定本柳田國男集　第四卷（新装版）、筑摩書房、1968､9､21（1970.1.25.4刷）

　

(1)　　　遠野物語

　

(3)　　　此書を外國に在る人々に呈す

　

(5)　此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。咋明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね來り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠實なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷には此類の物語猶數百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。國内の山村にして遠野より更に物深き所には又無數の山神山人の傳説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戰慄せしめよ。此書の如きは陳勝呉廣のみ。

　昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花卷より十餘里の路上には町場三ヶ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或は新道なるが故に民居の來り就ける者少なきか。遠野の城下は則ち煙花の街なり。馬を驛亭の主人に借りて獨り郊外の村々を巡りたり。其馬は黔き海草を以て作りたる厚總を掛けたり。虻多き爲なり。猿ヶ石の溪谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸國其比を知らず。高處より展望すれば早稻正に熟し晩稻は花盛にて水は悉く落ちて川に在り。稻の色合は種類によりて樣々なり。三つ四つ五つの田を續けて稻の色の同じきは即ち一家に屬する田にして所謂｜名處《みやうしよ》の同じきなるべし。小字より更に小さき區域の地名は持主に非ざれば之を知らず。古き賣買讓與の證文には常に見ゆる所なり。附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠の如く又片假名のへの字に似たり。此谷は稻熟すること更に遲く滿目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき※［奚＋隹］かと思ひしが溝の草に陰れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。茲にのみは輕く塵たち紅き物聊かひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊と云ふは鹿の舞なり。鹿の角を附けたる面を被り童子五六人劍を拔きて之と共に舞ふなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞き難し。日は傾きて風吹き醉ひて人呼ぶ者の聲も淋しく女は笑ひ兒は走れども猶旅愁を奈何ともする能はざ(6)りき。孟蘭盆に新しき佛ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上に於て東西を指點するに此旗十數ヶ所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入り込みたる旅人と又かの悠々たる靈山とを黄昏は徐に來りて包容し盡したり。遠野郷には八ヶ所の觀音堂あり。一木を以て作りしなり。此日報賽の徒多く岡の上に燈火見え伏鉦の音聞えたり。道ちがへの叢の中には雨風祭の藁人形あり。恰もくたびれたる人の如く仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にて得たる印象なり。

　思ふに此類の書物は少なくも現代の流行に非ず。如何に印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狹隘なる趣味を以て他人に強ひんとするは無作法の仕業なりと云ふ人あらん。されど敢て答ふ。斯る話を聞き斯る處を見て來て後之を人に語りたがらざる者果してありや。其樣な沈黙にして且つ愼み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし。況や我九百年前の先輩今昔物語の如きは其當時に在りて既に今は昔の話なりしに反し此は是目前の出來事なり。假令敬虔の意と誠實の態度とに於ては敢て彼を凌ぐことを得と言ふ能はざらんも人の耳を經ること多からず人の口と筆とを倩ひたること甚だ僅なりし點に於ては彼の淡泊無邪氣なる大納言殿却つて來り聽くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りては其志や既に陋且つ決して其談の妄誕に非ざることを誓ひ得ず。竊に以て之と隣を比するを恥とせり。要するに此書は現在の事實なり。單に此のみを以てするも立派なる存在理由ありと信ず。唯鏡石子は年僅に二十四五自分も之に十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生れながら問題の大小をも辨へず、其力を用ゐる所當を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木兎の如くあまりに其耳を尖らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負はねばならぬなり。

　　　　　おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも

　

(7)　　　題目

　

　　　　　　（下の數字は話の番號なり、頁數には非ず。）

　

地勢　　　　　　　　　　一、五、六七、一一一

神の始　　　　　　　　　二、六九、七四

里の神　　　　　　　　　九八

　カクラサマ　　　　　 　七二−七四

　ゴンゲサマ　　　　　 　一一〇

家の神　　　　　　　　　一六

　オクナイサマ　　　　 　一四、一五、七〇

　オシラサマ　　　　　 　六九

　ザシキワラシ　　　　 　一七、一八

山の神　　　　　　　　　八九、九一、九三、一〇二、一〇七、一〇八

神女　　　　　　　　　　二七、五四

天狗　　　　　　　　　　二九、六二、九〇

山男　　　　　　　　　　五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二

(8)山女 　　　　　　　　三、四、三四、三五、七五

山の靈異　　　　　　　　三二、三三、六一、九五

仙人堂　　　　　　　　　四九

蝦夷の跡　　　　　　　　一一二

塚と森と　　　　　　　　六六、一一一、一一三、一一四

姥《うば》神　　　　　　六五、七一

館《たて》の址　　　　　六七、六八、七六

昔の人　　　　　　　　　八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四

家のさま　　　　　　　　八〇、八三

家の盛衰　　　　　　　　一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三

　マヨヒガ　 　　　　　　六三、六四

前兆　　　　　　　　　　二〇、五二、七八、九六

魂の行方　　　　　　　　二二、八六−八八、九五、九七、九九、一〇〇

まぼろし　　　　　　　　二三、七七、七九、八一、八二

雪女　　　　　　　　　　一〇三

川童　　　　　　　　　　五五――五九

猿の經立《ふつたち》　　四五、四六

猿　　　　　　　　　　　四七、四八

(9)狼《おいぬ》　　　　　三六−四二

熊　　　　　　　　　　　四三

狐　　　　　　　　　　　六〇、九四、一〇一

色々の鳥　　　　　　　　五一−五三

花　　　　　　　　　　　三三、五〇

小正月の行事　　　　　　一四、一〇二−一〇五

雨風祭　　　　　　　　　一〇九

昔々　　　　　　　　　　一一五−一一八

歌謠　　　　　　　　　　一一九

　

(11)一　遠野郷《とはのがう》は今の陸中｜上閉伊《かみへい》郡の西の半分、山々にて取圍まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵《つちぶち》、附馬牛《つくもうし》、松崎、青笹、上郷《かみがう》、小友《をとも》、綾織《あやおり》、鱒澤《ますざは》、宮守《みやもり》、達曾部《たつそべ》の一町十ヶ村に分つ。近代或は西閉伊郡とも稱し、中古には又｜遠野保《とほのほ》とも呼べり。今日郡役所の在る遠野町は即ち一郷の町場にして、南部家一萬石の城下なり。城を横田城とも云ふ。此地へ行くには花卷の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、其用の支流猿ヶ石川の溪《たに》を傳ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奧には珍しき繁華の地なり。傳へ言ふ、遠野郷の地大昔はすべて一圓の湖水なりしに、其水猿ヶ石川と爲りて人界に流れ出でしより、自然に此の如き邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合ふもの甚だ多く、俗に七内《なゝない》八崎《やさき》ありと稱す。内《ない》は澤又は谷のことにて、奧州の地名には多くあり。

　　○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖といふ語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。

二　遠野の町は南北の川の落合《おちあひ》に在り。以前は七七十里《しちしちじふり》とて、七つの溪谷各々七十里の奧より賣買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯《はやちね》と云ふ、北の方附馬牛の奧に在り。東の方には六角牛《ろつこうし》山立てり。石神《いしがみ》と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に來り、今の來内《らいない》村の伊豆權現の社ある處に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を與ふべしと母の神の語りて寢たりしに、夜深く天より靈華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覺めて竊に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各々この山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其姉を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。

　　○この一里は小道即ち坂東道なり、一里が五丁又は六丁なり。

　　○タツソベもアイヌ語なるぺし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり。

　　○上郷村大字來内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは澤なり、水の靜かなるよりの名か。

(12)三　山々の奧には山人住めり。栃内《とちない》村｜和野《わの》の佐々木嘉兵衛と云ふ人は今も七十餘にて生存せり。此翁若かりし頃獵をして山奧に入りしに、遙かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳《くしけづ》りて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃《つゝ》を差し向けて打ち放せしに彈に應じて倒れたり。其處に馳け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の驗《しるし》にせばやと思ひて其髪をいさゝか切り取り、之を綰《わが》ねて懷に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて耐へ難く睡眠を催しければ、暫く物蔭に立寄りてまどろみたり。其間夢と現《うつゝ》との境のやうなる時に、是も丈の高き男一人近よりて懷中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽ち睡は覺めたり。山男なるべしと云へり。

　　○士淵村大字栃内。

四　山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立《ねつこだち》と云ふ山に入り、笹を苅りて束と爲し擔ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奧の方なる林の中より若き女の穉兒《をさなご》を負ひたるが笹原の上を歩みて此方へ來るなり。極めてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。兒を結び付けたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾のあたりぼろ／＼に破れたるを、色々の木の葉などを添へて綴りたり。足は地に着くとも覺えず。事も無げに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。此人は其折の怖ろしさより煩ひ始めて、久しく病みてありしが、近き頃亡せたり。

　　○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通稱なれば此主人も亦吉兵衛ならん。

五　遠野郷より海岸の田ノ濱、吉利吉里《きりきり》などへ越ゆるには、昔より笛吹峠と云ふ山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆怖ろしがりて次第に往來も稀になりしかば、終に別の路を境木峠と云ふ方に開き、和山《わやま》を馬次場《うまつぎば》として今は此方ばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路なり。

(13)　　○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。

六　遠野郷にては豪農のことを今でも長者と云ふ。青笹村大字｜糠前《ぬかのまへ》の長者の娘、ふと物に取り隱されて年久しくなりしに、同じ村の何某と云ふ獵師、或日山に入りて一人の女に遭ふ。怖ろしくなりて之を撃たんとせしに、何をぢでは無いか、ぶつなと云ふ。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな處には居るぞと問へば、或物に取られて今は其妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食ひ盡して一人此の如く在り。おのれは此地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾《と》く歸れと云ふまゝに、其在所をも問ひ明らめずして遁げ還れりと云ふ。

　　○糠の前は糠の森の前に在る村なり、糠の森は諸國の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり。

七　上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまゝ歸り來らず。家の者は死したるならんと思ひ、女のしたる枕を形代《かたしろ》として葬式を執行《とりおこな》ひ、さて二三年を過ぎたり。然るに其村の者獵をして五葉山《ごえふざん》の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽ひかゝりて岩窟のやうになれる所にて、圖らず此女に逢ひたり。互に打驚き、如何にしてかゝる山には居るかと問へば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらはれ、こんな所に來たるなり。遁げて歸らんと思へど些の隙も無しとのことなり。其人は如何なる人かと問ふに、自分には竝《なみ》の人間と見ゆれど、たゞ丈極めて高く眼の色少し凄しと思はる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子には非ずと云ひて食ふにや殺すにや、皆何れへか持去りてしまふ也と云ふ。まことに我々と同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども世の常なれど、たゞ眼の色少しちがへり。一市間《ひといちあひ》に一度か二度、同じやうなる人四五人集り來て、何事か話を爲し、やがて何方《どちら》へか出て行くなり。食物など外より持ち來るを見れば町へも出ることならん。かく言ふ中にも今にそこへ歸つて來るかも知れずと云ふ故、獵師も怖ろしくなりて歸りたりと云へり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。

　　○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間は即ち五日のことなり。

(14)八　黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隱しにあふことは他《よそ》の國々と同じ。松崎村の寒戸《きむと》と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集りてありし處へ、極めて老いさらぼひて其女歸り來れり。如何にして歸つて來たかと問へば人々に逢ひたかりし故歸りしなり。さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騷がしき日には、けふはサムトの婆が歸つて來さうな日なりと云ふ。

九　菊池彌之助と云ふ老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者と共に濱へ越ゆる境木峠を行くとて、又笛を取出して吹きすさみつゝ、大谷地《おほやち》と云ふ所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、其下は葦など生じ濕りたる澤なり。此時谷の底より何者か高き聲にて面白いぞーと呼はる者あり。一同悉く色を失ひ遁げ走りたりと云へり。

　　○ヤチはアイヌ語にて濕地の義なり、内地に多くある地名なり。又ヤツともヤトともヤとも云ふ。

一〇　此男ある奧山に入り、茸を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠き處にてきやーと云ふ女の叫聲聞え胸を轟かしたることあり。里へ歸りて見れば、其同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子の爲に殺されてありき。

一一　此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲惡しくなり、嫁は?々親里へ行きて歸り來ざることあり。其日は妹は家に在りて打臥して居りしに、晝の頃になり突然と倅の言ふには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきつと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごし／＼と磨《と》ぎ始めたり。その有樣更に戯言《たはむれごと》とも見えざれば、母は樣々に事を分けて詫びたれども少しも聽かず。嫁も起出でて泣きながら寰諫《いさ》めたれど、露從ふ色も無く、やがては母が遁れ出でんとする樣子あるを見て、前後の戸口を悉く鎖したり。便用に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち來りて此へせよと云ふ。夕方にもなりしかば母も終にあきらめて、大なる圍爐裡《ゐろり》の側《かたはら》にうづくまり只泣きて(15)居たり。倅はよくく磨ぎたる大鎌を手にして近より來り、先づ左の肩口を目掛けて薙ぐやうにすれば、鎌の刃先爐の上の火棚に引掛かりてよく斬れず。其時に母は深山の奧にて彌之助が聞き付けしやうなる叫聲を立てたり。二度目には右の眉より切り下げたるが、此にても猶死絶えずしてある所へ、里人等驚きて馳付け倅を取抑へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くを見て、瀧のやうに血の流るゝ中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥《ゆる》したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき。孫四郎は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に歸り、今も生きて里に在り。

　　○ガガは方言にて母といふことなり。

一二　土淵村山口に新田乙藏《につたおとざう》と云ふ老人あり。村の人は乙爺《おとぢい》といふ。今は九十に近く病みて將に死んとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。處々の館《たて》の主の傳記、家々の盛衰、昔より此郷に行はれし歌の數々を始めとして、深山の傳説又は其奧に住める人々の物語など、此老人最もよく知れり。

　　○惜むべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。

一三　此老人は數十年の間山の中に獨にて住みし人なり。よき家柄なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思ひを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往來の人に賣りて活計とす。駄賃の徒は此翁を父親のやうに思ひて、親しみたり。少しく收入の餘あれば、町に下り來て酒を飲む。赤毛布にて作りたる半纏を着て、赤き頭巾を被り、醉へば、町の中を躍りて歸るに巡査もとがめず。愈々老衰して後、舊里に歸りあはれなる暮しを爲せり。子供はすべて北海道へ行き、翁唯一人也。

一四　部落には必ず一戸の舊家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同《だいどう》と云ふ。此神の像は桑の木を削(16)りて顔を描き、四角なる布の眞中に穴を明け、之を上より通して衣裳とす。正月の十五日には小字中《こあざぢゆう》の人々この家に集り來りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式には白粉《おしろい》を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず疊一帖の室あり。此部屋にて夜寢る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常のことなり。或は誰かに抱起され、又は室より突き出さるゝこともあり。凡そ靜かに眠ることを許さぬなり。

　　○オシラサマは雙神なり。アイヌの中にも此神あること蝦夷風俗彙聞に見ゆ。

　　○羽後苅和野の町にて市の神の神體なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。之と似たる例なり。

一五　オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃《たんぼ》の家と云ふ。此家にて或年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、儘ばかりの田を植ゑ殘すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりとも無く丈低き小僧一人來りて、おのれも手傳ひ申さんと言ふに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び歸り來て終日、代《しろ》を掻きよく働きて呉れしかば、其日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には來て物を食ひたまへと誘ひしが、日暮れて又其影見えず。家に歸りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、段々に座敷に入り、オクナイサマの神棚の所に止りてありしかば、さてはと思ひて其扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。

一六　コンセサマを祭れる家も少なからず。此神の神體はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐる也。今は追々とその事少なくなれり。

一七　舊家にはザシキワラシと云ふ神の住みたまふ家少なからず。此神は多くは十二三ばかりの童兒なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字｜飯豐《いひで》の今淵勘十郎と云ふ人の家にては、近き頃高等女學校に居る娘の休暇にて歸りてありしが、或日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢ひ大いに驚きしことあり。これは正しく男の兒なりき。同じ(17)村山口なる佐々木氏にでは、母人ひとり縫物して居りしに、次の間にて紙のがさ／＼と云ふ音あり。此室は家の主人の部屋にて、其時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影も無し。暫時《しばらく》の間坐りて居ればやがて又頻に鼻を鳴す音あり。さては座敷ワラシなりけりと思へり。此家にも座敷ワラシ住めりと云ふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。此神の宿りたまふ家は富貴自在なりと云ふことなり。

　　○ザシキワラシは座敷童衆なり。此神のこと「石神問答」中にも記事あり。

一八　ザシキワラシ又女の兒なることあり。同じ山口なる舊家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりといふことを久しく言傳へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より歸るとて留場《とめば》の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき樣子にて此方へ來る。お前たちはどこから來たと問へば、おら山口の孫左衛門が處から來たと答ふ。此から何處へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍々離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主從二十幾人、茸の毒に中《あた》りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を殘せしが、其女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。

一九　孫左衛門が家にては、或日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何なる茸にても水桶の中に入れて苧殻《をがら》を以てよくかき廻して後食へば決して中ることなしとて、一同此言に從ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の兒は其日外に出でて遊びに氣を取られ、晝飯を食ひに歸ることを忘れし爲に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動轉してある間に、遠き近き親類の人々、或は生前に貸ありと云ひ、或は約束ありと稱して、家の貨財は味噌の類までも取去りしかば、此村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方も無くなりたり。

二〇　此兇變の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣《まぐさ》を出すとて三ツ齒の鍬にて掻きまはせしに、大なる蛇(18)を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聽かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分に悉く之を殺したり。さて取捨つべき所も無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣《あじか》に何荷とも無くありたりといへり。

二一　右の孫左衛門は村には珍しき學者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて讀み耽りたり。少し變人と云ふ方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、先づ庭の中に稻荷の祠《ほこら》を建て、自身京に上りて正一位の神階を請けて歸り、それよりは日々一枚の油揚を缺かすことなく、手づから社頭に供へて拜を爲せしに、後には狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばして其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし藥師の堂守は、我が佛樣は何物をも供へざれども、孫左衛門の神樣よりは御利益ありと、度々笑ひごとにしたりと也。

二二　佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取納め親族の者集り來て其夜は一同座敷にて寢たり。死者の娘にて亂心の爲離縁せられたる婦人も亦其中に在りき。喪の間は火の氣を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる圍爐裡の兩側に坐り、母人は旁に炭籠を置き、折々炭を繼ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して來る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かゞみて衣物の裾の引ずるを、三角に取上げて前に縫附けてありしが、まざ／＼とその通りにて、縞目にも目覺えあり。あなやと思ふ間も無く、二人の女の坐れる爐の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくる／＼とまはりたり。母人は氣丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打臥したる座敷の方へ近より行くと思ふ程に、かの狂女のけたゝましき聲にて、おばあさんが來たと叫びたり。其餘の人々は此聲に睡を覺し只打驚くばかりなりしと云へり。

　　○マーテルリンクの「侵入者」を想ひ起さしむ。

二三　同じ人の二七日の逮夜《たいや》に、知音の者集りて、夜更くるまで念佛を唱へ立歸らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付《つき》正しく亡くなりし人の通りなりき。此は數多《あまた》の人見たる故に誰も疑はず。如何(19)なる執着のありしにや、終に知る人はなかりし也。

二四　村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳説を混じたるに非ざるか。

　　○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門又は族といふことなり。常陸國志に例あり、ホラマヘと云ふ語後に見ゆ。

二五　大同の祖先たちが、始めて此地方に到着せしは、恰も歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標繩《しめなは》を引き渡すとのことなり。

二六　柏崎の田圃のうちと稱する阿倍氏は殊に聞えたる舊家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一郷の神佛の像には此人の作りたる者多し。

二七　草地峯《はやちね》より出でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川と云ふ。其流域は即ち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端《はた》と云ふ家の先代の主人、宮古に行きての歸るさ、此川の原臺の淵と云ふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出で來べしとなり。此人請け合ひはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢へり。此手紙を開きよみて曰く、此を持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換へて取らすべしとて更に別の手紙を與へたり。これを持ちて沼に行き教の如く手を叩きしに、果して若き女出でて手紙を受け取り、其禮なりとて極めて小さき石臼を呉れたり。米を一粒入れて囘せば下より黄金出づ。此寶物の力にてその家稍々富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度に澤山の米をつかみ入れしかば、石臼は頻に自ら囘りて、終には朝毎に主人が此石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁《かたはら》に在り。家の名を池の端と云ふも其爲なりと云ふ。

(20)　　○此話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。

二八　始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ獵師にて、時は遠野の南部家｜入部《にふぶ》の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりしと。この獵師半分ばかり道を開きて、山の半腹に假小屋を作りて居りし頃、或日爐の上に餅を竝べ燒きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り來り、さも珍しげに餅の燒くるを見てありしが、終にこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。獵師も恐ろしければ自らも亦取りて與へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば歸りぬ。次の日も又來るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて爐の上に載せ置きしに、燒けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも來て、餅を取りて食ふこと昨日の如し。餅盡きて後其白石をも同じやうに口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。

　　○北上川の中古の大洪水に白髪水といふがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる燒石を食はせし祟なりと云ふ。此話によく似たり。

二九　?頭山《けいとうざん》は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にては又前藥師とも云ふ。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決して此山は掛けず。山口のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。極めて無法者にて、鉞《まさかり》にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は亂暴の振舞のみ多かりし人なり。或時人と賭をして一人にて前藥師に登りたり。歸りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居たり。前にあまたの金銀をひろげたり。此男の近よるを見て、氣色《けしき》ばみて振り返る、その眼の光極めて恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷ひて來たるなりと言へば、然らば送りて遣るべしとて先に立ち、麓近き處まで來り、眼を塞げと言ふまゝに、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたりと云ふ。

三〇　小國《をぐに》村の何某と云ふ男、或日早池峯に竹を伐りに行きしに、地竹《ぢだけ》の彩しく茂りたる中に、大なる男一人寢て居(21)たるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり。仰《あほ》に臥して大なる鼾をかきてありき。

　　○下閉伊郡小國村大字小國。

　　○地竹は深山に生ずる低き竹なり。

三一　遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。殊に女に多しとなり。

三二　千晩《せんば》ヶ嶽《たけ》は山中に沼あり。此谷は物すごく腥き臭《か》のする所にて、此山に入り歸りたる者はまことに少し。昔何の隼人と云ふ獵師あり。其子孫今もあり。白き鹿を見て之を追ひ此谷に千晩こもりたれば山の名とす。其白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢折れたり。其山を今｜片羽山《かたはやま》と云ふ。さて又前なる山へ來て終に死したり。其地を死助《しすけ》と云ふ。死助權現とて祀れるはこの白鹿なりと云ふ。

　　○宛然として古風土記をよむが如し。

三三　白望《しろみ》の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸を採りに行き山中に宿する者、よく此事に逢ふ。又谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の聲など聞ゆることあり。此山の大さは測るべからず。五月に萱を苅りに行くとき、遠く澄めば桐の花の咲き滿ちたる山あり。恰も紫の雲のたなびけるが如し。されども終に其あたりに近づくこと能はず。曾て茸を採りに入りし者あり。白望の山奧にて金の樋と金の杓《しやく》とを見たり。持ち歸らんとするに極めて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなはず。又來んと思ひて樹の皮を白くし栞《しをり》としたりしが、次の日人々と共に行きて之を求めたれど、終に其木のありかをも見出し得ずしてやみたり。

三四　白望の山續きに離森《はなれもり》と云ふ所あり。その小字《こあざ》に長者屋敷と云ふは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を燒く者ありき。或夜その小屋の垂菰《たれこも》をかゝげて、内を覗ふ者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。此あたりにても深夜に女の叫聲を聞くことは珍しからず。

三五　佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、(22)女の走り行くを見たり。中空を走るやうに思はれたり。待てちやアと二聲ばかり呼はりたるを聞けりとぞ。

三六　猿の經立《ふつたち》、御犬《おいぬ》の經立は恐ろしきものなり。御犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり。ある雨の日、小學校より歸る子ども此山を見るに、處々の岩の上に御犬うづくまりてあり。やがて首を下より押上ぐるやうにしてかはる／”＼吠えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしと云へり。御犬のうなる聲ほど物凄く恐ろしきものは無し。

三七　境木峠と和山峠との間にて、昔は駄賃馬を追ふ者、?々狼に逢ひたりき。馬方等は夜行には、大抵十人ばかりも群を爲し、その一人が牽く馬は一端綱《ひとはづな》とて大抵五六七匹までなれば、常に四五十匹の馬の數なり。ある時二三百ばかりの狼追ひ來り、其足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、其めぐりに火を燒きて之を防ぎたり。されど猶其火を躍り越えて入り來るにより、終には馬の綱を解き之を張り囘らせしに、穽《おとしあな》などなりとや思ひけん、それより後は中に飛び入らず。遠くより取圍みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。

三八　小友《をとも》村の舊家の主人にて今も生存せる某爺《なにがしぢい》と云ふ人、町より歸りに頻に御犬の吠ゆるを聞きて、酒に醉ひたればおのれも亦其聲をまねたりしに、狼も吠えながら跡より來るやうなり。恐ろしくなりて急ぎ家に歸り入り、門の戸を堅く鎖して打潜みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる聲やまず。夜明けて見れば、馬屋の土臺の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしを悉く食ひ殺してゐたり。此家はその頃より産稍々傾きたりとのことなり。

三九　佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より歸りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間も無きにや、そこよりはまだ湯氣立てり。組父の曰く、これは狼が食ひたるなり。此皮ほしけれども御犬は必ずどこか此近所に隱れて見てをるに相違なければ、取ることが出來ぬと云へり。

四〇　草の長さ三寸あれば狼は身を隱すと云へり。草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節ごとに變りて行くものなり。

(23)四一　和野の佐々木嘉兵衛、或年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り盡し山もあらは也。向ふの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走り來るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上りてありしに、其樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。

四二　六角牛山の麓にヲバヤ、板小屋など云ふ所あり。廣き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋｜飯豐《いひで》村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち歸りしに、その日より狼の飯豐衆《いひでし》の馬を襲ふことやまず。外の村々の人馬には聊かも害を爲さず。飯豐衆相談して狼狩を爲す。其中には相撲を取り平生力自慢の者あり。さて野に出でて見るに、雄の狼は遠くにをりて來らず。雌狼一つ鐡と云ふ男に飛び掛りたるを、ワツポロを脱ぎて腕に卷き、矢庭に其狼の口の中に突込みしに、狼之を?む。猶強く突き入れながら人を喚《よ》ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。其間に鐡の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鐡の腕骨を?み碎きたり。狼は其場にて死したれども、鐡も擔がれて歸り程なく死したり。

　　○ワツポロは上羽織のことなり。

四三　一昨年の遠野新聞にも此記事を載せたり。上郷村の熊と云ふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分して其跡を?《もと》め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてゝ熊に抱へ付き雪の上を轉びて、谷へ下る。連の男之を救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その際に獣の熊を打取りぬ。水にも溺れず、爪の傷は數ヶ所受けたれども命に障ることはなかりき。

四四　六角牛の峯續きにて、橋野と云ふ村の上なる山に金坑あり。この鑛山の爲に炭を燒きて生計とする者、これも笛の上手にて、ある日晝の間小屋に居り、仰向に寢轉びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰をかゝぐる者あり。(24)驚きて見れば猿の經立なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方へ走り行きぬ。

　　○上閉伊郡栗橋村大字橋野。

四五　猿の經立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂《まつやに》を毛に塗り砂を其上に附けてをる故、毛皮は鎧の如く鐵砲の彈も通らず。

四六　栃内村の林崎に住む何某と云ふ男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の經立あり、之を眞の鹿なりと思ひしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り來れり。膽潰れて笛を吹止めたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。

　　○オキとは鹿笛のことなり。

四七　此地方にて子供をおどす語に、六角牛の猿の經立が來るぞと云ふこと常の事なり。此山には猿多し。緒?《をがせ》の瀧を見に行けば、崖の樹の梢にあまた居り、人を見れば遁げながら木の實などを擲《なげう》ちて行くなり。

四八　仙人峠にもあまた猿をりて行人に戯れ石を打ち付けなどす。

四九　仙人峠は登り十五里降り十五里あり。其中程に仙人の像を祀りたる堂あり。此堂の壁には旅人がこの山中にて遭ひたる不思議の出來事を書き識すこと昔よりの習なり。例へば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髪を垂れたるに逢へり。こちらを見てにこと笑ひたりと云ふ類なり。又此所にて猿に惡戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢へりと云ふやうなる事をも記せり。

　　○この一里も小道なり。

五〇　死助《しすけ》の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しと云ふ花なり。五月閑古鳥の啼く頃、女や子ども之を探りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸漿《ほゝづき》の實のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊樂なり。

(25)五一　山には樣々の鳥住めど、最も寂しき聲の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。濱の大槌《おほづち》より駄賃附《だちんづけ》の者など峠を越え來れば、遙に谷底にて其聲を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴聲なり。

五二　馬追鳥は時鳥《ほとゝぎす》に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帶び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにクツゴコのやうなるかたあり。これも或長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に歸らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居る馬を追ふ聲なり。年により馬追鳥里に來て啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く聲を聞くなり。

　　○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。

五三　郭公《くわくこう》と時島とは昔有りし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて燒き、そのまはりの堅き所を自ら食ひ、中の軟かなる所を妹に與へたりしを、妹は姉の食ふ分は一層旨かるべしと想ひて、庖丁にて其姉を殺せしに、忽ちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所と云ふことなり。妹さてはよき所をのみおのれに呉れしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがて又これも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりと云ふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡邊にては時鳥はどちやへ飛んでたと啼くと云ふ。

　　○この芋は馬鈴薯のことなり。

五四　閉伊《へい》川の流には淵多く恐ろしき傳説少なからず。小國川との落合に近き所に、川井と云ふ村あり。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取落したり。主人の物なれば淵に入りて之を探りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の陰に家あり。奧の方に美しき娘｜機《はた》を織りて居たり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかり(26)たる我が主人の娘なり。斧は返すぺければ親が此所にあることを人に言ふな。其禮としては其方身上良くなり、奉公をせずともすむやうにして遣らんと言ひたり。その爲なるか否かは知らず、其後胴引など云ふ博奕《ばくち》に不思議に勝ち續けて金溜り、程なく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、此男は疾くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵の邊を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其噂は近郷に傳はりぬ。其頃より男は家産再び傾き、又昔の主人に奉公して年を經たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷《なんが》とも無く熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の效も無かりしとのことなり。

　　○下閉伊郡川井村大字川井、川井は勿論川合の義なるべし。

五五　川には川童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。松崎村の川端の家にて、二代まで續けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。其形極めて醜怪なるものなりき。女の壻の里は新張《にひばり》村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人に其始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に歸らんとするに、女川の汀《みぎは》に踞《うづくま》りてにこ／＼と笑ひてあり。次の日は晝の休に亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に其女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり。始めには壻が濱の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には壻と寢たる夜さへ來るやうになれり。川童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集りて之を守れども何の甲斐も無く、壻の母も行きて娘の側に寢たりしに、深夜にその娘の笑ふ聲を聞きて、さては來てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何にともすべきやうなかりき。其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽《うまふね》に水をたゝへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水掻あり。此娘の母も亦曾て川童の子を産みしことありと云ふ。二代や三代の因縁には非ずと言ふ者もあり。此家も如法の豪家にて○○○○○と云ふ士族なり。村會議員をしたることもあり。

(27)五六　上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確なる證とては無けれど、身内眞赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌はしければ棄てんとて之を携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、賣りて見せ物にせば金になるべきにとて立歸りたるに、早取り隱されて見えざりきと云ふ。

　　○道ちがへは道の二つに別るゝ所即ち追分なり。

五七　川の岸の砂の上には川童の足跡と云ふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などは殊に此事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人のゝやうに明らかには見えずと云ふ。

五八　小烏瀬川《こがらせがは》の姥子淵《をばこふち》の邊に、新屋《しんや》の家と云ふ家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でて其馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に來り、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中の者集りて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に惡戯をせぬと云ふ堅き約束をさせて之を放したり。其川童今は村を去りて相澤の瀧の淵に住めりと云ふ。

　　○此話などは類型全國に充滿せり。苟くも川童のをるといふ國には必ず此話あり。何の故にか。

五九　外の國にては川童の顔は青しと云ふやうなれど、遠野の川童は面《つら》の色｜赭《あか》きなり。佐々木氏の曾祖母、穉《をさな》かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、眞赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にて在り。此家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

六〇　和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐?々出でて雉子を追ふ。あまり惡《にく》ければ之を撃たんと思ひ狙ひたるに、狐は此方を向きて何とも無げなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騷ぎして銃を(28)檢せしに、筒口より手元の處までいつの間にか悉く土をつめてありたり。

六一　同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢へり。白鹿は神なりと云ふ言傳へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名譽の獵人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手應へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騷ぎして、平生魔除けとして危急の時の爲に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を卷き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。數十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障《ましやう》の仕業なりけりと、此時ばかりは獵を止めばやと思ひたりきと云ふ。

