ。夕方松林の中を逍遙す。

　六月三日、好晴

　こゝを出でて村上の町に行き、赤阪屋小一郎方に投宿。

　午前中郡役所にて講話。聽衆六七十名に過ぎず。渡邊三左衛門君面會す。關谷の開發名主といふ。關の村は玉川小國を經て米澤に通ふ路筋といふ。一度行つて見る氣になる。

　午後は村上貯蓄銀行十周年の祝賀會に臨み、又即席の話をする。夜その祝宴あり、醉ひて歸る。代議士佐藤某その他、おろか者多く集まり來る。

　昨日途上所見、岩船の近くにて松林中の墓地、松の木に著しき大小の差あり。よく見ると塚毎に其上に松を栽ゑる(101)也。又大岩川とかいふ處にて葬式を見る。行列の人々、皆白いタスキを掛けて居る。

　是は渡邊君の話。關村は長さ四里以上。國境に及ぶ。米澤の感化やゝ著し。但し交易は盛んならず。越後より干魚鹽魚が行く位のもの。米澤へは二十里餘、岩船からは六里。

　全村牛を飼ひ又多く樹を植う。おもに杉なり。しかし米も相應に取れる。繭も共同販賣の機關あり云々。

　六月四日、けふも好晴

　馬瀬氏とこゝにて別れ、いよ／＼けふは越後を離れる。

　鹽の町にて車を繼ぐ。葡萄峠にかゝる處は、風俗全く上越と異なれり。地形を察するに此地方は却りて彼よりも早く開けしかと考へらる。

　北中村に憩ひて晝食す。茶店の名を札幌屋といふ。北海道に行きて還りし者なり。

　中村よりひたすら降りて海岸に出づ。勝木村、耳にはガツギと聽ゆ。又小さな峠ありて大川谷に越ゆ。一名府屋。寂寞と荒れたり。

　是より一里あまりにて鼠ヶ關。縣境は關のこなた、原海《はるみ》といふ處の人家の軒近く木標あり。沖には大謀網といふを立てたり。こゝへ山形縣屬｜明日《ぬくひ》米藏君迎へに來てありしが、待兼ねて湯温海《ゆあづみ》へ引返したりといふ。

　山形縣との海上交通に小蒸汽船あり。新潟酒田間を毎日、途中寄航する處、岩船・瀬波・鼠ヶ關・温海・加茂・湯之濱なり。海府では何處へも寄らず。但し川流しの木材と薪を積むべく、小さい帆船の來泊する所は數しれずあり。府屋の大川を始め、小さい谷川は多し。多くは川の口南に向へり。

　庄内の子供、村上の中學校に入つて居るもの十數名、年々増加する傾きあり。山形には中學少なく、入學志望者いつも四五倍、之に對して越後は各郡一校なれば、定員に充たざるもの多く、出來の惡い子も隨分入つて居る。縣がちがふと色々の事が、わざとかと思ふほども變つて居る。

(102)　漆の木は岩船と北蒲原とにて見かける（東蒲原などは多い由）。漆器は新潟の産物の一つ、堆朱は村上の名産なり。

　下越後は牛多く縣南の馬と相對す。牛の群を牽いて行く博勞に?々遭へり。葡萄山中には大規模なる牛飼ひ農あり。

　黄蓮、村上の町に買入所の招牌を見かける。蕗は濁川村の名産といひ、新潟に賣る。栽培するものか。

　桑は北部には高桑作り多きこと庄内に同じ、女の袴この爲に缺くべからずといふ。

　湯温海、越後屋清左衛門方に授宿す。夕暮軒の電線に燕さへづり、子供多く出て遊び、靜かなる湯の町の春の風情を盡せり。

　葡萄の山中には雪なほ殘れり。藤の花、紅うつぎ盛り也。濱に出れば?瑰多し。

　あすは十五日間の同伴者相原君との別れなれば、竹岡屋といふに行きて酒を掬む。酌をする女はいはゆる里の遊君なり。

　暗き小川を渡りて逍遙す。越後屋の娘案内す。みんちやんといふ名なり。鶴岡にてびん子といふも同じく、小さい娘のことならんか。名では無ささうなり。

　六月五日、曇

　七時半頃出發、濱温海まで出て相原君と別る。相原は例の小蒸汽に乘る。警報の赤球が掲げられてあるを見て氣づかはしといへば、是は此頃なまけて少しも引下さぬのなりとのこと、一笑す。

　爰より豐浦村三瀬までは磯山沿ひの路なり。米子といふ處にて、鼠のやうなるかたはの子を見る。十四五歳にて頭は赤子のまゝなりと車屋いふ。

　五十川《いかかは》を過ぐ。三瀬にて車をかへ、峠路にかゝる。頂上にて鳥海山見ゆ。庄内の平野に出づれば月山も見ゆ。里は田植の盛り。風俗大いに異なり、女たち黒き布にて顔を包みてあるく。名を加賀帽子といふ。髷は袋になり額は一文(103)字、針で留める。

　午後一時半鶴岡着。伊勢屋といふ旅店は前田控訴院長を宿したればとてことわる。公園の佐藤又吉といふ料理屋にとまる。給仕は藝妓らしき美しき娘なれど、なほ莊内の言葉なり。

　午飯後、羽二重同業組合に行きて見る。副組合長匹田市郎右衛門といふ人出で話す。實着なるよき人物なり。この人と明日君と郡書記の芝田君と四人にて、羽二重の工場に行きて見る。又販賣組合にも行く。

　夜、中學校長羽生慶三郎氏來る。飯田の人、家の舊知なり。

　六月六日、雨

　午前中、中學校及び郡立の染織學校を參觀す。午後、東田川郡廣瀬村後田の村役場に行き、此村の信用組合の話をきく。又松岡新田の話など。

　此あたり路傍に腰掛石を置く處多し。畷路を行く者こゝに荷を置いて休む。石には寄進をした人の名を刻んである。

　雨を犯して還る。夜廣瀬村の加藤正英氏來る。羽生氏も再び訪ひ來る。

　秋田藩の江戸通路は、酒田・鶴岡・田川・菅（ノ）臺・温海川・木（ノ）俣・小國・小名部、又酒田より宮（ノ）浦・十里塚・濱中・大山・三瀬と、海岸を行く線も有り、或は三瀬から田川へ出る路もあつて、藩主は大抵鶴岡を通らなかつたが、參勤に此道筋を使つた大名はたゞ佐竹家のみといふ。莊内の殿樣は却つて清川から古淵を經て、七ヶ宿越えをして奧州街道の桑折に出たものゝよし。

　鱈のカギといふもの、干鱈を作つた殘物、北海道から莊内へ多量に入る。冬季貧農の食物。價至つて廉なり。

　六月七日、曇。風尤も寒き日なり。

　朝こゝを立ち、藤島村の農學校を見る。校長若林功氏は札幌の農學士なり。折から生徒の間に何か事件起りたる樣子なり。

(104)　こゝを辭し、廻館といふ處を過ぎて、最上川を渡る。

　松嶺町に着きて、信用組合を見る。町一の資産家齋前元修といふ人の力を盡せる組合なり。町長は志願兵の少尉、元氣なる人物。此町は鳥海の西麓に在り。この邊莊内麩の産地なり。原料の小麥、一部分は神奈川縣のものを使つて居る。ミワといふ種類のよし。生産者四百戸以上。製品は酒田より大阪へ出し、又東京へも轉送するといふ。

　茲より寒き北風に吹かれて、最上川の右岸の堤を酒田へ下る。飛鳥といふ處あり。仁王の運慶作と傳ふるもの立てり。

　酒田では三居《さんきよ》町の米倉庫を見たり。取引所の附屬なれど、公益的の施設なり。舊藩主の補助あり。

　公園に登りて遠望し、山王の社に詣づ。

　宿は三浦屋。夜商業會議所の書記本間專助君、來りて此地の現?を話す。

　酒田地方の女中の月給驚くほど安し。月五十八錢といふのが最高といふ。一體に女の勞銀甚だ低し。以前の湊場の繁華に比べると夢のやうな話なり。

　米に次で重要なる此地の商品は繩なり。藁蓆は利益少なしとて取引盛んならず。繩商店は大きいのが十三四戸、毎朝町はづれに出て村から賣りに來るのを競ひ買ふ。草鞋は西田川郡の海岸より多く出づ。所謂ツギ八草鞋なり。

　六月八日、曇

　酒田を發し、本莊まで十八里の旅、人力車なり。先づ松原づたひの路を行く。鳥海山は曇りて見えず。穗積といふ村にてもう車を替へる。この街道の變つて居るのは、兩側の村がちがふこと、即ち道が村境であること也。右側は稻田村、次は川行村、左はずつと西遊佐村の藤崎、それから高瀬村の菅里北目、大物忌神社の標木ありて吹浦の町に入る。桶結職といふ標札が目につく。又鶴岡一秀一忠鎌ありといふ看板もあり。

　吹浦は淋しき古驛なり、そこを過ぎて海上の大岩を彫刻したる十六羅漢を見て通る。湯の田の温泉能登屋にて午飯。(105)こゝにて山形縣の明日君と手を別ち、女鹿《めが》といふ漁村を過ぐ。

　縣境の峠には鶯ほとゝぎす啼き、藤つゝじ盛り也。海の風吹く。

　峠を下りて又淋しい漁村あり。此あたりの總名を上濱といふ。

　關といふ部落は象潟町のうちなり。昔の有耶無邪の關の祉なりといふ。象潟の町に憩ふ。住民は多く北海に稼ぎに行き、淋しい町なり。蚶滿寺に入りて荒れたる四境を見てあるく。寺の旅人名簿に名を著す。數十年前からのかと思はるゝ古い帳面なり。

　こゝからさきにも、地形の象潟と似た處、路の傍に幾つかあり、それを見つゝ行く。花のまだ咲かぬ百合、此あたりに非常に多し。食用にもなる種類らしけれども、掘取る人の手が無きなるべし。

　金浦《このうら》を過ぎて平澤まで、同じやうな海岸つゞく。由利郡書記片野君、迎へに出て居てくれて同行す。平澤には齋藤宇一郎といふ金持の家あり、主人は林學士（後に政治家となる）。この町はづれの濱にて地引網を曳くを見る。縣の海岸では此あたり漁獲最も多しといふ。

　是より又砂防の大松林なり。縣道は快き下り道にて、やがて古雪川の岸に出で、本莊の町に入る。火のともる頃なり。

　本莊は昔の城下と、古雪港といふ青樓ある町と、川の向ふの石脇といふ部落と、三つを合せて今の町を成せり。旅宿は小園といふ。夜片野氏來る。この人は横手住の佐竹家臣なりといふ。

　按まを呼ばしむ。

　六月九日、晴、日よう

　午前郡役所にて講話。午後は精米所を見に行く。この米は北海道に送るといふ。町の人長田藤四郎氏いろ／＼説明してくれる。この人は秋田に精米所をもてり。又米の倉庫に行き、輸出米檢査の?況を見る。

(106)　この朝、試驗場長佐藤氏訪ひ來る。夜はこの人と片野氏との案内にて、宮丸六兵衛といふ料理屋に行きて酒を飲む。甚だ樂し。西の窓をあけて夕空の鳥海山を眺めたり。雲のむら／＼と殘れる山の姿世に似ず。

　六月十日、好晴

　本莊を立ち、山を越えて横手へ十五里、車の旅、氣もちのよい日なり、子吉川の支流に沿へる登り路、水の音清し。

　館・宿・老方・館合などいふ村々を過ぐれば峠の頂上なり。是よりは快き下り、大澤といふ村を經て、雄物川を橋より渡る。

　桑の林の中に、郭公しきりに鳴く。此あたりの躑躅、いろは至つて淡く花大いなり。道の傍に野飼の鳥なく、又二歳駒をあまた率いて行く者あり。淺舞の町にて晝食。

　二時少し前に横手に着く。すぐ郡役所に行き佐藤郡長に逢ふ。その案内にて城山に登り遠望す。仙北三郡の平野は中々廣いと思ふ。

　郡立國書館に入りて見る。こゝにては工女にパテンといふものを教へて居る。

　折から秋田より電話かゝりて、今夜ぜひ來よといふにより、計畫を變へて四時半の汽車に乘る。

　秋田に着き小林旅館にとまる。夜は下岡知事と共に、クラブといふ處に行きて食事會談す。

　六月十一日、曇、後降り出す。

　七時半の汽車にて扇田に向ふ。縣農會書記館岡勝藏君同行す。北秋田郡長前田氏、雨の中を鷹の巣まで出て來られる。大館にて下車。扇田へは一里。路わるし。

　小學校の樓上にて講話。こゝにて鹿角郡長河野氏と逢ひ、小坂の鑛毒問題、鑛業對農業の話を聽く。

　大瀧の温泉に泊るつもりを變更して、大館より汽車に乘り能代驛まで、こゝと町とは一里以上あり、人力車にゆられて行き、とまつた宿がきたなくて大いに後悔す。

(107)　六月十二日、雨、後霽れたり

　能代より汽車にて引かへす。車中幸ひに町長警察署長などと一しよになり話を聽く。其前に山本郡役所にも行きたれど、時間無くて早々に引上げし也。

　土崎驛にて下車、南秋田郡役所に寄る。郡長等面會。赤十字の會ありて常務は手に付かずといへり。

　秋田の旅舍に還りて休息。夜松崎加藏、梅原などいふ人々來訪。兄の舊友赤星敬次郎氏、宿の近くに病院を開き、昨年秋は大いに世話になる。この朝名刺を置いて來たのみにて、つひに逢ひに行くひま無かりき。

　六月十三日、晴

　夙起。秋田出發。控訴院長前田孝階氏の一行と同車す。

　山形下車、先日の明日米藏君迎へに出て、後藤旅館へ案内。佐柳亥角の二事務官も來訪、又田中與七君も來てくれる。

　夜縣參事會員加藤正英安部彦四郎の二氏來談。加藤は鶴岡でも逢つた人なり。安部氏は北村山郡小田島村蟹澤の舊家のよし。

　六月十四日、微雨、けふは五月の節句。

　昨日の田中君と二人、金井村志戸田なる信用組合を見に行く。事務所は遠藤甚兵衛といふ大地主の家、昔なつかしき作りざま也。

　午後宿へ若林功氏來訪。藤島農學校の校長なり。小松へ所用ありて行きし歸るさといふ。

　師範學校を參觀に行く。こゝにて女子師範と中學の校長にも面會す。柔道の試合の日なり。其集りに對して又話をさせられる。

　歸途縣廳に行き佐柳君に逢ふ。同君等の案内にて物産陳列場を見物す。

(108)　不在中從妹の夫山内大尉來訪、仍てこちらからも訪ねて行く。千歳山に面したるよき住居なり。妻幼兒にも逢ふ。

　千歳館に行き、佐柳亥角の二君と會飲す。こゝは五年前の八月に、荒木大藏君につれて來られた家なり。再びヲバコ節を聽き、又球を撞く。後藤屋といふ宿も明治三十五年からの馴染なり。其頃の老母は既に世を隔つ。

　夜は按まをよび話をきく。

　六月十五日、晴

　山形出發、佐柳君及び山内夫婦見送。明日君も來てくれる。案内役は田中君なり。

　赤湯にて下車、沖郷村大字荻生田の購買組合を見に行く。組合長高橋五郎次氏を村役場に招き話をしてもらふ。蠶事の最も忙しい時なり。十二時の汽車に乘る前、少しく驛の附近をあるいて見る。置賜の平野は四周悉く殘雪の嶺なり。こゝにも五年前の遊蹤あり。一昨日赤湯小學校の校長、白龍湖に舟遊して水に溺れたりといふことにて、今も此あたりは大騷ぎ也。

　米澤にて下車。茜屋にとまる。

　工業學校を見てから、模範工場を參觀に行く。機械にて羽二重を織るなり。社長は池田成章氏、米澤の古老にて人格すぐれたる人、鷹山公世紀の著あり。相對して談ること多からざりしも、おのづから畏敬の念を起す。

　前田院長・岩本所長の一行に又爰にても遭へり。閑院宮殿下昨日秋田の赤十字社支部總會に臨みての御還さなりとて、人々御見送に出てあり。

　夜町をあるきて古書を覓む。一も得るところなし。

　六月十六日、晴、風冷、日よう

　朝のほど公園を見巡り、又上杉神社に詣づ。

　九時半の上り列車。又々前田氏等と同車。織物同業組合長色摩某君對面。わざ／＼跡を追うて來られたの也。田中(109)君とこの驛にて別る。板谷山中の初夏、心ゆく水の音なり。

　福島にて石井善兵衛氏に逢ふ。裁判所長にて父の舊友。縣技師山上正夫氏と須賀川まで同車。明治三十八年の舊知、夫人は姉の友だち。

　郡山に近づく頃、窓から顔を出して帽子を水田の中に落してしまふ。

　農事試驗場の上田技師、郡山より乘込み來る。人參の病害を調べに會津に行き、是から日光に行くところといふ。此人も三十八年の八月に、福島へ行きがけに逢ひし人なり。其折の花井君は今統監府に轉任してありといふ。

　氏家の驛より笹川臨風君乘り來る。久しぶりなり。米澤で買つて來た櫻桃の一籠を分つ。

　夜八時半上野に着きて還る。家は大かた事無し。

　

(110)　　　　　歌集「山さと」序文

　　　　　　　　　――昭和八年――

　

　二十七年前、始めて外山君と逢ひて談らひしは、越後三條の越前屋といふ旅館の、靜かなる奧の離れ、時は五月未の頃の、雨の後なりしかと覺ゆ。庭の小池には花あやめ多く咲き、樹蔭には小手毬の花などありて、時鳥も啼き渡るべき曇り空の、水に映りて白かりし夕暮思ひ浮べらる。この歌人は年尚若く、同じ年頃の僕を一人つれて、見參の禮儀の慇懃に又古風なりしことは、今も忘れ難し。其頃は殊に口重く、久しき對座の間にも、執心は專ら歌道の上に在りて、絶えて世間の話題に觸れざりしことは、かゝる官僚の旅路には珍しき例にて、まことに是をやまれ人とは言ふべきと、傍なる客を顧みてうなづきあひたりき。おのれも其折は齡未だ傾かず、輕々しく物に興ずる癖あり、かつは風雅のすぢにも疎からぬことを、示さんとする下心さへありて、悦び聽く人のあるに任せて、定めて種々の問はず語りをしたりけらし。今は其一節をすら思ひ出でざれども、弘くまだ國々の旅は試みず、都府を愛するの念、今よりも盛りなりし頃のことなれば、其日の語り草も大方は推し測り得らる。本の主は年よりて既に忘れ、外山君のみは永く之を記す。昔の友ばかりなつかしきものは無かりけり。

　此後又八歳を隔てゝ、歐洲戰亂の正に酣なりし頃に、ロバートソン・スコットといふ英國の文士、妻を伴なひて我邦に訪ひ寄り、おのれが田園の旅を好むことを聞き知りて、導きて日本の殊に平和なる村々を見せよと乞ふ。乃ち同學の那須皓君と共に、那須の火山を越えて南會津に入り、田島の夏祭を見て湯の俣の山の湯に泊り、川原眞白なる只(111)見川の岸に沿ひて、世に謂ふ御藏入りの谷を馳せ過ぐること二日、柳津の虚空藏に詣でて潭の魚の靜かに遊ぶを羨み、暑き日に野澤の驛より汽車に乘りて、越後には下りたりき。蒲原の平原は桑圃遠く連なり、それを出づれば一望の稻田、青々として末は雲に入り、異國の旅人の眼を驚かしむ。外山ぬしは豫ておのれが求めによりて、自ら三條の停車場に迎へ、車を列ねて田の中の路を行くこと一里餘り、三ッ谷の故郷の家におのれ等四人を招じ入れたり。路より横に折れて一町ばかり、美しく掃き清めたる門前の徑を、更に箒を揮ひて老いたる下部の、後じさりしつゝ歸り行くは古式なるべし。家は古からねども中門の型なほ存し、庭を廻れば書院の軒は深く、内には露地と板縁とを取り繞らし、外には五六本の老松ありて、見るからに先づ涼し。此松の木の緑の間より、南の方には稻田廣々と見え、晴れたる空の夕日、其上に照り渡りたるが、家の中なる金色の屏風に映ずる光景は、靜寂として夏の旅の苦しさを忘れしむるに足れり。やがて水使ひ食事をしたゝめ終り、黄昏の漸く催すに及びて、軒に蚊遣を焚き、家刀自は座に出て款談す。此頃長子暦郎君尚穉なく、末弟哲二郎君は中學に在り。共に袴を着て客と對し、通譯に由つて色々の問に答へたり。スコット夫人は愛蘭の出なれども、曾て蘇格蘭に在りて最も其風物を愛すと謂ひ、兼て又彼國の田園詩人の、境涯の此主人に近き者を知るといへり。那須君は曰く、君知らずやバーンズのロングサインは、一たび日本に入りて船人等の別を惜む歌と譯せられ、更に其餘調は螢の光といふ小學校の唱歌となりて、毎年この小さき人だちに歌はるゝなりといふ。さなりや然らば歌ひて聽かせたまへ。おのれも其本歌を吟じ試むべしとて、こゝには珍しき國際の歌垣の、隣も無き家の内に響き渡りしことは、歌よむ家主はさら也、子も弟も又其折の旅人も、いつ迄も記憶する所なるべし。此夫婦の外客は國に歸り、今はオックスフォードに近きキングハムといふ岡の邊に住めり。十年あまり前におのれは其宿を訪ひて、一夜越後の外山ぬしの、家のまどゐを語り合ひしことありき。夜ふけ歌終りて庭の松の樹間より、晝に引かへたる滿月の光の、白銀の如く澄み渡りし夜の景色、今も身に沁みて忘れ難しと、此夫人もかの靜かなる田中の家を、なつかしきものに思ひ出づといへり。

(112)　越の國の習ひとして、外山君の家には昔より旅の歌人、田舍わたらひの俳諧法師など、秋の稔りの頃を測りて絶えず訪ひ寄り、冬春の境には雪に降りこめられて、永く留まりて爐にあたり、温かきもてなしを欣び、之を思ひ出でては久しく文通はすなど、殆と歴代の家主をして、坐ながらに風流の好士たらしめずば止まじと、巧み企つるかと思ふやうなりしに、新たなる主人の世になりて、我と都に出でて歌詠む業に勤しみ、更に又志深き人々の爲に、進みて斯道を説き明らめんとせらるゝに至りしは、素よりたゞ世の常の轉變とのみは言ふべからず、おのれ等が眼には祖先の�ｺの積り、遙かに行くものゝ本に反り、盈ちたるものゝつひに溢るゝ理とこそ思はるれ。然るを此主は、はた如何なる思ひ出での有りてにかあらん。斯くして故郷の家を遠ざかり、塵の衢の中にして、懷ひを月花の境に放ち遣るやうになりしも、すべては柳田といふ者のなせるわざの如く、思ひたまへりと聞くは誠にいぶかし。おのれ年とりて物忘れ愈々繁けれども、今はとにかく此君を誘ひ出したりと、思ひ當る節は一つも無く、古き交遊の跡を顧みるに、たゞこの二度の安らかなる思ひ出のみ、時を重ねて益々鮮かに、目の前に描き出さるゝ心地せらるゝは如何に。おのれ等が知る限りにては、外山君の境遇には變化多し。歌も生活も父租の世のあらましを越えて、新たなる野邊を伐り開き、文の御苑に新たなる花を栽ゑて、この大御代に仕へまつらんとせらるゝことは、君の力にして又境遇の賜なり。二十年前の外山ぬしを知る者にして、始めて是をさもあらんと思ひ、又この歌卷の世に出づることを、心より悦び且つことほぐことを得べくなん。

　

(113)　　　　　北國紀行

　　　　　　　　　――明治四十二年――

　

　五月二十六日、水曜

　夜來雨、五時に起き六時に家を出て、飯田町六時三十五分の汽車に乘る。

　山々は曇りて見えず。淺川の川原には月見草多し。桐處々に花さく。

　郡内の川の荒れてゐるのは、一昨年の水害の痕なるべし。鳥居の三分の二ばかりも土に埋もれたるなど、まだ其まゝになつて居る。

　甲府で買つた月の雫。名ばかりでたゞ下等なボンボン也。

　富士見のあたり白樺の若芽めづらし。何處へ送るのか、はひ松を汽車に運び入れて居る。小野村の山間の古い家で、雨が降るので子供たちが、縁先で遊んで居るのが遠くから見える。赤ん坊を負つた大きいのが一方の端に立ち、小さいのが一人づゝ、其前に出ては禮をする。卒業式の眞似か何かであらう。

　鹽尻のトンネルを出ると躑躅がおもしろく咲いて居る。大輪の褪紅色の、この邊で鬼つゝじといふ花である。

　五時に鹽尻着、建築所員は出迎へてくれたが、トロは鳥居峠のこちら迄しか通じて居ないと聞いて力を落す。停車場前のます屋に泊る。三階から山の雪が見える。それが明日越えて行く路である。

　ブランデスのアナトルフランス論を讀んでしまふ。

(114)　昨年のけふは備後の鞆から三田尻へ武庫川丸といふ汽船の中に居た。

　五月二十七日、木曜

　夜來は風、けさは又雨になる。

　七時十分、建築列車に便乘、櫻澤まで三里弱、櫻澤は先年陛下の御小休ありし處なり。名木の櫻、線路に當りたれば惜むべし伐拂はれたりといふ。

　贄川へ一里坂本屋に入りて休む。大きな家なり。

　平澤は名の如く少しの田あり。檜の木の厚さ四五分の板切れ、膳の木地とて多く積重ねたり。櫛と塗物がこの山間の今の生業で、人夫として鐵道工事に出る者も二三人しか無いといふ。此邊の山に木が無くなつたのは維新後のことで、道中の時代には山も青々として居たといふ話。

　福田定吉といふ工員が親切に世話をして、奈良井までは工夫に荷物を持たせて送つてくれる。こゝで巡査に頼んで藪原までの人夫を見つけてもらふ。美濃の養老から來て居るといふ男なり。今まで何處に行つても人夫をやとへば必ず他所者であるのは何故であらうか。土地の人には定業がある爲か、又は斯ういふ雜役を賤しむからか。又は斯ういふ者が特に熱心に仕事を求めるからか。三つとも恐らくは原因の一部であらう。

　鳥居峠は思つたより小さな峠。頂上には成るほど鳥居あり。茶屋には其繪葉書あり。ゴムのスタンプを備へ付けて居るのには一驚を喫す。こゝから左に駒ヶ嶽、右に御嶽が共に雪白く望まれる。

　藪原の米屋に憩ひ、宮越から來た人力車をやとふ。こゝでも古風な檜物類を作つて居る。メンツウは近年北海道へ澤山行くやうになつた。一個七錢位といふ。

　冬の秣は二百十日も過ぎてから苅る。折角の萱野は有りながら、屋根は板葺きであり、馬には莖の立つた硬い草を食はす。是れ秋蠶に追はれて草苅りに行く暇が無ければ也。斯ういふ點でも馬と蠶とは利害が衝突する。

(115)　藪原より少し南に、右の方山に入るよい路あり。是が野麥越の入口か。南受けの斜面は藤とつゝじとで飾られて居る。此奧に菅といふ八十戸の部落あり、眼科と小兒科と良き醫師二家ある爲に、松本あたりより來る人多しといふ。

　路傍で小兒が草の花を採つて露を吸つて居るのを見かける。いら草のやう也。

　宮越のコシは腰又は背後の意味か。南宮神社といふ社あり。木曾氏の居城といふ。�ｺ音寺はよい寺なり。此宿の若松屋といふに憩ふ。三時に福島に着き、林野管理局支廳に行く。田中支廳長その他の人に面會。それから郡役所に行き永井書記に逢ふ。藤江再吉君といふ縣林業技師もこゝに至り。此人は三十四年の十一月に、上伊那で知つて居る。

　蔦屋に投宿。大きな家の三階、木曾川に臨めども山迫りたれば風景無し。

　御嶽は鳥居峠でないと見られぬと震災豫防の報告にはあるが、福島の町の北入口あたりからもよく見える。空も晴れたれば明日山に入る計畫をする。王瀧の出張所長井深丹吾君來り同行の約束をしてくれる。藤江君も再び來て色々の事を話してくれらる。御料の人たちとは河畔の一小亭に會食して、ゆる／＼と問答する。以下は其談片なり。

　馬を二匹も三匹も田に入れて、たゞ引張りまはして居るのをよく見かける。是は苅敷を踏み込ませるのみで無く、あれを田うなひの代りにして居るものらしい。

　苅敷は上古以來、今でも山間の村では主要なる施肥法である。苅敷植物の範圍は段々と廣くなつて居る。萱なども此邊では秣よりも緑肥に多く使はれる。安曇地方では初夏に喬木の若枝を伐つて來て、田に入れて馬に踏ませ、後に田の中から堅い枝を拔き出して、乾して燃料にする處もあるといふ。

　原野のまん中に松の木がばら／＼と立つて居て、風景をなして居るが是も燃料用である。大抵は三十年位で伐る。

　開田村一村だけは、公有民有ともに山林といふものが一切無く、地目はすべて私有原野となつて居る。此地方の山畑農業は半燒き半切替ともいふべきもので、即ち若干の林業收入を期して居る。播くのは主として蕎麥と豆類。燒畑の完全なのは下伊那の旦開村などへ行けばまだ見られる。天龍川沿ひの村々には、杉の造林の端境だけに、二三年位(116)も豆などを收穫する者がある。

　山の火入れを禁止するといふのは無理で、隱れてするから却つて火の害が多い。やはり森林法の取締りに委ねる方がよからうといふも一説。

　山民の食物は悲しむべく惡し。開田村などは主として蕎麥粉のねり粥と稗。麥は作りながらもすべて賣却する。米は賣る程も出來ず、何か賣らないと買ひたいものが買へず。

　奈良井では桃が咲いて居た。入山は一帶に今桃の花が盛りなりといふ。

　五月二十八日、金よう、半曇

　昨夜は熟睡、八時に起きる。昨年の昨夜は筑後川左岸、朝倉の木丸殿址の水番小屋へ一泊して居た。

　一昨日が舊暦四月八日、家々の門口には花を挿して居る。又軒にアヤメのやうに葺いたものも有り。花はツツジ、フヂ、又山吹も門の柱にくゝり付けてある。卯月八日にも斯ういふ風習はある也。

　家々は板壁にて、土を塗るものまことに少なし。土はしけて宜しからずなどといふ。板屋には隙間が多く寒さうなり。

　年中木を焚くこと多し。長さ三尺、高横各六尺の量を一間と謂ひ、一冬五十間を消費する家は珍しからず。十月中旬に稻苅を終つてから、この薪樵りにかゝる也。

　十時に福島出發、馬車にて上松まで、途中寢覺の床一見、臨川寺の建築は普通の農家に變らず。川に臨みたる棧敷の屋根だけは、別に小さな切妻作りなり。

　上松にて川を渡り、小川の谷を登りて高倉峠を越え、小川伐木事務所に宿す。同行は三殿出張所長青木氏、上松出張所の多賀氏など計五人なり。

　山中の人は多く山の草を食す。ウルヒ又はウリといふは玉簪花《きばうし》のことゝおぼし。ウルヒ澤といふ地名ある處を過ぐ。(117)その一つ隣は麝香澤、この檜の木最もすぐれ、香氣高しといふ。

　木曾の山は少しも大鋸《おほが》といふものを使はず、すべて斧にて樹を伐る。川流しの木は、端を平らにすると岩や他の木に突當つて裂け割れるので、端を圓くして置く必要が有る。故にいつそ始めから斧で斫る方が勞少なき也と説明する。

　運材夫は一般に日傭といひ、其作業を狩りおろし、大谷狩小谷狩などの名目あり。掛け聲にハツタ・サイタ・五分サイタ等の過去完了形を使ふのが力強く聞える。五分サイタは少しさせといふこと。

　アスヒは青森のヒバ、南部のヒノキ、北陸でクサマキといふのと同じ木、ネヅコが黒部杉と同じものなることを始めて知る。木に硫酸を注射するに、檜のみは之に堪へずといふ。藤の蔓が此山では乏しく、檜の皮を之に代用して居る。

　林中にホヤ（寄生木）多く、ホヤの實を山鳥が好みて食ふ。かし鳥はカケス、人語をまねる。針葉樹の實を食ふから害鳥と認めらる。栗の實を畠地の隅などに埋めて置く面白い習性がある。兔や鹿も林の樹を害するので嫌はれて居る。

　この他いろ／＼の地形語などを聞き集める。ホラといふ言葉はもう木曾の方にもあることを知る。ヌタといふ語はこゝではきかず。田代は大瀧川の谷にもあり。それを假字で書く地名は多し。

　五月二十九日、土よう、雲あれども午後は昨日より暑し。

　朝八時こゝを立つ。青木君外二人は千秋山道分岐點より阿寺の方へ行き、多賀君は王瀧村境の小屋までにて別れ去る。一昨日の井深君外一人とこゝまで迎へに出てくれる。午少し過ぎ王瀧の上島着。御師で宿屋をする瀧龜松方にて晝食。二時にこゝを出る。同行井深林二君。

　付知《つけち》新道を水ヶ瀬まで來て右に折れ、瀧越道、濁川から又右に折れ、濁川の温泉に着いたのは五時少し過ぎ、此川は御嶽の地獄谷より出づといふ。水の音かまびすし。赤くてぬるい湯なり。左右の足に豆が二つづゝ。

(118)　日傭が冬はく草鞋は、粗末にてなるだけ柔かなるものを用ゐ、少し馴れると破れぬうちに棄つる。斯くせざれば滑りて丸太の上は走られぬ也。

　王瀧川へは美濃から魚を捕りに來て小屋を掛ける者がある。御料林の休泊所も開放して彼等に使はせる。捕つた魚は土地で金に換へて行く。火にあぶらずに鹽にして貯へるは古風なり。

　駒鳥は一谷にたゞ一つがひづゝ棲むといふ話を聽く。

　タエテといふ副詞を昔の通りに使つてゐる。

　五月三十日、晴

　朝七時こゝを立つ。冷氣驚くばかり也。昨日までの同行者、皆それ／”＼の方角に向つた、井深氏一人案内役となつて殘る。

　瀧越へ越ゆる峠も中々險し。瀧越は又ミウレとも謂ふ。中部地方一帶に、ウレとは上のことなれば乃ち水上の義なり。全村十七戸皆三浦氏、三浦の落人なりと傳ふるは後の解釋と思はるゝも、何れはさういふ武士の末ならんか。最も古い家がどれなるかを知るのみにて舊記はもたず。爰のみは打開けたる平地にて、もとは湖底なりしことほゞ明らか也。川沿ひは峽谷にて瀧あり。瀧越の名もそれからと思はる。白川の入を美濃の加子母《かしも》へ越ゆる白巣峠あり。付知新道が開けてより、殆と廢道に歸せんとす。

　三浦藤次郎といふ家に憩ひ、支度をして人々と別れる。王瀧の人夫も還り新たに文六といふ若者を頼む。杣にも出たことのある男にて、此村としてはやゝ世間を知る。

　昨年熊に逢つたといふ處を過ぐ。その熊は二月になつて捕られたり。皮の價十五圓なりし由。熊笹の中を分け進みて、三浦の休泊小屋あり。是から奧を三浦山といふ也。もとは高山の支配なりしを、明治の初年管轄を爭ひ、官裁を受けて之を木曾に附けることゝなれり。現在は飛騨の方の出張所分擔區、すべて二里位が限りなるに、木曾の方には(119)七八里にも及ぶものありて、盗伐の防止行屆かず、之を前者に依頼するやうな實情なりといふ。

　國境をこゝでも三國といふ。その少し北の方、境塚の立竝ぶあたりを飛騨へ越える。竹原川の流れは次第に成長し、やがて益田郡竹原村の御厩野《みまやの》といふ部落に入る。こゝも山の腰の僻村なりしことを、過ぎて振囘つて始めて知る。縣道まで降り付けば、美濃から三國の向ふを越えて來る路と合する。そこに梅野屋といふ旅舍があつて暫く休息する。縣道は竹原川の流れに沿ひて北に下り、それが乘政川と一つになつて、下呂の近くで益田川と合流するまで、半日餘りも此水と伴なうてあるきし也。

　下呂の吉村屋は益田川に近く路傍なれども居心地よき旅宿なり。夜下手な按摩を頼む。

　五月三十一日、月よう、晴

　名古屋支廳の奧田技師が、門前の路を過ぐるを喚び留め、小坂まで同行してもらふ。小坂出張所長も出て來て逢ひ、暫く其役所にて談る。

　午後は徒歩にて落合の唐谷伐木所一見。主任小原君途中まで出迎へ、この事務所までは小坂から三里餘、更に半里奧に至る出會所といふに行きて宿泊す。山中塵無く明浄喜ぶべし。給仕の少年を茶坊といふ。輕捷にして又親切なり。

　六月一日、火よう、晴

　早天に爰を出で、小谷狩に使ふといふ堀川を見る。堀川の端にて奧田技師と別る。この人津輕弘前の出といふ。小原君は同行して小坂に下る。途中腰痛み少々難澁なり。

　往復とも山口の松島屋といふ家に憩ふ。山に供給する雜貨をあきなふ店なり。爰にて立山熊膽圓と稱するダラニスケを求めて服用す。又蕨粉を所望して晝食にかへる。

　午後一時前に出發す。久々野の坂の下まで人力車、こゝにて車を替へ高山へ、五時到着。郡役所に行くに皆還りて至らず。長瀬といふ旅宿にとまる。牧野君の家はよい宿屋なりしが近頃止めたりとのこと也。

(120)　小林區署の伊藤佐藤二氏來る。夜又按摩をやとふ。莊川村の海士といふ部落の産なれば、色々と山の事を問ひ試む。かの山には山男などは居らずといふ。

　六月二日

　高山に滯在す。郡役所に行き柿元郡長に逢ひ、又白川村選出の郡會議員高桑君を紹介せらる。町へ出て明日の買物をす。平田書店に行き主人と話。歸りて旅宿の主人を招き白川の話を聽く。珍しい話いろ／＼。

　夜伊藤柿元高桑の三氏來訪、又平田、住の二書店主も來る。

　縣技師岩淵君逢ひに來る。

　メレジコフスキーのイブセン傳を讀み終る。

　六月三日、木よう、昨夜もけふも雷雨

　朝六時四十分出發、牧ヶ洞の峠の下迄人力車。伊藤署長と三日町保護區員の田中某、こゝにて待合せ同行。峠の頂上の茶屋に憩ひ、又行きて夏厩《なつまや》の保護區官舍に憩ふ。

　小鳥《をどり》の山道に雷雨來らんとす。傍の製材小屋に入りて休む。

　山梨の木を伐り殘して、五六本立てる處あり。大木にて毎年實が澤山なる。清見莊川二村の境あたりの山殊に多し。此邊は桃の實さへも旅人の採り食ふに任せてゐる。

　小梨の花盛り、郭公頻りに啼く。此野薙畑多く、又以前の薙畑の地新畠となり、人家の常住するものあり、又白樺の林となれるもあり。

　六厩の宿にて伊藤田中の二君と別れ、莊川小林區署の小川君と同行す。輕岡峠の下り口まで莊川の署長｜公文《くもん》克八氏出迎へらる。土佐安藝の人といふ。

　五時半に莊川村新淵に着く、それより半里下流、牧戸の寺田安之助といふ家に行きて一宿す。夜此村の村長若山君、(121)村書記前田君來りて色々の話をしてくれる。

　薙畑は各自所有の地にも、共有の地にも、又他人の地を借りても作る。通例五年作れば其後三十年四十年も荒すこと也。順序の一例は稗−粟−大小豆−蕎麥−荏など。稗は一反に二升ほど播く。常田畠の三石を上の部とし、山畑にては一石くらゐの處もあり。搗きて十分の三の穀を得。粟は一升を播く。上々で一石六斗位、穀五割。大豆は賣るほども取れる。四斗二升俵近頃の相場四圓内外、荏は一反に一石三斗位までとれる。一石十圓内外の相場。

　共有地の薙畑は使用區劃を割て貸渡す。私有地を人に作らするに二種の方法あり。一は五年間をまとめ賣るもの、一町の價まづ十圓位。次は一年一作毎に貸すもの、實收の半分を現物にて徴す。之を苅分けといふ。苅分けは常田畠にもあり。田は二分の一、畠は三分の一を地主の分とす。

　六月四日、晴

　朝霧深し。六時半に起き、七時半出發。若山村長迎へに來る。此邊のツツジは輪大きく花の色艶麗なる紅にて且つ香氣あり。川の岸田の畔にも多し。藤も今ちやうど盛りなり。栃の木處々に花さく。林をなせる處もあり。此實は蓬と共に冬分の食料となる。近年椀木地用によほど伐られたり。椀木地には縱目横目の二種あつて、職人はそれぞれちがふといふ。岩瀬の若山村長宅による。稚蠶の共同飼育をして居る。

　中野の入口路上より三方崩の山を望む。その下が御母衣《みぼろ》なりといふ。村境の橋まで來て村長と別れる。

　御母衣の遠山喜代松氏に憩ひ晝食す。此あたりを中（ノ）切といふ。出居に珠數を掛くる衣桁のやうなものあり。是に家族の數だけの珠數が掛かつて居る。此奧が佛間、内陣といふ。眞宗東本願寺派。本山の大門の爲に樹を出した話などを聽く。

　部落有の薪山は昔から各家大略の採場あり。是を薙畑に開くも隨意なり。薙畑あとの茅は苅りて牛馬を飼ふ。

　山地の材木は根に近い方が價安しといふ話。

(122)　荻（ノ）町の宿は大阪の商人四人、神戸の外商一人、鑛山を見に來て居る故ことわられたり。鳩ヶ谷の田中といふ家に行き泊る。

　村の助役木村、書記白根、前村長白木の三人夜分話に來る。城端《じやうはな》から來た荷持を約束し、高山の人夫を返すことにする。

　此宿の主は越前鯖江の者、四十年前に武生《たけふ》の鍬先を賣りに入つて來て、其まゝ爰に住み着くといふ。斯ういふ他郷人との縁組、この地には珍しからず。

　六月五日、土よう、風雨

　朝四時半に起く。空模樣よろしからず。六時にこゝを立つ。役場の書記白根、送つて赤尾まで來り、途々色々な話をする。高山生れの青年にて、昨年八月から爰に來て居る。何か事情のあるらしき優男。荷持は城端の者、昨日夕方こゝに來てもう引返す也。ボッカと稱して一種特色あり、高山では繪葉書にもなつて居る。長年の經驗によつて装束身ごしらへなど考へたものなり。太い撞木杖の石突に鐡をはめ立ち止まるときは少しの間でも是を荷の尻に當てる。歩くときは息杖とし又は小脇にかゝへる。牧ヶ洞にては左の一脚無き男の、之をついてあるくを見たり。此邊にては之をニヅエンボといふ。荷杖棒なるべし。

　ボッカの最も多く出るは五箇山地方といふ。五箇山は赤尾附近の盆地、周圍すべて山。賀州領にて流人を遣る處となつて居たといふ。

　白川一村の中で最も大きな平地は、荻（ノ）町飯島の周圍、大體四十町歩もあるべきか。こゝを少し下りて下田といふ部落まで來ると、對岸はもうすべて薙畑の山なり。住居よりやゝ遠く、皆小屋を山中に掛けて出作りす。

　荻（ノ）町飯島には城端より移住せし商家などもありて、やゝ世間の風が吹けど、是より又下りて芦倉あたりまで來れば、今もまだ五つ紋の小紬を着て田植をする女を見る。又その着物はすべて手織、男は無地の淺葱の紋付、女は若い(123)のは裾に萩の花を染め、老いたるは浪に燕の裾模樣が普通なり。何れも城端の紺屋に誂へて染めさする。中（ノ）切に次ではこの飯島の對岸あたりが古風なるべしといふ。加須良（飛騨桂）は之に比べると越中の感化やゝ多しとのことなれど、行きて見ねば何とも決し難し。

　加須良川小白川ともに清流して、梅雨にも少しも濁らず。たゞ水量は平瀬の大白川に及ばざるのみ。溪山の美はこのあたり最も優れたり。是ほど多くの人が入込みて今まで之を説く者なきは不思議なり。

　國境小白川の部落に分教場一つ、二間に三間ほどのものを二分して、一方を教員官舍とす。教員は十六七の青年一人、生徒は十人にて此頃全部缺席、以前はたゞ出張教授であつたのに比べると、是だけでも進歩なりといへり。

　椿原からこの小白川までは二里、對岸はもう越中なり。越中の民家の屋根も上流のものと大差無く、たゞ破風を正面とした妻入の家を見るのみ。此谷の住民が庄川下流から入つて來たことは建築の特徴からでも推測し得られる。此谷を東に越えると、屋根はすべて板葺きで、先づ木曾方面と同系統と見られ、山脈が二つの風俗を境して居る也。

　四階五階の高い藁屋といふのは、分家制限に伴なふ必要からならんも、平地の儉約といふこともたしかに又大きな理由で、日向椎葉村の細長い家と同樣に、土地の人の工夫に基づく近年の改良かと自分は思つて居る。

　普通入口に當る所を入つて行くと、左は厩屋で折れ曲つた土間が通り、右手には垂れ蓆が垂れて居て其中をオイと謂ふ。オイには爐があつて其横座には家の隱居が坐る。主人は其次の臺所といふ室の爐の横座を占める。オイから外部に面して高窓といふ窓が切つてある。斯ういふ一つの例を自分は見て來たが、他の家々も大抵は同じ作りかと思ふ。

　赤尾は町といへどもやはり淋しい在所なり。たゞ畠の麥の出來はよく、田も少しは多し。

　今が田植の盛り。雨いよ／＼烈しくなり、一軒の家を借りて晝食をしたゝむ。此家の田植の飯をよばれる。鍋にて炊いたものといふ。

　正午にこゝを立ちて尾瀬峠にかゝる。風強くして傘もさゝれず。山越の間にずぶ濡れとなる。雨具は着たれど腰よ(124)り下は水漬なり。

　峠の中腹以上は雪多し。雪は皆山の塵を被りて、遠くよりは雪と見えず。しかし其あたりにも谷ウツギはあまた咲き、其かたへに椿も咲きたり。むやみに高い峠なり。草には葉や莖の異樣に大きなもの多し。頂上のあたり風勁くして少し危險を感ず。足は雪水にてつめたく、行手は霧かゝりて見えず。されど峠に裏と表あることを發見して獨り喜びに堪へず。表といふのは其方から通交を求めたことを語るもので、是が經濟生活の方向ともいふべきものを示すかと思へば也。

　上梨新道まで下れば始めて人家あり。越中東礪波郡｜大鋸屋《おがや》村二ッ屋のうちなり。こゝに少し憩ひて四時過ぎに城端の町に入る。停車場の茶店にて濡れたものを乾す。高岡までと思つたのが、錦小路東宮主事巡檢の混雜を憚りて、金澤まで出てしまふことにきめる。車中睡り制し難し。

　六月六日、日よう、雨止み曇

　金澤の旅館源圓に至り、朝十一時まで寢たり。

　石原警察部長に電話をかける。衛生會議にて手があかぬとて、高麗十二君といふ警部訪ひ來る。能登への路を尋ねる。

　家へ小包、處々へ葉書、日記などを書きて日を暮す。

　石川新聞の記者來る。夜は按摩に附近の口碑などを多く語らしむ。鏡花の小説の淵源する所あるを解す。又その言語にも少なからぬ興味を催す。

　六月七日、午後晴

　早天石原磊三君訪ひ來る。此地で亡くなつた舊友平田�ｺ次郎の話を聽き、何か此樣に働くのもつまらぬ樣な氣がする。

(125)　しかしなほ八時半の汽車にて、七尾へ行くことにする。石原送つて來てくれる。車中に縣の岩藤技師縣參事會員津幡の河合明氏とを知り、多くの地方事實を學ぶことを得たり。河北郡の海岸はひろ／”＼とした砂地、桃の名所なり。但しズバイばかり、普通の桃の方を毛桃と呼ぶことは播州と似たり。

　又薩摩薯を作る。肥料は魚類と粉糠、近來やゝ豆類の植物を栽植して緑肥とす。

　索?を産す。小麥は今日にては附近のものにては足らず、北海道よりも買入れる。

　鹿島郡にては杉材は産物の一つとあれど、山にも里にも爰ぞといふ杉の林は無し。或は次々に屋敷まはりのものを伐つて居るのか。

　能登部は古府中の地の北に接して廣き臺地の原野なり。所々に新墾あり。此邊馬を産す。加賀は牛、能登は馬と自ら分るが如し。

　黨派心は中々強し。何れの村にも必ず役場派非役場派の對立あり。郡役所にも黨人の括抗が見られる。目下所得税調査委員の選拳の爲に、烈しい競爭をして居る。

　いはゆる陰翳樹除去の政策は效を奏し、はさ木は多く用ゐられ、田の畔の木はよほど少なくなれり。はさ木は乾田を選びて立て、他の田の稻もこゝへ集めて乾す。はさ木の材は栗なら一本三十錢内外、杉は二十五錢位、田の傍で雨晒しにするなれば腐りやすい杉よりも栗の方が多く望まれる。木の長さ三間半から四間、三尺ほどを土の中へさし込み綱でとめる。二本の間にははさ繩を引渡す。風の少ない處ならば六七段も鎧のやうに稻束を重ねて引掛けるといふ。關東でヲダアシなどといふものとは、よほど方式がちがつて居る也。

　蠶種は縣内を平均して三〇％の不合格、是は當業者正直にて隱蔽せぬが爲なりといふ。長野などにては生産者まづ顯微鏡にて見、怪しいと思へばよその不用の蛾の無病なのを借りて來て、すりかへて添へることありといふ。法律の不備ともいふべきもの。

(126)　七尾に下車。署長郡長を訪ひ、色々の話を聽く。この港木材の輸出少しも無く、又輸入も無し。たゞ先年火災復舊の際、ごく少量を能代より入れしのみといふ。輸出の主なものは米、是は内國向き、輸入は鮮魚といふ類なり。鐵道との關係にて斯かる現象あり。

　和倉の和歌崎に行きて泊る。岸本馬政官望月農商務技師などの一行宴遊すときゝて、惡戯半分に名乘つて出て是に加はり、又大きに腹をこはす。馬鹿なことをしたもの也。

　六月八日、晴

　弱つて寢てしまふ。終日無聊なり。昨夜の小さい娘を一人借りて世話せしむ。大聖寺から來て居るといふ。いろ／＼かの町の生活をしやべる。

　本を幾つか讀みたり。

　六月九日、水よう、雨終日

　石油發動機の船に乘りて七尾に渡り汽車に乘る。車夫に繪葉書を買はしむ。

　能登の藁屋根は兩側を先づ葺き、前後の屋根は其上に重ねたやうに見ゆるもの多く、其端は農馬の鞍に似てゐる。石崎の蜑の村などは、竹の葉を藁にまぜて葺けり。倶利伽羅の溪谷にも同じ屋根を見る。富山附近の屋根は木曾にやゝ似て瓦を板の上に載せ、切妻の横面には戸も窓も無く、美觀も便宜も共に退歩を示す。この二つの點は白川の方が木曾に近し。つまりは山村の方が住家に力が入つて居る也。東北のやうな鉤の手の家は、縣境の山村にはぼつ／＼あり。

　富山に着き縣廳に行く。行啓の下檢分にて大分混雜。早々に引下る。始めて家信を得たり。

　高松屋にとまる。此夜東京外十一市場の木材取引に關する報告書を讀み了る。

　六月十日、木曜日、冷氣

(127)　昨日の近藤縣技師案内に來る。農事試驗場に行く途次、監獄に行きて見る。こゝは女囚人ばかり、其中には老尼などもありて凄慘なり、昨年の夏、慾の爲に人を殺した若い女なども、機を織る者の群に居たといふが、よく顔を見ずにすぎたり。

　試驗場にてはいちごを出されたり。話多くして一々は記憶し得ず。こゝでは窒素石灰の試驗、又滿俺の試驗などをして居る。田の裏作に燕麥を作り、青刈をして居る。反收量千二百貫に及ぶ。普通の麥は播種の時と收穫の時と、共に稻と重なつて二毛作不能なれば、こゝに新工夫の必要ある也。麥の移植といふことは以前より少しづゝ行はる。斯くすれば稍々稻苅よりおくらせることを得べし（稻刈は十月中旬まで）。但し其勞程僅かに一人二畝、通常の麥蒔勞力の外に、更に反六七人はかゝる。幸ひに農家が閑になるから、斯ういふ仕事も出來るわけなり。

　紫雲英は大分作る。是と石灰施田との良好なる關係は注意に値ひす。從つて石灰を使つたばかりに牢に入れられて居た、天草の農夫を愈々氣の毒に思ふ。

　牛は少しも飼はず、馬は平地では五戸に一頭の割合なり。しかも北國は全體に馬耕の久しく行はれて居る處とて、馬は使用に臨んで山間部よりも、又能登よりも借りて來る也。能登は馬處なれども耕耘にあまり馬を使はず。

　馬を飼つてゐる農家でも、草が無い爲に不用の期間だけ、之を山村に預ける習はしあり。燕麦青苅を飼料として貯へるやうになれば、通年家に置き使役し、且つ肥料を取ることが出來るわけ也。

　試驗場の一區に、生産の全部の藁と糠の外、たゞ燐酸六貫目だけを施す試驗をして居る。人造肥料の連用が次第に效果を減ずることを、感ずる者が多く、之を兩面より確かめて見ようとして居る也。此邊の地下は皆川の砂利、田でも底を塗るやうにせぬと水がもたず。又冬季雨雪多く、肥料は流れて半ば效をなさずといふ。

　中學校參觀。校長の話に、生徒が運動を好まぬ傾きあることをいふ。寒國一樣にしかありとも思はれず。何か原因あるか。

(128)　縣の勸業課にて少時談話。富山ホテルに行き錦小路東宮主事に挨拶。二軒の本屋にて越中に關する書二三種を求む。小包と手紙とを家へ。

　六月十一日、朝曇、入梅の日

　八時十分にて滑川に行き、水産講習所一見、瓢網角あみ大敷網などの標本を見せてもらふ。網の染料は此地方は柿澁、又は日向日高の專賣のエキスを使ふ。この方は化學製品なり。

　高志丸は九十噸の洋型帆船、昨年六月の新造、今年はカムチャツカへ鱈釣りに、十五日出帆のよし。所長短期講習の效果多きことを説く。

　所長室より南の方に劍山、立山は其右うしろに幽かに見ゆる山の頂是なり。蜃氣樓はこゝより西、氷見の山の裾に、又は東の方｜生地《いくぢ》の端に近く見ゆ。魚津では又滑川の沖のあたりに見ゆ。共に背面は陸地にて、たゞ洋上に見ゆるには非ず。水平線下の松林など浮揚がり、砂堤の高く上るものは恰も壁又は橋のやうにも見ゆる也。大抵晴れたる日の十時頃から四時頃まで、斷續して現はる。時々變化して離れ又合して倒れなどす。それを昔は人馬の行列などと言ひしなるべし。

　中新川郡役所にて、郡長と少時語る。此郡農事講習盛なり。長いのは三十日、短きは七日位。

　此郡も耕馬を能登より借ること毎年五百内外、農事の盛りには馬を十二時間も使役す。其爲牝馬は飼へども産育の障碍少なからず。女は馬を扱はず、産馬熱は高からぬ方といふ。

　白萩村は大村、地積殆と郡の半分に及ぶ。男子三分の一は夏より冬にかけて杣に出で、大きな金を儲けて還る。燒畑はあれど農作の勞は女子のみ多く之に當る。

　一時五十分の汽車にて魚津へ、縣廳の若島君先着して出迎へ、郡役所に伴なふ。郡長及び谷書記に逢ふ。鯛引網を見物して魚市場にも行く。

(129)　米穀檢査員は一村毎に一人置く。採用資格を定め多くは隣村人を採る。檢査の外に生産方法害蟲防止等、米作一切に關して縣の農政を助くといふ。

　三日市にて葛布を織つてゐるといふ話。

　六月十二日、土よう、晴

　七時前に魚津を發す。

　田に石灰を撒くさま煙のやう也。其あとを杉の葉の箒にて掃いて居る。念入りなる農業といふべし。但し是はドロ蟲といふ害蟲を拂ひ落すにて、石灰だけならば掃くにも及ばずといふ。

　戰死者の爲に立派な石を建てつること此邊の風なり。一丈以上の碑もあり。何れも個人の爲なり。熊本縣などはたゞ一村毎に一つの記念碑を立つるのみ。

　三日市は景氣よろしき町なれど半分は茅葺き也。此邊から尾根の形かはる。板屋は切妻、茅葺きは破風作り、共に妻を通路に向ける。又板屋の後に草屋を取付けたるもあり。

　織物會社見學、以前は木綿織物を主とし、又經木眞田を試みて共に面白からず、近年二つを合せて經木織といふを始む。内地向きは暖簾《のれん》や簾の代用の如きものゝみなれど、輸出向きとしては襖紙や壁紙も作る。黒部杉梅などを用ゐたるもの殊に面白し。普通は澤胡桃、是は國有林より年分二百棚も伐出す。一棚は六尺〆ばかり、一尺〆の拂下價は十五錢、運賃が一圓以上かゝる。ドロ柳は山中に多けれど未だ拂下げず、たゞ枯損木など少々を賣渡すのみ。柳谷といふ地名も處々に在りて、土質には合ふらしきも、まだ民間にては植栽を思ひ立たず。山のあなた信濃越後にも野生は少なからず。

　經木材は普通七尺に伐る。無疵の部分のみ使ふとすれば歩止まり二〇％位。故にかたはら燐寸軸木の製造をもする。その小規模なるや知るべきのみ。近來檜木のシラタを用ゐて作れる粗布を商人喜び求む。四十センチものといへば敷(130)物用なるべし。檜のシラタは川流しをすれば傷つく故に、遠くより持來ること能はず。

　浦山といふは昔の驛家なりといふも、衰へて最も靜かなる村なり。舟見も昔しのばるゝ處なり。石灰原料の石は内山の奧より出し、又泊の海岸へも船で運んで來る。以前よりは産額減ずといふも、なほ盛んになる産業の一つ。

　愛本の橋の手前より、黒部川をつたひて上る。内山村の役場に憩ひ人夫を傭ふ。

　雪のまだある山に入る。黒部川の水は白みありて、白緑《びやくろく》の色をなす。薙畑にはわせ小豆わせ粟などを作る。わせ粟といふは九月節供に餅になる粟なり。此邊御影石を斫り出す。山の中腹に段地あり、高處より水を引き田を作る。田の底に藁を敷く作業あり、水持の惡い田多ければなり。

　黒薙の温泉に泊り、小林區署長島田の話を聽く。

　林道は是より上流鐘釣祖母谷の二温泉を通り、大黒嶺の少し南にて縣境に達す。信州大町の小林區署管内北城村の方よりも林道を作る。北城愛本の間十四里ばかり、温泉の足がかりあれば山越には便なり。山中には林區署の小屋もあり。たゞ三十四五年頃から道作りを始め、今も年々の修理に少なからぬ費用を要す。

　黒部には檜木は無し。姫小松多し、實測三萬町歩餘、五十餘の林班に分つ、施業案の立ちたるは口元に近き林地のみ。面積十の九は闊葉樹林なり。民林に比すれば土石よく蔽はれ林相はよけれど、なは到底立派な森林といふこと能はず。

　山元の値はネヅコ尺〆五六十錢なれど、昔より此山を拂下げて損をせざりし者稀なり。中には重代の田畠を蕩盡せし者も無しとせず。小林區署は能ふ限り保護を與ふれども、それでも損をする者相次ぐ也。それにはわけ有り。

　他所から來た者は、この土地の人夫を御すること能はず。此邊の者は冬中の食料を確保したさに、あらゆる良くない金の取り方をする。それを附近の者はよく知つて、始めより官山の伐木は企劃せず。

　全體に久しい御立山で、其地積の割には住民の數が少なく勞力が足らぬなり。それで此の如き拂下の不況が續き、(131)幾度かの苦い經驗あるに拘らず、しば／＼官行の伐木を始めることになる也。林道は温泉の利用者たちに恩惠を與ふる以外に、この官行伐木の人夫の出入にも、大きな便宜となつて居るなり。此山林を一生の仕事場とする人夫僅かに二十人ばかり、臨時の人夫も是あるが爲に連れて働くなり。せめて常供給の勞働者が百人あれば、官林の經營は失敗せざるべしと島田の話なり。（附記。この島田不正現はれ、程なく失脚す。何か事情ありしが如きも、予が如き新米の役人には、是を見拔く力無かりしは是非なし）。

　伐採跡の造林は成るべく天然更新にまつも、ドロ・ケヤキの如く有用の材を助長する事に努む。地ごしらへは出來る限り簡單に、刈筋十二尺に一本、横の間隔は八尺、即ち二坪三分二に杉一本の割、密植しても間伐の收入は無くして、費用のみ餘分にかゝるなり。故に苗と苗との間には雜木を生育せしめ、やゝ長じてそれを伐倒す。

　ネヅコの實を採りてひま／＼に撒布す。又竹のさしに入れて土に挿し込む。又桐の實を播く。ドロも挿木及實蒔す。なほ其苗圃を設くる計畫もあり。

　現在主として伐採するはブナ、ナラの林なり。是も個人が企つれば引合はず。此邊の海にて使ふ櫂は此等の木を用ゐる。荒削りにして山を下る。下駄の齒もブナにて作るが是は弱いもの也。水中に在りては地上ほど早く腐らぬ故に櫂などにはやゝ向く也。たゞ重くして水に沈む故に川流し不能也。皮を剥いて流すことにして居るといふ。

　炭燒地の貸出しを行ふ。木の價十貫分十錢内外、燒賃同三十六錢程、此外に竈築立の費用が二十七圓ほど、愛本の橋まで出して七十錢ほどの實費故に、利益は得られぬなり。

　林道の材料にはこの二種の木を使つてゐる。又石灰燒きの薪としても之を使はせて居る。

　六月十三日、日よう、夜降り朝曇

　六時半に黒薙温泉を立ち、島田君及び人夫三人を伴なひて出シ平の小屋まで行く。色々の木の名を聽く。シナは葉の縁の細かくきれたもの、ハゲシバリは山地の崩壞した處に先づ生えるから、是があれば以前のくづれ地の跡と見る(132)ことが出來る。マンサク野生あり、栽培してからの命名では無いらしい。ワサビも椎蕈もこのあたりには自然生あり。

　鍛冶屋の炭を燒くといふ者、路傍にて露天に火を燃やして居るのを處々に見る。

　島田に別れて愛本の橋詰の茶屋まで來て休む。對岸に笹卷きの團子を賣る店あり。取寄せて食つて見る。大きさ親指の頭ほど。

　舟見にて車をやとひ、泊まで、濱に出て遙かに越後に通ふ新道を望む。爰を東の限りにして、引返して入善《にふぜん》に向ふ。

　入善も昔風な町なり。道の傍に用水の小流れあり、其岸に梅などの花木を栽ゑ、下草にはアヤメ花咲けり。

　黒部川の大橋は六百間餘ありといふ。橋から上流には内山の段地見渡され、又鳥阪山見ゆ。この山の西麓がけさ行きし出シ平の小屋なり。

　黒部に沿へる村々、流木を拾ひ上げて薪とすることは阿波吉野川の下流と同じ。此木は始めから薪材であつたか。長三尺内外にそろひ、前後丸くすれて擂小木のやう也。乾して六角に積上げ、繩にて圍ひたるをよく見かける。

　沓掛あたりの村では、川床地に西瓜を栽培す、名物なり。肥料にはササメ、又は粉糠を使ふ。糠は一株に二三升も入れるといふ。此邊一帶に一向宗盛ん也。女僧も多く見かける。

　新川郡の地名地形は、山川の自由に汎濫せし時代を想起せしむ。著しき傾斜面にて、大川の姿尤もおもしろく見渡さる。雪の山の景色も此あたりは北國の他の區域にまされり。再び舟見の靜かなる町に來て泊る。此町を始め、處々の草屋の上には黄なる花咲く草を生やした家多し。松葉牡丹やツメキリ草と謂つた草に近く赤い莖。名を尋ぬるも知る人に逢はず。

　六月十四日、月よう、夜來強雨。

　朝八時十一分の汽車に乘る。雨雪山を隱し、風強く雨は車窓を打つ。越中の川々は海際まで早瀬、渡るときよく其全容を見る。けふは皆濁りて、海水の色も十町ばかりは際立ちて見ゆ。富山には下車せず直ちに高岡まで、中越線に(133)乘換へて伏木に行く。射水川は近頃の新工事によつて庄川と分離し、始めて靜かなる濱川となれり。伏木乃ちその川港なり。川口に二つの渡場あり。一つは橋跡にて無料、その下なるは昔から有りて有料。對岸は六渡寺《ろくどじ》と謂ふ。一に中伏木とも呼び、しかも新湊町（放生津）の一大字をなす。放生津とは懸離れて居て、電報など不便多しといふ。

　小林區著に行き竹内署長とゆつくり話す。東京の有田氏の手紙をこゝにて受取る。此役所、堀と地上にて約九萬尺〆を置き得べき貯木場あり。現在は二萬尺〆ほどを持つ。青森のヒバと秋田の杉と相半す。ヒバは此邊にては專らクサマキ（臭槇）と謂ふ。

　貯木場への輸送は、各大林區著間の保管轉換として記入するのみ。賣拂はすべて大阪署の收入となる。本年はこの轉換をせぬかも知れずとのこと也。上中下等の品を取合せて送り來る故に、下等品が賣れ殘り久しく停滯せり。一見運賃の徒費かと感ぜられる。

　木材の長さは八尺、一丈七尺などいふもの多し。この寸尺は支那向きを見込みしものが、不調にて此方へ振向けられしとかいふ。しかし金石《かないは》に見たものにも此長さのもの多かりき。

　寸甫は杉ならば樽丸とし、又多くは屋根壁その他に用ゐる割板となす。木屑が多く出來て不經濟なやうなれども、外見では柾目の有無も判らぬ故、木性を知るには又便なる點もある也。

　賣拂は殆とすべて特賣法なり。以前は一口六千圓まで、大林區署自ら決定せしが、改めて一萬圓までとなる。小林區署は單にその指揮の下に引合をなすに過ぎず。木の大小長短節曲りの有無によつて、細かく尺〆の單價を豫定して置く。商人も品物の目前に在るを知る故に、決して買置をしようとせず。從つて一口は多くは五十圓百圓の最小口のみにて、しかも昨年度は十一萬圓の賣上高あり。乃ちこの小林區署長などは、小賣商人同樣の辛勞を經驗する也。

　大阪の商人もよく爰へ買ひに來る。名古屋よりも來ることあり。多くは汽車積み、又舞鶴港などへ船にて送ることあり。小舟に二本三本を積んで、射水川の上流へ運ぶ者も無しとせず。

(134)　北陸地方は久しく奧羽と木材の取引を爲し來り、一種の消費慣習を養へり。たとへば臭槇《あすならう》は名木としてよい普請にも用ゐられ、この他に檜木の有ることも知らず。現今到る處の植林に檜を杉と共に多く栽ゑて居るが、この檜などもよほど相場が低くならぬと、いつ迄も土地では需要が起らぬだらうと思ふ。

　高山では奧羽の木に川下の市場を塞がれて、山に木はあつても大規模に伐採が行はれ得ぬやうに謂つて居たが、伏木に來て聽けば、船津の木が多量に下つて來て、越中の市價を低くし賣拂を困難にするとこぼして居る。この二つの事情は二つとも多分存在するならん。たゞ斯るかさ高の商品を遠地に運搬することは、出來る限り避くるに利あり。故に地方的利害より見れば、寧ろ今までの所謂保管轉換の方を制限すべきならん。但し商人は自ら買ひて運ぶぺければ、飛騨の國有林の經營の依然として困難なることは爭ひ難し。

　神通川の川流しは、よくは知らねども少なくとも船津より上流では、よほど六つかしい樣子なり。庄川の方は東礪波郡に青島といふ土場《どば》あり。個人が田を潰して造りたる設備にて、用水權に關する契約なども有りて、土場の使用料金甚だしきは一五％にも及ぶことあり。白川郷の木を伐り出す者に不利益小ならず。勿論用水の妨げとならぬ秋季後に流すやうにすべきも、この私設工場の故障を排除し盡すことは難事業なるべし。

　この中伏木の小林區は、立山の兩面から白山官林の東境まで相應の面積あれども材木は乏しく、たゞ年々の薪炭材の雜木を拂下げ、其跡に植林するのが事業なり。但し現在はまだ假施業案なり。葦峅寺《あしくらじ》と其對岸本宮とには、保護區ありて盗伐を監視す。この上流のみ少々の木はある也。立山登路は葦峅寺より川の右手を登り、歸りには立山温泉を經て本宮へ降る也。降路殊に險なり。此頃舊道の幽かに殘るを辿つて、この中間即ち右岸に沿ひ、三尺の歩道を開く。登山者もやゝ之に依るといふ。

　針の木より下つて來る黒部川のごく上流の處には、下駄ばきでもあるかれる綬傾斜の谷ありといふ。たゞ黒部の本流づたひには何としても爰に至る能はず。

(135)　四時の伏木發にて高岡市下車。雜誌繪葉書など買ひあるく。此町は街路正十字を爲す辻多く、城は停車場を出てすぐ右の方に近く、公園となりて趣致あり。伏木にも小さな製材所ありしが、こゝでも何れかに機械挽きの音が聞えて居る。指物屋の店多く、箪笥などと共に白い支那カバンのやうな形の箱をさして賣つて居る。上に牡丹の花などを描けり。

　再び高岡六時の汽車に乘り、金澤着。上松原町なる源圓に來て泊る。監獄局長の小山氏同宿といへど面會せず。隨行の松本屬とは逢ふ。播州高砂の人といふ。

　メークルジョンの地理の書を讀んでしまひ、町へ出て森さんの一幕物を買つて來て讀む。又雜誌も數種。

　六月十五日、火よう、曇、風冷

　けさは晏起す。商品陳列場を見に行く。參考品には名器あり。新しい陶器には形の佳きもの無し。塗物には少しは欲しいものあり。又硬質陶器、藁卷鰤、梅のジャムまで竝べて居る。

　縣廳に行き食堂にて一ぺんに各大官に逢ふ。家信に接す。勁吉又猩紅熟なりとの報に驚く。小田内君よりも葉書。

　大塚勸業課長遠藤技師などと面談。次に柳原技師の案内にて、農事試驗場と其附屬の蠶絲試驗場を見學す。先日汽車中で話をした岩藤氏にも再會。

　石川縣の絹織物は輸出向きを主とし、目下年産千萬圓以上、是に要する原料の繭二十萬石、縣内の産は三萬石を出でず。しかも製絲業は未だ起らず。其繭まで外へ賣つて、縣外の絲を買つて居る。七八年計畫にて少くとも半量までは縣内の絲を使ふ方針といふ。

　そこで桑園の増加の爲、極端なる補助をして居る。即ち郡からは個人實費の半額を給付し、縣は郡に對して其支出の半を補助するなれど、其額が今はまだ七千圓餘。即ち石川縣全體として桑畠を造る爲に三萬圓しか使はぬ勘定になる。増加する桑園は林野を新墾する外に、從來の麥圃を潰さんとして居る。麥は田の二毛作の普及によつて、縣内の(136)需要には餘りある筈といふ。安原村などでは甘藷畠を桑園に變へしもの多く、又海邊の松林も開けり。つまりはもう地面が足らぬの也。

　秋蠶は此地方のもの質良く解舒よろしければ價もよし。生産期は稻苅の前、草取中耕の終つた後で、勞力の配分には便なり。又桑に霜害の氣づかびも無く、之を發達せしめんとするは適當の政策なるべし。

　秋蠶用の桑は魯桑最も適すといふ。いつまでも葉が柔か、春初に一旦その葉を採り用ゐ、夏に入つて再び發生せしむ。普通の桑苗は接穗なれば生産費多くを要す。一本一錢くらゐといふ。近來一種密植栽培法を行ふものあり、一反に五千本以上を栽う。是は魯桑の實生を用ゐ、一本の價一厘五毛、一反に七圓ほどかゝる。普通の桑畠が十五年續くに對して、是は八年位で終るは弱點なれども、其代りには初年より百貫以上の收桑ありといふ。

　一つの桑畑にて春夏秋蠶を共に養ふ地方もあれど無理なるべし。合理的計算では繭一石の爲に畠一反と見て可なり。蟻量にして三匁云々。

　春蠶は四十二日をもとは普通とせしが、温度の調節を以て是を半分にも短縮し得る見込あり。以て勞力を省くことを得べし。但し桑の成育との關係もあり、三十日から三十五日位にするのが最も適當ならんかと、爰の人は言へり。勿論短縮は始期を遲らするを利とす。風穴利用といふことの考へられたのも其爲。秋蠶の生産を増加すれば製絲家の爲にも遣繰の都合よろし。澤山の繭買置をする必要が無ければ也。

　耕地整理は一般に費用多からず、一反二十圓以上のもの少なく、三十圓を最高とす。しかも暗渠には非ざれども排水も十分に付く。よほど排水の容易なる土性と見えたり。金澤附近の低地は今や半分までは整理せられあり。

　排水せられし田の裏作には紫雲英を奨勵せしが、目下の普及?態はやゝ過ぎたるものあり。一反の紫雲英は三反の緑肥に當るものなるに、どの田にもすべて之を作つて居る故、窒素過多の現象は稻イモチ病となつて現はるゝことあり。此頃は少しづゝ紫雲英を制限しようとして居る。

(137)　始めて知つたことは農民の此邊では麥を食はぬことなり。彼等は麥の栽培を引合はずといひ、米に力を入れたがる。是は米の生産支出には勞力を算入せず、麥には之を算入するが爲なり。自家勞力を普通の勞力市價として控除すれば、小農の純益無きことは不思議には非ず。是は勸業課長の談なれども、米と麥との經濟の立て方に、是ほどまでの差異が果して有るものか。或は麥のみは商品として始めから生産の計畫をするものか。はた又米だけには何か傳來の考へ方があつたのか。心理學上の問題のやうに感ぜられる。

　石灰は十年ばかり前、施用禁止の縣令を出し、數年の間に漸を以て之を絶つの方針なりしが、日露戰役起りて肥料の供給困難となりし爲、一時此禁を弛めて今日に至れり。農民も次第に其害を覺りて、極端なる施用を愼しむやうになりたれども、縣令が反に二十貫を限度とするに對して、今もまだ用ゐて八十貫に至るものあり。

　人造肥料の市況不振には根本の原因あり。それは其連用の爲に肥效が漸減することに至れりといふ。試驗の大切なる點なり。

　能登の燐礦といふは羽咋郡火打谷なり。一時大きな問題になりたれど、元來が含分少なく、肥料製造に供し得るは十五％に過ぎず、中央の方針も他處の人の採取を許さず、たゞ地方的消費に充つるを認むるのみにて、それでは利益も大きくない故に、縣内でも打棄て置く也。七尾に大阪肥料會社、二十萬圓の工場を建てたれど、市場不況の爲に未だ製造には着手せず。この燐礦は石灰石なれば、燒いて用ゐようとする者もあれど、普通の石灰石の十貫目三十錢に比して、是は二十錢も高ければやはり引合はぬ也。

　能登は馬、加賀は牛といふ話は前にも聽く。加賀にも石川郡などは牡馬ばかり少し居るが、農業の使役にも不足す。此地方では借馬は能登より來ずして、越前大野郡の方から、十頭十五頭と一人が牽いて來て貸して行く。三十日、何程といふ勘定にて料金を徴す。

　堆肥の施用は不思議なほど此地方に普及せず。師團の敷藁や馬糞など、請負人ありて拂受け居るも、殆と無償同然(138)にて雙方とももてあまし居れり。河北其他の沿海の砂地など、腐植土増加の必要あるべき處でも、とんとこの廉價の肥料を買はうとせず、甘藷に堆肥を使ふと、藷が筋ばかりなるなどと謂つて嫌ふ。

　市の周邊農村の肥料としては下肥が一石八十錢ほど、一石は三荷あまりなれば、ほゞ東京の差配人の收人と同じほどか。

　金澤市郊外水田には芹を栽培し、又花菖蒲を作る者あり。前者は一反六十圓ほどの收入といふ。金澤では薪炭疏菜には、まだ仲間商人の手を經ぬもの相應の賣買あり。もう東京では見られなくなつた現象なり。

　農事試驗場の敷地は借地なり。一まとめの大きな土地なれば小作料やゝ通例よりも高く、一歩ニ付米六合。富山の試驗場も是と同額、即ち一反に一石八斗といふ。多分毎年米の時價によつて金錢を拂ふならん。

　酸性土壌に石灰施用の有效なることはもうきまつたと見て可なり。無差別なる禁止罰則は、農民に對し申しわけの無いものであつた。但しこの邊の田には酸性のもの無しといへり。然りや否を知らず。

　六月十六日、水よう、好晴

　朝七時半の汽車に乘る。驛にて名古屋の控訴院長藤田氏にあふ。父の舊友なり。多くの裁判官達見送りに來てあり。東西に別れ去る。司法省の山下技師と同車、自分は松任にて下車、榊原技師の案内にて農學校を訪ふ。又郡役所にも行く。

　途次千代女の墓に詣づ。吾はこの世をかしく哉の惡句を石に刻せり。

　この郡安原村に行き、下福増と下安原との耕地整理を見る。後者は十數年前のもの也。昔の耕地整理は一般に、田一區の面積小さく、爰でも五畝又は七畝を一區とす。此邊吹井多し。さまで水の田無き處にも、小ささ石の筒から湧きこぼるゝ水あり。整理には一つの妨げなりといふ。

　安原村は夙く村是を公表したのを以て世に知らる。今年はそれから八年目、當時の實行事項なるもの果して幾何の(139)成績を示すや。

　それを尋ぬるに答へ得る人少なし。しかし恐らくは住民全數の義務に屬せざる部分には、可なり效果の擧がりしものあるならん。

　石川縣にても樹苗圃を多く設置し、苗木を無償交付す。他の縣と異なる點は、こゝでは樹種甚だ多く、且つ闊葉樹をも多くまじへたることなり。例へば栗・ケヤキ・クヌギ・ネムなど。ネムは河沿ひの砂地を固むる爲なりといへり。

　石川郡では年生産高百五六十圓の葛布の傳習所に、年百圓の補助金を給付して居たといふ。今年になつて止む。

　金石町を見物に行く。大字一つ小字三十、戸一千餘の海ばたの町なり。錢屋五兵衛が家の址、隱居所は今學校となりたれど、本宅の方は土藏と住居の一半は現存せり。刑場は海岸なり。古松一株あり。

　この砂山の内側には米鹽の官庫、及び材木の置場ありしが、今日皆畠となる。海岸は以前見ごとな松林ありしを、すべて伐り拂ひたり。此頃再び熱心に植林し始む。黒松なり。

　町長中崎氏は無學なれど見識あり。曾て衆難を排して火葬場を海濱に移す。其爲に植林に賛成する者多くなれり。蓆圍ひをして飛沙を防ぎ、稚松を育てゝ居る。

　海岸に漁民の部落あり。塵を棄てゝ居た處やがて小丘となり、之を日和山《ひよりやま》などと呼んで居る。今では掃除法の結果、かゝる簡便なる換土法も行ひ難くなれり。

　和船にて今も多量の材木を積來る。産地は本莊・秋田・十三・三厩・小湊、さては天鹽の松ども。米も藁製品も此邊は値がよくて、輸出には都合惡しといふ。

　鐵道開通の以前、敦賀金石間に汽船往復ありしも、長き間には非ず。今は臨時の汽船に更に寄ること無し。

　金石艀株式會社といふもの、是も中崎氏の經營する所、今より二十何年か前、仲仕の風儀の惡きを改める目的で、たつた千二百圓の資本を以て創設せしもの、次第に利益を見て、今は財産の他に四千圓餘りの積金を銀行に預く。其(140)利子だけでも一割五分の配當が出來るなどと笑つて居る。汽船の入港無くなりて、海員には平日漁業をなさしむ。其資本に會社の積立金を轉貸せしが、すでに昨年皆濟了る。海員部にも別に積金あつて總持分一萬圓以上、人員は四十五六人、加入金の分割納付を許す故に、追々に新加入者あり、漁業の利少なからず。例へば鯖漁の如き、能登の人から學んで餌の關係上却つて彼よりも利を見ること多し。又共濟の方法を設け、海員の氣風よほどよくなれり。酒もあまり飲まず、ばくちも打たず。小屋には立派な佛壇光り居れり。一體に若い者まで信仰心強し。他の土地ではあまり見かけぬことなり。

　中崎氏の談に、難破船は國の寶を守る爲に命を棄てゝも救へ。されど漁業には危險を犯すな。漁業はあぶない職業だと人に思はせては、後を嗣ぐ者を得がたいからと言ひ聽かすといへり。

　鐵道馬車にて金澤に引返す。町の助役畫葉書を求めて土産にくれる。

　夜石原君話に來る。始めて能登｜舳倉島《へくらしま》のことを聽く。輪島より海上二十里、常は輪島の一區劃海士町に住む者、毎年今頃は一家を擧げて此島に渡り、十月までそこに漁をする。猫も鷄もつれて行く。近年は小學校教員も同行することゝなれり。言語少しく他の土地人と異なり。島に在る方の家が本宅らしく立派なりといふ。穴水｜宇出津《うしつ》邊へ來て、假寓して魚を賣る。家が三つあるといふのもむべ也と。石川郡の山奧、ウシロダニとかいふ處にも、やゝ他と異なる住民ありといふも、詳しいことは知る能はず。

　六月十七日、木よう、午前晴

　早朝に第九師團司令部に行き、經理部員某に逢ひて、陸軍用地の利用現況を尋ぬ。此師團に屬する土地は多からず、從つて其收入の増殖すべき見込少なしと言ふ。唯兵營の周圍などの從來打棄てありし空地に桐を栽ゑたり、風致は添はりて利益ありといふ。あまり煩細の論のやうなれども、各官廳自ら進みて斯ういふ考案をすれば、無形の效果も少なからざるべしと思へり。

(141)　金澤附近の農、厩肥の利用を知らぬとは前に聽く。師團でも處分に困り年々の請負人は必ず損をするといふは奇なり。大阪などでは、一定の清潔手當までも引受けさせて、なほ一頭月四十錢づゝを拂受人より納付せしむ、爰では昨年までは同條件にて一頭に付八錢、今年は僅かに一頭一錢五厘を納付するのみ。燒いて灰にして買手を見つける由。斯ういふのは寧ろ始めより小量に分けて買取らするが可なれども、是には又會計法規の障碍あり。結局は農會が仲に立ち、一方には厩肥利用法を普及せしめ、一方には安く賣渡す機關を作らせて見たし。榊原試驗場長に此事を勸めたれど、一體に此地方は肥料評價の胸算用がちつとも發達して居らず。

　三好土木課長と逢ひ、縣が管理する官有地の事を問ふ。此縣では總面積は大きくないが、筆數のみ夥しく各村に亙る。多くは濱地川原などの利用の見込少なき處なれど、中には珍しい例も無きに非ず。石川郡か能美郡かの或山間の村では、北海道とかへ出稼して不在の間に、租税不納の理由にて畠も山も没收せられ、歸つて來て驚いたといふ話もあり。斯ういふのがまだ雜然として處理せられずにあるなり。

　五畝一反といふやうな散在官有地は、政策上些の意義も無く、之を無くすれば管理の事務は省かれ、他方之を桑圃植林の奨勵に利用することを得れば更に妙なれど、今日の各課分立の弊は、自分の見た所一つの故障なるべし。

　其一例として後に聽いたのは、福井縣で敦賀から福井の方の海岸道路を新たに開きたれど、汽車開通の結果は村民以外に之を使用する者無し。其路傍に漆とか櫨とか、何か有用の木を栽ゑたらどうかと農林の係員は獻策しても、土木課は現?維持を固執して容易に同意せず。堤塘敷地なども大きな面積なれども、雜草より他には生えて居るもの無し。各課は互ひに相手の專門意見を過當に尊重して、必ずしも強ひて爭はうとせぬのを禮儀とし、部長以上にも是を統一する考へ無し。惡くいへば今日の地方行政はたゞ陳列也。

　午後〇時二分にて金澤出發。同行は林業技師遠藤安太郎君。精悍にして才氣ある男。

　牛村一氏君と同車、松任まで。此人は予に先たちて小濱より舞鶴に行くといふ。丸岡在の篤農山田斂君に予を紹介(142)して置くべしと約す。

　小松に着、雨來る。郡の林業技手と營林主事の瀧君も出てくれる。能美郡役所に行き富田郡長に面談す。腹のあるやゝ風がはりの名士、もとは盈進社に在つて活動して居た。盈進社は筑前の玄洋社とよく似たる政治團體なり。

　白山山地は今は能美郡に屬す。白峯村の役場まで小松より十二里。冬は雪高くして出られず、却つて山越しに越前勝山へ出る。此間は六里、交通は年中絶えず。牛首の保護區員などは、冬は用無ければ大聖寺の小林區署に引上げて來て手傳つて居る。

　安宅の國有林を見に行く。港はまはり路になる故斷念する。此あたり一種のやはらかな石材を多く出す。竈水盤の類いろ／＼此石を用ゐ、又丸い管にして吹井の井筒とし、土止めにも之を使つて居る。何といふ石の名か。此方面の知識無きを憾みとす。

　柴山木場今江の三つの潟、連なりて大なる地積を占む。木場潟のみは鐵道より南に在り。安宅の松林は他の二つの潟の北に沿へり。粟津停車場のすぐ北には石川種馬所あり。構内の小丘に亭をしつらへ、東宮行啓を迎へまつらんとす。三湖一望の裡に入るよし。以前にも三湖臺といふがこの近くの別の岡に設けられしことあり。

　飛騨より此あたりまで、村々には昔ながらの高木造りの桑多く、その實は今ちやうど熟せり。道々之を採り食ふこと、けふも何度といふ數を知らず。

　今江の潟の狹き處を橋より渡る。兩岸蘆しげりて次第に土地を作り、剖葦《よしきり》此間に棲みて盛んに鳴く。橋の下を過る小舟の人、瀧君を見てにこ／＼とし、頻りに乘せてやらうといふ。

　官林の入口に少しの海岸松あり。佛國から來た種なるべし。大聖寺にも海に近く、之を栽ゑた處あり。

　官林の中に入込みて所々に私地あり、或は一邑落をなす。思ふに法令の寛なりし時代の隱田ならん。耕地多くは畠なれども、近頃國有地を借りて暗渠を通し、潟の水を引きて水田に注ぐものあり。又民家にて軒の下まで官地なる處(143)あり。是には幾分の林を割きて貸與す。盗伐の制裁としては、此關係を利用するが最も有效なりといへり。されど此等の村里にては、他には殆と燃料を得るの手段無し。もし山入を全禁すれば、却つて盗伐を誘致することゝなるぺし。故に松の落葉落枝は、一定の條件を設けて地元に拂下ぐることゝせり。

　松露も少しばかり發生する。是も拂ひ下げるといふ。何でもかでもつまやかなること也。

　合歡《ねむ》は舊藩の時代より、砂山の改良方法として植栽を奨勵し、今も縣にて公けに頒布する樹種の一なり。惜むらくは木の用途全く無し。日向などで見たやうな直立の木は少なく、此邊のは皆低く横に靡いて居る。ネムを海邊に栽ゑしむるは齋藤音作といふ人の考案、この人容貌予に似たりといふ。

　文化年間か、此砂山に松を栽ゑしめし時代の記録縣廳に藏す。遠藤君携へ來りしを一見す。

　火藥庫のあつたといふ跡、私地となつて介在す。是にも松を栽う。全體に大木少なし。新たに栽ゑたるも成長十分とは言ひ難し。官林と潟端との間には、又少許の田畠を介在せり。

　三角柱ある高處より遠望す。雉子鳴く。新保といふ村にも官林あり。殆と接續すれども是は江沼郡に屬す。林相はほゞ同じけれど、やゝ高くして幅狹し、入野ありて奧深くまで田を作る。西に進むほど次第に山地の感を加ふ。

　桑山湖見え、水を隔てゝ片山津温泉の白壁見ゆ。つまらぬ四層樓、水に映じてうつくしく見ゆ。地は篠原に近し。實盛の塚などあり。爰にて雨に遭ふ。折から岸を離れんとする遊船を頼み便乘す。森本旅館の女二人と客二人、一人は入墨をした四十餘りの男、郡山あたりの料理屋の亭主か。鼻の兩端が缺けてあり。

　此渡も岸低く葦と眞菰茂れり。菱無數に生じ、水中にその細き莖絲筋の如く見ゆ。花はまだ蕾。鳰鳥多く遊べり。雷鳴りはためき驟雨大いに來る。越前境の山に濃き雲あり。

　埋立をなせる土地二町ほど、工事まだ半途、爰より湯は涌くなり。例の石の筒の大いなるを伏せ、竹の管を繼ぎて町へ引く、大きな宿屋は内湯を作らんと計畫す。

(144)　森本の別館に泊る。隣に三味線を彈く。夜に入り大聖寺の小林區署長菊池喜太郎君來る。四十五六の人、林學校の第一期生、五年の科程を四年にて出で、師範學校などを教へてありし。文學を愛好すること我等に過ぐ。めづらしく趣味の豐かなる人で、人柄もやさしく若々しい所あり。

