定本柳田國男集 第三十一卷(新装版)、筑摩書房、1970、12、20(1977.2.20.11刷)
(3) 現代科學といふこと
民俗學に總論の書の乏しいのは、是が新たに民間に起った學問であり、言はゞ素人の寄合ひである爲に、出發點が皆すこしづゝちがひ、大きな目的は一致して居ても、重點の置き所が人によって同じでなかったからで、愈々輪廓を明かにしようとすると、新たに又若干の問題の種が現はれて、それを纏めるのに手数が掛るのである。これでも日本なぞはまだ纏まりのよい方で、我々が辛抱強く結合を續けて居た故に、さう/\内輪では説の分れるといふこともないが、英園の民俗學會なぞは、中々議論が多かつた様子である。たしか千八百七十年頃から、もう會報を出してゐるのに、是には後から/\と大きな學者が參加し、その中には人類學者もあれば古典學者もあり、或はローマンスやセルチック、北方文化の研究者なぞも有るといふ始末で、一つの方向へ共同の歩みを運ぶのに骨が折れた。千九百七年のことだつたと記憶するが、ローレンス・ゴンムといふ先輩の骨折で、最初のハンドブック・オブ・フォクロアといふ小型の本を會から出した。會が設立されてから半世紀以上ものちである。この本はもう珍本で、丸善の手を經て取寄せるのが容易でなかつた。もう再びは手に入るまいと思ふが、是が大正十二年の大震災で、友人の所で燒けてしまった。一度は私も讀んだのだが、大抵は忘れて居る。其後第二版を、ミス・バーンといふ熱心な會員が頼まれて書いた。是は分量が前著の倍にもなった堂々たるもので、大正の中頃に世に送られ、日本でも岡正雄といふ人が、昭和の始めに飜譯して出して居るから、この方は捜し出して諸君も讀むことが出来る。ただ英國人どうしの話だから、引いてある實例があんまり我々には響かない。その上あちらでも會の中の意見が段々進み、お婆さんの本ではやゝ古臭く(4)なつたらしく、第三囘目の本を出さうとしで、委員會なぞも出來たことは知つて居るが、この戰爭中にでも出たかどうか、私はまだ確かめずに居る。つまり會の事業として公けにしようとしたので、一層出にくかつたのである。
之に較べると佛蘭西の方は、學者が個人として書いたものだから、不承知な人も有つたらうと思ふが、とにかく大分出やすかつた。統一した學會はまだ無いらしいに拘らず、自分の知つて居るだけでも少なくとも三つは出て居て、その中の二つ、ヴァンジ ネップの小さい入門書とサンチェーブのマニュエルとは日本にも譯されて居る。たゞ是等も同國人向きだから、其まゝ日本語にしたのでは、呑込めない點が若干あることを免れない。我々の參考書としては物足らぬのである。
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そこで私はこの佛蘭西流を採用して、民間傳承の會からではなく、個々の學徒の名を以てこの際三つも五つも出すことにすればよいと思つて居る。一つが圖拔けて優勝するやうなことは多分望まれず、寧ろ互に相補ふことが出來るから、まづよほど氣樂に思つたことが言へるであらうと考へ、今折角諸君にも勸め、且つ自分でも計畫して居る。
すでに大藤君から話されたらうが、自分も十何年か前に一度、民間傳承論といふのを書いて見たのだが、是は失敗であつた。筆記のさせ方が惡かつたので誤りが多い。その上に是非言ふべくして言つてないことが幾つか有る。その一つは日本の民俗學が、他の國々の眞似をしてはならぬ理由、全體にどこの國にも國としての特徴は有るのだが、日本は殊にそれが多い。たとへば英國では頻りに殘留 Survivals といふことを言ひ、是を殘留の科學と呼んでもよいなどと言つた人もあつたが、こちらでは古い生活ぶりが、もつと正々堂々と繼續して居る。前代社會層の偶然の痕跡と言はうよりも、多少の變化を受けつつも、昔の世の生活がもとの場所に傳はつて居る。固有信仰でも家門組織でも、人によつては昔の通りかと思つたほど、本筋のものがまだ殘つて居たのである。即ち我々の民間傳承は他の國と比べ(5)て、よほど歴史といふものに接近して居るのである。
民俗學と史學とは、日本に於ては他人で無い。方法はこちらが新らしいとは言ひ得るが、知りたいと思ふことは雙方しば/\重なり合つて居る。寧ろ兩者はあまりに似通うてゐる爲に、却つてその境目を明かにする必要が痛切であり、しかも容易では無いのである。この事を一通り説いて置かうとしなかつたことは、今から考へると大きな手落ちであつた。
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昭和十二年に、東北大學の法文學部では私を招いて、始めて日本民俗學の講義をさせた。ところがあの大學としてはまことに不作な年で、國史料は三年を通じて、大島正隆といふ人たつた一人しか無かつた。この外に心理學の教室から數名、助手副手や篤學の聽講者を合せて、十數人の聽手があつただけだつた。それでもこの大島君が非常に熱心にノートを取つてくれたので、いつか借りて見て置かうと思つて居るうちに、この人はあまり勉強し過ぎて若死にをにしてしまつた。さうして私の手控はやゝ不完全である。
しかし自分でも好い記念だから、書き改めて本にしようかと何度も考へて見たが、是は又わざと實例を東北地方の生活の中からばかり採らうとして居る爲に、四國中國九州等の人たちに取つては、やはりよその國の飜譯でも見るやうな感じがするかも知れぬ。そんなこんなでまだ其まゝにして居るが、或は是から東北の民俗學の爲に働かうとして居る北方文化聯盟などに、出させることにしたらよいのかも知れない。
この東北大學の講義では、自分は特に史學との對立、彼の足らざる又は及ばざる所を説いて見ようとした。東北の文獻の特色は、諸君もほゞ想像せられるやうに、非常に一方に偏した且つ乏しいものである。第一に中世以前はといふと、外部からの記録がぽつちりとあるばかり、近世の文書とても甚だしく限地的であり、紀行その他の生活記述も(6)至つて乏しい。斯ういふ中に於て、東北住民の文化の成長して、今日に到達した跡を見返らうとするには、どうしても援を民俗學に借らなければならぬ。といふよりも出來る限り、その特徴を發揮せしめなければならない。今までもさうだつたのだが、是からは一層それを心がけないと、この方面の國史は却つて遠西諸國の事歴よりも面白く無くなり、人は暗記と試驗とを以て、僅かばかりの知識をぎゆう/\と詰め込まれるか、さうでなければ丸つきり、自分たち東北人の過去を無視して行かなければならぬ。其樣な情け無いことが有るものでない。
しかし此點は何も東北に限つたことでない。地方を區切つて考へると、西にも南にも又小さな島々にも、奧羽とよく似た境遇に在る者は多い。もしさういふ人たちが、切に自分たちの前代を知らうとしたらばどうするか。わかるものかと答へては居られまいと思ふ。殊に今日は過度の中央集權の後を受けて、地方生活の充實、自治の振作に力を入れなければならぬ時代と私は認める。乃ち民俗學の大いにその機能を實現すべき場合と考へで、改めて斯ういふ十年前の記憶を喚び起し、もう一ぺん話して見る氣になつたのである。
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民俗學を古い昔の世の穿鑿から足を洗はせること、即ち之を現代科學の一つにしなければならぬといふことは、實はこの十年前の講義に於て私が言ひ出したのである。史學も亦現代科學であるといふことは、すでに幾人かの學者によつて提唱せられて居るが、それを一世の通説とする爲にも、私は先づ民俗學がさうなつて居て、之を扶けなければならぬと思つたのである。私はこの講義の印象を濃くしたい爲に、少しく芝居じみては居たが、民俗學の特質三つありと言つた。一に曰く普遍性、二に曰く實證性、三に曰く現代性是なりとも言つて見た。始めの二つはおまけのやうなものかも知れぬ。わかり切つたことだとも言へる。普遍性といふのはどんな人間の質問にも答へ得るやうになること。是は理想である。在來の史學とても之を理想にしないではなかつたが、たゞ文書文字の徴證を專らとする爲に、(7)事實力及ばぬものが餘りにも多い。問題と答へとが愈々食ひちがひ、問はぬことまで教へられるのは有難いやうだが、さて尋ねたいことが判つて居たためしが無い。その可能性を或程度まで、民俗學が擴大し得たことは確かで例は幸ひにして幾つか擧げられるのである。たとへば我々の仲間でいふ兩墓制、尋常の日本人が死後の行き處に就いて、今までどういふ風な考へ方をして居たかといふことが、我々の集めた資料によつて大よそは明白になつた。しかし後世に要求せらるべきあらゆる質疑に備へん爲には、まだ/\お互ひがどの位辛苦しなければならぬかわからぬ。たゞ其の方法と方向とが示され、且つ又是から集積する知識、成長して行く人間の覺りの、是より次第に高まるべしといふ、可能性だけは保證せられた。平たく言ふならば我々は無知を意識した。今まで全く知らずに居たと言はねばならぬことが、次々と顯はれで來て居るのである。
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次に第二の實證性といふ言葉は、やゝ不精確とも言はれるかも知らぬが、證據は數を多くして偶然に相助けしめるといふ以上に、もしなほ之を危み訝る者があれば、幾らでも來つて自ら之を驗し得るやうに、乃至は特に場合をこしらへて何度でも確かめ得られるやうに、つまりは觀察といひ實驗といふものゝくり返しによつて、萬人がすべて成る程然ありと言ひ得るやうなさういふ紛れなき事實を證據にすることである。即ち自分だけが鋭敏に又確かに、物を觀て置くといふだけに止らず、人にもそれをよく注意させる仕事、つまりはこの人生を、殊には同胞國民の多數の活き方又考へ方を、豫め理解させて置いて、いつでも入用があれば就いて調べて見ることが出來るやうにして置くこと、是が在來の史學には見られなかつた一つの特色である。同時に又國の隅々にかけて、出來るだけ多くの同志を、作つて置かうとする私たちの動機である。
此點を認めてもらはぬと、何で私たちが今まであの樣に、いゝ加減多い日本國の書籍の數を増加することに、力瘤(8)を入れてゐたのかもわかるまいと思ふ。よく本を出す人だと言はれさうだから、是は一種の辯明なのである。私があの樣に多くの本を書きつゝも、今まで一向に解釋も出來ず、たゞ是は六つかしい問題だ、又は興味ある問題だとばかり言つて居るのは、氣の知れぬ話だと思ふ人が無いとは限らぬが、是には少なくとも二つ以上の計畫があつたのである。その一つは、大よそ人間のすることで、殊に多くの人が集つて共々にすることで、理由の無いといふ言葉なり行動なりは無い筈だといふことを、自分も堅く信じ人にも信じしめようとして居るのである。小さな例を擧げるならばお辭儀である。人の顔を見るとにこ/\することである。是がもし何の氣無しにさうして居る。又はみんながさうするから自分もするといふのだつたら、是は慣行とも又傳統ともいふべきものであつて、古い處に理由はあつたのである。即ち一段と重々しい民族的原因ともいふべきものである。心づいたら或は見合せるかも知れぬことを、多數の日本人はまだして居る。せずにをると氣がすまないからするので、是は言はず語らずに日本式なる約束といふものである。それが果してよいか惡いか。又は今後も續けるか中止するか。それを決定するのは諸君であるが、それはともかくも事實を知つてからでなければならぬ。たとへば夏が過ぎ秋風が僅かに吹き始めると、家の内外を掃き清めて、どの家でも盆の魂祭をする。つまらぬ事だからもう止めようとなると、先づ其爲には何の故に、又はいつの昔から之をしてをるかを知つてかゝらねば、さうですかといふ者は恐らく無いであらう。斯ういふものこそ中央の政治機關の變遷やその權力の所在移動などよりも以上に、全日本人に取つて、拔きさしのならぬ歴史であるのに、それがまだちつとも知られてゐなかつたのだ、といふことを空論では無しに、實例によつてくりかへしやゝしつこく、私は説いて見たかつたのである。
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今一つの問題としては、さういふやゝ珍らしいこの國限りの事實を、少なくとも若い人たち乃至は都會のうか/\(9)した生活を續けて居る人々に心づかせ、全體どういふわけでさうあるのかと、たとへば物を覺え始めの小兒のやうに、訝り不思議がり又年長者に向つて尋ね問ふやうな氣質を、養つて見たいのである。世の中が多忙になつてから、この物をいぶかる氣風は、一旦有つたものまでがひどく衰微して居る。勿論五つ六つの子供のやうにやたらに、「何で」や「どうして」を連發はしなかつたらうが、元は若い人々は心に不審を抱くと、いつも年をとつた人の會話を氣を付けて聽いてゐたのである。男も女も成長して行く頃の好奇心は、今でも田舍の方がずつと盛んである。ちよつとでも何か變つたことが村に入つて來ると、全心是れ眼、全身是れ耳といふやうにそれに氣を取られる。學校の先生はよく經驗してをられるだらうが、私たちも?々それに出逢つて居る。たとへば講演でどんな大きな問題を説いてゐる最中でも、何かちらりと、窓の外を過ぎるものがあると、もうそれだけで注意はよそへ散つてしまふ。是は作業の上に可なり大きな邪魔になる。それで寧ろやゝ遲鈍に、そんな事に心を動かさないことを練習させてもゐた。或は又さういふ刺戟の連續によつて、一種好奇心とも名づくべきものを、作らせようとしたのが都會生活であつた。たとへば物賣りの聲などのやうなものでも、もとは苗賣りとか金魚い/\とか、好い聲で流してあるいたものが多かつたが、此頃はそれに上こす色々の音が加はつて來て、もはやさういふものゝ一切が、街頭から消えてしまつた。つまりはさういふ小さな聲に、もう氣を留める者が無くなつたのである。
ツマラナイといふ形容詞が新たに始まつた。この一語を以て片付けられる生活體驗が多くなつた。即ち直接當面の問題と關係無きこと、何かさし當りの仕事を妨げるものを抑へ、もしくは人の判斷を複雜にしたくないといふやうな場合に、もとは手短かにツマランとかゲエモナイとか又はムヤクナとかいふ一語を以て之を遮斷してゐた。ちやうど最近の封建的といふ單語なども是に似てゐる。いくら日本人が舊弊でも、封建制を廢してから八十年、郡縣制を布いてからもう七十何年、さういつ迄も何でもかでも、封建制でゐられた筈はない。實際はたゞ面倒くさいので、こんな簡單な一語を設けて、新らしい運動に對立するすべての前からあるものを排除し、同時に比較檢討を斷念させ、若い(10)者の餘りに考へ深くなるのを防いでゐるのである。まことにいゝ迷惑と言はなければならぬ。
かういふ言葉の流行こそ、もう少し原因を尋ねて見るべき現象だと思ふ。戰をしてゐたときは人心の集注が大事だつた。今は寧ろ分散が必要で、もつと手分けをして尋ねものをすべき時代だと思ふ。忙しい最中だけは遠慮をしてもよいが、少しでも餘裕が有るならどういふわけで、なぜに又は如何にしてを、突き詰める練習をしなければならぬ。
今の有樣ではたゞ標語がひつくりかへつたのみで、大聲疾呼で群を引きずつて行かうとすることは、終戰前も同じぢや無いか。歴史に於ける因果法則といふものは、本來はこの學問の根幹であつた。たゞ一年前までは努めてその應用を封じ、少しく痛い質問が出さうになると、そんなツマラヌ事を聽くなとか、今はそんな穿鑿をすべき時世でないとか、さては認識が足らぬなどと、ちやうど子供の問をうるさがる親爺と同樣に、かつは自分の無知を隱し、かつは軍國主義の成功といふ、一つの仕事を單純ならしめようとしてゐたのである。その仕事は終つたけれども、實は惰性だけはまだ殘つてゐる。この際速かにそんな惡癖だけは切棄て、何でも心のまゝに疑ひ且つ問はれるやうにしなければ、實證性などは有れど無きに均しいものである。
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始めて私が東北大學の講義に、民俗學の現代性といふことを唱導したときには、時代は我々の生活上の疑問を押へ付け、極度にその提出を妨碍してゐる際であつた。大きな幾つかの國の問題には、豫め堂々たる答へが準備せられ、人がどういふわけで是非とも殺し合はねばならぬか、何故に父母妻子を家に殘して、死にゝ行かねばならぬかといふやうな、人生の最も重要な實際問題までが、もう判りきつてゐることになつてゐた。第一に自分はさうは考へられぬのだがといふことが言へない。誰もがさうだから是には背かうとする者が無い。寧ろ心の底から其氣になつてしまつて、涙もこぼさずいさざよく出て行く者が多かつた。かう各自の自由な疑問を封じてしまはれてはかなはぬと、思ふ(11)やうな事ばかりあの頃は周圍に多かつた。さういふまん中に於て、なほ民俗學は現代の科學でなければならぬ。實際生活から出發して、必ず其答へを求めるのが窮極の目的だと憚らず説いたのは勇敢だつたとも言はれようが、白?するならば私はやゝ遠まはしに、寧ろ現世とは線の薄い方面から、問はいつかは答へになるものだといふ實例を引いてゐた。從つて又氣樂な學問もあるものだといふやうな印象ばかり與へて、國の政治上の是ぞといふ效果は擧げ得なかつた。なんぼ年寄りでも、是は確かに臆病な態度であつたが、しかし實際又あの頃は今とちがつて、たゞ片よつた解決ばかり有つて、國民共同の大きな疑ひといふものは、まだ一向に生れてもゐなかつたのである。
ところが世の中は忽ち急囘轉して、現在はもう疑問を持たぬ人は無いといふ?態に入つて來てゐる。さういふ中でも最も大いなるものが二つ、一つにはどうしてかうも淺ましく國は敗れてしまつたか。第二にはさて是からはどういふ風に進んで行けばよからうか。この二つの疑ひは確かに萬人の共に抱く所のものである。但しこの二間題のうち、第二の方は未來に屬し、史學や民俗學の領分の外のやうに見えるかも知れぬが、さて愈々其解決となると、事實我々は日本人だから、日本といふ島帝國に根を生してゐる民族だから、さう飛び離れた離れわざも出來ず、やつぱり此儘じり/\と、昨日一昨日の生活の型を、僅かづゝの模樣替によつて、明日明後日へ運んで行くより他は無いのかも知れない。その改めて行く部分だけは未知數だが、是とても經驗と豫備知識と、半ば直觀的な判斷が取捨の役をするかも知れない。ましてやその殘りの部分、身體髪膚を始とし、言葉で感情でも物の見方でも、以前の引繼ぎ送りに終るものが多いのである。たとへ根こそぎにさういふものを取替へるにしても、一應は今日までの經過、否今もなほ續けてゐる生活樣式を、知り且つ批判し又反省しなければならぬのである。言ひかへるならば、未來に向つての我々の大問題でも、是に近よつて微細に點檢しようとすると、やはり歴史乃至は民俗學に向つて、説明を要求しなければならぬ事ばかりが多いのである。
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今一つの最大の問題、即ちどうして此樣に負けてしまつたかといふことは、今も眼の前の生々しい現實とからんでゐるが、ともかくもすべてもう歴史である。しかも書いたものも無く又書くことも出來ない歴史、即在來の史學の取扱はぬ事實で、我々の民俗學が引受けなければならぬ歴史である。人によつては是は歴史としてはあまり生々し過ぎる。もう少しよく熟させてから味ふべきだと思ふ者があるかも知れぬが、それは損な話だと私などは思ふ。以前はたださうするより他は無かつたのである。維新史料なぞでも經驗したことだが、書いたものは山ほど保存せられてゐても、それは要するに偏した一部分であつて、他になほ書かれずにしまつた色々の事が書き落されてゐる。さうして今囘の大事變に對しては、お互ひは現在本にも手紙にも傳はらぬことを、知り又感じてゐるのである。眞相を窮めるに尤も適した者は、活きて其世を經て來た我々である。その我々が自ら考へて見ようとするのを、まだ早すぎると謂つてきらふ理由なぞ一つも無いのである。
ところが世の中には、かういふ大きな疑問を出來るだけ簡單に、僅かな言葉を以て解説しようとする者も同時代人の中にはゐる。政治家やジャーナリストと言はるゝ者は多くそれで、今日のやうな時代の變り目には、?々又さうする必要も有り得るのである。簡單な、たつた一言で説明の出來るやうな原因から、是ほど大きな又忍び難い不幸が、生れるといふことは考へられない。假に軍部の力の強大に過ぎたことが、主要なる直接の原因であるとしても、それを斯くあらしめたもう一つ前の原因、たとへば武力を以て國の勢力を大きくした前の三つの大戰、それを可能ならしめた經濟上の條件、一方には農民を再び昔のやうに軍人に育て上げた兵農一致の制度、それを喜ばしい復古の兆候と考へてゐた國民の氣風、それこそ封建の舊時代以來、大へんよいものとして求められてゐた少數有識階級の指導力、それを否認し又は抑制する代りに自分たちだけが急いで被支配階級から脱出して、權能ある地位に昇り進み、以前の(13)仲間を引きずりまはさうとした努力、かういふものが私などの一生には、何處へ行つても眼にあまるほど見られ、名ばかり機會均等でも、實は少數成功者の、我儘をする社會になつてゐた。是がいつまでも國民全體の聽明の、期し得られなかつた根本の理由では無いのであらうか。
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根本の原因は此の如く、次から次へ考へられるものがあつたのみならず、その一つ/\も亦他の色々の事情を複合してゐた。たとへば教育の方法である。教育は如何なる場合にも必ずもとの群から出てしまひ、以前の自分たちと同じ者を食ひものにし、又は少なくとも彼等を家來にしようとする。いつになつても我々は全體の地位を高めることが出來ない。寧ろ從順なる少しも批評をせぬ民衆を、成るたけ多く抱へて置かうとしたことは、政黨全盛の時代とても同じことであつた。今囘の如き大破綻こそは豫期し得なかつたが、一つ/\の場合を考へると、少なくとも斯うなりやすい傾向だけは、よほど夙くから認められたのであつた。私たちだけがさう認めると言つたのでは獨斷にもなるだらうが、證據を澤山ならべて、各人がおのづからそれに心づくやうにして行く途は、今なら幾らもあり、以前とても決して無かつたわけでは無い。それを心ある者が敢てしなかつたのが惡いのである。或はかういふ失敗はもう再びくり返す虞れは無いのだから、この際急いで原因を突き留めるにも及ばぬ。他日ゆつくり考へて見ればよい。即ち現代性の無い研究だと、思つてゐる人も無いとは限らぬが、それは決してさうでは無い。上に擧げたやうな大小幾つかの原因は全くその組合せをかへて、新たに第二の災害を養ふに足る場合が幾らも有るのである。賢こい少數の者に引きまはされる危險は、今とても國を脅かしてゐる。判斷を長者に一任するといふ素朴さは、もとは國民の美點だつたかも知れぬが、その美點も是からは改めて檢討し、弊害があると心づいたら改良しなければならぬ。人の言葉を疑ふのは善くないといふやうな、概括した信頼は見合せるか、少なくとも各人の自主自由なる判斷が、今少しは實地に働き(14)得るやうにしなければ、實は民主主義も空しい名なのである。どうして日本人は斯ういつまでも、僅かな人たちの言ひなり放題に任せて、黙々として附いてあるくのであらうか? かういふ疑問の方が或は前に掲げた二つよりも、一段と大きく又適切なのかも知れぬ。少なくともどうして敗れたかといふやうな痛烈なる問題が起れば、それを更に細かく見分けて行つて、段々と具體的に、又答へられやすい形に引きなほし、その何れの部分もしまひには、はつきりと説明し得られるやうにすること、是が精確科學と謂はるゝ自然史の方面では、もう餘程前から行はれてゐる方法であつた。いはゆる文化科學の方面にばかりは、年久しい因習の然らしむる所、遺憾にもまだあまり試みられてゐなかつたのである。今日のやうな際にこそ、此點をしつかりと考へて見なければならない。
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疑問から學問は出發しなければならぬといふこと、先づ疑つて見て後に知れといふことは、私たちの仲間では言ひふるした言葉であるが、正直なことをいふとその問ひ方疑ひ方が、一般にまだかなり拙劣なのである。さあ何でも問うて見よといふと、きれ/”\の小さい難問ばかりが出陳せられ、從つて其答も隨筆的であり、大きく應用する機會が無かつたのであを。今度といふ今度は世の中は眞つ暗闇で、どつちを向いて歩いても到る處に問題に打當り、それを解かずに置いては生きて行けない。我々の學問と縁の無い人々でも、毎日々々どうしてかうなのだらうを連發してゐる。是がもし是だけで、たゞ歎息して過ぎ去つてしまふやうでは、實は日本民俗學なぞは無いも同然である。外から見ても内から考へても、今が學問の存在をたしかめる一番大切な機會だと私は信じてゐる。
ところが世の中には、斯ういふ現世の要求に應ずることを、何か學問の墮落のやうに賤み視ようとする氣風がある。學問に向つてどれだけ現代に役に立つかを尋ねるなどは、冒?のやうに感ずる學者もあつた。無遠慮に批評すれば、是ほど片腹痛い言ひ草はたんと無い。學問を職業にし、それで衣食の資を稼がうと企つればこそ賤しからうが、弘く(15)世の中の爲に、殊に同胞國民の幸福の爲に、又は彼等を賢こく且つ正しくする爲に、學問を働かすといふことがどこが賤しい。寧ろさうしたくても出來ないやうな者こそ、氣が咎めてよいのである。殊に史學などは醫者の學問も同じで、もと/\世の中を健やかに痛み無くする爲に、始められたものなのである。それを效果も考へること無しに、ただ教へられたことを引繼いでゐるほど、意氣地の無いことはないのである。民俗學の如きは新たに始まつた研究である。先づ率先してさういふまちがつた考へ方を改むべきだと私は思つてゐる。
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學問には限らず、又勿論民俗學に限つたことではないが、えらい人が生れなければ大きい事業は興らないやうに、今まで思つて居たのは迷信であつた、といふことが今度は經驗せられるであらう。我々は率直にわからぬことをわからぬと謂ひ、又子供のやうな心を以て疑はしい事を問ひ尋ね、又答へてもらはうとすればよいのである。さういふ一般の要望があれば、學者は皆刻苦精勵し、學問は大に起らずには居ないであらう。戰爭中は色々の難關が有つて、社會は期待したに拘らず、科學はまだ十分に效果を收めるに至らなかつたが、是とても時が足らず又我々の根氣が續かなかつたからとも言ひ得られる。今後は改めて各人の自由な立場から、最も實際に適切な質問を投げかけて、學者と學問との信用を試みるやうに、段々となつて行くものと思ひ、それを私たちはこの暗闇の世を拔けて出る曙の光として居る。惑ひを釋いてくれるからこそ學問は尊き指導者なのである。知りたいとふことを教へてもらつて、始めて先生は有難いのである。それを今までは丸であべこべに、問もせぬことばかりを先づ答へられてゐた。其爲に暗記と試驗とが、やたらに若い者を苦しめてゐたのである。學問といふ古い好い言葉が、幸にして古い世の心持を傳へて居る。論語でも孟子でも、聖人賢人に物を問うた記録であつた。聖人賢人の語なるが故に、片端から丸呑みにしなければならぬ理由は無いのである。學問文章といふ二つは對立すべきもので、問によつて求むる智惠を得るのが學問であ(16)つた。それを日本ではいつの間にか、學文といふ字に書きかへ、學を漢語のマナブといふ日本語に宛てた。マナブはマヌル・マネスルも同じ起りで、師匠のいふ通りを口移しにいふことであり、勿論「學」といふ語の本義ではない。學は覺と同じで、オボエル・オモフとも一つである。自分が新たに考へ出す、つまりサトルこと、賢こくなることなのである。學をマナブとは引離さなければならない。民俗學といふ名稱は、此點でも再考して見る必要がある。少なくとも自分たちは、この學はマナビでは無いと思つて居る。
(17) 郷土研究の話
郷土研究を今迄のやうに僅かな物識りと云はれる人達の專賣でなく弘く全國の若い諸君の面白がるやうな學問の一つにしたいと云ふ事は私の心からの願ひである。その譯をなるたけ分りやすく一通り述べてみようと思ふ。
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最も大きな理由は、日本人の以前の生活、もつと適切にいへば我々の先祖がどういふ生き方をして家を興し家族を支へ次々と子孫を育てゝ今日に至つたかといふ事が、いつの間にか段々と不明になつて行かうとしてゐるのが氣づかはしいことだからである。
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元はさういふ事は訊かずとも大よそ分つてゐた。大體は我々お互ひと同じやじやうな仕事をして同じような物を食べ同じような事を考へて一生を送つてゐたのに違ないといふ事が出來た。所が今日は決して然うでなく、現實に今は昔とかはつてゐるのである。さうして其の變化にまだ心付かぬ者が可なり多いのである。一つのありふれた例を擧げると東京大阪の町に住む子供にはもう夜は眞暗なものだといふ事を知らぬ者が少くない。防空演習の晩に始めてそれを實驗したと云ふ者も幾らもゐる。提灯といふものを知つてゐるかと訊くと、提灯行列や夏のお祭に見たといふだけで、(18)普通に何に使つた物だといふことは知らずに居る者もあるのである。それはあんまり無知だと村に住む者は笑ひたくなるけれども、實はその提灯も近世の新文化であり今でもまだ隅々までは普及してゐないに拘らず、提灯以前には何を以て夜路を照らして居たかを考へてゐない人は又ずつと多いのである。
松明は曾我の夜討などの繪に描いてあり又稀には芝居でも見ることがあるが、雨乞とか蟲送りの晩とかにそれを焚いて歩く風習のある土地の外は、之をどうして拵へるか、どうして持って行くかを、恐らくは答へる事の出来ぬ人があらう。家の中の「アカシ」も之と同様で、現在なほ電氣がなく石油ランプや行燈を用ゐる土地は隨分弘く、それすらも無くてもつと古風な方法で夜鍋をしてゐる家もまだ少しは殘つてゐるのだが、その石油ランプや行燈がどういふものであつたかは知らずにしまふ人も多いのである。
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斯んな小さな事はどうだつてよいと忘れるに任せても驚かれぬわけは、斯ういふ變化が我々日本人の生活のあらゆる部分に行渡り、それが又すべて互ひにからみ合つてゐるのである。食物でも衣服でも又それを供給する爲の勞働でも一つ殘らずといつてよい位に皆改まつてゐる。詰り諸君の祖父母曾祖父母の生活は今の目でみると、同じ一つ民族とは云へないほど變り切つてゐるのである。
それを裏付けてゐる社會の約束、人間の幸福感といふものにも必ず古今の變化のあつた事は想像されうる。之を眼中に置かずに唯歴史の主なる事件だけを學ぶならば、我々の胸に描かるべき昔の姿がとに角に實際とは合はぬものになつてしまふのである。
(19) ○
三つの至つて重要なる事實がこの爲に埋没してしまふ恐れがある。その一つは明治以來のこの有難い御時世の恩澤が、貧しい小さな家々になるほど殊に濃く豊かに及んでゐると云ふ事である。以前も有力者とか富豪とかいふ者だけは可なり豪奢な生活をしてゐたと云ふ話が殘つてゐる。新しい文化は無論彼等も利用してゐるが、それよりも先づ著しく改良せられたのは尋常の数多い家々の幸福である。上には上がある爲にそれを格別有難い事とも感じなかつたが、此方の變化の方がずつと大きく、それがすべて皆、大御代の新しい御政治の御蔭であつた事が、古今を比較する事に依てはつきりと分つて來るのである。
○
而し此一點は誰しも漠然とは之を感じて居らぬ者は無いのかも知れぬ。それよりも今一段と氣付かずに過ぎ易い事は、記録にも殘つてゐない前代人の努力である。今日も尚進んでゐる我々日本民族の生活改良は、必ずしも明治の維新と共に始まつたのではない。夫より以前の舊式政治、低い階級に對しては稍々同情が薄く、萬事先例を守つて拘束の多かつた幕府時代でも、世の中が幸ひに平和であつた爲に、尚ズンズンと良くなつて來てゐた。即ち幾つもの生活技術は明治に入るよりも又百年も前から目に見えて進んでゐるのである。之は原則としては個人の力、即ち我々の祖先が苦労し工夫して、子孫の爲に樂な效果の多い方法を採用してくれたからなので、開國依頼の新文化の躍進も以前からあつた機運に油を差したのだといふ事が出來るのである。
(20) ○
例は澤山に引く事も出來ぬが、日本人はどこの國の人よりもたくさん水を使ふ。以前は家々の水を掬むのに、女が頭に載せて一桶づつ運んでゐた土地も多かつた。流れ川を引込むのは簡單だが、僅か人口が殖えると水は濁り易く、又さういふ便宜の少ない土地も多かつた。桶に手がつき手桶といふものが出來、擔ひ棒の兩端にツリが附けられ、一度に二桶づつ運べるやうになつたのも改良だが、それよりも大きな改良は竪井戸を掘る技術、之に伴ふハネツルベ、それから車井戸への改良、これだけでもどの位女の勞力は輕くなつたか分らぬ。ただ水道をヒネれば水が迸る樣に改良せられた分だけが殘つてるのを見て、もしも諸君が水はどうして汲んだらうか、といふ問題に注意を拂はなかつたら、最近の水道工事の發明には感謝しても、掘井戸を普及させた祖先の苦心は埋れてしまつたかも知れぬ。
○
それから尚一點は、その中間の改良の更に以前、古い樣式の不便と辛苦を長い年代に亙つて忍耐し續け而も何かのよい機會のある毎にたとへ少しづつでも良い方へ明るい方へ氣永に歩み續けて屈しなかつた日本人の氣力。之が亦公平に考へて異常なものであつた。無論この爲に餘分の勞働餘分の難儀をして育たぬ子供も多く、早く年を取つたり疲れたりしたらうが、それでもとに角突拔けて今日の耀かしい日本を作り上げたのである。
風土に惠まれてゐたからと云ふ樣な事も人は説くが、我々日本人の適應性、機會は見逃さず、又よく持こたへた底力といふものも認められる。千年以上も定まつた鑄型を罷めて、新たなものに移つて行つた此活?なる判斷は尊とい。或は餘りにも思ひ切つて新しい文化に移りすぎたとも云へる。大體に於て取捨選擇は正しかつたと思ふが、無論多くの中には失敗もあらう。
(21) 此頃の樣な時代になると考へられるが、家は臨時の小屋のやうなものを段々と常住のものにして行つたのと反對に、衣服は麻の丈夫なものを持傳へて、元來半永久のものを次々に毎年の消費物にしてしまつた。日本人のやうに着物をよく更へる國民は少く、從つて流行が極度に早く、呉服屋百貨店が急劇に不釣合に繁昌し、今は所謂スフの惱みに苦しんでゐる。餘り新しい文化を歡迎しすぎた者のよい懲らしめと云ふ事が出來るかもしれぬ。今度はもう一ぺん今少しく永持のする服制を考へてみなければならぬ。さういふ大きな改良を企てゝゐても、古い生活振りを忘れてしまふ譯にはいかぬのである。
○
之は勿論國全體の問題であつて、ゆくゆくは國民の總力を合せて正しく解決しなければならぬものだが、唯その事情といふものが土地毎に違ひ、國が一樣に一時に變化したものでない故に、一部の知識によつて全體を推すといふ事が出來ない。
個々の郷土のちがつた經驗を集め竝べて比較をしてみる必要がある。日本は世界に例がない程、土地の?況の千差萬別な國であり、之に落着いて住んでゐる人たちの經驗も境遇も亦可なり區々であつて、一部の經驗を以て他を押すと、必ずどこかに迷惑をする者が出來る。現在の政治家の大多數は地方人で、だから地方の事なら私が知つてるとよく言ふが、實は彼等の知つてゐるといふ田舍が、必ずしも全國の見本にはならぬのである。どうせ隅々の特殊な場合までを洩れなく代表する事は出來ぬだらうが、少なく共我々の生活經驗に幾つかの違つた型があると云ふ事だけは知つてから考へて決める必要がある。
(22) ○
郷土研究といふのは斯ういふ必要に對して出來るだけ精確な此方面の歴史を新たに〔三字傍点〕學ぶ方法である。「新たに」といふのは今迄書いた物がなく偶々あつても或土地限りのもので、夫れが全國に通ずるかどうかは確かでない。而も一人が一ぺんに全國の經驗を普く知るといふ事は望み難い。それで出來るだけ多くの人が銘々に自分の郷土を手始めに、少しづゝ此知識を身につける樣に心掛ける必要をみるのである。氣長い話の樣に一寸感じられるが、現在の交通?態ではこの知識を交換して互ひに他を知るといふ事は難事でない。中央に一つの臺帳のやうな物を設け、分つた程づゝ集めて整理し、入用のある人に見せるといふ事もさう面倒な仕事でなく、而も樂しみの多い成績の擧げ易い協同事業である。
○
それで新しい郷土研究を始めんとする人に勸めるのは、
1、先づ自分の生れ在所に於て
2、以前はどうして居ましたと云ふ事を知つてゐる人に尋ねる。
3、何を問題にするかは強ひて順序を規めるにも及ばぬが、大體に間違ひの少い有形文化、たとへば衣食住の變遷などから段々にもつと込いつた精神上の現象に入つて行くのがよい。
4、とに角銘々の心に起る疑問、若しくは自然の知識欲に從ひ、其れの答によつて其次の疑問が喚起されさうなものに打突かるのが幸福である。
5、考へてみなければならぬ事は以前は親達と一緒に居て自然に學ぶ機會が今よりも多かつた。今は變化が多く教(23)へられなければならぬ問題が多いのに、諸君は本を讀んでゐるから年とつた人が遠慮してゐる。此方から進んで問はなければならぬ必要が昔よりも多いと云ふわけである。
6、村の長老などは元はよく話して呉れたもので、教へずに死ぬのは惡いとさへ彼等は思つてゐた。それが又青年教育でもあつた。今はさういふ人々が黙つてゐる。しかし問へば必ず喜んで謂ふであらう。
7、何よりも損な事は學問のちがひに依て老人の言ふ事を輕んずる事である。多くの問題に就ては老人だけが記録である。其以外には書いた記録の無い問題に諸君に入用なものが多い。
8、女の年寄にはもう一つ前の代の事を聽いて居て忘れずに持つて居る人が毎度ある。斯ういふ大切なものを保存する爲には、若い女性も大いに努力しなければならない。
(24) 成長は自然
この雜誌の支持者たちの、恐らく御自分でも意外とせらるゝであらう經驗は、是が無かつたならば知らうとせず、聽いても聽流しにさつさと忘れてしまふ樣な郷土の事實が、次から次と現はれて確固たる知識と化し、後にも遠方にも傳はつて、有意義に利用せられるといふことである。
一つの小さな機關の、人から道樂とも氣まぐれとも評せられて居るものでも、それ相應の仕事はするといふことが判つたのは、私等が眺めても愉快な現象である。當の諸君の滿足は定めて大きいことと思ふが、其代りには他の一方に於て、折角苦勞をする位なら、又是だけの效果が有るものなら、始からも少し弘い區域に、調査の手を伸べる計畫をして置けばよかつたと、今となつては内々惜しがつて居られることであらう、我々の研究の價値づけは、比較が殆と唯一の要件だからである。さうして手數は其爲に格別増さぬのみか、却つて御互の興味は是によつて深くなり得るからである。
是まで人があまり氣がつかなかつたことは、フォクロア見たいな新らしい地方の學問が、首都を中心としなければならぬ理由は一つも無く、又その中心を是非とも一つにする理由も無いことであつた。文化の中央集權は、地方人が單なる偶然の行掛りに對して、あまりに從順であつた結果に過ぎぬものが多いが、我々の方面には其行掛りすらも現在はまだ無いのである。今ならば是を煎餅や牛肉以外に、神戸の一つの名物とすることも決して空な野望では無い。自分なども實は大きに誤つて居たと思ふことは、近畿はたゞ通つて見ると開け切つた地方であるが、其周邊には山坂(25)に隔てられた、奧在所といふやうなものが幾つもあつたことである。殊に往還だけが早く現代化した結果、却つて果實でいふと花落ちの部分に當る所が、片端にもとの姿をまだ保存して居る。勿論一村一家にも新舊は入交つて居るが、わざと若しくは無意識に、妨げなき場合だけは古風を維持する傾向は、田舍ばかりか町のまん中の舊家にも見られる。近頃丹波や近江、又は能勢や泉南の山の村を見て來た人の話を聽いて、驚き且つ喜ぶやうなことが一再ならずあつて、愈々私たちは東北又西南の地の端のみをうろつかなければ、昔に行逢へない樣な考へ方を、改むべき時期が來て居るやうに感じ出した。ハイキングだつても縣境の山を自由に越えて居る。まして我々の調査を、低い嶺のこちらだけに限つて置いてよいわけは無かつたのである。遠慮無しに物を言へば、諸君の半徑はちとばかり短かすぎた。そんなブンマハシはもう古物商に、讓つてやつてはどんなものであらうか。
我々の望み通りの世の中が假りに到來しても、專門のフォクロリストなどといふものは存在し得ない。誰もが片手間に此仕事に携はる以上は、同志は或數までの團結をしなければならぬことは、算盤の上からでも明かなことで、それを努めなかつたなら衰弱は自然の結論である。この點は私にも覺えがあるが、原稿を頼んで書いてもらふ樣になると、雜誌の權威はすぐに失墜する。義理や感情の爲に冗漫なものも切詰められず、空な議論も後まはしに出來ぬとなれば、編輯者の見識も手腕も表はすに途が無く、從つて讀者の關心をそゝつて思はず口を出さしめるといふことが無くなつて、是でも出して置かうといふデモ附きの種が幅をとるか、さも無ければせん方なしの不定期刊行物と化してしまふ。是を此學問の振はぬ證據のやうに、世間から見られては近所迷惑と言はねばならぬ。だから一つ工夫を立てかへて、もう少し廣い前面から御客が入つて來られるやうに、折角結構な角屋敷のことだから、茲で店先の模樣がへをせられては如何。といふのが私の先日の提案であつた。
標題は前にも申す如く、現在は思ひ切つて日本民俗資料と改められても、何等の故障も出ない時代ではあるが、それではちとばかり大膽過ぎるといふ御斟酌があるならば、やがてはさうする位の抱負の下に、今は先づ近畿といふ程(26)度にまで、領分を擴げて置かれんことを希望する。幸ひ此區域には御互ひの御交際もある樣だから、結合はさほど難事ではなからうと思ふし、又少しは困難でも、始だけは大いに努力なされることが願はしい。近畿といふ語には、もとは行政的にははつきりした限界もあつた樣だが、さういふ時代ですらも文化はぼかし染で、少なくとも地を接した近國へは、段々とにじみ出して居た。今更妙な區切りをつけられると、第一に自分などが心細くなる。私は生れ故郷を立つてから、彼是もう五十年にもならうとして居るが、それでも近畿諸君の心置きの無い會話を聽いて居ると、折々は昔に還つたやうな氣持がしてなつかしい。伊勢にも紀州にも、はた近江若狹丹波等にも、さういふ感じで諸君の仕事を悦び迎へる者はきつと多いであらう。其人たちにも讀ませるつもりを以て、もう少し弘い興味を開拓せられることが必要だと思ふ。初期には勿論進んで肩を入れる人を求めねばならぬし、又自分なども方々へ勸説する考であるが、一旦知られてから後はこの雜誌を面白く、從うて讀者を熱心にすることは全く編輯の技倆である。さうして新たなる問題の提出、變化ある色々の資料の取合せなどは、結局は加擔者の多少によることで、手短かに言へは集まる原稿さへ豐富なら、その技倆を發揮することも諸君にはいと容易なのである。損は覺悟の前といふことは壯快なる決意であり、又同情すべき立場のやうだが、それは一方には事業の價値を、人に認めさせるだけの力が無いといふことを意味する。赤字は畢竟するに我々の名譽とは言はれない。其上に道樂はとかく自分に對して寛大になりやすいもので、同時に廣い世間からは別物に取扱はれる口惜しさを免れることが出來ない。折角よい志を抱いて始られた會であれば、斯ういふ機會のある度に少しづつ成長して、末には内外の學界も無視することが出來ず、又二三の舊會員の意向ではつぶすことも出來ぬやうな、立派な存在とならんことを、東京の同志も心の底から念じて居る。彼等の聲援を依頼によつて獲得したもので無く、捨てゝ置いても自然に集注して來るやうにすることは、今ならばさう六つかしい企てゞはない樣に私は樂觀して居る。
(27) 日本民族と自然
一
日本を記述した外國の諸文獻を集録して、之を我々の自省の資に供したのは、松下見林の異稱日本傳(元禄元年)が最初のものであつた。之に嗣いでは山本北山の日本外志があり、又鶴峯戊申の日出風土記等があつて、現在は更にこの方面の渉獵が大いに進んで居るが、初期の新鮮なる印象は、なほ松下氏に負ふべきものが多い。たとへは此書首卷の一節、魏志の東夷傳に謂ふ所の
倭人在帶方東南大海中、依山島爲國邑、舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國云々
の條の如きは、自分も生涯の經過に於て、幾度とも無く之を憶ひ起す機會に遭遇して居る。この文の前半は、魚豢の魏略に遵依したといふことであるが、然らば彼は又何に基づいて、此記事を成したのであらうか。單なる來使の偶談を筆録したものとは、想像することが我々には出來ないのである。
山島といふ言葉は、我邦でもこの他には、あまり用ゐられて居ない。別に島山(シマヤマ)といふ言葉が國語には有るが、それは專ら孤島の高く秀でたものに謂つたやうで、久しく國内に定住した我々は、自らこの國土を山島と呼ぶことは出來なかつたのである。それは必ずしも出でゝ洋上より顧望するやうな場合が、甚だ稀であつた故のみでは無い。日本の沿海には、少なくとも近代に於ては、平地の遠く連なるもの既に多く、人煙は日を追うて濃密を加へ、(28)文華の中心も亦次々に此間に移らうとして居るのである。たとへ大陸のやうな曠茫無邊の相を呈しないまでも、之を山島の名を以て傳へることは、今ならば恐らく誰も敢てせぬことであらう。
しかも一千七百年前の古記録が、曾て何人かの目覩に據つたものである限り、如何に簡であり又粗であらうとも、なほ我々にとつての好い暗示となるのは、斯ういふ偶然の文字の使用が有るからである。考へて見るのに、今日國民の生業の根據となつて居る沿海平遠の地は、その大部分の出現が魏略よりは遙かに後のことであつた。すなはち此書の成つた時分には、まだ日本は外から近より來る人々に、山島と呼ばれてもよいやうな地勢の國だつたのである。徐々たる推移には心づかぬ者も多かつたが、山河風物も亦いつと無く、その面貌を改めて居るのであつた。歴史は當然に地理の一部を管轄すべきものだつたといふことを、我々はこの古史の斷片によつて教へられたのである。
二
自然の變遷の特に顯著なるものは土地の隆起であつた。是は近代に於ても頻々とくり返され、その痕跡は最も明確に、到る處の海岸線に於て檢出し得られる。是が直接に海から取戻した面積は大きなものでないが、その水面との高差の増加によつて、處々の沼澤を排水し、沃土の利用を可能ならしめた效果は、海からかなり離れた内陸の盆地にも認められ、?々巨靈の山峽を蹴開いたといふ傳説を生長せしめて居る。
砂洲の發達といふことも、一半は地盤の隆起と關係が有るものらしい。僅かな溪川の運び出す細かい砂でも、永い間には驚くほどの量になり、且つ近世は年と共に増加した。それが一定の潮流に抑へられ、又山側に沿うて來る風の爲に、多くの岬角から大小さま/”\の砂嘴を突出させて、漸次に日本の海岸線を變化せしめたのは、やはり新たなる岩礁の、水面に近くなつたものが助けたからであつた。幾つかの小島は之によつて岸に繋がれ、外洋の風波を遮斷して、いよ/\この堆積を大きくして居る。
(29) 斯ういふ靜かな灣内の砂濱を、國語では由良(ユラ)と呼んで居る。すなはち海潮の蕩搖によつて、汰平《ゆりたひ》らげたといふ意味であつた。由良の地は古くから、到る處の海岸にあつて、人が集まつて網を曳くにも、又小舟を引揚げて圍つて置くにも、最も有用なる地形であり、從つて邑里の其傍に建設せられたものが多かつたが、是が又近世の地變に伴なうて、次第に海に向いて進出して居る。川はしば/\自分で搬んだ砂によつて、その川口を塞がれてしまふことがあつた。さうすると大抵は主風の方向に隨つて、海に近くなつて曲流し、著しく流路を長くして水速を減じ、更に又沈澱を豐かにしたのである。斯ういふ新附の土地は、一つ/\としては僅かな面積であるが、全國に亙つて其數が極めて多く、もと/\平地の少なかつた山島の國としては、是だけでも相應に大きな變化であつた。さうして歴史も亦大よそ此線に沿うて進んで來て居るのである。
三
この地殻の活躍にしても、又風と潮流の威壓にしても、共にその結果から見るときは國土の擴張、民族の進展に協力したことになつて居るのだが、是等は規模に於てまだ小さく、かつその出現は偶然であつて、從つて又若干の例外も無しとしない。之に比べると遙かに普遍的で又系統のある一つの變化には、兼て此邦に具はつた幾つかの自然の特徴が、連合して働いて居るのみで無く、更に人間の願望と努力とが參加して、言はゞ意識せざる大計畫の實現とも觀られるものがあつた。さうして所謂山島の面貌は、もはや國人の眼にすらも描かれ難くならうとして居るのである。今を距ること一千一百年前に、大御門が親ら選定遊ばされた平安の舊都を除いては、現在名を知られて居る大都市の多數は、概ね新らしい海渚の上に建つて居る。史籍有つてより久しい後まで、なほ蘆荻の生ひ茂り、水禽の遊び戯れた沮洳の地であつた。一方今日の米産地として、相應の餘剰を隣縣に供與し得るものは、何れも廣々とした水田の一地帶を沿海に控へて居り、それが又盡く近世の平和期に入つて、海から圍ひ込んだ新田場といふものであつた。私た(30)ちの一生涯に於ても、この干拓の事業は著しく進んだ、新古の堤塘は、たとへば樹の年輪の如く、歴々として土木技術の進歩の跡を示して居る。素より社會の生活要求が、かゝる難工事を敢行せしめたといふことは確かだが、外部に之を可能ならしむる條件の具足するものが無かつたら、是も恐らくは精衛の海を埋めんとしたといふ故事を、しばしば反復するに終つたかも知れない。
然るに我邦に於ては、既にその自然の條件が暗々裡に備はつて、我々の利用を待つて居たのである。濱の眞砂の微々たる一粒子も、各々その故山を談つて居ると同じく、海の遠淺を覆ふ莫大の泥土も、もとは大部分が何れかの曠野に、年久しく睡つて居た腐植土であつた。日本は一般に土壤の層が厚く、今も一半はまだ耕耘の及ばぬものがあるかと思はれる。それが必要ある地域に配分せられなかつたのは、主として山野の草木の密集によつて、是を降水から庇護して居たからであつた。農地聞發の進み、殊に山側の傾斜を切り開いて、燒畑作りから漸次に常畠に移つて行くことになつて、始めてこの束縛は釋かれたのである。個々の耕作者に取つては患ふべき損失であつたが、一方に於ては全國均平の效果は擧げて居る。急いでその海上に放出せられんとするものを繋ぎ留めて、埋立新田を擴張することは、國家の必要と稱してもよかつたのである。
四
國の人口の急激の増加といふことも、以前諸種の障碍の之を抑制して居たものが、次々と除却せられた結果に過ぎぬことを考へると、我々は之を自然の傾向、又は少なくともその特徴の一つに算へることを躊躇しない。日本古時の植民は、地形と環境の約束に從順であつて、いつも極度の小規模を以て行はれて居たらしく、今でも水流に沿うて溯つて行くと、僅かに五戸十戸の一群を以て、狹隘なる盆地に占據した村を見ることも稀でない。しかも是等住民の先祖の地に、愛着する念は強く、人が多くなり水田が之を養ふに足らなくなつても、さう容易には分裂して行かうとは(31)しなかつたやうで、最初には先づ米の消費を節約し、附近の山側を火耕して、所謂雜穀の生産を以て食料の補充を講じて居たのである。山が荒れるといふことの第一の原因は、私たちから見るとこの民族の特質に根ざして居る。日本最古の歴史に溯つて見ても、稻の栽培がまだ起らなかつた時代といふものは見出すことが出來ない。さうして我々の高天原には、既に天之安田天之平田等が有つたと傳へられ、一方には蒔かず稻即ち自然稻の存在は、九州その他の山地に就て久しく人の説く所であつたが、實際は全く別の草であつて、稻の原種と認むべき野生植物は未だこの山島の内部には發見せられて居らぬのである。當初我々の遠祖がこの種と技藝とを携へて、天孫の降臨に隨伴し來つたことは、今や略々疑ひ無きことゝ認められ、それが又大東亞圏内諸民族の未來の進展を想望する者の爲に、一つの力強い暗示を投げかけて居るのであつた。
日本國民の源流を究めんとした人々の、是まで比較的注意を怠つて居たのも、此點では無かつたかと考へられる。米がこの民族固有の作物であつて、新たに外から取入れた形跡は些しも無く、少なくとも其一定限度、天朝の供御としてさゝげ奉るものは言ふに及ばず、神を迎へ先祖を祭るべき毎年の節日と、人生の大事を記念する吉凶の儀式とには、如何なる家庭でも例外は無く、米を絶對に缺く能はざる飲饌の資料とし、一族郷黨の結合も、顯幽二つの世界の交感も、共にたゞこの一種の穀物の共食によつて、確保し得られるかの如く觀ずる者が、現在なほ決して少なくは無いのである。稻とこの民族との深い因縁には、たしかにまだ究明せられざる何物かゞ潜んで居る。
五
しかも他の一方に於て、土地の實情が之を指示するならば、我々は容易に勞力の大半を割いて、米以外の數種の穀物の栽培に努め、且つその所産を以て平日の食養とすることが出來たのである。稗粟麥豆の如き温帶以北の作物は、既に神代に於て其存在が認められ、米と合せて之を五穀と呼ぶことは、太古以來の斯邦の習はしであつた。大麥小麥(32)の奨勵は後代の告諭にも著はれて居るが、他の三種に至つては何人の勸説にも由らず、是も亦自然に備はつた國民の食料であつて、たゞ米に對する彼等の重視が、常に比例を絶して居ただけである。今から五十年ほど前の全國調査に依れば、日本人の雜食率は約四割五分、その大部分が右にいふ四種の穀類であつた。現今はこの率は勿論よほど減じては居るだらうが、なほ私たちの知る限りでは、所謂最少限度の米消費を以て、滿足して居る地方も稀では無い。もしもこの割合が今一段と偏倚して居たならば、或は之に基づいて種族同異の説をなす者もあつたであらうし、さうで無くても統計の全體から、速斷を下す者も有り得るが、事實は全然米といふものゝ補給無しに、生存して居る日本人は絶無に近いと謂つてよいのである。
米の漕運が全國の隅々に向つて開かれるまで、又陸稻の耕作が普及する以前には、日本の内地植民には六つかしい一つの條件が附いて居た。たとへ僅かなりとも米の作れる土地、神に供へ先祖の靈に薦めるだけの、餅飯酒の原料が收穫し得られる場處が無ければ、以前の日本人は容易に土着を企てなかつたのである。もちろんさういふ中には冒險と忍耐、幾度かの失敗を重ねて後に、漸くにして所期の目的を達したものもあらうし、稻の品種を次々と試驗して、終に北緯四十六七度の線にまで、米作適地を擴張するといふやうな、目ざましい改良も爲し遂げたのであるが、そこへ行くまでの我々の艱苦は大きかつたのである。
中世の國語では、斯うした新たなる米作候補地を田代(タシロ)と呼んで居た。個々の小さい農民群に取つては、田代の發見は次第に困難な事業となつて居た上に、なほ彼等には父祖の土地に對する愛着が至つて強かつた。是が又一つの民族の特質と認めてよいものであつた。その結果としては、天災地變の異常なる促迫がある場合にも、なほ全族を擧げて遷徙することは稀であり、從つて門黨分裂の傾向は著しかつたが、しかもなほ平時の徐々たる増員に對しては、その決行も概ね遲々たるものであつて、最初には先づ米穀の消費を制限しつゝ、次第にその補充を四周の山岳地帶に仰がんとして居たのである。
(33) 六
曾て天然の老樹巨木を以て覆はれ、臼とか太鼓とかいふやうな斯邦特有の器物を、無限に供給して居た我々の山野も、漸くその面貌を一變したことは事實であり、之を山林の荒廢と呼ぶのも誤りでは無かつたが、國として一般の影響の現はれたのは、實際は寧ろ火田耕作よりも後、今の所謂畠作農業の進歩が認められてからで、それは又比較的新らしい出來事であつた。燒畑の經營は立木を伐り倒し、火を放つて林叢を灰にしたけれども、それは通例飛び/\の小區劃であつて、且つ永くとも三年四年の後は、再び之を草莱に復して、久しく自然の繁殖に委ねて居たのである。之に反して陸田を常設するものは、地形を相し衆力を集めて、勞と費との償はれんことを期するが故に、大抵はやゝ廣い區域を連ねて居る。殊に肥料の供給を始めてからは、努めて雜生の植物を除去し、一つの傾斜地を丸裸にして、雨雪風霜に暴露せしめて居る。さういふ面積が麥類栽培の劃張、蔬菜果實の需要殊に又桑畠の開發によつて、最近は著しく増加し、その結果は多量の沃土を海口に放出して、終に今見るやうな廣大なる干拓事業を、可能ならしむるに至つたのである。
自然は素より色々の方面から、この一國の大事業に協力して居る。しかし結局は國民の生活活動が、その中軸をなして居たことを感ずるのである。たとへば日本が多雨の國であつたことは昔からであり、その通年の總量にも、さして大いなる變化は無いのかも知れぬが、地表の植物相が改定せられると、その包容の力は元のまゝで有り得ない。一時の降水量には次第に大きな偏差を生じて、一段と溪谷の彫刻を精巧にし、その運搬の能力を強大ならしめて居ることは爭へないのである。我々が單なる漁獵の民であつて、自然の供給を追うて次々と移動するか、さうで無いまでも一つの生産技術を固守して、環境の變異に適應することの出來ない者の集まりだつたならば、たとへ無意識にもせよ是ほどまでに、國土の面貌を改めてしまふ以前に、或はもう少し奇抜で又危險な方向に、その進路を取つて居たかも(34)知れないのである。國の歴史を決定する大きな動機が、意外な所にも潜んで居たことを心付かずには居られない。
七
國の將來の進運に、絶大の期待を繋けて居る我々に取つて、是は洵に大切なる觀點であるのだが、それを論ずるのは當面の課題で無く、又其爲には資料がまだ甚だしく不足である。たゞ單なる過去の解説として、一二の新らしい暗示を見出し得ることを以て、今は一應は滿足して居なければならぬ。是まで私たちの霽らし得なかつた疑惑の一つは、日本の氏族制度は、もとは大陸の隣邦とも似通うて、族長統制の力は頗る強く、團の結合も鞏固なものであつたことは、歴史に明證が多いのみならず、今も邊隅の地には往々にして其痕跡を留めて居る。それが近代に入つて段々と形を斂め、終には夫婦親子を以て構成する所謂自然家族を單位として、社會を組織するかの如き觀を呈するに至つたのは何故であらうか。是を西洋の個人主義の感化と見る者も有るのだが、實際はすでに開國の少し前から、此傾向はもう現はれ始めて居るのであつた。隱れたる原因は地形の特徴に在つて、最初から大きな群を以て土着するやうな平地が乏しく、少し人口が剰ればすぐに一部を遠く離れた處へ送り出すか、さうで無ければ族人を壓抑して、低い生活を甘んぜしめなければならなかつた爲では無かつたか。曾ては我邦にも條里阡陌の制を布いて、異姓相隣して村を建てしめんとしたこともあつたが、それの實現し得られるやうな地域は少なく、多數の開拓者等は、それ/”\に各自の群を以て、個々の小溪谷を占據することになつて居た。村と村との間には丘陵があり原野が隔絶して、幸ひにして利害の牴觸が少なかつた代りに、分内が狹隘であつた爲に、?々族人の對立抗爭を見なければならなかつたのも、主たる原因は地形の制約と、必ず若干の稻田を持つことを要件とした古來の慣習によつて、最初から自由に居住地を選定し得られなかつたからかと思ふ。ところが自然の變遷は、新たに下流の地に廣々とした水田適地を開かせ、更に之を有力なる背景として、次々に新たなる都市を成立せしめたのである。人の知能と勞務に對する需要は無限であつて、周(35)圍の小盆地の餘分の人口は、幾らでも此中へ吸収せられて、驚くべく短い歳月のうちに、都市は膨張し、その周圍の平地は繁榮の中心となり、氏族の團結の如きは之に對して、何等の發言權をもたぬのみか、終には各自も亦個々別々に、中央の統一に參加することになつたのである。明治戊辰を劃期とする耀かしい新國家の發足に對しても、この自然の變化が、暗々裡に大きな寄與をして居たことが考へられる。
終りになほ一つ、米がこの國民に對する大きな魅力であることは、或は外部の觀察者の想像を超ゆるものがあつた。起原は恐らくは固有信仰の中に求むべきであらうが、我々の公の勞務のうちでは、特殊に重要なる或少數のものだけが、必ず米穀を以て給養せられるのが、上古以來の習はしであつた。是が一切の俸禄のすべて米であり、米の財政が久しく維持せられ、市場交易の組織が十分に近世化して後まで、なほ政府自らが米の最大の賣主となるといふ珍らしい經濟?態の、特に斯邦に出現した原因であり、埋立新田の半ば自然なる大擴張は、實に又是が基底だつたのである。新たに生れた數多くの都市には、最初から米以外の食料を輸送する機關を具へて居なかつた。市民の一部に雜穀を消費すべき必要が有ると無いとを問はず、毎日平常の食物は米一式であり、それが又想像以上に、都市の生活を花やかなものに見せたのである。近代日本の農村は、通例一團として都市と對立せしめられて居るが、國土利用の立場から考へて見ると、是には明かな新舊二つのちがつた面があつたことに心付かれる。さうしてこの變遷は大きなことであつた。國の文化史の闡明を目途とする我々の學問が、必ずしも古來取傳へたものゝ理解と愛惜とに、終始して居られない理由も亦茲に存する。現代こそは深い興味である。同時に國人に取つて、何より緊切なる必要である。
(36) 農村保健の今昔
わたくしどものやつてゐる學問は、昔のことを調べるのが仕事で今のことについて兎角云ふことはできないのである。しかし色々とやつてゐるうちには、今のことに對しても一言したくなつて來るのは人情である。
そこで、わたしは若い人たちに意見を云ふことはいゝけれど、それを學問と結びつけてはいけないと、いつでも云ひきかせてゐる次第である。
これからわたしの申上げることも、さういふ意味でお酌みとりねがひたい。
○
近來盛に醫者のゐない村に醫者を置くことが云はれてゐるが、一つの村に一人の醫者を置いて、それで無醫村がなくなると考へるのは誤りもまた甚だしい。行政上の區劃たる村に一人の醫者がゐたとしても、その村全體にゆきわたる譯ではない。村にはいくつかの部落がある。もし無醫村をなくすといふなら、すべての部落に醫者がゆきわたらねばならないのである。大きな村になると、歩いて一週間もかゝるものもあるし、一つの村と島とから成つてゐるやうなものもある。
日本には七百からの島があるがその島のすべてに醫者を置くことなどは、殆と不可能と申してもよい。
また、全國三千に餘る村に、たとひ年百人の醫者を送ると假定しても、裕に三十年の歳月を要する。そんな氣の永(37)い醫療對策ではとても安心できることではない。
申すまでもなく、昔も現在と同じやうに多くの村には醫者はゐなかつた。ゐなかつたけれども、ゐないなりに病氣、健康に對して處理する方法があつたのである。そこを考へる必要がある。
○
もともと傳染病の病氣はいづれもその起源は新らしいもので、交通の發達によつて擴まつたのである。
黴毒などにしてもその例であるが、これが日本へ渡つたのは南蠻との交通が開けてからである如くすべて交通によつて人間の出入が繁くなると、新らしい黴菌が同時に入り込んで新らしい病氣を流行らせる。
わたしは今風邪について些か調べてをるけれど、風邪が日本に流行しはじめたのも比較的古いことではなく、まづ中世頃であらう。
そして風邪に對する考へ方も我々のとは趣を異にし、風邪は一つの精靈であると考へられてゐた。だから、風邪に罹ることも、風邪に會ふといふやうな考へ方をしてゐたのである。
疱瘡やチフスも農村を脅かした傳染病であるが、これも外部からの侵入によるもので、これらの病氣が流行すると、まづ外部との交通を斷つたのである。
ところが、今はそれができない。
○
現在病氣の最たるものは肺病であるが、昔の農村の生活を考へても、若い、盛りの男女が病氣のためにブラ/\なすこともなく、家族の厄介になるやうなことは絶えてなかつた。ところが今はそれが多い。
(38) 昔は村に醫者がなくとも、農民の生活は可能であつた。これを考へれば、單に藥剤師や醫者が村へ入つても駄目だと考へたい。
もちろん生活一般に於て今より昔がいゝとは云へない。醫療の程度は比べものにならぬほど今日は進んでをるので昔は病氣になればすぐに死ぬし、抵抗力の弱いものも早く死んでしまつたのである。
そこで強いものだけが生き殘るといふことになる。これを逆に申せば、若い、盛りまで生きてゐたものは、もはや病氣などに侵されないほど丈夫であつたのである。
○
こゝで申上げたいことは、自癒力といふことである。
昔の人は自癒力が強い。これは動物などにあるのだが、とかげの再生力と行かないまでも、受けた傷に對して何らの手當をしないでも、體力によつて治癒させてしまふ、あの力である。
いつか、木曾の山奧に行つた時一しよになつた炭燒が鉈で指を切つてしまつた。すると指を抑へて「砂糖、砂糖」と云つて、その傷口に砂糖を塗りつける。まさか砂糖では治る筈がないが、それで充分だといふのである。切落した指をしつかりと抑へて、くつゝけてゐるうちに、癒着してしまつたといふ話も多いけれど、これらはみんな自癒力だと稱して差支へあるまい。
昔の通りの生物が持つてゐる力を、人間が文化的になつてからも保存してゐた。それが自癒力である。
ところが今日では、醫藥をあまりに重んずるために、あまりにもこの力が失はれたやうである。
これは一種の精神力で、死なゝい、必らず治るといふ氣持が、人間を病氣から救ふことは珍らしいことではなく、このやうな氣力を失ふことは歡ぶべき現象ではない、むしろ損だとわたしは考へる。
(39) ○
更にもう一つ、現在あまりに天然療法を馬鹿にしすぎることである。
明治になつて、西洋醫學が王座を占めてから、わたしどもの周りにある草根木皮は全く顧みられなくなつてしまつたが、あまり之を輕視したゝめに、今日恰度その逆の結果や影響が現はれて來てゐるやうに思はれる。
漢方醫のなかにも二種あつて、傷寒論その他支那の醫書に現れた藥劑をのみ尊重する人と、病氣にはその郷土にあるもの、その周圍にあるものが治療の役に立つと考へて、郷土を重んずるものとがある。
極端な一例を擧げると、これは有名な話であるが、殿樣の病氣がなか/\なほらない。たくさんの醫者が匙を投げてしまつた後、ある醫者がすつかり治癒させた。何を藥に用ゐたかと云ふと、壁土をのませた。また、便所のすぐそばの土を取つて來てのませたといふ話がある。
かういふ醫方が昔あつたのを、西洋醫學がすつかりこはした。
まだ殘つてゐるものは、みんな迷信として一笑に附される。
病人の郷土に藥があるといふ思想は、今日單なる迷信とされてゐるけれど、これはたはごとでも、神がゝりでもなく、わたくしども日本人の持つ、素直な、觀察力の鋭い、經驗的な、生活思想の?んだところのものであつて、輕々しくすべきものでばないのに、誤まれる科學觀は、かういふ傳統の所産を玉石共に捨てゝしまつたので返す返すも殘念なことである。
○
政治に自治制度がある如く、病氣に對しても、國民の一人々々が自分で治癒し得る力を養ふことが考へられてよい。
(40) ○
あきらめといふものほど、可哀さうなものはない。もう治らぬと思つたら、ほんたうに病氣は治らないもので、病氣中のあきらめはよくないのに往々にして之がある。
動物にはちやんとこれがあつて死が近づくと、暗い場所に身を隱して、じつとして死んでしまふ。もう駄目だといふ、心ゆかしいあきらめをもつ譯である。
親が子供に對する時に、よくさういふことがある。
病人が出來ると、周圍のものが生死の境を無意識のうちに作つてこれより向うへ行つたらもう駄目だからと、治療も看護も放擲してしまふのである。
富裕な家庭では、どうかして助けよう、出來るだけのことはしたいと考へるが、一般以下では、駄目だと考へるとそれ以上金をかけることをいやがつて來るものである。
○
この頃の産めよ殖やせよも、子供を産むことばかり奨勵してゐて數ばかり氣にしてゐるやうでは困る。もつと、育てることも考へなければいけない。
昔は申すまでもなく子供の死亡率は高かつた。しかし子供を育てゝ一人前にしたならば二十や二十五で死ぬことはなかつたのである。日本でもスパルタ式の教育が行はれ、弱い子供は作らぬといふやうにならなければいけないのである。
昔は嬰兒殺しに對する所罰はかなりに寛大であつたが、その氣風その氣持の痕跡が未だに隨所に殘つてゐる。この(41)邊も何とか解決しなければならない。
もう一つさかのぼつて、育つまじき子は生まぬやうにしなければならない。人口の増加に赤ん坊の増加ばかりを考へることは間違ひである。
恐らく世界の文明國の中では、日本人は國民保健について、一番古い考へを持つてゐる國民ではないかと思はれる。
○
富士川博士の日本醫學史も無論名著にはちがひないが、わたしは更に疾病史の方がより重要ではないかと考へてゐる。
富士川博士は文獻のみを調べられたが、もつと民間傳承のなかゝら資料を得て疾病史を書いておく必要がある。
わたしは今、世間一般の平凡なゆたかでない人が、病氣に對してどういふ考へ方をもつてゐたか、そのことを歴史的に調べてゐる。
百日咳やものもらひについては既に一應のまとまりが出來た。
百日咳の名稱も、しらさびき、しらせぜき、しいれぜき、しいれしはぶきと各地で呼ばれてゐるけれど、この「しらさ」には何かの意味があるやうに思はれる。
先年、千葉醫大で講演をした時日本のことを知りもしないで、日本の醫者くらゐ外國を盲信するものはないが、日本人の體質のナショナリティは獨逸のそれと同じだと思ふのかどうかと云つたことがある。もつと日本自體についての認識が必要とされることは、現在に於ても變りはない。
(42) ○
大體、村に醫者を置くことより村に住んでゐる人々に病氣や健康といふものゝ正しい常識を與へ、養ふことの方が、一層大事なことであらう。小學生に對する衛生教育の方が醫者のことより先決ではないかと考へられる。
高等女學校の家事衛生にしても現在の如くお座なりでなしに、もつと同情と理解ある態度で、これを課することは、そんなにむつかしいことゝは思へない。
まづ小學校の上級生に、人の丈夫に育つて行く條件やそれを障碍するものについての、基本的な知識を與へることである。
そのためには、病氣になつたら醫者のところへ行けなどゝ云はずに、病氣に對する豫防を眼目にすべきであらう。
それも的がはづれてゐては何にもならない。たとへば、水は必らず沸かしてから飲めなどゝ教へても、こんこんする谷清水の湧いてゐる農山村の人間が、これを承知するものではない。
○
水について一言すれば、日本人は元來流水を飲用してゐたもので井戸水の使用は比較的新らしいことに屬する。
從つて、「水の神樣は三尺流れゝば淨めてくれる」といふやうな考へがしみ込んでゐて、下水が流れ込んだり、上流で汚物を流し入れたりするにも拘らず、これを平氣で使用してゐるところが多いのである。
町のなかを流れてゐる川でさへも、よく鍋釜などを洗つてゐる。青森縣の八甲田の近くにある温泉では、川の上に便所が出來てゐる。
昔から日本の便所は、川の上にしつらへられて、用便はすべて川に流してしまふのであるが、「かはや」の言葉は、(43)こゝから出たものである。
上流で、そのやうに屎尿を流し入れるのであるから、下流で、それに對して何か考慮してゐるかと云ふと、それが全く無關心らしい。わたしはその宿の番頭に、これで下流はどうしてゐるのだと訊いたのであるが、番頭の曰く、なあに半道もさがればきれいになつてしまひます。さう云ふのである。
東京でも、わたしの出て來た頃明治廿年頃には、街のまんなかに湧井戸があつたり、洗ひ物をする川などがあつた。
どうしても流れを使ふことが生活にしみ込んでゐる以上川上は汚さないやうにしなければならない。そのためには衛生思想の普及と同時に、さういふ取締の規則も必要であらう。
○
北陸の結核が、大分問題にされてをるけれど、問題はもうずつと前のことで、早く處置さへしてをればこんなにまで擴がりはしなかつたであらう。
大正の初年、わたしが福井縣の山間地帶を歩いた時に、すでに結核の魔手がこゝに延びてゐた。
これは大變なことになると思つて、その對策を早く講じるやうに役所の方に話したのであるが、容れられるまでに至らなかつた。
山間の無防備地帶に、一度結核がはいり込んだら始末に困るといふことを、當時はそれほど考へてゐなかつたのである。
日本の犬は非常に強いが、ヂステンバーにはどの犬よりも一番弱い。ヂステンバーのない土地に育つて、これに對する抵抗力が何にもないからである。
それと同じやうに、なるほど體格はよく、腸胃は丈夫か知らないが、結核に對して抵抗力の全然ない、いつも清淨(44)な空氣ばかりを吸つてゐた肺が、ほこりの多い繊維工場などに行つて、それで病氣にならなかつたら、ならない方が嘘である。
それと同時に、六ヶ月の間雪に閉ぢこめられてしまふ北陸の冬の生活も、この病氣の猖獗に、あづかつて力があるであらう。
一つの村に三人の醫者を置いたところで、病氣に對して安心はできない。
それよりも、まづ防疫に對して徹底的に力を入れるべきであらう。
○
和歌山縣の新宮川をプロペラー船に乘つて上つた、幾年か前の秋である。
行きかふ船のなかには、熱のある子を抱いて下つて行く若い夫婦の姿、怪我をした男が町で手當をしてもらつたらしく、ぐる/\卷に繃帶をして、歸つて行く姿などが見受けられた。
さういふ風景を見る度に、どうにかしたいと思ふのである。
かうして、山奧から町まで出て來れば、その費用だけで、一囘に五十圓はかゝらうといふもの。山越し、川越し、海越しといふ、日本の特殊な地勢上、文明國としては日本のやうに交通の不便なところはないと考へられる。
○
しかし、一方には農山村に住む人間が、都會生活の、要らざる摸倣を、明治この方し始めた、その惡い效果も考慮に入れなければならないと思ふ。
都會生活を眞似ると云つても、全部を眞似ることはできない。眞似できる範圍のことを眞似るのであつて、從つて、(45)なほ一層にいけないことになる。
たとへは、漁師がシャツを着るやうになつたことなどは、その一例であらう。
○
英國ではフォーク・メデシンと唱へて、民間療法や民間藥の研究が行はれてをるけれど、わが國にもこの事はあるべきであるし、また實際の役に立つのである。
所謂家傳藥、秘傳藥といふものも、澤山に集めて、これを公開するやうにしたら、きつと有益なるものがあらう。
一概にこれを排斥して、わたくしどもの先祖が經驗によつて獲得した貴い知識を、今に及んで埋没させてはならないのである。
たゞ困つたことに、このやうな家傳藥は公開すると效能までなくなると考へてゐるので具合が惡い。年寄たちはさう信じてゐるのである。
日本で一番古い醫書は「大同類聚方」であるが、現存してゐるこの書物は本物ではないやうだ。
この書でも分るやうに、藥の傳つてゐたのは、みな「家」である。つまり、日本人のもと持つてゐた醫療法は、家の財産だつたのである。
申すまでもなく、このやうな家傳藥の公開と云つても、そこから利益を得ようなどゝすることを、考へてはならない。
その爲身を誤まつた、いくつかの例を、わたしは知つてゐるのである。
うちみによく效くテレラピンといふ賣藥も、もとを訊せばこの家傳藥の一種であつて、何か龜か八つ目鰻でも材料にしたのではなからうかと思ふが、ある坊さんが、東北の山でうちみをして苦しんでゐる時に、この藥を分けてもら(46)ひ、その效能に驚いて、これを市販したらどうだらうと考へ、無理矢理に賣り出したものである。
一時はよかつたらしいけれど、その後いろ/\いざこざがあつて、あまりよいことはなかつたらしい。訴訟まで起きたとか云ふことである。
やけどの藥とか、肺炎の藥とかには、かくれたところに妙藥があるので、これをそのまゝにして置くのは、實際殘念だと考へるのである。
○
醫者で、わたくしどもの學問に、いろ/\力を竭して下さる方は少くない。
たゞ職業が醫者であると、民間療法など頭から輕蔑してしまふので、もしそのやうなことをせずに丹念に研究をつづけられたら、思はぬ收穫もあらうと思はれる。
しかし、わたくしどもの仕事はその基礎を一般大衆に置いてゐるだけに、戰時の影響は頗る強く、研究もはか/”\しからず、かなり苦しい立場に追込まれてゐる現?である。
(49) おとら狐の話
誑す狐と憑く狐
一
決して笑つてしまふ問題で無いと、自分は思ふ。兎に角に千年餘の間同じ國で、又千萬餘の人が同じ時代に、狐は惡いもの、怖しいものと信じて居るのである。多數關係者に取つては、輿論とも常識とも言ふべきものであつた。假に誤としても共同の誤である。何かの間違ひと云ふやうな偶然の事では無い。今迄の如く、衆人の信用し得る學者が、さつと手輕に此問題を評論することは、二つの點から有害である。一つは其でもう解つたと感ずる人の多くなること、他の一つは、色々の大切な實例が、學問上の役に立たなくなることである。早川孝太郎君の態度は、之に反して極めて實直な良い態度である。私はこの尊い記録を保存する序を以て、少しばかり心付いた類似の現象を比較し、出來るならば隱れたる理由の一部分なりとも、説明をして見たいと思ふ。或は自分も亦誤つて居るかも知らぬが、事實を遺して置くならば、後の人が判斷をする場合に、少くとも何かの便宜に爲ることゝ思ふ。
狐の話は種が多過ぎて、簡單に話すのに却つて骨が折れる。そこでまづ、早川君の記録の註に爲る部分だけ、稍々(50)詳しく述べて置かう。順序の轉倒は御免を蒙ることにして、第一には狐の害が二種あることである。「ばかす」と云ふのは多分、狐が化けて人を騙すからであらう。地方に由つては或は「つまむ」「つまゝれる」と云ふ。人の心を變にする迄は同じであるが、憑くと云ふ場合と餘程違ふのは、此方には時及び場所の制限が多い。即ち惡い狐の居る森や野を、一人で通るときに引掛かるのが普通で、向から出て來て誑すと云ふ例は少く、稀には嫁入の一行が夜明までまご付いて居た話もあるが、多くは第二の人が心付けば、もう迷は霽れて居る。從つて長くとも一夜の間で、又後の煩ひが少い。然るに憑かれた方はさう手輕には行かぬ。白晝衆人の前で氣を狂はせて、退く退かぬの押問答に、死ぬ迄かゝる例も多い。言はゞ社會が共同に騙されるのである。狐としては此方が術が六かしい筈である。之が遣れる程の狐ならば、夜陰に一人の通行人を誘ふ位のことは何でも無いことゝ思はれるにも拘らず、三州長篠のおとら狐などは、何かに化けたと云ふ話も無く、又人を誑したと云ふ話も聞かぬさうである。勿論右の如き兼業の例も絶無では無いが、誑す話の全國に遍く行はるゝに反して、憑くと云ふ方は地方的に、著しい勢力の差異がある。是には何か理由が有らうと思ふ。狐以外の動物に於ても、狸貉の如く、憑きもすれば誑しもすると云ふ類が少しあるが、多くは一方のみに秀でゝ居る、と云ふよりも憑くを常習とする者が少い。早い話が化物は取憑かぬ。而して又憑く方にも色々の種類があるが、是は化けようとせぬのである。狐に至つては二能を兼有するのであるが、其間亦自ら分業の形を示して居る。おとらは風の如く、姿の無い物だと或法印は謂つたさうであるが、實際憑く狐は稀に之を見たと云ふ人があつても、其記述は常に精確を缺くこと、本文のやうである。おとらの如きは毛の色にまで異説がある。
よく山伏などが狐憑を責めるのに、汝野狐の分際として、萬物の靈長を惱すかと罵ると、そんな失禮な事を云ふから退かぬ、おれは野狐では無いぞなどゝ、妙に格式を風聽《ふいちやう》する狐が多い。實際民間に於ても、誑す狐は人と對等で(人も隨分騙すから)、憑く方の狐にはかなはぬ者と、考へて居たらしい形跡がある。昔近江の八幡の近在、田中江の正念寺と云ふ門徒寺に、略々無害有益なる一靈狐が居たと云ふ。此狐は人に憑くこと無く物陰から人語を爲し、又は(51)筆談を以て人と交通をした。之が和尚の問に答へた所では、狐には三つの階級がある。上は主領と謂ふ。即ち狐の頭である。次は寄方、其下が野狐、人に禍するは大かた野狐である。但し配下の野狐で無ければ、主領も制し難く、強ひて制すれば怨を含むこと却つて人間よりも深いと云つた(一)。果して狐の僞りで無かつたとすれば、當節はどうして居るだらうか。或はやはり社會運動などが有るかどうか。其は構はぬとして置いて、右の第二階級の寄方の「より」は、即ち人に憑くことゝ思はれるから、相當の閲歴ある者で無くては、狐でさへあれば憑いて宜しいと、認められて居なかつたことが想像し得られる。
然しながら只の野狐でも、憑かうとすれば憑き得た例が、現に同じ近江國に古く有つたのだから、人類の理窟の樣に明瞭には解けぬのである。今昔物語は中古の話の本で、狐の化け又は誑した話も色々載せて居るが、其中に憑いたと云ふ例が、自分の記憶では二つ有つて、一つは利仁將軍の薯粥の話である。あまり面白いから或は話かも知れない。利仁は都に出れば低い田舍侍であつたが、越前の敦賀では鳴響いた豪族であつた。貧乏な京の役人が、どうしたら薯粥が飽く程食へるかと云ふのを聞いて、冗談半分に誘つて國へ還つて、薯粥をうんと拵へて食はせた。其道中での話に爲つて居る。湖岸の三津の濱で狐を一疋見出して、吉い使が出來たと馬で追詰めて之を引捕へ、後足を持つて釣下げながら其狐に言付ける。今夜の中に家に往つて屹とさう言へ。明日は京から客人を伴れて還る。高島邊まで鞍置馬を迎に出せと申せと、人に命ずる通りに言つて放すと、狐は見返りながら飛んで往つたとある。英雄の意思の力に威壓せられたのであらうが、迷惑なのは將軍の奧方で、夜の戌の刻頃に其狐が來てちやんと憑いた。さうして奇拔千萬なる傳言を、其口を藉りて述べたことが、迎に出た者の話で分つたやうに書いてある(二)。用濟み次第狐が退散して、別段の害をしなかつたことは、究める迄も無いことである。利仁將軍の時代から其逸話が本に爲る迄には、約二百五十年も經つて居た。狐が憑くと日本人の云つたのも、やはり此間が盛であつたやうである。
(52) 狐を使ふ人
二
此類の話は、内容よりも出來た事情を、考へて見る必要の方が大きい。江州三津の濱の野狐は、唯叢の裡に睡つて居たのが、蹄の音に驚いて飛出したのである。無法な勇士に劫されなければ、何しに越前まで人に憑きに往かうか。實際當節の、狐に人のやうな心の有ることを信ずる者でも、如何して憑く氣になつたかを不審して、其理由を明かにせざれば止まぬのが普通である。よく狐は仇をすると謂つて、其復讐心の強いことは評判であるが、此だけならば事はいと容易である。何となれば人には既に復讐を怖れて其怨を買はぬ用心が十分有るからである。處が何と思つても心當りの、絶對に無い場合にも狐は憑く。そこで百方手を盡して問落して見ると、前の利仁の例と同じく、誰某が往つて憑けと言つたから來たと答へるものと、食物が欲しさに此人の體を借りたのだと言ふ者と、大抵二通りに分けることが出來るやうである。前の場合を稱して、狐を附けると云ひ、その附けた人を、狐使ひと古くから呼んで居る。間接にはおとらの話とも關係が有るから、次には此事を言はうと思ふ。
世中が近世と爲るにつれて、生活の爲に人に憑く陋劣な狐の方が、次第に其數を増加するやうである。是は又理由の有ることで、此動物の繁殖率は人などより大きいから、食料問題も亦遙かに痛切である。名ある靈狐と雖、子孫の中には有形の飯を求める野狐が多い。狐は自ら此徒を眷屬と謂ふのが普通である。即ち人間の家長同樣の責任を、狐も負うて煩悶するらしい。鳥居ばかり多くなつても、神は故の儘の一つで、眷屬が切も無く殖えては、乃ち大に困る筈である上に、年を經て社朽ち祭の絶えた者も多い。しかのみならず、狐使ひも人だから死ぬ。其中には秘術を子孫(53)門弟に傳へるものと、坊主などの頓死で法の中絶するものとがある。中絶すれば又統御着の無い浪人の狐が出來る。人に由つては此種の狐をも、亦野狐と呼んで居る。
人に矢鱈に憑くのは主人又は祭人を失つた狐だとする俗信は、存外に弘く行はれで居た。尤も主人が有るかどうか、又誰が主人であるかは、今では之を突留めることが、可なり六かしいが、若し幸にして狐使ひの身元が確かだとすれば、狐は必しも怖しいものでも無かつたのである。以前狐使ひの社會に憎まれ、法律を以て處分せられたこともあるのは(三)、勿論憑かれた人を害して、利益を得ようとした者の有つた證據だが、善用さへすれば此方法で、隨分人力以上の判斷又は計畫を、することが能《でき》たのである。職業としての狐使ひの、記録に見え始めたのは中古からである。自分等は之を舶來のものとは思はず、獣の中では狐が鋭敏で、其擧動殊に鳴聲を觀察して居ると、屡々事件を豫知したかとも思はれた實驗から(四)、彼奴に相談したらと云ふやうな事が元かと考へるが僧侶の側では全部其學問で之を説明し、之を陀枳尼《だぎに》の法或は飯綱《いづな》などゝ稱へ、而も世間からは、邪術でもあるやうに畏れられて居た。其所謂飯綱使ひ等が、後多く統御の手綱を放したのである。
現今の佛教の中では、法華宗の中山派に屬する者が、略々昔通りの陀枳尼の法を行つて居るらしく、其祈?の神秘には、どうも狐の臭がする。勿論秘法のことであれば、警察以外の人にでも細かな所は明さぬが、まあさう思はれても仕方が無いやうである。百年程前に、同宗旨の人が見て來て、人に談つたと云ふのが其通りであるならば、今の綾部の大本教などゝ、方式だけは餘程よく似て居る。即ち希望者を一席に集め座せしめて、一度に加持をするのであつて、各自に法華經の方便品を一卷づゝ、紫の袱紗に包んだのを、左右の手で捧げ持たせ、暫く呪文を唱へて後、徐ろに其經卷を取退け、兩手は元のまゝにして、經を持つた心持で居れと命ずる。さうして尚何か唱へ言をする内に、段々に顫ひ出して、終に色々の事を口走るのだと書いてある。其同じ話者の實驗に依れば最初左右の空手を竝べて坐つて居ると、左の大指の爪の間から、小い蜘妹ほどの物が、ひな/\と入つて來て、脈所まで入つたやうに思はれた。(54)さてこそと一心に陀羅尼を唱へ、三寶を念じて居ると、又戻つて往つたと云ふことである(五)。我々共の考では、此だけでは狐だと認め難いのは勿論であるが、狐が人に憑くにはいつも斯うだと、田舍には今でも信ずる者が多い。梅の實ほどの物が體中をむく/\と動き廻るとも謂ひ、そこを前後から押詰めて、刃物で刺さうとしたら降參したと云ふ話もある。劫を經た狐は風のやうだと言ひながら、皮の下では匿れおほせぬのも變だが、人の食つた物で身を養ふやうな獣だから、何とも評せられぬ。
三
中山流の加持は、法華宗でも新法だと、同じ人は言つて居る。又假に日蓮の時に始まつたとしても、狐は尚其以前から人に憑いて居たのである。即ち彼と狐使ひとの關係は如何にして生じたかの問題が起るのである。狐使ひが死んで、從屬の狐の難儀をするのは元よりであるが、達者な中に此職業を罷めることは、亦甚だ容易で無かつたやうに傳へて居る。併し其よりも、當初狐と狐使ひと、主從見たやうな關係を結ぶには、どうすれば可かつたのであるか。或は矢鱈な狐を捕へて來て、檻に入れて思ふさま食に飢ゑさせ、其上で彼に教へて食を求めに出すなどゝ、丸で印度で象を馴らし、又は日本で猿を仕込む方法と、同じやうな手段を説く者もあるが、其では復讐心の強い彼は、先づ狐使ひの方を恨むであらう。或は又斯な説明を信ずる人もあつた。狐使ひの飯綱の法と云ふのは、始先づ狐の穴を捜して、殊に孕み狐に氣を附け、食物を與へて飼馴らし、愈々子を生む時になれば、 益々其保護を厚うする。さうすると生れた兒狐の成長した頃に、母親は之を連れて名を附けて貰ひに來、術者之に名を與へると親子の狐、辭儀をして歸つて行くとはどうだらうか。兎に角其からと云ふものは、術者潜かに其狐の名を呼べば(直に形を隱して座側に遣つて來る。之に相談して不審の事を明かにし、人の問に答へるので、信徒を引付けることが能《でき》たのである。但し些《ちつ》とでも法則に反した行があれば、狐には見捨てられ、身を亡すやうになるのだと云ふ(六)。其では狐使ひの親子師弟の間に、狐(55)の相續讓渡と云ふことが無い限、いつも若輩の狐のみを驅使せねばならぬことになり靈狐の多くは長命で、少くとも三百歳四百歳の齡を重ねたものでなければ、人に憑いて不思議を示すことは能ぬと云ふ話とは合はなくなる。
同じ人が申すので無いから、矛盾を咎めることも成らぬが、總じて狐の不思議は、話を聞けば聞くほど、解らなくなる點に在るやうだ。例へば狐使ひが、出逢次第の狐を子分にする如く、憑かれた場合にも、有次第の法印を頼んで來て落さうとする。法印は祈?に先だつて、必ず多勢の聞く前で問答をして、狐の身上を聞くのが例であるが、殆と一度でも初對面で無かつたことは無い。さうかと思ふと偉い行者たちは、前に言ふ如く隨分狐と交際する術も知つて居たらしいのである。結局は眼に見えぬ狐の系統は至つて複雜で、其技能にも階段のあること、行者修驗の徒と同樣であつたと見るの他は無い。上總の下大多喜の正法院には、狐を落す秘法の一卷を傳へて居たが、其が奇妙な事にはもと狐からの傳授であつた。天保年間より四代前の法印は、此業には似合はしからぬ謙遜な人であつた。或村の狐憑に頼まれて往き、如何に祈?しても其に限つて退かない。そこで閉口して家の者を遠ざけ、手を突いて狐にあやまつた。拙者も此祈?を以て家門の養と致す者、どうか御憐憫を乞ふと言ふと、大得意に爲つてさうであらう、己は只の狐では無い。千年の老狐で今は和泉村の飯綱明神の使者と爲り、四斑犬と名乘つて居る。僅の事で此者には附いたが、さう頼むなら還つてやらうと、序に其男の手を借りて、狐を落す秘傳の一卷を書殘して去つたと云ふのは(七)、甚だしい宋襄の仁であつた。
更に狐の内通かと思はれる事例が今一つある。昔は日本の狐に、花山家と能勢家との二流派が有ると言つたのは、恐くは狐の系統の對立では無くして、此二家が共に狐を統御するの力を具へたことを意味するのであらう。二家の狐に對する因縁は、話がそつくり同じであつたさうである。即ち或時の狐狩に、老いたる狐花山殿又は能勢殿の乘輿に飛込み、危い一命を助けられた。此御恩は永く子孫の末迄と云ふことで、此家から出した御符を貼つてさへ置けば、狐の禍は必ず免れる。其約束の固いこと、人も亦愧づべき也と傳へて居るが(八)、是では飛んだ目に遭つた右二頭の老(56)狐ばかりが、狐界のアダムエホバであつたかの如く聞えるが、必ずしもさうも言はれぬやうである。何にしても、狐が他に謝恩の途もあらうに、未來永遠に自ら其威力を制限したのは、どう云ふものかと思ふが、人としても術を相手の狐から採用したのは、後世の法印等をして、痛くも無い腹を探られるやうな心苦しい目を見させた、不利益なる約束をしたものだと思ふ。
四
江戸では鐵砲洲の稻荷、又は和泉橋通の稻荷等が、能勢家の鎭守と稱せられ、つい近頃まで黒札と謂つて、狐憑を避ける護符を出して居たさうである(九)。最初如何なる機會に於て、斯る皮肉な便法を發見したか知らぬが、三州長篠でもおとらの跳梁を制する爲に、既に二百年も前から伏見の神樣を勸請したことは、本文にも見えて居る。今でも田舍者の中には、同じやうな心持で、此官幣大社に參詣する者が、少し位は有るかと思はれる。社傳にも歴史にも基礎の無い話であるが、稻荷は狐の御本山なるが如き俗信、以前は中々盛であつた。如何してさう云ふ説が始まつたかを研究する學問は、今に日本にもきつと興ると私は考へる。兎に角に動物の中でも、狐の一種に限つては、此神の威力絶大であつて、全國の稻荷社は悉く、伏見の節度に服して居たやうに謂ふ人もあり、少くとも狐憑だけは、どんな難症でも本社に連れて來れば、一遍に恐れて退くべしと信ぜられた。其から奇妙な事には、稻荷山には野狐は一疋も住まぬさうである。只番狐と稱して諸國から、恰も安藝の宮島の烏のやうに、夫婦の狐が一組だけ、常に來て穴住居をして居た。諸國の武者が年番に上京するのを眞似たものであらう。而も妻狐が子を産む時だけは、遠慮をして別の産屋の穴へ、引越すと云ふ迄に人がましい。子狐は何處へ遣るのか知らぬと謂ふ。又どう云ふ規則で交替して居るか分らぬが、時あつて新しい狐が番人をすることは確であつて、思ひも寄らぬ田舍から上つて來て、此度我村の狐殿が番に參られて御座る。何處に居らるゝや、逢はせて下されと云ふ者があるので、乃ち右の穴へ案内をして遣るさうであ(57)る。如何すれば其樣の事が知れるのか、仔細は解らぬと伏見の一神官が人に語つた(一〇)。なる程解りさうに無い事柄である。
又斯な話もある。昔藝州の妙風寺と云ふ寺の住持、京に上つて伏見街道の寶塔寺に逗留中、時々稻荷の神主某の家へ遊びに往つた。或日の事である。一人の婦人が神主に面會して、頻に何か懇願するにも拘らず、成らぬ/\と言つて終に空しく還したのを見た。神主の妙風寺に語る所に依れば、該婦人は實は狐の精であつた。其夫が曾て備後福山の藩士何某に殺されたのを恨んで、敵が討ちたいと云ふ願で來たのであつた。神主又曰く、何某氏には氣毒であるが、彼女の言分も尤であるから、何れは願を聽いてやらねばならぬ。總じて此稻荷の幕下に住む狐は、無理なる災は致し申さぬ。あの通是非とも願濟の上で祟をば致す。故に勸請をするにも、田舍狐はよろしく無い。必ず筋目の良い稻荷の末社を、御迎へ申すのがよいのだと、親切に話してくれた。和尚は試に歸路鞆津の町に休んで、福山の御家中に此々の御仁があるか、前方男狐を殺されたことがあるかと訊ねると、貴方はよく御存じで、と云ふやうな譯であつた。そこで仔細を告げて當人へ傳言を頼み、右の神主へ早く手入をするやうに、忠告を殘して歸つて來たが、後に福山面から態人《わざびと》が禮に來て、武士のくせに、御蔭で助かつたとの挨拶であつたと云ふ(一一)。事實とすれば容易ならぬ話だが、虚誕でも吐きさうな人が、關係して居らぬのだから不思議である。但し妙風寺は多分可部町附近の法華寺であらう。伏見の寶塔寺と云ふのも、此宗旨で有名な寺である。法華だけに狐に對する同情と信仰は、稍々厚かつたと言得るかも知れぬ。
狐でも道理さへ有れば、人に祟つて宜しいと云ふ許可が、伏見の本社から、殊に之に從屬する只の人類から、何時出るか知れないと云ふことでは、今日何の爲に稻荷を信心するか、甚だ心許ないやうに感ずる人が多からう。我々は狐で無いから、狐界の道理に通曉する筈が無い。少くとも如何祀れば氣に入るか、何とかして兼々聞いて置かねば、稻荷の多い東日本などには、一日も安住し得ぬのである。食物ばかりに念掛ける野狐よりも、姿も見せぬ數百歳の靈(58)狐の方が、却つて氣心が知れないから、油斷の成らぬやうにも思はれる。更に進んで考へると、諺に所謂障らぬ神に祟崇無しで、敬して常に遠ざけて居れば可さゝうなものを、どうして又一屋敷に一つ宛も、赤い祠を建始めたものか。即ち近世に於ては三河のおとらの如く、憑くのは迷惑な事、不幸な事とばかり考へられ、其有るが爲に却つて第二第三の稻荷社も勸請せねばならぬのだが、以前は別に何か理由が有つて、時々は此方から憑いて貰ひ度思ふ場合が、祀る者の方にも有つたのでは無いか。法華や眞言で何と説明しようとも、陀枳尼《だぎに》の法有つて後の狐では無く、狐は憑く獣なるが故に、則ち之を使ふ飯綱師と云ふ職業が出來たのでは無いか。別の語で問ふならば、狐主人從か人主狐從か。面倒臭い話だが之を些し考へて見ねばならぬ。
五
上方邊で近年まで行はれた狐祭は、誠に當事も無い風習であつた。多くは霜月師走の野に食物の乏しい頃、篤志者あつて狐の好む小豆飯油揚等を多く調へ、例の稻荷下しに同行を頼んで、夜分郊外に出て狐を攝待するのである。別に此と云ふ心願が有るので無く、況や家に狐憑が出さうで、之を避けようと云ふのでも無かつた。私の横に居て聽いた話などは、何だか半分物好のやうであつた。勿論下には利慾の動機も有つたらうが其よりも如何なる狐が來て憑くかに、多く興味を持つたやうな實驗談であつた。一晩に三頭四頭の狐と對話することが、珍しく無いやうな事も聞いて居る。憑かれる人は毎囘同じ稻荷下しである。御幣が大に動いて後じつと爲ると、まづ極まつて何れから御出でになりましたと尋ねる。御眷屬が御幾人と聞く。揚豆腐と赤飯とはどちらが御好と云ふやうな事、其から相手が女性であると知れば、狐の家庭の瑣細な事情から、果は艶しい感情問題まで、仲介者の可笑しな爺であることも無視して、根問することを憚らぬ。來年は世中は如何、又は取引はどの方角へなどゝ云ふ伺ひは、漸く其後になつてするので別れる際には御眷屬相應の食料を殘して來る。非常に内密に此事を行つて居たのは、思ふに鑑札の出難い職業であつた(59)爲で、神子行者の取締の嚴しくなつた明治五年より前にはもつと花々しく多人數で、或は村々の年中行事として、狐の供養をして居たのでは無いかと思ふ。稻荷下しと云ふのは極低級の神主又は行者であつた。多くは參詣の有る稻荷社の鍵を預つて居た。勿論寒中の狐祭に雇はれるだけでは、生活を支へ得る筈が無いから、常には祈?又は伺ひを立てる爲に稻荷神を降し、隨分附けるのでは無いかと疑はれてもよい程に、上手に狐を使つて居たらしい。伏見の神官に言はせるならば、此徒こそ田舍狐の筋目の惡いのを祀る者であつたらう。
伯耆國の山村などでは、舊暦正月の十四日狐狩と稱して、畫間は男の子供、夜になると青年も之に加はり、鉦笛太鼓で面白く打囃しながら、部落内を何度も廻つてあるく風習があつた(一二)。尋ねたら他の地方にも有ることゝ思ふ。今では意味も不明になつて居るだらうが、狩るとは謂つても驅逐するので無く、やはり斯して仲間の中に狐憑を人造し、其年の吉凶を豫言せしめ、又機嫌を取つて倍舊の愛顧を求めた風習の名殘であらう。鉦太鼓を鳴せば疫病神は遁げて行き、迷子は出て來る。つまり眼に見えぬ物を動かす一の手段であつた。此で狐の靈を里へ驅出すと信じたのであらう。正月十四日は上元の前夜で、農民が一年の運勢を決するに最も大事な日として居た日である。幸神《さひのかみ》なども關東では、此日を以て少年をして祭らしめて居る。此にも一人の悴別當などゝ云ふ、神に憑かれて饗應を享ける兒があつた(一三)。所謂狐狩でも何かの方法で、狐を代表する中の小佛をきめて、其に色々の事を訊ねたものが、後には他の多くの古い儀式と同じく、半分以上遊戯化してしまつたものと思ふ。
村に村專屬の狐が永く住み、些しも惡い事はせず、大は吉凶禍福より、小は明日の天氣の變勤までも豫報を與へて、村民の生活を指導し、其代には初午などの日には鄭重に祭られ、平素も姿を見れば辭儀をされる程の尊敬を受けた例が、是亦諸國の田舍に於て折々有る。家の稻荷などにも主人との關係が、大黒天の白鼠以上であつて、成程是では祭らずには居られまいと、思ふやうな奇特な話も、相應に古くから傳はつて居る。此類の狐が假に人に憑いたとしても、頭痛や熟を起させたり、甚しきは當人の身を損じ命を奪つたりしよう道理が無い。伏見で何と言はうとも、穴の上に(60)祠を建て、或は社殿の裏手に穴を構へさせ、横から見ても縱から見ても、狐を祭るに相異ない田舍の稻荷樣は、斯云ふ事情から平民の神であつて、從つて或種類の狐憑は、歡迎すべき信徒の仕合せで或種類の狐使ひは、必要且有益の職業であつたことが解る。唯問題は世中が末になつて何故に善狐が漸く影を潜め、兇暴おとらの如き惡い狐ばかりが、其處にも此處にも出て荒れるやうになつたのか。物皆進化の曙の空に向ふ世に、狐の道のみ日々に闇くなるのは何故か、再び昔の修驗行者たちを喚活かさねば、狐の統御を望み得られぬか否かと云ふことである。人間を離れた狐の立場から見て、彼等の社會は今榮えて居るのか衰へかゝつて居るのか。之に對する私の考へを言ふと、貞永式目に所謂神は人の敬するに由つて尊しで、何れの民族に於ても、見捨てられた神は乃ち妖怪に爲る。見やうに由つては輕蔑するから狐が怨むとも言へようか。つまりは親々からの因縁が深い爲に、丸々の他人とも爲り切れぬ當分の間、斯の如き不愉快な影響を我々に及すので、狐使ひが死んで浪人の狐が暴れると云ふのは、日本の社會一團を、一個の狐使ひと見た場合にも亦眞實である。別の語で言へば、將來の問題としては狐憑は大事件では無い。棄てゝ置いても自然に災害は少くなる。併しどうして狐憑などゝ云ふ事が始まつたかを究めるには、まだ/\多くの學者の研究が入用である。さうして其が解ると、日本人と云ふ國民が、些しばかり解ることになるのである。
人に憑く物何々
六
狐とよく似て少し變つたクダと云ふのがある。おとらの在所の近くにも居る。此も狐の一種で又クダン狐とも謂ひ、大さは鼬くらゐだと早川君も言はれた(一四)。或は鼬よりも更に遙に小さく、管の中に入つて居る故に管狐だと云ふ説(61)もある。先は鼠ほどの物である。慥に見たと云ふ人が新居にあつた。兎に角に三河遠江を以て、管狐の本場のやうに言ふ人も有るのである(一五)。然るに今から百三四十年前に、三河から出て北の方へ旅行した人が、信州飯田の附近に於て、始めてクダの憑く話を聞いたと言つて之を其紀行に書いて居る(一六)。憑かれた者の容態は、最初は熱があつて常の疫病の如く、後次第に氣が狂つて來る。伊那地方では、クダとのみ稱して管狐とは謂はぬと云ふ人もある。さうして又管に入るほど小くも無いやうに傳へて居た。元より形は一切人に見せぬから、確な事は言はれぬが、折々犬猫などに?まれて死んで居ることがある。栗鼠?鼠ほどの大きさで黒い毛長く垂れ、爪は針の如く怖しい物だとも言ひ、享和の頃、縣道玄と云ふ醫者が、伊那の松島で討留めた怪獣は、近隣の者がクダであらうと言つたが、やはり栗鼠位で、尾が至つて太かつた。尾の太い所を見れば、狐の類では無いかと云ふことであつた。甲子夜話に依れば、文政五年の五月に、大阪から生きたクダ狐を持つて江戸に來たと言つて、其見取圖が載せてある。體一尺二三寸、尾が九寸五分、是は又一番の大形である。而も同じ隨筆中に、クダ小なること鼬の如しと記し、管では無く竹筒に封じて運ぶと云ふ話を載せて居る。地方に由つて大きさの一定せぬ動物は、蛇や魚類の他には無い筈である。
伊那でクダ附と稱して、人の縁組を好まぬ家筋があると言ふのは、疑も無く遠江や駿河で、クダ屋と呼ぶものと同じである。クダ屋は相當の資産が有つても、忌嫌つて此と嫁聟を遣取する者が無い。甚しきは絶交を宣せられることがある。主人必しも慾の深い者で無くとも、其家に屬するクダは主家を思ふ餘に、内の物を持つて還る人を追掛けて、大抵其家族の者に憑いてしまふ。憑かれた者はクダ狐其物の眞似を爲し、取止も無い事を口走つて、狂態を演ずるので、多くは恥ぢて醫者の診察を受けず、或は刃物を以て嚇して見たり、或はおとらに憑かれた場合と同じく、靈山の御犬を拜借して來て之を逐退けるを例として居る。去るに臨んで、必ず何處から來たかを言ふものださうである(一七)。木曾から松本平の片端へ掛けて、クダを飼つて居ると言はれる家はやはり多い。是も亦憑かれた人の口から、始めて世間には知れて來るのである。大きさは小猫ほど、又掌に乘る位の狐などゝ謂つて、東海道のクダよりずつと小いが、(62)人に憑いて無暗に物を食ひ、いらぬ事まで喋る點などは同じである。但し他の地方でまだ聞かぬ事は、クダの家の者はクダの力を假らずとも、睨むと人の家の南瓜が腐つたり、機の工合が急に惡くなつたりする。或は目に見えぬクダが來て、さうするやうにも考へられて居る(一八)。
飛騨では高山町及國府の附近、東美濃では太田地方などに、二三クダと云ふ狐を使つて居ると云ふ行者又は巫女の徒があつて、之を亦イヅナ使とも呼んで居るさうである(一九)。但し此分はクダを相談相手として、占ひの一商賣をした者で、假に恨のある人に取憑かせたとしても、其が飼つて置く主たる目的で無かつたことは、恰も只の狐使の狐と野狐との差である。のみならず飼ふと飼主にも若干の迷惑が有ると謂ふばかりで、永く其家に附隨して何も知らぬ子孫に迄及ぶか否かは分らぬ。要するに木曾と大井の二大流で挾む地方の如く、しかとした家筋を作る迄には至らぬやうに思ふ。管狐の世襲がある縣では、之を飼ふ家は金持になると言つて居る。目に見えぬ小獣が、物を買へば秤の分銅にぶら下り、物を賣る時は品物の上に乘つて、量目を重くするなどゝ言ふ。隨つて行者でも無い只の農家でも、之を養ふ氣になり得るのである。不思議なことにはクダは元、伏見の稻荷樣から管に入れて受けて來ると、木曾あたりで傳へて居た。管に封じたまゝで飼つて居れば問題は無いが、明けても暮れても出してくれ、出しておくれとせがむやうに感ぜられて、つい出して遣ると忽ちの間に繁殖し、而も其家に附纏つて離れぬのである。竹筒に入れて來ると云ふ説では、單に或る靈山で封じて渡すとある。牝牡一對を入れてあるので、出せば次第に子孫を生む、普通の行者の力ぐらゐでは、元の如く筒に戻すことが出來ぬ。又授かつたからにはもう用は無いと、暇を遣ることは許されぬとある。食を與ふれば人の隱事を告げ、主死すれば四散すともある。四散とは取締が六つかしいと云ふことらしい。然らばクダ屋は増加する一方である。故に區域外にも出て居るかも知らぬ。
(63) 七
遠く紀州の田邊附近にも、三十年ほど以前に伏見から、斯して飯綱を受けて來て、土地の老女に讓つて往つた遍路がある。即ち管狐であらうと云ふことであつた(二〇)。但し此狐は後に飼主の縁者が祠を建てゝ、お崎稻荷と祭つて居るさうである。是は恐くはクダとオサキとの、類を連ねたものであることを、證明すべき一材料であらう。同じ信州でも、東に寄つて千曲川の右岸になると、早クダは居らずして其代りにオサキが居る。オサキは亦狐の一種である。大きさは鼬に似て少しく大なりと謂ひ、或は大鼠位あると謂ひ、或は鼠の大きさで、毛色は白もあれば赤黒の斑もあると謂ひ、又或は常の鼠よりは小くて、?鼠のやうな軟な毛が密生し、目は竪に附き鼻は豕の如く曲つて居る。そこでオサキの憑いた者は、必ず鼻の下の筋が曲つて居るなどゝ、是も亦決して一定したことを傳へぬ(二一)。併し居ることだけは確らしい。
化物を否認した故井上圓了博士も、曾て信州南佐久郡で、アルコール潰に爲つた一頭のオサキを見られた。動物學者の説では鼬の一種だと謂ふとある。但し憑くのは此物か否か、平素は形を見せぬと言ふから、明白で無いのも尤である。赤城山南麓の村で見たと云ふものも、やはり死んで居て死人に口無しではあつたが、是はオサキの害を防ぐ爲に、野州古峯ヶ原の天狗を招待した家の、屋外に?殺されて居たのだから、比較的に確らしくある。鼻曲つて豕の如しと言つたのは此奴で、尾端二つに裂け、顯微鏡を以て檢するに、毛尖に一種の異彩を放つとはどうだ(二二)。オサキは失禮ながら先づ上州の名物だ。諺にも伊那のクダに對して南牧のオサキ持と謂ふ。南牧は妙義の西南に當る甘樂郡の山村で、信州にも甲州にも近い。此邊が中心地のやうに考へられて居たのである。處が上州の人の言ふには、元はオサキは武州の秩父一郡に、限られて居たものである。其が嫁聟に附いて他郡にも出て行つた。早く離別してしまへば難は無いが、永く爲つて兒供が出來るともう還らぬ。狐の方でも盛に子を産む。四季の土用に子を産むとも謂ふ。(64)オサキが來て子を持つた以上は、主人の方の縁組は解けでも、狐だけは離れない。そこで最初から警戒して問合せを嚴にするので、オサキ持同士婚姻をするの他は無いと謂ふ(二三)。少くともオサキの弊を知つた頃には、既に秩父郡外にも擴つて居たのである。木曾で御嶽講がクダを征伐しつゝ、同時にクダの俗信を流布せしめた如く、秩父でも三峰山の御犬が、却つて村々へオサキを驅入れたので無いかとも思ふが、其事は甚明瞭で無い。兎に角に此郡には、人に嫌はれた三種の家筋が有つた。其一はネブツチヤウと謂つて、何か小な蛇などのやうに噂されて居る。若しさうだとすれば之を飼ふ家である。此家筋の者の住んだ屋敷は、死絶えた後までも代つて入る者無く、荒次第に荒らしてある。第二にはナマダゴ、此家筋では彼岸や月見の晩に、團子を作ると甑の中に、必ず三箇だけは生の儘の團子が有る。其故に生團子だとの説もあるが、共に何で婚姻を忌まれるのかは分らない。三番目は即ちオサキ弧である。一時は他處より貸財を運び込んで來て、福神のやうでもあるが、久しからずして家運傾き、又何處かへ持去ると謂ふ(二四)。
オサキは又下野にも居ると謂ふが、まだ詳しいことを知らぬ。南の方は千住の戸田川を境として、江戸には入らぬと云ふ説もあるが(二五)虚誕である。固より形を顯す物で無いから、見附けて如何したと云ふ話こそ少いが、オサキの畏怖は常に存在したので、敢て珍しからずと迄言つた人がある(二六)。唯珍しいことには、江戸でオサキと認められる狐は、江戸らしい奇拔な惡戯をするのが例であつた。是には所謂風説の手傳もあつて、いや縁の下から竿を出して振廻したの、知らぬ間に單衣の腰から下を切つて、人の袢纏に繼いであつたの、澤庵が生板《まないた》ごと天井へ往つて引附いたの、又は釜の中から越中が出たのと、笑ひたいやうな話の多分は聞匡すと怪しくなつたが、其でも何處からとも無く不意に石瓦を飛ばし、或は道具類が無くなり、又は置換へられる位の事は確にあつた。此をば池袋と云ふ村から、女中を雇ふと必ず起るやうに、考へて居た人もあつたが、他の無數の類例と同じく、寃罪に相違無いと私は思ふ(二七)。右の惡戯狐も、時として人に捕殺せられたことがあつた。やはり鼬に近く、竝の狐よりは小いと謂ふが、眞のオサキか、はたクダなどの分派か、明白に決し得る見込が一寸無い。
(65) 八
オサキのクダに似て居る點は、決して其形?の地方的に區々であることのみで無い。一定の家に從屬して繁殖が至つて早く、主人の縁家を辿つて次から次へ分れて行き、其家を富ませ且憎ませる。オサキ持が人を怨むと、もうオサキは往つて憑いて居り、而も例の通り、恨の筋をべら/\喋つて、里を露すのである。又斯な小な事までも似て居る。遠州などで管狐の人に憑く者は、好んで生味噌を食ひ、殆と餘の食物は食はぬ位だが(二八)、上州のオサキも然う言はれて居る。味噌樽の上側は其儘有りながら、中味は皆食つてしまつて、空になつて居ることがあると謂ふ。斯云ふ不思議のある時に、さては病人はオサキの業かと、考へ付くのであらうと思ふ。又木曾などのクダと同樣に、憑く以外の害もするやうである。上武の養蠶地方に於て、一夜の中に蠶兒の多く無くなるのを、オサキが盗んだと謂ふのは常の事である。日蓮宗の行者の中に、此狐を使役して色々の不思議をする者が、有ると云ふのは實際であらうか。其は疑しいが低級の修驗者などが、最初伏見の稻荷から受けて來たものと云ふことは、此方面でも以前傳へて居た。但し竹の筒や管では無くして、一二寸の紙に狐の像を、描いたものであつたと謂ふ。オサキは其畫像が化して成るのか、はた又之に隨つて來るとしたのか、兎に角此動物が病人に憑くと、受けて來た山伏が折らなければ離れない(二九)。故に憑けると云ふ疑ひも被つたのである。今のオサキ持は必しも此等行者の子孫で無いこと、是亦クダ屋と同樣である。どうして一から他に引越したかは不明だが、後には繁殖して困るとも謂へば、やはり元の主に死別れて、散じて慾深の家に入つたのかも知れぬ。オサキ持の地面家作を買取れば、新持主もオサキ家に成ると云ふこと、此だけはまだ管狐に就て聞いたことが無い。
オサキは尾が至つて太く、其尖が些し裂けて居る。それで尾裂だと言つた人もあるが、生物知りの作言であらうと思ふ。或は又玉藻前の那須野の狐が殺された時、九つある尾の一本が飛んで、武藏と上野との間に落ちた。オサキは(66)此から出來たなどゝも謂ふ。勿論信ずるに足らぬ話であるが、どうした者か四國の天神に就ても、往々にしてよく似た由來を傳へて居る。即ち源三位頼政の退治した、鳴く聲の鵺《ぬえ》に似た怪物を、手足胴體を斬放して海に流すと、尾は蛇であつたから某地に漂着して蛇神と爲り、胴は犬で阿波に在つて犬神となると謂ふ類である。源平盛衰記には平清盛、ある時禁中に於て化鳥を捕へたるに、鳥忽ち大鼠に變じて其袖中に入る。之を竹の筒に入れて清水寺の岡に埋め、之を一竹塚と名づくとある。斬つて流して尚祀ると云ふのが、恐くは中世我々の先祖が、惡い神に對する眞面目な態度であつて、其が右樣の話ともなれば、又信仰を促す恐喝とも爲つたのであらうかと思ふ。
オサキ又はオホサキは、私は單に狐の別名だらうと思つて居る。さうして多くの社に從屬し、又は獨立しても各地に崇敬せらるゝミキサと云ふ古くからの神樣と、名の起りは一つであらうと思ふ。固より狐に限つたことでは無いが、御前は即ち前驅或は先出の意味である故に(三〇)靈も祟も却つて主神より顯著であつたと見えて、アラミサキと云ふ名も傳はつて居り(三一)又特にミサキの爲にする祭も行はれた。從つて位は低くして而も畏しい祠の神に、ミサキオサキと呼ぶものが多く、狐神も其一つであつたのが、いつか尾の裂けた別種のものゝ名の如く、認められるに至つたのであらう。安藝の宮島でミサキと謂ふのは、山の上から或は夕方には海邊からも、多くの人の聲がしたり、又は頻に人を喚んだりするのを、さう名づけて居る。山鬼又は三鬼と謂ふ山の靈かとも言ひ、或はミサキは御叫びであらうなどとも言ふが(三二)、美作などでは狐の社を美佐幾社《みさきしや》と呼ぶのが例であり、中國でも他の地方では、横死した人の靈をさう稱へて居る。稻荷をミサキと謂ふ例は京都にもあつた、數年前三條下る高瀬の側に移された岬神社などが其である。東京では神田三崎町の名が、亦古い稻荷社から出て居る。要するに狐もミサキの一であつて、ミサキは大きな神の先に立ち、平民を畏服させて居た小社の神であれば、オサキの名も是から起つたとするのが自然であらう。大さき使ひなどの名が殊に此想像を強くする。又カウザキと謂ふ地方もあるやうである。即ち神前《かみさき》である。上總で村々の秋祭に、神輿を舁ぐ人の囃詞に、オサキミサキと繰返すものがあるさうである(三三)。木曾の福島の祭では、ソウスケコウスケ(67)と人の名のやうになつて居るが、本來は枕草子にもあるオウサキコサキと同じく、先驅の隨身の警蹕の聲であらうと言ふ。諏訪湖の氷の上の路を、狐が先試みて後人が渡るとは、有名な世間話であるが、其氷の上に出來る跡のことを、御渡《みわたり》とも謂へば神先《かみさき》とも謂つたさうだ(三四)。つまりは狐を神の使者とすること、稻荷だけには限らなかつた時代からのオサキである。但是はどうであつても宜しい。私の話の目的とする所では無い。
九
島根地方で人に憑くと云ふ狐は、亦普通の狐では無い。やはり東日本のクダ又はオサキとよく似て居る。今日は普通之を人狐《にんこ》と呼んで居るが、以前は又ヒトギツネとも謂つた。何にしても變な名稱である。是は正すが宜しいと云ふ沙汰であつた。出雲では或は其形に因つて、小鼬と謂ふ者もあるけれども、正しくは藪鼬又は山ミサキと呼ぶべきものと云ふことであつた(三五)。オサキと異なる點は、第一に尻尾が太く無い。鼠のより短くして毛ありとある。毛は黄がかつた鼠色、又は黒に近いものもある。斑もあると云ふ話である。人が現實に此獣を見たと云ふ例は、クダオサキよりも遙に多い。人狐辨惑論の著者の如きは、何度と無く此物を捕殺し、種々な試驗の用に供して居るが、唯一つだけ確め得なかつたのは、憑くのが果して眞に此獣かどうかと云ふことであつた。憑くと言ふのが誤りだと主張するのだから、兎角の論もし難いが、此が問題の人狐だか否かも、實は明白で無かつたのである。此人は又京都近くの或田舍で、同じ動物を見掛けたことがある。仍《そこ》で其邊の人によく尋ねて見たが、丸で斯な物が憑くなどゝは、思つて居ないことを知つた。寃罪であつたら如何に人狐でも、氣毒な事と言はねばならぬ。
其よりも更に一層悲慘な話がある。阿波土佐の犬神に就ても同じ歴史が有つたが、近世に於ては雲州廣瀬の領内で、狐持の家の根絶を企てた。苟くも此世評のある家は、不意に外から圍つて、一時に之を燒盡したと傳へて居る(三六)。切支丹の徒の如く、自ら堅い信仰を聲言する者ならば是非も無いが、此中には必ず身に聊かの覺えの無い者も、數多(68)く居たことであらうと思ふ。假に世間に匿して狐を祀つて居たとしても、人に憑狂はせること迄は、彼等が本意で無かつたとすれば、此害の故に罰せられたのは憫な事であつた。處が今日の時世では、其狐を飼ふ家も實際は殆と無いらしく、稀に此噂を傳へられる家の話は、毎も有得べからざるやうな事ばかりである。狐持の家々で、我等は狐持だと自覺して居ること、恰も舊の鉢屋や茶筅が、我身元を知ると同じい者が、果して半分も六割もあらうか。其さへも家の親たちから之を聞くので無く、世上の蔭口が耳に入り、或は人の憎が身に沁んで、何時と無く之を合點し、さては今迄さう言はれて居たのかと、自分等にも兼々同じ迷信があるから、反證を擧げる勇氣よりも、匿して知らぬ顔をしようとするのが先に立つて、自然と吾身で世中を狹くするのである。殘忍な刑戮も、一般に狐憑の畏が絶えぬ間は、此の如き家筋を種無しには爲し得なかつた。殊に迷惑な事には、是迄一向其噂の無かつた名家でも、病人が自ら何の某の家から來た人狐だと口走ると、元々間違だから、其だけは間違で無いかと問ふ者は無く、忽ち新に社會から排斥せられねばならぬ家が、又一戸増加するのである(三七)。人狐が縁組に因つて移殖すると云ふのも、此頃のやうに通婚が杜絶して居ては、實は證據を示すことも出來ぬ筈である。其結果どうして狐持の家が新に増すかの説明として、やはりオサキと同じく、零落した舊狐持の家屋敷などを買へば、買つた者に人狐が從屬するなどゝ言つて、成るべくそんな道理が無いと云ふ反對を抑へようとする(三八)。恰も狐の矢鱈に憑くのは、狐使が死絶えて統御者が無いからだと謂ふのと相似たる筆法である。