六二　又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ繩をおのれと木のめぐりに三圍《みめぐり》引きめぐらし、鐵砲を竪に抱へてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽のやうに羽ばたきして、其木の梢に蔽ひかゝりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり。此時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかゝる不思議に遭ひ、其度毎に鐵砲を止めんと心に誓ひ、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思ひ返して、年取るまで獵人の業を棄つること能はずとよく人に語りたり。

六三　小國《をぐに》の三浦某と云ふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日｜門《かど》の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奧深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き?多く遊べり。其庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舍ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終に玄關より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取出したり。奧の座敷には火鉢ありて鐵瓶の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしや山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、驅け出して家に歸りた(29)り。此事を人に語れども實《まこと》と思ふ者も無かりしが、又或日我家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて來たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器と爲したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄經ちてもケセネ盡きず。家の者も之を怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き當りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて來べきものなり。其人に授けんが爲にかゝる家をば見する也。女が無慾にて何物をも盗み來ざりしが故に、この椀自ら流れて來たりしなるべしと云へり。

　　○此カドは門には非ず。川戸にて門前を流るゝ川の岸に水を汲み物を洗ふ爲家ごとに設けたる所なり。

　　○ケセネは米稗其他の穀物を云ふ。キツは其穀物を容るゝ箱なり。大小種々のキツあり。

六四　金澤《かねさは》村は白望《しろみ》の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奧にて、人の往來する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某かゝが家に娘の壻を取りたり。此壻實家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨヒガに行き當りぬ。家の有樣、牛馬?の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄關に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鐵瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小國の村里に出でたり。小國にては此話を聞きて實とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち來り長者にならんとて、壻殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奧に入り、こゝに門ありきと云ふ處に來たれども、眼にかゝるものも無く空しく歸り來りぬ。その壻も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

　　○上閉伊郡金澤村。

六五　早池峯《はやちね》は御影石の山なり。此山の小國に向きたる側に安倍ヶ城と云ふ岩あり。險しき崖の中程にありて、人な(30)どはとても行き得べき處に非ず。こゝには今でも安倍貞任の母住めりと言傳ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆと云ふ。小國、附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんなど云ふ。

六六　同じ山の附馬牛よりの登り口にも亦安倍屋敷と云ふ巖窟あり。兎に角早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小國より登る山口にも八幡太郎の家來の討死したるを埋めたりと云ふ塚三つばかりあり。

六七　安倍貞任に關する傳説は此外にも多し。土淵村と昔は橋野と云ひし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、廣く平なる原あり。其あたりの地名に貞任と云ふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷せし所なりと云ふ。貞任が陣屋を構へし址とも言ひ傳ふ。景色よき所にて東海岸よく見ゆ。

六八　土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は榮えたる家なり。今も屋敷の周圍には堀ありて水を通ず。刀劍馬具あまたあり。當主は安倍與右衛門、今も村にては二三等の物持にて、村會議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵《しやく》に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈《かはくま》に館《たて》の址あり。八幡澤《はちまんざは》の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是なり。これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡澤の館の方に向へる峯にも亦一つの館址あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十餘町を隔つ。矢戰をしたりと云ふ言傳へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝《にたかひ》と云ふ部落あり。戰の當時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキ／＼と動搖せり。或時八幡太郎こゝを通りしに、敵味方何れの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川と云ふ。之を隔てゝ足洗川村あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ。

　　○ニタカヒはアイヌ語のニタト即ち濕地より出しなるべし。地形よく合へり。西の國々にてはニタともヌタともいふ皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝といふ字あり。

六九　今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は當主を大洞萬之丞《おほほらまんのじよう》と云ふ。此人の養母名はおひで、八十(31)を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の舊暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある處に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舍に行きて寢ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を惡《にく》みて斧を以て後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乘りたるまゝ天に昇り去れり。オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家《ざいけ》權十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村に在りと云へり。

七〇　同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマの在る家には必ず伴ひて在《いま》す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみ在る家もあり。又家によりて神の像も同じからず。山口の大同に在るオクナイサマは木像なり。山口の、辷石《はねいし》たにえと云ふ人の家なるは掛軸なり。田圃のうちにいませるは亦木像なり。飯豐の大同にもオシラサマは無けれどオクナイサマのみはいませりと云ふ。

七一　此話をしたる老女は熱心なる念佛者なれど、世の常の念佛者とは樣かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を傳ふることはあれども、互に嚴重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも關係はなくて、在家の者のみの集りなり。其人の數も多からず。辷石たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿彌陀佛の齋日《さいにち》には、夜中人の靜まるを待ちて會合し、隱れたる室にて祈?す。魔法まじなひを善くする故に、郷黨に對して一種の權威あり。

七二　栃内村の字｜琴畑《ことばた》は深山の澤に在り。家の數は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり。此より栃内の民居まで(32)二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨ざらし也。之をカクラサマと云ふ。村の子供之を玩物《もてあそびもの》にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり。或は子供を叱り戒めて之を制止する者あれば、却りて祟を受け病むことありと云へり。

　　○神體佛像子供と遊ぶを好み之を制止するを怒り玉ふこと外にも例多し。遠江小笠都大池村東光寺の藥師佛（掛川志）、駿河安倍郡豐田村曲金の軍陣坊社の神（新風土記）、又は信濃筑摩郡射手の彌陀堂の木佛（信濃奇勝録）など是なり。

七三　カクラサマの木像は遠野郷のうちに數多あり。栃内の字｜西内《にしない》にもあり。山口分の大洞と云ふ所にもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人の之を信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭の飾の有樣も不分明なり。

七四　栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無恰好なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分るなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常います神をかく唱ふることゝなれり。

七五　離森の長者屋敷にはこの數年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。其小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげた／＼と笑ふ者ありて、淋しさに堪へざる故、終に工場を大字山口に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出の爲に小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者何れへか迷ひ行き、歸りて後茫然としてあること?々なり。かゝる人夫四五人もありて其後も絶えず何方へか出でて行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が來て何處へか連れ出すなり。歸りて後は二日も三日も物を覺えずと云へり。

七六　長者屋敷は昔時長者の住みたりし址なりとて、其あたりにも糠森と云ふ山あり。長者の家の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五つ葉のうつ木ありて、其下に黄金を埋めてありとて、今も其うつぎの有處《ありか》を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、此あたりには鐡を吹きたる澤あり。恩�ｺ《おんどく》の金山もこれより(33)山續きにて遠からず。

　　○諸國のヌカ塚スクモ塚には多くは之と同じき長者傳説を伴へり。又黄金埋藏の傳説も諸國に限なく多くあり。

七七　山口の田尻長三郎と云ふは土淵村一番の物持なり。當主なる老人の話に、此人四十あまりの頃、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念佛を終り各々歸り行きし跡に、自分のみは話好なれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落の石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なれば其光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。此人大膽者にて足にて搖がして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨げて外にせん方も無ければ、終に之を跨ぎて家に歸りたり。次の朝行きて見れば勿論其跡方もなく、又誰も外に之を見たりと云ふ人は無かりしかど、その枕にしてありし石の形と在どころとは昨夜の見覺えの通りなり。此人の曰く、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯足にて觸れたるのみなりし故、更に何物のわざとも思ひ付かずと。

七八　同じ人の話に、家に奉公せし山口の長藏なる者、今も七十餘の老翁にて生存す。曾て夜遊びに出でて遲くかへり來たりしに、主人の家の門は大槌往還に向ひて立てるが、この門の前にて濱の方より來る人に逢へり。雪合羽を着たり。近づきて立ちとまる故、長藏も怪しみて之を見たるに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすつと反れて行きたり。かしこには垣根ありし筈なるにと思ひて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、此と同じ時刻に新張村の何某と云ふ者、濱よりの歸り途に馬より落ちて死したりとのことなり。

七九　この長藏の父をも亦長藏と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに歸り來り、門の口より入りしに、洞前《ほらまへ》に立てる人影あり。懷手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねと云へり。おつねの所へ來たるヨバヒトでは無いかと思ひ、つか／＼と近よりしに、

　

(34)〔家の間取り図あり、省略〕

　

(35)裏の方へは遁げずして、却つて右手の玄關の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懷手のまゝ後ずさりして玄關の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり。されど長藏は猶不思議とも思はず、其戸の隙に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり。茲に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄關の雲壁《くもかべ》にひたと附きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に觸るゝばかりにて、其眼の球は尺餘も、拔け出でてあるやうに思はれたりと云ふ。此時は只恐ろしかりしのみにて、何事の前兆にても非ざりき。

　　○ヨバヒトは呼ばひ人なるべし。女に思ひを運ぶ人をかく云ふ。

　　○雲壁はなげしの外側の壁なり。

八〇　着の話をよく呑込む爲には、田尻氏の家のさまを圖にする必要あり〔図あり、省略〕。遠野一郷の家の建て方は何れも之と大同小異なり。

　門は此家のは北向なれど、通例は東向なり。右の圖にて厩舍のあるあたりに在るなり。門のことを城前《じやうまへ》と云ふ。屋敷のめぐりは畠にて、圍墻を設けず。主人の寢室とウチとの間に小さく暗き室あり。之を座頭部屋と云ふ。昔は家に宴會あれば必ず座頭を喚びたり。之を待たせ置く部屋なり。

　　○此地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり。此家などそのよき例なり。

八一　栃内の字野崎に前川萬吉と云ふ人あり。二三年前に三十餘にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて歸

　

(36)〔家の間取り図あり、省略〕

　

(37)りしに、門の口より廻り縁に沿ひてその角迄來たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁を見れば、ひたと之に附きて寢たる男あり。色の蒼ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしが此も何の前兆にでも非ざりき。田尻氏の息子丸吉此人と懇親にて之を聞きたり。

八二　これは田尻丸吉と云ふ人が自ら遭ひたることなり。少年の頃ある夜｜常居《じやうゐ》より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽かに茫としてはあれど、衣類の縞も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き當り、戸のさんにも觸りたり。されど我手は見えずして、其上に影のやうに重なりて人の形あり。その顔の所へ手を遣れば又手の上に顔見ゆ。常居に歸りて人々に話し、行燈を持ち行きて見たれば、既に何物も在らざりき。此人は近代的の人にて怜悧なる人なり。又虚言を爲す人にも非ず。

八三　山口の大同、大洞萬之丞の家の建てざまは少しく外の家とはかはれり。其圖前の頁に出す。玄關は巽の方に向へり。極めて古き家なり。此家には出して見れば祟ありとて開かざる古文書の葛籠《つゞら》一つあり。

　

八四　佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。此人の青年の頃と云へば、嘉永の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた來住してありき。釜石にも山田にも西洋館あり。船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教は密々に行はれ、遠野郷にてもこれを奉じて磔になりたる者あり。濱に行きたる人の話に、異人はよく抱き合ひては嘗め合ふ者なりなど云ふことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合の子中々多かりしと云ふことなり。

八五　土淵村の柏崎にては兩親とも正しく日本人にして白子《しらこ》二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七位なるべし。家にて農業を營む。語音も土地の人とは同じからず、聲細くして鋭し。

八六　土淵村の中央にて役場小學校などの在る所を字｜本宿《もとじゅく》とうんふ。此所に豆腐屋を業とする政と云ふ者、今三十六七なるべし。此人の父大病にて死なんとする頃、此村と小烏瀬川を隔てたる字下栃内に普請ありて、地固めの堂突を爲(38)す所へ、夕方に政の父獨來りて人々に挨拶し、おれも堂突を爲すべしとて暫時仲間に入りて仕事を爲し、稍々暗くなりて皆と共に歸りたり。あとにて人々あの人は大病の筈なるにと少し不思議に思ひしが、後に聞けば其日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、其時刻は恰も病人が息を引き取らんとする頃なりき。

八七、人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩ひして命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺に訪ひ來れり。和尚鄭重にあしらひ茶などすゝめたり。世間話をしてやがて歸らんとする樣子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でて家の方に向ひ、町の角を廻りて見えずなれり。其道にてこの人に逢ひたる人まだ外にもあり。誰にもよく挨拶して常の體《てい》なりしが、此晩に死去して勿論其時は外出などすべき樣態にてはあらざりし也。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶碗を置きし處を改めしに、疊の敷合せへ皆こぼしてありたり。

八八　此も似たる話なり。土淵村　　大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の觸頭《ふれがしら》なり。或日の夕方に村人何某と云ふ者、本宿より來る路にて何某と云ふ老人にあへり。此老人はかねて大病をして居る者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二三日氣分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にて又言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね來りし故出迎へ、茶を進め暫く話をして歸る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見れば亦茶は疊の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。

八九　山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾を廻るなり。田圃に續ける松林にて、柏崎の人家見ゆる邊より雜木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、參詣の路は林の中に在り。登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。其旁には又一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言傳ふる所なり。和野の何某と云ふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り來る丈高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しに其人の顔の所を目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行逢ひぬ。先方は思ひ掛け(39)ざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀きて且つ如何にも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走り付きたり。

　　○遠野郷には山神塔多く立てり、その處は曾て山神に逢ひ又は山神の祟を受けたる場所にて神をなだむる爲に建てたる石なり。

九〇　松崎村に天狗森と云ふ山あり。其麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔《くろ》に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顔は眞赤なるが出で來れり。若者は氣輕にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面惡く思ひ、思はず立上りてお前はどこから來たかと問ふに、何の答もせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、力自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて氣を失ひたり。夕方に正氣づきて見れば無論その大男は居らず。家に歸りて後人に此事を話したり。其秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を苅りに行き、さて歸らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奧にて手も足も一つ一つ拔き取られて死して居たりと云ふ。今より二三十年前のことにて、此時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。

九一　遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人｜綽名《あだな》して鳥御前と云ふ。早池峯、六角牛の木や石や、すべて其形?と在所とを知れり。年取りて後茸採りにとて一人の連と共に出でたり。この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出て來ると云ふ評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山《むけえやま》と云ふ山より、綾織村の續石《つゞきいし》とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、兩人別れ／＼になり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰も秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり。彼等は鳥御前の近づくを見て、手を擴げて押戻すやうなる手つきを爲し制止したれども、それにも構はず行きたるに女は男の胸に縋るやうにしたり。事のさまよ(40)り眞の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば戯れて遣らんとて腰なる切刃を拔き、打ちかゝるやうにしたれば、その色赭き男は足を擧げて蹴たるかと思ひしが、忽ちに前後を知らず。連なる男は之を探しまはりて谷底に氣絶してあるを見付け、介抱して家に歸りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かゝる事は今までに更になきことなり。おのれは此爲に死ぬかも知れず、外の者には誰にも言ふなと語り、三日程の間病みで身まかりたり。家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、山の神たちの遊べる所を邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりと言へり。此人は伊能先生なども知合なりき。今より十餘年前の事なり。

九二　昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り來るに逢へり。色は黒く眼はきら／＼として、肩には麻かと思はるゝ古き淺葱《あさぎ》色の風呂敷にて小さき包を負ひたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より聲を掛けたるに、小國さ行くと答ふ。此路は小國へ越ゆべき方角には非ざれば、立ちとまり不審する程に、行き過ぐると思ふ間もなく、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々遁げ歸りたりと云へり。

九三　これは和野の人菊池菊藏と云ふ者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より來たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、絲藏と云ふ五六歳の男の兒病氣になりたれば、晝過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負ふ六角牛の峯續きなれば山路は樹深く、殊に遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウトになりて兩方は岨《そば》なり。日影は此岨に隱れてあたり稍々薄暗くなりたる頃、後の方より菊藏と呼ぶ者あるに振返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり。顔は赭く眼の光りかゞやけること前の話の如し。お前の子はもう死んで居るぞと云ふ。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早其姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ひて歸りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。

(41)　　○ウトとは兩側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸國にでウタウ坂謠坂などいふはすべて此の如き小さき切通しのことならん。

九四　この菊藏、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞はれたる殘りの餅を懷に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪の藤七と云ふ大酒呑にて彼と仲善の友に行き逢へり。そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり。藤七はにこ／＼としてその芝原を指し、こゝで相撲を取らぬかと云ふ。菊藏之を諾し、二人草原にて暫く遊びしが、この藤七如何にも弱く輕く自由に抱へては投げらるゝ故、面白きまゝに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなはず、さあ行くべしとて別れたり。四五間も行きて後心付きたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれど無し。始めて狐ならんかと思ひたれど、外聞を恥ぢて人にも言はざりしが、四五日の後酒屋にて藤七に逢ひ其話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は濱へ行きてありしものをと言ひて、愈々狐と相撲を取りしこと露顯したり。されど菊藏は猶他の人々には包み隱してありしが、昨年の正月の休に人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれも實はと此話を白?し、大いに笑はれたり。

　　○象坪は地名にして且つ藤七の名字なり。象坪と云ふ地名のこと石神問答の中にて之を研究したり。

九五　松崎の菊池某と云ふ今年四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りては我庭に移し植ゑ、形の面白き岩などは重きを厭はず家に擔ひ歸るを常とせり。或日少し氣分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までつひに見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道樂なれば之を持ち歸らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。恰も人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさの餘之を負ひ、我慢して十間ばかり歩みしが、氣の遠くなる位重ければ怪しみを爲し、路の旁に之を立て少しくもたれかゝるやうにしたるに、そのまゝ石と共にすつと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるやうに思ひしが實に明るく清き所にて、あたりに色々の花咲き、しかも何處とも無く大勢の人聲聞えたり。されど石は猶益々昇り行き、終には昇り切りたるか、何事も覺えぬやうになり(42)たり。其後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前の如く不思議の石にもたれたるまゝにてありき。此石を家の内へ持ち込みては如何なる事あらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ歸りぬ。この石は今も同じ所に在り。折々は之を見て再びほしくなることありと云へり。

九六　遠野の町に芳公馬鹿《よしこうばか》とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。此男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾ひ、之を捻りてつく／”＼と見つめ又は之を嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりて其手を喚ぎ、何物にても眼の先まで取り上げ、にこ／＼として折々之を嗅ぐなり。此男往來をあるきながら急に立ち留り、石などを拾ひ上げて之をあたりの人家に打ち付け、けたゝましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすれば其晩か次の日か物を投げ付けられたる家火を發せざることなし。同じこと幾度と無くあれば、後には其家々も注意して豫防を爲すと雖、終に火事を免れたる家は一軒も無しと云へり。

九七　飯豐《いひで》の菊池松之丞と云ふ人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、圖らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつゝ門を入れば、紅の芥子の花咲滿ち、見渡す限も知らず。いよ／＼心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前も來たのかと云ふ。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も來たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今來てはいけないと云ふ。此時門の邊にて騷しく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限なけれど、據なければ心も重くいや／＼ながら引返したりと思へば正氣付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそゝぎて喚生かしたるなり。

九八　路の傍に山の神、田の神、塞《さへ》の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。又早池峯山六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも濱に殊に多し。

(43)九九　土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字｜火石《ひいし》に在り。代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、學者にて著作多く、村の爲に盡したる人なり。清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の濱へ壻に行きたるが、先年の大海嘯《おほつなみ》に遭ひて妻と子とを失ひ、生き殘りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布《し》きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遙々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり。男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が壻に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を變へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦《をうら》へ行く道の山陰を廻《めぐ》り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて歸りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

一〇〇　船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉利吉里《きりきり》より歸るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢ふ。見れば我妻なり。されどもかゝる夜中に獨此邊に來べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき聲を立てゝ死したり。暫くの間は正體を現はさゞれば流石に心に懸り、後の事を連の者に頼み、おのれは馳せて家に歸りしに、妻は事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり歸りの遲ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるゝと思ひて目覺めたりと云ふ。さてはと合點して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連の者が見てをる中につひに一匹の狐となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獣の身を傭ふことありと見ゆ。

一〇一　旅人｜豐間根《とよまね》村を過ぎ、夜更け疲れたれは、知音の者の家に燈火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、(44)よき時に來合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何にせんかと思ひし所なり、暫くの間頼むと云ひて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千萬なる話なれど是非も無く、圍爐裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奧の方に寢させたるが、ふと見れば床の上にむく／＼と起直る。膽潰れたれど心を鎭め靜かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐の如き物あり、面《つら》をさし入れて頻に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め竊かに家の外に出で、背戸の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立《つまた》てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之を打ち殺したり。

　　○下閉伊郡豐間根村大字豐間根。

一〇二　正月十五日の晩を小正月と云ふ。宵の程は子供等福の神と稱して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明の方から福の神が舞込んだと唱へて餅を貰ふ習慣あり。宵を過ぐれば此晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言ひ傳へてあれば也。山口の字｜丸古立《まるこだち》におまさと云ふ今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。如何なるわけにてか唯一人にて福の神に出で、處々をあるきて遲くなり、淋しき路を歸りしに、向ふの方より丈の高き男來てすれちがひたり。顔はすてきに赤く眼はかゞやけり。袋を捨てゝ遁げ歸り大いに煩ひたりと云へり。

一〇三　小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の滿月の夜は、雪女が出でて遊ぶとも云ふ。童子をあまた引連れて來ると云へり。里の子ども冬は近邊の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く歸れと戒めらるゝは常のことなり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。

一〇四　小正月の晩には行事甚だ多し。月見と云ふは六つの胡桃の實を十二に割り一時に爐の火にくべて一時に之を引上げ、一列にして右より正月二月と敷ふるに、滿月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直に黒くなり、風ある月にはフー／＼と音をたてゝ火が振ふなり。何遍繰返しても同じことなり。村中何れの家にても同じ(45)結果を得るは妙なり。翌日は此事を語り合ひ、例へば八月の十五夜風とあらば、其歳の稻の苅入を急ぐなり。

　　○五穀の占、月の占多少の?リエテを以て諸國に行はる。陰陽道に出でしものならん。

一〇五　又｜世中見《よなかみ》と云ふは、同じく小正月の晩に、色々の米にて餅をこしらへて鏡と爲し、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋を被せ置きて翌朝之を見るなり。餅に附きたる米粒の多きもの其年は豐作なりとして、早中晩の種類を擇び定むるなり。

一〇六　海岸の山田にては蜃氣棲年々見ゆ。常に外國の景色なりと云ふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往來眼ざましきばかりなり。年毎に家の形など聊も違ふこと無しと云へり。

一〇七　上郷村に河ぷちのうちと云ふ家あり。早瀬川の岸に在り。此家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾ひてありしに、見馴れぬ男來り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のやうなる人なり。娘は此日より占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりと云へり。

一〇八　山の神の乘り移りたりとて占を爲す人は所々に在り。附馬牛村にも在り。本業は木挽《こびき》なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は發狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を讀むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みに來たる人と世間話を爲し、その中にふと立ちて常居の中をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顔は少しも見ずして心に浮びたることを云ふなり。當らずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が燒くるとか言ふなり。歸りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝へず。

一〇九　盆の頃には雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐《ちまた》に送り行きて立つ。紙にて顔を描き瓜にて陰陽の形を作り添へなどす。蟲祭の藁人形にはかゝることは無く其形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋《とうや》を(46)擇び定め、里人集りて酒を飲みて後、一同笛太鼓にて之を道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。之を高く吹く。さて其折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」と云ふ。

　　○東國輿地勝覽に依れば韓國にても�賜dを必ず城の北方に作ること見ゆ。共に玄武神の信仰より來れるなるべし。

一一〇　ゴンゲサマと云ふは、神樂舞の組毎に一つづゝ備はれる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。甚だ御利生のあるものなり。新張《にひばり》の八幡社の神樂組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神樂組のゴンゲサマと、曾て途中にて爭を爲せしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今も無し。毎年村々を舞ひてあるく故、之を見知らぬ者なし。ゴンゲサマの靈驗は殊に火伏《ひぶせ》に在り。右の八幡の神樂組曾て附馬牛村に行きて日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快く之を泊めて、五升桝を伏せて其上にゴンゲサマを座ゑ置き、人々は臥したりしに、夜中にがつ／＼と物を?む音のするに驚きて起きて見れば、軒端に火の燃え付きてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰ひ消してありし也と。子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を囓みてもらふことあり。

一一一　山口、飯豐、附馬牛の字荒川東禅寺及｜火渡《ひわたり》、青笹の字中澤竝に土淵村の宇土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相對して必ず蓮臺野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮臺野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊《ぬら》したり。その爲に今も山口土淵邊にては朝《あした》に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより歸ることをハカアガリと云ふと云へり。

　　○ダンノハナは壇の塙なるべし。即ち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭る爲の塚なりと信ず。蓮臺野も此類なるべきこと「石神問答」中に言へり。

一一二　ダンノハナは昔｜館《たて》の有りし時代に囚人を斬りし場所なるべしと云ふ。地形は山口のも土淵飯豐のも略々同樣にて、村境の岡の上なり。仙臺にも此地名あり。山口のダンノハナは大洞《おほほら》へ越ゆる丘の上にて館址よりの續きなり。

(47)蓮臺野は之と山口の民居を隔てゝ相對す。連臺野の四方はすべて澤なり。東は即ちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷と云ふ。此所には蝦夷屋敷と云ふ四角に凹みたる所多く有り。其跡極めて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出る處山口に二ヶ所あり。他の一は小字をホウリヤウと云ふ。こゝの土器と蓮臺野の土器とは樣式全然殊なり。後者のは技巧聊かも無く、ホウリヤウのは模樣なども巧なり。埴輪もこゝより出づ。又石斧石刀の類も出づ。蓮臺野には蝦夷錢とて土にて錢の形をしたる徑二寸ほどの物多く出づ。是には單純なる渦紋《うづもん》などの模樣あり。字ホウリヤウには丸玉管玉も出づ。こゝの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮臺野のは原料色々なり。ホウリヤウの方は何の跡と云ふことも無く、狹き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田と成れり。蝦夷屋敷は此兩側に連りてありし也と云ふ。此あたりに掘れば祟ありと云ふ場所二ヶ所ほどあり。

　　○外の村々にても二所の地形及關係之に似たりと云ふ。

　　○星谷と云ふ地名も諸國に在り星を祭りし所なり。

　　○ホウリャウ權現は遠野を始め奧羽一圓に祀らるゝ神なり。蛇の神なりと云ふ。名義を知らず。

一一三　和野にジャウヅカ森と云ふ所あり。象を埋めし場所なりと云へり。此所だけには地震なしとて、近邊にては地震の折はジャウヅカ森へ遁げよと昔より言ひ傳へたり。此は確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。之を掘れば祟ありと云ふ。

　　○ジャウヅカは定塚、庄塚又は鹽塚などとかきて諸國にあまたあり。是も境の神を祀りし所にて地獄のシャウツカの奪衣婆の話などと關係あること石神問答に詳にせり。又象坪などの象頭神とも關係あれば象の傳説は由なきに非ず、塚を森といふことも東國の風なり。

一一四　山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽ゑめぐらし其口は東方に向ひて門《もん》口めきたる所あり。其中程に大なる青石あり。曾て一たび其下を掘りたる者ありしが、何者をも發見せず。後再び之を試みし者(48)は大なる瓶あるを見たり。村の老人たち大いに叱りければ、又もとのまゝに爲し置きたり。館の主の墓なるべしと云ふ。此所に近き館の名はボンシャサの館と云ふ。幾つかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻らせり。寺屋敷砥石森など云ふ地名あり。井の跡とて石垣殘れり。山口孫左衛門の祖先こゝに住めりと云ふ。遠野古事記に詳かなり。

一一五　御伽話のことを昔々と云ふ。ヤマハヽの話最も多くあり。ヤマハヽは山姥のことなるべし。其一つ二つを次に記すべし。

一一六　昔々ある所にトヽとガヽとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が來ても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人爐にあたりすくみて居たりしに、眞晝間に戸を叩きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇《おど》す故に、是非なく戸を明けたれば入り來たるはヤマハヽなり。爐の横座に蹈みはたかりて火にあたり、飯をたきて食はせよと云ふ。其言葉に從ひ膳を支度してヤマハヽに食はせ、其間に家を遁げ出したるに、ヤマハヽは飯を食ひ終りて娘を追ひ來り、追々に其間近く今にも背《せな》に手の觸るゝばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱して呉れよと頼み、苅り置きたる柴の中に隱れたり。ヤマハヽ尋ね來りて、どこに隱れたかと柴の束をのけんとして柴を拘へたるまゝ山より滑り落ちたり。其隙にこゝを遁れて又萱を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハヽにぼつかけられてあるなり、隱して呉れよと頼み、苅り置きたる萱の中に隱れたり。ヤマハヽは又尋ね來りて、どこに隱れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまゝ山より滑り落ちたり。其隙に又こゝを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。此よりは行くべき方も無ければ、沼の岸の大木の梢に昇りゐたり。ヤマハヽはどけえ行つたとて遁がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。此間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃《からうど》のありし中へ隱してもらひたる所へ、ヤマハヽ又飛び來り娘のありかを問へども隱(49)して知らずと答へたれば、いんね來ぬ筈は無い、人くさい香がするものと云ふ。それは今雀を炙つて食つた故なるべしと言へば、ヤマハヽも納得してそんなら少し寢ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寢たり。家の女は之に鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハヽに連れて來られたる者なれば共々に之を殺して里へ歸らんとて、錐を紅《あか》く燒きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハヽはかくとも知らず、只二十日鼠が來たと言へり。それより湯を煮立てゝ燒錐の穴より注ぎ込みて、終に其ヤマハヽを殺し二人共に親々の家に歸りたり。昔々の話の終りは何れもコレデドンドハレと云ふ語を以て結ぶなり。

一一七　昔々これもある所にトヽとガヽと、娘の嫁に行く支度を買ひに町へ出で行くとて戸を鎖し、誰が來ても明けるなよ、はァと答へたれば出でたり。晝の頃ヤマハヽ來りて娘を取りて食ひ、娘の皮を被り娘になりて居る。夕方二人の親歸りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ來たりし色々の支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鷄羽ばたきして、糠屋《ぬかや》の隅ッ子見ろぢや、けゝうと啼く。はて常に變りたる鷄の啼きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハヽのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするとき又鷄啼く。其聲は、おりこひめこを載せなえでヤマハヽのせた、けけうと聞ゆ。之を繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハヽを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。

　　○糠星は物おきなり。

一一八　紅皿缺皿《べにざらかけざら》の話も遠野郷に行はる。只缺皿の方はその名をヌカボと云ふ。ヌカボは空穗《うつぼ》のことなり。繼母に惡まれたれど神の惠ありて、終に長者の妻となると云ふ話なり。エピソードには色々の美しき繪樣《ゑやう》あり。折あらば詳しく書記すべし。

(50)一一九　遠野郷の獅子踊に古くより用ゐたる歌の曲あり。村により人によりて少しづゝの相異あれど、自分の聞きたるは次の如し。百年あまり以前の筆寫なり。

　　○獅子踊はさまで此地方に古きものに非ず。中代之を輸入せしものなることを人よく知れり。

　

　　　　　　　　　橋ほめ

一　　まゐり來て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの

一　　此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで

　

　　　　　　　　　門ほめ

一　　まゐり來て此もんを見申せや、仏の木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門

一　　門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい

　　　　　　　　　○

一　　まゐり來てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら

一　　建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也

　　　　　　　　　小島ぶし

一　　小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門

一　　白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい

一　　八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松

一　　から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども呑めどもつきひざるもの

一　　あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人

(51)一　　一天からおづるちよ硯水、まつて立たれる

　　　　　　　　　馬屋ほめ

一　　まゐり來てこの御臺所見申せや、め釜を釜に釜は十六

一　　十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る

一　　其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり

一　　かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする

　　　　　　　　　○

一　　此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし

一　　われ／＼はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり

一　　しやうぢ申せや限なし、一禮申して立てや友だつ

　　　　　　　　　桝形ほめ

一　　まゐり來てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也

一　　まゐり來て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申

　　　　　　　　　町ほめ

一　　參り來て此お町を見申せや、竪町十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ

　　○出羽の字も實は不明なり。

　　　　　　　　　けんだんほめ

一　　まゐり來てこのけんだん樣を見申せや、御町間中にはたを立前

一　　まいは立町油町

(52)一　　けんだん殿は二かい座敷に晝寢すて、錢を枕に金の手遊

一　　參り來てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札

一　　高き處は城と申し、ひくき處は城下と申す也

　　　　　　　　　橋ほめ

一　　まゐり來てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし

　　　　　　　　　上ほめ

一　　まゐり來てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本

一　　扇とりすゞ取り、上さ參らばりそうある物

　　○すゞは數珠、りそうは利生か。

　　　　　　　　　家ほめ

一　　こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち

　　○こりばすら文字不分明。

　　　　　　　　　浪合

一　　此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし

一　　おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさらゝすかれ

　　○雲繝縁、高麗縁なり。

一　　まぎゑの臺に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く

一　　十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく

一　　この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる

(53)一　　さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ

一　　正ぢ申や限なし、一禮申て立や友たつ、京

　　　　　　　　　柱懸り

一　　仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない※［二の字点］

一　　すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる※［二の字点］

　　○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のやうなり。

一　　これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの※［二の字点］

　　○ちのみがきは鹿の角磨きなるぺし。

一　　松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの※［二の字点］

　　○ちたは蔦。

一　　松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶろりふぐれる※［二の字点］

一　　京で九貫のから繪のびよぼ、三よへにさらりたてまはす

　　○びよぼは屏風なり。三よへは三四重か、此歌最もおもしろし。

　　　　　　　　　めず※［二の字点］ぐり

一　　仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ※［二の字点］

　　○めず　※［二の字点］ぐりは鹿の妻擇びなるべし。

一　　鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな※［二の字点］

一　　女鹿たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる※［二の字点］

　　○して、字は〆てとあり。不明。

(54)一　　うるすやな風はかすみを吹き拂て、今こそ女鹿あけてたちねる※［二の字点］

　　○うるすやなは嬉しやな也。

一　　何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる※［二の字点］

一　　笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおびき出さる

一　　女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの※［二の字点］

一　　奧のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候※［二の字点］

一　　女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな※［二の字点］

一　　松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの※［二の字点］

一　　松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる※［二の字点］

一　　沖のと中の濱す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物ゝ

　　　　　　　　　なげくさ

一　　なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい

一　　この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て寶遊ばし※［二の字点］

一　　この御酒を如何な御酒だと思し召す、おどに聞いしが※［二の字点］菊の酒※［二の字点］

一　　此錢を如何な錢たと思し召す、伊勢お八まち餞熊野あの遣ひあまりか※［二の字点］

一　　此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし

　　○播磨檀紙にや。

一　　あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなりゝ、おりめにそたかさなる

　　○いぢくなりはいづこなるなり。三内の字不明。假にかくよめり。

　