　六月十八日、雨後路に露滋し。

　朝七時頃爰を立ち、潟に沿ひて西北の岡を登る。道に油桐多し。此木は若狹丹後までも分布し、彼地にてはコロ木といふ、但馬考にも其名見ゆ。池を搾り粕を肥料とし、材にては下駄などを作る。花は五瓣の白、徑三四分にて中は紅色なり。先年小濱の水産學校長こゝに來てありしが、この油桐林にて自ら縊れて死すといふ。その木も見たり。

　楢は栽後八年にして伐り、それを五囘くり返し四十年にて林を更へる。

　菊池遠藤瀧三名と共に、片山津より半里ほど西の松林の官行伐木を見學す。此邊の勞働者加賀越前の者多けれど、良き杣は能州より雇ふ。斧は使はず、すべて大鋸なり。土地平なれば鳶口もあまり使はず。

　爰にて菊池君と別れ、殘りの三人にて動橋《いぷりばし》の停車場に出づ。人力車で那谷の觀世音に詣づ。那谷はナタといふ。谷はすべてタンと此邊の人はいふ樣なり。繪葉書には誤つてナヤとあり。有名な寺、形の奇なる巖石多し。山崖をさま／”＼に切り窪めて堂を建つ。山寺｜達谷《たつこく》の亞流、俗衆を驚かすに足れり。門前の人家に此奧より産するオパールを賣る。價高きこと非常なり。又近くに瑪瑙を出す處もありといふ。

　村役場の人が案内して、高處に上り遠望す。四山さして高からず。法王山は華山院法皇隱栖の地とて、其御陵といふのがあり。他の山々は見ゆる限り皆是より低し。かなた面は大杉谷今も杉の産地なり。やゝ下流に日用といふ處、亦杉苗を多く出す。田にて仕立てたる苗なり。近頃漸く粗惡となるといふ。

　海岸の方は平遠にして、能美江沼の農業地を隔てゝ、遙かに瀬越の砂山を望む。砂山の色は赤く、其他には禿山なし。土質にもよるならんが、大體に中國地方よりは樹多し。越前の東部殊に然り。

(145)　那谷村は大字四つ、山野はすべて村持にて、割りて住民に使用せしむ。割り方は少異あれども、何れも田に屬して權利を移轉す。一反に大抵一口、一口は臺帳面積にて四五畝あり、繩延びは二倍三倍もあること珍しからず。反對の表意無き限り、田を賣れば山は之に伴なふ也。

　再び能美郡に出で、温泉ある粟津の村を過ぐ。小山の裾にて趣無し。停車場は粟津の名あれども別村、こゝまで馬車にて行く。道々田は植ゑて久しく、今や石灰施用の盛りなり。此邊も牛はもうあまり見かけず、越前大野郡から馬を借ること石川郡も同じ。

　停車場の前は念佛谷の國有林といふ。ばらばらと少しの松あり。種馬所の爲に一部分を削らる。こゝに苗圃を設く。もとは林業試驗場にするつもりなりしといふ。

　瀧君は歸り去る。別れに臨み其子の事を言ふこと切なり。出來のよい子を持ちたる親は皆斯くの如し。寸時も忘れて居ることが出來ぬと思はる。

　大聖寺に下車・郡長署長など大規模の出迎、上山山林局長來ると誤聞し、宿は十人の支度をしたとのこと、郡書記某君同行して直ちに山中の温泉に行き、吉野屋の別莊にとまる。村の助役吉田といふ謹厚なる老人來話、久しく長野縣に奉職し、乘鞍鑓附近の山地の事情に通ぜり。山岳會創立の話を聽いて大いに驚く。

　この村はよく揉める村にて、今も村長無し。僅かの田畠ある外に、千二百戸は町民といふ感じにて生活せり。此頃工藝のやゝ起りたるは幸ひなこと也。九谷はこゝよりは五里ほどの山奧、今は竈も無く、陶器は山代と山中と二つの温泉場にて作る。金澤市中にも之を造る家あり。

　大聖寺からこゝへ來る路にて始めて見たる民家の屋根、大分東京周圍とはかはれり。棟は正面と直角にて、前後の端形?を異にす。予は假に片破風造りと呼ばんとするも、他に何かよき名ありや否。この形式は越前も福井近くまでは續けり。菊池君などは、藁屋は破風を正面とすべきものと思つて居たといふ。或はさうであつたかも知れず。

(146)　六月十九日、土よう、雨終日。

　八時頃に宿を出でて轆轤細工と漆器の工場を見る。轆轤は細き線ある見事な木地を出す。漆器には質を土器に模せるものあり。予が見たる家の若主人は美術學校の卒業生といへり。

　新家熊吉といふ人の自轉車リムの工場を見る。つまらぬ職工より一人で仕上げた男、非常に得意にてをかしい位なり。一月に三千組を作る。材はモミヂとシデノ木。今は白山の麓より、一尺〆五圓ほどにて材料を買入れて居るも、やがて乏しくなるべきかと思はる。

　大聖寺に引返し郡役所に立寄る。古九谷の佛像を觀る。今は郡有財産、首も手も別々に燒いたもの。

　小林區署に菊池氏を訪ひて後、郡の管理せる縣苗圃を見に行く。一町歩足らずで專ら杉檜松。連作を忌むとて?々畠をかへる。厩肥は害蟲の虞ありとて爰でも使はず。果して然りや否。此縣は能登の火打谷と能美郡の二俣とに大いなる苗圃を直營する外に、郡毎に小苗圃を設けて郡をして管理せしむ。直營苗圃のみは杉檜以外、七八種の闊葉樹類の苗をも配布する也。

　町の西はづれは青樓の地なり。大聖寺の遊廓といふ意味にて、瓦斯燈に聖廓と書せり。大聖廓然といふ文句を思ひ出して一人で吹出す。町古く道具屋多し。

　鹽屋に行き郡役所警察署の連中の綱曳の遊山に加はるつもりなりしが、この雨にては興無からんと思ひ、汽車にてすぐに福井に向ふ。

　牛（ノ）谷の縣境のトンネルを越ゆれば、山には杉を植ゑたる處多し。縣の奨勵もありしならんが、人民も古くから山地の利用法を攻究して居たる也。

　福井の停車場にて縣屬河野君へ引渡され、菊池氏は爰から歸つて行く。ルネ・バザンの英譯レデムプションを此人に禮に贈る。

(147)　夜池松内務部長話に來る。此縣は木（ノ）芽｜橡《とち》（ノ）木の連嶺を境として、南北の地形面白きまでに相反せり。嶺北は百川一に歸してすべて三國の海口に注ぎ、從つて平野連れるに反して、嶺南は山勢櫛の齒の如く、海曲多けれども川は短く、各郡各郷必ず丘山を隔つ。人情も相通ぜざる點少なからず。

　織田村は丹生郡なり。織田瓶とて大いなる甕を産す。山路搬出に難し、小舟海路より敦賀に送るべし。近來やゝ改良に向ふ。同郡西田中は村なれど、幸若の本居として古くより聞ゆ。郡役所もこゝに在り。

　南條郡では杣山は國有林なり。之を縣に拂受けんとして未だ成らず。

　旅宿名和屋實は繩谷なり。足羽川に臨めるさつぱりとした座敷なり。庭は僅かなれども大木の松あり。

　六月二十日、日よう、晴

　早朝林業技師諏訪卯三郎君來る。外貌の極めて傀偉なる男子なり。次で舊友手塚君も訪ひ來る。

　八時四十七分の汽車にて再び大聖寺へ引返す。諏訪同行。手塚君も金澤へ行くとて往復とも同車す。

　遠藤技師清水技手、菊池君等驛に待合はせ、直ちに大聖寺川の舟に乘る。郡役所の側が乘場なり。舟には瓦斯發動機を取付けたり。舵取は船主の代理人なるが、引渡しの爲に來れる造船所の技術員と、やかましい談判をなしつゝ川を下つて行く。

　此川屈曲多し。城の防備の爲に特に付けたる屈曲なりと稱すれども信ずる能はず。こゝも古い潟の跡なり。川口にて北潟と連なる。北潟はもう越前の地なり。

　瀬越に上陸す。百戸あまりの靜かにして且つ裕福な村。大家七平廣海仁三郎の居村、二人軒を連ねて住めり。其他の住民も北海道に往來して豐かなる生計をなす者多く、村にして町の習氣あり。

　村はづれの神社、門に錠を掛けたるは珍し、裏門か。保安林の松林あり。是も昔篤志者の栽ゑしもの、之を過ぐれば海見ゆ。例の、合歡の木茂れり、蔓荊《はまぼう》も地を匐へり。是より外は遙々と砂濱なり。すべて官有地、之を拂受けて植林(148)せんとする計畫ありといふ。

　鹽屋の役場に寄る。其背後の某といふ家にて晝食。此家は船主にて北海道に往來する者なり。村長は金澤人にてもと縣官、それと今二人、名を聽かざりしが顔役ともいふべきたくましき男と、案内して海口を見せる。兼て用意ありと見えて專ら土地の利害を力説す。煙に卷かるゝのみにてよくは呑込めず。

　大聖寺川の川口は、對岸すでに越前坂井郡なり。北潟の水これに通ず。北潟は口の處にて一旦狹まり、其外に吉崎あり。即ち吉崎道場の古址なり。今も兩本願寺の別院ありて、其構へ城砦の如く、近國の參詣多し。加越二國の堺はこの吉崎の町中に在り。東に寄つた數十戸は、加賀江沼郡三木村に屬す。殆と堺を劃すべき線無く、簷を連ねて互ひに隣縣人なり。

　吉崎の西なる狹處を横ぎりて土堤を作り、水は其兩端僅かなる橋の下を通り、又對岸の濱坂村を隔つ。此土堤は福井藩の事業なり。斯くして大聖寺川の逆流を防ぎ、潟の奧に大分の田地を開き得たり。されど其結果としては、吉崎の下へは海舶海魚入り來らず。鹿島は完全に陸地に括り付けらる。此道を今も新路と謂ひ、その兩側はなほフケ田なり。加賀の三木村に編入せられ、瀬越村の者も來て作る。鹿島と濱坂との間は僅かに水通ずれども、昔赤?が入つて來たといふ潟には、もう少しも海の魚は捕れず。但し是をすべて潟の堤糖の結果とする顔役君等の説はどうかと思はる。

　鹽屋は勿論吉崎の鹽屋なるべきも、村居必ずしも古からず、一名を堀切港とも謂へり。大聖寺川は老齡、港口を埋むる土砂は此川の流す所に非ず。東方一帶の砂濱より吹付くる也。從つて堀割の浚渫は效無かるべし。予は切に地内に多く松を栽うることを勸めて置けり。

　海岸より見れば、一帶の直線に岬の陰も無し。されば折々難破あり。二十何年か前には、村の漁夫百人以上、海口にて舟を覆へし、一人も助からざりしことあり。村民の欲望は決して過大ならず。漁港にして時々小汽船の入來と避(149)難とを容易ならしむれば足るといへり。しかも加賀平野の産物は、この川又は陸路にてこゝに集散すべく、後地は敦賀小濱よりも遙かに廣し。たゞ三國に近くして、現在の便利は彼に及ばず。つまりは地方費の事業なるに、利害は二縣に及び、福井側は之を省みざらんとする虞れあり。大體に二縣とも、縣官はとんと此土地のことを知らず、住民の不滿は理由あり。

　鹿島の上から海上を望む。此海口は常に舟を通ずれども、少し荒れると忽ち砂に閉さる。辨天島との間は岩で續いて居るが、時々は潮が越すことありといふ。口吟

　　　よし崎の須賀の若葦をりはへて遊ぶ日も無き旅のものうさ

　村の人々と其吉崎の堤の上まで來て別れる。爰で石川縣の人々と縁が切れ、諏訪君とたゞ二人になる。但し菊池氏は此潟の國有林まで同行す。

　濱坂を過ぎて丘の上に憩ふ。こゝより北潟を見たる景色大いに佳なり。頗る種板の盡きたるを惜しむ。

　此國有林は松も大きく、丘起伏して風趣あり。海に面する一帶は、前任者無謀に皆伐して荒れて居るといへど、爰よりは見えず。林に入りて松の根株を掘り去る者あり。是のみは制する能はず、又土を取去る者あるも、實際は損失微小と目せられて之を罰すること能はず。

　官林の木材は北潟を筏として大聖寺川を上り、例の郡役所河岸より停車場まで運び入る、堀切港は使はず。

　三國一見の爲に蘆原《あはら》まで出たれども、今日のうちに福井に歸り難からんかと思ひて見合はせたり。此温泉の紅屋といふに寄りて浴す。よき座敷なり。是ならば福井に歸るに及ばざりしに殘念なことをしたり。

　金津の驛に出て七時半の汽車にて福井へ。

　六月二十一日、月よう、雨

　松平侯爵の試農場を見學する豫定は雨によつて中止。山田農學士といふ人全力を注ぎ、其爲に果樹だけは、試驗と(150)傳習との事務を、縣の方ではせずともよいことになつて居る。

　縣廳に行き、先づ手塚野口の二事務官に逢ひ、又土木課地理掛の小林氏の話を聽く。官有地九百町歩餘、一萬町以上の道路敷と溝渠は、この臺帳の外なることを始めて知る。迂闊なことなりき。

　知事部長その他の人々と共に食堂にて逢ふ。

　午後は農學校を行きて見る。

　雨の爲に妨げられて十分に見てまはらざりしも、この樓上より坂井吉田二郡の平野を遠く望む景色は心地よし。

　加賀の鍬は木を用ゐず、唐鍬を平めたるやう也。越前の鍬は木の臺にさす。

　校長出田新氏は古い札幌の農學士にて、植物病理の學者なり。この人の他に今一人の昆蟲學者ありて、學校を特色づけ居るは面白し。縣より頼まれて害蟲の標本をこしらへ、各町村へ配付する仕事などもして居る。出田氏の英語の讀本は、農學校用として專ら科學方面の材料を集め、一風かはつた面白き體裁なり。國語の方でも補習學校乙種農學校などの讀本は、どうか皆斯ういふ風にして見たし。なほ出來るならば低級實業學校の教科書類、一度目を通して見たいものと思ふ。

　農事試驗場にも寄る。此縣のは縣農會の附屬なり。敦賀郡の試驗場なども郡農會の附屬、それ故に規模やゝ小さきかと思はる。こゝでは種禽配付の事業に力を入れて居る。

　牛乳を出されたれど、雨の日とてあまりがぶ／＼とは飲めず。この構内には農産館あり、陳列品まだ貧弱。果物は瓶に入れたのは色も形も味も共に保存すること能はず。何の爲に竝べて居るのか趣意不明なり。

　工業試驗場にも寄る。東宮行啓の準備として窓掛を織る。しかし多く織つて居るのは白の羽二重のみなれば、米澤の模範工場ほどは美しからず。こゝで八王子の染織學校長と逢ふ。技師伊勢鐵三君案内。

　旅宿へ山田斂氏訪ひ來る。丸岡から一里ほど南の村の大地主、農業熱心家にて政治に携はらず、名望のある人なり。(151)中村君と親し。

　五嶽樓に行き夕食、池松手塚二君も一しよ也。足羽川の流れを望む高處、眺望ありと雖も夜に入り雨降り、たゞ市の灯火と近き山を見るのみ。五嶽といふは春嶽老侯の命名、自分も一嶽に加ふるよし記文あり。こゝには旗亭多く、濱の絹商人などのよく遊ぶ所なり。俚稱は山といふ。頂上に大迹王子の石像あり。粗末な出來のもの、繼體天皇と言はずに、王子の御名をいふはかはつた思ひ付き也。神宮の方では同意せぬ好みなるべし。夜十一時過ぎまで池松君と話をする。山田氏は終列車で歸つて行く。

　六月二十二日、火よう、晴

　八時十八分福井出發、手塚見送つてくれる。諏訪君是からずつと同行。

　鯖江下車、今立郡役所の窪田書記出迎へ、三人にて人力車を列ね河和田の村に行く。途中鯖江から二十町ほどの處に、縣立の大なる樹苗園あり、一見。

　河和田の村役場に立寄る。村吏員皆若い人ばかり、軍人あがりの集合勢力と見えたり。今日は舊の五月節供にて、漆器轆轤の工場皆休みなり。大山片山小さき講習所あり。そこに立寄りて輪島より聘せられたる沈金の教師と、金澤出身の圖案の教師とに逢ふ。製品も取集めてあまた見せたり。

　縣の漆器産額二十萬圓の中、十一萬圓は此村より出づ。褒賞用の木杯はすべて此地にて作る。以前は片山塗と呼びしが、今は小坂にても又郡の某村にても追々に作り始めたり。

　原料は角物は主として銀杏、椀は縱目横目とも、橡もあれどイタギ、ケヤキなどを使ふ。イタギはイタヤ楓のことか明らかならず、又イタギリとも謂へり。是等はすでに原料の缺乏を告げ、轆轤組の方は苦心し居れり。大野郡境に近き池何とかいふ處より、荒ごしらへをした物を取寄するに、十一里を二日程なれば、一人百箇として一圓以上の運賃につくといふ。

(152)　役場にて晝食、ビールの馳走になる。歸途小坂にて小さな二つの工場を見る。此村は漆掻きの根據地なり。昔は近郷を合せて毎年二千人以上の漆掻きが出て行き、到る處にて木を買ひ其地にて掻いて賣り、村へは持歸らず。村の漆器には國漆とて、近郡のものを買入るゝ、是だけは今も同じことなれど、たゞ多分の支那漆を交へ用ゐるのみ。

　漆掻きに出る者、此頃は三四百人に過ぎず、それさへ利益少なしといふ。總體に諸國は漆の樹少なくなり、こゝに一本かしこに二本と見つけて行くなれば、八年木一本にて利益三錢、從つて木の收入も低く、桑に負けるといふは事實なり。此附近にても漆樹さして多からず、大いに新植の必要あることを感ず。

　野岡は好き町なり。節供にて男女外に出て遊ぶ。家々に生鯖を燒いて賣つて居る。粟田部は野岡よりも更に大きな町、郡の中央部の市場なり。越前奉書の産地岡本村五箇は、粟田部に接して岡の麓なり。五箇といふは定友を始め五つの舊村より成るを以てこの名なり。古くよりの工人村に住む。近頃大いに機械を入る。手漉きなれども他の準備作業はすべて機械なれば、容易ならぬ固定資本なり。堅い鳥の子のやうな紙、昔風の檀紙奉書の類は、今もなほ家々にて作ると見ゆ。僅かの産額のよしなれども、實に美麗なる日本紙を見たり。

　色は外國にては少しついて居るのを好むよし。耳なども斷たずして送る。骨董的にハンドメードを喜ぶ也。原料はパルプと三椏、又藺草をも使ふ。三椏は駿河より來る。若狹よりも大分出す。今年は美作邊よりも買ふといふ。若狹は熊川村の河内など。

　武生の町見物。汽車以前にはよほど賑はひし町なり。事情越後の三條などと似たるか。近在の麻布を染め、蚊帳を仕立てゝ多く出す。又漆掻鎌を作る。古來是が大きなる産業、又他の刀物類も産す。今も裏通には鍛冶屋多し。

　柳屋といふに憩ふ。丹生郡役所に電話を掛けたれどもう誰も居らず。爰にて鯖江の窪田君を返す。池の鯉に澤山麩をやる。

　汽車日野川を溯り、山狹く段々淋しくなる。又雨降る。兩側に松山多し、鯖江あたりより杣山の古城跡見ゆ。國有(153)林なり。

　この邊の藁屋のグシは、兩端同形にて且つひら入なり。破風はあれども板も張らず、行拔けなるが多し。高い處から見れば、突拔けて向ふの青空見ゆることあり。

　隧道を出ると突然に海岸の山の上なり。見おろす限り渚の村まで、遙かに數百階の棚田あり、更級や田毎の月は物の數ならず。水皆白く光り海うつくし。

　やがて杉津《すいづ》の停車場。風流を解する人此季節はこゝを過ぐれば、一列車くらゐは遊ぶべき處なり。但し下まで降りては見どころ却つて少なく、且つ登つて來るのが容易でないよし。

　敦賀の停車場は新たに引移り、飛んでもない荒野の中に在り。町まで半里。今宵の宿主熊谷の主人、迎へに來てくれる。

　夜敦賀郡の書記宇野氏來訪。この人は若狹三方郡鳥濱の人、色々話をして、私の言葉が三方郡の方言ですといふ。なつかし。

　六月二十三日、水よう、朝のほど雨

　こゝの保護區の營林主事竹中君を伴なひ、諏訪と三人にて粟野村へ行く。役場にて村長を待つ間、近くの郡農會試驗場を見る。園丁の案内、藤井といふ技手居るよしなれども居合はさず。玉突火※［火＋稻の旁］菜玉葱トマトなど、西洋蔬菜の立派なものを試作す。浦鹽へ行く船はいつも空船にて往來するなれば、此附近の國藝は甚だ望みあり。肥料は隣の憲兵屯所の厩肥を利用し金肥を買はず。

　村長の案内にて國有林を見に入る。黒河《くろがう》といふ三千町餘の處、近江若狹に續けり。行政訴訟にかゝり、數日中に判決ある由にて林區署も手を着けず。營林主事山下某あれども、無事に苦しんで居る。

　粟野村には十三の大字あり。長谷以下八つの大字は各々村持の山あり。山税を納めて薪秣を採りし證據あるに由つ(154)て、土地は部落有となる。大字「山」に屬せし黒河のみは、他の四大字と入會にして、且つ一部分を近江の野口といふ村に卸山《おろしやま》としてありし爲、村有の證據十分ならずとて國有林となりたり。五大字の入會といふより外には、山税の關係等、他の村持山と少しも異なること無しと稱す。

　村長附けて曰く、しかしもし下戻法などが出なかつたら、あれでもすんだの也。行政訴訟を許さなかつたらあれでもよかりし也。つまり法律が惡き也と。此法律の根本には、辯護士の事業熱があつたことのみは確かのやうに思はる。

　此事件には下請人あり。行政訴訟の入費を、自己の危險に於て支出し、其代りには勝てば此土地の大部分は其者の有に歸する也。怖るべし。村債などは一文も起しませんと、村長飛んでもない自慢をする。

　辯護士は又勝訴の上は、保安林の箇所を除いた殘餘の、半分を禮にもらふ約束をして居る。理非は別にして、予は切にこの訴訟に國の方が勝つてくれなくては困ると思ふ。

　諏訪君は、判決によつて村が勝てば、縣では即日造林命令を下すと言つて居るも、それも出來るか否か心もとなし。區即ち大字は、財産の全部處分も出來る故に、造林命令を逃げることも容易なり。但し福井縣にては區有財産の處分には知事の認可を要す。しかもこの認可を強要する位の政治力は民間人にも有る也。問題は一に彼等が正しい事がすきか否かに歸着す。

　カイトヤマ（垣内山）といふ語を村長の口から聽く。是は里に近い山野のこと也。

　歸りに長谷なる保護區官舍に立寄る。大きな松山の中にて寺のやうな趣あり。以前小林區署ありし處、苗圃のひどく荒れたるもの爰に在り。その苗圃で捕つたといふ雉子を御馳走になる。うまし。村長も亦村の辨當を食はせずば止まざらんとす。尤もなること也。

　敦賀は水の良い處。家々の前に噴井あり、心持の好い町也。

　熊谷にて小憩の後、水上警察に行き署長に逢ふ。其案内にてランチに乘り、金ヶ崎城址の下を過ぎ、灣を横ぎりて(155)常宮に行く。近頃金ヶ崎の月見館のあたりにて石棺を掘り出す。中に劍と鏡とあり。宮内省の沙汰を待つ間、巡査一人毎日山上に立番す。

　靜かなる入海、西と北との風には全く安全なり。常宮に近くまで鐵道を延ばす計畫あり。よき泉よき松、この濱のみは花剛石の砂といふ。水近き拜殿の端にて憩ふ。二十八年の大水の前までは、欄の下まで浪が入つて居たのが、今は十町ほど渚が遠のいて居る。

　朝鮮の古鐘を見る。銘文といふものを研究して見たくなる。形は尾上の鐘と似て居る。上に筒が通じて居るのが特徴。

　歸りには松原村の松原に上陸す。昔の松原客館も此あたりかと思はれ、懷古の情しきり也。こゝも國有林、其一部分を縣が十年づゝ借りて公園とせり。竹の皮卷煙草の吸口散亂す。耕雲齋一團の墓近くに在り。參り得ずしてかへる。

　此村と敦賀との境に最も小さき潟あり、地圖では口が海に通じ事實は沙堤に塞がれて居る。今暗渠工事中。

　氣比神宮に詣で、稚兒の爲祈願す。宮の後の川は海に近く、濁つて溝のやうなるに今もまだ鮎を釣つて居る。

　外國船が二つ出て行く。一つは名を知らず。まるで空船、今一つはガバナァエシュケ、客三人と三百噸の荷物、補助航路なる爲此の如し。

　敦賀名所記を買つてもらひ讀む。

　六月二十四日、晴、雨とき／”＼

　早朝敦賀を立つ。昨日の道を粟野へ、兵營の前を過ぎて國境の坂を越え若狹に入る。

　濱手の松原にて雨に遭ふ。道にて枇杷を買ひて食しつゝ少しあるく。河原市といふ處まで、三方郡書記某出迎、こゝで本道から右折して早瀬に行く。

　早瀬は三湖の水の海に入る所、久々子《くゝし》湖と海との間、三四十間ばかりの長さが川なり。橋一つ、橋の東の詰には學(156)校と魚市場、西の詰に三階の茶屋二軒、橋の上から久々子湖を見た景色はよし。

　早瀬には漁業もあれど、村民は鐵製稻扱器を賣りに、諸國へ出て金をまうける。郡中の人々の來ては酒を飲む場處ともなつて居る。

　舟をやとひて三湖を渡る。久々子湖邊の丘の上には、處々に果樹園あり。雉子しきりに啼く。小舟一つ引汐に乘りて行くこと迅し。枇杷を積み、又紺がすりの娘を乘せたり。娘手拭をかぶり、氣どりて其端を口にくはへたり。

　久々子はもと中湖（水月湖）と通ぜず、寛文年中に郡奉行行方久兵衛この堀割を實行す。幅三間半で狹かつたのを、今度更に擴げて七間とす。上中二湖の岸の田百町、是が恩惠を受く。地主等水害豫防組合を作つて此事業を企て、費用の七〇％は縣が之を補助したり。堀割の土を以て久々子湖出口の兩面に埋立をなし、今年始めて田植をしたといふ。

　中湖は大よそ二つに分るゝ形にて名も二つあり。しかし半島にて遮らるゝのみにて水を通ずる區域廣し。之に對して上湖と中湖との境も亦半島なれども、よほど狹く川のやうになつて居る。三方の町に往來するには之をまはると迂路なれば、半島の頸部に地圖には見えぬほどの堀切を作りて舟を通ずる也。このカナル、南側に樹あつて涼しければ、日中には湖上の舟、すべて爰に來て晝寢をする習はし也といふ。

　湖上に藻を採る。藻の種類も三湖少異あり。海潮の通ふは久々子のみ。上湖には菱しげり花咲き、鳰鳥鳴くこと片山津の湖に同じ。

　海に寄つて別になほ一つの小湖あり。日向《ひなた》湖と謂ふ。隧門にて中湖と水通ず。

　常神の半島は行きにくい偏土なり。郡吏も年にたゞ一度ぐらゐ行くのみ。是へ越ゆる路を鹽坂越と書きてシャコシと呼ぶ。播州赤穗の港にも坂越あり。是もシャクシ、今はサコシともいふ。文字と關係無く何か共通の意味があつたか。他にもこの地名は折々聽く。

　中湖を東西に分てる半島に豚を放牧す。米國還りの男、村持地を借りて經營する所といふ。以前は常神の岬に近き(157)龜島に、十二頭の豚を放せし者ありき。絶壁なれば墮ちて死せしものか、後に捕へ得たるは只一頭にて、重さは四十何貫とかありしといへり。是は精確に言へば放牧にはあらず。天然への送還なり。しかし野猪に近くなり、うまくなつて居たことゝ思ふ。

　湖畔の山に松杉の植林あり。久しい以前より今日のやうな補助政策は行はれたりと見ゆ。是よりも更に古い松山も保存せらる。氣山村の金持の所有、近頃陶器業を始めて失敗し、其一部分を伐りたりときく。

　上湖の岸には、油桐と櫨とを交へ栽ゑたり。櫨の木は是より西に行くほど次第に多し。桐の實は五斗を一俵とし、一俵より七升から九升の油をしぼる。一俵の相場三圓を上下す。油粕は肥料として早く腐るからとて愛用せらる。搾賃だけは粕から取れる。材は下駄にする。櫨の方は材も用をなさず。西津竈でないと燃料にも使はれず。

　上湖の西南の岸には、寛文掘鑿の爲に大分の田が出來たり。鳥濱はもと舟着きなりしに、湖面との間七八町を隔つるに至れり。

　生倉《いくら》に上陸して郡の苗圃を見る。こゝも杉檜ばかり。利右衛門方に憩ふ。鳥濱の豐かな村、目の前に見ゆ。茅にて編みたる衝立あり。絲を少しく緩めて、南京珠を所々に通したり。微風にも波たちゆらぐ。或寺の僧の工夫したる土地の内職のよし。

　此あたり田のへりにはハンの木を栽ゑたり。たけ低く頭茂りて田の蔭になるべきも、まだあまり伐られず。田の蔭になるといふ理由で街道の松竝木を伐らうとする計畫あり。地價を其爲に低くはしてないからなどといふも、別によくない動機がありさう也。

　三方にて人力車をやとひ小濱に向ふ。雨強くなつて路傍の茶店に晴間を待つ。安賀里《あがり》といふ村なり。繭商人が來て澤山の繭を買ひ集む。製絲工場この近くにも在り。

　此邊では藁屋の破風には板を張り、それに水といふ文字を彫り拔きたるもの多し。

(158)　國分を過ぎて遠敷《をにふ》村、若狹姫神の御社に詣づ。彦の神の宮は是よりなほ十五六町奧なりときゝて、え詣でず。門前の町に瑪瑙細工をなす家あり。古くからの事なるべし。此店に北海道檜山小林區の瑪瑙公賣の告示が貼付せられて居る。何と無く興味あり。

　　　玉造る若狹の國の國なかに神代の神ををかむけふ哉

　　　とこしへに竝ひていますわかさ彦わかさ姫こそうらやましけれ

　昔の今富莊は此あたりと思はる。府中は北川の岸なるべし。遠敷郡にて三方郡境より北川流れ、丹波境より南川流れ下りて、小濱の士族町雲濱にて落合ひ海に入る。北川の作れる平地が即ち國府の置かれたる一帶の美田なり。

　小濱の清濱館主人、南川の橋の上まで出迎。旅館は海軍の人々來り宿し、海の見らるゝ室は得られず、又大しけにて海の景色もわからず、たゞ想像するのみ。

　弟の同級の三宅少佐も來て居るときいて知らせる。やがて遣つて來る。郡役所の加納書記も來話。この人小濱藩士やゝ舊事を記憶す。

　六月二十五日、大雨、終日海荒る。

　朝遲く起き出し、縣立水産學校を見に行く。此學校は同種の中で最も古いもの、文部省の規程もほゞ此學校の急ごしらへの學則に依りしものゝ由にて、是に基づく學校多くなり、今となつてはやゝ自繩自縛の姿あり。又所在やゝ縣の西端に偏する爲に東部の同情が少なく、周圍にも亦郡立の女學校を縣立としたき者などの注文もありて、或は政略的に閉鎖を以て脅され、或は試驗場に改めよなどとの説を聽く。從つて十分の擴張を爲し得る筈も無く、實習も怠りがちなりし。今年は漁撈科の上級生を海に出し、相應の收獲あるまでは海上に居れと言つて遣りしとはあはれなこと也。簡易科を補習學校として附設して居る。爰では水産の教科書を讀本として居るはよし。受持の教師は實に珍しい人物、五つの外國語に通じ、書物の上での水産知識甚だゆたか也。

(159)　歸りに吉岡といふ書店に寄り本を買ふ。若狹國志の出版の計畫をきく。漢文を讀み下し文に改め、伴信友翁の書入れをも併せて出版すべしといふ。

　板屋市助といふ人の稚狹考十册を見る。是こそ最も早く出版したき本なり。信友翁が東寺文書を寫して、細かく書入れしたものあり。今は酒井伯家に歸す。吉岡は其中の太良保《たらのほ》の分だけを抄出して持てりといふ。太良保は今もあり。國富村のうちなり。

　信友義門雲濱三家の筆蹟を繪葉書にしたのをもらふ。

　清濱館の別館に行き、三宅少佐其他の人たちと話して夕方まで遊ぶ。枇杷を買ひてたんと食ひたり。機關大尉佐久間義夫君は、戰爭中敵船パロスを横須賀の捕獲審査所へ引いて來た乘組將校の一人、今舞鶴の水雷團に在り。こゝに來て五年ぶりに逢ふ。其他信州甲州などの山國の出身將校も多く居り、共に話しつゝ晝飯を食ひ、湯に入りて夕方に歸る。

　加納書記訪ひ來り、色々の事を教へてくれる。その一二、

　熊川村大字河内は、本道より南へ四十町ほど入つた山間の一部落にて七十戸あり。以前は木鞍鍬などの工人多く、何れも諸國に出でて勞作し、一年中外に在り、盆暮に歸り來るのみ。されば村の入口は關所を据ゑ、他所人は男子は一切入れず。女子のみ入つて來て商ひをする。時世改まつてより桑を植ゑ、次で駿河に行きて三椏栽培の利を知りたる老人あり、今は專ら之を作りて年産一萬圓を超ゆ。又よく造林をなす。田といふもの少しも無くして一戸平均の年收三百二十五圓、村がらよく見に行く値あり。村に鑛泉一所あり、旅宿は差支なしといふ。

　大島は今は半島なり。無論中古以後の接續なり。こゝには惡い病多しといふ外部の説あり。或は昔こゝに來て匿れしものか。滿山枇杷を栽うること、肥後湯島の無花果、安藝大崎下島の桃なども同じ。今日午後渡りて見る計畫なりしが、海荒れて海軍も演習を見合せた位なれば斷念したり。

(160)　今日午後片岡司令長官及び水雷團長森大佐に面會、敬意を表す。　夜水産學校長來る。

　三宅佐久間の二君夜再び來りて元氣よく話して行く。

　六月二十六日、終日雨

　小濱を六時に發す。谷田部の坂を越え、南川の谷に入る。口名田・中名田・知三《ちみ》・奧名田の四村、總稱して名田莊《なたんしやう》といふ。遠敷郡中最も産物の多き地方なり。

　久阪といふ處は知三村の中心、是より知阪を越えて丹波北桑田郡に出づ。同郡知井村の中村まで三里、周山までは七里ほどか。此邊五十町一里の慣習ありて、路の遠さしかと列らず。

　名田莊一帶、女子はすべて猿袴をはく。爰では之をカルサンと謂へり。日本の地圖の上に、この山袴類の行はるゝ區域を、染めてみたらきつと面白からうと思ふ。爰ではカルサンを又三�ｺとも謂ふ。戯れにはマッテクレともいふ。猶山形地方にてマタシャレといふが如し。遠敷一郡にても、村によつて形と材料少しづゝ異れり。大よそ四類に分つことを得べし。熊川方面は縞もの、知三村にては麻の生地、たび／＼水に洗へば次第に白くなりて中々風情あり。口名田村にては是をカチンに染む。田草取る娘たち皆之を穿てり。

　木谷川の上流木谷に行き、大阪の富豪杉本が經營せる杉檜の造林を見る。以前大字有の地約八百町を讓り受け、後段々に附近を買添へて、今は千町歩以上となる。しかも原價は僅かに三四千圓、是が町の資本家への一つの誘惑なりし也。三四年前から河合博士の弟�ｺ三郎氏是が技師に聘せらる。起立以來十四五年にもなるが、初期には失敗多く、固定資本既に十萬圓を越えて未だ收入は無く此頃少しづゝの間伐を始めしのみ。一町百圓以上の資本を新たに投下して、五十年後の囘收を期し得ることは自分などには疑問なり。五分利としても之を放置すれば十五年足らずにて資本は倍となり、六十年すれば十六倍なり。それだけの價を生ずることは望まれず。たゞ道樂半分の紳士林業ならば、斯(161)んな空想も一つの保養ならんも、町村の造林事業には警戒すべきことなり。大體に植ゑる時の樂觀的豫算が、?々不當なる生産費を忍耐せしむるなり。

　此あたり、山頂の闊葉樹林は保安林なりしが、既に解除せらる。其理由を問ふに既に植林を終りたればといふなれども、植林はまだこの源頭の地に及ばず、又此邊の山は地すべり多く、十年以上の杉も根より覆つて居るのを見る。是は聊か大膽に失したる解除といふべし。

　福井縣にては森林法施行の當初、先づ圖面に據つて概括的に保安林に編入し、後細かく事情を判斷して、一部づゝの解除をして行く方針なりしが如く、實際又さうするよりは他は無かつた地方も多からんが、今となつて考へると請託手加減の餘地多く、政治に濫用せられる懸念少なしとせず。何とかして置かぬと折角の森林制度が役に立たざるべし。

　兎に角に十年以上の杉の木の、廣々と數百町歩に亙りて栽ゑ渡される光景は心地よし。河合氏の案内にて、方々をあるきまはり飽くことを知らず。

　勞銀は大部高い地方なり。七十錢といふのが普通にて、地ごしらへ一反に三人以上、補植と雪起し、即ち雪に倒れたものを引起す作業、又下草苅り等中々の人手を要するも、其代り林は立派にて畠の如し。斯樣の深山に、日本でないと見られぬ風景なり。もはや栽ゑざる部分は甚だ少なく、二百町歩もあらうかといふ。雪起しの必要は十二三年目までといへば、今に間伐だけにても收入超過といふ時代は來るべし。杉本は又谷一つ彼方の、丹波鶴ヶ岡村にも三百町歩ほどの山を持つて居る。

　木谷の奧には、北桑田郡を經て京へ通ふ小徑あり。落人など昔より來て住めりと覺しく、記録はなけれど地名などゆかしいものが殘り居れり。山には又到る處茶を發生す。昔茶畠ありし跡かといへど、廣い區域なれば野生なるべし。明惠上人輸入の説は、實地に就いて考へるとよほど變なことなり。

(162)　檜木の大木の埋れたるを掘出してあり。五六百年は土中に在つたらしいといふ。又拔切りの細い木を磨きて、?《たるき》などにしたものを試みに作れり。

　久阪の三樂亭にかへりて鮎にて晝飯、奧名田村井上の學校に寄り、南川對岸の中村の民家を眺望す。役場も遠くに見ゆ。營林主事佐藤君、奧名田村長等出て來る。村長は下村の人、長い髯あり。佐藤は犬を連れたり。其案内にて一ッ谷の國有林に入る。川には橋あれど岸まで水溢れたり。林道は昨年か始めて造りたり。山の木を伐りて足場となす。昔は山の木を運び出すなどといふことは、彼等の全く思ひも寄らぬことなりしが、近頃漸く盗伐を習ひ始むといふ。

　谷深く險しくして天然の樅の木など多し。手近きあたりの雜木のみは、何度と無く伐つた跡あり。本郷村野尻の銅山などありて、燃料の需要は少額ならず。

　やゝ登りて右手の山を越ゆ。頂上は丹波へ越ゆる縣道、縣道とはいへど路幅二尺ぐらゐ、郵便脚夫が通行するのみ。高い處から一望するに雨氣にて遠くは見えず。良き山なり。五百町餘もあらんか。

　口阪本の人家ある所へ下る。村の共有林を部分木の契約にて、郡有林に造つて居る。よく眼に立つ所なり。區長美好?氏の家に憩ふ。もう五時になり、まだ峠二つを越えねばならぬとて人々頻りに侘ぶる故に、終に此家に泊めてもらふことにする。仍て主人より此村の話を聽く。

　口阪本と奧阪本とは以前は一村なりき。共有地は奧阪本の地内に在るもの大なる故に、其利用權を獨占するつもりで、文政年中かに分村を願ひ立てたるに、分村のみは許されて入會は元のまゝなりき。後訴訟などありて一時騷ぎたりしが、今は相談まとまり居れり。長百姓は十二戸あり、皆口阪本に住す。隣郡の佐分利村に大分の山を貸したるは古くよりの事也。其料として米五石、本來は村民の間に平分すべきものなれども、長百姓たち其爲の寄合と稱して、毎年十日も二十日も集つて飲み、其入費を差引けば分配すべきもの少しも無くなる。たま／＼之を非難する者があれば、喚出して眼玉の飛出すほど叱るのが昔からの風であつたといふ。無茶なことをしたもの也。佐分利村への貸地は(163)談判の上取戻し、今はかの村では他より別に借り、もはや昔の一つ話となつて居る故に、之を我々にもして聽かす也。

　此大字などは、共有地の多分なる村の一例なり。百戸餘の部落にて二千町歩以上あり。山を荒すことなどは何とも思はず。公有の思想一體にうとし。全く多數者の私有、又は土地限りの無主地といふ考なり。植林を説くにも、他日の分配を我も人も豫想す。從つて今後の來住民よりは、澤山の加入金を徴せんとし、之を制すれば寸土も栽うべからず。山を荒廢に委するの他無し。

　山村住民が自家用以上の木を採ることを許すべきか否かは、是からも大きな問題なり。許さゞれば耕地無き小民の生活を支へしむる能はず。許せば一人が多くの資本勞力を持來つて、有る限りの木を伐採することを如何ともする能はず。仍て結局は共有山は、用途に應じて幾通りにも區分する必要あるべきか。たとへば

　　甲、自家用薪山、各戸に割渡す、無料又は低料金

　　乙、秣山、肥草山、同上

　　丙、稼ぎ山、薪炭を賣る爲の山、運上を取る、成るべくは生産割、又は山入一囘何程

　　丁、立山・分割貸付・部分木たとへは三七伐、村立山、共同夫役にて栽ゑる

　斯うしてもなほ相互の侵犯はあるべく、監視決して容易ならず。結局は道�ｺ律の問題になるべし。

　夜千田郡書記等、川に出でてあまたの鮎を得て歸る。

　此家の衾は極めて硬し。家の女たち物陰より蚊帳蒲團をはふり出し、終に顔を見せず。けふ途中口吟、

　　　わかさ女がひたひ髪結ふくれなゐの鹿の子を見れば京ぞ戀しき

　六月二十七日、日よう、雨烈しく降る

　別れる者は別れ行き、佐藤營林主事案内にて、諏訪と三人山を越す。保護區員は何處に往つても皆甚だ人がよし。

　奧阪本は細く長き谷、入野といふものゝよき例なり。どこ迄も田あり、兩側は低い山、家が斷えては續き、女たち(164)靜かに田の草を取る。田盡くれば少しの坂にてすぐ頂上なり。あなた面は少し險し。此峠眺望好しときけど、けふは雨にて海も山も見えず。佐分利村の石山といふ里に下る。爰は本郷村より丹波への往還なり、路傍の茶店に休む。腹の心地甚だよろしからず。

　僅かの田の畔を行きて西の山麓は大字福谷、赤土の急な峠路、是も風景好き處と聞くのみ。頂上に佇立すれば、雨は霧となりて横に吹く。爰にて佐藤君と犬に別る。山道に下つて高濱に出づ。道の傍に苺多し、思はず採りて食ふ。

　高濱は一筋に長き町なり。けふは海軍の宿舍なり、憩ふべき家無し。僅かに午飯をしたゝめて車にてこゝを立つ。やつとの事で諏訪技師と別る。此人は腰から上あまりにも傀偉にて、足は之を支へ得ず。山林の人には珍しく山坂に弱し。迷惑至極なる道連にて、始終行動を牽制せられたり。

　海邊清く?瑰花咲けり。吉坂を越ゆ。路傍の小社に行人の枇杷の實を供へたるを見る。若狹は總體に昔風の國なりと思ふ。

　頂上より二十九番の松尾寺、右の方に近し。國境以西は坦々たる大道、新舞鶴に入るまで髪の如く直し。新舞鶴はもとの北吸といふ地なり。道に沿へる川にて、海軍軍人らしい若者浴衣にて魚を釣る。新市街には草地なほ多し。通り拔けて停車場に入る。都市氣分薄けれどもなほ嗅ぐべし。なつかしく覺ゆ。そこで見え坊に一等に乘る。

　舊舞鶴に下車。古金屋に行きて食す。此町は模範的の城下町なり。城山のめぐりは川と海と、其一角には寺もあり小社もあり、鶯が夏も啼いて居る。一方よりは大船の汽笛きこゆ。

　餘部《あまるべ》の町も丘を隔てゝ彼方なり。

　六月二十八日、日よう、晴、よき日

　朝人力車にて爰を立つ。町にて地圖と繪葉書を買ふ。軍港に近ければ良き煙草あり。

　暫らく海のはたを行く。やがて由良川を渡り、その左岸をゆる／＼と下る。此川濁流、川口二里餘の間は川尻と言(165)はんよりは寧ろ入江なり。急に廣く靜かになりて湖樣の觀をなす。但馬の圓山川も同じ。

　三莊太夫の故地といふ處を過ぐ。川中を指さして馬場の跡なりと言へり。安壽姉弟の物語を想起して、幼少なりし頃の夢のあはれをくり返す。由良の茶店に休み車を更へる。廣々と明るい村なり。泊りの船どもの帆柱、其間によき松の木立てり。新道は海岸に沿ひて行く。すべて御影石にて、海の中なるも山のも、岩は悉く美しく、又松原あり。山の崩れたる處に、例のハゲシバリを栽ゑたり。

　小寺といふ村、又小さき峠を越ゆれば與謝の海になる。道の土もすべてミカゲの砂なり。此あたり砂をマナゴといふ。

　宮津の町の入口に在る水産講習所に寄り、所長の牛窪氏と語る。十年以上在任といふ。此講習所の特色は別に學科を教授せず、常に實地にてのみ練修さすること也。生徒は一科に五六人づゝ、漁撈製造の二科各一年、養殖の科のみは準備未だ成らず。戰爭中食料の罐詰を引受け、其純益の大半を以て設備を擴張す。一たび火災に遭ひ直ちに再建せり。昨年は東宮殿下の行啓を迎へ奉る。

　漁業調査書を刊行す。海岸各村別にて、寫眞を多く入れ、詳細この上も無し。北に向つてこゝと相對する伊根村は、丹後にても漁業の特に盛んなる地なり。

　郡書記山本三省君迎へに來る。明治三十六年に相樂郡にて逢ひ、農林學校へも同行したる人、井上の兄の爲に鹿背山の舊事を調べてくれしことあり。職務に忠實にして其傍歌を詠み、又古瓦を蒐集するなど、ゆかしきたしなみある人なり。大聖寺の菊池君と風格やゝ似たり。郡役所に行く。郡長田邊信成君は曾て久世郡に在り。是も三十六年に汽車中にて話をせしに、もと上伊那郡長たりしことありと言へりき。當時狐の皮のチョッキを着てありしことを憶ひ出づ。

　清輝館別莊に行きて晝食す。樓上より海よく見ゆるも、橋立の松原は斜めになりて見どころ無し。

(166)　午後上宮津村の役場に行く。此村は丹波路への山口なり。山野多けれども貧村にて、耕地あまた町の人の手に移りて後に、勸業銀行と宮津銀行抵當に取り流すといふを、村の金にて買取り、實費にて元所有者、又は元の永小作權者に賣つて遣る。代價は好都合の事情にて、小作米一俵には四十圓ばかりにつきたりといふ。此邊の小作料は上田四俵（四斗二升俵）なれば、先づ一反百五六十圓までの價なり。村が中立機關となり、學校の基金などを轉用し、既に大部分を目的の如く本主に復しなほ村財産としても三千圓足らずを持つといふ。

　所謂｜入石《いりこく》の弊は一にして足らず。故に村の田は村の者に持たするといふ努力は、決して一片感情の問題に非ず。たゞ其囘收を村事業とするは、法規上の支障のみで無く、害も亦伴なひ得べし。今後は別に基金を設け、たゞ村長に管理を托するを可なりとす。此意見を村長に告げたるに、如何にもと同意せり。但し今囘の事業はまだ約十分の一に過ぎず。是以上の買戻しは、現所有者銀行に非ざる故、同じやうに手輕には事行かざるべしと思はる。

　往復に中學校の前を通る。此學校は兼て評判のよき學校なり。前校長山内佐太郎氏、既に千葉縣に轉任して在らず。寄りて見たかりしも時間足らず。たゞ門前より消防の練習をしてありしを見て過ぐ。

　宮津町は東の端が城郭。こゝに郡衛公會堂などあり。西の山添ひは漁師町、魚商人多し。家々の壁に作り付けた大爐あり、鯖をあぶりて丹波の方へ馬で出すこと幾何といふを知らず。橋立一覽の途次之を見る。

　文珠までの濱邊によき宿屋あり。田中芳男氏の別莊も此間に在り。文珠堂の門前は完全なる遊覽地、遊民常に多く、盛夏には海水浴の人群をなすといふ。參詣せずして過ぐ。切戸を渡船にて越え、松陰の路を歩す。切戸は四五間の幅にて、此方よりも小さな砂洲突き出でて重なれり。海荒るゝときは折々他の處にて切れることあり。

　全體に北海は潮差小なり。此邊も五六寸に過ぎずといふ。沙嘴より内には海水十分に入らず、奧の半分は淡水に近し。仍て鰻を養殖す。牡蠣は不成功に終れり。

　沙洲の突端に近き處最も幅廣し。こゝを厚松《あつまつ》といふ。根の所に行くほど狹くなる。こゝの松は以前人の力にて植ゑ(167)しこと明證あり。二百年以上も前のことかといふ。近頃蟲害にて倒るゝものやゝ多し。小松は多けれども成長いかにも遲し。よつて盛んに松苗を補植して居る。以前はこゝも國有林なりしを、府に讓り受けて公園とす。公園になるまでは松の下はたゞの草村なりきといふ。今はやゝ清淨過ぎて、或は松の爲にはよくないかとも思はる。

　入海を隔て、左の前手に見ゆるは府中村大字國分、國分寺今も存す。山の麓にて平地少しも無く、又往來の便宜もよからず。如何にしてこゝに國府を設けしか、訝しき地形なり。海岸には今は大分の田あれども、何れも新たなる築地（埋立）なり。山崩れ　　　屡々ありて、近年は小學校を潰したことさへあり、大よそ地變の頻繁なる處と見ゆ。昔の世のさまを推測すること能はず。

　天の橋立は古い地名ならんも、此砂洲をいふか否かはなほ疑問なり。橋立のくらはし山などのハシは梯にて、寧ろ險岨なる所のやう也。假に斯るハシ立もありとしても、「天の」といふべき地形には非ず。何れの方角から望みても、海天の境に見ゆる處は無く、常に磯山の陰になつて居る也。

　入海の東北隅に併立して、江尻溝尻の二部落あり。入海の周圖には多くの村あれど、何れも新土着なりとおぼしく、漁權は總括して溝尻村に專屬せり。其漁業組合の經費にて鰻の子を放し、又は名物金太郎鰻を外海より捕り來りて放流す。江尻も漁村なれど、是は專ら外海に出漁す。

　江尻に國幣中社籠神社あり。參拜す。成相寺は是より登る也。中腹に笠松といふ處あり。茶屋を設く。行啓を機としてよき道を通じたり。所謂股倉眼鏡の名所なり。夕方になりたれば斷念して上の寺には行かず、昨日の疲れもありし也。内海と外濱とを一時に觀るには此山に登るの他無し。

　成相寺は二十八番の觀世音、古き寺にて寶物多しときく。寺は東面にて今の橋立は却りて陰になりて見えず。由良の方より西北に向へる栗田の海角に、別に一箇の天橋立ありて宮津の灣を包めるが、眼の下に見ゆといふ。成相は今は寺の名となりたれど、語義は却りて砂洲の新生を意味するものにて、山下一帶の地名では無かつたかと思ふ。但し(168)成相寺と文珠とは近世は關係全く無しといへり。とにかくに小式部内侍などの天の橋立は、この細長い海の中道のことではないのかも知れず。

　東北の沖に大島小島見ゆ。又沓島冠島あり。大島は以前は二郡の交界、今は加佐郡西浦村に屬するもなほ入會なり。人家無し。鯖鳥多く棲む。近頃京阪の奸徒此島に上り鳥を捕り盡す。得る所十數萬圓、罰金を拂ひ刑に服してなほ餘利多かりしといふは淺ましき話なり。鯖鳥は土佐の島の鰹鳥と多分一つ、?の一種のみ。學者あまりに細かな差を言ひ立てゝ別の名を付するなるぺし。法令の煩なる今日の如くにして、なほ此等の惡者を制する能はざる也。

　府中村大字小松の小松九郎右衛門翁、久しき以前より此邊の山を植栽す。其木今はよほど大きくなりしものあり。又學校林にも寄附せり。訪ひ行きて逢ひたれども、既に中風となり話些もわからず、當主は不在、この人は何もせず。次男は郡農會の副長なり。嫡孫は早稻田に在りし者なりとて笠松の土にて自ら名をのりたれども、祖父が栽ゑたる山は何れなるかを知らず。

　田植祭なりとて村の者皆休む。當番の者金を村に納めて一人渡舟を漕ぐ。薄暮此舟をたのみて宮津に還り來る。海平かにて港の燈花の如し。清輝館の下に舟を繋ぐ。月夜なり。絃歌近くきこゆ。

　　　今さらに旅をさびしと思ひけり清きなぎさに一人遊びて

　夜牛窪氏來りて緩話。この人鐵道院の平井氏の甥なるよし。

　老女の按摩を頼む。越中稻光に居りし者といふ。よくあの邊のことを知る。睡き耳に色々の話をして聽かす。町は皆戸數にて記憶す。さながら統計家の如き學風なり。其話二三を控へ置く。

○某村の酒屋へ（ねむくて村の名をおぼえず）、夜酒を買ひに來りし者あり。一升�ｺ利をさし出し、酒を二斗くれよといふ。雇人馬鹿々々しと思ひて言ひ爭ひてありしを、主人が聽いて、二斗はかれと言はるゝからは二斗入るならん。早くはかつて上げよといひ付けしに、果して二斗入りたり。何しに代物をたまはるべきや、又も御用を仰せ付けられ(169)よといひて歸したり。是は天狗なり。

○又某村にて村人賭博してありし處へ、天狗來り加はり頻りに打負けたり。暫く貸してくれよ。其代りに是を預けるからとて、小さな風呂敷包みを置いて行きたり。その相手の男珍しく律義者にて、久しく之を開きても見ざりしが、後日その天狗來てそれを受取り、汝は正直者かな。この包みをあけて見ざりけりと、其褒美に小さい太鼓を、子供に與へて去る。いかにも氣味が惡ければ、その太鼓は村の神社に納めたりとて、今もまだ殘つてゐる。

○今石動《いまいするぎ》の何某か家に、年々天狗が來て酒食宴飲してかへること今も例となれり。前以て大よそ幾人樣の用意を仕るべきと伺へばしかじかと答ふ。先年のこと、この度は唯二人前にてよろしい。皆々戰地へ行きたれば斯く無人なりと答へたりといふ。（柳田附記、是とよく似た話、加賀の松任にもあれば、越中の高岡にもあり。二軒とも餡ころ餅屋なり。前代に此家から出た天狗といふこと、夜叉ヶ池の龍女も同じ也。）

○高岡の舊城の馬場に、大きな杉ありて中ほどより七本の枝を出す。天狗常に宿る。是も大戰の年の事なり。其枝五本一夜風も無きに折れたり。町の人悦びて五大洲は倒れたり。ニホンは殘つたと謂へり。

　六月二十九日、朝から雨、終日よく降る。

　早朝田邊郡長宿へ見送りに來る。六時發の早船にて岩瀧まで、船中は自分たゞ一人、一時間餘りにて着く。車夫向ひに出てあり。河守行の路を左にして大内峠を越ゆ。頂上から再び入海のよき景色を眺む。寫眞を取らうとすると要塞から望遠鏡で見てゐて、すぐ電話をかけるから途中で必ず逮捕せらるべしと嚇かされる。

　大野を過ぎて餘部、右は峰山へ行く路、左に過ぎて五箇村大字二箇にて車を更へる。こゝも大字の數五つあり。

　比知山越にかゝる。山のつゞら折が人の臂のやうなればと思ふ者もあれど、如何あらん。野中を過ぎて久美濱に出づ。濱といへば元は船付なりしならんも、灣の口今は橋立のやうになり、切戸狹くして役に立たず。近頃費用をかけて此口を切り開く。

(170)　以前爰に、代官所あり。一たびは縣も置かれしことあり。此郡（熊野郡）は但馬の方へ入込み、北は海、南はすべて出石《いづし》郡、京都へ出るには出石を通るが近し。交通不便はとにかく、道路に付きては府の助成を得にくきやうなり。

　久美濱灣の外に、旭といふ港あり。町より一里餘にて東向きの港なり。是と相對して東三四里の處に、西に向へる夕日の港あり。二港の間を日間《ひま》ヶ浦といふ。

　警察に立寄り荷持の人夫の世話を頼む。その向側が郵便局にて、局長織田幾次郎、樓を陳列場として、さま／”＼の古物を集め居れり。山本郡書記の勸めもあれば行きて觀る。好事無類の地方學者なり。土器石器珍しいもの多し。久美濱灣頭の砂洲には古墳少なからず。石器類も亦同じ處より出づ。又多量の古錢を掘り出せしことあり。古い土着の地なりとおもはる。古墳土器と石器時代の土器と併出する土地は、織田君幾つかの例を知ると云へり。

　三原峠を越ゆ。丹後と但馬との國境なり。雨はげし。今一つの小さき峠ありて、いよ／＼圓山川の下流に出づ。此あたりの川幅廣く、まさに一つの長い潟なり。湯島（城崎温泉）は山間なれども、一面は又水郷の趣あり。

　雨中の水の上は寂しきもの也。波たぶ／＼として舟を搖かす。是より外側をササノウラといふ。樂々浦と書く。古名なり。

　三木屋といふは昔風の湯宿なり。庭古く相對して山あり。たゞ其下を汽車が拔けて行かうとするのが困りもの也。是からさきには日本一のトンネル有りと聽きしはまちがひ歟。（附記、珍しく長い陸橋あり、そのことをいひしならん）

　六月三十日、晴、夜降る。

　腹のこゝち大いに惡しければ、療治のつもりにて逗留す。おくれたる日記を付ける。

　櫻井勉氏が明治二十六年頃に増補刊行せる但馬考、其祖父の著なり。宿の主人の世話にて借りて覺る。この人は今此町の町長。

(171)　アナトル・フランスのバルタザルも一讀し了る。

　理髪に行く。ふけ雪の如し。

　大田垣氏に行き診察を乞ふ。この人松岡の兄の同窓。なつかしがりて昔を談る。夜又訪ひ來りて十二時まで話。この人の長男今年十六、四年ほど前に本を綴ぢる鋲を呑み、それが氣管の方に行きたりと見えて、今も呼吸器が惡く、折々は熱を出すといふ。まことに親の愁ひはさま／”＼也。

　御所の湯筋向ひなれば入る。又曼陀羅湯といふにも行きて浴す。

　七月一日

　けふも逗留、讀書と按摩。二階の客の所へ行き半日碁を打つ。大阪の人らしくまことに下品なり。少しく無事に苦しむ。旅に倦みたる形なり。

　七月二日、折々小雨

　朝御所（ノ）湯にて話をまじへた男三人。一人は早稻田にて世話になつたといふ神戸の者、顔も名も覺えて居らず。他の二人は同行にて、兵庫縣の耕地整理技師池田泰次郎と、他は埼玉縣の岡本技手、この二人は此地に來て袂を分つなり。その池田に伴なひて自分も城崎を出發す。

　圓山川の左岸を上る。田鶴野といふ村に、ポンプにて水を揚げる機械場路ばたに在り。七十町歩ほどの耕地整理に伴なふもの也。如法の水入場でありながら、平日は田の水得かたし。川との差六尺ばかりといふ。此村對岸に役場あり。橋無し。村長は毎日渡船にて出勤とはやゝ珍し。

　玄武洞はこの少し川下に在りて川を隔つ。入口の石切場、街道より遙かに見ゆ。いはゆる玄武岩を斫り出して其まゝ利用したるもの多く、豐岡には專門の商人あり。今憶ひ出せば自分の生れた村でも、夙く此石を使つて居たの也。たとへば吉田の井上の石がけにもあつたかと思ふ。

(172)　圓山川は川尻三四里が間、先づ豐岡から下は入江の形なり。水深く緩く、川幅が急に廣くなり、此邊では信濃川にも劣らず。樂々浦《さゝのうら》は是に續ける地名なり。

　　城崎都も湯島まで下ればもう水音無し。その少しく上流までは、水しば／＼堤を越ゆ。激しき害は無くとも、年毎に田を覆没せしめて、稻を腐らすこと多し、杞柳の栽培はよく考へたもの也。豐岡に近づくほどヤナギを植ゑし畠多く、なほ水上にても見られる。

　豐岡はまさしく堤の上の町なり。新たに家を造るには屋敷地取の爲に大部分の費用を取られる。家の後はすべて石垣、家々競ひて地盤を上ぐるにより、相隣して高低著しく、一見其新舊を知り得べし。町は必ずしも衰へざれども、家の新たに加はるものまことに少なし。年に一戸か二戸のみといふ。

　この七月十日より、豐岡まで汽車が開通する。鐵道も成るだけ用心して山の裾を通り、自他の損害を避けんと努め、停車場なども現に町から十數町、不便な山の下に置かれて豐岡と名のる。しかもそれへ通ふ人力車道の爲にも、或は水の害を多くするかと息へられてゐる。この邊平地の道路は何れも置土の作業に大へんな金がかゝるよし也。

　柳行李は耕作者が村々で編み上げ、町へ出して縁《へり》を付けて賣り出す。即ち町村二種の勞力を配合するが常なれど、商人によつては村より半製品を買入れて其まゝ賣るもあり。官之を制すれども省みず。或は原料の柳を他處より送り來るものあり。此町より原料として出すものあり。半製品のまゝで積出す者ある一方に、他所より半製品の仕上げを持込む者もあり。をかしい程小商人の思はくはさま／”＼也。

　豐岡にて城崎郡役所を訪ひ郡長に面會す。この人明治二十四年の頃、群馬縣にて郡長をして居て逢つたことあり。爰にて晝の辨當をつかふ。此町の東端に東條といふ部落は特殊のもの住む。多くの小家かたまりて列を爲さず。

　出石へ行く。道に小坂村の役場により、耕地整理を一見す。郡吏田中出迎へ。

　出石神社に參拜す。此御社は山の下なるに、何故か山を後にせずして其右側に山と竝べり。以前より此の如しとい(173)ふ。

　出石は靜かなる町なり。峠はあれど奧の谷廣く、丹波へ通ふ路幾つもあり。丹後の熊野郡は西と南すべて兵庫縣と接し、府廳へ出るにも此郡を通りて行く。山道の交通今もなほ不便なり。

　玉井屋といふに泊る。夜出石神社の宮司來訪、司法書記官谷野格君叔父、もと郡長なり。

　芝居小屋が旅館の隣に在り。囃子の聲手に取るが如く聞える。

　七月三日、曇、小雨

　朝出石を立つ。鶴山の下を過ぐ。鶴の子は三四日前より飛び習ひ、けふは雨の青田の中に親と共に求食す。親子計六羽、車上歌あり。

　　　つる山の鶴は巣立ちて遊ぶなり家なる稚兒を思ひこそやれ

　淺間峠を越ゆ。八鹿《やうか》の停車場にて汽車に乘る。此川筋、川のみ廣く谷は細いもの也。ところ／”＼少しのふくらみありてそこに停車場あり。和田山は何故こゝを分岐點にしたか不明。

　竹田は昔しのばるゝ町、民居は山の裾をめぐり、城の石垣は山上に在り。出石も町を壓して高い山あり。今國有林にして樹繁し。是は頂上に城を築かんとして果さず。麓に領主の館の跡あり。

　生野に下車、眞繼氏の隣家なる濱屋といふ宿屋の主人に案内を頼み、陶庵翁の墓を展す。陶庵居士埋骨之處といふ石碑あり。十六年前の七月、靜雄と共に詣でしことあり。當時の眞繼一到翁も墓を隣して永く眠れり。寺は日蓮宗本行寺といふ。大俗物、しかも二ヶ月ほど前に火災に遭ひ、其跡淺ましくも荒れたり。

　陶庵居士は予が生まれし日より滿一年前の八月一日に歿すと聽きしが、墓石は明治七年八月三日とあり。予は性質も容貌も共に此翁に似たるかと思はる。懷かしさに堪へず。

　次の汽車にて福崎にて下車。辻川は全國中にも珍しい好山川なり。殊に岡の上からの眺望は繪にも寫し難き感じ也。(174)家の屋根の形と勾配、ともに他の地方に優るかと思ふ。但馬境の山々、暫く見ぬうち夥しく杉を栽ゑたり。是もやがてよき山里となるべし。

　駒ヶ岩は市川の瀬に埋れて、頭のみ見ゆるやうになれり。古い記憶の無い者には見出すこと能はず。爽竹桃が非常に多くなつて居る。二十五年前には在りしや否や、殆と記憶に存せず。多分は須磨明石の別莊に栽ゑ始めしより流行せしものならん。然らば是も一つの西洋かぶれなり。

　氏神社に參る。老木のヤマモモ依然たり。予が郷を出づる以前、村の男の兒に何次と名づくること非常にはやりしことあり。この拜殿に憩ふとき、測らずもその何次の一人に逢ふ。今は神戸に在つて大工なり。この男と話しつゝ山に登つて四望す、心持が妙に柔かになる。

　熊野神社に詣で次で其隣の圓乘寺の墓所に行く。松岡三子之碑といふ小石塔が我が家最も貧乏なりし時に建てたるものなり。

　三木家を訪ふ。少年の頃によく世話になつたる老刀自は、この三月に世を去りたまへりと聽きて、胸を打つ。引留められて今夜は爰に泊ることゝなる。三木君には女の子三人男一人有り、墓所と湯殿とが改造せられ、小兒が入り替りたるだけの昔のまゝの家なり。自分と同じ年頃の娘たちは、寫眞を見ると皆堂々たるマダムとなり、その一人にも逢ふこと能はず。

　再び岡に登つて、遠近の村里溜池などを望見す。自分の生れし家はカケアガリといふ坂の上に引移されて屋根見ゆ。其隣は天理教會、是もいはゆる劉郎去後のもの、獨り水蜜桃の果樹園のみに非ず。

　北萬ともいひ又菓子屋ともいひし大雜貨店今は無く、其跡が畠となり、家竝切れて齒の拔けたるが如し。其向ひの龜坪屋といふ金物店も退轉せり。

　曾てエナガの巣を見付けたりし松の木はとくに伐られ、其附近は三木氏の桃畠となる。鳥の巣さがしの舊仲間、干(175)鰯屋《ほしかや》の寅吉も立派な親爺となり、驛の前に店を出して居るといふ。

　郡長前川氏及び田崎五百頴氏こゝへ訪ひ來り、食事を共にす。田崎老は古くからの歌人、今記憶する所の二三章を吟ずるに、東京ならば優に名流と伍すべき人也。

　七月四日、晴

　吉田の井上氏へ行く。路に榎木屋《よのきや》の梅吉老に逢ふ。鈴木純爾の養父。

　井上の老刀自は上京して不在、山口君夫婦と話す。酒のすきな尼妙香の居たる安�ｺ庵、今瓦葺きに建替への最中なり。

　昨日と同じ汽車にて姫路に行き、安東氏に落着く。家書に接し松浦先生大病のよしを聽き驚く。

　夜總社の社務所に行き、父の友庭山武正翁に逢ひ、燈下に舊を談る。見えざること既に二十三年なり。

　七月五日、雨

　神戸行。武岡を訪ふ不在。縣廳に行き服部知事不破部長、又一昨々日の池田君などに逢ふ。武岡と魚善にて晝食、先生の病?を尋ねる。明日は宍粟佐用をあるいて見る所存なりしを、見合せて歸京することにきめる。

　大阪へ行き、中（ノ）島の銀行集會所にて今村に逢ふ。又吉田といふ男にも。

　七時の汽車にて再び姫路へ引返す。

　七月六日、晴

　安東氏の二階にて安臥、汽車に乘りおくれし也。

　七月七日、折々雨

　八時出發、京都へ、車中森田茂吉氏に逢ふ。電車にて府廳に行く。知事及び昌谷君に逢ふ。烈しき下痢始まる。押して小林區署に行く。署長不在。

(176)　神戸正雄君を訪ふ。東山を軒に入れたる好き二階なり。話をして居て穩かで親切な人哉と思ふ。又河上肇君の家にも行く。是も腹を病み寢て居る。枕元にて話をしてかへる。

　南君を訪ふ。今苦闘の最中といふ。夜遲くまで話。送られて十二時の夜汽車に乘らんとす。途中寺町の通りにて白鳥集を購ひ、又京極の町を歩む。雨中なれども往來しげく、車の通行を禁ず。

　汽車の中にて大いに悩む。

　七月八日、晴

　午後二時漸く家に還る。

　床の中にて諸方の手紙を見る。けふは生母の忌日なり。

　

(177)　　　　　美濃越前往復

　　　　　　　　　――明治四十四年――

　

　七月七日、金よう

　昨夕九時の汽車にて、新橋を立つ。二宮�ｺ君同行。この人尊�ｺ翁の曾孫なり。

　早朝岐阜に着き、玉井屋に宿を取り、直ぐに縣廳に行く。薄知事は仙臺にて既に知り、石橋松村二部長は同窓なり。江崎黒澤の二技師は始めて逢ふ。夜分訪ひ來る。

　先づ物産館に入りて見る。紙は市と武儀郡との出品多し。中央製紙株式會社といふは、惠那郡に工場あり。御料林と其附近の針葉樹を利用して自らパルプを作る。又襤褸を利用す。輸出用マッチ用紙、藍色のもの一連一圓二十錢、緑色のもの同二圓、どうして是ほどの價の差あるかわからず。二尺四方のもの五百枚が一連なり。此會社の主たる製品は所謂ロール半紙、原料は木材、ツガ・マツなど。ボロは新聞紙以外にはあまり使はず。書院紙にもパルプを使ふ。此パルプは獨逸からの輸入品なり。最上品でも一割はこのパルプを入れ、粗なるものは半分も入れるといふ。其理由は競爭に在り。つまり他府縣より安いものを出さうとして此の如し。

　縣内の原料は甚だ足らず。他府縣の移入多し。楮は東西諸國より來る。那須物と備後物を上品とす。三椏は土佐より取寄せるが、土佐で自ら使ふものよりは材料遙かに惡し、かの縣にては良きものを出さぬ考へらしいといふ。仲買はこちらの者、地元に出かけて取引す。此縣の紙産地は、地少なく人多くして耕地を得がたし。非製紙地にては此物(178)の栽培に冷淡なり。勞力多くして材料乏しき爲、材料費を節約して勞力を以て之に代へんとする傾きあり。たとへば蛇目傘は粗薄の紙に墨を塗り糊を附け、一見丈夫に見する故に、色漉きの紙を用ゐて勞力を省かしめんとするも事行はれず。粗製濫造は、要するに競爭の激しい時代には、之を生産者に責むること能はず。

　柳行李は本巣安八の二郡に生産者多し。蔓細工の外を樺の皮に包みたる小さい炭取など、形も色も最も古雅なり。郡上八幡《ぐじやうはちまん》の水野某出品す。彼地に行きたる時尋ねて見たし。この外に木彫玩具などのちよつと面白いものあれども、物産というてよいか否かは容易にきめ難し。

　縣の藏書目録を見る。この中には高山人の見せたる飛騨の書は殆と皆見えず。

　檀鵠三卷。是は飛騨村方舊記なり。近年の傳寫本なれども精確なり。檀はシラマユミ、即ち飛騨國の枕言葉なるべしと、神谷氏の題言に見ゆ。神谷は美濃志の著者、明治十一年の頃、縣廳に勤務せし學者なり。

　塘叢二十卷、是は自筆本と見えて餘白多く殘れり。有りふれたる古書の抄録なり。文政四年の自序に立塘といふ名見ゆ。第七卷の表紙に、潜藏國書といふ紙の札を貼りてあり。是亦神谷氏の家藏の記にや。荏野册子、こゝには四卷あり。田中大秀著。

　サンカのことを注意して行きたしと思ふ。普通山窩と書くも當らぬ當て字なり。年中山野に漂泊して、定まつた村をもたぬ者なり。警察本部の小西刑事、大垣署長の廣瀬君、共に此問題に詳しいといふ。サンカには通路あるらしいこと、又其中にも種類あること。毎年一囘地を定めて彼等の大集會あることなど、此二君に聽けば教へらるべしと思ふこと多し。ノヤといふ部落あり。サンカと同じく川魚を捕るを專業とする賤民なれども移住すること無し。長良川の岸にも、又三條野の大池の畔にも住み、後者はやゝ大なる部落なりといふ。ノヤは野間《のあひ》かと思はる。地番として定住を許さるゝか。番太なども普通に漁業は上手なり。

　岐阜市の盲人は今も正五九月の巳《み》の日に集り、めくらの手引神なりとて辨天さまを祀る。祭式にはさしたる特徴無(179)し。

　割山と稱して山野の使用權あり。之を隣村民にも賣ることが出來る舊慣、何とかして詳しきことを知りたしと願ふも、さういふ話をする人に逢はず。

　七月八日、土よう

　母の忌日なり。電車にて關の町へ行き、町を見てあるく。それから上有知《かうづち》へ、今は美濃町と謂ふ。同業組合の製紙試驗場に行き、又水力電氣の發電所を見る。この邊皇室の御漁場なり。長良川の水うつくし。

　郡上の八幡へ人力車。備前屋に泊る。旅店にして料理屋を兼ぬるもの。夜郡長竹内氏、又御料の小川技手來り、色々の事を教へてくれらる。

　けふの路の左右、藁屋の棟長くして中低なること支那の家の如し。瓦葺きにも此形少しあり。藁屋の破風を、別に藁にて塞げるものあり。吹雪の多い處なればにや。

　郡上郡にての楮産地は、長良川と津保川の谷なりき。今も路傍に少々の痕跡を見るも、大體に於て桑に壓迫せられた姿あり。桑の木の皮は製紙用にはならぬかどうか。其試驗もして居ると同行の江崎技師言ふ。

　この郡、山林は舊藩時代より甚だ振はず。農作にも使はねばならぬ爲なるべし。養蠶は今中々盛なり。生絲の年産七十萬圓に及ぶといふ。手引がまだ行はるゝものと見ゆ。

　稗はすべて畑稗、この地方では朝鮮稗といふ。加賀などで鴨足と呼ぶものと同種なり、味はよからず。成熟期も不同、白山の北側にはこの物多し。

　サンカは又オゲとも呼ばる。郡上邊には夏のみ來り、冬は温き方に行くかと思はる。伊勢では冬は熊野の方へまはると言はれ、此者の通路は定まつて居るやうなり。さゝらや籠、又箒などを作つて賣りに來る。岐阜では石龜を袋に入れて賣りあるく者あり。海津邊にて、多度の祭の日喧嘩をした爲に訊問せしことあるオゲ、後に岐阜にて贓物故賣(180)にて所刑せられしことありと竹内氏言ふ。又石川縣にてオゲの貞女あり。夫の死したるとき村民憐みてよく之をいたはる。其折に見たるに、其小屋には小さき厨子樣の物ありて、其中に先祖の位牌を納めて居たり。平人とさして異なる生活には非ざるか。はた此オゲのみが、特に彼等の中に入込んで居たものか。

　木地屋の生活も、まだ此地方でならば尋ね得べし。武儀都下牧村大字片知は三百戸ほど、多くは苗字｜小椋《をぐら》なり。木地屋の土着と見ゆ。郡上郡西川村の内ヶ谷にも小椋氏ありき。是は他處より移住せし木地屋にて今は死に絶えたり。岐阜市にも同じ苗字の家あり。江崎君曰く、木地屋の中には容貌の立派なる男女多しと。この事又斐太後風土記の記事にも見ゆ。木下氏又いふ。前に三重縣飯南郡の警察署に在りしとき、管内のたしか森村大字猿山にて、崖崩れて川の中に、蓆包みの死體現はれしことあり。刃物がその亡骸と共に包みてありしより、乃ち木地屋なることを知れり。木地屋の刃物は刃の付け方普通のものとは逆にて、左から磨ぎ手前へ引いて削るやうになつて居ることを知る者ありて、一見して是は木地屋だと言へり。彼等には木棺を用ゐざる葬法有りと見えたり云々。

　飛騨にはテテと稱する特殊民あり。古河町の是重に三四戸、小鷹利《こたかり》村｜上野《かみの》に二戸、其他にもなほ多かるべし。上野の二戸のうち、一戸は醫なり。つまらぬ醫者なれど、藥がよくきくと評判せらる。是重のうち一戸は金持なり。平人竊かにその金を借る者あり。娘に千圓附けて遣りたしといへど、テテなるが故にもらひ手無し。何故にかゝる差別觀あるや知ること能はず。犬を先祖とすといふが如き荒唐の説あれども、何人も是を實なりとはせず。ただ以前は履物を許されざりき。

　所謂ゴンボダネはテテとは關係が無いやう也。ゴンボ種の方は部落に非ず。部落に混入せる少數の家筋なり。もと上寶村より出づといへど、今は各處に散在す。人に憑くと稱せらる。どうしてそれが知れるかといふに、必ずその憑かれた病人の口からにて、病人は其家の事をよく知りて語り、又之を驅逐すると、足立たぬ病人が此時のみは走りて、其家に行きて倒れる也。よく／＼弱りたる病人ならば、憑いた本人を呼んで來て撫で摩らしむ。本人は勿論迷惑して(181)之を拒めども、何としても病家の者が承知せずといふ。

　是も竹内氏の話。伊勢と大和の境の高見山の頂上に社あり。東麓には入鹿の墓なりといふ大なる塚あり。この山の南を通る峠の中腹に茶屋あり。人之をオニギと謂ふも、其實は御禰宜にて、此塚と社の社掌なりといふ。本家は大和の方の麓村杉谷に在りとて、オニギの家には文書無し。毎年八月十五日を入鹿の日なりとし、夜分この山に參る者多し。

　郡上郡某寺の寶物に鬼の髑髏あり、角と牙とはこしらへ物らしけれど、とにかくに奇なことは、鬼の頭骨は後頭部が著しく長く突出せり。

　七月九日、日よう

　二宮江崎の二君郡書記を加へて一行四人、長良川の左岸を白鳥に向ふ、よき路なり。白鳥駐在の青木巡査部長も來り加はる。途中大島にて縣種畜場を見學す。この邊高原廣く連れり。

　白鳥に早く着き、井増屋に宿をきめてから町の内外を見てあるく。役場より村圖を借りて見る。白鳥は上之保村に屬す。油坂峠の口なれば町つくりであり。よく火事のある宿《しゆく》なりといふ。越前穴馬より峠を越えて、賣買ひに出て來る市なれば、山中の市場の特色をよく具へて居る。現在は福井縣内の交通改良せられ、穴馬よりはあまり出て來なくなれり。福井の方も縣道なれども、面谷《おもたに》と油坂の頂上との間だけは少しも補修せず、極めて惡しき路なりといふ。面谷から大野へは九里、此間は中々良い道なり。

　けふの途中での見聞二三。八幡の馬市は土用に立つ。當歳の毛附なり。此邊古くからの産馬地と見えて、例の磨墨《するすみ》の傳説爰にもあり。牛道村大字｜那留《なる》、ナルガ野といふは山中の平野なり。石鈴と稱して振れば鳴る音する石あり。是をナル石といふは偶合なるべし。ナルは中國四國の廣い地域にかけて、斯ういふ山間の平地を意味する普通名詞なり。奈良も同じ。この那留ヶ野の奧には、又ソロバン石といふを産す。是は玉髓といふものなりと謂へり。

(182)　郡上郡は人口六萬、三萬五千石の米を産す。稗は一萬石といふ。茶の實こぼれて多く野生す。茶には肥料を施すことなし。屋根の萱葺き用の爲に萱の種を播くことあり。斯樣に土地の利用法は進みてあれど、植樹の知識のみは、この山間の勞働者はまだ持つて居らずといふ。

　上之保村では山梨の皮を剥ぎて販ぐ者あり。又小梨の木も皮を採る。販路は江州の方なりといふ。梨子地の材料とすといふ説あれど信じ難し。

　ホヤ即ち寄生木にて兎を捕る獵法ありといへり。詳しく尋ねず。又山に住む犬あることを聽く。

　飛騨との交通も多く、その風俗やゝ入つて來て居る。飛騨系統の股引は、カルサンの小さくなり又衣の下になりしものなること、實物によつてよくわかる。

　夜分小學校長も話に來てくれて、色々の事を聽く。月明らかに四方の山は低し。

　石徹白《いしとしろ》は爰でもイトシロといふ風に發音せり。その石徹白の冬の出稼ぎは郡上あたりへも來る。以前は若い者が家に殘り、年より子供のみが出て來るので、自然物もらひの形になりしことは、牛首も五箇山も同じきが如し。どうしてさうなつたかは誠に考へて見るべき現象なり。飛騨も古くから石徹白と關係深し。大野郡よりこの越前の山村に入るに、一旦白鳥まで出て來て、檜峠を越ゆる者今でも多し。是は白山の主要登路の一つにて、即ち又明日我々の向はんとする道なり。

　江崎君云ふ。岐阜では今泉字本郷といふ邊に、常にサンカの群居する處あり。警官之を追拂ふといへども、久しからずして又歸つて來るといふ。この話一昨夜岐阜にても聽けり。對岸某處の藪の中といふ話なりき。それがこの今泉本郷のことなりや否。ともかくも彼等の定住性は全く無きに非ず。たゞ普通の村組織法に服せずといふ迄では無いか。

　二宮君は云ふ。このサンカとよく似たる者、磐城相馬地方にてはテンバ、又はテンボと謂ふ。妻子眷族ある漂泊者にして、主として箕なほしを業とす。山の中腹以上に七八つの横穴あり。二十年前にテンバといふ者、時に來つて是(183)に住みたりしを記憶す云々。此名稱は仙臺附近にも知られ、亦さういふ毎年來る乞食のことなりしと聽く。それに家族があり定職がありしか否かはまだ確かめず。名の起りは不明なれども、或は是が一つの手懸りかも知れず。關東の田舍にては、サンカといふ語も警察人などは使ふも、一般には箕直しを以て通用し、此中には漂泊する者と、既に一地に土着するものとあるが如し。

　七月十日、月よう

　長良川を渡り、長瀧寺の廢址の下を過ぎ、北濃村の役場に憩ふ。朝日寺夕日寺の話などを聽く。

　爰にて始めて草鞋をはく。前谷にて長良川と別れ、阿彌陀（ノ）瀧を見に行く。石徹白駐在の巡査と出逢ひ案内してもらふ。

　檜峠の頂上まで、村長と校長との二人迎へに出てくれて居たり。こゝに暫く休息して廣々とした山の杉林を挑む。百年を越ゆる木多けれど皆自然生にて、其親木の大木は山の嶺に、幾らとも無く伐られてたゞ巨大なる伐株を殘せり。白山中居神社を拜し奉る。石徹白川はみたらしとして、御社の東と南とを繞り流る。

　中の在所の上村五兵衛といふ醫家に泊めてもらふ。金屏風に火鉢、まるで冬のこしらへ也。

　白鳥の町に近く、天狗塚山といふ峯聳えたり。頂上には河原石多し。天狗が運びしものといふ。一説にはテンゴ即ち畚《もつこ》のことにて、人が持つて上りしかといふも是は一つの合理化なるべし。長瀧寺の地には假神殿を建つ。大なる社殿敷地中央に在り。假本堂もあはれなさま也。永享三年の鰐口は存し、堂の中に幽かに經を讀む聲す。此頃御料林の拂下を受けて、恢復の計を爲すといふも、何分にもひどい衰頽にて、或は永久に消えてしまふかも知れず。舊寺屋敷の跡、在家なるもなほ坊の名を呼び、僧は今二口あるのみ。

　長瀧寺は泰澄初登山の途次に創立すと傳へ、天台の別院なり。もと三千坊ありと傳ふ。維新の際にはもう十坊に減じ、無住又はたゞ坊守を置く者もありき。そのうち二院は清僧にして、他は世襲僧なりき。一人の同行をも置かず、(184)當時既に農を業とせりといふを見れば、決して排佛毀釋の爲のみには非ず。其坊の主、今多くは他處に行き、屋敷と田畠とを小作に付せり。

　寺の舊領は北は飛騨の莊川に及び、南は上之條の中津屋までなりしといふも、近世は僅かに長瀧一村に限られき。郡上の青山侯へは、獨活《うど》などの方物を獻ずるに止れりといふ。門前といふ字と町屋といふ字とは接續す。町屋は近年の地變の爲か、山と流れと相迫りて宅地を置くべき平面無し。坊の割り方も近頃の地圖にては判明せず。

　阿彌陀の瀧は水簾にて、其背後に大いなる岩窟あるさま、今昔の猿神物語を想起せしむ。山上より突出せる巖石を銚子の口と謂ふ。爰に瀧神の傳説あり。石徹白の鬼甚九郎といふ者、大石を以て其銚子の口を打碎き、今のやうに短くしたと傳へらる、瀧の神は伯耆の山へ行くとて飛び去りたりともいふが、なほ岩窟の中にはさま／”＼の石體を存し、地方の信仰を繋ぐかと思はれたり。

　中居神社には、美女下神社等六つの社を合祀す。全村社人にして御師として近國を巡囘したり。年貢免除の特典は失ひたれども、今も土地の負擔は少なく、一村を擧げて年々の祭に奉仕することは變らず。

　上（ノ）在所の對岸に、少しの平地ありて長者屋敷といふ。近年石器の異形なるものを掘り出すといふも見ず。古喜美武比古の二人、この長者屋敷に住し、正月十五日に社を作りて、山宇都第三の御子を祭るといふ類の口碑を記憶する者あれども、文書すらなほ心もとなし。まして其一部の援用なれば、到底旅行の途次などに於て考究し得べき問題に非ずと思へり。

　上村五兵衛氏の家に、陶器のビンダラヒといふを藏するを見たり。五寸に一寸五分ほどの細長い水盤にて、珍しい形なり。是にサネカヅラなどの樹液を入れて、鬢の毛のほつれを撫で上げしことも、さして古い世の事ではあるまじと思はるゝが、村に存するは是たゞ一個なりといへり。

　地形名には注意すべきもの多しと覺えたり。ハバは二つの平地の中間に在る急傾斜地、東國のママと相似たり。信(185)州その他にてハバといふは是とやゝ異なり、寧ろ石徹白に於てダナといふもの、即ち急傾斜の上頭にある緩傾斜地をいふかと思はる。其ダナといふは恐らくは棚と同語なるべし。又アフギといふは扇かと思はる。谷が一時に廣くなつた處を、形によつて斯く名づけたものらしく、是も白馬山彙などに於て、アブキと呼ぶ地形を説明するに足らんか。

　又一團の民居、及び田畑の一つの集合をカイツと謂へり。カイツは即ち垣内にて、本來は一人の地主、又は一家の家長が持つて居た名殘かと思はる。

　この村は土地の賣買にも專ら四至の名を掲ぐること、中古の文書に見ゆる通りなり。是をシホウガラミと謂ひ、文字では四方境と書きたり。

　蚋をカといひ、之を防ぐ蚊遣の装置をカビといふことは、日向の椎葉村などと全く同じ。何かよく火を持つ燃料を、藁を以て錘絲《つむいと》の形に卷き、腰に下げて絶えず燻して居ることも彼と變りなし。只燃料が彼に在つては蕨の根の、粉を取つたあとのほどろであり、爰では稗粟の殻などを用ゐるだけの差なり。

　燒畑この村では六年作り、其後を荒らすこと三十年乃至四十年、中には五十年も過ぎたる杉の自然林さへもありといふ。

　農民冬閑の餘業として木を挽くこと、山奧には珍し。四分板方一坪を一｜間元《けんもと》と呼ぶ。材一尺〆の八分の一に少し足らずといふ。立木の價としては一間元十錢から二十錢、尺〆になほして八九十錢以上一圓七十錢まで也。木挽一人一日の切程四間ほど、其賃六十錢位なれば一間に付十五錢、こゝから前谷への運賃一間元に付現在七錢、一人で六間まで運ぶのが普通なり。炭の運賃は十貫目三十錢する丁場也。