狐持の家には金持が多いと謂ひ、やはり此獣が紙幣でも咋へて還るやうなことを言ふ。併し今日では財産ばかり有つても、碌な聟も見付からぬやうでは何にもならぬから、此爲に人狐を飼ひたくなる人はあるまいと思ふ。其他の理由としては、更に二つを想像することが出來る。富む者は多數の同情を得て居らぬ。而も此程無造作に狐持と決定をするやうでは、疑ひを掛けて愈々憎がる横會は、幾らでも出て來る筈である。第二には斯な評判の立つた家は、世間で相手にせぬ爲に交際の入費が殘る。取引や勘定の場合にも、怨まれると大變だから、少しでも倒さうとする者が無(69)い、金でも出來たらちつとは人に立てられようかと、稼業に一生懸命になる。そこであの家があれだけ資産を殖したのは、只ではあるまいと云ふ事になるのである。つまりは人狐の所爲と言へば所爲で、稀には燒半分に此風説を強持《こはもて》の武器にする者も無いとは言はれぬ。之を考へると、寧ろ野狐同然のおとらの方が、社會の爲にはずつと始末が良いのである。
所謂ヒトギツネの憑方は、些ばかり他の地方の狐類と異なつて居る。即ち我々なら熱とか惡寒とか言つて、感冒にでもして了ふもの、胃腸の痙攣、神經痛などにも、直に法印を頼むから法印は人狐にしたがる。同じ精神異常でも、擧動に變な所があるのみで、自身では何も口走らず、從つて人狐だとは名乘らぬ場合も多いやうである。其を如何して狐持の怨みからと解するかと言へは、結局行者の法力である。人狐地方の一特色は、病人以外に別にノリクラと云ふ者を立て、專ら此と問答をすることである。ノリクラに爲る男は行者も連れて來るが、行者に信用が乏しい場合には、近所の若者などを頼む。御幣を手に持せて何か唱言をして居るうちに、段々顫へて來るので物の寄つたことを知るのである。最初は問澤山で、答は唯御幣の動靜を以てするのみであるが、次第にノリクラが調子に乘り、爰に第二の狐憑が出來る。尤も答は色々で、憑物の人狐で無いことも多く、人狐であつても身元の分らぬこともある。方角其他から判斷して、法印は何の誰の家の狐と明言すると、其家の主人覺えは無くても煙に捲かれ、御幣を背負ひ、目に見えぬ狐を引取つて還るもあり、或は何としても承引せず、自分の方でも別に法印を頼んで來てノリクラを立てさせ、此から出たので無いことを言明させ、前の法印を遣込めて取消させることもある。何にしても空な話で、法印さへ斯多く無かつたら、人狐の騷も流行はすまいと思はれ、而も祈?業者の中には、狐以上に人を欺く者も多かつたと、人狐辨惑論には説いて居る。
人狐の領分は伯耆國にも及んで居る(三九)。石州の一部にも暴威を振つて居るらしい。此地方の他に見られぬ特色は、古くから有つた狐使の狐を憑ける術が、明に二系統に分れて居ることである。狐持の方は人に憎まれることは大きい(70)が、實は狐を使役する力は弱い。假に世間の噂の通としても、持主が人を怨めば其狐は乃ち往つて憑くので、別に確と命令せられるのでは無い。財産も既に出來て靜な生活のしたい家では、命令し得る者ならば、矢鱈に出て憑くなと命じたいであらう。而も人狐は輕擧妄動すること野狐の如く自由で、果は主人に面目無い思ひをさせる。之に反して山伏神主の方では、呪禁の力を以て他所の狐までを統御し、相對づくとは言ひながら、自由自在に之を乘座の男に憑かしめる。さうして金を儲ける。何故に災ひの既に顯れた後にばかり祈?をして、今一段と世の爲に有益な方法、即ち迷惑する狐持から其一切の人狐を引取つて、最早惡戯をせぬやうに統御するの方法を講ぜぬのか。其動機を訝るの他は無い。或は此仲間の信仰として、術は人の力であれば行止る所がある。老い衰へ又は死んだ後に、狐ばかりは益々繁殖して、故主を反噬して久しい鬱屈を伸べようとするものと考へ、成るべく專屬の人狐を持つまいとしたので無いか。若しさうとするならば、今日人に賤まれ忌まれて居る狐持の家の起りも、幾分か判明するばかりで無く、クダ屋、オサキ持、さては此から言ふ犬神筋、トウビヤウ持なども、只徒に斯な惡名を受けたので無いことが、知れるやうな氣持がする。
一〇
この出雲伯耆から山一重越えて、廣島縣北部の田舍に入ると、人狐によく似て人に取憑き、同じやうに小豆飯の好きな、外道と云ふ動物が多く居る。比婆《ひば》郡の産で?々外道を見たと云ふ人の話に、?鼠よりは稍々大きく、鼬よりは稍々小い、足の短い毛の茶色なる獣で、常は人家の牀の下などに住んで居る。春先は群を爲して畠の中などに遊んで居ることがある。又よく鳴聲を聞くことがある。クルクルと低い、田の蛙のやうな聲である。之を捕へたのを見ると、人を惱ましさうにも思はれぬ可憐な動物であるが、殺して棄てて置くときつと活返つて、其者に仇を復す。七十五疋が一團であつて、其中には醫者も按摩も祈?者もあり、形の有る限は蘇生させずには止まぬ。故に殺したからには燒(71)いてしまはねばならぬなどゝ謂ふ。通例は土瓶などに入れて土中に埋め、黒燒として之を貯へて置く。外道の憑いた病人には、何とかして之を服ませると必ず退く。併し非常に鋭敏であるから、之を混じた飲食物はちやんと知つて、滅多に口にするやうな事が無い。多くは押へ付けて嚥込ますのであると云ふ(四〇)。同じやうな話は信州伊那のクダに就てもする。クダを日乾にして置いて、其疑ある病人に僅ばかり食はせると、さも無い者は只舌の尖に鹽はゆい味を感ずるのみであるが、本物ならば忽ちにして眼血走り頭を顫はせ、氣色變り物言荒くなり、憑物の徴を現すと云ふことである(四一)。
外道神にもやはり外道筋の家があつて、世間に忌まれ憎まれて居る。但し人狐其他の場合に於てはあまり聞かぬ、二箇の特色があるやうである。其一つは外道の憑く憑かぬは主人の意の儘で無いことで、憑けようとは思はずとも、些でも人を怨み又は羨むことがあれば、はや我外道はちやんと往つて憑いて居る。或は何の原因も無いのに、單に惡戯から、又は食物が欲しさに、獨で憑くことさへある。此點は頗るおとらの方と似て居る。第二には家筋とは言つても從屬するのは女ばかりで、從つて此家から嫁を取つた家だけが、新規に外道筋と爲るのである。嫁一人に付七十五疋づゝの外道が從つて來る。女の兒が一人生れると、亦其日から七十五疋の外道が増加する。女は概して胸の狹いものである故に、外道も中々忙しいが、中には淡泊な氣質の婦人もあつて、家筋なれども生涯人に難儀を掛けぬ者もある。さうで無くても我と我淺ましい因果を歎いて、成るべく激しい情を愼むばかりで無く、信心に由つて此害の少からんことを求むる者もある。外道憑きを攘ふには妙見樣を祈念する者が多い。家筋の者も信心をするときには亦妙見を拜むのである。其爲に後に法華に爲つて法力を求めるのか、或は又前から法華であつたのかは知らず、庄原近傍の外道筋は、何れも日蓮宗の信者だと云ふことである。
外道は人に憑く時に限つて、形を隱して往來する能力がある。素より人の眼に掛からぬ故に、黙つて居れば身元も分らず、況や何處の家から來たかを知られることは無い筈であるが、元來すこし道化た物であつて、よく喋り又ふざ(72)ける爲に、久しからずして所謂素性を現してしまふのである。彼等は其屬する婦人を、通例おかあさんと呼んで居る。奧の間に寢て居る病人が、あ今おかあさんが通る、負はれて去なうか知らんなどゝ言ふ。すると家の者は急いで出て見ると、平生そんな噂のある家の女の後影が見える。其では多分あの事からなどゝ、今更に極めて小な葛藤などを思出す。元々使つて憑けると云ふことが無いとすれば、迷惑とも何とも言樣の無い話で、如何な反證でも擧げ得る道理であるが、外道筋の方でも有得ることゝ信じて居るのだから、術を以て故意に遣る場合よりも始末が惡い。そんな風説を立てられて、世間を狹くしたいことは無くても、彼等自身も亦、外道は待遇が惡ければ、家の者にでも憑くと信じて、人に匿して小豆飯を炊ぎ、潜に出入口などで此物を祭つて居るのだから仕方が無い。オサキやクダなどの初は統御に服したものも、恐くは永く棄てゝ置けば斯なるのでは無いか。さうして終には皆、おとらの如き不羈獨立に達するのでは無いか。私は此意味に於て、此等の物の比較研究を必要と考へて居る。
右の外道神と謂ふのは、即ちよく人の謂ふ犬神のことである。同じ廣島縣の中でも、安藝の高田郡などに於ては、犬神と謂つても外道と謂つても、同じ物を意味するさうである。人家殊に之を飼ふと云ふ噂のある家の周圍で見たと稱する人の話を聞くに、形は備後の方のものと、些も異なつた所が無い。唯此邊でのみ言ふことは、外道は主人の家を富ましむる爲に、田畔に穴を開けて、隣の田の水を盗むなどゝ、憑いて煩はす以外にも、色々の惡名を立てられて居る話である。眞宗の流布と共に、此種の迷信が次第に薄れたとも聞いたが(四二)、果して眞實であらうか。兎に角に外道と云ふ名稱は、佛法の力を以て制御せらるべき他の信仰の事であつて、藝備地方での外道は即ち犬神であつたのである。二百三四十年前の書物には斯も書いてある。備後安藝周防長門の賤民、犬神と云ふ外道の神を持ちて少の恨あれば犬神を人に憑くる云々。女童のみを煩はす邪神の外道なり。犬神とは多くは食物を見て、人に憑く故に犬神と謂ふなり、ともあつて(四三)犬と云ふ名には重きを置いて居らぬ。實際又尋ねて見ると、犬らしからぬ點が甚だ多いのである。
(73) 一一
犬神が暴れる地方は、オサキやクダなどよりも遙に廣い。先四國は中國などよりもずつと盛であつて、或は發源地かとの説さへあるが、九州に於ても略々其南端まで、インガメの名を以て其威力を認められ、沖の沖繩島にさへもインガンチヤウマジムンの語が行はれて居る(四四)。さて分布が此だけ弘いと、其形に付いての人の話に、往々にして著しい不一致があるのは自然である。出雲の人狐は耳が四つあると謂ふが、多分は耳の上端に切目の入つて居ることであらう。或人曾て四國の伊豫とかを旅行した時、さう云ふ獣の路に死んで居たのを見た。あれが犬神だらうと言つて居た。上州のオサキは、何か知らぬがメトホシと云ふ獣に似て居ると謂ふ(四五)。土佐の犬神は乾して持つ人が時々有る。山中に住む櫛挽鼠に似て、尾に節あり、毛は鼠色とある(四六)。其では既に廣島縣の外道の茶色であるのとは別口である。其だけなら宜しいが、聞けば聞く程兩立し難い報告ばかりである。大さなども元より區々で、甚しきは米粒ほどの犬と謂ひ、而も白黒の斑色々あるなどゝ傳へる(四七)。或は又犬神は唯無形の靈氣の如きもので、人に依るに及んで小犬とも爲り、又は眼にも遮らぬ小蟲とも爲るのだと謂ふが(四八)、人に憑く時こそ形の無い方が便利であらうのに、わざ/\そんな物に化けるとは解らぬ話だ。先は家筋の増加蔓延を説く爲には、或生物が有つて子を生むとして置く方が都合は好いが、實は動物學で取扱ふべき問題では無く、伊豫の小松の附近などで、家の者には見えるが他人には見えぬと、言つて居る位が本當であらう。或は犬神を以て單に一種の神力と爲し、其筋の人の喜怒哀樂が、直接に當の相手の身に作用するやうに言ふものも多く(四九)、愈々以て獣の毛の色や尾の長さの穿鑿が、張合の無いものになるのである。
肥後などでは犬神を飼へば金持になる理由として、人の眼には掛らぬ鼠の形で、穀物を出す時には桝の底に入り、取る時には桝の外へ出てくれるなどゝ云ふこと、オサキと同じやうであるが、憑方には大分の相異があつて、害の種(74)類の多いことは、人狐の方と似て居る。伊豫では殆と少し變梃《へんてこ》な病氣は、皆犬神の所爲にして了ふ地方がある(五〇)。就中犬神が來て?むと謂つて、腹が痛む胸が苦しいなどの場合が多いと云ふ。土佐では痛風即ち神經痛の類を是だと謂ひ、其痛は丸で犬の?む通だなどゝ、?まれた經驗の幾らも有りさうなことを言ふ。さうすると何の某の家から來たかを知るには如何したか。責められて終には口走るやうに爲る者もあらうが、多くは祈?者の發見を以て基としたことゝ思ふ。病人の家では早速犬神持の處へ詫言にゆき、懇意の間柄ならば欲い物を遣り若くはよく和談して、退かせる手立を講ずるが、本人之を聞いて意外に思ふ場合も多く、其ほど激しく情を動かしもせぬのに、どうして又憑いたかと、果は家の先祖の因縁を悲み、我身を恨むより他はなかつた(五一)。其程まで厄介がられても、犬神は去らなかつたのみならず、往つて?む一點を除いては、主人に對しても頗る不從順で、時としては家筋の者で此に?殺された話さへ有る。然らば人に隱して之を祀ると云ふのも、今では長者に爲る爲でもなく、粗末にしては怒られると云ふ、被害者とよく似た事情から、泣きながら之に仕へて居る者も多さうに思はれる。
阿波には犬神使の嚴罰を命じた、四百五十年前の法令が殘つて居て有名である(五二)。土佐では長曾我部元親の時、犬神持を吟味して死刑に處し、其種を斷絶せんとしたこと、雲州廣瀬の人狐退治と同じであつたが、如何かして少しばかり殘つた。幡多郡では一郷の間に垣を結繞らし、男女一人も剰さず燒殺したと云ふ話もある。其頃迄の犬神筋は、之を使役して私を營んだこと、惡い行者の今日稻荷を憑ける通であつたのであらう。當人も知らぬ間に?みに行つたのでは、如何に昔でも極刑には處せなかつたことゝ思ふ。
實際世間でも、主人死して犬神のみ殘り、四散して自前となること、恰もおとら狐の如きものゝあつたことを認めて居る。どうして又此樣な厄介な物を、祭り始める氣になつたかに就いては、相變らず傳教大師の連還つた弦賣僧《つるめそ》、即ち京の祇園の犬神人に從屬する神だとか、又は弘法大師が教へた法術だとか、僧侶たちに取つて迷惑な風説が存する。伊豫から土佐に掛けて專ら謂ふことは、大昔弘法大師行脚して或山村に宿を借り、其謝禮として野猪除の護符を(75)封じて、之を畑に立置かせた。後に大師の禁に背いて、封印を開いて見た處が、唯一疋の犬の繪が描いてあるばかりで、而も其が飛出して犬神となり、其家に住むやうになつたのが、元祖であると言つて居る。四國の他の方面では、又全く別の話も行はれて居る。即ち前に述べて置いた禁裡の怪獣の胴を斫つたのが漂着したと云ふ話の外に、犬を殺して其魂を身に伴ふものが犬神持だとも謂ふ(五三)。是も弘く人の信じて居たことで、色々の本に見えて居る。食物和歌本草に、犬神は昔求め拵へた邪惡の神だとあるのも、此事を意味するのであらう。邪法とすれば却つて公表する方が宜しい。先一疋の犬を縛つて、思ふさま腹を減させて置く。其から旨さうな食物を持つて來て、犬の口から一尺位の處に置く。食ひたくて食ひたくて一念が全く此皿に集注するを見澄まし、可愛いさうに犬の首をちよん切る。さうした念の繋かつた食物を人が食へば、其人が犬神筋になると謂ふが、多くの人の説では、其の斬つた首を髑髏にして、箱か何かに入れて携へると、影の如く身に添うて、少くとも憎いと思ふ者を、攻撃することの役だけは忠實に勤める。是が一部の俗人の、信じて居る犬神の起原である。犬の幽靈とあつては毛色や寸法を問ふ必要も無い。而も前申す如くに、見たの殺したのと云ふ話も、一方に平氣で行はれて居るのは、之を要するに取留も無い世間の噂だからである。さう言ふ中にも犬の魂を斯して使役することは、其が犬神の根原であるか否かは別として、實際曾て有つた事のやうにも考へられる。岐路には入るが序に言つてしまはねばならぬ。
一二
犬の髑髏の話は、口寄をしてあるく市子《いちこ》の箱に關聯して、寧ろ人がよく知つて居る。市子之を容れた箱に凭つて居ると、自然と只の人の知らぬことが判つて來ると謂ふ。勿論怖しい秘密であるが、時として之を見たと云ふ者がある。例へば江戸の昔、相州から毎年來る歩行巫、甚しい粗忽者と見えて、大切な服紗包を置忘れて歸つた。開けて見ると二寸程の厨子に、一寸五分ばかりの何とも分らぬ土の佛像と、外に猫の頭かとも思はれる干固まつた一物がある。そ(76)こへ大汗に爲つて巫女走り戻り、漸と返して貰つて其禮心に秘密を明した。是は太平の御時節には出來ぬ事で、六代も前から持傳へた尊像である。一種特別なる格好をした人の首を、死ぬ時に貰はうと兼て約束して置いて、今はと云ふ際に其首を切落し、人通の多い場所に十二ヶ月埋めて置く。其から取出して髑髏に附いた土を集め、斯した像を造るのである。之を懷中して居れば、神靈の力で如何やうの事でも判ると謂つた。今一つの獣の頭の方は、宥してくれと言つて何も教へなかつた(五四)。此等が犬の頭の評判を世に高くしたのである。異相の人の首の骨と云ふことも、亦色々奇拔な實驗談があつて、一概に同じ方法とも言はれぬ。或地方では髑髏を其儘使ふ者もあつた。羽後の秋田で此種の梓巫に宿を貸した者、酒を飲ませて醉潰れて臥て居る間に、墓地で拾つて來た只の曝頭《さ九かうべ》と、本物とをそつと入換へて置くと、翌朝辭し去つた巫女、面色土の如くなつて戻り來り、飛んでも無い惡戯をなされる、早く返して下されと言つた。是も無理に眞實を語らせて聞くと、眞實らしく無い話であるが、此髑髏は千歳の狐、形を人に變ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拜する時、用ゐたものに限るのである。稀に野外に於て之を見出すことがある。其徴には必ず枯木で作つた杓子のやうな物が、傍に添へてあつて之をボツケイと名づく。氣を附けて御捜しなされ、ボツケイさへ御手に入つたなら、此術を傳へませうと言つて歸つたと云ふ(五五)。さうかと思ふとゲホウ頭と稱して、顔が下短で中程より下に眼の附いたやうなので無ければ、役に立たぬやうに言ふ者もあり、或は其曝頭の中に種ゑた豆を用ゐて、惡い神を祀るのだとも傳へて居た(五六)。狐の修行に供した髑髏骸は、之とは合はぬが面白い話だ。殊に杓子を添へてあると云ふに至つては、私の知つて居るオシラサマとも一致する(五七)。東北地方には此類の人又は家に屬して、一定の地には祭らぬ神樣が多く、御神體は大抵神秘であつて、其效驗はやはり人に憑いて不思議を語る點に在るが、唯憑かれる人が持主自身で、從つて害はせずに爲になる場合の多いことが、人狐や犬神と別物らしく考へしめるのみである。而も其神の淡泊で無く、何かと云ふと祟が烈しいことは、往々にして持主をもうんざりさせる。恐くは今一時代を過ぎたならば、或は其家筋を畏れ且忌むやうになるであらう。出羽の莊内でイタカ佛を蒋つ家は、今既に縁組(77)に障がある(五八)。陸前黒川郡の某家のオシラ佛などは、御利益は別に無く祟ばかり多いが、昔から有る故に祭つて居る。或年洪水を幸に川に流したが、やつぱり逆流して還つて來たので、恐しくなつて今まで祭つて居ると云ふ(五九)。此類の神は弘く後佛《うしろぼとけ》の名を以て知られて居る。元はオシラと關係の有つた語かも知らぬが、人は文字に據つて、正面には拜まれぬ佛と解して居るやうである。ゲホウ頭などのゲホウは外法であらう。今昔などには外術者と云ふ語もある。犬神を外道と謂ふと、同じ意味に出でたものと思ふ。
人の髑髏が外法の用を爲したことは、至つて古くからの話である(六〇)。其を如何して得たかは記録には無いが、能ふぺくは出來合よりも誂へて造らうとするのが、斯な後暗い邪術に携はる程の者の人情で、從つて有得べからざる怖い話も遺つて居るのである。時も處も判然せぬやうな話であるが、曾て或老人最愛の孫を見失ひ、狂人のやうに爲つて探し廻つて居る中に、夕方の俄雨でとある農家の軒に立つとき、至情が感應したものか、幽に兒供の呼ぶ聲を聞き、どう聞直しても我孫であつた。そこで之を官に訴へて、役人たち共々無理に其家に押入り、奧深く覓めて人の長ほどの甕の中に、其兒の匿されてあるを見出した。始|勾引《かどわか》されて衣食頗る足る。夫より日に食を減じて此甕の中に入れ、終には何物をも與へず、唯毎月法醋を身に注がれ、關節脈絡悉く錮釘し、苦痛既に極まれりと、語り終つて氣絶えた。仍て其家老少盡く極刑に處せられた。是も一種の魔術があつて、かうして死んだ兒の枯骨を收め、其魂を掬し貯へて置けば、常に耳の邊に在つて物を教へてくれるのだと云ふことであつた(六一)。食物で魂を誘ふと云ふのは、質朴時代からの信仰の形である。さうすれば大人よりは子供、人よりは獣の魂の方が、一層專念になつて曳かれて來るから、以前の狐使なども、斯して其神を自由自在にしたと信ぜられたのであらう。今でも初午の祭は、殊に食物の支度が丁寧なやうである。犬の方にも此弱點の著しいことは、我々はよく之を實驗して居た。つまり魂と云ふ物の價値に付て、人と非類の動物との間に、格別の相異を認めて居なかつた世中では、準備の面倒な人の靈を使ふよりも、嘲巧さうな獣類を代用して見ようとする風が多かつたのかも知れぬ。其一つの例となるかどうか。一向宗に對する色々の惡い世(78)評の中に、オシロ藥と云ふ話があつた。白犬を土中に埋めて首だけ上へ出し、其前に多くの御馳走を列べる。どうかして食ひたいものと、犬の念力が食物に集注しきつた頃に、其首を切つて之を燒いて灰とする、是即ち御白藥であると謂ふ。虚誕ではあらうが此名の藥の有ることは事實で、之を服んだ者は忽ちに大信を起し、身命を顧ず財寶を擲つと謂ひ、或は又例の御盃頂戴は、實は御灰頂戴であるなどゝも稱する(六二)。突然として斯樣な話を聞くときは、虚構としては餘に奇拔なやうに感ぜられるか知らぬが、前にも擧げた如く、由つて來る所は相應にあるので、眞宗には限らず、些しでも常理以上の信仰が不意に湧き且流れる場合に、人の目には見えぬ何かの靈の力が背後に潜《かく》れて居て、而も或特定の人だけには、其力を左右し驅使するだけの術があるやうに、理窟を附けて解するのが、所謂原始宗教の最も著しい特色であつた(六三)。神主は勝手に取換へられ、神子は輕蔑せらるゝ世になつても、凡人の心の奧底に、殘つたものだけは國法でも廢止し得ず、先は時世の智識が許すだけの説明を以て、理外の理などゝ云ふ頓間な語で、此類の妖怪を承認して來たのである。
一三
再び理窟から戻つて來て話に爲る。人に憑くと云ふ獣には、尚備前の兒島狐がある。是も其人の身に在つて、他人に附きて心中の事を説くこと犬神の如し。これ中華の猫鬼の類と、貝原益軒は書いて居る(六四)。隱岐の島には狐は居らず、從つて狐憑の話は無いが、島後に猫憑の害が多い。昔から此島には野猫多く、夜中往々路行く人を驚すこともあるから、斯な怪談も起つたらうかと云ふ(六五)。伊豆の八丈島では、山に天兒と云ふ物が居る。人を騙し惱ますこと、國地の狐憑などの如く、物狂ほしく惱み煩ふ者あれば、天兒の所爲と怖れ戰き、神に訴へ祈りなどするの例だと云ふ(六六)。尋ねたら必ず有益な參考になるだらうが、此以上には私は今何も知らぬ。
安藝備後の奧にも、人狐を使ふ者が少し居た(六七)。多分出雲から越えて來たのであらう。石見國には外道が居る。(79)是は備後から來たと謂はれて居る。此外に尚藝州から入つたと稱して、トウビヤウと云ふ物が居た。人に憑く蛇だと謂ふ(六八)。本家の詮議は互に自慢にもならぬから止として、兎に角に人狐や犬神の繩張内を、縫つてあるくやうにして、トウビヤウも隨分蔓延して居るのである。但し此神の本體に就ては、地方に由つて殊に區々の説が有る。先第一に因幡に於ては、トウビヤウは蛇では無い。人狐とよく似た小な獣で、やはり一家に七十五疋づゝ住むと謂ふ。伯耆にも若干居る。トウビヤウ使と目せられる家筋は、往々にして富裕である。人に憑かせて全戸死絶えさせ、其財産が流れ込むやうにするなどゝ、飛んでも無い事まで噂せられる(六九)。處が他の地方、分けても中國四國に於ては、トウビヤウは正しく長蟲で、或はナガナハとも小クチナハとも稱へ、蛇を祭つたと云ふ邪神であつて、かの鵺《ぬえ》に似た獣の尻尾が切れて化《な》つたなどゝ傳へる。但し其形?を語るのを聞くと、きつと蛇だとも認め難いことは、猶人狐を狐の一種と認められぬ如くである。備後の備中に近い方面に居ると云ふものなどは、大さは違ふが格好は鰹節のやうに、丈短くして中程が甚太い。さうして首の邊に白色の輪がある。其を小な甕の類に入れて土中に埋め、其上に祠を建てゝ内々で之を祭つて居る。但し烈しい祟を兎れ且金持にして貰ふ爲には、折々蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。酒は此神の第一の好物であると云ふ(七〇)。伊豫に接した讃岐の田舍にも、類を同じうするトンボガミと云ふ物が居る。漢字では土瓶神と書くさうである。土製の甕に入れて、臺所の近くの人の目に掛からぬ牀下などに置き、時々人間同樣の食物を遣り、又酒を澆いでやる。或は屋敷内に放牧して居る家もあり、憑きに出る時ばかりは形を隱すが、常はよく人に見られたと云ふ話がある。大さは杉箸位の物から竹楊枝位まで色々ある。身の内は淡黒色、腹部だけは薄黄色、頸の處に黄なる環があつて、之を金の輪と謂ふ。トンボガミ持は縁組に因つて新にも出來る。相手の知る知らぬを問はず、嫁が來れば蟲も必ず附いて來る。連れて來るのか獨で附いて來るのかは確で無い。家筋では如何なる場合にも世評を否認するが、金談などで人と爭でもするときだけは、暗々裡に其威力を利用したがる風がある。其ばかりでも身上はよくなる譯である。世間の噂では人に遺恨のある時、トンボガミに迫つて報復に往かしめると謂ふが、氣(80)の利いた者になると、此相談を受ける迄も無く、家主の心の動くまゝに、早くも出で往き其希望に合致すること、備後邊の外道にも近い。此蟲に憑かれた人の樣態は、醫者に言はせると急性神經炎とでも言ふか、身内節々が段々に烈しく痛んで來る。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈?で、ヲガムシと名づくる巫女に依頼し、二つには肥料にする穢い物を、そこらへ撒散す手段であると云ふ(七一)。
トウビヤウは備中にも、又周防長門にも居た。其他の國の事は知らぬ。日向の延岡邊で單に蛇神と謂ふのも、家筋あつて世間で縁組を嫌ふと言ふから同じであらう。唯妙な事には、上方へ旅行して四國路まで來ると、蛇神は皆離れる。國へ歸れば元通に蛇持になると云ふ(七二)。備後などで蛇神と犬神との相異は、犬の方は誰も祭るとは言はぬに反して、トウビヤウだけは祠があると言ふが、果して一地方だけの事で無いかどうか。山口縣には以前は村に之を祭つた杜があつた。備中なども同樣で、文字は當病神とも書いて居る。或は當廟と書く地方もあつたらしい。從つて語の説明も色々であつた。伊豫には春夏明神と云ふ神があつて、此神の罰を蒙る者は病を受けた。塔から出る病だから塔病だとの説もあつた。塔廟狐などゝも謂つて、鼠の油揚や酒粕などの臭をさせて、之を誘はうとした巫女もあつたが、狐と云ふのは憑物の樣子が似て居たからで、實は神憑に過ぎぬともある(七三)。比等の異説は恐くは誤りで、やはり土製の瓶に入れて飼ふとの話から出た名前に違なからう(七四)。蛇を神に祭ることは、常陸風土記の夜刀神の如き、古くからある例である。鎌倉時代には蛇男蛇託宣などの話もあつた(七五)。アイヌの中にもトツコニバツコとか謂つて、蛇に託《つ》かれて不思議を語る巫女があつたさうである。奧州の棚倉などにも、一種の蛇が居て人家に入り、其爲に此町には狂人が多いなどゝ謂つた。其蛇を瓶に入れて祭つたと云ふ例は、遠州新居の在の短蛇明神などにあつた(七六)。瓶に入れば小蛇であるが、外で其形を見せるときは大蛇であると稱し、而も常に瓶の中でばかり祭つて居た。普通の動物としては如何しても考へられぬから、何れもオサキやクダ等の只の狐で無いやうに、認めてさうして畏れて居たと見る他は無い。其に付けても注意せねばならぬ事は、土佐の犬神が尾に節があつた如く、備後と讃岐の土瓶神が、頸部(81)に白又は黄色の環のあつたことである。我々の見馴れた蟲類の中では、蚯蚓の大いのだけにはそんな物がある。あれも以前は尊敬せられて居たので無いかと思ふ(七七)。
一四
些し枝葉に入るが此序で無いと、聞くことの出來ぬ面白い話がある。蛇神などを持つ家で、世間から嫌はれる損と、御影を蒙る利益とを比べて見て、やつぱり無い方が宜しいと感ずるやうな機會は、近世になつては次第に多くなつて來たやうである。儀式や物忌があまりに八釜しいと、祭りそこねて却つて祟られることが、不馴な子孫の者には追々出て來る上に、他人はあらゆる方法を以て、神力を妨げ防ぐ爲の連合をする。寧ろ能ふべくんば只の家になりたいと、思つたらしい樣子が、各地方の話の中に現れて居る。併し永年の縁故と云ひ、子供の時からの仕來りで、人よりも餘分に之を怖れて居る所から、自ら手を下して片付けることは敢てせぬ。仍で如何かした拍子に外部の事情で終を告げることになつた話が、さも有得べきことのやうに、各地で信ぜられて居るのである。
前に申した備後庄原の在で、兼てトウビヤウ持の噂のあつた金持の百姓の家に、旅商人が來て休んだ。耕作の忙しい頃で、唯一人留守をして居た婆さんも、用があつて外へ出て往つた。あの土間の隅にある小な甕は、開けて見てくれるなと頼んで往つた爲に、却つて見たくなつて葢を取つて見ると、中には何物か蠢いて居る。半は氣味惡く半は惡戯に、圍爐裏の熱湯を持つて來てざぶりとかけ、葢をして知らぬ顔で暇乞をして往つたが、是で此家のトウビヤウは死絶え、家の人は深く旅商人をコとしたと云ふ話である(七八)、讃岐のトンボ神に就ても、全く同種の陰コをした話が傳はつて居る。舊幕時代に國普請の夫役に指されて、中部の某村の農家に下宿して居た男、ある日普請場から還つて見ると、家の者は皆不在で、臺所の鑵子に湯がぐら/”\煮えて居る。一杯飲まうと床下を見ると、葢をした甕がある。茶甕かと思つて葢を取ると、中に例の物がうよ/\と居る。乃ち熱湯を一杯ざつふと澆けて葢をして置いた。後に聞(82)くと其家では大喜で、普請で知らぬ人の宿をした御蔭に、永年の厄介物を片付けることが出來たと、言つて居たさうである(七九)。阿波では犬神に關して亦此話をする。或犬神筋の老婆、至つて愼み深く、常に身の因果を悲み且憂ひ、外へ出る時には犬を米臼の中に匿して食物を遣り、必ず附いて來るなと言つて出ることにした。此家の嫁は我家の犬神持なることを知らず、姑の留守に米を搗くつもりで臼の中を見ると、愛らしい小犬が四五匹も居るので、驚きの餘に熱湯を之に浴せると、其犬は皆死んでしまひ、同時に外に出て居た婆さんも頓死した。又或村では、女に犬神の憑いた時、其兄此を見て早速心當りの犬神持の家に往つて見ると、折節誰も居らず、庭中に大きな臼があつて箕を伏せてある。開けると中に十一疋の犬が入れてあつた。由つて傍の銕瓶の沸湯を掛けて、其犬を殺し盡し、家に還つて見れば病人の妹は既に全快して居つた(八〇)。
此等の話は所謂話であつて、事實の偶合を訝る迄もない。既に懸離れた支那古代の奇談集の中にも、此と殆と一致した一篇がある。?陽郡に一家あり姓は廖《れう》、累世|蠱《こ》を爲し此を以て富を致す。後に新婦を取る。此事を告知らせず。偶々家人咸出でゝ、唯此婦のみ舎を守る。忽ち屋中に大なる缸《かめ》あるを見る。試に之を發けば大なる蛇が其中に居た。婦乃ち湯を作り鹹ぎて之を殺す。家人の歸るに及びて、具さに其事を白す。擧家《きよか》驚き?《いた》む。幾ならずして其家疾行はれ、死亡して略々盡くとある(八一)。此話の中に湯とあるのは、何か藥でも混じた水の事で沸湯ではあるまいと思ふ。さすれば却つてごく近世に、此書物に據つて間違ひながら作つた説のやうにも思はれぬことは無い。併し又考へて見れば、之を中國四國で現にあつた事としても、格別不自然には感ぜられぬ程、日漢古今の蠱の事情は相似て居たのである。即ち此類の邪神は、知つて使役する者があれば恐るべき效驗を示すが、無邪氣な只の人に對しては一向に抵抗力も無く、むざ/\と退治せられてしまふべきものであつたのである。別の語で言へば、後の宗教の神の如く、絶對に敗れぬ優者では無く、相手の人次第術次第で、時としては左右せられるやうに、信ぜられて居たのであるから、言はゞ最初から、世中が進めば衰ふべき素質を、具へて居たものである。
(83) だから外道連の生活も決して幸福なものでは無かつた。人狐とよく似た因幡のトウビヤウなどは、俗に謂ふ無間の鐘の話の如く、金銀欲さ故に之を受ける者が近世にもあつた。而も金だけ取つて何とかして縁を切らうとする惡い奴もある。仕損じたら大變だから、容易に手を下さぬが、一つの策は壺の中に餌を入れ、夫婦の狐の入つて食つて居る處を、熱湯を注いで葢をするに在るとも傳へられた(八二)。管狐なども相應に働かせたら、其から後は飼主も棄てたがる。第一に汚くて臭い。寢床の中などへも勝手に入込み、之を追ふとすぐ怒る。人に遣つても少し氣に入らぬと又還つて來る。末には行者自身も身を滅すなどゝも謂つた(八三)。三河雀と云ふ本には、羽前羽黒山の山伏で後佛を使つて居た者、後に非常な努力を以て之を棄て、信濃の善光寺へ遁込んだ話が出て居る。他には殆と縁を切る術も無かつたが、後佛は大河に入れば靈の力が盡きると云ふを聞いて、思切つて笈のまゝ犀川の水に投じたら、恨みながらも流れ去つたとある(八四)。佛法の力でも處分し能はぬ惡縁を、人は名づけて業と謂つて居る。業は多くは家と血筋に附いて居るから、一代では勿論さつぱりと爲らぬこと、恰も財産と同じである。只永い間には子孫も絶え血も薄くなり、新には誰も引受けぬとき、始めて所謂野道が出來る。おとら狐の不羈獨立も、恐くは斯云ふ徑路を經て來たものと思ふ。
一五
此通に色々の憑物の例を列擧して見ると、況や人をやと云ふ感を起すは誰しもの事であらう。實際又蛇狐のさ程跋扈せぬ地方に於て、氣の弱い人が變な病氣に罹つたのを、生靈だ死靈だと謂つて騷ぐは常の話で、口寄せ又は梓神子《あづさみこ》などゝ稱し、頼まれて我身へ他所の靈を憑かせるのを職業とする女などは、今では殆と人以外の物の宿をせぬ位である。但し梓神子等は注文に由つて、名指された人だけを呼ぶ故に、來て憑く人魂の方には何の系統も無いやうであるが、其でも注意して見ると、出て來るのは子を思ふ親、男を恨む女房、概して先づ婦人が多い。其から死口の方になると、一周忌には必ず市子に懸けて見る地方もある。一年の内では盆とか彼岸とかに、日を定めて幽明の交通を試る(84)風習もある。是が若し何年の女などゝ、特に此方から誘ふことも無く、出るなら出よと放任して置いたら、又は誰にでも好次第に憑かせることにしたら、果してオサキや犬神の如くに、人の中でも特殊の筋の者だけが、專ら來て憑くことになるであらうか如何か。是を少しばかり考へて見ようと思ふ。
備前備中では名君新太郎少將の治世に、村々の多數の祠を取潰して一所に合祀し、所謂寄宮の神は七八十柱の多きに達したが、それでも近年まで小社極めて數繁く、且神の名にも他地方と變つたものがあつた(八五)。就中御崎又は御鉾《みさき》荒神などゝ謂ふ神の名は、他府縣でも聞かぬことは無いが、殊に村々に多いやうである。其ミサキの中には狐とは些も關係の無いものもあつた。例へは俗人が日(ノ)御崎と呼ぶ神などは、容易く來て人に憑くこと或は野狐の如く、或は其管理を專門とする行者もあつたが、是は今ならば行旅死亡人、即ち行倒で死んだ者の靈であつた(八六)。名稱の當らぬのは勿論であるが、斯樣な靈魂であるならば人に憑くのは尤である。第一に祭る人が無くして、食物に不自由を感じ、從つて之に釣られて輕擧妄動に出る傾がある。佛教の理論から言つても、さう云ふ死方をする程の者ならば罪業も重かりさうなもので、殊に供養が足らぬから久しく娑婆に彷徨ひ、別に何處と言つて行き處もありさうに無い、其上に我々が祖先の間には、魂は此世に生盡し生古したものよりも、若い新しい分が力強いと考へられて居た。非業の最後などゝ謂つて、まだ十分の活力ある者で、外部の原因からぽつんと終を告げて、大に生き足りないといふのが、殘つた力を何にでも向けるから怖かつた。斯云ふ人々は無名有名を問はず、到る處で盛に祭られたもので、又祭らねば社會に災すると認められて居たのである。此事は單に人が昔から、漠然とさう感じたのみでは無い。祭の時には必ず神主に憑いて、如何なる力を有するかを示し、祭の方法に就て氣に入る入らぬを明言し、入らぬ場合には斯して制裁を加へると云ふこと迄、人間の言語を以て述べるから皆が畏れた。或は突如として此靈威を現すこともあつた。其が多くの村の社の創立記になつて居る。行倒などゝ一緒に説かれては、怒るやうな社もある。併し如何に生前は卑賤な人でも、死して其魂の能力を證明すれば、此に威壓せらるゝ人々に取つては神である。我々平民が古い昔に、人よ(85)りも數段低い動物の靈を拜したのも、簡単な語で言へば怖かつたからで、何故に怖いかを知つたかと言へば、主として物憑と云ふ實驗からである。其實驗には誤りがあつたこと、物憑と云ふ精神現象の基には、人が動物を異類とは見なかつた時代からの、隱れた遺傳の力があつたことなどは、此頃少しづゝ判りかけただけである。えらい事は言へない。
質朴な昔の人でも、眞に憑いたのか憑いたやうな風をするのかは常に疑つた。故に市子のやうな職業で憑かれる老女などは疑はれる。さうすると氏子の仲間の者、殊に芝居をしさうに無い少年少女などが擇ばれ、平生信仰を説いて居る者は、傍に居て世話を燒くより以上の事はせぬ。即ち稻荷下しの行者のと稱して、憑かせる法を行ふ者の外に、單に靈魂の來て依る臺の役をする者、通例依座とか乘座とか中座とか謂ふ者が、別に有る場合が多かつたのである。從つて優れた術者と言へば、最も速かに且鮮に、他人に靈を附け得る人と云ふことになる。其中で狐の掛りは狐、死靈の掛りは死靈と、それ/”\手續も專門に分れ、大くも小くも器量次第で、中には村で共同に祭る程も信任を受けられず、又は發展の見込ある憑物にも廻り逢はぬ結果、名も無い我家限の神に仕へたり、或はそこいらの狐などを捉へて、事を起させては出て働く。クダやオサキになると、曾ては一度稍々高い地位まで進出た形跡もあるが、犬神外道の徒輩に至つては、若し現存の口碑の通だとすると、何にしても碌な歴史が有るのでは無い。衰微と言ふと以前は立派に遣つて居たらしく聞えるが、以前とても法網の目を潜り、秘密々々と言拔けて居る中にも、隨分無理な算段をして、我神を作り出したことが無いとは言はれぬ。後佛の如きは、惡業凝固まつて此癘と爲ると謂ふから、恐くは人間の死靈であらう(八七)。是も個人が自由に使役し得たものゝ中には、納得づくで又は無理往生に、縁を結んだ場合もあつたことゝ思ふ。殊に其御靈が行者の祖先であつた場合などは、世間の信用乃至は畏怖を求めるのに、都合がよかつた筈である。
(86) 一六
人の生靈の方にも、確に憑くのを常習とする者がある。元はやはり職業であつたのかも知れぬ。少くとも今でも世襲である。勿論當人たちは些も知らぬと主張するが、社會でさう目して居る家は一定して居つて、假令家には隱事が現在塵ほども無くとも、何か氣毒な而もよんどころ無い歴史が、潜んだまゝに半ば忘れられて居るものと思はれる。記録でも遺つて居れば、却つて右の如き家筋の者には幸福である。多くの馬鹿々々しい誇張や誤解を打消すことが出來るからである。飛騨の高原の雙六谷の如きは、神秘に滿ちたる深山である。美しい傳説と風景とが、譬へば金襴などの模樣のやうに、互に織込まれて居ることは、山岳會の諸君も往々之を知つて居る。而も世中には此山奧の部落を以て、所謂ゴンボダネ一名取憑筋の水上でもあるかの如く謂ふのである。ゴンボダネは普通には牛蒡種の文字を宛てて説明する。此家筋の者の生靈の人に憑き易いことは、恰も牛蒡の實のやうだからと謂つて居る。百年二百年の以前は如何あつたか知らぬ。現今に於て彼等の畏れられて居る譯は、自己の愛憎の念の動くに連れて、直に相手に病的發作を生ぜしむのみならず、他人の作物などのよく出來て居るのを見て、けなるい〔四字傍点〕なあと一寸思ふと、早其作物は段々と萎れ枯れてしまふ(八八)。此點は山一重東のクダ持とよく似て居るが、此方には蔭に在つて用を辨ずる狐見たやうな物が居るとは言はぬ。生きた人の眼の力又は念力が、竝より強過ぎて人を困らせるだけである。誰が來て憑いて居るのかを知るは、亦クダや外道と同樣に、憑かれた人の口からである。祈?加持の責苦に堪へずして、實は何村の何兵衛女房などゝ名乘るが最後、其何兵衛一家の辯明などは聞く所で無く、或は呼寄せて談判し、或は病人を追立てゝ其家へ送る。大抵はゴンボの家の、戸口に來て倒れると正氣になると謂ふ(八九)。時としては憑いた本人を頼んで來て、介抱させれば治るとも謂ふ。何にしても迷惑千萬な話である。
ゴンボダネが他の者に憑いて居る間、自身はどうあるかと云ふと、何の異?も無いさうである。即ち此家筋に在つ(87)ては犬蛇を飼ふものとは違ひ、世間の悪評以外に困ることは無いかと思ふ。而も何とかして身を洗はうとする願ひは中々強く、或は金に附けて路に棄てると免れると謂ひ、其財布を拾つたらゴンボダネに爲つたと云ふ話もある。財布に何を附けて、棄て又は拾つたのか私にはまだ分らぬ。又どうして金に附くのかも、説明してくれる人が無かつた。次にゴンボの力は、種族相互の間には何の效力も無いと謂ふ。又郡長とか警察署長とか云ふ目上の人に對しては、影響を與へることが能ぬと謂ふ(九〇)。殊に田舍者らしいのは、高山のやうな人家稠密の處に來ては、何の作用をも爲し得ぬと謂ふことである。人に由つては他郷へ踏出せば力が消えるやうにも謂ふが、近縣の農村だけは如何であらうか。現に三里五里と離れた地にも、出て來て只の民家の如く視られぬ家もあれば、僅づゝではあるが他の二郡にも、東美濃にも木曾にも、人が不思議の力を具へて居る例がある。男と女で區別は無いとあるが、美濃の阪下には女房のゴンボダネだつた話がある。斯云ふ亭主は大災難で、妻に怒られたらすぐに病人になるから遁げも去りも出來ず、是非もなく/\飯炊から洗濯、針仕事まで自分でして、機嫌を取らねばならぬさうである。して見ると此種だけは、縁組に因つて根分をすると云ふ事は無いのか。ゴンボの夫もゴンボに爲るとすれば、種族相互の間だけは效力が無いと云ふことゝ合はぬ。但しどちらにしても、目下の所は害もさう大くない。寧ろ他の物憑を比較研究する爲に、少し遺つて居たのを感謝する位なものである。
實際此事實の背後には、まだ澤山の問題が遊んで居る。後世の學者に取つては、樂みは盡きぬであらう。第一には何故に雙六谷のやうな山奧に、宗教の徒らしい者が入つて住んだかと云ふことである。或は山の崇敬と關係が有るか、はた單に修行練習の便の爲に斯る幽閑の地を擇んだか。兎に角に山中無人の境に於て、巫女や法師に因みある地名を見るのは決して此邊ばかりで無いから、必ずや稍々長い月日の間、其樣な人が入つて居て、里人の注意を惹いた場合が多かつたのであらう。第二に判つたら面白からうと思ふのは、斯云ふ部落の宗教生活である。佛法は世離れた山村には入り難い。寺を維持する戸數が無いからである。然らば之に代つて曾て支配して居た信仰はどんな形のものであ(88)つたか。今迄何人も特に尋ねて見たことは無かつたが、私の思ふには、ゴンボダネをして今日有らしめたものは、則ち此特殊の神でなければならぬ。神が退けば人が殘ることは、ちやうど犬神に仕へた者が刑戮に遭つて、犬神だけ後に殘つたのと、相反する事情ではあるが、信仰が末に爲つて人と神と分れた點だけは同じである。犬神筋でも土地に由つては全く動物の力を借らずに、生靈自ら出でゝ人を惱ますらしいものもある(九一)。東北地方でイタコともモリコとも謂ふ巫女の如きも、術を行ふに際して數百千の神々の名を唱へるが、却つて主として寄|託《かか》るのは何神であるか分らず、往々本人自身に靈の力を具ふるが如くも考へられる。ゴンボも此流儀で、恐くは當初常の百姓と、拜む所の神を異にして居たことが、彼等をして氣味惡くも又憎らしくも、人に感ぜしめた原因であつた。然らば今日御坊の種のやうだと解するのは、持つて廻つた説明に過ぎずして、行者の別稱たる御坊の訛音かも知れぬ。狐におとらのやうな人らしい名前の多いことは、是から言ふつもりであるが、奧州の信夫郡、即ち福島の市附近には、昔は御山のゴンボウと云ふ狐が居た(九二)。飛騨でも丹生川《にふがは》の人に、根方《ねがた》と書いてゴンボウと云ふ村がある。どうしてそんな地名が出來たかを尋ねて見たら、或は參考になるかも知らぬ。
人の名を附く狐
一七
又しても理窟に爲るから、もう今度は簡單に話だけを竝べて置かう。狐で人を騙す程の者には、名前のあるのが殆と普通である。犬などゝ違つて人のやうな、男女の區別をした者が多い。人に憑いた場合ならば、自ら名乘つて終に雷名を轟かすことも譯は無いが、單に誑して居たゞけでは、いつに爲つたら何々森のお何と、些は人に知られた狐と(89)なり得るか分らぬ。して見ると昔は二つの業務を、兼營んだ者も往々有つたかとも思はれる。兎に角にいづれ古狐には極つて居る。
私は近頃になつてから、漸く此事に注意し出したのだから、曾て聞いて忘れてしまつたのも多い。從つて例を擧げぬ地方に、此例が無いとは勿論言はれぬ。話を東北の方から始めると、青森縣では外南部の、津輕水道に面した大畑村の山の湯へ行く、銅金と云ふ山路に、銅金のチャガラ子、及び新山のハヂキリと云ふ、人迷はす名譽の老狐が居た(九三)。前者は毛の色、後者は尾の形に據つた名前らしく、共にさほど人らしくも無い。併し秋田縣に入ると、平鹿郡二井山の附近には豐澤のトガリ子、和田のシロギツネなどの外に、小澤のオマツ子が居る。同郡大松川方面で名ある狐には、島屋森《とやもり》のオナツ子、杉長根のサン子、土堤杜《どてもり》のアグリ子等、多くの狐が知られて居り、殊にサン子と云ふのが多かつた。子と云ふからには、多分牝狐であらう。アグリ子は雄勝郡杉宮の、元道田稻荷の使令であつた(九四)。阿具利は奧羽でも「もう入らぬ」と云ふ時の女兒に附ける名だ。狐が自ら附けたとしては、もつと佳い名を採りさうに思ふ。會津の城下に近い西柳原の狐塚は、昔此邊に住んで居た助次郎狐と云ふのを埋めた塚である。此狐は聊も人に害を爲さず、常に村民に吉凶を豫告して、此の如き感謝を受けたのである。同郡小田の寶積寺にも、類を同じくする一の狐塚があつた。此は分福茶釜の話とよく似て、僧の形を以て久しく寺に住み、或年桃花の花盛の頃、人に生者必滅の理を説法してやがて、死んだのを見ると老狐であつた。寛文五年の出來事と云ふが、其僧の名は傳はらぬ(九五)。
越後で私の聞いて居るのは、やはり善い狐であるが、皆女である。古志郡青山村の石動《いするぎ》のオサン、同下條村のとうろんじ〔五字傍点〕のオコン、定明寺村の橋場のオカン、三疋ともに靈狐で、惡を懲し善を扶けた物語が多く傳はつて居る(九六)。南蒲原郡田上の護摩堂山にはオタ女と云ふが居た。穴の口で昔は膳椀を貸した。年老いて毛悉く白く、體も猫ほどに小くなり、折々は樹に上つて居るのを見る。村で誰か死ぬ前には必ず鳴くと謂ふ(九七)。刈羽郡北條村の旗引山には、三百年程前乙姫と云ふ山神があつた。小廣田部落の者、分らぬ事があつて此神に問ふと、大な聲で其答をして人の隱(90)事を避けなかつた故に、村に心掛の惡い者は無かつたと云ふ。其神が大な白狐であつたことは、後に罠に罹つて死んだのを見て知つた(九八)。乙姫とは又ひどく古代な名を附けたものである。オサンと云ふ狐は遠く離れた藝州の江波島にも居た。同じく數百年の白狐であつたが、其最後に就ては寧ろ哀なる話がある。中村某と云ふ能役者、或寒い冬の夜中に、懷中した能の面を被つて、向ひ風を除けて還つて來るのを、於三物蔭より見て我同類かと思ひ、化方の巧なのに感心して、強ひて其面を請受けて去つた。後日殿樣の狩の日に、面を被つた白狐を討取り、乃ちオサンなることを知つた。面さへあれば姿は人になる者と誤り信じたのである。此オサンは江戸の鍋町の稻荷に縁有つて祭つて居ると謂ふが、果して此方でもさう信じて居るかどうか。廣島近傍には尚人の名の狐が居る。例へば白島の寶勝院の稻荷は、白狐にして藤五郎と謂ふ、實は當護稻荷と呼ぶべきで牝狐だ。其證據には先年子を産んだなどゝも謂ふ。牛田村の丸子稻荷に至つては、正しく男で名は庄右衛門、曾て子供が二人で其穴に小便をした時、直に刀を指さぬ方の家の子だけに取憑いた。山伏が來て段々責問うた處、全くは旅の者の關東狐で、庄右衛門此頃多忙に付、頼まれて代に來たと白?したと謂ふのは(九九)、少しばかり皮肉である。
播州では揖保郡石海村の某鎭守に、オミチサンと言ふ狐住み、二人の子があつて其名をオヒデサンオミキサンと謂ふ。村には尚オスヱサン、オヒデサンなどゝ云ふ狐が居て仲善である。村の者も尊敬し狐も村の者には親切で、夜などはそつと送つてくれ、他處の狐が魅《ばか》しに來ればきつと喧嘩して追返す。親の方はもう出世をして、穴に任まずとも宙宇に居ることが出來ると謂ふ(一〇〇)。私も此近くで生れた者だが、斯云ふ話は忘れて了ふほど澤山に聞いた。こんくわい〔五字傍点〕の白藏司の話などは、普通の事の樣に思つて居た。源九郎と云ふ狐のことは草册子にも出て居た。義侠心に富んだ狐であつたやうに記憶して居る。多分伏見に關係があつたかと思ふが、大和に行くと源五郎狐と謂ふのが知られて居る。伊賀の上野では廣禅寺の小女郎、右源五郎の女房であつたと謂ひ(一〇一)、諸國の有名な狐同士親類であつたこと迄、人間とよく似て居る。飛騨では高山の近くに下岡本村のコセン小十郎、花里石ヶ谷に孫十郎、淨見寺のオミツな(91)ど、皆名狐であつた。孫十郎の如きは、曾て天竺にも居住し、其頃は文殊キシンと名乘つて居たと云ふ(一〇二)。さて又東國に至つても、同じ例は決して稀では無い。伊豆の伊東の六箇所の稻荷樣、何れも人のやうな名前で、所謂おたけ〔三字傍点〕のオサン、小兒の夜啼と大漁とを祈る。猪戸の久兵衛、たかた〔三字傍点〕の伊之助、川口の一本足、此分は後に話がある。かんべ〔三字傍点〕澤のオキヨに、谷戸の五左衛門、すべて漁師たちの拜む神である(一〇三)。最初に取憑かれた人の名でも取つたものかと、土地の人も疑つて居る。
相州三浦にも、古くオミイ女と謂ふ狐が居た(一〇四)。江戸と其近在は、殊に稻荷の多い地方であるから、捜せばいくらでも例はあらうが、骨折つて笑はれるもつまらぬ故に、唯一つの著しいものを述べて置く。淺草の觀音の境内、本堂の後の邊にもと熊谷稻荷と云ふがあつた。今は千勝社に合祀して居る。縁起に依れば舊家熊谷安左衛門が祖先以來別懇にした狐たちを祭る所とある。人の形をして交際をして居たので、勿論名前は人の通であつた。即ち生國は近江で一城小三太、後改め宗林、其娘オサン、越中安江の産宗菴、其嫡子に宗彌などゝ謂ふのが其だと言ふ(一〇五)。此では餘に尤らしくなり過ぎて、私の掛りでは無くなるが、狐が別段に仲間の内で、斯な名を必要とする筈も無いから、やはり人間に對する交渉の有る場合、彼等の記憶乃至は區別に便にする爲、一種の登録をしたと見るの外は無く、人に向つて名乘るのは先々憑く場合より他に無いから、事に由ると最初に憑かれた人では無くて、兼て之を使つて居た人の名を、自他の用に供したのではあるまいか。さすれば死亡等に因つて主に離れ、野狐と零落して昔を偲ぶ時に、特に、其使用も頻繁になる道理である。美作《みまさか》久米郡の垪和村《はがむら》に、垪和の善學と云ふ狐が祀られて居た。以前此名前の坊主、此村に住して狐を飼つて遊んで居た處、死んで後に其狐諸人に取憑き、大分の害をするので、之を神に齋ひ坊主の名を以て呼ぶことにした。今でも近村木山の生靈、加茂の神祇、久世の生竹明神などゝ共に、荒神として世に知られ、若し此氏子たちと諍ひをすれば、必ず來て取憑くと恐がられて居たと云ふことである(一〇六)。
(92) おとらと云ふ狐の名
一八
狐は石地藏に憑いて、其地藏をはやらせると云ふ説さへある(一〇七)。況や老練な巫女と結托したとすれば、其こそ鬼に銕棒と言はねばならぬ。然るに此の如き二重の魅力でも尚勇猛の士には敵はなかつたと云ふ話がある。昔駿府の城で、老婆の形を假り色々の不思議を示した婆狐と云ふ者、別けても人の手に在る手拭を取ること、百が百迄仕損じなかつたのを、例の大久保彦左衛門だけは、來れば我手と共に切らうと腹を固めて居ると、狐は其を知つて降參したと、新井白石の著書にある。此と殆と同じ話、老人物語には美濃の婆狐が、内藤四郎左衛門の武勇に畏れたとして之を載せ、又古老雜話には三河の婆狐、阿部四郎五郎に閉口した話として出て居り、何れが眞實か決しかねる(一〇八)。三河の婆狐も姥に憑いて居た故に此名があつたと謂ふ。或は是本篇のおとらの昔の生活では無かつたか。今では早おとら自身に聞いて見ても分るまいが、兎に角におとらは長篠役の當時から、既に若い女狐であつたとも思はれぬ。少くも婆狐の親類ぐらゐではあつたかも知れぬ。
狐のおとらは他では未だ聞かざる所である。必しも虎の威を假る爲では無かつたらうと私は思ふ。之に就て想起す幼い頃の記憶は、私の家の近所の農家で、嫁を貰つたら嫁の名がおくまであつた。熊はあまりに優しく無いと、一族評議の上、之をおとらと改めさせたことがある。虎なら猶怖いのにと、子供心に不審を抱いたことであるが、今考へて見ると、或は自分の郷里などの百姓の心持に、トラは何か外國の猛獣と云ふ以外に、別樣の感じを與ふべき語では無かつたか。例へば美人の譽の高かつた大磯の虎女の如きあゝ云ふ境遇の女性として、殺風景な名を附ける筈も無く、(93)又如何に曾我物語の普及が盛であつても、斯程の人望を後世迄保つのに、名前が些も妨碍をして居らぬ事實は、考へて見ねばならぬ。裾野の仇討事件の既に落着して後、虎が信濃の善光寺に入つて、亡夫の菩提の爲に佛法に歸依したことは、確な記録にも有ることで、彼地に色々の遺跡のあるのは怪しむに足らぬが、凡日本の國中、北は先づ奧州の信夫から、九州の南の果の田舍に迄、數十箇所の護持佛供養塔を遺し、尚往々にして死して葬つたと云ふ塚さへあるのは、どうしても同一人の事とは認められぬ。私は兼て之を解して、時代は必しも同じ頃で無く、トラ又はトラ御前などゝ謂ふ行脚の尼が、各地に足を止めて居た事實を、曾我の流行に影響せられて、皆有名な大磯の虎と爲し、同行二人の場合には化粧阪の少將も一緒と、語傳ふるに至つたものと認めて居る(一〇九)。トラが正しく二人以上あつた證據は、近江の虎姫山《とらごぜんやま》に關する傳説である。其外にも例を求めるならば、虎女の魂が石に入つて虎子石と化つたと云ふこと、及虎が夫の面影を慕つて、逢ひに來て空しく引返したと云ふ話と、或程度迄の共通點を有する、靈山の境石に伴ふ口碑が、越中立山の中腹に於ては、之を登宇呂の姥の話と稱し、或は之を若狹の八百比丘尼とて、やはり非凡なる諸國行脚の女と同人と見る説もあり、加賀の白山に於ては融の婆と謂つて、殆と瓜二つの物語を留め、更に古い所では大和の金峰山の女人結界に、禁制を破つて押して登らうとした偉い巫女の名を、都藍尼《とらんに》と傳へて居る事實などに比べて見て、此等の信仰生活に携はる婦人の名に、おとらは何か深い由緒のあつたものと、考へても宜しいやうに思ふのである。
面倒な議論をするのは本意で無いから、簡單に私の見込だけを言つて置く。古代の語で之と近いのはタルと云ふ語である。神の名に生島足島、日を譽めて生日足日などゝ、多くは「生く」と云ふ語と對立させて居る。今迄の學者は「滿足」の意味に解して居る。確にさうとも斷定し得ぬが、兎に角に目出たい意味には相異ない。タルを働かせるとタラシと爲つたらしい。此には帶《たらし》の字を宛てゝ居て、足も帶も大昔の優れた方々の名に多い。八幡樣を今言ふ祭神にした元は、やはり大多羅志女《おほたらしめ》とある御名に在るので、而も此名は國々の神の名に多かつた。勿論今日となつては、三(94)河のおとらなどゝ類の同じいやうには論じてはならぬ。狐のおとらの起源が、之を使つて居た姥の名のトラに存し、此種の老女のおとらの名を好んだのは、トラ又はトウロと謂へば尊い巫女に似つかはしかつた爲で、巫女のトラは人の願を足はしめ、世の幸ひを垂れるを理想としたからであつても、要するに是甚しき退歩である。狐の側から申すならば、誠に圖らざる名譽である。もうおとら狐も此位で引込んでよからうと思ふ。
目一つ足一つ
一九
おとら狐の背に、※[斜め井桁の図有り]こんな徽の有つたこと、是が亦彼女の身元を語るものらしい。通例行者共が護符に書いてくれるのは、九字と謂つて遙に手の込んだものであるが、略しては斯も描いたものかと思ふ。俗には晴明判などゝも稱して、邪見を退散せしめんとする時に、戸口の上に貼ることもある。おとらが自身之を背負つてあるくのは身知らずであるが、是も昔を忘れぬ故主の記念であつて、惡者ながらも祈?の力で追はれると云ふのが、其間にやはり狐人共通の律令ある證據、井桁の紋は即ち其裁判官見たやうなものである。さうすると次にはトンボ神の頸の環、人狐の尻尾の節なども、同じ性質のもので無いかと云ふ問題になる。考へて見たらさう云ふことに、決着するかも知れない。
同狐の左の眼が惡く、憑かれた人も目脂を出し、又左の足が跛であつて、是も容易におとらが馬脚を露す端緒となるのは、如何にも面白い言傳である。此豐川の下流の村に山本勘助が出たと傳ふる牛窪と云ふ村がある。左甚五郎も同村の出身と謂ふ。勘助と長篠との關係は單純では無い。片目片足までがおとら狐と似て居る。甲府の在にも山本氏の末孫が一戸あつた。代々の主人の足と目に、遠祖の武勇を證明する特徴があると云ふ話である。此特徴の或意味に(95)於て誇るべきものであることは、私は既に一目小僧の話に於て十分に書いた(一一〇)。故に爰には唯其主なものだけを列べて置く。一眼一足は山に住む怪物として知られて居る。熊野などでは一本ダヽラ、土佐では山爺と謂ふのが其であるが、是亦疑ひも無く舊信仰の零落であつて、現に地方に由つては今でも山神を、片目だ片足だと信じて居る者があるのである。足一つの方はあまり證據が無いが、眼一つに至つては例を上古に求めることも難くない。例へば出雲風土記の阿用里の話には、鬼の一眼のもの人を?つたとあるが、播磨風土記の荒田里の昔語では、賀茂とよく似た神子の父神が、此地方の大社天目一箇神であつた。鍛冶の祖神とする同名の神は、又別であつたらしい。伊勢の多度山には一目連と云ふ荒神、凪と嵐を掌る神として、近世まで畏敬せられて居た。殊に注意すべきは御靈社の祭神であつて、是は何時からか鎌倉權五郎景政だと一般に信ぜられ、其景政は有名な片目であつた。私の説では、御靈はもと八幡神が管轄統御する所の荒神で、鎌倉八幡の盛の時世に、之に屬した今の長谷に在る御靈が、此意味で崇拜せられた。仍で八幡宮に屬する鎌倉の御靈が、八幡太郎の家來の鎌倉權五郎と混同せられて、終に景政を祀ると言出したことゝ思ふ。併し考へて見れば、景政の片目を傷けた話も小説であつて、此人の生涯は此一點の外には痕が無い。同じく景の字を名乘る惡七兵衛景清にも、生目八幡の傳説が伴つて居る。目を拔いた故に尊いと云ふやうな信仰が、此誤傳の背景を爲して居らぬとも言はれぬ。さう思ふ一つの根據は、各地の神前の池に住む魚の片目に、其原因を昔片目の人が身を投じ、或は眼を傷けた人が來て洗つたからなどと謂ふことで、而も其魚の片目であるのは、多くの場合に信仰と因ある特定の水に住む者に限り、隣の池のは只の二つ目、此へ持參して放せば一つに減ると謂つて、生牲の生けて置かれる期間、普通の同類と判別する爲に、一方の眼を拔いて徴とした古い慣行を推測せしめる。其から逆に論究して、片目の神を畏れ敬ふのは、やはりずつと大昔の信仰行爲に、人間をも斯する風があつた結果かと考へる。其又一つの證據には、諸國の舊社で或一種の植物を忌とし、氏子に之を栽ゑ又は作らしめぬ理由として、神樣が曾て此で御眼を突かれたからと、毎に言傳へる事實がある。祭の折には神主が神であつた。即ち人に神が憑かれたのである。併し幾(96)ら元が人間でも、さう言合せた樣に怪我すべき道理も無く、且其植物を忌むと言ふのも、凡下の者に扱はせぬと云ふのみで、本來嫌ふと云ふのでは無かつたから、即ち祭の際に之を用ゐて、神の依りたまふべき神主の眼を突いて、片目にしたのだらうと云ふことになる。なぜ又其樣な亂暴な事をせねばならなかつたかと言ふと、人の生牲を生けて置く期間、斯して普通の人間と區別し、其者に最も神聖なる神憑の役目を、勤めさせた名殘であらうと思ふが、此には猶澤山の講究を要とする。其迄は爰では論ぜぬとしで、兎に角に神に仕ふる者の、片目を説くことには理由がある。片足も?々結合して現れるを見れば、似たる原因に基くのかも知れぬ。
私の解釋の如きは、固より第二の良い説明の出る迄のものであるが、微々たる長篠城址の一おとらに、片目片足の俗信が附着して居ることは、幾通にも意味の味ふべきものが有ると思ふ。佛法に於て陀枳尼の法と謂ひ、或は飯綱の法とか何とか、行者も博士も我勝に術を競つて、人に由つては此徒が連込んだやうに言ふ者もあるが、無意識に保存して來た幽な特徴から辿つて行くと、段々に此類の畏怖不安が、此國民の生活に早くから、附隨して居たことが分るやうである。現在の如き賢い人の充滿する日本を、此?態から苦しんで、追々と作上げたことを考へて見ると、昔曾て獣を畏れたことなどは恥でも無い。又其痕跡が若干の煩ひを殘したとしても、それは光に對して蔭があるやうなものである。
引用書目等
(一) 關田耕筆卷三。百家説林續篇下の一の七一頁。
(二) 今昔物語卷廿六。國史大系本一二〇五頁。
(三) 應永二十七年九月に、京の室町の醫師高間と云ふ者、狐を仕ふとて親子禁獄せられ、後に讃岐に流されたこと、當時の(97)記録にあつたのを、江戸の學者が見出し有名になつた。大日本史料にも出て居る。
(四) 自分も少年の時の經驗がある。田舍で後の山に畫狐が姿を見せ、頻りに鳴いたことがある。コウコウと聞えたやうに思ふ。さうすると數箇月後に、地主の主人が狂人に斬られた。狐の穴を塞いだからだと云ふ説もあつた。
(五) 津村正恭著譚海卷十一。國書刊行會本三五四頁。話者は著者の叔父。天明七年に七十七歳で尚達者であつたとある。
(六) 本朝食鑑卷十一に出て居る。
(七) 房總志料續編。大正三年刊行のもの。
(八) 和漢三才圖會卷二十八。弘文館縮刷本四四六頁。
(九) 東都歳時記卷一下。二月初午の條。
(一〇)關田耕筆卷三。同上頁。
(一一)蕉齋筆記卷三。國書刊行會本、百家隨筆三の三〇二頁。寛政頃出來た本で、話は其少し前の事らしい。
(一二) 鳥取縣日野郡米澤金澤二村組合村是。大正三年頃に村で編纂したもの。
(一三) 鹽尻卷四十四に、信州松本で此事があつたとある。今では大に變化して居る。
(一四) 郷土研究第三卷三六七頁。
(一五) 想山著聞奇集卷四。甲子夜話にも同じ話があつた。此二つに據つた話である。
(一六) 眞澄遊覽記卷一。寫本で上野の圖書館などにもある。
(一七) 大正三年に出來た靜岡縣安倍郡誌七五九頁。
(一八) 郷土研究一卷四三一頁。窪田空穗君話。
(一九) 同上四卷四三三頁及四九四頁。
(二〇) 同上一卷六三三頁。南方熊楠君説。
(二一) 遊歴雜記四第上卷(江戸叢書)に秩父のオサキ、倭訓栞中編オホサキの條に上州甘樂郡の大サキ使、?庭雜録中卷に同國藤岡のオサキ狐、井上圓了翁の「おばけの正體」に同前橋在岩神村のオサキの事を記し、此の如く區々の説を爲して居る。此後にも二三此等の書物を引かうと思ふ。
(二二) 井上博士「おばけの正體」一六六頁。國會新聞の記事で見たとある。先生は例の如く、つまり一種の變形動物に相違なしと言はれた。變形とは畸形のことか變種のことか。變種ならば名が有らう。併しもう其を問ひに行く方法も無い。
(98)(二三) ?庭雜録中卷。加藤咄堂氏日本宗教風俗志。
(二四) 前に掲げた遊歴雜記。ナマダゴのことは郷土研究一卷三二七頁、同二卷三〇六頁及三五二頁にもある。信州の松本平、及川中島邊にも同じ名の家筋がある。南無阿彌陀講の轉訛であらうと云ふ。
(二五) 曲亭雜記卷一下。
(二六) 鈴木桃野、反古之裏書卷一。國書刊行會本、鼠璞十種第一册の中にある。此書に江戸のオサキの話が出て居る。
(二七) 此問題に付ては、郷土研究一卷三二一頁以下に長い論文が出て居る。
(二八) 秉穗録卷三。
(二九) 和訓栞中編オホサキの條。
(三〇) 古事記大國主命國讓の條に、吾子百八十神者、八重事代主神、爲神之御尾前〔五字右○〕而任奉、則不有違神、此葦原中國者、隨命既獻焉とある。
(三一) 古い歌にもアラミサキの語あること、和訓栞などに言つて居る。男女の中を裂く神だともある。中古の語としては、謠曲の鷄龍田に、鷄の靈が女に憑くことを言つて、「行者の加持力隙も無く、退けやのけやと責めらるれども、こなたは負けじ神のみさき」などゝある。
(三二) 藝藩通志卷十七。此本は四五年前活版に爲つた。
(三三) 南總珍と云ふ本にさうある。房總叢書の中。
(三四) 貝原益軒の紀行、岐蘇路の記。
(三五) 陶山尚迪著人狐辨惑論。天保元年に世に出たもの。此時代としては珍らしく徹底した唯物論である。神經學雜誌大正六年四月號及六月號に、全文が載せてある。私の話の中にも二三此本を引いた處があるが、尚原著を推薦する。
(三六) 紫芝園漫筆卷六。
(三七) 郷土研究二卷四二二頁以下、雲州人狐?に此消息がよく述べてある。筆者禀二生は出雲出身の人であるが、差合があると見えて名を出すことを欲しない。
(三八) 同上二卷一七二頁。清水兵三君報告。
(三九) 例へば鳥取縣日野郡山上村是等に見えて居る。
(四〇) 藤田知治君話。郷土研究一卷四〇〇頁等にも出て居る。以下の記事も之に由る。
(99)(四一) 眞澄遊覽記卷一。
(四二) 此郡の人長屋基彦氏話。此人は神職である。
(四三) 元禄二年刊行の本朝故事因縁集卷三。
(四四) 必しも常に精確では無いと言ふが、沖繩語典の中に此語がある。京都の古語でもマジモノは蠱のことである。インガンチヤウは多分「犬神衆」であらう。又インガマと云ふ語もある。犬神、「犬の靈を使ふ蠱術」と註せられて居る。
(四五) 和訓栞中編オホサキの條。
(四六) 土佐海續編に出て居る。土佐で出來た土佐の話の本であるが、他地方の書物も引用して居る。後にも此書に據つた所が
ある。
(四七) 御伽婢子卷十一。土佐畑の犬神の事。此本は國書刊行會の刊行本がある。
(四八) 黒甜瑣語第四編。
(四九) 例へば郷土研究二卷三〇八頁の阿波の話。其他、例は古い本に至つて多い。
(五〇) 同雜誌一卷一一一頁報告。此は近年の事實として値が多い。
(五一) 食物和歌本草卷六。百物語評判卷一。
(五二) 美馬郡郷土誌其他。
(五三) 貝原益軒全集の中、扶桑紀勝卷一。
(五四) 嬉遊笑覽卷八に引いた龍宮船。
(五五) 黒甜瑣語第四編。
(五六) 本朝通鑑卷四十八。西園寺公相卿の首、此條件に合した爲に盗まれた話は、増鏡にあつて有名である。
(五七) 杓子の問題は他日別に書くつもり。オシラサマは佐々木喜善君ネフスキー君等、此が研究に力を費して居られる。
(五八) 羽柴雄輔翁話。
(五九) 人類學會雜誌第百三十一號、布施千造氏報。
(六〇) 續日本紀、神護景雲三年五月、縣犬養?女等巫蠱の罪の事。日本靈異記下卷、備後の人品知牧人髑髏を祈る事等。
(六一) 是も黒甜瑣語第四編。但し續夷堅志に依つた支那の話かも知れぬ。
(六二) 松屋筆記卷三十九に、拔莠撮要と云ふ本を引いて。
(100)(六三) 例へば文コ實録の、仁壽二年二月壬戌の條。美濃席田郡の妖巫の話。クダ屋よりも犬神筋の方に近い。其靈轉行して暗に心を?ふ。一種滋蔓民毒害を被る云々とある。
(六四) 扶桑紀勝卷六。
(六五) 井上圓了博士の「おばけの正體」。
(六六) 七島日記。
(六七) 藝藩通志卷四。
(六八) 日本周遊奇談。此も井上圓了先生の著。
(六九) 共古日録卷十八。山中共古翁随筆。大正元年の鳥取の士族から聞いたと云ふ話。
(七〇) 郷土研究一卷、三九六頁及四九九頁。外道の話をした藤田君の話。但し又聞である。
(七一) 同上三九七頁、故荻田元廣君報。此等の話には後にも引いた所がある。
(七二) 名言通卷上、延岡醫育黒澤氏の話とある。
(七三) 是も黒甜瑣語第四編。秋田の人であるから勿論確め得なかった世間話である。
(七四) 北山醫話卷下。本朝醫談第二第等。和訓栞にも同じ説がある。榊巷談苑には陶瓶と書いてある。支那で蠱と云ふ字を用ゐるのも、土器に蟲を入れて置く形から出た會意文字である。
(七五) 明月記建久七年四月十七日の條。古名考卷五十二に引いてあつた。
(七六) 市井雑談集卷上。
(七七) 蚯蚓に小便を掛けるとえらい罰があつた。臺灣の蕃人中には珍しい蚯蚓の話が多くある。
(七八) 藤田君の話の中。郷土研究一卷四九九頁。
(七九) 荻田氏書?。同上三九八頁に出してある。
(八〇) 前の話は長尾覺氏報。同上四卷六七一頁以下。此には阿波の犬神の例が最確實に報告せられて居る。後の話は同二卷三〇八頁。
(八一) 捜神記卷十一。嬉遊笑覽卷八に引用してあつた。此書は妙に日本の田舎の話と類似を持つて居り、而も文字で移したとも思はれぬ例がある。奧州で一般に謂ふ馬神と蠶との関係の如き是である。此はオシラサマと闘聯して論ぜらるべき問題である。
(101)(八二) 前にも引いた共古日録卷十八。
(八三) 甲子夜話卷一。「朝鮮の迷信と俗傳」といふ本にも、家々蛇業又は人業と云ふ物が居る。毎月十五日に之を祭つて居れば福を得るが、祭を怠ればすぐ罰がある。主人は蛇の食ひ殘しを食はねばならぬなどゝ謂ふとある。同じ神らしい。
(八四) 三河雀卷二。國書刊行會本、近世文藝叢書の内。又南方熊楠氏の手紙に、大阪で猫の髑髏を所持して相場に奇勝を得續けて居たもの、後に厭になってもどうしても去らず、ふと一計を案じ猫は水を嫌ふ故に、川の中に潜り入つて見たら、漸く離れ去つたと云ふ話がある。二十餘年前の實事であると云ふが、やはり兼ての言傳へがあつたものであらう。
(八五) 吉備温故、及先年活版になつた備中志などを見ればよく分る。
(八六) 陶山氏の人狐辨惑談の中に稍々詳しく書いてある。
(八七) 前に引いた三河雀にさうある。惡と名の附く人の靈の怖しかつたことは、別に一册として話す程ある。茲では唯死靈の祭られたことを言へば十分である。
(八八) 住廣造君の話。郷土研究四卷六七〇頁。
(八九) 同誌一卷三二八頁論文。
(九〇) 同上四卷四九四頁。野崎壽氏の話。
(九一) 例へば嬉遊笑覽卷十二上にある四國犬神の話。
(九二) 寓意草卷上。百五十年程前此地方に居た人の隨筆。
(九三) 眞澄遊覽記卷九。菅江眞澄著。
(九四) 雪の出羽路。著書同上。
(九五) 新編會津風土記、北會津の一。
(九六) 温故之栞卷十。但し地方名鑑には此文字は見えぬ。
(九七) 郷土研究四卷三〇五頁。外山且正氏報。穴の神の膳椀を貸す話は、昨年の三月中東京日々に長々と書いて置いた。
(九八) 五十嵐教授編、「趣味の傳説」。
(九九) 碌々雜話卷五、山下弘毅著。嘉永の頃の此地方の學者の著。雜誌「尚古」に載せてある。
(一〇〇) 故郷見聞録。池田の師範學校の生徒が集めた話。
(一〇一) 諸國里人談卷五。
(102)(一〇二) 北窓瑣談卷二。
(一〇三) 齋藤安八氏報。郷土研究四卷三八一頁。
(一〇四) 猿著聞集卷二。
(一〇五) 小島高踏氏著「淺草觀世音」。大正四年刊。最新著である。
(一〇六) 山陽美作記上卷。
(一〇七) 郷士研究四卷五五八頁。紀州田邊の流行地蔵の話。
(一〇八) 嬉遊笑覽卷八に依る。
(一〇九) 囘國の比丘尼を名媛に托する多くの例は、別に一册として書いて見たい。其迄は郷土研究四卷二七四頁以下の一論文、老女化石譚で見てもらひたい。
(一一〇) 大正六年八月、東京日々新聞連載、一目小僧の話。但し書直して見たいと思つて居る。郷土研究四卷には片目魚、片足神等、其材料になつた報告が多い。
(103) 飯綱の話
民俗展望は好い名だと思ふ。一つの問題を出來るだけ弘く、一度に見渡すことが解決に近づく道、又民俗を學にする手段ともいへる。紙がたりないといふことを承知しながら、私も一つ書いて置かうかといふ氣になつたのも、是に動かされたからである。ちやうど幸ひ三戸郡の諸君に、相談して見ようといふ題目が一つ、爰にあるからそれを書いて見る。それは大戰後多分もうあまり聞かなくなり、又おぼえて居る人の少なくなりさうなエヅナのこと。そんなものがどうして我邦に始まつたらうかといふ問題である。私の解釋はまだ假定、是から地元の色々の事實によつて、もう一度檢討せられるにいゝ一つの新説である。この誌の讀者から、知つて居ることは全部、どんな破片でも聽かせてもらひたいといふ念慮を以て書いて見る。それが引出せるやうなら成功だが、果してうまく面白く書けるかどうか。
一
エヅナが中部地方でいふイヅナ即ち飯綱と、同じ言葉であることは先づ疑ひが無いが、内容も一つであるとはまだきめられない。第一に書物に書いてあるのは、信州北部の高山に飯綱山があり、そこが此民間信仰の根源でもあるかの如くいふが、此點がもうよほど心もとない。高くも有名でもないが、飯綱といふ山は方々にあつて、其間には別に連絡は無く、又イヅナ使ひといふ者は諸國に居り、又信州にさへも居るが、是は必ずしもあの北信の飯綱山權現の行者でもなかつたことは、ちやうど近畿地方の稻荷おろしが、伏見の稻荷山の稻荷神社の、信徒でないのとよく似て居(104)る。
飯綱といふのも狐の名のやうに、思つて居る人が東北以外の地にも居る。飯綱山から出すといふ咤?尼天の尊像も狐に騎つて居るが、是は天部が騎る位だから、竝の狐よりもずつと大ぶりな、怖い顔をした屈強な狐であり、之に反して民間の飯綱使ひのイヅナは、數ばかり多くてよほど小さなものと思はれて居る。尤も中部地方では、既に飯綱山の神像の影響もあつてか、形や特徴を説く者が少なく、又あやふやにもなつて居るやうだが、奧州の方では稀に之を見たといふ人があつて、是は寧ろ鼠や鼬に近く、到底動物學の分類に於て、狐と同じ科に入れられさうにも無いもののやうに思はれるが、果して一般の取沙汰はどうであらうか。私は先づ其點を詳かにして見たいのである。何れ幻覺であり又は誤認であらうから、當てにもならず又一致しても居るまいが、是を言ふ人は作りごとをせぬ人たちであらう。多くの例を集めて見たら、幻なり誤りなりの、元はわかつて來るだらうし、考へて見ることは出來る。どうかあんまり多くの人の耳から口を經ないうちに、成るべくは産地に近い處でこの話を採集して見たい。醫師とか警官とかいふやうな、同情の足りない人の記録でも、或程度までは役に立つと思ふ。
二
問題のエヅナが狐に似て、狐ともいへないほど小さいといふこと、是には自分は少々心當りがある。といふわけは怪しの行者に使はれ、又は人に憑いて惱まし煩はすといふ動物は、大體に全國何れの土地に行つても皆小さく、又狐にやゝ似て居るといふ點が共通なのである。尤も小さいと云つても小ささは區々で、詳しく尋ねて居ると同じ名のものにも差異はあるが、見たといふ話で其點を特徴にしないのは、本ものゝ狐憑きばかりと言つてもよい。或は小猫くらゐ、鼬とたゞの鼠のちやうど中間くらゐとか、稀にはもつと小さく細長く、尻尾ばかりが伸びて、竹管の中に入つて居るとか、それこそ勝手次第なことを言ふかに見えるが、ともかくも形が小さくて鼠とは毛の色もちがふといふの(105)が、全國を通じての憑く獣の常性である。
前に「おとら狐の話」といふ本の卷末に、一度その事を述べたこともあるが、今は幾分か考へも變つて居るので、爰であら/\と地理的分布を説いて見ると、エヅナ又はイヅナの居る地域は存外に弘く、東北六縣にも居らぬ地方は有るか知らぬが、其代りには飛び/\に北陸にも又東海方面にも及んで居る。それに接近して次に出て來るのは、關東北部から信州の一部にも亙つてオサキがあり、是も小さな狐といひ、那須野の靈狐の尾が飛んで、それで尾先といふなどゝの説もあつて、とにかくにさう遠くまでは飛んで居ない。曾て群馬縣の某地から、アルコホルに漬けたのを大學へ持つて來たといふ話もあり、今でもつかまへようと思へば捉へられさうなことをいふ人もあつて、是は鼬などよりは遙かに小さく、又毛の色もちがつて居るさうである。
三
第三にはオサキの西に接して、クダ又はクダ狐といふのがある。信州は本場のやうだが、隣國は遠江三河美濃あたりにも擴がつて居る。郷土研究その他の雜誌に、其風聞は色々と報告せられて現實以上に評判は高く、或は伏見の御本山とかから、竹の管に封じ込めて受けて來るので、それでクダといふなどゝ説く者があつた爲か、是は殊に小さな指ほどの狐の如く想像せられて居るが、見たといふ者の話は大抵はもつと大きい。
東北のエヅナ使ひなどゝ、或はこの點が聊かちがつて居るかと思ふのは、オサキとクダとには家筋といふものがあつて、それが外部からやかましく評判せられる。その評判といふのも、實際は是に取憑かれた病人が、自分は某の家から來たと口走り、もしくはそれを暗示するやうな擧動をするので、始めてクダ持ちオサキ持ちと認められる場合が多く、その家が頑強に否認すると蔭の噂となり、もしくは自分も世間と共に病人のいふことを信じて、それを悲しんだり隱したりしようとする家が出來て來る。さうして段々にそんな家筋が多くなり、それを説明する爲には嫁入に伴(106)なうて、七十五匹づゝ附いて行くといふやうな、たわいも無い俗説が援用せられた。大小さま/”\の農村悲劇が、この間から生れたことは既に世に知られて居る。是などはたしかに近世の弊害であり、言はゞこの一つの信仰の末期現象に過ぎぬのだが、東北のエヅナにも、もう亦同じ傾向が萌して居たかどうか。自分は之に就いて今もまだ甚だしく無知なのである。(未完)
(107) 山立と山臥
この三箇年五十何箇處の山村調査を重ねて、まだ問題の間口だけも、明かにし得なかった個條が一つある。多分は観測の角度又は用意を改むることによつて、將來今一段と是に近よつて行く希望は有ると思ふ故に、爰には参考の爲に我々の失望の記録を留めて置かう。
農漁山村といふ名稱は近年頻りに用ゐられ、三者はほゞ類を異にして相對立するものゝ如く、推定せられて居る様であるが、この堺目は頗る明白を缺いて居る。最初から斯うだったのではあるまいと我々は考へる。漁村の方はもう一度是から確めて見るとして、少なくとも山村に在つては、その農村化とも名づくべき變動が、此頃になって急に目に立って現はれて來たやうである。消費生活の様式統一は大きな原動力だつたに相違ないが、是は交易の便宜と伴なふ以上、何とでもまだ折合ふことが出来る。もつと根本に於て山間の特殊なる生業が、一つ一つその獨立性を失ひ始めたのである。林野の整理といふことは、國又は私人の外部資本が、之に向つて投下せられることを意味し、個々の住民の活計を本位とする經營法の不可能になったことは平地部よりも甚だしい。燒畑は勿論現在の人口密度に於て、大いなる制限無しには持續し得る種穀法でなかつた。狩獵が人間の智巧と器具の精鋭とを究めて、尚且つ自ら支へざる職業となつたのは、是も亦寧ろ需要の過多の爲であつた。單に都市生活趣味の普及といふ以上に、通例世人が目して文化進展の兆とするものは、概ね皆山間僻陬の居住を困難ならしめて居る。國が開けた故に或地域だけは、却つて閉されるといふ結果を見ようとしてゐる。
(108) 木曜會の同人が踏破した山村は、四十何箇所まではたゞ奧まつた農村といふに過ぎなかつた。所謂田無しの里は關東の平原にも稀でないが、さういふ畠專門の在所は、山の中には意外なほども少なかつた。以前耕地の全體に乏しかつたといふ村も、拮据して稻田を構築しようとして居る。それに先だつて切替畑地の、常畠となつたものは既に甚だ多いのである。桑楮の植栽と共に開拓は進み、部落の戸數は増殖して内部の交際は繁く、通運に若干の不利を忍ぶといふ外には、平地の同業と比べて格別の異色無きものが、今は次第に多くなつて行く傾向に在る。素よりこの中には、始から耕作を主たる生計とし、單に亂を遮れ誅求を避くるといふ樣な動機から、山間に入込んだ者も相應にあつて、新時代は寧ろ彼等を本然の生活に、復歸せしめたと云ひ得る場合もあるだらうが、とにかくに?況は一般に變化して居る。農を營まざる山地の住民といふものが、數はどの位とも判つて居らぬが、曾ては有つたと傳へられ、今は殆と想像し難いものにならうとしてゐる。つまり漁村に比べると、山村にはより大いなる歴史があつたことだけは明かで、しかも其跡はまだ埋もれて居るのである。
熊野の北山、日向の那須などの舊記を讀んで見ると、山民は近世の平和時代に入るに先だち、又その平和を確保する手段として、驚くべく大規模の殺戮を受けて居る。他の多くの山地でも、文書の史料は無いけれども、恐らくは亦同一の趣旨、同樣の利害衝突によつて、たとへ殺されないまでも強い壓迫を受けて、散亂してしまつたらうことは想像せられる。彼等の生活法則に農業者と一致せぬ何物かゞ有つたとすると、それは勿論世の所謂亂世に適したものであつて、言はゞこの以前が幾分か榮え過ぎて居た爲に、反動が特に悲慘であつたのである。勿論その中には懲戒し治罰せらるべき者が、少數は確かにまじつて居つたらう。しかし他の大多數は無辜であつた。婦女幼童は申すに及ばず、爭ひ又は制する力が無くて、盲從して卷添を食つた者は幾らあつたか知れない。さうして近頃までの異色ある山村生活は、この一種の廢墟の上に、再び築き上げられて居たものゝ樣に、自分等には感じられる。
新しい文化の潮流に乘じ、是と適應し又妥協し得なかつた者の行先が、如何に惱ましく又憂鬱なものであつたかは、(109)決して空漠なる詩材で無く、又單なる他山の石でも無い。人の命は形を變へて永續する。曾て彼等に波打つて居た血の流は、さう容易には涸れ渇くものとも思はれない。それが混和しもしくは浸潤して、今日の所謂日本的なるものゝ、何れかの小さな局面に湧き漲つて居らぬといふことを、保障し得る者は一人も無いのである。果して是を跡づける史學の方法といふものが、未來にかけて永久に見出されないであらうか。自分たち民俗學の學徒は、絶對にさうは信じて居ないのである。
この興味あり且つ現世的意義多き問題に近よるぺく、我々は夙く二三の方法を講じて居る。たとへば部落の交際といふことに、あまり大いなる關心をもたぬ孤立生活者、所謂一つ家といふものゝ分布は明治時代までは見られた。峠や國境の往還は近世に入つて開かれ、是を維持して折々の通行者を保護する爲には、五里三里の間に飛び/\に斯ういふ居住民を招き置く必要があつたからである。彼等を悉く山民の末と見ることは許されぬまでも、この寂寞なる境涯に耐へ得る力の、尋常農家の子女よりも遙かに強い者が、あつたことだけは事實である。是が鐡道網の展開につれて、多くの山路とその番人を不用にし、迅速なる交通方法の普及した結果、立場や不時の休泊の必要は無くなつて、又再び生業の基礎を覆へされ、僅かな年月の間に次々に影を没しようとして居るのである。しかも其後何處へ行きどうして居るかは、今ならば之を調査する手段はある。さうして少なくとも二代三代の歴史ならば、目に立つたゞけにまだ之を記憶する者も多いのである。かゝつて其生活を尋ねて見ようとする者には、機會も資料も共に絶無とはいふことが出來ない。
農に携はらぬ者の移動力は、一般に意外に大きく、又その智能も山奧に一生を送る者としては、驚くほど進んで居たことは、幾つかの例證がある。轆轤師又は木地屋と稱する職人の群などもその一つで、彼等が自分の謂ふ山立の後裔であるか否かは疑問であるが、ともかくも山から山へ移り住んで、里とは交易以外の接觸が無かつたに拘らず、この仲間には夙に文字があり、又少しばかりの史擧文學があり、信仰には統一があつて、可なり有利な條件の下に農民(110)と對立して居た。この人々の經歴も、同情を以て傾聽するならば、今はまだ多分の知識を供與し得る。是も方法は既に具はつて、就いて、學ばうとする者が得られない?況に在るのである。
肥後の五箇山は近江の小椋以上に、著名なる武陵桃源であるが、それは只平野人の空想に描かれたる仙郷といふだけで、村の男子は大部分が世間師であつた。いつから學んだか又學ぶ必要があつたか知らぬが、彼等は多く賣藥の業を以て全國を旅して居る。珍らしい事實は佐倉の義民惣五郎を、この山村の出身と稱して、記念碑が建つて居ることである。或旅僧が來て其才能と氣性を認め、貰ひ受けて關東に還つて名主の家の子にしたと傳へられる。それが歴史で無いとしても、斯ういふ口碑の存在は大切な事實である。如何なる因縁があつてさう信じ、又それを主張することになつたかを考へると、過去の生活ぶりの半分は想像し得られるのである。日本に百以上もあるかと思ふ平家谷傳説、そこへ一人々々の公達が分れて入つたとすると、さしもの一門でもまだ足るまいと思はれる先祖を、遠近申し合せた樣に信じて居る原由はどこに在つたか。少なくとも彼等が高い矜持をもつ新移住者であり、即ち旅人の家であつたことはわかる。さうして又山を愛し、安んじて幽谷の間に永住して居た人の末である。
羽前三面の上流の村なども、孤存の異例として考察する時代はとくに過ぎた。我々は家傳以外の知識を具へざる人人の、偏した考へ方を批判する以前に、一應は是が國總體の成長面に於て、如何なる地位をもつかを知らなければならぬのである。注意を惹かれた一事はこゝから五六十里、北秋田の奧に居る荒瀬根子のマタギたちが、この三面を知り且つ之を尊敬して居ることである。マタギは現今は汽車汽船に乘り、九州朝鮮までも藥を賣つて居るさうだが、以前も獣を逐ひ雪の山嶺を渡つて、意外な信州飛騨の村里にも米を買ひに下りた。是が三面村の同業と途に逢ひ、乃至はわざ/\其家を訪うたとしても、少しでも不思議は無いが、自分等の考へずに居られぬことは、そこが山中文化の一つの中心の如く、遠くの狩人から仰ぎ望まれて居る點で、簡單に解すれば一方は本家、他はそこから分れて出たものゝ末と、見てしまふことも出來るか知らぬが、果して東北の山地に散居するマタギ等に、斯かる系統があつたもの(111)かどうか。是は問題として置いてもいつ迄も決着しかねるといふことは多分あるまい。私などは寧ろ其以外に、別に傳仰の上の力が、上下に働いて居たと想像して居る。何れが當つて居るか、豫測にも大いなる興味がある。「山の人生」といふ一書を、世に公にした時から、我々はマタギといふ語の起原に、深い興味を惹かれて居た。外國でも既に此問題を取上げて、攷究しようとして居る學者があるといふことを耳にして居るが、今日もなほ二つの想像を抱いて、まだ安心してその何れにも就き得ない。一つの見所はアイヌにも此語のあることだが、是は此地に今のやうに弘く行はれて居れば、彼が學んだと云ふことも考へられ、遠くに離れて同じ例の現はれぬ限り、是をアイヌ語ときめることは素より輕率である。近頃始めて知つたのは土佐の北部から、伊豫へかけてのやゝ廣い山嶽地方に、マトギといふ語があつて狩獵を意味して居る。津輕秋田等では狩する人を謂ふ點がやゝ違ふが、一から二へ移ることは自然である。乃ち元は是が又山中の忌詞で、カリといふ語を使ふまいとした結果、ふと發明したと見てもよし、セタやワッカと共にアイヌから學んだと見てもよい。さうなると特に此一語の使用者の間に、親しい交通のあつたことが推定せられるが、四國の類例は幾分かこの解説を面倒にするやうである。
高橋文太郎氏のマタギ資料を讀んで見ると、荒瀬根子の故老はまだ少しく、マタギと謂ひ始めた際の事情を、知つて居るかの如く思はれる。今一歩だけ進んで之を聽かうとしなかつたのを殘念に思ふ。それは察する所其一つ以前の名前の山立といふ語に、自分ほど深い關心を持たなかつた爲であらう。自分は大正八年に世に出した「神を助けた話」といふ小册子の中に、故人佐々木喜善君が陸中宮守村のマタギから、見せて貰つて寫し取つたといふ山立由來記の文を附載して置いたが、この際に始めてヤマダチといふ語の、惡い言葉でなかつたことを知つたのである。都市の文藝に於ては、山立は乃ち山賊のことであつた。是を自身の最も莊重なる由緒書に、我名として一方は使用して居るのだから、彼と是と感覺の喰ひちがひがあつたことは明かで、或は同一筆法で野伏といふ人々、即ちまけ戰の軍勢を横合から不意に襲撃して、太刀や鎧を剥ぐのを職業として居るやうに、軍書や芝居には定義づけて居る者なども、少(112)なくともそれで生計を立て又其名を得たのではないことを、疏明し得るやうに思つても見たのである。社會科學の野外作業に携はるものは、斯ういふ文庫の壓制とも名づくべきものから、弱者を擁護する義務があるのでは無からうか。
勿論山立は以前は決して弱者ではなかつた。今でも個人々々の氣魄體力、物に執する意志の強さなどを評價すれば、我々は一人として之に敵する者も無いのだが、奈何せん數少なく組織は衰へ、第一に環境が元のまゝでない爲に、いつしか一種の旅商人の、最も頼りない者に變化しかゝつて居るのである。是をどういふ風に世の進みと諧調せしめるかは、政策の技能に長じた者に委ねるの他は無いが、少なくとも彼等の現?を明かにすると共に、如何なる幾變遠を通つて終に今日に至つたかを、力の及ぶ限り明かにして置くことが、歴史といふものゝ役目だと思ふ。もしそれが暗かつたら、誤つた判斷をするにきまつて居るからである。現在はまだ一つも確かなことは言へないが、こゝに山立の根原と稱して居る一場の物語には、可なり弘い分布があるらしい。乃ちこの中世以來狩を生計とする者が、既に其頃から純然たる野人で無かつた證左であつて、しかも經濟の歴史を專攷する少壯學徒の、往々無用として見過さうとする點である故に、自分だけは是を問題にして置くのである。
狩獵の起源に伴なふ傳承は、少なくとも三通りあつた。その一つは今日の東北マタギが、我部曲の眉目として秘傳して居るもの、即ち弓箭の技に優れた或一人の若者が、神の依頼を受けて神の戰に參加し、片方を助けて他方を打負かしたといふ語りごとで、その手柄によつて全國の山々嶽々、到る處に山立をする許しを得て、其特權を永く子孫に傳へたと説くものである。古い確かな記録としては、林道春の筆に成る二荒山神傳といふ漢文が、羅山文集の中に載せられて居り、それよりも更に數十年以前の繪卷物といふのが、奧會津の舊家に在つて、それを新編風土記が採録して居て、内容は二者大よそ同じである。是と陸中羽後のマタギが大切にして居る山立由來記とちがふ點は、前者は主人公の名を小野の猿丸、都方の貴人の落胤として居るに反して、後者も名門の末ながら其名を萬三郎と謂ひ、母が美女であり長者のまな娘であつたことは説かない。しかも弓箭の功を賞して、永く狩する者の一黨を保護したといふ神(113)が、今ある日光二荒の大明神であつたと、語り傳へた點は雙方同じことで、何人にも是を別系の偶合とは認められぬのである。
第二の言ひ傳へは紀州高野山の舊記に、丹生の明神の神コとして詳しく話したものと同じく、この山の始祖大師靈域を開き住せんとして、山中を行巡る時しも、この姫神の御子が、狩人の行裝に黒い犬二頭を隨へ、出でゝ大師を案内して今ある寺地を定めしめたまふ。其功力によつて、獣を捕るの作法、殺生が佛果を妨げない大切な法文を、この業に携はる程の人々の間に傳へられたといふので、その内容から見ても外來宗教との協定の痕あらはなるものである。この形は僅かな變更を以て東北にも尚分布して居るが、我々の知る限りのマタギの家々には、是を信じ又主張する者はまだ見當らぬ。乃ち第一の方式のものよりは一つ新らしいか、又は一段と力弱きやうに想像せられる。
北秋田などに居る處々のマタギが、マタギに二流あり一を日光派、他の一を高野派といふと稱するは、多分この對立を意味するのであらう。それが果して精確なる分類か、又は何かの古い傳への誤解であるかは決し兼ねるが、少なくとも是によつて明かになつたことは、山立は邊土の山間に孤存して、割據の姿最も著しいに拘らず、目に見えぬ交通は彼等を統括し、日光にせよ高野にせよ、とにかく遠方の信仰に服屬して居たといふ事實、しかも其信仰が共に半佛教的に修驗の教法を以て固有の神道を彩らうとしたものであることである。乃ち是が國初以來の、彼等の精神生活を裏付けたものでないことを知ると同時に、彼等が他から傳道せられる境涯にあり、又新たに信じかへるだけの智能を具へて居たことも判つて來るのである。佐々木君の東奧異聞といふ書に、夙に深い興味を以て報告せられて居る杉のレアチュウ、小玉のレッチュウの榮枯盛衰譚の如きは、説話としては最も荒唐であるが、或はこの日光高野といふ二派の現實の對抗から、近世却つて其感銘を新たにし、從つて又傳承を濃厚ならしめたかとも思はれるのである。
この第三の山立根原に關する口碑は、文書に採録せられたものが甚だ多くない。是を注意して學界に紹介した功勞は、一部は少なくとも我々の山村調査に在るのである。この種現代人の感覺に楯突くやうな語りごとは、何かよくよ(114)くの重要性を認めない限りは、假に孤立して處々にあつても、聽く人が相手にせず、それよりも知る者が之を説かうとしない。さうして消え去らざるを得なかつた例が多いらしいのである。自分は今からちやうど三十年前、南九州の山村を經廻つて、日向の椎葉村大川内の舊家に於て、江戸後期に書寫せられた狩の卷物を見た。其中に一つの祭文として掲げられてあつた物語が、後年奧州のマタギの記憶にもあると聽いて、飛上がるほど驚いた山の神の子を産むといふ同一話であつた。大摩小摩といふ二人の獵師が、潔齋をして山に入つて行くと、山の神が御産をして弱つて居られるのに逢つた。一方は血の穢を畏れて近よらずして立去り、小摩のみは穢を厭はずに、割籠の飯を出して神女に進らせた。其功によつて獵の業末永く榮え、神に親切でなかつた大摩は罰を受けて、山川の小魚と化してしまつたといふのである。東北の類例はたゞ細部が是と異なつて居る。さうして獵夫の名が萬治と磐司、又は神を助けた弓の名手と同樣に、萬三郎ともなつて居るのである。現在知られて居る分布は、この南北兩端の例の他にまだ二つしか無い。その一つは三河の北設樂郡で言ひ傳へたもので、是は大ナンジと小ナンジの兄弟の狩人となつて居る(民族三卷一號)。栃木縣野上村の老人が記憶して居たのは、是亦大ナジン小ナジンと謂ふので、共に口頭の傳承だから文字は宛てられてないが、話は大體に奧羽諸處のマタギが、今でも二組の狩人の一方は今も榮え、他の一方は既に久しく衰へて居る理由として、秘し且つ信じて居るものと同じなのである。單に傳播の弘さだけから言つても、前の二つよりは此口碑の方が優つて居るだけで無く、其内容が又古く我邦に發達した所謂富士筑波の神話の、最も敬虔なる姿を傳へて居るのである。山中の誕生といふ部分も、越前荒血山の傳説として、幾つかの中古の文藝に取入れられて居るが、其方が却つて毀たれ又は飾られて居る。さうして是にはまだ佛教の影響は、幽かにでも加はつて居らぬのである。
殊に我々が興味深く聽いたことは、羽後の荒瀬のマタギたちが、此口碑と關聯して今でもまだ記憶して居るらしき山神の物語に、釣針を失つてそれを捜しに來たエビス樣と縁を結んで、それから身持になつて山の中で御産をなされたやうに、説かうとする部分があることである。是は何とぞして今一段と正確に、どこか他の地方のマタギの中から(115)でも、是非に聴取つて置きたいものと思ふ。是が千年の遠い古へから、耳と口とのみで傳へて來た遺傳であつた場合は勿論、假に何人かゞ神代卷を讀んで、それをやゝ粗略に話して聽かせたのだとしても、土地が山間であり聽衆が山立である限りは、完全に今は埋もれたる文化の經路なのである。彼等と山の信仰に携はつた一派の宗教家との關係は、恐らく此途からより他には尋ねて行く手だてが無い。その山臥の行者が又、既に存立を認められなくなつて、半世紀を越えて居るのである。江戸期の本當二山の統制が、記録文書の上ばかりでは堂々として居ても、やゝ中央から遠い田舍に行くと、幾らでも自由な野山伏が居つて、勝手次第な修法をして居たことは、所謂公然の秘密であつた。羽黒とか彦山とかいふ著名の靈山以外に、小さな信仰の中心は國々に數多く、それ等は寧ろ藏王金峯の統一に反抗しても居た。もしも官途や收榮を念としなかつたら、退いて割據の威望を保つ機會は何程もあつたのである。山へ新たに斯ういふ人々が、入つて地歩を占めるといふことは六つかしい迄も、假に山民の間に古くから住んで居たとしたら、もしくは山立が自らこの信仰を守つて居たとしたら、其現?は容易には打破されなかつたのである。以前の山立の子孫だと名乘る人々が、今日抱持して居る信仰は少しづゝ判明して來たが、それの源泉であつた力はもう跡が無い。山臥は果して外から來て、山立の爲に道を傳へたか。或は又彼等の氣質と習慣が、この統制以前の驗者佛教を守り立てたか。別の語でいふと我邦の信仰史の上に、あれだけ目覺しい異彩を放つた一派の祈?教が、中から出たか外から入つたか、とにかく兩者には色々の共通點があつて、今や二つながら通常化の道を急歩して居るのである。斯ういふ點を考へると、是までの史學の能力は有限であつた。ほんの僅かばかりの新しい疑問を提出して見ると、右にも左にも答へを試み得る者は一人も居りはしない。是でも大學まで設けられて居る國と言へるだらうか。歎かはしい次第だと思ふ。
我々の提出する疑問は、決して好事一遍の閑題目ではない。マタギ山立の群は既に數を減じ、又生業の基礎に離れてもはや特異の存在を保てなくなつた。驗者の佛法は潰滅して跡方も留めなくなつて居る。しかも彼等を祖先とする(116)者の血は、里に入り町に入り農民の中をくゞり、今日の所謂大衆の間に混入してしまつた。以前我々が山立の氣風として、又は山臥行者の長處短處として、あれほど注視し又批判した正直・潔癖・剛氣・片意地・執着・負けぎらひ・復讐心その他、相手に忌み嫌はれ畏れ憚られ、文藝には許多の傳奇を供し、凡人生涯にはさま/”\の波瀾を惹起した幾つともない特色は、今や悉く解銷して虚無に歸したのであらうか。或は又環境に應じ形態を改めて、依然として社會の一角を占取し、この今日の日本的なるものを、攪亂せずんは止まじとして居るであらうか。是を突止めようにも何の方法も無いといふのなら是非が無いが、苟くも之を明かにする希望が些しでもありとすれば、我々はそれを試みなければならぬ。さうして少なくとも國人をして現?を意識せしめなければならぬ。
(117) 傳説のこと
日本が傳説を研究するのに最も都合のよい國、從つて又よその國々の學者の爲に將來いろ/\の新しい知識を供與し得る國であることを、何度か私は説き試みようとしました。岩波新書の「傳説」と題した一册は、主として其目的を以て書いたものであり、中央公論社から出した「口承文藝史考」でも、其爲に多くの頁數を費して居ります。その以外にも「一目小僧その他」、「木思石語」などといふ類の書物は、何れも實例によつて、この間題を明かにしようとした努力でありますが、殘念なことには説明のし方が拙なくて、まだ十分な效果を擧げて居りません。一つには時代の慌だしさも手傳つて、人がこの樣な悠々たる過去の事蹟に、心を傾けるほどの餘裕をもたなかつたのであります。それは今まで氣が付かずに居た。なるほど人間のしたり言つたりすることには、自分でも理由を知らずに居ることが幾らもある。改めて是から一つづゝ考へて行かねばならぬと思ふやうになつたのはつい此頃のことであります。學問復興のきざしは、今漸くにして現はれて來ました。もう一度私たちはこゝで働いて見なければならぬかと思ひます。
この傳説分類の計畫は、もう彼是三十年も前から始まつて居ります。それが放送協會のやうな有力の機關によつて援助せられるやうになつてからでも、優に十年の月日はたつて居ります。日本は傳説の際限も無く多く、殆と充滿して居ると言つてもよい國でありまして、それを採録した傳説集も、算へ切れないほど世に公けにせられて居ますが、是に興味をもち愛情を傾けて居る人たちは、誰も彼も捜索の範圍を、我が住む土地に限定して、をかしい位よその地方の實?を知らうとしません。むしろ同じ形の言ひ傳へが、そこにも爰にも有るといふことを知つたならば、がつか(118)りしてもう談らなくなるだらうと思ふやうな、珍無類を誇り示さうとしたやうな、報告ばかりが多いのであります。傳説といふ言葉が是ほど弘く知られ、旅行者の話の種としては、是ほど人望の多いものは他に無いのに、今でもまだその傳説が如何にして生れ、如何にしてこの樣に年久しく、保存せられて居るかを説明し難いのは、原因は專らこの知識の割據に在つたと思はれます。傳説名彙の事業は言はゞ新たなる出發點でありました。是が暇どり躓きつゝも、ともかくも文化再建の日本にお目見えをするといふことは、悦ばしい出來事でありまして、國を又民族を、一つの總體として考察しようといふ學風の、是が先驅となり、又うまく行けば好い先例ともなるのであります。
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傳説名彙の利用者は、最初に先づ今までの研究家の、考へて見ることも出來なかつた一つの事實を、發見することになります。如何に尋常を絶した奇拔なる言ひ傳へでも、たつた一つの土地でしか聽くことが出來ないといふものは殆と無く、必ず同じ形のものが何處かには有るといふことで、其一致は時として遠い異なる民族の間にも及んで居りますが、なほ多くのものは日本の端々、しかも互ひの交通の必ずしも容易に、想像し得られぬ二以上の地域に見出されるのであります。何か是には隱れたる理由がある筈と、いふことが直ぐに考へられますが、それを見つけ出す爲にも豫め一通りの比較をして見る必要があるのです。多くの言ひ傳へは始めからしまひまで、そつくり同じであるか、はた又どの點かに少しづゝの違ひが有るか。それを竝べて見くらべて行くことが、新らしい一つの興味であります。この本では單に索引の便宜の爲に、傳説の據り所となつて居る個々の地物を、分類の目安に立てゝ置きますが、是が唯一の分類法と思つたわけではありません。他日傳説の成り立ちが一通り判つて來ましたら、或は解説の爲には第二のもの、たとへば發生の順序による分類法などを、採用する方がよいかもしれません。
數は少ないけれども日本の傳説には、近世と呼ばれる時代になつてから、始めて現はれたと思はれるものが幾つか(119)あります。それがどうして古くから有るものと同じく、二箇所以上に分布するやうになつたかは、やゝ説明しにくい問題でありますが、是は多分傳説の管理に任じた群の中心が、世と共に少しづゝ推し移つて、たま/\さういふ新作の能力ある者が參與して居た時期又は地方が、あつたからではないかと考へて居ます。とにかくに傳説の時代色は複雜です。遠い昔の世に生れたものでも、後々少しづゝ彩色をかへて、元の姿をそつくり其まゝ、持傳へたと見るべきものは存外に少なく、それが又土地により場合によつて、周圍の影響の受け方が、必ずしも一樣では無いのであります。通覽綜括の必要であるのはその爲で、假に全體では無いまでも、少しでも廣い區域にわたつて、幾つかの相似たる實例を比較して見た人でないと、いつ迄も傳説とはどんなものかといふ解釋が下されぬと同時に、一旦目の着けどころがわかり、又コツといふやうなものを覺え込んでしまふと、研究の興味は次第に深くなつて、是をめい/\の人生觀から、切り離すことがもう出來なくなるのです。それにはこの一册の本が最良の書だ、もつとも完全なものだと思つて居るわけでは決してありませんが、ともかくも斯ういつた種類の參考書が、もうちつと早く世に出て居たら、私などもよほど話がしやすかつたのであります。其點にかけては此書の出現も一つの進歩です。
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そこで記念のために今一度、日頃私などの考へて居ることで、幾らかこの本の利用者の手助けになりさうなことを二つ三つこゝに書き列ねて置きます。是は私の直覺に近いもので、まだ十分な證據が具はつて居るとも言へませぬが傳説が或一つの土地に根を下して、枯れも倒れもせずに數百年、或は千年以上も續いて居るのには、單なる偶然の記憶の集合よりも、もう少し積極的な力が、必要だつたと思ひます。管理者の群といふ言葉は當らぬかもしれませんが傳説にはもと之を信じて疑はない中堅の人物があつて、其數はさう多くではなかつたけれども、是が古くからの形を守つて變北を防ぎ、又適當なる時と人とを見定めて、之を次の代へ引繼がうとして居ました。周圍にももちろん傍聽(120)して居た者は幾らも有つたでせうが、たゞさういふ人々の印象に任せて置いたゞけでは、到底この永い歳月の保存は期することが出來なかつたので、其點が諺や仕事歌、殊に昔話などゝいふものとの、大きなちがひではなかつたらうかと思ひます。
傳説そのものゝ内容からも、大體は推定し得られる通り、最初の管理者は一つの古い家、及びそれを取圍んだ一族門黨で、彼等が心から協同統一の成果を樂しみ、本來の有爲轉變に對して、何の不安をも抱かず暮されたのも、主たる原因は靈界の恩寵が、特に自分たちの群に厚かるべしといふ言ひ傳へを、信ずることが出來たからでありました。中にはたゞ家が非常に古くから、其土地と結び付いて居たといふ點のみに、力を入れて説くやうな例もありますが、是とても其樣に久しい間、獨り取續くことを得たのには、何かまだ隱れたる理由の大切なものがある故と解して居たらしく、とにかくに家の生存のために、斯ういふ無形の支柱を必要とした時代が、曾て一度は我々の中にも有つたのであります。
ところが現實には少しづゝ、この前定を裏切るやうな變化が起ります。たとへば或家は大いに繁榮して勢力を擴大し、外へ出て行つて分解の端を開き、或は隣の力と衝突して中心を失ひ、又何といふこと無しにたゞ小さくなつてしまふなど、幾らとも知れない榮枯盛衰が、中世には繰返されました。
しかし傳説は古い本式の管理者を失つた爲に、即座に消えも亡びもしなかつたのは、結局は年久しい感染であつたかと思ひます。家に熱情ある傳承者はもう居なくなつても、古い語り傳へは根が無くては生ひ立つ筈が無い。人が信じて居たのだから、信ずべき理由が有るのだらうと思ひ、且つは又我土地の早く開かれた、所謂うまし小國であることを、疑はうとする者は少なかつたのであります。さういふ中でも神の御社や靈佛の堂などは、家が滅びても大抵は跡に殘ります。それと結び付けられない傳説は少なく、勢ひ其管理は信仰の中心へ移つて行くことになりました。それを私は第二の段階と見て居るのであります。
(121) 社寺の縁起などといふものは、類型があまりにも多く、作爲模倣の痕のあらはなものではありますが、其中にも以前の傳説の破片が、固有名詞などの形で引繼がれて居ります。いはゆる何々長者の家の址とか、是に伴ふくさ/”\の物語とかは、大抵の縁起の附きものとなつて居ます。是は以前の形の保存ではなくで、新たにこの時代に入つて、よほど手を加へ色どりを添へたことは確かですが、それにも拘はらず人はなほ久しい間、その實在を信じつゞけようとしたのであります。
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昔話と傳説とを比べて見て、同じ長者の物語でも、一方は富發見の花々しい創業譚を以て充ちて居るに反し、こちらはとかく哀調を帶び、曾ては榮えた萬福長者が、次第に運傾き勢ひ弱つて、末は蒼茫なる草の原に昔の名を留めるに過ぎないといふ類の話ばかりが多いのは、それだけの理由のあることでありました。獨り傳説がもと信ずべきものであつた故に、さうして現に又眼前に在るものは、たゞ荒れたる野なるが故に、斯ういふ話のみが通用しやすかつたといふだけで無い。是は家々のまだ自分たちの古い記憶を保管して居た時代に、新たに思ひ付かれる空想ですらもなかつたと思ひます。乃ち傳説の中には最初からの存在で無く、遙か時過ぎて後に生れ又は持込まれ、しかも是まであつたものと入り交つて、ほゞ一樣に土地では信じられて居たものがあるらしいのであります。傳説の由來を考へて見ようとするには、まづこの新舊のけぢめを立てゝ置かぬと、餘分な混亂に苦しまなければなりません。
はつきりとした境は容易にはきめられるもので無く、又以前とても少しづゝ變つたり附加はつたりしたものはあるでせう。たとへば昔話も同じやうに、人に敵對し害を加へようとした、妖魔怪物が、しまひには征服せられたといふまでは、早くからの言ひ傳へがあつたのにしても、それがどういふ風に怖ろしく物凄かつたかといふ段になると、次々に話のさし替へが行はれます。といふのはもと/\爰が聽く者の空想の自由に、委ねられた區域だからであります。(122)長者發祥の物語などでも、極度の人間の幸福を説かうとするまでは、ちやうど雪だるまが轉がつて大きくなるやうに、新たなる誇張が或程度には許されます。種が有るのだから其成長は自然であります。ところが形は接近して居ても、一方の長者没落譚は、全く別系統の空想に出發してゐます。ちやうど國民の感覺がこまやかに複雜化し、殊に外來宗教の影響を受けて、無常といひ流轉といふ類の人生の哀情に心が引かれるやうになりますと、文藝が針路を更へたと同じに、傳説の世界にも新生面が展開する、といふよりも是は一種の文藝の侵略でありました。甲の地では既に文藝として通用して居るものが、そつくり其まゝでの土地で、傳説として信じられるといふ例は、近い頃までもさう珍らしいことでなかつたのです。
かつて白米城の傳説について、私が言ひ始めたことでありますが、日本では中世の或一時代、特に此種の傳説が外部から盛んに移植せられたことがあつたやうです。それがちやうど傳説の管理者がほゞ更迭してしまつて、しかも中心の信仰機關が十分に統一の力を具へなかつた際であつた爲に、偶然に大きな變革を、土地の口碑の上に及ぼすことになつたものかと思はれます。總體に我國中古のいはゆる唱導文學は、傳説に近い内容をもつたものでしたが、それでも是が文人の作爲にかゝることを知つて居たならば、いくら田舍でも丸呑みに信じてはしまはなかつたのです。それが神靈の語を傳へるのを職とした旅の女性の口から、以前の口寄せとほゞ同じやうな語調と方式とを以て語られた爲に、人智以上の眞實として受入れる者が多く、乃ち日本の傳説は著しく其數量を加へ、更に今まであつたものさへ、この刺戟によつて活力を保ち續け、つひにこの通り傳説の異常に豐富なる一つの社會を作り上げたのであります。
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傳説が信仰の支持を受けて、成立し又存續するといふことも、日本ばかりでは二つの段階、二通りの手順があつたことを認めなければなりません。他の多くの國々では、傳説は夙く信じ難くなり、しかも想像の奇拔をめづる餘りに(123)是を一種の説話として傳承しようとして居ります。其爲にどこへでも持運ばれる普通の昔話の外に、別に或土地或家或事蹟に附隨した地方説話のあるわけが、頗る説明しにくゝなつて居るやうですが、こちらは偶然なる中古の社會事情の爲に、可なり後代まで、傳説は信ずべきものといふ考へが拔けず、現に今でも信ずる者が少數ながら有ります。傳説本來の性質を知るには好い手掛りでありますが、一方には又その特色があつたばかりに、よその國ではあまり見られない傳説の混亂が起り、それが最近には政治上の問題とさへなつて居たのであります。
ちがつた言葉で之を説明すれば、傳説と歴史との限界が、甚だはつきりとしなくなりました。傳説はいづれ過去の世に斯ういふ事があつたといふのですから、堅く信ずれば歴史になつてしまふのは當然ですが、それだけではまだこまる程の弊害はなかつたのであります。たゞ世の中の進みにつれて、今まで傳はつた形のまゝでは、何かまだたより無い所があるのを、新らしい知識と推理とによつて解釋を補充し、出來るだけ信じやすい形にしようとしたのがいけなかつたのであります。實例によつて話をして見ると、家の創立に又は其土地の開發に、最も有力に參與したのは貴とくすぐれたる旅人でありました。傳説名彙の少なくとも半數以上は、その旅人についての記憶を傳へて居ります。今から考へて見れば、この旅人といふのは實は神靈なのですが、不思議に日本ではどこの田舍に往つても、是を人間と全く同じ形、同じ感情をもたれた、たゞ極度に貴とい御方と、いふ風に語り繼いで居たのであります。この傾向は遠く古風土記の時代から始まつて、ずつと後代の移住地にまで及んで居ますから、何か我民族の固有信仰に、深い繋がりをもつたものと思はれます。我々の祖先が文字を學び、少しづゝ國の歴史の書を讀むやうになつて、果してさういふ非凡の旅人が有つたらうかと訝り、それを明かにして置きたいと念じたは自然であります。古い言ひ傳へもそれを挿入して、ちやうど完備するやうに出來て居ました。人は改訂とも變更とも考へずに、是ぞと思ふ古人の名を以て其空白を充すことを、むしろ正しい解釋としたのであります。ところが現實の歴史には、さう多くのふさはしい人は居りません。殊に段々と國の端になりますと、旅して此あたりまで遣つて來たことがたしかなのは、ほんの五人か七(124)人しかない。有名な書籍に書いてなければ、たとへ有つたにしても誰も承知しません。それで東日本ならば八幡太郎義家、鎌倉の主になつた右大將頼朝、その弟の義經くらゐ、又高僧としては弘法慈覺の兩大師、親鸞日蓮の二上人などが、箸とか杖とかを地に刺してすべての名木を成長させ、又はあらゆる靈泉を湧出させたことになつたので、何れも最初からこの人たちの遺跡として記憶せられたのでは無く、何でも昔えらい御方が御出でになつた時とか、又途法も無く道力のすぐれた御僧がこゝを通られた際にとか、やゝ漠然としたことを古い人がいふと、それはきつと八幡太郎だつたらう、弘法大師にきまつて居るなどと、はたから固有名詞をはめ込んだものばかり多いのであります。よその土地との關係を構ひ付けさへしなければ、斯うすれば傳説はよほど又信じやすくなります。さうして又覺えやすくもなるのであります。日本に何萬何十萬といふほども、よく似た傳説の保存せられて居たのは、主としてはこの所謂合理化の爲であり、同時に又互ひに他處のことを知らずに居られた結果であります。
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つまりは土地毎の傳説の管理が、すなほな何も知らない故老の手から、少し歴史を知り、少し推理をする人の手へ移つたのであります。固有名詞の決定は、非常に大きな改革になるのですが、それは心づかずに人も我も、傳説の信じやすくなることを喜びました。しかし交通が開け追々と他處のことが判つて來ると、是はをかしいといふことが少しづゝ顯はれます。杖立銀杏や足形石といふ類の言ひ傳へならば、そこにも爰にもあつてもまだ説明が成立ちますが小野小町の墓どころ、和泉式部の産湯の井といふ類になりますと、よそのを贋物だと證明しないと自分のところの傳説を信じつゞけることが出來ません。それで誠に無益なる爭ひが、方々に起りました。日本は大昔以來、天子が國巡りをなされたといふ遺跡が、數多く分布して居た國であります。是は私たちには説明し得られる固有信仰の特徴であつて、一言でいへばその不思議の旅人が、八幡太郎や僧空海よりも、もつと貴といすぐれた御方、即ち神だつたとい(125)ふ感じを、此の如く合理化しようとしたものらしいのであります。ところが現實の歴史では、天子はその樣に遠く旅をして居られません。それ故にいはゆる平家谷の傳説ばかり、何十箇所といふほども全國に分布し、更に世降つては長慶天皇の最終の行在所といふのが各地の問題となるのであります。東北の或縣などでは、村々の傳説は自分のみが歴史であり、他のすべては傳説ですらも無いやうに言つて相爭ひました。投票をほしがる政治家たちが、斯んな爭ひまでを尻押しました。是は全く傳説の變化に心付かず、又傳説の眞のねうちを知らずに居た過失であります。
傳説の最も興味ある特質は、寸分もちがはぬほどの同種内容をもつものが、國の隅々にかけて無數に散布し、しかも互ひにそれを知らずに居られた點であります。この年久しい無意識の一致が、民族結合の隱れた力を語つて居ることであります。我々は自分の周邊に、何かやゝ異常なる自然の現象を見出すたびに、誰も彼も言ひ合せをせずして、いつも大よそ同じやうな推定を下し、且つ之を信じようとして居たのであります。素より經驗ある先輩の指導以上に神と仲立ちする者の啓示を無條件に受入れましたけれども、是とても土地限りのもので、中世の旅の巫女に見るやうな中央の統一といふことは元は無かつたのであります。人の智能が進むにつれて、傳説が心もとなく疑はしくなるのは已むを得ません。それが悲しさに強ひて歴史に繋ぎ付けて、それと折合はない部分を粗末にし、都合のよい部分のみを力説しようとしたことは、實際は古い言ひ傳へを、擁護する途でもありませんでした。ほんの少しばかり歴史の知識が進んでも、もと/\急ごしらへだから直ぐに穴が現はれます。さうで無くても同じ話をたび/\聴くやうになれば、信じないばかりかしまひには輕蔑して、折角永い間之を管理して來た土地人の眞情が、認められないことになるのであります。
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傳説を信ずる人は、今日は非常に少なくなりました。それも熱心に談つて聽かせようといふので無く、たま/\作(126)り話だらうと言はれて憤る程度のものであります。しかし一般に、決して之を粗末にはしません。單なる土地の飾りといふ以上に、そこが新開で無く、住民に是だけの優雅な構造力があつたといふことは、外から來る人に告げてよいことゝ思つて居るらしく、我々の謂ふ民間傳承の中では、傳説は最も採集しやすいものの一つになつて居ます。もちろん之を其通りの史實が、かつて有つたと信ずるのからは遠く、どちらかといふと文學に近く、又は其素材と見る方に傾いて居ましたが、ともかくも今なほ一部の管理者を以て任ずる人々があります。以前の郷土史家一派から見ると是が又一つの中心の移動でありまして、或ひは傳説管理の第四期、文學時代と名づけてもよいでせう。私たちは是を更に第五期の研究時代、即ち傳説とは何か。この多量の又長期間の傳説の持續といふことは、日本文化の展開の上に於て、どれ程の意義をもつか。それを考へるやうな人々の手に傳説が管理せられる日の到來を期して居るのであります。其樣な面倒なことは、今までの傳説愛好者は嫌ひだつたやうです。それがいつまでも傳説を種にして、へぼな短篇小説見たいなものを書かうとして居ました。しかもよそはどうであるかを少しも知らぬために、さも珍らしげに自分の土地の話を報告して、是が本物のやうな氣になつて居ることは、前の郷土史派も同じことでありました。いゝ加減にこの割據的氣風を切上げるべく、傳説名彙の出來るだけ完全なものが、世に出ることは必要であります。
○
