定本柳田國男集 第三十卷(新装版)、筑摩書房、1970、11、20(1978.11.5.14刷)
 
(3)   女性生活史
 
     問答のはじめに
 
 皆さんは特にどういふことを、先づ聽きたいと思つて居られるのであらう。私には答への出來ないことが必ず多いであらうが、それでも一通りはそれを知つて置きたいのである。學問は本來めい/\の心の底の疑問から、出發すべきものだと私などは信じて居る。誰が答へるかは二の次として、誰かが答へなければならぬ疑問といふものが、この人生には多い。これを抑へたり曲げたりせずに、率直に又安らかに幾らでも提出させ、年をとつて少しでも自信のある人々が、いつはり無くそれに答へようと試み、もしも其答へが數多く且つまち/\であるならば、其中からたゞ一つ、最も自分によく呑込めるものを、選り出すやうにさせることが、假に折々は中途の失敗があらうとも、結局はこの世の學問の、進歩になるのだと思つて居る。さういふ心持で、私はむつかしい質疑を歡迎し、又それはまだ答へることが出來ませんといふことを、身の勵みとするやうに心掛けて居る。皆さんも亦世の中の爲に、成るべく多數の若い女性に共通するやうな、適切な問題を提出して、單に我身の修養のみと言はず、かつは時代の學問を推進することに、協力して下さることゝ信ずる。その問題の數多く集まつて來るまでの間、試みに「婦人公論」の記者と、二三の親しい人とが相談して、こしらへた若干の問ひに對して、ぽつ/\と答への練習を試みるのである。
(4) 誰でも直面して居る眼の前の大問題は、生活革新といふ響きの高い四文字であるが、是は實はちとばかり問題が大き過ぎる。もう少し小分けをして見ないと、具體的な答へを得る見込が無い。祖父母の時代頃から、是によく似た言葉は日毎に叫ばれて居た。さうして革新するに及ばずと、明答した人は一人も無かつた。それ程にも結構なものと、國擧つて認めて居たのである。しかも只片端を指さして、是も革新の一つだと言つた者はあるが、その全體の姿といふものを描いて見ることは誰にも出來ない。其故にいつになつても出來ない相談のやうに感じられて、あまり當てにせぬ人ばかりが多いのである。之を問題にする前に、近よつてもつと熟視する必要があるかと思ふ。革新は言ふまでも無く一切の生活ぶりを、根こそげ換へてしまふことでは無い。又さういふことは絶對に出來ない。どことどの點を改めるのが革新になるのか、それを一通りきめてかゝらうとすると、もう問題が紛糾して來るので、其決定にはめい/\の思慮を要する。迷つてしまつては始終むだな苦しみをしなければならぬ。そこで第二の問題としては、カヘル〔三字傍点〕とカハル〔三字傍点〕とは何處がちがふ、といふことが考へられるのである。是などは誰に問はなくとも答へられさうな問題である。世の中はいつでも變つて居る。僅か二百年か三百年以前の土地の生活を書き留めたものと比べ合せても、今も元の通りといひ得る部分は、少なくとも表層に於ては捜し出すに骨が折れる。誰も變へませうと思つた人が無くても、生活樣式は變らずには居なかつた。もしくは一部に革新しようとした人があつた爲に、それに連れられて好し惡しを問はずに、すぐに眞似をしないまでも古いものは棄てる。しかし斯ういふのは革新の反響とでもいふべきもので、我々が今望んで居る革新そのものでは無い。群に指導者のあることは自然であり、又禮を言つていゝことかも知れぬ。黙つて附いて行けば大抵は無事であり、反對して見たところでさうかと言ふ人もあるまいが、それでもやつぱり物にはそれ/”\の係りがある。外交や軍事とちがつて今日の生活革新は、どれも是も皆さんの領分に屬する。意見を述べる述べないは場合によるとしても、假りにも疑ひがあつたらたゞ抱いて居てはいけない。自分が考へるなり人に問ふなり、成るほどさうだつたかとか、今はそれより外の道が無いとか、とにかく或一つの答へを得た上で、安心して共(5)共に進んで行けるやうに努めなければならぬ。單に世間でさうするから、人に言はれたからといふだけの理由で、無我夢中で附いて行つても結果は同じかも知れぬが、其精神的の價値は丸でちがふのである。革新は今が最終で無く、又決して是が最善でもない。いつかは第二の必要が起つて、比較と選擇とを許される場合には、曾て疑ひ又理解した人たちの判斷だけが、次の指導に參加することを得るのである。
 近世の日本のやうに、參考といふ言葉をよく使つた時代は無い。參考は單に今まで是と同じやうな場合に、人はどういふ處置をとつて居たかを、考へて見るだけの意味しかもたぬのだが、實際は我々はすぐにこれを御手本とし、その通りを眞似ようと努めて居た。しかも其參考は大部分、西洋の種ばかりだつたのである。國を急激に新らしくする爲には、さうする必要もあつたらうかとも思ふが、御蔭で其間に我々の祖先、日本人が日本の國土に於て、積み重ねて來た多くのよい經驗が忘れられてしまつた。至つて有りふれた前代の生活ぶりにも、もう若い女性の知らずに居ることが澤山ある。それを知つたからとてすぐに御手本と、いふわけにも行かぬことは無論の話だが、參考だけならばこの方が遙かに多いのである。人の一生のうちには困つたり迷つたり、相談して見ようにも他人も皆同じで、只うろ/\とまごつかねばならぬことも折々はある。斯ういふ場合にも私たちは、以前の日本人なら是をどう切拔けたらうかと、考へて見るのが普通であつて、めつたに西洋ではどうして居るなどと、先づ尋ねてかゝるやうな人は無いと思ふ。國の大きな込入つた問題の、ゆつくり研究してよいものでも同じことかも知れぬが、殊に生活の日常問題で、すぐにも何とかきめなければならぬものに、そんな遠方の參考を捜して居ては、大抵は間に合はぬにきまつて居る。折角數百年來の着實な經驗を貯へて居りながら、ちつとも利用の出來ない隅つこに、押込めて置くほど損な話は無い。國の歴史の學問の人生に役立つのも、實は大部分は此方面であつて萬一現在の「國史」がそこまで手が屆かぬやうなら、新たに擴張すべしとまで私などは思つて居る。たゞその知識を悠長なる話の種に終らせるか、はた又將來日本の安寧幸福の石ずゑにするかは、新たに疑問を提出する人々の心次第で、それ故に又私は出來るだけ時代に適切な、成(6)るべく多數の女性の境涯に共通するやうな、よい質問の出て來ることを期待するのである。
 
  (間) 民俗學はさういふ普通人の日常生活の、近世の變遷を明かにする學間なのですか。
 それだけに限つては居らぬが、それも包含せられ、又今日では重要な部分を占めて居ます。私などの目標は、弘く前代人の生活を知り、それがどういふ風に變遷して、今日の?態になつたかを明かにするに在りますが、其中では日常生活がわかり易く又興味が多く、一方には最近になつて最も激しく變り、且つ悉く考へずに居られぬ問題となつて居る故に、順序としてそれから研究者を導きたいと思つて居るのであります。普通人といふのは所謂インテリと對立させた言葉で、外國ではよく是だけに限つたやうに謂ひますが、私などはあまり此差別に重きをおきません。殊に日常生活の上に於ては、普通人で無いものは日本には殆と有りません。「近世の變遷」を主とする理由は無いので、能ふべくんば二千六百年の全部、或は其以前にも溯つて知りたいのですが、たゞ我々の方法が現在の事實を基礎とするものである故に、その基礎を十分に安全にした上で無いと、容易に中世以前に登つて行けないのであります。この點が古代史や考古學の行き方とはちがつて居ます。しかし終局にはどんな古い時代の生き方でも、明瞭になることを期して居ますから、目的に於ては異なるといふことは出來ません。
 
  (問) 女性の今日まで歩んで來た道を知りたいといふ場合にも、やはり民俗學の全體を學ばなければなりませんか。
 民俗學には全體といふものゝ無いことは、自然史や天文學なども同じであります。有るのかも知れないが、まだ誰にも圏を描いて是までといふことは出來ません。本來が記述の學問である故に、どの一部分を切つて學んでもそれだけの利益があります。たゞ其條件としては、最初に一通りその方法を呑込んで、是が安全なる知識であることゝ、其證明に何の氣遣はしい點も無いといふこと、つまり此學問に對する信用を確かめなければならぬだけで、それは格別(7)むつかしい準備作業でもありません。それからもう一つ、すべての生活現象は中心に於て一つになつて居る故に、經濟も藝術も亦信仰も互ひに交渉し又牽聯して居つて、部分だけを見てもわからぬ場合があります。うまく自分の知りたい事だけを、切放して知るといふことは出來ず、少しづゝ境の外まで出て行く必要もあることを承知しなければなりません。何の學問でも、是が若い人たちの知識の地平線を、廣くして行く道なのであります。
 
  (問) 民俗學を修めて居る人たちの著書を讀んだだけでは目的は達しませんか。
 斯うだと斷定してある本は甚だ危險です。民俗學は新らしい學問で、基礎の資料となるべき現在の事實が、次から次へと見つかつて來るのです。新らしい證據が出るたびに、今までの考へを改めなければならなかつたことが、私たちにも?ありました。故に是だけの證據が有るから、今は斯うとしか考へられぬが、他日新たな發見によつて、確かめられ又は覆へされ、或は多少の訂正を加へなければならぬかも知れぬといふことを、明かに示した書物ならば、自分で研究したのも大よそは同じです。又お互ひにさういふ態度をとつて、學問を協同のものにすべきだと、私は考へて居ます。それから又出來るならば、行く/\は今までに知られて居る資料も、是から新たに見つかるものも、すべて手輕に見くらべることが出來て、めい/\が之によつて考へて行けるやうに、して置きたいものと思ひます。人の書いたものばかり當にして居ると、自分の知りたいと思ふことには答へられず、今は入用の無い他の事を知つて、つい/\道樂の學問になりたがる傾きがあるからであります。
 
  (問) 歴史は是ほど澤山の本が出て居るのに、それを讀んでもなほ昔の事がわからぬのはどういふわけです。
 尤もな質問ですが、昔の人は、只斯ういふことだけが、後世の人々に役に立つだらうと思つて、書き殘して置いてくれたのです。ところが我々の知らずには居られぬことが、新たにそれ以上にうんと増加しました。つまり記録者の(8)豫測がはづれて、多くの問題が其外に現れたのです。どうして書き殘さなかつたかといふ理由は、我々にも大よそわかります。一つには普通尋常で、誰が考へてもまちがへやうの無いことは、書くのは無用だと思つて筆にしませんでした。しかも其當然なものが少しづゝ變つた、後は驚くやうな姿に改まつて居るのであります。たとへば神社の祭には參籠と謂つて、一夜半日を社殿で暮すのが、昔の世の普通であつて、行つて拜をしてすぐ戻るといふ樣なことは元は無かつたが、それがあまり普通であるので村の舊記にも見えず、今は却つてオコモリといふ語の殘つて居るのを不思議にして居ます。聟が嫁入の以前に三年も五年も、妻の家に通うて同棲することは、珍らしい風習だと思ふ人ばかり多くなりましたが、その嫁入を以て始まる婚姻こそ、却つて中世以後の新らしい變化であります。たゞ其樣な變化が起るであらうことを豫想して、前から有りふれた一般の常識を、書き留めて置かうとした人が無いだけであります。神祭りや婚姻の歴史には限らず、古人が書物にして殘したものだけを讀んで、目に立たぬ世の中の推移を知らうとすれば、大抵は肝要な點を見落します。政治や法令や災害や事變は、言はゞ非常の出來事であつた故に記録せられたのです。さうして歴史の學問の本來の用途も、實は昔は斯ういふ方面に携はる人々だけの、參考になればそれでよかつたのであります。
 
  (問) そんならどうすれば我々の昔の事がわかるのです。
 書いたもの以外にもまだ我々の以前の生活を、傳へて居るものがあるのに心付くこと、是が肝要であります。其中で誰でも知つて居るのは人の記憶で、多くの可なり大切なことが、少しも文字の助けを借らずして、一家一村の中には暫くは保存せられて居ります。たゞその記憶は誤り易く又人の一生は短いものである故に、通例さう遠い昔まで、及び得ないといふ憾みがあるだけであります。次には記憶は既に絶え失はれても、形見といふものはなほ久しく殘ります。人類學や考古學で、遺物追跡と名づけて居るもの以外にも、その記念物は最も多種多樣であり、又非常に遠長(9)い年代に亙つて居ります。たとへば家々に今も持つて居る古い家具農具類には、使ひ方は素より、時としては名前すら記憶せぬものがあつても、とにかくそれを見れば人がそれを考へ出し又製作し、之を持つて働く必要があつたといふことだけは推測することが出來ます。今まで我々の注意に上らなかつたが、古い民族は斯ういふ前代生活の記念物を、數限りも無く持つて居り、其中には形は目に見ることは出來なくとも耳に聽いてわかること、乃至は直接に心が觸れて、會得し得るものが幾らでもあります。或は是を總括して、書外史料と名づけてもよいかも知れません。民俗學の方法は先づこの文字によらぬ史料を整頓して、それ/”\の眞價を見究めることにあるのです。
 
  (問) いくら多くあつてもさういふ史料の眞價は、大抵は低いものと思ひますが如何です。
 遺物は勿論證文や覺え帳の如く具體的でなく、見やうによつては其一つ/\の意味は、どんな風にも解し得られますが、それは史料が古文書の如く、一つの問題にたつた一つしか無い場合に不精確なだけで、我々はさういふ心細いものは證據にしては居りません。どこを誰が捜しても何度でも見つかり、又是からでも採集して人に示すことの出來るやうな、つまり實踐し得るものを利用すればそれでよいのです。この材料の取扱ひ方には、上手下手もあれば精粗もあつて、是からもなほ攷究して見なければなりませんが、ともかくも今日ではその蒐集が大分進み、又分類も出來て居りまして、人がその證明方法に就て不安を抱くほどに大ざつぱなものではありません。たゞ遠くから話を聽いて居る人が、檢査もして見ないで信用を躊躇するだけであります。
 
 (問) 本を讀んでも讀んでも、まだ學ぶことの出來ない國の昔、生活の法則といふやうなものがあつて、それは世の中を見なければわからぬとしますと、私たちは一體どうすればもつと賢くなれるのですか。
 禅宗問答のやうな答へですが、さうお思ひになることが、早もう一歩だけ賢くなつて居られるのです。人生の觀測(10)には機械も無くまた社會事實の採集には、胴亂や捕蟲網のやうなものは要りません。手帳も實際は無くてすむ場合が多いのです。單に我々の日常生活の中に、まだ/\昔の生き方の傳はつて居るものが幾らも有るといふことを認め、少しづゝそれを粗末にしない習慣を養つて行かれるならば、それだけでももうあなた方の採集は始まつて居るのです。本にあんまり力を入れると、却つてうか/\した人になりがちです。どんな淋しい家庭でも、年寄が居て思ひがけぬ話をしたり、又はさういふ老人などからの影響を受けた友だちが遊びに來たりします。書物に代るべき意味の深い史料が、さういふ話の中にも埋もれて居るといふことを、氣づかぬ人だけが空漠を感ずるので、人生は決してそんな無價値なものではありません。
 
  (間) 民俗採集がそれほど手輕な、また手近なものならば、どうして皆さんはそれを捜しまはりに、遠い處まで旅行をなさるのです。
 人がめい/\に持場々々によく注意するやうになりますれば、斯ういふ採集旅行の必要はずつと少なくなります。實際はあまりにも過去の生活文化に無關心な人が多い爲に、代つて彼等の爲に考へる役が入用なのです。それを我々は研究家、又は學者とさへ呼んで尊敬して居ます。この學者の人數が少ないといふことは大きな苦しみであります。成るたけ多くの仕事を一生のうちにして置かうとして、努めて問題の濃く繁く殘つて居る地方に出かけ、又今まで氣づかずに居た問題を拾つてあるかうとして、手帳を付けたり報告したりします。それが採集といへば必ず島や山村へ、旅行をすることのやうに思はせた理由であります。
 
  (間) どうしてそんな邊鄙な土地へ行かなければ、良い採集が出來ないのです。
 是は民俗學の基礎ともいふべき、大切な一つの事實と關聯して居りますから、爰で説明して置きませう。我々が新(11)文化などゝいふ名で呼んで居る新らしい生活樣式、又は物の見方考へ方は、先づ中央の都市に起り、若くは交通の線を傳はつて、人の多く集合して居る土地に浸み込んで行くことは、昔からくり返して同じでありました。田舍の隅々とても、しまひには是にかぶれることになつたであらうが、距離によつて遲速があつた上に、途中の障碍物が日本には色々と多く、海を渡り又は山坂を越えて行く處では、可なり久しい後まで元の形でまだ殘つて居る。たとへばランプがやつと此頃、入つて來たといふ島さへあります。無形の精神生活の方は、感化が少ないからなほのことおくれたものが多いのです。大都會のまん中でも注意深くして居れば、古風な家庭や開けない人といふものはきつと有る筈ですが、めぐり逢ふことが決して容易でない上に、まはりの人たちが皆一樣にさうでない爲に、安らかにはそれが發露しない。つまり非常に同情のあり察しのよい者でも、之に觸れることがむつかしいのです。我々が所謂新文化の影響の、少なさうな區域を捜すのはその爲で、同時にそれが飛び/\に、各地縁もゆかりも無く殘つて居る場合が多いところから、偶然の變化でないといふことが比較によつて追々に明かになつて來る便利もあり、又甲の前は乙、乙の前は丙であつたといふ順序を、突留めることも出來るのです。だから少なくとも若干の主要なる民俗事實が、あなた方の常識になつてしまふまでは、この採集旅行家の精確な記録といふものは、非常に貴重なのであります。
 
  (間) その採集記録の精確不精確を、判定するのは誰ですか。
 是は利用者が自ら判斷するので無ければ、不便でしかたがありません。しかも少しく馴れると格別むつかしい仕事でもないのです。大體にあまり珍らしい事實で、一つしか例の無いものは、一應は疑つてかゝる方がよいのであります。しかも何かの際には思ひ出せるやうに、別の手帳などに書留めることに私はして居ります。間ちがひ又は作り事で無いならば、いつかは他の土地からも似寄りの事實の、現れて來ぬことは先づ無いのであります。それがほゞ安心の出來るほどに、幾つか例が集まつた上で、始めて信じても遲くはないのであります。それから今一つ、一度でもあ(12)やふやなことを誠らしく、報告したことのある人の話は警戒して聽きます。こはいのは誇張と曲解とであつて、單に其點ははつきりせぬといふ程度の不完全さならば、採集した日と場處と相手さへわかつて居れば、再び確かめに行くことも出來るのです。とにかくに特に計畫を立てゝ調べに行つた人の採集には、聽き殘して來るといふことはあつても、おまけを添へるといふやうなことは先づ無いのですが、單に旅行の序に見聞したとか、人の話に連れて思ひ出したとかいふものには、あぶないものが多いと思はなければなりません。?よい暗示は提供するにしても、證據として援用することは出來ません。私たちが積極的採集を重んずる理由も茲に在るのです。
 
  (間) さういふ眞面目な旅人の觀測と、私たちの小さな取止めも無い經驗とが、どうすれば聯絡付けられるかといふことが、まだはつきりと致しません。
 いかにも今までは聯絡が付いて居ませんでした。あなた方の惱みは惱み、旅をして來た男たちは男たちと、別々に話をし合つて居る樣な嫌ひがありました。つまり此世の中には人を覺らしめる新らしい知識、少なくともはつと心付かしめる暗示といふものが、既に存在して居たにも拘らず、之を利用する方法が與へられなかつたのであります。しかし溜まるものは自然に溢れます。明治以來さういふ記録が追々に多く集まつて、一部は可なり目に立つ程になつて居るのですが、人はまだ尋ねてもどうせわからぬものといふ、初一念に囚はれて居ります。新たに一つの學問を起す爲には、この切れ/”\の散らばつて居る資料を、ほゞ系統立つた又捜しやすい形に、纏めて置くことが必要な支度だと思ひます。さうして今日はその整頓分類索引の仕事も、既にぼつ/\と始まつて居るのであります。是が片端でも既に世に出て居るのですから、皆さんの生活上の疑問は決して孤立のものでなく、他ではどうして居るか、又は昔はどうして居たかが、知らうと思へば或程度までは知れるわけなのであります。私が斯ういふ問答體を以て、一通りは人生を理解する道を説明することが出來ると思ふのも、片方にやゝ整理せられたる證據材料が備はつて來たからであ(13)ります。
 
  (問) その民俗資料の分類といふことを、今少し詳しく御聽かせ下さい。
 所謂採集旅行家の手帳は、みな眞黒になつて居て、永く時が經つと自分にも讀めなくなります。我々の仲間ではそれを成るべく早く自分にも印象のまだ鮮かなうちに、互ひに發表して公共の財産とするやうに心がけて居ます。分類の必要が先づ感じられます。分類をしないと比較が出來ず、殊に、時と處とを異にした多くの觀察の一致して居ることを確かめることが出來ません。この分類は細かなほど價値が多いので、我々はいつと無くそれに力を入れるやうになりました。大體に今日採用せられて居る方針は、最初に大きく三つに分けること、第一には目で見たもの、寫眞にとれるもの又は品物の持つて來られるもの、是が一ばん得やすいので、順序として先づ注意することにして、之を有形文化などといふ名で呼んで居ます。第二には主として耳で聽いて來るもの、民謠や昔話や謎やことわざ〔四字傍点〕の他に、人が言葉によつて取傳へ又引繼がうとしてゐる全部のものを含ませ、之を言語藝術だの口承文藝などと呼ぶのです。第三は最も採集のむつかしく、しかも一番大切なものとして、人が心意の中に保存して居る上代からの習はしがあります。是も形で顯れ言葉によつて汲み取られるものではありますが、結局は其の奧の奧から、窺ひ又感得しなければならぬものが澤山にあるので、古來信仰とか道義とか、又は願望とか趣味とかいふ總括的の名で、人によつては折々全くちがつたものを知り又は説いて居たのです。それが日本では現實にどんな姿で殘り傳はり、又は如何なる痕跡を留めて居るか。是を見遁してはならぬ大切な問題として、我々は注意して居るのであります。出來るだけ具體的に、事實を皆樣に取次ぐ爲には、それを又細かく小別して、且つ適當に順序を立てゝ排列する必要があります。近年「民間傳承の會」で出版した婚姻習俗語彙とか服装習俗語彙とかいふ類の幾つかの分析民俗語彙は、まだ/\不完全なものではありますが、目的は全く斯ういふ方面の既に採集せられた資料を、見つけ易い形にして世の中に提供しょうとし(14)たものであります。
 
  (問) あの分析民俗語彙を拜見しますと、何だか民俗學の人たちは言葉ばかり珍らしがつて居られるやうに見えます。地方の方言ばかりを拾つて來て、それを民俗學の仕事だと思つて居るやうな人を、作る心配はありませんか。
 土地々々の言葉は簡單に昔の事情を説明するもので、是によつて忘れかゝつて居る古い人の氣持がわかることも多く、決して粗末に取扱ふことは出來ませんが、それを覺えたゞけでは民俗學にならぬことは勿論です。我々の協同して知らうとし、又行く/\は之を人生の常識ともしたいと念じて居るのは、其言葉によつて代表せられる物又は事實そのもので、ただ簡便にその物なり事實なりを記憶し又は援用する爲に、しば/\その方言を用ゐるだけであります。言語學で方言の生れたり改まつたりする路筋を考へるのとは、區別せられねばならぬと思ひます。但し一方には又日本人の間に、特別な言葉が必要になり、それを誰かゞ考案し他の多くの人が承認し採用したといふことも、亦一つの民俗學上の事實であつて、しかも其方言より外には其事實を尋ねて行く路筋手段の無い場合も毎度あります。それで我々は如何なる蕪雜な方言集でも、必ず一通りは目を通して置くだけで、方言そのものを研究することは、又全然別途の學問だと思つて居ります。尤も一人でこの二つの學問に携はることが、何かにつけて都合がよいといふ位のことはあるかも知れません。
 
  (問) それでは一言でいふと日本民俗學は、日本人の中に昔から持傳へて居る三通りの特徴を、方言を取材して拾ひ集めて置く學問だといふことになりますか。
 學問はしば/\其方法の他とちがつて居る點に依つて、定義づけられることがありますから、さういふ風に謂つても誤りとまでは申せませんが、少なくとも目的は其奧に在ることだけは認めなければなりません。學問の目的は結局(15)は一つ、人を今よりも賢こくするといふことに歸するでせうが、民俗學に於て望まれることは、前に列擧したやうな事實を精確にすることによつて、之を手段として日本人の經歴、即ちどういふ生き方をして世を渡つて來たか。今日目前に見るが如き社會?態には、如何なる順序を踏んで到達したか。眞直ぐに進んで來たか、はた又紆餘曲折して、しまひには斯うならずには居られなかつたのか。少なくとも原因の内に在るものだけは、手掌の上に取つて見られる樣にしたいといふのが、我々の志であります。これは固より容易な事業ではありませんが、とにかく其目標を前に掲げずに、たゞ/\資料となるべき事實の蒐集だけに力を入れて居ると、惡くすれば無意味な物知りを養ひ、又は或る一部分だけに詳しく、それに誇つて他を省みない人を作る虞れがあります。我々の資料は豐富であり又繁雜である故に、整理利用の必要から分類をして置くだけで、もと/\孤立したものなどは一つも有りません。大か小か底でか表面でか、必ず互ひに交渉し又牽聯して居ります。所謂一を知つて他を知らずに居ることは、無益の骨折であり又時としては有害でさへあります。だから皆樣も常に斯ういふ大きな人間の努力の、たゞ一端に觸れて居るのだといふ謙遜な心持を失はず、終には完成するであらう學問に對して、信頼し期待するやうな態度を持ち續けなければなりません。其意味からいふと、たゞ方法だけに即した手輕な定義は、實は少しばかり不安なのであります。
 
  (問) 私たちの伺ひたかつたのは、實は主として家を治める道、たべもの着ものから家庭の幸福、親に仕へ子を育てるといふやうな女の勤めに就いて、日頃の迷ひを晴らす教へが得たかつたのです。お話の樣子では、民俗學の抱負は大き過ぎて、何だか斯んな日常の問題は輕く取扱はれてしまひさうな氣がしますが、どういふものでせう。
 それは大きな又迷惑な誤解です。よく考へて御覽なさい。大多數の日本人が、毎日ひま無く考へて居た問題は、どうして食べ又は着て行かうか、如何にして無難の日を送らうかといふことが、昔から今に引續いて、實は九割以上を占めて居るぢやありませんか。それが現在は更にむつかしく又やかましくなつて來て居るのです。生活考察の重心が(16)こゝに置かれて居ることは、ちつとも不思議ではありません。學問はこゝを出發點として、最初から出て行くべきであつたのを、寧ろ少數の之を輕んずるやうな人たちに、まかせて構はなかつたのが惡いのではありませんか。たゞ有形無形のあらゆる文化は絡み合つて居ることを忘れて、一つの事ばかりを詳しく知つて居ればよいといふ風に、あなた方を勉強させたのは誤りだつた。終局は國の同胞が一人殘らず滿足するところまで、この問題は成長させて行かなければならぬといふことを、胸に持つて始めるか否かゞ岐れ目です。練習は誰だつて皆毎日の身のまはりの、小さな問題から始めて行くのです。さうして少しでも過去の知識が明かになれば、追々にさういふ問題は問題で無くなり、之に代つて新たなもつと深い弘い疑ひが生れて來るといふことを經驗して行けば、それで人生の前途は開けるのです。ですから先づどんな問題でも提出して御覽なさい。多數の日本女性が共通して、抱いて居るやうな疑問を見せて下さい。もし答へられなかつたら我々も一緒になつて、もつと努力して是からもそれを考へて見ます。
 
  (問) 民俗學がその最も重要な資料として、眼の前の生活事實に注目するわけは判りました。さうすると今和次郎先生などの説いて居られます「考現學」といふものと、何だか大へん近いものゝ樣な氣がしますが、それでよろしいのでせうか。一つこの境目を説明なすつて下さいませんか。(伊勢稻子)
 兩方の學問が、ほんの今少し前へ進めば、差別は自然に明かになるのですが、現在はまだ採集の區域が時々かち合ふ爲に、同じ仕事に、二つの名が付いて居るやうな感じを、與へることがあるといふだけです。目的からいふと、こちらの方が大分狹いと言へるかも知れません。民俗學も同じく現世相に對する疑惑から出發はしますが、主として其原因の國の歴史の中に在るものを探らうとするのです。昨日も今朝も過去だから歴史として取扱へばよいやうなものですが、そんな必要が無いから通例は歴史の中へは入れません。前からの連續が切れ、くり返しが止まつて、棄てゝ置けば忘れるかも知れないもの、又現にもう忘れかゝつて居るものだけを、我々は歴史と呼んで居り、それを明かに(17)しようとして居るのです。だから時が遠くなるほどこの知識の必要は大きくなります。しかし世の中の變り方が激しい時代には、つい此頃の事でも皆さんは忘れてしまはうとせられます。それ故に歴史が目のさきにぶら下つて來て、所謂考現學と入込みになるのです。但し考現學の方でも、原因が歴史に在るとわかれば尋ねるのを止めるといふことはありますまいが、兎に角に何が原因であらうともすべて探つて見ようとして居ります。之に反して日本民俗學では、日本だから起つたこと、以前の日本人の生活ぶりが元になつて、現はれて居る世相だけに限つて問題にしようとして居ますのは、もと/\その國柄なり民族性なりを、明かにしようといふ願ひから、始まつた人生觀察だからであります。この點は生理學や心理學が、文化研究の爲に働いて見ようといふ態度ともよく似て居まして、つまり我々は深く入つて行く爲に、幾分か入口をわざと狹くして居るのです。考現學といふ名は新らしいが、理想はおしまひにすべての解説を綜合せんとして居ると思はれますから、是は完成した社會學の別名と解してよい棟です。
 
  (問) 方法殊に資料の取扱ひ方又は集め方に、民俗學と今いふ考現學との差別が有りさうに存じますが、如何ですか。(同じ人)
 それは確かに有ります。一部分だけを見ると、同じ樣なことを穿鑿して居る樣に見えるか知れませんが、目の着けどころが少なくとも今はちがつて居ります。所謂有形文化の種々相は、民俗學に入つて行く人々も最初に興味をもちますが、是は入口であつて其奧にまだ尋ねるものが有るのだといふことを皆考へて居ります。目に訴へる物質界の異變は資料の三部門のたつた一つだといふことを私などは飽きずに説いて居ます。是が第一の差です。第二には元はどうだつたか、いつから是が始まつたらうか。どうして斯ういふ風に改まつたらうかといふことを、すぐに次の疑ひとして尋ねようとする習慣を我々は養つて居ます。即ち時の推移といふことを大きな要素にして、現代を考へるのです。從つて第三に、今はもう無くなつたものを、現に眼の前に在るものと同じやうに注意します。今は無くなつたといふ(18)のも或場處でだけの話です。どこかにまだ一つ前の姿が、殘つて居る場合が多いことを知つて居りますから捜します。即ち有りふれた顯著なものに目を留める代りに、幾分か珍らしくなりかけたものを拾ひ出すやうな仕事に力を入れるのです。しかし珍らしいとか珍らしくはないとかいふのも比較の上のもので、結局は甲から乙丙へと改まつて行く、歴史の過程を明かにするのが本意であります。たゞびつくりする樣な無類の事實ばかりを、見つけたり書き立てたりしようとするのは、我々から言へば外道で、それではいつになつても隨筆道樂の嘲りを免れることが出來ません。この點はもつと實例が出て來れば自然にわかることですから、あなたも遠慮無くもつと小さな問題を出すやうにして下さい。
 
  (間) 女の生活の中で、近頃一ばん目に着く變化は何と何でせうか。(榎本雪)
 是はよい質問です。さういふ風に聽くことは、人生反省の爲に必要でさへあると思ひます。但し私は必ずしも最上の應答者ではありません。家に又は親類に、物わかりのよいお婆さんでもあれば、きつと私以上に適切に答へてくれられるでせう。さういふ人たちの言葉を集めて見るのも面白いと思ひますが、試みに私が其代理をつとめて見ませう。「一ばんに」と言はれるとちよつと決しかねますが、女が髪を切つたのなども小さくない變化でせうね。昔は「そぎ尼」と謂つて尼になる女までが、殘せるだけは毛を殘さうとしました。のぼせ性の婦人は中剃りをしたり、又は片端をそいだりする風も早くからありましたが、なほ髪のたけ〔二字傍点〕の長さだけは命にかへて惜んで居ました。以前泰國の王妃が散髪で來られた時には、まだ日本中の女たちは、御寫眞を見てあきれ返つて居たのでした。それが十年ばかりして西洋でも始め出したら、日本でも程無くあたり前になつてしまひました。良いとか惡いとかは私には言へないが、是などはとにかく革命に近いものでした。世界中が斯うだといふことは、大きな力だなと私は感じたことです。一人ですれば氣ちがひ沙汰のやうな事でも流行となれば平氣で女がするといふことを、これほど明かに證明したものは他に(19)は無いでせう。女が外部の力に負けやすいといふ實例は、無論昔の方がもつと多かつたのです。ちやうど反對の場合は女房白齒ですが、是もお齒黒といふものを止めた當座は、年寄や良家の夫人たちは、昔をなつかしがつて歎思して居ました。沖繩の女性の手の入墨、支那の纏足なども皆同じことで、最初から斯うだつたので無いから、すべて或時代の新らしい風習が固定したのです。後には再び元へ戻すやうな風習にも、悦んで附いて行つたといふ點だけは、昔も今も變ることが無かつたのであります。さうしてそれが普通である期間だけは、問題にしようとする者が無いのであります。
 
  (問) 古い時代の生活樣式で、そのまゝ今日まで殘り傳はつて居るといふのはどんなものがありますか。それを私たちは先づ知つて居りたいと思ひます。(杉野えい)
 是は見やうによつては民俗學の主たる目標とも言ふことが出來ます。久しく保存せられて居る生活樣式は適當だからとも見られ、又古いといふこと一つからでも、大切にし且つ注意しなければならぬわけですが、實はそつくりと昔のまゝに變らずに殘つて居るといふものは中々見つけにくく、大抵は他の新らしいものと、組合せになつてばかり、しかもほんの片隅に傳はつて居るのです。御互ひに精出してそれを見出さなければなりません。さういふ中でも有形文化、殊に衣食住といふ類の風習は、變らずには居られぬものでありました。ちやうど髪かたちの御話が出たから其方の例を引きますが是は決して近頃のボッブや雀の巣が最初で無く、昔も何遍か老人のたまげるやうな改良か改惡かがありました。たま/\遠い田舍などに殘つて居る昔風とても、やはりその何囘目かの改革の名殘であります。しかし近世に入つてから變化が急に激しくなつたといふことと、それに若干の方針又は傾向があり、又根本の動かし得ないものがあるらしいといふことだけは認められます。髪と履物とは、女性の個人自由が比較的許される部分であつた故に、動搖が多く、從つてその中心が察し易かつたのです。簡單な言葉でいふと女が働かねばならぬかどうか、又は(20)その勞働の種類によつて、髪の形はかはつたのです。髪と被りものとの關係が先づ最初に考へられます。日本の女ほど頭をむき出しにしてあるく者は珍らしいが、是は土地が亞熱帶だからといふわけでもない證據には、前には笠もカツギも盛んに行はれて居たのみならず、田舍には却つて布片を頭から離すまいとして居る人がまだ多い。都會の女とても働かなかつたわけではないが、少なくとも日に照られる下で塵埃の立つやうな仕事には携はつて居ません。さうして周圍には鳥の羽の如く、鬢を突張つた色々の髪の結ひ方が流行して、其眞似をするにも差支へが無かつたのです。是に被りものをしたのでは、折角の髪がむだになるといふ以上に、被らずとも大抵はすんだのであります。それで手拭の姉さん被りも追々と珍らしくなり、代りに目の細かい梳き櫛などが入つて來ました。面白いのは子守の女だけが、一つの手拭の被り方を守つて居たことで、是が八重山黒島の黒島口説の踊り女と同じでありました。女房の鉢卷なども都會では、御産か夫婦喧嘩の繪にしか見られぬやうになりましたが、髪の亂れるのを防ぐためならば、もつと必要な場合が他にもあつた筈です。僅か傳はつて居る繪や書物に依つて、斯ういふ問題を知らうとするのはむだな事であります。尋常多數の働いて居た婦人の姿などを、描いて殘したものはめつたに無いからであります。しかも一方には現在のやうな斷髪流行の時代にも、まだ色々の髪の處理法が、隅々を捜して見れば見つかり、それが少なくとも近頃の風で無いことだけはわかるのであります。細かな種類は私には列擧できませんが、大體に鬢や髱を張つた所謂鬢取髪に對して、卷髪又はツクネ髪といふのが皆それで、是にも時々のはやり好みはあつたかと思ひますが、何れも手輕に自分で取上げられ、又斯うして置けばどんなにきつくでも頭を包み、どんな笠でも被ることが出來たのであります。即ち少しづゝの形のちがひはあつたにしても、とにかくにどんな働きでも出來る髪といふのが、一貫して古くからのものと言へるでせう。但し頭を布片で包むといふことが、決して塵防ぎ、亂髪抑へだけでなかつたことは、婚禮の綿帽子や葬式の袖かぶりを見てもわかります。それが折角飾り立てた鬢取髪をこはさぬ樣に、段々と輕い小さなものとなり、たうとう丸つきりの裸頭を禮儀とする迄になつたのは、新らしい變化でありました。なほ手拭といふものゝ使(21)ひみちのかはり方、履物の問題などもありますが、長くなりますからそれは又別に問ふ人があつた時にしませう。
 
  (問) 各地のやゝ普通で無い風習を拾ひ出して、それを前代生活の名殘だと斷定するといふのは、何だか又一つの推理法を要する樣に思はれてなりません。果して御話の通りに、自然に明かになつて來るものと思つて居てよいでせうか。(朝海清子)
 それが民俗學の今まではあまり進まず、是から漸く發達して行くであらう分れ目なのです。とにかく私などは、別に最初から守らねばならぬ金科玉條のやうなものは無いと思つて居ます。たゞ私は「かも知れぬ」といふことを平氣で言ひ、又「自分は斯う思ふがあなたの御考へは如何」と言つて人に考へさせますが、今までの學者はもつとはつきりと、信じて疑はぬやうな口振りで、説かねばならぬものと思つて居たらしいので、其爲に餘分に臆病にもなれば、又時としては餘分に大膽にもなつて居たのです。強ひて言へば此點が流儀のちがひでせうが、學問はさき/”\進んで行くべきものです。今考へて居ることがすべて當つて居るならば、暗記より以外にもう學問は無いわけぢやありませんか。民俗學は、つまり一つの進み方です。それも從來この方面は捨てゝあつた故に、こゝから入つて行けばきつと獲物が多いだらうといふ、大きな希望を抱いて進むといふまでゝ、其希望は裏切られなかつたのみならず、更に意外な發見さへもあつたので、日本は或はこの學問のもつと/\、發育すべき國では無いかと思つて居るだけであります。それからもう一つ是も今までの流儀とはちがふかと思ひますが、私は人間社會の事物に無意味なもの、尋ねて其原因のわからずじまひといふものは無いと信じて居ます。さういふ中でも甲乙丙丁の、直接縁もゆかりも無い離れた土地に、同じ又は類似の事實の見出されるといふことを、此上も無く重要視します。それが數多く重なつて居るのは、元は一般がさうであつて既に改まり、たま/\それ等の土地だけに消え殘つて居たものと一應は推定します。さうで無ければ他に偶合の理由が無ければならぬのですが、それはまだ全く考へられぬからであります。ところが最近は國内の各地に、斯ういふ現象に氣を付ける人がよほど多くなつて、大抵はよその例を知らずに、自分の土地の事實を記録(22)し又は報告するやうになりました。是を突き合せ考へ合せることは、なぜだらうといふ疑ひを抱かせずには居りません。假に所謂殘留で無ければ、必ずもつと興味の深い原因があるわけです。御蔭で民俗學は自然に起り又盛んになつて來ました。私は曾て或地の講演で、この快く悦ばしい?況を、池に色々の浮草の花咲く光景にたとへて話をしたことがあります。紅白黄紫入り亂れて水面にあやを成しますが、同じ花には同じ根があるものと、大よそは推測し得られ、泥をかき分けてもとを探らずとも、たぐればおのづから一つの蔓だけが寄つて來ます。その蔓をたぐるやうな仕事が、あなた方の民俗學なのであります。私たちとしましても、自然の疑ひを指導者とし、且つこの方法に信頼するといふ外に、別に餘分の心構へをもつて掛つて居るのではありません。
 
  (問) もう一つの疑ひは、民俗學を殘留の研究だと定義する學者が英國などにはあると聞いて居りますが、古い生活樣式の現代に殘留するのには、前以て明かにして置かねはならぬやうな、一定の法則が有るのではありませんか。それがまだ判つて居ないのは一つの不安です。(同じ人)
 其法則は有るらしく思はれますが、是とても澤山の所謂殘留、Survivals を見くらべた上で無いと、確かなことは言へません。日本は幸ひに資料がまだ多いので、此點にかけても他國に參考となるやうな發見が出來さうです。Hodgen といふ婦人の殘留論といふ本が一册、近い頃に出て居ますが、是を見るとタイラア先生以來、殘留に關する學者の考へ方も、大分變つて來て居るやうです。未開人の間に見られるやうな純な形で、昔のものが殘つて居ることは有り得ないと共に、斯ういふ進んだ世の中になつてまで、なほ消え果てることが出來ぬといふ所に、内か外かの力強い支持が必ずあつたわけで、偶然の忘れ殘りといふものがあるかの如く、思つて居たのは誤りかも知れません。しかし實地に當つて見ると、その支持力といふのも千差萬別で、豫めこれを机の上で想定することは出來ないのです。たとへば子供が無意識に、むかし大人たちのしたことを眞似つゞけて居る面白い例が、我邦にはまだ幾つとも無く見出さ(23)れ、彼等の遊戯を通じて、祖先の至つてまじめな信仰が推し測られるのも一つの殘留形式であります。日本がさうなら外の國々でも、痕跡は幽かでも、やはりさうだらうと見ることが許されます。從つて觀察の態度もかはらなければなりません。殘留を注意深く見て行くことは必要ですが、最初から是に關する法則を、きめてかゝらうとするのは無理であり又不利益でもあります。
 
  (問) 庶民階級の婦女子が、文學といふものを生活の中に取入れて來た變遷。(北川つるゑ)
 是も一度は考へて置いてよい問題です。最初に知つて居らねばならぬことは、ブンガクといふ言葉が一般の日本語になつたのは、ごく新らしい明治年間からのことで、其以前は漢學青年のみの口にする、漢詩文又はそれに携はる藩の先生を意味する語であつたことです。小説・劇又は戯曲・短歌俳句なども、すべて同樣に皆四五十年來の新語で、もとは普通の人がこれを知らなかつたのであります。女には限らず、男でも手習ひに行つて覺えるのは、五百か六百の毎日入用な言葉だけで、その以外は知る折が無く、使ふ折はなほ更ありませんでした。現に新小説といふ雜誌が出てから後にも、之を見て或書生が、シンコセツと讀んだことを私は覺えて居ます。しかし斯ういふ新語を知らぬといふことは、勿論決してその内容になるものを持たぬことを意味しません。寧ろその反對に昔の女たちは年とるまで、歌や「小説」を愛することは今の人に超えて居りました。たゞ其方法が異なつて居たのみであります。たとへば、是もさう古くからではないが、草双紙といふものは繪が一ぱいで、且つ殆と全部の文字が平がなで書いてありました。それを女たちは自分で區切りをつけて、讀んで樂しんで居たのであります。それからやゝ漢字のまじつた本は、振がなをたよりに讀んでよく理解し、又其ついでを以て追々と漢字を覺えました。それが今日まで新聞や雜誌が、ルビを附けないと親しみが無いやうに、感じられる癖を付けたのです。それから以前の人は聲を出して本を讀みました。それで一人が讀むと他の多くの者が面白く聽き、平がなさへ讀めぬ者までが、一同に今いふ文學を、味ふことが出來ま(24)した。是は文字の教育が普及せぬ以前、人が暗誦をして口から耳へ、承け繼いで居た名殘と私たちは見て居ります。さうして文學は元來文即ち文字で書いて讀むものゝ名ですから、二つは別であり、一方は文學とは言へないわけですが、便利の爲に我々は之を口承文藝、即ち口で傳へる文藝と謂ひ、その二つを總稱するときには文藝と呼びますが、成立ちがちがひますから耳で聽く方のものだけを、特に民間文藝とも申して居ります。民間にも可なり古くから、少しは文字で書いた文藝も傳はつて居ましたが、この方は新たに出來る書物と引くるめて、記録文藝といふことにして居ります。普通皆さんの文學と謂つて居られるのは、この記録文藝のことでせうが、それが庶民階級に取入れられたのは小學校教育、殊に其教育が少しでも效果を擧げた、ごく近年からの事と見て誤りはありません。
 
  (問) 雜用の多い家庭生活の中に、女は如何にして文學に親しむ時間を見出して來たものでせうか。(同じ人)
 民間文藝の起りは、見霞むほども遠い/\大昔にあります。最初は何か心の改まつた一定の式日だけに、之を聽く定めだつたのでは無いかと思つて居ますが、人が是を樂しみの爲に、自由に望んで聽き、又はその機會をこしらへようとしたことも、決して近い頃からではありません。即ち文字の讀めるやうになつたのは新らしくとも、文藝が平民の心を養つたのは久しいのであります。本を讀む爲には光を要します。夜は燈の火をかゝげなければならず、又片手は少なくとも二宮金次郎のやうに使はなければなりませんが、耳を働かすのには人々が近よつて居ればよかつたのです。さうして昔の母や姉の勞働は、考へながらでも續けられるやうな定まつた仕事ばかりでした。その仕事には二つ以上の種類があつて、いはゆる口承文藝は其場合に應じて、いろ/\と取替へて用ゐられ、又味はれて居たのかと思ひます。詳しい説明は爰では出來ませんが、先づ多勢の男女が協同して、力を揃へて働かねばならぬやうな仕事には、今日民謠と呼んで居る仕事唄がありました。廣い野に出て草を刈り、又は隣どうしで田を植ゑて居るやうな場合にも、聲を張り上げて互ひの心の悦び悲しみを、思ふ人に聽かせようとしますが、是が日本では殊にすぐれた藝術でした。(25)少年少女も傍に居て聽いて居るうちに、段々によい歌ひ手になり又作者になりました。之に反して一人々々がちがつた仕事をして居る時には、歌をうたふとあたりの人の邪魔になりますから、ずつと聲を落して、さし支への無い者の間だけで話をしました。その話も大部分が、昔の世に於ては文藝でした。内容以上に話す形や、題目の選び方に技藝があつたからであります。夜分になると家々の仕事は、皆靜かな單調なものになりますから、多くの人數でこの話を聽くに適しますが、女はよほど年よりになるまでは、いつも聽き手の方にまはつて居て、民謠のやうに自分では演奏しませんが、しかも之をよく記憶して、又次の代の若者に引繼ぐのは、大抵の場合には女性でした。其中でも昔話といふものが、最も多く文藝の本質を備へ、時としては千年も千五百年も前の、まだ全然文字の利用が出來なかつた頃の古人の樂しんだものを、そつくりと保存して居ります。昔話をすることの出來る人の數は限られて居ましたが、女は一般に之を聽くことを悦び、且つ大きな影響を受けて居たことは、證明をして見せぬと恐らくあなた方の信用し得ない程度であります。分量が少なかつただけに、效果は昔の口承文藝の方が、今よりも遙かに大きかつたのであります。この以外にも謎とか「たとへごと」とか物の名の付け方とか、口の言葉の藝術はまだ色々ありますが、是は利用の範圍がやゝ限られて居ります。今日の記録の文藝と繋がり續いて居る最も有力なものは、昔話と是に最も近い色々の「かたりもの」との二つで、二つともに今なほ一字も讀めない人までが、感動もすれば暗記もして居るのです。文學といふ言葉を廣く解するならば、女たちが是に親しむ時間は、昔の方が却つて今よりも豐かだつたのです。昔無かつたものはなまにえ〔四字傍点〕の飜譯文學だけであります。
 
  (間) 昔の子供はどんなお話を好んだでせうか。昔の子供の話と今のお話とが變つて居るとすれば、それは子供の興味が移つたからでせうか。但しは大人の意圖によつたものでせうか。(花信風)
 この御尋ねは童話の問題と思ひますから、昔話のことを申した序を以て答へて置きませう。ドウワといふ語もやは(26)り新語ですが、子供向きの昔話といふものは、もう可なり古くから有つたやうです。しかも近年は子供以外の者が、昔話なんか聽かうとしなくなりまして、いつと無く昔話の全部を、童話だと思ふ人が多くなつて居ますが、その一つ一つを見て行くと、最初から小兒用に出來たものでないことがよく解ります。多數の昔話は男女の道、その他幼ない者のまだ備へない常識を基礎にして居ります。今でも南の方の或島では、成年式の一つの準備として、改めて少年だけに昔話をして聽かす慣例もある位で、もとは多分小兒は純然たる傍聽者であり、寧ろ之を聽きつゝ、少しづゝ大人の世界を學んで行つたものと思ひます。遊戯でも歌謠でも、又食物のやうなものでも、特に兒童用といふものゝ用意せられるやうになつたのは、社會文化の一段の進境であります。たゞさういふ中では昔話が、最も彼等を愛撫する人々、即ち老翁老婆の管理する所であつた爲に、ちやうど硬い食物を?んでくゝめるやうに、幾分か餘分の親切を以て、消化しやすく加工することが必要と認められて居たのです。乃ち大人の意圖を以て、お話のし方を變へて行くといふことは、記録文藝に入る以前から、早く始まつて居たのであります。たとへば桃太郎の昔話の中から、鬼が島に渡つて美しいお姫樣を救ひ出し、つれて歸つて結婚する部分を、取除いたのなどは是であります。しかしうつかりするとまだ元の部分が殘り、たとへば馬鹿聟が舅禮に行つて失敗した話の中などには、子供の爲にならぬ下品なのが、笑ひにまぎれてつい話されるやうなことがあります。それといふのが是を積極的に教育の用に供しようとまでの考へが無かつたからだと思ひます。この點はむつかしくいへば主義のちがひで、以前は總體に兒童自身の能力で、學び得るものだけは皆學ばせようとしたことが、ちやうど乳以外はすべて親々と同じ食物を、咬めるだけづゝ皆食べさせたのと同一方針でありました。さうして後々は之に反して、やゝ不必要なまでの選擇と干渉とが始まつたのであります。或は日本だけが特にさうなのかも知れませんが、子供は今でも子供專用といふものをいやがり、出來るだけ大人の通りのことをしようといふ氣風が、民間には少し殘つて居ます。昔話と童話との堺目がはつきりせぬのも其爲、古來の子供遊びに大昔の成人の行事の、色々痕跡を留めて居るのも其爲で、いつも我々はこの無意識の管理者に感謝して居る(27)のであります。それは小兒の爲に望ましいことで無かつたか、はた又斯うして自立心を刺戟したのが、早く働ける人を作る好結果を得たのかは、大切な問題でありますが、民俗學の方でもまだ實驗せられては居りません。只童話の内容の著しい變化は、我々の教育制度の革命に基づくものだと、いふことだけは言へるのであります。
 
  (問) 子供のしつけ〔三字傍点〕といふことは、特に武士階級だけでやかましく言はれたのではありますまいか。村の子供等にもそれ相應のしつけ〔三字傍点〕といふものがあつたのでせうか。(同じ人)
 シツケといふ言葉の土地毎の用法の差異を、民俗學の方でも詳しく尋ねて見たいと思つて居ますが、とにかくに躾などゝいふ新らしい文字をこしらへて、若い男女を一人前にする手段の名としたのは、室町時代よりも古い氣づかひは無く、又御察しの通り武家がもとだらうと我々も思つて居ります。田舍では今でも弘い區域に亙つて、苗を田に挿し種を畠に播くことを、シツケと謂つて居ります。語の起りは育てる・シトネルとも近く、手を掛けて自然に一人立ちの出來るやうにするといふだけの意味だつたでせうが、後には強くなつて打つたり叱つたり、父兄や主人が積極的に、世話を燒くことだけに限るやうにさへなりました。私たちは是を單語の意義分化と呼んで居ますが、斯うなつてしまふと、もう元の廣漠たる意味に戻してつかふことは出來ません。それで今日の標準語に於ては、之を「指導する教育」即ち斯うせよ斯う言へと、進んで教へる方法だけの名にして居るのであります。指導教育の本山は小學校、以前の世の中では武家でありました。視たり聽いたりして居ていつと無く學び取るのを、氣永に待つては居られないやうな色々の事を、教へなければならなかつたからでありました。田舍者だからシツケが足りないと言つたのは、この指導教育の缺乏を意味して居ました。奉公に行つてシツケてもらふといふのは、やゝ成長してからの人間を新らしい境涯に順應させることでありました。田舍には前からのきまり〔三字傍点〕が多く、又一朝事あればといふやうな異常時を、武人のやうには豫想しては居りません。朝夕見聞きする人の言行に氣を付け、其通りをして居れば、それで非難の無い十(28)人竝になれたのであります。時代が追々とそれではすまない樣になつたといふだけで、以前の境涯としては失敗で無かつたのみならず、今日といへどもこの二つの方式は併行すべきものであり、又現に併行して居ると思ひます。たとへば高い學校を出てから、世の中へ出て行く男女が、一度は必ず感ずる人生の牽制拘束、時としては學問はむだだつたかとさへ歎く者があるのは、言はゞこの第二の感化教育、浸染教育とも名づくべきものゝ缺乏であります。人は斯うするものといふ經驗も持たずに、急に人中へ出て慌てまごつき、不完全極まる自己修養をする爲に、どの位人生の常の道、言葉使ひや身の行ひや考へ方が、亂れて來て居るか測り知れないのであります。以前の消極主義がよいか惡いか、今後も續けて行くべきか否かは、我々の問題ではありません。少なくとも是から幸福に活きて行かうといふ國民は、計畫をしなければなりません。その計畫の爲に參考となるものは、祖先の前代の生活ぶりを知ることです。彼等がどんな教育を受けて、つひにこの明治大正昭和時代を組織したかを明かにすることです。之を反省と言ひ得べくんば、民俗學は一つの反省の學であります。
 
  (問) 人が文字で書いたものを少しも讀まないで、又教師といふ者に導かれないで、どうして道コを學び且つ之を進め得たかは、私などには大きな不思議であります。説明して下さい。(神保木芽)
 我邦の道義用語が忠から孝から、一切漢語づくめで出來て居て、前には何と謂つて居たかよくわからぬといふことは、皆さんの到底見過しては居られない重大な事實であります。經學といふものが田舍に入る以前、否それよりも遠く溯つて、博士王仁が千字文を持參した以前でも、是等の文字に該當するものが、日本に無かつたと信ずる者は誰も有りません。それが此通り名無しで過ぎて居たのは、手短かに言ふならばシツケの指導教育が遲く始まり、感化浸染の教育が久しく行はれて居た結果であります。今でも人はよく言擧げせぬ國と言ひますが、もしも一つ/\のコ操を積極的に、教へて注ぎ込まうとすれば、言擧げせずには居られないわけであります。多分は、人の道の輪廓だけはは(29)つきりと極つて居て、それから逸脱しようとする者は咎められ抑制せられても、其中での行動に甲乙は問はなかつたので、一つ/\の名が無かつたのだらうと私は思つて居ます。まめなる心といふのが忠の漢字の古訓ですが、そのマメヤカといふ形容詞は律儀なにも正直なにも、又マメマメシイは注意深くよく働くことにも、マメナは丈夫な強健な意味にも、今日まだ用ゐられて居ます。つまりは人間の好ましい長處には、やたらに線を引いたり引出しを設けたりしなかつたのであります。さういふ心持を現在でも、無學な古風な人は引續き持つて居ります。殊に我々のなつかしいと感ずることは、今日の定義では技能と名づくべきものと、道コのうちに算へてよいものとの、分界をはつきりと立てゝ居なかつたことです。たとへば好い若者の特徴として、常に感歎せられる敏捷といふことなども、もとは公共の爲に缺くべからざる長處でありました。それが後々は自分の爲ばかりに利用するので、寧ろ惡く言はれる種になりましたが、實際は是がしば/\群の危急を救つて居ります。今度の戰陣でもよく經驗せられた如く、根氣・辛抱・我慢・負けぬ氣等、何れもやゝ不精確な言葉で言ひ現はされては居るが、人が一團となつて働いて行く限り、皆が皆仲間の感謝と、後輩の敬慕とに値ひするもので、しかも以前の生活には協同の作業が多かつたのだから、少なくとも最初はすべて褒め言葉として、生れたものでありました。その他すなほとか鷹揚とか氣が輕いといふ類の、一見個人的な批評の言葉も、衆議できめなければきまるものではありません。斯ういふ算へ切れない色々の小さな長處が集まつて、よい若い者・よい娘の概念が、今までは出來上つて居たのです。それを一つ/\指導するとなると、寧ろ脱落して輕く見過されるものが、出來はしないかといふ心配があります。書物に書かれぬ爲に氣づかぬ人が多くなりましたが、完全なる普通人を育てる教育は、私たちは却つて昔の方が備はつて居たやうに思ふのであります。
 
  (附記) 話のつゞきをよくする必要から、御答へは必ずしも質問提出の順序によつて居ません。さうしてその幾つかは後まで殘るかとも思ひますが、我々は出來るだけ有效にそれを利用したいと考へて居ますから、どし/\とよい問題を提出して下さい。但しなるたけ皆さんに共通な疑問を、はつきりと示して下さることを望みます。
 
(30)  (問) 私どもが社會生活を考へるやうになつてからでも、女性の地位は漸次高くなつて來たやうに感じられます。其爲に女は昔に溯つて行くほど、低い待遇を受けて居たものの如く考へがちですが、一方には神に仕へる人々のやうに、少しも男の威光を借らずに、專まれで居た例も色々と殘つて居ます。果して昔が低かつたか今が高くなつたか。民俗學での御説明が承りたいと思ひます。(江馬三枝子)
 二つの至つて動きやすい條件を勘定に入れないで、女性全般の地位の低かつたか高かつたかを、きめてしまはうとするのが無理では無いかと思ひます。巫女や師匠のやうな特殊の職業で無くとも、女にも昔の方がたしかに優遇せられ、又男に命令することの出來たものがあります。是と同時に昔の御嫁さんや若い娘のやうに、たしかに今よりも強く抑壓せられて居たものも多かつたのです。數で算へたり平均したり又は一隅だけを比べたりすれば、昔の方が遙かに低かつたと結論するのもまちがひは無いのですが、それは正しい比較ではありません。男の精出して働く目標が、名の有る家の家長になることであつたと同樣に、女性の一生の望みは立派な主婦になることでありました。さうして昔は大家族、即ち一家の人數が多かつた故に、與へられた權能は大きく又強かつたと共に、是に到達せずに終る女性が多かつたのであります。現代は誰でも年さへ取れば、皆おかみさんになれる代りには、是と謂つて際立つた職分もなくなり、どこが所謂老孃とちがふのか、自分も心付かずに居る人が多くなりました。此點が皆さんの見過してはならぬ時世の變りであります。主婦の權能の縮小したのは、獨り家の大きさの差からだけで無く、第二には又家の職業の増加にもよります。以前は男が朝から晩まで、妻と竝んで家の中に居るやうな家業はありませんでした。大きな武家でも営農に從事し、晝間は外へ出て、働く者と共に居たやうであります。それだから主婦が家の中の頭であり、家の中の作業には女ばかりか、男の家族までを指揮したのであります。今でも男主人が口を出してはをかしい事務が少しはありますが、元はそれが廣汎であつたのを、段々と主權者に取上げられたのであります。一つ一つの實例はお聽(31)きになれば答へませう。とにかくにオカミといふ名稱は床の上、殊に爐のある表の間のことでありました。上方では爰をオイエと謂ひ、同時に主婦のこともオイエサンと謂ひました。其オイエも多分「御上」でせう。オマヘ又は御前といふのも、土地によつてはこの家々の表の間のことであり、又は本家の呼び名でもあります。それだから又是を主婦の敬稱にもしたのかと、私などは考へて居ります。それよりももつとはつきりして居るのは、東北の端の三縣に行くと、主婦を意味する日本語がエヌシであります。或はエヌシカカと謂つて居る土地もありますが、戸主をエヌシといふ者はありませんから、是もエヌシのカカの意味では無く、エ即ち家のヌシは主人の妻のことだつたのであります。世帶といふ語は今日の統計にも用ゐられ、本來は所帶と書くべき所を、一方に活計をヨといふ古語があつたので、世帶と書くやうになつたものと思ひますが、是も主婦の職分を意味し、「世帶を持つ」は女の技能と認められて居ました。さうしてその世帶持の權能は主人が先づ之を承認して、一家一門の男女に對する威信を支持したのみならず、外部の人々も亦禮儀として之を互ひに尊重したのであります。女の地位が今より一般に低かつたなどと思ふ者は、言はば忍苦の修行期間があることだけを知つて、この重要にして又光輝ある到達境の存するを認めないのであります。母や祖母たちの立派な生涯を忘れて居るのであります。
 
  (問) 飛騨の白川村の大家族の家などで、女は家に附いたものとして、主婦又は長男の嫁になる者以外は、すべて生家に置き他家へ遣らなかつたのも、神に奉仕する女性の高い地位と相對して、兩面から古代母系制の遺風と見てよいでせうか。(同じ人)
 家が最初皆女から女へ相續して居た時代があつたといふことは、日本ではまだ少しも證明せられて居りません。一度は人間の群がさういふ時期を、必ず通過して來たらしいといふ西洋人の學説も、決して確定しては居ないのです。内からも外からも、是はうつかり受賣の出來ないしろもの〔四字傍点〕であります。又今からさういふことをきめて置く必要はあ(32)りません。それよりも我々自身の研究が、如何なる結論に導いて行くかに期待すべきであります。女から女へ相續する或家は、日本にも確かに有りました。たゞそれが家の職業の女でないと勤まらぬものに限られて居たのか、但しはさういふ家だけに、大昔の制度が取殘されて居たのか、この二つがまだ決しかねるのであります。さうして少なくとも女が嫁に行かず、生れた家に一生居るといふことは、所謂母系制又は母權制とは關係が無かつたと私は思つて居ます。たゞ一つだけ注意して置いてよいのは、家々の主婦の家の内を統括する權能が、單なる私經濟の便宜上、外で働く戸主から委任せられたもので、從つていつでも仔細なく取戻され得るものであつたか。はた又固有の本然のもので、それを新たに一家の平和の爲に、甘んじて男の支配に引渡したものか、この點が今はまだ明かになつて居ないことであります。たとへば女が神に奉仕する事務などは、他府縣は一般に夙くから職業化して居ますが、沖繩縣の諸島では今以て舊家の主婦の役目で、男には手を出させません。それに伴なつたかと思はれる幾つかの仕事で、もし男がして居たら變に感じられるものが、氣を付けて見ると若干は我々の中にもあります。たゞこちらではもう主婦だけに限らず、他の女たちがしてもよいのであります。家々の主婦を、古くは刀自又は家刀自と謂つて居りました。沖繩では今でもトウジが普通の名詞であります。ところが一方には内侍所の刀自、又は造酒司の刀自などといふやうに、夫を持たぬ獨立した職分の女性も刀自であり、近世に於ては又オカミ・オカミサンといふのが、東北の一部では神に仕へる盲の巫女の呼び名でもありました。或は家長の妻であるが故に是等の名を得たのでは無く、獨立して世に立つて居た時から、別にさう呼ばれるやうな理由があつて後々まで持越されて居たものとも考へられぬことはありません。それからもう一つ、婚姻生活が女の生れた家で始まるといふこと、是は痕跡と言はうよりも、まだ各地に現存して居る事實で、それが今のやうな嫁入式、即ち男の家に移るのを原則とすることになつたのは、少なくとも田舍では至つて新らしいことですが、所謂母系制又母權制は、他の民族では?この「女は家に附いたもの」といふ考へ方乃至風習に伴なうて居ります。西洋の學者は、Matrilocal といふ名を附け、高群逸枝さんなどは招婿婚と謂つて居られるが、簡(33)單なよい名をまだ私は發見しません。とにかく此筋から少しづゝ進んで行けば、今に上古には母系家族が多かつたといふ位なことは言へるかも知れませんが、私たちは他に色々と現代の疑問が多いので、實は斯うした起源論には格別力瘤を入れないのであります。
 
  (問) 昔も最近の新體制の如く、早婚を好ましいこととして居ましたか。(近藤好子)
 「昔」も幾つかの段階を經て居ますから、そんな時代もあつたらうかと思ひますが、女の婚姻し得る期節は天然がきめて居ますから、それから後は遭遇次第、つまりは好い娘が早く婚姻しただけではありますまいか。但し一方に嫁入の早い遲いばかりは、時代により又職業環境等によつて、非常に顯著なる差異變遷があつたと言ひ得られます。他家の主婦になり得ない妻が、遲いどころか一生嫁入せずに終つた例は、決して飛騨の白川だけではありません。我々の時代になつてからでも、雙方何れかの親が同意せぬ爲に、夫の家に入れない妻は幾らもあつたのです。たゞ民法と戸籍法とが、嫁入しなければ婚姻で無いやうにきめたばかりに、私通私生兒の範圍が擴大して、飛騨の白川のやうな古風な慣行までを含むことになつたのであります。男女が婚姻はしても嫁入はしないで居るといふ風は、島地などにはまだ幾らでも殘つて居ります。私生兒にはしたくないから、戸籍だけは入れて置く者が多くなつたでせうが、現實には聟方の兩親が隱居するまで、又は姑が逝くなつて第二の主婦の入用が生ずるまで、妻が生家に居て聟が通うて來るのは當り前のやうに、思つて居る土地がまだあつたのであります。二三人もの子供を連れて、可なりな古女房が乘り込んで來るなどといふのも、珍らしがるのはたゞ開けた町方の人だけでありました。是が平安朝期前半の、京都上流の婚姻法でもあつたことは、多分皆さんはもう讀書から學んで居られるでせう。邊鄙な片田舍では、その昔の型をまだ持つて居たのです。但しこのしきたり〔四字傍点〕を續けるには、二つか三つの條件があり、それが段々とむつかしくなつた故に、自然に昔風は改めなければならなくなつたのです。條件の一つは男女の家が近いこと、晝は我家の田畑にいそし(34)み、夜は妻の家に行つて宿るといふことは、殆と同村内でないと出來ぬことですが、それでも愛情の深い夫婦は、日暮れてから一里二里を通ひました。日本の文學の大きな特徴、三十一文字の戀の歌といふものは、全くこの往來婚とも名づくべきものが發達させたので、斷じて淫蕩冶遊の産物ではありません。現代の短歌に其技能が絶えたのも、品行の改良を意味しないことは勿論であります。ところが交通が開け經濟力が成長し、從つて有力な家々が格式を外に誇ることになつて、次第に配偶者の選擇區域を擴げ、遠くとも立派な家から佳い妻を求めようといふことになると、京都以外の土地では夜々通ふことが不可能で、さういふ家だけではもう昔通りのけさう〔三字傍点〕妻問ひの方法は續けられず、勢ひ嫁迎へを早くするやうになつたのであります。尤も是に對しては今一つ、西洋の學者の勞働婚といつて居るものがあつて、日本でも少しづつ行はれて居りました。即ち男が遙々と旅をして、妻の家に入つて當分は其家の子として働くこと、此時も無論嫁入は遲くなります。さうして是はよほど身分ちがひの貴族の息子でも無いと、嫁方に於て散々に冷遇せられます。東北では是を奉公聟又は年季聟、或は三年聟二年聟などと呼んで居ました。其間は全く奉公人と同樣にこき使はれ、年季を無難に勤め上げると、やつと其妻を連れて還ることが許されたので、辛抱の出來ない場合にはたゞ追出されたことは、近世の契約書の文面にもよく現れて居ます。しかも結婚はとくにして居るのですからたゞの奉公人で無く、又その爲に餘分にいぢめられたらうかとも察せられます。身元のよい格式を重んずる家の相續人が、斯ういふ試驗に堪へられる筈はありません。だから無理にも親里を承知させて、さつさと引取つて行く婚姻式が、先づ門地の高い家庭の間に行はれ、それがこの百年か七八十年の間に、小さい家々にまで採用せられたのであります。今日の所謂早婚國策に、先例としては、是はさつぱり適切でありません。
 
  (問) 結婚は昔は家本位だつたと申しますが、それでは本人の意思はどうなつたのですか。(小山三千子)
 家が本人の考へを無視して縁談をきめるといふことが、さう普通だつたとは私は思ひません。自分から言ひ出すと(35)いふ若い者は今でも少なく、又親がきめてくれるまで黙つて待つて居るといふ道コは、武家の家庭などでは今よりも強く、其爲に幾分か婚期を早くするといふ傾きが生じたかも知れませんが、こゝに私の謂ふ遠距離婚姻の風が普及すると、もしも親が引構へて取極めてくれなかつたら、少なくとも娘は大へんに困つたでせう。親々の心持では、當人達にまだ具體的な注文が無く、ましてや誰それといふ意中の人もまだ現れぬ前に、定まつた安全なる戀愛道を歩ませようとしたことは、少しは變則ですがこの場合の最良策でした。勿論知り盡して居る當人の氣質傾向に、少しでもよく適したのをと念じたでせうが、それよりも大きく働いて居た動機は、昔の社會人の個性といふものの發育ぶりであります。十人竝、世間竝といふ言葉を、よく古い人たちは使ひました。まだこの年頃では、どこの娘も凡そ同じやうで、周圍の人たちの人柄や、家の評判などを明かにすれば、そこで育つた子女の良さ惡さは、凡そ見當が付くやうに考へて、あとは只何か變つた評判が無いかどうかだけを、氣にかけて居たのです。實際又百年以前の、郷黨の同化力は強く、周圍がこしらへ上げた鑄型のやうなものはきまつて居た。さうして人間は世に出てから、女ならば主婦になる前後、自ら修養し覺悟する部分が多かつたので、早期の婚姻ならばこの粗末な鑑識法が通用したのであります。それが小さな頃から何が長處、どういふ性癖があり傾向があるかを、一人々々に就て觀察せられ又承認せられるやうな時代に入つてからまで、殊にもう大分世の中を學んだ息子息女の人物評價にまで、應用し得られないのは當りまへであります。果して教育が進むと共に、取返しのつかぬ失望は多くなり、親々の判斷を危み又は拒むやうになつて來たので、私などは是を盲從の道コが、昔は強調せられて居た結果とのみは考へて居りません。又是を必ずしも家本位などとは解してゐません。たゞ不本意なのは卓子の上に、鹽や芥子や胡椒の粉を竝ぺて、客の口中に於て調味してもらふ西洋料理のやうに、そちらで御氣に召すやうに御躾け下さいなどと謂つて、まだきに小娘を引渡さうとした親心であります。そんなことをすれば苦勞をするにきまつて居る。それでも仕方が無いとしたのは遠距離婚姻の弊でありまして、又一方から言へば本人の判斷が、少しも利用出來ぬやうな?況に、久しく甘じて居た結果であります。文化の(36)中心地の婚姻風習が、近頃少しづゝ變らうとして居るのに、氣をつけて御覽なさい。家本位とは見ることの出來ぬ婚姻樣式が、段々と普通にならうとして居ます。さうして面白いことにはそれが一部分、再び中世以前の所謂招婿婚風習に近づかうとして居るのであります。それを詳しく説くには少し紙面が乏しくなりましたから、次の質問の時までのばしますが、とにかくに急いで嫁入を濟ませて民法の同居義務を果させつゝなほ一方には新舊二つの主婦權の併立を圖るべく、別居制度といふものを奨勵しようとしで居ます。しかしさういふ都合のよいことの出來る家は少ないでせう。さうも出來るといふことを覺りつゝ、それを爲し得ない家庭では惱むだらうと思ひます。どうしてこの樣に早くから、嫁を姑の下に置かうといふことになつたかの原因はまだ幾つかあつたので、私はその最も重々しい、特に皆さんの知つて居られてよい一つは、女の勞働の役に立たず、家にとつて價値の低いものになつた點かと思つて居ます。そんなことが有るものかといふ反對の、出て來るのを樂しみにして、寧ろこの話を進めて見たいのであります。
 
  (附記)
  一、今まで答へた箇條の中からでも、不審な點はどし/\きいて下さい。
  二、婚姻の問題はもう一度も二度も、問題にしてよいかと思ひます。
  三、我等何をなすべきかといふ類の、漠たる質問には答へません。もつと御考へなさいといふ外は無いからであります。
 
  (間) 女の國民服の問題には皆迷つて居ます。民俗學の助言は得られないものでせうか。(粟田部千代)
 未來を考案する人々の爲に、判斷の材料を供給するまでが我々の仕事です。それも十分確實なものを、出せるところまで進んで居ないのは不本意ですが、それが又皆樣も共々に、せめて御自分の周圍の問題だけなりとも、調べていたゞきたい理由であります。國民服といふやうな名前の、夢にも考へられなかつた時代の方が、女のきものはよく揃(37)つて居たやうです。是ほど目に立つものは他にはありませんから、女たちは皆目に立つことを避けたのです。それでも流行は少しづゝ始まりますが、斯ういふ場合には五人三人、話し合つて一ぺんに變へました。さうすると目立たずに新らしいことが出來るからであります。今度の國民服にもきつと同じ心理が働くでせう。さうなると第二には經濟がその普及を指導します。美の標準などはそれから又後のことで、一體に若いやさしい人たちがすれば、自然に美しく見えて來るものです。輕濟といふのはこしらへる費用以外に、是を着て活きて行かれるかどうか。もつと具體的にいへばめい/\の勞働を妨げるか否かも含まれて居ります。それは毎日の問題だから、最も大切であつたわけであります。ところが其以外に今一つ、働かない日の着物といふのがありました。この方になると全く費用が負擔し得られるか否かの問題だけになります。さうして?一人だけの晴着である故に、目に立つことをさへ憚らなかつたのであります。服裝の變革は先づ此方面に起り、それから徐々に勞働着の上に波及しました。一方が改まると是も改めずには居られなくなつたのであります。此點は「女性史學」といふ一文に、一通り述べて置きましたから見て下さい。とにかくに國民服の統一を説きながら、それは晴着のことか仕事着のことかを、明かに示さぬのは誤り以上の惡いことだと思ひます。
 
  (問) 帶はいつ頃から今のやうに幅廣胸高になつたのでせうか。(田中陽子)
 胸高に帶を締めるやうになつたのは、私などは氣付かずに居たほど新らしいことです。幅廣だつても決して古い話ではありません。風俗畫集などを御覽になれば、江戸期も半ば過ぎから、次第に普通になつたことがわかりますが、是とても人物が都會の女であり、繪は又晴着の姿ばかりを描かうとしましたから、全國が一樣に斯うなつたといふ證據にもなりません。私の想像が當つて居るならば、是は唐物(カラモノ)即ち輸入の厚地の織物が、やゝ豐富に普及したのが原因で、もとは資力のあるしかも高い地位の女性のみが、是を試みることを得たものが、追々國内に模擬品(38)代用品を生じて一般の伊達となり、末にはモスリンの友禮染までを、廣帶にする人が出來たのです。もとは厚地の折ることもしごくことも出來なかつたものを、廣いまゝで卷いて居たのが、末には立居にすぐよれ/\になるものを、苦心して伸ばして締めるやうになつたのは、をかしな物眞似でありました。是は固より働かぬ日の晴裝束で、斯んなものではなんぼ女の手わざでも、自由に活動の出來る筈がありません。だから今でも働く地方へ行つて見れば、まだ昔の帶の殘つて居るのが幾らでも見られます。是も一方の影響を受けて、少しは幅廣に又厚くなつて居るかも知れませんが、大體に今日紐と謂つて居るものゝ方に近く、現在は多く前掛腰裳に縫ひ附けて、兼用にして居るのは改良であらうと思ひます。長さは意外なほど長いものをよく見かけます。是も名古屋帶の例などを考へると、幾重にも卷くのが或時代の好みかと思はれますが、一方には又、
   二重まはりが三重まはる
といふ民謠などもあつて、どちらが元の形ともきめられません。なほこの序に一言そへますと、あの廣幅帶はもとは遊女の繪に見るやうに、前で結ぶのが本式であつたやうです。それが流行によつて普通には後結びとなり、人でいふと寡婦老女、場合でいふと葬式佛事などだけに、以前の前帶の風が殘ることになりました。どうして後に結ぶのをよいとすることになつたか。興味のある心理問題だと私などは思つて居ります。
 
  (問) 娘と主婦との服装には、元は區別が有つたものでせうか。(宮本時子)
 この問ひはそれ自身が、一つの世相史料だといふことが出來ます。さういふ質問を婦人がするやうな時代に、なつたかといふことも發見であります。誰でも年をとつた人に尋ねてごらんなさい。この頃は奧さんかお孃さんかの見分けがつかなくなつて困ると、みんな謂つて居ることゝ思ひます。この傾向は西洋でも同じかと見えて、よく汽車の中などで見ず知らずの女に、マダム・ウ・マドモアゼルと先づきいて居るのを見かけました。日本でも此風を始める必(39)要があります。さうでないと令夫人が求婚せられるといふやうな、危險な場合が毎度あるからであります。金の指輪は上納してしまつたし、おまけに少しばかり娘に見えたい野望も無いとは言へません。ちよつと厄介な風俗の變化であります。服裝のうちに入るかどうか知りませんが、以前は齒黒めと眉の痕とが、先づ顯著なる既婚者の徽章でありました。但し其年頃の女はたとへ縁に付かずとも、皆その風をするやうに後にはなりましたが、多分最初は許されなかつたものと思ひます。帶は前帶を主婦に限つたり、又は着物の仕立てにも差別があつたやうですが、こま/”\とした點は記憶して居ません。たゞ今ならばまだ尋ねたら教へてくれるお婆さんが、何處にでも居られることゝ思つて居ます。
 私の母などが最も重きを置いて居たのは、髪の結び方であつたやうです。是は京大阪の風習に由つたものらしく、始終東京の丸髷に對する反感を伴なうて居ましたから、起りの相應に古いものと思はれますが、それが例の?髱(カモメヅト)の鬢取髪なのですから、やはり或時代の流行が始めで、それより古いものの有つたことも無論想像せられるのです。東京の所謂丸髷などは、勝山といふ遊女が考へ出したといふ説さへあり、上方では歩巫(アルキミコ)が結ふ髪と認められて居ました。しかもそれすらもまだ既婚未婚者の目標には用立つて居たのですが、それがすたれてから、あなたの樣な質問をする人が、必要になつて來たのであります。
 但し今でも「娘のやうな風で」などゝ、奧さんのはで好みを非難する言葉を聽かぬことはありませんが、それは主として色あひ柄模樣の、年に合せて花やか過ぎるのを嫌ふだけで、從うて實際若ければ人の妻になつても、さういふ身なりをしてよかつたので、もはや身分に伴なふきまりでは無くなつて居るのであります。面白いことには斯ういふ衣料の色や柄は、以前は必ずしも差別の目標になつて居ませんでした。たとへば私の家に寫眞のある伊豆新島の七十二になる姥は、藍の帷子に紅染の鉢卷をして墓參りをして居ます。是は五十何年前の嫁入時に、こしらへてもらつたのがまだもつて居るのだといひますから、其間これで通したのであります。
(40) 木綿だと三年二年、スフはなほ更壽命が短いから、幾らでも細かく年相應の染模樣に取替へられるので、つまりは呉服屋百貨店の勸説が、今は甚だしく效を奏しやすくなつて居るのです。大體に女が衣服の爲に苦勞することが、却つて階級別のやかましかつた昔よりも、多くなつて居るかと思ひます。
 
  (間) どうして女の勞働服が、この樣にまちまちになつて居るのでせうか。(佐藤古登)
 これはよい質問で、この點をもう少し皆さんが、深く突き進んで考へて下さればよいと思ひます。古くからあつた仕事着にも、地方的にかなりの相異はあります。たとへば鹿兒島縣で謂ふ前垂小手無(メエダレコダナシ)の姿は、東北に行くと、短衣(ミチカ)に股袴(マッカモッペ)となつて居ります。寒い處に行つてから男の袴を利用し出したか、又は暑い土地なので袴を罷めたか、或は又最初から二通りに分れて居たか。まだ私には答へることが出來ません。その前垂にも四幅三幅、二幅以下のものもありますが、この方は最初くるりと腰を卷いて居たのを、段々と狹くして今見る酒屋の廣告入りなどの、一はゞものにしたのかと思はれます。しかし斯ういふ遠方とのちがひはあつても、一地方毎にはもとは統一して居りました。それが此頃のやうに思ひ/\になつたのは、全く新らしい事情からであります。
 大きな原因は少なくとも二つ、その一つは勞働が單純でなくなつて、朝から晩まで仕事着を着通しては居られぬことで、是は婦人には殊に多かつた。たとへば御飯ごしらへの手を拭いて、御取次や客の應對に出るといふ類であります。襷のやうな掛けはづしの自由なもの、又は上つ張りとか割烹着とかいふ手輕な單衣を、ふだん着の上に着るのも其爲、今一つ前には捩ぢ袖とかダフラモッペといふやうな、力の入る勞働には向かぬけれども、降りたり上つたりこまごまとした仕事には、無くてはならぬものが考案せられました。すなはち女がふだん着で居られる時間が、段々と長くなつたのであります。
(41) 第二の原因は晴着の材料が、永くもたぬものになつたことです。新島の御婆さんのやうに一生着られるやうなものはなく、折角こしらへてもすぐに痛み、又はをかしくて着て出られなくなつて、暫くは不斷着にしても着ますが、やがては廢物利用的に、それで汚れても構はぬ仕事をするのであります。先年も淡路の島で、羽織を着て種播きをして居る親爺を見てびつくりしたことがあります。しかし中形の浴衣で畠に出て居る姉さんなどは、今ではもう珍らしくも無くなりました。おふるを澤山にこしらへる着物などは、結局服裝の統一を不可能にする種です。近頃發明のヤウフクといふ仕事着なども、やはり其一種の追加のやうに思はれます。國民服といふのも多分はそれになりませう。
 
  (間) 女の斷髪を、先生はひどくおきらひのやうですが、働くには是が必要なのではありませんか。(金石京)
 きらひなものですか、きれいだとさへ思つて居ます。たゞ變り方にびつくりすると謂つただけです。しかし女の勞働と結び付けて考へることは意味があります。未開諸民族の女の姿を見てもわかることですが、實際に髪の始末には働く女は皆困つて居ます。まして我々の姉妹などは、目方がかゝる程の長い太い毛を生やして居るのです。是をどうして置けば最も自由に働けるかといふことが久しい懸案で、斷髪はいよ/\其結論とも見られます。繪卷物の中の働く女は、どういふわけか皆髪を短く少しにゑがいてあります。しかし切つて居たのでなからうと思ひます。
 それから次には被りもの、中でも能の狂言に出て來る女性などは、鬘包(カツラツツミ)と謂つて印度人よりも長い白布で、すつぽりと頭を包んでまだ其端を垂らして居ます。それが室町後期の京都附近だけの流行であつたのか、又は前からあつた風をやゝ強調したのかは知りませんが、とにかくに塵埃は勞働には附きもので、しかも女の髪には大敵でありました。だからなりふりを構はぬといふ働き女でも、何とかして布で髪の毛だけは覆うて居たのであります。さういふ場合には無論百人一首の貴女の如く、髪を長々と背なかに載せては居られません。まとめて覆ひ布の下に入れて置く必要がありました。結髪といふものの最初の動機は、とにかく働く爲であつたことは疑はれません。そ(42)れが如何なる順序に發達して來たかは、今なら皆さんの手でまだ調べられます。伊豆の島々ではインボンジリ、即ち蟷螂といふ蟲の形に、長い髪の毛を折返して後頭部に載せました。島田といふ髪の元の形も、是に近いものかと言はれて居ります。九州でツグリガミ、東北ではツブガラマキなどと謂つたのは、何れも卷貝のやうに毛を丸く卷くことで、東京でもツクネガミといふ語があつて、近世の束髪と別に視て居たのも滑稽なことです。是が非常に解けやすいのは缺點であり、それを防ぐのに色々の工夫をしました。沖繩の女性に今も見られるやうに、まん中に簪をさして留めるのも一つの方法で、江戸では簪の代りに櫛卷といふのがひどく意氣に見えましたが、元は何れも其上へ、隨時に手拭を被り得る裝置だつたのであります。被りものをせずともよいのは晴の日、即ち髪飾りを人に見せる日でありましたが、是さへも花嫁の綿帽子のやうに、上を包むのが慣例でしたから、元の起りは塵よけのみでは無かつたのでせう。ところが其髪飾りが飛出し突張り、到底被り物の下に覆ひきれなくなつて、しまひには西洋料理の女給のやうな、型ばかりの布切れをのつけるやうになり、今度は今一歩を進めて丸出しで人に見えるやうになりました。見せたい色々の飾りが有るのですから、斯うなつて來たのも止むを得ません。たゞそれとよく似た鬢取髪をふだんの日にも結つて、唐箕だの麥打ちだのといふ埃のもう/\と立つ勞働に、携はることを避けなければならなかつたのは不便でした。髪を思ひ切つて短くしてしまへば、この心配はたしかに無くなります。
 たゞ何だか私の見たところでは、まだあんまり手拭で頼冠りをした人を見かけず、又さうすべき仕事には携はつて居ないやうで、やつぱりむき出しで人に見せたい爲とも考へられます。美しくなる方は別として、それでは切るにも及ばなかつたといふことにもなるでせう。
 
  (問) 新舊の服装はうまく調和して行く見込がありませうか。(芦倉駒子)
 手拭は非常に歴史性に富んだ日本女性の服飾で、之を研究して行けば、いつかはこの調和に役立つこともあらうと(43)思つて居ますが、先づその前に松浦佐用媛などの領巾(ヒレ)以來の、變遷を説かなければなりません。誌面が足りないのでそれは後まはしにします。
 一方に最も始末の惡いのは履物であります。靴は非常時の資材不足が無くとも、早晩問題にならずには居らぬものでありました。日本の女性は旅をすることが少なかつたので、一向この方面の改良が進んで居ません。家の近所で働くには跣足か藁草履、共に今日の國民服研究家の趣味にはかなひさうも無いので、私も實は内々どうするだらうかと、危みつゝも興味をもつて眺めて居ます。日本の建築が今のまゝである限り、靴を表口で脱いで手も洗はずに御茶を飲むやうな、どちらの作法でも無い事を續けなければなりません。百貨店の下足問題は、結局雨下駄で七階まで、登つて行かせる點に一應はおち付きました。斯ういふ二種の生活の不調和の惱みは、いつかは皆さんの學問によつて、克服すべきものばかりです。
 
  (間) 村々の御社を氏神といふのはどうしたわけですか。是もやはり氏族制度の名殘でせうか。(矢部百合子)
 この間題は、今我々も考へて居るところです。或はまちがつて居るかも知れませんが、私などは斯ういふ推測をして居ります。村で一ばん古い又有力な一つの氏の氏神を、後から入つて來たかもしくは比較的力の小さい氏々の人が、協同して祭ることになつたのが、此名稱の意味の變つて來た原因のやうであります。古い記録の上では、春日樣を藤原氏の氏神といふやうに、同じ一門の氏人のみが祭に仕へるのが氏神で、假に外部からの崇敬があつたにしても少なくとも其人たちは、氏神とは稱へては居なかつたと思はれます。甲乙丙丁の異なる氏の人が、共々に一つの御社を氏神と呼ぶことは言葉の轉用であり、それには又何等かの理由が無ければならぬとしますと、或は逆に此方面から、以前の村々の生活事情を、明かにし得ることになるかも知れません。
 その理由として我々が心付くことの一つは、縁家姻戚の親しみが、昔に比べて段々と深くなつて來た點でありませ(44)う。以前は血筋といふものゝ考へ方が今とちがひ、同族即ち父祖を共にする者の間柄と、母や妻の里方の親類關係とには、可なり著しい差等があつて、後者は年月を經ると次第に薄くなるものと見られて居りました。それが近くに住み交際を累ねて居るうちに、いつと無く一門のよしみと區別し難くなり、どちらか一方の氏神を祭ることが、少しでも無理では無くなつたのかと思ひます。第二には他氏他族の神でも、尊い神々ならば崇敬しようといふ風習、是は佛教渡來の初期には激しく論爭せられましたが、後には極めて普通の事になりました。現に朝廷でも伊勢の宗廟に對する私祭は禁止せられましたが、諸國の大社にはそれ/”\幣帛を贈進し、祭の使を派遣して居られます。民族の團結が鞏固になつて行けば、自然に斯うなつて行くべきもので、必ずしも外國宗教の影響では無かつたらうと私は思つて居ます。土地を同じくする他氏の氏神を、合同して祭ることになつたのも、言はゞ同村人の親しみの加はつて來た結果でありました。
 それよりも一段と大きな變化は、朝廷には今でもはつきりと殘つて居る祖神思想、神はめい/\の遠い先祖だといふ信仰が、小さな端々の氏族では夙く衰へて、たとへ血の繋がりは無くとも、もつと幽かな縁故からでも、或る尊い神々を、氏神に祀つてよいといふ心持になつたことです。幾つかの異なる氏が共同して祭つて居る氏神が、殊に八幡とか天神とかいふ全國に最も數多い御社になつて居るのも、其爲だらうと私は思つて居ります。
 この信仰の變遷こそは、今まで何人も書き殘さなかつた重要な日本の歴史であります。獨り民俗學の方法が、今からでも之を明かにする望みを抱かせてくれるのであります。少し辛抱して捜して行けば、證據は集まつて來さうなのであります。たとへば奧羽地方とか九州の南の方とかの田舍に行けば、氏神はまだ一つの苗字を持つ一門だけの神で、それも必ず本家の管理に屬し、その神祭の主役を勤めることが、たつた一つの本家であるしるし〔三字傍点〕と見てよい例さへあります。屋敷の一隅又は地續きに、祀つて居るものとは限りませんが、家に屬する場合は之を内神とも稱へ、標準語の氏神と區別しようとして居る者もあります。しかも内も氏も本來は一つの語だつたらしいのであります。私の故郷(45)などは近畿に近いのですが、村には鎭守があつて、別に各部落には氏神があり、生れ子の宮參りにはこの氏神の方へ參りました。さうして是を又ウブスナとも謂つたのであります。鎭守はところ〔三字傍点〕の神で後に協同して勸請したものらしく、本來氏神とは別の思想と思はれますが、現在多數の人はこの二つの名を同じものと解し、又は鎭守といふべき御社を氏神と呼んで居るのです。この混同を見分けないと國の固有信仰をはつきりと認識することは出來まいと、私は思つて居ります。
 
  (問) 神棚と佛壇と、二つの拜むところを一軒の家に設けて、ちつとも氣にかけないのが私たちには不思議でなりません。民俗學では是が説明できませうか。(名立てい)
 今はまだ出來るとも言へません。別に此問ひに答へなければならぬ人も有る筈ですが、とにかくに我々としても關心をもたずには居られない珍らしい社會現象であります。現在氣づかれて居る二三の點を擧げますれば、第一に中世の日本人には、是を佛法の大きな統括の中に入れて、怪しまない者が多かつたのであります。神佛分離といふことがやかましく唱へられる時代になつて、始めてこの一家の中の兩立が問題になつて來たやうに見えます。しかし實際は遠い昔から、朝廷の御行事でも又民間の風習でも、二つの信仰の相容れざるものであることは認められて居りました。たとへば神を祭るべき正月の季節に入るに先だつて、念佛の口止めといふことがあり、十六日を過ぎてから念佛の口明けと稱して、鉦の音をさせることを許し、僧侶は正月四日以後に、寺年始に來るものときまつて居て、決して年繩(注連繩)の下はくゞらせないといふ家もありました。人が凶《な》くなつて家で佛事を營む間は、神棚に白紙を貼り又は扇子を下げて、一切の神祭を休止するのみか、喪に在る人々は決して御社の鳥居から内に入らなかつたのです。年忌その他の法會にも、元は其日だけは神を拜まなかつたのであらうと思ひますが、是はもう明かでありません。是を單に死穢の忌を畏れ愼しんだだけと解して、社僧が神を御祭り申して居た御社も澤山に以前はありましたが、それでも(46)内陣の諸役は巫子神主に任せてあつたのみならず、伊勢の大廟を始めとして、圓頂黒衣の者の參拜を禁じた神社もあり、今でも我々は佛堂に詣つた後で、すぐに神前に出ることを憚るやうな感じを持つて居ます。少なくとも二つの信仰は、時を同じくして併行することは出來なかつたものかと思ひます。
 さうすると二つの疑ひが、多分皆さんの胸に起るでせう。そんならどういふわけでお佛壇のすぐ隣に、神棚を設けても氣にならなかつたかといふことが一つ、是は元來神樣を祭る日が、一年の内でも或る定まつた目に限られて居たことゝ、佛壇は本來親たち代々の靈を祭る場所で、全部が佛教の管轄で無く、たゞ新たに死者のあつた際と、近世では御盆の所謂魂迎への時だけに、僧が來て御經を讀む所となつて居たことゝが、互ひに入れちがつて衝突を見なかつたのだと説明し得られます。民間佛教の倶通の結果として、その佛壇の中央に御本尊を安置して、主人自らが毎日經を讀み、一方には又毎朝神拜の風が起つて、中臣祓と般若心經とを一續きに誦へるやうな信心者も多くなりましたが、それは内容をよく理解して居たら、實は出來なかつたことでは無いかと思ひます。つまりは神宮寺や修驗僧などの、やゝこじつけ〔四字傍点〕に近い調和説に、無批判に服從して居たので、從うて一向宗のやうな信仰が盛んになれば、忽ち神棚存否の問題が起らざるを得なかつたのであります。專修念佛の教義は認めながら、是非とも神棚だけは置かせようなどといふことは、政治家で無くては出せない議論であります。
 それから第二には同じ祖先の靈を、どうして神とも、佛とも、兩樣に祭ることが出來たかといふ疑ひがありませうが、この點はいつの時代にか、日本では解決がついて居りました。死者がホトケサマとして祭られるのには期限があつて、通例は五十年、土地によつては三十三年の命日を弔ひ上げと稱し、それを過ぎれば神として祭ることを許されて居りました。神職の家などの特別に早く神に祭るべき祖靈は、六年まで之を短縮する方式もあつて、それから後は佛者の手を離れ、穢れの無い?態に於て拜むことが出來たのであります。この問題はまだ平明に説き得る迄にはわかつて居ませんが、要するに佛教の是だけの普及にも拘らず、先祖を神として祭つて來た國固有の信仰は、今でもまだ(47)殘り傳はつて居るのであります。ホトケといふ日本語は佛を意味し、同時に近い頃の死者の靈を意味して居ますが、是が大きな混亂の種かと思はれます。一方は神よりもなほ尊く、寂光淨土の支配者の如く信ぜられ、他の一方は年に少なくとも一度、この世の供物を受けに還つて來る亡靈で、それもやがては又そのホトケの地位を去つて、神として永く子孫後裔の守護に就かうとするのであります。是ほど相反した二つの考へ方が、同時に信從せられるといふことは不可能です。だから少數の篤信者を除けば、一般民衆の未來觀は中途半端でありましたが、さういふうちにも盆とか彼岸とかに、先祖樣は還つて來られるものとして、祭をする風習はずつと續いて居りました。それを見て大きくなつた人々には、自分もさうなるものといふ考へ方が、恐らくは強かつたらうと思ひます。
 
  (問) 神社の崇敬といふやうな、切れ目の無かつた國民生活にも、やはり昔今の變遷があつたと言はれませうか。(墨井松枝)
 寧ろ生活に適切な事柄であつた故に、變らずには居られなかつたものと私などは解して居ます。この解釋は假にまちがつて居るとしても、とにかくに大いに變つて居るだけは事實であります。一ばん簡單な物の見方は、全國各地のちがひを引合せて比べることでせう。或る御社は結構美を極め、古い年代の建築を誇つて居るのに、一方には再々建て直し、中には年に一度づゝ新たにして行くやうな簡略なものもあります。これは神コの高下、又は由緒の深さ淺さに由るものゝ如く見られて居ますが、技藝が國民文化の新らしい所産であることを考へますと、最初からこの格式の差等といふべきものが、明示せられて居たとは言はれません。つまりは其力のある者が美しくしたのですから後世の變化であります。それよりも更に著しい各地各社のちがひは、御祭の立派で且つ賑はしく、其見物を兼ねて諸方から參拜する人の數の、非常に多い例があちこちにあつて、殊に都會地の女たちは、斯ういふのだけをオマツリと思つて居るやうですが、一方には村の人には氏子だけで至つて、靜肅に祭を奉仕して居るものが大部分で、それにも幾段とも無い祭り方のちがひがあるのです。神といひマツリといふ言葉の意味は、本來は一つで無ければならぬのに、今は(48)是ほど迄の變化が出來て居るのですからとにかくに時代の力がその何れかの上に働いて居るものと見なければなりません。さうして之を細かく見て行くと、甲から乙丙への變化の道筋もわかりさうなのであります。
 大體に參詣といふものゝ盛んになつて來たこと、是が中古以來の趨勢かと思ひます。その參諸にも二通りあり、一つはちやうど御祭の日に行合せて、式の片端に參加することですが、その以外に今一つ、祭でも何でも無い日に自分等だけ、社頭に進んで拜をするのがあります。この方は或は佛法の影響かも知れませんが、或御社だけに限つて大層な毎日の參詣があり、他の多數の御宮には丸でさういふことが有りません。今の人々は是を祭典とは別に見て居りますが、私はやはり臨時祭の、甚だ略式な且つ個人的なものと見て居ります。個人が獨自の心願などの爲に、よその人々の御社を祭るといふことは僭越なやうですが、社が專業の神職の管理に歸りますと、むしろそれを歡迎して賽錢箱などを出して置き、旅人はそれへ金錢を投上げてたゞ御辭儀をして通つて行くのです。そんな事の丸でない小さな御社の信仰の方が、古い形であらうと私は思つて居ります。
 
  (問) 神社と女性との關係を承りたうございます。(松下三壽子)
 これは詳しく説くならば日本の神社史又は女性史の半分を占めなければなりません。しかし私たちは早くから女性自らがこの問題を取上げるべきことを説いて居りました關係上、出來るだけ簡單に要點を御答へ申します。婦人が最も神に近い役目を持つて居たことは、前代の記録に餘るほども實例が出て居りますが、私はそれで巫子といふ專業の職になる前、少なくとも民間の小さな御社に於ては、氏子の中の特に心姿の清い女が、神樣に指定せられて臨時に其御役を勤めた時代があつたらうことを信じて居ります。細かくは述べられませんが其證據も色々と有るのです。誰がその尊いよざし〔三字傍点〕を受けるかわかりませぬ故に、すべての若い女性は日頃から身を愼しみ、又常に神の御コを渇仰して居りました。しかし榮譽はこの上もありませんが、この神役には至難な條件があり、殊に常民の妻となり母となるこ(49)とを許されませぬので、親や周圍の人々は少なくとも之を惜しんで、むしろ一定の家筋の者に、世襲してもらふことを悦ぶやうにもなつたのであります。その女性神職の地位も、以前は十分に高いものだつたが、男子の多く働く軍國時代を經過して、父とか兄とかに其權威を抑制せられ、他の一部の信仰によつて人心を繋いで居たものも、明治の初年になつて更に禁壓せられ、もう良家の處女の新たに入つて行く道では無くなりました。女性の信仰生活は一般に淡いものとなり、從つてその空隙を盈さんが爲に、外來宗教に走る者が多くなつたやうであります。現在南の島々に殘つて居る婦女の神に仕へる風習を見、飜つて上代の高貴な女性が、國民の動向を指導せられた樣を囘顧しますと、感慨を催さずには居られません。しかし地方の端々に行けば、まだ/\この上代以來の風習の、幽かに傳はつて居るものがあります。たとへば土地の災厄に遭遇して、村の主婦たちばかりが合同して氏神に?る心持、さういふ場合には男よりもまじめな熱烈な信心が認められます。或は一門一郷の安寧の爲に、婦人が自ら戒愼し抑制する態度、これは三種の不淨の際に畏れて神の前に近づかぬ慣行などからも窺はれます。忌穢は大昔以來の嚴肅なる約束で、今はもう大抵の教育ある女性が守り難くなつて居るのであります。新たにさういふ古風を復活することは出來ますまい。ただ精確に是までの經過を知つて、其上で今後の針路を決すべき必要はあります。
 
  (問) 女性と家といふ問題に就いて、もう少し御話が承りたうございます。昔は家族が大きく、從つて主婦になり得る女の數は限られて居たわけですが、その主婦になり得る者は、男子の相續人のやうに、始めから大體きまつて居たのでせうか。(花信風)
 私の知つて居る限りでは、さういふ地位又は權利のやうなものが、認められて居た形跡はありません。男の選擇には單なる好み以上に、何か標準があつたらうとは思ひますが、末娘の仕合せといふやうな昔話もあつて、順位などは少くとも無かつたやうであります。或は又、落窪や紅皿缺皿の如く、母が無くとも心掛けのよい女性は、末には迎へ(50)られて、良い家の家刀自になつて居ます。しかし斯ういふ幸福を娘のために、最も切實に祈念するのは母であります故に、母が扶けて用意してやらなかつたら、合格はよほど困難になつたかも知れません。繼子の立身譚などは、心が優しくて又賢こければ、繼子でも好い處へ貰はれるといふ意味で、語り傳へて居たのかと思ひます。親が揃つて家の内が睦まじく、其上に生計が豐かで、娘の教育に力を盡すことが出來たら、主婦となり得る機會が多かつたことは、昔も今と同じだつたらうと思ひますが、それは幾つもある條件の中の、有力な一つといふばかりで、素より持つて生れた資格といふことは出來ません。但し良家の一人娘だけで無く、數多い姉妹のうちでも、總領の娘はよい處へ遣るやうに、親が極力計畫する風は、昔もあり今もまだ殘つて居ります。或は是がもう一つ前の時代に、長女に主婦權を認めて居た名殘であるかも知れませんが、私はまだ是だけの事實では、さう推測するのには十分でないと思つて居ます。
 
  (問) 娘を大家の主婦にする修養は、おのづから他の多くの女たちとはちがつて居たことゝ思ひますが、それはどんな機會にどんな方式を以て授けられて居たでせうか。(同じ人)
 是も最初は大體に自修で、たゞ折々脇から母や祖母などが、教訓と謂つて注意を與へて居ただけかと思ひます。古風な人たちは今でもよく、心掛けがよい惡いといふことを申します。どうとも解釋の出來る言葉ですが、私などは是を他日良い處へ貰はれて主婦となつた場合に、批難無く立派に任務を果して行けるやうな準備、即ち主婦の適格性を得ようとする自修であらうと思つて居ます。家々の生活樣式、俗に家風といふものゝちがひが段々と烈しくなつて來て、この心掛けの十分に報いられぬ場合が多くなりました。親たちの氣苦勞は、この點に集注するのが自然であります。それで見習ひとか潮踏みとか名づけられて、何不自由の無い家の娘までが、二年三年と固い大家へ奉公に行きました。さういふ家々の主婦こそはベテランであります。中には相應に講釋をする人もあつたか知れませぬが、單にそ(51)の人の擧動に學び、又は小言をいはれぬやうに努力したゞけでも、立派に練習になつたのであります。此頃の花嫁學校の見學などは、あれと比べると影法師以下の貧弱さです。しかも今日はもう其方法を續けて行かうにも、第一御手本になるやうな家庭が少くなりました。それにも拘らず、地方によつては、今なほ一度斯ういふ奉公をして來た娘でないと、安心して嫁に貰はぬといふ氣風が殘つて居るのは因習であります。幸か不幸か、家族が小さく分れ、親類づき合ひの面倒が省かれ、日常の生活事務も單純化して、主婦の力量にまつものが僅かになつた爲に、女學校を出ただけでも、何とか遣つて行けるやうになつたのですが、其代りには三十近くにもなつてから、新たに體驗して苦しまなければならぬことが多く、一方には又若干の失敗者も出て來るのです。要するに日本の主婦道とも名づくべきものは、誰でもかれでも、女でさへあれば、みんな主婦になれるといふ時代が來て、急激に衰へてしまつたのでありますが、それでも良い家の良い主婦になるのには、特別の修養と苦行とが入用であつたのを、避けよう/\とする傾向が、新たに加はつたのであります。見習ひ奉公などは近世に入つてから、發明せられた便法かと思ひますが、その採用は限地的で、まだ一般の風習とまでならぬうちに、新らしい教育機關に變りました。姑さんに嚴しく仕込んでもらふといふのも、以前は意識せられた一つの教育法であつたことは、今日形ばかり殘つて居る挨拶の言葉からでも想像せられますが、その姑さんも段々と主婦學の達人ではなくなつて、次第にたゞ憎らしい人の代表者見たやうになつたことは、皆さん御承知の通りであります。しかし同情は足りなかつたかも知れませんが、家を本位としたこの人の批評が、若い未來の主婦の修養になつたことは爭はれません。小姑も鬼千匹などと嫌はれて居ましたが、この人たちの立場は又別で、つまりは兄嫁の缺點を自分の消極的の參考にしようとしたので、同時に美點があれば言はず語らずのうちに、きつと感服したり見習つたりして居たのであります。又「姑無ければ村姑」といふ諺もありました。近所隣の批判といふものも、相當にうるさく耳に入つて來るもので、新たに他處から來たものはとかく細かく觀察せられがちでありました。前途有望の地位であるが爲に、幾分か嫉みの情も加味して居なかつたとは言へませんが、是あるが爲に身を(52)愼み又改良し、もしくは里の家で豫め用意して居たのですから、或意味からは亦一つの修養機關でありました。單なる敵對の塹壕トーチカでなかつたことは、現にどの村にも一人か二人、誰からも評判のよい若い主婦が居るのを見てもわかります。
 
  (問) 家風に合はぬといふ理由で還される嫁が、近頃まで折々あるといふことが私どもにはわかりません。その家風といふものは一體何でせうか。(國上瑞枝)
 多くの離縁話に於ては、家風に合はぬは恐らくは辭令の文句で、たゞ氣に入らぬでは理由にもならず、なだめすかされて押戻される虞れがあるので、斯ういふきつぱりとした語を用ゐたのでせうが、それを言ふやうになつた始まりは私には想像し得られます。勿論ちがつた土地ちがつた職業の間の婚姻でないと、合ふ合はぬを問題にするほどの、家風の差のなかつた筈なのですが、近頃は是を隣近所の縁組の破れる場合にも使つて居るのであります。最初は多分やゝ學問のある家庭で、鑄造せられた新語だらうと思ひますが、その實際上の意味は主婦權の範圍、又は其性質に關する解釋が、家の人たちと嫁に來た一人と、餘りに喰ひちがつて居るので折合はぬといふことを、聟をして言はしめたことになつて居るので、可なり洗煉せられた體裁のよい外交辭令だと思ひます。主婦の權限にはつまりは廣いと狹いと、二通りの流儀があつたのであります。しかも嫁の方が狹い解釋を採つて居る限りは、ただ遠慮深い人だといふ評を受けるだけで、牴觸は起り得なかつたのです。具體的に問題となり得るのは、彼女の里方では、父が外出がちであり又は大まかな人で、家事を女房の裁量に一任してめつたに口を出さない仕來りであり、又は幾らでも其意見を容れて、設計し處理して居るやうな家で、娘が常日頃それを見馴れて、是があたり前だと思つて居たのに、生憎嫁入先では其反對に、主人が指圖をし、又はその承認を得なければ何事も出來ないといふやうな、習はしをもつて居た場合であります。勿論この實?は雙方互ひにしらべ合ひ、又其つもりで控へ目にせよと教へるのですが、少し心安くなる(53)とうつかりして、いはゆる御里を顯はすのであります。女が聰明であり又愼み深ければ破綻に先立つて改良することも出來るのですから、?之を婦コの缺陷に歸する人がありますが、それだけは少しかはいさうでありました。男が居職と謂つて晴天の日も家に居り、衣食の事務にまで注意し得るやうになつたのは新らしいことであります。金錢經濟の普及するまでは、消費物品の保管や分配に、男が干與するなどは不可能なことで、當然に之は主婦の係りでありました。だから今でも農村では、相談もせぬのに世帶の事に口を出す亭主を、よく思はぬ感じさへ殘つて居ます。ただ生活が複雜を加へると、どこかに全國共通の主婦權の分堺を立てなければならぬのに、家により又主人の氣風によつて、この境目が甚だしく區々になつて居て、思慮の足らぬ若夫人を迷はせるのであります。しかも豫め此點を警戒するとなると、必要以上に自分の智能を殺して、借りて來た猫のやうになつて居なければなりません。しかし百年前までの日本の多數の主婦は、決して其樣な引込思案の、しよんぼりとした女性でなかつたと、私は信じて居ります。
 
  (問) 以前は村の内で配偶者を選んで居たゆゑに、親の干渉が少くてすみ、後に遠い所との縁組を好むやうになつて、すべてを親々に一任しなければならなくなつたと、御言ひになつたやうですが、果して元は結婚がさう自由だつたでせうか。(角田洋子)
 是には先づ時代毎の變り目、次には男女の身元によつて、?況がちがつて居たことを認めなければなりません。概括してしまふと何を言つても事實に反することになります。親の干渉の最も強かつたのは第一には本家の主人となるべき者の妻、是は程無く家に喚び迎へて、大切な家政を掌らしめなければならぬのですから、自分たちよりも先づ家の爲に、出來るだけ穩當な選擇を念じたのも自然であります。それが早婚の一つの理由ともなれば、遠くから嫁を迎へる風習の普及を促したかとも思はれますが、當人自身とても家の生活を安らかならしむべく、努めて非難の少ない選定をして居たのでありました。それから第二段には所謂箱入娘、親が大事にして良縁を見つけるまで、成るべく外(54)の人との交際を避けさせようとして居たもの、斯ういふ女性の數は小説によつて想像するほど、澤山は無かつたので、それも目的通りの求婚者を、迎へることの出來たのは又少なく、半分は佳期の空しく過ぎることを恐れて、程なく普通の婚姻群の中に入つて來ました。しかし大體に於て遠くの土地の人に嫁ぐのを、選り拔かれたやうに思つて誇りとする氣風がありました。是には何か隱れた理由があつたことと思つて居ります。この雙方の心持が合致して、所謂遠方婚姻は段々と多くなつたのであります。以前は指折り算へるほどの名門だけに限られて居たものが、いつと無く尋常家庭の主婦にも及ぶやうになり、その又家庭が小さく數多く分れたのですから、今までつき合つて見たことも無い人と、結婚する場合が急に増加して、是が當り前のやうに思ふ人さへ出來て來ました。そんな結婚が昔から行はれて居た筈は決してありません。親が家の爲又當人の爲に、最も念入りに代つて捜しても、少し條件が惡いと中々見付からぬ場合が多いのです。ましてさういふ熱心な保護者も無く、一人で相手を見つけなければならぬ者は、現實にはずつと多かつたのです。知つて其上で求婚しなければ、來てくれる人の無いのはそれこそ當り前であります。日本には限りませんが、村が昔から異なつた幾つかの家々の集合によつて成立つて居たのは、主としてこの婚姻の便宜からであらうと、私たちは考へて居ります。男女小さい頃から一緒に育つて、互ひにどんな人どんな氣質かを知り合つて居ればこそ、正しい又適當な選擇が出來るのであります。さういふ中には激情の爲に、何れか一方に不利な約束をするものも稀にはありましたが、是にも周圍の者の批判、殊に青年は青年仲間、娘は娘どうしの意見がありまして、あまりに權衡を失して末遂げられぬやうな縁談は、ごく早い頃に抑制することになつて居ました。村の風儀がよくないといふのは、さういふ與論の力が一般に弛んで、寧ろこの約束の破られがちであつたことを謂つたのであります。すきづれとか馴染添ひとかいつて輕蔑せられたのも、父母や朋輩の説に背き、二人だけで勝手な生活を始めたものだけで、正しい選擇の下に公認せられた約束は、不道コで無いのみか生活の大きな力であつたのです。それをも引きくるめて野卑なもののやうに謂ひ出したのは、仲人を唯一のたよりにする遠方の縁組を、すべて上品なものと思つた結果であ
(55)りまして、御蔭で昔から自然に發達しで居た婚姻方式が、いよ/\粗末に濫用せられることになりました。從つて、今更之を復活して見ることは出來ませんが、少くも祖先の面目の爲に、この一事だけは明かにして置かなければなりません。昔の結婚道コは今よりも一段と鞏固で、一旦約束した者は一生の夫婦でしたが、その約束の根柢には、十分なる理解と判斷とがありました。親は必要なれば子女に代つて、選擇の任にも當りましたが、いつの場合にも彼等の利害と希望とを無視するほど無慈悲ではありませんでした。たゞ斯ういふ場合に於て、強ひて一身の希望を表白せぬといふ道コが新たに附け加はつて、形の上だけでは親が勝手にきめたことになつて居るだけであります。素朴な田舍人の中には今日でも、息子に嫁をもらふべき時になつて、誰かと約束をして居るかどうかを、友だち仲間に尋ねてあるく者があります。もつと單純な親たちには、まだか/\と娘の約束するのを待つて居るのもあります。もし約束が出來て居れば、大抵の場合は同意します。或は始めには同意を澁つて居ても、仲に立つ者があつてしまひには承知をするのが普通です。斯ういふ話をきくと、もう笑ふ人が多くなつて居るかも知れません。しかし以前の村々の婚姻は、是で何十代と無く續いて來たのです。つまりはこの風習は變遷したのであります。現在のものを以て最上とする自信が無い限り、他日一段とよく改まることを望む限り、今まで通つて來た段階は明かにして置かなければなりません。是は娘たちの問題としては間に合はぬかも知れませんが、母の參考としてならばまだ充分間に合ひます。私の話は是だけでは盡きませんが、さう/\一つの事ばかり長く説いても居られません。あとは又別の折に附け足すことにしませう。しかしとにかく此問題は女性としては最も關心の深いもので、しかも各國の國情は皆異なり、到底よその參考書を見ただけでは解けないのに、日本では女にも男にも、之を考察して見ようとする人がまだ無いのです。決して問題がむつかしいからでは無いと思ひます。日本民俗學のまだ普及せぬ爲としか考へられません。私の言ふことがもし心もとないならば、誰かがもう一度同じ方法によつて、改めて調べて見て下さるとよいと思ひます。
 
(56)  (問) どうして婚姻の制度にその樣な大きな變遷があつたのでせうか。人が世の初めから引續いて、少しの絶間も無しに行ひつゞけて居たものが、まるで改まつてしまふといふことは我々には信じられません。(平澤香居)
 制度といふ言葉は廣くも狹くも、さま/”\に用ゐられて居りますが、少なくとも根本の主義目的だけは、改まつて居るのでは無く、寧ろそれが確固不動であり、守り續けなければならぬものである故に、他の端々の仕來りを少しづゝ變へて行つて、時世の變化に適應する必要があつたのかと、私は思つて居ります。つまりは改まつたのは方式であります。たゞ方式のかはるにつれて、根本の制度に對する人々の考へ方までが、幾分かちがつて來ることは免れませんが、是は沿革を明かにする眼が備はれば、容易にその古今を一貫するものを、見究めることが出來るやうになるでせう。又さうしなければ將來を計畫することも出來ません。
 どうして方式がその樣に變つたらうといふこと、是が最も大切な我々の問題であります。學問の自主、日本人は日本人自身で、皆さんは又皆さんめい/\で、安心してさうと信じ得るまでに、御自分で判斷しようと努められることが肝要であります。私は今自ら信じて居ることだけしか申さぬのは勿論ですが、原因は非常に複雜です。まだ私の全く心付かぬものも加はつて居るかもしれず、又地方によつては別の事情も影響して居らぬとも限りません。だから鵜呑みに人の言ふことを受入れず、果して自分の疑問の正しい答へになるかどうかを、始終檢査する練習をしないといけません。その各人の判斷、殊に大多數の皆さんの結論の一致した所が、たとへやうも無く尊く又有力なのであります。
 一方には又あなたの如く、變るべき道理が無いから變つては居ないのだといふ風な、昔風な物の考へ方をする人も少なくありません。その人々に對しては、先づ事實に於て現に變つて居るといふことを、はつきりと知らしめることが順序であります。どういふ原因からであるかは知らぬが、とにかく以前と比べて是だけは改まつて居るといふことを、成程と思ふまでに證明して見せますと、其次に起るべき疑ひはもつと適切なものになります。幸ひ他の方からも(57)方式についての御尋ねが來て居ますから、もう一度だけ婚禮の變遷といふ話をして見せませう。
 
  (問) 小笠原流といふ婚禮の儀式を、大體に日本固有の舊慣と見て差支へはありませんか。(龜田俊子)
 小笠原は足利氏について大きくなつた甲州の大名です。この家の禮法がよく整ひ、むだが少なく感動が深かつたので、伊勢氏のそれと共に、他家にも弘く採用せられたのは事實ですが、それは所謂室町期以後の、しかも京都とその感化を受けた地方の上流社會だけと見られます。勿論其以外の家々とても、是とまるで異なつたことをして居たとも思はれず、小笠原流の方でも時代に應じて、追々と同化と改定とを加へたでせうが、結局は單なる中世甲州の武家が、保存して居た古式の一例といふまでで、是とちがつて居るものが皆新らしい變則略式といふことは出來ません。略式では無くとも昔の普通民の婚禮は、是よりはずつと簡單であつたでせうが、一方には小笠原であまり重きを置かぬことにも、力を入れて居る點が色々あります。それなどもやはり古い頃の時代變化の一例に、算へてもよいかと思ひます。たとへば小笠原流では輿迎へ、即ち嫁の引移りを中心にして、すべての盃事を組立てて居るやうですが、それは遠方から嫁を取る武家の大名だからさうなるので、今でも村々のたゞの農民には、その嫁入に對して聟入を同一程度に、否時としては一段と重い儀式に見て居る者があります。聟入の式が小さくなつたのはつい近い世のことで、是も小笠原流の急激なる普及の爲でした。それから今一つ、大名貴族でない常人の家では、近所隣りに澤山の對等の交際がありますので、この人々への披露挨拶の式といふものが今でも必要ですが、其部分が小笠原流では缺けて居り、しかも民間では現在もなほ大切に守られて居ります。古い時代からの日本の多數の婚禮が、どんなに金があり又時間があつても、決して小笠原流だけですまされなかつたことは明かでありまして、しかもこの國に於て婚禮の事を記録した本といへば、悉皆この流のものばかりといつてもよいのですから、皆さんが迷はれるのも無理はありません。我々の禮式には、もとは堅くるしい仕來りがあつて、それを記憶し守らうとする人が多かつたのですから、文字の書ける(58)者でも書きとめて置く必要を認めなかつたのです。書いたもののあるのは却つて新たに學ぶべき必要のあつたことを意味します。ところがその堅固な記憶が、いつと無くほんの少しづゝ崩れたのです。さうして本を重んじ幾分か之に囚はれて、古い傳統は改めてもよいといふ氣持に、老人までが傾いて來るやうな推新時代を迎へました。今日の婚禮はその小笠原流を守つて居るわけにも行かず、無論無意識にではありますが、僅か殘つた古い色々の作法をこね合せて、目前の世情に適合した又一つの新たなものをこしらへで居るのです。單に方式が改まつたといふだけならば、誰の目にもよく認められます。
 