　この村の川、岩が荒くて木流しがきかず、一本流しでも木が痛む故に殆と行はず。たゞ六尺木のカナギ（雜木）位は少しづゝ出すのみ。此邊のカナギは楢でも他の木でも、皆沈まぬので流すことを得る也。

　七月十一日、火よう

(186)　四時に起き五時に立つ。雲深き深山の夜明けを見たり。朝日の峯の頂ににほふさま美し。

　村長校長送りて來る。校長は小谷戸の分教場まで、村長は三面《さつら》の對岸下穴馬との境まで來て別れ去る。

　小谷戸は九戸、三面は五戸。この間一里あり。分教場はこの十四戸の爲に設けらる。教員は一人なり。この二部落は萱葺多し。爰でもクヅヤと謂ふ。三面五戸のうち大久保村長の家のみ杉板葺なり。杉の木の段々得にくゝなる爲なりといふ。

　タダコエといふ路の名、下穴馬の角野より同下大野へ越ゆるをもしか呼べり。別に本道あり。此方は冬分雪崩の危險を避くる爲に通ふ路にて、荷物が持てぬ故に只越なりと説明すれど、是は古語にて直路即ち近路の意なるべし。

　水に映じて岩ツツジの咲けるを見つゝ行く。

　下穴馬村朝日の小學校に憩ふ。讀本の中の「海」といふものを説明するに、こゝの何とか淵を一萬も二萬も合せたほどの大きさと言ふのを聽いて、面白くおもふ。さう言つたところで山村の兒童にはなほ海を胸に描く能はざるぺし。よき畫を與へたし。

　此村の村長と同行して大字下山まで歩む。下穴馬村にては板屋愈々少なく、クヅ屋は急傾斜にて、棟より三尺ばかり下に栗の木の棒を通し、其端をぐし押への木と結ひ合せあり。此邊から腐ること多かるべしと思はる。

　石徹白川の合流するより少し上の方に、川を隔てゝ相對する同名の部落、西を朝日前坂といひ東を角野舞坂と謂へり。九頭龍の本流に入りてよりも、相對して朝日と角野あり、朝日は北岸にて日受けなり。角野は銅山のある村にて陰村なり、仍て思ふに角野は多摩川上流などでいふ日陰のことならん。朝日の方が勿論早く開くる村なり。

　上下穴馬村は下流の數村と共に、美濃郡上の青山氏領にて、陣屋は勝山在の若江に在りき。此邊の税は深山なれば甚だ低く、下田は舊一村なるが、諸色を結び入れて高十三石あまり、大野町の石代を以て金納することゝなり居れり。地租改正後も田の地價一反二十圓を超ゆるもの無く、畑も亦之に相應す。石徹白では地價十七圓とかゞ田の最上にて、(187)最下には反三圓といふもあり。畑は通例は八圓位なりといふ。

　下穴馬村長はこの下田の人にて爰に來て別れたり。道すがら珍しき話を聽く。その二つ三つ。

　大野郡の山間には、大家族の家少なからず。たとへば下穴馬村全體では、一戸平均七人餘なれども、大字下山には十五人ほどの家もあり。西谷村の熊（ノ）河《がう》、温見《ぬくみ》なども有名なもので、四夫婦ぐらゐも同居し、弟の方が子を多く持てるもあり。何れも仲よく分家をしたいなどとは言はず。

　下穴馬村では、子女の出稼ぎを罷めさせる方針といふ。娘が惡い病を持還ること多き上に、此邊の女は騙されやすく、又男にはまりやすし。出ることは常に不利といふことを、村の人々も經驗して居る。

　種苗も外から持込んで來る者は、杉でも楮でも何か此土地に相應せぬやうに思ふといふ話、是はまだ試驗が足らぬのかも知れず。しかし椎蕈の栽培などは、伊豆から傳習した知識では、うまく行かぬといふは尤も也。冬は大分寒い土地なれば。

　此村昔からの帳面紙を今も製して居る。火事の危急に井戸の中へ投込んで立退き、暫くたつてから引上げても少しも損ぜずに居るといふ紙で、京大阪の商家の大福帳は、多く爰へ注文する。下山及び山大納《やまおほの》の部落にて、冬中之を製す。他の大字にも始めた者はあるが永續せず。三椏の栽培も起りたれども、土地の者は楮を大事にし、路傍の畑にもまだ楮多し。大よそは村限りの原料に供して昔風な漉き方を守り、新種を作らうとする考へはまだ起らず。

　住民の衣料、常用は皆麻布なりき。サックリ（裂織）といふのは爰では麻絲をたてとし、ヲグソ即ち苧の屑を紡んだ太いものを緯にする。外の働きにはすべて是を着て居たのに、もう此頃は木綿を着て田に出る者が出來たと謂つて、老村長は歎息せり。しかし木綿を家で着る以上は、古くなればやはり仕事着にする他なかるべし。カルサンの材料なども、けふ途中で見たものは六分までが麻、あとの四分は木綿で、共に紺に染めてありき。

　下山では夏着と稱したのが、麻布で作つた夜着のことなりし。今その風止むといふ。

(188)　下山は戸數十四、三｜垣内《かいち》に分る。屋根葺きには三組合同して一つのユヒ組を爲し、毎年順まはりに三戸づゝ葺いて行くことにして居る。材料と勞力は共に全部が村内のものなり。二十年以上も持つ家もあれど、大抵は十五年もたつと葺替へを要する。葺き方の粗末なのと雪が深いのとの爲に、早くいたむかと思はる。棟《ぐし》を留めると稱して、栗の木の棒を屋根に通すことは、此邊でも皆して居る。屋根はこゝから腐り始めるやう也。屋根の古萱は林中に堆積し置きて肥料とす。近頃は是をも堆肥小屋の中に入れしめんとして吏員盡力すといふ。

　萱葺用として立てた茅山、村の近くにも處々に見ゆ。此村は村山を早く分割したりと見えて、個人有といふ山多く、四千五百尺の荒島山さへも、頂上まで私有なりと聽く。山を持たぬ住民もあり。僅かな山手錢を拂ひて、地を限つて他人の山の木草を刈る。

　植林の前一年は、燒畑を作る方が結果よしといひ、粟を蒔いてあるのを見かける。五箇村大字打波などは、今も燒畑を主とす。氣の毒な山中の貧村で、小學校費まで縣からの補助を受けて居る。それでもカンコ踊といふ古風な踊はある村なり。

　佛原と此村（下山？）と組んで九頭龍川をせき止めて魚を捕る。上流からの故障申出が多いので、此頃は中絶して居る云々。

　暑さに堪へかねて暫らく下山の路傍の家に晝寢をして居ると、大野郡役所から松田君といふ人が來てくれ、この人に同行して荒島山の麓の路をつたひ、東勝原といふ處まで來れば、大野からの人力車が迎へに出て待つて居たり。夕方町に入り、俵屋といふ家に一泊。是も料理屋兼業なれども庭廣く、松の間の月もよし。

　大野の町のはづれ、たしか清水《しようづ》といふ字のうち也。近頃は五六戸のサン力定住す。最初たゞ一戸のみありしに、いつの間にか次第に集り住むなり。松田君云ふ。サンカは釣をなさず。竹籠に柄を附けたものにて、主として野川をあさる。川漁を兼業とする部落は、此近くにも古くからあり。其起原については聞くことなし。坂井郡の鐵道沿線にも(189)一つのサンカ部落ありといへり。果してさうか。

　七月十二日、水よう

　朝早く起きて、町の西なる清瀧神社に參拜す。このあたり城址なるべし。

　大野を發し福井に向ふ。平泉寺の故址を訪ふとて、田の中の路を行く。白山社の杉林に苔を踏みて歩み、義經記の昔をなつかしむ。勝山の町にては小學校見學。

　九頭龍川の岸を下り行く。小舟戸といふ地に憩ふ。川上の遙かに眺めらるゝ岸なり。

　松岡の町にては、藥師の隣に憩ひ、夕方になりて福井に入る。一昨年の名和屋に泊る。田尻子爵岡局長などすでに來てあり。又多くの土地の人にも逢ふ。

　七月十三日、木よう、極めて暑い日。

　午前は産業組合中央會福井支會の大會、模範組合の表彰式に參列し、午後は一時間ばかりの講演をやらされたり。其あと寫眞展覽會を見に行く。村落の寫眞には興味を引かるゝもの多し。けふ人に聽きし話二三。

　千福といふ村の産業組合は、二町八反ほどの田畠を所有し、之を組合員に貸す。生産組合ともいふべきものなれど、現行法はまだ之を認めず。將來之に由つて小作人の共助を完成せしむることを得んか。

　三方郡耳村河原市の伊藤正作翁著書。農人嚢自寫、耕作早指南種稽歌、又農業家訓一册、この最後のもののみ刊本あり。

　足羽郡社村笏谷は石の産地、石工多く住す。大迹皇子を石工の祖神とする由緒を傳ふといへり。山の石像の作者も彼等の中に在るか。たゞ大膽と評すべき作品なり。

　足羽郡の鴨の坂網獵は今もなほ行はる。田地に水を溜めて鴨を誘ふ。その人工の鴨溜のみを、此地方ではフケといふ。フケは沼田の意味に弘く行はるゝ言葉。

(190)　同じ郡東郷村、下毘沙門の福田の二大字は、何れも二三十戸の部落にて、三百年前の地圖には見えず。相互に通婚するのみにて、他の部落との縁組は今日もなほ稀なり。言語は卑野なれども純農にて、他の農家と異なる所を認めず。富める者もあり。然れども外からは肋骨が一本足らずなどと噂せらる。吉田郡松岡村の一部に住するカハヤなども、たゞ籠細工を生業とするのみにて皮革は取扱はず。

　三方郡耳村大字｜郷市《ごいち》の一部に住する者も皮をさはらず。藁細工をする者及び荷馬車曳き多し。米國に行きて財産を作りし家も少なからず。小濱中學校の優等生にて、今大學に進める者も此中に在り。

　大飯郡青郷村西三松に住む者も、籠細工・藁細工などを生計とす。

　今立郡の池田には、池田のジョウブロといふ者住す。狼《おかみ》のかしらと謂ふ。詳しいことは話者も知らず。毎年日を定めて福井の近在まで米の配當を集めに來る。田の盗人を防ぐの驗ありといふ。もとはカルサンをはいて來たものであつた。

　七月十四日、金よう

　午前は共進會を觀る。出品中に目留まりしもの林産部にては油桐樹皮。これは兵の靴などを染む料といふ。又桐實。カトン絲卷、一ダース五錢ぐらゐ、若狹の熊川村より出す。紙布の帶地、博多織の如し。吉田郡森田に産す。

　午後福井出發。足羽川の岸邊づたひに、再び大野の町に入る。途中石徹白村の村長に行逢ふ。

　足羽川の谷より大野の平原へ越ゆる峠の頂上には、石龕ありて大小數體の石地藏を置く。その中央のものは立像にて、幼兒を抱けるさま、正しく子安地藏なり。頂上の地は大野郡西羽生村大字計石なり、此東には坂戸といふ地もあれど、此路は新しと見えて、頂上の石には中庄の飛地とあり。

　九頭龍川の谷には路傍に石地藏多し、多くは形小さく合掌の坐像なり。是等の石地藏は大抵は新しいもの、しかも眞宗の信仰とは没交渉と見ゆるが面白し。

(191)　五箇村にては石棒模擬形の石に、南無阿彌陀佛と彫りたるものを見たり。

　大野にては前日の宿にとまる。夜郡長若杉喬氏に饗應せらる。薩摩琵琶を彈く者をよびて聽く。相當に下手なり。

　七月十五日、土よう

　中村郡書記を加へ同行四人、西（ノ）谷に入る。瀧川巡査案内す。以下談片、多くは途中あるきながら手帖に留める。

　かくま石、杉皮葺きの屋の上に載せる扁平な石、此郡｜村岡《むろこ》村三谷より出す。之を使ふのは勝山附近に限る也。又この方面にて、下木の若枝を田に入れて緑肥とす。枝は後に薪とす。雨に洗はしむる爲に之を田の端に立てゝ居るのは一風景。

　尾崎彌右衛門といふ人の事業、詳しく尋ねて見たしと思へり。又其家の不幸のこと。

　大野の町の人の遊びに行く山中の湯屋の話。

　花山といふ峠、淺山郡長の時代に開く。今立郡との境、かなたは境寺、此方は藥師。

　上庄村下｜若生子《わかうご》を過ぐ。此村大字二十八、戸數千二百ほどあり。最も小さきものは五六戸といふ。地域廣く舊村々互ひに隔たり、併合して一大字となす能はざりしならん。

　下若生子は三十戸、石灰山ありて年産五十萬貫、うち三十五萬は鑛山に送り、他は肥料に燒きて十萬貫となる。地方に散布す。上若生子は五十四戸、この上下の二部落は共に以前かな山のありし時代に、遠方より移住し來りし者といへり。路の傍には少しも田見えず。山の上に若干の田ありといふ。下若生子の田は、土地の年消費量の四分一を産する面積、上若生子の田積は更に其半に過ぎず。

　然れども其不足の米は平野より買求め、山中ながらあまり雜穀を食はず。それといふのが冬季の生業として紙漉きがある爲にて、此邊にも少々の楮はあれども、多分は隣里より買ひ來りて之に加工す。所謂帳紙なり。

　又壯丁の一半は、今も鑛夫として出稼ぎし、毎年郷里に送金し來る。其行先は、面谷その他近郷の山だけに限らず、192)足尾にも行き又臺灣にも行き、弟や次三男の如きはめつたに還つて來ず。

　此等の收入ある外に、上下若生子には最大なる部落有林ありて山稼ぎ豐かなり。山入りの權利は、他區人に讓ることを禁ずるも、炭を燒き薪を樵りて之を賣ることは自由なり。面谷鑛山（三井？）にては、精錬所の敷地は上若生子の區有なりしを買取り、其上に附近の煙害地に對しても、年々の借料を支拂へり。此種の部落收入は、最初には區の協議費に充て、餘りあれば區民に分配する也。

　此區の如き財産の多き部落と、他の山林乏しき部落との間に、公有林の統一を行ふは頗る困難の事業なり。仍て一旦村有と爲したる後、常用の部分には區の爲に地上權を設定し、上の方の平生利用せざりし部分のみ、村が自ら輕營することゝ爲せり。

　保安林制度の效果は、既に現はれた所あり。たとへば上庄村大字木の本の如きは、從來水少なき土地なりしに、四目木谷を保安林とした結果、水豐かに旱損の患無くなれり。即ち清瀧川は是なり（此川は赤根川に合して次に眞名川に合し、又直ちに九頭龍川に入る流れ也）。之に依つて木（ノ）本は地元部落でありながら禁伐を歡迎し、他の部落の者の之を犯す者を警戒して居るといふ。

　上下若生子を通りて心付きしことは、小學校の割合に立派なることゝ、子供の無やみに多きこと也。亭主の不在がちだといふに拘らず、或は其爲に却つて目に立つか。

　家々疊といふものは一枚も無し。藁を大事にすることは非常なものにて、所望すると二三本位を奧から出して來る。屋の棟を留める棒は、此邊では破風の穴から棟と併行に中へ差込みあり。斯くすれば棒で押へた部分の早く腐ることなかるべきも、其代りに萱は飛びやすかるべし。谷狹ければ風の當りが弱いか。

　西谷村の下笹又といふ處まで來て憩ふ。此家の亭主は、今足尾鑛山に行き飯場頭をして居る由。此村も上下若生子と同じく鑛夫出稼ぎ多く村に現金が入り、女子供のみ多い處、殊に中島は消費者の居住地なれば、宿屋が立派なり、(193)又錢湯などもあり。

　西谷村は大きな谷二つに分れてY字形をなす。其落合の地が中島にて、中央では無けれどこゝに役場あり。爰より温見までは五里、自分等の向はんとする上秋生までは三里あり。下流の上庄村と境へは一里。

　中島の旅館の主人も、面谷の飯場頭をして居る。遠方に行つて居る者は久しい間還つて來ず。家は女子のみを殘し、たま／＼留まつて居る青年などは、町の者のやうな服装と顔つきをして居る。

　ボッカ（歩荷）に出るのは皆村の者なれども、是が爲に毎日十圓の運賃が支出せらるといふ。買ふ物は高くなり賣る物は安くなるので大困り、村は今や車道の開通に熱中し、此道を都道乙種といふに編入してもらつて、年一千圓を是に寄附して居る。但し現在はまだ上若生子の精錬所入口までしか車は上らず。且つ新道は眞名川に沿うて一里遠くなる故に、村の人はなほ舊道の笹又峠を越えて往復して居る。

　此郡上味見下味見の二村は杉を栽うること盛なり。殊に下味見は地の利を得て、池田川の水に筏を浮べ、一日にして福井へ運送し得。しかし斯かる例は寧ろ稀有、多くは夏季出水の期に乘じて木を流すまでなるに、灌漑の利害は之に對して優越し、縣令は四月半より十月迄の木流しを禁止せり。その殘りの期間は山中では積雪の時なれば、結局は川は木材輸送には利用し得ざるわけ也。

　中島にて晝食をしたゝめたる後、段々と山路を深く上りて下秋生に達す。よく／＼の山家なり。五兵衛といふ舊家に泊めてもらふ。夜區長等訪ひ來りて、土地の話を聽かせてくれる。

　西（ノ）谷村は大字十一あり。其うち二を除くの外は皆紙を作る。純然たる昔風の帳紙なり。大野町の商人の言に、三萬圓無ければ西（ノ）谷の紙を買占むる能はずと言ひしも、今は是より少し減じたるやう也。生産の大體を言はゞ、上笹又などは四十戸の部落にて、一戸平均四百貫の楮黒皮をこなす。黒皮十貫目は精撰して五乃至六貫目の原料を得、これを一カマと謂ひ、一カマより三貫目餘の紙を製す。帳紙は四十八枚一帖のもの三十帖を以て一丸といふ。品により(194)多少あれども、一丸の目方は一貫二三百匁より一貫五百目まで也。されば一戸五百貫の黒皮を潰すと言はゞ、紙百貫目餘を産することになる。一貫の相場、今年は二圓八十錢位といふ。黒皮の大野町からの運賃は、雪の時なれば十貫三十錢ばかり、紙の製品を送り出すのは一丸二錢から三錢かゝる。車道が通ずればこの費用半減すべしといへり。

　此村の紙、三椏などを入れて色を白くし改良させんとしたりしに、從來の消費者之を承認せず、仲買等大失敗を爲し、それに懲りて再び昔風の丈夫な紙を作るに至れり。

　楮と桑とは結局は兩立せずとおぼし。養蠶大分盛になりて、楮皮の自給は愈々不可能となる。コクソ（蠶糞）は此邊では大切な肥料、是と厩肥とにて僅かの畠を作る。金肥はまだ全く使はず。田の收穫は反五俵を上々とす。しかも賣買地價は一坪一圓四五十錢、一反四百五十圓にもなる。小作料の勘定にも、此邊では坪何合といふ。田は普通四合位、畠には一二合のものあり。

　黄蓮はこの地方の最も古い産物といふ。嶽山の好き場所といふ場所には必ず之を栽ゑたり。種を播きて三年目の苗を栽ゑ、更に八年にして根を採る。一時二圓五六十錢なりしこともありしが、近年は只の五六十錢にまで下れりといふ（一貫目ならん。一斤ではあるまじ、聞正さゞりしは不覺なり）。近傍諸村にても追々に栽培を始め、供給過多となりしが原因かとおぼし。

　熊（ノ）河・温見方面の冬の手わざは蒲脛巾《かまはゞき》なりき。武生より福井邊にかけて今もよく賣れる。冬の間の脚絆の代用として、需要大なりし也。夏の稼ぎは山畑を主とす。炭は少しも燒かず。運賃引合はねば也。小學校用の炭などは、却りて下流中島の方から運び込むことあり。炭竈を築くだけの計算も立たぬ爲といふ。

　木谷の方でも學校又は養蠶の爲に炭を燒き始めしは近年の事にて、昔から炭は鑛山で使ふもの位に思つて居りし也。

　下流上庄村木（ノ）本のボッカの者、今も灰帽子峠を越えて美濃根尾谷に往復す。途中は秋生と大河内とに泊る。鹽魚や砥石などを此方から持行き、茶などと換へて來る也。但し越前の方にも茶は産せざるに非ず。

(195)　温見・熊（ノ）河の者は、出稼ぎすれども定職無し。もとは乞食に出でしこと牛首などと同じかりしといふが事實なりや如何。

　木谷の各部落では鑛夫に出て行く。中には妻子を連れて行くものあり、又他所より連れて還る者もあり。本戸の休み所の家なども此例、こゝの女房は秋田の者のよし。近年は各部落とも女の出稼ぎ多し。毎年秋になると募集員が入つて來る。主として攝津紡績といふ工場、大阪の近くに在るものといふ。出稼ぎの男女、殊に女は短期間にて歸り來る。永久に故郷を去る者は無しといふ。紡績に行つた女には、呼吸器病になり還つて來て死ぬもの多しといふ。塵埃の爲ならんが、日頃あまり空氣のよい處に住み馴るゝ爲に、殊に抵抗力が無いのかと思はる。あはれなる話なり。けふも幾人かの蒼く白い顔の、障子の中から外を眺むるに逢へり。

　此村には寺二箇所あり。大野町の眞宗寺の門徒も多し。この方は春秋二度の戒壇廻りの外には僧はやつて來ず。たゞ道場の番人が諸事をまかなふのみ。寺は近くに在つても雪中には交通絶え、戒名をもらふだけにも一通りならぬ辛苦をするといふ話を聽く。

　各區の樂しみは村の祭なるに、神社合祀は洵に悲しいこと也。二里三里と隔つれば參拜する者少なく、自然に小さな頃からの親しさは消えて行くべし、池見躑躅といふツツジ、此頃もなほ咲いて居る。水に映るのが最も美しく、池見の名はそれより起るといふ。けふ新暦七月半なるに、小麥もまだ畠に立ちてあり。桃の實は大さまだ拇指のさきほどにて青し。しかし屋敷畠には色々の瓜が花盛り、蚊の聲は殊に夏めきたり。

　七月十六日、日よう、雨しば／＼

　早朝下秋生を發し、灰帽子の險を越えて美濃の根尾に向ふ。

　昨夜の宿にて始めて稗の飯を食す。此家の爐邊の名稱、横座の左側女房座のことをナベザ、其に對する客座をヨコジロ、下座をスヱジロ、文字にて横次郎末次郎と書けり。小さい瓢のヒサクをこしらへて貰つて持還る。

(196)　山中に畠あり、大豆を作りあり。兎の防ぎに五つの方法を併せ用ゐて居る。一、案山子、二、貂《てん》の形に擬したる赤い杉の葉、三、石を樹の枝につり下げて動くやうにしたもの、四、ヤキタテ即ち髪の毛か何かを焦がしたもの、日向椎葉のヤエジメも同じ。五、水を引いて來て錻力の鑵を敲かしむ。

　處々の休場に石地藏あり。人の亡せたる場所に地藏を立つること、東國の馬頭觀音の如し。地藏の石龕は扁石をたゝみて造り、形?塚穴に似たり。灰帽子峠の頂上にも地藏あり。此峠武田耕雲齋一行の通過を以て名を知らる。口吟、

　　　ふし谷の奧のほき路の雨の日に昔さへこそ袖沾らしけれ

　　　あら山のそきの萱原刈りあけて稗まく子らも大君の民

　根尾村大河原といふ部落は如法の山家なり、淺野某といふ舊家に入りて憩ふ。耕雲齋の泊つた頃の家は燒けて無し。爐の火棚を極めて太い繩で吊りたり。虹梁といふは大きな梁、大黒柱から背戸の方にかけて、よく見えるやうに張る。非常に太いものにて是が爲に人の手を多くかけるといふ。此家も又里津の柴萬彌といふ舊家も、共に中門口といふ突出でたる部分あり。

　白川莊川では、爐に三十貫の重さある五�ｺ（銕輪《かなわ》）を置くといふ話を爰にて聽く。

　西（ノ）谷にても大河原にても、熊は今もまだ稀に捕られるが、野猪は全く捕れぬやうになれり。汽車が通じてからの變化で、伊勢の方から冬になると、山づたひに來りしものが、其爲に來られなくなつたのであらうとのこと。

　クラミ三里といふ山路にて又雨に遭ふ。長島といふ處まで人力車が迎へに出てあり。

　根尾の樽見といふ部落の川に近い宿にとまる。村長物語に來る。北方町の警察署長もこゝまで來てくれる。

　根尾谷一半は昔の大野郡、今揖斐郡となる。此方は本巣郡に屬す。大河原・能郷《のうがう》・大井水鳥等、比較的よい部落なり。能郷の白山は又一つの白山登路か。古風なる信仰傳はる。能郷は能藝に因みある地名といふ。終に行きて見ること能はず。

(197)　根尾谷の年貢は段木七百五十間なりき。他に數千間の段木を納めて、入用の物品に換へる習はしなりき。一間は一坪三十六才なりしが、根尾段木株式會社にては今は五六とし、別に七寸の横添を爲す故に、三十三才ほどとなるといふ此勘定よくわからず。西谷の方の二會社では、六七又は丈間なりといふが是も不明。

　七月十七日、月よう

　村の名木の櫻の老樹を見に行く。美鳥の陷没地といふを見る。屋根まで沈みしといふ寺、再びもとの高さに立ちてあり。

　引かへして根尾川の末を渡り、谷汲寺に詣づ。揖斐の町長及び署長に迎へられ、揖斐の町に行きて休息す。

　池野の珍しい町を過ぐ。二十年とか前までは原野の道の辻なりしが、追々に家増加して繁華の地となる。もと入會なりし爲に、家々の標札軒竝に村を異にすること、越前吉崎よりも甚だし。即ち家主の出た村に屬することになる也。

　大垣の町へ夜に入りて着く。廣瀬署長を招きてサンカの話を夜更くるまで聽く。その要點次の如し。

　サンカに四種あり。一をセブリと謂ふ。オゲ・ノアヒ・ボンなど是に屬す。さゝら・いかき（笊）を賣り、河川の漁をなすはオゲ・ノアヒなり。又ポンス・ポンスケともいふ。龜又はすつぽんを捕る故に此名あり。セブリの特色は神社佛閣、岩や橋の下に露宿する點に在り。

　二をジリヨウジと謂ふ。神佛の靈驗を説き、女などの弱點に乘じて信心を勸め、供へ物を欺き取る。窮すれば夜は破壞窃盗をなす。淨服や紋付羽織などを着る者あり。服装に於て最も變化の甚だしきものなり。警官法官など看破すること能はず。大抵は無籍なり。

　三はブリウチ、是も藥の效能を説くに御夢想などといふことを言ひ立て高く賣り付ける。桐の箱の中に金襴などに包みて持ちあるく。右二種の者の特色は、町村に入りても旅店にはとまらず。善根宿を求めてとめてもらふことゝて、警官は宿帳にたよる故に、多くは此者の入込みたることを知らぬ也。

(198)　四をアガリと謂ふ。難船者とか困窮の人とかいつはりて財産家の惠與を乞ふ。木賃宿に泊り、國々の物持の名を通じあふ。彼等のみは自らサンカなることを承認すれども、他の三種は殺されても言はずといふ。連絡と秘密を守ることに付きては彼等にまさる者無し。

　戸を切る刃物に特色あり。其切口を嗅いで見るとわかる。即ち彼等のみは決して刃物にびんつけ油を塗らぬ故に、嗅いで其臭無きは彼等の手口と知るゝ也。

　明治二十六年中、三河西加茂郡の三國山に、何百人といふセブリの露營せるを發見せしことあり。一年一囘爰に集まりて結婚式を擧ぐなりといふ。

　碧海郡重原にても五六十人の露營せるを見たることあり。東京附近の山林に居るといふ者も此セブリなるべし。セブリのみにても全國十萬を下らざるべしと思はる云々。

　ブリウチの被害は、被害者馬鹿らしく恥かしければ多くは告訴せず。女二人にて來たる者、親鸞上人の話や越後の七不思議の話などをして、善根宿の人たちを感心させ、翌日親鸞の御影といふものと筆草とを賣付けて行きし者ありき。

　テントは綿にて刺したる大風呂敷の如きものなり。

　セブリには美人多し。彼等の親方にて妾を三人もてる者ありき。彼等の仲間から出て三河の某地に定住せし者、つい身の上話を人にして殺されしことあり。

　乞食名といふ處、三河の勘八山にも、又岐阜の金華山にもありき。露營の爲には飲用水の所在を考へ、土の上に火を焚くこと二三時間の後、火を消して其跡に臥せば嚴冬にても寒きこと無しといへり。

　岐阜縣關の町にて、曾てセブリを狩り出し、各々國ところを聽きたゞして、それ／”＼其方向へ分けて送還せしことありしが、後二三ヶ月を出でずして又合同して居るのを見たり。よほど巧妙且つ鞏固なる聯絡方法が彼等の中にはあ(199)るものと見えたり云々。

　七月十八日、火よう

　大垣の町に在り。安東俊道君の實父増田氏を訪ふ。又金森某氏の家に行き面會。

　正午の汽車にて京都へ。

　桑木嚴翼氏の家に行きて泊めてもらふ。夜新村出君を訪ふ。藤井紫影君に逢へり。

　七月十九日、水よう

　朝京都府廳に行き、知事その他の人々に面會、又小林區署に行き打合せ。

　今村幸男君に逢ひ晝食を共にし、又その家に行きて子供の大きくなつたのを見る。

　内藤湖南氏と河上肇君とを訪ふ。桑木家に歸つて見ると、新村君が來て待つて居たり。

　七月二十日、木よう

　北山行き。二宮君及び府の石井技手を仁和寺の門前に待合せて同行す。

　梅ヶ畑村を過ぐ。爰より三尾にかゝる也。葛野郡中川村の役場に立寄り、次で小野郷村の役場に行きて晝食。長い時間村の人の話を聽く。話片二三。

　此村の人たちは、月のうち二十日まで京に出る。荷物は途中まで手助けありて、二度分を持運ぶ。柴は三束、一束は六貫目ほど、二十貫目までは戴く者少なからず、山の實費を引きて、一日五十錢ほどの稼ぎになる。鷹ヶ峯の方へ運ぶものは一錢に三百目といふ。即ち十八貫にて六十錢、二囘分一圓貳拾錢。但し薪の總賣値なり。

　此村二百十五戸にて田は七十町歩、畑は僅かに一町歩、畑があれば皆杉林にしてしまふ。從つて野菜まで京から運ぶなり。養蠶は少しもせず。中川村周山町にても養蠶無し。中川には田畑四町四反あるのみ。

　村には專門の裁縫職人住す。村の婦人はこの手業をせず。

(200)　村有地といふもの二村には無し。山はすべて個人有。植樹は杉檜とも春の彼岸前後、時には四月にもかゝる。二月にはまだ山に雪ありて入ることかなはず。

　杉檜林の下苅は七月、枝打は四五六月と九月から十一月まで。杣には他村の者も入つて働く。

　車力の運賃は小野郷大森より梅ヶ畑まで、一貫目の松炭が三錢位、丈夫な牛車なら二百貫匁は積む故、一日五六圓の收入にはなる。但し入費も少なからず。三日に一日は休み、米もよう食ふ故に、牛と合せて一日一圓は費える。薪も炭の木も山にて買ふのは一駄十錢位なり。一駄とは五貫目の束十束分、是に枝柴三束が附く。是には別に金を拂ふといふのはわからぬ話であつた。三束から二貫目俵一俵の炭を出す勘定にして居る。こゝに若干の餘裕があるものと思はる。

　ネソといふは「ねりそ」、即ち捻ぢて物を束ねる木、小野郷のネソは黒モジその他なり。

　野口といふ部落は特殊なり。數十人常に山に入りて藤蔓を採る。山王も別に之を咎めず。筏用に賣るといへり。

　歸りは杉阪を通る。頂上好風景、光悦寺に寄り、俗僧と其俗友に悩まさるゝ。杉阪村の道傍に藥師如來の堂あり。間口弘く横に長い堂、其軒に穴のあいた小石あまた、綿に貫き釘に引掛けてあり。野口村を過ぎて歸る。

　夜瓢亨へ夕食に招かる。田島錦治戸田海市財部河上神戸の五君。

　けふ途中口吟

　　　白雲はいつれの山に歸りけんひとりさひしき岡の邊の松

　七月二十一日、金よう

　府廳技手の案内にて二宮君と、八瀬大原の二村に行く。役場で色々の話を聽きしも、忙しくて手帖に取らざりしは殘念なり。八瀬では野猪の害の話、こゝも杉の植林盛んにて畠至つて少なきことなど。針金工場を見る。

　大原では屑綿の工場を見學。小出石より出町まで、一駄四十貫の運賃は二十五錢。一事に五駄を積むがきまり。柴(201)は一束一貫五百匁内外、仲買には之を二錢五厘にて賣る。割木は一束四貫、柴三束を以て之に充つ。價はクノギなら一束十六錢、雜木十二錢。牛車は大抵薪伐る者の自用、且つ其三割までは自分の山を伐る者なり。クノギは植栽す。苗は池田又は尾張より實を取寄せて播く。栽ゑるのは四年木又は五年木。植栽後八年から十年までにて初度伐採、それからほゞ同じ期間を隔てゝ、八九囘の伐採をくり返す。

　是は昨日中川村にて聽きしこと也。杉丸太を床柱にするには、日うらの方を表に向ける。是を背といふと見えて、背割といふ言葉をつかふ。腹の方が木質惡しといふ。ダン木といふ語はこゝにもありて駄木といふ字を書き、又｜生駄《なまだ》といふ名もあり。美濃山村にては段木と書けども、もとは馬で陸上を輸送する薪といふ意味であつたかと思はる。

　大原の寺々に參り、途中越をして近江に出づ、此道のどこかにて偶立の道祖石像を見たり。場處を忘る。或は八瀬か。

　和邇《わに》へは行かずに堅田の浦へ下りて汽船に乘る。名物のひがひを注文して待つこと久しく、船がさきに來てしまふ。折に入れさせて案内の某君の家苞とす。

　湖上の船は涼し。遙かに阪本三井を眺む。汽車には押川農商務次官同車、面會し得ずして京都に降りる。十時桑木氏に歸る。不在中南才三君訪來るといふ。

　七月二十二日、土よう

　けふは一日休息、午後内藤氏來られ、ともに再び瓢亭へ行き夕食、南君も加はる。かへりに小川琢治氏を訪ふ不在。

　七月二十三日、日よう

　朝立たうとする所へ小川氏來らる。十時頃の汽車にて奈良へ、奈良より櫻井へ、初瀬までは輕便鐵道、初瀬からは人力車、吉隱《よなばり》を過ぎて伊賀の名張まで。宇陀川は國堺を越えて流れて居る。名張の康樂園とかいふに一泊。庭内を水自在に流れ、涼み臺のやうな旅館なり。偶然に山林局の渡邊君と逢ひ話を聽く。

(202)　七月二十四日、月よう

　一人になりて伊勢へ越ゆ。阿保を經て青山峠。五萬分一圖にはまだ存する伊賀茶屋伊勢茶屋、二つともに今は無く、伊勢茶屋の跡には梅の老木あり。歩行の參宮者、此頃になりて再び多くなるといへり。是は勿論春さきの遊山を主とするものなるべし。

　途中名賀郡伊勢地村の役場に憩ふ。境に塚を築く風習、名賀郡上津村にはありといふ話。共有地を分割して後にも、その私人の持地の上にまで、以前の入會權がなほ存する例、比奈知村にはありといふ話。籾殻を其まゝ田に入れる習はしあることなどを聽く。今一度來て見たしと思ひつゝ過ぎ去る。

　一志郡倭村を經て久居に四時頃着く。輕便にて津市へ、聽潮館に投宿。長谷川久一君を訪ふ。夜に入り彼も亦訪ひ來る。

　七月二十五日、火よう

　七時に津を去り、栗眞村の國兒學園に竹葉寅一郎氏を訪ひ、所謂特殊部落問題に就いての所見を聽く。非常な熱心にて、午後四時過ぎまで語りつゞける。

　此間に大風雨になる。汽車に乘りたれども途中故障多く、靜岡に停車して夜明けに漸く動き、東京に歸り着きしは翌日の正午。

　竹葉氏談片二三。手帖に書留めたるもの。

　阿山郡中瀬村のうち寺田といふ處、服部川の岸に在る部落、自ら韓人の末なりといひ、もと八幡捜來記といふ卷物を藏す。昔より屠畜を業とせず。伊賀拾遺といふ書にも見ゆ。

　志摩郡磯部村迫間に住する者四十三戸、印度より來住すと稱し、外國文字の記録を藏したりき。竹葉氏は一覽せしも、其後燒棄てたりといふ。

(203)　八幡黒《やはたぐろ》といふ染法あり。革足袋などを染むるもの、桑名郡深谷村下深谷部を本據とす。此村の醫家森某君は陸軍一等軍醫なり。この人自ら我家はこの八幡黒の本家なりといふ。但し由緒書は、是も既に紛失したりといへり。夙の者は伊賀名張附近に住す。今は特殊部落の中には算へられず、多くは石屋を業とす。

　ササラといふ部落は、度會郡田丸町佐田に十戸、同城田村上地に二十四戸あり。但しササラを製作することは無し。

　飯南郡鈴止村は此縣最大の部落。農を營む。公稱五百戸にして事實は七百戸あり。表向きの戸數少なきは何故にや。大阪府泉北郡南王子村は是よりも更に大きく、全村二千戸以上もありといふは眞か。村長中野三憲といふ人は二十年職に在り改善に熱心なり。郡會議員にもなつて居り、村は模範村なりといふ。

　津市の周邊にも有力なる部落あり。竹葉氏は特にこの人々と交際親密なり。從つてその觀察する所精細を極め、參考に供するに足るも、自分には重ねて之を確かむる方法無きを憾みとす。一般に毛太く肌の色白く眼に光あり、美男美女多しと感ぜらる。冬もよく汗をかくは食物の爲ならんか。食事は三度々々熱きものを食ふ習慣あり。生の物を食ふこと至つて少なし。

　又ザジズゼゾの發音が不得手にて、是がダヂヅデドになる傾きあり。伊勢萬歳といふものを好み、宴會にてはよく之を諷ふ。宴會にも膳は用ゐず、食器や盃を牀の上に置く。米麥を磨かずして炊く習ひあり。洗濯物を竿に通して乾すことなく、便器をよく使用する等、二三見馴れざる風俗を存す。末子相續の慣行あり、長男以下成長に從ひて次々と分家す。この他にも聽きたることあれども、それは筆録すること能はず。この人の調査報告書別に大册あり。精細を極め又同情に充ちたり。

　

(204)　　　　　旅行の話　その一

　　　　　　　　　――大正五年・六年――

　

　　　　　　　　　　一

　

　旅行が流行になつたのは、近世以後のことであらう。誰も彼も旅行する世の中になつて見ると、旅行者にも數十の種類及び階級のあることがよく分る。目的に依つてこれを分類すると、單に健康の爲に、なるべく平常の生活を變更せぬことに努めつゝ、安樂な旅行を續ける者が、最も低級な旅行者であらうと思ふ。

　さりとて近世の俳人等の如く、寂しい思ひをする事を目的として旅行をするなどは、吾々から見れば又餘り拘泥した旅行と言はなければならぬ。併し結局するところ、世の中が如何に進んでも、境遇が自由で心持ちの洒脱な西行一流の行脚僧ほど、羨むべき旅行者は見出しにくからう。

　吾々の如き境遇に居るものは、たとへ生活の半分を遊歴の爲に費しても、到底田舍を見た、田舍を知つて居るとは言ひ得なからうと思ふ。吾々が正眞の旅行をなし得ない障碍は幾らもあるが、殊に此頃つく／”＼と感ずるのは、一つは洋服を着て髭を生やして居ること、二つには日割を作つて旅程を急ぐことである。

　職業又は生活の相違と云ふものは、まことに是非も無いもので、現に東京に三十年住んで居てさへ、自分等は本所の生活も知らねば、淺草も知らない。歴史ある日本の首都が、今に及んで尚一個の共同生活團となり得ない事情も、(205)やはり其點にあるので、獨り本所の端々とは謂はず、同じ山の手の内でも、稀に町家の間に殘つて居る細い路次の奧などに住んで居る人々の心持は、尚久しい間吾々とは秦人越人の關係である。

　自分は春になるとよく郊外の村々を歩くが市街を離れて初めて、こんな人も東京に住んで居るかと思ふやうな人に出遇ふ。例へば三月廿一日などに、老人老女の大師詣りにまじつて、鼠甲斐絹の脚絆に中齒の足駄などを穿いた若い娘たちがやつて來る。鳥打ちを被つた十七八の色白の息子が、繼竿を持つて千社札を貼つて廻る。どう考へて見ても、どういふ家の子女で、ふだんは何をして日を送つて居るのか自分の想像に浮ばぬ。

　此外又例の暗黒世界と云ふものもあつて、要するに古い日本の思想では、この世界に現幽二個の社會が併存すると見た如く、一個の東京の市の中にも、三つ四つもの相互に没交渉の社會が、併存して居ることを思はせる。

　その社會のたつた一つで數十年間育成せられた人々が、偶々半月の閑を得てざつと田舍を歩いたとしても、單に珍しい可笑しいと云ふことの外、心に解し合ふものは何も無くして歸つて來るのは寧ろ當然で、しかも其相手の側に於ては、吾々が近づかんとする場合にも、尚遠ざからんとする傾きがあるのである。

　これは東京の人に話しても分るまいと云ふうちは未だ望もあるが、これは東京の人には知らせまい、見せるのは恥かしいと云ふやうな態度で、一番彼等の生活及び心情に近い事柄が、殊に吾々の目から遮られる。しかも其遮斷を試みる人が、主として村の吏員小學校長のやうな、有力なる地位の人々であるから困る。

　片田舍を歩くと、よく小學校の子供が路傍に待ち受けて御辭儀をする。是は洋服を着た人があつたら御辭儀をしろと、平常教へられるからで、長者を敬ふといふ修身の教程を、多くの小學校教員は此の如く適用するのである。自分はこれを見る度に、心の底で何時も遣瀬無い反抗を感じて居る。

　小兒等に何の弱味があつて、見も知らぬ人の洋服を着て車で行くのに挨拶しなければならないか。これは獨り封建時代の慣性として恕する譯にはいかない。その弊害は新時代に入つて一段と甚しいものがある。例へば村に入つて行(206)く土方の親分、或は押賣り同然の行商人が、この爲に洋服を着て行く傾きがある。大黒帽にフロックコートを着て、藥を賣つてあるく所謂オイチニの如きは、巡査でも見て居らぬと、上り口から手を伸ばして病人の脈をとったりなどする。

　これ等の弊害は、方法に依つては或は防止することも出來ようが、學問をする爲に田舍を歩かうと思ふ吾々が、何時も簾や硝子戸の如きものを隔てゝ、物を觀なければならぬ不幸に至つては、殆と忍ぶべからざるものである。

　それ程に謂ふならば、髭を剃り洋服を脱いで歩けばよいではないかといふ説もあるが、實は自分も嘗て是を試みてやはり失敗した。和服だと物入れが少なかつたり物にひっかゝつたりして、不便であるのみならず、ちら／＼と出る太股や足の甲が、いやに生白いので忽ち素性が現はれ、吾ながら馬鹿な仕損じを感ぜざるを得なかつたのである。

　旅程の切り詰めてあると云ふことも、是亦避くべからざる不便である。それも一日に三里とか五里とか、所謂急がぬ旅であるならば、自ら途次の見聞も豐かであらうが、汽車は問題の外として、田の中や川の堤のやうな眞直な畔道を、一歩づゝひろつて行く餘裕が無い以上に、町に入り村に入つても、殆と立ち止り後戻りする機會といふものが絶對に無いのだから、總ての事物が河の水の如く、瞬間に流れ去つて了ふ。

　吾々が最も旅の寂しさを感ずるのは、廣野の眞中に立つた時でもなければ、無人の荒濱に臨んだ折でも無い。朝夕の往來の繁い時に村里を通つて、兩側で呼び交はす女や子供の言葉が、響きばかりで一言も意味の取れない時で、同じ日本に住みながら、何故斯うかと云ふやうな無聊な感じが、ひし／＼と身に迫る。

　しかし考へて見ると、これは東京の市中でも、自動車などに乘つて走つて行く人は皆さうである。話の前後を打ち切つて、たつた二言三言の聲の意味がよく腹に入る場合と謂ふのは、吾々などでも家の子供か何かの言葉でなければ實は無いのである。たゞ旅に出ると、これを深く感ずると云ふに過ぎないのである。つまり昔の行脚僧などの如く、路傍の小家に立ち寄つて茶を一つ所望し、時に依つては愚痴な老婆などの話をも聞いてやるやうな境遇でなければ、(207)得られない機會と謂はねばならぬ。

　

　　　　　　　　　　二

　

　昔の江戸の旅行者の知識慾に富んだ人は、多くは旅宿の亭主又は番頭を呼んで来て、土地の話を聞いたものらしい。今でも地方に依つてはその痕跡が殘つて居る。是が好い宿屋の主人の一つの技倆になつて居つたと思ふ。ところが今日では、此の如き人々は、多くは町會議員などの職務が忙しくて、番頭と謂へば旅の者の、停車場の事しか知らぬ者である。

　第二の方法としては、按摩から話を聞くと云ふこともあつた。盲目の者は物覚えのいゝもので、且つ多くは喋るから、自分等も時々はこの方法を學ぶが、實は頼りない話である。

　田舍道には人力車夫の中にも、實體な土地の農業の模様などによく通じて居る男が今でも稀にはある。二十年程前迄は、東京の市内にも折々此類の田舍者が出て来て車夫をして居て、思ひ掛け無くも田舍の話を聞いた事があつた。

　外國人などは非常に驚いて居る。車の上の人と曳く人と、話をしながら道を歩くと云ふことは、彼等の社會には夢にも想像の出来ぬ事であるさうな。從つて所謂世の中が開けると、相手からそんな氣樂なことは爲ぬやうになり、又護謨輪の時節になつては、息使ひの音が耳について、自分等でも物好きな話を仕掛けるに忍びないやうになつて來た。

　これに較ぺると、山坂の道を徒歩で行く時に、荷持ちの人足と話をする事は、一番世間にかけかまひが無くて、しかも有益である。併しこれに就いて自分の經驗した意外の事は、十の場合の七つ迄、この人足が按摩人力車夫よりも、更に無識なことであった。この無識とは、勿論學問の無いことを意味して居らぬ。唯その住居地の事情を知らぬものが多いと云ふことである。

　吾々が田舍を旅行するのは、冬の眞中のやうな農閑の時では無くて、多くは田植養蠶の前後か、夏休みならば除草(208)や水の心配の最中である故に、忙しい働き日は勿論のこと、折好く休みの日に際會しても、土地の百姓で荷持ちなどに出る者が無い。そこで駐在所などを煩はして、人夫の世話を頼むとなると、指されて出て來る者は多くは他所からの有りつき人の、小作ならば二反か三反か、又は純然たる日傭とりで、金を貯めることに熱心な、謂はゞ土地の者からは少しく輕んぜられて居るものが出て來るので、話はとんと要領を得ないことが多い。

　たゞ自分などは此の如き場合でも、他所者の其土地に對する觀察如何といふやうな點から話を進めて、出來るだけ利用しなかつたことは無い。按摩でも車夫でも同じであるが、かういふ者の話ばかりを集めて、さも／＼間諜でも放つて敵の材料を收拾したやうに、是に依つて皮肉な斷定をすることの危險なのは言ふまでも無いことである。

　殊に話をして呉れる田舍の人は、謂はゞ一時の師匠であり、少くとも友人である。證人が法廷で聞かれるやうに、聞くのは一方ばかり、答へるのは一方ばかりでは、僅かばかりの酒手の増額では濟まぬ話である。從つてよく／＼の多辯家でなければ、半途からいやになつて、段々と返事が冷淡になるのである。

　此の如き場合も、それが土地の本來の住民であるならば、竊かな彼の利害を察して、多少の相手の趣味を感ずるやうな話をしてやることも出來るが、此場合に於ても、諸所各地を渡り歩いた有りあはせの人足は、利益の交換をするのに誠に都合が惡い。

　

　　　　　　　　　　三

　

　旅行の面白味は、村の形や道の曲り方、珍しい草の花や鳥の聲等色々の方面にあるが、わけても他の道樂と同じやうに、追々と人を深入りせしむる程の愉快は、遠くかけ離れた甲の土地と乙の土地とが、思ひがけぬ點でよく似て居て、久しく忘れて居た數年前の旅を、旅の空で思ひ出すと云ふやうなことが、多く旅行をすればする程、複雜に且つ味が益々濃かになることであらうと思ふ。

(209)　故に自分等にとつては、假令相手が人足でも子供でも、古い日記を讀むやうなつもりで、昔の見聞を話してきかせる事にして居る。唯意外なのはかう云ふ話を、成るだけ分り易く且つ興味多く、話して聞かせた場合にも、相手の受け答へは多くは至つて冷淡で、人の顔をまじ／＼と見ながら、「貴君は旅が好きと見える」とか、又は「よくそんなに覺えて居られる」とか云ひつゝも、腹では少しは法螺もあるだらうと聞いて居ることが、顔の色で好く讀まれるのである。

　かう云ふ折には、自分の空想は殆と止まる所も無く走つて行く。彼等の祖先は、恐らくは千年も千五百年もの間、冬になれば爐の邊で、自分等よりは今一段分り易い方言で、こんな話をしつゞけて來たのであらう。要するに話は冬のものである。白晝青天井の下で、しかも躑躅や谷うつぎの咲いて居る山道で、この樣な世間話をすると云ふことは、こちらは面白いかは知らんが、彼等にとつては實は調子が合はぬ。

　成程冬の榾火の傍の話は單調であつたかも知れぬ。その集團の中に一人の旅商人、又は六部などが混つて居ることは、二年か三年に一度位の稀な場合で、多くは村人のみの群の中へ、三傳四傳して遠隔の話が屆いて來る。これに較ぶれば、自分等がして聽かせる話は、生粹の新知識で、しかも成るたけ爲になりさうな部分を選んでするのであるが、何分にも前に言ふ境遇の相違は、一日や二日の交際で撤却し盡すことが出來ぬのである。

　それにも拘らず一人で旅をすると、相手の農夫が解らんでも、云はずには居られぬやうな面白い記憶が、何度も胸に浮んで來ることがある。かういふ折には自分は常に決心をする。

　東京へ歸つたら紀行を書かう。あの材料をつけ足して、あの書物を參照して、この問題だけは明らかになる論文を書かう。さう思つて二日も三日も、その腹案を練りながら旅を續けることがある。

　併し東京へ歸つて見ると、いつの間にか其決心は非常に遠いものになつて、實行しなくとも差支へ無いやうな考へが強く起る。是だけ心持が旅と家とは違ふのである。

(210)　偶々それでは自分に濟まぬやうな感じがして、強ひて意志を強固にして、施行の見聞談を中心とした雜誌を拵へて見ると、滑稽なことには、それが自分を束縛して、厭になつても止められず、書物を讀む暇を缺く。殊に可笑しいのはその爲に旅行が出來なくなることである。

　自分の机の引出しには、その後一度も開けて見たこともない旅の手帳が、何十册も轉がつて居る。中には鉛筆の痕も薄くなつて、殆と頭の記憶と同じ位の消え方をして居るものもある。

　然も自分には一つの空想がある。幸ひに長生をして閑と火鉢が唯一の友人であるやうな時が來たら、眼鏡をかけ、その手帳を取出し、一つづゝ昔の旅を思ひ出さうと云ふのだが、それの空想であることは不幸にして何れの點から見ても明白だ。それよりも少しづゝ獨り言のやうに、これを話して見たら、讀者は自分の連れて歩いた人足よりは自由だから、自分の行く先迄ついて來なければならぬ必要もないから、お互ひにやゝ氣樂な交際が出來ようと思ふ。それに申し後れて相濟まぬことだが、趣味の多いこと及び準備知識の豐かなことにかけては、以前の自分の話相手とは比較にならぬ讀者諸君である。自分はその人々の前に、旅の話をすることを幸福と思はねばならぬ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　さて如何に物わかりの好い田舍者に對しても、自分がとても話しても駄目だと思つて居た一つの感じを、此機會に先づ述べて見たいと思ふ。

　それは我國の村の成立ちの異同と云ふことである。違つて居るといふ點から見れば、小山一つ隔てゝも屋根の形から、厩の付け方から、どうにもなるものを丸で違へて居るが、同じと云ふ點から見れば、三百里五百里と隔つた東西の山の中の村で、眞似をしようもない微細な點が、符節を合するが如く相同じい。この二つの方面が何れか一つで無いから、説明は更に困難である。何故に或物は著しく違ひ、何故に或物は著しく同じきかと云ふことを考へると、國(211)殊にわが生れた國の歴史ほど、無盡藏の問題を提供するものは無いやうに思ふ。

　抽象的の話は成るたけ避けたいと思ふから、爰には或一つの小さな例を擧げて見る。肥後の五箇の庄と峯一重を隔てた日向の奈須と云ふ山村には、九年前に自分は往復七日を費して巡歴したことがある。その村の或部落に宿つた夕方、厩の口に働いて居るものゝ腰に、珍しい形の一物が下つて居る。ちやうど薩摩芋の大きさの藁苞で、末を繩にして腰帶に結び付け、その一方が燻つて居る。

　それはカビと云ふものであつた。夕暮になると農家の周圍に群衆する蟆子《ぶよ》を追ふ爲に、常に少しづゝ烟を上げて居るので、此村では「カ」といふのは蟆子のことである。藁苞の中は蕨のほどろ（蕨の根から蕨粉を取つた粕）で、藁苞の卷き方の加減に依つて、火が消えず、又永く持つ樣に出來て居る。

　この製法を自分はよく見たが、殊に新しく感じたのは、古くから和歌にも讀んで居る夏の夕のカビは、吾々が蚊帳を以て防衛して居る蚊で無かつたと云ふことで、その時はまだ或はこの地方だけの特例ではなからうかとも考へて居つた。處がそれから、三年程の後、越前の大野郡の山奧で、白山の登山口の一つなる石徹白といふ村に宿つた晩、やはり門口に出て見ると、働く人が皆腰に同じものを下げて居る。中に入れた物質は蕨のほどろでは無くて、粟や稗の穗の殻を下した殻であつたが、その藁苞の寸法から腰繩の長さ迄、寸分も日向のものと違はぬのみならず、その名も同じくカビであつた。

　翌朝未明に此村を立つ時には、自分も興に乘じて腰にカビを下げて出たのであつたが、其後飛騨あたりの方言を注意して見ると、山村一體にカといふのは蟆子即ちブヨのことで、蚊をば特にヨガと呼んで居る。

　この類似は成程微細なことであるが、自分が之に依つて思ふことは、平坦部の都會では既に久しい間忘れてしまつたカビといふ品物を、西と東との山奧に等しく分配したものは誰だらう。細かく調べれば藁苞の堅さ、外形寸法からその勾配迄、實際の必要に合ふ樣に工夫をしたものは、果して或一個優秀なる先輩の力であつたか。これを考へるこ(212)とが日本の社會研究の、一つの發足點では無からうかと思つて居る。

　それから更に考へるのは、これも北は奧羽の果から、南は薩摩日向の果まで、山水のある處には必ずある米をしらげる水車の如きも、果して傳搬か又は自然の發達か、中々容易には決せられない。

　この方はカビと違つて、地方により方言も變り、或はバッタンと云つたり、サコンタラウと云つたり色々の名があるが、その形式に於ては殆と違ふ處が無い。しかも米をしらげるといふ必要の田舍に起つたのは、さして古いことではないのだから、或は見樣に依つては誰か隱れたる愛國者が、全國を經廻つて教へて歩いたとも見られるが、カビに現はれた如く凡人の智巧が、結局同じ方向にしか向つて行かぬものとすれば、この水車に限らず、井戸を掘る方法なり、石垣を積む術なり、屋根棟を押へる手段なり、かく一樣に恰も花園の花が開く如く、共に開けて行つたとも見ることが出來るし、從つて國といふ共同生活の靈妙さは、こんな點からも窺ひ知ることが出來るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　しかも流れを隔て丘を境して村の形が違ふと云ひ、生活の?況が異つて居ると云ふのは、これにも亦意味があつて、一つには出て來た本郷の相違に歸すべき部分も勿論無いとは謂はれぬが、それよりも強い原因は地理上の條件、土着時代の先後が此の如き樣式を必要とするに至つたので、言葉を代へて言へば、村には外部の?況に依つて、色々の種類がある結果となるのである。

　これを又實例で證明する爲に、此次には一つ試みに燃料の側から村の種類を見ようと思ふ。

　關東平原のやうな一見單調な地方にても、十里二十里の短い旅にも、よく觀ると村の形式は殆と一つ／＼違つて居る。出來るものならこれ等を分類してみようといふことは、昔から人の時々に考へたことであるらしい。確か備陽記であつたかと思ふ。村ごとに其種類を擧げて居る書物がある。例へば平場《ひらば》は字の如く、平衍なる土地を區劃して住す(213)る村である。山寄《や吉より》は美濃では赤坂以北、又は駿州の愛鷹の南面などによく發逢して居る形式である。海添《うみそひ》山添《やまそひ》なども右の備陽記には擧げてあつた。

　この外同書には山上《やまのうへ》と云ふやうな一種類が擧げてあつたが、他の地方に於ては最も例の多い谷入《たにのいり》の村は、自分の記憶では別に一目を立てゝ居なかつたやうに思ふ。備前邊では入〔右○〕と名づけるやうな狹い谷奧の村が、餘り無いからであらうか。

　この分類は勿論周到ではない。同じ平場と謂ふうちにも二通りある筈である。例へば目前東京府の管内に於ても、南葛飾郡の如く、僅に屋敷乃至は道路が水面から少し現はれて居るやうな低地もあれば、北多摩郡の如く一體に溝川の乏しい所謂｜野方《のがた》の在所もある。

　又同じく海添の村と謂つても、山の陰などに僅かに部落をなして居る村と、追々に遠干潟を取圍んだ埋立地の新田場とは、丸で事情が違ふのである。川添といふ内でもこれと同樣に、中流以下の堤が無ければ安全で無い村もあれば、更に又以前の堤よりは外へ出て、水荒れの跡地を開いたやうな村もある。

　是迄の人はさまで注意せぬことであつたが、村の大きさ即ち戸數の多少といふことも、村分類の一標目でなければならぬ、所謂小村は最初から小村でなければ作れない土地に出來た村であつて、從つてその成長發達に對する制限も、將來の運命も、常に中村大村とは一樣でない。

　昔から村役人の云ふ言葉「何分私の村は小村で」といふのは殆と口癖の樣であるが、實際古い時代の開墾が廣漠の地に初められて、存分に地形と地積りをした後へ、新たに入り込んだ村は何かにつけて窮屈であつた。

　天保年中に長州の藩で作成した周防と長門の風土記は、頗る村の生活條件といふ點に注目してゐる。村の地理關係を簡單に敍述してあつて、この點に關しては却つて近年各府縣に於て町是村是などと、名乘りをあげて居るものよりも要領を得て居る。後者は重きを計數におき過ぎるが故に、却つて村の性質、人間で言へは大樣《おほやう》だとか、神經質だと(214)か謂ふやうな特徴をつかまへることが六つかしかった。

　しかしこの防長風土記には、名目をあげての村の分類はして無かつた。自分の思ふには、百以上の村々を綿密に視察した上は、一々について用水の過不足、草刈場の有無、薪炭地の廣狭などを細述せずとも、自ら村の種類に依つて此等の結果の違ふことを推定し得たことであらうと思ふ。

　明治二十二年後の新町村は、昔の村の七つも十も包含して居るから、一村を通じてその生存條件を概括することは六つかしくなつた。是が合名會社なれば、昔の村は生れた儘の所謂自然人であつたのだから、村一つは常に略々一つの形に生れついて居た理だ。今日町村を論ずる事は出來る限り新しい團體を一個人格として見なければならぬが、この間題に就いては又少なくとも部落々々を區劃して考察する必要がある。

　さて今の如く分類した村の種目が、吾々の観察に如何なる便宜を供するかと謂ふと、今後の村の生活方針を定めるのに、やはり體格の立派なものが陸海軍を志望し、手足のか細いものが手藝技術を職業に撰ばねばならぬ如く吾部落の生れつきによつて、將來の方針が違はねばならぬと云ふ説明に最も必要なのである。

　然るに現今の模倣主義は、足を踏み込んだことの無い遠方の府縣の模範村の報告などを讀んで、直ちにその役場の事務ぶりを眞似ようとし、然らざれば理もなく隣村の良い成績を羨んで、末梢の點に於て人の行く後をあるかうとする。いづれも村落として自省が足らないのである。江戸時代には村々の明細記のやうなものを名づけて村鏡と云つた。自分は田舍の人々に向つて、この最も新しい意味の鏡を贈りたいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　六

　

　是まで田舍を研究する人が、さして重きを置いて居なかつた問題で、自分が特に注意を感じて居るのは燃料の問題である。これについては順序として説かねばならぬ個條が幾つかある。

(215)　成程都會の住民が感じて居るほど、地方の人が燃料のことを念頭に置かぬのは、以前には理由のあることであつた。町の保護多き且つ多感的な生活をして居る人々は、日本の如き温暖の國に住みながらも、冬は炭桶を想はずには居られなかつた。これに較べるとかの古歌にある、栲衾さやぐが下にといふ歌もあつて、貴人と謂はるべき方々までが、樹皮を以て織つたガサ／＼云ふやうな夜具をかけて寢れば、寒中も麻で織つた衣服を素肌に着て、足袋などと謂ふものも用ゐなかつた時代もあつたが、今では綿フランネルのシャツが在所迄も入り込んだ時代である。粗末な襟卷頭巾の類が、小さい都會で賣れる分量は中々大きい。

　又割烹用具の問題を考へて見ても、以前よりは鍋で煮る品の種類が遙に數多くなつたやうだ。然も金を出して田舍の薪炭を買ふ人の數が非常に増して居る。山の木は追々と小さく且つ乏しくなる。少なくとも日本の田舍の三分の一位の者に向つては、燃料の問題は殆と彼等が戸口に來て覗いて居る。然るに公の生活に心を勞すべき人々が、今尚この點に考へを及ぼさぬのは奇怪なことゝ思ふ。

　それで吾々の知らぬ間に、この百年の間にも農村の經濟は烈しい變遷をして居る。昔の農村の思想では、木と草とは大きな差別が無くして、共に手間即ち勞力を以て收得し得るものと考へて居た。尋常農村に用ゐる鋤鍬その他の農具の木部や折敷の類は勿論、農家の建築に用ゐる木材まで、自ら採收することを得たものである。偶々面倒な工作を必要として他人を雇ふ場合にしても、これに支拂ふ物品は、物の價では無くして勞力の報酬であつた。農村の作物が多くなり、技藝に對する好尚が進むと共に、これ等木具の一般は商品となつたのである。それでも中以下の生活をする農村の豫算に於では、殆と謂ふに足らぬ金額であつた。

　燃料の如きは折つて來て市《まち》に賣ればこそそれを價のあるものと見るが、農村自身に於ては井を掘つて水を汲み、乃至は川に就いて魚を捕へると同然に考へて居り、又左様に考へることを得たのである。

　即ち始めて山野を區劃して新村を興立するものには、水は好いか日當りは好いかと言ふことを考へると同じやうに、(216)燃料があるかと云ふことを考へ、それを開發の一條件として居つたのであり、今一つ以前に遡れば、これすら問題とはならず、草や木は刈り捨て燒き捨てる必要すらあつたのである。

　所謂山寄山入の村が最も早く起つた理由は、單に用水燃料の必要からでは勿論無いが、昔の人が單に薪の手に入る處を條件としたのみでなく、能ふ限り少ない勞力を以て、これを得ようとした希望も原因となつて居たのである。

　故に後々部落が幾つかに分れて、愈々境を劃さなければならぬ事情に臨んだ時は、多くの場合にはその堺線を谷と直角に切つて、山も野も川原も水も、それぞれ各部落の地域内に含まれるやうに努めたものである。

　然るに世の中が平和になつて人口が増殖し、堤を築いて河を防ぎ、竪井戸を掘つて水を上げる技術が進んだ所から、從前家の後に負うて居た山や丘から追々に立離れて、所謂平場の開墾を自由に初めるやうになつた。これが人口増殖の第二期とも云ふべきものである。

　但し同じ平場と謂ふ内にも、火山の裾野もしくは河に臨んだ段丘地等は、本來雜木を以て蔽はれて居た地であるから、水利の問題さへ解決すれば、燃料の問題は顧慮することなくして、早くから入込むことが出來たのであるが、今一段と低みの川原又は濱方の地で、蘆薄ばかり茂つて居たやうな土地を開くことは、何か新しい事情が燃料の供給を保證しなければ、出來なかつた仕事である。

　自分の觀る所では、これ等の地面が耕地に變形したのは、村の出來たのよりは餘程前のことであらう。即ち一里二里の距離を本村から通ひ、收穫の前後には所謂かりほのいほを作つて番をする。それでしかも寒い冬の間は、やはり昔の山陰に還つて薪を焚いて居つたのであつたが、兄弟叔父甥の家を分たねばならぬ時節になつて、いつとなく今の低地を以て、安住の地となすに至つたのであらう。

　それでも最初のうちは燃料や草に苦勞をするやうなことは無かつたが、土地も開きつくし人も多くなつて、愈々それが不足と決つた場合には、本村と新田の關係をたどつて、山方に入つて薪を乞ひ、草を刈ることを許して貰つた。(217)これが今日の所謂入會山の起原である。

　今日の民法でも認めて居る如く、入會には明らかに二つの種類がある。一つの野一つの小山を取り圍んで數戸の村がある場合、その野その小山を共同の採薪地として居るもの、これが所謂第一種の共有の性質を有する入會である。第二種は民法では新しい言葉を使つて、地役の性質を有する入會と呼んで居る、これが自分の茲に謂はうとするもので、この種の入會には必ず山口もしくは山元と稱する一ヶ村があつて、他の村々はその村の許可の下に入會する事を得て居るので、普通の地租分擔額の外に、これに對して山手米《やまてまい》野手錢《のてせん》の負擔をして居ることも珍しくない。

　自分も幼少の時から見て知つて居るが、遠方に入會山を持つて居る村々の若い者は仕事が樂でなかつた。初夏の頃から初冬まで、一番鷄と共に起きて、馬を飼ふ在所では馬を曳き、馬を飼はぬ在所では荷繩と朸を擔いで山に入り、日暮れでなければ歸つて來ぬ。一駄の秣草一荷の薪の爲に遠い途を往復し、しかも往々にして山道で地元の青年等にいぢめられたりからかはれたりする。

　殊に刈敷と稱して雜木の若葉を田に入れる頃は、日數も短かいので一層骨が折れたやうであつた。こんな村々は多くは交通の便のある處で、農産物が相應の價に賣れるにつれて、天然の緑肥を輕蔑し、人造肥料その他の金肥を無暗に使ふのは、勿論勞を厭うてのしわざには相違ないが、事情を察すれば幾分無理もない所がある。

　大都會の生活が田舍に影響した第一着は木材の需要であらうと思ふ。一箇所の町だけに就いて考へて見ても、何度となき大火は一時に數千の家を燒き拂つた。短期の改築、諸侯富豪の立派な普請、其他各地の城下に向つて年々運ばれる樹木は莫大なものであつて、近くの山の木を以て住居の需要に應じて居た昔の組織は先づ壞れた。勿論全國の山を掩ふ樹木の成長率は、久しい間これ等の需要に應ずるに足りたけれども、所謂出しの惡い奧山は計算の外であり、平地に近い謂はゞ需要者の附近にある山々の木が、先づ切り倒されて筏となつて下つたのである。

　

(218)　　　　　　　　　　七

　

　この事實は二つの結果となつて現はれて居る。一つは山の木に値が出て、小民が無代で小屋掛けをすることが出來なくなつた事、これが地主小作關係に於てある結果を生じて居る。第二には山が伐木によりて露出した山腹の土が、追々と海へ流されて各所の浦入江を埋め肥沃なる遠干潟を作つたことである。

　その頃になると、僅かな資本で小規模に開くべき地面は、もう大部分出村となつて人が住んで居た。幕府竝に各藩で、一度確立した商人地主禁止の方針をやゝゆるめて、資本のあるものに有利な條件で用水路を掘らせたり、潮止堤を築かせたりしたのは、止むを得ざる事情であつた。茲に於てか全然秣草山薪山と絶縁した新しい形式の農村が、頻々として各地の海添川添に起つたのである。これを計劃した都會の住民と同じく、農家が燃料に向つて金を支出しなければならぬ事情は、この時から既に發現したのである。

　越後の蒲原平原を歩いて見ると、處々の溝河の中まで立臼を小形にしたやうな木が流れて居るのをよく見掛ける。たしかあの邊でもこれをコロと謂つて居るやうである。即ち農村が薪を買ふ著しい一例である。恐らくは信濃川沿岸の低濕の地や、處々の潟端の地が、所謂商人地主に依つて開發せられた時代からの現象であらうと思ふ。

　この蒲原一帶の水田は、農夫が臍あたり迄も泥に浸つて耕耘をする。所謂ふけ田の優なるもので、田の畔の代りに蘆をたてゝ置くやうな有樣で、稻の架乾しをするハサキ又はハデの材を得るにも難儀をする位だから、竈に木を焚かうとすれば勢ひ、水源の産地から、遙々コロを喚ばねばならぬのである。

　自分はあの地方を歩く時に、薪を買ふ者が如何にして自他のコロを辨別するかと云ふことを知らうと努めたが、どうしても分らなかつた。今のやうな生活の激しさでは、昔のコロ流しは到底永く續かず、さりとて番人を付けて五十八十のコロを流して居つては、　　　愈々燃料の増費を免れぬ結果に至るであらう。

(219)　川に流した薪は、何れも樹皮が無くなつて、後先きが丸くなつて居る。多くの漁村では昔からこの類の木の主知れぬものを拾つて、無代の燃料をつかつて居たらしい。年に二度や三度は洪水の起らぬことは無いといふ日本では、流木の海に漂出し、又は川底に埋まる分量も相應に多いことゝ思ふ。その失費が悉く薪の市價の内に加はるのである。

　漁民の薪は此の如くにして久しい間無代であつた。鹽木を拾ふと謂つて、以前は鹽釜の燃料すらも漂流木で間にあつた位である。今でも邊鄙な漁村を歩いて見ると、見事な材木を打ち碎いて薪にして居る處もあつて、これ等は悉く河口の大水に依つて、主の不明になつた木である。今後追々各地の材木商が店員をして浦々を歩かせ、燒き印を辿つて漂木を取戻して歩くやうになるであらうから、漁村に於ても燃料の問題は今一層痛切に感じられるであらう。

　阿波の吉野川の谷を下つて見ると、川添の村々ではやはり擂木の如く兩端の丸くなつた木を、家々の壁の際に積上げて居るのを見かける。この邊でも出水後に漂流木を拾ふ外、燃料を得る手段の無い人民が、可なり多數に住んで居るらしい。

　多くの山川の川原などを觀ると、砂原の小石混りの中に木の端が頭を出して居るのが時々ある。出水後には特にこれが多いので、激しい勞働の出來ぬ婦人老人などが、恰も蛤でも掘るやうにこれを土中から掘り上げて、乾して薪にするのだが、上流の土佐の本山、本川筋の村の人々は、この事實を好く知つてよんどころ無いものと考へて居る。多くは態々流した木では無く、出水の爲に倒れ込み流れて下つたものであるらしい。

　自分は秋の初めこの吉野川の流れを下りつゝ、多くの里人が川原に下りて木を拾ふのを、つく／”＼と見て居たことがある。戯れて「婆あは川へ柴刈りに」と謂つたことを、今でもまだ記憶して居る。

　

　　　　　　　　　　八

　

　新潟縣などのやうに、薪材の多い山を間近かに控へて居る處では、コロを買つて竈に焚くことも、或は無理で無か(220)つたかも知れぬが、それとても追々に杉檜が植ゑ立てられ、村持薪山の狹くなり且つ荒れて行く今日となつては、果して將來の便宜を期し得るかどうか。殊に賣らうにもさう澤山の米が殘らぬと云ふ小作人の境涯では、何か別種の燃料供給方法を、待たねばならぬのは自然の話である。

　尾張の海部地方（元の海東海西）なども、一望木の無い埋立新田で、乾いた土は僅に堤防の附近でなければ求めることの出來ぬやうな事情であるが、此邊では溝川づたひに薪を流す風習は少しも無かつたやうで、大きい地主の家庭では、恐らくは薪炭商の手から薪炭を買ふのであらうが、小民は總て藁を燃して居るやうである。それと云ふのが此邊では、餘程上流へ行かねば木の立つた山も無く、從つて薪の價が安くないのと、一方には小作人の耕作反別が、越後などに比しては一層に狹くて、燃料の爲に金を拂ふことは、絶對に經濟上許されぬからであらうと思ふ。

　近年排水の工事が進んだから面目を一變したけれども、その以前はこの邊一帶も田舟に乘つて稻を刈ると云ふ場所である。水場の稻は草丈が非常に高いものである。さうして永い間水に浸つて居る爲に、外の用には適しないから、誠に彼等にとつてはうつてつけの燃料である。

　殊に輕濟組織の進んだ處では、藁を焚く農家の竈から、藁灰を他の地方に供給する商賣があつたのである。尾張西部などでは、主としてこの藁灰は中島地方の野菜耕作地、其他桑や苗木などを作つて居る畑場の方面へ、これもやはりこの低地を縱横に貫流してゐる溝川を利用して、運搬せられて居るのである。

　諸國の城下の町に往々にして灰屋といふ屋號などのあるのは、恐らくは肥料用の藁灰を大規模に賣買した痕跡であらうと思ふ。武藏野でも川越の町には久しい以前から、月々の灰市といふものがあつた。川越は人も知る如く、畠作の行はるゝ高臺地と稻作の盛んな低地との、境界線上に出來た一番大きな町である。川越の灰市は畑場の根菜類が灰を肥料として要する爲であることは勿論であるが、同時に又この國東半分の農場で、盛に藁を燃料として居つたことを證明するもので、地圖の上では多くの意味も無いやうな屈曲した大小の溝川が、運送費用の節約を助けて居たこと(221)は誠に豫想の外である。

　處がこの藁灰に就いても、亦一個の小さな時代の影響を、受けねばならぬ機會に逢着した。それは何かと云ふに、稻藁の要途の擴張である。近代の農事改良では、牛馬も飼はねば草生地も無いやうな村々までに堆肥の奨勵をして居るが、今日の稻藁はムザ／＼腐らしてしまふには餘りに高價になつた。

　先づ第一には藁製品の需要の増したことである。日本海沿岸の諸縣、殊に東北地方の北海道に近い農村から、年々供給せらるゝ叺・蓆・繩・草履の類は、集まつては非常な金高で、優に大資本の商人を活動せしむるに足るばかりである。獨り北海の漁業地方と謂はず、内地でも鑛山又は工場に於て、これ等の物品の需用は年一年と増して行く。

　又個々の農家の生活に就いても、以前草鞋を履いて居たものが下駄や靴になつた代りに、徒跣足の連中が草履をはくやうになつたことは非常なものである。

　今一つ注意せねばならぬことは、疊の床としての藁の需用である。これ迄はスノコに蓆を敷いて坐臥して居つた農家が、粗末ながらも普通の疊を敷き詰めるやうになつたことは、必ずしも一地方だけの現象では無い。常は板敷を便とするやうな百姓家までが、且つは名聞の爲に、室の片隅に疊を積み上げて置くといふ實例も、自分は各地方に於てこれを見た。

　麥稈の方は黍稈眞田の原料として世に知られて居るが、これは至つて小部分で、その他は各自の屋根を葺く位より以外は、これと云ふ用途も無いけれども、稻藁に至つては今や既に立派な商品、農家の簿記には收入として新たに掲げねばならぬ項目になつて來た。この事情を助けるものは、やはり鐵道その他の簡便なる運輸方法である。

　嘗て肥後の球磨川の岸にある坂本と云ふ製紙工場を觀た時に、原料の藁がどの邊から來るかと尋ねて見ると、遠いのは岡山廣島あたりから來てゐる。これは品質を選擇する爲では無くして、單に安く買入れんとするが爲に、米産地たる熊本縣をさしおいて、これ程遠方の品物をも捜すことが出來たのである。

　

(222)　　　　　　　　　　九

　

　話がそれるが、日本で西洋紙の工業が起つた最初の動機は、原料に適する稻藁が無代同樣であるといふ事實が、慥かに其一つであつた。然し今日では最早それは斷念すべきことゝなつたらうと思ふ。

　此の如き諸方面の需要に加へるのに、馬を厩舍で飼ふ陸軍の秣用も亦決して少額ではない。結局これまで心安く藁を結んで、竈の中に投げ込んで居つた小農の家では、是等各種の競爭者と對抗して、この燃料問題を考究しなければならぬはめに陷つたのである。例へば愛知縣の如き交通の便利な、小農の金勘定に鋭敏な村落に於て、排水土工の進んだ後、世間竝みの藁が出來るやうになつてから、彼等は藁をさへも澤山には燃しかねるやうになりはせぬかと思ふ。

　日本人は今日迄も生の食物を多く攝取する人民であつたが、今もし燃料の關係から燒くべき魚も燒かず、よく煮るべき野菜も少しゆでて食ふといふやうな癖を生じたら、問題は單純な經濟問題では無くなつてしまふのである。

　自分は嘗て籾殻の燃料としての使用を考へたことがあるが、蠶の敷物にこれを使ふ農家は別として、普通の百姓は久しい間、實はこのものゝ始末に難澁して居たのである。時に依つては田の中に掻き集めて面倒を見て灰にしたり、或は灰小屋の中でこれを處分する爲に、特に努力と費用とを投じて居つた。もしこれが一部でも燃料として用ゐられて、稻藁を節約することが出來たならば、一擧兩得と謂はねばならぬ。

　これも愛知縣のたしか三河方面で、籾殻を焚く竈を工夫した者があつた。勿論藁のやうにパッと燃え上つて、心地よい火で人を樂しましめることは出來ぬけれども、取扱ひやうに依つては少なくとも補助燃料、即ち火をつないで置く用途には供することが出來る筈である。どう云ふ風にか工夫して、便利な竈を小農に與へたいものだと思ふ。

　自分の經驗によれば、農家には早くから燃料節約の氣風は行き亙つて居たやうである。よく金錢を湯水のやうに使ふと云ふが、吾々の目から觀れば農家では、湯も中々粗末には使はぬ。例へば風呂に入るにしても、都會でなら一人(223)入る位な湯に、近隣の者を招いて、成るたけ水もうめずに、微温くなつて初めて薪物をくべるといふ有樣で、今日迄身體を清めて來たのである。

　この類又は沸騰の必要の無い湯などには、籾穀を代用して最も適當であらうと思ふ。藁を焚く竈の一つの不便は、誰か一人竈の前につききりにして居なければならぬことである。?々灰を掻き出して藁を投げ込むやうにせぬと、不經濟でもあり又危險でもある。この點に就いては一抱へもあるやうな　　ホダを爐の片隅へつき込んで、終日ブス／＼と燻らして居る山家の人々は氣樂なものである。將來農家の勞力が充分に利用せられて、薪を刈りに行く手間も惜しいと云ふやうな時節が來れば、この點から觀ても藁は農家の燃料には不向きである。自分は觀たのでは無いが、三河邊の人が考へ出したと云ふ籾殻の竈は、中に金網か何かゞあつて、自然に少しづゝ火の氣の絶えぬだけに落ちて行くやうになつて、然も火の用心も惡くなく、野良から歸つて見ると湯が沸いて居ると云ふやうなこしらへだといふ話である。事によると是が一つの燃料問題の轉機をなすのかも知れない。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　尚少しく村を見て歩く面白味に就いて話して見よう。日本人は種々なる骨格、種々なる肌の色艶をもつて居て、如何にも混合した人種の如く外人等より考へられて居る。吾々が見ても此人はどうしても蝦夷の末に相違ないとか、爭はれぬ南洋人の特徴をもつて居るとか、感ぜられる例に、幾らも遭遇する。

　併し假りに此推定が當つて居るとすれば、尚一段と意味深いのは、系統の異同が地方的で無いことである。即ちどの村へ行つても、三種四種の顔だちが雜然として混和し、恰も最初からの一部落の如く共棲して居るのである。

　何でも吾々の祖先は、今日の安住の地を相する迄に、少なくとも二度三度の國内移動をしたに相違ない。戰亂の爲に追はるゝ不幸は、他の國民に比すれば少ないのに、人口が過剰するごとに、都會を造らずして新たなる山野を拓い(224)た。これは多分中世以前の社會組織の特質に基くものであらう。つまり吾々の祖先は、國柄か人柄か知らぬが、兎に角優秀なる造村の伎倆をもつて居た。大陸の廣漠たる平原に居る者の夢想だもする能はざる巧者を以て、山腹又は水際に邑落を造つた。

　この無意識の技藝の出來榮えを、吾々は到る處に見ることが出來るのである。もし相應の同情と研究心とを以て掛るならば、此の如き村を造るに至つた昔の人達の心持を、隨分明瞭に知ることが出來るだらうと思ふ。

　初めて村を相する人々にとつて、燃料よりも更に重要な條件は飲料水の供給である。今でこそ薪に價はあるが、開發の當初に於ては、刈つて捨てねばならぬものが皆薪であつた。

　之に反して、地表に澄んだ水を常に得るといふことは、決して容易では無かつた。勿論初は鳥や獣も共通に、流れ川の水を掬んだに違ひないが、多數の者が河の岸にのみ住んで居られぬことは當然の話で、殊に耕作に適する平野は流れから離れた處に多く、屋敷を定めるのは何れか一方を遠くにもたねばならぬことになる。

　伊豆の海島では今でも飲水を得る爲に、婦人の勞力の半分を費して居る。内地の日本では幸にして、甕を頭に乘せて遠く歩くやうなことを要しなくなつたが、それにしてもやはり水を掬むといふことは、可なり大きい勞働の一項目であつたと思はれる。

　深山に入つて見ると、獵人や樵人がカラ澤とか水無澤とか名づけて置いた谷が往々あつて、水を大事にした昔の山民の心持がよくくまれる。

　山の多い我國のやうな地形では、到る處に水の音を聽き得るやうに考へられるが、それはまだ平野に近い淺い山の事で、繁茂した樹林地の中では、却つて流れに出違ふことは少ないものらしい。

　それでも昔の拓殖者は、出來る限り水の流れを離れまいとしたに相違ない。水の流れを傳ふことは、道の無い未開地に入り込む爲にも必要なことである。

(225)　しかし穀物を作る面積が不足になるにつれて、どうしても水の音の聞えぬ處へ引移らねばならぬ必要はやがて現はれた。此時に當つて彼等にとつて大和の八咫鴉よりも貴重なものは、處々の清き泉、即ち地下水の露頭であつた。

　その時代の事情は、武藏の平原を歩いて見ると、到る處にその痕跡を止めて居る。人のよく知る如く、武藏野名物の一として古くから、堀兼の井と逃水がある。堀兼は今でも堀兼村などといふ村の名もあるが、果して或一個所だけの話であつたか否かは疑はしい。逃水に至つては色々の説がある。或は苦水《にがみづ》のことで、作物に有害なる潮水をいふとの説もあるが、その樣な海岸近い地方の話とも思はれぬ。或は又野馬陽炎の類で、水ありと望んで行つて見れば其處には何も見えぬといふ、沙漠のオアシスのやうな話も傳へられて居るが、これも名稱から起つた想像説らしい。第三の説として今まで流れて居つた河が冬に無くなつて居るのが逃げ水で或は川越の附近に年不取川と稱して、大晦日の晩ばかり不意に一滴も無くなる川があるといふ説もあるが、此後半に至つては明らかに浮説で、必ずしも或一箇所の?態では無く、この平原の地形として、?々地下水の出没することを意味する普通名詞であつたらうと思ふ。

　川が地底を流るゝ例は諸國に多い。飛騨の一（ノ）宮などでは、明神が法樂の聲を妨ぐるを惡むで、社の附近ばかり、水を底へ移されたといふ口碑が出來て居る。他の多くの流れでは、滿水すれば上を流れ、減ずれば所謂水無瀬川になるので昔人の知識ではこれを神力に歸するやうになつたのである。

　攝津の丹生の山田には有名な山田の白瀧話がある、白瀧姫の子孫が名乘つて居る栗花落と書いてツユリといふ苗字は、地下水の出没に基づく口碑の類で、他の諸國に於ても折々聽く話であるが、つまり栗の花の落ちる梅雨の頃になると、常は水のなかつた靈地の一隅に、清い水の湧くのを水神の奇蹟とした迄である。

　近世の井神樣は水を汚す者を治罰する、至つて消極的な神樣であつて、殆と何の爲にこの神を崇拜し始めたかを、想像することの出來ぬまで變遷して居るが、開國初期の平民生活の光景を推想して見ると、水の神の神�ｺを拜まねばならぬ理由がいくらも有つたのである。

(226)　そこでたちもどつて武藏野の散歩の話をするが、東京の市民が二百年の長い年月、飲んで居た處の井之頭の池を初めとして、相染川でも日暮里川でも、それから石神井川でも、今では殆と民家のセセラギの末の如く見做されて居るが、試みにその岸に沿うて溯つて見ると、源は何れも一個の泉である。

　水が豐富なれば湛へて清い小池となり、それ程充分に無ければ井と稱して柄杓を以て掬むのである。思ふに井戸の井は居（ヰル）のヰと同じ語であらう。簡朴なる古代の日本人は鳥が木に棲むのも、水が流れて澄むのも人が屋敷を開いて住するのも、等しくスムといふ同じ言葉を以ていひ現はして居た。それが後に分化して、河水を堰で止めたものを井堰と稱し、飲用に供する細小の瀧壺に、井の字を當てゝ井戸（井處）、井カハなどと讀んだ迄である。

　東京から西へ三里四里を出て見ると、高い森があれば宮があり、宮があればその一側が此邊で謂ふハケ（崖）になつて居て、小さな井の頭が現はれて居り、その附近に若干の家があつて、流れの末が田に灌いで居る。

　だから丘の谷合などに帶の樣な細い田地のある處を横ぎる時に、もし道を曲げて西又は北の一方へその田に沿うて行けば、必ず宮をめぐつた小さな部落に衝き當るわけである。

　多くのこの清水は、今では御手洗などと稱して普通の用には汲まぬことになつて居るが、これは人家の數が増し、縱井戸を掘る術が進化してから後の事で、必ず初めて社を祭つた時の?態のまゝで無いであらうと思ふ。

　泉と神社との離るべからざる關係は、近頃自分が殊に興味を以て研究して居る事項である。此場合に問題となるのは、此二者と村との相互關係である。この三者の内で、清水は天然のものであるから最も早くからあつたとして、他の二つの社と民家と、通例どちらが先に出來たものであらうか。

　例へば往來の人々が清水の所在を發見して、その恩惠を感謝する餘りに、幣を立てゝ神を祭つた處へ、後に一軒出來二軒出來て、通例いふ字宮前などの部落が出來たものか。乃至は又水について居を占めた五七軒の農民が、その泉の涸れずに永く澄むことを願ふ處から、泉の神を祭るに至つたか。同じ武藏野の中にある村々でも、事情は必ずしも(227)一樣でなからうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　最初此國がなほ平衍なる林叢を以て掩はれて居た時代には、家を構へるにも旅をするにも、水といふ問題は今日よりも遙に重要であつたかと想はれる。廣野の中にある清水は、今の人の考へでは殆と發見する方法は無いやうであるが、この點にかけては未開の人民の方が、遙に優れた能力を持つて居つた。山中でもウヂと稱して、猪鹿の開いた通路は、必ず清水から清水につながつて居る。例へば日の反射、風の速度もしくは最も微かなるせゝらぎの音の如き、野獣の感覺を刺戟するに足るべきものは、單純なる古代人もこれを悉く知つて居たのであらう。

　東北地方を旅行すると、此痕跡は今でも見ることが出來る。中古以前の田舍では、晝の休み場は勿論のこと、夜の宿にも必ずしも旅宿の便宜を得ることが出來なかつた。此の如き時代の驛次は常に清水の所在地であつたかと思はれる。

　高清水とか筥清水とかいふ地名ある場所が、今では有名な邑落となるに至つた原因も亦これにあるらしいのである。武藏野の野中の清水の如きも、平原の面積に比べてその數は決して豐なりとはいはれぬ。中古七黨の武家がこの野の開發に努めて居た時代に、四方からこの野を横ぎつた道は、必ずしも最短距離の直線では無かつた筈である。夏の日盛りに慕ひ寄る大木の影、もしくは雨風をよけて晝餉をしたゝめ得た崖下の清水などは、常に彼等にとりては重要なる地點であつたらう。

　自分等は地圖をひろげ、又は實地に望んで常に斯う思ふ。廣い野中に偶然出來たと思はれる十文字又は一續きの高臺の中で、特に選ばれたる登り道は、何か今の心理學ではまだ解らぬ人間的事情が、原因をなして居なければならぬ筈である。