この分類法の大きな效果は、是まで傳説の中心人物となつて、あたかも其人の逸話を傳へるために、生れたかと思はれて居た歴史上の名士が、實は中世以後になつて、たゞ無造作に取つて付けられたものといふことが、いつと無く判つて來ることであります。傳説の存在、ことにその數多い分布は、書物にも載せられて居ない大切な日本の歴史でありますが、それに伴なうて居る人の名や年月日は、むしろその歴史を明かにする妨げでありました。だから色々の比較を重ねて、早くさういふものを取付けなかつた、以前の?態に復原して見なければなりません。
(127) それから第二段には、長者没落、又は白米城の傳説といふやうな、中世この方の旅の語り部に運ばれて居たものを、その内容の方から次々に見わけて、是だけは又別途に研究しなければなりません。日本の文藝發達史からいふと、是も非常に大切な參考資料ですが、國に傳説がどうして發生したかを考へて見るには、之を混合して居たのでは結論が遲くなります。さうして根本の問題がもう少し明かになると、この新らしい追加は説明がたやすく、又一段と興味が深くなるのです。
終りになほ一つだけ、私が將來の傳説研究者に期待して居るのは、この數多い單純な不思議話は、もとは一つ/\孤立して行はれて居たのでなく、それを組合はせてこしらへ上げた、長い/\神巡歴の古傳が、曾て正式の語りごととして管理せられて居た時代があつたといふことが、比較によつて段々と判つて來るだらうことであります。今ある傳説の多くは、その大きなものゝ破片で、是だけならば婦女や少年をも印象づけて、いつまでも記憶させたでせうが、纏まつた一つの大きなものは、之を管理するにも時と力とを要し、よつぽど早くからそれが不可能になつて居たのでは無いかと思ひます。神話といふ言葉は、日本で心輕く用ゐられて居ましたが、今日はおろかのこと、古い世の中にもそれが有つたといふ證跡は、まだ私なんかには見つかりません。たま/\神話的又は神話のかけらかと思ふものが傳説の中にも又昔話といふものゝ中にも、稀ならず存するといふまでゝあります。ミトロジイといふ學問は、さういふ切れ/”\の遺物の研究から、遠い祖先の系統だつた物の觀方を、探つて行かうとするのが目的のやうに、私などは聽いて居ります。それに類する仕事が日本でも可能であるかどうか。私一箇としては傳説がこの樣に豐富であつて、しかも土地により環境によつて、進化のいろ/\の段階が併び存し、綿密なる比較を許す國、それを理解し得るまでに人智の進んだ國は、さう澤山には無いかと思つて居ます。三十何年間の私たちの研究は、運がわるくて願つたほど發展しませんでした。世上が關心をもつならば、是からは大いに開けて行くだらうと思ひます。
(129) 富士と筑波
○
常陸風土記の一節を進講申し上げます。
風土記は今より千二百三十六年前、奈良の御門の和銅六年と申す年に、國々の司へ御下命があつて録進せしめられたものでございます。其後十年二十年の間に、全國全部出揃つたものであらうと思はれますが、殘念なことには大部分は夙く散佚いたし、今日まで傳はつてをりますのは出雲風土記が一つ、是はほゞ滿足にのこつて居ります。次にはこの常陸と播磨との風土記が一部分だけ發見せられました。この以外に、肥前と豐後と二つの風土記の殘缺といふものがありますが、果してこの御時のものかどうか、まだ少しばかり疑ひがあります。ともかくもこの五か國の風土記だけは存在がたしかめられまして、それ/”\獨立の一書として現在は世に行はれてをります。その他はたゞ他の古書籍に僅かづゝ引用せられてありますものを、逸文として拾ひ集めてゐるのみでございます。
○
他日何かの折に御目に觸れることもあらうかと存じまして、御道しるべの爲にこゝにその中の是も興味深き一節を、譯讀して御聽きに達します。
(130) ○
始めにこの常陸風土記の、他の地方のものと比べまして、特徴と認められますことを申しますと、一つには成立が最も早く、從つて翌年又は翌々年の始めまでに、もう進達の手續きを終つてゐたかと思はれる點であります。(靈龜元年には改里爲郷)二つには文章が漢文としてよく整ひ、美しい文藝作品と見られますこと、更に第三には古い珍らしい土地の言ひ傳へ、今日の言葉で傳説と申してをりますものが、殊に數多くこの風土記には採録せられてゐることであります。和銅六年五月の勅命の御趣旨は、その國々の物産品目と土地の生産力、山川原野の名の由つて來たるところ、及び古老相傳ふる舊聞遺事を、文籍として取纏め言上するやうにといふことになつて居りますが、此書の現在殘つて居ります部分は、專らその古老の言ひ傳へのみに限られて居りますのは、恐らくは漢文の書き方が巧みで又美しく、極めて委曲を盡してをります故に、後世特に之を鑑賞しようとした人が多かつたからかと存じます。
○
そこで次には讀み方の問題になりますが、この文章は純然たる漢文でありましても、之を讀みます人々は、始めから漢語の通りには讀み下さうとは致さず、やはり我々どものやうに、一應こちらの言葉に直しまして、今申す譯讀をしたものかと思はれます。その讀み方が時代により、人によつて一樣でなく、常に聽く人の理解を目的として居りました爲に、多分最初は斯う讀んで居たであらうといふ、後世の學者の推測が今はまだまち/\なのでございます。近世、漠學が普及致しましてからは、新たに又一種の譯讀法が起り、大體に漢字を音のまゝで讀む言葉が多くなりましたが、其方が既によく通用するのでございますから、之に由つて差支はないと私どもは考へて居ります。たゞそれではあまりにも古い時代の記録の味はひが薄くなりますので、現在ほゞ明かになつて居りまする昔の讀み方を、一部は(131)取りまじへて讀むことに致してをります。譯讀と申すのは、つまりは理解する者の一人々々の文章でありまして、奈良朝當時の讀み方をそのまゝに寫し出しますことは、もはや今日は望み難く、さうしては却つて本來の意味を、掬み取りにくゝなるのでございます。古書の讀み方につきましては、是からもなほ色々の意見が出ることゝ存じますが、その要點は、成るたけ註釋を加へずに、耳に聽いて其まゝ理解し得るやうな讀み方が良いかと、私などは存じてをります。
○
さて、本文は僅か二百數十字の、簡単なものでありますが、是れも早少しづつ、どうよむかの意見のちがひがございます。さうして又一千二百年前には、何と讀ませてゐたかの不明な點もあります。それで私一筒の考へでありますが意味のわかるといふことを主として讀んでみます。
○
古老曰 昔租神尊 巡行諸神之處 到駿河國福慈岳 卒遇日暮 請欲寓宿 此時福慈神答曰 新粟初嘗
古老は申す、昔御親神の尊、神々の處を行き巡りまして、駿河の國富士の岳に到りましゝとき、たま/\日暮れしかば、夜の宿りを求めたまひき、この時富士の神答へて申さく、新粟初めて嘗す、(これを平田篤胤などは、ワセのニヒナメシテと訓むべしと申しましたが、私どもは「ワセ」といふ必要は無く、「ニウナメツカウマツルトシテ」と言つてゐたものと考へてをります。)
家内諱忌 やぬち忌みこもりたり。(即ち祭の物忌の爲に、外部の人とは應接することが出來ないといふのであります。)
(132) 今日之間 けふのほどは 冀許不堪 いなと申すことを許させたまへと申しき。「不堪」は御ことわりの言葉であります。失禮なれどもさう御答へ申すの他はありませぬ。
於是祖神尊 恨泣詈告曰 即汝親何不欲宿 こゝにみおや神のみこと、いきどほりいさちてのりたまはく、即ちいましが親なるを、なぞも宿さじとはする。この「即」などは精確なる漢語の使ひ方であります。「やがて」とも、「とりもなほさず」とも日本では申しましたが、ぴたりと是に當る言葉はこちらにはないのであります。「考へて見れば」「道理を推していふならば」の意味で、つまり是がこの一場の物語の眼目であります。
汝所居山 生涯之極 いましが住める山、いきのきはみ。(即ちこの人の世のあらん限り、いつ迄もといふ意味であります。)
冬夏雪霜 冷寒重襲 人民不登 飲食勿奠者 ふゆなつゆきしもふり、しく/\にさむくつめたく、くにびとのぼりこず、をしものさゝげまつるものなからんとのりたまひき。
これまでが前段であります。
更登筑波岳 亦請容止 此時筑波神答曰 今夜雖新粟嘗 不敢不奉尊旨 爰設飲食 敬拝祗承 於是祖神尊 歡然諾曰
それより筑波の岳に登りまして、こゝにても假の宿りを求めたまふに、筑波の神は答へ申さく、こよひはにふなめの夜なれども、いかでか仰せごとをかしこまり奉らざらんとて、こゝにくさ/\のをしものを設けて、つゝしみてつかへまつろひたりき。かゝりしかばみ親神のみこと、よろこびて歌ひたまへらく。
○御酒をめしあがつたので御歌が出たと申すのでござります。
愛乎我胤 はしきかも我が末 嶷哉神宮 たかきかも神の宮。
これは筑波の神の住居を祝福せられたことばであります。
(133) 天地竝齊 日月共同 人民集賀 飲食富豊 日月彌榮 千秋萬歳 遊樂不窮者
あめつちとひとしぐ、ひつきとともに/\、國人つどひよろこび、をしものゆたかにして、日に月にいよゝ榮え、千秋萬とせ、たのしみはかぎりあらじと歌ひたまひき。
これは多分古くからの歌が傳はつてをりましたのを、新たにやゝ無理に漢譯したものとおもはれます。
是以福慈岳常雪 不得登臨 其筑波岳 往集歌舞飲喫 至于今不絶也
こゝをもてふじの岳は常に雪ふり、のぼり立つこと難く、筑波の岳にてはゆきつどひ、まひうたひ、のみくひすること今も絶えせざるなりといへり。以上が本文でござります。
○
物語の筋は至つて簡單で、格別註釋を添へまする必要もございませぬが、なほこの背後に隱れて、この大御國の年久しき歴史を明かにせんとする者に、看過すことの出來ぬ二三の大切な事實があることを認めずには居られませぬ。
第一には、久しく中央に語り傳へ、又文獻の上に載せられてあります歴史と、常陸の古老たちが持傳へた舊聞遺事とには、兩立しがたい點があることでございます。それを朝廷では珍らしいと御聽きなされ、一方には又それを憚らず申上げようと致しました。昔の人々の大樣な心持はゆかしいのであります。
○
祖神尊は、この風土記の本文によりますると、富士にも筑波にも御先祖に當る大神であります。その大神が時あつて、國々を巡行なされたと申すのでありまして、これは正史の上には少しも出てをりませぬ、かはつた言ひ傳へなのであります。第二には山の神々までが稻を作り、秋の收穫の後には新嘗の祭をなされたといふことであります。新嘗(134)が獨り宮中の御祭であつただけでなく、少なくとも東日本の各地では、村の農家でも之を營みましたことは、萬葉集その他に明かな證據がありますが、それを山々の神たちまでが、同じく一般の風習として守られたやうに、素朴なる人々は想像してゐたのでござります。
この新嘗の祭には、それに先だつて何日かの物忌即ち謹愼がありました。その爲にミオヤ神の尊におはすことを知りつゝも、なほ恐る/\御斷り申上げて、大神を御怒らせ申したといふのであります。之に反して筑波岳の神は、物の道理をよくわきまへて居りまして、たとへ嚴しい物忌の法則には背くとも、宿を求めたまふ御祖神を御ことわり申すことは出來ぬと、速かに御迎へ申して十分なる款待を致したのであります。
○
この傳説の起りは、大よそはわかつて居ります。富士はあの通りけだかい山の姿でありますが、夏まで雪に蔽はれて人の登り難い山と、まだあの頃はなつて居りましたに反し、筑波山はこの當時、頻りに里人が登つて神を祭り、且つ共々に遊び樂む山でござりました。多分は東西に二つの山の共に見える關東地方、中でも利根川より東の常陸の人々が、かつは處びいきに、斯ういふ解釋をしたのであります。是も萬葉集に出て居りまするし、又此風土記の次の章にもありますがこの山には特に春秋の好い季節に、若い男女が集まつて參りまして、歌ひつ舞ひつして終日遊ぶ習はしがありました。富士と筑波のこの一つの物語の如きも、始めはその山遊びの日に於て、或一人の藝能にすぐれた者が、歌ひ出したものであつたかもしれませぬ。この民間の新嘗祭が、遠く大昔に始まつた神秘の行事であります爲に、之をきいた人々は深い印象を受けまして、古老になるまでも永く記憶してゐたものかと思はれます。
(135) ○
山と山との爭ひといふことは、我邦の文藝では極めて普及した趣向でありまして、傳説の學者たちは之を山爭ひモチーヴと呼んでをります。其例は數限りもなく今も世に傳はつて居るのであります。たとへば大和に都のありました頃から、香具山と耳梨山とが、畝傍山といふ美しい姫神を爭つたといふ言ひ傳へが、古くは萬葉集の長歌にも殘つてをります。是と殆と同じ傳へは、一昨年大御ゆきのありました岩手縣の北上川流域にも今なほ殘つてをります。それは汽車の窓からもよく見えまする、姫神嶽といふ姿の至つて美しい山を、岩手山と早池峯山とが取合ひをしたといふのでございます。
單に二つの山が高さ比べをしたといふだけの、幼ない者の悦びますやうな形を以て、今日行はれてをりますものならば無數でございます。東北では山形秋田二縣の境に在る鳥海山、これは富士よりも低いといはれたのが殘念と申して、山の頂きが飛んで海に入りました。それが日本海の中にある飛島といふ島であると申しまして、今でも此島では烏海山の祭を致します。北陸では加賀の白山と越中の立山、この二つの山は今も背くらべをしてをりますので、少しでも山の上から土や石を持ち下つて山の高さを低めては、山の神樣が怒られるなどと申してをります。愛知縣下の或二つの山には、山に登る人々が少しでも高さの手傳になるやうにと、めい/\石や土を持つて登ることゝしてゐるものがあります。大和でも東南の境にある高見山は、多武峯と高さを競つて仲が惡く、遠くからこの二つの山は竝んで見えますのに、互ひに山からは相手の山が見えぬのは其爲といふ話になつて居ります。信州の淺間山の麓をあるく旅人は、忘れても富士の噂をしてはならぬと申しました。九州の熊本の市に近い飯田山といふ山は、山の上に小さい池があります。金峯山と申す山と高さ比べをしまして、それならば兩方の峯に樋をわたして、水を流して見ればわかるといふことで、それを試みて見ますと水が自分の方へ流れたので負けました。それに閉口をしてもう是からはさうい(136)ふことは「言ひ出さん」と、土地の言葉で申しましたので、それで飯田山といふのだとも申して居ります。斯ういつた話は全國にわたり、まだ色々と集まつて居るのでございます。
○
しかしながら、この常陸風土記の物語などは、たゞ單に山の高さの勝負けといふ一つの趣向によつたものでなく、御祖神に奉仕する者の心がけのよさ惡しさの故に、一方は深い御惠みを受け、他方は罰を受けたといふ古い信仰上の物語がこの基礎をなしてゐるのであります。さういふ話も他にありまして、それは多くは神の御巡行と、神が一夜の宿を御求めになつたのを受け拒んだといふことに伴なうて居りますが、別に今一つ、物忌を守る守らぬといふ點に特に力を入れたものが、義經記といふ中世の本にも出てをります。昔越前のあらちといふ山では、二人の狩人が山に入つて、山の神さまの御産の場所に行合せ、一人は血の忌を怖れて少しも御助け申さぬのに、他の一人はその穢れを憚ることなく、神に食物をまゐらせたのを御悦びなされて、それから以後は一方は衰へ、一方の流派のみ榮えたといふ話、是などは九州南方の椎葉と申すひどい山村と、中部地方の天龍川の中流山地と、北の端では秋田縣北部の山村とに今も行はれてゐることが、近頃になつてわかつて參りました。つまり我邦にはよほど古くから、行はれてゐた傳説かと思はれます。
○
冬の新嘗祭に先だつ忌籠の晩に、人の信心の淺さ深さを見そなはすべく、大神が旅人の姿で一夜の宿をお求めなされたといふのは、半分以上右の二人の狩人の話と似てをります。この物忌は嚴重至極のものながら、なほ御祖神の御宿をする爲には、それさへも破つてよかつたといふことを、心得てゐる者と居らぬ者とがあつたといふこと、我々の(137)幸福と不幸の源には、凡人の智慮ではわからぬ者があるといふことを説き示さうとした點は二つ似てをります。さうして此教訓も亦少しづゝ形をかへて、今日まで汎く國中に行はれてをるのでございます。
その最も普通の形は、弘法水又は御大師水とも申しまして、弘法大師が破れごろもを着て、貧しい旅人の姿で民家に立つて水を一ぱい飲ませよといはるゝ。家の主婦はちやうど機を織つてをりまして、昔の機はからだを機にしばり付けてをりますから、それをほどくのが煩はしさに、一方の家では濁つた水を勝手にお飲みなされといひ、他の家では女房は心のやさしい者で、わざ/\機を下りて遠い所の泉の水を汲んで來てすゝめました。それで今でもその一方の土地には、殊に清らかな豐かな清水がわき、冷遇をした方の村の井戸は今も濁つてゐると申します。斯ういふ土地は現に何百といふほども全國にはあるのでございます。
○
どうしてその不思議の旅人を、弘法大師と申すかゞ、是までは疑問でありましたが、それももう段々とわかつて參りました。それは我邦では今も全國の半ば以上、殊に中部地方から關東東北にかけまして、その大師がきまつてまはりあるかれるといふ日がありまして、その日を多くは大師講と申して居ります。それが舊暦の十一月二十三日の晩、即ち古來の新嘗祭の日でありました。さうしてやはり貧しくして心のよい者が、その旅人を款待して厚く賞せられ、富みて心のおごれる者が冷遇して罰を受けたといふ話になつてゐるのであります。土地によつて話し方は少しづつかはり、多くは子供などの珍らしがつて聽くやうな形のものになつて居りますが、此點は富士筑波の物語と一つでございます。
(138) ○
再び斯樣な話を御聽き遊ばします折もなからうかと存じますので、その中の一つの例の最も奇拔なものを申添へて置きたうございます。
舊十一月二十三日のいはゆる大師講の晩には、必ず少しでも雪が降ると申傳へて居ります所は多く、之を跡かくし雪〔五字傍点〕と申すのが普通であります。昔或一人の至つて貧しい老女の家に、大師がこの夜來て宿られました際に、何一つさし上げるものがないので、惡いことゝは知りつゝも、そつと近くの田の稻架から、少しばかりの稻を盗みとつて、いそいでそれを舂いて飯を炊いですゝめました。又は大根をもつて來たとも申します。ところが其老女は足が片輪でありましたので、其まゝ置いては足跡によつてあらはれます。それをあまり痛はしいと思はれましたのか、大師がわざわざ雪を降らせて、其足跡を御隱しなされた。それがもとになつて此晩にきつと降る雪を、跡かくしといふ名でよぶことになつたと申すのであります。
佛教の方ではすぐれた名僧でありますが、弘法大師には恐らくさういふことは出來なかつたらうと思はれます故に、之も大昔以來、この霜月三夜に國中を巡りあるきたまふ尊い神の御しわざであり、乃ち常陸風土記の千二百餘年前からあつた言ひ傳へが、必ずしも常陸一國に限られたものでないことを推測せしめるのであります。どういふわけで又いつの頃から、之を弘法大師だつたなどといひ始めましたものか、それは容易に釋けさうもない謎でございますが、「ダイシ」といふことばには、別に今一つ古い世の意味がありました。日本の呼び方としては、嫡子又は長子を「オホイゴ」又は「オホゴ」、漢字に大子と書きます故に、時々は音で「ダイシ」とも申したらしいのであります。全國農民が新嘗の祭を奉仕する夜、國土を巡行なされるのは、祖神尊ではなくその第一の御子であるといふやうな信仰が、常陸とはちがつた土地には行はれてゐたか、又は後になつて起つたものかもしれぬのであります。もしさうだつたと致(139)しますと、こゝに又一つの新たな問題の、これから考へて行くべきものがあらはれます。舊暦十一月二十三日を以て、農家にとつて至つて重要な祭日としてをりますもとは、天體の觀測に基づいたもので、之と隣邦大陸の暦本に久しく知られてゐる「冬至」といふものと、關係があるのではないかといふのが、その問題の一つでございます。冬至は一陽來復の日と申しまして、太陽が南の空の終點から、引返して來られる日であります。西洋でクリスマスと申しますのもその冬至と同じ日で、今の暦では十二月下旬となつてをりますが、これも基督教の流布よりも前から知られて居りました。やはり冬至の日のことだらうと、あちらの學者は申す者が多うございます。これをイエスキリストの誕生日としましたのは弘法大師の行脚ともよく似てをります。我邦の新嘗祭はもとは、舊暦十一月の下の卯の日といふことになつてをりましたが、民間では一般に、今でも二十三日の夜を大切にいたしまして、これが大子といふ若い尊とい神が、國巡りをなされるといふ日でありました。この世の勞働の單純でありました昔の人は、却つて我々よりは綿密に、自然の移りかはりに注意を拂ひ、それと信仰とを結びつけて、許さるゝ限りの想像力を働かせて、古來の大神を禮讃してゐたのではないかと思はれます。 (昭和二十四年一月二十八日 進講控)
(140) 瑞穗國について
一
本日のお祝ひに、何かめでたく且つ珍らしい話題をと心がけたが、どれも是もまだ半分で、長たらしい割りに纏まりが惡い。他日もう一度補足をするつもりで、この稻の話をして見る。つい數日前に、群馬縣の一青年から、斯ういふ葉書を受取つた。曰く、麥粟黍稗等の穀物は、草も其實も共に一つの語で呼ばれるのに、どうして稻ばかりは、特に穀粒をコメと申しますかといふ一質問である。
之に對して自分は考へ込んでしまつた。日本には古い言葉が色々殘つて居て、誰がどうして其語を用ゐ姶めたか、わからぬといふものは幾らでもある。稻米二つの名があるなども、たゞ偶然であらうと言つてもすむ。この答へが出來なくても、少しもをかしいことは無い。たゞ私も青年の頃から、日本の農業史を知らうと思ひ、殊にこの二三年は米作の方面より、日本人の精神生活の變遷を尋ねて行かうと心がけて居りながら、斯んなありふれた一つの事實、それも或は何か隱れた意味が有るかもしれぬものを、丸々氣が付かずに過ぎて居たのはどうしたことであらうか。やつと今頃になつて知つたのは遲蒔きだが、つまり人間の知らずに居ることは存外に多くあり、又手近かに在り、從つて吾々の新たに學び得ることが、つい眼のさきにも在るのだつたといふことが、少なからず老後の樂しみを豐かにする。それで其通りを返信に書き、自分も是から改めて考へて見るが、そちらでも是を時々思ひ出して、注意して行くやう(141)にしたまへと答へて置いた。小さな何でもない問題のやうではあるが、ともかくも今まで蓋をあけたことの無い箱のやうなものだから、事によると何か非常に面白い物が、この中に入つて居るのかも知れない。はつきりとは言へないが私には一種の豫感がある。本日の聽衆諸君にも、共々に考へてもらふ價値があるかと思ふ。
二
普通に斯ういふ言葉の問題を考へるには、先づ用法の變化を跡づけるのが順序であらうが、コメが今日の如く頻繁に使はれることになつたのは、さう古くからのことでは無い。はつきりと境は立てられぬ迄も、ともかくも中古の或時代以前は、歌文にも口語にも、主としてヨネといふ語を用ゐて居たことは證明し得られる。ヨネは明かにイネと同系の語であつて、少しく形をちがへて莖と實とを分たうとしたものと思はれるが、いつとも無くそれが古語となり、コメが其代りに、寸刻も我々の念頭を離れぬ日常語になつてしまつた。新たに日本に流行して來た言葉ならば、斯ういふ例も決して珍らしくはないが、是が又上古以來、日本によく知られて居た語で、現に推古天皇紀の童謠の
岩の上に小猿コメ燒くコメだにも云々
といふ一章などは、意味はまだはつきりと汲み取れぬながら、既にあの頃の語り草だつたとさへ傳へられて居る。もつと多くの實例を比べて見た上でないと斷定は許されないが、コメ・ヨネ二つの語が併存して居た時代には、一方のあまり?々使はれないコメといふ語に、何か隱れたる特殊の意味が伴なうて居たのを、後世の人はもう忘れてしまつて、やたらにコメばかりを口にするやうに、なつたのでは無いかと、先づ私は想像して見るのである。
そこで本土と同じ樣に稻を作り、同じ言葉、同じ感じを以て、神を祭つて居たかと思はれる南方の島々、今日不幸にも琉球群島の名を以て、隔離せられて居る海上の隣人たちが、果してどういふ風にこの問題に對處して居たらうかを先づ尋ねて見る。島々は其位置交通のちがひに由つて、言語?態にそれ/”\の異同はあるけれども、大體に於て米(142)をヨネといふ語はまだ生れなかつたやうだが、稻と穀とを合せて共にイネと謂つたらしい形跡は端々に洩つて居る。それよりも顯著なのは、宮古八重山の二島群を始めに、他の幾つかの開けぬ土地にかけて、兩者を一括してマイと謂ふ者が多く、米だけをクミもしくはコメと呼んで居るのは、沖繩主島の中堅部と、いはゆる道の島、即ち久しく薩藩の治下に在つた奄美大島以北の諸島だけであつた。マイは白米のマイだらうといふ速斷は、MN二字音の行通ひが、此方面の常の傾向であつたことを考へると、必ずしも安全とは言へない。それと同時にコメといふ語の普及が、江戸期の田制の影響に基づくやうに、思つてしまふことも愼まなければならぬ。至つて稀にしか使はれなかつたにしても、米をコメといふのは沖繩でも古語であつた。殊に一つの注意すべき例としては、人の始と言はるゝ阿摩美久が、海上の常世郷ニライカナイから、稻の種を乞ひ受けて栽ゑさせたのも、沖繩東隅の一聖地、玉城百名村の清き泉のほとりで、それに奉仕した最初の農民は、米之子といふ舊家の祖であつたと傳へられ、その米之子は島の言葉で、クミヌシーと呼んで居たやうに私は聽いて居る。もしまちがひで無いならば、是は一つの大切な手掛りであらう。
三
人がめつたに使はぬ古語といふものが、久しく記憶せられて居たのには理由が無くてはならぬ。日本には忌言葉と稱して、特に改まつた儀式の日に用ゐらるゝ幾つかの單語があつた。常の日は其語の強い鮮かな印象をそこなはぬやうに、愼んで口に出さぬことにして居たけれども、心の中では休むひまも無く活きて働き、我々の考へ方を指導して居たことは、今でも信仰の歴史に於て跡づけ得られる。コメも或はさういふ忌言葉の一つであり、後々其拘束の弛むやうな事情が生じた爲に、むしろ反動的に、是が最も使用度の高い言葉になつてしまつたのではあるまいか。米を菩薩と呼ぶ奇異なる風習なども、何かその古い感覺の名殘であるやうな暗示を與へる。
そんならコメといふ語の最初の意味、始めて米に對して斯ういふ改まつた呼び方をした理由は何處に在つたらうか。(143)試みにそれを説くのは大膽な行爲であるが、同時に學問の一つの樂しみでもある。現在知られて居る日本語の中で、音の構成の最も是と近いのは、普通に「籠」の漢字を以て宛てられて居るコモル・コムル一系の語であつて、其活用の區域はまだ隅々まで討査せられて居るとは言ひ難く、古くは「出雲八重垣妻ゴメに」の如く、今よりもやゝ弘いコメの使ひ方もあつた。何かもう忘れられた脈絡が、この二種のコメの間には有つたので無いかといふ想像が、先づ念頭に浮ばずには居ない。
それを吟味して見ようとすると、有る限りの場合、殊に比較的縁の遠い南端の島々から當つて見なければならぬ。コモリが圍障の中に在ること、即ち四周からの隔離を意味したことは、「こもりぬ」といふ古歌の語からも推測し得られるが、今日なほ耳にする地方語の中にも、日本海の海岸地帶などではコモリは小さな沼のことであり、南方は奄美大島その他の幾つかの島にも、海沿ひの水溜りをコモリといふ方言が明かに行はれて居る。是なども同じ一つの動詞の名詞形と見られ、直接米作との繋がりは無いまでも、少なくともこの語の本來の感じが、もつと具體的に且つ截然と、他と區劃せられて居たことが考へられる。
四
次に本州の方には既に比較すべきものが無くなつたが、南島にはコモリを人の尊稱に用ゐて居た痕跡がなほ見られる。其中でも最も有名なのは親雲上、是は中級官僚の全部に流用せられ、近世はペエチンなどゝ發言するやうにもなつて居たが、文字の出來た頃の原の音はウフヤクムイ、即ち大親にクムイ(コモリ)の附いたもので、決して一部の俗衆が解したやうに、御役に前を添へたのではなかつた。親又は大親は一邑もしくは一郡の長者、權力ある者の稱號であつたのが、是も追々と値が安くなり、末には村々の小役人から、たゞの親爺にまでもさういふやうになつたのは、ちやうど我々の殿や樣や旦那、又西洋のシニョールなどゝも似て居る。それで愈々當て字の雲の上が、わけなしに有(144)難いものとなつたのである。
是と對照してよいものは、奄美の諸島でノロ即ち村々の祝女を、ノロクメ又はノロクモイと呼んで居たことである。薩藩治下の二世紀半に於て、祝女は辛うじて其命脈を保持し、是が尊稱であることも殆と忘れられようとして居り、さうときまつたら却て切捨てられたかもしれなかつた。公の文書には多く能呂久米と書いたけれども、現實には之をノロクモイといふ者があり、それと同じ語は又沖繩本島の北部地方にも、非公式にはなほ行はれて居た。多分は是が近世のカナシに先行して、一時は專ら信仰生活に干與する者を聖別する、特殊の尊號であつたかと思ふ。
カナシは英語の dear などゝよく似て、心に最も近く切に愛するといふ意味であり、從つて用途は幾らでも擴大し得たかも知れないが、當初是を神々と王者との爲に作り設けた時代には、巫祝祭官等の祭事に奉仕する者よりは、一段と高い地位に崇めようといふ政治的な意圖があつたかと思はれる。ところが其範圍が段々と弘く、多くの聖職者をも其中に含むことになつて、一方のクモイは不要に歸し、たゞ北部の離島にのみ殘つて居るといふことは時代を談つて居る。球陽といふ史書には少なくとも一箇所以上、聞得大君の次に司雲上といふ稱號が見える。司(ツカサ)は即ち祝女の長で、是も後々はアムガナシ等の名に改まつて居た。雲上が能呂久米のクメ又はクモイと同じく、古來定まつた忌み籠りの戒律を完了して、神に近づき人に仲立ちし得る者の、貴き稱號であつたらうといふ推定は、必ずしも大膽に過ぎるものとまでは言はれまいと思ふ。
五
島々の忌籠りは、元は相當に大がかりなものだつたらしい。第一に期間が驚くほども長く、且つ數々の禁制があつて、それを守り通すといふことは難行であり、從つて特にこの任務に當る者が、大きな一般の尊信を受けて居たことは、ちやうど本土の方の舊い御社に於て、最も神に近い奉仕をする人々を、齋ひ主もしくは物忌といふ名で呼んで居(145)たのと、同じであつたとも見られる。しかし他の幾つかの實例を見ていくと、南島のクメ又はクモイといふ語の用法は、よほど又今日の精進潔斎などよりは弘く、本來は是が貴ときもの或は神聖なるものを意味したテダクモイといふ言葉さへあり、コモルは寧ろそれから導かれた動詞ではなかつたらうかといふ疑問も新たに生れて來るのである。
話を要約して竝べることが、殊にこの方面では六つかしいが、現在自分などの注意して居る實例の一つとしては、奄美大島には以前ナルコ神テルコ神の信仰といふのがあつた。百年ほど前に鹿兒島の士の名越左源太といふ人が書き殘した南島雜話に出て居るのが元で、是を書き傳へた史書が多く、儀式は久しいこと絶えて居るらしいが、舊暦二月の壬の日を御迎へといひ、それから七つ目の四月の壬の日を御送りと稱して、其中間の六十日、多くの能呂即ち祝女が集まつて、一つの假屋の中で、男子を全くまじへない色々の神秘の行事に、携はつたことだけはなほ記憶せられて居る。ナルコ、テルコは沖繩本島のニライ・カナイの大王と同じく、海から渡つて來られる神靈であることはほゞ疑はれないのだが、近頃は勝手な解釋が流行して、其一方は海の神、第二のものは山の神などゝ、分けて考へるのが通説のやうになり、中にはテルコは土耳古ぢやないかといふが如き、飛んでもないことを言ひ出す人さへあつた。島々の比較を進めて行けば、少しづつは判つて來る筈なのだが、一ばん近い類例は伊平屋の島にある。こゝは大島から那覇の港に通ふ航路であつた爲か、所謂ナルコ、テルコの信仰の片端と、祭の詞とが傳はつて居て、神の名をナルクミ、テルクミと呼ぶことにして居た。即ち神にも亦クミといふ語を添へて呼んだことゝ、ナルコ・テルコのコの音が、同じくそれであつたことが考へられるのみか、更に一歩を進めては、神をカミといび始めた根原も是からも窺はれる。内地の方にも似た例は稀に存するが、沖繩では一般に村々の神に奉仕する女性を、何神と呼ぶ風が殘つて居た。是は神人の古い意義でもあり、又祭典の或一定の期間のみは、人そのものを崇敬の當體として、平常の生活と峻別して居た曾ての習はしを傳へたものとも見られる。偶像や呪物を常設した社會とはちがつて、東方の島人たちは兆候に敏感であり、又之を確認し得る條件を重視した。猿や狐や鴉が日頃は驅逐せられ、或時或場合のみに限つて、神の如く拝(146)禮せられて居た。いはゆる自然崇拜の元の姿は、この方面からでも私には説明し得られる。
六
但し稻の實をコメと謂つた理由は、是だけではまだ明かだとまでは言へないであらう。よつて今度はやゝちがつた路筋から、もう少しこの問題に近よつて見るならば、この奄美大島の西南隅、今いふ瀬戸内の海へ、西の口から入つて來た取掛りに、少しの平地があつて村の名を西の古見(コミ)と謂つて居る。久しく注意して居るが、此村の舊事は全く記録せられて居ない。住居も恐らくは入替り、四隣の記憶も薄れて居るのだらうが、なほ私は是と同名の一つの村が、遠く南に離れ八重山群島の西表島に、古く榮えて居たといふことは偶然の一致とはどうしても思はれない。さうして此方には色々と、古い生活の跡が殘つて居るのである。
現在はこの古見も悲しい廃墟の一つではあるが、僅か三百年ばかりの昔までは、是が群島文化の爭へない中心であつたことは、幾つかの事實によつて確證せられて居る。たとへばアヤゴといふ宮古島の物語歌に、此島の土豪が沖繩王府の威力を背景にして、全八重山を征服した時代を敍したものが、今も元のまゝで傳はつて居るが、是には其外來支配者を古見の主ともたゝへて居る。いはゆる藏元が竹富を經て、今の石垣島に移されたのはずつとそれから後の事だつた。古見には欄干の有る石橋などもなほ殘り、昔の繁榮は記憶せられて居るに拘らず、米を作る田のみはあつて住民は離散してしまつた。住めない重なる理由はマラリヤの猖獗であつたが、それに先だつ大風高浪、その他くさぐさの天災があつたと推測せられ、ともかくも今は近くの四つの島から舟で渡つて稻を作りに行くまでになつて居る。この四つの島のうち、小濱島は土地の音でクモーマと呼ばれ、名の起りは小さき古見といふ意味だといふ。竹富島はそれよりも更に東、石垣島との間に在る小島であり、パナリ即ち離れといふ別名をもつ黒島と新城《あらぐすく》の島は、小濱島の南面に横たはつて居る。古見の住民の生殘者たちは、四つの島の何れかへ移つて家を保つたらしく、曾て原住地に行(147)はれた毎年の稻の祭が、若干の改廢を以て今もなほ行はれて居るが、舊家の斷絶や離散を經て、以前の形を其まゝには傳へ得なかつたと言はれて居る。
七
八重山島諸記帳は、古見の衰微が始まつてよりずつと後、石垣に行政の中心が移つてからの記録だが、大略次のやうなことが其中には書いてある。曰く、昔古見邑の三離嶽(ミチャーリオーン)の御神、身に草木の葉を纏ひ、頭に稻穗をいたゞき出現の時は豐年にして、出現なきときは凶年なれば、所中の人、世持神と名づけてたかべ〔三字傍点〕來り候。この御神、曾て出現なくして凶年相續き候へば、豐年願として人々彼形を似せ供物を備へ、古見三村より小舟一梃づゝ賑かに仕出しあらそはせ、祭の規式を勤め候、利生相見え豐年なれば彌々其瑞氣を慕ひて、懈怠無く祭り來り候。今村々には世持役と申す役名を是に準へて祈り申候。但し此時の由來噺有之候也(以上)。
是は要するに當時島々に行はれて居た二つの信仰行事の根原を、上司に向つて説明しようとしたもので、其一つは所謂爬龍船即ち小舟の競爭で、名稱は既に對岸大陸のものをまねて居るが、日本の各地にも古くから行はれて居た競技である。最初古見がまだ榮えて居た頃には、そこの靈地の三離嶽を目ざして、沖の方から漕ぎ寄せたものだつたが、後には島々の海濱へ引移したらしく、黒島にはごく最近もなほ行はれ、竹富島では其西岸のニーランといふ靈地の前面で、近年まで行はれて居た記憶が殘つて居る。それから一つの行事は、神を裝うた者の巡遊であつて、現在は方式名稱殊に期日に關して、各地若干の變化を見ることにはなつて居るが、大體に同じ系統と見られる神態が、この群島の多くの邑里に、今も大切に保存せられて居た。たとへば私がもう三十年も前に、「海南小記」の中に報告して置いた、石垣島宮良のニイル人の如きも、その一つの形であつたことが追々と明かになつて來た。
是は主として臺灣在住の民族學者たちの實地討査によつて、比較が可能になつた御蔭であるが、右の宮良部落のニ(148)イル人なども、元は赤マタ黒マタといふ異形の面を被つて、家々を巡り訪れる二神人がある故に、二色人と謂ふのだとの俗解が流布して居た。ところが古見の舊地を始め、それに接近した他の或島でも神に扮する者は三人で、黒マタは親であつて御嶽から外には出ず、赤マタと白マタとは子であつて、舟ぐろの儀式が終つた後、小濱などでは村中をあるくことになつて居た。つまりは所謂世持役の役者の家々が、同情無き政廳の強制移住によつて、異なる島々に分れて住み、人數が揃はぬ爲に段々省略に從ふやうになつて來たらしいのである。
八
舊日本の農村で正月十五日の前夜に、少年青年が假裝して家々を訪れてあるく風習は、それ自身最も注意すべき民俗であるが、私などは是をこの南端の至つて特異なる類例と比較することによつて、始めて其根原を明かにし得る望みのあることを、かねてから人に説いて居た。さうしてこの方面の變化が新らしく且つ單純であつて、其過程の尋ね究めやすいことが、近頃になつて愈々判つて來たのである。この方の多くの實例を見比べて行くと、大半はすでに兒女の遊戯に近くなつて居る中に、たゞ奧羽の北邊に存するスネカ・火カタタクリ、又はナモミハギ・アマメハギなどといふものが、却つてまじめなる若者の作業として保存せられて居る。しかも彼等が身を隱し神に扮したいでたちは、最初は蓑笠又はそれよりも更に原始的な方法であつたのが、男鹿半島の所謂ナマハギなどになると、もうすでに自製の怖ろしい假面を被ることになつて居る。此點を試みに八重山群島の例と比較して見ると、この方では曾て對岸大陸に漂流した者があつて、赤黒二つの面を持還つたのが始めと、古見の北部落では言ひ傳へて居た。或は事實で無かつたとしても、ともかくも中頃始まつたものといふだけは推定し得られる。その材料は方言トウガナジイ、八重山桐又は濱桐ともいふ木を削つて、四年に一度づゝ改作し、其作者を親と稱して、其四年間は最高の權威を認められたといふから、つまりは祭の指導者をして手製せしめたのである。この慣例は他の村々にも行はれ、祭がすむと假面を御嶽(149)の奧、又はナビントウといふ洞の中に隱したといふが、古い分は恐らく次々と朽ちてしまつたものであらう。
我々の方でも、神事の假面には村人の手製が多く、現在寶物となつて傳はるのは、大抵は職業伎樂に伴なふもので、其以外のものだつたらしい。前にも一度書いたことがあるが、手製の假面には元の型が無く、又大抵は前のが無くなつた後に作るのだから、言はば當事者の空想が基礎であり、永い間には自然に時代毎の心理に導かれる。南の島々の假面を通覽することは許されないだらうが、それが轉じて布袋和尚を聯想せしめるミロクガナシとなり、又所謂アンガマの面にもなつて居るのを見ると、少なくとも男鹿の神山の鬼のやうな、怖ろしい姿にはなつてしまはなかつたらうとまでは想像せられる。
九
話は長くなるがこの序でゝ無いと説けないことは、この假裝の訪問者の名が、土地毎に甚だ區々になつて居ることである。たとへば石垣島北部の古い村々ではマヤノ神。マヤは沖繩語で一般に猫のことだから、いつとなく神の假面の形を猫に近く、製作したものもあるらしいが、是は語吾の偶然の近似としか見られない。伊平屋の島などの神事歌にも、明かにマヤノ神はあるといふが、是は海から渡つて來る神であつた。八重山群島の方ではマヨノ神ともいひ、又マーユンガナシといふ名もあるから、或は久高島などのアマミヤカンジャナシ、即ち四月と九月との祭の日に、二本の竹の棒を舟に擬して、濱邊に出現したといふ神と一つだつたかも知れない。アマが本來は海のことだつたといふ點がもし證明せられるならば、問題はやがて解けるであらう。
次には赤マタ神、又は赤マタ御願などの言葉が、南の島々には行はれて居て、赤マタは又一種のハブの方言でもあるが、是にはまだ語形の一致によつて、蛇の神だらうといふ樣な説は出て居らず、却つて赤マタ黒マタのマタは、マヤの人々といふ意味ではないかと、宮良當壯君などは謂つて居る。所謂ニールビトが二色の面を被る人の意では無く(150)て、ニーラスク即ち海の果の聖地から、渡つて來る人のことだといふこともほゞ明かになつた。今はたゞ一方のマユンガナシが、どうして是と相隣して對立するかを、説明するだけが殘つて居るのだが、それも比較の區域を擴げて行くうちに、やがては判つて來ることであらう。
さし當り私の考へて見たいことは、神事の伎藝北といふことに、假面の採用がどの程度まで力を供したかである。近い頃のいはゆる彌勒踊は行列を主とし、路上の群衆を悦ばしめる爲に、次々の新趣向が加はつたやうだが、なほ一方は古來の定まつた唱へ詞があつて、觀る者演ずる者の感動を統一して居た。小濱島のニロー神の祭の式などは、今も他邑の人には秘密になつて居て、男は十五歳以上、女も島人の妻になつて、村に永住することが明かになつてからでないと、教へなかつたといふのはその唱へ詞のことであらう。假面が特定の人によつて製作せられ、常の日には隱して示さなかつたことは既に述べた。さうして島諸記帳の出來た頃までは、まだその假面も出來て居なかつたやうにも考へられる。或はすでに出來て居たにしても、四年毎の改作で次第に變化をして居たことはほゞ疑ひが無い。
一〇
私がこゝで注意して置きたいのは、最初この神が身に草木の葉を纏ひ、頭に稻の穗を戴いて出現したといふことで、遠い昔の春山霞男などを思ひ起すまでも無く、北につゞいた奄美大島でも、以前は海の神がこの姿を以て出現して居た。八重山では同じ西表島の西岸の農村で、祝女の一人が節蔓(シチカンダ)を全身に纏うて雨乞をする風が今もあり、又南端波照間島の雨乞にも、青年が木の葉や小枝を身にまとひ、顔には墨その他の色を塗つて各拜所を巡り、雨が降つて其汚染を洗ひ淨めるやうに祈願をこめる。それをフサマラーといふのは、フサは草又は塵芥、マラーは身に纏ふ者の意らしく、一種のきたない蟹の名にもなつて居るが、名の起りはこちらに在ると思はれる。さうして此等は何れも面は破つては出なかつたやうである。
(151) 八重山の古見の舊地に於ても、曾てはこのフサマラーが單身で出たといふ説があるが是はまだ確めることはできない。ともかくも以前の也持神が、稻穗を頭に戴いて出たといふことは、深い意味があつたやうに私には考へられる。南方の島々に於ては、今に至るまで貯水灌漑の技術が進まず、天然の條件にたゞ一つ缺くる所があつた爲に、米を以て全員を養ふことは、いつの代にも望まれなかつたにも拘らず、是が他の種のどの穀物にもすぐれて、甘く美しく又上品な食料と認められて、神を祭る日の御酒御饌には、之を缺くべからざるものとし、且つ人間の晴の食事にも、米の消費を以て一つの要件として居たのみか、更に其生産量の増減によつて、社會の安寧幸福を測定しようとするやうな慣習が養はれて居た。是が稻の祭といふものゝ根本の教理であり、同時に又雪深き日本北邊の山國にまで、同じ一つの作物の普及せずには止まなかつた原因であるやうにも私は考へて居る。
最初或は稻以外の穀物を知らず、米を唯一つの食品とした國土に住した者の末なるが故に、此の如き愛着が久しく殘つて居るのかと見る人もあらうが、それにしては代りの品が多過ぎる。麥や薯類はとにかくとして、粟稗は古くから存し、南の島々では粟が現實の主食でもあつた。五穀の競ひ進んだ中原の舊文化地帶ですらも、なほ且つ稻を重んじて嘗の祭があつた。寧ろ産量のやゝ乏しいが爲に、愈々偏愛の助長せられた傾きが窺はれるのである。この東方の群島に於ては、米が全人口を養ひ得た時代は想定することが困難である。勿論人は皆田が作れることを確かめてから移住したが、それはたゞ祭と身祝ひの日、又は盆正月とか節供とかに、腹一ぱい白い飯の食へることが限度であつて、それ以上は始めから期待しなかつた。ところが幾つかの大きい島だけは、山が深く水が豐かに涌いて、やゝ廣い田地が開かれ、米を一年中食べてもよい人の數が、次々と増加して行くことが出來た。最初はそれも儀式とか祭とか、晴と名づけてよい行爲を、毎日續けて居る人たちに限られて居た筈であるが、次第に其意識が薄れてしまひ、一方自然の地形變化と、人間の技術とが力を合せて、今あるやうな廣々とした米作地帶と、米より他には食べる物が無いといふやうな、多數の米食ひ部落を作り出したのは、全く新らしい變化であつた。
(152) 一一
小さな離れ島や山間の村の、自然の制約が多く灌漑の工作の施しにくい土地が、古い姿を留めて居ることは疑はれぬのだが、それを一向に參酌しない米食ひ部落の人々が、今までは古史の解釋に任じて居た。たとへば豐葦原の瑞穗の國と謂つたその瑞穗は、單に靈妙なる穗といふ意味で、むしろ他に色々の劣れる穗の存在を前提として居た。それを今まではたゞ土地の豐沃をたゝへた語の如く見て居たのである。私は是をそのめでたい穗を既に知り且つ尊重して居た人々が、新たに條件の遙かに有利なる土地に來住した、所謂瑞穗の多く得られたる島を發見した歡喜を記念したものと解して、むしろ新舊の共通點のどこに在るかを明かにして見たいのである。
古見の三離御嶽の世持神の外に、島々には又世乞ひといふ言葉があつて、それも亦稻の豐産を祈る祭であつた。ヨは人間の一代をいひ、又は竹の二つの節の中間の名でもあつて、後には一年のトシと近く、時の或長さの有り方を意味した語らしいのだが、それを米作の豐凶によつて代表せしめようとする風は實はこちらにもあつたのである。たとへば七部集の、
奧の世なみは近年の出來
といふ類の用法は、今でも農村にはなほ行はれ、實際に又米の豐作が何と無しに人心を樂しくすることは、鄙も都も一樣であり、是だけは單なる巡環の理法を以て説明することが出來ない。さうして必ずしも米穀經濟の遺習でないことは、南の島々のこの實?が是を證明し、又北の雪國の正月の光景からも考へさせられる。いづれ人間の樂しみは短いものだが、餅とか甘酒とかに用意の米はすぐ盡きて、あとは種子しか殘らぬといふ程に、僅かな田を作つて居る者までが、新年には田植の式、又は皐月の祝などゝ稱して、專らそのわざをぎ〔四字傍点〕の呪力を、米作の一途に傾けて居るのである。久しい慣行として訝る者は誰も無いが、瑞穗が國の頼みであり、又平和の源であつたことは、却つて邊陬の地(153)に於て確めることがやゝ容易である。
一二
正月は外國文化の影響であり、又中央集權の反映であるやうに、かつては自分なども考へて居たことがあるが、よく見ると是は一種の歩み合ひと言つた方が當つて居る。日本では稻の靈が還つて家に在る期間は、仲冬の半ばから暮春の始めまでゝ、正月はちやうど其期の間になり、雪に閉された村里では、むしろ家の祭を營むにふさはしかつた。以前は或はやゝ早く、又は前後に二回の祭があつたかもしれぬが、是が國こぞつて祝ふ日ときまれば、それに一致して行くのも樂しみだつたらう。是に反して南方の島々では收穫が早く、舊暦六月には第一次の稻は苅取られ、九月にはもう次の作の準備にかゝる習ひがあり、種子の村中に留まるのは、其中間の約三月であつた故に、正月は全く稻の祭とは關係が無かつた。通例は節といふのが一年にたゞ一度あつて、それを年ガヘシとも又正月グヮ(小正月)ともいふ處があるが、是にも現在は南北の少しの差がある。北部の奄美群島の島々では、八月九月中の甲子の日をドンガと謂ひ、それより數日前の柴指、節浴《せつあみ》によつて、節折目は始まることになつて居る。沖繩本島は日の定め方はちがふが、やはり八月に柴指があつて、踊その他の行事があとに續くことになつて居た。宮古群島には舊五六月中の甲午とその次の日をシツの日といふが、是は改定らしく、別に村によつては宮古ジチ(宮古節)と謂つて、八九兩月中の甲午の日から數日を、遊び踊る日として居る。八重山の方でも島毎の變化はあるが、シツといふ名稱のはつきり傳はつて居る西表島西岸の村々では、節は舊七八兩月中の癸亥から乙丑まで、即ち甲子を中にした三日間で、この間に嚴肅なる祭典と、それに引續いた踊の行道がある。古見は同じ島の東南隅の村だつたから、是も世持神の系統に屬すと見てよいが、日まで雙方、同じであつたか否かは決しかねる。八月中の甲子の日だつたら奄美と同じ日になるが、是は七八兩月中の甲子だから、年によると六十日、早く行はれることも有り得るのである。
(154) 祭の日を干支によつてきめて置くことは、南方一般の習ひであつたが、それでは月までちがつて來る年がある故に不便であり、從つて土地毎の變化が起りやすかつた。島津藩の勢力が南方一帶に加はつた十七世紀の初から、いはゆる正朔の強制は必然であつたが、こゝでは正月には寧ろ寛大で、七月盆の祭の方が押付けられて居た。その動機として私の想像するのは、祖神崇拜の信仰がこの方面は一般に強烈で、しかもそれが稻の祭と結び付いて居たことは、ちやうど瑞穗の國の新嘗ともよく似て居て、集合昂奮の勢ひは、それよりも更に大きかつたからかと思ふ。其干渉の記録は、大島の方には少し殘り、沖繩王領では中央二都市の周邊と、宮古八重山のやうな在番治下の島が、特に外からの統一に從順で、盆のみを大切の日として居たやうである。
八重山島由來記に、七月中に行はるゝ亥日節の記事がある。同諸記帳には、七八月中の己亥の日ともあり、是が西表島の節祭と同じかと思ふのは、此日を年歸しとして家中を掃除し、家藏辻までを改め、諸道具に至るまで洗ひ拵へ、皆して年繩を引き三日遊び申也とあるからで、是は祭の潔齋の一つの表現であり、もとは節蔓(セツカヅラ・シチカンダ)を以て柱や道具の柄などを卷立てるだけで無く、祭の奉仕者までが波照間のフサマラーの如く、草木の葉を以て、頭も身も包んで居た。柴指といふ語は九州の南端にもあるが、奄美大島の或村では、やはり蔓を以て門の柱を卷いた。現在は僅かに芒と桑の枝を四隅に立てる例が多く、藁がある土地ならば注連繩にでもかへて居ることであらう。内地でも正月に榊や椎の葉を門の戸に挿し、さては新嘗の日蔭蔓などに、まだ幽なる類似を留めて居る。
要するに外部の影響、殊に盆行事の輸入によつて、島々の節祭はやゝ混亂して居る。或は石垣のやうに之を盆祭の一部に編入し、或は豐年祭又はプーリ祭などの名を以て、六月中即ち盆よりはやゝ早めに、すませてしまふ島もあり、又或は竹富島のニウリヌヨイ(根下りの祝)のやうに、是を舊九月以後の種取の物忌と、合體させたものもある。この島では現在は是が最も大きな行事と言はれて居る。戊子の日から四日間、大體に前の二日が禁愼の日、後の二日が豊の明りになるらしいが、名稱も區々であり所作も複合して居て、實地を見ない限り分析し難い。たゞ其中で印象を(155)受けることが二つ、其一つは第二日の清めの日に、イバツを各戸に配るといふこと、イバツは我々のいふ新米の握飯で、他の島々でも小兒が之をもらふのを樂しみにし、是を親たちがそつと稻積(シラ)の上に載せて置いて、鷹が夜の間に持つて來てくれたものと、戯れ言をする習はしがあるといふ。第二には最初の日の粟種播きの式をニーウリの祝ひといふことで、根下りと書くのはどうやら宛て字であり、是も私たちの切に知りたがつて居るニイラ又はニライといふ海上の淨土と、因みある語ではないかと思はれる。この竹富島にはネーレカントといふ人が、島の創始者であつたと迎里文雄氏などは傳へて居る。之を根原神人と書くのも後からの想像で、やはり毎年の節祭の日に、あのニーランの濱に渡つて來て、島になほり世〔四字傍点〕をもたらしたニールピトのことではなかつたかと私は思つて居る。幸ひにして島の故老はまだこちらに居る。この推定の誤りを正すことも必ずしも不可能でないのである。
むすび
五月一日の私の講演は、短い時間にいろいろの事を言はうとした爲に、筆記を見ても判りにくい點が多い。それで少しばかり事實を竝べて見ようとすると、半分足らずでもう斯んな長い文章になつた。以下は又日を改めて書くことにして、一應是だけのまとまりを付ける。私の言ひたかつたのは、米をコメといふ語の起りは、何か稻の神の祭と關係があり、乃ち瑞穗國といふ美稱の意味を、説明するものではないかといふことであつた。南方の群島には古見と字に書いてコミ又はクミと呼ぶ村が少なくとも二つあり、其一つの八重山に在るものは舊い頃の首邑で、そこに神秘なる稻の祭の行はれたことが記録に見え、又現に其遺風と謂つてよいものが、少しづつ形をかへて島々に傳はつて居る。是と同種の地名をもつ他の土地にも、或は是に近い信仰が曾て有つたのではないか。第三の場合として注意するのは久米島で、是も前二つの古見と同じに、比較的早く開けて居た沖繩主島の西南面の海の口であつた。私のやうな想像(156)を以て、米の信仰を探つて見ようとした人はまだ無いらしいが、爰には古い資料の手掛りとなりさうなものがなほ存在する。先づ何故に島の名を久米もしくは姑米と書いて居たかを考へて見るべきである。
沖繩本島には、中世末頃の歸化漢人の居住地として久米村があるのみで、その以外に同種の地名の存することはまだ聽かぬが、別になほ一つの米作靈地はあつた。大昔アマミキヨが稻の種を、ニライカナイから貰つて來て、始めて栽ゑ試みさせたのが玉城百名村の美しい清水のほとりであつて、其任に選ばれた名家の祖を、米之子と謂つたと傳へられることは前にも述べた。米をコメといふ語は他にあまり行はれて居ないが、是だけはクミヌシーと呼んで居るやうだから、乃ち又一つの古見であつた。
それから進んで私の尋ねたいと思ふのは、舊日本の諸州に分布する久米といふ地名の由來で、現に最近にも隱岐の島の久見といふ村からはがきを受取つたが、是は島後の西北隅に、寂然として久しく續いた小邑である。他の多くの久米には海に接したものは少ないやうだが、其幾つかは郡郷の名にもなるほどの耆邑であつて、新たに拓かれたと思はるゝものは無く、殊に近畿に在る久米は、すでに上代の記録にも出て居り、しかも名の由來はまだ説き試みられて居ない。それを南端のたつた一處の例から推して、悉く神の田の所在と認めることは許されまいが、少なくとも今後の比較によつて如何なる共通點が此等の久米といふ地に存するかを、明かにして行くことは必要であらう。安藤廣太郎先生の古代稻作史雜攷は出たけれども、是には稻が北から渡つて來たか、はた南からかを決定しようとせられたのみで、誰が携へて來たかまでは説き及んで居られない。私は實は米が高千穗峰以上に、我々の國史の第一章を形づくるべきものなることを信じて居る。さうして稻の品種の同異よりも、むしろ之に伴なふ信仰の方面に、民族の歩み來つた路筋を語るものが、多いといふことを説かうとして居るのである。
(157) 米の島考
是は一昨年の本誌記念號に、掲載の榮を得た瑞穗國考の續篇である。瑞穗はめでたき穗、數あるくさ/”\の穗ものの中でも、特に人間の貴とみ重んずべき稻穀のことで、それを次々と生産して行かれる國といふのが、我々の先祖がこの日本の島々、殊に文化の中心として年久しく榮えて來た葦原の中つ國を、呼ぶことにした命名の動機であつたらうと、自分たちは解して居るのだが、今まで普通に行はれた説明は之とちがつて、始めから瑞穗の穗を以て稻の穗のことゝ思ひ定め、その稻の中でもすぐれて見ごとなものが、しかも豐饒に産する國なるが故に、此名が生れたものといふことに傾いて居たらしい。是はさう簡單に經驗し得ることでも無く、現に又年により土地に依つて、稻の出來の良くない場合は多かつた。察するに夙く祥瑞の瑞の字を以て、ミヅホのミヅに宛てる風習が起り、一方には又一莖多穗といふ類の珍奇な形の稻を獻ぜしめて、それを瑞兆の一として慶賀する儀禮が、言はゞ無害の爲に最先に我朝に採擇せられたことも、斯ういふ概念を固める一つの力であつたかもしれない。
稻が稗粟大小麥等の他の穀類を超越した重要性を認められたのは、恐らくはこの所謂嘉禾祥瑞觀よりも早く、又必ずしも或一つの民族の偏見では無かつた。主たる原因は香や味ひの他にすぐれて居ること、次には調理の自由であつて、各人の容易に愛用し得られたことも、愛着の情を深めるに力があつたかと思ふ。此頃では段々見かけなくはなつたが、甘い食物の種類のまだ少なかつた時代には、生米を嚼むといふ癖は田園では普通であつた。無論下品な所業として戒められては居たけれども、我々は顔の兩側にコメカミといふ筋肉を意識し、又米の外皮に限つて之をモミとい(158)ふ理由もわかつたやうな氣がして居た。苅入れ前の田の傍を行くときに、近くに作人の居らぬのを見澄まして、一穗を抽き取つて兩手の中で揉み、粗殻を大きな息で吹散らして、はつと殘りを口の中へ抛り込むなどは常のことであり、それで又地主や問屋の庫の戸前などに、「生米咬むべからず」の張り札を見ることも稀でなかつた。「粟をくふ」といふ諺は今もあるが、それは決して樂しい印象ではなかつた。麥や豆だつたら、頼んでも誰も生では食つてくれない。
要するに椎や柴栗に對するやうな生活興味が、稻の實だけには早く萌し、しかも亦久しく續いて居たのである。原始人の食住は火の歴史に屬し、今はまだ精確に順序を究め難いが、とにかくになま燒け半煮えといふやうな不完全な調理でも、結構食べられるのが稻といふ草の實の一つの強味で、あの日本紀の「岩の上に小猿米燒く米だにも云々」といふ有名な童謠なども、猿に尋ねて見ないとごく確かなことは知り難いが、多分は山の住人が蕗のやうな大きな葉に米を包み、焚火の中に投げ入れて蒸燒きにする習ひのあることを知つて居る者が、猿さへそれを眞似すると空想したものであらう。さうで無ければいくら戯れ歌としても餘りに頓狂である。
それから第三にもう一つ、稻の栽植が特殊の技術であり、何處でも誰にでも種子さへあれば作れるもので無かつたことが、是を珍重して國の名にまで呼ぶやうになつた原因であつたかといふことが考へられる。日本は豐葦原の美稱もあつたやうに、海近くに低濕の地が見つけやすかつたらしく、其上に夏の温度が高くて、之に先だつ雨季が規則正しく、殊に西半分では殆と一日の差も無いほどに豫測することが出來た。其爲に冬の霜雪の深さにも拘らず、年に一度は少なくとも稻の收穫を期し得られたのは、恐らくは發見者の大いなる悦びであつて、いつの世からとも無く瑞穗の國、即ち稻が思ひのまゝに生育する島といふ名を呼ぶやうになつたのも、我々から見れば少しでも不思議は無く、之に反してその稻の特に優秀なるものを産するといふことは、夢でなければ一種の豫祝であつたとしか思へない。
(159) 倉稻魂考
一 古學の新方向
フレェザァ教授の名著、「穀靈と山野靈」が世に出たのは一九一二年、それが程無く日本にも渡つて來て、深い感動を與へたことは、自分も讀者の一人として永く記憶して居る。但し問題の出發點が、主として北部獨逸に於ける小麥耕作に伴ふ行事であり、先驅者ヰルヘルム・マンハルトの創見に導かれたものである故に、我々はまだ久しい間、之を異國の羨むべき學業の進みと解するのみで、それを東洋の稻作諸民族の場合に、あてはめて見ることを怠つて居た。宇野圓空博士の「マライシヤの稻米儀禮」といふ雄大なる報告が公けにせられたのは、それから約二十年も後のことであつて、之を精讀した人ならば、この東西二つの穀種の問に於ける慣習の類似、殊に穀母が一期毎に穀童を産み育てるといふが如き、顯著なる前代信仰の殘留は、よもや偶然なる一致ではあるまじく、或は之に基づいて初期人類の知能觀念の成長過程を、跡づけしめる端緒にもならうかといふことに、想ひ到るべきはずであつたが、不幸なことにはこの前後二つの雄篇を併せ讀む機會は寔に少なく、しかも日本には所謂萬邦無比の思想があつて、比較研究の目標とすべき題目に、幾つもの制限があつたばかりか、一方には又外の學問を紹介しようといふ學徒にも、全く自國を省みない程の專心一意があつたのである。我邦には神代の記録以來、五つ以上の穀物の名が知られて居たにも拘らず、(160)稻だけは其中に於て、特殊の地位を認められて居た。第一には稻には祭があり信仰が伴なうて、それが現在の農村生活にまで、なほ明かに持續して居る。コメといひタネといふ言葉は大昔からあつて、しかも中世の終り近くまでは、其語は今のやうな普通の意味には用ゐられなかつた。此點は別にやゝ詳しく説くとして、それよりも更に當面の問題に必要なことは、稻魂又は稻靈といふ漢字を以て、古來語り傳へられて居た稻の神の信仰が、今もたゞ少しの變化を以て我邦にもあるといふことである。宇野氏は或はすでに氣づいて居られたかも知らぬが、フレェザァの書を精讀したと稱する我々が、實はまだこの東西の一致に心付かず、永い歳月を過して居たといふことは、申しわけも無い怠慢であつた。
三笠宮殿下が、今度新嘗祭の根原を明かにせんとして、斯ういふ一つの研究團體を作られた御趣旨は、是が我邦最古最重要の式典であつて、しかも歴代の沿革には未だ詳かならざるもの少なからず、遠く根原に遡つて其來由を究めんとすれば、先人の解説にもまだ安んじて就き難きものが多い。從つて寧ろその未知の世界の中にこそ、上代史への新らしい進路は求められようといふ、言はゞ至つて氣の永い、結論は少しも急かず、其代りに證據には至つて嚴峻な、精確主義を採られるものかと拜察する。果して然りとすれば、是は自分などの年頃抱持する色々の事實と假定とを排列して、同志諸君の批判を乞ひ、次の捜索を力づける好機會であつた。さういふ問題が特に招魂稻靈の方面には多いのである。
二 稻魂の倭名
始めにまづ一つ、明かにして置きたい點は、この稻魂又は稻靈といふ名は日本語か、但しは初期の漢字採用者が、意を汲んで新たに組合せた對譯かといふことである。南島方面には、一二それかと思はれる特例、たとへば奄美大島(161)北部の八月節小屋(シチャガマ)の祭文に、「西のニヤタマ東のニヤタマ」などゝいふ語があつたが、中央の弘い區域に於ては、少なくとも口語の中には、イナタマもしくはイネタマといふ名は耳にせぬやうであり、又その痕跡かと思ふ文獻も、私はまだ發見して居ない。しかも一方には稻魂をウカノミタマ、或はウカノメといふ言葉のみは、今もほぼ原形を保持して、汎く全國の各地に殘り傳はつて居るのである。當初新嘗といふ二つゞきの漢字を以て、表出せられたる日本の稻收穫期の祭儀が、もし幸ひにこの一片の殘留に依つて、初期の特色と比隣民族間の共通性とを、僅かづゝでも明確にし得られるものとすれば、それは學會の爲の好刺戟であるばかりか、一方には又我々の所謂民間知識、笑はれ輕しめられ且つ半ば無意識に、この數千年の風濤に堪へて來た基層文化の爲にも、國の永續といふことは始めて意義がある。といふやうな心持を以て、先づ宇賀神のことを考へて見たいのである。
倭名鈔卷一の天地部神靈類に次の記事のあることが最もよく人に知られて居る。
稻魂 日本紀私記云稻魂。字介〔右○〕乃美太萬、俗云宇加乃美太萬。
即ちこの稻魂といふ漢字を、和名で何と呼ぶかを説いたものだが、たつた一つの「介」の字の音について、國學者の間には今も決定せぬ問題がある。本居大人などは「介」はいつでもケの音にのみ用ゐられて居るから、それでは古事記其他の宇迦御魂神の御名とも一致しない。こゝだけは或は「个」の誤記かとさへ言つて居られるが、さうすると次につゞく「俗云宇加乃美太萬」が全く無意味になるので、一方には碩鼠漫筆の著者(黒川春村)などのやうに、宇迦の「迦」も亦呉音はケで、最初からウケ〔右○〕ノミタマの名を傳承した人々又は家筋があつたものと、見ようとする説にも賛成者が少なくは無い。つまりは各派の指導者が保障するやうに、古書の解説は必ずしも確定して居なかつたのである。私は至つて音韻變化の理論に疎いけれども、耳から世の言葉を受け繼いで行く者の多かつた時代には、特に子音の印象が強く、單語の記憶にも群毎の傾向の差を免れなかつたのが、一たび文字の利用が始まるに及んで、それには統一中心があり、又標準があつて、是と合致せぬものを横なまりと笑ひ、もしくは俗言と書くことを許されたものと(162)解して居る。今からほゞ一千年前の倭名紗の記事は、單に當時の讀書層が、稻魂はウケ〔右○〕ノミタマと訓むべきものと教へられて居たことゝ、同時に京都周邊の文字無き人々の間には、其頃はまだウカノミタマの名を知つて居る者があつたと、いふことを明かにしたまでゝあらうが、是とても後年浮屠陰陽師等の色々の雜説に心を引かれ、更に宇賀神ウガ〔右○〕ノカミといふやうな、新たな名稱に移つて來た跡を思ひ合せると、なほ重要なる一時代の文獻史料たることを失はぬのであつた。
三 宇賀神信仰の起原
是も日本語の一つの特徴で、今度の問題とも關係があるのは、或る二つ(又は三つ)の子音の間には、格別に親しい行き通ひがあつて、以前は何等の符號をも添へずに、同じ文字を以て雙方を代表させて居た。今でも土地の習ひや人の好みによつて、全く清濁の差別を無視し、たとへばヤナギタ〔右○〕をヤナギダ〔右○〕と呼んでも、少しも氣にならぬやうな例の多いことであるが、私などの素人考へでは、大昔はその所謂濁音の數が、非常に少ないか又は絶無であり、更に二つの音のちがひも今と比べると非常に小さかつたので、後々も之を全く異なつた用途に、宛てることの出來ぬ期間の、あつたらしいことが推測せられる。それが追々に開きを大きくして、新たな解説の入込む餘地を生じたのは是非も無いが、古語が一千年から彼方では定まつて動かなかつた如く、見てしまはうとする國學家の解説には、まだ色々と氣づかはしい點があるのである。
日本紀神代卷の一書に、倉稻魂をウケノミタマ(宇介能美?磨)と訓まれて居た御子の名と、山城京の初期以來、次々と流布して來たウガノカミ(宇賀神)の信仰とは、多分は同一系統のものと思はれるが、それを確かめる爲には、先づミタマの語がカミに統一せられるやうになつた過程を説く必要がある上に、後者は始めから常に「賀」の濁音を(163)以て一貫して居たらしい。是が或は尚一考を費すべき點でないかと思ふ。延喜式卷八の大殿祭の祝詞に、稻靈を宇賀〔右○〕能美多麻、ウガノミタマと訓んで居る例が一つあつて、自分は是を最初の記録ではないかとも思つて居る。倭名鈔の集成に先だつこと二十何年に過ぎぬけれども、是と御門祭と二つの祝詞を、管掌して居たといふ齋部家は此頃すでに衰へてしまひ、他の氏が其職務を引繼いだといふ形跡が無い。或はその特殊なる天津奇護言(クスシイハヒゴト)と、幾つかの原註の保存とによつて、是が單なる文獻の記録に止まり、現實の祭はすでに奉仕者の缺如によつて、久しく中絶して居たものかとも推測せられる。古語拾遺の文意にも明かなやうに、中臣と忌部の二姓は兩々對立し、各々世襲の職分を堅持して讓らなかつた。たゞ結局は政治力の強弱によつて、一方が公の立場を失つたけれども、それは却つて中央に變り移ろひ改まつたものを、たま/\邊土に保存する因縁となつたのかも知れない。民間信仰の指導者たちは、相手の素朴をよい事にして、實に多辯であり、又強辯であつたけれども、根本の申合せが足りなかつた爲に、その言ふことに相互の牴觸が多く、たとへば所謂宇賀神を蛇の神と説かうとするものがあるかと思ふと、反面には之を狐靈を使役する者とも説かうとして居た。つまりは比較對照の學問の、後年大いに起るべきことを豫期しなかつたので、從うて是からは寧ろ斯ういふ行者修驗等の雜説の中からでも、曾て其背後にあつたものゝ年來の變化を、推定し得られる望みがあるのかも知れない。それには何よりも先づ史書以外に於て、我々民間人が取傳へて來たものを、輕視せざる風習を養はなければならぬかと思ふ。
四 男女の屋船神
齋部氏の所管といふ大殿祭の祝詞には、注意すべき幾つかの特徴が見られるが、其中でも此日祭を受けたまふ神の名を、始めには屋船命と言ひ、後段には屋船久久遲命・屋船豊宇氣姫命と二つに分ち唱へて、一方を「是木靈也」、(164)次を「是稻靈也」と、それ/”\に注記して居ることが先づ目に立つ。古事記にも木神久久能智神を生ませたまふといふ記事があつて、同じ一つの記憶の分れとも見られるが、こゝには他の一方の姫神と共に、屋船の二字を添へて呼ばれたまふは異例である。單に木を選んで大殿を結構したといふ以上に、或はそこに稻の靈を安置する習はしであつたこと、即ち倉稻魂の倉といふ語と同じ意味に、この屋船の文字は用ゐられて居たのかも知れない。少なくともフネが容器であり、ヤは其上を覆ひ守る構造であつたことが考へられ、爰にゆくりなく、曾て發掘せられたる香川縣の銅鐸や、奈良縣の銅鏡の繪樣が、思ひ合されずには居られぬのである。
次になほ一つ、我々の注意をひかずにはすまぬ點は、その屋船豐宇氣姫命の原註に、次のやうな珍らしい記事が附いて居る。
是稻靈也。俗詞宇賀〔右○〕能美多麻。今世産屋以辟木束稻置於戸邊、乃以米散屋中之類也。
是は一見したところ、大殿ほかひ〔三字右○〕とは縁が無いやうに見えるが、少なくとも當時俗間に於て、さういふ行事が普及して居り、しかもそれを稻靈の力を表現するものと認めて居たらしいことが、之に由つてほゞ推測せられるのである。現在の神道教理に於て、避けて説かうとせぬかと思はれるウチマキ即ち散供の習俗なども、亦決して外來別系統の信仰でなかつたことが、段々に判つて來て、行く/\は比隣の稻作諸民族との間に、又一つの比較の目標を設定することにならうかとも思ふ。
中古の文獻の中では、今昔物語に一つ、乳母が幼兒の枕元の打撒きを取つて投げ付けたら、小人の行列は忽ち遁げ散り、後でよく見ると米粒の一つ/\に、血が附いて居たといふ怪談を載せて居るが、他の多くの實例は必ずしも災ひを拂ふ爲で無く、又其對象も眼に見えぬのを常として居る。しかも大小くさ/”\の祭に伴なうて、この散米の行事のみは、今でもまだ全國に保存せられて居るのである。他日もう一度詳しく説く必要があるが、特にこの機會に一言して置きたいのは、この齋部系の祭に限つて、「祭」をホカヒと訓む習はしであること、それと九州の南部山地帶、及(165)び奧羽北端の三つの縣内に於て、特にこの散供の儀式をホカヒと呼んで居るのが、たゞ偶然の一致ではあるまじく、何か日本の固有信仰の一部に、沈んで民間に潜み傳はるものが、やがては明かになつて來る手掛りであらうといふことである。
次になほ一つ、「産屋に辟木束稻を以て戸の邊に置く」といふこと、是は稻の産屋の説を立てんとする者に取つて、殊に大切なる資料の破片と言つてもよく、稻と人間の産屋との關係にも、單なる類推又は名の應用以上のものがあつたことが判ると、この珍らかなる信仰を釀し出した原始人の心理過程が、よほど又跡づけ易くなつて來るのである。但し我々一群の研究者の約束は、單なる古文辭の解釋を證據として、曾て全般にさういふ習俗が在つたものと斷定することを許さない。それは誤解かもしれず、又一隅の事實だつたかもしれぬからである。たとへ千年前の古い事でも、曾て普通であつたものならば、何處かに痕跡が今も殘つて居る筈であり、又さういふ痕跡の有るものから、安心して使ふやうにすべきだと思ふ。さうしてこの所謂辟木束稻の慣行の如きは、幸ひに今でもまだ、各地に其殘型を見つけ出す望みがあるのであつた。
五 納戸に祀る神
明治以來の農村文化の變貌、殊に建築技術の進みと、禁忌感覺の後退とによつて、昔風の産小屋は取拂はれてしまつたやうだが、それでも女一生の大事として、不安は必ずしも絶滅して居らぬ爲に、古い仕來りの趣旨不明なものでも、妨げ無い限りは成るべくは殘して置かうとする親心がなほ見られる。たとへば産室に稻藁を持込む風習の如き、それが敷物になり又倚り掛りとなつて居る限りは、無意味だ非衛生だと取棄てるのが普通になつて居るが、曾て信州諏訪の有賀恭一君が報告したやうに、ちやんと一束にしてオブスナ樣の掛軸の前に立て、又は壁の正面に立て掛けて(166)置くものになると、容易には之を止めてしまはうとせず、乃ち産神樣がそこに腰を掛けて、番をして下さるといふ類の解説が、いつと無く生れても居る。式の大殿祭の祝詞の原話に、束稻とあるのは籾の附いたまゝだらうが、是と筋を引かなければ、斯んな風習は新たに生れさうにもない。それから今一つの辟木といふものを戸の邊に立てるといふこと、是をサキキと讀むのはまだ問題だとしても、とにかくに是は山から採つて來た木の一部分で、多分は一方の屋船神、即ち木靈久久遲命を代表したものであらう。この信仰の永續の例も、捜せば幾らもあらうと私は思つて居ます。少なくとも人間の御産の方では、産の神は三柱、山の神と箒神と産土樣と、三方がそろはれぬと生れぬといつたり、又難産には山の神を御迎へに、馬を牽いて山に行く風が、今も東日本には弘く行はれて居る。
稻と人間と誕生に關する信仰の行事が、曾ては一つであつたなどゝいふことは、ちつとやそつとでは今日の學者には信用できまいが、私はいまさういふ假定をもち、其立證の爲に殘生を傾けんとして居る。是には内外の事例を綜合しなければならぬが、先づ日本では主婦の子を生む場所と、稻の種の管理せられる小さな一室とが、弘い地域に亙つて以前から同じであつた。いはゆる納戸神の信仰は、最近に隱れ切支丹の研究によつて、急に注意せられ出したけれども、さういふ外教の宣布の入り立たなかつた多くの地域でも、納戸はなほ二つの貴とき靈魂の聖地であり、むしろ其爲にこゝを神秘の道場とするのに、ふさはしかつたのでは無いかとさへ思はれる。今ある表の間の神棚や佛壇を、國民信仰の特色のやうに、思つて居る人たちは驚くであらうが、いはゆる納戸神の實例は、決して少ない數では無い。他日表に作つてなほ細かく比較して見たいと思ふが、とにかくに狹い隱れた家刀自の寢室に、稻の穗・籾種又は米を以て神を祀る農村は全國に散在し、決して信州諏訪地のみの特例ではない。山陰山陽では其神をトシトコサン、又はお年樣などといふ處が多いが、是は我々のいふ正月神では無く、今なほトシといふ國語の古來の意味のまゝに、米の生産の始め終り、あらゆる段階に伴なふ儀禮が、やはりこの場所に於て行はれることになつて居り、一方には又之を百姓の神、且つ女の守り神なりとも信じ傳へられて居たのである。
(167) 農村と秋まつり
氏神の常磐木の森から、高い澄み渡つた秋空に輕くトン、トコトンと木靈して見事な、豐かな田甫の穗波をゆるがすやうに響いてくる秋祭の太鼓の音――その音のなかには永い日本の傳統のもつ素朴な農村の美しさと、農民の收穫への深い、強い歡びと、誇と、滿足感が大きく脈打ち躍つてゐる。それは生みの苦しみを知る百姓だけが味ふことの出來る深い、強い歡びであらう。
そのやうな氏神の神々――氏神と家の關係に就て少しく書きしるしてみたい。そのことは農村に深いつながりをもつ家と氏子としての百姓の生活、生き方と祭禮といつたものとの有機的な關係を理解する上の一つの正しい根幹をつくることになるからである。
氏神さまを大事にしなければならぬわけは幾つもあるが、その中で最もよく判つてゐると思ふことだけを少しばかり書いてみよう。
第一に氏神さまは、自分達の生まれた家々と特別に縁の深い神樣である。單に家から近く御詣りのしやすい處に祭つてあるからといふだけでなく、始めはむしろ家と縁の深い神なるが故に、かうして近い處に御祭り申すことになつたのである。我々の多くは、親の親の又その親よりも前から、生まれる最初に必ずまづこの御社に參詣することになつてゐる。即ち先祖代々が御揃ひで、産屋のけがれがなくなるや否や、すぐに氏神樣に御見えするのが、今でも止めることの出來ない古い習しなのである。この參詣の時の作法には色々面白いことがあるが、それは今ここには觸れな(168)いことにする。
兎に角これが我々の神を禮拝する最初の機會であつたばかりか、この關係は永く續くのである。他の神々ならば一生に一度か二度、又は數年の間とか、一つの願掛けのためとか、參詣の場合が限られてゐる上に、親子でも兄弟でも共々に拜むといふことはめつたにないのに、氏神樣のみは一家の者一同で、皆お詣りをするのである。
氏子と云ふのは、この關係を云ひ現はす古い言葉であつた。「氏」は今日では、たゞ家の名のことのやうに見られてゐるが、元來は同じ家名をもつた家々の、一つの土地に住むもの全體の名であつた。現今はこれを一族といひ、又は一家と謂ひ、土地によつてはマキともトウヂュウとも云ふ人があるが、すべて皆祖先を共にする同名の家の總稱であつて、それが又「氏」と云ふものの昔の意味でもあつた。氏神はその氏の祖先が早くから祭つてゐた因縁を以て、子孫の者が殘りなく、生まれるとすぐに御詣りすることになつてゐるのである。その中には奈良の春日神社が藤原氏の氏神であつたやうに、遠くに居ても御詣りに來る例もあるが、普通はその土地に生まれた者だけが氏子であつて、他所へ分れ出た者は、そこで又自分たちの氏神を祭ることにしてゐる。すなはち現在日本の大多數の神の御社は、それぞれに其の土地々々の住民の氏神なのである。我々はお互ひによく似た感じを以て、めいめいの氏神を信じ、且つ祭つてゐるので、それだから又他人の氏神に對しても決しておろそかには考へない。その土地へ行くことがあれば必ず拝禮をする。それを日本では昔から敬神と謂つてゐるが、その敬神と、我が氏神への信仰とは、素より別なものだつたのである。ところがこの他所の神にも、熱心な信仰を寄せる者が多くなると同時に、自分の處の氏神さまにもただ一通りの尊敬をしか捧げない人が出來てくるやうになつて、いつとなく、この内と外との差別が薄らいで來た。それは一國の交通が開けた一つの結果であつて、ちやうど縁組によつて出來た親族が、或期間同族一門の人よりも親しくなるものとよく似てゐる。それから今一つは、氏神樣の祭を出來るだけ立派にして、愈々その人々の敬神を盛んにしたいといふ考へも加はつて、氏神合同といふことが、近世に入つてから多く行はれるのである。これは一つの氏は(169)大小に拘らずそれぞれに必ず自分の氏神樣を祭つてゐたものが、今日ではさういふのが段々少なくなつて、通例に三つ五つのちがつた氏、即ち門族に屬する家々が、合同してただ一つの神を氏神に祭つてゐるものが多くなつた。村又は部落は多くの場合に、一つのマキよりもずつと大きく、三つ四つ以上の氏の家々から成立つてゐるのだが、それがいつの世にか申し合せをして、共々に一つの神樣を、氏神と仰いでゐるものが多いのである。このために氏神の「氏」と云ふ意味がわかりにくゝなつたが、一方には村の結合がこれによつて一段と鞏固なものになつた。村と氏神と云ふことが問題になるのもその結果と言へる。この變遷は避け難いことであり、又大體に於てよいことだと思ふが、その代りにはかういふ風になつてきた事情と云ふものを、一通り知つて居なければならぬのである。
村をたつた一つの氏、すなはち一家一門だけで作りあげるといふことは、色々の事情から望みにくいことであつた。生産するにも、防衛するにもそれでは人の手が足らぬことが多く、幾ら繁昌する一家だと言つても、最初に多くなるのは子供と女とで、これを保護するためにも更に餘分の壯丁を必要とする。それから息子にも嫁を、娘にも聟を迎へようとしても遠くへ捜しに行くのは容易なことではない。だから多くの土地では以前から計畫を立て、五軒百姓とか、七人衆とか、氏を異にした幾つもの家が、仲よく提携して入つてきて、村の草分けになつて居るのであり、さうでなくとも少しく開墾に都合のよい村ならば、暫らくのうちに後からあとから、色々の家の者がたよつてきて、或は客分になり、寄子になり、聟舅の縁を結び、又他の方法で親子の關係をつけて、仲よく隣近所に住むことになるのである。氏神の合同は、かういふ場合には簡單である。即ち村内の一番家數の多い氏古くして勢力ある大家の氏神祭に、參加させてもらへはよいからで、どの神樣をこれから共通の神樣にしようかの問題は起らなかつたのである。これに反して一方の最初から五軒、七軒とちがつた苗字の家が、組を組んで拓いた村では、どの家筋にも前からの氏神があるのだから、一つを殘して他を罷めると云ふことになると、決定が定めしむつかしかつたらうと思ふ。しかも現在はもう既にさうなつてゐるのを見ると、これには又その協調を助けるやうな幾つもの事情があつたのである。たとへば氏は(170)別々でも久しく一處に住んでゐると、其の間に嫁聟の遣り取りが重なり、叔父叔母と云ふやうな他人でない者が多く、親族同樣といふ附き合ひもあつて、話がしやすかつたことも一つ、祭の時には互ひに參列して、これはあの一門だけの氏神だと云ふやうな差別觀も、よほど薄くなつてゐた。その上に人が段々と遠い土地々々の他家の氏神に對して、敬神以上の祈願までもするやうな風が、もう大分普及してゐた。何かすぐれた靈驗があらたかな神コの傳へられるものがあれば、自然にその一つの御社の方へ、村一同の信心が集められ得たと云ふことも、又一つの便宜であつたらう。
近代の村々の氏神さまには、祭神をたゞ一柱として表向きに屆け出たものが多くなつてゐるが、それでもまだ相殿又は合祀と云ふことがあつて、別に御縁故の無い幾つもの神樣を、同じ日同じ場所に御祭り申す例が方々にある。最初の氏神の合同にも恐らくはやはりこれがあつて、たとへ御社はたゞ一つになつてしまつても、決してめいめいの氏神さまを祭らなくなつたのではなく、村内すべての氏人が聯合して、一つの祭典を以て皆の氏神を共に祭るのだと考へて居たものとも見られる。
毎年の祭の日が、稻刈の後か、田植前か、どこでも大よそ同じ頃だつたことと、祭場がもとは屋外を主として居たこととが、多分はこの共同を手輕にさせてゐたことと思はれる。
それよりも更に氏神の合併に都合のよかつたのは、勸請といふ風習が我邦で追々盛んになつて來たことである。勸請といふのは、賀茂、日吉、八幡、祇園、又は熊野、白山、諏訪、鹿島といふやうな、全國有數の大きな御社の神々を迎へて、自分の土地の氏神に祭ることで、これは勿論昔の時代にはないことであつた。迎へて來ると云ふ以上はそこには前々からの住民があり、人が住むと云ふからには既に舊來の氏神樣があつた筈で、多分はそのお許しを受け御賛成を得て、さういふ有力の大神を元は御一處に共に祭る計畫だつたらうが、今の氏子たちはもう大分忘れてゐる。さうして新たに勸請した方の神樣は、別に或る一つの家筋、即ち「氏」と、特に深い關係が御ありにならず、公平にすべての氏々を御惠みなされるであらうと思つて、後に信仰の合同が一層行はれやすくなつたのである。尤もこの以(171)外に、別に氏々の氏神をさし置いて、新たに大きな御社を建てた場合もたしかにあつたが、其の方は氏神とは謂はずに、鎭守樣とか、地主樣とか呼んで居たやうである。大きな寺を建て伽藍を興し、城や屋形の地取りをしたり、又は市町新村を開く場合に、この鎭守の社を祭り始め附近の住人がそれを氏神と仰いで、氏子入をするやうになつたものも可成あつたらしく、氏神と鎭守との差別はそのために少しばかり不確かになりかけてゐるが、その二種の文字を比べて見ても誰にでも想像し得られるやうに、鎭守はやや新しく、氏神の名はそれよりも前からあつたのである。今でもお互ひに氏神といふ言葉を使つて居りながら、それが最初から氏と深い縁のある神樣だつたと云ふことを認めずに居るわけにゆかぬ。つまりは氏神には多くの氏々の神の合併と、又別の大社勸請と云ふこととがあつたゝめに、次第にもとの心持がわかりにくくなつてゐるだけで、「氏」があるのに氏神を祭つて居なかつたといふ時代は想像することが出來ず、又中央の大きな御社の神を迎へたゝめに、その以前に祭つて居た氏の神樣を退けてしまつたものとも見ることが出來ない。乃ち今はさういふ風に考へる人は少なくなつたけれども、一村内の數家族の氏神は、合同によつて永く一つの御社のうちに祭られたまふことになり、それと同時に八幡さまとか、天神さまとかを氏神にして居る村では、そこに今までの氏神樣が、その中央の大きな神と共々に、永く子孫末々の氏子から、祭をうけて居られるものと解して信仰するのが正しいと私などは思つてゐる。
大昔からの氏々の神が「氏」と最も深い關係に立ちたまふことは云ふまでもなからう。私はそれを賀茂氏が、賀茂神社に仕へ、藤原氏が春日神社を祭り、又は阿蘇家が、今でも阿蘇神社の神主であるのと同じやうに、更に進んで、口にするのも畏れ多いが、皇室が伊勢の大廟の神事に御指圖されるのも同じやうに、各々「氏」の遠い先祖の靈を神として社に齋ひ祀つて居るものと解して居るのだが、それを認めてもらふためには、又長々とした説明が必要になる。死ねば穢れとして祭には近づくことが出來ず、寺と僧侶の管理に任せて居る人間の亡魂が、果してどれだけの手續を盡したら清まつて神として仰ぎ仕へることが出來るやうになるかと云ふことを、一通りは實例によつて書かねばなら(172)ぬが、これはこの稿では書くだけの紙數がない。
前にも繰り返して書いたやうに村々の我が氏神と、他所の大小さまざまの御社との間には、誰にも氣がつくほどの、はつきりしたちがひがある。一言で云ふならば氏神さまは氏子を前からよく御承知であり、よその神々の場合には先づ初對面の御あいさつをしなければならぬ。又仲間者が入用になつて來る。今日有名な所謂あらたかな御社に參詣して、何か新たな祈願を掛けるには、先づ少くとも何年の男、又は女、年は何十歳、或は姓名國處をも告げなければならぬ。更に又どういふ筋の願望を抱き、それをその御神の威コによつて得るものと信じてゐることを、人に頼んでなりとも詳しく陳べなければならぬ。實際神前にぬかづく者を見ると、多くは口の中でそれを言つてゐる。念ずると言ふのはその小聲で他人には聽えぬやうに心の中を言葉にすることなのである。ところが村の氏神さまの方は、新たに名乘りをせずとももうよく御存じである。生まれて三十日、三十一日目などに御宮詣りにつれてゆく祭には、今でも珍らしい色々の作法を以て、氏神の御見知りを求めてゐる。たとへば赤兒を拜殿の正面に置いて、聲を立てるまで待つて居て一度神樣に聲を御聽かせ申さずには下つて來ぬといふところもあり、村によつてわざと赤兒の鼻をつまみ、又は尻などをつねつて、一度は必ず泣かせてから歸るといふ所もある。三河のある島では鳥居の片脇に出て、是非とも小便をさせたといふ話さへある。兎に角こんな幼い時から氏神は既に御見知りなされてゐる上に、子供は又始終御社の庭に來て遊ぶことになつてゐた。これも國民學校のない頃には他に適當の空地もないからと云ふやうな物質的の理由からでなしに、元來が少年少女は神社の境内で遊んで成長すべきものだつたのであらう。即ち家々の親祖父母より外には、子供が日増しに大きくなつてゆく實?を、氏神さまほど詳しく見てござる者は、外に村中には一人もなかつたのである。
子供が 愈々成長して身を固め、一人前の村人となつてゆく際には、新たに又色々の身の願ひといふものが芽を出すのだが、これとても氏神は全く御存じなしには居られない。年に何度といふ大きな祭の日以外にも、いはゆる年頃の(173)青年男女が、神社に集まつてくる機會は時々ある。殊に近畿以西の廣い地方では、舊暦九月の終りに近づいて、氏神が出雲の大社の集會に御出發なさるなどと謂つてゐた一日がある。
その日は夕方から御立ちを見送りに、特に未婚の若い息子、娘が詣つて來た。私などの話に聽いてゐるのは、その時に氏神さまは端近く御出になつて、あれとこれとが「めをと」と指しつゝ縁定めをなさる。御立ち前の御忙しい時だから、夫婦になりたい者はなるたけ前に出て、近い所に竝んで居ないと、後には段々と粗末な指定をなされるかも知れぬなどと言つてゐた。このやうに若い氏子達は、神が人々の心の願ひを察して、改めて申し上げずともかなへて下さるものと思つてゐたのである。そのやうな氏神への信仰は、例へば氏子達が何か新しい生活に入つてゆくか、又は遠い危險の多い土地へ旅立つ場合などには、必ず先づ氏神を拝してから大きな安心をもつて出かけるのである。氏神の御護りを殆と當然のことのやうに信じてゐた者は、私などの若い頃までは殆と住民の全部と言つてよかつた。今とても決して少なくはないことゝ思ふ。
そのやうに氏神と、氏子の關係は神秘的な強いつながりを持つてゐるのである。故に氏の祭の儀式には色々の昔の姿が殘つてゐるのはそのためであるが、それとても愼みが足らず、心の底からの感謝が薄くなると、いつとなく形が崩れて來る。つまり根本の信仰がなほ續いてゐるか否か、神樣だけでなく、人間の眼にもよくわかるのであるが、不思議といつてもよい位に、我邦では今もまだその古い世の精神が傳はつてゐる。常の生活や、氣風が可成近代的に改まつた土地でも、祭の日になると人の心が和らいで來て、だましたり、疑つたりすることが少なくなり、神を力に公の道コを磨いてゐた、昔の社會が復活したやうな感じを受ける事も稀ではないのである。
次に我々が是非知つて置かねばならぬことを書きしるして見よう。現在日本には神社の數はどのくらゐあるかといふことである。村社以上だけでも十幾萬とあるが、その九割九分までが、それぞれの土地の氏神さまであつて、たゞ殘りの一千内外のものだけが氏子のない、國と全國の信者とによつて支持せられてゐる、大きな著名な御社だといふ(174)ことである。さうしてこの大小二種の御社では、信仰の樣式が可成ちがつて居り、經營の方法も元は別々であつた。これ以外に無格社と呼ばれるものは數が更に多く、これには又色々の種類階級があると思ふが、少くともその一部分だけは、これも氏子によつて氏神として信仰せられてゐる。それから他の一方を見て、七千萬を越える日本國民のなかには、小兒とか老人とかの旅行出來ぬ者、又は境遇により信仰の傾きによつて、氏神樣以外の御社を拜む折のない者がまだなかなか多く、しかも氏神をもつて居らぬといふ者は絶無でないまでも今はまた至つて少ないのである。小さく分れてめいめいの氏神社に屬してゐるので目にたたぬが、數の上からいふとこれほど大多數の國民が、共通にもつてゐる信仰といふものは、これ以外には先づないのである。國の信仰の固有の姿、それが世と共にどう變つてゆかうとしてゐるかは、ここに目をつけなければ到底明かにすることが出來ない。
近世の國の方針は、この大小二通りの御宮の祭り方を、出來るだけ統一しようといふにあつたらしく、又實際の傾向も自然にさうなつて來たやうだが、それには出來ることと、望みにくいことがある。ちやうど人間の一家一門にも富の力の等差があるやうに、氏神さまにも氏子の數が少なくなつて、どうしても花々しい祭の出來ぬものが少くない。氏子の全員が全力を擧げて、祭に奉仕するといふまでは同じでも、又時としては小さいものの方が熱烈だといふことがあつても、式や行事のまちまちになることは免れない。さういふ外形によつて氏神の御力の大小を、推し量るやうな氣風を警戒する必要があるのである。以前には神社合祀の勵行と謂つて、つとめてこの氏子の圃體を大きくしようとする企てもあつたが、結果から見てどうも成功とは言へない。多くの山の陰や、谷間に五戸、六戸、とはなれて住む人々は、新たに遠くの御社の氏子になるといふ氣にもなれず、たゞ今までの大切な神樣を、失つたといふ淋しさのみを感じたので、祭の形はやや整つたかも知れぬが、これを裏づけてゐた信仰は衰へたものが特に古風な片田舍にはあつたやうに思ふ。
それと云ふのがめいめいの最初にお宮詣りをした御社が一生の氏神だといふ考へが強いからである。旅で嫁いで居(175)る者でも祭の時だけは無理をして戻つてくる、戻つて來ない者はわるく云はれるといふ村は幾らもある。すなはち今でも生まれた故郷の氏神の祭だけが、彼等には祭なのである。この感覺は無論段々と弱くなつてゆくにきまつてゐる。今でも入寄留者の諸方から集まつてくる工業地帶などでは、もうそのやうなことも言つて居られなくなり、土地の祭の入費だけは、快く分擔する者が多くなつてゐるだらうが、祭の本式に行はれると否とは、決して費用の出る出ないの問題でないことは、一度でもさう云ふ土地に足を入れたものは、認めずには還つて來られぬだらう。つまり氏子でないものには、眞劍さがどうしても足らぬのである。
祭を氏子たちの協同によつて營むといふこと、これが氏神の最も大きな特徴であつたといふことが出來る。最初一つの氏毎に氏神があつた時代には、神事の中心の役を勤むる者は本家の家長で、主婦と嫡子長女とがそれ/”\重要な一役をもつてゐた。といふよりも、これが本家の格式を認めて、衆力を以て支持しなければならなかつた重なる理由の一つだつたのである。ところが、一門がいよいよ擴大して幾つかの小さい中心に分れ、更に又異なる氏々の者までが、一つの氏神に合同するやうになつて、この神主の役は順まはりに、幾つかの舊家を廻ることに定められた。これを頭屋ともいつて今でも多くの村にはその慣例がなほ守られてゐる。
家が年久しい御社との縁故をもつとか、親代々同じ役を滯りなく果して來たとか、幾つかの條件があつて頭屋をつとめる株の數は限られてゐたのだが、それでなければ祭は本式でなく、神はたゞかういふ人たちの手によつてのみ、御祭り申すことが出來るのだといふ考へが強かつた故に、他の氏子達は誰も彼も、皆欣んでその節度に服したのである。ところが新しい世の變り目によつて、若干の舊家は衰微し、又はこの祭の役がやや重すぎる負擔になり始めて、現在この制度は少しづつ維持し難くなりかゝつてゐる。一つには地方にも中央にも、どうかしてさきざき維持してゆきたいものだと苦心するやうな人が餘りないのである。或は統一政策の要求が繁きに失するのか、又は人情が自然にさうなつてゆくのか、何れにもせよ、今日通例と認められてゐる祭式の作法は、竝の學校教育を受けた頭屋の主人に(176)まちがひなく執り行ふことの出來ぬ部分が多くなつてゐる。それで始めには師匠とか、監督とかいふ名義を以て外からさういふ方面の專門家を頼んで來る風が行はれ、次にはいよいよ氏子以外に、主任の神職を設けねばならぬことになつた。神と氏人との古來のつながりが、急に何んだか細くなつた感じがする。勿論異氏に神を祭らしめた先例も大きな御社には早くからあつたのである。
このやうに農村と祭禮といつたことは不可離な關係にあるものなのである。今全國の津々浦々には秋の五穀の豐作を壽ぐ秋祭が花やかに行はれてゐるであらう。トコトン、トコトンと氏神の森から響きわたる太鼓の音に調子を合はせるやうに御輿をかつぎながらも、村と氏神との深いつながりを讀者諸君は充分に頭のなかに理解し、祭禮の歡喜を餘すことなく味つていたゞきたく思ふ。
(177) 村を樂しくする方法
一
レクリエーションといふ言葉が、今のやうに組織の有るものになつて居たことは始めて知つた。それを改めて是から學び取らうとするには、一通りあちらの物も讀んで見なければなるまいが、殘念ながら私にはそんな時間が無い。そこで大よそ是と關係があるかと思ふことを、二つ三つ書き竝べて其係りの人の參考に供することにする。話が頓珍漢だつたり滑稽であらうが、ともかくも是だけは日本の事だから、今までも始終私の考へて居たことであつた。責任をもち得る。
第一には都市のまん中に住む者と、淋しい村里に日を送る人々とは、保養も慰安もおのづから、方式を異にしなければならぬといふこと、必要は前者に於て更に急切だとは言ひ得るか知らぬが、田舍は田舍で又別に考へる人が、内に無ければ外側にでも、是非とも有るべきだつたと私は思つて居る。それを全國一律に見ようとするやうな氣風が、もし不幸にして今後も續くやうだつたら、きつと色々のをかしい事が起るであらう。故に最初にこの點に氣づく必要があると思ふ。
たとへば前年ハイキングといふことが流行し、都人がぞろ/\と丘や川原を、行列して居た時代に、私は青森縣の或一つの峠路で、その眞似をして居るらしい好い若い者の群に出逢つた。彼等の背なかの新しいリュックサックには、(178)正宗の一升びんが一本づゝ頭を出して居て、どうも水では無いやうだつた。この地方でも全國各地と一樣に、春の四月の定まつた目に、花見と稱して老若男女、山で一日遊ぶ日はあつた。但し是は一年にたゞ一日であり、又組内の共同であり、さうして勝手にあるきまはるのでも無かつた。つまりは古くこの日を山の中で、暮すことにして居た名殘なので、今はそれを働かない良家の子弟だけが利用して、都市の流行に呼應し、かつはまはりの者を羨ましがらせて居たのである。
二
村の勞働といふものは、可なり筋肉を疲れさせる。それをなほ一段と疲らせることが、果して休養になるのだらうか。是は前々から私の疑ふところであつた。信州などは夙にいはゆる運動が流行し、豐かな小學校には器具が皆揃ひ、庭の片端にはテニスのコートなどがあつて、午後は教員たちが樂しさうに遊んで居た。彼等は準都市勞働者だから、或は斯うしないと元氣の遣り場に困るのだらうとも思はれたが、それから又四五年もしてからあるいて見ると、今度はその流行が若い農夫の間にも擴がり、横文字入りの白いシャツなんか着て、はあ/\いつて走りまはる者が、働き盛りともいふべき村の青年の中にもたくさん見られた。是には又是で別途の趣きがあるので、僅かな休みの時間を斯んな方面に費して悔いないのも、決してまだ草臥れ足りないからで無いことはわかるのだつたが、それにしても彼等が自分の爲に、まだ十分親切に考へて居るのでないといふことは、感じないでは居られなかつた。
人が誰でもして居ることを、自分等ばかりはすることが出來ないといふ淋しさ、さういふものを村の人たちは、久しい間味はひつゞけて居た。世の中が少しづゝよくなつて、出來ぬことは無いと知ることは解放であり、たしかに出來るといふ體驗をしたのは幸福であることは爭へないが、是には少なくとも流行といふものが、都市に於ても既に無節操な、可なり氣まぐれなものだつたことを知つて居らぬと、損をする者はやはり田舍であらう。取捨判別の敏活を(179)缺くといふ一點だけが、いつまでも村は町場に立ちおくれて居る。それを警戒もせず、寧ろ美コのやうにもたゝへながら、斯んな一本調子な文化の展開を承認して居たといふのは、私には教育の失敗とより他は考へられない。
仕立屋店番デスクの作業等の如く、膝を曲げて居る者には立つてあるくことが保養だらうが、朝から晩まで動いてばかり居る者が、それと同じやうな休み方をしないと、文化の歩みにもおくれるかの如く、ひたすら都會をよい御手本と見る風が、今でもまだあるのはをかしな話で、是は全く村里の爲に、彼等の立場に立つて物を考へる者が少なかつたからだと思ふ。それに氣が付くことが、或はレクリエーションよりも、順序としては先なのかも知れない。
三
量から言つても質から見ても、農山漁村の活動は、他の區域よりもずつと烈しい。それに息を拔きくつろぎを與へ、耗つた力を取戻させようとするのには、だまつて腰をかけて居るとか、ぐつすりと睡るとか、何れ身と心とをあまり動かさぬやうにすることが、自然の要求であつたことは判りきつて居る。村の生活の樂しみといふものは、要するに靜的法則に支配せらるべきもので、四圍の風光でも社交のリズムでも、始めからそれに適應するやうに出來て居る。是を外から觀て鈍だの退屈だのと評する故に、さう聽いた者の心が先づ動搖したのである。今でも知識人は農村の娯樂といふと、祭禮と盆踊としか列擧し得ないが、是等は本來は娯樂どころか、生産よりも今一段と大切な作業であつた。この作業を最も活?に且つ效果あらしめんが爲にこそ、その後さきの深い沈滯があつた。酒なども非常に人を疲れさせるもので、飲めぬ者までが努力して一盃を傾けたのでもわかるやうに、もとは生涯に何度と算へるほどの稀な機會に、飲んで儀式の價値を高めようとしたのだから、やはり一つの仕事であつた。斯ういふものまでも娯樂の中に編入した爲に、村の生活はきまりの付かぬ、いはゆるダラシナイものになつて來たのである。この分堺をはつきりとすることが出來れば、それだけでも村の勞苦はよほど輕減せられ、保養が同時に修養になるやうな、人生の樂しみは(180)加はつて來ると思ふが、それにはもう少し多くの民俗學の知識を借りなければなるまい。社會科の新設といふことは新らしい一つの希望である。この實際の要求に促されてこそ、民俗學も亦今までの煩瑣主義を改め、力を段々に眼前の生活問題の解決に、集注して行くことが出來るのである。曾ては我邦にも勞働そのものが、快樂であつた時代が有り、其痕跡は今もまだ幽かに殘つて居る。それは我々の夢みて居る未來の理想境とも一致するのだが、そこへもう一度還つて行く爲にも、農村はまだ路筋が見つけやすいかと思はれる。それにはたゞもう少し囚はれない考へ方の練修をして、先づこの近世の不愉快な混亂から、離脱することを努めなければならない。人を賢こくすることが出來てこそ、民俗學は始めてよい學問だと認められる。今度は思ひがけなくも、一つの試驗の機會を與へられたわけである。
四
村の生活の樂しみの主として受け身のものであつたことは、私は作業の特質から來て居るのではないかと思ふのだが、其點は急いで斷定して置く必要も無く、又さう安々とは證明の出來ることでもない。しかし少なくともそれが年久しい習はしであるといふまでは、氣を付けて居れば幾つでも、確かめられるやうな手掛りがある。一ばん大切な一つの觀察點は、田舍者の感受性、殊に眼の働きのすぐれた者が多いことで、是は今までにもよほどの成績を擧げて居るのだが、是からさきは一段と大きく役に立つだらう。之に對してやゝ都市人に劣るかと思ふのは、手足指先口先の仕事、つまりは弘い意味の表現性であつて、是とても決して働かぬわけでは無いが、惡く言へば新らしさの價値といふものを意識せず、模倣とくり返しをつまらぬとする感じが少し足りない。是は恐らく永年の世間竝教育といふものの結果であらうが、あれほど敏活に又細かく仕事をしつゞけて居る目や耳の持主にしては、似合はしからぬほど平凡なる表現に甘んじて居る。つまりは此方面から、大きな人生の樂しみを得ようとする野心に淡いのである。一部一地方だけの弱點で無いことは、當世大はやりの和歌俳句の例を見てもわかる。全國各地に亙つて何萬人の作者が、何百(181)萬といふ數の作品を世に公けにし、しかも本人以外には誰一人、覺えても居ないといふものが多いのである。文字の教育の、是も偉大な效果かも知れないが、はやれば斯ういふことでも平氣でやつて行ける所に、自分等は田舍氣質の一つの弱味を見るのである。今までの農村娯樂論者の標準のやうに、第一に害が無い。金があまりかゝらない。騷々しくなくてよい。見たところ上品だといふ類の、消極的條件が皆具備しては居る。しかも私たちは是を以て、今までの單純に過ぎたもの、又はやゝ荒々しいものに置きかへようといふ氣になれぬのは、是でもまだ萬人向きとまでは言はれないことがもし是以上に普及するやうだつたら、あまりに馬鹿げて居て見ては居られまいと思ふからである。所謂レクリエーションは出來る限り科目の數を多くし、人々その好みのまゝに勝手な選擇をすることを許して、別に社會的反應までを顧慮せぬかと思はれるが、我々の國情は斯ういふ機會をでも利用しないと、農村生活を新たにすることが望まれないのである。さうして今まで比較的人望の多かつたものは、陸上競技にしても農村劇にしても、又色々の簡易文學にしても、何れも都市模倣の末端の例ばかりで、村と共々に成長して、次の世代を構成するまでの因縁は、もつて居さうにも思はれぬのである。
五
農があれほどにも不安の多い、又くたびれる生業であつたにも拘らず、親子相嗣いで永く續き、他の如何なる職務の者と比べても、比べものにならぬくらゐによく落ちついて、是でよいのだと思ふ人ばかり澤山に居たのは、單なる無氣力やあきらめの爲とは見ることが出來ない。土地に繋がれるとか、先祖の墓に心を引かれるとか、よその樂土の存在を教へられないとかいふ類の、消極的な理由も色々擧げられようが、なほ其半面には心の樂しみ、爰を離れてしまふともう再びは得られまいと、自得して居るやうな好條件も實は幾つか有つたので、それを事々しく彼等は談らず、外部には又不思議なほど、是に注意をする者が今までは少なく、たま/\説く者はたゞ詩人風に誇張をして居た。も(182)とはそれでも差支は無かつたのであらうが、この最近の半世紀のやうに、村の生活内容が激しく變つて來ると、季節や環境と勞力の割振りとが、非常にむつかしい問題を提出せずには居ない。殊に私たちのやうな前代の印象に囚はれた者が、新たな事態に口を挾まうとする場合には危險が多い。少なくとも以前田園の安らかさと呼ばれたものが、なほ引續いて今後の新航路を、梶取ることが出來ようかどうかを檢討する爲に、如何な點が今は昔に異つて來たのかを、知つて居る必要があるのである。
民俗學の方法といふものは、人によつては之を上世の最も埋もれたる部分に、通用するのを以て能事とする者もある。是は人間の最も忘れがちな、しかも大切な知識の潜む處であり、誤解の害と確認の幸ひの、共に著しい區域であることは爭へぬが、この二つの特徴はこちらにも有つて、問題は更に適切を加へて居る。さうして文書記録の史料とすべきものが、甚だ乏しいことも同樣であり、他には其點を解説し得る學問の無いこともよく似て居る。今はまだ其力が及ばぬとしても、民俗學は少なくとも斯ういふことも知らうとしなければならない。
六
埋もれたる農村山村等の逸樂が、曾てはどういふものであり、それが又如何に移り變り、結局は今日切に求められて居るものと、どれだけの差異が有つたかといふことは、一つの清新なる課題であらう。自分の心づいて居るたゞ僅かな事を述べて見ると、大體に村は一年を通計して、もとは働く日がよほど少なかつた。雪に地面を隱される寒國で無くとも、一季の作物にはさう多くの人の手を要求しない。播くと苅るとを合せて稻ならば一反に三十單位以内、山の切り燒きは苦しい作業だつたけれども、人の働く日はこれよりも遙かに少なく、それも同じ日に一家兄弟が、力を合せなければならぬ仕事ばかりだから、一人々々にすれば十日か十五日、食料の爲に費すべき勞力といふものは、小兒老人等の働けぬ者の分を合せても、總計百日もあれば十分であり、又それ以上は働く用が無かつた。この以外に衣(183)料の生産として、麻を蒔き麻を苅り干し、絲を引き機《はた》を織る手わざは夙くからあつたが、是も季節があり又長持ちがしたので、計算はまだして見ないが、さうたくさんの人手は取つて居ない。菜園の擴張と當畠の新設は、新種作物の増加によつて促されて居るのだが、是は主として近世初期からの現象であり、それも各戸の作り高が、縮小した爲の補充だつたかと思はれる。しかしともかくも消費は之によつて發達し、農業は次第に活?になつて村の働く日は次第に數を加へて來たが、それでも養蠶が有利になれば、何囘となく飼育をくり返すといふ位な、仕事の隙間といふものはまだ殘つて居たので、其以前は大體に一年の三分の二、或はそれよりももつと少なく働いても活きて行かれるやうに、自然を相手の産業は皆仕組まれて居たものと、私などは想像して居る。それが段々と困難になつて來たのは、其餘裕の配分に偏頗があつたこと、今一つは是に携はるものが多くなり過ぎて、各家各人の働き得る區域が、無やみに小さく狹くなつて來たことで、今でも考へて良い方法さへ立てば、元の姿に戻せないことは無いと、思つて居る人の有るのは空しい夢とは言へない。たゞ現在の癖や我儘を其まゝにして置いて、一足飛びにそこへ行かうとすると、再び又闘はねはならぬことが氣づかひなだけである。
七
人が餘つた力を賢明に使ひ得なかつたことが、今のこの煩悶の基になつて居ることは爭はれない。一ばんいけなかつたことは、徐々たる時世の變化に心づかず、もしくはあまり無造作に承認してしまつて、彼も是も成行きだ不可抗力だと見切りをつけ、出來るならば自分一人だけ、都合のよい方へまはらうと努力する。この大勢順應主義こそは、今に始まらぬ田舍人の病である。日本のやうな村の生活の古く、都市の大多數は皆新らしい國に於て、都市の輕佻趣味を以て一國文化の標準とし、新聞から讀者まで我おくれじと其跡ばかり追ひまはし、ろくな批評もせずに何でもかでも流行を通すのみか、眞似だからどうせ本物よりはまづい。それを際限も無く出しては笑はれて居る。どうして又(184)其樣に不得手ばかりをさらけ出し、一方すぐれたる物を感ずる力、新たな見聞を樂しむといふ、天賦の長處を殺してしまふのだらうか。本を讀みラヂオを聽き又は旅行をして新らしい事物に觸れるといふ念願は、幸ひにして今もまだ衰へず、又この頃はやゝ流行にもなりかけた。どうか其感想だけは只の御附合ひで無く、めい/\が自分の智慮を以て判別取捨し得るやうに、是からの普通教育の針路を改めさせたいものと思ふ。學校は果して其任務を引受けてくれるだらうか。この點が何としても心もとない。
(185) 關東の民間信仰
田無の庚申さま
以前大きな庚申講がこの土地にもあつて、それが根氣よく何年かの積立てをして居たことはよくわかるが、しかもこの大きな石を運び、是だけ腕のある石屋を頼むには、やはり大都市相手の錢まはりといふことが條件で、もうこの頃から買出し部隊の、小さいの位は來て居たのかと思ふ。新らしい文化の舗装路の爲か、この石塔の位置は動かされて居る。以前は必ず往來を正面にし、供養の群衆は路面にも蓆を敷いて、坐り込んで居たのである。隣の天神さまの常夜燈は、近年の同居だらうがちやうどよく釣り合つて居る。
庚申さまの頭にちよん髷の如く見えるのは多分は馬の首で、是は東京周圍の庚申の特色として、馬頭觀音との聯絡を考へしめるものである。
保土ヶ谷の念佛塔
是も近世の集合所、最初から斯うして竝べて居たのでは無い。念佛供養の記念に石を立て、それに佛像を刻むこと(186)も足利時代からだが、それに觀世音の思惟の御姿を寫し出すことになつたのは、やゝ後年の流行かと思ふ。
どうしたら人間のさま/”\な苦惱を救はれようかと、深く考へ込んでござる處なのが、形が變つて居るので皆に注意せられ、無邪氣な人たちは是を誤解して、齒の痛みの願掛けによくきくと謂つて弄んで居た。後ろに立つ地藏さまは、多分はこゝの宿主である。
東大泉の庚申塔
この庚申さまは、私にも三十年前からの知合ひである。無事で居られたなつかしさよりも、小繪馬や新らしい柄杓の數々が今でも續いて上げられて居るのが嬉しい。庚申塔を建立した最初の趣旨は、爰で毎囘の祭をする、土地を穢さぬやうにしてくれといふ表示であつた。それが年を經て庚申講はつぶれ、又は祭りに來る人がもう無くなつてから後に、別な人たちが斯うして又新たな願を掛けるのである。柄杓の底を拔くのは思ふ事の叶つたしるしで、もとは御禮參りの捧げ物であつたのが、固く信ずる者は始めから、それを持つて御詣りにも來るのである。めい/\の流し元にはもうブリキの杓を使つても、爰だけにはやはり昔の物をこしらへて持つて來る。小繪馬も以前には郊外の荒物店などで賣つて居たが、この繪には古い手法が殘つて居て、以前見たものと寸分もちがつて居ない。
上保谷の送り雛
以前の雛人形は家々の手作りで、毎春三月節句の祭がすむと、海川のほとりの村ではすべて水へ流したものであつた。武藏の平原にはさういつた流れも無いので、多分は早くから村外の未開地などの、人の通らぬ場處などに送つて(187)居たのであらう。さういふ荒野が段々と乏しくなつて、斯うした路ばたの石地藏のの蔭、又は古塚の上などに置いて來たのが、今のやうな上等の細工物の、古びて用ゐられなくなつたのを棄てる場合まで、まだ何と無く續いて居るのである。このお雛さんは顔も白く、衣裳の色なども鮮かで、私たちの散歩にもいつも心を引かれるものなのだが、子供は親たちに戒められて、是だけは決して持つて來ようとしない。それは人形が我々の罪や穢れや災ひを背負ひ込んで行つてしまふものだといふ古い考へ方が、まだ暗々裡に殘り傳はつて居るからと、私などは解して居るのである。
但しこの御隣の張子の達磨の方は、別に仔細があるか、又は單なるおつきあひであるのかどうか、はつきりしたことが私には言へない。が少なくとも斯ういつた大きな達磨を、眼を入れずに永く神棚に上げて置いたり、願ひが叶ふとそれに眼を入れて送り出したりする風習は、關東西部地方の小區域に限るやうで、之を製作する工業もたゞ此方面だけに起つて居る。一方に比べるとずつと新らしい流行といつてよいやうである。
犬卒都婆と子安講
關東東部から福島縣に掛けて、斯ういふ二つに岐れた木の棒を犬ソトバと謂つて、專ら犬の供養の爲に立てるもののやうに見られて居る。文字は是も寺方に頼むらしく、通例は如是畜生頓證菩提などゝ書いて居るが、以前は讀める人も無いからこんなものも不用であつたらう。
奧州もずつと北へ行くとマタガリタウバと稱して、人の墓にも之を立てるが、それは三十三年の年忌を修して、是からいよ/\佛法と縁が切れ、先祖にならうといふ際に限るのだから、形は似て居ても別のものゝやうに考へられさうである。
しかし私の意見では、斯ういふ祭の木を塔婆と呼んだのが新らしいことで、もとは自然の木なのだから枝のあるの(188)は普通であり、特に家畜の爲に差別はしなかつた。といふよりもそんな木は立てなかつたのであらう。
主人が愛犬などの後世の苦難を慾んで、彼等の爲にも供養をしてやりたいと思ひ出したのは、恐らくは卒都婆の語が採用せられてから、即ち六道輪廻の教法が民間に弘まつて後のことで、斯うなると何か人と畜類との間に、區別の目じるしが必要になり、一方を犬卒都婆と呼び始めると共に、愈々枝のある自然の木を、人の祭には用ゐにくゝなつたことと思ふ。
但しこの寫眞には、何本もの犬ソトバが立て掛けてあるが、是が一匹づゝ死んだ犬の爲に、立てたものでないことは私には大よそわかつて居る。
ちやうど隣には馬頭觀音の石塔があり、是は現在飼馬を死なせた場合に、其亡魂を慰める爲にと言つて居るので、犬も同じ場處にといふ風に考へられさうだが、中央の雨覆ひをもつた石體は是は子安さまである。
通例は月々の十九日、村でいはゆる産み盛りの女たちが集まつて、氏神さまに信心を籠める。
それで子安講とも十九夜講とも謂ひ、又觀音講といふ名もあつて、之を子安觀音と拜む者も多いが、この繪でも大よそ明かなやうに、石像は髪を垂れた女の神であり、後の環も後光では無く、日本風の領巾《ひれ》なのである。
犬はお産の輕い家畜だから、是を大事に供養してやると、めい/\もその功コで産の苦しみが無いといふ俗信が、今でも此地方の村里には行はれて居るのである。
それで多分はこの子安講の日に、斯ういふ特殊の祭の木を、こゝへ持つて來て立てるのであつて、別にあの犬この犬といふ心當ては無く、汎くそこいらの犬の靈の爲と思つて居るのである。
如是畜生云々の文字はもとより、是を犬ソトバといふのすらが新らしい名で、本來はたゞ子安さまの祭の日に、斯ういふ木の枝を祭場に立てたのが、まちがへられつゝもなほ偶然に殘り傳はつて居るのであつた。といふことを、知るのには是は有力なよい資料である。
(189) 六所さまの鳥扇
農家の軒先には、實に色々のものが貼り付けてあるが、是は相應に古くからの慣習のやうである。
東京の市中なども、大震災前までは軒竝みに是があつて、見て行くと住む人の氣持がわかるやうであつた。
この二つの寫眞も場處は示してないが、御札の種類によつて西部郊外の農村であることがわかり、此中にも盗賊を警戒した三峯さんの狼などがまじつて居る。
輪にした注連繩のやうなものだけは私にも始めてで説明が出來ぬが、何故か重なつた團扇は府中の國幣社大國魂神社から出るもので、毎年初夏の祭の日に、一つづゝ求めて來るものなのである。この扇で青田を煽ぐと害蟲が附かぬともとは言つて居たが、此頃は祭が新暦で早くなつたので、もうさういふことも試みずに、たゞ記念の爲に貼るのであらう。
一方の軒先のは雨がかゝらぬので保存がよく、その鳥の繪が年によつて、やゝちがつて居ることが見くらべられる。
杓子のまじなひ
杓子の文字は、版では不明になるかも知れぬが、今から七八年前までに、二三年置きに一枚づゝ、書いてこゝに打付けたもので、それ/”\に兄妹弟の名をしるし、「十五歳になる迄くつめき一切御無用、※[口+急]々如律令」といふやうなことが書いてある。「くつめき」はノドケ百日咳又は今いふジフテリヤ、咽をくつ/\と言はせるのでさう呼んだものと思はれる。
(190) 何處まで分布して居る風習か知らぬが、以前より東京市中にも、又周圍の村々にも、殆と軒別といふほどにこの杓子を出して居るのが見られ、今でも私の住む小田急沿線に、稀ならず之を見かける。古い頃の東京人類學會雜誌には、この杓子の文言を數十種、集めて報告して居る人もあつた。行者修驗といふやうな職業の者に頼むのでは無く、いづれも家々で、多くは親々が自分で書くのだから、是は簡單ながら眞情の文學であり、しかも時々はほゝゑむやうな誤解もあつた。
くつめきといふ語がもうわからなくなつて、何でも甚だ不安なことをさういふと思つたか、「十五になる迄きつね御めん」と、書いたのがあるなどは傑作の一つであつた。醫者や藥が鉢合せするほど多くなつても、親の斯うしたおろかしい經驗は、まだ全く無意味にはならぬほどに、自然になほつてしまふ子がまだこの邊には多いのである。杓子に斯ういふことを書くのが、きゝ目があると思つたのは古くからであつた。その理由はまだ説明し得ないが、九州北部でも百日咳をチゴツキと謂ひ、是には杓子に眼鼻口を描いて道ばたに立て、それを多數の人に見られると全治すると信じられて居た。
何か「子供の神」の信仰があつて、其祭に杓子が用ゐられて居たのかと私は思ふ。
小石と信仰