　

(55)　　　山の人生

　

(57)　　　　　自序

　

　山の人生と題する短い研究を、昨年朝日グラフに連載した時には、一番親切だと思つた友人の批評が、面白さうだがよく解らぬといふのであつた。あゝして胡麻かすのだらうといふ類の酷評も、少しはあつたやうに感じられた。勿論甚だ六つかしくして、明晰に書いて見やうも無いのではあつたが、若しまだ出さなかつた材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくして見たら、あれ程にはあるまいといふのが、此書の刊行にあせつた眞實の動機であつた。ところが書いて居るうちに、自分にも一層解釋しにくゝなつた點が現れたと同時に、二十年も前から考へて居た問題なるにもかゝはらず、今になつて突然として心付くやうなことも大分あつた。從つて此一書の、自分の書齋生活の記念としての價値は少し加はつたが、愈々以て前に作つた荒筋の間々へ、切れ／”＼の追加をする方法の、不適當であることが顯著になつた。併し之を書き改めるが爲に費すべき時間は、もう爰には無いのである。其上に資料の新供給を外部の同情者に仰ぐ爲にも、一應は此形を以て世に問ふ必要があるのである。なるほど此本には賛否の意見を學者に求めるだけの、纏まつた結論といふものは無いかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが學問であることゝ、之を求める手段には、是まで一向に人に顧みられなかつた方面が多々であつて、それに今我々が手を着けて居るのだといふことゝ、天然の現象の最も大切なる一部分、即ち同胞國民の多數者の敷千年間の行爲と感想と經驗とが、曾て觀察し記録し又攻究せられなかつたのは不當だと云ふことゝ、今後の社會改造の準備にはそれが痛切に必要であると云ふことゝは、少なくとも實地を以て之を例證して居る積りである。學問を以て文雅の士の修養とし、乃至は職業捜索の方便と解して怪まなかつた人々は、此所謂小題大做に對して果して如何なる態度を取るであらうか。それも問題であり又現象(58)である故に、最も精細に觀測して見ようと思ふ。

　

(59)　　　　　山の人生

　

　　　　　　　一　山に埋もれたる人生ある事

　

　今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景氣であつた年に、西美濃の山の中で炭を燒く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞《まさかり》で斫り殺したことがあつた。

　女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あつた。そこへどうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つて來て、山の炭燒小屋で一緒に育てゝ居た。其子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は賣れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日にも空手で戻つて來て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すつと小屋の奧へ入つて晝寢をしてしまつた。

　眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ。二人の子供がその日當りの處にしやがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行つて見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いて居た。阿爺《おとう》、此でわしたちを殺して呉れと謂つたさうである。さうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寢たさうである。それを見るとくら／＼として、前後の考も無く二人の首を打落してしまつた。それで自分は死ぬことが出來なくて、やがて捕へられて牢に入れられた。

(60)　此親爺がもう六十近くなつてから、特赦を受けて世中へ出て來たのである。さうして其からどうなつたか、すぐに又分らなくなつてしまつた。私は仔細あつて只一度、此一件書類を讀んで見たことがあるが、今は既にあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつゝあるであらう。

　又同じ頃、美濃とは遙かに隔たつた九州の或町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服して居た三十餘りの女性が、同じやうな悲しい運命の下に活きて居た。ある山奧の村に生れ、男を持つたが親たちが許さぬので逃げた。子供が出來て後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還つて見ると、身寄りの者は知らぬうちに死んで居て、笑ひ嘲ける人ばかり多かつた。すご／＼と再び浮世に出て行かうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込は無かつた。

　大きな瀧の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死なうぢや無いかと、三人の身體を、帶で一つに縛り附けて、高い樹の隙間から、淵を目掛けて飛込んだ。數時間の後に、女房が自然と正氣に復つた時には、夫も死ねなかつたものと見えて、濡れた衣服で岸に上つて、傍の老樹の枝に首を吊つて自ら縊れて居り、赤ん坊は瀧壺の上の梢に引懸つて死んで居たといふ話である。

　斯うして女一人だけが、意味も無しに生き殘つてしまつた。死ぬ考も無い子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕があつたのである。此あはれな女も牢を出てから、既に年久しく消息が絶えて居る。多分はどこかの村の隅に、まだ拔け殻のやうな存在を續けて居ることであらう。

　我々が空想で描いて見る世界よりも、隱れた現實の方が遙かに物深い。又我々をして考へしめる。是は今自分の説かうとする問題と直接の關係は無いのだが、斯んな機會で無いと思ひ出すことも無く、又何人も耳を貸さうとはしまいから、序文の代りに書き殘して置くのである。

　

(61)　　　　　　　二　人間必ずしも住家を持たざる事

　

　黙つて山へ入つて還つて來なかつた人間の數も、中々少ないものでは無いやうである。十二三年前に、尾張瀬戸町に在る感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入つて居た。其一人は例のサンカの兒で、相州の足柄で親に棄てられ、甲州から木曾の山を通つて、名古屋まで來て警察の保護を受けることになつた。

　今一人の少年は丸三年の間、父とたゞ二人で深山の中に住んで居た。どうして出て來たのかは、此話をした二宮�ｺ君も知らなかつたが、兎に角に三年の間は、火と云ふものを用ゐなかつたと語つたさうである。食物は悉く生《なま》で食べた。小さな弓を造つて鳥や魚を射て捕へることを、父から教へられた。

　春が來ると、色々の樹の芽を摘んで其まゝ食べ、冬は草の根を掘つて食べたが、其中には至つて味の佳いものもあり、年中食物には聊かの不自由もしなかつた。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴つて着たと云ふ。

　只一つ難儀であつたのは、冬の雨雪の時であつた。岩の窪みや大木のうつろの中に隱れて居ても、火が無い爲に非常に辛かつた。そこで斯う云ふ場合の爲に、川の岸にあるカハヤナギの類の、髯根の極めて多い樹木を拔いて來て、其根をよく水で洗ひ、それを寄せ集めて蒲團の代りにしたさうである。

　話が又聞きで、此以上の事は何も分らない。此事を聽いた時には、直ぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の樣子を尋ねたいと思つたが、何分にも暇が無かつた。かの感化院には記録でも殘つては居ないであらうか。此少年が色々の身の上話をしたと云ふことだが、何かよく／＼の理由があつて、彼の父も中年から、山に入つてこんな生活をした者と思はれる。

(62)　サンカと稱する者の生活に付ては、永い間に色々な話を聽いて居る。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を當てにして居らぬ點、次には定まつた場處に家の無いと云ふ點であるかと思ふ。山野自然の産物を利用する技術が事のほか發達して居たやうであるが、その多くは話としても我々には傳はつて居らぬ。

　冬になると暖かい海邊の砂濱などに出て來るのから察すると、彼等の夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奧州から、遠州へは信濃から、伊勢の海岸へは飛騨の奧から、寒い季節にばかり出て來るといふことも聽いたが、サンカの社會には特別の交通路があつて、溪の中腹や林の片端、堤の外などの人に逢はぬ處を縫うて居る故に、移動の跡が明らかで無いのである。

　磐城の相馬地方などでは、彼等をテンバと呼んで居る。山の中腹の南に面した處に、幾つかの岩屋がある。秋もやゝ末になつて、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々と煙が揚がつて居る。あゝもうテンバが來て居るなどといふ中に、子を負うた女がさゝらや竹籠を賣りに來る。箕などの損じたのを引受けて、山の岩屋に持つて歸つて修繕して來る。

　土地の人とは丸々疏遠でも無かつた。若狹越前などでは河原に風呂敷油紙の小屋を掛けて暫く住み、斷りを謂つて其邊の竹や藤葛を伐つて僅かの工作をした。河川改修が河原を整理してしまつてからは、金を拂つて材料の竹を買ふ者さへあつた。しかも土着する者は至つて稀で、多くは程無く何れへか去つてしまふ。路の辻などに樹の枝又は竹をさし、しるしを殘して行く者は彼等であつた。小枝に由つて先へ行つた者の數や方角を、後から來る者に知らしめる符號があるらしい。

　仲間から出て常人に交はる者、殊に素性と内情とを談ることを甚だしく惡むが、外から紛れて來てサンカの群に投ずる常人は次第に多いやうである。さうで無くとも人に問はれると、遠い國郡を名乘るのが普通で、其身の上話から眞の身元を知ることは六つかしい。大體に追々世間竝の衣食を愛好する風を生じ、中には町に入つて混同してしまは(63)うとする者も多くなつた。それが正業を得にくい故に、折々は惡いこともするのだが、彼等の惡事は法外に荒い爲に、却つて容易にサンカの所業なることが知れるといふ。

　しかも世の中と是だけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは殘つて居るかと思はれた。大正四年の京都の御大典の時は、諸國から出て來た拜觀人で、街道も宿屋も一杯になつた。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲も無い青空に日がよく照つて、御苑も大通りも早天から、人を以て埋めてしまつたのに、尚遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立つて居た。はゝあサンカが話をして居るなと思ふやうであつた。勿論彼等はわざとさうするのでは無かつた。

　

　　　　　　　三　凡人遁世の事

　

　曾て羽前の尾花澤附近に於て、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奧に入り人の住みさうにも無い谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てゝ住んでは居たが、三人ともに丸裸であつたと云ふ。

　女房がひどく人を懷しがつて、色々と工夫に向つて里の話を尋ねた。何でも其亭主といふ者は、世の中に對してよほど大きな憤懣があつたらしく、再び平地へは下らぬと云ふ決心をして、こんな山の中へ入つて來たのだと謂つた。

　工夫は一旦其處を立去つた後、再び引返して同じ小屋に行つて見ると、女房が彼と話をしたのを責めると云つて、縛り上げて折檻をして居るところであつたので、もう詳しい話も聞き得ずに、早々に歸つて來て、其後の事は一切不明になつて居る。

　此話は山方石之助君から十數年前に聽いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想になつてしまふことは、多くの(64)人が知つて居る。必ずしも世を憤つて去つた者で無くとも、木曾の山奧で岩魚《いはな》を釣つて居る親爺でも、たま／＼里の人に出くはしても何の好奇心も無く見向きもせずに路を横ぎつて行くことがある。文字に現せない寂寞の威壓が、久しうして人の心理を變化せしめることは想像することが出來る。

　さうしてこんな人に僅かな思索力、乃至は僅かな信心が有れば、乃ち行者であり、或は仙人で有り得るかと思はれる。又天狗と稱する山の靈が眼の色怖ろしくやゝ氣六つかしく且つ意地惡いものと考へられて居るのも、一部分は此種山中の人に逢つた經驗が、根を爲して居るのかも知れぬ。

　近世の武人などは、主君長上に對して不滿の有る場合に、無謀に生命を輕んじ死を急ぎ、さらば討死をして殿樣に御損を掛け申すべしと、謂つたやうな話が多かつた。戰亂の打續いた時世としては、それも自然なる決意であり得たが、人間の死ぬ機會はさう常に在つたわけでも無い。死なずに世の中に背くといふ方法は必ずしも時節を待つといふ趣意で無くとも、やはり山寺にでも入つて法師と共に生活するの他は無かつた。後にはそれを出離の因縁とし、菩提の種と名づけて悦喜した者もあるが、古來の遁世者の全部を以て、佛道勝利の跡と見るのは當を得ないと思ふ。

　其上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合の御寺が有るといふわけでも無かつた。旅僧の生活をしようと思へば、少しは學問なり智慧なりが無ければならなかつた。何の頼む所も無い弱い人間の、たゞ如何にしても以前の群と共に居られぬ者には、死ぬか今一つは山に入るといふ方法しかなかつた。從つて生活の全く單調であつた前代の田舍には、存外に跡の少しも殘らぬ遁世が多かつた筈で、後世の我々にこそ是は珍しいが、實は昔は普通の生存の一樣式であつたと思ふ。

　それだけならよいが、人には尚是といふ理由がなくてふら／＼と山に入つて行く癖のやうなものがあつた。少なくとも今日の學問と推理だけでは説明することの出來ぬ人間の消滅、殊には此世の執着の多さうな若い人たちが、突如(65)として山野に紛れ込んでしまつて、何をしてゐるかも知れなくなることがあつた。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思ふのは主として斯うした方面の出來事である。是が遠い近い色々の民族の中にも折々は經驗せられる現象であるのか。はた又日本人にばかり特に、且つ頻繁に繰返されねばならぬ事情があつたのか。それすらも現在は尚明瞭で無いのである。しかも我々の間には言はず語らず、時代々々に行はれて居た解釋があつた。それがある程度まで人の平常の行爲と考へ方とを、左右して居たことは立證することが出來る。我々の親たちの信仰生活にも、之と交渉する部分が若干はあつた。しかも結局は今尚不可思議である以上、將來何れかの學問が此間題を管轄すべきことは確かである。棄てゝ顧みられなかつたのは寧ろ不當であると思ふ。

　

　　　　　　　四　稀に再び山より還る者ある事

　

　是は以前新渡戸博士から聽いたことで、やはり少しも作り事らしく無い話である。陸中｜二戸《にのへ》郡の深山で、獵人が獵に入つて野宿をして居ると、不意に奧から出て來た人があつた。

　よく見ると數年前に、行方不明になつてゐた村の小學教員であつた。ふとした事から山へ入りたくなつて家を飛出し、丸きり平地の人とちがつた生活をして、殆と仙人になりかけて居たのだが、或時此邊でマタギの者の晝辨當を見付けて喰つたところが急に穀物の味が戀しくなつて、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懷かしくてたうとう出て來たと謂つたさうである。それから里に戻つて如何したか。其後の樣子は今ではもう何人にも問ふことが出來ぬ。

　マタギは東北人及びアイヌの語で、獵人のことであるが、奧羽の山村には別に小さな部落を爲して、狩獵本位の古風な生活をして居る者に此名がある。例へば十和田の湖水から南祖坊に逐はれて來て、秋田の八郎潟の主《ぬし》に爲つて居(66)ると云ふ八郎をとこなども、大蛇になる前は國境の山の、マタギ村の住民であつた。

　マタギは冬分は山に入つて、雪の中を幾日と無く旅行し、熊を捕れば其肉を食ひ、皮と熊膽を附近の里へ持つて出て、穀物に交易して又山の小屋へ還る。時には峰づたひに上州信州の邊まで、下りて來ることがあるといふ。

　こんな連中でも用が濟めば我村へ戻り、又山の中でも火を焚き米を煮て食ふのに、教員までもしたといふ人が、友も無くして何年かの間、此樣な忍苦の生活を爲し得たのは、少なくとも精神の異?であつた。而もそれが單なる偶發の事件で無く、遠く離れた國中の山村に、往々にして聞く所の不思議であつたのである。

　マタギの根原に關しては、現在まだ何人も説明を下し得た者は無いが、岩手秋田青森の諸縣に於て、平地に住む農民たちが、やゝ之を異種族視して居たことは確かである。津輕の人が百二三十年前に書いた奧民圖彙には、一二彼等が奇習を記し、菅江眞澄の遊覽記の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワツカ、大きいをポロといふの類、アイヌの單語の澤山に用ゐられて居ることを説いてある。

　勿論之に由つて彼等をアイヌの血筋と見ることは早計である。彼等の平地人との交通には、言語風習其他に何の障碍も無かつたのみならず、少なくとも近世に於ては、彼等も村に居る限りは附近の地を耕し、一方には又農民も山家に住む者は、傍ら狩獵に因つて生計を補うた故に、名稱以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。

　たゞ關東以西には獵を主業とする者が、一部落を爲す程に多く集まつて居らぬに反して奧羽の果に行くとマタギの村といふ者が折々ある。熊野高野を始めとして靈山開基の口碑には獵師が案内をしたと謂ひ、又は地を獻上したと謂ふ例少なからず、それを目して異人仙人と稱して居て、通例の農夫は曾て此物語に參與して居らぬのを見ると、彼等山民の土着が一期だけ早かつたか、又は土着の條件が後世普通の耕作者とは、別であつたかといふことだけは察せられる。

(67)　しかも獵に關すす彼等の儀式、又信仰には特殊なるものが多い。萬次萬三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美に狩獵の作法を授けられたなどといふ古傳も其一例である。東北ではシナの木のことをマダと謂ひ、山民は多く其樹皮を利用する。マタギ村でも盛んに之を採取し又周圍に之を栽培するが、其マダとは關係が無いと謂つて居る。或は二股の木の枝を杖にして、山中を行くやうな宗教上の習慣でもあつて、斯んな名稱を生じたのでは無いかとも思ふが、彼等自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、未だ之を斷定することが出來ぬのである。

　八郎といふ類の人が山中に入り、奇魚を食つて身を蛇體に變じたといふ話は、廣く分布して居る所謂低級神話の類であるが、津輕秋田で彼をマタギであつたと傳へたのには、何か考ふべき理由があつたらうと思ふ。

　

　　　　　　　五　女人の山に入る者多き事

　

　天野信景翁の鹽尻には、尾州｜小木《こき》村の百姓の妻の、産後に發狂して山に入り、十八年を經て後一たび戻つて來た者が有つたことを傳へて居る。裸形にして只腰のまはりに、草の葉を纏うて居たとある。山姥の話の通りであるが、而も當時の事實譚であつた。

　此女も或獵人に逢つて、身の上話をしたと云ふ。飢を感ずるまゝに始めは蟲を捕つて喰つて居たが、それでは事足らぬやうに覺えて、後には狐や狸、見るに隨ひ引裂いて食とし、次第に力附いて、寒いとも物ほしいとも思はぬやうになつたと語る。一旦は昔の家に還つて見たが、身内の者までが元の自分であることを知らず、怖れて騷ぐのでせん方も無く、再び山中の生活に復つてしまつたと云ふのは哀れである。

　明治の末頃にも、作州｜那岐山《なきのせん》の麓、日本原《につぽかうげ》の廣戸の瀧を中心として、處々に山姫が出没すると云ふ評判が高かつた。裸にして腰のまはりだけに襤褸を引纏ひ、髪の毛は赤く眼は青くして光つて居た。或時も人里近くに現れ、木こりの(68)小屋を覗いて居る處を見つかり、終にそこの人夫どもに打殺された。然るにそれをよく調べて見ると、附近の村の女であつて、ずつと以前に發狂して、家出をしてしまつた者であることが分つた。

　女には勿論不平や厭世の爲に、山に隱れると云ふことが無い。氣が狂つた結果であることは、其擧動を見れば誰にでも分つた。羽後と津輕の境の田代嶽《たしろだけ》の麓の村でも、若い女が山へ遁げて入らうとするのを、近隣の者が多勢追掛けて、連れて戻らうと引留めて居るうちに、えらい力を出して振切つて、走り込んでしまつたと云ふ話を狩野享吉先生から承つたことがある。

　山に走り込んだといふ里の女が、?々産後の發狂であつたことは、事によると非常に大切な問題の端緒かも知れぬ。古來の日本の神社に從屬した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉りし物語が多い。即ち巫女は若宮の御母なるが故に、殊に靈ある者として崇敬せられたことは、頗る基督教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあつた。婦人の神經生理に若し斯樣な變調を呈する傾向があつたとすれば、それは同時に亦種々の民族に一貫した宗教發生の一因子とも考へることを得る。併し勿論物の序でなどを以て、輕々に取扱ふべき問題では無いから、今は單に一二の類例を擧げで置くに止めるが、其一つは三百餘年前に、因幡國にあつた話で、少し長たらしいが原文のまゝを抄出する。雪窓夜話の上卷に書いてある話である。

　寛永年中のこと也。安成久太夫といふ武士あり。備前因幡國換への時節にて、未だ居屋敷も定まらず、鹿野《かの》（今の氣高郡鹿野町）の在《ざい》に假に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奧暗き岨陰より、何とも知らぬ者驅け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巖宿にかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖れて入らざれば若黨に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿の如きものなり。若黨引出さんとするに、力強く爪尖りて、若黨の手を掻破りけるを、漸くに引出したり。久太(69)夫葛を用ゐて之を縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂れ、面相全く女に似て、その荒れたること繪にかける夜叉の如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只にこ／＼と打笑ふのみ也、食を與ふれども食はず水を與ふれば飲みたり。遍く里人に尋ぬれども、仔細を知る者無し。一村集まりて之を見物す。其中に七十餘の老農ありて言ふには、昔此村に産婦あり。俄かに狂氣して驅け出でけるが、鷲峰山《しうぶせん》に入りたり。親族尋ね求むと雖、終に遇ふこと無しと言ひ傳へたり。其年暦を計るに凡そ百年に餘れり。もしは此者にてもあらんかと也。久太夫速かに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。

　

　佐々木喜書君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡｜附馬牛《つくもうし》村の山中で三十歳前後の一人の女が、殆と裸體に近い服装に樹の皮などを纏ひ附けて、うろついて居たのを村の男が見つけた。どこかの炭燒小屋からでも持つて來たものか此邊でワッパビツと名づける山辨當の大きな曲げ物を携へ、其中に色々の蟲類を入れて居て、あるきながらむしや／＼と食べて居たと謂ふ。遠野の警察署へ連れて來たが、やはり平氣で蛙などを食つて居るので係員も閉口した。其内に女が朧氣な記憶から、ふと汽車の事を口にし、それから段々に生れた家の模樣、親たちの顔から名前を思ひ出し、遂には村の名まで謂ふやうになつたが、聽いて見ると和賀郡小山田村の者で七年前に家出をして山に入つたといふことがわかつた。やはり産後であつて、不意に山に入つたといふのであつた。親を警察へ呼出して連れて行かせたが、一時は此町で非常な評判であつた。猶同じ佐々木君の話の中に此附近の村の女の二十四五歳の者が、夫と共に山小屋に入つて居て、終日夫が遠くに出て働いて居る間、一人で小屋に居て發狂したことがあつた。後に落着いてから樣子を尋ねて見ると、或時背の高い男が遣つて來て、それから急に山奧へ行きたくなつて、堪へられなかつたと謂つたさうである。

　

(70)　　　　　　　六　山の神に嫁入すと謂ふ事

　

　羽後の田代嶽に驅け込んだと云ふ北秋田の村の娘は、其前から口癖のやうに、山の神樣の處へお嫁入りするのだと、謂つて居たさうである。古來多くの新米の山姥、即ち是から自分の述べたいと思ふ山中の狂女の中には、何か今尚不明なる原因から、斯ういふ錯覺を起して、欣然として自ら進んで、斯んな生活に入つた者が多かつたらしいのである。

　さうすると我々が三輪式神話の殘影と見て居る龍婚蛇婚の國々の話の中にも、存外に起原の近世なるものが無いとは言はれぬ。例へば上州の榛名湖に於ては、美しい奧方は強ひて供の者を歸して、しづ／＼と水の底に入つて往つたと傳へ、美濃の夜叉ヶ池の夜叉御前は、父母の泣いて留めるのも聽かず、あたら十六の花嫁姿で、獨り深山の水の神にとついだと謂つて居る。古い昔の信仰の影響か、又は神話が本來斯くの如くにして、發生すべきものであつたのか、兎に角に我民族の是が一つの不思議なる癖であつた。

　近頃世に出た「まぼろしの島より」と云ふ一英人の書翰集に、南太平洋のニウヘブライズ島の或農場に於て、一夜群衆のわめき聲と共に、頻に鐵砲の音がするので、驚いて飛出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫まれて、森の中へ牽いて行かれる處であつた。魔神の姿は固より何人にも見えないが、其青年が右の手を前へ出して踏止まらうと身をもがく形は、確かに捕はれた者の樣子であつた。他の土人たちは聲で嚇し、且つ鐵砲を其前後の空間に打掛けて、惡魔を追ひ攘はうとしたが終に效を奏せず、捕はれた者は茂みに隱れてしまつた。

　翌朝其青年は正氣に復して、戻つて常の如く働かうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をして來たものと疑ひ、畏れ憎んで近づかず、其晩のうちに毒殺してしまつたと記して居る。我邦で狐や狸に憑かれたと云ふ者が、(71)其獣らしい擧動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。

　

　猿の壻入といふ昔話がある。どこの田舍に行つても餘り有名である爲に、却つて子供までが顧みようとせぬやうになつたが、實は日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初如何なる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至つたかは、説明し得た人が無いのである。三人ある娘の三番目が殊に發明で、一旦は猿に連れられて山中に入つて行くが、後に才智を以て相手を自滅させ、安全に親の家へ戻つて來ることになつて居るのは、もとは明らかに魔界征服譚の一つであつた。今でも落語家の持つて居る王子の狐、或は天狗の羽團扇を欺き奪ふ話などと同樣に、段々に敵の愚かさが誇張せられて、聽く人の高笑ひを催さずには置かなかつたのは、武勇勝利の物語に、負けて遁げた者の弱腰を説くのと、目的は一つであつて、つまりは猿の壻も怖るゝに足らずといふ教育の、曾て必要であつたことを意味して居る。餅を搗いて臼ながら猿に負はせたり、臼を卸さずに藤の花を折らせたり、色々と無理な策略を以て相手を危地に陷れた話があるが、地方によつては瓢箪と針千本とを、親から貰ひ受けて出て行つたことになつて居るのは、即ち蛇神退治の古くからの樣式で、猿の方には寧ろ不用なことであつた。變化か混同か何れにしても、龍蛇の壻入の數多い諸國の例が是と系統の近かつたことだけは察せられるので、たゞ山城｜蟹旛寺《かにはでら》の縁起などに於ては、外部の救援が必要であつたに反して、此方はかよわい小娘の智謀一つで、能く自ら葛藤を脱し得た點を、異なれりとするのみである。

　大和の三輪の緒環の絲、それから遠く運ばれたらしい豐後の大神《おほみわ》氏の花の本の少女の話は、土地と僅かな固有名詞とをかへて、今でも全國の隅々まで行はれて居るが終始一貫した發見の絲口は、衣裳の端に刺した一本の針であつた。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に歸し蛇の壻は刺された針の鐵氣に制せられ、苦しんで死んだことになつて居る例が多い。絲筋を手繰つて竊かに洞穴の口に近づいて立聽きすると、親子らしい大蛇がひそ／＼と(72)話をして居る。だから留めるのに人間などに思ひを掛けるから命を失ふことになつたのだと一方がいふと、それでも種だけは殘して來たから本望だと死なんとする者が答へる。いや人間は賢いものだ、若し蓬と菖蒲の二種の草を煎じてそれで行水を使つたらどうすると、大切な秘密を洩してしまつたことにもなつて居る。たつた一つの小さな昔話でも、段々に源を尋ねて行くと信仰の變化が窺はれる。もとは單純に指令に服從して、怖しい神の妻たることを甘じたものが、後には之を避け又は遁れようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或は婚姻慣習の沿革と伴ふものかも知らぬが、猿の壻入の話には後代の蛇壻人譚と共に、娘の父親の約諾といふことが、一つの要件を爲して居る。さうで無くとも堂々と押掛けて來て一門を承知させたことになつて居て、大昔の神々の如く夜陰密かに通つて來て後に露顯したものでは無かつた。さうして天下晴れて連れて還つたことに話は出來てゐる。即ち山と人界との縁組は稀有といふのみで、想像し得られぬ程の事件ではなかつたが、追々に之を忌み憎むの念が普通の社會には強くなり、百方手段を講じて其弊害を防ぎつゝ、尚十分なる效果を擧げ得ないうちに、國は次第に近世の黎明になつたのである。

　狒といふ大猿が日本にも住むといふことはもう信ずることが六つかしくなつた。出逢つた見たといふ話は記事にも畫にも殘つて居るものが多いが、注意して見ると、丸々幻覺の産物で無ければ、必ず只の老猿を誤つてさう呼んだ迄である。從つて岩見重太郎、若くは今昔物語のちうさんかうやの如き例は、些しでも動物學の知識を損益する所はないわけである。しかも昔話にまでなつて、此樣に弘く傳はつて居るのを見ると、猿の壻入は恐らくある遠い時代の現實の畏怖であつた。少なくとも女性失踪の不思議に對する、世間普通の解釋であつた。どうしてそんな愚かしい事が、信じ得られたかと思ふやうであるが、他に眞相の説明が付かなかつた時代だから仕方が無い。一種の精神病といふが如き漠然たる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月との月初めの或日を、山の神の樹かぞへなどと稱して、戒めて山に入らぬ風習は現に行はれて居る。若し此禁を犯せば如何なる制裁があるかと問へば、算へ込まれて樹になつてしまふと謂ふもあれば、山の神に連れて行かれるなどとも謂つて居る處がある。その山の神(73)樣は固より神官の説くが如き、大山祇命では無かつたのである。狼を山神の姿と見た言ひ傳へも多いが、猿は其一段の人間らしさから、曾ては信仰の對象となつて居た證據も色々ある。中世何等か特別の理由があつて、其地位は動搖したものらしい。其歴史を今少し考へて見ない以上、多くの昔話の意味がはつきりとせぬのも、止むを得ざる次第である。

　

　　　　　　　七　町にも不思議なる迷子ありし事

　

　北國筋の或大都會などは、殊に迷子と云ふものが多かつた。二十年ほど前までは、冬になると一晩として所謂鉦太鼓の音を聞かぬ晩は無い位であつたといふ。山が近くて天狗の多い土地だから、と説明せられて居たやうである。

　東京でも以前はよく子供が居なくなつた。此場合には町内の衆が、各一個の提灯を携へて集まり來り、夜どほし大聲で喚んで歩くのが、義理でもあり又慣例でもあつた。關東では一般に、まひ子の／＼何松やいと繰返すのが普通であつたが、上方邊では「かやせ、もどせ」と、稍々ゆるりとした悲しい聲で唱へてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすといふは實は變なことだが、それは本來捜索では無くして、奪還であつたから仕方が無い。

　若し迷子が只の迷子であるならば、斯んな事をしても無益な代りに、大抵は其日其夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、如何しても見付からぬといふのが神隱しで、之に對しては右の如き別種の手段が、始めて必要であつたのだが、前代の人たちは久しい間の經驗に由つて、子供が居なくなれば最初から之を神隱しと推定して、それに相應する處置を執つたものである。

　神隱しをする神は如何なる惡い神であつたか。近世人の思想に於ては、必ずしもごく精確に知られては無かつた。(74)通例は天狗｜狗賓《ぐひん》といふのが最も有力なる嫌疑者であつたが、それは此樣に無造作なる示威運動に脅かされて、取つた兒を又返すやうな氣の弱い魔物とも實は考へられて居なかつた。

　狐も亦往々にして子供を取つて隱す者と、考へられて居る地方があつた。さういふ地方では狐のわざと想像しつゝも、やはり盛んに鉦太鼓を叩いたのであるが、今では單に狐は暫くの間、人を騙し迷はすだけとして、之を神隱しの中にはもう算へない田舍が段々に多くなつて行くかと思ふ。近年の狐の惡戯は大抵は高が知れて居た。誰かゞ行き合せて大聲を出し、又は背中を一つ打つたら正氣が付いたといふ風で、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どほし近所の人々に心配をかけ、朝になつて見ると土手の陰や粟畠のまん中に、きょとんとして立つて居たなどといふことも、亦既に昔話の部類に編入せられようとして居るのである。

　併し寂しい在所の村はづれ、川端、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない處だ」といふ處が折々あつて、その中には惡い狐が居るといふ噂をするものも少なくは無い。神隱しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、三囘か五囘かは必ず聽く所で、前後の?況は常に略々一樣であつた。從つて捜索隊の手配路順にも、ほゞ舊來のきまりがあり、事件の顛末も人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合に於て、大した變化を見なかつたやうである。