(228)　而うして假にそれ等の地點に、今日出づる清水が無いとしても、元はあつたものと見ねば説明の出來ぬ四つ辻や坂元の多いことは、恰も以前には日陰となるべき大木があつたと、見なければ説明の出來ぬ橋本の里と同じである。

　川を隔てた二つの部落が交通を求めた場合ならば、渡し場橋場の成立ちもよく解るが、廣漠たる荒野の中の屈曲して出來た道、その道の行きどまりに二三個の茶店などで成立つて居る橋本の里は、一番初めは遠く望み得べき樹蔭を慕つて、近付いたものと見るより外は無い。

　その樹蔭の水が流れでは無くて、湧き水であつた場合も事情は同じことで、南北から來る人と落ち合ふ處といへば、やはり此の如き「清水流るゝ柳かげ」であつたであらう。

　斯ういふ想像から、自分は武藏野の多くの村にある鎭守の御手洗を、まだ家も無く田畑も無かつた昔から、既に現はれて居つたものと思つて居る。

　昔の人は大膽でもあれば、又外的に迫られた事情もあつて、野宿も怖れず、妻子眷屬を引き具して、未だ試みざる川上の谷に村を造りに入り込んだ場合も無かつたとは申されぬが、普通考慮の結果の移住開拓ならば、必ず前以て二度三度の探檢は試みるであらうし、特にこの爲に視察には行かぬ迄も、往來の序に熟知したる場所を、選ぶべきは自然のことである。

　而うして用水の問題が古人の生活にこれ程必要であつたとすれば、つまりは清く豐なるを以て人に知られた清水の處へ、辿りつくのが自然の歩みで、恐らくは多くの場合に神を奉じて清水に趣くよりも、既にまします水の神に許されて、其下流を掬むといふことになつたであらう。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　此次には、人家の數と水との關係、新しき水の發見、鑿井の術、横穴といふ順序に、敍述の歩を進めて見ようと思(229)ふ。

　自分が子供の頃知つて居る關東平原の二三の町では、道幅が街道の繩手路よりは倍も廣くて、その中央に二三町おきに一つづゝ、鑿り井戸の列をなしてゐるものを見た。今は勿論警察の命令に依つて埋められて居る。道幅の廣いのは一つは日限市《ひぎりいち》の痕跡でもあるがこの鑿り井戸の併列も亦これにあづかつて居る。

　東京でも自分等は微に記憶して居る。一二の市街には道中の井戸があつた。例へば今電車の横切つて居る市ヶ谷のヤキモチ坂下に在つた井戸などは名水であつた。普通のものよりも大形の井戸側の、周圍を駒寄せで圍つてあつたかと思ふ。

　箇々の小農が屋敷の隅に一つづゝの井戸をひかへたのは、鑿泉の技術の餘程普及した近代以後の事であるらしい。その以前は右の如く共用の井戸の水を分配して居つたものである。

　都會から田舍に來る旅行者が?々意外に思ふことは、燃料も豐かで人の手にもことかゝぬ農村で、風呂の水の分量が甚だ尠ないことである。極端な例は昨日一昨日の風呂を沸し直して、白くなる迄つかふやうな水の儉約をするといふことは、新しい市街生活に馴れた者の、殆と理由を見出すに苦しむ所であるが、やはり亦一つの泉で多數の家を支へた因習と見るの外はない。

　道路の中央に井戸を掘つて置く習慣は、恐らくは町中に用水を引く慣習から出たものと思つて居る。而うしてこの慣習は更に遡つて、小さい流れを挾んで屋敷を割り當てた古い生活の名殘であらう。

　五戸三戸の一類が集り住むならば、大川の岸にも好い地面はあるか知らぬが、何十戸もまとまつた農民が、一處に邑落を造るとなつては、無理無しに水害の危險を侵さずに、宅地を見たてることの困難な場合が多い。それで若干の勞力を費して溝を掘り水を引き、なるべく公平に之を使用させんとする爲には、右申すが如き町中の水路、又は鑿井を作ることになるものである。

(230)　此類の用水路は、或時代までは確に町の美觀であつた。家々の女房や娘が、家具を提げ道を横ぎつて川端に下つて行く趣は、古い淋しい町を晩方などに通りあはせた旅人の、永く忘る能はざる風情である。

　普通洗場と稱して一段低く置いた平石又は踏板を、地方に依つてはカドとも呼んで居る。山蔭では是を井ドバといふ。カドは即ち川處で、必ずしも洗ひ場でなくとも、舟付き徒渉其他一線の川の内の、殊に生活に關係の深い地點に與へられた地名である。

　町中を流るゝ小川のカドの邊りには、多くは柳、又は柳ならずとも涼しい木蔭があつて、夏の頃の旅には人でも馬でも、自然に流れに接して歩いて居る。これが又古い驛次の歌心を催したものである。

　しかしながら或程度以上にその町が發達して、溝の小石に泥が付き、鹽魚の骨が滯つたり塵芥が流れたりするやうになる頃は、他の一方では必ず交通障碍といふ苦情が起る。そこで最近二十年三十年の間に、昔美しかつた町の小川の多くのものは、官命を以て埋めさせられたのである。

　全體今いふ町の起原は、極めて簡略なものである。所謂戰國の時代に、僅かな丘陵の突端に住んで居る武家が、自分の保護すべき百姓をその丘の麓に住はせたのが始まりである。關東では根小屋とか寄居とかいふのがその普通の名稱である。根小屋寄居の多くは片側町で、便宜次第或は丘を背にして外に面し、或は道を隔てゝ丘の方に向つて建てた。これが所謂城下町の双葉である。

　後者即ち道を隔てゝ丘に對して建てた町は片羽又は片原又は片平ともいつた。片羽に住む人民は、丘の麓を廻つて流るゝ水に寄つて生活した場合が多からうと思ふ。しかし砦の防備に故障の無い場合には、時としては丘の崖からしたゝり下つて來る泉を、汲んだ場合もあつたか知らぬが、斯う云ふ處では、水の不足が夙に城下の發達を妨げた。

　その後世中が靜かになつて、武家の保障が無くとも安全に生活の出來るやうになつてから、少しづゝ丘の麓から遠ざかつて、成るべくは緩傾斜のある廣敞なる地を相して、町を移して行く傾向が出來た。これもやはり用水の關係が(231)原で、斯ういふ地形で無いと百戸以上の人民に、常に清い水を供することが六つかしかつた爲である。

　昔開けた道路には、?々僅かづゝの上り下りがあつて、如何にも人馬の足の疲を顧みなかつた樣に見えるが、その理由は必ずしも常に此の如しとはいはぬが、やゝ坂がかつた處で無いと、驛次の宿場を創設又選定することが困難であつたからである。

　然るに何物の發達にも行き止りがある如く、此の如くして一旦は便利であつた町の飲み水も、後には追々と不潔になつて、何分にも辛棒が出來ぬまでに町は發達して來た。

　最近三十年間の町の歴史は、一方に於ては以前の一筋町が多くの横丁を持つて來て、町中の小川を邪魔ものにし、その埋立てを餘儀なくすると同時に、一方に於ては飲水の他の供給方法を見出さねばならぬ必要を生じた。各府縣の市街地で、今以て騷いで居る公設水道の問題は、つまりこの歴史の反影である。

　それ故に早く大きくなつた東京の如きは、早くからこの問題を經驗して居る。最初の江戸の城下に出來た小都會は、恐らくは神田明神の丘の清水とか、山王權現の御手洗の水の末などを掬むだけで足りたのであらう。

　それが久しからずして五里と七里の遠方から、大土木を起して水道を引かねばならぬやうになつたのは、要するに創設者の豫期以上に人口が殖えたからである。

　最近の例として自分の知つて居るのは相州の曾屋即ち今の秦野町の用水問題である。この邊は特色ある地形で、地下水の多い處である。曾屋權現の御手洗の水は非常に豐富なものであつたから社から東の方へかけてその流れに沿うて、一線の大きな町が出來て居た。

　しかも氏子にしてこの水を用ゐぬ者は、神の意に反すといふ信仰があつて、人の數が水量に較べて餘程多くなり過ぎた後迄も、辛棒してこの水を飲んで居たものらしい。

　當時の人心を察するに最も適切なる史料は、今から百年ばかり前に下流に住む人々が辛棒し兼ねて、往々にして鑿(232)り井戸を試みた頃に、ちやうど激しい疫病がはやつた。それを氏子共は明神の御手洗の水を飲まぬ者が出來たから、この禍が現はれたと稱して、嚴重なる謝罪の祭をして居る。

　此土地などは丘の傾斜が急に過ぎるので、無用に流れ去る水が多かつたのであることを、近年になつて好く理解した人が出て來て、ごく簡單な設備を以て瀦水池を、明神の社の横手にこしらへて、清水の分配を調節した所が、その結果は甚だ良好で、僅な經費で盛んに増加し行く人口を支へることが出來た。

　併しこれもやはり或時代迄を支へるに過ぎぬことであらうと思ふ。

　是迄の人が町村の發達を計畫する上に、飲水の問題を輕視して居つたことはよくなかつた。流れ川もしくは露頭の泉にたよつた時代は勿論のこと、穿り井戸の技術が如何に進んだからといつても、用ゐる地下水の分量次第である。

　その水量が許さぬ程度に迄、人口を殖さうとしたのは無謀であつた。町が既に大きくなつてしまへば、假令莫大な金銀を費しても遠方から水を引いて來るの外は無いが、さういふ骨折をさせねばならぬ時まで、吾々は豫め考ふべき問題を考へなかつたのである。

　鑿り井戸の技術の發達普及は、横縱共に鑛山業の進歩と、著しい關係があるやうに思ふ。吾々の生活の最も重要なる條件は、久しい年月の間、無名の技術者ばかりが考へてくれて居たのである。

　最近は又著しく鑿井の技術が進歩したやうである。しかし土地の値が上つて、よほど其利用を巧みにせねばならぬ今日では、長距離の水道は追々と不可能になつて行くことゝ思ふ。

　從つて是迄横に遠く手を伸して居つたものを、今後、底へ深く探り求めねばならぬことゝなるであらう。これが田尻博士などの地下水論の論旨であつたやうに私は思ふ。それもこれも結局する處では共同生活費の問題になるのである。

　

(233)　　　　　旅行の話　その二

　　　　　　　　　――昭和二十二年――

　

　手帖といふ册子が出ると聞いて、しきりに旅の話がして見たくなつた。自分の舊友で最もよくあるいて居るのは、京都と馴染の深い故川口孫治郎君である。この人のは、手帖とも言へない半紙本に、毛筆で達者に書いた日記が百數十卷もあつて、どんなに疲れた晩でも床に就く前に、必ず一時間は其日の見聞を書かずには寢ないといふ流義であつた。是が久留米の空襲で焚けたのではないかと案じて居るのだが、それは／＼詳しい又正確な記録で、鳥の話ばかりを此中から拔き出したものが日本鳥類生態資料、是だけでも菊版五六百頁の大册であつた。まだ其外にも獣の生活や獵人の話等、一度は自分も見て置かなくてはと思つて居たものが色々ある。是などはたしかに始めから、後の讀者を豫期した日記であつた。

　之に比べると、私の手帖なんかは物の數でない。旅行の部分が少しこまかいといふ位で、書いてあるのは宿屋の名、用も無い里數や時刻などで、たま／＼話に來てくれた人の名を列記してあつても、話題さへ?々附け落して居る。あとで記憶を書き入れる氣で居ても、旅行後は用が溜つて居て特別に忙しいので、つい其まゝに取出さずにしまふことが多く、年をとつて閑が出來た頃には、もう忘れきつたことばかりである。二年前の空襲警報のさなかに、片づけ物をしようとして私は之を引張り出し、あんまりつまらぬので歎息しつゝ、大半は片づけてしまつた。さうして是でもう旅をしなかつたのと同じになつた、といふやうな寂しい思ひをしたことであつた。

　

(234)　　　　　　　　　　○

　

　しかし殘つて居たにしても、實はさう大したことではない。誰か目を留めて是は何だらうかと、いふやうな場合がすでにごく稀で、家ではたゞ少しばかり、消えるのにひまが掛るといふだけである。家から外へ散らばつて行く機會も、近年は段々多くなるらしく、東京の古書展などにも、時折は見かけるやうになつたが、そればかりはあまり熱心な蒐集家も無い。大抵は字が拙なく本がよごれ、おまけに著者が無名なので、何としても襲藏に適しないからである。以前私が或雜誌に紹介した一青年の紀行なども、表紙に村の名と姓名が有るので、後にこの家の人だといふことまでは判つたが、家とも村とも關係の無い旅の手帖であり、反故にして出した位だから、もう再び之を郷土の史料に、使つて見ようといふ者も無かつた。村に靜かに一生を終つた人々が、死ぬまでのうちに一ぺんか二度、よほどの因縁が熟して思ひ立つた旅なのだから、當の本人にとつての大事件であるは勿論、それを數多く積み貯へ且つ綜合し調和したものが、やがては今日の文化を構成して居るわけであるが、記録として集めて置かうといふことは企てた人も無く、又もう其時期も過ぎて居るのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　或は單純なる個々の讀み物として、紙や活字がもう少し自由になつてから、斯ういふものを出來るだけ數多く、竝べ列ねて出して置かうといふ時代が來るのかとも思ふが、保存が果して間に合ふかどうかが心もと無く、其上に古い手跡の讀めなくなることは、我々昔者が驚くほどの速度である。是では僅かに殘つて居る部分までが、すつかり蟲に閉ぢられて開かなくなるにきまつて居る。時節を待つといふやうなことは言つて居られない。それ故に今からでも旅行の話をはやらせて、さういふ機運を促進する必要があるかと思ふ。私なんかの手帖は貧弱なもので、假に保存して(235)あつても役には立ちさうも無いが、それでも今になつて囘顧して見ると、ちやうど自分たちの壯年の頃が、我邦の旅行道の最盛期であつて、それが漸次に衰頽したことを、まのあたりに見聞して來て居るのみで無く、遠い昔の世の行脚の人たちの、難行苦業が積り重なつて、終にこの樣な花咲く春にめぐり逢つたのだといふことも、まだ我々だけは意識して居るのである。是が將來果して今一度、再び日本人の若い日を樂しませるだらうか、はた又永遠にそれは過去の悦びとなつてしまふか。國の歩みの是が大切な岐れ路であつて、うつかり豫言じみたことも言はれないけれど、大體に兵役といふものが全く無くなつて、若い人々はそれだけ時間が多くなつて居る。學校や講演書籍以外に、身の爲世の爲に費し得る力がまだよほど彼等には有るものと見ることが出來る。少くとも一部はこの方面に向つてそれが利用せられることにならうかと私は樂觀して居る。さういふ傾向がもし幸ひに現はれて來るものならば、黙つてたゞ見て居ることは何分にも義理が惡いのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　衰微といつては或は承知をせぬ人もあらうが、ともかくも旅行道は近年になつて變化し、以前あつたものゝ幾つかが無くなつて居る。最も著しい一つは路筋の選び方の狹くなつたこと、或は旅の目的の固定と謂つてもよからうか。家を出る時から行く先がちやんと定まり、そこの用事がすめば直ぐに家路に向ひ、路はめつたに迂囘せず、途中に有る物には一向に目をくれない。是は固より交通の便利になつた爲で、旅を手輕に何度でも思ひ立たれるものにした代りに、以前は多忙といつて旅をしなかつた者が、今ではどし／＼とこの仲間に入つて來て、ひたすら行く先だけを問題にするやうになつてしまつたのである。

　旅といふものゝ本質は、いつの間にか一變して居る。閑だからよく旅をする、などといふことが考へられなくなつた。

(236)　　　ぼけあざみ旅して見たく野はなりぬ　　　　山店

　斯ういふ旅人と折々出逢つたのも、私等の頃までのことであつた。諸國の往還は今もちやんと有るが、それを使ふのは近村の者だけで、茶屋も旅籠屋も無く、峠路は芒である。汽車が有る限り、大まはりしても、それに乘つて行かぬとみんなから不審をかけられる。つまりは旅とあるくといふことゝが、丸つきり別々の仕事になつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　古來の路筋は榮枯盛衰した。中でも僅かなものだけが途法もなく重要になり、其他は土地の者にまで由緒がわからなくなつて來た。東京などで發見せられる近世の道中記は、幾つあつても大抵は東海道五十三次、稀には金比羅宮島錦帶橋まで足を伸ばし、歸りは中仙道をやゝ草臥れて戻つて來るといふ、型にはまつたものばかりであつて、是を百ほども集めて重ね合せて見たら、何か思ひかけない事實が見付かるのかも知れぬが、そんな暇人はもう是からは出さうも無い。それよりも困つたごとは雲助でも出女でも、大よそ旅と名のつくものゝ知識は、全部がこの方面だけの經驗によつて居るので、程なく單調にも平凡にもなつてしまひ、汽車が出來ればもう之を省みる者は無いのである。日本は旅行の殊に盛んな國だつたと思はれるのだが、その影響の跡づけ得られるものが、斯んなに乏しいのもちよつと異數である。しかも文化の隱れたる交流を想像しないと、説明の出來ない現象は、今でも無數に心付かれるのである。

　をかしい言ひ方だが、私は斯う考へて居る。一つも手帖を附けなかつた幾十萬の旅人の、過去千年の間に爲し遂げた事業も、結局は今僅かに殘つて居る少數者の紀行から、こゝを道の口として追々に尋ねて行かれる。無論その以外にも方法はあり、たとへば古道の今ある形態、之に關する土地人の記憶、又一方にはそこを通つて、入つて來たらうと思はるゝものゝ比較、たとへば方言とか流行唄とか昔話とか、乃至は稻荷や鍬神といふやうな信仰の一致などから、逆にそれを運んだ人々の面ざしを、考へて見ることも出來るだらうが、さういふ興味をかき立てる爲にも、やはり先(237)づ旅といふものゝ大いに變遷し、かつては今よりも遙かに充實した、效果の永き世に遣るものであつたことを、心付かせる必要はあつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　たゞ殘念な話は、私が斯ういふ考へを持ち出したのは、少しばかり時が遲かつた。以前も紀行文集を編纂して見たり、五萬分一の測量部地圖を左に置いて、色鉛筆で線を引きつゝ、興味深く讀んだものも幾つかあるのだが、まだ其時には自分たちが口を出さなければ、旅がこんなにも棄てぼかしに、忘れられて行くものとまでは思はなかつた。今から始めてももう纏まる見込は無いが、それでもこの事が可なり樂しみの多い、行く／＼新しい物の見方を、引出す絲口としては役に立つといふことを、説き立てる位はやつて置きたい。さうしてあはよくばもう一度、明治時代のやうな活氣に充ちた若い旅人の、全國を跋渉する世の中を再現させたいのである。

　紀行の今までに公表せられて居るものは、大部分は詩歌俳諧の保存を主とした、記述の分子の少ないものばかりで、あの川口君の鳥類觀察の旅の記の如きものは、以前は殊に稀であつた。他の多くは最初から家に留め、子孫の閲讀をさへ豫期しなかつたものなのだから、捜さなければ見付からぬのは當り前の話である。それでも大切に保管しようといふ者の有るうちはよかつたが、今度はどうやらそれも怪しくなつた。何か第二の手段を講じなければならぬ機會である。戰中に私は山科言繼卿の日記を讀んで居て、あの中に幾つもの得がたい旅の記事のあるのを見て感動した。その一つは岐阜へ信長に逢ひに行つた有名なものだが、なほその以外にも若い頃に、陸路近江の千種だか八風だかの峠を越えて、清須へ遊びに行つた往復の道の記と、年をとつて後駿府の今川家へ、叔母さんを訪ねて世話になりに行つた際の日記などが、平凡な常の京都の記録の中に、挿まつて光を放つて居る。さうしてもう此時代の村里の生活を描いた文獻などは、捜しても他にはさう得られさうも無いのである。一つ二つではたゞ珍奇といふに過ぎぬだらうが、(238)もしも斯ういふ風な人と家、旅の前後の世相といふものを取添へて、しかも同じ方面同じ路線の、五十年百年を隔てた姿を、たとへあら／＼とでも書き殘したものが集まつて來ると、新たに考へられることが必ず多いことゝ思ふ。最近に私が京都の諸君に勸めて、諸國の舊家などに持傳へた先代の日記を、次々に整理して出してもらはうとして居るのも、一つには又その平和單調の記録の間から、いはゆる生涯の思ひ出であつたらうと思ふ時々の印象を、特に際立たせて味はつて見たいからであつた。寂寞たる常の日の沈滯に裏附けられて、事件が我々の心意に及ぼす效果の大きかつたことは、都市の現代にはもう想像し難くなつて居る。祭や人間の離合集散の如き、他にもくさ／”＼の機會はあつたけれども、さういふ中でも旅は殊に其昂奮の跡をわかりやすくして居る。言はゞ野中の鮮かなる「ぼけあざみ」の花であつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　隱岐の燒火《たくひ》山の歴代祠官、松浦氏といふ舊家に持傳へた二つの手帖を、近頃測らずも見せてもらつて、改めて自分の小さな旅が、如何なる因縁を百年後の日本と、結び得るであらうかを考へる機會にぶつかつた。この昔の二人の旅人は、何れも世に聽えた貴い驗者ではあつたが、この日記のみは何としても讀み物では無い。是が子孫の手に大切に管理せられ、しかも國内の相互交通が、もう一度考へなほされねばならぬ時世になつて、現はれ出たといふことは偶然の幸福である。何よりもなつかしいと思ふのはこの二つの手帖が、島に住む人の旅であつたゞけに、共に私などの通つて見ようとも企てなかつた路筋をとつて居ることで、一方の覺心といふ人の日記は、善光寺を經て江戸へ出て行くのに、便船を見つけて先づ佐渡島に渡り、そこで十數日の風待ちをして後に、新潟から上陸して海岸傳ひの路をあるいて居る。稀なる順風で、能登の輪島に一夜の船繋りをしたばかりで、四日目にはもう佐渡の太田の湊に着いたとある。燒火山は船方の尊信する神であつた故に、船頭甚六が家では勿論心の限りの款待を受け、處々の島内の靈場に(239)も巡詣して居る。ちやうど桃櫻の到る處に咲き出した、舊暦二月の末方のことであつた。

　それから他の一方の快榮といふ人の旅は、伊勢參りが主であつて、還りには奈良と京都とを見物して居る。京と伊勢との間は大體に普通の途らしいが、其他の往復には自分などの考へても見なかつた路筋を通つて居る。地名は一つ一つ竝べて見るのもせんが無いが、まず美保（ノ）關に上陸して次の日は安來泊り、それから赤松越をして大山に詣で、今の因備線の根雨《ねう》に下つて居る。それから三鴨勝山坪井等、ずつと作州を横に切つて播州の三ヶ月から姫路に出るまで、途中滯在もあつて其間に八日を費して居る。何か縁故があつて此路を擇んだのかも知れぬが、ともかくも途中には宿屋があり中食の茶屋もあつて、是も堂々たる街道であつた。歸路の丹波街道は私がまだ通つたことのないだけで、是は京都の人にはなじみの深いものであつたらう。日程は須知・福知山・河守・宮津、それから橋立見物をして翌日は久美濱泊り、城崎温泉に四日の湯治の後、その近くのキリハマといふ地から舟を雇ひ、モロイソといふ處に上陸したとあるが、この二つの地名は私には始めてゞある。諸磯は因幡の賀露《かろ》あたりのことではないか、とにかくに爰で隱岐への便船を待つて居て、乘船して三日目に、隱岐島後の西郷に歸着したことになつて居る。

　

　　　　　　　　　　○

　

　ざつと先づ是だけの事がわかるのだから、相應に綿密な日記かといふとそれは大ちがひである。外に書いてあるのは宿屋の名と着發の時刻、宿料買物代ぐらゐのもので、それも矢立の墨のかすれ書きで、單なる小遣帳の筆ついでのやうなものだが、子孫後裔はもとよりのこと、我々にとつても是だけのものが、有ると無いとでは大きなちがひである。言葉の外のものを味はふと否とは、見る人によつてさま／”＼でもあらうが、たつた是ばかりの文字の面からでも、たとへば近畿一帶の宿屋は皆木賃で、毎月白米を買ふその代金が、土地毎に大分ちがつて居ることゝか、又は京で調へる買物の種類とか、それを配分するそれ／”＼の心遣ひとか、時代の片端に觸れたものが色々ある。一つや二つの例(240)ではたゞの珍奇に留まるだらうが、もしも誰かの心がけによつて、斯ういふ種類の記録が國の隅々、多くの時處に亙つて集まつて來るやうになれば、我々の興味は雪ころばしであらうと思ふ。

　宿屋といふ問題についても心付いたことはあるのだが、段々長くなつたから此あたりで一旦切上げる。最初の計畫は足ごしらへといふことの變遷を、自分などの經驗によつて話して見ようといふのであつたが、それも亦いつか詳しく語ることにして今は略して置かう。のんきに自由に話を進めようとすると、書くことまでが漫遊式になつていけない。紙の大切なけふ此頃、果して斯ういふものでも記事にしてよいのかどうか。編輯子の取捨に御任せ申すより他は無い。

　

(243)　　　五十年前の伊豆日記

　

　明治四十三年五月十八日　曇、水曜日

　朝九時の汽車にて大仁まで、青森の人らしき親子四人同車、修善寺へ行くといふ。

　大仁から狩野川の谷を人力車で行く。玄武岩を所々に利用せり。但し但馬城崎のよりは小さい石材なり。

　小立野、本立野の邊に、道祖神の石像二つあり。坐像にて頭巾をかぶる。形は維摩に似て、劍をもてり。此路には題目石多し。天城南麓では又大日如来の石塔をも見たり。

　湯ヶ島に来てとまる。落合樓は流れを隔てゝ低き處に在り。水の音高し。

　三度まで湯に入る。夜カジカを聽く。こゝの内湯には、村の者斷り無く來て入る也。のんきなものなり。午後四時からはならぬ定めなれど、おかまひ無しといふ。

　子供畠に入り麥の穗をあまた、拔きて手に持てるを見たり。是も一種の小さな害蟲。

　

　五月十九日

　午前曇、晝頃はよき日なりしが、又一しきり小雨。

　駕籠をやとひて天城を越す。青葉の盛りなり。藤は少なし、つゝじはあり。石楠花《しやくなげ》は盛り、人家にも栽ゑて居る。

　閑古鳥啼く。

(244)　御料地の中には色々の人住めり。しかも五萬分一圖を見ると、この邊は何れの村にも屬せず。皆どうして居るか。峠の近くにも二三の人家あり。木を挽いて居る。

　天城は二十五六年前までは暗き森林なりしが、追々に伐つて明るき山となれり。但し大鍋の奧より猫越《ねつこ》に越ゆる所などは今も木深く、蛭も少し居り、猿などもいたづらすといふ。

　山男の消息は既に絶えつゝあり、御獵場は、猪段々にふえ、年に一度くらゐの獵では中々とれず、麓の村人等は鐵砲その他が下手になるばかり也。

　湯ヶ島では石垣の間にそら豆の生えて居る家あり。播いたものかと思はれ珍しかりき。椎蕈は湯ヶ島が中心といふ。

　谷あひをホラといふことは、こゝも美濃などと同じ。梨本のホラ、大鍋のホラ等、いくつかを耳にしたり。湯ヶ野温泉に泊る。

　

　五月二十日　晴

　馬車にて湯ヶ野より下田へ行く。大浦の某といふ家に入りて休息。午後こゝにてゆるりと晝寢。泊めてもよいやうにいふから、落ちついて海を見たり考へごとをしたりして居ると、亭主さりげなく庭をあるいて、ちらりと此樣子を見て、飛び込むとでも考へたか、急に斷り始めたのでこゝを立ち、蓮臺寺の會津屋といふに行きて一宿。こゝは又明日から教育會の大會があるとて大混雜。

　もと宇都宮の中學校にて體操の教員をせし男、琵琶をもちて諸方を漫遊するもの、たま／＼隣室に在り。行きて碁などを打ち話を聽く。

　南伊豆の主たる生業は養蠶なり。田は二毛作といへど食料にも足らず。桑畠の少ないのを不審せしが、それは皆山に作る也。あたかも土佐などの楮《かうぞ》や三椏《みつまた》の如く、山を開いて栽培するなり。ひどい傾斜にて肥料も施し得ず、僅かに(245)あたりの草萱を苅りしくのみ。又アスナロウなどと混植せる桑山もありといふ。針金を引きて山より桑の枝を運ぶこと、飛騨などにて薪を下すと同じ方式なり。

　蠶は櫓飼ひなども少しづゝ行へり。此邊の養蠶は早いのが特色。五月十五日にはすでに繭が市に出で、信州などよりは一月早し。中心の市場は松崎と下田、松崎の終る頃より下田が始まる也。

　春蠶の盛りには天城北より、十日十五日づゝ來て働く者多し。湯ヶ野の温泉でも、他村の若い者が湯に入りに來て居たのが、皆それでありしことを始めて知る。主人のまかなひにて一日の日當が二十五錢位、今年は高い方といふ。

　茶は天城山中に野生あれども産額多からず。南伊豆の一般に自家用を製する程度、産牛は稍々盛んにて、個人の種牛を持つ者の種付けの廣告、そちこちに見受けたり。一囘三圓内外が上の部、種馬もあれども良種少なく、且つ産育の風も牛ほどは盛ならず、牝馬もたゞ使役に供する者多し。

　蓮臺寺は百年前まではその名の寺があつたといふ話。記録を見たいものと思ふ。こゝの中學校の寄宿舍は温泉が出るといふ。結構な話なり。

　

　五月二十一日　午後小雨

　蓮臺寺より馬車にて加増野《かぞうの》に入り、婆娑羅山道を越え松崎の町まで。

　船に乘りおくれたれぽこゝに一泊。宿は瀬崎の「かじ寅」。

　相宿は沼津の日野屋の店員、おとなしき若者なり。いはゆる江州店の話を聽きたれば書き殘して置く。

　日野町は一千五百戸、内五百戸が所謂タナ持ちの家なり。

　この日野屋は使用人上下二百十八人あり。沼津なるは酒と醤油を造る。南條にも店あり。諸國にかけて數十の店を持つ家は、他にも多し。

(246)　店員には行く先々の土地の人は殆と使はず。皆近江からつれて來る。奉公の始めより七ヶ年は家に還ることを許されず、八年以後二十年目までは二年に一度、八十日の休暇を與へらるゝ。三十を超えざれば妻をもたさず、給料は極めて僅か、外に純益の配當あり、それを合せても、支配人級で年五百圓くらゐ。近江の本店に居る總支配と稱する三人の老人だけは、一千五百圓づゝを受く。此外に主人手元より別に賞金を出すことあれど、是は別途に積み置き、引込む迄は手渡しせず。

　三十五年勤めた者には年金貳百圓を給する。是は店をやめた原因の如何に拘らず給する。此節は五十歳にもなると、とても是から獨立しようといふ氣力ある者は無く、それ故に多くは代々の店員なり。

　譜代の者には特典あり。通例は小學校を終つた者を取ることにして居るが、親も店員だつた者の子だけは、十一二より店へやり、店から小學校へ二年三年通はす者も少なからず。

　妻子は郷里の日野に置く定めなり。その妻も主人の家に勤めたる女を、見立てゝ持たするが普通なる故に、自由に選んでもらふといふわけに行かず。家の方は一切主人より保護する代りには、干渉も中々やかましく、農作なり養蠶なり小賣商なり、自分だけの身過ぎをさせ、決して遊ばせて置くといふこと無し。ぶら／＼として居れば主人よりやかましく言ふ也。休みにて還りたる者も、それ／”＼家の手傳ひをなし、中には其間も耕作にいそしむ者あり。まことに良き風儀なり。

　されど出店即ち暖簾分けの制度がなければ、立身は中々むつかしく、唯困らぬといふだけは確かなり。又風俗などは行く先の土地の習ひに馴れて、近江の方の慣行に遠ざかり、故郷に還りても友も無く、面白いことが少ないと謂へち。

　沼津の日野屋の酒は「日進」といふ。小田原にも店がある故に、東の方へは賣弘めぬことにして居る。釀造には狩野川の水を使ふ。早天に川に入つて汲むことにして居る。少しくやはらかなれば、藥を入れて水を硬くする云々。(247)（以上この若者の話）

　雨後の町をありく。川の彼方は岩科村道部なり。町の區域は狹し。家々の門札を見るに、中央に猿田彦神、道祖神と書き、兩方に豐磐?櫛磐?命《とよいわとくしいわとのみこと》と書けるあり。下に梵字あれば、寺より出せしものと考へらる。又三寶荒神法供の札あり。金剛院とあれば修驗か。山の近くには色々の小祠あり。嵐山社といふあり。社殿内の萬燈には津島大王と書けり。

　松崎の明神は伊那下神社といふ額を掲ぐ。何と訓むか、意味も判らず。境内に數多の末社あり。山に上る口に山口大明神とあるはやゝ大なる社なり。其下に塞《さい》の神あり。四角の大なる木の塔婆を立つ。その上の五輪の切り方は墓のものと同じく、是に神官の手にて佐田之大神道祖神五穀成就町内安全などと書きたり。

　此社の拜殿の掛額に、古くてよく判らぬ繪あり。北齋風の畫なり。男が刀を拔き若き女を刺さんとす。傍に今一人の女、胸を開きこゝを突けとさし付けたる所なり。何を書けるにか、知らざれども心とまる。

　以前の宿は石を敷き、由ありげなる家多けれど淋し。今賑はへる新濱は海岸の松林の中に、二十年ばかり前より追々に家建て連なりしもの、芝居などあり。

　繭の賣買の市場を、土地では商會といふ。松崎には二戸ありて共に旅館なり。せりにて相場を立つる。此町の市最も早く、追々下田の方、又北の方にも及ぶなり。

　繭一貫目の相場、本年は四圓貳參十錢を上下す。生産費の少なき養蠶なるに、早ければ價良し。此地方にて四圓二三十錢ならば、半月二十日の後の他の地方の相場は三圓五六十錢なるべしとて、是では今年も惡しと心配する者あり、

　此旅館は海の景色よく、船の發着所なれば便利なり。有度郡の山々は正面に見え、富士は右後になりて見えず。

　夜按摩をたのみ療治をさせながら土地の話を聽く。二十四五歳にて目つぶれたる今四十七八歳の男、もとは船田とかいふ處の百姓なり。以下その話なり。

(248)　若い頃までは神隱しといふこと多くありき。草苅りに行きし十五六歳の男の子、見えずなりて三日目の朝、二町ばかり離れたボサの中に隱れてありしを見出せしことあり。何を問ひでも知らず。今もまだ生きてあり。

　二十年ばかり前、ある男提灯をつけて炭燒竈を見に行きしに、道の傍に丈のきはめて高き男立てり。山男なり。見上ぐれば幾らでも高くなるといふことを聞きてあれば、つとめて下を見て通り過ぎたり。かういふ話は多く聽いた由。

　ある鐵砲の名人山に入りしに、大なる鹿この方へ近より、じつと自分を見たる顔、笑ふやうに見えて身の毛立ちたり。鐵砲を打かくる氣にもならず、眼を見合はせて居れば限りも無く動かずに居る故、試みに少し眼をそらしたれば、その間に忽ち見えずなりたりといふ。

　狐にばかされし話は多し。狐をキンコサマとも謂ふ。キンコは鳴き聲から來た名なりといふが如何のものか。斯ういふ話を數多くしてくれたり。

　この夜蚤が多くて睡られず。朝も亦早く起きてしまふ。

　

　五月二十二日　小雨

　朝六時に、沼津へ還るといふ松丸に乘る。足の早いガタ／＼といふ船、上等下等の區別なし。

　乘合ひ多けれど皆田子といふ處にて下りたり。沼津までは十四五人、その中に昨夜の日野屋店員もあり、なほ色々と話をつゞける。この人の弟は茨城縣取手の關谷の店に居るといふ。名は保次、自分も知つて居るやうに思ふ。

　仁科はこの地方でいふフドの一つ。海岸は高き石垣にて屋根のみ見え、所々に桝形あり、城郭の如し。

　海岸の岩すべて奇なり。洞になつたものも多し。火山の噴出物より出來たものといふ。中層に埴土の三四尺ある處もあり。田子といふ地名はこの附近にも存す。

　宇久須《うぐす》のあたりにて、海上の漁船より小旗又は笠などを高く掲げて信號す。今捕れたる魚を、すぐにこの沼津行き(249)の船に運ばせようとする也。魚はサンマ、又サメなどもあり。片はしに居る船員、ニダシを貰へもらへとわめく。漁夫たち乃ち小魚二三尾をくれ機嫌を取るなり。かゝる出來事、この航海中二三囘あり。

　安良里《あらり》は浪よけの堤を突き出して、小さいが良き灣なり。漁舟や小汽船の爲には安全なる風よけなるぺし。景色も佳し。

　小下田は一村絶壁にて、濱殆と無し。僅かなる海ばたに人家ありて、こゝに一村の漁舟を置く。村は高き丘の上に在り。田もあれど養蠶を主とす。一村にて一萬石の繭を出す。此村にも本年より、所謂商會が出來たれど、商人の泊るべき家が無く、村の會所といふ堂見たやうな建物の中で寢るのだといふ。村の道は石高くて、下駄をはく者は一人も無し。山の頂上まで畠と人家とがある。伊豆第一の僻村と謂つた人あり。氣の毒な話なり。

　土肥は之に反して廣い濱に松原あり。温泉出で風景よし。宿賃は最も安く、三十五錢にて魚を多く食べさせると、沼津の繭商人松本君は大に賞めたり。宿は日の出館、山手には別に温泉旅館ありて明治館、是も良し。戸田《へた》より山越一里、修善寺からは同四里ばかりか。五月から六月上旬はだめなれど、其他の月一度試みるも可ならんか。

　戸田も靜かなよき港なり。濱の松原ことに風情あり。こゝなる宿屋は大學で買取り、業を止めて居るといふが果して如何。夏ならば何とかして宿は求めらるぺし。

　大瀬《おせ》の明神のあたりは風景よし。此邊より駿河の方を眺望する趣きは又格別なり。沼津から西の方へつゞく松原、まことに繪の如し。

　十時前に沼津に着く。狩野川を上りて船を岸に繋ぐ。それから停車場に行き、久々にて全部の新聞を買込んで讀む。車中にて辨當とイチゴを買つて早速食べる。

　鈴川に下車、人力にて吉原の町へ、山中笑翁を訪ふ。翁は是から大宮へ行くといへば、馬車に同乘して附いて行く。

　その車中にて色々の話、吉原の町の社なる塞の神を見る。伊豆のと同じき石の坐像なり。被り物は頭巾とも烏帽子(250)とも見ゆ。前に持てるは笏なるべしとの話なれど、伊豆の立野にて見たるは、其物劍先の如く尖つて居たやうにおぼゆ。吉原の方の塞の神樣は横に木あり、其枝にサンダワラをつるしたり。疫神を送るときの粢《しとぎ》などは、この藁製品に入れて上げる也。

　大宮の官幣大社に參詣す。境内には清泉出で、其流れ直ちに川になる。富士の火山が作りたる地下水なり。時々は災害をなすことあり。一昨々年などは吉原その他に床の上二三尺の浸水あり。又家流れ郡内にて三十八人も死んだといふ話。

　大宮の社内のみたらしの邊の木にも、小さき藁苞をあまた下げたる所あり。是も疫神送りなるべし。

　再び吉原へ引返し、人車にて又鈴川へ、こゝはけふ自轉車の競爭あり。盛んなる人出なり。

　大林雄也氏に逢ふ。今は此縣牧之原試驗場に在り、場は金谷の少し北の方に在り。立ち話にて茶園の現況を聽く。此節は肥料を多く入れて、四番まで摘む者多く、費用は一番作にてほゞ取れるものといへり。

　夕方七時半頃興津に着き、東海ホテルに泊る。三年前に來て泊りし海に近い離れなり。清水港の燈火美しく見ゆ。

　夜東京へ電話をかけて此事を報ず。家も一同無事といふ。興津では瑞雲院の和尚、昨年身まかりたまへりといふこと、是も家へ知らせる。

　

(251)　　　瑞西日記

　

　　　　　序

　

　大正十二年の春、二度まで自分は伊太利を旅行したことがある。其頃の手帖が有るつもりで、頻りに手箱の中を捜すけれども、空襲時の騷ぎに藏ひ亡くしたものか、又は其前にもう散亂したか、どうしても見つけ出すことが出來ない。さうして大正十一年の瑞西閑居の日の日記が出て來たのである。あの頃私は國際聯盟の委任統治委員會で働き、餘暇が多いので本を讀み、又近い處をあるきまはつて居た。もつと色々爲になる見聞が有つた筈なのだが、小さな帳面だからほんの心覺えしか書留めて居ない。さうして二十五年後の今となつては、忘れてしまつて居たことが却つて伊太利の旅よりも多く、一身に取つてはなつかしい思ひ出に充ちて居る。それにしても斯ういふものまでが、世に遺されようとは豫期して居なかつた。是などは全く長生の餘得と言つてよからう。

　

　　　肩越しに人に見らるゝこゝちして思ふがまゝの日記もえ書かず

　

(252)　　　　　　　　　　○

　

　　（地中海）

　六月十二日（一九二二年）月曜

　午前箱根丸スエズに着く。港商人多く船に來る。人々上陸、カイロ見物に行く。自分は居殘り、福井三輪の二君と碁をうつ。又デッキゴルフ。

　夜のカナルの航路、兩岸處々の灯火、花やかなる感じ也。

　六月十三日　火曜

　未明にポートサイドに入る。此地今ネブの花盛り、白服は二三日前からと謂ふ。

　加茂丸西から入港。是は夕方にカナルに入つて行く。

　上陸して煙草を買ひ、次に領事館を訪問す。後刻その領事、内閣更迭の電報をもたらし訪ひ來る。

　アブラハム君に贈る爲に、ナイルの畫記を買ひに行く。又昨年の路を乘りまはして歸つて來る。夜は又福井君と碁。

　六月十四日　水よう

　未明に船が出る。カイロ行きの人たちは深夜に還り來り、けさは色々と其話をして居る。こちらは今日も碁など。

　六月十五日　木よう

　けふより又袷を着る。頻りに碁がはやり、本を讀むひま無し。

　クレト島の南を行く。その群島の一つ、ガバナスといふ小島を眼近に見て通る。午後はもやがかゝる。古き世のことを思ふ。

　洋人等は假装舞踏會を催す。日本人は茶話會。

(253)　六月十六日　金よう

　ピグミーオフエンシェンツを讀み了る。

　競技賞品の授與式あり。

　マルセーユの旅館と領事館へ電報を打つ。夜は骨牌や碁、チェリーブランデーを飲みて胃を惡くする。

　六月十七日　土よう

　早朝船はメッシナの海峽に在り。ストロンボリ火山の麓近く過ぐ。海靜かにして晴れたり。荷物をかたづけ始む。

　夜瑞西人フンチカー氏と談る。此人佐喜眞興英君の友人、教師として暫らく日本に在り、今度家族を連れてチューリッヒに還るよし。處番地などをこの手帖に書いてくれる。

　六月十八日　日よう

　早朝にコルシカ、サルヂニヤ二島の間を通る。午後は浪大いに高し。船長の室に招かれ繪を觀る。山本八丈跡見の三君と共に。

　有阪君と將棊、稻岡君と碁、又花合せの組にも加はる。夜も大いに搖れて廣間に人少なし。

　六月十九日　月

　晴、八時にマルセーユに近づき、十二時に漸く町に入込む。オテルデ）アイユへ行く。日本人二十人以上。荷物來ること遲く、夕方まで何處へも出られず。

　ラフィットに行き本を購ふ。夜はブイヤベス（魚料理）を食ひに、イスナールへ行く。田中豐島中井阿部四君と共に市街を散歩す。

　

(254)　　（南佛蘭西）

　六月二十曰　火

　晴、早天園田來る。荷物の輸送を托す。

　十二時十五分の汽車にて立つ。同行八人、他にも日本人十何名同車。箱根丸の船長と事務長、金子孃など驛まで見送りに來られる。

　リオンの永田へ電報を打つ。乃ち迎へに出てくれる。車中極めて暑かりし。里昂着は七時、昨年のグランドホテルに投宿、あわたゞしく寢る。

　河野通九郎君まだこの地に留まり居り、夜遲くなつて訪ひ來る。

　六月二十一日　水

　この驛前のホテルは例の如く外騷がしく内靜かなり。河野兄と公園附近をドライブし、其後正金と三井の兩支店を訪問す。

　マダムフイユに行き鷄を食ふ。同行十二人、河野永田瀧澤敬一の三君も此中に在り、此人たちと別れ、公園を散歩して還る。

　夕、原君に招かれて公園のシャレエといふ店に行き食事、薄暮の景最も佳なり。

　豐島三浦阿部脇阪中井の五君、深更の汽車にて巴里へ立つ。

　六月二十二日　木

　寺田岡部の二君この朝出發、有阪福井二君は午後に立つ。是にて箱根丸の仲間は分散し盡したり。ジュネブの大澤へ電報を打ちて後、三井と原の店へ行き、それから領事を訪ふ。河野吉本西本の三君と、ソーヌ川下流のギーといふ川魚料理に行き午飯、かへりにフラマリオンに寄つて本を買ふ。

(255)　濱崎君の家を郊外に訪ふ。テニスを見るうちに急雨來る。雨後の薄暮に鳥の聲多し。日本の食事馳走ありて後、人々の踊り樂しむを見る。夜更けて永田岩田の二君と共に還る。

　六月二十三日　金

　田中子爵けさグルノーブルに向つて去る。

　永田岩田二君來る。共にリユーペレネーのレオンといふ家に行き食事、レオンは此町の名だいの店、古趣多し。中庭に聖母像あり、其下に猫の像があるなど。それから博物館に行き繪を觀る。原の店に寄り新聞を讀む。

　馬車にて公園をあるく。西本君の宅に行き夕食、原河野の二君も加はりトランプ、吉本君も遲くなつて來る。十一時に歩してホテルに還り時事新報を讀む。

　六月二十四日　土

　瀧澤君來訪、名刺を置いて去る。永田君來る。是から遠足にゲルノーブルに行くといふ。吉本君東京朝日新聞を持つて來てくれる。

　午時、原の店に行き、人々と共にメリヂァンの村莊へ午食に招かれて行く。閑かな庭に出てクロッケーを試む。それからゴルフ場に行く。ローヌ川の下流、羅馬水道の廢墟の見ゆる處なり。

　領事邸に行きこゝでもテニスを見物、夕飯を饗せられて十時半かへる。

　六月二十五日　日、朝少陰、さむし。

　東京朝日を見る。先月二十六日までの分なり。

　吉本河野二君迎へに來り、再びメリヂァンに行く。シャルボニエーの遊園に行つて見る。ソーヌの川上に行き、路傍の料理屋にて川魚を食ひ、又メリヂァンに歸つてクロッケーをする。

　ドミリユーヌの片山英君の宿に招かれて蕎麥の御馳走、細君は長野の人なり。

(256)　六月二十六日　月

　ジュネブに電報、正金三井原の三店に行き禮を述べて來る。水田君來り共に食事、午後一時四十分にてリオンを立つ、河野君見送りに來てくれる。

　六時ジュネブ着、大澤林二人出迎、ボーセジュールに投宿す、關口淺利矢代の三君も同じホテルに泊つて居る。大澤加はり五人にて夕食の後長話。

　

　　（新居生活）

　六月二十七日　火、けふも曇、冷氣。

　葉書を東京の宅と、伯林の矢田部と里昂の河野とへ出す。又馬耳塞の園田へも、是は荷物の事なり。

　聯盟事務局に行き、新渡戸原田吉岡の諸氏に逢ふ。又ラッパール教授にも面會、クラブにて晝飯、シュレーダー夫人ナリシュキン孃來る。

　銀行に行き兩替、マルクモニエーの事務所に行き、宿に歸り關口及藤澤夫人と雜談、夜は大澤君來て色々不在中の話をする。

　六月二十八日　水

　八時に起き九時に食事、里昂の永田、馬耳塞の草加、及兩地の領事へ挨拶?、又東京の中桐、大阪毎日の福良、川崎恆二君等へ葉書。荷物を少し解きて本などを事務所へ送る。

　大澤二度來る。午後共に家を捜しに行く。マダムシュレーダーを訪ふ。町で買物の後、大澤君の家に寄りてかへる。

　午後は中々暑し。奧山香阪二君訪來る。

　播州の三木氏へ葉書、又新村川口の二氏へも。

(257)　六月二十九日　木

　けふは冷氣、午前中日本人を見ず。

　午食後、關口君と附近を逍遙し、又巴里の松田、東京の石黒、朝日の安藤等へ手紙を書く。その他繪葉書數葉皆日本へ。

　大澤來り共に家を見に行く。事務所に寄り、ロンドンの住友支店長大平君に逢ふ。さそひ歸り關口君と三人食事。

　六月三十日　金、けふも涼し。

　大澤君と共に行き家をきめる。

　事務所によりて後、コックドルに行き晝版。オテルボーリバージに奧山香阪二君を訪ひ、共に散歩してパルクデゾー?ーブ（活水公園）の旗亭に憩ふ。

　兩替に行き又事務所に寄る。夜藤澤君來る。

　關口君はけふ出發。

　七月一日　土、清涼。

　宇佐美君電話、繪葉書を日本の諸友、うちの小兒などに出す。又里昂の原君に禮?。

　午後大澤君夫婦來る。いよ／＼カバンを提げて引越し。（借家はホテルから半町ほどの處）。林夫人も手傳に來てくれる。新しい家のベランダにて茶を飲む。夜は庭に下りて談る。

　けふ墺太利の女奉公人目見えに來る（ボヘミア産）。

　七月二日　日よう

　八時まで寐たり。此家の風呂は色々都合惡し。淺利君訪ひ來る。大澤君家族と共に遊びに來る。

　奧山君に逢ひに行く。少し話をして五時頃に散歩にさそひ出し、アヌマス附近に行く。旅行免?を要する國際散歩(258)なり。

　シェンブールのペレーにて夕食、雨に遭ふ。

　七月三日　月

　けふは始めて大いに暑し。ミスブラウン佛蘭西語を讀みに來る。毎日十時半より一時間の約束。

　午後大澤君金井清君を伴なひ來る。長く話をする。

　林君より蓄音器とタイプライターとを送り來る。町へ買物に出づ。金井君とベルエールにて別れる。

　夜もとの家主へ電話がかゝつて來て受返事に困る。

　七月四日　火

　女中をきめる。アンナ・ビュシエといふ名。佛蘭西語は自分よりもへた也。ミスブラウン來る。以下毎日の事ゆゑかゝず。倫敦のスコットへ新居の番地を知らせる。

　ジャン・ロミウ君を訪ふ。工學士、日本語が少し讀める。土地のやゝ舊家らしい。事務所にまはり宇佐美君に逢ふ。藤澤夫人を訪ふ。

　夜おそくまで物を書く。けふも中々暑かつた。

　七月五日　水

　けふも暑し。

　林夫人蓄音器の針と把手とを屆けてくれる。

　福良君から手紙、加田君葉書。

　理髪に行く。それから聯盟事務局に行き人々に逢ふ。毎日新聞の西野入、大阪の羊毛商伊勢谷君などにも。

　七月六日　木

(259)　ロミウ君から手紙、返事す。石井子爵と山川君へ手紙、その他方々へ葉書。ラッパールの代理より電話あり。

　ブラウンに蓄音器の追分節を聽かせてやる。わからなかつたらしい。

　宇佐美君夕飯に來る。吉岡女史も一しよ也。

　夜雨降る。原田健君へ葉書。

　七月七日　金

　伊勢の川喜田君、信州小谷の馬場治三郎君など、地方の人たちを思ひ出しポツ／＼葉書をかく。

　大澤來る。細君少し病氣のよし。ブラウンに錦繪を見せてやる。是も口を馴らす一策なのに、つい英語の方を使つてしまふなり。

　リオンの片山君に本を贈る。成城學校の小原君にエスペラントの論文を郵送す。

　事務所に行く。大澤君と議論、次で茶を飲む。

　夜月よし、藤澤君夫妻話しに來る。

　巴里の松田君手紙、返事をかく、河野よりも葉書。

　七月八日　土よう

　けふは母君の日なり、もう二十五年になる。

　ロバートソン・スコットより葉書。朝のうち色々の人來る。ブラウンを引止めて午食を出す。

　原田宇佐美林の三君、テニスに來た序に新居を見に來る。

　けふよりジュルナルドジュネブを配達し始む。歴史地理日本より屆く、讀む。奈良の高田十郎君音信。返事す。

　夜大いに雨降る。

　七月九日　日よう

(260)　日本から郵便、下村宏、大橋金造、市川藤五郎等の諸君、リオンの片山英君よりも?。

　林夫人吉岡孃二人來り、晝食をたべて話して行く。

　岡部君から葉書、返事す。奧山君同じく伯林より。

　午後アルブ川の岸を逍遙す。雜誌「なら」を受取り讀む。高田君の爲に小文を草す。

　七月十日　月よう

　昨夜おそく關口君山より下り來り一泊。

　ロミウ君訪ひ來る。ピッタール教授に逢つて見よといふ。

　午後マルクモニエーに行く。兩替と買物、煙草に繪葉書、今なほ旅客の生活なり。

　マダムシュレーダー母子、原田君と共に來り夕食。十二時近くまで話して行く。雨降り來る。

　七月十一日　火よう、雨

　關口君來り午食閑談、小荷物を頼む。午後大澤君來る。

　史學の五月號、朝日縮刷五月號到着。週刊も是で三囘とゞく。

　アブノーエルより手紙、すぐ返事す。親類處々、朝日の鎌田君等へ葉書、又コロンボで世話になつた首藤刀自へも。

　七月十二日　水よう

　午後雨降る。

　リオンの片山英君より、今度の施行日取りを知らせて來る。

　マルクモニエーに行き、次にケーデゾー　　ーブの勢働事務所に行きて閑談す。川西君と共に還つて來る。大澤君、時計がなほつたと謂つて持つて來たが、なほつては居ない。夕方藤澤君立寄る。

　七月十三日　木よう

(261)　晴、朝の散歩に洩利君と出逢ふ。岡村及び矢田部より葉書來る。　牛後大澤と共にマルクモニエーの事務所に行く。

　蒲大佐（穆）を訪ふ。舊友蒲寧君の弟かと思つた想像はちがつて居たが、散歩を共にし歸つて日本食事を馳走される。

　

　　（山めぐり）

　七月十四日　金

　昨夕關口君來り空しく歸せし故、けさちよつと逢ひに行く。今晩の汽車で立つといふ。後刻又やつて來て午食を共にす。

　一時の汽車で自分の方が先に立つので、關口君は停車場まで送つて來てくれる。

　汽車ロウザンヌの驛で、里昂の一行と落ち合ひ、インテルラケン行き。ベルンの町見物。車中箱根丸の舊知ケラー氏、鐵道院の今泉技師に逢ふ。

　インターラケン着。ホテルユングフラウに投宿、一行七人。

　七月十五日　土よう

　此日大雨にて山に登ること能はず。原善一郎氏夫婦、巴里より來り會す。

　雨中自動車にてトリュンメルバハの瀧、グリュンデルワルドの氷洞を見に行く。夜歸りてトランプ。

　七月十六日　日よう

　十時十七分の汽車にてインターラケンを立ち、別の路をまはり還る。途中乘替四度。

　山々には雪新たに降りたり。牧場多き幾つもの山村を通る。大分西部瑞西の中がわかり、すきになる。

(262)　六時過ぎに家に歸る。里昂の人々とは停車場で別れる。

　

　　（色々の客）

　七月十七日　月よう

　マルクモニエーの事務所に行き、宇佐美君と話をする。マルセーユの草加君よりの手紙を受取る。

　歸りて書類を多く讀む。三枝有吉の二君へ手紙を書く。

　七月十八日　火よう

　ブラウンを留めて午飯を共にす。藤の花なほ盛り也。

　家よりの葉書二つ、大澤もち來る。東の野に出て山を見る。

　唐澤より葉書、返事を出す。

　聯盟事務局に行きて原田君に逢ふ。新渡戸先生はこの二十五日の夜歸つて來られるよし。夜淺利君來る。引留めて色々の話をする。

　七月十九日　水よう

　西野入君よりはがき。

　家に靜かに居る。色々の樹の實熟せんとす。

　アナトル・フランスの「白い石の上に」を讀み終る。下讀みなり。英譯を合せて是で四度目。川西君夫婦夕食に來る。沼津に居た頃の話などをする。

　七月二十日　木よう

　庭の白い小薔薇段々に紅い色にかはる。梅も色づいて來る。酸味が日本のよりは淡いやう也。

(263)　マルクモニエーに行き、更に町に下りて本と帽子と煙草とを買ふ。

　大澤來る。茶を共にす。

　七月二十一日　金よう

　隣の庭の大木の樹實の美しさ。名を知らず。雀の子頻りに來て鳴く。

　唐澤君へ手紙を出す。是は昨日だつたか。

　午後大澤ちよつと來る。

　夕食後散歩して落合に到る。それより川を上りてルソー島まで。

　七月二十二日　土よう

　大阪朝日を見る。六月二十三日までの分、午時大澤來る。

　午後日照りて雨降る。アナトル・フランスのラ?ーアンテルールを讀み了る。

　プチサコネまで電車にて行き、昨年のベンチに腰を掛ける。

　七月二十三日　日よう

　雨終日降る。夕方少し小止み。唐澤より、二十五日來るといふ書信あり。

　夕方散歩して東の山を望む。歸りに川西君の處に寄る。聖書の會とて大澤君、吉阪夫人吉岡孃來會せり。早々かへる。

　七月二十四日　月よう

　けふも度々降る。終日何處へも行かず。村上より葉書。

　林夫人來る。夕方藤澤君來る。夜電報、唐澤より。

　七月二十五日　火よう、曇り降らず。

(264)　唐澤君一行四人、此朝九時着、驛まで迎へに行き、ホテルボーセジュルへ入れる。土産羊かん也。宮島博士より手紙及び本とゞく。

　午後唐澤一行と共に散歩し、聯盟事務局に行く。金井君に逢ふ。船にてベルリーブに行き茶、町に歸りてコックドル（金?亭）にて夕食。

　七月二十六日　水よう

　朝唐澤君等訪ひ來る。メロンをくれる。けふは好晴なれど少し冷に過ぐ。グランパッサージにて買物、唐澤君等は釣に行く。

　マルクモニエーに立寄る。草間君より手紙、返事す。

　アルブ川の岸の林へ行き、日本の新聞を讀む。

　唐澤一行、夕食に來る。

　七月二十七日　木よう

　ポンソンビーより手紙、又島田よりも、是には返事を書く。

　ブラウンを休む。自分でことわりに行く。それから唐澤一行と共にサレブ山に登る。少しく霞みたる日なり。かへりにグランドゴルジを歩し下り大いにへこたれる。

　留守中に原及び河野の二君訪ね來る。

　夕食は唐澤君等にホテルへ招かれる。

　七月二十八日　金よう

　この朝九時二十分の船にて、唐澤君等の立つのを見送り、ホテルボーリバージに行きて原河野二氏を訪ねる。二君を誘ひ午時にボーセジュルまで歸つて來る。こゝに井上哲次郎博士あり、面會する。

(265)　二君を案内してカテドラール及び博物館見物、ベルリーブに行きて茶、パルクラグランジをまはり、家へ戻つて來て少時雜談す。六時の汽車にて二君は里昂に還る。明日はオランジの野外劇のよし。

　七月二十九日　土よう

　矢代君訪ひ來る。今日から旅行に出かけるよし。大澤の細君が同行すると也。伊多利の話を聽く。

　河西君より電話。

　午後はマルクモニエーへ行く。石井松田二氏より手紙。又杉村松岡よりも、是は返事を書く。

　河西君の處へ忘れたステッキを取りに行く。

　三枝君の手紙、林夫人とゞけてくれる。

　夕方散歩、一人古町の方をあるく。

　七月三十日　日よう、好晴清涼。

　井上哲次郎氏來訪。シュレーダーの息子、古曲譜をもらひに來る。

　アブ》ーエルより葉書、又村上よりも唐澤一行よりも。

　蒲大佐よりオテルベルグへ茶に招かれる留別宴なり。ロミウ君も來り會す。土屋淺利の二君とあるいて歸る。淺利君を引留めて夜遲くまで話す。

　七月三十一日　月よう

　昨夕ポンソンビーと巴里の町田君とへ手紙を書く。

　三枝君より書類とゞく。ロミウ君來る。

　大澤來る。土屋倉橋二君來る。午食を共にす。ラポルト夫人といふ日本老女のことを此二人から聽く。

　八月一日　火よう

(266)　九時に聯盟事務局に行く。十時半から委任統治委員會の會議に出席。今日始めて逢つた人は、西班牙の委員と勞働側のグリムスビーのみ。正午事務所に還り松田君に逢ふ。共にシエーベルに行き食事。

　午後は四時開會七時過ぎまで。かへりて夕食、ブラウンを呼ぶ。

　夜の雨の中を倫敦の太田君夫婦到着、ホテルへ迎へる。

　八月二日　水よう

　ホテルに行き、太田二人と朝飯を共にす。けふも十時から會議、午飯にはラッパールの家へ招かる。英國の委員オムスビーゴア、那威の委員マダム?クセル及び松田君と同席なり。

　午後湖岸を逍遙して太田君夫婦と逢ふ。午後の會議を終つて七時半に歸り、太田君二人と夕食を共にす。

　八月三日　木よう

　太田二人は九時二十分の船にてインターラケンへ行く。見送りて後理髪に行く。

　十一時から一時半まで會議あり、四時からはニュウギニヤの報告あり。其間にマルクモニエーの事務所にて松田君と會談。

　田中子爵及び岡部君、アルプスより降り來て來訪、一泊して去る。

　八月四日　金よう

　午前は會議無し。ブラウン林大澤來。林は田中岡部を案内する。

　午後三時半開會、ナウルの話あり、それから日本報告に對する意見の交換、夜はインテルナショナルクラブにてラッパール書記長の招宴、伊日瑞英米人等の話あり。米人コックスは民主黨の大統領候補者なりといふ。

　八月五日　土よう

　紫の木蓮花咲く。杏は次第に甘くなる。

(267)　午前も午後も會議、午時に歸つて來ると、淺利君が訪ねて來る。　夕方大雨、霑れて歸り再び松田君の招宴に行く。オテルボーリバージ、相客はラッパール夫妻、日本名譽領事父子など。

　八月六日　日よう

　家に在つて靜かに泉の音を聽く。

　午後有島健助山田嘉吉の二君訪ひ來る。山田氏は、わか子さんの旦那なり。二君を誘ひてシャトレーンの輕氣球競技を見に行く。湖上をベルリーブに渡り行き夕食を共にす。

　夜大いに雨降る。

　八月七日　月よう

　けふは九時半より會議。

　吉岡女史の室にて金井君に逢ふ。

　ベルグホテルにて、委員一同よりラッパール夫婦を午餐に招く。

　里昂の山田君に逢ひ、共に勞働の事務局に行く。那須君の兄さんといふ人に逢ふ。

　四時半より又會議。五時より公開の委員會ありて、濠洲の代表者と委員との間に大論戰あり。

　うちから手紙、又雜誌も來る。月よし。蝙蝠しきりに飛ぶ。

　八月八日　火よう

　蒲大佐より手紙。

　小谷口碑集とゞく。之を讀みて馬場治三郎君に手紙を遣る。

　會議午前は十時半より、午後三時半より。途中マルクモニエーの事務所に寄り、司法省の松井氏に逢ふ。

(268)　夜叉雨降りて淋し。

　八月九日　水よう

　小野君へ手紙。

　十一時から會議始まる。

　午前宮島君訪來、けさ到着すといふ。夕方宮島草間の二君誘ひ、ベルレーに行き食事す。月よし。

　田中子爵よりはがき。

　八月十日　木よう

　唐澤眞一君より葉書。返事す。又川口小池の二君へも葉書。共に爐邊叢書の筆者なり。

　會議は十時から。午時に宮島博士に招かれて、デゾー?ーブ園にて食事。田中都吉君新渡戸博士等同席。

　ブラウン三時から來て待てり、夕方大澤來る。夜又雨降る。夜深くまで書を讀む。

　八月十一日　金よう

　朝好晴、庭に出て杏の實を採つて食べる。唐澤君より葉書。

　十時から最終の會議、一時二十分にすむ。田中都吉君をさそひ、ボーセジュルに歸りて午飯閑談。

　稻岡君よりフライブルグより葉書。箱根丸同船の醫博士なり。

　夜アルベルトマ氏招宴、インテルナショナルクラブにて。

　八月十二日　土よう

　好晴、午後暑し。昨夜よく寢られず疲れたり。本を讀む。

　マダムメリナを訪ふ。留守中に草間君來り、明日の船遊びに誘ふ。朝寢をするので行かれず。

　石井大使への手紙を書く。又菱川瀧澤二君へ書信。小野君より返事あり。

(269)　八月十三日　日よう

　好晴、けふも暑し。借家の事にてマダムアラニ訪ひ來る。

　日本への報告を書く。ついでに方々へ葉書。宮島君に誘はれてホテルボーリバージに石田隈川二君に逢ひに行く。ケンブリッジの井田といふ青年にも逢ふ。コックドルに行き夕食。大學構内の公園を散歩す。

　堀口大學の佛譯詩集をもらふ。

　八月十四日　月よう

　けふも大いに暑し、夜まで蒸す。草加へ手紙。

　午前新渡戸博士、石田隈川二君と同伴來訪、共にボーセジュルにて晝飯。

　事務所に行き金を受取る。又アブラハム等に逢ふ。

　埃及政情誌を讀み了る。

　藤澤君來り、本をくれる。夜小谷口碑集を見終る。

　八月十五日　火よう

　夜來大いに雨降る。マダムメリナから手紙、スコット君から同上、是には返事を書く。

　マルクモニエーに寄る。金井君在り。町へ出て本その他買物。

　夜宇佐美君暇乞に來る。巴里へ行くといふ。

　八月十六日　水よう

　けふは好晴なれど冷かなり。

　關口君より手紙。

　大澤君來、マダムラポルト來。

(270)　八月十七日　木よう

　原君よりの手紙によりホテルボーセジュルヘ室を取りに行く。

　ロミウ君より、モンブラン登りをするよし告げ來る。村上菱川二君からも通信。返事す。大澤來、ラポルト再び來る。

　七時半吉阪君に招かれて大澤と共に行く。吉阪君は日本に還るよし。

　ラムブランの猶太禍論を讀む。

　八月十八日　金よう

　朝日縮刷及び週刊とゞく。

　草加高野二君より書信、返事す。昨日は服部兵次郎君へはがき。

　八月十九日　土よう、晴

　事務所に行く。金を受取りに銀行へも行く。

　午後原君夫婦及び橋本君來着、共に散歩に出る。オテルドラペーに寄り大住君をさそふ。前田公篤君夫婦と宮島草間の二君をも誘ひ、デゾー?ーブの公園に行き夕食。

　八月二十日　日よう

　好晴、家に在りて書を讀む。藤澤君來る。

　午後家にて茶の會。原吉阪前田三夫婦、マダムラポルト、宮島大住藤原橋本などの人々來る。

　夜宮島大住君等と、ベルリーブに行きて食事、十一時に歸り來る。

　八月二十一日　月よう

　高野黒須二君より葉書。

(271)　ミルモン町の借家を見に行く。

　工學士カスタン夫婦に逢ふ。事務所に寄る。ボーセジュルに行きて見る。原君外出中。夜になり原橋本二君來話。

　

　　（山めぐりの二）

　八月二十二日　火よう、朝のほど雨、後晴るゝ。

　午後一時半の汽車にて立つ。ローザンヌ・ベー乘換へ、?テルに午後六時到着、淺利君迎へに來てくれられ、オテルベル?ュウに行きて泊る。

　夕方又雨、稻妻雷鳴、夕日雨の中にかゞやく。山上の光景奇なり。

　八月二十三日　水よう

　?ラルに在り、けさもまだ晴れず。朝湯に入る。

　大いに寒し。どこへも行かず、本を讀む。

　午後テルチック氏夫婦及びグリュンベルグ氏母子と談る。タローの十字の影の獨逸譯をした人といふが、其本も見たことは無き也。

　八月二十四日　木よう

　けふは好晴、淺利君に送られてホテルを去る。子供の運動會を見殘して殘念なり。

　汽車十一時發、ベーにて晝飯、一時半の汽車に乘る。ブリッグ午後三時、そろ／＼涼しくなる。又乘換へてローヌの溪谷に入る。

　フルカ鐵道といふ沿線好風景なり。七時過ぎグレツチェル着、氷河館に泊る。山國風の宿なり。

　八月二十五日　金よう

(272)　八時にグレッチェルを發す。乘合自動車。水河の傍に下車して見物。峠の中腹にて三高の林君に逢ふ。

　アンデルマット十一時着。こゝのベル?ユウホテルにて晝飯。十二時三十七分發の汽車、ゲッシェネンにて幹線に乘りかへる。サンゴタルドの隧道は電氣故苦しからず。

　三時過ぎルガノ着。湖岸のホテル、爰でもベル?ュウと稱す。

　夜町の中を散歩す。諸事伊太利風、本屋店先にてムッソリニの小胸像を賣る。

　八月二十六日　土よう

　窓を開け、湖水を見ながら寢たり。朝日が顔にあたつて目をさます。

　九時過ぎホテルマイステルに行き、鮎澤及び藤澤の二君と會ふ。

　市役所の二階にて獨逸人ケスラーの演説あり。終つてマイステルに引かへし、澤山の三宅花圃さんたちに逢ふ。午後は瑞西の教育學者チェレゾレ氏の講演を聽く。國際婦人協會の成立ちを知らぬ故に、話に判らぬこと多く、たゞ熱烈な身振に眺め入るのみ。

　サンサルバドルの丘の上に登る。夜は此會の爲に、町にて音樂燈火の催しあり。それを見に行く。

　八月二十七日　日よう

　ルガノを八時十分に出發、湖上の船にて所々の村を見て行く。船の形めづらし。

　ポラツォに上陸、電車一時間にて、コモ湖畔のメナジョに着く。湖岸の茶店にて晝飯をしたゝむ。船少しおくれて來る。

　コモは好き湖水なり。汽船は處々の小さな所に寄つて行く。町毎に寺の塔あり。日曜の鐘鳴る。其調子はわざと寺毎に變へてあるらしい。湖岸の家には多くオレアンドル（爽竹桃）を栽ゑたり。その紅い花が今花ざかり、湖水に映つて美し。

(273)　コリコ驛に上陸して汽車を待つこと一時間、四時半にこゝを發車、ソンドリオにて乘替へ、七時半にチラノに着く。グランドホテルといふに泊る。

　八月二十八日　月よう

　ゆるりとして居たら面白さうな町なり。町を出るとすぐに伊瑞國境。いよ／＼山村に入る。蕎麥あり栗あり、湖の傍によきホテルあり。急こうばいにて忽ち二千三百米の氷河のそばまで登つて行く。

　ポントレジナはサンモリッツに行く路の口なり。こゝも氷河に近し。是より山川の崖の上をクールまで降りて行き、ワーレン湖の酉の岸、ウエゼンといふ村に下車し、ホテルスペールといふに投宿す。農家の旅店を兼ぬる者、英人の老夫婦など下宿す。世話をするは三十餘りの此家の主婦なり。停車場の近いだけが缺點なれど、その他は一切が田舍なり。

　日暮れて弦月を見る。

　八月二十九日　火よう

　ウエゼンの宿屋の朝は閑靜なり。庭先の石段の端にて食事す。小鳥あまた來る。パンも燒きたて牛乳もしぼり立て、一升も入るタッブに入れて來る。ことに女の言葉少なきがうれし。

　九時二十七分にこゝを立つ。チュリヒ、オルテン、ベルン、皆通つたことのある路なり。五時半少し過ぎにジュネブの家に歸着。

　るす中の手紙、瀧澤矢田部島田名倉服部その他。宮島君は二十二日以來こゝに來て泊つて居る。夕食に土屋君及び川瀬孃が招かれて居る。共に食事をする。

　

　　（第二の新居）

(274)　八月三十日　水よう

　ブラウンに家引越しの用事を皆頼む。

　町に出て買物及び金受取。原田君を訪ふ。又プリバ博士に逢ふ。新渡戸さんに南島談話會の事を報告する。

　渡船の中にて周君と逢ふ。

　藤澤君來る。夜は宮島君と話してしまふ。

　八月三十一日　木よう

　晴、至つて冷かなり。

　島谷亮輔君訪來。大阪日々の松田君同行。

　那須君家族と共に訪ひ來る。一しよにベルリーブに行き晝食。新渡戸先生宅まで同行。

　歸りに洋服屋シュワルツに寄り、それからボーリバージホテルに、奧山石井二夫人を訪ねる。

　九月一日　金よう

　再び昨日のボーリバージに行き石井大使に面會、又奧山君にも。

　夕方淺利君訪ひ來る。

　九月二日　土よう

　稻岡君より電報。

　那須君晝食に來る。藤澤君夫婦來訪。

　那須一家と共に新渡戸さんの茶の集りに行く。色々の米人に逢ふ。歸りにレキュホテルに行く。

　停車場に行き稻岡君を迎へ伴なひかへる。二晩こゝに泊ることになる。

　九月三日　月よう、雨降り曇り寒き日。

(275)　家の茶の會、松田奧山三枝三氏夫人小兒來る。又草間君林夫人も來る。

　稻岡宮島の二君とボーセジュルに夕飯に行く。

　九月四日　月よう、午後より天氣。

　聯盟總會十一時より始まる。稻岡君同行。船中に長尾少將に逢ふ。又安保男爵にも逢ふ。

　午後島谷松田二君來る。一緒に又午後の總會に行く。稻田君は一時半の船で還る。

　午後六時から理事會あり。マンダ（委任統治）の問題なり。

　夕飯にボーセジュルに行く。島谷松田二君、夜遲くまで家に來て話して行く。

　九月五日　火よう

　晴天なれども冷氣、引越しの爲荷物をかたづける。

　宮島君と午後事務所に行く。それから總會を聽きに行く。本多氏も同行。

　かへりは藤澤君と一緒、別れて家に來て一人で夕飯。

　

　　（和蘭行き）

　九月六日　水よう

　今日引越し、ミルモン街六番地の小さい二階家なり、十一時半荷物をかたづける。新居の家主シュヌー夫人に逢ふ。

　金鷄亭にて晝飯、宮島草間二君同伴。

　事務所に行き人々に逢ふ。金を受取る。

　ブラウンに家の事を頼み置き、五時にジュネブを立つ。ラポルト驛まで送り來る。立談。

　途中月出づ今夜滿月なり。夜半にバーゼルを過ぐ。

(276)　九月七日　木よう

　フランクフルトにて夜が明ける。ヰスバーデンより莱因川の右岸を下る。地圖なき爲に町々の名を知らず。たゞローレライのあたりは、寫眞で見て居る故によくわかりたり。

　獨逸國境を出る手續き最も煩はし。車中の人?々かはる。七時過ぎに海牙着、田付氏を訪ひ夕食をよばれる。島田亙君乘る。

　昨年のホテルベル?ュウに泊る。

　九月八日　金よう

　理髪、風吹き落葉しきり也。

　島田君來り共に文書館に行く。館長ブール翁に會ふ。珍しいものを見せてもらふ。

　田付氏に行き共に晝の食事。午後又島田君と平和宮及び森の御殿を訪ひ、モーリツ博物館の繪を見る。ナイホフに寄り本を買ふ。

　夜スケヴニンゲンのパラスホテルの晩餐會に行き、蘭日協會の人々と會ふ。ドクトルハルトホ、歡迎の挨拶をしてくれる。

　九月九日　土よう

　公使の宅へ禮に行く。事務所に行き、ヘルシングフォルスに居たといふ二瓶君に逢ふ。

　十二時二十分の汽車にて海牙を立つ。アムステルダムに下車、晝飯。

　博物館を見る。雨に遭ふ。五時にこゝを立ちてフリーズランドに向ふ。夕陽の時海を渡る。又雨ふる。レーワルデンのホテルアミチシヤに泊る。

　九月十日　日よう

(277)　八時にレーワルデンを立つ。其前に少し町を見てあるく。

　グロニンゲンには下車のひま無し。いろ／＼の和蘭人と話す。東北部の人たちは殊に人がよく、呑氣な先生ばかり也。

　ハムブルグ行きを見合せ、ブレメンより伯林に直行す。けふは日本人に逢はざりし日なり。

　夜九時四十分伯林着、カイザーホフに泊る。

　九月十一日　月よう

　十時に矢田部來る。

　グゼリウスに行き本を見る。

　大使館に行き松原君等に逢ふ。

　豐島木村隈川の三君を訪ふ。皆不在。矢田部の宿に行き箕作君に逢ふ。

　田口弼一君ホテルへ訪ひ來る。

　夜オペラを見に行く。ジーグフリード也。日本人七八人を見かける。

　歸りに雨に逢ふ。ショールにて夜食。

　九月十二日　火よう

　早天に木村修三君訪來る。又矢田部も來る。

　十二時十五分にて伯林を立ち、三時半ライプチヒ着、ホテルアストリヤに泊る。白鳥博士は去りて既に在らず。

　博物館を見に行く。それから公園と町とを散歩す。一人も日本人に逢はず。

　九月十三日　水よう

　ライプチヒを六時四十分に立つ。車中雨寒く無聊なり。ニュルンベルグに降りるつもりだつたが中止、ミュンヘン(278)も見合せ、アウグスブルグに下車、バーンホフホテル?クトリアの小さな室にとまる。

　夜又獨り町をあるいて見る。映畫を見て還る。

　九月十四日　木よう

　八時五分アウグスブルグを立つ。次第に野に出で、國境の山の雪見ゆ。

　リンダウにて香阪君に逢ふ。大阪の人田中岩吉君夫妻同船す。汽車中も席を連ねて話しながら來る。

　オルテンのシュワイツァホフに泊る。町に出てバラライカといふものを聽きに入る。夜操車の吾騷がしくて寢にくし。

　九月十五日　金よう

　八時二十八分オルテンを立ち、一時過ぎジュネブ歸着。香阪氏と同行、雨終日降り寒きこと甚だし。

　家には方々から手紙。讀むのにも大分のひまがかゝる。「史學」には自分の論文が出て居る。宮島君はホテルに在り、電話をかけて話す。ラポルト來る。

　

　　（總會の頃）

　九月十六日　土よう、好晴、朝は霞。

　日本へ先づ返事を書く。葉書も何通か出す。

　マダムシュレーダーを訪ふ不在、事務所に行き、偶然に園田寛君に逢ふ。

　林本田二氏來り夕食。十一時過ぎまで話してかへる。

　九月十七日　日よう

　けふも好晴、宮島氏と散歩をする。かへりて唐澤へ返事。

(279)　午後又一人でカルージまで散歩に行く。町の人たちの娯樂のさまを見る。

　九月十八日　月よう

　園田君來る。一緒に總會に行く。コックドルにて午食。

　午後は事務所に行き金を受取る。

　夕食後、宮島君と町をあるく。

　九月十九日　火よう

　園田君來る、總會を聽きに行く。事務所にも行く。

　岡田君夫婦とボーセジュルに行く。爰にて園田淺利二君に逢ふ。淺利君をさそひ家に來て話。

　九月二十日　水よう

　午前總會に行く。マンダの討論あり。

　事務所に行く。松山君をさそひ散歩、川端にて近藤君の一行と逢ふ。箱根丸の同船者也。

　夜松山君と食事。

　九月二十一日　木よう

　近藤寺本岩本の三氏來る。總會に案内す。

　ベルリーブに行き午食、最もうつくしい天氣なり。奧山岡田其他二人の夫人にあふ。マダムニコルの狗にも逢ふ。

　矢田部へ手紙。

　九月二十二日　金よう

　總會早くすむ。事務所に行く。水曜日のラッパールの招宴、次の週のことゝ誤解して缺席したこと判る。

　午後宮島君に招かれ、パルクデゾー?ーブに行く。吉阪鳩山二氏及び夫人と同席。

(280)　夜は獨り家に在り。

　九月二十三日　土よう

　山川増田二君へ手紙。

　ロミウ君來る。

　總會に遲く行く。事務所に行く。關口君來てあり、ちよつと逢ふ。

　長尾氏より電話、豐島君が來て居るといふこと。パレスチナ代表者から手紙、返事をする。

　點澤君に招かれて行く。すき燒きなり。色々の英人にあふ。

　九月二十四日　日よう

　少しく雲あり、小鳥窓に入る。

　澤村君より葉書あり。長尾氏より再び電話、オテルベル?ユウに行き、豐島加藤の二君に面會。加藤君と共に松田夫人の病を訪ふ。歸りて長尾豐島二君と午飯を共にす。豐島加藤の二人は一時半の船にて立つ。

　四時に宮島君と二人で、ロミウ氏へ遊びに行く。茶あり。ピッタール教授に面會、話をする。

　夜關口君來る。

　九月二十五日　月よう

　午前總會を聽きに行く。ラッパールに逢ふ。事務所に行き、石井大使に逢ひ話をする。

　家にて日本風の?料理をする。草間御厨關口の三君を招く。

　九月二十六日　火よう

　朝曇れり。總會ではロバートセシルの演説あり。

　宮島君はけふ立つ。見送りに行く。

(281)　香阪君もけふ、田口弼一君も今夜立つとて共に訪ひ來る。

　シリヤの代表エミルエキブアスラン氏及び新聞記者某訪ひ來る。

　家主の老婆も乘る。

　爐邊叢書二册新刊、日本より送り來る。

　關口君こゝへ引越して來る。夕方共に散歩し、ボーセジュルに行き夕食。

　九月二十七日　水よう、曇りたうとう降る。

　朝マダムシュヌー再び來り、本箱をあけてくれる。

　マダムメリナを訪ふ。蓄音機を買ふことにする。

　勞働の事務所に行き、川西君等に逢ふ。それからボーリバージに奧山君を訪ね話をする。

　角田惠重鈴木重光等故國の同學たちより手紙來る。昨日は又和蘭の島田君よりも。又子供からも葉書。

　九月二十八日　木よう

　總會けふもあり。宮島より葉書來る。

　マダムメリナを誘ひ蓄音器を買ひに行く。

　九月二十九日　金よう

　總會を聽きに行き、午時にかへりて食事す。

　ラッパールより文書を多く送り來る。マルクモニエーにて奧山君の招宴、松田君夫婦も同席なり。歸りて湯に入る。

　九月三十日　土よう

　朝川西君來る。

　總會に行く。けふ最終日。伊藤長七君に逢ふ。又井上陽之助君にも逢ふ。三人にて事務所へ行く。

(282)　吉阪君食事の招き、伊藤井上日高など同席。

　プリバ博士より電話。マダムシュレーダー及びクンツェ孃來る。

　關口君八時五十分にて伊太利に行く。

　川西君の所にて日本食の御馳走。新渡戸博士伊藤君同席。

　十月一日　日よう

　雲多く寒し、家より八月二十八日の葉書、又田村鎌田近藤などといふ人よりも葉書。こちらからも方々へ出す。

　里昂の河野君突然來る。伊藤井上二君も來る。四人にてコックドルにて晝飯の後ドライブ少時、河野伊藤二君とバレ、リュスを見に行く。五時半に河野君還り去る。伊藤君と家に來て夕食し井上君今夜より來て泊る。

　十月二日　月よう、曇り寒し、昨夜は良い月。

　ラポルト手紙、月なかばから來たいといふ。折口岡村二君より葉書。

　夕方アルブ川の岸を散歩す。

　八月三十日までの新聞來る。讀む。

　夜プリバ博士を訪ふ。エスペラントのことに就いて相談。

　

　　（英國往復）

　十月三日　火よう

　伊藤君來る。共にエギマンへ本を買ひに行く。次にクックにて切符を求める。

　事務所にて安達氏に會ふ。スクレタリアに行き新渡戸博士に話。藤澤原田宇佐美の三君とペレーに行き晝食。銀行にて金を受取る。後に藤澤君來る。

(283)　十月四日　水よう、好晴、終日うつくしき日の光。

　十時五十分巴里行きの汽車に乘る。井上君見送りに來てくれる。

　金井君に逢ふ。其友人小林博士と同車、朝鮮の技師のよし。車中食事不能、二度とも菓實などですます、飢ゆること甚だし。

　東方公論八月號を讀む。

　夜十時半巴里着、オテルディエナに投宿。

　十月五日　木よう

　雨をり／＼降る。

　此ホテルに宮島君まだ居る。訪ひて語る。草間及び昨日の小林氏と大使館に行く。奧山君と話。町田君こゝへ尋ね來り、共に大住君の處へ行く。カムベルに和田信夫君在り。行きて語り共に散歩す。原良三郎君に逢ふ。

　ルーブルにて那須君一族に逢ふ。近く歸るといふにより、買物をして東京の家へ持つて行つてもらふ。

　夜は宮島君の招きに、町田大住の二君と共に行く。

　十月六日　金よう

　九時半に北停車場を立つ。

　ブーローニュに下車。昨年六月二十日に始めて上陸した港なり。

　船中にて晝飯、海は靜か也。

　五時頃ロンドン着、直ぐに太田君の家に行き世話になる。

　夕方散歩。

　十月七日　土よう

(284)　ロバートソン・スコットを訪ふ。

　永井君を訪ふ。不在なり。

　ナショナル・ミュゼアムを見て後、マスウェル丘に澤村君を訪ふ。松崎君及外一人と散歩、杏花樓といふ支那料理にて午食。

　コリセアムのヴァライティーに入つて見る。

　夕方島谷を訪ふ。不在。川瀬孃と森氏に逢ふ。又坪田明君にも、食事を共にし遲くまで話をして別れる。

　十月八日　日よう

　けふも曇、今日から冬時間になるといふ。

　トラファルガーに行きスコット君に出逢ひ、連れられてクェーカーの集會を參親する。

　スコット氏の處に行き晝飯。キース老夫人にも、トムソン・ビッグスなどいふ人たちにも逢ふ。ベルサイズ路四四に山崎君を訪ふ。永井橋本二君と逢ふ。

　夜太田一族と映畫を見に行く。

　十月九日　月よう

　鳥巣少將に招かれシムプソンにて午食。それから大使館に行き林男爵その他の人に逢ふ。宮島君にもこゝにて逢ふ。

　夜郡虎彦君作の芝居を見に行く。源義朝なれど英語で聽くと少し變なり。

　十月十日　火よう

　栗原といふ人の展覽會を見る。日本人クラブの三階なり。

　宮島君同行、シティに行き買物、三井支店に行く、瀬古氏は不在。

　グレートセントラルホテルに引越す。

(285)　島谷を訪ひ共にクラブに行き夕食の後、プレーハウスにピネロを見に行く。宮島小林肥田山崎島谷と六人。

　十月十一日　水よう

　スコット君と二人、ウインチェスターに行く。好晴。

　ウォーターロー停車場にて田口君に逢ふ。

　州の役所及び辯護士コネリングスを訪ふ。大地主ジャッドに逢ひ、同行して田舍をあるく。野兎や色々の小鳥が遊んで居る。多くの民家を見てあるく。

　六時半ロンドン歸着。二人で支那料理に行く。

　十月十二日　木よう

　大英博物館見物、一人で行く。クインアンスマンションに行く。むだ足。それから大使館。

　又杏花樓にて午飯、一人なり。

　カバンを買ふ。トラスラブハンソンにて本を買ひ、マック?ッカースにて洋服をあつらへる。

　松山君の宅にて夕食。太田二人、中澤小寺などの諸君と一しよ也。

　十月十三日　金よう

　スコットを訪ふ。

　大使館にて�ｺ川君と話、領事館に行く。

　日本人の行く料理屋にて午食、宮島瀬尾二君と一緒になる。エーガー其他にて買物、御木本の店に立寄り、それから宮島君と共に歸る。

　林大使招宴。大島鈴木赤松などの人々に逢ふ。宮島君も同席なり。

　十月十四日　土よう

(286)　アベーロードに田口君を訪ひ、其引越しに伴なひてセシルに至る。北井代議士にあふ。共に日本人會に行き、瀬尾君案内にてアブラハムソンにて午食。

　太田を訪ひ夫人に逢ふ。

　スコット君の茶に行き閑談。

　宮島中條の二君と共にハイドパークを散歩す。それから石田君の招きにて湖月にて夕飯。近日日本に行くといふ?インといふ人に逢ふ。

　十月十五日　日よう

　九時十五分にギクトリア停車場を立ち、フォルクストンよりブーローニュに渡る。關場君にあひ話す。原口松原の二君も同船。

　四時半巴里着、同じホテルに泊る。松田大住永田の三君を訪ふ。共に不在。新山興次君に逢ひ、共にサンミッシェルに食事に行く。終りて町を散歩す。

　十月十六日　月よう

　ヴァンサンヌ公園を逍遙す。カルチェーラタンに行き、ヴラン其他にて本を捜す。道に逢へる支那人に教へられて、サンミッシェルに近き萬花酒樓にて午食。

　大使館に行き奧山三谷君にあふ。又偶然に金井關の二君にあひ、戸祭新山の二君をもさそひ、五人にて夕食。其あとサラベルナールの椿姫を見に行く。

　十月十七日　火よう

　オペラ近くの銀行にて兩替。マガザンルーブル其他にて買物。

　前田君夫妻及び大住君に誘はれドルアンに行く。

(287)　ヴラン其他の本屋にて本を見、それからリュキサンブールを散歩す。大住君の處に行き町田君に逢ひ共にホテルに歸り來る。

　金井關三谷の三君と夕食に行く。パレーロアイヤル近くのベーフアラモードといふ店。オペラはどうしても切符手に入らず。

　十月十八日　水よう

　金井君と二人、ブーローニュの公園を散歩し川端まで行く。

　大使館、松田君に逢ふ。芦田君に小包を頼む。町田君來り、午飯に大通りのマルグリニといふに連れて行かれる。

　大使館で切符をもらひ、代議院を傍聽に行く。

　ヴォード?ルに行き、ブリウの新作「辯護士」を見る。

　十月十九日　木よう

　松田君から電話。

　午前はルーブルの繪を見に行く。

　金井君と袂を分つ。

　オデオンの晝芝居を見る。町田君と一しよ也。

　夕方新山君と逢ひ別を敍す。

　九時十分の夜行にて巴里を立ちて歸る。海牙外務省の青年官吏と同車。

　十月二十日　金よう

　曇り雨ふる。瑞西時間にて十時半ジュネブに着く。家には藤井井上の二君在り。

　午後ボーリバージの事務所に行き代表たちに逢ふ。

(288)　關口君を訪ふ。不在。

　夜藤澤君來る。

　藤井君のエスペラントの稽古を傍聽す。

　