前の子安と馬頭觀音の石塔の前にも、たくさんの小石が積んであつたが、是は日本の民間信仰の、最も省みられない特色の一つである。東北地方の田舍路をあるくと、柱を一本立てゝそれに小兒の戒名などを貼り付け、大きな竹の籠をぶら下げたものを時々見かける。自分も子を亡くした旅人は言ふに及ばず、たゞ心を動かした我々のやうな者も、思はず念佛を口にして其たびに小石を一つ、籠の中に投げ入れて通るのである。念佛車又は後生車などゝ稱へて、小(191)石の代りに小さな車の輪を、一つ廻して行くものも出來て居るが、この方は同情の數が算へられないので、悲しむ親たちの力にはなりにくい。しかも古くからあつた形、或は佛教以前にも溯り得るかと思ふのは、今でも淋しい野中や峠路に、誰が始めたとも知れない積石場の、なほ幽かに活きて居るものが見られることで、それを多くはサイノカハラなどゝ呼んで居るのも、やはり子を失つた人たちの信仰が、最も原始に近い爲であらう。つまり互ひに顔も知らぬ者までが協力し得るほどに、以前の日本人の信仰は單純であつた。
この繪に見えて居る或神社の側面には、誰が始めたとも無しにたくさんの小石が積まれて居る。
中にはもとより子供の持つて來たのもあらうが、元が無かつたら彼等も眞似をせず、又さういふ事が續きもしなかつたらう。
やはり參詣の行き返りにこゝを過ぎる者が、自分も積んで行かうといふ氣になる習はしが、遠い昔から傳はつて居るのである。
家の秋祭
村の神社の春秋の祭禮と、斯ういふ家々の屋敷の隅の祭とは、今日では全く別なものに考へられ、此方は或は神道の外でゝもあるやうに、見て居る人も多くなつたが、それは祭が幾つかの點に於て、近世の變化を受けて居ることを知らぬからで、小さいながらも實はこちらの形の方が古いのである。最も主要な點は常設のお宮の無いこと、毎年祭に先だつて新らしい材料を以て小屋を作ること、是がヒモロギ時代の一般の習ひであり、又ヤシロといふ語のもとの意義でもあつたことは、もう疑つて居ない者が多く、たゞ斯ういふ祭り手たちが、まだ自ら知らないのである。
この寫眞は東京のごく近くの農家と思はれるが、此あたりには却つて石や木の祠を設けてないのが多い。簡略を極(192)めた假屋だが、技術はたしかに千年以上の練熟を經て居る。
地口行燈のこと
古い新しい色々の文化が、結び目もしれずに繋がり合つて居るのが、民間信仰の深い興味である。この寫眞は是きりのもので、何處に石地藏の立ちござるかも知れないが、爰ではとにかく二村が協同して、地藏を拜む日を祭禮と謂つて居るのである。佛法の中でも地藏さんだけは、全國何れの地に行つても地藏祭で通つて居るが、是には何かわけの有ることゝ思ふ。祭の日は通例舊七月二十四日の宵闇で、乃ち火の光の最も美しく、感じられる季節であつた。もとは家々の門先に篝を焚いたらうが、後々揃ひの提燈などをともして、それを萬燈とも謂つて居た。江戸でその行燈に大津繪風の略畫をかいて、上に地口の文句を題したのはごく近世の流行らしいが、費用のかゝらぬわりに效果が多く、人が立止まつて讀んで笑つて行くので、中々人氣があつて素人の藝として發達し、後には幾つもの種本のやうなものが出來て、またゝくうちに關東の村々の、斯んな小さな地藏祭にも、地口行燈が出ないと祭禮でないやうな氣がして來た。この近所の村の去年の夏祭などにも、いはゆる時事を詠じた川柳漫畫が多かつた。
くれてやつて惜しくないのが手を取られ
其繪の女の唇の大きさが、神さへ或は苦笑なされるかと思ふばかりであつた。
沓掛神
誰でも知つて居りながら、人に理由をきかれるとさて説明の出來ぬものが、幾つか民間信仰の中にはある。淺草の(193)仁王門などには、もとは五尺もあらうと思ふ大草鞋が上げてあつたが、是はたゞ仁王の偉大さを讃歎する方式かと思つて居ると、時々は斯ういふ尋常の形のものを數多く、お藥師さまなどに上げに來る例も多いのである。私の今住む土地の近くでは、村はづれの小さな地藏堂の格子に、いつ通つて見ても長さ二尺餘りの新らしい草鞋が、三四足は必ずぶら下げてある。是は境の守護らしいから、村には斯んな大きな足をした人も居るぞといふ威嚇の意味だらうかと私も思つて居た。毎年一定してさういふ偉大な藁沓を、海に流すといふ島々もそちこちに有るからである。ところが試みにそこに居た婆さんに尋ねて見ると、誰が上げるのでせうか、何でも足が丈夫になるやうにといふ願掛けだといひますと答へる。
ともかくも今は村合同の行事では無いのである。最初斯ういふことをした人の心持はもう傳はらず、たゞ峠路の積石塚も同樣に、みんながさうするから自分もするといふだけで、解釋は後にめい/\の心持で付けたのかもしれない。
古い往還の傍には沓掛といふ地名が多い。さうして老樹が有れば大抵は今でも沓を掛けて居る。
狼の役目
以前狼の數の野山に多かつた時代にも、狼は惡い人しか食はぬといふ信頼を我々は持つて居た。それに安んじきれない者が少しづゝ増加すると共に、現實にも彼等の兇暴が證明せられるやうになつて、今我々の傳説は面白いまでに混亂して居る。さうしてもう一匹も日本には居ないなどゝ、斷言する人が飛出す頃になつてから、却つてこの寫眞のやうに、狼の活躍する舞臺が廣くなつて來たのである。いはゆる大口眞神を統御し又驅使したまふといふ御社は、武藏では御嶽三峯を始めとし、關東地方にもなほ幾處か算へられ、その他遠州の山住春野山、但馬の妙見山といふやうに、著名なものだけでも十の指を屈してなほ餘りがある上に、別になほ土地毎に塚を築いて、附近の無名の狼を招請(194)した例は、那須にもあれば、陸前の狼河原などにもあつた。最初の目的は今よりもやゝ小さく、たとへば鼠が蠶に附くとては頼み、狐が?舍を狙ふと言つては迎へて來たが、後には一轉して人を煩はす惡靈、ものゝけ疫病神などの退治にも、有力なる山々の狼の派遣を求めたのであつた。御札で迎へるか御姿でつれて行くかと、神職が尋ねたといふ話も殘つて居る。成らう事なら御姿のまゝでと答へると、その晩から家に狼の番兵が附き、凡眼にこそ見えぬが水を渡る足音がして、しぶきが飛んで同行者の顔にかゝつたとも謂ひ、又は床の間の大きな榊の蔭から、きらりと二つの眼の光るのを見たといふ話さへあつた。是に怖れて縮み上つたといふのは、大抵は醫藥も效を奏せぬやうな精神病者などで、いつ來るかもわからぬ泥棒や押入の爲に、斯んな氣味の惡い護衛を頼むことは出來なかつたのである。狼の御札といふのは、何處のもよく似たこの形のものゝやうだが、それを軒先にたゞ盗難除けの爲に、貼ることになつたのはその後の變化であつた。統計が無いから確かなことは言へないが、村では戸締りをする家が二戸三戸、それを巡業しても商賣になつたのは、恐らくは日本左衛門の頃ぐらゐが始めであらう。
それが今度は又一轉囘をしたのである。この寫眞に見える畠の作物は馬鈴薯らしく、もう一つの方はたしかに玉菜である。
斯ういふ新時代の生産物に、もう絶滅したといふ狼が干與して居るといふことは、私には單なる心理學上の現象としか見られない。
つまりは世につれて、大口眞神の信仰も進化して居るのである。
(195) 新式占法傳授
▽來さうな客の來ぬ日があつた。人は閑があると如何なることを考へる者であるか、こんな時に一つ自分を試驗してやらう。
▽ことし十歳に成る内の長女は、何の奇瑞も無くて生れた人間であるが、既に今から七年以前に、古來今往何人も企て及ばざることを爲し遂げて居る。
▽櫻と蒲公英の花盛りの日であつた。此兒と母とを連れて中央氣象臺の岡田博士を訪ね、舊天主跡の風速計の處へ登ると、急に乳を呑むと言ひ出して何としても聽かなかつた。あの氣象臺も遠からず一橋内へ移ると云ふ話である。さうすれば永久に御所の内で、同じ名譽を荷ひ得る兒は終に無い筈である。
▽併し彼よりも岡田先生は更にえらい。兎に角將軍籠城の用意の爲に鑿られた銀明井の水を汲んで、此十九年の間手を洗ひ湯に入り、更に其下水を注けて菜や里芋を作つて居られる。あの何十尋とも知れぬ石垣に臨んだ官舍で、城下百萬の甍の波を眺めながら本を讀む樂みは、是亦太田道灌の曾て望んで達し得なかつた理想境である。
▽昔風の語を用ゐると、是は果報と謂ふものである。併し此果報たるや、單純に親御の信心、乃至は生年月日の偶然に基いたもので無いことは、仔細あつ、て自分がよく知つて居る、秘密とは申しながら最早本人も忘れかけてござる。人の助かる事であれば些しばかり之を漏らさうと思ふ。
▽この岡田博士が十九の年、まだ我々が武さんと呼んで居た頃の冬の晩に、來年本科へ入るとすると學問は何を遣ら(196)うかと云ふ問題が出て、本人をも含む一家内の人たちが、言はゞ幸福なる煩悶をせられたことがあつた。其時博士自身の考で小さな紙を四五枚切り、字を書いて短い觀世捻をこしらへ、それを爐の側へぱらりと播いて其一つを拾つて見ると、氣界物理と云ふ文字がちやんと書いてあつた。自分は其翌朝此事を聞いたが、殘りの紙片には一つは確かに獨逸文學とあつた筈である。岡田さんは實際此時既に詩を解する人であつたから、右樣の貳心も決して無理では無かつたが、シルラア、ゲエテを友としたのでは、永く市塵を超越した天主臺上に住み得なかつたことだけは今から言へば至つて明瞭である。
▽さて此御蔭を以て、自分は極端の從順が極端の勇氣と一致すと云ふことを實驗した。さうして迷信の定義をも與へずに迷信を罵倒する者を斥けねばならぬことを學んだ。否寧ろ Superstition を迷信と譯し始めた日本人を罵倒する必要を感じた。
▽我々は決して明白な道理に迷ふのでは無い。書物にも書いて無ければ朋友も言つてくれず、時としては岡田氏の例の如く、殆と何の道理も無いやうに見える場合さへあるから迷ふのである。決定の能力が無くてそつとして置かうと云ふやうな連中は、決定方法の高下を評するの資格が無い。だからじつとして拜見して居るがよい。殊に當世は結果の得失に由つて行爲の是非を判ずるのが流行では無いか。さうすれば結果に不確かで無いものは殆と無いから、人が行動の右左を偶然の決定に任せようとするのは至つて自然な話である。
▽それにまだ人の身勝手身贔屓と云ふものがある。斯うなればいゝを無造作に、斯うすればいゝにどうやら變形した人が、此近處にも隨分あつた。そんな尻の輕い思慮分別は無い方がよい。天祐を信ずるなら出兵でも非出兵でも、ずんずん偶然で決する方が遙に樂みだ。何となれば偶然は人間よりも確かに公明正大であるから。
▽併し占ひの法も今迄のはあまりにたわいが無い。靈應無類の淺草觀音でも、御鬮の數はたしか六十四通りしか無いのだ。六十五人目に詣るともう同じ運勢の人が一人以上居る。おまけにわざと不得要領であつて、大凶の場合にも一(197)層信心を勵むべしなどゝ御座なりが書いてあり、取次人の本氣か否かゞ却つて氣にかゝるばかりである。
▽殊に古風な歌占などに至つては、短册の數がたつた十二枚、せめて國歌大觀だけでもあるならば又何とか分別も付くが、それでは又字引が必要になるだらう。あの單調さでは矢鱈には問も掛けられぬ。假に我々が金談待人旅立の程度の俗惡な疑問だけを抱くにしても、?々何を言ふのだと腹でけなさずには居られぬことが起らうと思ふ。
▽我案の功能を説き立てるのも如何であるが、一概に簡明を貴んで變化の辻が知れぬやうでも行かず、さりとて口髭ある御同樣が橋の袂にも臨まれず、女房に相談も氣が引けるとあるならば、一つ至つて便利な胸算用占ひと云ふのを採用せられてはどうか。此ならば子供の屁の詮議の如く、聲を長くして平素嫌ひな兒に持つて行くと云ふ我意も役立たず、最も的確に拔きも差しもならぬ結論に到着することは請け合ひます。
▽此式はどこ迄も新工夫である。強ひて舊式を踏襲した點があるとすれば、ほんの眼をつぶると云ふ一點だけである。種が數字であるから、通り掛りの電話自動車の番號でも間には合ふが、最も必要の多い夜深枕上の用に適せぬ故に、特に次のやうな方法を採るのである。
▽先づ第一に五分四方程の厚紙を十箇切つて、之に1から9迄と0とを書いて置く。此だけが道具である。素人易者のやうに急に鳥籠屋と拍子木屋へ走る必要が無い。第一の特長は是に存する。
▽次に眼を眠つて其中から四枚の紙札を拾ひ上げ、之を拾つた順序に竝べて見る。是が既に動かぬ答である。此から後は只胸算用さへすればよいのである。
▽解釋の爲に三つの規則を定めて置く。例へば左へ進むを善右を惡、乃至は優劣の程度は左右に出る數の多少と比例すと定めること、是が第一條である。第二には現れた千位の數の中の一位だけは0から9まで置き變へて見る。是が易の變卦に該當するのである。
▽第三條は愈々實現の方法である。例で説く方が簡明であるからさうして見る、茲に假に2と1と3と4とを得たと(198)する。すれば第二條に依つて2130から2139迄の十箇の數が、未だ消化せられざる解答である。
▽右の十箇の千位の數から、最初に一より小さい數か101より大きい數か又は其等の倍數で無ければ割切れぬものを、問題に無關係の數として除外する。此場合には即ち2131、2137及び2138の三つが其である。
▽次には殘りの七箇の數を、奇數は左、偶數は右と左右二組に分けて、此等の數が單に遠端の一箇の數字を棄て近端に或一數字を附加するだけで、左組は左の方へ又右組は右の方へ、どの位まで同じ?態――即ち7以上101以下の同じ數で割切れる性質――を持續して進み得るかを競爭させて見るのである。
▽此場合で言ふと、右組第一の2130は71で割れるが、其右端に何れの數字を加へても71で割れる數にはならぬ。然らば反對の方へはどうかと云ふと其も不能である。第二の2132は41と13とで割れるが、41は同じく續き得ず、13では變化して第一囘に1326〔四字左傍線〕と成る。是は13の外に17でも割れる數である。二つあれば先づ大きい方で試みる。即ち3264〔四字左傍線〕と成るのが第二囘であるが、之を以て終を告げる。第三の2134は97と11とで割れる數である。97は同じく不可能で11を適用すると、第一囘には1342〔四字左傍線〕、是は61でも割れるが、61は常に續かぬ數であるから、尚11で第二囘が3421〔四字左傍線〕第三囘が4213〔四字左傍線〕は、是から先は幾らでも續くが、巡環である故に元の數に復する一つ前で中止するのを規則とする。右組最後の2136、是も89で割れるが茲では續かない。從つて右組の成績は0+2+3+0=5である。
▽左組に在つては同じ手續を左の方に向つてするだけである。其第一の2133は79で割れるが先へ進まず、次の2135は61と7とで割切れ、61は常に無用である爲に7で往つて第一囘が3213〔四字左傍線〕、是は7の外に17でも割れる故に、先づ大きい方で試みて第二囘が5321〔四字左線〕と成り、さうして行止りとなる。終の2139、是は31と23とで割れる數である。31を適用して續くことは續くが反對の右の方へだけで、而も1395〔四字左傍線〕と成つて新たに發生する因子も無い。即ち左組の結果は0+2−1=1で、右組に及ばぬことが始めて明白になつた。
(199)▽諸君が二箇の計畫を持して其優劣を決し兼ね、乃至は或行爲の得失に迷はれる場合、假に此卦が出たとすると、左を可として置くならば止めなければならぬ。若くは右を代表者として居た案の方へは大に進まねばならぬ。何となれば我が尊敬すべき偶然は、明かに批判を下して到底難兄難弟の境では無いことを示したからである。
▽自分が諸君に四箇の小紙片を拾ひ上げられんことを勸めたのは一見無用のやうに見える。三箇で十分なやうにも考へられる。但し是は左右同數であつた時の用意の爲で、第四の紙片偶數ならば、斯る場合にも自ら去就は右へ傾き得るので、如何なる際にも相談の徒勞に屬せざるを期したのである。
▽次に十枚の紙片でも變化は既に萬態かと思ふ。それに若干の胸算用をした上で無ければ、まだ解答は神秘であつて、かの御鬮箱のがら/\の如く、あゝ又二十一番の半吉かなどゝ、早くから種の暴露する殺風景は無い。併しそれでも尚機會が乏しきに失すと感ぜらるゝ人は、同じ紙片を重複して二十も三十も造られて宜しい。但し四倍より多くする必要はどうしても無い筈である。
▽又心配事のある晩はいづれ疲れて居る。面倒な胸算用などは閉口と言ふ、不精な迷信家も無いとは言はれぬ。併し十箇の數の中には必ず五や七や九の倍數が一つ宛は有る。十一の倍數も一見明瞭で、是も多くは一つある。結局少し手の掛るのは二箇か三箇で、其も馴れたら何の造作も無い。
▽例へば59、61,73及び83、此四種の因子は如何なる場合にも繼續せぬ。又一端の數字を見て他の一端に來るべき數字は、譯も無く暗記することが出來る。或數が19の倍數である場合に、左端が7なら右へは4が出る、左端が4なら右へは5が出る、左の1に對しては右は6で、勿論反對の場合は此逆である。31の倍數は更に覺え易く、9−7、7−2、2−5であつて、雙方共に此三種以外の變化は無い。23には9−1、3−8、4−3及び8−6の四つの變化がある。後の二つだけは37にも47にも同樣に行はれ、53は之と反對に3−2、6−4、9−6の如く偶數が後に來る。大きい因子になる程變化の少ないは當然であるが、89、79、71の三つは各順次に3−7、7−6、6−5の變化であるから、(200)一度知つたら忘れぬ。
▽賛に曰く、凡そ人世に於て、占ひ程公平無私なる批評家は無い。殊に我々が及ばざること遠きを感ずるの度合に比例して、其靈威を施すこと次第に大、且つ永久なる點は、一言を以て形容すれば即ち「神」である。
(201) 前兆
採集を續けて居ると、理由をどうかして知りたいと思ふことが段々多くなる。この疑問も同志間の、共有にして置く方がよいのである。さういふ中でも我々が前兆と謂つて居るのは、大抵は理由が不可解で、人は馴れつこになつて怪しまぬが、何か隱れた古い重要な起原があるかと思ふものが多い。さうして土地の人で無いと、採集が必ずしも容易でないのである。そこで各地の「前兆」といふものを私は集めて置きたいと思ふ。
一つの例は京都で、「柄杓がこはれると親類の家に産がある」と謂つた。是などは私が大變な手數をかけて、ヒシャクはもと瓢で、魂の入れ物と考へられて居たから、それの破れるのを解放と解したのだらうと想像して見た。まちがつて居るかも知れない。もつとむつかしいのは稿本美濃志(土岐琴川)に鼻の穴にできものが出來るのは、兩隣のうちに赤ん坊の生れる前兆といふのがある。是は何とも説明がつかぬが、やがてそちこちに似た例の少しちがつたのが現はれると、追々には見當がつくと思ふ。もつと多く斯ういふ例を集めて見たい。
(202) アイヌの家の形
前號日高の平取のアイヌ家屋の寫眞を見て心付きたる事あり、北海道にては此の如く形式の純を保てるは既に稀なるべきも、樺太アイヌの家には昔風の建築多く、自分は其二三を見て之を記憶せり、思ふに其特色は左の點に在るならん。
※[図省略]
然るに昨年九月羽前板谷峠の五色温泉に遊びしに、温泉宿の東に接して立てる小さき空屋あり、外形正しく右のアイヌの家と同じかりしかば、奇異の思を爲せり、内を覗きしに板床を(イ)の部に張り爐は中央にありしやうに見えたり。又同年六月に越中下新川都三日市町を過ぎしに、民家の過半は右のアイヌの家と全然同形式なり、唯(イ)の屋根は茅に(203)て葺き(ロ)の部分は瓦にして、且つ(ロ)の部分稍々大きく其半分を入口の土間とし他の半分は床にて疊を敷けり、一棟の家にて茅と瓦とが抱き合へる珍しきものなれば、旅人は必ず注意せしなるべく、又多くの家が皆同樣なれば決して氣まぐれには非ざるべし、此邊には稍々廣く行はるゝ形なるが如し、夫より西の方富山附近は東京風の新築もあり、又板葺切妻の木曾風の家も飛騨方面より普及し居れる故聯絡を認むる能はざりしも、加賀及越前東部の田舍家の形は亦三日市のものと相似たる點あり、即ち
※[図省略]
右の如く全部茅葺又は藁葺なれど、入口は常に長方形の短き一面に在り、入口の片方又は雙方は戸の外に土間あり屋根の前方には破風の窓ありて後方には無き點は三日市の家と似たり、但し内部に於ける爐の地位は知らず又精確なる割合も知らざれば報告として不十分なれど、兎に角太平洋岸の諸國にては殆と見る能はざる形式也、爐が家の中央に在りて、北國の家とは反對に間口の廣く奧行の極めて淺き家にても、長方形の短き一面を入口の方に向け居る例は日向の那須に於て之を見たり、爐邊の坐席にも動かすべからざる規則あることアイヌの家と同じ、此は必しも那須の山村には限らぬことなれども、那須にては爐が入口の正面なる家の中心に在り、且つ横坐即ち主人の坐の背後に武器其他大事の品物を飾り置く點、著しくアイヌに似たりと思へり、宇治拾遺物語の瘤取の話に横坐の鬼と云ふことあり、(204)即ち鬼の頭梁なり、古く且つ廣く行はれたる風なれば却つてアイヌの方が似て居るのかも知れず。
※[図省略](イ)は横坐と云ひ、(ロ)は客坐と云ひ、(ハ)は越中五箇山などにては嬶坐と云ひ、(ニ)は津軽にてはキシモトと云ふ
(205) つぐら兒の心
是は何だらう。東京で言へば、蓋が無くては飯櫃も入れて置かれない。と言ひさうな人が段々多くなつた。ところが今日でも日本人のざつと十分の一は、此中に入れて育てられて居るのである。東海地方ではイヅメ又はイヅミキ、奧羽は一般にエヂコと謂つて、嬰兒籠などといふ文字を宛て居る處もあるが、其語の起りは實はまだ判らない。信州北部から越後にかけて、之をツグラと謂ふのは古語である。蛇がトグロを卷くなどといふトグロも同樣に、太い藁繩を卷立てて作るからさう謂ふのである。以前は瓶壺皿甑の類までも、斯うして皆ぐる/\とつくね上げて居た。それが器械になつて、僅に此ツグラだけに、古い手法を保存して居たのである。
ツグラの古風は獨り外形の上に止まらず、事によるとその最も大切な中味、即ち是で育てられた人たちの心持にも、何等かの痕跡を留めて居るかも知れない。幼兒が始めて人間の言葉を聽き覺え、個々の語音の裡に動く親々の感覺を、乾いた海綿のやうに吸ひ取らうとした、眞の國語教育の是が第一學年であつたことを考へると、此想像は必ずしも空なもので無い。それがどの程度にまで後年の良い子惡い子、乃至は嬉しい悲しいの判別を指導して居るかは未知數だとしても、ともかくもツグラは歴代の最も由緒ある我々の學校であり、同時に又消えてしまはうとする平民の過去記録の、上表紙のやうなものでもあつたのである。
土地の習ひだから常に貧富の等級とは一致して居らぬが、およそ日本人の生ひ立ちには、三通りの差別が有るものと私たちは思つて居る。抱き兒かゝへ兒といふのは元は少ししか無かつた。いつも御相手があつて赤ん坊の言葉を造(206)つて話してくれる。斯ういふのは常の日本語を學ぶことが遲い。第二の背なか兒はいつも成人の間にまじつては居るが、ぢつと自分の眼を見てくれる人が少ないので、よそ/\しい會話の中から、僅かな入用のものを拾ひ出さなければならぬ。是等と比べると第三のツグラ兒は、晝はがらんとした家の中に、啼いても談つても構ふ者の無いやうな、ひどい寂寞に鍛へられる代りに、毎日のやうな再會の歡びがあり、又印象の強い授業がある。所謂母の言葉は彼等には滋味であつた。國語の大きな力を彼等こそは體驗して居る。意外なる新時代の饒舌を以て、多くの潜在するものを面くらはせて居るだけである。
我々の同志の今囘の全國巡歴は、偶然にも其ツグラ兒の心への探檢であつた。村に年經た人たちの眼で聽き胸で語り、もしくは只の空氣に傳へさせて、それでも結構用足りて居るものを、外から入つて來て知つて還らうといふことは容易で無い。たつた一つの手段には練習があるのみである。斯うしてめい/\が感じて來たものを話し合つて居るうちにさうだと思はず知らず言つてくれる人を待つばかりである。
(207) 寄り物の問題
かつて風位考の一節中に、中世以來北陸一帶の地方語であつたアユの風は、海からいろ/\の好い物を吹き寄せる風の名だつたらうと説いたが、其意見は今もかへずに持つて居る。島國の特殊産業として、寄物拾ひは省みられざる一つの課題だつた。その範圍と種類、及び是に養はれた工藝技術信仰道コの諸現象にもまだ隱れたる色々の問題が有りさうに思ふ。私は今椰子の實の盃と酒筒のことを考へかけて居るが、もしか日本海の荒濱にも、まぎれてさういふ暖國の珍らかな産物が漂着して居るやうな話は無いかどうか。有識階級を無視した、至つて奔放自在な分布?態を持つて居る過去現象、則ち我々の學問の專管に屬する事實と思ふ。決してヤシオの問題には限らず、たとへば十二月八目の針千本のやうな問題から入つて、海邊の故老が注意し記憶せずには居られなかつたやうな數々の珍らしい經驗を集積し、各地の比較を重ねて行つて、行く/\は文化史の新しい一方面を開く事を、是からも私は全國の同志に勸説して見たい。
(208) 郷土舞踊の意義
一
踊は見るもので無い、踊るものだとよく年寄などが謂つた。其心は自身が踊つて見ないと、踊の面白さは解らぬと謂ふのである。しかも其年寄たちは、年を取つて自分はもう踊る氣は無くなつても、曾ては大に踊つたことのある故に、若い者の踊りたがる念慮を諒解するのみか、中には却つて今の若い衆は意氣地が無い。腹一杯踊ることも出來ぬなどゝ嘲り笑ふ者さへある。近世の踊は惡い癖で、支度に中々金が掛かり、普通の年の村の經濟に比べると、稍々比例を失した浪費であつた。それでも思慮ある長老などに、土地の爲を考へて、盆や祭の催し物を見合さしめようとする者があるとき、若い人々の承知せぬのは固より、いゝ年輩の親たち迄が、不機嫌な顔をすることがある。理由を尋ねると答へることは出來ぬけれども恐らくは夢の間に過ぎ去つた各自の青春の日の歡びを、今一度彼等の最も愛する子女を通じて、味つて見ようと欲する結果であらう。
亞細亞大陸の北の果、氷洋の渚に臨んで昔の民族の少しばかりが殘り住んで居る。前年雪の野を越えて、彼等の村を訪問した人の紀行に、此地夏短かくして緑の草は早く萎み、人は忽ちに老い且つ衰へる。一年の問に春と名づけ得る日が幾日かあるが、其日は一邑の若い男女、悉く郊外に出て列を爲して相對し、日の照る間は踊るとある。彼等に取つては踊は即ち婚姻であつた。既に老いたる婦人は必ず踊場に臨み、踊る者の爲に歌をうたうて遣る。其文句も譯(209)されて出て居たが、若い日は去つて返らぬ、今が樂しむ時である。曾ては私たちもさうして樂んだが、もう老いてしまつて別れて行かねばならぬ。だから今ばかり皆の踊り樂むのを見るのはうれしいと、心から歌ふと書いてあるのを見て、私は思はず涙が落ちた。花を見、鳥の聲を聽くことを、我々が春の日の樂みと考へるに至つたのも、元の起りは實は此と同じ心持からであつた。況や同じ人、同じ村里に生死する者が、自分の分け前は既に用ゐ盡して後に、子なり孫なりが改めて彼等の巣を營み、彼等の果實を結ばんとして、それに先だつて歡喜するのを見ることは、老いたる者が昔の日記や手紙を出して見たり、又は集まつて茶呑咄をするよりも、遙かに現實な且つ人間らしい慰安であつた筈である。
二
此意味からして、踊は次第に人の見られるものに進化した。獨り老いたる者のみでない。未だ踊ることを許されぬ幼童の今にあの通りに踊らうと思つて、見物して居る者も多かつた。藝術は此の如くにして永く成長して行つたのである。しかも踊る人自身の面白さは、之に由つて最初は増しも減じもしなかつたのであるが、後に強ひて美しい者のみの踊を見ようとする人が出來て來てゐる。終には少女や少年の重い心を抱きつゝ、輕く袂を飜へす者が世に現はれ、職業として之に携はる人と、單に自分たちの爲だけに踊る者と、追々に二つに分れてしまふことになつたのである。
日本青年館の新しい催しなどは、恰も右の二通りの樣式の中間に於て、更に第三種の國民的娯樂を開始せんとするものらしいが、新たな試みであるだけに、十分注意をして時代の變遷を考へて置かぬと、内外に誤解を生じて、健全なる發達を妨げられる危險がある。
先づ我々の一番氣遣つて居る弊害は、踊は見せるもの、單に褒められる爲に踊るものと解せられて、折角の農村の自由な樂みが、次第に職業の苦みに變化して行くことである。能でも芝居でも其他の近世の舞踊でも、起原を尋ねて(210)見れば、悉く素人藝であつた。それが餘りに多勢から感心せられた結果、始終頼まれては演じて居るうちに、外の仕事に携はる餘裕が無くなり、是ばかりで生計を立てる必要上、收入を要求するやうになると、勢ひ自分たちの面白く無い時にも、尚空々しく踊らねばならぬ境遇になつたのである。
報酬と言つた所が最初は單に相手まかせの、花又は纏頭といふやうなものであつたのが、追々に給料の高下まで考へるやうになつたので、何の道でも同じことだが、深入りをしようとするとつい專門になりたがり、本來の目的からは遠ざかつて、不必要な苦みをしなければならぬことになる。而してそれが本來計畫者の志す所で無かつたことは、少しも疑ふ餘地が無いのである。
だから此危險に對しては、既に相應の警戒はしてあつたものらしい。なるほど都會の見物人の中には、昔の大名や富人たちの如く、是非とも美しく且つ巧妙な所を見せよと、望んで居た者もあつたか知れぬが、少なくとも主催者等の態度は、今一段と受け身なものであつた。東京人の多數は市民とは謂つても、實は一代の間に田舍から移住して來た者だ。甚だ茫漠として文字にも現はすことが六かしいが、曾て廣々とした緑の天地に成長して、少年の日の甚だ樂しかつた記憶がある。それが單に人生の春の日であつた爲に樂しかつたのか。はた又現實に、あらゆる都市の利便にも換へられぬやうな、面白さといふものが、別の村の生存の中に在つたのか。若しあつたとすれば今も尚繰返されて地方には殘つて居るか。或は不幸にして片端から其源泉が滴れて行つたか。その點を明らめて見たいといふ願は常に痛切であつた。
歴史を學ぶ者のいつも迷ふことは、多くの國民があこがれて奔り赴く前途は、いつの日にも苦惱の雲霧が立籠め、明るく平和なる社會は、たゞ過去つた親々の世を取圍んで居たかと思はれるにも拘らず、忙はしく還つて見た今の故郷の生活は、概ね寂寞たる單調を以て彩られ、眼に映ずるものは營々たる勞作であつて、其土に養はれた怡樂の温か味と光とは、殆と之に接する機會が無い。敷千年間の祖先が、愛して此郷土に留まつた理由は、必ずあつた筈ではあ(211)るが、まだ見出し得ないのであつた。若し何等かの方法があるならば、それを一度なりとも最も的確に、實驗して見たいといふ希望は、不言の間に痛切を加へて居た。つまりは我々は今度のやうな機會に於て、村と小さい町々に住む人が、現に如何樣に其生存を樂んで居るのかといふことを、直ちに感覺を以て學び知らうとしたのであつた。
民族の進歩の過程にも、個々の人間の成熟と似たものがある。或時代には老人のすること、又は小兒の遊戯などは、如何にも無意味につまらなく感ぜられるものであるが、それが過ぎると又新たなる興味が、追憶や理解と結合して、假令自ら其間に參加することを敢てせぬ迄も深い同情を以て彼等の熱心な擧動を觀察せしめる。日本の學問は今ちやうど此?態に迄、我々を導いて來てくれたのである。
三
村の踊の遊藝化には、風流(フリウ)といふものが大きな影響を與へて居る。風流と云ふ語の中世の意味は今の語に譯して見れば踊子装束の趣向であつたが、古くはフリウを着けるとも謂つたのから推すと、本來簡單なる花の枝か何かで、それは只「此子が踊る」といふ徽章に過ぎなかつた。即ち神遊びの舞人たちの冠の挿頭と同じで、正しくは物忌と名づくべきものであつた。如何なる心理の働きであつたか、日本では毎年目先きを換へて新しい材料を此に使用することになり、それが此時ばかり人を放膽にする一種の興奮と美に飢ゑたる者の欲望と合體して、金銀綾錦の華麗を競ふ習ひを生じ、いよ/\踊の終つた次の日を淋しく、踊の跡を夢のやうに花やかなものにしてしまつたのであつた。即ち風流といふ語が始まるよりもずつと以前から踊といふものは實は既に誘惑の多いものであつた。さうして我々の誠になつかしく思ふのは、遠いその時分の幽かな面影である。
風流は大正十四年の肥前の面浮立などの如く、後には、單に揃ひの装束の組踊を意味するやうにもなつたが、もともと變化の興味を重んじたが爲に、其組の中の或一人が才覺若しくは富の力を以て、特に目に立つやうな好みをして、(212)讃美を集注しようとするのを制することが出來なかつた。組踊の役々は多分は家筋などに由つて定まり、大小に拘らず持場を換へ改めることは出來なかつたものが、個人の技巧や勢力などに基いて、後漸く一人踊の手ばかりが繁くなり、例へば出雲の國女と云ふやうな獨立した名手を出すに至つたのである。併し能や芝居でシテといふ役は、決して最初から此樣に自分ばかり澤山に働いたもので無く、もつと從順に群衆の律動に支配せられ、たゞ單に統一の中心を爲して居たものであつたらしい。
芝居の馬の後脚が褒められて、嘶いたといふ笑話がある。さう迄は無くとも馬の脚だの千兩役者だのと、差別が付くやうな伎藝となれば、踊も實は人の目を悦ばすだけの、只の骨折に過ぎない。しかも自ら踊つて見た者で無いと、到底わからぬといふ面白さは、個人の手腕では無く、確かに全數共同の力であつた。群の調和から?酵し來る所の、異常なる感動を意味したのであつた。村の語では之を踊がシュムと謂つて居る。
踊やしゆむで來たが米の飯はどうぢやいなといふ盆廟歌もあれば、東北では「スンデコヤ/\」といふ囃し詞なども今に存して居る。夜が更けて子供などはとくに歸つてしまひ、よそ心の有る者は寢たり隱れたりして後に、手拍子足取りが完全に一つになつて、肅々として踊り拔く心持は、只の見物は知らなかつた。又見物の有る無しは問ふ所で無かつた。所謂
四五人に月落ちかゝる踊かな
の境涯は、酒以外の特殊の醉であつた。
今はたゞ盆の月夜にばかり限られたやうだが、最初は何れの折の踊にも、單純且つ容易に其體驗が得られたものらしい。而して歌は即ち斯の如き異常心理の産物であつた。獨り此に用ゐた言葉の、平常とは別であつたのみならず、之を聽く人の耳も亦普通の感覺では無かつた故に、永く記憶して忘れ得ず、從つて大切な昔からの物語は、必ず此機會に於て之を傳へようとして居たことは、何れの民族でも一致した習慣であつた。戰亂や飢饉や宗教の爭ひを經來つ(213)てそれが、如何程まで古い姿を保存し果ほせたかは改めて國民が自ら考察すべき問題であるが、兎も角に他の樣々の社會相の變化から超脱して、何かまだ古い心意の此間に殘り傳はつて居るものゝ、多かりさうなことだけは認めてよい。
四
踊に對する佛教の影響は、非常に大きかつたたのゝ如く、今迄は考へられて居る。盆は元より雨乞ひでも蟲追ひでも、鉦をたゝき念佛を申して、飛び跳ねる形式が多かつた爲に、人によつては此宗教が、始めて此遊戯を我々に教へたやうに考へても居た。或はその一つ前には踏歌と稱して、唐風の歌詞などを朝廷では用ゐられた爲に、それが起原のやうに思つて居る人もある。果してその推察の通りなりや、はた又日本人の兼て持つて居たものに、新たに外部からの刺戟が添はつただけで、祭や農作の重要な季節に、斯ういふ特殊の調練をする必要は、民族固有の數千年來のものであつたか。此の興味ある大問題を決する爲にも、やはり不十分ながら現存する郷土の舞踊に就て、見るの他は無くなつたのである。
自分等は久しい前から國々の踊の名稱または期日樣式をば書物から學んで、勝手な想像ばかりして居たのであつたが、今に於て心付いて見ると、まだ存外に有力な材料が地方には殘つて居た。但し個々の地方で今行ふものは大抵一つづゝで、全力を擧げてそれを保存して居たのだが、追々に懸離れた實例を比較する機會を得ると、自然に其間の類似と變化とが分つて來て、やがては其種別と發達の經路を明かにし、例へば祭の日、願ひの折に、望みと歡びとを表示する樣式と、災を避け怖畏を散じ害敵を防ぐの方法と、それ/”\根源が二流れであつたこと、若くは我々の祖先の考へには、今の樣にはつきりした遊びと勞働と、?りと滿足との區別は無く、人民の生産經濟も亦祖神の神意に導かれて、安心して之を營んで居たことが、發明し得られるかも知れぬ。
(214) 兎に角に日本青年館の今年の計畫が、單純なる保存に止らず、又其鑑賞が徒らに都人の好奇心を飽滿せしむるに止らず、既に散佚した古書を繙くやうな、極めて敬虔なる態度を以て、眞意を知らうとする者に何等か隱れたる前代生活の意味を教へんことは、我々の切なる希望である。保存は誠に好事業であるが其力には實は限がある。それよりも大なる我々の歡びは、心ある人々の骨折によつて、古い物が無意味に消えてしまはなかつたと云ふことである。
(215) 舞と踊との差別
一
今の勢ひで此會の活躍が續いて行くならば、恐らく二十年もたゝぬうちに今日を囘顧して、あの頃はまだ舞と踊の差別すらも疑問であつたのかと笑ふやうな時代が來るかも知れぬ。又さうあらんことを私も切望して居る。併し差當りのところでは、實際是がまだ問題なのだから致し方が無い。人に笑はれることがいやな者には、此種の研究は始められない。けふは一つ私の流義、即ち專ら觀察實證の手段によつて、前代事蹟を歸納しようとする方法の、あらゆる弱點をさらけ出して、將來の資料蒐集が如何に重要な役割を持つかを考へて貰ひたいと思ふ。理論からいへばこの二つの者には固より差別が無ければならぬが、自分はそれだけでは安心がならぬのである。何とか堺が立つて居ないと甚だ氣になる故に、それを究めて見たいのである。
もう三四年も以前から、人が集まればよく私は此問題を提出した、今夕の諸君の中にも何度か之に惱まされた方があることゝ思ふ。種々なる試みの答があつたことを記憶する。さうして何れも大切なる暗示ではあつたが、不幸にしてまだ解決ではなかつた。例へば(一)踊は漢字でも足篇に作つて居る。即ち足わざを主とするもので無いかといふこと、是も事實であつて、日本語でも現にヲドルといふのは飛上ることであり、此動詞からヲドリといふ名詞も出來て居る。併しそんなら舞には足の藝が無いかといふと、有る。坐つたまゝ舞ふといふ場合は殆と無い。次には又(二)(216)同じく語義から考へて、マヒはくる/\と廻はるものでは無いかともいふ人があつた。それは其通りだが、そんなら踊の方はまはらぬかといふと、やはり亦大にまはるのだから差別の標準にはならぬ。
或は(三)群又は人數との關係を考へて見ようとした人がある。最初から人數が定まつて居て、飛入追加を許さぬこと、是が舞なるものゝ特色ではなからうか。此想像は可なり傾聽に値する。勿論三十人も五十人も一時に立つて舞ふことは無く、舞には常に見物といふものが澤山で、踊にはしまひに總立ち總踊りがある。踊はかぶれるもの、うつるもの、舞の方は最初から計畫があつて、誰でもといふわけには行かぬと言へるが、果して此の近代の事實は大昔から斯うであつたかどうか。段々技藝が精に入つて職業的踊り子が必要になれば、それが變じて舞となると解してもよいかどうか。さう迄斷言することは私には出來ない。つまり何故にといふ點が、まだ説明せられぬからである。
ヲドリといふ名詞は日本語としては、まひといふ語よりも新しい。事實は共にあつたのかも知れぬが、社會制度として意識せられたのは、正月十五六日の男女踏歌などが始のやうである。普通の歴史家はこの記録年代の差に重きを置き、稍々似たるものならば一方は他のものから分岐派生したものゝやうに推論しようとしたがる。が果して相似たりといふことが、言へるものか否かゞ既に大きな疑問である。少なくとも今日我々の持つ概念では、さうは總括し得ないやうな氣がする。やうな氣がするだけでは空漠な話だが、是は至つて重要のことで、言はゞ日本を研究せんとする日本人の財産である。二つの者は現在は可なり混同して居るが、それでも尚舞と踊とは同じかと尋ねられて、うんと答へる日本人は一人もあるまい。どこか違つて居る。何か相異がある。強ひて言つて見よといへば、騷々しいのと靜かなのとか、外と内とか、足を揚げる揚げないとか、全體に通用せぬことを言ひ出すかも知れぬが、兎に角に同じでないといふことは認めて居るので、この漠然たる意識こそは、比較實驗の目標ともなれば、又發生學的推理の手引ともなつて、久しく國内の研究を助けて居たのである。定義といふと現在の事實に即することになるが、假に後代の分堺は多少亂れて居ようとも、我々のみはそんな筈は無いといふことが出來る。この遺産を利用せずに、直ちに外國(217)の學者と同じ立場から、自分の伎藝の成長を見ようとすることは、殊に舞のやうな此大陸の一隅に於て、或理由あつて特段によく發達し、類を白人の國に見ないものに付ては、此上も無く損な態度であると思ふ。
二
そこで先づ最初には、漢字に拘束せられてはならぬといふことを考へて置きたい。昔高麗諸越から「舞」といふものが入つて、之を天朝に採用なされた時、マヒといふ日本語を以て之に宛てたのは、單に當時の人の判斷といふもので、是は向ふの事情を知ることの淺さ深さ、或はマヒに關する朝廷の人々の考へ方如何によることである。一旦舞を我がマヒに宛てられたからとて、それを以て固有の殊に民間のマヒの性質を説明することは出來ない。今日のダンスなども同じことであつて、之に舞踏・舞踊の文字を宛てたなどは、全く近代人の二字好きの弊を示すものである。舞なら舞、踏ならば踏、どちらかでなければならぬ。二つ兼ねて居る氣遣ひはないのであるが、漢音を耳にすると通例人は又別種のものゝやうに思つて、そつとして置く。即ち混同の責は寧ろ學問のある人に屬するわけで、必ずしも國民のマヒとヲドリの差別には、煩を及ぼさないのである。尤も國の内でも常に精確であつたとはいへない。現に平賀鳩溪の淨瑠璃にもある如く、都のマヒ子を吾妻ではヲドリ子と謂つて居た。關東の方言のヲドリは、新らしい舞のことであつた。さうなつた原因は同じ民族でも地方により社會によつて、或はマヒが追々に發逢して、弘く伎藝としてもてはやされたところと、いつ迄もそれを嚴格な古風の目的に制限して置いて、ヲドリばかり盛んにもてはやされた土地とがあつた爲かも知れない。さうなつて行く傾向は一つの國の中でも、想像し得られぬことはないが、民族が異なり文化の系統が分立すると、一層其喰ひちがひは著しいわけで、決して有合せの譯語に基づいて、外から其性質を解説することなどは出來るわけのものではないのである。
西洋で始めて此間題に心付いた人は、希臘劇の研究者たちであつたやうであるが、それも至つて近頃になつてから(218)の出來事である。歐米の文藝はあれ程何でもかでも、希臘から筋を引いて居るに拘らず、芝居だけは根本から方向が違つて居た。所謂カテゴリーの相異であると言つて居る。さういふ人たちが日本に遣つて來て能を見ると、殆と雷に撃たれた程びつくりするらしいのである。或は私たちに向つて、そんな筈は無いのだがとさへ言つた者がある。恐らくは遠からず日本の舞が、どういふわけで希臘の劇と、是だけ迄の共通を有するかを、考へて見ようとする人が出るであらう。ところが日本人は兎に角にこの二つの系統の伎藝を、樂々と比較して考へ得る唯一つの國民のやうである。徒らに人の研究を待つて居る必要は無いのである。
二つの系統といふことを實地に據つて對照させることは、今日だけの資料ではまだ六つかしいといふことは白?しなければならぬ。併し演繹の方法を借りて來さへすれば、存外簡單に證據立てることが出來ると私は考へて居る。先づこの舞と踊との二つに、共通して存するものは何かといふと、第一には動作、手足のはたらきと、第二には之に伴ふところの音聲、口のはたらきがある。見物聽衆の受身の側からいふと、目に來るものと耳から入るものと、この二つは明らかに二つ別々の因子であつて、しかも雙方一致提携をしようとはするが、同じ時に始まり同じ時に終らうとはしない。後者には囃しや間といふものも合むから、之を歌とか語りとか名づけると狹い感じがする。假に「地」とでも名づけて置くがよいかと思ふが、さうすると一方は「手」、或は寧ろA・Bと謂つた方がよいかも知れぬ。このAB二つの對立が認められると、當然に次には二者の關係、何れを主とするか又は何れより始まるかの問題が考へられる。手短かに結論を言つてしまへは、私は
A+AB+A=舞
B+BA+B=踊
だと言ひ得るやうに思つて居るのである。當世の語でいへば目的の『地』に在り、耳に説くを主とするものが舞、『手』に依つて目に訴へるのを本旨とするものが踊と、斯う區別することが適當ではないかと考へるのである。本來聽く必(219)要があるので舞は靜かなもの、之に反して踊は騷々しいものとして居る我々の概念は、言はず語らず是から出て居たのであつた。
(220) 假面に關する一二の所見
異種民族の使用する假面に就いては、可なり周到なる考察を試みた著書も西洋には有る樣だが、使用者自身の内部の感覺から出發して、この特殊の藝術の成長を跡つけるといふことは、日本の如く丁度二つの文化の境目に立つ國の學徒で無ければ、本當は出來ぬ仕事であつた。それを機會が無かつた爲に、まだ我々は企てようとしなかつたのである。如何なる種類の藝術でも、遠く其源頭に尋ねて行くと、必ず我々の濃厚なる宗教生活の中に、押包まれて居ることを發見するが、殊に假面に於ては其關係が顯著であつて、例へば兒童の玩具にまで零落した面の中にも、鬼もあり天狗もあり狐もあるといふ有樣であつた。何故に斯ういふ形が今まで殘つて居たか。さういふ簡單なたつた一つの疑ひを起して見たゞけでも、もう民俗學の必要は感じられるわけであるが、事實其研究は手を着けられて居なかつた。さうして外國の學者の外から下した觀察に、耳を傾けようとする人ばかり多かつたのである。同じ國内に生れた我々にさへ、時として解しにくゝ、又は言ひ現はしにくい微妙なる心意の作用を伴なふ社會現象を、彼等が説明してくれる道理が無い。假面が若し世界共通の文化史の問題であるならば、是に答へるのは内に實例を有つ國民の任務で無ければならぬ。日本は即ち自ら假面を研究すべき國である。
今まで我々が此間題を、兎角近づき難いものに考へて居たのは、主としては比較の便宜の乏しい爲であつた。幸ひに共同の研究が進んで來ると、或程度まで此困難を踏越えて行くことが出來るであらう。私の經驗は一つとして失敗の跡でないものも無い位だが、それでも研究の興味を同志の間に頒つ意味でならば、尚幾分の貢獻を期してよいかと(221)思ふ。最初自分たちの注意に上つたのは、東京の近くでならば新篇武藏風土記稿、又は新編相模風土記といふ類の、百年ほど前の地誌の書物に、社寺の什寶として持傳へて居る假面の非常に多かつたことである。現在は既に其大半を喪失して居ることゝ察せられるが、是を若し目録に作り、寫眞にでも取つて集めて見たならば、段々に地方々々の假面の用途が、考へて行かれるのでは無いかと思つたこともある。ところが實際は是はたゞ僅かに片端で、他に方法が無いならば試みた方がよいといふばかりで、今日の考古學が安心して進まうとして居る樣に、偶然に殘つた遺物のみに由つて、何等かの結論を綜合することは、殆と望みの無い企てだといふことが後に解つた。其理由は第一に管理者の多數が、もう其使用の記憶を失つて居るのみか、何故に之を保存して居るかの動機をさへ忘れてしまつたらしいからである。假面が若し遠方からの傳來で無いならば、一つの祭式には必ず幾つかの面を組合せて使用したであらうのに、持傳へられたものは其中の多分は主要であつたかと思ふ一つ又は二つである。第二には名は古面と稱して、今製のもので無いことも亦明かだが、其實は精々四五百年來の、銘があり又は手法の認められるものばかりで、伎藝はそれよりも以前からあつたものとすれば、どれだけ迄面に昔の心持が傳承せられてあるかといふことが、心元無いものになつて來るのである。故横井(時冬)博士以來、能の面の顔付を系統立てゝ、調べて見ようとした學者は幾人かあつて、其説も一部には認められて居る。如何にも外來工藝の影響は受けず、斯邦ばかりで成育したかと思ふ表情樣式のあることは確かであるが、それが固有であり中古から巧み出されたもので無いといふことは、亦決して立證せられたわけでは無いので、結局は別に今少し弘い區域に亙つて資料を探り求めなければ、到底我々の假面の根源を説くことは出來ないのであつた。
我々の所謂無形遺物の蒐集採録は、中々年數のかゝる仕事であつた。是も畠の隅の石器土器の殘片と同じく、本來は無限に散亂して居るのかも知らぬが、それに心付いて手に取上げて見ようとする者が、今でもまだ多いと言はれぬのである。陳列がやはり最初の好奇心の刺戟であることは、此方面に於ても變りは無い。近頃漸く自分などの知つた(222)事實は、假面の製作に職人と素人との二流れの系統が可なり明瞭に區別せられて居たことである。勿論他の總ての民間藝術も一樣に、修練を積み聲名を馳せた專門家の勢力が、都府から地方に向つて年と共に伸びて行き、一方は無邪氣にその技工の優越を承認して、模倣もすれば無意識の感化を受けることも多かつたが、幸ひにして假面の昔からの用途が續いて居た御蔭に、今日の民謠や短篇小説などの如く全然根城までも明け渡してしまふに至らず、又兒童畫と畫家の作品とのやうに、比較を絶したる大きな階段を生ずる迄にも至らなかつた。集古十種の由緒ある僅かの名物を採録したものゝ中にもよく見ると確かにこの二つの起原を有つた假面が入交つて居る。一言でいふならば素人細工も亦、久しく藝術として承認せられて居たのである。同じ民俗文藝の列に加ふべきものでも、俚諺や唱へ言や地方事物の名稱などは、今でも專門の作家が無く、丸で野生の?態に放任してある代りには、その新文化に對する影響は微少なものであつた。之に比べると假面の彫刻などは、特に強力なる信仰の背景があつた爲に、いつ迄もこの對等併立の?勢を保つことが出來たのである。私はまだ少しも調べて居ないが、所謂美術家としての面打ちの傳統は既に世に知られて居る。それが京師に起り又外國工藝の學習に基づくことも確かであらうが、彼等の作つて遺したものは、勿論輸入の伎樂の用に供せられるものゝみでは無かつた。地藏や文殊のやうな外國の佛樣でも、永い間には何時と無く、日本の國人の有難がる顔立ちになつて居られる。ましてや最初から約束もちがひ、崇敬の態度も異なつて居る祭場に、元の姿のまゝで入つて來られる筈は無かつたのである。從つて此種外來優秀の工藝には、幾多の妥協があり又顯著なる感化があつて、しかも尚今日に至るまで、假面の樣式の全體を統御することが出來なかつたのである。
面が其發生の最初の動機に於て、大よそ神佛の尊像と一つであつたといふことは、是から新たに澤山の資料を集めて、立證しなければならぬ事柄ではあるが、少なくともそれが衆人の注視瞻仰を集める焦點であることが、二者共通であつたといふだけは、今から斷定して置いても差支は無いだらう。新らしい宗教が異樣の形像を以て勸説せられたと同じく、古い信仰は定まつた面貌を以て、多言を煩はさずに見る者の心を繋いで居たのである。技藝が庶民の監督(223)を遁れて、自由に進化し得る餘地は誠に乏しかつた。假面の後に隱されて居た頭腦も、間接には頗る其拘束を受けて居た。聽衆とか看客とかいふ人々の空想は、如何なる場合にも役者よりは遲鈍であつて、それが或一二の天才に何處へでも導かれて行くことを覺悟した時代ですら、尚フォルミュラを以て鑑賞の尺度として居たのである。況んや年に一度か二度の規則正しい繰返しを以て、元見たものを見直さうとして居たのである。だから素人の藝術が其能力の極度に於て、所謂傳承に忠誠であつたことは、將に假面の製作に於ては是を推測し得る理由があるかと思ふ。早川孝太郎君などは詳しく此間の消息を知つて居られるが、曾て信州下伊那の新野といふ村で、神社に火災があつて古くからの面を燒いてしまつたことがある。春の始めの田遊の舞が其爲に中絶して、氏子たちは淋しくて堪らなかつたが、さうかと言つて專門の製作者に誂へて、新たに代りの品を調へるといふ氣にはなれなかつたさうである。ところが近年熱心なる村人が申合せて、 各々手分けをして自分たちで其面を彫刻し、之を用ゐて昔通りの神舞を再興して居る。それが工藝品として決して上乘のもので無かつたことは云ふまでも無い話、果して燒けた以前の面の寫しといふことが、出來るかどうかも實は覺束無いのであるが、土地の人たちに訊いて見ると、自他共に存外その「古い記憶」なるものに信頼して居る樣子であつた。手本を傍に置いて形を取らうとしても、材料や刀物が必ずしも言ふことを聞くとは限らない。ましてや或年月を隔てゝ過去の印象を喚び起すのだから、それが精確に似て居るといふことは、到底常理を以て推測し得ぬのであるが、村の祭に參加する人々の記憶は、先づ此程度に大まか〔三字傍点〕であり、又強烈なものであつたのである。
だから本人たちの主觀からいへば、何物よりも嚴肅なる古式の踏襲であつた場合にも、尚知らず識らずの時代の感化が、潜み入る餘地はあつたのである。それには假面の使用せられたる機會が、稀の一夜の松の火の影であり、又さまざまの物忌みと準備とを重ねた、所謂異常心理の支配する時刻であつたことも考へて見なければならぬが、祭過ぎての久しい後の日まで、深く見衆の頭の中にこびり付いて消えなかつた特徴は、恐らくは今日の鑑賞家にして、始め(224)て注意することの出來る樣な、細部の妙味では無かつたらうと思ふ。全體に名作といふ語の意味が、地方ではまだ違へて用ゐられて居る例が多い。單に何時の世からとも無く傳はつて居るといふだけのものもあれば、或は度々の靈驗がある故に、これを名匠の作なるべしと推定した場合もあつて、恭しく筥の紐を解いて、内心の失望を禁じ得なかつた經驗は誰でも持つて居る。が、それは民俗藝術の研究に携はる者が、たま/\二つの兩立せざる欲求を、抱いて居たことを意味するに過ぎぬ。私たちは古人が何に感動し、如何なる光景に面して心意の昂揚を味はつて居たかを知らうとして、今僅かに遺り傳はつて居るものを尋ね求めようとして居たのである。其熱心の末が時々は彼等の境涯に同化して、假に前代の高興を以て自分の樂みとすることが出來ようとも、それは所謂尚古趣味の克服で無い如く、同時に又彼等の藝術が、當世の標準に合格したことを意味するものでも無かつたのである。精緻を極めた今日の好尚と背反する或ものが、特に假面の製作の上に現はされて居ることは、或は稍々主我的なる一部の人々の、研究心をはゞむ結果を招くかも知れぬが、自分などの見る所では、この古拙なる田舍の素人細工が、今でもまだ堂々として對立の形勢を保ち得る點に、最も注意すべき假面民俗の要訣が在るのでは無いかと思つて居る。
日本ばかりに限つたことでは無いが、面作りの工藝がどの程度に進んでも、尚依然として二つの目標の、全く相容れないものに向つて行かうとする?勢は認められる。即ち一方にはさも有りさうな人の顔を描き出さうと努むるに反して、伯の一方には出來るだけ、此世には見られぬ面差しを現はして見ようと骨折つて居た痕跡は、今でもまだ明瞭に殘つて居るのである。寫實生寫しといふ言葉が、作る人によつて違つた内容を有つて居たことは確かである。胸に兼々貯へて居る面影のある間は、假令下手でもどうにかして木や土に傳はるが、それが年代を經て消え薄れ、若くは處々に空隙を生ずると、之を補?する爲には外にあるものを、假りて來る必要を感じて來る。何も種無しには形ある物を作り上げることが難いからである。そこで第一段には朝家に採用せられた輸入伎樂の面、次には鬼とか大蛇とかいふ類の、常に見馴れた物の繪の怖ろしい姿が、眞似まいとしても自然に入つて來るのであつた。さうして後漸く現(225)在の混亂となり、何とも得體の知れぬ色々の假面が、我々の研究をまご付かせる結果にもなつたのであるが、實際のところは系統ある一派の工藝が、雜駁なる異分子を加へて退歩した場合よりは始末がよいかと思ふ。素人の製作には最初から、土地によつての變化があつたかも知れぬが、もと/\其要點といふものが簡易であつた上に、外部から附加した部分は出處も略々わかつて居り、又其影響にも共通のものが多いからである。若し村々の假面が、常に不思議を要求する使用者たちによつて、直接に製作せられるものでなかつたならば、とくの昔に樣式は定まつて、たゞ徒らに粉本踏襲の巧拙を論ぜらるゝものになつて居た筈であるが、幸ひにして彼等は其智能の許す限りに於て、元から傳はつたものを守らうとして居た。さうして信仰が衰へ乃至は記憶の稍々幽かになるに及んで、始めて澁々に各自の時代によつて養はれたる空想を、働かせようとして居たのであつた。日本が惠まれて居るフォクロアの種類は數多いけれども、是ほど由緒の確かな又具體的例も少ない。たとへ十分なる精密は期せられぬまでも、比較は必ず異人たちのまだ心付かぬ樣な、新たなる推論に我々を導いてくれることゝ信ずる。
外國の假面研究家の、今まで特に興味を感じて居た點は、鷲とか海龜とか熊とかいふ奇怪なる物の貌を、最初に各部曲の神舞の面に、現はして見ようとした人々の心持ちであつた。是を彼等の信仰が前々からはつきりと定まつて居た結果と解するが故に、必ず使用者の環境に於て、自然に遭遇する何物かの顔付きを、寫しひがめたものゝ樣に見るらしいのであるが、是などは確かに尚異説を挿む餘地がある。我々の手工と鑑賞とが發達した如く、我々の空想も亦決して退歩はしなかつた。最初には唯何か尋常に異なる形を以て出て來れば、もうそれだけでも神としての表情には十分であつたものが、後代種々の特性を付與せらるゝに伴うて、それを説明する爲に細部の描寫が必要を生じて來る。殊に生活の經驗が信仰の動搖を促し易くなつて、爰に新たに現實の方へ、近寄つて行かねばならぬことになるのであつた。だから東方の諸民族の如く、假面の宗教行事の年久しく續いて居た土地では、神靈鬼物の繪姿が、常に時世と共に進化して居り、それが又機縁ある毎に、いつでも少しづゝ所謂「有り得べきもの」の分子を加へようとして居た(226)のである。記録を缺如する未開人の社會に於ても、現在諷査者の目に觸れるものを以て、自然崇敬の固定した表現と見、若くは一旦備はつたものゝ退縮して行く形と解することは、實は十分なる根據の無いことである。傳承資料の豐かならぬ國の學者は、往々にしてこの中間過程に疎であつて、奇異なる殘留を以て悉く上古生活の投影の如く見んとする弊があつた。日本人などは其態度を習ふ必要は少しも無い。
併し何と言つてもよその民族の過去は、斷定し得る途が無いのであるが、自分の事だけは今に理解する方法が見付かるだらうと思ふ。假面の主要なる目的は現在でも、男が女となり若者が一時老翁を裝はうとするに在つた。神事の舞に於ては其趣旨が殊に限られて居たのである。凡夫百姓が神となつて信者の前に立つ場合、如何にして我身が何助何太夫に非ざることを立證したかといふと、勿論出來るだけ異樣の顔をしなければならなかつたのであるが、角とか牙とか赤い毛髪とかの特別裝置が、若し悉く創成當初のもので無いとしたら、別に何物かの之に代るべき用意があつた筈である。それがどの程度に近代まで傳へられて居たかといふことは、先づ一つづゝ後に加はつたことの確かなものを、引去つて行けばわかるのである。それは我が同志の將來の大事業で今から之を假想することは學問の本意で無いが、暫らく研究の興味の爲に一二の冒險を試みるならば、第一には假面の大いさが、普通の人の顔よりも、遙かに大きくはなかつたかと想像が浮ぶ。これは現在でもまだ折々實例を見る所で、よその國にも類似はあるけれども、特に學ばねばならぬ程込入つた思ひ付きでは無い。面を大きくすれば被つた人の背が低く見える。神靈を丈低き姿に想像したやうな口碑が、若し各地に分散して居ることが知れるならば、それから逆に推測して、もう少し安全に立證することが出來るかも知れぬ。第二に考へられるのは塗料の問題で、これも普通人と差別する爲に、多くの民族の間に早くから用ゐられて居る。その色の選擇と取合せは、至つて簡單に效果を收めることも出來れば、又容易にシムボルを以て信仰を約束することも出來た。是と關聯して考へて行くべきことは、式に先だつて假面を塗り直す慣行、及びそれとよく似た神像木主を彩る風である。個々の色彩の宗教的意義は、殆と國毎に違ひ且つ固定して居る。假面は恐(227)らくは曾て其字引の如きものであつた。白粉が婦女を美しくする根本の理由、乃至は菅原傳授手習鑑の、梅王丸時平大臣等の甚だ諒解しにくい顔までが、行く/\此因みを以て解説せられる見込みも無いでは無い。
然るに斯ういふ幾つかの興味ある現象を切離して、各々孤立の問題としてしまつたのは、何と言つても漆工の發達が最も有力な原因であつた。漆塗りが在來の村の工藝を一變してしまつたのは、獨り假面の製作に限つたことで無く、假面は寧ろ中央工業の統一に反抗するだけの、特殊の後楯を持つて居たのであるが、それでも終には間接の影響を被つて、木を材料として其表面を塗り潰すものを普通とする樣になつてしまつた。彫刻の次第に精巧を加へたのも、恐らくはそれから後の事であらうと思ふ。さうなると他の多くの祭器も同じやうに、念入りに製作したものを保管して、年々の式に連用することになり、木以外の材料を以て一囘毎に新造するの風は、自然に廢絶に歸したのであらう。林道春の日本記略の中には、駿河の山人の顔は樹の皮に眼鼻を描いたものだといふ奇怪なる一節があるが、是などは多分山人の舞の面が、樹皮を以て作られて居たことを暗示するもので、捜せば今少し後の時代まで、さういふ例が他にもあつたことが知れるだらうと思ふ。其他夕顔といふ異名を持つ大きな瓜、竹や蔓を編んだ一種の籠、若くは布紙の類なども用ゐられた樣だが、私は今まで不注意でそれ等の實例を書留めて置かうとしなかつた。是から改めて蒐集に着手しようと心掛けて居る。
尤も假に此種の假面が用ゐられた證據は出て來るにしても、實物は殘り傳はつては居ないわけである。式が終れば流し又は燒き棄て、又は土中に埋めてしまつたに違ひないからである。諸國の舊社の中には、境内に翁塚などの名を以て、古い假面を?めてあると傳ふるものが稀では無い。普通には木の面でも使用しなくなれば、斯くして跡を隱した樣に想像せられて居るのであるが、現に其多くが今も秘寶として管理せられて居るのだから、塚の底に朽ちて居るものは恐らくはさういふ常備品では無かつた。此點に關しても自分は處々の口碑の集積が、尚新たなる暗示を供與すべきことを期待する。單に現存の遺物の數量と共通性とを見て、前代の事實を臆測する方法の、甚だしく不安全なる(228)ことは此だけからでも認められるので、必ずしも民間信仰展開の跡を、明らかにする爲ばかりと言はず、たとへば純乎たる面打ち工藝の歴史を知るだけにも、尚何等かの方法を以て其背後の心理を尋ねて行く必要はあるのである。今日は專ら能の舞に與かる家々に言ひ傳へられて居るらしいが、假面の奇瑞に關する説話は非常に多い。それが彼等の間のみに釀成せられたもので無いことは、是亦我々の追々に證明し得る所である。迂遠の業に近いが、内側から此問題を考へて見る方法としては、是も亦調査の外に置くわけにはいかぬ。仍て長たらしい惡文を書いた御詫びとして、最後に其昔話の一二を話して見ようと思ふ。
秋長夜話に出て居る廣島藩の能役者が、面を被つて比治山の狐を欺いた話。是は僅かづゝの變形を以て、妖怪征服の童話の中に、繰返されて居るものであるが、最初は多分假面の使用者が、其期間だけ超凡の力を具へることを説いた話であつたらう。又或名人が道成寺を舞ふ時に、怨みある者の惡戯より違つた面を渡され、我身を傷けて其面に血を濺ぎかけ、釣鐘の下から舞つて出た爲に、却つて異常なる效果を收めたといふ話なども、多數の人は今以て之を史實と認めて居るが、やはり亦越前吉崎の嫁おどしの口碑と一貫した、古い言ひ傳への土着した例である。即ち一念が凝り集まれば面と人とが合體して、離れ難いものになるといふ點に、元は此話の中心があつたので、一向宗の人たちは之を邪險の佛罰と説いて居るが、同じ物語は蓮如上人以前から、平泉寺に關係して此地方には行はれて居たのである。信州小谷では其面を被つて、肉が附いて離れなかつたといふ女を、姑を苦しめんとした嫁だと言つて居る。或は又孝行な娘が鬼の面を被つて、盗賊を嚇して圖らざる財寶を得たといふ話にもなつて居るが、何れも皆假面の威力が之を使用する人を、變化せしめるといふ信仰に發して居るやうである。能登の鵜川の結界山の口宮では、三戸の舊家の何れかの一戸から、毎年十四歳の女子を出して、面を被つて神樂を舞はしめる例であつた。舞の法を知らぬ少女でも此面さへ被れば、自由に舞ふことが出來たと言ひ傳へて居る。斯ういふ信仰は昔の日本の普通であり、今も或地方には活きて尚働いて居る。それが單一なる世間話の形に化し、或は文藝の一つの趣向となる迄の、永い過程を一望の(229)下に集めたものが、現代生活の横斷面であり、同時に又假面工藝の種々なる階段であつた。片端に坐つてまだ全體の趨勢を概説し得られる時節では無いやうに思ふ。私の知識は實は一向に纏まつて居ないのであつたが、近く此雜誌に假面研究の特別號が出るといふ噂をきゝ、次に南江二郎氏が其民俗假面考の序文に、日本の假面の問題はもう大抵わかつて居るやうなことを書かれたのを見て、急に此樣な一文を草して見る氣になつた。同志諸君の多くが共同調査の必要を、更に痛切に認めてくれるならば、私の第一の目的は達したのである。
(233) 田植のはなし
田植風景には早乙女がつきものである。もともと農業は多く女の勞働によつたものであるから、その點からすれば別段に不思議なことはない。しかし歴史的に見てくると婦人勞働は直接の耕作から徐々に他の勞働に向けられる傾向にあるので、東京附近などでは他の地方に比べて、耕作婦人勞働を見ることが尠なくなつてゐる。ところがその中にあつて今でも田植だけは絶對に女の手を必要としてゐる。どうしても田植には女を省くことができないのである。
單調な動作を頻繁無數にくり返すのだが、手の出し方ひつこめ方にもコツがあつて、やり方によつては關節を痛めてしまふ。さし〔二字傍点〕手といふのはそれである。さし〔二字傍点〕手にならずにしかも數多く植ゑるといふのには、どうも女が適してゐるやうである。同じ田でも向きや傾斜で苗の間の間隔には微妙な加減を加へねばならぬ、たとへばその家の傳銃だとか經驗からくる判斷だとかに頼つてやつてゐるのだが、中々に細かい注意が必要だ。苗の挿し加減も中々むつかしく、總じてこの種のことは女ならではできないことなのであらう。實際男にやらせてみるとよくわかる。
植付時は忙しい上にも忙しい。一人あたりの工程を超えて植付けなければ追つかない。ことに越後その他米どころと稱せられてゐる地方へゆくほど甚しく、可能な能率を超過する勞働をしなければならぬ。奴隷經濟の時代ならいざ知らず、不可能な仕事を可能にする強制といふものがある筈がない。そこに田植と早乙女の深い關係がびそむわけなのである。
多勢の女が美しく着飾つて、團體をなして歌ひ興じてゐる有樣は見る目にはいかにも樂しげである。しかし當人た(234)ちにとつてはその姿は繪や歌にあるやうな生やさしいものではない。大きな田植では早乙女が一列に竝び、一方の畔から他方の畔へと、植上ることもあるが、植下るのが普通である。横から見ると不器用な女は列から取殘される恐がある。おくれまいとあせる心、少しでも早く進まうときほふ心が、不知不識のうちに可能以上の工程をつくるのである。普通には下手な人の傍にはなるべく上手な人を配置して、補つてやれるやうにする。ともすればおくれ勝な早乙女の側に姉だとか仲善し同志が居れば、手早く二つ位づゝ挿してやるが、それが仲の惡い友だちであつたり、嫁であつたりすると、それこそ問題である。中でも困るのは嫁である。ことに他村から來た嫁だと一番の苛められ役になるのである。
日本の村では、古くは嫁娶は部落内と定つてゐたが追々に他村から迎へる風習が生じてきた。しかし他村へ嫁するといふことは娘にとつて一大決心である。美醜よりも仕事が女の標準として考へられる時代には、よく/\仕事に自信のある娘でなければ他村へゆけるものではない。先が仕事が激しい家や他村であると、當人や親がその氣になつても、仕事に心許ない點があれば叔母だとか何だとか身内のものが思ひ止まらせるのである。とかくあの嫁を困らしてやれといふ上に、他村から來たものだと一つその働きを試みようといふことになり易い。平素親しくしてゐてもこれは女にとつて有りがちなことであらう。
だから田植時には若い女、ことに嫁は大きな興奮と緊張につゝまれる。他村へ娘をやつた母が嫁家の近所の女房衆に田植襷をつくつて贈るのも、娘が苛められないやうにとの心づくしの現れである。
一方の畔から植下り他方の畔に達するとこゝで早乙女は向きをかへ、更にもとの畔に植下る。途中で少しでもおくれると、その一人だけが畔のところで全體に對してうしろ向きとなる。これを棚――兩端に熟練した女を置き中央に未熟のものを置くとき、この中央のことを棚といふ――に上げられる、或は壺におちる、と云ふ。
自分の愛人や新妻が壺に落ちはせぬかと氣遣ふ男の心や、嫁や惡まれてゐる娘を棚に上げようとする女達の心はよ(235)く田植唄にあらはれてゐる。
赤い襷をかけたはよいが
たなに上るの可笑しさよ
十七がつぼにはまり
そこなたもれ苗たもれ
編笠のヨー殿
かう云つて囃された當人はそれこそ穴あらば入りたい位の思ひをしなければならぬ。
もし乳呑子があれば田の側につれてきて寢かして置く、泣き出せば乳を呑ませないわけにはゆかぬ。しかし一心に植付てゐる早乙女たちからみると、ほんのしばらくの哺乳の時間が十分羨望にもあてこすり〔五字傍点〕にも値する休息の時間なのである。
五月田植に泣く子がほしや
畦に腰かけ乳のまそ
このやうに田植時が忙しいのは、田植が昔ながらの方法で原始的な手だけの仕事であり、かつ苗の植旬《うゑしゆん》が三、四日の短い期間に限られてゐるからである。中世以降の農村では、農場が分れ、各個の經營に獨立したが田植だけは依然として共同作業――結といふ――であつて古俗を存してるのも深い原因があるわけである。結としてやる場合、祭禮の時のやうな一種の興奮した空氣をつくり出して勢働を刺激し、女の間の優美な競爭心、或は敵愾心を利用して工程を早めることができるのである。
美々しく着飾る花田の外囃田といふ言葉がある、これは樂器演奏をやるものである。この風は今ではすたれて、中(236)國方面の大田植に俤をとゞめてゐる位である。私がかつて支那を旅行したとき、大冶附近で支那の田植を目撃した、こゝで苗を挿すのは早乙女の代りに男である。銅鑼その他の樂器で賑やかに囃しながら作業をすゝめてゐた。樂器を扱つたり、歌を唄ふ人手があつたら田に入れたらよかりさうに思はれるけれども、無駄のやうに見えても、全體としては却つて能率が上るのであらう。歌は勞働と調節してトレーンしてゆくのである。
田植時の側目もふらぬ忙しさについて色々の説話がある。田主が田植を監視してゐると、鷲が舞ひ下つて猿をさらつて飛び去つた、側にゐた人が、何んと珍らしいことゝ私語したが田主は冷然として取り合はなかつた。後になつて、その理由を質されると、あの時自分が聲に應じて珍しがつたりしたら、早乙女たちは一瞬手を休めて空を見上げただらう、顔を上げるだけで田植はおくれて了ふではないかと田主は答へたと云ふ。
これも猿に縁がある話だが、因幡の國|湖山《こやま》の長者は千町の田を擁する大福長者であつた。その大田植の日、猿が仔を負うて通つた、それを見ようと早乙女が首をあげたため、その日の中に植ゑ終ることができないやうに思はれた。古來一日を以て植付けを終へるのは自分の家の誇であつたのに、かうして自分の代になつてそれができぬことがあつてはと、長者はいたく悲しみ、黄金の扇をもつて沈みかけてゐる日輪を呼び戻した。日輪もこの長者の要求は肯かぬわけにゆかず三竿ばかり戻り、漸く田植を終へることができた。しかし日輪を呼び戻した罰によつて長者の田は一夜にして池となつた。これが湖山の池の由來だといふ話である。
首あげる時間も惜しい。それだけにしなければ實際に田植ができないのである。
さいりよう殿/\なして目玉が大きいか
早乙女の植るのを見るで目玉が大きいよ
大きなさいりよのめだま
苗うち――苗束を田の中に適當に配置すること――の如何は能率に大きな關係がある、苗束を一々畦までとりに歸(237)る時間がある筈はない。そこで晝だけでは足らず、篝火を焚いて田植をするところが諏訪の附近にある。植付期を異にする地方では、自分の地方の田植が終ると、早乙女が群をなして他の地方へゆく現象があつた。この早乙女群は旅人と呼ばれた。たとへば越後の國頸城地方から信州の長野方面へ出かける旅人、或は大町方面から川中島地方へゆくものがあつたが、近來段々見られなくなつてゐる。若い女が女工などに出てゆけばゆく程こんなことは消滅するのである。もちろん、田植だけに青年男女の喜びと悲しみが伴つてゐない筈がない。
道のはたの竹の子と人の小娘はの
盗んでも大事ない人の小娘はの
娘盗んでかたいでよけや
(かついで逃げろ、の意)
今朝殿の見送りにや簪を落いた
落いたも道理よ 殿に心とられた
落いた 銀燒きつけを
拾うた朝草苅が
日暮方の早乙女と春の鶯はの
色々の音を出す春の鶯はの
音を出す鶯鳥が
今日の田の田友達ちや なごれ惜しや友達
(238) 洗ひ川でこそ文をまゐらしよやの
なごれ惜やと云うては袖を
かう云つた歌は限りがない。
かうしたことで田植は興奮した空氣で包まれる。
私は田植のうちに民族として行つてきた農業、ことに水田耕作の運命が象徴されてゐるやうに思ふ。米作は他の産業に比べて進歩の跡が極めて遲々としてゐる。畑作にはまだ社會?勢に適應してゆく可能性はあるけれども水田にはそれがないやうに思はれる。
ジャヴァの土人がやつてゐるやうに穗から五寸乃至七寸のところを刀物で切つて籠に集める古い日本人の收穫法からみれば、現代のやり方は相當進んだものだらう。最も集約的な除草の點でも素手からつめ〔二字傍点〕(金屬製)への過渡は見られる。馬耕も明治末から行はれて來た。直接の耕作から調製に眼を轉ずると、こゝには非常な進歩が見られる。だから一つ/\あげて見れば遲々としてはゐても多かれ少かれ進歩はある。
しかし田植のところへ來ると一切の進歩は忽ち停止してしまふ。これだけは昔のまゝであるといふ外はなく、依然として原始的な手ばかりの勞働でやつてゐる。だから田植時の勞働需要はどうしても最大の幅を示すわけである。耕作反別を擴張しようと思つても、田植といふ障害につきあたるのである。田植に必要なだけの勞働力を備へるとこれ以外の場合の慢性的失業を生ずることになるからである。のみならず、市場商品として大量取引の對象となる必要から、品種は漸次少數のものに限定されてくる傾である。植旬が短いのであるから植付もしたがつて同時となるから、田植時の勞働交換はます/\不可能となるばかりである。自然的傾斜を利用して灌漑にあてるにとゞまる以上は、水(239)田の單位面積は一反前後に制限され、それだけでも著しく機械化の可能性を少くするであらう。さうかといつて、東京附近の摘み田は今のところ成績はよくないと云ふ。
殆と空想にすぎないやうだが、できるだけ陸稻に近い品種をつくり、乾田に播種し、一定の生育をとげた後に水を導入し得るやうな灌漑設備を完成できたら、問題は別である。さもなければ水田經營の行詰は打開することができないだらう。
できるだけ手の勞働を機械に代へてゆくといふ建て前からすれば、勞働需要に急激な増減があり、望ましからぬ不可能に近い激しい勞働を必要とする水田耕作の將來は、想像に困難である。
美しく着飾つて、樂しげに歌ひ囃す田植の風景は勞働と戀の詩であり繪であるかも知れない。たゞ私はこの中にわが國の水田耕作の運命的な矛盾が最も濃厚に浮んでゐることを感ずるのである。
(240) 歌と國語
一
禅と彫刻とを以て、短い一生を完成した倉元勘六、私の家ではたゞ勘ちやんで通つて居る知るべの者が、或時忘るべからざる一首の歌を詠んだ。今からもう四十年近くも前の話である。
猿のつら見れば見るほどをかしけれみやまの奥に啼く聲かなし
始めてこの歌を耳にした時には、うちあけて言ふと我々は皆腹をかゝへて笑つた。といふわけは一家一門のうちには、七十何歳かの祖母を筆頭に、姉とか從兄とかの古風な題詠の歌を學んだ者が多く、一人の異分子もまだ交へては居なかつたからである。然るにそれがいつと無く退き隱れ、友だちと手を別ち、一方には又歌は斯くあるべきものといふ考へ方が、追々と若い人々の間にゆり定まつて、その若いと言つた人々が打合せたやうに、揃つてちやうどいゝ加減の年配になる時代が來ると、爰に所謂笑へない問題が、改めて頭を出さずには居ないのである。歴史の力強さと逃れ難さ、しかもおのづから人の心ざす方に向ふといふ經驗は、それをもうどう利用することも出來ない身一つになつて後に、斯く得られるといふのは心細い眞實であつた。
勘ちやんの歌は勿論名歌ではないが、その言はうとした所は大よそはわかる。彼のやゝ不遇な一生を知つて居る者には、或は何等かの托するところがあつたかとも察せられて、餘分のあはれをさへ感ずるのであるが、なほその表現(241)には獨創と見るべきものが無かつた。時世はもうあの頃に、斯ういふ言葉を使ふことを彼に許して居た。それをたゞ私たちのみが、久しく心づかずに居て笑つたのてある。山猿はあの通り妙ちきりんな顔をして居るけれども、山中に獨り啼いて居る聲を聽く者は、情を動かさずには居られまいといふことを、もと/\素人だけに幾分か手筒に、言つてのけた迄かと、今頃になつて私は理解するのである。
それにしてもまだ何だか變だと、思ふやうな人がもしあつたら、私は其人と共に少しばかり、「歌と國語」といふ問題を考へて見たい。言葉をこの程度に、無上凡俗の者と引き違へて用ゐなければ、歌は詠めないのか、はた又歌といふことが出來ないのか。五七五の制約が、いやでも斯ういふ尋常で無い物言ひを我々に強ひるのか。さもなければ單なる物好みに、少しは耳を驚かすやうな選擇を奨勵するやうな人でもあつたのか。是は一個四十年前の倉元君の問題で無かつたのは固よりで、遠く遡つては俊成家隆以來の、詞文を玩ぶ人々の生活態度の批判でもある。假に彼等は論議の外に超脱して居らうとも、國語に依つて活きて居る國民我々は、大きな關心をその解答の上に、寄せずには居られないのである。
二
まづ何よりも前に認めなければならぬのは、言葉が世と共に必ず變つて行くといふ事である。いかに律義に前の人の踏み開けた路を、附いて行かうとした時代でも、やはり誰かの第一歩が導いて居る。用意の無い常の人の頓作には殘るものが稀であり、推敲を重ねた文藝人の用ゐ始めが、手本となつた例の多いことも亦事實であらう。少なくともコソの流行などは、歌に刺戟せられてあの樣に盛んになり、又幾分か餘計な統一をしたやうである。しかも一たび反動の萌しが現はれると、是が毛嫌ひに率先したのも歌であつた。ちやうど發句のや哉も同じやうに、コソケレはみんながよけて通り、誰が企てたとも無しに、全く今日の歌からは消えてしまつた。さうして猿のつらのをかしけれの如(242)き形が、ぽつ/\と用ゐられるやうになつて來た。是が民人の間に便利がられるやうになるのもやがてであらう。
このコソ拔きといふことは、最初晶子さんなどの歌に出現して、少なからず我々を魂消えさせたものであつた。といふのはほんの其間際まで、福地櫻痴居士の文章の如く、いやしくも一旦コソと言つたからには、何でもかでも持つてまはつて、しまひにはケレで結ばなければならぬといふやうな、國文觀念が一世を風靡して居たからで、有るべきものが落ちて居るといふ感じから、まだ我々は脱しきれなかつたのである。大ざつぱな私などの見當では、ゾもコソも元は一つの語の分化であつて、特に或物或場合に、力を入れて説くのが主であり、是非とも動詞の已然形を以て、底を張らねばならぬ義理があつたのでは無いやうだ。是を窮屈な動きの取れぬものにしたのは、やはり歌道の導きで無かつたとは言へない。少なくとも今日コソを全く取去つて置いて、それでほゞ有つたと同じ意味に相手が受取るのは、言はゞ數百年の慣用の御蔭なのである。もしもこの沿革がわからなくなつたら、たとへば
烏一羽飛びしとおもへ谷岨の笹の葉うれの雪ちりしとき
夕富士の殘影はなほ窓にあれ視界に入りてネオン街燃ゆ
などの歌を讀んでも、それが單なる「有る」やら又「あれば」やら、「思へど」やらはた「思へ」の命令形やら、讀者は明瞭に心持が捉へられず、たゞ中ほどにそつとして置くの他は無かつたであらう。幸ひなことには民間の用ゐ方は、まだ昔の歌のやうにコソケレを調寶がつて、之を五七の句のつめもの用に供するまでの應用はしなかつた。寧ろ段々と目途を限定して、言葉の印象を濃くしようと努めて居た傾向が見える。「年こそ寄つたれ若い者には負けぬ」といふ類の、裏を打消す場合に限つて今でもまだ稀には使ふので、猿の歌の作者などは素人だけに、コソは略しても其感じだけはまだ守つて居る。ところが多數の無意識の排斥者たちは、斯んな氣の利いた響きの桂いコソを、惜しげも無く棄てゝ置きながら、まだそのだらしの無い尻尾にはつかまつて居る。大きにさうで無いのかも知れぬが、さうとより外は私などには説明が出來ぬのである。歌が今までの國語の變則破格であつたものを、當り前にする力は中世にも(243)あり、又恐らくは上代にもあつたらう。それを認めるにも又認めないにも、どつち道我々は言葉の一つ/\の行掛りを知つて居なければならぬと思ふ。
三
コソの年久しい踏襲を見てもわかるやうに、我々は積み重ねられた聯想といふものを、よつぽど上手に役立てないと、斯んな短い詩形に込入つた心持を盛れないことを知つて居た。古語が日本の歌に殊によく保存せられ、又復活せられて居ることは理の當然であつて、寧ろ萬葉やその前後のものだけに、限局しようとしたことは損だつたとさへ思ふ。勘ちやんの猿の歌の「深山の奧に」などは、此意味に於ては至極よろしい。是は我々の口言葉から追はれたといふだけで、近世に在つては都々逸から端唄、時としては兒童の唱へ言にも殘つて居る。大よそ素朴な者の胸の中に、語音以上の何物かを注射し得るやうに、昔から尖つて居るのである。だから舊語の採用の爲に、朗誦の悦びを傷けてはならぬことを條件として、是からもなほもつと獵場を廣く、探したり狙つたりしなければならぬ必要は、私もたしかに認めて居る。たゞ之に伴なうて氣になつてならぬことが、今はまだ二つほどあるのである。採用せられまいこともほゞわかつて居るが、もと/\門外漢の説なのだから、それには構はずに意見を述べて見る。歌人は省みなくとも、讀者の一部は多分共鳴する。といふ樣なことも脅迫じみるから決して言はない。
氣になる一つは語辭の調和、即ち一章の中に「深山の奧に」といはれるやうな雅語と、「見れば見るほど」といふやうな毎日の言葉とを、置き竝べても何とも無いかどうかである。この二つなどはまだ少し近いとも言へるが、とにかくに一首は一ぺんの呼びかけであらうから、前に使つた言葉でこしらへた用意が、其次の言葉で攪き亂されるやうだつたら、普通の會話ならば聽手はやゝ暫くは返事につかへるだらう。古語聯想の十分に效を奏せぬだらうことは言ふまでも無い。勿論是とても馴れであつて、僧侶は經文をまなべと小僧を叱るといふことも有り得るが、それも一方の(244)古くさい言葉が、折々用ゐられて落付いて後のことである。やつと復活したばかりの萬葉語などを、俗語の隣に置けばまごつく者の方に道理がある。さういふ餘分な印象を人に與へぬやうに、即ち歌の心だけを掬み上げてくれるやうに、配合の調和を心がけることが、言語の藝術だとは言へぬものであらうか。例は探せば幾らでもだが、たとへば「しが心から」のシといふ言葉、是がどうして自己のことになるのか、筋路はまだわかつて居ないのに、早くもワと謂つてもよい席までをシが占領して居る。
自《シ》がいらちしづまるきはは蚊柱の立ちなほり行くを瞻まもりてゐつ
讀みさしてゆとりある間のうら和《ナ》ぎや自《シ》が樂しみと書はよみける
イラチもユトリも爽やかな好い言葉で、奈良の世の人がもし之を知つて居たら、素より遊ばせては置かなかつたらうが、あいにくと是はもつと新らしい生活を、幾つかくり返してから後の思ひ付きであつた。今日になつても此二つの語を自由にあやつるやうな人々は、大抵はシが「自ら」を意味することなどは覺えて居ない。斯ういふ互ひに川向ふのものを繋ぎ合せることは、單なる趣味とか感覺とかの災ひでは無しに、古今到底有り得ない物の言ひ方を、したといふことになるのではあるまいか。根本の問題は古語を古語のまゝで、使つてもよいかどうかに歸着する。復括し得るものなら復活させてから、現代語にしてから使ふのでなければ、現代文學とは言へぬものゝやうに、私たちは思つて居るのだがどんなものであらうか。
わが家の裏の草地に一日中させる光をこほしみ思ふ
桃畑の間の道來る母見れば腰の曲りて小さくなりぬ
二つとも田園の人の悦んで聽かうとする情景だが、さて是非とも斯ういふより外に言ひ方が無かつたかどうか。何だかつい氣輕に斯う言つてしまつたに過ぎぬやうな感じである。今頃證文の出しおくれには相違ないが、出來ることならば是から以後は、斯んな組合せは流行らせたくない。
(245) 四
それから今一つ、古い言葉の幸ひにして殘つて居るもので、形だけは元のまゝでありながら、内容の次々に變つて來て居るものがある。それをどの時代の意味で使ふかがいつも問題になる。形容詞のやうなそこに品物の備はつて居ないものは、先づ世と共に移る方が普通とも言ひ得る。又しても猿の歌だが其中の二つの形容詞、ヲカシとカナシとがやはり實例で、本人が外形の古い代からのまゝであるのを奇貨として、是に現代最新の意味を運ばせようとして居るのは、深く考へたのでは無いかも知らぬが、それはそれで又一つの主義とも見られる。しかし歌人全體は必ずしも是に統一せられて居るわけでも無く、古代の又は中世の、どれか氣に入つた一つの用法に偏して居るのみならず、時々は一人で二道を掛けようとして居る人も有るのでは無いかと想像せられる。
はるかより寒くしひゞく夜の風まれにきこゆる鳥はやさしも
夜ふけの月まばゆきばかりさし入ればおのれ羞《ヤサ》しむこゝろかへり來
この二つのヤサシはとにかくに二つとも、我々の解して居る「容易なり」のヤサシでは無い。
せい/\と曉雲を行く鴉らをともしみ送る我はも何ぞ
市内《マチナカ》に乏しく住みて隱元豆の花咲けるさへ妻は聲あぐ
此トモシなども二つは明かに七八百年の時差がある。前後の文句の續きがらを案ずれば、わかる筈だといふ答へがあるかも知らぬが、それは訓詁註釋の徒に向つて言ひ得ることで、讀者はもう少し虚心に、聽いて感じようと思つて待つて居るのである。或はもつと無造作に乏なら乏、羨なら羨と書いてトモと假字をふり、その何れでも無ければともしと假字で書くから、誤解があるまいと言ふ人があつて、兼て覺悟はしながらも、もう一度我々の眼を瞠らせるかも知れない。山本有三氏を煩はすまでも無く、式紙短册にはよもやルビは振れまい。たま/\會心の作とあつて、聲(246)高々と朗誦する際に、まさか板の間の埃に字も書けぬでは無いか。歌俳諧の振がなは、たしかに昭代の一奇觀であつた。是を極力保存しなければ、成立の望みの無い歌なんかは、やがて消えてしまふから爭ふ要もあるまいが、人が自分のすき勝手に、同じ一つの形の語を使つてよいといふ考へだけが、後に殘つたら一層厄介であらう。ヲカシやカナシだけでは無いだらうが、時代の意味のちがひは大抵は土地の差にもなつて居る。外にはちつとも顯れないで、言ふ人聽く人の心持が區々だとしたら、是くらゐ大きな文藝の障碍は無いのである。何としてなりとも標準を早くきめなければならぬ。さうして歌よみには技能聲望、更に又歌人協會さへあるのである。それが討究は試みないで、各自が思ひ/\にしたい通りをして居るのだつたら、日頃私たちの期待して居るやうな、國語に向つての大きな貫獻が、或は非常に待遠しいものに、なりはせぬかと氣づかはれる。
此次に私は新語の問題、造語術の改良、方言の處理などについても意見を持つて居るのだが、果してさういふことに耳を傾けてくれる人があるだらうか。何分多くの知友を歌よみの間に持つてゐる私は、怒らせるのがいやで思つたことが書きにくい。但しこの文章の晦澁なのは、私もやはり表現の修業がまだ足らぬ爲であつて、率直に物を言はないからでは決して無い。
(247) 歌のフォクロア
○
和歌は最初に誰か必ず聽いてもらふ相手を定めて、うたひ上げるのが習はしでは無かつたらうかと、ひそかに私などは考へて居るのですが、あなたはさうお思ひになつたことはありませんか。
もちろん日本人ばかりがさうであつた。或一つの民族に限つて、特にその樣な珍らかな起源をもつといふことは有りますまい。何處かに少なくとも三つ五つ、同じ路筋を通つて、自國の詩歌を發達せしめた例が、今も現に有り、古くは比々として有つたのかも知れません。人は記憶もせず又思ひ出しもしなかつただけで、或は氣が付いて見ると、實はみんなが最初はさうであつたと、言ひ得る時代が來るのかも知れません。しかし殘念なことには、その發見をして居る時間が、もう私には無いのであります。それで御互ひが子供の頃から、割合ひによく知つて居る土地の事實に據つて、この推測の必ずしも根の無いものでないことを、述べて置かうといふのであります。始めは少しばかり頓狂に聞えませうが、まあ笑はずに聽いて下さい。
○
第一に私は、古く傳はつた日本の歌が、戀歌を以て充ちて居るのを、たゞなる現象では無いやうに思つて居るので(248)あります。現在の歌壇はあきれ返るばかり、戀の歌を排除して居りますが、是には列擧するのも物ういほどの、數々の理由が有るのであります。戀は夙くよりみそかごとゝも申しまして、是非とも心を通はせたい相手があると共に、一方には出來るだけ知らせまいと思ふ競爭者が多いのであります。その言葉は私語に似、その音はため息に近いもので、今の如く不朽と傳播とを希ふもので無かつたこともほゞ想像せられます。
そんなら何の故に、洩れて天が下に傳はつたのかといふ疑ひが先づ當然に起りますが、それは古への「ねたみ」が至つて素朴であつたといふだけでも説明が付きませうし、なほ其以外にも群の求婚、歌垣とよばれたものゝ大きな機能も考へられます。同じ願ひを抱く者の多くが、日と處を定め昂奮を一つにして、他に妨ぐる者の無い事問ひをして居たので、その中の殊にめでたい歌が、忘れようとしても容易には忘れ得なかつたのであります。さういふ間にはおのづから、小さな美しい中心も出來、又はわざと思はせぶりに相手をおぼめかして、全體の樂しみを高めようとする者もありました。
御名はさゝねどこの庭の中に
いのち上げたい人が有る
などゝいふ酒宴歌は、今でも百年前の歡興を保存して居ると思ひます。
おまへ見たよな牡丹の花が
咲いて居ました來る路に
是なども多分は盆の踊の夜の即興でありませうが、この「おまへ」は最初から名をさゝぬもので、その多くのおまへたちは、何と無く歌ひ主に心を寄せました。古い世の日本語では、斯ういふのを色好みと呼んで居り、歌への執心は又一かさ、之によつて加はつては來ましたけれども、その爲に最初の單純な目的からは、少しづゝ離れて行くことになりました。
(249) ○
しかし本來の用途が是によつて絶え果てたのでないことは、獨り貴人の縁組に於て、消息が今も一つの方式として殘つて居ることのみを以て、立證しなければならぬやうな、弱い幽かな現實ではありません。脂粉には縁がうとく、衣の色彩のちつとも鮮かでなかつたいぢらしい人々が、下に竊かに思ひを寄せて居ることを、知らせる方法は他に何がありましたらうか。「吾はいましをめづ」といふ言葉の、備はつて居ない國語は無いなどゝ、英語の人たちなどはよく口にしますが、飛んでも無い話であります。日本にはたしかにその樣な露骨な物言ひは、今も出來上つて居らぬのであります。草苅り山行き川原遊び、是は若い盛りの者には今も佳期でありますが、歌より以外には正しい表白の方法が、たゞ自然と名づけてよいものしか無いのであります。遺憾なことには人生の息づかひが改まり、以前の歌ひ方が皆間伸びになつて、いはゆる三十一文字はもう役に立たなくなりました。俚謠集などを捜して見たら、古い形はまだ片隅に殘つて居るかしれませんが、とにかく年寄り衆があんまりひねくりまはした爲に、却つて實用には向かぬことになつたのであります。一つには是も文字の災ひといふものゝ中に、算へられてよからうかと思ひます。人は際限も無く妻問ひをして行きますのに、歌のみは一つ/\作者がきまつて、再びは用ゐにくゝなつて來たといふことは、考へて見れば寂しいことでありました。
姉の手筥に遣る文がら
とか、又は今少し俗惡に、
母が名は親爺の腕に萎びて居
などゝ申すことは、少しだつて氣持のよいものではありません。和泉式部にも娘があり、清少納言にもかなしい孫があつたかもしれません。むしろ薔薇の花びらの風に流れるやうに、消えて跡方無く世の塵にまじつてくれた方が、我(250)々の夢は安らかだつたのであります。
○
我邦のフォクロアには、たとへば小野小町の雨乞ひのやうに、歌を神樣に向つて詠みかけたといふ説話が、數多く保存せられて居ります。是は婚姻の場合とはちやうど正反對に、願ひが聽き容れられたもののみが傳はりがちでありますが、是とても至心を籠めた歌は、却つて聽く人が傍に居ることを欲せず、從つて神より他には記憶して下される方が、無いといふことは想像し得られ、歌がへつぽこだから後世になつて流行したといふことは言へません。例は乏しくとも戀歌と?り歌と、どちらが古からうかといふことは問題になります。出雲八重垣は妻籠めの歌ではありますが、あの御詞の中には齋忌の御心持ちが有りさうです。從つて信仰が最初の歌であつたやうに、固い人ならば考へようとしても意外とは言へません。但し私などはなほ人類の異性に喚びかけようとしたのが、一つ前であらうといふことを信じて居りますので、それは必ずしも鶯蛙以下の歌が、きまつて此目的にのみ歌はれるといふことからの、單純なる類推ではありません。
日本は珍らしく活き/\とした傳説の殘つて居る國でありまして、固有信仰の各地のあらはれには、必ずとも言つてよい位に、あはれなる戀語りが附き纏うて居ます。さういふ中でも特に系統立つて居るのは、夫を戀ひ慕ふ美しい女性が、遙かな旅の空をさまよひさすらひ、稀にはめぐり逢うたともありますが、大抵はむなしい跡にたどり着いて、歎き悲しんだといふことになつて居ります。舞の物狂びだけは、何れも皆社頭の再會を、神コに歸すことに一致して居りますけれども、その爲に是を別種の起原とは見られません。つまりはこの一心の願ひごとと無限のあこがれとを以て、感動の中心として居たことは同じなのであります。女が祭に仕へ、神の衣を織り神の御饌を調へ、一身をさながら神に捧げて居た古い世の習はしと、深い因みのあることは想像し得られ、旅の上臈は寧ろその信仰の要求に迎へ(251)られて、化粧をして起つて舞ふやうに、なつたものとしか見られないのですが、さういふ舞の曲には、偶然とは言ひ難いほどの、たくさんの戀の旋律、又は人間の愛の言葉が、含まれて居るのであります。二つの大きなエモーシォンの中には、是から心理の學者に考へてもらはねばならぬ共通點が、少なくとも我邦では感じられます。さうしてそれは必ずしも道行きや海道下りの、舞だけには限られて居らぬのであります。
君が田の我が田に竝ぶうれしさよ
我が田にかゝれ君が田の水
是は飛騨の或舊社の正月田植祭の歌でありますが、是に類する歌はまだ幾つか拾ひ出されます。或は霜月の寒夜の夜神樂に、鴛鴦の思ひ羽を咏じた歌などもあつて、夜半に幾たびつま問ひをするといふやうな、際どい歌さへうたはれて居りました。平たく申すならば、昔の祭り人の神を慕うた心持は、我々人間の最も清い戀に近かつたのであります。是を何れが先づ始まり、何れが後に習うたかは、そんなに決し難い疑問でも無いと思ひます。
○
それから今一つ、日本では神佛がよく返歌をなされます。或は信ずる者の散文的な願ひごとに對して、三十一文字を以て答へを御示しなされたといふ話もよく有ります。是も尊靈御自らの、最初からの好みとは思はれません。或は仲に立つ奉仕者の修養乃至は習慣からとも見られますが、それよりも歌が本來この樣な唱和によつて、成り立ち又榮えたものであるからと、解する方が、簡單なやうに思はれますが御考へは如何、この作法は、夙く武夫や法師原の間にもひろまり、返歌をせぬのは恥とまで、義理固く守られて居りましたが、起りは互ひに心ばへを、見つ見られつする者の間に在つたといふことが、先づ今日の常識であらうかと思ひます。實際又久しい間、一ばん多く婚姻の場合に應用せられて居り、それが一生涯の幸不幸に拘はることも、特に男女の上に著しかつたのであります。一度は人間の(252)經なければならぬ段階であり、又永い一生の花やかな思ひ出でゝもあります爲に、普通の競技よりは身を入れる人が多かつたのであります。
歌合といふものはその一つの變形のやうに思はれます。是に次いでは續ぎ歌連ね歌、後々生眞面目な人たちが寄つてたかつて、ひどく睡いものにしてしまひましたが、滑稽はすでに俊頼曉月坊の以前から有つたのであります。或は無心といふ名が語るやうに、始めは寧ろ幸福なる婚姻をする者の、單なる單調の色付けであつたかもしれません。從つて守武や宗鑑といふ類の老翁にばかり任せて置きますと、變なものにしてしまふ懸念は十分にあつたのであります。芭蕉は辛苦して是を廣路に導かうとせられましたが、いはゆる流行は程無く之を追ひ越しました。炭俵でいけなければ雜俳や三笠附、尻取り文句でござれ、語路地口でござれ、所謂へらず口の目的だけは皆達して居ります。ダジャレなどは決して誇らしいものでありませんが、今でも若い女たちの顔さへ見れば、何かこの種の作爲を以て、笑はせて自分も昂奮を買はうとするやうな者が、社交界にはまだ活きて居るのです。さうして此人たちが、國語の味ひを尤もよく知つて居ます。和歌にそも/\の人界の實用があつたといふことは、この方面からでも尋ねて行かれると思ふのですが、あなたはまだ御同意が出來ませんか。朗詠郢曲見たいな專門がゝつたものには手は出しますまいが、我々は凡人ですから、自分にあてがはれたものならば、幾らでも墮落させることが出來ます。それを以前の世のやうに、手習ひをしてからといふ風にきめてしまひ、口で歌よむことをどし/\と抑制して行けば、無論一時は文字有る者の獨占として、ゆかしなつかしの古道を保持し得たかも知れませんが、奈何せん今日は猫も杓子も讀み書きが出來、殊に眞似することが達者になつて居るのです。制限にも何にもなりは致しません。さうしておまけにすぐれた人たちが、彼等を引立てゝ片端から、人丸赤人にしてやらうとして居られるのです。和歌が又一くねり、當代に入つてくねり曲つて行かうとして居るのであります。我々の進む路は二筋あつて、今はまだ雙方に足がかゝつて居ります。歌は天才の事業であるか、はた又凡人の常のわざであるのか。それをきめてくれぬと今に股が裂けさうです。いはゆる短歌が(253)文學であるか否かを論ずる人は、多分えらいのでありませうが、氣の毒や日本の行掛りをまだ知つて居ません。何だか知らないが斯ういつたものが、我々の間に在ることだけは事實なのであります。今有るやうなものがやがて滅びることはわかりきつて居ます。何べんも我々の歌は變つて來ました。皆さんに豫言の御苦勞を掛けたいことは、それがこの先どう變つて行くかであります。もしくはどういふ風になることが、國民の悦びを最も多くするだらうかであります。私一人の望みをいふと、もと/\國民の爲に始まつたものですから、是からも出來る限り、今の十倍も二十倍もの人たちの、共々に樂しめるものにしたいと思ひます。現在は少なくとも人の惡口ばかりに力を傾けて、格別樂しさうにも見えないではありませんか。
○
私の話はまだ少しばかり續くのですが、長たらしくばかりなつて、本人はちつとも思つたことが言へたやうな氣がしません。さうしてはや少し息が切れました。もつと元氣のよい愛國者の、歌を自分では作らうとせぬ人に、是からも歌のフォクロアは考へて見てもらひたいと思ひます。
(255) 俳諧雜記
一
俳諧の近世史、殊に芭蕉翁の功業を、つまびらかにすることが、ついこの頃になるまで非常に困難であつたのには理由がある。先づ第一には本が手に入らない。圖書館に入れば勿論見られるが、あすこではどうも味はひにくい、又借りて來た本ではやはり身にならない。それが自由に青年にも讀まれるやうになつたのは、岩波文庫の小宮本、又はまちがひは多いが古典全集本のおかげと謂つてもよい。私などの場合をいふならば、明治三十二年の末にホトトギス發行所から、俳諧三佳書といふ小形本が出たのを早速買求めて猿簑だけは讀んだ。子規氏の解説には主として發句をほめて居たが、私などの樂しいと思つたのはやはり連句の方であつて、たとへば
火ともしに暮れは登る峯の寺
とか、又は
茴香の實を吹落す夕嵐
とかいふやうな附句を、間も無く暗記してしまふほど吟誦したものであつた。しかし是がたゞ七部集といふものゝ一篇であることを知るだけで、是と他の六つの集とのちがひ方などはわかる筈も無く、又蕪村の連句が大分猿簑にかぶれて居るので、大よそ俳諧とは斯うした行き方のものだらう位の、至つて大ざつばな推測をしようとして居た。
(256) それでも七部集は是非讀んで見たいといふ、念慮だけはもつて居たと見えて、十何年もしてから始めて西馬の標註六部集といふ二册本を手に入れた。それも春秋菴幹雄の再刻本で、人を馬鹿にしたやうな、わかり切つたこともが註釋して無いといふつまらぬ本だつたが、それでも縁が有つて今に持傳へて居るのみで無く、私は之を携へて二年餘り、西洋の諸國をあるきまはり、あの大震災直後の愁ひ多き數週間を、是にかじり附いて暮らして居たこともおぼえて居る。今となつては棄てることの出來ない記念の書である。
斯ういふ特別の因縁は無くとも、七部集を經典視し、取分け其中でも猿簑を尊重するといふ氣風は、よほど以前から俳人の中にはあつたらしい。それも心得ちがひとは言へない理由はある。たゞ俳諧の沿革を知り、それと今後の文學生活との交渉を明かにして置かうといふのには是非とももう少し弘く、資料を集めて見なければならぬのだが、實はつい此頃までは、それが一般には許されて居なかつたのである。是まで集めて置いてくれた人が、無かつたといふのでは決して無い。殊に發句の方では一語一字の相異などを、穿鑿する學風さへ起つて居る。たゞそれがまだ少しでも實際には用ゐられて居ないのである。近年は月に平均一篇以上、どこかで芭蕉論を誰かゞして居るが、其中に引いて居るのは古池枯枝、その他有名な五十句ばかりで、それがたゞ何べんでも讃歎せられて居るのである。發句で芭蕉を論ずるのがすでにどうかして居る。今頃氣にかけて見たところで始まらぬ話、そつとして置くより他は無いだらうが、さて然らば連句の方はどうかといふと是はもう七部集にあるものをさへ敬遠して居る。まして其以外のものは、折角勝峯氏などが綿密に整理してくれられても、之を利用して前後を比較しようとする者は有りや無し。是では不易も流行もあつたものではないと思ふ。俳句の隆盛は今が絶頂かも知れないが、この點だけは少なくとも五十年前の、いはゆる月竝時代にも劣つて居る。
(257) 二
現在世に傳はつて居る芭蕉の俳諧は、斷片までも加へるとざつと二百であらうが、私は是をその出現の時代によつて、三つに分けて見るのが便利かと思つて居る。その一つは師翁在世中に、多分はその同意を得て、又稀には勸誘に基づいて、世に公けにしたらうかと思はれる撰集に載つて居るもの、其數は素より多からず七部集正續二册の中にすらも、果して發表を望まれたらうかどうか、心もとないものが若干はまじつて居ると言はれる。第二には翁示寂の後久しからず、まだ各地に活躍して居た門弟や追隨者がめい/\の考へによつて版にしたもの、是には或はこの形のままで世に公けにすることを、望まれなかつたものが無いとは言はれない。元禄七年以前の諸集とても、一々發行者が許諾を求めに、來たわけでも無いから同じことだが、翁歿後のものは殊に追慕の情も加はつて、有る限りの作品は皆出してしまはうと、したやうな形跡がある。ところがそれから又七八十年、いはゆる天明中興の前後になつて、意外といつてもよいほど數多くの遺篇が現出した。さうしてこの第三種のものゝ發見によつて、將に我々の俳諧に對する考へ方は變らねばならなかつた。しかし近頃の宗匠家たちには、まだそれまでの時間が無かつたらしいのである。
芭蕉翁は或時、自分はまだ一度も撰集の爲に連句を卷いたことは無いと、明言せられたと傳へられる。其心は、是が世に取り囃されるのはたゞ偶然の結果であつて、俳諧の目的は一座の興、一卷の歌仙の成立を以て完了するといふので、この點が先づ現代の文學とは行き方を異にして居る。文學は固より社會的行動であり複數の人の干與を條件とはするけれども、俳諧の場合に於ては其人は限られ又内に在つて、製作圏外の人は有るかも知れぬが省みられない。後世との交渉はたゞ門流を通して行はれゝばよいといふので、隨分わがまゝな、今日の言葉でいふと獨善的な態度だと思ふが、あらゆる藝術は最初は皆さうであり、歌や俳句は今でも其通り、作者の數の方が讀者よりも多く、それさへ餘り多くなると、仲間の作つたものしか味ははうとせず、祖師の芭蕉に對するやうに垣根の外から、覗いたり譽め(258)たりすることは珍らしい例外なのである。
さういふ中でも俳諧の方だけは、宣傳か名利の爲かは知らず、とにかくに印刷術を早くから活用して居る。井筒屋庄兵衛の輩がよく働いて居る。和歌の方面に至つては、選集の古例は絶えて久しく、いはゆる家々の聞書のやゝ纏まつたものが、古人を景慕する者の間に保管せられるに過ぎなかつた。村田春海の家集辨が世に出たのも、俳道中興などよりは後の事で、作者がまだ達者なうちから、全集や傑作集を世に問ひ、どんなもんだいと言つたやうなパブリシティーは、まづは風流の好士等の夢み得ざる所であつた。しかし現實にそれが出て行くのだ。縁もゆかりも無い世上の鑑賞家に、ひねりまはされることも有るのだと知つては、芭蕉翁とても考へずには居られなかつたらう。そこで出版の相談といふことも起り、又は校訂とか作品の再檢討といふことも、始まつたものかと私は思つて居る。連句そのものゝ成立ちからいふと、出來たまんまの形の方が意義があるが、一つ/\の作品は見なほされて大抵は良くなつて居る。さうして現在集まつて居る蕉門の俳諧の中には、明かにこの二通りのものが入り交り、なほ其上に更に第三の變化さへも、加はつて居るらしいのである。
三
七部集婆心録といふのは、江戸期もずつと終りになつて出た註釋書だが、この中にはやたらに誤寫だ讀みそこなひだと謂つて流布本の文句を改め、へつぽこな自分の解釋に附會させた箇所が多い。をかしな事をする奴もあつたものと輕蔑して居たが、實際は曲齋以前にも、多數の宗匠はそれをして居たらしいのである。明治以來の俳人等は流石にそれはしなかつた。それだから又追々と之を敬遠しなければならなかつたのである。
最近に私が始めて知つた一例は、奧の細道にも發句だけは載つて居る「五月雨を集めて早し最上川」の歌仙だが、是はその製作から五十五年の後、延亭元年の奧細道拾遺に出て居るものを、勝峯氏の芭蕉一代集にも採録して居る。(259)「雪まろげ」といふ曾良の手記は、公表がそれよりも七年古いが、この方は原版が跡を絶ち、二度まで改刻して居るので誤りが多い上に、一方の細道拾遺は、大島蓼太が若い頃に行脚をして、土地で寫し傳へて來たものといふからもとの形に近く、二書の間に相異のあるのは、後日芭蕉の手を入れられたものに、曾良が從つて居るのだらう位に私は想像して居た。ところが今度齋藤茂吉君の注意によつて、昭和十五年の大石田町誌に載つて居る寫眞版を見せてもらふと、驚いたことには雪まろげの所傳の方が、よつぽど原作に近いのであつた。改作者の誰であつたかといふことが直ぐに問題になる。發句の「集めて涼し」が「早し」となつて居るなどは、細道のテックストも今はさうなのだから、是は師翁の意を承けたとも見られる。しかし其他の諸點に至つては、假に改めたかつたとしても山形縣までは屆くわけが無く、拾遺の一卷はかの地での發見であり、しかも原懷紙の奧書署名までが附いて居るのである。つまりは或日の寫し傳へ以來、江戸で出版するまでの間に、幾つもの添削が行はれそれは芭蕉のあづかり知る所ではなかつたのである。曾良も其手控への中に於て、自分の作つた句だけは二箇所ほど明に改訂して居るが、後世の紹介者は更に一歩を進めて、自分にわからぬ部分に加筆することを、或は大目に見られて居たのでは無いかと思はれる。そんなにまでして見ても、なほ作者たちの心持ちは汲みにくゝ、又時々はをかしな見當ちがひの註釋が有つたといふ所に、私たちは寧ろ時代の力といふやうなものを認めて居る。曾て豫期せられても居なかつた門外漢が、是を大切な一つの史蹟として探り入らねばならぬ理由も茲に在るのである。
四
芭蕉の俳諧の分類せられなければならぬ目標は、ひとり其發表の年代だけでは無い。もつと重要かも知れないのは連衆の構成、即ちどういつた種類の人たちを相手にして、一卷の連句を卷いて居られたかといふこと、是によつて作品の出來ばえもちがふのみで無く、師翁自らの附句の上にも、よかれ惡しかれ異なつた反射作用が現はれて居るので(260)ある。少しは面倒かもしれないが、之を尋ねて行くことは興味の有る仕事である。第一に芭蕉の俳諧の世に傳はつたものはさう多く無く、是に參加した人の數も限られて居る。たつた一ぺんきりで過ぎ去つた若干名を除けば、其他少しづゝ、境涯や經歴が判つて來る。句風や態度にも注意して見れば特徴がやゝ認められる。十哲などゝいふやうな物々しい顔ぶれで無くとも、たとへば江戸で岱水とか、熱田で桐葉とか謂つた人たちは、作句を併せて讀んで見るだけでも、大よそは人柄が窺はれる。連句が協力の文藝である以上は、單に芭蕉を理解する目的であつても、やはり斯ういふ側面の觀測は怠るわけには行くまい。
門人といふ言葉はよく用ゐられて居るが、是は今とはやゝちがつた、社會組織の上の稱號らしく、大體に初心から芭蕉に育て上げられたといふ者は少なかつたやうに思ふ。炭俵の三人の選者、伊賀の故郷の年下の連中などは、或は全く他流を知らなかつたのかも知れぬが、是とても門派の對立が後世の如く嚴重でない時代だから、よその感化を受けなかつたとは言へない。其他の多數に至つては、大きな旗じるしの下に馳せ參じたといふのみで、もしも斯ういふ遭遇が無かつたならば、何れも一方に割據して、めい/\の分野を拓いて居たかも知れない。つまりは京江戸大阪を始めとし、地方には既に幾つもの俳人群があつて、そのやゝ粒立つた者が歸依心服した土地が、やがて、蕉風の領分となつたのである。
枯尾花の追悼句に名を列ねた人の中には、虚栗以前からの吟友が何程もまじつて居る。芭蕉の俳生涯は永いとは言はれない。其間に同志を養ひ育て、いはゆる蕉門を固めてしまつたやうに、想像することは誤りであつて、中には其角のやうに師翁世を去つて後まで、談林以上の難解の句を續けた者もあれば、又一方には芳賀一晶の如く、新らしい傾向を甘なはずして、次第に遠のいた者もあつたかと思はれる。それ等は何れも皆今日の意味での、お弟子では無かつたのである。人と場合の配合如何によつて、元禄の俳諧が種々の色彩、異なるハルモニーを呈するのはちつとも不思議でない。しかもさういふ中に於て冬の日から猿簑へ、更に猿簑から續猿簑までの、目に立つ推移を見せたのは大(261)きな力量だつたが、それさへ考へて見れば集毎に撰者がちがひ、又連句の相手方の顔ぶれが變つて居るのである。根本は俳諧が衆力の調和であつて、寧ろ其間に釀し出される豫想し得ない雰圍氣を、悦び樂しむ文學であつたことが、おのづから斯ういふ巨大なる水筋を、彫り窪めて進んだものとしか思はれない。何と註釋しようとも、流行といふのは受身に立つ者の言葉である。導き又は指し示すといふこととは兩立しない。
見よ/\三十年を出でずして、斯道は又大いに改まるべしといふやうなことを、芭蕉翁も言はれたと傳へられる。さうして正に其言葉通り、もしくはそれ以上に次の代の俳諧は變化したのである。翁の考へ深く且つ多感の人であつたことは、其藝術のすぐれた力と共に、くりかへし我々も感歎して居る。しかし時代の形勢をも認めずに、ひたすらに第一人を尊といやうにいふことは、宗教としか私には思はれない。
(262) テルテルバウズについて
子どもが明日の霽れを念ずるの餘りに、自分もさまで信じては居ない奇妙なまじなひを思ひつき、それが又偶然に效を奏しさうな樣子に、興味をもつところまでで筆を留めたのは、餘裕があつてよい文章だと思ふ。以前の教育家たちは、斯んな小さな又無害な、しかも若干の可笑味を含んだ俗信に對してすらも、尚この寛大なる態度を許さなかつたのである。現代の兒童は、?々古風な人たちと同じ家に住んで居る。是くらゐな同化は實は認めてやる必要があつたのである。
たゞ此一文を見て我々の氣になるのは、所謂照々坊主の行事が町に起り、又可なり近頃のものであつて、農村の少年少女は讀本によつて、始めて知る者が甚だ多からうといふことである。其樣にまでして新たに教へてやるほどの、民間普通の行事とも實は言へないのである。書物で風俗史を調べる人も知つて居ることと思ふが、近代の支那語で掃晴娘といふのが、今日兒女の弄ぶ照々法師と同じだといふことを、松屋筆記や嬉遊笑覽といふ類の隨筆に書き立てた頃から、この物が急に有名になつたことは事實で、それも一部の女流の間に限られ、太郎さんといふやうな男の兒は、もとは自分たちと縁のあるしぐさとも思つて居なかつたのである。故に是を一般の知識とし、事によつたら半ば戯れに、さういふ眞似をしても差支が無いとする爲には、もう少しこの小さなまじなひの事の起りを、詳しく知つて置く必要があるかと思ふ。
(263) 紙で小さな人形を作るやうになると、管轄は自然に女の手に移ることにはなるが、遠く其起原を尋ぬれば、此行事に携はる者も、やはり堂々たる青年男女であつて、式が少しづつ衰微するにつれて、僅かな年寄と男の子の多數が參加することになつたのである。現に蟲追ひとか雨乞ひとか疫神送りとかには、人形を作つて行列して之を村はづれに持つて行く風が、今でも大都市の四周でも保存せられて居る。全體に農家は雨天をさう苦にしないから、晴を?る爲の人形といふものは比較的少ないが、それでも嵐を伴なふ大降りはいやがつて豫め之を避けんとし、又東北などの低温地帶では、長雨が續くとやはり人形のまじなひをして居る。この事前と事後の人形造りを總稱して、天氣祭といふのが最も普通の名であつた。町の照々法師は、言はばこの天氣祭の破片なのである。
天氣祭の人形は藁を束ねて、時には馬鹿々々しく寫實的なものを男女二體こしらへる。其大きさや念入りの點で、照々法師は遠く是に及ばぬのみならず、もつと重要なる相異點は、前者は村全體の公共事務なるに反して、こちらは個人の孤立した願望を、到達する爲の利己的作業であつて、從つて時世の進みとは逆に、もとは神祭の嚴肅な式典であつたものが、後には却つてやゝ魔法じみた神秘性を具ふるに至つたのである。今でも村に住む者ならば、二人三人の都合だけでは、天氣は改め得るものとは恐らくは思つて居まい。此點からいふと太郎の照々坊主も村の雨乞のやうに、多數の合同で之を企て行ふことにして置きたかつた。
人形によつて晴を?る風習の由來は、前代農民の災害觀に根ざして居る。害蟲や疫病はいふに及ばず、旱魃ももとは雨を差押へる力をもつ惡靈があつて、それを機嫌を取つて送り歸してしまはなければ、雨は降らぬと思つて居たのが、三者共通の儀式を生じた原因らしく、天氣祭もやはり風の神か雨の神かの、人形に姿を托して退却することを、信じて居た者の考案かと思ふ。固より形だけが殘つて、後には種々の教理の此解説を左右したものはあらうが、今で(264)もなほ御馳走をして、惡神が滿足して歸つて行くことを旨とした、所謂|道饗祭《みちあへまつり》の遺風は尚方々に見られる。藁で人形なり乘物の馬なりを作る理由は、一つには是を藁苞にして、其腹部へ、團子や赤飯などを滿腹せしめる爲であつた。花柳界などでこしらへる照々坊主に、酒を灌ぎかける風習のあるのも、明かに是と脈絡があるので、從うて曾て村の生活に經驗のある者が、町へ出て來てから形ばかり是を學んだものと、想像するだけの根據はある。
然るに昔の江戸などでは、この照々法師の人形にわざと眼を入れず、天氣になつたら眼を描いてやると、宣言して引掛ける例もあつたさうである。是も關東では養蠶の成功を念ずるために、眼無し達磨を買つて來る風習となつて傳はつて居るが、恐らく村の天氣祭の人形の方には無いことと思ふ。即ち村の公共の利害を代表した昔からの祭式が、町の少數人の比較的無力な願掛けと化するに際して、その弱味を補ふ必要から、新たに此樣な所謂「黒き技術」の助けを、借らうといふ氣になつたものと思はれるのである。
(265) かぐやひめ
この一課の文は、全部が竹取物語に據つたもので、ちやうど今から一千年の前に、日本に斯ういふ形の文學が現はれて居たといふ事實を、知るといふ點では兒童にも興味がある。たゞ原典と比べて見ればよくわかる如く、新たに附け加へ又は改訂した部分は殆と無く、一方には非常に多くの部分を省略して居る爲に、或は説話としての統合を、缺くかもしれぬといふ懸念は少しあるのである。故に他の卷々の首尾一貫して居る童話よりも、更に一段と是が前代人の空想の産物だつたといふことを、明かにして置く必要があるかと思ふ。古人も昔話を語る際には、常に是を實際あつた事と思はしめぬ樣に、必ずゲナとかダサウナとかトイフとかの辭句を添へることにして居た。その親切な用意は、我々も學ばなければならぬと思ふ。
私の見解では、竹取物語はあの當時既に民間に行はれて居た有名な昔話に、筆者が新意を加へて潤飾した、一種の「作りかへ」であるかと思ふ。さうして竹を採取して僅かに生計を營んで居た老翁が、不時に美しい娘を得、又澤山の黄金を發見して長者になつた條と、末段に娘が月の世界へ還つてしまふ點とは、少なくとも此物語の書かれるより前から、あの頃の女兒供がよく知つて居たらしいことは、是と共通の昔話の今でもまだ色々殘つて居るのを見ても察せられる。從つて豫めほゞ此關係を知つてかゝれば、或は案外大いなる效果を收め得るかとも考へて居る。