　而も經驗の乏しい少年少女に取つては、是ほど氣味の惡い話はなかつた。私たちの村の小學校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをして居た。それで居て奇妙なことには、實際は狐につまゝれた者に、子供は至つて少なく、子供の迷子は多くは神隱しの方であつた。

　

　子供の居なくなる不思議には、大凡定まつた季節があつた。自分たちの幽かな記憶では秋の末から冬のかゝりにも、此話があつたやうに思ふが、或は誤つて居るかも知れぬ。多くの地方では舊暦四月、蠶の上簇や麥苅入の支度に、農夫が氣を取られて居る時分が、一番あぶない樣に考へられて居た。之を簡明に高麥の頃と名づけて居る處もある。つ(75)まりは麥が成長して容易に小兒の姿を隱し、又山の獣などの畔づたひに、里に近よるものも實際に多かつたのである。高麥の頃に隱れん坊をすると、狸に騙されると豐後の奧では謂ふさうだ。全く此遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀にはジエネ?エバの如き悲惨事があつた。まして郊野の間には物陰が多過ぎた。それが又此戯れの永く行はれた面白味であつたらうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像して見ると、忍術などと起原の共通なる一種の信仰が潜んで居て、後次第に面白い村の祭の式作法に爲つたものかと思ふ。

　東京のやうな繁華の町中でも、夜分だけは隱れんぼはせぬことにして居る。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。又は隱し婆さんに連れて行かれると謂つて、小兒を戒める親がまだ多い。村をあるいて居て夏の夕方などに、兒を喚ぶ女の金切聲をよく聽くのは、夕飯以外に一つには此畏怖もあつたのだ。だから小學校で試みに尋ねて見ても分るが、薄暮に外に居り又は隱れんぼをすることが何故に好くないか、小兒はまだ其理由を知つて居る。福知山附近では晩に暗くなつてからかくれんぼをすると、隱し神さんに隱されると謂ふさうだが、それを他の多くの地方では狸狐と謂ひ、又は隱し婆さんなどとも謂ふのである。隱し婆は古くは子取尼などとも謂つて、實際京都の町にもあつたことが、園大暦の文和二年三月二十六日の條に出て居る。取上げ婆の子取とはちがつて、是は小兒を盗んで殺すのを職業にして居たのである。何の爲にといふことは記して無いが、近世に入つてからは血取とも油取とも名づけて、罪無き童兒の血や油を、何かの用途に供するかの如く想像し、近くは南京皿の染附に使ふといふが如き、所謂纐纈城式の風説が繰返された。さうしてまだ全然の無根といふ處まで、突留められては居ないのである。

　併し少なくとも此世評の大部分が、一種の傳統的不安であり、從つて話であることは時過ぎて始めてわかつた。例へば迷子が黙つて青い顔をして戻つて來ると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあつたが、そんな方法の有得ないことがもう分つて、段々にさうは謂はなくなつた。秩父地方では子供が行方不明になるのを、隱れ座頭に連れて行かれたど謂ひ、又はヤドウカイに捕られたと謂ふさうだが、是などは單純な誤解であつた。隱れ座頭は弘く奧羽(76)關東に亙つて、巖窟の奧に住む妖怪と信ぜられ、相州の津久井などでは踏唐臼の下に隱れて居るやうにも謂つて居た。即ち普通の人の眼に見えぬ社會の住民ではあつたのだが、之を座頭としたのは右の如き地底の國を、隱れ里と名づけたのが元である。隱れ里本來は昔話の鼠の淨土などの樣に、富貴具足の仙界であつて、?れば家具を貸し金錢を授與したなどと、説くのが昔の世の通例であつたのを、人の信仰が變化したから、斯んな恐ろしい怪物とさへ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うて居た結果であらう。

　それからヤドウカイは又ヤドウケと呼ぶ人もあつた。文字には夜道怪と書いて子取の名人の如く傳へられるが、實は只の人間の少し下品な者で、中世高野聖の名を以て諸國を修行した法師即ち是である。武州小川の大塚梧堂君の話では、夜道怪は見た者は無いけれども、蓬髪弊衣の垢じみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のやうだと土地では謂ふから、大方そんな風態の者だらうとのことである。實際高野聖は行商が片商實で、いつも強力同樣に何もかも背負うてあるいた。さうして夕方には村の辻に立つて、ヤドウカと大きな聲でわめき、誰も宿を貸しましよと言はぬ場合には、又次の村に向つて去つた。旅に摺れて掛引が多く、其上折々は法力を笠に着て、善人たちを脅かした故に、「高野聖に宿かすな、娘取られて恥かくな」などといふ、諺までも出來たのである。段々斯んな者が村に來なくなつてから、單に子供を嚇す想像上の害敵と爲つて永く殘りその子供が又成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種に之を算へるに至つたのは注意すべき現象だと思ふ。我々日本人の精神生活の進化には、斯ういふ村里の隱し神のやうなもの迄が、取殘されて居ることは出來なかつたのである。

　

　　　　　　　八　今も少年の往々にして神に隱さるゝ事

　

　先頃も六つとかになる女の兒が、神奈川縣の横須賀から汽車に乘つて來て、東京驛の附近をうろついて居り、警察(77)の手に保護せられた。大都のまん中では、固より小兒の親にはぐれる場合も多かつたらうけれども、幼小な子供が何人にも怪まれずに、斯んなに遠く迄來て居たといふは珍しい。故に昔の人も此等の實例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒?を忌まざる者は、之を神隱しとも呼んで居たのである。

　村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分けて此類の神隱しが頻繁で、哀れなることには隱された者の半數は、永遠に還つて來なかつた。私は以前盛んに旅行をして居た頃、力めて近代の地方の迷子の實例を、聞いて置かうとしたことがあつた。伊豆の松崎で十何年前にあつたのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立つて居るのを見つけ出した。其處はもう何度と無く、捜す者が通行した筈だのにと、後々まで土地の人が不思議にした。尚それよりも前に、上總の東金《とうがね》附近の村では、是も二三日してから山の中の薄の叢の中に、しやがんで居たのをさがし出したが、それから久しい間、拔け殻のやうな少年であつたといふ。

　珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇拔なるものが一層多い。親族が一心に祈?をして居ると、夜分雨戸にどんと當る物が有る。明けて見ると其兒が軒下に來て立つて居た。或は又板葺き屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出て見たら、氣を失つて其兒が横たはつて居た、と言ふ話もある。もつとえらいのになると、二十年もしてから阿呆になつてひよつこりと出て來た。元の四つ身の着物を着たまゝで、縫目が彈けて綻びて居たなどと言ひ傳へた。勿論精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのやうであつた。學問としての研究の爲には、更に今後の觀察を要するは勿論である。

　

　愛知縣北設樂郡｜段嶺《だみね》村大字豐邦字笠井島の某と云ふ十歳ばかりの少年が、明治四十年頃の舊九月三十日、即ち神送りの日の夕方に、家の者が白餅を造るのに忙しい最中、今まで土間に居たと思つたのが、僅かの間に見えなくなつた。最初は氣にもしなかつたが、神祭を濟ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、たう(78)とう近所隣までの大騷ぎとなつた。方々捜しあぐんで一旦家の者も内に入つて居ると、不意におも屋の天井の上に、どしんと何物か落ちた樣な音がした。驚いて梯子を掛けて昇つて見ると、少年はそこに倒れて居る。抱いて下へ連れて來てよく見ると、口のまはりも眞白に白餅だらけになつて居た。（白餅といふのは神に供へる粢《しとぎ》のことで、生の粉を水でかためただけのものである。）氣の拔けたやうになつて居るのを介抱して、色々として尋ねて見ると少年は其夕方に、何時の間にか御宮の杉の樹の下に往つて立つて居た。すると其處へ誰とも知らぬ者が遣つて來て彼を連れて行つた。多勢の人にまじつて木の梢を渡りあるきながら、處々方々の家をまはつて、行く先々で白餅や汁粉などを澤山御馳走になつて居た。最後にはどこか知らぬ狹い處へ、突込まれるやうにして投げ込まれたと思つたが、それが我家の天井であつたと謂ふ。それからやゝ暫くの間其少年は、氣が疎くなつて居たやうだつたと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたといふ（早川孝太郎君報）。

　石川縣金澤市の淺野町で明治十年頃に起つた出來事である。�ｺ田秋聲君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちやうど�ｺ田家の高窓の外に在つた地境の大きな柿の樹の下に、下駄を脱ぎ棄てたまゝで行方不明になつた。是も捜しあぐんで居ると、不意に天井裏にどしんと物の墮ちた音がした。�ｺ田君の令兄が頼まれて上つて見ると、其青年が横たはつて居るので、背負うて降してやつたさうである。木の葉を?んで居たと見えて、口の端を眞青にして居た。半分正氣付いてから仔細を問ふに、大きな親爺に連れられて、諸處方々をあるいて御馳走を食べて來た、又行かねばならぬと謂つて、驅け出さうとしたさうである。尤も常から少し遲鈍な質の青年であつた。其後どうなつたかは知らぬと謂ふ（�ｺ田秋聲君談）。

　紀州西牟婁郡上｜三栖《みす》の米作といふ人は、神に隱されて二晝夜してから還つて來たが、其間に神に連れられ空中を飛行し、諸處の山谷を經廻つて居たと語つた。食物はどうしたかと問ふと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に殘つて居ると謂ふので、出させて見るに皆柴の葉であつた。今から九十年ほど前の事である。又同じ郡岩田の萬藏といふ(79)者も、三日目に宮の山の笹原の中で寢て居るのを發見したが、甚だしく酒臭かつた。神に連れられて攝津の西ノ宮に行き、盆の十三日の晩、多勢の集まつて酒を飲む席にまじつて飲んだと謂つた。是は六十何年前のことで、共に宇井可道翁の璞屋隨筆の中に載せられてあるといふ（雜賀貞次郎君報）。

　大正十五年二月の國民新聞に出て居たのは、遠州｜相良在《さがらざい》の農家の十六の少年、夜中の一時頃に便所に出たまゝ戻らず、暫くすると悲鳴の聲が聞えるので、兩親が飛起きて便所を見たが居ない。段々に聲を辿つて行くと、戸じまりをした隣家の納屋の中に、兵兒帶と褌を以て兩手足を縛られ、梁から兎つるしに吊されて居た。早速引卸して模樣を尋ねても、便所の前に行つた迄は覺えて居るが、それから先のことは少しも知らぬ。只ふと氣がついたから救を求めたと謂つて居た。奇妙なことには納屋には錠がかゝつて、親たちは捻ぢ切つて入つた。周圖は土壁で何者も近よつた樣子が無かつたといふ。警察で尋ねて見たら、今少し前後の?況が知れるかも知れぬと思ふ。

　不意に窮屈な天井裏などに入つて倒れたといふことは、到底我々には解釋し得ない不思議であるが、地方には意外に其例が多い。又沖繩の島にも之と稍々似た神隱しがあつて、それを物迷ひ又は物に持たるゝと謂ふさうである。比嘉春潮君の話に依れば、かの島でモノに攫はれた人は、木の梢や水面又斷岸絶壁の如き、普通に人のあるかぬ處を歩くことが出來、又下水の中や洞窟床下等をも平氣で通過する。人が捜して居る聲も姿もはつきりとわかるが、此方からは物を言ふことが出來ぬ。洞窟の奧や水の中で發見せられた實例も少なくない。斯ういふ狹い場處や危險な所も、モノに導かれると通行が出來るのだが、たゞ其人が屁をひるときはモノが手を放すので、忽ち絶壁から落ちることがある。水に溺れる人には是が多いやうに信じられて居るさうである。備中｜賀陽《かや》の良藤と云ふ者が、狐の女と婚姻して年久しく我家の床下に住み、多くの兒女を育てゝ居たといふ話なども、昔の人には今よりも比較的信じ易かつたものらしい。

　

(80)　　　　　　　九　神隱しに遭ひ易き氣質あるかと思ふ事

　

　變態心理の中村古峽君なども、曾て奧州｜七戸《しちのへ》邊の實例に就て調査をせられたことがあつた。神に隱されるやうな子供には、何か其前から他の兒童と、稍々ちがつた氣質が有るか否か。是が將來の興味ある問題であるが、私は有ると思つて居る。さうして私自身なども、隱され易い方の子供であつたかと考へる。但し幸にしてもう無事に年を取つてしまつてさういふ心配は完全に無くなつた。

　私の村は縣道に沿うた町竝で、山も近くに在るのはほんの丘陵であつたが、西に川筋が通つて奧在所は深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であつた。私は耳が早くて怖い噂を澤山に記憶して居る兒童であつた。七つの歳であつたが、筋向ひの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきに其家の戸口を出ると、不意に頬冠りをした屈強な男が、横合から出て來て私を引抱へ、とつ／＼と走る。怖しさの行止まりで、聲を立てるだけの力も無かつた。それが私の門まで來ると、くゞり戸の脇に私をおろして、すぐに見えなくなつたのである。勿論近所の青年の惡戯で、後にはおほよそ心當りも付いたが、其男は私の母が怒るのを恐れてか、斷じて知らぬと何處までも主張して、結局其事件は不可思議に終つた。宅では兎に角大問題であつた。多分私の眼の色が此刺戟の爲に、すつかり變つて居たからであらうと想像する。

　それから又三四年の後、母と弟二人と茸狩に行つたことがある。遠くから常に見て居る小山であつたが、山の向ふの谷に暗い淋しい池があつて、暫く其岸へ下りて休んだ。夕日になつてから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登つた方の山の口へ來たと思つたら、どんな風にあるいたものか、又々同じ淋しい池の岸へ戻つて來てしまつたのである。其時も茫としたやうな氣がしたが、えらい聲で母親がどなるので忽ち普通の心持になつた。此時の私がもし(81)一人であつたら、恐らくは亦一つの神隱しの例を殘したことゝ思つて居る。

　是も自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話の樣な感じがする。四歳の春に弟が生れて、自然に母の愛情注意も元ほどで無く、其上に所謂蟲氣があつて機嫌の惡い子供であつたらしい。其年の秋のかゝりでは無かつたかと思ふ。小さな繪本を貰つて寢ながら看て居たが、頻りに母に向つて神戸には叔母さんが有るかと尋ねたさうである。實は無いのだけれども他の事に氣を取られて、母はいゝ加減な返事をして居たものと見える。其内に晝寢をしてしまつたから安心をして目を放すと、暫くして往つて見たらもう居なかつた。但し心配をしたのは三時間か四時間で、未だ鉦太鼓の騷ぎには及ばぬうちに、幸ひに近所の農夫が連れて戻つてくれた。縣道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの兒だらうかと謂つた人も二三人はあつたさうだが、正式に迷子として發見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍であつた。折よく此邊の新開畠に來て働いて居た者の中に、隣の親爺が居た爲に、直ぐに私だといふことが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんの處へと答へたさうだが、自分の今幽かに記憶して居るのは、抱かれて戻つて來る途の一つ二つの光景だけで、其他は悉く後日に母や隣人から聽いた話である。前の横須賀から東京驛まで來た女の兒の話を聽いても、自分は大凡事情を想像し得る。よもや斯んな子が一人で居ることはあるまいと思つて、驛夫も乘客も却つて之を怪まなかつたのだらうが、外部の者にも諒解し得ず、自身も後には記憶せぬ衝動があつて、斯んな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の腦の疾患であり、又體質か遺傳かに、之を誘發する原因が潜んで居たことゝ思ふ。昔は七歳の少童が庭に飛降つて神怪驚くべき言を發したと云ふ記録が多く、古い信仰では朝野共に、之を託宣と認めて疑はなかつた。それのみならず特に其樣な傾向ある小兒を捜し出して、至つて重要なる任務を託して居た。因童《よりわらは》といふものが即ち是である。一通りの方法で所要の?態に陷らない場合には、一人を取圍んで多勢で唱へ言をしたり、又は單調な樂器の音で四方から之を責めたりした。(82)警察などが八釜しくなつて後は、力めて内々に其方法を講じたやうだが、以前は隨分頻繁に且つ公然と行はれたものと見えて、今もまゝ事と同樣に之を模倣した小兒の遊戯が殘つて居る。「中の中の小坊主」とか「かアごめかごめ」と稱する遊びは、正しく其名殘である。大きくなつて世の中へ出てしまふと、もう我々の如く常識の人間になつてしまふが、成長の或時期に其傾向が時あつて顯れるのは、恐らくは説明可能なる生理學の現象であらう。神に隱されたといふ少年青年には、注意して見れば何か共通の特徴がありさうだ。さかしいとか賢こいとかいふ古い時代の日本語には、普通の兒のやうに無邪氣で無く、何等か稍々宗教的ともいふべき傾向をもつて居ることを、包含して居たのでは無いかとも考へる。物狂ひといふ語なども、時代によつて其意味は是と略々同じでなかつたかと思ふ。

　

　　　　　　　一〇　小兒の言に由つて幽界を知らんとせし事

　

　運強くして神隱しから戻つて來た兒童は、暫くは氣拔けの體で、大抵は先づぐつすりと寢てしまふ。それから起きて食ひ物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覺えないと答へる者が多い。それを又意味有り氣に解釋して、たわいも無い切れ／”＼の語から、神秘世界の消息を得ようとするのが、久しい間の我民族の慣習であつた。兒も物々しい評判のみが永く傳はつて、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となつて活きて居るのが多く、天狗のカゲマなどと謂つて人が之を馬鹿にした。

　此連中の見聞談は、若干の古書の中に散見して居る。鋭い眼をした大きな人が來いと謂つたから附いて往つた。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然たる話ばかり多い。處が此とは正反對にごく僅かな例外として、むやみに詳しく見て來た世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、神童寅吉物語、神界に在つて高山嘉津間と呼ばれた少年の話である。此以外にも平田派の神道家が、最も敬虔なる態度を以て筆記した神隱し(83)の談が幾つかあるが記録の精確なる爲に、愈々談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隱しの少年が、見て來たと説く所には、何一つとして一致した點が無い。つまりは只其少年の知識經驗と、貧しい想像力との範圍より、少しでも外へは出て居なかつたのである。

　故に神道があまり幽冥道を説かぬ時代には、見て來た世界は佛法の淨土や地獄であつた。續鑛石集の下の卷に出て居る阿波國不朽物語などは其例で、其他にも越中の立山、外南部の宇曾利山で、地獄を見たと云ふ類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべて皆此系統の話である。

　黒甜瑳語第一編の卷三に曰く、世の物語に天狗のカゲマと云ふことありて、爰かしこに勾引さるゝあり。或は妙義山に將て行かれて奴となり、或は讃岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稻澤村の盲人が傳へし不思議物語にも多く見え、下賤の者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍も殘りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかりありて立歸れり。津輕を殘らず一見して、委しきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男の部屋何か騷がしく、宥して下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度も半月ほど過ぎて越後より歸りしが、山の上にてかの國の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辭を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を經て或人に從ひ江戸に登りしに、又道中にて行方無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下れりと云ふ。

　右の話の始めにある不思議物語といふ本は、この他にも澤山の珍しい記事を載せてあるらしい。二百數十年前の盲人の談話ときいて、殊に一度見たいと思つて居る。江戸の人の神に隱された話は、又新井白石も説いて居る。白石先生手簡、年月不明、小瀬復菴に宛てた一通には、次の如く記してある。

(84)　正月七日の夜、某舊識の人の奴僕一人、忽に所在を失ひ候。二月二日には、御直參の人にて文筆共當時の英材、某多年の舊識、是も所在を失し、二十八日に歸られ候。其事の始末は、鬼の爲に誘はれ、近く候山々經歴し見候。此外二三人失せし者をも承り候へ共、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候間、如此の事また候へば云々（末の方は誤寫があるらしい）。

　

　仙臺寅吉物語は舞臺が江戸であつたゞけに、出た當時から既に大評判となり、少なからず近世の所謂幽界研究を刺戟した。今でも別樣の意味に於て貴重なる記録である。知つて居る人も多いと思ふが、大正十四年の四月に、周防宮市の天行居から刊行した幽冥界研究資料と題する一書は、此類の珍本の幾つかを合せて覆刻して居る。嘉津間答問四卷附録一卷は、即ち前に謂ふ寅吉の談話筆記で、平田翁の手を經て世に公にせられたものであるが別に其以外に幸安仙界物語三卷、紀州和歌山の或淨土寺の小僧が、白髪の老翁に導かれて?々名山に往來したといふ話であり、仙界眞語一卷は、尾州の藩醫柳田泰治の門人澤井才一郎といふ者が、遠州秋葉山に入つて神になつたといふ一條で、何れも十七歳の青年の異常なる實驗を、最も誠實に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野の山下で藥を賣る老人につれられ、時々常陸の或山に往來して居たと語つて居るが實際に居なくなつたのは十四の歳の五月からで、十月ほどして還つて來ていとも饒舌に靈界の事情を語つて居た。遍く諸州を飛行したさうだが、本居は常陸の岩間山の頂上に在つた。紛れも無く天狗山人の社會で方式にも教理にも修驗道の香氣が強かつたが、あの時代の學者たちは一種の習合を以て自派の神道の開明に之を利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあつて、指摘し得べき前後の矛盾さへ多かつたのだが、それは記憶の誤りだらう隱すのだらう、或は何か凡慮に及ばぬ仔細があるのだらうと、悉く善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折であつた。之に比べると紀州の幸安の神隱しは、三十年餘も後の事であるが、此期間の日本の學問の進歩は、早著しく其話の内容に反映して居(85)る。幸安は先づ和歌山近くの花山といふに登り、それから九州某地の赤山といふ處に往つたと語つたが、赤山の住侶は何れも仙人で、各々雲笈七籤にでもあるやうな高尚な漢名を持つて居た。天狗などは身分の低いものだと大いに之を輕蔑して居る。又支那にも飛べば北亞細亞の山にも往つたとあつて、其敍説の不精確さは正に幕末頃の外國地理の知識であつた。よくも斯んな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが當然だが、道教の神秘も日本の固有信仰が之を支配し得るかの如く、曲解し得るだけ曲解するのが、言はゞあの時代の學風であつたので、即ち澤山の夢語りも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だつて踏出しては居ないのである。

　名古屋の秋葉大權現の神異に至つては、話が更に一段と單純になつて居る。是は前にいふ紀州の事件よりも、又十五年も後のことであるが、之に參加した人たちが學問に深入しなかつた故に、古風な民間の信仰の清らさを留めて居る。即ち神隱しの青年は口で喋々と奇瑞を説かなかつた代りに、我々の説明し得ない色々の不思議が現はれ、それを見た程の者は一人として疑ひ怪しむことが出來なかつた。さうして多くの信徒の興奮と感激との間に、當の本人は靈魂のみを大神に召されて、若い骸を留めて去つたのである。凡そ近代の宗教現象の記録として、是ほど至純なる資料は實は多くない。身親しく此出來事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に當然の結果のやうに思はれる。唯我々の意外とすることは、斯ういふ珍しい色々の實驗を竝べて見て、一方が眞實なら他方は誤りでなければならぬ程の不一致には心付かず、幽界の玄妙なる、何の有らざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置かうとした、後世の學徒の態度であつた。若し盲信で無ければ、是は恐らく同種の僞物に對する寛容であつて、やがては今日の如き魔術横行の原因を爲したものとも言ひ得られる。

　江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末はどうであつたか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。若し彼等の行者生活が長く續いて居たとすれば、此等の覺書類は時の進むとゝもに、幾度か其價値を變化して居る筈である。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書(86)物になつて殘つて居るといふだけで、特段に之を尊重すべき理由は無い道理である。

　

　　　　　　　一一　仙人出現の理由を研究すべき事

　

　「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像する如くはつきりしたもので無い。自分が考へても尚あやふやな話でも、何度と無く之を人に語り、且つ聽く者が毎に少しも之を疑はなかつたなら、終には實驗と同じだけの強い印象になつて、後には却つて話し手自身を動かす迄の力を生ずるものだつたらしい。昔の精神錯亂と今日の發狂との著しい相異は、實は本人に對する周圍の者の態度に在る。我々の先祖たちは、寧ろ怜悧にして且つ空想の豐かなる兒童が時々變になつて、凡人の知らぬ世界を見て來てくれることを望んだのである。即ち澤山の神隱しの不可思議を、説かぬ前から信じようとして居たのである。

　室町時代の中頃には、若狹の國から年齡八百歳と云ふ尼が京都へ出て來た。又江戸期の終に近くなつてからも、筑前の海岸に生れた女で長命して二十幾人の亭主を取替へたと云ふ者が津輕方面に出現した。其長命に證人は無かつたが、兩人ながら古い事を知つてよく語つたので、聽く人は之を疑ふことが出來なかつた。但し其話は申合せたやうに源平の合戰、義經辨慶の行動などの外には出なかつた。それから又常陸房海尊の仙人に爲つたのだと云ふ人が、東北の各地には住んで居た。勿論義經の事蹟、殊に屋島壇の浦高館等、義經記や盛衰記に書いてあることを、あの書をそらで讀む程度に知つて居たので、全く其爲に當時彼が眞の常陸房なることを一人として信用せざる者は無かつたのである。

　今日の眼から見れば、之を信ずるのは輕率のやうであり、欺く本人も憎いやうだが、恐くは本人自身も、常陸房であり、乃至は八百比丘尼なることを、何かわけがあつて固く信じて居たものと思はれる。それも決して有り得ざるこ(87)とでは無い。參河の長篠地方でおとらと云ふ狐に憑かれた者は、きつと信玄や山本勘助の話をする。此狐も亦長生で、曾て武田合戰を見物して居て怪我をしたと謂ふ説などが行はれて居た爲に、其後憑かれた者が、皆其合戰を知つて居るやうな氣持にならずには居られなかつたのである。

　若狹の八百比丘尼は本國小濱の或神社の中に、玉椿の花を手に持つた木像を安置して居るのみでは無い。北國は申すに及ばず、東は關東の各地から、西は中國四國の方々の田舍に、此尼が巡遊したと傳ふる故跡は數多く、大抵は樹を栽ゑ神を祭り時としては塚を築き石を建てゝ居る。それが單なる偶合で無かつたと思ふことは、どうして其樣に長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは靈怪なる宗教婦人が、曾て巡國をして來たことはあつたので、其特色は驚くべき高齡を稱しつゝ、しかも顔色の若々しかつた點にあつたのである。人は隨分と白髪の皺だらけの顔をして居ても、八百と謂へば嘘だと思はぬ者は無いであらうに、兎に角に之を信ぜしめるだけの、術だか力だかは持つて居たのである。それが一人かはた幾人もあつたのかは別として、京都の地へも文安から寶�ｺの頃に、長壽の尼が若狹から遣つて來て、毎日多くの市民に拜まれたことは、臥雲日件録にも書いてあれば、又康富記などにもちやんと日記として載せてあるから、それを疑ふことは出來ないのである。尤も此時代は七百歳の車僧のやうに、長生を評判にする風は流行であつた。然らば何か我々の想像し得ない方法が、之を證明して居たのかも知れぬが、何にしても平家物語や義經記の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、囘顧趣味とを鼓吹したのは此時代だから、比丘尼の昔語りは諸國巡歴の爲に、大なる武器であつたことゝ思ふ。たゞ自分たちの想像では、單なる作り事では是迄に人は欺き得ない。或は尼自身も特殊の心理から、自分が其樣な古い媼であることを信じ、まのあたり義經辨慶一行の北國通過を、見て居たやうにも感じて居た故に、其言ふことが強い印象と爲つたのでは無からうか。越中立山の口碑では、結界を破つて靈峰に登らうとした女性の名を、若狹の登宇呂の姥と呼んで居る。若し此類の山で修業した巫女が自身にさういふ長命を信じて居る習ひであつたら、後に説かうとする日向小菅嶽の山女が、(88)山に入つて數百年を經たと人に語つたといふのも、必ずしも作り話では無いことになるのである。やたらに人の不誠實を疑ふにも及ばぬのである。

　

　常陸坊海尊の長命といふことは、今でもまだ陸前の青麻《あをそ》權現の信徒の中には、信じて居る人が大分あつて、之を疑つては失禮に當るか知れぬが、實は此信仰には明らかに前後の二期があつて、其後期に於ては海尊さまはもう人間では無かつたのである。之に反して足利時代の終に近く、諸國に此人が生きて居たと謂ふ話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であつた。事の序でに少しくあの頃の世間の噂を比較して見ると、例へば會津の實相寺の二十三世、桃林契悟禅師號は殘夢、別に自ら秋風道士とも稱した老僧は其一人であつた。和尚は奇行多く又好んで源平の合戰其他の舊事を談ずるに、恰かも自身其場に居て見た者の如くであつた。無々と言ふ老翁の石城郡に住する者、會て殘夢を訪ねて來て、二人で頻りに曾我の夜計の事を話して居たこともあつた。しかも曾我とか源平合戰とかゞもうちやんと書物になつて居ることを知らず、あまり詳しいので喫驚するやうな人が、まだ此地方には多かつたらしいのである。年を尋ねると百五六十と答へ、強ひて問ひつめると却つて忘れたと謂つて教へなかつた。然らば常陸坊海尊だらうと噂したと謂ふのは、恐らくは此頃既にかの仙人がまだ生きて何處かに居るやうに評判する者があつたからであらう。又別の傳へには福仙と云ふ鏡研ぎが來た。殘夢之を見て彼は義經公の旗持ちだつたと謂ふと、福仙も亦人に向つて、殘夢は常陸坊だと告げたとも謂ふが、そんな事をすれば露れるにきまつて居る。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇の偈を留めて圓寂し、墓も其寺に在るに拘らず、其後尚引續いて、常陸坊が生きて居るといふ説は行はれた。本朝故事因縁集には、海尊遁げ去りて富士山に入る、食物無し、石の上に飴の如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟あり、之に遊びて年末だ老いずとある。山に居りきりの仙人ならば、斯んな歴史も傳はらぬ道理で、やはり時々は若狹の尼のやうに人間の(89)中に入つて來て居たのである。能登の狼煙《のろし》村の山伏山では、常陸坊はこの地まで來て義經と別れ、仙人になつて此山に住んだ、折々は山伏姿で出て來たと能登國名跡志に書いてあるが、それでは高館衣川の昔話をするのに、甚だ勝手が惡かつたわけである。加賀には殘月といふ六十ばかりの僧、曾て犀川と淺野川の西東に流れて居た時を知つてると謂つた。越後の田中と云ふ地に來て、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂を服して暮して居たが、誰言ふとも無く殘月は常陸坊、小松原は龜井六郎だと評判せられた。人が義經記を讀んで聽かせると覺えず釣込まれて其頃の話をしたと提醍紀談卷一にあるが、龜井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまつたのでは無ささうだ。廣益俗説辨卷十三には、海尊高館の落城に先だつて山に遁れ、仙人と爲つて富士淺間湯殿山などに時々出現するとあるが、羽前最上郡古口村の外川神社の近くにも、海尊仙人が住んで居たといふ口碑あり、又陸前｜氣仙《けせん》郡の唐丹《たうに》の觀音堂の下にも、昔常陸坊が松前から歸りがけに此地を通つて、是は龜井の墓だと別當山伏の成就院に、指さし教へたと傳ふる墓があつた。永い年月には何處へでも往つたらうが、それにしても餘りに口が多く、又話が少しづゝ喰違つて居るのは、やはり澤山の同名異人があつた爲では無かつたか。殊に寛永の初年に陸中平泉の古戰場に近い山中で、仙臺の藩士小野太左衛門が行逢うたといふのは、よほど怪しい常陸坊であつた。源平時代の見聞を語ること、親しく之を歴た者の通りであつた故に、小野は直ちに海尊なることを看破し、就いて兵法を學び、又恭しく延年益壽の術を訊ねた。異人答へて曰く、もと修するの法無し、曾て九郎判官に隨從して高館に居るとき、六月衣川に釣して達谷《たつこく》に入る。一老人あり招きて食を供す。肉あり其色は朱の如く味美なり、仁羹と名づく。從者怪みて食はず、之を携へて歸る。其女子之を食ひ亦不死であつたが、天正十年まで居て何れへか往つてしまつたと語つた。此話は若狹越中其他の地方に於て、八百比丘尼の長生の理由として、語り傳ふるものと全然同じで、仁羹は即ち人魚の肉であつた。日本の仙人が支那のやうに技術の力で無く、到底習得し難い身の運のやうなものを具へて居たことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、是をさへ受賣するからには仙翁でも無かつたのである。然るにも拘らず、小野太左衛門は其説に感歎して、之を(90)主人の伊達政宗に言上し、後日に清悦御目見えの沙汰があつた。清悦とはこの自稱長壽者の後の名で、現今行はれて居る清悦物語の一書は、彼が義經記を一讀して是は違つて居ると謂ひ、自ら口授した所の源平合戰記であつた。吾妻鏡や鎌倉實記と比較して、一致せぬ點が多いと云ふのは當り前以上である。併し出來事の評判は非常であつたと見えて、寛永以後尚久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかつた。岩切の青麻權現の岩窟に出現したのは、それから凡そ五十年の後、ちやうど清悦物語が世に出てから、十五年目の天和二年であつたと謂ふ。鈴木所兵衛といふ、信心深い盲人が、彼に教へられて天に?り、目が開いたといふ奇跡もあつた。其時は氣高い老人の姿で現れて、吾は常陸坊海存、今の名は清悦である。久しく四方を巡つて近頃下野の大日窟に居たが、是からは爰へ來て住まう。此窟には何神を祭つてあるかと尋ねるので、大日不動虚空藏の三尊だと答へると、それは幸ひのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしと謂つて、乃ち岩窟に入つて鐵?を以つて上下した。是が人魚を食べた常陸坊の又新たなる變化であつた。但し此縁起はそれから更に八十餘年を經て、再び此社が繁昌した後のもので、以前の形の儘か否かは疑はしい。近年になつては一般に、常陸坊は天狗だと信じられて居た。常陸國の阿波の大杉大明神も、此人を祭るといふ説があり、特別の場合の他は姿を見ることが出來なかつた。しかも一方には因縁が尚繋がつて、折々は昔の常陸坊かも知れぬといふ老人が、依然として人間にまじつて遊んで居た。