  (問) 今日の婚姻儀式の中で、一ばん昔とかはつて居るのはどの點でせうか。どうか實例で御示し下さい。(戸賀なみ)
 昔にも色々あつて、實は二度三度と改まつたやうであります。重要な點ではないかもしれませんが、嫁入の行列などは、誰にも目につく大きな變り方であります。行列を美々しく晴れがましいものにしたのは、或は中世以來の趣味もしくは流行でせうが、それより以前にも嫁聟は外をあるいて、世間の人に見られ又公認せられる必要はあつたかと思はれて、是に伴なふ土地毎の習はしがありました。たとへば列の中の一人が聲高に、「媛ごぢや/\」と呼ばはつてあるくといふ風は、全國の各地に殘つて居て、其役目を人力車夫にさせた例さへありました。近所の女房は路に立つて批評し、子供は菓子をもらひ、若い衆は通せんぼをして、酒をねだつたりしました。現在はそんな風は少なくとも大都會には絶滅し、折角の衣裳も化粧も半分はむだになり、僅かな招かれた人だけが行つて見ると、もう式は嚴肅に行はれましたといふ報告を受けます。何の爲の晴着かが不明になつて、罷めたらよからうといふ意見が有力になつて居ます。ところが或時代にはこの行列が、聟入と嫁入と二度くり返され、從つて正式の盃事が嫁の家と、聟の家とで二囘あつたのであります。聟には聟かくし、嫁には嫁まぎらかしなどいふ同じ年頃の男女が各數人、同じやうな身ごしらへをして同行する例さへ、まだ田舍には少しばかり殘つて居て、この慣習を研究する者には深い興味であります。(59)ところが東京や大阪、その他之に倣ふ土地の今日はどうですか。式は出合ひと稱して後にも先にも一ぺん、雙方の親類が顔を出すといふのみで、遠慮をして名乘らぬ人さへ多く、御客などはたゞ顔を知つた兩三人が、雜談をして還るだけです。時間を儉約する爲に斯うなつたのだから已むを得ませんが、當人たちに取つては一生の大事、一門郷黨の重要な事件を、記念する方式としては何だか物足らぬやうに、思ふ人があるのも尤もだと思ひます。
 古い人たちでも、式はなるべく手輕にといふことをよく申しましたが、それは寧ろ婚姻を重々しく考へがちであつた爲で、本家の跡取りの婚禮と、次男三男の身を固める場合とは、もとは用意が始めからちがつて居たのを、後々平均して差別が立たぬやうになり、段々に第二の方へ寄つて來たのであります。次男以下の分れて出る者の縁組には、嫁の家の方で餘分の世話を燒きますが、代々の家を相續する者の嫁迎へでは、さういふことを聟の家ではあまり好みません。といふわけはそれが同時に、家と家との縁組であり、又時としては村と村との縁組でもあつたからで、嫁を貰つた爲にその對等の立場を、失ふわけには行かなかつたからであります。田舍で長男が外へ出て行くのを抑へ、外で自分勝手の婚姻をすることを喜ばぬ風があつたのも、基づくところは一種の自衛作用であつたのですが、今はさういふ事も言つて居られなくなりました。さうして西洋風の無差別な婚姻觀が、若い人々の頭を支配する樣になつたのであります。今度の事變の結果として、もしも少しでも娘が剰るやうになりますと、聟はいよ/\嫁方から大事にせられることとなつて、家を本位とした長男の縁組などは、更に一段と昔の方式が守り難くなることと思はれますが、以前はとにかくに聟入の式は略しても、嫁入の式だけは略し得なかつたのであります。それが今日は既に雙方から歩み合ひ、中には里方が事實に於て、養子聟同然の世話をするものさへあります。昔もそれはありましたが、他國者殊に生家に用の無い次三男に限られて居りました。それが近頃は長男でも同じになつたので、嫁入行列の無くなつた一つの原因は、或は斯ういふ所にも在るかと思ひます。
 
(60)  (問) 婚姻習俗語彙に御出しになつた朝聟入といふ名稱の御説明を願ひます。(椿房枝子)
 婚姻は嫁入の日を以て始まるといふ近世の觀念に、今一つ前の型があつたといふ史料として、私はこの朝聟入の風習を大切に見て居るのです。朝聟入は讀んで字の如く、嫁入の日の晝頃即ち媛行列の出るに先だつて、聟が仲人及び近い親類の二三人と同行して酒肴を携へて嫁の二親に挨拶に行くことです。是を土地によつては一ゲンとも又ゲンゾとも謂つて居ります。ゲンゾは見參、一ゲンは一見參の略で初對面の禮といふことかと思はれます。開けた多くの土地では、ゲンゾは嫁入の三日後、嫁の里歸りに同行して、附隨的に行ふことになつて居り、之を新客とも打明けとも謂つて居ります。即ち嫁の父母は嫁に附いて來ぬか、又は附いて來ても聟に言葉を掛けずに還らなければ、初見參といふことにはならぬのであります。今夜嫁が來るといふ忙しい日に、わざ/\聟が行くといふのはよく/\の事だから、私はこの方を古い作法の殘り、一方の三日歸りの同行を後の改良と見て居るのであります。朝聟入の際には舅夫婦と親子の盃、其他の嫁の身内と親類盃をする以外に、大抵の例では嫁も其席へ出て、男と始めての盃を交します。さうすると婚姻は聟の家へ着いてからの、三々九度から開始するといふ通説は、もう覆へるのであります。
 この嫁入同日の聟入といふことは、全國東西を通じての非常に數多い例であつて、眞似や流行ではなかつたといふことはよくわかりますが、その以外になほ諸國のやゝ引込んだ土地に、日を異にした嫁入前の聟入があります。その一つの例には結納聟、是は仲人がいよ/\話を取極めて、結納と稱して一定の贈り物を持參する日、聟を同行して嫁及び其親と盃をさせることで、此式が濟めばもう自由に出入してよろしいことになつて居ますから、是も婚姻の開始であります。もつと變つた例では奉公聟、是も聟入の日を以て婚姻は始まるのですが、それから或期間嫁の家に留まつて、働く約束になつて居るのです。二年とか三年とか勞働をしてから嫁をつれて家に還り、萬一辛抱が出來なくて立退く場合には、給金を貰つて別れるやうな契約になつて居ましたから、新らしい人は勞働婚などと呼んで居ます。しかし其以外にも雙方の親に許され、世間からも公認せられて居て、嫁がなほ久しく里方で働いて居る例は、幾らも(61)あるのです。足入れとか箸取りとかといふのは、一旦は嫁入して聟の父母と挨拶をしてから通例は一夜だけは泊り、次の日から里に還つて折々手傳ひに來るのですが、それもまるでしないで二年も三年も、聟の方から通つて來る例がまだ方々にあります。多くは聟の母が死んで主婦の入用を生じてから、又は子供が生れて里方の世話が屆かなくなつてから、嫁入ともいへぬやうな目立たぬ引移りをする村があります。つまりは里方としては娘の未來を保障すること、其勞働力を他家へ讓るといふことは、二つ別々のことと考へて居たので、それといふのも女の働きが一家の支持に必要だつたからであります。私が婚姻の方式の嫁入本位に改まつたのは、女の勞力の價値が低下したからだと謂つたのも、一分の理由はあるのです。しかし勿論それが唯一の理由ではありません。所謂遠方婚姻で五里七里離れた名門から嫁を貰ふとなれば、奉公聟でも無い限り、聟は到底毎夜通へません。事實に於て嫁入を婚姻の開始とせねばならず、聟人を濟ませてからさういつ迄も、別居させては置けないのです。しかもさうきまつてからもなほ形ばかり、午前の聟入の慣例を保存して居るといふのは、如何に聟舅の近づきといふものが、大切な條件であり、初期の婚舍を嫁の家に設けるといふことが、古い昔からの常識であつたかがわかります。男女雙方の家の生活が一樣であつた間は、嫁入の延期は寧ろ御互ひの便宜であつたかも知れません。それが所謂家風のちがふ世になつて、長男の嫁だけは早く引取つて、みつしり仕込まなければならぬといふことになり、さて皆さんの氣苦勞はふえました。しかし今日は又それも段々と緩和せられるやうになつたかと思ひます。其代りには家の機能は、著しく弱められて居るやうであります。
 
  (問) 中古の記録には仲人といふものが見えないといひますが、それは本當でせうか。(大間すみ)
 婚姻に仲立ちが全く無かつた筈は無いのですが、是に任ずる人はたしかに變つて居ります。支那でも媒妁の字は女篇に書くやうに、女を橋渡しに頼むことは心安く、又、自然でもあつたのでせう。是を堂々たる名士夫婦に依頼することになつたのは、一言でいふなら婚姻の困難、又は故障の多い婚姻を心掛けるやうになつたからとも見られます。(62)とにかくに此點は日本の婚姻方式の、最も著しい變遷の一目標であります。古い形では仲立ちは文使ひ、即ち此方も心を寄せて居ることを知らせる役で、十に八つ九つまでも成る見込のある樂な仕事でありました。單に若い男女の自尊心を傷けない爲に、それと無く意向を探るだけの必要からで、今でも叔母從姉妹仲のよい友だちなどに、そつと聞いてもらふといふ風習はまだそちこちに殘つて居ます。ところが一方には「仲立ちは逆立ち」などといふ諺も出來て居て、何でもかでも話を纏めようとして、足を擂木にして奔走した話の多いのは、それだけやゝ不自然な縁談を成立させて、手柄にしようとした人が現れた爲で、日本は又さういふ手腕家もしくは顔役の、活躍する國だつたのです。未婚の男女が組を作り子宿を共にして居た頃には、宿親といふ老人が世話をしましたが是は主として宿朋輩の陰の力が働いたやうです。次で男女の交際がやゝ亂難になつて、親の許しさうもない約束をしてしまふと、これを成立させる爲に又一種の親分が出てまとめてくれました。是を仲人親と呼んで、一生親同樣に仕へるといふ風も方々に殘つて居ります。今日の仲人は其以上に、配偶者發見の勞まで執つてくれるのがありますが、之を頼む者の動機にはやはり其人を永く親分に仰がうといふ念虜があつて、出來るだけ有力なしかも世話好きを見つけます。しかしさういふ人は大抵は老い且つ忙しいので、時々は新郎新婦の名を忘れたり、親の名をまちがへたりします。事實上の橋渡しは當然に、もつと微々たる人の手に託さねばなりません。何だかもう一度中古の姿に戻つて行くのぢやないかといふ感じがします。それでも結構か、また結構でないか。斯んな小さな問題でも、やはり歴史を知つてからでないと、明答することは出來ないやうであります。
 
(63)   比較民俗學の問題
 
          一
 
 朝鮮を見に行つて來なくちやいけません。萬葉集が歩いてゐますよ。亡弟松岡映丘がさう謂つて私に勸めてから、既に二十年にならうとして居る。其間に二度、汽車で通り拔けたことはあるのだが、少しは準備して改めて見に來ようといふ下心がある爲に、却つて見られるものまでが殘してある。今村氏を始めに、他の多くの篤學の公けにせられた研究物が、大切に手近の一棚に竝べてあるだけで、それも年と共に著しく量を増し、やはり相當の日子を算段した上でないと、索引を利用し得る程度にも、讀み通すことが六つかしくなつて來た。たま/\一二の箇所を拾ひ讀みするだけでは、知識の渇きは寧ろ忍び難きを感ずるばかりである。斯ういふ今に/\の漠たる豫期を以て、老い盡す學徒は自分ばかりでもあるまいが、出來るだけさういふ歎きを少なくさせることは、創業期の學界に課せられた又一つ餘分の任務ではなからうか。
 民俗學 Volkskunde といふ一つの學問の分野だけを見ても、日本では餘りにも資料が多過ぎた。多いといふことは勿論悲しむべきことでは無いが、それが甚だしい亂雜のまゝで此頃までたゞ引繼がれて居たのである。東京人類學會の創立の當初から、坪井・鈴木その他の有力なる會員たちは、既に英國流のフォクロアの蒐集を、會の事業の大切な一項目と認めて居た。タイラアの流派の人々は、概して内外の生活誌を區別せんとしなかつた故に、自國のものを(64)も土俗といふやゝ不愉快なる文字を以て表示して居たけれども、採集者の態度は當然に蠻地探險などとは違つて居た。殊に各自の故郷の母伯母たちの思出を聽いて報告する者は、單なる言語の隈無き會得以上に、彼我共通の感覺により、一つ空氣の中に共同の發見をすることさへ多く、同情と理解と、時としては咏歎を添へて、搬び出さうとする者さへあつたのである。多少の消長はあつたけれども、此慣例は可なり久しく續いた。目的は他に存した風俗畫報の類の、三四の坊間雜誌でもよほど此態度を學び、新聞は又正月の初刷だけには、努めて此方面の記事を載せるなど、自分等の氣が付いた頃には、もう大分の民俗資料が集積して居たのである。たゞ是を半島近年の事業などと比べると、著しく受動的、即ち出逢ひ頭の見聞ばかり多くて、從つて地域と題目との制限を免れず、其上に人の嗜好の偏倚と、又若干の無益なる重複とがあつた。
 
          二
 
 郷土研究といふ、採集を主たる目的とした雜誌の出る頃から、此弊害は既に忍び難くなりかけて居た。古い雜誌は部數が少なくてすぐに見えなくなる。前に同一の事項を詳しく見聞した人のあることを知らずに、歳月を隔てゝ又珍らしさうに報告する者がある。それが粗末であつたり、もしくは誤つて居るかと思ふ場合が、尤も利用者をして懊惱せしめる。中には前にある者を黙つて受賣りし、しかも之を誇張する者がある。日本では特殊に重要なる各地の傳説の如きは、分けても其災厄に累せられて、今なほ學問の用に供することが出來ない。さうかと思ふと他の半面には、國人の内部生活の進展を明かにするのに、極めて有力なる缺くべからざる資料にして、まだ利用し得る人の無い爲に埋れ果て、やがては又記録せられずに消え去らうとして居るものがあり、しかも資料のどの部分が乏しいのかを、明示することさへ出來ぬといふ?態が認められたのである。
 私たち少數の者の最初の仕事は、先づ問題の所在と其緩急とを見定め、世人をして是に或程度の興味を感ぜしめ、(65)きて其上にどうすれば是に入用なフォクロリックの資料が集めて行かれかかを例示するに在つた。巫女考とか俗聖即ち毛坊主の話とか、樹木信仰の痕跡とかに關する私の長々しい論文は、問題は民俗學上のものであつても、其方法は甚だしく不純だつたと評せられなければならぬ。辯護の餘地としては此頃は、まだ資料が出揃はなかつたのである。是ほど重要な論證をするのには、さま/”\の變化段階に在る地方事實を、豐富以上に竝べて比照して見なければならぬ。それをして見ようにも、種は是から見付けてといふのでは、勢ひ歴史家の眞似をして、化石した記録に強い證據力を與へ、是に結論の大體の傾向を指示せしめ、追々出現する民間の傳承が、果してその假定の解説を支持してくれるか否かを檢査して見なければならぬ。たつた一つか二つのやゝ變つた口碑や俗信が、途轍も無く珍重せられ記憶せられ、度々罷り出でて座をつとめるといふ、茶器骨董式の民俗論が、流行して居たのも、有りやうは其餘弊であつた。そんなに珍らしくてしやうが無いなら、どうして周圍の地にはそれが無いのか、又は他の部分は同じで一二の點だけがちがつて居るとすれば、何はさし置いても何故に其差が生じたのかを、論究してこそ學問であつたのである。ところが資料の供給にはいつも我々は受身だから、たとへ待つて居たところで出て來なければ致し方がない。又格別待ち焦れても居なかつたのである。さうして何かといふと其不可解の空隙を補?する爲に、場合方角を全く異にした上代のやゝ似よりの文獻を引用し、甚だしきは朝鮮滿蒙のどんな境涯だつたかも知れぬ人々の記事を、持つて來て空想を支持させようとして居た。私たちも幾分か俑を作つた責任は免れぬやうだが、とにかくに世間をして斯ういふことをするのが民俗學と思はせたこともあるとすれば、謝罪に先だつて大急ぎに之を取消すことに專念しなければならぬ。人間は往々にして斯ういふことをするといふ證據以上に、今はまだ滿鮮の事例などは旁證にもし難い?態である。驢馬と黄牛とに同じ車を牽かせるやうな仕事を、萬一にも比較民俗學と解する人があるやうだつたら、その結果は忽ち學徒の志を萎えさせ、再び先進の獨斷を暗誦して、之を守らぬ者を異端と呼ぶやうな時代に復らうも知れぬ。比較民俗學は我々の大いなる彼岸であるだけに、さう手輕に渡守の船が見出されぬのも已むを得ぬ。早まつていかものをつ(66)かまぬやうに、警戒する方が當面の急である。
 
          三
 
 とにかくに日本民俗學と我々の稱へて居るものは、右の災難に苦しめられた御蔭に成長した。十年か十五年を中に置いて、其前後の研究ものを比べて見ると、誰でも恐らくは或變化を認めるだらう。どの點かといふことも私たちには言ひ得る。資料の自然の増加といふよりも、其利用の方法が少しは上手になつて居る。少なくとも互ひに兩立し得ないやうに見える二つ以上のちがつた土地の事實を、一つは重んじ一つは輕んじたり、まちがひだらうと言つたりすることは無くなつた。又無暗に或場合だけに、特殊なる歴史的原因がある樣には考へなくなつた。日常生活には個人の意思が、働く場合が至つて少ない。それが又風習と謂ひ慣行といふものゝ特徴でもあるので、變り移るとすれば平ら一面に、しかも緩やかに同じ方角へ動き、それが又若干の遲い早いがあることは、決して最近の新文化の浸潤だけでは無い。二つの民俗の半分似て半分似ないのは、大抵は或一つの變化線の前と後とだといふことが出來る。世界の學者には放牧時代だの、母系時代だのと、どんなちがつた民俗でもすべて一度は通つて來る段階が幾つか有るやうに、教へて居た人も元はあつたが、それはまだよほど不安心な獨斷であつた。一つの民族の、しかも移住と往來のいつの世にも行はれた我邦では、大よそ安全にこの變化によつて、あるいた途筋を推測することが出來るやうであり、又其推測を安全にする爲に、成るべく澤山の事實を排列して見る必要も感ぜられるのである。
 事實資料の集積と整理とを、各研究者の作業とすることは時と勞力が惜しい。それで中央に機關を設けて其任務を引受けてもらふこと、及び其利用を何人にも容易にすること、是が我々の仲間の最近十年來の計畫であつた。圖書館に本を集めて置いても見に行ける人は少ない。又捜し出すだけにも時が費える。それを順序よく抄録して、誰にも安心して引用し得るやうに、民俗語彙〔四字右○〕といふものを作らうといふ案が成り立つた。それの完成するのは待遠だから、先(67)づ集まつたほどづゝ一種目毎に分册にして、出さうどいふことになつて、既に十三種ほども出て居る。増補訂正が際限無くあつて、すつかり揃ふといふ日はいつ來るともわからぬが、兎に角に是にあるだけは名實共に公有の知識となつて、一人で僻地に居る者でも利用することが出來、又採集者にむだな勞苦をさせる虞れは無くなつた。誰でも是に見えぬものだけを、大體に採録するねうちの有る新しい事實と思へばよいからである。
 
          四
 
 但しこの民俗語彙には、まだ二三の方法上の疑問〔六字右○〕が殘つて居る。今まで約半世紀の國内の採集が、すべて適當に此中に保管せられ又役に立ち得るだらうか。是が其疑ひの一つであつた。以前事實を詳しく觀察するだけに力を傾けて、生憎それを土地で何と謂つて居るかを聽き洩し、又は實際名前は無くもしくは至つて平凡で注意するに及ばなかつたものもあり得るからである。語彙によつて列記して置くと、さういふのが落ちてしまひ、又はよほど適切な條項の下に附記してないと、入用な人の目に觸れぬこともある。同じ名稱でちがつた事物を意味する場合も、有りさうに思はれたが、それは存外に少ないものである。之に反して全國どこに行つても、別に是といふ名を附けて居ないといふ民俗は、氣にかけて見ると相應にあるやうに感じられる。この分だけは別に記述の方式を定めて殘して置く必要があると思つて居る。ポウル・セビオの佛蘭西民俗誌などは、舊來の用語といふものは物の序にしか掲げず、すべて當の事物の一つ一つに就いて、之に關聯したあらゆる傳承を寄せ集めて、日本でいふと和漢三才圖會などの體裁と似て居るが、何か一種の俗信とか禁忌とかを知らうとするには、當ても無しに各項を讀んで行く必要があつて、我々には不便な場合も多い。さうして索引が中々作りにくい。だから私などは言葉で簡單に覺えられぬ事項だけ、たとへば日本でならば臼にはどんな言ひ傳へがあるか、竈の下にくべてはならぬ物は何と何か、家を出て行く折に、見かけるのを嫌ふものはどんな動物かといふ樣な種類のもののみ、或は別にこのセビオの式をとることに、したらよからうかと思つ(68)て居る。
 次に又一つ、フォクロアの讀み物としての興味を薄くするといふことも、見樣によつてはこの語彙類別式の不利な點かも知れない。西洋の諸國では、是を文學の一科目に編入しようとする人が今でもある。一つには此學問が上代の物語の殘つた形を尋ね、大衆の粗樸な夢と經驗とが、之を次々に彩どつて行く姿を、有りのまゝに世に傳へようとすることに力を盡したからで、無論そればかりを全部の事業として居た者は無いのだが、たま/\素人の好尚が此方に傾いて居た爲に、或はフォクロアを以て傳説と民間説話とを記述する一種の文筆の如く、解して居た人さへあるのである。普及の爲には好都合だつたとも云へるが、一方には又誤解をも招いて居る。幸か不幸か日本ではさういふ經驗は少ないやうだが、外國には讀み物としても面白い書物が多く、何だか此方面にばかり、優れた文章家が多いやうな感じがする。殊に英吉利ではさういふ例に乏しからず、自分の狹い讀書の範圍でも、Prof.T.Rhys の Celtic Folklore の如きは、事柄の六つかしいに拘らず、筆者の心の跡にひかれて二卷の大册が、つい樂しみに讀んでしまはれるやうであつた。是とよく似て幾分か説明的になつて居る書物を、アルプス地方の旅行中に二つ三つ見たことがあるが、人に尋ねて見ると何れも專門家では無くて、單に斯ういふ事實に深い興味をもつ人が、著者にも讀者にも數多く、問題はもうよほど通俗化しかかつて居るのである。同じ傾向は獨逸ではどうか知らぬが、佛蘭西伊太利の靜かな滯在者の多い地方でも、追々と盛んになつて行くかと思はれた。だから民俗學を弘く社會の關心に植付けようとするには、語彙でたゞ簡明に資料を集積するよりも、一つ一つの問題の面白いと思ふものを、ずつと詳しく素人をも動かし得るやうに、報告して置くことも必要だつたので、實は自分なども一時その方法を試みたこともあつた。しかしさうして居ては勢ひ注意が偏する。殊に日本のやうに澤山に古い事の殘つて居る國では手が廻らぬので、どうしても斷片を粗末にする嫌ひがある。話題として人望の少ないものが除けて置かれる。たとへば日本では可なり重要な葬法の慣習などが、まだ不明の點の多いなどはそれである。たとへ一部の文章の達者の人だけは、さういふ宣傳の役にま(69)はるにしても、一方には是非ともこのやゝじみな基礎工事に、先づ大きな力を拂はなければならぬのである。
 
          五
 
 朝鮮と舊日本との民俗の比較なども、この我々の整理方式の爲に、一旦は水をさゝれるやうな懸念が無いとは言へない。今までたゞ直觀的なる第一印象によつて、斯んなにも雙方よく似通うた生活ぶりがあるかと思ひ、本來無縁のものならばこの樣な一致はある筈が無いなどゝ、半ば感歎の聲を放つて居た人たちが、しばしば名を知り又その命名の由來を明かにすることによつて、さてはちがつた筋途のものであつたかと、力を落さねばならぬ結果を見るからである。しかしさういふ發覺は早晩は免かれない。夢は崩れるけれども學問は精確になる。悲しむべきことでも何でもないのである。元來我々の歴史科學といふものが、實は今まで起原論に囚はれ過ぎて居た。中間の千年は百年の推移といふものを無視して、元が一つだといふ證明ばかりを念掛けて居たのである。一つの極端な例は地名のアイヌ語解釋、是はほゞ七十年ほどの間、日本では續いて居る。地名などは人口が多くなり、土地との因縁が濃くなつて、始めて之を付與する必要が生じたことは判つて居るのに、一度アイヌが居たといふことが即ち地名の今もある理由だとして、どうして引繼いだかも考へて見ぬ人が多く、立派に近代の日本語として説明し得るものまで、蝦夷語だと言つてうれしがつて居る。斯ういふ知つたか振りは質が惡い。傳染せぬやうに氣を付けなければならぬ。民俗語彙などは數多く集めて見ると、其名を支持して居た人々の心持までがよく現はれて、古くとも室町時代からさう謂ひ出したらうと思ふものが多く、鎌倉期以前に溯り得るものは珍重してよい程しか無い。半島の方でも恐らくはさうだらうと思つて居る。この二つを突合せて見て、喰ひちがはなかつたら寧ろ不思議である。もしも偶合で無いならば何かよく/\の特殊な事情があるのである。小倉博士が曾て報告せられた、若干の兩國語共通の物の名などは、かゝる一般の相異の中から、辛苦して拾ひ出されたものなるが故に、特に我々は驚歎し且つ珍重するのであるが、中には今以てさもあ(70)りなんといふ顔付をして、之を迎へるやうな人が朝鮮にも居るかも知れない。いかに一族であつても、千何百年も別れて住んで居れば、大抵遠々しいものになつてしまふ方が當り前である。それが何人にも成程といへるやうな著しい一致を、示すことが稀にも有るとすれば、是には何か又積極的なる理由、即ち歴史から新たに生れ出たか、もしくは天性に具はつて動かぬものがあつたかを想定しなければならぬ。我々の發見を必要とするものは此部面にあると思ふ。南部朝鮮は地域が接近し且つ古くからの交通が少しづゝあつた故に、實はやゝ平易にこの聯絡の存在を承認する傾きがあるのだが、是とても漢字を取次いだとか、佛像經典を持渡つたとか、二三の工藝を傳授したことがあるとかいふ以上に、さう根本的な記録の證跡が有るわけで無く、單に其樣な事が出來たといふのも、元々縁があり互ひの生活に似通うた所があつた爲だといふ推論が、成立ち易いといふに過ぎない。今後明かにすることが出來るかも知れぬが、現在はまだ確かなことは何も云へぬのである。まして他の一面に丸々名も聽かず、もしくはたゞ幽かに存在を知つて居る第三第四の諸民族との間に、是と同一程度の類似が全く認め得られないかどうか、さういふことは考へて見た人も無く、又調べて見る方法も一つとして具はつては居ないのである。斯ういふ時代にあつて曾て私の亡弟が感動して來たやうに、半島の古風の中から萬葉人の生活を偲ばうとするなどは、言はゞ詩であつて、學問の二葉ですらも無いと私は思つて居る。
 比較民俗學の前途は遙かである。我々は是を人類自省の究竟地とすらも考へて、その成熟の日を待ち焦れて居るのではあるが、しかも基礎工事の十二分の安全を期するが爲には、なほ折々は一旦積み上げかゝつたものを崩し、又は既に踏み出した數十歩を、後返りすることをも覺悟しなければならぬのである。
 
          六
 
 「朝鮮民俗」といふ雜誌の出て居ることを、迂闊な話だが私などはまだ知らずに居た。今囘の記念號を好機會として、(71)先づこの兩地の間に於て、比較の第一歩を踏出すことにしたいと思ふ。兼々羨ましいと感じて居たことは、半島の學業は新興の意氣に溢れ、いつも計畫が大掛りであり、又着々と成績を短日子の間に擧げて居られる。折角皆さんが故郷を振囘つて、彼と是との偶然ならぬ暗合を説いて見ようとせられても、しば/\適切なる材料の現に幾らもあるものを、手輕に供給することも出來ぬやうな?態に、今なほ我々の調査が停滞して居ることは、きまりの惡い話だとも思つて居る。
 今村さんにはまだ御勸め申すには早いかも知れないが、私などは年を取つて本式の纏まつた仕事が出來ぬやうになつた時の用心に、前述の民俗語彙の分類といふことをそろ/\始めて居る。中々完成はしないが、今まで多くの人の記録して來てくれた地方の事實を、問題毎に順序立てゝ、一目で見渡されるやうにしようといふ計畫である。字引には出て居ない地方の言葉で、現にまだ用ゐられて居り、それ/”\に生活の或一つの姿を代表して居るものを、出來るだけ多く排列して置いて、檢索に便にしようといふのである。是が雙方にほゞ備はつて居て、どちらからでも利用し得るやうになれば、今まで氣づかれなかつた年久しい因縁が、又幾つとなく發見せられて、我々の感動を新たにすることゝ思ふ。今村先生の舊友たちは、何か斯ういふやゝ機械的な、しかも人を研究に誘ふに都合のよいものを、殘して置くことに協力して下さることは出來まいか。或は又私などのまだ知らぬうちに、既に着々と進行して居るのではないか。如何。
 民俗學 Volkskunde の比較研究は、動機も方法もよほど一方の所謂民族學 Völkerkunde とは違つて居るものと思つて居る。あちらでは大體に人の生活は互ひに近いものとして、何か甚だしく異なつて居る點があると、それに注意し又其わけを尋ね究めようとして來たやうである。我々の方は近い三百年五百年の間の、隔絶孤立の發達を考へる故に、始めから似て居る筈が無いと思ひ、たま/\爭へない一致が見付かると、非常に驚歎して不審を晴さずには居られぬのである。此仕事は縁の遠い異民族の隅々まで行屆いて、始めて大きな效果が得られるのだが、それを爲し遂(72)げるには時がかゝり、且つ若干の練習が入用である。久しい隣接民族の今は政治文化を共にし、古くは始祖を共にしたかとさへ言はれて居る者が、歩調を揃へて新たに發足するといふ場合は、さう頻々として起るものでありません。我々は是を人類自省の偉大なる學問の二葉として、寧ろ世界の最も疎遠なる人々の爲に、大切に培ひ水かひして行かねばならぬのである。
 最近に芬蘭のF・F・Cから、獨逸の或學者の研究した支那の民間説話の總索引のやうなものが刊行せられた。是を見て行くとグリム・アファナシェフを始め、西洋の説話集の幾つかに採録せられたのと同系のものが半ばに近く、その又大部分が日本にも朝鮮半島にも、ほんの僅かばかり形を變へて、共に行はれて居るといふことがわかる。此書が出なかつたら西洋の學者はいふに及ばず、我々も亦單なる日鮮の間の一致だけを珍重して、どういふ結論に進んで居たか知れないのである。昔話の分布には殊に説明のまだ少しも出來ない、法則が働いて居るかと思ふ。いかに想像を逞しくして見ても、誰がどうして持つて來て、どんな人が悦んで聽いて記憶したものか、私などには見當が付かない。多分其流傳が非常に古い昔に行はれ、それが又甚だしく永く保つ性質を持つて居たのであらう。さうしてこの不思議の環には、我々二つの民族は共に大きな座を連ねて居るのである。比較民俗學の末つひに世界に擴充すべきものなることは、是たゞ一つを見ても豫想することが出來る。たゞその基礎工事はどこまでも念入りで、折角積み上げてから又崩れるやうなものでないやうに、第一歩からしつかりと踏み出さなければならぬ。是には隣同士の學問をする民族が、互ひに心置き無く理解し合つて、寧ろ生活樣式のそれ/”\に異なるを當然とし、些々たる皮相上の偶合に驚いたり喜んだりせぬまでに、互ひに知つて行くことが必要だと思ふ。
 
(73)   學問と民族結合
 
 「朝鮮民俗」といふ雜誌の出て居ることを、今度の記念號の計畫を承はるまで、迂闊に知らずに居た者がこちらには多いのであります。今まで我々はあまりにも内地の問題に波頭して居りました。又それ程にも新たに心付くやうな珍らしい事實が次々に現れて來るのであります。しかしもうそろ/\外部との比較といふことが、考へられなければならぬ時代になりました。それには隣を接して學問をして居る二つの民族、互ひに心置き無く理解し合ふ?態に置かれて居る者が、先づ提携するのが順序であり、又大いなる強味でもあらうと思ひます。さう言つた條件に置かれて居る國は、幾らも有りさうに見えて實はまだ少ないのであります。その橋渡しの役に當られた今村さん、及び他の少數の諸君の功績は貴く、又その今後の責任は重いと言はなければなりません。
 大昔には曾て親しい交通があつたといふことが、明かに史書に録せられてありますが、それから後には少なくとも千年の隔絶が續いて居ります。假に生活樣式の一から十までが、悉く異なる軌道を走り、ちがつた變遷を遂げて居たとしても我々は寧ろそれを當り前の事と考へ、たま/\何等かの共通一致が、雙方の民俗の上に證明せられ得たとすれば、其理由こそは改めて深く探究しなければならぬものと思つて居りました。從つてそれをさも有りなんといふ樣な顔付をして、聽き流して居る人を恕すことが出來なかつたのであります。ところが近年朝鮮の人たちと親しくなつて、段々と教へられる事が多くなるにつれて、意外に雙方の類似の著しいのに、驚きもすれば又新たなる疑惑を抱きます。たとへば最近に私などの經驗したのは日本の昔話、斯んなのは昔から小さな家庭用、もしくは村の中の集ま(74)りにしか賞玩せられなかつたもので誰がわざ/\大海を越えて、どちらからにもせよ運搬して來ようとも思はれぬにも拘らず、追々出て來るものは、殆と片端から三分の二以上も似た形ばかりで、それをたゞ今までは我土地だけの傳承と思つて、外にもあることを想像もしなかつたのであります。兩地交通の記録のどこを捜して見ても、其分布の理由を説明し得るものは無い。乃ち我々のまだ全く知らない通路が、隱れて何處かに有つたらしいのであります。是が原始時代の所謂共同の爐端から、持つて分れて大切に守つて居たものでも無いことは、それに附いて居る彩色のやゝ新しいのを見てもわかりますが、さうした加工までが現に同じまゝで、折々は互ひの土地の他の端までも傳はつて居るのです。さうして更にびつくりすることには、是が又決して二つの民族ばかりの獨占ではありません。此頃芬蘭のF・F・Cから出した、エーベルハルトの支那の民間説話の分類を見ても、よく似た話は亦中國に幾らもあります。コックスウェルの西伯利亞民話集の中にも、同じ系統の昔話はまじつて居て、それが一面には又アファナシェフやグリムを通じ、歐羅巴の諸國との聯絡も辿つて行けるのであります。勿論近いものほど類似が多いとまでは言はれませうが、とにかく説話は大きな旅をして居ます。さうして其悠遠の世の足跡は今はまだ埋もれ合して居るのです。我々の比較民俗學は、互によく知つて居る僅かな仲間だけで手輕な解説を附けて自得して居てよいもので無いといふことは、是からでも考へられます。發見せらるべきものがなほ澤山に殘つて居るのです。たま/\其端緒と、之を尋ねて行く勇氣とが、新たに我々の協力によつて、得られさうだといふ迄であります。
 個々の民族が各自分の民俗學をもち、それを持寄つて全世界の比較をする時が、いつかは到來すべきことを私などは夢想して居ますが、それは手を空しうして待つて居てもよいほどの、近い未來のこととも思はれません。さうすれば言語もよく解せぬやうな白人たちの觀察記でも、やはり無いよりはましといふ心持で、間接に之を利用しなければなりませんがそれには一方の自ら識り自ら學ぶ能力を具へた者が、割前以上の努力をすることが更に必要であります。少なくとも自分たちの資料の比較の基礎になるものだけは、十二分に精確にし又判り易く分類整理して、いやし(75)くも臆説獨斷の入込む餘地の無いやうに、且つ雙方の一致の雙方限りのものか、はた又遠くの縁の薄い異民族にも、或程度の共通をもつて居るものかを、尋ね究めて行く途を開けて置かなければならぬと思ひます。私などは此頃もう大きな纏まつた研究を進めるだけの氣力が無くなりかけたので、殘りの時間を他の同志の便利の爲に、日本民俗語彙の索引を調べて置くことに向けて居ります。我が今村先生にはまだ其樣な仕事を御勤め申すのは早いかも知れませんが、少なくとも斯ういふ機會に思ひ立つて、朝鮮半島にも今までの調査の周到なる記録を留め、その要領を一目で見渡して、後々の人が無益な重複の爲に、時と精力とを徒費することの無いやうに、さうして又外部の誰にでも簡單に知ることが出來るやうに、計畫せられてはどうかと思ひます。人が年を取つてから最も思ひ出すのは、故郷の山川と幼年時代とであります。是と一生の事業と繋ぎ付けることは、我々の學問でなら容易に出來ます。實は私たちは今痛切にそれを待望して居るのであります。
 
(76)   フィンランドの學問
 
          一
 
 世界で一等若い囲 千九百四十年の國際オリンピックの開催地を、日本と爭つて居るといふ事實によつて、始めてフィンランド(芬蘭)を知つた人は相應に多いことゝ思ふ。地理や世界史としては學んで居ても、我々の前面に斯ういふ大きな現實となつて、進出して來たのは今度が始めてゞあつた。私をして言はしめると、是は問題が世界競技であつたからで、其他の多くの點では、彼と日本とは對立し得る二國でない。寧ろ全く類を異にする國とも言ひ得る。第一にこちらは非常な舊國、人でいふならば白髪の翁だ。是に對して向ふは獨立國となつてからまだ漸く十八年、世界中の一ばん若い國の一つである。人口はといふと日本の本土よりも廣く、ほゞ朝鮮半島だけもある大きな面積に、四百萬足らずの種々の民族が散らばつて住んで居る。こちらは通計八千萬に近く、毎五年にそれ程の人が増加しようとして居る。だから産業から言つても當然に比べものにならない。
 オリンピックと芬蘭 もつと變つて居るのは、あちらには軍部が無い。無いと言つてもよいほど少しゝか軍人が居ない。戰の全く出來ない國、この點にかけては閑な國である。だから又其他の方面に於て、他と優秀を競はうとする念慮が、我々より強いわけにもなるのである。歐羅巴には前から斯ういふ國が多かつた。此頃又ごた/\して居るバルカンの諸國や、西班牙、葡萄牙などゝいふ所までは、小さいながらに軍艦も大砲も用意してあり、又時には是を利(77)用しようとする。大きな相手は避けても、ボリビヤ・ウルグワイのやうに、武器さへ供給してくれる者があれば、必ずしも同列同士の戰爭は厭はないといふのもある。しかしそれよりも亦一段と小さくて、さういふことも考へて居ない國、寧ろ弱いのを看板にして居る國も多いので、芬蘭は其中に算へられるのである。斯ういふ國々の國威宣揚、佛蘭西人などのよく謂ふ民族光榮は、通例日本人などが想像して居ない方法に由つて是を確保しようとする。國際オリンピックは正に其一つだつたのである。
 此以外には藝術があり又學問があるのだが、國が小さいと此方にも思ふに任せぬことがあるらしい。私は久しく瑞西に居たので、毎度此問題を考へさせられる機會があつた。輕濟力と武力との關係は人がよく談ずるが、學問藝術にも何か目に見えぬ武力との交渉はあるらしい。世界的に大きいと言はれて居る學者・文豪・畫家・吾樂家は、單に人數の多い中だから出やすいといふだけで無く、是を養ひ立てる養分又は氣魄とでもいふものが、大國にだけしか備はつて居ないやうな感じがする。假に同じほどの素質があるならば、保護者追隨者禮讃者の多少といふことが、先づ第一歩に於て其事業の效果を左右する。それからさきは雪達磨のやうなものだと思ふ。この境遇の影響を比較的受けないもの、即ち個人の價値の端的に示され易いものといへば、スポーツなどが最も手頃だと思はれる。國際オリンピックは、言はゞ小國が氣を吐く一つの機會であつて、どんな世界の有力なる民族の代表者とでも、爭へば自由に爭はれる點は、氣兼と我儘との交錯して居る國際聯盟などよりはずつと上であらう。
 
          二
 
 一年の短い國 其上にもう一つ、芬蘭の側に立つて考へてやつてよいことは、此國の一年の甚だしく短いことである。國の南端に在る國都ヘルシンキが北緯六十度、日本の樺太北境や、伯林倫敦の線よりは更に十度北極へ寄つて居る。九月に霜が降り十月から氷が張つて、五月の終りまでは融けない。開港場では無論碎水船を使つて居るが、内陸(78)にある湖と川とは皆凍つてしまふ。その湖水が又無暗に多く、人は干湖の國と呼んで居るが是だけは誇張で無く、大小の湖水が四萬あるといふ。其以外になほ一千萬町歩の泥炭地があり、乾いた土地といへども、冬は全く生産用には使ふことが出來ない。温度は風と潮流の影響で思ひの外低くないと言つても、平均がマイナス十度から十五度、スキイ・スケェト・橇乘りの運動が盛んで、決して屋内ばかりに引込んでは居らぬが、何しろ一年の四分の一は日光が無く、社交と屋外生活が大きな制限を受けることは事實である。農業に至つては正味四箇月の間に、播くから苅るまでを完了しなければならない。七つの子供までが働くと言はれて居る。成人は所謂中夜の太陽の下で、午前の二時から夜の十時までも外の作業を續けるのださうである。この四月の間がすべての文化の活動期でもあつて、我邦では九州や中國四國、又布哇やカルフォルニアに住んで居る者に比べると、同じ人生五十年でも正味はずつと少ない。此間に人間のしたいこと、又はしなければならぬことを皆つめ込んでしまはねばならぬのである。
 日本海岸を夏の頃旅する人たちは、あのハマナス(?瑰)の花の數が、一望果も無く咲き揃うて居る光景を見ることであらう。是がオホツク海岸の北緯四十七八度邊まで行くと、はや既に丸でちがつた生活をして居るのが目につく。即ち其木がやゝたけ高くなつて、上の枝にはまだ蕾があるのに、下の枝には實がもう丹色に熟して居り、中の枝は花盛りで蝶蜂が盛んに花粉を媒ちして居る。人も是と同じで北氷洋に近く住むヤクートなどは、緑の草が僅かに芽をくむと、急いで野外に出て配偶者を捜す春の踊を踊る。傍には老いたる女たちが、一生は短かいぞ、早く子孫の榮えを企てよといふ意味の、踊歌をうたふのださうである。エスキモー族の如きは殊にその一生が短かくなつて居て、十歳で妻となり、三十になるともう老婆だといふことが、二三の紀行には書いてある。哀れなものである。此?態を人力によつて克服するには、特殊の文化形態を發達せしめなければならぬので、我同胞の北方移住者たちも、是から改めて其一部分を體驗し、且つ考案することであらう。其前例としては、こゝに芬蘭といふ世界最北方の文明國があるのである。
(79) 芬蘭の學問 私はスポーツの方はまるで不案内であるが、何でも非常によく走るヌルミ一流の巨漢が幾らも居るのださうである。産業人としても實着で辛抱強く、工場でも開墾地でも共に好評であるといふことが、?ン・クレフなどといふ米國學者の記述には見えて居る。しかしそれを紹介するのは今夕の目的ではない。私の説いて見たいのは芬蘭の學問、それも自分などの携はつて居る文化科學の一面だけである。醫學や農學又は地質生物などの方面にも、可なり刮目すべき進出があるといふが、それはどの程度のものか私には一向見當がつかぬ。爰にはたゞ私たちの如く、やたら外國を崇拜することを忌んで居る者にも、尚心から推服させられることが幾つか有るといふことを御話するだけである。へつらふ必要の少しも無い者の言葉だから、大體に正しいものと御信用ねがひたい。
 國語の尊重 感心させられることの一つは、國語を大事にして居るといふことである。此國は第十二世紀の半ば頃から十九世紀の始め迄、六百五十年餘りの間引續いて、西隣の瑞典によつて支配せられて居た。一切の新らしい文化はすべて此語に載せて運び込まれた。支那の日本に對する場合と大いにちがふ點は、初期には此國固有の文化がまだ至つて幼弱であつたゞけでなく、第一に政治上の權力が瑞典人の手に在つて、歸化ともいへない瑞典からの來住者が、悉く國の要部を占めて居たのである。從うて上流の用語は、生れの如何を問はず悉く瑞典語であつて、其?態が露西亞領となつた後までも續いて居たのである。始めてフィン語を小學校で教へることを許したのが千八百四十一年、是を瑞典語と對等に公用語とするやうになつたのは、此世紀に入つてから後のことである(一九〇二年)。それまでといふものは新聞も無く、本も特殊なものゝ他はフィン語では書かれず、大學の先生でフィン語の話せないフィン人も多かつた。それにも拘らず此語は滅びも衰へもせず、古い形を保存して居たのみか、寧ろ地方的に分化して成長して居たのは、不思議といつてもよい位の現象である。千九百十八年の獨立後に、文部省は最初の事業として辭典の編纂(80)に着手した。今でも毎年大きな金を支出して其仕事を繼續して居る。どうしてさう永くかゝるだらうといふことを、前の公使のラムステッド博士に尋ねて見たことがある。何しろ地方的變化が甚だしく、たとへば「打つ」といふ一つの動詞でも、頭をつけ尾を添へて少しづゝ心持のちがつたのが、何百といふほどもあるので、全體では四百萬とか五百萬とかの、えらい數になるからといふ話であつたが、精確な數量は記憶して居ない。日本では平凡社の大辭典が七十萬といふ吹聽だつたが、是には人名地名の固有名詞は素より、霜は軍營に滿ちでも、古池や蛙飛込むでも、各一語として入れてあるのだから、多くなるのは當然ともいへる。是からも使つてよい單語が何百萬などといふのは、果して運用が可能なものかどうか、實地に臨まぬ私たちは判斷のしやうも無いが、兎に角に全然同じ語の形だけの差ならば、無論追々に標準語をきめて統一するであらうし、實際又最近の交通發達によつて、既に大分統一せられても居る。たゞ少しでも内容や心持のちがつた語は、一應は皆採録して置く方針と見うけられる。日本で方言訛語と稱して、何でもかでも都府以外に行はれて居る言葉を、全部生煮えの漢語などとさへ替へさせようとしたのとは、心掛けに於て大分の相違があるやうである。
 
          四
 
 文學協會と國語 この隅々でちがつて居る國語の事實を、漏れなく知つて置かうとする事業が、民族團結の大いなる原動力であることは確かだが、是は既に百年以前の、フィン語非公認時代から始まつて居たのである。芬蘭文學協會と譯されて居る團體が設立せられたのは千八百三十一年であつた。名前は文學協會だが、この國には我々のいふやうな文學はもとは無かつた。たゞ農民たちの口から、彼等の暗記して居る前代の口碑を聽き取るが主であつて、言はゞ過去の言語生活を跡づける事業であつた。併し一方には是と併行して、新たにこの國語を利用した文藝の作品を、世に送り出す努力も試みられ、其後の百年間に、聞いても名を覺えられない幾人かのよい詩人文士が生れて居る。其(81)中でもリュネベルグとか其門下から出たトベリウスとかいふ人々は、他の國々にも餘り見られぬ程の熱烈な愛國者で、各惠まれたる才藻とこの新たに發掘せられた國語とを使役して、盛んにこの寒い小さな國土と自然とを讃歎した。言葉がむやみに六つかしいので、外國人にまで其感動を及ぼすことは出來なかつたが、是が國内の青年少年たちに與へた影響は大きなものであつた。彼等はこの新たな國民文藝を通して、始めて自國の好さ、美しさを發見したと言つてもよい。勿論我々のやうに千年も前からある文字を使ふのでなく、今まで口と耳とでしか取扱はなかつた國語を、文字にして見るといふ物珍らしさも手傳つては居たらうが、とにかくにこの新しい刺戟によつて、學者も事業家もまた普通の農民も、共に國の爲に働かうといふ氣になつたのだから、是を一つの愛國運動と名づけても誤りではないのである。愛國といふ語をたゞ戰場へ出て討死することのやうに、多くの若者を誤解させて居る日本などゝは、是は行方がよほど違つて居る。もしも平和の愛國術といふものが此世にあるとすれば、我々も亦小さな芬蘭から學ばなければならぬのである。
 
          五
 
 雄篇カレワラ この運動の初期の好收穫として、世界の等しく認めて居るのは、カレワラといふ長篇の語りものを、初めて文字に記録したことであつた。是は英園のアベルクロンビーとか、伊太利のコムパレッチとかいふ學者たちが、その半生を傾けて研究し且つ紹介して居る。或者は激賞して世界最大の敍事詩なりといひ、質に於てもホーマーの二雄篇に踵を接するものだとも評して居るが、其評價は幾分か高過ぎて居たかも知れない。カレワラの採集には博士エリヤス・レンロートといふ人が最も多く關係して居る。後にヘルシンキの大學の先生であつたが、始は巡囘醫師として全國をあるき、淋しい村々の故老たちを歴訪した篤志家であつた。此人の力で最も寂しい此國の田舍、ことに東の方の沼地から露領の中にかけて住んで居るカレリヤ人の間から、次々に聽き集めた古い語りものを、細かく比較整理(82)して、それをほんの僅かの改良を以て手際よく繼ぎ合せて一大雄篇としたのが、このカレワラであつた。本來は各地に飛び/\に、さう長い形でなしに傳誦せられて居たもので、其中の古いものは九世紀頃から、新らしいのでも十三世紀以來、六百年近くもの間口でばかり保存して居たので、一つには冬の長い國の他に樂しみも無かつた爲でもあらうが、別に極めて特殊なる暗誦の技術も發逢して居たのである。日本では子供の遊戯の中に、幽かに殘つて居る手を打ち合ふ語りごと、又は南の島々で若い男女の間に、今でも行はれて居るといふ掛け歌などが、或は類型では無かつたかと思ふ。芬蘭では二人さし向ひに腰をかけて兩手を執りかはし、互ひに記憶する限りの文句を語りつゞけるのださうで、斯ういふ一種の競技があつた爲に、?復習して永く忘れざることを得たのである。
 それにしても地方的に異同の多かつた無數の斷篇を、まとめて一つのものにしたのは大事業であつた。本年はちやうど其大結集の百年記念祭で、日本でもつい先頃、是に因みある放送があつたといふことである。我々の中でもこのカレワラのことだけは、知つて居る人も稀でない。芬蘭の本國でも獨立のすぐ次の年に、是を尚一段と深く研究しようとするカレワラ協會が出來た。百年以前にレンロートが公にした時には、三十五節二萬五千句であつたものが、後々増加して今は五十節、句の數は既に十萬にも近いと、駐英公使のカルラス博士は述べて居る。勿論その中には兩存し得ない重複もあらうが、兎に角それを集積した總國民の勞苦は大きなものであつた。しかも採集は是ばかりでは決して無かつたのである。
 芬蘭の文學 此國の文學はその全部が私たちの謂ふ民間文藝、即ち記録の曾て無い口から耳への傳承ばかりである。その最も重要なものはカンテレタールと稱して、單純な樂器に合せて、カレワラと同じ韻律で謠つて居た儀式唄、まじなひ唄等の色々のうたひもの、是が又莫大の數量であつて、其内容には一千年以前の、即ち此民族がまだ基督教を信じなかつた頃からの、古い思想が數多く傳へられて居る。歌謠以外の色々の傳承や行事の類も片端から集められ、其中には諺が十七萬五千、昔話が三萬五千もあつて、その大部分はまだ出版も出來ずに、博物館その他で保管して居(83)るといふ。千九百二十七年には、全國に亙つて昔からの兒童遊戯を蒐集して見たところが、それを知らせてくれた子供の數が六萬三百人、所屬小學校の數が八百四十七あつた。今では貧しい農夫までが、大きな興味を以てこの事業に參加し、且つその意義を知らうと欲して居る。學問の少數者獨占が、少なくとも此部面では完全に打破せられたのである。
 そんなものを集めて何にするかといふやうな疑問は、もう芬蘭では解決して居るやうに見える。一つには民族の前代生活が、この以外の方法では絶對に知る途が無かつたからで、なまじひに若干の古い文獻を相續して居る國では、往々にして是で一切の歴史が判りでもするやうな、速斷を抱く者を生じ易かつたのである。この百年の間に芬蘭で新に知つた事實、即ち昔を解説する資料となる民間傳承が、どういふ算へ方だかよく判らぬが、大體六十萬件ほど集まつたと言つて居る。それで居て尚國内の捜索を續けて居る外に、近年は追々とよその國にまで出て行かうとして居る。第一には最も縁の深い南隣のエストニア國で、こゝへはフルト、エイセンの二人の學者が行つて、數年の間にもう百六十册十六萬枚の記録を作つたといふことが、大分以前の話であつた。東に接したソビエツト共和國領内にも、若干の同種族の、ほゞ同等の文化に達した者が居て、カレワラの資料なども供給した。それからずつと離れて西伯利亞の曠野の中には、手を分つてから二千年にもならうとする大昔の同語族が、飛び/\に孤立して今も住んで居る。言葉の比較を細密にすることによつて、曾て兄弟であり從兄弟であつたことが判つて來る。一つの古い文化が環境境涯の差によつて、或は進展し或は停頓萎微する?況が、一篇の文書は無くても少しづゝは明かになつて來るのである。所謂フィノ・ウグリアン語學會の目ざましい事業は、是を自分たちの問題として居る芬蘭の學者が、最も大いなる關心と寄與とをしたことは當然である。私などは一向まだその現在の進況に就いて知る所が無く、日本語が是とどの程度の親近性をもつのやら、確かなことをいふだけの資格も無いが、少なくとも比較推究の必要が丸で認められぬまでに、問題が既に明かになつて居らず、又それ程に縁の切れた二つの存在で無いことだけは信じて居る。さうして先方も亦(84)非常に日本の事を知りたがつて居るのである。
 
          六
 
 ラムステッド博士 次に芬蘭の學問の國外進出と共に、その學者たちの外國に於ける活躍ぶりにも、亦推服しなければならぬものがある。其中でも私たちに最も親しいのは、數年前の駐日公使であつた前述のラムステッド博士で、此人はエスペランチストとして日本の青年の間には知られて居たが、それよりも著名なのは世界指折りの蒙古語學者としてゞあつた。讀書の力が非常に弘く、澤山の歐洲語を書き又話したやうだが、日本へ來るとすぐに又日本語と朝鮮語を學び、一生懸命になつて是ばかりで我々と話をしようとした。阿富汗の奧地に住するモゴル族の間に研究旅行をした話などを、上手ではないがすべて日本語を以て我々に語らうとする意氣込みであつた。現在は還つて又大學の先生になつて居る。まだ元氣だから是からも新しい仕事をすることゝ思ふ。此人の舊師ウェスタァマァク博士は、書物を通しては日本人にもよく知られて居る。中でも人類婚姻史は近年三册の第二版を出し、苟くも指を此間題に染める學徒には、如何なる國人でも讀まずにすまされぬ本である。此外にも道コ觀念發達史といひ、モロッコ人の精神文化を考察した二著といひ、數は少ないが何れも重要なる大著述で、英語で書かれて居る爲に讀んで居る者が多い。たしか今年は七十四歳の獨身生活者で、自傳に依れば北阿弗利加へは四たび旅行して、長い滯在をして實測して居る外に、最近まで倫敦とヘルシンキと、二箇所の大學の講義をかけ持ちして居た。さうして故國の政治の爲にも、大きな熱情を以て働きつゞけて居たのである。斯ういふ外國の學者たちに、自由な講説をさせて居る大國の雅量も認めてよいが、英國では前にはマックス・ミュルラア、それからヴィノグラドフがあり又マリノフスキイが居る。佛蘭西でもプシルドウスキイとかツアルノブスキイとか、一流の學徒が外國から來て働いて居る。可なり前からの仕來りであつたのである。殊に交換教授の制度も始まつて、今では格別奇特なことでもないか知らぬが、ウェスタァマァクの場合(85)の如きは眞の自力で、當初英國に留學に來てで居て、英國人よりもえらくなつたから教授になつたのである。英語が英人と同じやうに話しも書けもするやうになつた以上に、彼等も傾聽せねばならぬやうなことを知り且つ考へて居たのである。此方面にも亦一種のオリンピックな押しの強さが認められる。
 
          七
 
 F・F・C それから最後にもう一つ、現在芬蘭人が世界の爲に働いて居るF・F・Cのことを簡單に述べなければならぬ。此國の學者の意見では、史學の終局の目的は弘くあらゆる人類の歸趨を究めることで、それには國際の比較が唯一つの方法である。何とかして言語の障壁を越えて、?ねく大小諸民族の過去の事實を照し合せて見なければ、人類の生きて來た跡を知り盡すことが出來ぬといふのである。それで他の國々の同志と氣脈を通ずる手段として、氣の毒千萬にも自國語の使用をさし控へて、英獨二國の語を以て世界と通信しようとして居るのである。佛蘭西語は不得手の爲か稀にしか利用して居ない。F・F・Cの略語もCは通報の意、F・Fは英獨二國語で、共に民間傳承の研究者團を意味するのである。
 アンティ・アァルネの民間説話分類 始めてこの通報が世に出たのは、世界大戰の勃發に先だつこと四年、まだ此國が露西亞の支配に屬して居た頃のことである。是に最も多く働いたのは、今は故人になつたアンティ・アァルネで、此人は別に謎々の比較研究なども世に公にして居るが、特に心力を傾けたのは昔話の研究であり、且つ其分類であつて、北米インヂァナ大學のトムプソン教授が、彼の遺著を補修してF・F・Cで公表したものが、アァルネ・トムプソン分類目録として、今では略世界的に採用せられて居る。一致した標目が立つて居ないと、資料は出揃つても比較をして見ることが出來ない。さうして又芬蘭人が辛苦して集積した資料でも、昔話以外のものはさう簡單に、すぐに國際比較の用に供するわけにも行かなかつた。つまり昔話が格段に大規模の世界的研究を誘導する素質をもつて居(86)たのである。グリム兄弟が獨逸の昔話を採集して、始めて是を世に公にしたのが、やはりカレワラなどゝほゞ同じ頃で、百年と少しの以前であつた。それが次々に隣の國へ紹介せられるまでは、何人も斯うまで著しい類似と一致が、未開半開の諸民族にまでも、及んで居らうとは思はなかつた。一國としては夙くから昔話を珍重して居た日本の如き國でも、我々の小兒や老嫗の口すさびにする色々のハナシが、ちやんと百年前のグリムの本にも出て居ることは、此頃になる迄心づかなかつたのである。英國ではロルフ・コックスといふ婦人が、世界のシンドレラ物語を三百餘種も集めて比較した書物を出したが、其中には極東のものは殆と出て居ない。グリム協會の類話大集成には、日本の例として御伽草子の「鉢かつぎ姫」をたゞ一つ出して居るだけだが、近頃わかつたゞけでも北は奧羽の果から、西南九州の島々にかけて、その類話が既に數十あり、多くは粟福米福の名を以て知られて居り、時には又紅皿缺皿などの名にもなつて居る。その他美人をうつぼ舟に入れて流す話、手無し娘に手が生えた話とか、藁と炭火と大豆とが川を渡つた話とか、互ひに少しも知らずにちやんと日本にも他の國々にも在る。どうして斯ういふ特色の多い昔話が、世界の全面を蔽ふまでに分布して居るのか。學んだか借りたか誰が運んだか、是を説明し得る手がゝりもまだ見つからず、しかもこの一致を以て種族の親近を推斷しようとすると、忽ちに世界は皆同胞となつてしまふので、是には却つて他の證據が附いて行けないのである。
 アァルネの世を去つた頃から、昔話の世界的研究は又一段と盛んになつて來たやうである。是には參加しない文明國は無いと言つてよい位だが、何れかといへば自國の資料を豐かに持つて居る者が功を擧げ易く、現在の採集は北歐の久しく省みられなかつた寒國に最も多く、殊にスカンヂナビヤの三國、バルト海岸の三國などは、共にF・F・Cの事業を支持して居るから、公平なる目から見て、今ではこの學問の一つの中心は爰にある。將來――此方法が擴張して、民間説話以外のあらゆる社會事相を包容するやうになつたら、勿論重要性は大いに加はるであらうが、それにはまだ資料がよく整理せられず、諸國の採集もまだ昔話の程度には進んで居ない。
(87) カァル・クローン教授 近頃ヘルシンキ大學のカアル・クローンといふ少壯教授は、是に關して一篇の方法論を公にしたが、それは計畫であり又抱負であつて、まだ具體的な手本を示すまでには至つて居ない。さうして此人の最も著名な業績は、やはり又昔話の比較研究であつた。日本でいふと「猿の尾はなぜ短かい」といふ話、即ち猿が狐に騙されて寒中に尾を水の中に垂れて魚を釣つて居ると、魚はかゝらないで氷が張つてしまつた。それを無理に引いたので尾が切れてあの通りになつたといふ話、是が北歐羅巴は一般に熊が欺かれたことになつて居るさうである。「狐の裁判」と譯されたライネッケ・フックスの物語は、少しづゝ形をかへて諸國にあるが、芬蘭などへは直接に東から來ずに、非常に迂遠な路を通つて入つたのだと此人は説いて居る。しかも同じ話が日本では三通りにわかれ、蝦夷では北亞細亞と同樣に熊の話であるが、奧羽は一帶に尻尾を無くしたのが、却つてあの太いのをもつた狐だといふことになつて居り、更に南に下ると被害者が猿であることを、クローン教授はまだ知らなかつたらしいのである。日本の昔話では話し方が中々面白い。「昔々猿は尻尾が三十三尋あつたさうな、」といふやうな、語り出しをして居る土地も方々にある。私は曾て斯ういふことを言つたことがある。この昔話などこそ日本的と言へるであらう。他の多くの國々の如く猿は居るけれども氷が張らず、氷はしこたま張つても猿が居ないといふ處では、話は到底斯ういふ風に、變化することが出來ないからである。つまらぬ小さな問題のやうであるが、是は世界のかけ離れた國々を比較して見て漸くわかる事實、即ち少なくとも人間のまだ持つて居ない知識の一つである。さうして是がわかれば我々の遠い祖先の心持、その自然觀の一部分は明かになり、しかも是より他には解く方法の無い問題である。競ひ爭ふ以前に先づ互ひに相助けなければならぬ必要のある區域である。
 
          八
 
 日本と文化科學 日本はこの方面の文化科學に於ては、實はいつ迄も受身では居られない國である。素性來歴がほ(88)ぼ判つて居て、古い同族の分れて住む者が、今でも遠方にあることの確かな、たとへば芬蘭のやうな國であつたならば、こちらで尋ねて行かずとも向ふから尋ねて來てくれ、自分が説明し能はずば、他人が説明してくれる日を待つて居ることも出來るかも知れない。ところが日本民族は今まで知られて居る限りでは、當世人のよくいふユニックな存在である。もとはどこかの島なり大陸なりに、必ず同族が岐れて居た筈であるが、絶えたか混同してしまつたか、今ではたゞ自分たちばかり榮えて居て、似よつた言葉を話す者も居らぬのである。其上に二千年以上の間、海島のうちに立て籠つて、他には類の無い環境と刺戟との間に成長して來たのである。自分で自ら語らなければ、誰がこの特殊の經驗を理解することが出來よう。だから世界の我々に關する知識は比較的には追々と後退して行くのである。日本語がむつかしくて外國人には學びにくいのを、一つの理由にするのは誤つて居る。六つかしいのは漢語のまじつて居る爲、殊に各人が勝手に有りもせぬ漢語を使ふ爲で、耳で聽いてもわかる程度に是を整理すれば、即ち假字なり羅馬字なりに書き改めて見せれば、日本語は寧ろ世界中のやさしい國語の一つである。是を外國人が學ばうとせぬのは漢字の爲でも無ければ文法がむつかしい爲でもない。其中に彼等の學ぶべき何物をも含まぬからである。國としての新らしい發見が無ければ、他國を指導し得ぬのは當り前のことで、國内の子弟ならば、外國の學問を受賣し、飜譯しても指導し得るだらうが、是を外へ出せば忽ち水を風呂に入れたやうなもので、どこに在るのかわからなくなつてしまふだらう。それでは幾ら日本語が學びやすくとも、わざ/\それを讀まうとする者が、少ないのは致し方も無いのである。我々の國民生活が持つて居る珍らしい色々の文化史料は、誰にも注意せられぬうちに恐ろしい速度で消えてしまつた。それをやゝ時おくれてから、苦勞して私たちの一團は是を觀察し又採集し記録して置かうとして居るので、それも或程度までは成功したのであるが、一方に是を利用し研究し、弘く國外の者にも利益を與へようといふ志の者が、今はまだ數へるほども出て來ず、從つて一般的の方法も立たぬのである。だから國際運動競技の開催地にはなることが出來ても、未だ人類文化の研究の、一つの中心となることは出來ないのである。人を益するといふ念願が學問(89)の出發點であることは、もう考へない者は無いであらうが、その「人」なるものが必ず自國人の、しかも或階級の人だけに、今までは限られて居たのである。世界の知識に貢獻するといふことは、第一に世界がどういふ知識を求めて居るかを知り、次には如何なるものが將來の要求であらうかを、究めることを條件とする。こちらの知らせたいことだけを押付けるのでは宣傳である。それでは感謝せぬ者を詰るわけにも行かず、又自分たちでも、本當に大きなことを爲し得たと自尊することが出來ない。いつ迄も遠い昔の事績を借りて來て、國民的光榮の例に引かなければならぬのは、明白に今日の進取主義の國是と背馳すると思ふ。
 
          九
 
 カレワラの結構 斯んな堅苦しい話は、或は別の折にした方がよかつたかも知れぬ。そこであと口に二三の餘興的雜談を添へて、我々がもう少し詳しく、芬蘭の事實を知つて居たら、御互ひに參考にもなり面白くもあつたらうといふやうなことを述べて見たい。カレワラの最初の一段は、主人公たる勇士と智者とが、日本でいふならば「よみの國」とも名づくべき土地に押渡つて、寶物を取つて戻つて來る。其寶物の名をサンポと謂ひ、臼のやうな形をしたものゝやうに解せられる。それを途中で損じて海に落してしまふのである。この一節が今日北海諸民族の昔話の「海の水はなぜ鹹い」といふ一つの物語と、系統を同じくすることは誰にも想像し得られるが、日本でも奧州の片田舍には同じ話がちやんと傳はつて居る。挽臼は昔は輸入品で、常用には供せられなかつた爲か、是に靈性を認めて寶物とした口碑が多い。普通は黄金小臼と謂つて、まはすと金の小粒が出る話が多いのだが、東北の例では或る慾の深い者が盗んで海に乘出し、鹽出よ/\と唱へて是をまはしたが、もう澤山になつても止めるまじなひを知らず、終に小舟に溢れて舟も人も共に沈み、臼は永劫に海の底でまだ囘轉して居るといふので、たしかに或る天分ある個人の、空想から出た新しい趣向である。歐亞の平原には海も鹽湖をも知らぬ種族が多かつた筈である。此昔話を運ぶにも、亦舟を(90)要したことは略明かだが、それが此樣に隔絶した二つの海のほとりに、一致して存在するといふことは何を意味するであらうか。この問題の片棒は、日本も是非擔がなければならぬのである。
 次に同じくカレワラの後段に、美女アイノが海に身を沈めて、死して郭公となつたといふ哀話がある。無理に娘を嫁入らせようとした母が後に悔い歎いて、その泣く涙流れて大河となり、その河の落合に小島が出來、島に喬木が茂つて、其枝に魂魄の鳥が來て鳴いたといふのである。死出の田をさの古い例を引くまでも無く、東洋には人化して鳥となる言ひ傳へが最も多い。歐洲にも絶無ではないが、數と種類は甚だ限られて居るに反して、日本の動物昔話に至つては、其三分の二以上が鳥の話であり、それも多くは亦人が死して後、もしくは生前に鳥に姿をかへて、明け暮れに其前生を語りつゞけることになつて居て、今でもその啼聲を「弟戀し」とか、「てゝよ粉喰へ」とか、昔話と相應するやうに聽きなして居る者が多い。我々の靈魂のつひの行き處、もしくは故郷の人たちとの折々の行通ひといふものには、佛法では認めなかつた固有の信仰があつて、それが偶然に斯ういふ文藝の痕を留めて居るのである。この太古の自然觀の一致、即ち鳥を人間死後の旅姿とし、蒼空を其大道又は航路とし、樹林を驛湊と解する考へ方の、雙方相似た所に、何か種族としての因縁があるのでは無いか。是も幾ら忙しいからと言つても、向ふばかりに研究してもらつて、はあさうですかと謂つて居るわけにも行くまい。
 芬蘭人と入浴 第三には是は昔話ではないが、芬蘭人の入浴慣習が日本人には注意をひく。是もカレワラ以來のあの民族の宗教的儀式で、今でも國民の最も大きな樂しみとなつて居る。但し日本とちがつて彼は蒸風呂であるが、我々もつい近頃までは蒸風呂を主として居て、垢は流すと言はずに掻くと謂つて居た。合木と稱して輪番に風呂を焚く風習が京都にもあつたが、芬蘭は今でも部落の共同の行事になつて居る。小屋に大きな火を焚いて、石を燒き水を注ぎ湯氣を立てる。準備は女の役で男が先づ群をなして入るのださうである。其装置は大よそ八瀬の釜風呂や、愛媛縣に今でも多い石風呂とよく似て居る。夏は素より愉快な慰みに相違ないが、あの國では冬の中が却つて盛んで、家か(91)ら稍離れた所の小屋へ、嚴寒のさ中にも裸で往來する。さうして歸には雪の上で必ず二度は轉げまはつて來るのだといふ。是が此邦の人たちの體質を強健にし、しかも死亡率の少ない原因だらうといふのは、強ちに空な想像とも言へない。日本人も米を栽培する南人型であつたに拘らず、以前は寒さに對しては夥だしく無頓着で、今ある多種多樣の保温裝置は、一つとして中世以後の新發明、乃至輸入でなかつたものは無い。足袋でも首卷でも又頭巾でも、無くてすませて居た時代が隨分と永く續いたのである。緯度や温度に應じて一定の生活法しか無い如く、我々を考へさせた原因は、實は或程度までは趣味であり又流行であつた。固有の風習がどこまでは風土に讓歩しどこ迄は天然を克服するものであるかは、南へも北へも遠く移住者を送らうとする國では、是非とも前以て考へて置くべき問題であるが、少なくとも其一部分は、芬蘭の新たなる民俗誌が、ちやうど適切なる實驗の結果を、我々に用立てゝくれるのである。
 
(92)   學者の後
      ――伊波普猷君追悼會講演――
 
          一
 
 ちやうど學問の再建といふことを痛切に考へて居た際であります。この追悼會の集まりの日を利用して、一たび諸君と共に我々の精神事業の將來を考へて見たいと存じます。學徒の横の結合、即ち同時代人間の協力は、今日はほゞ目算が立つやうになりました。之に對して、更に一段と大切な未來との結合が、まだ何等の豫測をも許さぬのが氣になるのであります。伊波普猷君は、可なり長命をなされましたけれども、いよ/\お別れ申した今日となつて見ますと、まだ/\その一生涯を十分に、學問の爲に捧げ盡されたとは考へられぬのであります。あれも是も、今少し完成して置いてもらひたかつたと、思ふことばかり多いのであります。これにはいろ/\一身上の事情も有りましたらうし、又一歩を進めて申すならば、時代と環境とがそれを妨げたといふことも言へるでせう。元來學問といふものは、ちやうど時代に適應し、環境が之を支持するやうになつて、始めて出現するものでは無いのでありまして、寧ろ通例は逆境の中に於て、一歩々々を踏み出して行かねばならぬものなるが故に、後になつて振り囘つて見ますと、その發足の場に於て、あゝもして居たならばと、今さら殘念に思ふことが多いのであります。從つて我々は、學者の成績を批判するに先だつて、まづその素志を視なければならぬのであります。さうして如何にすれば我々後に殘る者の行動(93)又は理解を以て、希望の未だ充されなかつたものを補ひ、故人が思ふ存分に活躍した場合と、同じ結果を收め得られようか、といふことを考へて見るのが、伊波氏を尊敬し又愛慕する者の、何よりも大きな追悼事業であると思ひます。私の話はたゞ僅かな思ひ出に過ぎませぬが、目的は專ら諸君の同情を、さういふ方面に導いて見たいといふに在るのです。
 
          二
 
 始めて伊波君を知ることになつたのは、私は金田一さんなどよりはずつと後です。あの「古琉球」といふ書物を、あちらから贈つてもらつたのが機縁でありました。古琉球は琉球の學問を一つのものとして考へて、永遠に記念しなければならぬ非常に重要な著述であります。伊波氏は生前にすでに二度までも改版はせられましたけれども、能ふべくはあの初版の形のまゝでもう一度、けふあたり集まつて來られて居る諸君に、讀んでもらひたいやうな氣持がします。我々がこの本によつて初めて心づいたことは幾つも有りまして、それが言はゞ今日の學問の夜明けなのであります。
 その中でも最も關心を引かれましたのは、いま折口氏もくり返し説かれました「おもろさうし」であつて、その最初の印象はまだ鮮かに殘つて居りますが、文藝と國語の上は申すに及ばず、社會心理殊に信仰現象の方面に於ても、どの位多くの問題を提出して居るか、測り知られぬと思ふほどでありました。ところが伊波君自らとしては、我々に「おもろ」といふ文學が沖繩に有るといふことだけを教へて置いて、さつさと又別の方角へ進出して居られたのであります。大正十年の一月に、私は沖繩に渡航して、始めて伊波君に逢つて先づ尋ねましたことは、おもろの研究はあれからどうなつて居るかといふことでありました。後に何かの折に自分でも語つて居られるが、あの時は柳田にさう訊かれて大きな刺戟を受けた。是は是非とももう一度、おもろの研究に入つて行かなくてはならぬといふ、堅い決意が(94)ついたと告白して居られるのであります。さうして其決心は少しも搖いだのではありませんが、やはりさま/”\の妨げがあつて、遲々としてなほ進まなかつたのであります。
 其後の數年間、幾つともない精密な「おもろ」研究は、沖繩の新聞に掲載せられました。沖繩でなくてはとても望まれぬと思ふほど、澤山の紙面が伊波氏の學問の爲に供與せられ、我々も間接に始終その御蔭を受けました。東京には少しの讀者しか無かつたけれども、彼等は皆この研究の未來の、伊波君に期待すべきものが非常に多いことを認めて居たに反して、島ではこの題目が非常に有名になつた割には、學問の目標が何處に在るかといふことに考へ及ばない人が多かつた嫌ひがありました。言葉や固有信仰の發達に關する研究の、是を基礎として進まねばならぬものが、まだ久しい間舊態依然といふ姿でありました。つまりはそれほどにも是は新らしい知識の系列であつたといふことが、こちらの萬葉集などゝも似て居るのであります。伊波君がいよ/\東京の住人となられた事情は、込入つても居りませうが、私などの推測し得る隱れた動機の一つは、この「おもろ」の研究を、島に住む人々だけの占有にはせずに、もつと弘い世界の學問に育て上げよう、少なくともヤマトの同志たちに少しでも多く、おもろが何であるかを知らせて置きたい、といふことに在つたやうであります。正直に言ふと、方法が是でもまだ適切でなかつた爲に、二十年近くの忍苦の生活を重ねつゝも、今なほ其效果が十分に擧がつては居ないのであります。
 
          三
 
 もちろん熱心が足らぬといふやうな非難を、受けてよい人は少なかつたのであります。我々同志の側でも、夙く伊波氏のこの氣持をよく理解して、何はさておき先づ「おもろ」の本文の印刷刊行せられることに奔走しました。學士院からの補助もあつて、やゝ不完全な且つ誤字もあるらしい本ですが、それを三百部だけ複製して、希望者の間に頒ちました。今なら何でも無いことゝ思ひますが、「おもろ」がどんなものとも知つて居ない世の中に、之を送り出さう(95)としたのが先づ一つの冒險でありました。その三百のうち、二百數十部はたしかに持つて居る人が、こちらか沖繩かにあつた筈ですが、今ではもう影も見せません。伊波さんの氣持では、是が文化史上どれだけの意義をもつものであるかを、一通り説明するのでなければ、手にして見ようとする人の少ないのは是非が無いと思はれたか、この出版から以後は主として其註釋の方へ力を傾けられました。私たちの側でも、まづ是くらゐの部數を頒布して置けば、五人や七人の研究者は必ず其中から出て來ると思ひました。さうして又斯ういふ怖ろしい時代が來るだらうといふことは、想像しても居なかつたのであります。ところがこの樂觀が二つながら、不幸にもはづれてしまつたのであります。
 註釋といふものは元來は切りの無いものであります。沖繩の近世語は思ひの外變化混亂して居りまして、邊土離島の隅々でも探さなければ、もう使はれて居ない元の言葉が、非常に多くなつて居るのです。記録文獻は少ししか殘つて居らず、其中から澤山の古語を、旁證することは不可能なのであります。言葉の活きて働いて居た時代はずつと新らしいにも拘らず、今の人々に不可解になつた點ばかりが、萬葉集と似て居るのであります。片端から一つ/\解説しようとすれば、決しかねる問題のいつまでも殘るのは當り前で、さういふものを一通り明かにした上で、世の中へ送り出さうとせられたことが、少くとも順序の誤りでありました。そんな事をすれば人の一生などは、忽ちおしまひになり、又倦んで他へ行く者も多くなります。私などは飽きたわけではありませんが、うつかり伊波君の熱心をあてにしまして、註釋の世に出るのを待つやうな心で居ました。そのうちにひどい戰亂の時代が來てしまつて、何だか又もう一度始めからやりなほしを、しなければならぬ形勢になつたのであります。
 今となつて考へて見ますと、是はやはり以前の「おもろ選釋」程度に於て、一ぺん先づ「おもろ」のいつまでも研究すべきものなることを、公認せしめることの方に力を入れた方がよかつたのです。さうすれば力は弱くても數多くの註釋家が現はれて、互ひに切瑳琢磨によつて、もう少しこの研究は一般化したらうと思ひます。
 今からでもさうしてよいと私は思ひます。又伊波君が亡くなつてしまはれては、さうするの他は無いかとも思ひま(96)す。事實は横極的に、少しづゝでも積み上げて行かれ、又多くの力を集合することが出來ます。不明の部分の註釋は次の代に委ねても、先づ現物だけは出來る限の精確に校訂し、且つ異本異傳を添へて、もう一度「おもろさうし」の普及版を、世に遺して置くのが我々の任務ではないかと思ひます。解釋については伊波君以外にも、色々の人の異説のあることは我々も知つて居ますが、それも一處へ集めて見てこそ、本當の價値は判るのであります。容易ではないかも知れませんが、是も第二の事業として企てられないものではありません。又さうしなければ私の思ふ學問の縦の結合は六つかしいのです。惡口を謂つてはすまないが、今までの沖繩の學徒は、とかく片隅で物を言ひ、むしろ反對説と比べることの出來ぬ人ばかりに向つて、自説を立てようとするやうな癖がありました。他の一面から見れば、是は判斷力の閉鎖を意味し、島々に離れて住む者の免れ難い弱味でもありました。誰かゞ率先して此樣な自然の障壁のやうなものを突破つて行かなければなりません。おもろの註釋の悲しむべき未完成なども、今となつては菩提の種、是までの小さな割據の爭ひから、解脱して行く爲の好方便として、新たに諸君の利用せられてよいものであります。
 
          四
 
 今の我々の立場から申しますと、世界弘しと雖、地球に人の住む島が一萬以上、二萬三萬もあらうとも、沖繩見たやうな閲歴を持ち沖繩の今ある如き文化段階に居る島は、恐らくは他に一つも無いと思つて居ります。殊に久しい以前に手を分つた同じ民族が、茫洋たる大海に隔離せられて、思ひ/\の割據生活を、續けて居たといふ例も珍らしいのであります。是はつまり人類全體の爲の大きな經驗でありまして、單なる一個の大和民族乃至はアマミコ種族といふものゝ、獨占してしまつてよい知識では無いのであります。然るにも拘らず今日になるまで、まださういつた心持、廣い人類的關心を以て、この沖繩諸島の發達史を、囘顧しようとした者は出現しなかつた。是はひとり沖繩人が理解しないとか、價値を認めてくれないといふ樣な、そんな小さな問題ではありません。いつの時代に於ても、親族隣人(97)たちの一般の理解の下に、學問をして居るといふ者などは恐らく有りますまい。たとへ千里の雲と波とを隔てゝでも、又僅かばかりの人の間にでも、少なくともこの學問が人類全體の爲、世界的の意義をもつといふことを認めてくれる者が、確かに有るといふことがわかつて居れば張合ひがあるのですが、それをさへ伊波普猷君は、たしかに有るといふ自信をもたずに、一生を終られたのであります。世界にまだ知られないといふことは、或は我慢が出來たかも知れませんが、近い隣の從弟どうし、沖繩とは最も近い一族の間柄の我邦ですら、まあ之を一種の異國情調として、玩び味はふ人ばかり多く、是が一つの民族の永い歴史の上に於て、大よそどれ位の意義をもつものであるかといふことも知らず、是が完成といふべき境に到達したならば、どれ位のさとり〔三字傍点〕を我々に與へ得るものであるかといふことを、知つて居てくれた人たちが乏しかつたのであります。故郷を遠く離れて來た伊波君にとつて、それはどの位淋しいことであつたらうかと考へますと、哀愁の殊に堪へ難いものがあるのであります。
 それにも拘らず、伊波君の晩年は、殆とあきらめにも近い靜穩な心境で、こつ/\と註釋の道のみを進んで居られました。若い頃には又前に申したやうに、政治や社會改良の方面に心力を割いて居られたこともありました。それに又生活上の必要もあつて、長命とは言ひながらも純なる學問の爲に、捧げられた時間が存外に少なかつたのであります。以前は日本では青年の頃に、もしくはやゝ壯年に入るまで刻苦精勵すれば、一生使つても使ひきれぬ學殖が貯へられた時代もありましたが、今日はもう餘りにも知識が複雜になつて來て居ります。よほど幸福な、又脇目も振らぬやうな人でも、やつぱり時間の足らないことは五十歩百歩であります。だから生前にも程よく手分けをして、互ひに補ひ合ふことを努めなければなりませんが、死後はなほ更に故人の遺業をよく見究めて、その爲すべくして爲し得なかつた部分を、引繼ぐ者が出て來ることを必要とするのであります。
 今までの惡い弊は、同情ある者は、たゞ前人の爲し得た事のみを喋々して、わざとその不十分なる部分を黙過しようとし、さうでない者は又自分の仕事の重複を理由づける爲に、一應は今まであるものにけちを付けようとする。ど(98)のみち前後の繋がりが切れやすかつたのであります。沖繩の場合は、將にその不利が大きい。といふわけは資料は多く滅失散亂し、かつて伊波君の精神の滋養になつたものでも、もはや容易に攝取しにくゝなつて居るからであります。後進の批評は十分に鋭敏であつてよいが、少くとも其中から、既に得られたものは見失はず、動かないものだけは採つて新らしい基礎となし、再び新規蒔き直しの勞苦を、次に來るものに負はせないやうに努めなければなりません。其意味に於て伊波さんの仕事には、むだも少々はあつたかもしれませんが、若い諸君に遺して置かれたものも中々大きいのです。それを見分ける鍵はやはり同情でありまして、以前の平和な時代とは言ひながらも、まはりがまだちつとも認めてくれない不自由な環境の下に在つて、能く是ほどまでの感激を以て、島々の文化の前途を見定めようとして居られたといふことは、如何なる立場に立つ人々にも、無視することの出來ない好意であつたらうと思ひます。
 
          五
 
 この小さな島々の經驗の中には、世界の他の何處でも得られなかつたものが幾つかあつて、いつかは遠い國に住む人たちまでが是に心づき、疑ひ考へ又新らしい智惠に導くやうな時が、必ず來るだらうといふ想像は、どうやら存外早く實現しさうであります。伊波君が下にさういふ夢を抱きつゝ調査を進められて居た事柄はいろ/\有ります。それ故にもし後人が單に之を感謝するに止めて、其不備を補ふことを努めなかつたならば、是も亦土中の瀬戸物のかけら見たやうに、たゞ綺麗だといふだけで、役に立つことは望まれません。といふのは問題がまだ何れも破片だからであります。沖繩の社會生活は、幾つにも區切つて考へることが出來ます。我々が當面して居るのは、經濟の問題、又は其背後に横たはる政治問題、是等は恐らくは今多くの人が、てん/”\ばら/\ではあるけれども、關心をもち解決を待ち焦れて居るでせうが、私たちの學問はわざとそれには口を出しません。露骨な言葉でいふならば、それに是から口を出さうとする經世家又は政治家が、うつかり見過してしまひさうな、又は見過すかも知れない幾つかのもの、(99)殊に島にはまだ活きて居る固有信仰、それと不可分に結び付いた家族門中の問題であります。親と子、兄と弟、夫婦の仲らひはどうなつて行くかといふ問題も、是に根ざして居ます。殊に油斷のならぬのは、それを繋ぎ合せる言語の問題が、今は一向に打棄てゝあることであります。我々はどちらかといふと、言語の問題に重きを置き過ぎるかも知れませんが、前に折口さんも詳しく説かれたやうに、言葉以外には人間の以前の考へ方を、跡づけて行く途はあまり殘つて居りません。人が命をかけるほどの痛切な感情も、時過ぎて振り囘つて見れば、たゞ殘るのは言葉のみであります。この三つのものゝ交渉、殊に信仰と言語との關係に就いては、伊波氏は割き得る限りの時間を是に費されました。しかも悲しいことにはそれがまだ完成でも何でもなく、たゞやりかけであり斯う行つて見たいといふ希望の表白に止まつて居りました。獨り同郷の人たちばかりでなく、同じ道を歩まうとする内地の同志たちも、この意味に於て援助し、且つ伊波君がもつと永く丈夫で居られたならば、どう進んで行かれたらうかを考へて見なければなりません。單なる眼前の御別れを歎く以上に、この人の生存といふことが島々の爲、又弘く人間の幸ひの爲に、何ほどの價値があつたかをも測定して見なければなりません。
 
          六
 
 實は私なども是に就いて、可なり具體的な案を持つて居るのですが、よつぽど長生する保障がないと、うつかりと着手も出來ないので、やはり希望として皆さんに話して置くより他はありません。手短に言つてしまふと、今も話題に上つた沖繩の寶物、「おもろ」を是からどういふ風に活用して行かうかであります。
 伊波君と私と、やはり見方を異にして居ましたのは、伊波氏が折々おもろを沖繩の萬葉だと言はれて居たことであります。それより溯つた文藝の集が無いといふ點だけは二つは似て居ますが、こちらは要するに中世末期に現存して居たもので、それが果していつから傳はつたか確かでなく、寧ろ新らしい世の作成と見らるゝ點が多いのであります。(100)文字の記録をもたぬのが上世だとすれば、是も上世のうちかも知れませんが、實際はもう新らしくなつて居るのです。沖繩の神代は西暦十五世紀まで下つて來て居るなどと、私なども戯れに言つたことでありますが、それは飽くまでも誇張であつて、やはり是は文字の技術だけをもたぬ中世といふものであります。廣い區域の日本の田舍も、實際は皆それでありました。さうして其樣な社會には、?原始以來の人の感覺が、あまり改定せられずに傳はることが、有り得たといふに過ぎないのであります。言葉の資料として取扱はうとするにはやはり中世の島の人生を、代表するものとして見るの他は無いので、又伊波君も決して是を神代のものとも、上世のまゝとも主張せられたわけでは無いのであります。
 しかし其爲にこの神歌集の大切さは、少しでも減ずる所は無く、むしろ今から五百年前に、この位實直に又たんねんに保存せられた良い言葉の標本は、ヤマトの方では何處にも殘つて居ないといふことが注意せられるのであります。勿論そちこちを探して行けば三つ五つづゝは拾ひ集めることが出來るでせうが、それも用途が別々であり、又時も用ゐた人もちがつて居て、精確なる統一といふものが得られません。之に反して「おもろ草紙」の方には、紛れも無いコオルヂネエションがあります。場所も時も之を口にする人も目的も、すべて同じものが是だけ集められて居るのであります。珍重しなければなりません。
 その上になほ此集の有難いことは、単語句法の數がさう多くも無く、何度も/\同じものを、色々の場合に使つて居ますので、徹底して之を使ふ人の心持がよくわかつて來るのであります。私なども始めてこの本の印刷が出來た當座に、早速この一つ/\の言葉をカードにして置きました。成るほど語原の知れないものばかり多いが、意味は頻繁な用法によつて、きつと段々に判つて來ると思ひました。しかし伊波君が今かゝつて調べて居られるのだし、私は片手間で急に成功しさうもないので、是はどうしてもあちらの研究の、少しでも早くまとまるのを待つ方がよいと思つて、いつと無く氣が弛んだのであります。それでも顔を見さへすれば、いつでも私は「おもろ」の話を聽かうとしま(101)した。又先方でも悦んで其話をせられたのでしたが、さういふ中にも月日は早く經ち、老は迫り來り、一つの問題にはどこまでも深く入つて行かれたが、全體としてはまだ判らぬ隅々が殘つて、すつかり判つたといふ迄にはならぬうちに、終に永遠の御訣れをしなければならぬ時が來たのであります。空しく成功の日を待つて居た私たちの失望は殊に大きいのであります。
 
          七
 
 しかし伊波君亡きあとゝいへども、此事業は決して中絶すべきものではありません。たとへば私なども考へて居たやうに、おもろは原則として二句同じことをくりかへします故に、幾つかの對句を重ね合せて見ますと、次第に一方の不明な方の語の内容が明かになつて來ます。ごく簡單な機械的な操作によつて、素人にでも少しづゝ判つて來るのです。たゞ是には忍耐がいり、我々老人には時が足らなかつたのであります。結局は註釋の短期完成といふやうな、不可能なことで身を苦しめたのが損で、其爲にもつと必要な一部づゝの利用が、後まはしになつたといふことが後悔せられるのであります。
 それから今一つの取かへしの付かぬことは、伊波さんの東京移住、其感化の及ぶ所を弘くしたといふ利益があつた代りに、郷土の現實の言葉との親しみを薄くしました。おもろの理解を助ける資料は、別に文書や金石文が多くあるわけでは無く、大部分は島の片隅にまだ殘つて居た故老たちの口語だつたのであります。それが今度の思ひがけぬ戰禍によつて、殆と望み無く絶滅したらしいのであります。或は僅かばかりそれを記録にとり、又はなほ幽かに覺えて居る者も稀には有りませうが、仕事の難易は比べものにならぬ位に、以前とは變つて來ました。遠い離れ島などの比較的消滅の少ない土地まで、我々の捜査は延長しなければなりません。さうして一方には舊日本の方言の、まだ九州の周圍の島などに傳はつて、中央の國語學者に知られずに居るものとも、追々に比べて行くことにしたいものと思ひ(102)ます。前年壹岐島の方言集が世に出たときに、伊波氏は之と沖繩の言葉とを對照したものを雜誌に公けにせられましたが、今まで雙方で其近似を知らなかつたものゝ數が、非常に多いのに我々もびつくりしました。又岩倉市郎といふ人が喜界島方言集を編輯した時にも、伊波君はやはり是と沖繩との一致を拾つて、可なり大きな語集を作られ、それもたしかにまだ保存せられてあります。斯ういつた色々の興味ある事業も、志ある若い諸君の引繼ぎを待つて居るのであります。大きな損失には相違ありませんが、是が一つの學問の中絶を意味するが如く浩歎することは、決して追悼會の趣旨でも無く、又伊波君の豫期したことでもありません。同君は自身先づ誰よりも切に、學問への努力が常に有效とばかりも言はれなかつたことを悔いて居られました。さうして又私などゝ共に、人生の短きに過ぎ、學問のし殘しの多いことを歎いて居られました。しかも斯ういふ風に進めば、斯ういふ結果が得られるといふことにはよく氣づいて、?それを若い人たちに説いて居られた筈であります。今日集まつて來られた諸君の中にも、直接その教へを聽いた人が多分有るでせうが、もしもまだ聽かなかつた人ならば、私の受賣でどうか間に合せて下さい。沖繩の文化の過ぎて來た路は、主として言語の傳承によつて跡付けられます。さういふ中でもおもろは貴重なる資料でした。誠實なる一人の學者が、一生を是に傾けてまで片端しか之を活用して居りません。收穫は今後に期せられます。彼と因縁の淺からざる國學院大學は、今やその關心の殆と全部を、日本民族の精神生活の進みに繋けて戰後の文化科學の興隆を企てられるのであります。もしも本日の會合が縁となつて、新たに南島方面の學問が是に若干の寄與を爲し得る日が來るとしますれば、それを私は學者後ありといふ、最も悦ばしい實例と見ようとするのでございます。
 
(103)   罪の文化と恥の文化
 
          一
 
 いはゆる文化型の理論は、本も手に入らず、精讀したといふ人にも出逢はぬので、ベネヂクトの出發點も私にはまだはつきりとしないのだが、「菊と刀」の所説から逆推したところでは、この型は國又は種族に永く附いてまはるもので、環境の變化や時の力だけでは、改めようもないものゝ如く、認められて居るらしい。是が一つのポイントであるやうに私には感じられる。我邦でも敗戰の直前まで、或は現在もなほさう思つて居る人が相應に多く、殊に諸外國の通説だときまつたら、遵奉する者も増加するであらうが、是が悲しいことか嬉しいことかの問題は後まはしとして、私たちは先づ果して事實なりや否やを決定するのが、學問上の最大の要求だと思ふ。それは將來の再建計畫を條件づけるといふだけで無く、國が自らの存在を意識する上にも、時としては煩はしい障碍となるかもしれぬからである。
 我々の過去の經驗を整理して行くならば、幾らでも反對の證據は擧げられると思ふが、この書の批評としては書いてあるものを援用する方が適切であらう。その中でも最も印象の深かつた恥の文化と、罪の文化との對立といふこと、及びそれが永久に又はやゝ長期に亙つて箇々の民族を特徴づけるといふことなどは、すべての民族學者に興味のある理論であり、しかも我々日本の學徒の知識が、力強い參考資料を供し得る一つの場合である。中古以來の文獻はさらなり、私ほど年取つた者の普通の見聞でも、日本人の大多數の者ほど「罪」といふ言葉を朝夕口にして居た民族は、(104)西洋の基督教國にも少なかつたらう。刑法制定の頃からこの一語が特殊の饗きをもち、他の會話には避けるやうにもなつたが、それでもツミ作りとかツミな事をするとかいふ文句は、今ですら日常の話題にも?現はれて居る。言葉の内容は少しづつ狹くなつて、主として使ふのは弱いものいぢめ、防禦の出來ないものを攻撃すること、たとへば小さな動物を殺したりすることに適用したが、一方には幼兒などを形容して「ツミの無い顔」などゝいふ言葉が、インノセントの意味に使はれて居ることは昔のまゝである。
 言葉は或は痕跡に過ぎぬとも言はれようが、口には出さないでも常人の心の内に働き、暗々裡にその行動を導いて居た知性が、罪を作つてはならぬことで、その罪は又法令上のものではなかつたことは、色々の面から窺ひ知られる。ベネヂクトは此本の中で、佛法の教へが是ほど深く入込んだ國なのに、輪廻轉生の教理が一向に體得せられて居ないのは不思議だと、いふやうなことを書いて居たと思ふが、それは明白に事實と反する。第一に佛教の力は、實は一部にしか行はれて居なかつたにも拘らず、この罪業觀ばかりは最も弘く徹底してゐるのである。親を睨めばヒラメになるとか、食べてすぐ寢ると牛になるとか、前世の罪を説く諺の多いのは、乃ち後生の爲に現世の惡行を戒める教へだつたのである。日本の固有信仰にも、靈魂の轉移、即ち生れ代りといふことは認められて居た。其爲に是に似よりの外來教理は歸化しやすかつたのであらうが、この方には六道流轉といふやうな複雜な法則はまだ無かつた。その新しい教理が直接に倫理と結び付いて、罪の報いを怖れさせるやうになつたのは新しい教化の力であつたらう。因果といふ言葉が日本に於て、いつまでも理由の知れない災厄不幸を意味するやうになつたのは、考へてみると哀れなことだつた。日本人のあきらめの良さは、この世の惱み苦しみを悉く、前の生に於ける我が魂の惡業に基づくものと解して、愈今生の行爲を愼しまうとしたのであつた。神道の罪は祓ひと贖ひとによつて、この世ながらに淨め消すことが出來たのに反して、佛法ではそれを次々の生まで、持ち越すものと教へられた爲に、イングワといふ言葉が、つひにこの不可解なる悲痛事の、別名ともなつたのである。ベネヂクト教授がもし活きて居られたなら、知らせて上げたかつ(105)たと思ふことは、日本ではつい此頃になるまで、女人は全體に罪深きものといふ、法師の説教が徹底して信じられて居た。今から批評すれば誤つた論理だが、女に生れて來るのがすでに前世の業《ごふ》であり、その女であることが、更に又罪を作りやすい?態であるとせられて居た。それを怪しみも疑ひもせずに、餘分の忍苦を以てその二重の罪を滅ぼさうとしたのが、信心深い女性の普通の生活であつた。辛抱しきれなかつた者はもちろん段々と多くなつて來たが、ともかくも日本女性の理想は、明かに罪を犯さぬことを目標とした生活であつた。
 
          二
 
 この?態がいつの間に、恥の文化の民族だと言はれても、成るほどさうだと自分でも思ふやうになつたのか。其點を改めて考へて見るのも「菊と刀」の感謝すべき暗示があつたからである。恥を意味する日本語の存在は、是も上古の記録まで溯り得られるが、其用ゐる所が少しばかり、近頃のものとはちがつて居て、その原始形ともいふべきものは、幾分か肉體的であつたやうな氣がする。之を顯はせば人が笑ふといふ點までは同じでも、隱し蔽へばそれだけでもう恥は無くてすみ、外から指摘したり暴露したりするやうな「恥」は、もとは存在しなかつたやうに思ふがどうであらうか。私は曾つて「笑ひの文學の起原」といふ一文の中で、此點を説いて見ようとしたことがあるが、笑ひには或一つの特殊な用途があつて、後に其方向への著しい發達があつたらしい。相闘はんとする二つの群が對峙する場合に、先づ大きな聲を發して笑つた方が元氣を振ひ起し、笑はれた相手方がしよげ且つひるむことは、多くの古風な民族に共通な現象と思はれるが、さういふ中でも我邦の人は殊にこの點に敏感であつて、其實例は數多く中世の戰記にも記録せられて居るのみで無く、この一種の闘爭技術、即ち機敏に敵の弱點を見つけ出し、それを痛烈に笑ひあげる方法は相續せられ利用せられ、又時としては發達さへして居る。第一には笑はるべきものゝ範圍が、最初に比べると非常に擴大して來た。たとへば個々の人物の見ぐるしい點、背が低いとか色が黒いとか、不具だとかいふことも目標(106)になつたらうが、群の中ではそれはやゝ問題が小さい。相手の一番聽くことを欲しないのは、無力と怯懦と過去の失敗とで、それは必ずしも眞實であることを要しないが、少しでも根據の有ることなれば、辯疏の出來るやうな場合でないから、笑ひの攻撃が一應は效を奏する。それで豫め口の達者な、出來るだけすばやく又をかしく、敵を罵り得る者を用意して戰場に臨んだといふ事實談も傳はつて居る。原子爆彈の時代となつては、もう想像もしにくいことであるが、もとは斯うして集まつて敵を笑ふといふことが、最も有力な武器の一つであつた。戰場が段々大きくなり遠くなつて、それが無意味な鬨の聲になつたものと私などは見て居る。
 いはゆる恥の文化の根源は、日本でならば溯り尋ねることが出來る。よその民族ではどうあるか知らないが、日本で「恥」と言つたのは笑はれることであつた。群と共々に高笑ひすることを、大きな樂しみとして居た國民でありながら、或はむしろそれである爲に、人を笑ふといふ場合を、もとは甚だしく制限して居た。たつた一人の、その笑ひの目標となつて是に參加することの出來ぬ者の苦しみを、想像することが容易だつたからであらう。人を公然と笑つてもよかつたのは敵だけであり、その敵が境を接して對立し、?闘爭を事とするやうになつたのは、或時代から後の現象であつた。敵を嘲けり笑ふ技術は是を機會に著しく發達し、恥の種類は追々と増加して來た。誰だつて笑はれて平氣で居られる者は昔から無かつたらうけれども、それを事前に警戒し、豫め防衛の計を立てる必要のあるのは、武士の階級に限られて居たかと思はれる。彼等の子弟は此方針の下に育てられ、恥を見るほどならば死ねといふ類の烈しい訓誡が言葉通り守られて居たことも事實であり、それが、又若い男女の行動をいさぎよくし、意氣を旺んにして居たことも無數の證據が有るが、なほ一方には最初から笑はれる危險も無く、恥を問題とするやうな機會にさへ惠まれなかつた者が、多數にあつたことを見落してはならぬ。育ちがちがふとか、流石はお武家樣とか言つて、百姓が彼等をほめたゝへ、仰ぎ敬ふやうになつたのはやゝ後代のことで、しかも是が平和社會の道コ律として、汎く一般を指導するかの如く見え出したのは、ずつと又新しい現象であつた。近年シナとの交渉が滋くなつて、私たちは始めて(107)面子といふ語の心持を知つた。面子は各個人に附いてまはるものらしいが、我々の外聞といふのは主として群に屬して居る。家門とか部落とか、會とか黨とかいふ相對立するものゝ間には、笑はれない用意は相當に嚴重でも、其群の内側にはなほ多くの放縱があり、黙認があり又時としては屈辱さへもあつた。是等も或期間のパターンとは見ることが出來るか知らぬが、それを中世以來の強力なる罪障觀と、二つ對立させて見るといふことは釣合ひを失する。いはゆる恥の文化などは、たつた一度の敗戰でも?覆するかも知れない。罪の文化に至つては聊か形をかへて、再び此世に花咲かねばならぬであらう。
 
          三
 
 「菊と刀」のやうに精緻な論理を驅使した研究では、ほんの些しばかりの資料の故障でも、結局は飛んだ間ちがひに導かぬとは限らぬ。その資料の蒐集整理の爲に、あれほど細心な勞苦を重ねた著者もたぐひ稀だとは思ふが、なほ我々からいふと物足らぬといふ以上に、明かに事實に反すると言ひ得ることが幾つかある。この點が民族學といふ學問にとつて、何よりも大きな關心事であらうと思ふ。現存する文獻の豐富であり、よほど有效なる索引を備へぬ限り、讀みこなすだけにも一生はかゝるといふ?態に於て、もしもベネヂクト程度の記述と紹介、綜攬と批判とが、外國の學者に期待し得られる一ぱいのところだとしたら、民族學は果して成長するであらうか。といふわけは是までの書物が、九割九分までは外から近よつた、人々の手に成つてゐるからである。最上の通辯があり又は非凡な學習力があつて、言語の難關は假に突破し得たにしても、その背後に横たはつて、當の本人たちでもまだはつきりと氣付かずにゐるものを、どう信じ又は信ぜしめることを得るだらうか。是には何か試驗用の、度量衡のやうなものを備へるか、もしくは幾つかの假定の如きものを存留して、後から來る人々と協力するやうな態度を、保つて行く必要は無いかどうか。私は學生の時代に、何册かの萬國地誌の類を、丸善から買つて來て讀んだが、本のねうちを知るにはごく手輕な(108)目安があつた。最初に日本の部をひろげて見ると、その書き方に可なりな差等があり、中には燒けない前の江戸城の繪を挾んだり、二本さした丁髷が供をつれてあるくといふやうな「現?」を描いたものもあつたが、それ程でなくても二つか三つ、笑ふやうなことが大抵はまじつて居た。もちろんそれだから投げ棄てゝしまふことはめつたに無い。たゞ其つもりでよその國々、他の民族の生活も知つて置かうとするだけであつた。物質文化の方面ならば、斯ういふ鑑定もやゝ容易であらうが、それすらも始めから、何と傳へられて居るかも知らず、ましてや誤りを正すことも出來ない民族は、世界の隅々に際限もなく住んでゐる。殊に眼に見えぬ氣質性情、癖とも傾きとも名づくべきものには、内に居る者すら心つかず、考へても言ひ表はし得ない部分が、どんな進んだ民族の間にも、まだ澤山殘つて居る。行くゆくは行動の結果から溯つて、是を由來せしめた、心意の變化を探り知るといふ法則も打立てられるのであらうが、是とても今はまだ人類の一樣性、同じ一つの因果律が、如何なる經驗と環境をもつ者にも當てはまるといふことを、證明しなければならぬ段階に在るのである。獨りこの一個の著作の爲に説くのではなしに、現在の民族知識の精確度を以て、文化の型の分類を試みることが、概括してまだ少しく早過ぎるやうに私には思はれる。證據捜索の方面の廣さや、それを積み重ねて行く文章の面白さに陶醉し、殊に米人の多數が感心して居る本だからといふ理由を以て、頭から丸呑みに之を信じてしまはうとするやうな事大主義者が、たとへ二人でも三人でも、もしあつたならばそれは大きな不幸であらう。過去千年の久しきに亙つて、日本人の獨自に物を考へる力が、斯ういふ珍らしい輸入品によつて?混亂させられて居る。さうして今も現に惱まされつゝあるのである。
 
          四
 
 私達が省みて自ら責めてよいことは、口で筆で日本を世界に説明しようとした人が、?無意識にうそを教へて居たことであらう。たとへば武士道は武士だけの生きる道であり、彼等は國民の中堅であつたとしても、其の教へは限(109)られたまた澤山の除外例をも含み、外に在つて之にかぶれた者とてもさう多くは無かつた。或は修身の一つの目標であつたかも知れぬが、代表とまでは言ふことは出來ない。しかも國外に居る者の是非とも知りたいと思つて居たことは、至つて普通の、又多數の民衆の生活ぶりだつたのである。是に對して一種の可能性、稀には斯んなことも爲し得るといふことを、説き立てて居たことが既に誤解のもとだつた。曾我や忠臣藏の如く、存分にローマンス化した話を引かなくとも、日本には復讐の實例ならば若干はある。たゞ其計數が實は存外に少なく、人によつて既に目録を取つて居る位で、常日頃大小二つの刀を佩びてあるきまはつて居た者の數に比べると、むしろ少な過ぎるのに驚かなければならなかつた。それを恰かもヴェンデッタの國でゝもあるかの如く、内外に向つて印象づけたといふことは、それ自身が先づ日本文化の一つの型を語つて居る。隱したり取り繕つたりする必要はないが、もしも敵討ち公認の近世の制度を説かうとするならば、それを支持した世論なるものに、文學の影響が強かつたといふことゝ、同時に是が又不當なる殺人行爲を、抑制する結果があつたといふこととを、併せ説かなければ本當とは言へない。實際我邦に復讐理論の確立したのは、四十七士以後の新しい現象であり、それが完成した頃には、もう敵討らしい敵討は、めつたに行はれなくなつて居た。ベネヂクトの批判がこの方面に於て幾分か空漠の嫌ひがあるのは、恐らくは之を傳へようとした日本人の理論が、あまりにも現實を遠ざかつて居たからであらう。附け加へる必要も無いと思ふが、日本人が復讐といつたのは、殺人奪命の場合に限られて居る。その以外の一切の方法は、法も道コ感も共に之を是認して居なかつた。この兩者を一括して、同じ國民性の現はれと解するのは誤つて居る。
 大小いろいろの日本紹介者に共通した缺點は、いづれも紹介者としての用意が、十分とは言へないことであつた。明治新政の初頭に、いはゆる四民平等の標語は喜び迎へられたが、それは久しい間「士」といふ身分の優越が認められて居た後だつた故に、彼等を引き下げて他の三つの農工商の生活に、同化させようといふ試みは全く行はれず、有形無形のすべての慣行を通じて、今まで士分の者のあるいた途を踏んで居ればそれでよいといふ感じが、いつの間に(110)か全體に行き渡り、それが殊に教育の方面を指導した。ベネヂクトの書の暗示によつて、是から私たちの反省して見なければならぬ點が茲に一つある。士族の生活には幾つもの特色があつた。國民のすべてをして是に依らしめることは、第一に不可能であり又その必要は無く、又往々にして有害でもあつた。つまりまだ我々の史學が、甚だしく近世史に疎慢であつて、言はゞ概念によつてのみ、武士といふ階級の樣相を解説して居たのであつた。近頃の流行は、何か少しでも呑込めない氣に入らぬことを、すべて封建制の一語を以て片付けようとして居る。あれは亂暴な話だがなほ批判精神の芽生えとも見られる。以前の日本紹介者たちは、是をさへ疑ひ危ぶむことが出來なかつたのである。うそを教へようといふ下心は少しも無くとも、受身で學問をして居れば、武士風な考へ方しか身に附けることが出來ない。それほどにも我々の讀む書物、耳に聽くところの理論は、僅か十パーセントにも足りない武士といふ一つの階級に偏して居た。さうして是によつて教育せられた者の中からばかり、外國人との接觸をするやうな人が出て行つたのである。其結果がたまたま「菊と刀」のやうな生眞面目な著作の上に現はれたのだから、その筆者は責めるわけに行かぬのみか、むしろこちらの弱點を氣づかせてくれたことに、御禮を言はなければすまぬのであつた。
 
          五
 
 新たなる態度方法を以て、是からもう一度過去生活の反省に進まうとする者には、偶然ながらも多くの好い手掛りが、この書の中から得られる。たとへば現在行はれて居る日本語の多くの單語は、その發生がちやうど私たちの最も無知なる時代の、最も無知なる區域、即ち近世大衆の群の中に在つた。個々の階級の政治的勢力の強弱には由らず、たゞ大多數の者が考へ出し、支持し流布させ得たものだけが強く活き、從つて又やゝ久しく傳はつて居る。是が無意識に公認せられ、文語となつて書典の上に現はれて來るまでには、無論指導者の理論は干渉したであらうが、もともとそれとは獨立した必要に根ざして生れた言葉だから、現實には依然として古い感覺を抱持し、學者先生の解説を裏(111)切り、又は少なくとも調和し難い二つの意味を併存させて居る。國内の論議ならば、こじつけとかごまかしとかの餘地が幾らも有るが、單語を對譯によつて受取らうとする、外人の立場としてはそれが出來ない。だから毎日の最も有りふれた、姥嚊の使ふ言葉までが、許多の註釋を羅列しても、なほはつきり理解し得られない神秘なものとして殘るのである。一たび聽明なるよその國の學者に疑つてもらつて、それから其一語の歴史を尋ねて行くといふのが、私たちの望みなのだが、少し困つたことにはこの本の著者などは、あまりにも通譯者の言ふことを信じ切つて居る。從つて又其解説の必ずしも透徹して居ない點が折々あるのを、間接の參考としなければならぬのである。
 結局はその一つの國語の中で親代々の活きて來た者自らが、進んで考へるに越したことはないのだが、それを今まで怠つて居た我々には、この種の警策が非常に有難いものになるのである。話は長くなるが此ついでに言つて見たいことは、人の好意を承認する言葉に「有難う」と「氣の毒」と「すみません」その他まだ幾つかあるが、この本には先づこの三つを擧げて解説を試みて居る。さうしてどうやら見當ちがひをしてゐるやうに見える。三つの言葉は用途がやゝ近いといふのみで、出來た時代にも差があり、成立ちも亦一樣では無い。是を綜括して共通の意味を尋ねるなどは、我々ならしないことである。有難しは本來神をたゝへる語であつた。のち人生の幸福に逢着して、改めて神の恩惠を感じた時に發する語で、それをさもさも當の相手に向つていふ如く取られるに至つたことは、メルシやグラチエを用ゐる基督教國にも例があるかと思ふ。次に氣の毒はむしろ惡い言葉で、もとは「氣の藥」の樂しい嬉しいに對して用ゐられた。それを相手の身になつて言ふ時に、始めて好意を施す者の勞苦損失を、いたはる言葉にもなるのである。それ故に通例は御氣の毒、もしくはお氣の毒樣などゝ、敬語を添へて使つてゐた。それが一轉して人に何事かを頼む時の、こちらの心苦しさを形容するやうになつただけで、斯うなると言葉の感じが、又よほどちがつて來る。第三のすみませんは最も新らしく、單に豫期せざる好意を受けて、心の不安を制しきれないといふ意味であり、スムは恐らく水などの澄むと同じ語であり、ネバアエンズといふ英譯は當らぬのであつた。現在の用ゐ方に氣をつけてゐて(112)もほゞ判ると思ふが、僅かづゝながら三つには心持の差があり、選擇は必ずしも隨意でない。有難うは最も大がかりな感謝の辭令だが、年久しい累用によつて效果が鈍り、今では物を貰つた時などに此語を發するのは小兒ばかりと言つてもよく、單にうれしいを意味する感動詞の如くなり切つて居る。之に反して御氣の毒は、相手に何等かの損失勞苦をかけたことを意識して居り、更にすみませんに至つては、それが當然に受くべかりしものでないことを特に宣明しようとしてゐるやうに見える。いはゆる「恩」の制度が確定し、是が規則正しく下に施されて居た時代には、この二つの種類の謝辭は役に立たない。至つて素朴な有難うを以て、心の悦びを表白するのでなければ、別に何等かの恩に對應する禮の述べ方があり、それは多分「かたじけない」だつたらうと思ふが、此語も今日はもう誤つてしか用ゐられてはゐない。つまりは時代はすでに過ぎたといふことが、惰性でなほ使はれて居る此等の言葉の中からでも窺はれるのである。たつた一つの封建制といふ類の語を以て、この現在を作り上げた百年二百年の變遷を、概括して見ようとする方法の粗雜だつたことが、斯ういふ親切な國外の學者に注意せられて見て、今更のやうに我々には反省せられる。假に結論の是認しかねる點がありとしても、それすらも日本の史學の弱點に對する、感謝すべき警告と解することも出來る。
 
          六
 
 人が平生大いなる用意も無しに、頻りに使つて居る言葉の中から、底に横はる人生觀、もしくは社會法ともいふべきものを、掬み上げようとする學風は、恐らくはこの記念すべき一著によつて、徐ろに日本にも入つて來ることゝ思はれる。それを誰よりも熱烈に歡迎する者は、今日斯邦でフォクロリストと呼ばれて居る一派の學徒なのであるが、殘念なことにはたつた一つだけ、彼等の共鳴しにくいやうな特色がこの本には見られ、それが又課題たる當の日本民族の間に於て、多くの心服者を得られない原因でもあるかと私には考へられる。外國人の觀察は全部が全部、誤つて(113)居らぬものなどは、無いのが當り前のやうにきめてかゝり、何かこちらの氣に入らぬことを書かれると、知らないからだといふ一言を以て、はね付けるのが今までの普通であつたけれども、ベネヂクトの場合は斷じてそれではない。論理の強みを犠牲にしてゞも、つかまへた事實は決して放さず、必ずその意味を突き留めなければ止まぬといふ態度を以て、あれほど大がかりな蒐集を試みながら、なほ且つ幾つも見當ちがひをして居るらしいのは、方法の不備といふよりも、寧ろ資料に對する用意の缺乏であり、それも外人であるが爲に、到底脱出し得ないといふ樣な、根強い弱點とは見られぬものであつた。一度氣がついたら、二度とはくり返さずにすむといふ類の、私などからいふと誠に不本意な失敗であつた。
 是を誘導したのも或は日本人の責任かも知れないが、民族學にとつても、なほ是は一つの學問上の問題とは言へるかと思ふ。言葉を透して異民族の心意を考察し、之に基づいて文化のパターンを推論しようとする學者が、その言葉の傳來と變化、殊に最近の一代二代間に於ける、授受の方式を檢討しなかつたことは用意の不足である。米國に於ては特に黒人たちの言葉に對して、この用意は十二分に備はつて居る筈と察せられるが、過去一世紀間に於ける日本の國語教育の變化混亂に比べたら、それはまだ簡單だつたと言へるであらう。日本は中世以來口語と文語とのかなりはつきりと對立した國だつた。學校で教へるのは書くことゝ讀むことゝ、即ち文字の言葉だけに限られ、他の一方の話言葉は、家庭とか部落近隣の自然の感化に任せてあつた故に、方言は際限もなく發生して、遠い處との交通には妨げが多かつたのである。是ではいけないといふことは何人にも心付かれたに拘らず、義務教育の時代になつてから後までも、學童に活きた話言葉を教へる方法が立たず、人は勝手放題に書物の語を採用して、娘や小兒までが盛んに漢語をまじへて使ふやうになり、從つて口言葉の内容が、よほど現在は不精確になつて居る。それを國内にもまだ心付かぬ者が多いのである。
 ベネヂクト教授が太平洋の對岸に居て、是だけ多くの言葉の意味のずれ、それが代表する觀念の抵觸に氣づかれた(114)ことは、寧ろ驚歎すべき感覺の鋭どさであつたが、たつた一つだけまだ何人からも告げられなかつたことは今日の日本語には、十分な體驗を重ねず、用法のまだ甚だしく安定せぬものが、幾らもまじつて居るといふことだつた。新たな事物に對する新らしい單語ならば、日本人は呑込みが早いから、大抵はまちがひ無く使ふであらう。一番こまるのは昔からあつた言葉で、口語と文語とでは意味のかなりちがふもの、是は相應な教育を受けた者までが、時によつて混亂した用ゐ方をするのみならず、中にはわざとあやふやな使用によつて、解釋の餘地を殘さうとする者さへある。此點を前以て承知して居る人で無いと、實際は言葉の綜合のみによつて、一つの民族の文化の型を説くことが、無理だつたのではないかと私は思ふ。
 