かぐや姫といふ名前が、竹取物語の作者の創作であつたか。或は其前からの民有であつたかは、今でもまだ決し難い問題であるが、少なくともあの時代以後の日本語では、此名の起りは説明し得られない。多分は竹の中に輝り耀い(266)て居たので、なよ竹のかぐや姫と呼ぶことにしたといふのであらうが、カガヤクといふ動詞からは、カクヤといふ語は作られさうに無い。物語の本文でも近世の流布本には、赫映姫だの赫夜姫だのと書いて居るが、さういふ漢語も亦有らうとは思はれぬのである。さうすると何か隱れたる因縁があつて、竹取の翁の娘をかぐや姫といふ言ひ傳へが、もつと以前からあつたとも考へられる。此昔話の後世の異傳では、姫の名を鶯姫と呼び、竹の林の鶯の巣の中の卵から、生れ出たといふものが多い。ところが臥雲日件録の文安四年二月六日の條に、或座頭の坊が富士の煙の由來譚として語つたといふ話は、竹取物語とは内容が丸でちがつて居て、やはり姫の名を加久耶姫と謂つて居る。參考の爲に其話をすると、昔天智天皇の御代に、富士山の麓の市へ、いつも老人が竹を賣りに來る。人怪んで其跡をつけて行くと、山の中に家があつて、そこに非常に美しい娘と住んで居た。さうして翁が謂ふには、初め鶯の巣の中から小さな卵を得て來たのが、姿をかへて此娘となり、それを愛し育てて大きくしたといふことであつた。後に帝妃となつて名を加久耶姫といふ云々とあつて、終りに此山の峯から登天したことになつて居る。是と近い話は海道記にもあつて、それには赫奕姫の字を用ゐて居るが、此方は竹取の翁を採竹翁とも書いて居るから、後に似合はしい漢字を宛てたに過ぎない。兎に角にかぐや姫の名は、他の種の昔話にも用ゐられて居た例があるのだから、或は竹取物語はたゞその古來の名を襲用して居るのかも知れぬのである。
それから小さいことだが、讀本の「かぐやびめ」に、姫が三月ほどたつと、十五六ぐらゐの美しい娘になつたといふことは、或は物語の本文とは合はぬのではないかと思ふが、偶然にも他の多くの同系の昔話の、古い趣向とはよく一致して居る。桃太郎でも又瓜子姫でも、始めて桃瓜の中から出現した時には、皆人間の幼兒とは思へぬほどの小さなものであつた。それが可愛がつて育てゝ居るうちに、すでに世の常の息子娘のやうになる。この異常の成長といふこと、一寸法師より他の話では、あまり力を入れて説かぬことになつて居るが、もとは此説話の重要なる骨子であつた。それを竹取物語ではたゞ、三月もすると三月ほどの赤兒になり、後順當に大きくなつたと記して居るのである。(267)大きくなつて始めて名をつけるといふことも、今の兒童は訝かるかも知らぬが、以前は女性も婚期に近づいて、改めておもたゞしい名を附けたらしいのである。
此系統の昔話は、東北では天人子《てんにんご》南の島々では天降子《あもりご》の名を以て總稱して居る。天人子説話には婚姻はつきものになつて居る。貧しく正直なる者が之を娶つて家富み榮え、他の有力者たちは求婚して失敗をする。其兩者の對照が、あらゆる昔話の缺くべからざる趣向であつた。竹取物語はたゞ是に變化を添へ、又敍述を濃厚にして居るだけである。兒童の讀本としては其部分が不通當であり、大いに省略すべきものなることは勿論だが、それを取去つてしまふと實はこの古文學の價値は落ちるのである。全體に成人ならば大いに笑ひ興ずるやうな言辭が、此物語の中には充ち溢れて居る。單に文章の平易簡明なるの故を以て、是を兒重文學の列に伍すべきものの如く見たのは、古人の考へちがひであつた。後世の御伽草子なども、實はやゝ成長した子女でないと味はひ難いが、竹取には更にその以上に、可なり辛辣なる皮肉さへあるのである。それを洗ひ落してもとの素朴な形に戻してでないと、或は兒童の心の糧には向かぬかも知れない。
(268) 浪合記の背景と空氣
一
「浪合記」の史料としての價値は、單に後代の假作であることが立證せられたといふのみで、一朝にして無くなつてはしまはぬと思ふ。文書は如何に批難すべき動機に出でた場合でも、尚人間活動の痕跡として、最も精細に且つ具體的に、或一定の過去を誤らざれば止まぬ。假に計畫せられたる詐僞があるとすれば、行く/\其弱點を分解し内情を疏明するものも、亦主としてそれ自身の働きであつた。しかも前代の文獻に於ては、小は一篇の小説より諸家の所謂實録の類に至るまで、筆者全然の虚構に成ること、例へば鵜飼信興の古今珍書考の如きものは、其數存外に多からず、大抵は輕々に誤を傳へ、若くは豫て信ぜんと欲するものを信じて、更に將來に向つて一段とこれを信じ易からしめんが爲に、幾分か無責任に若干の空隙を補綴したに過ぎぬ。勿論其間には豫想讀者の色々の段階があつて、其要求乃至は寛容の程度も、土地により場合によつて甚だしく一樣では無かつたらうが、少なくとも浪合記の如きは或一時代の多數人の眼に、聊かなりとも疑の餘地を殘すことを許されなかつたものである。即ち之を今日に存留せしめたのも社會の力であり、從つて其原因と作用とには、特に討究するだけの意義があるわけである。
所謂覺書聞書等の最も確かだといふ史書ですらも、事實と筆録との間には通例は或長さの時が介在する。しかも寫眞に映じたる群衆の姿の如く、偶然なる一片の印象ではなかつたのである。若し其記述に計畫があり用途があるとす(269)れば、それは必ず後の筆録の際のものでなければならぬ。假に極めて透明なる硝子板の如きものを隔てたにしても、尚光線の屈折を推測する必要があるのである。況んや複雜なる生活の事情に動かされ、時代の精神に染められたものの間から、更に其彼方の何百年の昔を、有りの儘として受入れようとするのは無理なことで、此點から言へば浪合記の無邪氣なる不精確さは、寧ろ囘顧者に對する一種の警策であつた。程度の差こそはあれ在來の多くの記傳は、内容其ものよりも尚一層適切に、語る人又聽く人を描き出して居るといふことを、縁無くして今までは心付かずに居たからである。史料が遺留者の目的とするところ以外に、利用せられねばならぬことは追々に認められて來た。獨り或種の記録ばかりが、たま/\不實を傳へたといふ恨みの爲に、湮滅の罰を受くべき理由は無い。殊につい近頃まで何百年の永きに亙つて、少なくとも一地域の住民の生存に、深い交渉を有して居たといふ事實は、それ自身が既に大切なる史料である。是非とも其意味を考察して、學問の發達に寄與しなければならぬと思ふ。
故に自分は必ずしも世上の解題家の如く、先づ一つの史書の眞僞を鑑定した上でないと、其内容を味ふことが出來ぬとは考へて居ない。浪合記の記事の一部又は全部が、假に信ずべからざる夢語りであつたとしても、それが如何樣の事情の下に發生し又流傳して、後次第に一定した形體を具足し、或時には之を聽く人々をして、正史の闕を補ふに足るとまで確信せしめるに至つたかといふことは、必ず答へられねばならぬ興味ある問題だと思つて居る。成程井澤氏の俗説辨が出來た時代までは、所謂稗史小説の境域は不定であつた。謠や舞の本の明白なる作り事までが、あれは事實で無いといふことを論辯せらるべき必要があつた。即ち一般の歴史知識の缺乏がかゝる舊傳を信じ易くしたと解してもよいやうではあるが、實際此方面に在つては田舍の教育が稍々進んで、人が南北朝の正閏を説き得る迄になつてから、却つて之を信ずる者が翕然として其數を加へたのである。傳説の歴史化といふことにはそれ/”\の時代があつて、たとへば今後の自ら解放せられたりと感ずる社會に於ても、尚條件次第、傳説の種類によつては、斯ういふ物の見方を繰返し得るのではあるまいか。但しは又當世と昔との間に、既にはつきりとした堺の線があつて、是は我々(270)の親たち迄の、永年の癖であつたといふのみであるか。この頗る實際的なる文化史上の疑問を釋く爲にも、浪合記は亦有益なる一つの材料であつたのである。
二
自分たちに取つてはいつ頃何人の手によつて、浪合記が書物の形になつたかといふよりも、更に肝要と思はれるのは成育の過程である。信ずる人々に在つては保存の方法と名づけた方がよいかも知れぬが、兎に角に記録に現はれて居る大事件の時から、二百年餘りの年月の間、書いたもの若くは口づから、之を管理した人は誰であり、又其目的は一貫して居たかどうか。普通には開かずの筥、或は煤びたる竹筒に入れて棟木に括り付けてあつたと謂ひ、寺々の縁起でも?々舊記の發見を説いて、説明の責任を避けようとして居たが、それはもう久しい以前から、寧ろ不信用の種となり勝ちであつた。正直なる人たちが古い傳へを書留めて置かうとするのは、大抵は記憶が稍々薄れ、從つて異説の入り加はる餘地が生じてから後のことで、假に若干の齟齬矛盾が認められるとしても、爲に全部の眞實を覆へす能はざるは勿論、却つて利害を同じうせざる多數の人が、會て其傳承に參與したことを推測せしめて、それが一派の徒の作爲に基かざることを證するのである。單なる口碑の場合には事情が稍々之と異なり、往々にして後世の統一があつた。殊に流布の區域が限られ、一社一寺を中心として僅かな盆地の住民のみが保存するものは、一たび正式の縁起の出現するに會へば、他の古色ある區々の談片の、之と兩立せざるものは當然に影を斂め、終には系統の再び尋ぬべからざるに至るのであつた。然るに浪合記は幸にして關係する所弘く、しかも略々時代を同じくして幾つかの筆録せられ、其間には到底二つながら存在し能はざる顯著なる抵觸を見るのである。それを土地の各關係者の如く、一を眞、他を僞と解して止むべきで無いことは固よりであるが、さればとて之に由つて全部の虚構を論斷しようとするのも、亦無謀なる史料の廢棄である。此の如き機會は決して獲やすいもので無い。故に自分は寧ろ此等の偶然の所謂異本の(271)中から、如何なる點が共通に信ぜられて居たかを見付けて、出來るならば一つ以前の意味を究めて見たいと思ふのである。
最初には先づ現在の記録の大要を述べて、未だ此書を見ぬ人の勞を省くならば、浪合は即ち信州南端の一山村の名であつて、昔南朝の皇子尹良親王、此地に來つて野武士に攻められ、御自害なされたといふことを骨子とした物語である。地方に最もよく知られて居る一異本、自分が理由あつて津島本と名づけんと欲するものに依れば、此出來事のあつたのは應永三十一年の八月十五日の大雷雨の日に皇子は諏訪の方から南進して、嶺を越えて三河に赴かんとしたまふ時しも、土地の豪族飯田太郎駒場小次郎などゝ名乘る者、地の利に據つて路を妨げ箭を放つ。御運今を限りと見て忠義の臣下ども、御輿をあたりの在家に舁き入れて御生害を勸め奉ると記して居る。然るに波合村堯翁院に今も持傳へた他の一つの波合記に於ては、親王陣歿の日は應永三年の三月廿四日となつて居る。それから尚二年前の或一日、三河へ御越えなされんとして此土地に入られたのであつたが、やはり夥しい雷雨があつて三日の間逗留なされ、次で計畫を變へて此村に假の御所を構へて御住居なされたと傳へられる。二つの記録にはまだ幾つかの類似があるに拘らず、何故に特に是ほどの日の相異を、主張しなければならなかつたか。その點が先づ一つの疑問になるのである。
浪合記の今日の如く有名になつたのは、存外に近世のことであつた。今から約百年前の天保初年に、村の舊族浪合氏後藤氏など、祠官近藤政峰と謀つて此故迹を記念せんとし、碑文を尾張の學者秦鼎に求めたことがある。秦翁は名古屋の人だから夙く天野信景の手に由つて傳へられた津島の浪合記を熟知して居たと見えて、專ら之に基づいて波合村の記念碑の文を書いて居る。それが成立つことになつては、村の波合記は間違ひと認められなければならぬ。それでは大變であつた爲か否か、兎に角に今尚碑は樹てられずに文章としてのみ殘つて居るのである。寺に取つては忌日は重要なことで、如何なる事情があらうとも今まで行つた春の祭を、罷めて仲秋にするわけには行かなかつたであらうし、其上に尚一つ、實際問題として困ることがあつた。
(272) 津島本が信州の南山に入って来たのは、右の秦氏の碑文の時よりも、また二十年ほど前のことであった。蕗原拾葉以後の多くの叢書に採録せられたものは、寓岩齋井上信好の序と跋とがあつて、詳しく其来歴を述べて居る。信好は野州宇都宮に住んだ好古篤學の士であるが、曾て此書を獲て誤寫脱漏の多きに苦しみ、十年の久しきに亙つて諸本と校量し、最後に天野氏の自筆本が手に入つて、始めてこの完全なる寫本が出來たと謂つて居る。文化四年の秋、彼は信州に旅行をして遙々と波合山村の放迹を尋ね、村長浪合左源太の家に宿して親切な案内を受けた。其折の約束に基づいて一本を謄寫し、校合再三の後之を浪合家に寄贈すといふのが、即ち別系統の尾州の異本の、今日信州の側に行はれて居る理由であつた。
併しながら後にも言はんと欲する如く、是は井上氏の好意に由つて、完全なる寫しが傳はつたといふのみで、更にそれよりも數十年前から、其内容の此地方に行はれて居た證據がある。しかも他の一方には土地にも既に別の記録があつて、其相異は單に年月日の一點に止らず、頗る此古傳の統一を妨げるものがあつたのである。井上信好の來訪に先だつこと更に四十年、丹波篠山の藩主青山下野守が、其臣佐治爲綱を東國に差遣して、弘く祖先の遺事を捜り求めしめた時に、圍らず波合の村に來つてかの應永三年の戰死者の中に、青山藏人佐藤原師重なる者のあることを知り、遠祖の忠績の久しく草莱に埋もれて居たことを見出した。それが因縁となつて堯翁院の良琳和尚といふ者は、わざわざ篠山に赴いて青山侯に拜謁し、尹良親王の手寫と傳ふる大般若經の、片端を剪つて贈呈するといふやうな無茶をして居る。さうして何時の間にかその青山師重を、從三位中將内藏人佐などゝ稱へ始めて居たのである。青山家年々の囘向料金百疋は此時から始まつて、それが少なくとも維新後まで續いた。其音信の書面が幾通か殘つて居て、事實かどうかは知らぬが明治十三年の調査に、此地を御墓と認定する有力な證據となつたと、寺の記録には載せてある。ところが井上信好の方から持つて來た津島本の浪合記には、その大事な青山藏人佐の名が見えなかつたのである。
(273) 三
全體に異本の喰ひ違ひは、特に人名に於て甚だしいやうであつた。自分の津島本と名づくるものは、寶永六年に天野信景が、美濃の高須の藩侯の家から、借りて寫したといふことになつて居るが、此方に見える親王の從士は、桃井世良田といふ類の新田氏一門、殊にコ川家の祖先と血筋を引いて居るらしい人々の他に、尾張では津島天王の社家として知られて居る所謂四家七名字、それから鈴木熊谷酒井大岡布施宇津等、三州各地の舊家に屬するもの、遠江の方では秋葉の天野氏が之に加はつて居ることが、特に信景翁をして此書の傳寫に熱心ならしめた理由であらうと言はれて居る。成程人の名は列記である故に、後代傳寫の際自在に加除したかの如くに疑ふことも出來るが、それだけでは説明の付かぬ點は、何故に津島の十一家が自ら吉野の十一黨と稱して、二度までも遠く波合の山間に來つて、無二の忠節を盡したと主張するかである。
自分の想像する所では、尹艮親王の御子良王君、再び同じ地を過ぎて同じ厄難に御遭ひなされ、辛うじて尾張の奴野城(津島)に御入りなされたと傳ふる一條は、現在は既に信州の側にも信じられて居るが、元來はこの尾州系統の記録のみの、特徴では無かつたかと思はれる。信濃宮傳と題する一異本は、幾分か筆の跡が新らしく、大體に津島本を繼承せんとした形があるにも拘はらず、此一點だけは頗る著しい相異を示して居る。良王君は父宮御生害の前、共に波合村の陣中に居られたのを、二心無き武士ども托して、竊かに三河國に落しまゐらせたと記して居る。之に反して津島本の方では、從士に守られて諏訪の島崎の城から、早く下野落合の城へ、御歸りなされたと謂ふのである。さうして十二年後の永享七年の十二月朔日、第二の波合合戰に於て飯田太郎の悴、駒場小次郎の弟などゝいふ野武士共と戰つて、世良田政義以下二十一人の忠義の士が、こゝに命を殞したとあるのは合點の行かぬことである。
思ふに信濃宮傳の特にこの個條を避けたのは、それが餘りに信じにくい重複であつたからで、しかも津島本が筆の(274)力を盡して、出來るだけ兩度の戰記に異色あらしめんとしたのは、もとそれが永享八年に創始せられたと傳ふる津島天王の祭と、何か隱れたる關係があつた爲であらう。ところが如何にしても取繕ふことの出來なかつた矛盾は、この悲哀なる軍物語の、殆と骨子とも認むべき宮御辭世の歌、
おもひきや幾瀬の淀をしのぎ來てこの波合に沈むべしとは
の一首を、獨り此書に於て本の作者から取上げて、之を良王君の從士の長、世良田政義が或民家の蔀に、書殘して死んだ歌にしてしまつた點である。此三十一字は何人の目にも、到底あの時代の名歌とは受取られぬ作であつたが、しかも久しい間此地方の人の口に膾炙し、如何に傳説の輪廓は移り動いても、是ばかりは忘れて消すことの出來ぬ印象であつた。それを遠方に居て土地の事情に疎く、輕々しく變更を試みんとしたのは破綻の絲口であつた。
波合村堯翁院の今日の所傳は、多くの點に於てこの津島本の影響を被つて居るが、親王戰歿の日の三月二十四日と、青山藏人師重の名と共に、流石に此歌は昔の形を改めることが出來なかつた。寺に傳ふる宮の御辭世といふのは、僅かばかりの辭句の相異がある。
思ひきや幾瀬の淵〔右○〕をのがれ〔三字右○〕來てこの浪合に沈むべき〔二字右○〕とは
是が伊那南郡の山間の村々に、弘く傳はつて居る本の形であつたらしい。元禄十一年の奧書ある清和源氏知久氏の傳記、之に基づいたかも知れぬ明和中の知久家軍記書、知久神峰床山城記録、それから伊那郡舊記拔書等、伊那史料叢書中の多くの記録は、何れも皆此通りになつて居り、獨り關盛胤の伊那温知集のみが、浪合記に據つたと稱して淵を淀に改めて居る。
但し知久家の言ひ傳へに於ては、之を南朝の皇子とは主張して居ない。之義將軍と稱して知久家の女に生れた貴族の子、父は多分足利直義であらうと謂つて居た。床山城記録のみは之を人皇八十代後醍醐天皇第六の皇子、行義親王なりと稱し、是も應永三年の三月二十四日、浪合の御所にて御生害とあるからは、元の堯翁院の記文と根源は即ち一(275)つであつた。さうして此方面に傳へられる一説では、歌の形は今一層奇妙なものであつた。
世の中の幾瀬の淵をのがれ來てこの浪合に消ゆるゆきよし
それでは辭世の詠として如何にも似合はしからずと感ずるやうになつたものか、「舊記拔書」の方では尹良大權現の神靈永く留まり、毎夜御社の爐火外に見ゆる故に、或僧浪合の村に一宿して御辭世の歌を直し、
おもひきや幾世の淵をのがれ來てこの浪合に浮むゆきよし
としたところが、それから其火の光が鎭まつたなどゝ記して居る。さうなると禅宗問答の亡靈を濟度した話として、松島の雲居和尚の「それこそそれよ宮城野の原」を始とし、諸國に幾らもある民間説話の型に嵌つて、是で又一應は落着いてしまふのである。
四
爰まで歩んで來てさて振囘つて見れば、この浪合にの一首の歌と、今も神靈として南信地方に尊崇せらるゝユキヨシサマとは夙くから關係があり、事によるとそれが色々の歴史的衣裳よりも、今一つ前からのものでは無いかといふ想像が浮ばざるを得ない。併し地名辭書の著者が浪合記の成立を論じて、元禄年中知久氏が波合の關所の番を命ぜられた頃に、此土地へ持込んだものであらうと言つて居るのは、或は堯翁院の寺傳には當るかも知れぬが、遠く懸離れた尾州の西部に、別に今一層複雜なる浪合記の、出現した理由を解釋するに足らぬやうである。
現在の筆録に於ては、一樣に早良親王の文字を用ゐて、それをユキヨシと讀ましめんとして居る。耳で口碑を運んで居た土地の人には、漢字で何と書かうとも構はなかつたのであるが、實は稍々無理なことであつた。其上に南朝の皇子方の御名の、良の字は常にナガであつたことを知る者が多くなつて、愈々在來の物語との調和が六つかしく、それを皆僞りとしてしまふことは、少なくとも信州の側では出來ぬことであつた。或は其折合の爲では無かつたかと思(276)ふのは、津島に於ては御子の良王君を、ヨシワウギミと謂はずにヨシユキヾミと稱へて居た。さうして其良王君が再び波合の險を犯したまひ、御身代りの世良田政義が、この波合にの辭世を遺したことにしてあるのである。
さういふ必要の何に由つて生じたかに付ては、自分はさして答辯に苦しまぬ積りである。津島の天王社には若宮と名づけて、近世祭り始めた尊い御靈神があつて、いつの頃よりか之を南朝の皇子なりと、信じ傳ふる者が多くなつて居たのである。若宮を皇子の靈と解することは、誤りとしても至つて自然なものであつた。獨りそれが天王の御子神であつたといふのみならず、松本氏の新主人がコ川と名乘つて、中部三河の山村に崛起した頃から、世を避けて微賤に安んじて居た者が南廷の舊功臣の末と稱するは時代の風であり、同情と尊敬を收むる途であり、隱れたる遺傳を證明する最も容易な方法であつた。それと同時に吉野の宮の御血筋の如く、御行方の後幽かになつたゝめしは他には無かつたのである。しかも近國を見渡したところ、幾度か中央山脈の險難を踏越えて、東海の諸國に往來なされたといふ宮樣は、宗良親王たゞ御一方であつた。要するに津島近代の社傳は、信州波合村の口碑と接合し易く、若くは彼を刺戟して今日の發達を遂げしめるやうな、著しい傾向を持つて居たのである。
自分たちが兼て若宮信仰の特色と認めて居るところは、古くは父神の優れたる威力を以て、王子神の兇暴を制止してもらふこと、之に次では神裔血縁の因みに頼つて、祖神の御祟りを和ぐることであつた。さうして神霊の憤恚は特に劍戟の際に現れるものとした故に、世亂れて人心の動搖し、疾疫蟲旱の災が免れ難かつた時代に、常に其信仰は興隆するのであつた。今の津島の花やかなる舟祭り起立が、永享八年であつたといふ説は、自分には誠らしく感じられる。浪合記の中には其祭禮の法式を記して、良王君に仕へた四家七名字の勇士たち、天王の神託に基づいて各一艘の舟を出し、宮に仇せんとする臺尻大隅守を討取つたこと、それを嘉例として祭の舟の役は十一氏の專管に屬し、今も祭の囃子に臺尻打つたといふ詞を唱へると謂つて居る。
それが津島天王の末社として祭らるゝ彌五郎殿といふ神と、關聯した言ひ傳へであるらしいことは以前之を論じた(277)ことがある。彌五郎は普通に八幡の從神として附祀せられて居るが、九州南部の多くの八幡社などでは、祭禮の日に其姿を大きな人形に造つて行列に加はらしめ、終りに臨んで之を斬り屠る式があつた。即ち津島の記に説く所の臺尻大隅守も同樣に、神の威光を以て兇暴の靈を治定する心であつたらしいのである。然るに津島の社傳の方では、彌五郎殿は善神であり、宮を御助け申した堀田氏の先代、彌五郎正泰の創建にかゝる故に、其通稱を採つたと謂ひ、或は此家の遠祖武内宿禰を祀るとも謂つて居た。堀田氏は七名字の首班にして、四家の總括者たる大橋氏と共に、津島祠官の中堅であつたのみならず、戰國の際武功を積み重ねて、一時は織田と拮抗する程の大大名となり、子孫克く家を保つて續いてコ川期の雄藩の一であつた。さういふ名門から出た彌五郎殿を、祭の生牲とし兇神の形式と解することは、後世に於ては忍ぶべからざることであつたかも知れぬが、實は此家も行教安宗の子孫が男山の社家であつたと同じく、斯ういふ信仰と最も縁の深い紀氏であつた。尾陽雜記の説に從へば、京の祇園會の車の兒も、津島の舟祭の神の兒も必ずこの堀田家から出す定めで、偶々其人を缺くときは臨時に此苗字を貸すことになつて居たさうである。さうすると前にいふ臺尻大隅の物語の良王君の傳も、或はもと此家の由緒から、出て來たやうに考へられるので、本來は信濃宮と何の關係も無く、單に天王の子神として、此地方の處々に祀られる惡王子に對立した善王子であつたかと思ふ。津島の近世の信仰では、葦の莖を束ねて之を入江に流し、兇神祭却の式に象どり、それを御葭の神事と稱へて居る。アシとヨシとは同じ一つの草であつた。天王の八王子は怖るべき荒人神であるが、戒愼して祭り敬するときは則ち人間の守護者であつた。是が良王神主の名の起りであつたかと思ふ。鹽尻に採録した大橋家の系圖では、良王君の弟に良新(ヨシワカ)があり、其系後絶えて大橋氏の子入つて之を嗣いだ。それが久しい後までの此社の神主の家であつたと謂つて居る。
(278) 五
そこで立戻つて波合村の古傳の、以前の姿を考へて見るのであるが、自分はかの一首の歌を中心として、夙く結構ある一つの物語の流傳して居たことを想像せざるを得ない。其理由は或は外部からも見付けられようと思ふが、第一には先づ歌に中世風の 稍々氣輕なる趣向のあることが、隱れたる民間藝術の曾て之に參與したことを察せしめる。波合は其地形が示して居る如く、二つの山竝が相迫つて作り上げたる隘路の名であつた。自然の領境であり道の神の祭場であり、又急がぬ旅人の立休らふべき平和の村であつた。同じ里の名は他にも折々は聽くけれども、兎に角山間には珍らしい語である故に、かういふ掛言葉の歌の詠まれさうな土地であつた。しかも以前花やかなる世渡りをした人などが、こんな奧山家に埋もれて世を終るといふ場合ならば、この波合に沈むべしとはとも謂つてよからうが、測らずそこに來て忽ち討死をした人が、さういふことを言はう筈は無い。即ちどう見ても辭世の歌とは考へられぬのである。
恐らくは最初今一つ、都の上臈若くは貴人が、流落してこの山里に世を終つたといふ類の、哀れな昔話が物語られ、それが年久しうして戰國の氣習に感化せられ、追々と殺伐なる形式に變化して行つたものと思ふ。さうすると知久氏の家記なども、却つて此方から學び移したものになるのであるが、それは必ずしも有り得ないことでは無い。ユキヨシの將軍又は王子を以て、其作者なりと傳ふることは、其昔歌語りを以て生を營んで居た者が、?々橋本關本の地に住んで、兼て道の仕女であつたことを考へると、略々其消息を解することが出來る。ユキヨシは即ち行旅を守る神の名であつたらしいのである。私は近頃信州鹽尻の三河街道の近くに於ても、一つのユキヨといふ地名を見出したが、尋ねたら尚有らうと思つて居る。異郷に身を終つた漂泊者の亡魂を、特に行路神として祈念するに適すと考へることは、古くは所謂帝??の子などといふ道祖神から、殆と最近の行倒れにまで及んで居る。多くの官道の松竝木の陰な(279)どに、或年の流行神として何か一つの願掛を叶へると稱し、今も香火の絶えざるものを見ると、大抵は相類した言ひ傳へを持つて居る。即ち其死が異常であり且つ同情を博するものである故に、其跡を弔ふ者は特に防護せらるべしといふ、古來の約束が今も一貫して、土地々々の信仰を支へて居るのである。しかも奇瑞の發見には或種の仲介を必要とした。即ち一夜里人の夢枕に立つて、強い暗示を與へたといふのでなければ、必ず修驗巫女の輩の口に寄つて、恨み歎きと祭らるゝ喜びとを述べようとして居る。夢や口寄は今日の之を信ぜざる者の眼から見れば、最も文藝に近似した一種の傳説に過ぎぬのであつた。
しかも信じた世の土地人に取つては、それは明瞭に埋もれたる歴史であつた。たゞその歴史は筆録に由つて固定する迄は、次々に時代を截斷して自在に今と兩立せざるものを忘却することを得たのであるが、一朝に文字の形を具ふれば永く拘束せられ、又別箇の註脚と論評とを、受けなければならぬのであつた。口碑の之に對して最も無勢力なのは、言はゞ本來の性質でもあつたが、尚所謂田夫野人の間には、新らしいものを知る機會無く、又古いものを保守する必要のある者が多かつた。例へば伊那の波合村のユキヨシサマに付ては、靈神此地に滯留の間、瘧を病んで村婦の介抱を受けて全快し、其欣びの餘りに以後此里に於ては、絶えて此疾の爲に煩ふ者なからしめんといふ御誓願があつたといひ、又神峰床山城記録には皇子御生害の砌、浪合村の女性ども泣叫ぶ聲を聞し召し、不便とや思はれけん、末世のかたみに此郷の女に、難産の苦を除き得させん、又男女ともに瘧病の難を免れ得さすべきぞと御遺言あり、それより今に於て地の者には難産瘧病の愁無く、たとへ他村の者たりとも信仰を以て立願すれば、二つの害を逃るゝの御利益掲焉なりとも傳へて居る。ワラハヤミは前代の醫學に於て最も解し難きものであり、從つていつ迄も巫道の支配を受けて居たが、それよりも更に戰陣の折柄に似つかはしくないのは、五年前に採集せられた「傳説の下伊那」の中に、松尾村の某家ではユキヨシ樣に草鞋を參らせず、是非無く徒跣にて御あるき成されたといふ廉により、代々足の病にかゝる者多く、其罰を免れんとして祠を建てゝ御靈を祀るといふ話があり、尚波合村でもユキヨシ樣が、貧乏な(280)老婆のあばら屋に御逗留あつて、猫の蚤を取つて御遣りなされた故に、今以て此一村の猫には蚤が居ないといふ、をかしな記憶さへ殘されて居るのである。學問無き者は無意味なることをも説くといふが如き、根據なき臆斷に囚はれざる以上、是が皇孫沈淪の畏多い物語が流布した以後に、果して此地方に於て生成し得べき口碑であらうか。要するに口碑の成立は、實はまだ考へられて居なかつたのである。
(281) 方言覺書
同じ標題の下に、兵庫縣民俗資料にも私は一文を寄せて居る。内容は勿論全く別である。あの方には專ら生れた村の言葉の、記憶に殘つただけのを書いて置かうとして居る。こゝには東京で久しく聽いて居る普通語を、批評して見ようと思ふのである。斯ういふ切れ切れの小篇を急いで發表する心持は、年を取つた者でないとわからない。折角氣がついても又忘れるといふ心配、果して大きな文章に利用し得る折が有るだらうかといふ不安、誰かが同じやうなことを考へて居て、之を資料の中に加へるか、又は是が暗示となつて更に重要な發見をするかも知れぬといふ希望、さういふものが集合してこんな雜事を吉かしめるのである。幸ひに本誌の編輯者は寛大であつた。私はこの與へられた機會をつかまへるのである。
○
東京の言葉は方言よりも迅く變化する。僅か百年前の浮世風呂や梅暦の言葉を、其まゝ使つたら笑ふよりは恐らく判るまい。私などが覺えてからでも、「おあげ申します」を「おあげ致します」とした類の變へ方は幾らもある。是が一々熟慮の末に取捨し選定したもので無いことは明白で、從つてその自然の經路が、少しでもわかつて來ると、新らしい事情が學ばれるのである。なるたけ飛んでもないところから話を始める。
人が機嫌がわるくてしかめつ面で居るのを「にが蟲を?みつぶしたやうな顔をして居る」と、今でも折々は謂ふも(282)のがある。蟲に果して味はひの苦いものがあるかどうか。一々咬んで見たら或は確かめられるかも知らぬが、そんなことは出來さうも無い經驗である。是は恐らく主客共同の空想で、誤つて蟲を咬んだだけでもいゝ加減不愉快だのに、それがもしも苦かつたならどうだらうか。この人の顔はちやうどさういふ場合にでもするだらうと思ふやうな顔だといふことを、誰かが手取早く氣の利いた短句で、述べたのが流行し出したのである。江戸の町の人は惡口用の爲に、常から心がけて斯ういふいひぐさを貯へて持つて居た。それが折々使はれて聊か古くさくなると、喧嘩をせぬ者までが不斷着のやうに、取出して毎度使つたのである。しかし空想的とは言ひながらも、個人の發明にしては少しく奇拔すぎる。何か是には基づく所があつたのでは無いか。さういふことをちよつと考へて見たいのである。
たしか靜岡縣かと思ふが、場所は今記憶して居ない。醜い顔をした者を評して「庭蟲のやうな面」といふ諺がある。このニハムシといふ名前が不確かになつて、その心持だけがニガ蟲に傳はつて居るのではないか。庭蟲といふ語は關東にもある。夏の日外庭の土に穴をあけて、その庭に隱れて住んで居る蟲で、ミチヲシヘの幼蟲だとも天道蟲だともいふが、確かなことは知らない。庭蟲釣りといふ子供の慰みは埼玉縣にもあつて、あの地方ではラッキョウの葉をさし込んで此蟲を釣り出すのだと上野勇君は謂つて居る。
そんなに見にくい顔をして居たかどうかは覺えて居らぬが、此の遊戯は自分などもたしかにした。但し播州ではニハムシとは謂はず、普通にはアマンジャコと謂ひ、釣るからジャコだと私たちは思つて居た。紙縒のさきを?んでしたゝかに唾をつけ、それを穴にさし入れて引揚げると、それに附いて此蟲が飛び出すことがあるのである。故島村知章君の方言集を見ると、岡山市附近にもアマンジャクと謂ふ名はあるが、別に是をニラ蟲といふ者もある。韮の葉のさきに唾や鼻くそを塗つて、子供等が此蟲を釣るといふことである。韮の葉を用ゐて釣ることがあるからニラ蟲と謂ふのも、少しばかり關係が淡すぎる。是も或は曾て庭蟲といふ語のあつたのが、轉じて又新たな解説が附いたのでは無いだらうか。壹岐島ではアモジョー草と謂ふのがヌカポといふ草のことで、是がアモジョー釣りの具に供せられる。(283)さうしてアモジョーといふのが亦關東の庭蟲のことである。此草の莖に齒くそをつけて穴にさし込んで釣る方法は同じである(山口麻太郎君)。長崎市に近い飯香浦で、コウゴ草といふのも同じ植物かと思はれる。さうしてコウゴは亦庭蟲のことである。或はハナゴと謂つて居る土地もあつたやうに記憶する。讀者諸君の幼時にも同じ類の遊びがあつたかどうか。それを何と謂つたかもう少し例を集めて見たいが、とにかくにニハムシといふやうな要領を得たよい單語でも、人は忘れもすれば又誤つて他の語を造るといふこと、しかも暗々裡に前の存在に牽制せられるといふことが、もう是だけの事實からでもわかりかけて來たのである。
アマンジャクといふものは意地の惡い、人のすることに逆らふ者だといふ話は方々に有る。私の國ではそれをもやはりアマンジャコと謂ひ、實際あの蟲が中々思ふやうに釣れてくれないので、それでいふのかなと私などは思つて居た。別にさういふ名の鬼見たやうなものがあつて、庚申樣の足の下に踏まへられて居ることは、東京に出るまで知らなかつた。漸く此頃になつてそれが神と競爭したといふ神話風の口碑も多く、東國では山姥とよく似た山中の怪者であり、西では又山彦も同樣の人の言葉の口眞似をして怖らせる者であり、九州などは、アマンジャグメとも謂ふから、古代史上の天探女と、一つのものかも知れぬといふことなどがわかつて來たのである。さうなれば庭蟲の方をさう呼ぶのは間違ひか、又は混同であつたと言はなければならぬ。壹岐にアモジョーといふ名もあるのを見ると、中國でも元は是に近い語で呼んで居たのが、いつしか天探女と重なつてしまつたものとも考へられる。自分たちの奇妙に思つて居るのは、アマといふ名詞が日本では色々の小動物に與へられて居ることである。是も捜査によつてまだ多くの例が集まつて來るだらうが、先づ寄生貝即ちヤドカリといふ介甲類の一が沖繩本島ではアマン、石垣新城二島ではアマンツア、與那國ではアマンブ、西表島ではアモ、小濱島ではアモア、宮古島でも奄美大島の古仁屋でもアマムで、後の島には又アマミ、アママ等の變化がある。是だけは宮良君の採訪語彙に出て居るが、同じ語は七島の寶島までも來て居てアマム、しかしそれより南のコ之島だけは、アマンといふのが山蜘蛛のことである。さうかと思ふと舟蟲をア(284)マメといふ地方がある。肥前五島の日島などはその一つで、壹岐島でもアマメといへば舟蟲と油蟲との兩方を含んで居る。油蟲は他の地方でゴキカブリ又は椀くひ蟲その他色々の名をもつた蟲で、暗い戸棚の奧などを走りまはつて居り形は舟蟲とやゝ近くて習性は又別のものだが、對馬でも長崎でも鹿兒島でも、アマメはその油蟲のことである。喜界島の如きは是をアマミー、寄居蟲の方はアママーと謂つて區別して居る。
油蟲のアマメは大分縣にもあり、又アマともイゴともゴキブリとも謂ふと、豐後方言集には報じて居る。紀州の南海岸、日高西牟婁でもアマは油蟲、備中小田郡でもアマコは油蟲だといふが、この最後のものだけは名は同じでも別ものらしい。さういふわけは島根縣の方言集に?蟲をアマゴ、岡山でもアマコは蟻卷きのことだといふからである。まるで種類のちがつたこの色々の生物が、どうして一つの語で呼ばれるかは全く不思議だが、どうも單なる偶然とは思へない。海中の岩に棲む小さな卷貝の一種を壹岐でアマニン、喜界島ではアマンニャーと謂つて、ニャーも亦蜷のことらしいから、或はアマは海のことかといふ想像も浮ぶが、舟蟲と寄居蟲とはよいとして、臺所にわくアマメや、蟻に放牧せられるアマコまでは説明が出來ない。佐渡の外海府では水黽即ちアメンボウといふ蟲をアマ、越中下新川郡ではボウフリ蟲のことをアマザコ、信州北安曇郡では蝌斗即ちオタマジャクシがアマコ又はアマッコである。それから考へて行くと、アマガヘル又はアマビキといふあの小さな青い蛙も果して雨を呼んで啼くから雨蛙であるかどうか。少しばかり疑はしくなつて來る。この蛙は又アマガク、アマンギャクといふ方言もあつて、親のいふことを聽かなかつた爲に、蟲になつたといふ昔話があり、折々はアマンジャクの言ひ傳へとも混じて居る。或は何かもう一つ古い因縁のからまつて居るものがあるのでは無いか。是からも氣を付けて居たいと思ふ。
アメンボウは人によつて水蜘蛛といひ、又擧動が似て居たのでジンリキヒキといふ新名も出來たが、普通は手に取ると飴のやうな香氣を放つと稱して、飴賣、飴屋の爺又はギョウセンといふ類の方言が多い。水飴ことに地黄煎の語の、民間に倶通したのは古いことでも無ささうだから、やはり新語のうちに入れてもよいやうだが、佐渡の例などが(285)あつて見ると、或はさういふ名の出來る運命のやうなものを、以前から持つて居たのかも知れない。二つの全くちがつたアブラ蟲の起りにも、舊名の共通といふことが關與して居るのではないか。單語はいつでも意義不明になると、少しでも説明のつき易い方へ、變つて行かうとする傾向はたしかにあるのである。をかしいことには關西九州にかけて、この飴賣を又鹽屋だの鹽賣りだのと謂ふ所があつて、是は嘗めて見ると鹽からいから、此名が出來たのだといふのが本當らしい。にが蟲をかみつぶして見る經驗は、試みようといふ者が無くとも、飴ならば或は小兒には誘惑であつたのかも知れない。さうして全然豫期を裏切られたとすると、又斯ういふやゝ誇張した新語を作らぬとも限らぬのである。
○
言葉は近世に入つて非常にかはり、又新たに多く生まれて居る。故に我々は是を近世史として研究して見なければならぬ。中世以前の書籍の知識によつて、現代の國語を説かうとする方法は、まちがひだと私は思ふ。好いとか惡いとかいふ批評は知つてから後の話である。私たちは斯うして一つ/\の言葉の履歴を知らうとして居るのだが、是が役に立つ爲には次々の相續を必要とする。だまつて使つて自分の發見のやうな顔をする者があつても、それも仲立ちだからさう小言をいはぬ方がよいと思つて居る。よつて諸君も其氣で一つ、本誌を共同の物置として管理せられることを勸告する次第である。
(286) 江湖雜談
メダカの話
「河と海」といふ名は非常によい名だと思ふ。河海は小流を選ばず、清濁合せ呑むといふ。
さういふ立派な名を附けながら、食ふ魚ばかり考へてゐるのは量見の狹い話だと思ふ。私は小流になつてくだけた話をしよう。
これには頃合ひな話がある。それはメダカに關する研究についてである。
メダカの事は、今まで閑却されてゐた問題である。それでもメダカについて研究してゐる人が、私の知つてゐる範圍では、日本に五六人は居る。私も十年も前から、それについて考へてゐる一人である。
私が五六年前、富山に遊びに行つた折に、藥學關係の松本といふ青年に會つた。その人が何かの話のついでに「私はメダカの地方名を二百あまり蒐めてゐる」といつたのを聞いて、「實は僕も蒐めてゐる」と驚いた事がある。
メダカといふものは、それ位多くの方言を持つてゐるものである。
一體方言といふものは、一人が創つたところで、方言にはならないものであるから、その澤山のメダカの方言によつて見ても、古來日本人が、如何にメダカに關心を持つてゐたかゞわかる。
ところが、をかしい事には、私が大分以前に、諸國の友人に向つて、メダカの事を問ひ合せた折、その返事に二三(287)ヶ所以上「私のところにはゐない」といつて來た所があり、又「昔はゐなかつたけれども、近年居初めた」と答へて來た所もある。
これは何だか嘘のやうな事だけれども、人間の移住が近年盛んになつた樣に、魚の移住の盛になつたのも近年のことである。
例へば、秋田から津輕地方にかけてナマヅのはひつて行つたのは百年位前の事ださうであるが、ナマヅが繁殖し出してから、彼處のコヒや其他の魚が減つて、川魚の關係が違つて來たと聞いてゐる。
魚の移住については、例へば水鳥の脚に魚の卵がくつゝいて運ばれるとか、其他の原因によるものであるが、ともかく地方によつて移住?態の變つて來てゐる處のあるのは事實である。
大體魚の名前といふものは少いもので、コヒとかフナとかウナギとかのやうに、何處でも同じ名前のものが多く、さう澤山の名前を持つた魚といふものは少いのであるが、このメダカの日本國中に行き亙つてゐる二百以上(私の考へたところでは三百以上)の名前は、何の必要があつてそんなに多く出來たか、またメダカといふ名前がどうして出來たか、その一つ/\の名前の出來た理由を知る必要もあるが、先づ根本に遡つて考へて見なければならないことがある。
今述べたやうに、魚類には大抵名前が少いのに、ひとりメダカに限つて、どうしてさう澤山の名をつけたか、これは漠然と空には考へられない事であつて、私等の方言への興味は多くそこから來てゐる。
今までは、方言といふものは、田舍者が無學だから、とんま〔三字傍点〕だから出來たと、都會人は考へてゐたが、方言の出來るのは、それだけの理由からではない。
大體、地方名(方言)の起りを見ると、多く子供が關係してゐる。子供の生活と交渉の多いもの程、名前が澤山生(288)れてゐるが、この子供の使ふ言葉が方言として根を張るのは、大人が無意識のうちに、子供の時の名前を使ふからである。
併し理由はそれだけではない。もう一つ二つ深い所に理由があるやうな氣がする。例へば、昔國民全體に童心が多く、全體が天然自然に對する關心を持つてゐた時代があつて、さういふ時代に方言が出來たのであるかも知れない。
さうなつて來ると、方言が一つの史書である。他にさういふ事を教へてくれる書物もなく何もないが、方言がこの尊い役割りをしてゐる事になる。
この意味において、名前のひとつ/\について深く考へて見ることが必要となつて來る。
メダカの名前について、私の記憶してゐるところでは、小さいといふ特徴を以つて名づけたものが多い。例へば、關東では多く「メダカ」と稱つてゐるが、少し西の方では「メザコ」、もつと西の方中國邊では「メメンジャコ」「コメンジャコ」などゝ稱んでゐる所がある。
そして小さいものゝ喩へに「メメンジャコのやうだ」といふ事を云ふ。唯、小さいといふことだけでは「メメン」とは云はない。「メメン」は小さいといふ事だけを意味するものではない。
メダカの小さい事に注意したのは、目に注意したからであらう。メダカをよく見るとわかるが、體の割に目が大きくて、目の色も濃い。見てゐると眼に注意が向く。眼が飛び出てゐて、目に注意の向くところから付けた名であることがわかる。
「メダカ」と一番近い名前は、九州の南の方で、三いろ四いろも名があるが、大體「タカマメ」といつてゐる名であらう。その理由も小さいといふところから來てゐるであらう。
それから、瀬戸内海の西の万、例へば山口縣、愛媛縣あたりにもあるが、大體西部地方では「メンパ」「メンパチ」(289)「メツパチ」などゝといふ種類の名前が一番多い。
「メンパチ」などは、眼がパッチリとしてゐるところから出來たのであらう。
さういふかけ離れた地方の方言を竝べて見ると、始めて、この魚の名が、眼の特徴から付けられたといふことが想像出來る。
それが後には、「メザコ」――眼雜魚――「メザッコ」といふ名前となつた。
關東でも「メザコ」「メザッコ」と云ふところがあるが、神奈川縣、殊に靜岡縣に多い。
私は、「メザコ」よりは、寧ろ眼が高いといふ方が古いだらうと思つてゐる。
一つわからぬのは、東北から越後の北半分にかけて、「ウルメ」「ウルミ」「ウルメゴ」「ウルミゴ」と言つてゐるが、この言葉がわからない。
「ウルム」といふ言葉は、眼が白けてどんよりしてゐる意味である。
ところが、それとはかけ離れて、近江から美濃、尾張、伊勢、紀州あたりの、中部地方の肝要な地方にかけて「ウキス」といふ名前がある。
始めはわからなかつたが、「ウキンタ」「ウキンチョ」「ウキウヲ」などの言葉から考へると、メダカが群をなして上に向いて水面に浮んで來る擧動を、特に見立てゝの名であることがわかつた。觀察者はおそらく子供であらう。
現在のところでは「ウキウヲ」は特別として、なぜ「ウキス」といふか、土地では知らずにゐる。
「ウキス」「ウキザッコ」などの種類の名前を蒐めても五十通り位はある。
もう一つある。北陸の方であつたか、あの附近では「カンタタ」「カンタ」などゝいふが、なぜさう言ふかを知らずにゐる。
(290) その言葉は、澤山蒐めてゐるうちにわかつて來た。これは「カネタタキ」で、現にさう言つてゐる處もある。
「カネタタキ」となぜ呼ばれるかを考へて見ると、以前人が群をなして鐘を叩いてゐた時代があつた。即ち念佛をしてゐたのである。
今日の社會生活から言ふと、想像のつかないことだが、メダカの如く群をなして鐘を叩いてゐた時代があつた。京都の近郊には今でもこの風習が殘つてゐる。「ネンブツウヲ」「ネンブト」と云ふ名が生れて來る理由もこれでわかる。念佛で鐘を叩くのである。
鎌倉時代から足利時代へかけて盛んであつた、空也念佛、融通念佛などの群集念佛の擧動を聯想して、そのやうな名前が生れて來たのである。この聯想を持つた名前は、外にいくつもある。
「○○マンゾ」といふやうに、「マンゾ」「マンゾウ」といふ言葉のついてゐるものがあるが、この「マンゾ」は多くの坊主のことである。「マンゾウ」などの言葉の出たのは、遊民が跋扈して民間佛教が盛んになり、人々が群をなして念佛してゐた時代である。
ともかく、「カネタヽキ」「ネンブツ」などの言葉は、嘗つて中世に、百萬遍とか、大念佛供養とか、大勢集つて「南無阿彌陀佛」を唱へた時代に慣れてゐた者でなければ、付けられない名前である。
九州の中部、佐賀、熊本縣あたりでは「ゾーナメ」といふ言葉が行はれてゐるが、坊さんと關係があるらしく思はれる。
今日の人はメダカの擧動を注意して見てゐないが、昔の人は眼の飛び出てゐる事でも何でも、よく注意して見てゐたらしい。
舊三月から春へかけて、水が温んで來ると溯つて來るメダカの擧動に、昔の人がよく注意してゐたといふ事は、こ(291)れまで述べて來た澤山の名前から想像することが出來る。
かうして、萬人が聞いて合點の行くやうな名を附けた人が何人かあつたのである。然らば誰がそんな御苦勞な事をしたかと云へばそれは子供であらう。併し私は方言が生れるのには、も少し深いところに理由があらうと思つてゐる。
書紀の神武紀に、魚の占(ウラ)をした事が見えるが、これは魚の擧動によつて占をしたのである。
誰も云はぬ、氣もつかぬことだが、他の魚だと浮いたり沈んだりしない。尤もコヒなどはするが、メダカは特に浮き沈みが多い。昔神武帝が吉野の宮で、あめの壺を水中に入れて、それに寄つて來る魚の擧動によつてウヲウラをされたといふ事であるが、昔は田舍でも、微々たるメダカの擧動によつて、占をした事があつたのではないかと想像される。
「ウキス」「ウキンタ」などは、メダカが時々は浮く魚であると云ふことを記念してゐる名前であらう。
かういふ樣な物の見方をした方が適當であらう。
(292) デアルとデス
今でも少年はあまり好まないらしいが、ゴザル又はゴザリマスといふ言葉は、以前は大へんな人望があり、あれを使はぬと世の中は渡つて行けないやうであつた。大きくなる迄に是をよく覺えて、よその人には必ずさういふやうに、誰も皆教へられて居たのであつた。ところが近頃になつてから、此言葉を使はずともよい場合が次第に多くなつて來たかと思はれる。國語といふものは皆さんの知らぬうちに、いつの間にか少しづゝ變つて行くものだといふことに、心づかせたいと思つて私はこの話をする。
ゴザルとゴザリマスが、始めて日本の國語に入つて來たのは、決して古いことでは無い。土地によつて早い遲いはあるけれども、中央の大都會でも室町時代の半ば過ぎ、それから段々と全國に弘まつて、小島や山の中の引込んだ村々では、やつとこの頃おぼえたばかりといふものも珍らしくはない。まづざつと四百年以來の變牝といふことができる。
どうして又此樣な變つた言葉が、新たに國内に流行して來たかといふことは、誰だつて尋ねて見たくなるであらう。その問ひに手輕に答へるには、まづ是は何の代りに用ゐられたか。ゴザル、ゴザリマスの始まる前には、何といふ言葉が使はれて居たかを、考へて見るのが順序であらう。いつから有つたかはまだはつきりしないが、以前の日本語では同じやうな場合に、オハス又はオハシマスといふ動詞を使つて居た。言葉を文字に書き現はす場合に、男は假名をきらひ、漢字ばかりを使ふのが普通であつた故に、このオハス、オハシマスに對しても、御座といふ二つの漢字を當(293)てることが、久しい間の習慣となつて居たのである。最初は多分二三の若い人などが、この字のもとの音を半ば戯れに呼んで見たのが始まりで、後には誰も彼も、これを一つの新らしい日本言葉と思ふやうになつたものらしい。サボタージュといふ語を知れば、やがてサボルといふ動詞をこしらへ、又はヤジンマからヤジルが出來たやうに、日本人は昔から斯ういふことをするのが上手であつた。オハス、オハシマスは柔かな音のきれいな言葉であるが、あまり永い間くり返して毎度使ふので、實はすこしばかり珍らしくなくなり、何か新らしい代りのものがほしくなつて居たのである。
年を取つた人がそんな戯れのやうな言葉を厭ひ、若い元氣な者だけが面白がつて使ふといふ時代が、きつと一度は有つたにきまつて居るが、僅かの月日が過ぎると、その若い者がやがて老人になり、ゴザルはをかしいといふ者は何處にも無く、是が當り前だと思ふ人は益々多く、其上に是は教育のある人々の間に始まつた習慣であつた爲に、良い言葉だらうと思つて眞似をする者が、次々と數を加へて來たのである。
ゴザルとオハス、オハシマスと、本當はどちらが良い言葉だつたのか。もつと後の世にならぬと決定することができない。誰でも知つて居るやうに、濁音といふものは、日本にはよほど前からあつたのだけれども、昔の人たちはできるだけそれを使ふまいとして居た。歌でも物語でも又毎日の言葉でも、「にごり」が少なけれは少ないほど、靜かに安らかに聽えるものと思つて居た。その代りには何か際立つて力強く、聽く人の心を動かさうとする折には、わざと濁りのある語音をまじへた方がよいといふことも、もう大分早くから心づいて居たやうである。オハスをゴザルなどゝいふ荒い言葉に取替へたのも、さういふ隱れた目的が無かつたとは言へない。ともかくも物の名や處の名のやうに、稀にしか入用でない言葉とはちがつて、是は一日に何べんでも、使はない者は無いといふ用言〔二字右○〕なのだから、數にしたらどの位、今までにくり返されて居たか知れない。意味を解しない外國人が來て聽いたら、いやにG《ゴ》やZ《ザ》の音の多い國語だなと思ふであらうし、もしも又四百年よりも前の日本人が、假に還つて來ることがあるとすれば、まちが(294)つて他の國へ入つてしまつたかと思ふかも知れない。さういふ空想はどうだつてよいが、歌や物語のやうな音を大事にする文學には、何としてもかういふ言葉を取入れることがむつかしく、それと毎日の話言葉との隔たりが、この爲に前よりも一層遠くなつたことは有難くなかつた。
○
一方にはゴザル、ゴザリマスといふ言葉にも、四百年の間には色々の變化が起つた。その中でもわかりやすい二つの大きな變り方だけを述べるならば、第一には言葉の意味が段々と廣くなつて來たことである。御座といふ漢字からでも知れる様に、もとは敬ふ人の身近くに現はれることだけが、オハス又はゴザルであつたのが、頻りに用ゐて居るうちに段々と外へ延びて、そこで聽いたり見たりすることまでが、其中に含まれるやうになり、後には「うれしうござる」「私でござる」などゝ、こちらから言ふことにまでくつ附けるので、どうしてゴザルであるかゞ愈々説明しにくくなつた。
第二の大きな變遷は、この始めの心持ちが確かで無く、たゞ上品な好い言葉とばかりで、眞似をしようとした人が多くなつた爲に、中には心安い仲間や友だち、又は全く知らぬ者にまで、此言葉を使ひ出して、次第に言ひ方がぞんざいになつてしまつた。さういふうちにもゴザルは堅過ぎるといつて、早くから嫌はれて、老人の專用語のやうになつた。ゴザリマスの方もあまり力が入るので、特別の場合のためにしまつて置き、ふだんは多くゴザイマスを使ふのが、近頃までの風であつた。しかしあまりたび/\になると、是だけでも荷になり時間がかゝり、殊に早口で用を足さうとする場合には、ちつとでも短く切詰めたくなるものと見えて、汽車の中などで注意して居ると、それは/\色々の言ひ方が、入りまじつて行はれで居る。丁寧に又ゆつくりと、サヨウデゴザリマスルなどゝ言つて居るのは、古風な人といふことがすぐにわかる。さうかと思ふとこちらの片隅には、ソウデゴザイヤス、ソウデゴス、又はソデガ(295)ンスなどと言つて、話をして居る人も幾らもあつて、是は變つて居るなと思つて聽くけれども、元はどれも皆同じだといふことを、知らぬ者は一人も無い。たゞ近頃の少年青年は、だん/\とさうは言はなくなり、其代りにソウデスといふ者が、多くなつて來たやうである。
しかし女の子だけは今でもまだ、デスよりデゴザイマスの方が好い言葉らしいと思つて居る。家によつては女がデスといふのをきらひ、大きくなるにつれて、自分でもゴザイマスと言ひかへる人が多く、東京ではこの頃ゴザーマスといふ者までができて來た。それも何だか眞似がしにくゝ、デスと言ふのも男見たいでをかしいとなると、そんなら今からはどうすればよいか。是は皆さんの實際問題であつて、知らずにいつ迄も棄てゝ置くわけには行かない。この間題の答へは二つしか無くて、それをきめるのも御自分たちなのだが、たゞ其前に少しばかり、考へて見なければならぬことが有るだけである。
デスといふ言葉が日本に始まつたのは非常に新らしく、これが流行し出したのは、二十世紀からと言つても誤りでない。江戸時代の終り頃には一度、
いやです、やーです、おらやです
といふ至つて下品な歌謠が流行して、酒を飲む男たちが少しづゝ其口眞似をした。之を聽くと不幸な教育の無い小娘の言葉を思ひ出すやうで、心ある人はみな眉をひそめて居た。さういふ記憶がやゝ薄れた頃に、それを全く知らずに地方から來た人などが、新たにあの近頃のデスをはやらせたのである。其原因は是非とも考へて見なければならない。人によつては或は「おらやです」の俗曲よりもずつと前から、デスが日本にもあつた證據が有るといふかも知れぬが、それはよく比べて見ないからで、「狂言記」などによく出て來るデエスは、是から後に言はうとするデアルのたぐひであり、現在のデスは少なくとも敬語であつた。古いのが其まゝ傳はつて居たのではない。本を是から氣をつけて讀めば、こんなことはすぐにわかる。
(296) ○
ゴザル、ゴザリマスも新らしい言葉、最初からのものでないことはデスも同じだが、それでも四百年の間には色々な經驗を積み、世の中の入用に合ふやうに改良をして居る。たとへばゴザルはあまり頑固すぎると思へばゴザリマス、女は柔らかにゴザイマス、又ゴザンスといふ樣にもなつた。何しろ日によつては百ぺん以上も使ふことがあるのだから、心安い人には力を節約して、早く短くいふやうな風習が認められ、同時に又丁寧に物を言はねばならぬ相手の爲に、一とう良いのをしまつて置くことにもなつたのだが、つい口癖になつてふだんのを、出してしまふ人も多かつた。試みにみんなの知つて居るのを算へて見てはどうか。土地にもよることだがそれは澤山の種類がもう出來て居る。男の方ではゴザースからゴザス、ゴアンスがガンス、ガスとなり、頭にデを附ける物の言ひ方が盛んになると、デゲスといふのが都會では、さも氣が利いたやうに聞えたり、又農村の一部では、デヤンス、デヤスといふのが普通になつたりして、愈々今日のデスが現はれても、少しもをかしいとは思はれなくなつたので、この變遷の筋路を尋ねて行けば、デスがデゴザリマスの略式の一つであることは、誰にでもわかるはずである。
○
どうして敬語がこの樣に粗末になり、又弘くどこにでも使はれるやうになつたかといふことは、皆さんが是から社會科で、ぜひとも教へてもらはねばならぬ我邦の歴史の一つなのだが、それを簡單に話して置かぬと、こゝの説明があたまに入らない。昔の日本人は久しい間、同じ一つの土地に住んで居て、なかまの一人々々を實によく知つて居た。この人とあの人とに敬語を使へば、あとは普通でよいといふことがよく判つて居た。ところが追々と交通が開けて、外からもこちらからも、今まで知合ひで無い人が來たり往つたりする。どういふ人か丸でわからぬ他人には、始めは(297)惡い言葉を用ゐた時代もあつたやうだが、それではいけないといふことが早く心づかれて、まづ一旦は敬語の方を使つて置くことにした。他人行儀ともよそゆき言葉とも謂つたのが是である。段々親しくなつて來て後に言葉を改めると言ひ渡して敬語を止め、對等又はその以下の言葉になる必要も?々あつたが、なほ其以外にいつ迄も、互ひに敬語で話し合はうといふ交際が、段々と多くなつて來た。それが今日の都會の言葉の起りである。都會に集つて來る人々の互ひの關係はさま/”\であつて、たつた一種の敬語でまにあふわけが無い。其爲に敬語は色々とかはり、又その中の最も安つぽいものが、一ばん多く覺えられるやうにもなつたのである。出來ることならばさういふ色々の種類をやめて、なるべく平語を多く使ふやうにした方がよいと思ふが、それも是から世の中に出て、働く人たちの心次第である。年をとつた者は、たゞ皆さんの參考になることを、言つて置くだけしか方法が無い。
○
人がかういふ風に方々の土地から、集まつて來て一處に住むやうになると、國語は少しづゝ變らずに居られない。子どもの時からの友だち仲間ならば、たつた一言葉でわかる事でも、もつと詳しく後先を添へて言はなければ、用がたせないやうな氣が常にする。その爲に人の話はどうしても長たらしくなり、相手もまた之に對して、何か言つて見たくなる時間ができる。さうすれば言葉の數が急に多く、かつ早口にもなつて行くので、それにははつきりと耳に留まる言葉、なるべく聽く人の心を動かすやうな言ひ方を、まねてでもして見ようといふ者が、出て來るのも止むを得ない。話がうまいとか、口が達者だとかいふのも、つまりは國語の働きが進んだことであつて、ゴザルからデゲスやデスへの變化なども、そのたゞ一つの例に過ぎない。
日本語に濁音の盛んになつたのは、多分この原因からであらう。是から物を覺えようといふ皆さんに、最も必要の多い疑問代名詞といふものが、全部は皆變つて來た。タレがダレとなり、イヅレがドレとなり、イヅコがドコとなり、(298)イヅチがドッチとなつたやうに、始めはイを載せて隱して置いたものを、わざとむき出しに出したばかりで無く、何の關係も無くたゞ近くに在つたトモカクモといふ言葉までを、ドウモカウモと變へてしまつて、後にはこれを仲間に加へ、イカガ、イカニをドウといふやうにした。古い國語を知らない外國人だつたら、何と日本人はダ行の(Dの)音のすきな國民だらうと言ふかもしれない。
○
デスやデゲスやデゴザリマスのデなんかも、古い國語の中には捜しても見つからず、やはりこの濁りの流行と共に、出て來たものにはちがび無いが、是は何處のドコなどのやうに、今まで有つた言葉を言ひ改めたものでは無いらしい。もとは斯ういふデは無くても困らなかつた。昔の人たちは同じ場合に、「なり」といふ言葉を皆使ひ、其「なり」には敬語は無かつた。どんな目上の人に向つても、一樣にすべて「なり」と言つて居た。ところがオハスやオハシマス、それをゴザル、ゴザリマスに改良した頃から、是等は元來場所をさす動詞だつたから、何かを言ふのには必ず上に「にて」を附けなければならぬ。其「にて」がちやうどドコやドッチのやうに、このデに變つてしまつた。しかも際限も無くゴザル敬語の利用を廣めた爲に、つひに今日のやうに、デばかりがうるさく耳に附く日本語はでき上つたのである。
デアル、デアリマスが我邦の文章や演説に附きまとひ、何としても拔け切れない實?が、最も手短かにこの變遷の歴史を説明する。口語體などゝ人は言ふけれども、今でも言葉にデアルといふ者は無く、デアリマスといふ者も多くはない。さういふ言ひ方の有ることは知つて居ても、使ふ場合がもとは至つて少なかつたのである。是も狂言記などを捜して見ると、或大名が、自分に對してデゴザルといふ人々、即ち家の者やたゞの人に物を言ふ時に限つて、デアル、デアラウを使つて居る。從つて又ひどくいばつたやうに聽え、御互ひの間では使ふわけに行かなかつたのである。(299)實際はたゞデゴザルの敬語を用ゐぬといふだけで、別に傲慢な言葉でも無く、現に又是をヂャとかダとかいふ形にかへて、親しい對等の語にして居る土地は多く、或は山口縣の一部のやうに、其まゝでも平語に使ふといふ處が稀にはあるが、ともかくも一旦デゴザルの敬語が廣まつてから後に、それには及ばぬといふ者だけで、輕い言ひ方を考へ出したといふことは皆同じで、此點は今流行のデスとも似て居る。別に古くから「にてある」といふやうな、妙な言葉があつたわけではないらしい。
○
殊にデアリマス、デアリマセンに至つては、軍隊が之をこしらへたと云つてもよいほどに、新らしい流行のやうに思はれる。東京がまだ江戸と呼ばれて居た頃に、デアリマスといふ語を時々使ふ者が、少しばかりそこには住んで居たが、普通の人はあまり眞似をしなかつた。多分はゴザイマスの濁音が重苦しく、女ではデゲスともデエスとも言へないので、誰ともなく斯ういふ物言ひが考へ出されたのであらう。新らしくともどんな人が使ひ始めようとも、安らかな快い言葉ならば流行した方がよい。しかしどう思つても今日のやうな、デの亂發は氣もちがよくない。折角ゴザイマスをアリマスに取替へて見ても、そのために却つて上に附いたデの音が、よけいに耳ざはりに聽えるやうになつて來た。さうして何故にアルやアリマスにもデを附けるのかゞ、いよ/\説明しにくくもなつたのである〔四字傍点〕。
このノデアル又はノデアリマスといふ文句なども、考へて見るとやはりデの音の耳ざはりを少しでもやはらげる爲に、近頃になつて斯んなに流行して來たものと思はれる。もとは多分女の人、子どもなどの話の中で、言葉を略するときに用ゐたものらしいが、後には誰でも使ひ、又文章や演説にも盛んに出て來て、今では是が日本語の最も普通の形になつた。さうして實際に、いくらかその目的を達して居るやうでもある。
ところがさうなると又一方には、わざとこのデの音に力を入れ、そこで句を切り調子を揚げて、聽く人の注意を引(300)かうとする者が現はれて來る。以前は年とつた男の人だけに、さういふ癖があつたが、此頃はかはいゝ少女少年までが、デハさようならなどゝ言ふやうになつた。つまりデといふ言葉の用法が、今ちやうど二つに別れて行かうとして居るのである。
○
誰でもさう言ふから、又は是が今日の當り前の言葉だから、自分も其通りに言ふより他は無いと思つて居るうちに、國語はいつの間にかこの樣に變つて行くのである。是からも多分どし/\と變つて來ることであらう。改まらずに居ないものとすれば、成るたけうつくしく、又都合のよい樣に、改まつて行くことを願ふのが自然の情であらう。ところが何か新らしい言葉のはやつて來る場合に、それを最初に眞似する人たちには、あまりさういふことを考へない者が多いので、國語はだん/\と惡くなつて行くばかりではないかと、心配する人も有るやうだが、この一時の流行言葉と、國語の結局の變り方とは、關係はあつても別なものであつたといふことが、氣をつけて居ると少しづゝわかつて來る。
たとへばノデス、ノデアリマスの連發に、世間が少し飽きて來た樣子が見えると、わざとノを拔いて思ふデス、見るデス、行くデスといふ言葉をはやらせようとする者が現はれる。それを面白がりをかしがつて、眞似をする者も少しはあるが、他の多くの人はそれに附いて行かず、たゞ成るほどノデスを言ひ過ぎて居た。みんなはどうして居るかと氣を付けて見たり、何か別ないひ方はないかと考へて見たりする。しかし一方には又簡單な便利な言葉で、今までのデゲスやデゴザリマスともちがひ、又文章のデアル、デアリマスでは、傳へることの出來ない別な一つの心持又は態度を、言ひ現はすのにちやうどよいといふことに、新たに心付いた人も多からうと思ふ。百年前までは殆と聽くことのできなかつた言葉だけれども、デスは是からまだ暫らくの間、日本の普通の語として續くかもしれない。女の人(301)たちもノデスを少なくして、折々はノ拔きのデスを使ふやうになるかもしれない。
○
ラヂオといふ便利なものが普及してから、斯ういふ國語の變つて行く姿を、至つて簡單に注意して居ることができる。殊に街頭録音は町と田舍との普通の言葉を、調べて見ようとする者には有難い機會であつた。數を取り表を作ることもごく手輕に試みられる。私などの氣がついたことは、このデスが、もう又少しづゝ變化しかけて居る。第一に語音が短く又輕くなつて、デゲスのデや「デはさようなら」のデのやうに、強くどぎつく耳に響かなくなつたものが多い。第二には是は文句の句切りにもつて來る代りに、どこでも勝手次第に、たゞの息繼ぎに入れる人ができて來た。もとは「それがデス」などゝ、飛んでもないところで句を切る者があつたが、近頃はデスネをもつと早口に、挾む人がむやみに多くなつた。デスネのネも元は婦人用で、こゝで相手の聽いてくれて居るかどうかを、たしかめようとする目的をもつて居たが、今度は更にノデスと同樣に、デの音のきつさ〔三字傍点〕を柔らげる役をもするらしく、男たちが盛んにそれを利用するやうにもなつた。數を算へて居ると一分間に、七つも八つもデスネを使ひ、しかも其挿みどころが出たらめである。是はむだであり又をかしくもあるから、遠からず改良せられるにきまつて居る。さうすると此次はどう變つて行くだらうか。つまりはたゞ人の跡ばかり追つて行かず、時々は批判し選擇し、又自分でも考へて見るやうな人が、集まつて我々の國語を、もつと良いものにするだらう。少なくとも私はさう信じて居る。
追書
東京書籍ノ作ツタ教科書ニハ(昭和二十六七年頃ノ)誰カヾキットコノ心持ヲモツト上手ニ説明シテヰテ、ソノ本モ本社ダケニハ殘ツテヰル、今讀ンデ見ルト、自分ニモ是ダケデハ十分デナイ感ジガスル、モウ一ペン長サニ構ハズ書イテ見タイ
(302) コノ文章ヲヨク讀ンデクレタ人ハ、國語史ノコノ方面ノ研究ガ將來モツト延ブベキコトヲ信ズルコトヽ思ハレル、コノマヽデ棄テヽシマフ氣ハナイ、幸ヒニコノ原稿ガ殘ツテヰルカラ誰カニ頼ンデモツト補充シテモラハウ
コレハ國語教科書ノタメニ書イタモノ、今讀ンデ見ルト少シク言ヒ足ラヌ所ガアル、永ク世中ニ殘スニハ誰カヾコノ私ノ心持ヲ汲ンデ、モツト靜カニオチツイテモツトワカリヤスク書イテ見ナケレバナラヌ、 柳
昭和三十五年五月記
(303) 今までの日本語
一
今まで久しい間私は門外漢だから遠慮して言ひたいことも言はずにゐたが、この長い間教育當局が心づかずに時を過ごしてきたのが實に意外千萬だと思ふやうな問題がいよ/\現はれてきた。
どこの國でも過去を溯れば多くは文語と口語といふものゝ二つの差別を持つてゐない國はないが、その中でも一番不幸な?態に永く留まつてゐたのがわが日本であると私は考へてゐる。これは悔んでも取り返しのつかない過去に原因があるのだから、それを知るといふことそれ自身より以上に改良には役立たないやうであるが、今のやうにどうにかなるだらうといふ心持で今日の情勢を見送つてゐたのでは、單に子供が表現や理解の力を發達させ得ないのみならず、すぐにその結果が政治の表面に現はれて、今よりも更に一段と深刻なる弊害を現出させるかも知れない。それを思ふと小さい子供のために國語を教へるといふことがかなり一國を左右する大きな力になつてゐたことを考へずにはをられない。私等自身もその弊害の原因の一人ではあるが、日本ほど文語の言葉と口語のそれとの間の差別が甚だしい國はちよつと他にはない。さもなければ文語を使ふ階級若しくは場合が限られてゐて、他の總べては悉く口語で賄つてゐるといふ國ならまた問題はないのだが、不幸にして現在の情勢は半々とまではいかないが、一と二ぐらゐな割合で文語力がまだ成長しつゝある。つまり口眞似とか片言とかいふものを含めた文語利用者が一國の中の力強い部分(304)を占めてゐるのである。
國語の教育には先づ片言から考へていかなければならないとは、二十年も前に、私が教育當局に對し言葉を強くして説いたものであつたが、それからこのかた時勢を見てゐると惡くなりつゝある場合の方が却つて多くて、どちらかといふと改良した痕跡は見えない。
言文一致といふ言葉はをかしな語であつたが、これが發明せられ主張せられてからもう六十年以上になつてゐる。それにも拘はらず文章語の方が一世を風靡する?態になつて、しかも混亂を生じてゐるのは、考へてみると國語それ自身の改良がちつとも考へられなかつたばかりでなく、むしろ惡くなるに委せてをつたことが一つの原因ではないかと思ふ。しかし猶いろ/\複雜なる社會原因もあつて、調査しようと思へばその方法もあるだらうが、それは今のところ私の目的とするところではないので問題にはしない。
それよりも先づ反省すべきは、わが國が普通の人の能力には不相應なくらゐ難しい文字表現の仕方を採用した時に、少數の者が多數の無關心な者のため代つて親切に助けてやりさへすればよいといふ考へから始まつたことである。いはゆる依らしむべし知らしむべからずといふ一つの格言が明白に、具體的に國語の上に現はれてゐたのである。そんな?態に放置してをられない時勢が、百年以上も以前から始まつてゐながら、なほそれを改良することはできずに、多數の中の優秀なる者が自分だけその弊害を免れるがために、文字階級の方へ入つて行つて他の文字の外にゐる者を馬鹿にするとか、初めのやうに親切でなく取扱ふといふ?態になつたのが今日の世の中であるから、これは何としてでも、もう一度普通教育の任に當る人々に深く心を潜めて考へて貰はなければならない問題である。
二
この頃になつて私もはつきりと氣がついたのであるが、日本に新らしい表記の方式を持ち入れた者は朝鮮人であつ(305)た。彼等は漢人と稱してゐるが、多くの漢人の子孫といふ者は事實は朝鮮に長く歸化した人間で、その人間が兩國の交通が盛んになつた機會を利用してどし/\と日本に渡來し、その特徴を以て、それまで備はつてゐなかつた日本の表記方法を支配してしまつたのである。現在も、恰度朝鮮から我々は澤山の報復を受けてゐる?態であるが、これと似たやうな形勢が文化の方面において日本ではかなり強く、深く經驗してゐることは新撰姓氏録などの古い書物を繙いただけでも我々には感じられる。勿論その當時の人々は皆が善意であつて、例へば外國から入つて日本にヒロポンを賣り込まうとするやうな惡意に滿ちた自由行動はとらなかつたのであるが、しかしとにかく日本が公けの文書若しくは記録文の上に言葉を記録する方法を實行してをりながら、なほかつ日本自身の文字を持たなかつたのである。現在おこなはれてゐるものすらもなほ漢字の餘弊をうけて、漢字から引き繼いだものだけをどうにか利用してゐるやうな?態なのだから、いはば餘りに早く文化の便宜を利用するがために、日本が自國における表記法を眞劍に考へずに濟ませたのである。これが簡單な、例へばアルファベットのやうな系統の文字なら全國に浸潤して行つても悔む必要はさらにないが、凡そ世界のうちでも最も覺えにくゝ、しかも誤まり易い漢字を日本人が使つて、この複雜なるわが國の文化諸相を描き出さうとしたのであるから、全部の人間にその恩惠の行き亙ることを望むことは極めて困難なことであつた。そして何時の時代にも三十分の一、五十分の一といふやうな少ない人々が、この武器を利用して一方を支配することになつてゐたのである。
この?態は次第に解きほぐされてきた。例へば平安時代に入ると、女は新たに作られた假名を利用して假名文の女文章を書くやうになつたが、しかも男はそれをすることをむしろ避けて漢字だけを竝べて作らなければならないといふ?態が最近まで續いた。この頃でこそ假名交りの文章を男も書くが、それでも間違ひだらけにせよ男は少なくとも漢字だけを竝列する手紙を書くべきものとなつてきてゐた。
しかしそんな?態は鎖國の時代には永く續かず、日本語は中國人に見せてもわからないといつたやうな自己流の漢(306)文の排列をしてゐるが、そんな自己流の排列でも國内でできるのはいはゆる文字ある人であつて、文字は讀むことが既に困難である故に、それを理解しまたそれによつて表現するといふことになると、特殊の技能を要した。つまり時間的に餘裕のある者が更に練習を重ねてさういふ地位に行かなければならなかつたのである。我々の極々手近かに知つてゐる江戸時代の中期以前の?態においては、文字を書くことを知らないといふことは別に恥ではなかつた。文字を書くことはむしろ職人の事業で、口語は發達してゐるから口語を筆記する方に委せてをつた。
それでも諸侯のもとには祐筆があり、村々の名主の下には算用師・文字方・書方などと呼ばれるものがゐて使役せられてゐたので弊害はなかつたのである。そして一般人はむしろ文字は親しむことを避けてゐた。寺子屋が出來てもそこでは或る限られた文字の崩し方、書き方を覺えるだけで、それ以外のことは知らなくとも別に差支へなかつたのである。
この文字利用方法の制限は人間が發逢してくるとかなり大きな苦しみだつたので、しだいに武士の中からその規則を破るものがでてきた。彼等は特に文字に用があるわけではないが、古書を讀むために若しくは自分の思つたことを書き殘すために、いはゆる四角な字と稱する文字を讀むことを覺えはじめ、その數もしだいに増えてきた。これは非常に新らしい現象で、以前の普通の日本人には豫期せられてゐなかつた。
かうして武士は修養のために四角な文字を讀みはじめたのであるが、後には文字によつていろ/\新らしい自分の心持を表現する者ができて世の中はしだいに多事になつてきた。
殊に目立つた現象は、日本の國運が改まるべき前驅として、今からほゞ百五十年位前からそろ/\と農民の間に優れた者だけは、文字を驅使して自分の意見を書く、若しくは個人の書物を讀むとかすることができてきて、指導階級といふものになつてしまつたことである。
その階級はもと/\非常に親切で、いはば仲間のためにさういふ學問をするといふ志の人ばかりであつたので、弊(307)害は今日のやうに生じなかつた。だから一般の者は何も知らないでもそれと一緒に生活することができたのである。
それが一方國學の發連と相俟つて日本の國内に學問といふものがはじめて普及し、新時代――今となつては舊時代になつたが――を造りあげた非常に樂しい過去を持つてゐるのであるが、明治の社會はこの點から考へてみると不幸であつた。
暇だから學問をするとか、若しくは周圍の人はその力を持たないからかはつて自分が勉強してやるといつた人間が次第に少なくなつた。そして士族も平等に普通人と同じ立場に立つて競爭しなければならなくなつたので、明治の初年には人物の拂底が生じた。そのため方々の役所で、四角な文字で以て文字の書ける若しくは若干讀んだことのある人々ばかりが非常に入用になつた。あの時代の人物採用といふものは今日の就職の困難なのとは恰度正反對で、少しでも文字を知つてゐる者は選ばれて用ゐられたのである。そのためにそれらの人々の間には非常な段階があつて、實は根本から學者である者と、單に目に四百個の文字を知つてゐる者との間の差別すらつけ難かつた。誰でも彼でも先づ以て四角な字を讀める、四書五經などの難しいものが意味はわからないが暗記して讀めるとか、若しくは形だけは讀めるといふ者がでてきて、先づ以てさういふ者が社會の上層に出て行き、いはゆる文語萬能の世の中が出現したのである。
また當時は新聞や雜誌にいろ/\新らしい論説が發表され、飜譯書などもしだいに出版されるやうになつたが、筆者若しくは飜譯者は讀者の理解などには少しも親切な心を持たず、たゞ書きさへすればよいといふやうな氣持の人間が非常に多くなつて世はます/\混亂するに至つた。私などは幸ひに生き殘つてその昔のことをかすかに語り得るが、僅かばかり文字を知つてゐる者くらゐ始末の惡いものはなかつたのである。
それから恰度二十年ほど後になつて英語を少しばかり知つてゐる者が非常に威張つた時期があるが、他の無識な者の從順にそれについて歩く姿は實に見るに忍びなかつた。
(308) かうして世の中には何時となく指導階級のやうなものができたが、その人問の地位は非常に輝かしかつたのである。
初めて日本が立憲政體を樹立しようとした時に、外國の學者はそのやうに複雜な言語關係を知らないから、たゞ普通教育を普及させさへすれば國のレベルは上るだらうといふ親切な忠告を、金科玉條のやうに思つてはじめたのが今日までの教育であつた。
國語教育が入用かどうか、さらにはその方法が當を得てゐるかどうかの吟味よりは先づ以て文字の數を若干知つて、それを誤まらずに書けるか若しくは讀める?態になることを先決の條件にしたのである。そのために優秀な者はどちらかといふと力を無駄な表現に用ゐ、少なくとも自分は社會人として上層の指導階級に屬し得るといふことを示すために不必要な本もたくさん讀み、また不必要な表現も幾度かおこなふやうになつた。
その?態は決して選擧政體の政治の條件にはなり得ないのであるが、そんな事とは無關係にたゞ文字が書けさへすれば、すなはち言語の教育は備はつたものゝやうな心持でゐて、それで安心してゐた時代がつい最近まで續いたのである。聞き方、話し方はどうするんだといふことを我々が言つた時にも怪訝な顔をする教育者がずゐぶん多かつた。
三
ところが幸か不幸か、外國人が來て日本の教育實情を細かく見るに及んではじめて多くの者が、我々がこれまで日本語でないものに一旦譯してそれで以て喋つたり書いたりしてゐることに氣がついたのである。
幸ひ日本人は非常に聽明な素質を具へてゐるために、例へば法律とか、權利といふ字は何遍も使つてゐるうちに日本語にしてしまつてそのまゝ日本語として使ふ能力を持つてゐたので、漢字から採用した日本語が増えたから大して問題もないが、この表現を使ふのは名士ぐらゐなもので、他の一般の者はそれから新規には採用してゐないのである。
日本の漢字の讀み方は一種獨特なものがあつて、單に漢文を中國の音で讀み下すのではなくて、それに返點をして(309)順序を換へて日本語にするのであるが、その日本語の訓讀法は何時でも時代の言語よりは遲れてゐた。
初め或る時代には足利幕府の專門家がつくつた讀み方を採用してゐたが、それでは時代に合はないところから坊さんや、新らしい漢學者が干渉して何遍も訓點法を變へて、なるべく實際に引き寄せようとはしたが、餘り效を奏しなかつた。訓點のまゝ讀んだら耳で聞いてちつとも文字を知らない者にはよくわからないのである。それを平氣でそのやうな言葉を理解する仲間が少しばかりあるからといつて安心して、お互ひの間で肯き合つてゐたのが今日までの國語の進歩であつた。
そのうちから氣の早い者だけは少しづゝその言語を採用して、他の者が知らないことをむしろ奇貨として使ひ、如何にも自分が優れた人間であるやうに裝つたのであるが、そんな人の數は知れたものであり、それがまた同時に片言とか誤解とかをたくさんに作つた原因になつてゐるのである。その實例を笑話のやうにして私は幾つか話したのであるが、その弊害は今日なほ根強く殘つてゐる。我々がよく田舍を講演などして歩いてゐて經驗したことであるが、餘りに日常の會話と近い言葉で以て話しをすると、三四十年前までの田舍の人は「あの人は私をよほど物のわからない人間だと思ふと見えて普通の言葉で話しをする」と思ひ、むしろやゝ不快を感じたのである。
その傾向がつい近頃まで殘つてゐて、文章の不可解な難しい言ひ方をしてゐる書物は、何か深淵な理論を説いてゐるやうな心持がして若い者は喜び、逆に餘り平板な普通の言葉で物を言ふとたわいがないとか、若しくは俗物だと言つてみたりする。地方によつては今でも演説は難かしい言葉で聞くのを樂しみにしてゐるくらゐである。
つまり學問も政治も社交も、凡そ公けの問題は皆普通人にわからない言葉を使ふといふことを目標にしてゐるとまではいはないが、少なくともさういふ傾向は確かにあつた。
所が幸ひにして極々少數の低能兒を除く國民の多數の者は、三度五度聞くといふ習慣によつて、ほゞ何を言つてゐるのだといふ言葉の意味が子供と同じやうに漠然とわかるものだから、自分の經驗に基づいてその意味を外側から解(310)釋し、明白にはわからないながらも質問したり聞き返ししたりすることに、失禮なやうな若しくは餘りに痴鈍なやうな心持を持つてきた。
だから我々が見てゐるうちにも田舍の言葉には不可解な漢字が多くなり、ローマ字や假名に書いても殆と意味がわからないものがあつた。しば/\お互ひ同士の話を聞いてゐると、どんな字を書くのかと聞いたり、疊の上に書いて見せたりするやうなをかしな情景が現はれたのは、言葉の質ないし意味をほんたうに理解してゐない者の態度であつた。
しかしそれでも五六十年ぐらゐ前まで、まだ餘り固い言葉を好んで使ふと人から嫌はれる傾向は殘つてゐた。殊に女の人が漢學書生の使ふやうな言葉を除り口眞似するとそれだけでも非常に排斥せられたものである。すなはち日常の會話では初めからお互ひに知つてゐる言葉で用を足さうといふ約束が破れずに殘つてゐた。
ところが書物がやたらに出版せられた結果、大正の終り若しくは昭和の初めごろから女の人の言葉に目に見えて漢語が入つてきた。その漢語がいはゆる文章語なのである。私はこの傾向は必らずしも歎くべきことではないと思つてゐた。とにかく語彙が増えて表現の樣式が豐かになり、どんなことでも女の人が遠慮なくいへるやうになつたのだから實は内心喜んでゐたのである。
しかしその中には誤りも多かつた。別に言葉の意味を明確に認識して使ふのではなしに、他人の口眞似をして使ふのだから陳腐な用ゐ方も平氣でおこなひ、擧げ足を取らうと狙つてゐる者にはいくらでもその材料を提供したのである。要するに平素餘り聞き慣れない固苦しい言葉で他人と應接することが上流社會の一つの趣味みたいになつてしまつたのである。
これだけのうちにもいゝ加減弊害はあつた。だから私は若し本當に言文一致を實行しようとする志のある人が團結するならば、單に語尾を……である、……であります……にするなどゝいふ問題ではなく、一つ/\の單語になるべ(311)く平素使つてゐる言葉を入れ、若し聞き慣れない言葉を使ふ場合には、直ぐその用ゐ方がわかるやうに、豫め約束を設けておかなければならないといふことをしきりに主張したのであつた。
戰後自由などゝいふ言葉が盛んに使はれてゐるが、この言葉にせよその範圍も沿革も明確に認識されてゐないから、實際の生活には濫用もされ誤解もされつゝあるのだらうと思ふ。
私は何もわかりませんから一切はあなたにお委せしますと言つてゐたいはゆる制限選擧の時分ならばそれでも通つてゐたが、普通選擧がおこなはれるやうになつてこの弊害は忽ち現はれてきた。つまり普通選擧をおこなはうとするならば、先づそれに對する言葉の準備をしなければならないのに、それがしてなかつたことが新たに暴露する結果になつたのである。
第一最近の傾向では長い説明の演説はしないし、たま/\するにしても強い語氣のある言葉を僅か拾つて、人の感情を動かすことばかりを考へ、理念に訴へよう、判斷力に俟たうとする心持が非常に減つてゐる。また聞く側でもどうせ皆が同じやうなことを言ふのだから聞いても仕方がないといふ氣持をもち、どういふわけでこの二人が片方に折合はないで競爭してゐるのかその理由を進んで知らうともしない。
それだけならまだそこに胡魔化しの方法もあるが、「あなたがたも御承知の通り」とか「もう繰り返すまでもないことであるが」などといはれると、ふつとその氣になつて「我々は知つてゐる筈だから今さら彼等にくど/\しく説明させる必要はない」といふ氣持――これは或いは日本人の特性かも知れないが――を持つのである。そのやうな惡い癖が禍ひして演説は如何にも酒の後の大きな劇語のやうな形になり、理論を説いて自分の政治的立場若しくは政策を明らかにしようといふ方向に向いてゐない。これで選擧が自然におこなはれるならば奇蹟といふ外はない。從つて裏面の工作が行なはれ、どうしても動きのとれないやうな環を作つて人々を無條件に引きつけ若しぐは反對するのは馬鹿らしいから、大勢について行かうとするいはば一種の群集心理を利用しようとする。
(312) かういふ場合に、村若しくは一字の小さな群で選擧を正しくするために考へてみようではないかと反省させる方法は實は今備つてゐないのである。これは要するに二つの對立する國語、すなはち文語と口語の間にお互ひの行き通ひがなくて、口語は文語の支配を甘んじて受けてゐるからである。
四
何時か折があつたら委しくお話ししたいと思ひながら空しく時が經つてしまつたが、日本の多くの學者が今まで氣がつかずにゐたと思ふのは、學問といふものゝ起りが言葉と一緒にかなり古く支那から入つてきて、もとは今我々が使つてゐるやうに學ぶ、問ふと書いて學問といつてゐたのが、中世に永い間學文と書いてゐた時代のあつたことである。
すなはち文字を習ひさへすれば學問だと思つたのと、今一つは學といふ字を何時の間にか日本語でまなぶといふ言葉にしてしまつたことである。
學ぶといふことはまねるといふ言葉と同じで、人の口移しにすることなのだから、文といふ字を書いて同時に人のする通りをするといふことを書いたのでは、我々の意味する學問でないことはわかつてゐるのであるが、永い間さういふ時代が過ぎて、折角東洋に特に發達した問ひから始める學問が衰へてしまつた。
だから字を習ふことがそれによつて偉くなる、偉くならないに拘はらず一つのアカムプリシメントであつたので、それさへすれば一つ上の階級になるやうに考へたのは、日本にとつて非常に不幸なことであつた。
それでも丸つきり知らないと不自由なものだから既に足利時代の末頃から寺入りと稱して、名家の若い子弟は寺に入つていはゆる文字を眞似したのである。そしてそれを或る程度まで知りさへすれば世間からも立てられ、その人の意見も通つたのであるが、後々はそれだけでは義理が惡いとなつて、いろ/\のものをたゞ讀みさへすればよいとい(313)ふいはゆる素讀の風がおこつた。よく讀書百遍義自ら通ずなどといふことを言ふが、實は嘘で幾百遍讀まうとも、内容を考へずに書物の價値がわかるわけのものではないのである。
かうして日本の國語教育においては素讀教育と習字教育が主流となり、非常にかたよつたものとなつた。國語の教育によつて言葉がほんたうに正しく使はれるやうになつたことは、昔といへども非常に少なかつたのである。
しかしそれでは世渡りができない、人間としての歩む道が不確かなことが心づかれて、後には修行といふものが別に行なはれるやうになつた。女の例で申すとシオフミなどといつて、必要もないのに或る立派な家庭へわざと雇人に入つて見習奉公をし、人間たるの道を學ぶことに努めたのであるが、これといはゆる學問との間には何の連絡もなかつた。そのために殊に田舍の人は一生學問といふものに縁がなくて、やゝ引目を感じつゝ人に珍糞漢糞を説かれるのを暗記するやうな妙な癖をつけて今日まで來てゐたのである。これが初等教育の中心であることは誤りなることを認めない限りは、いくら初等教育が普及してもその實績はあがらない。
明治以來この弊風を打破しようと一部的の運動は度々繰り返されたが、それと書物を離れた人間の言葉遣ひ、若しくは言葉で考へる練習といふものとの間の因縁は大へん薄くなつてゐて、同じく國語教育といつてもよその國々に比べると、我が國のそれはよほど癖のある片よつたものであつた。
西洋でも或る時代、殊に我々が物を覺えてから後までも、ヨーロッパの舊國などでは、古典を學ぶことが完全なる教育の必須の條件になつてゐて、ラテン語は必らず教へ、さらにはギリシャ語まで習得させるといふ風の教育が行なはれてゐた。これははじめ教育は寺院でおこなはれた結果であらうが、幸ひなことに前世紀の終り頃からさういふものを必要としない普通學校が出來て、その過程においては毎日の言葉さへ正しくおこなはれるやうに教育することが主たる目標とせられ、書物を讀むことはそれ以上の修養として、卒業後の修行に委せられてゐたのである。
日本では維新後しばらくの間、人間が自由競爭をする時にほかに標準がないものだから、文字を知つてゐればそれ(314)がすなはち特徴のやうに見え、またそれをひけらかす人間も澤山ゐたので、文字の使ひ方が實に無茶になり、益々ひどくなつていつた。少しわけのわからないことを言ひさへすれば人から畏敬せられるやうな不愉快な風潮になつたのである。
手習ひの方は關係ないが、それでも文字をきれいに、誤まらずに書くことが一つの教養となつてゐるものだから、讀書と手習ひ及び作文の訓練によつて學問のあることを實證するのに窮々としてゐた時代があつたのである。
そのやうな馬鹿げたことは解きほぐされ、そんなに難かしいことを言はないでも成立つといふ風に、人間として生きていかれるやうにはなつたのであるが、その間に日本語を惡くする新たな原因となつたのが翻譯である。
外國の書物にどんなことが書いてあるか、早く知りたいと思ふのは人情であるから、それを教へるのは當り前のことであるが、初等教育に外圖語を入れることは出來ないものだから、少し知識慾の深いものは飜譯書について外國人の曰くを見ようとした。一つ/\檢査する人も今日はもうないが、明治の初年における外國の書物の選擇及びそれを飜譯する時の言葉は實に無茶であつた。全部が嘘であつたならば排斥されるのでそれほどではないが、在り得べき言葉で奇妙な新語をたくさん拵へた。初めはそれでも支那の飜譯を參考にしたからまだよかつたが、その供給源が絶えてしまふと、國内において二つの漢字を結びつけて新規に言葉を拵へる風が盛んになつた。本も無茶ならば使ひ方も無理なものが非常に澤山出來て、しかもその知識の有無がそのまゝ教育の有無を意味するやうな時代があつた。飜譯の書物が多くなつたことは大へん手柄のやうに見えるが、實は誤譯といふ以上に、日本の文法にも漢字の用ゐ方にも合はないをかしな日本語を澤山に使つてきてゐたのである。
これが恥じがましくて、我々は時代を共にして生活することが嫌なものだから、かなり強烈にそのやうな傾向とは戰つてきたが、弊風はなほやまずに根強くはびこつてゐる。
明治以後になつて新たに出來た漢字の中には、文字ある少數階級の專横によつて、強ひて國民の間に行なはれたと(315)いつてもよい言葉がある。それだけでも我々は不當と考へてゐるのに、更にそれが日本語の發育力を止める結果となつたのである。
この位世の中が進み、これだけ人間の感覺が鋭敏になれば言語が豐富に出來て、表現方式が幾つも新たに生まれるべき時代であるのに拘はらず、一方においてそのやうな惡習が干與するために停滯の?態を脱することができないでゐる。甚だしきに至つては、例へば眷々とか滾々などのやうに強い意味の語を二字づつ意味もなしに竝べて、それで言葉の語勢が強くなるとか、印象が深くなるとか言つた。その印象なるものは、實は國民全體の遠慮深さ若しくはこきおとしに負け易い弱點を暴露したものであつた。
世の中が今のやうに普通選擧に改められたならば、それを契機にして日常の口語がそのまゝに議場にでも公けのプラットホームにでももう少し役立つやうにしなければならなかつたのに、哀れなることにはその間に日本語が非常に零落した。名詞は物があればその呼び名がないと不便なものだから次々に出來ていくが、動詞・形容詞・副詞などの用言は明治以來なくなる一方である。そして新たに作られたものは字を見てもわからず、耳で聞いても理解できぬやうな言葉であるから、なか/\民間の日常語には入つて來ないのである。かういふ?態で國語教育を續けていつたならば日本の教育者の努力は恐らくよその國にも倍しながら、效果は半ばにも達しないことになる。
若し本當に國語を一國の現代の生活に適應させようとするならば、第一に言語を豐富にしなければならぬし、また思はず知らず腹の中から出てくる言葉をもう少し蓄積しなければならない。聞いてわかるといふだけならば、たゞ子供が賢しくなるばかりでほんたうをいふと役に立たない。言葉は肺腑より出づといふが、腹の中から自然に出てくるやうな思想用語と名づくべきものがその儘よそに傳はつて行くやうにしなければならない。
これはどこの國でもなか/\容易なことではないが、だからといつて放置しておくわけにはいかない。日常の生活において日本人同士はお互ひに自分の腹の中がすぐ言語にかはり、若しくは人の言葉が耳に入るや否やすぐ心のうち(316)に描かれるやうにならなくては、自ら小賢しい者だけが表面に立つやうになり、多くの人間は自分が劣等だといふことを意識して何でもよろしく頼みますといふ風に、人の判断に委せるやうになって行くのである。これは普通選擧を行なふべき人間の最も不利な?態といはなければならない。時は既に遅いが、これを改良するためには、我々が過去においてこの位愚かな道を歩いてゐたといふことを各人が先づ意識しなければならないのである。
殘念ながら今日に至るまでなほ口語と文語との間にかなりの差があって、殊に口語は公けの場に用ゐられないがために、多くの弱點や弊害を作つてゐる。話し言葉の終りにつけるネの字の濫發などはその一例で、實にうるさくて仕様がない?態である。ネといふのは元來相手の目を見ることを意味するのだから、念を押すために用ゐられるべき筈のものが、片端から休み言葉としてポイントの代りに惡用されるやうになつたのである。
言葉をもう少し豊富にして如何なる場合にもそれに相應する色づけや匂ひのある表現に出來るやうにしてやらなければ、他人の表現を理解することや、若しくは書物に書いてあることを理解するのを以て主要なる目的にしてゐたのでは他の國ならいざ知らず、日本のやうな千年の久しきにわたって外國語の壓迫に苦しんでゐる人間にとつては實に重荷である。だから各人が表向きは對等の人間といふことになってゐても、その間には差等ができて、僅かなボスの金錢や宣傳の力に動かされて投票するやうになるのである。これから先も恐らくはまだ値打ちのない人間を投票していゝ氣になってゐる者がいくらも出來てくるだらうと思ふ。そして表向きの選擧費は法律で決められてゐるのに、それに三倍五倍することが常識になり、その金を任期中に取り戻すことを一つの目的とするやうな政治家を、例へ五人でも三人でも世の中に残しておくやうでは日本の國は永久によくならない。國をほんたうに明るくしようといふ熱烈な心持があるならば、これまでの弱點の一つが表現の無茶なことにあつたことに思ひを致し、國語教育の根本方針をあらためて者へなければならぬ。
(317) 五
教育の仕事に携はつてをられる方々のために考へるならば、我々が極々普通に使つてゐる理解といふ言葉をもう少し吟味する必要があるのではないかと思ふ。
いはゆる理解といふ言葉にはいくつかの階段があって、殊に日本のやうな國では永年の惰性が伴なつて、耳に入つたといふことがその儘わかつたといふ言葉で答へるやうな世の中になってゐるから、こちらの言葉が果して相手に對して最後の判断の材料になり得るやうな?態にまで行き屆いてゐるかどうか、もう一度確かめることを始めて戴きたいと思ふ。
尤も子供はよく肯くものだから、その方法はよほど愼重を期さなければならないが、よく観察すると子供といふものは當然のことを間違ふと必らずはねかへるやうに笑ふのに氣が付く。それををかしがらずに黙つてゐる間には「これでもいゝのか知らん」と思つたり、若しくは「これではいけないんだらう」と思つたりする間のとつおいつがかなり幅廣く殘つてゐるのではないかと思ふ。將來義務年限を終へて、世の中に出てから選擧をする人になるまでには、少なくともそのやうな際に本當に理解に基づいて擧動を起すことができるやうに教育してやらなければならないと思ふ。
どんな田舍でも男の子はまだいろ/\人に觸れる機會もあり、自分の意見もうつかり發表してしまふやうな活?な側面もあるが、日本の選擧人の半分を占める女の子に對してはよほど留意せねばならぬ。
とかく女の人の中には自分だけのためにしか考へない人が多く、また自分一個の考へをさも千古の眞理の如く人に説いて聞かせたり、或いは外國の新例を自分たちも追從して行かなければならない跡のやうに考へる人が少なくない。しかもそのやうな人たちが選擧に際しては大きな威力を示してゐる世の中では、特に小さいうちによほど個人の立場(318)を明らかにするやうな訓練を積んでやらなければならない。たゞ皆の言ふ通りに大勢に從ひさへすればよいといふやうな、いはゆるしとやかな、内輪な氣持を以て選擧場に臨ませて誤まつた選擧をさせることはほんたうに氣の毒な話である。
選擧が正しく行なはれさへすれば、我々のためにもよい政治を導いてくれたであらうのに、それが行なはれなかつたばかりに、到底政治を談ずるに足らないやうな動機から政治をやつてゐる人々に左右されてゐるのである。今は日本も恰度國を新らしくしなければならない時代であつて、正しいが上にも正しい人々に、自ら僞らざる判斷をしてもらはなければならないのに、運動によつて左右されるやうな選擧が永く行なはれてゐるやうでは、我々年をとつてゐる者は安んじて世を去ることはできない。
近頃の新らしい選擧公明運動は、井戸端會議の改良を説いてはゐるものの、やはりその間に一人の首領とそれに從ふ從順な聞手を豫期してゐると聞いてゐるが、これは最も困つたことである。人が結合する場合に判斷にはよらないで、單に威壓やその場の空氣によつて或る者の指導に從ふといふ井戸端會議がなほ續いて行なはれたならば、普通選擧にした値打ちは零といふ外はない。何時かは我々の考へてゐるやうな時代が來るであらうと思へばこそ、我々は苦心して人間を正しく判斷させる力を子供に養ふことを皆さんにお任せしたのである。無論他の面でも子供たちを人間らしくさせて行かなければならないが、さしあたり目の前に迫つてゐる選擧を正しく行なはせることを無視して國語教育を説くことはできないのである。
日本がこのことについて悲しい經驗を持つてゐない國であつたならば、恐らくは外國の方法にそのまゝ從つて行つてもよいかも知れぬが、我々は運命とも名付くべき難かしい過去を持つてゐるのである。心の正しい信頼すべき人に國の政治を委せて少しも弊害のなかつた時代から、弊害のある時代に移つたことに今目が覺めつゝあるが、それでもなほ公明な選擧が行なはれないやうではほんたうに仕樣がない。そしてその基づく所は國語の教育にあるとすると、(319)單に反省するといふだけに留まらずに、もう一度溯つて日本の言語の歴史が如何なる道を辿つて今日まで至つたか、どのやうな社會情勢の裡に育成せられて現在のやうな姿に變つたかといふことを皆さんに知つて戴きたいのである。
國語の學問はもう個人々々の立場まで考へてゐるやうに現在は進んでゐるが、それでももつと以前に制限しなければならなかつた文語が、暴威を逞ましくしてゐる國といふものは實に耐へ難いものである。占領軍の進駐によつて初めて、日本のこれまでの國語教育においては話し方、聞きとり方、若しくは考へ方がないがしろにされてゐたことを暴露するやうな國では實を言ふと駄目なのである。
言葉を文章に書き、その文章を讀んで肯き合ふ人間は、數の上からいふと一部分に過ぎない。毎日家庭であれ、村内であれ、若しくは旅先であれ、人と人とが接觸して表現する場合に用ゐられるのは多くは口語なのである。その口語がほんとにをかしい位略語を使ひ、或いは長い間の惰性によつて普通の言葉になつてしまひ、何か改まつた物を言ふ場合にはお隣りの支那語に根底を持つた難かしい言葉を聞かされるとは全く情ない話である。これでよくも國が新らしくなつたといふ意識を皆さんが持つてをられると私らは不思議に思ふのであるが、それといふのも國語と社會との關係の歴史がまだ考へられてゐないからである。しかもそれが普通教育に携はる人々には一番入用なのである。
實を言ふと私自身も時間の餘裕があるならばもう少しこの問題について深く考へ、その局に當つてもやりたいと思つてゐたが、今となつては殘念ながらたゞ年寄の世迷言になつてしまつた。たゞこれだけは明言しておきたいと思ふ。すなはち國語をもう少し口語で表現し、口語で直ぐ受け取れるやうに改良しないならば、日本の國はもつと惡くなつて、しまひには國がなくなるであらうと私は考へてゐる。人間だけは死に絶える氣遣ひはないからユダヤ人の如く世界を漂泊することは出來るが、國はなくなるのである。さういふ時代を作るべき形勢が今や現はれてゐるのだから是非發舊して戴きたいと思ふ。これだけのことは暗記して歸れとか、或いは讀めれば國語は滿點だと言つてゐたのでは、優秀なる子供はそれで世の中に立つていけるだらうが、半分以上もあるかと思はれる極く普通の人間は、益々置きざ(320)りにされて行くのである。
現在の社會相を見てもほんとに僅かの人間が我が儘をするがために多くの者が歎いてゐるやうな?態なのである。しかももはや少數の得意になつてゐる者だけの力で國が改まるやうな時代ではない。こんな簡單な判斷をするだけの資料さへ持たないといふのは、要するに文語教育が人間の精神生活にまで入り込んで、口語がほんとに小さな哀れむべき?態に陷つてゐるからである。
現在の政治の弊害には人の氣付かない病氣がある。その病原を一番大きく支配してゐるものは考へと口との間の差、すなはち耳で聞いたことが直ぐ腹の中に入つて一つの事實の認識になることが出來なくて、口の中で一旦こなして自分たちの平素物を考へる言葉に直さなければならぬ情ない?態が永く續いてゐることである。こんな?態では能力の低い子供は愈々伸びなくなつてしまひ、何のために九年の長い教育を嫌だといふ者にまで強ひたのかわからなくなつてしまふ。その意味で普通教育に携はる皆さんは國語の改良者であり、同時に國語を完成する人々でなければならぬ。或いは不必要に高ぶつた物の言ひ方をしたかも知れぬが、正直に言ふと私は常にそんな風に考へてゐる。
(321) 話し方と讀み方
この實驗のねうちは、私たちから見ると可なり大きい。戰後の新たなる國語教育に於て、まだはつきりと決定せられて居ない一つの案件、即ち話し方教育の爲に別の時間、別の教科書を設けることが、果して必要無しと言へるかどうかの問題が、斯ういふ試みを重ねて行くうちに、段々ときまつて行くだらうからである。しかも實驗はどこまでも解決では無い。是でもどうぞ斯うぞ遣つて行けるといふ位で、もう安心して同じ道を歩むわけにはゆかない。むしろ改良の餘地が澤山に有ることを見つけてこそ、我々の希望はかゞやくのである。だから踏臺石になつた人たちには氣の毒だけれども、皆が寄つてたかつてその出來ばえを批判し、殊に效果の及ぶところを、推測することに骨折らねばならない。
この記録によつて、教師の苦心を見のがしてはならぬ點は、今まで永い間、つい片よりがちであつた生徒の指名を、成るたけ全級に洩れなく及ぼさうとしで居ること、といふよりも寧ろ出來ない兒を引立てる方に力を入れて居ることだと思ふ。讀み方は御承知の通り、正しいものが一つしかない。よく出來る一人にはつきりと上手に讀ませて、靜かに聽いて居るのも學ぶ方法になるかも知れない。之に反して話し方は、めい/\が内に在るものを出すのだから、ちがふべきは當然であり、もしお揃ひだつたらそれは空々しい口眞似であらう。私たちが話し方教育の強化を主張した根本の動機は、實はこの口眞似の國語教育があまりにも普遍し、その弊害は政治の深部にも及んで、敗戰の一つの原因となつて居ることを感じたからである。せめて是からの話し方だけは個々の生活に發し、劣等兒は劣等なりに、(322)各々自分一ぱいの表現をさせることを標的にしなければならない。是にも今までの作文や學藝會行動のやうに、豫定の基準のやうなものがもしあつたとしたら、いくら指名してもそれは口眞似の強制に過ぎず、少しかはつたことを言ふ者は根絶し、ボスは永久に日本の名物となるかもしれない。思つたことを言はせる、感じたことを言はせる。是を出來ないまでも話し方教育の、常の方針と立てることを私は切望する。
全級の生徒が一齊に、楓の葉のやうな手を高く振はせて、ハイッハイッと謂つて居る情景は、私らが參觀しても感動の種である。先生にもそれがうれしいことは疑ひが無い。しかしよく見ると、中には自分には多分當てられぬと信じて、社交的に手を擧げて居る兒も多く、たま/\其名を指すとまごついてをかしなことを言ふ。それが煩はしさに、つい常連ともいふべきものを先生がこしらへてしまふ。さういふ連中の通有性は、可なり苦々しいものである。何度かの經驗によつて、どんなことが「よく出來ました」と言はれるかを知つて、大體に先生の豫定の通り、それもいつか先生の口から出たのと同じ言葉をくり返し、黙つてまはりで聽いて居る子まで、次第にさうより他は言つてならぬものと覺えこんでしまふのである。自由に口のきけるのは惡太郎ばかり、他は大抵は年に比べて、ませた〔三字傍点〕言葉をつかふやうになつたのは、或は先生に子供の語の知識が足らず、この記録にもあるやうな、普通とか内容とかいふ語を平氣でつかひ、少しせき込むと全然とか絶對にといふことまで、熱心にいつて聽かせるからではないかと思ふ。さうなつたら 愈々子どもは蓄音機である。
わかり切つたことを言ふやうだが、小學校は俳優の養成所でも無く、又文士の卵のぬくめ所でも無い。大きくなつてから何に生活するかもしれない人たちに、時と場合に應じて必要なる物言ひを、自由にさせるやうに育てるのが、殆と唯一の役目といつても過言ではない。巧みなさはやかな人の表現に接するたびに、少數のやゝ慧しい者が少しづつ之を借用に及び、その他の多勢はたゞ黙々として尻込ばかりするやうな有樣が、何の國語教育の成功であらうぞ。小學校が始めだつたとまでは無論言へないが、所謂はにかみ屋を養成したものは、とにかくにこの年來の國語教育で(323)あつた。こゝで改めてその心理を討究するすることは、少なくとも教育者の任務ではないかと思ふ。如何なる隅つこの小さな生活者でも、再建日本に取つては大切な選擧人である。義理や行掛りで縛られて居るのは別として、せめては言葉の上でなりとも、彼等の表現を自由にしてやりたい。その爲には或程度、讀みの教育は讓歩してもよいかと、實は私などは今考へて居るのである。
そこで最初に先づ自分が言ひたいことを言ふと、「この町」はちとばかり退屈な一課である。どこにも通用する代りに、新らしい題目がこの中には一つも無い。發見が小兒の歡びであり、單調が彼等の敵であることを考へると、時間の都合にもせよ斯んなものを、話し方の教材にしようとしたのは不幸であり、もしくはあまりにも輕々しくこの仕事を考へた結果とも見られる。先生の問に答へて、誰でもいふやうな平凡なことをいふのが、話し方の片端でしか無いことを思はねばならぬ。人の一生には特に重要な疑問の表白、もしくはまだ他の者が氣づかぬことを、自分が先に見つけた聽き取つたといふ傳達、いはゆる注意の喚起などは、この中からは生れさうにも無い。ましてや彼等が大きくなるまでのうちに、くり返し利用して居る感動の言葉や、是と反對に最も不得手な嗟歎の言葉の如きは、たゞ野放しに自然に伸び、又は立枯れになるに任せて居るとしか見られない。つまり親から大切な子供を隔離させて、今まで受けて居た感化の大部分を、この平凡なるものに引替へようとして居るので、是では表情の全く缺乏した、うつそりとした人間の多數を製作しようとする作業と見られても怒れない。
話し方の爲に別に教本を與へず、讀本をそれに利用しようとするつもりなら、もつと活き/\とした、兒童が思はず何かを言ひ出さずには居られぬやうな、新らしい話題を持込むことを努めなければならず、一方には又斯んなへたくそな利用をするやうでは、話し方の爲に又一つの教科書を作るのも、むだな事だといふことになりさうに思ふ。
土地々々の實際と合はぬやうな讀本を授けて、甚だしく不鮮明な想像畫を、胸にゑがかせることも不利益であらうが、それでもまだ兒童の好奇心を刺戟して、色々な疑問の彼等の方から現はれて來るのを促す方が、斯んな何でもな(324)いことをしちくどく、ひねくりまはすよりもまさつて居る。私たちの理想は容易には實現すまいが、讀本を話し方の教材にしようとするには、今ある教科書の分量を倍くらゐに増加して、其中から教師の都合のよいもの、さうして又兒童のおぼえたがるものを、拔き出して教へることにしたいと思ふ。いはゆる讀書力の養成にも、遙かにこの方が有效だと思ふ。久しい間の流行だつたが、所謂讀みの徹底はつく/”\と私はいやだつた。さうして今度の○○校の實驗にも、まだその臭味が少しばかり殘つて居る。
(325) 文章革新の道
ことしは一般の讀者にとつて、紅い活字で印刷してもよい大きな年なのだが、どうしてかその大變革がたゞひつそりと行はれ、躍りあがつても喜ぶべき人たちが、半分はまだ知らずにゐる。もどかしいといふ以上に、私には心配である。何でも改まつたやうな氣がする今日の日本で、昔ながらといふべきものは文章が第一であつた。文字や句の形はもちろん新しくなつてゐるが、わかる人だけにわかればよいといふ書き手の態度だけは、一千年前も同じであつた。わざ/\特別に修行をしなければ讀めても意味をつかむことが出來ず、誰か必ず仲に立つて、口で説明をしてくれなければ、受取つたことにはならぬといふ文章が、國内に充滿してゐた。それではいけないといふことが、今度といふ今度はいよ/\確定したのである。
一ばん理解する人の少かつたのは、法令その他の政府から出る文章であつた。しかもこれだけはわかるわからぬにかゝはらず知らぬとはいはせなかつた。普通教育のまだ一向に進まなかつた時代にも、政府の文章だけは途方もなくむつかしかつた。讀んでも何のことやら呑込めぬ者が、政府の中にさへ澤山にゐた。これではあんまりひどいといふことで、武家時代には文章を平易にして、耳で聽けば少くもわかるといふところまで持つて來たのだが、明治になつてからそれをもう一度、學者にならなければ讀みも書きもならぬやうな古風な書き方に戻して、精々それのわかるまでに國民の教育を進めようとしてゐたのである。大へんな難事業だつたからもちろん早速にはさういふ時節は來ない。それにもかゝはらず新聞や雜誌、他の多くの眞劍な文章は、大體これを目安にして、少しやさしく書いて置けばよか(326)らう位にきめこんで、むしろ幾分か氣のきいた新らしい物の言ひ方ばかりを心がけてゐたのである。
それといふのが讀者といふものゝ數が、もうこれだけでも相應に多いが、今は國民の一割五分か二割だけが、書を讀んで事理を解し得る人となつてをり、著者、發行者は滴足し、それがどの程度に他の部分を代表するかまでは考へなかつたのである。
ことに困つたことは讀書人への信頼と尊敬、これが時世が改まつても少しも衰へないので、往々にしてまがひ物の出て來ることである。日本はさういふ中でも昔から素讀といふものゝ流行した國であり、文字がすら/\と讀めさへすれば、中身もよくわかつてゐるのかと思ふ癖があり、誤解や知つたかぶりは平氣で通用し受賣の如きは當り前といふやうな素朴に過ぎたる統一が通例になつてゐた。中にはまじめな指導者もきつとあるのだが、それを見分ける能力が、讀んでもらふ者の方には無くなつてゐる。弘く誰でも讀ませるといふ必要の今日の如く痛切な時代は後にも先にもちよつと考へられない。それに對する方法が、今だけではまだ十分とはいはれぬのである。
たとへば世間の文章が、今の程度にしかやさしくならぬものなら、國民學校の讀書力を引下げるといふことは、却つて中間の溝を深くする心配がある。折角新かな使ひや制限漢字が押つけられても、その爲に新たに書物に取つく人が、多くなりさうには私には思はれぬのである。しかしともかくも今度は方針が定まり、文章をたつた二割足らずの教養ある人々の、專門にしておかぬといふ原則を立てゝ、法令公文が率先し、王仁、阿直岐以來の古いしきたりを覆したのである。これに對しては一方の讀む者の側でも、これからはこんな文章は私には解らぬと、平氣でいひ切るだけの力を具へなければならぬ。自分ばかりがわからぬといふのは恥しいなどゝ、いつまでも互ひにうなづき合つてゐる限りは、たとへ句切りだけをデアルにしたところで氣どつたひねくれたごまかし文章の引込んでしまふ見込はまア無いであらう。以前に漢字を男文字といひ、これを續けたものでないと文章とはいはれぬやうに、みんなが考へてゐたのは少數政治の世だからであつた。その弊害の持ち越したものが、われ/\の文章交通を妨げてゐるのは悲しいが、(327)實際はそれをよいことゝし、まためい/\の特權のやうに守つて居る者が、少からず我々の間にをり、漢字ばつかり制限したところで、いふことが漢語ならば、かなにして寫にすると却つてわかりにくい。耳で聽いてもよく意味の取れるものに、限定してしまふといふ方が急務である。さうでなければ今度はかなローマ字を使つて、また新たな外國語が幅をきかすだらう。陳紛漢はさらに今よりも輪をかけて、再び新手を以てわれ/\を煙にまかうとするだらう。それでは改革のかひがない。故にさういふ書き手の心を入れ替へさせるためには、讀書子の自主といふことが、どうしても一番大きな力なのである。
(328) 春來にけらし
一 新聞も平易な文章に
外は大嵐、岸うつ浪のしぶきは高く、人はまだ中腰で、始終あたりを見まはして居るといふやうな時代だが、それでも去年の今頃までと比べると、どこかに少し明るく、すこし温かい處が出來て來た感じがする。どうせ大したことで無いにきまつて居るが、それを事々しく言ひ立てて見ようとするのも、永くは待つて居れない者の心かもしれない。
第一にうれしいと思ふのは、新聞の文章がほんの僅かづゝとはいひながら、次第に平明になつて行かうとする傾きを見せて居ることである。社説のわかる人が日本人の中に、六パーセントとかいふことにきまつた今日、誰に讀ませようとして斯んな六つかしいことを言ふのかと、氣になるやうな名文がかつては多かつた。いはゆる有識層は四分五裂して、虚心に他人の説に耳を貸す者がほとんと無く、おまけに取止めもないゴシップをふれ流すことを、商賣のやうにして居る者の多い世の中に、あゝいふ連中だけを大切な讀者の如く、豫想して居たとすればいさゝか昔風に過ぎる。
數に於ては比べものにならぬほどの大きな群、從つて又決して粗末にはできない民衆の廣い階層が是から改めて新(329)聞の書くことに重きを置き、これに據つてめい/\の立場をきめて行かうとして居るのである。どうして又この人たちちにもすぐに響くやうな、耳の言葉を以て書かうとしなかつたか。理由は幾つかあらうが聽いて見ても始まらない。遲しといへどもこの改革の機運が、今漸く頭を出して來たやうに見えるのは、何よりも樂しい春の音づれである。
それからなほ一つ、人が新聞によつてもう少し色々なことを知りたいといふ念慮、是は新たに始まつたものではないのだが、ついこの頃になつて少しづゝ、それが承認せられて行くらしい兆候があるのはうれしい。私たち老人の記憶では、かつては各紙の記事件數といふものを比較して、多いの減つたのと騷いだ時代もあつたのだが、いはゆる國家多事の秋は、先づ書けない種を引込めてしまひ、次で用紙の制限が堂々たる言ひわけにもなつて、今頃そんなことを問題にする者は、ずぶの素人だけとなつて居た。その素人さんたちが、ぼつ/\と首をかしげる餘裕ができて來たのである。
もちろん何でもかでも、見出しの數さへ竝べばといふのは愚だらうが、歴史になるやうな大きな事件、うす/\斯うなると豫期したもの以外に知つたら驚き又考へるやうな變化が、この五年の間にはそちこちに起つて居たことが、ちやうど今わかつて來始めたのである。たまの四ページの日には大汗をかいて、雜誌見たいな一面をこしらへて居た新聞だつたら、人にまともに顔を見られるやうな、感じを抱かずには居られぬのも當り前であり、同時に又一方活氣に充ち溢れた報道陣の、愈々本領を發揮すべき時節ともなつたわけである。
二 日本人の附和雷同性
是まで深くも考へて見た人は無いらしいが、日本といふ國は地形地勢、また永い年代の行掛りから言つても、實は統一の容易でない國であつた。是を括り合せて一つの力とする爲には、極度の中央集權だけではまだ足らず、出來る(330)だけ人心を單純にして、たとへば對外硬とか富國強兵とかいふやうな最も解りやすい標語を作爲して、政治を指導して行くのが一策と考へられたものらしいが、そんなことをすれば爭奪が日に烈しく、陰謀は禍亂を激成して、結局は無謀な外戰に、萬一の轉囘を期するの他は無くなることは、今日となつては誰にでも推斷し得られる論理である。
その世間見ずな腹づもりが、今や悉くだめときまつて、さて是からさきはどんな方式を以て統一して行くか。五年やそこいらはまだ虚脱?態などゝ、氣樂なことを言つても過ぎられたが、もう愈々その代りになるものを確立しなければならぬ時節が迫つて來た。當面の財政や對外手段などは、いくら難澁であらうとも是に比べると末の末である。
個々の國民の判斷力が、幼稚といふ以上に微弱であつたことは、是から追々に體驗せずには居られぬと思ふが、いはゆる民主主義の政治にとつて、是ほど不幸なことはちよつと他には無い。原因はもちろん數多く、中には同情に堪へぬもの、又は責任の所在が段々わかつて來て、棄てゝ置けないといふ場合も色々あらうが、そんなのは大むね史論の部に屬する。
さし當つて先づ最初に、氣がつかぬと損をすることは日本人の雷同附和、まるで魚鳥の群かの如く、多數の向ふ所に隨從するのを、最安全の活路と信ずるやうな習性が、主として外間の知識の缺乏に基づくものだつたといふことである。
同じ東方の諸舊國の中でも、殊に我々は離れ島、山と山との間に小さくかたまつて、よくも惡くも世界を大げさに、怖れ憚かる癖が止まなかつた。たちのよくないゴシップの流行しやすい國であり、つまらぬ知つたか振りのもてはやされる社會であるばかりか、その僅かばかりの新知識をもと手にして、すぐに指導をしたがる連中が近年はたまらなく増加して居たのである。關所を取拂つて交通を平易にして、出來るだけ社會を擴大しようとした明治の新政は賢明だつた。