　　（冬のジュネブ）

　十月二十一日　土よう、雨ふる。

　午前町へ行き、置ランプ茶碗などを買ふ。

　河野君手紙、返事す。

　雨終日降り寒し。

　關口君棚橋小虎君をつれて來訪、藤澤君夫婦も來る。

　石黒君手紙、返事を書く。

　土屋君招き、マルクモニエーにて夕食。諸井武藤藤澤その他の人々。

　十月二十三日　月よう、けふも曇り雨折々降る。

　三人にて勞働の總會をきゝにゆく。

　原田君に逢ひ大澤の事を話す。

　家主の老婆へ手紙を遣る。

　金井君來り食事を共にす。夜ずつと雨降る。

　十月二十四日　火よう

　けふも雲深し。總會を聽きに行く。

(289)　井上君かへり去る。

　久保田米齋、津田素彦二君より音信、返事す。

　夜田澤棚橋の二君來り、遲くまで話をして行く。

　十月二十五日　水よう

　日高君より先日の芝居の臺帳を送つてくれる。

　總會をきゝに行く。匈牙利人セイケイに逢ふ。

　山下諸井の二氏夕食に來る。道家さんは自身斷りに來られる。

　十月二十六日　木よう

　早朝道家氏來訪、共にボーリバージに行く。

　總會傍聽、二時に歸り來る。

　午後町に買物に行き、又總會に寄る。關口君に逢ふ。

　十月二十七日　金よう

　總會に行く、午後は家に在り。

　エスペラントの會を家にて開く。ジョルジアの代表といふ人も來る。自分は沖繩のことを話す。

　十月二十八日　土よう

　總會に行く。簑作君に逢ふ。同君午後に來訪、矢田部よりのことづけ物。吉阪君の子と共に散歩す。

　ノルマンホワイト氏夫婦、及びマダムアダモ?ッチを、日本人コロニーにて招く。

　十月二十九日　日よう、曇り雨。

　總選擧を見に行き、市役所の中を見物す。ついでに小兒畫の展覽會を見る。

(290)　事務所に行く。勞働團の茶の會に招かる。

　留守中山下諸井二君來訪。

　ベルグにて夕食、田澤藤井の二君をさそふ。

　カルメンを見に行き、歸り十二時になる。

　十月三十日　月よう

　朝少しく日照り後雨、まことに惡い天氣なり。

　午前總會に行く。米國から來た小澤といふ人に逢ふ。

　午後ドラクローズの學校を見に行き、ことわられて歸る。

　ボーリバージの事務所、又總會に行く。爰でも公開せずといふので空しくかへる。

　夜家に在り、川瀬元子手紙。

　十月三十一日　火よう

　朝總會に行く。

　家より手紙來る。松本信廣君からも。

　加藤君來る。

　今夜の宴會ことわる。風を引いたやう也。

　十一月一日　水よう

　久々にて青空、日本の新聞とゞく。加減が少々惡いので午前中寢る。

　關屋龍吉君訪ひ來る。食事を共にす。サレブへ登るといふので、ベリエールまで送つて行く。

　美濃部教授來る。夜まで話す。伊太利の事など。吉澤君の家へ送つて行く。同君不在。電車の所で分れる。

(291)　十一月二日　木よう

　けふも一日家に在り、雨降る。

　藤井君獨逸へ歸る。

　田中岩吉君夫婦訪ひ來る。

　セイケイ關口ブラウンの三人夕飯に來る。

　十一月三日　金よう

　雨降る、けふから家は一人になる。

　棚橋君訪ひ來る。草間君より本を送り來る。ラポルト刀自もかへり去る。

　十一月四日　土よう

　寢室を消毒す。藤井君?々血を吐くといふから也。

　午時山下君に招かる。松田源治君に逢ふ。

　三時茶會、聯盟事務局にて。新渡戸博士と藤澤君の話あり。

　夕食、安達大使招き、島津公爵夫妻に逢ふ。

　留守中關口君來る。

　十一月五日　日よう

　珍しい好天氣、けふは一日日本人の顔を見ず。

　朝セイケイ君來る、明日よりこゝに同宿させることゝなる。

　午後一時間半ほど散歩。シューヌよりグランジ公園まで。

　マダムメリナを訪ふ。不在。トランプとドミノを買ふ。又燒栗を買ふ。

(292)　十一月六日　月よう

　けふよりエスペラントの練習を始める。マダムウマンスキーといふ老女來る。オデッサからの亡命客。

　増田君本を送り來る。

　午後セイケイ君引移り來る。

　マルクモニエーに行く。田澤君に招かれ、ヂュモンの夕食に行く。協調會の話を聽く。

　十一月七日　火よう、雨をり／＼、晴れて日の光見ゆ。

　ラッパール手紙。夜道家さんに招かる。十一時までむだ話をして歸る。

　十一月八日　水よう、けふも小雨。

　原田君へ電話、點澤君より同上。

　金義鑑君より手紙、矢田部佐々木よりも。

　十一月九日　木よう

　新渡戸道家兩老を請じてボーセジュルにて午飯。

　關口君來。大澤のことを相談す。明日出發歸國。

　ロミウ君來訪。

　コメディー座にハウプトマンの織工を見に行く。道家さんも來て居られる。

　十一月十日　金よう

　伯林のローゼンフェルト氏より手紙。

　藤澤君來る。是も大澤の話なり。田澤君いとま乞に來る。五時の汽車で立つよし。

　マダムシュレーダーを訪ふ。

(293)　横山君から手紙、安東夫人から葉書。

　夕方電氣來ず、日本の新聞十月九日分まで來る。

　十一月十一日　土よう

　道家さんに招かる。勞働局の人々、グリムショウ夫婦、ボーン、フイランなど。

　十一月十二日　日よう

　終日家に在り、トランプなど。

　夜オムニヤに行き、テオドラといふ映畫を觀る。

　十一月十三日　月よう

　關君訪ひ來る。川西夫人の案内にて。

　セイケイ君と町へ買物に行く。

　シュワルツにて外套をあつらへる。

　夜關君を招き食事を共にす。十時まで話。明日はインターラケンに行くよし。

　十一月十四日　火よう

　曇り午後は寒し。夜はさまで寒からず。

　大學に行き、國際聯盟の講義を聽きはじむ。

　夜マダムメリナ宅蓄音器の小集。原田君も來る。十二時過ぎまで話。

　不在中マダム林來る。

　十一月十五日　水よう

　けふも大に曇る。家より葉書來る。

(294)　犬の税三十フランの由。犬の下宿料月に四十フラン、町には三千疋居るよし。

　散歩すこし。

　九時の汽車にてセイケイ君歸り去る。

　夜吉阪君、當舍君と共に來り、十二時まで話してかへる。

　十一月十六日　木よう

　獨佛より本とゞく。

　藤澤君來る。

　ロミウ君來る。日本語を讀んでやる。

　宮島君へ手紙。書類を少し整理す。夜マダム林來る。

　十一月十七日　金よう、けふのみ空青し。

　州立病院から寄附金を集めに來る。

　町へ行き買物、本など。佐藤少佐を訪ふ、不在。

　マルクモニエーの事務所に寄る。

　夜リリックへファウストを聽きに行く。露西亞のテノル、スミルノフ。

　十一月十八日　土よう、又曇る。

　日本の昔話を研究すといふローゼンフェルトへ返事。伊藤長七スエズより手紙。

　夕方散歩、宇佐美君と一しよになる。

　十一月十九日　日よう、けふは晴天、但し?ーズ吹く。

　日本人に逢はず。ウマンスキーけふ來る。明日は休みたしとて。

(295)　午前散歩してサレブの路まで、牛後も亦散歩、プチランシーまで。ブラウンとドミノを試む。

　十一月二十日　月よう、けふも晴。

　十一時十分の汽車にてローザンヌ行き。町田乾の二君、又長岡君にも逢ふ。

　開會の式參觀。林落合の二大使と茶。

　（附記、この日ムッソリニが白羅紗の服で、乘込み來りしことを記憶するも、何の會議であつたかは忘れたり、何れ外交的のものだつたと思ふ）

　ホテルサントラルに泊る。夜シネマを觀に行く。

　十一月二十一日　火よう

　ローザンヌの町散歩、好晴。大學構内の美術館を見る。

　一時半の汽車にてジュネブに還る。父上（葉書）、ウエアの書記ヤコブ君から手紙。

　シネマパラスに行き、「三つの幻滅」を見る。

　十一月二十二日　水よう

　曇れり。「續飛騨の鳥」を送り來る。新聞もとゞく。澤村君より伯林からはがき。

　シュワルツに行く。町を散歩してかへる。マルクモニエーに寄る。

　井上陽之助君より手紙。家へ手紙を書く。

　十一月二十三日　木よう

　英國より本を送り來る。

　ロミウの家へ日本語を教へに行く。

　ステロの會合に行く。プリバのエスペラント演説を聽く。

(296)　十一月二十四日　金よう

　東京の兄弟友人、朝日の同人よりも通信あり。

　シュワルツに行く。歸りにウエアの事務所に行く。

　關君よりベネチヤからはがき。

　川口君の「續飛騨の鳥」を讀み了る。

　十一月二十五日　土よう

　空晴れ?ーズ吹く。終日家に在り。

　藤澤君再び來る。原田君より火曜日の芝居の切符を送り來る。

　「言語のローマンス」を讀み了る。又レオンラ?ゾンの「史上の猶太人」を讀み了る。フンベール本を持ち來る。

　夜獨りトランプなど。

　十一月二十六日　日よう、好晴且つ暖かし。

　淺利君を訪ひ、少し談話。

　散歩、竹下君を訪ふ。是から白耳義へ行くといふところ也。

　午後佐藤少佐來訪。ラポルトも來る。

　夜オムニヤに行き、ダヌンチヨのネフといふを觀る。ベネチヤの昔物語なり。

　十一月二十七日　月よう、雪降れり、雪の上に日かゞやく。

　散歩、銀行と床屋に寄る。けふは日本人に逢はず、手紙來ず。湯に入る。

　十一月二十八日　火よう、夜來又雪、朝は晴れ午後は曇る。

　宮島君より桑港から葉書。

(297)　本を送る大きな木箱をあつらへる。

　事務局に行き、ラッパールに逢ふ。又鮎澤夫人原田君新渡戸博士に逢ふ。

　十一月二十九日　水よう、霧ふかく路ぬかる。

　町の伊太利商人會より手紙。

　午後散歩してメーゾンロアイアルに行く。川西北原倉橋の三君に逢ふ。

　島田亘關根船長佐藤少佐より手紙。

　十一月三十日　木よう

　川西君電話。大橋より手紙、返事をする。

　巴里より手紙、パレスチナ行きさし止めとの事。

　町を散歩して次の日曜日のプレビシットの準備を見る。

　ロミウ君來る。

　川西山本二君來る。食事を共にす。

　十二月一日　金よう

　昨夜家に還つた夢を見る。家よりたより有り。

　ウナリ考を佛文にて書く氣になる。

　空晴る。午後逍遙す。心最も靜か也。

　「露西亞に於ける猶太人」讀み了る。

　塚本清治君へ長文の手紙を書く。

　ブー?エー女史の家のエスペラントの會、藤澤君の話あり。

(298)　十二月二日　土よう

　青き空見ゆ。日本の新聞とゞく。

　午後逍遙す。日本人に逢はず。

　十二月三日　日よう

　好晴、名倉君高田十郎君手紙、共に返事す。

　オテルドラペイに行き山本君を誘うて共に西郊を逍遙す。

　ホテルに歸りて食事、川西君と三人にて一般投票の光景を見に行く。茶を飲みて山本君と別る。同君巴里に向ふ。

　十二月四日　月よう、曇りて寒し。

　午後マルクモニエーに行き金を受取る。宇佐美君と散歩し本を買ひて歸る。

　新聞來り讀む。

　十二月五日　火よう、晴、寒からず。

　ロミウ君から手紙。

　美術院の小展覽會に行く。

　シュレーダー・クンツェの二女にあふ。佛蘭西赤十字の小病院參觀につれて行かれる。

　夜オムニヤに行く。

　十二月六日　水よう

　荒井農相へエスペラントの事につき手紙を書く。

　雨の中をシェーンまで散歩す。

　淺利君夕飯に來る。十二時まで話してかへる。

(299)　十二月七日　木よう、微雪、空晴れたり。新聞來る。

　日本の商業會議所へ、ベネチヤのエスペラント會議の案内?を取次ぐ。

　けふは日本人に逢はず。ロミウ君の家に行き二時間居る。父君及び妹にも面會。

　ステロの集會に行く。歸りて湯に入る。

　十二月八日　金よう

　夜來又雪、朝より霙になる。

　草加君より返事。

　ラッパール教授より催促の手紙、?クセル女史の手紙を添へて。

　山本君から葉書。藤澤川西の二君より電話、又アソといふ人からもかゝる。

　セルクルドラプレスの會に出席、コンスタンチノープルの幻燈を見る。

　十二月九日　土よう

　宇佐美君電話。佐々木君から手紙、返事を書く。新聞來。

　夜川西君來る。遲くまで話して行く。

　十二月十日　日よう

　午後町を散歩し、終にモアル・スラの國境に至る。

　エスカラードの假装會を觀る。子供が寒さう也。

　十二月十一日　月よう

　井上君より手紙、大澤よりも同上。

　此頃毎日午後散歩。

(300)　十二月十二日　火よう

　マルクモニエーの事務所に行く。留守中藤澤君來る。

　夕方淺利君來る。

　十二月十三日　水よう

　關正雄君より手紙。

　藤澤君來る。松本君道家さんの使とて來る。罐語を贈らる。

　イツシュ君來る。リシエ君といふ人同行。

　鴻巣君來る。夕飯の後雜談又ドミノ。

　十二月十四日　木よう、終日曇る。霧たつ。

　松本より電話、荷物のこと也。

　午後逍遙す。木花花よりも美しく且つ靜か也。ロミウ君へ電話、この午後來らず。

　ヂュモンにて夕飯、道家さんも來る。吉阪氏別宴なり。

　十二月十五日　金よう

　けふも亦美しい木花。庭男來り木の葉を焚く。

　午前ブラウンと木花を見あるく。こぼれて雪の如し。日照る。

　道家氏を訪ふ。明早出發といふ。四時半に事務局に行きラッパール及びカタスチニに逢ふ。

　大學の科外講義を聽きに行く。動物の社會生活に就いて也。

　かへりて湯に入る。

　十二月十六日　土よう、けふも盛んな木花。

(301)　勞働事務局のギュスタフ來る。リヒテンベルグも來る。

　ウマンスキーに猿の木彫を贈る。

　午前と午後と二度散歩す。

　和田香苗君より手紙。

　ザメンホフの誕辰記念會に出席。いろ／＼の人とあふ。エスペラントで話を始めたがうまく行かず。夜遲く歸る。

　十二月十七日　日よう、晴、木花、但しすぐ解ける。

　ローゼンフェルトより又手紙。

　三穗子と和田と小坂猖二君とへはがき、記念切手を貼る。

　午後コメディのマチネに行く。モリエルのマラディイマジネールなり。

　夜大いに風吹く。

　十二月十八日　月よう、雨、くもり

　林君原田君電話。

　午後少し散歩す。

　セイケイより葉書、ニューヨークにてできもので困つて居るとあり。

　トムメン君來る。十時まで話して行く。其あと三田村玄龍の書物を讀む。

　十二月十九日　火よう、うす日さす、少し温かなり。

　日本の新聞來る。宅よりもはがき。

　カルージあたりを散歩す。

　桑木君田中信良君及び日蘭調査協會の諸君などより葉書、桑木君へ返事、又土岐君へ手紙。

(302)　十二月二十日　水よう、雨降る。終日外に出ず。

　川口孫治郎君豐後の竹田より葉書三枚。

　巴里の松田氏より茶とゞく。

　夜宇佐美北原原田三君來る。日本飯を出し、遲くまでカルタを遊ぶ。

　十二月二十一日　木よう、晴れて靜かな日、寒からず。

　松本信廣君手紙。

　午後少し散歩す。アルブ川の岸まで。

　藤井悌君よりナポリから手紙。

　ロミウ君來る。

　十二月二十二日　金よう

　夜中四時よりさむ氣あり。熟少しありて朝起きられず、一日床の上に横たはる。

　ブラウン時々見に來てくれる。ウマンスキーは斷りて返す。

　原田君電話。

　十二月二十三日　土よう

　雨及び雪降る。けふも一日床に在り、明ばんのシュレーダーをことわる。大いに日本の本を讀む。又委員會の文書も寢ながら讀む。

　夜汗大いに出でて少しよくなる。

　十二月二十四日　日よう

　けさは起きて見る。永井君ローザンヌより葉書。又スコットよりも手紙。

(303)　ブラウン來る。クリスマスの夕靜かなり。薄暮に永井君來り一泊す。夜十二時まで話をする。

　十二月二十五日　月よう

　なほ家に在り。

　永井君はブラウンの案内にて町見物に行く。夜九時の汽車にて歸り去る。

　十二月二十六日　火よう、朝晴、霜深し。

　スコット君の本とゞく。

　淺利君へ手紙、奧山夫人へよろこび?。

　午後久しぶりに家を出て、マルクモニエーに行く。新山君に逢ふ。共に家に來て泊つて行く。

　宇佐美君も遊びに來る。クスタールドの雪景色の話をする。

　十二月二十七日　水よう、日さし、雲あり。

　十一時の汽車で新山君歸る。

　永井君葉書、宇佐美君電話。

　散歩してコンシュまで行く。町へ買物に出る。

　留守中大澤、大いに窶れて來るよし、アンナ語る。

　夜家に居る。年いよ／＼暮れんとす。

　十二月二十八日　木よう

　晴、新聞到着、但し先月十八日分まで。

　關根船長草加君へはがき、草間君より葉書、トムメンより手紙。

　散歩して十一號電車の路まで。

(304)　夕方宇佐美君來り、巴里の事務局の手紙を見せる。

　十二月二十九日　金よう

　雨終日、何處へも出ず、郵便も來ず。

　リヒテンベルグ本を持つて來てくれる。マルクモニエーの事務所もしまふので、本の置き處が無いから云々。

　十二月三十日　土よう、けふも雨、但し寒からず、夜大いに降る。

　瀧澤君手紙、里昂の正金支店からも手紙、共に返事をする。宅からも音信あり、又新山君よりも。

　ウマンスキー刀自夕食に來る。けふでエスペラントの稽古を終る。伯林に行くといふから本を買ふ金二十フランを預ける。

　十二月三十一日　日よう、けさもなほ曇り、折々降る。

　ロシヤより雜誌來る。

　町を散歩す。田舍より多くの人出あり。

　ブラウン夕飯に來る。火を焚きて除夜を送る。

　昨年の除夜は二女と共に東海道の汽車の中に在りき。その前の年は大隅佐多岬の田尻の家に宿して夜すがら風浪の音を聽く。その前の年は茅ヶ崎より歸り來りて加賀町にて年を越す。その前の年はもう忘れたり。さて來年は如何。

　

(305)　　　ジュネーブの思ひ出　その他

　

(307)　　　　　ジュネーブの思ひ出

　　　　　　　　　初期の委任統治委員會

　

　日記を散亂させた爲に、順序だつた話をすることが出來ない。たゞあの時代の印象のまだ消えずに居たものを、少しなりとも書き留めて置かうとするだけである。是が二十數年後の今日に、何ぞの役に立つかどうかも自分にはきめることが出來ない。

　大正八年の終りに、私は急に自由なからだになつたので、兼ての望みであつた太平洋諸島の巡歴を思ひ立ち、旅費と日記の掲載とを朝日新聞に約束してもらつた。先づ手始めに國内のあまり知られない區域をあるいて置かうと思つて、九年の六月に佐渡に行き、八月から東北の長い旅を試み、次いで内海の多くの島、九州南部の沿岸を經て沖繩に渡り、八重山群島までを見てあるいて、十年の二月に一ぺん引上げて來る途中で不意に東京からの電報によつて、ジュネーブの委任統治委員會に行つてくれぬかとの交渉を受けた。豫定の計畫が狂ふのでちよつと迷つたけれども、西洋も見たかつたのと、仕事が新しくて珍しかつたのと、父も朝日社長も共々に勸められたのとで、つい其氣になつた。さうして慌だしく支度をして東廻りの船に乘り、アメリカを通り拔けてフランスへ、それからスイスへ入つて行つたのが、六月十日頃のことであつた。

　本國に於て山出しとか、赤毛布とか謂つて居た言葉の意味を、爰へ來て始めて内側から體驗した。それは御仲間が多いので格別苦にもしなかつたが、何しろ新しい任務がすぐに始まるのだから骨が折れた。太平洋の舊獨領の事だけ(308)は、ごく大まかな概念ぐらゐは持つて居たが、アフリカの諸植民地と來ては地名も碌に知らない。近東の問題なども非常に込入つた行掛りが有ることを聽いて居るのみで、大戰中の經過すら十分に記憶して居ると言へない。最初に先づ大急ぎで、一通りの豫備知識を貯へて置かなければならぬので、本を捜し出すのに苦勞をした。今まであまり氣が付かずに居たが、私たちの横文字を讀む速力は甚だのろい。少し念入りに呑込まうとすると時間ばかりかゝつてすぐに疲れる。それに一方にはちつとはまはりの事も知つて居なければならぬので、新聞の二つも讀まうとすると、もう半日はつぶれてしまふ。飛んでも無い仕事を引受けたものだと思つたが、もと／＼日本に居た時のやうに、何にでも口を出すといふことは到底出來ない。幸ひにして我々とは直接の交渉が無く、獨自の見解といふのを立てるには及ばぬ場合が多さうなので、人に言はせて聽いてから左右を決するといふ、日頃は輕蔑して居た所謂伴食主義を採ることにしたら、それだけでずつと心が落着いて來た。さうしてそろ／＼と同僚委員の人柄を、見定めようとする氣になつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　妙なところで私が感心したのは、委員を各所屬國の政府とは關係の無い人、殊に外交官以外から任命しようとすると、日本などではすぐに私のやうな、言葉に不得手な者でも引張り出さなければならぬが、歐羅巴の方では流石に適任者が多く、人を見立てるのにさう苦勞をして居ない。委員長に推された伊太利の某貴族だけは、若い頃暫らく外交官をして居たさうで、ごく平凡なシャレの言へるほどフランス語を知つて居た。其他の委員たちも人を笑はせることまでは出來ないが、それでも場數を踏んで居るので、隣席どうし英語なりフランス語なりで、こそ／＼話をすることがよくあつた。何でも言へるといふ自信だけは、持つて居るらしく見えて羨ましかつた。

　それでも私が馴れないでこまるといふたびに、決して辭令では無しに、自分等も御同樣だと答へた。さうして實際(309)に又可なり緊張し早く疲れてしまふ樣子であつた。私が心を許して交はつて居たのは和蘭と諾威の二國から來た委員で、前者は東印度の行政長官をしたことのある老人、こはい顔はして居るが善人であつた。今一人は日本でもよく見るやうな顔の老婦人で、職業は辯護士の法學博士であるが、やはり折々は孫の話をし出すやうな、しをらしい女性であつた。無論腹はしつかりとして居り、又それ／”＼一票である故にみんなから大事にせられたが、言葉ではやはり相應に苦勞をして居たやうである。

　さういふ中で目に立たずに居なかつたのは、英國から選任せられて來た委員で、年はまだ四十まへ、たしか後に大臣にもなつたオームスピー・ゴァ君で、是は自分の英文學の概念などで、兼て胸に描いて居た英國人氣質と、大よそ懸け離れた無造作な又輕快な男であつた。何か問題が起つて一同が澁い顔をして居る時にも、平氣で内情をすつぱ拔いて、あれでも締め括りが有るのだらうかと、思ふやうな事までしやべつてしまふ。其御蔭で南亞政府との衝突が起つた際にも、自分たちは早く態度がきめられて、深く彼の率直を�ｺとした。しかし考へて見ると、それも言葉が自分のものだからで、家で物いふのと同じやうな氣特で、加減をしい／＼同僚を導いて行けるのも、要するに英語が國際聯盟の用語だつた故であつた。言葉が根本の問題だといふことを、痛切に考へずには居られなかつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　もう事情を忘れてしまつたが、この委員會には出なければならぬ筈のフランスの委員は、三年とも顔を出さなかつた。西班牙の委員は一ぺんだけ出席したが、是は病身だといふことでずつとなまけ通して居たので、どういふ人物であつたか知らない。出て居たところで、此方はさう活躍もしなかつたらうと思ふが、一方フランスの委員の來ずにしまつたことは、何か政治上の理由があつたにちがひない。それがぼんやりして、まだ自分には問題にならなかつたのである。受託國から出て居る委員とても、純理から言へば立場は一つであるわけだが、是は本國の同胞の對異人種觀(310)を改良して行く爲に、準備として先づ自分を教育して行くといふ、餘分の任務が實は有るので、それも考へぬことはなかつたのだが、事情が甲乙丙の委任領毎にあまりにも違ひ過ぎて一貫したものが無いので、よその施設に就いては冷淡になりやすく、又あら捜しに傾きやすく、一方自國の問題に於ては、あまりに外の人の知らないのがもどかしさに、つい説明役にも辯護役にもなることがあつて、いやな氣持を仲間の人にもたせる。是はやつぱり英國委員の、あの態度がよいのだつたと、後になつては考へることが折々はあつた。

　しかし結局は委任統治といふ組織が、妙な理窟倒れの人工的なものなので、斯ういふ結果にもなるのだ、と思はずには居られなかつた。二年間の經驗で私に役に立つたのは、島といふものゝ文化史上の意義が、本には書いた人が有つても、まだ常人の常識にはなり切つて居ないことを、しみ／”＼と心附いた點であつた。所謂裏南洋の陸地は、寄せ集めて滋賀縣ほどしか無いのに、島の數が大小三千、うち七百まではたしかに人が住んで居る。それでは巡査だけでも七百人はゐるわけだと、冗談を言つた委員もあつたが、其島々が互ひにくひちがつためい／＼の歴史を持つて、或程度、別々の生活をして居ることまでは、陸つゞきで交際する大陸の連中には呑込めない。茶碗の水も池の水も、水は水だといふやうな考へは、西洋で物を覺えた我邦の外交官までが皆もつて居て、第一に本國の周邊に、大小數百の孤立生活體の有ることをさへ考へない。數を超脱した「人」といふものゝ發達を、せめては歴史の側からなりとも考へて見ることの出來るのが、日本の惠まれた一つの機會だつたといふことを、氣付かぬ者だけが政治をして居る。だからまだ／＼我々は、公平を談ずる資格が無いと、思ふやうになつて還つたのは御蔭である。

　

　　　　　　　　　　○

　

　小さい頃から日本人の物の考へ方が、びどく歐米の流儀とちがつて居ることを、毎度私などは語り聽かされた。是は一つには學問がやゝ職業化しすぎ、表現のそれに專屬するものが出來た中世風の殘留で、民族性などといふ程に不(311)變なものでも無く、又之を突破つて合流しなければ、世界人にはなれぬこともよく判つて居たが、もう自分のやうに骨の髄まで、日本式になり切つた者は、今更さういふ模樣替は出來ない。やはり幾らかでも有る特徴を活かして、向ふの不得手な部分を補充するやうにしなければならぬのだが、それには相變らず言葉のちがひといふことが、人を悩ます最大の問題であつた。

　ちやうど其頃聯盟の中に起つて居たエスペラント公認案に、私が竝以上の關心を寄せた動機は單純なものだつた。是なら自分でも思つたことが言へる。さうして小國は大事にせられ、外交官で無い代表連は皆苦しんで居るのだから、たとへ佛英語と肩を竝べられぬまでも、もう少し自由な使用が認められるかも知れぬと思つた。新渡戸先生の同情に充ちた報告文なども出て、形勢はちよつとよさゝうにも見えたのであつたが、萬國エス語協會を率ゐて居るプリバ君といふ猶太人の博士が、一擧に勝負を決しようとして少し暗躍が過ぎた爲に、却つて反感を買ひ反對派に利用せられ、小國の代表が先に立つて、丸潰しに此案を葬つてしまつた。其あと總會でペルシャかどこかの代表の、年齡も風格も堂々としたのが、文章としては格別をかしくもないフランス語の演説を、一種御國風らしい調子でやつてのけ、滿堂一人としてくす／＼とせぬ者の無かつたのを見て居て、爰は到底我々の來て働く場處で無いといふことを、しみ／”＼と感じてしまつたのである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　そんならどうしようかといふことになつて、又少しばかり私は迷つた。他の委員たちは委員會がすむと、總會も傍聽せずに大抵は還つて行くが、自分だけはどうもさういふ氣にならない。船もきらひで無く旅行は結構だけれども、爰を去つてしまふと丸で仕事と縁が切れ、愈々もう一度來ることがおつくうになりさうに思はれた。今まで氣が付かなかつたが日本人の群居性は、外國に來ると殊によく現はれる。誰彼の見境ひも無く國の人にさへ逢へば、やれなつ(312)かしやと互ひに近よつて、日頃のうさ晴しに綿々と語らうとする。是では半年や八月は何もしないで過ぎてしまひ、相變らず新米の飛入りで、來年も爰へ來てまごつかねばならぬ。是はどうしてもわざと孤獨になつて、辛抱のつゞく限り此あたりに居ることにしようと思つて、後日田中館先生や姉崎教授の實行せられたやうな、毎年來往といふ快活な計畫は私は立てなかつた。

　さうして出來ることなら此期間を利用して、近東とアフリカの委任統治領を見て置きたいものだと思つて、それと無く事務局の意向を尋ねて見ると、きつと有益であらう、又あちらでも快く面倒を見てくれるであらうとのことであつた。旅費は何とかなるが手續が自分では六つかしいので、巴里の日本大使館に先づ手近のパレスチーンに行きたいといふ相談をしたところが、大分日數が立つてから、見合せてくれといふ返事があつた。それは何處からの故障か知らずにしまつたが、多分は東京へ念の爲に聽いてやつた結果で、當時あの方面の政情が込入つて居てよく判らぬので、もしか事件でも起してはうるさいからといふ、たゞ一般的の用心であつたらうと思はれる。タンガニイカの方などだつたらよかつたのかも知れず、又一人でも計畫は出來たわけだが、すつかり出鼻をくじかれてしまつて、もうさういつた元氣も無くなり、まだ格別歸りたくも無いのに、本や荷物を殘して立歸りに日本へ還つて來た。さうすると果して船の中から丸で氣分が變つて、何の事は無い往復五月ほどの間、たゞおしやべりに費したやうなもので、仕事に對する興味は淡くしてしまつた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　今から考へるとそんな遠い旅行をしなくとも、何處かジュネーブ以外の土地に往つて、靜かに本でも讀み、言葉でも馴らして居ればよかつたのだが、其時は何分さういふ氣になれなかつた。一番すまぬと思ふのは委員會の人たち、さういふ中でも特にラッパールといふ書記長などが、出來るだけこの會を威望の有るものにしようとした、心持はよ(313)く知つて居りながら、終に其努力に協同し得なかつたことである。このラッパールは國際法か何かの少壯教授で、個人的野心も強い人だつたが、ともかくも瑞西一國の立場から言つても、この委員會の判定を有力なものにすることは、平和外交の一つの成功に歸するし、それが同時に又聯盟其ものゝ政治力を高め、且つ日本に取つても利益が多いのだから、この計畫は支持してよいものであつた。それが出來なかつたのは自分の不勉強、それも主として表現の困難の爲であつた。

　或は幾分熱心がさめかゝつて居たと言へるかも知れぬ。第二年目の會期後は日本へも歸らず、アフリカ行きも考へず、たゞジュネーブに居殘つて總會を傍聽し、其他有るだけの會合に顔を出して、人からはまだ御滯在ですかと言はれた。さうして季節が過ぎてしまふと、山の手に借家を見つけて、一人で淋しい交際の無い生活に入つた。それでも最初のやうに委任統治の研究だけを、續けて居ればまだよいのだが、段々と興味は散漫になり、歸つてからでも出來るやうな讀書をする。五日七日の近國の旅行をする。そのあひまにはやたらに通りがかりの日本人を引留めて、幾夜か語り更かすやうなことで、たわいも無く半年餘りを送つてしまつた。

　第三回の委員會の終つた後であつたか、石井大使に面會して、もう罷めるつもりといふことを言ひ出した。言葉が達者になる見込も無いのに、いつまでもくつゝいて居るのは相すまぬからといふと、誰でも皆同じことだよ、それだけの理由ならもう一ぺん考へ直してはどうかといふことで、未定のまゝで引上げて來た。さうしてロンドンまで出たところで、九月一日のあの大地震の報道に出くはし、急いで日本に戻つて來たまゝで、終にジュネーブとの因縁は切れてしまつたのである。

　あの當時はこちらに國際聯盟協會といふ有力な團體があつて大きな熱意を以てこの新しい機關を聲援して居た。私は或日の集會に招かれて、自分の不成功談を隱さずに話をした。勿論少しは自分よりもましな人を、選んで送ることも出來るかも知らぬが、外交官以外にはそんないつ來るかも知れぬ役目の爲に、準備して置く餘裕などは我々には無(314)い。どんな事柄でも即座の應酬が出來、怒りも喜びも自分の言葉と同樣に、隱れた隈も無く表出し得るやうにならぬ限り、結局は「彼をして我語を用ゐしめんのみ」、我語を用語とした國に一籌を輸することになる。負けに行くやうなものだといふやうなことを言つて、阪谷會長以下の機嫌を惡くしたことがある。私の場合などは負けも勝ちも無く、言はゞ協力の素志を持ちながら、それを爲し遂げ得なかつたといふまでであるが、是から新たな國際の友誼が世界を導くやうになると、同じ歎きをする者が我々の中にも必ず多くなると思ふ。是には勿論通譯方式の精微なる組織替へと、其技術の錬磨とも考へられるが、人が直接に互ひの親しみを傳へるのに、目つきとか身のこなしとか、まだ幾つかの補助になつて居たものを、殘して置かねばならぬ憾みがある。エスペラントなどは人造の、まだ短所の指摘しやすいものだらうが、努めて是を他に手段の無い區域に應用しようとしたら、末には追々とこの世界の悩みを、救ふ力ともなるかと思はれるので、一時は熱心に之をその方面に働く人たちに説いたものだつたが、あいにくと私のやうな經驗をした者が少ない爲に、其意見は行はれず、終に一旦は國民を今のやうな塗炭の苦痛に、陷らしむる結果にもなつたのである。最近にはいつそ英語を用語にしてしまはうなどといふ者が、ごく少數ではあるが私の舊友の中にさへ出來て來た。實現し得べきことで無いから、私は少しも心配しては居らぬが、假にさういふことになつたとしたら如何なる階級制が新たに生れて來るか。一度は想像して見るがよいと思ふ。ともかくも斯ういふ愚かな説が起るまでに、我々は未來に對して思ひ悩んで居るのである。徒らに返らぬ過去を悲しむやうなことは、私等のやうな者でも、もうあまりしたくは無い。

　

(315)　　　　　瑞西の鐘と時計

　

　日本のお寺でつく時の鐘は、夕暮れの鐘とか、明六ツの鐘などと、詩や歌に唄はれてゐるが、外國のお寺、殊に瑞西あたりで聞く舊教のお寺の鐘の音は、丸で異つた響きを傳へる。

　普通に見る外國のお寺の鐘は、高い塔の正面に大きな時計が飾られてあるが、昔のはたゞ鐘だけでそれも、日本の鐘のやうな外側から叩くのでなく、内部で左右にたゝく、それも、鐘の下の方で、綱をひいて鳴らすのや、ゼンマイ仕かけになつてゐるのが多い。

　私は天氣のよく晴れた日曜日に、北伊太利のコモの湖水を船で渡つたことがある。湖岸の村々から、お寺の鐘が鮮かに響いて來た。處がよく聞き分けて見ると、村々の鐘の音色にはそれ／”＼の特長があり、古い音節が含まれてゐる。

　それは鐘の置き方、吊るし方、或は鑄造の方法にもよるのであらうが、ゼンマイの仕掛けでそれ／”＼異つた工夫が凝らされてゐる爲らしい。

　雲の多い、寒い瑞西では冬の仕事の多い關係からコンナ手のこんだゼンマイの發明などが、古くから起つたとも思はれる。名産の時計にしても、年毎に小さなもの、薄形のものが製造され、現に厚さが一分よりも薄い懷中時計が出來てゐる。

　私はかつて瑞西の博物館で四つのカラクリ人形を見た。一人は畫を描き、一人は樂器を鳴らし、一人は縫物をし、一人は字を書く、何れも十七世紀頃につくられたゼンマイ仕掛けの人形であるが、見物人の望むまゝに色々の異つた(316)文字を書くさうだ。フォツシュ元帥が參觀された時には、見事に元帥の名を書いて驚かしたさうだ。

　その博物館には、國産の時計の進歩した?態を實物で説明したものがあつたが、その中に時計の文字を漢字で書いたものに注意された。これは支那に於ける時計の技術を研究されたものと思はれる。

　瑞西と云へば、誰でも時計が第一の國産のやうに思はれるだらうが、第一の輸出品は鐡製の機械類だ。少しも鐵塊が産しない瑞西では原料を輸入して澤山の機械類を製してゐるのだ。第二は絹製品で、これも少しも繭を産しない國だけに不思議に思はれる。第三はチョコレートなどの菓子類、時計は恐らく第四番目に位する輸出品である。

　

(317)　　　　　本場の廣東料理

　　　　　　　　　美味な蛇料理と蛇酒

　

　久しく上海に掩留《えんりう》して、機を見て未だ動かず、氣の荒い南方の子弟をして彼故郷を思はざるかとまでも、評せしめた岑春?《しんしゆんけん》先生も、老いては彌々廣東の生活を忘れることが出來ぬと見えて、優秀なる蛇料理の料理人を旅先へつれて來て居るさうである。

　蛇料理と云ふと如何にも殺伐なる蠻民の遺習のやうに思はれる。又實際最初はさうであつたかもしれぬけれど、今日に於ては少し變つて、最早どんな蛇でもかまはずにとつて喰ふと云ふのではなく、料理に使はれる蛇は名は一寸忘れたが、種類が定つて居り、五種類を以て一組となつてゐるさうだ。

　それでこれを獲るのには一定の季節がある。恐らくは暫時土中に蟄居してゐる揚句のものを取るのであらう。それが廣東の市場に出るのもホンの三週間か一ヶ月の間で慥か春の初であつたかと思ふ。日本でならば新茶や新海苔の看板が食通の心を唆るが如くに、蛇の新着のビラが夥しく張り出されると、所謂風流人の食指を唆り動かすさうである。

　然し、これを味ふのは尋常一樣の庖厨の力を超越してゐる。勿論又唯の料理屋等に赴いてこれを命じても口に入るものではない。

(318)　蛇料理人を抱へて居る者、即ちこの珍物を味ふの特權を有する廣東人は、富家の中でも更に指を屈する程しかないさうである。自分は季節が違つた爲に、不幸にしてこれを味ふことが出來なかつた。けれど、これを試みたある幸運なる人からの實驗談を聞くと、何でも今日命じて今日喰ふと云ふやうな手輕なものにはゆかぬものらしい。これには一兩日も前から種々の準備が要るので、大體に日本でならば上方人の喰べるアナゴ飯に似たものらしい。五種の蛇の肉を細かに刻んで、これに味をつけ、これを米の飯の上にのせて喰べるものらしいのである。

　これは單に美味いと云ふばかりでなく、例の支那人の癖として、食物にまでも一種の魔力をつけ加へて、精がつくとか、病が治るとか云ふ所までに信じてゐる。そして一度これを味つたものは、何とかして第二の機會を念がけて、もう懲りたと云ふものゝないことから見ると、殆と蛇と云ふことを忘れしめる程好美味なものに違ひない。尚蛇料理には一種の作法があつて、器物の如きも一定せる上に必ずこれに伴ふ可き一種の酒がある。それは透明なる白味醂のやうなものゝ酒の中へ蛇の肝臓の漿液を絞り込んだものである。見たところ如何にも美しいサファイヤの如き色をした酒ださうであた。

　

　　　　　　　廣東は支那食通の洗禮場

　

　廣東は古い都であつて、しかも亞熱帶の都である。土人が既に活動よりも、享樂を愛する傾向あるその上に、北方から赴任して來た地方官たちは、異郷の淋しさを慰めるために、あらゆる天然を利用して安逸なる生活に變化を與へんとしたものらしい。從つて感覺の極度の發達、爛熟と云ふよりはむしろ靡爛とも云ふべき形式文明は、決して百年や二百年の短期の發達ではない。

　吾々の手近にある、「粤東偶記《ゑつとうぐうき》」とか「嶺南異事」とか云ふ類の見聞録を見ても、曠漠たる北方平原に住む者をして、(319)稀には暫らく行かうかと云ふやうな好奇心を起させる程異國情緒な趣味に充ちて居る。そして今日の廣東はこの傳統的趣味を、少しも傷つけずに保存したのみならず更に發達せしめたものである。

　その上に近世なるものが、この地方にも矢張り我國に見るやうな一種の變化を與へた。即ち學問のない金持、智腦の未熟なる享樂者等が追々と現はれて來て彌々食物等の方面に無理な贅澤をするやうになつてゐる。南洋出稼人の仕送りによつて、高等遊民の生活をしてゐる人間はいづれもこの類の快樂をのみ趁《お》つて、此處に集つて來たのである。そして蛇料理の奧許に達する前に尚複雜なる樣々の賛澤がある。凡そ支那に暫らく暮らしてゐた日本人の支那料理の珍味を説かぬものはないが、自分一個の考としては、北京若しくは上海に於てこれを實見した人々が、各々其地を以て中華國第一と信じてゐるのは未だ／＼考へ物であると思ふ。

　同じく南方の都たる香港でさへも專ら一知半解の旅人を相手にするためか、例へば松永久秀の料理人が信長を嘲けつたやうに、これこそ眞の支那料理と名のり得なからう。尚且若干の龜島町式（東京龜島町の支那料理を本場のそれと心得てゐる形）を加味してゐるやうに思はれる。獨り廣東に於ては牛とか、豚とか云ふありふれたものは食卓の上に影も見せない。出るものと云へば單に風味に於て固有性を嚴守してゐるのみならず、尤も吾々好奇の徒を驚かす十種十二種の料理が一として吾々の意表に出ぬものなき有樣である。

　それをこの都の名産たる紫檀黒檀の食卓の上で、精巧なる銀器、象牙の箸で味はせるのである。恐らくは支那食通の洗禮はこゝより外に受ける處がありさうもないと思ふ。

　

　　　　　　　食物の一點で世界の征服

　

　日本はこれ迄種々のものを支那から學べるにも拘らず、食事に於てはたうてい支那と手をとつて竝び得なかつたの(320)は如何なるわけであらうか。自分は幾度か其理由を見出さうとして能はなかつたが一言を以て云へば鰹節の束縛と云はうか、若しくはお茶のデスポヂションと云はうか。日本の料理にはサッと煮てサッと出す方が多い反對に、あちらの料理の一貫してゐる原則は煮過ぎなのである。

　長沙、岳州の境に於て廣西岳西のために氣を吐ける譚誥明將軍は、一尺五寸もある細い象牙の箸で鱶の葛煮を挾みながら、私にかう云つた。

　「柳田さん、珍しくもありませんが、支那料理の一つのいゝことは腹に障らぬことです。殊にこれらは胃の藥になりますよ」

　これは自分が、或は不消化でなからうかしらと云つたやうな表情をチラと現はしたからであつた。この種の上流の人々は同じ鷄にしても、毛色によつて味が異ふことを區別する。殊に一種毛も黒く、皮膚も黒く、肉も僅かの黒味を持つた黒鷄と云ふ奴は、これを汁にして殆と旅愁を忘れしめる位うまい。又ある種類の鴨には特に腦味噌のうまいものがある。トロ火で半日もこれを燒いて小さく切つて出すのは矢張り最も知れ渡つた料理の一つである。そして其あたまの部分はある意味に於ける強壯劑として、相顧みて微笑するのが常である。

　北支那にもよく見る料理で、饅頭の皮のやうなものに手づから肉を挾んで食ふ何とか云ふ料理は廣東が優超してゐる。これに添へて喰ふ味をつけた味噌と若い韮（葱の種）は、口の中で著るしくその風味をたすける。つまり口の中で調理して味はふ趣向に出來てゐるのである。これには多くの若い夫人方の殆とが、平素のお愼しみを忘れてまでも、吾先にと箸をつけるのを見かけた。これから押してそれが如何に美味しいかゞ窺ひ知れる。

　近頃の丸善に來た書物にチャイニース・クッケリーといふ一書があつて、著者は婦人である。自分はこれをもつて政治上には不幸なる廣東が單に食物の一點で、世界を征服する一つの徴候と見てゐる。これは決して簡易生活のためからでもなければ、米國風の新物好に投ずる試みでもなく、恐らくは自分の實驗したやうな快樂を經驗した人々の事(321)業であり、しかも必ず南方のものであらうと思ふ。

　あの高慢な英國生れの婦人連が、しかも女同士でコッソリと支那料理店に出入をすると云ふ事實は唯廣東に於てのみ聞くのである。

　

　　　　　　　市全體が一種の臺所

　

　云ふまでもないが、かくの如くまで發達した廣東の料理は要するに一部風流人の獨占する所の者であつて、支那の普通の人々の生活とは云ひ得ない。廣東でも他の都會と同じく市は其全部が一種の臺所であり、住民の三分の二以上は日に三度宛、煮賣屋のものを喰つてそれで生活をしてゐるので臺所もとを持たぬのである。煮たり燒いたりした豚や鳥やお汁等を賣る常店と、行商人は市街に充滿してゐる。東京芝の露月町と云へば可成狹い街だがこれよりも更に狹いやうな大通は、晝夜絶間もなく食物の臭氣と煙とを以て滿されて居るのを見る。即ち中以下の都會人が、日本と違つていづれも出來上つた食物を買つて喰べる爲に支那では何處へ行つても、街は共通の臺所で、從つて庶民の食物の單純なることも日本人以上で、上り下りの客船は素より、汽車の驛々に於ても旅人は最も手輕に何時にても食事をすることが出來る。この間に於ては料理の趣味の如きは殆と見出すことは能はぬが、それでも自分の試みた僅かな經驗によると、單に腹を膨らますことを專一として居らぬことは勿論である。

　其上に南方天産物の豐饒と、下級人民の收入の増加と共につれて料理の技巧は平民の間に普及しあることがよくわかる。唯この地方の貧民の増加率がこれと競爭して勝つか、負けるがは問題である。

　

(322)　　　　　　　美的生活の大缺點

　

　南方の大都會は厦門《アモイ》でも、汕頭《スワトウ》でも同じ事であるが、最初豫定したよりも十數倍の住民を盛るに至つたと云ふ形が顯著である。

　市内では便所すらも家毎には備へることが出來ずして、早朝に市街を歩くと、停車場の切符買を見るやうに、便所を使ふ人がつながつてゐる。三階四階の高樓を立てゝ、尚屋根の上に通路を設けて、一坪あたりの住民の割合は四人にも五人にも相當してゐる。しかも情けない程の著しい貧富の懸隔で、この間に於て廣大なる門前の空地を控へ、何段にも屈曲した大建築が點綴してゐる。廣東で殊に其感を深うしたのは、自分が招かれて行つた財政廳長嚴君の官宅などは、明の最後の天子の宮殿であつたと云ふことであつた。夜分奧に入ると空山に住むが如き寂しさである。庭園には廣い池があり、而して其一室に於て三分の洋式を加味して廣東料理を試みた。これには料理の名も風流を極め、又料理も目の快樂に訴へんとするものがあつた。金銀珠と稱して二種に調理した鳩の卵等はありふれたものゝやうに云はれてゐる。それであまりに驚くと國を辱しめはせぬかと氣づかはれる位であつた。この珍料理を食つて、さて一歩門前を出づれば、ボロを着た苦力が、立つたまゝにて、甘蔗を?んでゐるのを見た。廣西の桂林を本場とする馬蹄と稱する慈姑のやうな甘い食物が、辻毎に鬻《ひさ》がれて商人がこれに簇《むらが》つてゐる。その外に鍋やきうどん、煮込でんがく、等いろんなものが何百あるかしれない。多くの下級勞働者はこれを食つては街の敷石の上に寢て仕舞ふと云ふ有樣である。この敷石の下は下水となつて居り、雨期になると、水の加減で下水が其の間隙から溢れ出して、市中到る處に臭氣を放つと云ふに至つては言語道斷である。其間をオワイヤも通れば、香水原料の?瑰の花を滿載した荷持も通る。花のやうな美人が赤肌の苦力に轎子《かご》をかゝせて通る。

(323)　要するに支那人の美的生活は民衆的でないと云ふことが唯一のしかも大いなる缺點であらうと自分は思つてゐる。

　

(324)　　　　　　　魚の移住

　

　　　　　　　　　　○

　

　今の金魚の子は、大抵は郡山から出て來る。郡山の舊城の隣の、日當りのごく良い傾斜地に池を拵へてみんな殿樣の御手飼の金魚である。

　

　　　　　　　　　　○

　

　歌と物語の南部の名山も、爰から見ると只の草山杉山だ。生駒颪しが少し吹くと、五町歩七町歩ほどの雲の影が、大和國原を北から南へ、日本書紀の上を流れて通る。金魚は何にも知らずにこんな處に生れて、中には西洋まで行くのもある。

　

　

　　　　　　　　　　○

　

　もう金魚を知らぬ子供も日本には少なくなつた。併し遠い田舍の宿屋の中庭などで稍々寒くなつてから靜に泳いで居る此仲間を見ると、どうして又この樣な淪落生活が始まつたかを考へさせられる。

　

(325)　　　　　　　　　　○

　

　何にしても僅かな年代に、我力でも無しによく分布したものである。羽後の湯澤邊では高い峠を越えて一（ノ）關方面から毎年金魚の子が入つて來る。其代りには此方面から太平洋岸に向つて、鯉の子が澤山に行くさうである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　鯉は食へるから田舍の人も、昔から之を運んで居たかもしれぬ。併し秋田領では、鯉も金魚のやうに新參で、文化頃から多くなつて來たと土地の人も言ひ、亭和の末年に、命じて之を放つと、記録にもあるさうである。

　

　　　　　　　　　　○

　

　鯰は鯉よりも更に一段と後に來た。伊頭園茶話と云ふ書には、萬延の頃より次第に多くなる。別に放した人は無い。タナゴ其他の小魚、此爲に甚だ不足になるとある。

　

　

　　　　　　　　　　○

　

　矢立を北へ越えて津輕の平野に下ると、鯰の移住は更に近年のことである。青森の川口君などは、二十何年前にはたしかに居なかつたのが、今では津輕の川々に、鯰を見ないのは無いやうになつたと言はれた。

　

　　　　　　　　　　○

　

　斯う云ふ見馴れぬ變な魚だから好んで食ふと云ふ人もまだ少く、從つて殖える一方だと云ふ話だ。津輕耕地の蛙ど(326)もは、歴史を異にし性情を異にしなどと言つて居ることゝ思ふ。

　

(327)　　　　　海豚文明

　

○　灘萬の食品賣場に、煎餅にしては稍々透明な、薯の切乾しよりもずつと美しい、たとへば枇杷色のセルロイドの破片見たやうな物をならべて、何かと思つたら紙の小札に、イルカとある。

○　どう考へて見ても是が我々の舊友の、あのむく／＼とした、眞黒な眼の小さい、飄逸にして且つ極度に善良なる、海豚と呼ばるゝ海の遊民が、此新しい世紀から受けねばならぬ待遇とは思はれぬ。

○　少なくとも是はポセイドンに對する冒?である。假に木村鷹太郎君の日本希臘同族説が、出鱈目の極であつたとしても、スエズ以東の廣漠たる海の上にも、やはり海豚が此神樣の三叉の鉾を、かついであるいて居たことはたしかだ。

○　曾て夜の引明けに海門嶽の下を過ぎて、眞正面に櫻島の噴煙に向つて航海してゐた時に、海豚の大群に船を護送せられたことがある。印度洋でも幾度と無く、この獣の、一つの目的に狂奔するやうな、自由なる遊戯を觀た。見えざる大なる靈に由つて、人界に、遣はされたるものゝ如く、我々でも思ふことが出來るのだ。

○　エトルゆヤの古文明のなつかしさは、土を掻上げる一鍬毎に増して來る。この天才民族は海を思慕するたびに海豚の遊びを想像した。萬頃の波濤を畫かずして、跳り舞ふ海豚の色々の姿を寫し出した。神女の生れた蒼海の美しさは、かくして萬古に傳はつたのである。

〇　しかも時非なれば右の如く、切乾しとなつて市に鬻がれる。或は此革でいゝ靴をこしらへて、大に賣らうとした(328)發明家も出來た。伊豆の網代の南の方の海岸でも、小さな入江の口で澤山にはねて居た。斯うして沖から追込んで來て、一つ／＼棒で叩殺し、うんと鹽をして山國へ送つて賣る。

○杣や木樵なら海の神の使を信じ得まいが、渡世とは言ひながら叩き殺す浦人たちはつらい。海豚は追はれると大きな聲をして鳴くさうだ。今や彼等は鳴いても何にもならぬ新發明の世の中に出逢つたのである。

　

(329)　　　　　ある日の日記

　　　　　　　　　「鳥の來る日」

　

　三月二十八日　曇　日記は五ヶ月前から中止して居る。併し小鳥の日記だけなら、もう一度始めて見てもよい。

　此あひだ中毎日々々、諸國の方言集を方々から貰ひ、又は小包郵便で借りたりして、雀を何と呼んで居るかを比較して樂んで居る。人が訪ねて來ると直ぐに其話が出る。雀先生そんな事は少しも知らぬ癖に、いつも庭の樹で遊んで居り、時々はまじめな顔をして硝子戸の中を、覗くのがをかしいと思つて居た。

　見たまへあんな事をして居る。此木はチェリーなのだが、誠に病身な多事多難な木だ。今年は澤山になるらしい。花がうんと附いた。雀は蜂見たいに蜜なんか吸はぬかと思つたら、一生懸命になつて嘴《くちばし》を突込んで居る。あの頭つきだ。北原白秋君がひどく面白がつて、色々として「雀の生活」の中に書いて見ようとして居る。全體に西洋の雀は是よりもずつと長あたまで、汚れて居るばかりで無く貧相だ。それにアヲジの樣な羽が大分まじつて居る。あればかり見て居るとホームシックになる、などと氣樂な話をして居るうちに四十雀がやつて來て啼いた。さうすると雀はどこへか出かけて行く。

　二種の小鳥の社會關係は、どう考へて見ても我々には呑込めない。仲が惡いといふ程の事は無いが、無論決して親密では無い。冷淡と言つてもやはり當らぬのは、互ひに在れども無きが如しで居られるからで、つまり小鳥仲間といふやうな概念は少しも無いのだ。それが動物園などで同じ金網に入れて置くと、しまひには喧嘩などをするやうにな(330)る。喧嘩も亦一種の交際である。

　三月二十九日　風吹く　ハルピンから還つた舊友が遣つて來て、頻りにボルネオあたりの島の話を知りたがるので、本と想像と噂話の寄木細工で、穀作開墾の六つかしいことなどを説明した。雀の群がひと朝に何町歩の陸稻を食ひ盡した話などをした。インコが惡戯をしていけないことなども話した。

　さうするといつの間にか、土鳩が來て庭をあるいて居る。私の北向きの庭は一畝歩少ししか無くて、苔も無い，赤土の霜柱遺跡だが、夏にならぬと此硝子戸はあけることが無いので、東京の鳥には閑靜な遊歩場になつて居る。今日は一羽で淋しさうだが、どこか此近所の大木に、三羽で住んで居る鳩なのだ。來客によつてはあゝ鳩が來てますねといふ人もあれば、あれはうまいと言ふと同感する人もあつた。けふの友人は老志士で且つ東京人だから、たゞ見て居るだけで何も言はなかつた。

　三月三十日　微雨　鶯が一つ來て長く遊んで居た。又四十雀が來て居る。此小鳥の枝の選擇は、雀などとは全くちがつて、成るべく複雜した處へ入つて行かうとするやうだ。從つて地面へはめつたに下りない。食物の關係だらうと思ふ。一羽だけ眼につく時には、必ず周圍の樫やカナメなどの枝が動いて居る。群でなければ往來しない鳥だ。さうして籠へ、入れると少しも面白くない鳥だ。

　三月三十一日　好晴　茶の間に子供が居て、さつきいゝ聲の鳥が啼いたといふ。聽耳を立てゝ居ると、鵯が南の庭へ來て居る。雀が大いに囀つて居る。ヒタキの聲がするやうだが、あれでも無さゝうだ。三年前に巣箱を庭の奧の木に掛けてから、鳥には幸ひに興味をもつやうになつたが、まだちつとも名を知らない。唄が無くなつては鳥とは友だちにはなりにくいものだと感じた。

　

(331)　　　　　風土と美人系

　

　今度の旗の計畫に、出來るだけ多くの社會的意義を有たしめるため、一つもつとも生眞面目にこの問題を考へて見ようと思ふ。

　自分は以前地方の旅がすきであつたので、毎度人から美人系の有無を尋ねられることがあつた。美人系は確に有ると感じて居る。しかしそれを立證しようとすると、先づ色々の個人的原因を取除けて見る必要があるのみならず、實際また少しでもその原因を説明することが出來ないで、そんな話をして見たところが、少なくとも關係者が承知をする筈は無いと思つて、今まではその決定に參與しなかつたわけである。山水の品評ですらも、人の説には服し難いものが多い。ましてや女性美の標準の如きは、それ自身が著しい移動性をもつて居て、之に基づいて美人系も亦終始變化を免れなかつたのである。

　土地人が自ら、古來美人を産せざる地方なることを承認して居る例は、存外に多いものである。しかも其理由としては十中の七八まで曾てそこに一人の絶世の美女を出し、それが薄命であり、またはある悲劇の種であつたからといふが、さうで無ければ辨財天女の如き、美しい神が祀つてある故に、押され嫉まれて美人が生れぬのだと説いて居るのは、甚だ面白い事實であると思ふ。即ち彼等はとくの昔より、既に美人を解し、またその價値を認めて居るのであつて、寧ろ趣味が高く容易に滿足をせぬことが、他の單純なる地方に比べて、美しき人乏しとする原因であつたらしいからである。

(332)　斯ういふ土地には、殊に外部の好尚が入つて來やすかつたのは當然である。現在はどちらかといふとさうした他人の立てた標準が、一般に承認せられんとする傾向を示し、各地の婚姻方針が大なる動搖を、受けんとして居る時代である。早く全國的に中正公平なる本格といふものを見出して置くことは、實は社會の結成の上からも、非常に必要なことゝ思ふので、自分などもこの事業の結果には少なからぬ興味を抱いて居る。

　中世の物語などを讀んで見ると、日本の民衆は先づ女性を二種に區分し、その一部少數をジャウラフと名づけて居たやうである。ジャウラフは即ち「上臈」であつて、最初の意味は上流の人といふに過ぎなかつたが、語は流行すると次第に濫用せられるもので、後にはたゞ化粧をした人、もしくは不斷に晴の衣裳を着て居る人、從つて遠くから來て土地では働かぬ人の全部を、さう呼んで平氣で居られるやうになつた。街道筋や重要なる都市ででもなければ、本式の「上臈」はさう多く來て居るはずが無い。その爲にミコとか遊女とか歌うたひの比丘尼とかの如き、飛んだ安つぽい上臈が出來上り、關東などではそれが短く女郎といふ語に變つて、いはゆる士人の口にすべからざる階級の名に限られることにさへなつたのである。

　上臈ならざる尋常の民家においては、女が化粧をする日は一代に一度か二度、神に仕へた者でも若い頃に、毎年一囘づゝより他は晴の衣を着る折がなかつた。ヨメは即ち吉女といふことで、この時ばかりは見ちがへるやうな姿であつたらうが、その方法も元は旅の女と、一つでは無かつたのである。人に占領してしまはれてから後でないと、かういふ嫁姿を見ることは出來なかつた。從つて配偶者の選定に際しては、これに依つて美醜を沃するわけには行かなかつた道理である。

　外國の美人競走の話をきいて見ても、通例は體質の美しさと、所謂トアレットの上手下手とを最初から區分して、二つ別々の點數を採らうとして居るのは、十分に根據のあることであると思ふ。ところが厄介なことには女の身だしなみ、學んで得られる技術のやうなものが、段々に天成の麗質に食ひ込まうとする。手段や材料が際限も無く外觀を(333)改良しょうとする。こゝに於てか新たに人爲の美人系、もしくは一地偏在が起らざるを得ないので、この趨勢に對抗して、優に全國に通用せらるべき基準をきめるとなると、先づ以て美人觀の沿革、具體的にいへば古への衣通姫、小野小町は、果してどんなに美しかつたかを考へてかゝる必要があるやうである。

　その幾つかある標目の中で、一つだけ獨立して居たのは肌の色であつた。是には昔から多くの誤解を伴うて居るやうであるが、誰でも既に心付いて居るだらうと思ふことは、色の白さと他の形の方の美しさとが、必ずしも常に一致せぬ、といふよりも寧ろしば／＼分れ／＼になつて居ることである。今後もし是が大部分は遺傳の力だと確められると、日本の女性美には早くから二系の併立があつたといひ得るのかも知れぬ。ところが我々の間では、色白といふことが上流の特徴の如くに認められて居た。そのために他の色々の缺點が、いはゆる「七難隱す」で幾分か輕く取扱はれる嫌ひがあつた。これが第一段に美容の基準を混亂させて居たやうにも思はれる。

　化粧と身嗜みは技巧ではあるが、大體之に由つて何を我々が美しいとして居るかゞ察せられる。兼々人が天然に期待して、しかも望みの如くならざりしものを、補充するのがその目的であるらしいから。

　といふ風に簡單に考へて居ると、説明の付かなくなることが度々起つて來る。例へば黒髪の長く素直であるのを、美人の第一の形容に算へて居た期間は千年以上であつた。それをシャム人の如く短く刈込むのが、伊達と認められる時代は到來し、曾ては泣くほどつらかつた縮れ毛といふものに、頼んでして貰ふのも今では御化粧である。自然は此通り寧ろ次々に改訂せられて居る。しかも是などはやゝ新しいから問題だとしても、浮世又平の屏風にはまだ確に外足で歩いて居た娘たちが、春章歌麿の版畫に入る頃には、早悉く内足になつてしまひ、足の外縁《そとべり》にばかり力を入れてあるく癖が、今でも遺傳して恰好の惡い國風をなして居る。

　眉の樣な大切な顔の道具まで、惜しげも無く剃り落す習慣が、隨分久しい間續いて行はれた。その最初の目的は時(334)に臨み入用に應じて、色々の形に畫きかへる便宜のためであつたらうが、見馴れた眼にはそれの丸きり無いのさへ美しく感じられた。何が動機でかやうな大膽な改造を試みたものか、今ではもう不明に歸して居るが、通例眉をかくには實際の在り處より、ずつと上の方へ持つて行つて人造のものを作つて居た。即ち目と眉との間の思ひ切つて開いた顔を、尊重した名殘であるかも知れぬのである。實際のところ今日でも眉の距離は、廣いのと迫つたのと二通りの顔が日本にある。一方が他を尚び自ら輕んじた結果が、斯ういふことになつたとも考へられぬことは無い。

　併し我邦においては、畫眉は少なくとも日常の化粧法では無かつた。何か特別の祭典儀式の時に、自由な眉の形を作るだけの用意であつたのが、後にはその必要は絶えて、たゞ剃つて居ることが女らしく見えて來たのである。お齒黒なども始めてこれを採用した時のことを考へると、單なる修飾であつたとは如何にしても言はれない。元は勇士が敵を殺した場合とか、ある重要なる任務に就く前とかに、常人と差別させるのが主なる目的であつたこともある。それが年頃に逢した娘のしるしとなると、あの口元までが艶麗と感ぜざるを得ぬ樣になつたのである。種族によつては耳に石をぶら下げ、唇に圓版《ゑんはん》を挿し込んでもやはり化粧であつた。頸輪腕輪はもと束縛の徽章に過ぎなかつたけれども、美人がこれを佩びるに至つて、それさへも人生の最も好ましき物の一つになつた。歴史は我々の美醜の標準が、しぱ／＼外部の力に因つて動搖させられて居たことを示して居る。

　近代の美容法はこれ等のものに比べると、無論遙に自然に近くはなつたが、尚昔からの行掛りが、形を變へて少しづゝ人の考へ方に干渉する。例へば白粉の最初の目途は、珍しく見馴れぬ尋常で無い顔を造るに在つたことは、假面を被るのと全く同じ趣旨であつた。だから南大陸の黒茶色の土人なども、祭の日に限つて白い物を塗り立てゝ居たのである。それが主として年若なる男女の歌ひまた舞ふ者に限られることになると、次第に一つの美しさの目標となつただけで無く、更に間接には我々の人種觀にも、若干の影響を與へたかと思はれる。併し二つの色を竝べて見れば分るやうに、實際はたゞ白いといふ語が一つであつたのみで、どんなに上手に塗つてもオシロイは肌の色を補充せず、(335)ましてやその理想的なものを模倣することはなほ出來なかつた。

　今までは至つて單純に考へられては居たが、同じ白いといふ中にも色相の細かな段階があつたことは、いはゆる黒髪の黒さにも無數の變化があり、大體は家々の系統を遺傳して居るのと同樣である。寫眞の技術がどれだけ精確に、その感覺を差別し得るかは知り難いが、我々の經驗は存外に豐富だから、それを眼鼻だちや顔かたちと結び付けて、略々實際に近い想像を下すことは出來ると思ふ。人類學が今日のやうに、骨格ばかりに浮身をやつして居らぬ時代が來れば、日本は殊に興味多き研究場となるであらう。自分などの直覺的豫斷では、日本の色白にはどうやら二通りの、可なり顯著なる區分があるらしい。その一つは「日に燒ける」と稱して、肌の色素の激しい變化を受ける系統と、他の一つは外光の影響が微弱にしか働かず、または燒けても黒くはならぬ質とが、少し氣を付けて見ると誰にでも認められる。原因が單に居住地や食物、その他個人の境遇に在るのでは無いと決すれば、是が將來の美人系研究を、ある程度までは學問的にしてくれるかと思ふ。

　何度か外國人の口からも聽いたことであるが、日本人を黄色種といふ學説はまだ決して確定的なので無い。さうかといつて女が湯に入り行水して居る處を、さうやたらに見せて遣るわけにも行かぬが、衣服で覆はれた部分の日本人の色は、白いといふ點にかけては恐らく白人以上で、たゞその白さが彼等とまた同じでないだけである。我々の多數は永い年月の間、夏は肌を出して働き、又は色々の光線を透す衣料を着て居た。その上に何處から來たか知らぬが、三千年以上も日の光の強い島に來て住んで、特に燒け易い肌を外界に任せて居たのである。それがいはゆる黄色人でありながら、いつも白色を尚んで居た隱れた理由であつたかも知れぬのである。

　

　國を同じくして二つ以上の種族が住めば、直ぐに血は混ずるものと考へることは理由が無い。開けた今日の時世ですらも、通婚には色々の故障がある。それが我々の如く融合して一體を爲し、差別の水源を見分けることも出來なく(336)なつたのには、又それだけの法則が無ければならぬ。自分などの推定では、内部においては一方の美人觀の勝利、外部に於ては選擇を可能ならしめた「母の輸入」がその主たる原因であらうと思つて居る。

　「母の輸入」といふ語が若し粗暴に聞えるならば、これを遠方婚姻の流行と名付けてもよい。兎に角に人が同じ種族の中から配偶者を見出さうとすることは、自然でもありまた久しい慣例でもあつた。軍陣その他の必要から、男子ばかりが移動するやうになつて、風俗、資質、化粧法までも異なる女性を、美しと見ることが出來るやうになつた。是が即ち人種混同の起源である。それも文野の差が甚だしく、或ひは外貌の優劣が著しくて、いつでも一方ばかりが輕んぜられるやうだつたら、選擇はいはゆる人種改良となつて、今少しく變化が單調であつたかも知れぬ。ところが日本では右に行きまた左に傾いた。その結果が終に今日の如く、新たに昭和の美人の標準を決定する必要を生ずるに至つたのである。

　日本ほど土地によつて、顔だち頭つきの異なる人の共住する國は少ないと言はれて居るが、それは要するに配合の複雜さであつて、大體からいふと二つの系統、即ち丸顔と面長との對立であり、それに幾つかの特徴が今でも立分れて附隨して居るのである。かうでは無いかといふ自分の心付きを敍ぺると、第一には目であつて、細い目が丸顔の方に、いはゆる瓜實には圓い目が伴なうて居るらしく思はれる。前代の美人畫には切れが長く、マブタが豐かであつて伏目になれば一文字に見えるやうなのが讃嘆せられた。それが「女の目には鈴を張れ」などと稱して、段々ぱつちりと開いてよく動くのを賞することになつた。これが時代の變化であり、また同時に地方的標準の不一致でもあつた。第二には髪の生え際と頭の形である。富士額といふことを餘り人が説かなくなつたと思ふと、今では生え際の半圓に近い額を多く見るやうになつた。これも前者は丸顔に、後者は面長の方に附いて居るやうに考へられる。東京などは大きな市街だから、その郊外の東北と西南とでは、村の女たちの顔だちに早差異があり、千住以北の顔は原則として「なすび手《て》」であつた。茄子といふのは髪の生え際が三角である他に、頭が幾分か上の方で細くなつて居るからである(337)が、細いと感ずるのは正面から見た時の話で、學問上からいへば長頭即ちドリコセファリックで、歌がるたの女詩人たちは常に皆さう畫かれて居る。之に對するブラキセファリック即ち廣頭が、生え際も通例は圓かつたやうで、近代の好尚は漸次にこの所謂「まくはうり手《て》」の方に移らうとして居たのである。

　これには單純なる審美眼以上に、色々の社會的理由が考へられるが、それを説き盡すことは不可能である。婦人の知音《ちいん》の多い諸君ならば經驗するであらうが、この顔容は性情氣質とも深い關係を有つて居る。それから前に述べた色の白さと日に燒け方の相違なども、丸顔と面長とは一つで無いやうに思はれる。注意して見たら髪の色の、同じく黒いといひ長いといふことにも、等差以上の類と方向の異同を認めることが出來るかと思つて居るが、それよりも大切なのは手足の長さと形で、此節のやうに男女が屋外でばかり、互に最初の印象を受けることになると、それが目鼻だちの美しさと匹敵する迄の、大きな要素になるのも不思議は無い。ところが私のいふ丸顔系は、この點にかけては弱點をもつて居た。全體に幾分か手足がきやしや〔四字傍点〕で首以上との釣合が取りにくいのみならず、敏活なる立居には何としても不得手であつた。田畠や庭の内の仕事はまだよいとしても、晴の座敷の舞姿などで、その美をてらふといふことの出來ぬ者が此｜方《はう》には多かつた。手足のすらりとした瓜實系の女性が追々その特徴を認められるやうになつた原因の一つは、多分近代の女踊の流行であつたらうと思ふ。

　旅人が美人系の問題に注意を拂ふのも、主としてこの遠目の美しさからであつた。從つて今日の寫眞藝術に基づいて、靜かなポーズの胸から上の姿を比べることになると、判定はまだ何れに決するかを知らぬのであるが、經驗は自然に他の隱れた部分を推測せしめ、結局我々が二つの兩存し難い理想の間を、と行きかく行きして居たことが心付かれ、從つて將來の調和を促進することになるであらうと思つて居る。

　在來の多くの美人系論は都市に限られ、また酒盃と絃歌との間の觀察に基づいて居たやうであるが、これは女性の移動といふものを計算して居ない覺束ない推理であつた。いはゆる輸入せらるゝ母には原の産地が無くてはならぬ。(338)それを考へて見ぬ以上は、風土の力を説くだけの資格は無い。日本人を構成して居る種族には、もと明らかに二以上の別があつて、二千年間の融合は完全にこれを混一したやうではあるが、尚｜大數《たいすう》現象によつて最初の土着者の特質が察せられる。たゞ時代の好尚はしば／＼變化した爲に、美人系の存在を確認することが出來なかつたといふのみである。大體からいふと手足ののんびりとした面長人種の方が、美しい者を多く出すかと思ふが、彼等の弱點は天然に負け易いこと、惡い生活をすると荒びること、早く老いることに在つた。さうして化粧法に於ても今も尚、丸顔系の下風に立つて居るかと思はれるのである。

　

(339)　　　　　旅行の上手下手

　

　旅行の上手下手は讀書に比べていふと便利である。いつもだら／＼と讀書する人があるが、上手な讀書は、ごくいゝものを短い時間に讀むことだ。睡眠然り、旅行も又然り。尤も時の運といふ外側の原因によつて、如何ともなし難い場合もあるが、いはゞ旅行は一つの生活技術であるから、自分の心持次第で、いくらでもよい旅行をすることが出來る。

　日本はどちらかといふとよい旅行のし易い國である。例を隣の支那や滿洲にとつてみると、あの國で、あの平原の眞中に住んでゐては、どんなに上手に旅行をしようとしても、無駄な所を歩かねばならぬ。ところが京都、東京は周圍が直ぐにいゝ練習場である。丁度讀書に例へると、豫めいゝ教育を施されるのと同じことになる。いゝ旅行をするには、上手な計畫をたてることも大切だが、ふだんから旅行とはかういふものだと知つてゐると知つてゐないとに分れ目がある。

　先づ、季節が自然にいゝ旅行をさせようとする。例へばこの天氣（窓を眞白にして雪が降りしきつてゐる）がすつかりよくなつて、青空が見え、きれ／”＼の雲がボッカリ浮んだとする。一寸外に出て自由に歩いてみたくなる。それから季節に相應した場所といふものがある。季節と場所とを組み合はせるのには、鐵道省のいふことや、遊覽地の宿のいふことをきいてはいけない。自分に心掛けさへあれば、その日行く所は自づときまつてくる筈である。それは一つしかない。それを妨げてゐる原因を考へてみよう。その一つは流行といふもの。大勢が行つたからといふことに動(340)かされるのである。も一つは、なるべくゆつくりと金や時間の無駄使ひをすることを幸福のしるしと思ふ傾向である。この二つがよい旅行を妨げる。人間は働かなければならない。だから同じ結果の樂しみが短い時間に得られる程成功だといへよう。

　我々の散歩、旅行には一日ですむいゝ所が澤山ある。昔芭蕉は三年、西行は一生、といふやうに非常に長い旅行をした。併しそれは全部が旅行の目的でなされたのではなくて、むしろ、宗教心を養つたものである。彼等の行脚は一生でもよいが、現在の我々の旅行は短くてすませるやうでなければならない。さうしなければ、現在忙しい國民の多數は旅行の恩惠に浴することは出來ない。

　第三に、これは私の一種の趣味だから必ずしも皆さんにお勸めはしないが、多くの人の行く所は避けたい。

　とにかく日本人は與へられてゐるものを十分に利用してゐない。例へば、美しい海を周圍にひかへてゐて、靜かな海岸や、一寸渡つて見たいといふやうな島があるのに、そこへ行くに何の設備もない場所が多い。世間でまだ一般に、人によい旅行をさせようといふ心が少い。これだけ澤山のよい景色を持つてゐながら、よい旅行をさせる用意が足りない。

　私は餘程前から、汽車とちがつた道筋を歩くといゝ旅行になるといつてゐた。直線旅行などといつて十五六年前に一寸流行つた。道を曲らないで眞直ぐにとると、自然に山脈の中へ出る。

　日本は國の幅が狹いので、表日本と裏日本とはさう遠くない、兩つの海岸を走る線路をHにつなぐ線路は澤山あるが、いくらつながうとしても汽車にふれてゐない道がある。時とすると鐵道では大廻りしなくては行けない甲地と乙地との間が散歩と名付けでよいやうな、下駄をはいて行けるやうな短い區間であることもある。たゞ鐵道が荷物だけを運んで置いてくれるといゝ。

　それから近頃は地圖のかなりいゝのが出來てゐるから、それを頼つて行けば道は分る。おまけにバスが非常に發達(341)してゐるから、二時間か三時間しか歩く能力のない人もかなり大きな旅行をすることが出來る。しかし、した人は少い。それを奨勵したい。

　私が今までにしたさういふ旅行を二、三話さう。

　一昨年、紅葉時に、飛騨へ行つた。平湯といふ所まで自動車で行つて、袴は脱いだが、このまんまの恰好で、子供を一人連れて鞄を持たせ、二里の山道を歩いたら、上高地へ出た。あれからは自動車があるのでそれで下りた。それでもう信州のアルプスの横斷が出來た。今まで非常に大廻りの道だつた、高山の平原から松本の平原まで遊びながら二日間で行けた。

　その前、れんげつゝじの盛りな時分、信州の輕井澤附近へ行つた。もつともその日は自動車を特別に頼んで、野邊山ヶ原まで行つてもらつて、甲州の若神子まで下りた。私はそれから二里半の道を馬に乘つた。そこは婦人には絶望といはれるやうな道だが、一日で問題なくゆかれた。道は緩傾斜で、姫あやめや、れんげつゝじが咲き、非常に鳥が多い。富士や箱根や御嶽、秩父などの有名な山々が見える。そこから韮崎へゆき、中央線で甲府に來、身延鐵道に乘り換へて太平洋岸に出た。朝八時淺間の下を歩いてゐたのが、夕方の五時半には駿河の富士につき、晩の九時か十時にはこの家に歸つて來た。輕井澤から汽車で東京に歸つて來てもその位時間がかゝるが、花と鳥の多い八ヶ嶽の山腹を歩いて、更に富士川の左岸の靜かな村を歩いて、歸つて來るのとさう違はないのである。この輕井澤から駿河の富士へ出る道は眞直なのに、一度東京に歸つてからゆく人が多い。

　三四年前、まだ自動車が不自由な頃、奈良の歸りに二日の暇があつたので、上方の人が伊勢詣りのついでによくゆく、當麻寺へ寄つた。この寺は中將姫の傳説で有名である。それから河内へ出て、長野といふ川縁の温泉へゆき、更に眞直に東へ向つて、觀心寺――南北朝の頃出來た寺――を訪ね、千早城址をとむらひ、大和の五條に出た。この邊(342)は高野豆腐の産地である。それから吉野の上流の鷲家口を通つて　――今は乘合があるが、私達は人力車で行つた。更に眞直に一里半ほどゆくと、奈良と三重の境の高見山の横腹に出た。こゝは大變景色がよい所でつゝじの咲いてゐるのが遠くから見える。昔、高見山と多武の峯とが背比べし、高見山が負けて口惜しいので頭を飛ばしてしまつたといふ傳説がある。傍に頭だといはれてゐる一丈位の岩がある。その間を杉谷といつて、そこを通つて行つた。この杉谷が大和と伊勢の境で、つまり高見山の頭は大和に、胴は伊勢にあるわけである。

　その時の荷特が話の多い男で、次々と語つてくれるかうした傳説を樂しみながら、更に一里半ほど歩いて、伊勢の波瀬といふ村についた、こゝからは立派な道があつて、馬車か自動車を利用すれば樂に松坂に出る。地圖でみるとすぐわかる。東西に眞直な道である。

　繰返すやうだが、京都や東京の附近にはよい旅行の場所が多い。周圍の山を簡便に越える方法さへあれば。それがあまり省みられないのは殘念だ。天然の美しさも、人間の違つた生活に接することも、實はかういふ所にしかない。大勢のゆく所に一緒にゆくと、途中で出逢つた旅行と關係のない印象がまじつて旅行の本當の味が味はれない。若い人はさう感じないかもしれないが、年をとると、一生の間さう澤山な旅行は出來ないから、いつまでも／＼思ひ出されて、自然になぐさめになるやうな旅行をしておきたかつたと思ふ。出來るうちに、下手な旅行やまづい旅行をしないやうにおすゝめしたい。

　本當によい旅行は、今でも一つ／＼わけて委しく細かく話すことが出來る。それは單なる記憶力ではない。忙がしい時にあちこちちよこ／＼讀むよりも一寸の時間でも靜かな氣分で、己れを虚しうしてよいものを讀むと養ひになつて、何かの折々には思ひ出される。旅も同じである。

　

(343)　　　菅江眞澄

　

(345)　　　　　序

　

　菅江眞澄に就て私の書いたものは、大正九年に公表した「還らざりし人」が、秋風帖に出て居るのを最初にして、雪國の春には「眞澄遊覽記を讀む」、民謠覺書には「民謠と越後」があり、更に退讀書歴の中には「霜夜談」の問はず語りがある。もうこの翁に對して私の抱いて居る感懷は、説き盡したといつてもよいのである。其上に二十年來の望みであつた彼の身元生ひ立ち、どうして此樣な大きな旅をすることになつたかといふ、隱れた動機はまだ少しも明らかになつて居ない。新たに一つの本をこしらへる理由は無いわけである。たゞ強ひて言ふならば東北の人たちに、もうちつと彼の業績を利用させたいことゝ、あはよくばさういふ機會に於て、何か私たちの知り得なかつた事が、わかつて來はすまいかといふ未練もまじつて居る。とにかくに事情がもし許すならば、ざつとした年譜を作つて置きたいといふ、夙くからの計畫が是で果されるので、二三の古い文章を附載したのも、目的は單にどういふ人だつたかを説明する爲で、一つの傳記を整へたといふやうな氣持は、自分には無いのである。今までの經驗では、百五十年來の舊家も東北には存外殘つて居る。たとへば陸中六日入の鈴木氏などでは、當主長雄翁はちやんと白井秀雄の名を記憶して居て、すぐに曾祖父の日記を取出して、來た還つたとある個條を見せてくれられた。家も其頃のまゝで燒けもせず改造もしない。とまれば此室だつたといふ佛壇のある中の間で、私も茶を飲んで昔の話を聽いたのである。さうかと思ふとその近くの、�ｺ岡町村上家は朝鮮に行き、姉體の安彦家は今は無く、又山（ノ）目の大槻家も取崩されたまゝになつて居る。百何十年の前の暮しぶりを知るといふことが、知友縁故者の深い關心を惹くであらうことは、盛衰何れの場合でも同じで、たゞ喜んでさういふ話に耳を傾けることの出來る家が、或はもう一度古い書きものや手紙類を、探して見てくれることになるだらうと思つて居る。(346)さういふ豫想のもとに、年譜には成るたけ多くの村里の名、又家と人との名を掲げて置くことにした。實地に就て見たら私の讀みちがへ、もしくは初めからの筆者の誤りも出て來るだらうと思ふが、それとても今は好話柄である。何等のまとまつた姿も無い概念の「過去」を談ずることに、御互ひはやゝ倦みかゝつて居る。さうして我眞澄翁の書き留めた昔の生活だけには、鮮かな色彩があり、又波うつ血潮の音が聽えるからである。

　　　　　昭和十七年二月

　

(347)　　　　　白井秀雄と其著述

　　　　　　　　　――「紙魚」といふ名古屋の雜誌に、昭和三年十一月――

　

　これは「紙魚」の同人諸君に、私信を以て教を請ふべき問題かとも思ふが、實は此頃になつて自分以外にも、菅江眞澄に注意する人が急に多くなり、一日も早く解答の現れるのを待つて居るのみならず、柳田が如何に永い間此調査に苦心し、しかもどうして一向に獲る所が無いのかといふことを、聽かんと欲する人も少なくない。仍て僅かながら今日迄にわかつた點を書き列ね、且つは弘く世の同情ある援助を求むべく、之を眞澄の故郷の諸君に公表して見る次第である。

　最初に是非知りたいと思ふ要點を掲げると、田中道麿翁の門人又は社中に、三河吉田近傍の人で白井幾代二秀規といふ人、或は白井英二秀雄といふ人は無かつたかといふ問題である。榛木翁の歌文集又は名簿類を所藏せらるゝ方に、一度檢索を煩はしたい。自分の推測では、幾代二秀規は英二秀雄の父か伯叔父か兄かで、前者が田中翁と交遊のあつたことは證跡がある。自分の尋ねようとして居るのは、（一）その白井秀雄の學問の系統、（二）精確なる本貫、及び（三）その郷里を出てしまつた事情であるが、事によると此方面の捜索に由つて、この三つの點が少しは明らかになることもあらうかと思ふのである。本年はちやうどこの隱れたる學者白井秀雄の百年忌であつて、自分は其記念の爲に此春は既に小文を公けにし、九月には又秋田市に於て擧行せられた百年祭典にも列席して來たのであるが、此等肝要なる諸點が未だ知れない爲に、其傳記を世に傳へるに至らぬのである。切に故國の學者たちの協力を希望する所以(348)である。

　白井秀雄は、其半生を送つた東北地方では、主として菅江眞澄の名を以て知られ、秋田市西郊の寺内村に在る墓誌にも其名が刻せられて居る。是が郷里の人々と縁遠くなつた一つの原因ではあるが、彼が此名に改めたのは寛政享和の交、即ち三河を出てから二十年も後のことで、津輕藩の公記録等には、まだ本名が傳はつて居るのである。假名の菅江の方が今日の如く有名になつたのは、全く其遺著の全部が秋田人の手に由つて保管せられ、しかも何人かが之を總括して、眞澄遊覽記と呼び始めた結果である。

　眞澄翁は改名以後、二十七八年の間羽後の各地を巡歴して、文政十二年七月十九日に仙北郡角館の附近で病歿した。豫ての遺旨に基づき、門人鎌田正家等柩を奉じて寺内村に還り、之を今の處に葬つたので、墓石には歿年七十六七とあるが、畫像記に依れば七十六が正しく、即ち寶暦四年戌の年の生れで、三河渥美郡の人であつたといふことだけは、藩　　コウ明�ｺ館の國學方鳥屋長秋といふ人の、碑銘の長歌の中にも述べられてある。しかし此以外の事實は翁自身の著述が之を語るのみで、逸話といふ類のものも甚だ少ない。さうして一身の經歴に就ては、能文の筆者ではあるが、説いて必ずしも明瞭で無かつたやうである。或は何か人に語る能はざる事情があつて、郷里を立退いたものゝやうにも察せられるが、其點だけは少しも書中には觸れて居ない。さうして色々の雜説ばかりが今の世までも傳はつて、奇を好む人の心を刺戟して居るのである。

　併しそれを説き立てる以前に、先づその白井秀雄が如何なる事業を世に遺したかを語る必要がある。さうしてそれは同時に亦、今日知られて居る傳記の全部にもなるのである。翁は二十八歳の時、即ち天明元年に父母の家を出たと書いて居るが、現在ある紀行は天明三年三月以後のもので、それ以前の分は或川の渡し場で舟が覆つて流してしまつたといふ話である。其點も自分にはまだ問題の一つであるが、兎に角にこの天明三年から死ぬ迄の四十七年間が、悉く旅行の生涯であつて、その初期三十年ほどの信州及び奧羽の紀行が、不思議に寫本のまゝで今日まで傳はつて居る(349)のである。

　いつの頃からの事であつたか、人は其紀行の全部を合せて眞澄遊覽記と名づけて居た。しかも各家の藏本には區々の異同があつて、まだ卷次は一定しない。又書名だけを傳へて本を發見せられぬものが若干ある。私は試みにほゞ作成の年月順に、自分が一度讀んで見たものだけを次に列擧し、簡單に其内容を述べて見ようと思ふ。但し卷數は多くは一卷で、卷によつて大小はあるが、自筆自編の分だけは、何れも精密なる彩畫を伴なうて居る。

　

　