          七
 
 實例を擧げて見よとならば、他にまだいろ/\あるのだが、それでは民族學研究の外に逸する虞れもある。仍て「菊と刀」とに最も關係の多い二つの言葉によつて、私の批評の空なものでないことを證明しよう。その一つは、この本に最も多く出て來る義理といふ言葉、是は元來は輸入語なのだが、書册の上では稀にしか出逢ふことが無く、其意味もあまりにちがふ故に、今日は文語としては使ふ者が少ない。たゞその語源が明かに判つて居るので、文字の教育を受けた人たちは、幾分か餘計にこの一語を尊重し過ぎるのだが、現實の用途としては、今日はよほど價値が低くなつて居る。二百年以前の文藝書を見ると、もとは内容がずつと高尚で、たとへば武士たるものの身の行ひの、全部を總括するやうな意味にも用ゐられたらしく、それが又漢語の「義」といふものにも近いのだが、少なくとも現在の口言葉には、さういつた道コ力はちよつと捜し出せない。強ひていふならば社交の慣例、人が通例同じやうな場合に、誰でもすることだから自分もする、といふ程度のものばかりが多くなり、現に東京などでは、葬式の前後の訪問だけを、ギリといふものだと心得て、すまして居る人さへ幾らも有る。一つの單語の歴史から言へば、もちろん是は零落(115)の足取りであらうが、もともと範圍が弘きに失し、又あまりにも多くのものを包容しようとした爲に、却つて分化を促すことになつて、別に約束とかいふやうな、新しい積極的な言葉が生れて來て、段々と此語を不用にして居るのである。「名に對する義理」などといふ文句は、少なくとも私は聽いたことが無い。古い文獻と近頃の用例とを繋ぎ合せて、數百年を一貫した文化の型を想定するといふことは、國語の教育法のやゝ特殊な、日本のやうな國では困難なことであり、其障碍はまだ完全には除去せられて居なかつた。
 それからもう一つ、是も「菊と刀」の目標として取上げられた言葉に、恩といふ記憶しやすい一語があつて、やはり著しい變化を重ねて居る。恩は日本の政治史の上に、關係の深い文字には相違ないが、是も本來はシナ語であつて、是に該當する固有語は無かつたのみか、御恩といふ特殊な用語を除くの外、まだ完全には日本の口語の中に融け込んで居ない。中世の殊に人望多き文藝書、平家物語の重盛諫言の條に、四恩といふ語があつて有名であるのを見ても判るやうに、文字はシナであつても、思想は恐らくは印度傳來であらう。佛教が國の現存の秩序を尊重し、之を民衆と繋ぎつける綱と紐の役を、自分の手に收めようとした際に、斯ういふ四つの恩を一つの列に竝べようとしたのは好い考へであつた。しかも利用の必要の最も多かつたのは、親とか國土とかいふ自然の繋がりのかねて存するものよりも、もつと人間の計畫に基づいたもので、即ち宣教に次いでは土地の領有者が、恩を制度として恒久化しようと企てたのである。東西の封建制が、この點ばかりはよく一致して居るらしいから、詳しく説明しなくともよいと思ふが、日本でも或時代、「恩」には道コ以上の大きな力があつて、單純に社會を結束することが出來たのであつた。しかも其樣な單純な社會は、そういつ迄も續くものでない。人と人との關係には新たなものが次々と増加した。足利氏の時代から、すでに上下の關係を離れた横の對等の附合ひといふものが幾らも出來て居る。その交際をも、全く別種のものと見ることを厭うて「恩」の概念を極度に弘く擴大しようとしたのが保守派の態度であつたが、それは却つて恩といふものの意義を空漠にし、人の個性の展開して行くと共に、之を借財と同じ種類の、避け得べくんば避けようとするものに(116)したのである。恩を賣るといふ言葉は、夙くからシナにも生れ、日本でも恩に着せるといふのが、人の動機の特に陋劣なものの名になつた。この國近世の珍らしい風習の一つ、贈答應酬の極度に敏活になつて居た原因は、一言でいふならば人がすでに久しく此樣な恩誼を負うて居ることが出來なくなつて居たからだと思ふ。我々の恩觀念は斯くの如く散漫になり、又厭ふべきものゝ名となつて居た。是を最近になるまで、なほ文辭の上に採用しようとして居たのは政治家だけであつて、乃ち彼等は近世の歴史を知つて居なかつたことを意味する。以前の仕來りの解し難いものは、何でも彼でも封建的と呼ぶのが此頃の論客の普通の癖らしいが、是は遠からず改心させる希望もある。ベネヂクトのやうな親切な外國の觀察者を、一生この獨斷に卷込んでしまつたことは、何とも言ひやうの無い痛恨事であつた。私達はこの罪滅ぼしに、もう少し國語の意義變遷を考へて見なければならぬ。
 
          八
 
 終りに「菊と刀」の啓發に對して、もつとこまごまと感謝の意を表したいと思つて居たのだが、老人は話がくどいので、もう紙數を費し過ぎた。たつた一つだけ是からも持ちつゞけて居たいと思ふ問題を掲げて置くと、よその國の人にはもつと説明が附かぬと捉へにくい typical Japanese boredom, 是を日本人獨特の倦怠と譯して、果して我々にも響くかどうか知らぬが、私だけはちやうど考へて居たさなかなので、突刺されたやうな感じがする。是は倦怠では無く、ねばり強さの正反對、見切が早いとかあきらめが良いとか、ほめて言へば言はれる特徴を意味するかと思はれ、つまりは打撃に對する弱さであり、動物などにも種類ごとに等差が有るのだから、是は古今を通じたパターンの一つなのかもしれない。神武天皇以來さうだつたとも言へないが、是は或は我々の環境の然らしむるところ、狹い小さな島の中に、何千年と無く住み付いて居たことゝ、關係があるかとも想像せられる。國を丸ごと破られたことは、幸か不幸か今度が始めてだつたが、國内の個々の局面では算へ切れないほど、烈しい勝敗の結果が見られた。決して(117)お世辭で言ふのではないが、今度の敵のやうな寛大なものは、同胞の間の戰爭でももとは珍らしかつた。國が狹くて行止まりが近いのだから、敗者は大陸のやうに遁げて新たな天地を拓くといふことは出來ない。無益な殺戮は受けないとしても、彼等の安穩までを顧慮しようといふ勝利者は有り得なかつた。泣けば泣いたまゝ、惱めば惱んだまゝで棄てゝ置かれたら大抵は衰亡した。其上に恥の教育が極度に強行せられたのであつた。武士は少なくとも女や子供まで、城が落ちれば自滅するのを本分とし、二歳の若君を乳母が抱へて、世を忍んだといふ類のローマンスばかりが多い。農民が土を離れて散亂するといふことも普通であつた。血筋は傳はつても組織は崩壞してしまひ、從つて永く活きつゞけることがむつかしかつたらしい。微小な島に就いて見るとやゝ形跡が辿られるが、結局は群として又は村として、いつまでも存續するといふことの、可なり困難な國であり、これが又斯んな老國であるにも拘らず、いはゆる新陳代謝の盛んだつた理由かとも思はれる。敗者の歴史の傳はるのは、是も今囘が恐らくは初めであらう。もとは點々として世に隱れ、たまたま命脈を保ち得たものでも、僅かな世代のうちに没落の悲しみを忘れてしまつて、新たに又尋常の生活を續けるのである。遺傳の學問がもし大いに進んだならば、この循環にも法則があることが判つて來るかも知らぬが、兎も角も古く榮えた家筋などといふものは、順ぐりに消えて行つて、もう一つだつて殘つて居らず、跡には又代りがちやんと出來て、それぞれの苦闘をくり返して居る。限りある國土内の繁榮なるものは、いつも他の一方に今日のやうな、やゝ氣の早い大勢順應を、條件として居たのではなかつたか。今少しく時日を隔てゝ、誰かゞもう一度この問題を考へて見ることにしたいと思ふ。
 自分などは英語に精しくないので、果してボアドムがちやうど是に當るかどうかもきめられないが、少なくとも島々に分れて住む民族の、是が共通の運命の如きものだつたかと思はれ、殊に群よりも個人の場合に就いて見ると、一段と此傾向がはつきりして居るやうな氣がする。江戸の幕府の消極的政策によつて、大規模の生存競爭は久しい間絶えて居たけれども、隅々の小さな生活に於ては、この突如たる意力の挫折、どうでも成れといふ類の棄鉢氣分が、(118)?今度のやうな意外な激變をもたらして居る。たとへば一軒の家又は一箇の人生が、何かの打撃によつて常道の外に押出されると、是から立直り持ちこたへるといふことが非常にむつかしく、崩壞は殆と普通の歸着とも言つてよかつた。勿論有る限りの苦難を重ねて、立派に恢復した例は特記せられ、又賞讃せられても居るけれども、數の上からといふとそれは文字通りの稀有であつた。事情は時代毎に變つて居たことゝ思ふが、曾て平和の姿として詠歎せられて居た農村が、特にこの没落の歴史を以て盈ち溢れ、しかもいと容易に忘却せられて居る。家がどういふ風に絶え又滅びるかは、今までは一向に取り上げられなかつた課題であり、新たに榮えて行く人々の爲にも、缺くことの出來ない常識であつた。やゝ多くの實例を綜合して見ると、病氣とか榮養の低下とか、貧苦に伴なふものも一つの力ではあつたが、それよりも大きな原因は氣力衰弱、殊に澤山の取越苦勞を支へ切れずに、酒で一時を忘れて行かうとする、惡い一般の習癖にかぶれてしまふことで、しかもそれほど怖るべきものであるやうに、まだ誰からも認められて居ない點であるかと思ふ。
 
          九
 
 是は民族學の力を以て、最も冷靜に判斷しなければならぬ問題と思ふが、酒の機能乃至は效果に對しての考へ方が、こちらでは最初からやゝ西洋とは別であつたらしい。日本などで手作りの酒といつたものは、つい近頃まで決して口に旨いものでなく、言はゞ醉裡の變調を必要とし、又魅力ともしてゐたのである。それを課税の爲に全部を商品化するに及んで、酒の味は急に好くなり、且つ消費の面が無限に擴大し、しかも固有の用途は少しも制限せられなかつた。人が細心に事物を考慮する能力は、計數の上からでもそれだけは減縮して居るものと見られ、その損失も既に指摘し得られるに拘らず、世情が今日の如く變轉して後も、なほ飲酒を以て生活の一方法と認めて居る者は跡を絶たず、あらゆる放膽と無計畫、又は早期の斷念ともいふべきものに、無意味なる口實を與へて居るのである。事は決して形而(119)下の問題とは言へない。國初以來の久しい年代を通じて、是が常人の常の日の活き方を指導して居た一つの著しい傾向だつたとすれば、ベネヂクトのやうなよく考へる學者が、もう少し詳しい資料を蓄積して居てくれてよい問題だつたかと思ふ。或は日本人の注意深さと氣の早さ、末の末までに想像を馳せて、たやすく成功の夢を樂しむと同時に、時非なりと感ずれば、忽ち杞人の憂を抱かうとするやうな氣質が、この一つの惡癖と表裏の關係をなすものと言へるかも知れない。つまりは自然の大いなる計らひに、まかせて置かうとする古風な信頼は失せて、限りある周圍の前例から類推して、我と思慮臆測の負擔に堪へなくなつて居たのである。是に對抗して一時の解脱を求めようとする手段が、もとはまだいろいろとあつた。人が何度でも生れ替つて、もう一度新規蒔直しの生活が出來ると思ひ得た時代には、自殺なども寧ろ平凡なる一つだつたらうが、現在はそれも一種の惰性となり、たゞ生命を粗末にする惡癖となつて殘つて居る。歴史と文藝の久しい過去を顧みると、遁世といふものがやゝ價値の高い轉囘法と認められ、從つて其實例は最も數多く、時として酒以上の陶醉と忘我とを供與したらしいが、もともと世に合はず、世に容れられないと信ずる者が、好んで世に背いて行く道であつた故に、當然に社會との交渉が淡く、新たな生活を導くには足りなかつた。詩歌俳諧を始めとし、多くの藝道が貧窮を誇りとし、うはべは少なくとも世俗と列を同じくせぬやうに、今なほ見られようと骨折るのは、多分は其のすべてが共通の出發點、即ち人生の逆境から逃避しようとして、選擇した一つの方法だつたからで、是等はたしかに他の幾つかのものよりも平和な手段であつた。たゞそれだけに仲間の數がふえて、茲にも又一つの闘諍が起つて、新たな弱者の出てくることを氣づかふのみである。
 文化の型のちがひを比べて見ようとする學者は、必然にその由つて來るところを尋ね究め、更に將來の制約と改定とに考へ及ばねばならぬであらうが、日本はどうなつて行くか、又どう變つて行くことを希望すべきか。それを答へる人が内にも外にもまだ多くないのは寂しいことである。日本でいはゆる文化の科學に携はつて居る人々は多いか少ないか今もまだ若干の隱者氣分を保存して居る。彼等の竹林清談は胸が透くほど爽快だが手短かに評すれば高くとま(120)つて居る。痴愚を嘲けるに峻嚴であつて、偉人を譽めるのに力が入りすぎる。二つは共に眞實だとすると、止めて下さいとは言へないだらうが、是ばかりでは竝みの人は賢くならない、といふことまでは考へてもらひたい。隱遁者の先見の明などといふものは、實は指導にも何にもならない。むしろそれにかぶれて早合點をしようとする者が多くなると、世論は今一層右往左往しなければならぬことであらう。判斷は個人のもの、それを少しでも安全に且つ自由にするには、證據のある確かな事實を、出來るだけ豐かに供與して置くより他は無い。是に附け添へてもし自分にも言つて見たいことがあれば、是だから斯う思ふといふ筋途を明示して、忽ち誤つた推理法の發覺するやうな形にして置けばよい。是がお互ひ實證の學に携はる者の、進むべき道であると思ふ。「菊と刀」の著者が、この本のやがて日本に於て大いに讀まるべきことを豫期して、煩瑣を忍びつゝも有る限りの資材を、考へ進んだ通りに排列して殘したのも、世界の公人らしい堂々たる用意であつた。だから又つい一通りの辭禮を以て、遣り過してしまふことは私たちにも出來ない。
 
(121)   甲賀三郎
 
 國書刊行會のコ川文藝類聚卷八に、甲賀三郎と云ふ淨瑠璃がある。其解題に依れば、此以前同じ題目に由つて趣向したものに、正保三年版の諏訪本地兼家と云ふのがあつたさうな。其方はまだ見たことが無いから知らぬ。寶永元年に板に掛けたと云ふ新しい甲賀三郎では、近松一流の脚色が過多で、元の話の筋は辿りにくいが、それでも三郎と云ふ勇士が岩窟の底に墮ちて異形に身を變じ、年を經て再び人界に復つたと云ふ要點だけは遺つて居る。之に次で此話の最も小説化したものは、伊勢參宮名所圖會及び若狹國神名帳私考等に、伊賀國志を通じて孫引した所謂甲賀傳の記事である。醍醐天皇の御宇に信州望月の住人諏訪左衛門源重頼なる者朝廷に仕へて勇名あり。男三人の子があつて其名を望月太郎重家諏訪次郎貞頼望月三郎兼家と云ふ。若狹國高懸山の兇賊追討の勅を蒙り兄弟三人發向した處、三郎兼家武勇就中すぐれ悉く賊徒を誅伐す。二人の兄其武功を嫉み之を深き谷へ突落して二人は高名を恣にした。然るに兼家は不思議に命を全うし月を經て立還り、二兄は之を見て行方なく逐電しければ、其所領をも合せて武威益振ひ、後將門退治の軍功によつて近江甲賀郡を給はつて甲賀近江守と名乘り、更に伊賀半國の加恩を受けて千歳佐那具に居城した。其墓は伊賀一宮の奧觀音谷と云ふ地にあると云ふ。然るに諸國旅雀卷一には大分之とちがつた話として現はれて居る。昔江州の甲賀の里に甲賀太郎次郎三郎と云ふ三人の兄弟があつて、常に山に入り鹿を殺して世を渡つて居た。或時若狹國タカカゲ山に入りしに山神大蛇の形となり出で來る。兄二人は遁げたれども三郎は之と闘ひ終に大蛇を殺した。然るに二人の兄は鹿を捕るに妨ありとして三郎を谷に突落したが、死せずして身を大蛇に變じ、住む所に(122)穴生じて終に信濃のコナギの松原へ拔け通つた。甲賀では三郎山中に於て大蛇に殺されたと傳へ聞き、妻子悲歎のあまりに寺を立てた。今の水口町の附近に在る大岡寺の觀音堂は即ち是である。三十三年目に三郎家ゆかしく思うてコナギの松原から還り來り、里人の怖るゝによつて始めて己が姿の變れるを知つて大に之を歎き、觀音堂の縁の下に蟠つて只|南々《なん/\》と云ふばかりであつたが、本尊の眉間の光に照されて舌が柔かくなり、稱名をして始めて人間の形に復り、家に入つて妻子と共に住むことが出來二人の兄は恐れて自害した。後に此國の押領使となつて居たが終に再び信州に向つて飛去つた。諏訪大明神の化身であつたと云ふ夢の告があつた云々。大岡寺の觀音堂は賀茂次郎義綱に關係のある古い寺で、正體は三尺二寸の十一面觀音、腹篭りに一寸八分の像あり、甲賀三郎の守本尊と言傳へて居る(地名辭書)。境内には鎭守として諏訪明神の社がある(近江輿地志略)。
 次に京雀卷二、京都東洞院三條下ル、諏訪町の條に掲げた話は、全然旅雀の話と同じであるが、更に之に附加して左の一節がある。三郎が子は後に都に上り、今この諏訪町に住みける故に名とす。京にある人鹿を食せんとするには、此家に參り明神を拜み白箸一膳を受けて歸り、鹿を食へば仔細無しと云ふとある。諏訪が鹿肉を食ふ穢を解く神であつたことは前にも述べたことがある(郷土研究一卷九〇頁)。右京旅兩雀の記事は疑も無く大岡寺十一面觀音堂の縁起であつた。羅山文集に卑俚云ふに足らずと罵りながら漢文に譯して居るものも殆と是と同じで、只山神大蛇の形になつて來たと云ふのを鬼輪王と書いて居る相異だけである(近江輿地志略所引)。但し自分の解し能はざる一の不思議は、右に擧げた何れの話にも信州殊に諏訪明神との因縁が著しく濃厚なる點である。而も其由つて來る所は猶一段と年久しいもので、既に南北朝の頃に成つたと云ふ安居院神道集の中にも、同じ話が觀世音から獨立して傳へられて居る。昔甲賀權守諏胤が子に、甲賀太郎諏敏甲賀二郎諏任甲賀三郎諏方と云ふ三人の子があつた。三郎は信州蓼科嶽の人穴に入り數年の間奇しき國を巡り居る間に、兄二人して三郎が所領を犯し奪つたが、二郎なほ惡逆あるに由つて太郎は之を避け、所領下野宇都宮へ下り、後に神となつて示現太郎大明神と云ふ。其後數年を經て三郎は信濃に還り來り諏(123)訪明神となる。二人の兄は信主明神の計ひに由つて三郎と中睦じくなつて衆生擁護の神となる。中にも二郎は先非を悔い若狹國で田中明神となつたとある由(若狹國神名帳私考遠敷郡田中氏明神條所引)。是も氏名まで同じである上はやはり亦甲賀と云ふ苗字の者が主張して居た傳説であらうが、三郎蛇となつたと云ふ點は果して彼には脱して居るか否か、未だ本書を見る機會が無いから何とも言はれぬ。何れにしても右三種の傳説には色々の共通點があるのみならず、殊に話の效果には一見何の影響も無かるべき若狹國が終始一貫して隨伴して居るのは意味のありさうな事である。高懸山は此國遠敷郡三宅村大字神谷にある山の名であるが、土地ではタカカケとは呼ばずにカウカケ山と謂うて居り、今でも甲賀三郎の入つたと云ふ窟がある(同上)。或はカウカケの地名と甲賀の家號との間に何等かの脈絡があるのでは無からうか。他日猶考へて見たいものと思ふ。
 人が生きながら鳥獣蟲魚に身を變へたと云ふ話は、所謂荒唐無稽の甚しきもので、其近世小説家の空想を超越して居ることは、取りも直さず發生の至つて古いものなることを示して居る。諏訪の本地乃至は觀音の靈驗を説く爲には必ずしも適切で無い所の兄弟三人の話、其一人が異形になつたことを知らずに還つて來たと云ふやうな話が、斯くも根強く行ほれて居るのは、恐くは只の縁起作者の筆の力ではあるまいと思ふ。自分は曾て丸々掛離れた羽後の一山村に於て、或木樵の兄弟の一人が山に入つて異魚を食ひ蛇となつた話を讀んだことがあるが、どうしても出處を思ひ出せぬ。漫遊人國記羽後八郎湖の條に、龍神八郎の身上として聞書してあるのはそれとよく似た話で、乃ち奧羽永慶軍記に基いたものらしい。永慶軍記の其條は曾て本誌に江渡用藏氏が報告せられたこともあるが(郷土研究一卷三五八頁)、古いことだから今一度其大要を抄出する。昔八郎潟の地がまだ湖水でなかつた時に、近き里に住する八郎と云ふ木樵、他の二人の木樵と共に山に入り、澤邊に於て三疋の魚を取り、三人で食はうと思つて之を燒くと、其香芳ばしくして堪へ難く、兎角堪忍ならずして獨で三つの魚を食うてしまうた。然るに咽の渇くこと限なく、澤水に浸つて一滴をあまさず飲みほさんと這臥して居るのを、他の兩人が來て見ると既に形が變つて居る。八郎兩人に向ひ我はしか/”\の(124)次第今は大蛇になるべし、早く里へ返れと告げ、程もあらせず身は蛇體となつて山を碎き谿を埋めて潟とし、終に其主になつたと云ふのである。此話の通例の夜叉池傳説と異なる點は、異魚を食ひ咽が渇いたと云ふ一節である。同じ羽後でも仙北郡の長樂寺と云ふ處で言傳つて居る話などは、主人公は若い娘で池に入つて主となつたと稱し、愈以て龍神が配を覓めた話に近くなつて居るが、それでもやはり魚を食つて咽が渇いたと云ふ要點を存留して居る。長樂寺の玉池と云ふは以前は深さを知らぬ大池であつた。大昔此地に母と娘と二人清水の邊に住んで居たが、或時娘は此清水で捕つた七八寸ほどの魚を串にさして燒いて食うた處が、咽が渇いてたまらず、手桶甕の水を飲乾しても足らず、池の水に口を附けて飲む程に我身の心地がせぬやうになり、水鏡を見ると既に三四尋の大蛇となつて居た。そこで涙ながらに母の許に來て此事を語り、終に此池に入つて池の神となつたとある(月之出羽路廿二)。陸中膽澤の掃部長者の女房なども、禁を犯して靈泉の魚を捕つて食うた爲、烈しい渇きを覺えて泉に伏して水を飲み終に其淵の大蛇となつたと云ふが(郷土研究二卷六九〇頁)、正しく同じ話である。但し其魚は鮒とある。漫遊人國記のはヤマベとある、何れも確かなことでは無いらしい。要するに母一人娘一人と云ひ友人三人と云ふのも、見やうに由つては甲賀三郎の三兄弟と同系統の話とも見える。又羽後の田澤湖の池の主となつた鶴子と云ふ美女なども、今では大蛇に化した理由は別樣であるが、是も母と娘と二人で居たと云ひ、母が絶望して水に投じた松明の燒殘りが、今のキノシリ鱒即ち黒鱒となつたと云ふなどを思ひ合せると(秋田縣案内)、もとはやはり魚を食うたのが變身の原因であつたのかも知れぬ。
 自分は爰に甲賀三郎系の説話の由來に付て試に大膽なる一假定を下さんとする者であるが、先づ其前に支那に於ける古い一類型を擧げて置く。酉陽雜俎續集卷二、?州五城縣黒魚谷の記事に曰く、貞元中百姓王用なる者炭を谷中に業《なりはひ》とす。中に水あり方敷歩、常《かつ》て二黒魚を見る。長さ尺餘、水上に浮べり。用木を伐り饑困す。遂に一魚を食ふ。其弟驚いて曰く、此魚或は谷中の靈物ならん、兄奈何ぞ之を殺せると。須くあつて其妻之に餉《ひるげ》す。用斧を運《うごか》して已まず、久しうして乃ち面を轉す。妻?貌に異あるを覺え、其弟を呼んで之を視す。忽ち衣を褫《は》ぎ號び躍り變じて虎とな(125)る焉。徑《ただ》ちに山に入り時々?鹿を殺して夜庭中に擲ぐ。此の如きこと二年なり。一日日昏る、門を叩いて自ら名のつて曰く、我は用なりと。弟應へて曰く、我が兄變じて虎となること三年なり矣。何の鬼ぞ吾兄の姓名を假るはと。又曰く、我往年黒魚を殺し冥謫せられて虎となる。比《このごろ》人を殺すに因つて冥官余を笞つこと一百、今免し放たる。杖の傷體に遍ねし、汝弟予を視て疑ふなかれと。弟喜び遽かに門を開けば、一人を見る頭猶是虎なり。因つて死を怖れ家を擧つて叫び呼び奔り避く。竟に村人の爲め格殺せらる。其身を驗するに黒子あり。信に王用なり。但し首未だ變ぜずと。元和中(西暦八〇九乃至八一九)處士趙齊約|常《かつ》て谷中に至り村人の説くを見ると(以上)。唐代の傳承には既に冥謫と云ふ語が用ゐてある。冥謫とか神力とか言へば如何なる不可思議でも説明できぬことは無いが、我々は猶溯つて何故に斯る奇拔なる冥謫の話が發生したかを考へて見ねばならぬ。兄弟と魚と云ふが如き珍しい取合せの來由は、右の支諾皐の記事よりも日本の類話の方が推測に便が多い。何となれば龍蛇も異魚も共に水中の物で、恐くは最初は魚を食つたから魚になつたと云ふ單純な形式であつたのが、普通の魚では眞らしく感ぜられない時世になつてから、龍蛇と云ふ空想上の怪物の方へ轉じて行つたらうと想はしむる端緒があるからである。而して咽が渇いて已まぬと云ふのは水を慕ひ水に奔つたと云ふ話の一潤色とも見られる。又特に三人又は二人の兄弟の一人が異形に變じたと云ふのは、最初此が人間の魚に成る一條件では無かつたらうか。北米の銅色人種の中に雙兒を鮭の變形と信ずる習俗のあつたことはフレエザー氏も段々例を擧げて居る。日本にも鮭を神とする信仰多く且つ兄弟と鮭との話も猶東北には遺つて居るのである。南方君などは或は夙に此偶合に注意して居られるかも知れぬ。
 
(126)   和泉式部
 
 和泉式部熊野に詣でゝ伏拜《ふしをがみ》の地で歌を詠んだと云ふことは一箇の物語であつたかも知れぬが、若い中から所々の神社山寺に參詣して居たことは、後代編輯の歌集などを見ても想像せられる。あの時代としては珍しく遊行好きの婦人であつたやうだ。又宮中を出てから後は夫と共に任國に下つたと云ふ話も遺つて居る。併し之に由つて彼を女中の弘法大師の如く視る近代の傳説を史認することは出來ぬので、少なくも各地に分布する口碑の一半は傳説で無ければならぬ。即ち何か相應の理由ある誤解に基いて和泉式部の名が斯く弘く行はれて居るのに相違無い。其誤解とは抑何であらうか。我々は其共通の事情を究める必要がある。
 先づ順序としてやはり各地の言傳へを一應比較して見たいと思ふ。勿論爰に列擧するものが全部で無いことは言明をして置く。寺や社の什物に和泉式部自筆の歌などゝ云ふ物は多い。越後南魚沼郡大崎村大字大崎の大前神社なども之を神寶として居る(温故之栞二十)。何が書いてあるか見たいものである。但し此等は後年手に入れたとも人に托して屆けたと旦一百はれる。攝津東成郡生野村大字舍利寺の舍利寺では、庭中に和泉式部の腰掛松があると云ふから(浪華百事談九)、正しくこの入江の村まで來たに相違無いだらう。聖コ太子の開基ださうなが近世黄檗の木庵和尚が中興した寺で境内に三十三所の觀音の御詠歌を刻した石などもある。多少巡禮遍路と因縁のある靈場である。腰掛松は少々女らしからぬ振舞であるが、次に言ふ日向東諸縣郡高岡村の法華嶽寺にも式部の髪掛柱と共に亦其腰掛松がある。紀州東牟婁郡三里村大字伏拜に和泉式部の供養塔のあるのは、既に續千載集の時代から世に聞えて居た遺跡である故(127)不思議も無いが、不思議なことには石塔の面に何の文字も無いのを土地の人がさう言ふのである(紀伊國續風土記八十五)。播磨飾磨郡飾磨町には、和泉式部が栽ゑたと舊記に載せられた折居松が今でもある(姫路名跡誌)。折居は恐らく降臨の義で腰掛松同系かと思ふが、之を女流文人に托する以上はやはり京から下つて居た地と解せられたことであらう。同國赤穗郡那波村大字那波のコ乘寺境内には、又和泉式部雨宿りの栗と云ふ老樹あり、昔此人路上に急雨に遭ひ樹下に立寄つた處、忽ち枝垂れて傘の形となつたと云ふ言傳へがある。但し今の木は三代目の植繼ぎだと稱して居る(大日本老樹名木誌)。式部は此國書寫山の性空上人と交通をして居たことがある。但しかの「闇きより闇き路にぞ入りぬべき遙かに照せ山の端の月」と云ふ有名なる一首は、拾遺和歌集には單に性空上人の許に詠みて遣はしけるとあるのみで、直々面會をしたらしい樣子も無いのに、足利時代に出來たと云ふ峯相記と云ふ舊誌には和泉式部此國に歩を運び來りて縁を契り師弟の約諾があつたと述べて居るのみならず、加古郡加古川の宿には同人書寫詣での途次一泊した因に土地の者が築いたと云ふ塚が道の左に在り、或は之を和泉式部の墓と稱する者さへあつたと云ふ(有馬山温泉記追加)。講の成長は尚此だけでは止らず、播磨鑑にはたしか式部が此國で生れた人と記してあつたやうに思ふが、今坐右に其書が無い爲に引用することが能ぬ。之に似た話は備前でも傳へて居たやうだ。因幡でも亦此才女を自國の出身と誇つて居た。即ち後に日を招き返して没落した湖山の長者の家に生れた者で、神童の譽が高かつたので十四五歳の時に京に召されてしまつたと云ふのである。
 和泉式部が暫く來て住んで居たと云ふ處は、又長門の萩にもある(萩名所圖會三)。此事は後に猶言ふ必要がある。東國では上野群馬郡總社町の靈鷲山釋迦尊寺の古傳に、和泉式部此地に下向して一首の歌を詠じたと云ふ話がある(行脚隨筆中)。併し此里には同時に小野小町に關する口碑も錯綜して存在し、甚だ取留めの無いわけである。それよりも一段と奇妙なのは、近江栗太郡大石村大字曾束に在る遺跡である。此村は同時に又歌仙猿丸太夫の郷土たることを主張して居るのであるが、時代などには一向無頓着に、和泉式部が猿丸太夫を訪問した話も傳へられて居る。其時(128)贈答した歌と云ふのが例の「うるかと云へるわたは有りけれ」と云ふ鮎の歌で、他の國々に於て西行とか宗祇とか云ふ行脚法師に着せて居る衣を取つて、直にこのかよわい和泉式部に被けて居るのである(栗太志二十)。此の如き無邪氣なる筆法で行けば、一人の式部が處々で生れ處々で死して墓があつても仕方が無いとせねばならぬが、それにしても百人一首の女詩人も數多いのに、どうして和泉一人を引張り合ふことになつたかは明かにしたいと思ふ。
 丹後では天橋立の明神社の側に磯清水と云ふ井戸がある。和泉式部此所に來つて詠んだと云ふ歌、「橋立の松の下なる磯清水みやこなりせば汲ましものを」の一首を、石碑に刻んで其井の前に立てゝあつた(益軒西北紀行上)。式部が藤原保昌に連れられて此國に來り、娘の小式部がまだふみも見ず云々の歌を詠じた話は人のよく知る所で、ちと拙いと云ふ迄で此歌だけの話なら何でも無いが、土地の人々はそれだけではあまり他の名所故跡との縁が薄いとでも感じたものか、到頭此地で生れたことにして了つた。それも普通の出産では無く、赤岩と云ふ石の上に親も無くて出現したと云ふので、其序に金の?が鳴くと言はれた?塚を以て、此才媛が墨蹟を埋めた塚と云ふことにきめて居る(漫遊人國記)。處がそれでは承知の出來ぬ地方が京都以外にもまだ有つた。奧州では小野小町は出羽の産だが和泉式部は陸中の和賀郡から上京したのだと信じて居た(遠野古事記一)。和賀郡横川目村大字横川目の栗木屋敷と云ふが其誕生の地で後に采女として京に召されたのだと云ふ。此地には又式部の塚と稱する石塔もあつた。其面に刻んだ梵字が日の影に隨つて廻るので其地をグルメキとも呼んで居た(和賀稗貫二郡志上)。但し其石塔寛永年度の開發に際して取除けられたと言へば、隨分と幽かな昔話である。さて其塚と云ふのは如何なる目的に立てられたものであらうか。よもや此地に歸つて死んだと云ふのではあるまいが、出羽の小町塚の例もあれば何とも言はれぬ。式部ほど一世に活動した婦人を、一の田舍で生れ且つ死んだとするのは困難な事業である。そんなら二者何れを重しとするかと云ふと、生れたと言へば夙く出てしまつたことになるから、來て死んだとする方が比較的尤もらしく聞える。それのみならず何故か和泉式部には塚に因んだ話が數多いので、それがよく/\尋ねて見ると、果して墓地か否かゞ不確になることは(129)諸國皆一樣である。例へば日向法華嶽寺の古傳に於ては和泉式部癩病を患ひ、觀世音の示現に隨ひ日本三藥師を巡拜した。三藥師とは越後の米山と三河の鳳來山とこの法華嶽とである。此山一百日の參籠未だ其驗無きことを歎いて、身を千仞の谷に投げたれば、落ちて青草の上に在りて恙無く、如來の大慈惠に由つて痼疾忽ち痊《い》え、欣喜して京に歸つたと云ひ(日向案内記)式部の杖取坂とて杖を與へし所、一の瀬愛染川とて式部が身を濯ぎ潔めた流、腰掛松身投岡式部谷等の名所と共に携へて居た琵琶と云ふのを傳へて居るのみであるが(三國名勝圖會五十五)、僅か隔てた同國兒湯郡都於郡村大字鹿野田では、氷室山の腰に式部塚がある。其山の北十五町、幸納と云ふ里の畠中には、又式部の形代と傳ふる地藏堂もあつて、其東北三町に在る一林叢を以て式部を荼毘した所と稱して居る。幸納の原田某の家には式部由來記と題する舊記があつた。之に依れば和泉式部は十月の五日に法華嶽に登り、正月の十六日に病痊えて都に還り、更に再び日向に下つて三月三日に四十三歳で死んだとあつて、丁寧にも拙い一首の歌まで添へてある(同上)。安房國には此より一段と覺束無い遺跡がある。嶺田雋の房總雜記上卷に曰く、「房州那古に和泉式部の墓碑ありと云ふ。好事の所爲かと疑ひしに、百首正解に其説見ゆ。平郡米澤に舊跡ありと云へり。荷田訓之がめかりの日記に、加茂季鷹が説として、頼光上總介の時、式部の夫安房を領したり。此頃式部は都にて終りたりしを、碑は此國に建てしかと言へり。石は尤も古色あるもの也云々」。右の如く多數の學者に手數を掛けては居るが、どうも安心の成らぬ仔細は安房志に後に記す所に依れば、其塚と云ふのは二箇併立して居つて、那古の那古寺の山の上、舊寺址と稱する平地に在つた。鼎形の塚とあるが何の事か往つて見ねば解らぬ。その二つを和泉式部小式部の墓と云うて居たさうである。又米澤村の舊跡とあるのは、彌陀山の奧に在る二つの石で、何れも圓形にして徑三尺厚四寸、土人稱して式部の合せ鏡と謂うたものゝことらしい。然るに那古から岡を隔てゝ東へ一里餘、九重村大字竹原に亦墓が現れた。何時の頃の事であつたか、竹原村の者山に樵して古墓を見出し、之を清めて我が辨當を供へ恭敬怠らざりし處、或夜の夢に和泉式部と名乘つて來り現はれ大に禮を言ひ、それから祈願に應驗があつたと云ふ(安房志)。處が山中笑翁が前年の旅行(130)に、同國保田附近の官有山林の中で見られたと云ふ和泉式部の墓は、古い寶篋印塔であると云ふから又別の物らしい。此も十數年以前に大に流行したことがある。元は阿波國に在つたのを、此國に移したとの話の由。阿波には清少納言の遺跡は段々あるが、和泉式部の話はまだ聞いて居らぬ。何分にも眞相を把へにくい昔話である。
 伊勢では度會郡前谷と云ふ村の龜谷の林地に、亦一の和泉式部の塚があつて、藤原保昌の子孫の者が建てたと云ふ塔があつた。後に其塔を山田吹上町の光明寺舊址に移したと宮川夜話にある(伊勢名勝志)。山田上之郷久留町、久留山威勝寺の後の山に峯の藥師の堂があり、其附近に和泉式部の古墳と瓶五輪と云ふがあつたとあるのは(伊勢參宮名所圖會)、多分前者とは別口だらうと思ふが、それも亦後に他所へ遷されたと云ふ話である。此外に今一つ、方四尺高さ一丈餘の大五輪が和泉式部の石塔と傳へられて古市の久世戸の阪の側に在つた。或は光明皇后の爲に建てたと云ふ説もあつて要領を得ぬが、昔此地に泉寺と云ふ寺があつた故に、塔を式部のものとしたのだと云ふ斷定は當を得て居るやうに思ふ(同上)。此國北部に存する今一ヶ所の故跡の口碑は注意に値する。桑名郡大山田村大字東方谷山では、竹林中の小さな溝を式部の清水と稱して居る。和泉式部此地に來り此泉を汲んで硯の水としたと傳へ、明暦年間には三宅正堅等の遊2式部泉1の詩があると、伊勢名勝志に記して居る。同書又曰く、式部此國に來たと云ふこと歴史には見えぬ。或は天正中織田氏の爲に滅された山本式部の首でも洗つた所で無いか云々。此推測の當否は兎に角、和泉式部の名の出たのは即ちこの泉からであらうと思ふ。諸國の清泉で古名士の硯の水に托した話は、此も隨分例の多いことである。
 さて右に列擧するが如き諸國の和泉塚の話を聞いたら、京都の人は定めて高尚な微笑を洩すであらうが、實は推理上正眞らしく見える彼地の墓所も、仔細に觀察すればあやふや〔四字傍点〕の程度は田舍と伯仲である。京都では寺町通六角蛸藥師間の西側を式部町と謂ふ。天明二年以前は和泉式部前町と呼んで居た。それは此街路の東側なる中筋町に誠心院一名和泉式部寺と云ふが有つた爲で、此墓石は今も儼然として存して居る。庭石三重總高一丈一尺六寸横八尺の寶篋印(131)塔で、傍に二十五菩薩の石像がある。碑の年月は式部歿後約三百年の正和二年五月で、誠心院智貞專意と云ふ怖しく今風の戒名を傳へて居る(京都坊目誌)。誠心院は古くは一條京極にあつた東北院の一部で、御堂關白道長が施主となり、晩年尼であつた和泉式部の爲に建立した道場で、世に小御堂と謂ふもの即ち是なりと云ふが、而も今日は北に接する淨土宗誓願寺の一塔頭に過ぎず、其墓へ詣るにも誓願寺の中から通つて行くやうになつて居る(扶桑記勝二)。誓願寺の縁起に依れば、遊行上人此寺に於て六十萬人決定の念佛を行うた時、死して久しき式部亡魂となつて現はれ受戒をしたと云ひ(次嶺經二)、一説には又一遍上人熊野權現の教に由つて此寺に結縁の念佛を行うた際、式部の靈出で來つて誓願寺の額を寫したとも云ふ(洛陽名所集一)。かの東北の謠で有名な軒端の梅なども、遺愛の種を傳へたと稱して今尚年々の春を誇つて居る。然るに一寸をかしいと思ふことは、二つの寺が今の地に遷つたのは實は天正十九年のことで、其以前は一條小川の北に在つた。而も誓願寺の方は最初からそこに在り、誠心院は或時代迄はずつと東の一條京極に在つたと云ふので、言はゞ中古隣を接してからの偶然の集合である。又東北院と云ふ寺も別に洛東眞如堂の西北方に小さく殘つて居た。本尊は辨才天で、もとは天台だと云ふが後は時宗である。爰にも和泉式部の塔もあれば軒端の梅もちやんとあつた(山州名跡志四)。誠に烏の雌雄のやうなものである。此から考へると右の誠心院に、式部の御影と稱して四十ばかりの比丘尼の、貌美くしく墨染の衣に淺黄の帽子を被つた姿も(京雀二)、果して誰の肖像か疑はしいことになる。誓願寺の縁起には此寺に清少納言の墓があるとも記し(扶桑記勝二)、又一説には誠心院の今の堂は佐々木京極氏の息女松丸殿の再興に係るともあれば(洛陽名所集一)、式部命日の十八日と云ふのも(京童一)、日向鹿野田の三月三日と共に、何人の日やら知れたもので無い。而して同一の墓所と傳ふる地は、此界隈でも亦右に擧げた二寺院のみでなかつた。例へば西の京雙丘寺の近傍にも、法妙寺の舊跡と稱して?の木立つ處あり、其木の傍に一の和泉式部塚があつた(山城名跡巡行志四)。下立賣通の協《かなへ》地藏堂の西方に當り、念佛堂の西、極樂橋の西の詰で(山州名跡志八)、里の名を池上と謂ふ。今一つは此國相樂郡木津渡から東南一町餘の處にも和泉式部の墓があつた。(132)大路の西で傍には堂あり、春日作と傳ふる石地藏を安置して居た(山城名跡巡行志四)。和泉式部此里より出たが故に里を泉の里と云ふとあるは本末?倒で、瓶原《みかのはら》わきて流るゝ泉川は、もつと大昔から此邊を流れて居たのである。
 さて此等の傳説を竝べて見ると、和泉式部は正しく女中の弘法行基であるが、其傳説の成立に於ては見遁すべからざる一の差別がある。即ち名僧の古譚を弘法に托するは難くないが、佛門の巡禮婦人を京都の貴女に持つて行くには別に何等かの動機が無くてはならぬ。其中でも日向の分だけは書寫の性空上人霧島山に住すと云ふこと既に峯相記に見え、而も九州南部には此上人の遺跡の多いこと他府縣の弘法大師同樣であるから、之に伴ふ優婆夷を其歸依者たる和泉式部としたとも言はれるが、それとても何れが元だか確め得ぬのである。況や其因縁も無い他の片田舍に卒然として往つて死んで居るのは何と説明するか。尤も塚又は石塔を以て埋葬の地と見るのは成ほど誤かも知れぬが、或は石を留め樹を遺し、時には又其地に生れたと迄傳へられるのは、仔細が無くてはすまぬ。其解説として自分の擧げ得るものは、一つには岐蘇古今沿革誌の説である。美濃可兒郡御嵩町附近の井尻と云ふ地に、木曾街道を横ぎつて細谷川流れ、一本橋が投げ渡してある邊に、和泉式部に附會する口碑があつて、僞作に相違ない歌が一首傳はつて居る。此處に石塔があつて昔樒の大木があつて枯れた。後人又其跡に同じ木を栽ゑ、此邊和泉庄の内なる故に和泉のシキミ塚と呼んだのを、後に誤つて和泉式部としたのだらうとの説があつた由。成ほど樒は中國の山村などでシキブと發音する所もある。又和泉女史に比しては遙かに所謂海老茶式部式に遠かつた紫式部の如きも、江州石山寺以外に各地に舊跡を遺して居る。例へば京都では一條京極にも紫野にも、尾張では名古屋の市中、關東では下野の國分寺にも、共に紫式部の墓がある。但し此説を通用させるには常に一本の樒の木を必要とし少々窮屈な事になる。加之婦人で高名の廻國者は此兩式部ばかりで無かつた。近世では八百比丘尼と若狹の登宇呂の姥、武家時代の始では大磯の虎と白拍子の靜、それより古くでは小野小町の如きも、殆と百に近い小町塚を殘し、赤染衛門の如きも稀には邊土に漂泊して死んで居る。其他にも無名の平家の尼君や將門頼政の娘、或は賤の男に負はれて遁げたと云ふ官女の類、段々とよく(133)似た例も多いから、一本の樒を以て之を處理することは愈六つかしい。第二には萩名所圖會では前に擧げた伊勢桑名郡の式部の泉の如く人の名の誤解だと解して居る。長州萩の城下で和泉式部の居住跡と云ふのは、疫神社の後の山陰に在る和泉寺と稱する一向宗の庵室で、本尊阿彌陀如來を安置して居る。里の名も古くは和泉寺村と云うたのは式部の故跡であるからだと云ふが、證據の無いことださうな。烏田氏の説では内藤和泉と云ふ人が住んで居たからの誤だと云ひ、又一説には陶和泉守の墓がある爲だらうと云ふが今は其墓見えず、澤式部と云ふ人の墓ならあるが此では無いかとある。此説の方だと隨分多い通稱であるから、ひどい在所の山中でも無い限は尤もらしく聞えるかも知れぬ。併し此例に於てもよく變る人の受領名を寺號にしたとは考へにくいから、何故に和泉寺と云ふ名が起つたかを研究して見る必要はある。最後に自分の假定説を發表すると、此種の傳説は丸々の空中樓閣では無かつたであらう。時代こそずつと後であらうが、或時上方から泉と云ふ姥又は尼が來て、祈?神祭を業として里人に強い印象を與へたことだけはあつたのであらう。和泉は勿論本名ではあるまいが、了貞や妙長は田舍人の記憶に適しない。殊に尊敬して居る人のこと故、呼んで泉の尼と云ふやうになつたのであらう。然らば何故に西でも東でも泉を其通稱としたのかと云ふと、それには各地共通の事情があつて、やがて又寺を和泉寺と號し里を池上と云うたのと關聯して居る。即ち此類の巫女は特に必要あつて常に清泉の畔に住み又は執務したのが元であつた。其事情を言ふ前に猶少し殘つた和泉式部の故跡を列擧する。京都にも天橋立の磯清水の如き例が幾つかある。其一つは紫野大コ寺中の眞珠庵に在る和泉式部の井、式部嘗て此地に住すとも云ひ(名所都鳥三)、或は此地少將保昌の別莊であつたと云ふ。庭上に一圍の老松二本あり、體樣畫の如し(山州名跡志七)。此井一名を聖泉と云ふ。紫野だけに一休和尚が名づけたと傳へて居るが、恐くはもと聖の井と稱へたのを誰か詩人僧が聖泉と漢譯したのであらう。二つには宇治郡醍醐村の小栗栖野にも御前社の邊に式部が井あり、古和泉式部此水を汲んで硯の水とし、和歌の書を寫したと云ふ(京羽二重織留四)。御前と云ふ名は本來上臈の敬稱で、後には遊女白拍子の名にも用ゐられ、更に轉じては瞽女の坊のゴゼと迄なつた。御前社は即ち巫(134)女優婆夷の傅く社を意味したのであらう。又下賀茂の社の北二町ばかりに在る小河の名を泉川と云ふ。昔和泉式部の居所であつた故に此名があると云ふ(山州名跡志五)。式部此邊に居たらしいと思はるゝは、新千載集に此人の詠とて、家の前を法師の女郎花を持ちて通りけるを、何處へ往くぞと問はせければ、比叡の山の念佛堂の立花になんまかる言ひければ結び附けゝる、名にし負はゞ五つの障有るものを羨しくも登る花かなとある由(同上)。新千載集は式部の世を去ることを遠からぬ時代の編輯であるが、而も此歌には著しく傳説の香がする。即ち一方に於ては熊野の伏拜で詠んだと云ふ月の障の歌と境涯がよく似て居る上に、他の一方には是も廻國の比丘尼なる登宇呂の姥、或は高野山麓に於ては弘法大師の母と云ひ、金峯山に在つては都藍尼の話として傳へて居る靈山の結界と優姿夷との葛藤を、十分に聯想せしめ得るからである。猶此間題は比丘尼石姥石の話として別に説かうと思つて居る。
 神社佛堂に近い泉又は泉川は、今は用ゐずとも恐くは皆所謂御手洗である。嘗て中山君も井神考(郷土研究三卷三三一頁以下)で説かれたが、祠堂の附近に在る清水は常に偶然では無いやうだ。水に乏しい武藏野などを歩くと殊に目に附く如く、里人の來り汲み流の末を田に引く程の泉は、悉く鎭守の岡の陰に在る。弘法大師の楊枝水の話が各地に分布するやうに、水を發見して之を住民に施すことは現世功コの最第一であつた。其思想は今も多くの社頭の御手洗に於て之を體現して居る。但し巫覡が神佛を水の畔に奉請した動機は、必ずしも右の如き形而下のコ澤を利用せんが爲のみで無かつたことは勿論である。今でも例祭の神事に清水又流の傍を御旅所とする社は至つて多い。濱下り又は神輿洗ひと云ふ行事も其變形に相違ない。此の如き場合に最も重要な任務に服したものは巫女又は尸童である。祇園の女神と信ぜらるゝ少將井の神輿が、以前の御旅町に少將井と稱する井あつて(之を小野宮の舊址と云ふのも意味がある)、其井の上に神輿を安置する例なりしより其名起り、實は王子にして奇稻田姫《くしいなだひめ》では無かつたこと、而も此井の地には少將井の尼と云ふのが代々居り、其或者は歌人であつたことなどは適當な一例である、又北野には和泉殿と云ふ社があつて、古くは壽永三年の神階授與が百錬抄にも見えて居る。之を菅公六世の後裔大學頭定義を祀ると云ふ説(135)は未だ本據を知らぬが、或は亦神孫即ちミコと云ふより出た語ではあるまいか。少將井の神輿渡御は昔熱病流行の時に始まつたと云ふ説もある。それは或は祇園八王子が行疫の神であつた爲かも知らぬが、今一つの水邊の祭の理由かと思はるゝは雨乞で、或は雨を施すことが里の神の唯一又は最大の事業であつた時代に始まつた風習とも言ひ得る。さて立戻つて諸國に泉の尼が多かつた理由を囘想するに、此輩或は特に水脈水質に通じ、笈に本尊を納めて村々を巡歴する際、よき泉を見付けては其傍に止住する習があつたのでは無いか。比丘尼ヶ池姥ヶ井の名は天下に多い。それよりも一層注意すべきは昔は酒造りが婦人であつたことである。神の寄女因童を靈の世界に導く爲に必要なる神酒は、靈泉の水を以て釀さねばならなかつたとすれば、泉の尼の泉に依つて得た信望は想像に餘がある。俚謠集にも往々採録せられて居る「酒はいづみ酒云々」の歌なども、或は又昔の一無名式部が歌占の句であつたのかも知れぬ。歌比丘尼の中世の生活にはまだ研究すべき點が多い。(六月十三日夜)
 
(136)   片目の魚
 
 諸國神社の御手洗の池などに住む魚が片目であると云ふ話は、既に本誌に報告せられたものだけでも、武州野島村の片目地藏の池(郷土研究一卷二二三頁)近江伊香郡の某川(同四四〇頁)阿州福村の蛇の枕(同五六九頁)、伊豫山越村の片目鮒(同三卷五六三頁)、等の數例あるのみならず、更に攝州昆陽池の片目鮒(攝陽群談十六)、泉州家原寺放生池の片目の魚(和泉名所圖會二)など、古來有名なものが此外にも多い。伊勢では河藝郡玉垣村大字失橋に御池と云ふ池があつて、此に住む魚鼈悉く一眼であると云ひ(明烏)、甲州では甲府の北方なる古城の濠の泥鰌が、山本勘助に似て皆片目であると傳ふ(甲斐の口碑と傳説)。上州北甘樂郡冨岡町大字曾木の高垣明神社の左に在る靈泉は、一町ほど流れて川に注いで居るが、其間に住む鰻だけは何れも片目であつて、而も川に入つては凡て只の物に異なる所が無かつた。此村では氏子の者が戒めて鰻を食はなかつたと言ふが(山吹日記)、今も其通りであるか否かを知らぬ。備後では世羅郡吉川村大字吉原と同神田村大字藏宗との境に、隻眼の魚の住むと云ふ魚ヶ池と云ふ淵あり、大きな石の水に臨むものあつて此地を又魚ヶ石とも名づけた。旱魃の年に里人が雨を祈る靈場であつた(藝藩通志百八)。片目の鰻は又美作勝田郡吉野村大字美野の白壁(ノ)池にも住んで居た(東作誌)。其地に言傳へた不思議の由來は、後に一括して之を説くを便と考へる。此郡では又勝間田町大字黒土の北の入、鹽瀧の山奧にも魔所と稱して里人の行かぬ地あり、或人曾て強ひて至りしに片目の鴨ばかりが多く居たと云ふ話もある(同上)。併し一般には鳥や獣の例は至つて少なく、川魚殊に鮒の片目が最も多く語り傳へられる。蓋し此種の不思議談も他の色々の傳説と同じやうに、各自我邑ばかりの奇事珍(137)聞と考へて居た間は何とでも説明が出來た。それが此樣にそこにも爰にも暗合して存する段になると、乃ち何か共通なる原因が無ければならぬと云ふことに立至るのである。
 自分は爰に一箇の假定説を提出するに當つて、先づ土地の人たちの此不思議に對する態度如何と云ふことを比較して見たのである。最後に引いた作州の片目の鴨の如きは、既に單純なる怪異談の部類に入つて居るが、それにしても世の常の獵夫に手を着けさせぬと云ふ點に於て、他の多くの場合に片目の魚を神物と考へて居た思想と一致して居る。そこで最も重要な一の問題は、五體不具を忌むを習とした我邦の神が、何故かゝる畸形の動物を珍重せられたかと云ふことである。越後に於ては自分は魚一眼の例を四つ迄聞いて居る。長岡市神田町民家の北裏に三盃池と云ふあり、此水に住める魚鼈は何れも片目であつて、毒ありと傳へて之を食ふ者が無かつた(温故之栞十六)。此池の名の三盃は即ち前にも幾度か本誌に見えたサンバイ樣で(郷土研究三卷七六二頁等)、多くの地方で田神を意味するものゝことであらう。能登にも山中で飯を三杯拾つてそれより三杯氏と名乘ると云ふ舊家などがあつて、北陸に此神の信仰があつた旁證もある。毒があるから食はぬとは社の退轉した後の説であらう。古志郡上組村大字宮内の都野神社は、俗に一王神社とも云ふ神である。社殿の東方三國街道を少し隔てゝ田の中に十坪ほどの沼があつた。明治十七八年の頃に田に開かれて跡形が無くなつた。此池の魚鼈も皆片眼と云ふことであつたが、此地は春秋の祭に生牲を供へた御加持ヶ池の跡であつたと云ふ(温故之栞六)。北魚沼郡堀之内村大字堀之内に土人が名づけて「出入變りの山」と謂うた山があつた。此山に入る者目じるしの栞をして入つてもどうしても同じ口から出ることは能ぬと云ふ廣大の森山で、即ち前に言ふ魔所の類である、此山の麓に古奈和澤の池と云ふ底知れずの池がある。下流は驛内兩側を流れて便利を供し、火災の折などは伏木の栓を拔くと大水流れ來つて消防を助けるやうになつて居た。此池に住む魚鼈もやはり亦片目であつた。捕へて之を殺すときは必ず怪異ありと稱し、家に持歸つて水器に放ち置けば其夜の中に池へ戻るとも言うた(同上十三)。而して古來殺生禁斷の所であつたと云ふから、事實の審査果してどの位まで行屆いて居たかわからぬ。(138)頸城郡青柳村(中頸城郡櫛池村大字?)の星月宮、俗に萬年堂と稱し或は延喜式の青海神社に宛てゝ居る社の池にも、同種の魚が居たと云ふ話がある。安塚の城主杢太と云ふ眇目の武士の靈と云ひ、したゝか〔四字傍点〕なる由來談あるにも拘らず、此は折々捕つて見た人があつたと見えて、今も池中の群魚「片目に曇りあり」とまで讓歩して居るのは殊勝である(越後國式内神社案内)。實際「皆片目だ」などゝ云ふことは、普通の大膽では斷言しにくかるべき話である。猶此第四の例に付ては後に今一度講究する必要がある。
 殺生禁斷の制度と生牲の風習とは、一見兩極端のやうであつて實は所謂佛魔一紙の近い關係である。神の御贄であるが爲に常人が憚つて侵さぬのを、社僧の輩は忽ち慈悲の教に引付けて説かうとしたことは、八幡八月十五日の放生會の例などで想像せられる。一休禅師の逸話として傳へられて居る僧が魚味を口にした物語は、「業盡る有情は放すと雖も生きず云々」の諏訪神託の筋を引いて居る(郷土研究一卷九一頁參照)。それでは濟まぬと考へたものか、其魚生きて泳いだと云ふ話も亦古くから多く行はれて居て、即ち片目の魚の方面にも足を掛けて居る。長山横田の二君が報ぜられた伊豫松山の七不思議の一は即ち是で、弘法大師山越の貧者が供養した燒鮒の片身を受けて、之を井手に放したに由つて今も此水に住む鮒皆片目だと傳へて居る(同三卷五六三頁)。此話の中で特に讀者の注意を乞ひたいのは、片身の魚が只片目となつた點である。既に片身を失つた鮒が、眼の外は凡て原形に復したのでは、彼は因此は果と斷定することすら如何かと思はれるが、兎に角に半片の魚が泳ぐと言つてはあまり不思議が度を越して、俗人を信ぜしめんとの目的に合せぬのであらうか、乃至は又片身と片目と何れかに誤傳があつてか、同種の口碑はやはり他の地方にも存して居る。例へば前に引いた泉州家原寺の放生池の片目の魚に就ては、昔行基菩薩歸郷の砌、里の若者等魚を捕へて此池の邊に酒宴を開いて居り、戯に魚の鱠を此高僧に薦めた。行基之を喫して後池に臨んで吐出したまへば、鱠忽ち小魚となつて水上に遊ぶ。片目の魚今に在り云々。攝津の昆陽池に於てもやはり行基菩薩で、此僧病者の乞を容れて長洲濱に出でゝ魚を求め來つて食はしめ、割き殘つた魚を此池に放てば化して目一つの金魚となると羅山文集(139)等にも出て居ると云ふ。而も今日に在つては此池の魚は只片目で、昆陽の御池の片目鮒と稱し名物であつたが土人此池の魚を食ふ者は必ず癩病となると信じ、網せず又釣をも垂れざりしと言へば何にもならぬ。
 今日の常識論から言ふと、實際合點の行かぬ事ばかりである。第一精進ならば全くの精進であるべきに、文字通りの生殺しは不徹底と言はねばならぬ。然るに是も越後の方面に於て、更に親鸞上人燒鮒の御舊跡と云ふものがある。魚を食ふ法師だけに話が一段と面白い。當國中蒲原郡曾野木村大字合子ヶ作は、昔親鸞が通行の時、里人其コを慕うて家々より手製の酒を持參し、村の山王神社の境内に於て之を合せて勸めた所から、地名を「合子が酒」と稱へたのが轉じたのである。此所に酒の肴とした燒鮒を、上人少し食して其餘りを社頭の池に投げられた。其故に今でも山王社の古池にすむ鮒は殘らず腹に燒け焦げた痕がある。池の傍には又上人の衣掛榎と云ふ榎がある。此木の枝を伐つて見ると、木目には必ず鮒の形があると云ふ(温故之栞二十三)。此人などこそ食ひ殘りの魚味を社の泉水などに棄てずともよい人である。假に或時其やうな氣紛れの擧動があつたにしても、魚の腹のみか榎の木目にまで大袈裟な奇瑞を遺すには及ばぬ人である。思ふに此類の昔話が到る處怪僧法力の證跡として傳へられて居るのは、取りも直さず生魚を調進して神供とした在來の風習が、佛教の干渉に由つて次第に廢絶に歸したことを意味するものであらう。自然の大林泉に悠遊して居る魚鳥を捕へて來て、今更放生會などゝは聞えぬ所業である。つい近頃も大阪天王寺の池の石龜が、營養不良で盛に死ぬと云ふ話が彼地の新聞に見えて居た。不殺生戒の拘束を受けざりし古代の國人が、社頭の御手洗などに魚を放つて置いたのは、目的が今少しく實際的で、海川に遠い田舍に今も行はるゝ一種の魚貯藏法と同じく、又古くは泳《くゝり》の宮に池の鯉を御覽なされた故事の如く、やがては御饌《おもの》に備はるべき贄の豐富を以て神意を怡ばせ奉らんとした企か、乃至は夙くより神物を點定して常人の使用を制する迄の用意であつたかと考へる。若し然りとすれば其魚どもの片目は、食つては癩病になると云ふ俗信と共に、相應の仔細がある。江州阪田郡入江村大字磯の磯崎大明神に於ては、昔は四月八日の例祭の前一日、網を湖中に下して二尾の鮒魚を獲、一を神饌に供へ他の一は片鱗を取(140)つて湖中に放ち置くに、翌年の四月七日に網に掛かるものは必然として此魚であつたと傳へて居る(近江國輿地志略七十七)。片身の鱗を剥かれた魚が丸一年生息し得ることは、燒鮒が子孫に特質を遺傳する程は困難でなかつたかも知れぬが、兎に角有り得べからざることは同じである。然るに同國東淺井郡上草野村  大字高山の安明淵でも、昔頼朝が此淵に於て鯉を捕り、其片身の鱗を拭いて放した故に、今に草野川に一方に鱗の無い鯉が居るとさへ言うて居る(同上八十六)。此淵の上の岩には何か文字を彫刻してあるが、苔既に滑かにして今は不明であると云ふ。蓋し此類の口碑が幸にして虚誕の暗合で無く、何か共通の理由に出でたものとするならば、是は一旦採取して神の牲と定めた魚を、或期間其池の水中に放養する習慣のあつたことを語るものであらう。而して常人の神物を侵すを戒めるが爲には、實際又何かの特徴を其魚に附して置いたことも無いとは言はれぬ(郷土研究三卷六六六頁參照)。但し其方法は出來るだけ魚の生存に妨の無いもので無ければならぬから、片身片鱗と云ふやうな言傳へは片目と云ふ話ほど信用しにくいので、而も類例の數で言へば後者の方がずつと多く存するのである。
 何故に神境の魚が片目になつたかに就ては、猶他に別樣の説がある。日向兒湯郡下穗北村  大字妻の縣社都萬神社に於ては、大昔木花開耶姫命が此宮の御池花玉川の岸に遊びたまふ時、命の玉の紐水中に落ちて鮒の目を貫いた。それよりして今に片目の魚が生ずる。此地に於て玉紐落の三字を布那と訓むのは其因縁で、又片目の魚を以て神の眷族と稱へて居る(明治神社誌料)。加賀河北郡高松村大字横山龜山の縣社賀茂神社でも、今尚魚が片目であるか否かは明かで無いが、大同二年社殿を今の地に遷した事情として稍似たる話を傳へて居る。此御神或時鮒に身を現じて御手洗川に遊びたまふ時、遽かに大風起つて汀の桃が水に落ち其鮒の目に中ると、須臾にして四面暗黒となり人皆之を怪んだ。其夜靈夢の御告あつて終に横山に遷座することになつた云々(同上)。此等の口碑はあまりに神怪でまだ何とでも解説する餘地があるが、自分の假定の下に於て之を判ずれば、降神の祭典に片目の魚の牲が極めて缺くべからざるものであつたこと、更に一歩を進めて推測すれば、祭の生牲が延喜式等に現はれて居るよりは猶一層神に密接した關係(141)を有して居たことを意味し、或は次に言はんとする大昔の殺伐な風習を暗示するものでは無かつたかとも言はれるのである。
 佐渡には片目の蛇と云ふ話があるさうである。順コ院曾て金北山へ御幸ありし時、山路で蛇を御覽なされ、此處では蛇にも眼が二つあると仰せられた處、其以後此地の蛇悉く片目となり、地名も御蛇河内と謂ふ由(郷土研究二卷三六八頁)。此話を以て蛇を生牲とした痕跡とすることは勿論出來ぬが、生牲の風習と蛇との關係は他の地方の昔話からも窺ひ得る。例へば阿波福村の大池に於ては、水中に高さ一丈の蛇の枕と云ふ大岩あり、昔此池の大蛇が月輸兵部なる者に左の眼を射られ、苦み悶えて岩の上に死んでから、今に至る迄池の魚は悉く一眼であると云ふが如き(同一卷五六九頁)、蛇神を祀つたらしい一箇の言傳へである。蛇は固より水中の動物では無いが、我邦では夙くより龍又は蛟《みづち》の思想を混淆して、水の神|潭《ふち》の神として怖れ且つ敬はれて居た。所謂異類求婚の傳説は大多數は相手が蛇である。江州伊香地方で傳ふる井口弾正の娘は、川に投じて蛇體となり里人旱魃の患を濟うたが、其娘も一方の目が盲であつた因縁で、今に此川の鯉の中で一尾だけは必ず片目であると云ふ(同一卷四四〇頁)。此話と思ひ合さるゝのは前にちよつと述べた越後青柳村の星月の宮の由來である。昔青柳の池の主が美女と化して月次の市に買物に出たのを、安塚の城主杢太と云ふ人之を見染め、戀慕のあまりに遂に己も池へ入つて了つた。杢太片目なりしが故に此池の群魚今も猶片目である(越後國式内神社案内)。作州白壁(ノ)池の片目の鰻も、其由來を尋ぬれば半分は之に似て居る。或時片目の男あつて馬に茶臼を附け此池へ墮ちて死んだ。其因縁で池の鰻も目が一つなる上に、雨降る日などには茶臼の音が聞えたと云ふ(東作誌)。此等の話を綜合して見ると、蛇體として想像せられて居た我邦の淵の神は、片目の男女を特に好いて居たか若くは特に嫌つて居たかの二者何れかであつた。命を奪ふのが主だつたとすれば特に憎んだ方であらうが、食べる爲或は配偶者とする爲に引込んだと見れば、特に愛して居られたことになる。何れにしてもぱつちりした眼を持つ人々よりは遙かに關係の深かつたことは明かで、從つてその片目の人間と片目の魚との間に、果して口碑に説く(142)が如き因縁があつたのならば、私の想像する牲の魚の目を潰して置く風習も、氏子一存の工夫才覺に基いたものでは無かつたと云ふことになるのである。
 之に就て思ひ合せらるゝことが自分には猶二つある。其一つは各地の昔話に遺つて居る琵琶法師が大蛇に遇うた一件である。其荒筋は大抵同じで、昔一人の座頭が琵琶を背にして山路に行暮れ、野宿の淋しさを慰めんと獨り琵琶を彈じて居ると、傍に一人の者來り感歎して更に數曲を所望し、別れに臨んで言ふには、明日麓の里へ下るとも構へて永逗留をするなかれ、我實は此山に住む大蛇にして近き内に洞を拔け里一圓を大沼にするつもりである。其方には芳志あれば密々に告げ知らせるが、之を他人に語ると命を取るぞとて立去る。琵琶法師道々思案して、自分一人の餘命を惜みても詮無し、之を里人に知らせて功コをせんと決心し、村に往いて之を語ると一同の者大に驚き怖れ、談合の末に無數の大鐵釘を鑄させて之を滿山に打込み其大蛇を殺し難を免れたが、座頭は其祟に由つて忽ち苦み死す。里人謝恩の爲に祠を建てゝ永く其盲人を祀つたと云ふのである。此話は鈴木正三の驢鞍橋などには盲僧山神に遇ふ話として傳へられて居る。山神とは狼のことである。但し後段の邑を沼にする企の一條は勿論無い(郷土研究二卷三五一頁)。而も是は唯一の例外であつて、他は何れも蛇神と交通した話になつて居る。例へば越後野志九に岩船郡下關驛大倉權現の由來として傳ふる大利嶺の蛇の話は、或は行脚隨筆上に羽州米澤より越後村上へ越える蛇骨峠一名座頭峠の三味線堂の縁起として述べて居るものと同じかも知れぬが、此外にも温故之栞二十には越後小千谷附近のナス崎地藏の由來として之を説き、黒甜瑣語二編五には出羽大石田越なる時森明神の祭神の功績として一樣の物語を録して居る。此等の物語はあまりに趣向が立ち過ぎて居る。或は近世座頭仲間に由つて傳播せられた繼合せ物かも知れぬ。即ち山村に於て洞拔けを防ぐ術として山に?《くひせ》を打込む話と(伊那志略附録引、近聞寓筆)、琵琶の名手が技藝を以て神を怡ばしめたとか又は名器を授かつたとか云ふ話とを一つに纏めたものとも思はれる。併し是と同時に盲僧が水の神を祭るの因縁を單に妙音天の威コを慕ふ爲ばかりと解するのも或は亦誤であらう。何となれば大蛇と盲目との交渉は必しも音樂(143)音楽の一面に限られては居なかつたからである。鹽尻十二に肥前川上郷の盲者老幼と無く皆脇差を帶して居る理由として、昔鎭西八郎爲朝川上明神の森に於て惡蛇を射殺し、其蛇の屍落ちて川底に沈みしを、盲者あつて一刀を帶びて水に入り繩を附けて之を引上げた事を記して居る。肥前には右の大蛇退治の傳説が色々の形で分布してあつたことは松浦記集成などを見てもよく分る。大宰管内志には又肥陽古迹志下を引いて梅野座頭短刀を差す由緒を擧げて居る。前の鹽尻の記事とよく似て居るが、是は杵島郡住吉村大字宮野に在る黒髪山大權現本地藥師三尊の事に係ると云ふ。昔大蛇あつて天堂岩を卷き時々人家を害し既に神殿をも破らんとしたのを、爲朝武雄庄に在つて之を聞き、天堂岩に至つて此蛇を射れば、大蛇忽ち谷に墜ちて叫ぶ音雷の如し云々。此山下なる宮野に梅野座頭と云ふ旨目あり、爲朝の短刀を乞得て之を帶び、谷底に下つて彼蛇を刺殺した云々とあつて、死んだ蛇を引上げたとは無いのである(明治神社誌料に依る)。其は何れでもよしとして、座頭にして帶刀をした者が神社によく伴ふ大蛇退治の昔語との因縁を主張したのは、羽越境上の山村に分布する怪しい祠の信仰と、似通ふ點が無いとは言はれず、事によると古い時代に水の神の靈を和むる祭に目の見えぬ者の干與することを必要とした痕跡では無からうかと思ふ。是は社會を異にした朝鮮の事ではあるが、東國輿地勝覽三十一に左の如き記事もある、曰く慶尚右道河東縣理盲?〔三字右○〕、縣の東二十里に在り、俗に傳ふ東京裨補山の頂に古へ龍池あり、此を以て〔四字右○〕東京人に盲多し。人極めて病とし、火鐵石を以て池に沈む。龍は昆陽辰梯下の深淵に徙る。此後人盲せずと。即ち水中に龍の住む近邊には其爲に盲人が多いと云ふので、若干の參考になるべき一異聞である。
 第二に心付くのは水の神が鐡を忌むと云ふ俗信である。是は日本でも今尚流布する思想で、其故に羽後の田澤湖では丸木舟を用ゐ、越後芳ヶ平の馬追ヶ池では釘を使はぬ爲に祠堂が永く保たぬ。蛇神の退治に鐡の杭を打込み又は短刀を携へで往つたと云ふ話は右に出したが、或は又蹈鞴《たゝら》を以て鐡を溶して淵に注いだと云ふ傳説なども多く、而して其が金屋即ち鍛冶の徒と因縁して居るらしいことは曾て述べたことがある(郷土研究二卷六六八頁)。即ち此職業の者の(144)?水邊を求めて住んだのは、獨り作業に要する水を得る便宜からのみで無く、他に何か信仰上の理由があつたらしきことを注意したのである。而して鍛冶は神代に高皇産靈尊が天目一箇神を以て作金者と定められしより以來、久しく片目と關係があつたのである。自分の兄井上(通泰)博士は眼科醫だけに夙く此問題に注意し、一眼盲する者を俗語でカンチ又はメッカチなどゝ呼ぶのは、即ち鍛冶のカヂから出た語で、もと此工人が燒刃の曲直を檢するに一眼を閉ぢて見ることから起つたと説いて居る。併し時あつて片目をつぶると云ふだけで目一箇と云ふ名まで負うたと云ふは些し疑がある。それだけの行爲ならば矢を矧ぐにも墨繩を引くにもすることである。又鍛冶のする業も片目を閉ぢる必要のあるものばかりでは無い。そこで自分の考へるには、今は既に不明に歸した或理由から、特に片目の人間を選んで金屋の業に就かせた時代があつたのではあるまいか。猶一歩を進めて言へば、片目の人には何か特殊の力があると信ぜられたことが、之を鍛冶にもすれば又水の神の仕人ともしたのではあるまいか。但し之を斷定する迄には勿論まだ多くの新材料を集めねばならぬ。伊勢の多度神社の別宮には有名なる一目連神社があつて、諸國にも勸請せられて居る。此社の舊記などを十分に攻究して見たら、何か判明する所が有るかも知れぬ。
 以上の想像が必ずしも大なる空想で無いことを證する爲に、更に進んで一言せねばならぬのは、神樣の片目と云ふ不思議な言傳へである。武州野島村の片目地藏が、茶畑に入つて眼を損じ、之を洗はんとて門外の池水を掬《むす》びたまひしより、今に至つて池の魚皆片目なりと云ふ話は、川村生の引用する所であつたが(郷土研究一卷二二三頁)、此以外にも例の作物禁忌の理由として、神樣が目を傷けられた話は中々多いやうである。其一つは東上總の小高村で、村の鎭守樣が大根に躓いて轉び茶の木で目を突いたので今に氏子の家々で大根を作らぬと云ふ話(同三卷六九二頁)、次には信州小縣郡當郷村其他近隣の五六箇村で、昔神樣が胡瓜の蔓に引繋つて轉び胡麻で御目を突かれたまふとて、其以後胡麻を作らぬと云ふ話(同四卷四七頁)、一は足に繋つた大根のみを忌み、他は目を突いた胡麻だけを嫌ふと云ふ差異はあるが、最もよく相似たる口碑である。更に近江の栗太郡笠縫村の天神宮に至つては、其昔神の御眼を傷けたと云(145)ふ作物は麻であつて、村に決して麻を植ゑず又植ゑても生育せずと信じ、猶御神體は眼より涙を出したまふとの説があつた(郷土研究四卷三一九頁)。同じ例はまだ追々と出て來ることゝ息ふが、山城伏見の三栖神社の如きも其一つで、昔大水で御香宮の神輿が流れた時、三栖神之を拾はんとして葦で目を突き片目となりたまひし故に、今でも十月十二日夜の此社の御出祭と云ふには、葦を以て大小二本の大松明を作り、御出の路を明るくする習であると云ふ(日本奇風俗)。自分は未だ御香宮と三栖神社との古來の關係を知らぬが、尾州津島の天王の御葦神事とのこと(郷土研究二卷二〇二頁參照)などを考へて見ると、神輿を流したと云ふのも或一度だけの天災事變では無く、年々繰返さるゝ祭の式であつて、此際從神の片目になることも亦其祭の一要素では無かつたらうかと思ふ。胡麻を栽ゑぬと云ふ信州の當郷村では、眼を傷かれたのは鎭守の神に非ずして相殿の神であつたと云ふ。日向の都萬《つまの》神社でも主神の玉の紐に由つて片目になつたと云ふ鮒を御眷屬と呼んで居る。川村生などの説明は誠に無造作なもので、或年の祭に神の依坐《よりまし》が實際さう云ふ怪我をしたのを幽かに記憶して居るのであらうとのことであるが(同三卷六九二頁)、其偶合が二箇所や三箇所で無い以上は其推測は無理であるのみならず、おまけに其神の主神か從神かと云ふ點に注意を怠つて居る。蓋し生牲と云ふ物の信仰上の地位が段々に低下して、普通の供物と擇ぶ所が無くなつた今日では、如何にも呑込みにくい事情には相違ないが、死靈の力を過當に尊信した蒙昧の時代又は地方には、神の爲に選定した生牲の魂魄は之を祀つて又一箇の神とするのは恐くは常の事で、是が爲に魚よりも遙かに高等なる生物を用ゐたことも無いとは言はれぬ。世開けて鯉鮒ばかりが片目の役を勤めるやうになつて後も、この古い因習から人間にして目一つなる者がやはり重ぜられ、又?攝末の祠に片目の神を祀つたことであらう。さう考へて見ぬ限は、御靈の祭神を鎌倉權五郎景政とし、景政を片目の人とする中古以來の傳説などは、所謂八所の御靈の思想のみでは解釋が付かぬのである。羽後仙北郡金澤などでは流に住む眇魚を權五郎景政が魂を殘したものと云うた由(黒甜瑣語三編五)。景政に取つては迷惑なる寃罪ではあるが、魚ばかりが突如として片目になつたのでは無い證據、又生物學上如何にも有得べからざる不思議談が弘く國々(146)に行渡つて居る理由は是だらうと思ふ。かの山鬼と云ふ怪物が一足にして且つ一眼なりと云ふ説(郷土研究四卷四七七頁)の如きも、或は此方面から考察して見るべきものかも知れぬ。何となればサンキは有名なる多くの堂宮に於て、或は生身の護法童子とも見られ、又或は所謂鬼捕の式に出て追ひやらはるべき惡靈の代表者とも見られて居たからである。
 此説を完成する迄に猶自分が必要と認める調査は、人にしても魚にしても缺き又は傷いたのは左右何れの方の眼であつたかと云ふこと、及び通例其傷害の原因として居る物の種類如何と云ふことであるが、殘念ながら是まであまり此二點に注意して居なかつた。近頃下野安蘇郡の舊事を書いた安蘇史と云ふ書を見ると、同郡三好村大字戸室宮前の條に、鞍掛山の鞍掛大明神は足利中宮亮有綱の靈を祭つて居る。有綱遺恨あつて足利矢田判官と赤見山に戰ひしに、山鳥の羽を矧いだる流失飛來つて左の目に中るを、戸室郷まで遁れ來つて落忍び、本郷山崎と云ふ地に於て其目を洗ひ、それより二三町西方に退いて自害した。其日は文治二年の六月朔日であつたとある。此話の中で注意すべきは「山鳥の羽」と「六月朔日」である。後者は各地で山神の祭に用ゐらるゝ最も意味の多い日であり、前者は又兇神退治の神事に?用ゐらるゝ特別の箭である。現に同地方の入彦間郷でも、足利忠綱が山鳥の羽の矢で射られたと稱して此鳥を食ふを忌んで居る。猶同じ書には今一件の神片目傳説がある。同郡旗川村大字小中には人丸大明神と云ふ社があつて、次の如き奇怪な口碑を傳へて居る。昔柿本人丸と云ふ人手負になつて此地に來り、小中の黍畑に遁げ込んで敵を遣り過し危難を免れたが、其時黍殻の尖りで片眼を潰し暫く此地に留つて居たことがある。其縁を以て土人其靈を社に祀り柿本人丸大明神と稱し、以來此村では黍を作るのを禁じて居る云々。右の如く各種の作物が略同じやうな理由の下に禁忌せられてあることは、實に面白く且つ六つかしい一問題である。村に由つて忌み事の種類も千差萬別であるが、大體に於ては神の祭に使用する物なれば常の用には供せぬと云ふのが元と見て宜しいと思ふ。神馬に牽くが故に葦毛駒を立てず、祭の荒薦に織るが故に菅を只の田には栽ゑぬと云ふ類である。唯普通田畠の作物が一般に(147)禁止せられ、而も其理由を神の目を突いたに歸する如きは解しにくいことである。自分の心當りとして居る一事例は、京都嵯峨の川邊神明の五月五日の祭に、兒童等神輿を舁いて地下人福田某の宅に至り粽を乞ひ、其より家々を廻つてねだりあるき、若し粽を與へざる者あれば其家種うる所の麻田の中に神輿を舁き込み麻を蹈み倒すと云ふ習慣である。俗傳に此神は女體にして麻を愛したまふ故に、其御輿を麻田へ遊行させ申すので、此時輕忽に舁きあるいて神輿が破損すれば福ありとし、何事も無ければ其家却つて凶事があるとしたと云ふ(日次記事)。是は家々の田に麻を種ゑてある場合で、勿論禁忌の例には該當せぬが、古くは之と同樣祭禮の季節に收穫する特定の作物の畠に出て式を行ふ風があつたのが、其式を改むると共に其作物の栽培をも罷めたのを意味するものでは無からうか。何れにしても農作の豐凶を擧げて神意に托して居た時代の遺風たることだけは疑が無い。最後に片目の神を柿本人丸としたことも研究すべき餘地が多い。ヒトマルを「火止まる」と解して防火の神とし、「人生まる」と讀んで安産の守護者とするなどの話はよく聞くことで、歌の聖に似合はぬ信仰の今も各地に存するものが多いが、單に名稱の上からのみ其誤解を斷ずるは早計である。尾芝君は之を樹下童子の一變形と見られて居るらしいが(郷土研究三卷五一四頁)、柿を靈木と見る風は古いにしても、果して柿の本と云ふ名にそれ程強い意味があつたか否かは疑はしい。只自分の知らんとするのは、惡七兵衛景清の子を人丸と名づけた物語の根原である。片目の傳説存する人丸の父として、自ら眼を抉つたと云ふ景清を持つて來た話が古いならば、富田八幡の遠矢の卜(同二卷六二八頁)、さては生目八幡の眼洗川の由來なども(同四七二頁)自分の案の旁證になる。何となれば八幡は御靈統御を以て中世に勢力を得た神で、鎌倉權五郎の主筋であることは、前囘に述べて置いた通りであるから、斯くの如くにして次第に御手洗池の片目鮒を蕃殖せしめさうなことである。
 
(148)   桃太郎根原記
 
          一
 
 桃太郎の話は我々の子供すらもその管理を辭退せんとするほどの、他愛のない昔話であるけれども、尚日本現代だけの問題ではなかつたと云ふことのみならず、また實はやはり世界の始まりからの出來事として取扱はねばならないといふことが分つたのである。併し、それが折惡しく、私等が命が二つあつても足らぬと歎息してゐる際なのである。殘りの半分は是非とも誰かに引きついでおきたいと思ふ。私のこのお話は單にその本願から發足してゐるのである。
 我々の昔話の内でも、殊に外國に於ける研究者を感心させるものは、英伊などで云ふシンドレラ物語、灰かつぎ姫の物語である。これが我が國に入つて短くとも一千年になるが、その間あまり變化を受けてゐない。而も諸國に分布して今なほ生きてゐる。英國の傳説學者ミス・コックスの書はこの方面の重要な文獻となつてゐるが、彼女は日本の事は知つてゐない。もし彼女が日本の事を知つてゐたならば、彼女の記念碑的著述も若干の面目を改めてゐたであらう。
 故厨川白村君はシンドレラの話と我國の種々な昔話との間の關係を柳田あたりが何故に研究せぬかと云はれたことがあつたが、私は手が廻りきれなかつたのである。あの頃は勿論、現今、蒐集してあるところでもまだ豐富とは云はれない。文學上では、即ち記録文藝の上では紅皿缺皿の名を以て知られてゐる、馬琴の「皿々郷談《べい/\がうだん》」などもこれに(149)依つたものである。と云ふよりも多くの繼母譚の種はこれであつたのだ。お伽草子の内にある鉢かつぎ姫の物語も、或はその傍系と云ひ得る。
 世界を通じて二百八十種の灰かつぎ姫物語がある。片足の靴を拾つてその主を捜して王妃にすると云ふ話の外に、フランスではこれが豚の皮になつてゐる、英國では驢馬の皮かつぎになつてゐる。繼母の迫害甚だしいために或る守護神が驢馬の皮を被せて呉れることになつてゐる。これを紅皿缺皿の話や、粟袋《あはんぶく》(姉)米袋《こめんぶく》(妹)の話に比較すると、興味が深い。あはんぶく、こめんぶくの二人が逃げて行く時姥皮を貰ふ。これを着てゐると畫間は汚い婆さんになつてゐるが、夜は美しい娘になつてゐる。それを長者の子が見染めて幸福な結末になる。繼娘と本娘との間の關係が變ると姥皮も變つて來る。これにもまた變種がある。繼子いぢめの話は本娘が姉の繼娘をかばふ話になつてゐるのが、お銀小銀の話である。東北の方では、お月お星の物語と云ふ名で語られてゐる。繼娘のあはんぶくが實母の事を思ひつゝ、かまどの前で、火を焚いてゐるが、日本へ來てもまた皮をぬがないところが意味深いのである。
 ミス・コックスがこの繼娘と本娘の話に於いて大事にしてゐる點が三つある。第一は繼母の亡靈が出て來ること。第二は繼母の生れ代りに或る動物が出て來ること。第三は守護神のあることである。これで分類すると話の系統がよく分る。日本ではこの三つが三つとも揃つてゐる。支那では動物が魚になつてゐる。も一つ面白いのは挿話のある點である。日本の繼娘の話に於いては、饅頭の皮を姫の形してゐる姉に妹が投げつける話である。この繼娘本娘の話は日本へ來てあまり變化を被つてゐない話の一例である。
 
          二
 
 今一つ西洋で持てはやされてゐる話は死人感謝譚である。これも日本に傳はつてゐる。道ばたで骸骨に會ふ。それに酒を注《か》けてやつたり飯を喰はせてやつたりする。それが恩を返して、主人公が大いに出世すると云ふ話である。例(150)へば髑髏を見せものにして大いに金を儲けたりする。かう云ふ話は民間説話が神話時代を去つて單なる口の上での藝術となつて、我々民族の内に入つて來た證據である。つまり生魚のまゝでなく、我々の口に直ぐに合ふやうに料理した魚として食膳に供されたものと思はれるが、あまり斷言は致し兼ねる。
 これと反對に、Beast and Beauty の話、又は La belle et la bête の話、即ち異類婚姻譚の方は、日本に來てから大きな變化を被つてゐる。實に一大發達を遂げたのであるが、併し一足々々にその發達の跡が窺へる。十數の段階が地を隣して相交つてゐる。人間と婚姻する相手が惡蛇から神に至るまで、卑しい蛇の婿から尊敬すべき蛇の婿に至るまで、さま/”\な段階があつて、それ等がみな日本には具はつてゐる。
 今日の西洋の神話學は主として民間説話中の比較的神話的な部分を取扱つてゐるに過ぎないのである。本來、西洋の材料に於いてはこの明白な區別を立て難いからでもあるが、神話とは本來、神聖な宗教的なもので、寢る時の退屈しのぎに語り聞かせる藝當とは同一の筈がないのである。然るに元來、ヤソ教國人は時代の區分けをし過ぎるのである。石器時代、青銅時代、何々時代などゝ區別し過ぎ、青銅時代にも、石器を用ゐたであらうやうに、民間説話時代に神話も生きてゐるのであるが、民間説話時代に神話の存することを信じない。況んやその反對をやである。
 現在に於いて、我々の間には、神話と傳説と民間説話とが相交錯してゐるのである。併し日本ではこれ等三つが分れたその足どりだけは明白に見られるのである。それには異類婚姻譚中でも蛇婿入りの話が、よくこれを示してゐるのである。
 或る種の話は根は一つであつて花まで一つなのがあるかと思ふと、花は全然違つてゐるのがある。この差は如何にして生じたか。桃太郎の話なども、日本に種が這入つて來て以來、永い年數を經たと見えて、何代となく替り、元の木ではなくなつてゐる。神話時代の桃太郎の原型はなくなつてゐる。蛇婿入りの話は元の形に近いものを捉へ得るが、桃太郎の話はこれが困難になつてゐる。その代り近世に入つて後の變化があまり顯著であるため、それを辿つて大凡(151)神話から民間説話に入つた經路が類推せられるのである。
 一髄、説話をその發達と云ふ面から見ると大凡三つの種類に分つことが出來る。一は至つて徐々たる發達をしたもので、つまり元の根を存してゐるものである。二は神話の跡は消えて説話だけが殘つてゐるものである。古株は枯れて種子から生え變つたのが殘つてゐるものである。第三は枯れかゝつた古株の側に新しい種子の發芽してゐるものである。これ等の譬喩は必ずしも妥當ではないが、もしこれで理解せられるとすれば、桃太郎の話の如きは第二の種類に當るのである。蛇婿入りの話の如きは第三の種類に屬するものである。第一の種類のものは、今は殆とそのあとを絶つてゐると云つてよい。
 
          三
 
 この第二、第三の種類の説話が日本ほど數多く保存されてゐる國は世界中他に殆とないと云つて過言でない。それと云ふのも日本は近世文明が開けて間がない上に、江戸時代の社會組織そのものが、民間文明をそのまゝに殘すに都合のよいやうに出來てゐたからである。と云ふのは、讀書人なるものは極めて一部の限られたる階級であつて、別種族の觀があつた。町の生活なるものはそれとは獨立して進んでゐた。一國をなして内外に文明を代表するものは讀書人階級であつても、群集の生活はそれとは別に存在してゐたのだ。
 江戸時代の熊本の學者伊澤某は、多分正コの頃に出た或る書の中で、小説は架空のものであることを反復力説してゐる。それほど藝術と現實との區別が當時一般の民衆に存しなかつたことが分るのである。であるから、當時の人々が芝居を見に行くのも、泣きに行くのが目的である。それが架空のことゝ思へば泣きはしないが、現實の事と思つてゐたから泣きも出來たし、また憎らしい舞臺上の人物に對して刀をあびせかけるやうな田舍侍も出て來たわけである。それに就いて、當時のはなし家の話として一般になつてゐたのに、芝居でお寶ものを紛失して、始めからしまひまで、(152)お寶もの捜しに夢中になつてゐて、とんと芝居を見なかつたと云ふのがある。これが茶化しやユーモアになつたほど、當時の人々にとつては芝居は嚴肅な現實であつたのだ。これは町の生活のことであるが、農民文藝はまた別途のものであつた。口の文藝の童話化は極めて近頃のことであつて、專ら子供のための話などは元は殆となかつたのである。教育は摸倣主義であつて、大人の云ふことすることの内、自分たちに分ることだけを取上げてゐた。それ故に漸次にませて行つて、十五六歳にして元服させて差支へはなかつたのである。昔話と童話とは違ふ。童話は近頃のものである。子供のための專門の話はなかつたが、子供に聞かせる場合には同じ話を多少色着けたに過ぎない。併し自分の聞いたことだけしか話せなかつたやうである。つまり昔話の内、子供に向く部分だけが童話になつて來たわけであるが、民間の文藝を蒐集するためには、この區別を立てゝおくことが必要である。
 昔話から童話が選擇せられるやうになつたに就いては、三つほどの心理が働いてゐるやうである。第一は話術の進歩の方向である。子供を聽衆とするとき、やはり子供が深く興味を持つところを精しくするやうになる。例へば桃太郎の話では、ドンブラコ/\と桃の流れて來るところと云つたやうな風である。第二は製作童話のやうな準備がなかつたことである。そのため自分等が子供時代の、二十年三十年前の記憶を蘇生らせて、その時の亢奮を傳へるやうになる。或はまた大人同志の話を子供が聽くことである。童話に昔話の加はつたものを子供が聽くことである。第三は夜話の衰微である。講話等のために話す機會が漸次になくなつて來た。昔は大話又はおどけ話と云つて子供には聞かせられぬいやな話を大人同志で仕合つたものだが、それを子供が聞くことがある。
 童話製作家が昔からあれば、話の種類がもつと多くなつたらうが、大抵はいやなところがあつて、子供のためのものゝみでなかつたことが分る。今の昔話が童話になつたのと同じ經路を經て神話が民間説話となつたのではないかと思はれる。民間説話の中に昔の神話の殘存物を見出し得るであらう。(但し大話はこれとは別途のものである。)即ち、そこに宗教と藝術との交渉點が見られる、換言すれば、神話が二通りに分れて存してゐるのである。元はシンドレラ(153)は幸運を持つた子の難儀に會ふ實例としての神話であつたであらう。
 
          四
 
 數多い昔話が今日の所謂五大お伽噺に決定したのは「雛の宇計木《うけぎ》」以後である。これは元禄前後のものであるが、古くからのものに多少の改變を加へたに過ぎない。同じ爺の話にでも花咲爺のやうに成功するのもあるが、他方に瘤取爺のやうに失敗するのもある。かと思ふと、その中間を行つた雁とり爺の話もある。また出世したのには屁ぴり爺の話がある。このやうに昔話は概して粗野なものであるが、都會に來て大層上品になつてしまつたのが桃太郎の話である。
 桃太郎の話は外國民族の間に同樣な話が行はれてゐる。で、現在のは末の形であると云ふことが證明が付く。ローマに行くとペルシャ教の牛を殺すミリラ神像が見られる。その牛を殺してゐる神の側に犬とサソリとが從つてゐる。その姿形が如何にもわが桃太郎を聯想せしむるものがある。英雄成功譚に動物報恩譚の伴つたものは、何處の民族にもある。現在でも我々に面白い三獣從行の點は昔から具つてゐたこの物語の重要な特徴であつたに相違ない。民間説話一般の特徴であるとさへ云ひ得るのである。
 日本の桃太郎と外國の桃太郎との差は、日本のが桃から生れて桃太郎と名付けられたと云ふ點である。この特徴が何時頃から具はつたかと云ふに、多分足利の頃であらう。江戸時代の初期、即ち「雛の宇計木」を書いた人が、さう云ふ話をしてゐた地方又は家の人であつたと云ふ偶然性に依ると思はれる。桃の中から出たと云ふところが人望のある點であるが、木から生れたり石から生れたりする話もあつて、これ等は異胎説話と總稱することが出來る。
 桃太郎のも一つ古い形は「瓜子姫子」の話で、この話は信州にもある。岩手縣にも九州にもある。これは桃太郎のやうに男ではなく、女で、また成功譚でもない。川上から流れて來た大きな瓜の中から美人が生れ出る。それに「カ(154)チカチ山」に近いやうなところが、その終りに附いてゐる。喰はれてしまつて、また生返つたと云ふのが元であらう。要するに英雄成功譚ではなかつたのだ。美しい姫が瓜から生れたと云ふ點が要點であつて、人からは生れなかつた小さな形であつたが見る/\内に大きくなつたと云ふ點が肝要であつた。桃は流れたのではなく轉つて來たのだ、さうして女房の腰の邊にぶつつかつたのだと云ふことになつてゐるところもある。アイヌの間では胯から生れたと云ふ話がある。桃よりは瓜からの話の方が元であるらしい。河上から銀の矢が流れて來たが、それは父ではない、金の矢が流れて來たのでそれが父であるとして拾ひ上げたと云ふ話がある。また加茂神社では丹塗の矢が流れて來てそれが父であることを認めたと云ふ話になつてゐるが、この話の一つの枝であると考へられる。要するに桃太郎の話に於いては、異胎から出て來た小さい人間が後に偉くなつたと云ふ話と、英雄成功譚との二つが結び付いたのかも知れぬ。或はまた始めから一つであつたのかも知れない。
 何處の民間説話に就いて見ても、英雄には條件がある、異常な?態の下に生れる。民間説話は不可能を可能として説くものであつて、竝の人間より劣つてゐるものを主人公とする、或は小男であつたり、貧乏であつたり、醜男であつたり、懶け者であつたり、愚かであつたりする。而も成功するのである。桃太郎の條件は小男で貧乏であると云ふ二つだけの條件しか具はつてゐないが、アジアの諸國には右の惡い條件が五つとも完全に揃つてゐるのが澤山にある。このやうに條件の惡いのが、神話時代の一つの形式である。
 今一つの形式は最後に美しい妻を獲ることであるが、それが桃太郎の話には缺けてゐる。「御曹子島渡り」などに於いては、美しい妻を獲ることが目的でもあり手段でもある。桃太郎も初めは美しい妻を獲たことであつたらうが、少くとも美しい妻を獲た桃太郎の話もあるにはあるが、中央部の標準桃太郎の出來上つてしまつた今日、「お前の方の桃太郎を聞かせて呉れ」と云ふことが出來なくなつた。「すねこたんぱこ」の話などに就いて見ても、この事は分る。一寸法師でも話術で取れば長者の娘でも貫へると云ふ話であるが、すねこたんぱこは小さい時から馬鹿にされてゐた(155)が、隣の長者の娘を貰つて來ると云つて出掛けた。その時、生米を少しばかり貰ひ娘の寢てゐる蒲團の裾の方にもぐり込み、生米を?み碎いてその汁を娘の口邊に塗る。さうして自分の米を盗んで喰べた者があると云つて騷ぎ立てた。すると娘の口邊に米の汁が着いてゐるので娘がとつて喰べたことになり、さう云ふ娘は一寸法師に呉れてしまへと云ふことになつて、到頭長者の娘を妻に貰ひ受けることになると云ふ話である。彼が始めて隣の長者の家の表玄關に立ち、足駄の間から「頼まう頼まう」と叫んだが、小さいので長者の家の人は氣付かず、やうやく捜して彼を足駄の間に發見したと云ふ點は、どの話にも定つてある。
 現在のまゝの桃太郎の話が元の形であるとは信ぜられない。一寸法師(又は物臭太郎)の話と英雄成功譚と動物報恩譚と、その他さま/”\の要素が結合したり離脱したりしたものと思はれる。一寸法師の話と物臭太郎の話と桃太郎の話とは元は一つであらうと思はれる。今日我々が別系統のものとしてゐる、例へば蛇婿入りの話さへも、或はことによると、一つ系統のものかも知れない。
 蛇婿入りの話に類似したのが、九州にも東北地方にもある。神樣に子供を欲しいと願掛け、小蛇なら一尾遣らうといはれ、歸りに蛇を拾ふ。或は笠の中に這入つて來ることになつてゐる。それが生長して長者の娘を嫁に貰ひに行くが、三人姉妹の内上の二人は嫌がるが、三番目の娘が嫁に行く。人と蛇との間にそれ程甚だしい相違はないやうに思はれてゐたのである。神が人間に見せる爲に蛇になつて現れる。神なるが故に、如何なる形にもなれると考へられてゐた。
 紀州には寢太郎荒神と云つて、三年寢越してゐて長者になつた者の祀られた祠がある。周防の國にもこれに似たのがあるが、かう云ふ不思議譚の生ずるには今一つの原因があらう。即ち或る神秘的な神の攝理が働けば、貧しい大工の女房の腹からでもイエス・キリストは生れた如く、賤しい爺婆の拾つた桃や瓜の中から生れた小さな人間でも一見不可能な事を成し遂げることが出來るとの信仰である。
(156) このやうな信仰の存することは、神話に依つて察知することが出來るが、更にまた神話から轉訛した民間説話に就いて推知することも出來る。Beast and Beauty 即ち異類婚姻譚は第一の形式としてこれを證明するものであるが、桃太郎の譚は第二形式として、又これを證明するものである。
 民間説話中に現れ來る蛇は、實に各種萬態であつて、最も低いものから、即ち蛇が人間の形をとつて現れるものから、最も高いもの、即ち神が人間に見せる爲に蛇の姿をとつて現れるに至る迄ある。三輪の山の背後の高山三諸の山の錦の小蛇などは後者の實例である。これは蛇が小蛇として拜まれたものではなかつた。單に人間の眼に小蛇と見えたのである、それを、大蛇が人の女を戀ふることゝ解するやうになつて我々は次第に恐れ忌み、または之れを避け、祈?や武勇の退治譚さへ發生した。これ信仰の變化である。美しい蛇と云ふ想像の元もほゞ分る。これは電光を見てからの想像であるらしい。空より人界への光の矢、そのうねる形は後に角ばつたヂクザクに描かれるやうになつたが、元來蛇のうねの形に似たものである。
 神たる蛇が妻を求める目的も日本でならばまだ跡づけることが出來る。それは人間の子供を得んがためである。即ち父を大神とし、母を人間とする一個の神の子を得んがためである。さて、民譚の一要素は立聞きをすることであるが、蛇の求婚の話を立聞きするのは必ずその娘の出た家の者である。即ち神生の家の者、長者の家の者と云ふことになつてゐる。さうしてそれを彼等は誇りとしてゐる。
 かう云ふ神話が固く信ぜられてゐたが爲に、小さ子(桃太郎もその一人)の遠征譚は求婚を中心として發生し得たのである。其點を標準文學の桃太郎の編者が何も考へずに脱落したのであつた。一寸法師も物臭太郎も後に神となつて現れる理由はあつたのに、それが外國の民間説話では單なる人間的成功と繁榮とを以て話の終りとしなければならぬやうになつた。現にグリムの物語なども尻切とんぼに終つてゐる。即ち夙に神話が民間説話となつて了つてゐるのである。日本の例としては今一つ、山路の牛飼と云ふ古い歌物語がある。これは「烏帽子折」と云ふ書物に見えてゐ(157)る。天子が豐後の眞野の長者の娘に懸想し、草刈の童子に身をやつして訪ひ寄り、八幡の祭の日に何人も知れぬ射術の神秘を示し、社殿もために搖ぎ、即ち神より尊いお方であることが現れたと云ふ。この天子は用明天皇であると云はれ、用明天皇職人鑑と云ふ淨瑠璃まで出來てゐるが、これはその間に生れた太子を、太子中の太子なる聖コ太子であると推定した結果であるが、これは歴史と合はぬ傳説である故に、?動き變り、奧州の苅田宮では日本武尊となり、秋田縣の鹿角では繼體天皇となり、薩摩では天智天皇といふことになつてゐる。
 兎に角、形を錦の小蛇と現じ給ふか否かによつて、末々の民間説話ではこれだけの大きな差異を生じたが、元は「小さ子」の形を以て出現せられたことは同一であつた。
 元來、それ等の神話は非常に崇嚴なる神秘として凡人の決して常の日に口にすべからざる教へごとであつたのだが、歌と舞姿とに依つて年に一度その記憶を呼返す日の面白さに惹かされて、信仰がゆるめば人々は之れを娯樂の用に供するやうになつたのである。これが藝術の獨立して發達すべき因縁であつたらうと私は固く信じてゐる。酒も歌も女も常の日の用となつた如く……。その語りごとは我々の遊宴の興を助け、末には終に童話といふ所にまで零落して來たのである。零落といふのはあまりに高尚な趣味に囚はれてゐるのかも知れない。少くともこれほどまでに利用の途が變り、又違つた人の怡樂となつたのである。これは宛も太古の偉大なツクシンボウ(杉菜土筆)が今日の石炭であるのとよく似てゐる。これは石炭を研究する人には何でもないことであらうが――。併し、我々のやうに土筆の植物學、又はその自然史を知らうとするものにとつては、微々たる一片の桃太郎譚もなほ萬斛の感慨を催さしむるのである。
 
(158)   みさき神考
 
          一
 
 石神問答といふ一書を公けにした頃から、私はこの問題に注意してゐるのだが、あれからもう四十年、ちつとも研究が進まずにゐるのは、面目も無いことである。甲府の御崎町に住み、御崎大明神の御社と關係の深い上條君と、さき頃の春の旅中で偶然に御目にかゝつたとき、ちやうどこのことを考へてゐたので、いろ/\と御尋ねをして見た。甲州では狐をミサキといひませうねと問ふと、それはまだ聽いたことが無いと言はれる。私はたしか「裏見寒話」で讀んだやうな氣がすると言つたまゝで別れたのだが、後にこの本を出して確かめて見ると、少しく私の問ひやうが惡かつたやうに思ふ。これから諸君の援助を求めるために、もつと丁寧に、今自分の知らうとしでゐる點を述べて置きたい。
 「裏見寒話」卷三の初めには、甲州の方言を列記して、「トホリミサキ、野狐のこと」とあるので、單に狐をミサキといつたのとは、少し心持がちがつてをる。野狐は現在ではノギツネであるが、九州地方ではまだ一般にヤコといふ呼び名が行はれる。足利時代の京都の記録などには、野狐・夜狐兩樣の文字が使はれてゐるから、ヤコの方が古かつたとも想像せられる。或ひは狐の中でも特に氣味の惡い、憑いたり騙したりするものを、さう呼んでゐたのかも知れない。狐は靈獣で神の制御に服し、從つて又方術をもつてこれを使役することも出來るやうに、信じてゐる人が今でも(159)少々はあるが、以前はその數がずつと多かつた。高名の狐使ひ、狐を働かせて過去未來を察知し、又は人を富ませたり苦しめたりしたといふ話は、幾らともなく地方には傳はつてゐる。さういふ術者の家が絶えて、使はれてゐた狐だけが跡に殘り、めつたやたらに惡戯をするのがすなはち野狐であると、昔の人たちは信じさせられてゐた。それを甲州ではトホリミサキと呼んでゐたらしいのである。今日そのやうな言葉を覺えてゐる者が、絶無であらうとももとより驚くに足りない。たゞ民間信仰の歴史を究めんとする者には、これも見棄てゝしまへない一つの手掛りだといふまでである。
 
          二
 
 トホリミサキといふ語を知つてゐる人は他にもある。近頃は段々消えて行くが、もとは方言とも言へないほど、町でも田舍でも方々に行はれてゐた。たゞその内容がよほど甲州とはちがひ、眼に見ることの出來ない、風のやうなものに考へる人が多かつた。たとへば山に行き又は野路をあるいてゐて、急にぞく/\と寒く鳥肌が立ち、又は頭が痛くなつて、歸つて來て寢てしまふことがある。さういふのをたゞ「行逢ひ」といふ人も多いが、土地によつてはミサキの行逢ひ、ミサキ風、或ひはトホリ神に逢つたなど、各地おほよそ似たやうな言葉を用ゐて、この?態を説明してゐる。つまりは今日の「風を引く」、もしくは風邪や感冒も同じで、何か空中の避けられない力が、觸れて痛みを起させるやうに思つたので、トホルが通行の意であることはほゞ明らかであるが、野狐を意味したといふ甲州の通りミサキまでが、果してこの仲間に算へ込まれてよいものかどうか、これだけはなほ土地の人たちの、無意識に傳承した感覺に訴へて、批判してもらふ必要があるのである。
 ミサキは最も古い日本語の一つであつて、その外形は昔から全く變つてをらず、意味も大體に千數百年前のまゝを、保存してゐるかと思はれるが、たゞ信仰生活の方面だけに、少しづゝの限界の推移があつて、それが地域毎に一樣で(160)なかったために、若干の事實を集め比べて見た上でないと、今ある實?を説明し難くなつてゐるのである。言葉そのものゝ變遷も興味ある歴史であらうが、これは寧ろ不變固定のものを尺度として、その背後の動きを見定めようとするので、民俗學に由らなければ得られない新たなる快樂の一つである。すでに心づいた人には片腹痛いであらうが、ちやうど稻荷の信仰の根原を説いて見たいと思ふ際に、一度は觸れずにをられないミサキの問題にさしかゝつた、われわれの方法がどの程度にまで、こゝを通つて中心に近づいて行けようか。いさゝか知つたかぶりをさせてもらひたい。これとても實はそんなことか、それなら知つてゐたのにといふ人が、追々出て來ることを期待し、それから又新たなる事實を得たいといふ下心である。
 
          三
 
 古語のミサキのもとの意味はほゞわかつてゐる。海に突出する陸地の尖端を、ミサキといふのも一つの語かと思ふが、それだけは暫らく別にして、通例使はれるのは行列の前に立つこと、漢語で先鋒などと書くのがそれに相當し、無論軍陣の場合だけに限つてゐない。ミサキのミは多分敬語であらうから、その後に續くのは從者でなく、必ず尊き方々と解せられたことゝ思ふ。さういふ中でも神々の行動は、肉眼をもつて見ること能はず、且つ又常識によつて測定することができぬとしてあつたが故に、殊にミサキ神が重要視せられてゐたのである。
 わが國固有の信仰においては、神は年々季節を定め、又は臨時の必要に應じて、しば/\人界へ降臨なされる。それには必ず何らかの徴候があつて、信ずる者にはたやすくこれを感じ知ることが出來たのであるが、これは「體驗の教育」とも名づくべきものであつて、稀にも書册の中には明示せられてゐない。今では文藝の題材に化した雪月花が、特殊に國民の心を動かした起りもそれかと思はれ、その他次々の四時の移り替り、草木の芽や紅葉の鮮かなる色の動きなども、隱れたる世界の消息を告ぐるものとして、大きな感動の種であつた。文藝はむしろこれを基底として、そ(161)の新たなる流傳を容易にしたのかもしれない。
 これらの天然の豫報によつて、前代の日本人はこぞつて祭の支度に取掛り、物忌と稱する謹愼の生活に入つた。それから、いよ/\神の出現の日が近よると、又一つの徴候として、やゝ強い風が吹くものと言ひ傳へてゐた。祭の日がたび/\變り、且つ祭る神が多くなつて來ると、如何に風のよく吹く群島であつても、さう毎囘は吹くまいと思ふのだが、それでも冬のかゝりの大切な祭の前夜だけは、今でも神渡しといつて必ず風が強いといふ土地は多く、又神の還られる日にも吹くといふから、かういふ信仰も恐らくは古いものであらう。
 實際に又風に對する感覺は、常民の間でもかなり發達して、氣象臺でもまだ知らぬやうな、細かな分類が行はれてゐた痕跡がある。速さや烈しさにはよらず、なまぐさい風だの何だかいやな風だのと、病氣になるやうな風もきまつてゐた。半分は心理學の管轄かもしれぬし、又神道の領分でもないのかも知れぬが、少なくとも、これをミサキ風といつた理由は、誤りにもせよかういふところにある。
 
          四
 
 ところが一方には動物をミサキといふ實例が、今でもまだそちこちに殘つてゐる。それと風に乘じて去來するあのトホリミサキと、二つどちらがもとかといふことが、まづ問題にならざるを得ないのである。もつと事實を詳しく知つてからでないと何とも言へぬが、この方で一ばん著名なのはミサキガラス、安藝の嚴島に詣でた人は、誰でもこの話を聽いて來るが、東日本でも茨城・福島の二縣などで、正月鍬始めの日、餅の粢《しとぎ》を耕地の祭場に供へると、烏が飛んで來てそれを咬へて行く、その烏がすなはちオミサキなのである。よく似た行事は奧羽ほゞ一般に行はれてゐて、どこでも山の神の祭としてゐるから、この日だけは烏が山神の前驅を勤めるものとしてゐたので、多くの農村ではその擧動によつて、一年の農作の吉凶を卜し、飛んで來てくれぬと非常に氣にする。
(162) 九州の南の端でも、祭の日に飛んで來て供物を啄んで行く烏をミサキといふ村々があるが、なほその以外にこちらでいふ三光鳥、尾羽のむやみに長く、啼く聲が月日星と聞えるといふ小鳥を、やはり御祭の日だけはミサキと呼んでゐる神社もある。これから考へると、男山八幡の鳩とか、熊野の烏とかが、今日普通に「御使はしめ」といつて、ミサキと呼ばなくなつたのも變遷であつて、つまりは神の降臨といふことを、段々忘れて來た結果かもしれない。近世の祭禮にも神輿の行列はあるが、それは渡御とか御出とか稱して、たゞ御社の近邊をこの日だけ、遊幸なされるやうに解したので、以前高い遠い所から遙々と御降りになると思つてゐた頃のやうに、先驅といふことを問題にしなくなつて、いはゞ從來の任務が他にも色々あるやうに、想像し始めたのかも知れない。
 しかし毎年の定まつた日に、神を祭の庭に御迎へ申すとすれば、神のいはゆる來格は、最大の關心事であつた。さうしていふまでもなく、尊き御姿は人の眼には見えない。久しい昔からの御約束によつて、必ず御出のあることを確信しつゝも、なほ何らかの徴候によつて、それを現實に體驗して見たいと、念ずるのもまた人情であらう。われ/\のまぼろしを統一するためには、儀式や音樂が起り、造像その他の藝術が發達したやうだが、日本はそれに先だつて、なほ天然の幸福なる援助があつた。人がこの島々にまだ充滿せず、峯谷が草木をもつて蔽はれてゐた頃には、動物は數も多く、又その擧動にも今と頗る異なるものがあつて、意をもつて迎へる者に取つては、これを一種の啓示としか解せられず、從つて又彼らを神慮の傳達者とする信仰が、いとも容易に成長し得たのかと思ふ形跡がある。
 
          五
 
 たとへば猿をミサキ神と呼んだ實例は、まだ自分の記憶にはないが、この獣の數々の靈異を語り傳へたものは、決して日吉山王の社だけには限られてゐない。諸國の龍燈や不知火も同じで、さういふ奇瑞が祭の日にばかり、起るといふことはあり得ないのだが、もとはたゞ他の日には注意をしなかつたものであらう。話が長くなるから又別の文で(163)書くことにしたいが、同じ十二支の動物の中でも、家畜の牛馬羊狗等に該當する日には祭が無く、申の日をもつて二度の祭日とするものが、殊に靈山の麓に祭場を設けた大きな神社に多いといふことは意味がありさうだ。祭の行列に猿に扮した者が參加する實例は、かけ離れた各地の舊社に見られる。もちろん本ものにその役を命ぜられまいが、それでも日光山などは、つい近世まで猿を曳き、そのために久しく猿曳職が保護せられてゐた。最初群猿が人のやうに後脚で立つて、尾根を降つて來るのを望み見て、神の出御を信じ得た時代がなかつたならば、かゝる奇異なる儀禮は發明せられる機會はありさうもない。それで私などはこれを注意すべき痕跡と見、且つ又これを扶けるやうな他の資料を集めようとしてゐるわけである。
 それから他の一方に、空より近よつて來る鳥蟲のたぐひに、精靈の依託を想像する傳承がわが國には特に多い。秋のかゝりに飛びまはるものにショウリョウヤンマ、又は蟷螂をホトケノウマなどといふ呼び名は多いのみならず、この季節には子供たちも捕獲を戒められてゐる。鳥の前生譚といふ昔話の、よその民族とは比べものにならぬ程發達してゐるのも、彼らが人間以上に幽界の事情に通じてゐるといふ推測がもとだつたかもしれない。ともかくも常は顧みられぬ山の鳥蟲までが、ミサキとして一般に重要視せられてゐるのである。
 自然の現象に對する古い人たちの注意は、しば/\ほゝゑましい方角に進んでゐる。たとへば田の神が春は山から降つて農作を庇護し、秋の收納が終つて後に、山に還つて山の神になりたまふといふことは、全國の端々まで行渡つた信仰で、もとはたゞ單に二度の祭を御受けなされるといふまでゝあつたかも知れぬが、今は少なくともこの永い耕作の期間、ぢつと田の中に入つてをられるやうに思つてゐる者が多い。蛙を田の神の御家來のやうに想像し始めたのもそれからのことらしく、以前は霜月の祭だつたから、さうは言はなかつたにちがひないのだが、後に舊暦九月末より十月の亥の子までに、刈上げの祭を營むやうになると、ちやうどその蛙が作神樣の御伴をして、山へ還つて行くといふ言ひ傳へが、東日本には行はれ出した。甲州あたりにも知つてゐる人がまだあるかも知れない。神に進ぜた新米(164)の粢餅《しとぎもち》を背に負うて、ぴよん/\と御先に立つて行く蛭の姿を、興味多く子供らは想像してゐた。
  あんまり飛ぶなよ、粉んこが落ちるに
と田の神さんが言はれるさうだなどと、笑話までが出來てゐるのは、もちろんもうミサキ神の信仰ではない。
 
          六
 
 ミサキの信仰には、中央と地方との間に目に立つ差異があり、又近世に入つてからの變遷が大きかつたらしい。瀬戸内海の周邊の諸縣が、現在では威力の最も強烈なる地方であるが、この方面でいふところのミサキは、一般に猿や鳥のやうな眼に見える動物でなく、風より他には消息を傳へない怖るべき靈であつて、主として、人間の非業の死を遂げて、祀り手もないやうな凶魂を意味する。山ミサキ・川ミサキはおの/\その最後の場所近くをさまようて通行の人を惱まし、伊勢・土佐の七人ミサキなどは、一組七人の數を越えないと、故參の一人が成佛することが出來ぬので、いつも新たな仲間入りを狙つてゐるなどと、氣味の惡い話ばかり傳はつてゐる。同じ一つの言葉がこれほどまで互ひに似もつかぬものゝ名となつて、對立してゐるのは大きな不審だが、その代りこれがもし判ると、過去何百年かの久しきにわたり、われ/\常民の踏み開いて來た精神生活の進路が、おほよそは見當がつくのである。だからこの研究には力を入れるねうちがある。
 最初には恐らくミサキの任務が、次々と分化して行くものと考へられたのであらう。鎭座といふ言葉は以前からあつたけれども、それは後年の鎭守とはちがふ。神が平原に降つて一處の祭場に止住なされる例が多くなれば、當然に先驅の役目よりも、代理とか御使ひとかの御用が大切になるが、それをも引きくるめてミサキのうちに入れてゐたのは、地方にはまだこの形の、久しく續いてゐたことを意味するものと見られる。現世の社會組織は、いつでもわれわれの靈界の想定に影響した。武家の從者などは、いつでもかういふ定量なき職務に服し、或る時は行列の先を拂ひ、(165)又或る時は單獨に方々への使ひもした。神のミサキもまた後かくの如くなるべしと考へたのである。それからなほ一つ、神も人間と同じにその從者の數の多いことが、大きく有力なる徴候と認められてゐた。果してさうであつたか否かは今でもなほ決し難いが、北野の天神などはその初期の託宣において、しば/\眷屬神の數が何十萬人もあり、しかもその中には粗暴にしてよく怒り、人を害するやうな者もあるといふことを告げられてゐる。この點も恐らくはあの時代の世相から類推した、新たな俗間の解釋にもとづく信仰であつたかと思ふ。
 實際に又いろ/\の豫想も出來ない凶事災厄が、急に數多く又烈しく、くり返された時代でもあつた。それを獨立した魔神一黨の計畫とは見ずに、たま/\主神の監視を逸脱した、末端從屬者の所行に歸するのは、なほ古來の禍津日神思想の繼承ではあつたが、それがためにかへつて今までに想像もしなかつたやうな、大きな有力な外部の神を、信じ且つ祈請する結果にもなつたのである。數ある御驗屬の中には氣むつかしく腹立ちやすく、もしくは我儘な惡戯ずきの小神もあり得ると思ひ、その害を遁れるには御主人に訴へるのが近路といふことになつて、いはゆる統御神の信仰は世に廣まり、結局はわびたりなだめたりしなければならぬやうな、怖ろしい神靈の數を増加して、われ/\の精神生活の外貌は、著しく變化して來たのである。
 