今やあの時代の諸原則は片端から覆没し、是たつた一つが殘つて居るといつてもよいのに、しかも政府が先に立つ(331)、郵便料や鐡道運賃を、ほゞ飛脚傳馬の以前の率にまで引き上げてくれた。是では平和なる知識の交流が止まつてしまふことは受合であらう。新聞が再び以前の報道機能を取戻したことを喜ばねばならぬ者は、すでに全國に充ち滿ちて居る。
三 外國人の日本論評
日本を論評した西洋人の文章が、近頃めつきり多くなり、又是からも流行するかと思ふが、それを片端から輕重の見さかひも無く、もてはやし受賣しようとすることは、必ずしもジャーナリズムの浮薄性とは私は見て居ない。今なら丁寧に讀み通す人も多いであらうし、その有る限りのものを竝べ比べて見ることによつて、始めて是はどつちの見方が正しいのかといふ疑ひも起り、少なからず我々の取捨選擇の力が、養はれる利益もあるからである。
それからなほ一つ、斯んなに澤山の外人批評を集めて見ても、この點はまだ一人も注意した人が無く、多分はまだ全く知らずに居るのだらうと思ふことが、次々に心づかれることも好い教育である。
身勝手な立場から説を立てるものは論外として、親身にこちらの爲に考へてくれる人たちでも、氣のつかぬ事實は何とも致し方が無く、それが又日本のやうな古い國、むやみに人情の入組んだ社會ではつい見落されて行く場合が多いのである。是まで外國の識者の爲に物を書かうとした先輩には、大よそ定まつた一つの型があつた。まづ第一にあちらの表現に通じ、西洋人の物の考へ方に馴れて居るといふことは、乃ち又私たちの多數と一緒になつて、心の生き方をする時間のそれだけ少なかつたことを意味する。さうして又斯ういふ人たちを出した群といふのが、非常によく働いてくれた群ではあるが、數に於てはよほど小さく、日本を今の姿にもつて來た人たちの大きな群とは、目立たぬながらも溝か低い垣根のやうなものを以て隔てられて居た。
(332) もちろん其樣な隔ての外からでも、見て居たことならば隱さうとせず、本にでも書いてあれば必ず讀んだであらうが、ともかくも彼等は全體の見本で無く、彼等のまだ傳へ得なかつた事實がいくらもあつた。誤解々々と二言めには歎いて居たけれども實はこちらにも正解があつたわけではない。それほどにも大切な多くの事實が、今も次々と發見せられようとして居るのである。
新らしい一つの經驗は、島の文化の變轉が根こそげであり、?々時間の制約を超えて、忽然と新たな世代に飛び入つてしまふといふことである。觀察と記録の重要性が確認せられると共に、いはゆる文化の型を比べようとする學説はまごつかざるを得ない。戰後の五年は長いとは言へぬが、もう其間にも變りはてた島々がある。血と言語を共にした民族でも、歩む途がちがへば行く先は當然にかはるだらう。
過去は單なる咏歎の目標に止まるとしても、未來こそは選擇である。是に安全なる判斷の資料を供するためには、新聞はなほ大いに活躍しなければならぬであらう。學者や政治家はすぐに指導したがるから油斷がならない。
(333) 思ひ言葉
國語教育は昔から讀み方と書き方の教育のみを重視してきて最も根本的なものを忘れてゐた。それは「思ひ言葉」の教育である。「話し方」といふのは、むしろその效果を意味する。すなはち自分の思ひまたは感ずることを、その通りに言葉で表現させる教育のことである。
先日國立國語研究所が奧州白河附近で、文字に關する調査をしたとき、主婦たちが一日に新聞とか葉書とか文字による言語生活を營む時間はなんと三分間あまりだつたといふ。特殊な職業の人でない限り、讀み書きの時間は生活の上では極めて少く、しかも一方すべての人達は、生きて行くために「考へ、聞き、話す」のにはるかに多くの時間を使ふのである。だから讀み書きの能力だけで國語教育を批判することは輕率である。
國語の本に使はれてゐる語句や漢字の教へた數だけで滿足してゐるのではなく、兒童は教へられた語句や漢字をおよそ何度ぐらゐで理解し自分の言葉として表現するか。しかも簡單な名詞の場合のほか、複雜に變化する動詞や形容詞についてもこの比較研究は國語教育の重要な一つの課題であらう。
今日六三制の義務教育を終へて上級學校へ進學する者の全國の平均比率は三割で、七割以上の人たちはこの九年間の教育だけで實社會に出るのだから、この短かい教育期間は「思ふことを思ふやうに表現出來る」國語教育だけで精いつぱいだと思ふ。
「言語に絶する」とか「いふにいはれぬ」とかわれ/\がよく使ふ言葉は、全く「思ふことを思ふやうにしやべる」教(334)育をしなかつた從來の國語教育の罪でもあり、それがつひに「言語に絶する」思ひの敗戦に導いたことを考へると「思ひ言葉」の國語教育における必要性が痛感されるのである。
(337) 和歌の未來といふことなど
一度は折が有つたら話し合つて見たいものと思ひながら、逢ふと互ひに慰めたり勞はつたりする言葉が先に立つて、議論にでもなりさうな問題には、入つて行くことが出來なかつた。一つには折口君の境涯が寂し過ぎ、きつい人ではあつたけれども、こゝを生き拔くためにはやはり力を貯へた方がよいと思つたからだが、それよりも更に大きな理由は、自分の方が後に殘り、出來もせぬ後始末に苦勞をせねばならぬことを、少しでも考へて居なかつた氣樂さである。
斯うなつては問題を次の代の、殊に折口さんの感化を受けた人々に、引繼ぐより他には策が無い。問題は幾つかあるが、中でも大きいのは我々の固有信仰、二千年以上も傳はるといふ神祇政策から、外部の力によつて出しぬけに切離されて、どうすればこのさき國の名折れにならぬやうに、時代と相應した進展を遂げられようか。折口氏のみは確かな一案をもつて居た形跡があるのだが、ついうつかりして私はそれを聽き、且つ批判して見る機會を捉へなかつた。しかも是から新規にそれを計畫して見るのだつたら、何としても間に合ひさうに無いのだが、其憂愁を談るべく、この雜誌は似つかはしい舞臺で無いから言はずに置く。
○
第二の問題も些しは是と關聯し、見やうによつては相當に重要である。和歌が將來どういふ風に改まつて傳はると、折口氏は見て居たか。又は國人が心を合せて尊重し愛護したならば、ほゞどの程度にまで遠い昔の世の機能を、持ち(338)續けることが出來ると考へて居られたか。私は特にそれを折口さんから聽いて置きたかつた。そんなことを言つたらどつと高笑ひをする者が、群衆の數ほども居ることは私もよく知つて居るが、今から三十年も前に短歌滅亡論を書き、又は和歌圓寂を説いて、それから又立戻つて、すぐれた歌の數々を世に留めた人ならば、迷ひもあり又悟りもあり、心の營みも世上とは必ず異なつて居たであらう。靜かに耳を傾けて其發明を身につけ得なかつたことが、何と考へても私には心殘りである。
古代感愛集が始めて世に出たときに、まだ製本も出來ない零册を贈られて、私は侘びしい空室の敗戰の空氣の中で、ごろんと寢轉んで獨りでそれを讀んで見た。さうして家の者にも知られずに、幾度か手巾を取替へて涙を拭うた。人を悲しませるやうな言葉が列ねてあるのでも無いのに、只その心の緒の伸びて行き方が、上代の人を見るやうに、自然で又安らかだつたのである。愈々斯ういふ風に新らしい世の歌は變るのか、又は變へて行かうとせられるのかと、ふと私も思つて見たのだつたが、あれから御當人も強ひて續けようとはせられず、世間は勿論附いて來なかつた。あれを一體どうしようといふ氣であつたのか、生前に尋ねて見る折々があつたにしても、或はたゞ微々として笑つて答へをしなかつたかもしれない。
○
折口君ほどの素質をもつて、あれだけの熱情を古文學の上に傾けたにしても、誰でも同じ境地に達し得るかどうかはまだ少し心もとない。といふわけはあの人は大きな旅行をして居る。私も出あるくのがもとは得意だつたが、身のまはりの事情が丸でちがひ、第一に本當の一人旅といふことが少なかつた。折口君の通つたのは海山のあひだ、三度の南方旅行はまだ同行者もあつたが、信州から遠江への早い頃の旅などは、聽いても身が縮むやうなつらい寂しい難行の連續であつた。壹岐の巡覽は私などへの約束もあつて、やゝ精細な記録を殘して居るが、東北方面の何度かの長(339)旅などは、そこをどう越えたのかも私は覺えて居ない。歌はすぐれたものが幾つとなく傳はつて居るが、それが生れて出るまでの心の置き所、何を考へつゝあるいて居たかといふまでは、日記があつたにしても恐らくは書き留められて居るまい。何度か讀んだことのある「ほうとする話」、是が四十年に亙る交遊の名殘かと思ふと、さういつまでも氣の強いことは言つて居られない。最初はもう少し歌の未來といふやうなことを、書いて見ようかとも思つたのだつたが、まあ今度はこの邊で切上げて置くことにした。
(340) 平瀬麥雨集小序
平瀬麥雨を識つたのは大正二年、「郷土研究」のまだ初めの頃であつた。麥雨の文章は平明にして親切、又珍らしくむだが少なかつた。逢つて話をするやうになつてから氣がついたことは、その話と文筆との隔たりがごく近く、さうして又可なり精確に、たくさんの土地の事實を記憶して居て、ちやうど我々の學問の世に出るのを、待つて居てくれた人のやうにも感じられた。地方の知友には惠まれて居る私であるが、今からふりかへつて算へて見ると、彼ほど?々逢ひ、又永い時間談り合つた人も他には無かつた。おかげで信州の近代文化が、何だか片端だけは教へられたやうな氣がして居る。
歌集の序文には向かない話だけれども、私は實は久しい間、この平瀬麥雨が歌人であることを知らずに居た。だい分後になつて折口さんなどから、彼が一つの流派の先進であると聽いて驚いたのだが、それでもまだまちがつたことを考へて居た。この頃はもう境涯が變つて、歌からは段々遠のかうとして居るのだらう位に獨りぎめをして居た。今度のこの歌集が十分な精選の末に、なほ是ほどの作品を世に傳へるといふことは、迂闊な自分に取つては二重の發見である。どうして又この樣なことが可能だつたらうか。この方がよつぽどびつくりさせる。
平瀬麥雨の散文の友人といふべき者は、私が決して稀なる例外ではない。殊に信州には彼の適切なる暗示を受けて、平民文化の探究に入込んだ人々が、今でも相應な數は殘つて居る。彼等が悉く私と同じ程度に、無知であつたらうとまでは言へないが、少なくとも歌の話を聽くために、さう多くの時を掛けて居ないことは想像し得られる。歌は千年(341)の昔から、執心の文學と日本では認められて居た。之に携はるほどの者は、行住坐臥さながらに歌になりきつて、周圍を感化することを斯道の本意として居た故に、代を異にすれば風體は次々と移り動き、世を同じくすれば移調は必ず統一しようとしたのである。獨り一箇の平瀬麥雨のみが、何の心有つて其表現を二三にし、かつて自ら得たものを守りつゞけて、たゞ内部の發育に委ねて居たのであらうか。是は問題であつて、私もまだはつきりとは釋くことが出來ない。たゞこの不審の空なものでないことを證する爲に、彼の文章の最も人を動かしたものを、この次には集めて世に遺して置きたいと念じて居る。
(343) イブセン雜感
私がイブセンを始めて讀んだのは、丁度彼の最後の作“When we dead awaken”が出てからまた數年の後であつたからして心持は其時から既に歴史上の人に對する樣ではあつたけれど、扨いよ/\永遠に此世を去つたと聞いては、何とも言へない寂寞の感がある。前にも一度死んだ噂のあつた人だから、電報だけでは無論あてにならぬ、併し既にもう製作の筆を收めてしまつた人であるから、此の際を機として、全班の批評をして見てもよからう。
イブセンの思想が近代の奔放なる思潮界の中でも特にユニックのものだとは、人がよく言つて居ますが、成程大陸の諸隣國には、此の人の感化を受けたといふ人が、幾何もあつても、私どもの比較して研究した僅かの見解では、類似の點は僅かに一部分であつて、假令小さい規模にでも、全く同じ方向を取つて居る人は見られぬやうに思ふ。併し思想の點は、私ども純日本人には、何うも會得の出來ないことだらけであるから作を讀んで居るからとて、批評の出來るものではあるまいから、其の點は多くいはぬつもりである。
それよりも私の非常に深く感じたことは、彼れのドラマチック・アートの側で、イブセンはその技術に於てもまた同じ樣にソリタリー・パーソネージである。此人の傳などを讀んで見ても、若い時から劇場との關係は可なり深かつたやうであるけれども、それは却て何故にあれ迄舊式を打破することが出來たかといふことの疑ひを人に起さしむる方であつて、その晩年の社會劇に表はされた非凡な手腕は、全く養つたといふよりも、持つて生れたものと思はれる。次で起つた若いドラマチストには、無論、彼をよく讀んで崇拜して居る人も多いであらうけれど、その與へた感化は(344)まだ極めて僅少であるやうに思はれる。
あの十數篇の社會劇、何れも劇しい生活の爭闘を極めて精細に描き出して居つて、平凡なる人間には心を動かさしむるといふよりも、寧ろ驚かしむるといふやうなことばかりであるのに、しかも其對話から場所から乃至は各人の身柄から、一として寫實の域を脱して空想で結構したやうなものはなく、何れも嘗て何處かで目撃し觀察したことのあるものであらうと信ぜられるほど自然な、ノルウェーの風土史は讀まない吾々外國人が考へても少しも奇事異聞とは感ぜられないやうな、尋常の茶の間や食卓の上の出來事であつて、しかも劇しい精神上の波瀾が微かにではなく、明白に、的確に發言せられて居る。殆と鬼神の巧と思ふ位である。
それでよく西洋のドラマに使つてあるアサイドなどゝいふものは一つもなければ又日本の芝居でよくある幕明に仕出しが二人も三人も出て來て「なんとうちの旦那のやうな」とか何とかいふやうな仕掛けがしてもなければまた時代物などによくあるやうに、獨白で芝居の概略を喋り出すといふやうな窮策もしてなければ、「此所何ヶ年相立申候」といふやうな古風な言ひ譯けもなく、ごく普通の話しの中に、自然々々に舞臺に表はれない筋が飲込めるやうになつて居る、その技巧といふものは、頗る著しいものがあるのに、どうしてイブセン後の劇作者等は、それを學ばうともしなかつたか、近世劇と言はるゝ有名な作品の中に、矢つ張り平氣で昔し風な「芝居の詐」を使つて居るのは、私かに自然派の爲に歎かはしいことゝ思つて居る。よく人にイブセンの感化を受けて居るといはれるズーデルマンの作などと比べて見ても、其相違はよく分ることである。イブセンとピネロとを竝べていふ人もあるけれども私しには何處が似て居るんだか、すこしも分らない。ピネロは殘らずは讀まないけれど、先づ傑作の中に加へてもいゝと思ふ The profligate 抔を讀んでも、思想の問題は別として、技巧の上でも、殆と足許にも及ばないと思つて居る。又イブセンとビヨルンソンとを人麻呂、赤人のやうにいふ人が西洋にもあるけれど、之も久しく疑つて居ることで、歴史ものゝ方では何うだか知らないけれど、世話物の方の、私の讀んだものでは、まだ一方はヅブ舊式を脱して居らぬやうに思(345)ふが之は何うであらうか。
イブセンのドラマが、無駄な人物を使はなかつたり、説明的の科白がなかつたりするために、少くとも二幕目ぐらゐまで入らなければ、全體の趣向が分らないといふやうな點から、惡くいふ人もあるけれど、之れは多くは同情を持たぬ人の評判らしいので、序幕とても、それ一つを離して見ても矢つ張り面白い芝居であつて、決して三番叟のやうな無意味なものではなく、全篇を讀み去つた後で、繰り返して讀んで見ると、一層の興味が出て來るやうに思ふ。又或批評家はイブセンの芝居は多くは後日譚的の書方で、肝心の芝居は過去の事實として人に想像させるやうに出來て居る、といふけれども、之れも考へやうであつて、斬つたり張つたりするばかりが今からの芝居の目的でもないとすれば、私どもの贔屓目からは、之も一つの眼の着け處即ち技巧の優れた點であらうと思つて居る。
今一つ當時の東京の芝居抔と違つて居ると思つて居るのは、イブセンの芝居では、大小の道具の注文が極めて少い。ロスメルスホルム抔は、五幕を通して同じ家の座敷と寢室と二間丈を舞臺にして居る。ボルクマン抔も矢張り同樣に、確か二階と下と二間きりの出來事で、從つて椅子もテーブルも前幕の通りである。明治の大向連に見せたら、可否はさておき、人を馬鹿にして居ると、怒るに違ひない。併しそれでも、筋に十分の變化と發展とが備はつて居るのであるから、間然する所はない筈だ。此他の社會劇でも、舞臺の結構は皆同じ趣意で、全體に屋外を舞臺にして居るものは少い。つまりイブセンの芝居は、見る芝居といふよりは、聞く芝居であると思ふのは、外部の樣子は物の音で聞かせたりすることが多くつて、色彩の變化などゝいふものは、極めて少いから、聾の賞めないのは當然で、外國で見て來た人が惡く言つたりなんかするのは、或は其見物した時に聾であつた爲めかもしれぬ。
併し一概にも、さういへないと思ふのは、海の女などは、舞臺がなか/\賑かで、入江に沿うた小さい町で、お醫者の家の庭に、夏の朝、高い竿の頭に國旗がひら/\と風に靡いて居るのが序幕で次の幕には小山の上の公園の散歩で、諸國一見の英米人などが、案内者に連れられて、ゾロ/\と歩いて居る。大切の幕も同じ家の後園ではあるけれ(346)ど、低い生垣があつて、其後には、海の水は見えずして、大きなアメリカの黒船が見えて居る夕方であつて、出帆間際の樂隊が聞える。やがて汽笛を吹く、正面では大團圓に近い、けはしい科白があると、向ふでは段々船が動いて行くといふ仕掛けで、見ても面白いと思ふ芝居もある。此海の女は特に優れた作であつて、Flying Dutchman の傳説に即いた樣な離れたやうな、床しい趣味のある、しかも新らしい思想をしたゝかに揮り囘した芝居です。靜かな方の芝居で私の面白いと思つたのは「小さいエイオルフ」と前に言つた「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」であつて、前者は美しい小供が靜かな入江の水の底に沈んで居るといふあはれな珍らしく昔風な寂寞といふものを標現《シムボライズ》したやうな事柄が、一方の劇しい近世的の感情と、對照して居る所が特に感が深い樣に思ひました。今一つの方も筋が中々面白い。特に曲中の人物が、それ/”\方面の違つた唯我的希望を立て貫かうとして、煩悶して居る中に、唯一人情の柔かな女があつて、其爲に不幸で、又其爲に死ぬまで心が清くつて居るといふ、イブセンには珍らしい、所謂女らしい女が描いてある。其點が特に身にしむ樣に思はれた。全體にイブセンのは、昔から人もいふ如く、研究の仕方が他の作家に違つて居る。言つて見ようならば、通例作者が女である場合は別として、男の作者なら、女を描く時には女といふ一種の生物として觀察して居ると思はれるのに、イブセンに於ては、人間といふ問題を説く時には、男と女との區別を少しも立てゝ居らぬやうに思はれる。此の爲に或はフェミニストの名稱を與へる人があるけれども、それが惡名なら冤罪である。惡名でなくとも當らぬ評である。近來は日本でも大分女權論の傳播に骨を折る女性が出來て來たやうであるけれども、所詮が賢母良妻主義を承認した上の議論であるからして、一向はや意氣地のないもので、男のイブセンの半分にも三分一にも及ばない。自分等には痛痒を感じないことであるから、格別勸めもしないけれど、一つ所謂有爲の女子が、イブセン劇を研究して見たら、結果は何んなものであらうか、何の位まで淺薄な賢母良妻主義教育家の鼻がヘコむであらうか、好奇心に耐へないのである。
併し自分は、イブセンが、「人形の家」のノラ、「棟梁ソルネス」のヒルダを以つて女性の發展の理想として居るので(347)あるといふ論即ち之を以て彼の婦人觀の發表であるといふやうに論ずる人の説にも無論服しはせぬ。私の考では、之れは單に女のポッシビリチーの一面を描いて見たに過ぎないのであつて、イブセンは決して劇の人物の口を借りて自分の説を述べさせるやうなケチな作者ではあるまい。これは男に就いても同じことで、何うも私には世に所謂イブセニズムなるものも、一二の劇に表はれた、やゝ眞面目らしい人物の議論を以つて直ちにイブセンの所信であると速斷したものではあるまいかと危んで居る。「社會の敵」のストックマン博士の如きは、イブセンが此劇を描いた動機を推想して、彼れ自身の思想を表はしたものゝやうに論ずる批評家もあるやうであるけれど、これも信じられない。といふものはあの劇に於ける主人公の言動の中にも、馬鹿げた、迂拙な、手簡《オークワード》な點がちら/\と表ほれて居るのを見ても、そんな目的劇ではないことはよく分る。眞實を固執するといふことが、生活の本旨であるといふやうな議論も極端まで行けば、馬鹿げたものであるといふことは、現に「雁」のグレーゲルに於て明白に表はして居るではないか。又「人形の家」のノラの自由の撰擇には同情を表することが出來るけれども、「海の女」のフルダの自由々々と叫ぶのは血の道的としか思へないではないか。「棟梁ソルネス」のヒルダの言動は多少極端の嫌ひはあつても、兎に角新時代の女の力といふものを描いたとも見られるけれども、之れが今一歩進めば、「ヘッダ・ガブレル」のヘッダの如きけしからぬ女となつて仕舞ふのではあるまいか。之を以つて見ても、劇の人物からイブセンの抱いて居つた社會道義觀を忖度せんとするのは、群盲評象の業であつて、若し世の所謂イブセニズムなるものが、此の範圍を出ぬのならば、參考とするに足らぬと思ふ。唯一篇の劇を讀み了つた後に、深く人をして感動せしむるやうなものゝあるのは、確かであるけれども、此の如くして傳へられたイブセンの思想は決して積極的のものではないので、吾々の感じ方の足らぬ爲かも知らぬけれども、矢張り吾人と同じやうに消極的な懷疑的のものではないか知らぬと思ふ。
それから最後に今一つ言ひたいことは、イブセンの歴史劇のことである。社會劇の評判に掩はれて、餘り人の之を説くものがないけれども、私は時代ものもまた他の同種類の人の作よりは優れて居ると思ふ。特に面白いのは、「?(348)キング」であつて、北方の舊時代の信仰が基督教に移つて行く、時代の人心の苦闘を描いた點に於ては、メレジュコフスキーの「諸神の最後」と南北相煥發するもので、前者は五十年の昔に出來た古物であるけれども、構想に於て更に新進の物に劣らぬのみならず、題目に於ては却つてプライオリチーを主張することが出來る。イブセンを研究する人は順序は何うでもよいが、歴史物も決して捨てゝ置く譯には行くまい。
(349) 讀書餘談
近頃は電車の行き歸りなどに「佛蘭西短篇傑作集」の中にある、ゴーチエーの短篇集を讀んで見たが中々面白い。此集の中にあるのは短篇四つで、初めの二つは紀行文樣の者であるが、「アリア・マルセラ」と云ふのは一寸妖怪談めいたもので、面白い節がある。一寸云つて見ても、空想で夜中にポンペイの町を見るとか、芝居の中でアリア・マルセラに會ふとか云つた樣な風で、想は支那の小説からでも取つて來たのではあるまいかと思はれる程、能く支那の思想に似てゐる。或は此時分、佛蘭西に支那の小説でも讀んでゐたものがあつて、其れに影響されたのではあるまいかと思ふ樣な節々がある。文章は如何にも色彩に富んだ絢爛な筆つきで、確かラフカディオ・ハーンさんなども賞めて居た樣に思つてゐる。フローベルなども單に自然主義の元祖の様に云はれてゐるが、フローベル、ゴーチエー何處か相似通つた點がある樣に思ふ。フローベルなどは中々のスタイリストで文章の音調などに餘程注意した樣である、彼の短篇に「ヘロディア」と云ふのがあるが、其結末の處に僧侶が自分の部下の者と殺害を企てて其首を代る/”\提げて行つたと云ふ處があるが、其處を佛蘭西語の Alternativement と云ふ副詞を用ゐてあるが、其語調が如何にも重々しい感じを起させ、代る/”\首を提げて行つた光景が眼前に髣髴として浮んで來る。
此の外に“Dead Leman”と云ふのがあるが、此れは馬琴の「新篇累物語」――確か斯う云ふのがあつたと思ふ――に似て居る。何でも此れは坊主になるのを止めるけれども聽き容れなんで漸《た》う/\坊主になつて、其女の死んでから女と話する、と云ふ樣な事があつて、其れから結末に其坊主がヴェニスへ遊びに行つてると兄坊主が來て鶴嘴で(350)墓を掘つて見せると、石棺の中から色こそ蒼ざめてはゐるが其の儘になつてゐるのが出て來た、唇には血がついて居る、兄坊主は此れを見ろと云つて、聖水をざぶ/\とふりかけると雪の樣に消えて了ふと云ふ處などあるが、如何にも支那の思想から取つた樣に思はれる。
話は變るが近頃讀んだ本に“Tourgéneff and his French Circle”と云ふのがある。此れはツルゲーネフが佛蘭西の文學者仲間に送つた書簡を露西亞のカミンスキイと云ふ人が輯集したもので、フローベル、ゾラ、マダム・コンマンビーユ、ジョージ・サン、などを初めとして、ルナン、ユーゴー、ゴーチエー、テーヌ、サントブーブ、マウパッサンなど、苟くも巴里の文學者に宛てた書簡は殆と集まつて居ると云つて善い。が、惜しい事には、ドーデーやゴンクール兄弟にやつたのは載つて居ない。此れと云ふのはツルゲーネフが晩年に誰かに宛てゝやつた書簡の中に、ドーデーやゴンクールの事を惡く云つてやつたとか云ふのが死後公けにされて、此れを見たドーデー等は非常に怒つて書簡集の集輯にも應じなかつたと云ふ事である。兎に角ツルゲーネフ愛讀者は必ず一讀すべき本であらう。
(351) 伊頭園茶話から
秋田縣立圖書館の所藏に、伊頭園茶話三十卷がある。自筆本であつてまだ複本の存否を知らぬ。著者は此藩の學者石井忠行、明治二十五年頃まで存生であつた人、此著は文久二年頃から始められた筆録である。名の如く眞の茶話で、單なる記憶又は耳聞に依る者の多いのを珍とする。自分は曾て只一時間ほど之を見たことがある。記事の二三をこゝに掲げて、機會をもつ人々の精讀を勸める。
○秋田では萬延の頃から、急に鯰が多くなつた。別に之を放した人のあることを聞かぬが、鯰が余り食ふ爲にタナゴ其他の雜魚が甚だ少なくなつた。
○鯉は文化の頃から段々多くなつた。享和の末年に之を放した者があると云ふ。其頃までは金魚なども甚だ稀であつた。
○湯煎コ利瀬戸盃、即ち陶器製の酒器も新らしい流行であつた。酒は今のやうな色の薄く味の辛い酒は、天保の凶作後に、始めて之を作るやうになつた。其以前の仙北酒といふのは、味醂のやうな甘い酒であつたが、後には只料理用ばかりに、之を用ゐるやうになつた。
○茶はもとは皆越後から來た。但し弘化頃までの瀬波茶と云ふのは、サイカシと、トリトマラズと、今一種何やらの木の芽とを合せて製したもので、眞の茶では無かつた。
○茶を飲むには鹽を用ゐた。栗の實のへたに杉箸の柄を附けて之を鹽の匙とし茶を進める時に添へて出した。
(352)○茶菓子にも慰斗蚫を出した。箸を添へてあつた。
○冬の出稼のことを「冬暮し」と謂つた。阿仁比内などのワカセ(若者)、米ぶたうと謂つて町々をあるいた。其他にも家によつては、米搗きをする居候といふ者が來て居た。
此序に心付いたのは、東北の百姓には身上が不如意になつて、家をたゝむ者が多かつたらしいことである。之を「竈を返す」といふ。即ち獨立權の抛棄である。生産も不完全な爲であらうが、勞力を提げて人の家に寄食することが、至つて普通のことであつた爲もある。それ程に勞力の需要は多く、生存の費用は低かつた。火焚き婆などゝいふ名稱は、少なくとも近世に於ては、中央部では聞かぬことであつた。
(353) 飜譯は比較
寫眞にとられる子ども、もしくは細めに窓をあけて、誰かに見られて居る下で、遊んで居る子どものやうな氣もちを、アナトオル・フランスを讀むたびに、いつも私などは、感ぜずには居られなかつた。作者はたしかに我々のそばへ來て立つて居る。さうして時々は當人よりももつと一生懸命に、所作の移り動きを追ひかけて居る。それで居て如何なるもののはずみにも、仲間には加はらうとしないのである。鏡に向つても見られないうしろ姿、もしくは鏡を忘れて居る瞬間の隈どりや色あひを、この人だけがぢつと見て寫し取つて居た。それを子供のやうにたゞうれしいとも思へないかは知らぬがともかくも今のやうな激情の生活の續く世の中では、たまには斯ういふ親切な傍觀者が近くに來て居るといふことを、想像するだけでも休息であり、又藥である。
草枕の非人情は、あまりに禅であつてよく解らなかつたが、やつぱりこの態度の文學がほしいといふことでは無かつたかと思ふ。どうして日本では同化文學、惡くいへば捲込まれ文學が斯う盛んであるかには、餘儀無い理由が幾つもあらうが、一つには文章の技藝が繪や彫刻ほどに、重んぜられて居ない結果とも見られる。アナトオル・フランスの文章の自由さと安らかさを、何人よりも深く敬慕して居られる現代第一級の讀書家たちが、心を揃へて是を日本の國語に結び付けて見ようとせられる努力には、自分は大いなる期待をかけずには居られない。假に日本の文章の不可能な點を、明かにしたゞけでも、なほ有益な參考にはなる。それを跳り越えて我々は進まなければならぬからである。あらゆる文物が比較を必要とするやうに、文章道に於ても之を試みなければならぬ時節が到來した。寧ろ兩國の言語(354)に精通した讀者こそ、この難事業を支持しなければならぬと思ふ。
(355) 「少年の悲み」などのこと
國木田獨歩の舊知の一人として、今でも人に説かずに居られないのは、彼の作品によつて與へられた異常なる新鮮感である。もはや文學史となつてしまふと、精密な比較も行はれまいが、私たちの記憶する限り、過去はもちろんのこと、同じ時代ですらもなほ何年か後まで、あゝいふ咏歎味をもつた簡潔の短篇を書いた人は出て來なかつたやうに思ふ。乃ち誰の感化でも指導でも無く、ちやうど名の如く獨歩の文學だつたのである。彼は一面に記者性ともいふべきものを備へ、實に敏活にあらゆる當時の作品を讀破して居たにも拘らず、既に流行の兆を見せて居た身の上話式私小説に追隨しないのみか、むしろ實踐を以て之を輕蔑する態度をさへ示したのは痛快と言つてよい。たゞ強ひて想像を馳せるならば、二葉亭の譯出したトゥルゲニェフの獵夫日記の二篇、「あひびき」と「めぐりあひ」とを、非常に感歎して何度か我々にも談つたことがあるから、或はあゝいふものからの刺戟はあつたかも知れない。しかもあれと是とは話題も全く異なり、第一に寫し出さうとした國土山川が丸で別である。彼の詩情を托した西日本の島や入江、其間に歎き悲しんで居た幾つかの小さな人生は、この作品を透してのみ永く我々の心に活きて居る。
(356) 二階と青空
めつたに電車にも乘つて見ないが、乘るたんびにあゝ變つたと氣がつくのは、第一には人の口もと、開けるものかといつたやうな顔つきをしたのが、段々と少なくなつて行くことである。何か非常に、にがいものでもなめたか、又はたつた今喧嘩をして來た歸りがけかと、以前なれば、想像して見るところだが、今度は實際にさうなのだから尋ねる必要もなく、しかも十人が十人、言ひ合せたやうに、みんな御揃ひのへの字口だつたので、私なんかはたゞ物すごくて、好きな旅行にも出て見る氣にならずに居た。それが漸う此頃になつて、少しにこ/\した顔を見るやうになつたので、お手本を見せてくれた小さな子供や娘たちに、少しは先づ御禮を言ふべきところであらう。
何事もやがて昔になるにきまつて居るが、斯ういふわびしい情けない心持ちまでを、覺えて居て語り傳へようといふ人は、多からうとも思へない。歴史が冷酷な情味の無い、又どうにでも解釋し得られるやうな知識に、なつてしまふ下ごしらへを、ちやうど今、我々がして居るやうなものだ。活きた元氣な人達の人生觀察が、もう少し親切な私の無いものにならなければ、是から始まる後世もやはり史料の偏倚に苦しみ、半分邪推をまぜた上すべりの概括論を、歴史と名づけて押賣りすることがなほ續くかもしれない。
ぢつと一つの物を見つめて居るやうな、青年の批判力は衰へかけて居る。暗記と口移しの受賣りが少し流行しすぎる。人がどう思ふかを學び取る前に、先づ自分でも考へて見なければならない。それがこの大きな戰爭を境に、以前と比べるとよほど輕々しく、みんなの行く跡をついてゆきさへすれば、それでよいのだと思ふ者が多くなつて來たや(357)うな感じがする。私は二階の人だから、地上に立つ人の氣持は本たうには判らぬのかも知れない。斯ういふ風に民族の素質を小さく、時代の感化を大きく考へて、よくも惡くも次々と、幾らでも變り得、又變へ得られるものと觀ることが正しいかどうか。ちやうどよい折だから、是を一つの課題として、諸君の判斷の練習として見るのもよいかと思ふ。
(358) 「ドルメン」を再刊します
休刊既に三年の時が流れましたが、學界諸家の絶えざる御勸誨により、遂に自ら料らず再刊を企圖するに至りました。就ては左に「ドルメン」の意圖する所を再び掲げ、諸彦の御參事を仰がうとする次第であります。
『「ドルメン」は、人類學、民族學、考古學、日本民俗學竝に其姉妹科學にたづさはる諸學究の、極く寛いだ爐邊叢談誌である。其處には黨心偏念なく靄然たる歡談漫語の裡に智識の交詢が自ら行はれ、和やかにして然かも豐かなる、斯學界唯一の機關たらしめん事を企圖する。』
時正に曠古非常の時局。長期に亙る高度にして健全なる精神の緊張を要するの時に當り、心の小憩を本誌の爐邊に求め、更に精神の高度飛躍を用意し、忠烈な戰線將士の銃後に相應しい、彈力のある國民生活を、諸彦と共に營みたいと思ふのであります。冀は御賛佑を賜はらん事を。
(359) 「農家と人」審査感想
何よりも自分が知りたかつたのは、寫しに行かれる人たちの態度、又は氣持ともいふべきものであつたが、是が驚くばかり近年は變つて居る。これだともう我々民俗學徒の採集心得と、さう大きなちがひが無いのである。
外國人が蕃界に入つて、撮つた寫眞と比べて見ればわかることだが、諸君が持つて還つて見せよう話をしようとして居る友だちと、畫に入つて居る農民等との間に、何等の隔たりが無く皆御互ひに同國人だといふ感じが、わざとで無く既に備はつて居る。諸君は畫面に現れたものより以上の、背後の或事實をよほど知つて居られる。是が至つて大切な事かと思ふ。甲乙を附けて見たのは腕前や工夫、それも無意識に判者を動かして居るのかも知らぬが、實は自分には一向さういふ判別力は無いので、たゞ偶然によい處に行き合せ興味深い畫材に遭遇せられた人が、勝を得られたものとしか考へられない。遠近の農村の樣々に現代化して行く光景を熟視して、こんな樂しみの多い審査の役目を負はされたことは、今まで曾て無かつたと悦んで居る。
(360) 「孤島苦の琉球」
三つの痛切なる理由から伊波文學士の沖繩觀は傾聽せられねばならぬ、南島今日の悲境は既に十分なる朝野の注意同情を博し得るにかゝはらず、なほ謬見の潜んで治し難きことはその一つ〔二字傍点〕である、現沖繩の苦惱と奮闘とが、あらかじめ全島帝國に代つて未來を實驗し得た點の多いことはその第二〔二字傍点〕で、第三〔二字傍点〕には伊波氏の閲歴人格およびその多年の學問と感情に滿ちたる觀察は常人の企て能はざる新たなる發見を期待せしめるからである。
(361) 「朝鮮民俗誌」
秋葉さんの今度の著作を讀んで、日本にはどうして斯ういふ親切な、又要點をはつきりと押へた日本民俗誌が出て居ないのだらうと不審がる人が多いかもしれない。私もそれを今考へ込んで居る。一つには方法のちがひ、どこかに現實に殘り傳はつて居るもの、單なる痕跡といふ以上に、行けばそちこちにちやんと見られるものを、集めて證據にしようと我々はして居た。それが最近の三四十年間に、たとへば女の服裝などのやうに、俄然として一樣に變つてしまつたのである。第二には秋葉氏の如く、二十數年もの心力を傾けて一つの國民の精神生活の展開を、跡づけようとした學者は日本には類が少なく、更に一方には生れ故郷の土の香を忘れずに絶えず思ひを父祖の境涯に寄せて、幾つかの連作を世に留めたなどは異數である。卷中に載せられた日韓民俗の七つの類似點の如きも、斯ういふ學者の誌である故に、殊に注意する必要があると思ふ。
(362) 「近畿民俗」
「近畿民俗」は、全國の民間傳承の會會員が、共に之を利用せられんことを希望します。即ち出來るだけ多くの人が讀み、又その中の記事と類似し關係する各地の資料は、大小によらず之をあの雜誌へ寄稿せられんことを望むのであります。東京の同志は順ぐりに何か書くことにきめて居る。學問の中心機關は必ずしも東京で出るときまつて居ないことを、先づ神戸の人たちに立證させたいと思ひます。
(363) 系圖部を讀みて
重ねて、正續群書類從全卷の再刊を喜び、その刊行の早からむことを希ふものである。自分は群書類從が第一囘の募集をした時より會員の一人として購讀してゐる。殊に類從中に收められたる系圖部は非常な興味を以て讀んだ次第で、自分程何囘も繰り返して讀んだ者、またこれの恩惠を蒙り利用した者は恐らく他にあるまいと思つてゐる。本書によつて東國に於ける土豪の成長等もよく解り、中世に於ける生活の種々相も、この系圖部だけに依つてみても十分に味ふ事ができるのである。
少なくとも史學を研究する人には緊要な書である。世間一般の研究者にいま少しかうした系圖に對して、趣味を持たせたいものである。
(364) 「村のすがた」と社會科教育
以前の旅の日を思ひ出すときに、自然に目に浮かんで來る田園風景、是だから日本はいつまでも、好い國と言はれて居たのだと、感じずには居られぬやうな晴れやかな、又物靜かな生活相は幾つもあるが、それが人により氣分によつて、てん/\ばら/\でちつとも一致がないものの如く、今までは見られがちで、從つて之を文化史の課題として取扱はうといふ者もあまり無かつた。ところが我々の仲間だけでは、もう二十年も前から、大戰中もほゞ引續いて、同じ學問に携はる人達が、色々と機會をこしらへて田舍をあるきまはり、たまには地方からの珍客もまじへて、月に二囘以上も集つて、旅の見聞を話すことにして居た。それを段々聽いて行くうちに、よほど此頃では斯ういふ人たちの、心を動かし又愛着を抱いて居る事柄が、互ひに似よつたのであることに氣づくやうになつた。そんなら世間では、之をどういふ風に受取るであらうか。試みに其一部分を手短かに説いて見ようとしたのが、この一册の「村のすがた」である。自分も同じやうに感じて居たのだから受賣ではない。
日本を知るといふことは、日本人が互ひに知ることを意味する。それも丸々よその事では無く、知ればこちらにも通ふところがあり、しかも今までは氣づかずに居たものが多いのだから、樂しい反省といつてよいだらう。社會科の正しい教案を組立てようとして、辛苦する人々に向つて私は進言する。有りふれた事物と法則とを、確實に知らしめることは大切であるけれども、是によつて少年を退屈せしめることは罪惡である。彼等を快よい知識の旅に進ませるには方法がある。今まで考へようとしなかつた方角から、先づ印象の繪の最も鮮麗なものを、供與する必要は無いか。(365)日本は東西古今の比較の、何處よりも樂しい國だといふことを、先づ體驗せしめることが急務ではないか。それを心有る人たちに考へてもらふことも亦此の本の一つの試みである。
(366) 「遠野」序
一生にたつた一度だけ、私は遠野の上空を高く、飛んであるいて見た經驗がある。今からもう二十年ばかり前の、晴れたる新秋の或日の朝であつた。飛行機は盛岡の郊外を飛び立つて、先づ早池峰の東北の肩を廻り、それから六角牛の頂上を左斜めに見て、更に五葉山を右手に取りつゝ、段々と海岸の方へ出て行つた。越えたのは仙人の峠よりも少し北へ寄つた舊道の上あたりだつたかと思ふから、つまりは遠野物語のほゞ全舞臺を、斯うしてなつかしく見なほしたわけである。三つの御山は麓から振り仰いだ時のやうに、高く鋭どく尖つては見えなかつた。たゞ洪大な區域に座を張つて、若き乳房の如く柔かにふくらんで居た。さうして思つたよりも樹や草が濃く茂り、ところ/”\に白い小さな雲が、その緑の野の面を遊んで居た。
以前たゞ二夜三夜の旅を重ね、古い友だちの何人かをもつたといふだけの因縁があつてさへ、なほ私のあの日の印象は消える時が無い。ましてこの山この水の力によつてはぐゝまれ、此土の穀物を食べて親から子孫へ、取り續いで來た人々の愛情はどんなであつたらうか。弘い世界の中でも、我々日本人の來世觀だけは、少しばかりよその民族とは異なつて居た。もとは盆彼岸の好い季節毎に、必ず歸つて來て古い由縁の人たちと、飲食談話を共にし得ることを、信じて世を去る者が多かつただけで無く、常の日も故郷の山々の上から、次の代の住民の幸福をぢつと見守つて居ることが出來たやうに、大祓の祝詞などにははつきりと書き傳へて居る。乃ち靈はいつまでもこの愛する郷土を離れてしまふことが出來なかつたのである。
(367) 斯ういふ先祖の信仰を持ち續けることは、無論今日はよほど六つかしくなつて來たけれども、なほこの「遠野」のやうな親切な書册を見るたびに、何かまだ私たちの心の奧底に、無意識に流れて居るものがあり、人は其事業を一代に限定せず、遠い未來にかけて畫策する習性を、まだ全く失つても居ないことを、受合つてもらつたやうな感じがする。前人の辛苦が今漸く實を結んで、この山間の交通が廣々と開けて來たやうに、こゝを日本の一つの樂土とする念願も、いつかは到達する時があるであらう。内にも外にも心から遠野を愛する人を、益々多くしようといふ諸君の計畫は、この目的の爲にも決してまちがひでは無いと思ふ。
(368) 旅と文章と人生
長い旅行をして還つて來た人から、旅の話をしてもらつて聽くことが、もとは私たちの大きな樂しみであつた。今でも遠い處に行つて居て、久しぶりにもどつて來る人はぽつ/\とあるが、大抵はひどく疲れてゐて、みんなの面白がるやうな、又ためになるやうな話ばかりはしてくれない。さうして旅行もいつの間にか、さほど樂しい有益なものでは無くなつてゐるのであつた。
日本は狹い、小さい、人が一ばいだ、といふやうなことを誰でもいふが、近頃できた全國の土地利用圖などを見ると、どこもかしこも空地だらけである。どういふわけで是がそんなに窮屈なのか。まだ本たうのことを説明してくれる人が無い。私たちは自分でこれから、それを考へて見なければならない。たとへばこゝから東の方へ何十里、又は西へ南へ北へ何十里、そこにはどんな村があり、どういふ社會が有るのか、あの山脈の向ふ側には、如何なる生活が營まれてゐるのか。今はまだ知つてゐる人が少いが、それを想像して見ようとするやうな若い人々が、たくさんに出て來なければ、國は決して團結することができない。國を一つの大きな問題として、皆で是から考へて行くためには、もう少し御互ひがよその土地の事を、知つてゐなければならぬのであつた。
もちろん何處でも同じだといふことは多からう。中にはそんな小さな點まで似てゐたのかと、驚くやうな場合もきつと有る。しかし一方には又まるで氣のつかなかつた、變つた珍らしい事實が、あるといふことも段々に知られて來る。私たちが人生に眼を開くといふのはこの事である。ちやうど身體が食物によつて養はれる如く、斯ういふ知識の(369)補給が無かつたら、人の心は伸び/\と成長して行かない。かはいゝ子には旅をさせよと昔から言つてゐるけれども、この頃は行く方角がいつでもきまりきつてゐて、珍らしい話があまり得られない。何か今までの旅人の話に代るやうな、樂しい爲になる讀物が、これから追々と出て來るやうにしたいものと、思つてゐる人は私ばかりではないはずである。
この本を書いた宮本先生といふ人は、今まで永いあひだ、最も廣く日本の隅々の、誰も行かないやうな土地ばかりを、あるきまはつてゐた旅人であつた。どういふ話を私たちが聽きたがり、聽けば面白がり又いつまでもおぼえてゐるかといふことを、この人ほど注意深く考へてゐた人も少ない。次の時代をになふ日本國民として、これだけはぜひとも知つてゐてほしいといふ事がらを、見わけえり分けるのは六つかしいことだが、それも宮本さんはよく本を讀む人だから、少しも誤つたり迷つたりはしてゐない。たゞ或は熱心のあまりに、すこし早口に、話の數を竝ぺすぎたかもしれぬが、それとても走り讀みの癖をもたぬ人たちは、考へることが多くて却つて樂しみであらう。意味が有るなと思ふ點は、紙をはさんで置いてもう一度讀み返して見ると、後までおぼえて居られることがよほど多くなる。地圖の良いのがあればそれを脇に置いて、見くらべてゆくとわかりもよく、又面白さもずつと加はつて來る。私もこの本で實はそれをためして見た。又さうするだけのねうちがあると思つた。
(373) 大嘗祭と國民
國が大きくなるとともに、この大嘗の御祭がだん/\と成長して來たことは、何人の眼にも極めて明らかに感ぜられる。例へば上代の朝廷においては、神饌の靈稻は恐らく近き御縣の穗を拔いて奉られたことであらうのに、それが大化の新政の世に入ると、早くも國郡卜定の制に改まつてゐる。即ち今日の齋田納穀の古例であつて、後に日本を東南と西北との二方面に區劃して、悠紀、主基の二宮に配せられたのであるが、文物の最も整備した御時にも、なほ輸送等の關係があつて、奉仕の任務を遠く百里の外に及ぼし得なかつたのである。明治四年の大嘗祭は、遷都僅かに終り、維新の大業の漸く緒についた際で、また完全なる典儀を設定せられるに至らなかつたけれども、始めて甲斐、安房の兩國に齋田を點定なされたことは、實に復古以上の躍進であつた。獨りその地方の住民のみといはず、いやしくも歴史を學ぶ者の古今を引比べて、均しく感激して止まざる所であつた。然るに大帝御一代の偉績として、郡縣の制は夙に立ち、令式はすべて備はつて、龜卜は自在に四國九州の果てまでを指定し得るやうになつたのである。
それのみならず前代兩國の國司は、公役として專ら諸般の鋪設に任じ、數々の獻物を以て御祭と後の宴とを豐樂ならしめたのであつたが、新しい御代に入つては、全國各地進んでその榮譽の一部に參與せんことを競うて止まぬやうになつたのである。いはゆる庭積机代物は明治以降の新制であると承るが、その三十二器の國産の中には、弘く海山の收穫をも網羅し、更にまた臺灣の文旦、小笠原島のバナヽの如き、曾て大昔の農業の夢にも想像せざりしもの、もしくは全く忘れてしまつてゐたものまでを包含してゐる。しかもこの進展は至つて自然であつて、少しでも國民の理(374)想の神秘と、調和しない點はないのである。
今一つの著るしい成長は式と國民生活の關係である。古い個人の記録類には、先ごろ京都では大嘗祭が行はれたさうなといふやうな記事が多い。交通不便の止むなき結果ではあるが、しば/\後に知りまたは知らずして過ぎる者も多かつたのである。今囘はそれがどうであるか。如何なる山の隅にも離れ小島にも、兼てその期日と時刻とを聞知つて、遠くその夜の神々しい御祭の光景を、胸にゑがかざる者は一人もない。以前は單に京近くの大社のみに、奉告の御使を發せられて、式の完成を祈請せられたのであるが、この度は全國數萬の鎭守に、それ/”\の祭祀が營まれ、先づ住民をして同心にこの日の御祭に奉仕せしめられた功績を謝したゝへられるのである。この時勢の大なる進化を比べて見たら、どんな堅苦しい尚古派でも、單なる舊制の遵由と、活きて成長する國の式との、差別を認めずにはゐられないはずである。
しかも我々が更に心を動かす一事は、これほどよく成長して常に時と適應せんとする儀式の奧底に、なほ萬古を貫通した不變の約束が、幾筋ともなく認められることである。その中の最も重要なる一つは、至尊陛下が御自親ら執行はせたまふほどの國の大祭に、村で繰返して來た秋ごとの祭禮と、大小の程度には固より格別の相違があるが、全く方式を同じうする點の存することである。近ごろの改定祭式では幾分かこの類似を減じたかも知れぬが、これを百姓の古風に任せて置くと、期せずして朝儀の御跡を逐うてゐるのであつた。例へば私が福島縣の或町で逢うた祭禮には、明かに神饌の行立があつた。二親の揃うた穢のない男女、各々頭の上に御飯神酒魚鳥の類を載せて、社務所から殿前まで續いて進むところに供御の豐かさを表はしてゐる。それから小忌衣の袖に染出す花の枝や、冠にかざす日蔭蔓の如きも、僅かづゝ形をかへて常に祭に仕ふる者の最小限度の作法であつた。物忌の考へが次第に薄れて、無心に神の前に出ることを人も省みぬ時節になつても、外觀に現はれたるこの神聖なる徽章だけは、どうしても除き去ることを得なかつたのである。これを優美ともまた高尚とも感ずることは、いはば東方の人種のみに、附いて離れぬ一つの氣(375)質であつて、それが轉じては各種の技藝、日常習慣の上にも、また色々と殘つてゐることを、かういふ機會に始めて心付く者は多からうと思ふ。
夜の御祭には本來説いてはならぬ部分があるのかも知れぬ。私なども一たび前御代の御式には與かつた者であるが、今考へると唯きら/\と光るものが、眼の前を過ぎたといふ感じである。しかし言辭をもつて傳へ得ざる點は、人は感覺によつてこれを永世にしようとしてゐた。さうして今日の奉仕者の多數は、遠く神域の外にあつて、書册に由つて始めて學ばうといふ人である。彼等をしておのづから會得せしむべき新なる學問の發達することも、また恐らくはこの時代の要求であらうと思ふ。
古い儀式の中では、北野に近い齋場の御庫から禁門の口まで稻實を運ぶ朝のうちの行列が、たゞ一つ平人に開放せられたる神事であつた。その列の先頭には悠紀主基の國司が立ち、また標の山といふ作り物を擔うて、それを御殿の前の庭に樹てたさうである。何時からはじまつてその目途が何れにあつたかを、我々に語つてくれる人も見付からぬうちに、もう今の御式の中から省かれてしまつた。ところが形態のこれと近い鉾とか柱とかいふものは、往々にして民間の祭にもまだ用ゐられる。古式の研究はむしろかういふ方面から、今少しく進めて往つてよいものではないかと思つてゐる。
(376) 大嘗祭ニ關スル所感
今囘ノ御大典ノ儀制ヲ以テ今後永世ノ例トセラルヽ場合ハ勿論將來或ハ之カ改訂ヲ企テラルヽ場合ニ於テハ小官ノ如キ地位ニ在テ感シ且ツ疑ヒタル事項ヲ存録スルコトハ必ス有益ナルヘシト信シ衷心ヲ吐露シテ後ノ當局ノ用ニ供セムトス固ヨリ言論ノ責任ヲ辭スルモノニアラサルモ又徒ニ議論ヲ闘サムトスルモノニアラサルヲ以テ相成ルヘクハ秘封シテ後年ニ傳ヘラレムコトヲ希望ス
御即位禮及ヒ大嘗會ハ舊都ニ於テ擧行セテルヽコトハ 先帝陛下ノ深キ思召ニ出テタル儀トハ拜察スルモ若シ周到ナル攷究ヲ遂ケムト欲スル場合ニハ此點モ亦問題ノ中ニ入レテ考ヘサルヘカラス殊ニ御即位禮ト大嘗祭トヲ同シ秋冬ノ交ニ引續キテ行ハセラルヽト云フ點ハ頗ル考慮ノ餘地アル所ナリトス若シ登極令草案理由書ノ記スカ如ク經費ヲ節約スルカ其ノ理由ノ一ナリシトスレハ推理上兩式執レカヲ新都東京ニ於テ擧ケラルヽノ可ナルヲ見ルニ至ルナキヲ保セス歴朝ノ前例ヲ見ルニ即位禮ト大嘗會ノトキトノ間隔カ現制度ノ如ク接近セルモノヲ見ス蓋シ是ニハ十分ナル理由ノアルコトニテ即位禮ハ中古外國ノ文物ヲ輸入セラレタル後新ニ制定セラレタル言ハヽ國威顯揚ノ國際的儀式ナルニ反シテ御世始ノ大嘗祭ニ至テハ國民全體ノ信仰ニ深キ根柢ヲ有スルモノニシテ世中カ新シクナルト共ニ愈其ノ齋忌ヲ嚴重ニスル必要ノアルモノナルカ故ニ華々シキ即位禮ノ儀式ヲ擧ケ民心ノ興奮未タ去ラサル期節ニ此ノ如ク幽玄ナル儀式ヲ執行スルコトハ不適當ナリト解セラレタル爲ナルヘシト信ス
國家ノ進運カ今日ノ如ク著シキ時代ニハ即位禮ノ壯麗偉大人目ヲ驚スヘキモノアルコトハ固ヨリ當然ノ儀ニシテ小官(377)ノ如キハ臣子ノ分トシテ今後百千年ノ後愈々益々此ノ儀式ノ盛大ニシテ有ラユル文明ノ華麗ヲ盡サムコトヲ望マサルモ之ニ引續キテ略々相似タル精神ヲ以テ第二ノ更ニ重大ナル祭典ヲ執行セラルヽコトハ單ニ無用無益ト云フニ止ラス或ハ不測ノ惡結果アラムコトヲ恐ルヽナリ
大嘗祭ハ古來舊暦ノ十一月即チ仲冬ノ候ヲ以テ其ノ期節トセラレタルカ是モ日本ノ傳來ノ信仰ト關係ノアルコトナリ此祭ノ爲ニ設ケラルヽ假宮ハ如何ニ優美ナル風習ノ浸染シタル朝廷ニ於テモ徹底的ニ古式ヲ保存シ一切ノ裝飾ヲ去リ素樸簡古ヲ極メタリシ所以ノモノハ決シテ儒者ノ説クカ如キ 陛下ノ謙コヲ養ヒ奉ルト云フカ如キ單純ナル理由ニアラスシテ此祭本來ノ趣旨ニ伴フ一箇重大ナル要件アリシ爲メト考ヘラル然ニ今囘ノ如ク之ヲ新暦ノ十一月中ニ行ハルヽトスルトキハ先ツ其ノ精神ト相容レサル變態ヲ認ムルノ必要ヲ生ス例ヘハ悠紀主基ノ假殿ニ葺クヘキ稻ノ藁ハ其年收穫ノ後取リ得タル消キ藁ヲ用フヘキ筈ナルニ今囘ハ特ニ葺藁用ノ稻ヲ栽培セシメラレ其ノ穀物ノ未タ熟セサルニ先チ之ヲ刈取リ其米ハ無用ノモノトナリタリ此ノ如キハ事小ニシテ經費ノ點ヨリスレハ言フニ足ルモノナシト雖モ苟モ大嘗ト云フ祭ノ精神ヨリ見ルトキハ如何ニモ不穩當ヲ極メタルモノト考ヘラル尤モ是ニハ已ムヲ得サル理由アルコトニテ以前ノ如ク祭ノ前一二日若クハ一晝夜ノ間ニ神殿ヲ急造シ終ルコトヲ得ルナラハ 或ハ早稻ノ稻藁ヲ使用スルコトヲ得タラムモ齋殿ノ規模前朝ニ比スレハ非常ニ宏大ニシテ又種々ナル設備ノ日子ヲ要スルモノアルカ爲メ到底此ノ如キ短期間ニ竣功スル見込立タサリシカ故ニ已ムコトヲ得スシテ八九月ノ交既ニ大部分ノ工事ヲ終リ清キカ上ニモ清力ルヘキ神殿ヲ長々雨塵ニ暴露セシノミナラス事實ニ於テハ普通ノ草ト同シキ穀物ヲ取ラヌ稻ヲ用フルカ如キ結果トナリシナリ
之ニ比レハ事ハ小ナレトモ假宮ニ用ヰラレタル黒木ノ柱ノ如キモ同シク不自然ナル採收ヲナセシ嫌ヒナシトセス今日此ノ如キ雄大ナル神殿ニ使用セラルヽ美事ナル皮附ノ松或ハ樫等ハ京都附近ノ山國ニ於テモ餘程奧深キ處ニ入ラサレハ之ヲ求ムルコト能ハス而モ木ノ皮ヲ損セサルカ爲ニ鳶口其他ノ木流シ道具ヲ用フルコト能ハス又普通ノ運材方法ニ(378)依リテ山ヨリ谷ヲ下スコト能ハサリシカ故ニ盡ク人ノ肩ニ依リテ嶮阻ヲ輸送スルノ必要アリ當時人民ハ最モ強健ニシテ各潔齋シ淨衣ノ袖ヲ荊ニカケ辛苦シテ恙ナク之ヲ平安ノ地ニマテ輸送シタレトモ之カ爲ニ要セシ勞力及ヒ準備ノ多大ナルコトヲ考フルトキハ亦頗ル前代ノ恒例ニ違ハサリシカヲ氣遣ハレタリ
殊ニ青柴垣ニ用ヰラルヽ椎柴葉盤葉椀ニ用ヰラルヽ?ノ葉ノ如キモ期節尚早々樹液多キカ爲メ至テ凋枯シ易キニモ拘ハラス何レモ準備者ノ責任上十日半月ノ以前ヨリ之ヲ用意シタルカ爲ニ總體ニ於テ清ク新シキ天然物ヲ以テ祭具ヲ調製セラルヽノ趣旨十分ニ徹底セサルヲ認メタリ
凡ソ今囘ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ經費ト勞力ヲ給與セラレシコトハ全ク前代未聞ノコトナルニ而モ此ノ如ク心アル者ヲシテ竊ニ眉ヲ顰メシムル如キ結果ヲ生シタル所以ノモノハ其ノ理由固ヨリ一二ナルヘカラスト雖モ主トシテ期節ノ稍早カリシコト殊ニハ此祭ニ參列スル人員餘リニ多クシテ之カ爲メ古例ヲ超過シタル大建築物ヲ要シ而モ之ニ從事スル者專ラ責任ヲ全ウスルニ急ニシテ大祭ノ精神カ急造素樸ノ間ニ存セシコトヲ會得セサリシニ因ル
此點ハ將來古式ヲ保存セラルヽ上ニ於テ最モ困難ナル問題ニシテ將來ノ當局カ肝膽ヲ碎カルヘキ點ナリト思考ス新暦ノ十一月中旬ト雖モ京都ハ既ニ寒シ大忌ノ幄舍ニハ熱汽暖室ト云フカ如キ前代未聞ノ設備ヲ施サレタルニモ拘ハラス參列者中ニハ寒氣ニ苦シミ病身ヲ理由トシテ半夜ニ退席スルヲ得サリシ者スラアリタリ或ハ病?ヲ愛護シテ盛典參列ノ光榮ヲ辭シ或ハ忍テ強ヒテ參列シテ病ヲ獲タル者モナキニアラス是等ノ人々ノ多數ヲシテ言ハシムレハ假令青稻ヲ刈リテ屋根ヲ葺キ若クハ人造ノ木ノ葉ヲ用ヰテ祭具トスルモ成ルヘクハ九月以前ニ於テ此祭ヲ行ハレムコトヲ希望スル者ナシト云フヘカラス而モ此ノ如キハ果シテ今日ノ國民慣習ニ縁遠キ三千年ノ古式ヲ強ヒテ行ハルヽ所以ノ理由ナルカ否讀書生ヲ待タスシテ容易ニ之ヲ否ト云フコトヲ得ヘキナリ此點ニ付テハ獨リ古書ニ記述スル所ヲ詳讀スルニ止マラス尚ホ其ノ裏面ニ隱レタル國民ノ心意ヲモ推測スルノ必要アリ蓋シ前代ニ於テハ此祭ハ國家最重要ノ式典ニシテ人民ノ歸趨ヲ朗カニシ信仰ヲ統一スル上ニ於テ一國ノ生命ハ懸リテ此祭ノ完成ニ在リト云フモ決シテ過當ニアラス從(379)テ 至尊ハ申スモ更ナリ之ニ與ル諸員ハ殆ト心身ノ全部ヲ捧ケテ神聖ナル勤務ニ服シタルモノナルカ故京都十一月ノ深夜殆ト寒帶ニ等シキ氣温ノ下ニ於テ數囘ノ潔齋ヲナシテ其祭ニ仕フルヲ常態ト解セシナリ勿論體力又ハ健康ノ上ニ於テモ古人ハ遙ニ今代人ノ如ク多感ナラサリシナラムモソレヨリモ更ニ強大ナル理由ハ此ノ如キ國家ノ爲メ缺ク可ラサル神聖ナル祭式ニ與ル者病魔ノ爲ニ身ヲ損セラルヽノ恐ナシト云フ確信代々ヨリ固ク其ノ心裡ニ存シタレハナルヘシ之ヲ今日ノ知力ヲ備ヘタル官吏ニ要望スルハ固ヨリ當ヲ得サルコトナルヘシト雖モ苟モ古典ヲ保存シテ昔ナカラノ神祭ヲ行ハムトスル際ニハ少クモ當局ニ於テハ之ニ匹敵スヘキ用意アルヲ以テ至當ナリト確信ス
之ヲ以テ觀レハ今後萬一ニシテ現行ノ儀制ヲ變更セラルヘキ場合アリトセハ大嘗祭ニ關シテ改訂スヘキ點ハ單ニ期日ノミニ止ラス之ニ與ル者ノ用意及ヒ態度ニ付キテモ特ニ攷究セラルルノ必要アルヘシ一言ヲ以テ言ヘハ此祭ニ與ル者ノ數著シク多キニ過キタリ大官名族ノ數ハ國運ノ進ムト共ニ増加スルハ自然ノ理ニシテ此式ニ列スルヲ以テ單純ナル榮典ト認ムルトキハ權衡上次第ニ參列者ノ數ヲ増加スルニ至ルヘキハ又怪シムヲ要セサレトモ卑見ヲ以テスレハ第一ニ今囘ノ如ク即位禮ノ盛儀ニ引續キテ之ヲ行フコトナク又此祭ノ主要且ツ至難ナル所以ヲ理會セシムルニ務メタリシナラハ此ノ如キ無用ノ人員ノ爲ニ幾分ナリトモ式典ノ變更又ハ不完全ヲ忍フヲ要セサリシナラム前代ノ大嘗祭ノ記録ヲ見ルニ小忌ノ役ニ任スル者ハ勿論大忌ノ員ニ列スル者ト雖モ極メテ其數ヲ限定シ一般民衆モ各其家ニ在リテ身ヲ淨ウシ大祭ノ滯ナク終了セムコトヲ心?スルコト誠ニ事ハ小ナリト雖モ村々ノ祭ノ夜氏子ノ者モ家ニ在リテ曉ヲ待チシト同シカリシナリ之ニ與ルコトヲ得サリシカ故ニ恰モ國民ノ特權ヲ奪ハルヽカ如ク解スル者アルニ至テハ抑當初局ニ當ル者審カニ日本ノ古祭式ノ本旨ヲ解説シテ國民ニ教ヘサリシノ致ス所ナリ
忌憚ナク言ヘハ日本ノ如キ國柄ニ於テハ舊式ヲ完全ニ保存スルハ此上モナク重要ナルコトニハ相違ナキモ此祭ノ如ク古キ信仰ト終始スル複雜ニシテ且ツ困難ナル儀式ヲ繼續スルコトハ小官ハ或ハ其ノ不可能ナラサルカヲ疑フ當時 聖上ニハ大典ノ期日ニ先ツコト半月ニシテ遠ク弘前ノ大演習ニ臨マセラレテ津輕地方ハ雨多ク氣候最モ不良ナルヲ以テ(380)心アル國民ハ竊ニ玉體ノ平安ヲ憂慮シ御一代一度ノ大式典ニ近ツキテ強ヒテ此ノ如キ遠方ノ旅行ヲ奏請シタル陸軍當局ノ無思慮ヲ非難シタル者多カリキ然レトモ飜テ案スルニ日本ノ歴史ニ於テ天子御疾ノ爲メ此祭ノ日ニ合期セラレサリシ例ハ小官等カ未タ學ヒ知ラサル所ニシテ此ノ如キ憂慮ヲ懷クハ寧ロ神國ノ天祐ニ對シ疑ヲ挿ムノ結果トナリ國民ノ確信ト一致セサルモノナルヘシ唯之ト同時ニ或者ノ最モ心ヲ痛メタリシ點ハ齋忌ノ風習世ノ進ムト共ニ次第ニ疎ニナリ一般國民ハ勿論小忌ノ衣ヲ被ルヘキ少數ノ者ノ間ニ於テモ祭ノ神聖ヲ保持スルニ最モ重要ナル數多ノ條件ヲ守ラス形式ノ整備ヲ以テ唯一ノ目的トシタルカ如キ嫌ナキニ非サリシヲ以テ此ノ如キハ果シテ玉體ヲ安穩ニシ困難ナル祭式ヲ終了セシムルニ足ルモノナルヤ否ヤヲ氣遣フコトヲ免レサリシナリ
現行登極令ニ於テハ即位禮以下ノ諸式盡ク 兩陛下ノ臨御ヲ豫想シテ編成セラレタルモノナルニ畏レ多キコトナレドモ 皇后陛下ニハ當時御障リアリテ遂ニ行啓ナク紫宸殿内ノ御帳臺ハ遂ニ空シク其用ヲ爲サヽリキ勿論此ノ御障リハ皇室ノ慶事ニシテ何人モ之ヲ遺憾トスル者ナカリシトハ雖此ノ如ク當初ノ豫定カ或ハ變更セラルヽコトアルヲ以テ保守固陋ノ學者ハ之ヲ何モノカノ前徴警示ナルカ如ク感シ如何ニスレハ當局官僚ノ齋忌ヲ正式ニスルコトヲ得ヘキカヲ考慮シタリ然ルニ京都ハ元來土地狹ク一時ニ此ノ如ク數千ノ參列員ト數萬ノ諸國ノ拜觀者ヲ收容スルニ足ラサリシカ故ニ式事者ノ宿舍ノ如キモ不完全ナル點多ク食物寢具其他一切ノ生活ニ於テ到底正規ノ致齋ヲ行フ能ハス恐クハ伊勢神宮ノ神官等カ日々遵守スル程度ニ於テモ潔齋シ能ハサリシカ如シ現ニ小官ノ實見スル所ニ依ルモ大嘗祭ノ前一夜京都ノ市民ハ電燈晝ノ如ク種々ノ假装ヲ爲シテ市街ヲ練行ク者アリ處々ノ酒樓ハ絃歌ノ聲ヲ絶タス大忌ノ幄舍ニ參列スヘキ諸員ニシテ火ヲ忌マス人ヲ遠ケサルハ勿論獣肉五辛ヲ喰ヒ平然タル者其數少カラス前代ノ慣習ヲ見聞セシ老人等ヲシテ是レ果シテ大嘗祭ノ前夜ナルカヲ疑ハシムルモノアリタリ此ノ如クニシテ何等ノ障礙ナク 聖上陛下ノ御安泰ハ申スモ畏シ式典ノ大小部分ニ至ル迄何等ノ障礙ナク之ヲ遂行シ更ニ翌夜ノ大饗ニ於テ歡ヲ盡スコトヲ得タルハ小官ノ如キ小心ナル者ノ感シニテハ殆ト過分ニ寛大ナル神助ニシテ永遠ニ向ツテ此ノ如キコトヲ豫期スルハ到底不可能ナ(381)リト考ヘシメタリ
今若シ大嘗ノ古式ヲ節約シテ單ニ一部ノ形式ヲ永世ニ保持セムトスルナラハ事ハ則チ容易ナリ國民ノ教育アル者ハ假令之ニ依リテ直ニ舊時ノ面目ヲ感得スルコトヲ得ストスルモ能ク聯想ヲ以テ神國ノ古意ヲ酌ミ知ルコトヲ得ヘキヲ以テ多大ノ困難ヲ忍ヒ更ニ 至尊ヲ煩シ奉リテ冬期深夜徹宵ノ御祭ヲ願フニモ及ハサルヘキモ若シ萬一農國本ノ精神ヲ萬世ニ傳へ朝家民ニ代リテ天神ヲ祀リ給フノ義ヲ百姓ニ會得セシメムトスルナラハ獨リ齋忌ノ制度ノミヲ切離シテ不要ニ歸スルノ理由ハアラサルヘシト信ス從テ今日最モ其宜シキヲ得スト考ヘラルヽ點ハ即位禮ノ盛儀ヲ經テ民心興奮シ如何ナル方法ヲ以テシテモ慶賀ノ意ヲ表示セムトシテ各種ノ祝宴ニ熱中スル際引續キテ大嘗祭ノ如キ嚴肅ヲ極メ絶對ノ謹愼ヲ必要トスル祭典ヲ擧ケラルヽト云フ制度ナリ就テハ若シ強ヒテ京都ニ於テ同時ニ二ノ式ヲ行ハセラルヽ必要アラハ先ツ大嘗會ヲ終リ次ニ即位禮ニ及フトスルカ然ラサレハ即位禮ハ東京ニ於テ華々シク之ヲ擧行シ或期間ヲ隔テヽ古キ慣例ノ如ク新暦十二月ニ京都ニ於テ此祭ヲ行ハルヽカ或ハ又京都こ於テハ即位禮ト其ノ之ニ伴フ祝典ノミヲ擧ケラレ車駕還幸ノ後東都ニ於テ靜ニ其年ノ秋ニ祭ヲ行ハルヽカ又或ハ一定ノ期間京都ニ御滯在アリテ民心ノ靜マルヲ待チテ此祭ヲ行ハルルカ何レニシテモ今囘ノ如ク混亂ノ内ニ三千年來ノ儀式ヲ終ルカ如キ前例ヲ繰返サレサルコトヲ切望シテ已マス思フニ明治以降制度ノ大變更ヲ經タル後舊儀ヲ復活スルコトハ各種ノ點ニ於テ隱レタル種々ノ困難アルヘク例ヘハ衣冠ノ使用法ノ如キモ今囘ハ期ニ臨ミテ之ヲ百數十名ノ京都人ニ傳習セラレタルモ幸ニシテ今猶前時代ノ所謂衣紋方ノ口傳ヲ保存スル者アリタレハナリ百年ノ後古老既こ世ヲ辭シ新人ハ洋風ノ生活ニ慣レ古書ヲ研究スル者漸ク稀ナル時代ニ臨ミ急ニ此ノ如キ準備ヲ企テラルヽモ恐クハ成績ヲ擧クルコト難カルヘシ之ヲ以テ見レハ宮内當局ノ任務ハ平生ニ於テ既ニ至テ重シ此ノ問題ノ如キモ徒ニ感情ノ爲ニ制縛セラレテ平生ノ攷究ヲ怠ルトキハ獨リ一身ノ責務ヲ完ウセサルノミナラス延イテハ朝家ノ御恥トモナルヘキ虞レアリト思考スルカ故ニ少數當局ノ諸公ハ今ニ於テ之ヲ念頭ニ留メラレムコトヲ切望ス
(382) 史學興隆の機會
第一囘の八月十五日を迎へて、もういつまでも斯んな事をしては居られぬと心づく人は、きつとこの新聞の讀者には多いであらう。それには先づ一同が心を合せてと、言ひもし考へもするのは今までの因習であり、且つ又當世の新らしい方式でもあらうが、自分だけは決してさうは思つて居ない。人が本たうに自由に希望し、又計畫することを許されて居るならば、たやすく誰にでも共鳴し得られるやうなものは、むしろ平凡であつて樂しみが無い。我々は各自の能力の限り、努めて他人の思ひ付かぬやうな新らしい案を立てゝ、其效果を問はうと試むべきである。但しそれには來るべき大きな協同の爲、成るたけ妨げにならず、出來るならば多少の手助けになるものを、順序として先づ擇むべきは言ふまでもない。
○
かつて昭和研究會などゝいふ團體が、まだ盛んに活躍して居た頃、私は一度その仲間の人たちに向つて斯う言つたことがある。
諸君が改革々々と言つて騷がれることは、私たちから見れば猶どう/\廻りとしか見えない。もつと思ひ切つた方策をなぜ考へられないのかと。
是には合槌を打つ人も無かつたが、私は主として普通教育の上に於て、現制への不滿を述べようとしたのであつた。
(383) あの時代に比べると、今は改革が極度にまで説きやすくなつた。あとはどうするといふ一つの成案の無い者までが、たゞ打ち壞しを叫んでも譽められて居る。それで居てまだ教育の方面ばかりは、依然として繕ろひ普請のやうな意見が、幅をきかせて居るのはどうしてだらうか。事によると是は後世の史家の判斷が合致するまで、今度の敗戰の深い原因の一つが、教育の缺陷に在つたといふことを認めまいとして居る爲かも知れない。もしさうだつたとするならばそれを早めに言つて見るだけでも、もう相應な一つの仕事だらうと思ふ。
○
全體に普通教育の唯一の目的が子供を人にするに在るといふことを、思はなかつた者が多いやうな感じがする。國家教育といふ言葉はくたびれる程も聽いたが、是は一方にそれと併行してめい/\の教育、もしくは人民の教育といふべきものが有ると否とによつて丸で話がちがふ。國語の教育なども偏しては居たけれども、この方はまだ在來の學習法が傳はり、不完全ながらも古い機關が殘つて居た。
之に反してレキシなどは初耳である。家庭郷黨にはそんな言葉はもと無かつた。是とは代々のきれ/”\の經驗、聽いて覺えてまさかの時の參考にする知識と、系統は一つだといふことなどは誰も教へず寧ろ別ものゝやうにもつたいを附けられて、しまひまで何の爲に暗記をさせられるのか、考へなかつた者も多いのである。國が如何なる力と條件とを以て榮え耀いたかといふことを教へるのもたしかに有效なる激勵であり、又統一への好き指導であつたに相違ないが、たゞ是のみでは毎日の政治は考へられない。折角判斷の機會を人民に與へて置きながら短慮や我執や誠意の缺乏が國を誤り同胞を不幸に陷れた實例の、歴史に充ちて居ることを隱さうとした爲に、選擧はたゞ私利私慾により、又は片意地と行掛りとによつて指導せられることゝなり、比年ならずして政黨は腐敗し始めたのであつた。
古來東方の諸國に於て公認せられて居た歴史の學問の根本の目的、即ちいはゆる春秋の筆法から、大よそ是くらゐ(384)背馳した應用といふのは他には有るまい。斯くもてきめんに惡い結果が現はれるものとわかつて居たら無論もつともつと強く、我々は論爭しなければならなかつたのである。
○
しかしもう今日となつてはさう大きな聲を立てる必要も無い。寧ろ後構はずの荒つぽい提案を抑へ出來るだけ空隙を小さく、以前の技術の役に立つものは保存して無用の荒廢は防ぎたいやうな氣もする。たゞ斯ういふ際にこそ我々の警戒は有效なのである。
こゝで改めてもう一度、返らぬ昔を反省して見なかつたならば、あんな歴史の教へ方を唯一つのものと思ひ、解説も批判も人まかせにして、事案をめい/\の知識とすることも出來ず、依然として流行するものを以て眞理と認めるやうな情けない第二の敗戰への路を歩み續ける者を、呼び戻すことが出來ないだらう。どこが一番いけなかつたといふことを考へて見る事は、今の方が邪魔者が少なく、さうして又きゝ目も多いが、其代りにはうつかりすると看過される恐れがある。
○
第一に歴史は何の爲に教へるのかといふこと、斯んな簡單なことすら普通人の合點し得るやうに、説明しようとした者が少なかつた。政治の善惡が先づ大衆に影響することは、よつぽど古い頃から彼等にも心付かれ、從うて隨喜禮讃の場合はもちろん之を惡くいふことも或程度までは許されて居た。その批判を正しからしめんが爲に、歴史の知識は乃ち必要だつたのである。殊に近世の憲法時代に入つて、國民は既に未然の計畫と節制に參與して居るのに、是に判斷の基礎となるものも與へず、又何等の修錬をもさせようとしなかつたら、その結果が今度のやうになるのは致し(385)方が無い。
歴史は原因の遠く近く、時と場合によつて組合せがちがひしかも我々のまだ心付かずに居るものが幾つか有るらしきことを教へようとして居る。
それを解りやすいたゞ一つの原因に集注して、手短かに事を決しようとするのが政治家であつた。彼等の手取早い斷定と理由付けが、うまく當つたかどうかを決するのも歴史の學問で、今ならもう百年もかゝらないで、その經驗はすぐに得られる。たゞ民衆がそれに注意をするやうになると勢ひ用心深く又輕率で無くなる故に、速い仕事をしたがる連中には、歴史教育の徹底はどうしても氣に入らぬのであつた。
よほど考へて置かぬと今度ももう一度、ひどい目に遭ひさうな恐れがある。
○
徹底といつて見たところで、さう大がかりな事を企てるのではない。短く表現するならば少年少女をして、自由に疑問を出させることであり、それに出來るだけ適切に答へようとすることである。古い教員に一番つらからうと思ふことは、それはまだ知らぬといふ返事をすることであらうが、それだけは此際考へなほさなくてはならぬ。日本のやうな久しい國の歴史のやうな複雜な學問に於て、いくら先生にでも答へられぬ部分が、有るといふことは聊かも不思議でない。
是は寧ろ先生でさへもさアと謂つた、今から一しよに調べて見ようと謂はれたと思つて生徒の知識慾にはずみを持たせるやうに仕向けるのに都合のよい機會であり、同時に我々の研究にとつても必要なる刺戟なのだが、實際のところ、子供はめつたにさう痛切な、當惑するやうな質疑を投げ掛ける者でない。或は思ひちがひや表現の不能によつて、下手な問ひ方もすれば、又問ふことの丸で出來ない者も多からう。それを誘導して追々に、求めよ與へられむの體驗(386)を積ましめることは、たとへ一年の所得としては僅かでも、一生の間にはどれほど大きな利益であるか測られない。
もと/\是だけの永い歴史を、こんな短い期間に一通り、教へ込まうとしたことが無理であつた。おまけに身に添うた質疑を封じ、聽き馴れぬ名前や年月を記憶させようとする爲に、少しの例外を除けば大抵の少年はこの科目を負擔とし、試驗でもすむとすぐに片付けてしまつて、再び續けようとする者が無いのである。
要項の趣旨は最少限度、是だけは必ずといふまでゝあつたらうが、事實是より以上の補給を受けず、又その需要も無い人ばかりが、非常に數多く世の中へ出て働いて居る。さうして歴史を普通教育に編入した當初の計畫と全く逆な效果が現はれて居るのである。むだといふ以上に大變な損であつた。今度は何としても改めずには居られまいと思ふ。
○
もう詳しく自分の改良案を述べる時間が無いが、第一には教科書は暫らく罷めた方がよからうかと思つて居る。教師には十分な參考書を生徒にも地圖とか年表とか人名索引とか、獨りで調べられる材料を豐かに供與して暗記の勞苦を濟ふのはよいが、是だけは覺えて置けといふ本などは無い方がよい。もと/\知識を限定しようとしたことが誤りだつたのだから、それに終符を打つ意味で、一旦は本無しに教へさせて見たい。
さうすれば歴史の讀物は必然に多くなるであらうから、後々は其中から特に教へようと思ふものを教師が選み、又は少年をして自ら問題を探きしむるもよいかと思ふ。要は我々がもう判つたとして居る事蹟の中に、實はまだ説明の出來ぬものが多く、しかも知らうと思へば追々に知る見込の有ることを認めしめるのを、第一次の教育の主眼としたいのである。
歴史が非常に大きな學問であり殊に我邦ではまだ/\大きくなる將來をもつて居ることをさとらしめるのに、學校はよい機會であり又有效なる方法でもあつて、それが徒らに美しい夢、成り難き願ひであつては相すまぬが人が年を(387)取つて後まで、國の歴史を見棄てぬやうにさへなれば必然にこの二つの事實は實證せられることゝ信ずる。
○
古い過去ばかりを追かけて何にするかといふ者の、現はれて來ることは想像せられるが、歴史は實際は現在の疑惑を釋き、又は今後の計畫に資する爲にしか今までとても用ゐられて居ないのである。中にはわざと尻尾を切り又は裾の方をぼかし古代の事ばかりを強調した者もあつたか知らぬが、聽く者の側では今も其通り、變つてしまふ筈が無いと、ごまかされたのであらうが、ともかくも是を今日に續くもののやうに思つて居たのである。
近年の日本人には過去を引離して考へて見るやうな餘裕は甚だ乏しかつた。それを爲し得たのは少數の專門家だけであつたが、それさへ時には高い處から降りて來て現代の問題に口を出さうとして居た。其中には日頃の立場のちがふだけに意外に新しい構想の種を供し、我々の希望を豐かにし、又は少くとも眼前の世の憂ひを暫しは紛れるやうな樂しさを、もたらすものゝ有つたことは事實であるが、もう今日となつてはさういふ外部のものが、入つて働く餘地は殆と無くなつた。それほどにも現代人は多事であり、社會は大小色々の、現在の疑惑を以て充ち溢れて居る。
何故に日本は敗れたかといふ樣な、百年かゝつてもなほ原因の算へきれさうもない問題から、やゝわかりやすい飢餓の繼續、乃至は同胞も面を背ける如き、恥と節制との放棄など、どうして斯うなのだらうと言はずには居られぬことが山と有つて、歴史の概念も持たない小さな子供までが、擧つて其原因を此國の過去世に、求めようとして居るのである。學問の本筋から見たら、教育はたゞ一つの應用と言へるかも知れない。しかしこの用途が有つたればこそ、史學は夙に起り、又次々と榮えて來たのである。
今後も恐らくは是等現實の疑問を、それこそ徹底的に處理しようとする誠意一つに因つて、是を國民總體の爲に、最も有用なる學問とすることが出來るであらう。
(388) ○
因果の法則を認めない歴史家といふものは、一人も無かつたらうと思ふにも拘らず、今まではとかくに答へを用意せぬ質問をいやがり、しかも其不審を散じ得ぬことを一向に氣にかけなかつたのは、他にも理由は有らうが、主として教材限定の結果と見られる。
いよ/\其限定の撤却せられた今日、再び其代りに若干の新要項をさし替へるやうなことは、いはゆる教育の民主化の爲に、絶對に之を避けなければならぬ。改むべきものは今までの方式であつて、僅か一年や二年の限りある時間の中に學びをふやせるやうな簡單な知識ではないことを、印象づけることが先づ急務である。
それから第二段には問ひ方さへよければ結局は必ず答へられるといふこと、今は一見不可能のやうに見える疑問でも、いつかは明瞭に解説し得られる時が來るといふことを、體驗させてから世に出すといふのも大きなことである。無論順序もありまだ早いといふ問題もあらうが、それも整理により分類によつて、大よそは少年の進んで來る自然の路といふものが、次第にわかるやうになつて、試みに彼等に代つて問を設けて見るといふことも出來さうに思はれる。是には仲に立つ者の私心の無いことが條件であるが、さういふ點までは私は危ぶんで居ない。
○
それよりも大切なことは、出來るだけ多くの原因探求に、應じ得られるやうな準備である。私の見た所では、我邦の史學の弱點は、史料の貯藏がまだ至つて乏しく、しかも一方に偏して居ることであるが、是はいふ迄も無く文書の過重、又方法の狹隘に基づくのである。
今日の世相の基底を爲すもの即ち第一次の原因の所在といふものは、大體に室町中期、宗祇、宗長等の盛んに京華(389)の文物を運搬した頃から後と思はれるのに、この近世史は大部分が檢定史學からは除外せられて居る。地方生活の充實も其頃から始まり、是が又新らしい都市の構造をも左右して居るのだが田舍はたゞ文書記録の乏しいばかりに看過せられて居た。しかも今日私たちの仲間がそれを歎かはしい傾向とも見て居ないのは、極めて容易に此現?を利用して、史學の新生面を開くことが出來るからである。
目下計畫せられて居る分類民俗語彙、又は近世諸家日記の刊行の如きは一朝にして史學の採訪範圍を、久しく省みられなかつた國内の隅々又は微細の生活相にまで擴張しようとして居る。事實と問題とは此爲に急激に増加し、多くの答へ能はざりし常民の疑問も、やがては疑問で無くなる時が期待せられる。微力言ふにも足らざる者の孤立の憂慮すらも、なほ改革の端緒をなすやうな時代は來て居るのである。發奮しなければならない。
(390) 一つの歴史科教案
國民學校の歴史科はもうやがて再開せられさうなのに、原理の論見たやうなものが幾つも出て居て、それも中々歸一しさうに見えない。國家が今度も亦全國劃一の方式を制定するのだつたら、言つてもむだだから自分は黙つて居るが、事實恐らくは或程度までの自由裁量を、地方なり又は個々の學校なりに委ねないではこの過渡期は通られない。それが又兼々我々の考へて居る教へ方を、試みるのによい機會のやうにも思はれる。出來る限り單純且つ率直に、自分なら斯うするのだがといふことを言つて見よう。假に一箇處でも之を採用することが出來なくとも、斯ういふ案も有るといふことは參考になるであらう。のみならず是は又一つの豫言として、十年の後に保存せられ得る。日本の歴史教育は、結局斯うならずには居ないといふことを、私は今からもう信じて居るのである。
○
父兄の意見といふものが、此頃はもうよほど普通教育の方針決定の上に、參酌せられて居るやうに思つて居た人もあるらしいが其想像は肝要な點でまちがつて居た。以前少しでもこの問題に口を出したのは、まづ全部が上の學校へ進む子供の父兄であつた。六年の義務教育をすませば、すぐにも人生へ出てしまはうとする大多數の兒童の家では今まで何一つ注文を付けず、是からも多分は任せきりにしようとするだらう。誰か彼等に代つて口を利いてやる人が無くてはならなかつたのである。歴史を十一二歳の童兒に教へるといふことは、新らしい事業であり又容易でない事業(391)でもある。どうせ中等學校に行つてもう一度、授けるものときまつて居るならば、或はこの様な重複は避ける方がよかつたのである。目的は寧ろ學校を初等科で切上げて、それからは實地と自修とに移つて行かうとする者の爲であつたことは明かである。さういふ行路を選ぶ者は是からもなほ少なくは有るまい。たとへ彼等の父兄は氣にしなくとも、やはり主として斯ういふ人達の立場より、方法の適否を考へて見なければならぬものであつた。
○
始めるとすれば早い方が却つてよからうかと思ふ。出來ることなれば、私は三學年からにして見たい。其理由は三つ、一つはなるべく促迫を加へず、いはゆる詰込主義の殘虐から脱却させんが爲、第二には小さな子の物の起りを尋ねたがる自然の好奇心を役に立たせる爲で、試驗々々でいい加減知識慾の萎びた頃に、斯んな面倒な仕事を始めたのは、わざと無效果を期して居たとしか思へない。第三には是を新らしい國語教育、即ち人の話をよく聽分ける練習に間接に利用する便宜があるからで、兒童の話言葉の能力の展開には、第三學年の邊が一つの堺目らしく、自分などは思つて居るのである。文部當局はどういふ所存でか、國語は國語、歴史は歴史といふやうに、今までは科目を嚴密に區ぎり、そのくせ實際は殆と皆讀方教科書の域を出て居なかつた。生徒は文字を暗記する以外に別に覺えたり感じたりして居たやうに見えない。つまらぬ重複だつたと思ふが、畢竟は目的をはつきりと、又具體的にして居なかつたからである。國語は大切だからどの科目と複合してもよいが、歴史を教へるからには何の爲に、如何なる目途を以て教へるのかといふことを、始終念頭に置いてかゝることは必要であつた。其目標さへ見失はなければ、國語は勿論、數學でも地誌でもはた道義觀でも、今は其時間で無いからなどと排除するには及ばぬのである。專門教育でも無いものが今まであの樣に割據を能として居たのは、まことに理由の無い形式萬能であつた。
(392) ○
そんなら歴史は何の爲に、國民學校の初等教育に入れて教へるのか。是に關する答へは今日は既に區々であつて、中には宗教學校で先づ神を認めしめると同樣に、一つの見解を初一念に注ぎ込まうとする者も有るのだが、それを今日の際に於て許したら、少なくとも民主的とは言へない。何となればその點が我々の同心協力して、是から新たにきめて行かねばならぬものだからである。如何なる歩み方をして國が進んで行くことが、日本に許されたる又は可能なる、同時に最も願はしき民主主義であるのかは、早くきめたいけれどまだ中々決し難いであらう。一旦きめても修正は免れぬであらう。一代で成し遂げ得るとも受合はれぬので、それで現代の學童をよく育てゝ置くことが、常の場合よりも一段と大切なのである。國論のすでに定まつて居る國の教へ方を、眞似ては居られぬ理由も茲に在るし、又我々の目的を、少しも後暗いものにしては置かれぬ理由が、この際は殊に痛切でもあるのである。明白なる歴史教育の目的は、正しい判斷をなし得る日本人を、出來るならば全部、さうで無くとも些しでも數多く養ひ立てゝ置くことでそれが又歴史始まつて以來の本然の任務でもあつたのだが前には只一部の人だけに、其學問を利用させて居たばかりに、恩惠が國總體に及ばなかつたのみか、折々は濫用の弊があつたのである。兒童は是から追々に觀察の方法を學ぶべきものであつて、どの點から見ても現在の正しい批評者で有り得ない。その所謂白紙?態を奇貨として、國は又は社會は斯く見るべきものだと教へ、斯く判斷したのが正しいのだと言つて聽かせた結果が、終に浩歎すべき今日の悲運を招いたことは、餘りにも生々しい我々の經驗なのである。悔いても及ばぬが是からは警戒しなければならぬ。さうして其反對に囚はれざる自由なる判斷を、一人前になつた後に十分に下し得るやうに、極力準備しなければならぬのである。人の經驗の次々の蓄積が、未來の判斷の有力な參考になることは、兒童と雖も異なる所は無い。たゞ彼等の行動の世界は狹い故に、傳授の必要がまだ至つて少ないだけである。愈々人生の荒波の中に漕ぎ出して、右に左に(393)自分の針路を定めようとする場合に、始めて前人の經驗したものを、正確に學び取る必要が生ずるのであつて、もしも昔のやうな餘裕の多い生活であつたならば、歴史はもう少し年を取つてから覺えた方が身になつたかも知れない。たゞさういふ機會を逃しさうな人の爲に、やゝ早期に與へて置く歴史教育である以上、それに相應した用意が無くてはならぬ。是だけ知つて居ればもう宜しいといふ、考へをもたすことが既に不當であつた。まして取捨判別の力のまだ備はらぬ者に、わざ/\一種の先入主を作らしめようとしたことは、豫め人の獨立心を奪ふものであつた。是からは是非ともそれを禁止しなければならない。しかしさうして見たところで、結局は周圍の感化があつて、大きくなる迄には色が付いてしまふといふ者があらうが、是は事實であるから致し方はあるまい。教育はさういふ色々の場合を假定して、右からも左からも、つゝかひ棒をするといふわけには行かぬ。寧ろ夙いうちに都市の癖と村の癖、人は自分の確信にも基づかずして、他人の言ふこと、することにかぶれるやうな弱點があるものだといふことを、知らしめて置くといふのも歴史教育の一つの仕事だらうと思ふ。
○
さて愈々新らしい歴史教育に取掛らうとするに當つて、最初に解決して置かなければならぬ實際問題は教科書である。樂をしたがる人にはやゝ迷惑かも知れぬが、教科書は無い方がよいといふのが私の意見である。少なくとも他日斯ういふ教科書なら有つてもよいといふことに決するまで今暫らくは無しに教へて見てはどうかと思ふ。不吉な豫言をするやうで相すまぬけれども、長く役に立つ教科書などは、今日はちよつと出來さうにも無いからである。尤も一方に親切周到なる教師用本を供與し、又成るべく多くの參考書を、手に入りやすくすることは望ましく、更に教室用としては地圖や年表、生徒にも使へるやうな人名地名の索引、傳説や事記の類は是からも世話を燒いて、手頃のものが幾つでも、新たに出版せられるやうにすべきであらうが何を教へるかに就いては土地の事情、又は教へる人の考へ(394)によつて、よその眞似をせずに之を決定し、それも結局は生徒自身の希望にも、それを汲取ることが六つかしければ努めて彼等の興味をもつことを標的に置くべきであらう。相手構はずに教授項目を選定し、おまけに必ず年代順に竝べて見せなければならぬとした爲に、素朴の世の事蹟は共鳴しにくゝ、それを強ひて印象深く説かうとすれば、歴史とも言へない教へ方をしなければならなかつたのである。しかし解説は或は行き過ぎて居たかも知れぬが、此等の項目の選擇には、偏頗があつたとまでは私は考へない。いつの世になつて囘願しても、何れも注意してよい大きな事實ばかりであり、從つて斯ういふ問題に觸れないで、國史の教科書を書くといふことは不可能に近い。改めなければならぬと思ふ點は、是よりももつと外の方に在る。斯ういふ事柄さへ覺えて置けば、それで一通り歴史の教育はすんだやうな、まちがつた考へを抱く者を多くし、こちらも亦そんな氣持で、こゝばかりに力を入れて居たことがいけなかつたのである。國が古くなり文字の利用が久しければ、歴史の分量が多くて整理利用が行屆かず、それが國民學校の僅かばかりの時間で、教へ盡せぬのは當り前の話である。このさきまだ無限の新らしい知識、殊にめい/\の生活と交渉のある事實が、段々と明かになつて來さうだと感じさせてこそ、是を子供のうちから授けて置く甲斐はあつた。然るに今までは寧ろ正反對に、たとへ大事なことにもせよほんの少しの片端を全體のやうに思はせ、それも餘りに實際から懸離れたことを、それこそ有無を言はせずに記憶させようとして居たのである。繪とかお話とかの外からの刺戟があつて、特に興味をもつて居る少數の兒童の外は、大抵はいはゆる勉強を以て取附いて居るばかりで、試驗でもすめばもう問題にせず、この大切な知識の應用はさておき是を自分たちの長い一生と、どれ程の關係が有るかをすら考へない者が多くなつた。折角與へられた一つの機會を、寧ろ此學間が嫌ひになる原因にした感じが有る。自然にまかせて置いたら恐らく斯うはならなかつたらうし、今までの方法をもし續けて居たら、どんなに教科書を書き改めて見ても、尚且つ教材の偏つた選擇は免れないであらう。もし是非とも全國統一の教科書がほしいといふならば、其前に今一度、どういふ目的を以て歴史を國民學校で教へるのかを、考へて見ることが必要では無からうか。
(395) ○
こゝまで書いて來てから、自分は暫らく筆をさしおいて幾つかの最近の雜誌に、歴史教育の理論を説いて居るものを讀んで見た。六つかしくて多くは呑込めなかつたけれども大體の感じは今私の抱いて居る意見に、眞向から反對しようとする者があまり無ささうだといふことであつた。それを知りつゝなほ念入りに説き立てることは、むだでもあらうし又政治家じみても居る。そこで出來るだけむき出しに自分の案といふものを掲げ、理由又は動機は疑ふ人が有つてから、その疑ひの點を參考にして、改めてやゝ細かく述べることにきめ、今はやゝ自由に、斯うしてはどうかを説いて見ることにする。
○
私の案といふのは第一に教科書を使はぬこと、二つには第三學年から始めてはどうかといふことで、この二點は前段にすでに擧げた。三年は見込によつては四年からでもよいが、要するに是まで久しく試みられて居る郷土地理といふものを、丸々歴史科と遊離した教育とせぬ爲に、後者をいはゆる倒敍式に、今から段々と前代へ登つて行く形で、教へて見たいのである。地理は一通り自然地理と併行してでないと覺えにくゝ、是にはやゝ六つかしい算數能力を前提とするから、教へるにしても出來るだけ遲い方がよい。こゝでは單にその下ごしらへの意味で、言はゞ歴史の入れ物として、邑里山川道路を注意させて置く位でちやうどよいかと思ふ。名稱はどうでも構はぬやうなものだが、自分などはレキシを親しみの深い言葉にして置きたい望みから少しでも早く之を使はせ、郷土科などは之に合併させたいのである。そんなに早く始めては時間があまると、思ふ人があるかも知れぬが、あまつて困るほど十分な教へ方をして居たわけでも無く、又之を振替へて他に使ふとすれば、五年六年の國語の時間などは、まだ/\いくら有つても足(396)らぬかと思ふ。要するに一科毎に目的を區切つて脇目も振らぬやうにして居たのがつまらなかつたので、歴史の時間で國語を覺えさせてもよく、又その反對であつてもよいと思ふ。地理なども國民學校で教へる位のことは、歴史のついでにも知られることであり、又は都合によつては地理の名に於て、重複せぬやうな補習をさせてもよいのである。
○
そこで具體的な方法としては、學校では先づ町村の地圖を作つて置いて、學年の第一時間に一枚づゝ之を學童に給與することにする。一度こしらへて置けば暫らくは使へるだらうから、大きな費用ではあるまい。此地圖には成るたけ中央に學校の位置、それへ通じて居る大小の道路だけは書き入れる。紙の大きさ又は教員の勞苦が之を許すならば其道路に沿うて各住宅を、○か□かで入れて置く。地形は原版には水の流れと池と、ざつとした高低線ぐらゐを表示しただけでよからう。
最初に之を見せて何かわからぬことがあつたら聽いてごらんと言つて見る。是を私は學童の物を問ふ練習にしたいのである。是は地圖といふものだ。この村又は町の在り方を紙の上に寫したものだと謂つて、先づ表現といふものゝ概念を與へてもよい。それが丸きり考へつかぬ兒が、何%あるかはよい實驗だが、多分兄姉からすぐ學んで、判らぬといふ兒が少なくなつて却つて困るであらう。
方角といふことは是ではつきりと教へることが出來る。距離が割合次第のものだといふことは口で説くよりは此方がずつと頭に入りやすいかと思ふ。是は引つゞき時の間隔を説くときに、類推せしめねばならぬ大切な知識だから或はやゝ念入りに言つて聽かせる必要があるかも知れない。それが大よそわかつて來たのを見すまして、さて君たちは何處から來る。自分の家はどれだと問ひ、又はうちの在る處にしるしを附けて見よと謂つて、皆と一緒にそれが正しいかどうかを點檢する。是が教師の方から出して見せる最も適切な疑問の第一例で、答へには正しいもの、正しくな(397)いものが有り得るといふことを、體驗せしめるに最も好い機會である。
○
是だけは或は一時間では足るまい。三時間までは是にかけてもよからう。地圖は長く使ふものだから無くなさぬやうに、又汚さぬやうに袋でもこしらへよと勸めてもよい。この次は何かこの地圖の中に、まちがつて居るところは無いか、氣がついた者は言つてごらんと言つて見る。あゝさう/\お寺が拔けて居た。あんまり山の中だから。又はお宮やお堂は人がふだん居ないから入れなかつた。入れた方がたしかによいねと言つて入れることなどがあつてもよい。あんまり小さな路や溝は、先生も知らなかつたものもある。そんなら行つて見ようと天氣のよい日に、見に行くなどといふことは好記念になり、又話方のよい機會にもなるであらう。正確といふことを覺えさせる爲に、斯ういふ訂正は輕く取扱はぬ方がよいと思ふ。
或は兒童の印象として、無くてはならぬといふものが落ちて居るかも知れぬ。さういふことを知るのは成人にもよい學問である。たとへば路の傍に毎日見て通る石造記念物又は土地で名の高い老樹名木がなぜ出て居ないか。それは説明してもよし又は許すならば其學級の名を以て是からは入れて置くことに改めてもよからう。
新たに調べて見る必要を感じさせることも、地圖利用の一つの利益になる。全部には行渡らずとも或二人又は三人の兒童に、互ひに家の在る部落の字を言はせて見て、境があるといふことを心付かせるのもよい。斯ういふことは大人でも知らずに居る人が多いが、家がさう離れて居ないで土地の名がちがふとすれば、その中問には必ず境の線があるので、それは實地に就いて尋ねて見れば、はつきりと判つて來るにきまつて居る。人はいつもさういふ風に、尋ねたら判ることと、時々はまだ知らずに居るものだと、口で事々しく言はないで皆に考へさせ、正しい地圖といふものは大抵は其境をはつきりと示して居るものだといふことを説く爲に、町村別又は府縣別の地圖などを出して見せるの(398)もよからう。
○
境の概念は應用の非常に廣いものだが、現在までは是をやゝ大きくなつてから、自修させて居た。以前の自ら守るべき社合では、或は小兒を地境につれて行つて、そこで手ひどく尻を打つたなどゝいふ、をかしな昔話までが傳はつて居る。自他のけぢめを一度は考へさせなければならぬとすると、寧ろ斯ういふ無我とも呼ばれる時期に、始めて置いた方がよいのである。
私などの經驗では、子供の知識欲はいつも一つの線に沿うて伸びるやうである。さうして向ふの端といふものは大きな好奇心を持つて居るらしい。歴史を教へるには、この自然の傾向は利用し得られる。たとへば此流れはどこへ行く。境を出てから幾らほどの距離で、もつと大きな何といふ川に合し、流れ/\てしまひには海といふことを、説いて聽かせて置くならば、海の繪を見る時にも感じはちがふであらうし、又は或山陰の僅かな清水が、いつしか大川に導かれるといふことを心づくなども、時といふ無形の流れを、理解する上に大きな役に立つのである。道路が目的無しにたゞ長々と横たはつて居るものでないことを説くのにそこを通つて行く大小の車馬、それが 各々行く先をもつて居ることに心付けば、めつたに土地を離れない兒童でも、よそといふものが大體に同じ條件の下に存在することをさまで詳しい説明を要せずに、常識として收得することであらう。地理を教へるといふ心持のみを以て、是等の知識を注ぎ込まうとするのは誤りだと思ふ。是は一つの社會、一つの時代といふことを、最も簡單に意識せしむる手段であつて、學問としては寧ろ歴史の系列に屬し、その大切なる基礎を爲すものであつた。
(399) ○
さて段々説明が長くなり、到底一篇の文章には盡し難いことがわかつたが、自分の目ざす所は斯ういふ方法の幾通りもの試みによつて、出來るだけ言つて聽かす言葉を少なく、子供が自ら心づくことを多くしたいといふ願ひで、それは何囘かの模樣替への後、少しづつの順序のちがひによつて、存外容易に效を奏するかと思つて居る。成功と目してよいのは、鈍い無口な生徒までが、自然にめい/\の疑問を持つて來ることゝ、それが彼等の心から出たものであつて、しかも我々の是非答へてやりたいやうな、適切なものになつて來ることである。中にはこちらから水を向け、もしくは代つて提出してやりたいものも有るか知らぬが、何年かの後には斯ういふ疑問もあつたといふ記録がたまつて來て、末には却つて我々に道筋を示すことにならうかと思ふ。
以前の邑里の生活に於て、最も精確を期し難かつたのは時の長さに付いての觀念であつたが、是は何とかして教へて置く必要がある。或は道路の開通などによつて、説明してやるのが便利かも知れぬ。近い頃造つたものは年代もはつきりと知られて居て、大抵は社會の大きな必要に基づくことがわかるに反して、他の多くのものは一括して、元からあつたと謂つて居るけれども、是とても記録が備はらぬといふのみで、一度に出來た氣づかひは無く、少し氣をつけて見ればその順序もわかるものだといふことを、あら方は理解せしめて、通例一口にむかァしと謂つて居るものに大へんな間隔があることだけは、成るべく早くから聽かせて置く必要がある。大水で崩れたとか、峠を人が通らなくなつたとか、いふやうな話も村々には多い。時は何物をも變化させるといふことも、この方面からならば子供にも心付かせやすいかと思ふ。
(400) ○
前から兒童には祖父母の小さかつた頃といふのが、過去への關心の一つの焦點であつた。それが父母の學校へ上つた時分、時には君たちのちやうど生れた前後にとまで、いふべき問題がもう出來て居る。近世史を細かく段階づけなかつたことが我々どもにも大きな損であり、子供には殊に自然でなかつた。今度は其點が必ず改良せられることゝ豫期して居る。百年といへば、もとはさう永い期間でも無かつたのだが、日本に取つては是が國運を二變三變させて居る。變つて又變つた中間のものが忘れられ、又は少なくとも輕視せられようとして居る。他日必要と思へばたやすく尋ねるやうに、過程といふものゝ存在に注意するだけの、習性は付與してやらねばならぬ。變化の實例は毎日の生産方面にも又は尋常家内の現象にも、拾ひ切れぬほど數が多いが、之を一括して只何もかも改まつたといふ概念をもたせることは不利だと思ふ。幸ひに兒童の例示を好む傾きを利用して、たま/\興味をもつべき幾つかを擧げ、其他にまだ幾らでもといふ印象を受けさせたい、さうしなければならぬ理由は説明にも及ぶまいが、個々の變遷は?々時を異にして又態樣を同じくせず、それを一つ/\見て行くべき必要が人の一生には多いからである。今まで我々が元のまゝ、昔の通りと謂つて居る事物にも、よく見ると古今の差あり、名や形は傳へて内容のやゝちがへたものも多い。古いといふものにもなほ其以前があることは、米や酒などの如き有りふれたものにも見出される。それを一つ殘らず綜合し得ないことは、決して學童のみの弱味では無いのである。歴史は要するに人の一生涯の需要であり、普通教育に期待し得るものはその片端にも足りない。是で一通りは教へて置いたといふ積りで居た結果が、何としても申し譯の無い現今の大破綻であらうと私は認めて居る。
(401) ○
現在の生活疑問は、大小に拘らず、近世史によつて一通りの解釋が付くといふものが多いのであらう。しかも其理由となるものも、すべては皆過去に於ける事實事態であつてそれにも發現の時があり又原因があつて、必ずしも少數者のよこしま、わたくしが之を爲し遂げたとは言はれず、或は其世としてはさうならずには居られなかつたのかも知れない。それを現在の立場から、又は寧ろ未來に向つての計畫から、同じことなら勢ひの窮まるまで待つて居らずに、次々と梶を取つて行くのが國民の正しい判斷なのである。指導者と稱して人よりも早く且つ鋭く、よき判斷を下す者は重んずべきだが、それに從ふか否かを決する者は個人でなければならぬ。學校は正しい取捨選擇の力を養ふべき處で、たゞすなほに長者の結論に附隨することを教へるのでは、是は取りも直さず今までの歴史教育法の踏襲である。そんな事をしてもらつては迷惑は自分ばかりで無い。そこで力の入れどころは、我々の今日して居ることが、他日再び惡い結果を招かぬかどうかを、檢査する力を養つて行くことである。それには一つ/\の心から發した疑問を支持して、それを學年と共に伸長させて行くやうに、稍々永い期間を掛ける方がよいのである。それ等の疑問の價値が個々平等であることは教へなければならぬが、同時に一國萬人に通用するものが、最も力強いといふことも知らしめる必要があらう。
教員は單なる傳達機關で無いときまると、彼等の職務が相應に骨の折れるものにならうが、その代りには又どの位樂しみが加はつて來るか知れない。世間も勿論あらゆる方法を以て彼等を助け、多くの效果多き資材を以て一家一人の埋もれたる生存が、末には國の成長と繋がり、更に世界の進運と結び付くことを、今まで自分の周圍しか見なかつた者に、體驗せしめ得るであらうと信ずる。よくも日本を知らぬ人々が、よからうといふやうな教科書などは、あつても格別邪魔にもなるまいが、そればかりを教へて暗記をさせて居たのでは歴史は愈々めい/\とは縁のうすい、大(402)きくなつてからもちつとも役に立たぬものと化し去り、しかも一國の史學は今よりも更に衰へてしまふだらう。さうはさせたくない故に、私たちはなは働かうとして居るのである。
(403) 新たなる統一へ
ことしは獨立のお祝ひにでもすべき年のやうに言つて騷いでゐる人さへあるのに、何だつてまた、かう際限もなくよその國の眞似ばかりするのであらうか。昔は戰にまけると泣きながらでも風俗を改めさせられたことがあつたらしいが、今囘の占領方針などは全くの型變りで、何でもめい/\の好み通りに、自由に活きて行つてよいといふことになつてゐたのに、進んでこちらから無二無三に、眞似てまね拔かうとしてゐるのだから踏切りがつかない。これではどうしても今一度、獨立とはそも/\何であるか、國が如何なる?態にあることを意味するのか、といふ問題を出して答へをさせて見るより他あるまい。
昔も政治家が採長補短などと稱しつゝ、よその出來上つた文物制度を運び込み、考案創意の勞を助からうとした場合は多かつた。その道にかけては日本は名取りの國であつたが、今から振返つてみると餘計な囘り道、または行き過ぎ後もどりの例も少なしとせず、たま/\成功したやうに見えるのも實は隱れて大きな代償を拂つてゐるものがあつた。國の容姿を一變するほどの重大な選擇でも、通例はわづかな人の手で斷行せられこれを嘆いたり、うらんだりするものが若干はあつたとしても、いつの間にか消えて無くなつて子孫も殘さず、ふたたびまた次の平面を作りあげてしまふのが、多くの國々の歴史であつた。變れば必ず「改良」といふ迷信は、少なくとも日本ではもう通用しない。むだと失敗と犧牲とを出來るだけ小さくするやうに、ここで民衆の判斷力といふものを養成してかゝる必要があり、それにははなはだ遠いやうだが、やはり小中學枚の教育に進路を求めるの他は無いかと思ふ。
(404) 手近なしかも棄てゝ置けない問題は、消費過度の傾向であらう。國の生産總力とのつり合ひをちつとも考へずに、今のまゝのおごりを一般にすることは、出來もせず、もし出來たならば短期間の破滅であらう。それを承知の上で許さるゝ者の限りが、かゝる愚かな浪費を競ふといふことは、さきが見えてゐるだけに、これは個人自由の範圍とは認められない。惡人の侵撃は戰場よりも慘虐であり、腐敗吏員とそれに近い者の身の上話は、新聞の半面を埋め、その殘りの半分は衣食の最小限度をすらも保障してもらへないで、どし/\消えて行く者の號泣の聲である。これが昭和二十七年の「獨立」によつて、果して十分の一でも少なくし得る希望が有るのであらうか。
節儉と簡素とは上下を通じての、人の美コであつた時代もあるのだが、それを政策が支持し利用するやうになつたことから、かへつて自分等だけは例外といふ階級が生れて來た。これに對する反感がまづこの制約を破らうとする者を多くし、次には今日のごとくこれを口にする者を舊弊とし、いはゆる封建時代のいやしむべき殘留であるかのごとく思ふ者ばかりが表面に立つて、背後で苦しむ者を構はなくなつたので、つまりは民衆の判斷力の衰弱といつてよい。しかし一方にむやみに物の多く出來る國、どんなに粗末にしてもまだ餘つてゐるといふやうな國の人が來て、樂しく生活して見せてくれなかつたら、かうまで夢中になつて浪費をしなかつたらうことを考へると、これもまた後先を考へない模倣であつた。この以外にも日本を一つの觀光國にして、それからも少しはかせがうといふ類のうらさびしい幾つかの政策が手傳つて、おごりは敵どころか樣々と呼ぶべき福の神であり、萬人ことごとくこちらの岸へ渡つて來ればいゝぢやないかと思つてでもゐるらしく見えるが、數字は正直だからいつの世になつてもそんな算術は出て來ない。結局は一番やかましい連中だけを引入れて、あとの殘りは枯れよ、くちよといふやうな、至つて原始的な生物群と同じ存在を續けさせる氣ではなからうか。
以前も人生をもつと明るく、少なくとも今ある憂苦と不安とを脱出するために、己れを空しうして働いてくれた大小の義人が何度か出て來た。彼等は最初から周圍の信任を得てをり、または一切を自分に任せてくれと公言し得るだ(405)けの良心をもつてゐた。かりに危ぶむ者が少々はあつても、然らばどうするといふ第二の策は無く、ついて行くより他はなかつたので、たまには失敗の經驗があるにもかゝはらず大抵の場合には皆一致した。つまりは中心の人物が本ものゝ義人であつたのと、一度にたつた一人しか出現しなかつたことゝが、たま/\幸福な結果を導き得たのである。ところが現代の不幸はちやうど正反對に、五人も七人もの自分のみが正しいといふ者が一時に現れて指導しようとするのである。それを古い時代のまゝの大勢順應主義によつて、みんなの行く方角へ進んで見ようとするのである。ボスのゑじきとならずんばよほどの好運といつてよい。
國に賢明なる政治を行はしめようとするには、賢明な政治家を選ぶより他に途はない。各自の判斷のたゞ一票は心細いが、それが自然に集まつて一人に歸するやうだつたら、まづは千萬圓を當落の目安とするやうな淺ましい標語はなくなるだらう。小中學校の國語教育で、つひに教へられずにしまつたやうな、むつかしくて判らぬ言葉で演説を打つても、いや聲がよいの、態度が堂々としてゐるのまたは地位がある、經歴があるといふ類のくだらぬ評判で投票を申し合せるやうだつたら、消費職業者の暗々裏の力は、これからもなほ分配を混亂させ、いはゆる闘爭力の強い團體だけに、生活の權利を主張させて、殘りは今以上の苦しい生活を強ひられることになるであらう。義務教育の六年三年を經て來た者は、あんたの言ふことは判らぬと、堂々と言ひ切るだけの權利を認められなければならぬ。學校でもまたその覺悟を以て教へなければならぬ。さうすれば終ひには國語の表現はずつと平易になり、文人以外には氣どつた口をきく者はなくなつてしまふだらう。
今日の教へ方で進んで行つてよいとは決して思はぬが、大體にこれから世に立つ人々に、こゝで覺えさせて置かないと、もう機會はないといふものだけは落さぬやうにすること、それが私たちの念願であり、成るべくは學童の全部を通じて、疑ひかつ知りたがつてゐる方向を追つて行きたいとも思つてゐる。學者先生の間には、積み貯へられてゐる知識は無量であらうが、それが民衆の間に入つて行く形は片より、またとび/\で、しかも證明の方も粗略である。(406)選擧に限らず、これからの日本人が公人として判断すべき場合に、それを誤らしめる最大の危険は、確實なる知識の缺乏であり、それが過去においても歴史を悲慘にする主要なる原因であつたことを考へると、學者が日本の再建に寄與すべき事業は、特にこの方面に多いやうにわれ/\の仲間では感じてゐる。
(409) 中農養成策
明治も三十七年となりぬ、而して我が農界は如何、吾人の希望は毎に年と共に新なるにも拘はらず、一たび舊年の經過を囘想するときは、猶多少悔恨不安の念無き能はず、蓋し一時の經濟事情に由りて輕々しく農業の未來を悲觀し、國民をして轉じて力を他の方面に用ゐしめんとする者の如きは、固より共に日本の農政を談ずるに足らざるなり、然れども大に改革すべくして少しく改良し、大に進歩すべくして僅に退歩を免がれたるのみなるに、「猶全く無きに優れり」と稱して、自ら滿足し他を慰めんとする者あらば、亦未だ國家の爲に憂ひて最も忠實なる人とは稱すべからず。
嗚呼吾人が見聞する現在の事實は、何ぞ歴史と化し去ることのしか速かなるや、一昨年の春は支那米輸出解禁の風評起りて、端なく經濟界の一問題を爲せり、吾人は少からざる注意を以て世論の歸する所を觀察せしに、本邦の穀作者が之に因りて有害の影響を被ふるべしといふことは、略々之を爭ふ者無かりしにも拘はらず、當初數萬の杞憂家は、我が政府が解禁の提議を中止したるを見て先づ一安心し、次で支那米は差當り輸出せらるゝ見込無しといふ報を傳ふるに及びて、更に大に安心せり、而して之と關聯して何人の想像にも浮ぶべき問題、即ち廉價なる外國農産物の多量の輸入に對しては如何なる貿易策を採るべきか、若し輸入防止税を課するとせば其税は獨乙の如く之を永久にかけ放しとして其結果は經濟界の自然の調攝に一任すべきか、或は又後年保護の效を奏して我が農民も對等の競爭を爲し得べき望ありや否やに至りては、凡べて他日を待ちて研究することゝなれり、然るに昨年に入りて更に吾人に喫せしむるに一痛棒を以てしたるは、北米合衆國米作地の報告なり、合衆國が亞然丁《アルジエンチン》其他の最新農國の爲に敗られて、最早雄(410)を歐洲の小麥市場に唱ふること能はず、因て其農界に一新局面を展開せんとすること、竝に其東洋貿易材料を増加改良せんとすることは、由來既に日有り、苟くも近世世界商業の一端を伺ひたる人にして、此報告を手にして能く平氣無頓着なる者有らんや、何ぞ期せんや此反響として吾人が聽き得るものは、唯到る處長嗟歎息の聲のみにして賊を看て索を綯ふの迂遠漢すらも未だ多くは現はれ來らざることを、今假に五年乃至八年の後なりとせん、品質中の上なる米國米が既に彼の國内市場に溢れ、一石八九圓の市價を以て所謂南京米を驅逐し、之に代りて陸續として神戸横濱の阜頭に陸揚せられんとき、日本の商人は能く愛國心の爲に、否愛農心の爲に之を拒絶して輸入者を失望せしむべきや、日本の農業は土地資本家の非常なる損失、力耕者の收支豫算の大混亂、肥料市場の大恐慌無しに之に應對することを得べきや、二分の一以上は年中貯水せる三百萬町の稻田を抱へて、所謂全國桑園論者の希望通りに、能く純然たる自由農業を營ましめ得べきや、或は又高率の海關税に由る禁止杜絶の方策を以て、唯一無二の防壁と爲して迄も現?維持を力め、而も雄辯なる多數の田口博士をして其口を閉ぢて永く語無からしめ得べきや、合衆國の米は或は風聲鶴唳なりと言ふ者あらん、然らば彼の小麥、麥粉は如何、東印度の米は如何、支那の大豆は如何、此等の輸入は近年増して又増さんとするものに非ずや、吾人は必しも有力なる農業保護説の天下に呼號せらるゝを欲するものに非ず、其説く所は問はず、唯假にも如上の數問題に對し一個の答をすら爲す者無きことを憾とするのみ。
吾人は固く信ず、我農界の先達指導者は其人無きに非ず、其數も亦決して少からず、然れども彼等は皆全國農民の輿望を擔ひ多數の憑頼し信依する所なり、故に其責任に對しても實行の容易ならざる劃策を爲し難く、其感化力より言ふも結果の未定なる提案を發表する能はず、其論や常に着實にして且つ平穩なり、假令時としては姑息なり彌縫策なりといふ惡口を被ふることあるも、猶其地位の爲に到底空想論を爲す能はざるなるべし、されば若し國に未來の憂ありて各人の之に對する意向は分岐し、時に或は解決に迷ふものあらば、先づ試に吾人年少の學徒をして其説を立てしむべきなり、書生は未だ重きを社會に爲さず、故に謬論を以て世人を誤に導くの虞なし、若し幸に策の稍々佳なる(411)ものあらば、之を修正補足して徐に世論と爲すべきのみ、而して請隗より始めよ、予は必しも鄙見を以て諸先輩の前に披陳するを恥とせざるなり。
舊國の農業の到底土地廣き新國のそれと競爭するに堪へずといふことは吾人が久しく耳にする所なり、之を自然の進行に放任するときは漸次絶滅に歸するを免れずといふことも、亦恐くは眞ならん、然れども之に對しては關税保護の外一の策なきかの如く考ふるは誤なり、況や日本の農業の如きは今尚多くの點に於て新國なり、何となれば未開の原野は此の如く多きなり、農法は此の如く幼稚なり、産物の種類は此の如く單純なり、農事法制には改良新設の餘地多く、專門教育も僅に其萌芽を現はせるに過ぎざるなり、此の如くにして既に老いたりと言はゞ、若隱居も亦甚しきものといふべし、此故に吾人は所謂農事の改良を以て最急の國是と爲せる現今の世論に對しては、極力雷同附和せんと欲するものなり、唯如何にせん其歩調の餘りに遲緩にして、新世界の進運に適應する能はざることを、而して此が原因を爲すものは何ぞ、吾人の見る所を以てすれば、改良法の向ふ所常に事物の末端表皮のみに止まり、更に根底を極めざるが爲にして、忌憚無く言はゞ亦彼の着實論者の責なり。
蓋し農業智議の發達普及は、我が經濟的日本にとりて、其存立繁榮の一大要件なることは、何人か之を疑ふべき、然れども今の農民の大多數は果して其餘力を以て之を務め之を計ることを得べきか、農學校の教育、農會の傳道は至らざる無しと雖、彼等の農場の規模は果して其結果を利用することを得べきものか、機關の完全なることは必しも奏效を意味するものに非ず、僅々三四反の田畑を占有して、半年の飯米に齷齪する細農の眼中には、市場も無く貿易も無し、唯其勞働の價無からんことを恐るゝのみ、何の暇ありてか世界の大勢に覺醒し、農事の改良の爲に奮起することを爲さん、されば種苗の撰擇の如き、害蟲の驅除の如き、其利害の結果の目前に顯著なるものすら、戸毎に之を説きて猶行はれず、官府の強力なる警察を以て之に臨むを要するもの、決して所以無しとせざるなり。
我國農地の面積の狹少にして農戸の數の甚多きことは、一朝一夕の現象には非ず、殊に近來地方の生活程度は増進(412)せるにも拘らず、田畑は更に増さずして農戸は稍々數を加へたり、大地主は全く自作を罷めて貸地を事とし、小作農は増加の傾あり、小農は愈々小となり少しく有りし中農は全く無くなりぬ、小農制の弊害は教科書に讓りて此には之を絮説せざるべし、然れども全國を擧げて過小の農場を以て充滿し、稍々豐なる資力の新農法を適用するに足るものあり、且つ改良の效果の發現に因りて次第に企業の熱心を誘促し、同時に一般の爲に先驅模範となるべき中以上の農場の、全然缺如せる我邦の現?の如きは、決して之を等閑に附し去ること能はず、或は小農にも幾分の利益の點無きに非ずと言ふものあれども、長處ある小農とは今少し大なる小農の事にして、日本の如き微細農を意味するものにあらず、且つ之と交錯して多少の大中農の存する場合に限るものならんと信ず。
酒勾農學博士は我國の細農制は誠に悲しむべき?態なれども到底人力を以て一時に之を變革する能はず、千百年間の自然の成行に任すの外致し方無しと言はれたり(中央農事報一六號農政所感)、吾人は尊崇する斯道大家の口より斯の如き斷論を聽くに至りては、非常に研究の勇氣の沮むもの無き能はずと雖、如何に考ふるも到底之を坐視するを得ざるを以て、猶一應中農養成の果して望無きか否かを究めんと欲す、予をして假令文辭に巧にして立論に精密ならしむるも、多數の同感者を求め難きことは固より期する所なり、況や散漫の説、駁撃批難は甘じて之を受けん、唯苦しむ所は讀者が排棄して之を顧みざるにあるのみ。
日本未來の農業に對する予が理想は今少し大膽なるものなり。予は我國農戸の全部をして少くも二町歩以上の田畑を持たしめたしと考ふ(但英米二國に所謂|家附耕地《ホオムステツド》は此限に在らず)此目的にして幸に達せんか、目下特に養成すべしとする中農も終には普通のものとなるべし、而して實に今の意見の如きは單に其第一着手のみ、別に奇拔なる説とも思はざるなり、然れども人は驚きて詰問を發するなるべし、日本の耕地は假令如何に開墾が進むとしても、今後三四百萬町歩を増加するに過ぎず、汝の案に從はゞ全國の農戸數は一農戸の平均面積を三町歩とすれば三百萬戸、四町歩とすれば二百二三十萬戸となるべし、大に今の農戸の數を減ぜざるべからざるを如何と、嗚呼是予が喜んで答へん(413)とする問題なり、農戸の減少は必しも悲しむべきことに非ず、耕地の面積が非常なる制限を被ぶれる我國の如きに在りては、悲しむべきは寧ろ其増加なり、五百萬町内外の田畑の上に四百萬戸以上の農家を住せしめ、其の年々の生産物を以て、地主を合せて三千萬人に近き人の生計を支へしめんとす、自然の成行とは言ひながら元來無理なる話なり、舊幕の時代には百姓をして或は絹布を用ゐしめず、或は酒宴を誡しめ又は成るべく粟稗麥の類を食ふべしと命令するが如き、驚くべき干渉に由りて辛うじて此?態を保つことを得たりしなれども、是れ到底新時代に於て行ひ得べきものに非ず、今普通の工場の職工又は大工左官其他の勞力者の生活を見るに、一年の問三百日以上の勞働を爲し且つ其子女も亦幾分の内職を爲すに非ざれば、安穩に其日を送ること能はず、稍々優等の勤勞によりて生活するものと雖、多くは衣食の爲に生涯の大部分を費すなり、小農も亦勞働を以て生活を爲す者なるに、彼等が占有する土地は何れも狹隘に失し、各戸二人乃至二人半の勞力すら、十分に之を適用すること能はず、尤作物生産期の關係もあり又雨雪の障碍も有れば、強ち都會の勞働者と同樣に論じ難けれども、兎に角一町や一町二反の田畑にては、假に悉く二毛作三毛作を爲し、又は同じ作物にも早中晩生を分ちて、出來る限り仕事の繰廻しを爲すとも、猶勞力の過剰あるを兎かれず、されば農業機械の適用や役畜の使用や、假令結構なるものなることは爭なしとしても其今の我國に普及せざるは決して不思議にあらず、さらぬだに農勞働の報酬は少きものなるに、此上土地の面積によりて著しく活動の制限を受くとせば、農民の奮發せざるも亦已むを得ざるなり。
副業奨勵の必要は現今の通説なり、所謂農閑を利用して所得の不足を補充せしむることは、最時勢に適するの考なり、然れども予をして直言せしめば、副業の種類の撰擇には愼重なる判斷を要す、副業は何處迄も副業ならざるべからず、自己の農場の生産物に加工して、其勞力の對價を收得し、同時に運賃を省き殘滓を留め、又は諸種の副産物を利用して收入の道を計るまでは誠に副業なり、されども農場に關係なき手工業、運送業其他の雜業は勿論、假令農業の中に算入すべきものなりとも、全く別途の經營を須つべきものゝ如きは、是れ副業には非ずして第二業なり、中央、(414)地方の官府にして一方には農民に説くに心を其業に專にして技術の精しからんことを以てし、他の一方には耕種の外別に種々の生産に手を出すべしと勸むるものあらば、是自ら明白なる矛盾に陷れるものに非ずや、養蠶飼禽乃至は果樹の栽培の如き、之を十數年來の實驗に徴するに、勞力の分配上到底獨立の業務と爲すに適せず、是非共耕作の側に小規模に之を營むべしといふことは、善く人の言ふ所なり、然れども是れ目下の農法、目下の土地勞力配賦?態に在りては、此の如くするの已むを得ざるものありといふのみにして、恐くは之を以て此種の生産業の常性なりとするには非ざるべし、生産方法の改良は能く之をして安全有利なる生産業たらしむべし、而して技術の發達を期するときは、農業の中に於ても自然に各專門業の分化するを禁ずべからず、苟も農家といふ以上は一反でも二反でも必ず米麥を作り、其他は手當り次第に金を得る仕事を求むといふが如き今の有樣にては、進歩せる西洋の技術論を飜譯して、如何に叮寧に之を説き聽かすも、之に耳を傾ける者無きは當然にして、斯道學者の辛苦を無にするは氣の毒ながら、根本の組織に着眼せずして、無差別なる副業奨勵を爲し、農企業の獨立を阻碍する限は、何時迄も徒勞を繰返すことを免がれざるべし。