　　　　　　　委寧乃中路（イナノナカミチ）

　

　天明三年三月信州飯田に入り、それより天龍川右岸に沿うて北行し、中仙道の洗馬の驛からやゝ入込んだ本洗馬の村に着いてから、同じ年の十二月半までの日記。

　

　　　　　　　わがこゝろ

　

　同じ年の仲秋姨捨山に月を見た記事。歌が主であつて他の各卷の如き興味は無い。

　

　　　　　　　來目路乃橋（クメヂノハシ）

　

　翌天明四年の六月末に、本洗馬を立つて、松本を經て戸隱山に登り、それから水内郡曲橋、松代善光寺等を一見して越後境まで出た紀行。

　

(350)　　　　　　　齶田濃假寢（アキタノカリネ）

　

　同じ年の九月初、出羽の鼠ヶ關から鶴岡に入り、羽黒山に參詣して後最上川を下り、酒田吹浦象潟本莊矢島を經て、山を越えて雄勝郡柳田村に達し、雪の中に春を迎へた迄の日記。

　

　　　　　　　小野の古里

　

　或は之を「齶田乃假寢」の後篇とする者もある。天明五年の春、雄勝郡滯在中?々湯澤院内等に遊び、又小野小町の生地と傳ふる上關村を訪問した日記。土地の風俗を記すること最も詳細で、初夏に秋田に向つて出發する迄の事が書いてある。

　

　　　　　　　楚須賀濱風（ソトガハマカゼ）

　

　同じく天明五年八月中の紀行。秋田と津輕領との境｜木蓮子《もくれんじ》から筆を起し、海岸傳ひに深浦鰺ヶ澤、それから弘前に入つて土地の文人と交を結び、青森へ出て蝦夷地に渡らうとして之を中止し、再び引返して南津輕から北秋田に越え、陸中鹿角郡との境に來て滯留した迄。

　

　　　　　　　けふの狹布（ケフノセバヌノ）

　

　直ちに前の日記に續いて、鹿角郡花輪湯瀬から、折壁の關を過ぎ、二戸都田山に出で、淨法寺の觀音堂、末の松山等を一見して今の東北本線の中山あたりで國道に出で、それから盛岡花卷黒澤尻と南進して岩谷堂附近まで來た紀行。

　

(351)　　　　　　　雪の膽澤邊（ユキノイザハベ）

　

　天明六年十月から十二月までの日記。陸中山（ノ）目の大槻氏に滯在し、前澤水澤あたりの知友の家を往來して居る。此年は藤原秀衡の六百囘忌が中尊寺で行はれ、記念すべき色々の儀式があつた。東北農村の雪の中の生活が描かれて居る。

　

　　　　　　　配志和乃若葉（ハシワノワカバ）

　

　天明七年の四月に、陸中大原の芳賀氏の家を出て、又膽澤郡の諸友を訪問した紀行。春から夏へかけての北上川中流の村々の風光がよく描かれて居る。配志和神社は即ち同じ山（ノ）目村の式内社の名である。

　

　　　　　　　霞む駒形

　

　天明八年正月からの日記、やはり前の地と近い�ｺ岡の村上氏に居る。此地方の正月の風俗がよほど珍しいので、丁寧に之を記述して居る。又中尊寺の麻多羅堂の祭の見物をした記事も詳密である。此一節だけは昭和二年三月の「民俗藝術」に抄録して置いた。

　

　　　　　　　岩手乃山

　

　天明八年の六月に、いよ／＼蝦夷旅行を思ひ立ち、前澤水澤の舊知と別れ、再び四年前の通路を引返して北に向つた紀行。南部領と津輕領との境、野邊地狩場澤の間の處で筆を止めて居る。

　

(352)　　　　　　　率土が濱傳ひ（ソトガハマヅタヒ）

　

　直ちに前の日記に續いて、青森灣の南西岸に沿ひ、小湊青森から半島突端の三厩までの日記。七月十三日の晩に宇鐡の濱から船に乘つて、翌十四日の曉天に松前の港に入つた。此一卷は殊に沿道の寫生畫が多い。

　

　　　　　　　蝦夷喧辭辨二卷（エミシノサヘギ）

　

　翌寛政元年の四月から六月迄の日記。江差福山を中心として東西の沿海を旅行して居る。今日忘れられてしまつた此方面の移民村、それを頼つて渡つて來た内地の旅僧や藝人たちの侘びしい生活が、仔細に觀察してある。

　

　　　　　　　昆布苅（ヒロメカリ）

　

　同じ寛政元年の十一月中旬、今の函館から福山までの海岸を歩いた記事、主として此あたりにまだ住んで居たアイヌの生活に注意して居る。別に又「廣布乃具」（ヒロメノグ）といふ一書もあつて、共に精確なる見取圖を以て充ちて居る。

　

　　　　　　　蝦夷乃手布利（エゾノテブリ）

　

　寛政三年五月二十四日福山を立つて、東場所一見の旅に上つた。半分は舟路、澤山のスケッチがある。北海道南岸の風景誌として是以上に詳しいものは外にはあるまい。有珠《うず》後方羊蹄《しりべし》兩岳の見えるサハラといふ處に、五月の末の日に到着したまでで終つて居る。

　

(353)　　　　　　　千島の磯二卷

　

　寛政四年前半の日記。松前城下の雪の底の正月から、次第に春になつて野山に出て遊ぶ迄の季節の移り變りを述べて居る。此頃は城内の男女に歌の門人が多く、文筆の往來は多事であるが、記事としては興味のある部分に乏しい。

　

　　　　　　　牧の冬枯

　

　同じ年の十月七日、人々に送られて松前を出帆し、下北半島の奧戸（オコッペ）といふ港に上陸してから後の日記。次々に當地の風雅人を訪ねて村から村へ移り、師走の末に近く田名部の町に入つて正月を迎へた。

　

　　　　　　　奧乃浦々

　

　翌寛政五年の四月始めから夏三月の間の日記。主として田名部の町に滯在し、其間に近傍を遊覽して、恐山へも第二囘第三囘の登山をした。

　

　　　　　　　牧の朝露

　

　前の日記に續いて同じ年の秋三月の日記。大畑・易國間（イコンクマ）・大間・奧戸など、昨冬見て歩いた邑里を訪ひ、各地の知人と盛んに唱和して居るが、途上の見聞にも珍しい事實が多い。

　

　　　　　　　尾駁乃牧（ヲブチノマキ）

　

　同じ年の冬三月の日記、十月下旬に一旦田名部を辭して太平洋岸に出で、小河原沼の邊の牧馬地方を過ぎて南下し(354)ようとしたが、雪に遭うてひどい難澁をして、再び田名部まで戻つて來た日記。如何なる書物にも記録せられざる奧州僻村の冬の生活が詳しく描かれて居る。

　

　　　　　　　奧乃手風俗（オクノテブリ）

　

　寛政六年の正月から三月末まで、專ら田名部に滯在して土地の風俗行事を書殘さうとしたもの、珍しい彩畫に富み、民俗學の研究者に屈竟の資料を供する。

　

　　　　　　　淤遇濃冬隱（オクノフユゴモリ）

　

　自序に寛政七年とあるが、實は亦六年の日記である。此冬も出發しようとして友人から留められ、田名部に滯在して時々附近を遊行し、翌春こゝを立つことにしたと記して居る。

　

　　　　　　　津輕の奧

　

　これは現在の所藏者が後に附けた題箋で、其内には切れ／”＼の數篇の紀行を合綴してある。其一つは多分翌寛政七年であらう。三月二十二日に愈々南部領を去り、馬門狩場澤を經て津輕領に入り、小湊淺蟲の間の村々を巡つて花を見たといふなつかしい日記である。次の一篇も多分同じ年、十月中旬に青森を立つて、十一年ぶりに弘前黒石の邊を訪ねた紀行。途次多くの學者文人と逢うて交を締し、十一月末には再び青森へ引返した。第三は僅か間を置いて寛政八年正月一杯の日記。淺蟲の温泉に滯在して居る。十三日から小湊に行つて小正月前後の行事を見た。第四は二月の初に小湊を立つて、又弘前の方面を遊歴した紀行。岩木山の麓の村々を巡つて春色を尋ねて居る。四月初めのところ迄で、私の見た寫本は末が切れてある。

　

(355)　　　　　　　外濱奇勝

　

　是も幾つかの紀行を集めたもので、標題は後人が附けたらしい。其一つは寛政八年の六月始め、弘前を出發して北津輕に遊んだ紀行。行きには十三潟の東岸の路を行き、龍飛崎《たつぴざき》の突端を究めて小泊に一泊、歸路は湖西の屏風山下を經て、七月六日に鰺ヶ澤の港に着くまで。十三の湊の光景が詳しく描かれて居る。第二編は同じ年七月十六日以後、此時はもう深浦港まで來て居る。十二年前に一度通つた海岸の路を、逆に大間越の近くまであるいて居る。尚此他にも二三篇の紀行があるが、それは便宜上他の紀行の後に附載する。

　

　　　　　　　雪乃母呂太奇（ユキノモロダキ）

　

　同じ年の十月末、深浦の海岸を立つて岩木山の麓を廻り、山奧に在る暗門《あんもん》の瀧を雪中に見物した紀行。目的は珍しい冬の深山の風景を、多くの畫にする爲ではなかつたかと思はれる。さうして再び深浦に還つて殘りの冬を過した。

　

　　　　　　　津介呂廼遠地（ツガロノヲチ）

　

　寛政九年正月元日から六月朔日迄の日記。深浦の町の富める俳人竹越里圭は最も親しい友人であつた。そこに五月の七日迄居つて、かはつた正月や節供の行事を見た。それから鰺ヶ澤を經て弘前に出で、多くの舊友を尋ね、又津輕平原の處々の史跡を見巡つて居る。

　

　　　　　　　錦乃濱

　

　是も三篇の小紀行を合せたもので、筆者自身が後年に淨寫して居るのだが、其順序は前後して居り、此書の第二篇(356)は前の「津輕のをち」に續くものである。即ち寛政九年の六月中旬から、弘前藩の學問好きな醫師たちと同行して、領内各方面を旅行し、風土物産の研究をして居る。七月中句は弘前で休養し、二十二日から出發して再び津輕半島の北の果まで、田舍路を詳しく歩いて居る。他の二篇は寛政十一年又は十二年のものらしく、一は弘前附近の正月風俗を記し、他の一つには同じ地方の秋祭の光景などが記されて居る。

　

　　　　　　　津柯呂能通度（ツガロノツト）

　

　二篇の日記を合せた一册。共に寛政十年のものらしい。前者は東津輕郡童子村の正月風俗。多くの彩畫を挿んで珍しい土地の見聞を録して居る。齶問上最も價値ある一卷である。次の一篇は黒石滯在中の隨録の如きもので、八月中旬の日附である。外濱奇勝の第三篇。即ち四月に青森を立つて弘前に行き、再び採藥の目的で岩木山に登つた紀行は、恐らく右二篇の間に入れらるべきものであらう。

　

　　　　　　　櫻狩紅葉狩

　

　是も多分寛政十年の春と秋と、青森近村の中野といふ山村に遊んだ紀行で、其序を以て北奧の風物を述べて居る。文章よりも挿畫の方に力が入れてある。

　

　　　　　　　栖家乃山（スミカノヤマ）

　

　寛政十一年か十二年かの四月から五月、青森附近の春を賞して後、弘前方面に遊行した紀行である。

　

(357)　　　　　　　雪の道奧雪の出羽路

　

　享和元年の十一月、筆者四十八歳の時に、いよ／＼津輕を辭して出羽に入つた紀行。深浦の竹越氏（？）を多くの人に送られて出立した。能代に着いたのが十一月六日。暫らく見物の後、十三日には土崎港に來て滯在した。歳の終りに近づいて、雪橇に乘つて秋田の城下に入つた。

　

　　　　　　　繁き山本

　

　享和二年三月から六月まで、秋田山本二郡の間を巡遊した。藤琴川を傳うて其頃繁榮して居た太良《だいら》鑛山に入つて詳しく見物した。其折の見事な見取圖中には、經濟史の資料が多い。

　

　　　　　　　阿仁乃澤水（アニノサハミヅ）

　

　多分此年の秋、阿仁鑛山地方の寫生畫集。畫ばかりで文章は無い。

　

　　　　　　　雪能飽田寢（ユキノアキタネ）

　

　同じく享和二年の十月以後、阿仁山村の旅行記。十二月に入つてから白絲瀧を見に行つたのは、前の「雪の諸瀧」と同じく驚くべき冒險事業である。

　

　　　　　　　秀酒企乃温濤（ススキノイデユ）

　

　享和三年正月から五月までの日記。直ちに前のものに續く。北秋田の大瀧の温泉に滯在して土地の風俗行事を見、(358)又近傍を遊覽した。面白い畫が多い。

　

　　　　　　　贄乃柵（ニヘノシガラミ）

　

　同じ年六月中の日記。北秋田の扇田から大館の間を往來して、地方の舊傳を尋ねて居る。

　

　　　　　　　浦の笛瀧

　

　同じ年の暮から翌文化元年の夏までの、能代附近の遊覽を飛び／＼に記述したもの。後年編集したと自序に書いて居るのは、方々の手帖のものを一つにしたことをいふのであらう。

　

　　　　　　　恩荷乃金風（オガノアキカゼ）

　

　同じ文化元年の八月、秋田城下を出發して男鹿半島に遊んだ紀行。湖上の秋色と天王社の祭禮の記事、及び此時代の赤神山信仰に伴なふ多くの傳説、豐麗なる寫生畫等。九月の末、能代に還つて舊友と會する迄。

　

　　　　　　　みかべの鎧

　

　是を享和三年の著と謂ふ人があるが、自分は文化二年であらうと思つて居る。此紀行中には古器考證の説と圖とがあつて、先生の學問の一つの新方面を示して居る。

　

　　　　　　　霞む月星

　

　文化三年春の遊覽記。能代の舊史と、安倍家に關する色々の傳説を載す。花の畫が多い。

　

(359)　　　　　　　雄賀良能多奇（ヲガラノタキ）

　

　同じ年五月の遊覽記。能代と其近くの海岸。此一卷は久しい前に見たので、詳しくは内容を記憶せぬ。又此前後の紀行には尚散佚したものが多くあるらしい。

　

　　　　　　　夷舍奴安装婢（ヒナノアソビ）

　

　文化六年の七月、五城目附近に滯在して居た間の日記。此地方の特色たる盆風俗、例へば眠流し、俄踊や番樂舞の見聞を、繪入りで詳しく寫して居る。此中には二三他の畫工の繪が入つて居る。

　

　　　　　　　氷魚乃村君（ヒヲノムラギミ）

　

　八郎湖畔の谷地中《やぢなか》といふ村の正月風俗。繪最も面白し。前の「奧の手振」「津輕のつと」と比較せらるべきもの。末に雪中湖魚を捕る有樣を述べてあるので此書名がある。文化七年の著。

　

　　　　　　　雄鹿乃春風

　

　同じ年三月のなかばに右の谷地中を立つて、再び男鹿半島を遊覽した前後の日記。花の盛りに眞山本山に登つて、詳しい見聞を録して居る。此中の繪は拙著「雪國の春」初版に一枚だけ模刻して出して置いた。是も文字より挿畫の方が多い。

　

(360)　　　　　　　小鹿乃鈴風

　

　男鹿の北浦に居て近傍を見てあるいた紀行。戸賀の港の遊女の生活なども寫してある。同じ年の五月のもの。

　

　　　　　　　牡鹿乃島風

　

　此一卷も前の續きで七月の半ばから、翌文化八年の二月初まで。正月は男鹿と能代との中間にある宮澤といふ村で迎へ、是亦細かに其地の風俗を記して居る。

　

　　　　　　　簷廼金棣棠（ノキノヤマブキ）

　

　文化八年三月から六月。八郎湖畔の村々を訪れた紀行。三月二十四日には家毎に軒に山吹の花を挿す風習があつた。それを寫した美しい寫生畫、其他此附近の風景圖が多い。

　

　　　　　　　月廼遠呂智泥（ツキノヲロチネ）

　

　文化九年の盆の月夜に、大平山麓の村に遊び、後に人々と共に登山一宿した紀行。

　

　　　　　　　勝手能雄弓（カツデノヲユミ）

　

　勝手神社に參詣した紀行。藤原藤房の舊跡などを考證したもの。

　

(361)　　　　　　　花のしのゝめ

　

　年不詳。土崎を曉に立つて秋田城内の花を見あるいた一日の紀行。畫が多い。

　

　　　　　　　雪の山踰え

　

　これも年未詳。五城目附近の山村を年の暮に巡歴した紀行。これも見事なスケッチを多く掲げて居る。

　

　　　　　　　十曲湖（トワタノウミ）

　

　是も某年の八月に、鹿角郡の毛馬内大湯を經て、十和田湖に遊んだ畫の多い紀行で、二十年ほど前に始めて發見せられた。

　

　

　以上五十二種の他、尚同樣の紀行に諏訪の海（天明四年）菴の春秋（同上）、千引の石、千島の名殘（寛政二年？）、牧の夏草、瀧の松蔭、月の松蔭（享和三年？）、花の眞清水、花の眞阪路（文化六年）、浦の梅園（同上）、久保田のをしね（文化八年）、水の面影（文化九年）、麻裳《をも》の浦風（同上）の十三卷があることは自らも之を記し、別に淺間の煙、小町の寒泉、霧の高松、杜の下蔭、巡る山川、出羽の山奧などといふ遺著のあつたことは、往々にして人の説く所であるが、其等は私はまだ目に觸れたことが無い。兎に角に著作の數も非凡であるが、其多數が斯うして世に傳はり、能く百年後の學問を裨益したことも、珍しい例と言はなければならぬ。しかも前に列記した五十餘篇の中で、現在印刷に付してあるものは、舊南部領内にかゝる日記の十篇だけが、南部叢書の卷六に採録せられたに止まり、それとても不完全な傳寫本に依り、美しい挿畫は全部省略せられて居るのである。實際餘りに此繪が見事であることは、今後(362)の覆刻を妨げるばかりで無く、又精確なる寫しを世に殘すことを困難にして居る。

　ところが幸ひなことには著者自身、殆と信じ難い程の根氣を以て、何度か自分の紀行を複製して、一册づゝ諸處の知人の家に留め置いたらしいのである。現在眞澄遊覽記自筆本の一番よく纏まつて居るのは、佐竹侯爵家に藏せられて居た明�ｺ館本であるが、それは彼の七十歳の年とかに、藩の學校へ一括して寄贈したといふもので（今の縣立圖書館本は、近年になつて之を寫したものといふ）、各卷同樣式の美本で、少なくとも保存の爲に特に之を整頓したことは明らかであるが、別に其以前にも人に知られ、又零册として流布するものは多かつたのである。それから内閣文庫に今在るものは、畫は全部、文も多くは他人をして淨寫せしめたものだが、是は別に前藩公佐竹義和の旨に基づいて獻上したと傳ふる本らしく、著者自身其淨書にも干與したと見えて、其精美は却つて前者に越えて居る。さうして今の圖書館本は近年是から寫したものである。

　白井秀雄の著作としては、なほ數種百卷にも近い隨筆類があるが、學問の上から見て、遊覽記ほどは大切で無いと思ふから今は省略する。それよりも秋田人の特に晩年の彼に負ふ所のものは、雪の出羽路。月の出羽路、勝地臨毫の三つの未完成の大著である。文化の中頃から、所謂菅江眞澄翁の名聲は漸く高く、藩の學者にも其力を認めた人が多くなつて、多分那珂碧峰（通博）といふ人の推薦であらうといふことだが、新たに領内地誌取調方を囑せられ、それから後は公人として仙北以南の村々を巡囘した。翁の最初の計畫では、久保田領六郡を三つに分ち、雄勝平鹿の二郡を雪の出羽路、仙北河邊の二郡を月の出羽路、殘りの山本秋田を花の出羽路として記述する積りであつたらしいが、遺憾ながらその大規模のものを實現するには、少し年齡が足りなかつた。北地の交通には我々の知らぬ障碍が多く、十七年餘の歳月を殆と此事業に專心して、文字通り中道にして殪れたのであつたが、なほ其收穫は半分にも足りなかつた。今日知られて居るものは稿本までを加へて、雄勝都が五卷、平鹿郡が十四卷、仙北都は二十五卷あつて河邊郡はまだ一卷も無い。「花の出羽路」の分は寧ろ前年の紀行も多く、あまりよく知られて居るので後廻はしにしたと見(363)えて、ほんの少ししか手を着けて居なかつたやうである。

　それ程また骨の折れた根本的の調査でもあつた。元來舊記といふやうなものは少ない土地だが、それ等は有る限り勿論すべて目を通した上に、主として材料を自身の踏査と、住民の談話から得ようとした趣旨は、著書の上にもよく現れて居る。即ち一郷一莊を一卷にまとめ順序よく排列した一點を除いては、遊覽記を書いた時と同じ態度であつた。あの時代に企てられた地誌類の中では、全く類の無い珍しい方法で、單に百年後の各村に好記念を遺したといふ以上に、今後の我々の事業に對しても、立派な手本を與へたと言つてよい。それから勝地臨毫の方は、現在知られて居るものが十一卷ほどある。是は地誌以前からぽつ／＼と描きためてあつたものと思はれるから、寧ろ遊覽記の附録とも名づくべきものだが、其題材が風景よりも生活に力を入れ、邑里の外景、道路渡津などの實?を寫さうとして居るので、やはり郷土の爲には大切な歴史である。さうして先生が先づ住民と親しんで、彼等の爲に著述するといふやうなやり方は、偶然に其保存の上に大きな效果があつた。だから自分たちは今でもまだどこかの舊家に、少しづゝ其遺稿を傳へて居るものが、現れて來はしないかと思つて居るのである。

　二十年ばかり前に我々が此書物を讀み又引用し始めた頃までは、秋田縣外の人で菅江眞澄を知る者は甚だ稀であつた。近頃になつて津輕や南部の方でも、追々に彼の遺蹤を見出すに至つたが、なほ其故郷の地に於ては、どこで生れてどうして國を出たかを語り得る人も無いのである。私は去る大正九年以來、時々三河の人に就て此事を尋ねて見るが、何分にも百五十年にもなることで、記憶といふものが殆と無い。其上に白井氏は其書中に我經歴を語ること、必ずしも率直放心では無かつた。以前奧羽の邊陬に世を狹めんとした人の、是はごく普通の態度であつたといふことができる。いづれよく／＼の事情が無ければ、斯うして入つて來て還らずにしまふ筈も無いからである。遊覽記の三十年を見て行くと、先生自述の語は時によつて一致して居ない。最初には全國の古社大社を歴拜して、歸つて父母の耳を慰めるなどとも書いてあり、幾度か土地の人から三河に還る人を送るといふ送別の詩歌を貰つて居るのだが、しか(364)も新たに是ぞといふ此人の心を繋ぐもの無くして、尚次から次へ移つて止まらなかつたのである。私は是には必ず還られぬ理由があつたことゝ思つて居る。

　之に就て一二の逸話の傳はつて居るのは、先生は始終頭巾を被り通しで、「常冠り」といふ綽名さへあつた。秋田の前侯が謁を賜はらんとする際にも、頭巾の儘でよければ參上すると言つたといふ話もある。それを何とかして脱がせて見ようとした者があつて、或時は強ひて迫つたところが、温厚なる眞澄翁は其時ばかりは腹を立てゝ、刀を取つて捻くりまはしたといふことである。うそかも知れぬが先生が角館で病歿した際にも、若い人々は好奇心のあまりに、その頭巾を取つて見ようと謂つた。之に對しては老人たちが承知せず、あれ程人に隱して居られたものを、今更あばくのは人情で無いと言つて、其儘葬つてしまつたといふ話である。私は多分刀痕でもあつたのであらうかと思つて居る。

　或は又先生は加賀の老公の落胤であらうと言つた者がある。其根據は甚だ薄弱なもので、假の苗字が菅江で紋が梅鉢であつたことが一つ、次には今殘つて居る先生の畫像に自ら讃をせられた歌が、

　　　春雨のふる枝の梅の下雫香をかぐはしみ草や萌ゆらん

とあることで、何か意味ありげな、しかも「か」の字を二つ重ねたのは暗示であらうといふのである。如何にも空な話ではあるが、わざ／＼斯ういふ歌を題した翁の心持はなほ不明である。自分は寧ろ先生の境遇が、そんな風説の流傳を阻止せしめなかつたのではないかと思つて居る。兎に角に秋田人の先生の素性を知りたがつて居る熱心は非常なものだが、現在までの資料では郷里の村の名すら明らかならず、遊覽記の文を見ても、一處もそれを言はず、或書の序文には「三河國乙見なる菅江の麻須美」と記し、又一書には入文《いぶみ》の里とも書いて居る。さうして私たちが當つて見ると、其名の土地には何の形跡も無いらしいのである。

　たゞ一つ秋田の人の今もいふことに、碑銘を書いた鳥屋長秋の子に山本眞秋といふ人があつて、翁の歿後旅遊の序(365)を以て三河の故家を訪問した。農家ながら笠門のある相應な家で、家人出でて遠來の客を迎へ、翁の舊事を聽いて感動したと傳へて居る。是も又聞きの覺束ない説であるが、兎に角豐橋又は其附近の生れであつたことだけは、ほゞ推定してもよいとは思つて居る。

　ところが昨年になつて、始めて僅かながら消息がわかつて來た。前に擧げた配志和乃若葉乃ち天明七年四月の日記に、此春平泉の毛越寺の衆徒の皇都に登る者に、我父母の國吉田の驛なる植田義方への文通を托して置いたところが、今日其返事が來たと書いてある。そこで捜して見るとその義方といふ人の子孫は儼存し、豐橋郊外の高洲新田といふ處に住んで居る。それが朝日新聞の同僚名倉聞一氏の妹壻、植田七三郎君であつたことすら意外な悦びであるのに、此家は火災にも遭はず、且つ代々丹念に古い文書を保存して居るのである。今後も必ず色々の資料を得ることゝ思ふが、今日までに發見せられたものだけでも、先づ大切な手掛かりであつた。

　其一つは前に掲げた外濱奇勝の一部分が、私の見た本書又は現在佐竹家に藏せられる他の遊覽記と同樣式の自筆で、二十枚ばかりも出て來た。是は早くとも寛政十年のものであるから、白井氏が出郷の後なほ久しい間此家と文通し、且つ紀行を複寫して寄贈する程度の交際を續けて居たことが知れる。次に現れたのが紙に包んだ薄の穗が一本、うは書きに義方翁の筆で、「天明七年十一月何日、陸奧眞野萱原の尾花、白井英二生より送り來る」とある。天明七年の後半は遊覽記の全く缺けて居る期間で、自分は多分此間に松島仙臺方面の旅をしたことゝ思つて居た（松島の名月を賞したといふことは後の日記に見えて、秋の頃此地方に居たと思はれる年は此年より他には無いからである）。さうすると眞野萱原の舊跡は方々にあるが、是は多分其中の最も有力な一つ、即ち陸前石（ノ）卷港の附近にあるものをさう認めて、國を出てから四五年後の所謂白井生は、此地を遊歴し、理解ある郷里の先輩を思ひ出して文通したに相違ないのである。石（ノ）卷地方には舊家の藏書家なども多い。或は後日新たなるこの人の遺物が、尋ねたら此方面からも出て來るかも知れぬ。

(366)　第三の資料としては、是も紙に包んだ鳥の羽が一枚、其うは書きには「天明八年十一月一日至、白井英二贈之、松前の鶴の思ひ羽」とある。即ち此年の七月十三日の夜、松前に渡つた後に送つて來たもので、兩方共に特に白井生又は白井英二とあるのを見ると、交際は幾分か保護者被保護者の關係であつた。實際又江戸時代に於ける植田氏の家格は、平民ではあるが可なり高かつたから、白井秀雄の家出一條に直接干與したとは見られぬまでも、平生何かと世話を受けるやうな地位に居たのかとも考へられる。親を思ふの歌や文は幾らも見えて居るが、家へ文通した記事は一つも無く、此植田家とばかりは二十餘年の往復が續いて居たのは偶然とは思れず、愈々以て此家の舊記類に期待せられる次第である。

　それから今一つ、是は直接の關係は無いが、やはり植田氏から一册の寫本が出て來た。「東風俗」と標題して、東歌に音譜を附したもので、其奧書には賀茂眞淵の署名と、それを傳寫した本居宣長、田中道麿、次に白井幾代二秀規といふ人の識語があり、次の頁に亦義方が貼紙をして、此書白井幾代二主より贈らると記して居る。英二秀雄は父の名を秀眞と謂つたと秋田の人々は言つて居る。是とは合はぬが名が近く、又傳寫の日附が安永七年、秀雄の二十五六の時のことであるから、多分はそれが父であり、其父も亦植田氏の先代と交際のあつたことが想像せられるのである。

　一體に白井といふ苗字は、渥美郡の多くの村々に群を爲して居る。牟婁吉田にもあれば田原町にも一團の白井家が住んで居る。海道筋では二川町の大岩にも、寶飯郡の下地町にも澤山ある。現在豐橋の停車場のある邊は花田といふ村で、そこも住民は大部分が白井であつた。今は屋敷を移し盛衰も多いらしいが、植田氏の先祖と親しい交際のあつたのは、或はこの花田村の住民であつた爲に一層不明になつたのではなからうか。今一度寺の過去帳などに就て檢して見たいと思つて居る。

　それよりも自分が希望を繋ぐのは、榛の木のをぢの日記なり書翰なりで、それがもし多く保存せられてあるならば、その中には當時の珍書「東風俗」を貸して寫さしめた白井秀規の事が、何か見えて居るかも知らぬ。或は歌文の中に(367)も贈答往來の章が無いとも限らず、更に想像を逞しくすれば、この天分豐かであつた青年の學徒白井英二秀雄の行?なり又逸話なりが、幸ひに書留められて居らぬともいへぬ。白井秀雄は其生涯の萍遊を開始する以前、既に京洛を知り又大和を知つて居る。天明以前の漸く萌し始めた新國學から、もう大分著しい感化を受け、其上奧羽の五十年の流寓中に、追々公けにせられたる古事記傳や和訓栞、其他文學考古の書までを、いつの間にか讀んで居たほどの篤學である。三十の歳まで何の著はるゝ所なくして、故郷の村に埋もれて居たやうな人では無かつた筈である。しかも境遇は誠に是非もなきもので、是ほど濃厚に中部日本の學問の骨髄を體得し、之を北邊にまで運んで行つた才人でも、其故郷の記憶に於ては今なほ生れなかつたも同じ姿である。

　

　（追記）

一、二十年近くもの間、白井秀雄の名を以て東北の各地をあるいて居た人が、どうして菅江眞澄に改めたかは不審のやうであるが、私にはその必要が時を隔てゝ二度に起つたので、いはゆる姓名を變じて旅をする者とは、事情を異にしたかと想像せられる。享和元年に再び秋田領に入つて來た際は、まだ白井の苗字は棄てゝ居なかつた證據があり、是は又十六年前の舊知の、少しは殘つて居たらうと思ふ翁としては當然である。文化六年六月の作、南秋田五城目の地藏堂の扁額には、自ら三河國白井眞隅と署名し、その他同じ頃の日記の序文にも、眞隅・眞栖と書いて居るから、或はこの前から先づ名乘だけを替へたのかと思ふ。文化七年の雄鹿乃春風の序には、三河國乙見なる菅江の麻須美とあつて、始めて菅江の姓が明らかに見えて居る。尤もずつと以前の膽澤江刺の日記にも、菅江眞澄の名は用ゐられて居るが、これは晩年になつて改寫したものだから追記と見てよい。現に六日入の鈴木家の記録にも、又弘前時代までの他人の文書にも、すべて白井秀雄の名で通つて居るのである。曲亭馬琴の著作堂雜記には、その白井氏が松島で詠んだといふ一首の歌が載録せられて居て、是は天明七年の名月の頃に、秀雄がこの附近に旅をした證據の一つになつ(368)て居るのだが、それにはちやんと三河白井眞澄と出て居る。但しこの雜記の出來たのは、歌の時からは二十五年の後、文化八年の頃のことゝ思はれるから、必ずしも只野眞葛などの、仙臺の知人から聽いたものと見るには及ばぬ。その歌といふのは、

　　　ながめすてゝ歸らんもをし中々に霧たち隱せ松島のうら

といふ、我々には一向感銘の無い歌であるが、今でも秋田の人たちが評判にして居るのを見ると、恐らくは年經て後、歌主が自ら之を披露し、それが偶然に記憶せられて、江戸の文士の耳にまでも傳はつたもので、白井眞澄の名が古かつた證據にはならぬだらう。この人の父の名を秀眞と謂つたことは、書いたものにはどうも見えないやうに思ふが、秋田でも又津輕でも、專らさう言ひ傳へて居る人が多い。それも本人の口からで無いと傳はりさうも無いことで、もし事實とすれば是と眞澄眞隅等の新しい名乘とは、關係のあつたことが想像せられる。さうして一旦その眞澄の字を用ゐ始めると、それに菅江の姓を冠らせるのは寧ろ自然である。大正九年の初冬、自分は翁が自ら謂ふ所の三河乙見の里に見當を付けて、先づ岡崎に赴いて其家郷の地を物色した。乙見は乙川の岸に近い一村落の名であるのみか、以前はこの邊一帶の莊名であつたと傳へられ、そこには又菅生といふ古い稱呼もあつたからである。其頃はまだ此人の本名が、白井秀雄だといふことを知らなかつた樣に思ふ。そこで土地の諸君に向つて、頻りに菅江眞澄の事を尋ねて居るうちに、別に今一人の菅井眞澄といふ學者神主が、明治年間に此地に居たことを知つた。察するにこの名と苗字には人知らぬ調和があり、それが又この郷土とも結び付く何物かをもつて居るのである。白井氏の本貫の渥美郡に屬したことはほゞ確かだが、前には淨瑠璃姫六百年忌の追善の催しにも參加したやうに、何かこの乙川の水の流れと、絶えぬ因縁を通はせて居たのが、久しい歳月を隔てゝ想ひ浮べられたので、是をこの旅人の心からの、望郷の文字とも私は見て居る。淨瑠璃御前の遺跡に就ては、後の隨筆にもかなり熱心に説いて居る。天明二年の六百囘忌の供養といふのは、多分岡崎近くの寺で行はれたことであらうから、却つて何かの手掛りは額田郡の方にあるのかも知れぬと(369)思つて、今にまだ望みを絶つては居ない。それにつけても源秀超といひ秀規といひ、はた秀眞とも傳へて、父かと思ふ人の名のまち／＼になつて居るだけは殘念である。

　

一、菅江眞澄の紀行は、「伊那の中路」の天明三年三月半ばから始まつて居るが、其卷頭には二月に故郷の三河國を立ち、美濃を經て信州に入つたまでの日記が、「白波にうち取られたれば術無し」と書いて居る。ところが信州洗馬村に留めて去つた壯年の頃の原本は、四月一日の市田村の條に筆を起してあり、其前月の飯田附近の山々の花盛り、及び此城下が三月朔日の大火に燒け盡した記事などは全く見えない。察するに今一册三月末までの日記があつて、洗馬には殘さなかつたか又は紛失したのを、本人は旅中携へてあるいて居たのである。洗馬で新たに發見せられた「筆のまゝ」と題する一册の中には、別に少しばかりの日記の斷片が保存せられて居て、是は矢作川の中流右岸、三州｜枝下《しだり》村の記事と思はれるから、或はその紛失したものゝ一部だつたかも知れない。原本無題であつたのを、秋田叢書別集卷四には、「枝下紀行」の名で載録せられて居る。少年の頃から諸國を旅して居ることは確かであるが、紀行としてはもう是より古いものは傳はつて居ない。

　

一、この一文が公けにせられた後、菅江眞澄の遺著は次々に公刊せられた。深澤多市氏の畢生の事業たる秋田叢書の中には、現在知られて居る限りの「雪の出羽路」と「月の出羽路」の全部、「花の出羽路」の斷片、及び「勝地臨毫」の五册が載録せられてある他に、更に六卷の菅江眞澄集が、別卷としで立派に複製せられ、是には前に掲げた五十三部の紀行のみならず、當時自分がまだ所在を知らなかつた十數種の小品も網羅せられ、其過半は亦紀行である。深澤氏の病歿がこの計畫を頓挫せしめなかつたならば、必ず續刊せられたと思ふ約二卷ほどの雜著が、今なほ筆寫のまゝで各處に傳はつて居るのと、書名のみ世に知られてまだ發見せられない若干の短篇とはあるが、大體に主要なる業蹟は(370)活字となり、讀書人の眼には觸れやすくなつて居る。以前南部叢書の中でも十種の紀行が刊行せられたことは、本文に述べた通りであるが、彼は舊南部領に屬するものを主とし、其順序も飛び／＼になつて居るのみならず、底本は近年の筆寫本で誤讀が多く、校訂も亦必ずしも精密でない。之に比べると秋田叢書の方は遙かに親切で、直接に佐竹侯家の自筆本に據り、不必要なる和字を漢字に置き換へ、句讀を明らかにし要目を標出して、頗る繙讀に便ならしめて居る。自分はこの集の監修者といふことになつて居るが、是は單なる看板に過ぎなかつたことを告白する。實際の事務に當つたのは、圭として深澤氏の族人國本善治君であるが、その校訂の誤少なく整版の鮮明なのには敬服して居る。眞澄翁の紀行には挿繪が甚だ多く、中には「阿仁の澤水」の如く、全編畫圖のみのものさへあるが、秋田叢書の方はその一枚をも省略せず、他の一方のは一枚も入れてない。固より簡略な寫眞であつて、原畫の美しさを傳へ得たとは言へぬけれども、著者の意圖だけはほゞ窺ふことが出來る。平福百穗君在世の頃、自分は同君等と共にこの紀行の特に優れたもの、例へは男鹿の五風や「氷魚の村君」などを、原色で摸刻して見ようと企てたことがあつた。種々な障碍があつて實現に至らなかつたけれども、幸ひにして昭和四年の夏から、長野縣の同志の支援を得て、先づ信州に屬する最初の四册を覆刻することが出來た。其中の一册はこの仕事が始まつた後に、偶然に舊縁の家から出現した自筆本に據り、他の三種は共に内閣文庫所藏のものを原本とし、之を寫眞版に覆製して、別に活字の讀本を副へた。内閣本は所謂天樹院本、即ち學問を愛した佐竹義和君の命によつて、淨寫せしめられたものかと思はれ、字畫共に精美であるが、繪は少なくとも著者の原作で無いことが明らかであり、文字もよく似ては居るが、或は別人の筆でないかとも疑はれた。それで自分は第二段の計畫として、青森縣人の篤志家を勸誘し、更に明�ｺ館本の覆刻を思ひ立つたのであつた。明�ｺ館の諸本は現在は佐竹侯家の有に歸して居る。菅江翁在世中に獻納したと傳へるのは或は誤りではないかとも思ふ。全部が自筆であるのみか、著者生涯の愛撫の痕が遣つて居る。之を何とかして津輕南部の人々に、傳へたいといふのが素志であつたが、たつた一册の「奧の手風俗」を出しただけで、共鳴者が乏しく損失が多く、一方に(371)は好意を以て仲介せられた平福氏が突然に世を去り、侯爵家家令の石井忠利氏が引退せられた爲に、事業は頓挫してしまつたのである。たゞ間接の效果と見てよいのは、改めてこの數十卷の寫本の、有用貴重なることを世に認めしめ、同時に深澤君等の辛苦の如何に價値多く、その傳へんとして未だ能はざりしものが、どれ程殘つて居るかを明らかにしたことであつた。所藏者佐竹侯爵が原本の保存の爲に、力を盡されることは勿論、世の中太平ともならば再び信州の刊行會と同じ計畫が、各地に繼續せられるやうになるであらうことも疑はれない。深澤國本二君の活躍する以前、秋田縣で菅江眞澄翁の爲に最も多く働いたのは、眞崎勇助といふ考古學者であつた。この人の蒐集中にはなほ二十敷種の、明�ｺ館に入らなかつた遺著が含まれて居たが、現在はそれが悉く大館町の栗盛教育財團に買取られて珍藏せられて居る。眞澄遊覽記の是まで知られずに居た卷々が、この文庫のみに在つて、幸ひにして秋田叢書の中に載録せられ得たものも幾つかあるが、それよりも著者の傳記の爲に大切であるのは、「筆のまに／＼」と題した數卷の隨筆、其他若干の雜記類で、是等は今もまだ活字になつて居ない。自分は其保存と將來の利用に就て、深い關心を抱かずには居られぬのである。他の多くの舊家でも掛物とか短册、いはゆる斷簡零墨の末までも珍重して居るから、著作や書翰の類とても、散佚するやうな虞れは今は無からうが、それだけでは實は何にもならぬのである。少なくとも社會に向つて栗盛財團の如く、爰に持つて居るといふことを明示する必要があると思ふ。從來の保存の中には、たゞ忘失を待つて居るかと思はれるものがあつた。故胡桃澤勘内君が東京で發見して、直ちに寫眞版にして世に頒つた「鄙の一曲」なども、もとは舊友の家に藏せられた眞澄翁の自筆本であつた。現代の蒐集家中にも人に誇るだけで、死ぬまで死藏して置く者がまだ大分に居る。この本がさういふ人々の眼に觸れる前に、胡桃澤君の手に歸したことは、單なる好運でしか無かつたのである。或は眞澄翁ほどに運のよくない學者が、まだ地方には幾人もあるのではあるまいか。

　

一、舊秋田領の六郡を二郡づゝ三つに分けて、雪月花の出羽路といふ地誌を著はさうとした計畫は、菅江翁の自筆の(372)ものにも書き示されて居る。その三つの中で、中部の仙北河邊の二郡を書いた「月の出羽路」が最も多量に世に殘り、しかも著者は其調査の進行中に、仙北郡の東部の村里で世を去つた故に、他の四郡の地はまだあらましの案ばかりで、過ぎたやうにも考へられがちであつたが、この人の著述方針は可なり尋常と異なつて居た。仙北河邊の二郡の村々とても、この方式で記述して行けば、まだ何倍かの卷數になる程殘つて居ると共に、「雪の出羽路」といふ平鹿雄勝の二郡にも、可なり詳細なよく整つた村誌が、僅かながらもう出來て居たのである。秋田叢書の中には共に載録せられて居るから、比較をして見れば容易にわかるが、月雪兩著には精粗の差は無いと言つてよい。たゞ第三の「花の出羽路」だけは、既に津輕から二度目に入つて來た當時、即ち地誌の企てが始まる前に、毎年遊歴して澤山の日記を書いて居るから、わざと後まはしにして置かれたものと私も思ひ、又さう謂つて秋田山本二郡の人々を慰めても居た。ところが實際は此方面にも、片端はもう手を着けて居られるのであつた。「筆のまに／＼」の卷五に、あさひ川と題して此流域の記事を掲げ、「花の出羽路」朝日川の卷に書いたといふことが見えて居る。朝日川は今は旭川と書く雄物川の支流で、仁別に入つて行く一つの溪谷だが、もしも秋田叢書十二卷に載つて居る「松藤日記」の一篇が其全部だつたとしたら、是はまだ其口元の數部落しか取扱つて居ない。さうして秋田郡は南北に分たれてあの通り廣大なのである。百まで達者であるいたとしても、この速力では到底書き盡せないことは判つて居る。どういふ氣持で此樣に飛び／＼に、たとへば花園の蝶などの如く、あそここゝをつゝいて居たかは知らぬが、少なくともこの翁の施行癖は老いなかつたのである。斯ういふ奇拔な又詳細な村誌を作るには、たゞ行きずりに村役人と問答したり、もしくは舊記文書を寫し取つただけでは足りない。どうしても親しい知人を見つけ、且つ何日かの滯在をしなければならなかつたらう。さういふ便宜のある土地を求めるとすれば、結果は斯ういふ風に各郡を來往することになり、それが又本人に取つて、必ずしも迷惑至極な任務でも無かつたらうと思ふ。この意味から言ふと、雪月花の出羽路は未完成の風土記ではなくして、寧ろ今までの遊覽記の繼續であつた。單に旅程が限られ意外な遭遇が少なく、從つて逸事挿話に乏しい(373)といふだけで、その觀察點と考證態度、乃至は表現の方式までが、中年以後の幾つかの旅日記と、さして變つたところも無く、或は吟詠に懷古の情を托したり、又は各卷にやゝ事を好んだ標題を付して、獨立した一書の形を與へようとした點までがよく似て居る。眞澄集の中に列ねてある高松日記・駒形日記なども、書名だけを見ると紀行のやうに見えるが、實は皆「雪の出羽路」の資料の一部分を抄寫した自筆本であつた。乃ち行く先々の友の家に、土地に關係した日記を留めて去る習慣も、晩年までなほ續いて居たのである。或は今あるものが初度の稿本であつて、後日全部を綜合して統一ある地誌を書かうといふ腹案があつたのかも知れない。それには歳月の足らぬことは明白であるが、學者は時々はさういふ無勘定なことをする者である。秋田叢書に出て居る「花の出羽路」の斷篇を讀んで見ると、二つの異本があつて内容は相同じく、たゞ書き方だけが可なりちがつて居る。一方は一段と紀行に近く、他の一つの方は幾分か地誌の形を備へて居るのが、黒川道祐の洛外巡覽記を想ひ起さしめる。是が雍州府志の準備作業の記録であつたことを、或は眞澄翁も既に知つて居て、今いふ眞澄遊覽記の總稱も、自身晩年に及んでさういふ呼び方をして居たのかも知れぬ。實際に又「伊寧乃中路」以下の旅行記よりも、この雪月花の出羽路の方が、遊覽記と名づくるにはふさはしいのである。

　

(374)　　　　　秋田縣と菅江眞澄

　　　　　　　　　――秋田考古會菅江翁百年記念會講演、昭和三年九月――

　

　　　　　　　緒言

　

　昨年の五月、私は仙北に來て居つて偶然に秋田考古會の年會があることを聞き、御案内も待たずに出席を致しまして、皆樣とこの菅江翁百年祭の御相談をしたのであります。自分の見解を以てすれば、秋田縣の考古學には、翁は忘るべからざる創設者の一人であつて、其傳統は故眞崎勇助翁を始めとし、多くの景慕者の研究にも之を認めることが出來ます。秋田考古會たるものがこの百年目を空しく逸せられるべきで無いといふことを申しました。それが因縁となつて本日は私一人、遙々御招きの榮を忝うすることになつたのでありますが、勿論志を同じうする者はまだ此縣以外にも段々あります。岩手青森の二縣にも、少數ながら翁の事蹟を研究して居る者もありまするし、東京にはもう大分以前から、學問の上で色々の恩惠を受けた者があり、翁の故郷の三河國に在つては、殊にこの久しく埋没して居た篤學の士に對して無限の渇仰を寄せ、從うて本日の御催しに共鳴して居る人が少なくないのであります。私は要するにそれ等の人々の感情の一部を代表して居るといふに過ぎませぬ。菅江氏の閲歴又は事業に就ては、特に諸君より多くを知つて居ると自信する者では無いのであります。言はゞ我々の眼に映じた羽後と、この遠來の旅客との因縁情誼(375)を述べて、土地の方々の御參考に供して見ようといふまでであります。

　

　　　　　　　百年後の批評

　

　元來この百年記念祭といふものは、つい近年に始まつた流行でありますが、社會的に見て可なり意義のある仕事だと私は思つて居ります。是非を百年の後昆に問ふといふことは、昔から男兒の本懷としたところでありますが、實際死後の公平なる品評を期するには、百年は長からず又短かゝらず、ちやうど頃合の期限であります。ところが御手本の西洋諸國では、故人の誕生の日から百年を算へます爲に、例へば本年露西亞で擧行せられた百年祭のトルストイの如く、七十何歳までも長命した人になると、まだ骨肉の者も多く生存し、著述は盛んに讀まれ、信奉者は各方面に活躍して居る。靜かに其人物の眞の偉大さを見ようとする者に、色々の私情が干渉を加へます。之に反して我々の年囘計算法に由りますると、所謂墓木は既に拱となり、知友は共に與に去つて黄土に就き、其子孫も亦昔を忘れんとして居ります。例へば寂寞たる寺内村の砂丘に登つて見ましても、曾ては柩を搖がして慟哭したらうと思ふ鎌田｜正家《まさやか》の一門の者も、悉く今は小さな一塊の石であります。しかも其間に澄み湛へたる一泓の水の如く、菅江眞澄の遺業は世に存し、過ぎ行く人々の立寄り來り掬むに任せて居るのであります。それが百年後の秋田人に、何を説き何を感ぜしめんとして居るのであるかは、諸君自ら平心に之を檢することが出來るのであります。一身の私に立つて見ますれば、或は氣の毒とも心細いともいふべきものかも知れませぬが、永世に對して我々學徒の期待する所は、要するに是を出でぬのであります。學術の眞價に關して何等理解し又善用する所も無く、徒らに悲涙を以て衣の袖を沾らして見ても、それも亦百年を待たずして空の空に歸すべきことは、寧ろ今日の如き機會が、我々に授ける大いなる教訓であります。

　

(376)　　　　　　　行つて又來る

　

　眞澄翁が諸君の郷土に對して表したる友情は、獨り特色ある大量の風土誌を遺留すべく、二十幾歳の月日を此國に費銷したのみではありませぬ。本土北端の三つの縣のうち、最も久しく翁の足を引留め、土との因縁が殊に痛切に深かつたといふ以上に、他の地方では單にたゞ一囘、歴遊して去つたといふに過ぎぬに反して、此縣へは年を隔てゝ少なくとも二度、立戻つて尋ねて來て居るのであります。漫遊の旅人としては是は珍しいことで、大抵は飽きるまで居る故に、出てしまふと再び足が向きにくいのでありますが、そこには何か斷ち難い情味が繋がつて居たのでは無いかと思ひます。さう思つて見ると、翁の初期の紀行「齶田之假寢」又は「小野乃古里」の中には、當時の秋田縣人の素朴にして又醇艮なる接客法の、深い感動を與へた跡が窺はれるやうに思ひます。天明四年の七月末に、後年の菅江眞澄、當時白井英二秀雄と謂つた三十一歳の旅の文人は、三河を出て信州の北の境まで來て居りました。それから僅か四十日間に、長い越後國を通り拔けて、九月上旬にはもう鼠ヶ關に來て泊つて居ります。それから鶴ヶ岡へ、次に羽黒山の登拜をすませて、いよ／＼三崎坂を越えて由利郡に入り、象潟《きさかた》の見物をしたのが同じ月の二十九日でありました。本莊にはたゞ一晩止まつて、十月一日には前郷、二日には矢島へ來て病氣をして滯在しました。ところがそこを立つて川内村伏見といふ處で、測らず大水が出て川留に遭ひ、五日ほど待つて居るうちに段々と山國の冬が深くなりました。漸う十日の朝燒山越といふのを越えて、タムロ澤といふたつた三軒の村に、其晩は一宿を求めたとあります。それから西馬音内《にしもない》を過ぎて三輪村の杉の宮に詣り、其隣村の柳田といふ部落に來た頃は、もうひどい大雪の日でありました。そこで立寄つた家が草薙某といふ農家で、眞澄翁の日記には努めて人名を詳かに書いてあるのに、此人だけは終始草薙某とばかりあるのを見ますと、風流人でも無く又さう立派な親方衆でも無かつたことがわかります。その某(377)が見ず知らずの若い旅人に向つて、どうして斯んな雪に旅などが出來るものか、何が何でも春まではこゝに逗留せよと勸めて、たうとう翌春の郭公が啼く頃まで、出たり入つたりして此家の厄介になつて居たのであります。其間には湯澤にも行き又院内にも友人が出來て、次から次へと三日五日づゝ泊つてあるきました。小野小町の故郷だといふ芍藥の多い村にも遊びに行き、色々の話を聽いて居ります。それが後年の紀行のうちに折々想ひ起されて居るのを見ると、雄勝郡の印象は極めて深かつたのであります。三十幾年を隔てゝ再びこの郡の地誌を書きに入つて來た時には、舊友はどうなつて居ましたらうか、不幸にして其頃の日記のやうなものはまだ出て來ませんが、失禮ながらこの雪の深い羽後國を、居心地のよい國だと思つて、年を取つてから又遣つて來て、さうして永くこの土の下に眠ることになつたのは、必ず夙にそれだけの宿縁が、結ばれて居たものと解しなければなりません。

　

　　　　　　　十七年ぶりに

　

　眞澄が始めて久保田の城下に入つて來たのは、天明五年の百花繚亂たる暮春の頃でありました。此地には雄勝で知合となつた二三の雅人などもありますから、平鹿仙北の二郡は當時比較的さつと見て通つたかと思ひますが、其二三ヶ月の日記はまだ見つかりませぬ。秋田の櫻については後年「花のしのゝめ」といふ一篇の遊覽記がありますが、白々とした東海岸の花ばかり見馴れた我々の眼には、北地の櫻は殊に艶麗に見えますから、定めし此歌人も深く心を繋がれたことでありませう。さうして所謂金風肅殺の物悲しい光景には接せずして、舊八月の月初には、早くも海岸傳ひに奧州に入つて、津輕南端の木蓮子の坂、境明神の前に立つて遠望して居ます。是から先の紀行は「率土《そと》が濱風」と謂つて中道等君の研究にも發表せられて居りますが、津輕は其前々年の天明卯年が大飢饉であつて、澤山の窮民がさまようて路傍に死にました。どこをあるいても草の陰に累々たる白骨が見られ、おまけに此秋も風雨ばかり多くて、(378)人心が恟々として居るさ中へ、何も知らずに入り込んで往つたのであります。青森の善知鳥《うとう》神社に詣つて蝦夷渡海を占つて見ますと今は凶、三年を待てとの御告げがありました。然らば此間に奧州を一巡りしようと思つて、淺蟲から小湊の近くまで行きますと、餓ゑたる漂泊者の群が眼も當てられぬ姿をして、わや／＼と岡を越えて來るのに行逢ひました。その凄愴の光景は日記の中によく描かれて居ります。それで又計畫をかへて再び弘前まで引返し、やがて碇が關陣場を越えて、同じ月の末には更に比内の山村に入つたのであります。

　大館には是を第一囘として、後年幾度となく立寄りました。百數十年の後に、精彩に富める彼の紀行が、縁あつて永く此町の教育財團に保存せらるべきことを、少しも想像し能はずに、せつせと筆を動かして居たのであります。それから鹿角を拔けて北上の水域に出た後の話は便宜上あと廻しに致しますが、兎に角に此時から十七八年は、南は仙臺石（ノ）卷から北は松前江差までの間を、二年三年と切つて轉々してあるいたことは、悉く現存の遊覽記に由つて窺ひ知られるのであります。其中に蝦夷地の雪の底で僅かな借屋暮しをしたかと思ふ外は、大部分は人の家のかゝり人で、最も年久しく往來して居たのが、西津輕深浦の竹越貞政《たけのこしさだまさ》の家でありました。此家は一家殘らず俳諧がすきで、又可なりの物持でありました。享和元年の冬、眞澄四十八歳の年に、愈々津輕を引上げて再び同じ濱づたひに、岩館椿を過ぎて能代から土崎に入つた時にも、その竹越家の主人は同伴して、たうとう年の暮近くまで、二人は土崎に居りました。或は海上の交通から此港に知合でもあつて、其紹介の爲に同行して來たのかも知れませぬが、能代でも土崎でも早く懇意な人が出來て、何れも後々まで可なり親密な交際を續けて居ります。

　土崎での宿はヲバタ屋といふ問屋でありました。其前暫く箭守《やもり》某といふ人の家に世話になつて居ましたが、是は能代で始めて逢つて知合ひになつたと記して居ります。しかも其家へ深浦の竹越氏も、能代の伊東氏も共に遣つて來て、永いこと遊んで居ります。あの頃の社交には今の人の想像に及ばぬ樣な悠長な處があるやうであります。さうかうして居るうちに追々歳の暮に近く、港の町も忙しくなつたものか、師走の中ば過ぎ、雪を分けて漸く秋田の城下に入つ(379)て來ました。以前一度來てから、ちやうど十七年目であります。鐡砲町の石田某の家に宿すとあります。暮の二十九日から町に年の市が立ちました。それを見に出て丹念に賣り物の名を書留めて居ります。春のまうけの色々の家具食物などからも、其時代の生活は窺ふことが出來ますが、雪國で無くては名も聽かぬシンベゴンベの藁の靴、さては神佛に供へる料に、紅葉や青木の枝の乾物にしたのを賣りに、村の女たちが出て來るといふ光景などは、他縣の我々が讀んでもなつかしい過去の記録であります。今も其通りであるなら由緒の久しいことが考へられ、もはや改まつて居るならばその變遷の跡が尋ねて見たくなります。私は秋田の諸君が今まで此方面の近世史を、閑却して居られたことを不思議にさへ感ずる者であります。

　

　　　　　　　花の出羽路

　

　眞澄翁の旅行生涯は、是から後の約十年間が、最も自在なる圓頓境でありました。二十篇に近い遊覽記中の傑作は、幸ひにして略々完全に元の形で保存せられ、現に本日の展覽會にも出陳してありますから、茲に一々の敍説を試みることは見合せますが、單に故人に對する追慕の情からで無く、寧ろ我々の新たなる生活の爲に、是非とも今日の如き機會に於て、皆樣と共に考へて見たい點が幾つかあります。殊に私等の推服して措かざる特色は、第一には翁の元氣、旅行心とも名づくべきものゝ旺盛であつたことであります。例へば秋田に戻つて來た翌年四十九歳の春は、翁は北秋木戸石村の村長佐藤吉兵衛信氏といふ人の家に居たことが、「繁き山本」に書いてあります。三月の初に茲を出て藤琴川の流を上下し、七座《なゝくら》高岩の諸山を登拜し、それから險路を越えて太良の鑛山を訪ひました。當時の山主は成田某で、其家の大きな臺所に雜人と共に一宿したともありますが、主として世話をしたのは山田といふ在勤の醫者でありました。詳しく一山を見物して、山稼ぎの模樣までが精確に繪に描かれてあり、又働く男女の歌や生活ぶりが寫してあり(380)ます。永く此事業に携はつて居た人々の記録にも、恐らくあの鑛山の百年前の盛況を、是ほど具體的に書殘したものはあるまいと思ひます。それよりも驚くのは同じ年の十一月、阿仁の雪中に在つて、處々の山村を徘徊して居ることです。是が尋常の遊歴文人ならば、出てもあるかず、第一こんな山奧へ入つて行く筈もありません。十二月の四日に一の又を立つて、白絲瀧を見物に往つたなどは、えらい冒險でありました。三人の男を雪踏みに頼んで、瀧の根もとまで近よつて見物しました。勿論世に聞えた名勝ではありますが、其雪中の壯觀を記述するに至つては、けだし空前絶後の筆であらうと思ひます。しかも此翁には津輕でも暗門の瀧の遊覽記、又八郎湖畔の雪の日の紀行などがあります。それから年次は不明ですがずつと年を取つてから、十二月の十日に五城目を立ち、山内《さむない》を通つて中津入に越えた日記が、「雪の山越」と題せられて殘つて居ります。又寺内の鎌田正家、土崎の岩谷貞雅などを誘ひ、那珂通博翁等と共に太平山に登つたのも、盆の頃ではありましたが、年はもう五十八九歳の、文化八年以後のことでありました。永い間の險難風雪に鍛へられて居たとは言ひながら、必ずしも天性頑健の人で無かつたことは、　　　屡々風を引き腹を痛めて寢込んで居るのを見てもわかります。全く氣力が人竝にすぐれ、又次から次へ新たなる知識を得ようとする志が之を促したものであります。

　今日世にもてはやされて居る多くの紀行文を見ましても、風光に忠實なる旅人は概ね人事に冷淡であり、一方には習俗の奇を愛する者は、おのづから山水に背を向けるのが常でありますが、花を賞し湖山の月雪の美しさを描いた眞澄翁は、同時に又深い興味を常人の生活の上に寄せて居ります。殊に遠國の異風に目を着けた人々は、大抵は還つて之を都市の民に語り、笑ひ興ずるのを目的とし、從うて地方限りの故事由緒などは、如何に熱心に説き聽かされても、輕々に看過するのが通例でありますが、夙に故郷に歸ることを斷念したらしき我が菅江氏は、全く特殊なる心境を以て、さういふ話にも耳を傾けて居ります。當時の秋田縣人の祖先に取つて、是は誠に張合ひのある話相手であつたに相違ありませぬ。自分が敬歎する第二の點は、此人の旅中の學問であります。眞燈が始めて郷里を出た年は、古事記(381)傳の上卷の部が完成したよりは三年前、河村氏の書紀集解が出來るよりは二年前でありました。日本の國學は言はゞ彼が奧羽を漂泊して居る期間に、追々に成熟したのであります。考古學の方面から見ましても、我々が一つの目標と見て居る屋代氏等の「道の幸」、又は藤井貞幹の好古日小録の世に出たのは、何れも彼が南部津輕で暮した寛政年間の事であります。尤も新井白石の集古圖説などは、四十年餘り前に出板されて居ますが、假りに以前の博覽が幸ひしたとしても、さう若い頃の記憶ばかりを頼つて居るわけには行きませぬ。東北の田舍に少數の篤學者があつて、いち早く中央の文學を受入れたといふことも感心でありますが、眞澄翁に至つては所謂席煖かなるに暇なき流寓の身を以て、いつの折にか行く／＼之を利用し得たのであります。固より天稟の強記を以て、能く歴代の古文詞章を暗んじたことも確かであります。しかし文化二年にやつと前編を印刷した谷川氏の和訓栞までが引用せられて居るのを見ると、日記の中には少しも現れて居ませぬが、翁の修養は行路頭に於て行はれて居たのであります。津輕時代の後期に於ては、翁は本草物産の學者として、朝野の醫家から欽慕せられて居りました。秋田に移つて後もなほ暫らくの間は、友人保護者が此方面に多かつたのであります。それが追々上古中世の歴史、それから進んでは今日の考古學、即ち遺物遺跡の研究に向つたなどは、單に才人の才智を應用して、凡俗を驚かしたものと解することは出來ないのであります。

　勿論之を以て時代の機運とし、翁も亦其潮流の上に乘つた一人だといふことは出來ます。所謂訓詁傳誦の古風が、次第に實證の方法に遷り、曾ては臺閣の間に局限せられた學問が、伴を民間に求めて現前の生活に其對象を捕へようとしたことは、江戸にも京にも既に顯著なる傾向でありました。獨り奧羽が邊土なるが爲に、永く其空氣の圏外に止まり得なかつたのは當然であります。しかも他の多數の先輩が、必ずしも外間の促迫を感ぜず、しばしは舊態に安然たることを得た時代に、一種境涯の最も數奇なる學徒が、縁あつて久しく此地方に放浪して居たといふこと、及び其志願とする所であつたと否とに拘らず、友を公人の地位あり名望ある者に見出すこと難くして、專ら草澤の間に止住(382)して古を懷ひ今を營んで居る人たちと、交り且つ懇ろに思想を交換するを得たといふことは、今日に於て囘顧して見ますれば、どれ程この縣の學問の爲に、有意義であつたか知れぬのであります。

　是を或は一種の性癖の如くに見る人も有りませう。又先生をして異郷に客死せしめたる未可解のローマンスと、結び付けて考へようとする者も出て來るかも知れませぬ。しかし兎に角に眞澄翁が花やかなる人事を避け、田舍と其天然とに偏愛を持つて居たことは事實で、しかも其愛情は利害を超越したものでありました。それが何に基づいて居たかは推測し難い問題でありますが、自分の今の心持で考へて見ますと、多分は知るに連れて親しみが深く、殊に微々たる者の無心なる悲運、主張せざる要求とも名づくべきものが、特に孤獨の心を動かして、此の如く何等期する所なき友誼を抱かしむるに至つたのでは無いかと思ひます。何にしても此態度は、晩年の「雪の出羽路」、「月の出羽路」の文彩の中にも一貫して現はれて居ります。南北秋田郡などの諸君は、眞澄翁の風土記が餘りに遲く始まつた爲に、終に自分たちの地方に及ばなかつたことを殘念に思はれるやうでありますが、私の見た所では樣式こそちがへ、「花の出羽路」はこの遊覽記の十幾編によつて、とくの昔に殆と完成して居るのであります。翁の足跡の及ばなかつた區域は仕方が無いが、この大河の流の末、潟を取圍んだ濱邊山邊の村々の生活は、寧ろ情趣に富んだ花月雪若葉の四時折々の背景の中に、是以上如實には描き出せぬと思ふ程度に、活き／＼と現はれて居るのであります。通例埋没して些かの痕跡を留めない人々の生活が、特に彼等を愛した人の親切なる觀察によつて、今も其後裔の爲に百年の後まで保存せられて居るのであります。

　

　　　　　　　長處は終に認めらる

　

　さうかと思ふと他の一方には、雪月の出羽路をも總括して、眞澄遊覽記と呼ばんとする人も少なくはありませんで(383)した。遊覽記といふ書名は元來筆者自身の案出したもので無いと思ひますが、當地では久しく此名を以て知られて居ます。佐竹家が老後の菅江眞澄に六郡の風土誌を囑託せられた時の事情は、私の寧ろ秋田の學者から教示を得んと欲する點でありますが、兎も角も既に數十卷の紀行は世人に認められ、終に一部を淨寫して天樹公にも獻じた後でありますれば、彼が如何なる態度用意を以て、各邑の實情を視察する人であるかは、ほゞ關係者には察せられて居たのであります。即ちその所謂遊覽記式の筆致文彩が、少しでも弘く未だ行き到らざりし仙北平鹿等の村々に適用せられんことを期したので、其結果として、今日假に未完成であらうとも、斯ういふ異色ある大きな地誌が殘つたといふことは、自他の本懷とする所であつたらうと存じます。

　地方誌編述の一時風を爲したことは、遠き養老の昔を始にして、前後四囘ありました。雪月の出羽路は恰もその第三次の流行であり、其後では大正時代の記念出版が第四次であります。舊日本五百數十郡のうちで、三百以上の郡は近年になつて、大小それ／”＼の郡誌を公けにしました。一方には交通の改善に伴なふ案内記類の刺戟、他の一方には修史局系統の史學の影響でありませうが、何にしても後代の眼から見て、之を大正文化の一特徴に算へることは疑ひがありませぬ。この大正期の郡誌の編輯には、種々なる氣質趣味、又種々の能力の人が之に參與しましたが、大體に於ては割據孤守の癖が止み、家々の記録文書が次々に公開せられるに伴なひ、主として之に基づいて地方の舊事を明らかにしようといふ學風でありましたが爲に、此調査の思澤を受ける者には甚だしい運不運がありました。例へば京鎌倉に近く且つ?々戰亂の衢となつた地方で、先祖に武功の士あり且つ火災水難によつて系圖感?の類を失はなかつた家は、一朝にして百代の譽を世に布くことを得ましたが、事情の之と異なる大多數の平和無事なる舊家名門は、有れども省みられざる姿となりました。或は近世の武邊咄流行の頃に書かれた誇張に滿ちたる軍記類なども、史料乏少の餘りに忍んで之を取入れましたけれども、如何せん出羽奧州の邊隅に於ては、文筆は僅かに三百年以後のものであつたのみならず、其用途は殆と徴収と訴訟とに限られ、尋常農民の日常の生活に至つては、何等紙片の之を跡づける(384)ものも無いのであります。此實?に在つて、範を中央の政治史文藝史に採つて、地方の沿革を傳へんとした者が、苦惱すべきは固より其所でありまして、要するに志あつて手段方法の之に伴なはなかつたのが、近年の郡誌の通弊でありました。尤も其中には此縣の河邊郡誌などの如く、頗る書外の資料に着目して、現前の事相に據つて前代の生活を推測しようとしたものもありましたが、他の百中の九十は寧ろ偏在する遺文に繋縛せられて、却つて自分々々の當然の昔をさへ、描き出して見ることが出來なかつたやうな有樣であります。

　

　　　　　　　偶然記録の價値

　

　殊に所謂郷土史料の捜索に當つて、受負仕事の郡誌編纂が、往々見落してしまふ大切な材料は、私たちが名づけて外部記録又は偶然記録といつて居るものゝ中に多いのであります。日本總國の歴史に於ても、松下見林の異稱日本傳、それからずつと後れて山本北山の日本外志などが出てからは、學者の物の考へ方が著しく變つたのであります。最近にも異國叢書などに於て、歐羅巴人の見聞録の類が段々和譯され、それを讀んで見て始めてはつと心付くことは中々多い。勿論澤山の誤解はありますが、それに警戒することは我々には何でもありません。それよりも内側に居る者が見馴れ又有りふれて、書き傳ふるにも足らぬと思ふ平凡事が、實は意味深いものであり、もしくは知らぬ間に推移つて、後々は自分も忘れてしまふことが、却つて慣習圏外の人の注意によつて、漸く之を復原して自省の手掛りとする場合は多いのでありました。而うして奧羽は古くから眞澄翁の如く、中部地方から遁げ込んで年月を送つた人は澤山にあつたのですが、彼等は何れも世棄て人で、還つてそれを誰に告げようといふ張合ひも無く、又他人からも要求せられなかつたのであります。だから永年心がけて居ても、さう多くの地方資料は得られません。私などの知つて居るものでは古河古松軒の東遊雜記とか、遠山甲斐守の未曾有記とかゞ、稍々忠實に道途の見聞を録して居るのみで、其(385)他は斷片的な橘南谿の東遊記や、桃井塘雨の「笈の埃」の類がありますが、是等は皆近世のものばかりであります。秋田附近の記事としては、御承知かも知れませんが、伴蒿溪の閑田次筆の中に、「雪の古道」と題して此邊を冬季に旅行した江戸人の話が採録してあります。あれは津村正恭の日記であつたことが、此頃になつてわかりました。紀行は大抵春秋のよい時候のものが多いのに、是などは珍しい一年間の資料であり、ちやうど眞澄翁が一度來て、二度目に立戻つて來る迄の中間、即ち天明八九年頃の此地方の事實を傳へて居るのですが、しかも其見聞は通り筋の左右だけに限られ、自由自在に里から里へ、野路山路を越えてあるいた眞澄翁後年の日記の、精且つ豐富なるに如かぬのであります。この津村正恭の譚海といふ隨筆も、前年國書刊行會から出版して居ります。此人は因縁あつて秋田及秋田人と往來し、從つて若干の此地方の舊事を手記して居りますが、もと／＼好事を主とした著述であります故に、一端を以て全般の?を類推させる力は、亦遙かにこの旅行家には及びませぬ。

　それから次には私の謂ふ偶然記録の價値でありますが、今日でこそ誰でも「西鶴に現はれたる宗教觀」とか、「川柳から見た政治思想」とかを平氣で論じますが、斯ういふ他に一種の目途ある文藝などが、歴史を語るものとは元は何人も考へなかつたのであります。江戸期も稍々終りに近づいて、民間の篤學者たちが、始めてこの心持を以て過去の雜書に注意しました。しかも之を唯一つの證跡として、數百年來の所謂市井の生活が、追々に明らかになつて來ました。といふわけは昔から今に至るまで、特に平民の歴史を世に傳ふべく、述作せられた書籍などは一つも無いからであります。骨董集とか用捨箱とかいふ類の事業は、研究そのものよりも寧ろ着眼と態度の親切を採るべきもので、其中でも喜多村?庭の諸考證は、我々の尊敬する所であります。しかし斯ういふ方法の應用せられるのは、おのづから區域が限られて居りました。文藝はもと都市に起つたものなるが故に、其記述のたとへ偶然にもせよ、田家の生活に觸れたものは至つて少ないので、自ら田園文學と稱しつゝ、其實は皮一重の、強ひて風雅を求むる類が普通であります。固より文藝としてはそれで立派に成り立つて居るのでせうが、我々は到底この繪にかいた天堂地獄の圖の如きも(386)のゝ中から、間接に各時代の鄙人の實相を尋ねて見ることは出來ぬのであります。

　

　　　　　　　忠實なる記述

　

　此地方に於ても恐らくは他日、所謂農民心理の由つて來る所を詳かにする爲に、今少しく何か適切なる偶然記録が殘つて居りさうなものと、尋ねまはられるやうな時が來ることであらう。眞澄翁の著作は文學として決して上乘のもので無く、又本來の對社會的使命といふべきものも無い、至つて自由なる吟詠の旅ではありましたが、元來多感の性が更に孤獨によつて尖鋭となつて居たに加へて、言はゞ知識を唯一つの情欲とし、描寫を專門の技術として、久しい間この小天地に埋没の生を營んで居たのであります。假に之を漫遊者の漫筆として輕々に付し去らうとなされても、事實今昔を一貫して羽後人の日常の艱苦、諸君の父祖が曾て經驗した退屈と興奮とを、是ほど微細に且つ明確に、世に傳へた記録は他には無いのであります。先生が老いてなほ雄物川上流地方を巡歴して居られた頃、江戸では屋代弘賢石原正明などといふ一派の學者たちが、「風俗問?」と題する百餘箇條の質問事項を印刷し、之を諸國の知人に配付して答へを求めました。地方人は悠長で今に／＼と言つて居るうちに、尋ねた人々は相次いで黄泉に赴き、現在其答書の世に傳はつて居るものも、僅か十指を屈するに過ぎませぬが、是が我々の携はつて居る民俗學の東雲でありました。たとへ若干の不備遺憾はあつても、今となつては貴重な比較資料であります。久保田ではたしか前に申した那珂翁なども關係せられて、秋田領風俗問?答書といふものが出來ました。見事な澤山の繪を添へた綿密な記述であつて、備後の福山領で菅茶山翁などが參與して作つた答書と共に、私は之を東西の雙璧と認めて居ります。しかし此方は六郡の都邑を通じて、最も花々しい年中の行事を、半ば公けの計畫を以て記述したものであります上に、事實は記憶と傳聞との綜合になつた例といふに止まつて居ります。之に反して菅江翁の日記は一局部ではありますが、兎に角具體(387)的な見聞録であります。例へば「芒の出湯」は享和二年の正月から五月まで、北秋田の大瀧に在つて遭遇した節供祭禮の實況であります。「鄙の遊び」は文化六年の七月、八郎湖岸の村に居て曰睹した眠流し・盆市・盆踊り・番樂舞等の記事であります。其他男鹿半島の濱の正月でも、さてはずつと以前に雄勝の村で見た春の祝ひ言や婚禮の作法でも、何れも用事の無い行きずりの客として、醒めたる心境と人のよい同情とを以て、脇から觀察して居た覺え書であります故に、其光景は生動して居ります。我々は之を遠く隔たる國々の異同と對照して、殊に無限の興趣を認めるのでありますが、同じ一つの地方としても、中年の人たちの一代の經歴の間に、世相は早くも驚くべき變遷を見ようとする今日、それが百二十年三十年の過去に於て、如何なる外形と印象とを伴なうて居たかを知ることは、又特段に意義のあることゝ思ひます。其上に此等の記録は、獨りある限られたる時間の緊張と興奮とを説くに止らず、其前後の長い月日に渡る待遠しさと樂しみ、又は夢のやうに過ぎた跡の疲れや反動的寂寞、もしくはさういふ常の日の單調に堪へかねる人々の、酒飲み歌うたひ笑ひ巫山戯て、それを紛らして行くやうな事情にまで、秋田には又秋田らしき特色があつたことが、この旅人の所謂遊覽記によつて、始めて其一面だけを窺ひ得られるのであります。

　雪月の出羽路は日録でないから、勿論其樣な個々の出來事に迄は及んで居りませぬが、それでも其内容の大部分が、一旦は必ず筆者の體驗を經たものであることだけはたしかです。是は申す迄も無く此種の述作として普通の例ではありません。均しく前代の風土誌と謂つても、其成立は決して一樣で無く、其中でも最も精確と稱せられるものは概ね官府の事業であつて、從つて無味乾燥の非難を免れませんでした。久保田領では御承知の通り、既に數十年も以前に周到なる郡邑記の編纂がありました。時は少しくそれよりも後れて、仙臺藩にも同種大規模の計畫が起り、田邊氏の封内風土記なども實は衆力を集めたもので、資料は主として村々と社寺との書上げであつたやうであります。幕府領のものは文化以後の事業で、量に於ては優に各藩を壓するに足りますが、其結果に成る所の御府内備考・新篇武藏風土記稿・新編相模風土記を見ますると、ほゞ亦大正時代の郡誌と同じく、言はゞ所在の役人が、公けに發表して可な(388)りと認むるものを整頓したに止まつて居ます。之と對立して一人の篤志家が多大の日時を費し、身歿して業は尚未だ完からずといふものは、一方に恕すべからざる缺漏はあつても、著者の力量次第では、獨自の觀察と見解とを世に傳へることが出來ます。私の知つて居るものでは能登名跡志、それから莊内の安部氏の三郡雜記の類は、確かに身親しく※［竹冠／昂の下半］を其境に曳いて、さうして後に古書の據るべきものに從うて居るのであります。眞澄翁の地誌も此系統のもので、しかも最も計畫的な又道樂味の薄いものであります。村々の書上げを唯一の資料とする郡誌、多數の協力はあつても一人の氣魄は透徹しない風土記を持つ者が、それには滿足せずして更に我が菅江氏の如き、聊か不覊獨立に過ぎたる調査者に、自由なる改造を委任したといふことは、たしかに雅量であり又欽慕すべき此藩の學風でもありました。獨り當代に入つて却つて自ら矜持し、是ほど歴然たる異郷人の長處を、少しも善用せざらんとするが如き意見が行はれるならば、それは少なくとも祖先の志に反するものであります。私の解する所では、秋田に於ける眞澄翁の百年祭は、是非とも斯ういふ心持を以て、將來に記念せらるべきものであると思ひます。

　

　　　　　　　文品と思藻

　

　是で先づ大略私の兼て諸君に向つて述べて見たいと思つた要點は盡きましたが、なほ一二是と關聯して、斯ういふ機會に於て御話をして見たならばと思ふことがあります。私は明治の末年頃に、始めて故人山方香峰君から眞澄遊覽記のことを聞きました。後に承はれば秋田では、其頃八十年の年囘なども營まれ、引續いて此翁の名は高く揚がつて居たのであつた。遺著は固より所謂斷簡零墨の末に至るまで、之を獲て珍重する人は可なり多くなつたさうです。しかしそれにしては私の不審に思ふのは、今まで一向に是ほどの名著を利用しようとした人の無いことであります。遊覽記の名は古くから世に知られ、稀には其二三を援引した者もあるに拘らず、最近の南部叢書の中で五六卷の略本を(389)印行し、今度深澤君等が秋田叢書に其一部を入れようとせられる以外には、まだ之を世に出さうと企てた話も聽きませぬ。是には何か曰くのあることゝ思つて居りました。

　考へて見ますと、眞澄遊覽記の出版の困難であつたのは、一つは彩色畫の多いためですが、今一つはあの文章が今の時代に向かぬことも、確かに斯ういふ冷淡ではない人の間に、なほ人望の得にくかつた原因であらうと思ひます。單に天明寛政の頃の國學者の常の風といふ以上に、菅江翁の文章には癖があり、又學殖が現はれ過ぎて居ります。故事といふよりは出典ある用語法、讀んで聽かせて更に註釋をしてやらぬと、相手には解らぬといふ類の言ひ現はしをして居たことは、確かに大なる缺點と言つてよろしい。其上に時々は我々にも氣の付く文法の誤りがあつて、可なり快讀を妨げるのであります。今日もし此樣な文章を書く人があつたとしたら、それは物ずきであり又確かに惡趣味でありますが、考へて見なければならぬのは、眞澄翁には限らず、此時代此境遇に在る人には、これが唯一の文體であつて、日常の用としては此以外には、御座罷在の候文があるばかりであつたのです。

　私は寧ろ斯くの如き囚はれたる文體を以て、何等の凝滯も無くよくあれだけの多思多感を、自由に表現し得たことを敬歎するの他はありませぬ。江戸でも當時此通りの文體は弘く行はれて居ましたが、大抵の文人は取材の選擇と構想の單純化を以て、強ひて内容の側から調和を試みて居ました。即ち如何なる題目でも如何なる境涯でも、悉く此文體を以て處理するといふわけには行かなかつたのであります。勿論漢文にも同じ拘束はありました。林道春や黒川道祐の如き初期の學者の、何でも書くべしとした人々は、吾妻鏡以來の日本流に從うて、支那人には讀めぬやうな漢文を平氣で書きました。其後漢學が進んで追々に其あら〔二字傍点〕が氣になるやうになると、却つて書く種の方を制限しようと力めた者も多かつたのであります。そんな事では仕方が無いといふ世の中になつて、氣力ある青年は文章の力を養ひましたが、其修業の方法は多くは旅行でありました。眞澄翁の和文も恐らくは是と同樣に、旅が其技能の發達を強制したのでありませう。兎に角鍛錬の功か專念の力かは知らず、外から見れば窮屈至極なあの文體を驅使して、如何なる(390)鄙俗の話題でも、遺憾なく言ひ表はして居るので、一度でも文體の爲に描くべきものを描き殘したらしい形跡の見えぬのは、我々共の常に羨ましく思ふ所であります。此點は翁の手に成つた繪の方も全く同じで、要するに根氣と親切とを以て、あの簡單な繪具と普通の細筆だけで、あれだけ非凡なる寫生畫を製作したのであります。

　本日の展覽會でよく御覽になつたことゝ思ひますが、あの美濃判半切の薄葉に書いた明�ｺ館本は、すべて自筆のやうであります。内閣の文庫に今あるものは、是亦佐竹家から出た本でありますが、あれが例の天樹院樣に獻上したものであると見えまして、文字も他人の淨寫したものがあるらしく、畫は悉く玄人の手に成り、田中重遠又は寧畝等の落款があります。この二つを比べるとよく分ることは、翁の繪は確かに習つた繪ではありませぬ。後年は自畫賛の幅をかく迄の自信が出來たやうですが、布置構圖に少しも法則が無く、もし所謂胸中の雲煙がありとしますれば、それは直接に自然を師としたものであります。元來器用な人であつたことは確かですが、それよりも何とかして眞實を寫したいといふ努力、それが積み重なつて末には多くの苦勞無しに、あゝいふ何人にも企てられぬやうな、無邪氣な逸品を世に留めることが出來たものと思はれます。

　文章の方も全くその通りでありました。あの眞書《しんかき》を以て山水を描くやうな手つきで、能く是だけの精彩を發揮したのは、言はゞ一細點をも惜まざる自然に對する忠誠であります。學ばなければならぬ心法であると思ひます。先生は元來幾分か眞面目に過ぎ、或は氣六つかしいといふ質の人であつたらしいにも拘らず、あの文章の中には?々微笑を催すやうな滑稽がありまして、それが始終この古風なる描寫法に活氣を與へて居ります。拾つて行くと數限りもありませぬが、かの「雪の飽田根」の一篇の中にも、例へば阿仁の小瀧といふ村は、一村の者が皆文筆に疎い爲に、此地方の風として多少の讀み書きの出來る者を外から傭ひ入れて、それを算用師と謂つて居りました。芭蕉の七部集の誹諧に、

　　　此里の廣きに醫者のなかりけり

(391)　　　　算盤置けば物知りといふ

ともある如く、それがたつた一人の村の學者でありました。然るに今宵測らずもえらい人が來て泊つたといふので、村長は早速其算用師を喚んで相手をさせる。其光景などは目に見えるやうに書いてあり、後にその男が一句を作つて書いて出したといふあたりは、今もありさうな微細なる人間味であります。それから湯の臺といふ寒村では言ひ樣も無いあばら屋に一宿した。然るに夜深く迄板戸の向ふで、ぱち／＼と碁を打つ音がする。さても意外なたしなみと思つて後でよく見ると、それは家の小兒が寢ながらハシバミの實を咬む音であつた。又森吉山下の森吉村では、冬のさ中に一軒も夜具のある家が無い。何れも藁を褥として居るのであるが、中には湖上の何藻とかいふ水草を採つて來てよく乾かし、それの中に眠ると至極柔かで温かい。亭主戯れて藻夜着《もよぎ》の蒲團といふなどとあります。「繁き山本」では寒屋澤《さんやざは》の山村に於て遠國から來て居る不幸なる老婆に、歌をうたひよく戯れ言をいふ者が出て來ます。土地の人々が之をゴッチャババと綽名して居るなどは、をかしい中にも私は涙がこぼれるやうに感じました。其他大瀧の宿屋に滯在して居りますと、マタギが何人も門前を大話をしながら通る。其言葉には彼等の風采までが想像せられます。四月に入ると村々に農事が始まるので、湯宿の女客が酒を飲んで別れの宴を催し、こんな歌をうたつて居ます。

　　　けやく離れとお庭の草こ、

　　　うらこア枯れても根こは枯れない

　果して今日でも、是に近い心持が續けて歌はれて居るかどうか。なつかしいことだと思ひます。之を要するに遊覽記の文章は、正直に評して惡文の中に屬すべきものでありますが、我々同情者の眼から見れば、かゝる手筒なる道具を使用しても、なほ是だけ鮮麗に、しかも感動深き記録を仕揚げ得た筆者の天分を、讃歎せずには居られぬのであります。

　

(392)　　　　　　　半生の秘密

　

　最終に尚一つ、思ひ切つた私の批評を申しますと、眞澄翁の歌には殆と一首として名歌がありません。單に凡庸だといふのみで無く、其吟詠の態度にも、文章の方に現はれて居るやうな眞率味がありませぬ。當地にも大分短册などを珍重して居られる人が多いやうですが、手跡までは彼是申さぬとして、其歌が些しでも感服しないのであります。この程度の歌よみならば、あの頃江戸にも京にも實はあり過ぎる程ありました。強ひて感心するならば即興の輕捷、千首萬句口を突いて出るといふ點で、之を要するに唱和の雄でありました。勿論我邦には久しい間、單に達者に三十一文字を連ねるといふことを以て、高名になつて居る人が幾らもあります。古いところでは頓阿法師の草菴集などが其一つの例ですが、分量に於ては及び難いといふのみであり、もしくは何れも難が無いといふだけで、たとへ五十首でも其中から今の人を感動せしめるやうな歌を、拔き出さうとすればそれは不可能なのです。しかし相對して鷹酬を事とする者の心境は又別であります。殊に我々の間には傳統がありまして、雅語を五七五に排列するの技能を重要視して居りました故に、それが到る處萬人の尊信を博し、從つて遊歴の資となつて居たことには少しの不思議も無いのであります。がそれに致しても今日遊覽記の卷々を通讀して見ますると、どこでも同じやうな風月の興、人の情のうれしさと旅人の愁ひを、定まつた樣式格調を以て五十年間繰返さなければならなかつたことが、如何にもこの孤獨の人の氣の毒さを思はせるばかりであります。尤も是も考へ樣次第で、立花や香、茶の湯音曲などの風流に關しては、誰も時を異にした單調を非議する者は無いのでありますから、先生が生涯之を職業として、あの安定せざる生活の間で、能く是だけの功績を擧げられたことも、所謂歌の�ｺと解することは出來るのであります。さうして斯ういふ古風の考へ方をする者は、あの時代は勿論、今でも決してまだ少なくは無いのであります。

(393)　私は寧ろ斯ういふ方面から、現在まだ全く霧霞の中に包まれて居る菅江眞澄翁の青春時代、即ち三十歳にして國を出て終に還らなかつた不思議な經歴を、窺ひ知らうとして居るのであります。翁の傳記の殊にロマンチックな一節、たとへば一生釋き得なかつた「常被り」の謎、或は加賀樣の御落胤といふが如き馬鹿げた風説なども、單に俗衆の好奇心を滿足せしめるといふ以上に、其内側に潜んで居る社會的意義、殊に今日の文化の精巧なる綾紋樣の色絲として、是非とも元の筋を探つて見る必要があるのです。翁の故郷を尋ねて久しく苦心して居る人々は、或は何か隱れたる動機があつて、故意に出自を隱晦にして居られたのでは無いかといふ疑念さへ抱いて居ります。私も遊覽記の各卷を見る際に、特に此點に注意して居りましたが、成るほど三河の人といふことのみは一致して居ても、村の名は乙見《おとみの》里とか入文《いぶみ》とか色々に書いてあつて、少しでも手掛かりを與へませぬ。氏名を改めるといふまでは、斯ういふ境遇に在る人の往々にしてすることですが、或はそれ以上に身の上を包み、幾分か臆測の餘地を存せんとせられたのではありますまいか。もしさうだつたとすれば、かの法外なる落胤譚の如きも、自身其作者で無いことは固よりながら、少なくとも其訛傳を放任して居た弱點だけは、一部分之を先生に歸せなければなりませぬ。

　

　　　　　　　故郷の消息

　