　話が長過ぎたがやはり附添へて置く必要がある。青麻權現の奇跡と同じ頃に、同じ仙臺領の角田《かくだ》から白石の邊にかけて、村々の舊家に寄寓してあるいた白石翁といふ異人があつた。身のたけ六尺眼光は流電の如く、又中々の學者で神儒二道の要義に通じて居た。此翁の特徴は紙さへ見れば字をかくことゝ、それから亦源平の合戰を談ずることとであつた。年齡は言はぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレを以て交つて居た。或時象棋をさして居て、ふと曲淵正左衛門の事を言ひ出したが、此人は二百年前に居た人であつた。身元が知れぬので色々の風説を生じ、或は甲州の山縣昌景かと謂ひ、信玄の次男の瞽聖堂の子かとも謂ひ、(91)

或は又清悦であらうとも謂つた。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病歿したのだが、それから十何年の後、或商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たといふ話も傳はつて居たから、假に海尊であつたとしても理窟だけは合ふのである（以上、東藩野乘下卷及び封内風土記四）。

　さてこれらの話を集めて見て、結局目に立つのは、常に源平の合戰を知つて居ることが長命の證據になつたといふ點である。東北地方の舊家の殊に熊野神社と關係あるものは、最も辨慶や鈴木龜井の武勇談を愛好し、成るたけ多く聽きたいといふ希望が、終に義經記の如き地方の文學を成長せしめたのだ。是に新材料を供與する人ならば、異常の尊敬を受けたのは當然である。それも作り事と名乘つては、人が承知せぬのが普通であつた。即ち座頭の坊の物語が夙くから、當時實際に參與した勇士どもの靈の、託言又は啓示なることを要した所以である。常陸坊は高館落城の當時から、行方不明と傳へられて居た故に、後日生靈となつて人に憑くに差支へは無く、又比較的重要でない法師であつて、觀て居た樣子を語るには都合がよかつた。だから、一時的には吾は海尊と名乘つて、實歴風に處々の合戰や旅行を説くことは、何れの盲法師も昔は通例であつたかと思ふが、それが餘りに巧妙で傍の者が本人と思つたか、はた又本人までが常陸坊になりきつて、所謂見て來たやうな嘘をついたかは、今日となつてはもう斷定が出來ぬ。それから第二の點は支那の寒山拾得の話の如く、殘夢は無々と語り福仙と相指ざし、殘月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ひ、又白石翁が天鑑和尚を倅と呼んだこと、是も多分は古くからの方式であつたらうと思ふ。陸中江刺郡黒石の正法寺で、石地藏が和尚に告げ口をした爲に常陸かいどう〔四字傍点〕の身の上が露れた。歸りに其前を通ると地藏がきな臭いやうな顔をしたので、さてはこやつが喋つたかと、鼻をねぢたと謂つて鼻曲り地藏がある。是は紛れも無く海神《わたつみ》の宮の口女《くちめ》であり、又猿の肝の昔話の龍宮の海月《くらげ》であつて、斯ういふ者が出て來ないと、やはり話にはなりにくかつたのである。だから眼前のたゞ一つの例を執つて、不思議を説明しようとするのは誤つた方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保の木樵、海尊に傳授を受けたと稱して、下駄灸といふ療治を行つたことが、翁草の卷百三十五にも(92)見えて居る。彼も福仙と同じく義經の旗持ちであつたのが、此山に入つて自分も亦地仙と爲つたと謂ふ。下駄だの灸だのと謂ふ近代生活にまで、尚音の奧淨瑠璃の年久しい影響が、痕を留めて居るのはなつかしいと思ふ。

　

　　　　　　　一二　大和尚に化けて廻國せし狸の事

　

　話が山から出て來たついでに、をかしな先例を今少し列擧して見たい。關東各府縣の村の舊家には、狐や狸の書いた書畫と云ふものが折々傳はり、之に伴うて必ず不思議な話が殘つて居る。大抵は旅の僧侶に化けて、其土地に暫く止まつて居たと云ふのである。どうして其僧の狸であることを知つたかと言へば、後日少しくかけ離れた里で、狗に?殺されたと云ふ話だからと謂ふものと、其僧が滯在をして居る間、食事と入浴に人の居るのをひどく厭がる。そつと覗いて見たら食物を膳の上にあけて、口を附けて食べて居たからと謂ふのがあり、又湯殿の湯氣の中から、だらりと長い尻尾が見えたからと謂ふのもある。書や畫は多くは亂暴な、しかも活?な走り書きであつた。

　この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたは如何にも實際らしく無い。若し?まれて死んで居たものゝ正體が狸であれば、果してあの和尚か否かゞわからず、和尚の姿で死んで居れば、狸とは尚更言はれない。要するに山芋と鰻、雀と蛤との關係も同じで、立會の上で甲から乙へ變化する所を見屆けぬ限は、眞の調書は作成し得なかつた道理である。恐らくは實は和尚の擧動、或は其内々の白?が、此説の基礎を爲したものであつたらうと思ふ。

　

　所謂狸和尚の話は、鈴木重光君の相州内郷村話の數頁が、最も新しく且つ注意深い報告である。同君の居村附近、即ち小佛峠を中心とした武相甲の多くの村には、天明年間に貉《むじな》が鎌倉建長寺の御使僧に化けたと云ふ話と共に、描いて殘した書畫が多く分布して居る。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩郡｜加住《かすみ》村大字宮下にある白澤《はくたく》の圖、神(93)奈川縣津久井郡｜千木良《ちぎら》村に傳はる布袋川渡りの圖であつたが、後者は布袋らしく福々しい所は少しも無く、何と無く貉に似た顔に出來て居た。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あつた。形は字らしいが何といふ字か判らなかつた。それよりも更に奇怪なことは、此僧が狗に?み殺されて、貉の正體を顯したと傳ふる場處が、或は書畫の數よりも多いかと思ふ位方々の村に在ることである。又建長寺の方でも此事件は否定せぬさうだ。但し貉が勸化の使僧を咬み殺して、代つて之に化けたと云ふかち／＼山式風説は認めず、中途で遷化した和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したといふ他の一説の方を執つて居り、現に寺にも其貉の書いたものが、二枚も藏つてあるといふのは、頗る次に述べる文福茶釜の話と似て居る。

　右と同樣の話は尚澤山あるが、今記憶する二つ三つを擧げて見ると、靜岡縣安倍郡誌には、此郡大里村大字下島の長田氏には、是も建長寺の和尚に化けて、京に上ると稱して堂々と行列を立て、乘込んで來たといふ貉の話あり、其書が今に殘つて居る。横物の一軸に「?」といふやうな變な字が一字書いてある。ムジナ即ち狸だといふ幽かな暗示とも解せられる。隣區西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あつたがそれは紛失した。さうしてやはり後に安倍川の川原で、犬に喰殺されたと傳へられる。信州下伊那郡｜泰阜《やすをか》村の温田《ぬくた》と云ふ處にも、狸のゑがくといふ繪像のあることが、「傳説の下伊那」といふ書に報ぜられてある。人の顔に獣の體を取附けたやうな不思議な畫姿であつたと謂ふ。但し是は和尚では無くて、由ある京都の公家といふ觸込で、遠州路から山坂を越えて、此村に遣つて來て泊つた。出入ともに駕籠の戸を開かず、家の者も見ることを得なかつたが、翌朝出發の時に禮だと稱して、斯んな物を置いて去つたと謂ふ。此狸はそれから柿野といふ部落に入つて同じことをくりかへし、段々と天龍筋を上つて行くうちに、上穗《うはぼ》の光善寺の飼犬に正體を見現はされ、咬み殺されてしまつたと謂ふが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附の人身御供問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に歸するのである。

　蕉齋筆記には又次のやうな話が出て居る。三州龜濱の鳴田又兵衛といふ富人の家へ、安永の初年頃に、京の大�ｺ寺(94)の和尚だといふのがたゞ一人でふらりと遊びに來て、物の三十日ほども滯在し、頼まれて額だの一行物だのを、幾らとも無く書いて還つた。あとから挨拶の?を京に上せると、大�ｺ寺の方では和尚一向にそんな覺えが無いとある。但しもと此寺に一匹の狸が居て、夜分縁先に來て法談を聽聞して居たが、後に和尚の机の上から石印を盗んで何れへか往つてしまつた。其奴では無からうかと謂つて居ると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乘替へようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかゞ、其石印を所持して居たさうである。三州の方には屏風が一つ殘つて居た。見事な筆跡であつたと謂ふ。併し是だけの材料を綜合して、狸が書家であつたと斷定することは容易で無い。やはり最初から、旅僧の中には稀には狸ありといふ風説が、下染をなして居る必要はあつたのである。狐の書といふ話も例は多いが、鹽尻（帝國書院本）の卷六十八及び七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八郡春近の井上氏に、傳へた書といふのがそれであつて、其模寫を見ると鳥啼花落と立派に書いて、下に梅菴と署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であつて、屡々人間の形を以て來訪した。筆法以外醫道の心得もあり、又能く神を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思つて居ると、或時村の者が京に上る途で、是も大津の町で偶然にこの梅菴に行逢うた。もう年を取つて死ぬ日が近くなつた。日頃親しくした井上氏と、再會の期も無いのは悲しいと落涙し一筆認めて之を托し、尚井上が子供にもよく孝行をして學問を怠らぬやうにと、傳言を頼んで別れたさうである。梅菴は野狐にして僧、長齋一食なりとあつて、何だか支那の小説にでもありさうな話だが、現に鳥啼花落が遺つて居るのだから仕方が無い。併し宮川舍漫筆卷三には、早同じ話に若干の相違を傳へ、公表せられた狐の書といふものにも、野干坊元正と麗々と署名がしてあつた。

　實際此類の狐になると、果して人に化けたのやら、若くは人の形になり切つて居るのやら、其境目がもうはつきりしては居なかつた。それ故に却つて本人の方から、假令露骨には名乘らぬ迄も、稍々自分の狐であることを、暗示する必要があつたと見える。空菴といふ狐が自ら狐の一字を書したことは一話一言に在り、又駿州安倍郡の貉は狸とい(95)ふ字に紛はしい書を遺した。しかも他の一方に於ては、人が狐に化けたといふ話も近世は存外に多かつた。物馴れた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちら／＼と合羽の下から見せ、駕籠屋馬方宿屋の亭主に、尊敬心を起させたと云ふ噂は興味を以て迎へられ、甚だしきはあべこべに、狐を騙したといふ昔話さへ出來て居る。だから私は村々の狸和尚が、何れも狸の贋物であつたとは勿論言はぬが、少なくとも如何して之を發見したかは、考へて見る必要があると思ふのである。

　狐狸の大多數が諸國を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、大抵和尚や御使僧になつて來たのも曰くがあらう。上州茂林寺の文福茶釜を始めとして曾て異僧が住してそれが實は狸であり、色々と寺の爲に働いて、後に居なくなつたと謂ふのみならず、何か末世の手證となる物を、遺して往つたといふ例は澤山にある。禅宗の和尚たちは之を怪奇として斥けず、寧ろ意味ありげに語り傳へるのが普通であつた。會津の或寺でも守鶴西堂の天目を什寶とし、稀有の長壽を説くこと常陸坊海尊同樣であつたが、その守鶴もやはり何かの序でに微々として笑つて、頗る自己の實は狸なることを、否定しなかつたらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺に、曾て三世の住職に隨逐した筑紫三位といふ狸があつて、それが書いたといふ寺起立の由來記を存し、横濱在の關村の東樹院には、狸が描くと稱する渡唐天神の像もあつた（新篇風土記稿二十四及び二十八）。建長寺ばかりでは無いのである。

　それから又有用無害の狐狸が居たと云ふ話は、今では多く寺々の管轄の下に歸し、且は佛�ｺの如是畜生に及んだことを證して居るやうだが、最初は其全部が僧たちの親切に基いた因縁話でも無かつたらしい。今日の思想から判ずれば、狐は是れ人民の敵で、人は汲々乎として其害を避くるに專らであるけれども、祭つた時代には色々の好意を示し、亦必ずしも佛法の軌範の内に跼蹐して居なかつた。例へば越後の或山村では、正月十五日の宵に山から大きな聲を出して、年の吉凶を豫言し、又は住民の行爲を批判した。東備郡村誌に依れば、岡山市外の圓城村に老狸あり、人に化けて民間に往來し、能く人の言語を學んで?々附近の古城の話をした。其物語を聽かんと欲する者、食を與へて之を(96)請ふ時んば、一室を鎖して其内に入り、諄々として人の如くに談じた。而うして人を害すること無し、尤も怪獣なりとある。三河の長篠のおとら狐に至つては、近世其暴虐殊に甚だしく住民は悉く切齒舵腕して居るのだが、人に憑くときは必ず鳶巣城の故事を談じ、尚進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戰の如き、今日の歴史家が或は小幡勘兵衛の駄法螺だらうと考へて居る物語までを、事も細かに敍述するを常とした。單に人を惱ます者がおとらであり、おとらは歳久しき狐なることを證明する爲ならば、それ程力を入れずともよいのであつた。恐らくは是も昔は其話を聽く爲に、狐を招いて來て貰つた名殘であつて、同時に又諸國の狸和尚、乃至は常陸坊八百比丘尼の徒が、或は自分も亦多くの聽衆と同じく、憑いた生靈、憑いた神と同化してしまつて、莊子の夢の吾か蝴蝶かを、差別し得ない境遇に在つた結果では無いかを考へしめる。

　近頃でも新聞に毎々出て來る如く、醫者の少しく首を捻るやうな病人は、家族や親類が直ぐに狐憑きにしてしまふ風が、地方によつてはまだ盛んであるが、何ぼ愚夫愚婦でも理由も無しに、そんな重大なる斷定をする筈が無い。大抵の場合には今までも似たやうな先例があるから、若しか例のでは無いかと、以心傳心に内々一同が警戒して居ると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の擧動が疑はしくなり、先づ食物の好みの小豆飯油揚から、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしやう」などと謂ふ迄に激昂する頃は、本人も亦堂々と何山の稻荷だと、名を名乘るほどに進んで來るので、要するに雙方の相持ちで、若し之を精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人では無いのだ。狸の旅僧の如きも多勢で寄つてたかつて、化けたと自ら信ぜずには居られぬ樣に逆に只の坊主を誘導したものかも知れぬ。

　佐渡では新羅王書と署名した奇異なる草體の書が、多くの家に藏せられ、私もその幾つかを見た。古い物ではあるが、勿論新羅と云ふ國が滅びて後、既に四五百年以上もしてからの作に相異無い。天文年間に漂着したとも謂ひ、或(97)はもつと後の事とも謂つて居る。兎に角曾て他處から來た實在の異人であつた。後には土地の語を話し、土地の人になつてしまつた。書ばかり書いて居る變な人だつたと云ふが、現に其子孫といふ家もあつて、兎に角に詐欺師では無かつた。自分でも新羅王だと思つて居り、それを又周圍の人が少しも疑はなかつた爲に、此樣な有り得べからざる歴史が成立つたものである。

　神隱しの少年の後日譚、彼等の宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を與へたのは怪しむに足らぬ。上古以來の民間の信仰に於ては、神隱しは亦一つの肝要なる靈界との交通方法であつて、我々の無窮に對する考へ方は、終始この手續を通して進化して來たものであつた。書物からの學問が漸く盛んなるにつれて、此方面は不當に馬鹿にせられた。さうして何が故に今尚我々の村の生活に、斯んな風習が遣つて居たのかを、説明することすらも出來なくならうとして居る。それが自分の此書物を書いて見たくなつた理由である。

　

　　　　　　　一三　神隱しに奇異なる約束ありし事

　

　神隱しから後に戻つて來たと云ふ者の話は、更に悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考へる材料として、尚忍耐して多く之を蒐集する必要がある。社會心理學といふ學問は、日本ではまだ飜譯ばかりで、國民の爲の研究者は何時になつたら出て來るものか、今はまだ些しの心當ても無い。それを待つ間の退屈を紛らす爲に、兼て集めてあつた二三の實例を栞として、自分はほんの少しばかり、尚奧の方へ入込んで見ようと思ふ。最初に注意せずに居られぬことは、我々の平凡生活に取つて神隱し程異常なる且つ豫期しにくい出來事は他に無いにも拘らず、單に存外に頻繁であり又どれも是もよく似て居るのみで無く、別に尚人が設けたので無い法則の如きものが、一貫して存するらしいことである。例へば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物が正しく揃へてあつて、一見(98)して普通の狼藉、又は自身で身を投げたりした者と、判別することが出來ると謂つて居る。そんなことは信じ得ないと評してもよいが、問題は何故に人が其樣なことを言ひ始めるに至つたかに在る。

　或は又二日とか三日とか、一定の期間捜して見て見えぬ場合に、始めて之を神隱しと推斷し、それからは又特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎて猶發見し得ぬ場合に最早還らぬ者として其方法を中止する風もある。或は又山の頂上に登つて高聲に兒の名を呼び、之に答ふる者あるときは、其兒何れかに生存すと信じて、辛うじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばはり山といふ山があつて、時々迷子の親などが登つて呼び叫ぶ聲を聽くといふ話もあつた。町内の附合ひ又は組合の義理と稱して、各戸總出を以て行列を作り、一定の路筋を廻歴した慣習の如きも、之を個々の事變に際する協力と謂はんよりは、頗る葬禮祭禮などの方式に近く、しかも捜査の目的に向つては、必ずしも適切なる手段とも思はれなかつた。此仕來りには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があつたのである。それを考へ出さぬ限りは、神隱しの特に日本に多かつた理由も解らぬのである。

　

　全體に此實例は追々と少なくなつて、今では話ばかりが尚鮮明に殘つて居る。神隱しといふ語を用ゐぬ地方も既にあるが、狐に騙されて連れて行かれると謂ひ又は天狗にさらはれると謂つても、之を捜索する方法は略々同じであつた。單に迷子と名づけた場合でも、やはり鉦太鼓の叩き方は、コンコンチキチコンチキチの囃子で、芝居で釣狐などといふたのゝ外には出でなかつた。しかも其以外に尚叩く物があつて、各府縣の風習は互ひによく似て居たのである。例を以て説明するならば、北大和の低地部では狐にだまされて姿を隱した者を捜索するには、多人數で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、又は次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の實名とは關係なく、いつも斯う謂つて喚んだものらしい。さうして一行中の最近親の者、例へば父とか兄とかは、一番後に下つて附いて行き、一升桝を手に持つて、其底を叩きながらあるくことに定まつて居り、さうすると子供は必ず先づ其者の目につくと謂(99)つて居た（なら、一八號）。紀州田邊地方でも、鉦太鼓を叩くと共に、櫛の齒を以て桝の尻を掻いて、變な音を立てる風があつた（雜賀君報）。播磨の印南郡では迷子を捜すのに、村中松明をともし金盥などを叩き、オラバオ／＼と呼ばはつてあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引下つて桝を持つて木片などで叩いて行く。さうすると狐は隱して居る子供を、桝を持つ男のそばへはふり出すと謂つて居た。同國東部の美嚢郡などでは、迷子は狐で無く狗賓さんに隱されたと謂ふが、やはり捜しにあるく者の中一人が、其子供の常に使つて居た茶碗を手に持つて、それを木片を以て叩いてあるいた。越中魚津でも三十年餘の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れさうになるので、捕へて居る子供を樹の上から、放して下すものだと信じて居たさうである（以上、土の鈴九及び一六）。

　右の如き類例を見て行くと、誰でも考へずに居られぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、又飯櫃や桝の類を叩くことを忌む風習が、隨分廣い區域に亙つて行はれて居ることである。何故に之を忌むかといふ説明は一樣で無い。叩くと貧乏する、貧乏神が來るといふものゝ他に、此音を聽いて狐が來る、オサキ狐が集まつて來ると謂ふ地方も關東には多い。多分はずつと大昔から、食器を叩くことは食物を與へんとする信號であつて、轉じては此類の小さな神を招き降す方式となつて居たものであらう。從つて一方では矢鱈に其眞似をすることを戒め、他の一方では亦此方法を以て兒を隱す神を喚んだものと思ふ。俵藤太が持つて來た龍宮の寶物に、取れども蓋きぬ米の俵があつて、後に子孫の者が其俵の尻を叩くと白い小蛇が飛出して米が盡きたと稱するのも、若し別系統でなければ同じ慣習の變化だと見てよろしい。何れにしても迷子の鉦太鼓が、其子に聽かせる目的で無かつたことだけは、かやせ戻せといふ唱へ言からでも、推定することが難くないのである。

　

　加賀の能美郡なども、天狗の人を隱した話の多かつたことは、近年刊行した能美郡誌を見るとよくわかる。同じ郡(100)の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門といふ老人が神隱しに遭つた。村中が手分けをして捜しまはつた結果、隣部落と地境の小山の中腹、土地で神樣松と謂ふ傘の形をした松の樹の下に、青い顔をして坐つて居るのを見付けたと謂ふ。然るに村の人たちが此老人を探しあるいた時には、鯖食つた伊右衛門やいと、口々に唱へたと云ふ話だが、是は何時でもさう言ふ習はしで、神樣殊に天狗は最も鯖が嫌ひだから、斯う謂へば必ず隱した者を出すものと信じて居たのである（立山�ｺ治君談）。琉球で物迷ひと名づけて物に隱された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼を叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯《あかまめまい》を食へよと大きな聲で呼びまはると謂ふ。よく似た話だが是も神靈が之を惡むのか否かは分らぬ。内地の小豆飯は寧ろ此類の神の好む所と考へられて居る。鯖といふ魚の信仰上の地位は、詳かに調べて見る必要があるのだが、今までは誰も手を着けて居なかつた。

　

　不思議な事情から居なくなつてしまふ者は、決して少年小兒ばかりでは無かつた。數が少なかつたらうが成長した男女も亦隱され、さうして戻つて來る者も甚だ僅かであつた。但し壯年の男などはよく／＼の場合で無いと、人は之を驅落ち又は出奔と認めて、神隱しとは謂はなかつた。神隱しの特徴としては永遠に居なくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりと其姿を見せるのが法則である樣に、殆と何れの地方でも信じられて居る。盆とか祭の宵とかの入込の中で、ふと行きちがつて言葉などを掛けて別れ、おや今の男は此頃居ないと謂つて家で騷いで居た筈だがと心付き、直ぐに取つて返して跡を追うて見たが、もうどこへ行つても影も見えなかつた、と云ふ類の例ならば方々に傳へられて居る。是等は察する所、樹下にきちんと脱ぎそろへた履物などと一樣に、如何に若い者が氣紛れな家出をする世の中になつても、尚其中には正しく神に召された者が有り得ることを我々の親たちが信じて居ようとした、努力の痕跡とも解し得られぬことは無い。

　西播怪談實記といふ本に、揖保《いぼ》郡｜新宮《しんぐう》村の民七兵衛、山に薪採りに行きて還らず、親兄弟欺き悲みしが、二年を經(101)たる或夜、村の後の山に來て七兵衛が戻つたぞと大聲に呼ばはる。人々悦び近所一同山へ走り行くに、麓に行着く頃までは其聲がしたが、登つて見ると早何處にも居なかつた。天狗の下男にでもなつたものかと、村の内では話し合つて居たが、其後此村から出て久しく江戸に居た者が東海道を歸つて來る途で、興津の宿とかで七兵衛に出逢つた。是も互ひに言葉を掛けて別れたが家に歸つて聞くと此話であつた。それからは終に風のたよりも無かつたといふことである。即ちたつた一度でも村の山へ來て呼ばはらぬと、人はやはり驅落ちと解する習ひであつた故に、自然に此樣な特徴が出て來たのである。

　九桂草堂隨筆卷八には、又次のやうな話がある。廣瀬旭莊先生の實驗である。我郷（豐後日田郡）に伏木といふ山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼きて止まず。戸外に追出す。其傍に山あり。聲稍々遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終に行方知れず。後十餘年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越と云ふ峯を過ぐるに、麓より怪しき長七八尺ばかり、滿身に毛生じたる物上り來る。大いに怖れ走らんとすれども、體痺れて動かず。其物近づきて人語を爲し、汝いづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の兒失せたることを聞きたりやと謂ふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其兒なり。其時我今仕ふる所の者より收められて使役し、今は我も數山の事を領せりと謂ひて、懷より橡實《とちのみ》にて製したる餅樣の物を出し、我父母存命ならば、是を屆けてたまはれと謂ふ。何れの地に行きたまふかと問ふに、此より椎葉山《しひばやま》に向ふなりと言ひて別れ、それより路無き斷崖に登るを見るに、その捷きこと鳥の如しといふ。話は余少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。

　

　　　　　　　一四　殊に若き女の?々隱されし事

　

　女の神隱しには殊に不思議が多かつた。是は岩手縣の盛岡で曾て按摩から聽いた話であるが今からもう三十年も前(102)の出來事であつた。此市に住んで醤油の行商をして居た男、留守の家には女房が一人で、或日の火ともし頃に表の戸をあけて此女が外に出て立つて居る。あゝ惡い時刻に出て居るなと、近所の人たちは思つたさうだが、果して其晩から居なくなつた。亭主は氣ちがひの樣になつて商賣も打棄てゝ置いてそちこちと捜しまはつた。若しやと思つて岩手山の中腹の綱張温泉に出かけて其邊を尋ねて居ると、たうとう一度だけ姿を見せたさうである。やはり時刻はもう暮近くに、何氣無しに外を見たところが、宿から僅か隔たつた山の根笹の中に、腰より上を出して立つて居た。すぐに飛出して近づき捕へようとしたが、見えて居ながら段々に遠くなり、笹原づたひに峯の方へ影を没してしまつたと謂ふ。

　又是も同じ山の麓の雫石《しづくいし》と云ふ村には斯んな話もあつた。相應な農家で娘を嫁に遣る日、飾り馬の上に花嫁を乘せて置いて、ほんの些しの時間手間取つて居たら、もう馬ばかりで娘は居なかつた。方々探しぬいて如何しても見當らぬとなつてから又數箇月も後の冬の晩に、近くの在所の辻の商ひ屋に、五六人の者が寄合つて夜話をして居る最中、からりとくゞり戸を開けて酒を買ひに來た女が、よく見るとあの娘であつた。村の人たちは甚だしく同顛したときは、先づ口を切る勇氣を失ふもので、ぐず／＼として居るうちに酒を量らせて勘定をすまし、さつさと出て行つてしまつた。それと言ふので寸刻も間を置かず、直ぐに跡から飛出して左右を見たが、もう何處にも姿は見えなかつた。多分は軒の上に誰かゞ居て、女が外へ出るや否や、直ちに空の方へ引張り上げたものだらうと、解釋せられて居たといふことである。

　

　單なる偶然から此地方の話を、自分はまだ幾つと無く聽いて記憶して居る。それが特に他の府縣に比べて、例が多いといふことを意味せぬのは勿論である。同縣上閉伊郡の鱒澤といふ村で、是も近世の事らしいからもつと詳しく知つて居る人があらうが、或農家の娘物に隱されて永く求むれども見えず、今は死んだ者とあきらめて居ると、ふと或(103)日田の掛稻の陰に、此女の來て立つて居るのを見た人があつた。其時は併しもう餘程氣が荒くなつて居て、普通の少女の樣では無かつた。さうして又忽ち走り去つて、終に再び還つて來なかつたと謂つて居る。遠野物語の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸《さむと》といふ處の民家で、若い娘が梨の樹の下に草履を脱いで置いたまゝ、行方知れずになつたことがあつた。三十何年を過ぎて或時親類知音の者が其處に集まつて居るところへ、極めて老いさらばうて其女が戻つて來た。どうして歸つて來たのかと尋ねると、あまりみんなに逢ひたかつたから一寸來た。それでは又行くと言つて、忽ち何れへか走り去つてしまつた。其日はひどい風の吹く日であつたといふことで、遠野一郷の人々は、今でも風の騷がしい秋の日になると、けふは寒戸の婆の還つて來さうな日だと謂つたとある。

　是と全然似た言ひ傳へは、又三戸郡の櫛引村にもあつた。以前は大風の吹く日には、けふは傳三郎どうの娘が來るべと、人がことわざのやうにして言つて居たさうだから、たとへば史實であつてももう年數が經過し、昔話の部類に入らうとして居るのである。風吹といふことが一つの樣式を備へて居る上に、家に一族の集まつて居たといふのは、祭か法事の場合であつたらうが、それへ來合せたとあるからには、既に幾分の靈の力を認めて居たのである。釜石地方の名家板澤氏などでは、之に近い舊傳があつて毎年日を定め、昔行き隱れた女性が、何人の眼にも觸れること無しに、還つて來るやうに信じて居た。盥に水を入れて表の口に出し、新しい草履を揃へて置くと、いつの間にか其草履も板縁も、濡れて居るなどと噂せられた。此家のは娘で無くて、近く迎へた嫁女であつた。精密な記憶が家に傳はつて居り、いつの頃よりか不滅院量外保壽大姉といふ戒名を附けて祀つて居た。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究した上で無ければ斷定も下されぬが、恐らくは是が神隱しに對する、一つ昔の我々の態度であつて、假に唯一人の愛娘などを失うた淋しさは忍び難くとも、同時に之に由つて家の貴さ、血の清さを證明し得たのみならず、更に亦眷屬郷黨の信仰を、統一することが出來たものでは無いかと思ふ。

(104)　伊豆では今の田方郡田中村大字宗光寺の百姓惣兵衛が娘はつ十七歳、今から二百十餘年前の寶永頃に、突然家出をして行方不明であつた。はつの母親が没して三十三囘忌の日、還つて來て家の前に立つて居た。近所の者が見付けて聲を掛けると、答もせずして走り出し又何れかへ往つてしまつた。其後も天城山に薪を樵り、又は宮木を曳きなどに入つた者が折々此女を見かけることがあつた。いつも十七八の顔形で、身には木の葉などを綴り合せた珍しい衣服を纏うて居た。言葉をかけると答も無く、直ちに遁げ去るを常としたと槃遊餘録の第三編、寛政四年の紀行のうちに見えて居る。甲州では逸見《へんみ》筋淺尾村の孫左衛門を始めとし、金御嶽《かねのみたけ》に入つて仙人となつたといふ者少なからず、東河内領の三澤村にも、藥を常磐山に採つて還らなかつた醫者がある。今も時として其姿を幽谷の間に見る者があつて、土人は一樣に之を山男と名づけて居るが、其出身の村なり家なりでは、永く其前後の事情を語り傳へて、寧ろ因縁の空しからざることを感じて居たやうでもあつた。

　

　　　　　　　一五　生きて居るかと思ふ場合多かりし事

　

　少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、是が本人たゞ一人の心の迷から出たものと解してしまふことが昔は出來なかつた。一人では到底深い山の奧などへ、入つて行く筈の無い童子や女房たちが、現に入つて行き、又多くは戻つて來ぬのだから、誰か誘うた者があつたことを、想像するに至つたのも自然である。實際又山の生活に關する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省して見ても、曾てさういふ奪略者が絶對に無かつたとは斷言することを得ない。問題はたゞ斯くの如き想像の中で、果してどこ迄は一應根據のある推測であり、又どの點からさきが單に畏怖に基いたる迷信、乃至は誤解であつたらうかと云ふことである。

　しかも自分たちの見る所を以てすれば、右の問題の分堺線とても、時代の移るにつれて始終一定して居たわけでも(105)無いやうである。例へば天狗さまがさらつて行くといふことは、殊に兒童少年に付いては近世に入つてから、甚だ頻繁に風説せられるやうになつたけれども、中世以前には東大寺の良辨僧正のやうに、鷲に取られたと云ふ話の方が遙かに多く、其中にも亦稀には命を助かつて慈悲の手に育てられ、終には親の家へ戻つて來た者さへあるやうに、今昔物語などには語り傳へて居る。それから引續いて又世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思つて居た時代もあつたのである。