          七
 
 どうして又これだけの變化が、急激に起つたかは問題になるであらうが、これに答へることは必ずしも困難でない。日本人の信仰において、神の啓示を受ける方法は始めから二つ以上あつて、しかも定まつた機會に定まつた手續を履んで、求めてこちらから聽かうとしたものは、段々に形式化してしまつて印象が弱く、他の一方の突如たる神がかりが、常に大きな力をもつて人を動かし又信ぜしめたのである。中古以來の新たなる神々は、必ずこの順序を經て出現なされてゐる。これにももちろん一定の靈驗がなかつたら疑はれただらうが、かねて信ぜんと欲する人々の間では、(166)それを具へることはやゝ容易であつた。
 最も普通の徴候としては、神に憑らるゝ者がまづ苦しみ、もしくは病氣になる。それは欺き僞ることの出來ぬものだつた故に、人は自然とその言に耳を傾け、その意味を掬み取らうとしたのである。タタリといふ日本語のもとの意味は、かういふ神がかりの最初の?態をさしたものと、私だけは考へてゐる。タタヘ・タトヘ・タツなども同系の語で、タタリにはもとより罰の心持はなく、たゞ「現はれる」といふまでの語だつたかと思ふ。現に沖繩語のターリは、こちらでいへば示現であつて、これに接する者の難儀までは意味してゐない。しかるにそれがどういふわけで、今日のやうに「怖るべきもの」、どうかして避けたいと思ふものだけの名になつてしまつたか。こゝに今まで省みられない固有信仰の變遷が潜んでゐるのではあるまいか。
 古い記録を注意して見ても、大神の祟は多くは、世の中の不幸災厄の形をもつて現はれてゐた。廣い區域にわたる大きな旱《ひでり》、大水大風や蝗の害、疫病の流行から貴人の病まで、意外な凶事が起つて、始めて人智以上の原因を尋ね知らうとする故に、その答へは、いつでも何の神の御憤りといふ類の啓示に歸着したのである。これに對して他の一方の永續する平和、極めて尋常なる日々の無事は、第一に問題にする人が次第に少なく、これを古來の神コと信じて、年々の感謝の祭を謹嚴にくり返してゐた間でも、なほ神の御言葉に耳を傾ける機會は、この方面には漸く稀になり、又は形式化してしまつて、強い印象を留めなかつたのである。似たる傾向をもつた他民族の信仰とも比較して見ればやがて判ることゝ思ふが、御子や神主を仲に立てゝ、神の教へに導かれようとした宗教は、一度は少なくともこの中間の混亂を免れなかつた。殊に意外な神の自發の啓示に、重きを置いてゐた一つの國において、外には輸入教の壓迫があり、内には新文化の動搖の激しかつた時代はなほさらのことゝ思ふ。つまり日本の神道史は、今までの學説以上に多事だつたのである。
 
(167)          八
 
 ミサキに關する民間の信仰が、いつの間にか非常に複雜なものになつてゐた原因なども、恐らくはこの方面から説明して行くことが出來る。大小さま/”\の新らしい神、もしくはありと名のみは聞いてゐても、今までなほざりに過ぎ來つた神々が、始めて人間に接近して、われ/\の信心を繋ぎたまふ方式は、昔からおほよそきまつてゐた。噂にきいたり勸められたり、又はたゞ流行するからといふのもこの頃は多くなつたが、これとても元を究めれば皆示現であつて、單なる奇瑞といふよりも力強く、必ず何人かの口を假りて、自ら名を名のつて出でたまふ神があつたのである。上代の歴史にも歴然たる記載があつて、日本はかねてさういふことが行はれやすい國だつたらしいが、その中でも時代のちがひはあつて、もとは主として新たなる祭場の要望、われをこの地に祭れといふ靈告を受けて、次々と信仰の領域を擴げて行く習はしがまづ行はれて、それが若干の諸國の神を、いよ/\著名なものにしたやうである。奧州では鹿島の御子神、中央では熊野の九十九王子、いづれも託宣による進出が推測せられ、確かな證跡はまだ見つからぬが、關東各地の宗像神なども、後の八幡の諸大社と同じ方式でそれよりも一段と早い頃に、更に遠くの國の端々まで、移動なされたものではないかと思ふ。
 この想像を少しでも根據づけたいといふ願ひから、私はもう久しい間、若宮の信仰といふ問題に注意して來てゐる。單なる言葉の表面から解すれば、若宮はすなはち尊神の子、御子神も王子も皆同じに、いはゆる苗裔神の始祖の御コを宣傳したまふ場合に限り、ちやうどまた氏人の氏の神に奉仕する慣行と呼應すべきものであるが、いつの頃よりか現實の若宮は、遙かにその範圍の外に逸脱してゐる。個々の獨立した若宮の主神を知り難いものが、殊に家々の祭る祠に多いのみならず、一方には又若宮八幡の名をもつて、宇佐男山の大神の御末と、全く關係のない人の靈を祭つてゐることを、公稱する例が今も相應に多い。察するにこの一つの言葉の内容が、時を經て次第に變化してゐるのであ(168)る。當初大神の神威を新たなる土地に扶植するものが、必ず御子神であつた期間が、やゝ暫らく續いてゐなかつたならば、若宮といふ名は生れて來なかつたらうと同時に、もしもそれが悉く、神の本當の御子孫だけに限るものと、いつまでも解してゐたのだつたら、到底今見るやうな雜駁なる若宮信仰は起り得なかつた。これを説明する道は恐らく一つしかない。つまりは時代の不安動搖が因を成して、いはゆる若宮出現の機會が急激に多くなつて、それを本來の御子神のみの所作と、見ることが出來なくなつたのである。眷屬神の思想は前々からあつたのかもしれぬが、この期に入ると共に著しく發達した。ちやうど人間界において或る氏族が、特に強大になつたと同樣に、神の部曲もまた複雜なる構成をもつて、その威力を支持すると考へられたものではなからうか。
 
(169)   行器考
 
          一
 
 行器は食物を屋外に運ぶ器物、古來の日本語ではホカヒと謂ひ、今日見るところの重箱、辨當箱、又は食籠割籠などの前身であります。皆樣が日頃斯樣なものに、關心を持つて居られぬのは明白なことで、それを問題として事々しく説き立てるのは、社交の法則に背いた話であります。しかしこの國民學術協會の一つの役目は、新たに起つた所謂何々學の眞贋の目利きをして、素性の良いものならば扶けて成長させる。愈確かときまれば大いに聲援する、といふことに在るかと思ひまして、考證は寧ろ二の次とし、先づ私の方法なり態度なりに對して、若干の批評を受けて見たいのであります。
 我々の既に心づいて居ることは、日本では些しく「學」の名が濫用せられて居る。一言でいふならば食はせものが多い。それから今一つの弊としては、外國にやゝ似寄りの何々學があると、それを飜譯したと稱するこちらの何々學も亦確かなものと、認められ易い傾きがあります。が學問は中々そつくりと國から國へ、移して來られるものでありません。現にこの日本民俗學なども、決してフォクロア又はフォルクスクンデの精確な再現では無いのであります。目的とする所は各民族の、文化展開の跡を明かにするに在つて、是はどこの國でも大よそ同じとは言へますが、その方法なり研究の用意なりには、獨伊佛英それ/”\の特徴があり、我々のは又その何れとも大分ちがつて居ります。單(170)なる國民の好みや行掛かり以上に、この研究に供せらるべき資料の、著しい差異が有るからであります。さうして我々のいはゆる現在科學に於ては、資料は同時に又問題でもあります故に、研究の向ふ所はおのづから異ならざるを得ないのであります。
 資料のちがひといふことは、第一にはその種類と數量に於て、第二にはその有り形に於てよく現はれて居ります。我々は簡單に之を資料が「活きて居る」と謂つて居りますが、之に對して向ふのは殘留、即ち前代の生活樣式の痕跡といふべきものばかり多く、殊に英國では Survivals といふ語を使ひ、殘留の科學といふ呼び方さへありました。ところがこちらの資料は必ずしも殘留で無い。今も發育成長の過程に在るものが幾らでもあります。この國際差異の最も顯著なのは、一國の固有信仰、學者によつては自然宗教などゝ謂ふ人もありますが、我々の間では神道といふ古い大切な名が今も使はれて居ります。この以外にも道義や藝術その他の方面に於て、研究の對象たるべき現象が、活きてなほ廣く傳はつて居ります。この事を念頭に置いて資料を取扱ひ、比較と綜合を進めて行かなければならぬ國は、力と必要との二つの點から見て、主として大東亞圏内の諸民族、殊に日本がその盟主ではなからうかと、自分などは感じて居りました。それで近頃は頻りに反省といふ語を用ゐて、成るべく多くの人に注意させようとして居るのであります。他の國々と比べると煩はしいことも確かだが、その代りには仕事の幅は廣く、印象は濃く深く、效果は遠大でありまして、働き甲斐があると申したらよいか、とにかくに一つの社會科學としての意義は、外國でよりもずつと重要なのであります。即ち最も嚴峻なる態度を以て、批判せらるべき學問であります。
 
          二
 
 今夕私が問題にして見たいのは、文化傳播の限度ともいふべきもの、反面から申せば、日本にはどれだけの固有文化が、今なほ國民の間に保存せられて居るだらうかといふことであります。此點にかけては、日本の學者は昔から、(171)驚くべき事大主義者でありました。二つの經歴を異にした民族が交通を始めると、忽ちその中の若い方は、兄分のして居ることにかぶれてしまふものと、きめてかゝる癖がありました。さういふ大雜把なことを説く者は、外國にも素より絶無でないのですが、我々は實にその名人だつたのであります。
 民族の接觸にも大小強弱、色々の地位の差があり、文化の輸入にも隱れたる條件が有つた筈であります。それを何でもかでも、聊か似寄つてさへ居ればすべて採用と見、又影響と解してしまふのが、中世は言ふに及ばず、今も歴史を論ずる者の常の心掛けのやうになつて居りまして、其例は幾らも擧げることが出來ます。永年の癖とは言ひながらも、是は誠に考への足らぬことでありました。勿論文字とか暦法とか、又は朝廷の若干の儀禮の如く、現實の必要に基づいて取入れられたものも確かに有ります。しかし是とても取捨選擇はあり、又は接木でいふ臺木の如く、こちらにそれを移す條件が備はり、又は獨立して之を成長せしめるだけの、土地の力といふものが考へられるのであります。佛法の如きは最初入つて來て上流貴人を動かしてから、是が民間のものとなるには、少なくとも三四百年の時の經過があり、又十分に改造せられて居たのであります。そんなものまでも、始めに舶來した證據が歴然たるからには、すべて印度産の文化だと見ようとしたことは誤りの元でありまして、それが我々の現實の生活を説明するのに、支那の書物に斯うあるといふのを以て足れりとした、世諺問答一流の學風の、久しく續いて居た原因かと思はれます。
 ところが此傾向は、今後もさう急速には轉囘しさうには見えないのであります。殊に新たに起つて來た二つの興味深い學問が、その豫期して居ない感化を俗界に與へて居ることは、警戒しなければならぬ點であります。二つの學問といふのは其一つは民族學、耳で聽くと全く同じなので、まちがへられて御互ひに困つて居る異民族研究の學問であります。最近の一二世紀の間に、民族學ほどよく働いた學問は少ないのでありますが、元々領分が餘りにも廣汎な爲に、今でもまだはつきりと存在の知られない、もしくは異同の明かで無い種族が多く居り、たま/\知られて居ても其生活の實?を詳かにし得ないものが、大東亞圏内だけでも、どれ位多いかわからぬのであります。是等のものがす(172)べて明かになつたら、又新たな差別觀が立つかも知れませんが、今はとにかく外から調査に入つて行く者に、特に生活方式の似通つた部分のみが目に留まるのであります。文化傳播説といふものは、勢ひ此方面から起らざるを得なかつたのであります。人は永い年月のうちには存外によく移動し、或は無人の小島を開き、又は新舊が相競つて、しまひには混淆したと思はれるものも有るのであります。さういふ事實のほゞ確かめられた際に、文化が後から來たものに携へられて新たに入つたと見ることは、一應は許されてよい推定でありますが、是とても年代の證明し得ない場合が多く、從つて二つは別々と考へてよいものが無いとも言へぬのであります。ところがこの學界には更にもう一歩を進めて、生活樣式の幾つかの類似に基づいて、他に何等の證跡が無くとも、たとへば日本にも埃及人が渡つて來て居る。さうして色々の好い事を教へて置いて、還つてしまつたのだといふ樣な事を主張した人もあります。つまりは現在までの民族學が、主として文化の異同といふことを、目標にする學問だつたのであります。さうして此世にはもう不可解なことは無い筈といふ氣持を以て、一旦はさういふ假定を立てて置かうとした者が有るのであります。うつかり素人がさういふ説に動かされて、智能活力の段階にも頓着無く、文化は外から貰ふより他は無いものゝ如く、速斷しさうな危險はまだ少し殘つて居るのであります。
 
          三
 
 それから今一つは考古學、是も最近の目ざましい進況を、慶賀せずには居られない新學でありますが目的はやはり遠く離れた諸民族に、特に共通して居るものを尋ね究めて行くに在つて、それには又民族學よりも更に具體的な、爭ふことの出來ない實物が證據となつて居りますので、一段と我々の心を動かし、爰でこの通り外から運び込まれたものが多いやうでは、定めて他の部分にも、學んだり眞似たりしたことが多からうと、いふやうな推斷が下され易いのであります。しかし注意して置いてよいことは、考古學の資料は大半は寶物で、かさが低く價が貴く、小舟でも、駱(173)駝の背でも、最も遠くまで持つて行き易い品であるだけで無く、限られたる地位境遇に在る人その他には、以前は一般には交渉の少ないものでありました。鑿や鏨を使ひ火を利用する高尚な工藝には、特に傳授の必要なる技術があつて、それが遠くから送り屆けられたといふ證據としては十分であつても、別に其以外の類推を許さぬものが、幾らでも是と併存し得たことは、寧ろ專門の人たちはよく認めて居るのであります。日本に金石工藝の遲く傳はつたことは、或は其他の天然物を使用するものが、夙に普及して居たからとも考へられます。その多くの作品は朽ち碎けてしまひましたらうが、その技術は若干の壓迫を被りつつも、なほ保存せられ又は發逢して居たので、その一つの例としては、爰で私の御話して見ようとする、行器の文化といふものがあつたのであります。是とても勿論固有であつたとは斷言し得られませんが、少なくとも之を持傳へて居た時の長さには、計算も出來ないほどの大きな差があるらしいのであります。何かたゞ一つの動かない傳播の跡があれば、それに附纏うて一切の事物が、移植せられたらうといふ考へ方は、儒教や佛教に就ては殊によく普及して居りまして、從つて中古以後の國民生活などは、たゞ外國人のしたことに附いてあるいたまでと、見られても致し方が無いといふ氣持、是が實は一種の苦惱を、現在の多くの常識者に與へて居るのであります。もし改定することが出來るものならば、斯んな常識は改定した方がよいと思ひます。私などのやうに老を悲しんで居る者は、國が若かつたといふことに無限の懷かしさをさへ感じて居ります。若い者が多く學び、より善きものを外から採つたといふことは自然の現象であつて、恥づべきことでも何でも無いのであります。頭からさういふ事實を否認しなければならぬ必要はちつともありません。たゞ無暗にいゝ加減な速斷をしてしまひますと、折角古く傳はり又永く殘つて居るものを、見落してしまふ虞れがあり、それを國の今後の繁榮の爲に、甚だしく不利だと思ふだけであります。故に我々の一國民俗學に於ては、先づこの年久しい風潮に、反抗して起たねばなりません。
 さうして常識が既に外國文化に基づいて居るときめ切つて居るものでも、もう一度果してさうであるかどうかといふことを檢討して見る必要を感じて居るのであります。結論が結局は元の通りと、いふことになる場合も有るのは覺悟(174)して居るのであります。
 
          四
 
 今まで外國文化の追隨と目せられて居た生活樣式の中で、最も著名なものの一つ、人が全然佛教の信仰行事の如く考へて、些しも怪しむ者の無かつた「盆」といふ慣習の起りを、問題にするのも同じ動機からであります。ラジオが出來てからでも既に二十年、毎年七月の十五日が近よりますと、必ずどこかの佛教學者が、判で押したやうに同じ文句で、所謂ウラブンナの講釋をします。漢語に譯すならば解倒懸、昔目連尊者が母の地獄の苦しみを救はんが爲に、供養をなされたのが始めといふのがきまりで、斯んなことをすればしまひには人は本當かと思ひます。それを果して日本人が、眞似をして居るといふのが正しいかどうか。いはゆる通説を覆へすことが出來ぬまでも、警戒だけはして置きたいといふのが私の望みであります。
 盂蘭盆といふ言葉は、或一種の經の名であるのみならず、日本書紀の中にも、既に盂蘭盆會の稱呼は用ゐられて居ります。しかし我々の多數は、學問が無いと斯ういふ語は知りません。民間ではたゞ裏の盆と心得て、たとへば七月の終りの日、又は二十四日の地藏祭の日などを、裏盆と謂つて居る者が今でも多いのであります。何も知らないからまちがへて居るのだといふのが、學徒のなし得た唯一つの説明で、しかもこの所謂ウラブンナを略して、盆と謂つて居る例が外國にも有るかどうか、又その行事は我と彼と、どれほど相似て居るかと説明してくれる人がまだ無いのみか、日本で盆といふ年中行事の中心は、どの部分に在るかといふことすら考へて見た人がまだ無いのであります。六國史以來の歴世の記録、公家の日記類に出て居るのは、この日?を送ると稱して食物を器に入れて、寺々へ又は墓所へ持つて行かせます。それに先だつて家の中の行事があり、主人が盛装して?を拜すとあります。或は是を又不輕を禮すと書いたものもあつて、此意味が判ると參考になると思ひますがどうもまだはつきりしません。注意すべきこと(175)の一つは、文字は?と書いて盆とは書かぬものが多いことです。その?を送る寺は、菩提所即ち先祖の墓所のある寺であつたかと思ひますが、その寺又は墓の前での行事は、家の中での所作と共に、詳しく記述したものがまだ見當りませぬが、是は恐らく一定したものがあつて、餘りにも普通であつた爲でせう。食物は白米の他に季節の蔬菜果實類であつたことが、諸陵雜事注文などには見えて居ります。分量も相應に多く、又煮炊きをせずに其まゝ送ることになつて居るのは、現實には寺の僧への給與となつたことを意味するかと思ひます。夏中自恣の僧に供養する爲に送つたやうに、公事根源には書いて居りますが、それだけでは?を拜するといふ儀式は、起らなかつたらうと考へて居ります。
 一方現在の實例はどうなつて居るかといふと、全國を通じて、此日は祖先の靈が家に還つて來る日となつて居ります。是を御先祖樣と謂ふ處も少しは有りますが、最も弘い區域ではホトケサマ、もしくは盆のホトケと謂ふのが普通で、或は又ショウロサマと謂つても通じます。ショウロ又はショウリョウは發音がしにくいので、土地によつて色々と訛つて居るやうですが、正月には之をミタマと呼んで居ますから、文字で精靈と書くのが先づ當つて居るのでせう。つまりは幽靈又亡靈と一つに、此日還つて來るものを故人の靈魂と見て居たからであります。それよりも手近なところで不審に堪へないのは、その精靈を國の大半に於て、ホトケサマと呼んで居ることであります。殊に人が亡くなつて翌年の盆に、迎へて祀るのをアラミタマ、又はニヒジョウロともアラソンジョともいふ代りに、シンボトケと謂つて新佛と字には書き、もしくはホカジョウロとも餓鬼ともいふよその風來の精靈を、無縁ボトケと呼ぶ例が多いのであります。勿論行く/\成佛すべきものだからと、解したい人は解して居ますが、このホトケたちは決して淨土に落着いては居りません。毎年の盆の日には、菩提寺の僧たちが棚經にまはつて來て、往生安樂國などといふ有難い經を讀み、あちらへ往つて靜かに休息するやうに教化するのですが、今に至るまで毎年きまつて、このホトケサマは裟婆に戻つて來られ、それを我々は怪しまぬのみか、寧ろ當然として居るのであります。即ち一言でいふならば、根本の(176)考へ方が佛教では無く、從つて此名稱の起りも別に有つたのであります。欽明天皇の十三年以前から、斯うして先祖を迎へ祭つて居たといふ、證據こそはまだ見つかつて居ないが、よそから渡つて來たといふ形跡の無いものは、固有に我々の中に有つたものと、一應は見て置くの他は無いのであります。
 
          五
 
 是に對しては、幾らでも異議を挾むことが出來ます。第一に名稱はどうであるか。盆はとにかくに漢語ではないか。古くからあつた祭ならば新たに名を付けるわけが無い。少なくとも其以前の日本語が無ければならぬ。有るものならどこかに殘り傳はつて居る筈といふことは誰でも考へます。それで私は最も自然の順序として、先づ盆には何か別の名が傳はつて居ないか。傳はつて居たとまでは言ひ切れなくとも、何か異なる名は今も行はれては居ないかと、久しく心がけて捜して見たのであります。現在知られて居る或一つの名は、全國を通じて先づ少なくとも五六箇所にあることが判りました。さうして好いあんばいに東西に散らばつて居て、甲が乙を眞似たとは見られぬ?態に在るのであります。それで話はこの方面から、入つて行くのが便利かと思つて、手を着けて見ました。
 盆は古い文學にはボニといふものが多く、今でも中國筋には斯ういふ發音が普通であつて、文をフミ、錢をゼニなどといふと同じく、外語歸化の跡が窺はれ、しかも簡單で印象の深い單語なるが爲に、是が普及した事情も察せられますが、なほ其以外にホカヒといふ語が、今も各地に併存して居るのであります。京都に最も近い土地では丹波と大和、奈良縣の北部の生駒郡龍田附近は、盆に堤燈を點して軒先に掛けるのをホウカケ火といふ。之を以て明智光秀の靈を慰める爲などともいひ傳へ、人によつては既にホウカイは此火のことゝ、思つて居る者も有るらしいが、本來は此日の祭、もしくは祭らるゝものの名でもあつたことは證跡があります。たとへば疣を取るまじなひの一方法として、盆祭のホウカイ棟の箸で、疣を三べん挾んだ後其箸を川へ流すと疣がなほるといひました(いこま二號)。盆の祭の後(177)で供物の一切を、藁や菰で作つた小舟に積み、又は東京などでは蓮の葉に包み盆茣蓙でくるんで、川へ流すのが例でありますが、それを此地方ではホウカイ樣と謂つて居たのであります。
 第二の例は高知縣の各郡、こゝでも高い柱を立てゝ火を揚げることが、盆の行事の中心となつて居て、夜の燈の印象が最も鮮明であつた爲に、ホウカイは此火を焚くことゝ思つて居る人も多くなつて居るかと思ひますが、是には特にホウカイ火の名があり、法界火などの文字を宛てゝ居ります(土佐の方言)。或はホウカイは其法界火の略語だともいひ(土佐方言集)、又は奉火會だの放火會だのといふ文字を設けて、説明して居る人もあります。しかしこの所謂法界の火の下では、もとは定まつた祭の式が行はれました。縣の東部の長岡郡などで見られるのは、古くは割松麻稈を束ねた松明、今では提燈を高い竿のさきに立てゝ、十四日から十六日まで三夜、夕方になると其火の前に供物を上げます。土地では其供物をフマと謂つて居ますが、白米と茄子を細かく刻んだのとをまぜたもので、他の地方で水の子とも、又水の實などとも謂ふものと同じで、たゞ多くの例では之を盆棚の上に供へ、又は東北のやうに墓の前に上げる點がちがふだけで、是が私などの氣を付けて是から考へて見ようとして居る事實であります。土佐では此火の殘りで飯を炊いて食べると、夏病をせぬといふ俗信もありました。今でも小兒等は盆釜と稱して、燃えさしの火を集めて飯を煮る習はしを、半ば遊びのやうにして持傳へて居ります。盆釜は土地によつて門飯とも辻の飯とも、其他色々の名を以て呼ばれて居りますが、是も全國に亙つて最も廣く行はれて居る小兒の行事であり、東北の一部などではそのまゝごとの材料に、所謂盆のホトケの供物の川に流されるのを、拾ひ上げて使ふ處さへあります。さうして土佐の方でも大和と同樣に、ホウカイ樣と敬語を添へて呼ぶ者もありますから、もとは柱松明の火だけで無く、祭の行事全體の名が、ホウカイであつたことが察せられるのであります。
 
(178)          六
 
 第三の例としては靜岡愛知の二縣の境、ざつと天龍豐川二つの流れの間に在る村々に、ホウカといふ踊の行はれて居たのが、是も亦盆の行事でありました。いはゆる新ボトケのある家で、招いて表の庭で踊つてもらふのが通例であつたといひます。大きな指しものを背に負ひ、胸に太鼓を掛けて之を打鳴らし、鉦と笛との囃子で行列をとゝのへ、寺で勢揃へをして乘込んで來ました。奧州の各地に行はれたケンバイなども同じに、念佛踊の系統に屬するものだつたかと思はれます(三州横山話)。其踊についた詞章を歌枕といひ、亡者の靈を慰める哀れな文句が多かつたといふことで、多分はその爲に法歌といふ文字が用ゐられ、或は又法花踊とも書く處があつて(風俗畫報五七號)、ホカヒといふ語とは一段と遠くなつて居りますが、是にも松明の火が伴なひ又定まつた食物の供養もあつたことは、土佐のホウカイと共通であります。是と謠の放下僧や、放下師と書く旅藝人の放下と、關係が有るかどうかは何人にも先づ問題になりますが、私は全然別のものではあるまいと思つて居ります。さうしてこの東海の農村に保存せられて居たものの方が、一つ前の形では無いかと想像するのですが、今はまだ安全なる證據がありません。
 しかし少なくとも念佛踊のホウカが、ホカヒであつたことはほゞ確かなやうです。京都と山一重の丹波山國村の下といふ部落には、文字は北海と書く田の字があつて、そこにはもと菴寺があり、ホッカイ婆さんが住んで居て、ホッカイ念佛を上げた處だと言ひ傳へて居ります。このいはゆる北海念佛が盆の行事であつたかどうかは、確かめる方法があり、或はなほ尋ねて見たならば、他にも同じ風習の殘つて居るものがありさうなので、私は是を一つの手掛りに、もう少し調査を進めて見ようとして居ります。
 民俗學の資料は、多くの場合には是と同じ樣に、その一つ/\を引離して見るときは、幽かな頼りないものばかりで、それを幾つも引合せて見て、始めて少しづゝ其意味が明かになつて來るのです。それを具體的に説かうとすると、(179)話は幾分かくだ/\しくなることを免れませんが、段々に筋が立つて來ますから、今暫らく御辛抱を願ひます。盆をホカヒと謂つたらしい痕跡は、又一つ飛び離れて九州の端にあります。長崎市史の風俗篇を見ると、あの地でホカヒメシといふのは他の地方でいふ餓鬼の飯、即ち盆棚の片端又は一段低いところに、家の先祖以外のいはゆる外精靈に供へる飯で、盆中は朝と晩に、撤しては新らしいのを上げるが、その卸しだけは家の者が食ふことを忌み、非人乞食の類が籠又は桶を持つて、町から町へ貰ひ集めてあるくことは、東京で御迎へ/\といふたのとよく似て居ります。是もやゝ廣く周圍の村々を尋ねて見たら、更に詳しく又色々と思ひ當るふしが、判つて來るだらうと豫期して居りますが、たゞ是だけの資料からでも、秋の初めの滿月の頃に、食物を亡靈に供養することが、ホカヒであつたといふことは認められ、それが又國の他の一方の端、岩手青森秋田の三縣に、今もまだ普通に行はれて居るホカヒの風習と、要點に於ては一致して居るのであります。土佐や長崎と東北の三縣とは、同じ日本の中でも最も接觸の少ない處で、その中間の可なり廣い區域にはもう見られなくなつて居る風習が、かゝる兩端にばかり、まだ或程度の共通を存して居るといふことは、是にも亦傳播とか採用とかいふことの出來ない、何か別途の原因が潜んで居るのであります。さうして是が一つの民族の一千年内外の變遷に過ぎない場合であると、まだ比較的容易に其原因を推定することが出來るのであります。中央では既に改まつた前代の生活樣式が、遠い端々にはなほ消えずに居たと見ることは、さして不自然なる空想では無いからであります。
 
          七
 
 土佐ではホカヒを盆の火のことゝ解して居る人たちも有りますが、それでもその柱松の前には、食物を供へるのが方式でありました。西は長崎地方のホカイ飯、東北では青森縣各部の盆のホカヒに至つては、明かに食物と關係して居ることが、兩端の一致を示して居ります。殊に後者に於ては同じ名稱と行事が廣く隣縣に及び、又現在普通の慣例(180)であつて、決して幽かな痕跡では無いのであります。近年の幾つかの方言集を見ましても、ホカイ、盆に物を佛に供する式(津輕方言集)、ホガイ、盂蘭盆に供養すること(青森縣方言訛語)、ホゲ、佛に供養すること(津輕語彙)、又はホギヤ、盂蘭盆に佛に物を供するをいふ(東奧日用語辭典)などゝ出て居りまして、村によつて些しづゝ寫音法はちがつて居ますが、先づ誰でも知らぬ者は無い言葉のやうであります。秋田地方にも此名はまだ殘つて居ることゝ思ひますが、少なくとも百餘年前の秋田風俗問?答書には、盆の十四日の未明に餅を搗いて供へるのを、曉ホウカイと謂つたことが述べてあります。岩手縣でも盛岡市と其周圍などは、現在はオホガエと敬語を添へで呼んで居りますが、もとは爰でもホカヒスルと謂つて居りました。寛政頃の著述に成る間人雜記といふ隨筆にも、「十三日の夕旦那寺へ、家内の者を引連れ墓參りし、煮染強飯など持行きて、墓の前に棚かき物を供するを、名づけてホカヰと謂ふ。雅にいへばホカフなどゝも唱へり。是は江戸に無きこと也。ホカイは晴天には墓所、雨天には佛壇の位牌の前へ供へたきものなり云々」とも説いて居りまして、此時代も今日と同じやうに、墓の前の祭を主として居た爲に、食物の殘りが土泥の上に散亂して、見苦しかつたらうことが想像せられます。
 この盆の先祖祭の樣式は、根本に於て全國ほゞ一致をして居るのですが、たゞ或一點に於て各地の差があります爲に、何か遠い田舍だけはちがつた事をして居るやうにも見られ、從つてホカヒといふ名稱を特殊なものゝ如く感じさせるのであります。文獻に傳はつて居る京や江戸の魂祭は、十三日の晩に墓に參つて、精靈を家の盆棚へ迎へて來るに反して、東北地方などは墓の前に棚を設けて、そこで食物を供へて來るといふのが大きなちがひのやうですが、是は石塔を建てる風習、乃至は靈魂の去來に關する考へ方に伴なふもので、同じものゝ一つの變遷であり、現在都會地に行はれて居る方が新らしいかと思はれます。墓を盆中の祭場とする例、即ち十四十五の兩日にも墓へ參る例は、たしかに又九州にも有りまして、東北地方だけの特徴ではありません。精靈は虚空から山の頂へ、それから水の流れを傳うて來るものとして、小川の岸に迎へ火を焚き、又は盆路作りと稱して、山から里へ下る定まつた小路の、草を苅(181)り拂ふ習俗も、まだ多くの山村には殘つて居ります。町では迎へ火と送り火とを家々の門口で焚き、直接に家の中の精靈棚に招請するやうになつて居ますが、本來は一旦墓標の在る所に、降つて來られるものと考へて居たので、それで必ず最初にこの墓の前の祭をする習はしであつたのが、後いつと無く墓から迎へて來るものゝ樣に、考へる人を多くしたのかと思ひます。
 
(182)   習俗覺書
 
 人に問はれて答へられなかつたことは出來るだけ永く覺えてゐるやうにしてゐる。それは必ずしもその人への義理で無く、かういふ不審の中にこそまだ發見せられぬ良い知識が潜んでゐると思ふからである。
 伊豆の大島で、人をニウといふのはどういふわけだらうときく人がある。まださういつてゐるかと私もちよつと驚いた。古い東京人類學會雜誌一一八號に、大島では男子をニウといふ。波浮の港では相手を見下した時に使ひ、その隣の差木地《さしきぢ》では、尊稱になつてゐるとある。古い言葉は段々と安つぽくなるのが法則である。幾らも例はあるが女房をオカタといひ、またはカカサンといふなども、ある土地では向うをあがめた呼び方であり、またある土地では馬鹿にした名になつてゐる。波浮は新らしい港の移住者の多い土地だ。だから在來の住民に對して、諸君のいはゆるニウといふ心持に使ふのである。すなはちこの語の古くからのものだといふことを示してゐる。
 
          ○
 
 同じ言葉はまた隣の新島にもあつた。こゝではニウは一般に男子のことで、それから小兒を小ニウといふ語も出來てゐるといふ。多分はあの男この男といふ、ヲトコに該當する語であらう。全體に日本人はこの場合に適當な語が無くて、きめ兼ねてゐる。ヲトコも失禮だし、アノヒトもよそよそしい。それでジンだのゴジンだのも起り、信州ではよくソノキミ・コノキミといふがこれも新語である。海岸地帶には弘く人をゴテといふ風があつて、それを御亭主の(183)下略と解する者が多いが、別に家長には限らず、たゞ相應な年配の男をいふのだからこれはあやしい。恐らくはテテすなはち父といふ語の修飾と思ふが、とにかく隨分と古い呼び方ではある。
 
          ○
 
 男をニウといふ語は伊豆七島の他の島、またその對岸地方にもあるのだらうと思ふが、まだ耳にした記憶が無い。安藤正次さんの度會郡方言集に、三重縣南端の穗原村などで、男子をヌンドといふとあるのが、少しばかりこれと似てゐる。あるひは島の方でも元はニウドといつたのが、ドは人の意とも解せられるから、取去つてもよいと思つたのではないか。
 
          ○
 
 前年洛北の八瀬へ遊びに行つた時に村で大切にしてゐる八瀬記といふ記録を一見したことがある。これはいろいろの舊い言ひ傳へを載せて終りの方に村のある時代の住民の名を列記してゐる。簡單には説明しにくい深い由緒があつて、この土地の人の名には國名が多い。その中にまじつてヌドウ播磨だの、近江ヌドウだのといふ類のヌドウが數十人もある。これは不思議といつまでも忘れずにゐたが、後に安原貞室の『かたこと』といふ書を見ると、その中にかういふことが書いてある。
 古入道をフルヌドウ、また平人の頭おろしたるを入道といふこと如何。剰へ書札の上書などに、誰入道誰と自ら書付けはべることはあしゝといへり
 それが惡いか良いかは別の問題として、とにかくこのころは誰でも頭に毛がなければヌドウだつたことがこれでわかる。平清盛と法性寺入道とに、今では入道は獨占せられたやうな形だが、以前は可なりこの名稱が民間に普及して(184)ゐたのである。さうしてわれわれは必ずしもこれを佛教信者とは思つてゐない。見越し入道などの影響かも知れぬが、背が高くてよく禿げてゐるやうな人を見ると、今でも時折は入道と呼んで見たくなる。またさういふ例も他で聽くのである。ところが吉野の北山郷などでは、ニュウドウといふのは子供の異稱で、ボウズといふのも同じ意味だといふ。坊主はなるほど今日では子供以外の俗人にはまづ用ゐないが、これなどもあるひはもつと弘い名で、親の古着を縫ひなほして、家庭では小兒の不斷着に着せてゐるやうなものかも知れない。何れにもせよ入道はかつてやゝ濫用せられたのであつた。それが殘つて伊豆の島などのニウ、伊勢の南部のヌンドにもなつてゐるのかも知れない。
 
          ○
 
 しかし頭に毛がもぢやもぢやと生えてゐる者を、入道と呼ぶはずは萬無いのだから、これもたゞ言語だけの奇現象では無い。ある時代には日本人の多くが、さう呼ばれても致し方の無い頭をしてゐたのである。これについては古く支那人が觀察して、偶然に確かな記録を殘してゐる。日本一鑑は三百八十年ほども前に出來た本だが、その中の窮河話海卷三に、當時の日本人の頭の格好を説いて、
 その王官民、今は皆髪を?し、たゞ左右後鬢の髪少許を存す。すなはち小髻を腦後に束ぬと書いてゐる。拙な文章でやゝ判りにくいが、また別の所にも、今まで倭寇の攻寄せて來た者を、誤つて倭僧としたのはこの爲であつた。彼らはなるほど髪を剃つてはゐるけれども、よく見ると左右と後との髪が、少しばかり殘してある。さうしてみると明末に彼邦へ進撃した日本人の多くは、前から見ると入道、または坊主と、まちがふやうな頭つきをしてゐたのである。
 
(185)          ○
 
 こゝに「其王官民」とある王は、著者が大名のことをまちがへてさう書いてゐるのだから、いはゆる倭寇ばかりでなく、日本へ來てみると上級の武士にも、さういふ頭の形が普通だつたのかと思はれる。私の實母は若いころに姫路の家老の家に奉公してゐた。それが珍らしがつてよく話をしたのは、當時の殿樣に頭を絲鬢に結うてゐた何某樣といふのがあつたさうである。絲鬢は人もよく知る如く、奴の頭に限るものと考へられてゐた。しかし明和安永ごろまでの繪本を見れば、奧平源藏でも渡邊數馬でも、若い紳士がすべて皆絲鬢であつた。この好みが段々と下流に高調せられて、たまたま律儀に昔風を守つてゐたある殿樣のみが目立つたのである。
 
          ○
 
 かういふ頭はもちろん二千六百年來では無い。如何なる必要がこの改革を促したかといふことは、歴史があるけれども知つてゐる人が少い。日本一鑑には二つの理由を擧げてゐる。その一つは理髪が面倒だから剃る。丸坊主にならぬ限りは手數は絲鬢でも同じことだ。第二には闘殺の際に髪が累をなすから剃る。これも小さくても髻がある以上は、やはりつかまれるから同じことのやうだが、實際喧嘩にはよくタブサを取られたやうで、なるたけ小さく後の方にしまつて置くのが便利だつたらう。大阪陣の繪などを見ると、すあたまの軍兵は皆髻を放して亂れ髪になつてゐる。しかしそのためだけに日ごろから、頭の八割九割をはだかにして置くといふことは、やはり通用せぬ説明である。
 
          ○
 
 私の想像は多分當つてゐるだらう。これは北條時宗といふやうな血氣旺んの若武者が、入道してゐた姿がひどく勇(186)ましく見えたので流行したのであらう。在家佛教の一つの考へ方、今はもう忘れてしまつた信仰の動機から、武人は大多數が壯年のころから沙彌の頭になつた。それが理論を離れて世の趣味となつたものと思ふ。月代の起りを兜を被るとむれるからなどといふのはちつとも信用の出來ない説明である。入道ではあるが生活は俗人だから、それで型ばかりに後の方に髻を殘した。といふことは子供の盆の窪に、少しの毛を剃り殘してそれをトトクヒゲ、すなはち魚を食べる毛といつてゐるのからも想像し得られる。とにかく元はお互ひが入道と呼び合ふほど毛が少なかつた。武士といへば皆大タブサにする映畫の歴史觀などはまちがつてゐる。
 
          ○
 
 頭のまん中を剃り出した、今一つの理由も話して見たいのだが、長さの都合でまたの折にする。これは鉢卷頬被りなどと關係した、やはり久しい歴史のあることなのである。
 
(187)   たのしい生活
 
 最近或雜誌に「文化の概念を明確にして居りもせずに、またその意味も理解せずに、やたら文化といふ言葉を使はれては困つたものだ」といふことが書いてありました。それに私は深く同感しまして、こゝでひとつ皆樣と共にこの問題を最も素人らしく取扱つて見ようといふ氣になりました。
 文化とは何ぞや。今頃このやうな問題を出しますのは子供みたいで、人から馬鹿かと思はれる虞れがあるといつたやうな感じを持つて、黙つて居る人ばかりが多くなるやうであつては、どうも國のために損であります。誰かが一人笑はれる役になつてでも、是非とも分らぬことだけは分らぬと言はなければならぬのであります。私の話は何だか言葉の問題になつてしまひさうでありますが、元來この「文化」といふ言葉は日本語ではございません。漢學者は或は文字の上に書いて使つて居つたかも知れませんが、少くとも「文化」は民衆の口にする言葉ではなく、隨つて耳で聽けば全く新しい言葉であります。それが二十年この方、殊にこの二三年來盛に使はれて、誰しも文化とは何のことだらうと思はずに居られなくなつたのであります。
 子供が初めて一つの單語を知ります場合に、誰も傍から辭書にあるやうな説明をすることはないのであります。それでも形のあるものでありますと、コップとか生花とか、又は目で見ることの出來る色であるとか動作でありますれば、三遍も續けて同じ言葉を聞けば覺えます。さうして、これによつて彼等の日本語といふものが組立てられて居るのであります。しかし形のないもの、考へ、又は感じとかに屬する言葉はさう手輕には參りません。それは、最も數(188)多く度々聽き、またその聽くことに伴つて四圍の情況を參酌して、徐々に外側からその言葉の内容を拵へて行くのであります。初めはぼんやりしたものが、だん/\纏まつて氣持や内容が解つて行くのであります。大人になつてしまふまではつきりとしない言葉はずゐぶん澤山あります。一生いゝ加減なところで獨り合點して居る言葉といふものもずゐぷんあるのであります。この文化といふ言葉は大切な言葉でありますから、さういふ風に皆樣が片づけらるゝことを好みません。少なくとも現在はまだ甚だぼやけて居るのであります。
 これは、一方に於てかなり自由に過ぎた言葉の用ゐ方をする人があり、一人々々勝手な解釋をして居る者があるといふことも原因でありませうが、まだ外にも何かむつかしい理由がないとは限らない。だから今日のやうに盛に文化といふ言葉が使はれ、この言葉が政治の上にも現れて來るやうになりますと、是非とも、これをはつきりと確定し、若しくは整頓するといふことが國のためにも必要なのであります。
 一つの例を擧げますと、私は五つか六つの頃に、丁度日本に「自由民權」といふ言葉が潮の如くに流れ込んで來る時代に遭遇致しまして、私の家は村でありますが、或日一人の若い博徒が泥醉して自分の家の門口に寢てしまつて動かぬ、それを立退かせようとして、内からも外からもいろ/\な人が手を掛けて起さうとしますと、その人が「自由の權だ」といつて呶鳴つたことを記憶して居ります。これが自由といふ言葉に對する私達の概念を頗る混亂させまして、何だか非常に厭な困つたもののやうに感じ、久しい間その時代の自由民權連動の首領であつた板垣退助さんに對する反感のやうなものが拔け切らずに居りました。文化については幸ひにしてそのやうな甚だしい濫用の例を經驗して居りませんが、今日のやうな廣い樣々の用ゐ方が續けられて居りますと、少くとも少年少女などは迷ふだらうと思ひます。
 初めて民間の人々が文化といふ言葉を毎日の會話の中で聞くやうになりましたのは、東京などでは「文化住宅」といふ言葉がいちばん著しい例ではなかつたかと思ひます。今日郊外に今でも殘つて居りますところの赤い瓦の家、お(189)臍みたいな小さなペンキ塗りの應接間を家の中に抱へ込んで居るのを文化住宅といふのが普通でありまして、少くとも、このこの言葉から受けた吾々の印象は、文化とは新しくしかも便利、手輕なるものといふ風な誤つた概念であつたかも知れません。またその頃からそろ/\と商人が多くの商品にこの名を利用致しまして、私の記憶に殘つて居るのは「文化障子紙」といふのがございましてパルプ製ではありますが、今までの障子紙よりは色が白く、貼つた當座の感じは美濃紙などよりは明るい。勿論丈夫な點に於ては遙かに劣りますが、どうせ東京などでは田舍の如く切貼りをしたり、繼ぎを當てたり致しませんで、一年一遍づつは全部貼替へるのでありますから、その點を考へますと、持ちが惡くても文化障子紙の方がおコ用といふやうな意味で、この言葉が障子紙に用ゐられたのであります。
 それからいま一つは、これもあなた方はもうお聞きにならないでありませうが「文化縮緬」、これはまだ白縮緬の兵兒帶を男はぐる/\と體に卷いて居りました時代に、その代用として稍よく賣れたものでありまして、ちよつと見掛けは新しいうちは、本物のやうに見えますけれども、實は木綿の所謂瓦斯絲といつたやうなもので織つたものでありまして、かなり厭な胡麻化し物であります。困つた名を附けたなと思つて居りましたが、兎に角この言葉の用ゐられる初期に於きましては、大體に稍目先の變つた、算盤づくでいへば幾らかコ用な、大いにこれから宣傳しようといふものに文化何々といふ名を附けるのが普通でありまして、まだ殘つて居るかも知れませんが、毛絲でぐるりと袴みたいに拵へた腰卷を「文化腰卷」といつて居りました。その前には改良何々といふ言葉をよく使つて居りました。これがあまり古臭くなつて、その代りにこの言葉が出來たと思はれるのであります。
 要するに、元は文化といふのは新しいもの、當世向きのもの、惡くすれば輕薄に流れやすいものの名前でありました。それが一つの言葉でありながら、いつの間にか推し移りまして、今日ではもう餘程違つた内容を持つことになつて居るのでございます。文化を新しいひとつの生活樣式、新しいものの伊達の名前とすることは、今ではもう許されないことでありますが、而もそれには歴史的の根據があるのであります。たとへは明治の初年に於きましては「文明(190)開化」といふ言葉を、盛に使つて居りました。これは明かに所謂日本的でないものを名づけて居つたのであります。つまり昔からの舊式に對する一つの名稱であつたのであります。たとへば、ちよん髷は舊式、ざん切りは文明開化といふ風に使つて居りました。ですから「ちよん髷頭を叩いて見れば、因循姑息の音がする。ざんぎり頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」といふ唄があつたやうであります。素人は、さういふ文明開化といふ言葉の前後をとつて文化となつたやうに考へ勝ちなのであります。即ち何れにしましても、言葉そのものが既に新しいのであるから、これを古くからあつたものに對する名前とするのは少しも無理ではございません。私なども實を申しますと、その考へ方に馴らされて居りまして、今日いろいろな意味に於て文化といふ言葉を使ひますけれども、寧ろさういふ風に新しいもの、現在のものといふ風に決めてしまつた方が便利なやうにも考へたこともあるのであります。併しながら新たに西洋の學問をする人は、これでは承知を致しません。文化といふ言葉が外國のカルチュアとかクルツールとかいふ言葉の飜譯であることをよく知つて居ります故に、斯樣に新しいものだけの名前にしましては、寧ろ學問のある人が承知をしないのであります。今日の新しい生活振りが、若し文化生活であるならば、古くから國に備はつて居つた時代々々の美しくしてまた懷かしい生活樣式も他の一つの文化でなければならぬ。そのやうな意味をもつて、御承知の通りもう久しい以前から桃山文化とか天平文化とかいふ言葉が出來、その最も現代的なるものを特に新文化と申しまして、所謂新文化運動といふものが、始まつて來たのであります。しかしさうかと思ふと、他の一方に於てはその新文化を體得した者、その新文化を有難がつて居る者を特に文化人といつて、決して昭和文化人とも新文化人とも申さない。或はまた昔を顧みないで自分だけの近世風の生活をすることを、文化生活といふ言葉も盛に起つて居りまして、かういふ場合に於ては、文化人とか文化生活といふ言葉を使ふ時だけは新しいのを、文化と言つて居るのであります。さうしてもう近頃になりますと、昔の學問だけをして居ると、何が何だか實は分らなくなつてしまつたのであります。
(191) この混亂から彼等多數の同胞を救ひ出すがためには、私は是非とも次のやうな點を明らかにする必要があると思つて居ります。その點は何かといふと、國に同時に二つ以上の文化が併立し得るかどうか、古い文化を片づけてしまはなければ、新しい文化を打建てることが出來ないものか、それとも、古い文化はそこに置いて、新しい文化を建てるといふ事が出來るか、この問題は至つて簡單で右か左かでありまするけれども、答へはなか/\さう手輕に「うん」とも「いや」とも言ひ得ないのであります。學者といはれる人の中にも、多分即答の出來る人は少からうと思つて居ります。既に天平文化、桃山文化などの名が認められる以上は、明治文化乃至は昭和文化といふべきものもある筈でありますが、それらが銘々の領域をもつて、あなたは明治文化でございますね、私共は昭和文化でございますといつた風に、銘々の領域をもつて、各多かつたり少かつたり、三分の一だつたり、二分の一だつたりする人々を支配することが出來るものかどうか、將又古くからある文化の上に、新しい文化がすつかり葢さつてしまふものであるかどうか、或はそれは誤つてゐるといふ人があるかも知れませんが、私共はこの新舊の文化の調和若しくは混淆といふことを想像して居るのであります。即ち新しい文化の中に、古い文化が吸收せられ捲込まれてしまふといふことはあつても、或時代に二つも三つもの違つた文化が竝んで競爭するといふことはないと思つて居るのでありますが、果してどういふものでありませうか。即ち時代といふものが若し色分け出來るものであつたならば、世の中がだん/\進んで二千六百年となり二千七百年となるほど、この古い文化と新しい文化の色の織模樣といふものが、一段と綾が細かくなり、隨つて美しくも亦微妙にもなるもののやうに思つて居るのでありまして、民俗學といふ私のやつて居ります學問は、實はこの細かな綾模樣の中からどの部分が古いか、どの部分が新しいか、といふことを見て行つて、昔を尋ねて行く學問なのであります。昔のものが殘つて居るのか、混つて居るものかといふことは是非とも決めなければならないが、むつかしい問題であります。これは文化の永續性といふことの問題になります。文化は全體として一つの凝りとして、何時までも殘るものか、つまり鎌倉時代に吾々が養ひまた發揮したところの一つの美しい鎌倉文化なる(192)ものは、如何なる年代を通してでも鎌倉文化として存在するものであるか、若しくはまた元の分子に戻つて現在の吾々の住んで居る時代の文化の中へ織込まれて行くものであらうか。過去に一つの統一した文化の域に達して、それを樂しみもし味はひもしたところの民族が、新しい文化運動が起つたからとて、一朝にして、この古く祖先以來持ち傳へて居るものを棄ててしまふ筈はないのであります。抱へて持つて居るか、混ぜて持つて居るか、何處かに持ち堪へて居ると想像してよからうと思ふ。即ち私等の考へて居りますところでは、古い文化の中で吾々が變へた方がよからうと思ふ分だけを變へて、人によつてはその變へ方に無論多少の部分的違ひがありませうけれども、その他は變へずともよろしいと思つたものだけは大事にして居るものと私たちは見て居るのであります。
 さうなつて參りますと、こゝに初めて文化を作り上げた一つ/\のエレメントといふ問題が起つて來る。さうしてまた二つ以上の系統に屬する文化の比較の問題が起るのであります。各人一人々々としても、又は國民全體と致しましても、取捨選擇といふことが問題になるのであります。これを、採長補短といふ言葉で言ひ現して居る人もありますが、これがあつて初めて歴史の囘顧、歴史を學び過去を振返つて見るといふこと、若しくは、人間の生活が仕合せであつたか仕合せでなかつたかといふ幸不幸の判斷が可能になつて來るのであります。あゝまで古いものを棄ててしまはなくともよかつたらうに、これは明治の時代に對する吾々の歴史的囘顧であります。もう少し考へてから、新しいものを採つたらよかつた、これは最近の新しい社會運動などに對する吾々の囘顧であります。かういふ感想は現に毎日のやうに吾々の胸の中に湧いて居るのであります。
 次に二つ以上の民族の持つて居る文化、たとへば印度の文化、支那の文化、日本の文化、かういふ二つ以上の民族文化といふものはもともと成立も、條件も違つて居るのでありますから、日本人なら日本人といふ一つの民族の文化の天平、鎌倉、桃山といふやうな時代の差よりも遙かに大きな隔たりを持つて居る筈でありますが、それでも今日の如く互に接近して、少しづつ相手の生活が分つて參りますと、やはり同じやうな文化の入り混りといふことが少しづ(193)つは起つて來るのであります。さういふ中でも東洋の諸國は一時稍無分別に他國の――殊に西洋の文化を尊信しまして、片つ端から採用してもよいやうな心持をもつて居たことがあります。それが一方に於て文化といふ言葉が新しい日本語であるといふ事實と、絡み合つて、實は舶來でないと文化でないやうな怪しからぬ誤解をした人さへあつたくらゐであります。今日はもうその誤りに心づきました結果、急に警戒するやうにもなりますれば、また消極的には所謂文化相剋、二つの文化は併立しないといつたやうな文化相剋の必然性といふものを高く唱へる原因ともなつて居るのであります。吾々の文化を人に押附けなければ、人からの文化によつて抑へ附けられるといつたやうな文化相剋といふ考へ方が起つて來たのであります。しかし私などは、或はこれも反對を受けたり、批評せられたり、訂正せられたりするところかも知れませんが、これについて幾分か裕りのある氣持を抱いて居ります。
 國の利害が絡まつたり、若しくはお互の知識の缺乏が手傳つたり致しますと、二つの異つた民族の文化は先端に於て衝突致しますが、もと/\同じ現代に住む同じ人類であります以上は、さう/\は違つた見當に向つて走つて居ることはない。たとへば極く開けない野蠻人であつても、親の子を可愛がる情は變らない、夫婦の情は變らない、況んやお腹が空いて物が食べたいといふ氣持が變るわけがない。さう致しますと、お前は西の方へ向つて行くが、私は東の方へ向つて行くといふほどの見當違ひはないわけであります。少くとも各時代毎の天平文化、鎌倉文化等が調和しますやうに、土地を異にする二つ以上の文化もいつかは折合ふことが出來るかも知らぬと思つて居るのであります。たゞどの程度で折合ふか、どこを境目にして二つのものが繋ぎ合ふかといふことになりますと、これは容易ならぬ問題であるだけであります。これも後世の人が歴史的囘顧をしますれば、どんな無經驗な人にも自然判斷が出來るのでありますけれども、何分にも目の前の自分の生活、利害と絡んで居る問題でありますがために、迷ひが多いのであります。さうしてその迷ひから往々にして取返しのつかぬやうな結果を生むのであります。注意して國の歴史を學ばなければならないといふ必要はこゝから起るのであります。昔あゝいふことをして縮尻つた、かういふことをして成功(194)したといふことが歴史に書いてあるのでありますが、その歴史に徹して、過去の文化の調合にどれだけの失敗があり、どれだけの成功があつたかといふことを見る必要があるのであります。さういふ中でも日本は殊に歴史の中にこの例が澤山殘つて居ります。王仁が千字文を獻上したり、聖コ太子が佛法を御推奬になつた時から今日に至るまで、何遍も外國の文明を採り過ぎたり採り足りなかつたりして來て居るのであります。最近の鎭國時代はまた極度に外國のものを斥けたのでありますが、その一つ以前の足利時代は何でも彼でも支那から入つて來たものを尊び、支那の文化を學ばうとしたのであります。よかつたこともあれば、勿論惡かつたこともあります。明治の初年はやはりそれであります。吾々は歴史を徒に國が立派だといふことだけで學んではいけない。今が昔より非常に有難い時代であるといふことを知るためだけに學んではいけないのであります。これから先の文化の調合といふことについて、他に參考になるべき資料はない。失敗につけ、成功につけ、歴史の跡を見るより吾々の參考になるものはないのであります。
 さて、かうして文化といふ言葉が我國に生まれ、また段々とその内容を變へて來た跡を見ますと、もう吾々はドイツ語でいふクルツールといふ言葉が文化であるといふやうなことは止めなければならぬのではないかと思ひます。日本語として、文化といふ言葉に對する吾々だけの言葉の意味を附けなければならぬのぢやないかと思ひます。學者によりましては、クルツールといふ積りでこの言葉を使つて居るかも知れませんけれども、多數の日本人は決してさうではないのであります。殊にこのクルツールといふ言葉につきましては、向ふでも學者の解釋が必ずしも一致して居ないのであります。人によつては違つた説明をして居る人が幾らもあるといふ話であります。こちらでは丸つきりそんなことにお構ひなしに、銘々の解し得るやうに考へまして、それがいつとなく時代の力によつて、自ら一つの解釋の方向へ纏まつて行かうとして居るのであります。また一日も早く吾々のこの言葉に對する知識が一つの所へ一致することを望まなければなりません。若しさうしなかつたならば、同じ文化といふ言葉を明けても暮れても使ひながら、一人々々の思惑が違つて居るやうなことでもありましたならば、澤山の議論は悉く無駄になつてしまひ、また面倒臭(195)くて仕方がない。お前はその積りで文化といふ言葉を使つて居たのかい、私はさうでなかつたといふやうなことがあつては、手續ばかり面倒臭くて仕方がない。そこで元へ立戻りまして、もう一度一つの國、一つの時代の文化といふものがいろいろな種類の文化であつてもいゝものかどうかといふことを問題にしなければならないのであります。
 全體吾々は新しい言葉を尊敬するの餘り、幾分か流行言葉を濫用し過ぎる。先程申上げた文化住宅の例などもその例でありますが、旅行文化、紙芝居文化といふやうな言葉すらも新聞などに見えて居るのであります。而もその一つ一つのものに特殊の文化があつて、他から獨立すべきものだといふやうな感じを一應は人に與へますが、そんなことがあつて堪るものではないのであります。そんなに一ダースも二ダースも文化があつては堪るものではないのであります。これは何としても文藝なら文藝、旅行なら旅行といふ側から見た今日の文化といふ風に解するのほかはないのであります。もともと先程も申しました如く、まだ目鼻もはつきりしないやうなぼんやりした大きいものでありますが故に、一方旅行なら旅行、文藝なら文藝といふ面からいひますと、その面だけが稍はつきりして平たく擴る、といふことはありますけれども、それが爲にそこだけ切離してお餅やお菓子のやうに、はい旅行文化、はい文藝文化と分けるわけには實は行かないのであります。さういふ別個の文化が幾つも/\生まれるといふことはあり得ないとわれわれは考へて居るのであります。これが恐らくは今後問題になるであらうと思ひます。私はそのやうな文化といふものはこぢんまりした幾つもに切離されるものではないと思つて居りますが、或は分けられるといふ人が出て來ないとも限らない。この問題はお斷りするまでもないのでありますが、必ずしもあなた方が私の言ふことを御信用になる必要はないのであります。ただかういふ問題があるといふことだけお記憶になつて、これから先かういふ點に注意して、大體考への纏まつた時分にいろ/\の先輩の意見を聽いてから後に、おもむろに御自分だけの文化といふものの判斷をお決めになればいいのであります。ただぼんやりと生きてゐてはいけない。こんな大事なこと、國の政治にまで影響するやうな大切な言葉を内容はどつちでもいゝといつたやうな心持で生きて行つてはいけない。どちらかに決(196)心はして居らなければなりませんが、私の意見にお從ひなさいといふのでは決してありません。これは而も相當に重要な岐れ目でございます。これから先日本の運命を決めるといふやうな重大な岐れ目でございます。若しも私が考へて居りますやうに、文化は、或國の或時代に於ける新舊内外さま/”\なる生活樣式の調和した?態、若しくは配合した?態の名であると致しますと、今日言ふところの國防文化、若しくは戰爭文化などといふ言葉の考へ方といふものが大分また變つて來なければならない。これだけが獨立した一つの文化であるといふ見方と、或一つの纏つた側と見る見方とは議論がまるで違ふと見なければならないのであります。
 さういふ中でも私などの最も氣にして居りますのは、最近全國の隅々に於て一齊に起つて來たところの地方文化、地方獨自の文化といふ言葉であります。これはまつたく近代の文化が都市文化の行過ぎである、即ち都市を本位とした展開ぶりであることに對する警戒でありまして、それを突き詰めて參りますと、人に依つては現に都市文化に對立した地方文化といふものがあるかの如く唱へて居るのであります。さういふものが實際日本に嘗てあつたであらうかと私だけは大に疑つて居るのであります。都市の膨脹といふことは成るほど新しい一つの特徴でありまして、その爲に政治、經濟の力が悉く都市に集中し、隨つて明治以來の新舊内外の文化の調和、接觸混合する割合といふものは都市人の好み通りに決まつたことは事實でありますが、遠い歴史を遡つて見るまでもなく、日本の大都市といふものは何れも田舍者が拵へて居るのであります。今でも人口の三分の二も四分の三も、田舍で生れた人が都市の人間を作つて居るのであります。お父さんの代から東京に住んで居るといふ方は、もう既にこの中でも半分ぐらゐしかないでせう、お祖父さんが既に江戸人であつたといふやうな人は十分の一か七分の一かに減じて行くでありませう。京都のやうな古い都會でありましても、京都市民の大部分は田舍者の血液に依つて始終補充せられて居るのであります。貴族の家々なども、近世の系圖がはつきり分りませんけれども、調べて見れば直ぐ判ることでありまして、母方の統からいくらも新鮮な田園の感覺といふものを注入して居るのであります。これは少しく系圖を調べて見れば皆判ることで(197)あります。日本ほど都會と田舍の差別のなかつた國は少いのであります。しかし居住の形式――長屋にごちゃ/\住むとか、空地のないところの二階住ひをするとかいふやうなこと、また職業の違ひなどは大きいことです。田舍では米を作つて居るから何とも思はないが、米を作らないで買はなければならんとすると配給の切符に血まなこにならなければならない。または政治、財政の力に依つて都會の人間、田舍の人間といふものは人一代も經たないうちに二つに分れてしまつたのであります。そして新しい文化の綾模樣を作る上に於て都會を本位にした選擇といふものが強く加はるのであります。若しも國全體として、日本全體としてそれが面白くないことでありますならば改める方法は幾らもあらうかと思つて居ります。過去に於て町といふものは田舍の人で作つたといふ事實、所謂京に田舍ありで、田舍といふものを持つて來て京に住ませると、それが京の人になるのだといふこの事實を知つただけでも、今日のやうな偏つた所謂都市文化といふものも抑制せられ得ると信じて居ります。遠慮のないことを申しますならば、都會といふものは元來日本人全體の爲に良き新しき文化を味はふところの機關なのであります。手段なのであります。これが若しも不幸にして生産者と消費者、商人と買手といふやうなものの對立に依つて互に相背いて、一方が立てば一方が立たない、一方がうまいことをすれば一方が損をするといふ風に、兩立しなくなつたとしますれば、どうなるか。尤もさういふことは田舍にもある筈であります。何となれば今日は田舍にも少數ながら都會に住んで居るやうな生活をして居る者が居るのであります。所謂月給取といふものがそれであり、酒屋であるとか、肥料星であるとか、小賣商人であるとか、飲食店、客商賣といふやうなものは、どんな田舍にも皆あるのであります。而も地方文化といふものが一たび唱へられまするや、彼等は皆それに刃向はずに全體の地方文化の中に喜んで入つて居るのであります。都市文化に對立するなどといつて、實は地方の小さな町の方の人間が澤山その中に居るのであります。かういふことが出來るとすれば、大都會であつても、やはりもう少し地方的な所謂質實剛健な文化に調合の仕方を變へ得られるわけなのであります。これが出來ないで今日まで來たといふことは、要するに政治の問題であるといふよりも、政治家の注(198)意が、足りなかつた爲であります。歴史を讀まなかつた爲であります。或は西洋の學問ばかりに偏つて居つた爲、といつても宜いかも知れないのであります。西洋ではギリシャの昔から文化は城壁の中に起りました。城壁の中に住んで居るところの人間は代々の都市人であつた。城壁の外には違つた種類の生産者が住んで居つた。隨つて町から出て行つて外のものを買入れたり、若しくは中のものを賣りつけたりする場合の態度が二つの社會のやうな感じを與へる。市民が城壁の外に住んで居るところの人口を統御し得た國といふものは西洋に行けば多いのであります。支那にも幾らもありませう。かういふ國々の知識を餘り多く取入れた爲に、日本自身の歴史を忘れて居るのかも知れません。
 それで若しも成行きとか、行き懸りといふものにすつかり參つてしまはなければならない時代でありますならば、かういふ新しい根本的なる文化改造といふことも或は望まれないかも知れませんが、それでも尚志のある者だけは、出來ないまでもヴィジョンを胸に描いて、未來はゆく/\かうなるといふことを念ぜずには居ないのであります。況してや今日は一つ改めて見ようぢやないかといふ氣特の漲つて居る時代なのであります。また過去に於ける經驗を振返つて考へて見ることの出來る學問が起りつつある時代なのであります。さうして都會人と田舍人とは事實に於て兄弟であり、また從兄弟なのであります。『都市と農村』といふ書物を十年ばかり前に私は書いたことがあります。少し文章が難かしいといふ評判がありましたが、その中に大體この間題は書いてあります。町に住んでゐる田舍人が自分の郷里を粗末にすることは決してない。寧ろ粗末にしな過ぎるくらゐなのであります。郷里といふものに對しては非常な親愛の情を持つて居るのでありますが、如何せん都會には方々の田舍から來た人が一緒に住んで居る。さうして自分の郷里以外の田舍に對しましては抑へつけてやりませう、騙かしてやりませう、うまくしてやりませうといふ者へが入り混つて居る。地方の方でも排他心といふものは常にあるのであります。自分の村と隣の村との利害衝突があれば、無論隣の村を抑へようとする。他所から見ず知らずの者が來れば非常に冷淡な態度を取るといふことは今だつてあるのであります。これは一國全體がかうやつて結合して居る以上は止めてしまはなければならないのでありま(199)すが、まだ殘つて居るのであります。やゞ都會はそれが目につくのであります。自分の郷里の者に對しては、おばさんよくお出でなさいましたと言つて五日も七日も逗留させて置くやうな家でも、何處の田舍者だか分らない者に對しては儲けるだけ儲けてやりませうといふ氣になる。といふのは田舍に居る時分には自分の倉には米が幾らある。米櫃にどれだけあるといふやうに分つて居るが、都會で明日は米の切符で何升來るか分からないといふ?態にあつては、少しでも儲けて田舍を從順にして都會の方の下僕としようといふやうな氣持が今日まで續いて居つたのであります。
 これが三府を初め大きな都會の一つの政策であつたのであります。こんなことを以て一國の文化を都市文化と地方文化の二つに分けられては堪つたものではないといふことをお話したい。
 兎も角もあなた方のやうなこれから先世の中を支へて行かなければならない人々が、この説にかぶれて都市と地方との二つの文化が對立するかのやうに、永久に對立しなければならないかのやうに、また過去にも對立して居たかの如くに考へることは事實に反するばかりでなく、また非常に損なことであります。國の爲に町を良くする望がなくなるのであります。さういふ氣に今の人がなつて來た因を考へますと、詰りは文化が一國の一時代に幾通りもあつて差支へがないといふやうな誤解から出發して居り、もう一つ遡りますと、われ/\が言葉ばかりを尊重して、文化とは何ぞやといふ子供らしい疑問を懷いて見ようとしなかつた結果であります。
 そこで改めてもう一度率直に、文化とは何ぞや、文化とはどういふものか、これが、お互の毎日の暮しの上に如何なる交渉、如何なる關係を持つかといふことを考へて見る必要を感じます。あなた方もお考へにならなければならないであらう。私は文化といふものはコンプレックス(複合體)であらうと思つて居るのであります。新舊サマ/”\な分子の現在に於ける調和?態の名前だと思つて居るのであります。これを新たにすると言ひ、又時としては、極端な言葉を使つて、新文化を創造するなどと申しますのも、實はこれから或部分の分量を少くしようとか、或は今までなかつた若しくは微弱にしか混つて居なかつたものを、もう少し濃く入れよう――これは、織物の譬話をするとよく分(200)るのでありますが、たとへば青の絲が少なかつたから今度は餘計入れようとか、紫の絲は厭味だからこれを成るたけ少くしようといふやうなことなのであります。大いに文化を改造しなければならないといふのは、要するに昔あつた部分をもう一遍そこを強くする、若しくは今まで用ゐなかつた部分を澤山に入れるとか、詰りは調和の仕方の變遷を考へて宜しいかと思ひます。これは政治の力を持つて居る人々の心得方に依つて時としては巧妙に、また時としては拙劣にもなりますが、しかしながら大勢といふものは變りません。始終少しづつ變るといふこともどうすることも出來ないが、結局は行くべき方向に向つて進んで行くといふことも變らない。言葉を換へて申せばさう大きな無理は出來ないと私は考へて居ります。ただ豫めこの文化の調合の變つて行くところの法則を心得て居ると否とに依つて大きな違ひがある。しないでもいゝところの大きな失敗を免れることが出來たり、若しくは非常な面倒をかけて漸く到達することが出來たものを簡單に手に入れることが出來たり、これから先樂しく人生を生きて行く上に於て非常に大きな損得があるのであります。即ち文化とはどうあるべきものであるかといふことを更に今から研究して置かなければならぬのであります。さういふ結論になると私は思ひます。文化は斯の如き複雜なる複合體でありますが故に勿論簡單なる定義を下すことは出來ないのであります。また人に依つてはいろ/\の見方をするかも知れませんが、私などの考へて居りますのは、如何なる戰亂の時代に於ても文化は、やはり平和的なものだと思つて居ります。こんな恐ろしいやうな非常時に於きましても、われ/\の守り通して居り、また何としても失ふまいとして居るところのものは一國全體の平和であります。國内同胞の間の親睦であります。また現に國内で戰さが行はれて居りません結果、少しも國の文化はその爲に破れては居らないのであります。われわれの文化は寧ろ戰亂の最中に成長しつつあるのであります。しかしながら戰亂の最中に成長しつつあるからといつて、文化は戰亂的のものであるといふことは出來ません。陛下の御稜威に依つて斯くの如き國歩艱難な時代にすらも、われ/\は尚この文化を進めることの出來る境涯にあることを喜ばなければならないのであります。またわれわれが仲好く平和に暮すといふことに依らなければ、文化を現(201)在の?態に保つことすらもことによると出來ないのかも知れないといふことをよく考へて見なければならないのであります。
 もう一つ皆さんに是非説いて見たいと思ひますことは、文化は如何なる場合に於ても樂しいものであるといふことであります。樂しい生活、この世の樂しみ――昔の人の言つた言葉で、今日われわれの言ふところの文化といふ言葉に近いと考へて居ります。樂しい生活こそは文化の本來の姿であり、それをもう一段とより高くすることが文化の向上となるものだと私などは思つて居ります。お斷りをして置きたいのは、この「たのしみ」といふ日本語が西洋の學問が入つて來てから少しづつ意味が違つて來まして、現在はよほど個人的なものになつて來ました。「おたのしみ」などと言つて、人のことを言つて、自分の樂しくない時に言ふやうに、銘々のパーソナルなものになつて來たのであります。個人的な快樂、英語のインディヴィデュアル・プレヂュアーなどといふ言葉は、或ものの苦しみから初めて得られるやうにも考へ勝でありますが、皆さん文獻の中から注意して用例をお探しになつてごらんなさい。日本語の「たのしみ」といふことは、多數の人が一緒になつて喜び合ふことを意味して居るのであります。また日本人ぐらゐ素直に皆と樂しみを共にすることを願つた民族はないのであります。昔私は或東海道の町の非常に大きな祭禮を見物に參りました時に、道端に汚い筒つぽの着物を着た中年の婦人が一人電信柱の傍に立つて居つた。さうして祭を見ながら口の中で何かぶつ/\言つて居るので、何を言つて居るのかと好奇心に驅られて、何氣ない顔をして側を通つて見ましたところが、その筒つぽのおかみさんはお祭の囃子と唄を口の中で歌つて居るのであります。行列の囃子について唄を歌つて居るのです。私はその時つく/”\感じました。女はお祭の時には蔭に廻つて臺所でご馳走を拵へることが專門のやうになつてしまふものだ。それでもお祭はいやだと言ひませんで、ちよつと暇があると平常着のまゝで外に出て白粉を塗つた若い衆の顔を見ながらお祭の唄を口ずさむ。かういふ心持は氣をつけてみますと、いろ/\の方面にある。國の零細な資力を集めて金色燦然たる佛堂を造り、御殿を造る。若しくは百姓の租税を集めて雲に聳え(202)るやうな城廓を建てた場合、極く僅かばかりのものを負擔した人間が一緒になつて、私もあの中にお金を出して置いてよかつたと言ふのであります。一丈五尺もある大きな吊鐘を造つた時に、ちつぽけな鏡を出した者がそれを仰いで、私のもあの中にはいつて居ると言つて喜ぶ氣持、自分の微小なる力がその中に加はつて居ることを讃嘆する氣持、これが日本人らしさの氣持であります。都市の文化に對してもわが都、自分等の都だといふ氣持を持つ。自分は邊鄙な何の恩惠も受けないやうな所に住んで居りながら、一生に一度はいろ/\工面して都見物に行つて、これが自分の讃へて居る都だと思つて見て居つたのであります。自身が恩惠を受けると受けないに拘らず、たとへば自分等の都については外國人に、また自分達のお城については他郷の者に誇るのであります。幸福を犠牲にしたといふよりも斯くの如く自分のものと考へる氣持がやはり恐らくは本當の一つの樂しみであつたらうと考へます。この無邪氣なる共同の仕事に對する渇仰、隨喜といふものを惡用するのはひどいのであります。これを何とか改革してもつともつと國全體の樂しい生活に貢獻し得るものとしなければならないのであります。「可哀さうに田舍者は……」と口では言ひますが、これは多くは輕蔑して居ることを意味します。淋しき村の生活をして居る者を本位とする文化改造といふことは、地方文化を唱へる結果なのであります。この地方文化は何處までも發育させなければなりませんが、ただこれに對する都市文化を必然的なものとして、もと/\兄弟、從兄弟であるところの兩方の住民を相闘はしめなければならないといふことは非常に間違つたことなのであります。若しくは非常に損なことであります。かういふことを私は皆さんを通してこれからの全國の若い人々に心づかせたいのであります。
 
(203)   知識と判斷と
 
          一
 
 女は昔から、いつも一ぱい/\の生活をして居る。用が無くて困るの、退屈でしかたが無いのといふことは、いやな一種の職業の者以外には、先づ訴へることの無いのが女の常であつた。それにも拘らず、時代の緊迫した必要とあれば、新たにモンペをはき行列に加はり、男に代つて世の爲人の爲に働かうとするのみならず、更に此頃は莫大な讀書をして居る。どうして其樣な時間を捻出することが出來たらうかといふことが、自他ともに興味ある問題として、考へられずには居ない。無論その爲には夜の睡りをちゞめ、親類知友と談り合ふ時間を儉約し、殊に物見遊山を體力増進の最少限度に制限して居るにちがびないが、それにしたところで、めい/\の思慮分別、ほんの僅かな心付きや御手本によつて、右から左へ又はより大きな效果へ、向けかへるだけの餘裕が、女には有つたのだといふことが經驗せられたわけである。いはゆる生活のむだは男にもある、といふよりも男の方が多かりさうだが、何だかんだと改良を拒まうとする行掛かりが強い。女は之に反して目立たずに又すなほに知らぬ間にかへて行く能力が、まだ自然に備はつて居たのではあるまいか。もしさうだとすると、このすばらしく展開しなければならぬ時勢の變り目に處して、我々の期待は一段とたのもしくなると共に、今まで只いゝ加減に過して來た半世紀の女子教育がしみ/”\と惜しかつたやうにも思ふ。但しやたらに外から干渉しても效は無いであらうし、又さうする力も私たちには無い。しひて自分(204)の説の無責任でないことを證明せよとならば、幾分か縁の遠い讀書の選擇ぶりをでも、問題にして見るの他は無いのである。
 
          二
 
 書物を精神の糧食といふのは古くさい譬喩だが、女で無くてはこの比較を徹底することは出來ない。本を久しく讀まぬが爲に、感ずるところの心の飢ゑとは何であるか。もしくはこの無形の食物の、何が滋味であり又榮養であるのか。それを前以て考へて見ずに、たゞ含り食ふのは豚も同じで、見苦しいばかりか毎度むだになる。昔は女の讀む本がをかしい程も少なく、家にあるだけのものを二度三度、くり返して讀んで居てもまだ足らぬやうであつた上に、それが親代々のきまりのものばかりなので、ちやうど農家の毎日の食事も同じ樣に、殆とえり好みの餘地などは無く、それが又一つの癖となつて、書いたものさへ見て居れば、勉強家と言はれるやうな時代が、久しく續いて居たのはあぶないことであつた。
 書物の絶對に有害又は無益だといふのが、今はもう有り得ない世の中にはなつて居る。しかしさう言つたところでなほ順序はあり、必要の程度の大小はあり、又は各自の境涯によつて、向くか向かぬのちがひといふものは必ずある。目につき耳にはひる書物を片端から、讀み盡すといふことが望めないとすれば、どうしても其中から是は是非讀まう、あれは殘して置いて問題の出たときに、もしくはよく/\讀むものの無いときに、出して見ようといふ位の選擇があつてよいのだが、外部にはさういふ指導をする力が、正直のところ今は甚だ弱いやうである。何よりも不用心なのは書物の流行で、人が三人五人と熱心に讀み耽つて居るのを見ると、それを知らずに居てはおくれるやうな氣がするけれども、そんなのは大抵娯樂の書であつて、どちらかといふと本當の讀書を、妨げて居るものが多いのである。食物でいふならば「おやつ」に相當する甘いものが、今日は少し餘分に供給され過ぎて居る。是を大切な三度の食事のや(205)うな讀み物との、見境ひをつけずに居ることは、食傷にはなつても、心をすこやかに成長させる手段としては足りない場合が多いのである。
 
          三
 
 讀書を單なる慰安休息の用に供しようといふ人たちには、私は又別の説き方を持つて居るのだが、それは今日の時勢としては問題が小さい。それよりも大きなことは本さへ怠らず讀んで居れば、いつかは賢くもなり、又立派な人にもなれるものと、昔風に安心しきつて居て、しかもその順序といふものを、少しでも考へて見ようとせぬことで、しかもさういふ人の數が段々と多くなつて居るらしいのである。この澤山な精粗さま/”\な書物が、毎日のやうに町に溢れて出る世の中に、あても計畫も無くたゞ評判を聽いて、得やすいものから又は面白いものから、讀んで居るやうでは、弊害はたゞにいつまでも無學で居るといふだけでは無い。さういふ流行の爲に忘れられ、省みられずに終るべき歴代の善い知識が、現に幾らとも無く我々には拾ひ上げられるのである。たとへば、祖母や曾祖母や又その母の頃の女性の生き方は、もとは至つて普通の者までが一通りは知つて居た。知つても其通りの眞似はしなかつただけで、今と昔とのちがひには皆心づき、之によつて先祖の勞苦を察し、同時に新しい大御代の恩澤を、しみ/”\と感謝することが出來たのであつた。ところが書物にはさういふことを記述したものが、是まで少しも出ようとしなかつたのみか、之を想像して比較をして見るだけの、方法さへも與へられて居らぬのである。本ばかりを當てにする今日の娘たちの、是が氣の毒な一つの弱點になつて居る。是と近い弱點は決して二つや三つでは無いのである。
 そこで讀書を中心にした修養の方式といふものを、新たに考へ出す必要があるのであるが、私などの傳授は、或は少しばかり片よつて居ると言はれるかも知れない。娘の時から詩人にならう、哲學者にならうといふ類の志を立てる人たちには、もつとちがつた計畫があるべきであらうし、さうで無くとも女でも獨立して、一つの職業の道に進まう(206)といふには、男とちつともちがはぬ經路を取らなければならぬかも知らぬが、男の職業などは、實は今までの歴史的事情から、少しくきめられ方が早過ぎるのである。それ故に自分の境涯に不滿を抱く者、中年になつてから轉業する者、又は本職には甚だ未熟で、いはゆる趣味や道樂にばかり、うき身をやつす者が多くなるのである。女はその樣な行掛かりの無い者が多いのだから、もう少し人生を知つてから後に、一生の仕事をきめてもよく、又大抵の人はそれを職業にせずともすむ。急ぐ必要が無いのである。修養といふ言葉は甚だ漠然として居るけれども、人を考へ深くし又判斷を明かにして、後から悔いるやうなことの無くてすむやうにといふことを、本を讀むときのしつかりとした目標にすれば、讀むだけの本は皆身になつて、それこそ男子も羨むやうな修養が得られるのである。
 
          四
 
 私の讀書案といふのはさう六つかしいもので無く、自分も亦久しい間之に依つて居るのである。第一には書物を甲乙の二種に分つこと、甲は純然たる記述の書、即ち精確に事實だけを談るもの、それが簡潔に又巧妙に、面白く書けて居れば、なほ一段と有難いことは言ふまでも無い。乙の方は考證又は論辯の書、事實に對する各人の見解、又は批判對策等を説かうとするもので、是にも上手と下手との差は無論あるが、どのみち自分だけの考へて居ることに、他人をも引込まうといふのだから勸説力は強く、この中には一時的にもせよ、若い心を動かし得るものが滿ち溢れ、單なる有りのまゝの記述よりも、引き寄せられる場合が多いのである。
 この以外に別に第三の文藝といふものを、丙として竝べて見ることも出來るのだが、それは改めて後に誌面が殘つたら説いて見よう。私は是を甲乙二つの何れかに、分けて入れてもよいと思ふし、目途がちがふから甲乙の外に置いてもよいと見て居る。甲と乙との境目だけは、何としても混亂させてはいけない。一方は事實といつて何人も爭ふことの出來ぬもの、うそか誤解で無い限りは一つしか無いもの、さうして其まちがひは自然に露はれて來るもの、もつ(207)と手短かにいふと信じてよいものである。之に反して乙の方は、幾らでも後から/\とちがつて來て、變化には極まりが無く、しかも時々は其ちがひ目のわからなくなるものであある。是にも正しいことは一つしか無くて、その正しいものが事實も同じだと言はれて居るが、もと/\各人の考へから出て居るもので、折れ合ふといふことはめつたに無く、少なくとも現在は皆自分の方が正しいと謂つて居る。以前はさういふ必要の無い時代もあつたけれども、少なくとも今日は何れに從ひ、何れを排除するかは讀者がきめなければならぬ。即ち判斷の入用な讀み物なので、是を決定すべき手掛かりといふものは、彼等が證據と稱する事實の他には無いのである。甲種の書物を十分に學んだ人でないと、乙種の書物の價値を十分に利用することが出來ないのである。
 
          五
 
 斯ういふ簡單な分類にあてはめて、もう一度今ある雜多な本を見分ける必要があらう。何よりも著しいことは乙種の本の無やみと多いこと、之に對して甲種の本の貧弱で、しかも甚だしく片よつて居ることである。是を根本から考へ直さなければ、實は皆さんの讀書の計畫は立てにくいのである。氣がつきさへすれば今になほるであらうが、現在はとにかく事實だけを、すなほに知るといふことが六つかしく、大抵は何か一つの目的の爲に、都合のよい部分だけが、拔き出されて利用せられて居る有樣である。隱すといふことはよく無いことだが、それだけならば「隱すより現はるゝは無し」、いつかはわかつて來るといふ望みもある。しかたの無いのはそれを知らうといふ心も無く、又その時問も與へられぬことである。此點にかけては僅か五十年前までは、羨ましく素朴であつた。以前は今日のやうなイデオロギイの汎濫が無く、たつた一人の尊敬すべき人の考へに入つて居れば、迷うて頭を惡くするやうな心配は無く、それに信頼しきつて他の一切の知識欲を、事實を學ぶ方へ向けることが出來た。從つて又その需要に應じて、甲種の書物が段々と増加して來たのである。是からでももう一度、さういふ趨勢を作ることは難事でない。たゞ我々御互ひ(208)が求める氣になればよいのである。
 六つかしい言葉でいふと學問の自主、結局は國に盡し人道の爲に貢獻するの他に目的は無いにしても、先づ考へ深くなければならぬのは自分だから、それに用立つか否かも自分できめなければならぬ。私などの經歴が參考になるならば、私は最初に自身の無學無知識を痛感することから出發して居る。今ある書物には我々の知つて置かねばならぬ事實が、殘らず書いてあつて、捜し出せば讀めるといふやうな迷信を先づ棄てた。それで新しく出て來る本には大きな注意を拂つて、何かまだ氣づかなかつた事實を書いたものは、出來るだけ讀みもし、貯へても置くことにして居る。事實の誤りといふものは存外に早くわかるものである。それから同じことを二度三度、燒き直して書いたものは忽ちいやになるので、是に反映せられて新鮮なる知識の印象は、年を重ねるほど益樂しくなり、後にはありふれた空想の文藝よりも、事實の方が遙かに面白いものになることは、恐らく私だけの經駿では無からうと思つて居る。
 
          六
 
 外國との交通が起つてから、或はこの所謂新知識の供給が、一時過多となり、際限が無いといふやうな臆病なあきらめを、普通の讀書家に起させたのかも知れぬ。實際無差別な知識狂とも名づくべき人が、一生たゞ騷いで何の役にも立てずにしまつたこともあつて、いよ/\高をくゝる人を跋扈せしめたかとも思ふが、女には幸ひにしてその好奇の心を集注させる能力がある。あらゆる人生の關心事の中でも、其段階を濃く淡く見わけるやうな傾向をもつて居る。それで私は自分の學問を、彼等の長處にあてはめて見ようとしたのである。努力して不得手な難關を攻め破るのも一つの活き方だが、それよりも眼頭日常の生活の間から、自然に起るべき疑惑と知識欲とを滿足させることが、行く行く多數の同性を聰明にする道でないかどうかを、試みて見たらよからうと説いて居るのである。其效果とは固より言ひ得ないが、とにかくに此頃は、女性の特に知らんと欲するやうな事實が、段々と甲種の書物となつて世に出はじめ(209)た。今まであまりにも誰でも知つて居る故に、書いて遺すにも及ぶまいと思つて居るうちに、暗々裡に世相は押し移り、いつの間にか説明し得る人がなくなりかけて居た前代生活が、しかも女の學徒たちの若干の學力によつて、改めて確實に記録の上に現はれて來たのである。是を日本全國の、過去數百年を通じての一般的の歴史だと決定する迄には、もう一層の綜合と共同比較とを要するが、それも大體に見込はついて居る。事實が明かになつた以上は利用せられなければならぬ。是まで斯ういふ事實を全く知らず、又は知らうともせずに書かれて居る多くの乙種が、爰に始めて當否を判別せられることにならなければうそである。さうして其判斷も私は先づ、最も誠實に今までの事實を學び知つて居る人にしてもらひたい。
 文藝の問題に就てはもう詳しく説く時間が無くなつたが、私は必ずしも之を慰安娯樂、又は時を費す手段とのみは見て居ない。斯ういふ高尚なる技藝の我邦に發育、しかも多數の凡人の情操を高めるに力があつたことは、それ自身が大切な事實である上に、日本は偶然にも小説や芝居を、事實同樣に考へる風がまだ殘り、しかも一方には身邊小説などと謂つて、固有名詞以外にはすべて有りのまゝを(或は幾分誇張してだが)、書いてのける藝風が非常に流行して居た。之に伴ふ態度や批判には、さう簡單に同意せぬことにきめてかゝれば、是も亦我々の人生を學び知る一つの途であり、もつと正確なる記述が出て來るまでの、缺乏を補ふ功があつたのである。たゞさう謂つたやうな靜かな心もちで之を味はなかつたのは囚はれであつた。文藝の理論は人も知る如く、非常時以來猫の眼ほども變つて居る。同じ文士でさへも前と後とちがつた事を謂つて居る。そんな理窟を判斷も無く、端から鵜呑みにして居てはたまつたもので無い。疲れた人たちが甘いものでも食べる氣で讀み流すのは是非に及ばぬが、それを身の養ひにしようといふのには、やはり前以て讀書の目的をきめてかゝらなければならぬ。
 
(210)          七
 
 女性の生活には改善の餘地があるといふことは、是ほどよく働いて居る時代にでもなほ言ひ得る。他の方面はよく知らないが、少なくとも讀書の側からならば、まだ/\もつと時を少なくして、效果を多くする途がある。今から二十年前に、私は瑞西に居てルガノの萬國婦人運動の大會に、物ずきに行つて見たことがある。その時にもうよい年配の墺太利の二婦人と話をして、日本は兒童の天國、その代りには母の地獄だといふやうなことをちよいと説いたところが、忽ち彼等から反對を食つた。母の地獄といふこともどうかと思ふが、兒童の天國といふのも信じられない。私たちは斯うして始終外國までも旅行するが、その爲に子どもは少しも不幸にはして居らぬ。最初から母が居なくても樂しく日を送れるやうに、育てる方法は幾らもある。それを自分たちは共々になほ研究するのだと言はれて大きに參つた。子供のある母たちが、子を幸痛にする途が一つしか無いと思つて居たら、今のやうな時節には途方にくれるであらう如く、是が唯一の讀書の手段と心得て、今のやうな濫讀をつゞけて居たら、どんなに一國の文運は飛躍しても、恐らく女はもう是以上には慧しくはなり得まい。そんなことがあつたら大變な損である。何となれば我々日本人は、是からは全く新しい生活に入つて行かなければならぬからである。
 
(211)   女性と文化
 
          一
 
 女性が文化といふ言葉をどういふ風に、使用してゐるかといふことに注意して見たが、以前には明かにまちがへてゐる人も若干はあつたやうである。たとへば可なり教養のある若い婦人の座談會で、或一人がかういふことを言つた。自分たちは古い日本の文化を一應は打切つて、新たなるものを建設しなければならぬと今までは考へてゐたが、それは容易に爲し遂げられるものでないと感じ、然らばどう進むがよいかといふ點で、深く迷うてゐるといふやうなことを告白してゐる。是はもう最初の考へは棄てたといふのだから責める理由はちつともないが、假に一期間にもせよ、そのやうな可能性を信じてをられたといふことを聽いては、私たちは沈思せざるを得ない。果してどういふ書物を讀み、どんな人の解説に從うて、自分たちを養ひ育てた日本の文化が、棄てようと思へば棄てられるものと、思ふことが出來るやうになつたのであらうか。同じ一個の簡單な單語でも、人によつてかうまで内容がちがつて用ゐられてゐては、うつかりと無形名詞は流行らせることが出來ない。けんのんな話だと、しみ/”\私は感じたことである。
 古い文化を打切るといふことは平たい言葉でいふなら親や叔母、姉と別れることである。彼等と丸でちがつた環境の中に、一人だけ住むことであり、さうでなければ男たちにまで説法して、全部自分の流儀に同化せしめることである。そんなことが女に出來るものと、果してどれほどの人が思つてゐるのだらうか。もしもまたそんな目に逢はずと(212)も、古い文化から離脱し得られるといふのだつたら、是はたしかにお互の「文化」だと思つてゐるものがちがふのである。このまゝにして置いてはそれこそ話にならない。
 
          二
 
 新たに外國から入つて來て、飜譯を以て世に弘まつた言葉には、時々その本來の意味よりは狹く受取られるものがある。それも今までのものと差別する爲に、ちがへて置いた方が便利なこともあつて、この頃始まつて珍しいと思ふものだけを、文化と呼んでゐた時代が暫く續いてゐたとしても、それはまあ差支へないことであつた。しかし今日は既に文化に新舊色々のものがあり、殊に日本の文化が、他の多くの諸民族のそれよりも、遙か立ち優つてゐることを考へるやうになつてゐる。今頃まだ前の窮屈な定義のまはりをうろついてゐるやうでは、頭がごちや/\とするのも致し方はあるまい。
 單に文化とは新たに入つて來たもののことだとする初期の解釋を棄てるだけでなく、今住む日本の現實の文化と、前代文化と呼ばるゝものとの關係は如何。すなはちどれまでが兩立せず、どれだけが打切られてさつぱりと着更へられるかを明かにして置かなければならぬ。それを全く怠つて舊式文化を嫌ふ人と、固有文化を禮讃する人とが鉢合せをするなどは、滑稽を通り越してゐる。舊式も固有も一つことで、惡くいふかよく見るかの言葉使ひの差別でしかないのである。文化の歴代の變遷を考へたこともない者は、未來の文化を説く資格がない。だから最初に先づ昔はどうだつたかを、一通りは知つて置かなければならぬのである。
 それは大變な仕事だと尻込みする人と、そんなことは大よそわかつてゐると思ふ人と、多分は二組に分れることと私などは想像してゐる。この後の方の「大よそ」組が、實は非常に怖ろしいのだが、是は正面からぶつかつて行く方法がない。順序としては大變だと尻込みするやうな人たちに、さうでもないと感じさせて、獨りで色々の新しいこと(213)に心づいてもらへば自然にわかつて來ると思つてゐる。
 
          三
 
 私たちの仲間では、先づ我々が今まで知らずにゐた事實の、非常に澤山あるといふことに心づくことから出發してゐる。その知らなかつた事實の中には、存外に平凡なもの、たとへば文字の教育の少い人だけが知つてゐて、尋ねれば誰でも教へてくれるといふもの、または我々が今まで省みなかつただけで、少しく考へると段々にわかつて來るといふものなども含まれてゐる。つまりは文化の諸學だけでは、從來やゝ不當に本で讀むばかりに、知識を限局してゐたのであつた。人間の生存に必要なる知識が、書物以外にも豐富に傳はつてゐるといふことが、發見とも言はれぬやうな事新らしい發見であつた。
 今となつてはそれを證明するために、若干の解説が必要なのであるが、みんながその氣になれば今にまた、それには及ばぬ時が來るとさへ私は思つてゐる。女性の生活においては、さういふ未知の世界が殊に廣く、お蔭で勉強する娘たちは却つて迷つてゐた。または概念の婢女になりやすかつた。一つの例として近頃私が説いたのは、女の地位が昔は低く、常に屈從に甘んじてゐたといふこと。是は歴史の實例とも合はず、まためいめいの見聞とも背馳する。つまりは女性には完成したものと、未完成のものとがあることを考へなかつた誤りである。娘は修道者であり、嫁はまたやゝ長期の見習生であつた。この時期には男だつて皆屈從する。一旦完成して主婦となれば、上に戴くは家長一人、その他の族員には男にでも命令する。たゞ嫡子だけは次の主長である故に、一家の統一の爲に進んで是を立てようとしたのみである。家の計畫には亭主でも口を出さぬ部分があつた。たゞ現在は亭主に頼らなければならぬことが多くなつて行くだけである。どこに女の婢妾性があつたか。あるとすれば寧ろ近頃のことではないか。
 
(214)          四
 
 但しこのやうなことをだしぬけに言ふと、今までそのつもりでゐた男たちが躍起となり、新規にいぢめ出しても困るから私はさし控へてゐる。物には順序がある。根本において人が心づかず、從つて誤つた即斷に陷つてゐることで、事柄がやゝ意外であり、また興味のあるものは幾らもある。一つの無害な實例から推して、もう少し考へて見ようといふ人の出來るのを、誘ふやうにするのが私たちの流儀である。要するに皆さんは今日まで、驚くほど何も考へてをられぬらしいのである。
 先年私が偶然に見た西洋の歴史映畫に、市長の奧さんが、宴會の席で、始めてフォークといふものを見て、使ひ方を教へてもらふ處があつた。またそれよりも古代の芝居では、大名たちが集まつて、野猪の骨を兩手に持つてかじる光景を演じてゐた。つまり數百年前までは歐羅巴の食法はこちらよりも野蠻であり、フォークは乃ち重要なる文化の一つだつたのである。
 飜つて日本はどうかと見ると、大和の箸塚の時代から、この邦には箸があり、その文化はなほ今日まで續いてゐる。ジュネブで或大學教授の家へ招かれたときに、そこの子供が頻に日本の話をきゝたがり、何か西洋とちがつてゐることを聽かせてくれとせがむので、私はフォークの無い話をした。さうするとその兒がまじめになつて、それでは手が汚れてこまるだらうと言つたので大笑ひをした。今でもこの兒たちは折々指を使つて、母親に叱られてゐたのである。
 日本には箸があるから決して指は汚さぬが、それでも手に持つて食べる食物はまだ幾つかあり、みんな古くからのものであつた。箸の文化は古今を一貫してゐるけれども、利用せぬ場合がありまたその形式も少しづつ改まつてゐる。近代の割箸は一つの發明で、支那の箸に比べると長さが半分にも足りない。毎日の文化にも知らぬ間の變遷があり、同時に到底打切ることの出來ない古今の一貫があるのである。この原則だけは、之と認めずに文化は説けない。
 
(215)   俳譜とFolk-Lore
 
 俳諧師以外の立場から、俳諧を研究しようとした人々には例へば、我々の尊敬する嬉遊笑覽の著者喜多村氏、又は奇跡考の山東京傳、用舍箱還魂紙料の柳字種彦などの一派の江戸學者があつて、近代の國民生活の變化を知らうとする者にとつて、此方面に尚豐富なる資料の開かれずにあることを教へ示した功は、大なるものである。但、此人たちの引用は、甚しく部分的であつて、俳諧とはどんなものか、といふ全體としての諒解には力めなかつた故に、第一、此種の資料の價値に付、尚我々をして迷はしめるものがある。況や、この俳諧を日本特殊の文藝として味ひたいといふ我々の如き者には、此等先輩の研究は全然波交渉であつたのである。それでもまだ、江戸期の教養ある社會に於ては、言はず語らずの間に略、「俳諧とは何ぞや」といふことも知られ、從つて、物々しく之を説くのは、無用の半可通の如く考へられてゐたのかも知れぬ。さうしてゐるうちに、何が何やら分らぬ階級に迄、俳諧は手輕なる文藝なり、といつて普及流行した。明治大正に入つてからの發展は、誠に文學史上の奇觀といはねばならぬ。正岡氏は一種の豪傑で、寧ろ知りつゝも此沿革と絶縁し、所謂十七字詩獨立の爲に、俳句といふ新名稱を確定した。「俳句」が、「俳諧の連歌の發句」の略語であることは、今や忘れ終つたる俳人十にして七人である。而も此方面には、復古論者は一人も無い。又、無くてもかまはぬと思ふ。世中は自分の責任を以て成長して行く。どんな老木の梅の樹でも、年々の花は必ず新しき枝に咲くのである。併しながらさうして咲く花が、尚且つ梅の花であつて、山吹でも椿の花でもなかつた理由、所謂片枝に脈やかよひて梅の花が、昔ながらの香に匂ふ所以のものは、いさゝか考へて見る値があると思ふ。(216)が、是とても今の所謂俳諧に遊ぶ人々には、さして心をひく問題では無いかも知れぬ。
 此傾向は實に、江戸期の終り頃からの引つゞきである。あの時代にも既に、俳人として一生を終つた人で、嘗て一座の連句をも試みなかつた人があるらしい。發句ばかり集めた近年の俳書がうんとある。そして、俳諧とは何かといふことを、こんな人にばかり説明させて居たのである。芭蕉は依然として此人々の神樣であつて、七部集は彼等の爲の阿彌陀經であり、コーランであるべきに、其又註釋といふものが、どれもこれも實に無茶である。言はゞ一讀して誰にも分る分の外は、少しむつかしい句は註を見ても少しもわからぬ。殊に驚いたのは、附合ひ即ち所謂「俳諧の連歌」の方である。私は數年の外國ずまひに、ごく簡單な春秋庵の校訂本を携へてゐた故、早くかへつて色々の註を見ようと、樂みにしでかへつて來たのだが、結果は全くの失望であつた。活版になつた本では、博文館の俳諧叢書の始の四册が多くの註釋書をあつめてゐる。大鏡でも婆心録でもずつと後代のもので、著者は此を作るが爲に竝以上の讀書と思索をしてゐる筈であるのに、結局、前々の註釋者の説は幾つもあつて皆落着せず、更に新説新解の提出を要とせるを見る。高が三百年前にまで、此地で生存してゐた人の言葉を取扱ふこと、恰も象をさはつて見る座頭の如きは、不思議といふばかりの滑稽である。有數な人々の著者でかくの如くであるから、思ふに此以外、本を殘すだけの勇氣なき俳人等は、到る處に於て、この出鱈目をくりかへし、信者だけを煙にまいて來たものであらう。
 全體に於て、七部集などは少し六つかしく見すぎた形がある。是れ、一には古今傳授以來の秘訣口傳の弊で、斯う物々しくせぬと藝が生計の種になりにくかつたこと、二には、所謂我佛たふとしで、何か尚深く有難味がある筈と、我も人も思ひ込んでゐた爲に、買被り、考へすぎといふことになつたのかも知れぬ。がまた、俳諧其物の性質にも、世中がかはると分らなくなるやうな分子を澤山に含んでゐた。だから中立の俳人でない我々にもやはりわかりにくい。近頃幸田氏の「冬の日抄」が本になつて出たが、此人ほど十分な用意と、よい心掛とを以て、芭蕉翁の俳諧を味はうとしてゐる人は先づ無いのだが、それですらも、果してこれが作者たちの當所感じた所、興じた所、其まゝか否かに(217)は疑がある。自分の説と比べるのは無作法ながら、例へば自分で面白いと思ふ所は、先生も面白いといはるゝ部分と同じで、而も解し方が幾つもちがつてゐる。こんな解しやうも有り得るかと、讀んで驚くことのみである。例へば、
   風吹ぬ秋の日瓶に酒なき日
といふ句を自分は、風吹かぬ秋の日と續けて讀むのであるが、幸田氏は風吹きぬと讀み切つて居られる。尚、瓶もヘイと音讀して居られる。全く正反對の解である。
 古さからいへば、古今でも源氏でも、又六つかしさからいへば、色々の外國の文學があるのに、皆勉強を以て我々は此等を諒解することが出來るのである。而るに、俳諧ばかりが特に此の如きさま/”\の解釋を生じ、又何としても到底わからぬといふべき厄介な部分をさへ殘してゐるのには、何か仔細がなくてはならぬ。又苟くも人間の口を發した語であるからは、必ず趣旨のある筈といふことを考へると、「不可解」といふことそれ自身が大なる研究の興味である。
 そこで諸君におすゝめをして、所謂正風の俳諧を味はんとするに先だち、一體どういふ?況の下に此樣な一派特別な文藝が此國に現れ來つたかを考へて見たい。實際のところ、何が日本文學の特殊かとたづねて見て、この俳諧の連歌ほど他の民族に類を絶してゐるものも恐くは一つもあるまい。從つて數百年前の我々の祖先の靜かな内部生活を窺ふに、これほど大切な材料もないと思ふ。今日の如き取扱に委ねておくことは、惜しさも惜しいと思ふのである。
 自分の意見の發表は、單なる御參考にすぎぬが、少くも斯ういふ見方をすることだけは、おすゝめするのである。第一には、俳諧といふ語の意味である。これには俳人間に聞きあきるほどの議論があるが、自分は簡單に古今集などにいふ「俳諧」と意味が大抵同じものと見てゐる。一言にして言へば、もとの目的は「笑」であつた。其方法として用ゐらるゝは、いひあらはしの意外である。又、不調和の刺戟とでもいふものである。歌などは至つて簡單なる情緒なる故に、僅かの變化にも新しい興味を起し得たが、人の情緒が鋭くなると、もつと刺戟の強いものを要するやうにな(218)る。元來日本人といふ民族が、北の方の陰鬱な人類とは別で、笑を以て大なる生活上の必要としてゐたのである。獨り和歌の會の和歌に就てのみならず、能の後には狂言「ヲカシ」あり、御遊の後には淵醉あり、御神樂の後に散更《さるがう》あり、大嘗の後には豐明りがあつた如く、多くの嚴肅なる行事には必ず分式として之につゞくべき滑稽を要求してゐた。是には深き社會心理上の理由があつたのであらう。弘い土俗學上の獨立研究によつて、之を明白にすることが出來るであらう。我々の神道にあらはるゝ力強い「尊とさ」の感じ、耶蘇教でいふ「ほりねす」とも稍ちがひ、今の市井の人が「ありがたさ」などゝいふ感じが、よくこの國民の統一をなし遂げたと同じく、世を經て、次第に發達し且つ根強く我々の文化に浸染したものは、言はゞ天岩戸以來の俳諧であつた。日本人には「ゆーもあ」が缺けてゐるなどゝいふ説は、英人蘇人などの重くるしいをかしみのないことをいふもので、それはあたりまへである。日本ほど固有の「ゆーもあ」の系統的に進化した國民は少ないのである。
 但し俳諧といふ名稱は、後には連歌だけの專用する所となつたのは事實で、その原因にはやはり古今集がある。連歌其のものゝ歴史はもう大凡わかつてゐるが、これにも今一つ以前の根柢があつて、まだ十分に考へられて居らぬ。即ち百韻とか千句とかいふ類の連環作法は、今日僅に小兒の間に存する火まはし、尻取文句や、へんつぎとか、文字ぐさりなどゝ同種の興味を以て保存せられた古くからの遊戯であるが、之が三十一字の歌に應用せられる以前に、稍久しい間、歌を半分づゝ作る習慣があり、俊頼朝臣の頃になると、もう大分もてはやされてゐる。宮廷文學の中心ともいつてよいほどの和歌の贈答、又歌合せが即ち是で今一段だけ新しくなれば、所謂、
   天文博士いかに見るらむ
   衣のたてはほころびにけり
の如き半分づゝの聯作となる。これが既に一種の俳諧であつて、必ずしも二人が共同して一つの完全なる歌を仕立てようといふ爲でなく、寧ろ思ひ儲けぬ下の句をよろこび、又所謂難題を以て相手の才を試むべきものであつた。これ(219)は何れの民族にも古くからあつた技藝の一つであるが、殊に日本は言靈の幸はふ國で、いふ言葉の花やかに美しいものを珍重したのである。例へば、江戸の若者の喧嘩口論に所謂たんかを切つたのは、形容詞たつぷりな言葉を用ゐるほど、いなせな男といはれたので、いはゞ喧嘩の形式を味つたのである。だから中代にはかやうな言葉の贈答は青年男女の間に盛に行はれて、其がすぐれたものは永く記憶せられた。歌垣、かがひの古風習は、この方面から見て意味がよくわかる。即ち、弓矢刀劍相撲などの勝負と文武の差を除けば全く同趣旨のもので、殊に此方では異性の競技も可能であつた故に一層興奮を與へ易く、從つて男女の所謂言問ひには、尤も便宜なる好機會であり、後次第に此機會を設けて交際の便宜を供給したこと、恰も今日の「てにす」などゝ同じ性質のものであつたことは、今でも盆踊の即興歌の雙方掛合になるものが多いのを見てもよくわかる。一言を以て言へば連歌は、言葉仕合ひ、歌勝負の段々發逢した一種で、卑近な例を引けば、
   一羽の鳥をにはとりとは此如何に
   一枚あつてもせんべいといふが如し
 或は沙石集の中の蟻とだにとの論議の如きものと系統を同じくしてゐる。又、あいぬのちやらんけ、八重山みやらべのはな/\なども同じ趣のものである。
 それが或人の發明により、尻取文句式に下の句上の句とどこまでもつゞけられることになつたのは、之に携はる人の興味は如何ばかりであつたらう。惜むらくは、青年男女の遊びではなく、沙彌入道のみが多く之に携つたことである。
 兎に角に此の文學の特色は、大向に見物と云ふものを置かず、仲間だけで樂しむ所にあるが故に、從つて後世に殘らうが殘るまいが、もう目的は達してしまつた糟である。名山石室に藏め是非を百代の間に問はんとする作品とは大な差がある。
(220) だから作つてゐる間の興味をなるたけ多くする手段として、色々の法則が案出せられたが、要するに尤も警戒したのは、單調になり、だれることであつた。何にせよ根本の約束が前後句を合せて、一つの新らしいものになることであり、歌の世界は雪月花郭公で限られてゐたから、うつかりしてゐると趣向も巡環して何度も同じやうな情趣に出會はねばならぬ。殊には二十一代集などと云つても、新古今から以下は話にならぬ。この頃の歌は誰が作つても大抵同じやうで、又何時も同じあたりをうろつき、鹽けも唐辛も入つて居らぬ頓阿の草庵集などは、若い頃に一度讀みきつて見ようと思つて、何度奮發しても何時も斷念した。是れ即ち柿の本に栗の本の座が起り、
   曉月に毛がむく/\とはえよかし
   さる歌よみと人にいはれむ
などの俳諧が新に勃興した所以であつた。西行なども後世に風雅の祖師の如く仰がれたのは、自ら意外であらうが、少くとも時代の詩形詩想の拘束に對して反抗して居たことは認められる。斯ういふ世の中に在つて百句二百句の連歌の式を定め、之を一代の風流の基準とし得たことは、一には人間の悠長さもあらうが、更に又現代新年の御歌に二萬三萬の歌を詠進してるやうな人間と同じく、自ら之に携はる者の樂しみは、本人が凡人であればあるほど、一層深い、忘れ難いものであつて、これでもいゝと考へて居た爲めであらう。連歌はいはゞ平凡文學、よく云はゞ民衆文學の眞只中のもので、必ずしも宗鑑守武の出現をまたずして天分ある職業的連歌師は、既に之に對する反抗を企てたのである。所謂秀句の沙汰、又難題の沙汰は此の新機運を示して居る。筑波集第一類の選集は、此の如くして始まつたが、而も一般の人々は、まだ連歌の興行を以て、天神の如き神經過敏の神樣の法樂と心得るほどの樂觀であつて、將軍以下の人々は中々何時迄も此遊戯を止めようとしなかつた。ところが其の停滯?態の行つまりに於て俳諧と云ふものが又現はれて、たうとう時代の風を一轉囘させたのは、言はば氣のきいた俳諧といふ名義の發見ではあつたが、實際は古くからある所の秀句の誇張、難題の連發を以て興味を緊張させ、連歌を眠いものでなくしたゞけである。それが次(221)第に極端に走つて終に檀林風までに行つてしまつたのは、御承知の通りである。而も此派とても尚拘はる所があつた。即ち俳諧といふ語の嚴格なる意味に依れば、何しろ意外でなければならぬ。新しくなければならぬ。さうしてをかしくなければならぬ。故に變化の必要に迫られると、しまひには語のしやれがこうじ、妖怪見たやうな詩形をとる。同じ席上に連なるものでも、正直ならば句主に向つて意味を問ひ、しれ者は知つたかぶりをして空笑ひする位で、而も内容は益詩ではなくなつた。
 だから芭蕉の時代には、あの安らかな只事ぶりが何よりも珍重せられた新し味であつた。その上に翁には現前の社會に流れ漂うて居る生きた詩を見る眼があつた。而して其の詩を片端から拾ひ上げて、我家の俳諧は是なりと示すだけの勇氣があつた。實際此を俳諧と名づけても、もう許されてよい時代だつたのである。
 こんな境涯も世の中にある。こんな生涯も人間にはあるといふ態度で人の持つてゐるあらゆる情と意との働きを手にとつてじつと見たやうな餘裕は、正しく此世外人の俳諧から來て居たのである。さうして此が其時迄の俳諧師たちの心持には、恰も梨壺の歌人が俳諧歌を聞いた時のやうな興味を與へたから、其角をはじめ多くの感覺の鋭い人々がついて來た。さうして至つて漠然たる大感化力を、孫弟子、曾孫弟子たちに及して更に第三次の停滯を誘發する迄の間正風を持續せしめたのである。
 我々が七部集を見ると、芭蕉が設けた約束といふものは殆とない。強ひて言へば、大に自由なるべしと云ふ約束であつた。古い約束は力めて之を破つて居る。が而も尚澤山のものが彼にもつきまとつたのである。例へば外形に於ては、連歌は元來が歌を二つに割いたものといふこと、是れ最大なる束縛であつた。芭蕉の派では最も力を各句の獨立に用ゐ、いつでも前の句で豫想しなかつた新しい境を後々の句で出さうとし、寧ろあまりぴたりとつくことを避けた。其間には?十七字、十四字の短い詞の中に盛切れぬほどの思想を盛らねばならぬ。省筆、略語の巧を盡し、意味のやゝ不明となるを忍んだ。例へば、
(222)   おもふこと布つきうたにわらはれて(野水)
は「あらはれて」ではなく、現はれた故に笑はれた意を表し、
   たもとより硯をひらき山影に(芭蕉)
は、これも硯をとり出して之をひらくをいひ、
   秋風の吹かぬ日舟にあみ入れよ
   鳥羽の湊のをどりわらひに
とか、又は
   かほにものきてうたゝねの月
の類、いづれも和歌のてにをはを説く人の合點せぬことばかりである。或は故事をとり入れて趣をなす爲に、承知の上で無理な新造語をする例もある。
   泥の上に尾をひく鯉をひろひ得て
泥に尾をびく龜にはあらで、これは鯉なりといふ面白味は其時代の人にはよくわかつて興が深かつたが、部外の人から見れば、あまり自由すぎて居る。
   砂の小麥のやせてはら/\
   西風にますほの小貝ひろはせて
とか、
   ほとゝぎすお小人町の雨あかり
    やしほのかへて木の芽もえたつ
といふ句は、ますほの薄又はやしほの躑躅の歌を知つて居る人に特別に面白かつた。
(223) 又、芭蕉の門人は多くは滑稽に進んで一修業した後の人であるから、昔の癖が出やすくともすれば難題を以て座中をいどみ、乃至は奇拔なる應答を以て仲間の喝采をとらうとする風がある。其結果は多くは謎の如く、うま合ひの連中以外のものには樂屋落となり終ることがある。
   月の夕につるべなはうつ
   くふ柿も又くふ柿も皆しぶし
   秋のけしきの畑見る客
 畑見る「人」といはぬは、昔の舌もぢりの「あの客はよく柿くふ客」を思はせんものである。これも詞の附の一種にすぎず。
   うつかりと麥なくる家につれまちて
   かほふところに梓きゝ居る
これは印象深き句である。然るにあまり近すぎる附方を荷兮がした。
   黒髪をたばぬるほどにきりのこし
    いともかしこき五位の針立
これを轉囘する爲の一句
   松の木に宮司が門はうつむきて
意味では少しもつゞかぬ。此は甚しく古風な句である。五位と針だから松の木いともかしこきからうつむきてと謂つたので、後にこの風たえたる時代の人には、どういふ意味かちつとも分らないのである。
 此等の例を見てもわかる如く、一句々々のこしらへ方には、可なり骨を折つて居るので、決して出鱈目ではなかつたのであるが、今迄の連歌でも又は其もとを爲す和歌でも未だ目的としなかつたものをぐん/\運んで行くべき新任(224)務を負うた爲に、而して所謂俳諧に遊ぶ一座の親友だけの間で樂み興ずるを主たる事業とした爲に、少しでも境涯のちがつた後世の人々に諒解せしむることに必ずしも、熱心でなかつたといふ弊はある。但し人のよくいふ月の座花の座、さし合とか打越とかいふ規則類の如きは、煩瑣には相違なきも必ずしも技藝の自由を大に束縛するには足らなかつた。これは漢詩でいふ平仄や韻の如きもので、眞似をするものには閉口なる障碍物の如きも、實際作品の本當の面白味を發揮するには、之に準據するが最上の途で、棄ておいても自ら斯うして全卷の調子をとり、場面の不愉快なるくりかへしを避け、いつも新しく變化させてゆくものにて、さういふ自然の巧又は趣味までももし法則といふならば、此等在來のものの外にもまだこま/”\といくつ掲げねばならぬか知れぬ位である。
 自分等は解説の便宜の爲めに、個々の二句を以て作つた情景を總稱して「繪樣」タブロー、イメーヂといひたい。歌仙といふのは、つまりは三十五種の繪樣の繼合せ方である。大きな庭を作り、一かさねのすそ模樣を染める樣に、色々の美しさをうまく取合せて、繼目をあらはさず、少しの單調をも忌み嫌ひまとまつた一つの形をこしらへる所に此藝術の意味はあつたかと思ふ。作者自身も亦連句の席に在つては、常に一句に對して之を一つの小さい繪として次の句を案じたものらしい。つまり想像力を非常に強くはたらかせた、尤も發逢した上品な遊戯であつた。
 遊戯といふものをわるくとり、殊更に之を文藝との間に大なる渠をほり、向ふ側に在るから此方のものでないといふ見方をするならば、乃ち俳諧は我々の管轄ではない。この日本だけの新らしい特色、名づけて心の繪の音樂ともいふべきものを永久に忘却の唐櫃に封じこめることゝなるのである。
 連歌師以來の一の格言、神社釋教戀無常といふことは、つまりありとあらゆる人間の生活を意味する。花鳥風月といひ四季といふも只此無聲の音樂の旋律、諧調を美しくせんとするの具であつた。そこで俳人の修業に深い意味が出來てくる。又忙しい世俗の中で、立ち働くものゝ生活のすきま/\に長閑な俳諧境といふものが入つて來て大切にせられる。一言でいへば凡人が藝術家になり得た、これが芭蕉の志した尊い文學であつたらしい。而も氣の毒なことに(225)は此方面にも人間の免れ能はざる拘束がないではなかつた。芭蕉の愛して近づけてゐた人々には、武士も町人も僧も女性もあり、或は富み或は貧しく、それ/”\自分の境涯をもちよつて連歌を俳諧の美なるものにすることに合力したが、時代の全體が此一團に代表せらるゝことは難く、而も其時代は忙はしく變遷した故に、今となりては只昔の或階級の人々の心性のみを七部集の中に殘留してゐることになつたのである。七部集四十八九篇の附合を見わたして、やはり一番よくあらはれてゐるのは旅行生活である。貧人の風雅である。齷齪とした勞働の一生、此等を包んでの鷹揚にして無邪氣な天然である。斯ういふものゝ中から切實なる厭世觀やすみきつたる樂天思想のさま/”\を見出すことは、寧ろ困難ではなかつたが今一段とかけはなれた勢力ある階級のかくれた憂とか憎とか、世中にふれ得ない上臈の淋しさとかいふものになると、この美しき組絲綾織の中に、尚代表せられぬ部分が多かつた。もつと具體的にいふと、芭蕉門下には旅行者は多かつたが、妙に田舍の居住者は少かつた。そこで市中驛路の生活の多くうつさるゝわりに眞の田舍の生活といふものが、あまねくは見えて居らぬ。殊に面白いのは戀愛生活である。此方は不馴な不調法の人が多かつたと見えて實驗の深味ある句に乏しく、多くは物語などで曾てよんだ情景をはこび出してゐるので、例へば大きな繪を畫くのに、この部分だけはよその版繪などを切拔いてはつた感じがある。又その位でよからうとも考へてゐたのではないかと思ふ。旅で得て來たと思はるゝ多くの印象のいき/\としてゐるに反して、これは卷繪などの大まかな繪を見るやうだ。それにしても五十そこ/\で死ぬ一生のうちにどうした暇があつて、さま/”\の古物語、さまざまの浮世草子などまでを見る折のあつたものか、あの時代のたしなみはゆかしい。例へば前の、
   鳥羽のみなとのをどり笑ひに
の次に、
   あらましのざこねつかまも見てすぎぬ
   つら/\一期婿の名もなし
(226)これは正しく西鶴の浮世草紙を讀んでゐなくては出來ない筈である。又
   笠白きうつまさまつりすぎにけり
   菊ある垣によい子見ておく
   表町ゆづりて二人髪そらん
などは、自笑の氣質物の中にでもありさうな情景である。
 兎も角俳諧は我々の時代に於ては過去の遺物である。一體我々の民間傳承學の材料は下層に沈んでゐる無記録傳承に力を入れるのであるが、俳諧は當時に於て又後世に於て半分は經の偈の如くに取扱はれて居たところから、民謠や童謠などゝ同じ價値を有するわけになるのである。斯様に記録したものが役にたゝなくなってゐるから、我々の領分に當然入つて來る。單に尻取文句などの同種別形として研究の材料となるばかりでなく、寫實的な而も一村人の田夫野人の言葉と同様に取扱ふことが出來るのである。
 