　私は去る大正九年の秋に、三河へ旅行して始めて眞澄翁の遺跡を探つて見ました。乙見といふ村は額田郡東部の丘陵の間にありますが、其邊には白井といふ苗字は一軒もありませぬ。をかしいことには近世菅井眞澄といふ相應の國學者があつて、現に其未亡人が老いて岡崎に住んで居るといふことを教へてくれた人もありました。菅生《すがふ》は岡崎附近の古い郷名で舊社があり、それに因んだ小川の流れもあります。菅江といひ眞澄といふ氏名も、全く是から思ひ寄られたものかと察しました。しかも後に秋田寺内の墓誌などによつて、漸く渥美郡の方であらうと考へるやうになりま(394)したから、轉じて豐橋の周圍を物色しますと、此邊には白井といふ苗字が處々に部落を爲し、紋も梅鉢を附けた家が幾らもあるといふので、今度は其中のどれがさうであらうかを決するに迷ひました。現在其家が連綿として居たところで、今では既に姪曾孫か姪玄孫の代になつて居ります。若くて出た人だから記憶が薄らげばそれきりで、碑文や過去帳を捜す場合とはわけが違ひます。そこで據ろ無く遊覽記等にある村名には構はずに、片端から白井家の多くある渥美郡の村々を當つて見ようとしたのであります。秋田では鳥屋長秋氏の子息某、翁の歿後に上方に旅行をして、路次に翁の生家へ立寄つたといふ話も傳はつて居りますから、街道筋からさう深くは入込んで居らぬ村であつたらうかと思ひますが、東海道に臨んだ村では、東では二川《ふたがは》驛の大岩、次には豐橋郊外の花田、それからもう隣邦になつて居りますが、豐川對岸の下地《しもぢ》などに白井家が多くありまして、其中でも花田は今日豐橋の市中に編入せられ、ちやうど停車場のある邊りが元の屋敷地ですから、住民は非常に移動して居ります。こゝがもしその場處であつたら、愈々尋ね出すことが困難なのであります。

　ところが是も大正九年の九月の事でありますが、私は秋田の圖書館に參りまして、岡先生の御親切で始めて眞澄翁三十五歳の年の紀行「配志和《はしわ》の若葉」といふのを讀んで見ました。是は今の陸中の前澤附近に居られた頃の日記で、南部叢書として其後印刷になつて居りますが、其中に村井良八氏も引用せられた一節、即ち毛越寺《まうをつじ》の僧の京登りをする幸便に托して、「あが父母の國吉田のうまやなる殖田義方のもとへ」文通したところが、けふ其返事が屆いたといふ記事があります。單に父母の國吉田とあるだけでは、豐橋に生れたといふ證據にはならぬが、兎に角豐橋に殖田といふ家があるか無いかを先づ聞合せて見ますと、幸ひなことには其家がちやんとあつたのです。遠州の方から古く移住した名門であつて、維新前から郊外の新田を開いてそこに居住して居ますが、更に好都合なことには此家の家風として、古い書き物は一枚も散らさず大切に保存してありますので、其中には必ず先代の日記書?類の、眞澄翁家出當時の事情を書いたものが殘つて居るだらう。捜して見て下さいと頼んでありますが、ぽつり／＼材料が現れて來るので(395)あります。この義方といふ人はよほど丹念な物固い人であつたと見えまして、最初に見付かつたのは美濃紙に包んだ薄の穗が一本、上書には天明七年十一月七日、陸奧眞野萱原の尾花、白井英二生より送り來るとあります。御承知かも知れませんが眞野萱原は萬葉集以來の歌名所でありまして、其故跡と稱するものが奧州には數箇所ある中に、一番弘く知られて居るのは今の宮城縣石（ノ）卷湊の附近に在るものであります。天明七年といふと前の毛越寺の僧に?をことづけたといふ記事のある年でありまして、ちやうど其夏以後の日記は缺けて居ります。最近始めて大館の栗盛財團の文庫から出た二つの日記に依りますると、天明六年は歳の暮まで、眞澄翁はやはり陸中の前澤・山（ノ）目の間に居られ、天明七年の春夏も、同八年の正月も共にこの附近で迎へて居られるのですが、其中間の約半年だけは、どこを旅行せられたか記録がまだ見付からず、たゞ後日になつて?々松島や仙臺の話が出るから、多分其時あの方面をあるいて居られたことゝ思つて居りました。其推察がたつた一本の薄の穗によつて、ほゞ安全に確かめられたのであります。今後は更に舊仙臺領北部の舊家を尋ねて見たら、何か新しい材料が加はるかも知れぬといふ希望を持つことになつたのであります。

　次にこの同じ植田七三郎氏の家から、又斯んなものが出て來たと謂つて送つて來たのは、是も紙に包んだ鳥の羽が一枚、其上書には松前鶴の思ひ羽、天明八年十一月一日至、白井英二贈之とあります。その白井英二は同じ年の六月に、陸中の諸詞友と袂を別ち、北上川を上りに愈々蝦夷地の旅に立つたのであります。小湊青森油川も急いで過ぎ、津輕北端の字鐵《うてつ》の濱から、夜船に便乘したのがちやうど盆の魂迎への晩でありました。其夜は月照り風既に寒く、女や少年が大きな聲を揚げて、誰の父よ、それの姉よと、一々亡き人の名を喚んで精靈を招くのが、たとへやうも無く身に沁みて聞えたと「率土が濱でたひ」には記してあります。而うしてこの鶴の羽は、或はさういふ船待ちの間の濱の散歩に拾つたもので、それを藏つて置いて後に松前からの音信に封じ込めたものかも知れません。植田氏のうは書にたゞ白井英二とあるのも注意を惹きます。眞澄翁にとつては植田義方は長上でありました。翁が家出の際には何か(396)ごた／＼があつて、それに此人は多分先輩として干與して居たのであります。當時の日記でも出たならばすべてが明らかになることゝ思はれます。

　

　　　　　　　文章と友情

　

　それより更に我々の心を動かした發見は、やはりこの植田家の保存文書の中から、眞澄遊覽記の一部分が現はれたことであります。それは多分寛政の十年か十一年、翁が蝦夷から還つて外南部《そとなんぶ》に何年かを過した後、再び津輕の山川を細かく見てあるいた頃の紀行で、其分は秋田の方には傳はつて居りませぬ。しかも驚くに堪へたる奇遇は、ちやうど中道等君がそれと同樣の自筆本を津輕の人に借りて、私に貸してくれて讀んで居る最中でありました。その本は誰かゞ後に「外濱奇勝」といふ題箋を附して、他の數篇の紀行と合綴したもので、例の通り精密を極めた挿畫が具はつて居ります。植田氏の方のは表紙も無く畫も無く、僅か一篇だけではありますが、雙方同じ美濃半切薄葉の用紙に、手跡字くばりまで瓜二つで、二つ共眞澄翁の自筆であります。是で見ると國を出て十六七年の後まで、なほ植田氏とは音問を絶たなかつたといふ以外に、翁には自分の紀行を複寫して、人に贈るといふ習慣があつたことがわかつて來るのであります。

　山方香峯の談話で今でも耳に留まつて居るのは、遊覽記は正本が明�ｺ館に保存せられて居る外に、更に其下書かと思ふ自筆本が、一册づゝ諸方の舊家に傳はつて居るといふことであります。今考へると是は下書では無かつたのであります。眞澄翁が倦むことを知らぬ筆まめでなかつたら、又自作の紀行を斯うして人に示し、もしくは寫して贈るといふ親切心が無かつたら、この大部なしかも讀み易からぬ著述が、我々如き者の注意する迄に世に弘まるわけは有りません。恐らくはどこかの交情の最も濃厚であつた人の家に、秘藏せられてやがて忘れられてしまつたでありませう。

(397)　眞澄翁は流離十年の後、松前より戻つて下北半島の一角に上陸した時にも、其行李の中に信州以來の紀行諸篇を携へて居られました。それを土地の文人たちの所望によつて貸して見せたといふことが、其後の日記に折々見えて居ります。後年秋田で學館に納められた時には、それが五十何册になつて居たといふことです。津輕では領内の記述が餘りにも詳細であるために、之を外部に傳ふることを忌んで、彼の日記を抑留したといふ説があります。其結果かと思ふのは、今尚秋田の蒐集中には無いものが、ぽつ／＼と出て來るのであります。（近頃秋田圖書館の手に入つた「栖家の山」なども其一つです。）又此地に傳はつて居る遊覽記の中でも「錦の濱」などは遙か後になつて、翁の手に返つて清書したものと見えて、自分でもう何年度の紀行であつたか解らぬと言つて居られます。「岩手の山」などは明らかに天明八年の著であるものを、自序には誤つて寛政八年とある爲に、内閣文庫では卷次を誤まり、蝦夷に二度入つたやうな推測を人にさせて居ります。是等は皆年々の紀行が一旦は散つて別人の手に在り、後に筆者が借りて之を寫したこともあつた結果で、それが出來たといふのは、翁が路の行振りに折々の紀行を、最も關係深く又好意ある人に寄贈して置いたからであります。それも一種の遊歴人心理で、諸君の如く客を迎へて談ずる側の御方には、不可解なことか知れませぬが、上は賓客より下は乞食に至るまで、日本人は元來坐して他人の好意を無對價に受け得ない性情を持つて居りました。書家でも無く詩人でも無い只の男が、亭主から記念にしますと謂つて紙筆を出されると、辭し能はずして劣惡な字を書いたりするのも、言はゞ正月の「物よし」などが、片手に袋を下げて「あゝら目出たや」などといふのと同樣に、一種他郷に臨む者の土地人の好意を買ふ手段であります。眞澄翁が少しく醫術の心得あつて藥を人に與へ、或は、本草物産の知識、古物遺物の研究を此地方の人に示されたのみならず、更にその貴重なる著書をわざ／＼寫して殘されたのも、内實は少しでも寄寓の居心地を好からしめんとする弱い心からであつたかも知れませぬが、それは千篇一律の贈答の短册などよりは、幾ら有意義であつたか測られぬのみならず、間接には永く遊覽記の湮滅を防止して、百年の後人を裨益して居るのであります。

　

(398)　　　　　　　學問の系統

　

　思はず長話になりましたが、更に今一つの發見を申しますと、是も植田氏から見せられた文書に、「東風俗」と題した一册の寫本がありました。内容は古今集の東歌にフシハカセを附けたもので、前かた他でも見たことのあるものですが、其奧書が頗る注意を惹きました。手元に其本を持たぬので日附は覺えませぬが、兎に角に最初に賀茂眞淵の署名、それを傳寫したといふ本居宣長の識語、それを又寫したといふ田中道麿の署名、それを借りて寫したといふ白井幾代二秀規といふ人の安永七年の識語があつて、次の紙には例の克明な植田義方が貼紙をして、白井幾代二主より贈られたと記して居るのであります。安永七年は我が眞澄翁の二十五歳の年で、翁の實名は白井英二秀雄でありました。父の名は秀眞といふと何かに書いてはありますが、此白井幾代二主は父で無ければ叔父か兄、兎に角身内の人であらうと存じます。田中道麿は御承知かと思ひますが、初期の本居翁の門人で名古屋に住し、師に先だつて歿しました。入門の當時既に一家をなした知名の學者で、自身亦多くの後進を率ゐて居たのであります。其遺著なり社中名簿なりを見たら、大抵此關係も知れることゝ思ひますが、眞澄翁自身の學問の系統も、ほゞ之によつて推測し得られるやうであります。眞澄翁は永遠の旅に登る以前、京を知り又近畿をあるいて居ることが、日記の中からも窺はれます。東三河の田舍に居て獲得した學問で無いことは確かですが、さりとて「歌は冷泉家、書は近衛家」からといふ風説は、うかと信用することが出來ませぬ。國學には萬菓期以前の古意を掬まうとしつゝ、歌だけは佛教文化の影響の大きかつた時代の風に追隨したことは、實は本居翁なども持つて居られた不調和な兩立であります。是にも門派の人々の首肯するだけの理由は勿論ありました。つまり學問こそは遠く古く溯り究める必要があるが、技藝は寧ろ現在の生活と、少しでも親しみのある樣式に遵ふべきだといふのでありませうが、私などは鈴屋一系の歌の風が所謂冷泉派などに近(399)いのは、其趣味だけは本居翁の國學完成よりも前に、既に固定して復改むべからざる迄になつて居た爲で、勢ひ他派の新しい擬古體に反感を抱かざるを得なかつたのであらうと思つて居ます。しかし私はまだ田中道麿翁の歌といふものは一向に知らず、又白井氏の家の學がどれだけ迄、菅江翁の年少時代を感化して居るかを知ることが出來ませぬが、天明寛政の交、奧羽の邊隅に於てはなほ異數であつた新派の學問と、古風な歌才との取合せは、海道の衝に當つた三河の眞澄翁の故郷では、必ずしも有り得べからざる不思議では無かつたので、獨り數奇を極めたる翁の運命が、突如としてこの新機運を、間道から此地方にまで、運び込んだ因縁を奇とするのみであります。

　

　　　　　　　寧ろ將來の爲に

　

　實は私はこの百年祭の期日までに、出來るならば眞澄翁の小傳を書いて見たいと心掛けて居りましたが、今になつてそれが容易の業で無かつたことを感じます。しかし只今も申す如く、尋ねて行けばまだ少しづゝ明らかになつて行く見込はあります。翁の書翰は石井忠行の伊都園茶話に集められたもの若干、其他雄勝の佐藤家から出たもの、保呂羽山の大友家に藏せられたもの、又栗盛文庫の二三通などの他に、まだ翁を世話した家々には、殘つて居るものが多からうと思ひます。それを揃へて見たところが、やはり不明な點は幾らでもありませうが、少なくとも之に由つて旅行と學問との如き一見兩立し難い二つのものを、斯くまで調和させ得た人の氣質と修養とを、窺ひ知る便宜はあらうと思ひます。

　それよりも更に直接に秋田の諸君に興味があらうかと思ふのは、菅江翁と交遊のあつた家々の其後の歴史であります。中部地方ならば、百年は誠に怖るべき期間であります。殊に維新の大變遷を經過して、村に昔のまゝの繁榮と聲望とを保持するものは、十にして其一をも期し難いのでありますが、東北は社會組織が幾分かちがひまして、惡い生(400)活はいつ迄も情無く惡いと同時に、所謂親方衆の境遇は比較的安泰で、少なくとも何人にもわかるやうな特別の原因が無ければ、さう無意味には退轉しなかつたやうであります。港町に住む者又は士流は別として、村に住して曾て旅の歌よみを介抱し、その非凡の風流に共鳴した位の家ならば、或は今も尚以前の繁昌を取傳へて居る者が少なくないかも知れません。それを今一度この精確な記録に基づいて、尋ねて見たならば面白からうと思ひます。

　考古學といふ學問はこの一世紀を通じて、ひたすらに上古の何等旁證を得難いやうな區域に潜り込み、僅かな石器土器の破片によつて、出來る限り自由なる空想を馳せようとして居りましたが、未知を知り忘れた記憶を喚起す必要は、等しく我々の父や祖父の時代にもあるので、今まで是を發掘して見なかつた爲に、突如たる傳世品出現の人を驚かすべきものは、却つて此方面に多くなつて居るのです。遊覽記の何れの卷であつたかにも出て居ますが、曾て北秋田の或川の洪水に、岸が崩れて土中から一軒の農家がそつくり現れ、其中には木を彫つて作つた樣々の器具がありました。ほんの百年か二百年前に、土が流れて埋まつたものでも、之を今日の生活と比べると殆と別世界の感があります。それが地上に於て漸を以て移つて行きますと、人は今有るものをなほ元の儘と考へるのであります。精神生活の方面でも是と同じことで、我郷土の事ならば我是を知ると信じて、しかも人は既に新しい現代の考へ方をして居るのであります。菅江翁の歿後百年の記念會が、何とぞ此縣の爲に、亦一箇の川崩れの如き發見の機會であらんことを望みます。

　

　（追記）

一、植田義方翁との交情のなほ久しく續いて居たことは、又一つの偶然の資料によつて明らかになつた。さうして是は三河の方の人々の、全く知らずに居ることなのである。近頃能代市の近藤八十二氏の發見せられたものに、彼地に傳はる木曾路名所圖會の書入れ本があつた。同書卷三、寢覺の床の條に、「吉田植田義方」の詩が一首載つて居ること(401)も私は知らなかつたが、能代本には其欄外に、次のやうな眞澄の筆の跡が見られるさうである。

　　眞澄考

　　三河國吉田驛なる植田義方は、もと賀茂眞淵にまなび、俗名はうゑ田屋七三郎とて、おのれは一たびまなびの親とせし人也。いとゞ命長く、此秋里籬嶋が作きし東海道名所圖會にも、義方の名毎々見えたり

　植田家が吉田の領主の旨によつて濱松から引移つたことゝ、岡部氏と何か親縁のあつたことは自分も聽いて居たが、眞淵の門人といふことは知らなかつた。それが同時に又眞澄の若い頃の師であつたとすると、學問の系統は是で一端は明らかになつたので、私が「東風俗」の奧書によつて、名古屋の田中氏の關係を推測したのは、或は考へ過ぎであつたかも知れぬ。東海道名所圖會はまだ當つて見ないが、同書卷三に三河本野原、又豐川・度津・志賀須香の渡等に就ても、植田氏の考證を掲げて居ると近藤氏は言はれる。乃ち長命であつた義方翁の學問は、既に縣居門の外に出て居るのだから、その感化も亦想像し得られるのである。眞澄が能代に來て滯留したのは、享和元年の冬以來何囘もあり、殊に文化の初年には頻々と來て居たのであるが、この木曾路名所圖會が刊行せられたのは文化元年だから、之を讀んでこの書入れをしたのが、大よそいつの頃だつたかは測算し得られる。乃ち津輕で紀行の一篇を複寫して送つてから、なほ十年近く後まで、少なくとも内部の友誼は續いて居たのである。植田翁の歿年は當主の七三郎君に問へば直ぐにわかるであらうが、或はこの新刊の書に一篇の詩を寄せて居るのを見て、あゝまだ達者でござつたかと、もう一度文通をしたのではないかと想像する。何れにしても三十歳前に國を出てしまつて、もう五十も幾つかを越える頃まで、斯うして遙々と心を寄せて居たといふことは、雙方の人柄も思はれて奧ゆかしい話である。

　

一、このついでを以て、白?をして置かねばならぬ誤りが一つある。それは眞澄が植田氏の所へ、遙々送つて來たと(402)いふ鶴の羽のことで、自分は之を「津輕の濱の云々」とあつた樣に思つて、それなら七月十三日の晩に、いよ／＼松前へ渡海するに先だち、宇鐵三厩の海岸を終日あるいて居た際に、拾つたものだらうと獨り合點をして、其日の光景を暗記のまゝに、二三の場所に於て話をしたのである。ところが此頃になつて其鶴の羽の紙包が、まだ返さずにあつたのを見出したから檢めて見ると、津輕の濱では無くて「松前鶴の思ひ羽云々」とある。そこで早速其點だけは訂正して置いたが、既に以前の讀者に感動を與へて居るのだから、話の全部まで削つてしまふことも出來ぬやうに思つて、單なる想像説として存して置くことにした。全然有り得ないことゝも私は考へて居ないのである。白井氏の松前上陸には色々の故障があつて、中々落着しなかつたと傳へられる。さうしてこの鶴の羽が三州吉田へ屆くまでには、三月餘りの日數しか無いのである。或は松前からの最初の書信に、かねて拾つて置いたものを封じ込んだとも考へられる。又さういふことをよくする人であつたやうに思ふ。

　

一、眞澄翁の初期の日記の中には、父母を思ふ歌は非常に多く、又京都のやうな處で、兩親に對面した夢を見たといふ記事などもある。さうして植田氏へのやうに、音信を通じたといふことはどこにも見えないのである。こゝに何等かの悲しい秘密が、潜んで居るのではないかとも私は想像して見たのであるが、それとても多分永久に明らかにならぬであらう。「伊寧の中路」といふ信州の紀行には、天明三年の秋、亡母の三囘忌を營んだとある。其折の歌詠を集めて、手酬草《たむけぐさ》といふ一書を作つたとも記して居る。是が繼母の難を避けたのだといふ説の元かと思ふが、それにはあの時代として、繼子の苦しみをするには幾分か年を取り過ぎて居るやうである。植田義方翁の日記又は其家に保存せられて居る書翰類に、何かこの間の消息を傳へたものが有るのでは無いかと思ふが、殘念ながら今はまだ少しの手掛りも見つからない。或は「常被り」の頭巾のやうに、強ひて知らうとせぬ方がよいのかも知れぬ。

　

(403)一、秋田の講演に於て、言はうと思つて果さなかつたのは、勝地臨毫といふ畫集のことであつた。内閣の文庫には多分模寫であらうと思ふものが十數册、秋田叢書の卷十二にも、その寫眞版が四五册分ほど出て居るが、書名を聽くとたゞ單なる風景スケッチのやうで、實は澤山の解説を伴なうた見取圖、畫集と言はうよりも寧ろ一種の地誌である。所謂遊覽記の中にも「阿仁乃澤水」の如く、是と同樣に畫圖ばかりのものがあり、又「雪の飽田寢」や「男鹿の島風」のやうに、本文といふ部分がほんの五六枚で、それに數十葉の繪を添へたものもあり、其他の紀行の卷々とても、是と共通の描き方をしたものが多いのである。眞澄翁の旅行畫の著しい特色は、畫そのものゝ效果を無視して、勝手にどの場面へでも甲乙丙丁の文字を朱で書き込み、其山川村居社寺等の名を、可なり細かく餘白に列記したことで、其爲には又解説の文章の中に、それ／”＼の朱字の記號を挿入して、對照の用に供して居るのである。この奇拔で又親切な方式は、津輕から秋田に入つて來た頃を境として、段々と盛んになつて居る。多分は實習の結果寫生がいよ／＼達者に且つ面白くなつて、元は挿繪であつたものが、しまひには主從顛倒するまでになつたのかと思ふ。自分は素人で繪の批評は出來ぬが、眞澄翁はいつも繪具を單色で使つて、しかもその布彩には自然のうま味がある。それで居て實地を可なり精確に寫し出し得たのだから、自分も樂しみで追々と描き進み、しまひには文章の分量を追ひ越して、勝地臨毫のやうな畫ばかりの紀行が出來たのであらう。秋田縣には翁の畫幅も相應に傳はつて居て、中には本職にも劣らぬものがあるらしいが、それは先づ餘技といふ程度のものであらう。是から類推して勝地臨毫の價値を豫斷することは出來ない。一言でいへば後者は生活の記録である。目的は別に有り、之を味はひ又利用し得る者も別に存する。他日北方の文化が一段の躍進を告げたならば、必然に之を學問の用に供せんとする者が出て來るであらう。先づそれまでは保存が大切である。斯ういふことを私は話して見たかつた。

　

(404)　　　　　信州と菅江眞澄

　　　　　　　　　――「來目路の橋」活字本の端に、昭和四年七月――

　

　著者が菅江眞澄といふ假の名を用ゐ始めたのは、この「來目路の橋」を書いてから更に二十餘年、即ち三たび出羽國に足を踏み入れて後のことかと思はれるが、現在では其生涯の紀行を一括して、之を眞澄遊覽記と總稱するのが普通になつて居る。恐らくは自分の命名ではなかつたのである。同じ境遇の人で無ければ、容易に想像も出來ぬ話だが、此旅人は前後五十年に近い漂泊生活の間、常にその若い頃からの旅日記の大部分を携へあるいて居た。例へば寛政六年に書いた「淤遇濃冬隱」には、外南部の田名部に滯在中、舊い日記を二三の知人に貸して見せたとあつて、十年前の「伊那の中路」「我心」なども、其目録の内に見えて居る。或は散亂した舊稿を後に編綴したと言つて、自身既に序次歳月を誤つて居るものもあれば、僅かに切れ／”＼の寫本を假寓の家に留めて、あたら原書を紛失したものも尠なくはない。津輕藩では領内の風土形勢を記述すること餘りに詳細なるを忌んで、彼が國境を出で去るに臨み、其紀行を抑留したといふ説もある。眞澄歿後にそれを秋田へ送つて來たともいふが、果して何人の有に歸したものか、現在はまだ發見せられて居ない。天明四年の春、この「來目路の橋」に先だつて出來たかと思ふ「諏訪の海」などは、或は諏訪か洗馬かの舊家に殘つて居るかも知れず、同七年の松島鹽釜の紀行も、必ずあの地方に埋もれて居ることゝ察せられるが、まだ我々には尋ねて見る手段が無い。最近に私の調べて見た所では、書名の知られて居る紀行の數は七十二編あつて、秋田の明�ｺ館本は最も完全に近い集録と稱せられるにも拘らず、未だ其三分の二にも達しないのである。

(405)　しかし兎に角にこの貴重なる前代東北の文獻は、殆と著者自身の手に由つてのみ、今日まで保存せられて居たと言つてよかつた。我々に取つて殊に有難い眞澄翁の習癖は、彼が根氣よく又筆豆で、自身日記を複寫するの勞を意としなかつたのみならず、?々其一本を關係深き者の家に遺し留めて去つたことである。それが晩年に藩の學館の國學方たちの慫慂に從つて、初期以來の紀行を自筆に編輯したのが、今ある佐竹侯家の原本四十餘册であるといふ。其後天樹院公義和は更に經費を給付して、之に就て別に坐右の一本を精寫せしめられた。是も筆者の計畫指揮に成つたことは確かであるが、少なくとも其挿畫だけは、專門畫工によつて幾分か美化せられ、又如何なる事情があつたか、卷數が少しく前者に減じて居る。現在内閣文庫に屬する地誌局本なるものは即ち是であつて、上野の圖書館に在るものは、自分が内閣の記録を管理して居た頃に、西村竹間氏等が複寫せられた本である。其成立ちから言へば、此等を定本と認むべきは當然であるが、何れも右申す如く老後の結集である故に、往々にして字句名稱に若干の誤謬無きを保し難いのである。

　眞澄遊覽記といふ名稱は、久しく我々も踏襲しては居たけれども、實際は著者の本意とする所では無かつたらうと思ふ。第一に此紀行の大部分は遊覽記を以て呼ばるべきもので無かつた。風景の描寫は歌文の末技と共に、寧ろ此旅客の漂遊を圓滑ならしむべき一箇の手段に過ぎなかつたことは、心ある讀者の直ちに看取し得る所である。そんなら彼としての特長は何に存するかといへば、第一には世に顯はれざる生活の觀察である。あらゆる新しい社會事物に對する不斷の知識欲と、驚くべき記億である。遊歴文藝家の稍々おどけたる假面を被らなかつたならば、或は局に當る者の忌み遮ぎる所となつたかも知れぬほどの、小さき百姓たちへの接近である。しかも學問以外の隱れたる目的の絶對に無かつたことは、彼の一生の淋しさからでも證明せられるとすれば、この不自由な左の手で物を探るやうな擬古文を以て、あらゆる見聞を記録し得た技能に向つては、特に深甚の感謝を拂ふべき理由があると思ふ。

　信州の讀者は恐らくは先づ感ずるであらう。天明の初年は京江戸の文華の、最も精彩を放つた時代であつた。名あ(406)る儒者文人の此地方に輩出した者も、其數は決して乏しとしなかつた。しかも一篇の「來目路の橋」に、僅かに一端を示したやうな農民の感覺、山の陰・野の果に家する人々の思慮や自然觀を書いて、百年後の我々に殘してくれたものが、此他にも果して有ると言へようかどうか。時勢の致す所、それは到底望み得ないことだつたとすれば、少なくとも此書の我々に對する外史的價値は、その比類の少なかつたことによつて高く評價せられねばならぬのである。

　ところが校訂者としての自分の感動は、更に又是に倍加するものがあるのである。この片雲の月の前を行くが如く、過ぎて永古に還り來らざりし一旅客は、後に北邊の雪の底に隱れて、四十餘年の孤寂生活を味却すべく、運命づけられたる天才であつた。旅で修養し旅で智識を積み重ねつゝ、百年を隔てゝ漸く其功績を認められる樣な事業に、向ひ進まうとして居た學徒であつた。眞澄翁の後年の紀行で、是非とも後代に傳ふべき文化史の資料は、南部では「奧の手振」、津輕には「津輕のつと」、秋田には又「鄙の遊び」・「芒の出湯」・「氷魚の村君」等の數書があるが、この精確を極めた生活記述が、單に才藝ある者の一時の漫興に成つたもので無く、言はゞ氣質であり又心掛けであつたことは、既にこの一篇の「來目路の橋」の、頻々たる旅衣や言の葉の玉の光といふやうな、凡庸なる詞章の間からも之を窺ひ見ることを得るのである。

　此翁の旅行癖、未知の山川に對する熱情と剛氣には、優に當代の登攀家をして推服讃歎せしむるに足るものがあつた。例へば津輕の暗門の瀧の如きは、今も探險隊を必要とする程の深山幽谷であるが、翁は風雪を侵して一日飄然として之を訪ねて居る。阿仁の白絲の瀧の深冬の寂莫境は、この旅客を得て始めて歌となり畫となつた。南部の恐山の經驗は、一夕は大雷雨、一夕は又脚を没するばかりの大雪であつた。蝦夷ではアイヌの小舟に乘つて、珍しい多くの磯のコタンを寫して居る。不遇が特に旅人をして勇猛ならしめるものであるならば、斯かる天分豐かなる旅人の漂遊流轉は、寧ろ我々の學問の爲に感謝すべきものであつた。しかもその意義多き未來を未知數として、健氣にも又思ひ深く、北へ／＼と進んで行く、茲にその若者の孤獨の姿を視るのである。老いて羽州の山の町に客死せんとする眞澄(407)翁の、壯齡三十一歳の面影は是であつた。是を見彼を懷ふときは、學藝も亦人の心を憂鬱ならしめざるを得ない。

　昭和三年の九月には、秋田寺内村の墓前に於て、眞澄翁百年の記念祭が執り行はれた。洋々たる雄物川の水は、流れて北海の寒き潮に入り、砂洲は雲に連なつて、遠き國々の有れども無きが如きを思はしめた。この空漠たる萬古に面して、小高くかの「菅江眞澄翁墓」は立つて居る。百年は期する所ある者の、?々口にする數字であつたが、今に於て寧ろその小に過ぎたるを覺える。之に比べるときは、碑の主の一生涯は尚遙かに多事であつた。彼が秋田に老いんとするや、頓に認められたものは風景畫家としての才能であつて、乃ち勝地臨毫十餘卷の著があつた。當時｜比内《ひない》の方面に於ては、偶然に古物の發掘せられたものが多く、彼は又之を影寫して今日の考古學の先驅を試みようとして居る。しかも津輕の方の記録に於て、彼の事蹟の特に認められたものは、主として本草物産の檢出と蒐集とであつた。松前に於ては歌道の師として、松前侯の母堂文子の御方の庇護を受け、還つて南部の半島に入るに及んでは、乃ち訓詁考證の學問を以て人に説かうとして居る。環境の生活を拘束したことも、恐らくはやゝ忍び難いものがあつたらうが、彼は尚其前途を開拓して、自ら成長して本眞に歸着することを怠らなかつたのである。それが歿後既に一世紀を過ぎ去つて、依然として唯この職業歌人の斷簡零章を珍襲して、ひたすら其市價の甲乙を省みんとする者が多いのは、是はた何の心であらうか。

　自分が眞澄遊覽記の何れかの一篇を世に公けにして、所謂百年の是非を明らかにしたいと念じたのは、固よりこの見當違ひの骨董癖からでは無かつた。一切の我田引水を差控へても、なほ世上に提供するに足る一事は、彼の人物が征途に在つて圓熟し、彼の學問が覊旅の間に進歩したといふ奇異の實例である。眞澄は天明の初年に故郷を出てから、一年として同じ處の正月をしなかつたと同じく、其以前に於ても亦盛んに旅行をして居る。信州越後路から出羽に入つて來る前に、江戸はどうだか知らぬが少なくとも駿河までは知つて居る。京も大和も曾遊の地であつた。乃ち家に在つて書を讀んだ期間は、極めて少なかつたらうと思ふにも拘らず、其隨筆を見ると多く流行の書を繙いて居る。さ(408)うして其大部分は彼が信州を通つてしまつてから、後に出板せられたものであつたのである。彼が文章は巧みに古文の骨法を把へては居るが、一派の學匠に就いて陶冶せられた痕が無いのみならず、往々にして曲亭一流の讀み本の感化を認めるのは、恐らくは刻苦自修の人であつたことを語るものであらう。當時の交通と杜會雰圍氣は、稀には斯ういふ形式を以て、或天才を長養することも出來たので、しかも内に在つて自ら具はる氣魄は、かゝる不便なる境涯の下に於てすら、なほ終には發露せずして止むまじきものであつた。故に自分は此事實に據つて、頗る現代教育制度の缺陷に對する悲觀を、緩和し得るやうな氣がするのである。

　筆者の傳記に關して、只今自分の明言し得る部分は至つて少ない。眞澄本名は白井英二秀雄、三州豐橋附近の、農で無い中流の家庭に生れたことだけは判つて居る。あの土地を尋ねて見ると、今でも白井を苗字とする者の群れて住んで居る村が多い。或は花田の白井家では無かつたらうかといふ説があるが、もしさうだつたらそこはちやうど豐橋の停車場になつて、元の住民は大部分離散して居る。永久に身元を突留めることが出來ぬかも知れない。當人も亦はつきりと、之を語らうとはしなかつたやうである。家出をしたのは三十歳の天明三年、もしくは其前の年であつた。さうして其事情も亦永遠の秘密であつた。旅行の動機は國々の古い御社を參拜して、還つて之を信心深い父母に語る爲と、津輕などでは日記の中に書いて居り、又到る處で故郷に歸つて行くやうに人に告げたと見えて、さういふ意味の送別の歌を貰つて居る。三河との交通も丸々絶えて居たわけでは無かつた。家を出てから二十年近くなるまで、幸便のある毎に音信はつゞけて居た。が只其消息が餘りにも幽かであつた。紀行の中には?々父母を思ふ悲しい吟詠が見えて居る。さうして自分は北へ北へとあるいて、曾て温暖なる東海の濱へ、足を向けようとはしなかつたのである。

　眞澄翁の足跡は、所謂遊覽記の排列に由つて、大體に之を繋いで行くことが出來る。最後の秋田領の二十年ばかりは、もう其紀行も書き殘されては居らぬが、其間は藩廳の委囑を受けて、新たなる風土誌を作るべく、領内の各村を(409)巡つて居た。「月の出羽路」「雪の出羽路」は、今の世にもなほ珍とすべき實地踏査の地誌であつたが、惜むべし事業が餘りに雄大で、彼の齡は又餘りに傾いて居た爲に、終に未完成のまゝで傳はらなければならぬことになつた。文政十二年の七月、仙北郡梅澤といふ村に在つて病を獲、角館神明社の神職鈴木氏の家に來て、十九日といふに亡くなつた。兼て遺命を受けたる秋田の門人鎌田正家といふ者が、他の同志と共に柩を奉じて還り、之を寺内山の自分の墓域に葬つた。其鎌田氏の家も今は既に祀を絶つて居る。祖先一門の小さな多くの石碑が、我が眞澄翁の墓標を取圍んで、空しく殘つて居るばかりである。

　

　（追記）

一、この一文を草した際までは、まだ信州に是ほど多くの、壯年白井氏の文章が殘つて居らうとは思はなかつた。翁が晩年に整理した紀行の序文に、「洲羽の海」「菴の春秋」其他の數著のあつたことを説いて居り、それが皆この間のものなることが察せられるので、或は信州のどこかに今も埋没して居るので無いかといふことを、より／＼は話して居た。ところが「來目路の橋」の刊本を讀む人が多くなると共に、先づ方々から歌の短册が出て來た。薄《すゝき》の宮の神主上條義方氏の家に見出された一首などは、手跡が見ごとであり、且つ紀行の文と繪とがこの歌の前後の事情を詳かにして居るので、松本の諸君が珍重して、繪葉書にして仲間に頒つた。殊に洗馬《せば》では眞澄の出發を見送つて、三日の間共にあるいた三溝政員の日記までも出て來たので、其後寛政十年の大火はあつたけれども、それでもまだ何物かゞ災厄を免れて、傳はつて居るだらうといふ想像は強く、飽きずに捜索を續けて居るうちに、終に四册の眞澄自筆自装の寫本を發見したのが、同じ年十月下旬の事であつた。この時の大きな感動は、亡友胡桃澤勘内君が、「旅と傳説」の三卷一號に詳しく書いて居る。この發見の爲に最も多く働いたのは中村盛彌君で、見つけた場處は村の醫家熊谷氏、即ち現在三人のすぐれた博士を、出して居る家の倉庫であつた。日記の中にしば／＼名の見える醫師可兒永通は、この(410)人々の祖先であり、又長興寺の洞月和尚と共に、眞澄の有力なる庇護者でもあつた。斯うした人の家に保存せられて居たといふことは、たとへ子孫の者はもう知らずに居らうとも、單なる置き忘れでないことは疑ふ餘地が無い。四册の寫本には甲乙の番號が打つてあつて、それを竝べて見ると、まだ少なくとも二册は拔けて居ることがわかる。「菴の春秋」は一卷の完本であつて日記では無いが、此土地に入つて來て滿一年の後に、今謂ふ釜井菴の居住記念に、周邊の風物と人事とを四季の順序に敍述したものであつた。「洲羽の海」かと思ふ一編は天明四年正月の十五日、諏訪下社の祭禮を見に、鹽尻峠を越えて往復した記事に、それから後の少しの日記を添へたもので、分量があまり僅かだから、或は別に完本が出來て居て、是は其粗稿のやうなものだつたかも知れぬ。「筆のまゝ」と題した一卷は卷頭にこの斷章を載せた他に、我々が問題にして居る安永十（天明元）年の淨瑠璃姫六百囘忌追善詩歌連誹序といふ文と、枝下《しだり》といふ地名の見える少しの日記の、後先も切れたものとを、他の若干の歌文と共に綴り合せて居る。つまりはたゞ單なる雜録に過ぎぬのである。信州では昭和五年九月、「菴の春秋」の一卷を刊行し、その際是等の文章は皆附載した。秋田叢書の方でも其中から、二つの日記の斷片を採つて眞澄集に入れた。だから是だけはもう再び埋没する心配は無いのだが、その以外にもう一つ、爰に話して置かぬと忘れてしまはれさうなのは、著者が斯うして我日記の寫しを、友人の家に贈つて置きながら、なほ行く先々でそれを改訂して居たことである。信州の刊行會で覆刻した眞澄の日記は四卷で、そのうち新たに洗馬で發見せられた「菴の春秋」を除けば、他は悉く内閣文庫本、即ち天樹院公の手元にあつた最終の淨寫本に依つたのであるが、是と熊谷氏の家から出現した四十餘年前の本とを比べて見ると、ちよつと意外なほどの差異がある。尤も事實の内容は同じなのだが、歌と表現の文句とが著しく變つて居る。先づ一方は「伊寧の中路」といふ可なり厚い一册となつて居るに對して、洗馬に在つたものは「伊奈濃中路」と「科野路旅寢濃記」との二卷に分れ、しかも此方は八月下旬、更科姨捨の月を見に行つた紀行「わがこゝろ」に移る前を以て終り、それから後はたゞ十月以後の記事が數箇條、例の「筆のまゝ」と題した雜録中に、きれ／”＼に保存せられて居るばかりで(411)ある。然るに天樹院本の「伊寧乃中路」には、それも含まれて居るが其以外に、なほ八月二十三日以後の日記が、ごく／＼飛び／＼ながら排列せられて居り、それから又洗馬本には全く缺けた彩畫も加はつて、一卷の體裁を備へて居るのである。恐らく最初見取圖や日々の吟詠が、別々の紙で保存せられて居たのだらうと思ふが、前にも言つた如く十年後の外南部時代には、もう一卷の成書として人に示して居り、又斯うして信州を去る以前に、形はちがつても本にして殘してあるのである。著書は必ず一つの形に固定して、自分でもちよつとは改めにくいものにして世に問ふ現代人の心理とは、可なりちがつたものを昔の學者は持つて居た。古河古松軒の東遊雜記を校訂した時にも、私は同じ經驗を得たのだが、今日世に傳はる此書の異本は、殆と一種毎に文段の繁粗がある。手元に留めた本は見るたびに手を入れ、しかもそれを色々の段階に於て、人に見せ又寫させて居るのである。眞澄翁の文も歌も、死後に枕に近かつたものが最も正しいのではあらうが、洗馬に四十何年も前に留めて去つたものは、却つて當時の實際の記録であつた。薄の宮の上條家の短册のやうに、最後まで全く改めなかつたものもあるが、他の多くの吟詠はいつ訂正したか、半分以上もよみかへてあるものが少なくはない。それを比べて出すと或方面の人には興味があらうが、自分はそんな事までする氣は無い。たゞ眞澄はさういふ丹念な人だつたといふことゝ、今一つは記事の内容には些しの變更を見ないといふことを、當然の話のやうだが保障して置きたいと思ふ。

　

一、「菴の春秋」の發見を述べた序に、所謂釜井菴のことを一通り書いて置きたい。釜井とは城山麓の構への地であることは、土地の人たちも知つて居たのだが、呼び名になづんでもう百年餘りも前から、斯んなをかしな文字を用ゐて居る。現在は村の管理に歸し、時々の集會用に使はれて居るが、以前は手習師匠が住み又は道心者を置いたこともあり、その又一つ前には高野山の�ｺ善院の控へ地で使僧が來て泊り、元禄三年の檢地までは除地であつた。構造から見ても佛教用だつたことはよくわかるが、それは廢墟を利用したもので、背後に聳えた山が我々の謂ふ白米城傳説、(412)即ち白米を以て馬の脚を洗つて、水攻めは無用と寄手の眼を欺いたといふ言ひ傳への地、洗馬といふ村の名の起原もこれだといふのだから、恐らくは曾て領主の邸宅のあつた地なるが故に構と稱し、それに建てられた菴だから構菴なのであらう。菅江眞澄を記念すべき遺跡は、捜せばまだそちこちに多いことゝ思ふが、その何れよりも是は古く、且つ因縁が濃やかである。「菴の春秋」を精しく讀んで見るまでは、壯齡三十歳の白井英二が、たとへ暫らくでも此菴の主であつたことを、まだ我々は想像することが出來なかつた。「伊寧乃中路」の七月七日の條には、土地の習はしに遵つて此菴の軒先に、彩紙を剪つて作つた男女の雛形を、掛け連ねた光景が寫生せられて居る。是なども此人が自ら手を下して、作り設けたものとは思はれず、別にさういふことをする人が住んで居る處へ、訪ねて行つて見且つ心を動かしたものだらうと想像して居た。實際又此頃は始終他の村へ遊びに出て、折々洗馬へは戻つて來るだけだつたから、いよ／＼この菴の人となりきつたのは、雪が降り積り冬籠りをする時になつて、里ではそろ／＼と歳の營みに、かゝづらはるやうになつてからかとも思ふ。「菴の春秋」を讀んで見ても、晝はさま／”＼の小鳥の姿を見、夜は獣の鳴き近づく聲を聽くといふやうな、獨りで居なければ出逢はれぬ山の情景が此頃から現はれ、やがて春色の盈ち溢るゝに至つて、再び外に出て童兒老女の、ほゝゑましい人事に立ちまじつて居るのである。諏訪へ往復等の僅かな日記の外、天明四年の前半は記録が無く、すぐに「來目路の橋」の出發になる。ちやうどその中間の六ヶ月足らずが、或はこの釜井菴での靜思の時期では無かつたらうか。乃ち菴と此旅人との因縁は、記録に存する以上に深かつたのではなからうか、といふやうな事が考へられるのである。ところが昭和十五年の秋になつて、又一つの發見ではないかと思ふやうな事實があつた。この釜井菴の佛壇の背後から取出して、何と無く藏つて置いた五六本の古い軸物の中に、煤けきつた一枚の畫像があつた。それを念入りに洗はせて見ると、總髪袴羽織の男の姿で、後の刀掛には長刀を横たへ、右脇には書卷を積み重ね、腕を組んで坐つて居る。畫の上には十箇ほどの賛の文字があるが、何としても其意味が讀み取れない。落款には友人澤邊允明夫摸とあるのが明らかに讀まれる。摸といふのは少し氣になるが寫生の意味(413)とも取れる。この澤邊氏は眞澄の舊知であつて、十餘年以前の第一囘の旅行の際、交を結んだ三人の松本人のうち、二人は既に歿してこの翁のみ健在であつたことが紀行に見え、是と往復した擬古體の消息文が、「筆のまゝ」の中にも殘つて居る。此老友の筆に成る肖像畫の、年は三つ五つふけて見えるが、やはり丸顔の柔和さうな人物を寫したものが、この釜井菴の中から出て來たといふことは、年頃この人の事ばかりを心に掛けて居る我々に、さてはといふ感じを抱かせずには置かない。しかし速斷はまだ中々出來ぬのである。第一に蝶題すと署名した畫の上の數文字が、まだ何としても解し得られぬのである。是は自分などの推測では、もと二枚折の屏風か何かで、片方に可兒老人か洞月和尚かの像があり、賛は兩方にかけて續いて居たので、全部で無い爲に讀めないのかとも思ふが、まだ今日まで其半分が現はれて來ない。次には當時の白井秀雄が、惜しみ慕はれつゝ此地を去つたことは先づ確かであるが、それが何ぞの折に繪像を留めるといふ、程度のものであつたかどうかは心もとない。更に今一つは此里この菴と、もつと因縁の濃かつた人が別にあつて、やはり澤邊雲夢と世を同じうして居たといふ話もある。其人の名は丹羽花逕、實名は茂廣、やはり長興寺の洞月上人に縁故があつて、洗馬に入つて來て讀書習字の師として世を終つた。其碑石も亦この附近の叢の中から、近頃になつて發見せられて居るが、秋元侯の浪人で祖父は松本の水野氏に仕へて居た人だとある。生れたのは寶暦辛未、即ち眞澄よりは三つの年上であり、文政三年に七十歳で歿して居る。釜井に寓すること大よそ四十年と、碑文には誌してあつて、それがもし事實ならば、「菴の春秋」の天明四年には、もう此邊に居たわけであるが、菅江翁の日記類には一度も名が見えぬやうである。花逕先生の薫陶によつて、洗馬に文雅の士が輩出したといふのは疑はれないが、それだけではまだこの人の壯年の畫姿がこの菴に傳はつて居た理由にはならぬやうな氣がする。大泉勝淳といふ人の書いた碑文をよく讀むと、文武を兼ね備へて人柄が温柔謹素であつたといふ點は、風采の上にもよく顯れて居るが、それは同時に又菅江氏の特徴でもあつた。この上は澤邊雲夢の傳記を調べて居る人に、果して丹羽花逕とも親交があつたかどうかを究めてもらふこと、殊に其歿年と丹羽氏が釜井菴に住み始めた年とを、明らかにする(414)必要があるのだが、それが容易に期せられぬことだとすれば、是もやはり菅江眞澄の多くの逸事と同じく、半ば雲霧の間に眺望するの他は無いのかも知れぬ。

　

(415)　　　　　遊歴文人のこと

　　　　　　　　――「わがこゝろ」活字本の奧に、昭和四年十一月――

　

　白井秀雄翁の歿後百年を記念すべく、諸君が企てられた刊行事業が縁となつて、久しく埋没して居た「菴の春秋」、「諏訪の海」其他の遺編が世に現はれたといふことは、殆と偶然とは思はれぬ程の意味の深い實驗であつた。御互ひは之に由つて、人生が少なくとも一つの顯著なる痕跡であることを知つた。さうして時過ぎてから後でも、求める者にはなほ見出されるといふことを、教へられたやうな氣がする。

　信州の多くの古人が、單にさゝやかなるその各自の生活のみならず、更に其性情と文藻との一端をさへ携へて、新たに現代の中へ遊びに來てくれたことは、血を引き縁に繋がる者の大いなる喜悦であらうと思ふ。「昔」は斯くの如くにして我々の、垣根も無い隣に住んで居るのである。白井一家の稍々普通で無かつた歴史なども、或はこの何でも無いやうな方面から、今後追々と判明して來るのではあるまいか。例へば本洗馬から出た「筆のまゝ」といふ一册の中に、淨瑠璃姫六百囘忌追善詩歌連誹序と題した、三枚ばかりの文章が綴り込んである。走筆ながら是も同一編者の手寫かと思はれるが、末には安永十年即ち二年前の日附と共に、源秀超といふ名を著して居るのである。參州牟呂吉田村植田家の藏書で見た、「東風俗」といふ一册の末の紙に、白井幾代二實名を秀規とあるのと共に、是は疑ひなく秀雄と同族の人であつて、當時私が白井英二の父又は兄であらうと言つた當て推量は、次第に成り立つて行くのではないかと思ふ。但しこの秀超と前に私が秀規と報じた人とは別人か否か、是はまだ何とも言へない。白井氏自身も亦父(416)の名は秀眞と謂つたと、秋田津輕の人たちには傳へて居り、又本姓は菅原とも話したことがあつたやうに思ふから、姓と名乘とだけではなほ心もと無い。故に先づ豐橋四周の白井一族の菩提寺にういて、俗名を白井幾代二と謂つた人の、消息を尋ねて見るべきである。

　兎に角に此旅人の生ひ立ちが、尋常一樣の農家で無かつたといふ迄は、想像して置いて差支へが無いやうである。「來目路の橋」の國仙和尚の條下には、彼の伯叔父の一人に法師のあつたことが見えて居る。十歳の昔、所謂まだ總角の頃に、既に一たび此地方に旅行して、各處の名流と文雅の交を結んで居たといふことは、確かに第二の遊歴に、足を先づ天龍川の上流に向けさせた、動機にもなつたことゝ思ふが、如何に才藝に秀で人に敬愛せられる素質を持つて居ようとも、是がもし一個青年の普通の旅であつたならば、それだけの便宜は出逢ひがしらには得られなかつた筈である。書いては無いけれども相應な同伴者、又は何通かの有力な紹介?が、手引きをして居たことは先づ疑ひが無い。それ故に更科山中の嶺の觀音堂の坊に、二夜寢たことがあるといふ「我心」の記事なども、我々に取つては意味多く考へられる。小野の祭林寺や大池の宗福寺の宗派はどうあるか知らぬが、斯うして行く先々の寺に舊知の上人を訪ねて居るといふことが、特に此旅客の以前の境涯を、少しづゝ暗示して居るやうにも見えぬことは無いのである。

　本人は却つて自ら心付かずして終つたらしいが、是が或は我邦の最も特殊なる民俗、自分の假に名づけて喝食文藝と謂はんとするものゝ、幽かな名殘では無かつたらうか。中世數百年間の驗者法師たちが、此上も無く夙慧の童兒を尊重した風習は、決して通俗に想像せられて居るやうな、卑しむべき只一つの理由からでは無かつた。義經記の平泉寺の段、又は山門寺門の昔物語にも見えて居る如く、曾て其姿を一山の花と仰ぎ、清き泉として愛護して見たのは、本來は宗教團體の繁榮の爲に、それが缺くべからざる中心の力であつた故と考へられる。西行宗祇などの旅の文人が、或少年と歌問答をして、高慢の鼻を折られたといふ類の傳説は、何れも靈山崇祠の邊にのみ遺つて居る。所謂神童の文學が他の多くの藝能と同じく、徐々に以前の信仰と袂を分ち、常の日に常の人の取囃すものとなつて後まで、なほ(417)一分の神秘を以て地方の鑑賞家を動かして居たことは、由つて來る所斯くの如くそれ遠いのであつた。江戸時代の記録を見ても、如何に世間がいつ迄も此不思議に、驚いて居たかを知ることが出來る。たとへば松平冠山侯の息女露姫八歳、死後に其手箱を開いて見ると、歌と蝶の畫と兩親侍女への遺書とがあつたといふ話、是などは當時一卷の書に刻せられ、心ある人々の感涙の種であつた。斯ういふ異常の早熟兒は、其半分以上は青春に天折して居るが、中には永く活きて後年の大家となつた例も絶無で無い。白井秀雄の時より少し後れて、遠州には石川爲藏依平といふ人があつた。五歳で人の背に負はれて居て歌を詠んだことが、たしか大田蜀山の紀行などにも見えて居る。今の佐々木信綱氏も正しく其一例であつた。彼が六歳で詠んだといふ小川町の雪の歌は、其父弘綱翁の明治開化和歌集の中に録せられて居る。

　我が民族の中には、稀に此種の神童を産する血筋又は條件といふものがあつて、古くはそれが純なる自然宗教の隆興に役だち、それに次いでは一國文藝の特殊なる傾向を、促すの因みとはなつたかと思はれる。兎に角に至つて近い頃まで、僅か形を變へてこの喝食文藝はなほ行はれて居た。幼なくして詩歌書畫を能くすといふ者があれば、其評判は忽ち弘く傳はつて、わざ／＼其一筆を求めに訪ひ來る人が多かつたのみならず、後には大抵は親や師匠に連れられて、便宜の地を巡遊する風があつたのである。さうすると地方の人々は、文藝そのものゝ内容實質より、先づこの小さな兒が歌を詠み字を書くといふ點に感歎し、殊に應酬唱和の敏捷に對しては、一種畏敬の念をさへ抱かんとしたのであつた。それが同行の長者の爲に、何等の名聞や活計で無く、言はゞ内より促されて出でて人に示すべき義務の如きものを、感じて居た場合も多かつたと思ふが、兎に角に斯ういふ尋常で無い才分を持つて生れた者は、幸ひにして長生をすれば旅をしなければならなかつた。少なくとも故郷の村に止住して、農を學んで一代を終ることは、其運命の許さゞる所であつた。其上に日本では、海の外との交通が制限せられて居た代りに、あらゆる智慮藝能は、土地耕作のたゞ一つのものを除いて、悉く國中を漂泊して居たのである。さうして異郷の住民に新しい生活技術を持ち運ん(418)だ御禮として、彼等の農産に由つて扶養せられて居たのである。

　信越奧羽の寒い國々が、特に天涯の孤客に向つて温かい隱れ家であつたことは、其過去文化の記念塔が、多くは菅江眞澄といふ類の出自未詳の士によつて建設せられ居ることゝ深い關係がある。其中でも文學は遭遇であり、又一種の啓示でさへもあつた。乃ち土着の人たちが山坂を越えて、自ら遠方に探り求むるに最も適しないものであつた。現代自治の氣風のかほどまで發育した農村でも、なほ詩歌小説などは與へられたるものを賞味し、時としては未だ來現せざる名篇に對して、豫め讃歎を用意する者すらある。以前の單調なる田園生活では、それが今一段と方式的で、又宗教性を帶びて居たといふだけである。曾て少年の日に於てこの遊歴文學の不思議な效果を實驗し、しかも一方に他の平凡なる職業の爲に、準備する時間を持たなかつた者が、もしもこの問題の白井氏であつたとすれば、たとへ成長の後特に一身上のやみがたき事情が起らずとも、彼は尚その生涯を雲水に托さなければならぬ人であつた。是を遺傳といひ環境といふべきか、はた運命と名づくべきかは私の知る所で無い。兎に角に人生の數奇には、我も人もまだ心づかざる深い原因が幾つでもあつたのである。「伊那の中路」の卷頭にも書いて居るが、諸國の古き神社を巡拜することが、旅行の主たる目的であるといふことは、行く先々でも?々人に告げて居る。早く還つて親たちに語り聽かせたいと、津輕の紀行の中には述べてある。彼の父は東三河の或御社の神職であつたといふことも、物の序には之を記して居る。それが何れの地の神社であつたかは、どうも明らかには示されて居らぬやうだが、彼の文章と性癖とからでも、それだけの事實はほゞ推察することが出來るかと思ふ。

　

(419)　　　　　正月及び鳥

　　　　　　　　――「奧の手風俗」活字本の端に、昭和五年二月――

　

　天明八年の七月十三日、盆の魂迎への夜の夜半の頃に、津輕北端の宇鐡の濱から便船して、蝦夷の島に渡つて行つた白井秀雄は、五年目の寛政四年十月七日の夕方に返つて來た。さうして今度は下北郡突角の、奧戸《おこつぺ》といふ浦に上陸した。北地の冬は既に深くして、一人の舊知の彼を待つ者も無かつたが、大畑の寶國寺の深阿上人を最初に、次々に多くの風雅の家が、喜んで彼に其爐邊の座を供し、こゝに測らずも二年半の月日を、此半島裡に送ることになつたのである。

　それがこの旅客の三十九の年から、四十二歳の春までの事であつた。其間に遺されたる日記は六種、何れも既に南部叢書の第六册に採録せられて居る。我々は白井氏の歿後百年を記念せんが爲に、特に其中の一卷を選んで、ほゞ原形を保存しようとするのであるが、實は頗る其取捨に迷ふものがあつた。季節境涯の變化によつて、六種それ／”＼の情味の掬すべきものがあると共に、唱和應酬の文字遊戯に至つては、各篇皆多少の飽滿を感ぜざるを得ないが、日録としては固より之を省くことを得ない。仍て比較的客觀の記事が多く、殊に凡人大衆の生活に觸れたる「奧の手振」を、指定することにしたのである。南部の?摺《えぶりすり》は一昨年の四月、日本青年會館の郷土舞踊大會に、中道等君の郷里の一團が出演して、多大の感興を都市の人たちに與へたのであるが、我々は偶然にもその同じ踊の百數十年前の繪と記事とが、此卷の中に在つたことを思ひ出して、愈々之を複製して見る氣になつた。文章の世に顯はれ又は埋もれて行(420)くのも機縁である。必ずしもその全部の責任を我々が擔ふにも及ぶまいと思ふ。

　しかも此一卷の推薦せらるべき理由は、獨り是ばかりでは無いのである。「奧の手振」は普通の旅の日記の持ち得ない餘裕を持つて居る。白井氏は北郡に上陸した次の年の霜月末、田名部大畑の友人等が強ひて留めるのも聽かず、一旦此地を發足して、毎日の雪嵐の中を東海の荒濱づたひに、八戸の方へ向つたのであつた。其折の難澁は「尾駁《をぶち》乃｜牧《まき》」といふ紀行に、詳しく書き載せてあるが、夏でもめつたに行く人の無い尾駁沼の北の岸、ちやうど其名の牧の故跡と稱する村まで來て、もう何としても前へは進むことが出來ず、よんどころ無く元の田名部の町へ戻つて來た。それが師走の十四日の夜のことであつた。見送られて立つた者の二度目の寄寓が、手持無沙汰なものであつたことは想像し得られる。ましてや町は既に年の暮である。そこで舊友と相談をして、菊池道幸といふ商人の家の、表の一間を間借りして住むことになつた。或は自炊の生活であつたらうかと思ふのは、年越の宵の供物を自分も露ばかり調へたといひ、又は夜深く戸を叩いた人を、氣づかずに返したといふことなどが、此卷の中にも見えて居る。春の初めのさま／”＼の作法行事の如きは、既に一囘は前年の正月に目に觸れ心に留まつたものを、もう一度見直すのであつた。それを閑人の新たなる境涯に於て、改めて書いて置かうとしたのがこの「奧の手振」である。單なる旅客の見聞録以上に、遙かに精確で又用意あるものであつたことは、大よそ疑ひが無いのである。

　其上に此書にも折々見えて居るやうに、白井氏は松前に渡つて行く以前、出羽に一年足らずと奧州に三年餘り、何人よりも熱心に土地の風習を觀察して居た。さうして折がある毎に其記憶を人に語り、又綿密に比較をして見ようとするのが、此遊歴者の誠に結構なる癖であつた。多くの地方の物識りは、書を讀んでほゞ都府の標準文化を解し、是と我郷土の生活と、若干の差異あることを知つて居る。又?々諄々として之を説くことを厭はない。しかも二つ以上の土地の中間を、繋ぐべき何物かを省みなかつた故に、永く都鄙雅俗の獨斷に旨從して、却つて身に附いて居る疑惑を、晴らすことが出來なかつたのである。獨り人間生活誌の一面のみと言はず、總ての受賣で無い學問の起りは、ど(421)この國でも皆この切れ／”＼の知識の、交換であり蓄積であり又比較であつた。土地を愛する人々が、自分で此必要に心づく迄は、至つてたわいも無い旅人の世間話などが、言はゞ唯一つの正しい好奇心の刺戟であつた。だからマンド?ルや和莊兵衛のやうな、嘘をつく積りの探險記でさへも、尚異種諸民族の比較研究が、進んで今日に至つた因縁にはなつて居る。ましてや我が白井氏の如きは、現實に見たこと聞いた事以外のものを、筆に遺すことの出來ぬ人であつた。たとへ心あつて世人を斯道に誘導したのでは無い故に、我々の學問の開祖といふことは出來ない迄も、少なくともその無意識の功績に對しては、特にこの人によつて觀察せられた邑里の住民は素より、國内同胞の自ら知らんと欲する者も、共に與に深き感謝の情を寄せなければならぬと思ふ。

　たとへばこの「奧の手振」が、新たに世に公けにせられることによつて、二つの新たなる興味は、先づ我々の間に芽を出さずには居ないであらう。今から百三十七年前の、下北半島の習俗は如是であつた。是と現在の田名部大畑大湊の正月生活と、何が變遷し又何が依然として一致して居るか、さうしてその異なり又同じき理由や如何。之を考へずに此書を讀み終る南部人は、恐らくは甚だ尠ないであらう。それと同樣に他の一方に於て、九州四國の山の村、もしくは岬の片端に古く住む部落にして、各々我土地のみの奇習異風と認め、原因を祖先の無智蒙昧に托せんとして居た者が、辛うじて此書に由つて膝を拊ち、微笑を禁じ得ぬやうな「偶合」を、發見しようとして居るのである。我々が眞澄遊覽記を刊行せんとする本意は、本當は茲に在つたのである。それには除夜の夕の幸取樺《さいとりかば》、小正月の「やら臭《くさ》」、「かせぎどり」、春田打の行事などが、見た儘の挿畫になつて殘つて居ることを、殊に珍重せざるを得ないのである。南北二千哩に亙る長い群島の慣習が、隱れて一致して居たのは是ばかりでは決して無いが、中に就ても前に列記する四種の如きは、少しづゝ名をかへ形を異にして、今以て各地新春の缺くべからざる式法となつて居る。然るにも拘らず、人は往々にして之を各自の郷里に限るものゝ如く、誇り或は恥ぢんとして居たのは、全く松の内は家に引籠つて、出でて他郷を見る折が少ないからであつた。是だけ弘く行はれ且つ互ひに知らなかつた習俗ならば、根原は(422)恐らく甚だ遠く、又説明せられねばならぬ大切な意味があつたのである。人に其疑問と想像とを抱かせるだけでも、我々の働いた甲斐はあると思つて居る。

　終りに今一つ、校訂者一箇の興味に過ぎぬものを附け加へて置きたい。「奧の手振」を讀む人は、私で無くとも必ず心づくであらうが、此日記の如く鳥類の記事の、豐富なる日記は珍しいやうである。鐵砲が横行する現代關東の郊野などと比べて、人口のまだ少ない寛政年間の奧南部に、遙かに鳥が多かつたのは怪むに足らぬが、それ以上にもなほ幾つかの理由はあつたかと思はれる。第一は此海峽に突出した二つの半島は、空を旅する者の東西南北の大道であつた。尻屋の燈臺に嵐の吹く夜などは、迷うてあの光明に引寄せられて落ちて死ぬ鳥が、數も種類も非常なものだといふことを聞いて居る。渡り鳥の故郷は北の方に多い。嶺を目標に來たり歸つたりしようとすれば、大抵は自然に白井秀雄の頭の上を、啼いて通ることになつたのかも知れぬ。しかも旅人には其聲に耳を傾ける樣な、餘裕のあつたことも亦事實である。餘裕といふ語は當らぬかとも思ふが、兎に角にどれだけ友人が多く、又款待せられて居た旅人でも、日の暮早朝の徒然といふものはあつた。それが又鳥の最もよく啼いて通る時刻でもあつたのである。盆とか正月とかの土地の人の忙がしい頃は、寄寓者の特に無聊を感ずる季節である。下北半島では其季節が、他の地方よりも更に鳥の聲の多い時であつたのではあるまいか。もしさうならば假令天性では無くとも、旅人は鳥を愛するやうにならずには居られなかつたわけである。遠く松前の果から鶴の羽をたつた一枚、故郷の舊友の家に送つて來たといふ逸話なども、始めて北の島に渡り着いた際の、彼の境遇を思ひ合せると中々哀れは深い。白井氏は秋田の問屋からの紹介?を一通、大切に携へて居たのだが、僅か三年の延期の間に政情が變つて、絶對に他國者の上陸を許さぬ樣になつて居たことを知らなかつた。それで船中に憂愁の日を送つて居るうちに、ふと詠じた一首の歌が、圖らずも藩侯の耳にとまつて、特別の取計ひを以て許されたといふのは、實は仲に立つて斡旋した人があつたのである。しかし最初の數週間はまだ是といふ友も無く、又有力者に扶助せられ、領内を見あるくほどの便宜も得られないで、獨り濱邊へ出て(423)この樣な微々たる物を、拾ひ上げて心を慰めるの他は無かつたらしいのである。その鶴の羽が三州へ到來したのが、僅か三月の後であつたことを思ひ合せて、それを幸便に托した日の孤客の心情は想像し得られる。

　「奧の手ぶり」の中の鳥の記事なども、之によつてその日その時刻の、彼の寂しさがやゝ描き出されて居る。たとへば正月二十五日の寒い夜中に、こゝは川端だから殊に冷えるなどと、話して居るうちに、梟が啼いた。それで歌を詠んだとあるが、其翌日から風を引いて寢て居る。二月の三日には恐山に登つて、案内者を頼んで少しばかりあるいて見ると、折ふし深い雪の上に日が當つて、シジフカラやテラツツキが飛んで居たのが、珍しいので又歌をよんだ。同じく十一日には多くの雁が啼きつれて、北の空へ飛んで行くのを見て、頻りに故郷のことを考へた。といふ樣な簡單な記事が、幾つとも無くこの日記の中には出て居て、それが皆誰も相手をする人の無い、徒然に堪へないやうな日ばかりであつた。白井氏の歌は大部分は作り歌で、景に對して情を吐くといふやうな眞率の吟詠に乏しいが、此一卷の「奧の手振」の中には、ゆくり無く自分等の心を動かすものがあつた。二月十五日の夜の明方近く、京都かと思ふ處の或家に行つて、久しぶりに兩親に對面した夢を見た。さうして目が覺めるともう朝であつて、軒には雀が啼き又烏も鳴いて居たと言つて居る。斯ういふ心境には式も格調も無かつたのであらうか。はた又どういふわけかは知らず、その一首の歌だけは、悠々として我々の胸に弛み入るものがある。

　　　なれもさぞ慕ふや雀むら鴉こはちゝと啼きこははゝと啼く

　

　（追記）

一、文中鶴の羽の一條は重複し、又記憶ちがひだつたので、今度書き改めた。この松前上陸の日の出來事は、梁川藩時代の松前家家臣の手録中に見えて居たのを、函館圖書館長岡田健藏氏が、見出して教へてくれられた。眞澄翁が落ち着いて北の島の視察を始められるまでに色々の苦勞があつたことは、其後の日記の中からでも窺ふことが出來る。

　

　　　　 (424)　　　　　菅江眞澄の旅

　

　　　　　　　　　　一

　

　一、現存の日記の始まるよりも前に、もうこの人は幾つかの大きな旅行をして居たことが、「筆のまに／＼」といふ隨筆の中に見えて居る。たとへば同書卷一に、「おのれ未だ童なる頃…富士見に行きしとき、歸さに甲斐が峯見んとて其國に至り、小河原の加賀美信濃守源光章翁を訪ひて、この勾玉のことを問ひしかば云而」とあり、又卷三、差出の磯の條には、馬場海藏といふ人の家に在つて、甲斐の黒駒とよんだ牧の古跡のことなどを尋ねたとある。

　一、次に同書卷四、「時知らぬ山」の條に、「おのれまだ童なるとき、人に誘はれて富士詣でしてそのかへさ、三穗浦に至りて、三ツ葉の松なんど家苞に採り、有度濱を見つゝ久能神社にぬかづき、清水浦に來て白子氏の家に泊れば、何くれとねもごろに聞えて二三日は爰に在るに云々」とあつて、大淀三千風の書を見たこと、又この白子氏の事は行脚文集卷七にも出て居ることを記して居る。

　一、第一囘の信州旅行も、總角の頃とはあるが、なほ此時よりは數年の後かと思はれる。甲州では夢山の麓を行き、又都留の郡の山路で柴櫻と土地でいふ彼岸櫻の花を見たことが、「しのゝはぐさ」といふ隨筆にも書いてあり、又「小鹿の鈴風」といふ秋田の紀行にも、こゝに二子山といふ山があつて、「箱根路行くに異ならず」とあるのだが、不思議に江戸を見たといふことが何處にも見えないやうである。たゞ寛政六年の南部の日記の中に、相模國かと思ふ處に居る夢を見たとあるから、箱根から此方も知つて居たことだけはわかる。

　一、遠州は隣國だけに、何囘か旅をしたかと思はれる。同じ「筆のまに／＼」卷一に、是も童の時、秋葉詣での序に、中(425)合村の飛神社に參つて神職渡邊氏に逢ひ、飛神と呼ばるゝ神寶の勾玉を見せてもらつたといふ外に、又式内額田郡稻前神の考證をして、遠江の眞龍、駿河の土麿などに相談したら、二人とも賛成だつたといふことも見えて居る。土麿は多分栗田土滿のことで眞澄よりは十七の兄、内山眞龍は十四歳の年上である。この二人の學者とは往來があつたと思はれるから、或はその家集などに白井秀雄の名が見えるかも知れぬ。

　一、又同じ書の卷九には、「おのれいと若かりしとき、それの年五月五日、藥獵すとて近江の膽吹山に、人に誘はれ登りしかば云々」とある。

　一、尾張に居たことも同卷六、「おのれ童の昔尾張國に至りて、名古屋の橘町といふ所の古物店に云々」、又卷四には、「おのれあげまきの昔、尾張國に在りしとき、熱田神社の神録とて見しことあり云々」ともある。

　一、京都は或夜の夢に、父母に京都かと思ふ處で對面すると見たとある外、私の氣づいた限り出て來ないが、歌は冷泉家の門人と世に傳へて居るから、多分は行つたことが有るのであらう。大阪兵庫以西には全然足跡が無く、たゞ吉野の寺々の櫻には、八重の薄紅もあるといふことを、「しのゝはぐさ」といふ書には説いて居る。

　一、日記の名の下に「秋」とあるのは秋田叢書別卷菅江眞澄集、「眞」とあるのは眞澄遊覽記刊行會本に出て居るといふことである。以下皆之に準ずる。

　

天明三（一七八三）　三〇歳　　　　委寧能中路《いなのなかみち》（秋四、眞）

　三・一五　信濃飯田に入る　舊友中根某と逢ふ

　　　一八　同處龍阪の花を見る

　　　一九　天龍川に遊ぶ

　　　二八　松川を渡りて雨中の花を見る

　四・　一　原町（下伊那郡市田村）池上氏に寓す　

　　　一五　出發　山吹村・樫原を經て七久保村（上伊那郡）の醫三石三春が家に宿す

(426)　五・五　出發　飯島・福岡・上穗《うはぼ》を經て、外島村の飯島氏に宿す

　　　　六　光久寺の棠庵上人と語る

　　　二三　外島を立つ　殿村・松島を過ぎ宮木の宿に一宿す

　　　二四　小野より鹽尻へ　桔梗が原を經て本洗馬（東筑摩郡洗馬村）に入る。長興寺の洞月上人を訪ふ　滯留

　　　二七　熊谷直堅・醫義親等と唱和す

　　　二八　醫可兒永通を訪ふ

　六・　七　岩垂の岩垂氏を訪ひ一宿す

　　　一四　三溝隆喜が家に遊ぶ

　　　二五　松本の醫師澤邊雲夢に消息す

　七・　二　淺間山爆發の音こゝに聞ゆ　八日更に烈し

　　　　九　二子村に行き某因信の家に宿す

　　　一一　本洗馬に還る

　　　一五　桔梗が原に遊ぶ

　　　一六　芦（ノ）田村鏡石見物

　　　二〇　牛伏寺參詣

　　　二五　松本に行く　鹽原村の某忠雄が家に宿す

　　　二六　百瀬村を經て本洗馬に還る

　八・　七　今井村の祠官梶原景富を訪ふ

　　　一三　本洗馬を立ち姨捨山の月を見に行く　野村・平田・松本・岡田・苅谷原を過ぎ會田の驛に宿る

(427)　　　　　　　　　　　　　　　以下一九日まで「わがこゝろ」（眞）

　八・一四　太刀峠を越え、苅尾澤・青柳を經て麻績村に憩ひ　猿が馬場を越えて中原に泊る

　　　一五　姨捨山に登る　此夜明月

　　　一六　對馬の人雛川清藏と逢ふ　稻荷山・鹽崎を經て善光寺に詣で門前の客舍に宿す

　　　一七　もとの路を還る　青柳に一泊す

　　　一八　淺間の温泉　自庵の湯に宿る

　　　一九　本洗馬歸着　紀州田邊の俳人香風（名は訓殷）を伴なひ來る

　九・　三　飛騨一宮の神官梶原家熊と逢ふ

　　　　九　常陸の人某宗淳と別る

一〇・一一　鹽尻の阿禮神社に詣る

　　　二一　三宮砂田神社の御柱祭を見に行き和田村に一泊して還る

一一・一五　芦（ノ）田村若宮八幡社に詣る

　

天明四（一七八四）　三一歳　　　　　　　　洲輪《すわ》の海

　正・一五　鹽尻峠を越えて　下諏訪へ往復す　春宮筒粥神事

　　　二一　今井村法輪寺に尊應法印を訪ひ一宿

　　　二二　松本に行く　某吉員・小松有隣の墓を弔ふ　江原村へ行く

　

　一、現存する「諏訪の海」は、或は殘缺であるかと思はれる。是も隨筆「筆のまに／＼」の卷二に、本洗馬に來た次の年の(428)三月酉の日に、諏訪祭を見物に行つたところが、折から花の眞盛りであつて、富士山の影は湖に映り、雪白々と水底まで霞むやうに見えた。其時の歌と記事は「洲輪の海」といふ一卷になつて居るとあつて、今見るものには其條が無い。さうして二月以後の日記はまだ出て來ぬのである。

　一、「菴の春秋」といふ一卷の成つたのはこの期間であつた、此書は五月節供過ぎを以て筆を止めて居る。洗馬の釜井菴に住んで居たことは、其文章からほゞ察せられる。

　

同じ年　　　　　　　　　　　　　　　　　　來目路乃橋《くめぢのはし》（秋四、眞）

　六・　晦　本洗馬を立つ　松本を經て清水村　牛楯の瀧を見る　湯の原の白絲湯に宿す

　七・　一　備中玉島圓通寺の國仙和尚に逢ふ

　　　　三　薄町の薄社に詣で祠官上條氏を訪ふ　湯の原出發　松本に行き峨月坊の家に宿す　寶榮寺の儀辨上人　定儀・吉尋・吉遇など訪ひ來る

　　　　九　淺間温泉に遊ぶ　某廣惠に逢ふ

　　　一一　倉科琴詩を訪ふ

　　　一二　松本を立つ　田澤村の里正某｜輩好《ともよし》が家に宿す

　　　一四　出發　熊村・細萱村を經て穗高神社に詣づ　池田に泊る

　　　一五　相導寺村を經て「とあり」の橋を見に行く　再び池田に還る

　　　一六　宮本を經て大町　伊藤某が家に宿す

　　　一七　女犬原の峠を越え　更級郡日名・歌道・大原・穗苅　新町に三日泊る

　　　一八　上條村の鹽入某訪ひ來る

(429)　七・二〇　新町を立ち　水内村の久米路の橋を見る　田野口に泊る

　　　二一　長谷村を經て埴科郡に入り　下戸倉村に泊る

　　　二二　坂木の阪城神社・屋代の粟狹神社等に參り　松代に泊る

　　　二三　千曲川を渡り　氷鉋《ひがの》村の善導寺に等阿上人を訪ふ　犀川を渡り　芋井の醫師山本晴愼が家に宿す

　　　二四　善光寺に詣づ

　　　二五　圓葉寺の悲�a上人を訪ふ　書家馬禅長と逢ふ

　　　二六　戸隱神社參拜　中院の勸修院を訪ひ　あたりの家に宿す

　　　二七　飯綱山の麓を過ぎ　軍陀利・揚屋・櫻を經て　越《こし》といふ處に泊る

　　　二八　再び長野に來て　山本晴愼の家に宿す

　　　二九　出發　三輪・押田・西條・田中・吉村・梶窪・平出・柏原を經て野尻の驛に泊る

　　　三〇　熊阪村を過ぎ越後に入る　赤河・岡山・片具・二本木等を經て新井に泊る

　

　一、八月初めから九月九日までに、越後を通過したことは明らかだが、其間の紀行はまだ自分は見て居らぬ。秋田縣大館町の栗盛教育財團の所藏本に、「高志栞」といふ一卷があると聞いて居る。紀行ではないかも知れぬが、是を見たならば多分通つた路筋ぐらゐは判るかと思ふ。「鄙の一曲」の民謠の中には、北蒲原郡のものが多く採集せられて居り、此郡には或は數日の滯在をしたかと思はれる。彌彦神社には必ず參拜するといふことが、信州の日記の中にも書いてあり、又柏崎のかうろぎ橋の事は、「筆のまに／＼」卷六にも説かれて居るが、此點は傳聞かも知れない。秋田では越後の地理に詳しい橘?守（由之）といふ旅の學者と會談して居り、又丸山氏の越後名寄は寫本で讀んで居るから、是等の知識には秋田に來て後に學んだものとも思はれる。たゞし岩船郡は葡萄峠には掛らずに海府通りをしたことだけはほゞ確かなやうである。根屋の鉾楯の風景を説いた條が、「雪の道奧」といふ紀行にあるから、自分にはさう考へられる。

　

(430)　　　　　　　　　　二

　

天明四年　　　　　　　　　　　　　　　　　齶田濃刈寢（秋四）

　九・一〇　出羽鼠ヶ關（山形縣西田川郡）に入る　小阪屋に宿す

　　　一一　小岩川の西光寺に天眞上人を訪ふ

　　　一五　出發　温海・五十川・小鳩（小波渡）を經て　三瀬の宿に泊る

　　　一六　中山・矢引・大谷・水澤　※［木＋勵の左］屋の良林寺に良瑞和尚を訪ひ宿す

　　　一九　出發　大山を經て鶴が岡　七日町に宿とる

　　　二〇　羽黒山參詣　三橋を經て手向村　文珠坊に宿す

　　　二一　瀬川・狩川・古杉・廻館を經て　余目に宿す

　　　二二　新堀にて最上川を渡り　酒田に入りて吹浦の關手形を乞ひ　新田目《あらだめ》に泊る

　　　二三　十日町を過ぎ　尾落伏村の永泉寺に宿す

　　　二五　吹浦・女鹿《めが》の二關を過ぎ　三崎坂を越えて小佐川に宿す

　　　二七　出發　川袋・關村を經て　鹽越（秋田縣由利郡）に泊る

　　　二九　象潟一覽

　　　三〇　飛・金浦《このうら》・海士剥《あまはぎ》を經て　本莊に至る

一〇・　朔　　梅田・宮内・玉（ノ）池等を經て　瀧澤川を渡り　前郷村に泊る

　　　　二　小菅野・山田・上條を經て　矢島に泊る　病氣

　　　　六　出發　伏見（川内村）に行き　川留めに遭ひ滯留す　大雪になる

(431)　一〇・一〇　漸く川を越えて燒山越　たむろ澤といふ家三戸ある村に宿かる

　　　一一　西馬音内（雄勝郡）に出づ　雪の爲に滯在

　　　一九　出發　杉の宮より雄物川を渡り　柳田村の草薙氏に宿を乞ふ　勸められて爰に冬籠りをする

　　　一一・中旬　湯澤に往復す

　

天明五（一七八五）　三二歳　　小野の古里（秋四）

　正・　朔　柳田村草薙氏にて年を迎ふ

　　　　四　湯澤の山田氏を訪ひ　東海林《しやうじ》某に逢ふ

　　　一〇　岩崎の石川氏を訪ひ宿す

　　　一四　湯澤に還る

　　　一七　柳田に行く

　　　一九　再び湯澤へ

　　　二五　新金谷村の高橋氏を訪ふ　湯澤長谷寺の萬明禅師に見ゆ

　　　二六　柳田村へ

　二・　三　湯澤へ

　　　　九　久保田（秋田市）の人某貞教・某宗信と逢ふ

　　　一〇　岩崎へ　三四日ありて湯澤に還る

　　　一七　柳田に行き草薙氏に宿す

　　　二二　湯澤へ

(432)　二・二九　又柳田村へ

　三・　六　岩崎の石川氏に行く　杉澤を過ぎて

　　　二四　湯澤に還る

　　　二七　金谷村に行く

　四・　三　柳田村に行く

　　　　九　湯澤の山田氏へ　久保田の人眞崎北溟と逢ふ

　　　一二　醫師榎本氏英の家を訪ひ　市立ちのさまを見る

　　　一四　小野村の小町舊蹟を訪ふ　歸路横堀にて某實諧といふ老人を訪ふ　院内に至る

　　　一五　湯澤の山田氏に還る

　　　一七　松井某の家を訪ふ

　　　一八　柳田村へ暇乞に行く

　　　二〇　貝澤を經て宮傳《みやでん》村に行き　東海林桃二の家に宿す　詩人佐々木某と逢ふ

　　　二三　宮傳を立ちて新金谷村へ

　　　二五　柳田村へ

　　　二六　高橋某に伴なひ野遊す

　　　二七　金谷へ

　　　二八　湯澤に來て榎本氏に宿す

　

　一、湯澤を出發したのは五月の初めであつたらう。是から八月初めまで、丸三箇月の日記が缺けて居る。この前既に二三(433)の秋田城下の人々と交を結び、東道の主人を得るには苦しまなかつたと思ふ。松前渡航の計畫はあつたと見えて、秋田の問屋の紹介?を持つて居たことが、松前藩士の記録に見えて居るといふ。たゞ秋田に入る前、横手大曲その他の土地を、どうして通つたかゞ明らかでないのである。十七年後に再び羽後に入つて來てからも、最初のうちは主として北部を巡り、南部の人々とは交遊が少なかつたらしく、其間に歳月が過ぎて舊い知人は居なくなつて居たものか、再會の記事は殆と見られない。

　

同じ年　　　　　　　　　　　　楚堵賀濱風《そとがはまかぜ》（秋五）

　八・　三　陸奧の境　木蓮子坂を越え津輕に入る　關屋・大間越を經て黒崎に泊る（青森縣西津輕部岩崎村）

　　　　四　的神・房田・濱中・岩崎・中山を過ぎ　深浦の湊に泊る

　　　　五　廣戸・追良瀬を經て驫木《とゞろき》に泊る

　　　　六　風合瀬《かざうせ》・田野澤・金井が澤・關・柳田・櫻澤を過ぎ　赤石川の岸の牛島といふ處　大雨に水出でて川渡り難く　こゝの小屋に泊る

　　　　七　金井が澤に引返して　小野某の家に宿す

　　　　八　再び牛島に至り赤石川を徒渉す　赤石を經て鰺ヶ澤の湊に泊る　病の爲に滯留す

　　　一〇　卯之木・床前・森田・山田・相野・木造を經て　五所河原（北津輕郡）

　　　一一　菖蒲川・大相・小幡・板柳を過ぎ　藤崎（南津輕郡）の眞蓮寺に宿を乞ふ

　　　一二　大久保・撫牛《なでうし》・堅田・和�ｺを經て弘前に入る　諏訪行宅の家を訪ひ宿す　神職山邊行�ｺと逢ふ

　　　一三　間山祐眞・笹森建福等と唱和す

　　　一四　土淵川を渡り　高屋繁樹が家を訪ひ宿る

(434)　八・一五　某｜行�ｺ《まさのり》の家に宿し　中秋の月を見る　　　　一六　猿賀村の御社に詣で　黒石に至り　齋藤行索の家に宿る

　　　一七　出發　野添・十川・三島・高館・竹鼻・本郷・吉内・中野等を經て　浪岡に泊る

　　　一八　�ｺ才子・杉ノ澤等の村々を過ぎ　津輕坂を越え　池川・新城・岡町（東津輕郡）を經て青森に入る　烏頭《うとう》の宮に詣でて蝦夷渡海の日を卜す　三年を待てと示さる。

　　　一九　出發　途に地遁げの群衆に逢ひて引返し　再び浪岡の前夜の宿に泊る

　　　二〇　前路を過ぎて　尾上・小和杜・柏木町・吹上より　藥師堂（南津輕郡石川町）に至り宿す

　　　二一　乳井《にゆうゐ》・鯖石を經て大路に出で　大鰐・藏館より碇が關

　　　二二　村長に關手形をもらひ　矢立峠を越え　秋田領に入る　陣場・關屋を過ぎ長走（北秋田郡矢立村）に宿る

　　　二三　白澤・釋迦内より大館を經て　米白川　火災直後の扇田の町に泊る

　　　二四　雨中出發　大瀧を經て十二所の關を越え　澤尻といふ山中の村に宿す　雨の爲に滯留す　こゝは奧州（鹿角郡）との境

　　　二六　鹿角郡に入る　川に渡舟を得ず　新田《しんでん》といふ村に泊る

　

同じ年　　　　　　　　　　　　けふのせばのゝ（秋二）

　八・二七　古川村に錦木塚の故事を訊ね　花輪を過ぎて　大里の作山某が家に宿す　病の爲に滯在す　村長菊池某訪ひ來る

　九・　朔　大�ｺ寺の僧惠音を訪ふ

(435)　　九・二　出發　小豆澤の大日堂に詣で　湯瀬の湯に浴し一宿す

　　　　三　齋田・兄畑・佐比内を經て　折壁の關所を過ぎ　田山の吉澤某の家に泊る

　　　　四　苗代澤から梨木峠　曲田《まかた》村に泊る（二戸郡）

　　　　五　保登澤・石神・中齋・駒が嶽　淨法寺村の福藏寺に活龍上人と語る　更に石淵・岡本を經て桂清水の觀音を拜し　金葛村に宿を借る

　　　　六　筑館・十日市・中澤・一戸　末の松山浪打峠を見に行く　一戸より栖穴　白子坂などを經て　小澤の樵夫の家に宿す

　　　　七　高屋敷・笹目子・小繋・日行を經て中山宿　府金・かいらぎ・沼宮内《ぬまぐない》に泊る（岩手郡）

　　　　八　卷堀の金精神・澁民を過ぎ　盛岡に入る　北上川の邊に宿かる

　　　　九　十日市町・郡山・日詰・櫻町　石鳥谷に一泊（紫波郡）

　　　一〇　八幡・宮部《みやのめ》　花卷の醫伊藤修の家に宿す　檍正唯・岩波良清といふ二人の遊歴文人と逢ふ（稗貫郡）

　　　一七　夜花卷大火　伊藤が家も燒けたり　假小屋の内に數日を送る　村谷守中綿衣を贈る

　　　二七　出發　扇堀まで人々送り來る　十二町目を過ぎ和賀郡に入る　成田・岩谷堂・二子黒澤尻の昆《こん》某の家に宿す

一〇・　朔　出發　北上川を渡り橘（立花）村・門岡村　江刺郡に入り片岡といふ處に宿かる

　

　一、是から後の丸一年間の日記が缺けて居る。或はこの間に仙臺方面の旅行をしたかとも想像せられるが、自分はなほ眞野萱原の薄の穗の包紙の文字などによつて、それはもう一年後の天明七年秋のことだらうと思つて居る。恐らくはやはり花卷一（ノ）關の間を行き巡つて居て、次々に出て來るやうな多くの知友を作つたもので、六日入鈴木家などの日記類をよく調べ(436)たならば、其證據が出て來ようかと思ふ。

　一、「南六」とあるのは南部叢書卷六に載録せられて居ることを示す。以下同じ。

　

　　　　　　　　　　三

　

天明六（一七八六）　三三歳　　雪乃膽澤邊《ゆきのいざはべ》（秋五、南六）

一〇・　朔　奧州山（ノ）目村（岩手縣西磐井郡）の大槻氏に在り　主人は大槻清雄　一家嘗和歌を能くす

　　　二〇　衣川（膽澤郡）に行く　前澤に宿す　主は某｜盛方《もりまさ》

　　　二二　�ｺ岡の村上良知が家に行き宿す

　　　二三　水澤を經て八幡村　畑中某が家に宿す

　　　二四　水澤に出で　某信包を訪ふ　夕になりて某良道が家に宿す

　　　二五　前澤の盛方が家に宿る

　　　二六　同じ地の某正保が家に行く

　　　二七　衣川村を經て山（ノ）目に還る

　　　二八　中尊寺參詣　秀衡六百囘忌展

　　　三〇　前澤に行く

閏一〇・　朔　同處某高尚が家に宿す

　　　　三　六日入（白山村）の鈴木常雄が家に行く　滯在

一一・　朔　冬至

　　　　三　山居に行き蜂屋氏を訪ふ　更に姉體《あねたい》村の安彦中和の家に行き宿す

(437)一一・七　中野（眞城村）の某氏に宿す

　　　　八　大雪　姉體村の佐々木氏に行き滯留す

　　　一四　蜂屋氏に行く

　　　一五　姉體に歸る

　