　鎌倉期の初頭あたりを一つの堺として、その鬼がまた天狗に其地位を委讓したのは、東國武士の實力増加、都鄙盛衰の事情を考へ合せても、そこで何等かの時勢の變化を暗示するものがあるやうに思ふ。その天狗の屬性とても行く／＼著しく變遷して、固より今を以て古を推すことは出來ぬが、鬼の方にもやはり地方的に、又は時代に相應した特色ともいふべきものがあつたらしいのである。例へば在原業平の悠遊して居た頃には、鬼一口に喰ひてんけりと謂つたが、大江山の酒顛童子に至つては、都に出でて多くの美女を捕へ來り酌をさせて酒を飲むやうな習癖があつたものの如く、想像せしめた場合も無いでは無かつた。天狗ばかりは僧形であつたゞけに、感心に女には手を掛けないやうだと話がきまると人は別に又山賊の頭領といふ類の兇漢を描き出して、兎に角にこの頻々たる人間失踪の不思議を、説明せずには居られないやうであつた。しかも實際は小説御伽草子繪卷物以上に的確に眞相を突留めることは、求めたからとて出來ることではなかつた。

　別離を悲しむ人々の情から言へば、如何なる場合にもまだ何處かの谷陰に、活きて時節を待つて居るものと、想像して見ずには居られなかつたでもあらうが、單に其樣な慾目からで無くとも、現實に久しい歳月を過ぎて後、ひよつこりと還つて來た先例もあれば、又慥かに出逢つたと謂ふ人の話を、聞出した場合も多かつたのである。單に深山に女の姿を見たと云ふだけの噂ならば、其他にもまだ色々と語り傳へられて居た。假令それが我里で居なくなつた者とは何の關係も無く全然見ず知らずの別の土地の事件であつても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞たる別世界にも、(106)尚何か人間の活きて行く道があるらしいといふ推測は、どの位神隱しの子の親たちの心を、慰めて居たかわからぬので、それが又轉じては此不思議の永く行はれ、氣の狂うた者の自然に山に向ふ原因ともなつたのは、是非も無い次第であつた。

　曾ては天狗に關する古來の文獻を、集めて比較しようとした人が折々あつたが是は失望せねばならぬ勞作であつた。資料を古く弘く求めて見れば見るほど輪廓は次第に茫漠となるのは、最初から名稱以外に澤山の一致がなかつた結果である。例へば天狗とは一體どんな物かと聞いて見るとき、今日誰しも答へるのは鼻の無暗に高いことであるが、是とても狩野古法眼が始めて夢想したといふ説もあつて、中古には緋の衣に羽團扇などを持つた鼻高樣は想像することが出來なかつたのである。その上に何々坊の輩下といふ天狗だけは、口が嘴になり鼻は穴だけが其左右に附いて居る。同じ一類で一方は人の如く、他方は翼があつて鳥に手足を加へたものゝ如くなることは、殆と有得ざる話であるが、人は單に變形自在を以て之を説明して、然らば本來の面目如何といふ點を、考へずに濟まして居たのである。それなら實際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかといふと、中世の天狗はふらりと來て人に憑くこと野狐の如く、或は左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキの如くであつたが、今は絶えて其類の非難を傳へない。或は智辯學問ある法師の増上慢が、?々生きながら天狗道に身を落さしめたと云ふ講もある。平田先生などは特に此點ばかり、佛者の言を承認しようとして居るが、是さへ近世の天狗はもう忘れたものゝ如く、寧ろ?々人間の慢心を懲らし戒めたといふ實例さへあつて、自慢を天狗と謂ふ昔からの諺も、最早根據の無いものにならうとして居る。それといふのが時代により地方に由つて、名は同じでも物が知らぬ間に變つて居たからである。書物は斯ういふ場合には大抵は寧ろ混亂の種であつた。學者ばかりが獨りで土地の人々の知らぬことを、考へて居た例は多かつた。成程天狗といふ名だけは最初佛者などから教はつたらうが奇怪はずつと以前から引續いてあつたわけで、學者に言はせる(107)とそんな筈は無いといふ不思議が、どし／＼と現れる。見本で物を買ふやうな理窟には行かなかつたのである。天狗をグヒンといふに至つた原因もまだ不明だが、地方によつては之を山の神と謂ひ、又は大人《おほひと》山人とも謂つて、山男と同一視する處もある。さうして必ずしも兜巾篠懸の山伏姿で無く特に護法と稱して名ある山寺などに從屬するものでも、その佛教に對する信心は寺侍寺百姓以上ではなかつた。況や自由な森林の中に居るといふ者に至つては、僧徒らしい氣分などは微塵も無く、只非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清淨を愛して叨りに俗衆の近づくを憎み、殊に隱形自在にして恩讎共に常人の意表に出でた故に、畏れ崇められて居たので、此點は寧ろ日本固有の山野の神に近かつた。名稱のどこ迄も借り物であつて、我々の精神生活の之に左右せられた部分の存外に小さかつたことは、是からだけでも推論してよいのである。山中にサトリといふ怪物が居る話はよく方々の田舍で聽くことである。人の腹で思ふことをすぐ覺つて、遁げようと思つて居るななどと言ひあてるので、怖しくてどうにも斯うにもならぬ。それが桶屋とか杉の皮を剥く者とかと對談して居る際に、不意に手がすべつて杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間といふ者は思はぬことをするから油斷がならぬと謂つて、逃げ去つたといふのが昔話である。それを四國などでは山爺の話として傳へ、木葉の衣を着て出て來たともいへば、中部日本では天狗樣が遣つて來て、桶屋の竹に高い鼻を彈かれたなどと語つて居る。その土地次第で斯う謂つても通用したのである。オニなども今では角あつて虎の皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者をさいなむ者の如く、解するのが普通になつたらしいが、その古來の表現は誠に千變萬化で亦若干は之に充てたる漢語の鬼の字に由つて、世上の解説を混亂せしめて居た。しかも諸國の山中に保存せられた彼等の遺跡、乃至は多くの傳説に由つて考へると、少なくとも或時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄して居たこともあるのである。何れにしても我々の畏怖には現實の基礎があつた。單に輸入の名稱に由つて、空に想像し始めたものではなかつたのである。

(108)　不在者の生死といふことは非常に大きな問題であつた。どうせ居ないのは同じだと、言つてすませるわけには行かなかつた。生者と死者とでは、之に對する血縁の人々の仕向けが、正反對に異ならねばならなかつたからである。生きて居る者の救濟も必要ではあるが是は徐ろに時節を待つて居ることも出來る。之に反して死者は魂が自由になつて、もう家の近くに戻つて來て居るかも知れぬ。處理せられぬ亡魂ほど危險なものは無かつた。或は淋しさの餘りに親族故舊を誘ふこともあり、又は人知れぬ腹立ちの爲に、あばれまはることも?々あつた。其豫防の手段は佛教以前から、色々綿密に講究せられて居たのである。而うして其手段は通例甚だ煩はしい。且つ誤まつて生者の爲に之を行ふときは、其害も亦小さくなかつた。故に單なる愛惜の情からで無くとも、一日も早く何等かの兆候を求めて隱れても尚生存して居ることを確めて置く必要があつたのである。アンデルセンが月の物語の初章に、深夜に谷川に降つて燈を水に流し、思ふ男の安否を卜せんとした印度の少女が「活きて居る」と悦んで叫んだ光景が敍べてある。普通は生死を輕く考へる東洋人が、此際ばかり特に執着の切なる情を表はす理由は、全く死に伴うた嚴重の方式があつた爲で、旅の別れの哀れな歌にも、且はこの心元無さがまじつて居たのである。夢といふものゝ疎かにせられなかつた原因もこゝに在る。互ひに見よう見えようといふ約束が、言はず語らずに結ばれて居たのである。それが頼みにし難くなつて後、書置といふ風習が次第に行はれた。神隱しだけは斯ういふ一切の豫定を裏切つて、突如として茫漠の中に入つてしまふのだが、しかも前後の事情と代々の經驗とに由つて、一應はやゝ幸福の方の推測を下すことが、存外に六つかしくなかつたらしいのである。

　

　　　　　　　一六　深山の婚姻の事

　

　昔話の中にも折々同じ例を傳へて居る爲に、却つて信じ得る人が少なからうかと思ふが是は既に十七八年も以前に(109)筆記して置いた陸中南部の出來事であつてこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じつと考へて見ようと思ふのである。或村の農家の娘、栗を拾ひに山に入つたまゝ還つて來ず、親はもう死んだ者とあきらめて、枕を形代に葬送もすませてしまつて、又二三年も過ぎてからの事であつた。村の獵人の某と云ふ者が、五葉山の中腹の大きな岩の陰に於て、此女に行逢つて互ひに喫驚したといふ話である。

　あの日に山で怖ろしい人にさらはれ、今は斯んな處に來て一緒に住んで居る。遁げて還らうにも少しも隙が無い。さういふうちにも爰へ來るかも知れぬ。どんな事をするか分らぬと謂ふので碌に話も開かずに早々に立退いてしまつたといふことである。其男といふのは全體どんな人かと獵人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のやうに見えるが、人はどう思ふやらわからぬ。たゞ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じ樣な人が四五人も寄り集まつて、何事か話をして又何れへか出て行く。食べ物なども外から持つて還るのを見ると、町へも買物に行くのかも知れぬ。又子どもはもう何遍か産んだけれども、似て居ないから俺の兒では無いと謂つて、殺すのか棄てるのか、皆何れへか持つて行つてしまつたと、其女が語つたさうである。

　山が同じく五葉山であるから、一つの話では無いかとも思ふが或は又次のやうに話す者もあつた。女は獵人に向つて、お前と斯うして話して居る處を、若しか見られると大變だから、早く還つてくれと謂つたが、出遣つて見た以上は連れて還らねばすまぬと、強ひて手を取つて山を下り、漸く人里に近くなつたと思ふ頃に、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んで來て、女を奪ひ返して山の中へ走り込んだとも謂つて居る。維新前後の出來事であつたらしく、まだ其娘の男親だけは、生存して居ると謂つて、家の名まで語つたさうである（佐々木君報）。是だけ込入つた且つ筋の通つた事件は、一人の獵人の作爲に出たと思はれぬは勿論、よもや突然の幻覺では無からうと思ふが、それを確認させるだけの證據も、殘念ながらもう存在せぬのである。只少なくとも陸中五葉山の麓の村里には、今でも之を聽いて寸毫も疑ひ能はざる人々が、住んで居ることだけは事實である。さうして彼等がほゞ前の話を忘れようとする頃に(110)なると、又新たに少し似たやうな話が、どこからとも無く傳はつて來ることに、是迄は殆ときまつて居たのである。

　右の珍しい實例の中で殊に自分たちが大切な點と考へるのは、不思議なる深山の壻の談話の一部分が女房にも意味がわかつて居たといふことゝ、其奇怪な家庭に於ける男の嫉妬が、極端に強烈なものであつて、我子をさへ信じ得なかつた程の不安を與へて居たことゝである。即ち彼等は若し眞の人間であつたとしたらあまりにも我々と遠く、もし又神か魔物かだつたといふならば、あまりにも人間に近かつたのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、之を聽いて有り得べからずとすることが出來なかつたとすれば、そは必ずしも漠然たる空夢ではなかつたらう。誤つたにもせよ何等かの實驗、何等かの推理の豫め素地を爲したものが、必ずあつた筈と思ふ。現代人の物を信ぜざる權利は、決して之に由つて根強い全民衆の迷信を、無視し得るまでの力あるものでは無いのである。

　曾て三河の寶飯郡の某村で、狸が一人の若者に憑いたことがあつた。狐などよりは口輕く、無暗に色々の事をしやべるのが、此獣の特性とせられて居るが、此時も問はず語りにおれは此村の誰といふ女を、山へ連れて往つて女房にして居ると謂つた。出たら目かとは思つたが、實際ちやうど其女が居なくなつて、頻りに捜して居る際であつた故に、根ほり葉ほりして隱して置くといふ場處を問ひたゞし、若しやといふので山の中を捜して見ると果して岩穴の奧とかにその娘が居たといふことである。還つて來てから本人が、どういふ風に顛末を語つたか。此話をしてくれた人も聞いては居らず、又強ひて詳しくその點を究める迄も無いか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入つて行く若い女を一種の婚姻の如く解する習はしは弘く行はれて居たので、それが不條理であればあるだけに、底に隱れた最初の原因が、殊に學問として尋ねて見る價値を生ずるのである。猿の壻入の昔話は、前に既に大要を敍べて置いたが、是にも欺き終ほせて無事に還つて來たと云ふ童話式のものゝ外に、たうとう娘を取られたといふ因縁話も傳はつて居る。龍蛇の婚姻に至つては末遂げて再び還らなかつたといふ例が殊に多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何人も之を愛好(111)する。齡盛りにして忽然と身を隱したとすれば、人に非ずんば何か他の物が、之を求めたと推斷するが自然である。特に山男の場合に限つて、目するに現實の遭遇を以てする理由は無いのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、所謂ビースト・エンド・ビウティーの物語の、是が根原の動機を爲すかの如く、説かんとすることは速斷に失するであらう。又今日までの資料では、強ひて其見解を立てるだけの勇氣は、自分たちにもまだ無いのだが、只注意してもよいことは日本といふ國には、近世に入つてからも此類の話が特に數多く、又?々新たなる實例を以て、古傳を保障しようとして居たことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも稱し、女が何かの機會に選定を受けたことになつて居り、伊豆の三宅島などには山に住む馬の神がみいつたといふ話もあつて、過度に素朴なる口碑は諸國に多く、さうで無ければ不思議な因縁が其女の生れた時から附纏ひ、又は新たなる親の約束などがあつて、自然に其運命に向はねばならなかつたやうに、語り傳へて居るに反して、別に我々が聽き得たる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入つて居る。さうして如何にも人間らしい強い執着を以て、愛せられ且つ守られて居たといふのである。それを單なる昔話の列に押竝べて、空想豐かなる好事家が、勝手な尾鰭を附添へたかの如く解することは、少なくとも私が集めて見た幾つかの旁證が、斷じて之を許さないのである。

　

　　　　　　　一七　鬼の子の里にも産れし事

　

　母は往々にして不當に疑はれた。似て居らぬから我子で無いといふ單純に失した推斷は必ずしも獨り五葉山中の山人のみの專賣でもなかつたのである。至つて平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子といふ俚諺は、今以て行はれて居て、時々は又之を裏書するやうな事件が、發生したとさへ傳へられるのである。

　「日本はおろかなる風俗ありて、齒の生えたる子を生みて、鬼の子と謂ひて殺しぬ」と、徒然慰草の卷三には記して(112)ある。江戸時代初め頃の人の著述である。尚それよりも遙かに古く、東山往來といふ書物の消息文の中にも、家の女中が齒の生えた兒を生んだ。是れ鬼なり山野に埋むるに如かずと近隣の者が勸めるが、如何したものだらうかといふ相談に答へて、坊主にするのが一番よろしからうと謂つてゐる。即ち以前は相應に頻々と、處々に此樣な異樣の出來事があつたかと思はれるのである。

　けだし人は到底凡庸を愛せずには居られなかつた者であらうか。前代の英雄や偉人の生ひ立ちに關しては、如何なる奇瑞でも承認して居りながら、事一たび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫も異常を容赦することが出來なかつた。近世に入つてからも、稀には齒が生えて産れる程の異相の子を儲けると、大抵は動?して即座に之を殺し、之に由つて酒顛童子茨木童子の如き惡業の根を絶つた代りには、一方には又道場法師や武藏坊辨慶の如き、絶倫の勇武強力を發揮する機會をも與へなかつた。是れ恐らくは天下太平の世の一弱點であつたらう。

　しかも胎内變化の生理學には、今日尚説き明かし得ない神秘の法則でもあるのか。此樣な奇怪な現象にも、やはり時代と地方とに由つて、一種の流行の如きものがあつた。詳しく言ふならば、鬼を怖れた社會には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒して居ると天狗が子供を奪ふのと同樣に、牙あり又角ある赤ん坊の最も數多く生れたのは、所謂魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福迄が、時あつて彼等に由つて左右せられるかの如く、氣遣つて居た人々の部落の中であつた。

　

　鬼子の最も怖ろしい例としては、明應七年の昔、京の東山の獅子が谷と云ふ村の話が、奇異雜談集の中に詳しく報ぜられて居る。玄同放言三卷下には全文を引用して居るが、記事にはあやふやな部分がちつとも無く、少なくとも至つて精確なる噂の聞書である。其大要のみを擧げると、此家の女房三度まで異物を分娩し四番目に産んだのがこの鬼子であつた。生れ落ちたとき大きあ三歳子の如く、やがてそこらを走りあるく故に、父追掛けて取すくめ膝の下に押付(113)けて見れば、色赤きこと朱の如く、兩眼の他に額に尚一つの目あり、口廣く耳に及び、上に齒二つ下に齒二つ生えて居た。父嫡子を喚びて横槌を持つて來いといふと、鬼子之を聞いて父が手に咬みつくのを、其槌を以て頻りに打つて殺してしまつた。人集まりて之を見ること限り無しとある。その死骸は西の大路眞如堂の南、山際の崖の下に深く埋めた。ところが其翌日田舍の者が三人、梯子をかたげて此下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土龍鼠《むぐらもち》が居ると謂つて朸《あふこ》のさきで突いて見ると、ひよつくりと其鬼子が出た。三人大いに驚いて此は聞及んだ獅子が谷の鬼子だ。只早く殺すがよいと、朸を揮うて頻に打ち、終に之を叩き殺した。それを慘酷な話だが、繩を附けて京の町まで曳いて來ると途中多くの石に當つたけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。此事常樂寺の栖安軒琳公幼少喝食の時、崖の下にて打殺すをまのあたり見たりと謂へりとあつて、事件の當時から約九十年後の記述である。

　

　何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮せねばならなかつたかは、實は必ずしも明瞭では無い。家の外聞とか恥とか謂ふのも條理に合はなかつた。殺して之を清める望は無かつたのみならず、匿し終ほせた場合さへ少なかつた。然らば活かして置いて何が惡いかと尋ねて見ると、是亦格別の事は無かつたのである。兇暴無類の評ある大江山の酒顛童子、其子分か義兄弟の如く考へられた茨木童子なども、單に今まで見ず知らずの他人に對して殘忍であつたといふのみで、飜つて其家庭生活を檢すれば、思ひの外なるものがあつた。越後名寄卷三十三其他の所傳に依れば、酒顛童子は此國西蒲原郡｜砂子塚《いさこづか》、又は西川櫻林村の出身と稱して各々その舊宅の地があつた。附近の和納《わのう》といふ村にも後に引越して來たと謂つて今尚榎の老木ある童子屋敷、下名《さげな》を童子田と呼ぶ水田もあつた。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であつた。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隱山九頭龍權現の申し兒であつて、母の胎内に十六箇月居たといふだけが、親に迷惑を掛けたといへば掛けたのである。和柄の楞嚴寺で文字を習ひ、國上《くがみ》の寺に上つて侍童となる迄は不良少年でも何でも無かつた。茨木童子の故郷も攝津に在る方が正しいのかも知れぬが、是亦越後にも一箇處あつ(114)て、今の古志郡荷頃村大字輕井澤、茨木善次右衛門は其生家と稱し、連綿として若干の記憶を傳へて居た。例へば家の背後に童子が栖んだといふ岩屋、それは崩れて其跡に清き泉湧き、流の末には十坪ばかりの空地あつて、童子出生の地と稱して永く耕作をさせなかつた。惡人に對する記念では無かつたのである。

　攝州川邊郡東富松の部落に於ては、既に茨木童子の家筋は絶えた代りに、更に一段と心を動かすべき物語が殘つて居た。攝陽群談卷十に曰ふ。童子生れながらにして牙生ひ髪長く、眼に光あつて強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖して之を茨木の邊に棄てた處、丹波千丈嶽の強盗酒顛童子拾ひ還りて養育して賊徒と爲す云々。しかも兩親が後に病に罹つて同じ枕に寢て居るのを、術を以て遙かに之を知り、心配をして見舞に還つて來たと謂ふのは、やはり松崎の寒戸の婆などの例であらう。只今は京都に留まつて、東寺の邊に安住して居る。人に怖ろしい姿を見せぬやうに、急いで還らうと飛んで往つたといふ田圃路に、安東寺の字名などが殘つて居り、其時親が悦んで團子を食はせた記念として、毎年同じ日に村では團子祭をすると謂つて居る。

　戰が無くなり國中が統一してしまふ迄は、斯ういふ義理固い無茶者は、求めても養つて置く必要が時としてはあつた。言はゞ百姓の家に生れたのが損だつたのである。肥後の川上彦齋の傳を見てもさう思ふが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衝などに就ては殊に其感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生れて居たら、彼は大名になつたかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話といふのは、慶長見聞集卷六に出て居る。武州大鳥といふ在所に利生あらたかなる十王まします。母にて候ふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠り、滿ずる曉に靈夢の告あり、懷胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄たくましく面の色赤く、向ふ齒あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是を見て惡鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし處に、母之を見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細あり、是は十王への申し兒なれば、其しるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へりとある。祈る佛も多くあつた中に、特に閻魔に兒を申したといふのは、別に近代の母親(115)の相續せざる、一種戰國時代相應の理想があつた爲かと思ふ。さうでは無い迄も大王が事を好み、餘計な迷惑を信徒に與へんとしたので無いことだけは、一般に之を認めて居たやうに見えるが、しかもそれは京都と其附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺した時代よりも、亦ずつと後年の田舍の事であつた。

　内田邦彦君の南總之俚俗の中に、東上總の本納邊の慣習として、鬼子が生れると歳神樣へ上げた棒で叩くとある。之とよく似た事で今日弘く行はれて居るのは赤ん坊が餘り早く例へば一年以内にあるき始めると、大きな餅を搗いて之を脊負はせ、それでも猶あるくと突倒したりする親がある。鬼子と謂ふのは多分齒が生えて産れる子のことであらうが單に殺すことを許されぬ故に斯んな方法を後に代用したものと見ても、尚歳神の棒といふことには、考へ出さねばならぬ深い意味がある。或は本來は此上も無い立派な兒であるけれども凡人の家に取つては善過ぎる爲に、其統御を神に委ねるの意味では無かつたか。何れにもせよ後世の民家で、怖れて殺した程の異常なる特徴は、同時に又上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り傳へたものと一致し、更に常理を以て判斷しても、其が悉く昔の個人生活の長處ばかりであつたことを考へると、野蠻な風習だから大昔からあつたらうと、手輕に推斷することも出來ぬやうである。人間の畸形にも不具と出來過ぎとが確かにある。大男も片輪のうちに算へるのは、所謂鎖國時代の平民の哀れな遠慮であらう。蝦夷のシヤグシヤインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦《あかぶさほんがはら》や與那國の鬼虎の如き、容貌魁偉なる者は多くは終を全うしなかつた。それを案じて家に此樣な者の生れるを忌んだのは恐くは新國家主義の犠牲であつた。部曲が對立して爭闘して止まなかつた時代には、所謂鬼の子は即ち神の子で、それ故にこそ今も諸國の古塚を發くと、往々にして無名の八掬脛《やつかはぎ》や長髄彦《ながすねひこ》の骨が現れ、若くは現れたと語り傳へて尊信して居るのである。

　沖繩の遺老説傳には次のやうな話がある。昔宮古島｜川滿《かはま》の邑に、天仁屋大司《あめにやおはつかさ》といふ天の神女、邑の東隅なる宮森に來り寓し、遂に目利眞按司《めりまあんじ》に嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤兒を養ふに、第三女｜眞嘉那志《まかなし》十三歳、忽ち懷胎して十三月にして一男を坐下す。頭には雙角を生じ眼は環《たまき》を懸くるが如く、手足は鷹の足に似たり。容貌人の形に(116)非ず。故に之を名づけて目利眞角嘉和良《めりまつのかわら》と謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母眞嘉那志に相隨ひて、供に白雲に乘りて天に升る。後年?々目利眞山に出現して、靈驗を示す。邑人尊信して神嶽と爲すと。ツカサは巫女を意味し又多くは神の名であつた。カワラは沖繩の按司と同じく、亦頭目のことである。先島の神人には角を名に着くものが他にもある。即ち神の子であり、後又神に隱されたる公けの記録が、彼島だけには是ほど儼然として傳はつて居るのである。殺すといふことは少なくとも、古代一般の風習では無かつた。

　

　　　　　　　一八　學問は未だ此不思議を解釋し得ざる事

　

　嘘かとは思ふが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に傳はつて居る。今から三十年ほど以前に、愛媛縣北部の或山村で、若い嫁が難産をしたことがあつた。其時腹の中から聲を發する者があつて、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣る。若し殺すならば出て遣らぬがどうだと言ふ。活かして置くのは家の名折れとは思つたが、いつ迄も産れないでは困る故に、皆で騙して決して殺さぬといふ約束をした。さうして待構へて居て茣蓙で押へて殺してしまつた。角の長さが二寸ばかり、秘密にして居たのを遠縁の親類の女が知つて、終に此話の話し手にしやべつたのが私にも聽えた。但しどうして又其樣な怖ろしい物を孕んだかは、今に至るまで不明であるが、此近傍には鬼子の例少なからず、或村の一家の如きは鬼の子の生れる少し以前に、山中に入つて山姥のヲツクネと云ふ物を拾ひ、それから物持になつた代りに、亦斯ういふ出來事があつたと謂ふ。ヲツクネとは方言で麻絲の球のこと、山姥の作つたのは人間の引いたのとは違つて、使つても使つても無くならぬ。即ち所謂盡きぬ寶であつた。

　又大隅海上の屋久島《やくのしま》は、九州第一の高峯を擁して、山の力の今尚最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、三國名勝圖會には記して居る。山中に入りたる時頻りに睡眠を催し、異人を夢みることあ(117)れば必ず娠む。産は常の如くにしてたゞ終りて後神氣快からずと雖死ぬやうなことは決して無い。生れた兒は必ず齒を生じ且つ善く走る。仍て鬼子とは謂ふ也とある。此の如き場合には、柳の枝を其兒の口にくはへさせて、之を樹の枝に引懸けて置くと、一夜を過ぐれば必ず失せて無くなると謂つて居た。普通の赤ん坊ならば無論活きて居る筈は無いのだが、島の人々は或は父方に引取つて、養育して居るものゝ如く考へて居たものらしい。前後の?況は甚だしく相違するが、兎に角に是も一種の神隱しではあつた。

　日向南部の米良山の中にも、入つて働いて居る女の不時に睡くなると謂ふ處があつた。さういふ際にはよく姙娠することがあつて、之を蛇の所業の如く信ずる者もあつたと謂ふ。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨を採りに往つて其事があつたので、若しや蛇の子では無いかと思つて、産をしてしまふ迄一通りならぬ心痛をしたさうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或は玄鳥の卵を呑んで感じて身ごもることありと記したのも、多分は斯ういふ事情を意味したものであらう。氣高い若人が夜深く訪ねて來たと云ふ類の話にも、最初に溪川の流に物を洗ひに降りて、美しい丹塗りの箭が川上から泛んで來たのを、拾うて還つて床の側に立てゝ置いたと謂ふ例があるのを見ると、亦異常なる感動を以て、母と爲る豫告の如く解して居た、昔の人の心持が察せられる。たゞ村民の信仰が追々に荒んで來て斯ういふ奇瑞の示された場合にも、怖畏の情ばかり獨り盛んで、兎角に生れる子を粗末にした。大和の三輪の神話と豐後の尾形氏の古傳とは、或は其系統を一にするかとの説あるにも拘らず、後者に於ては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟の底に潜んで永く再び出でなかつた。其他の地方の多くの類例に至つては、銕の針に傷けられて命終ると謂ひ、普通には穴の口に近よつて人が立聽きするとも知らず蓬と菖蒲の葉の秘密を漏した話などになつて居り、媼嶽の大太童《だいだわらは》の如く子孫が大いに榮えたといふ場合は、今では之を見出すことがやゝ難くなつて居るのである。作陽志には美作苫田郡越畑の大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚として一夜男子に逢ふ。自ら銕山の役人と稱して居た。後に孕んで産む所の子、兩牙長く生ひ尾角共に備はり、儼として牛鬼の如くであつたので父母怒(118)つて之を殺し、銕の串に刺して路傍に暴した。是れ村野の人後患を厭するの法なり云々とあつて、昔はさしも大切に事へた地方の神が、次第に輕ぜられ後終に絶縁して、いつと無く妖怪變化の類に混じた經路を語つて居る。さうして何れの場合にも、銕といふ金屬が常に強大な破壞力であつた。屋久島などでも殊に鍛冶の家が尊敬せられ、不思議な懷胎には必ず銕滓《かなくそ》を貰つて來て、柳の葉と共に合せ煎じて飲むことになつて居たさうである。

　

　山に入つて山姥のヲツクネなるものを拾つた故に、物持にもなつた代り鬼子も生れたと云ふ話には更に一段と豐富なる暗示を含んで居るらしい。山姥は成程多くの神童の母であり、同時に又珍しい福分の主でもあつたことは、次々にも猶述べるやうに、諸國の昔からの話の種であつたが、特に常人の女性に角ある兒を産ましめる爲に、彼女が干渉すべき必要は無かつた筈である。察する所本來この不可思議の財寶は、寧ろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであつたのを、人が忘却して之を顧みぬやうになつてから、山中の母ばかりが管理をすることゝなつたのであらう。此想像を幾分か有力にするのは、ウブメ（産女）と稱する道の傍の怪物の話である。支那で姑獲と呼ぶ一種の鳥類を之に當てゝ、産で死んだ婦人の怨魂が化成する所だの、小兒に害を與へるのを本業にして居るのと、古い人たちは斷定してしまつたやうだが、それでは説明の出來ない著しい特徴には、少なくとも氣に入つた人間だけには大きな幸福を授けようとして居た點である。即ちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽の話を別にして考へると、ウブメは必ず深夜に道の畔に出現し赤子を抱いて呉れと謂つて通行人を呼び留める。喫驚して逃げて來るやうでは話にならぬが、幸ひに勇士等が承諾して之を抱き取ると、段々と重くなつてしまひには腕が拔けさうになる。その昔話は此から先が二つの樣式に分れ、よく見ると石地藏であつた石であつたと謂ふのと、抱き手が名僧でありウブメは幽靈であつて、念佛又は題目の力で苦難を濟つてやつたといふのとあるが、何れにしても滿足に依託を果した場合には、非常に禮を言つて十分な報謝をしたことになつて居る。佛道の縁起に利用せられない方では、ウブメの禮物は黄金の袋であり、又(119)は取れども盡きぬ寶であつた。時として其代りに五十人百人力の力量を授けられたと云ふ例も多かつたことが、佐々木君の東奧異聞などには見えて居る。今昔物語以來の多くの實例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に氣紛れであつた。或者は之に逢うて命を危くし、或者は其因縁から幸運を捉へたことになつて居る。後世の宗教觀から見るときは甚だ不安である爲に段々と畏怖の情を加へたのだが、神に選擇があり人の運に前定があつたと信じた時代には、是も亦?るに足りた貴き靈であつたに相違ない。つまりは兒を授けられるといふのは優れた兒を得るを意味し、申し兒といふのは子の無い親ばかりの願では無かつたのである。さうして山姥の如き境遇に入つてでも、尚金太郎の如き子を欲しがつた社會が、曾て古い時代には確かにあつたことを、今は既に人が忘れて居るのである。

　

　　　　　　　一九　山の神を女性とする例多き事

　

　人の女房を山の神と謂ふ理由としては、いろはの中ではヤマの上《かみ》がオクだからなどと馬鹿げた説明は既に多い。或は里神樂の山の神の舞に、杓子を手に持つて出て舞ふからと謂ふなどは、尤もらしいが稍々循環論法の嫌ひがある。何の故に山の神たる者が此の如く、人間の家刀自の必ず持つべきものを、手草《たぐさ》に執つて舞ふことにはなつたのか。それが先づ決すべき問題だと言はねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であつて、最も敬虔に山神に奉仕する者が、之を製して平野に持ち下る習ひではあつたが、只それのみでは神自ら之を重んじ、又多くの社に於て之を信徒に頒與する迄の理由にはならぬ。岐阜縣の或地方では以前は山の神の産衣と稱して長の六七尺もある一つ身の着物を獻上する風があつたといふが、今は如何であらうか。之に對しては子育ての守として、巨大なる山杓子を授けた社もあつたといふ。越前｜湯尾《ゆのを》峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小兒安全の祈?を含むものが多い。山と女性又は山と産育といふが如き、一見して縁の遠さうな信仰が、曾て其間に介在しなかつたならば、到底我々の家内の者に、其樣ない(120)かめしい綽名を付與するの機會は生じなかつた筈である。