(229)   『山村生活調査第二囘報告書』緒言
 
          一
 
 この第二年度の報告に於ても、前囘と同樣にやゝ報告し易い題目を選擇することにした。我々の討査が是よりも遙かに廣汎なる區域に渉り、他日ほゞ周到なる視察を終つて後、改めて全部の所得を綜合する企劃あることは固よりである。題目は各員の自由に委ねたが、大體に二つの標準に據つて取捨せられて居る。
 一、將來我邦の學界又實際生活に於て、必ず問題となつて論議せられ、もしくは囘顧の必要を生ずべしと思はるゝ事項。
 二、一地一隅だけに特發したやうな事態で無く、比較研究の效果及び意義がやゝ單簡に立證し得られる事項。
 而うして個々の問題に就いては、最も多く其興味を感じた者が解説に當り、必ずしも結論の確立を期せず、專ら今後の方法と可能性とを明かにするを努めた。即ち此知識の應用せらるべき日は尚遠しとしても、少なくとも國情の未だ曾て省みられざりしものが、之に依つて始めて省みられることになつたとは言ひ得るのである。
 
          二
 
 今囘の調査の副産物として、記念すべき若干の好經驗があつた。其中に就いて、大よそ各地に共通して居るかと思(230)ふものを、報告して置くことは自分の義務である。最も喜ばしい一つの印象は、可なり陰鬱なる色彩を用ゐて、その未來を描かれて居る村里でも、住民の氣力は今も相應に旺んであつて、艱苦は闘つて克つべきものとする考へ方の、なほ失はれて居ないことである。是は獨り更生の鬨の聲を揚げて、進んで背水の陣頭に立たんとするもののみが、勉強して漸く此の如くあるのでは無い。極めて特色の無い普通の部落に於ても、各人は皆一生懸命に考へ又働いて居る、たゞ弱々しくくづをれて居る者などは、幸ひにして現在はまだ見かけられぬのである。我々の學問は時聊か遲れたる感はあるが、彼等には多分間に合ふだらうと思ふ。或は此?態を目して、敏活有爲の者が既に故土を去り、後に殘つたのは悠長な逸民のみだからと、解して居る人も有るらしいが、それは明白に事實と反する。或は又前代の生活ぶりが餘り惡かつた爲に、其記憶と引比べて、眼の前の僅かな改良に滿足し、難儀はやゝ辛抱がし易いのだと言ふ人もあるが、此點は或程度まで當つて居る。過去に對して概括的に、不信用を表する農民はよほど多くなつた。形や言葉の上で棄てられる限りは、古いものは皆思ひ切つて棄てゝ居る。保守が彼等の持前であるといふことは、殆と無意識の所行にしか表はれて居ない。しかも其たま/\氣付かずに取殘して居たものが、今では變へることの出來ない彼等の生活を支持して居るのである。一人の離村者も無かつた時代の何人よりも、今の村民の方が熱烈に物を考へて居る。たゞ現代は諸説が競ひ進み、彼等自身の判斷と思慮とが、ゆる/\と錬磨せられて居る餘裕を與へぬのである。正しい彼等の指導者を以て、自ら任じて居る者は成程多いが、それは忽ち第二第三の同種の者を誘發して、たゞ混迷の結果をしかもたらさない。故に我々は先づ彼等に入用なる知識を整頓して、是に據つて各人自らの判斷を下さしめる樣に、仕向けて行くことを急務と感ずる。又それ位な信頼はもう繋けてもよいと思つて居る。
 
          三
 
 地方の居住者が自らを指導する爲に必要とする事實は、當然に各その地元に現存するものが多い。それを取用ゐ(231)て自分の知識とすることを得なかつたのは惰性である。是も今囘の共同旅行の經驗であるが、村の所謂有識者の間にも、問はれて始めて自分の持つて居たものに、心付くことが?ある。我々の名づけて傳承者といふものの資格なり性質なりが、いつの間にか一變して居たのである。以前の採訪は村に入つて、先づ多く舊事を知るといふ者を物色し、その故老は又毎度の答辯に馴致されて、幾分形式化した或知識を管理して居た。今日はそれが殆と平板にして、新たなる何等の印象を與へぬものになつてしまつたのである。其理由は至極手短かで、つまり此人たちの物を覺える期間が、ちやうど新しい事ばかりを、覺える時代であつたからである。無意識の傳承は彼等の裡にもあらうが、それは却つて聽明を長處とせず、律儀とか質朴とかいふ形容詞を貰つて、黙つて働いて居た人に、多く保持せられて居たのである。是と同列に加ふべき者に、家道の稍衰へんとする舊家などの老女がある。多く語らざる彼等の記憶は痛切であつた。同情ある質問には答へざるを得ない熱意がある。斯ういふ人々をして語らしめる方法は、新たに案出せられねばならなかつたのである。二箇年三十何箇處の訪問を重ねて後、我々の徐々に學び得たことは、單なる多辯と老齡とを以て、好傳承者の目標とはなし難いことが一つ、次には資料の所在を探りあて、乃至問を設けて之を引出す方法と機會なども、此種共同の體驗を以て、わりあひ容易に其呼吸をつかむことが出來さうだといふことである。從來昔風を疎外して居た少壯分子を、介在せしむることも必ずしも不利でない。調査者の眞意を此人々に會得させることは、やがては又次の期の同志學徒を、養成する端緒ともなり得るからである。
 
          四
 
 今や故老の日を追うて凋落し、是と共に前代も過ぎて痕無きかの如く、考へられがちなる社會に於て、此等多數の知識欲に燃え、しかも往々に其適用に惑うて居る青年たちに、彼も亦我々と同じ樣に、一個の無意識傳承者であつたことを心づかしめることは、大いなる内省の契機であり、又學問の一進歩と認めてよい。この發見は更に之を推擴め(232)て、全國の大都市もしくは植民地の如く、今まで過去と何等の脈絡も無しに、獨自に活きて榮えて居るやうに看做されて居た土地にも、なほこの調査を進めて行くことを可能ならしめる。単なる外形の觀察を以てすれば、最近の五十年はあらゆるものを變化せしめて居る。所謂僻陬の諸村にも、實はさう多くの古きものは遺つて居ない。強ひて珍奇を探究しようとすれば、好事骨董の弊は忽ちにして人を遊民化する。しかも他の一方には態度方法の改良、もしくは豫備知識の整理によつて、如何なる煙塵の衢にも、なほ我々の力を試みる餘地があるといふことを、寧ろこの經驗に由つて學び得たのである。事業の前途は測らずも非常に闊くなつた。同人諸君は採訪囘を重ぬる毎に、次第に其技能を練熟したのみで無く、大切なる多くの過去に關する知識が、今まで何人にも省みられずに居たことに喫驚し、習俗の持續と撤廢とが、餘りにも偶然の成行きに一任せられ、しかも其新舊の交錯、もしくは不調和なる併存が主たる原因となつて、頗る現代を住みにくゝして居るらしき點に、愈大いなる感慨を寄せるやうになつた。我々の調査はほぼ當初の豫期の如く、數十箇處の互ひに隔絶した土地に於て、同時同種の問題を提示し、其解答を集積して見ることによつて、著しく事實の正確さを高めて居る。是を整理し分類して、一種索引式の判り易い記録を遺して置くならば、今後の村研究者はほゞ安全なる豫備知識を得て、無用なる重複の勞を省き、或は適當なる調査の方法を學んで、我々の一度は經驗させられた樣な、幾つかの失敗を繰返さず、十分に調査の能率を擧げることが出來るであらう。その先例を開いたばかりでも、この新しい試みには意義がある。其上に是はまだ同種學問の稍進んだ國々でも、あまり試みられなかつた積極的の方法である。幸ひにして或期間の作業が完成し、其成果を公表する時が來るならば、之を利用し得る者は、たゞに一部國内の學徒のみで無い。日本學術振興會の好意に充ちたる支援は、乃ち至當に酬いられることになると信ずる。
 
(233)   『日本民俗學研究』開白
 
 昭和十年七月の末から、八月初句にかけて一週間、日本民俗學の第一次の大會が、日本青年館の講堂に於て開催せられ、各地方の同志約百五十人が是に參加した。當時事情があつて列席し得なかつた人々、及び我々の事業と抱負とが、如何なる種類のものであるかを知らうとする人々が、等しく此記録の公刊を希望して居られる。さうして我々にも亦之に由つて、汎く國内有識者の批判を求めんと欲する若干の意見があるのである。會を企てた趣旨と動機は、次の開會の辭が一端を述べて居るから、之を序文に代用する。その會同の效果と雰圍氣は、個々の筆記が或程度までは談つて居ると思ふ。單なる一篇の記念の書の如く、認められずんば幸ひである。
 この民俗學大會は、自分ども年來の宿願であり、又中々實現し難い大望でもあつた。全國同志諸君の是だけ廣汎なる支持を受けることが出來れば、もう此學問は永續を保障せられたも同樣であり、又世話人たちの是だけ熱心な協力さへあれば、その同志の糾合を期することも、必ずしも困難でないといふ迄はわかつて居たのだが、奈何せんそれを斷行する程の決心がつかなかつたのである。もしも私が滿六十歳になつたといふことが、躊躇して居た人々に其決斷の機會を供したとすれば、人が老い且つ衰へるといふ最も平凡なしかも不愉快な事實にも、尚少しばかりの社會的效果はあつたといふことになるので、其意味に於て私は僅かなる滿足を感じて居る。
 それよりも遙かに我が意を得て居るのは、今度の大會に於ては、我々講演者が先生で無いこと、その大部分が諸君と同列の人であり、仲間であり又將來の永い友人でもあるだらうといふことである。自分の知る限りに於てゞも、諸(234)君の中には、我々の多くの者よりも前から、既に日本民俗學の必要に着眼し、知識の集積を始められた人が幾人かある。たつた一つの例を擧げて見るならば、私などがまだ郷土生活の比較研究を、南方諸島に押擴げることを知らなかつた以前、即ち明治大正の境の頃から既に沖繩や奄美大島に關する豐富なる知識を貯へ、頻りにこの問題の興味と必要とを、説き聽かせてくれられた人が、伊波普猷君以外になほ一人あつて、現にその方が今日の聽講者の中に列して居られるのである。勿論私などよりも文字通りの先生である。自分等は單にやゝ便宜の地位に在つて、その後も引續いて餘分の時を是に費し得たといふのみで、言はゞ是までは諸君に代つて、各自の分擔區域を比較的細かく、看て居たといふに過ぎぬのである。我々の研究は最初から共同のものであつた。諸君は常に是を自分のものゝ如く考慮し、批判し増補し成長せしめらるべきである。斯ういふ風になつて來なければ、國に必要なる學問は興隆しない。先生が滿點で是に盲從する者が九十五點、些しく自説のある者は八十點といふやうな、今日の傳習制度の下に於ては、たつた一人の曲學阿世が出たゞけでも、もう其一方面の學問は萎靡しなければならぬ。そんな氣づかはしい傾向を防制する爲にも、我々の同志だけは、少なくとも自由なる意見の交換をしなければならぬ。それには殊に似つかはしい聽講者であり、又講演者であると私は思ふ。
 最近僅かな期間の趨勢から推して考へても、日本民俗學のやがて大いに成長するであらうことはほゞ疑ひが無い。我々はたゞこの根本を保護し、又其幹を傷けぬだけに、愛惜すれば則ち足るのである。將來の繁茂はもう是を自然に一任して置いて十分だと思ふ。三十年五十年後の普通人の常識は、或は現在御互ひの持つて居るものゝ總和よりも、ずつと大きくなつて居るかも知れない。しかもその爲に種播き灌漑した我々の功勞は、聊かも小さくはならぬであらうと信ずる。時代がまだ是だけしか教へてくれなかつたのである。我々は唯この許されたる境涯に於て、相互に助け合うて出來るだけ賢こくなればよいのである。近世の歴史を囘顧すれば、人がたゞ單に賢こくなかつた爲ばかりに、受けずともよかつた災難を忍受した實例は無數にある。是を未來に向つて避け防がうとするには、出來るだけ多數の(235)人々が志を一つにし、文化科學の可能性に信頼して行かなければならぬ。今囘の大會はまさしくその練習の一つの好機會であると思ふ。強ひて一流一派の見を立てゝ、之を押通さうとする蓮動かの如く誤解する人は、先づ我々の方法なり假定なりの非を指摘しなければならぬ。何となれば我々は從來他人の説を傾き聽いて、幾度でも自説を改訂しつつ進んで來た者であるからである。
 各府縣の同志諸君が、斯うして一堂に集まつて來て、互ひに今まで考へても見なかつた自他の郷土の事實に心づき、乃至は其知識と問題とを交易せられるといふことは、私にとつては名?すべからざる悦びである。暗示と啓發とは無限であらうと思ふ。色々と勸説を試みたにも拘はらず、三重、宮城、島根、香川、福岡等の重要な數縣から一人も參同者を得なかつたことは殘念であるが、しかし在京學生諸君の中には、多分是等の地方から、出たばかりの人も若干は居られることゝ思ふ。願はくはそれ/”\の郷里を世話人に通知し、座談會の席上では成るべくは各自の土地の學問をも代表せられんことを希望する。是が私の開會の辭である。
     昭和十年七月三十一日
 
(236)   『日本民俗學入門』序
 
 前年「民間傳承の會」が主催した毎週一夜の民俗學講座が、豫想外の好況を以て進行して居た際に、我々兩名は相談して、一つの小さな民俗學手帖ともいふべきものゝ編纂を思ひ立つた。それは熱心に講演を聽いて居る若い男女の學徒も、きつと是からの旅行には何かさういふ類のものを持つて行きたいであらうし、又地方に住んで居て出て來られぬ人たちから、せめて話の輪廓だけなりとも、公表するやうにといふ註文があつて、半ばその註文にも應じ得るだらうと思つたからであつたが、今一つの隱れたる動機には、ちやうど其頃我々が學術振興會の援助を受けて、全國山村の調査にあるくのに、作つて持つて行つた郷土生活採集手帖といふものが、到る處で人に悦ばれ、又盛んに分配を希望せられたからでもあつた。ところがこの採集手帖の方には、質問の項目だけが掲げてあつて、説明が少しも無い。どうしてわざ/\出張までして來て、その樣なことを尋ねるかといふ疑ひに、毎度我々は口頭を以て、詳しく又はざつと答へなければならなかつた。それから又調査の箇條も、日數の關係から、よほど限定せられ且つやゝ偏しても居たのである。出來るならばそれを隅々にまで擴充し、なほ簡略にさういふ調査の、特に今日の時勢に於て必要であるわけを、書き添へて置く必要をも認めたのであつた。その計畫には多少の無理があつたと思はれて、豫定の四倍以上の年月がかゝり、出來たものは此通り充實して、手帖とは到底名のれないものになつた。しかしその點を除いては、是でも我々は最初の企てを爲し遂げたものと思つて居る。改造社がこの出版を應諾したのは最初からであつたが、書名がその當時から既に日本民俗學入門であつた。入門は何か威張つて居るやうな感じがせぬでも無いが、まさか入口(237)とも呼ばれず、事實又入口なのだから斯ういふの他は無い。
 問題の箇條の簡單で要領を得ることを、我々も望まぬわけではないが、質問はその性質上、枝葉を剪り拂ひ、答への言葉の少ないのを期するものだ。餘計のことを附け添へることは、寧ろ答へに苦しむ人のすることのやうにも見られがちである。氣にし始めると色々の脱落が懸念せられて來る。素より重要な點だけを、順序よく聽いて來るに越したことは無いのだが、人が要點と信じたものが、我々の疑ひとは行きちがつて居る場合も多い。それに我々は今まで世人が小さな事として、一度も思考に上さなかつた部分を、最も肥沃の地として耕すやうに教へられて居るのである。端西の民俗學聯盟に於けるホフマン・クライヤアの一千五百八十餘項目を始めとし、異民族の調査に關してならば、佛にも英にもそれは/\綿密な、一卷の書をなすほどの質問項目集が夙に世に出て居る。一たび斯ういふものに目を通すと、いよ/\我々の取捨選擇は臆病にならざるを得ない。どんな小さな問題を一つ略しても、何か折角殘つて居る古い事實を、棄てゝしまふのではないかといふ氣がする。そこで又協議を重ねて、今度は心づいた限りの色々の着眼點を、此ついでに調べて置いて見ようといふことになつた。この配列整理についての關君の勞力は氣の毒なほど大きなものであつた。素より外國で既に試みたものは、參考せずには居られないが、國の生活事情が是だけちがふと、一つとしてそつくり移し得るものは無く、しかも日本でしか尋ねることの出來ぬもの、即ちよその國の學者の考へもつかぬ問題が、幾らでも出て來さうなのであつて、それを爰まで持つて來たのも大仕事ではあつたが、今では却つてまだ是でも足らぬ點が有りはしないかと、心配しなければならぬことになつた。
 此書物を利用せられる人々に、是非とも一應はおことわりして置きたいことは、是は大部分が質問の形にはなつて居るけれども、決して今諸君から、即座の答を要求して居るわけでないことである。一人で立てつゞけに是だけの事を聽かれてはたまつたもので無く、又さういふ人も時も、現在あらうとは思つて居ないのである。寧ろ是は成るほど簡單には答へられぬといふことを認め、しかもその點が明かにならぬ以上、うつかり色々の斷定は出來ないといふこ(238)とを、心づく人の多からんことを期して居るので、つまりは問題の意義又は重要性を、斯うした形を以て列記して見ようといふのが趣旨である。それからなほ一つの迷惑な誤解は、人にばかり此樣な六つかしい問題を課して、自分たちは坐ながらその收穫を利用しようといふが如き、横着な怠け者が一人でも、爰に居るやうに思はれることである。いかにも民俗學の資料は田舍には豐富であり、都會で採集をすることの遙かに困難であることは事實だが、その我々とても大多數は村に生れた者であり、折がある毎に村を見なほし、又はなつかしく囘顧して居る。さうして二つ以上の懸け離れた田舍に、同種同一精神の昔風が、行渡つて存する場合を注意して見ようとして居るのである。別の言ひ方をすれば此書に掲げられて居る多くの問題には、不完全ながらも或答へは用意し、又はせんと努力して居る。たゞそれを各項目の終りに附記しようと試みなかつたのは、必ずしも話が長たらしく又は紙が足らぬ爲だけでは無い。今日の知識に於てはそれは皆假定である故に、そんなものを以て新たに入つて來る人たちの、先入主を作ることを欲しなかつたのである。一つ/\の項目の一地限りの報告、又その大よそ纏まつた解説の試みの如きは、三十年前の「郷土研究」以來、最近の「民間傳承」に至るまで、殆と一月として印刷に付せられなかつたことは無い。たゞ問題が此通り繁く、地方の事情は又それ/”\ちがつて居る故に、日本全國を一通り知つたと言ひ得る爲には、まだ多くの月日と忍耐と、無數の志を同じうする學徒を必要とするのである。しかも調査の地域が少しでも擴がり、關聯した問題が次々に明かになつて行くと共に、日本民俗學の興味は著しく成長して來ることを經驗して居るのである。何とかして其大要を人に説かずに居られぬのは其爲である。
 我々民間に成長した學徒は、或は幾分か今までの專門家といはるゝ人と、ちがつた心理をもつて居る。殊に日本の民俗學のやうに、行く手にまだ莫大な仕事を控へ、新舊文化の目まぐるしい代謝に心をせき立てられて居る者には、どうしても問題の喰ひ散らしが多く、靜かに一つのまとまつた教科書を、書いて置かうとするやうな用意が缺けて居る。私などは内心それを少しも非難して居らぬのだが、なほ今日の如き一種の向學心と妥協して、早く學問の對社會(239)的基礎を置く爲には、若い同志の少なくとも一部は、その逞ましい精力の半ばを、勉めて此方面に裂かなければならぬであらうし、それが又今後の研究の組織化の爲に、必ずしも損な骨折では無いといふ意見を抱いて居る。此書物の緒論はさういふ目途の下に、可なり力を入れて書かれて居る。日本の學術用語は今日は最惡の?態に在り、汗水を垂らしても理解が出來ぬ表現が公然と許され、おまけに適切な實例を組合せる技術は全く發達せず、讀者に難行苦業を強ひるのを當然とする風があつて、困つたものだといふことは私も認めて居るが、是でもこの一章は關君が勞を惜まず、何度も筆を改めて少しなりともわかり易く、又乾燥無味に流れることを警戒して書いたもので、是なら滿足とまでは言へないが、先づ大よそは獨り合點の域を脱して居る。始めて此學問に入らうとする人の、公平なる批判にも適するかと思ふ。此中に書いてあることは、新たなる發見といふべきものは無く、又私たち二人だけの意見といふものも至つて少ない。大抵は今まで何度となく口にして居たことを、綜合し又解説したもので、たゞ之を表現する樣式に、まだ少々の論文口調を帶びて居るだけである。固より我々の信じ又は觀るやうに、誰もが雷同することを期して居るわけではないから、指摘せられて改訂する點は、今後とても必ずあらうが、我々はなほ記述説明の技術の熟しない爲に、いはゆる説いて詳かでないといふ部分の方が、多いのではないかと思つて居る。他日自分も大に努力し、又同人諸君にも勸めて、もつと/\肩の凝らぬ、しかも簡明にして周到なる「日本民俗學」を、澤山に世に送りたいと念じて居る。
 終りに我々二人の分擔を明かにすると、私は此一書の計畫と分類配列、その他一切の構造には參畫して居るが、執筆の勞は悉く關君に押付けてしまつた。さうして名を連ねるのは少しく蟲がよいと思ふ。又編輯と校正に就ては、改造社の比嘉春潮君が大なる援助を與へられた。同君は同時に又「民間傳承の會」の創立者の一人である。
     昭和十七年五月
 
(240)   『産育習俗語彙』序
 
 小兒が初めてこの人生に御目見えしてから、いよ/\一人前として世の中へ出るまでの間、一家一門一郷の人々から、どんな待遇を受けるのが普通であるか。むつかしい言葉でいふならば、小兒の社會上の地位や如何。是を我々は大切な問題にして居ります。國により又時代によつて、この通例といふものにも、幾つとも知れぬ相異があつたやうであります。書物を讀んだだけでは、精確なる知識の得られないのは當然でありまして、それを補ふ手段としては、現實に今も各地に行はれて居る風習を究め、その比較によつて先づ近世の移り變りを、明かにする必要があるのであります。この方法を試みる爲に、最も簡便なる目標は用語であります。我々はそれを成るだけ數多く集めて見て、全國の離れた隅々に一致し又は類似して居るものが、中央の或る區域にぽつんと一つ現れたものよりは、古い形態であらうといふことを、考へて見ようとして居るのであります。是が追々に積み重ねられますと、後には可なり重要なる事實が、發見せられることゝは思つて居りますが、それには何分にもまだ資料が足りませぬ。どうかこの小さな一卷を御讀みになつて、多少の興味を御感じになる方々が、さういふ話ならば此方にもあると、たつた一つの事でも御報道下されることを念じて居ります。此類の知識の何倍かに増加した上で、もう一度此本は書き直すのであります。我々どもゝ始終なほ心掛けて行かうと思つて居ります。
 愛育會の目的として居られるのは、斯ういふ新たなる知識を遺憾無く利用して、國の兒童の幸福を、出來る限り豐かにしようといふ點に在るかと思ひます。我々どもは又單に此等の事實に據つて、人が人生といふものをどういふ風(241)に觀じて居たかを、明かに知るのを詮として居りまして動機は必ずしも一つとは言はれませぬが、この毎日の平凡なる社會現象の中に、人を教へ又考へさせる貴とい知識の埋もれて居ることを、認める點は雙方同じであります。是を一部の研究者だけの獨占とせずに、弘く人類社會の繁榮を念ずる人々の、共通の問題にしようといふ態度も、異なる所は無いかと思ひます。即ち私たちの側から申しますれば、兼々心がけて爲し遂げたいと思つて居た仕事が、幸ひにして愛育會の御役に立たうとして居るのであります。今度の材料は最近の十數年間に、書物や雜誌に公表せられた我々の友人、又は未知の地方同志者の採集記録から、要點を拾つて拔書きして置いたものであります。努めて其の功績を没せぬ樣に、又必要があれば原文に就いて、詳しく知ることが出來る樣に、一々出處を掲げて置きました。その材料を分類し整理し、大よそ讀み物の形に書き直したのは、橋浦泰雄氏の勞力であります。十分注意しても尚免がれなかつた意味の取りちがへ、又は一部の脱落などは、それ/”\の土地の方々に、もう一度よく見て訂正をしていたゞきたいと思ひます。是と名が同じで内容の異なる場合、或は事柄はよく似て居て、名稱の丸でちがふといふ樣な例を、他の郷土の讀者からも、數多く寄せられんことを切望して居ります。
     昭和十年九月
 
(242)   『婚姻習俗語彙』序
 
 この事業の着手は、昭和三年の春であつた。自分は史學會の例會に出て行つて、我々の方法の可能性と必要とを説く爲に、例證を我邦婚姻習俗の變遷に求めようとした。此方法に依るに非ずんば、現在各地の慣行の異同が、全く解説し得ぬであらうのみならず、以前明白に我々の間に在つた事實が、如何なる經過を取つて改まり動いたかの、歴史をすらも明かにし得ず、從つて新たにこの二種の知識を以て、將來の計畫の參考とするには、民間傳承の學に信頼するの他無きことを述べて、先づ大體の承認を得たのであつた。其講演の全文は殆と原形のまゝで印刷せられて居る。翌年十月に世に出た故三宅博士古稀記念論文集に、聟入考と題して載録せられて居るものが即ち是であるが、案外にまだ多數の目には觸れて居らぬやうである。當時私が此意見の論據として、使用した國中の事實は、實を言ふとまだ本編に採録して居るものゝ四分の一にも充たず、しかも多くは又聽きの、精確を保し難い筆者の手を經て居た。そればかりの資料を基礎として、たとへ斷定はしなかつた迄も、あれだけの主張を試みたのは大膽に過ぎて居た。全く採集の無い幾つかの地域にも、ほゞ比隣の又は同じやうな環境をもつ土地と、似たる風習が有るものと推測して見たり、或は證據のまだ得られない端々の問題に就いて、多分は斯うであらうといふ想像を逞しうした部分もある。幸ひにして後日の反證によつて、訂正し又自責しなければならぬ點は無いやうだつたが、あの時もしこの事實を知つて居たら、もつと明晰に話をすることが出來たのにと、思ふやうなことは無數にあつた。私たちの仲間では、斯ういふのを未熟の果實をもぐと呼んで居るが、とにかくに發表と調査と、順序が全く逆であつたことを、認めざるを得ないのである。
(243) しかし誰にも恐らく經驗が有る樣に、斯んな不安な講演をした御蔭に、急に婚姻の習俗に關する私の注意は鋭敏になつた。さうして又興味も深くなつた。世上にはまだ何程も、大切な資料が落ちこぼれて居たのである。「旅と傳説」はこの熱心に動かされて、昭和八年には婚姻習俗の特輯號を出してくれ、全國の意外な隅々から、詳しく其地の現?が報ぜられた。一方私個人の手で、三四年の間に拾ひ集めた郡誌方言集類の、信じてよい資料もよほど集まり、同じく八年の初頭に「人情地理」と題する三號雜誌に、之を整理分類して掲載し始めた頃には、もう既に本編の資料のほぼ四分の三ほどが、私のカードには入つて居たのである。雜誌の潰れたのは今から見ると損失では無かつた。もし續いて居たならば、あの程度の常民婚姻資料を以て滿足して、私はもう外の興味へ轉じて居たかも知れなかつたのである。
 大間知篤三君の協同は、この際に在つて非常に有效なものであつた。事實私の根氣ははや可なり衰へて居た。同君は之に反して、新たに是等若干の印刷物を精讀して、發案者以上に此事業のプランに通曉し、それから更に進んで有る限りの私の蓄積を寫し取り、是を系統立てゝ一卷の語彙に、組立てる役目を引取つてくれたのである。この提携以來又既に三年餘りになる。資料のそれからの追加は、大部分が大間知君の勞苦であつた。是を一々消化して適切なる個所に利用したのも同君の判斷である。兩者の分擔を明かにすれば大體右の通りであるが、自分は最初の立案者として、又大間知君の自由手腕の信頼者として、總括的に責任を負うて居ることは勿論である。たゞ無爲にして人の功を奪はんとする者でないことを證明したい餘りに、是をほゞ完成に近い一卷の書に纏め上げた人の誠實と苦心とを、小さく評價し過ぎることを懼れて居る者である。
 是は少しく身邊の私事に渉るが、自分の家には成長した子女が數名ある。それが聟入考出現の頃から、ぽつ/\と縁に就いて半以上安住の地を得て居るが、親として此間に苦慮し決斷しなければならぬ大小の問題が無數にあつた。それに對しての最も力強い助言者は、ちやうど折よく手を着けて居た、前代文化史の此部面の知識だつたのである。(244)學問は生活の實際上の要求に役立たぬ樣では、始める甲斐が無いとまで思つて居る自分には、少なくともこの範圍に於ては言行の一致を見たのである。日本民俗學の必要と可能性が、やゝ過分にまで適切に立證せられたのである。嬉しいことには相異ないが、其代りには學問の動機の卑近さを、見縊られる懸念も無しとしなかつた。ところが大間知君の場合は全然別であつた。滿足すべき婚姻生活は既に開始し、家にはまだ呱々の聲が無い。乃ち第一の問題は夙に立派に解決し了り、第二の問題はまだ遠く地平線上に在るのである。その中道に在つて人の爲、又弘く人世の爲に、缺くべからざる參考資料を明確に整理し、出來るだけ容易に利用せしめんとするのである。たとへ分擔の量目は均等だとしても、之を提供しようといふ素志に至つては、著しい價値の差を認めざるを得ない。さうして之を正直に告白することが、亦協同者の義務であると思ふ。
     昭和十二年一月
 
(245)   『葬送習俗語彙』序
 
 數多い諸國の方言集の中でも、葬禮に關する用語の探録せられたものは至つて少ない。やはり平生之を口にする者が無いので、かゝつて調べようとする人でないと、知ることが出來ぬのかと思ふ。郡誌の風俗の部には、折々葬列の樣子などを詳しく記したのもあるが、是にもその前後に家々で守つて居る慣例を、注意したものが一向に見當らず、現に所謂兩墓制の如く都市と農村と、新開地と舊來の居住地との間に存する、最も顯著なる制度の差異までが、近頃になつて漸く我々の仲間の問題として、考へられ始めたものも多いのである。中代以前にあつてあれほど大切であつた喪屋の生活、火と食物の上に嚴存した忌の拘束、是と各自の經濟的要求との相關、現在は殆と常識の如くなつて居る墓地點定の個人主義が、行く/\此國土を石碑だらけにしてしまはないかどうかの疑問等、一つとして今日明かになつて居る歴史知識といふものは無いのである。それよりももつと根本的なものは、死後に關する我々常人の考へ方、今はこの世に住まぬ國民と、その血を受け繼いで居る活きた人々との連鎖、永い久しい血食といふ東洋思想は、果して變化改廢無しに今も續いて居るか、或は既に凡俗の間にすらも、消えて痕無くならうとして居るのであるか。斯ういふ痛切なる全社會の問題までが、たつた一つの我々の方法によつて、僅かに解答を將來に期し得るのである。故に現在の資料はまだ決して豐富ではないけれども、寧ろ調査者の興味を刺戟せんが爲に、この程度に於て一應の整理を試みる。幸ひなことには他の色々の習俗とちがつて、葬儀はその肝要な部分が甚だしく保守的である。喪家が直接に其事務に當らず、之を近隣知友に委托する爲に、後者は專ら衆議と先例に依つて、思ひ切つた改定を加へようとしな(246)いからである。其結果は村と村との間に著しい仕來りの違ひがあると共に、意外な遠方の土地にも爭ふべからざる一致があつて、或はこの特色によつて、土着の新舊を想察せしめる場合さへあるかと思はれる。西人謂ふ所のフオクロリズム、即ち進化段階の比較と綜合とが、最も力を施し易い領域であり、この實驗の收穫は必ずしも一個葬送習俗の沿革を明かにするに止まらず、更に他の幾つかの複雜なる問題に應用することも出來るかと思ふ。今囘の編輯も前の婚姻語彙のやうに、大間知篤三君が主として其勞に任ぜられたが、是に用ゐられた資料の大部分は、自分の十年以來の集積であつた。曾てこの約五分の一を、宗教研究といふ雜誌に掲載したことがあるが、我々の趣旨と方法とを、尊重する者が少ないので繼續しなかつた。日本の宗教研究なども、斯ういふ國内の事實の認識を、せめては外國學者の所説と同一程度に、重んずるやうになつたらよからうと思ふのだが、其機運を作るだけの力が、私たちの仲間に今まではまだ備はらなかつた。是が永遠の國の學問の姿ではなくて、たゞ單なる一過渡期の?態に過ぎなかつたことを、やがては立證する日の到來せんことを希ふの他は無いのである。
     昭和十二年八月
 
(247)   『禁忌習俗語彙』序
 
 我邦では現在イミといふ一語が、可なり差別の著しい二つ以上の用途に働いて居る。極度に清淨なるものは祭の屋の忌火であるが、別に或種の忌星の火は是に交はることを穢として避けられる。忌を嚴守する者の法則にも、外から憚つて近づかぬものと、内に在つて警戒して、すべての忌で無いものを排除せんとする場合とがある。斯樣に兩端に立分れて居るものだつたら、最初一つの語によつて之を處理しようとするわけが無い。以前は今よりも感覺が相近く、且つ其間にもつと筋道の立つた聯絡があつたのではあるまいか。この問題に疑を抱き始めてから、既に自分でも驚くほどの年數が過ぎて居る。素より外國の學者の研究に、參考になつたものも色々と有るが、彼等は自分の國にこの事實は持合はさず、いつでもよその種族の及び腰の觀測に依つて、意見を立てなければならなかつた上に、假に根源の世界一致を認めるにしても、個々の國民が經由して來た千年の發達を、まだ全く知らないで假定した説なのである。果して物忌が彼等謂ふ所のタブーであるか否か。是からして先づ第一に盲從し難い。日本人自身が今はまだ、忌のどう變遷したかを知つて居ないからである。
 或は今日は時期がもう遲い。是から尋ねて見ようとしても、資材は滅び失せたものが多からうとも考へられる。しかし我々に知りたい念慮のある限り、さうして他には試むべき手段が無い限り、やはりこの途を踏んで行くの他は無いのである。私は前代諸大人の解説から、許多の貴とい啓示を受けて居る。その獨斷に失望しなければならぬ場合は寧ろ少なかつた。しかしこの指導に心服し又確信する爲にも、やはり今一度是を實地の事實に就いて、新たなる檢討(248)をして見ることを、安全なる手順だと信じて居る。さういふ意圖を以て集積して見た資料が、乏しいとは言ひながらも若干の量になつた。是を整理し排列して居るうちに、是までは全く懸離れた二種の現象のやうに見えたものに、少なくとも雙方の歩み合ひが、幾分かは跡付けられるやうになつて來た。橋がこの間に架かるのもやがてゞあらう。さうすればこの二つのゆゆしい習俗を作り上げた根本の物の考へ方、即ち固有信仰の特色ある外面が、今よりはずつと明瞭になつて、單に國内の先輩の慧眼を立證するに止まらず、或は一歩を進めて世界の異なる諸民族に、相互を理解する態度方法を、改良せしめる手引ともなるかも知れない。まだ成功はして居らぬが、希望だけは確かに生れたと思つて居る。
 我々の資料の一方に偏して居るのは、まだ今まではこの學問に志す者が、數も少なく隅々に立分れて互に授け合はうとしなかつた結果であるが、最近は事情が又よほど變つて來た。程なく他の地域のもこの空隙を充すやうな事實が、保存せられてあるものなら次々に報告せられて、多分は自分等の假想の幾つかが、當つて居たことを保障してくれるであらう。誤謬を刪除することも同じやうに大切である。我々の任務は不精確を精確とし、將來の理論に安全なる基礎を供するに在るのだが、殘念ながら今はまだ事實が足りない。差當つての此本の目的は、此點に看る人が心づいて、さういふ慣習ならば爰にもある。もしくは此點が違つて居る。或は又この説明をした人がまちがへて居るといふ類の通信を、追々と「民間傳承の會」に寄せられんことを求めるに在る。斯んな微々たる片田舍の事實が、集めて學問の用に立つとは思はなかつたと、感ずる諸君は今でも多いことと思ふ。それがこの不完全なる集録の狙ひ所であり、同時に又日本民俗學の前途の光である。
     昭和十三年二月二日
 
(249)   『服装習俗語彙』序
 
 僅か是ばかりの語數を竝べて見ただけでも、もう我々に心づくことは、今まで一切の記録に書留められて居なかつた國民服装の變遷といふものが、案外に大きかつたといふことである。それを現在まだ隅々に殘つて居る事實の比較によつて、よほどの部分までは明かにし得る見込があること、しかも其知識は單なる歴史的興味といふに止まらず、いはゆる生活改良の意見を立てたがる人々にも、是非とも持つて居てもらひたいものが多いといふことも、段々にわかつて來るやうな氣がする。どうして又此樣な大切な資料が、少しも利用せられずに今までは棄てゝあつたかといふと、それは此方面に最も縁の深い人たちが、遠慮をして口を出さうとしなかつたからである。さうして又書物を讀む以外に賢こくなる途は無いかの如く、考へさせられて居たからである。御蔭で日本の衣服の問題などは、どちらを向いて見てもまだ眞暗である。斯ういふたつた一本のマッチを點したやうな仕事が、役に立つといふのは決してうれしいことでない。私は早く各家庭の常識が豐富になつて、寧ろ此本の無用となる時を待つて居る者である。
 しかしこの中間の時期に於て、特に我々の興味を惹く事實も幾つかはある。男子が主として干與した事項、たとへば建築の語彙などゝ比べて見ると、衣類の名目は一般に可なり大雜把である。同じ一つの言葉が弘い區域に亙つて行はれ、しかも土地毎に少しづつ、物はちがつて居るといふ場合が甚だ多い。形容詞の方言などにも、是は?遭遇する現象であるが、新語が内容の分化に應じて次々に造られて行かなかつた結果である。又各地の間に申合せが無い爲に、甲乙互ひに異なつた一部面へ、其使用が偏よつて行くことになるのである。殊に衣服の場合に於ては、男が技術(250)の細々とした點にうとく、婦人は又おとなしく男の用語を許容して、用さへ辨ずる限りは之を改訂しようともしなかつたかと思はれる。染屋や布賣りの專門の人たちが出現して、急に流行を運ぶ樣になつてから、新たに生れた言葉の多くなつたのを見ても、彼等が小兒や若い男たちの如く、大きな關心を異名新語を作ることに持つて居なかつたことが察せられるのである。國語變遷の歴史を考へて居る人々に、是は慥かに新らしい興味であるが、語彙の編纂者などは其爲に餘分の難儀をする。たつた二箇所や三箇所の實例によつて、意味が明かになつたと思ふことが出來ぬからである。誰しも自分の小さい頃から、知つて居る通りを正しいと思ふ故に、よその異なる解説を訂正しようとするからである。テッポやツツッポといふやうなつい近頃の言葉までが、比べて見ると土地毎に、ちがつた意味に用ゐられて居る。ツヅレやドンザといふ類の辭典にある語でも、今までそれに氣が付かなかつたといふだけで人々の胸に描く繪は別々なものが多い。しかも其根源は大抵は一つだつたのである。それを後に生活の便宜にまかせて、物は改良を加へて置きながら名前は元のまゝで其移動に任せて居た故に、いよ/\全國的にその意味と系統とを明かにしようとなると、大きな手數が掛り又誤りを生じ易いのである。是を怠慢と評しては同情のない話になるが、少なくとも今後女性が此問題の爲に、澤山働いて埋合せをするだけの、義理があるぐらゐには考へて居てもよからうかと思ふ。
 しかし一方には又御禮を言はなければならぬこともある。國語の改良が此方面に於て、甚だしく不活   滋であつた御蔭に、古い色々の言葉が幸ひにして殘つて居る。我々の服装は材料なり製法なり、又之に對する考へ方なりに於て、殆とあらゆる他の生活樣式を飛拔けて變化してゐる。僅か三百年五百年前ばかりの、常人の出立ちを思ひ浮べて見ようとしても、今ある歴史知識では先づ出來ない。從つて芝居にも小説にも、繪そらごとが横行して居るのである。もしも言葉が是に隨伴して、さつさと新らしくなつてしまつて居たとしたら、もう我々は上代とは縁切りだつたかも知れぬ。ところが男たちは苦心の改良に心づかず、平氣でいつ迄も古い名を以て呼び、女は又それはちがひますとも言はなかつた爲に、都府はとにかく、田舍の隅々に行くと、コギヌとかハカマといふ元の名がまだ殘つてゐるのである。(251)タスキはその用途も形も一變しながら、依然としてなほ日常語であり、ハバキは紺木綿の小はぜで留るやうなものになつても、まだ舊名稱を棄て切らぬ土地があつて、何人にも其由來を疑ふことを得ざらしめるのである。殊に私などがうれしいと思ふのは、タナ又はタヅナは中世の文獻に、たつた一色の用法の爲に記録せられて居るのだが、東北地方に行くと現在もまだ盛んに色々の目的に使はれて居る。男の褌を後に女が頭に被るやうになつたと解する者が有り得ない以上、乃ち目前の新鮮なる地方語が、却つて古い書物よりも、更に古い時代の?態を保存してくれたのである。言葉が追々と集録せられて行くとゝもに、勿論斯ういふ事實が今一段と明瞭になるのみか、更に此以外のもつと適切な例も、幾らともなく現はれて來ることゝ思ふ。努力しなければならない。
 今や大抵の圖書館ははち切れるほどに、新古の書物が氾濫して來て居るが、それで居てなほ我々の生活から、自然に起つて來る疑問には相談相手となるものが少ない。智慧は埋もれて未來の發掘を待つて居るといふことを知つたゞけでも樂しみなのに、その資料の大部分が我身の傍に、我家の納戸の暗い片隅に、いつでも取出して見られる?態となつて、散らばつて居たのだといふことを、心づくといふことは何といふ幸福であらう。この上は一日も早く各自の最も有りふれたもち物を取集めて、互ひに是を他郷人の爲に役立て、末々は日本總國としての知識を、まちがひのないものにしなければならない。この一册の語彙の不完全なものであることは、何人よりも先に編者がよく知つて居る。しかし是を因縁に後々日本の服装變遷史が、總國民の常識となる時代を迎へ得たならば、其時こそは過去をふり返つて、是を一つの記念標とも見ることが出來るであらう。
     昭和十三年四月廿六日
 
(252)   『分類漁村語彙』序
 
 露伴先生の水上語彙を見たのは、明治三十一年か二年のことゝ思ふが、是が此集の發願の日であつた。大正の初めの頃、甲寅叢書の計畫を立てた際に、私は先生を訪ねて、あの本の増修再刊を勸めたのだが、それは容易な業で無いからと謂つて辭退せられた。實際當時は未だ地方に今日のやうな同時採集も起らず、いつ迄坐して待つて居たら、どれほどの漁民の生活が明かになつて來るといふ見込も付かず、よほど氣の長い者でも、是をさう大きな學問上の勞作とは、考へることが出來なかつたのである。
 櫻田勝コ君の二年に亙つた四國九州中國の旅行には、大きな意義があつた。是で私たちには限地調査といふものが、勞ばかり多くて效果の收めにくいものであることがよく判つた。同君は一つの土地で得た新鮮なる印象を携へて、すぐに第二の島又は岬の陰の村に行くから、自分も理解がさとく、同時に浦人も心を許して、どんな問にでも答へるやうになり、受身の採集では幾ら待つて居ても得られぬものを、ほゞ系統立てゝ持つて來ることが出來たのである。是なら遣つて行けるといふ確信が是で出來て、「島」といふ雜誌も生れたのであつた。力が足りなくて雜誌は永く續かなかつたけれども、我々の熱意は學術振興會を動かし、豐かな補助を受けて數多くの島や山村をあるき、古來旅商人以外の者が足を入れたことの無いやうな土地の住民と、膝をまじへて前代を問ひかはすまでになつたのである。
 我々の同志は皆よく旅行をした。純なる學問の爲ばかりに、是だけ多くの忍耐をした例は、前代はいざ知らず、今の世には珍しからうと思つて居る。この集の編輯に參加した倉田君も其一人で、激しい職務の間から得た僅かな休み(253)日を、近年はすべて此仕事の爲に費して居る。漁村語彙の蒐集に就いては、此人は特に土地の選定に留意した。先づ九州では櫻田君の見殘した東海岸一帶、關東では房總半島の外側、東北は阿武隈河口から牡鹿方面、日本海上では佐渡の内外海府等、努めて隔絶の土地を交互に觀察して、風習と言葉の異同を究めようとして居たのには趣意があつたのである。是は前人の全く用ゐ得なかつた方法で、それを質問用紙で集めては片便りになるが、自ら行つて見れば即座にも不審が散じ得られるのみならず、土地の人々にも若干の興味と利益とを置いて來ることが出來る。實は私なども一日も早く此方法が隈なく全國に及ばんことを念じて居るのである。
 漁村語彙の關する限りに於ては今までの經驗では存外に地方的差異が少ない。百里二百里の沿海線に亙つて、又は飛び/\に西南と東北とが、同じ言葉を用ゐて居た例が何程も有る。是は文書にも傳はらない海上の交通が、いつの間にか運び又移して居たものゝ多いことを意味するは勿論だが、又その間には古代から持つて居て雙方共に、改めようとしなかつた場合もあるのである。倉田君が心づいた漁夫の物入れのチゲなどもその一つの例で、釣針をチと謂はなくなつてからもう久しいことになるのだが、それを入れて置く曲げもの又は箱を、鉤笥即ちチゲと呼ぶ土地は、東京附近を含めて全國に何箇處もあり、その多くのものには痕つけられる水陸の往來が無いのだから、乃ち古來の保存であつたことが察せられるのである。我々の漁法は近世に入つてから、次々に新らしい技巧を以て補充せられて居る。前からあつたものも必ずしも亡びてはしまはないが、生活の關心を占める部分が益小さくなり、後には其用語をも粗末にするのである。さういふ中でも麻が最も大きな歴史をもつ衣料であつたやうに、釣は一ばん長い期間の海の生活の支柱であつた。從つて是に關する言葉が、特に共通のものを多く持傳へて居るかと思はれる。それと比べると網は近頃の改良が大きいと同じに、其方法は新たなる傳播であつた。明治に入つてから始めて網を學んだといふ土地も幾つか知られて居り、さうでない迄も是に伴なふ信仰の行事などが衰退してから、單なる經濟技術として之を入れたかと思はれるものも多い。たとへば船の船玉に對して網の網玉(アウダマ)樣を中央の大きな泛子(アバ)に齋き祭る(254)習はしなどは是を知つて居る漁村はほゞ内海の四邊に限られて居り、假に他の俗信が新たに起つたにしても、それは周圍の別職業のものから、學んだ方式が多いのである。
 それで私たちが專門の立場から、一應明示して置きたいと思ふのは、我々の知らうとして居るのは今日を作り上げてくれた過去の生活である。殊にさういふ中でも何人にも氣づかれずに、埋もれて再び現はれまいとして居る事實である。今和次郎氏等の所謂考現學の全部では無いのである。網の勞働組織や之に伴なふ分配方法の中には、明治以來の政策に支持せられて、記録の歴然として存するものも多い。是を精細に敍述し、又は其功に誇らうといふ人もそちこちに居る。地方は又之を採用し擴張しようとして居るのだから、全國は固より一致して居る。土地毎の老人などから面倒な話を聽かうよりも、寧ろ縣廳に行き試驗場に行き、書物を買つて見る方が要領を得る場合が無しとせぬのである。それも出來るだけは知つて居た方がよいが、其爲に一方の我々で無ければ知らうとする者が無いやうな幽かな殘留を、拾ひ集めて置く時間を横取せられては損であり、又この知識を利用する人の爲にも氣の毒である。精確なる記述をした書物が、求めれば幸ひに得られる區域に於て、なほ傳承の採録を以て競爭しようとすることは、たとへ同一の結果に達し得るとしても、なほ勞力の徒費を免れない。だから此集ではさういふ方面に向つて、わざと略して居るものが多いのである。「島」に掲載せられてある石垣島の漁法を見てもわかるやうに、釣は大昔からの我邦の生業であつたやうだが、是すらも販路と交易の組織をもたない海の一隅の人々には、なほ不必要に大規模であつたのである。個々の家庭の消費の爲には、釣だけの資料と準備とをも要せずして、目的を達した時代が、今の洋上の諸隣人と同じに、古くは我邦にも有つたのである。是にも技術の練習とか興味とかがあつて、次の漁法が現はれても即座には更迭してしまはない。現にそれ以上の進歩を試みずして、之を内陸の沼や小川に應用して居る者は、各府縣ともに幾らも居る。斯ういふものこそは技術官や組合の調査に、一任して置くことが出來ぬもので、さうして之を省みずに置くと、原始素朴の世を今日と繋ぐ、鏈の環は方々で斷たれてしまふのである。さういふ中でも國民が天賦の智能によ(255)つて永い期間に今まで持つてゐたものを改良し加工して、それ/”\の環境に適應せしめた苦辛の跡だけは、たとへ全然後の入用が無くても傳へて置かなければならない。ましてこのはかない古風の方法に據つて、營々として生を支へて居る人は、少ないといふだけで今も確かにあるのである。我々の學問が之を閑却したら、果して何人が彼等を省みるであらうか。
 一つの實例は海女の村の生活からも引用することが出來る。獲物の乏少と技術改良の困難とによつて、此勞働は今や可なり苦しいものになつて居る。社會環境の何れの角度から眺めても、問題はたゞ是がいつ迄殘るであらうかの他には無い。現に其數も可なり減じて居る。然るに彼等の無邪氣さは、今なほ母の代からの變化に心づかず、是を元祖以來の常の?態と解して、當然として耐へ忍んで居るのである。この復舊し難い時勢の過程を詳かにすることは、必ずしもこの人たちの幸福には歸せぬかも知れぬが、我々は爰に女性の勞働を中心とした、一つの社會形態の消滅を見送らうとして居るのである。以前の文獻に若干の濃い影を留めたゞけで、特殊なる文化の生れ又榮えた姿が、解説せられずに終るといふことは、後世に對しても相濟まぬやうにも感じて居る。我々の採集は成程まだ貧弱であるが、それでも主要なる技術上の用語の他に、一二の制度や信仰に關係あるものを拾ひ上げて、研究の端緒だけは捉へて居る。さうして是がほゞ全部、何れも土地に就いて之を用ゐて居る人の口から、直接に採集せられた言葉なのである。
 この語彙の排列整頓から印刷までの勞務は、專ら倉田君の引受であつたが、其選擇と分類とには、大體に自分の意見が採用せられて居る。現在漁村に於て耳にする言葉から、どれだけ迄を此等の中に採るかといふことには問題がある。古語の埋没してゐるものを保存することは、勿論我々の目的とする所ではあるが、それと近頃になつて人が用ゐ始めたものとを判別することは必ずしも容易でない。それで幾分か網の目を粗くして、聽いて大よそ誤り無しに、内容の察せられる言葉は惜まずに遁がしてしまつた。普通の辭書類に掲げられて居るやうな語は、何か特に心づいたことの無い限り、重複して載せないのを原則にして居る。しかし悉く檢して見たわけで無いから、誤つて無用の解説を(256)下したものも絶無とは保障し得ない。後日さういふものが有つたら除くつもりである。本意は徹頭徹尾學者といふ人たちのまだ知らぬ事實、殊に其背後の小さな生産者たちの、年久しい有形無形の傳承を、裏付けて居る言葉のみを、保存して置かうといふに在るのである。單なる机の上又は文庫の塵の中の、作業で無かつたことを認めてもらへれば幸ひである。農村山村の語彙もほゞ同じであるが、此集には殊に引用書の推薦すべきものが少ない。それは多くの漁村用語が、印刷した文字からで無く、直接櫻田君其他多くの旅行者の手帳から第一次に引繼いだ資料であることを意味する。斯ういふ言葉がやがて又未調査の弘い地域にも發見せられ、それに案外なる一致があつて、行く/\日本人の有ふれたる常識と化する時が來るならば、我々兩人の努力はそれで酬いられるのである。必ずしも永久に有用の書となつて殘ることを幸福とは思つて居ないのである。
     昭和十三年十一月十一日
 
(257)   『居住習俗語彙』序
 
 漸うのことで千餘りの言葉を拾ひ集め、一通り分類をして見たが、誰にも氣がつくであらうと思ふことは、記述がひどく或一部の項目に片よつて居る。さうして事實の十中七八つまでが、中央からずつと離れた端々の田舍で觀察せられたものばかりである。從來の郡誌方言集の類は、隨分廣く目を通したのであるが、其中には一つも居住に關する民間の用語を、掲げて居らぬものも稀では無かつた。つまり開けた土地ではもう斯ういふ習俗が、言葉からでは採集の出來ない?態になりかゝつて居るのである。
 是は十分な理由のあることゝ、我々は思つて居る。所謂自給經濟が此方面に於てはとくに退縮してしまつて、人は專門の職人を頼むこととなつて居るからである。部落内部の人が助け合つて小屋を建て屋根を葺いて居る間は、普請は全體からいへば毎年の行事であつた。秋の終り冬のかゝりの稍手のあいた頃になると、どこかで大か小かの工事が始まつて、必ず村の人々の題目になつたからである。職人の用語は少し勿體ぶり、又必ずしも素人の間に通用することを期して居ないが、それでも知らうと思へば覺えられぬほどのむつかしいものでは無い。たゞ多數者はさしかゝつて是に關心をもたぬ人になつた故に、言葉としては毎日の生活面に浮んで來ず、從つて直接に民間からは採集し難いのである。其上に是等の職業語は、大抵は同時に標準語でもあつた。たとへば大工の流儀により、或地方の棟梁の弟子筋だけは、ちがつた用語をもつといふことも少ないらしいのである。彼等の共用する術語を集めて置くといふことも、亦一つの興味ではあるが、我々の語彙は常人の間から、少なくとも土地では誰にもわかつてゐる日本語だけを、(258)集めたものだから是が入つて來ないのである。瓦とブリキ屋根が普及することになれば、この方面の言葉が更に大に減少することであらう。同じ傾向は亦衣服履物髪飾等の生活にも、既に著しく顯れて來て居る。やがては又煮豆とか佃煮とか煎餅とか飴チョコとかの、食物の言葉にも統一が效を奏することであらう。現在はたしかに一つの過渡期である。我々はこの程無く消えて行くものゝ後影を、まだしみ/”\と見送ることの出來る時代に、よい都合に生れ合せたのである。後々是だけの事をすら知るに苦しむであらう人々の爲に、應分の力を盡さなければならない。
 この小さな一つの本の利用價値を説くことは、差控へた方がよいとは思ふが、少なくともさして困難なことでは無い。たとへば水を汲み火を作る方法といふやうな目前の問題、どんな境遇に育つ少年子女にも、直ちに理解の出來るほどの單純な技術にも、なほ昔を今にした大變化があつたといふこと、それだけならまだ或は想像して居たかも知らぬが、その何囘と無き驚くべき激變が、すべて最近の百年足らずのうちに、現れたものだといふことは知らぬ者が多い。殊に國内の意外な隅々には、今でもまだ以前のまゝの古風な方法を、續けて居る人々があるといふことなどは、教へる人自身までが、大抵は心付かずに過ぎて居るのである。新たなる大御代の文化の惠みを、是ほど簡明に又適切に、會得せしめる方法は他には有り得ない。我々の先祖は夢にも之を豫期せず、今から考へると氣の毒のやうな不便を忍び、えらい勞苦に甘んじて居た。さうしてどうしても其?態から出て來られぬ人々が、僅かではあるが今も國内には居るのである。今が昔で無いといふ確實な相違、それから同じ現代の國民の中にも、土地によつては樣々のちがつた生活が有るといふこと、この二つの認識は普通教育の大きな目標である筈だが、材料が無いばかりに、今まではまはりくどい教へ方をして居たのである。其教材が恐らくは斯ういふ本の中から得られる。問題は獨り水と火のやうな、すぐに眼に見える有形事物の變遷だけでは無いのである。
 新たに此點に心づいた人たちが、幾らでも此事業は擴大してくれられることゝ思ふ。近頃の經驗によると、語彙は一旦不完全なものでも本にして出すと、それから急に集まり方が多くなつて來る。言葉が是ほどまでに國民の常識を(259)進める爲に必要だといふことは、やはり實地によつて例示する他は無いやうである。殊に居住に關する用語などは、人が今ちやうど忘れようとして居る折柄で、年寄は知つて居るが若い者は使はぬ。聽けばわかるが言ふ人が無いといふ境の上に居る。だから志ある人々が此本の餘白を利用しようとすれば、まだ/\豐富な舊語が活返つて來るかと思ふ。私が爐端の横座かか座といふ語を始めて耳にして、驚きもし且つ覺りもしたのは、明治三十九年のたしか秋、甲州の道志から津久井へ下る月夜野といふ小さな村であつた。それから圍爐裏の話が出るたびに、又かと言はれるほどよく此名稱の由來を説いて居た。それが縁となつて不思議に火のまはりの作法だけは、詳かに知れ渡つたのである。是なら他の事項に就いてももつと早くから、わい/\騷げばよかつたと思ふが今からではもう追付かない。やはり斯ういふ誇るに足らぬ本でも、忍んで世上に推薦するの他は無いのである。山口貞夫君が夙に私の企てに共鳴して、蔭の協同に費された勞苦は多大である。同君の初稿は採集の増加に伴なひ、再び私の手で書き改める必要を生じたけれども、此中には兩人が世の爲に盡さうとする志は均しく含まれて居る。
     昭和十四年三月六日
 
(260)   『分類山村語彙』序
 
 昭和七年の七月以後、及び同九年の八月から數囘に亙つて、大日本山林會の雜誌に連載した山村語彙は、後に別刷にして數百部、同好の人々に頒布せられて居る。中にはあれを讀んで記憶を喚び起して、新たに訂正補充の資料を供與し、又はこの方面の事實に、改めて注意を拂ふやうになつた人も少なくない。今度の分類語彙は出來るだけ其援助を利用し、且つ前囘の五十音順を改めて、成るべく關係のある言葉を一つ處に寄せて見ようとしたものだが、飲食衣服器物等に關する若干の名詞を別の集にまはした他は、前の集に出したものもすべてもう一度この内に加へて居る。それが全體の約四割ほどであらうかと思ふ。狩獵についての言葉などは、前にはまだ甚だ少なく、其後の採訪が進んだ爲に、可なり今は豐富になつて居る。昭和十一年頃から始まつた木曜會同人の山村旅行が、新たに此方面の知識を増加したことは、後世から囘顧して見ても、恐らくは顯著なる事實であらうと信じて居る。
 山村といふものゝ範圍は、必ずしもはつきりして居ない。よほどの山奧に入つても畑を作り又田を拓き、專ら採取と捕獲のみによつて、生を營むといふ者は至つて少ない。曾ては純粹の山民と稱すべき家もあつたらしいが、今は大部分が農家からの分れであつて、從つて全部の穀食を外部に仰いでは、不安を感ぜずには居られない人ばかりである。勿論山村の農作には、平地とはちがつた幾つかの特色はあらうが、次第に移り動いて居て其境目が立てにくい故に、便宜上その全部を擧げて、既に信濃教育會の農村語彙に載せて置いたので、もう此中には再出させない。一方には又村里の方でも、年内の或期間だけ、山に入つて山民の生活をする場合が多い。是だけは又區別無く此集の中に列記し(261)てあるから、正確にいへば寧ろ山中生活語彙といふ方が當つて居る。つまり農漁山村の三つの語彙は、各その一部分が重なり合つて居るのを、強ひて何れかに片付けて見たのである。日本の田舍の事實を、一通りは知つて居ると言ひたい人々は、やはりこの三つの語彙の、どの一つをも閑却することは出來ぬのみか、更に是等の生業の出發點となつて居る所の、家と村との組織、及びそれを動かす力としての、信仰愛情友誼等に關する古來の約束の、別に莫大なる言葉の數となつて、傳はつて居ることを忘れてはならぬのである。
 たゞさういふ多くの語彙の中では、殊に山中の事物の名に、古い生活の名殘が色々と傳はつて居ることを、我々は感ぜざるを得ない。人が新たに世に交つて、自ら體驗して行くものゝ印象は強烈である。時としては父祖傳來の奧深い記憶を、片陰に押し遣るほどの力をさへ持つて居る。さういふ新たな印象を重ねる機會が、山の中では得られない故に、自然に今まであるものだけを守り養ひ、又は少しづゝ引伸ばして行くことになつたのかと思ふ。世界に稀なる山國であつたといふことは、我日本を意外に古い風習の數多く殘つて居る國にしたのだが、此?態は果してなほ續くかどうか。新らしい文化は平野を花やかにし、山へは又色々の旅人が入つて行く。戸口の今日のやうな増殖の中ですらも、日に日に谷底の小さな部落、又は峠の上の一軒家といふやうなものゝ數を減じ、老いたる狩人や岩魚釣りなどの、黙つて一生を暮らしたといふ人々は去つて行つて、もう其代りの者は出て來ようとせぬのである。分類山村語彙の多くの言葉が、永遠に忘れ去られる日は近い。何だかもう既に無くなつてしまつたものが、大分に有るのではないかといふ氣もする。急いで之を存録する事業に、參加する人々を今少しく多くして見たい。それがこの本をやゝ不完全なる形のまゝで、一たび世に出して見ようとする我々の動機である。
 我々の語彙に出て居ない一つの言葉が有るといふことは、大抵の場合には一つの事實の、今まで氣付かれないものが見つかつたことを意味するのみか、時としては説明し得なかつたことを説明する手掛りになる。既に採集せられた一語の、又他の土地にもあつたといふことは、事實を確かめるだけで無く、なほ其由來の遠いことを推測せしめる。(262)同じ言葉の解釋の少しづゝのちがひは、誤謬を正す以上に、又考へ方の變遷を跡づけしめる場合もある。わざ/\力を入れて問ひ試みるまでの勞苦を費さずとも、たとへば路上の草の花が目を惹くやうに、自然に耳に留まつたものを記憶して來るだけでも、それだけ日本の前代生活は、痕を次の代に印するのである。今後の活?なる山地旅行家に、たゞこの人生現象の興味を感ぜしめるだけでも、もう一つの仕事では無からうかと我々は思つて居る。二十年に近い自分たちの勉強が、たつた是だけの語彙にしかならなかつたといふことも、之を考へると必ずしも失望すべきでない。
 終りに我々兩名の分擔を明かにするならば、此語彙の蒐集には多數同志の協力が加はつて居るが、之を選定し又一應の排列を試みたのは自分であつた。倉田君は其初稿を整理繕寫して、現在の形にこしらへた上に、更に敷囘の校正と索引の製作を引受け、私をして容易に收穫の悦びを味はしめた。此間題に對する興味の増加と、新たなる經驗の蓄積とが、同君他日の輝かしい學業の素地をなすならば、その隱れたる勞苦は始めて償はれたと言ひ得るであらう。
     昭和十六年三月
 
(263)   『族制語彙』自序
 
 日本上代の政治史又は社會文化史に、氏といふものが大いに働いて居たことは誰でも知つて居るが、さてその氏は末々どうなつて來たのであらうか。言葉として今日殘つて居るのは、我々の家の名を一に又氏ともいふことだけで、家の名は共通で氏は異なるといふ者が有るといふことすらも、もう考へることが出來なくなつて居る。さうして一方にはその家なるものの重要性が、少なくとも今日までは、年と共に痛切に感じられるやうになつて來て居るのである。氏と家との關係如何は、一つの大いなる問題とならざるを得ない。氏が小さく分裂してこの多くの家になつたか。もしくは昔の氏のたゞ收縮したものが家であるのか。但しは彼と是とには繋がりは無く、別に此世の中に彼が衰へ消え、是が大いに立ち榮えるやうな、それ/”\の理由があつたものか。答へはこの三つの中のどれか一つで無ければならぬのだが、中間約千年の經過がまだ明かでないばかりに、今以て一應の假定をすら下し得ない?態に在るのである。
 自分たちは恐らく何人よりも熱心に、この昔から今への推移の跡を、究めたいといふ望みを抱いて居る。永い歳月を累ねた同志多數の努力にも拘らず、今でもまだ是だけは判りましたと言ひ得るまでの、結果を收めて居らぬのは面目ないが、少なくとも我々の方法には若干の見込みがある。といふことまでは認められたやうな氣がして居る。それがこの一種の中間報告の如きものを、公表して置かうとする根本の動機である。
 我々の方法といふのは大小の二つ、第一には此間題のやうに記録の史料が乏しく、多量の推測と臆斷とを傭ふに非ざれば、到底文書に據つて現在までの變遷を解説することが出來ぬといふ場合には、先づ目前の社會生活事相を、曾(264)て有つたものの保存殘留乃至は痕跡として、詳かにその甲乙丙丁の差等を見て、次々に一つ以前の姿といふものを尋ねて行かうとすることである。新らしい文化樣式の浸潤が土地毎に程度濃淡を異にすることが無かつたならば、次には又我同胞國民の保守性が強靭で、何か機會のあるたびにもう消えたかと思ふ昔風が、必ず再び頭を擡げるといふ特徴を具へなかつたならば、さう/\遠い昔までは探ることは出來なかつたかも知れないが、幸ひにしてこの二つの點は、我々の希望して居た條件に合して居る。よその民族には見られぬやうな古い風習は、存外によく保存せられ、又大切な改まつた折には、久しく潜んで居たものが思ひかけず再現する。さうして國の隅々の生活ぶりは、都市の新人が想像して居る以上に、何十級と謂つてもよいほどの階級を示して居るのである。この地方的の相異を比べて見ることによつて、個々の變化の又一つ以前の姿といふものが、次々と判つて來るのである。今までは單にこの差等を比べて見ようとした人が無いのみか、寧ろ背後に在るものを氣の毒とし又は小さな現象として無視しようとした者さへあつたのである。乃ち災ひを轉じて福を爲す。それが今却つて我々の方法の爲に、或は豐富に過ぐともいつてよいほどの、色々の資料を殘されて居る原因ともなつたのである。
 この集の語彙を續けて見る人の、恐らく氣が付かずに居られぬであらうと思ふことは、離島に關する記事の非常に多いことで、實はたゞ偶然に斯うなつたのではあるが、自分の方法を説明するに都合がよい。島々の住民も無論すべて日本人で、中にはさう古くから、そこに移住したのでない者も多いのだが、島には?内陸の村々の、最も有りふれたる文化事物、新らしい生活と呼ばるゝ幾つかの施設制度が缺けて居る。しかもその缺陷は決して空洞では無く、必ず何等かの其一つ以前のものが、立派にその場所を充たして居るのである。しかも島々の遠近大小、その他數知れぬ環境の差等はある。交通によつて隣の土地の感化を受けることが少なく、各自は獨立に今までの生活を續け、又それぞれに許さるゝ限度に於て、新らしい大きな統一に參加しようとして居るので、爰に國民の歩みの後れ先だつ足取りが、鮮かに映し出されることにはなつたのである。今まではそれをたゞ一つ/\引離して觀るだけが能であつたの(265)が、今や改めてその遠く相隔たるものを併せ比べ、その間にどれほどの差異、又どれだけまでの埋もれたる一致が存するかを見ようとするのである。一つの珍らしいものに驚くだけは學問とは言はれぬが、知らずに過ぎ來つた共通の事實を積み重ねて、それが決して偶然の現象では有り得ないことを、我々に認めしめることは發見である。歴史の學問が之によつて、新たに一つの生面を開いたことは、もう幾つかの例を列記することが出來る。たゞ悲しむ所は計畫ある觀察が未だ行はれず、僅かに百あるものの七つか八つを知つて、殘りも多分は斯うであらうといふ程度の假定に、なほ暫らく止まつて居なければならぬことである。今や國運の大飛躍に際會して、急いでこの消え又は改まらうとするものの殘影を記留し、嗣いで大いに起るべき文化史研究の地を爲さんが爲にも、極力我々はこの方法の可能性を、立證すべき必要を感ずるのである。
 第二の小さい方の方法といふのは、この小册子が示すやうに、我々國内各地の事實を比較する爲に、出來るだけ多く土地に行はれて居る言葉を利用しようとすることである。精確を期するならば名よりも實、即ち今わかつて居る限りの事實を記述し、之を排列して異同を明かにした方がよからうが、それでは非常に多くの筆を費さねばならぬばかりか、利用者の勞苦を誅求するに過ぎ、又却つて印象を淡からしめる虞れがある。故に先づ目標の語を掲げて事實の存在を明かにし、更に今後の探求に便ならしめようとして居るのである。日本の方言には、實は方言とは言へぬものが多い。中央二三の都府だけにはもう忘れられたもので、田舍には東西南北、そちこちに一致して居る言葉の多いことは、この集が最も手近なる實例であり、又是あるが爲に名だけを聽いて、直ちに内容を理解する便宜も多いのである。一つの缺點を言へば、今日の多くの方言集は、語數を貪るのみで説明が足らず、粗末な不精確な對譯を付したものが少なくない。さういふ有合せの材料も使はざるを得なかつた故に、其まゝではたゞ見當が付くといふに止まり、やはりもう一度實地に就て、聽いて確かめて來る必要が多からうと思ふ。自分がこの書の讀者に勸めたいことは、方言集だけは別にしてもよいが、他の各項に引用した書物と雜誌には、必要に應じて直接に目を通されんことである。(266)出來る限り誤り無く原文を要約したつもりだが、詳しい前後の?況を知つて置くには、抄録だけでは足らぬ場合が多いであらう。注記する所の引用書は、何れも近年の刊行物で、圖書館で無くとも持つて居る人は多い筈である。たゞこの以外に編者が耳で聽き、又は手帖や書信で讀んだ材料は大分多く、實は其方が概して確實であり又重要なのだが、それだけは書いても無駄だから一々出處を掲げなかつた。昭和十一二年の交、日本學術振興會の援助を受けて、我々同志の者が全國數十箇所の山村漁村を巡り、同じ質問を以て答へを求めて來た材料が、この中には大分まじつて居る。今後の研究者は先づ安心して是等の材料を利用せられてもよいと思ふが、我々の希望を表白するならば、大切な事項だけはもう一度、別の途から確かめて見、又能ふべくんば此書に掲げられて居ない地域から、類似の又は反對の事實を、一つでも多く聽き出して、各關係ある頁の餘白に、書き込んで行かれんことである。斯樣に煩はしいまでに多くの縣郡島名を竝べてはあるが、全國の廣きに比べると、是は十分の一にも足らず、又すべての項目にわたつて、殘らず調査して得たといふ土地は、一箇所も無いのである。此處に出て居ないからさういふ實例は無いのだらうといふ推定は、絶對に下すことが出來ないのである。
 そこで最後にもう一つだけ説明をして置きたいことは、この語彙には縣郡名又は舊國名や地方總稱だけを掲げて、村や部落の名は出さない方針を採つたが、同じ一つの郡でも町と村、平野と山地では事情がよほどちがひ、一方は以前のまゝ、一方は全く改まつてしまつて痕跡も無いといふ場合は多いのである。それ故に某郡に斯ういふ事實があると記したのは、少なくとも其郡内に一箇所以上、最近即ち二三年前までは、たしかにさういふことが實驗せられたといふ意味で、同じ郡内の他の一部の人が全く知らなくても、事實に反するなどと言つてもらつては困るのである。それと同時にたつた一つの地方だけを擧げたとても、勿論その郡より他には無いといふのでは決して無い。寧ろ自分は東北なら東北の一つの地方で、生活環境のほゞ相似たる土地ならば、甲の郡にあつたことは乙丙丁の郡にも大抵はあるものとさへ想像して居る。たゞ明白な證據が無い故に、成るべくは他もさうだらうといふことを言はぬだけである。(267)地名をやたらに竝べるといふことは、其地を故郷とせぬ者には興味の無いことであり、又或は此書の印象を害するといふ人もあるか知らぬが、我々の仲間では、努めて多くの地方名を記憶することを以て、民俗研究の出發點として居る。生れた土地以外の事實を省みなかつたといふことが、近世國民教育の一つの弱點であり、同時に又同胞國民の生活事實を知らずに、たゞ外國人の著書によつて、國の文化の現在未來を論じようとする者の、いつまでたつても跡を絶たぬ原因ではないかと思つて居る。此書の説く所が因縁となつて、一つでも多くの國内の地名が覺えられるならば、それも亦幸福なことだと言つてよい。
 なほ「親子なり」と題した一章は、前年家族制度全集の中に、親分子分と題して書いたものと重複するが、其後の資料によつて増補した部分が多く、又一二の訂正もある。
     昭和十七年五月
 
(268)   『分類農村語彙』増補版解説
 
 民俗語彙の集成といふことは、二十年來の私たちの計畫であるが、内外くさ/”\の事情が、今まで實現をおくらせて居る。これを幾らかでも容易にする方法として、農村語彙といふ類の分類集を出し始めたのだけれども、是さへもまだ十種しか本にはなつて居らず、しかも追々に増補すべき箇條が多くなつて來た。分類農村語彙の第一版は、今からちやうど十年前に、信濃教育會の好意によつて千數百册を刊行し、主として縣内の會員に讀んでもらはうとした爲に、一般への頒布は最初から僅かなものであつた上に、我々は、又程無く改修の機會が來るものと豫期して、紙型の保存さへもしなかつたのである。今となつて考へると、もつと早い頃に思ひ切つて、第二版を出して置けばよかつたので、其支度も實は整つて居た。これが今日は名を聞いて捜しまはる人が多く、古本市場では法外な珍本扱ひを受け、一方我々の書棚にあつたものまで、燒けたり借りられたり、いつの間にか見えなくなつてから後に、この出版界の最惡の?況の下に、やつとのことで世に送るやうになつたといふことは、新たな色々の故障によるとは言ひながら、ともかくも甚だ氣の利かぬ話であつた。
 編者としての私の經驗に依ると、語彙は之をまとめて書き上げてしまつた當座が、最も多くの追加資料の見つかるときなのである。これは恐らく興味の集注と、細かな異同に關する記憶の鮮明な爲であらうが、この農村語彙なども、本になつてから後三年ほどのうちに、もう新たに得たノートが、以前の三分の一ほどもたまつて、前集の缺點ばかりがしきりと氣になつて、しかもこれに手を入れて居る時間が、どうしても得られぬので私は惱んで居た。倉田一郎君(269)は別に職業があり、私以上に多忙な人であるが、若いだけに夜分の仕事が出來る。其上に年久しく東西の各地を巡歴して、農村の生活に親しんで居り、興味も或は私以上に深いかと思つたので、代つてこの増補版を纏めてもらふことにしたのは、たしか昭和十六年の春頃のことであつた。當時の打合せをここに明記すれば、順序は大體に初版の型を追ふこと、資料は主として私の集めたものを用ゐ、たま/\是に洩れたるは加へてほしいが、もしも解説が此方と異なるやうな場合には、必ずもう一度話し合つてからきめる。つまりは私の立場に統一するといふことであつた。それから今一つは、記述が單調に流れることを避けて、出來るだけ讀物の性質を持たせるやうに、字句の使用に骨を折ること、是は辭書にはやゝ無理な注文のやうだが、自分で筆を執つたものは出來るだけこの方針に依らうとして居る。改めて全編に目を通したらば、稀には本意に反する點も無いとは限らぬが、是だけは最初の約束だから、守られて居るものと信じ、從つて自身手を下したのでは無いけれども、この程度には私が責任を負ふのである。しかし是だけの本文を書き上げるといふことは、勿論なまやさしい勞苦でない。殊に戰中の慌ただしい生活に於て、仕事を持ちあるいて着々と效を擧げられたことは、永く感銘すべき倉田氏の熱情であり、それが空襲その他の怖ろしい障碍によつて、いつまでも日の光を見ずに居たといふのは、まことに本意に反したことであつた。しかし要するに是も時代の惱みである。行く/\此事業の相當な效果を見ることによつて、せめてもの慰藉を得るより他は無いと思ふ。
 日本の建て直しは、地方から始まるといふことは定説のやうだが、その方式についてはまだ何人も一致した豫想が無い。是も結局は、民意が之を決するのであらうが、少なくとも知つて居らねばならぬ事實を知らぬ人々に、音頭を取らせることだけは危險である。農村語彙などは、たゞ其事實の一端に過ぎぬけれども、少なくても是が知識欲の出發點、同時に又我々の無知を自覺する、一つの機縁となるべきことだけは疑はれない。以前は農村に生を營む者の限り、之を常識として人生を思惟し、又社會の將來を想定し企畫して居た。烈しい世變を中に置いて、この常識の絲筋が今や斷たれんとして居るのである。從つて私たちは、之を自稱指導者等の警策として役立たせる以前に、先づ村々(270)の生活を續けて居る人たちの、自省の具として利用せしめたいのである。一つ/\の村の言葉などは知らずにしまつてもよからうが、是を繋ぎ合せて來た年來の物の見方、又は、活き方ともいふべきものを離れては、外來の浮浪者と擇ぶ所が無いのである。まとめて總體を見せるといふことが、一分類農村語彙のさし當りの趣旨であつた。さうして、我々は是を國全體の民俗語彙に、推し及ぼさんとして居るのである。
     昭和廿二年四月
 
   『分類農村語彙』自序
 
 地方の言葉は、近頃の郡誌方言集等に採録せられて居るもの以外、人類學雜誌風俗畫報から、自分が關係した幾つかの定期刊行物までの中に、散見して居るものゝ數も相應に多い。是を出來るだけ寄せ集めて、整理し又比較して見たら、どういふ結果が現はれるであらうかといふことは、久しい前からの同志者間の話題であつたが、日増しに仕事が大きくなるので、つい是に着手する勇氣が出なかつた。今度愈必要に迫られたによつて、前には先づ産育習俗と婚姻習俗との語彙を公刊し、第三次として、この分類農村語彙を出すことにした。農村語彙といふ中でも、是は專ら(271)生産に關する用語のみを、ほゞ其順序に從うて排列して見たもので、尚此外に消費生活に伴なふ語彙があり、村の組織に就いての興味ある多數の單語も纏まつて居る。前年農業經濟研究といふ雜誌に發表した農村語彙は、五十音順に此等各部の語を雜載したものであつたが、量に於ては却つて今囘のものより少なく、且つハ行までで中絶してしまつた。もしこの樣式を以て乙丙丁の分類語彙を出して見たならば、我々の學んだ言葉の數が、僅かの歳月の間に二倍三倍して居ることが明かになるであらう。
 しかも一つの言葉を新たに知り、正しく記述するといふは決して輕少なる勞苦では無い。殊に書物の上には使用せられず、又往々不精確に言ひかへられんとして居る百姓の語を、注意し紹介しようとした諸君は、竝以上の同情と理解力とを、持つて居る人でなければならぬのである。さういふ篤志家の功績を蔭のものにしてしまふことは、自分としては誠に本意に背くのであるが、能ふ限り印刷を簡易にして、一日も早く利便を學界に頒つが爲には、是も亦止むを得なかつた。他日全體の日本民俗語彙を纏め上げる際には、必ず何等かの方法を以て、この共同の事業に參與した人々の名を、明かにしなければならぬと考へて居る。
 次には採集地の問題であるが、是は資料の性質を明かにするには至つて大切な點である故に、村名は之を略いたが、郡島名は努めて記入して置くことにした。記事のすぐ下に細注したものが皆それで、何れも郡誌類方言集又は雜誌の報告などに、印刷せられて居るものに據つたのであるが、その一々の出處は、自分を信用ある者として、之を掲げることを見合せた。たゞ原文が複雜であり又有益であつて、讀者に一讀を勸めたいものと、多少の疑念があつて責任の全部を私が負ひ難いものとだけは、特に書名と雜誌の番號とを表示して居る。御斷りをしなければならぬことは、採集は多くは偶然であり、從つて、一つの事實が或郡或島にあるといふ記述は、其他の土地には無いといふ意味では絶對にないことである。自分は寧ろ周圍隣接の郡島にも同じ事實あるは固より、時としては遠く離れた他府縣にも、偶然の一致は有り得ることを豫想しつゝ、たゞ其中の突留められた一二例だけを、明かにして置かうとするのである。(272)それから今一つは、注記せられた個々の郡島内にも之を忘れ、又は初から知らぬ人があるだけで無く、時には全く別の言葉を使つて居ることも有り得る。自分はたゞ少なくとも其地居住者の若干が、さう謂つて居るといふことを保障するのである。そんな事實は無いといふことを明言する人も折々はあるが、それは個人の殊に郷里を出て居る者に、到底許される斷定では無いのである。
 ともかくも自分の語彙にはすべて根據がある。少しでも報告の心もとないものは暫らくそつとして置いて、第二の資料の出るのを待ち、いよ/\確かと判つて、始めてこの系列に加へることにして居る。單に偶然其人だけが知らぬといふことを以て、誤謬と斷ずることは差控へてもらはなければならぬ。此書が代表して居る調査區域が、まだ全國の三が一にも及ばず、調査にも亦精粗の差が著しく、從つて遺漏脱落の多いといふことは、それは自らもよく承知して居る。しかし少なくとも利用者に對して受合ふことの出來る二つの點は、こゝに掲げた約二千の農村語は、何れも我邦のどこかの地に於て、誰かゞ現實につい最近まで用ゐて居たものだつたといふことが一つ、次には今ある幾つかの普通の字引の中に、是はまだ日本語として掲載せられて居らぬものだといふことである。この第二の點は一々に就いて確かめるといふことは出來ないが、大よそ心づき又は氣になる限り、悉く自分の手元にある辭典によつて、いやしくも内容の略同じものは皆削り棄てて、説明の重複を避けることに努めた。是は直接本書とは交渉の無いことだが、今ある多數の辭典は何れも互ひに他人の書いたものを切貼して居る。しかしこの分類農村語彙だけは、新たに今ある知識に附加することを本意とし、たとへ些かでもよその字引に既にあるものを、借りて來て量を増さうとはしなかつた。それで居てもう是だけの大きなものになつたのである。
 勿論すべて皆誰かの知つて居る知識であつて、編者には何等發見の功勞があるとは言へないが、少なくとも本で學問をして居る都市の人々は知らず、田舍に住む者の多數も亦、互ひによそに在ることに氣付かないので、從つて國全體から見ると大部分は新たなる收穫であつた。こんな簡單な又有りふれた事實も知らずに、是まで一人前に物を言つ(273)て居た人が、多いといふこと迄は爭はれない。さて是だけのことが國内の公有知識となつた曉、我々の人生觀はどう變つて行かねばならぬであらうか。自分は、經國濟民の論議は、過去の精確なる歴史の缺くべからざることを痛感し、在來の農村史が史と稱しつゝ實は臆斷であつて、しかも、改良の手段に乏しかつたことを經驗して居る。新たなる文字以外の史料、記録以外の現前の事實に基いて、その歎かはしい弱點がどれだけまで補強せられ得るであらうか。その試みの第一歩を、自分等は今踏出さうとして居るのである。後世この志を嗣がうとする人たちに、たとへ幽かにでもこの方法は見込があり、目的は決して間違つて居なかつたといふことを承認せしめることが出來たら、自分等はそれで滿足する。完全はもとより發願者の企て得る所では無かつたのである。
 
(274)   全國方言記録計畫
 
一、言語が我々の祖先から相續した最も大切な文化財であることは、その恩澤が老弱男女、いかなる階級にも行き渡つて居るのを見てもわかります。古來この財寶を最も有效に、又適切に利用し得た國が、文化の榮えを認められて居ります。將來も亦必ず同じことであらうと信じます。
一、言語の利用を完うする爲には、何よりも先づ今ある形を詳かにしなければなりません。改良選擇は必要でありますが、それも是も知つてから後の話であります。國に如何なる言葉がなほ傳はり如何なる言葉使ひが行はれて居るかを先づ知らなければなりません。それが現在はまだ地域で謂つて見ても、三分の一しか知られて居ないのです。さうして土地毎の慣例は極めて區々であります。行く/\全國がほゞ一通りの物言ひで、安らかに交通するやうになる爲には、やはり又互ひに相手の言葉の意味を會得することが條件で、さうなれば強制も口眞似も無く、置き換へは當然に行はれると思ひますが、今はその參考資料が歎かはしく貧弱なのであります。
一、そこで私たちは、新たにこの全國方言記録を思ひ立ちました。是まで方言調査の行はれた土地、及びその方法と成績とは、大よそは明かになつて居ります。其中にも完全とは言へぬものが多いのですが、それは我々の事業の進みにつれて、別に増補修正を企てる人が出て來ることゝ思ひます。最初に力を盡したいのは、今まで一つの方言集も出ず、外からも注意をせられて居なかつた地方の記録を、出來るだけ多く公けに紹介することで、是には幸ひにして各地にもう幾人かの協力者を見つけて居ります。
(275)一、調査の單位としては一つの島、一つの郡を區域とするのが適當かと思つて居ります。同じ島同じ郡内でも、環境の差や土着の歴史の古さ新らしさに因つて、可なり著しい言葉のちがひを見ることもありますが、それを究めて行くと同じ土地の二つの部落、二つの家筋の間にも全く同じといふものは無く、しかも他の多くの共通した部分を、何度も重複して掲げなければならぬ結果になります。それで原則としてはこの區域を一つのものと見て記述することにしました。地形その他の特別の事情があつて、二つ以上に分けた方がよい場合も必ず有ると思ひますが、大體に一島一郡内では二つの方言集は出さぬことにします。第二第三の調査が出たときは前のものと比べて見て、異なつて居る點のみを追加として出すことにします。無論その卷頭には調査地と集録者とを明記して、それが必ずしも全區域を代表するもので無く、或はやゝ一部に偏して居るかも知れぬといふことを、斷つて置かなければならぬと思つて居ります。
一、今までの採集の普通の弱點は、折角集まつたのだから先づ殘して置かうと、材料の精選を怠り、たゞ分量の多いのを喜んだことであります。遠い離れ島などには反對の例もありますが、今日の交通?態では方言の數は日に月に減少して、都市の周圍は申すに及ばず、田舍も人の出入の多い平地部では、幾らも保存せられて居ないのが常の?態で、又それ故にこそ我々は採録を急いで居るのであります。之を顧慮せずにたゞ互ひに競爭して、かさを高くすることばかりに骨折つたのは、損な話であつたと言はなければなりませぬ。ちやんと字引にあり東京でも毎日聽き、誰でも知つて居るものを竝べ立てるといふことは、むだといふ以上に弊害があります。折角或土地のみに生育し、又は大事に守られて居た好い言葉、知れば利用したくなるやうな適切な物言ひが、そんな雜然たるものゝ中に紛れ込んで、印象を失つてしまふのは惜しいことであります。更に今一つの弊としては、氣をつけて捜せばまだ色々と土地の言葉はあるのに、もうこの位集めたからよからうと、早く安心して休息する人の多いことで、山へ菌を探りに行き、濱へ蛤を拾ひに行く者が、斯んなことをして還つて來たら大評判ですが、方言集だけは今まで是が笑はれもせずに居たのであります。
(276)一、地方の資料が蓄積して來ると共に、一層この雜糅といふことが有害なものになります。我々もつい過ちを犯さぬとは限りませんが、ともかくも分量の少ないのを氣にかけず、最初から嚴選の方針を以て進むつもりであります。地方の言葉の存録する價値があるか否かをきめるのは、さうむつかしい仕事ではありません。たとへば一つの單語でも土地によつて、發音のし方が色々と變つて居ます。是は「なまり」と稱して可なり御互ひに耳につき、一度はきゝそこなひ又は誤解もすることが有りますが、もと/\雙方の知つて居る言葉ですから、通譯の必要などはありません。又言語學の上からは是も注意すべき現象に相違ありませんが、もと/\一般の傾向であつて、個々の單語の問題ではないのです。其上に是を確實に世に傳へるのには、假字書き以上のもつと込入つた方法に據らなければなりません。斯ういふ音韻變化の大體の特徴を、三四の例によつて附記して置くまでは親切だと思ひますが、それを一つ/\アイウエオ順などにして、語彙の中にまぜて竝べることは、誤りでもあり損でもあると思ひます。同じ一つの都會地の中でも、我々のよく知つて居る單語や句を、人によつて色々に發音して居るのを聽きます。是には又別に考へなければならぬ理由があるので、異なる單語又は言ひ方の存在とは、混淆すべきものではなかつたのです。方言を輕蔑し又は粗末にした人々の考へ方には、半ば以上この誤れる混淆から來て居るものがあると思ひます。
一、反對の意見もありますが、私たちだけは訛語を方言から分離して、二通りの取扱ひをする方針であります。たゞ一つ問題になるのは、よく見れば訛りに過ぎぬ言葉を、久しく用ゐて居る爲に當人たちは別の語と思つて居るもの、又は別の語か只の訛りかを、簡單に見分けられぬものはどうするかといふ點であります。さういふ言葉のまちがつて方言の中に入つて來るものは、さう嚴重に排除するには及びません。やゝ疑はしいものは存して置いてよからうと思ひます。多くの訛りは既に中央の風に統一せられて、ほんの一つ二つ何かわけが有つて殘り留まつて居るのもあれば、更に他の土地から訛りを帶びたまゝで、是だけ入つて來て居るといふ例もあります。人が同じ語か否かを疑ふ頃になると、自然に内容にも少しづゝのちがひを生じて、終には二つの語に分れて行くこともよくあるのです。たとへ其爲(277)に原則は一貫せぬことにならうとも、特殊な訛語といふものは存録して置いた方が、利益だといふ場合が多からうと思ひます。
一、とにかくに斯ういふどつちに附けるかの定めにくい言葉を、棄てずに置く場合が稀にある爲に、わかり切つた訛りを片端から竝べるといふことは愚かであります。開けた土地から出て居る方言集には是ばかりが多く、まこと我々の謂ふ方言に入れてよいものは、三粒か四粒しか無いといふものが多いのです。もつとひどいのになると自分が知らぬといふのみで、誰でも知つて居り中央の都市でも使ふものを、土地で聽いたといふだけの理由で採り入れて居ります。斯ういふのはどんな事があつても嚴選しなければなりません。それで無いと、日本に現在どれほどの言葉の數があり、又どういふ風に用ゐられて居るかを知らうとする人々が、無益な煩累を受けることになるからであります。しかし或一つの語が方言であるか否かを決するには、折々は水掛論が起ります。といふのは既に知つて居る、聽いたことがあると謂つても、其證據を擧げることがむつかしいからであります。それで私たちは便宜の爲、大小どれかの辭典に出て居る單語は、もう方言で無いと見て居ります。辭典の數は日本には多いが、地方の言葉は掲げて居りません。たま/\それを出して居るものは皆方言と斷つて居ります。つまり是だけは既に公有物となり、捜せば見つかる?態になつて居るのです。我々は新らしい知識を世に供する爲に方言を記録して居るのですから、字引にそつくりとある語は棄てゝ、内容なり地域なりがちがつて居るものだけを出すことにします。しかし大きな辭典に一々は當つて居られないといふなら、實際は大槻氏の小言海を參照しても、大よそ目的は達するといふことを申して置きます。それも面倒だといふ人がもし有れば、是は何でも無いことだからこちらでどし/\と刪定します。
一、在來の方言集の今一つの飽き足らぬ點は、言葉の説明が?精確でないことでありました。この原因の主たるものは、方言には必ず標準語の對譯があるものといふ誤信であります。さういふことは斷じてありません。全國到る處に行き渡つて居る事物の名、是は何と謂ふかと指ざして問へるものならば、一物數名といふことも確かめられますが、(278)それですらトウナスとナンキンは少しちがふと謂ひ、又は何々の一種とか似たものとか、説明を添へなければならぬ場合があるのです。まして無形名詞や形容詞動詞等の、田舍で保存せられ又は出來たものには、寧ろ標準語にそれに當る言葉が無いと思つてこちらを使つて居る人が多いのです。果して無いと思ふのが正しいかどうか、比べて見た上で無いと決しられませぬが、それを明かにする爲にももつと丁寧な解説が入用なのです。上手に精密にそれを言ひ現すことは容易でありませんが、出來るだけ近いことばを多く重ねて見るもよく、又現實にどんな風に使つて居るかを、例示して置くのも大に結構だと思ひます。但し用例は耳で聽いたものがよく、自分で作文したのはどうしても無理なものが多いやうです。
一、記録の排列には相當の苦心を要しますが、目標は之を利用するであらう人々の便利、出來るだけ印象を強く、成るべく退屈をせずに興味を以て讀み續け、又は比較的手輕に知りたいと思ふ語が捜し出せるやうに、しなければならぬと思ひます。從來の五十音順は、たゞ雜然と竝べて置くよりもよいといふのみで、本を讀む字引のやうに、是で捜すといふことは先づ有りません。たゞ同じ語が名詞にも形容詞副詞にもなる場合に、隣どうしにあると便利だといふ位なものです。語數の少ない場合などは、寧ろ品詞別に又似寄つた言葉を近くに置いて、是だけの言葉が今行はれて居るといふことを、一目でわかるやうにした方がよいかと思ひます。最初は試みに色々とちがつた方式を採用して見ます。經驗を積んで行くうちに、どの方式が最も效果が多いかといふことが、自然にわかつて來てそれにきまることと信じて居ります。喜界島の方言集は、少し考へる所があつて特に五十音順にして見ました。南の島の採集事業は、今はまだ甚だしく不振であります。斯ういふ形で一つの島の記録を公けにして置くことが、或は幾分か他の島々の學徒に興味を抱かせ、且つ採録を容易にするだらうかと思つたからであります。
一、今まで是といふ方言集の出て居らぬ土地で、どうしても無くてはならぬと思ふ方面へは、既に勸誘を始め、又知友に依囑して篤志の人たちを物色し、事によつてはこちらからも調査者を出さうかと考へて居ります。小學校その他(279)で既に採集をして居て、出版の機會を得ずに居られるものにも、事情の許す限り協力をしたいと思ひます。たゞこの記録が全國に及ぶには、相應永い年月を要します故に、最初から用意をして成るべく一方面に偏せず、程よく東西南北に配られるやうにしたいので、自然に後まはしになるものも出來るかも知れません。それから又我々の嚴選主義や排列の方式に異存があつて、御相談を進められぬ場合も起るかも知れません。我々の希望をいふならば、一つ一つの言葉をカードに取つて、再調査の照會に便利にし、同時に取捨と排列との決定だけは、編輯者に委ねられることであります。
一、最後になほ申し添へたいことは、是は出版者にも又編輯者にも、絶對に利益事業ではないといふ一事であります。事業界の自然の傾向に任せて置くと、いつの世になつても『全國方言記録』はまとまりません。それが又我々の新たに之を企てる理由であります。
 
(280)   『伊豆大島方言集』編輯者の言葉
 
 明治三十六年に、私が始めて此島に遊びに行つた時にも、既に男たちの言葉にはわからぬことが一つも無かつた。年に何囘と無く東京灣に船を入れて、ゆつくりと居て來るからだと説明せられて居たが、實際に帝都周圍の村々の人よりも、癖が少なくて齒切れがよいやうな感じであつた。海の生活にまだ出て行かない少年の言葉が、どうであつたかは少しも記憶が無いが、婦人は何だか他所の者と話をするのが非常にいやなやうに見うけられ、正月五六日間の滯在ではあつたが、短い受答へ以外には、殆と一言葉も聽くことが出來ずにしまつた。是は多分まだ島特有の物言ひを、女だけが多分にもつて居て、うつかりそれを出して笑はれまいといふ、警戒からであらうと解せられて、どうすればその隱れて居る古いものを、我々共有の知識にすることが出來るだらうかを、考へずには居られなかつたのである。
 伊豆大島の男たちが老壯の別無く、揃ひも揃つてよく世間を知つて居ることも珍らしいが、女が一向に外へ出ぬことも亦現象的である。しかもそれが皆親子夫婦、兄弟いとこの間柄なのだから、島には必然に耳では互ひに解つて、口ではちがつて言ふ兩語式の交通が行ほれて居ることが想像せられ、他の土地よりも採集がずつと樂なやうに、實は私も樂觀して居たのである。その樂觀に氣づいたのが、遺憾ながら少しばかり遲かつたらしい。土語の同化には無數の條件があつて、その組合せ次第で早くも遲くも、又困難にも容易にもなり得ることを、はつきりと見究める力がまだ私には無くて、しかも大島などは特にその融合の行はれやすい?態に置かれて居たのであつた。方言の採集は主として婦人からといふことを何べんでも言つて見るのだが、阪口一雄君などの口ぶりでは、少しも是に同感した樣子が(281)無い。女だからとて別にちがつた言ひやうもせず、又餘分なことを知つて居る筈が無いと、もう思ひ込んでしまつて居るらしいのである。疑つて見るまでも無く、是が即ち現在の事實で、假にさういふ女性が曾ては居たにしても、大抵は既に苔の下の人なのであらう。さうして學校の國語教育は、絶對に男女の別を立てず、寧ろ女が男のいふ通りに、標準語をよく操らんことを念じて居るのである。是とても勿論少しも悲しむべきことでは無い。悲しむべきは唯私などの、怠慢と又根據なき樂觀とであつた。
 この新らしい方言集の價値は、それが伊豆大島の現在の事實だといふ點に存する。假にもし標題を匿し、又は戯れに東京市江戸川區其々町方言集だと僞つた場合に、それを看破し得る人が、どの位あるだらうかといふ點に興味がある。勿論今日の所謂標準東京語からは見離され、又は取忘れられた單語ばかりであるが、此中には都市の住民が、以前   屡々耳にし、今も亦稀に聽くことの出來るものが、可なり多量にまじつて居るらしく思はれるのである。我々の問題は、この方言集のどれだけまでが、果して明治以後の交通によつて移入せられ、更にどれだけが江戸期のやゝ緩慢なる文化浸潤の間から、氣永に積みためられたものであり、殘りの島固有のもの、即ち單に大島の地理的關係、乃至は移住の?況等によつて、自然に斯くあるべかりし部分がどの位、保存せられて居るだらうかを見分けることであるが、それは南隣に幾つかの兄弟の島を持ち、且つ對岸に色々の特徴を具へた村里を控へて居るこの島としては、必ずしも非常に困難な仕事では無い。さうして又我々のやうに、方言がどうして此樣に細かく岐れたかを知りたがつて居る者には、伊豆大島は可なり張合ひのある仕事場でもあるのである。
 古事記録の豐かでない此島としては、或は斯ういふ言語現象の側からでも、島の成立ちと今日ある所以とを、明かにし得る道が見付かりはせぬかと、若干の希望を寄せるのも自然である。それが無理な注文でも期待でも無いことは確かだが、其目途に近よつて行く爲にも、まだ我々のしなければならぬことが幾つかある。第一にはもう少し忘れかけて居る語を思ひ出すこと、今囘の表面採集に見落されたものがあるとすれば、それは大抵は古風なもの、流行の外(282)のものと推測し得るのみならず、必ず採集の意義の一段と大きなものでなければならぬ。數を貪る必要は斷じて無いが、この方言集の新たに成つた記念として、島の讀者諸君は二語でも三語でも、是に追加して見ようといふ位の關心をもたれてもよいかと思ふ。それも亦決して興味の無い仕事では無いのである。多くを集めて見ようとすればこそ骨が折れるが、あれが無い是が落ちたといふだけならば、平生でもよく氣が付いて居る。他の多くの土地の方言集にも見るやうに、今囘の材料は實はやゝ自己採集といふ方法に偏して居る。此爲にわざ/\採集したといふものは少なくて、日頃より聽いて居るものを記憶のまゝに、書き付けたといふのが多い。稀にしかつかはぬ注意すべき單語の、思ひ出せぬのは當り前である。一旦斯ういふ本が出た上では、是は無かつたやうだと氣の付くものが定めて多からう。それを裸で無く成るべくは根ごと土ごと、活きて居るまゝを持つて來たならば、或はたつた一例でも、存外に遠い土地との聯絡が、證明せられるかも知れぬのである。
 島の外部に居る者の殊に知りたがつて居るのは、伊豆七島の間の相互の關係である。是は勿論一致して居なければならぬ理由は無く、同じ一つの島でも時を異にし、又ちがつた方角からも入つて住み、互ひに珍らしがるほどにちがつた例もあるが、さりとて各島が思ひ/\に、別箇の發展を遂げたとも思はれない。數百年來たゞ一筋の船路に繋がれ、天然にも人爲にも、幾つかの共通條件を負はされて、人の往來も比較的に多かつたのだから、どこかに必ず結び付いた點があることゝ思ふ。島々の事物や生活樣式には、似通ふ點の多いことが古くから認められて居る。現在は既に言葉を異にして居ても、それが年を分ち移り動き、もしくは片端よその色に、染まつて來た痕は窺はれるであらうし、假に全くちがつた表現に支配せられて居るとすれば、其理由も亦興味ある問題となるのである。それ故に自分たちは、この方言集を出來るだけ弘く、七島各村の學校その他、大よそ國語の行末に關心を持つ人々に、氣をつけて讀んでもらひたいと念じて居る。之を完全なる御手本としてでは無く、寧ろ僅かな歳月の間にも、消えるものは消え改まるものはどし/\と改まつて、振返つて過ぎたる世の姿を見定めるといふことの、案外に六つかしいものだといふ(283)我々の經驗を、まだ十分に間に合ふうちに、同じ志の人々に頒つて見たいのである。
 伊豆七島には限らず、今後或一つの地域の方言を調査して、之を國語の研究に役立てようとする諸君の爲に、大島方言集の方法は兎に角に若干の參考になると思ふ。私は最初この島の有識者の間に、方言存録の企てあることを聞き知つて、心からその實現を望み、しかも短期間の完成を期するのは無理である故に、一應は得られるだけを以て滿足し、更に他日の増訂を待つべきだといふことを説いた。次には各村一人以上の調査者をきめて、たとへ今まで知り切つて居ると思ふ語でも、成るべく改めてもう一度採集して、それが最近の現實に合するかどうかを確かめる必要があることを説いた。次には一定のカードを作つて之を各調査者に分ち、一紙には必ず一語づゝ、出來るならば使用例を添へて、各自の解釋を書き入れてもらふことにし、それを一所に纏めた上で、其整理と分類と排列とを私たちに任せてもらつた。整理の最も必要だつたのは東京語との重複で、島でも現在盛んに使つて居るのだが、都市人の間にも行はれ、殊に普通の辭典の中に、同じ内容を以て掲げられて居るものは、方言とは言へぬと思つて皆除いてしまつた。それがこの集の語數の少なくなつて來た主なる理由である。大島六村のうち、三箇村以上に共通なものは、島の言葉として使用地を注記しなかつたが、その他の村名を掲げてある單語でも、爰より外には無いと斷言し得るものは、實は少ないであらうと思つて居る。二地の解釋のやゝ異なつて居る言葉は特に注意した。是は多くは二つとも當つて居るものと思つて、努めて兩方を存することにして居るが、少しでも不審なものは皆原調査者に確かめ、又やゝ意味が取りにくいものに限つて、新たに使用の實例を出してもらつた。排列の順序に就ては他の集にも述べたやうに、是を最良のものと信じて居るわけでは無いが、少なくとも雜然たる五十音順よりは、印象を受けやすく又理解しやすいやうに思ふ。たゞ語數が少なく似よりの語が隣に無い爲に、最初にはやゝ異樣に感ずる人も有るであらう。追々に改良して行く爲に、もう一度五十音順に戻せといふ以外の、すべての忠告を歡迎して居る。いはゆる訛語の傾向又は法則などは、斯うして類を以て集めて見ることによつて、始めて特徴が明かになるかと思ふ。たとへばカ行とハ行の子音(284)轉換の如きは、海を隔てて上總房州とも一致し、又遠くは鹿兒島縣南海の島々とも呼應して居るが、東京周邊の地には全く見られぬもので、是が新島神津島等の隣の島でどうなつて居るかによつて、この音韻現象の由來が、或程度までは判つて來るわけである。それで或は少しの缺點があつても、私はなほ暫らく此分類方式を續けて見ようとするのである。
 一つの土地の方言を三千集めたとか、二千はとくに超えたとかいふ話は今でもよく聞くが、其中にはこの發音の一つの癖、KがHにかはるといふ類の一言で説明し得るものを、たゞ際限も無く例示したものが多いやうである。所謂訛りの取れにくいのに比べると、ちがつた言葉といふものは存外に早く消えるらしく、少しく交通が開け生活ぶりが改まると、同じ世代に住む者でも、老若の間には語彙の著しい差が出來て、今はあまり使はぬといふものばかりが多くなる。從つて時が進み、土地が中央に接近するにつれて、急激に方言量の少なくなることは、是は當然であつてすこしも氣にするに及ばぬ話である。或は寧ろ乏しくなつて行く故に、他よりも先に採集し記録して置かなければならぬとも言ひ得る。我々の方言集は、今後も場合によつては四百語五百語の、小さなものを出して行くであらうが、さうなると更に一段の戒心を加へて、折角殘つて居てくれた大切な國語資料が、一つでも取落されて利用の機會も無く、消えて跡無くなることを防がなければならぬと思つて居る。勿論その爲にはこの一囘の刊行物を以て完成と視ず、なほ次々の補遺増訂を期すべきであるが、それにも亦外部に在る者の理解と同情、殊に七島の他の島々に住む人々の隣保感が、改めて大いに成長せんことを、祈るの他は無いのである。
 終りに記念の爲に、今度の採集に參與した人々の名を列記すると、元村では大西正二君、岡田村では水島節男君、野増村では藤野爲藏君、差木地村では宮崎直之君、泉津村では阪口一雄君、この五君は國民學校の職員であつて、其うち阪口、藤野の二君は島に生れた人である。次に波浮港の前村長松木國次郎翁は此企てに賛同して自ら一方面の調査を分擔し、又岡田村の白井潮路君は、年來の蒐集を携へて我々の仕事に參加した。卷末附戰の民家間取圖は、白井(285)君の手帖から寫し取つたものである。兼て大島の言語に關心をもち、又は新たに此集によつて興味を刺戟せられる人は、他にもまだ少なくないことゝ思ふ。私は早く内外の反響がこの最初の調査者たちに屆いて、その隱れたる勞苦が酬いられると共に、更に今一層の精密を期する爲に、なほその注意と觀察とを續けて行くだけの根氣を、支持せられんことを希ふ者である。
        昭和十七年四月
 
(286)   『周防大島方言集』序
 
 原安雄君の周防大島方言集は、もう今から十年近くも前に、既にその第一稿が出來て居た。自分は山口縣史編纂員の小川五郎君の手元に、それが珍藏せられてゐることを聞き知つて、同君に乞うて副本を作つてもらひ精讀した。一人で是ほどにも多くの時と勞力とを費した方言集は珍らしいと思つたが、それでもなほ一二の滿足し難い點はあつた。最も有りふれた缺點といふのは、現在の所謂標準語の混入、是はその土地々々の事實である以上、殘して置いても差支へは無いやうなものだが、出來るなら取り除いて記録の分量を少なくし、且つ印象を濃くした方がよい。次には蒐集者の知つて居る他地方の類例を、どこそこでも同じと書き込んであること、是は三ヶ尻浩氏の『大分縣方言の研究』のやうに、弘く全國の語集を見渡した上で、列擧して置けば參考になるが、なほ漏れたものが餘りに多く、しかも其他の土地では言はぬかの如き、誤つた印象を與へやすい。日本で方言といふものには中央の首都だけが忘却し、地方は一般にまだ持ち傳へて居るといふものが相應にあるのである。或一つの單語の領域を明かにすることは、やはり將來の整理者の事業に委ねた方が安全である。それから地方の言葉には必要が其土地にあつて、改めたくとも標準語の中に之に當る語が無いか、又は確定し難いものが少なくない。簡單な語を以て解説を下さうとすると、外部の人には呑み込めぬ場合は多いのである。斯ういふものには使用例が必要になつて來る。それが今少しく欲しいものだと私は思つた。
 方言用例の掲げ方にも、二通りのものが現在はある。その一方の極端な例は、仙臺税務監督局から出した東北方言(287)集などで、是は問題の一語だけを中に挾んで、他は全部東京風の物言ひを以て示して居る。さうすれば使ひ方はほゞ察しが付くだらうが、其代りにはこしらへもので、土地にも外にもさういふ言ひ方をする者は、實際には一人も無く、從つて果してそれが本來の意味を傳へて居るかどうかの、心もとなさはなほ殘るのである。出來ることならば日頃聽き馴れた文句を其まゝ、もしくは改めてもう一度、誰かが使ふのを待つて採録し、たとへ餘分の説明を要することにならうとも、活きて働く姿を寫し取るやうにしたいものと、私などは思つて居た。多數の方言を急に集めて見ようとする人には是は望めないが、周防大島方言集の著者は、ちやうどさういふ靜かな觀察の出來る地位に在り、又それに必要なる忍耐力をも備へた人であつた。
 それで我々は相談の上で、先づ第一囘の方言集の中から、周防大島の方言として存録する値ありと思ふもの、約五分の四を爪印しして、一語一枚づつのカードに取り、是を各單語の種類性質、又は語構造の類似によつて、本集のやうに排列して見た。さうして簡單なる説明では理解しにくいものを、筆者自身の再檢討により、又は何囘と無き書信の往復を以て、力の及ぶ限り確實に近いものにしただけで無く、必要と認めたものにはほゞ私たちの希望するやうな、實際の使用例を添へて置くことにしたのである。五十音順を全然罷めてしまつては、名詞と動詞形容詞等との、互ひに關聯するものが遠くに隔たり、起原と親近性とに心付くことが難いのみならず、うす/\言葉を知つて捜し出さうとする者に、便利がよくないといふ非難もあるが、その索引を附けるとすると、又倍に近い紙を要して、愈出版を困難にするので、是は三十卷、五十卷と重ねた後に、總括して全體を見通せるものを作ることにした。それも固より容易な仕事では無からうが、幸ひにして是が纏まると、將來必ず編輯せらるべき我邦の方言辭書の、第一歩を踏み出したことにもなるであらうといふ、樂しい希望を我々は抱いて居るのである。
 大きな事業の下積みといふものは、大抵はこの樣に花々しからぬものであるが、折角今までの慣例に從つて、先づ一通りの體裁を具へて居た方言集を、切つたり縮めたり置き換へたりして、何かこの採集のまだ及ばぬ區域のあるこ(288)とを露はにしたといふことは、著者に對して誠に氣の毒な感じがする。しかし一方から見れば、斯うして近いものを隣に竝べて見ることによつて、始めてこの以外に知らずに居る言葉、もしくは既に標準語に改まつて、消え去つた言葉があるらしいことが心付かれ、我々の謂ふ所の集後の採訪といふものは進み得るのである。周防大島には自分はただ一日だけの知識しか持たぬが、島出身の宮本常一君の言によれば、島は東西に長く延びて、昔から西を頭として島本・島仲・島末の三區に分れて居た。方言の分堺は必ずしも精密に是とは一致せぬが、やはり語法などの上に於て大よそ三通りの差があり、又交通の事情を異にする爲に、各異なる隣接地から、ちがつた單語の若干を運び入れて居ることが、可なり明かに證明し得られるさうである。原安雄君は中央部の城山校に永く働いて居たけれども、家郷は西部の沖浦村大字秋に在り、又島末の舊家から令室を迎へて居る。だから大體には大島全島の事情に通じて居ると言ひ得るが、其記憶にはおのづから濃淡があつて、先づ西部の屋代方面の言語生活を代表して居るものと見ればまちがひは無く、たゞこの三つの區域の些々たる相違に氣付くべく、最も形勝の地位に在るといふことは言へるのである。私は此説を聽くことによつて、愈周防大島方言集の次々の成長、増補と改訂との機會を想望せざるを得ない。大島といふ名は勿論中央の大きな主島から出て居るが、今でも郡の名がそれであるやうに、最初から二十幾つかの群島の總稱でもあつた。以前にも其中から祝島その他の數島を割いて、上(ノ)關の宰判に屬せしめ、最近には更に東端の柱島と其周圍の二三島を、岩國市の市域に編入することになつた。此等の島々でも依然として廣義の大島方言を話し、外と比べたら特色がなほ認められるのだが、親村の關係や職業交通のちがひによつて、島と島との間には、土地の人ならば氣付かれるほどの、物言ひの變化があるといふことも私は聞いて居る。熊毛郡の祝島の方言は、曾て石山但信君が數百語を採集して、雜誌「方言」に寄せたことがあつた。其當時故友上山滿之進君といふ自信の強い人があつて、あれは信用できないといふ抗議をして來たことがある。自分は佐波令の出身で祝島とは目と鼻の間だが、絶對にさういふことは言はなかつたから、あちらでもさういふ筈が無いといふ理窟なのである。もしも自分が、祝島はもと大島(289)群島の内だつたことを知つて居たら、そいつは面白いとすぐにも比較を始めたかも知れぬが、其頃はたゞ不審に感じて居ただけであつた。今になつて考へて見ると、土地の物言ひなどは徐々にしか移らぬから、管轄が變つた爲に急に熊毛郡の言葉にもなつてしまはなかつたものと思はれる。大島の元地に於ても、遠方出稼ぎの職人を多く出す村と、海上生活の盛んな沖家室等の屬島と、さては又農に依存して移動の少なかつた平群島などの間には、どれだけの差異が既に生じ、又どれ程までの一貫して一致するものがなほあるのか、國語が現象學として、實地に就て研究せられる時代が到來したら、周防大島は暫らくの間でも、學者の打棄てゝ置けない土地となるにきまつて居る。さうして其假臺帳としては、爰に初版の周防大島方言集があるのである。さうして其採集者の原安雄氏は、今は岩國市になつた柱島の學校に轉任して、孜々として今なほ觀察を持續して居るのである。
 方言集の完全なものなどといふのは、いつの世になつても恐らくは出ないのであらうが、我々の如きは寧ろ其不完全を樂しんで居る。是で一通りは型がついたといふやうな安心を抱かせず、判つたことだけを取りのけて、殘りのまだ判らぬものを適切に感じさせることが、初期調査者の必然の責任だと私たちは信じて居るからである。音韻現象の方面に於ても、今少しく詳しく報告せよといふ註文が、大西雅雄君その他の人々から出て居るが、殘念ながら今はまだそれに應ずるだけの力が無い。一つの表音樣式は既に音聲學會で決定せられて居ると聞くが、是がまだ普通の知識となつて居ない爲に、この方言集を利用する人が、是が爲に一段と少なくなる。是は勉強すれば程なく覺え込み得るとしても、それまでを利用する人が現在はあまりに少ない。我々は先づ知りもしないで國語は貧弱だと見くびり、勝手に無茶な新語を自鑄する者を説得しなければならぬのである。さうして國語の變化成長には、標方二語を引きくるめた一定の法則のあることを認めさせる必要をもつて居る。然らば如何なる法則があるかと近より問ふ人に對しては、固より音韻の現象を説く必要はあらうが、それを共同して調べて見る爲には、まだ聊か準備が足らぬやうに感ずる。實際上の困難としては、それを精確にするには印刷の能力が足らず、出版は殆と不可能になつてしまふ。それよりも(290)更に大きな故障は、さういふ方式をきめてしまふと、もうどこにも採集者が得られないといふことであらう。表記法を覺えるだけなら簡單かも知れぬが、それでも年久しく一語づつ拾ひ集めて來た者には、今の記憶を以て之を揃へることは出來ない。ましてや是から耳の聽き取りを練習して、安心のなる程度の人々を作り出さうといふことは、實地には望めないことである。一方に其樣な資格のある者を養成して、陣容を整へて押出さうといふ計畫は結構だと思ふが、それを私たちは恐らくは待つて居られないだらうと思ふ。それまでの間は得られるだけの材料を整理し、與へられただけの事實によつて、音韻の方面に於てもたゞ著しい傾向の、まちがひ無く言へることだけを報告して置くつもりである。そのうちにはたつた一箇處でも、理想通りに完全なる採集が出來て、手本を示してくれるといふことも、是からは絶對に無いとは言へまい。
     昭和十七年九月
 