併しながら此の如き副業の奨勵も、現今の事情に對する姑息策としては亦適當なるものとす、何となれば五反八反の農家は、其土地の生産のみにては、迚も必要なる生計費を得る能はざればなり、若し然りとせば日本の農戸數は予が説の行はるゝ以前に既に實量に於て大に減少せるものに非ずや、殊に所謂兼業農の數に就て見よ、各府縣の勸業統計に依れば、少くも農戸の三四割は、農の外に商工漁業を兼ぬるものなり、所謂專業農の中にも山林を經營するもの又は運送日雇等に從事するものあるべく、加之實際耕作を爲さゞる地主も農業者の中に算へらるゝ習慣あるを以て見れば、農戸數五百萬と稱するは單に表面上の名目にして、其中の二三百萬は唯二分の一の農家なり、斯の奇異なる現象は未だ日本の識者を驚かすに足らざりしか、從來未だ之に就きて論議する者あるを聞かず、予が農戸數の減少を希望するは全く農民をして其獨立自營に必要なるだけの農場を有せしめんが爲にして、言はゞ薄く廣がりしものを厚く(415)狹くせんとするに過ぎず、此の如くせざれば到底農業智識の發達を遂げ一國の生産を進歩する能はざるを以てなり、今試に海外渡航者、北海道漁場の出稼人、諸國鑛山の勞働者、又は尋常土方人足の徒に就て察するに、彼等の多數は農業地方より出で、各其郷里に在りては土地の狹隘にして其勤勉を施すの途なく、漸次生活に困難を感ずるを以て、五年十年を期して他に出でゝ職を求むるものなり、若し然らざれば假令農を以てつまらぬ職業なりと感ずるとも、何ぞ家を棄て眷屬に別れて孤獨漂零の生活を甘ずるに至らんや、壯年の男女の陸續として田舍を飛出すは、必しも横井先生の所謂都會熱病の爲のみに非ず、其病源を探らずして一切彼等が輕佻無節操に由るかの如く罵倒するものあらば、極めて思ひ遣りの無き人と言はざるべからず。
要するに日本の農戸數は耕地の面積に比して甚しく多きに失せり、其減少は如何にするも到底避くべからず、目下の問題は之を自然に放任して各戸の實力を減じ表面上の數を維持すべきか、將た先づ其數より減じて資力ある農戸を作るべきかといふ點にあり、而して一國人口の増加に伴ひ衣食材料の國内供給を増加することを必要とせず、且つ外國農産の侵略に對抗して自國農業を防衛するを要せざるならば、耕地の細分の如きは毫も苦慮するに及ばず、寧ろ却て之を奨勵して、苟も田舍に住む者は殘らず耕地を持ち、自家の消費する食料だけは、本職の片手に自ら之を生産すること、恰も各人の家に井戸ある如くならしむるも、亦面白き一策なり、唯一箇の營業として農を存立せしめんとすれば、其賣買の事を考へざるべからず、販路市場の關係、競爭國の貿易趨勢を察せざるべからず、今の農政家の説はあまりに折衷的なり、農民が輸入貨物の廉價なるが爲め難儀するを見れば、保護關税論をする迄の勇氣はあれども、保護をすれば其間には競爭に堪ふるだけの力を養ひ得るかと言へば、恐くは之を保障するの確信はなかるべし、獨乙の農民黨などは之を保護といへども其實は敗北なり降參なり、無期の保護税策の如きは商工業者の承知せざるは當然の事なり、強ひて之を主張するは是れ農黨商工黨の喧嘩を煽動するものなり。
或は言ふたのあらん、生産増進の策としては細農制の維持は誠に不適當ならん、されども假に分配の點より見よ、(416)今の細農は兎に角獨立自由なる勞働なり、彼等の多數をして其土地の本據を失ひ、單純なる雇傭勞働者となりて、賃銀の多少を撰擇して東西の工場に漂泊せしむとせば、其地位の不安全なること今に比して大に加ふるものあり、從て國民の保守的分子は減少して國政の基礎を危くせんと、之に對しては予は答ふべき多くの説を有す、小作農の地位は現今と雖決して安全なるものに非ず、彼等が郷土に殘留せるは土地との關係が深密なる爲にも非ざるべし、又自作農にして其所有土地は純農業を營むに不十分なり、さればとて其他には適當なる兼業も無しとせば、其所謂土地に拘縛さるゝの苦痛は、寧ろ忍び難きもの無しとせんや、又地方住民の農を廢する者は、概して言へば從來既に農に就きて僅に三分の一、四分の一の利害をのみ有せしものにして、其去就は田舍の氣風を變更する迄には至らざるべく、且つ農以外に至りても農業と關聯する職業も少からざれば、其全部が大工場の職工となりて直に社會主義の御厄介になるかの如く考ふるは速斷なり、況や近年に於ては工場勞働者の生活にしても小農の生活よりは遙に幸福なり、但し農以外の勞働者をして其餘暇を利用し健全快活なる勞働に由り新鮮なる疏菜果實を得せしむる爲、其住宅の附近に少許の耕地を給與すべしといふ社會改良論者の説の如きは、自ら別問題にして予は此制度をも除斥せんとするものには非ず、我國の農業組織にして幸に改革せられたる時には、此形式に於て舊制の保存を必要とすること或は之あるべきも、此等の者は嚴格なる意義に於ては農業者に非ず、共に農業の現在將來を講究すべき者には非ざるなり。
本題に入るに先だちて豫め讀者の問に答ふべきもの猶二件あり、其一は若し此の如く中農の増加を希望すとせば、其勢の極まる所或は各地に大農法を行ふ者を生ぜば如何といふこと之れなり、大農の生産方法が常に粗笨となり易く、從て一國の總收穫を減少するの嫌あることは、最早過去の事實にして今や各種の機械と動力との應用、竝に貨幣的經營法の發達は、漸次に農場と工場との區別を撤却したるを以て、豐富なる資本を準備する上は、隨分小農にも劣らぬ集約法を行ふことを得べく、且つ勞働者の幸福をも害せざるを得べき世となりたれば、我國に大農の起るは些も懼る(417)べきことに非ず、然れども予をして想像せしむれば是近き未來に於て到底有り得べからざるの事なり、其所以は必しも國民永年の因習に背くが爲には非ず、現在の土地配賦?態にては、如何なる大地主と言へども、能く其所有地を以て一の大農農場と爲し得る者無かるべし、假に新に邊土の廣野を拓きて土着せんとする者あるも、亦資本供給上の障碍あり、要するに中農養成の計畫が十五分に效を奏して、延いて大農を生ぜしむる程ならば結構なれど、恐くは怪我にも斯の如きことは有らざるべく、又今の所は其必要も認め得ざるなり。
次に予の提案に基きて養成せられ、日本未來の中農と爲るべきものは、現在の國民中果して何れの部分なるかといふは多分最初に起るべき質問ならんも、此問に對して予は極めて早速に答を爲すことを得、其人は取りも直さず數百年來田舍に居住し、親代々土地を所有し、昔も今も未來も國民の中堅を構成する地主諸君是なり、小作米の俵を土藏に納めて留守中の妻子に食はしめ、身は常に國事又は縣事の爲に奔走すれども、其心は須臾も農事の進歩を忘れざる地租納税者は即ち其人なり、思ふに多くの土地所有者が其耕作を中止するに至りたるは僅に十數年來の事なり、而して其の此に至りしは決して政治上の原因のみには基せず、經濟上の原因も亦與りて大に力あり、先づ第一に新時代の經濟的波瀾は古來平穩なりし地方をも動搖せしめ、殊に小前の百姓をして其少許の所有地を賣放さしめ、爲に純然たる借地農の數を増加したることは注意すべき事實なり、小作需要の増加は無論地代に影響し、舊政府地租米納の時代に之との釣合上定りたる小作料の率を維持して下さず、米價は騰るも同じ數量の年貢米を量らしむるを以て、貸地の利益は目に見えてよくなれり(新に土地を買ひて地主となりたる人は高き代金を拂ひたれば利益は無からんも)、之を自身力作して得る所の純益と比ぶるときは、其差まことに少く、勞働の馬鹿々々しきこと之に超えたるものは少し、活氣ある若主人は寧ろ土地を賣飛ばして、他に氣の利きたる商法でもしたけれども、此は親類が八釜しくして思ふこと成らず、是に於てか小作人と對談して、成るべく割の良き貸付を爲し、一方には巧者に小作米を賣拂ひて收入の多からんを力むるは無理ならぬ行爲なり、又稍々實着なる地主は必しも小作人と同じ勞働を爲して報酬の少きを歎ずる(418)には及ばず、改良の農法に從ひ良種の作物を栽培し、牛馬を使役して人力を省き、少々は新機械も用ゐて資本的經營を行ふことも知らざるに非ざれども、如何にせん所有地は散亂し農僕の給金は高くして新方法の適用を許さず、已む無く舊型の農法を繼續し、偶々雜誌でも見て新奇なる作物を試むれば、全體の農場組織の不調和より損が立ち資本を失ふことも有り、終に算盤づくより農を中止し純地主と成る者も有るなるべし、然るに茲に難儀なることこそ有れ、十町歩以上の田畑を有し二三百俵の作米を收むる人ならば、押しも押されもせぬ地方の紳士にして、廣く世間の人に交はり、子女には中等の教育を與ふることを得れば、亦以て地主として立つに足れり、又二町以内の農家ならば貸して食はうの野心も起らず、耕地の面積は恰も自家の勞働に手一杯にて、時折の雇人を以て補充すれば、相應に安樂に郷里に生活する事を得べし、唯此中間に在る地主や、娘子供を追ひ廻して自ら土泥に汚るゝも情なく、さりとて懷手して小作料に生活するには幾分か事足らず、併し何れかといへば下の方に習ふよりは上の方の列に入りたく、假に一二年自作を廢すれば、癖となりて終には肥料の指圖も厭はしく、次第に所謂旦那株に列して、植附時も收穫時も相關せず、車に乘りて町に行く人と成れるなり、而して日本は何たる不幸ぞや、此階級の地主の數今の所最多きなり、此等の人々は一朝心を決すれば、機會を見て小作料を引上げ其收益價格によりて土地を資本家に賣るが如き無慈悲なる行爲を敢てすることあり、爲に從來圓滑なる地親子作の關係を一變して、所謂民法上の債權者債務者の關係と爲す、是れ唯予が空想には非ずして現に實例にも乏しからざるなり、此趨勢の推及す所乃ち奈何、蓋し社會主義の論者を須ちて始めて解明するものには非ざるなり。
然るに此現象や單に一時の時勢なり、成行なり、土地所有者の大半が丸々の貸地業者と成りたるは、自作を營むべき方便の缺乏に因由す、若し之に提供するに適當なる手段を以てせば、彼等は何ぞ其源に復へらざらん、元來地主と作人と二戸一地に衣食す、不利の最大なるものなり、若し貸借の面積にして十分に廣く、一方には地主に座食の謗なく餘閑を以て公私兩益の爲に勤勉するならば、是開明世界に所謂分業にして、其利益却て自營農よりも大ならん、之(419)に反して五町七町の地面を世襲財産とせば、子孫永々しもうた屋暮し(編者曰シモウタ屋暮しとは無職にして資本にのみ衣食するものを云ふ)を爲し得べしと思ふ者若し有らば、是抑々の非望なり、元來しもうた屋暮しは後家乃至は被後見人の特權なり、五町の田地といへば今の評價法に從ふも一萬圓内外の財産なり、千圓未滿の所得なり、一萬圓の商店の主人は帳場に座らざるぺからず、千圓の役人は風邪位では缺勤せず、地主のみ年中皆休暇なりといふ理あらんや、十年來の新聞紙を注意するに、生れは某縣の舊家門閥にして、主人善く書を讀み見識あり氣概あり、夙に國事を憂ひて政黨に入り、或時は朝に立ち或時は野に在り、東奔西走禹の洪水を治むるが如く、而も其功未だ遂げざるに既に家産を蕩盡し、悒々として都會の地に客死せし者、其數指を屈するに遑あらず、彼等は何ぞ國に忠にして家に疎なるの甚しきや、何ぞ半面の世事に鋭敏なること此の如くにして、他の半面に對して迂拙を極むるや、公を挾みて私を營むの徒は國賊なり論ずるに足らず、此點より言へば清貧にして猶國を思ふ、誠に尊敬すべき公の犧牲なり、唯若し生産を治めて家を富ましめ、先づ國の富力の一分子と爲り、其力餘なるものを以て政治上の計營に施さば其義更に義なりしならん、予は決して公を先にし、私を後にする者を嘲るには非ず、然れども此の如き名士の家をして産破れ子孫祀せざらしむ、是最大なる國の憂に非ずや、之をして自ら圖ること能はず、彼等が愛國心の完全ならざるや知るべきのみ、當世の人は幸にして斯の如く極端に走らず、功名に急なるは或は之有らんも未だ家道を頽壞に委するに至らず、然れども國又は公共團體の政治に參與せんとする者、熱心の餘往々にして競爭を事とし、爲に莫大の財産と時間とを徒靡する者多し、此中にても地位に據りて利を占めんとする者は、利益と失費とを打算したる行爲なれば、其人惡むに堪へたりと雖理路猶明なり、唯誠心眞面目にして而も此の不條理なる損亡を辭せざるは何に由るか、予は之を解して曰く、人は小人に非ずと雖、閑居して利有ること稀なり、是に於てか適當なる方法手段を具備して、現今大多數の地主に其天然の生業に復歸せんことを請ひ、以て此の如き偏頗なる憂國者を出すの原因を杜絶せんとす、斯くてこそ農業を國家成立の基礎なりといひ田舍の住民を以て政治上保守的の分子なりとし、革命的機運に對する調攝力(420)なりとする精神も發揮せらるぺし、地主の或者は家を外にして諸處に二ヶ月三ヶ月、逗留し廻るにも拘らず、勞働者が壓迫を受けて殆と無意識的に爲す所の勞働捜索的移住などを抑止して、以て地方的勢力の銷磨を防がんとするが如き説あらば、亦大に方法を誤れるものと評せざるべからず、勞働の分賦を調攝することは資本の分賦を計ると共に國の經濟政策の主眼なり、今の日本にては工業は資本稍々豐なれども勞働に缺乏せり、或種の製造にして少しく繁榮を告ぐれば忽ち勞銀の騰貴を愁ふ、是其一證なり、之に反して農事に在りては資本大に足らずして勞働過剰あり、自由貿易派の説に從ひて之を自然に放任するも勞働者は轉移すべく、若し之に對して國の行爲を立入らしむとせば、寧ろ適度の轉移を慫慂すべき時なり、語を換へて言はゞ是機運なり、予は何が故に世の識者なる者が此機運の淵源する所を察せざりしかを怪しむ、或は將た察して未だ之を説かざりしか。
予や素、文辭に疎く立論に拙なり、徒に獨大言激語し其述ぶる所の策平凡にして且つ迂ならば則ち最笑ふべし、然れども是れ予が所信なり、敢て披陳せずんば有らず、而して今に當りて直に之に行ひて功を奏することを得べしと信ずるもの、僅に六條あり、其他の腹案に至りては其稍々熟するを待ちて、後に之を追加せんとす。
一 土地の分合交換を盛ならしむること、
即ち耕地整理法の最初の趣旨を徹底せしむること是なり、故に此目的に付きては必しも法律を新制することを要せず、元來我邦の農業が此法の制定を必要としたるは(一)耕地所在の散亂錯綜を改正し且之を未來に防止し以て農法改善に對する大障碍を除却するに在り、(二)耕地の區劃形?を改めて勞作に優にし之と共に一般の土地改良を行ひて生産力を増加するに在り、(三)畦畔を省略して有用地面積を増加するに在り、然るに第三の利益は最卑近にして覺り易きが爲に最其成績を擧げ易く、之に次ぎては第二の土地改良の點も稍々其效を奏したれども、獨予輩が目して以て耕地整理の大主眼とする土地の分合殊に交換の事實に至りては、力を用ゐること最疎なるが如し、思ふに當局は決して區々たる増地増收の利益のみを以て假に近視者流の地主を誘導したるものには非ざるべきも、彼等は情として久し(421)く所有し來れる地を惜愛し、若し大に交換を行はんとするときは、却て事業全部の成功を危くするの虞あるを以て、暫く認容して此の小成に安ずるに至れるならん、併しながら一時を彌縫して永遠に好機を逸するは如何にも殘念至極なり、畦畔地積の省略は全國を積算せば大面積ならんも、一々の整理に就きて言へば實に些々たるものなり、増地の希望のみならば、今少し手輕に僅の勞費にて傍近の地を拓きて、之を達するを得る場合多し、土地改良の事業とても亦之に似たり、多數共同に由る利益は無論大ならんも、個々の所有地又は少數者の相談に由りても企て難きものに非ず、之に反して合併交換の事業は大區域の連合を須つこと甚切なるのみならず、或程度より以下の人數、面積にては、假令各自が如何に之に熱心なるも、終に其目的を果すこと能はず、此故に本來の精神は眞實なる組合共同を要するに在るは無論なれど、若し已む能はざる場合には、三分の一以内の加入者を強制することを得、普通民法の組合契約なるにも拘らず、總數合意に代ふるに多數決の制を以てすること社團法人に同じからしめ、如何なる場合にも之に反對の規約を設くるを許さず、外國に於ては或は監督官吏の裁量を以て當事者の意思を抑制し之を執行するの制度あり、此の如きは或は組合の行動の始終一致するを期するが爲なりと言はんも、尚ほ交換が情實と相爭ふべき難事業にして、而も一般公益の爲め必要の急なるものあればなり、若し之を外にして思考するときは、此の如き法の強制は無用の壓迫なりと言はるゝも辯護の強辭なかるべし、現今多數の地主は其何が故に農業を自營する能はざるか、何が故に小作の希望者の減少散退を深患とせざるべからざるか(例へば九州の數縣又は和歌山縣の或地方の如く)を知れり、假に賃銀の高きを忍びて農男を雇用せんも到底指揮監督の效を奏する能はず、さりとて所謂勞働省略機械の適用の如きはかけても思ひ及ばざることは、全く其所有地が數十分數百分して散在するが爲なるは、既に能く之を覺れるなり、されば予は此頃の耕地整理者が私の感情の爲に其利益を抛擲して顧みざる迄に無分別なりとは思はず、單に折合の困難なるは各自便宜の地を撰擇し(集合的村落に於ては各人の希望の皆同一點に集注するは一の不幸なり)而も計算に際しては他人の土地を安く自己の土地を高く評價せんとするが爲ならん、若し不幸にして無知の爲め私情に殉ずるもの(422)あらば、此場合には彼等の終に覺るべき利益を國が先づ計畫するものなれば、國家干渉の根據は既に存するに非ずや、故に猶一層の命令權を行使して當初の計畫の完成を期すべきなり、若し徒に強力の程度を云爲せば、是所謂佛を造りて魂を入れざるものなり、若し此強力なる命令權の爲に整理事業に着手する者少くして其普及を遲々たらしむるが如きことあらば、遺憾なることなれども、猶一度事業の完了したる後久しからずして必要に迫られ、更に再囘の強制的組合を設けしむるには勝れり、況や實際の事情に徴するに公人私人の解示誘説は頗る其效を奏し、必しも命令規定の改正を須たず、監督方法の如何によりて、能く或程度までの交換を行はしめ得るをや、殊に評價に關する私益の牴觸の如き、之を救濟すべき公平なる判斷者は公の機關を措きて他に有ること無し、若し其煩を厭ふと言はば、始より耕地整理無きなり、誰か政府に此の如き不熱心の語ありと信ぜんや。
耕地整理に於ける分合交換は單に一人の所有地を集合するに止まり、小地主を大ならしむる能はざるは無論なり、而して一區二區の小所有者に對しては如何なる處置を執るべきかは從來一の問題なりき、予は整理組合全體の爲に、又其地主自身の爲にも、其地を讓與して大なるものに合するを可なりとす、然れども各人の希望には必ずしも反するを要せず、町村公民權等の關係より、假令少許なりとも自己の所有地を失ふことを欲せざる者には、成るべく便利なる地位に於て換地を附與すべし、此他の場合に於ても二以上の希望が相重複するときは、比較的小なる地主には整理地區の周邊に接し且つ居村に近き土地を給し、耕作の傍、餘業を營むの便宜を計るべし、此事は其土地以外に所有地なき地主は勿論、假令地區外に多くの土地を有する者なりとも、亦此特典を附與し、所有地積の大なるに從ひて、次第に地位の不便を忍ばしめ、唯甲乙所有者間の交渉に基き、又は其他の理由を以て別の地を撰擇することを得せしむべきなり、是れ物の性質上適當の順序なるのみならず、又交換の進行を容易ならしむる方便なれば、組合の規約を設くるに當り先づ此條款を定むるを可とす、若し評價法にして公平のものならば此順序は必しも大地主の不利益に非ず、而して或は此等の方法を以て土地の兼併を誘致するの虞ありと言ふ者あらば、予は之を誇張に過ぎたるの言なりと答(423)へんのみ。
(424) 保護論者が解決すべき一問題
現在の日本人はもはや昔の青人草では無い、立派な文明人である、從て凡ての文明人の爲すが如く、各自の産業の爲に、國家の政策の保護を要求するの手段方法をよく知つて居る、彼等は各自の産業の發達繁榮の爲に必しも外部からの助勢を要せぬ場合にも、自分ばかりは常に其必要を感じて居るのである、況や事實に於て國又は公共團體の保護誘掖を適當とする際に在ては、或は統計の數字を擧げて證據とし、或は統計にも新聞にも顯はれざる痛切なる内情を吐露して、能く輿論の早鐘を突くのである、故に此點に於ては世の中の學者記者の保護論は、大抵創見の名譽を得ることが出來ぬ、唯彼等の爲に南山の四皓となるのみである、學者記者も我々と同説だと引合に出されるばかりであつて、言ひ出すのは本人たちの方が常に先である。
併しながら議論の反響を社會に及ぼし、其意見を實行せしめる點に於ては、學者記者の方が有力であるか、當業者自身の仕事の方が容易であるかと言へば、是は全く別問題である、全體學者記者は私心の無い憂國者として信ぜられて居るから立法行政の當局者に對して、其説は稍々深い感じを與へる、之に反して實際家は隨分色々な名論を吐くけれども、其の人を動かす力は比較的に少い、例へば毎年議會の請願委員の手に於て、無造作に、且つ冷酷に取扱はれる事件の數は百を以て算へるのである、殊に我邦の議會では、利害階級の代表が今猶雜然として混同して居るから、農でも工でも商でも、一種の産業に從事する者の意見は、其の手前勝手なると否とに論なく、何時までも物に成らぬのである。
(425) 此故に一個の政策を左右する經濟説は、先づ現今の處では、殆と皆學者記者の立言を源として居るのであつて、當業者の希望は、若しそれが學者記者の意見と合致して居れば偶然の幸で、概して直接には現行法令と何等の脈絡が無いのである、而も所謂常識を具へた人たちは容易に舊態の破壞變更を敢てしない人たちである、又有力なる政治家の頭腦にはスミスやミルやマクロックなどの學説が儼然として君臨して居るから我々の思ふほど政策萬能主義が承認せられない、從て中央の政治機關に於て農黨商工黨保護黨、非保護黨等の旗印を飜へし、階級利害が激戰するが如きことは、まづ/\當分は無いであらう。
併し是は中央だけの話である、地方の行政に於ては之に反して居る、我々が注意を拂ひ始めたより以前から、既に斷然として保護政策殊に農業保護の政策を採つて居る府縣が中々多いのである、三府五港の如き商工業人口の過半を占めて居る地方でも農業を保護する、況や其他の府縣では勿論である、何れの地方の議會でも議員竝に選擧人の大多數は所謂農業者である、就中土地所有者の階級である、土地所有者は各々高き價を以て、其土地を買ひ、又は其の舊來の所有地を評價してをる人たちである、彼等は土地産物の市價が昇れば之に伴つて自分の土地の評價を引上げるが故に、農産物市價の後戻りは何時の世にも常に之を損失と感ずるのである、斯う言ふ階級が現在の所先づは各地方に於て頗る優越なる地位を占めて居つて、別に階級利害の爭を爲すまでも無く、現在の市價を維持するのは必要なる農政であるといふやうに、殆と世論が固まつて居る、成るほど今日の府縣の政策は格別中央の總方針から飛離れた活動もしてをらぬやうではあるが、第一地方官が隨分思ひ切つた干渉政策を採つても、些も人望を害せぬのみならず、時としては民間からもつと世話を燒いてくれといふ注文の出るのを見ても、將來の形勢を大凡察することが出來る、今や若手の農業者等に略々農業保護論の論點が解つたやうである、追々は自分からも色々の發案を試みるであらうが、其節は前にもいふ如く中央の政策を動かすの困難を敢てするに先だち、多分は比較的容易なる地方の行政の方面に於て其力を施すことであらうと信ずる。
(426) 蓋し外國の現?は知らず、日本現今の制度では、地方の行政が經濟界に功を行ひ得べき餘地はいくらも有る、全體農業衰微の傾向が若し有りとすれば、恐くは尋常市場の景氣不景氣といふやうなものが其原因では無く、土地の制度とか町村の組織とか、根本の大改正が必要であるかも知れぬ、此點に付ては國で無ければ埒が明かぬ、府縣町村の力には如何ともすることが出來ぬが、こんな問題は滅多に國會でも議論はせぬ、實際家は相手にしてくれぬ、關税の問題は之に比すれば遙に着實な問題としてある、此點ばかりは國の力でなくては之を解決することが出來ぬのは事實である、併しながら農業者の純益に影響する點に於ては、輸入品競爭の問題にも讓らぬ重要なる問題はいくらもある、而も此等の問題は多くは各地方の人士が自ら解決することの出來るものである、實際又彼等は地方の政策を以て保護の目的を達せんとしつゝあるのである。
元來地方に於ける經濟上の利害は、區域が小さいだけに之を觀察することが容易である、之に對して計畫を立て易いのである、計畫は小規模でも其效能は覿面である、又成るべく覿面の效能ある政策を擇んで行ふのである、二十年前までは地方の勸業行政といへば、長官の訓示論告が主たるものであつた、近年の手段は之に比べて遙に具體的である、即ち各府縣の勸業費の半分は補助金である、一體産業の繁榮といひ發達といふのは、金錢收入の増加することを言ふのである、補助金を遣れば其金額だけ繁榮するのは當然である、併し補助金政策は餘りに露骨なる政策である、若し無暗に一の階級にばかり補助金をすれば、如何に無神經なる人でも必ず自分の納める租税の效果を疑ふであらうから、結局は補助で大なる保護を行ひ得る望は無い、一方に遣れば他方にも遣らねばならぬ、と言つて權衡を保たうとすれば單に一旦取上げて又返すといふ二重の手數をするだけのことである、要するに假令地方の政治界に農業者なら農業者の階級が最勢力ありとしても其結果として政策の恩惠に甚しき陰日向をすることは六つかしい、同じ地方内で一方を抑へ一方を引立てるといふには限りがある。
唯注意すべきは一の府縣が他の府縣に對する關係である、國が外國の競爭に對する如く、關税を以て塁壘として之(427)を防ぐことは出來ぬが、部内の産業者の要求を容れて、部外の競爭を防止する爲に府縣が採ることを得べき手段は澤山ある、昔各藩が割據した時代には、凶年には境を限つて防穀令を布き、隣領の缺乏を顧みず、平年にも取引關係を成るべく領地内に限ることを力め、猶特産物の如き販路を遠方に求むべきものは隨分盛な保護をして居つたが、其餘習は今日と雖殘つて居る、例へは共進會があれば、當業者は敵愾心を起し、利益以外に侵害を感じて一生懸命になる、地方官も甘く此敵愾心を利用して奨勵の道具として居るのが通例である、農業に競爭無しなどゝいふのは昔の事である、自給經濟時代の事である、販路市場を捜索することの必要なる點からいへば、隣同士も國際間も更に變りは無いのである、藺莚や麥稈眞田は十數年前迄は一地方の産物であつたものが、其後各地方擧つて其栽培を奨勵した結果、今や殆と全國に普及した、普及は國の爲に結構であるが、之に伴つて必ず販路の競爭がある、競爭は必しも不可では無いが、終には地方の政策の保護を求めずば止むまいと思ふ、例へば同じ停車場の右左で、一方が良き道路又は軌道を作れば、運賃の差額だけ、代金を引下げて、他方を賣負かすことが出來る、機械に補助をすれば生産費は目前に節約し得られる、仙臺市の塵埃は伊達信夫の桑畑の肥であつた、前者が塵埃の燒却場を公設すれば、後者は莫大なる金肥を購はねばならぬ、尾張海部の水腐場の藁灰は、僅なる價で濃尾の畑作場迄送られたのに、排水工事が普及すれば其藁は細工用に用ゐられて、一時に灰肥の供給が絶えるであらう、無意識の變更でも相應の打撃を與ふることが出來る、わざ/\此の如き武器を捜したら隨分烈しい競爭が出來ることであらう、三河の北部には昔から産馬を業とする者がある、駿遠の平野に住する者は、此地から當才の駒を買つて來て、育成するの慣習がある、然るに靜岡縣で若し種馬を立てゝ、自ら?産の方法を計畫するなら、三河の産馬は衰へるであらう、愛知縣が一頭の幼馬に一圓一圓半の補助金を遣るなら、又駿遠の産馬業は成立たぬ、和歌山縣で北山川の流筏に十圓の特別税を課するなら、紀州の林業者が新宮の市場に於て伊勢大和の材木を賣負かすには十二分であるであらう、此等は勿論假想の例である、實際にはもつと適切な例證がいくらもあることと信ずる、自分の縣を販路としてをる隣縣の産物を排斥する爲に、二三年間の(428)補助を我慢する位な意氣込は何處にも見える、若し府縣の産業が到る處其境界に於て競爭をして、少し力の弱い方が其弱いのを理由として政策の他力を仰ぐとすれば、其極は報復又報復の?況に陷るは眼の前である、中央政府は恐くは此が爲に地方の行政を制限することは出來ぬであらう。
郡は現在の所政策の單位としては未だ大に活動しては居らぬ、併し一府縣の區域の小を以てするも、其區域内にも自然に利害相反することが無いとは言はれぬ、從て將來一方の郡が他の一方の郡に對して自衛策を講ずるやうなことが起るかも知れぬ、市又は町村に至つては、其政治に私輕濟的動機を混同すること最多かるべき理窟である、現に各町村の保護政策は勢力の供給に付ては久しき以前から既に行はれて居るのである、町方其他の地方から移住して來る人々は、?々桑港にも劣らぬ排斥を受けることがある、同業者の數の制限は職業自由の今日に於ても今尚事實に於て行はれて居る、一體町村の結合を丈夫にし一郷の平和を維持する爲には、現在の産業を現在の儘で置くといふことは、或は必要なる場合も無いとは言はれない、併し若し政策の積極的保護を以て主たる手段とする點に於て、一國の採る所の方針を其まゝ、府縣郡市町村の如き小地方にも行ひ得べきものなりと信じ、頑固に之を實行する者ばかりが現はれて來たならば、果して國の爲に害はあるまいか、一國總體の進運を妨ぐることはあるまいか、さりとて保護政策は國家にのみ之を行ふべきものであつて、府縣と府縣との間、町村と町村との間には、之に反して成るべく完全なる自由貿易を行ふが宜しいと教へるのは、少しく困難なる事業である、或は國の外部に此通り大きな競爭者が有るのだから、同胞が蕭牆の下に爭ふのはいかぬと論ずることも出來るが、何も國内の一地方と他地方とが競爭をしようとせまいと、國際の對陣には何等の妨が無いでは無いかと論證すればどうするか、且又府縣でも町村でも各其住民にとつては貴重なる生存權の主體である、國が生存しなければならぬ如く、公共團體もまた生存の爲に自ら防衛する必要が有ると答へたならばどうするか、國といふ法人は保護政策を採つても宜しいが、府縣以下の小法人は保護政策を採つて相手を困まらせてはいかぬと、説明しても論理の矛盾はあるまいか。
(429) 近年の保護論者の談論は、甚だ我々の耳に快く聽える、併し國家の政策としてはまだ捗々しき保護主義も實行せられて居らぬ内に、早既に地方の政治に於ては、輿論も實際も共に著しく露骨なる農業の保護の方に傾いて居る、第一保護を受ける當業者が、保護を受くるを當然の事と考へ始めたのである、之を見ると大なる疑惑が起る、此疑惑を晴さぬ以上は、うつかりと議論を遠走りさせるわけには行かぬ、而して所謂保護論者には十分なる意見があらうから、天下の爲に其説を公に承りたいと思ふ。
蓋し一切の經濟社會の害惡は、撫でたり摩つたりする老婆の看病ばかりでは之を治すことは出來ぬ、病氣の原因を究めて之を指示するのは、必しも學究の迂遠事業では無いので、之に因つて一方には適藥を發見して處方を書き、他の一方には病者本人の惑を散じ、無益なる苦悶をして神經を痛めるのを止めることが出來れば、他日全快の望は始て生ずるのである、今日の地方の經濟政策が、一事の障碍に逢ふごとに直に末梢に於て姑息彌縫の救濟をのみ努力するのは、一は有力なる輿論に迫まられて是非なくとは言ふものゝ、あまり感心の出來る智慧とは言はれぬと思ふが、どんなものであらうか、是から見れば國の政策が學者竝に當業者の八釜しい議論あるに拘はらず、今日迄思ひ切つた積極の保護手段を行はないのは、大事を踏んで大に考へて居るのかも知れぬ、若し然りとすれば幸なることである、今日はまだ決して根本研究の間に合はぬほど事情が逼迫しては居らぬから。
(430) 産業組合の道コ的分子
何れの場合に於ても、實行が議論に勝ることは明白である。今や産業組合は實行の時代に移つてより數年を經過し、現時數千の組合存在し、數百囘の講話、數十種の著書によりて産業組合の法律上の性質の如きは十分明瞭になつて居る、故に吾々の如き議論の徒は口舌を止めて密に讃嘆の聲を放てば可いのである。
併しながら、組合の法律的智識の進歩を賀する場合には、一方には、萬一にも其道コ上の本旨の理解が衰へることを憂ひ且備へなければならぬ。私の見る所では、西洋の重なる國に於て、産業組合の機運は駿々として瞬間も進歩を止めるものは無いが、組合に關する綿密なる法典の制定は幾分か此進運に對して、少くとも一時的の障害であつた樣に感ぜられる。此間題は、大きく言へば「法律對道コ」の問題である。
本來法律なるものは、道コ上の微妙なる義務に代ふるに單純にして明白なる法律上の限界を以てするに非ざることは言ふ迄もないことであるが、凡俗の思想の中では?々相生剋するものであつて、人は?々法律上の束縛に服する程度に安じ、之を以て人間の能事畢れりと見る弊がある。故に眼に見えない從來の細な道義上の要求に對しては、幾分は繩を解かれた樣な安心を誤つてすることが無いとも云はれない。
法律は元來人と人との間に實際上の爭が起つた場合に適用のあるべきもので、善人のみの團體の中には殆と其必要の無いものであるけれども、苟も國が政令として定むる場合は、萬々一の場合も豫想しなければならぬから、從て俗に言ふ「極めて人の惡い」こと迄も豫想して置かなければならぬ。又國家が第三者の立場から、人民相互間の利益問(431)題を議するに當つて、主とする所は公平であるからして、相互の至當なる要求を或る限り容れなければならぬ。從て其間には寛恕、讓歩、調和とかを説く餘地がないのである。
法律思想だけで作り上げた組合といふものは、極めて冷酷に且つ峻嚴に出來て居る、故に日本の如く最初から極めて法制の完備して居る國の産業組合を攷究するに當つて、當事者をして斯の如きものが即ち組合の本質であるかの如く誤解せしめない事を十分に注意する必要があると思ふ。其方法の一例を擧ぐれば「組合の傳道」である。
日本の組合を吾々の知つて居る英吉利、獨逸の産業組合に比較して見るに、彼に具つて我に最も缺けて居るのは傳道の事業である。諸外國では所謂 Co-operator(組合事業に與さはる人)なるものゝ、最も大なる苦心として指を屈すべきものは個々の組合の創立の次には組合制度の普及である、傳播である、同志者の糾合であるとかで、一旦組合の事業が緒に就くと忽ち組合員の増加の爲に盡力し、新たなる組合の増設に盡力し、遠方の組合との連絡に苦心する、そして是等の爲に必要なる「人の力及金の力」は必要缺くべからざる組合の負擔と認めて居るのである。
而かも産業組合の社會的の地位といふものは、豫想外に低い。上流中流の同胞からは種々なる誤解を受けて居る。或者は之を目して社會主義の一派とし、或者は之を同盟罷工の準備とも疑つて居る。勿論斯の如き境涯に在ればこそ、道を傳ふるの必要も一層大なるものであらうけれど、要するに Co-operator の志とする所は所謂「己の欲する所を人にも施さん」とするのであつて、單に黨勢を張らうとか、人氣を得ようとかいふ物質的利害の打算に基いて居るのではないのである。故に已に數百萬人の同志者があつて、聯合の力としては最早十分である場合にも、個々の組合は其純益の一半を割いて傳道の費用の爲に費すのである。
日本に於ける産業組合が中央會に加入して、僅かなる資金の中より年々若干の會費を負擔するのも畢竟此意味に違ひないのであるからして、全然傳道の爲に何の力をも施さないとは言はれないけれども、實際の所、中央會の會員にして果して此覺悟を懷いて會費を分擔するものは幾何あるであらうか。
(432) 又個々の組合若くは個々の聯合會は其純益の一部分を以て個別的の費に充てゝ居るものがあるであらうか、換言すれば中央會の機關を經ずして、直接に組合又は聯合會に就いて助力を求むるものゝ希望に應じて、或る過去の經驗談を詳細に記述した書物を無代で頒布するとか、或は日々の訪問者に對して特に説明係を附けて置くとか、又は場合に依つては組合員を旅行させて新に組合を設けようとする者に有益なる助言助力を與へるといふが如き事業は、先以て我國の産業組合には缺けて居ると言つて可い。
成程、斯の如き事を少しも行はないでも、法令の命じたる組合の義務には違反せず、政府の認可したる定款には矛盾することなく、又世間の人をして良き組合なりと云はしむるに妨げはないけれども、飜て組合の起らざるべからざりし國情を考へ、更に又一國が殆と之が爲に同情を傾け盡して居る理由に鑑みても、以上の法律上の義務だけを盡して居るのみに滿足すべからざるは明白である。
勿論組合が、如何に天下を救濟するの心を懷いて居つても、地方々々には、若干の加入せしめ得ざる人のあることは事實である。又時と場合によつては、趣味傾向を同じくしない人を一緒にしては、事業の圓滑なる進捗に妨げのあることもあらうし、更に又組合が若干の蓄積を備へた以上は、創業の苦心を共にしなかつた多數者をして其利益の分配に參加せしむることを欲せざる場合もあらう。然し是れは誠に言はれないことである。斯の如き排外主義は、どう考へて見ても産業組合なるものゝ性質と相容れざるものである。
ライファイゼン式信用組合などが、組合の基礎を道コの上に於て、平生の品行及信任に申分の有る者を除外したのは、私の信ずる所では、決して小さき町村の間に、勤勉者と怠惰者の二つの階級を永遠に打立てようとした趣旨ではなくして謂はゞ、之を以て一つの教育の方法に充てたのである、即ち道義の指し示す所と、利益の因て起る所以とを知らしめて、人を勤勉正直ならしめようと誘うた手段に外ならないのであつて、苟も素行に申分の有る者に對しては、永久に幸福の門を鎖し、彼等を自暴自棄に陷らしめようとするのではなかつたのである。
(433) 故に當初組合の基礎の鞏固を期する爲に、組合員の資格を吟味して人選を審にするのは、或は必要であらうけれども、彼等にも常に幾千の望を持たせねばならぬ。況んや些少なる感情若くは殆と顧るに足らない程の僅なる利益の爲に、折角調和統一を得て永年の間共同生活を爲し來つた一つの村又は部落の中に、新に、又は二三の階級を造る樣になつては組合の精神に反すること大なるものである。
要するに、産業組合といふものは、階級主義若くは分立主義に正反對なるものである。縱へ全國を通じて數萬の組合、數百萬の組合員があるに至つても、個々の町村に於て組合に入り得る者と、入り得ざる者との二階級が存在する樣ならば、之は所謂「集合的利己主義」であつて、吾々の謳歌し、讃嘆せんとする産業組合では無いのである。
之に就て平生吾々の慊ず思ふことは加入金に關する多くの定款である。成程若干の財産の出來た組合に、無條件に新加入者を許容するならば、折角苦心して造り上げた幾分の積立を彼等にも分配せなければならないことになつて、創業の危險を負擔しない者が成功の利益のみに均霑することになつて不公平と謂はなければならぬ。
けれども之れを舊組合の立場から見れば、苟も夫れが何であるか、若も他の條件に於て組合員として將來を共にするに差支の無い人間であつて、然かも加入を熱望する者があるならば、僅かばかりの加入金の特典を彼等の上に分與して果して損失する所があるであらうか。
法律上の問題としては、加入金の計算は極めて複雜な面倒なるものであるけれども、法令を行ふ側から言へば、強て其利益を抛棄することも出來ないからして加入金を徴收することは勿論正當なることゝしてある。但し之は只法律上の權利があるのであつて、勿論夫れを取らないと組合の趣旨に反するといふのではない。事務を簡捷にする上に於て是等を眼中に置かぬが可い。
新加入者は已に出資金の拂込等に於ても時としては計算を簡單にするが爲に少額分納の便宜を斷念しなければならない場合があるが、其上に舊組合員の要求に從つて若干の加入金を増納する事になると、事實に於ては加入の禁止と(434)同一の結果を生じはしないかと恐れるのである。
加入金は單に一例に過ぎないが、其他の場合にも個々の組合員が法律上の權利を極度迄主張し、又他人に向つては有る限りの法律上の義務を強ひる樣であつては、毒にもならず藥にもならぬ程度の産業組合は或は澤山出來ようけれども、吾々が目して本來の主旨に適つた組合の現はれるのは未だ餘程遠いと謂はねばならぬ。
何れの組合も、創業の際五年七年の間は資力の極めて乏しい、事業の幅に制限の多いものである。殊に信用組合の如きは、餘程組合の特志者でなければ資金借受の必要なくして加入する者はないのであるからして、各人の要求を盡く容れるとなつたら、已むを得ず不利益なる條件を以て組合の基礎の安全を害する程の鉅額の他借を爲すか、然らざれば各人に割宛てゝ殆と云ふにも足らぬ少ない金額を分配するかに歸着するのであつて、普通今日行はれて居る信用程度表なるものは、單に各人に貸し得べき額を制限することは出來ても、甲に貸して乙に貸さぬといふ處置を許すものでないからして、此困難なる問題を十分に適當に解決することは出來ないのである。
普通は力を道コ方面に用ゐない、最初より組合員たる者には暗黙の約束の樣なものがあつて――借りなければ承知しないといふ樣なものがあつて、――吾々の知つて居る所では信用組合の經理を困難にして居る。他の三種の組合に於ても等しく斯の如き事情がある。
現在の立法は組合をして最初から借金を爲すの便宜を與へで居るからして幸に未だ不平の聲を高めないけれども、既に組合外の同胞を排斥するの外、更に組合内に於て斯の如き競爭が若しあつたとすれば、いゝ加減に創業の困難なる組合は、愈々以て經理上の困難を續發せしめ、折角義侠的に組合の爲に働きつゝある最初の理事者をして殆と其餘力に依つて組合を經營するなどゝ云ふことは出來ずに、自家の本業を打捨てゝ全力を擧げて之が爲に働かなければならないやうになる。之も亦組合の本來の性質ではない。
組合の事業は非常に良い事業には相違ないけれども、有爲の人物が自分の正業を捨てゝ、時間の全部を費す程大な(435)る報償のあるものでは無いから、若し斯の如く組合の經理が面倒であるならば、生活に困らぬ人が、自分の利益の大部分を犧牲にして獻身的に働かなければならぬ。而して新の如き人が數千人數萬人現はれて來ることを望むのは無理である。
之を以て見れば、單に法律の指し示す所に準據して過失無きを期する經理方法は、顯著なる二つの弊害がある、一は各人をして組合傳道に疎かならしむること、もう一つは組合の事務を煩雜にして、組合員が職業の餘力を以て自助的經營と爲すべき時期を永遠に延期する故に、私は法律の解釋を以て業とする者であるけれども、産業組合に就ては過度に法律思想の旺盛なることを恐るゝものである。
彼の報コ社の圖體の如きは、?々時代に適應しない、又弊害もあつたり、活働の鈍いといふ非難も無いではないが、其道義的方面に於ては、産業組合が彼から學ぶべきものが多々あると思ふ。例へば組合の貯蓄の基礎となるべき「勤勉」といふことを瞬間も忘れず、組合員内の相互的救濟殊に團體外に對する誘掖指導及救濟に全力を注ぐ點の如きは、單に之を日本の美風として存續するのみでなく、列國の長所を得たりと稱する産業組合にも出來る限り擴張しなければならぬことゝ思ふ。
(436) 農業用水ニ就テ
一、緒言 經濟立法ノ氣運ハ農事ニ關シ比較的旺盛ナラサルノ感アルカ中ニ灌漑用水ノ問題ハ殊ニ久シク世人ニ閑却セラレ居ルニ似タリ二百五十萬町歩ノ水田ヨリ國民主食物ノ殆全部ヲ生産スヘキ我日本ニトリテ用水ノ利不利ハ甚輕微ノ事柄ニ非サルハ勿論ナルニ此頃或ハ水利組合條例ノ改正セラルヘキ噂ヲ耳ニスルノ外未タ多ク輿論ノ此間題ニ及フモノアルヲ知ラス蓋シ農業者ハ概シテ平穩ナル人民ナリ現在紛諍ノ少ナキハ必シモ此カ研究ノ必要ノ緊急ナラサルヲ意味スルモノニ非ス寧ロ援用ノ稀ナルカ爲漸ク朦朧ニ歸セントスル舊慣習ヲ調査シ各地區區ナル成規ヲ統一シテ其ノ時情ニ適應スルモノノ保存ヲ力メ兼テ農法將來ノ發展ヲ豫測シ善良ナル新制度ノ發生ヲ促スカ爲ニ便宜ノ法規ヲ定ムルノ要アルニハ非サルカ試ニ些シク平生ノ見ヲ述ヘン
二、用水ノ種類 米合衆國西部諸州ニ於テ近時盛ニ論議セラルル農業用水ノ問題ハ無論畑地竝ニ牧草地ニ於ケル灌漑ナレトモ我邦ニ於テハ畑ハ市街地ニ接近スル蔬菜栽培ヲ除クノ外通例水利ノ必要ヲ認メス水ト農業トノ關係ハ主トシテ稻作ニ於テ存スルナリ而シテ稻田ニ對スル水ノ供給ニモ亦種類アリ所謂天水場ナルモノハ灌漑ノ爲ニ別ニ何等ノ人力ヲ施サス雨水ノ瀦溜其他天然ノ作用ニ放任スルモノニシテ盛夏十日雨無ケレハ忽チ雨乞祈?ノ策ニ出ツル最モ太古的ノモノナリ此中ニモ遠キ昔ヨリ不完全ナル溝渠ノ開鑿セラレタルモノアリテ年年必要ノ水量ヲ輸送シ來レルモ其管理維持等ニ付キ何等法律關係ノ存スルモノ無キカ爲ニ田主等ハ全ク自然ノ河流ニ對スルカ如キ觀ヲ爲セルモノアリ又湖沼江海ニ沿ヘル地方ニシテ地盤低ク終年水ヲ漾ヘ排水ノ便無ク他ノ地方ノ通例雨ヲ喜ヒ旱ヲ患フルニ反シテ夏時雨(437)量ノ最少カランコトヲ希望スルモノアリ此種ノ天水場ハ別ニ之ヲ水腐場ト稱セリ關西鐡道ノ名古屋、桑名間ノ如キハ其著シキ例ナリ此ノ如キ稲田ニ在リテハ用水ノ問題ノ更ニ起ラサルハ當然ナリ
人工灌漑ノ最簡易ナルモノハ所謂掘井掛リナリ農地ノ一隅ニ井ヲ穿チ其水ヲ使用スルナリ權利ノ關係最單純ニシテ彼ノ共同用水カ人ト人ト物ト人トノ間ニ複雜且ツ不明白ナル法律關係ヲ發生スルニ比スレハ便ハ即チ便ナルカ如キモ大切ナル田地ノ一部分ヲ割クコト及ヒ汲上ケニ要スル勞力等ヲ計上スレハ私經濟上忍フヘカラサル不利アリ攝津、河内ノ野菜畑ノ如ク勞力ノ低廉ニ且ツ農法ノ最モ集約ナル村落ニ於テ姶メテ行ヒ得ヘキモノナリ但シ格別ノ地積ト勞力トヲ要セサル天然ノ噴井アル所例ヘハ備中淺口郡ノ沿海地方ノ如キハ掘井掛リハ最適當ナル灌漑方法ナリト言フヲ得ヘシ
次ニ清水掛リト稱スルハ例ヘハ東京近傍ニ在リテハ常陸ノ筑波山麓古歌ニ所謂雫ノ田居又ハ相模ノ早川村、伊豆ノ山里ノ如キ溪間ノ細流ヲ引キテ直ニ田ニ漑クモノ水清冷ニ過キテ時トシテハ成熟ニ害アリト稱セラル耕作者カ用水ノ爲ニ多ク注意ヲ拂ハサルノ點頗ル天水場ノ?態ニ似タリト雖此ニハ筧其他多少ノ設備アリ使用者相互ノ間ニ多少ノ約束ヲ爲ス思フニ我我ノ祖先カ始メテ日本ニ土着セシ時ハ多クハ此ノ如キ地勢ヲ選擇シテ其水稲ヲ栽培セシナルヘシ然レトモ現在ニ於テハ田ノ全積ニ比シテ此ノ如キ便宜ヲ享有シ得ル者ハ極メテ小部分ナルノミナラス水源樹林ノ處分ハ原則トシテ其各所有者ニ自由ナル時代ニ在リテハ必シモ安全ナル供給ト稱スルコト能ハス寧ロ將來低地ニ於テ大規模ノ水利共同カ行ハルル場合ニハ一隅ニ偏在スルカ爲却リテ之ニ參加シ能ハサルノ虞アルナリ
第三ノ樣式ハ池掛リナリ外山ノ麓又ハ丘陵ノ間等ニ就キテ堤防ヲ築キ所在ノ噴泉ヲ利用シ或ハ溪流竝ニ傾斜地ノ地表ヲ流下スル雨水ヲ蓄積シテ田水ニ供ス稍清水掛リト似タル點アレトモ大地積ノ低地ヲ灌漑スルニハ平時常ニ剰水ノ散流ヲ防キ力メテ大量ノ水ヲ綜合スルノ要アリ到底普通ノ清水掛リノ能クスル所ニ非ス崇神朝ノ依網、苅坂、反折ノ池、垂仁朝ノ高石、茅渟、狹地、迹見ノ池、景行朝ノ坂手ノ池ノ如キハ既ニ二千年前ノ國家事業ニシテ人民ノ智力、(438)資力カ未タ共同ノ策ニ出ツル能ハサルニ當リ政府代リテ其實ヲ擧ケ得タルモノナリ池塘有レハ必ス溝洫アリ其大ナルモノハ流末數里ニ達ス現今ノ普通水利組合ニモ池ノ共同利用ヲ目的トスルモノ少カラス然レトモ人口ノ此ノ如ク増殖シ生産地積ノ不足ヲ感スル今日ニ在リテハ溜池ノ爲ニ大分ノ面積ヲ費スコトハ一ノ苦痛ナリ通常一期間三段歩ノ水田ニ要スル水ハ平均十尺ノ水深ヲ以テ三畝歩ノ地積ヲ要ス(上野農學士)補充ヲ敏活ニシ利用ヲ共通ナラシムルモ猶少クモ耕地ノ四五十分ノ一ノ土地ヲ以テ溜池ト爲ササルヘカラス加之池ノ工事ハ到底一箇ニシテ千町以上ノ灌漑ヲ合同セシムルコト難ケレハ設備ヲ完全ニシ費用危險ヲ分擔スルニハ資力ノ或ハ之ニ堪ヘサルヲ虞フ、サレハ予カ目撃セル奈良、茨城ノ二縣下ノ如キハ近年溜池ノ其用ヲ廢セラレテ田ト爲ルモノ甚多ク之ニ代フルニ河水ノ灌漑ヲ以テセントスル傾ハ既ニ明白ナル輿論ヲ構成スルニ至レリ
最後ニ河掛リト稱スル田地ハ現在ニ於テモ最早全國ノ過半ヲ占ム此方法ハ水量ノ豐富ナル點ニ於テ大規模ノ合同ニ適スルノミナラス日本ノ河川ハ概シテ傾斜急ナル故ニ比較的短距離ノ水道ニ依リテ源頭ヲ求メ得ルノ利アリ土木技術ノ發達ニ由リ能ク洪水ノ妨害ヲ免カレ舟行其他ノ河川利用ト相牴觸スルコト無キヲ得更ニ必要ナル場合ニハ揚水機械ノ適用ヲ見ルニ至ラハ全國大小ノ河流ハ一トシテ米作ノ助ヲ爲ササルモノ無キニ至ルヘシ而シテ一方ニハ年年急流ニ由リテ莫大ノ肥力ヲ海洋ニ搬出セラルルノ損失(志賀氏)ヲ幾分カ免カルルコトヲ得ルノ利益アリ蓋シ今後ノ農業用水問題ハ必ス同時ニ河川使用ノ問題トナルナラン國ノ法規カ未タ此ノ點ニ就テ周到ナラサルハ遺憾ト言ハサルヘカラス
三、用水ノ將來 農地排水ノ問題カ政治上注意ヲ拂ハルルニ至リシハ極メテ近年ノ事ナルニ反シテ灌漑ノ事業カ久シキ以前ヨリ重要ナル農政上ノ一事項トシテ目セラレシ事ハ上述ノ如シ然レトモ明治ノ今日ト四十年前トヲ比較スルトキハ其重要ノ度ノ増進セルコトハ頗ル著シク更ニ三四十年ノ將來ニ想及スルトキハ用水ノ個個ノ農人ニ對スル利害關係ノ大ナル亦決シテ今日ノ比ニ非サルヘキヲ知ル今其事由ノ二三ヲ列記センニ第一ニハ開墾ニ依ル水田面積ノ増加ナ(439)リ維新以降田積ノ増率ハ甚遲遲トシテ常ニ人口ノ増率ニ伴フ能ハサリシ事實ハ或ハ人ヲシテ田地ノ擴張ハ一旦其經濟上ノ限度ニ逢着シ今後米價ノ一飛躍ヲ見ルニ非サレハ到底著シキ増加ヲ望ムコト能ハサルカノ如ク想像セシメタリト雖予輩ノ見ヲ以テスレハ是レ唯從前ノ如ク僅少ナル個人ノ資力ヲ以テ開發シテ田ト爲スヘキ地域ノ缺乏シタルヲ意味スルニ止リ始ヨリ稍豐ナル資本ヲ投下シ稍大規模ノ計畫ヲ以テ着手スルナラハ費用ノ割合ハ小面積ノ開墾ト同シキカ又ハ寧之ヨリモ少クシテ田ト爲シ得ヘキ地積ハ到ル所之ヲ發見スルヲ得ヘキ也唯資本家ハ他ニ一層有利ナル事業アルカ爲ニ未タ之ヲ顧ミス小耕作者ノ間ニハ合同ノ機熟セサリシカ爲ニ其效ヲ收ムルコト能ハサリシノミ其例證ヲ擧レハ巖手縣ノ三本木野ノ如キ福島縣ノ對面ヶ原ノ如キ或ハ三河碧海郡ノ原野ノ如キ墾成後ノ今日ニ於テ見レハ必シモ算盤ニ外レタル無謀ノ事業ニ非サリシヲ認ムヘシ之ヲ以テ言ハハ水田ノ面積ハ將來一層ノ増加ヲ見ルヘク而モ新ニ増加スヘキ水田ハ必ス灌漑ノ設備ヲ基礎トシテ開發セラルルモノナルヘキカ故ニ用水法規ノ適否カ一層多數ノ農業者ノ休戚ニ交渉スルコトトナルヘキハ論ヲ須タストス
第二ニハ田地排水事業ノ進歩ナリ肥料補充ノ方法カ稍完備セル今日ニ於テハ所謂二毛作ハ政策ノ勸奨スル所ナルノミナラス地主モ亦地價ヲ増進スルノ希望ヨリ續續排水ノ爲ニ勞費ヲ加フルニ至レリカノ耕地整理ノ事業ノ如キハ一般ニ排水ノ工事ヲ伴フノ風ヲ生セリ尾勢ノ水腐場ノ如キハ幸ニ排水ニ由リテ乾田ヲ得タリトスルモ其灌漑ノ爲ニ格別苦心スルニハ及ハサルヘキモ其他ノ田方ニ在リテハ水ノ掛引ヲ自由ナラシメントスレハ從來ノ濕田ノ外ニ別ニ適當ナル貯水場ヲ設ケサルヘカラス語ヲ換フレハ排水ノ工事ハ多クハ灌漑ノ工事ヲ伴フヘキナリ排水工事ノ施サレタル田地ノ増加ハ大抵水ノ使用權ノ關係ヲ増加セシムルナリ若シ共ニ一河ノ水ヲ汲ムトセハ新舊使用者ノ利害カ此カ爲ニ其複雜ノ度ヲ加フヘキハ明ナリ
第三ニハ畑ノ田成ノ増加ナリ舊時代ノ法規ニテハ用水ノ障トナルニ於テハ畑ヲ田ト成スコトハ之ヲ禁止セリ(コ川禁令考九)思フニ普通ノ慣習ハ舊用水者ノ同意ヲ條件トセシナラン然ルニ現在ハ畑ヲ田トスルハ勿論所有者ノ自由ニ(440)シテ單ニ土地臺帳管理廳ニ對スル地目變換ノ屆出ヲ以テ足ル土地利用ノ?況カ大ニ變セサル限ハ田ハ畑ヨリモ概シテ高價ナルカ故ニ所有者ノ畑田成ヲ欲スルモ亦自然ニシテ此ニ由リテ水使用ノ問題カ多少面倒ニナリ得ヘキコトモ亦想像ニ難カラス
第四ニハ畑地耕作法ノ進歩ナリ大小麥豆ノ利ハ漸ク乏シクナリ一方ニハ優等ナル果實蔬菜或ハ工藝原料等ノ需要カ増加シ輸送ノ方法亦稍備ハリタル今日ニ於テハ能フ限所謂特用農産物ヲ栽培シ從テ集約農法ノ利ヲ收メントスル傾向ハ自然ニシテ之ト同時ニ少クモ旱年ニ於テ其畑地ヲ灌漑シ得ルノ準備ヲ要スヘシ又畜産ノ方面ニ於テモ優等品ヲ生産セントスル現下ノ方針ヲ遂行スルナラハ必ス天然ノ草野ヲ改良シ人工牧草地ヲ造ルノ要アルヘク平原モ山地モ何レニシテモ田以外ノ水ノ需要ハ増進スルノ外ハ無カルヘシ
以上ノ外當節大流行ノ題目ナル水力電氣業ノ起工ハ既ニ到ル所ニ於テ灌漑者ト利害ノ牴觸ヲ生セリ曳舟筏流シノ徒カ新設ノ井堰、牛枠等ノ通航ヲ阻碍スルヲ訴フル地方アリ或ハ鑛毒問題ノ如キ保安林問題ノ如キ將來ノ事端ハ滋カラサラントスルモ能ハス殊ニ町村ノ分合、境界ノ變更ノ如キ十數年來比比トシテ行ハルルモ元來必シモ水利ノ關係ヲ標準トセサル爲時トシテハ永年ノ舊關係ヲ破壞シ而モ之ニ代ルニ圓滑ナル新組織ヲ以テスルコトヲ得サリシモノアリ其結果トシテ彼ノ水利組合條例ノ如キモ當初ノ舊制保存ノ目的ノ外ニ猶此ノ變動後ノ事情ニ適應セシムルノ必要ヲ見ルニ至レルナリ
四、町村ト用水 從前ノ慣習ニ於テハ灌漑用水ニ對スル權利ノ主體ハ個人ニ非スシテ村方ナリ二箇以上ノ村カ用水ノ爲ニ組合ヲ組織スル場合ニモ組合内ニ於テ配水ノ問題ヲ決スルハ各用水者相互ノ間ニハ非スシテ必ス村ト村トノ間ナリ即チ昔ノ水利組合ノ組合員ハ村ナリサレハ新ニ引水權ヲ設定スル場合ヲ始トシテ水論ノ訴訟ヲ提起スルニモ名主又ハ總代ハ必ス村ノ名ニ於テ之ヲ行ヘリ成ホト村民相互ノ間ニモ我田ニ水ヲ引クノ爭ハ時トシテ無キニ非サリシモ之ヲ解決スルハ決シテ困難ニハ非サリシナリ其次第ハ合併以前ノ村村ハ其創設ノ新古ヲ問ハス概シテ同時一團體ノ開發ニ(441)係リ加之新村ヲ新田トモ稱スルカ如ク村ト村ノ田トハ其發生ノ時ヲ一ニシ一村ノ地勢亦甚シキ甲乙無キヲ以テ灌漑水ノ配賦ニ關シテモ適當ナル當初ノ約束アリ又一方ニハ住民相互ノ間ノ制裁モ強力ナリシカ故ニ永年ノ例規ヲ相守ルコトヲ得タリシナリ然ルニ現行町村制ノ公布ト前後シテ舊町村ノ大併合アリ以前ノ村村ハ新町村ノ大字トナリ高低一樣ナラサル種種ナル溪谷ヲ合セテ一法人ヲ爲スニ至リシカ爲用水者ノ集合的利害ハ舊ノ如ク忠實ニ討究セラレス或ハ爲ニ區會ヲ設クルモノアルモ其外部ニ對スル代表ハ仍利害ノ統一セラレサル村機關ヲ經由スルノ必要アリ況ヤ普通水利組合ヲ組織スルモノノ如キハ各大字ヲ以テ組合員ト認メサルヲ以テ個個ノ用水者ハ各々組合ニ對シ又ハ他ノ組合員ニ對シテ單獨ニ自己ノ利益ヲ主張セサルヘカラス是ニ於テカ永年ノ慣習ハ一變シ更ニ新ナル個人主義ノ見地ヨリ權義ノ分界ヲ定ムヘキ法律ヲ要スルニ至リシナリ
五、公流ニ對スル引水權 個個ノ田主カ水ヲ用ヰルノ權利ハ今猶安全ニ保障セラルト言フ能ハサルニ反シテ各大字(舊町村)、其組合其他大小ノ團體カ行使スル水ノ權利ハ永年ノ認容ヲ經テ一片ノ文字無キモ猶頗鞏固ノモノナリ莊園發生時代ノ法令ニ依レハ溜池及溝渠ヲ私墾シテ水ヲ通スル者ハ之ヲ私領シ得ルハ勿論ナルモ河川湖沼ノ如キ公水ニ至リテハ公田ヲ耕作スル者ニ非サレハ之ヲ利用シ能ハサルヲ原則トシ唯公流ノ水饒ニシテ妨無キ所ニ限リ之ヲ私田ニ灌漑スルコトヲ許セリ(民部式)然ルニ其後公田ノ漸ク減少シ莊園天下ヲ蔽フニ至リテハ莊境ノ河川ヲ以テ公流ト爲スノ思想ハ依然トシテ變セサリシモ到ル處ノ私儀ハ皆公水ヲ引用シテ何等ノ制限ヲ受クルコト無ク唯其源頭ニ溯リ又ハ他領ヲ通過スル水路ヲ以テ自己ノ私領地ト同一視スル能ハサリシノミ此權利ハ勿論開發地主ニ屬シ夫ヨリ輾轉シテ其地ノ領主ノ手ニ在ルヘキモノナリシカトモ後代ニ及ヒテハ事實直接ノ利害ヲ感スル各村村代リテ其權利ヲ行ヒ領主ハ唯之ニ對シ平時ノ監督ト大修繕ノ時ニ於ケル干渉ノ權限トヲ留保スルコトトナレリ是レ公流ニ對スル引水權カ現在町村ノ各大字等ニ屬スル沿革ナリ
此權利ノ特徴ハ先用者ノ優先ニ在り(Right of Priority)數十里ノ平原ヲ貫流シ澤山ノ私領ニ接觸スル河川ニテモ(442)第一ノ枠ヲ立臥セ第一ノ水門ヲ設ケテ分水ヲ始メタル證據アル村ハ第二以下ノ順位ニ在ル引水者ヲ排除シ其當初ノ用法ニ隨ヒテ需要量ヲ取ルコトヲ得下流ニ於ケル灌漑ハ事實ニ於テ差支ナシ唯上流ノ村カ新ニ水門等ヲ設ケントスルニ當リテハ必ス之ニ容喙シ時トシテハ必要ナキニ故障ヲ申立ツルコトアリ故ニ藩ニヨリテハ下流舊用水者ノ同意書ノ添付ヲ以テ用水新開ノ許可ノ條件ト爲シ以テ他年ノ紛諍ヲ避クルモノアリ從テ河上ニ水田ヲ開クハ尤困難ナリ近年迄?裁判所ヲ惱セシ多クノ水論ハ其論點略此範圍ヲ出テス雨多ク水豐ナル年ハ何ノ事モ無ケレト一旦旱年ニ遭ヘハ必ス此順位ヲ根據トシテ他ノ村村ノ缺乏ニハ關係ナク有ル限ノ水ヲ我村ニ引入レントスルヨリ尤由緒ノ證文ヲ尊重シ且常ニ上下流ノ水利工事ヲ監視シ少シク舊制ニ異ル點アレハ之ヲ爭ヒテ止マス同地方村落比隣ノ關係ノ親昵ナラサル原因ノ主タルモノハ此ニ在リ
此慣習ハ現?ノ保守ヲ詮トシ稻田ノ新墾、畑ノ田成等ヲ制限禁止シ得タル時代ニハ必シモ其弊害ヲ見ス行政廳ハ各用水者ヲ監督シテ其舊規模ヲ超越セシメサルヲ得ハ即チ可ナリ唯缺點ノ明白ナルモノハ各用水者カ設ケタル水門ハ其廣サ深サ竝ニ水速ヨリ計算シテ其灌漑地域ノ需要量ヨリ以上ノ水ヲ引クカ如キコト無キヤ否ヤヲ確保スル能ハサル點ニ在リ常識ヲ以テ推測スレハ第一次ニ設ケタル枠及水門ハ必ス相當以上ノ水量ヲ取リ後後増設セラレタルモノハ勢不十分ナル供給ヲ受クルコトヲ免レサルヘシ數多ノ實例モ亦此推測ト合致ス第四第五ノ順位ニ在ル用水者カ其不十分ナル灌漑ヲ以テスルモ猶既墾ノ水田ノ全部ヲ義ヒ得ル間ハ差支ナシサレトモ追追ニ聞發カ増加シ水量ノ不足ヲ訴フルニ至ラハ此ノ如キ慣習ニ基ケル權利ノ限界ニ安息スヘカラサルヤ論ナシ而モ開墾ノ餘地ハ新村新田ノ方面ニ於テ多カルヘキナリ前ニモ述ヘシ如ク近年田ト云ハス畑ト云ハス灌漑ヲ要スル耕地ノ面積ハ増加スルノ傾アリ加之河流ノ水量ハ涵養山林ノ伐開ト共ニ増減ノ差著シクナレリ後來恐クハ舊用水者ノ既得權ヲ現?ニ放置スルコト能ハサルニ至ルナラン
此慣習ノ今一ツノ缺點ト云フヘキハ舊時代ノ村方ハ小サク技工資力モ亦小ナリシ爲メニ用水ノ機關ハ概シテ小規模(443)ナルコトナリ偶々數箇村ヲ祖合フモノアルモ亦一領一給ノ外ニ出テサルヲ通例トセシカ故ニ到底一工事ヲ以テ數千町歩ヲ合同スルモノヲ企ツルコト能ハス我國ノ如ク傾斜地多キ國ニテハ上村ノ落シ水ハ直ニ下村ノ懸ケ水ト爲スコトモ極メテ容易ナルニ或ハ舊領分堺ノ關係ヨリ其他僅ナル行掛リノ爲ニ多クノ小溝渠カ併行シ又ハ交叉スルノ地方モ珍シカラス此ノ如キハ彼ノ小溜池ノ存置ニモ劣ラサル土地ノ浪費ニシテ同時ニ又一方ニ於ケル水ノ浪費ノ間接ノ原因ナリサレハ近年ノ用水工事ハ大抵合同ノ傾向ヲ示シ明治年間ニ入リテ新設セラレタル普通水利組合ハ概シテ從前ノモノヨリモ大ナリ是レ自然ノ結果ニシテ猶前論ヨリ推セハ更ニ積極ノ政策ヲ以テ組合ノ再聯合ヲ促スヘキ必要ヲ認ムル時期アルヘシ從テ又現在ノ如ク一箇町村甚シキハ一大字ヲ以テ用水ノ設備ヲ爲スモノハ丘陵ノ周匝シテ他ト連絡ヲ缺ク等特別ノ?況ニ在ルモノノ外ハ次第ニ功ヲ大團體ニ讓ルヲ要トスルニ至ルヘク現行水利組合條例ノ如ク原則トシテ灌漑ヲ町村ノ行政事務ナリトスルノ主義ハ予ノ見ル所ヲ以テスレハ久シカラスシテ止ムナルヘシ
六、個人ノ用水權ヲ發達セシムヘキコト 水權ノ主體タル團體カ今ヨリモ更ニ大キクナルヘキ傾向アリトスレハ其間ニ於ケル個個ノ用水者即チ農民ノ地位ニ對シテハ將來一層ノ注意ヲ拂ハサルヘカラサルハ當然ノ理ナリ現在ノ農業者カ共同ニ使用スル水門竝ニ大小ノ溝洫等ハ本來公地ナルカ又ハ久シク租税ヲ拂ハサル私地ナルカ爲ニ自然ニ村有又ハ區有ニ編入セラレタル土地ニシテ此地ノ上ニ於テハ個人ハ未タ土地利用ノ一方法トシテ水ノ領有(Appropriation)ヲ爲スコト能ハス理論上水ノ領有カ開始セラレテ私法ノ保護ヲ受クルニ至ルハ唯各自所有田地ノ水口ニ於テノミト言ハサルヘカラス其以前ニ於テハ單ニ團體ノ配水規約ノ公平ニ信頼スルノ外特ニ要求ノ力ヲ有セス百町歩ノ一灌漑區域ニ於テ一反歩ノ地主ハ果シテ千分ノ一ノ用水權ヲ有スルヤト云フコトハ頗大ナル疑問ナリ昔時ハ却リテ田地ノ移轉ニ伴ヒ又ハ伴ハスニ用水ノ權利ヲ賣買讓渡セシ慣習ノ存セシコトヲ認メラルルニモ拘ハラス近代ニナリテハ少數者カ共同シテ水道等ヲ獨立ニ設ケタル稀有ノ場合ニ特別ノ意思表示ヲ以テ用水ノ權ヲ新地主ニ繼承セシムルモノヲ除キテハ田地ノ所有者ハ隨意ノ處分ヲ以テ用水權ヲ賣買スルコト能ハス例ヘハ水田ノ所有者カ仔細アリテ之ヲ畑ニ變シ最早灌(444)漑ヲ要セサルニ至ルモ過去數十百年ノ間享有シ來リシ用水ノ權利ハ之ヲ抛棄スルノ外何等有利ニ處分シ能ハサルヲ常トス惟フニ是レ從前ノ慣習カ專ラ團體ヲ以テ本位トシ町村大字又ハ水利組合等ノ相互ノ關係カ何處マテモ私法的ノ法則ヲ以テ律セラルルニモ拘ハラス其團體員ニ臨ムニ當リテハ飜テ公法的ノ關係トナリ個個ノ農業者ハ費用トシテ賦役金錢等ヲ公課セラレナカラ水ノ年年ノ引用ハ必スシモ之ト相表裏スルモノニ非サルカ如ク看做サルルニ至リシ爲ナルヘシ
水利組合等ノ公課カ必シモ用水ノ對價トシテ目スルコト能ハサル證ハ猶種種ノ點ニ於テ之ヲ認メ得ヘシ渇水ノ年ニハ組合員ハ不十分ナル水ノ供給ヲ受ケ甚シキハ供給皆無ナリトモ猶費用ノ一定ノ分擔ヲ免ルルコト能ハス普通ノ慣習ニテハ一年間ノ經費ハ略ホ灌漑地面積ニ比例シテ各地主ニ負擔セシムルナレトモ一段歩ノ田地ハ必シモ同一量ノ水ヲ消費スト云フコト能ハス又必シモ同一ノ勤務(Service)ヲ要求スト云フコト能ハス精確ニ言ハハ假令土質鬆密ノ度ハ相均シトスルモ距離ノ遠近ニ依リ引水ノ時刻等ニ依リ溝渠ヲ流ルル水カ蒸發浸潤ノ爲ニ減耗スル程度ニ著シキ差異アリ水門ニ近キ田ノ一段寸ノ水ハ末流ニ在ル田ノ一段寸ノ水ノ半分ニテ間ニ合フヤモ知レス又早稻田最多キ地方ニテハ早稻ヲ作ル農家ハ最貴重ナル一段寸ノ水ヲ使ヒ 偶々晩稻ヲ作ルモノハ餘剰多キ水ヲ使フナレハ其價モ亦低シト言ハサルヘカラサルニ彼此水利費ノ間ニ決シテ差等ヲ設クルコトナシ今ソレ米ヲ生産スル者ヨリ見レハ灌漑ノ爲ニ支出スル金錢ハ明ニ一項ノ生産費目ナルニ前述ノ如キ事由アルカ爲之ヲ計上シテ生産經營ノ簿記ヲ精確ニスルコト能ハス而モ用水權ノ保障カ必シモ十分ナルコトヲ得サルヲ以テ觀レハ公共團體ノ事務トシテノ用水ノ共同經營カ農業ノ爲メサマテ利便ヲ供スルモノニ非サルヲ知ルヘク殊ニ團體カ愈々擴張シテ甲乙地方利害時トシテ相反シ代議會ニ勢力ヲ有スルモノ或ハ一方ヲ凌駕スルノ處アルヲ思ヘハ今ニ於テ各個人ノ合意ヲ基礎トセル別種ノ給水方法ヲ考察スルノ要ヲ認メスハアラス
七、私設給水機關 農學者ノ中ニハ日本ノ農業ニ於テ灌漑ノ此ノ如ク重要ナルニ而モ先用者ノ慣習上ノ特權ハ此ノ如(445)ク強力ニシテ寧ロ專横トモ云フヘキ?況ニ在リ一半ノ農民ニ對シテハ水ノ供給カ必シモ安固ナリト言フ能ハサルヲ見テ將來ノ灌漑ハ到底國家ノ專業ト爲スニ非サレハ圓滑ナル處理ヲ期スル能ハスト論スル人アリト聞ク併シナカラ數百千ノ獨立セル溪谷ニ散在セル水田耕作者ニ大小無數ノ河川ヨリ水ノ專賣ヲ爲サントスレハ假令價格ノ問題ハ如何樣ニモ解決セラルトスルモ第一何萬人ノ役人ヲ置ケハ十分ナルカ計畫ノ立テ方モ無カルヘシ唯農民ノ資力ノ日本ノ如ク小ナル國ニテハ完全ナル用水ノ供給ハ是非共外部ノ資本ニ依リ且農民以外ノ人ノ企業ニ須タサルヘカラサル事ノミハ爭フヘカラス現在ハ未タ此點ニ着目スル者モ無ケレト給水ノ事業ハ飲料水ノソレニ於テモ認メラルル如ク投資ノ途トシテ決シテ利益少キ事業ニハ非ス斯ク言ハハ會社新設ノ大流行ナル今日時好ニ迎合スルノ嫌アレトモ縁由モ無キ資本家カ不意ニ村落ニ入込ミタリトテ直ニ成功シ得ト言フニハ非ス唯農業者ノ水ノ需要ハ稻田ノ存スル限不變ノモノナレハ彼等カ現在負擔セル費用ノ内外ニ於テ年ノ旱濕ニ拘ハラス一定ノ水量ヲ安全ニ供給スルノ契約ヲ爲シ一方ニ之ニ必要ナル工事ヲ經營シ得ル者アラハ其ノ自他ニ對スル便宜利益ハ遙ニ今ノ水利組合ノ事業ニ優ルヘシト信スルノミ否現在ノ水利組合ハ此際從來ノ組織ヲ改メ一ノ私法上ノ法人トシテ自ラ農村ニ於ケル給水業者ノ地位ニ立ツヘキナリ此目的ヲ達スルニハ國家ハ無論精密ナル監督法規ヲ設ケ更ニ一方ニハ公流ノ利用ニ關シ相應ノ便宜援助ヲ與ヘ各給水業者ノ公水ヲ領有シ得ル權利ハ一定ノ畛域ニ於テ之ヲ確保セサルヘカラス到底一般ノ會社法ノ規定スル所ニ放任スル能ハサルナリ
殊ニ新ニ土工ヲ起スヘキ地方アリトセハ現行水利組合條例ニ依ル水利組合ノ設置ヲ希望スルハ殆不能ナリ北海道ノ例カ示ス如ク開墾ノ辛勞ヲ敢テスル者ハ皆資本無キ小民ナレハ此等ノ者ヲ糾合シテ統一アリ組織アル用水機關ヲ創設維持セシメンニハ必スヤ三十年ノ昔大久保内務卿カ安積ノ開墾ニ與ヘタルカ如キ格外ノ補助ヲ爲ササルヘカラス若シ此無クシテ猶田積ノ増加ヲ求メントセハ資本アル私設ノ給水會社ヲ設ケシムルノ必要アリ其方法ニハ種種アリト雖試ニ一二ノモノヲ想像セハ
(446)(イ)北海道ニ於ケル所謂農場主ノ爲セル如ク一區劃ノ大地積ニ道路宅地敷等ノ設備ト共ニ大小本支ノ溝洫ヲ開キ耕地豫定地ハ之ニ應シテ地割ヲ爲シ小區劃地ヲ實際ノ聞發人ニ貸渡シ又ハ賣渡ストキニ用水權ヲ土地ニ隨伴セシムルナリ貸渡ナラハ管理維持ハ無論地主カ負擔シ賣渡シテ立退ク場合ニハ個個ノ小地主ノ合同ニヨリ産業組合法ニ依ル給水組合(生産組合ト稱セラルルモノ)ヲ設置セシムヘシ
(ロ)地割ノ既ニ終リ小農ノ土着セル地方ニテハ用水ノ工事ヲ完成シ年賦又ハ定期拂ノ法ヲ以テ用水權及水道敷地ヲ近傍ノ地主ニ賣渡スナリ此場合ニハ用水者ハ又管理ヲ合同スルカ爲一ノ組合ヲ設クルノ必要アリ
(ハ)最單純ナル形式ハ給水者自ラ一切ノ設備ヲ管理シ年年一定ノ水ヲ近傍ノ耕作者ニ供給シテ料金ヲ徴スルナリ
此等ノ企業ニ於テハ是非共着手前ヨリ將來ノ水ノ需要者ト豫約スルノ必要アルヲ以テ事實ニ於テハ株式會社ナラハ一部分ノ株式ハ用水者ヲシテ之ヲ引受ケシムルコトナルヘク若シ能フヘクハ全然用水者ノミノ合同トシテ相互主義ノ原則ニ基キ最低價ノ供給ヲ爲スコトヲ得セシメハ假令名ハ一ノ營利法人ナリトモ其一般ニ及ホス利益ハ今ノ水利組合ニ劣ル所無カルヘシ殊ニ水利組合カ將來其形ヲ變スルニ當リテハ單ニ其經理ノ主義ヲ私法的ニシ用水者トノ關係ヲ契約ノ上ニ立タシムルニ過キス事業ノ範圍ハ依然トシテ舊ノ如クナルカ故ニ極メテ容易ニ新時代ノ要求ニ適應スルコトヲ得ヘキナリ
八、結論 思フニ未來ニ於ケル農業用水ノ問題ハ結局公流公水ノ恩惠ヲ如何ニシテ最モ汎ク國民ノ間ニ配付スヘキカト云フ點ニ歸着スヘシ土地利用ノ進歩、地價ノ騰貴ト共ニ從來ノ井掛リ池掛リハ不利益ナリトシテ廢セラレ其他河流ニ供給ヲ仰ク地積ハ増加シ生産物ノ搬出ニ由リ農地ノ水分ヲ取去ルコト愈多ク化學肥料ノ施用加ハルト共ニ水ノ需要一層急増セハ從來ノ如ク各地主カ凡テ潤澤ナル灌漑ニ滿足スルコト能ハサルニ至リ學理上許ス限リ水ノ效力(Duty of water)ヲ多大ナラシメ更ニ一方ニハ一國トシテ用水ノ節約ヲ説クノ必要ヲ見ルニ至ルヘシ此ノ如キ場合ニ際シテハ國家ノ任務ハ必ス其範圍ヲ擴張セサルヘカラス最初ノ順位ニ在ル者ノ不相應ナル用水權ヲ制限シテ之ヲ新來ノ者ニ(447)付與シ或ハ利用ノ循環(Rotation of use)ヲ圖リ又ハ貯水法ニヨリ又ハ排水ノ周到ニ依リテ多數ノ需要者ヲ滿足セシムルコトヲ力メサルヘカラス舊慣ノ尊重スヘキヤ固ヨリナリト雖猶一方ニハ徐ニ世ノ變遷ニ應スヘキ新立法ノ計畫ナカルヘカラス而シテ其主タルモノハ個個ノ農業者ノ地位ノ保全ニ在リ此點ニ關シテハ舊制度ノ不備ハ一ニシテ止ラス例ヘハ水量ノ算定法ノ如キ地下水ノ問題ノ如キ專門ノ技術家ノ調査ニ須ツヘキモノ甚多シ他日更ニ稿ヲ改メテ之ヲ攻究セントス
(448) 將來の農政問題
農政の問題は、是迄多くの場合に於て、實際の政治を背景として討究せられて居る。而して自分は御承知の如く、誠に中途半端な地位に居る者である。それが爲に近年久しい間未だ此問題に就て無遠慮に所信を吐露したことが無い。帝國農會の此度の企ては時節がら結構な事業である。聽衆は失禮ながら張合ひのある斯界の研究者ばかりで、而も他人の交らぬ所謂水入らずの會合である。今度こそは多分思ふ所を自由に申上げ得るかと考へて參つたが、果して如何なものであらうか。自分は諸君の顔色を見い見い、徐ろに話を進めて見ようと思ふ。
さて日本の農政が飜譯的の農政であると云ふ批難は、決して三十年五十年以來の事では無い。平安朝初期の唐制模倣は假に形式ばかりであつたとしても、既に江戸時代の漢學者の中には、支那の上古の井田法の有難味を諸侯家に説いた人がある。所謂助法の制度の實行を試みたと云ふ故跡が、現にこの東京の近郡にもある。維新の際にも土地均分の理想を實地に斷行せんとした藩がある位で、此種の支那傳來の政策を論じた著書に至つては、其數が固より甚だ多いのである。其中には深く當時日本の農民生活の實?を理解し、之を何とかせねばならぬと考へた結果として少なくも論者自身に於ては、其方策を實際に適するものと考へて實行に着手した者もあらうが、少なくも他の半分の場合に至つては、甲の國で好結果を收めた政策であるから乙の國にも良いであらうと云ふ概括的の論法に發足したもので、所謂老農の徒は常に之れを見て苦笑して居たことであらうと思ふ。
今日は不幸にして右の苦笑を爲すべき老農の數が甚しく減少したのである。其仔細はと言ふと、現代の農政には最(449)早三十年ほどの歴史が出來た。新しい/\と言つて居る中に、之を唱へた人に白髪が生じ齒が拔けた。而も其三十年の間に、少しづゝ各地方に有つた反對分子は、死んだり表彰されたりして引込んでしまつた。其故に、萬々一にも今日の農政の方針に改めねばならぬ點が現はれたとすれば、我々新人物が自ら反省し心付くより他の途は先づ無いのである。
勿論我々とても、是迄國柄の相異乃至は時代々々の特質と云ふものを眼中に置かずして農政を論じた覺えは曾て無い。例へば英米は大農國だから、日本の如き小農ばかりの國の農政の手本にはならぬなどゝは誰も言つた。併し同時に又、佛蘭西は小農國である。西部獨逸にも小農が多い。戰爭で滅茶々々になつたが白耳義の中央部、或は丁抹なども小農の集まりである。夫だから多くの模範は此等の國々の農業制度から採用し得るだらうと考へた者もあつた。この「夫だから」は事に由ると或は些し大まかに過ぎて居つたかも知れぬ。
此等の國土に於ては、最近の十年十五年の間に著しく民情が變化し、前代に世に發表せられた好記述又は好評論がどし/\と無用の記念物と成りつゝあるのである。受賣主義の弊害は時として此變化を其程にも思はず、往々にして一八九−年頃の書物を平氣で振廻はす點に有るかも知れぬ。元來「時代の變遷」と云ふ語はよく聽く語であるが、音も無ければ香も無く又何の相圖も無いものである。曾て印度洋上を航行する汽船に於て、一貴婦人の欄に凭りじつと海面を見詰めて居る者があつた。何をして御出でなさるかと問ふと、もう此邊に赤道が見える筈かと思ひますと答へたと云ふ話がある。我々の如きは未だ一たびも右の貴婦人の如く注意深く、空間に向つて念を凝らして見たことが無い。幸か不幸かは容易に決し得ぬが、東西の交通が殆と十分に自由に成つてから後も、我々は久しい間欧米の人民と思想上の隔離を保つことを得たのである。この三四年來のやうに激烈に彼方の影響感化を受けると云ふことは、是迄恐くは殆と絶えて無かつたのである。
最近世の特色は、一言で言へは大事件の連發である。所謂二號活字の衝動は、思ふに全國に向つて少なからぬ精神(450)上の影響を生じつゝあることであらう。殊には此大戰爭の終局は、人類の歴史有つて以來曾て見ざりし程の、時代の大區劃であるべく思はるゝのである。善きにつけ惡きにつけ、知らぬ未來に對する不安は、苟くも感覺の有る者なら誰でも抱かずには居られぬ筈である。
歐羅巴の交戰國に於ても、現今最も重要なる語はやはり「戰後」と云ふ語である。日本にも此語は時々出現するが、未だ彼の國々の戰後問題の論述討究の豐富なるには及ばぬのである。而してこの大正七年は、何と無く戰後元年になりさうな感じがする。假に又それは只今の感じのみで適中しなかつたとすると、其方が却つて事は遙かに面倒であるかも知れぬ。今日既に各國共に九分五厘以上迄の力を出し盡して居るので、此?態が永く續くと云ふことは、此上更に多くの有得べからざる事が起らねばならぬことになるからである。
新聞や雜誌だけで國論を盡して居るとすれば、日本で戰後の問題と云ふのは主として國防の補充擴張如何に在るやうに思はれる。さも無ければ海外の貿易と海外の企業である。戰後の農業に至つては、諸君の如き責任の衝に當つて居られる人々、平素頗る之を考慮して居られることとは信ずるが、自分は未だ一箇の至つて小さな新提案にも逢着しないのを遺憾とする者である。
此度の大戰は既に世界の壯丁の數百萬を殺戮し、更に又其數百萬人を手無し足無しとした。獨逸に居る捕虜の如きは言ふに忍びざる虐遇で、假令生きて還つて來ても物の役に立つ者は甚だ少なからうと傳へられて居る。是が主として所謂先進國たる歐洲の數箇國のみの負擔する所である。而して世中の産業の中で、今尚最も多く人力に依頼せねばならぬのは農業である。若し戰後獨佛等の國々に於て、是迄通りの領土の利用方法を持續せんとする場合には、殆と其生産手段の根本的改革を行はねばならぬことは理の當然である。即ち我々は世界農法の革命を正に目前に控へて居るのである。
日本に在つては右の如き人口の恐るべき劇減を見ない。從つて此渦卷の中に卷き込まれる處は無からう、と信ずる(451)人があるならば其は誠に皮相の見である。是迄各國の農業の?態を論ずるに當つて、農民と耕地との割合即ち一人當り幾何の面積を耕して居るか、及び農民と農産高との割合即ち一人の勞力が何程の生産を爲すかを比較して見た人は少なかつたが、大體から申せば小農國と名の付く程の國同士の間に於ては、今迄は先づ略々相似たる勞力の換價、即ち同じ程の骨折が同じ程の利用を遂げるものと考へ得られたのである。處が將に來らんとする歐羅巴の新農業は、勞力の一般的缺乏の結果として、全然新種の小農經營法を發達せしむることになるとすれば、之に伴ふ小農業者の智力及資力竝に社會上の地位の昂進は、恐らくは舊來其儘の日本などの小農を、必ず遙か後方に取殘して行くことゝなるであらう。今日に於ても既に比較して見るのが氣の毒に堪へぬ位の我が中以下の農業者と、之を以て團體生活の中心として居る日本の國家とは、假令絶對的には親祖父の代よりも一段と安樂幸福になつて居るとしても、他の諸國と兩々對立して相比較した場合に、如何に劣勢であり且つ如何に劣勢に伴ふ不利益を受けるであらうかは、殆と測り知るべからざるものがあるのである。
此大戰爭の終熄して後、國土が元の廣さで人々のみが四分の三又は三分の二に減じたと云ふと、其では今後は小農が減じて大農場が増すだらうと云ふ人があるかも知れぬ。成程昔の戰國では人民は流離して戰場は忽ちに元の荒野になつたから、其跡には大農大地主が起り得た。併し今日では、自分等の見る所では土地所有制度の極端なる改革の行はれ得ぬ限は、假令人の手が減じても農場の併合即ち買受け借集めは或程度以上には之を望むことは六つかしからうと思ふのである。さすれば恐くは今後の土地細分の中止ぐらゐが關の山で、其他は土地を基礎とする農事組合制の發達、又は各種の共同耕作組織が案出せられることになるのであらう。又潤澤なる資本を以て勞力の不足を補ふと云ふことは不可能であらうが、其代りには巧妙なる機械類若くは生産方法が追々と發明せられ、他國の小農にも適切なる多くの模範を示すだらうと想像する。此の如き?態と云ふものは決して日本一國をして永く農業勞力の潤澤を誇らしめ得るものでは無いのである。即ち今よりも遙かに少ない手で一層大なる效果を擧げる農業が隣に起つた以上は、安(452)閑としていつ迄も「我は我なり」とも言つて居られぬやうに、世中は夙くから既になつて居るのである。
飜つて我邦の事情を考へて見るのに、近世の農政問題が御承知の如き紛糾不解決の?態に在る原因は、專ら人口の増加に胚胎して居るやうである。即ち戰後の歐米が患はねばならぬ所のものと正反對の事情に由つて惱まされて居たのである。最近の人口増加は舊日本だけで年々八十萬人。やがては九十萬人にもなるであらう。毎年兵役の檢査を受ける壯丁の如きも、日露戰役前に比べると約十萬人を増して居る。今後も七八千人づゝは加はるべき勘定である。而して海外の渡航は今日の盛を以てするも、大正三年末が約三十六萬人、永住假住老若男女を合せて未だ一年分の増加數の半分を幾らも越えて居らぬことゝ思ふ。朝鮮臺灣關東州樺太等の在住者合計が、亦やはり一年分には遙かに足らぬのである。申す迄も無く是は好兆である。國の隆運に際會すればこそ、是だけ増して行く人口をあまり離散もさせずに、今迄同樣に養ひ育てゝ來たのである。乞食の數は眼前に於て著しく減少した。殊に支那などに比べてさう考へられる。凶作の年は有つても此が爲に餓?途に横はるの慘?を見ることが無い。是が昔の國家であるならば正しく誇るに足るの天下太平である。然しながら是は只現?維持の平安である。所謂飢ゑず凍えずと云ふ程度の、最少限度の幸福である。諸君も御同感と考へるが、我々は決して是に滿足し得ぬのである。
此の如き國、此の如き時代に生れ合せ、苟くも農政講究の職に當つて居る人々は、實に責任の重且つ大なることを感ぜねばならぬのである。然るに今日迄の對未來計畫は、先づは頗る粗末なるものであつた。少なくも世界的に催されつゝあつた人心の變化と云ふものには念ひ至らなかつたのである。
自分なども曾ては帝國農會の前身の全國農事會の一員であつたこともあり、又諸君の中に親しい友人が多い。而して自他の爲平素往々にして向ふ所に惑ふ場合のあつたのは、我々が右の如く國の爲に農政の方策を討究すべき職責を負ふと同時に、他の一方に於てはそれ/”\の地方の農民の利害を代表して、公に之を主張せねばならぬ地位に在つたからである。語を換へて申さば、農政に就て一通りの見解を具へると同時に、各階級の農民の爲に其農業經濟を講究(453)指導してやらねばならなかつた爲である。この二つの者を一身に兼ねると云ふことは、往々にして甚だ心苦しい事である。而も日本今日の政治?態、竝に所謂系統農會の性質は常に之を必要としたのである。
此組織の正當不當又は利害得失は今は之を論じないが、何れにしても農政と農業輕濟とは、如何なる場合にも混同してはならぬものである。蓋し國又は地方の農政が、全部の農民個々の利害とぴたりと合致することは、必しも望み難いことでは無いかも知れぬ。又さうなれば其程結構なことは世中には無いのである。併し一概に農民と申しても、通例其利害は一樣では無いので、各種各階級の數の多少、又政治上の勢力の強弱はあるにしても、尋ねて見れば同じ場合に色々の心持を抱き、色々の顔をする人が必ずある。例へば土地を貸して居る人借りて作る人、大きく作る人小さく作る人、働く人働かせる人等それ/”\思はく注文は別である。雨が降つて豐作になる所もあれば旱年で無いとよく出來ぬフケ田もある。古事記を見ると彦火々出見尊が御兄神と爭を成された時、海神の忠告に由つて兄が高田を作る年は低い田を、兄が低い田を作る年は高い田を作りたまへと教へられたまうたとある。即ち後世の田舍で岡方と濱方とが小正月の日などに綱曳などをして濱が勝つた年は雨少なく、岡が勝てばよく降るなどゝ言傳へたのも、やはり一方に都合のよい天候が一方に困る爲に始まつた年占の祈?である。又同じ日本の内でも北と南と事情の異なる場合は決して稀有で無い。米のやうな最も普遍的の一作物に就てすらも、農民の中には全然其市價の高低に對して無關心者が若干有る上に、或は米價の高いのを悲むやうな農民も少々はあるのである。前者は自家飯米用以外の餘穀を一早く賣り盡さねばならぬやうな經濟の者で、後者は今一段餘裕の乏しい小百姓や養蠶地又は北海道などに在る農業者である。右の如く到底唯一種の政策が全日本の農場の希望と合致することは望み得べきで無い。又此の如き事を理想として農政は立つべきもので無いと考へる。
然らば果して我々は何を目標として進めばよろしいか。農業經濟の利害を本位とせぬ農政が、如何にすれば無用の長物だと云ふ批評を免れて此世中に存在することが出來るか。是れ恐くは久しく二者の混同を以て當然の事態と解し(454)て居た多くの農業者たちの、正に起すべき疑問であらうと思ふ。此疑に對しては、此年頃農務省獨立の運動などに參加して居らるゝ人々の御答辯こそ聞き物であらうと思ふ。農務省獨立論の一つの理由には、歐米諸國の多數がさうなつて居るから此方でも之々と云ふのがある。併し只眞似さへすれば宜しいと云ふやうな詰らぬ考の人で無い限は、必ず我日本に於ても農政の爲に別途の機關を要とする強い道理を抱いて居らるゝに相異ない。其主眼とせられる所は必ず同時に右の問題に對する解答となるだらうと思ふ。
其は兎に角として、自分等が平生信じて居る所を申すならば、元來國の經濟政策を農業政策と云ひ工業政策と云ひ、乃至は水産政策林業政策などゝ細別することは、或は無用であり或は誤解を誘ひ易いものである。更に進んで言ふと、經濟の政策を國防文教等の政策と對立せしめて、個々別途の事業の如く思はしめること迄が、或は餘計な分類のやうにも考へられる。何となれば政策の目的はつまり唯一つで、即ち之に因つて國家が榮えるやうに、一國を形づくれる國民總體の幸福が、之に由つて維持し且つ増進するやうにさへすれば宜しいのである。「分け登る麓の路は多けれど、同じ高根の月」を見るのである。獨逸と云ふ國の學風は恐しく精密な學風で、殊に學者が分類と細かな定義とを愛する。故に此樣な學問が終に獨立するやうになつたのである。日本や支那で昔から農政と申したのは、今日謂ふ所の民政に當つて居るので、百姓と云ふ語が農民を意味したと同時に略々人民の全體をも意味して居た時代からの用語である。之を新しく使用するには又新しく考へて見ねばならぬ。近頃の學者先生の言はれる農政は、追々と獨逸風に解せられるやうになつたかと思ふが、是非相應の用意を以て之を取扱はねばならぬのである。
尤も今日の如く經濟の各方面の研究が非常に進んで、而も實地技術上の智識を一方に具へずしては何の問題をも論議し得ぬ世の中となつては、如何ほど屈強な人でも、農商務大臣でも無い限は一人で輕濟政策の全般に通曉したやうなことを言ふことが出來ぬ。そこで所謂分業の方法を以て、各方面の一つだけ專門とする學者が、互に境を守つて相侵さぬやうになつたのである。故に今更之を八宗兼學の昔の有樣に引戻し得ないのは是非もないことではあるが、其(455)代りに農政には限らず、林政でも工政でも、國民全體の物質的生活を改善し發達せしむるに適當な手段を、主として農業の方面から、乃至は林業の方面から考究する所の學術と云ふやうに、考へてかゝらねばならぬと思ふ。
國民の幸福と申せば、勿論能ふべくば其總體の一人殘らずの幸福を謀るのである。國民と言ふからには個人の若干、又は特殊の階級のみのことでは無い。併し假に總體は不可能の話とすれば、能ふ限其大部分の者の幸福を増進するを以て目的とせねばならぬ。但し掌る所が農事の方面なるが故に、自然に問題は直接農業に從事する人々の上のみに集注するかも知れぬが、さりとて此人たちをさへ援け了せたら、跡はどうなつても宜しいと言つては、國の政策と稱し能はぬは勿論、府縣郡の農政とも謂ふことが出來ぬのである。此の如きは階級利益の防護又は聲援と云ふものである。是は善い事のやうであるが、或階級に限つて防護を受け聲援を得ると云ふことは、殆と之と同時に之と對立する他の階級の反抗を意味して居る。今日の如く多事を極むる時代に於ては、國家の最も患ふるは兄弟喧嘩である。國内の分立である。苟くも農政と稱しつゝ、共同生活の不統一の爲に謀を囘らすが如き者があるならば、是れ恰も伊勢參宮をすると言つて兩國の停車場へ驅付けるのと同日の話であることは、改めて茲に申す迄も無いことゝ思ふ。
我々の農政は幸にして今日迄、此點に就て後悔せねばならぬやうな失敗はして居らぬ。願はくはこの世界大變局の後に於ても、依然として正しい道を履んで行きたいものである。唯茲に念頭に上さずには居られぬ一事は、過去約二十年間引續き實行し來つた所謂勸農の政策、即ち生産増加を以て目的として居つた農政が、最早どうしても一轉機を劃せねばならぬ時が來たと云ふことゝ、永らく御一同の御盡力に由つて調和を保ち來つた生産者消費者の二階級の利害が、どうしても衝突せずには居られぬやうな兆候の見えることゝである。
蓋し米價調節などゝ云ふ結構なやうな厭な語の必要は、決して戰時なるが故に始めて起つたものでは無い。是迄とても兎角動搖の烈しかつた此穀物の市價は、此四五年の間は殊に新荷鞍の如くぐら/\して、其高低の値幅は往々にして身長と等しきに至り、調節の要求は時を異にして雙方から出て居たのである。是は固より政府の任務である。農(456)政の第一項目の中である。大昔にも米價の平準を目的とする政府の強力なる干渉が行はれたことがある。全國民の八九割迄が農業者であつた時代にも、都市の住民を愛撫する爲でもあらうが、繰返し政府の調節の手は下されたのである。或時は常平の倉を開いて安い時の相場を以て圍ひ米を賣つた。近代に及んでは酒屋の酒桶の制限、甚だしきは小紋型附けの糊用の米までも制限して、供給の釣合ひを保たせんとしたことさへ何度もある。而して當時の供給不足は多くは運送方法の障碍が一原因であつたが故に、假令買占が行はれたにしても、其現象は地方的のものであつた。從つて此等の調節策は多くは即座に效を收めることが出來たのである。
之に比較して今日の米價調節の無力なるのを批難するのは無理な話である。仕事の大きさ及び政府の權能の制限に加ふるに、一通りならぬ複雜な事情が、穀物市價の高低を惹起して居るのである。決して今の役人方の意氣地が無いのではない。複雜な事情と云ふ中にも、近頃の經驗で追々分明になつた事は、騰貴に比べると低落の方には直接の人爲的原因が少なく働いて居ると云ふことである。米の如き日々の必要品は所謂需要の彈力に乏しいから、僅ばかりの過不足が元で直ちに値頃を外れることは出入共に同樣であるが、而も供給の過剰と云ふことは人が企てゝ之を引起す場合が少ない。豐作とか又は一般的の多作とか、地租の納期が促がす一時の換價の如く、概して自然に供給を多くするもので、彼の外國米の喚込み又は移入米の格付追加の類は比較的小なる原因である。輸入移入なども米を安くせんが爲に之を企てるよりも、高いから持つて來ると云ふ迄のものが多い。之に反して米を高くする方には、常に明白なる人爲的企劃が手傳つて居ると目せられた。例へば買占に使用せらるべき大資金の集注である。現在の社會道コに在つては之を罪惡とは認めて居らなかつたのである。次には農家主人の市場に對する智識の増加である。困つたことには近年地主又は大農の中に相場師を兼ねた者が少しづゝ出て來て、米を持つて居て一方で買はせたりなどするから中々中強く、人に由つては農家に對する所謂低利資金の融通迄も、買占と匹敵する賣惜みに便宜を供するものとして恨んで居る者がある。
(457) 處が政府の權能は、人の行爲には方法次第制限を加へることは出來るが、それも供給過多の如き間接に徐々と現はれるもの迄には及ぶことが出來ぬのである。支那の昔の行政書には、供給の過多に基いて農民の難儀する場合を名づけて豐歉と謂つて居る。豐歉に對しては燒棄て又は海に沈めると云ふが如き勿體無い非常手段を採らぬ限は、之を濟ふ方法が誠に乏しい。官金を以て餘米を買込み之を藏つて置くことは、やはり在庫品である故に荷先も同じことで、供給の限定とはなり難い。製造品ならば紡績錘數の制限とか、操業時間の短縮とか云ふこともあるが、農業には之を望むことが出來ぬ。輸入移入の禁止制限も或程度迄のものである。あまり安くなれば捨てゝ置いても入つては來ぬ。從つて之に比べて見れば、安くなるやうにと云ふ御祈?の方が、相手が人間であるだけに、遙かに靈驗のあらたかであるべき筈である。安くなつた原因には人力に由らぬ部分がある故に、一寸やそつとの工夫では高くすることが六つかしいのである。
尤も是には猶實際上の掛引もあつて、必しも論理學通りには往かぬこと勿論であるが、總別生産者は消費者に比べて、是から追々と分の惡い側に立たねばならぬことを覺悟し、之に對する用意を怠つてはならぬ。米は單に一つの例であつて獨り之に限らず、農産物市場の好況なるものは、假令それが一時的の現象なること明白なる場合でも、農業が土地と云ふ増すことも運搬することも出來ぬ物を基礎として居る爲に直ぐに其影響を之に及ぼして生産の規模を改めさせ、地價も高くなれば借地料も高くなる。農産物の市價が稍々昂騰すれば、或時無法に安かつたことも有るのを忘却して、消費者の側では何とかして其頭を抑へようとする。而も極めて僅微にして且つ地方的なる生産過多でも、どうかすると全體の相場をどか落ちに落すの危險を引起すことがあるのである。
そこで結局する所は、如何なる値頃でもよろしい、農産物は凡そ永年を通じて一定の相場から上へも下へもあまり飛び離れぬやうになるのが、國家としては無論のこと、生産者の階級にも消費者の側にも、最も好ましいことゝ言はねばならぬが、果して各地方個々の農業者は、手輕に御説の通りでござると言ふや否やは疑問である。而も又今日の(458)實情は、ちやうど右の注文と正反對の結果を呈して居るのである。此が爲にどの位田舍の人の足元と心持とを動搖させ、階級利害の牴觸を多くし、延いては一國の實際政治を複雜にしたかは殆と測り知られぬのである。或學者の如きは、米などゝ云ふ一國限りの融通の利かぬ穀物を常用として居るから行かぬのだ、米を止めて大に小麥を食ふがよいなどゝ論ぜられたやうであるが、無理な御忠告でもあれば同時に又、歐洲舊國の小麥を作る農民の難儀を考へて見ると、油斷のならぬ意見でもある。歐洲の小麥國では南北米の廣い地面で安く作つた小麥に競爭せられて、大に困つた經驗をもつて居る。農民は常に外部で決定した市價に支配せられると云ふ不平は永い間の事であつた。米を作つて食つて居る日本とは餘程異なつた事情である。十分に考へた上で無いとまだ米食を食パンには代へられぬのである。
我々は是迄何度と無く、農業者階級の國家生活上保守的分子として必要なることを説き聞かされた。併し是は必しも單に耕地が手堅い財産であると云ふのみでは無かつた筈である。農業夫自身が安全なる産業であつて、少し丹念なる老農ならば、孫曾孫の生活程度までも早くから豫算を立て得た爲であつたのである。それが今日の如く、同一農家の收入が今年は去年の半分であつたり、或は取引所で倍つて置いてじつと待つて居れば相場で儲かつたりするやうでは、果して安固なる産業と言ひ得られるかどうか。農家は樂も少ないが心配も無いからよいと評し得るかどうか。此點は苟くも農政に志す人々の深く思を潜めざる能はざる大問題である。
是は今日の取引所の組織方法に根本的の改良を加へる決心で、明敏なる多數の學著たちがよく調査したならば、右申す如き弊害も或程度迄は除くことが出來るかも知れぬ。又此外にも諸君の御骨折に由つて、色々獻策せられるものが無いとは言はぬ。然れども此迄まだあまり世人の心付かぬ一つの原因は、近代の生産政策であつたと自分は思ふ。即ち自分が正に是から一轉機を劃するであらうと言つた所謂勸業の行政である。
明治年間から引續いて行はれた所謂農事改良は、大體に於ては確かに結構な事業であつた。新種有利の作物又は生産方法を、?んでくゝめるやうに教へ、又今までは避くべからざる天災として泣きながらあきらめて居た色々の病蟲(459)害の類を除く手段を、ごくの小民に迄も付與せられた效果と云ふものは、決して飜譯だの受賣だのと言つて輕視すべきもので無かつた。併し今日殆と維新前後に二倍三倍した農産額の増加を以て、悉く其力に因るかの如く考へ、又此から後も此通りで進み得るものゝ如く看做して行かるゝことは、亦頗る樂觀に失して居る。過去三四十年間の進況は一半は時世の勢であつた。農事改良の努力は偶々順風に帆を揚げたものに外ならぬ。蓋し大政維新の經濟上の效果は第一には所謂領分堺の撤廢である。交通機關の逐次の完備である。之に伴ふ農産物市場の擴張である。又之に伴ふ資本の増加と、之に由つて促された勞力の増加とである。昔多くして今少ないものは農家の休日又は働かぬ日である。賦役即ち義務勞働の控除である。昔は困難であつて近代容易となつたものは、國内の移住である。他の職業に在る者の歸農である。此等の事が官府の援助と激勵を受け、更に人口は著しい増加を爲し、旁々農業に使用せらるべき勞力の量を増加したことは非常なものであつた。而も租税は事實に於いて減額となり、從つて農の純益を多くしたのである。言はば千載一遇とも言ふべき時代であつたので、日本のやうな國柄で此?態が永續すべき見込は先づ無いのである。是から以後は恐らく勸農方の役人衆も、根つから張合が無いと云ふ時代が追々現はれることゝ思ふ。然らざるも今後は諸君の力の入れ處が大に變動して、成るべく損を少なくする方面、又は勞を省く方面などから、純益の保持を謀らねばならぬことになるだらうと思ふ。
この行詰りに近い?況と云ふものは、實に稍々久しい以前から少しづゝ現はれて居たのである。農政に携はる朝野の人士は、機會ある毎に「農産物の市價は高くなくてはいかぬ」と云ふ平凡極まる説を提唱せられて居た。其理由として自分が記憶して居る二つは、所謂衣食材料の獨立の爲には全國民は誰しも若干の負擔を辭することは出來ぬと云ふ經濟を超越した論と、今一つは田舍の收入が増加して所謂景氣がよければ都會の品物も高く賣れて結局損は無いと云ふ論とであつた。米麥と共に諸色が一體に高くなるのなら、少しも高くなつた甲斐が無いから奨勵にも刺激にもならぬ筈である。此の論は虚誕でなければ誤である。之に反して第一の方の理由は、無理なやうであるが多數國民の同(460)感を博する力があつた。日本が島帝國で折々戰爭をしたことと、英國と云ふ甚だ痛切な先例とは、頗る非農業者の心をも動かし、其爲に或程度迄の農産物市價の昂騰は、我慢し黙認し來つた實がある。併しながら比の如き簡易誘導法が農の生産増加を促し得たとしても、其は必しも十分なる成功とは言はれぬ。是は今日流行の補助金下付策も同じことで、目前の速效は確かに有るが其代り藥が盡きれば元へ戻る。誰しも捨てゝ置いても所得の大きな方に赴くは人情で、之れを誘ふだけならば手柄でも何でも無い。近頃も或方面には更に開墾を盛にさせると云ふ計畫があるが、是などは米の二十五六圓もする時代には至つて行はれ易い政策である。さうでなくても水利の大工事だけ引受けて呉れる資本家さへあれば、赤土山でも開かうとする今日である。之を勸誘するほど容易な仕事は恐らく外には無からうと思ふ。肥料の施用なども生産の手段としては耕地面積増加と似て居るが、是などは殆と是と云ふ勸誘奨勵はせずとも、米麥の値段次第でどし/\と増進して行くのである。之を要するに唯産物の市價が高いと云ふことが、僅かに生産の増加を誘ふに足ると云ふのは、深く考へて見ねばならぬ點である。殊に勞力の側に於ては、毎年新たに職業を授けてやらねばならぬ青年男女が、二十萬も三十萬も増して行く時代に際して、此の如き市價の誘導が無ければ農産額の増加が六つかしいとは、如何にも困つたことゝ言はねばならぬ。
又他の一面から考へて、本來生産増加の政策は其目的を達すれば市價の低落を來すべきものである。昔は三年分の儲が無いと國が危いと教へられた時代もあつた。今とても將來の増加人口に給すべき食物の事を考へるならば、或は年々圍ひ米の繰越高が少しづゝ増して行く位が良いのかも知らぬが、鋭敏なる市場が誠に僅かばかりの供給過多にも動かされ、時として前季相場の半値以下迄も押落すやうなことでは農民に取つては猶以て難儀な話であると思ふ。つまり適度の數量に於て生産増加の政策を續けて行くことが、前へも後へも中々容易で無いのである。殊に人口増加の結果として生産者即ち農民に對する消費者階級の比例が大きくなり、高くて困ると云ふ苦情が追々高くなる場合に、何時迄も其?態を維持して行けるか否かは覺束ない。御同前のやうな金錢で定額の收入を得る者の困窮はまあ/\辛(461)抱するにしても、それが進んでは勞銀率をも引上げ材料をも高くするやうでは、製造業者などの側で果して何時迄じつとして我慢して居るだらうか。而も戰爭以來國内の工業人口の如きはえらい勢で増しつつあるのである。是が國際間でもあるならば、例へば米國の婦人たちが高い羽二重を買ふのだから宜しいといふやうな冷淡な考にもなれるが、國内に於ける買手は遠いか近いか皆身内である。文字通りの同胞である。中には一家内の半分が都會に住し米を買つて食ひ、他の半分は田舍で米を生産して居るのもある。つい今の今迄農業者だつた人たちも消費者となつて居るのである。現行の選擧法では成程米穀を賣る階級の人に最も多くの投票權がある。從つて之を地盤とする政治家たちも主として其人々の利害を念頭に置いて居るが、既に選擧權の擴張、市部選擧區の増加等改正は眼前に控へて居る。自分は決して此等各階級の間に血の出るやうな爭闘のあるべきを豫期して居るのでは無い。唯一日も早く農業者は日本の如き進取的國家に取つては最も重要なる兵站部であることを自覺させ、僅かに表面上の算盤勘定が簡明であつて、而も結局同じことに歸着してしまふやうな農産物價の昂騰にばかり眼を着けること無く、農業の純益を多くする手段は成るべく之を生産費の節約の方面で工夫することにして、廉價の品物を同胞國民に供給して彼等をして、樂に國際競爭に出陣し得るやうに仕向け、全國永く仲善く發展繁榮して行くやうな方策を廻らして貰ひたいものである。
國の人口が増せば、農業者に非ざる者が多くなり且つ勢力を得るやうになるのは當然の話である。國の耕地には限の有るもので、人によつてはやれ佛國では領土の三八%迄が耕地だとか、獨逸では五五%以上利用して居るとか言つて、何も知らぬ我が小農を恥ぢしめる樣な教訓をする者もあるが、自分等の見た所どこの府縣へ行つても、耕すべくして未だ開かれずに遊んで居る地面などは決して多い者では無い。地方によつては谷の人は水分れ迄、岡は頂上も殘さず所謂鎧畠や棚田を作つて居る上に近世は農夫がよほど器用になつて勞力を省く工夫も付いたから、寧ろ今迄よりも少ない人數で今迄だけ又は以上の仕事をして居る。又是非さうさせねばならぬ。是以上に人口が増したからとて、それを片端から農業界で働かせ得ぬのは當然であつて、其がやがて國家隆昌の結果なのである。今日の如く熱心なる(462)活動を續けて居る我邦の農民は、假令其比較的數量が小さくなつて、全國民の五割五分を占めたのが五割又は四割五分になつたとても、其爲に國家から粗略の取扱を受くべき筈はないのである。然るに之を悲しがり心配するやうな傾向が時々見受けられるのは、惡く言へば時勢を解せざる人の考である。
自分は或る一部の論者の如く日本の輕濟界の未來を悲觀せぬのみならず、幾百年の後迄も農業は國家の爲に誇るに足るべき重要なる職分として續くものと信じ、一國としては前に申した如き個人の力だけでは到底治療し能はざる病弱の點を、幸に農政の學術を以て快復し得たならば、此以外には多く顧慮すべき事が無からうと思つて居る。又其新政策とても、現在の?態を甚しく攪亂し、多くの舊式人物を不幸に陷れるやうな手段は取りたくない。唯當今の時局に際して是非考へておかねばならぬことは、農村青年の間に正に著しく成長しつゝある自覺の觀念に就てである。彼等が自己と云ふものを貴重視する傾向である。此傾向には無論光明と暗黒との二側面がある。此二十年三十年の間に青年等の神經が恐しく鋭敏になり、智識が増すと共に體質が弱り、曾ては土間に藁を敷いて泥足のまゝで寢た樣な粗い生活が、僅か百年や二百年の前に存在して居たとは到底思はれぬやうになり、シャツも着れば若い者が襟卷もする、第一に樂をしたがり、臭い汚ない物を取扱ふことを避けようとする。此等は概して言へば惡い事であらう。併し此と同時に、我も亦日本國民の一員であることを主張し、各自の勤勞に成るたけ高い評價をしたがるのは、少なくも進歩の兆である。此場合に農村の子弟だけは永く昔風のまゝで居て貰ひたいと云ふのは、或は不自然なことではなからうか。況や此より世界を通じて大に起るべき小農國の新農法は、學問の應用を盛にして少ない勞力が多い收益を擧げる方面に向つて居るのである。下級人民の進歩が常に其能率即ち勤勞の價値の高まるのと併行することは既に明白になり、世界を通じて能率を誘導すべき各種各樣の機關が具はつて居るのである。此時に及んでは農業ばかりが他の産業と同等以下の割合を以て人の勞力に酬いてもよろしいと云ふ道理が無い。此原則を承認してやらぬ限は、假令國家を説き先祖を説いて聞かせても、若くは彼等の愛郷心や遺傳的の保守思想に訴へても、往々にして大志を抱き村を出で(463)去る者を生ずることは到底免れ得まいと思ふ。
此氣風は是より追々進んでも決して元に戻ることは望まれない。此人情に合致した農政を行ふか行はぬかが、決せられねばならぬ時代に到頭なつたのである。現行の勸農政策の結果としては、恐くは日本が穀類の輸出國となり得ぬ以上は、生産の總高は常に毎年の入用數量一杯に、ごく些し餘分を用意する位の處を限度とし、成るべく上手に少ない人手と少ない經費で之を産出するやうな手段を講ぜねばならぬことに決するであらう。而して此目的を達する爲には今日の各農戸平均耕地面積よりも稍々大なる農場の數を多くし、之を中堅として農業の經濟を研究してやらねばならぬことになるであらう。
現?維持は最も臆病な態度であることを、どう云ふものか或る方面には全く考へない人がある。どうか諸君の力説に由つて早く其姑息無研究の態度を改めさせたいと思ふ。我が新日本の至つて幸福なる歴史は、何の問題に付ても常に早くから末のことを考へ、所謂未だ雨ふらざるに?戸を綢繆し得た點に在つた。今度も亦勢の極まる處まで持つて行つて、徒らに我々をして豫言の適中を悲しましめぬやうにしたいと思ふ。
(464) 次の二十五年
今から二十五年前の七月産業組合法が實施せられたばかりの頃に、私は始めて農務局の役人に爲つて、今の山口縣の三松知事などの指導の下に、其事務に携はりました。産業組合は最初から他の社會諸施設には見られぬほどの、著しい成長力をもつて居りました。さうして又無數の未解決の小問題をもつて居りました。それを講究し又當事者に説明するのが我々の役でありまして、實はまだ十分に分らぬ癖に、折々講話にあるいたり、又小さな本なども書きました。それが私の産業組合に對する因縁であり、又この度の二十五周年の記念會に、大なる悦びを以て參列した理由であります。
但し私は其後色々の事情がありまして、永く産業組合の運動に參加して居ることが出來ませんでした。我々の哀悼して止まざる平田伯を始として多くの有力なる後援者、殊には初期以來此實務に携はつて、引續いて辛勞をなされた各地方の諸君に比べて、自分の熱心と忠實の足らなかつたことを、今更面目無くおもひ、從つて組合今日の隆盛にそれぞれ貢獻なされて、國全體からの感謝を御受けになる諸君の御滿足を、羨しいと感ずるのは申す迄もありませぬ。が併し之と同時に、尚考へますると、今囘の記念會は普通精勵なる事務家の、勤續二十五年の祝賀會とは、よほど性質のちがふものがあると云ふことです。勤續二十五年の表彰式の方では、多くの場合老いて正に隱退する人に向つて、長々御苦勞であつたと云ふ、一種のいとま乞ひ、送別の如きものですが、産業組合の制度は之と反對に、此から大に働くものゝ成年式、或は其永い生存から比鮫して見れば寧ろ袴着か宮詣り位のところでありませう。個人が組合の爲(465)に働くのは、どんな達者な者でも大抵二十五年位が止りですから、我々の側から申せば、第一囘の二十五箇年間、一生懸命に此事業に盡した人々が愈々之を第二囘の二十五箇年に働く人々へ、めい/\の熱情と祝福とを添へて、組合の精神を引繼ぐべき機會と申してよいのであります。斷じて懷舊談を以て日を暮すやうな、悠長な場合では無いのであります。
と謂ふべき理由は、我が産業組合に於ては、過ぎたる二十五年に既に創業時代の難關を通り越し、此からは唯守成維持の天下太平期に入つて行くのでは無いからであります。最近十年の目ざましい進歩は、既に會頭からも説明があつて、こんな愉快な數字は今の日本に於ては確かに異數であることを、感じない者は無いのであるが、しかも此以上幾年も引つゞいて、同じ速度が保たれて行くかどうかは、先づ第一に最も同情ある人々が之を疑はねばならぬ。しかも當初日本に、組合別を必要ならしめた事由は、まだ一つとして我々の力を以て片付けてしまつて居らぬのみならず、社會不安である、農村の衰頽である、遊食空論の徒の不平不滿である、此等の現象は寧ろ日を追うて増加するらしいことは、或は事實では無いかも知れぬが、少くとも多數が之を信ぜんとして居る。此際に當つての組合の大會である。國内の篤志家が此ほど澤山に集合せられる好機會を利用して、一度も此點を考へて見ること無く、唯歡娯の交換のみを以て別れてしまつては、必ず後世の人が笑ふであらうと思ふ。
産業組合が公の機關であるか、又は私益の結合體であるかは、實は根本原則の問題であつて、決して書生の屁理窟でなかつたのであるが、久しい間「それはどちらでもよいでは無いか」と棄て置かれてあります。私たちの考では、今日の如く朝野の御歴々が、必ずしも個人としての便宜利益からで無く、斯うして組合制度の爲に盡力し、其隆盛を心の底から悦ばれて居る事實が、夙に直接に此間題に答へて居るので、法令乃至行政上の取扱が、たま/\會社や營利組合と似て居るのは單に外形の一致といふに過ぎぬものと思つて居るが、此眞精神は果して大川の水の流の如く、年を追うて次第に地方の端々に迄も成長していつて居るかどうか。箇人主義の名を以て尤もらしく裝はれて居る、私(466)慾手前勝手が、時としては其團結の力を以て、一層同胞國民内の分立排擠を便ならしめ、所謂集合的利己心が、一部の小弱者を威壓して居る懸念は無いか。さうで無いと云ふことを最も明白に確めた上で無いと、誠に御同前が組合の爲め働くべき腹が据わりかねます。そこで少しく日本の組合の歴史を考へて見る必要があるが、二十五年前の産業組合法制定は、今から囘顧すると實は近世經濟史上の一の轉囘期であつた。明治初年からの西洋技術の輸入は、此時分までの二十何年に、非常に我邦の生産を豐富にし、所謂勸業の行政は大部分其目ざましい效果を奏した。それにも拘らず國民の多數はいつになつても貧困であり從つて勇氣と智識が具はらぬ。推新前に比べて更に貧しくはならぬが、少なくとも外に羨むべきものが多くなり、自分を不運だと感ずること烈しくなつた。然らば生産増進の一方、國産總高、輸出總高の増加のみで、國民の幸福を卜することが出來ぬが、個々の人を目安にした經濟の改良をせねばならぬとなつて、先づ實業教育と共に農村金融方法の改良が企てられた。勸業銀行、農工銀行の二つのみでは、まだ下々の小生産者に及ばぬ處があるので、産業組合は先づ信用組合から始まり、さうして平田伯などが大に働かれたのであります。農務局では多くの尊敬すべきかくれた協力者もあつたが、殊にも久しい前に亡くなつた酒勾常明博士などが、えらい努力をせられた。中央會が設けられてからの平田、小松原二老の骨折も莫大なものであつた。此諸先輩の實現力とも名づくべきものから、たしかに非凡であつた。しかも斯ういふ老成人の世故經驗に養はれた實際的計畫、徐々に積上げて大きくしようといふ方の仕事は着々成功したにも拘らず、他の一方の夢想派とでも申すべきか、いつ完成するかも當ての無い遠い未來の黄金世界を胸に畫き、その想像上の大愉悦を目標として、宗教的の一致を以て其途を歩まうといふ方の若い者は、實は一向に振ひませんでした。此は産業組合には限らず、あらゆる公の事業を通じての近代日本の一つの小さい缺點ですが、地方の組合を見ても、此ほど結構な事業ならば、何故に愛する國民全體に向つて、其悦びを分たないで居られるかと疑ふやうな青年が概して稀でありました。そこで自分なども何度と無く先輩より空想家と目せられることを恐れつゝ心中竊かに、この物質本位の組合の將來の爲に思ひ、同時に又報コ社や感恩講(467)などの方法には缺點がありながら、尚どこかに人を感激せしむる精神を具へて居るらしい團體を欽慕し、時としては法律の與へた一切の便宜恩典を抛棄しても、尚獨立を保たうとした別個の運動に同情を惜まざると同時に、何とかして産業組合も外部から實利一點張の結合體の如く惡評せられないやうにして見たいと思つて焦慮しました。
日本には今以て外國の制度を物質萬能のものゝやうに輕蔑する氣風があるが、しかも産業組合はたしかに日本だけが、其精神に於て外國のものにおくれて居るやうに感じました。此は我國の欽定憲法の運用に就ては、折々起る所の感じですが、寧ろ此の國民が幸福であつて、惱みぬき苦しみぬき、せつぱ詰まつて自發的に斯んな組織を考へ出す前に、ちやんと指導者があつて前車の轍に鑑み、早くから膳立てをして我々の前に据ゑられる。從つて受身の氣樂さを以て之を味ふから、時として之に携はりつゝ尚よそ心である。産業組合は法律で何と書いてあらうとも、之を要するに貧困撲滅運動である。肺病撲滅運動が國内に結核患者を無くしてしまはねば、如何に多くの施設が陳列せられても、尚成功と言はれぬやうに、今のやうに苦しい/\といふ人が、村にも町にもうなつてゐては、まだ決してやれ御苦勞やと祝杯を擧げ得ないのは當然である。見やうによつては此でも丸で無かつた場合の慘憺さを考へれば、こゝで喰止めただけでも成功だと云ふ風に樂觀も勿論成立つが、少なくとも仕事のまだ今日、半分までも捗取つて居らぬこと、從つて二十五周年の大會が鉢卷の締めなほし、捻ぢなほしであることが、何人も認めなければならぬ。
こゝが正しく産業組合の普及が、新しい社會運動であるか、はた又一種の畏るべき有力なる集合的利己主義であるかの分れ目であります。現在の組合數一萬四十、市町村の數より少し多い。組合の無い町村は既に少なくなりました。たゞ組合員の三百萬人、これが前の代の衆議院議員選擧法による選擧有權者數と、偶然ながらも略々同數であるのは、甚だしく氣になります。其殘りの千萬人ばかりの世帶主又は獨立生計者の現在組合に對する態度はどんな風であらうか。最近の事情には私はうといから、此評も當らぬかも知れませぬが、前年各地方の村に入つて、林や畑で働いて居るものと、組合の話をして見た時に、往々にして彼等の口から聽いたのは、信用組合ですか、あれは村のよい衆が色(468)んな相談をしてやつて居られるものでとか、私の村にもあるが、あれは羽織を着るやうな人の仕事ですとか、冷淡の話が至つて多かつた。しかも小さくして獨立孤行の不利が甚だしく、協力によりて僅かに困窮から免かれる必要は、申す迄も無く此人々の方が多いのです。消防でも水害防止でも、害蟲驅除でも、夫役に出ねばならぬ人々が、それより一層緊急なる貧苦の防止驅除には外に置かれて居る。さうで無くても村の共同生活は、二つか三つに割れたがる。しかも如何なる小さな人でも分に應じ、其努力の一部分を公の生活に充てねばならぬ時代が來て、公民教育を普通教育にする必要が目前に在り、此だけ各地方の實情に合し、私經濟を共同生存と繩に綯ひて、一箇不可分のものとするのは此より適切な方法は無いのに、組合の恩惠功果を彼等に理解せしめる爲に、外國から來て居る宣教師だけの骨折をも試みないのは、親切の缺乏といふよりも寧ろ一般的に、組合の本質に關する意識が足らず、願以斯功コ普及於一切の信仰が足らず、又組合の生命の源泉を汲んで見る心持が足らぬからかと思ひます。
人が國内に多くなれば、今までの社會組織に於ては闘ふの外は無かつたのです。弱くて負ける者から整理して、丈夫なるものだけの國にすること、恰も獅子が千仍の谷に子獅子を試したやうなのが、今までの所謂生存競爭でありました。世が太平で眞秘の戰がなくなると、其代りが生馬の眼をぬくといひ、人を見たら泥棒と思ふやうに、人がこすくなつて相手の損で自分が仕合せをするのです。此國民の一致に有害で無からう道理がありませぬ。貧乏は其身の不運、あきらめて憐憫施しでも受けるやうにせよと言ふのは、最も徹底した西洋などの理論で、實際彼等には親だけ乞食をして居るのもあるやうです。日本はまだそこ迄は行かず、元々通りに親族同郷の者が介抱するから、貧窮の悲慘は外に現はれる前に、先づ仲間を弱わらせますが、つまりは劣敗者の敗亡は免れなかつたのです。即ち不義理と評せられ、横着冷酷と言はれるものが次第に勝ちました。是は見て居られぬ。力づくが眞理ならば、外には強國の横暴も制せられず、内には所謂無法者の反抗も諭すべき根據がありませぬ。この久しい成行を改良する事業が、平凡微温的であり得ないのは當然で、即ち産業組合は從來の如く、貧窮を個人の問題とせず、社會共同の害敵として、之に對し(469)て戰を宣したのであります。人と人とを戰はせまいとして、共同の敵を指示したのであります。萬一にも産業組合が大に隆盛して、之が爲に同胞のある者が更に不幸に陷り、乃至は今よりも一層怨み憤り警戒し反抗して來るやうになつたのでは、それは名づけて眞の組合の繁榮と謂ふべきものでなく、況や之を以て事業の完成したるとは、謂はれようわけが無いのであります。
ところが實際の實況としてはどうであるか。産業組合には貧困以外の敵がある。日本の國内で、あまり組合などは繁榮してくれぬ方がよい。たまには役員に惡者などが現れて、使ひ込みをして仲間を迷惑させ、それ見たことかと謂はせてくれる方がよろしい。と?つて居るらしく感じられるのはこれはどうしたわけか。其中でも販賣組合を憎く思ふ田舍まはりの仲買、購買組合を目の仇にする小賣商店は、其大多數が自身も亦、救濟を必要とする小民である爲に、果して此相撲にいつも團扇を組合に揚げるのが、悦ばしいことか否かをさへも疑はせます。しかも一方は孤立の私經濟を、久しい慣例に從つて經營して居る人ですから、若し此難問題を解決するとすれば、解決の責任は常に組合側の深く考へ遠く慮る人々に屬するのであります。日本は決して大昔からの小商人の國では無かつた。それが人口が増して來れば、手近には他に職業が無い。其上に地理的關係其他から分配機關が不完全でまだ此人々の働く餘地、即ち多分の利潤が此方面に在つた。そこで水の低きに就くやうに、僅かの時間に急に増加し又現に増加しつゝあるのです。販賣も亦價値の生産の一つですが、あらゆる生産が手數經費を省くを利とするやうに、略し得れば略したゞけよいので、一國から見ても個人から考へても、生産者と消費者とは接近するだけ好都合であることは、最早疑ふ者は一人もありませぬ。しかもそれを爲し遂げるのは獨り産業組合あるのみで、それがあべこべに當節次第に増して居るやうでは、冷淡なる批評家は組合の功績を疑ひます。第二の二十五年はこんな難事業を我々から引繼ぐべきものなのであります。寧ろ氣の毒御苦勞なる二十五年であります。其上に斯うして無用になつて行く筈の多數の仲間商人の失業はどうするか。是も産業組合の本來の趣旨から謂つて、我々の管轄すべき事項であります。日本の社會問題の中の、最も(470)重要且つ困難な一つは、斯うして解決を我々に迫ります。獨り小商人のみとは謂はず、所謂新農業の方法を採用して、勞力を省約すれば、耕地の俄然として増さぬ限り、一半の耕作者も不用になる、自作農を創成すれば地主の一部分も手があく。其他のあらゆる生産改善、經費の節約は悉く此大規模の失業問題に歸します。失業をして末が貧窮になるのは當然すぎた當然である。然らばこの餘つた人はどうするか、勿論何になりとも働かねばならぬ。而して其働く仕事が果してあるか。空中にも海中にも我々生産原料は勿論まだ開かれずに殘つて居るが、とにかく何物かを他の國の人の勞力に仰ぐとすれば、之に對して輸出がなければならぬ。勞力をなまのまゝで輸出してもよいが、此販路も御承知の如く制限せられて居る。國内の新生産を國内限りで消費する以上は、市價は相對的のもので、皆高いのも皆低いのも同じであるが、經濟上の理由の返しなる國際間の貿易には、生産費の高いことは大なる障碍である。今も現に人の手が是ほどあまりながら、支那から傘を米國から小楊枝を獨逸から下駄の臺まで入れて居るのは、そも/\何の原因であるか。勞力の餘分をどう利用すべきかを少しも考へずに、一般に下がる苦みを一時のがれしたい爲のみに、農産物でも工産物でも互に高く維持したがる人ばかりが多い結果である。産業組合に携はる人だけでも、せめて今少しく深く考へて見ねばなりませぬ。個人が目前の生活苦に齷齪して、知りつゝも迷ふのは是非無いことですが、之を全體の爲に於て考へる爲に、もう我々は久しい前から聯合會を作り、又中央の諸機關を作つた。我邦の經濟諸制度の中で、此ほど系統的組織的に、村から國の中央まで、例へば手足の神經中樞に於けるが如く、一體としての大行動を起し得るものは無いのです。國との爭闘怨恨にも、根底には經濟の問題が横はるとすれば、之を見出し改革するのも又此力に依るの他は無いので、組合の理想には即ち民族の一如があるのです。獨り我同胞の爲とは謂はず、熱帶の烈日の下に息つく者、北極の萬年雪の中に潜み飢ゑて居るものにも、同じ法則を押しひろめて、我々はやがていと容易に、彼等の貧困をも憫れんで、之を撲滅し得る時期を見得ると思ふ。これは或は夢の如き空想ではあるが、我々の國民性は世界の何れの國民よりも之を夢想するに適して居る。假に現世の煩惱に由つて、この精神の光を穢されてしまふな(471)らば、如何に組合の繁榮が悦しいものであつても、尚我々は一部の弱者の爲に、修羅道の淺ましさを嘆かねばならぬのであります。
(475) 塔の繪葉書
今年の一月は良い序があつて奈良で五日ばかり遊びました。旅宿は手掻の門の近邊でありましたが、正倉院の後の畠に早野梅が二三本咲いて居つて、朝なども暖かく頓と寒中のやうではありません。
西の京を見物した日は微かな雨が降つて風が少しありました、唐招提寺の境内では人は一人も逢ひません、庭の美しい砂の上に、松の葉の雫がばら/\と落ちて、其樹の間から見える講堂は近頃手入をされたばかりですが、注意深い技師の工で、柱の色から白壁の反映まで少しも今めかしい樣子が無くて、折柄の雀の聲までが萬葉振を囀るかと思はれました。
此寺の南の門を出て二町ばかり行けば藥師寺であります、顔色の蒼い眼の細い若い上人が大きな鍵を傘に持添へて金堂の扉をギーと明けて下さると、中からは濕つた埃の香が靜に起つて來て、高い處には此世に一つしか無い御像の肩や額が星の光のやうに見えます。蓮臺に鑄付けられた蠻人の姿は物悲しげで、大理石の礎は昔の火災の爲に皆黒い瓦の樣な色になつて居ります、自分はつく/”\と佛道といふものは淋しい教であると思ひました。
其淋しい宗教の最も靜かな莊嚴で而も最も力強く且つ清らかな三重の塔を、自分は此金堂の廊下に立つて始めて仰ぎ觀たので有ます、自分は東京の美術生が常に御姿に憧がれて居る觀世音の御厨子をも拜みましたし、又は佛足石の碑に千年前の貴人の筆の跡をも見ましたが、それよりも何よりも一層今に身に染みて忘れられぬのは此塔で有ます、東大寺の學問僧が定を出た時に、朝の光が藥師寺の伽藍に照返すのを見て、誤つて夕方かしらと思つたと申しますが、(476)其頃はまあ如何にきらびやかな事であつたでせう、それが今は敷地も大部分田になつて、起し返した稻の株に水澁が附いて居るばかり、二つあつた塔も西塔は燒けてしまつて殘つて居るのは是ばかりであるのです、自分は寺を出てからも幾度も振返つて見ましたが、間近で仰いで見る間は唯迷であらうと思ひましたが、八町も十町も遠ざかる程づゝ、其珍しく尊い形が悉く先に變つて行くやうに思はれまして、自分は新に昔の建築物を觀る方法を學んだのであります。