　山の神は通例諸國の山林に於て、清き木清き石に就て、臨時に之を祀り、禰宜神主の沙汰は無い場合が多いが、之を無格社以上の社殿の中に齋くとすれば、乃ち神の名を大山祇命《おほやまつみのみこと》、若くは木花開耶姫尊《このはなさくやひめのみこと》と謂ひ、稀には其御姉の岩長姫命とも稱へて、何とかして神代卷に合致させようとするのが、近世神道の習はしである。しかも是は單に山神が或地では男神であり、又他の地方では姫神であつたことを語る以外に、聊かも信仰の元の形を、跡づけた名稱では無いのである。公認せられない山神の久しい物語には、今は大凡忘れたからよいやうなものゝ、中々に尊き大山祇の御名を累すべきものが多かつた。木樵草苅狩人の群が、解し且つ信じて居た空想は粗野であつた。それを片端から説き立てることは心苦しいが、僅かに山の神に産衣を奉納したといふ點だけを考へて見ても、自分たちは之を岩長姫の御姉妹に托することの、由無き物好みであつたことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉の大河内と云ふ部落に一泊して、宿主の家に傳へた秘傳の狩之卷なるものを見せて貰つたことがある。其一節の山神祭文獵直しの法といふのは、大よそ次の如き素朴なる神話であつた。不明の文字があるから、寧ろ全文を書留めて置く方がよいと思ふ。

一、そも／＼山の御神、數を申せば千二百神、本地藥師如來にておはします。觀世音菩薩の御弟子阿修羅王、緊那羅王、摩　喉羅王と申す佛は、日本の將軍に七代なりたまふ。天の浮橋の上にて、山の神千二百生れたまふ也。此山の御神の母御名を一神《いちがみ》の君と申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温めず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の獵師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝が持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう／＼勿體なき御事也。此割子と申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未滿の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖の振合にも、不淨の火をきらひ申す。全く以て參らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の獵師に又行逢ひ、(121)汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹を温めず。山の割子を得さすべしとて乞ひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫にては、産をして早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に參らせん。かしきのうごく、白き粢の物をきこしめせとてさしあげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞（開？）かせん。是より丑寅の方にあたつて、とふ阪山といへるあり。七つの谷の落合に、りう三つを得さすべし。猶行末々たがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令。敬白。

　右の話が天つ神の新甞の物忌の日に、富士と筑波と二處の神を訪れて、一方は宿を拒み他方は之を許したといふ物語、巨旦將來蘇民將來の二人の兄弟が、款待の厚薄に由つて武塔天神に賞罰せられた話、世降つては弘法大師が來つて水を求めた時、惡い姥は之を否んで罰せられ、善き姥は遠く汲んで其勞を報いられたといふ口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人も之を認め得る。假に山の神の母に托した物語が日向ばかりの發明であつたとしても其意味は深いと思つた。然るについ近頃になつて、佐々木君の東奧異聞には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口傳となつて殘つて居たことを報告して居る。羽後の方では八人組十人組と謂ふ二組のマタギ、一方は忌を怖れてすげなく斷つたに反して、他の一方では小屋の頭がたゞの女性で無いと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では獵人の名を萬治磐司と謂ひ、磐司が獨り血の穢れを厭はず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと傳へて居る。何れも山神が其好意をめでて、後々山の幸を保障したことは同じであつた。

　獵師は船方などとは違ひ、各自獨立した故郷があつて、互ひに交通し混同する機會は決して多くない。それが奧羽と九州の南端と、いつの頃からかは知らぬが是だけ類似した物語を傳へて居るのは必ず隱れた原因がなければならぬ。其原因を尋ね求めることは、今からではもう六つかしいであらうか否か。自分の知る限に於ては、同じ古傳の破片か(122)と思ふものが、中部日本では上古以來の北國街道、近江から越前へ越える荒乳《あらち》山にもあつた。義經記卷七に義經の一行が、此峠を越えなづんで路の傍に休んだ時、アラチといふ山の名の由來を、辨慶が説明したことになつて居る。今の人が聽けば興の覺めるやうな話だが、加賀の白山の山の神女體こうのりうぐうの宮、志賀の辛崎明神と御かたらひあつて、懷姙既に其月に近く、同じくは我國に還つて産をなされんとして、明神に扶けられて此嶺を越えたまふ折に、俄かに御催しあつて、山中に於て神子誕生なされた。荒血をこぼしたまふに由つて荒血山とは謂ふとある。義經記全篇の筋とは直接の交渉無き挿話だから、作者の新案とは考へられぬ。多分は此書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられて居た口碑かと思ふ。しかも獵人の神を援助した話は、爰では之と結び附いて居た痕跡が無い。二國に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行逢ひたまふといふことは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今尚土地の民は之を語り傳へて居る。それと各地の道祖乢《さへのたわ》の驚くべく粗野なる由來記とは、勿論何れが本、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあつたので、從つて深山の誕生といふが如き荒唐なる言傳へも、成立ち得る餘地は十分にあつた。たゞ記録以前に在つては話し手の空想が僅かづゝ働いて、始終輸廓が固定しなかつたといふのみである。

　例へば淨瑠璃の十二段草子は、殆と義經記と同じ頃に今の形が整うたものかと思ふのに同じ話がもう別樣に語り傳へられ、志賀の辛崎明神を志賀寺の上人即ち八十三歳で貴女に戀慕したといふ珍しい老僧の後日譚にしてしまつた。其時京極の御息所《みやすどころ》は年十七、上人三たび其御手を執つて我胸に押當てたので、乃ち懷胎なされたと謂ふのは、同じ近江國手孕村の古傳の混淆であるが、やはり亦荒乳の山中にして産の紐を解きたまふと謂ひ、取上げたる君子は面は六つ御手は十二ある異相の産兒にして、直ちに都率天に昇り住したまひ、後に越前敦賀に降つてけいたい菩薩と顯れ、北陸道を守護したまふなどと、大變な出鱈目を謂つて居る。勿論此通りの話が一度でも土地に行はれて居たわけでは無く、單に愛發《あらち》の關が上古以來、北國往還の衝に在つた爲に、他の邊土に比べては此口碑が一層弘く、且つ一層不精(123)確に流布したことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が阪田公時の母であり、之を山中に養育したといふ話が、特に相州足柄の山に屬することになつたのも、亦全然同じ事情からであらうと思ふ。江戸時代中期の讀み本として、前太平記といふ書物が世に現れる迄は、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山で無かつた。信州木曾の金時山などでは、現に金時母子の棲んだといふ巖窟、金時が産湯をつかつたといふ池の跡の他に、麓の村々の石の上には此怪力童子の足跡なるものが幾らもあつて（小谷口碑集）、寧ろ山姥が自由自在に山又山を山巡りするといふ、古い評判とも一致するのであるが、之を頼光四天王の一人に托するに至つて、足柄ばかりが有名になつたのみならず、前後唯一度の奇瑞の如く解せられて、却つて俗説の遠い由來を、尋ねる途が絶えようとするのである。

　臥雲日件録などを讀んで見ると、山姥が子を生むといふ話は少なくとも室町時代の、京都にも既に行はれて居た。しかもをかしい事には一腹に三人も四人も、怖ろしい子を生むと謂ふのである。從つてそれが山神の産養ひといふ類の獵人等が言ひ傳へと、元は果して一つであるか否かも、容易に決斷することは出來ぬのだが、山姥の信仰が今ほど雜駁になつた上は致し方の無いことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振ひながら、他の一方では折々里に現れて祭を受け又幸福を授け、數々の平和な思ひ出を其土地に留めて居る。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするさうでと謂つて居た。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供を連れて時々は此岩の上に來て、焚火をしてあたらせるのを見たと稱して此名がある。遠州奧山郷の久良幾《くらき》山には、子生嵶《こうみたわ》と名づくる岩石の地が明光寺の後の峯に在つて、天�ｺ年間に山姥此に住し三兒を長養したと傳説せられる。龍頭峯の山の主龍筑房、神之澤の山の主白髪童子、山住奧の院の常光房は、即ち共に其山姥の子であつて、今も各地の神に祀られるのみか、?々深山の雪の上に足痕を留め、永く住民の畏敬を繋いで居た。遠江國風土記傳には平賀矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐に來たと話してはあるが、後に和談成つて彼等の後裔も亦同じ神に仕へたことは、秋葉山住の近世の歴史から、之を窺ふことが出來るのである。

(124)　山住は地形が明白に我々に語る如く、本来秋葉の奧の院であった。然るに何時の頃よりか二處の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、終に廣大なる奧山には及ばなかったのである。海道一帶の平地の民が、山住樣に歸伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎へて來て、魔障盗賊を退ける目的の外に出なかつた。今こそ狼は山の神の使令として、神威を宣布する機關に過ぎぬだらうが、若し人類の宗教にも世に伴ふ進化がありとすれば、曾ては狼を直ちに神と信じて、畏敬祈願した時代があつて、其痕跡は數々の民間行事、乃至は覺束ない口碑の中などに、辿れば之を尋ね出すことが出來るわけである。山に繁殖する獣は數多いのに、獨り狼の一族だけに對しては、産見舞といふ慣習が近頃まであつた。遠江三河には限つたことでは無いが、諸國の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場處があつた。いよ／＼産があつたといふ風説が傳はると、里では色々の食物を重箱に詰めて、わざ／＼持參したと云ふ話は珍しくない。但し果して狼の産婦が實際貰つて食べたか否かは確かで無い。津久井の内郷などでは赤飯の重箱を穴の口に置いて來ると、兎や雉子の類を返禮に入れて返したなどともうそろ／＼昔話に化し去らんとして居るが、秩父の三峯山では今以て嚴重の作法があつて、之を御産立《おこだて》の神事と謂ふさうである。三峯山誌の記する所に由れば、御眷屬子を産まんとする時は、必ず凄然たる聲を放つて鳴く。心直ぐなる者のみ之を聽くことを得べし。之を聽く者社務所に報じ來れば、神職は潔齋衣冠して、御炊上《おたきあ》げと稱して小豆飯三升を炊き酒一升を添へ、其者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草も無く掃き清めたかと思ふ場所がある。其地に注連を繞らし飯酒を供へて、祈?して還ると謂ふので、是亦産の樣子を見たのでは無いが、此神事のあつた年に限つて、必ず新たに一萬人の信徒が増加するとさへ信じて居た。

　しかも此話が單に山神信仰の一樣式に過ぎなかつたことは、所謂御産立の神事が年を隔てゝ稀に行はれて居たのを見ても察せられる。狼は色欲の至つて薄い獣だといふ説もあり或は此獣の交るを見た者は、災があると謂ふ説があつたのも、つまりは山中天然の現象の觀察が、此の如き信仰を誘うたものでは無く、豫て山神の子を産むといふ信仰が(125)あつた爲に、斯る偶然の出來事に對しても、尚神秘の感を抱かざるを得なかつたことを意味するかと思ふ。狼が化けて老女と爲り若くは老女が狼の姿を憤りて、旅人を劫かしたと云ふ話は西洋にも弘く分布して居るらしいが、日本での特色の一つは、是も亦分娩といふことゝの關係であつた。殊に阿波土佐伊豫あたりの山村に於ては、身持の女房が俄かに産を催し、夫が水を汲みに谷に降つて居る間に、狼の群に襲はれたと云ふ話を傳へ、又は山小屋に産婦を殘して里に出た間に、咬み殺されたといふ類の物語があつて、或は此獣が荒血の香を好むといふが如き、怪しい博物學の資料にも爲つて居るやうだが實事としては餘りに似通うた例のみ多く、しかも其故跡には大木や巖があつて、?々祟りを説き亡靈を傳へて居るのを見ると、是も本來同一系統の信仰が、次第に形態を變じて奇談小説に近づかうとして居るものなることを、推測することが出來るのである。

　但し實際此問題は六つかしくて、もう是以上に深入するだけの力も無いが、兎に角に自分が考へて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であつたかといふことであつた。山中誕生の奇怪なる昔語りが、斯く色々の形を以て弘く且つ久しく行はれて居るのは、或は此疑問の解決の爲に、大切なる鍵では無かつたかといふことである。日向の椎葉山の獵人傳書に、山神の御母の名を一神の君と記し又は安藝と石見を境する龜尾山の峠に於て、御子を生みたまふと傳ふる神が、市杵島姫命であつたと謂ふのも、自分にとつては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕へる女性を意味して居る。語の起りはイツキメ（齋女）であつたらうが、又一の巫女などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子と共に在るときは、其子の名を小市とも又市太郎とも傳へて居た。代を重ねて神を代表する任務を掌つて居るうちに、次第に我始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さへあつたのは、言はゞ日本の固有宗教の一つの癖であつた。故に公の制度としては齋女の風は夙に衰へたけれども、尚民間に在つては清く且つ慧しい少女が、或は神に召されて優れたる御子を産み奉るべしといふ傳統的の空想を、全然脱却することを得なかつたのかと思ふ。信仰圏外の批判を以てすれば、之を精神疾患の遺傳とも謂ふことが出來るが、平和古風の山村生(126)活に在つては全く由緒ある宗教現象の一つであつた。殊に又深山の深い緑、白々とした雲霧の奧には、?々其印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永く後々まで潜んで居たのである。

　

　　　　　　　二〇　深山に小兒を見るといふ事

　

　日向の獵人の山神祭文にも、山の神千二百生れたまふといふことがあるが、山を越えて肥後の球磨郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奧山太郎各々三千三百三十三體と唱へて、一萬に一つ足らぬ山の神の數を説くのである。算へた數字で無いことは固よりの話だが、此點は頗る足柄山の金太郎などと、思想變化の方向を異にして居るやうに思はれる。所謂大山祇命の附會が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混亂があつた。木樵獵人が各々其道に由つて拜んだ外に、野を耕す村人等は、春は山の神里に下つて田の神と爲り、秋過ぎて再び山に還りたまふと信じて、農作の前後に二度の祭を營むやうになつた。伊賀地方の鉤曳の神事を始めとし、神を誘ひ下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帶では之に對して山ワロ河ワロの俗傳が行はれて居る。中國以東の川童が淵池毎に孤居するに反して、九州でミヅシン又はガアラッパと稱する者は、常に群を爲して住んで居た。さうして冬に近づく時それが悉く水の畔を去つて、山に還つて山童《やまわろ》となると考へられ、夏は又低地に降り來ること、山の神田の神の出入と同じであつた。紀州熊野の山中に於てカシャンボと稱する靈物も、略々之に類する習性を認められて居る。寂寥たる樹林の底に働く人々が、我が心と描き出す幻の影にも、やはり父祖以來の約束があり、土地に根をさした歴史があつて、萬人おのづから相似たる遭遇をする故に、假に境を出ると忽ち笑はれる程のはかない實驗でも尚信仰を支持するの力があつた。まして況んや其間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだ幾らも殘つて居たのである。

　西遊記其他の書物に九州の山童として記述してあるのは、他の府縣で謂ふ山男のことであつて、其擧動なり外貌な(127)りは、到底川童の冬の間ばかり化して爲る者とは思はれぬのであるが、別に此以外に谷の奧に潜んで小さな怪物の居るといふ言ひ傳へはあつたので、山童はもと恐らくは此方に屬した名であつた。壹岐の島では一人の旅人が、夜通しがや／＼と宿の前を海に下つて行く足音を聽いた。夜明けて訊ねるとそれは山童の山から出て來る晩であつた。或は又山の麓の池川の堤に、子供のかと思ふ小さな足痕の、無數に殘つて居るのを見て、川童が山へ入つたと謂ふ地方もある。秋の末近く寒い雨の降る夜などに、細い聲を立てゝ渡り鳥の群が空を行くのを、あれがガアラッパだと耳を峙てゝ聽く者もあつた。阿蘇の那羅延坊などといふ山伏は、山家に住みながら川童豫防の護符を發行した。即ち夏日水邊に遊ぶ者の彼等の害を懼るゝ如く、山に入つては又山童を忌み憚つて居た結果かと思はれるが、近世に入つてから其實例が漸く減少した。大體にこの小さき神は、人間の中の小さい者も同じやうに、氣輕な惡戯が多くて驚かすより以上の害は企て得なかつた。注意をすれば之を防ぐことが出來た爲に、後次第に人が其威力を無視するに至つたのである。觀惠交話といふ二百年程前の書物には、豐後の國かと思ふ或山奧に、せこ子と稱する怪物が居る話を載せて居る。形は三尺から四尺、顔の眞中に眼が只一つである外、全く人間の通りで、身には毛も無く又何も着ず、二三十づつ連れだつてあるく。人之に逢へども害を作さず、大工の持つ墨壺を事の外ほしがれども、遣れば惡しとて與へずと杣たちは語る。言葉は聞えず、聲はひう／＼と高く響く由なりと謂つて居る。

　眼が一つといふことは突然に聞けば仰天するが、土佐でも越後でも、又朝鮮でも、或は遠く離れて歐羅巴の多くの國の田舍でも、斯んな境遇の非類の物には、折々附いて廻る噂である。如何してさういふ風に目に見えたかは、殘念ながらまだ明白に判らぬといふ迄で先づは怪物の證據とでも言ふべきものであつた。大和吉野の山中に於ては、又木の子と名づくる凡三四歳の小兒ほどの者が居た。身には木の葉を着て居るとある。是は扶桑怪談實記の話す所であつて、其姿有りとも無しとも定まらずなどと至つて漠然たる話ながら、山働きの者折々油斷をすると木の子に辨當を盗まれることがあるので、木の子見ゆるや否や棒を以て之を追散らすを常とすともあれば、少なくとも多數の者が知つ(128)て居たのである。此外にも秋田の早口澤の奧に鬼童といふ者の住むことは、黒甜瑣語三編の四に見え、土佐の大忍郷の山中に、笑ひ男といふ十四五歳の少年が出て笑ふことが、土州淵岳志に書留めてある。それが誇張であり若くは誤解なることは、細かに讀んで見ずとも斷定してよいのであるが、斯ういふ偶然の一致がある以上は、誤解にも尚尋ぬべき原因があるわけである。

　其上にまた時としては、誤解とも誇張とも考へられぬ場合もある。是は南方熊楠氏の文通によつて知つたのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさ／＼と幼兒が一人這ひ出して來たのを見てびつくりして急いで山を走り降つた。それから幾日かを經て同じ山道を戻つて來ると、今度は其子供が首を斬られて同じあたりに死んで居たのを見たといふ。頭も尻尾も無く話はたゞ是だけだが、その簡單さが寧ろ此噂の人の作つた物語で無いことを感ぜしめる。南方氏の書?は之に附加へて、印度は地方に由つて狼の穴から生きた人間の赤兒を拾つて來た事件が今でも新聞其他に折々報ぜられる。此國は狼の害甚だ多く、小兒の食はれる實例が毎年中々の數に達し、狼に食はれた子供の首飾腕飾の落ちたのを、山をあるいては拾ひ集める職業さへ有る。最近のロミユルスは即ち此連中によつて發見せられるので、狼が飽滿して偶然に食ひ殘した子供が、無邪氣に食を求めて狼の乳を吸ひ、自然に猛獣の愛情を喚起して狼の仔と共に育てられるのだ。或孤兒院へ連れて來た童子などは、四つ這ひをして生肉の他は食はず、うなる以外に言語を知らず、擧動が全然狼の通りであつたと報告せられて居ると示された。但し此種の出來事は必ず昔からであらうが、之に基いて狼を靈物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であつても子供を取つたと云ふ話ばかり多く傳はり、助け育てたと云ふ實例は無いやうである。故に性急に此方面から山の赤子の説明を引出さうとしてはならぬのである。

　

(129)　　　　　　　二一　山姥を妖怪なりとも考へ難き事

　

　山姥山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬を以て付與したる美稱であつて、或はさう呼ばれてもよい不思議なる女性が、曾て諸處の深山に居たことだけは、略々疑を容れざる日本の現實であつた。但し之に關する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であつた故に最も細心の注意を以て、その誤解誇張を辨別する必要があるのは勿論である。自分が前に列記した幾つかの見聞談の如く、女が中年から親の家を去つて、彼等の仲間に加はつたといふ例の外に、別に最初から山で生れたかと思はれる山女も往々にして人の目に觸れた。是も熊野の山中に於て、白い姿をした女が野猪の群を追掛けて、出て來ることがあると、秉穗録といふ本に見えて居る。土佐では槇山郷の宇筒越で、與茂次郎といふ獵師夜明に一頭の大鹿の通るのを打留めたが、忽ち其あとから背丈一丈にも餘るかと思ふ老女の、髪赤く兩眼鏡の如くなる者が、其鹿を追うて來たのを見て動?したと、寺石氏の「土佐風俗と傳説」には誌してある。

　猪を追ふ女の白い姿と謂ふは、或は裸形のことを意味するのでは無かつたか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振亂して泣きながら走つて行くと、此國の人上原白羽といふ者が、今齊諧の著者に語つて居る。それが若し實驗者の言に基くものならば、泣きながらとは多分奇聲を發して居たことを謂ふのだらう。遠野物語に書留められた山中深夜の女なども、待てちやアと大きな聲で叫んだと謂つて居る。他の地方にも似たる例は多く、大抵は背丈が無暗に高かつたことを説いて居るが、怖しくて遁げて來た者の觀察だから、寸法などは大ざつぱなものであらうと思ふ。それよりも土地を異にし場合を異にして、大凡形容の共通なるもの、例へば聲とか髪の毛の長く垂れて居たとか謂ふ點の同じかつたのは注意に値する。山で大きな女の屍體を見たと云ふ話は、是も幾つかの類例が保存せられてあるが、就中有名なのは夙く橘南谿の西遊記に載せられた日向南部に於ける出(130)來事である。

　日向國飫肥領の山中にて、近き年菟道弓にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にして色ことの外白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。獵人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂ふにぞ、後の祟りも恐ろしく取棄てもせず、其まゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云へり云々。この菟道弓のウヂといふのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ處を往來する習性があるのを知つて、かゝれば獨りでに發するやうにウヂ弓を仕掛けて置くのである。それに來て斃れたといふのは幾ら神で無くとも驚くべき不注意であつて、珍しい事件であつたに相違ないが、都に住む橘氏ならば兎に角、土地の獵人が始めて名を知つたといふのは、稍々信じにくい話である。殊に此方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁であり、現に此記事以後にも、色々の珍聞が傳へられて居るのである。

　八田知紀翁の霧島山幽境眞語の終りに、次のやうな一語が載せてある。

　おとどし（文政十二年）の秋、日向の高岡郷（東諸縣郡）にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋領の小菅嶽といふ山に、高岡郷より獵に行通ふ者のありけるが、一日罠を張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方は人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は數百年の昔、世の亂れたりし時、家を遁れ出てこの山に兄弟共に隱れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の實やうのものにて有り經しかば、おのづから斯う形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る處に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで／＼我命をば助けよかしと涙おとして詫びけれど（その言語今の世の詞ならで、定かには聽取りかねしとぞ）、いといぶかしくや思ひけん、其儘里へ馳せ還りて、友あまたかたらひ來て其女を殺してけり。さて其男は幾程も無く(131)病み煩ふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。

　小山勝清君の外祖母の話であつた。明治の初年、肥後球磨郡の四浦村と深田村との境、高山の官山の林の中に、獵師の掛けて置いた猪罠に罹つて、是も一人の若い女が死んで居た。丸裸であつたさうだ。之を附近の地に埋めたが、後に祟りがあつたと云ふ話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しづゝ時を異にし、又僅かばかり場處をちがへて何れも霧島市房連山の中の、出來事であつたと云ふ點である。但し猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かゝつた女が身の上を語つたといふ小菅嶽の一條には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ／＼に住んで居て、時あつて相訪ふといふことは話の樣式の一つであり、亂を避けて山に入つたと云ふのも、此地方の人望ある昔談りに他ならぬ。言葉が古風で聽取りにくかつたといふ説明と共に、必ず仲繼者の潤飾が加はつて居るかと思ふ。それよりも大切な點は僅かな歳月、僅かな距離を隔てゝ似た樣な三つの事件が起りしかもそれ／”＼　　状況を異にして、眞似た痕跡の無いことである。自分は必ず今に又新しい報告の、更に附加せらるべきことを豫期して居る。

　

　他の地方の類例は又熊野の方に一つある。長《たけ》八尺ばかりな女の屍骸を、山中に於て見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記して居る。それから越後野志卷十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、此國頸城郡姫川の流に、山男が山奧から流れて來た。裸形にして腰に藤蔓を纏ふ。身のたけ二丈餘とある。但し人恐れて敢て近づかず。遂に海上に漂ひ去ると謂つて、寸尺は測つて見たのでは無かつた。しかも二丈餘といふのは兼て此地方で言ふことゝ見えて、同じ書物の他の條にもさう書いてある。

　但し山男の身長の遙かに尋常を超えて居たことは、他の多くの地方でも言ふことで或は事實では無いかと思ふ。此序でにほんの二つか三つ實例を擧げて見るならば、有斐齋剳記に對馬某といふ物産學者、藥草を採りに比叡山の奧に入つて、偶々谷を隔てゝ下の方に、一人の小兒の岩から飛降りてはまた攀ぢ登つて遊んで居るのを見た。村の子供が(132)來て遊ぶものと思つて居たが、後日其處を通つて見るに、岩は高さ數仞の大岩であつた。それから推して見ると小兒と思つたのは、身の丈一丈もあつたわけで、始めて怪物といふことに氣がついた。石黒忠篤君が曾て誰からか聽いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉、或年公命を帶びて木曾に入り、山小屋にとまつて居ると、月明らかなる夜更に其小屋の外に來て高聲に喚ぶ者がある。刀を執つて戸を開いて見るに、そこには早影も見えず、小屋の前の山を極めて丈の高い男の下つて行く後姿が、遠く月の光で見えたさうだ。山男であらうと其折從者に向つて言はれたが、他日終に再び之を口にせず、先生の日記にも傳にも、其事を記したものは無かつたといふ。山中笑翁が前年駿州田代川の奧へ行かれた時、奧仙俣の杉山忠藏と云ふ人が、其父から聽いたと云つて語つた話の中に、若い時から獵がすきで、毎度鹿を追うて山奧に入つたが、眞に怖ろしく又不思議だと思つた事は、生涯に二度しかない。其一度は山中の草原が丸太でも曳いて通つたやうに、一筋倒れ伏して居るのを怪しんで見て居るうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分れて、次第に頂上に押登つて行つたこと、今一度は人の足跡が土の上に在つて、其大きさが非常なものであつた。兼て斯んな場合の萬一の用意に、持つて居る鐡の彈丸を銃にこめて、猶奧深く入つて行くと、ちやうど暮方のことであつたが、不意に行く手の大岩に足を踏掛けて、山の蔭へ入つて行く大男の後姿を見た。其身の丈が見上げても目の屆かぬ程に高かつた。餘り怖ろしいので鐵砲を打放す勇氣も無く還つて來たと語つたさうである。昨今は既に製紙や枕木の爲に散々に伐り荒されたから事情も一變したが、以前は此邊から大井の川上にかけては、山人に取つての日高の沙留とも謂ふべく、最も豐富なる我々の資料を藏して居た。安倍郡大川村大字日向の奧の藤代山などでも、曾て西河内の某といふ獵師が、大きな人の形で毛を被つた物を、鐵砲で打留めたことがあつた。駿河國新風土記卷二十には、何でも寛政初年の事であつたらしく記して居る。打留めたものゝ餘りの怖ろしさに、其儘にして家に歸り、それが病の元になつて獵師は死んだ。其遺言に一年も過ぎたなら、斯う／＼した處だから往つて見よとあつたので、其通りに時經て後出かけて捜して見ると、偉大なる脛の骨などが落散り、傍には又四五尺あるかと思ふ白い毛が、夥し(133)くあつたと傳へられる。其樣に長いならば髪の毛だらうと思ふが、何分多くは何段かの又聞きであつた爲、滿身に毛を被るといふ記事がいつも精確で無く、殊に此地方では猿の劫經たものとか、狒々とかいふ話が今でも盛んに行はれて、一層人の風説を混亂せしめる。新聞などを注意して居ると、四五年に一度位はさういふ噂が必ず起り、其實打取つたのは稍々大形の猿であり、只其話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなつて居る。つまりはうそであり誇張ながらも、由つて來る所だけはあるのである。尚最後に今一つ、どうでも猿では無かつた具體的の例を出して置く。是は駿河志料卷十三、駿河國巡村記志太郡卷四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百餘年前の出來事であつた。

　大井川の奧なる深山には山丈《やまじよう》といふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠の里を未明に立ち、智者山《ちしややま》の險岨を越え、八草の里に至る途中、夜既に明けんとするの頃深林を過ぐるに、前路に數十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈餘の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜かに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又聲を揚ぐべからず、此林の茂みに影を匿せと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只聲を呑みてかたへに隱る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺ふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇そりかへり、髪の毛は一丈餘にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵の思ひを爲し、案内と共にかの處に來りて其跡を閲するに、怪獣の糞樹下にうづたかく、その多きこと一箕ばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥きさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹を好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに?み碎ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按ずるに是は狒々と稱するものにて、山丈とは(134)異なるなるべし（以上）。此話は如何にも聽いた通りの横確な筆記のやうだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじつて居ること、恰かも?碎いた篠竹の如くである。例へば長き唇反り返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、實はどんな風に長いのか、日本人には考へも付かぬ。到底夜の引明けなどに眼につくやうな特徴では無かつたのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに當るだらう。即ち山人の男子のやゝ年輩の者を、幾分尊んで用ゐた稱呼にして、正しく山姥と對立すべき中世語であつた。

　

　　　　　　　二二　山女多くは人を懷かしがる事

　

　全體に深山の女たちは、妙に人に近づかうとする傾向が有るやうに見える。或は婦人に普通なる心弱さ、乃至は好奇心からでは無いかと、思ふくらゐに馴々しかつたこともあるが、それにしては彼等の姿形の、大きく又氣疎かつたのが笑止である。

　山で働く者の小屋の入口は、大抵は垂蓆《たれむしろ》を下げたばかりであるが、山女夜深く來つてその蓆をかゝげ内を覗いたといふ話は、諸國に於て?々之を聞くのである。さういふ場合にも髪は長くして亂れ、眼の光がきら／＼として居る爲に喰ひにでも來たかの如く、人々が怖れ騷いだのである。或は又日が暮れて後、突然として山小屋に入來り、圍爐裏の向ふに坐つて、一言も物を言はず、久しく火にあたつて居たと云ふ話も多い。豪膽な木挽などが退屈のあまりに、之に戯れたなどといふ噂のあるのは自然である。羽後の山奧ではこんな女をわざ／＼招き寄せる爲に、ニシコリと云ふ木を爐に燃す者さへあると黒甜瑣語などには記して居るが、それは果してどういふ作用をするものか、其木の性質と共に尚尋ねて見たいと思つて居る。

　今から三十年あまり以前、肥後の東南隅の湯前村の奧、日向の米良《めら》との境の仁原山に、アンチモニイの鑛山があつ(135)た。其事務所に住んで居た原田瑞穗といふ人が夜分少し離れた下の小屋に往つて、人足たちと一緒になつて夜話をして居ると、時々ぱら／＼と其小屋の屋根に小石を打付ける音がする。少し氣味が惡くなつてもう還らうと思ひ、其小屋を出てうしろの小路を僅か來ると、だしぬけに背の高い女が三人横の方から出て、其一人が自分の手を強く捉へた。三人ながら殆と裸體であつた。何か頻りに物を言ふけれども怖ろしいので何を言ふか解らなかつた。其内に大聲に人を喚んだ聲を聞いて、小屋から多勢の者がどやどやと出て來たので、女は手を離して足早に嶺の方へ上つてしまつた。是も小山勝清君の話で、經驗をした原田氏は、其頃まだ若かつた同君の叔父である。

　自分はこの鑛山のあつた仁原山が、前に擧げた獣のわなに山女の死んで居た三つの場處の、略々まん中である故に、殊に此話に注意をする。若し山人にも土地に由つて、氣風に相異があるものとすれば、南九州の山中に住む者などは、取分け人情が惇樸で且つ無智であつたやうに思はれるからである。

　