(291)   『伊豫大三島北部方言集』序
 
 山陽線の汽車の窓からいつでも見て通る海のすぐ向ふの一つの山が、大三島の北の端だといふことを、久しい間私は知らずに居た。この方言集の採集地、愛媛縣越智郡鏡村の肥海《ひかい》といふ里は、ちやうど其山の陰になつて居るのだが、こゝまで伊豫國の、しかも名に高い神の島が、突出して來て居ることに氣の付かぬ人も稀ではあるまい。それほどにも大きな大三島ではあるが、山が高くて安らかな峠が少なく、村と村とは海沿ひの細路を以て結ばれて居る。舟の往來が夙くから開けて居たとすると、却つて縣外に通ひ易かつた處が多かつたといふことも考へられるのである。國語の地方差と、之を作り上げた諸種の素因とを考察するのに、爰などは誠に都合のよい試驗場といふことが出來る。それ故に我々は、特に大三島北部といふ名を以てこの方言集に題せんとするのである。
 同じ大三島もずつと南の方へ廻つて見ると、ほんの僅かな渡船を以て越えて行かれるほどの瀬戸があり、それから順々に隣の島を通つて、親國への水運はよく開けて居る。人も夙くより伊豫の方から入り、從つて又多くのなつかしいものをかの方面にもつても居る。問題になるのは斯ういふ場合にも、なほ一方の近い對岸の文物が目立たずに浸潤して來るものであるかどうか。但しは又血のよしみ、乃至は政治の力といふものが統制して、永く舊來の一體性を保持し得たらうか否かであつて、それが何れに決しても我々の學ぶ所は大きい。陸つゞきの土地だつてもそれは同じことだと、思つて居る人が有るかも知れぬが、海水の隔離といふことはよほど事情がちがふ上に、遠さと海の荒さとの各段階に於て、色々の實驗の出來るのは島である。さうして我々は今ちやうど、大規模にさういふ實驗をしなければ(292)ならぬ必要に迫られて居り、他の外國では段々とそれが出來にくゝならうとしで居るのである。大三島南部其他の方言集が、すぐに引續いて後から出ることを、必ずしも私は主張するのでは無い。同じ中國海上の島々であるからには、どこで採集して見ても半分か三分の二、よく似た單語句法の行はれて居るのは當りまへで、それを又くり返して何度でも集録して行けば、寧ろ讀む者の印象を稀薄にする虞れがある。故に一つの區域の事實を精確にして、次々の各地ではたゞ之と同じくないものを、注意深く拾ひ出し又比較して、それを將來の研究目標とすることが、勞少なくして效果は濃いわけで、乃ちこの方言集は一つの臺帳のやうなものになつて、弘く近隣諸島の言語現象を意識せんとする人々の爲に、利用せられるであらうことが期待せられるのである。瀬戸内海の方言集としては、前に原君の周防大島のを先づ出した。次には今一つ鹽飽の列島の中からでも、出ればよいと念じて居るのであるが、其地點の選定は因縁次第のものである。そこに適任にしてしかも熱心なる人があつて、我々の事業に共鳴してくれるのでなければ、ちやうど此邊りで一つと言つて見たところで、それはたゞ切なる希望といふに止まるのである。國が自ら手を下して、積極的なる調査を企てるといふ時が來るまでは、たゞ自然に採集せられたものゝ出現を待つて、その採集地がどんな處、人がどういふ人であるかといふ點に、十分なる注意を拂ふより他は無い。さういふことすらも今までは試みられず、たゞ方言集の數ばかりを算へて居たのである。
 この集の藤原與一君は、自身が先づ方言の倦まざる研究者であつた。他處の言葉がどの樣にかはり又は似て居るかを知る爲に、もう殆と國一ぱいをあるきまはつて居る。その切れ/”\の各地の知識を以て、一つの學問を組み立てるといふ仕事が、如何に緊要のものでありしかも亦どの位六つかしいものであるかを、私などよりはもつと適切に體驗して居る。その上にこの全國方言記録の實現するよりも前から既に私の計畫を知り且つ賛成して居る。念を押しては見たことも無いけれども、もしも此計畫が不幸にして中絶するやうなことがあつたら、必ず志を嗣いで再興してくれるのも斯ういふ人であらうとさへ私は期待して居る。それが自身の生れ故郷の、子供の時からの地言葉を、書いて殘(293)して置かうといふ氣になつたのだから、單なる愛郷心の所産といふやうな、學問と縁の薄いものでないことは判つて居るのである。但しさうまで言はれると、少しは氣が咎めるといふ如き若干の弱點たまだ無いとは言はれないが、少なくとも同君は是を完成とは思つては居ないだらう。今後も何十年、之を補充し又改訂して、行く/\四隣の島に住む人々と共に、言葉と生活との密接なる關聯、斯うより外には進んで來られなかつた自然の途を覺り、從つて全日本の大いなる統一に向つて、如何に導くのが尤も安全なる國語の活き方であるかを學ぶべく、之を毎年の教科書と同樣に、始終より良くして行くことに努力することゝ信ずる。大三島北部方言集の第一版は、その意味に於て重要なる記念の書である。
 この方言集の排列の順序は、又少しばかり變へて見たが、大體に五十音順のやうな用の無い外形に依ることなく、語辭の生滅する一つの道筋の上を、辿つて行かうとする最初の方針はなほ持續して居る。仔細に視る人があれば少しづゝは改良して居ることが判る筈だが、それを取立てゝ言ふほどには、まだ私たちの利用は進んで居ない。名詞を始めに置くといふのも一つの試みであり、素人の話題はこの方に偏して居るから、世間の注意を惹くには適するかも知らぬが、國の中央中流の間では既に成長が停止して、地方には却つて新らしい工夫發明のまだ活き/\として居ることは、實は用言の方が遙かに顯著なのである。從つて是からはもつと後者の觀察に力を入れることが、時代の要求に合ふと私などは考へて居る。中國各地の方言集としては、江草進氏の備中川上郡、千代延尚壽氏の石見那賀郡沿海部、中島信太郎氏の播磨加古郡の採集などが、此後を追うて遠からず世に出ようとして居る。それ等を見比べて更に大いなる刺戟を受ける者は、誰よりも先づ此集の著者であらう。私は竊かにそれを期待して居る。
     昭和十八年八月
 
(294)   全國昔話記録趣意書
 
 今まで心づく人が少なかつたやうだが、斯ういふ昔話は全國の隅々、どこに行つても大抵は殘つて居る。さうして土地により又家によつて、その傳はり方が少しづつ變つて居る。話の大筋は一樣であり、力の入れ所もほゞ同じであるに拘らず、或ものは長く詳しく、又は二つを繋ぎ合せて居るものもあると同時に、他の多くのものは敍述を省き、もしくは子供などの面白がる部分だけを、手短かに語らうとするやうにもなつて居る。つまり昔話は我々日本人の間に於て、曾て大いに成長し、今は又嗣いで興つた第二の文藝に、其地位を讓つて退き隱れようとして居るのである。全國昔話記録の目的とする所は、單にこの隱れてやがて消えてしまふものの、保存といふ樣な小さな仕事だけでは無い。第一には昔話の起原、どうしてこの特色多き一種の口碑だけが、遠くは數千年前の埃及・印度を始めとし、古今東西のあらゆる諸民族に行き渡り、しかもその相互の間に數多い類似をもつかといふことであるが、是は現在の人智を以てしては、實はまだ解けない問題であつて、其爲には今まで得られなかつた新資料と、新たな角度からの觀察とが、何物よりも痛切に要望せられて居る。我々日本人の採集と研究とは、この二つの要望に應ずべく、ともかくも極めて新らしいものなのである。
 第二の今一段と關心の多い問題は、このまだ起原を究めることの出來ない日本の昔話の、過去少なくとも千年間の變遷が、果してどういふ新たなる知識を、我々に供與するであらうかといふことである。昔話は我々同胞の間に於て、殊に近世に入つてから變れるだけ變つて居る。即ちどうしても省くことのならぬ要素は存置して、その他の部分に於(295)ては自由なる加工をして居る。この思ひ/\の地方的改造の中に、之をさう改めずに居なかつた一囘限りの原因が、探り得られるかどうかといふことが問題になるのである。外から働きかけた力としては、時代々々の學術技藝、とりわけてそれを職業とした人々の活躍と交通が考へられ、之を内にしては各人の趣味と鑑別、私等の名づけて常民の文藝能力といふものが、多くの暗黙裡の注文を以て、昔話の舊形を取捨し、新たに附加はるものの選擇を左右したことは、恐らくは昔も今も同じかつたらうと思ふが、さういふ歴史は記録には全く載つて居ない。たゞ僅かに受身の側の影響の痕から、逆に國民の常の日の生活を動かして居たものを、窺ふの他は無いのである。
 第三の問題としてはそんな六つかしい歸納が、果して今でも出來るかといふことであるが、是は私は實績を以て、證明するのがよいかと思つて居る。日本人の多數が、家に親切な又物覺えのよい年寄をもち、夜毎にその話を聽いて耳を悦ばせ、心を清うして育つて居りながら、たま/\遠國の片田舍にも、よく似た話の有ることを知つて、幼なかつた日の思ひ出を蘇らせるまで、それをめい/\の故郷だけの、何でも無い小さな事實のやうに考へて居たこと、もしくは僅か話の一端を聽いて、その話なら私の方にもあつたと、すべて同一のものしか無いやうに、獨りできめて居たといふことなども、我々の學問に取つては一つの好い足場である。たとへば今度のやうな昔話集が續刊せられて、單なる家庭の小現象の如く見られて居た昔話が、既に國内に充滿し、更に又縁もゆかりも無い天涯の異人種の間にも、なほ?行はれて居るといふことを聽き知つたならば、驚き又悦ぶ人は必ず多いであらうし、それが樣々の増減潤色を以て、殆と土地毎に又は人毎に、ちがへて記憶せられて居ることに氣が付いたとき、それは又どういふわけであらうかと、始めて人間文化の不可思議に、心を打たれる者も必ず現はれて來るのである。少年の日の囘想は概して樂しいが、さういふ中でも昔話のやうに、純なる咏歎と微笑とに充ち溢れたものは少ない。境遇の許さなかつた人々は別として、いやしくも心の奧底に記憶を留めて居るほどの者ならば、斯ういふ話を聽いてにつこりとせぬ人はあるまい。それが此次の大平和期に入つて、將に大いに起るべき學問の苗木であることを知るならば、更に又感激の新たなるも  (296)のがあらう。しかも今日の話題の増加、好奇心の展開は無限であるが故に、折角親代々持ち傳へたものを、後に殘さずに行つてしまふ人が、急に此頃は多くなつて居るのである。せめてその一部分なりとも引留めて見ようといふ願ひから、全國昔話記録は計畫せられた。この小さな卷々が幸ひにして世に行はれ、或は町と田舍の古風なる爐端に、さては又異域の陣營の徒然の燈火の下に、之を讀んで幼時の追懷を共にする人の數が多くなつて來れば、同時にそれは又昔話研究の新機運を、促進する力ともならずには居ないであらう。
 我々の昔話集は、大體に一つの島、又は一つの郡を以て單位としようとして居る。さうして出來るだけ比較を有效ならしめんが爲に、努めて懸け離れた土地のものを、組合せて出して見るつもりである。一人の傳承者のもつものを、一卷に集めて置くことは理想であるが、そんな澤山の話を覺えて居る人は、今日はもう稀になつた。已むことを得ずんば同じ土地の、幾人かの知つて居るものを集めて見るのもよい。學校その他の大きな團體で、手分けをして集めるのは效を奏しやすいが、其代りには中には不得手な者もあつて、拔かしたりまちがへたりして採つて來る者が無いとは言へない。磐城昔話集の岩崎君のやうに、細心な注意を以て之を整理し、又精選する必要があるわけである。次には昔話の編輯の方法であるが、是は銘々の最も面白いと思つたものから、順々に竝べて行くのが自然でよい。主たる目的は一般の讀者を、少しの骨折も無く我々の興味に、共鳴せしめるに在るからである。昔話の文體はこの意味に於て、最初から定まつて居ると言つてもよい。即ち話手の口から出て、聽手の耳に入つて來る言葉以外に、書物で學んだやうな新らしい文字を、一つでも使はないことである。さういふ文字が交つて居ては、たとへ飜譯に少しの誤りは無くとも、讀む者にはもう昔話だといふ感じがもてないからである。上手な精確な話手を見つけることも必要だが、其話を忠實に、聽いた形のまゝで傳へるといふことは更に大切で、是が昔話採集のたゞ一つの、技術とも言へない技術である。
 我々は今から五六年前に、『昔話採集手帖』といふ小さな本をこしらへて、地方に居る同志の人々に頒つたことがあ(297)る。日本にどういふ種類の昔話が、どれだけ程行はれて居るかといふことを知るには、是も多少の參考にはなるが、本來手帖だから餘白を殘す爲に、記述が簡略に過ぎ、順序も亦我々の一つの考へ方に依つて居る。今後の採集者は必ずしも之に從ふに及ばぬのは勿論である。しかし昔話の名をきめる爲に、時々は斯ういふものを見なければならぬ場合もあるので、其うちにはもう一度、改訂を加へて出して置かうと思つて居る。なほこの以外にも言つて見たいことはあるのだが、それは此事業の進行と伴なうて、何等かの形を以て追々に發表して行かうと思つて居る。
     昭和十七年六月
 
(298)   『全國昔話記録』編纂者の言葉
 
 各集の始めに、その成立ちと特色と、又自分の所感とを述べて置くことは、紹介の趣意にもかなふのであるが、それを企てゝ居ると時がかゝり、   愈々世に出るのが遲くなるから、それは再版以後の機會に讓ることとし、今は主として昔話を集める者の苦心と、それがこのさき如何に利用せられるのが、最も我々の期待する所であるかを、全體にわたつて説いて置かうと思ふ。さうすれば自然に一つ/\の採録の價値の高下もきまり、更に又嗣いで立つ人の少しの參考にはなるかも知れぬ。
 昔話の聽き書きは、今日でももうよほど六つかしい仕事になつて居る。あの人なら澤山の話を知つて居るといふ評判はあつても、尋ねて見ると急にはさう思ひ出せなかつたり、又は案外つまらぬ話ばかりを詳しく覺えて居たりする。日頃まはりに來て聽かうとする人が變つて行くので、僅かな數さへ有れば用は辨じ、それだけを頻りにくり返して、殘りのものは復習が足りぬ故に、段々と記憶が薄れて行くのである。ところが我々の知りたいのは、同じ一つの有名なものが、そこにも茲にも在るといふことでは無い。この點は近年もう判り過ぎて居り、中には「茶栗柿は別々」などのやうに、内容がどこも同じで、話の名さへ言へば、もう聽く必要の無いものが隨分多い。さういふ言はゞ有りふれたものを掻き出して、その一つ底におどんで居るものを、我々は掬んで見たいのである。今から五十年か七十年前までは、確かに行はれて居た好い昔話が、もう次々に消えてしまはうとして居る。それを何とかしてまだ間に合ふうちに、いそいで保存して次の代に引繼いで置かうとして居るのである。
(299) 一人で百にも近い話の數を知つて居る人を、見つけ出すといふことが特に必要なのであるが、殘念ながら非常に六つかしい望みである。昔も昔話の保管に任じた人は、靜かな生活をして居る老いたる女性に多かつた。さういふ人々は愼み深く知つたかぶりをせず、又うちとけて我々と話をするやうな折が少ない。二十年來私などは念掛けて居るが、殆と逢つたことも無く、たま/\知つても間に合はなかつた。たゞ幸ひなことには話ずきには遺傳があつて、誰か身うちの端に特別の印象を受け、又記憶の殊に鮮明に且つ精確な人が居る。今までの昔話集の中には、斯ういふ道筋を經て辛うじて傳はつたものが幾つかある。それで我々はさういふ人の出さうな家々に注意し、又年の若い他に心を取られやすい人たちに、年よりの話することをもつと注意し、出來るならばそれを筆記し、且つよその例と比べて考へて見るやうに、勸めてあるいたことも三度や五度では無かつたのである。たゞ集めてさてどうするといふ學問が、まだ餘り進んで居なかつた爲に、是といふ程の効果は現はれないで、時が空しく過ぎてしまつたのである。
 全國昔話記録の實現に際して、やゝ時おくれの憾みはあるが、もう一度この點を力説して見たいと思ふ。同じ一人の傳承者から、一卷の昔話を集め成すといふことは、多分不可能ではあらうが我々の理想である。たつた一つの珍らしい佳い話を、詳しく覺えて持傳へて居たといふ場合も絶無とは言へない。前年肥後の多田隈氏から出た、「鼻たれ小僧樣」などはその例であつた。しかしさういふのを捜しまはることは  愈々困難で、通例は平凡きはまるものを、私も其話なら知つて居ると稱して出すのが多く、大抵は自他のひま潰しに終ることを覺悟しなければならぬ。それで我々の一つの努力は、たとへ一人の話を揃へることが出來ぬまでも、出來るだけ敷少ない確かな話し手を見つけて、氣永にその人の持つものゝ全部を聽いて置かうとすることで、さうすれば他ではもう滅びたもの、もしくはまだ知られて居ない變つた形のものを、見つけ出すたよりにならうも知れぬ。誰から聽いても一つの話は同じ話と、思つてしまふことの出來ないことはもう經驗せられて居る。多くの色々の話を混同せずに、おぼえて居るやうな人の傳承は精確である。斯ういふ中から我々は、少しでも古い崩れぬ形を見出さなければならない。
(300) それで是からの一つの約束としては、話者の氏名と年齡と境涯、村で生れて村に老いた人か、旅をして來た人か位は明かにして置きたいと思つて居る。もつと望みを言へば、その話をした日と時刻、聽き手がどんな者だつたかもわかつて居ると都合がよい。關君の母堂などは相手によつて、少しく話し方を改める位の心構へをもつて居られた。昔は無いことだつたかも知れぬが、いはゆる童話が盛んになると、現に話はよつぽど變化して居るのである。この意味からいふと、この記録中の二三の昔話集のやうに、教師が少女少年に勸めて家で聽いて來た話を書かせるといふことも、少なくとも若干の用意を以て迎へ取らねばならぬ。皆が一樣に家庭用として話しかへるならば又それでよいが、中には其斟酌の出來ぬ人もあり、又弘く成人を相手に話して居るのを、脇から聽いて居たといふものがあつて、それが入り交つて居るのである。だから是にも亦誰から聽いたといふ類の附記を、添へさせる必要がたしかに有るので、それを要求して置かぬと二度三度も耳にした話を、自分で編纂して出して來ぬとも限らないのである。誰がさういふ話をして聽かせたかを書き附けさせることは、少なくとも別な分子を加味しようとせず、思ひ出を純一にする力がある上に、更に今一つのよいことは、是によつて良き傳承者を見つけ出す望みさへあるのである。前年靜岡縣の女子師範學校で、生徒に書かせた傳説昔話集といふものを出したときに、其中で遠州の小笠都の山手に一箇所、伊豆の南の方の村に二箇所、特に詳しくよく筋の通つた昔話を、熱心に報告した娘がある。それが何れも話者と同じ苗字なので、はゝあ是はおばあさんか何かだな、一つ訪ねて行つて見たいものだと思つて居るうちに、いつか月日が經つてしまつて、もう事情も變つたらうと斷念して居る。若い人たちを利用して一時に多種の昔話を集めて見ようとする者は、是を手掛りにもう一骨折、その又水源になるものを汲まうとしなければなるまい。といふわけは大抵の普通の家庭では、さう/\は昔話を珍重しても居らず、又その周圍にも語つて聽かせる人も無く、僅かに書物などにあることを、口譯して使つて居るのである。それとたま/\殘つて居る土地の言ひ傳への管理者とを、同じに取扱ふといふことは誤りで、必ずその中には選定が無ければならぬからである。
(301) 我々の昔話集が一郡一島を單位に、纏めて見ようとする趣旨も實は茲に在つた。もと/\同じものが地方によつて、そんなにちがつて居らうとは思つて居るわけで無いが、それでも久しい間一つの村里、一つの家筋に守られて居るうちには、甲の地で既に失つたものを、乙では何と無くまだ傳へ、もしくは古い頃に或變更を加へたまゝを、保存して居るかも知れぬと思はれるからである。ところが一方には新たなる統一といふ力も可なり強い。人が旅をして聽いて還つて來る以外に、外から話を携へて入り込む者も多く、さういふ者は之を交際の便宜に供し、又時々は活計にさへして居た。どこで聽いてもほゞ同じといふ昔話が、大抵はをかしく又短く、しかも新らしいものが多いのは其爲で、それをたゞ郡島毎に拾ひ集めて見ても、しまひには倦きられるにきまつて居る。之に對して永いこと一地に留まつて居た話は、個性ともいふべきものを持つて居る。たとへ大筋は似て居ても組合せが變り、又は説明のし方がちがつて居る。知つた人たちでもそんな風な話になつて居るか、自分の方のとはこの點が別だとか、驚き珍らしがり又不審を抱くことが稀でない。是が私たちの目ざして居る學問の興味なのである。この地方毎の變化には原因が無くてはならぬ。それが信仰とか經濟事情とか、その他くさ/”\の環境の力の、是から溯つて窺ひ知らるゝものが有るかも知らぬが、話それ自らの發生と成育、それが世に連れて變り得る限度といふやうなものも、比較によつて行く/\は判つて來るだらう。それには先づ最終の筆録者が、單にその土地に居たといふ以上に、そこに根をさしたものを選び取ることを必要とする。全國一律ともいふべき近年の運搬品だけは、もういゝ加減に別扱ひしなければ、しまひには又この話かと、舌打ちせられるやうな時が來ぬとも限らぬ。斯ういふ意味に於て我々は、成るたけ外からの浸潤の少ない、殊に座頭その他の説話業者の入り込まなかつた、離れた島とか山奧の在所の、家に傳はつた昔話の多い土地を目標としようとして居るのである。中央に近い土地でも、附近にまだ採集が無かつたとか、又は特別に優れた傳承者にめぐり逢つたとか、もしくは偶然に良い話が多かつたといふ場合には出すが、今後は無條件に卷の數ばかりを、多く重ねることは見合せようと思つて居る。全國を見渡すと、今日はまだ一向に採訪の進んで居らぬ區域が廣い。東北は既に(302)幾つかの昔話集を出して居るが、それでもまだ日本海側の多くの郡、殊に山形縣には纏まつたものが無い。
 九州周邊の島々には岩倉山口二君の勞作によつて、明かになつたものも二三にして止まらぬが、それでも島の數はこの通り多く、島から島への運搬は制限せられて居る。隨分六つかしい條件を設けても、出さずには居られぬ昔話集が、なほ次々と現はれて來るであらう。我々の事業は大きくなつて行くばかりである。
 我々の最も期待する所の讀者は、各地わかれ/\に管理せられて來た數多くの昔話を比較して、その成長展開の跡を明かにする人たちであるが、是は願つてもさう急には出て來ず、又今日はそんな悠長な研究の最も後まはしにせられ易い時代でもある。それで今は先づ消滅の防止と、出來る限りの現?保存を心がけて、利用を平和の日に待つの他は無い。次には出來るならば遠い土地に生ひ立ち、かねてこの種の口碑に關心を持つ人に、少しづゝでもこの集を讀んで見てもらつて、決して自分の郷土だけの言ひ傳へでなかつたことを知り、是がこの通り國の端々にまで行渡つて居るのは、どういふわけだらうと、新たな知識欲を抱いて貰ふことであるが、是は今とても望まれぬことではないと思ふ。たゞそれが飜つてその各郷土の保存事業に、どれほどまで支援の力となるかは、效果が間接であるだけに、聊か心もとなしとせぬ。現在の常識は可なり固定して居ると思ふ。新たに昔話の文化史上の意義を、承認せしめることは相當の難事である。たゞ一つの便宜といつてよいことは、若い人々の生れ在所を離れて、遠く家郷を懷ふ者の數が、今日は非常に多くなつて居る。さうして讀書を以て心の慰めとすることも、著しい風潮になつて來たのである。恐らくはその一部分の人が、偶然の縁によつて斯ういふ昔話集を手に取り、暫らく思ひ出さなかつた少年の日の悦樂を、味ふといふ場合も起り得るであらう。效果はたゞそれだけに止まつても、なほ我々は滿足することが出來る。しかもこの意外な印象はすぐには消えまいと思はれる。是が日本の昔話といふものを、再び尋常の知識とする力になるかも知れぬといふことは、必ずしも空しい夢とまでは言へない。
 昔話の地方色といふことは、いつの場合にも問題になる。方言を使はぬと土地で聽いて居た樣な感興は催さず、方(303)言ばかりで書いてしまふとよその人にはわからない。佐々木喜善君が始めた方式であるが、標準語で文章の書ける人が、すなほに記憶のまゝを筆にして行くと、どうしても替へられぬ部分だけが方言で殘る。それは多くは肝要な點だから、もし方言だけでわからぬと思へば説明を添へる。勿論筆者によつてその加減もちがふが、大體に今までに出た昔話集には、その組合せの頃合ひが示されて居ると思ふ。私は方言に興味をもつので、もつと方言が多く出てもよいと思つて居る。土地の人たちもそれを悦ぶであらうが、其爲に弘く愛讀者が得られなくなつても困る。或は今ぐらゐか又はもう少し方言の量をへらして、其代りには全部土地の言葉のまゝを筆記したものを、二つか三つまじへて置くのもよからう。何れにしても丸々標準語ばかりに書き換へてしまふと、創作童話のやうになつて、土に育つたものゝ香がしなくなるかと思ふ。他處から入つて行く採集者の記録の、非常に六つかしい理由も此點に在るのだが、實際は土地でも兩方の言葉を、入り交ぜて使つて居る人がもう今日は多くなつて居るので、彼等の我々に向つて談らうとする言葉を、そのまゝに筆記しても大抵は外の者にわかる。つまりは昔話そのものも、之を表現する言葉と共に、次第に古色を失つて行かうとして居るのである。望むと望まぬとに拘らず、是は傳はるものゝ免れざる傾向である。從つて又少しでもまだ元の形の殘つて居るうちに、つくろはず飾らず加筆せず、そつくりと次の代の學徒に引渡すのが、我々の役目だと心得て居る。採集の技能の如きも、是からなほ大いに錬磨しなければならない。
     昭和十八年九月
 
(304)   『日本の昔話』監修者のことば
         ――父兄と教師の方々に――
 
 童話といふ言葉が使はれ始めたのは、近年のことで、たま/\學者は使つてゐたかもしれませんが、一般の人は、みな昔話といつてゐました。それは話の初めに「昔あつたさうな」とか、「昔の昔のその昔」とかいつて、今ではないといふことを、つとめて明らかにしようとしてゐるからであります。
 昔話には、ずゐぶん思ひがけない空想もありますが、その底には神代といふ神の世界があるのを信ずるのと同じやうに、昔といふ、今の世ならばありえない事もあつたといふ時代を信じて、その實例のやうな心持で語つたのであらうと思はれます。いはゞわれ/\の未知の世界に對する信用が今よりもずつと深かつたことを意味するのかもしれません。話し方が單純であり、信ずる者の心が素朴であればそのまゝ通つて、子どもの時にきいた話は一生忘れず、年とつてからその年頃の者が目の前にあらはれてくるやうになると、愛する者のためにどうしても昔の話をしてやらずにはをられぬやうな心持になる、かういふ感覺が日本では古くから續いてゐるのでありまして、今日の教育がたうてい想像しえないであらう文化の起伏の底には、一筋の清い流れのやうなものが通うてゐる證明として、われ/\には意味があると考へられます。
 子どもだけが寢がけにお祖母樣やお母樣から昔話をきくやうになつたのは、もう大分古いことでせう。昔話が土地々々の言葉に相應しつゝ、時代々々の色々の?況と結びついて、僅かばかりの改造を經つゝ、なほ話の筋だけは古い(305)ものがそつくり殘つてゐるといふことは、不思議なやうにさへ考へられますが、我が國で數へ切れないほど遠い昔から、これと至つて近い話が、家々において行はれてをつたといふ事實を想像することだけは間違ひありません。
 不思議なことには近頃の研究の結果として殆と世界の端ともいふほど遠いヨーロッパの國々にも日本と同じ話があることで、それを見つけるたびに、私は今でも子どものやうに目を丸くして驚くのであります。例へば炭と藁と豆とが三人で旅をする話だの、鹽の出てゐるまゝ海に轉がり込んだ寶の臼が、海の底でまだ鹽を出してゐるので海の水は鹽辛いのだ、などといふ話は、外國で紹介されるよりも早く日本でも語られてをりました。それ以外にも五十くらゐ、あるひはもつとそれ以上も、世界共通といつていゝ話があるといふことを、いつた人もあります。
 今日これほど學問、特に歴史の學問が大きく進んできたにもかゝはらず、なほ説明のできないほど遠い所に全く同じ話があるといふことは、何か隱れたる理由がなければなりません。ですからこの本の中には面白いお伽の話だといふだけでなく、今日の知識を以てしてもなほ解くことのできない不思議が、皆さんの目の前に竝んでゐることを意味するので、その事實を發見し、且つ理由を考へて見ようとするやうな氣持で讀む人たちを多くしたいと私は考へてゐるのです。
 この仕事に携はつた人々は、私と同じやうにまだ説明されない話の類似や一致に心づき、何とかしてそれを解かうとしでゐる大人ばかりですが、日本といふ國のすみずみ、殊に山の中や離れ島の果てまで同じ話が傳はつてゐる所に興味を起こさせようといふ共通の心持は必ずあらはれてゐることと思つてをります。長い年月のあひだ、話のもとになるものは少しも變らずに、昔の子どもも喜んできいたものが、今の世まで殘つてゐるといふことは、それ自身皆さんが知つてゐなければならない、またできればそれを不思議に思はなければならない出來事なのであります。
 これから先この本を見る人は氣をつけて多くの子どもの覺えてゐる話がどこにあり、どんな部分に一番興味をもつてゐるかといふことをお互ひに調べ、尋ねあふやうにしてみたらよからうと思ひます。さうすれば必ず日本人は感覺(306)において、趣味において、深い一致をもってゐることを發見することが出來ませう。
   一九五五年五月五日 子どもの日に
 
(309)   郷土會第十四囘例會記事
 
 郷土會と云ふ小な會がある。一月二十九日の雨の晩に其十四囘の集會を開いた。二十人の會員が十四人まで來て、其席では高木敏雄君が阿蘇の南郷谷の話をせられた。南郷谷の久木野と云ふ村は高木君の郷土であるが、習俗及天然の條件の共通なる點から觀て、此谷全體が輸廓の明瞭な一個の郷土である。此谷の彫刻者は即ち白川の水で、一谷の住民は其水を汲み且つ我田々々の井手に引いて居る。白川の源は二箇處の立派な泉である。川が東西に流れて居る爲に川の南は即ち山の陰になる。北岸には村が多く南岸は唯二ヶ村あつて後代の移住かと思はれる。何の村も傾斜面を横ぎつて路と溝とを通し昔の家は皆横に連つてゐる。岸の方から見て行くと水田、溝、人家、路、畑、森、草地、山頂と云ふ順序  略々同樣の利用帶を示して居る。此谷の東限は國境の山地であるのに、民家の構造は寧ろ豐後から四國の系統に屬し下流の平野と似ない點の多いのは妙である。組々の勞力融通には珍しい不文法が殘つてゐる。吉凶其他の手傳ひには一軒からきつと二人づゝ出て米を一升持つて來てうんと飯を食つて行く。宗教生活にも特色が多い。馬頭觀音は純然たる馬の保護神で、正月十四日には福山などの左義長と同じ火祭をする。關東の稻荷に當る屋敷の神は荒神であつて、其石塚の上には必ず南天が栽ゑてある。犬神の信仰も亦南郷谷の一の特産であると云ふ。此類の事實がまだ澤山に且つ詳く話された。此から此會では會員がイロハ順で研究を報告することに定められた、第十五囘の例會は三月三日に開かれて會員石黒氏の農村の家屋に就て談話がある筈であるが、其記事は何れ次號に。
 
(310)   千曲川のスケッチ(島崎藤村著)
 
 勉強すれば我々にも旅行は出來ぬことは無いが、唯或季節に或村を見て通るばかりである。此書の著者のやうに千曲川の川上の細流から越後境の大川になる處まで下つたり上つたり、村々の老女や青年と話したり、年を隔てゝ又來て見たりすることは出來ない。殊に其見てあるく人が島崎氏の如くよく物の判る且つ親切な詩人であつたことは誠に得難い機會である。故郷で無い田舍に五年六年と物を觀察して居られたと云ふことが既に好都合であつた上に、淺間の傾斜地は眼を着くべき特色の多い地方らしい。土着の古い内地としては珍しく氣候の荒い處である。冬の天然の壓迫が烈しく生殖の極めて忙しい國である。斯な地方に限つて遲い春が殊に艶麗に、暮易い秋が殊に物悲しかつたに違ない。而も著者は其風景の中に立つて主として人の生活を觀て居た。四時の變遷を唯靈にのみ感じつゝせつせと動きまはつて居る人に注意をして居た。昔の人のやうに之を山水畫の中の人物としては見なかつたのは親切である。我々もどうかして斯な風に田舍を見て居たいと思ふ。石垣の間の春の草を數へたり、祭の跡に螢の來る處などを見て居るやうな餘裕を以て、郷土の生活に觸れて見たいと思ふ。實際此本を見るのはよい休息であつた。我々の學問の中にも斯な安樂境があることを知つて嬉しかつた。文學などと云ふものは生垣のあちらで琴を彈いて居る位に思つて居たが、切戸を開けて見ると何だ隣の庭にもやはり「すゞしろ」の花が咲いて居る。田舍者には近づき難いやうに上品な物と心得て居たが、やはり詩人になる程のクレールボアイアンであれば、無心で居ても自然に其眼が美しいと云ふのみのことであつた。
 
(311)   郷土會記事
 
 郷土會の第十五例會は三月三日の晩に新渡戸博士宅で開かれた。農家の構造に就て、石黒忠篤氏が非常に澤山の材料を持つて來て説明をせられた。興味の誠に多い話であつたが、繪も無しに其概略を傳へることは困難だから、いづれ近い中に改めて本誌のために石黒氏に書いてもらふ積りである。我々は日本の田舍の家屋と謂へば、兎角自分の生れた家を以て標本と認めたがる。併し建築に古今の變遷があるのみならず、屋根の形、破風の有無、屋棟の方向、萱藁板瓦ブリキ等の材料の種類、廂の大さ及附け處、次には間取内庭の廣さ、入口上の口の向、竈流し井戸厠の在り處、厩物置、土藏との聯絡、内外壁の土か木か石か、外庭の陰陽、風除日除の植込、更に又所謂ジヤウの口の門であるか只の標木であるか等、實に千變萬化である。此が明瞭に地方に由つて違ふものならば又比較にも都合がよいが、民種が複雜に混淆して居ると同樣に、狹い一谷の近隣にも色々の屋根がある。材料等に就いても持主各自の工夫をする。之を比べて會得するのは大分の難事業である。故に又其調査研究に趣味がある。石黒氏は我々の爲に數十の題目を擧示し、此等の諸點を悉く吟味しなければ調査は完全で無いことを丁寧に教へられた。而して或程度迄の結論に達するにもまだ/\各地の研究者の永い共同が必要であることを述べられたが、而も話の間々に挿んだ例へば斯る家があると云ふ旅行中の見聞談は此上も無く誘導的のものであつて、自然に同氏が此問題の研究者として最適任であることを證據立てゝ居た。
 第十六囘の郷土會は埼玉縣北足立郡大和田町大字野火止への一泊旅行であつた。三十日の日曜は一年に稀なる美し(312)い春の日であつたが、其前日は風の強い土埃の立つ日で、よく/\武藏野新開の荒い生活を理解することが出來た。野火止はもと平林寺の裏山なる古塚の名である。七百町歩の一大字は新篇風土記に所謂|皆畑《かいはた》の村であるが、慶安承應の交に開かれたと云ふ野火止用水の細かな網は實に此村存立の要件であつて、單に屋敷々々に引込まれて勝手の用に供せらるゝのみならず、更に其濕潤の力を以て見事な色々な蔬菜を作り、頗る畠地灌漑の妙趣を示して居る。秩父の武甲山を正面にして垂直の川越街道の南側に、規則正しい地割をして、路に接した宅地から村境の薪山まで突通つて居り、農場の組織及び大きさまでがよほど他の地方と違つて居る。瀧澤縣書記、土岐田町長などの世話で村の中でも殊に大百姓の正親氏に泊めて貰ひ、夜分は二つの學枚の校長も來られて色々の質問に一同草臥を覺えなかつた。翌日は平林寺の方丈に立寄つて梅林の盛を見た。それから少し迂路を取つて北多摩郡の清戸の宿を通過して田無町へ出た。此邊の村は右も左も悉く田無しである。東京府に入ると殊に畑の土が細かく飛易いやうである。府と縣の境は人爲的に明瞭で府の方へ一足入ると著しく桑畑が多くなる。此は栽培奨勵の方針にも由るであらうが、一つには此方面には水の手が十分でないことも其原因であらうと思はれた。當日のカメラが幸に其持主ほど饒舌であつたならば、他日此遠足の利益及び愉快の一部分を改めて讀者に語り得るであらうと思ふ。
 
   漫渉人國記(角田浩々歌客著)
 
 昔の人國記は僞書だ出鰐目だとの惡評はあるが殊勝な本である。それに比べると大正の漫游人國記は大分演繹的である。一言を以て言へばバックルが長命をして日本を講演してあるいたやうな本である。なる程少年にして家を飛出(313)す程の偉人にも故國の山川の影響をせぬとも限らぬが、それが古今人物の分野を劃する程に適切なものか否かは疑はしい。遺傳は今日の學問ではまだ/\偶然の從弟位のものであるに反して、個々の境遇は算勘に剰るほどの顯著な勢力である。早い話が富士の裾野の大天然が養育した角田君も、一度は大阪の人海に泳出すと紳士と云ふ者に深い趣味を有つて來る。要領を得る職業に從事して居らるゝと、青い野の中白い谷川の岸を通りながらも猶概念に追隨することを忘れない。角田氏の旅行は羨しく快活なものであつた。文字通り全國を跨に掛けて居られる。而も誠に記者らしく所謂事件から事件へ現象へ飛んで行かうとせらるゝのを、路傍の小さな石や樹陰がこゝに君のすきな傳説があるぞ、人國記を超脱した口碑の斷片が落ちて居るぞと、恰も影取沼の主が堤を行く人を捕へるやうに、又田子の呼阪の道の神が旅の者の片袖を引くやうに、盛に彼等のシレンの笛を吹くのは何故であらうか。此點から考へると國はちがふがやはり我々の乳兄弟だ。あの人にもまだ些ばかり所謂無學者の幸福が遺傳して居る。山寺の磐次磐三郎なども必しも久しく此忙しい世間師を引留め得なかつたことを悲しむにも及ぶまい。
 
   考古學會遠足會
 
 四月十九日の土曜日から日曜日へかけて此會が催された。足利には熱心な二三の會員があつて、忙しい市の日を休んで色々の支度をせられ、鑁阿《ばんな》寺と長林寺との和尚も親切を盡された。恰も山の躑躅の花盛で木々の若芽も雨氣を帶びて美しかつた。やがては市にも成らうかと云ふ繁昌の町を、古代がひし/\と取圍んで居る。鑁阿寺の伽藍は眞四角な大きな杉森で數百の職工と小商人の家は之に對して住んで居る。染屋の工場を通つて來た澁がちの溝の岸には、(314)コ利と酒盃とを持つて女夫神の石體が立つて御座る。蓮臺寺公園から北郷境の山々に掛けて數へ切れぬ程の古墳がある。川荒の烈しい地形らしいが、總體に南を受けた岡の姿が昔の人にも氣に入つたらうかと思はれる。兩毛線が追々と町を繋いで、程なく此一帶の地を一筋の織物の如く織上げる頃には、多分は此等の讀みにくい不文の記録も理解せられ、足跡の上の足跡も墓場の上の墓場も、共に大きな一つの生活の端くれであつたことが分るであらう。佐野から堀米犬伏の町を通つて、例幣使街道の突當りの米山と云ふ孤山は、どうも古墳らしいと云ふことで一同登つて見た。それから東へ鐵道を隔てゝ國分寺と切附けた瓦の澤山に出る岡がある。僅ばかり土を除けて見ると瓦片を築造した昔の瓦竈が現はれた。大慈寺と彫つた瓦を拾つた人もある。大慈寺は小野寺村に在つて、慈覺草創と稱する古刺である。
 
   郷土會第十七囘例會
 
 いつもの會場で四月二十五日の夜之を開く。當番は二宮コ君である。伊豆と丹波との旅行談は面白かつたから次號に筆記を載せようと思ふ。始めての客員が二人あつた。女子師範の野村八郎氏と侯爵コ川義親氏である。講演の前後の趣味ある談片が手帖にも留らずに散つて行くのは惜しいものである。
 
(315)   石見三瓶山記事
 
 「新農界」第八卷第一號に安濃郡農學校長の大西氏が報告せられた三瓶山麓の農業は耳新しい。舊火山の砂礫の下を通つて來る水は温度が高くして肥分が豐富であるらしく、土地の者は此水を麥畠に灌漑して居るのみならず、名産の芹と山葵も亦天惠を利用した者である。蕪菁と牛蒡の佳品も斯して栽培する。山陰の荒山中にこんな安樂天地があらうとは思はなかつた。「ハマ茶」一名「コーカ茶」と稱して「カハラケツメイ」を茶の代用とすることは此邊一帶の風習であるらしい。「コーカ茶」のコーカはカヽ又はコーゲと共に草原を意味する古い語かと思ふ。
 
   杜鵑に關する研究
 
 杜鵑の生活を研究した人がある。其報告の一部分が「中央公論」の五月號に出て居る。六號活字には全く惜しい種である。其大要に曰く昔から「鶯のかひこの中の時鳥」などと歌にもあるが、入口の狹い鶯の巣に入つて卵を産み得る筈が無い。會て叡山の森林で働いて居る枝打の話に、杜鵑がカケスと闘つて其巣を奪ひ、カケスの卵を投落して置て自分の卵を産んだのを見たことがある。所謂維鵲有巣維鳩據之である。研究者川口君は現に幾日かを同じ山の中に(316)潜んで居て杜鵑が雛鳥に餌を運ぶのを目撃した。彼が子は常に二つであるらしい。よく注意して見ると、畫や歌俳諧に此鳥を描いたものは勿論、現今の本草家の記述にも誤があると云ふことである。此話は皆珍しいが、殊に奇特なのは此研究者が毎年夏になると山奧に入つて朝から晩まで鳥の生活をそつと見て居た心持である。それが法學士と云ふ當世人であるから一層人柄が忍ばれる。雲雀や山鳩や其他の鳥についてもまだ澤山の實驗があるらしい。
 
   寺と門前部落
 
 「歴史地理」の五月號から京都大學の牧野信之助君が門前の研究と云ふ一篇を公にせられた。まだ長く續くらしいから注意して讀みたいと思ふ。今度新に史料の手に入つたと云ふ能登の總持寺の門前、即ち鳳至郡櫛比村大字門前の起立のみに就いてゞはあるが、牧野君は學問に執着な人であるから、必ず之を基礎として追々比較研究の歩を進められることゝ信ずる。江戸を郷土として取扱はんとする人々に取つて、新しい題目と云へばやはり路次の舊慣の頽廢と、社寺門前の組織の變遷などである。後者に於ては境内と云ふ語が古今如何に其内容を改めたか、本居に離れた所謂他國者が門前制度の影響を受けて如何に移動し如何に定住したかと云ふ問題の如きは實は全日本の全歴史と交渉あるものである。其研究方法に付ては牧野氏がよき模範を示されるであらうと思ふ。
 
(317)   特殊部落の話
 
 五月の「國家學會雜誌」には柳田の特殊部落の種類と題する論文が出る筈である。一月の經濟學研究會に於ける公演を文章體に書改めたもので、前號の沼田氏の紙上質問に對し若干の答を提供して居る。
 
   宮田沿革史稿
 
 群馬縣勢多郡横野村大字宮田の歴史である。統計や表の如き現代獲易き材料をあまり加へないで、九卷敷百枚の大著述である。著者は我々より若い人であるらしいが、既に此爲に三年の勞作を費して居る。意外に舊記文書の豐富であつたことが  大字宮田の幸であつたが、それよりも角田惠重君の此村に生れたのが大なる遭遇と認めねばならぬ。曾て新渡戸博士が報コ會で講演せられし「地方の研究」と云ふ説を見て感奮せられたと云ふことである。稿本は今自分が借りて見て居る。愈完成となる迄には年月を要するであらうが、其公刊は一段と遠い未來のことであらう。角田君は宮田附近の郷土に就てもまだ多くの材料を貯へて居られるらしい。
 
(318)   學會講演記事
 
 六月二十日日本歴史地理學會の講演があつた。例の時頼廻國説に對する大森金五郎君の批評を聞いて、傳説研究上何でも無い問題が歴史家の間に大議論の種になるのを珍しく思つた。鳥居龍藏君の手宮の彫刻に關する説の要點は、隋唐間に彼處に任してゐた肅愼人が墓穴の壁に刻んだ突厥《ツーケ》の古文字であらうと云ふことであつた。翌二十一日には日本民俗學會の公開講演會を覗いて、中等程度の女學生が聽衆の大部分を占めてゐるのを見て講演者を氣の毒に思つた。鳥居君の千島アイヌの話も餘程やりにくかつたらしいが、要するに千島アイヌ族は日本民族と北亞細亞族との中間の連鎖をなすもので、このことは木製假面の研究からも推論されると云ふ主論らしかつた。
 
   能登の久江及石動
 
 神社協會雜誌の九月號に、此夏能州の神職會へ講演に行かれた宮地文學士の紀行が載るが、それが意外にも是まで專門家もしなかつた郷土の研究である。邑知潟の周邊には古い神社が多く、土着の年久しいことは一見しても判るが、此一帶の水陸には千年以上記録の傳へざる顯著なる地變があつたらしい。潟の西側を構成する砂丘が北海の浪と西風(319)に由つて追々に發達しかもので、水が袋になつた爲に益淺くなつたらしいことは、他の地方の多くの潟と比べて我々も想像してゐたが、邑知潟では更に其東岸の山地に古今幾度かの地割れ陷落又は土地の押出しがあつたと云ふことである。是こそ誠に文字通りの滄桑の變であつて、かの大伴卿の紀行の歌なども爲に二重の深い感がある。宮地氏は石動《いするぎ》信仰も或は此地變に基したものでは無いかと言はれて居る。日本に甚だ多く時としては外國にも例を見るユルギ石の傳説が、若し斯云ふ點で古住民と交渉して居たのならば、それはそれとしての研究の興味が加はつて來る。因に此|久江《くえ》と云ふ村の名も九州四國に多い津江と共に、山崩れから起つた地名であらうと思ふ。
 
   石卷氏の山男考
 
 九月十月の「東洋哲學」に石卷良夫氏の山男考と云ふ有益多趣味なる論文が以下次號で載つて居る。よほどよく行渡つた調査であると見えて、今までの二囘分には先づ本誌の佐々木君の遠野雜記と久米長目の山人外傳資料との殆と全部が採録せられ、其材料だけで論文の八七・二%ほどを占めて居る。山男論は比較的急を要しない問題であるから、拙者は一先づ自分の蒐集した材料の整頓に着手し、兼て石卷氏の綿密な研究の終結するのを待ち、同氏許可の下に其新しい報告を自由に利用したいと思ふ。それにしてもあの山男考が神宮雜記の代りに郷土研究誌上に掲載せられたなら、讀者をして學徒と云ふ者は一旦活字になつた材料を如何に利用してよいものかと云ふ問題を解釋せしむるに適當な參考であつたらうに、惜しいことをした。
 
(320)   あいぬ物語(山邊安之助著金田一京助編)
 
 南極探險隊に加つて世に知られるやうになつた樺太アイヌ山邊安之助君が血と涙を以て綴つた自敍傳に、樺太アイヌ語の唯一のオーソリチーたる金田一京助君の日本譯を添へた、實に驚くべき面倒なことを根氣よくやつたものだと思はれる菊判二百頁の一册子で、卷頭に編者の同情ある敍文がある。別に附録として樺太アイヌ語の文典大意と六十頁に亙る語彙まで添へてある。單に樺太アイヌ語學として有益であるばかりでなく、運命に詛はれた北地の一民族の最後の勇士の告白として非常に興味深い記念である。譯文の日本語の方を普通の本のやうに五號活字に組んで、原文のアイヌ語を片假名のルビで組んであるから、全くアイヌ語を知らぬ者にも樂に面白く讀まれる。上下二編に分れて、勇士の生立から日露戰爭以前までの記事が上編に收められ、日露戰爭から南極探險の話までが下編に收められ、すべて八十篇の小さな物語に成つてゐる。此種類のものとして全く空前で、恐らくまた絶後の著作である。心あるものは是非一度讀んで置くがよい。吾々は此物語を世間に紹介した編者の勞を謝すると共に、印刷の面倒を厭はなかつた博文館を難有く思ふ。
 
(321)   續三千里卷上
 
 河東碧梧桐氏の行脚紀行一日一信の一部分が又本になつて出た。愉快な讀物である。明治四十二年四月末から翌年二月中頃へ掛けて、路は甲州から諏訪へ出て信州飛騨をぐるりと巡り、越後から長門の下關まで主として日本海岸の旅である。立山へも白山へも登つて居る。迂路滯在勝手次第で路は輪を描き枝を出し、一つの温泉に半月も留り東京から細君などを喚寄せる。羨むべき氣樂な行脚である。紀行が只の日記體で無く隨感録の形になつて居るのは新しくて有難い。主眼とする俳諧論の方には我々は支考の著に對すると同じく風馬牛であるが、著者が永年の雲水生涯で修養した一種の物の觀方は、境遇の平凡で無かつたのと合せて、田舍の研究者に得がたい材料を殘して居る。信濃の山村でシヨデの若芽を食つて、十和田のソデと同じだらうと云ふ處、飛騨の荒木神社で天正年中の樂書を見たこと、白山の山麓で?の實を採るのを見たこと、但馬の餘部で農家の子供が飯を食ふのを記したあたり、其外にもなつかしい記事が甚だ多い。單に事實が新しいだけでは無い。此までの書物には現はれて居らぬ情趣である。
 
(322)   大日本老樹名木誌
 
 本多林學博士著、大日本山林會出版、菊版四百餘頁、全國に亙つて七十八種、千五百の名木に就き其所在樹長及び傳説を記述したものである。事實が大正の現在を調べたものであること、百數十の寫眞が添へてあることは更に大なる價値である。凡そ記念保存の事業として此ほど有效なものは外には有まい。若し新種の事業を目的とする會があるならば大に大日本山林會に向つて禮を言はねばなるまい。但し此蒐集が全國各府縣に平均して居ないことは著者も認めて居る。第二編の次で起るべき事業である。又あまり木の大きくない他の四千數百の目録は掲載を見合されたと云ふ。此も惜いものである。傳説などは必ずしも木の太い細いには依らぬかと思ふ。此書に採録せられた中にも、杖を立て生長すと云ふ口傳が四十箇處ほどあり、之と系統を同じくするかと思ふ箸立傳説及び矢立鎌立の話も敷ヶ處づつある。鳥居木・子安木・夫婦木・飯盛木の傳説も何れも甚豐富である。誠に此書と時代を同くした我々の大なる幸福である。
 
(323)   神代の研究(福田芳之助著)
 
 海軍主計少尉たる福田芳之助君が大いなる意氣込を以て全力を傾注した、極めて眞面目な業績である。著者には別に新羅史の著がある。誰でも自分の好むところの得意の方面に偏するを免れ難いもので、神代の研究の著者も、朝鮮半島の歴史に通じてゐるので、神代史を論ずるに際しても、常に朝鮮半島の方面にばかり謎の解決の鍵を求めんとする傾向があるのは此書の根本的特色の最大なるものゝ一つで、此書が吾々の興味を惹起する唯一の原因であるが、また一方から觀察すると、此書の長所が茲に在ると等しく、その短所もまた茲にある。一定の見識を具へてゐない讀者に取つては、此種類の書は誘惑する力の大なるだけに、稍危險な性質を帶びるやうに成るかも知れないけれども、吾々のやうな眞面目な相手のためには、非常に有益な參考に成るものである。高天原は南朝鮮だと云ふのが議論の大眼目で、その他のことは凡て此點を中心として論ぜられてゐるやうに思はれる。神代史の研究が朝鮮半島の古代史の研究に待つところの多いのは既に一般に認識された事實であるので著者が此方面の疑問の解決に貢獻せんとして勉めた努力は、多しとせねばならぬのではあるけれども個々の點に於ては、まだ十分に吾々を信ぜさせるだけに至らぬことが大分にあるやうである。但し今の時勢に多きを求めるのは元來無理の話であるから、吾々は此書に對して多大の尊敬を拂つて、江湖に推奬するを辭しないと同時に、傳承の形式と内容とをフォルクロールの方面から研究することを、今一歩進めて貰ひたかつた、と云ふことだけを一言して置く。要するに古事記そのものゝ性質の根本的研究が  稍々不明瞭に陷つてゐるのが、この良書の缺點である。(京都若林春和堂發行)
 
(324)   奧羽人の移住
 
 「日本農業雜誌」では「東北の窮民郷土を捨てて何處へか去る」と云ふ長くして感傷的な題目の下に南津輕地方の北地移住の?況を報告して居る。人口の多い中國四國からは世話を燒いてもあまり出ずに、いとど乏しい奧羽から出て行くのは、凶年で無くても困つた經濟現象である。之を凶年の結果として考へるのは思ふにあまり宜しくない。何となればそれでは平年に人が此間題を疎かにするから。一年中續いての仕事が無い爲に、夏季收入が普通であつては生活に足らぬと云ふのが、彼等移動の動機では無からうか。今少し聞合せて置いて貰ひたい。
 
   神社の建築學
 
 「神社協會雜誌」が久しい間毎號の卷頭に諸國の舊社の寫眞を掲げ、且つ親切な説明をして居るのは没すべからざる功勞である。平人の住宅と立分れて今では特種の構造を示して居ても、澤山の懸離れた實例を比べ合せて見れば最初の形式に復原して上代の田舍屋の有樣にも類推し得るものが多い。誰れか此の方面から是非之を利用せねばなるまい。此雜誌には久しく春日氏分布の研究が出て居たがあれが出なくなつたら何だか急に誌面が淋しくなつたやうに感ずる。
 
(325)   ?油沿革史
 
 此類の著書は頒布が限られて居て、我々が手にする機會が少ないが、尊重すべき書物である。主として下總銚子の?油の沿革に詳しいのは、著者が銚子の田中直太郎氏で、ヒゲタ號?油の工場主であるが爲である。江戸の大都市の刺激を受け、一方には關東平原の豐富な原料に依つて、質朴な溜?油から次第に今の世界的な商品に進化した經路は、野田銚子の舊家の記録に據らなければ分らぬ筈である。此書は勿論廣告用ではあらうが、三百餘年の發達史が忠實に述べてある。「鹿島の崎」にもある如く、銚子は近世の紀州人の植民地である。田中玄蕃は元和以前から此土地の人であると、本書には書いてあるが、少なくとも?油製造の一點に於ては此家もやはり濱口岩崎の二家と共に紀州の企業家の感化を受けて居るものと思ふ。本書には?油原料に關する記述に乏しいが、それは何か營業上の秘密とでも云ふやうなものがあるのであらうか。
 
   山人の衣服
 
 山男の用ゐた草履のこと。本誌一卷三〇六頁にも、遠野物語の第三〇節にも見えて居る。一は長さ六尺もあるかと(326)思ひ、他は三尺ばかりとある。何れも材料は篠竹を編んで作つた物と云ふ。想山著聞奇集卷二に、著者が竹馬の友石川某、木曾山在勤の節山男の草鞋と云ふ物を二度も見た。大さは三尺ばかり材料は藤の皮とある。越人關弓録にも、上州妙義榛名の山奧にて、獵者樵夫往々にして巨なる鞋を見る。長さ三四尺ばかり??を梱織し略鞋?たり。呼んで山丈夫の鞋と曰ふ、人畏れて之を避け敢て?語せず云々とある。此で先づ履物は分つた。併し足元を氣にする迄に開化した山人等が、冬分裸體で居たと云ふ話の多いのは安心がならぬ。北越雜記卷一九に、妙高山の山男、眞裸で山小屋へ遊びに來り、木挽の親切で始めて刃物で獣物の皮を剥ぐことを教へてもらひ、生の毛皮を悦んで着て居たが、乾くにつれて縮み硬ばつてをかしかつたと云ふ話があるが、些し出來過ぎて居る。そんなら山中に於て縫も織りもするを要せぬ衣料が何かあるか。南方君には御説もあらうが、此は食物よりもちと六つかしい問題だ。二宮農學士の話に、先年尾州瀬戸の感化院に收容した浮浪の少年は父と共に二年あまり木曾の深山に住んだ經驗を有つて居た。其者の話に、冬は岩穴の中に寢た。それでも寒いから川楊の木を引拔いて其根を谷水でよく洗ふと、髯根の多いもので寄せ集めて身を蔽へば暖くて蒲團の代用になつたと云ふ。但し此は山男の子では無い。仙人などはよく木葉を綴つて衣類にすると云ふが、日本の植物で能く畫に描いた仙人の着物のやうに、しなやかに身につくものがあらうか。大分疑しい話である。併し拙者は此點の解説にいとゞ苦慮しては居らぬ。勿論獣皮も木葉も多少は利用したであらうが、多くの確實なる山人遭遇記事に、何等衣類の特徴の擧げて無いのは、寧ろ其服装が麓に住む里人と著しい區別の無かつたこと、即ち彼等も亦粗末ながらも着物と名づくべき物を纏つて居た消極の證據かと思ふ。遠野で人の見た子持の山女は、子を結附けた紐は藤蔓であつたが、衣類は世の常の絹物の破れたのに、幾分の木葉が綴り添へてあつたと云ひ、又至つての山奧で、樹枝に乾してあつた衣類を、大男が來て取込むのを見たと云ふ話も遠野雜記の中にある。そこで拙者は明治大正の山人は、よほど巖丈な昔者の外は、皆我々の衣服のやゝ粗末なのを着て居たときめて居る。勿論さう斷定すれば大きな問題が續いて起る。其一は如何にしてそんな着物を着る風が始まつたか。其二は如何にして其着(327)物を手に入れるかの問題である。併し拙者は之に對して、「待つてゐました」と答へたいほど、明白な解説を準備して居るのである。第二の問題などは殊に答へ易いかと思ふ。
 
   編輯室より
 
 一年有餘の我々が勞働は徒爾では無かつた。近頃は大分新しい方面から寄稿が來るやうになつた。四國奧羽の懸離れた山村、さては往來の少ない島々から、我々の研究の鍵となるべき肝要な事實が、豐かに供給せらるゝ日も遠いことでは無からう。我々は單に古い日本がまだ活?に生きて居たと云ふ發見を悦ぶのみを以て足れりとせず、更に此機會を以てどし/\と問題の範圍を擴げて行き、先づ以て日本に一つしかない「郷土研究」の任務を明かにせねはならぬ。舊友を疎んぜざる範圍内に於て大に新らしい訪問者を歡迎せんと欲するのである。唯茲に恐れねばならぬことは、此迄の雜誌類が折々やつたやうに、單に珍らしい材料の共進會と云ふだけで、次から次へ新問題ばかり求めて行くと、記録として後世の學者に用立つことは或はあらうが、自身は終に紛亂の中に陷つて、研究の實が聊も擧らぬことになる點である。我々の讀者が決して興味のみを以て、此雜誌を愛好して居られぬことはよく分つて居る。郷土學創立の苦難に對しても深い同情のあることは、其援助の親切なのを見ても明白である。唯推攷思索の事業に至つては別に其人があらうとでも考へて居られるのでは無いか、可なりよく田舍生活の或問題に精通して居られるらしい人迄が、自身の判斷や意見を根つから公表せられず、又之に關する大小の疑問を解く爲に同學の士の助言を求めんとも力められぬやうに思ふ。我々は多くのよい問題が水上の花の如く流れて行くのを見て、徒らに惜むの情に堪へぬ。我々素人が(328)短かい餘暇を捧げて諸國の話を聞書して居るのは、洒落や好事からでは勿論無い。此を基礎とした將來の田舍の問題の決定、即ちいづれは日本民族の生活が變遷せねばならぬとすれば、出來る限り幸福なる變遷をさせたいがどうすれば善いかを知ること、假令それ迄は六つかしいとしても、せめては今の日本人の生活を滿足に且つ明白に理解したいと云ふ爲である。我々の希望は未だあまり達して居らぬのである。願はくは此より此意味に於ける我々の仲介周旋を大に利用して貰ひたい。「郷土研究」の狹い誌面は一面に未開の山野を圍ひ込む爲に八方に擴張せんとすると共に、他の一面には處々の沃土を深く耕して、そこに色美しきたなつ物を取入れんが爲に、其一半を割いて居るのである。願はくは心ある人々の豫期を互に失望せしめられぬやうに、各府縣の同情者に向つて切望する。
 
   謹賀新聞の事業
 
 此欄で報道すべき事も次第に多くなつて行くやうに思ふ。都鄙の新聞に郷土と云ふ文字の使用せらるゝことが多くなつたのは顯著なる事實である。同じ歴史の話をするも、地方と云ふものを眼中に置いて、土の上の現象として之を説くやうになつたのは近頃の傾向である。讀賣新聞は昔から田舍の生活を輕んぜぬ新聞であつたが、此頃「各地の民謠」を蒐集し始めると、諸方から興味を持つて寄稿する人が追々加はるやうである。せめて半年も續くならば、從來の記録に増補する所が必ず多からうと思ふ。高木氏の童話集も數年續いて居るが、此次は順序として諸國現在の童話民謠の類を集めねばなるまいと思ふ。又同じ新聞に田尻博士の「米の話」が目下連載せられて居る。頗る實地に立入つた議論で、白米玄米の利害、飯の炊き方まで論及して、島帝國未來の食料問題を豫言せんとして居らるゝ。米を作(329)る方の人にも必要なる議論である。之に比べると朝日新聞の農村革命論と云ふ長い投書の方は悲歌激越の趣はあるが、書生論の空疎な點が多く、黙して聽いて居られぬ廉も少くないやうに思ふ。
 
   東京帝國大學文科大學紀要第一
 
 早く出ねばならぬ筈で久しく物にならなんだ文科大學の研究報告が、此五月になつて漸く一册公表せられた。其代りに頗るしつかりとした研究である。三上辻芝三氏の永い勞作で、題目は「社寺領の研究」である。動機は行政裁判所の土地下戻に關する判斷に便にするに在つたさうで、主として江戸幕府時代の朱印地黒印地の法律上の性質を明かにせんとして居る。慶長以前の沿革も大要が最も明確に説いてある。御陰で我々は此方面に於ける荒區起しの勞を免れた。古い時代に入つて見ようとする人にも、現在の社寺存續を考へんと欲する人にも、誠によい資料が供せられたものである。
 
   故郷見聞録
 
 大阪府池田師範學校の教員笠井新也氏が、生徒にすゝめて各自の郷里の口碑を筆記させ、之を集めて謄寫版で複製(330)せられた。故郷見聞録と云ふのが其書名である。笠井氏は郷里の阿波でも信州の學校でも同じ仕事を企てられ、毎に良い感化と成績があがつた。各地の傳説には書物から複寫したものは僅しかない。殊に明治以後の教育を受けた青年の仲間に入つて、昔の民譚が如何に變形して行くかを見るのは我々が最も興味を感ずる點である。一つの例を云ふと、例の大道法師の大足跡の話を語つて、「昔造物師と云ふ大きな人があつて」などと云つてゐる。造物主を云ふ漢語が田舍に迄及んでからの變形である。斯點は老翁から聞くより遙かに意味深く感ぜられる。此本は一枚づゝ印刷するので數月の辛勞を經たと云ふ。奇特にして且つ無邪氣なる事業である。
 
   地誌刊行の事業
 
 慾目かも知らぬが機運は益我等が爲に好兆を示すやうに思ふ。地方人が郷土の問題に注意深くなつた事實は何れの方面にも現はれて居るが、此頃流行の古書刊行事業に於ても著しく其傾向が見える。所謂古書刊行の中には實は無害と云ふのみを以て滿足せねばならぬものも多かつた。所が風土記類の活版が之に伴つて大に起つたのは望外の幸である。申す迄も無く昔の地誌の中にも非常な優劣がある。概して言へば詳しい程尊いが、長くばかりあつても古書の書拔のみを竝べたやうなのもある。官府の力で村々の書上を集めて編纂したものでも、又著者自身辛抱強く?を曳いて、故老の談話を筆録したものでも、要するに材料を郷土から直ちに採つたものは皆價値がある。そんな書物は今日は金を掛けても出來ない。村々の生活?況が變り塚が夷げられ古木が枯れて、昨日の飛鳥川を問ふことの出來ぬ場合が多く、のみならず今の學者は手取早く机の上で本を作るのを手柄にして居るから、例へば上野忠親の勝見名跡志、(331)尾崎豊の吉賀記の如き小區域に限られた記述は勿論のこと、正木輝雄の東作誌や、藤原正恒の壹岐名勝圖誌ほどの丹念な著書でも、恐くは永遠に之を期待することは出來まいと思ふ。而して此等の著者たちが其當時の精力と熱心とを以てしても猶企て得なかつた出版を、百年後の今日に於て遣つてのけたのである。故に地誌の刊行は有難いと言ふ。之を好事一遍の珍書として取扱はず、又切張同然の受賣を事とせず、十分に其中の材料を料理し且つ消化して、我々が意味する眞の郷土誌を作り上げることは後進の義務である。斯くして置けば誰かゞ利用するであらうなどはちと情無い無責任である。
 
   地誌大系再着手
 
 曩に歴史地理學會の諸君によつて計畫せられ、餘儀無い外部の原因の爲に頓挫して居た地誌大系は愈準備が整つたさうで近々其刊行に着手すると云ふ。あの會は地方に多くの同志を有し居り、且つ前に太宰管内志を刊行した經驗もある。必ず學術上にも成功することと信ずる。最初には御府内備考(百數十卷の江戸地誌)を出すさうだ。早く出ればよいと思ふ。但し大系に採録する書目が曾て發表せられた通りであるなら、既に木版活版になつて流布する二三の本を取入れてある點だけは、どうしても賛成することが出來ぬ。
 
(332)   張州府志
 
 名古屋の市教育會で近頃張州府志を印刷し、地誌大系の種を一つ減して、且つ「未刊書目」の一行を削らしめた。まだ二卷しか出來ないが、美濃半切形の昔風の良い本である。單に保存の方法としても結構である上に、素朴な漢文の記述の中にも、尾張志などでは味はふことならぬ面白味を包藏して居る。我々は切に此業の完結を待つ者である。
 
   作陽誌と東作誌
 
 美作に關する此二部の良著も亦心持のよい和装本となつて世に現はれた。作陽誌は都合上西作誌と書名を改め、二部を合せて新編美作誌と呼ぶことになつた。聞く所に依れば此書の刊行は獨立して二箇所に於て始められたさうだ。雙方とも損失であつたらうと思ふ。意地の爲に利益を顧みなかつたのは同情に値するが、鐡道の併行線などと同樣に、世の中の爲には不經濟なことである。其力を以て美作又は兩備の他の良著を出して貰ひたかつた。
 
(333)   藝藩通志
 
 廣島の圖書館が責任を負つて七八年前に刊行に着手した藝藩通志が、近頃やつと第四卷を出した。本は四六二倍洋装の立派なもので、印刷校正もよろしい。併し豫定の四册では中々終らぬので更に第五卷を續刊するさうで、永々不義理をして置きながら更に豫約者に向つて増金をねだつて居る。藝藩通志が中途から意外の大著になつた譯でもあるまい。紙數や挿畫の數は豫算の中にあるべきことで、つまり餘り延期をするから紙代や勞銀が騰貴したのである。それを豫約着になすり附けるのは飛んだ善い蟲だ。それよりも紙數の三分一を占むる村繪圖でも割愛して宥してもらつたらよからうと思ふ。村繪圖も貴重には違ひないが、精密な陸地測量部の地圖が出來た今日では、無くて我慢ならぬ程のものでも無い。
 
   信濃史料叢書
 
 此は信濃一國の地誌大系である。昨年の末に第三卷を出し、目下第四卷を準備して居る。やまと新聞社の臼田福山の二氏が主として携はつて居られる。最初の程は既に版本のある信府統記や地名考が出て少し張合が無かつたが、第(334)三卷は諏訪と善光寺とに關する舊記舊誌を集めたもので面白く、且つ大部分は未だ一度も世に公にせられなかつた書物である。信濃は有名な讀書國であるが、それでも此叢書に斯る有趣味の古書が集められなかつたなら、此刊行事業も大な成功を見ることが六つかしいであらう。諏訪が古文明の研究者に取つて注意の中心となりつつあることは他日報道したいと思つて居る。諏訪の本社の貴重な文書類が此の如く我々の手に入り易い刊本となつたことは自他の大慶で、大學の史料編纂掛の前年來の採訪に對しては、今更ながら其勞を感謝するのである。
 
   房總叢書
 
 此は近頃第二卷を出板した。上總長生郡鶴枝村高橋徽一氏の事業で、其友人林壽祐氏等之を補佐して居る。各書の末に附した解題を見ると、採銀せられた書籍は何れも編者の藏本であつて、此事業の永年の辛苦の餘であることがよく分る。但し蒐集は前の信濃のものに比すれば幾分雜駁で、勿論風土記地方史のみでは無い。併しいくら房總に關係すると云つても房總史料續々篇や南總珍や埴生郡見聞録などと肩を比べて、萬葉集や倭名鈔の抜抄までが出て居るのは體を爲さぬと思ふ。又異本の校合が思ふやうに出來なかつた爲か、所々讀んで意の通ぜぬ章句の見えるのは不本意なことである。
 
(335)   「郷土研究」の記者に與ふる書後記
 
 記者申す。右私信を南方氏承諾の上雜誌へ掲げたのは、勿論記事に興味が多いからですが、序に其議論の廉をも見て置いて下さい。蓋し南方氏の主張が全部尤であるか、はた又何れの點迄が無理であるかは、人に由つて判斷も區々でありませう。記者が承服し兼ねた點は少なくも三つありました。それを御參考までに附記して置きます。此手紙で見ると、所謂「貴?」はよほど愚痴な「貴?」であつたやうにありますが、實は甚だ簡單なもので、一には南方一流の記事ばかり澤山は載せ得ぬことを申しました。今一つは此手紙と縁が無いから言ひません。右の手紙は其返報であります。先づ讀者に説明せねばならぬ一事は「地方經濟學」と云ふ語のことです。記者の?にはさうは書かなかつた筈で、慥かにルーラルエコノミーと申して遣りました。斯な英語は用ゐたくは無いのですが、適當に表す邦語が無いからで、之を地方經濟又は地方制度などと南方氏は譯されました。今日右の二語には一種特別の意味があります故に、私はさう譯されることを望みませぬ。若し強ひて和譯するならば農村生活誌とでもして貰ひたかつた。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立離れて、單に?況の記述闡明のみを以て此雜誌としたいからです。此語が結局議論の元ですからくどく言ひます。エコノミイだから經濟と譯したと言へばそれ迄ですが、經濟にも記述の方面があるに拘らず、今の地方經濟と云ふ用語は例の改良論の方をのみ言ふやうで誤解の種です。或はルーラルエコノミーでも狹きに失したのかも知らぬ。新渡戸博士のやうにルリオロジーとかルリオグラフィーとでも言つた方がよかつたかも知れませぬ。さて記者の不承知であつた三つの點と云ふのは、
(336) 一つは雜誌の目的を單純にせよ、輪廓を明瞭にせよとの注文であります。此は雜誌であるから出來ませぬ。殊に此雜誌が荒野の開拓者であるから出來ませぬ。適當なる引受人に一部を割讓し得る迄の間は、所謂郷土の研究は其全體を此雜誌がやらねばなりませぬ。素より紙面の過半は讀者の領分ではありますが、記者の趣味が狹ければどうしても其方へ偏重し易いことは、南方氏のやうな人までが尻馬になら乘らうと仰せられるのを見ても分ります。從つて寧ろ成たけ自分等の傾向より遠いものから、材料を採るやうに勉強したいと思ひます。斯うして五年七年と續く中には、自然に仕事の幅が定まり且つ各方面の研究者を網羅し得ることでせう。廣告もせぬ小雜誌の一年餘の經驗に由つて、日本學界の機運を卜するやうな大膽は、記者の斷じて與せざる所であります。
 二には郷土會の諸君がもつと經濟生活の問題に筆を執れと云ふこと、此も記者の力には及びませぬ。郷土會は名は似て居ても「郷土研究」の身内ではありませぬ。雜誌に取つては南方氏同樣の賓客であります。否同氏以上の珍客であります。たま/\記者が其講演を筆記する以外にはとんと原稿も下されませぬ。此會の諸君が南方氏ほど本誌の成長に熱心であつたら、きつと滿足すべき雜誌が今少し早く出來たでせう。何となれば此會に屬する人々は皆趣味の深い田舍の生活を知り拔いて居る人ですから。併し冷淡は彼學者たちの自由でして、雜誌の責任を分擔してもらふわけには參りませぬ。
 三には巫女考を中止せよとの注文も大きな無理です。巫女考は本年二月に完結して居ります。川村生は曾呂利を口寄に掛けたやうな饒舌家でありまして、まだ/\長く論じようとしたのを、ちと無遠慮だらうと忠告して一年で止めさせました。今は時々隅の方で地藏の事か何かを話して居るばかりです。併しあの巫女考などは隨分農村生活誌の眞只中であると思ひますが如何ですか。此まで一向人の顧みなかつたこと、又今日の田舍の生活に大きな影響を及して居ること、又最狹義の經濟問題にも觸れて居ることを考へますと、猶大に奨勵して見たいと思ひますが如何ですか。記者は茲に於てか地方制度經濟と云ふ飛入の文字が煩を爲したかと感じます。政治の善惡を批判するのは別に著述が(337)多くあります。地方の事功を録するものは「斯民」其他府縣の報告が有り過ぎます。只「平民は如何に生活するか」又は「如何に生活し來つたか」を記述して世論の前提を確實にするものが此までは無かつた。それを「郷土研究」がやるのです。假會何々學の定義には合はずとも、多分後代此を定義する新しい學問が此日本に起ることになりませう。最初の宣言は虚誕は申して無いが、足らぬ點があれば追々附足して行く迄です。此趣旨に由つて見ますと記者は少なくも從前の記事に無用のものがあつたとは信じませぬ。最後に一言申します。南方氏は口は惡いが善い人です。然のみならず我々編輯側の意見は代表して居られませぬ。讀者はあまり氣に御掛けなさらぬやうに願ひます。右の手紙は話として興味が多いから掲げました。
 
   山に行く青年
 
 繰返しと徒勞とは同じ物ではあるまいが、毎年夏になると感受性の鋭敏なる多くの青年が、信州邊の高い山に登り、同じやうな壯快を感じ同じやうな寫眞を取つて降りて來るのは勿體ない事だと思ふ。齡と云ふ點から見れば青年は富豪だ。我々は春秋に貪しき者のやうに、一箇の生活を三つにも四つにも切つて使はうと云ふやうな吝なことはしまいが、實は此幸便に托してあの附近の山村から取寄せたい品が色々ある。彼等は往路には希望の爲、歸路には疲勞の爲、一切副産物には目が留らぬと云ふのである。慾の深い植木屋と同じく、我々は又別途に郷土研究材料を採集に往かねばならぬ。誠に不經濟な重複だと思ふ。以前露國の學生が夏は行嚢を肩にして偏土の村々を漫遊した結果は、今の大規模の平民文學と民俗學の著しい進歩となつて現はれた。日本の青年も永くは單調な心身強健法に飽きずには居らぬ(338)であらう。我々は彼等のレコードが次第に新しい事物に於て競ふやうになるのを待つて居る。そしたら他の地方の稍低い山地へ足を向けるのも格別の恥辱では無くなるかも知れぬ。
 
   旅客の社會上の地位
 
 旅客の社會上の地位が今日の如く低いことは、甑を路傍に掛けて祓物を要求せられたと云ふ大化の御代にも無かつた現象であらう。空を渡る雁鵯でも今の旅行家ほど土地と没交渉にはあるかぬかと思ふ。我々の友人には半日人力車に乘つて車夫と物を言はなかつた人もある。地圖の上の地名を以て計歩器の數字の如く看做して居る人もある。殊に所謂書生さんに至つては?疲勞を以て旅行の目的とするが如く見える。其紀行には同行者の失敗談ばかり多く書いてある。汽車の旅客に至つては言はゞ都會の傳道者である。此の如くして田舍を知ると自稱するが如き輩に對しては飽く迄も抗議をする必要がある。田舍の生活に同化し感應する能はざる旅人の如きは要するに歩行する別莊である。此點から見ると旅行案内書の完備は有害である。恰も通辯が巧者である爲に異國人が愈敬遠せられるのと同じである。もし案内記が無かつたらいやでも路傍の人と話をせねばならぬ。此の如くして中世の旅僧などは多くの口碑や物の觀察方法を運搬してあるいた。カラバンの天幕内の物語が莱因河畔の城の奧にまで傳へられた。つまり昔の旅客は邑里の臨時住民のやうなものであつたのである。
 
(339)   瀬戸内海の島々
 
 大阪新報は物々しい當節の二號活字の間々へ、閑雅優美なる瀬戸内海の巡島記を連載して人の注意を引かうとして居る。新聞紙だけに誇大と冗長とは免れ得ないやうであるが、永年の船乘すら注意しなかつたやうな島々の内景が、自身の見聞に由つて記述してゐる。又此社の花火の大會に各地の花火師の由來を尋ねて得た答案も珍しい記事であつた。
 
   出水被害と架橋權問題
 
 吾人の經驗に依ると出水の度毎に河心の位置に幾何づつか移動する。若し之が大變動を生じた場合には往々架橋權問題が湧起する。殊に彼此の堤塘が川を中央にして左右に遠く離れてゐる地域に起り易い。前日迄は左岸村で有してゐた架橋權又は渡船權が、一夜の出水で今日は右岸村に移る例は少く無い。架橋權と宿名を交換して村になつて解決した話も聽いてゐる。架橋權の爲に兩岸の村々で訴訟を起し、約十年に亙つて爭つた結果、再び出水して河心は原?に復し、訴訟は自然消滅となつたが、之が費用の爲に全村の疲弊を來した例も見てゐる。架橋權には橋錢が伴つてゐ(340)る。夫を自村に收めるのと他村に拂ふのとでは村經濟上の大問題である。橋錢を拂つて耕作に往くやうになつたので小作料の輕減を迫られた地主もある。今秋出水の災厄多きを見聞して斯る問題に逢着する地方もあるならんと思ふ。
 
   エール大學の留書類購入
 
 コ川時代の記録留書類で纏まつた物の在る事を聞かぬ。舊幕府から引繼いだ上野圖書館でさへ殘缺だらけである。然るに先頃某書肆で荷車に二臺ほど此種の物を賣出し、圖書館始め二三の富豪を説いたが謝絶されたので、大損失を忍んで屑紙に潰さうとしたのを、米國大使館の斡旋でエール大學に賣る事になつた。屑紙となつて危く襖葛籠の下張りとならうとした物が、大學の圖書館に保存せられる事になつたのは幸福だ。
 
   本邦建築用材調査
 
 國産の木材と石材とに就て、産地産量品質竝に運搬の手段等を、地方別に綿密に調査したもの、大藏省臨時建築部の事業である。「建築世界」社が引受けて先頃前半の木材篇だけを出版した。石材の部も次で出る筈である。郷土研究と關係の深い書籍であるが、知らぬ人が多からう。但し大體字引のやうな本で、讀み物としての慣値は無い。
 
(341)   童話傳説に現はれたる空想
 
 前にも同種の一書を著はされし芦谷重常君の作である。この書名は何か本屋の内情でもあるのでは無いか、本の内容とぴたりと合つて居るとも思はれぬ。つまり世界で尤も有名な御伽噺などの題目、例へば小人、大人、龍、人魚、隱里、月の世界と云ふやうなものの種類を、少しづつ實例を添へて澤山に列擧してあるもので、始めての人に知らせるに適して居る。著者が日本の書物を些しも讀まれないのは缺點だ。だからコビトは日本には無いだの、東洋には龍退治の話は稀だのと云はれたのである。嚴谷小波氏の序文に、通讀はして見ないが結構な本だと書いてある。
 
   高倍神考
 
 神名帳に?院に座す神とある高倍神は、安房の舊社高家神社がそれだと云ふことを考定し、?油星の神樣と祀るべき神は此神より外には無いと云ふ事を論じたもので、下總銚子の最も大なる?油屋田中眞太郎氏の著作である。久しい間千葉縣の學者に珍重せられて居た高橋氏文が、最も立派に御役に立つたのは此たびである。目的のある論文として此書ほど脱俗したものは少なく、?油を説いた書物で此程美麗な本は亦絶後であらう。
 
(342)   言繼卿記
 
 國書刊行會から本年出版した山科言繼卿の日記は、戰國時代の京都の生活を知りたい者には有難い參考書である。我々が近世の風俗と認めて居る多くの事柄が、歌合や管絃と云ふやうな榮花物語時代の行事と交錯して、貴紳の間に既に入込んで居る。殊にこの山科家は所謂三毬打(左義長)の家元であるから、上元の風俗を研究する人にはさしおくべからざる史料である。をかしいことは所謂酒餅論が此時代にはまだ現はれなかつたと見えて、善哉餅にて一盞と云ふ記事が所々に在る。筆者は中々の酒徒である。
 
   遊行婦考
 
 風俗畫報の八月號に坎亭小史と云ふ人の遊行婦考が出て居る。此迄の花柳史の心附かなんだ點を書いて居る。遊行婦女の起原を喪葬令の遊部《あそびべ》に在りとした斷定には疑ありとしても、集解の諸説を引用して遊部の性質を詳かにした功勞に對しては、毛坊主考の筆者などは最も深き感謝を表せねばならぬ。
 
(343)   信州の高天原
 
 北信濃の某地方に、十數年前から熱心に眞の高天原を此地だと證明せんとする偉人があつて、近頃愈眞の天之岩戸の所在を發見し、ぼつ/\參詣人があるさうだ。其證據は悉く人の爭ふ能はざるものであると、土地の新聞なども認めて居る。若し誤つて之に反對するやうな説を立てると、一つには天照皇大神を非議することになり、二つには土地繁榮の豫期を傷けることになるので、彼の地方の與論は之に制裁を與へる。故に萬人が皆謹愼し力めて健全なる思想を保持して居ると云ふ。大和常陸日向等の高天原を信ずる人は近頃ではどうなつたか知らぬ。四五年前には武州川越の附近を高千穗峯だと論定した學者が東京にあつた。我々は此等の社會現象を多大の興味を以て觀察する。日本は實に面白い園だ。アルケミーとケミストリーとが手を繋いであるいて居る。
 
   諏訪研究の曙光
 
 右の高天原の附近で、我々の敬愛する栗岩英治君が、兀々と諏訪根本神社の根本研究を始めたのは、是亦注意すべき新聞である。是も確かに一つの新機運だと思ふ。昨年亡くなつた大和龍田の阿蘇宮司は、今の阿蘇大宮司の令弟で(344)あつた。頻りにこの東西の二大社の狩祭のよく似て居ることを言つて居たが、何等の研究功程を發表せずに終つた。本誌の川村生は又熊野と諏訪との祭の特色の似て居ることに着目した。京都大學では内藤教授などが最も是題目の重要なることを説いて居られる。此春は臼田福山二君の盡力で諏訪の貴重なる史料が多く活版になつた。全體諏訪は如何なる傳道方法を採つたか知らぬが、今も九州から奧羽の果まで數千の勸請社がある。即ち少くも記紀編史の前から今日まで千敦百年の間、略一樣の大勢力を全國に行つて來たのである。栗岩君の諏訪研究が幸にいゝ加減な程度で滿足するやうなもので無かつたら、或は昔の信州の優等な文明が次第に光を放つことになり、谷底の巣鷹のやうな眼をして居る諏訪人の高慢も、相當な根據のあることが證明せられ、自他共に大に氣が樂になるかも知れぬ。
 
   大阪の郷土研究
 
 彼地の新聞の報ずる所に依れば、大阪で起つた郷土研究會と云ふのは單に地方歴史の史料を蒐集する事業であつたらしい。大正四年の秋冬の大禮に際して、何か陳列物をして見ようと云ふ催しだけのやうにもある。それにも拘はらず府民も役人も大の熱心で、何か形のある物を遺さうとして居る。兎に角結構なことで、正直な處、我々は郷土研究と云ふ文字だけなりとも成るべく弘く流布したい。さうしてそれが道樂や遊びで無いといふことだけなりとも。
 
(345)   地藏の新説
 
 萬治高尾會と云ふ名だけ聞いては眞面目でなささうな會で、先月五日の晩吉田美風氏の講話を聞いた。其題目は、「地藏と生殖器崇拜」と云ふ一寸荒つぽい掛聲であつたが、而も話は極めて諄々たるものであつたらしい。傳聞に依れば、吉田氏のファリシズムに對する考はよほど通説と異つて居た。即ち人文が稍進んで後の社會に、中古から發見したものゝやうに言はれたさうな。地藏の塞神の本地であつたことは大に認められたと云ふ話。但し地藏の錫杖は日本で附添したものと云ふ説には、必ず反對論が起り得ると思ふ。
 
   無形の天然記念物
 
 越前の松平侯が發起で今度廢長崎道場稱念寺を再建し、荊棘に埋没して居た新田義貞公の墓處を修理する計畫が立つたら、今まで境内の石をそつと持去つて使用して居た近邊の百姓が、急に家内に祟があると言ひだして、夜分人知れず之を返しに來る者が毎日あるさうだ。所謂智識階級の人たちは果して之を以て迷信の再發と悲觀するであらうか。戰勝を此神に祈ることだけを好い風習と奨勵して、神社は宗教で無いと云ふやうな役人は、恐らくは如何なる記念物(346)が保存に適するかを考へ得まいと思ふ。功利説から割出した社會改良には色々の弱點がある。
 
   陶山鈍翁遺稿
 
 日本經濟叢書の第四編は、陶山翁の遺著のみを以て一册として現はれた。我々が始めて切實に編者瀧本君に謝せねばならぬ時は來た。津島記事其他二三の他誌の援助さへあれば、對馬一島の經濟史は此一編に由つて略其大體を理解することが出來るであらう。
 
   都市と村落
 
 『都市と村落』と題する書が地人叢書の第一册として刊行せられた。此叢書は小田内通敏氏其他の諸君の計畫に成るもので、引續き人文地理に關する新著を公にせんとする機關である。事業の性質上今後も必ず日本の田舍生活の研究を主題とするであらうから、我々は新たに良き友人を得たる歡を感ずる。此事業も正しく新機運の一兆候であるらしい。今迄永い問黙然として物を觀又書を讀んで居た人々が、一時に申合せて各自の研究を發表したのであるから、印象は極めて強いのである。唯茲に「都市と農村」と云ふのは、專ら二部の交渉關聯を説くのではなく、都會の話と村(347)の話とを何でも集めたのであるから、一書册の題目としては範圍が聊か廣汎に失する。文體の區々たる小篇が數多く集められて居る爲に、何だか表紙の硬い雜誌のやうな氣もするが、それだけ又馴れぬ讀者をして倦ましめざる利益はあらうと思ふ。
 
   雜誌「風俗圖説」
 
 朝倉無聲氏の趣味即ち多くの純東京人の趣味を代表した江戸研究の雜誌である。珍らしい浮世畫の古版本を主たる材料として前代の文明人の衣食住を詳かにせんとする仕事で、雜誌の名稱はよく當つてゐる。今まで出て居た「この花」と云ふ名は本來は浪華津のもので、東國へ移植したのが無理であつた。今度の一號にはよほど我々の雜誌と縁の近い記事もあるが、もと/\所謂風俗畫の圖説が目的だとすれば、其種の色彩に乏しい田舍生活は、勢として閑却せられるであらうから、要するに此雜誌の所謂風俗は狹い意義に歸着するであらう。江戸人くらゐ田舍を馬鹿にして居た日本人は無いのだ。さうして古い日本を非常に改造した。而も彼等がクシャミの聲まで後世に傳へられて居る。「風俗圖説」の如き大勞作を以て更に之に幸するのはちと過分なやうにも思ふ。
 
(348)   金澤博士の國語教科書
 
 金澤博士の國語教科書に「郷土研究」の小篇が三つまで採用せられたのは飛んだ光榮である。新渡戸博士の三本木の話(一卷二七九頁以下)、川村君の地藏殿の苗字(一卷二二一頁以下)などは其名譽を負うたと云ふことだ。併し不斷着のまゝで御殿へ呼出されるやうな名譽はちと迷惑である。追加や訂正は雜誌の原稿にはよくあることだ。あれは前以て筆者に知らせる位の手續をとらねばならぬものでは無からうか。實印のある證文でさへ宛名の人で無ければ之をふりまはさぬでは無いか。
 
   尚古黨の哀愁
 
 過る十一月三十日の晩、美音會の第四十三囘の演奏では、三上宗紀翁を聘して平曲「那須の與市」を聽いた。草菴の夜の雨にも譬ふべき淡い情趣に、暫しは電車のキイと云ふ響を忘れ得たが、而も尚無理な物好みに伴ふ贅澤な無聊を感ぜざるを得なかつた。三上翁は鐵色太織の道行羽織を着て心持ち腰を落して坐り、入齒の工合が惡いと見えて度々口のはたへ手を遣られる。花やかな物と聞いて居た扇の的が、翁の老熟した調子に因つていくらか餘分の落着を持(349)つて聞えたのは、是非も無いことであつた。琵琶師の深川昭阿といふ人が渡唐天神のやうな着物を着て廣がつて居るには驚かされた。薩摩筑前の當世ぶりに比べると合の手は一般に簡單で、それには殆と頓着もせぬやうに五句七句と同じ節で讀續けるのを、いつ聞いても惡くないなどと獨語する青年もあつたが、自分は寧ろどこかでくす/\笑つた娘の方が眞率のやうに思つた。申す迄も無く我々は佐野の天コ寺了伯で無い。有樂座のフートライトをして八十一歳の銀髪翁を照さしむるが如き保守主義に對しては、寧ろひそかに眉を顰めんとする者である。
 
   趣味が學問を侮る傾向
 
 我々はどう考へても三越樓上で南洋諸島の土俗品を陳列するやうな現象を歡迎することが出來ぬ。古書を覆刻新装して應接宝の装飾に適すと廣告するやうな傾向を惡まざるを得ぬ。黒田太久君を以て考古學の大家と推論せねばならぬやうな論法が國内に横行するのを歎く者である。殊に富豪の蒐集は何れの方面に於ても學問の進路を妨げた。それに比べると害は小さいが、山のやうに掘り揚げられた土器や鐵器などの破片が、何等の昔をも物語ること無しにそれぞれ處分せられて行くのを見ると、單純なる好奇心の刺激を以て學問の目的なるが如く説法せられた所謂趣味ある先輩を批難せざるを得ない。平家琵琶を感歎せねばならぬものと思ふ都士人の中へは、此智識などはあまり流行させたくないものだ。
 
(350)   古墳鑑定學の發達
 
 福島縣知事は、管内石城郡の惠日寺の境内に於て平 門の女瀧夜叉姫の墳墓が發掘されたと云ふ報告を受取つたさうだ。右惠曰寺には昔から右瀧夜叉姫、尼となつて法名を如倉と云ふ者の位牌を安置してあつた。其境内の大きな石棺から正しく女のと見ゆる白骨を掘り出したので、仔細に縁起其外を取調べしに、八十餘歳で此地に没したと云ふ如倉尼なること判明した云々と、萬朝報への通信に見えてゐる。平將門に一人以上の娘のあつたことは普通の系圖には起載を怠つてゐるが、而も諸國に將門の女は故跡と口碑を多く遺して居る。愈墳墓が惠日寺に在ると決れば、此ほど深い關係は無いので、他府縣同類の傳説などは凡て取留も無い噂話と論斷せられ得るかも知らぬ。走れ正しく増田子信氏の學派が次第に其影響を奈良朝以後の人物傳に及さんとする兆候である。併し我々の臆病さを表白すれば、位牌と縁起其他で白骨を將門の女と判定し、更に將門の女の白骨を以て其位牌と縁起との作り物で無いことを立證するならばぐる/\廻りだと思ふ。其前に其位牌が縁起を見て製したもので無いこと、縁起が古老の談に由つて潤色したもので無いこと及び故老が妄信して居たので無いことを確める必要があるやうにも思ふが、如何のものであらうか。
 
(351)   古典攻究會
 
 東京では一部の名士の間に此名の合が組織せられ、川面凡兒氏を聘して古事記日本書紀の講義を聽くべく最近に其發會式が嚴肅に擧行せられた。傳ふる所に依れば、川面氏の意見では日本民族固有の倫理觀は、悉く記紀の神代卷の中に包容せられて居る。例へば諸の神だちの御名の如きも、細察すれば一々の道コ法則を表現して居ると云ふ。我々は常に古史の簡朴なる記事の中から祖先の思想の一片をだに髣髴し得んことを終生の望とする者であれば、古典攻究會會員の豫期が假りに千分の一しか達せぬとしても、猶歡呼して其成功を祝するつもりであるが、但し山崎闇齋先生の再現は望む所に非ざることを斷つて置く。
 
   家族制度調査會
 
 前文相奧田博士と現文相一木博士との兼々の志で、來年は此名の會が起るであらうとの豫報がある。奧田氏は親族法の學者である。司法省とも打合せの上とあれば多分民法の中我日本の社會組織と折合はぬ部分を改訂するのが直接の目的であらう。併し調査と云ふからには理論の討究のみでは勿論あるまい。吾人は此會の副産物として、百姓と云(352)ふ者の成立を明かにして貰ひたい。匹夫が國を憂ふるのも自ら由來する所があることを調査せられ、國民に今一段の自重心を體得せしめられんことを望む。
 
   石見の鼠
 
 故小杉※[木+褞の旁]邨翁の藏書に方主正方應問書と云ふ寫本があつた。讃州白鳥の祠官猪熊方主が阿波名東郡田宮村神明社の祠官新井正方に答へた手紙を集めた本である。方主は榮之屋と號す。多分は猪熊夏樹翁の祖父か伯父であらう。書?は何れも文政の末から天保へかけてのものらしいから、白井博士の引用せられた安政度の鼠害よりは前の事である。其文に曰く、「浪華にて風説ありしことの由、石見の國海中にハマチの集まり候やうに相見候間、漁人ども網を下し候處、鼠七萬ほども可有之、何分夥しくかゝり候。大きさは鼬ほどにて手に水かきも有之候。網引揚げ候節悉皆散り散りに逃失せ候。其後此鼠田畠の作物を喰荒し大に害を致候間、農夫は見附次第打殺し候。然れども何分取盡し候儀は出來不申甚迷惑致候。右に付領主より人を差出し打殺させ候共取盡兼ね、必至と難澁候處、貂に似たる獣現はれ出て、右の鼠を喰殺し、夫にて鎭り候と申すことにて候云々。此類の話何か近年見申候。伊豆か佐渡かにもかやうの事記し有之候かと覺え候へ共、とみには不思出候」(以上)伊豫の黒島に於て多數の鼠が漁人の網にかゝつたと諸國里人談に在るは、恐らくは古今著聞集にある話の語り改められたるものだらう。島の鼠の話は各地にある。現に玉勝間卷七にも石見の高島の鼠害談が見えて居る。
 
(353)   郷土研究の二星霜
 
 「郷土研究」の編者の功名心は極めて痛烈なものであつた。彼は無邪氣にして新を好む我同胞をして其所生の地を囘視せしむる爲には、野花林鳥の快活なる聲と彩色とを以て之を誘ふの他は無いと考へた。榾火の陰の喜怒安樂に向て政に携はる人々の同情を喚び起す爲には、共同の祖先が血の暖かゝつた時代を説立てる必要があるとも考へた。幸にして此考の誤斷であつたと云ふことは未だ證明せられない。唯彼は蒔けば收穫し得ることのみを信じて耕し耘り水灌ぐの勞思はなかつた。雜草の成長力が稻粱よりも更に大なることを忘れて居た。我々の眼を以て見れば、興味を專とする讀者の要求は則ち一種の雜草である。此要求は惡くすると面白い虚言を寛假するの弊に陷らしめる。編者等はこの戰慄すべき弊害から脱却せんが爲に、寧ろ普通の人望と評判とを顧みなかつた。學に忠なる寄稿者諸君の勉勵が今尚各地の郷土研究を標榜する者の全部を感化し得なかつたのは、全く我々が道を行ふの手腕に乏しかつた爲であるが、後の研究者に向つて信頼すべき材料を遺さんとする記録者の態度としては、寧ろ此の如き迂拙なる手段を擇ばねばならなかつたのである。
 
(354)   地理的日本歴史
 
 吉田東伍氏を著者として世に出たる一書である。中學程度の日本歴史を、地點に重きを置いて講説したもの、歴史地圖の圖説とも云ふべきものである。別に新なる研究を含んで居るものでは無いが、時間の乏しい學生に地理の智識を併得せしむる方法には賛成する。
 
   茨城縣の箕直し部落
 
 明治四十三四年の交、茨城縣警察部が發表したる新平民部落調査表に依れば、同縣内に土着せる特殊部落にして竹細工殊に箕直し梭作りを以て主たる職業とする者左の如し(郷土研究一卷六四六頁參照)。今其生活?況を抄録して傀儡師考の一助とす。
○常陸東茨城郡中妻村大字田島一戸二人
  主たる職業箕直し及び日雇稼ぎ、常に乞丐的風俗を爲し全く他部落民と交際無し云々。
○同郡澤山村大字阿波山門無 二戸五人
(355)  元西茨城郡より來住し箕直しを專業とす。他部落と交際無く、風俗生計劣等なり。
○那珂郡勝田村大字金上 一戸八人〔四字右○〕
  箕直し、各町徘徊の箕直しと其風俗を異にす。
○同郡瓜連村大字中里前谷津 二戸十二人
  箕直し職、身分を鑑み謙遜の風ありて常人に異ならず。
○同郡五臺村大字中臺次男分 七戸五十四人
  農又は箕直し業、總て野卑にして乞丐に類す。
○久慈郡久慈町舟戸 二戸十九人〔五字右○〕
  農業箕直し、乞丐に類し一般民と交通せず。
○同郡譽田村大字新宿陣場 四戸十八人
  箕直し、一般民と同じ。
○行方郡麻生町大字麻生新田 一戸三人
  笊造り、一般農民と異なる所無し。
○同郡小高村大字橋門 一戸二人
  笊造り、普通農民に同じ。
○稻敷郡龍ヶ崎町根町 二戸四十人〔五字右○〕
  箕直し、野卑にして乞丐の如し。
○同郡八原村大字貝原塚 二戸十五人
  箕直し、野卑にして乞丐の如し。
(356)○稻敷郡阿見村大字阿見 三戸二十四人
  箕直し、野卑にして竊盗賭博を好む。
○新治郡九重村大字倉掛上荒地 二戸十五人
  梭職、普通人と異なることなし。
○同郡都和村大字常名新郭 三戸二十一人
  梭職、普通人と異なることなし。
○眞壁郡大寶村大字大串長峯 一戸十三人〔五字右○〕
  箕直し、赤貧にして乞丐をなす。
○同郡大村大字松原西 一戸四人
 箕直し、概して繿褸を纏ひ麁食に安じ、言語野卑不潔を意とせず。常に賤業なるを以て普通民と交際無し。
○同郡雨引村大字本木前田 一戸六人
  箕直しの收入にて生計を立つ。一般民と交際無し。
○下總北相馬郡内守谷村奧山 一戸七人
  非常番竹細工、一般地方の風俗と異なる所無し。  稍々善良なるもの。
 
(357)   郷土研究と云ふ文字
 
 此雜誌の出來た當座までは我々の耳にさへ奇妙な熟字のやうに感ぜられた郷土研究なる名稱が、今では至つて無造作にどし/\使用せられるやうになつたのは愉快なる傾向である。齋洛花氏の宮城野と云ふ著書が、郷土研究社の名を以て仙臺から發行せられたことは前にも報道した。昨年末上州桐生で出版した坂梨春水氏の郷土研究と云ふ小著の如きも他の一例で、内容は曾て上毛新聞に連載せられた記者の縣内巡行記に過ぎぬが、少なくも郷土は研究すべきものであることを前提として出發し、從つて尋常膝栗毛などの如く市人の好奇心を刺激するを目的とせざることを言明して居る。先頃新潟で市教育會の通俗教育部が主催した郷土展覽會なども、其趣意書の中に郷土研究の趣味を起さしめ云々と云ふことを標榜して居る。通例趣味は多くして研究は乏しいものとしてある展覽會の類迄が、安心して此文字を使用し得るやうに世中は成つたのである。假令完全に我々の定義に合はぬ實質であつたとしてもよろしい。先づ名が行はれたら次いで内容の當否を詮議する者が起るであらうと思ふ。
 
(358)   散居制村落の研究
 
 京都大學の小川教授が地學雜誌第三百十二號に寄せられた「越中國西部の莊宅に就て」と云ふ一篇は、人をして其文の餘りに簡約なるを憾ましむるものであつた。近畿中國の密聚落を見馴れた我々の眼には、神通射水の流域の二萬分一圖は誠に珍らしく感ぜられる。所謂野方場の畠作地方ならば此類の地割方法は行はれ易からうが、水田の中央に點々の孤立農屋を分布せしむるは、よほど面倒な計畫が必要であつたらうと思ふ。蓋し此地方の開發はさして古いものではあるまいから調査の資料はいくらもあらう。吾々は此現象を研究する爲には資本の關係を明らかにするのが第一かと思つて居る。全體に越中には小規模の開墾が多かつたと見えて、大字の數と飛地の數とが全國の何れの地方よりも多い。舊藩の拓地政策は其上に猶之を細分して、煩雜を厭はずに無數の免許?を下付するの方針であつたと見える。即ち他の幕府領等ならば大資本家の總請負の下に勞働者として有附かねばならぬやうな小民が、此地方では皆若干の保護を得て獨立したのであらう。小川博士が條里時代の遺物かのやうに想像せられるのは些し危險である。越中の新田場は水災の甚しかつた處であれば、荒地や河原が小片を爲して到る處に散在し、勢ひこんな開拓策を喚起したのかも知れぬ。猶之に類する地形の多くを比照して村の構成條件を詳かにしたいと思ふ。栃内氏の研究は不幸にしてまだ承知せぬが、斯る趣味の多い問題は永く不明の儘で置かるゝ筈が無いことを吾々は信じて居る。
 
(359)   飛騨雙六谷記文
 
 「山岳」の三月號に小島烏水氏の紀行文の極めて詳細なるものが掲げられて居る。足も筆も實に達者な小島君である。唯天然の精彩があまりに多く讀者を感動せしめる爲に、インテレクトの門から持込むべき家苞がちと少ない。此山村に用ゐられて居る二十幾つの方言と、何でも山村相應の單純な口碑がいくらも浮遊して居るらしきこととを教へられるのは、ほんたうに貴重な賜物である。「山岳」の此號には又甲州方面の山奧がとりどりに面白く研究されて居る。
 
   五月と郷土研究
 
 書名は忘れたが舊時代の農家經濟を説いた册子に、或大百姓の主人、男女大勢の若い者に田を植ゑさせ、自身も樣子を見に出て居る折柄、あたりの山陰より大きな鷲一疋の兎を捉み飛上る。あれ/\と之を見附けた人の聲を立てんとするを旦那制止して、此だけの人數が少時なりとも手を休め空を見上げるとしたら、苗の植ゑはかゞ何程ちがふと思ふぞと云うたとある。早乙女田人の勞力を算盤で勘定するやうな經濟法となつては、農村も次第に淋しくならざるを得ぬ。新紺の單衣に紅い笠の紐を田の水に映し、田植歌の聲のよいのを自慢にする側から、鬚の有る村吏員が正條(360)植の間繩を引く今日の農業は、又更に一歩を進めたものである。唯世中が變つて好都合だと思ふ一事は、ステッキを揮つて田植の日の田の畔をぶら/\とあるいても、彼奴は面憎いと泥を投げるやうな共同心が、農家の若者の中に次第に減少する傾向である。是れ即ち所謂屋外の蒐集に最も便利な機會である。昔は村には無かつた親切な觀察者、未開と云ふ語が包容する優美なる舊生活に對する同情ある批判者たる小學校の諸君が、單純な好奇心からでは無しに、且つ村の未來を講究する資料として、成長した卒業生の平常の喜怒哀樂を仔細に記録して置くと云ふことを、妨げたり嘲つたりする者はいつの間にか無くなつたのである。さて春は既に溝川の水のさゝやきを聽くやうになつた。元始以來の蛙の歌が依然としてやる瀬なく聞え出した。苗代が青くなると村の行事は一時に多くなる。老人老女がおらが若い時を語る時は到來した。實地視察者の手帖は忙しくならねばならぬ。靜かな蠶兒が新桑の葉を味はふ如く、諸君の趣味を感ずることが即ち永い後の日の錦綾の光彩である。殊にある山陰の鷲は五十年後にも亦一疋の兎を捉むかも知れぬが、人の生活はそれほど不變のもので無い。顧みずに置けば或は鎌倉時代の農業の不明のやうになつてしまふかも知れぬ。
 
   穀物がまだ降る
 
 御礼の降つた話は其後既に三箇所の讀者から報ぜられた。此類の蒐集も必ず未現の文明史家に益することが大きいであらう。此上とも諸方よりの報告が願ひたい。此の奇拔な現象は事によると慶應寅年が最後では無いかも知れぬ。よいぢやないかの御蔭參りも其中に又始まるかも知れぬ。現に本年の春も陸前石(ノ)卷近傍で穀物が天から降つたと云(361)ふ話が、東京の新聞に電報で報ぜられて居る。
 
   鹿の住む島
 
 備前和氣郡|日生《ひたせ》町から三里餘の海上、鹿久居《かくゐ》島と云ふ島の國有林には、今でも夥しく鹿が住んで居る。もとは備前侯の狩場であつたと云ふが、今日まで種の盡きなかつたのは不思議である。日本には鹿の住む島は中々多かつたらしい。色々古い話が殘つて居て海村を旅行する者には誠に耳に快い土産話である。鹿久居島では近頃になつて此天然を保存する計畫が始つたと云ふことである。
 
   新式の御靈祭
 
 乃木大將の人格を景慕して其墓地に詣る新人物の中にまじつて、墓石の少々を缺いて持つて來ると金持になるなどと云ふ馬鹿者があつた。どうしたらよいのか我々には分らぬ。小石川の七人殺しが人心を動搖せしむると、傳通院内に埋められた被害者の墓に祈念を籠めに來る者も中々少なく無いさうだ。萬朝報は彼等の言を録して曰く、「此頃のやうに強盗殺人が多くて而かも其犯人が揚らないでは、誰だつて安眠されるものではない。せめて其犠牲になつた故(362)人の墓にでも蔭ながらの庇護を頼みたくなるのは當り前の人情です云々」と。
 
   山路愛山氏の見る田舍
 
 獨立評論の中で最も興味の饒かなのは一日一題と稱する自由なる一欄である。此雜誌の編者は小學校長と惡太郎を兼任したやうな人だ。だから陣立の整つた政治論を見ると無鐡砲な惡口がまじり、國民起原の歴史を論ずるにはどこの爺にも文句は言はせぬと云ふ概がある。只多分布子一枚でてく/\あるいて見るらしい田舍の記事には、人の得企てぬ觀察がある。どうか此次の年には千葉縣東海岸以外の、出來るなら山に沿ひ又は入に開いた北の方の村に引こして貰ひたい。農村青年の逞しい同情者があの彈丸黒子の地に纏綿するのは、色々の御都合もあらうが我々の爲には殘念だ。
 
   六月の雪
 
 人類學雜誌の四月號に於て、八木奘三郎氏は意外な學説を發表せられた。同氏は朝鮮の田舍には穴居の風が今でも稍規則正しく行はれ、日本に於ける土室居住の記録が中古以降跡を絶つた理由を古今温度の變に歸せんと試み、日本の冬の寒さは後世大に減退した故に、自然に穴住居の必要が無くなつたのだらうと考へられるらしい。住居方法の(363)變遷を説くのに材料獲取の難易、建築技工の發達、害敵の種類及び多少、さては裝飾心の消長などを參酌せられぬのは如何にも不當であるが、それは別問題としてもよし。但今より昔の方が遙かに寒かつたらうと云ふ二つの證據として、老人などが往々言ふ所の此節は昔のやうに大雪が降らなくなつたと云ふこと、今一つには六月の雪の傳説を引用せられたのは驚くべき論法である。雪の深淺は乾濕の問題で寒温の標準には取りにくい。のみならず假に全國一般に谷の奧まで冬が稍暖かになつたとしても、其比例で神武時代の大和の寒さを推測することは出來まい。現に玉利博士などの説かれるやうに、或は黒潮の經路が囘歸性に移動する爲に、國内の氣温が之に伴うて六十年とか百年とかの間に高低するのかも知れぬ。六月の雪に至つてはかの西行法師の歌にある山の蛤や海の松蕈と同じく、殆と有り得べからざる事を意味した昔話であつて、獨り東北の一二地方に言傳ふるのみでなく、苟くも利仁將軍や八幡太郎の如き英雄を記念する口碑には到る處に之を説いて居る。而もそれが天然の常規を以て説明し得ぬことは、昔の農民もよく之を認め、必ず其原因を惡龍の怨毒乃至は妖僧の魔術等に歸し、其非常の大難を脱れしめたと云ふので容易に神威佛コの有難さを印象し得た位のものである。若しそれが昔の世に常に有つた現象だつたら口碑として殘る筈も無いから、旁々神武天皇の御治世が大に寒かつた證據にはならぬやうだ。要するに文明史の研究は八木君などにお任せ申さぬ方がどうも我々の爲に利益なやうである。
 
   臺湾蕃族調査報告書
 
 臨時臺灣舊慣調査會第一部から、今年又一卷三篇の報告書を公表した。新高山彙の高地に生息するツオ族の數社を(364)實地に記述した親切なる文章である。此事業に費された多大の準備は則ち總督府の篤志に謝すべきであらうが、吾人は更に一段と深い敬意を此調査に從事した佐山融吉君に呈せねばならぬ。此等の報告に由つて獨り我々少數の者のみならず、一般の學界が取得した知識は皆新しいものだ。殊に記者が甚大の興味を感じた點は近頃本誌に於て少しづつ研究し始められた若連中即ち同齡團體の制度(三卷一三七頁)死靈祭却の風習、蟲祭狩祭の話、さては長者の物語に伴うて?報告せられた非類婚人傳説の類型が、此等新附の同國人の中に最も豐富に現存することである。和蘭語が讀めぬ爲に不便を感じて居る我々の馬來研究は、佐山君の功勞によつて別方面に多分の補償を得たわけである。どうか之を利用する人が澤山に出ればよいと思ふ。此報告書の頒分の狹いのは如何にも殘念なことである。
 
   元寇史蹟の新研究
 
 一昨年の夏福岡の學者に由つて企てられた現地講演會の記録を補修したものである。東京の歴史地理學會の毎年の巡回講演も之によく似た好事業であるが、福岡のは單に實地に就て説明の精確を期するのみで無く、更に公衆の面前に於て新なる調査を試みたのは奇特である。此の如くにして今津の石疊は豫期の如く發掘せられた。所謂唐人塚及び蒙古塚の發見物は必ずしも豐富では無かつたやうである。素人の書いた報告で簡單な爲に十分呑込めぬのかも知らぬが、要するに塚の名に伴ふ傳説と專門家と謂ふ人の斷定に過分の責任が負はせてあるやうだ。火葬竈なるものゝ性質及び年代に就ては尚研究の餘地があるやうに思ふ。但し講演は何れも親切精密を極めたものである。後日追々に紹介せねばならぬと思ふ。
 
(365)   徐福纜を解く
 
 我々は愈舊い革嚢の新しい酒を味ふべき日に逢着したらしい。諒闇の深い帷帳が春の東雲に掲げられて程もなく、悠基主紀の御田からは此度の田歌がさゝめいて聞えて來る。國々の獻物の用意は改めて民心歸一の著しい慶兆を示して居る。此秋の西都の盛觀は固より我々の想像を越ゆるものがあるであらうと思ふ。併しながら復古を美事だと考へて居られる側の人たちは、どうしても失望を禁じ得られまいと思ふ。今囘の盛典は物堅い舊家の主人公をして、家憲を破つてまでも代議士候補に立たしめた程の目ざましい公事である。全國及び屬地の隅々に至るまで歡聲の普く及ぶと云ふ點だけでも、既に前代の大嘗まつりと日を同じうして語るべからざることを證して居る。況や中世數千百年間の變改と省略との爲に、又今日の國柄及政治と調和せしむるの必要から、新に補正し制定せられた儀式が甚だ多く、而も其評定に參與した人の考へは至つて進取的であるらしいから、其結果はどうしても大正の新儀式であつて、即ち專ら後代の範となる意味に於ての儀式と解すべきものだらうと思ふ。從つて今度の御記録と歴代の公家の部類物の所述との關係は、恐くは名目稱呼の共通が最も重要なもので、沿革と云ふ事に趣味を持つ今後の歴史家に豐富な題目を供與することになると同時に、形式と云ふ字を惡解する批評家には、或は奇異なる印象を與へるかも知れぬ。其一例として申せば、在廷の賢臣たちは如何に嚴肅に小忌の衣を着て立つとしても、蕃人を禁?に入れず内侍所の神門に觸れしめざるの齋忌は、如何にして之を守らしめるか、無理な保守説の貫徹しにくいことは決して此一つには止らぬと思ふ。但し國家の爲に不老不死の藥を求めんとする者は、徒らに渚の浪を蹈んで苦吟して居てはならぬ。さらば我が(366)童男童女等よ。一日も早く還つて來い。笑ひさゞめいて蓬莱の島から。
 
   野中の水
 
 小石川の植物園内に在る一つの井戸が、古來名高い武藏の野中の清水であることが明瞭になつたと云ふ新聞の記事がある。野の中に湧く泉なら皆野中の清水だと云ふ意味の野中の清水では無くて、小石川の分はどうやら固有名詞の野中の清水らしい。「もとの心を知る人ぞ汲む」と云ふ豫言が愈成就したのか知らん。三角な制札でも立つたら誠に趣味深い名所となるであらう。殊に管理者が東京帝國大學だからさう思ふ。
 
   『乳のぬくみ』
 
 沼波瓊音氏の思ひ出の記である。誰しも一つづつ持つて居る幼時の記憶ではあるが、此筆者のやうに深く考へて眞率に書き現すのは六つかしいことである。殊に沼波君の郷土が昔の多い享樂性のよく發達した富と文化の誇を抱いた尾張名古屋であつたことは、この小記述を美しい作品とした一つの原因であつたらう。此篇の中堅を爲すものは四月十七日祭禮の一節である。以前伊勢門水氏の『名古屋祭』といふ至つて浮世離れのした書物が出たことがあつて、年(367)寄までが祭禮に力を入れた奧床しい社會を十分に理解し得たが、今度新たに知り得たのは此祭に對する無邪氣な少年の感じである。それにしても筆者がどう云ふ力で二十餘年前の美しい心持をうぶのまゝに持傳へて居たかは一つの不思議で、我々は此を單に文人の文才にのみ歸することが出來ぬのである。如何に完全な市史よりも此方が遙か名古屋市の記録だ。あの町で育つた人の歡迎は勿論であらう。此類の追憶記が他の地方にも追々出來たら嬉しからうと思ふ。盆踊の記事も中々面白かつた。本誌に折々見える御礼の降つた話なども、子供の時の驚きとしてよく述べられて居る。
 
   『日光』(史蹟名勝天然紀念物保存會編輯)
 
 本年二月南葵文庫に於て催された日光に關する講演會の記録である。日光の歴史美術動物植物地質及び氣象等に付き、各專門學者の説を列ねで居る。歴史地理學會の毎年の各地講演會の話よりは、今一段と土地に密按し且つ問題が豐富である。今迄の地誌案内記類が未だ試み得なかつた新しい紹介は、自他共に感謝せねばならぬ所であらう。地圖と寫眞版の多いこと及び、研究書目をよく集めた點は、殊に此書の價値を永續的ならしむる所以である。
 
(368)   『南總の俚俗』(醫學士内田邦彦氏編)
 
 東上總三郡に於ける俚諺歌謠童話俗信年中行事等を蒐集した一册子、自費出版らしい忠實な事業である。編者に材料を供した人は二十七人、其内二十四人迄は長生郡の人で、其二人は文字の無い人であつたと云ふ。編者は多分此地方に暫く居住した他郷人であらう。土地の人の看過しさうな些細の點まで誠に行屆いた討査をして居るのは感謝すべきことである。明かに比較研究の志が見えて末だ效果を擧げ得なかつたことは、更に第二次第三次の他地方に於ける同種の計畫を思ひ立たしむる因縁となることであらう。何とかして遠國の同志者にも頒布して見たいものである。
 
   行脚研究者の不能事
 
 江戸時代史の研究者は?材料のあまりに多きを歎思して居るやうだ。瓦礫と金玉との差別は必ずしも數量の多少では無からうが、記録類のあんまりな完備は史學の思索的興味を殺ぐ外に、常に反證の伏兵を以て推論の進路を劫かして居るから、氣の儘な學者には厭やがられる。併しさう言つて居る中に我々の方面に於ては百年前の史料までがちやうど程の好いと云ふ以上に乏しくなりつゝある。此頃好事家相手の古本屋の店に屑屋から取戻した若干の古帳面が(369)現はれるやうになつたが、それは散佚して行く田舍の舊記類の中のほんの一部分であるらしい。遼東の豕はどうしても遼東に置いたがよい。郡の名も讀めぬやうな都會の隱居どもに、古いからのうぶなからのと言つて珍重がられたとてそれが何にならう。我々は史蹟紀念物保存會の有力者たちの注意が、專ら石や木ばかりに傾注せられて居たとてそれに苦情を挿む者ではない。古い物が新しい物より先に滅びる癖のあるのは常理である。時節到來とあらば南京豆の袋になるもよからう。況や解らぬなりにも大事にする人々の手にあるのは幸運の長壽である。只それにも拘らず我々の悲しむ點は二つある。村の古い文書が村を出て行くことは其最も價値ある性質を失ふのだと云ふこと是が一つ。今ちやうど村に居て村の事を理解しようと骨折る人々が漸く此方へ注意を向けんとし始めたこと是が二つである。故老故老と珍重して居るうちに、故老の中にも追々の更迭があつて、今の故老は幕末の亂世に若かつた人だ。出來るならば讀みにくい御家流で書いた帳面などの世話にならぬやうにと力めた試が一般に失敗に歸し、現實の不審を解説してくれる者は近い歴史の外に無いことを覺りかけた人々から、折角今の今まで有つた資料を奪つて行くのは如何にも氣の毒だ。而も未だ整理取捨せざる大量の古帳面を、村から村へ急いで巡歴する旅の學者に見せた所がそれはだめである。此人たちが一箇の邑落の爲に費す時間は短いものである上に、地名や人名や地方用語など、土地の人にはいと容易な準備智識を得ることが六つかしい。だから郷土研究の學問が中央でどう有らうとも、村の問題は村で研究する必要は極めて大なものである。舊記古文書類の意味も無く田舍から散佚するのは不幸な現象である。
 