　一、この日記には序文が無く年次が知れないが、この十二月が秀衡の六百年忌に當るといひ、又十月に閏が有つたことによつて、天明六年たることは明らかである。水澤・前澤を中心とした生活だつたので、「雪の膽澤邊」といふ書名は設けたのであらうが、この後又再び磐井郡へ戻つて居る。さうして四月ほど日記が缺けて居る。

　

天明七（一七八七）　三四歳　　配志和乃若葉《はしわのわかば》（秋五、南六）

　四・　一　前月來東磐井郡大原に滯在す　芳賀長左衛門慶明が家に寓す

　　　　六　松井の瀧見物　その前日は花見

　　　　七　大原を立つ　猿澤村の觀福寺に立寄り　田河津の某爲信が家に至る

　　　　八　黒石（江刺郡）の正法寺に詣で　川を渡りて六日入の鈴木氏へ

　　　　九　前澤の靈桃寺より　衣川村を經て中尊寺　猿樂あり　平泉村の民家に宿す

　　　一〇　五串の瀧を見に行く　山（ノ）目の大槻氏に宿す　滯留

　　　一三　六日入の鈴木氏に行く

　　　一四　水澤に行き鹽竈社の花を見る　大林寺の曇華上人を訪れ宿す　滯在

　　　一八　附近の村の古風の婚姻式を見に行く　水澤に還り　某祥尚が家に宿す　滯在

(438)　四・一九　小幡爲香訪ひ來る

　　　二三　鹽竈の社司佐々木繁智の家に行く　水澤を立ちて�ｺ岡の村上氏に至り滯留す

　五・　二　出發　前澤の靈桃寺に宿す

　　　　六　那須資福の家の牡丹を見る

　　　　七　某良友の家に宿す

　　　　九　送別の歌會を終りて六日入に行き　川を渡りて黒石の某行道の家に宿す

　　　一一　六日入の鈴木氏に宿す　滯在

　　　一八　前澤の杉（ノ）目眞門が家に至る

　　　一九　六日入に還る　梅雨連日

　　　二九　麻生の千葉道利に招かれて行く　再び六日入に還る

　六・　五　隣村の杉（ノ）目眞種の家に招かれ一泊

　　　　七　六日入出發　姉體の安彦中和の家に行き滯在す

　　　一四　出發　黒石の正法寺に詣で　田河津に至り一宿す

　　　一五　猿澤村の中津山忠の家に行き宿る

　　　一六　大原の芳賀氏に至り滯留す

　　　二五　室根山に遊ぶ

　　　二七　小林村良善院の清隆法師を訪ひて　又大原にかへる

　

　一、この日記の序文には、天明八年戊申六月二十九日菅江眞澄とあるが、是は老後整理の際の誤記と思はれる。天明八年(439)は松前渡航の年で、その六月中旬には既に膽澤を發足し、二十九日はちやうど盛岡を立つて居るからである。尤も是を天明六年の春の日記と見ることにも、まだ明確な反證は無いのだが、編中の人も家も多くは舊知で、新たに交を結んだといふのが少ないから七年であらう。

　一、卷末六月晦日には再び東磐井郡に引返して來て居る。多分この足で本吉牡鹿の方へ向つたので、松島遊覽はこの年の名月の頃だつたかと思はれる。歌は傳はつて居るが日記はまだ出現しない。「月の松島」といふ一著があつたといふのも噂ばかりである。

　

天明八（一七八八）　三五歳　　霞む駒形（秋五、南六）

　正・　朔　膽澤郡�ｺ岡の村上氏に在りて年を迎ふ　主人名は良知　弟は良道　又某道遠といふ者あり　共に歌をよむ

　　　一一　田河津《たかうづ》（東磐井郡）の爲信より音信あり

　　　二〇　平泉（西磐井郡）常行堂の摩多羅神祭を見に行く　千葉某の家に宿す

　　　二六　達谷村の山王窟を見に行く

　二・　七　千葉氏を辭して�ｺ岡に還る　途次前澤の靈桃寺を訪ふ

　　　二二　六日入の鈴木常雄が家に行く

　　　二四　�ｺ岡の村上氏に還る　月末まで爰に在り

　

同じ年　　　　　　　　　　　　岩手の山（秋五、南六）

　六・一五　前澤を立つ　送別の歌を贈る者　靈桃寺文英上人・安平廣影・高橋久武など　先づ六日入の鈴木氏に行(440)く

　六・一八　水澤に行き　鹽竈社の佐々木氏に宿す

　　　二〇　大林寺に宿す　曇華上人は同郷といふ

　　　二一　畑中某が家に宿す

　　　二二　北上川を渡り　岩谷堂（江刺郡）の大和田氏を訪ふ　前澤の福地某と爰に逢ふ

　　　二四　出發　倉澤・三照・下門岡を經て?木《はのき》村の村長及川胤修が家に宿す

　　　二六　こゝを立ち　南部領黒岩より川を渡り　二子を經て花卷に入り　舊知伊藤氏が家に宿す

　　　二七　晴山・宮の目を過ぎ　石鳥谷に泊る

　　　二八　郡山より盛岡　檢斷の宿に泊る　大阪生れの旅藝人鬼吉と道連れになる

澁民に泊る

　　　二九　卷堀・芋田・川口　巡檢使を迎ふとて道路修理す　是れ古河古松軒の參加せし一行なり　沼宮内・かいらげ・府金を過ぎ　御堂村の正覺院に一泊す

　七・　朔　中山・小鳥谷《こぢや》から一｜戸《のへ》（二戸郡）に泊る

　　　　二　末の松山・福岡・金田一・小野・川口・釜の澤を過ぎ　三｜戸《のへ》（青森縣三戸郡）に泊る

　　　　三　淺水・五戸を經て相阪に泊る

　　　　四　三本木｜平《だい》・七戸　坪村の千曳明神に詣づ

　　　　五　清水目《しづのめ》・久田《くんだ》を經て野邊地に至る

　

　一、「千引の石」といふ著書があるといふことが、後年の「淤遇濃冬隱」の中に見えて居る。千曳村を通つたのは、この七月五日の日だけだから、それは紀行では無くたゞ吟詠などを録したものであらう。

　

(441)同じ年　　　　　　　　　　　率土が濱づたひ（秋五）

　七・　六　馬門の關を越えて津輕領に入る　狩場澤・口廣・清水川《しづかは》　小湊にて關手形を取り土屋浦の關に其手形を檢めらる槲木坂を降りて淺蟲の湯に泊る

　　　　七　とうまへの掛橋見物　野内・茶屋町・青森も過ぎて　大濱（東津輕郡・油川）に泊る　雨風の爲に滯在す

　　　　九　十三森・田澤・夏井田・瀬戸子《せとし》・蓬田《よごみだ》・蟹田を經て　野田に泊る

　　　一〇　根岸・平館・宇田・奧平部・母衣月《ほろつき》・今別を經て　松が崎に泊る

　　　一一　早朝に三厩の浦に着く　算用師・竈の澤などを過ぎ　上宇鐵に行きて渡海の便船を求む

　　　一三　この夜便船ありて乘る　追手強く吹き　翌朝未明に松前の湊に到着す

　

　　　　　　　　　　四

　

寛政元（一七八九）　三六歳　　蝦夷喧辭辯《えみしのさへぎ》二卷（秋五）

　四・一九　福山に在り　明日巡歴の旅に出んとして　エケブの下國季豐の家に送別の會あり　松前家の文子の方より消息あり

　　　二〇　出立　同行者僧超山　出羽村山郡の人　ネブタを過ぎサツマエ村の村長太郎左衛門の家に憩ふ　赤神・雨垂・石浦の館・きよべを經て　エラマチの喜兵衛が家に一泊

　　　二一　泉龍院の文龍上人　チイサコの浦まで同行す　おこしべ・深澤・原口を經て　チイサコの浦の織田善四郎が家に宿る

(442)　四・二二　蝦夷の父子を案内にして　白毫石・石崎・羽根差・潮吹・岐乃古村を過ぎ　上國《かみのくに》（勝山）の上國寺に松逕上人を訪ひて宿す

　　　二五　午後出發　メナを經て江差に入る　滯留　法華寺の日正上人を訪ふ　甲州の人

　　　二六　江差の町を見物す　正覺院の諦觀和尚を訪ひ宿す

　　　二八　便船ありて乘る　葦寒・乙部・水屋・蚊柱　相沼の浦に假泊す　漁家に宿を借る

　　　二九　早朝に再び乘船　熊石・イナオ崎の前を過ぐ　この崎から蝦夷地なり　クドフの運上屋に宿す

　　　三〇　太田まで便船　太田上陸　海岸を見めぐり又山に登り　太田の運上屋に還る

　五・　一　帆越ごえをして歸途に着く　相泊より字多づたひに　小宇多・アトロシを經て　クドフの運上屋に來て泊る

　　　　三　クドフを立ち　ひかた泊・湯の尻　レンガイウダ・小川尻　ウシジリにて蝦夷の長と語る　ヒラダナイの小家に泊る

　　　　四　山奧のウシジリの温泉に入り　湯小屋に泊る

　　　　五　再びヒラダナイに還りて泊る

　　　　七　超山法師と分れて　海沿ひの路を還る　二人の修行者と道連れになる　熊石に着き　寺島某が家に宿す

　　　　八　門昌菴に實山上人を訪ふ　常陸多賀郡の人なり

　　　　九　雨中に熊石を立つ　辛うじてケニウチに着きて　杉村某が納屋に宿を借る

　　　一一　出發　泊川・相沼のあたりまで來て喚び返さる　雨に川々溢れたれば滯留す

　　　一七　風を引きて寢る　更に二十三日まで　このケニウチに止まる

　　　二四　曉に便船ありて乘り　蚊柱の浦に上陸して濱をあるく　水屋の浦の阿部七郎兵衛が家に入りて此日は寢(443)る

　五・二五　小舟を雇ひてトツフの濱、コモナイに上陸して泊る

　　　二六　タテ・會泊を經て　乙部の津鼻といふ處に泊る

　　　二八　五輪澤を過ぎ　妻の湯に二宿す

　六・　朔　こゝを立ちアシサブ河を渡り　伏木野・泊を經て江差に着く　正覺院に宿す　再び超山に會ふ

　　　　四　法華寺に移る

　　　　六　江差出發　五勝手・メナ（北村）を過ぎ　上國の上國寺に入る

　　　二〇　上國を立ち　安在の濱よりキノコ浦に來て泊る

　　　二一　舟にて爰を出づ　海荒れたれば名も知らぬ濱に上り　馬方に扶けられて、チイサコの浦に來て宿す

　　　二三　山路を越えて原口の浦に　藤左衝門といふ者の家に泊る

　　　二四　又山を超えてエラマチに至る　神山の寺澤某　御鷹取りに來たると同宿す

　　　二五　泉龍院に招かれて宿す

　　　二八　エラマチ出發　病起りてサツマイに二泊す

　　　三〇　漸く福山に還る　エケフの下國氏の家に入る

　

　一、この日記を寛政二年のものと思つて居たが、六月六日の條、江差と上（ノ）國との間に於て、國後蝦夷の叛亂を報ずる早馬の使に逢うた記事がある上は、寛政元年にちがひないと、高倉新一郎氏は考證せられた。それが正しいと思ふので前説を訂正する。高倉氏の詳しい研究は、秋田北盟寮香蘭會の會誌、「香蘭」第五號（昭和一二・六）に載せられて、菅江眞澄と北海道との關係はよほど明らかになつた。松風夷談といふ書物にもこの人の事が出て居るといふが、殘念ながらまだ讀んで見(444)る折が無い。

　一、蝦夷喧辭辯は「えみしのさへぎ」と訓むので、國字で題せられた同名の書に續き、上下二卷をなすものと思はれるが、今までの書目には往々別書として取扱はれて居る。次に掲げる智誌磨濃膽岨も、やはり「ちしまのいそ」と上下一續きの日記であることを、心付かずに居る人があつたやうである。

　

同じ年　　　　　　　　　　　　昆布苅《ひろめかり》（秋五）

一〇・　三　某地の運上屋を朝立ちて　海岸を行く　辨財間・川尻・齋藤間・水無し・しづかうた・よもぎない・セタライを過ぎ山中の路を越ゆ　運荷川を渡り　石崎に至る

　　　一八　病の爲に滯在

　　　一九　石崎から錢神澤　蛯子氏に止まる　其後龜田・有川・函館に遊びて日を經たり

一一・一四　雪中に函館を立つ　七重濱を經て　ペケレベツに至り宿す

　　　一五　モンベツ・トッフベツを過ぎ　三石に泊る

　　　一六　キコウナイを經て　シリウチ村に泊る

　　　一七　路踏みを案内にして　雪の山路を越ゆ　湯の平の湯小屋に下りて一宿

　　　一八　再び雪深き峠を越え　暮に福山に着く

　

　一、この日記はもと上下二卷で、上卷が散迭したものであらう。「ひろめの具」といふ寫生圖集は別卷になつて傳はつて居るが、それとこの「昆布苅」の卷末の繪とは、殆と全部が同じものだといふから、乃ち文章を省き去つた一異本である。

　一、寛政二年の全部は日記が書かれなかつたか、又はまだ出て來ないことになる。同三年も次の「蝦夷の手振」を寛政四年とする高倉君などの説に從へば、もう他には一つも記録が殘つて居ないわけである。

　

(445)寛政三（一七九一）　三八歳　蝦夷の手振（秋四）

　五・二四　東場所一見の旅に上る　送別の歌を贈る者　文子の方・下國季豐・稻荷の神主佐々木一貫　荒町の宿を出で　エケフの濱より船に乘る　白神崎風波荒く　午時荒谷村に船を寄せて　河森傳次郎の家に宿す

　　　二五　船出でざれば陸路山を越えて　宮の澤・茶屋峠　レヒケの浦の長齋藤吉兵衛が家に宿す

　　　二六　昆布採舟に便乘して　白府・福島の沖を過ぎ　山背泊・矢越山・小田西《こたにし》より　ウスンゲツ（函館）などを經て　ヤケマキの浦に船を繋ぎ　村人の家に泊る

　　　二七　同じ舟にて小安・釜屋・汐屋岬　トユヰの浦にて蝦夷舟に乘りかへ　ネタナイといふ處に泊る

　　　二八　蝦夷舟にて海を漕がせ　トドホッケを經てヲサッペに着き　運上屋に宿す

　　　二九　同じ舟に乘り　カックミ・イタンギ　ウシジリの運上屋にて舟をかへ　ビルマ泊・ウムシヤ泊を經てトコロまで　又ザルイシ・シュシュベツ・シリカベツ（鹿部）まで

　　　三〇　陸路　出來間より山に入り　相泊　サハラに泊る

　六・　朔　懸り間を過ぎて　オシラナイに一宿

　　　　二　鳥井が崎・石河原を經て　モナシベよりヲトシベ迄蝦夷舟　ノタオヰを過ぎ　モノダヰに泊る

　　　　三　フルシベコタンより蝦夷舟　ヤムヲコシナイまで　ユウラップ其他幾つかの川を渡り　シラリカのウセッペといふ蝦夷の家に宿す

　　　　四　ホロナイ・ムクンスヰ　ヲシャマンベにて青山｜芝備《しげよし》が假屋に宿す

　　　　七　舟にてこゝを立つ　ケボロオヰ・リブンゲップ・ヘンペ・フウレナヰの前を漕ぎ虻田の運上屋に至る

　　　一〇　二人のアイノに案内させて有珠岳を登る　山頂より路をかへてウショロに下り日暮に虻田に還る

(446)　六・一一　蝦夷の鶴の舞といふのを見る　雨降る

　

　一、この紀行が寛政三年のものといふ積極的な證據は無い。二年又は四年のものと見ても、日次は抵觸はしない。たゞ此際はもう松前の城下に住み馴れて、交友も多くなつて居るところから、この年の事ではなかつたかと想像するだけである。四年ではなからう。

　

寛政四（一七九二）　三九歳　　千島の磯二卷（秋五）

　正・　朔　福山の城下　こたて坂の天神社の傍の寓居にて年を迎ふ

　　　　七　赤石吉滿を訪ふ　氏家俊子の家に歌會あり

　二・　朔　泊川の海邊の家に宿す

　　　　三　僧即心の五百羅漢中供養あり　俗名高橋長介　出羽村山郡宮崎の人

　　　　五　隱了禅師の京に上るを送る

　　　二四　すま子の館に行く

閏二・　七　信祖英（雄？）東磯の荒谷にて示寂

　　　　八　磯館の賤子が伊勢に行くを贈る　故郷の三河に書?を托す

　　　一四　野遊　北川時房　孫せん子を伴なひ參加

　　　一六　下岡季盈を訪ふ

　三・　朔　北川菅子訪れ來る

　　　　五　吉田一元三周忌に歌よむ

(447)　三・一二　北川すが子紅梅の枝を贈り來る

　　　一八　小林某が家の花を見る

　　　二一　青山さち子の家に行く

　　　二二　新井田某を訪ふ　氏家千枝子に歌を贈る

　　　二五　およべ村に遊び　李の花を見る

　四・　四　神職某敬武訪ひ來る

　　　一九　人を送りて荒谷まで　祖雄和尚の墓に詣づ

　　　二二　白鳥義武が家を訪ふ

　五・一一　松前則忠が家を訪ふ

　　　一四　某保壽の家に行く

　　　一七　雨中西館に行く

　

　一、この日記の後、「千島の名殘」と題した日記のあつたことが、「牧の冬枯」の序文に見えて居るが、まだ發見せられて居ない。幸ひにそれが出て來たら、「蝦夷乃手布利」の此年のものでないことがわかるかもしれぬ。

　

　　　　　　　　　　五

　

寛政四年　　　　　　　　　　　牧の冬枯（秋五）

一〇・　朔　福山に在り

　　　　五　初雪

(448)一〇・　七　福山出發　泊川の岸より船に乘る　佐々木信英送別の句　土田直躬は歌　海上平らかに船は奧戸《おこつぺ》（下北郡）に着く　小谷某が家に宿す

　　　　八　磯づたひに赤石・材木・原田を經て　佐井に行く　奧戸に返る

　　　一〇　中山越をして大間・釜屋・易國間《いこんくま》・下風呂・赤川・木野邊　大畑に着き　堺某が家に宿る　滯在

　　　一二　寶國寺に深阿上人を訪ふ

　　　一三　池田包幸歌を贈る

　　　一五　池田道賢と會して歌をよむ　又某慶政・邦政等と唱和す

　　　二二　里正村林鬼工（時明）消息す　大畑を立ち　小目名・正津川《しやうづがは》・川代・關根・椛山・女館を過ぎて　田名部に入り　新相《にひあひ》某といふ旅舍に宿す

　　　二三　川島恆方を訪ふ　中島｜公世《きんつぐ》（富右衛門）に逢ふ

　　　三〇　雪路を恐山に登り　山上の寺に宿す

一一・　朔　處々の地獄を見巡り　田名部に還る

　　　　二　菊池成章消息

　　　　五　常念寺の巖益上人を訪ふ

　　　　六　山本保列消息

　　　　八　醫師吉田懷眞を訪ふ

　　　一〇　圓通寺の冠古上人を訪ふ

　　　一三　秋濱武憲消息

　　　一九　吉田晴美を訪ふ

(449)一一・二一　松前より音信あり　綿入を贈り來る

　　　二五　菊池清茂消息

一二・　三　智愚庵の實元上人を訪ふ

　　　　五　�ｺ元寺の寂隆上人を訪ふ

　　　一三　大畑に行き　田中直躬が父の家に宿す

　　　一九　田名部に還らんとして　風雪の爲に　途中正津川のあたりの民家に宿す

　　　二〇　雪を犯して田名部に歸着す

　　　三〇　此地にて年を越す

　

寛政五（一七九三）　四〇歳　　奧の浦々（秋五）

　四・　朔　佐井の湊を發して　舟にて下北半島の西海岸を巡遊す　山々の櫻花盛り也　牛瀧に上陸して　浦の長坂井某の家に宿す　佐井の醫師三上温に逢ふ

　　　　四　歸路福浦に上陸して山を越え　長濱・長後を過ぎ佐井に着す　澁田氏の家に宿す

　　　　六　發信寺に珠阿上人を訪ふ

　　　一六　佐井を辭して　陸路再び西海岸を行く　長後に泊る

　　　一七　長濱より山を越えて福浦へ　途中に猿多し

　　　一八　福浦を立ち　山を越えて牛瀧に至り　坂井氏に宿す　病あり滯留

　　　二七　牛瀧より舟にて大荒川の口へ　其流れに沿ひて山に入り　源藤次郎といふ山村　潟貝・瀧山の二村を經て　黄昏に脇野澤に着き　村長の家に泊る

(450)　四・二八　滯在　脇澤庵の僧大仙を訪ふ　相州足柄の人といふ

　　　二九　九艘泊に行き　再び脇野澤に還る

　五・　朔　出發　小澤・蠣崎・宿野邊を過ぎて　河内に泊る

　　　　二　田野澤・戸澤などを經て城が澤

　　　　三　宇多・河森・金谷を經て　田名部に還る

　　　二五　再び恐山に登る　山上の菩提寺に宿す　川島某に逢ふ

　　　二七　田名部に還る

　六・　二　又恐山に登る　優婆堂に宿し　温泉に浴す

　　　二四　田名部に還る

　

同じ年　　　　　　　　　　　　牧の朝露（秋六）

　七・　朔　田名部を立ちて大畑　田中氏に宿す

　　　　八　再び田名部へ

　　　一〇　赤阪野に遊ぶ

　　　一一　大畑に行く

　　　一三　大澤に行き　某龜丸が家に宿す

　　　一六　大畑に還る

　　　一七　明日の祭禮を見に　田名部に行く

　　　二三　大畑に還る

(451)　七・二六　羽色山の冠岩を見に行く

　　　二八　大澤に行きて滯在す

　八・　二　下風呂の温泉に行き二泊

　　　　三　易國間《いこんくま》の中井｜業陳《なりのぶ》が家を訪ひ滯留す

　九・一五　爰を立ちて桑畑の浦に行き　祭禮見物

　　　一六　下風呂の湯に宿す

　　　一九　黒森嶽に登りて紅葉を見　大澤に下りて宿す

　　　二三　大畑の田中氏に還る

　

同じ年　　　　　　　　　　　　尾駁乃牧《をぶちのまき》（秋六）

一〇・　朔　なほ大畑に在り

　　　　八　初雪

　　　一一　心光寺の老僧音柳上人に見ゆ

　　　二一　大畑出發　田名部の新相旅館に宿す

　　　二七　山本世獻が家に會す

一一・一四　村木某が家に會す

　　　一九　送別の詩歌を贈る人々　菊池教政・同清茂・�ｺ玄寺の僧寂秀・醫師吉田懷貞・河島尚方など

　　　二七　田名部出發　石神・田屋・青平を過ぎ砂子股の小家に宿す

　　　二八　大雪の爲に滯在す

　

(454)　一、下北半島での日記は、まだこの外に「牧の夏草」といふのがあつた。又「蝦夷が岩屋」といふのも、此土地で書いたものと思はれるが、二つともまだ我々の目には觸れない。

　

　　　　　　　　　　六

　

寛政七（一七九五）　四二歳　　「津輕の奧」の一（秋六）

　三・二二　南部津輕二領の堺　馬門と狩場澤の二つの關を越え　小湊に至る　問丸宮島某が家に宿す

　　　二三　雷電社を拜し　椿崎に行かんとして田澤の浦に至る　雨の爲に村長が家に三泊す

　　　二六　椿崎見物　浦田といふ處の民家に宿借る

　　　二七　板橋といふ山村を過ぎ大路に出で　虻塚を經て　飛石の浦にとまる　三十日まで滯在

　

　一、「津輕の奧」は後人の假に付した題名で、短い日記四種を合綴して一卷としたものである。その最初の一篇は外南部を辭し去つて、津輕領に足を踏入れた際のものと思はれ、第三編の寛政八年正月の記事に先だつて居るから、同七年の春の筆と見てよい。其次の一篇も、久しぶりに津輕の平野を横ぎつて弘前に入り、多くの新しい人に逢つて居る日記だから、同じく七年のものであらう。

　

同じ年　　　　　　　　　　　　同上の二

一〇・一五　青森を出發　弘前に向ふ　濱田・萢役《やちやく》・荒川・高田を過ぎ　まみの坂を越え小館（中野）村長が家に宿す　雨雲の爲に滯在

　　　一九　入内（田山）に至り宿かる

(455)一〇・二〇　黄金山神社に登らんとして雪の爲に果さず　泉澤・高陣場を經て　王餘魚澤《かれひざは》に出て終に泊る

　　　二一　強清水《こはしみづ》を經て　辛うじて下王餘魚澤に出て宿を求む

　　　二二　浪岡の八幡に詣で　女鹿澤に至り　福士某の家に宿す

　　　二三　水木村に毛内｜茂肅《しげとし》を訪ふ　齋藤親房に始めて逢ふ　滯留

一一・　朔　毛内氏を辭し　二雙子《にさうし》・増館を經て　竹が鼻村に舊知間山祐眞を訪ふ

　　　　二　黒石に赴かんとして　二雙子の醫師館山養泊が家に宿す

　　　　五　出發　黒石に至り　醫師高田惠民が家に宿す

　　　　八　牡丹平・花卷・豐岡・中村等を通りて　ぬる湯の古澤といふ家に宿す

　　　一〇　板留の湯を見て　黒石に還る

　　　一四　黒石出發　猿賀・和�ｺを經て　夜に入りて弘前に着　問丸前田氏に宿す

　　　一五　舊知諏訪行宅の墓を弔ひ　毛内茂幹が宿所を訪ふ

　　　一七　齋藤｜規勇《のりとし》を訪ふ　嶺松院の玄定法印に逢ふ

　　　二一　楠美則�ｺに招かる

　　　二二　津田仙庵を訪ふ

　　　二四　弘前を立ち青森に向ふ　水木の毛内氏に宿す

　　　二五　こゝを出て　女鹿澤に來て泊る

　　　二六　浪岡・�ｺ才子・大釋迦等を經て　津輕坂を越ゆ　新城まで橇に乘る　大濱に着き上林の神主澤田兼悉が家に宿る

　　　二九　青森に歸着す

　

(456)寛政八（一七九六）　四三歳　　同上の三

　正・　朔　淺蟲の湯に年を迎ふ

　　　一三　小湊に行く　二十五日まで爰に在り　大雪降る

　

　二・　朔　平内《ひらない》（東津輕郡）に在り　同上の四

　　　一二　淺蟲を經て　野内《のない》の柿崎氏に宿す

　　　一四　青森に至り　雪の爲に滯留す

　　　一九　池川に行く　澤田氏に宿す

　　　二〇　水木の毛内氏に

　　　二五　弘前に至り　毛内茂幹の宿に入る

　三・　朔　百澤村に行き　百澤寺に宿す

　　　　四　久渡寺の觀音に詣で　朝音上人に逢ひて語る　滯留

　　　　七　弘前に還る

　　　　八　弘前を立ち水木へ　滯在

　　　一五　松倉の觀音に詣でんとして雨に遭ひ　石澤より水木に引返す　途中館の越村に山崎元貞（立卜）を訪ふ

　　　二八　�ｺ下《とくげ》・新町を過ぎ黒石　二雙子村に來て泊る

　　　二九　女鹿澤に來て雨に遭ひ宿とる

　四・　朔　浪岡に至り　平野氏に宿す

(457)　四・　三　中野の西光庵を見に行く

　

同じ年　　　　　　　　　　　　「外濱奇勝」（秋六）

　六・　朔　弘前の中井白駒が家に咋夜着

　　　　三　武藏國の旅客樋口淳美（道泉）に逢ひ　其日記「外が濱」を借りて讀む

　　　　五　雨降る　遠藤直規より消息

　　　　七　水木の毛内氏に行く

　　　一一　爰を立ちて富柳・福館・樽澤・高野などを過ぎ　夕顔堰の金恆�ｺ《こんのつねのり》（玄秀）が家を訪ひて宿す　病を得て滯留す

　　　一七　出立　五林平《ごりんだい》・羽木《はのき》澤・原子・神山・平町・小田川などを經て、喜良市の村長岡田某が家に宿す

　　　一八　金木の八幡社に詣で　社司佐々木某が家に憩ふ　河倉村の村長｜三箇田《みかだ》氏の家に宿をかる　附近のしゝの瀧湯に浴す

　　　二一　八幡・深江田《ふかうだ》などを經て　中里の米家庄太郎といふ商賈の家に泊る

　　　二二　尾別・薄市・今泉を過ぎて　相内に着く　酒倍る三輪某が家に

　　　二三　安部館の舊跡を巡覽して　小泊の湊に至る

　　　二四　七つ瀧を一見し　算用師越の近くまで行きて引返し　小泊を過ぎて下衽《したまへ》といふ海端の僻村に行き三泊す　附近の風景を見てあるく

　　　二七　出發　十三《とさ》の湊まで　能登屋に宿す

　　　二九　湖岸の路を行く　富萢《とみやち》を過ぎ　正子（袴潟）に泊る

　

　

　

　　　 (458)　七・　二　車力・牛潟・平瀧を過ぎて　館岡に泊る　今いふ瓶が岡の遺物出土地なり

　　　四　出立　薦槌・吉水・長田から木造　工藤定吉が家に宿す

　　　六　山崎の醫師島田某が家に憩ひ　鰺ヶ澤に至る　杉浦氏に宿す

　　　七　出發

　七・一六　深浦の竹越里圭が家に在り　此日爰を立ちて椿崎に遊び　澤邊村を經て岩崎　菊池某の家に宿す

　　一九　濱中を經て松神村　大屋の家に宿す

　　二一　黒崎を過ぎ大間越　菊池某の家に宿す

　　二三　出發

　

　一、「外濱奇勝」も筆者の設けた書名ではないらしく、やはり數篇の日記を合せて一卷とし、其序次も前後して居るやうである。この一節は始めて深浦に入つたとあるから、次の「雪の諸瀧」より前といふことだけは明らかである。

　

同じ年　　　　　　　　　雪のもろ瀧（秋六）

一一・二三

　　　二六

　　　二七

　　　二八

　　　二九

暗門《あんもん》の瀧一覽の爲に　深浦を出發　夕赤石に着し　寺澤氏に宿す

赤石を出で　日照田・目内崎を經て　種里の臥龍軒（寺）に宿す　主僧牧山達童上人と語る

深谷・松｜代《だい》・杉が平《だい》を過ぎ　湯段の湯の長兵衛が宿に泊る

白澤・太秋《たやけ》を經て村市村

疊平・守澤　村市に引返し　檜の刳舟に乘りてやう／＼川を渡る　宮守平よりをさ橋を渡り河原平村(459)米澤長兵衛が家に宿す

　三・　朔　雪積む山路を分けて　暗門の瀧を見る　山小屋に宿借る

　　　　二　河原平を經て村市に還る

　　　　四　長面村・夏菩提村を過ぎ　櫻庭の觀音堂を拜し　國吉村の酒屋竹内氏に宿す

　　　　五　大雪　坂本・中野を經て百澤村　齋藤規房の寓居に着く

　　　　六　新法師・宮地・五大・吉田より　高屋・蒔苗《まかなへ》・獨孤を經て高杉

　　　　七　住吉・鬼澤・藤井・貝澤・十面澤より十腰内《とこしない》　鰺ヶ澤に出でて　夜路を赤石まで　寺澤氏に宿す　三泊

　　　一〇　馬にて深浦に還る

　

　一、この日記の中には、この春同じ吉澤の地を訪れたことが見えて居るから、寛政八辰の年の冬であつたことは明らかである。

　

寛政九（一七九七）　四四歳　　津輕のをち（秋六）

　正・　朔　（西津輕郡）深浦の湊にて年を迎ふ

　二・　朔　寺田貞於再び深浦に來る

　　　　三　竹越貞恭の家に會す

　　　一〇　圓覺院に行く

　四・一一　笠島行憲に逢ふ

　五・　五　輪島波丈と連句

(460)　五・　六　佐渡の醫師大久保似松に逢ふ

　　　　七　深浦を立つ　風合瀬・晴山・柳田・關村などを經て　鰺ヶ澤の湊に着く　七つ石の雀部《さゝべ》といふ酒屋に宿す

　　　一〇　出發　浮田・立石を經て十腰内

　　　一一　十面澤・藤井・高杉より中別所　車澤の瀧を見に行く　百澤に行き齋藤氏の家に宿す

　　　一四　坂本より　國吉・福村・中野を過ぎ　中畑村の村長三上氏に宿す

　　　一五　村市村に行き　去年宿りし家に泊る

　　　一六　高森・澤田・小倉・追付・まそまへ・五所などの村々を經て　如來瀬村の古碑を探る　其村に宿かる

　　　一七　鳥野・龍の口を過ぎ　岩木川を渡り弘前に入る　中井氏に宿す

　　　一八　外瀬《とのせ》の御藥園に醫師の會あり　伊藤（春益）古郡・廣瀬・山崎（永貞）などの人々參集す　小山内元貞に案内せられて行く

　　　二四　醫師北川氏の家に會す

　　　二五　和�ｺの村に間山祐眞を訪ふ

　　　二六　福田の古碑を探り　藤崎に出でて川越氏に宿す

　　　二七　附近の舊蹟を見巡りて後　水木の毛内氏に行く

　　　三〇　館の腰の山崎顯貞を訪ふ

　六・　朔　夕顔堰の今氏を訪ふ　爰にて痔を病みて寢てしまふ

　

同じ年　　　　　　　　　　錦の濱の二（秋六）

(461)　六・一六　病後　館の腰の山崎氏に至る

　　　一七　弘前へ馬で出る

　　　一八　富田村に遊び　山崎道冲を訪ふ　弘前より夜に入りて館の腰に還る

　　　一九　榊村より若松・常磐・東光寺・乳井・鯖石等の村々を經て　宿河原の寺田貞於が家を訪ふ　病起りて臥す

　　　二〇　湯の河原（大鰐）に行きて宿す

　　　二一　北山の麓をあるき　藏館に出て還る

　　　二三　阿遮羅山に採藥す　藏館の湯に移る

　　　二五　採藥行

　　　二八　同上　切明の湯に浴して還る

　　　二九　けふも山を巡る

　七・　朔　けふも山々を巡り　尾崎村に宿す

　　　　二　町井・平田森・尾上・黒石・上十川を見あるき　本郷村に宿す

　　　　三　金屎森のあたりに登り眺望す　苛澤《あいざは》の村を經て中野　醫中河某が家に宿す

　　　　四　同行者に別れて浪岡より夕顔堰　金氏に宿す

　　　　五　附近の村々をあるく

　

　　　二一　弘前に在り

　　　二二　館の腰・夕顔堰を經て　羽野木澤に行きて宿かる

(462)　七・二三　小田川《こたかは》村に泊る

　　　二四　鹿の子山採藥　金木・河倉を經て　中里の米家氏に着く

　　　二五　附近の山野を巡る

　　　二六　追別《おつべち》・高根を經て　薄市に着きて泊る

　　　二七　あたりの山を探り　夕方薄市を經て今泉に至る

　　　二八　轆轤揚といふ峠路を越えて東海岸に出る　中小國村に宿る

　　　二九　下小國より　蟹田を左に見て中師・石濱　根岸・平館・石崎の村々を過ぎ　宇田の濱に至る

　

　　　　　　　　　　七

　

寛政一〇（一七九八）　四五歳　　追柯呂能通度《つかろのつと》ノ一（秋六）

　正・　朔　平内（東津輕郡）の童子といふ村に年を迎ふ　正月の風俗を觀察して詳しい日記を作る

　　　　七　小湊に出でて　久末が家を訪ふ

　　　二〇　なほ平内に居る

　

　この一卷は殊に寫生畫が多く又面白い。眞澄の著作中でも優品の一つである。是が寛政十年の正月であることは推測に過ぎないが、九年は西津輕郡、十一年以後は南津輕郡で正月をしたかと思はれるから、多分誤りは無い。次の弘前訪問・岩木山登山の旅行は四月から始まるが、小湊・淺蟲を出發點として居るから、なほ寒い間はこの邊に留まつて居たものと察せられ、是も年次は見えぬが同じ年に繋げて置く。

　

(463)同じ年　　　　　　　「外濱奇勝」の三（秋六）

　三・中旬　小湊を立ち　淺蟲に來て入湯す

　四・上旬　淺蟲温泉出發　青森の柴田氏を訪ひ　滯在す

　　　　七　青森を立つ　中村・木村・三國などの人々送り來る　浪岡を經て水木の毛内氏へ

　　　　九　藤崎の川越氏へ

　　　一〇　弘前に着く

　　　一八　問丸遠藤直規が家に會す　松井勝文等詩歌を贈る

　　　二六　外瀬の藥園に行く　還りて北岡氏を訪ふ

　五・一〇　近き村々に遊ぶ　植田の愛宕山・細越・宮館・獨孤・石渡・筒子崎など

　　　一二　相馬の澤の奧をあるく　小倉村に宿す

　　　一三　外小倉の澤に分け入り　村市村に下りて宿る

　　　一四　さぶ澤の山路を巡行す　尾太《をぶ》銀山の廢址を見　阿葛澤《あつらざは》の荒れたる杣小屋に入りて宿す

　　　一五　砂子瀬を經て河原平に至る

　　　一六　暗門の瀧のあたりに藥狩せんと　其澤を登り　中途鬼河邊の杣の空屋に宿す

　　　一七　其瀧を見下す處まで登り　再び昨日の杣小屋に還り宿す

　　　一八　河原平まで下りて宿とる

　　　一九　村市・太秋などを過ぎ　夕方に百澤の齋藤氏に至る

　　　二〇　岩木山の麓をあるく

　　　二二　守山に登りて採集す

(464)　五・二三　岩木山登山　是も採藥の爲

　　　二四　だけの温泉に行きてとまる　雨連日

　　　二七　湯の澤の硫黄堆を見に行く

　　　二八　湯の段を經て白澤の一本杉といふ處に行きて泊る

　　　三〇　長平村を經て十腰内　神職｜長見《をさみ》某の家に宿す

　六・　二　赤倉山採藥登山　暮れて十腰内に還る

　　　　三　板柳の醫師高屋玄棟と逢ひ語る

　　　　四　出發　長平・長間瀬を經て　濱横澤の村に着く　大雨に柴橋流れたれば　此地に滯在す

　　　　七　館前といふ處にて辛くして川を渡り、種里を經て大然村に宿す

　　　　八　雨の爲に採集を妨げられ　引返して目内崎村より姨袋　氾濫によつて川を渡り得ず　大野坂を濱邊へ下る　櫻澤・柳田を過ぎ　關村に宿す

　　　　九　風合瀬を經て深浦へ　竹越氏は去年の秋燒けたれば　若狹屋といふ宿に泊る　此地に滯在す

　　　二八　深浦に近き六角澤といふ山に採集に行く

　　　二九　山し俣といふ深山に入る　獲る所多からずして還る

　七・　二　再び六角澤に入る

　　　　三　深浦出立　廣戸を經て追良瀬村

　　　　四　見立山採集　松原村を經て還る

　　　　五　追良瀬出發　雨中｜驫木《とゞろき》に着き宿す

　　　　七　升形山　ほつくらといふ澤に入りて採集す

(465)　七・　八　驫木を立ち赤石へ

　　　　九　赤石を出て　日照田を過ぎ　大然村に向ふ

　

　一、「作良かり赤葉かり」即ち櫻狩紅葉狩と題した一卷がある。前半は青森附近の村々の花を見巡つた短文に、多くの寫生畫を添へたもの、後半は弘前から黒石を經て、中野板留のあたりの紅葉を見てあるいた紀行で、是にはその楓の葉の押し型までも載せ、風流至極なものである。年は明記してないが、兩者ともに寛政十年のもので、其年の終りに一册に纏めたとすれば、日竝は合ふのである。紅葉狩の文中に、この年八月の名月は、十三湖に行つてながめたと記して居る。しかし其間の日記はまだ出現して居ないのである。津輕領での見聞記は、藩で抑留せられて、眞澄翁の歿後に秋田へ送還せられたと傳へて居るが、其割には寛政十年までは日記の空間が少ない。十一年と十二年とだけは、實際に遺篇が僅かであり、又「栖家の山」の如きは、近年粗末な複寫本が現れたゞけで、それも明らかに年次を知ることが出來ぬ。

　

寛政一一（一七九九）　四六歳　　錦の濱の一・二（秋六）

　正・　朔　（南津輕郡）藤崎の川越氏に在つて年を迎ふ　此地方の正月風俗を日記に録す

　　　　二　弘前に行く

　　　一六　春秋亭の會

　

　二・　五　空也堂の空阿上人送別

　　　一四　五所河原に行き　閑夢亭に宿す

　

　一、是は寛政十二年のものかも知れない。

　

(466)寛政一二（一八〇〇）　四七歳　栖家《すみかの山（秋六）

　四・一三　（東津輕郡）大濱の澤田氏に在り　青森より爰に來て十二所權現社を拜み櫻の盛りを賞す

　　　一四　出發　石神・三内《さんない》・安田・高田の村々　到る處花多し　館中野にとまる

　　　一五　乳内《にゆうない》村を經て横内に宿とる

　　　一六　幸畑より駒籠へ　神主阿保安澄が家に三宿す

　　　一九　川を溯りて大瀧を見に行き　再び同じ家に還る

　　　二〇　出立　砥山・宮田の村々を巡りて古跡を見　野内に出で　柿崎氏に宿す

　　　二一　青森に還る

　　　二八　會津の人深澤常逢に逢ふ　吉川流の神道家なり

　五・　朔　松森・古館などを經て　駒籠（宮崎）の阿保氏に入る

　　　　三　筒井・四ッ石・横内・入内・野木・金濱より雄別内《をべつない》　荒川の高水に妨げられて　金濱に引返して泊る

　　　　四　下牛館の膽鹿島《いかしま》社に神主阿保安政を訪ひ　荒川の村に泊る

　　　　五　入内村にゆき　村長の家に宿す

　　　　六　浪岡の平野氏を訪ふ

　　　　九　玉澤村に遊び　日暮浪岡に還る

　　　一二　中野村に遊ぶ

　　　一四　水木の毛内氏に行く

　　　一七　出發　�ｺ下・東光寺・乳井・鯖石を過ぎ　大鰐の名木萩桂を見て　藏館に泊る

(467)五・一八　虹貝を經て　阿遮羅山の麓早瀬野に泊る

　　　一九　雨後に山中を遊覽して　鯖石村に來て宿かる

　　　二〇　乳井・高畑・沖館・荒田・尾上を過ぎ　夕方黒石に入る

　

　一、この日記も、或は寛政十一年のものかも知れぬが、東津輕郡には特に親しい家があつたらしいから、多分前とは別の年宿で、正月をしたものと想像して、是を翌年の日記と見た。

　

享和元（一八〇一）　四八歳　錦の濱の三（秋六）

　八・一四　弘前の中井氏に在り　近く此地を去らんとす

　　　二一　出發　角田其友送別の句あり　淺野・笹田などの人々見送り　夜に入りて鰺ヶ澤の菊舍といふ藥屋に宿す　滯在

　　　二四　佐野｜正學《まさとし》訪ひ來る

　　　二六　人々と大鷹山に遊ぶ

　九・一三　なほ鰺ヶ澤に在り　近く深浦に行かんとす

　

　一、是も年次が不明だが、多分津輕出發の年であらう。

　

同じ年　　　　　　　　　雪の道奧雪の出羽路（秋三）

一一・　三　深浦の竹越氏に在り　雪すでに深し

(468)　二・　四　出發　送別の歌を送る人々　大高安定・浦谷正令・修驗仲覺・敦賀屋其柳・秋田屋二松・加賀屋巴蕪など　岩崎の浦砂間の萱森佐兵衛が家に宿す

　　　　五　濱中・松神・大間越を經て　木蓮子の坂を越え　秋田領に入る　關を過ぎて岩館に着　菊池小三郎が家に宿す

　　　　六　小入川・三内・立石を經て椿の捕　更に濱田・湯澤・八森・須田などの村を過ぎ　能代湊の問屋尾張屋　（伊藤氏）に宿とる

　　　　九　加藤某が家を訪ふ

　　　一二　能代出發　八郎潟を右に鹿渡《かど》・山矢・鯉河・夜叉が袋　一日市《ひといち》に泊る

　　　一三　中野村を經て土崎の湊に入る　矢守某の家に宿す

　　　一六　同行者竹越貞易　深浦に還る

　　　二五　小幡星といふに宿を移す

一二・中旬　寺内村を經て久保田（秋田城下）に入る

　　　二九　暮の市に出でて　物資る光景を見る

　　　三〇　久保田の石田某が家にて年を迎ふ

　

　　　　　　　　　　八

　

享和二（一八〇二）　四九歳　　繁き山本（秋二）

　三・　八　（北秋田郡）木戸石村を立ち　増澤の成田某が家に宿す

　　　　九　下田平《げんだひら》の池を見て麻生村　七倉山に登り　小繋の驛に下りて泊る

(469)　三・一〇　高岩山に登り　藤琴川の岸に治ひて　藤琴（山本郡）に至る　加茂屋に泊る

　　　一二　瀧野澤・金澤などを過ぎ　太良《だいら》銀山に着く　醫師山田某の家に宿す

　　　一三　鑛山見物

　　　一五　箭櫃山を見に行く

　四・　八　愛宕山に登る

　　　　九　太良銀山を降り　藤琴村

　　　一〇　糟毛村往復　處々の花を賞す

　五・　五　藤琴を立ち　舟にて仁鮒の村に行く

　六・　朔　糟毛の不動堂不動の瀧を見て　舟にて長場内《をさばない》に行き一宿

　　　　二　萱澤・室臺・眞土を經て　藤琴に至る

　　　　三　再び太良山に登り　山田氏に宿す

　　　一八　この山中の瀧を見に行く

　

　一、「阿仁の澤水」といふ見ごとな寫生畫集は、この中間に出來たものゝやうである。全編の繪が何れも山本郡の方から、阿仁へ入つて行く途中の風景のみで、阿仁山中もまだ雪のかゝらぬ前の景色を描いてある。惜しいことには日記を伴なはず、たゞ繪の上に少しの解説があるだけである。多分寫生の方に全力を注いだ爲で、別に日記があつて埋没して居るのでは無いのだらう。

　

同じ年　　　　　　　　　雪の秋田根（秋二）

(470)一〇・初旬　阿仁の眞木山銅山に在り

　　　一二　出發　高平を經て　笹平といふ山間の小村に宿す

　　　一三　諸所の鑛山を見て　土山（三枚）に來てとまる　小林氏

　　　一五　數々の瀧を見て山路を行く　小出澤に泊る

　　　一六　二の股より森吉山に登る　夕になりて還り着く

　

一一・　晦　雪中に二の股峠を越え一の股釜の澤の戸塚氏に宿す

一二・　四　雪深し　小又の澤の奧なる白絲の瀧を見にゆく　桐内・狹間田を經て森吉の村の貧しき家に宿を借る

　　　　五　雜魚淵・つるし・小瀧・女木内などの部落を過ぎ　湯の臺に泊る

　　　　六　白絲の瀧の下に至る　別路を小瀧村までかへり　新林氏に宿す

　　　　八　雪踏人足の跡に附きて　深渡・さこ淵　鷲の瀬村の四郎平が家に泊る

　　　　九　森吉の村を過ぎ　早瀬《さうせ》の吉田氏に至る　風邪の爲に滯在

　　　一二　出發　樣田・桐内・細越を經て小股村　齋藤綱繼に逢ふ

　　　一三　米内澤に至る

　　　一四　川を渡り　鶴田・長野・中畑を經て棒山　麻壺澤の太郎助が家にとまる

　　　一五　水澤・板戸・大荒木を經て笹館村　田尻・向田も過ぎて　獨鈷村に至る

　　　一六　淺利家の城址を見て後　大瀧の温泉奈良某の家に宿る

　　　二〇　十二所村に行きてとまる

　　　二一　大瀧に還る

(471)一二・二九　除夜　大瀧の温泉にて年を送る

　

　一、右の日記の序文に、此次に續くのは「贄のしがらみ」だと言つて居るが、現存する「贄乃柵」は六月朔日から始まり、其中間に「芒の出湯」といふ正月から五月までの日記がある。恐らくは次の日記にはさういふ標題を付けようといふ計畫があつたのを、後になつて變更したものと思ふ。尤もこの附近は、前にも一度あるいて居るので、其時の見聞も貯へられてあつたのであらう。十二月十二日新屋舗村の條には、春の頃にもこゝへ來たとあり、同日小股村の齋藤氏に逢つた所には、秋の頃手を分ちし云々とある。その春も秋も、共に日記の無い部分である。この日記はすぐに次の「芒の出湯」につゞいて居る。

　

享和三（一八〇三）　五〇歳　　秀酒企《すゝき》の温濤《いでゆ》（秋二）

　正・　朔　大瀧の新年風景觀察

　　　　六　十二所に行く

閏正・上旬　十二所に行き　武田三益が許に宿

　　　二九　十二所に行き　石井政景が家に宿す

　二・　朔　大瀧の湯元に還り來る

　　　一八　又十二所に行く

　　　二〇　大瀧に還る

　三・二五　山に入りて花を見あるく

　四・二一　大瀧出發・扇田に行く

　五・　朔　再び白絲の瀧を見に　武田成親（敬夫）同行　新館・獨鈷・二十九《ひつめ》日村・下大葛より　砂子澤　白絲澤(472)に入り　去年知りたる家に泊る

　五・　二　自絲瀧を見て後　小又の温泉に行きてとまる

　　　　四　爰を立ち　川を渡りて砂子澤へ　小繋・大杉・戸澤・大谷などの村々を過ぎ　二股村の大葛鑛山に行き臺所（金吹屋）に宿す　主は荒河富訓といふ

　　　　六　大葛を立ち　大豆村獨鈷村を經て　扇田に着く

　　　三〇　なほ扇田に在り　明石某が家を訪ふ

　

同じ年　　　　　　　　　贄《にへ》の柵《しがらみ》（秋二）

　六・　朔　（北秋田郡）扇田の武田氏に在り

　　　　二　二井田・寺崎・前田・大子内《おほしない》を經て　大披《おほひらき》村に宿かる

　　　　三　小袴村を經て出川村に至る　病ありて佐藤久五郎が家に滯在す

　　　一七　下河原・篠生《しのばえ》・板子石を過ぎ　釋迦内村の酒屋作右衛門が家に宿す

　　　一八　松峰村に至り　松峰山に登る　山の修驗傳壽院に宿を求む

　　　二〇　山巡りして奧の院に詣づ

　　　二二　山を降り　姥澤を經て花岡に至る

　　　二三　松峰・釋迦内・池内などの村々を經て　扇田に還り　武田敬夫が家に宿す

　　　二九　櫃崎村の丸岡定政が家を訪ふ

　

　一、この日記は享和三年、「芒の出湯」につゞくものと認められる。七月以後年末までの記事は缺けて居るが、或は年の知(473)れない幾つかの日記の一つに、此中に入るべきものがあるのかも知れぬ。

　

同じ年　　　　　　　　　浦の笛瀧（秋三）

　三・二五　立春　（北秋田郡）川井村に在り

　

文化元（一八〇四）　五一歳

　正・　朔　川井村の新年風俗を寫生す

　四・　三　（山本郡）能代に在り　照井象賢・伊東浚等と共に　萩野の山神祠・長崎の砂山あたりを歩く　?瑰の花盛り　田植始まる

　五・　五　杉澤附近に藥獵に行く　鹿の城より舟にて渡り　能代に還る

　七・　五　笛瀧一見の旅　能代を立ち　水澤村に行き　皆川吉秀が家に

　　　　七　女名形の野を過ぎ　八森・湯澤　天龍院を訪ひ　明王瀧の堂に宿す

　　　　八　出發　濱田村に行く　蟲長根の山路に雨にあひ　引返して濱田に泊る

　　　　九　藻浦・三内などを過ぎ　岩館の菊池氏に宿す

　　　一〇　關役人大越某と同行して　舟に乘つて笛瀧を見物に行く

　

　一、幾つかの小さな日記を集めたもので、その空間にも、北秋田の山奧から山本郡の海邊まで、大きな旅行をして居る。最終の七月盆前から、次の男鹿紀行の始まるまでに、又能代を立つて、秋田城下まで出て來て居るのである。但し日記は無かつたのであらう。

　

(474)同じ年　　　　　　恩荷奴金風《をがのあきかぜ》（秋一）

　八・一四　久保田（秋田城下）應供寺に在り　八郎湖に名月を見んとて爰を立ち　土崎湊に行き　矢守氏に宿す

　　　一五　早朝に土崎を發し　北野を過ぎ　出戸・井川（？）を經て　天王の御社に詣づ　神職鎌田利高（筑前）と共に　舟に乘りて湖上の月を賞す　かへりて鎌田氏に宿す

　　　一六　再び鹽口の浦より　舟に乘り湖上を巡遊し　天王に還りてとまる

　　　二〇　脇本の浦・船越の浦などを舟にて見巡る

　　　二一　寒風山登臨　櫻庭・山本・鎌田などの人々同行　先づ大倉村に行き　吉田某を案内に頼む　山に登り且つ石倉の隱里といふ岩窟を見る　田屋野澤・船越を經て　天王に還る

　　　二四　脇本の浦に至り　神職伊東大和を訪ふ　更に比詰村に行き　某氏に宿す

　　　二五　船川・増川・女川を過ぎ椿の捕　更に雙六の浦を經て　小濱の浦の長佐藤義右衛門が家に宿る

　　　二七　出發　磯づたひに門前の浦に至り　赤神山の御堂に詣づ

　　　二八　小雨　馬に乘り舊路を還る　脇本の伊東氏まで

　　　二九　浦田のかき石村・大保田などを經て　飯森に至る　山を越えて脇本に還る

　九・　五　天王の鎌田氏を出でて　拂戸《ふつと》・福川・角間崎を經て　鵜（ノ）木村に宿す

　　　　六　鮪川村の瀧の頭といふ處を見に行く　寒風山の後山なり　鵜（ノ）木に還る

　　　　九　村の長大淵某の家に宿す

　　　一〇　出發　堂村・本内・福米澤・野石・五明光子・蘆崎・大口などの村々を過ぎ　濱田村の彌三郎が家に宿す

　　　一一　蓮沼の邊を過ぎ　黒岡・福田・淺内を經て大路に出で　能代に至り　伊藤祐友が家に入る

(475)　九・一三　相澤光武が家を訪ふ

　　　二一　なほ能代に在り　醫師照井象賢の家の菊を見に行く

　

文化二年（一八〇五）　五二歳　　みかべの鎧（秋二）

　七・　朔　（北秋田郡）櫃崎の丸岡氏に在り

　　　　四　赤石の正壽院に行く　主は修驗悟峯

　　　　七　出川に在り

　八・　六　阿仁の川井を出て　上舟木の鈴木多左衛門に宿す　川井の齋藤治明（數馬）に逢ふ

　　　　七　黒瀧見物　松澤村の山奧に入る　山路を越えて森吉村　天津羽を經て狹股《さまた》　吉田六郎兵衛が家に宿を求む

　　　一〇　森吉山に登る　栩木澤《とちのきさは》といふ山中の村　某半三郎が家に泊る

　　　一二　戸鳥内《とゝりない》・中村を過ぎ　打戸村の鈴木長兵衛に宿す

　　　一三　戸鳥内に引返し　柴田作右衛門が家に

　　　一四　野尻を經て鳥越村　高岡六右衛門が家にとまる

　　　一五　菅生・比立内《ひだちない》・笑内《をかしない》を過ぎ　山を越えて根子村　此村は全村「またぎ」なり　地主佐藤利右衛門が家に宿す

　　　一六　萱草・荒瀬を經て　銀山に至る　館岡喜太郎の家に寓す

　　　二二　水無より船に乘り　米内澤《よないさは》に行く　雨中川井村に着く

閏八・　四　川井を出で薄井の秋林某の家に行く

(476)閏八・　五　切石村の鎧明神に詣づ　薄井に還る

　九・　七　川井から田代村に行く　松橋某が家に宿る

　　　　八　精進潟の秋景を見に行く

　　　一〇　田代村を發し　薄井の秋林氏に還る

　

　一、八月に閏が有るので、文化二年の日記といふことがわかる。さうすると八月七日の狹股村の條に、一昨年の冬も來たとあるのは、「雪の秋田根」の旅では無くして、更にその翌年もこの附近をあるいて居たらしいのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

文化三（一八〇六）　五三歳　　霞む月星（秋二）

　二・二一　能代を立ち　仁井田・機織を經て　檜山の淨明寺に入る

　　　二三　住僧獅絃・九島敏里その他數人の青年と共に　母爺《もや》山の藥師堂に遊ぶ　鶴形村に降り　同行者と別れて小林長左衛門が家に宿す

　　　二五　出發　筑法師・朴木瀬などの村を見て　米代川の岸づたひに鹿の城《じやう》・向能代　夜になつて能代の伊東氏に着く

　三・　七　能代を出でて檜山に行く

　　　一二　村々の花を見る　淨明寺の主僧　及び達子《たつこ》の近藤傳吉といふ青年同行　その達子村を過ぎ　長面村の近藤氏に行きて宿る

　　　一五　宮野目・小町・二本杉を經て　増浦に憩ひ　山を越えて種澤・市野村　浦の村に下り　浦横町の兒玉嘉(477)兵衛が家に宿かる

　三・一六　高岡權現を拜み　直坂・天瀬川・鯉川・崖を經て　鹿渡浦にとまる

　　　一七　醫師青山玄丹・近藤忠右衛門等と共に　猿田《さんだ》の小瀧・苗代澤の大瀧に遊び　夜分鹿渡に還る　村に火災起り　三十戸ばかり燒けたり　仍て曉に此村を立つ

　　　一八　牡丹・二つ森・豐岡を經て　檜山に至る

　　　一九　能代に還る

　　　二一　牛の首戸村の桃花を見に行き　又筑法師の村を過ぐ

　　　二四　仁井田の播磨寺の八重櫻を見て　檜山の寺に行きて宿る

　　　二六　能代に還り來る

　

　一、この一卷は殊に美しい繪が多い。春二月の間の眞の遊覽記である。同行者は能代の友人ばかりで無く、幾人かの年若い教へ子を伴なうて、?々近村の彼等が親の家に立寄つて居るのを見ると、前年の末頃から能代に假住して、子弟の教育に携はつて居たことが想像せられる。翌文化四年の春夏の旅行も、なほ能代を中心として居る。さうして其次の文化五年は、まだ一篇の紀行も見出されて居ないのである。或はこの二年あまりの間は、此湊の人になつて落付いて居たのでは無かつたらうか。眞澄翁の旅には、斯ういふ寓居時代といふべきものがまだ折々は有つたので、それを二箇處だけのやうに推斷したのは惡かつた。陸中前澤でもさういふ日があつたらしく、なほ老後にもそれが何度かあつたかも知れぬ。たゞそれを切上げて又次の漂遊を始めることが、至つて手輕であつたことだけは想像し得られる。

　

文化四（一八〇七）　五四歳　　をがらの瀧（秋三）

　三・上旬　山本郡岩館を發し　舟にて笛瀧の浦の風景を賞す　引返して小入川の浦に上陸し　三内村の宅藏院を(478)訪ふ　病ありて爰に滯在す

　三・二二　出發　椿の浦を通り　濱田の三左衛門が家に宿る

　　　二三　八森天瀧寺の不動堂の瀧を見に行く　それより山路を母爺《もや》の藥師峯に登りて遠望し　湯澤村に降り　醫師細田政興が家に宿る

　　　二五　成田元泰等と共に　元館の櫻花を見に行く

　　　二七　湯澤を出でて　目名潟の智積院に行きて宿す

　　　二八　御山權現に詣で　岩子村を經て　大窪平の村長が家にとまる

　四・一〇　目名潟村を立ち　水澤・高屋敷・鳥潟を經て　強阪《こはさか》村の醫村木秀庵が家に宿す

　　　二〇　畠谷・横内より河内（小元）の山村に分け入り　塙川村を經て強阪にかへる

　　　二三　強阪村出發　國見を經て常盤村にとまる

　　　二四　砂子田村を過ぎ　大柄《おほがら》村の佐々木八兵衛が家にとまる　村に鑛泉あり　藤の花盛りなり

　　　二五　大石といふ部落を經て　上瀧《うはだき》を見に行く　山谷村より川を渡り　岩阪村の市之助が家に宿す

　　　二七　小瀧・梅内・樋野口・飛峯などいふ村々をあるく

　五・　朔　能代を發して豐岡村　醫師神島善繼（敬益）が家を訪ひ宿す

　　　　二　藤卷の古柵址を見　木戸澤・升澤を經て　長面村の長傳寺に入る

　　　　六　達子《たつこ》の一應院に行きて宿す

　　　二六　能代出發　小繋を過ぎ　今泉（北秋田郡）　驛の長成田氏に一宿す

　　　二七　綴子・大館を過ぎて　小雪澤の關を越え　雪澤村に着す

　

(479)　一、五月の下旬に能代を立つて、北秋田郡に入つたのが、恐らくは又新たなる鹿島立ちで、それから約三年後の文化七年の春、男鹿に遊ぶ途中再びこの地に來るまでは、主として秋田郡の方に居たのではないかとも考へられる。前の想像とはちがふが、この期間の日記が少ないので、確かなことは言へない。

　

文化六（一八〇九）　五六歳　　ひなの遊（秋三）

　六・　晦　（南秋田郡）和（？）田村の伊東氏に宿る

　七・　朔　ひるか野に遊び　高崎・上野など附近の村を見巡る　和田に還る

　　　一〇　今戸・小今戸の村々をあるき　又山内村の圓通寺・下山内の金剛寺に行きて　故事を問ひ古器を觀る

　　　一三　なほ同じ地に在り　踊のことを記録す

　

　一、この一卷は紀行とは言へぬもので、和田村附近の見聞を細かに書き留めようとした、或は後年の「花の出羽路」の宿案を示したものでは無かつたかと思ふ。次に出て來る「氷魚の村君」「勝手の眞弓」なども之に類する。「ひなの遊」といふのは、今もこの地方に盛んな番樂のことであるが、記述は是以外のさま／”＼の故事遺跡に及んで居る。寄寓の主人が既に斯翁の識見力量を認めて、或は之を委囑したのかとも考へられるが、やはり自身で今までの事業の中から、長處と思ふ部分を發揮したものであらう。

　

同じ年　　　　　　　　　雪の山踰え（秋三）

一二・一〇　五城目古河町　加賀屋彦兵衛が家に久しく滯在して居たのが　今日そこを立つて山内《さんない》に行く　黒土村の里長石井與右衛門の家に宿す

　　　一二　宿を隣の家に移す

(480)一二・一五　當田村に行き　原田儀右衛門が家に宿す

　　　一九　出發中津俣川に沿ひ八田・長面・乙市を經て脇村

　

　一、是から山を踰えて比内《ひない》（北秋田）へ出たのであらうが、繪のみ存して文章はこゝで切れて居る。文化六年の冬だといふことも明徴は無い。秋田叢書の解題にさう認めて居るのが、當つて居るらしいから之に由つた。五十六の年の冬で、是も亦冒險旅行であつた。

　

文化七（一八一〇）　五七歳　　氷魚の村君（秋三）

　正・　朔　（南秋田郡）谷地中《やちなか》の佐藤氏に在りて年を迎ふ　正月の行事を細かに記録す

　　　一八　今戸の浦より下りて八郎潟の氷渡りを試み　氷の下の魚捕るわざを見に行く

　　　二三　一日市より夜叉が袋に出でて　湖上の網曳きを見る　鯉川にとまる

　　　二四　引返して一日市　川崎をまはり　五城目の大工の長が家に宿かる

　　　二五　雪霽れて谷地中に還る

　

　一、この一書の正月風俗記事は殊に精彩を極め、前に擧げた「小野の古里」「津輕のつと」「津輕のをち」「芒の出湯」と共に、永く文化史上の好資料を遺したものであるが、旅行記としては最も小さな斷片に過ぎない。後段八郎湖の氷上漁業の記録も亦確實無比のものである。單なる一旅客の遊跡として、記憶に存するにはあまりに惜しいと思ふ。

　一、この序を以て正誤して置きたいのは、南秋田郡には谷地中といふ村が二箇所あつて、偶然に績いて出て來るので、自分は之を混同して居たといふことである。その一つは八郎湖の東岸五城目に近く、即ち本書に眞澄が寄寓して居た佐藤家の在る部落、今一つは男鹿の寒風山の北麓で能代との間に在る。次の男鹿紀行の始めに、同じ旅人が數日世話になつた加藤氏(481)の家のある村である。山口貞夫君の注意によつて是が明らかになつた。

　

文化八（一八一一）　五八歳　　雄鹿の春風（秋一）

　三・中旬　（南秋田郡）谷地中村を出でて　小池の齋藤氏に宿す

　　　二〇　天瀬川の兒玉氏に一宿

　　　二一　舟を得がたくして　陸路鯉川・鹿渡・濱村を經て　足崎の姫御前社に詣で　此浦に泊る

　　　二二　釜屋の浦を經て能代に至る

　　　二五　西南寺の法然上人六百年忌法會

　　　二六　能代を立ち　長崎・淺内《あさない》・福田・成合・濱田などを通りて　再び足崎に來て宿す

　　　二七　馬にて爰を立ち　大谷地・猿川を經て　谷地中（男鹿）に至り　加藤某が家に宿る

　　　二八　附近の村々の花を見る

　四・　七　安土田《あんでん》・濱間口を經て　眞山《しんざん》の村に至り　案内を求めて直ちに山に登る　夕暮に其村に下り　關金七が家に宿す　病ありて滯在

　　　一〇　光飯寺に詣で　什寶古物を觀る

　　　一一　眞山村を立ち　水口村の喜八が家に泊る

　　　一二　主翁の案内にて處々を見巡る　一の目潟二の目潟なども見て　水口に還る

　　　一四　北浦に行き　醫師林宗哲（松菊舍撫琴）を訪ひ　其家に宿す

　　　一五　五輪野より鳩崎の海べまで行く

　　　一六　安善寺村に遊ぶ

(482)　四・　六　野村の小林某を訪ふ

　　　二二　湯本の温泉に行き　村長平賀氏の家に宿す

　五・　朔　北浦の林氏に還る

　　　　七　湯本より湯の尻の浦に出て一宿す　鹿の聲を聽く　此あたり鹿殊に多し

　

同じ年　　　　　　　　　小鹿の鈴風（秋一）

　五・中旬　北浦を出でて　鹿子田・一つ石を經て　湯の尻浦に至る

　六・中旬　風を引きて　本山眞山の此月の神事を見に行かず　やゝ快くなりて　北平澤より畠村に行く

　　　二三　えぐり舟にて水島を見に行く

　　　二四　戸賀の湊一見　對岸の鹽戸の浦に行き宿を借る

　

同じ年　　　　　　　　　牡鹿の嶋風（秋一）

　七・一三　男鹿の鹽戸の浦に在り　この日よき便ありて　刳舟にて島々を見めぐり　加茂の浦に上陸す

　　　一五　雁金《がんがね》の窟見物　月を見つゝ還りて　青沙《あをさ》にとまる

　　　一七　加茂より又丸木舟に乘りて　外浦の風景を巡覽す　門前の浦に上陸して　日積寺に詣づ　山を降りて門前の民家に宿かる

　

　一、「小鹿の島風」も文字少なく、寫生畫の最も多い一卷である。「勝地臨毫」の中にもこの以外に、同じ旅行の際に成つた見取圖が多かつたやうに記憶する。五十八歳の旅人としては珍しい働きぶりであつた。

　

(483)同じ年　　　　　　　牡鹿の寒風（秋一）

　七・一八　門前を出で　椿・増川の浦々を過ぎ　脇本・山田を經て　鮎川村に至る　小林某が家に滯留す

　　　二三　眞山村の地藏踊を見に行く

　八・一五　湯本に在りて既に日を經たり

　　　一六　海上に出でて月を賞す

　　　一七　野村に行きて宿す　地震あり

　九（八？）・二五　脇本に行かんとして　島田村の目黒某が家に留まる

　　　二七　大地震　人多く死ぬ

一〇（九？）・　初　安善寺村に行く　眞壁某が家に宿す

　　　　六　三森村の目黒某が家に宿す

　　　二五　鮪川の瀧の頭を見に行き　流に沿ひて谷地中に至る

　　　二八　中石《ちゆうし》村の洞昌寺の僧俊山（東湖）を見まひに行く

文化九（一八一二）　五九歳

　正・　朔　（南秋田郡）宮崎に新年を迎ふ　鹿倉《しかくら》（？）の畠山某が家に行く

　　　一五　この夜「なまはぎ」の行事を見る　正月の風俗を詳かに記し留む

　　　二四　なほこの男鹿東隅の村に在り

　

同じ年　　　　　　　　　簷《のき》の金棣棠《やまぶき》（秋三）

(484)　三・中旬　（南秋田郡）岩瀬の小野氏に寓す

　　　　六　岩瀬の萱草祭

　　　二五　なほ此地に在り

　四・上旬　脇本の伊東氏に在り　檜山の白井某・久保田の茂木知利（巽）に逢ふ

　　　　同　再び岩瀬に還りて滯在す

　五・一二　小泉の村の長奈良某が家に行く　秋田の人那珂通博（碧峯）・廣瀬有利に逢ふ

　　　一三　堀内を經て岩瀬にかへる

　　　中旬　大久保の圓福寺に行く　常陸｜入四間《いりしけん》の人渡邊藤右衛門に逢ふ　田屋・沖村・槻木・本木の村々をあるきて　大久保に還り　鎌田氏に宿す

　　　二一　虻川村の神明社に詣づ

　　　二八　鹿島流しの行事を見る

　六・　四　小泉の雌雄の沼を見て　岩城村に至る　雲性寺の僧謙宗を訪ひ　更に城山に登りて眺望す

　

　一、この卷の序文に、「久保田のおしね」といふ日記が是に續くと見えて居るが、その書はまだ私は見たことが無い。久保田は今の秋田市だから、此地を去つてから城下の近くに還つて住んで居たことゝ思はれるが、もし晩秋までの日記とすれば、それと次の「勝手の眞弓」との關係はどうなるのか。多分は後者がたゞ一日の紀行なるが故に、之を日記の外にしたものであらう。近頃秋田市で發見せられた「花の出羽路」の中には、この一卷を收録して居るといふことである。

　

同じ年　　　　　　　　　勝手の眞弓（秋四）

(485)　八・一〇　太平山の麓の村々を巡る　手形・大澤・やない里・柳田・八田・獺田・目長崎など　同行者は那珂通博・江田純玉・廣瀬有利

　

　一、この一卷を翌文化九年の作とする秋田叢書解題の説は誤りであらう。もしさうだとすれば、次の「月のをろち根」より後の事になるのだが、此書で始めて逢つたといふ人と、一方の書ではもう親しく交つて居る。即ち「勝手の眞弓」の方が早く成つた證據である。此一卷も主として畫圖を録し、本文は僅かに一日の遊覽を記するのみで、それも土地の沿革を考證した部分が多い。

　一、次の「月のをろちね」の中にも、昨年の秋同じ山の麓を巡行したといふ記事がある。それが多分この「勝手の眞弓」の、八月十日のことをいふのであらう。この中間に「水の面影」と「麻裳《をも》の浦風」との二卷が成つたといふことが、亦この書の卷頭に見えて居るが、前者は寺内村の舊蹟を録すといひ、後者は土崎の湊の見聞記だつたといふから、共に紀行といふよりも地誌に近いものであつたらう。此春の日記としては、別に「千枝の櫻」といふ一卷があると書いて居る。この三つの書も捜せば何れかに在るのかも知れぬが、遺憾ながら自分はまだ見て居らぬ。秋田叢書には各家の藏本をよく集合して居るが、それにもまだ此通り缺けた部分が多いのである。

　

文化一〇（一八一三）　六〇歳　　月のをろち根（秋四）

　七・　三　（南秋田郡）寺内村に在り　土崎の岩谷｜貞雅《さだのり》訪ひ來り　太平山登山を約す

　　　一六　出發　同行岩谷貞雅・鎌田｜正家《まさやか》　八幡田《はちまんでん》・山崎・水口・添川・八田を過ぎて　目長崎（元町）に至り　嵯峨｜勝珍《かつはる》（理右衛門）が家に宿す

　　　一八　那珂通博・淀川｜盛品《もりたゞ》（東市）・樋田忠一（音藏）秋田より來り會す

　　　一九　爰を出でて寺庭・稻荷・黒澤の村々を經て　野田の東光庵に憩ひ　山巓を究めて後太平山の權現堂に宿(486)す

　七・二〇　雨中に山を降る　夜に入りて目長崎に還り來る

　　　二一　午後出發　柳田村の鎌田藤右衛門が家に宿す

　　　二二　爰を立ちて　貫束山・天楯山などに登る

　

文化一一年（一八一四）　六一歳　　高松日記（秋四）

　九・　五　（雄勝都）板戸村に在り　曾我吉右衛門といふ老翁と共に　附近の山村を見巡る　三津川村を經て　川原毛温泉に至り　硫黄小屋の長の家に宿す　夜大いに雪降る

　　　　六　泥湯の温泉を經て萱野に出づ　沼多く紅葉うつくし　上新田村の藤原藤八が家に宿す　二泊

　　　　八　若畑村を經て　板戸村に還る　三浦氏に宿す

　

　一、「雪の出羽路」の初稿かと思はれる。此地方を高松庄と呼ぶ故に、まだ發見せられない「霧の高松」といふ書も是と同じかと、秋田叢書の解題には説いて居るが、恐らくはさうであるまい。なほ叢書の同じ卷には、某年八月十九日、同じ雄勝郡檜山の高橋氏に在りて、附近を遊覽した「駒形日記」といふ一文を載せて居る。是も文化十一年か十二年のものだらうといふが證據は無い。たゞ此頃は著者が雄勝郡をあるいて居たゞけは事實だと思ふ。「狛形日記」といふ書名は、「筆のまに／＼」にも誌して居るが、それには深山の鷄の聲の事を書いたとあつて、此本には見えない。別にもつと詳しく書き改めたものがあつたのであらう。

　一、以上年次のほゞ明らかな數十卷の外に、なほ二三の紀行の、いつの年とも知れぬものがある。其中でも完備に近いのは「十曲湖」、即ち十和田湖の遊覽記で、是は自筆本がなほ保存せられ、秋田叢書別集卷一には、之に伴なふ十數葉の寫生畫までも模別して出して居る。南部叢喜卷六のは、文章ばかりで又若干の誤寫がある。八月十九日に鹿角郡｜毛馬内《けまない》を出發し(487)て、途中鳥越村の和田氏に一泊し、翌日は山を登つて湖岸に出で、鉛山の事務所に滯在して、附近を見巡つた後に、同じ月の三十日、大倉の本山といふ鑛山に下つたまでの日記である。同行者は松尾某で、その同胞の小笠原某と駒ヶ嶺政福といふ二人が、その鉛山には住んで居た。秋田に二度目に入つて來てから、よほど年數を經て後といふことはわかるが、いつの年だつたかはまだ明らかになつて居ない。但し六十歳以後は多く南の諸郡をあるいて居たと思はれるから、大よそは文化の初年、殊に日記の全く傳はつて居ない文化五年などでは無かつたかと想像する。或は書中に出て居る幾つかの人の名から、この想像の當るか否かを決し得る時も來るであらう。

　一、毛馬内には同じ年の春から、滯在して居たのではないかと思はれる。是も大館の栗盛財團の蒐集に、「錦木」と題した雜綴が一册あつて、その一部分だけが鹿角郡に關するものであり、錦木塚その他の見取圖が數葉と、僅かな文章とが保存せられて居る。秋田叢書別集卷一にはその部分だけを採録して居るが、やはり「錦の濱」などと同樣に、老後に整頓しようとして力及ばなかつたものらしく、それの年彌生の末つかた、出羽から國境を越えて鹿角郡に入り、毛馬内の町に落着いたといふまでの記事と、更に七月の初め頃に、その毛馬内の附近を見あるいたといふ一文の、末切れたものがあるだけである。それと前に擧げた「十曲湖」の遊覽記と、一續きのものだといふ確證は無いが、兩者共に附載した漢詩の作者の中に、東都源尚といふ人名などが共通して居る。源尚は遊歴の文人であらうから、旅中に出逢つたので無いまでも、さう永い間は名が殘つて居ようとは思はれぬ。年をちがへて二度まで、毛馬内に行つたのではないと見てよからう。

　一、次には「雪のをろちね」といふ十數紙の寫生畫集がある（秋四）。をろちねは今の太平山の別名で、其山を中心にした雪中の風景を描き、少しの解説を加へて居るのだが、この際は登山をしたので無いかも知れぬ。山上のスケッチが一枚も見えないからさう思ふ。文化九年の「月のをろちね」には、この冬の日の旅行の事はまだ説いて居らぬのを見ると、多分はその事よりも後の旅行であらう。畫風も少しばかり他の諸集とは變つて居る。なほ「勝地臨毫」を詳しく見たならば、記事は無くて畫圖のみ殘して居る旅が他にも有らうと思ふが、今は原本を手にすることが出來ぬので、それを尋ねて見る方法が無い。

　一、文化六年の前年には、なほ「浦の梅園」と「花の眞阪路」といふ二つの日記があるといふが、二つともまだ發見せられて居ない。前者には今の南秋田郡旭川村附近のことが誌してあるといふが、どうして「浦の梅園」と題したかは明らかでな(488)い。或は海岸の方から此土地まで、入つて行つた紀行では無かつたかと想像する。「花の眞阪路」は六月末までの日記であつたことが、「ひなの遊」の序文に見えて居る。恐らくは山々の花の頃から書き續けたものであらう。

　一、この他に「山分け衣」・「杜の下蔭」・「櫻狩日記」・「椎葉日記」等の著述があるといふことを、著者自ら「筆のまに／＼」の中に話して居る。後の二つは現在栗盛財團の文庫に藏せられる「さくらがり」・「椎の葉」といふものがそれらしく、前者は北秋田郡の記事、「椎の葉日記」は雄勝郡のことを録したものだといふが、自分はまだ二つとも見て居らぬ。同じ文庫には又「萬元紀行」といふものがある。是も或は色々の小さい日記を集めたものではなからうか。どうかして一度讀んで見たいものと思つて居る。「杜の下蔭」は北秋十二所町の老（？）（ノ）大神社の事を書いたものといふから、日記では無くして、たゞ「花の出羽路」の資料のやうなものだつたかも知れぬ。

　一、年をとり巡歴の區域の限られて來るにつれて、この翁の日記は自然と地誌に近くなつて來て居る。さうして其地誌も亦必ず實地を踏んだ後に書いたものだから、紀行の分子が多く殘つて居る。殊に以前の旅の記憶を想ひ起して、新たなる見聞と比較して見ようとするのが、若い頃からの眞澄翁の趣味であつた。さういふ機會が段々と少なく、一方には又古い知識はふえて行くばかりなので、いつと無くそれが日記の外にはみ出して、別に十數種の隨筆となつて殘つたのである。諸國の民謠を集めた「鄙の一曲」なども、實際は古い手控への中から、後に拔出して整頓したものゝ樣である。是に類するものでは「百臼圖」、また「新古甕品類圖」などといふのも殘つて掛る。「凡國風土器」といふのは珍しい標題だが、諸國の旅先で見た色々の器物、その他行事遊戯などの寫生畫で、是などは既に三十四五歳の頃から、こしらへて持つてあるいて居た證據がある。それが秋田縣の遺物の中にも有るといふから、内容は無論非常に増加して居ることゝ思はれる。秋田叢書別集卷四に出て居る「花の眞寒泉《ましみづ》」といふのもその一つの例であつた。是は序文によると「櫻がり」の次に書かれたもので、諸國の旅で立寄り掬び上げた名ある清水の數十箇所を列記して居る。或は菫の花の種類の土地によつてさま／”＼なるに心づいて、百菫《もゝすみれ》といふ一卷を書いて見たくなつたといふことも、「をがらの瀧」といふ日記には見えて居る。其本は出來たかどうか知らぬが、とにかくに繪がかけて文章が自由だつたから、書物を作ることがやゝ道樂のやうにもなつて居たことは事實で、しかもそれが皆この非凡な旅行家で無くては、望まれないことばかりであつた。

　一、雪月花の出羽路に着手してから後は、各地を巡歴しても滯留の日數が多く、又遠く移つて行くことが少なく、行逢ふ(489)人たちも古い馴染ばかりなので、旅をして居るといふ氣特にはなれなかつたらうが、翁には依然として還つて行くべき家は無かつた。文化の末頃からの十數年の遊跡は、もう一續きの紀行としては傳はらぬが、家々に保存せられて居た手紙から、歌文繪畫の數多い作品から、又は地誌各篇の内容を比べ合せて見ることによつて、追々に之を明らかにすることは出來るであらう。恐らくは四十年來の習はしのまゝに、二年と同じ處の正月を祝はずに、過ぎて居たものと私などは想像する。文政十二年の七月十九日、仙北角館の附近の梅澤村の假寓で歿したといふのが事實らしいが、表向きの記録には角館の神官、鈴木某の家でといふことになつて居る。門弟鎌田正家等は更にその遺骸を迎へ取つて、今ある寺内村の墓地に葬つたと傳へられる。乃ち菅江眞澄の旅は、死んで後までもなほ續いて居たのである。

　

（490）〔写真省略〕

　

(491)　　　　　寫眞解説

　

圖版一　信州の七夕人形

　　　　菅江眞燈の寫生畫の一つの例として之を掲げる。この旅行家の最初の日記「伊寧乃中路」天明三年七月七日の條に出て居るもので、

　　　　　六日より軒ばに方なる木にて女男のかたしろを造りて絲に引きはへてけり

とあるのみで、場處はどことも記してないが、それが洗馬村の釜井菴であつたことは、圖版二の寫眞と比べて見ればよくわかる。

圖版二　最近の洗馬釜井菴

　　　　前の七夕のスケッチと比照する爲に、特に同じ角度からとつて見た現　　状の寫眞である。「伊寧乃中路」の此日の條には、別にもう一枚、村の娘たちが踊を踊つて居る畫が出て居るので、それとも比べて見る爲に、特に最近の勤勞奉仕姿といふものを殘して置く。二人の男子は「菴の春秋」その他の遺書の發見に、最もよく働いた中村盛彌君と大池蠶雄君とである。是も記念の意味であるが、殘念ながら寫眞がはつきりしない。

圖版三　晩年の菅江眞澄

　　　　秋田縣六郷町の高橋氏に所藏せられるもの。あの奇怪な風説の種になつた肖像畫である。同じ仙北郡板見内村の出原某の家に傳はり、翁が鏡に映して自ら描いたものといふが、その點も私は信じて居ない。筆致構圖の上からも、他の本職畫家の作であることが、今に證明し得られると思ふ。とにかくに翁がこの地方を巡遊して居たのは文政八九年以後のことだから、是は七十歳もやゝ過ぎて後の面影で、容貌服装も恐らくは亦當時の眞を寫して居ると思はれる。同じ家には又加藤月篷といふ人の書いた眞澄翁の傳を、この畫像と對幅にして持つて居る。翁の歿後三十八年、慶應二年六月に成つたものだが、是には明らかに享年七十六とあつて、碑文に七十六七といふのを決定して居る。何等か別に據る所が(492)あつたのであらう。

圖版四　釜井菴にあつた無名氏像

　　　　或は菅江眞澄三十一歳の日の尚像ではないかと思ふもの。しかし此書物の校了になるまで、終に確かな證據は得られなかつた。詳しくは本文四一二頁に述べて居る。

圓版五　菅江眞澄の墓碑

　　　　秋田市の西に接した寺内村の　　字大小路の岡の上に立つて居る。碑面に長篇の歌を刻した珍しい樣式の墓標である。其歌の文字をやゝ讀み易い形にして爰に掲げて置く。

　　　　　友どちあまたして石碑に書付くる

　　　　　　　　三河の渥美小國田

　　　　　　　　雲はなれこゝに來居りて

　　　　　　　　夕星のかゆきかく行き

　　　　　　　　年まねく遊べるはしに

　　　　　　　　かしこきや殿のみことの

　　　　　　　　仰せごといたゞき持ちて

　　　　　　　　いそのかみ古き名どころ

　　　　　　　　まきあるき書けるふみをら

　　　　　　　　鏡なす明�ｺ館に

　　　　　　　　こと／”＼にさゝげ納めて

　　　　　　　　劍太刀名をもいさをも

　　　　　　　　よろづ代に聞えあげつる

　　　　　　　　はしきやし菅江のをぢがおくつきどころ

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　鳥屋長秋

(493)同じ石の側面には

　　　文政十二年己丑七月十九日卒年七十六七

といふ文字が刻まれて居る。

　

(494)　　　第三卷　内容細目

　

水曜手帖

　　深見（昭和十五年十一月、民間傳承六卷二號）……………………………三

　　柳明（昭和十六年四月、民間傳承六卷七號）………………………………五

　　湯河原（昭和十八年一月、民間傳承八卷九號）……………………………八

　　武藏關（昭和十八年二月、民間傳承八卷十號）…………………………一一

　　廣袴（昭和十八年十二月、民間傳承九卷八號）…………………………一四

　　乞田（昭和十九年二月、民間傳承十卷二號）……………………………一八

　　王禅寺（昭和十九年五月、民間傳承十卷五號）…………………………二二

　　野中の清水（昭和十五年五月、知性三卷五號）…………………………二七

　　榎戸懷古（昭和二十八年十一月、「初瀬とこれさまと五反田節」）……三七

　　旅と故郷（昭和五年五月、成城學園時報）………………………………四五

　　海と小舟と船頭さん（大正九年十一月、同人五十號）…………………四七

　　大きな　　鰐の話（大正八年六月、同人三十六號）（原題、「小さな手帖から」）

　　…………………………………………………………………………………四九

　　笑はれる馬（大正八年八月、同人三十八號）（原題、「小さな手帖から」）

　　…………………………………………………………………………………五一

　　大日塚の話（明治四十三年七月三日、讀賣新聞）………………………五四

　　村の址（明治四十三年十二月、中學世界十三卷十六號）………………五六

　　將來のチョコレート（大正十年三月）……………………………………六〇

(495)　　扇と人の命（大正六年八月）………………………………………六五

　　對馬北部見聞（昭和十五年五月、民間傳承五卷八號）…………………七〇

　　古い手帖から（昭和十五年六月、民間傳承五卷九號）…………………七二

　　紋つきの村（昭和十九年一月、アサヒグラフ四十二卷一號）…………七五

　　竝木の衰微（大正十四年十一月、朝日新聞）……………………………七八

　　古い家と古い村（大正七年九月、土俗と傳説一卷二號）………………八〇

　　津久井の山村より（大正七年九月、土俗と傳説一卷二號）……………八一

　

北國紀行〔1948年11月、実業之日本社〕

　　自序

　　越後へ（明治四十年）………………………………………………………八七

　　歌集「山さと」序文（昭和八年十二月）……‥………………………一一〇

　　北國紀行（明治四十二年）…………………………………‥…………一一三

　　美濃越前往復（明治四十四年）…………………………………………一七七

　　旅行の話　その一（大正五年七月、八月、九月、十月、十一月、十二月、大正六年一月、二月、三月、奉公）………………………………………………………二〇四

　　旅行の話　その二（昭和二十二年八月、手帖一號）（原題、「旅行史話」）

　　………………………………………………………………………………二三三

　

五十年前の伊豆日記（昭和三十四年十二月、昭和三十五年一月、二月、伊豆十號十一號、十二號）…………………………………………………………………………二四三

　

(496)瑞西日記（大正十一年）………………………………………………二五一

　

ジュネーブの思ひ出　その他

　　ジュネーブの思ひ出（昭和二十一年十一月、國際聯合一卷一號）…三〇七

　　瑞西の鐘と時計（大正十三年一月、太陽三十卷一號）………………三一五

　　本場の廣東料理（大正七年四月、新家庭三卷四號）…………………三一七

　　魚の移住（大正十三年五月二十八日、アサヒグラフ二卷廿二號）…三二四

　　海豚文明（大正十三年六月十一日、アサヒグラフ二卷廿四號）……三二七

　　ある日の日記………………………………………………………………三二九

　　風土と美人系（昭和四年四月三日、十日、十七日、アサヒグラフ十二卷十四號、十五號、十六號）……………………………………………………………………三三一

　　旅行の上手下手（昭和九年五月、婦人の友二十八卷五號）…………三三九

　

菅江眞澄〔1942年3月、創元社〕

　　序

　　白井秀雄と其著述（昭和四年一月、紙魚二十六號）…………………三四七

　　秋田縣と菅江眞澄（昭和六年二月、秋田考古會誌二卷三號）………三七四

　　信州と菅江眞澄（昭和四年八月、「來目路の橋」序説）（原題、「百年を隔てゝ」）

　　………………………………………………………………………………四〇四

　　遊歴文人のこと（昭和四年十一月、「わがこゝろ」跋）………………四一五

　　正月及び鳥（昭和五年二月、「奧の手ぶり」序）………………………四一九

　　菅江眞澄旅…………………………………………………………………四二四

　

　　　　　　　　　　　　　　　〔2014年10月1日夜入力終了〕