それから斯いふ建築物を見にゆくのに若し季節といふやうなものがあるならば、それは冬であると思ひました。上野の塔のやうな鮮かな朱塗ならば、新緑の頃もよからうが、淡い土の色と木の色との細かな配合を味ふのには、落付いた日光と澄み徹つた大氣の助を借らねばならず、正しく男らしい線の妙味を解するには、複雜なる冬木立の梢と取合せて見たいものと思ひます、又濃淡の無い白けた冬の雨雲の空も、自分は何となく善いバックだと思びました。
法隆寺へ參つた日は引更へて麗かな晴天で路傍の枯草の上に絲遊が立つて居ました、再建非再建の論の喧しい此伽藍は、多くの人が内陣の結構に先づ心を奪はれる所でありますが、自分は巡査のやうな服を着た案内者に美術々々と言はれるのが恐しくなりまして、永く見ては居ませんが、古い瓦の澤山落ちて居る廻廓を歩みながら、葵の紋の瓦で葺き替へた塔の軒を妙な心持で長く見て居りました。
夢殿の階の下では淺ましく惡い線香の煙を嗅ぎました、中宮寺は靜な御寺だと聞て居ましたが、初旅の不自由さには其土塀を一廻りして入口がよく分りません、村の外へ出ますと西北の山の裾に三重の塔が別に一つ見えます、連の者が頻にゆかしがりますので其方へ覺束なく夕日の野路を歩みました、これは岡本の法起寺でありまして古い有難い由緒のある寺でありますが、若々しい生籬に圍はれて、あたりの堂などはねつから似付かぬ建築ばかりで小ぢんまりと荒れないで居るのが却つて塔の爲にはいたはしく思はれました。
それから其近くの池の堤に立つて黙つて昔の事を思ひました、葛城山と志貴山とが自分に向つて物を言ひ掛けさうに見えます。龍田は志貴山の麓で、大和はまだ葛城の下を遙に南に延びて居ります、富の小川はただの溝川でありま(477)す。
歸途に今一つ塔を樹の間から見ました、里の男にきくとそれは三井の法輪寺であります、藤原の御井の眞清水と歌にも詠みまして、なつかしい處でありますが、早日が暮れるので寄らずに戻りました、塗直した、塔の裾に農家の煙が靡いて居りました。
興福寺の塔の下は何遍も通りました、月の明るい夜も往て見ました。猿澤の池の水は山水が溜つたせゐか實に靜かでありまして、市中のやうではありません、何の邊から見れば塔の水に映るのが見えるかと思ひましたが、分らずに終ひました。
歸る日は奈良の停車場に四五人の人に送られました、自分は此人達に帽を振りながら、唯右左の塔に送られるやうな心持がしました、それから京に參りますと東寺の塔を見ました、其日も雨が降つたので、直に藥師寺の雨の日を思ひ出して、案内の僧の番傘に西京の藥師寺と書いてあるのを塔と共に寫眞に取つて、繪葉書にしたならば、送つて遣りたい人が七八人もあるのにと思ひました。
京では八坂の塔の繪葉書は賣つて居りましたが、たゞ下手に寫眞を塗つたばかり、持つて歸つて早速帖に挿んだぎり、誰にも見せません、其他の寺々の塔は、曾て一度見たのも未だ見ないでゆかしいと思ふのも繪葉書になつたのは一つも手に入りません。
自分は四五年以來人眞似に繪葉書をためて居ますが僅の年月の間にも妙に嗜好が變つて行きます、此頃は頻に塔の繪葉書が欲しくなりましたが、不幸にして更に渇望を充すことが出來ぬ、例へば東京でも上野や淺草のは偶然にあるが、はや谷中の塔になると、露伴子の小説で有名になつたにも拘らず、まだ繪葉書になつたのは一種もありません。
自分は肉筆の繪葉書はどうも手にとつて見るといやに成る、やはり刷上の手際の善いのを大勢と共に賞玩したいといふ主義で、それに版屋に近付も無いから、全然他力門の信徒であります、葉書の流行も目下大方行留といふ盛況な(478)のに、今に於て塔の繪葉書が出來ぬやうでは先づ望が無い、いつそ繪葉書は斷念して、自身諸國の特別保護建築物を順禮しようかと思ひます。
日本の塔の繪葉書は數十枚あるだけで、どれもつまらぬから目録は掲げませんが、之に縁ある外國の塔の繪葉書で自分の帖にあるのを拾ひ出して見ました、これもほんの僅少でちつとも自慢にならぬのが御笑草です。
獨逸 「ケルン」大寺の塔
佛蘭西 「マルセーユ」の「ノートルダム、ド・ラ・ガルド」
同 巴里の「ノートルダム」
洪牙利 「ブダペスト」の「マチアス」寺
英吉利 「ウエストミンスター」寺 二枚
印度 「カンデイ」の舍利塔
英吉利 「ストラトフォード・オン・アボン」の記念塔
同 倫敦聖波羅寺
清國 遼陽大塔 數枚
同 上海龍華寺の塔
埃及 金字塔
土耳古 「セントソフ※[ヰの小字]ヤ」寺の塔
伊太利 羅馬の大塔
(479) マッチ商標の採集
私がマッチ商標の採集を始めたのは、極めて昨今でありまして、其採集しました數も少く僅に五百許りで、猶も澤山に集まりましたならば、其分類も出來て、面白い研究の結果もありませうが、今の處未ださういふことも出來ず、いはゞ私は此道のカケダシ者です、それに此マッチ商標を集めますには、唯マッチを買ひ集めたのみでは、容易に其數は集まりませんのです、此道に熱心な人になりますと、縁日なり祭禮なり何か人込みのあつた翌朝早天に起き出でて、其往來や道路に捨てゝありましたのを拾ひ集めるといふことまでもする樣で、其採集法もいろ/\ありますので、私の勤務して居る役所(内閣法制局)の給仕にも、此道に趣味を有つたものがありまして、隨分其數も集めて居りますが、此者が最も澤山に集め得た時といふのは、日露戰爭のとき新宿や品川を兵隊が通過するとき、其見送人や兵士等よりマッチを貰つて集めたといふことであります。數ある見送人の手やら、諸國から、集まつた兵士等から得たのですから、隨分種々變つたものが集められたのです。何うも私は身分上唯マッチのみを荒物屋に行つて買ふことも出來ず、況して道路に捨てゝあるのを拾ふといふことも出來ず、比較的此採集には困難を感じて居るといふ樣な譯で、私が此れまでに集め得ましたのは、先づ愛知縣に知己がありまして、それから同縣のマッチ同業者組合の商標百枚許りを貰ひましたのが土臺になつて居る樣な始末で、猶昨年の旅行で百枚程も集めましたので、北海道抔では旅舍に其店の廣告用の特別のマッチがありました。此土地では旅人宿ばかりではなく、賣藥業者にも此廣告用マッチを出す者がありまして、市野と申す家などは十二種も商標の異なつたものを出して居ります、又此廣告用としてのマッチに(480)就きましては山陽鐵道も特に鐵道中のものを出して居りました。こんな風に私の集めましたのは貰つたとか旅行先で手に入れたか、それに煙草を買つて得たとかいふ位でこれぞと申すこともありませんが、此道の先輩者又は元老株といふべき人には其採集に就いて苦心談も奇談もある樣です。さうして此等の元老株の人の中には今は自ら採集することを廢めて、唯他人の集めたのを批評して居るといふ通人もあります。一體此マッチの商標を集めて樂むといふ樣な人は多く彼の集古會の會員にある樣です、併し其外にも其人がある樣でありまして、中澤工學士牛村農學士なども此道の有名な人でありまして殊に牛村氏の如きは令閨迄も此れに趣味を有せられて、夫妻共々に採集せられて居るといふことです。
此商標を集め貯へますには其商標だけをマッチの箱から剥して其紙だけを取るのですが、何のマッチも其紙が容易に剥がれると云ふものではありません。其剥すのはそれ/”\用意手數のあるものですが、採集せられる人々の中にはそんな面倒なことをせずに板に着いたまゝにして居る人もあります。ところが此商標を剥すときに面白いことがあります。先づ其商標を見て此れは珍らしいと思ひまして剥しかゝると、又其下から珍らしいものが出るといふことがありまして、唯一箇のマッチからして二枚の珍らしい商標が得られるといふ樣なことがありまして、其時の嬉しさは何ともかともいはれません。
一體マッチの種類の澤山世に出ましたのは、日清戰爭後の頃にして、其時分から最も多く採集せられたといふは埼玉縣の多額納税議員であつた故根岸武香氏で、一萬餘も集められたといふことです。今では商業道コも多少進んで來ましたが、其頃はさうでありませんでしたから、マッチ當業者は一種のマッチでありながら、此れに澤山な商標を得て居りまして若し其マッチが賣れなくなれば唯商標だけを變へて賣り出すといふ樣な譯で、從つて商標の數も多く出まして、異つた商標も餘計集め得られたのです。烈しきは其商標の壽命が二日位で止つて其マッチの賣れなかつたといふのがあります。此等の商標は採集者にとりては珍の珍なるものとして非常に珍重されるのです。そこで此マッ(481)チ商標の採集といふことは、歐米各國では何うであるかといふと、其流行することは日本程には行かない樣に思はれます。併し西洋のマッチは盡く?マッチばかりであるからそんな流行がないといふではありません、日本品と競爭すべき品は瑞典、那威のものでありまして、その上等の物になりますと、彼のマッチの軸木が斜に折れるといふ樣なこともない、なか/\善いものもあるのです。さうして商標は日本とは其趣きが異つて居る樣です。赤いのは少く大抵青色か黄色で日本のは地が白で赤色で商標を現はすのがありますが、西洋のは紙は黄色で白いのは見えない樣です。まづマッチ商標採集につきて申し上げることはこんなものですが、私が今だに殘念に思つて居りますことは私が任務として捕獲審檢所にまゐつた時です。其時分に私が今の樣な趣味を有つて居りましたら彼の船艦等に臨檢しました時にいろ/\の異つたマッチも得られて隨分珍品も手に入つて居つたことだらうと思つて甚だ殘念に堪へんのです。
(482) 友食ひの犧牲
瀬戸内海の北木といふ島では、對岸多度津丸龜の影響を受けて、島だけにやゝ流行おくれに、目今小鳥熱が絶頂に達せんとして居る。
舟の中や路の隅つこに、人が三人以上集まつて居るところへそつと立寄つて聞くと、話題は例外なしに必ずセキセイか十姉妹かである。呑氣な田舍の旅をする者の大切な樂しみはなくなつた。小鳥はいゝ物に相違ないが、こんなにまで世の中を占領しては、うんざり〔四字傍点〕せざるを得ぬ。
それでも鳥を飼つてまだ損をした人はありませんといふ。損をしやうがないほどに誰かゞ流行の區域を擴張しつゝあるのである。最初十姉妹の竝の一番ひが五十錢か一圓であつたときは、今にもつと安くなるだらうから、さうしたらうちでも飼はうといふ人が却つて多かつた。それが三圓となり五圓となり、何とか文句をつけては折々十圓二十圓の相場を見るやうになると、もうよく/\飼ひ得ない者だけが、黙つて羨やんで見てゐるといふ結果になつてしまつた。
成程鳥小屋は粗末で、飼料などの入費も知れたものだが、それにかゝつて居る勞力は大したものだ。今日となつては投下資本の總量も侮るべからざる高となつて居る上に、第一小鳥の胸算用をして居ると、その以外の地道な村の生産は、一つとして馬鹿々々しく感ぜられぬものが無いのである。
(483) 官吏だけは小鳥で儲けようとしてはならぬと、訓令をだした縣もあるさうだが、現に薄給の人たちが、それで漸く洋服を作つたり靴を買つたりして居るのだから致し方が無い。あまり喧しくいへば役人の方を罷めて、小鳥仲買にでもなり兼ねぬ勢ひだから始末がわるい。その癖何のためにと問へば賣れるからと答へるの外は無く、買ふのはたれかと聞けば今では殆と全部が、また賣つて利を見ようといふ人ばかりである。
その上に外國からも船便毎に新種が入つてくる。かうして一人々々が金勘定の夢ばかり見て居る間は、生産過多の問題は個々の生産者と共にこれを談ずることが出來ぬのみか、單に需要の消長を尺度として産業の要不要を論じようとする先生方に、判斷をして貰ふ譯にも行かぬと思つた。
五十年ほどの歳月は經過して居るが、存外に國の經濟學は進んで居らぬと思つた。流行は病理であるのに經濟はいつもこれに追隨してゐるのである。從つて熱が覺め狸が落ちたやうな場合になつて、惡くいへば遲鈍、よくいへば比較的堅實であつた人が、背負ひ込んで損をすることは困つたものだが明治初年の兎豚の流行の終りと一つだらう。
緋豚と稱して眞赤な豚の子が生れると千兩だなどといつて、毎日樂しんで居たけれども少しも生れず、飼料はかゝる、數は増す、辛抱し兼ねて一匹に麥一斗づゝ添へて、屠業者に引取つてもらつた人もあれば、夜分にそつと船に乘せて、對岸の山へ放しに行つた者もあつた。伊勢灣の某島などは、豚に食はれてすつかり禿げてしまつたといふことである。兎の方も後には買手が無くなつて、上野の今の公園などへ、棄てに行つた人が多かつた。それを拾つて來て叱られた子供が、今や親爺になつて黙つてこの成行を見て居る。
日本の野山に再び小鳥が多くなり、そこでもこゝでも鳴いて居る時は今にくる。それも何だか樂しみのやうだが、考へて見れば彼等の食料は粟、稗だ。殊にインコの類は原産地でのもてあまし者である。即ち日本の新害鳥の候補者である。それが遠からず飼主に損をかけて飛んでゆくのだ。即ちいつまでもこんな?態が續くわけはないからである。
(484) 神戸、大阪の方面では小鳥の末勢に見切りをつけてそろ/\萬年青に乘換へようとする計畫が窺がはれる。手洗鉢の蔭にいぢけて居たらしいのを籠にいれて、そちこち持ち廻る人も少しは見かけられた。考へて見ると怖いやうな話しだが日本は昔から千軒あれば友食ひが出來るなどといふ誤つた諺があつて、いつでも少數で作つた者を全體で食はうとする惡癖がある。
碌な資本もたまらぬうちから、直ぐに消費事業の大會社などを起して、瞞してゞも取つて儲けようといふのが事業家である。その尻押しをする政客は多くても、國のために生産の急不急、消費の當否を考へる公人は居ない。國が貧乏する原因はよくわかつて居る。今度はセキセイインコ等がまた實物教育をしてくれるだらう。
(485) 山帽子
私はまだ引續いて、木や鳥の名の變遷を考へて居る。昭和八九年の頃、三越の六階から苗木を買ひ求めて、外庭の中ほどに栽ゑて置いたヤマバウシが、二丈ほどに成長して花が咲き、去年は紅い實が二十餘りもなつたので、急に親しみが加はつて古い事が知りたくなつて來た。
この邊の散野と呼ぶ雜木林にも、時折は野生を見かける木で、最初は名を知らうともしなかつたものだが、枝振りがすなほで紅葉にも趣きがある。一本は栽ゑてお置きなさいとお茶の先生に勸められて、やゝ大木になつたのを近所の百姓林から、移植する計畫をしたこともあつた。初夏に箱根の仙石原の折口氏の山莊に遊びに行つた時に、強羅から姥子に通ずる自動車路の片側が、一面にこの木で白い花の咲いて居るのを見た時にも、面白い木だなと注意したぐらゐで、まだ古い事までは考へて見ようとはしなかつたのだが、愈々自分の家の狹い庭に居付いて、朝晩出て見るやうになると、やはり來歴の興味がもたれて來るのである。
最初から我邦の山に在つた木には相違ないのだが、それにしては山帽子といふ名が新らし過ぎる。もとは別段の名が無くて、たゞ一つの山の木で通つて居たものか。又は農民は夙く一つの呼び名をもつて居て、それを我々が忘れてしまつたのであらうか。斯ういふことを問題にして、幾つかの本を捜して居ると、漸くのことで是が漢字で柘(シヤ)、上代の日本語でツミと謂つた木であることが判つて來た。
後世には之を又ヤマグハと謂つた人も有るらしいが、この方は解釋家に誤られて居るのである。學者はめつたに物(486)を見て考へるといふことが無いから、一度まちがへると其まゝで教へてしまふのである。支那で柘といふ字の古い用法は、桑柘と連ね稱し、二者は共に蠶の好み食ふものとあるから、是は桑の類であるにきまつて居る。或は柘桑と書いた例もあつて、之を桑の一種とするのは正しく、又桑の原種であらうかと、想像するのも多分當つて居る。さうして日本の野生の木の中にも、是に該當する山桑はたしかに有るのだから、それに柘又は柘桑の漢字を、宛てるまでは誤りとは言へない。
しかし一方の山帽子のヤマグハに至つては、葉・花・實の形がすべて桑と同じで無く、從つて全く別の科に屬し、蠶も恐らくは食ふまいと思ふ。山帽子をヤマグハなどと呼んで居るのは、ただこの柘の字に引寄せられたまでである。日本でツミといふ木に柘を用ゐたのは萬葉集だが、それは事によるとこちらだけの新字だつたかも知れない。さうで無ければ桑柘の柘以外に、別に斯ういふ木を柘といふ例が、支那にも有ることを知つて居たので、二つを同じ物だと思つて居たわけでは無い筈である。然るに和名抄などにはもう之を混同して、久波一名都美としるし、後の人々は皆之を信じたのである。
吉野の仙女が姿を柘の枝に變へて、流れて人間に近よつたといふ古への物語が、失せて傳はらぬのは譬へやうも無く惜しいが、是がもし一人の文士のたゞの空想でないならば、まだ何處かに其痕跡ぐらゐは、見つかるのではないかと私は思つて居る。それを捜すのには何よりも先づ、この本に就いての切れ/”\の民間知識を、注意して居なければならぬのだが、書いたものゝ方面にはまだ手掛りが甚だ乏しいのである。萬葉集の歌は、季節が明かになつて居らぬやうだが、その柘の枝には紅い實がみのつて居たか、又は白々とした四瓣の花が咲いて居たか、さては春さきの若緑か、秋の紅葉の匂やかな枝であつたかによつて、この物語のまぼろしは異なるのである。
ヤマバウシといふ近世の木の名は、疑ひもなくあの花の形から出て居る。帽子も次々に色々の好みが流行したが、あゝいふ四出の白い布片を、頭にいたゞいて居たのは田樂の舞だけである。乃ちこの舞が山近き奧在所にまでも行渡(487)り、人々が之を觀て興じ樂しんで居た時代に、此名が廣まつたものと想像することも出來るのである。さうして又ちやうど斯ういふ花の山で咲くときが、里では田の神を迎へて、忙しい中間の一日を遊び戯るゝ季節でもあつたのである。
しかし我々が此木の枝を折りかざし、又は祭の庭を飾つて居たのは、この田樂の流行などよりは、又ずつと古い世からであつた。一つの例證は伊賀國柘植の郷、是は天武紀に積植の山口とあり、延暦の儀式帳には柘植の宮ともあつて、神のみしるしとして柘の木を植ゑたといふ傳説が、久しく其土地には行はれて居た。柘植をツゲといふのは其ツミヱの訛音であつた。さうして其ツミといふ語の起りは、あの美しい紅い實に在つたのではないかと私は思つて居る。
現在はズミと字に書くのが普通であり、東北ではジョミと聽えるやうなあいまいな音で發音しても居るが、其ズミは今でも紅い小さな木の實の總名である。桑の實をクハズミといふ地方語以外に、ガマズミといふのが最もよく知られ、之をヨソゾメ・ヨツトドメ、其他類似の方言を以て呼んで居る。もとはタ行の濁音化らしいことは、桑の實のドドメや、地木瓜《ぢぼけ》のシドメなどからも推測せられる。山帽子の古名のツミも、もとは樹實を主にした名であつて、或は之を以て秋の終りの神祭に奉仕する習はしがあり、從つてかの柘枝仙女の古傳の如きも、このやゝ色づいた秋の葉の間に、さう鈴なりでは無い紅の珠の、ちら/\と光り耀いて居る枝が、川上から流れて來るのを想像させたのではなからうか。山茱萸科の植物の特長は桑などとはちがつて、實の數が割に少ない代りに、發芽力の有效な點に在つたかと思はれる。それが小鳥に啄まれて遠くへ行き、又は思ひかけぬ土地に成育することが、我々の祖先の信仰を刺戟し、かつは次々の空想を培うて居たのではあるまいか。それも今ではまだ假定の域を出でないが、もし當つて居るならば是からも材料は集まつて來よう。小さいことだと輕しめずに、もう少し年を取つた山里人の言ふことに、耳を傾けるやうにしたいものと思ふ。
(488) 山の休日
一生諸君とはちがつた立場から、山を觀て居た者の思ひ出を書いて見よう。山々の間に親子代々、靜かに住んで居た人たちの心持が、いつとは無く段々に變りはじめ、ひどく散漫なものになつて來たことは、山登りの責任でも何でも無いが、かつてあれほどまで顯著であつたものを認めず、外からの無視によつて彼等の自意識を失はせたことは、この感覺の精緻を誇りとする近代人の、共同の恥だつたといふことまでは言へる。
山に殘つて居るものは、殘つて居る日本であつた。といふ風にも私などは考へて居る。其理由は最も簡單で、今日眼の前にひろがる廣々とした稻作地、都市や工場の塵煙に蔽はるゝ平坦部は、その最大部分がすべて近世の新附だつたからである。墓も働き場も、以前は皆山に屬して居た。島國でありながら、海は少ししか顧みられなかつたと言はれて居る。充ち溢れるほどの自然は我々の先祖を引き包み、あらゆる技藝は悉く、是を材料として成長し始めた。世の中の進みといふことは、言はゞこの傳來と重要さを忘れることであつた。さうして古い頃のまゝなるものが、次第に僅かな片隅に押し遣られることになつたのである。
人々が故郷を懷ふ期間にも限りがある。群は結局は分れて向ひ立ち、たゞめい/\の理解し得る面ばかりで、身勝手に接觸しようとするやうになるのである。歴史の學問の我々を同情深くする餘地はこゝにもあるのだが、それは現在はまだ漸う東雲の空である。是れからは更に幾つもの思ひかけぬものに心づかれる日が來ることであらう。
(489) ○
雪に閉された山奧の村に、今は近々と寄り添うて行くやうな時代が來て居る。窓の火や夕飯の煙の片靡きまでが、雪にさまよふ人たちの旅の繪に永く殘るやうになつた。今はただ一歩でその雪の底に、埋もれて居た久しい生活の端々に、ふれ合ふといふ處まで來て居るのである。冬を冬眠の期間のやうに思ふのは、野獣からの類推に過ぎない。人にも一度はそんな時があつたのかも知れぬが、今はともかくも決してさうでないことは、正月を始めとして數々の重要な年中行事が、多くは雪の下で行はれて居たのを見てもわかる。世間と隔絶すれば自分一人、家が存在する限りは家がいき/\と働いて、内部の生活の充實し切つて居たことは、却つて平地の人々の企て難いものがあつた。
都市から出て行く者の一般の思ひちがひは、いつでも靜かな無事の日に村を巡つて居て、そこにはけ〔傍点〕と晴れとの大きな心理の起伏が、有るといふ點を省みなかつたことに根ざして居る。たとへば祭の後宴の日も過ぎると、次に來るものは著しい疲弊であり、倦怠にも近い休息であつた。町の生活の小さな興奮の連續であるに反して、こちらには寧ろ空隙が多く、それが又年に何度かの節といふ日を、極度に樂しく引締まるものとする爲に、準備せられて居たといつてもよかつた。さうして旅人は多くはこの低調の間を縫つてあるいて、村を退屈でしやうの無いものと見て戻り、村人は又しば/\其批評にかぶれたのである。村で常時の興奮を求めるやうな心持が、次第に擴がつて來て村は住みにくゝなつた。酒はこの人生のリズムを限定するが爲に、發明せられたやうなものだつたが、其效果ははやく偏よつてしまひ、殊に全體の調和の破れたのを、復舊するまでの力が無かつた。さうして今はたゞ僅かの山中人の群だけに、古い大まかな活き方が、まだ幽かに傳はつて居るのである。是がこの後どう變つて行くだらうかは、やはり國全體の問題であるやうに私などは見て居るのである。
今頃以前の樂しかつた?態に、戻つて見たいなどゝ思ふ者は有らう筈が無い。たゞ是から進んで行く道が二つ以上、(490)五つも七つも有り得るときまると、どれか其中の最も望ましいものを、きめるといふ判斷だけは人にまかせられない。さうしてめい/\の物を決する力となるものは、やはり今までに通つて來た路の、正確な知識より他には無いのである。書いた物には案外にそれが殘つて居ない。自分で是から氣を付けて、捜し出すべきものが山間にはまだ有るらしい。それが日本といふ國の幸福なる特徴でもあれば、又この方面に親しみをもつ人たちに、多くを期待しなければならぬ、私たちの力綱でもある。
○
へたな總論で時を費すのは惜しい。是からは折が有つたら一つづゝ、山に入つて行く人たちの容易に心づき、是はなるほど我々の先祖が、あるいて居た足跡だつたと、考へずには居られぬやうなことを話して見たい。九州の方には、ユク又はイコヒといふ言葉があつて、疲れて暫らくの間何もせずに居ることゝ、祭や節供の日に作業を停止して、靜かに暮すのとは、二つ別々のものに考へて居るやうだが、他の多くの土地では二つは混同し、境目がはつきりとして居ない。ヤスミは屋に住むことであらうから、一人で怠けてもさう謂つて差支へないわけだが、今でも普通には是を共同のものに限り、さうでないものは何かの方法で、明示するやうにして居るのは、由來のあることゝ思はれる。もとは休日はたゞ單なる解放ではなかつた。即ち働かずともよろしいといふだけでは無しに、働いてはいけない日だつたのである。最近の祝祭日法でもよくわかるやうに、休みは權利だから抛棄する人が多かつた。殊に農夫は自分の生産である故に、斯ういふ日にも働いて、少しでも收入をふやさうとして居た。それを前々からの習はしによつて、附合ひが惡いとかあんまり慾が深いとか、少しは陰で非難する者もあつたけれども、是を公けの約束に背く者として、正面から制裁する方法はもう久しく存在しなかつた。ところが山の中での勞働に限つて、今でも可なりの強い力を以て、弘い區域にわたつてなほこの慣行が守られて居るのである。
(491) 關東の各地では八日山などゝいつて、二月又は正月の八日、山に入つてはならぬといふ一日がある。其日は地方によつて甚だしく區々になつて居るが、大抵は春と冬と一年に二度、山で仕事をすることを嚴重に戒められる日があつた。休んでたゞ遊びに行くことも惡いとしてあるので、是は通例の休日制の外であるやうに、考へる人もあるか知らぬが、さういふ場合はめつたに無いのみならず、山で祭をする爲に入ることは構はぬのだから、是はやはり毎日の行爲、即ち生活の爲に働くことを禁じたのであつた。さうして其禁止を犯す者の制裁は、相應に怖るべきものであつた。
○
今も全國の隅々に及んで、殆と除外例無しに此慣習は行渡つて居るから、比べて見ようと思へば誰にでも尋ねられる。第一にどうしてこの二つの日を限つて、山に入つてはならぬかといふ答へは、何處でも一樣に其日は山の神の出てあるかれる日だからといふであらう。それを今一段と具體的に、春は山神の樹種播き、冬は樹種拾ひと謂ふ者もあれば、或は山神の木の數を算へる日だから、山でうろ/\して居ると算へ込まれる、即ち自分までが木になつてしまふと言ひ傳へて居る村も多い。是は勿論一つの空想であつて、そんな實例があつたのを記憶して居たのでは無いが、先づ大よそ此程度の有り得べからざることが起るものとして、怖れ戒めて禁を犯す者が無かつたのである。しかしさういふうちにも事を好み、冒險して見ようとする者が少しづゝ出て來るにつれて、罰の形もやゝ實際的になつた。或は器具や家畜を失つてどうしても見つからず、又は怪我をしたり病氣をしたりして、しまひには命を取られる。制裁は隱れた世界からだが、周圍も是を有り得べきことゝ認め、且つ被害者には同情を送らぬのだから、間接には群の力が牽制して居ることになるのである。
違反者の經驗とも見るべき言ひ傳へは、近年になつて追々に増加して來て居る。それを細かく列擧して行くと、一つの好い話題になるのだが、此ついでにはとても説き盡せない。大體に山で異形のものに出逢ひ又は聲を聽き、ふる(492)へて遁げて來たといふ類の幻覺には、私などから見ると基づく所があつた。つまりは春冬の兩度の同じ日に、神靈がきまつて山をあるかれるといふ、古い信仰がまだ全くは消えずに居るのである。誰しもたゞ自分の故郷だけの、奇拔な口碑と信じ切つて話し合つて見ようとしなかつたが、我々の仲間によつて近頃は漸く公共の事實となつた。山の神が春は里に降つて田の神となり、田の神は冬に入つて再び山に還つて、山の神になりたまふといふ言ひ傳へは、國の南北を一貫して何處へ行つても聽かれる。さうして珍らしいことにはたゞ其期日が、地方によつて互ひにちがふのである。山に入つてはならぬといふのは、大抵は皆この日であつた。即ち山の口又は田のほとりで、里の幸福を守りたまふ神を祭る日だつた故に、其日ばかりは謹愼して、日常普通の行動をさし控へて居たのである。以前は斯ういふ祭の日がなほ他にもあり、且つその一つ/\の物忌の期間も長かつた。疲れ切つて休まねばならぬ日は寧ろ少なく、働きたいのに働かれぬ日が多かつたかと思はれる。今から考へると夢のやうな話だが、休みが拘束であり其禁がやつと解けて、思ふさま働くことの出來るといふ日が、曾ては休日よりも樂しかつた時代があつたのである。
(493) 作之丞と未來
北秋田の雄猿部《をさるべ》といつた處は、今日の尾去澤のことではないかどうか。とにかくに昔、そこの山にすばらしい樅か何かの老木が一本あつて、崖の外へ大きな枝を伸ばしたのが、遠くからよく見えた。その一ばん太い枝のとつさきに、確かに人間の形をしたものが一つ、久しい以前からぶら下つてゐたことは、だれ知らぬ者も無かつた、比内《ひない》の某村の百姓作之丞、天狗さまにつれ行かれて、あんな處にひつかかつて居るのだといふ評判であつたが、何年たつても形が少しも變らないので、しまひには人ではないやうだ、死骸ではあるまいといふ者が段々と多く、何が何だか判らなくなつて來た。
ところがその樹のてつぺんの人間が、ある日忽然と見えなくなつてしまつて、百姓作之丞は故郷の村に還つて來た。家は幸ひに無事に殘つて居て、孫だか曾孫《ひこ》だかの作之丞が、喜んで彼を迎へてくれたので、久しぶりの對談にこまごまと、過ぎし昔の話をしたといふことである。
ちやうど八十年以前、まだ四十に少し前といふ年のころに、山に入つて薪を伐つて居る處へ、見なれぬ一人の大男がやつて來て、二つ三つ話をするうちに、突然とこんなことをきく。作之丞、おまへは過去が見たいか、未來が見たいか。どちらを見ようと思ふかと尋ねるので、自分はそれに答へて、古い事は物語にも聽いて少しは知つて居ります。行末のことは命が無いと見られぬと思へば、一しほなつかしい氣が致しますると答へた。
さうするとその大男、それは如何にももつともなことだ、然らば今おまへの命を縮めて、八十年の後に再生させ、(494)別に三十年ほどの壽命を授けてやらう。さうすればちやうど百歳の後を、快く見ることにならうといふ。その顔つきの怖ろしさに、びつくり仰天してしきりにわびごとをしたけれども、もうその方の命運は定まつて居る。成るべきやうに成れといつて、即座に首を締めたまでは覺えて居るが、それから後の事は全く知らない。
さうして睡りの始めてさめたやうに、ふつと眼をあけると、以前の大男が傍に立つて居た。自分を仰向けに寢させて總身を按摩してくれて、もうこれで還つてもよろしい。永い間の樹の上のすまひ、大きに御苦勞であつたといつて、道しるべをしてくれるので出て見ると、そこは雄猿部の山の頂上であつた。山の樹木もふもとの里も、大分かはつて居るやうだが、ともかくも自分の生れた在所に近いことだけはまちがひが無い。それで斯うしてもどつて來たのだと作之丞は語つた。家の人達はこの話を聽いて、有り得べきことゝも思へなかつたが、ともかくも昔天狗にさらはれて、行き方知れずになつた先代作之丞が、一人有ることは確かな事實であり、またその昔の村々の話は、何を問うて見てもはつきりと答へるのみか、現に山の上の大木の梢には、もうぶらさがつた人間が見えなくなつて居るので、さてはこなたがうちの古いおぢいなのかと、一家うち揃うて敬ひかしづいたといふのは、誠に律氣な田舍人の心根であつた。
この作之丞は、果して天狗どのの約束の如く、これからちやうど卅年を活きながらへて、正コといふ年の終りのころ、即ち西暦一七一五年前後に、病の床について世を去つた。これほどにも手數をかけて、見たいと望んで居た百年後の事だから、さぞまた熱心に念入りに、世の中の變り目を觀察したことだらうと思ふが、農民は全體に文字を書かうとしなかつたから、その感想録のやうなものは、少しでも今の世に傳はつてはをらぬらしい。
人見蕉雨の黒甜瑣語といふ書物に、以上の事實がはつきりと記載せられてゐる。この著者は寓言を好まず、またこの通り固有名詞をちやんと掲げて居るのだから、少なくともこれがあの時代の一説であつたことは察せられる。假に誰かの作り話だつたとすれば、その作者はそも/\秋田のどういふ土地に、住んでゐた人だつたらうか。それがアナトル・フランスの「白い石の上に」、または H・G・ウェルズの「時の航空機」などよりは、優に一百年を先驅する落(495)想であつただけに、先づわれ/\の問題とならざるを得ないのである。
百姓作之丞が見たがつた田舍の未來などは、百年ばかりでは、さう變つてゐなかつたにきまつて居る。しかし見た以上は何とか所感を述べたであらうに、それが少しでも傳はつて居ないのは不審である。大抵の長命者は、相手が聽いてくれようがくれまいが、この新舊の比較を試みんとせぬ者はなかつた。おれなんかの若いころにやと言つてはいやがられ、今の若いやつ等はと言つてはおこられたかも知れぬが、ともかくも一歩々々の體驗をもつてゐた。史眼は極めて低かつたらうけれども、少なくとも次に來る者への期待があり、それと現實とのくひちがひを經驗して、一喜し又一憂しつゝ生きて來たのである。ところが作之丞は樹上に八十年、大よそ自分の世盛りとは絶縁し、また天狗との漠然たる約束以外に、何等前途の期待を抱くことが出來なかつた。これでは折角新しい世に復活しても、人に語るほどの感慨がなかつたのは、是非もないことである。をかしな譬へを引くやうであるが、今までの國史學なども、ちやうどまた一個の百姓作之丞だつた。未來を豫言する力はとくに失つて居るのみか現在を解析しようといふ意慾をすらもまだ持つて居ない。寂ぱくたる樹上の存在である。
史學の現代性、未來への用途といふものを作之丞は考へなかつた。過去は物語でも少しは知つてをりますといふのは、よその國では斯うだつたからと、いつてすませて置くのよりは實直かもしれぬが、それが未來を樂しましめる理由にならぬことは雙方同じである。耐へても忍んでも今日だけは過ぐされる。惱ましくもまたゆかしいのは明日以後である。それは私がきめてやると、いつた者は昔から多かつたが、まだきまつたためしは無いのである。明治維新の夜明けでも、前憲法の發布當時でも、悦び樂しんだ者は、今よりも何十倍か多かつた。それがたちまちこの眼前の?態にまで落ちて來た原因は、われ/\日本民族の近代史以外、何處にも求める道はあらうとも思はれない。捜して見もしないでたゞ天王寺の未來記のやうな豫言を、信ぜしめようとするなどは、作之丞のはなはだしきものだと思ふ。
少しく後口が惡いから、もう一つこんな逸話を取添へて置かう。空襲のさなかに別れたまゝ、消息不明になつた舊(496)友の岡田蒼溟翁は、今からもう十六七年も前に、私の所へ來てこんな話をした。柳田さん、えらい大きな戰爭が始まるさうですぜ。世界がひつくりかへるやうな大騷動が續いて、日本も散々にやられるさうですよといつた。あなたはそんな話を誰から聽いて來ましたか。もちろん神樣の御告げです。神樣より外にはかういふことを、知つて居られる方が有らう筈はありません。しかし結局はこちらがよくなるのださうです。何か想像もつかぬやうな不思議が起つて、それから少しづゝ運が向いて來る仕組みになつて居るのださうですとも言つた。
それから一年に一度か二度、逢ふたんびに我々兩名はこの話をした。何だか少しづゝ御告げの通りに、なつて行くやうな氣がして來て、實は私も大いに動搖した。それにしてもその最後の不思議といふのは何であらうか。あなたは御そばにゐたのだから、ちつとは見當が付きさうなものぢやないか。いやそれが誰にもわからないので、今でも色々と想像をめぐらして居るのですよ。何か非常に大きな發明ぢやありませんか。たとへば海水から金を採るといふやうなと、いつては見たものゝ自信は無ささうであつた。しかしたゞその一點を除いては、他はことごとく未來から跳り上つて、今やわれ/\の現實の體驗になつてしまつた。さうして當の本人の蒼溟翁は居なくなり、もう結論の持つて行き所も無いのである。あるひはどこかの山の高い樹の上か何かで、氣永に世の成行きを待つて居られるのかも知れぬが、たつた一人であつては、當つたねといふことも出來まい。さうして私は殘念ながら、さういふ御つきあひはもう出來さうもないのである。
(497) 特攻精神をはぐくむ者
勇士烈士は日本には連續して現はれて居る。特に多數の中から選び出されるのでは無く、誰でも機に臨めば皆欣然として、身を捧げ義に殉ずるだけの覺悟をもつて居る。又さうで無ければ個人の傳記であつて、御國柄といふことは出來ぬであらう。
古い戰史を讀んで見ても、小さい區域でならば死に絶えるほど人が討死をした例は幾らも有る。しかも其爲に次の代の若者が、氣弱くなつたといふ地方が無いのである。勇士烈士をして安んじて家を忘れしめ、子孫を自分の如く育て上げるだけの力が、後に殘つた女性に在ることを信ぜしめて居たのである。今度はその證據を算へ切れないほど我々は見出して居る。
女性の職分は戰時に入つて、内外に非常に増大した。その上に又苦惱は多い。それにも拘らず、もうこの次のものは用意せられて居るのである。深い感謝を寄せざるを得ない。
たゞし家々の事情は一樣でなく、力の足らぬ者と餘裕のまだ少し有る者が入りまじつて居る。之に均衡を與へるには、女性が今一段と心廣く、よその家々の疎開學童の、勇士烈士となり得るだけの計畫にもう少し參加するやうにしたいと思ふ。母といふ國民の道コは、斯ういふ時代に於てもなほ錬磨せられる必要がある。
(498) 女の表現
以前から私は近松の方が、ずつと西鶴よりは大きいと思つて居た。たとへば「おきさ次郎兵衛」の終りの一段などは、もう五十年も前に讀んだまゝだけども、今でもあり/\とあの二人が、つい死ぬ氣になつてしまふといふ、物はかない場面が胸を打つが、斯ういふ複雜な構圖は、西鶴の藝の中には無いやうだ。殊にあの商家の老いたる主婦が、汗もしとゞな青年を戸棚の中から出してやりながら、口小言のやうに言つて聽かす簡單な又やゝ露骨な文句などは、私たちから見れば其まゝが大阪の社會、もしくはあの時代の人生觀であつた。寫實といふやうな文字こそは知らなかつたけれども、つまりは女の表現といふものゝ別に有ることを、近松は認め且つ感銘して居たのである。
女を知る、といふやうな大切な言葉が、極めて低劣な意味にしか通用しなくなつた頃から、女は段々に知られることを欲しなくなつた。限られたる愛情を小さなサークルの間に傳へる以外、彼女等はこの方法に苦心しなくなつた。我々は單に女性の感受性を、尊重するを以て足れりとして居るが、それがこの世の中の幸福に寄與するのも、表白の途が備はつて居ればこそである。もしも明治の女傑などの如く、何でも男の通りに論じたり辯じたりすればよいといふのでは、議場はともかくも、常の席ではたゞ物足りなさが耳について、第一に女に物言はれて居るやうな感じがしない。
この女性の表現の變遷といふものが、國語に與へて居る影響は無視することが出來ぬ。母の言葉には咏歎が多く、時々はくり返しにも流れるが、其かはりには空な單語といふものは一つだつてまじつて居らず、何れも歴世の體驗に(499)裏付けられたものだけを、何の危なげもなくもとは使ひこなして居た。我々の一生は長いけれども、母と一しよに暮らした僅かな期間ほど、活きた國語の働きを有效に、覺え込む機會といふものは實は少なかつたのである。女が男性の物の言ひ方に附いて行くといふことは、わざ/\その言葉を粗雜にし、折角織り上げた綾錦に、麻や木綿のつぎを當てるやうなものだと思ふ。
文章の方面では、日本人は中世の風雅女流を大そうにかついで居る。さうして實際又かなりよい感化も受けた。是が無かつたならば少なくとも極めて少數の男しか文章は書けなかつたらう。然るに獨り口頭の國語に至つては、現實に小さからぬ教育を與へられたるにも拘らず、まだ一人としてそれを有難いと思つたものは無く、大きくなつてしまふと是をたゞ、愚痴とよまひごとの標本の如く輕蔑して、終に今日のやうな女の表現の退歩を招いてしまつたのである。國語をもう少し鮮明に、せめて繪具の程度によくしみ込むものとするには、女の覺醒といふことが第一に必要だと私は思ふ。
(500) 教師は公人
女の教員の、最も許せない弱點は、自分の長處を知らずに居ることだ。男に比べると一體によく氣がつくと、ほめられることは今まではめつたになく、何かといふといやに氣をまはすだの、人の心を讀まうとするだのと惡く言はれ、又は女見たいなやつだなどゝ、男がひやかされて居るのを聽くと、長處どころかよつぽどいけないことのやうに、思つて愼しんで居る人が有るのも無理はないが、それは私生活上の、身勝手な利用が有害なだけである。「察」が公人の大切な美コであることは、決して裁判官の資格ばかりでない。是が無かつたら話し方の國語教育は空々しく形式化し、社會科は全く退屈な、覺えにくいものになつてしまふだらう。だから私などは男まさり、男にそつくりだといふやうな先生などは、ほんのぽつちりあればよいと思つて居る。女の教員に必要なものは、新たなる公人意識である。相手の立場になつて考へるといふ能力を、親子夫婦の外にまで押しひろげることである。
(501) 通信の公私
今でも未知の人からの手紙は、相應な數を受取つて居るが、永い間には是にも内容の變遷がある。一ばん樂しかつたのは、子ども風土記を朝日に連載して居た頃で、毎日のやうに配達せられる郵便の中には、十二三四歳かと思はれる少年少女、町へ出て働いて居る小店員、又は息子たちを戰場へ出して、寂しく家を守つて居る後家さんといふやうな人からも來た。一つには新聞が弘く讀まれるといふ爲にちがびないが、何にせよ「鹿々角何本」といふやうな、あれほどよく行はれて居た遊戯を、さも珍らしさうに日本にも有つた/\と書いたのだから、それなら一つ知らせて上げようと、いふ氣になつた人の多かつたのも自然である。しかし是がもし昭和二十一年の今日であり、又は今から三十何年前の世の中だつたら、果して斯ういふことがあつたらうかどうか、私にはまだ何とも言へない。單に自分のもつ餘分のものを、欲しい人が有るなら遣るといふ爲に、たとへ是だけでも手數を掛けるといふのには、やはり人生の今一つの條件、即ち人と共々に樂しまうといふ和氣とでもいふべきものが、具はつて居なければならなかつたのではあるまいか。
明治の終り頃の經驗では、何か本を出し、又は雜誌にでも少し大きなものを書くと、其あときまつた樣に必らず二三通の手紙が地方から來た。それには五寸ばかりの繪絹か紙切れを封入して、記念にしたいから歌でもたゞの文句でも書いて送つてくれと言つて來る。代議士にでもならうといふ人が、或は安々とそんな望みをかなへて居たので、ついそれが流行になつたのかも知れない。中には一週に一度くらゐの割合で、半歳以上も催促をつゞけて、辛抱くらべ(502)に克たうとした人もある。閑も多かつたのだが、一つには葉書も安いからであつた。
この風習は程なく下火となり、是も或は書翰の蒐集が一つの動機だつたかも知れないが、返事を出さずには居られぬ樣な通信が、意外な地方からぽつ/\と來るやうになり、それにはたゞ讀んだとか感心したとかいふだけで無しに、かねてから誰かに尋ねて見たいと思つて居た。斯ういふのはどう思ふかと言つて、格別縁も無いことを詳しく書いて來る人もあつた。大抵は氣樂な又は我儘な人であつたと見えて、めつたに交際の永く續いた例は無いが、こちらだけは努めて場所と氏名とを忘れぬやうにして、最近までは其手紙も皆保存して居た。あれは私の親類の端で、ちよつと變り者でしたなどゝ、ずつと後になつて噂を聽いたことも二度や三度では無い。
つまりは此人にもたゞ單なる物ずきで無く、既に今までの讀書の常習に倦んで、何か身に近い處の新らしい研究の道を見つけようとして居たので、強ひて弱點を指摘するならば、私たちに比べてあまりにも暇が多く、從つて計畫がやゝ悠長なだけであつた。だから郷土研究といふやうな雜誌が出ると悦んでその支持者となり、自分も亦それに似寄つた仕事を始めて、手紙を書く代りにぢかに雜誌の方へ、載せても構はぬものを寄せて來るやうになつた。最初はめい/\が向き/\な事を考へて居たかも知れないが、雜誌の同化力は存外に大きなもので、いつと無く人がどういふ問題に興味をもち、どういふ事を明かにしようとして、苦勞して居るかといふことがわかつて、助けてやりたいといふ氣持になつて來る。
(503) 讀書人の眼
戰地からの寫眞で氣がつくことは、街の辻に掲げられた皇軍の布告の前に立つて居る人の群が、見たところ色々の階級から成つて居る。今では支那でも文字の教育がよほど普及して、もう讀書人といふやうな別種の階級は、追々と輪廓が薄れて居るのではないかと思ふ。以前はをかしいほど二つの差別がよく立つて居た。是は素より貧富の度には依らず、又事によると智愚の段階とも無關係だつたかも知れぬが、とにかくに本が讀めるといふことは顯著なる標職であつた。ちやうど字を書いた紙を踏まなかつたのと同樣に、萬人が讀書の出來る者を大事にしたことは、やゝ宗教的ともいふべき實?であつたことは、書物にも見えて居り、又長崎での見聞にも傳はつて居る。その尊敬せられる讀書人が、之によつて貧窮を甘んじ濟世の志を抱くやうになるのと、逆に之を惡用して一身の計に出づる者と、二通りあつたことは昔も免れなかつたらうが、少なくとも是が社會の或特殊な部分だといふ意識は、何等かの約束を感ぜしめずには居なかつた。さうして近代文化の平等主義なるものは、何よりも先に之を撤回することに働いて居たやうである。
日本でも以前は幽かながら、同じ差別が認められて居た。たとへばもう數十年も前のことだが、或刑事が私の友人に向つて、本を讀んだ者は眼を見ればすぐわかる。やたらに誰にでも疑ひを掛ける必要は無いのだと謂つた。私はそれを又聽きして、大いに自得もし又安心もしたことであつた。斯んな小さな一言でも縁があればやはりいつまでも殘るものである。私は此時以後、ひどく人の眼の神秘ともいふべきものを感ずるやうになつた。汽車とか乘合馬車の中(504)とか、見ず知らずの人の多い中で、あまり念入りに他人の顔を視て居て、思はず聲を掛けられたこともあれば、又時々は怒られたこともある。怒つたり喜んだり、情の動いて居る場合はあたり前のことだが、さうで無くても大概の人柄は、目が正直に名のつて居るやうに思はれた。生まれて一度も疑つたことの無い人、自然の善人といつてもよい人が、もとは田舍には幾らも居て、友だちになつて見ると果して豫想は誤つて居なかつた。是なら行く/\は眼によつて人間の分類が出來るかも知れぬと、樂觀して見たことも一度はあつた。さういふ中でも支那で謂ふ讀書人、日頃文字と親しみを持つた眼は、たしかに一段と見分けやすいやうに、私にも感じられたのである。何か考へて居るやうで問題は目前に迫らず、放心といふ程で無くとも注意力に餘裕があり、休んで動かぬやうだが疲れては居ないといふ風な眼を、特に學生などの間に數多く見かけるので、是があの刑事の謂つた本を讀む眼かなと、獨りできめてしまつて樂しみにして眺めて居たのも、もう大分久しい前のことである。
ところが近年はこちらの目が惡くなつた爲かも知らぬが、この見さかひが段々と不確かになつて來た。外國に居た間はあまりに眼の色や形がちがつて居るので、日頃の技能を應用することが出來なかつた。誰も彼も皆落付いたやうな顔をして居て、風體や目つきで身元を察することが不可能であり、二度も其爲に惡い奴に騙されて居る。ジュネエブでは日曜に公園などを通つて居て、よく見る顔だがと思つて考へ出すと、それが車掌だつたりポーターだつたりすることも?々であつて、男は殊にステッキでも一本持たせると、みんなインテリと見えるやうな眼をして居るのである。
斯うなつて行くのは自然の趨勢で、それを堰くことも戻すことも出來ぬのは當り前だが、それが悦ばしいか否かはまだ容易に言へない。三十年來の私の鑑定術が、種無しになるのは構はぬにしても、本を讀みながら考へない人もしくはそんな眼をして居て下卑たことを平氣でする者を、幾らも見るやうになつたといふことは、以前と比べて本の世に對する働きが、總體としては弱つたといふことになるのではあるまいか。
(505) 常民の生活知識
日本に民俗學といふ言葉の生れたのは、明治の終りか大正の始め、人でいへばまだ四十幾つの若さだが、奇妙なことには誰が名付親であつたかも確かめ難く、又その輸廓もしばらくははつきりとしなかつた。それが今日のやうに動かぬ内容をもつに至つたのは、岡正雄君の民俗學概論といふ書物の出版せられた昭和二年などが、少なくとも一つの區切りであらうと私は思ふ。この本は今でも相應に廣く知られ又讀まれて居るが、是は英國のフォクロア協會が、會の内外の同志にこの學問の意義性質、又方法を説き示さうとした「フォクロアの手引」ともいふべきものゝ飜譯なのだから、これで先づ民俗學といふ新語の方向は一定したことになり、事實またそれとやゝ異なる意味にこの名を用ゐようとする人は段々になくなつて來た。
但し今日になつてよく考へて見ると、この對譯の統一といふことは、果して一國の學問のために、利益であつたかどうかが聊か心もとなくなつて來る。日本ではどんな僅かな知識のかたまりでも、又時としてはたゞ切れ/”\の小さな新らしい發見でも、それに學といふ字を取付けて、我人ともに怪しまない氣風があるが、是にはおのづから定まつた條件、領域目標又は共通の方法等の、他と獨立して必要なものが、備はらぬ限り、何と呼ばうともそれは空しい名に過ぎない。ところがフォクロアの本國に於ては、この點に夙く心づいて居て、協會が出來てからもう百年に近くなり、多くの學者教授も參與して居るのに、まだこの事業に一派の學らしい名を付與して居ない。アンドリゥ・ラングといふ先覺者の一人などは、其著述の中に於て、行く/\はフォクロア學(Science of Folk-lore)といふものが、(506)此中から生れて來る望みがあると書いて居るのだから、ともかくもあの人の時代までは、何かさうは呼ばずともよい事情が有つたのである。
フォクロアといふ單語の出現に關しては、多くの辭書にも出て居るほどの有名な逸話がある。今から百年餘りも前に、トムスといふ人がこの言葉を考へ出して、是からはさういふことにしようときまつた際にも、英國にはすでに常民の生活ぶりに注意し、曾て一度も書册の中に記留せられずして、たま/\彼等の間にばかり殘り傳はつて居た古風な慣行、又は色々の説話口碑の類を拾ひ集め、比べ合せて見ようとする篤志家がそちこちにあつた。是は一つの新らしい機運のやうなものだつたが、ちやうど江戸後期の隨筆學者も同じに、めい/\が自分の狹い地域に孤立し、まとまつた一國の事業と成るまでには至らなかつたのである。そこへ測らずも新らしい一つの呼び名、單純にしてしかも響きが好く、繋げば珍らしく聽えるが、二つに離せば心持のよくわかつて居る昔の言葉が提案せられ、人が喜んでそれを採用したといふことは、あの國特有の有識者の氣働きであつたと思ふ。私の解説はまだ少しあやしいが、ロアは多分ラーンやレルネンと同系の古語で、我邦のオボエル・サトル・マナビシルなどの、對象となるべきものゝ意であらう。フォクは又獨逸語のフォルクともやゝちがつて、人々もしくは皆さんの意味に、今でも日常に始終使はれて居て、えらいえらくないの差別とは無關係に、誰に使つても失禮にはならぬ語のやうである。斯ういふ眼前の平易な語を以て、新らしい事柄に名が付けられることは、昔ならば當然だが今は大きにさうでない。名前は假のもの、言葉は符號などゝ輕く見ながらも、暗記のためにいつも苦勞をし、又相應に誤解もして居る。それ故にもし民俗學を日本のフォクロアのことだときめてしまはうとするならば、其前に必ずフォクロアの内容が國によつて一樣でないことゝ、殊に我々の今に持傳へて居るものなどは、品も分量も又存在のし方も、よほど本元の國とはちがつて居ることを、知つて居なければならぬのである。
そんなら始めから、よその言葉なんか借りて使はなければよいのにと、ひやかす人もあるかしらぬが、是だけは必(507)ずしも日本人の、氣の早い口眞似とは言へない。
(508) 鷺も烏も
以前駒込染井がまだ田舍であつた頃夏は日の暮に、ちやうど雲の色の紅が褪める時分に、きまつて五六羽づゝ南から北へ、クッ、クッと鳴いて高く行く鳥があつた。
それがいよ/\五位鷺ときまつたのは、大分この聲に馴染になつてから後であつた。なる程畫になる通りの形をして飛んで居る。大塚の丘の北の裾に、どことかの松平さんの屋敷と云ふのが、池を取圍んだ大きな藪であつて、此藪に白鷺と合宿して、何百と云ふ五位が棲んで居た。晝間はだらし無く騷いで居ながら、日暮になるとあんな氣のきいた聲をして、遊びに出かけるのであつた。
五位鷺は夜ばかり出て食事をする鳥であるさうだ。何でも其頃廣々とした水田であつた三河島附近から千住邊へ行くので、私の屋根の上を通つて居たものらしい。白鷺の方は之と更代に、早朝に出て晩に歸つて寢ると云ふ。
筑前の海上に在る某島は、鷺を保護する爲に縣で銃獵を禁じて居るが、茲でも五位と白とが共同生活をして居る。近年北九州にめつきりと鷺の影が多くなつたのは、全く此島がある爲だと、友だちの川口君は話された。
川口氏は同時に又諸鳥の友だちで、此島の平和な訪問者である。鷺の家庭が人間の通りで無い爲に五位の子供は人の手では育てにくいことを、しみ/”\と話された。彼等は夜の明方に巣に還つて、鮭や鮒鰌の半分消化したやうなのを口から出して雛にすゝらせる。さうして雛の食事は一日に只一度であるから人が養ふとどうしても食はせ過ぎる。
烏なども巣立つてから後まで、親が自分の食物を分けて子供に遣る。雛は何鳥でも羽に締りが無くふくれて居るか(509)ら親よりも大きく見える。昔から反哺の孝などゝ言ふことも、或はあまりに人間的な觀察の誤では無いかと云ふ話である。
(510) あなおもしろ
安壽對子王の姉弟が、長い旅から還つて來たとき、先づ岩木山の頂上に登つた者が、此山の神になる約束であつたが、山の麓の百澤寺の權現樣が、其日はちやうど祭禮であつて、御神樂の笛太鼓の、囃しの音が高かつた。弟の對子王丸は此に氣を取られて、うか/\と見物して居るうちに、姉の姫は一人で先づ登つたので、今に至る迄岩木山は姫神であるといふ。
甲州の御嶽の夏祭りでも、御神樂に釣られて、たうとう金峰山登りを止めて歸つた男が一人ある。見物と言へば足をつまだてゝ、人の背から覗くことに東京などではきまつて居るやうだが、爰では實にくつろいだものであつた。神主さんと警衛の巡査と、舞人のかぶつた面と、此男だけに顔に鬚があつた。其他は大抵青年と子供である。子供は皆何か食べて居る。たべ物が無くなるとぷいと出て往つて、其跡へ別の兒が來る。それでもじつと見て居ると、何だか面白い。あの鈿女の命の首つき足どりを見よ。何百年間たゞ型になつて傳はつたのだが、それでもあの顔と、よく調和して居るぢや無いか、と言つてあたりを見まはして見たが、生憎ともう世の中は大正だつたので、合槌を打つ者が一人も居なかつた。
寒くて眠いものと定評のあつた禁中の夜神樂でも、更けて囃子がしゆんで來ると、人長が立つて舞うた。人長ばかりか私の尊敬して居た老官人は、ふら/\と參列の椅子から立つて、手を飜して舞はうとして止められた。尤も是は少しは酒の力もあつた。
(511) こんな心持ちは最早村の人たちもなり得ぬと言つて居る。夜どほし舞臺に眼も離さず、空が白んで氣がついて見ると、着物にも敷物にも霜が降つて居たなどゝ云ふ話が話になつて殘つて居るばかりである。自分たちの天の岩戸は忘れてしまつて、遠い島々のアレオイスをゆかしがるのも、はかない人間の物好みである。
(512) 發見と埋没と
たしかに自分は見たのであるが餘りに世間の人が何とも言はぬので、或は夢だつたかなと、思ふことが時々ある。見たばかりかたしかに感動をしたのだが、年がたつともうどうでもよいやうな心持ちになつて居る。實際過去の路には荊棘が茂りやすい。
今でも川越熊谷あたりの小學校の生徒は、遠足といふと吉見の百穴を見に行くであらう。好事で篤學なかぶと山の大盡が、見張所を兼ねて建てゝ置いた小さな別莊は今でも奇麗に掃除がしてあつて、縁先へ來て休む見物の衆に向つて「ずつと昔ドジンと云ふ人が、此穴に住んでゐまして」などゝ説明したあの番人のおやぢが、うんと年を取つて、まだ番をして居るかも知れぬ。而も當初百穴の起原を論じて、墓穴だ、いや穴居の跡だと爭つた人々は、問題の尚決定せぬうちにもう死んだり忘れたりしてしまつたのである。
或一箇の穴の入口には、又樹の枝の如き模樣が彫られてあつた。小樽の手宮の石壁に遺つて居るものと似て居るから、文字であらうとの説もあつたが、是ももう薄れて見えなくなつたかも知れぬ。
ずつと以前の或秋の日の午後、自分はたつた一人で此丘に攀ぢ、幾つかの穴を出つ入りつして見たことがあつた。穴は多くは中程でしきられて二區に分れ、外區は窄く内區は寛であつたが、時として土壁を穿り凹めて、物を置く棚かと思ふものが設けてあつた。照尊と云ふ二大文字を彫つてある穴があつた。字は立派な一尺角ほどの楷書で、上と左右に裝飾の模樣があつたが、それが藤の枝か鳳凰の羽であつたかは覺えない。又どの邊の穴であつたか、番號を引(513)合せて見なかつたから、今行つて見ても分るまい。さうして他には何人も此文字を見たといふ人を知らぬ。夢のやうな話である。
(514) 大佛と子供
獨りで笑はずには居られない話がある。いつも子供が大きくなりかゝると、急いで旅行に連れてあるきたい氣持が起る。よく考へて見ると、ちやうど汽車の半切符の境の所で、もう一年おくれると賃餞が倍になるといふけちな算勘が暗々裡に働いて居たのである。
どの御兒ですかと聞かれたことはある。併し何れの停車場でも、ぐず/\いはれたことは一度も無かつた。ところが大人二十錢小兒十錢と云ふ板の下つて居る大佛殿の入口で、所謂拜觀料を收納して居る陰氣な老人だけは、じろりと一瞥したのみで有無の押問答も無く直ちに大人の札を突付けた。
妙な場所で元服をするなあと、錢を拂ひながら娘を顧みて苦笑したことであつた。
ところが今度又二番目の娘をつれて、方々を廻つて結局奈良の公園に鹿を見に往つた。大佛も勿論訪問した。すると以前の老爺が以前の通りの顔をして、以前の手つきでやつぱり二十錢の方の札をくれるでは無いか。又かと打たれたやうな氣持がした。
惜めども少年の日の駐らぬことは、親ながらもちやんと心得て居る。併しまだ今だけはと思つて居る、所謂恆山の鳥の情を解するならば、それ程までに子供を大人にするに熱心であるに及ぶまい。あの大佛を朝晩に見馴れて居る者としては、如何にも雅量の無い話だなと考へても見た。
うちの子供などは冗談の手ほどきに、何かと言ふと大きい物の譬を奈良の大佛さまぐらゐと言つて居た。それが奇(515)妙な縁でもう二人まで、あそこへ往つて大きくなつて戻つて來たのである。
(516) 仙人の話
あんな小作の大騷動をしてゐるが、美濃でもイビ郡の山奧に入ると、今日まだ仙人が確かにゐるさうだ。一月ほど前に旅行をした橋浦君が、逢つては見なかつたがさういふ話を聽いて來た。
越前境の門入《かどにふ》といふ部落である。里から三里ばかり入込んだ山にほら穴がある。仙人は靜かにその内に住んでゐる、と信じない者はないといふ。
區長さんが是非對談して見る積りで、曾て尋ねて行つたことがあつたが、その時はゐなかつたさうだ。併しこの節でも、時々姿を見たといふ人があるから、ゐるのである。
ほらの近くに大木のカヤの樹が一本ある。その木に衣類の引掛けて乾してあるのを、見た者もまた段々ある。仙人は和服を着てゐる。
越前の永平寺の年忌の法事に、毎囘必ず參會する一人の老翁がある。それがこの門入の山の仙人だといふ話もあつた。本人に問ひただしたわけでもあるまいが、兎に角に山の向ふ側にも、さう信じてゐる者があるのである。
夏の日山にいつて、かくらんに罹つて苦しんでゐた里の女があつた。仙人が出て來て助けてくれた、その時後日の爲に、女の持つてゐた桶に、名を書き殘したものが今もあるといふ。但し橋浦氏は之を見なかつた。
この邊の山は原始林で、水最も清く、谷にはうなぎ、ますが多い。夏から秋にかけて、樹の實きのこが幾らでもあり、野草の食べられるものもまた豐富である。さうして人通りといふものがないのである。一言を以て之を盡せば、(517)仙人住むに足るの地である。
仙人は右の如く、頭も尻尾もない生活を、氣に向いた期間續けてゐる者らしい。
同じ山にはまた山うばも住んでゐるといふ話がある。これは或は住んでゐたといふのかも知れぬがやはり近年見かけたといふ人がある。門入の村の宿屋の庭に、大きな古い釜が一つある。昔寒い日に山うばが山から出て來てこの家の焚火に温まつて去つた。釜はその御禮に持つて來てくれたものであるさうだ。
その折に山姥は主人の善心を賞して、この家はいつまでも今のまゝでをるやうにといつた。誠に奧ゆかしい小規模なる祝言であつた、その爲か今でもこの在所で宿屋をしてゐる。
(518) 誰に見せう
ひと頃、この銅像のすぐ傍の家に住んで居て、朝晩の門の出入に、うちの小さな子供たちが、よくこの下で遊んで居るのを見かけたものであつた。さうして自分はごく幽かだが、生前の川村さんをも知つて居る。それで居てさへもまだ目をふさいで、この姿を思び浮べる迄の親しみを持ち得ないのだ。ましてやこんな往來のせはしない、立止まつて見るだけの空地も無いやうな四つ角の隅などに立てゝ置いて、後々誰に見せようといふのであらうか。像は或日の提督の艦上の威容を想像したものゝやうだが、それにしても少し臺石が高過ぎる。その上にもう私の居た頃から、緑の樹の配合が不十分なやうに思はれて居たが、今度はまた恐ろしい背景を取付けたものだ。これでは折角見物に出て來た人までが、こりや誰だとも何とも言はずに通り過ぎてしまふのも致し方があるまい。だから永遠の管理に協力し得るだけの覺悟が無くでは、やたらに銅像の建設は發起すまじきものである。
(519) 夏祭進化
同じ夏祭でも、私たちの覺えて居る「川すそ祭」などゝいふのは、舊の六月晦日の眞暗な晩に、川原に御假星を建て、僅かな篝を焚いて、水の神を御迎へ申して祭るのであつた。そこへ村中の人が火の光を目あてに、提灯も無しに草を踏んで詣つて來る。盆は以前は必ず月夜だつたから、燈火の美しさが此晩ほどには身に沁みない。我々が夜の町を愛する心持は、最初斯ういふ所に芽生えたものゝやうに思はれる。
町の夏祭が人生の最も興奮し易い機會となつたのは、幾つもの原因の集まりであらう。最初には?燭工藝の發達に伴なふ提灯の普及、次には木綿の手拭や染浴衣のはでになつたこと、酒の得やすさなども算へられるが、もつと大きな力は神の渡御に、神輿を用ゐ始めたことであらう。京都の風習が是ほど熱心に又根強く、地方の隅々にまで眞似られた例は他には無い。もとは祇園の特殊なる儀式が、今日は既に全國の春秋の祭まで、神輿無しには行はれぬ迄になつた。マチはこの夏祭を美しく又樂しくする爲に、村の人々の移つて來た處と定義することも、日本でならば許されさうである。
(520) 喜談小品
一昨年の秋、禁獵區に指定せられてから、久しく遊びに來なかつた頬白が、再び毎朝のやうに來て啼くことになつたのは有難いが、どうも以前の丁寧な歌の文句を、大分短く切りつめてしまつたやうな氣がする。其くせ同じ樹の頂上で同じあのポーズで、何十ぺんでも啼くのだから別に氣ぜはしないのでもないらしい。何か是には理由があらうと思つて氣にかけて居る。
私などの少年の頃には、頻白は「一筆啓上仕り候」と啼くといふことにきまつて居た。實際又さう思つて聽いて居ると、さうとしか取れないやうな鳴き方をした。この聽きなしは可なり全國的であつたと見えて、何處へ行つて其話をして見ても、人がよく知つて居て珍しがらない。或は春が過ぎて夏の初めに入ると、新撰地理小誌と鳴くなどと謂つた人もあつて、どうやらあの時代の小學校教育の普及と關係があり、乃ち又この觀察と發見との功績が、生徒以外の何人にも屬しなかつたことを察せしめる。百五十年前の物類稱呼に、項目は「一筆啓上せしめ候」と鳴くと、東國では謂つて居るとあるのも、多分は又寺小屋の子供のウィットであつたらう。私たちの時代にはもう其「せしめ候」は全く行はれず、學校ではいつも一筆啓上仕り候といふ書翰文ばかり書かされて居た。さうして頬白も亦克明に其通りを啼いて居たやうな氣がする。
山形縣莊内地方では、「一筆啓上せしめ候」と鳴くのは頬示といふ鳥で、頬白の方は「辨慶起きて味噌すれ」と鳴くと謂つた人もあるが、是は或は此土地での、鳥の名前の入れちがひであるかも知れぬ。蒿雀を青シトドといふに對し(521)て、頬白を赤シトドと呼んで居る處も他にはあるのである。しかし一筆啓上といふ寺小屋式以外の、ちがつた聽き方もまだそちこちにあつた。たとへば中部地方の廣い區域にわたつて、「つんと五粒二朱まけた」と鳴くなどゝ謂つたのは、頬白を博奕仲間と見た戯れの解釋であつた。小粒銀の通用が止まつて五粒の意味が不明になり、後には「一分二朱まけた」と聽く者も多かつたが、なほこの解をまじめに採用して、勝負事に出る日は此鳥を忌み嫌ふといふ風習もあつた。九州の南部では、頬白は、「おらがとゝ三八二四」と鳴くといふ人もあつたことが、是も物類稱呼の中に見えて居る二一十四歳だといふのだから此トトは夫のことであつた。即ち頬白を其女房と見たのである。豆まはし又斑鳩といふ鳥の啼聲を、「おきく二十四」と聽いて居る地方もある。男にも女にも、二十四は何か好い年頃と思はれて居たらしいのである。
鳥の言葉も人間のそれと同じに、土地によつて少しづゝの差が認められる。たとへば時鳥のテッペンは何處も大抵同じだが、東京の空を過ぎるものなどは、カケタカとは言はずにカケタと三音に啼くことが多く、又山に入るとカケタカナとでもいふか、丁寧に五音節を續けて居るのを聽くこともある。鶯のホウ法華經なども、どう聽いてもホケキョケとしか聽えないものが毎度ある。同じ時代に勝手に交通をして居ても、是だけの地方差は免れないのである。親たちの通りに啼いて居るつもりで、いつの間にか當人も氣づかずに、かはつた文句になつて居たからとて、頬白ばかりを責るわけにも行かない。多摩川の向うの山でたつた一度だけ、今年は滿足な標準啼馨を聽いたが、その他はどこのを注意しても、皆うちの樹へ來るのと大同小異になつて居る。以前も一筆ばかりいやに念入りで、あとを早口につめてしまふのが、何だか古風な書翰文を馬鹿にしたやうなと笑つたこともあつたが、もうあの頃から頬白界の歌の趣味も、そろ/\とジャズになりかけて居たものと思はれる。
(522) 「野方」解
野方といふ村は東京の西郊にもあつた。現在は新市區に編入せられて、名稱も消滅したけれども、古くは文政の武藏風土記稿にも、多摩郡野方領といふ稱呼を以て此邊の十數ヶ村を總括して居る。近年までの村名はそれを承繼したのである。この野方領は明かに多摩川兩岸の水田地方に對立した語で、關東平原の一特徴たる所謂臺畑地帶であつた。丘の窪みに僅かづゝの田はあるが、他の大部分は柔かな黒土の原野で、帝都の繁榮につれて豐富なる蔬菜顆の供給地となり、次いで所謂文化住宅の敷地として利用せられて居る。江戸の洒落言葉に「眼の窪んだ顔を、野方の井戸見たやうな」などゝ謂つたのは、つまり此邊の地下水の低かつたことを意味する。越中の野方も、田方又は濱方に對する語だつたらうと、私などは想像して居る。野には傾斜があつて水利の便ある所もあらうが、大體に畠に適し田には拓きにくいものが多く、從つて人口が増し農技術の一段と進むまで、平地でもなほ切替畑をして居たやうな地域が多かつたらうことは、この武藏野の近世史からも類推し得られる。即ち勞働の樣式がちがひ生産物の種類が異なり、交易は行はれ易く縁組はしにくい地方であつた故に、誰いふと無く斯うした特別の名が出來たものと思ふ。何野といふ地名にはもう田になつた村里が幾らもあるに反して、野方といふ地帶には畠作地として、なほ久しく續いて居たものが多いのは、云はゞ原形の改めにくかつたことを意味する。陸稻は關東などではヲカボといふのが普通だが、九州南部では皆ノイネと謂つて居る。この野稻の野は畠にしか拓き得ない土地のことで、ノといふ日本語の第二次の意義であつたらう。即ち本來は山の裾又は麓といふだけの意味であつても、それが拓かれずに近世まであつたものは、大抵は(523)皆畠作にしか利用し得ない土地だつた爲に、後に野方といふ樣な語が起るやうになつたのである。
(524) ツルウメモドキ
夜の明け方に風の無いのを見定めて、枕もとの窓を押開いて置いて、頭巾を深くかぶつてもう一度睡れたら睡る。是が二三年來の自分の日課で、寒中でも決してやめない。無論熟睡はできぬが、うつら/\として居るのも惡いものでない。小鳥が來て鳴くと起きる。雀でもあまり事々しく騷ぐと、腹匍ひになつてちよつと庭を見る。
春が近よつて大分鳥の聲が朗らかになつて來たが、何分小さな庭だから一度とまると次の木はもう隣だ。何とかして少しは居らせたいと考へて居ると、二階の窓の下の日よけ棚に、ツルウメモドキを栽ゑて卷付かせなさいといふ者がある。それで近所の農家にやゝ年數をくつたのが一本あるを捜し出し、無理にからんで居た元の木から引離して、持つて來て植ゑたのが一昨年の秋だつた。それが成功して本年は目白が來る。又ジョウビタキも來て折々はつゝつく。アカッパラといふ鵜の類が是も狙つて居るやら近くへ來て啼く聲がする。全體にこの實はウメモドキとはちがつて永く枝に附いて居り、又無細工だが黄と赤との二色で、陰翳があつて小鳥にも眼につくらしい。私が起き出したり聲をあげたりすれば遁げるだらうが、彼等が起き出す前から開いて居る戸の中から、ちつとも動かずに見て居るのだから、彼等は物だとでも思つて居るのだらう。その上に目白は聲が靜かで、急いで居る時でも少しもせはしなくは聞えない、さうして此頃はもう二人づれで來るから、少しは遊びもあるらしくて、聽いて居てまことに氣持がよい。……といふやうな後先も何も無い話ではどうです。
(525) 東北の芹の鹽漬
漬物といふ名はさう古くはないだらうが、この食べ方は原始的なものらしく、もと/\保存のために工夫されたのが始まりで、仙臺以北に美味いものが多い。
そのうちでも懷しいのは、しどけ、みづ、あい、ほなしぼで〔十二字傍点〕などの鹽漬だ。どれも寒い地方獨特の味と香りがあつて、個性が強い。殊に雪が解けたての黒い土の斑がちょつとでも出ると、一時にぐつと生え出たのが軟かだ。
春先、辨當を持つて一日がゝりで山へ行く村の娘達、古歌の春の野に出て若菜摘むあの情景だ。そして二抱へも三抱へも採つて歸つたのがその夜のお菜で、その食べた殘りを鹽漬にする。
一般的なもので芹やわらびだが、その芹がまた眞青で、丈も長くすらつと伸びていかにも美しい。さつと湯を振り振り桶に通して、色の冴え返つたところを鹽に漬け込み、潰れぬ程度の輕い壓しをすると、翌朝はもう水が上つて食べられる。一番の食べ加減は翌日で、味を知つてゐる者は、春になると食べないでは氣のすまないものだ。
(526) 故郷の味
枝折の楊桃の新しい色と香氣、樹でやゝ熟し過ぎた棗の味、村で成長した者だけが、黙つてなつかしがる少年の日の記憶は多い。東國の山村では小桑、木通けんぽ梨の類、何れも商品にして運び難いために、都市に住む者はその存在をさへ知らぬのだが、こんな話でさへも、なほ笑はれるかと思つて、田舍から出た者はして聞かせようとしない。無邪氣に食物の趣味を話しあふのは、今ではまだフランス人ばかりのやうである。
(527) 梅についてのお願ひ
民俗學とは直接に關係しないことですが、目下この土地の故老の間には、梅林講といふ名の下に、梅を多く栽ゑて見ようといふ計畫があります。自分も研究所の創設者として、その所在地との永い因縁を繋ぐ爲に、少しの御手傳ひをしようと思つて居ます。毎月地方からの訪問者の多いところから考へ付いたのですが、袂に入れて來られるほどの小さな梅の芽ばえを、全國の各村々から集めて、この庭で少し育てた上で、家々の垣根へ分栽することが出來たら、樂しいことだらうと思ひます。費用はもちろん私が出しますが、出來るだけ金を使はずに、方々の種を集めて見たいのです。たゞ梅の親木の在りところだけは綿密に記録して置きたいと思ひます。どうか御援助を願ひます。
(528) 私の書齋
私の仕事場、などといふのもをかしいほど、ぽつちりしか自分では働いて居ない。しかし最初に爰へ入つて來た時には、せい/”\のところ五年か七年、いつ切上げることになるか知れたもので無い。もう少し早くこの計畫をすればよかつたにと悔やんだものだつたが、うか/\と月日が過ぎて行つて、今度の十五夜のお月見が來るとちやうど丸二十年になるのだからうまい事をしたわけだ。おまけに疎開もせず、空爆の薪にもならず、實は腰が拔けて立てなかつたのだけれども、めつたに無いことであるばかりに、人からは大きな寶籤を、引當てたやうに見られて居る。少なくともめでたい仕事場とはいふことが出來るであらう。
書いたり説いたりするばかりが仕事でないとすれば、この書齋の中の生活も必ずしも單調では無かつた。同じ一つの窓の外に、くりひろげられる世の姿も次々と變つて行つたが、それをどういふ風に見つめて居るのが正しいかと、考へる人たちの方法態度、殊に抱負とも志望とも名づくべきものが、段々と此仕事場の中に於て精確になつて來た。それを無限の興味を以て、ぢつと眺めて居ることが出來たのが自分であつた。
我々の會合は月に二度、終戰の當時までに、もう三百囘近くも續いて居る。始めはたゞ漫然たる地方の通信、雜誌雜書の切れ/”\の資料に依つて、やゝ綜合に進まうとして居たのが、後に計畫を立てて我々の所謂同時調査、比較を主にした積極的の見學旅行を試みることになつた。根こそげ知るといふことは望まれないが、今まで偶然に聞いて珍らしいと思つて居る問題を、手分けをして同志の人々が成るたけ懸離れた離れ島、又は入込んだ山村に入つて尋ねて(529)來るのである。僅かな期間を置いて二度三度、同じ土地をおとづれて友だちとなり、或は又遠く隔たつた國の隅々に、よく似た生活のあることを確かめて驚き又感動するこの旅人たちの話し合ひといふものが、この會の忘れられぬ樂しみであつた。さうして其記録は殆と全部、今も大切に此書齋の中に保存せられて居る。
戰が旅行を不可能にしてから、却つて若い人々の旅を愛し、地方をなつかしがる情は燃えさかつた。殊に永い間世界を閉され、都府とめい/\の生れ故郷と以外に、この世は無いやうであつた女たちまでが、たゞ想像の地平を廣くしただけで無く、少しの機會があれば旅に出ようとし、又容易に旅の心になつて、異なる郷土を語り合はうとするやうになつたのも、言はば我々の仕事の一つである。だから今となつては此仕事場は閉されない。正しく日本を知つたといふことの出來る日まで、どうしても閉めるわけには行かない。
(530) 町の話題
年をとり過ぎて、皆さんのお氣持がわからなくなる一方だが、どうも成城では話の種が乏しく、人が近より親しくなる折が、いつまでも得られないやうな感じがする。すこし是からはそれを集めるやうな風習を、そだてゝ見ては如何。
たゞし私などは古い事しか言へない。昭和二年の四月、始めて小田急が通じて、この不細工な家を立てた頃にはあたりは一面のクヌギ林、その外は麥畠、遠くにたゞ一軒の赤い瓦の屋根が見えるばかり、春は雲雀の聲が終日絶えなかつた。成るたけ空を廣く見るやうに、わざと大きな木は栽ゑなかつたが、それでも以前が原であつた故に、色々なものゝ種が、飛んで來て、勝手なところに成長した。中でも松なんかは主人の設計を無視して、せまい通り路のまん中に二本も生えた。ネムの木は一頃やたらに出てこまつたが、路ばたの一本だけをそつとして置くと、すぐに大きくなつて夏の樹蔭になり、又幸ひに雌木であつて花が咲いた。しかし盛りの短い木で、もう大分弱つて居るが、その分どこかのお宅へ行つて、子孫を繁昌させて居ることゝ思ふ。
それから又一つはサンショの木、これも私の家では栽ゑた木では無い。一時は多過ぎて分けるのに苦心したが、この三四年は芽ばえを見なくなつた。ハギもいつの間にかもう出なくなつて、去年の秋はどうも花を見たやうな氣がしない。ヤマブキはまだ少し殘つて居るが、是も一時のやうに大きな株にはならぬ。是は武藏野一帶の普通種で、太田道灌の名歌とは縁の無い一重のものだが、花の盛りの目さましいだけで無く、春秋の葉の色も日に照つて風情がある。
(531) こんな話をしだすと止めどが無い。二十五年も人の家に圍はれて居ても、捨てゝ置けばまだ昔の天然は消えてしまはない。たゞ何と無く影が薄くなつて行くばかりである。ススキなどは一時は憎らしいほどはびこつたが、今ではそつとして置いてやりたいと思ふやうに、片わきによつて穗を出して居る。以前からこの郊外の特色として、散歩に出る毎に目を留めて居た黄色の山菊、學名は知らぬが多分造り菊の先祖かと思ふ小さな花の咲くもの、是だけは絶やさぬやうにしようと、草取りにも氣をつけて居たのが、庭になつてからよその肥料がきくか、法外に背が高くなり、倒れたり折れたりして段々に消えて行く。もう此林などはあはれなものになつた。ワラビも始めの四五年は採つて食べたことがあるのに、すでに影を隱してどこにも見えない。ゼンマイはまだ有るらしいが、他の幾つかの齒朶類とまじつて、實は主人も注意しなくなつた。
ウケラは武藏野を記念すべき古歌の植物であつて、それを家の庭に見たときは、涙の出るほどなつかしかつたが、是もどうやら消えてしまつたやうである。アカネは附近の空地に行けばまだあるが、是がアカネだといふことを知らぬ人ばかり多くなつた。ムラサキも私は決して取り盡されたとは思はぬが、用途が無くなつてしまふと彼等も遠慮をして、ちやうど老人のやうに、草むらの中に隱れてしまふらしいのである。よつて一首。
いにしへのあかねむらさきむさしのゝ跡とふものはたゞ秋の風
(532) 泥棒公認
此夏子供をつれて敦賀から汽車に乘ると、どういふわけか二等車の片隅に、電燈の球が箱入又は裸で、三十ばかり轉がしてあつた。
新舞鶴で何か故障があつて、發車が少しおくれてゐると、驛附屬の雇人らしい二人の若者が入つて來て、頻に之を見て居る。さうして誰が持つて來たかをうるさく問ふから、知らないと答へると、すぐに兩方のかくしへ一つづゝ取つて入れ、活動のチャプリンの腰附をわざとらしくして出て行つた。
自分の第一の懸念は、是が泥棒といふものだと云ふことを、子供が知らずに居るかといふことであつた。第二にはこんな場合に、我々はどんな態度を取るのが正しいかといふ問題に惱まされた。
車中には他に婦人が二人と、町の青年が二人ゐた、婦人は殆と何の表情もしなかつた。青年の方は顔を見合せて、「かなあんなア」と謂つた。
兎に角に是は我々の公コに對する隨分露骨な挑戰であるが、普通は高々苦笑ぐらゐをして看過することになつて居るらしい。其確信が無ければ、あの泥棒は斷行しなかつた筈である。
あの時自分が急に起つて窓を開き、驛長さんを呼んで告發するか、又はあのチャプリンに向つて、直接「泥棒!」と怒鳴つたら、結果はどうであつたらうか。泥棒は兎に角、附近の人はどんな批評をしたであらうか。又世評は兎に角として、さうするのがよかつたか惡かつたか。
(533) 公盗横行の御時節に生れ會せた我々は、どうでも此間題を早く決定して置く必要があるやうに思ふ。所謂世上のひそひそ話に、「うまく遣つてやがる」などゝ云ふ聲をきく間は、或はまだ折々は斯うした泥棒の侮辱を受けることがあるかも知れぬ。
(534) 猿落しの實驗
アストラ航空船の空中五百米突から、飛行機の模型に乘せて、落して見た小猿は、活きて居たさうである。活きて居たけれども解剖して見ると云ふ新聞と、程なく死んだからと云ふのと、二つの報道があるが、何れでもよろしい。問題は只そんな事をして何になるかに在る。
最初世間の好奇心は、猿に操縦の技術を練習させて、飛ばせて墜落する所を見ると云ふので刺激されたやうであつたが、なんぼ航空隊でも、それは餘りの空想だと思つて居たら、果してそれだけの程度の試驗ですらも無かつた。
猿を入れ物にいれて、高くから落して見なければ、知ることの出來なかつた學問上の問題は、そも何であつたか。我々は寧ろ一種の宣傳の目的に、斯うして可憐な物の命を奪つたので無いかと云ふ疑ひをさへ抱くのである。
猿だからよろしいと云ふ考へ方は、異民族の研究のちつとも進まない國、別社會の生活に對して冷淡至極なる國に於ては、隨分怖ろしい傾向であると思ふ。而も今囘のは、出來るだけ新聞讀者の興味をそゝつて置いて、其上で公然行つた殘忍行爲である。動物愛護會や人道會の人たちは、徒らに眉をひそめて居たゞけでは、少し義理が惡くは無いかと思ふ。
霞ヶ浦の諸君は、此次はもう一ぺん猿を空から落し、二箇月ほど生かして置いてから殺して見ると宣言して居るさうである。醫學物理の學問の上から、どうしても其樣な忍び難い實驗をする必要があるなら、どうか其道のたしかな學者を立合はせ、且小兒などの知らぬうちに、こつそりとやつて貰ひたい。
(535) 埼玉縣知事に申す
田村寛貞氏の報告に由つて、西武藏の一隅にまた恐るべき天然の大殺りく〔二字傍点〕が行はれようとして居ることを知り、しかも多分は命ごひがもう間に合はぬであらうと考へて、無限の歎息をして居る者は澤山ある。
何一つ故郷を美しくする事業は企てたことも無く、機會さへあれば昔から在るものを、打毀してしまはうとする人ばかりが、地方を預かつて居るかの如く我々には見える。たま/\古物を玩ぶ者があれば、それは公共の手から樂みを取上げて、私人の自慢に藏しようとする連中だけである。
東京郊外の竝木路が荒れる一方で、殊に晩秋初冬の風光を美しくした榎、けやき〔三字傍点〕の老木が伐り盡されたことは、獨り遠方の入間地方のみを責めにくいやうであるが、土地が個人に利用されて居る場合には、その處分自由を制止し得ぬ理由もある。折角縣で管理をして居りながら、私慾一ぺん〔二字傍点〕の徒と競爭して、僅の收入の爲に取返しの付かぬ記念物をたゝき賣るのは、本務を解しない話である。
武藏は中世には上州と鎌倉との交通の爲に、主として西部の高地が利用せられた。多摩の横山を北に越えて、村山の麓に沿ひ、入間のやゝ西寄りを通つて荒川の低地には出たのであつて、あの一帶には單に天然が色々の歴史を宿すのみか、村民の生活の中にも尚保存せられたる前代の樣式が多い。然るに汽車水運等の關係から、埼玉縣の利害は最近著るしく東半分にかたより、この邊の事情は兎角輕んぜられる形がある。今囘の無茶な企てなども、要するに片田舍に對する冷淡の結果かと思ふ。
(536) 村が昔のやうで無くなることは、住民の腰を浮せずには止まぬ。何人も土地との親しみを感ぜぬやうになつてから、今さらの如く愛郷心を説き、歴史の尊重を説いても何にもならぬ。我々は決して少數遊歩者の趣味などから論ずるのでは無い。地方住民全體の爲に、今少しく我々をして、この國土を愛し得るやうに、仕向けてもらひたいと要求するのである。
(537) 御誕生を悦ぶ
攝政殿下の御コ望は、久しく國民の仰ぎ懷く所であつた。殊に御年若の頃から、御父陛下に代つて繁劇な政務を御覽なされ、僅の時日があれば親しく地方を巡遊して、宮中宴居の樂みを征途の勞苦に御代へなされたことは、心ある者の常に感激して止まざる所であつたが、しかも未だその至情を表白するの機會が與へられなかつた。
今度の御慶事の都市と農村とを通じて、久しい前からほとんと公の問題と成り、老少男女の差別無く、國内一致の希望と懸念とを、こと/”\く今日の報道に集注して居たことは、實に珍らしい社會の一現象であつて、日本人自身で無ければ到底その微妙なる理法を解することが出來ぬ。
殿下にも定めて新たなる御經驗であつたらうと思ふ。内親王の御誕生は御父としてのまた一つの御任務の増加ではあるが、是が人間の生活において、最も樂しい勞苦であることを、自ら味はひ得た人々が、國民全體を促して殿下の爲に、その日の安らかに來らんことを?らしめたのである。貴い宮廷内の御愛情も、農夫漁民の持つものと異なる所が無いことを知り得てから、更に大なる親しみの來り加はるものがあつたのである。千年以上の久しきにわたつて、失はれて居た君民の近接が、今に至つて古に復したことは、名?すべからざる一國の喜悦であつて、その好機會を供與した出來事として、今日の佳節は歴史的に記念せられねばならぬ。
今日の歡呼の聲が如何なる津々浦々山の奧まで、全國一せい〔二字傍点〕にかつ一樣に、高く揚がつて居ることを讀者に明言し得る。かくの如き純なる一致は、即ち大なる力であつて、國民は之に據りて尚生存に關する共同の理想を抱き、平生(538)若干の利害牴觸を踏越えて、更に強固なる結合に向つて進むことが出來るのである。願はくはこの日を平和の一記念として、萬民を子とし愛したまふ至尊の大御心に基き、民族相互の同情に更に一段の擴充を試みたいものである。
こゝに謹みて皇室の繁榮を祝し奉ると共に、小さき姫宮樣の清く美しい御成長を祈り、御母妃殿下の御感化によりて、永く女性の和氣を以て、日本の社會を指導したまふべき日の來らんことを希望する。
(539) あつい待遇
この夏東北を旅行して、始めて心づいたことが一つある。
どこの宿屋でも客が着いて、最初に供給せられる物は必ず赤い火であつた。
前もつて通知して置くと、室には火鉢があつて、かん/\とおこつて待つて居る。
ある土地では眞晝に汗と、ほこりにまみれて入つたのに、やはり十能に山盛の炭火をもつて出て來た。この時ばかりはよつぽど腹を立てようかと思つた。
山の温泉場などには奧州でなくとも、まだこんなことをする宿屋があつたかも知れぬ。一度ぐらゐならちよつと面白いともいへるが、兎に角夏分は大した御馳走とは思はれない。
もつとも尚古派の人々にとつては、これもうれしい經驗には相違ない。客を爐ばたへ招じて茶がまの下をたきつける風習が今一段と丁寧になり、さうして薪が炭に代ると自然にかういふことになるのだ。
つまり歡待の樣式化である。曾て漂泊者などが非常に悦んだことが、記憶せられて居るからでもあらう。もちろん今後といへども秋に入つて、殊に雨でも降る夕方なんかは、是非ともさうする方がよいのである。
生存のためには人は赤道直下でも火をたくのだ。よい事なら常によからうといつた所に、東北人のずるくない美點はある。
しかし夏だけはそんな面倒をしないでも、必ずお客は滿足するかと思ふ。
(540) 序だから似たことを今一つ。東北ではフトンといふものゝ厚味が、夏冬を通してきまつて居る。何も着ずに寢るか、うんと重いので蒸されるか。夏はこの二者の一を擇ばねばならぬ、私などは早くから工夫をして、隅の三角のところで穴を作つてむぐり込むが、あれにも當惑してゐる人があるだらう。
(541) 新しい統一のため
諸君は最近の通信料引上げが國の統一の上にどの位大きなわざはひをしてゐるかを、まだ心づいてゐられない。明治の新政はよかれ惡しかれ今ある日本を作つた原動力であつたが、その政策の恒久性を具へたものは三つしかなかつたといつても過言でない。その一つは軍備、二は普通教育、その三はこの文通方法であつた。今や二つのものは轉覆して一つだけが再組織を認められ、殘つた第三のものがこの無思慮なる殘虐を受けてゐるのである。
もとは飛脚は町からたつものときまつてゐた。村では幸便を求めさがすよりほかに道はなかつた。それがいかなるすみ/”\にも自由に通信しうることゝなつて人の心は新たに開け、また安心して遠國に分れて住むことができた。さうしてはじめて國が一つといふ感が強くなつたのである。
だれの常識にも一目で明かなやうに、日本は地形がはなはだ統一に向かない國だつた。それ故にまた種族文化の同一にもかゝはらず、事實割據の時代が久しく續いたのである。
われわれの國内知識は都府に偏してゐた。田舍に住む者がよその田舍を學ぶ手段はわづかな來住のほかには書信がたゞ一つの手段だつた。地理の教育などは何一つの効果がなく、今でも郡村の名は知らぬのが普通である。ましてや相互の生活實情の差異、殊に暗々のうちの一致の深い意義をもつものゝごときは、われ/\の仲間より外には考へてみようとする者さへ少かつた。極言をするならば郵便料金などはタヾにもしなければならぬ時勢ではないかと思ふ。
通信費をコストに編入して、やがて囘收しうる者の利害のみが今日は考へられてゐる。一般民衆の立場からいふと、(542)これは文化費であり第二次の消費である。この引上げは必然に文通の中止になり、割據になり孤立になる。かつて封書が二錢から三錢に引上げられた際に、國論がいかに動き、政治家がいかに辯解にこれつとめたかは忘れてしまふにはあまりにも新しい近世史である。
これが一國の文化費だといふことをちつとも考へないやうな人たちが再び選擧に立たうとするのをみると、私たちははなはだ心が重い。
(543) 日本民俗學の前途
――近藤忠義氏への答――
あなたのお尋ねには、私の答へることができない部分もありますが、大よそ次の諸點までは、責任を負うて明言してよいと思つて居ります。
第一には日本民俗學の方法如何。これは近頃になつてほゞ確立しました。特色をいふならば、資料を眼の前の生活諸事實の中から採ること、それを安全なる證據とする爲に、出來るだけ觀察と記録とを精確にし、又前以て整理して置くことで、此頃次々に公表する分類民俗語彙といふのが其「見出し」であります。
是は全く前代の生活樣式が、現世の社會相の中になほ痕跡を留めて居るといふ想定からでありまして、此資料の完全に出揃はぬ限り、我々の推論はいつ迄も假定で、今後も新たに積み重ねらるゝ資料によつて、何度でも當否を檢討する餘地を存すること、是も大切な要件として居ります。
第二に民俗學の體系といふ言葉は使ひませんが、御尋ねは多分、目的範圍順序などの意味かと思ひます。私たちは國の過去に關する知識慾を制限しようとは思ひませぬが、知りたい願ひにも自然のきまりが有りませうから、結局は是まで文化史といつて居たものと、ほゞ同じ區域にならうかと存じます。
最初は多きに過ぐる題目の中から、努めて人の忘れようとし、うつかりとして居る問題を先づ取上げて、世人を警告せんと試みましたが、今日は目前の急といふものがありますので、さう我まゝな選擇は許しません。人はそれ/”\(544)の自由に問題をきめるとしても、自分だけはいま日本の固有信仰、家族制の變遷などに力を傾けて居ります。言語や文藝なども、民俗學的に研究しようと思へば出來ます。動かし得ない順序といふものはもつて居りません。
第三には結論といふことを問はれましたが、結論は問題毎に有るべきで、一つの學問には結論なんか無いのが當り前と思ひますが、如何ですか。但し定理といふべきものは幾つもあつて、私も?々人に説いて居ります。
國の一切の制度文物は皆變遷し今は昔のまゝで無いのみか、中間にも沿革があり、從つて又未來も攣り得、又變らせ得といふこと。變るのにはそれ/”\の理由があり必要があり、判斷をする者はその時代々々の人で、それが或は正しく或は誤つて居たといふこと。理由も必要も無かつた變化は有り得ず、有るなら必ず尋ねられる。今まで不明と認められて居たことは、我々にとつては新らしい知識の泉だといふこと等。
斯ういふ我々を指導する定理は、まだ三つ四つも見つかつて居ます。これが皆さんの言はれる日本民俗學の總論で、此頃實地の經驗によつて、是も段々に成長しようとして居るのです。
大學に講座があり教授があり、又教科書があり檢定試驗があるといふ學問に携はつて居る人たちは新たに民間に一つの學を起す者の、辛苦艱難を察知することが出來ません。私どもの以前の方策は、少しでも世人の注意をこの方に引付ける爲に、言はゞ珍奇の題目を拾ひ上げて、それを安らかに興味を誘ひやすく、説き立てる必要さへ感じて居りました。人から雜學だの隨筆趣味だのと言はれることを憤つて居たら、とても今日のやうな機運は作れなかつたのです。
現在はもはやそんな知識の樂しみに、遊んで居られる御時世では無いのですが、あんまりの憂ひ苦しみが深いので、稀には片隅にまださういふ昔の道樂の中に、逃避して居る者があるのです。私の書物は初版は皆發行部數が少なく、中には自費を以て五十部とか三百部とかを、印刷して人に頒つたものもあります。それが十數年の間に見たがる者が増加して、五倍十倍の市價を唱へるやうになつたのは不幸の記念でした。その惰性がまだ續いて居るのです。
斯ういふ流行趣味にかぶれて居る人の中には、著者の眞意を掬まぬのみか、丸々讀んでも見ない者さへ無いとは限(545)りません。あなたは小フォクロリストの名でお呼びになつたが、よもや其人自らがしか名乘つたのではありますまい。彼等は公衆であり、遠くから我々に聲援する人であり、是から私どものなほ大いに説かなければならぬ人で、少なくとも民俗學の學徒ではありません。あなたが其人たちの辯護まで、私にさせようとなさるのは無理であります。世にはこの反對に私の本を讀んで居ながら、丸で見ないやうな顔をする人が少しありますが、あなたも其仲間ではありませんか。もし假にさうで無かつたならば、殆と滿足には一册も目を通さないで、斯ういふ問をかけられることもどうかと思ひます。
十年この方の私の主張は「國史と民俗學」といふ一小册子に出して置きました。是は主として歴史學者を讀者に豫想しましたから、御目に觸れないでも致し方はありませんが「昔話と文學」といふ一卷に至つては、專ら日本文學史の今までの研究のし方に對する不滿を述べ、是からは今少し民俗學の方法を採用せられないと、文學史といひつゝも、實は文人傳と作品解題とに終始するだらうと痛論したものでした。乃ちあなたの方面の新文獻なのであります。
あれを取り上げて下さつたら、もつと具體的な論戰は出來たかと思ひますが、それには新聞の紙面では狹過ぎてだめだつたでせう。どうか是からの反對説の御發表は、利害關係の深い私たちにも知らせて下さい。
(546) 紙上談話會
鴉の惡意
是も東日本の方だつたかと思ふが、路で轉んだところをカラスに見られると惡いと言つて氣にかける處があつた。此頃の鴉はそんなものを見て居るほど、近くへ來まいから問題ではないが、是は必ずしも行爲の戒めとは言はれない。カラスが見て居るから特別に氣をつけようといふ者は無く、寧ろ忌のやうな形を以て信ぜられて居た前兆の類であらう。しかし早天に行ふ行事をカラスノナカマといふやうに、この鳥だけには妙に敵意を持ち、又は警戒した言ひ傳へが多い。形が醜い黒いといふ以上に、何か古い頃からの交渉の今少し深酷なものがあつたのかもしれない。それで是から轉んではならぬといふ他に、なほこの鳥に對する古風な人の感じの、窺はれるやうなものを集めて置きたい。但し鴉の灸、又はカラスノゴキズレのことだけはもう知つて居る。
田植の夢
民間傳承の古い號を見て行くと、東北でも中國四國でも、可なり一般的に田植の夢はよくないものとして居るらし(547)い。或は逆夢の原理で、好ましいものはよくないと解したとも言はれようが仔細に尋ねて見ると、今一段と深いところに、この夢を氣にかける動機が見られる。田植は全體に死との聯想が濃く、何とかすれば夜伽の晩の飯になるとか、その米は食べずにしまふとかいふ俗信が多いが、事によると是にはもう忘れかゝつて居る心理の作用が潜んで居るのである。たとへば或土地では田植の夢はよくない、又は人が死ぬ前兆とだけ言つて居るが、他の多くの場合には近親に死に別れる。又は家に不幸があると謂つて居るのである。もつと細かなのは、香川縣の西部などで、植ゑた田のあとがもう青くなつて居る夢ならばよい。土地を起したり、代の水の溜まつて居るのを夢に見たら、きつと其家に凶事が有るといふさうである。私は久しく田の神信仰に心を潜めて居る故に、殊にこの迷信の起原を究めずには棄て置けない。今日はもはや其樣な愚かなことに、不安を抱く者が一人も無いといふだけでは、仕事は片付いたと感ずることが出來ない。稻作は農家最大の關心事で、明けても暮れても是を家中の問題とすることが多い。從つて田植の夢などは、見ないで居られなかつたらうと思ふのに、どうして又是が其樣に惡い意味をもつものと、想像せられ始めたかといふことが、先づ私たちには釋けない不審である。是はこの方の專門の人に考へてもらふべき問題だが、夢を見るのは氣にかゝるから、即ち心の動搖の種となるものが、夢を結ぶ傾きをもつと見ることは出來ぬものであらうか。少なくとも斯ういふ不吉な夢合せは、さう古い頃からの傳承とは私には思はれないのである。新田開發の盛行に伴なうて家々の田神信仰は急激に衰へて居る。稻作の始め終りの祭の式は、新らしい土地では全く行はれず、古い村々でも著しく省略せられた。曾ては親田といひサンバイ田などと稱して、必ず祭をしてから植ゑて居た一定の田が、それを廢してから病み田となり、死人田となつた例の多いことは、前にも一ぺん説いて見たことがある。勿論是からなほ多くの資料を集めて見なければならぬが、私は是と田植の夢とは、一續きのものではないかと思つて居る。賛成は少しも望まないが、たゞ斯ういふ問題に注意する人が、もう少し多ければよいと思ふ。
(548) ○
毎月第二日曜の民俗學會の例會には、?々この種の話題が交換せられて居るのである。地方の同志ばかりが分散して、是に參加し得ないのは不本意なことゝ思ふ。會の記録は六號活字でやゝ不充分に報告せられて居るが、あれだけでは雪達磨のやうな成長は期し難い。私などは寧ろ是をめい/\が別に書いて、こちらの談話會に提出する習慣を付けたい。さうして表現を簡明にする練習が出來たら、自然に雜誌の内容も豐富になり、思はず知らず自分も何か書いて見ようと、いふ人を多くするだらう。私は永い間、この雜誌だけは隅から隅まで、讀んでしまふことにして居るのだが、年のせゐやら近頃はそれがよほど大儀である。
○
この頃の民間傳承には、英語で talk といふやうな小寄稿が、めつきり少なくなつたのが寂しく感じられる。何とかしてもう一度、それを復活したいものと思ふが、さてどうすればよいのだらうか。是も一つの試みに過ぎないけれども、斯うして居るうちには追々と好い考へが出ようも知れない。
○
郷土研究以來、私たちの一つの自慢は、讀者兼寄書家といふ人の數が、どんな圍結心の強い學會の會報よりも多いことだつた。從つて遠い處に住む同志の意見に動かされて、雜誌のこしらへ方を更へたことも折々はあつた。それが又斯ういふ新らしい民間の學問を、普及させて行く唯一の途でもあると考へられて居たのである。いつの間にそれが長たらしい、よく言へば堂々たる尤もらしい文章でないと、書いて送るに値しないやうになつたものか。原因はもち(549)ろん有るだらうが、今はまだちよつと氣が付かない。それを先づ諸君に言つて見てもらひたいものである。
○
一つには時代がちがふ、今はもう其樣なひまな人が居ないから、と言ふことも確かにあらう。以前雜誌を屆けると十日もたたぬうちに、すぐに氣がついたことを、又はそれに關聯したことを、書いて見せられた南方・尾佐竹・中山・胡桃澤などの諸君は多くは故人になられた。筆豆といふのも一つの習性だから、無事太平な世の中がもう少し續かないと、當分はまだあの頃のやうな氣持は、出て來ぬのかもしれない。しかし實際の話をすると、今だつても私などは、隨分こま/”\とした手紙を、各地の舊知未知から、數多く受取つて居るのである。それにも色々と心を動かすことは書いてあるのだが、たつた一つのちがひは、讀ませようといふ相手が一人きりなので、此まゝでは雜誌の話題にはなりにくい。つまり學問と筆豆とは既に恢復して居るが、通信といふことのみがまだ十分に社會化し得ないのである。
○
月曜通信などは、公開せられた通信のつもりであらうが、何だかまだ老人の話を、脇で聽いて居るやうな感じばかり強い。第一に一つ話が長々とつゞいて、子供だつたら坐睡をしてしまひさうだ。是からは強ひて解釋を求めようとせず、いつ迄も覺えて居て、何かといふ時には思ひ出して、少しづゝでも知識を進められるやうな、印象の深い問題を出し合ふ習慣を、付けて見るのはどうであらうか、無論この爲にしつかりとした、計畫のある研究を邪魔してはならない。小さく片隅に片づいて居なければならぬが、今はともかくも子供の無い家のやうな淋しさを、殘念ながらこの雜誌では感じさせられる。戰後全體に誰の話もくどくなつて來た。氣安く手短かに物をいふ習慣を、取戻す爲にも、(550)是はよい機會と思ふがどんなものであらうか。
迷信の實態
そこで前置をこの位で切り上げて、ごく自由に思ひついた話題を竝べて見よう。けさちやうど「迷信の實態」といふ大きな本を貰つて讀みかけて居るが、この調査會と我々の仲間との、心持のちがひはどこに在るかといふことが、先づ一つの問題になりさうである。いづれ迷信だから無くてたいゝにきまつて居るが、損だから早く止めようといふのと、どうして斯ういふことを謂ひ始めたのだらうかと考へるのとでは、眼の着けどころが始めからちがふと思ふ。一方は努めてわかりやすい、害の明かなものを拾はうとするであらうし、こちらはたゞ不思議なものに氣をとられ、それを集めるために今少しそつとして置いてくれとも言ひかねない。こゝに二つの立場は、ちよつと對立したやうにも見えるのである。しかし私たちは經驗により、古い俗信のやがては皆消えることを信じて居る。さうして其中でも著名なもの、たとへば蚯蚓に小便といふ類の全國的な百件ばかりは、なほ暫らくの間は半信半疑、次には笑の種になつて傳はることを知つて居る。惜しいと思ふのはその卷添へを食つて、若干のやゝ些末なものが害も理由も共々に究められずに、曾て世の中に無かつたと同然に歸してしまふことである。人間の知識の不完全さ、ほんの幽かな手掛りによつて、是からでも新たに覺り知らるゝ前代事實の多いことを、しみ/”\と體驗して來た我々としては、斯うした大捷利の記録が精密に、或はもつとくだ/\しく、世に傳はらんことを切望せずには居られないのである。
(551) お齒黒と白い馬
今さら撲滅する必要も無いやうな、政策の面からは齒牙に掛けるに足らぬ事實が、特に民俗學の説明を要望して居る。たとへは關東の平野で、白馬に齒を見せると鐵漿の附きが惡いといふこと、是などは牢《かた》く信ずる者がどんなに多くとも、今では實害が無いからあの調査會の問題でない。しかし女たちが如何に齒黒めの濃く美しく染まることを念じて居たか。それを窺ひ知るべき史料も既に少なく殊に何故に白毛の馬だけが、斯うして心を置かれて居たかを、始めて問題にする人は多分多いことゝ思ふ。無意味だ不可解だといふばかりで、すましては居られぬのが、我々の携はつて居る學問である。果して是と同じこと又は似たことを、今でも考へて居る地方があるか。又はどういふ風に考へられて居るか、是からも注意して行きたいものである。
(552) 創刊のことば
四百年ばかり前までは、江戸は水鳥の群れて舞ふ、大蘆原でありました。岡の松櫪萩尾花の中を、赤黒色々の野鳥が散歩してをりました。時運は方に熟して人煙漸く滋く、伎藝は鬱然として其間に起り且つ榮えましたけれども、土地の主が遠近の田舍者であつた如く、是にも貴紳上流の趣味はめつたに干渉せず、況んや外國の感化などは殆と其痕跡を見出さぬのであります。近代のあらゆる文化事相の中で、是ほど完全に自力一つを以て、晴やかに成長し展開したものは、他には先づ無いと言つてよろしいのであります。
芝居はこの意味に於て、我々の大切な遺産であります。目に見えぬ昔の松の蔭、なつかしい泉の音日の光であります。それが今や新しい世界の刺戟を受けて、急に再び伸び育たうとしてゐるのであります。之に對して花やかなる將來を夢想し、乃至は何物をか期待する人々は申すに及ばず、單に日本國民の天分才能が、果してどれほどまで此世を美しく樂しくし得るかを考へて見ようとする者にも囘顧は何物よりも必要になつて參りました。
我々の殊に愉快なる一つの發見は、以前に袖を分つた故郷の從兄弟たちが、今も富み榮えて健やかに耕し樵り漁して居たことであります。關東平野の村里は、固より高名なる多くのわざをぎの生れ在所であつて、そこに年久しい系圖をさま/”\の神事舞の型に留めて居るのは不思議でもありませぬが、嶺谿川の百重八十隈を隔てた、遠い奧山にも、海の果の小島にも、到底偶然とばかりは考へられない重要なる一致が隱れて居るらしいのであります。曾て舊都の記録に上つた歌物話は、海道を降り、又は人知れぬ山坂を越えて、永い旅寢を續けて居ました。踊は伊勢路から山野の(553)土を踏み轟かして、流行唄は船子たちの、柔かなる櫓の軋みに乘つて、浦を傳ひ又邑々を巡りました。さうして次ぎ次ぎに時と處の好みに隨うて、自然の巧みを以て住民が之を裝ひ立てたので、花の都の綾錦とても、つまりは其最も自由なる一つの例に過ぎず、即ち着飾つて再び古里人と面を合すときに、殊に美しきものゝ歡びが感じられるわけでございます。
それ故に手を把つて共に昔をなつかしみ、また清らにたけ高く成長した姿を、私心なく見上げて居る迄は情愛でありますが、省みて自分たちの褻の衣を卑下するに至つては、由無き物恥ぢと申さねばなりませぬ。我々の旅の生涯の中には、互ひに包んで人に示さない思ひ出といふものがあります。その一番の子供らしく、又有りふれた事柄として、忘れてしまはうとして成功しなかつた部分に、この數千年來の民間藝術が、説明し得ない力強さを以て、こびり付いて居るのであります。それが年とつて後までの夢の原料となり、或は無意識に我々の趣味を支配しました。斯うして新たにこの島國に繁り榮えて居たものを、蔓をたぐり根を辿つて尋ね比べて見ようとするときに、始めて我々は心緩かに、隱してあつた私の半分を、語り合ふことが出來るのであります。
我々は古今億萬人の共に味つた生存を學ぶために、賢い僅かな人の進んだ考へに導かれることを欲しませぬ。それ故に最初には目の前の豐富なる事實を確實に記録して、それを成るべく多くの者の共有の知識にしたいと思ひます。さうして其材料の整頓と比較から、自然に明らかになつて來る共通の現象に基いて、若しあるならば此世の中の法則といふものを、抽き出して見たいと考へて居るのであります。
「民俗藝術の會」は今から半年ほど前に、右の樣な目的を以て生れた至つて小さな研究者の團體でありまして、をり/\地方を歩いて、古くからある宗教の行事を見、その資料を集め、又は集まつて之に關聯した同志の談話を聽いたりして居りました。その記録の散佚を防ぐ爲めと、又これを公けにして廣く諸家の高見を得たい爲めと、更に全國に調査の手をひろげたい爲めに、此雜誌を刊行することにしたのであります。從つて題目の範圍は、既に我々の手を着(554)けたものに限らず、廣く且つ深く捜りたいと思ひます。我々は單に同情ある諸君の援助によつて、行く/\新たなる耕地の擴張し得られることを信ずるのみならず、尚この大なる文化事業が、將來我々の若き讀者の手を以て、完成せらるべきことを豫期するものであります。
(555) 新しい光
謹賀新年は無意味だから言はぬことにして居るが、それでも正月には必ず自然の希望が起る。殊に昨年は諸君のいはゆる末世現象がもう行詰まり、是よりは惡くはなるまいといふ?態にほゞ到達した。さうして一方には誰に頼まずとも、大きくなつて行くものゝ頭が芽を出して來た。たとへば「公明選擧といふものは何ですか」と子供がきく。いかなる教師でも親でも、それに答へぬわけには行くまい。それが又今行はれて居る社會科の教育なのである。
さういふ少年少女が成長して、是からは毎年約三十人に一人づゝ、新らしい選擧人になる。一方には又大よそ同じ數だけ、「世の中はさういふものなのだよ」、「しかたが無いのだよ」と言つて居た舊選擧人が死ぬだらう。馬鹿者に金を使はせる以外に、何の能も無かつた地方の顔役どもも、中風か何かになつてぽつ/\と無くなつて行くだらう。それを考へただけでも氣分が清々する。
人のいふことをよく聽いて判斷し、「あなたのいふことはわかりません」。「わかるやうにもう一度、話して下さい」と、言へるやうになるのが、我々の新らしい國語教育ださうだ。受賣政談は役に立たなくなる日が、もう村の口まで來て居るのだから、やつぱり新年はめでたい。
(557)第三十一卷 内容細目
現代科學といふこと(昭和二十二年十月、「民俗學新講」明世堂書店)…………………三
郷土研究の話(昭和十五年十月、教養放送九十二號)…………………………………一七
成長は自然(昭和十一年二月、近畿民俗一卷一號)……………………………………二四
日本民族と自然(草稿)…………………………‥………………………………………二七
農村保健の今昔(昭和十六年四月、醫事公論一五〇〇號)……………………………三六
おとら狐の話(大正九年二月、玄文社)………………………‥………………………四九
飯綱の話(未完草稿)……………………………………………………………………一〇三
山立と山臥(昭和十二年六月、「山村生活の研究」民間傳承の會)………………一〇七
傳説のこと(昭和二十五年三月、「日本傳説名彙」日本放送出版協會)…………一一七
富士と筑波………………………………………………………………………………一二九
瑞穗國について(昭和二十六年十月、國學院雜誌五十二卷一號)………………一四〇
米の島考(未完草稿)…………………………………………………………………一五七
倉稻魂考(未完草稿)…………………………………………………………………一五九
農村と秋まつり(昭和二十年十一月、建設青年九卷七號)………………………一六七
村を樂しくする方法(昭和二十二年八月、社會と學校一卷四號)………………一七七
(558)關東の民間信仰(昭和二十二年五月、苦樂二卷五號)………………………一八五
新式占法傳授(大正七年十月、同人二十八號)………………………………………一九五
前兆(昭和十三年七月、民間傳承三卷十一號)………………………………………二〇一
アイヌの家の形(明治四十三年十一月、人類學雜誌二十六卷二九六號)…………二〇二
つぐら兒の心(昭和九年八月二十六日、朝日新聞)…………………………………二〇五
寄り物の問題(昭和二十五年四月、加能民俗一號)…………………………………二〇七
郷土舞踊の意義(大正十五年六月、七月、青年十一卷六號、七號)………………二〇八
舞と踊との差別(草稿)…………………………………………………………………二一五
假面に關する一二の所見(昭和四年十月、民俗藝術二卷十號)……………………二二〇
田植のはなし(昭和九年六月、經濟往來九卷六號)…………………………………二三三
歌と國語(昭和十七年五月、短歌研究十一卷五號)…………………………………二四〇
歌のフォクロア(昭和二十三年三月、短歌研究五卷三號)…………………………二四七
俳諧雜記(昭和二十二年三月、文藝春秋二十五卷二號)……………………………二五五
テルテルバウズについて(昭和十一年十月、小學國語讀本綜合研究卷二−一、岩波書店)………………………………………………………………………………………………二六二
かぐやひめ(昭和十一年十月、小學國語讀本綜合研究卷四−一、岩波書店)……二六五
浪合記の背景と空氣(未完草稿)………………………………………………………二六八
方言覺書(昭和十一年四月、近畿民俗一卷二號)……………………………………二八一
江湖雜談(昭和九年二月、河と海四卷二號)…………………………………………二八六
(559)デアルとデス(草稿)……………………………………………………………二九二
今までの日本語(昭和三十年一月、二月、教育研究十卷一號、二號)……………三〇三
話し方と讀み方(昭和二十四年一月、教育復興二卷一號)…………………………三二一
文章革新の道(昭和二十二年一月八日、九日、夕刊新大阪)………………………三二五
春來にけらし(昭和二十六年一月九日、十日、十一日、東京新聞)………………三二八
思ひ言葉(昭和二十六年七月四日、朝日新聞)………………………………………三三三
和歌の未來といふことなど(昭和二十九年一月、短歌創刊號)……………………三三七
平瀬麥雨集小序(昭和二十三年九月、科野雜記社)…………………………………三四〇
イブセン雜感(明治三十九年七月、早稻田文學七號)………………………………三四三
讀書餘談(明治四十年十二月、趣味二卷十二號)……………………………………三四九
伊頭園茶話から(大正十五年三月、民族一卷三號)…………………………………三五一
飜譯は比較(昭和十四年九月、白水六十六號)………………………………………三五三
「少年の悲み」などのこと(國木田獨歩・石川啄木作品集内容見本)……………三五五
二階と青空(昭和二十四年十二月、成城文學三號)…………………………………三五六
「ドルメン」を再刊します(昭和十三年五月、ドルメン廣告)……………………三五八
「農家と人」審査感想……………………………………………………………………三五九
「孤島苦の琉球」(大正十五年五月、大阪朝日新聞)…………………………………三六〇
「朝鮮民俗誌」(昭和二十九年)…………………………………………………………三六一
(560)「近畿民俗」(昭和十一一年二月、民間傳承六號)……………………………三六二
系圖部を讀みて(昭和六年四月、歴史と國文學四卷四號)…………………………三六三
「村のすがた」と社會科教育(昭和二十三年六月、朝日出版月報第四號)………三六四
「遠野」序(昭和二十四年十二月、遠野町)…………………………………………三六六
旅と文章と人生(昭和二十五年四月、「ふるさとの生活」序朝日新聞社)…………三六八
大嘗祭と國民(昭和三年十一月十二日、朝日新聞)…………………………………三七三
大嘗祭ニ關スル所感(草稿)……………………………………………………………三七六
史學興隆の機會(昭和二十一年八月十五日、時事新報)……………………………三八二
一つの歴史科教案(昭和二十二年二月、教育文化六卷二・三號)(原題、「歴史を教へる新提案」)…………………………………………………………………………………三九〇
新たなる統一へ(昭和二十七年一月四日、朝日新聞)………………………………四〇三
中農養成策(明治三十七年一月、中央農事報四十六號)……………………………四〇九
保護論者が解決すべき一間題(明治四十年十一月、中央農事報九十二號)………四二四
産業組合の道コ的分子(明治四十三年九月、産業組合五十九號)…………………四三〇
農業用水ニ就テ(明治四十年一月、法學新報十七卷二號)…………………………四三六
將來の農政問題(大正七年六月、帝國農會報八卷六號)……………………………四四八
次の二十五年(大正十四年六月、産業組合)…………………………………………四六四
塔の繪葉書(明治三十八年九月、十月、ハガキ文學二卷十四號、十五號)………四七五
マッチ商標の採集(明治四十年六月、趣味二卷六號)………………………………四七九
(561)友食ひの犠牲(昭和二年三月二十六日、朝日新聞)…………………………四八二
山帽子(昭和二十一年十二月、「百人百趣上」土俗趣味社)…………………………四八五
山の休日(昭和二十三年十月、山一二四號)…………………………………………四八八
作之丞と未來(昭和二十四年四月二十六日、二十七日、東京日々新聞)…………四九三
特攻精神をはぐくむ者(昭和二十年三月、新女苑九卷三號)………………………四九七
女の表現(昭和二十三年一月、朝日評論三卷一號)(原題、「女」)………………四九八
教師は公人(昭和二十四年十月、教育女性一卷六號)………………………………五〇〇
通信の公私…………………………………………………………………………………五〇一
讀書人の眼…………………………………………………………………………………五〇三
常民の生活知識(草稿)…………………………………………………………………五〇五
鷺も烏も(大正十三年七月、アサヒグラフ夏季増刊號)……………………………五〇八
あなおもしろ(大正十三年七月、アサヒグラフ三卷五號)…………………………五一〇
發見と埋没と(大正十三年九月、アサヒグラフ三卷十二號)………………………五一二
大佛と子供(大正十三年九月、アサヒグラフ三卷十三號)…………………………五一四
仙人の話(大正十四年十二月、アサヒグラフ五卷二十五號)………………………五一六
誰に見せう(昭和四年五月、アサヒグラフ十二卷二十號)…………………………五一八
夏祭進化(昭和十三年八月、新風土一卷三號)………………………………………五一九
喜談小品(昭和十四年六月、アサヒグラフ三十二卷二十五號)……………………五二○
(562)「野方」解(昭和十二年六月、高志人二卷六號)………………………………五二二
ツルウメモドキ(昭和十三年三月三十日、一卷三號)………………………………五二四
東北の芹の鹽漬(昭和十五年一月、主婦之友二十四卷一號附録)……………………五二五
故郷の味………………………………………………………………………………………五二六
梅についてのお願ひ(昭和二十四年五月、民間傳承十三卷五號)……………………五二七
私の書齋(昭和二十二年十月、婦人四號)………………………………………………五二八
町の話題(昭和二十七年十一月二十七日、「きぬた」)………………………………五三〇
泥棒公認(大正十三年十月十七日、朝日新聞)…………………………………………五三二
猿落しの實験(大正十三年十二月二十日、朝日新聞)…………………………………五三四
埼玉縣知事に申す(大正十四年十一月二十日、朝日新聞)……………………………五三五
御誕生を悦ぶ(大正十四年十二月七日、朝日新聞)……………………………………五三七
あつい待遇(大正十五年九月七日、朝日新聞)…………………………………………五三九
新しい統一のため(昭和二十四年一月五日、朝日新聞)………………………………五四一
日本民俗學の前途(昭和二十二年五月二十三日、二十四日、時事新報)……………五四三
紙上談話會(昭和二十五年二月、民間傳承十四卷二號)………………………………五四六
創刊のことば(昭和三年一月、民俗藝術創刊號)………………………………………五五二
新しい光(草稿)……………………………………………………………………………五五五
〔2016年2月8日(月)午後2時15分、入力終了〕