(370)   各地の蒐集事業
 
 コ島縣では勝浦郡澁野小學校の田所市太郎氏が、大なる熱心を以て郡内の古話民謠の類を集録し、大分の量に達して居ると云ふことである。此縣の山地は交通が六つかしかつた爲に殊に遺漏が多からうと思はれる。興味の多い事業であらうと思ふ。又山梨縣日川中學校の三輪常松氏は、作文の學科を利用して村々の若い生徒に曾て聞いた童話傳説等を筆記せしめ、よい成績を得られたと云ふことである。本號中の大力僧の話なども其中の一篇である。同氏の話では從來世間に知られずに此種の計畫をした人は外にもまだ有つたらしい。何とかして其辛勞を徒爾にしたくないもので、此事の中學教育に對する利害に就ては三輪君にも編者にも多少の意見があるが、要するに學校としての事業とは些しも牴觸する所が無いと思つて居る。
 
   古傳説の和邇
 
 史學雜誌の此八月號に、白鳥博士は神代史のワニは鮫であると云ふ古くからの説を、語原論の側から愈確かめんとせられて居る。其説の大要を摘記すれば、ワニの語はアニ又はオニなどとも同じ語で、畏敬すべきものゝ汎稱であ(371)る。而してワニの別稱であるらしき佐比持神のサヒは、亦同時に利刃を意味した語で、此動物の尾鰭が刀の形をして居た爲か或は其性の殘忍暴惡であつた爲か、二者何れかの理由の下に和邇をもサヒと呼び、其が轉じてサメとなつたらしい。佐比持のモチはムチ(貴)であつて持は借字である。ワニ又鰐の字を宛てたのは鰐を見なかつた時代の造意である云々。此説には動物分布の變遷と云ふことがまだ十分に考察して無いやうに思ふ。人を捕る鱶の類は深海にすむ動物であつて、多くの傳説に現はれて居る海岸の悲劇には打合はぬやうにもある。或地方の方言でサメの一種をワニと云ふのは有力なる一證であるが、サヒ特などのサヒに   ※[金+且]又は鋤の字を宛てゝある仔細の不明なる限は、之を以てサメと語原を同じくするものと解するにも幾分の躊躇を感ぜざるを得ぬ。
 
   所謂布施屋敷跡
 
 長沼賢海氏は、「歴史地理」の八月九月號にかけて上代の布施屋即ち行旅救助制の研究を試み、進んで現今の村名大字名に遺つて居るフセと云ふ語の分布を以て此の佛教方面の救濟事業の普及の度を察知せんとして居られる。成ほど語はちやうど同じであるが、此種古代の社會現象が到る所郷村の名に殘るとするには、何故に救助小屋の必要であつた程の僻地が、一朝にして堂々たる一箇の邑落を構成するに至つたかの理由をも共に説明せらるゝの必要があつた。殊に倭名鈔編輯の時代に既に立派な布勢郷等となつて居るものを捉へて、特に布施の文字を避けたのは佛教の功績を抹殺するためだらうとは誣告である。此ほど古くして數多いフセの地名が官道と隔絶した地方にも分布して居るのに一箇の異説をも豫想否足せぬのはちと獨斷だ。我輩などはフセとは伏地《ふせち》即ち開墾の爲に前から占有せられて居た土地(372)のことでは無いかと思うて居るが、一顧にも値せぬ程の愚見でも無いやうだ。但しフサやフシと云ふ村名迄も此例の中へ取込むのは、金澤博士の地名を朝鮮語で説かうとせられた折の前轍もあるが、多きを貪つて却つて效果を傷ふ處があるから、我々は問題の外とする。
 
   阿曾沼古譚
 
 同じ雜誌の九月號に、長井金風氏の物せられた羽後の天明宗と云ふ禅宗の毛坊主の話は新しい題目である。殊に其縁起の中へ何時の頃よりか編み込まれた「日暮るれば契りしものを」の鴛鴦の話が、昔近江であつたことゝ云ふのは本誌前々號の鶴塚の傳説(三卷三七八頁)も思合されて珍しく感じた。此話は成程古いが、何故か知らず非常に多くの國々に分布して居る。發心談の類にも勿論時代の流行はあらう。併し話がさほど奇拔でも無く、歌が相應にまづいにも拘らず、殆と寺の附近に沼さへあれば此話が附き纏ふには、何か運搬者の間に一つの系統があつたのではあるまいか。所謂法燈師の歴史は此意味でもつて討究して見たいものだ。
 
(373)   平凡の不朽
 
 近頃近江の伊吹山の頂上に日本武尊の石像を建設したと云ふ話である。寫眞で見ると臺石に御名を彫刻した外には、何れの點から判斷しても日本武尊とは言ふことの出來ぬいやな御姿である。全體質の甚だ粗?な只の石で像らしいものを造らうと云ふのが無理である上に、單に石切等の空想から上代の生活を寫し出さんとしたのは過當な野心であつた。地方人士の輕々しく物を承認するのはいつもながら歎かはしい癖である。越前福井の足羽山公園の上にも、たしか一つ妙な物が立てられてあつた。かの附近に久しく住む石屋の部落が、繼體天皇の御像だと言うて立てたのを、別に反駁する人も無かつたと聞いた。何か因縁があるのか知らぬが兎に角困つた流行である。之に比べるといつでも手を腰に當てゝ居る東京市内の銅像の方が、寫眞に依つて居るだけでも遙かに保存の値が多いかと思ふ。
 
   石佛流轉
 
 京都壬生寺の境内に、近國から寄せ集めた數百體の古い石地藏がよく洗つて數箇所に積み重ねてあるのを先日の旅行に目撃した。御形が缺け損じ又は雨露に漫滅して、只の石の如く路傍に轉げて居るのを、一處に集合して大きな石(374)塔に築かうと云ふ計畫であるさうな。昔も此樣な企があつたかどうか知らぬ。地藏信仰の暗々裡の轉變を、最も痛切に表現して居るやうに感ぜられた。伊吹山の冒險者の隱れた歴史も、考へて見ればこの石くれの累積の中に潜んで居るかも知れぬ。
 
   傳説蒐集の流行
 
 福島市の或新聞で數週前から縣内の口碑俗譚の類を募集して掲載して居り、其中には面白い物も少くないと云ふことを人傳に聞いた。何と云ふ新聞かを知らぬのは不本意である。又福井の新聞でも同じ計畫を實行して居る。此他にも時々氣まぐれに古い話を載せる新聞は段々あるやうだ。結構な事業たるは勿論であるが、小説でも書くやうな心持で當世風の潤色をすることだけは、どうしても御免を蒙りたいものである。
 
   垣内の成長と變形
 
 京都文科大學の小川教授は、此頃「近畿地方の土地と住民」と題する小册子を公にせられた。昨年の末に京都府教育會の爲に説かれた講演の筆記である。我々の多くが殆と偶然だらうと考へて居た色々の昔の社會現象が、一定の天(375)然の下にどうしても斯う發現せねばならなかつたのだと云ふ説明を、箇々の地方を精細に研究すべき最良の手段を有つて居る人々に遣らせたいと云ふのが、我が小川教授の趣意であつたらしい。講演の前半には地形學上の新觀察をも述べて居られるが、勿論地理は斯う教へるがよいと云ふやうな師範科の人たちにのみ有用な御話は主眼では無いので、如何にすれば趣味の豐かな郷土研究が續けて行かれるかと云ふことを教へんとせられた點が、吾人の殊に感謝せねばならぬ親切であると思ふ。遁げ殘つた先住民との交渉或は又歸化蕃人の及ぼした文明影響の如きもよい宿題ではあるが、所謂畿内平野の農村の構成に就て、今まで誰も試みなかつた意味の深い觀察を下されたことは、至つて愉快なことゝ思ふ。廣い平地をわざ/\堤や藪で狹く區別して、數十の農戸が窮屈に其中に住んで居るのは、實際上方地方の著しい特色である。部落がどうしても此より大きくなれぬ理由は、多分小川氏の言はるゝ通り耕地地積の制限に在るのであらうが、そんなら如何なる事情があつて最初右樣の區劃を點定したのかと云ふことは、我々にとつては此上の問題である。垣内《かいと》は其文字の示す如く、以前個々の名主の邸宅地であつたのかも知れぬ。然らば其頃の小さな作人たちはどうして其垣内の中へ割込んで來たか。彼等自身の在家のあとはどうなつてしまつたか。名主の末が如何にして混同してしまつたか。村の帳面は常に三百年來のもので多くを語らない。僅かに殘る地割の痕跡は消えて行きつつある。早く此類の講演が他の諸地方にも企てられて、比較研究の志ある人がそちこちに起らなければ、平民の昔の生活は永久に茫漠の裡に去つて行く虞がある。
 
(376)   「日本及日本人」の郷土號
 
 此雜誌は何故か折々厖大な臨時増刊をするが、今度のは御大典の記念とあつて、各地方の愛郷者から誇るべき特色を報告させて新に作つたものらしい。我が郷土研究の愛護者の氏名も其中に少なからず見えて居る。所謂郷土光華の條件に合するか否かは知らず、我々の常に求めて居た隱れたる眞實が、此種有力雜誌の企によつて次第に明かになつて來るのは有難い。原右衛門氏の諏訪大祝の話、松本芳夫氏の熊野の田掻の風習、伊藤一氏の長門豐浦郡の濱出神事、藤田信氏の岩木山の安壽王傳説、赤松文二郎氏の耶馬溪の人柱口碑、竹田映紫樓氏の出雲の牛供養の詳しい説明、森口清一氏の紀州有田郡の御田踊の記、山本良吉氏の金澤の追憶、最後に内藤鳴雪翁の松山自慢などは、誇張の批難の無い誠實の記録である。此他の諸篇に現はれた文章を面白く書かうと云ふやうな氣風は、この類の事業とは兩立しにくいやうに思ふ。
 
   大禮の後
 
 大正四年を記念すべき此度の大事業は、解決でもなければ又完成でも無かつた。是は猶遙かに進まねばならぬ國民(377)にとつては寧ろうれしいことであると思ふ。忙しくて仕方の無い我々當世人は、爰に圖らずも幸福なる抑留に遇うて、稍暫しこの廣大無邊の「當りまへ」の背後に立つてゐる問題を覗かされた。口によく言ふ國柄と云ふ語の意味を、今度始めて考へさせられた人も多かつた。昔と他國とを同じ物と思うて居た人も驚いた。さて哲學者がこの新しい觀察から導き來る推論の如何は我々は知らぬが、少なくも我々の仲間でも色々のことを會得した。神祇に對する朝家の御崇信は至深至厚のものであつた。我々が居村に於ける秋の祭は、其趣旨に於ても形に於ても、この新穀の御祭と著しい類似をもつて居り、唯大小のえらい差等があるばかりであつた。大嘗の御式の滯なく濟んだ時には國民の心に自然の悦喜があつた如く、當日に至る迄の名?し難き氣遣ひは、只祈念と謹愼に由るに非ざれば支へ得られぬやうにも感ぜられた。一言にして言へば此時我々の祖先は眼覺めた。日本が永く日本でなければならぬ實情が發露した。而も同時に時代の改まつたことが今更ながらしみ/”\と感ぜられたのである。考へて見ると多くの學問は忘却を發足點としたがる。殊に史學は物を痕跡にしてから樂しまうとする嫌がある。其目的物としては妙な話だが日本の舊生活はまだよく熟して居らぬ。地質學者の口吻を假りて言へば、此層は新し過ぎて樂みが少ない。政治家に現代史を書かせた時のやうに?感激が冷靜なる解剖を妨げる。殊に田舍の生活の中に浸潤して居る人が民俗の研究に大きな成績を擧げ得ぬのは無理も無いと言ひ得る。我々が固有宗教は未だ比較研究を許す迄の囘顧の時期には達して居なかつたのである。併しながら幸か不幸かは別として、世上の推移は驚くべき早瀬である。今度のやうな重要な儀式にも、行はう加擔しようと云ふ人の數より、知らう觀察しようとした人の數の方が何だか多さうであつた。三千年來の同胞が二つに分れて、一つの組は研究し他の組は研究せられると云ふ時が存外早く來るかも知れぬ。其時にはこの國の御典儀はどう變形するであらうか。是が我々仲間の小さな而も六つかしい問題である。
 
(378)   神社と宗教
 
 但し我々の研究は少なくも或部面に於ては其必要を認められねばならぬ。御大禮のあつた年の暮の議會に、或門徒宗から出た代議士があつて、田舍の神官などが説教や祈?をして氏子を導くのを自分の宗派に對する侵犯なりとし、神社と宗教の區別を明かにせよといきまいた。此要求に應ずることは髯の生えた人にも六つかしからうと思ふ。なぜかと言へば神社は宗教其物だから二つに分けやうが無い。假に調寶な學者が頼まれて定義を別にしたとしても、それは大手町附近の僅かな空氣を振動させるに過ぎまい。事實は何としても修正を加へることが出來ぬ。村々の氏子が信心すれば即ち信心では無いか。日露戰爭の折でも今度の大典でも、日本の神樣が即ち日本の神樣である證據は山ほど供給して居る。なんぼ内務省が言うたからとてそれを信ずるとは田舍の人にも似合はぬ話である。どうしてそんな質問をする氣になつたか。いつか一つあの代議士に聞いて見よう。此の如き評判が元になつて農民が其の頼む所を失ふやうなことがあつては笑止である。即ち「郷土研究」の多くの記録が將來こんな誤謬を訂正し得るとすれば、偶然とは言へ世に出た甲斐があると云ふものである。
 
(379)   所謂記念事業
 
 同じ代議士は又今度の御大典の記念として、地方官吏が民家に神棚を必ず備へることを勸誘したるものがあると云うて憤慨した。初耳の話である。今囘ほど善政の種類の複雜であつた大嘗會の年も空前であらう。中に就いて效果の永く遺ることを肝要とした點は、我々の學問に取つて看過し難い一事實であつた。此の如くして各地に善惡段々の郷土誌も編纂せられた。皇室と農業と云ふことが常に賞讃すべきことであるならば、舊家の系圖自慢のやうな半農説などの公刊も、かの階級に取つては好事業であつたと言ひ得る。但し大正昭代の隆盛に謳歌しつゝも依然として舊態に纏綿し、時勢の變遷が別箇の將來を豫期して居ることを教へようとしなかつたのは、我々一派よりも更に始末の惡いチョン髷である。
 
   舊式の新著
 
 帝國農業史要は帝國農會の、越中農政史稿は富山縣農會の、何れも大典記念として刊行した美しい册子である。我々は農民等が何とかして此等の年代記やうの著述を、各其身の助けとし得る場合あらんことを望む。
 
(380)   郷土會記事
 
 昨月十二日の晩、新渡戸博士邸で開かれた第三十七囘郷土會は、近頃珍らしく振つた會合であつた。當日當番に差支が有つた爲に纏つた話が無かつた代りに、出席者各員が順次に短い話をした。主人の博士は曾て本會の爲に話された三本木野開發の談に些しの追加をせられた。次に飛入の英人ストラザー氏は八年間の日本滯留の經驗によれば、所謂日英國柄の相違の多くは彼我國民の久しい經濟生活の相違に基く事が認められるとて、其一例に人と家畜との關係の變化を面白く述べられた。同じく飛入の三宅理學博士はカリフォルニヤで巨人樹林を見に往つた話をせられた。鐵道院の田中信良君は阿波の川田から讃岐へ越える清水越の沿道の話をせられ、此邊の民家が一箇所も集合して居らず飛々に立つて居る光景の奇異なることを述べられた。次に控訴院の尾佐竹氏は犯罪の地方的特色を調べたら面白からうと云ふ話で、其例に關東の?客と賭客との結合が由來久しいものであるらしいことを説かれた。賭博の話ならば私が一番詳しいと云うて立たれた博文館の中山君の話は、果して其言の如くであることを十二分に證據立てた。同君の郷里では賭事を常識教育の一部と考へて居る者も今以て多いやうに感ぜられた。刀劍の新しい研究を生涯の業として居られる小此木忠七郎氏の話は、如何にも趣味の多いものであつた。同氏は昨年信州へ四十日ばかり旅行をして、到る處の村々で見る限の刀劍の分類を試みられた。此迄名刀鑑の類には記述を見ざりし多くの工人の名を發見せられしのみならず、其産地の關係は最も顯著に中世以後の地方交通の跡を窺はしめた。即ち美濃の作が一番多くて北國物之に次ぎ、京都大阪から會津物と云ふ順序で、江戸から運んだらしい物は却つて少なかつたと云ふ。次に話をしたのは(381)帝國農會の小野武夫君で、其題目は同君の郷土に近い豐後の小野市で田の神と稱する石像のことで、田植の時から苅入迄田の附近に運び移して祀ると云ふ風習である。其次には理科大學の某君が筑前福岡附近に在るオヒライ樣(飛來?)と云ふ祠のことを話された。下半體の無い木像で常は里の子供の遊び友達となり、信心の者は願ほどきに板の上に二本の脚を作つて捧げると云ふ。同大學の辻村太郎君の話は伊豆三宅島の雨乞の行事である。此島の信心と物忌とは今尚古風を保存して居ると云ふ面白さうな話であつた。次に牧口常三郎氏は昨年夏の北海道旅行の話をせられた。曾て榮えた瀬棚の漁村の寂れて行くこと、此頃になつて始めて牡蠣と云ふ貝を發見し之を食ふことを知つたと云ふ話、會津町と云ふ部落のことなどを語られた。其次に那須皓君は上州利根郡新治村と云ふ越後に接する山村の話をせられた。越後から若い男女が働きに來ること、此村の者が東京へ出ては疲れて歸ることなど、耳新しい點が尚多かつた。それから農務局の小平權一君が自分の郷里の話をせられた。信州諏訪郡米澤村の中で鑄物師屋と云ふ二十五戸の部落で、古くは馬牧の地らしく、今も共有地は本村と入會になつて居る。古い屋敷と道路とは共に山の中腹にあつて、後次第に下りて來て低地を拓いた形跡がある。村の形式は本村と一樣であるとも、住民は何れも遠い村からの移住者で、折井氏は甲州から五味氏は茅野から、同君の屬する小平一黨は上の諏訪から來たと云ふ。地名の鑄物師屋の由來は不明で、鍋割などと云ふ小字の殘つて居る外、別に此と云ふ痕跡は見られぬさうである。駒場大學の草野博士は羽前の三面と云ふ武陵桃源の見聞を傳へられた。今では古い書物にある程の事は無いさうである。博士は羽越國境の朝日嶽へ採集旅行の序に、大一行で此村に宿を求め、今でも全村から旦那樣と呼ばれる例の小池大炊介に泊つて主人と話をせられたさうである。よほど珍らしい旅行であつたやうに思はれた。其次に本誌の柳田は墓の上に樹を栽ゑる習俗の話を試みて、曾て此會に出て墓上植物の話をした臺灣總督府の故川上瀧彌君のことを追憶した。更に今一人の珍客露國學生ネフスキー君と云ふ日本語の達者な青年が來て居て、此次に谷中初音町の南泉寺に在る女夫石の探險談をしたのには一同が膽を奪はれた。此人は日本の宗教を新しい目で洞察しようと云ふ我々の畏るべき競爭者であるさうな。(382)最後に近く英國から歸られた石黒忠篤君の話があつたが、此は權威ある總評の如きものであつた。同君は何時でも最も熱心に我々を激勵する人で、此會には缺くべからざる研究者である。地方生活の比較研究の有用なることの一例に、鎌の大小と用法それから砥石の種類などの新しい事を話された。郷土研究に總論の必要になつて來たこと、ヂレッタントの集合が專門家の代用になりにくいことなど、此會合の爲に次第に痛切に感ぜられたのも、亦一箇の副産物と見ることが出來る。
 
   越後の白米城
 
 温故之栞第九編に更に一例がある。曰く越後古志郡山本村大字浦瀬の古城址里より八町の山入、城主は高津谷入菴、天正七年上杉景勝之を攻め、水の手を斷たんと求めしに、城山の東麓土ヶ谷村に老媼あり、山續きの大澤と云ふ處の清水を樋にて引く由教へければ、土中を求め之を切斷す。城内渇に苦しみ、敵を計らん爲に白米にて馬を洗ひ遠見さすれども、寄手は既に一滴の水無きを推知し、六月二十八日の炎天に進撃しければ、入菴城に火をかけ北方血峯谷に入り、一族從士殘らず自害すとて、此邊古墳多し云々。城の麓には高津谷氏の館迹と云ふあり、元禄十三年土工に際し二升ばかりの朱の瓶を掘出し、又修驗某の住地と云ふ地に、古木の榎木の根に寶を埋めてあるとの話もあつた。上州中之條の白米城は本誌二卷一一九頁に出て居り、是もやはり内應あつて落城したとある。
 
(383)   燃ゆる土
 
 我邦で古くから石炭を採掘して燃料とする地方のあつたことは、?軒小録を始め二三の紀行にも見えて居る。和訓栞には石炭をスクモイシと云ふ處があると云ふ。もし果して然らば其名稱はスクモから出たもので、スクモ即ち泥炭の利用の方が先であつたことを意味する。スクモは多くの地方では又籾殻のことである。併し「すくも燒《た》く火」などと歌にあるのは單に芥火《あくたび》のことであるらしく、常陸多賀郡などでは大豆殻をもゾクモと云ふさうであるから(風俗畫報四五六號)、或は弘く農家の雜物の燃料に供し得べきものを總稱したのかも知れぬ。泥炭の類をスクモと云ふのも恐くは其が起りであらう。能登にも産すると云ふが、近江|野洲《やす》郡|老曾《おいそ》の杜《もり》の近傍では、地を掘ればスクモが多く出た。「土に非ず石に非ず、木に非ず、柴の葉の腐り固まりたるが如し。火にて燒けばよく燃ゆる。里人之を掘りて薪とし之を賣りて利とす」と、大和本草にも記してある。信州|岩村田《いはむらた》の東邊に在つてヤチマクソと謂ふものも其らしい。四隣譚藪一に、「土くれにて燃るもの也。水田に地※[さんずい+叟]《ぢしぷ》浮きたる所に出る。春に至りて蘆のきざしを含めるや、燒捨つるに火消えず、硫黄の氣多し云々」。最近に活版になつた富田氏の斐太後風土記十三、吉城郡小島郷杉崎村産物の條に、「芝灰、秋冬|春《ママ》地爐燒芝」とある。この芝と云ふのもやはり同じ物のことかと思ふ。繪圖を見ると此村の田は山の麓の排水せられた沼地らしい上に、産物として數へらるる灰は普通の野草を燃して得たものとは思はれぬ。併し猶彼地方の人に問ふべきである。秋田縣下でも今は如何であるか、以前泥炭を採掘して燃料とし其灰を賣出す地方のあつたことが、雪之出羽路と云ふ書に見えて居た。但し其灰の用途如何は、手録を紛失して今明瞭で無い。同書に依れば、(384)平鹿郡植田村大字木下の附近は、谷地八ヶ村とも稱して濕地であつた。其中に根子《ねつこ》村と云ふ部落などもあつた。ネッコとは即ち泥炭のことである。八幡野と云ふ廣野に於て、土人|土薪《ねつこ》を掘つて之を燃料とするとあつて其光景を寫した挿畫がある。ネッコを掘つた跡三尺四尺或は七尺にも及ぶ處があつて危險であつた云々。又此邊の土薪は田村の産に比して品が劣つて居るともある。田村とは同郡田根森村大字田根森の一部で、前者と同じく雄物川の支流に由つて不完全に排水せられた谷地である。久保田領郡邑記に曰く、「田村は田地至つて惡しく、薪木に乏し、此村の野土を切取りて乾して焚く、灰は白し、香氣惡しく、此土に燃え付きて野を燒くことあれば、通行にも煙草を吹くことを禁しむ」。又雪之出羽路にも、「平鹿郡田村に根子と云ふものを産す、他所にては其名を異にす、雄鹿《をが》の浦の賀須《かす》、津輕の猿毛、越後の谷地腸《やちわた》、また三河尾張の岩木、こは皆石炭のたぐひ也、また南部の海邊にて石炭をイシズミ・イハズミなど言へり、伊賀國などにて宇邇《うに》、上品を石宇邇下品を綿宇邇と云ふとぞ」とある(以上二項地名辭書に依る)。イシズミ又はイシウニの類が、果して今言ふ褐炭であつたか或は石炭か泥炭かは、物を見ても自分にはよく分るまい。越後の谷地腸のことは未だ他の書で見たことも人に聞いたことも無い。八郎潟の沿岸では今日でも採取して居ると云ふが、牡鹿浦と同じく之を賀須と云ふか否、及び灰として販路があるのかどうか、明かにして置きたいと思ふ。津輕の猿毛に付ては奧民圖彙上卷に左の如き記事がある。「萢地《やち》の中に猿毛田と申して有之候。二三年の内一度、春打起しよく乾し候頃火を附け燒申候へば、上土ばかり五六寸やけ灰に相成申候故、其年は外に肥し入れ申さず候とも、隨分|草生《くさおひ》見事に出來申候。此等の所にて田へ下肥入れ申さず候などゝ申す義は、地面若き故などゝも申すべきことにや」。サルケのサルは蝦夷語で沼地のことでは無いかと思ふが、バチェラー氏の語彙には見えぬやうである。この猿毛を燃料に採取することは、自分は最近の旅行に於て之を見聞した。西津輕郡では車力《さへりき》村館岡村の數部落、又|木造《きづくり》町附近の田舍でも猿毛を掘つて居る。即ち專ら十三潟西南沿岸の新田場で、他の燃料の得にくい地方である。煉瓦の形で今一嵩大きい黒い物が、路傍又は田畔に累々と竝べてある。少し乾いた時分に屋敷内に取入れ、高く積んで藁などを覆うて(385)置くらしい。此邊は一帶に渺茫たる平場の村で、水除物干を兼ねて若干の樹木が居周りにあつても、固より冬季の薪には足らず、屏風山下の村里の如きも、林の中に住みながら全部防風砂用の保安林である爲に、猿毛に由つて纔かに暖房の要を需して居る。誠に氣毒なやうな生活で、村に入ると一種の煙氣で猿毛を焚くことがすぐ分り、家は早く黔くなるのを戯に己が家は猿毛塗だなどと云うて居るさうである。火氣はよく保つが燃え上ると云ふことが無く、いつもふす/\と燻つて居るので、之を用ゐる地方では居民は一般に目の力が弱く、赤い眩しさうな眼をした子供ばかり多い。而して此灰を何かの用途に賣出すと云ふやうなことは、自分は終に津輕では聞き得なかつたのである。
 ○泥炭地の利用方法は、帝國の版圖内で之を研究する必要のある地方が追々に増加して行くのである。東北其他のヤチの多い田舍から、之と關聯した種々の報告を得んことを望む。又此序に農村に於ける一般燃料の問題をも今些しく調査して見たいと思ふ。
 
   旅中瑣聞
 
 磐城西白河郡釜子村|苅敷阪《かつしきざか》といふ處の縣道四辻の茶店の小座敷に、朝の八時過ぎと云ふのに若い男が五六人ごろごろとして居る。よく見ると其縁先には稻扱の新しいのが二十梃ばかり取散らしてある。此稻扱は山形市の鍛冶町で出來たもので、此青年は皆其賣子であつた。富山の藥賣などと同樣に、多くは掛賣で收穫の後に今一度廻つて來て勘定を取つて行く。荷物は一梱が十二箇入で目方十四五貫、運賃は白河停車場で卸して此迄持つて來るのが一切で四十一錢、一器に付三餞五厘しか掛かつて居らぬ。此邊の農家が買ふのは多くはこの山形製である。値段は一つ三圓五十錢(386)前後であると云ふ。大分利潤のあるものらしい。茶店を出て後矢吹の車夫の言ふのを聞くと、百姓は馬鹿だ、毎年騙されてあんな毀れやすい稻扱を高く買ふ。古いのを下に取つて兩面に儲けられることは馬喰の取引によく似て居る。雨の降る日など宿屋の座敷で、此若い者が古い稻扱をこつこつと直して居ることがある。其を新しいやうに見せて又賣るのである。一つ賣ると一日の所得には餘るほど儲ける。併しよくしたもので、此連中は又行く先々で飲食店などに引掛かり、儲けた金を皆遣つてしまひ、持つて還る男は至つて少ない。監督が折々廻らぬと元金までも食ひ込んで遁げて行く者もある。此頃では些し工面の良い農家では成るべく此稻扱は買ふまいとする。以前は此邊へも伯州の商人が賣りに來たが之は隨分丈夫であつた。當節の稻扱はあまり品が惡いから都合の付く者は廻轉機と云ふのを買ふ。廻轉機は價は十圓ばかりだが仕事が早くて樂で、子供の守をしながらでも遣ふことが出來る。最初は籾を損じていかぬと云ふ評があつたが、其點も今では改良したと云ふことである。此は大正五年九月二十六日に聞いた話である。
 其翌二十七日の午前には、石城郡川前村  大字川前の路傍で、平郡線の鐵道工事に砂利を運ぶ村の人の激しい勞働を見た。新たに架けられた夏井川の土橋を渡つて、路から三町足らずある停車場敷地まで何度となく背負うて通るのである。二十五六人の一群の二十人迄は若い女で、其他は老翁と小兒であつた。越後などでよく見る竹の  貨《あじか》ではなくして、木で造つた下細りの箱を用ゐる者も二三あつたが、他の多くは石油箱を打附けて假に作つた粗末な容器で、其底板の端に繩を附けて開閉を自在にし、其繩を緩めると肩を外さずに砂利が出るやうにしてある。此處でも樂をして居るのは却つて達者な男子で、ショベルを杖にして女たちの來るのを待ち、セメントの空樽か何かに背の箱を載せて後向に立たせ、分量をきめて其箱へ砂利を入れて遣る。ショベルに七杯づゝで十一貫目ぐらゐのものだと云ふ。其を一度運ぶ賃錢が一錢で、一度毎に郵便切手大の札を一枚づつ渡すのを、巾着に入れる女もあれば帶の間に挿む者もある。事務員の女房だと云ふ束髪が札を渡す役で、せめて通り路迄も出て渡せばよいと思ふのに、少し入り込んだ住宅の縁側に、其札を味噌漉に入れたのを前へ置いて、よその者と喋りながら札を出すのを、娘等は一々貰ひに行くのである。(387)尤も中には妹などの爲に一人で二人分受取つてやり、少しでも勞を助けようとする者もあつた。又僅かづゝはショベルを持つ男の手加減で、砂利の分量を輕くしてやるらしいのもあつたが、どしん/\と汗だらけの若い女の身體が搖ぐのを見ると氣毒に思はれた。朝早くから來る者は札を一日に五十枚も溜めると云ふ。
 
   柴塚の風習
 
 埼玉縣南埼玉郡慈恩寺村邊には、旅行に出ようとする者が土を些しく盛つて其上に木の枝を挿して置く風がある。多く神社の境内などに之を作るのは、參拜に來た歸り途に柴を立てるからで、自分の目撃したのもやはり鎭守の鳥居を入つてすぐ右脇であつた。
 
   石占の種類
 
 神の石に祈誓をして吉凶成否を占ふ方法は、勿論輕重の感じに由るものが最も例が多い。其石の大さも二貫目三貫目の手頃のものが普通であつたのであらう。甲州などの道祖神には祠は無くてこんな石だけを安置するもの處々にあり、塵添  瑳嚢抄の記事を思ひ合さしめる。力石と稱して今は目方などを切附けて置く石も、やはり最初は壯夫の石占(388)に試みた名殘であらう。辨慶の力石などゝ稱して名所となり、迚も常人の力には及ばぬ大石のあるのも、實は信心の非常と神コの非常とを語り傳へるが主であつたことは、景行紀豐後風土記などを見てもよくわかる。必しも或人の強力だけを證據立てん爲の石では無かつたことゝ思ふ。此方の類例はあまり多いから先づとして置き、此には重量測定以外の方法を列擧して見ると、一番有りふれた石占は小石を遠く投げて見て、目的物に當る當らぬに由つて判ずる者で其目的物も多くは亦石である(四卷一一五頁參照)。道傍の大岩や鳥居の上などに小石の乘つて居るものは、今は假令戯れにすることになつて居ても、或時代には眞面目に之を試みた人があつたのである。大樹の股や木の鳥居に於ても此事はあるが、何れも神靈の託する所として此占法は行うたのである。又石の位置方向などに依つて判斷をしたこともあるらしいが、此は實際の手續が既に不明に歸して居る。例へば越後古志郡上組村大字豐詰では、村の中央一大老杉樹の下に十貫目ばかりの丸石に大神宮の三字を彫付けたものがある。願ひ事のあるもの此石を携へて境内の地を擇び、文字を正面にして据ゑ置き、家に還つて翌朝行つて見るに、志願成就せぬものに限つて我が据ゑた時と方角が變り、大神宮の三字が背向になつて居ると云ふ(温故之栞十三)。曾て論じて置いた廻地藏の話の中に、六角の石燈籠が常に循環して、往きに印を附けた紙を歸りに見れば向が變つて居ると云ふなども(二卷一五八頁)、恐くはもと同種の例であらうと思ふが、別人が來て動かすのか或は本人がさう思ふのか決し難い。併し越後のなどは滅多に背向にはならず常に願が容れられたのかも知れぬ。或石が自ら動くと云ふことは昔の人の信ずる所であつた。又かく信ぜしむるに足る天然の現象もあつたのである。伊勢度會郡二見村大字三津南浦の山腹に、退石と稱する大きな圓石があつた。豐年には此石動いて前に進み凶年には後に退つたと云ふなど(伊勢名勝誌)、且は又心持ち目の迷ひなども手傳つたかも知れぬ。石が自然に成長すると云ふ話も無數にある。其信仰と關聯して居るのであらうと思ふのは、石の大さを測る石占である。陸前かの或石神では願ある者背後に於て二本の稻藁を切り、之をこの石に比べて見て石の高さと合致して居たらよろしいとしてある。是も平日見馴れた靈石であるから占の中る割合が嘸多かつたらうと思ふ。京都(389)清水地主權現の前面に在つた盲目石のことは、どの名勝記にもきつと出て居る。目を塞いで左右一方の石から他の一方の石へ歩むに、どうしても行當らぬと云ふのであるが、是亦單純なる昔の石占法であらう。筑前の竈門山では藥師堂舊址の前に愛敬石と云ふ岩がある。眼を閉ぢて此岩に行當り得た者は能く人の愛敬を得と言傳へて居る(竈門山記)。石占には限らずすべて斯う云ふ昔風の卜方では、最後まで殘つて居るのは必ず縁結びである。同じ生活問題の中でも變愛問題だけは攻究者が特に無邪氣質朴な若い者である爲か、他の食物損得の問題の如く痛切で無くて、多少「どうとも成れかし」の分子が交つて居る故か、又は隱し事なれば常に幾分の可笑味又は戯れ心が添ふ結果か、何れにしても面白い現象である。最後に音を聞いて判斷する石占もあつたらしい例は、攝津西成郡北中島村の總社に、星石又は乙石と云ふ神石である。石の大さ東西四尺三寸五分南北三尺四寸五分、東は方にして酉圓く東を前として居る。此石に耳を附けて音をきくに音ありと聞けば吉、何の音も聞えぬは凶と云ふことであつた(攝津徴六)。此國武庫郡には耳を附けて聞くと隱里の繁華の模樣が聞えると云ふ石もあつた。阿波東海岸にも色々の音の聞えると云ふ石があつた(燈下録)。其等の傳説も元は此種の石占から來たものであらうと思ふ。
 
   神の眼を傷けた植物
 
 作物禁忌の理由として各地に傳へられて居る話が、多數は氏神が片目を突いたからと云ふに一致して居るのは面白いが(四卷六五三頁以下)、其植物の種類乃至は性質から此俗信の起原を窺はんとするのは徒勞かも知れぬ。麻や胡麻の如き特殊の畠作物ばかりならよいが、其範圍は弘く各種の樹木に迄も及んで居るので、つまりどうして此樣な奇怪(390)な口碑が多く存するかは、未だ滿足に解説し得ぬ者と見るの外は無い。併し本誌に前々から報告せられた例の中にも、松本地方には栗の毬で眼を突いたと云ふのと松(の葉?)で突いたと云ふのとがあり(四卷二三頁)、妻沼の聖天でも同じく松の葉でと云ひ(同一二六頁)、伊豆新島では躑躅を以て目を傷くと云ひ(同二九九頁)、伯州印賀村では竹で片目を傷けたと云ふ如く(同五六一頁)、各地方それ/”\異なる植物に就て同じ由來を傳へて居るのは、兎に角に注意すべき事實である。前號に紹介せられた岐阜縣益田郡誌の中で、自分は又新に一の例を見出した。それは梅の木に就てであつて、幾分か此問題の解釋に助があるやうであるから抄出して置く。此郡萩原町の諏訪神社の池は、中古一時金森家の出城となつたことがある。金森氏の臣佐藤六左衛門と云ふ者主命に由つて神靈を上村と云ふへ徙さんとするに、神輿重くなり如何にするも動かず。仍て六左衝門梅の枝を以て神輿を打擲し、辛うじて之を遷座することを得た。一説には此時一匹の青大將社地に蟠つて如何にするも動かぬのを、六左怒つて梅枝を取つて蛇の頭を打ち、蛇は左の眼を傷いて終に其地を去つた。其後六左衛門大阪陣で討死した故、村民悦んで土木を中止し再び社を舊地に迎へたが、今に至る迄梅樹此境内に成長すること無く、又里人時として片目の蛇を見ることあり。之を諏訪明神の御使として崇敬して居る云々。爰にも諏訪と靈蛇との因縁を見るのである。
 
   松浦小夜姫
 
 陸中掃部長者の話の續きに、長者の妻蛇體と化し水の神に祀られ、爾後年々人の生牲を求めた、郡司右衛門尉なる者愛娘の生牲の役に當りしを悲み、金に飽かせて京から小夜と云ふ遊女を購ひ來つて身代りに立てた。小夜又の名を(391)京の君と云ふ、肥前松浦郡の生れである。遣の森で最後の食事を爲し化粧阪で化粧を爲し見分森で人々に分れ筏に乘せられて池に浮んだが、護持佛の藥師の功コに依つて、大蛇は却つて得脱し其身は恙無きを得たとあるが(二卷六九一頁)、此話も亦其昔都あたりから伴ひ下つたものと思はれて、室町時代の物語の中に「さよひめ」と云ふ一篇が此と最もよく似て居る。但し私は讀んで見たのでは無い。藤岡氏の鎌倉室町時代文學史三六二頁に出て居る梗概を受賣りすれば、さよひめは壺坂の松浦長者の娘であつた。母の貧苦を救はん爲に身を賣つて大蛇の人身御供となつたが、後に(佛力に依つて?)助かつたと云ふのである。二つの話が特に松浦さよ姫の名を擇んだ理由は尚充分に明白で無いが、石に化したと云ふ類の古い話が幽かに殘つて居た上に潤色したのではあるまいか。遊女と云ひ化粧坂と云ふ名に由つて、更に中世巫女生活の一端を推測せしめ得るやうに思ふ。因に前號の卯月八日考の中に、藥師の信仰を四月八日に結び附けたのは特殊の例のやうに論ぜられたが(四卷六六〇頁)、二十年ばかり前に出た信達二郡村誌などに依れば、福島市近傍の村々にある藥師堂は賽日が殆と皆四月八日である。而も必しも水の邊でも山の頂でも無いのを見ると、此日を節日とする地方の古俗に據つて起つたものとするのは頗る不安心な斷定である。
 
   松童神
 
 信州戸隱山に於て巫の家は姓無く代々松王と名乘ると云ふ報告(四卷一八八頁)を見て、ふと心付いたことは八幡の末社に松童と稱する神のことである。新編鎌倉志一鶴岡八幡の條には、松童は八幡宮記に八幡の牛飼と云とある。男山八幡の末社松童に付ては山城名勝志十八に末社記と云ふを引いて、高良社の板敷の下に坐せしめ給ふ、由緒ある歟(392)云々とあり、更に宮寺縁事抄一末には、「松童−不動、呪咀神也、又高良分神也と貞觀三年行教が夢の記に見ゆ。高良板敷の下に御坐、別社無し、惡神たるに依つて目を放つべからざるが故に」などとも見えて居る。京都では北野天神の末社に亦一の松童の社がある。坊目誌に依れば祭神は應神天皇なりとも云ひ、一説には又初代の嗣官良種の子太郎丸を祭るとも云ふさうである。何れにしても型の如き眷屬神であつたことは略明かである。中國から四國に掛けては此神の名が八幡以外の社の從神にも有る外に、又松童權現などゝ稱して獨立の小祠にも多く分布して居る。惣道宮或は祟道社などの字を以て示さるゝ岡山縣下の社もやはり松童の音讀では無いかと思ふ。松王の王の字も單に童兒の通稱に多く用ゐらるゝと云ふのみで無くもとは王子即ち神の御子と云ふ意味から出たものとすれば、恐くは亦現身の松童であらう。我々は菅原傳授手習鑑に於て最も有名なる一の松王丸を知つて居るが、其より古い物語の中でも、同じ名は既に久しく世に流れて居たのである。平清盛が兵庫の築島を企てた時、松王と云ふ童兒自ら志願して人柱に立つたことは、攝陽群談九に見えて居り阿部泰氏が彼の爲に建立した石塔が能勢郡田尻村に在つたと云ふ。日本宗教風俗志には神戸市來迎寺の本堂の前に松王人柱の石標があると記して居る。松王は讃州香川郡の人田井民部の嫡子であつた。伊豫上浮穴郡田渡村大字臼杵の田井大明神は民部後に此地に移り住み、神になつた我子松王小兒を祠ると稱し、其人柱の日を應保元年七月十三日と傳へて居る(明治神社誌料)。思ふに松王人柱の物語は中世都鄙に流布した爲、此名ある神社に就て縁起を結構したものであらう。而して松王を讃岐の生れとする説は此外ではまだ聞いたことが無いが同國香川郡圓座村大字圓座には松王山と云ふ地あつて、八幡の社がある。全讃史に曰く、或云其地舊有v祠、主2松王小兒靈1、後以2八幡1配v之、故曰松王山(同上)。然らば是も八幡に從屬する一箇の松童神であつて、人柱の傳説は寧ろ後代の流行に催されて添附したものではあるまいかと思ふ。松童又は松王のマツは上古の貴人の名にも往々用ゐらるゝ語で、若狹神名帳などには尊の字を書いてマツと呼び奉る神も二三ある。何か此樣な意味を有する古語では無いかと伴信友翁なども注意して居る(若狹國官社私考下)。平田氏の玉手襁七には、櫛眞智命などのマチは太兆のマニ(393)と同言だとあるが是はまだ信じにくい。それは何れ決定を將來に期せねばならぬが、兎に角中央部の諸國に多く見る松塚と云ふ塚と、其塚の神かと思はるゝ松神と云ふ神は、同じく右のマツから出た名稱で、美人小野小町に托せらるる多くの小町塚も、亦此類に屬すべきものかと考へる。而してマツは自分等の見た所では、さまで面倒に語原を考へ入らずとも、マツル或はマタスと同じ筋の古語で、單に之を神の奉仕者と解してよいやうに思ふ。
 
   十貫彌五郎坂
 
 雜誌「古蹟」二卷十號(明治三十六年十月刊行)を見た處、其雜報欄に秋元篤次郎と云ふ人が、御尋ねの野州の彌五郎坂のこと(四卷五八九頁)を報告して居る。此坂舊名は早乙女坂で、地は鹽谷郡喜連川町大字早乙女に屬して居る。石碑と云ふは坂から西南に當る丘上に在り、總高さ四尺六寸五分の五輪塔、但し銘は無いとある。從つて彌五郎坂の由來と云ふのも單に一の口碑ではあらうが次の如く述べられて居る。天文十八年宇都宮下野守俊綱が鹽屋兵部大輔惟朝を攻めた時、烏山の那須資胤は鹽屋を援け、宇都宮方へは水戸の佐竹家から松尾彌五郎博恒と原隼人との兩士に數百騎を引率せしめて來援した。九月二十七日宇都宮の軍が早乙女坂に陣を取つて居る所へ、那須の一族伊王野氏の士に鮎瀬助右衝門と云ふ者智謀を以て不意討を掛け、大將の俊綱矢に中つて斃れ、彌五郎と隼人の兩人も之を憤つて其場を去らず討死をした。此地は則ち其彌五郎を家來の者が葬つた場處である。後年宇都宮家に於て彌五郎が義勇を感ずるの餘、永樂十貫文を出して石を買ひ墓を表せしより、土人呼んで十貫塚と云ひ或は又十貫佛とも稱す。終に坂の名も彌五郎と謂ふやうになつた云々。彌五郎の子孫は佐竹侯に仕へて同じく松尾彌五郎と云ふ。天明中茲を過ぎて墓(394)詣りを爲し、隣村熟田村大字松山の人に墓の掃除を頼んで往つた由で、今日土地の人がこの彌五郎を鮎瀬彌五郎と傳へて居るのは敵味方を混同したもので、松尾彌五郎の名は舊記類にもあるから疑は無いとある。以上が雜誌所載の大要である。此序に申し添へたのは、御靈神の隼人と稱するは必しも九州の八幡社のみでは無い(四卷五八七頁參照)。美濃不破郡の金山彦(南宮)神社に於ても、本社境内と奧院との二所に隼人社あつて祭神火闌降命と稱し、而も同郡荒尾に在る首社に於ては、昔平將門の首級獄門を拔けて關東へ飛還らうとしたのを、右の隼人神が箭を放つて之を射落し、其首を此に祀ると稱して、東美濃の關太郎と同樣に、首から上の病に願掛けをする習慣が行はれて居ると云ふ(木曾路名所圖會二)。十貫彌五郎坂の口碑が一方の英雄原隼人に對して冷淡であるのは、或は彌五郎も隼人も同じ大人であつたことを意味するものかも知れぬ。一寸參考までに。
 
   蝦夷の内地に住すること
 
 樺太|富内《トンナイ》村の山邊安之助君などは昨年の夏立派な洋服を着て私の家へ來た。色こそ少し黒いが六尺の大男で眼が鋭く口髯が見事であるために、我々によりも寧ろカイゼルの寫眞によく似て居た。先年室蘭の江供で會つたアイノの紳士も、腮の髭を奇麗に剃つて居たので、些も北狄のやうな感じがしなかつた。旭川の兵營などで彼等の青年を教育した士官は?經驗せられたことであらうと思ふ。實際首から上を内地人と同程度に修飾させるならば、きつと郷里の誰かに似て居るやうに思ふことがあるに違ない。内地にもアイノ手とも稱すべき顔容は隨分多いやうである。以前何囘も面會したことのある某通信社のF君の如きは、江供の舊知己の令弟かと思ふやうであつた。其語音に由つて君は(395)青森縣でせうと聞いたら果して津輕人であつた。併し獨此地方の人ばかりでなく、現に體にばかり毛が多いと言はるゝ某縣の顯官、又某省の能吏某氏の如きも、眉から顔の輪廓からよく似て居る。此人々とても決して五代や七代の前に内附した人ではあるまいが、古い祖先の遺傳が偶發した者と思ふ。
 千年前の朝廷の記録には俘囚優遇の證跡がいくらも見えて居るが、彼等の最初の生活はやはり寂しいものであつたらうと思ふ。彼等の戸主が隣村の住民と共に自分でも家の由緒を忘却して了ふ迄にはよほどの年數を要したであらう。或は腕力で美しきシヤモのメノコを娶り、或は名門の公達を聟にして、普通の大名小名の格に入つてしまつて今では、御互に高千穗へ降りて來た仲間のやうな積りで居る。又それが善いのである。後世蝦夷歸服の方式が勵行せられぬやうになつてからふらりと顔を出した者、或は内々で北方の山中に居た連中に至つては對等の地位を得ることが中々容易で無かつた。茲には其等氣の毒な人々の事を書いて見ようと思ふ。
 吉田さんの地名辭書に引いてある、同姓松陰先生の東北遊日記には、青森縣東津輕郡三厩村大字宇鐵アイノのことが書いてある。曰く龍飛崎《たつぴさき》の近地に五村あり、上宇鐡本宇鐵六十間(何とよむか知らず)筆島釜澤と云ふ、戸數合せて六十許、其人物舊くは蝦夷人種に係る。今は則ち平民と異なるなしとある。此記事は勿論實地の見聞であつて、橘南谿其他の前人の説に依つたものでは無い。東遊記後篇卷一に載せた記事の如きは、大又聞と見えて甚だ茫漠として居る。曰く津輕及び外ヶ濱には蝦夷語の地名多し、今もウテツなどの風俗は稍蝦夷に類し、津輕の人も彼等は蝦夷種と謂ひて賤しむ也。余思ふにウテツ邊に限らず、南部津輕邊の村民も大方は蝦夷種なるべし、唯早く王化に服し風俗言語を改め、先祖より日本人の如く云ふことなるべし云々、其證據として南部盲暦は日本語と日本の事物を知拔いた者でなくては解らぬ品物であるから、寧ろ其使用者が純大和人である證據になる。あの頃の京都人を驚かしたゞけの話である。又雲根志卷五には斯んな記事がある。外ヶ濱は九十三里、此濱通に蝦夷の住居五六軒づゝあり、月代半分剃り眼赤く耳に環あり、昔より代々爰に住する地なりとある。此書の著者木内石亭は南近江の金滿家で、あまり旅(396)行した人では無いらしいから、多分は遊歴者の宿をして宿賃に聞いた話であらう。耳に環ありなどは少々信じにくい。但し雲根志は安永二年の出板で東遊記より古いから、南谿大人から聞いたのではあるまい。
 文化何年かに遠山何の守と云ふ御旗本が松前へ出張した折の紀行未曾有記と云ふ書には、又別口の記事がある。曰く藤島(前の筆島のことか)ウテツ及ワクテ川等の四ヶ村は蝦夷人なりしが、五十年以來今の俗に化したり、今も蝦夷の子孫なりと云ふ者在りと云ふとある。宇鐡は津輕海峽の昔の渡船場たる三厩に近いから、殊に人がよく聞いたので、殆と爰ばかりにアイノが居たらしく思はれるが、事實は決してさうでは無く、北海道に面した海岸には到處に澤山住んで居たことは更に精確な證據がある。右の未曾有記と  略々同時代に、三河國の人で仔細あつて十數年の間秋田能代から津輕外南部の方面を漫遊して居た人がある。其名を白井眞澄と云ひ、奇特なる大部且つ繪入の遊覽記を世に遺して居る。此書物には何か書いてあるだらうと探して見ると果してあつた。即ち眞澄遊覽記卷十一であるが、斯う書いてある。上烏鐡《カミウテツ》の浦人はもと蝦夷の末なれど、物言髪容今は異浦《ことうら》と同じ云々。又其次に、母衣月《ホロヅキ》の幣岐利婆《ヘキリバ》が末の者を又右衛門と云ふ。松ヶ崎の加布多以武《カブタイン》の末を今は治郎兵衛と云ふ、藤島の牟左訶以武《ムサカイン》の末を清入《セイニフ》と云ふ。烏鐡の久磨他訶以武《クマタカイン》が末は此浦の長なる四郎三郎也、此四人の保長《をとな》としては濱名浦の七郎右衛門今も禮物を受くとある、此海岸に近い頃アイノの子孫があることは此で愈明白である。
 併し話は決して此で盡きはしない。青森縣の地形は蝦夷の鍬先とよく似て居るが、他の一方の角の尖、即ち下北半島の北面にもアイノの住んだ跡が處々に有る。眞澄遊覽記卷六以下を見ると下北郡風間浦村大字|易國間《イコクマ》は舊くはイコンクマで、爰に居たアイノの附けた地名である。イコンクマの榮えた頃は隣のケタノ澤にも夷人が浦人と共に住んで居た。同郡脇野澤村九艘泊のアイノも、今は絶えたと處の者は言ふが、現に佐野と稱する蝦夷の子孫があつて、夫死亡の後三年妻初子なる者よく家を守り老人に仕へたとあつて、幕府の巡見使石川忠房村上義禮より褒美を受けたと云ふのが寛政五年九月五日の事である。同じ村の大字脇野澤にも昔住んで居たハツピランと言ふ蝦夷の子孫が殘つて(397)をる。又大畑村大字大畑附近のノツコロは元はノツコル、ビツヽケの濱は舊くはヒツツケで、何れも蝦夷人の爰に住んだ者が呼んだ地名である。此邊の海岸は一帶の高砂で、今の民家は皆其上に建てゝあるが、此も寛政五年の高浪に、其砂山が崩されて多くの屍骸が下から出た。何れも臥したるまゝ埋めてあつたから、アイノであらうと云ふことであつた。アイノは死すれば寢たる樣に常に卷き塚《セトンバ》に籠めるのが其風習である。此徒には永く此地を自分の村として居たらしいが、同時に今の北海道とも海上自在に往來したと見える。下北郡川内村大字宿野邊には蝦夷人スクノベツなる者が住んで居たとあつて、檜河《ヒカワ》の西に村地がある。或時の凶年に出逢ひ遁げて松前へ還つたと云ふことで、平所《ヒラトコロ》と言ふ地名ばかり遺つて居る。尤も此等は皆海峽に面した蝦夷地の對岸であるが、或は青森灣の奧深く、淺蟲の温泉から青森の町へ通ふ海岸、横内組の袈裟森の附近にも、昔ジロサクと云ふ蝦夷が居た家の跡がある。小さい岬の突端であつて、其處の立石の名を祖母石《ばばいし》と呼ぶのは、ジロサクの女房老いて我子の遠島渡する別を歎き、此石となつたのだと云ふ望夫石傳説を伴つて居る。
 更に南部の東の荒濱、上北都六ヶ所村大字泊の少し北にも蝦夷人の住んだ村地がある。其地名を蝦夷屋敷と云ふ。人も知る如く蝦夷屋敷・蝦夷穴・蝦夷塚などは東北地方には無數にあつて、色々珍しい而も事實としては信じにくい口碑を有つて居る。關東以西では其傳説が少しづゝ變化して行つて、惡鬼ともなれば大盗ともなつて居るが、元は一つ話からであらうと思ふ。北の海岸では越後は勿論佐渡にも能登にも蝦夷の大人の昔語がある。面白い問題であるから他日別に研究してみたいと思ふ。此序に氣が附いたのは能登鳳至郡宇出津町大字宇出津の地名である。今はウセツと呼ぶが此もとは、文字の通ウデツであらう。ウテツはアイノ語のウトエツの約で、即ち彼等が好んで住む岬の側を意味するかと思ふ。ノトも亦此語の岬のことだと云ふ説がある。
 内地の蝦夷人が世間を狹く、塚穴や窟に棲んで居たことは事實であらう。從つて此等の故跡に關する言傳へのあるものは必しも夢のやうな傳説では無さゝうである。之に就いて思ひ出した二つの話を掲げて此篇を終らうと思ふ。今(398)からちやうど百五十年前、寶暦十三年の序文ある遠野古事記の中に、其時から又八十五年前、著者の母が幼少の時に、松前蝦夷か田名部《タナプ》(陸奧下北部)の夷かは知らず、惣體に毛の生えた乞食夷が、小弓に小さき矢を取添へて度々來たのを小兒等が事の外怖れて、常に部屋の隅に逃隱れたと云ふ話が載せてある。度々來たと云へば此附近に住んで乞食をして居たのである。外南部の海岸から四十里以上ある。又昨年の春千葉縣茂原在の鶴枝村で聞いた話に、東上總の海岸では近い頃まで岡の蔭などに穴住居をして、夏冬共に裸で海へ入つたりする一種の賤民が居た。此を此地方の人はインゾツポ又はエンゾツポと呼んださうである。エンゾ坊は必ずしも蝦夷で無いかも知らぬが、其語は少なくもエゾから來たものと思ふ。少なくも曾て此徒に似た生活をするエンゾ坊と云ふ人民が居たことを推論することが出來る。上總のエンゾツポについては、篤志の人に猶詳しく調べて貰ひたいものである。
 
   動物文字を解するか
 
 江戸時代の笑話に、或大名密々の相談ありと家老用人を誘ひて品川の沖へ舟を乘出し、何と裏の畑に大豆を蒔きたいと思ふがどうであらうと云ふ。そんなお話ならば御邸で成されてもよろしいにと申せば、はて鳩が聞くわいと。隨分馬鹿な殿樣ではあるが、自分は果して江戸人が之を笑ふ權利が有つたか否かを疑ふ。我々の家では今でも鼠落しを掛ける日は、極めて小さな聲で相談をする。誤つて鼠に聞えるやうな聲を出すと、又大きな聲で今日は罷めだ/\などと言直す。舟中の大豆論と何ぞ擇ばんや。但し神代には草木までが物を言つたとあれば、異類ながらも隣人に日本語を解する者のあるのは深く怪しむに足らぬかも知れぬ。或動物に至つては漢字まじりの文章までも讀めると看做さ(399)れた。松浦靜山侯の甲子夜話に、九州某地で兎の畠を荒して困る時は標札を其邊の山の口に立て「狐のわざと兎が申す」と書いておく。其目的は狐が之を見て、兎はけしからぬ奴だ。自分で盗をして居りながら、おれが盗んだやうに人間に密告したらしい。覺えで居れ、今度此邊へ來たのを見たら、引捕へて詰責してやらうと、且は自分の面晴の爲に常に待構へて居るだらう。兎が再度遣つて來ればいゝ氣味、之を知つて來なければ好都合と云ふわけで、大に考へた人間の知慧である。先頃拙宅横町の駄菓子店には、店先に厚紙の札を立て、此に「蟻一升十六文」と書いてあつた。山中翁に話したら、昔からすることである。蟻が之を見て、さう安く賣られては多勢が買ひに來るかも知れぬ。品切になるまで取盡されては大變なりと早々に立退くだらうと云ふ理窟である。又「油蟲大安賣」などと書いておく例もあるさうだ。お客をシツコの狗にした對動物政略である。斯な心持でゐなければ狐狸の多くの因縁話、又は浮世夢助の册子にあるやうな、所謂タマセエとか生れ更りとかの話が耳から耳へ流れ傳はらぬ筈である。
 
   磐次磐三郎
 
 羽前東村山郡山寺村立石寺の磐次磐三郎の古傳は、角田浩々歌客の漫遊人國記に詳かである。此は主として立石名勝誌若くは其編者の説に依られたものらしい。土地の口碑に從へば、磐次と磐三郎とは兄弟の獵師であつた。慈覺大師の教化に因つて佛法に歸依し、廣大なる山澤の地を獻じて伽藍と爲し、狩を罷めて自ら聖地の守護に任じた。即ち半神半人の英物である。但し兄弟とは稱すれども此寺に在る木像は只一箇である。今の人は之を兄の磐次の方の像として居る。閻魔さまのやうな坐像である。寺が建てられて此邊一帶が殺生禁斷の地と成つたので、猪ども大に之を悦(400)び、齊しく來つて大師に禮を述べると、大師は余に謝するよりは磐次に謝せよと言はれた。之に因つて今も毎年七月七日の祭禮に、附近の村々より鹿子舞《しゝまひ》を出すこと豐年には十數組に及ぶ。何れも猪に擬したる装束を爲し、鐘鼓相率ゐて先づ磐次の像の前に舞、次に慈覺大師の祠堂の前に往くとある。又山寺の館の川向に對面岩と云ふのは、慈覺が磐次と對面せられた古蹟、山寺より奧へ進んで奧羽の中央山脈なる二口峠を越えんとする處に、路の左右に巨巖の天を衝いて併び立つのが磐司岩である。兄弟は爰に居を稀へて山寺の邊まで獵をして居つたと云ふ話である。
 羽前の磐次磐三郎が境の山を越えて奧州から來たものであることは、土地自慢の山寺の人たちも之を認めて居る。奧州では此兄弟の事を記したものは觀迹聞老志などが古い方であらう。此書に依ると、磐次郎磐三郎の像はもと陸前名取郡と宮城郡との境の磐神山の山頂に祠を建てゝ安置してあつた。二人は獵師にして神怪の人である。其像は獵人の弓矢を持つた形とあれば、即ち現今立石寺にあるものは別物である。名取郡秋保村大字新川にも亦磐神山と云ふ山がある。此兄弟の者を祀るに因つて此名がある。峯が三つに分れて中を櫛形と呼び、西を陽磐神、東を陰磐神と稱す云々とある。此二つの磐神山の名は今の陸地測量部の五萬分一圖には見えて居らぬ。新撰陸奧風土記には右の佐久間氏の記述を引きながら、第二の新川村の山をのみ磐神山と云ひ、前者をば單に磐山と書いて居る。區別の必要から既に土地の人が斯く呼び更へて居た爲であらう。磐山の麓には拈華山大梅寺あり。其山の上には磐次郎兄弟の像を祀ること觀迹聞老志の記事と同じである。
 新川村の磐神山に付ては風土記の方に又斯な記事もある。此山は龍駒ヶ嶽の南に當り昔磐次郎磐三郎の兄弟が住んだ山である。後人之を祀つて山の神とした云々。此等を考へ合せて見ると、磐次が住んで居たから磐神山と云ふのでは無く、磐神山である故に其山の神をバンジと呼ぶに至つたのではあるまいか。岩神山と云ふ山は國々に多くあり、而も磐神社は延喜式以來の陸前の地方神であつたから磐司に由つて始て現はれた山の名とは思はれぬ。そんなら磐三郎はどうであるかと云ふと、此は山の神が兄弟の二神であるとした結果磐次磐三郎と口拍子できまつたと見てよろし(401)い。曾て栗田博士が奈良朝時代の兄弟の名の附け方を戸籍などから調べられた時にも、之に似た多くの例を擧げられたが、中世人の通稱にも、伊藤五伊藤六とか吉次吉六とか云ふ風習が永く行はれて居た。新編會津風土記に依れば、越後東蒲原郡上保村室谷には、岩代との境に銀太郎銀次郎の二山があつて昔此名の者が始めて踏分けたと傳へて居る。陸前桃生郡飯野川町大字皿貝には萬太郎山がある。羽前南村山郡東村大字菖蒲には、陸前との國境に番城山がある。安部氏の城跡と云ふ古蹟である。一名を萬上山又は、萬次郎山とも云へば、番城ももとバンジロと呼んだのかも知れぬ。バンジ若くはバンジヤウと云ふ山は他の國にも多い。駿河の愛鷹山の一峰にも伴次郎山一名鋸嶽がある。伊豆の天城山でも、五萬分一圖玖須美圖幅に依れば、東の千三百米の峯を萬二郎岳と云ひ、西の千四百米を萬三郎岳と云ふ。此二峯の名稱は既に豆州志稿にも見え、萬三郎一名大嶽最も高しとある。萬二郎のマンジロウでない證據は、伊藤祐綱の伊豆志に頂上に蠻治郎嶽ありとあるのでも明かである。今此等の山の名が悉く磐神《いはかみ》のバンジンから出たと謂つたら無理かも知らぬが、少くとも二つの峯に兄弟らしい名を附けたと云ふことだけは、越後と伊豆の例が其旁證を示してゐる。
 次に山の神を雙神とする例は決してアイヌばかりの慣習ではない。信州高遠領猪鹿山の取附口上下に山神の社あり、上を女神と云ひ下を男神と云ふと、木乃下陰中卷に見えて居る。近くは筑波山の男體女體、更に二子山二子塚の研究で發表せられた諸國の妹背山の如きも是である。奧州津輕の岩木山に住むと云ふ萬字錫杖の二鬼の如きも、男女陰陽の神では無いが、本來は山寺の磐次磐三郎と同じ傳説である。近頃出版した「津輕のしるべ」の之に關する記事は、全然津輕一統志の漢文を和譯したものであるが、卍字と錫杖との二鬼は今も山中赤倉と云ふ處の洞に住んで居る。道者のそこに往く者は必ず無言で通る。大聲を立てると風雨の害がある。凡そ人の信不信に因つて或は護り或は懲すこと大峯の前鬼後鬼の類である。山より湧きて流るゝ清水を錫杖清水と云ふのも此鬼の住む爲だ云々とある。岩木山が世に聞えた名山である爲に、卍字錫杖も夙くより人に知られ、或は之を唐土度索山の神荼羅鬱壘《しんだうつるゐ》、又は我朝鞍馬山の藍(402)魔總王などに比べられ、或は惡路王高丸などの荒蝦夷の物語に附會せんとする者があるけれども、結局山の神が二體であつたと云ふ以上には此と云ふ捉へ所も無い話である。全體卍字錫杖の名は事々しいが、二つの名には何の連鎖も無い。之を説明するためにはどうしても立石寺から磐次君を呼んで來ねばならぬやうである。即ち自分の考では、岩木山の萬字は亦一箇のバンジであつて、錫杖はもと寺地占據の古い言傳へを表示する一つの道具であつたのを、何時の世にか之を苗字の相棒の名にしてしまつたものと思ふ。其證據としては今一つの地主神が伽藍の地を讓つた話を擧げたら十分であらう。二處の磐神山から程近い陸前宮城郡七北田村の龍門山洞雲寺の古傳として、仙臺封内風土記に録する所のものは、形式に於て至極羽前山寺の話とよく似て居る。大昔此地に夫婦の異人が住んで居た。男を大菅谷と謂ひ女を佐賀野と謂ふ。共に紅顔美麗にして幾年を經るも老いず。常に五六百年の事を語り姿は少年のやうであつた。慶雲年中のことである。定惠と云ふ僧來つて夫婦の家に宿し、此地を觀るに九十九の峯と九十九の谿とあつて靈地である。寺を建てんと欲して其地を乞へども夫婦の者聽かず。仍て携ふる所の錫杖を以て地に樹て、其(影の?)及ぶ所だけを借らんと云ふ。二人之を許せば、奇なる哉其居る所の境内悉く錫杖の及ぶ所となる。夫婦は是非なく其地を僧に引渡して去り、西の方二十里根白石の山間に往きて住す。そこを堂所と稱し今も折として異人を見ることがある云々。右の錫杖は即ち岩木山に在つては山の神の一人の名に變じたものであらう。東寺の稻を荷ふ老人や三井寺の新羅明神や、伽藍の片端には伽藍神又は地主神を祀つて、之を寺建立以前からの神と稱するは常のことである故、之に似た縁起談も段々古書に見えて居るが、東北では之と蝦夷の征伏史とを結び附けて、慈覺大師などの功績を立派にする風も夙くよりあつたらしく、又其一部分は眞實であらう。唯之を或地の或寺にのみ限つた歴史とすることはどぅしても誤である。磐次磐三郎の由緒に就ては、立石寺の古縁起山立根元卷に次の如く言ひ立てゝあると云ふ。曰く猿王山姫と交り京を出でゝ奧羽に至り生んだ子が磐次磐三郎である。猿王二荒の神を助け赤城の神を攻めて勝つ。其功を以て狩の權を得、山を司どる云々。此話は古くは二荒山の縁起、朝日の長者朝日姫の物語、猿丸太夫の生立記と(403)して下野から會津方面にかけて廣く行はれて居る口碑である。而も姫を連れて遠國へ下る部分は更科日記の竹芝の瓢の筋を引いた山田白瀧の戀物語、神の爭の一方に加擔した勇士の手柄は、今昔物語に根を持つた三上山の蜈蚣退治の系統に屬すべきものである。猿丸太夫とか猿王と云ふのも慈覺が尊信した山王と縁があつて、本來は天台宗の傳承であらうと思ふ。
 
   京丸考
 
 我邦の海岸近い低地に住む人々は、山を知らなかつた海部の子孫でもあるのか。山家の生活に付いていつもえらい誇張をやるので困る。鹿猿の輩とても危險の無い限は里近くへ出て住むのに、人ばかり深山幽谷に住み得る筈が無い。そんな事をして山人を仙人扱ひにして貰ひたく無いものである。さて?引合に出る遠州京丸の牡丹の話、あれは今の周智郡氣多村  大字小俣京丸の一部である。人の住む在所である。路の遠くて惡いのは人家の數が少く經濟力が弱い爲である。偶其土地の名を奧の山などと呼ぶ爲に、不當な概念が出來てしまつた。山中の牡丹と云ふことは、既に柳里恭が雲萍雜志にも之を認めず、單に色紅にして黄を帶びたる花とある。石楠花だらうと云ふことである。然るに馬琴は其紀行の中に京丸の傳聞を記して、巨大なる花片が流れ出るなどと、殆と武陵桃源を以て之を視たのみならず、更に其小説のたしか稚枝鳩か何かの中に、此地の事を取入れて纐纈城の古譚の燒直しを試みて居る。併し私は奧山の人奧山君を知つて居るが、同君も義理で少々は合槌を打つが、よく聞くと唯淋しい一山村と云ふに過ぎぬやうである。地圖で見ても奧山は天龍の水域でさして僻地では無い。三河を遡れば村中まで車も通ひ、製絲其他の工場もある。而(404)して字京丸は唯此から入込んだ谷合と云ふだけである。要するに一個の結構な盆地で、今でこそ輕便鐡運を架ける話が無いから邊鄙などと云ふが、四隣を山川で斷ち切つて纏り宜しく、而も出端の惡くない點から見れば、武家時代に於ては理想的の一莊園である。掛川志にあつたかと思ふ。奧山郷は五村に分れて居るとある。(山中の村には五箇と名づけ五の部落より成るものが多いのは何故であらうか。)今の周智郡奧山村大字奧領家及び大字地頭方、同城西村大字相月、磐田郡山香村大字大井、同佐久間村大字佐久間であると云ふ。前の二村名は單に莊園制度の完備して居た時代に此村の拓かれたことを證するのみならず、後日領家と地頭との間の納物に關する諍訟があつて、當時最も普通なる和與手段に由り、雙方の間に下地を中分して、二箇以上の所領となつたことがよく分る。それほど物の判つた人の住んで居た土地である。古老の説では、里毎に里長一人あり、之を公門と謂ふとある。公門は即ち公文であつて、莊園第二級の事務員の名である。九文級或は雲久などと其昔の給田の名となつて殘つて居る例はあるが、所謂名主庄屋の元の形を示す名稱として存するのは珍らしい。又同じ掛川志に、奧山郷は御料の地であつて、三年毎に上番した。仕丁一人ありて之を京夫丸と云ふとある。御料と云ふのは恐らくは三年に一度の京在番と云ふのから來た推測であらうが、小俣京丸の京丸もやはり右の京夫丸から轉訛した地名らしく見える。京夫とは京へ行くべき人夫といふことである。丸は雜色などの名に常に用ゐられる語であれば、京丸と云ふ地は多分は京往きの夫役を世襲的に勤めて居た者の屋敷給田の地であらう。此推定が當れりとするならば、京丸などは此山村の中で最も氣の利いた世間師の住んで居た部落である。冬の圍爐裏の側の話の如きも、?祇園六波羅嵯峨北野で持切つたかも知らぬ。仙人などと馬鹿には出來ぬ在所である。
 
(405)   政子夢を購ふこと
 
 尼將軍とまで言はれた平政子が、鏡を以て妹の好夢を買つたと云ふ一條は、今は歴史のやうに考へられて居るが、あの話は果していつの頃から世に行はるゝに至つたか。之を調べて見たら面白からうと思ふ。今昔物語には吉備公若き時相人の家を訪ふ途に於て、人の見た好夢を買取つたと云ふ話が出て居る。それを前型と認めても説明は出來るか知らぬが、朝鮮には之より遙かによく似た話が遺つて居る。更に尋ねたら勿論共同の祖先が見出さるゝかも知らぬ。それは南方氏などの事業に讓り、茲には唯この一例を引證して置かうと思ふ。東國輿地勝覽卷十二、京畿道長湍都護府の條に曰く、「摩詞岬は五冠山の下《ふもと》靈通寺洞に在り。金寛毅が編年通録に、聖骨將軍の子康忠摩訶岬に居る。康忠の子寶育|居士《こじ》と爲り、仍て木菴を構へて居る。新羅の術士あり、之を見て曰く、此に居らば必ず大唐の天子來りて婿とならんと。後二女を生む。季を辰義と云ふ。美にして才智多し。年甫めて笄す。其姉夢むらく、五冠山の峰に登れば、旋流天下に溢ると。覺めて辰義と説く。辰義曰く、綾の裙を以て之を買はんと。姉之を許す。辰義更めて夢を説かしめ、攬して之を懷くこと三たび、既にして身動き得あるが如し。心に頗る自負す。唐の肅宗潜邸の時、遍く山川に遊ばんと欲し、天賣十二載癸巳の春を以て、海を渉りて松岳郡に至り、摩訶岬養子洞に抵《いた》りて寶育が邸に寄宿す。兩女を見て之を悦び衣綻を縫はんことを請ふ。寶育是れ中華の貴人なることを認め心に謂へらく、果して術士の言に符すと。即ち長女をして命に應ぜしむ。纔かに閾を踰ゆれば鼻衂して出づ。代ふるに辰義を以てす。遂に枕を薦む。留まること期月、娠むあるを覺ゆ。別に臨みて云ふ。我は是れ大唐の貴性なり、と。弓矢を與へて曰く、男子を生ま(406)ば則ち之を與へよと。果して男を生む。作帝建と曰ふ(?)。後寶育を追尊して國祖元コ大王と爲し、其女辰義を眞和大后と爲す云々」。微行中の貴人を聟に取ると言ふ一件も、我國には極めて多い例で、人によつては必しも之を空想の物語だとは今も考へて居らぬ。家々の系圖にも?事實として傳へられて居り、現に貞永式目の一箇條にも、月卿雲客を女婿にしてもだめだと規定してある。つまりは米國の富豪が娘を歐州貴族に呉れたがるやうな氣風が、日本中世の田舍にもあつた爲に、所謂山路の牛の系統に屬する長者の傳説が多く流布したのであらう。北條時政が頼朝を介抱した話なども、果してどの點までが史實であるかは決しかねるが、若干の物語的分子の最初から加味せられて居たことだけは疑が無い。殊に伊豆の伊東に殘存する多くの口碑の如きは、伊東氏と北條氏とを、一種の巨旦將來蘇民將來として取扱つたものであつて、強ひて類推すれば、弘法大師石芋の話、乃至は花咲爺と舌切雀の童話などと共に、古今一貫した善人惡人譚の一變の形と見ることが出來ると思ふ。
 
(407)   「郷土研究」小通信
 
     「紙上問答」の中止
 
 紙上問答は近頃質問ばかりたまつて、どの方面からもとんと應答が來なくなつた。格別えらい難題が續出したわけでもないから、是は幾分讀者間に不人望になつたのだらうと考へ、特に此欄を設けることを一時見合せ、其代りに方言とか農家建築とか一つ/\の題目の爲に各一欄を開き、行く/\報告を分類して見たいと思ふ。以前寄せられた應答はまだ殘つて居る。それは追々に適當の場所に掲載し、且つ其都度以前の質問の時の番號を採用して提出者に注意しようと思ふ。此際に於て今迄の親切なる説明者に一應の御禮を申す。(以下編者より)
○讀者交詢の必要、併し今後も成たけ盛に讀者同士の通信をして貰ひたいと思ふ。それを仲介するのは此雜誌の大切な任務の一つとして居ることは決して變らぬのである。それにはこの「小通信」の欄は全部でも提供する。斯る話は外には有るまいと思ふがどうかと云ふやうな今迄の紙上問答には少し出しにくかつた通信でも、此からは自由に發表し得られる。單純なる類例の蒐集又は不審の説明を求められることは勿論結構である。兎に角此欄を變化のある自由な雜談會として置きたいのが編輯者の目的である。
 
(408)     「裏日本」
 
 久米文學博士の「裏日本」(大正四年十一月刊)は面白い書物である。大隈伯がまだ首相にならなかつた明治四十五年の初夏、山陰道を一緒に旅行した時の産物であると云ふ。道筋の山川風物に就て實地に古代生活の説明を試みんとした者で、話し振が如何にも快活且つ親切である。旅行團長たりし大隈伯の話が面白い如く此書も面白い。一つの縣又は數郡の郷土を記述するのに、細かな地圖と良い寫眞を添へて、此本のやうな説明をしたら定めてよく旅行者の頭へ入るであらうと思ふ。一度は模倣して見たいものである。但し「裏日本」には二つの小さな缺點がある。其一つは話が此の如く綿密なのに、旅行が汽車であつたことである。此では假に五囘七囘の往返を重ねても、あれ/\と云ふ間に實地は窓前から飛過ぎてしまひ、やはり大半は机上の論議になつてしまふ處がある。二つには博士の歴史があまり明瞭であることである。若し論者の全部がこの勇氣に富める斷定に信服したとすれば、日本の古代研究は困つたものになるであらう。假定説なら假定説らしく、反證を擧げても失禮で無いやうに言つて置いて貰ひたかつた。
 
     「澀江抽齋」
 
 今年の始から東京日々と大阪毎日とに連載せられて居る森?外氏の「澀江抽齋」傳は、學ぶべき所の多い文章である。抽齋は弘前藩の儒醫で篤學の人ではあつたが、森氏が特に傳へんとして居るのは必しも此人の生涯で無く、此人(409)を中心とした前後百年間の社會の變遷であるらしい。非常に複雜な人事と時運とを活々としたよく響く筆で靜かに述べてある。後に本になつて永く殘ればよいと思ふ。
 
     信濃郷土史研究會
 
 信濃は兎に角に斯學の上から幸福な國である。又一つ此名の會が起つた。尤も此會は栗岩英治君一人の企で、同氏が此後自著を六册出版して會員に頒つ迄である。第一編の諏訪研究は既に出た。題目が多くして且つ新しく、其假定の何れも不安心なのは、研究と題したことの尤も適當なるを思はしめる。次には善光寺と戸隱との研究を出すと云ふ。
 
     美濃の祭禮研究
 
 岐阜日々新聞は此春から「祭の傳説」と云ふ欄を設けて縣下各村の祭禮の記事を蒐集して居る。其切拔は?彼地の誌友より送つて下さるが、此も他日一册子にまとめて置きたいものと思ふ。但し新聞が一般の興味を重ずることゝ、地方の文人たちが其文才を示さうとせられるので、却つて事實の要點を傳へるのに妨があるのは困つた話である。單純なる冗長かはた又筆者の新なる修飾かは、現在に於ても之を識別するのが容易でない。
 
(410)     『出雲方言』の編輯
 
 本年四月松江に於て發行せられた菊判百五十頁の方言集である。以前島根縣の教育會雜誌に連載して居たものを、改訂して出板したので、著者は言語學には素人だと序文にあるが、不熱心な專門家を恥ぢしむべきよき素人である。方言の範圍が少し我々の考へるより廣く、他の地方でもよく耳にする語が大分採拾せられて居り、而も出雲特有の語でもまだ落ちて居るかと思ふのがあるから、再版訂正の機會あらんことを希望する。編者は海岸部の人であるか、風の名魚の名其他漁民の用語が割合に多いのは特色である。一つの缺點は方言を無理に解説しようとしたことで、其結果解説にも無理が多い。蒐集家の相兼ねることの六つかしい仕事を同時に成功しようとしたのが惡いのである。附録として擬聲語と小兒語とを別に掲げたのは結構だ。又俚謠や子供の遊び詞を多く集められたのは、此も至つて篤志な企てゞあると思ふ。發行所松江市片原町七九文友社。
 
     ソリコと云ふ舟
 
 『三州船舶通覽』は加賀能登越中の海運業の發達を、明治以後の事實に重きを置いて記述した一書である。著者は原田翁甫氏、西部遞信局海事部伏木出張所の御大典記念出版である。荒い日本海の風浪と闘つて北の方へ出て行かうとした北國人の辛勞が、此書の傳へんとする主たる事項であらう。此書の中に能登のマルキと云ふ漁舟、越中のヰクリ(411)などゝ云ふ河舟の事を説いて、其が板船に對する刳船の古い名であらうと云ふ條に、出雲の宍道湖に用ゐらるゝソリコ舟のことを參考すべしとあるので想ひ出したが、越前丹生郡國見村大字點川と云ふ地等にも此舟を使ふ者があり、其人民をもソリコと云ふこと、古くは越前國名蹟考、近くは又丹生郡誌に見えて居る。此者共は明暦年間に出雲の猪の島(一に居野津とも)と云ふ所の漁民、海上に難風に遭ひ此村の沖合で船破れ溺死せんとしたのを、浦人に救助せられ命助かり、其報謝に此地に留まつて漁業をすると言ひ傳へ、點川浦反子と稱して一種の部落であつた。反子《そりこ》の名は元の舟が反つて居た故の名と名蹟考にはあるが、京都大學の内藤博士などが、ソリは此徒が朝鮮から來たことを示す語で無いかとも言はれるのは、何か仔細のあることであらうか。若し宍道湖に今も活動して居るソリコ舟と同じならば、此舟の日本海を漕いで居た時代も曾てはあつたのである。原田氏の更に調査を進められんことを希望する。
 
     八郎權現の出身地に就て
 
 青森縣南津輕郡の郡會議長で同時に十和田湖保勝會の幹事なる松井七兵衛氏の話に、以前の十和田湖の主で後に南祖坊と闘ひ敗れて此山中を立退き、今の八郎潟に移り住んで其主となつたと云ふ八郎は、もと同氏の住する黒石町の生れであつた。或日三人づれで山へ木を伐りに行き、谷川に遊ぶ魚を捕り之を燒いて食ひ、甚だ旨かつたと思つて居ると、忽ち喉が乾いてたまらなくなり、有る限の水を飲み盡して忽ち蛇體となつたと云ふことは、曾て自分が述べて置いた通りであるが(三卷六〇〇頁參照)珍しいと思つたのはその八郎の後裔が近い頃まで此町に住んで居たと云ふ事實であつた。其證據として松井氏の示されたのは一通の戸籍謄本で、末に自分が黒石町を訪うた本年五月二十七日の日附を以て、黒石町長吉村眞氏が署名捺印して居る。(其の吉村眞氏が今から一年餘り前に死んで居られるのは不思(412)議の一である)。八郎の家と云ふのは黒石町山形町四十番地雜業、戸主は夫齋太後家木村サワ、文化十三丙子年三月二十六日生、癈疾盲とあるからイタコであつたらう。次女ハルエ、安政三丙辰年二月十八日生、此に當郡西馬場尻村山口治左衛門の次男彌八安政四年九月七日生を聟養子に取り、明治十二年二月十六日に離婚して居る。次に翌十三年の二月七日に、同じく當郡花卷村平民佐藤三九郎の弟問慶嘉永六癸丑年七月十五日生と云ふ按摩又針醫かと思はれる名の男をハルエの聟として入籍、明治十七年一月十三日に孫女ハツの生れたのを、翌十八年の五月十九日になつて漸く願濟み入籍して居る。尤も此戸籍は其頃から以後の加除登録がしては無い。松井氏の話では、此一家は十七年頃に何れかへ出寄留して、後次第に消息不明になり、今では何處の地に住んで居るか判らぬ。其屋敷は組替の結果現今は黒石町六十五番地となり、林檎仲買業堀内喜代治と云ふ人居住して居る。元の主人が去つた爲に八郎の住宅なることを示す他の證據は散佚したが、木村の家は昔から火災に罹つたことが無いさうだ。是は爭はれぬ話であつて、現に今の持主になつてからも同じ奇特がある。昨年の大火にも隣の家まで燒け來て類燒を免れた云々。我々は此話をしながら、八郎の方は此通り歴とした跡があるのに、金の草鞋の切れる處まで天下を遍歴し、終に八郎を追ひ退けたと云ふ南祖坊の素性の不明なのはどう云ふものかなどと云ふと、其座にあつた盛岡人の遠藤邦之輔氏は、甫祖坊はたしか南部の人だと聞いて居ると言はれた。此話をした翌日、自分は黒石を出發して十和田湖に登り、湖水の南岸|發荷《はつか》と云ふ地の十灣閣に一泊し、有名な和井内貞行翁にも會見した。此地は既に秋田縣の陸中で、宿の主人も和井内氏も共に鹿角郡の人である。何か見る物は無いかと求めて大正二年出版の鹿角郡案内を得た。其中には又左の如き記事があつた。「鹿角郡草木村(今は大湯村大字)に八之太郎と云ふ ※[獣偏+刃]《またぎ》ありけるが、或時來滿小國山を越え奧瀬の十和田に行き、嘉魚《いわな》を獲りて食ひけるが渇甚しく、溪水に汲ひ付きて飲みけるが、次第々々に水増して澤中沼となり、其身も何時か蛇體となりければ家にも歸られず、其所を棲家としける。三戸郡斗賀村に南祖坊と呼ぶ出家ありけるが、諸國行脚を思ひ立ち首途の夜熊野神社に籠りぬ。時に靈夢あり曰く、汝に金剛草履を與ふべし、切れたる所を住居とせよと、南(413)祖坊諸國を遍歴して十和田の潟に至りけるに、草鞋の緒故無く切れければ、熊野神社の靈示は此所なりと八之太郎に退去を迫りたるも、彼いかで承諾すべき、相爭ふこと七日七夜、八之太郎遂に破れ、男鹿村に逃げ行きて住居しけるとなり」。自分が今二箇の傳説の正閏を裁判するを欲せざること、支那南北の爭に對するよりも猶冷淡であることは、甲賀三郎の一篇を見られた人はよく御承知であらう。唯知りたいと思ふのは、黒石山形町の木村氏で、どう云ふ必要があつて、八郎は我先祖だと言ひ始めたらうかと云ふ一事である。因に云ふ。鹿角郡草木村のマタギと稱して※[獣偏+刃]の字を宛てゝあるのは、※[木+又]の字の訛で叉木の二合である。此者に就いては曾つて本誌(一卷六三七頁)でも問題になつて居るが、猶報告したいと思ふことがある。
 
     川口君の『杜鵑研究』
 
 此頃東京の讀書社會でも評判になつて居る。珍しい穿鑿をする人もあるものだと言うて居る。川口孫治郎氏は此研究の爲に八年の日子を費したと自らも述べて居られるが、時鳥の研究は此で盡きたものとは決して見て居られぬ。爰まで進んで來ると我々讀者の側でも、もつと進んで行つて貰ひたい希望が切に起つて來る。同君が目的を變へて飛騨の高山へ行かれなかつたら或は此本の爲に一層幸福であつたかも知れぬ。此本の中で最も貴いのは著者の實驗から記述せられた中程の數十頁である。恐くは多くの效果無かりし數十夜と合せて、此だけの事實――今まで何千年の問知られずに居た事實を見出した數十百夜の自然觀察は、それ自身が既に立派な記念事業である。どうか農民をも此態度で觀察する猶多くの川口君がほしいと思ふ。書物から得られた材料の整頓排列に就ては我々は不滿である。多くの書物は机の上で他の書物に由つて作られる。一つの記事又發見が、時々免れ難い誤解や誇張を伴うて、他の多くの無責(414)任な本に顯れる。故に材料は出處に基いて分類せられねばならぬ。それよりも必要なことは材料の價値批判である。啻に多くの書名を竝列せしめても正しい智識は得られない上に、物を知らぬ人には此だけ多くの本の名を列べてあるから確かだらうと誤解させる。夫が今日我邦に、殊に時鳥などに關して著しく、俗説の根強く横はつて居る原因であるのだから、新たに研究を公にするからは古來の俗書を今少し實驗的態度で處理して貰ひたかつた。京都の歌人が夢のやうな地理の智識で、只文字の結合を事とした多くの和歌を、記事文同前に待遇して國別にして見られたなどは亦誤であらうと思ふ。是等は時鳥に取つて殆と没交渉な題目である。それよりも今一段國民生活と交渉のある時鳥に、今後の研究を向けられんことを希望して置く。
 
     黒木と筏に就て
 
 駒場大學の林科に奉職して居られる片山隆三氏は、「鬼の子孫」の中に述べた八瀬の黒木が僅の期間土窖の中に入れて黒くなると云ふのを訝しいことに思はれたか、普通に黒木と云ふのは青木に對する或種の常緑樹のことであるが、八瀬の黒木は果して之と異なつて蒸して黒くなるから黒木と云ふとあるが正しいかと問はるゝ。八瀬大原から出る黒木が只の雜木で而も色の黒い事は京都に居た人は皆知つて居る。唯其製法が黒川道祐翁の記事以來二百年間同じか否かは確めたことが無いから何とも言はれぬ。併し此方法の如きは寧ろ我々の方から片山氏の如き專門家に向つて説示を乞ふべきことであると思ふ。學理の研究に先だつて事物の智識を具へらるゝことは、之に附けても切に駒場の學者たちに望みたい。又同氏は「筏組むわざ」は一本流しより後に起つたものだらうと言はれ、從つて小生のツヾラの説明は當らず、つづら折(羊腸)の意味が正しいのでは無いかと言はるゝ。だから自分は此地名の水岸に多いことを注(415)意して置いた。又地名を附した人の心理にも立入つて想像して置いた。何しろ非常に數の多い地名で且つ自分の知る限では山川の岸に在るものが多いから斯う考へたのである。地形の寫眞に照し合せることが出來たら證明がもつと容易であらうが、何故に屈曲した坂路を日本語でツヅラヲリと云ふかと云へば、やはり藤蔓を折つたやうであるからである。其をヲリだけを省いてツヾラとは聞えぬ語である。又筏の古くからあつたことは中古の歌などに多く詠まれて居るのでも證せられる。之を木材搬出の方法とするのは大分怪しいと言はれたが何故であらうか。運材以外の筏とは人を乘せるのか荷物か。船と同じく再び川上へ曳き上げる筏は有りさうにも無い。又同氏は自分の古くから山が伐り荒されたと言つたのを否定せられるが、珍らしいことである。千を以て數ふる山中の村と之に伴ふ山畑は以前樹木を以て覆はれで居たのでは無いとするか、又は近年になつて始めて開かれたとするかで無ければ、斯なことは言はれない。樹の多い山中の川と露出した川との著しい相違は北海道の南北を比較してもよく分る。水が多い時は筏流は決して六つかしいことでなかつたのである。右は特に片山氏と論戰する氣は無いが一般に此類の速斷が惡い結論に歸着せんことを恐れ、實利の學問をする人が愈多く前代生活の智識をもつ必要のあることを證する爲に、例として引用した迄である。又同氏の寄稿を全文掲げぬのは失禮であるが、自分の承服せぬのは論點では無くして論法であるから是非が無いのである。
 
     屋根を葺く材料
 
 横濱鉄道の沿線には大きな農家やお寺などで、屋根をすつかり亞鉛板を以て包んで了つたものが大分増加して來た。馬入川の兩岸の村々では茅は既になくなり、小麥稈も非常に高くなり、據無く石油鑵の底のやうなものを用ゐ始めて(416)居る。自分は之を見て頻に日本の屋根の事が調べて見たくなつて來た。之を研究する小さな會の出來ると云ふ噂を、大きな期待を以て歡迎して居る。屋根の形は之を葺く材料と大きな關係がある。屋根が輕くなつた爲に柱が細くなり家が手輕な小さいものになつて行くとすれば、田舍の容貌も此から大に變つて行くかも知れぬ。費用が少なくなると五年保てばよいと云ふやうな新居住者が出來るかも知れぬ。中々大きい問題の端緒のやうにも感ぜられる。自分は試に少しづゝ、議論をまるで避けて、今までに見て居る屋根の事を此欄に書いて見ようと思ふ。先づ材料の方面から始めることにする。どうか諸君に於ても繪が無くてすむ限り、なるべく色々な觀察を報告せられたい。板葺は勿論のこと、草で葺いた屋根でも昔は最も風の防ぎに苦しんだものらしい。雨や雪は撃退しても風には閉口したと見える。殊に平場に出て棟のある小屋に任むやうになると、一番始末の惡いのは葺合せの所であつたと思ふ。古代の建築に所謂チギカツヲギの重要であつたのは此爲であらう。但し此間題は後まはしにして、そぎ板やこけらのやうな小さな木片を合せて葺いた場合に、押への必要であつたことから言はう。一番進んだ板茸では釘で打ちつけて其上を更に次の板で覆うて居る。併し細い釘の得にくかつたことは二の次として、板は割れ易く、又そこから腐り易いから、あら/\と葺く屋根では用ゐることが能ぬ。故に成るたけ外の材料を以て押へて風に吹飛ばされぬ用意をして居る。古い繪卷などには木を載せてあるものを折々見る。それも只の丸太ではごろ/\と轉び易い故に、多くの横枝を少しづゝ切殘し、且つ幾分かねぢれ曲つた枝を用ゐて居る。山家へ行けば今も此通である。又此木の端を軒先でたるきの端と結び合せてあるのも見たことがある。此場合には押へ木の他の端を何とかして固定させねばならぬ。さうすれば竹なども之に利用することが出來るのである。此次には石を以て押へるものゝことを言はう。
 
(417)     松井七兵衛君より
 
 八郎權現の出身地たる黒石町から、かの記事に關する訂正が到着した。昨年山形町の火事は全燒三戸半燒二戸で大火では無い。併し八郎後裔の舊宅が類燒を免れたことは此火事のみでなく、松井君少時の記憶によれば尚二度迄も隣家で燒け止まつたさうである。又八郎が蛇になつてから言ひ始めたことが、今でも此邊では一疋雜魚は食ふもので無いと言ふさうである。戸籍謄本に本年三月に死んだ前戸籍吏が署名したのは、書記の筆癖によつて生じた偶然の誤で、かの公文書の正確には煩を及ぼさぬ由。實際亡吉村町長は書記に筆癖を生ぜしむる程永年在任した人であつたから、死後と雖其證明は信ずべきものである。
 
     童話の變遷に就て
 
 自分は三つ四つの頃から父と寢て居たが、添乳の代りは常に「はなし」であつた。他の諸君も多分さうであつたらう。自分などは同じ話を二度聽くのが嫌ひで、?「そら知つとる」と言つて父を困らせたものだ。長い小説類なら話の種は盡きぬ筈だが、其中には子供に向かぬ筋が多い上に、いつ迄も續きをせがまれる危險がある。又よい加減なものを手製するとすれば、何分即席の事ゆゑすぐ面白くも無いものになり易い。此には亡父も少なからず迷惑をせられたらしい證跡がある。後日に其頃の記憶を辿つて見ると、或話は聊齋志異のやうな支那の談話集類の中から、最も(418)無責任に飜案せられたものであつた。又或話は今昔宇治などの中のものを首尾したたかに斷ち切られたものであつた。併し其他にも色々の原料の混同があつた。落語なども確かに其一つであつたやうに思ふ。今になつて考へて見ると、子供が親になり爺婆になるのは思ひの外早いものである。又如何に子供を愛する親でも、其子供の爲を思つて、豫め童話の整理をして置くだけの餘裕はもたぬ。自分の父などはそれでも比較的よく力めた人だが、やはり我國民の間に傳承する昔話を不純粹にしたことは大であつた。至つて淋しい田舍の外に新らしい物は見ぬ聞かぬといふ人々でなければ、到底「はなし」と云ふ一定のものも祖母から孫へ引繼ぐことは出來ぬ。即ち普通教育の盛な今日は童話のこはれ且つ亡ぶ時代であると言はねばならぬ。紀州の有田郡で森口清一君等志ある教育者がつい近頃其地方の童話集を編纂して若干部を複製せられた。まだ聞いては見ぬが、森口君などの定義では、現に童兒の間に行はれて居る話を以て童話とせられるのであらうか。其定義は又誤とは言はれぬ。之に該當する童話を集めるのは小學の職員諸君は尤も適任である。只自分等が其集を披見して、父に二十四孝や百將傳の受賣をせられた時よりも猶痛切に感じたことは、もう「はなし」が無くなつたと云ふ悲みであつた。この四十幾つかの話の中には、どうしても一度書物を通つて來たに違ないのが四つ五つある。文字の有るお父さんが記憶を利用したのであらう。イソップの筋を引いた巖谷小波の手にでも掛つたかと思ふのがある。又近頃になつて都會の地から持つて歸つたらうと思ふ口合ひ風の笑話がある。又子供の口から採集したとは一寸思はれぬ尤もらしい縁起談も交つて居る。之に比べると此集の一半を占めてゐる在來の童話が、如何にも土臭く且つ所謂あまり子供らしいのが目につく。しかも十年十五年後の採訪に際して、既に跡を收めて居るのは恐く此方面の昔話であらう。今でも稍遲きに失した憾みはあるが、此だけでも取留めたのを幸福と思はねばならぬ。瘤取系統の二人爺の話、之と筋を引いた和尚と小僧の話及び鬼と人間との葛藤等、幾つかの類型を列ねて一緒に集録してあるのは後の研究者に取つては少なからぬ便宜である。
 
(419)     土佐高知より
 
 拜呈、土佐の山ヲコゼの件に付申上候。前回御來翰右の件につき特別御注意を蒙り候所、實は少々私著書記載に誤り有之、學術上行違ひとなりてはならず、早速訂正申上候。山ヲコゼは山螺にて、山田に生ずる田螺にては無之との事に候。私共幼少の時人より貰ひ持ち玩物とせし事も有之、形は田螺同然にて、全く田螺と思ひ居りし所、今頃老人に尋ね申候に、右は山林又は竹藪等に生ずる山螺にて水生物に無之、處に由りては澤山に有之、或は潰して腫物に貼り附けることも有之由、右承り及び候儘不取敢訂正旁申上候。(寺石正路)○是は寺石氏が近く高知で公刊せられた南國遺事と題する隨筆の中に、土佐の方言風俗を説く一節あり、「山田等に成長する田螺(ヲコゼ)を所持して山海の狩の幸を願ふと云ふこと、是亦諸國に多し、余等が幼時に老いたる山賤が、竹籠に田螺を入れて市中を呼びあるき、思ふ事叶ふ山ヲコゼは要らぬかといひて賣り廻りたることを記憶せる云々」とあるのを見て、あまり珍らしいことに思うて猶詳細を訊ねんとした卑?の返札である。田螺で無くして山螺であつたことは、此事柄の珍らしさを増加しても減少はせぬと思ふ。川ヲコゼ山ヲコゼの沙汰は自分日向の奈須山に於て之を耳にし、後狩詞記と云ふ小著にも掲げて置いたことがあるが、山ヲコゼの此の如き物であることは知らなかつた。それに就いて思ひ合せるのは、曾て矢野理學士の報ぜられた豐前生立(オツタチ)八幡社境内の蜷の話である(三卷五五頁)。是は老木の樟樹の樹皮の中に住むとあつた。越後山中の靈地に白螺住み岸頭の笹の葉などに取附いて居るのを、雨乞の人々潜かに近づいて捕來ると云ふのも、亦普通の田螺で無いことが明かになつた。尚山の獵には川ヲコゼ、海の漁には山ヲコゼと云ふ俗信の有無を調べたいと思ふ。
 
(420)     勝善神
 
 小生此夏野州の眞岡・益子・茂木・烏山より常陸の笠間あたり迄徒歩を試みたるが、路傍に馬頭尊・馬頭觀世音・馬頭觀音・勝善神などと彫りたる石碑を見、其數の多きに一驚を喫したり。右は何れも馬の神樣か又は馬を祭つたものと思はるゝが、何か典故でもあることにや、郷土研究社の先覺者の教を請ふ。(中島信虎)○馬頭神又は馬頭觀世音の馬の神なることは通説なるも、其由來を明かにした論説は至つて少なし。勝善神の馬神なることに就ては小生に説あり。自ら薦むるも無作法なれども、考古學雜誌二卷第十號の卑稿「勝善神」は一讀の價値あり。又馬神信仰の變遷を説きたる書としても、拙著山島民譚集卷一以外には、別にまとまりたるもの無きやうに思ふ。
 
     結婚年齡の定め
 
 温故之栞第四編に、越後西頸城郡|能生《のぶ》驛の權現の神徳を記し、當地に生るゝ婦人は結婚の年齡に古例ありと云へり。此の如き例は他の地にもあるものにや如何。
 
(421)   摘田耕作の手間
 
 埼玉縣北足立郡三橋村は大宮停車場の西手にすぐ續いた一帶低濕の地で、其一部分は既に大宮で働く多くの入寄留者が來り住み、やがて起るべき大宮市の共同經濟生活を營んで居るのに、他の一方には又極めて原始的な蒔田の耕作が盛に行はれて居る。數年前右の三橋村長に面會した時に聞いて置いた蒔田の經營法の一端を左に報告する。蒔田を此地方では一汎に摘田《つみた》と言うて居る。籾をつまんで直ちに田に蒔くからである。此縣東半に摘田の面積は可なり廣い。摘田には一反歩に付少なくも延二十六七人の勞働を要する。其割ふりは、先づ「うなひ」に二人、「切返し」に三人、「手しろ」に二人、「筋付け」及び「摘上げ」に二人、「筋付け」は植田の正條植に該當するもので、稻株の間隔を平均し通風をよくする爲に縣郡から奨勵して、田面に×の筋を引かせ其交叉點に籾を下させる。次に「株分」が四人、「株分け」又は、「株ぎめ」とも云ふ。最初に雜草を除く作業である。それから「草取」が尚三囘、これが手間に九人、最後に「苅取」が四人以上かゝる。稲苅には皆々カンジキをはかねばならぬ。
 
     タウボシに非ざる赤米
 
 青森縣技師大脇氏の談に奧州で赤米と云ふのはタウボシでは無く普通の水稲の種類である。其中で最も多く見るものが糯に二種と粳に一種とある。東津輕郡上磯方面などには殊に多く作つて居る。タウボシと違つて産量は多からず、(422)但し寒氣にはよく耐へる。赤飯を作るに適して居る云々。
 
     長者と池
 
 上總長生郡鶴枝村大字立木に現今新宅屋敷と呼んで居る地はもとの字は三屋敷と言うた。屋敷の隅に僅かな池があつて其に長者の黄金の茶釜が沈んで居ると云ふ。昔地頭の次男とかの無法な者が住んで居て、往來の人を鐵砲で打つと云ふやうな亂暴をした爲に終に闕所になつた。其跡である故に是へ出て新宅をする者は三代までに退轉すると云ひ、村民は忌んで之に住する者が無かつたと云ふ話である。
 
     楊枝を賣る者
 
 猿屋の楊枝の由來は二三の書に之を説いて居るが、根つから確かなことが知れぬ。弘賢隨筆二十四に依れば、あの時代に淺草寺の境内には四十餘戸の楊枝店があつた。其内十二軒を櫃親《ひつおや》と稱し、其娘どもに楊枝を賣らせたのである。櫃親は三社の祭禮にビンザヽラの役を勤める者で、元は皆田夫である。彼等櫃に物を入れて賣りに來る故に、櫃親とは呼び始めたのであると云ふ。
 
(423)     風俗問?答書
 
 たしか文化十二三年頃のことであつた。屋代弘賢が其二三の友人と共同して、風俗問?と云ふ小册子を印刷し、依頼文を添へて之を各地方の友人へ送つて答を求めた。此頃の江戸の生活を標準として四季の行事竝に冠婚葬祭の各條項に亙り、諸國風俗の異同を問はんとしたもので、中には無理な問方も二三あるが、先づは我々の學問の先驅と言つて差支の無い結構な企であつた。當時交際の弘い公邊の勢力もあつた輪池翁の計畫であるから、定めて十分な成績を豫想したことであらうに、其答書の世に傳はつて居るものは事の外尠ない。多分田舍の人の氣が長くて今に今にで日を過したものが多かつたのであらう。我々の一見したのは羽後秋田領のものがある。那珂通高の筆になり挿畫も見事で立派な一部の書である。内閣文庫に一本ある外に郷里の方にも寫し傳へた人が二三ある。次には備後福山領のもの、筆者は知らぬが是も畫が多く精確らしい報告である。越後長岡領の風俗を書いた北越月令と云ふ一書は、或は又此答書の一かと思ふが、問の箇條が掲げて無いから何とも斷言し得ぬ。此二部は内閣にあるが、他にも副本があるか否かは知らぬ。先は此三種位だらうと思つて曾つて此事を故井上頼圀翁に話すと、私の所にも一部あると言うて三河吉田領の分を貸された。當時新居の關所の役人であつた中山美石と云ふ國學者の筆で詳しいものであつた。山崎美成の文庫にあつたらしく同人自筆を以て其一部分を寫して居る。是で自分の見たものが四箇所になり、愈此ぎりのやうに思つて居ると、近頃圖らずも丹後峯山領の風俗答書を手にすることが出來た。其は明治四十五年に京都府で催した維新前民政資料展覽會の列品目録の中にあつたので、所持者も其由來もよくは知らず、單に風俗?とのみあつて解題の中には何故か終の方に「右樣の事無之候」と書いてあると記して居るから、理由を話して堀田内務部長の手で一部寫(424)してもらふと、果して文化年中の風俗間?の答であつた。峯山領では城下の寺院の住職が相談して調査したと見えて、終に報告者として四五の寺の名が書いてある。此などは終に質問者の手に入らずして今に至つたのでは無いだらうか。さうして見るとまだ多くの國々に半成又は完成の風俗答書が隱れて居るやうな事はあるまいか。此類の事業は數が多くなればなるほど效果が比例以上に増加するものであるから、諸君の助力によつて何とかして追々に之を世に出したいものと思ふ。
 
     鍛冶屋の話
 
 石黒忠篤氏の話に、越後の片貝村では池津に行く村はづれの處に鍛冶屋住し、些しく常民より輕視せられて居る。又山林局の宮崎技師の話に、土佐でも鍛冶屋は村はづれの路傍に出ばつて此業をするのが普通である。同國|韮生《みらふ》の山村には鍛冶屋の一部落がある。技工他に優れ主として山方の使ふ鳶口を造つて居る。長さ一尺もある鳶なども出來、全國有數の良品を製するを以て知られて居る由。
 
     箸倉山のこと
 
 阿波國の舊誌燈下録卷四に、讃岐金毘羅山の十月十日十一日の祭に、神幸陪從の人々御山接待所で饗膳に與かり椀箸を其儘にして還ると、其箸は殘り無く阿波三好郡の箸倉山《はしくらさん》の岩倉に、其夜の中に山神が持ち運んでしまふ。偶此(425)箸を厄よけとして家に持ち歸り、又は石垣の間などに隱して置いても、後日に神が悉く之を箸倉へ運ばれると記してある。此二つの靈山には如何なる關係があつたのか。又何故に食後の箸をかく大事に收藏せられると信ずるに至つたのか。箸の信仰には猶調べて見たい事が多い。
 
     咳のヲバ樣
 
 小石川區小日向水道町日輪寺の境内にも一つの咳《せき》のヲバ樣と云ふがある。是は只の平石である。願掛けには甘酒を供へる。其傍に石の達磨が安置してあると山中翁の話。
 
     石敢當
 
 石敢當が古くから江戸市中でも處々に立てられ、其多くは三叉路の突當りにあることは前にも本誌に見えたやうだが、本年八月の八日の朝、赤坂水川町の下から新坂の方へ出る三つ角の突當りで見たのは、ちやうど中流以上の門構へある家の門脇で、溝の岸に列立する頭の尖つた切石の一箇に、半紙へ縱に此三文字を新たに書いて貼り附けてあつた。即ち此俗信のまだ生活して居る珍しい一證で、かく突差の間に此企をしたのを見ると、近い頃に自轉車か荷車かの損傷でもあつた爲では無いかと思うた。其邊は恰も土工の進行中であつたから、事によると家人は之に與らず、普請方の者共の仕業であつたかも知れぬ。
 
(426)     杓子の種類
 
 陸前玉造郡鳴子車湯カネ忠の主人の話に、杓子は鳴子温泉土産の一つになつて居るが、實は此地で製するのではない。最も古い形の汁杓子は栗原郡花山村の産である。是に柄の附根に突起の有るものと無いものと二種類ある。山形縣最上部南山の肱折《ひぢをり》からも出る。宮島流の杓子も多くある。是は大分遠方から來るらしいが何處で出來るか知らぬ云々。
 
     フロ屋と云ふ家筋
 
 農學士木村修三君の談であつた。丹波國の或地方では箕星とフロ屋との二つの家筋、常人は通婚せぬよし。箕屋は名の通り、フロ屋は即ち鍬のフロを製する者である。中には今は其業を營まぬ者もあるが、やはり特別視せられて居ると云ふ。
 
(427)     日向椎葉山の話
 
 明治四十一年の七月日向西臼杵郡椎葉村(俚稱奈須)を巡歴の際、ある小部落で折からの休日に若き女たちが白黒だんだらの木綿を手まさぐつて居るのを見た。同行の村長中瀬淳氏の話に、昔は此村の女どもは内所で絲を買うて木綿を織り帶をくけて情夫に贈るのが習で、此帶も贈れぬ女は甲斐性無しとして人に侮られ、男も亦競うて此帶をしてあるいたものであつた云々。其縞柄は必ず白黒五分おきの簡單鮮明なものに限つたものであつたと云ふ。田村君洞川の話を淨寫するに當つて、椎葉の女等が弄んで居たあの木綿帶が目の先に浮ぶやうに思はれたことである。
 
(428)   「郷土研究」方言欄
 
          ○
 
 方言の研究に趣味を有つて居られる人が中々多いやうだから新たに此欄を設けた。誰でも勝手次第の寄合の話をして見たいと思ふ。今月は先づ私が言はねばなるまい。私などの方言趣味は研究と云ふよりも道樂であつた。古い歌や文章を見ると、時代が後になる程却つて語彙の分量が減退して居るのは爭はれぬ事實である。此は一つには外國語の入侵の結果であらうが、又一つには田舍との交通が不十分になつて、京都の社會には交渉の無い用語が次第に消え去つたのであらうと思つた。殊に著しいのは地理學上の用語である。京都にも近くに山も川もあるが、山川で生活する人が無かつた。少なくも言語を後世に殘した人には細かな山川の名稱が無關係であつた。それ故に中世以後に成つた語彙には地形を現はす語が驚くべく乏しく、所謂國文では細かな紀行などは書くことが出來ず、第一に地理の學者が教科書を書くのに不自由をした。而も田舍に行つて見ると、大小殆と凡ての地形には各名稱がある。そこで自分は曾て地名を多く集めて、文藝中心地で滅びた多くの日本語を復活させようと試みたことがある。併し六つかしい仕事であつた。實地を見て語の意味を會得せねばならぬ場合が多い。土地の人でも既に命名の理由を忘れて居る者がある。方言としても既に死滅して居る者がある。之を再び世中へ出して用ゐる前には各地方の方言を比較して見る必要があつたが、まだ力の及ばぬ部分が多い。紙上問答欄に出した多くの質問には答が無かつた。それでも追々に明白になつ(429)たものがある。それ等は少しづつ此欄に出して諸君の批評に由つて決したいと思ふ。
 此の地名蒐集の序に私の得た新たなる趣味は地名に用ゐらるゝ所の所謂當て字の千變萬化である。多くの地名の中には中央の文學では全く見たことの無い漢字が使つてある。或漢字には珍しい日本語のカナが振つてある。勿論此中には最初の使用者の誤から不當の漢字を配したもの、又は特に和製をした漢字もあらうが、他に又過ぎ去つた方言を遺す者も多いやうに思はれた。活版所の迷惑になるから一度に澤山の例を出すことは出來ぬが、これも追々に此欄で意見を述べて見るつもりである。
 福井案内記方言の部に「シンガイする、内所にて金錢を貯蓄すること、臍繰金のことをシンガイゼンと謂ふ」とある。信濃下水内郡誌には「シンゲ、シンゲセン、密かに貯へたる金のこと」とある。併し此語の元の意味は此だけでは無いやうだ。服部教一君の話に、大和高取邊では、家族が主人の眼を盗んで、穀物などを賣ることをシンガイスルと謂ふ由。又田村吉永君の話に、同國五條町附近でシンガイと云ふのは、嫁聟などが實家へ物を運ぶことであるといふ。あまり古い語とも思はれぬが、隨分弘く行はるゝ語である。越後長岡領の田舍の生活を記述した粒々辛苦録といふ書には左の如き記事がある。「二月二日より簑を作りひねり、筵を織り繩をなひ、夜は明日遣ふ藁を打つなり、其より銘々シンガイ藁と云うて、主人より藁を貰ひ打つて草鞋を作る。上手は五足ぐらゐ、下手は三足位ゐ作りて寢るなり云々」。此で見るとシンガイは必ずしも主人に隱してする不正の行爲に限るとも思はれぬ。何か昔の經濟組織と關聯した語ではあるまいか。幸に此語の意味が明かになつたらこの古い田舍の慣習も了解せらるゝことになるのである。之に關する諸君の御意見があらば承りたいと思ふ。
 肥後八代の馬場進君から、近頃出版せられた「福岡縣方言」と云ふ一枚刷りを贈られた。此地方は他縣から各階級の人が入込み、方言も改まりつつある處だと云へば殊に保存の效能の多いことである。其中に注意すべき點は色々あるが、散し髪をウツプロと云ふとあるのは果して在來の者かどうか。出雲の十六島海苔をウツプルヒノリと謂ふのと(430)關係があるらしい。
 風俗畫報第四五八號中に見えたる茨城縣方言の中にツクラヒバ、村里のはづれなどによく認むる廣場に堅牢なる小屋を設け置き、日を卜して馬主等集合して馬の蹄を削り或は烙印等を爲すに使用する地、繕ひ場かとあり。是れ例のソウゼン場であらう(二卷四七頁參照)。他の地方では何と言ふか。
 
          ○
 
 ユヒと云ふ日本語の本來の意味は、よほど夙くから忘却せられたらしい。夫木集の「此里にユヒする人も無きやらん早苗のふしの三筋立つまで」又は堀川百首の「殘る田は十代に過ぎし明日は只ユヒも傭はで早苗取りてん」等、よく人の引く古歌であるが、果してユヒと云ふ語の性質を知つて用ゐてゐたか否かゞ疑はしい。併し幸にして此語の田舍に於ける實際の用例は各地に殘つて居る。先づ日本の南の端から言ふと、鹿兒島方言集に、「イイする、イする、イユする、勞働の交換のこと」とある。佐賀縣方言辭典に、「イイ、互に往來して働くこと、勞働の交換」とある。四國では、好古雜誌第二號に故小杉博士の寄せられた阿波|祖谷山《いややま》の古言中に、「百姓の手傳ひで耕作などするをイヒすると云ふ」とある。靜岡縣方言辭典には「ユイ、共同、仕事をユイにするなどと云ふ」とある。東京の近くでも、近隣相助けて田を植ゑ合ふをユヒウヱと云ふこと、古くは四神地名録の南足立郡淵江村竹塚の條に見えて居る。如蘭社話第十二號、村岡翁の下總方言一班に、「ユイ、相互に人を雇ひ人に雇はれするを云」とある。雇はれると云ふことが今日の雇傭を意味するならば、此説明堀川百首と共に誤謬である。常陸では眞壁新治等の郡部で、互に手傳ひするをヨイと云ふ由、茨城縣方言集覽に見えて居る。又新編會津風土記卷一には、「ユヒ、助け合ふこと」とあり、更に南部方言集には陸中の或地方で「互に仕事の手傳ひをすること」をユヒコと云ふよしを掲げて居る。奧州では多くの名稱の語尾にコの字を附するが常である。更に日本海方言に於ては、佐渡方言集に「イヒ、イヒカヒ、イヒタガヒ、甲乙(431)互に往來して働くこと」とある。和訓栞に信州で之をヨイと云ふとあるのはさもあらうが、伊勢でトンドと云ふも亦是で、即ち訪人《とひびと》の義かと云ふは蓋し不精確で、トンドはタウド田人即ち(タビト)の訛であつて(三卷一六五頁參照)、
佐渡万言集に説く如く、正にユヒと對立して雇傭勞働者を意味するのであらうと思ふ。奧羽地方ではユヒ按摩と云ふ語さへ有つて、ユヒは相互援助であることは先づ疑が無い。若越方言集に曰く、「イイ、仕事の助け合云々」。福井縣下の何れの地方か知らぬが、自分の知る所では越前大野郡下穴馬村の中の一小部落に於て、毎年初冬の屋根葺作業を助け合ふ建築組合の如きものがあり、其組合のことを其土地の人がユヒと謂うたのを聞いたことがある。此等を考へ合せると、ユヒは傭の字音の轉靴だらうと云ふ和訓栞の説は勿論誤りであつて、やはり結(ユフ)と云ふ動詞と起源を共通する純日本語に相違ないと思ふ。それから更に注意して見ると、駿河菴原郡の由比或は鎌倉由比濱などのユヒも、諸國の海岸に多い手結(タユヒ、テヒ)と云ふ地名と共に、網引船曳等の作業に住民の協力した場所のことで、古く有つた勞働團體の性質を推定せしむべき重要なる證跡では無いかと思ふ。
 
          ○
 
 ツクラヒバ又はソウゼンバと同じかと思ふのは、靜岡縣方言辭典に、「サンザイバ、斃馬等を捨つる所」とある。此もソウゼンバの轉化であらうか。
 
          ○
 
 稻むらのことを何と謂ふかと、青森縣津輕の御所川原附近で尋ねたら、やはりニオと謂ふさうである。播磨神崎郡などでは之をツボキと謂ふ。
 
(432)          ○
 
 貧しい日本語の語彙を補充する爲に、今は田舍に落ちぶれて居る共通の方言を招聘する必要のあることは、獨り地學用語の一種にのみ限るべき道理が無い。例へば各地の海手山手に行はるゝ風の名の如きも、殆と方言とは稱し難い程の弘い共通を持つて居るのみならず、同時に亦多くは古語である。此から些しく其數を拾つて見ようと思ふ。(一)イナサ 印旛郡誌に引いた利根川圖誌に「イナサ、東南風」、下總では今も確にさう呼んで居る。上總國誌稿に「イナサ、東南風」とある。伊豆でもイナサは東南風である(四卷一七一頁)。尾張でも知多郡誌に「イナサ、東南」と見え、俚謠集二一一頁伊勢三重郡の櫓漕節にも「コチやイナサはもどり風」と云ふ句があつて、其伊勢人の編纂した和訓栞に「いなさ東海にて辰巳の風をいへり云々」とあるのが、些しく周到で無いやうに思はれる。此と近い語で別なのは、(二)アナジ、出雲方言に「アナジ、アナゼとも謂ふ西北風」とあり、加藤三吾氏の平戸しるべには「北西風をアナゼと云ふ、冬季に多し、初秋のキタアナゼを一にアゴキタと云ふ云々」とある。和訓栞にはアナチとして出て、チはコチなどのチに同じく風のことだと云ふは誤らしい。アナシと云ふ語は古歌にもある外に、又夙く藻鹽草の風の異名の中にも「アナシ 戌亥より吹く風」と出て居て、恰もイナサとは正反對の風である。此二つの風の名は言海にも出て居る。多くの方言集中にあるのは物の序かも知れぬが餘分の謙遜である(未完)。
 
 ユヒアンマのことは(四卷一二二頁)佐渡方言集に、足代弘訓の説として出て居るが何に依つたものか知りたい。羽前の新庄村で若い按摩を頼んだ時此事を思ひ出し、遠まはしに實否を正して見たら其答に、「私等は別に自分で肩が凝るとも思ひませんが、年とつた按摩さんはよくユヒで按摩をして居ます云々」。此序に云ふが、武藏秩父邊では傭人のことをイヒと云ふと燕居雜誌に見えて居る。たしか若者は北武の人だから、唯の誤とも思はれぬ。
 
(433) 稻むらをケラバと云ふ地方あること前に見えたが、(四卷二五〇頁)、加賀の農業の行事を書いた寶永四年の序のある耕稼春秋卷二にも、稻刈後の仕事を記して左の如く言つて居る。「又屋敷廻りにニウする。小さきはニウと云ふ。大きはケラバと云ふ。九月下旬晩稻中稻ニウにする。稻敷ニウ一つに百四五十東より五百束。又は千六七百束二千束まで、是をケラバと云ふ。蓋には藁のま(?)或は大唐藁、または常のわら也云々」。最後の一節は不明であるが(日本輕濟叢書第十四卷に依る)此地方のニウ又はケラバは共に實のある稻の時からさう言ふらしい。此序に前に報ずることを忘れたが、津輕地方のニウは非常に大きい。之に言ふケラバに相當して居る。
 
          ○
 
 出羽地方の城下町で粡町と書いてアラマチと云ふ町名が多いが、其アラは何であらうか。
 
          ○
 
 正月十五日の所謂左義長は、トンド又はドンドと謂うて居る地方が最も多いが、其他にも色々の地方的稱呼があるやうである。出來る限之を集めて見たいと思ふ。讀者諸君の切なる注意を望む。茨城縣方言集覽には多賀郡で左義長をトリオヒ、稻敷郡及び水戸等で同ワーホイと謂ふとある。此事は自分の少しく解説を試みんとした所であるが(三卷一三三頁)、若越方言集に「オショージコ 左義長のこと」とあるのは殆と意味を窺ふことも出來ぬ。此類の名稱を段々比べて見たら、自然にこの趣味の多い古風俗の由來も明かになつて行くかも知れぬ。松本地方では之をサンクラと云ふ(三卷三四七頁)理由も、亦どうしても分らぬ。平瀬君など何か御意見は無きか。
 
(434)          ○
 
 籾をアラと謂ふ例は飛騨にもある。飛州志七に、米を撰み或は春蒔く時洩れこぼれたものをアラモトと謂ふ。糲の字に當るか、他州にてアン(シ?)モトと云ふに同じとある。アラに粡の字を當てるわけとアラ町と云ふ如き町の名の所々の城下に起つたわけとが知りたいと思ふ。
 
          ○
 
 面白い狐の話が追々出るが、之に關聯して自分のかねて不審に思ふ一事を御尋ねする。靜岡縣方言辭典に依れば、どの地方のことか分らぬが、狐をヨモンサンと謂ふとある。然るに岡村氏の飛州志拾遺には、飛騨では猫のことをヨモと謂ふと見え、鹿兒島方言集には、猿をヨモ又はヨモザルと謂ふと見えて居る。此三つは何か關係する語ではあるまいか。又同じ語に基くとすれば、何故に三種の獣類に共用するか。不思議なことである。
 
          ○
 
 風の名のつゞき、(三)アイノカゼ 此風は地方に由つて方向が異なつて居る。「出雲方言」には「アイノカゼ 東北風」とあり、青森縣方言訛語津輕の部には「アイノカゼ 西北風」とある。「佐渡名勝」には此國の俚謠「アイのこは吹やヤマセのもとだヤマセやクダリの種になる」と云ふ一章を掲げて、アイは北風のことだと説明して居る。是は古く歌にも詠んだアユノカゼと同じであらうが、和訓栞には「今越前にて戌亥の風をアヒノカゼと謂ふとぞ」と云ひ、猶萬葉集に「越(ノ)俗語、東風謂之安由乃可是」とあるのを引用して居る。萬葉集に見えたアユノカゼは、「射水川清き河内に出立ちて我が立ち見ればアユノカぜいたくし吹けば湊には白波高みつま喚ぶと洲鳥はさわぐ云々」とある長歌(435)で、越中國のことである。即ち此邊では東からの風を云うたのである。松屋筆記卷六十二に、平戸城主松浦肥前守の物語として、平戸邊で東南風をオシアナと謂ふ、萬葉のアユノカゼと由あり云々とある。何故にアユノ風と由あるか分らぬが、「平戸しるべ」に依れば此風は一にコチバエ又はヂバエとも云ふ東南風で、往々強烈なる颶風を伴ふ故にオシアナとも謂ふのだとある。
 
          ○
 
 信州松本で石の堆積をヤツカと云ふ由(四卷一八六頁)。岩塚(イハツカ)の約に相違ないであらう。下水内郡誌には「石の小山をなすものをヤツクラ又はエンヤツクラと云ふ」とあるが、それも岩倉から出た語で同じものゝことと思ふ。クラとは天然の岩組のことであるが、轉じて石を以て構へた塚をも呼んで居る。イハをヤと約める例は多い。鎌倉邊で岡の麓に多くある土窟をヤグラと云ふ由物類稱呼にあり、今も其通りであるが、是もイハクラの意らしい。靜岡縣下には石垣をヤヅカと云ふ地方がある。此もイハツカである。越前大野郡では石垣を單にツカとも云ふ。名古屋の附近に石作と書いてヤサコと云ふ地名もあつた。
 
          ○
 
 尾佐竹猛氏は伊豆新島で上り口の次間をデヰ(出居)と謂ふのを珍しがられたが(四卷二三一頁)、あの語を用ゐる區域は大分ひろい。上野邑樂郡町村誌「奧の間をゲイ又はデイ」、靜岡縣方言辭典に「デー、客間」、尾張愛知郡誌に「デイ、客間」、青森縣方言訛語南部の部にも「デヰ、座敷」とある。越後風俗志第二篇に越後餘情を引いて、「蒲原邊下ざまの家屋は云々、寄付を出居(デヰ)と謂ひ、常に居る間を横座云々」とある。デヰの意味は和訓栞に言ふ如く、内から出て客に對する所即ち今應接間と云ふ下品な語を充てゝ居る室の名で、東鑑にも出居とあり、愚昧記にも出居(436)廊とあり、田舍で或はデノクチとも謂ふ由。然らば、青森其他でデヰを方言訛語中に録したのは訛謬と言はねばならぬ。
 
          ○
 
 奈良縣吉野川上流地方では、關東で謂ふサンカに似た漂泊性ある賤民の事をヒニンと呼んで居る。其中でも川魚などを捕つて生活するヒニンをば特にカマボコと謂ふ。カマボコは彼等が小屋の形?に由る名で、蒲鉾小屋のカマボコから出た語かと思ふ。
 
          ○
 
 風の名のつゞき、(五)ナラヒ 齋藤氏の伊豆漁村語彙にも「ナラヒ 東北風」とあるが(四卷一七二頁)、弘く行はるる名稱である。是も方向は區々で、利根川圖誌に「ナライ 西北風」、上總國誌稿に「ナラエ 北」、又「シモフサナラエ 東北」、とある。尾張知多郡誌には「ナラヒ・徹東北」、俚謠集三重縣三重郡の櫓漕節に、「みや(熱田)の北吹吉田(豐橋)でナラヒ伊勢の小山はいつも吹く」とある。三河伊良湖崎で謠ふのは大同小異で、「伊勢のこー山吉田のナラヒ尾張北ぶきやいつも吹く」と云ふ。共に別に北風を擧げて居るのを見れば、知多郡の微東北とあるのがあてはまるのであらう。又和訓栞には「ナラヒ 江戸の船人は東北の風のことをいへり」とのみあつて我が郷里の事を言はず、言海には「ナラヒ 東北の風の稱(關東)」とある。
 
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 陸中鹿角のダンブリ長者物語にも見ゆる如く(四卷四五七頁)、トンボ(蜻?)をダンプリと云ふは東北一般の風で(437)あるらしい。「津輕のしるべ」にも蜻?をダブリと云ふとある。信渡邊でも其通りと見え、「東筑摩郡方言」には蜻?をドンブ又はトンブと云ふとある。中國では既に關東と同じくトンボとなつて居るが、其でも東京で「トンボがへりをする」と云ふことを「トンブリカヘル」などゝ謂うて居る。蜻?は隨分古くからあつたと見えて、古今著聞集にも既に此語がある。
 
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 自分が九州南部の旅行中に聞いたのでは、ツルとは川の兩岸の山が俄かに遠のいて、稍廣い平地を爲す所の名だと云ふ。鶴・釣・津留等色々の字を宛てゝをるが、水流と云ふのが意味は稍當つて居る。
 
(438)   「郷土研究」の休刊
 
 「郷土研究」の休刊。是は假令自分たちの事で無くても、報告せざるを得ない大事件である。過去四年の間專ら斯邦民間思想の變遷を視るのを職として居つた一つの雜誌が、發行を中止したのである。我々編者等が耳へは只惜い/\と云ふ評ばかり響くが、果して實際はどんな感じを社會へは與へることであらうか。知りたいものと思ふ。私情として最も聞くことを厭ふのは、所謂受けなかつたから潰れたと云ふ世間の噂である。勿論我々は試驗をせられたとも思はず、又世間の判斷が其ほど適切とも考へて居らぬが、兎に角是が前者の覆轍の如く誤認せられて、幾分でも繼いで起る同種の計畫を阻むことがあつては、學問上更に一段の損失であるから、不必要かも知れぬが一應事情を述べて置く。此雜誌に始から財政上の成功不成功と云ふ問題の無かつたことは、特に説明するには及ばぬ話であらう。第一卷の第一號以來、讀者の數は終始六百人餘であつた。其が好い按配に全國に散布して居つた。此六百人の中で、二百人迄は一度以上此雜誌に原稿を下さつた御方であつて、而も其大多數は又少しも我々からの御無心を要せずして、進んで有益なる材料を寄せられた人々である。尋常市中の投書雜誌とは正反對に、編者の選擇は氣儘至極のものであつた。甚しきは自分等の面白いを標準にして、骨の折れた採集品をも後過しにしたこともある。不精確又は價値無しと見れば之を排斥して、筆者が怒り、且つ背くのを顧慮しなかつたのは無論である。其にも拘らず茲にまた載録し得ぬのを遺憾とすべき材料が、略今迄に出た程もある。若し編者共が氣が大きくて「郷土研究」の研究と云ふ語を、當世流行の至つて輕い意味に取扱ふことが能《でき》たならば、此等の投書類を整理して一年や二年は樂に雜誌が續けられたかも知(439)らぬ。不幸にして我々は研究と云ふからは學問でなければならぬと思つた。新しい理論を立證し、或は少なくとも今迄人の心付かぬ説明を試みるので無ければ、忙しい讀者の時間を割愛せしむるに足らぬと獨斷して居つた。各府縣からの報告は蓋し此意味の研究に對する無限の援助ではあつたが、必しも研究其物では無かつた。中には資料の採集に非凡の技倆を有せらるゝ人たちにして、猶明かに我々の重きを置いた論文に一顧をも與へられぬと見える向さへもあつた。書物を一泓の溜り水に譬へるならば、雜誌は一筋の流れ川である。先月正しいと信じて發表した意見が、此月の批評注意乃至は新報告に由つて訂正追補せられつゝ進む所に、急造の不完全を償うて餘ある程の價値がある。是が我々の依頼して居た雜誌の妙用である。此點に關して失望を感じた事は他に尚一つ大なる者があつた。論文に對して普通讀者の注意と興味とを惹く爲には、毎號の變化が必要であることは言ふ迄も無い。雜誌を購讀せらるゝ御客には、明かに飽きる權利、倦む權利がある。其權利を無暗に行使せられてはたまらぬ故に、月々題目を更へ顔觸れを改めて行き、先づ何を言つて居るのかと珍しがらせて讀ませる工風は、學術上の月刊物と雖、受驗用の講義録で無い限りはやはり必要のことであつたと思ふ。編者等は頗る此廉を苦心しつつ到頭苦心の甲斐が無いことになつた。内輪の者が見ても又かと思ふやうな巫女の話、成程其も佳い題目で、若し各派各方面の意見が相次で之に集注したならば、少々の不人望ぐらゐは頓着するにも及ばぬ好結果であり、又不人望の患も無かつたかも知らぬが、何分影武者同然の無名生であつて、反對説があるなら御遠慮無くとは言つて居るものゝ、其實言はゞ拘はれたる見解の上に積揚げて行くのだから閉口する。柱松《はしらまつ》でも毛坊主でも同じことで、多くの點に於て相關聯して居る群衆心理の現象を説いて居るので、結局この四年の永い月日を、謠の師匠などの隣にでも住んだやうに、明暮同じ口拍子を聞かされたのだから、欠伸をした人にも六分の道理はあつたと言はねばならぬ。此際に處して若し編輯者の側に恕すべからざる落度があつたとすれば、其は頼めば何か書いてくれられさうな學者方を十分に物色しなかつたことである。辯疏としては役に立たぬが、實は我々も日本に學者の多いことはよく知つて居た。先生方の腹籠りの識見には貴重なものが段々あつて、其に比べ(440)られると、この邊で持囃した自稱新説などは、多くは遼東の豕《ゐのこ》であることもよく知つて居た。只どうしても學び得なかつたのは、此等の天然に價値あるものを、弘く世中の寶と變形するの術である。今時の學術雜誌の中には往々にして、出版屋の手代と雖必しも敢てせざる事を爲さんとする者がある。彼等の中には、名論卓説を以て、哀訴と歎願との鋤鍬に由つて、收穫し得べき作物と考へて居る者がある。これ一種の因果錯覺であつて、我々が平常學者の功績に對し感謝の情を禁じ得ぬのを見て、前に感謝を提出して置けば後より功績は之に伴うて來るべしと誤信したのである。雄鷄が啼いたとて卵は生れぬ。そんな事ぐらゐで出來るやうなら、學者は元來よき説を發表すべき天分を有すること、恰も卵の牝鷄に於けるが如きものである。それも單に甲の國語で存する者を乙の國語に書改め、陬箇の大きな本に飛び飛びにあることを、一箇の短い文章に合併するだけの器械的の勞作ならば、或時間を割分するだけの好意を起させる手段として、歎願の役に立つこともあるかも知らぬが、何しろ求むるにも事を缺いて無理なねだり事をするものだ。と斯う考へつつ其癖自分は別に是ぞと云ふ手段があるのでも無く、段々雜誌が單調になつて終にへこたれた。第一こんな事をして居ると、新しい問題に手を伸す時間が無い。まだ當分はよいとしても末には書く事がきつと無くなる。自分にも張合ひが無くなつてから、徒に見苦しい中絶をするのが厭さに、毛坊主考で?言うた御靈の神では無いが、尚盛んなる血氣を提さげて幽世へ行くのだ。幸に數年の閑月日を以て今些し廣い山野をあさり、若干の獲物があつたら又出て來て、已むを得ずんば假名別名を利用してなりとも、日本の農村生活のあらゆる部面に亙つて題目を列ねて、所謂興味ある雜誌を再造して見たいと思ふ。是が「郷土研究」の休刊の眞相である。或は冷淡なる見物の中には、此言譯の未練がましいのにあきれ、其ばかりの世情をも豫見し得ずして、無算當な開業をしたのが惡いと難ぜらるゝ人があるかも知れぬ。しかし自分等とてもすべき覺悟はする。凡そ如何に蠻勇なる猪武者でも目當の無い籠城などはする筈が無い。大にやりたまへぐらゐな單純な煽動では自惚の候補者も選擧は爭はぬ。欺かれたと言つては益不明を自白する事になるが、實は自分は同情と云ふ物には中に餡でも入つて居る者かと思つて居た。死地に陷れて奮闘させ(441)るだけの親切で、突出されたものとは考へて居なかつた。單に籠城の軍議に與つたばかりでは無く、つい此頃まで石垣の下へやつて來て、鳥井強右衛門のやうな激勵をして歸つて往つた人も段々ある。而も味方の旗影かと見しは嶺の雲、陣太鼓と誤つたのは瀧つ山川の瀬の音であつた。つまり此強右衛門殿も一種の詩人であつたのである。それにつけても今尚惜しいことをしたと思ふのは、舊同僚の高木君である。最初高木君と自分とは、本郷から小石川へ走る電車の釣革にぶら下りつつ、此雜誌を出す陰謀を企てた。丁度四年前の神道談話會の歸途であつた。あの會も今でも舊に依つて折々集まつて居るのに、鷙鳥の如き高木君は既に去つて別天の雲を劈きつゝある。當時自分は只一年だけの費用を受合うたばかりで、精神的の勞作は慨然として同君之を引受けた。其軒昂たる意氣は殆と自分に對する刺激の全部と言つてもよろしく、毎號同君の發表した澤山の宣言は、即ち澤山の言質として永く殘つて居るのに、しかも其悉く自分に押付けて置いて、ふいと高木君は飛んでしまつた。今其理由を打明けると、どうも自分が惡いやうだ。それも前に述べたのと同樣の苦心から、先月の號は取合せがよくないとか、今月の原稿には下らぬものがあるとか、二三度續けて惡評をした處が、それ迄編輯の任に當つて行數勘定の勞苦を忍んで居た同君は、怒つて止めると言出した。そこで頗る當惑をして詫言を言ひ、今後は貴君次第と誓約までしたので、一旦はそんならと云ふ挨拶であつたが、其後暫くして不意に一括の書類を送つて來て、家情が煩しいから當分學問を止めると云ふ斷りで、其日から今迄約三年ほどの間、杳として同君の姿を見たことが無い。自分は正直な男で一應は此言譯を信じ、志ばかりでは學問の遂げられぬ世の中の道を深く悲しんだが、其後氣を附けて見ると高木君は大に書を著し、又讀賣新聞などに少しも休まずに童話集などを書いて、家の子供等も讀んで居る。さてこそ化の皮、やつぱり金方專横に對する一種高等なるストライキであつたのである。此人の如く強健なる向學心を有つて居て、しかも神々をこそ係けざれ、今の世にある限のうけび言をして始めた事業でも、新しい衝動があれば一朝にして棄て顧みぬほど、人の心は自由自在である。況や元々別人の企てた計畫に二度や三度結構にして時世に適すと同情したからとて、其爲に何かの助勢をせねばならぬ義理であ(442)つては、人は束縛の下に老いねばならぬ。それも何等の事情何等の壓迫無くして只催促の鈍いのを良いことにしたのならば、稀には良心の微かなる責もあらうが、冠婚葬祭喫飯喫茶、人世にはそれ以上の必要が日々ある。言はゞ「郷土研究」は自然に振はなくなつた迄である。自分は斯の如く經驗した爲に、此物ずきなる事業を中止するに際し、決して痛恨の感を抱いては居らぬ。只此機會に是非一言して置くことは、此種の雜誌は必要が無いと云つた人が一人もなく、有益である今の内に大に研究するがよろしいと評した人が誰も前説を取消さぬ故に、自他を問はず必ず遠からず再興すべきものであることゝ、第二には新日本の學藝を興隆する爲には、獨り成金の物質的援助を期するのみで無く、學者の生活から今少しく俗務と夢とを減少してやらねばならぬと言ふことである。幸にさうなれば出來ぬ事を企てず、出來ることを少しでも仕上げて、後に生れる者にむだな繰返しをさせなくなるであらう。我々の尊敬するフレエザー教授は、其靈魂不滅篇の序文に、「我日將に西せんとす、我業何れの時か成らん」と歎いて居る。而して是が四十から五十迄の間に約七千頁を著した人の言である。外國人ばかり讃めるのは不本意であるが、必しも人生百二十五歳を確信すること無くして、未だ何を以て生涯の記念標とせんかを決しかねて居る學者の多い國に生きて居る爲に、思はず知らず斯な事を思出したのである。終に臨んで永い四年間の讀者に、別離の情の堪へ難きもののあることを告白する。
 
(445)   編輯者の一人より
 
 三箇月前に、雜誌「民族」の計畫を發表してから、我々が諸方面から受取つた聲援の言葉は、豫期以上に盛んなものであつた。素より其中には純なる友情に出でたものもあり、或は事業が甚だ大切であつて、我々の力が之に添はざるの懸念が有る爲に、特に激勵を必要とした理由もあつたらうが、兎に角に之に據つて、此計畫の決して時期を失したもので無かつたことを、斯道の諸先輩に必ず之を支持し且つ永續せしむるの意あることを確めることが出來た。
 後世人の眼から見るならば、雜誌は寧ろ氣の毒な事業であるかも知れぬ。僅か十年二十年前の古雜誌を出して見ても、或は此の如き記念物の保存が、單に其後の學藝の進歩の、距離を測定する目標とする爲では無かつたかと、思はれる場合さへ多いのである。殊に我々の志さんとする人類學の部面に於ては、久しい間世上の之を目して、珍奇なる話柄の供給者とするが如き態度を改めしめることが出來なかつた。從つて別に其以上に大なる期待を係けられぬ代りに、學問は終始野育ちの?態に置かれて居る。二三の異常に幸福なる人々を除く外、地方の學徒は銘々の小さい書齋に立籠つて、同時に誰かが着手してゐるかもしれぬ研究を、準備せねばならなかつた。資料や文獻は割據して居る。信頼すべき索引は一も供給せられて居らぬ。此間に在つて學べば必ず識り、勞すれば必ず獲ることは既に難事である。ましてや孜々倦まざる多年の蓄積が、徒に門外漢の耳目を驚かするに止まらず、  偶々世に問ふ所の一篇の力作が、輒ち遼東頭白の豕たることを免がれんことは、殆と之を望み難かつたのである。
 しかも我々が事を好み、甘んじて此の不完全なる記録を世に留めんとする動機は、全く自身に久しく右の如き經驗を積んで、速かに何等かの方法を以て孤立の研究者たちを聯絡し、各自の專門を以て互に相補ひ、適當に方面を分擔(446)して、能ふ限り無用平凡の勞作を以て人間の壯時を銷耗するなからんことを期するに在つた。勿論國内多數の學會の如きも、本來は同じ目的を以て設立せられたものであつたが、彼等は統一に急なる餘り、必ず中心を一箇にして鞏固に之を守持した爲に、やがては亦割據對峙の形勢を生じて、聲息の相通ぜざるに至つたのである。幸に我々は之に反して甚しい烏合の衆であり、又異なり得る限り境遇と學問とを異にして居る。假に傾向の一に偏せんことを希ふとしても、恐らくは失望せざるを得ぬ仲間である。たゞ一點の合致は日本民族の過去生活の眞相が、最も雄大なる單一題目であつて、之を二十日鼠が鏡餅に對するやうに、方々からかじるべきもので無いと云ふ見解であつた。若し強ひて學風の共同を指摘すれば、比較研究法である。事實の忠實なる採録と考察である。關係諸學の業績に對する十二分の尊重である。若し今日迄に此三點を排して獨り進まんとする學者があつたとしたら、之を戒め改めしむることである。而も愉快なることは我々の努力を須たずして、多數の先進は既に此態度を是認せられたのみならず、各自專門の蘊蓄を傾けて、一擧に我々の事業を幇助し指導せられんとするのである。
 此等は正しく後世に向つて、大正年代の學問の爲、光を放ち氣を吐くものであつて、更に又吾民間困學の士の爲に、據るべく向ふべき所を指示するものと言はねばならぬ。但し同人當初の趣旨は、どこまでも現代の連絡に在つた。雜駁零碎なる報告交詢の類と雖、亦雜誌の本分として忠實に之を網羅して置かうと思ふ。一言を以て之を略すれば、我々の手帳は此雜誌を通じて、順次に國内同志の公有たらんとするのである。今後の研究に必要なる一切の資料は、再び箇々の學者の徒勞を待たずして、この共同の文庫に陳列せられるのである。讀者諸君の補充訂正、若くは新たなる問題の提供が、歡迎せらるべきは言ふまでもない。希ふ所は今更此の如き公有物を私占して、所謂糊と鋏との事業に供すること無く、各自の研究は常に之を足場として前進せられんことである。
 「民族」と云ふ名稱は、言はゞ記憶と會話の便の爲に選定せられた標語である。我々は雜誌の編輯に由つて、民族に關する學問の範圍を限定せんとする野心を持たぬ。然らば我々の事業の領域はどれ迄かと言ふと、是も亦追々に讀者(447)が之を決するであらうと思ふ。而して此雜誌が繁榮桑し且つ永續する間には、多數の力は自然に相作用して、眞に何々學と名づくべき大なる一體を作り上げることと信ずる。我々計畫者の之を切望することは申す迄も無いが、讀者諸君に取つても之は甚だ樂しみな未來であると言はねばならぬ。
 
   北方文明研究會の創立
 
 此團體は三四箇月前に出來たばかりで、會員數も少なく、事業にもまだ着手しては居らぬが、其計畫と組織とには、若干の注意に値するものがある。其一つは以前久しく行政區劃や地名の差別に捕はれて、孤立しがちであつた歴史觀を推理と想像との及ぶ限りに押擴めて見ようとすることである。金田一京助君の年頃の研究などが、北海道に住む一派の閑人のみの、顧念すべき問題で無いことは、此會の發起者等が殊に痛切に感じて居る所であつた。
 第二には各地の研究者間の聯絡交通である。東京の在住者中には稀には若干の便宜を有するものもあるが、それでも尚書信旅行等の煩雜な手段を盡して、獲る事は常に勞を償はなかつた。況や地方では、隣縣隣郡の近きに居ながら、互に事情に疎く、協力を以て事業を有效ならしむべき機會の如きは、從來絶無と謂つても過言で無かつた。そこで仲介と知識の交換との必要を認めた人々が、殆と之を最大の目的として此會を立てたのである。
 多くの學會の規則にも、會員相互の援助と云ふ一條はあるが、其方法は尚備はらなかつた。故に北方文明研究會の新しい試みは、假に失敗に歸しても若干の意味は有る。此會では成るべく研究の重複と之に伴ふ不必要な競爭を避ける爲に、入會者に向つて現在心を傾けて居るテーマの公示を慫慂する。さうして幹事の骨折を以て之を名簿に登録するのみならず、更に手帳の形にして會員の氏名住所と共に、其研究事項を掲載し、之を各會員に頒布しようとして居(448)る。現在既に數十人の登録者はあるが追加は不便だから、今少しく申込の増加するのを待つて、手帳を作ることになつて居る。
 此手帳が行く/\如何に利用せられるかは大なる興味である。人に由つては成るたけ廣汎な地盤を先占して、少しでも多くの智識を受入れようとして居る。或者は之と反對にごく特殊な、人の注意を惹き易い題目を掲げて、一種の好奇心を利用しようと心掛ける。何れにしても報道は義務で無いから、結局は筆まめで、最も多く他に與へる人が、最も多く酬いられることになるであらうが、或程度迄は簡單な言葉で自分の研究の趣旨と興味とを、説明し得た者が好い收穫を擧げることゝ思はれる。それで其目的の爲各會員に、手帳の一頁づつを提供することに爲つて居る。
 人も知る如く北部日本には、一般的の研究がまだ乏しい。文獻は地方割據的で、且つ必ずしも豐かで無い。前代の篤學者の名は、述作と共に漸く埋もれんとして居る。而うして問題は中々多い。十數年以前から、少しづつ人の注意し始めた社會相、殊に民間信仰方面に於ては、凡てが未解決であり、從つて「民族」の將來取扱ふべき項目は必ず此間に多かるべきを豫期する。東北越後北海道等の居住者は勿論、東京又は他府縣に在つて、心常に北部日本を懷ふ人々は、速かに來り加はつて研究事項を巧妙に登録し、同志の學徒をして思はず知らず、進んで材料を供與して完成を助けるやうにせられるとよろしい。
 會では年に一囘か二囘、東京に於て講演會を催し、又研究報告を公刊して、順次に成績を發表したいと思つて居る。斯うして稍事業の見るべきものがあつたならば、更に同じ方法を他の未知の方面、例へば土佐とか壹岐對馬五島とか、飛騨と其四周の山地などに、及ぼして見たいと思つて居る。
 現在はまだ之を決議しては居らぬが、北方文明研究會の會員は早晩其員數を限定する必要を見るであらうと思ふ。同じ題目同じ地方に於て、重複して會員を分布せしめることは、却つて煩雜の批難があるからである。初期の幹事は金田一京助君と中山太郎君、事務所は當分の間、東京本郷區駒込林町二二七の中山太郎君の家に置いてある。簡單な(449)る假會則は出來て居り、又郵券封入の照會には應ずることになつて居る。經費の負擔は至つて輕微な筈である。
 尚報告等の必要があれば、此雜誌の餘白を利用することになつて居る。
 此會の發起人の氏名と研究事項は左の通りである。
  アイヌ聖典の研究      金田一京助
  北方の原始文樣       移川子之藏
  東北地方の特種織物     中原虎雄
  北方の民謠戯曲と舞踊    灰野庄平
  土地所有に關する慣習法   内藤吉之助
  苗字を基礎とした村落發達史 蘆田伊人
  北方に於ける交通及び海運  樋畑雪湖
  北方に行はるゝ民間服飾   宮本揩衣
  オシラ神の研究       佐々木喜善
  現存書目の蒐集       岡村千秋
  民間傳承の蒐集と研究    折口信夫
  北方神事と俗信       中山太郎
  ボサマ及び奧淨瑠璃     柳田國男
 
(450)   啓明會と南島研究
 
 南方諸島の文化研究の爲には、既に大正十年以來の南島談話會があつた。異なる環境に長養せられた沖繩各島の社會生活を透して、我民族の原始信仰を窺はうとする切なる欲求が、此會創立の主たる一動機であつて、固より流行好事の事業では無かつたのであるが、しかも集會を唯一の方法とした舊式の組織であつた爲に、單に二三役員の故障に基いて、全體の學問が中止してしまふやうな危險があつた。ところが幸ひなことには近頃になつて、色々の新しい刺戟が外部から、此會の進出を促して無爲無能に終らしめまいとして居る。
 其中でも財團法人啓明會の最近の活動の如きは、それが早くからの計畫の中で無かつたゞけに、一層機運の偶然でないことを感ぜしめる。伊東工學博士と鎌倉芳太郎氏との二君が、啓明會の補助を受けて、琉球藝術の調査に着手したのは、大正十三年四月の事であつた。最も鎌倉君には之に先だつて、既に個人として若干の準備があつたのであるが、それにしても僅か一年と少しの間に、蒐集せられた繪畫彫刻其他の古工藝品、及び寫眞標本の類は莫大な數であつた。之に若干篤志者の出品を加へて、琉球藝術に關する展覽會を、東京美術學校の教室に開いたのは、去九月五日――七日の三日間であつた。
 此機會を利用して更に同じ三日間の講演會が催され、右二君の報告の他に、尚四人の研究者の有益なる講演があつた。其筆記録はやがて適當に頒布せられようとして居るから紹介の必要は無いが、たゞ一つ山内盛彬君の沖繩音樂に關する談話と、之に伴ふ多くの音曲舞踊の實演のみは、單に出席者の感銘の甚だ深かつたことを語る以上に、之を保存する方法の無いのを遺憾とする。會衆の一部には勿論故島を愛慕する在京沖繩人が有つたが、他の多數は始めて沖(451)繩に此の如き特殊の藝術あることを知つた人であつた。至つて悲しむべき實際生活の問題に關聯して、此節折々此縣の名を新聞の上に見出して居た人々が、今囘の催しに由つて更に異なつた方面から、島々の永い歴史と、永い將來とに對して抱き得た親しみは、今に何等かの形を具へて現れて來ることゝ思はれ、しかも其仲介者が、學問藝術の助成を目的として我邦に生れた一大公益法人であつたことは、群島文明の綜合的研究の爲に、非常に欣ばしい兆候として受取られる。
 啓明會では以前既に田邊尚雄君の東洋音樂史の調査に補助を給し、其報告の一部分として琉球音樂に關する講演などもあつた。之に次では右の山内君の、一層周到なる沖繩音柴の研究も、早晩同じ會の保護を受けることが豫期せられる。斯うして少しづゝ片端からなりとも、個人の獨力では爲し遂げ得られぬ事業が、其必要を外間から認められて行くことは、單に直接の效果の顯著なるのみで無く、延いては一般の南島研究に向つての刺戟であり、又從來の内地の學者の態度を、追々に改めて行く原因と爲ることゝ思ふ。其意味に於て我々は、此種の後援事業が啓明會の手に由つて行はれてゐることを、一二の沖繩の有力者例へば尚侯爵家などの企てに成るよりも、一層悦ばしく感ずるのである。
 
   おもろ草子の校訂刊行
 
 此事業は南島談話會の計畫の一つであつて、主として帝國學士院の援助の下に、大正十三年の夏から着手して、本年九月の末に漸く完了した。校訂の任に當つたのほおもろ草子の最初の研究者伊波普猷君であつた。
 おもろは古來の沖繩の神道に、用ゐられて居た神歌の大蒐集であつて、二十二卷一千數十章を算し、三百餘年前の(452)王府の公記録を寫し傳へたものであつた。單なる保存の方法としても、之を印刷に付すべき必要はあつたが、しかも近き將來から出現すべき實際上の結果は、遙かに巨大なるものがあり得るのである。おもろの用語句法には、新時代の沖繩人が解説し得ぬ部分が甚だ大きい。過去三四百年の間に發音は殆と一轉し語氣も亦著しく變化した。其上に之を祭典に使用せぬやうになつてから久しい年月が經過し、以前たま/\之を記憶して居る家でも、意味は知らずに形式のみを嚴守して居たらしい。しかも其詞章の構造は至つて單簡で、一定の格調と對語は繰返され、全篇成句を以て充されて居る姿であるから、若し自由に各卷を繙いて比較對照の煩を厭はぬ者があつたら、追々に古語の用法が推測せられ、永らく其中に氷結して居た祖先の思想が、解けて流れて我々の感情に沁み入りさうに思はれる。それが今まで不可能であつたのは、全く原本の部數が少なく、諸家の秘庫に珍藏せられて居た習はしから、或は之を陀羅尼の文の如くに、思ふ者が多かつた爲である。
 おもろの語釋としでは混效驗集の一書があり、既に伊波君の手で刊行せられて居る。又言葉間書と稱して、草紙の行間に書入れた註釋も少しあるが、何れも神歌の廢してから久しい後になつたもので、其中には明白なる誤謬すらも發見せられる。殊に大和の方の古代語との比較は、まだ幾らもして無かつた。其上に表音法には最初の録進者の自由が認められ、一定の規律が無かつたらしく見える。之を整頓して語言を分類し得るやうになつたら、存外早く研究の方法が立つかも知れぬ。それが悉く活版複製の效果であつたのだから、獨り南島談話會の諸君の爲のみと言はず、弘く日本の言語學の爲にも、此は一つの時期を劃する出來事と見ることを得る。
 校訂本は僅かに六百部のみを刊行することが出來た。其半分は既に公私の文庫等に分配し、他の三百部が個人の希望者に向つて提供せられて居る。頒布の條件は廣告面に掲げてある。おもろ研究の參考書としては、最近伊波氏の「おもろ選釋」が出て居る。其以外に同氏の論文集なる「古琉球」及び近々公にせられる「續古琉球」の中にも、多數の有益なる解説が載せられて居る。
 
(453)   耳たぶの穴
 
 耳たぶの、ちやうど耳飾りの環を通すあたりに、鉤であけた程の穴のある人が折々ある。それが遺傳するらしい。自分の知る例は、下總北端の或村に生れた人であるが、他の地方でも珍らしいことでは無いと見えて、高田十郎氏の雜誌「なら」三七號には、岡山の言ひ習はしとして、着物の襟に針をさすと、耳たぶに穴のある子が生れると謂ふ例を載せてある。此穴は自分も見たのであるが、それは完全に穿たれて居るか、はた外形のみであつたかは今記憶せぬ。此點に關して何か觀察せられた方は、追々に本誌に報告せられたい。
 
   百姓の服制
 
 これは外南部の旅中に、土地の老人から聞いた。果して精確であるかを知らぬ。
 舊藩の頃には、百姓の衣服が法令に由つて一定し、一見して所屬が知れた。下北の百姓は、白麻の衣類に袖に紺で二筋、上北の百姓は淺葱の麻衣に、黒絲を以て差してあつた。津輕の人民はたゞの麻黒染と限られて居て、互に混ずることが無かつた。
 此樣な例は他にもあつたものであらうか。書物などの記事、御記憶の方は御報告を乞ふ。
 
(454)   南部叢書刊行の計畫
 
 仙臺叢書が今や立派な成績を以て、豫定の事業を完成しようとする際に、引續いて南部叢書の企てが公表せられたのは、悦ばしいことである。この二つの叢書の比較は、大なる興味があることで、或は之を以て舊二領の氣風の差とも考へられぬことは無い。南部領の方には佐久間氏の聞老志、田邊氏の名跡志、保田氏の風土記の如く、大部册の地方誌にして明治に入つて夙に活版に付せられたものが今までは無かつたやうである。前代の學者の苦心の著述は、多く寫本として舊家に珍藏せられて居た。從つて我々に取つては、其の新なる蒐集が一層に待遠しい。仙臺の方の叢書には此等の名著までを編入する必要の無い代りには、編纂者が多く城下に居住する尚古黨である爲に、舊藩主家の文藻と云ふが如き、外國の者には格別の興味も無い小册子までも珍重して、所謂士人文學の趣味を發揮して居るが、之に比べると北隣の縣では、學者が年少く且つ各郡に分住して居る故に、自然に眞土の香の豐かなるものが出來るらしい。南部叢書の計畫の中心は、盛岡銀行の太田孝太郎君であるが、同君は最も謙遜な態度を以て、此事業に對する伊能嘉矩翁小笠原小田島の二君の如き、縣内各地の諸同志の助力の重要なることを説いて居る。現在提示せらるゝ書目を見ても、縣外の學徒には珍らしい書が甚だ多いが、此計畫の進行につれて、尚若干の無名の學者の勞作が、追々と世に顯れ來るべきことが豫測せられる。例へば古い家々に保存せられる日記覺書の類など、假に其全部を複製する要は無くとも、心ある者の親切が之に加はつたならば、必ず其一半は我々の學問の資料として、容易に利用せられることになるべきである。最近我々が悲しむべき訃音に接した遠野の伊能翁の如きも、多分はその驚くべき精勵を以て若干未刊行の遺篇を止められたことゝ信ずる。陸中の靜かな田舍には翁の如く名を求めざる讀書人が、まだ/\多かつ(455)たことゝ想像するのである。叢書着手の期日及び書目と頒布の條件は確定した上で再び報道する。吾人は此流行が更に米澤最上莊内秋田津輕の舊諸領に及ぶのみならず、今一段と世に遠かつた小地方に迄も行渡らんことを希望する。
 
   杖成長の例
 
 肥後と豐後の國境山中、阿蘇小國の枚立温泉にも、弘法大師の杖を立てゝ成長したといふ口碑があり、逆杖の竹と謂はれた。此ことは昨年秋の福岡日日新聞の紀行に出て居る。
 
   竈神と馬の沓
 
 明治四十三年十月十六日、秩父郡蘆ヶ久保村ウツギ平の路傍の一軒屋に休んだときに、家の一隅ナガシの棚の下に、徑八九寸の馬の草鞋片方を引掛けてあるを見た。老婦に何かと問へばオカマサマですと答へた。正月毎に取りかへる由。此例他にもありや。
 
(456)   猿屋土着の例
 
 愛知縣南設樂郡千郷村大字野田の中市場と云ふ處に、以前猿曳をした者の家が十數戸ある。百年あまりも前に此職業は罷めたのだが、今尚サルと稱して、多少世間から輕しめられて居る。縁組なども主として他村の同じ系統の家として居る。寶飯部蒲郡村西(ノ)郡、八名郡船著村大字日吉の鹽澤などにも、サルといふ家があつて、此等互に通婚して居る。
 
   觀音堂の額
 
 紀州粉河の觀音堂の境内、御堂に向つて右手の堂には、澤山の小さな觀音が安置してあるが、其上にかけられた大小の額は、悉く參詣人の名前を書列ねたものばかりで、しかも其信徒の大部分が長門阿武郡の萩町椿郷等の住人のみであつた。是にはどういふわけのあることか。又一〇若くは、一※[○三つの図]などの符號のやうなものが、名の上に描いてあるのは何を意味するか。逸木盛照師其他のかの地方の御人に伺ひたい。
 
          ○
 
 紀州粉河寺繪馬堂に、長州阿武郡の參詣者の納額の、氏名の上の記號のこと(一ノ二ノ一五三頁)、日野巖小川五郎(457)の二君より示教があつた。一文字三つ星は毛利侯の定紋、一つ星も弓鐵砲足輕指物などに之を附すること、寶暦五年の武具備を記した寫本に見え(日野)、豐榮野田兩神社祭禮の幟にも、現在一に三つ星を附けるといふから(小川)、疑無く舊領主の紋を用ゐて居るものである。如何なる由緒あつて粉河に參詣する者多く、又其納額にまで此紋を使用することになつたかは、兩名も共に奇事として居られる。家じるしの使用は起原久しく且つ弘く國内に及んで居る。他日此問題の研究せられる場合には、是も亦一資料たるを失はぬ。
 
   拔け參り
 
 編者云。拔け參りといふ言葉は、今でもまだ記憶する地方は多いが、是ほど精確に且つ最近まで、繰返されて居た村は他では聽かなかつた。信州上伊那の一隅では、老人などの今も一つ話にして居るのを、野澤虎雄君が筆記して置いたものが近く報告せられるが、是は下市場のやうに例年の行事では無かつた。伊勢から遠くなるときう無造作に拔け參りを計畫するわけにも行かぬので、やはり珍しい豐作の續いた後とか、何か別の誘因が必要で、勢ひ臨時の事業となり、從つて早く廢り易かつたことゝ思ふ。御蔭參りの流行と之に伴ふ沿道の攝待、旅費給助などの風聞が、特に拔け參りを刺激したことは勿論で、矢頭君の報告する慣習の中にも、一部分は近世に入つて發達したものがまじつて居る筈である。しかも村の旅行團の組織と、之を取卷く所の宗教行爲には、伊勢參り其ものより起原の遙かに遠く、又入營出征者の送迎などに變化して、それよりも更に後まで殘つて居るものが多いことは疑が無い。關東東北地方から企てられる團體旅行には、一種不文法の監督會計制度があつたことは、多くの老人にきけば稍詳しく之を知ることが出來る。又所謂阪迎への慣例は、假に夙く衰へても地名などになつて村々に殘つて居るであらう。此序を以て今(458)少しく弘く考察して見たいと思ふ。最近に伊豆三宅島の壬生祐麿君の話を聽いたが、あの島五村のうち、坪田の一部落のみは今も規則正しく、船の旅人の出入の際に、酒を携へて途に送迎する風を存し、又別宴を開く場所作法、物言ひや歌にまで古い定めがあつたものらしい。全體に島は地つゞきの村よりも往還が事々しく、且つ實際の不安も多い爲に、此種の舊慣が永く必要であつた。沖繩の各島にも旅の始中終の色々の祭が、親しい者の間に營まれるは勿論、普通の隣保同村の間柄でも、冠婚葬祭の時と同樣に立會の義務があり、また送り迎ふる場所と時刻、言ふことすることから、涙をこぼすべき場所まで、大凡一定の規律があつたやうに思はれる。即ち自然なる箇々の感情の發露と、履まずには濟まされなかつた昔からの方式との間には、簡單に判別し得るほどの明かな分界の無いことが感じられるのである。尚矢頭氏の報告にはもれて居ることで、例へば所謂後見役の本來の名稱、旅中及び其前後に於ける他の少年等との精神關係、今一つ立入つていふなら、男女の間柄がどう變化して行くかといふことなど、更に此からの同志者の追加を須つべき重要なる項目がある。尚注意して觀察して見たいと思ふ。
 
   八幡と魚の牲後記
 
 編者云。井上氏の寄稿は二三の考證を伴ひ、更に細々として註脚を添へてあつたが、便宜上之を二分して此には先づ記述の部分のみを掲載する。相當の注意は加へたつもりであるが、萬一書改めの結果誤謬を生じたやうであつたら、遠慮なく之を指摘せられんことを、筆者竝びに高田村の諸君に向つて願つて置く。尚今後の報告は先づ簡明に事實だけを敍述することとし、此等の慣習の起原意義に關する各自の意見は、別に研究の形式を以て公表することにしたいと思ふ。或は斷片的の心付きだけならば、報告の終に附記して置いてもよいが記文と意見と交錯せしむることは、自(459)他の爲に利益で無いと思ふ。
 神饌調理の方法には、古傳の味ふべきものが多いと思ふが、殊に魚類であり神が八幡である故に、この報告は貴重である。他の地方に之に類する例があるならば、成るべく本篇の如く綿密に之を報ぜられたい。八月十五日の放生會が、實は生牲點定の一方法であつたらしいことは、假令佛法の之に異なる解説が古くからあらうとも、之を想像して差支無かつたのである。眞の放生ならば、最初から捕らぬ方がよいからである。但し此斷定を下す爲めには、尚此類の古例の幾つかを比べて見る必要がある。
 尚此序にいふ。御鍬神の祠は美濃尾張以東、海道の各地に在つて近世の傳説が多いことは、既に鹽尻の中にも見えて居る。たゞ其神實が鍬に似たる榊の一對であることは、亦此報告に由つて始めて明かになつたかと思ふ。鍬の形をした木の枝とはどんな形であるか。圖に由つて知りたいと思ふ。東北地方の鍬の柄は、今も自然の枝を其まゝに切取つた所謂ひたえ(直柄)なるものが多く、此が發見と採取に伴ふ慣習には、今尚古風を窺ふべきものがあり、江戸中期の御鍬神の流行には、底に隱れた民間信仰のあつたことを想像せしめる。八幡神社の之と提携したのは偶然であつたか否か。更に此機會を以て追々と研究を進めて見たい。
 神社の祭典は目下盛んな勢ひを以て統一せられて行くやうである。由緒ある古式は假に當世にはをかしいと感ぜられるものでも、是非とも目撃者のまだ達者で居るうちに、精確に之を記録して置くべきである。
 
(460)   まんのふ長者物語
       ――オシラ遊びの經文――
 
 十六ぜんのシラの神
 御本地讀み上げ頼み奉る
 手にとればこそ手になついて
 遊んだ神かんな
 昔よりまんのふ長者とて
 あるかの長者こそ
 姫君一人もたせたまふ
 晝はかげんの座敷
 よるはかひごの遊び
 ゐぎやうかつぎやう限り無し
 然るにまんのふ長者のみ厩にて
 一の名馬とて繋がせたまふ
(461) 姫宮も御年十六歳にならせたまひし年にこそ
 今までや御厩へ下りて
 名馬見物致したることは無し
 十二人の女房たちの目を忍び
 父母の御目はからひ忍びたまふ
 姫君きぬのつまを取り
 かすみの鞭を杖につき
 急ぎみ厩へ下らせたまひて
 一々名馬御覽ずる
 中にもいつくしき名馬あり
 ぜんだん栗毛
 左りの肩さき見奉れば
 月といふ文字は七流れ
 右りの肩先見たてまつれば
 日といふ文字は七流れ
 左りの背すぢを見奉れば
 法華經といふ文字は七流れ
 右りの背すぢを見奉れば
 泉といふ字は七流れ
(462) 耳と申せば法華經二本立たる如く
 目は日月の如く
 尾首は白き絲をよりかけたるに異ならず
 爪と申せば天國ふせたる如く也
 人間の身ならば一夜の契りを
 こめべきものよとあひくやうふさいで
 霞の鞭で三度撫でさせ給ふ
 性ある名馬の事なれや
 前膝折つて戀のやまふと惱みける
 八人のとねりども水かひ糠かひ
 くじよの葉笹の葉とり飼ひたまひど
 これ餌食に定まらず
 これは何ぞいかがはせんと
 兎にも角にもこの事君に
 御披露申さばやとありければ
 まんのふ長者これを聞き
 さらば博士を喚んで占ひせよとありけれや
 七の博士を召よせて
 昔の雜書今の暦をひきあはせ
(463) つく/”\かがへて申す
 是はそもせんだん栗毛
 姫君戀ひのやまふと惱みけると占ひを致す
 まんのふ長者これを聞き
 大きに驚きたまひてありければ
 姫君その事きこし召し
 いそぎみ厩へ下らせたまひて
 一首の歌を遊ばせたまふ
 霞の鞭で三度なでさせ給ふ
 まんのふ長者それを聞き
 大きに腹を立て
 白がねの床凡に腰をかけ
 せんだん栗毛に打向ひ
 昔は今に至るまで
 今は昔に至るまで
 畜類は人間戀にしたる例も無し
 人間は畜類戀にしたる例も無し
 國のあるじの國守にこそ
 わが姫と縁くませべと思ふそのあひに
(464) わが姫に縁いるべきことは
 思ひによらんと言葉いかひに怒らせ給ふ
 性ある名馬の事なれや
 北に向つて三度いなゝき
 前膝折つて舌をくひ切り空しくなる
 八人のとねりども
 まんのふ長者にきこし召し
 さらばもと綱打切り
 御厩より引出せ
 ごんが河原に棄てさせよとありけれや
 仰せの通り八人のとねり共
 もとづな打切り御厩より引出し
 ごんの河原に急がせたまふ
 急げば程なきみんなみになりゆけや
 四方に杭をつき
 さらし置きてぞ還りける
 姫君その事きこしめし
 せんだん栗毛なれの果
 見ばやとおぼし召し
(465) 十二人の女房たちの目を忍び
 たけとひとしきかんざしかけさせ給ひて
 ごんづ草鞋しめはいて
 菅の小笠で顔かくし
 かすみの鞭を杖につき
 みんなみをさして急がせたまふ
 急げば程なきみんなみになりゆけや
 こゝやかしこと尋ねたまひども
 姫の力は及ばんと
 南をはる/”\御覽ずる
 みんなみの桑にこそ
 さらし置いたる皮を御覽ずる
 あゝら無殘な名馬かな
 長き壽命にあるべきに
 わが故はや/\死して候
 さらば菩提にとむらうてくればやと
 一卷の經を讀み
 六番目の念佛を唱へ
 よきに菩提をとひ給ふ
(466) 重ねて姫君あるやうな
 いかに畜類の身なりとも
 性ある名馬のことならば
 何處へなりとも我もろともに
 つれ行かばやとありけれや
 仰せの通りこがねのえんま
 せんだん栗毛の形となる
 姫君や飛び來つて
 あまたの空へ指をさし
 天の羽衣かひぐるみ
 西より黒雲立ち
 風にまかせて西天竺と上らせ給ふ
 十二人の女房たちは
 三にち三や尋ねたまひども
 姫の行方見えざれや
 まんのふ長者にきこし召し
 さらばわが姫を尋ねてくればやと
 八人のとねりども
 あまたのないし出立つて
(467) ごんづ草鞋ぬいて
 七日ほど尋ねたまひども
 姫の行方さらに見えざれや
 まんのふ長者はきこし召し
 さらばみこを呼び申して
 み神樂はじめ七つがまたち
 三日三夜神の御託の上で
 姫の行くへを聞き申さばやと
 さらばみこをほうしみこを呼び申して
 御神樂はじめ七釜立ち
 三日三夜七日七夜申せば
 けふで七夜と卯の刻に
 神や下らせ給ひて
 長者姫の事なれや
 同じ蓮になりけるぞ
 あまたの空に指をさし
 西天竺と上らせたまふ
 十六日白毛蟲黒毛蟲
(468) 二つの蟲にてくだりびくぞ
 白毛蟲は姫の姿となり
 黒毛蟲はせんだん栗毛の形となり
 それ餌じきに南百番といふ木の葉をとつて
 白かねのまな板黄金の庖丁で
 うすきりいづみに飼ふならば
 さら/\とぶくしけるとて
 長者夫婦は斜めに悦び
 又神やあがらせたまひて
 長者夫婦のことなれや
 三月十六日程や久しき待させ給ふ
 日過ぎ隙もりすえざりや
 はや三月の十六日にもなりけるぞ
 卯の刻から神の一てんまで
 神風吹いてなごやかに
 五色の雲のたなびき出で
 五色の雲に打つれ
 姫の玉手箱はまひ下る
 ふた押開きて御覽ずれや
(469) 急ぎ開いて見たまひば
 しろ紙一枚錦にくるみ
 みだい取上げ
 左りの袂にさんちさん夜
 右りの袂に七日七夜
 あたゝめ定め
 取りや出して見たまひば
 まことに白毛蟲黒毛蟲
 二つの蟲にて候な
 いつよりもはるみやは
 だん/\とほめ喜びて
 神からの仰せの通り
 南百番といふ木の葉をとり
 白銀のまな板黄金の庖丁にて
 十二人の女房たち
 こがひ母と名づけたまふ
 八人のとねりども
 桑とり王子と名づけたまふ
 三七日飼はせたまひばつち子と名づけ
(470) 三七日かはせたまひばたき子と名づけ
 たきこなんによと名づけたまふ
 三七日飼はせたまひば
 白かねの舟をはでふな子と名づけ
 三七日飼はせたまひばには子と名づけ
 には子なんによと名づけたまふ
 三七日かはせたまひば
 こがねのまやをはきくだし
 三七日飼はせたまひば
 これより南の方こうせんといふ山はあり
 高さ七かんぢ
 廣さ六かん路の山はあり
 かの山の木を伐りてつきれて面白や
 通ればこそとほりがね
 九十九匹のついのあらごも
 大きく繭や鶴のごのせ
 小さきまゆや鴨のごのせ
 かもは河原にしらかはら
 つくりつけたる繭なれや
(471) ねりて千人かくて千人かゝるて千人
 三千人の女房たち相副ひて
 白かねのはんじようたらひ
 黄金のわたばりとりもちて
 なゝはつかなかあやに掛け
 したんのつゝを手に下げて
 五色の絲をあやにかけ
 神や下らせたまひて
 白かねのばんに腰をかけ
 うんさんさ
 さくそわかあやてうてう
 くだそろそろはくちより
 織り出すはたかんな
 
 はいさいや
 きよいきよからだ
 おりだすはたかんな
 おくないす障子をしめ
 いくへひくへ七重も八重も
 
(472)   重ねてもひく
 
 捜神記の蠶神由來譚と、最も著しい類似をもつた昔話が、弘く奧州北半に行はれて居ることは、既に十五年前の遠野物語の時から注意せられて居た。しかもまだ何人も如何なる方法に由つて、保存せられて今日に至つたかを、心付く者は無かつたのである。それが三戸郡の一地方に於て、今尚イタコ等の耳承口傳する所であることを知つたのは、全く同志の篤學者某君の功績であつた。
 イタコは陸中以北の各村に於て、オシラ神に奉仕する通例盲目なる巫女のことである。オシラは二三の學徒の熱心なる研究あるに拘らず、根原の未だ明瞭ならざる家の神の一つであつて、長さ二尺ばかりの二本の木の、一端に男女の顔などを刻み、五色種々の布帛を以て覆ひ飾つたものを依座とする。毎年正月三九月の十六日に、イタコは由緒ある舊家に招かれて、其家のオシラ神の木主を手に持つて、歌ひ且つ舞ふを例とし、之を名づけてオシラ遊び、又オシラサマを遊ばせるとは謂つたのである。
 三戸地方に於では、オシラ遊びの經文(語りごと)は、三つしか無いやうに傳へられる、まんのふ長者は則ち其一つであつた。此以外に、しまん長者、きんまん長者の二曲があつたが、共に至つて短いもので、獨りまんのふ長者のみは此の如き長篇である故に、よほど強記なるイタコで無いと之を唱へることが出來なかつたと謂ふ。盲目の巫女である故に勿論書いた物の必要は無く、しかも祭の日に之を語る他、今以て秘傳の世に洩れることを許さなかつたことは、章句の往々にして晦澁に歸し又誤謬の少なからぬのを見ても想像し得られる。イタコは五十年公認せられざる職業であつて、其傳統は絶えざること縷の如きものである。しかも今に於て滅び行かんとする昔の物語を存録することは、此の如き難事業であつた。オシラ神の所謂御神體は、桑の木を以て作る例が多い。或は南北に通つた谷の左右の岡から、各一本の枝を採ると謂ひ、又は色紫なる特別の桑樹で、之を發見することも亦神意であるやうに説く者もあ(473)る。何れにしても右のまんのふ長者の物語と關係する所があり、從つて民話の要部の由來甚だ久しいものなることを、推測し得るのである。
 但し滿能といふ長者の名は、我邦の長者譚に於ては最も普遍的である。或は九州豐後の古石佛に關聯して、數百年間人口に膾炙した滿能長者が、最初では無いかといふ意見もある。若しさうであつたとすれば奧州のイタコの文學も、?外來の影響には無感覺で無かつたので、或は養蠶といふ産業が北地に普及した以前、更に別樣の詞曲を以て、久しく其道を行うて居た時代があつたのかも知れぬ。
 兎に角に右のオシラ遊びの蠶養の詞の中には、關東以西の春の始の春駒の歌と、比較をして見て始めて分明になる箇處が多いかと思ふ。蠶と馬神との關係は他の地方に於ても、形を變へてまだ認められて居るのである。
 
(474)   編輯者より
 
▽資料は追々と珍しいものが集まつて來るが、尚此上にも諸君の協力を以て、問題を豐富にしたいと思ふ。
▽紙數の制限の爲に、又は成るべく有效に問題を處理したい希望から、例へば正月の記事を一月號まで殘して置くやうな場合が多い。
▽どうか掲載が遲いから粗末にして居るものと考へずに居てもらひたい。又發表前の増補訂正は大に歡迎する。たゞ誌面の狹く編纂者の多忙なることを考慮し、學問上に必要なき美文修辭、若くは單なる禮儀見たやうな文句を附加せず、出來るだけ簡明に問題だけを敍述せられることを切望する。
▽編輯者の附言も行く/\そんな必要の無いやうにしたいと考へて居る。これで若干の頁を費すことは實は本意で無い。
▽讀者相互の質問應答は大に結構である。問題はあまり廣汎に失し、それに答へる爲に一大論文を書かねばならぬやうなのは困るが、それでも今まで人の注意しなかつた事柄ならば、成るべく掲載して置く方針である。
▽效果の多いのは具體的なる實例の有無、又は其説明といふが如き、人の手輕に答へ得る小質問に限るかと思ふ。
▽人を神に祀る風習は、論文としては完結して居るが、問題としてはまだ片端に觸れただけである。次々機會ある毎に、更に別方面から考究せられることになつて居る。類似資料の蒐集について、讀者諸君から杖の話以上の援助を受けたい。
▽又證明の方法、觀察の態度に關して、成るべく多くの論評を受けたいと思ふ。引用者の便宜の爲、此間題に關する(475)是から後の諸篇を、總括して「人神考」と名づけて置く。
▽贈答交換等に關する習俗はまだ一つしか集まつて來ぬ。婚姻の慣習、團體旅行の慣習なども是から尚各地方の材料を集めたいと思ふ。
 
   編輯者より
 
▽二ヶ月一囘の雜誌に以下次號の論文を出すことは、勿論我々の本志には反するが、何分創業早々で寄稿者との諒解がまだ理想的で無い爲に、勢ひ   稍々負擔に餘る豫約をせねばならなかつた結果である。徒らに目次の繁きを誇るが如く誤解せられては困る。
▽結構な寄稿の多かつた場合には、先づ第一に編輯者等が公けにしたいと思ふのを差控へた。決して發刊當初の聲明を裏切つて、無爲怠惰に日を送つて居るわけでは無い。
▽此際同情ある誌友諸賢の高援を仰ぐ點は、成るべくは編輯締切と關係なき時期に於て原稿を纏められ、豫め之を我々に託して、少しなりとも編輯の計畫を立て易からしめられんことである。
▽一月號は印刷所の都合を考へ、且つ前號延刊の不體裁に懲りた爲に、非常に編輯の切上げを急いだ。待兼ねて居た濱田博士の、新羅燒の壺の話が、僅に二三日の事で間に合はなかつたのは殘念の至りである。讀者と共に三月號まで忍耐し、且つ樂みにしたいと思ふ。
▽資料には折角の美文もあつたが、力めて要點を精確に抄出して、多量の省略を敢行した。それでも尚十數篇の掲載不能のものがあつたのは、報告者に對して氣の毒である。尤も曾て郷土研究其他によつて、比較的世に知られて居る(476)事項を後にまはした場合が多く、日本民俗學の視野領域を點定する爲に、特に有用であるか否かといふより外に選擇の標準は何も無かつたのである。
▽從來報告せられざる府縣郡、殊に未だ同志者の注意が及ばなかつた村々を、さきにすることだけは必要だと考へた。三十五箇處の新年習俗の比較を試みて、始めて讀者が自然に感ずるであらうと思ふことは、以前たゞ珍奇不可解なる現象として、茶話の題材を供するに過ぎなかつた諸現象が、此方法を以て進んで行くうちには、やがて最も能辯に其意味を語るだらうといふことである。是は取りも直さず學問の勝利であり、又「民族」の功績である。
▽小川五郎君の小さな一つの質問に、忽ち四箇處からの答が集まつて來たのは愉快である。如何なる切れ/”\の知識記憶でも、斯うして集めて見た上は何かになる。況んや是は甚だ重要なる前代文化の一問題を暗示するものらしい事項である。
▽贈答の慣習、物品交易の方法及び婚姻の古風等に關する我々の質問もまだ決して滿足し又は撤囘して居るのでは無い。
 
   菅江眞燈の故郷
 
 大正九年の十一月には、自分は誤つて岡崎市の周圍の村ばかり尋ねてまはつたが、後になつて彼の郷里の渥美郡なることに心付いた。今年の秋は又早川君が熱心に豐橋の近村を求められたが、白井といふ苗字は處々の村の舊家にあつた。其中で梅鉢の紋を用ゐる白井氏も、一軒はもう既に心當りがあるが、まだ問合せを始める迄の便宜を得ない。天明八年の夏頃、平泉附近の假寓から文通をしたといふ殖田義方の家は今もあつて、よく保存せられた文書類の中か(477)ら、中道君所藏の寛政八年の紀行の一部分を、自ら筆寫したものが發見せられた。
 
   天神樣と雷
 
 岡山近傍では、天神樣の祭つてある村には、雷が落ちぬと謂つて居る。此例他の地方にもありや。
 
   編輯者より
 
▽本號に集めて見た婚姻の習俗記事にも、偶然に島々の特殊生活が報告されて居るのは愉快である。
▽小さな離れ島などには、殊に「民族」の讀者同情者が少い上に、さういふ處への旅行は必ずしも現在の趣味で無い。それが假令僅かづゝでも、意外の材料をつゞいて得られるのは、全く我々の事業を理解した人々の好意であるが、同時に又如何に日本といふ國の多くの小屬島が、民俗學の資料に富んで居るかを、推定し得る根據であらうかと思ふ。
▽そこで此次の五月號には、成るべく多くの島の記事を載せて見たいと思つて居る。能ふべくんば九州西南の諸島、隱岐島、志摩沿岸、それから松島以北の島々などに關する新たな材料を寄せられたい。
▽ニコライ・ネフスキー君の宮古島童兒遊戯に關する長篇の調査なども、次號には全部を存録する。此島各方面のフォクロアには、必ず同君の筆を煩はさねばならぬのが、他にもまだ中々あるのである。
▽田遊の詞章は此號にのせた三箇處の例の他に、既に幾つかゞ公表せられてある。例へは出雲の例は前年の「日本及(478)日本人」に、遠州横須賀のは「郷土研究」の中に在り、至つて簡單ながら石見の一例は本誌昨年五月號にもあつた。さうして尚澤山の未發表のものが殘つて居ることを想像せしめる。日本文學史の研究者が、忘れてはならぬ資料であるから、行く/\成るべく多く集積して、諸君の比較に供しようと思ふ。
▽本年は東條教授の「方言採集手帖」の編輯その他、多くの此方面の新運動が豫想せられる。「民族」も亦益之に呼應して、一部の專門家たちの深い睡を驚かしたいと思ふ。次號には若干の資料を載せて見ることになつて居る。
▽論文報告共に續々新寄稿者の増加するのは本懷の至りである。此上の御願ひには、論文は成るべく本誌の材料を利用し、一方資料の報告は出來るだけ前出の研究を補足訂正する方面に向つて進まれたい。
▽尤も是が爲に少しでも新しい開拓事業を閑却せぬだけの用意はあるのだが、折角有效なる仲介機關があるのに、之を利用し得ずして學問の孤立を忍んで居られる人の多いのを遺憾と感ずるのである。
▽贈答交換の問題に關しては、まだ報告が甚だ少ない。或は編者側で率先して、今少しく此間題の興味を鼓吹した方がよいかと思ふ。
▽地名考説に關聯した短かい通信を歡迎する。
 
   北方文明研究會の現?
 
 此會が計畫した第一次の會員勸誘は、案外の不成績であつたが、幸ひにして在京の同志者は時々の集會によつて、當初の最も強烈なる研究心を維持して居る。本年に入つてからは一月二十五日の夜、第四囘の小集を催して之に會する者約三十名、宮城縣北部を旅行して奧淨瑠璃の近代の變遷と、之に携はる盲人團の系統を尋ねて來た中道等君の報(479)告の他に、特に芬蘭國公使のラムステッド博士に乞うて、主としてかの北方民族の言語と、之を愛護し又發達せしめんとする國民的運動に關して、一場の談話をしてもらつた。博士の日本語は達者でもあり精確でもある上に、日本人の今まで久しい間、母語を粗末にして居た態度に付いて、幾多の實例を擧げて率直に之を批判せられたのは、最も聽聞者の感動する所であつた。
 此方面に對しては、實際我々の學問は餘りにも無關心であつた。其中でも東北北海道の青年學徒が、自分たちの生活を知らうとする熱情は殊に十分であつたとは評し難いものである。獨り言語の一點のみでは無いが、中央との交通が從來思ふ樣で無かつた御蔭に、曾て持ち運んだものは保存せられ、同時に地方限りの新たなる發明、特殊なる調和も歴然として其痕跡を留めて居たのに、之を全然其事情を參酌しなかつた人々の學問と著者に據つて、簡單無條件に解釋し去らんとして居たのである。中央都府周圍の生活樣式と、共通でない特徴を最も多く持つ地方から、先づ此種の研究を開始する必要はあるのだが、實際は却つて正反對に、外を知るに急にして内を忘れようとする傾向が著しかつた。
 北方文明研究會の計畫は、もと郷土を愛慕し且つ思念する少數東北人の純なる心情に出發したものであるが、この現在の傾向から見れば、寧ろ不自然なる努力であつた。漫然たる一篇の勸誘文に接して、之を徒らに事を好むの擧なるが如く、速斷する人が多かつたとしても、或は致し方の無いことである。此上は更に新たなる忍耐を以て、先づ學問の興味と效果とを實證して、何故に特に北方日本に限つて、此の如き劃地的の研究と、居住者自身の實地考察が必要であるかを例示するの他は無いやうである。從つて若干事業の順序を變換し、最初に少しづつ東京發起人等の研究を公にすることにし、其努力の一端は「民族」の此號などにも現れて居るのである。
 會の第一期の入會案内は、決議に基いて各方面に發送せられた。東北北海道在住の知人を始とし、東北出身の教育職員、其他少しでも此學問に興味があらうと想像し得る向へも、洩れ無く同じ通知をしたのであるが、現在はまだ豫(480)定の數だけの賛同を得ぬ上に、參加者が一地に偏し、殊に東京者ばかりが多い故に、兼て計畫せられた如く、各地會員間の相互の音信により、資料を交換し研究を助け合ふといふ見込が立たぬ。早期入會者の好意には背くが、今暫くは名簿手帖の印刷を見合はせて、地方の學問の自然の展開を得たいと思ふ。會自體としても色々の計畫を持つて居る。本年は其一部分が實行せられる筈であるが、新たなる入會勸誘は當分之を試みぬことにして居る。
 
   各地婚姻習俗比較
 
 緒言 正月の行事に比べると、婚姻の式には一層全國的の共通が多いやうである。所謂小笠原流以後の特徴が幾らも混じて居るのを見ると、是は必ずしも最初からの一致では無く、都市から村への新しい感化が有力であつた結果である。諸君の報告は常に親切であつたが、それを其儘に掲載すると、何度も同じ記事を繰返すことになる。そこで其中から編者に珍しく思はれた點のみを抄録して、他の大部分は省略してしまつた。大體に於て次に列擧したやうな諸點が、婚姻に伴なふ日本の田舍の昔からの仕來りであつたかと思ふが、中には實例があまり幽かで、尚多くの捜索を重ねなければうかと斷定の出來ぬものゝあることは認められる。諸君協力の下に直ちに第二次の調査に向つて準備したいと思ふ。見出しは單に便宜のために之を設けたが、其うちの太字で書いたものは現實土地でさう呼んで居るものであり、其他は編者が作つた名稱である。排列の順序はなるべく似よつた現象を近くに集め、必ずしも前囘の如く地理的關係を問はなかつた。次に此報告の中には、土地の居住者が自ら談るものと、又聞きに屬するものとがあつて、後者の價値の稍低いことは勿論である。此分は殊に再度の採訪を必要とするが、若し幸ひに夙く其誤謬に注意せられた人があつたら、如何なる些細の點でも、是非之を我々に教示せられたい。尚一二の心付きは、各條の終に附記す(481)ることにした。
 
   遠州西部の田遊祭附
 
▽息神社の歌詞の中には、歌ひ手も既に意味を知らぬ辭句が、少々はあるらしく考へられる。田遊が神事である上は、意味の不明なのも當然として、常人共に之を考へて見ようとはしなかつた結果である。今試みに心づいた一二を擧げて見るならば、地頭殿その他の「にしやうじやく」は、「みしやうざく」の記憶ちがひであらう。地頭たちが家の下人を使役して、自身で直營する水田を正作といふのが常である。即ち地方凡例録其他に所謂佃御正作がそれで、古くは單に御佃即ち御作田とも謂つた。それを「みしやうざく」と稱へた爲に、誤まつて「にしやうじやく」となつたのである。次に「定けん殿のにしやうじやく」は、多分「領家殿の御正作」のことであらう。領家は地頭より上に位すべきであるが、後に地頭の壓迫を受けて弱小な部分を占めて居たのである。但し定檢といふ語も想像し得ぬことは無い。即ち常設の檢注役で、收穫毎に派遣せられず、土地に留まつて租納運送を掌つた者を、或は常檢殿と呼んだかも知れない。「七人のけん子八人の早乙女」の「けんご」といふのは、他の地方で田人米人といふ者で、古く家子と書いてケゴと謂つたものを意味するかと思ふ。
 
(482)   編輯者の一人より
 
▽二度の伊波さんの論文が端緒となつて、今まで一向に顧みられなかつた日本各地の葬制の古風を、段々に比較して行くことが出來れば大なる幸であらうと思ふ。
▽曾て誰かも説いて居たやうに、死亡凶事の場合には新しい意匠を以て變更が加へにくい。又縁組交通のある區域以外には、假に異風があつても注意せられることが無く、誰しも自分の土地に行はれるものを、全國の普通と臆斷する風がある。
▽それが語り合せて見ると、可なり土地々々の變化と、又遠方の意外な一致があり、結局我邦にも著しい二段埋葬の特色の、上代信仰の痕跡を暗示するものあることを認めるのである。
▽但しこのために一時に澤山の資料を集積する見込は無いから、得るに從つて追々に掲載して見ようと思ふ。願はくは常に前號の記事を參照して、我々をして二度以上同じ事を敍説するの愚を免れしめられたい。
▽十一月號には材料がもし集まるなら、山村の生活、殊に獵人の行事に關するものを比較して見たいと思ふ。農村とやゝ同じからぬ一つ家又は山小屋の話など、小大を問はず成るべく固有名詞を明示して報告せられたい。
▽その次には池沼水の神に關する傳説舊話、之と關聯するらしき現今の俗説を集める計畫である。是も徒らに珍を競ふの弊風なく、熟視して後に何等かの新たなる原因を發見するやうにして見たいと思ふ。
▽折角澤山のよい報告が出て居るのに、本誌の研究はどれも是も、横ぞつぱうを向いて自分の卓見のみを獨語して居られるのは不本意である。惡くすると二つの相長屋住居の樣に世間から評せられるの危險がある。
(483)▽贈答應酬交易に關する舊慣は、誰もまだ注意を拂はれた人が無いのであらうか。今日の社交界にはまた好資料となるべきフォクロアは甚だ多いやうであるが。
▽言語の側から此問題に入つて行くがよいのではないか。例へば贈り物に對する小さい答禮、東京でオウツリと稱する語の地方的變化が知りたいものである。
 
   八月十五夜の行事
 
 次の記事は主として傳聞である故に、必ずしも精確といふことは出來ない。單に同志の人々の實地記録が報告せられるまでの間、一種の索引として保存して置くだけである。將來觀察の要點を何れに置くべきかといふ問題は、斯ういふ多くの例の排列によつて、追々に明かになつて行くかと思ふ。
 
       ○愛知縣東春日井郡小牧町北外山
 
 この村の十五夜には、月の光で自分の影を映して見る習慣がある。地面の上に自分の首の影がちやんと映ると、爺さんたちは先づ一年は壽命が延びたと謂つて悦んで居る。だから名月の夜の曇つた年などは、眞に淋しい心持がするといふことである。
 
(484)          ○千葉縣東葛飾郡我孫子町
 
 手賀沼湖岸の村々では、名月の晩に團子突きといふ子供の行事がある。長い竿のさきに七八寸の尖つた針金を附けて、外からそつと家々の供物をさして取るのである。芋や色々の菓物なども突くが、主としてねらふのは團子であり、又月見團子は盗まれるのが縁喜がよいとも謂つて居た。今はそんなことをする子が追々に少なくなつたが、家の方でも祭壇を内に引込めて設けるやうになつて、子供の興味も少なくなつたのである。
 
          ○三重縣南牟婁郡木本町
 
 此地方には十五夜の柿突きといふ言葉は殘つて居るが、今ではもう子供等が月を祭る家々をまはつて、「柿突かしてィ」、「柿たばらしてィ」と言つて、柿を貰つてあるくだけになつて居り、それも學枚の方で惡い風儀だと認めて、成るたけ訓戒してさせぬやうにして居る。併し以前には漁師の持つ手槍樣のもの、若くは竹竿に針などを取附けたものを持つて、無斷で供物の菓物を引掛けて持つて行つたのであるといふ。町でも此頃は家の子供にやるだけしか供へなくなり、今ではもう月夜の辻に立つて、おれは五つ、おれは六つもらつたと、自慢し合ふ子供の聲なども聞かれなくなつた。
 
(485)          ○三重縣三重郡河原田村
 
 舊八月十五日は、芋盗みの行事がある爲に、初冬の山の神勸進と共に子供たちが樂みにして居る。俗にいふ芋名月の晩は、家毎にほり立ての新芋を鹽ゆでにして、秋草の花とともにお月樣に供へる。それを軒下植込裏口などに隱れて居て、子供たちが取つて行くのである。中には鉢のまゝ持つてゆく者さへある。無花果の實を芋とまちがへて盗んだなどゝいふ滑稽もある。家々では知つて居てもわざと知らぬ風をする。それはなるべく盗まれるのをよいとして居るからで、子供たちは遲くなるまで斯うして方々をまはつて芋を取つて食べあるくのを、何よりの樂みにして居る。
 
          ○鹿兒島縣川邊郡川邊村
 
 此地方での十五夜の樂みは綱引である。綱は七歳から十四歳までの少年組が、二週間も前から掛かつて作り上げる。其仕事には十四歳の者が絶對の命令權を持つ。十三以下の少年は其指圖通り、山に行つて茅を集め、村を廻つて藁を貰つて來て、それを悉く氏神の境内に積上げる。用意が整ふと年がしらの者が四人で繩綯ひに取りかゝるが、其出來方を村の人から批評せられるので、全力を擧げて丈夫に立派に作り上げる。大抵一週間ぐらゐは其爲に費されるのである。綱の長さは六十間餘、兩端が段々細くなつて、中央のところは大人も抱へ切れぬほど太く、其中には青竹藤蔓が編み込まれ、少年の細工としては驚くほど巧妙に又丈夫に出來て居る。それを部落の四辻に丸く高く積上げて月の出を待つのである。
 綱引の二組は東の方が少年組、西は未婚の女子全部で村の人も自然に雙方に立分れて思ひ/\の聲援をする。月が(486)丘の上に現れると共に、一齊にエンサ/\の掛聲で引き始める。此時に歌ふ唄もあつた。綱が切れるといふことは子供頭の最大の恥辱になつて居るので、絶えず綱の?態に注意する。それを又面白がつて惡戯に綱を切らうとする青年があるので、血眼になつて不審な者を監視して居る。
 それでも終には綱が切れることがある。一度綱が切れると娘子軍は歡聲を上げて切れた綱の一片を引ずつて遁げる。綱を奪はれることも少年たちの恥となつて居るので、總員が跡を追つて之を奪還する。見物の青年たちが女を助けて防禦線を張る。それを突破して綱の一片を取返して來ると、見物が一齊に手を打つて彼等の功を稱へる。斯うして滿月の美しい一夜は、寸刻も惜まれる程に面白い。
 
          ○宮崎縣都城市附近
 
 八月十五夜の綱曳は、村々の若い者によつて一月も前から準備せられる。十五六歳が年がしらで十五名から二十名位の者が一團を爲し、家々をまはつて藁二束以上、御錢(一名御賽錢)一錢以上づゝ貰ひ集める。村中を廻るには先づ一月はかゝる。其間始終法螺貝を吹いて團員を一定の場所に集め又行動を指揮する。其うちには機會を捉へて隣村までも寄附勸誘に出かけるが、其場合には必ず隣村の團員と衝突して、忽ち石合戰となるのである。石合戰にも軍機軍略が色々あり、時によつては丸一日も勝負無しに休んでは又戰つて居ることがある。さうして負けても勝つても凱歌を擧げて還つて來る。こんな風だからいつになつても隣の村とは仲がよくならぬのである。
 いよ/\十五夜の日となると、早朝から集合して、兼ね/”\彼等の間に人望ある村の頑丈な大人七八名を頼んで來て、綱捻りに取掛るのである。綱は直徑五六寸長さ六十間以上、それに取附くに都合のよい樣に、周圍に百足蟲の如く藁口が出してある。此綱を捻るには大木の高い股に其の捻り口を吊しておき、それに一人づつぶら下つて自分で捻(487)りつゝまはること恰かも廻轉塔の子供の如く、はやしをかけて飛廻つて居ると、別に中央に立つ一人は手早く其捻り口を組合せて、始めて綱が綯はれるのである。綯はれた綱は樹の股の向ふに居る團員によつて徐々と引いて行かれる。
 日が傾き月の出に近づく頃には、此綱は村道の十文字の片隅に行つてトグロを卷いて居る。其前では色々の菓物や秋の七草を供へて祭が行はれる。兼ねて村中から集めてある御錢は、大部分は團員の飲食に供せられるが、一部は此祭の供物の料にもなるのである。綱曳の始まる以前に、この御賽錢を以てオカベ(豆腐)を求め、綱捻りの人々を饗し又團員も之に參加する。やがてその御祭の食事も濟むと、喇叭や法螺貝の合圖で村中の老若男女が大綱の前に集まつて來る。
 綱曳の組は豫め村中の人數を兩分してあつて、それ/”\部署に就くことになつて居る。引延ばされた大綱には、ところどころにシビトバナ(ヂゴクバナ)といふ植物が綯ひ込んである。是は何れか一方の負け色の見えた者が、刃物で綱を斫らうとするのを防ぐ爲で、昔からこの花には毒があり、刃物を當てゝも通らぬと言ひ傳へて居るからである。
 綱曳の勝負が度數を重ねて、しまひには流石の大綱もほろ/\にほつれてしまふ頃に、一同は清光の下に立つて五穀豐饒天下泰平の祈りをして、それで此式を終るのである。大抵の人は是で還つて疲を休めるのだが、村の青年だけは更に筋骨氣力を試す爲に、ほつれた綱の屑を拾ひ集めて假の土俵を作り、それから相撲を取り始め、一番?二番?の頃まで騷ぐのである。
 
   編輯者より
 
▽正月習俗の資料は無盡藏である。大體三部の歳時記や滑稽雜談の類に既に掲げられてあるものは、假に市人から新(488)たに學んだので無いことが明かでも、成るべく採録せぬことにして居るが、それでも東西の國の果に、一致して殘つて居る古風には注意せざるを得なかつた。
▽小正月の前の宵に、家の中で必ず行ふ儀式の、名前は相應に變化しつゝ本質がよく似て居るのは古い故であらう。又この最も神靈に滿ちたる刻限を利用して、忘れずに毎春繰返した色々の呪法と占法、それから唐突の外形を装うて、實は豫期せられて居た不思議の訪問者、津輕でカパカパと謂ひ、中國でホトホト又はコトコトなどと名づけられたものゝ、あらゆる變化と元の意義は、尚弘く比較して見る必要がある。
▽次の正月にも今一段の採訪と輯録とを希望せざるを得ない。火祭の方はもう大樣定まつた法則が發見せられたから、今囘は澤山の材料を割愛した。
▽多くの報告者は自分の子供の頃の見聞を採つて、直ちに之を最も頽廢した新都會の風習と比較し、獨り古意を得たりと速斷する弊がある。其實隣接した村々の僅かづゝの變化と説明とを連ねて見て、漸く保存の價値は知れるのである。「民族」の記録は或程度まで其便宜を助け得たと思ふ。
▽一般に「郷土研究」の時代に比べて、事實が自ら發光する所の智識が、其量を加へたといふ評を受けて居る。是は個々の寄稿者に於ても、本意とせられる所であらう。
▽世上の要求も自ら向ふ所がある。段々と問題が具體化して、人が前代と名づくるものゝ耳目鼻口を知らうといふ念慮、出鱈目の臆斷に對する反感は強くなつた。今一息を進めると古史の研究法は一變する見込がある。
▽在來の郡誌類の、一番に無關心であつた方面に、まだ耕し得る沃野がある。俚諺方言なども其一である。物の言ひ方以外に人の心意感覺を外から窺ふ途は無い。それが記憶せられて居るものは、年とつた人の言葉である。粗末にしてはなるまい。
▽地名の研究を試みようとする人が多い。僻説獨斷の危險が非常に迫つて居る。先づ材料の取捨整理を力めなければ(489)ならぬ。
▽表紙の老樹の畫は「民族」の名物の一つになつたので、尚次々適當なものを捜して行かうと思ふ。今まで寄與せられた畫伯たちの熱心を謝し、今後の同情者の一層の助勢を希望する。
 
   交易と贈答
 
 言語現象の比較といふたつた一つの路筋を通つて、漸く近づいて見ることの出來る問題が、まだ幾つと無く我々の學問にはある。近頃些しづゝ注意せられて居る商業の起源、それが日本では贈答といふものゝ古い慣習と、どれだけ迄の關係をもつて居たかといふことも、多分亦方言調査の御厄介にならなければ、明白に分るまいと私などは思つて居る。さう考へる理由を少しばかり書いて見よう。是から先はやはり諸君の協力に期待するの他は無いのである。
 最初に考へるのは、大きな貨幣を渡して、品物と一緒に受取る小さな貨幣のことを、何故にオツリ又はツリセンと謂ふかである。東京の小賣商店では、此頃しやれた積りでオカヘシといふやうである。一寸聽くと奇異であり、又何處から始まつたかも尋ね難いが、二種の語は實は意味が一つであるらしい。地方の例を尋ねて見ると、カヘシといふ方は東北に稍弘く行はれて居る。
  カヘシダイ      釣錢 宮城縣處々
  ケアシデア      同上 「仙臺方言考」
  カエリ、カエリシェン 同上 米澤市
  ケァリコ       同上 羽後河邊郡 
(490) カヘシは「香奠返し」などゝ謂つて、同時に又贈品に對する返禮品の名でもあつたことは注意すべきである。
 此以外に釣錢を意味する方言は尚二通りあることが知れて居る。和歌山市でオカといふのは、オカヘシの後略では無くして、何か「置く」といふ語と關係があるらしく思はれる。
  土佐で     ウハク又はウハコ
  伊豫越智郡で  ウワク
と謂つて居るのは、之と同じ系統のものに相違ない。
 次に今一つ全然別の語で、越中中新川郡などに、釣錢をハネといふ例がある。「富山縣方言」にも多分富山市の方言であらう。
  ハネヲタレ   釣錢をくれ
といふ文句を擧げて居るが、其ハネが亦釣りのことであつたと見える。北國方面ではどうか知らぬが、伊豆の東海岸、駿河の安倍郡などで、ハネと謂ふのは釣竿のことである。三重縣度會郡の方言集にも、ハネは竿のことゝあるが同じく釣竿を意味するらしい。釣竿は出雲に於てはハンヅキ又はハジキ、九州でも大分縣の海岸、西は平戸五島の邊でもハジキと呼んで居るが、是はハジキ即ち彈きであつて、釣の絲の引けば返ることをさういふらしいから、釣竿のハネも亦それと同樣に、恐らくは餌に對して魚の與へられることから出た名であらう。勿論是は今日のハネルといふ動詞の意味では無いが、元は「はね元結」などの如く、行つて戻る心持はあつたのである。此推測の當否は兎も角も、ハネとツリと本來一つの語であつたこと、オツリは全く釣り即ち豫期せられた反對給付であつて、その釣合ひは時として飯粒と鯛と、麥飯と鯉と位な輕重があつても、其後に別の語を設けるには及ばなかつたことだけは確かである。
 是から考へると、物を貰つて必ず入れて返す附木や紙の類を、ウツリと呼んで居たのも亦オツリであつた。即ち牡丹餅を以て紙一枚を釣つたことになるのである。自分等の郷里では、東京のオウツリをイレソメと謂つて居た。ソメ(491)は恐らく型ばかりといふことであつたらう。武州秩父では貰ひ物の返禮をカヘリバチと謂つた。紀州の日高郡ではオヒキと謂ふ。何れもはつきりとはせぬが、釣りとやゝ似た心持が窺はれる。それから又
  タメ  おうつり 伊勢度會郡
  タメ  うつり  大和北葛城
  オタメ 贈品の禮 近江愛知郡
  オタメ 御うつり 丹波天田郡等
 此語が大分弘い區域に行はれて居る。其語義は一見不明であるが、備中の淺口小田等の郡で贈物返禮をトビといふのを考へ合せると、タベ即ち「給へ」といふ語の固定したものであることが想像せられる。九州でも筑前博多でツカヒモノをオトビ、肥後玉名郡では所謂御年玉に限つて、之をトビと謂つて居る。正月十四日の晩に村々の少年が、僅かの藁細工などを携へてトビトビと謂つて來る慣習なども、即ち之に由つて餅や鏡を釣り出さんが爲で、東國に於てはタビタビといふ村もあり、土佐などでは粥釣りと名づけて居た。春の初は殊に縁喜を祝ふ故に色々の形を以て此の古風の交易が行はれ、出入の商人町内の若い者などから、手拭一本紙一帖を贈られた家は、大抵は非常に不利益な釣りを取られて居たのである。伊勢の暦や夷大黒の配札を始め、御寺さんまでが納豆だの味噌漉しだのを持つて、今も吉例の交易をして居るのは國風である。アキナヒが秋を待つてカヘシを受取る贈答であつたことは、夙く注意した人があり、又羽後飛島圖誌の實例も之を證明した。賣るは得といふ動詞から、買ふは返すといふ語の變化で、働きかける側に特に正規贈答の利益の多かつたことが、やがては行商をタベトと謂ひ、之を職業としてうき旅を厭はぬ者を、次第に増加した原因であらうと思ふ。
 
(492)   編輯室より
 
▽問題の小口を弘くする趣意から、新らしい研究の成るべく澤山に公表せられることを切望します。個々の御催促をせぬ爲に不熱心であるとの誤解をなさらぬ樣に願ひます。
▽學問上の色々の催しや會合、新たなる計畫、著述、それから我々の目の屆かぬ論文の紹介、感想、又本誌の批評注文等、何によらず又大小に拘らず、時々の通信を得たいと思ひます。
▽資料の一地方に偏することを氣遣つて居ります。今まで公表の少なかつた府縣、殊に九州と四國とに付て、讀者諸君の一層の援助を求めます。
▽歌ひもの其他耳で傳はつて居るものゝまだ存外に多く殘つて居ることゝ、それが迅速に滅びつゝあることを經驗しました。今後も其方の採録に力を致したいと思つて居ります。
▽方言などもこの意味に於て、出來るだけ精細に表示して置きたいと思ひます。前號に見えた佐々木喜善氏の命名慣習の如き報告の、尚方々から集まつて來るのを待つて居ます。
▽報告は便宜上直接通信をして下さつた方の名を掲げて置きますが、報告者は成るべく詳しく出處を説明せられんことを願ひます。
▽前號の「せんだん栗毛物語」の出處は次の如くでありました。青森縣天間林村の中村武君が、大正九年に青森市のイタコ某女から聽いて筆録し、之をニコライ・ネフスキー氏に示したものが傳寫せられて、中道等君の手から編者に送り屆けられたものです。たつた一つの歌詞でも、我々が利用し得るまでには中々多くの人の辛勞を經て居るのです。
(493)▽七月號には更に水に因みある信仰行事を集めて見たいと思ひます。牛馬祭雨乞などに就いて、土地々々の仕來りを知らせて下さい。
 
   編輯室の一人より
 
▽本號には三人の外國の學者からの寄稿を得た。之等の原稿も亦、前號のジャン・レー博士、ニコライ・ネフスキー氏のそれも、すべて本誌の爲に執筆されたオリヂナルの原稿である。レー博士はフランスの新社會學年報の同人、レヴィ博士はコレッジ・ド・フランスの教授で梵文學の碩學、馬衡氏は北京國學研究所導師で東亞考古學會の委員である。馬衡氏の原稿に關して種々斡旋の勞をとられた東亞考古學會に對してこゝに深く謝意を表しておき度い。
▽本號〆切後に、原田敏明氏の「命名と改名」といふ長い論文が到達した。遺憾ながら次號へまはさなければならなかつた。
▽贈答交易のフォクロアに就いては、已に再三この欄から採訪と報告とを希望したが、その反響は極めて哀れなものである。
▽贈答交易のフォクロアに關聯して、次の間題に就いて報告を得たい。客人、訪來者、他所者、乞食等の呼稱、その取扱ひ方、又市、市場に關する萬般の風習。
▽新しい經濟學は、その研究を之等のフォクロアの採集から出直して始めなければならなくなつて居る。讀者の此の方面への注意を望んでやまない。
 
(494)   諸國禁忌事例
 
 編者曰く、庭木畠の物の禁忌の例は、全國に亙つて無數であるが、細かに比べて見ると略共通な種類と理由がありさうである。作らぬといふ忌と喰べぬといふ忌とは、必ずしも常に兩存しては居ない。家では植ゑぬが貰へば食ふといふ場合も少なくない。庭木の場合などは殊にさうで、忌まれるのは單に之を坪の内に入れぬといふことに限られて居るらしい。さうして其種目は多くは固有和名の無いもの、即ち中世以後に輸入せられた植物であることは、恐らくは偶然であるまいと思ふ。氣を付けて見ると、庭木の種類には更に積極的の選擇があつて、どんな木でも山から持つて來て栽ゑるとは定まつて居ない。乃ち其根原の單なる觀賞で無かつたことを知るのである。
 
   記者申す
 
 本月號には山の神に關聯した資料を集めることにした。市日や、十日夜や、玄猪などが、かうして見ると、一續きの事實なる事に、察しのつく事と考へる。
 全體、舊暦十月の神無月は、出雲の神集ひに繋けて昔から説いてゐるけれども、其にはどれほどの證據らしい傳承があつたものか、一向とりとめもない歌枕の樣に見える。之を田の神上げの後、村には農神のなくなるからの行事だとする考へは、あつた樣である。刈り上げ後に、神の還る國は、必しも山の方面ばかりでなく、海の方へも向いてゐ(495)た例がある。住吉の十月神送りが、其である。此亦出雲人の御還りのなごりを惜むのだと言うてゐる。此は、住吉|御田《おんだ》の神を送る式であらうし、必しも出雲と言はなくともよい樣な形になつてゐるのも、其神の出處を暗示してゐるのだと思ふ。つまり、山の神以前は、田の守り神は海からする水の神だつたのである。さうして其が、出雲と國處を定めて言ふ樣になつたには、古くは「新室ほかひ」の祝言人の唱へる詞に、類型式に「いづも」と言ふ地名が必ず入りこんでゐた爲であり、其が引いて近代には、田植ゑ行事の頃ほひに、神の言ほぎを務めて歩く田遊び藝人の、出身地の一つの中心だつた爲である。田遊び・念佛踊・田樂皆島根地方一帶に、いまだに力強く保存せられてゐる。かうして見ると、田植ゑに來て、又刈り上げの新室ほかひに迎へられる神は、出雲から來た神でなければならなくなり、其が其間其地々々に留つてゐたものとせられる樣に考へられるはずである。神無月は勿論、田の神無月である。だが、山へ還つて山の神となると言ふ形の外に、出雲へ戻ると言ふ傳承にも、かうした理由はあると思ふ。
 山の神として山へ歸ると言ふのについては、今一つ故がある。ちやうど此時期が、山と里との交叉點に山の神或は山の神人を迎へての行事があつたからである。山から一時來て、又直ぐ山へ引き返す者の印象が、田の神上げの習俗にくつついたのである。
 來り向ふ山の神は、後世ほど妖怪化して考へられてゐる山人・山姥である。里人との行きあひ場處は、古代ほど山地に近づいてゐた。此が市〔傍点〕であつた。だから市は、山の崎・裾曲或は、村境から離れた處に擇ばれるのが、古い形である。かう言ふ市は、冬の時期のを第一次式とするので、其が年何度、月幾度と言ふ風に殖えて行つた。此山の神人は、里人の爲に冬祭りの特徴なる鎭魂を行ひに來る。市日は實に、此の記念である。山から持つて來た鎭魂の採り物を、里の物と交換して歸るのが、此日の交易行爲の起りであつた。時期は冬とは言へ、鎭魂行事のはじまる前の宵の程までは、古語の用例「あき」と言ふに含まれてゐた。其爲、山人の齎した「山づと」と里のつと〔二字傍点〕とを交易する事から、「あき」「あきなひ」と言ふ語が出來たのである。
(496) 此市日には、山人・山姥が山の舞を以て、地の精靈を踏み鎭め、村人の魂を固着させて歸る。其爲に、其破邪の方面を印象して「海石榴市《つばいち》」の蕃賊退治の傳承などを形づくつた。此が一方には玄猪の風と一つになつて、土龍追ひの地づきの行事をなしてゐる。
 市日に山姥が來た話の多いのも、又其が底知れぬほど大喰ひであつたなどと言ふ傳説を伴うてゐるのも、山の冬市に來り鎭舞《あそ》ぶ山の巫女、及び其里のつと〔二字傍点〕を多く携へ還つたと言ふ事の記憶であるらしい。
 おなじ十月|十日夜《とをかんや》でも、ある村では山の講の日で、子供中が山の神の祠燒きに上る日とするかと思へば、ある村では、全く玄猪とおなじ式ほかしない處もある。原因は一つで、二つに分岐したまでゝある。祠燒きの行事は、越えて正月の道祖神燒とも關聯するが、もつとてつとり早くに、洛中洛外の社々で、もうそろ/\はじめるはずの御火燒《おひた》きの神事と一つである。此は必しも、我が國ばかりの冬行事でないが、秋冬に神を燒いて、新神の威力ある蘇りを待たうとした風から出た信仰である。單に大火を焚いて土を温め、春の發生を促さうとするのだと言ふだけの説明では濟まないのである。
 かうして見ると、山の神・田の神送りには、一方神燒の爲のなごり惜しみの式も、まじつて來てゐる事を考へないではならないのである。
 
   串柿を詠じた唄附記
 
 編者云。この第二の唄は、「正月樣」の變形に相違ない。正月樣の唄には、單に正月樣どこ迄と、東の方の山の名阪の名を高く唱へたものゝ他に、何を土産に持つて來てくれるかと、あどけなく食物の名を列ねたものゝ多いのは、以(497)前子守の唄として親が三つ五つの小兒に、生活興味を鼓吹して居た名殘らしい。それが一變して正月はよいものぢや、下駄の齒のよな餅食つてなどと、正月禮讃のおどけた詞になつた。つるし柿を猿のふぐりと謂ふことは全國的であらう。それが一度は歌謠の段階を經過して、普通の異名になつたと見るのは空想であらうか。松迎への習俗が正月重要の方式の一つであり、それを直接に神來ると感じて居たことも、此小さな童詞が暗示する所である。小谷附近の廣い地域では、正月の松をお松樣と呼んで、其來往を拜して居た。是が失はれたる家の神信仰の遺物であることは、既に各種の報告が之を證し、近くは又東筑摩郡習俗誌が、可なり豐富に其傍例を供給するであらう。最後に木登りとフグリとの聯想は、夙に俳諧の文學に於ても親しまれて居た。五車反古、
    古葉と共に棗こぼるる       維駒
   ふぐり見よと梯子のもとによりかゝり 几童
    法師をなぶる仁和寺の兒      駒
 
   道組神の唄附記
 
 編者云。エノエノスマは戌亥の隅であらう。家の神を屋敷の西北隅の榎の樹に勸請するは古いことである。(一卷四五〇頁)道祖を境神として家々に祀る例もあつたが、此地では既に村共同の信仰となつて居ることを、子供で無い者が折々斯う言つて説いて居たのであらう。簡單な文句だが、巫女の口つきを思はしめる。ミミヨシは見目好しで、道祖を信心する家は、子孫の末まで、美しい女房をまうけて家庭和合すべしといふ此神一流の祝言かと思ふ。東京の近在でも船形に此神を載せて、小兒家々を巡遊する式があり、或は一人を神人として教を説いてあるいた例も各地に(498)多いが、まだ向能代の如く優雅にして含蓄の多い神話のあったことを知らぬ、珍重すべきである。
 
(501)   國々の巫女
 
 ボルネオ・セレベス・バリの三つの島には、バリアン(balian)といふ一種の巫女がある。
 爪哇の島にも、以前はあつた。舊記には Walyan と出てゐる。南ボルネオでは、又 Wadian ともいふ。中部ボルネオではダユン(daloeng)、英領ボルネオでは、之をマナン(manang)といふ。
 善き精靈に宿られた者にして、初めて、巫女の職に就くことが出來る。之に對する社會の尊敬は一通りでない。中部ボルネオの巫女には、其類の事はないが、南ボルネオでは、巫女は同時に娼女である。俗人と別つ爲に、いづれも一種の腕輪を佩ぶる上に、中部ボルネオでは、特殊の白い肩掛、南ボルネオでは、藤で編んだ肩當ての樣な物を着る。神祭りの時に使ふ語は、普通の用語とは別で、之を中部ボルネオではダファ・トウ(dahun-to)と呼び、南ボルネオでは、バサ・サンギアン(base-sangrang)と言ふ。神を呼び降すためには、南ボルネオでは、太鼓を打ち、中部ボルネオでは、銅板をうつ。之を共に、かたんぼん(Katambong)といふ。
 巫女の職分には、二種ある。第一は、靈が人體から脱出するを壓へ、既に脱け出た場合には、之を呼び戻す、と言ふ一種の醫療的職分で、其目的を達せぬ場合には、その靈を靈界に導いて行くのも、此職分の附屬である。第二の職分としては、人と精靈との中に立つて、通辯の役をする。其用向きは色々あるが、主として農業についてゞある。
 南ボルネオに限つては、巫女の外に、バシル(basir)と命くる男巫も居る。男巫は常に、婦人の服装をして、男子と結婚してゐる。從つて、ソドム・ゴモラの人々が神に罰せられた惡事を慣ひとしてゐる。(蘭領印度辭彙第二版百十五頁)
 
(502)   眞繼氏
 
 丹波水上郡長谷村の松木氏、松の生木を以て大佛鐘鑄の折の樋を作つたと云ふ話(郷土研究四の三八二)は面白い。京の眞繼家は流布の鑄物師文書にも?其名見ゆる如く内藏寮從屬の鑄物師の頭人であつた。自分親族にも但馬生野銀山の口銀谷の眞繼氏があつて、最近には醫人であつた。確か丹波から此銀山に出て來た樣に聞き傳へて居る。當主眞繼義一君は一時大阪で鑛山の雜誌などを編輯して居た樣に聞いた。
 
   燕の巣の蜆貝
 
 相州津久井郡内郷村畑で、六月十九日に聞いた話である。右の處では、燕が十年一つ家に巣をかけた時は、其巣の中に禮心に、蜆貝を一つ、入れて置くと言ふ。又一説には、此貝は、燕が海を渡つて來る時に、乘つて來たのだとも言ふ。同村の鈴木重光君の話である。
 
(503)   方言
 
 カンナベは燗鍋で小民所用の炊具の名である。肥後菊池郡で村民の不都合な者を村から排斥することをカンナベカルハセル(燗鍋負はせる)と言うたことは、曾て輕井澤考(郷土研究二の七二四)に有働氏の言を引いて置いた。右のカンナベもつまり不品行な僧侶に對し傘一本云々と言ふと同じであらう。
 
          ○
 
 よそゞめ・どゝめ 下總邊の平原の多い地方の子供が、?《よく》赤い木の實を喰べてゐるのを見る。名を問ふと、よそゞめ〔四字傍点〕と言ふよし。雅やかなひゞきを持つた語である。利根川圖誌にも、出處不明の「都びとよそにや見らむよそゞめの染めしもみぢの色は知らずて」こんな歌を見ると、如何にも雅語らしいが、さうではなかつた。下野小金井生れの佐藤氏の談には、其郷里では、桑の實をどゝめと言ふ相である。其から直に聯想せられるのは、東京人が、紫色になつた唇の色を、どゝめ〔三字傍点〕色と言ふ事である。此色も暗紫色の木の實から出たものなることが知れる。
 扨、右佐藤氏に、よそゞめ〔四字傍点〕を斥《さ》して名を問ふと、よつとゞめ(第三綴喜清音)だと答へ、尚、此木の枝が、四叉に岐れてゐるからの名だ、と説明せられた。よそゞめ〔四字傍点〕をよとゞめ・よつとゞめ〔九字傍点〕から出たものとすると、とゞめ〔三字傍点〕と言ふ、古い語を還元することが出來さうに思ふ。
 
(505)  第三十卷 内容細目
 
女性生活史(昭和十六年一月〜九月、婦人公論二十六卷一號〜九號)……………三
比較民俗學の問題(草稿)……………………………………………………………六三
學問と民族結合(昭和十五年十月、朝鮮民俗三號)………………………………七三
フィンランドの學問(昭和十年、菱華一三四號)…………………………………七六
學者の後(草稿)………………………………………………………………………九二
罪の文化と恥の文化(昭和二十五年五月、民族學研究十四卷四號)
           (原題、「尋常人の人世観」)…………………………一〇三
甲賀三郎(大正五年一月、郷土研究三卷十號)…………………………………一二一
和泉式部(大正五年七月、郷土研究四卷四號)…………………………………一二六
片目の魚(大正六年二月、郷土研究四卷十一號)………………………………一三六
桃太郎根原記(昭和五年五月、文學時代二卷五號)……………………………一四八
みさき神考(昭和三十年八月、日本民俗學三卷一號)…………………………一五八
行器考(草稿)………………………………………………………………………一六九
習俗覺書(昭和十五年四月、會館藝術九卷四號)………………………………一八二
たのしい生活(昭和十六年六月、新女苑五卷六號)(第一囘新女苑文化講座講演)一八七
(506)知識と判斷と(昭和十七年八月、新女苑六卷八號)………………………二〇三
女性と文化(昭和十七年十一月、婦人朝日十九卷十四號)………………………二一一
俳諧とFolk-Lore(大正十四年四月、日光二卷三號)………………………………二一五
 
序跋集
 『山村生活調査第二囘報告書』緒言(昭和十一年三月、民間傳承の會)………二二九
 『日本民俗學研究』關白(昭和十年十二月、岩波書店)…………………………二三三
 『日本民俗學入門』序(昭和十七年八月、改造社)………………………………二三六
 『産育習俗語彙』序(昭和十年十月、恩賜財團愛育會)…………………………二四〇
 『婚姻習俗語彙』序(昭和十二年三月、民間傳承の會)…………………………二四二
 『葬送習俗語彙』序(昭和十二年九月、民間傳承の會)…………………………二四五
 『禁忌習俗語彙』序(昭和十三年四月、國學院大學方言研究會)………………二四七
 『服装習俗語彙』序(昭和十三年五月、民間傳承の會)…………………………二四九
 『分類漁村語彙』序(昭和十三年十二月、民間傳承の會)………………………二五二
 『居住習俗語彙』序(昭和十四年五月、民間傳承の會)…………………………二五七
 『分類山村語彙』序(昭和十六年五月、信濃教育會)……………………………二六〇
 『族制語彙』自序(昭和十八年五月、日本法理研究會)…………………………二六三
 『分類農村語彙』増補版解説(昭和二十三年九月、東洋堂)……………………二六八
 『分類農村語彙』自序(昭和七年七月、信濃教育會)……………………………二七〇
 全國方言記録計畫………………………………………………………………………二七四
 『伊豆大島方言集』編輯者の言葉(昭和十七年六月、中央公論社)……………二八〇
 『周防大島方言集』序(昭和十八年二月、中央公論社)…………………………二八六
(507) 『伊豫大三島北部方言集』序(昭和十八年十二月、中央公論社)…………二九一
 全國昔話記録趣意書(昭和十七年六月、磐城昔話集・阿波祖谷山昔話集・佐渡島昔話集・島原半島昔話集、三省堂)……………………………………………………………二九四
 『全國昔話記録』編纂者の言葉(昭和十八年九月、上閉伊郡昔話集・御津郡昔話集・南蒲原郡昔話集・壹岐島昔話集・甑島昔話集・直入郡昔話集・讃岐左柳志々島昔話集、三省堂)…………………………………………………………………………………………二九八
 『日本の昔話』監修者のことば(昭和三十年六月、實業之日本社)……………三〇四
 
「郷土研究」小節
 郷土會第十四囘例會記事(大正二年三月、郷土研究一卷一號)…………………三〇九
 千曲川のスケッチ(島崎藤村著)(同)……………………………………………三一〇
 郷土會記事(大正二年四月、同一卷二號)………………………………………三一一
 漫遊人國記(角田浩々歌客著)(同)………………………………………………三一二
 考古學會遠足會(大正二年五月、同一卷三號)…………………………………三一三
 郷土會第十七囘例會(同)…………………………………………………………三一四
 石見三瓶山記事(同)………………………………………………………………三一五
 杜鵑に關する研究(同)……………………………………………………………三一五
 寺と門前部落(同)…………………………………………………………………三一六
 特殊部落の話(同)…………………………………………………………………三一七
 宮田沿革史稿(同)…………………………………………………………………三一七
 學會講演記事(大正二年七月、同一卷五號)……………………………………三一八
 能登の久江及石動(大正二年十月、同一卷八號)………………………………三一八
(508) 石卷氏の山男考(大正二年十二月、郷土研究一卷十號)…………………三一九
 あいぬ物語(山邊安之助著金田一京助編)(同)…………………………………三二〇
 續三千里卷上(大正三年二月、同一卷十二號)…………………………………三二一
 大日本老樹名木誌(大正三年三月、同二卷一號)………………………………三二二
 神代の研究(福田芳之助著)(大正三年四月、同二卷二號)……………………三二三
 奧羽人の移住(大正三年五月、同二卷三號)……………………………………三二四
 神社の建築學(同)……………………………‥…………………………………三二四
 ?油沿革史(大正三年六月、同二卷四號)………………………………………三二五
 山人の衣服(大正三年七月、同二卷五號)………………………………………三二五
 編輯宝より(同)……………………………………………………………………三二七
 讀賣新聞の事業(同)……………………………………………………‥………三二八
 東京帝國大學文科大學紀要第一(同)……………………………………………三二九
 故郷見聞録(同)……………………………………………………………………三二九
 地誌刊行の事業(大正三年八月、同二卷六號)…………………………………三三〇
 地誌大系再着手(同)………………………………………………………………三三一
 張州府志(同)………………………………………………………………………三三二
 作陽誌と東作誌(同)………………………………………………………………三三二
 藝藩通志(同)………………………………………………………………………三三三
 信濃史料叢書(同)…………………………………………………………………三三三
 房總叢書(同)………………………………………………………………………三三四
 「郷士研究」の記者に與ふる書後記(大正三年九月、同二卷七號)…………三三五
 山に行く青年(同)…………………………………………………………………三三七
(509) 旅客の社會上の地位(同)……………………………………………………三三八
 瀬戸内海の島々(同)………………………………………………………………三三九
 出水被害と架橋權問題(大正三年十月、同二卷八號)…………………………三三九
 エール大學の留書類購入(同)……………………………………………………四〇
 本邦建築用材調査(同)……………………………………………………………三四〇
 童話傳説に現はれたる空想(同)…………………………………………………三四一
 高倍神考(同)………………………………………………………………………三四一
 言繼卿記(同)………………………………………………………………………三四二
 遊行婦考(同)………………………………………………………………………三四二
 信州の高天原(大正三年十一月、同二卷九號)…………………………………三四三
 諏訪研究の曙光(同)………………………………………………………………三四三
 大阪の郷土研究(同)………………………………………………………………三四四
 地藏の新説(同)……………………………………………………………………三四五
 無形の天然記念物(同)……………………………………………………………三四五
 陶山鈍翁遺稿(同)……‥…………………………………………………………三四六
 都市と村落(大正三年十二月、同二卷十號)……………………………………三四六
 雜誌「風俗圖説」(同)……………………………………………………………三四七
 金澤博士の國語教科書(同)………………………………………………………三四八
 尚古黨の哀愁(大正四年一月、同二卷十一號)…………………………………三四八
 趣味が學問を侮る傾向(同)……………………………………………‥………三四九
 古墳鑑定學の發達(同)……………………………………………………………三五〇
 古典攻究會(同)……………………………………………………………………三五一
(510) 家族制度調査會(大正四年一月、郷土研究二卷十一號)…………………三五一
 石見の鼠(大正四年二月、同二卷十二號)………………………………………三五二
 郷土研究の二星霜(同)……………………………………………………………三五三
 地理的日本歴史(同)…………………………………‥…………………………三五四
 茨城縣の箕直し部落(大正四年三月、同三卷一號)……………………………三五四
 郷土研究と云ふ文字(同)…………………………………………………………三五七
 散居制村落の研究(大正四年四月、同三卷二號)………………………………三五八
 飛騨雙六谷記文(同)………………………………………………………………三五九
 五月と郷土研究(大正四年五月、同三卷三號)…………………………………三五九
 穀物がまだ降る(同)………………………………………………………………三六〇
 鹿の住む島(同)……………………………………………………………………三六一
 新式の御靈祭(同)…………………………………………………………………三六一
 山路愛山氏の見る田舍(同)………………………………………………………三六二
 六月の雪(大正四年六月、同三卷四號)…………………………………………三六二
 臺灣蕃族調査報告書(同)…………………………………………………………三六三
 元寇史蹟の新研究(同)……………………………………………………………三六四
 徐福纜を解く(大正四年七月、同三卷五號)……………………………………三六五
 野中の水(同)………………………………………………………………………三六六
 『乳のぬくみ』(大正四年八月、同三卷六號)…………………………………三六六
 『日光』(史蹟名勝天然紀念物保存會編輯)(同)………………………………三六七
 『南紀の俚俗』(醫學士内田邦彦氏編)(同)……………………………………三六八
 行脚研究者の不能事(大正四年九月、同三卷七號)……………………………三六八
(511) 各地の蒐集事業(同)…………………………………………………………三七〇
 古傳説の和邇(大正四年十月、同三卷八號)……………………………………三七〇
 所謂布施屋敷跡(同)………………………………………………………………三七一
 阿曾沼古譚(同)……………………………………………………………………三七二
 平凡の不朽(同)……………………………………………………………………三七三
 石佛流轉(同)………………………………………………………………………三七三
 傳説蒐集の流行(同)………………………………………………………………三七四
 垣内の成長と變形(大正四年十一月、同三卷九號)……………………………三七四
 「日本及日本人」の郷土號(同)…………………………………………………三七六
 大禮の後(大正五年一月、同三卷十號)…………………………………………三七六
 神社と宗教(同)……………………………………………………………………三七八
 所謂記念事業(同)…………………………………………………………………三七九
 舊式の新著(同)……………………………………………………………………三七九
 郷土會記事(大正五年二月、同三卷十一號)……………………………………三八〇
 越後の白米城(大正五年七月、同四卷四號)……………………………………三八二
 燃ゆる土(大正五年八月、同四卷五號)…………………………………………三八三
 旅中瑣聞(大正五年十一月、同四卷八號)………………………………………三八五
 柴塚の風習(同)……………………………………………………………………三八七
 石占の種類(大正六年一月、同四卷十號)………………………………………三八七
 神の眼を傷けた植物(大正六年三月、同四卷十二號)…………………………三八九
 松浦小夜姫(同)……………………………………………………………………三九〇
 松童神(同)…………………………………………………………………………三九一
(512) 十貫彌五郎坂(大正六年三月、郷土研究四卷十二號)…………………三九三
 蝦夷の内地に住すること(大正二年三月、同一卷一號)………………………三九四
 動物文字を解するか(大正三年一月、同一卷十一號)…………………………三九八
 磐次磐三郎(大正三年三月、同二卷一號)………………………………………三九九
 京丸考(大正三年八月、同二卷六號)……………………………………………四〇三
 政子夢を購ふこと(大正三年十月、同二卷八號)………………………………四〇五
 
「郷土研究」小通信
 「紙上問答」の中止(大正五年四月、郷土研究四卷一號)……………………四〇七
 「裏日本」(同)……………………………………………………………………四〇八
 「澀江抽齋」(大正五年五月、同四卷二號)……………………………………四〇八
 信濃郷土史研究會(同)…………………………………………………………四〇九
 美濃の祭禮研究(同)……………………………………………………………四〇九
 『出雲方言』の編輯(大正五年六月、同四卷三號)…………………………四一〇
 ソリコと云ふ舟(同)……………………………………………………………四一〇
 八郎權現の出身地に就て(大正五年七月、同四卷四號)……………………四一一
 川口君の『杜鵑研究』(同)………………………………………………………四一三
 黒木と筏に就て(同)……………………………………………………………四一四
 屋根を葺く材料(大正五年八月、同四卷五號)………………………………四一五
 松井七兵衛君より(同)…………………………………………………………四一七
 童話の變遷に就て(大正五年九月、同四卷六號)……………………………四一七
 土佐高知より(大正五年十月、同四卷七號)…………………………………四一九
(513) 勝善神(同)…………………………………………………………………四二〇
 結婚年齡の定め(同)……………………………………………………………四二〇
 摘田耕作の手間(大正五年十一月、同四卷八號)……………………………四二一
 タウボシに非ざる赤米(同)……………………………………………………四二一
 長者と池(同)……………………………………………………………………四二二
 楊枝を賣る者(同)………………………………………………………………四二二
 風俗問?答書(大正五年十二月、同四卷九號)………………………………四二三
 鍛冶屋の話(大正六年一月、同四卷十號)……………………………………四二四
 箸倉山のこと(同)………………………………………………………………四二四
 咳のヲバ樣(同)……………………………………………………………‥…四二五
 石敢當(同)………………………………………………………………………四二五
 杓子の種類(同)…………………………………………………………………四二六
 フロ屋と云ふ家筋(同)…………………………………………………………四二六
 日向椎葉山の話(大正六年二月、同四卷十一號)……………………………四二七
 「郷土研究」方言欄(大正五年四月、五月、六月、七月、同四卷一號、二號、三號、四號)……………………………………………………………………………………四二八
 「郷土研究」の休刊(大正六年三月、同四卷十二號)………………………四三八
 
「民族」難篇
 編輯者の一人より(大正十四年十一月、民族一卷一號)……………………四四五
 北方文明研究會の創立(同)……………………………………………………四四七
 啓明會と南島研究(同)…………………………………………………………四五〇
 おもろ草子の校訂刊行(同)……………………………………………………四五一
(514) 耳たぶの穴(大正十四年十一月、民族一卷一號)………………………四五三
 百姓の服制(同)…………………………………………………………………四五三
 南部叢書刊行の計畫(大正十五年一月、同一卷二號)………………………四五四
 杖成長の例(大正十五年五月、同一卷四號)…………………………………四五五
 竈神と馬の沓(大正十五年七月、同一卷五號)………………………………四五五
 猿屋土着の例(同)………………………………………………………………四五六
 觀音堂の額(大正十五年一月、七月、同一卷二號、五號)…………………四五六
 拔け參り(大正十五年九月、同一卷六號)……………………………………四五七
 「八幡と魚の牲」後記(同)……………………………………………………四五八
 まんのふ長者物語(同)…………………………………………………………四六〇
 編輯者より(大正十五年十一月、同二卷一號)………………………………四七四
 編覇者より(大正十六年一月、同二卷二號)…………………………………四七五
 菅江眞澄の故郷(同)……………………………………………………………四七六
 天神樣と雷(同)…………………………………………………………………四七七
 編輯者より(昭和二年三月、同二卷三號)……………………………………四七七
 北方文明研究會の現?(同)……………………………………………………四七八
 各地婚姻習俗比較(同)…………………………………………………………四八〇
 遠州西部の田遊祭附(同)………………………………………………………四八一
 編輯者の一人より(昭和二年九月、同二卷六號)……………………………四八二
 八月十五夜の行事(同)…………………………………………………………四八三
 編輯者より(昭和三年一月、同三卷二號)……………………………………四八七
 交易と贈答(同)…………………………………………………………………四八九
(515) 編輯室より(昭和三年五月、同三卷四號)………………………………四九二
 編輯室の一人より(昭和三年七月、三卷五號)………………………………四九三
 諸國禁忌事例(昭和三年九月、同三卷六號)…………………………………四九四
 記者申す(昭和三年十一月、同四卷一號)……………………………………四九四
 串柿を詠じた唄附記(昭和四年一月、同四卷二號)…………………………四九六
 道祖神の唄附記(同)………………………‥…………………………………四九七
 
「土俗と傳説」雜篇
 國々の巫女(大正七年八月、土俗と傳説一卷一號)…………………………五〇一
 眞繼氏(同)………………………………………………………………………五〇二
 燕の巣の蜆貝(大正七年九月、同一卷二號)…………………………………五〇二
 方言(大正七年八月、九月、同一卷一號、二號)……………………………五〇三
        〔2015年12月22日(火)午後5時35分、入力終了〕