　此類の實例は行く／＼尚追加し得る見込がある。前にいふ仁原山は市房山と白髪岳との中間に在る山だが、その白髪岳の山小屋でも近年山の事業の爲に暫く入つて居た某氏が、夜になると山女が來て足を持つて引張るので、何分にも怖ろしくて我慢が出來ぬと謂つて還つて來たこともあつた。球磨郡四浦村の吉といふ木挽が、曾て五箇庄の山で働いて居た時に、小屋へ黙つて入つて來た髪の毛の長い女などは、にこ／＼として頻りに自分の乳房をいぢつて居た。驚いて飛出して銕砲などを持つて、多勢で還つて來て見るともう其邊には居なかつたさうである。單に遠くから姿を見たといふだけの話なら、まだ此附近にも近頃の例が幾つかある。東北地方では會津の磐梯山の入山などにも、山女らしい話が折々傳へられる。龍章東國雜記の第六集に、文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川?といふ藥草を採りに、此山西北の谿に入つて還ることなり難く、流に傍うた大木の虚洞《うつろ》に夜を過すとて、穴の外に火を焚いて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さは踵を隱すばかりなる女が澤蟹を捕へて此火に炙つて食ひ、又兩人を見て笑つたと記して居(136)る。これ俗に山ワロと謂ひ野?の年經たるもの也。奧羽の深山にはまゝ居る由にて、よく人の心中を知れども人に害を爲すことなしなどとあつて、土地でも詳しいことは知らぬのである。又老媼茶話には猪苗代白木城の百姓庄右衛門、同じく磐梯山の奧に入つて、山姥のかもじと稱するものを見付けたことを載せて居る。長さ七八尺にして白きこと雪の如く、松の大木の梢にかゝつて居たとあつて其末に、世に謂ふ山姥は南蠻國の獣なり。其形老女の如し。腰に皮ありて前後に垂れ下りたふさぎの如し。たま／＼人を捕へては我住む岩窟に連れゆき、強ひて夫婦のかたらひを求む。我心に從はざるときは其人を殺せり。力強くして丈夫に敵す。好みて人の小兒を盗む。盗まれし人之を知り、多勢集まり居て山姥が我子を盗みしことを大音に罵り恥しむるときは、竊かに小兒を連れ來り、其家の傍に捨て置き歸るといへりなどと謂つて居る。實際の遭遇が漸く稀になつて雜説はいよ／＼附加はるので、是なども支那の書物の知識が、もう半分ばかりもまじつて居るやうである。

　

　或は單に人間の爐の火を戀しがつて出て來るものとも想像し得る場合がある。冬の日に旅をした人なら此心持は解るが、假令見ず知らずの人が焚火をする處でも、妙に近づいて見たくなるものである。夜分に人の家の火が笑語の聲と共に、戸の隙間から洩れるのを見ると、嫉ましくさへなるものだ。無邪氣な山の人々も此光に引付けられて來るのかも知らぬ。秉穗録には又熊野の山中で炭燒く者の小屋へ、七尺餘りの大山伏の遣つて來ることを録して居る。但し魚鳥の肉を火に投ずるときは、其臭氣を厭うて去ると謂ふのは、少しく前の澤蟹の話とは一致せぬが、火に對する趣味などにも地方的に異同があるのだらう。前に引用した雪窓夜話の上卷には、又次のやうな一件も記してある。即ち因州での話である。

　西村某と云ふ鷹匠あり。鷂《たか》を捕らんとて知頭郡薦澤山の奧に入り、小屋を掛けて一人住みけり。夜寒の頃なれば、庭に火を焚きてあたり居けるに、何者とも知れず、其たけ六尺あまりにて、老いたる人の如くなる者來りて、黙然と(137)かの火によりて、鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて、面貌人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば、更に驚くこと無く、汝は何處に住む者ぞと問ひけれども、敢て答へず。暫くありて立歸る。西村も其後に沿ひて出でけれども、夜甚だ暗くして、其行方を知らずなりぬ。其後又來りて、小屋の内を覗くことありしに、西村、又來たか、今宵は火は無きぞと言ひければ、其まゝ歸りけると也。里人に其事を語りければ、山父と云ふもの也。人に害を爲す者に非ず。之を犯すことあれば、山荒るゝと謂ひけると也。

　スキーで近頃有名になつた信越の境の山にも、半分ほど共通の話があつて、北越雜記卷十九に出て居る。斷つて置くが此等二つの書物は共に寫本であつて流布も少なく、一方の筆者は他の一方の著述の存在をすらも知らなかつたのである。それを自分たちが始めて引き比べて見る處に、學問上の價値が存するのである。妙高山燒山黒姫山皆高嶺にて、信州の飯綱戸隱、越中の立山まで、高山重なりて其境幽凄なり。高田の藩中數十軒の薪は、皆この山中より伐出す。凡そ奉行より木挽杣の輩に至るまで、相誓ひて山小屋に居る間、如何なる怪事ありても人に語ること無し。一年升山某、役に當りて數日山小屋に在りしが、夜は人々打寄りて絶えず爐に火を焚きてあたる。然るに山男と云ふもの、折ふし來ては火にあたり一時ばかりにして去る。其形人に異なること無く、赤髪裸身灰黒色にして、長は六尺あまり、腰に草木の葉を纏ふ。更に物言ふこと無けれども、聲を出すに牛のいばふ如く聞ゆ。人の言語はよく聞分くる也。相馴れて知人の如し。一夕升山氏之に向ひて、汝木葉を着るは恥ることを知るなり。火にあたるは寒さを畏るゝなり。然らば何ぞ獣の皮を取りて身に纏はざるやと言ひしに、つく／”＼と之を聞きて去れり。翌夜は忽ち玲羊二疋を兩の手に下げて來り、升山の前に置く。其意を解し、短刀もて皮を剥ぎて與ふれば、山男は頻りに口を開き打笑ひ、悦びて歸りぬ。すでにして又來たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以て繋ぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に卷き付けたり。されど生皮を其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みより硬ばりたり。皆々打笑ひ、熊の皮を取り、十文字にさす竹入れ、小屋の軒に下げて見せ、且つ山刀一梃を與へて歸らしむ。其後數日來ずと謂へり（以上）。是などは秘密を誓(138)約した人々の拔け荷だから、若干の懸値があつても吟味をすることが困難である。

　

　　　　　　　二三　山男にも人に近づかんとする者ある事

　

　山人も南九州の山に住む者が、特に無害であり又人なつこかつたやうに思はれる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心付かず、?々里の人の假小屋を訪問して、それ程までに怖れ嫌はれて居ることを知らなかつたといふ例は、主として霧島連峯中の山人の特質であつた。尚同じ方面の出來事として、水野葉舟君から又次のやうな話も教へられた。

　日向南那珂郡の人身上千藏君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入つて不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布のやうな物を卷付けて居た。にこ／＼と笑ひながら此方を向いて歩んで來る樣子が、如何にも普通の人間とは思はれぬ故に、兼て用心の爲に背に負ふ手裏劍用の小さい刀の柄に手を掛け、近く來ると打つぞと大きな聲でどなつたが、老翁は一向に無頓着で、尚笑ひながら傍へ寄つて來るので、段々怖ろしくなつて引返して遁げて來た。ところがそれから一月ばかり過ぎて又同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢つた。一羽の雉子を見つけて鐵砲の狙ひを定め、將に打放さうとするときに、不意に横合から近よつて此男の右腕を柔かに叩く者があつた。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこ／＼と笑つて立つて居る。白髪の端には木の葉などが附いて居たといふ。之を見ると怖ろしさの餘り氣が遠くなり、鐵砲を揚げたまゝで立ちすくんで居たのを、暫らくしてから村の人に見付けられ、正氣になつて後に此話をしたさうだ。眼の迷ひとかまぼろしとか、言つてしまふことの出來ない話で、しかも作り話としては何の曲も無く、且つ二度の實見が一致して居た。何かは知らず兎に角にそんな人が、此邊の山には正しく居たのである。

　

(139)　山人が我々を目送したと云ふ話も折々聞く。さうして甚だ氣味の惡いことに、之を解説するのが普通であつた。氣味の惡くないこともあるまいが、彼等は元來が眞の有閑階級だから、實ははつきりとした趣意も無く、只眺めて居た場合もあつたかも知れぬ。但し少年や女には、之を怖れる理由は十分にあつた。前年前田雄三君から聽いた話は、越前丹生郡三方村大字杉谷の、勝木袖五郎といふ近頃まで達者で居た老人、今から五十餘年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往つた。友だちの中に意地の惡い者があつて、うそをついて皆は他の林へ往つてしまひ、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷といふ處で木を拾つて居るとき、ふと見れば目の前のカナギ（くぬぎ）の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の屆かぬ程に背が高い。怖ろしいから直ぐに引返して、それから程近い自分の家に戻り、背戸口に立つて再び振返つて見ると、その大男は尚もとの場所に立ち、凄い眼をしてぢつと此方を見て居たので、其時になつて正氣を失つてしまつたさうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至つて近い低い山であつた。斯んな處まで格別の用も無いのに、稀には山人が出向いて來て人を見て居たのである。神隱しの風説などの起り易かつた所以である。

　それから少なくとも我々に對して、常に敵意は持つては居なかつたといふ證據もある。小田内通敏氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいが元の書物は同氏も知らぬといふ。津輕での話である。

　中村澤目蘆谷村と云ふは、岩木山の※［山＋卑］にして田畑も多からねば、炭を燒き薪を樵りて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如く斧を携へて山奧に入り、柴立を踏分け溪水を越え、二里ばかりも躋りしが、寥廓たる平地に出でたり。年頃此山中を經過すれども、未だ見たること無き處なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、且は山の廣大なることを思ひ、歎思してたゝずみしが、偶々あたりの谷蔭に人語の聽えしまゝ、其聲を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身の長七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔を摘み取る樣子なり。背と腰には木葉を綴りたるものを(140)纏ひたり。横の方を振向きたる面構へは、色黒く眼圓く鼻ひしげ蓬頭にして鬚延びたり。其?貌の醜怪なるに九助大いに怖れを爲し、是や兼て赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶き轉び落ちて、却りて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄して口は物言ふこと能はず、脚は立つこと能はず、唯手を合せて拜むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇にかゝへ、嶮岨巖窟の嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里餘りも來たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、忽ち形を隱し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢の覺めたる如く、首を擧げて四邊を見廻らすに、時は既に申の下りとおぼしく、太陽巒際に臨み返照長く横たはれり。其時同じ業の者、手に／＼薪を負ひて樵路を下り來るに逢ひ、?末を語り介抱せられて家に歸り着きたりしが、心中鬱屈し顔色憔悴して食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十餘日にして漸く回復したりと也。

　

　　　　　　　二四　骨折仕事に山男を傭ひし事

　

　但し山中に於ては、人は必ずしも山人を畏れては居なかつた。時としては其援助を期待する者さへあつたのである。例の橘氏の西遊記にもよく似た記事があるが、別に周遊奇談といふ書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたといふ話を載せて居る。どの位までの誇張があるかは確かめ難いが、丸々根の無い噂とは考へられぬのである。

　豐前中津領などの山奧では、材木の運搬を山男に委託することが多かつた。尤も彼等往來の場處には限があるらしく、里までは決して出て來ない。如何なる險阻も牛の如くのそり／＼と歩み、川が深ければ首まで水に入つても、水底を平地のやうにあるいて來る。たけは六尺以上の者もあつて、力が至つて強い。男は色が青黒く、大抵は肥えて居る。全身裸であつて下帶すらも無いが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。但し女は時に姿を見せるのみで出て働かうとはしない。さうして何か木の葉木の皮やうの物を綴つて着て居る。齒は眞白だが口の香が甚だ臭いとまで謂つ(141)て居る。勞賃は握り飯だとある。材木一本に一個二本に二個。持つて見て二本一度に揚げると思へば、一緒にして脇へ寄せる。約に背いて例へば二本に握り飯一つしか與へなかつたりすると、非常に怒つて永く其怨を忘れない。愚直なる者だと述べて居る。

　西遊記に謂ふ所の薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰つて欣然として運送の勞に服したが、若し仕事の前に少しでも與へると、之を食つてから逃げてしまふ。又人の先に立つて歩むことを非常に嫌ふ。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奧の寺などに入つて來て、食物を盗み食ふことがある。但し鹽氣の有る物を好まぬと謂つて居る。以上二種の記録は少しづゝの異同があり、材料の出處の別々なることを示して居る。是れ恐らくは信用すべき一致であらうと思ふ。

　

　同じ周遊奇談の卷三には、又秋田縣下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。但し著者自分で見たと謂ふ點が安心ならぬ故に、特に原文のまゝ抄出して置く。

　出羽國仙北より、水無銀山阿仁と云ふ處へ越ゆる近道、常陸内《ひだちない》と云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭燒小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豐前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々其小屋へ食事などの時分を考へ來るとなり。飯などを握りて遣はせば悦びて持ち退く。人の見る處にては食せず。如何にも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ／＼立廻りあるくばかり也。尤も惡きことはせず。至つて正直なる由なり。此處にては山女は見ず。又其沙汰も無し。

　

　山男は又酒がすきで酒の爲に働くと云ふ話が、桃山人夜話の卷三に出て居る。遠州秋葉の山奧などには、山男と云ふものありて折節出づることあり。杣山賤の爲に重荷を負ひ、助けて里近くまで來りては山中に戻る。家も無く從類(142)眷屬とても無く、常に住む處更に知る者無し。賃錢を與ふれども取らず、只酒を好みて與ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、?を教ふる如くするに、その覺り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山氣の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同國の白倉村に、又藏と云ふ者あり。家に病人ありて、醫者を喚びに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何處よりとも無く出で來りて又藏を負ひ、屏風を立てたるが如き處を安々と登りて、醫師の門口まで來りて掻き消すが如くに失せたり。又藏は嬉しさの餘りに之に謝せんとて竹筒《ささへ》に酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事古老の言ひ傳へて、今に彼地にては知る人多し（以上）。又藏が醫者の家を訪れることを知つて、其門口まで送つてくれたといふ點だけが、特に信用しにくいやうに思ふけれども、酒を禮にしたら悦んだといふことは有りさうな話であつた。

　

　　　　　　　二五　米の飯を無暗に欲しがる事

　

　山人が飯を欲しがるといふ話ならば、他の諸國に於ても?々耳にする所である。土屋小介君の前年知らせて下さつた話は、東三河の豐川上流の山で、明治の初め頃に官林を拂下げて林の中に小屋を掛けて伐木して居た人が、ある日外の仕事を終つて小屋に戻つて見ると、背の高い髭の長い一人の男が、内に入つて自分の飯を食つて居る。自分の顔を見ても一言の言葉も交へず、したゝか食つてからついと出て往つてしまつた。それから後も時折は來て食つた。物は言はず、又其他には何の害もしなかつたと謂ふ。盗んだと言ふよりも人の物だから食ふべからずと考へて居なかつた樣子であつた。

　次に鈴木牧之の北越雪譜にある話は、南魚沼郡の池谷村の娘たゞ一人で家に機を織つて居ると、猿の如くにして顔(143)赤からず頭の毛の長く垂れた大男が、のそりと遣つて來て家の内を覗いた。春の初めのまだ寒い頃で、腰に物を卷付けて機にかゝつて居た爲に、怖ろしいけれども急に遁げることが出來ず、まご／＼とするうちに怪物は勝手元へまはり、竈の傍に往つて、頻りに飯櫃を指さして欲しさうな顔をした。兼ねて聞いて居ることもあるので、早速に飯を握つて二つ三つ與へると、嬉しい顔をしてそれを持つて去つた。それから後も一人で居る時は折々來た。山中でも之に出逢つたといふ人が其頃は時々あつたが、一人でも同行者があると決して來なかつたさうである。

　又同國中魚沼郡十日町の竹助といふ人夫は、堀之内へ越える山中七里の峠で、夏の或日の午後にこの物に行逢うたことがある。白縮《しろちゞみ》の荷物を路ばたに卸して、石に腰かけて辨當をつかつて居ると、やはり遣つて來たのが髪の長い眼の光る大男で、その髪の毛はなかば白かつたと謂ふ。石の上に置いた燒飯を頻りに指さすので、一つ投げてくれると悦んで食つた。さうして頼みはせぬのに其荷物を背負つて、池谷村の見えるあたり迄、送つて來てくれたといふ話である。

　そこで改めて考へて見るべきは、山丈山姥が山路に現はれて、木樵山賤の負搬の勞を助けたとか、時としては里にも出て來て、少しづゝの用をしてくれたといふ古くからの言ひ傳へである。是には本來は報酬の豫想があり恐らくはそれが山人たちの經驗であつた。想山著聞奇集などに詳しく説いた美濃信濃の山々の狗賓餅《ぐひんもち》、或は御幣餅五兵衛餅とも稱する串に刺した燒飯の如きも、今では山の神を祭る一方式のやうに考へて居るが、始めて此食物を供へた人の心持は、やはり亦もつと現實的な、山男との妥協方法であつたかも知れぬ。中仙道は美濃の鵜沼驛から北へ三里、武儀郡志津野といふ町で、村續きの林を伐つたときに、是は山といふ程の處でも無く、殊に老木などの覆ひ繁つたものも無い小松林の平山だから狗賓餅にも及ぶまいと思つて、何の祭もせずに寄合つて伐り始めると、誰も彼もの斧の頭がいつの間にか無くなり、道具も悉く紛失して居た。是はいけないと其日は仕事を中止し、改めて狗賓餅をして山の神に御詫びをしたら失せた道具がぼつ／＼と出て來た。又同じ國苗木領の二つ森山では、文政七八年の頃木を伐出す必(144)要があつて、十月七日に山入して御幣餅を拵へたのはよいが、山の神に上げるのを忘れて、自分たちで皆食つてしまつた。さうすると早速山が荒れ出して、其夜は例の天狗倒しと謂つて、大木を伐倒す音が盛んにした。此時も心付いて再び餅を拵へて詫びたので、漸く無事に濟んだと謂つて居る。此地方では狗賓餅をするには、定まつた慣習があつた。先づ村中に沙汰をして老若男女山中に集まり、飯を普通よりはこはく炊ぎ、それを握つて串に刺し、よく燒いてから味噌を附ける。其初穗を五六本、木の葉に載せて清い處に供へて置き、それから一同が心の儘に食ふのである。甚だうまい物だが此餅をこしらへると、天狗が集まつて來ると稱して村内の家では一切燒かぬやうにして居た。故に一名を山小屋餅、江戸近くの山方では、古風のまゝに粢餅《しとぎもち》と呼んで居た。今日我々が宗教行爲といふものゝ中には、まだ動機の分明せぬ例が多い。殊に山奧で天狗の惡戯などと怖れた災厄には、斯ういふ人間味の豐かな解除手段もあつたことを考へると、存外單純な理由が却つて忘却せられ、實驗の漸く稀になるにつれて、無用の雜説が解説を重苦しくした場合を、推測せざるを得ないのである。

　少なくとも燒飯の香氣には、引寄せられる者が山には居た。食物を供へて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知つて居た。さうして雙方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でも何でも無かつた。從つて先づ與へると働かずに遁げてしまふといふのを、恰かも當世の喰遁げ同樣に非難しようとしたならば誤つて居る。以前は山人は何の邪魔もしなければ御幣餅を貰ふことが出來、又それを呉れぬ時にはあばれてもよかつた。特に出て何等かの援助を試みたのは、言はゞ好意であり又米の味に心醉した者の、やゝ積極的な行動でもあつた。若し私たちの推測を許すならば、それは或は山人の歸化運動の進一歩であつたのかも知れぬ。次の章に述べようとする飛騨のオホヒトの場合の如く、人は單に偶然に世話になつた場合にも、謝禮に握り飯を贈れば相手の喜ぶことを知り、相手は又狸兎の類を捕つて來て、之を答禮にして適當なりと考へたのも、やがては異種諸民族間の貿易の起原と同じかつた。斯うして段々に高地の住民が、次第に大日本の貫籍に編入せられて行つたことは、自他の爲に大なる幸福であつた。

(145)　越後南魚沼の山男が、猿に似て顔赤からずと傳へられるのは、一言の註脚を必要とする。是は單に猿ほどには赤くなかつたといふ迄であつたらしく、普通は之と反對に顔の色が赤かつたといふ例が少なくない。顔ばかりか肌膚全體が赤かつたといふ噂さへ殘つて居る。近世の蝦夷地に、所謂フレシャム（赤人）の警を傳へた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかつたのは、古來の惡路王や大竹丸の同類に、赤頭太郎などと稱して赤い大人が、澤山に來たといふ話を信じて居たからである。それが獨り奧羽に限られなかつた證據は、例へば弘仁七年の六月に弘法大師が、始めて高野の靈地を發見した時にも、嚮導をしたといふ山中の異人は、面赤くして長八尺ばかり、青き色の小袖を着たりと、今昔物語には記して居る。眼の迷ひとしても現代になる迄、大人は普通は赤い者のやうに、世間では考へて居た。尤も豐前中津領の山ワロのやうに、男は色青黒しといふ異例も傳へるが、此方には比較すべき傍證が多くない。又赤頭といふのは髪の毛の色で、それが特に目についた場合もあらうが、顔の色の赤いといふのも其以上に多かつたのである。或は平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなつたのかといふことも一考せねばならぬが、事實は肌膚の色に別段の光があつて、身長の異常と共に、それが一つの畏怖の種らしかつた。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、是非とも知らせて置きたい山人の特質である。

　

　　　　　　　二六　山男が町に出で來りし事

　

　之を要するに山に斯ういふ人たちの居るといふことは、我々の祖先に取つては問題でも又意外でも無かつた。たゞ豐前薩摩の材木業者以上に、意識して彼等と規則立つた交通をする折が乏しかつた爲に、例へば禁止時代の切支丹伴天連に對する如く、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、附いて廻つたのを遺憾とするばかりである。所謂ヤマワロ（山童）の非常に力強かつたこと、これは全く事實であつたらうと認める。さうして怒ると何をするかわからぬと謂ふ(146)のも、亦根據ある推測であつた。尚又彼等が驚くべく足が達者だと謂つたのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隱れたとすれば不思議は無い。野獣を捕つて食物として居れば、其爲には女でも足が速くなければならない。不思議は寧ろ何かといふ場合に、却つて我々に近づかうとする態度の、明瞭に現れて居たことである。しかも?々不幸なる誤解があつて、人が其眞意を酌むことを得ない場合が如何にも多かつた。

　東武談叢その他の聞書に見えて居るのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣を着し亂髪にして青蛙を食ふ男、何方よりとも無く現れ來る。住所を問ふに答無く、たゞ手を以て天を指ざしたのは、天から來たとでもいふことかと謂つた。家康は左右の者が之を殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、忽ち其行方を知らずとある。此怪人は四肢に指が無かつたともあるが、天を指したといふからは甚だ信じ難い事であつた。それから又三十年餘り、寛永十九年の春であつた。土佐では豐永郷の山奧から、山みこと稱する者を高知の城内へつれて來た。年六十ばかりに見える肉附きの逞ましい大男で一言も物いはず、食を與ふれば何でも食つた。二三日の間留めて置いて後に元の山地へ放ち返したと、當時の幾つかの記録に載せてある。何れも多くの人が共に見たのだから、まぼろしとは認め難い話である。殊に「山みこ」といふ語が、既にあの時代の土佐にあつたとすれば、必ずしも稀有の例では無かつた。ミコはどう考へても神に仕へる人のことで、天狗と同じく彼等を山神の使者、若くは代表者の如く見る考が、吉野川上流の村にはあつたことを想像せしめる。

　此前後は土着開發に急なる平和時代で、其結果は山と平地との間に、人知らぬ攪亂があつたかと思はれ、山人出現の事例が澤山に報ぜられて居る。尾州名古屋といふやうな繁昌の土地にも、尚何處からか異人が遣つて來て捕へられたと謂つて居る。太い綱で縛つて置いたにも拘はらず、夜の間に逃げてしまひ、しかも何等の報復をもしては行かなかつた。仙人などと違つて存外に智慮も無く、里近くをうろ／＼して居たのを見ると、やはり食物か配偶者か、何か切に求むるものがあつた爲で、半ばはその無意識の衝動から、浮世の風に當ることにはなつたのである。殊にその或(147)者が日向や越後の例の如く、白髪であつたと聽くに至つては、悠々たるかも人生の苦、彼等はた之を免れ得なかつたのである。

　

　名古屋で異人を捕へたといふ話は、視聽實記卷六に出て居る。年代は知れぬが江戸の初期であらう。本文のまゝを次に抄録する。

　飯沼林右衛門は廣井に住す。夜話の歸りに僕の云ふには、南の路より御歸りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱すれば、御迎に來るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戰慄せし故に、かく申す也と答ふ。林右衝門笑ひながら、さあらばいよ／＼行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉へ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸くに之を引立て、程近ければ我家に連れ歸り、打擲をすれども曾て物を言はず、且つ杖の下痛める體も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糺明すべしとて、厩に強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何處へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只一聲、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を「あいつ小僧」と謂ひたりとなん。

　山男が市に通ふといふことは、前の五葉山の獵人の話にもあつたが、是亦諸處に風説する所である。津村正恭の譚海卷十一に、

　相州箱根に山男と云ふものあり。裸體にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持來りて米に換ふる也。人馴れて怪しむこと無し。交易の外多言せず。用事終れば去る。其跡を追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き處を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終に住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作す者に非ざれば、必ず鐵砲などにて打つことなかれと制せらるゝ(148)故に、敢て驚かさずと云ふ。

　斯うあるけれども勿論噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、此連中がうろうろして居たことを意味するのではあるまい。第一に川魚は此海邊では交易にもならず、木の葉を着て居たら、何ぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。たゞ此人中にも一人や二人は居るかも知れぬといふ程度に、輿論が彼等を尋常視して居たことは窺はれる。岩手縣海岸の大槌の町などでも、市の日に言葉の訛りの近在の者で無い男が、毎度出て來て米を買つて行つた。背は高く眼は圓くして黒く光つて居た。町の人が山男だらうと謂つたさうである。併し此から奧地の山々には、今でも隨分と遠國から、炭竈に入つて永く稼いで居る者が多い。言語風采の普通で無いばかりに、一括して之を山人に算入するのは人類學で無い。たゞ市と謂ふ者の本來の成立ちが、名を知らぬ人々と物を言ふ點に於て、農民に取つては珍しい刺戟であつた故に、例へばエビスと云ふが如き神をさへ祭り、茲に信仰の新しい樣式を成長せしめたのである。信州南｜安曇《あづみ》では新田の市、北安曇では千國の市などに、暮の市日に限つて山姥が買物に出ると云ふ話があつた。山姥が出ると人が散り市が終りになるとも言つたが、一方には山姥が支拂に用ゐた錢には、特別の福分があるやうにも信じられた。漸く利欲といふものを實習した市人が、如何に注意深く只の在所の婆樣たちを物色して居たかは、想像して見ても面白い。其爲でもあらうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの�ｺ利を携へて、五升の酒を買ひに來たと云ふのがある。笑つた者は罰せられ、素直に言ふ通りに量つて遣ると、果して際限も無く入つたと謂ひ、又は之にあやかつて金持になつたとも謂ふ。つまりは俵藤太の取れども盡きぬ寶などと、系統を同じくした歴史的空想である。

　筑前甘木の町の乙子市、即ち十二月最終の市日にも、山姥が出るといふ話が古くからあつた。正�ｺ四年に成る山姥帷子記といふ文に、天正の比下見村の富人大納言なる者の下僕木棉綿を袋に入れて此日の市に賣り浸出で、途中に假睡して市の間に合はなかつた。眼が覺めて見ると袋の綿は既に無く、其代りに一枚の帷子が入つて居た。地麁くして青黄黒白の段染であつた。これも山姥の物と認められて、寶物として二百年を傳へたといふ話を書留めて居る。

　

(149)　それから此序でで無いともう他に言ふ折は無いが、繪かきたちだけの今でも遊んで居る空想境に、天狗の酒買ひ狸の酒買ひなどといふ出來事がある。白鳥の�ｺ利や樽に通ひ帳を添へて、下げて飛んで居る場面は後世風だが、由つて來る所は甚だ久しいやうである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢の盛んに用ゐられた時代を推測し、許由以來の支那の隱君子等が駒を出したり自分を吸込ませたり終始この單純なる器具を伴侶として居るには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考へて見ようとして居るのであるが、それは廣大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、此類の儘かな用具が非常なる便益であり、從つて身を離さずに大切にして居るのを見て、我々の祖先までが之を重んじ、何か神怪の力でも具ふるかの如く、惚れ込み欲しがり、貰へば寶物にしようとしたことだけは、説かずには居られぬやうな感じがする。落穗餘談といふ書の卷二に、駿河の山に大なる男あり。折々は見る者もあり。鹿猿などを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語りに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗の茶碗なり。今に其子の方に持傳へて居ける由。丙寅八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐にて語るとある。是などは山姥から、褒美に貰つたと云ふのと反して、手も無く山男から掠奪したのであるが、最初どうして此樣な品を、彼等が拾ひ取り又之を大事にして居たかを考へると、小説家で無い我々にも、色々な珍しい光景が空想せられる。例へば盗賊が始末に困つて、山中に隱して置いたとか、大百姓の家が退轉して、荒屋敷になつて居る處へ、のそ／＼と來かゝつた山男が、光るから手に取上げて嗅いだり嘗めたりして居たとしたら、彼等の排外的なる社會にまでも、浸み入らずには置かなかつた異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考へられる。

　曾て舊知の鈴木鼓村君から、又斯んな話を聽いたこともある。鈴木君は磐城亘理郡｜小鼓《こつゞみ》村の舊家の出で、それで號を鼓村と謂つて居るが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、折々貰ひに來る老人があつた。人と物を言はず、物(150)を遣ると口の中で唱へ言をするが、何を言ふのか少しも聽取れない。飯は兩手に受けて副へ物も無しに、髯だらけの顔をよごして食ふ。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思ふ大瓢箪を携へ來り、それに入れて遣ると直ぐに持つて歸る。衣類は着けて居るが、地合も縞目も見えぬ程汚れて居た。生の貝を貰つて、石の上で碎いて食つたと謂つて、人は戯れに之をアサリ仙人と呼んで居た。何處に住む者とも知れず、七日も十日も連日來るかと思へば、二月も三月も絶えて來ぬこともあつた。歸る際にその跡をつけた者があつたが、山に入ると急に足早になり、忽ちに其影を見失つた。小鼓は阿武隈の川口であつて、山は低いけれども峯は遠く連つて居る。此アサリ仙人は或日の朝、鈴木氏の玄關の柱にその大瓢箪をくゝり附けて置いて、それつ切り永久に遣つて來なくなつた。此話には誤傳が無いとも謂へぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、此家の寶物の一つであつた。口は黄金で頗る名瓢であつたと謂ふ。

　仙人を見縊びるのは本意で無いが、是くらゐの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思ふ。只鈴木氏の永年の恩誼は厚かつたにしても、最後に人知れず其瓢をくゝり附けて去つたといふ一點だけが、彼等の到底企て得まいと思ふロマンチックであつた。此地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の勞働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人も亦之を尊敬して居たことは、次のオホヒトの條下に確からしい一例を掲げる。さうすると此も亦同化歸順の一段階であつて、瓢箪の如きも實は餘りに大きいので、何か手頃の容器と只そつと取替へて往つたのかとも考へられる。

　

　　　　　　　二七　山人の通路の事

　

　今日の所謂アルプス連などは、どういふ風にして居るか知らぬが、獵師木挽等の如く度々山奧に野宿せねばならぬ人々は、久しい經驗から地形に由つて、不思議の多かりさうな場處を知つて力めて之を避けて居た。折々これは聽く(151)話であるが、深山の谷で奧の行止まりになつて居る處は無事であるが、嶺が開けて背面の方へ通じて居る澤は、夜中に必ず怪事がある。素人は魔所などと謂へば、往來不可能の谷底のやうに考へるけれども、事實は却つて正反對であるといふ。或は又山の高みの草茅の茂みの中に、幽かに路らしいものゝ痕跡を見ることがあると、老功な山稼人は避けて小屋を掛けなかつた。即ち山男山女の通路の衝なることを知るからである。國道縣道といふ類の立派な往還でも、それより他に越える路の無い處では、夜更けて別種の旅人の、どや／＼と過行く足音を聽いた。峠の一つ屋などに住む者は、往々にしてそんな話をする。勿論或場合には耳の迷ひといふこともあり得るが、山人とても他に妨げさへ無くば、向ふの見通される廣路を行く方を、便利としたに相異ないのである。

　百五十年ほど前に三州豐橋の町で、深夜に素裸ではだしの大男が、東海道を東に向つて走るのを見た者がある。非常な速足で朝日の揚がる頃には、もう濱名湖の向ふ迄往つて居た。水中に飛込んで魚を捕へ、生のまゝで食つて居るのを見て始めて怪物なることを知つたと、中古著聞集といふ豐橋人の著書には書いてある。彼等に出逢つたといふ多くの記事には、偶然であつた場合に限つて、彼等の顔にもやはり驚駭の色を認めたと謂つて居る。畏怖も嫌忌も恐らくは我々以上であつて、從つて必要の無い時には大抵繁み隱れなどから注意深く平地人の行動を、窺つて居たのであらうと想像する。

　

　菅江眞澄の遊覧記三十二卷の下、北秋田郡の黒瀧の山中で路に迷つた條に、やゝ山頂とおぼしき處に、横たはる路のかたばかり見えたるに、こは路ありあな嬉しと言へば、案内の者笑ひて、いづこの嶺にも山鬼《さんき》の路とて、嶺の通路はありけるもの也。此道を行かば又何處とも無く踏迷ひなんとて、尚峯に登る云々とあつた。故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものゝ痕迹ある處は、山男の往來に當つて居ると稱して、露宿の人が之を避けるのが普通だつたとの話である。阪本天山翁寶暦六年の木曾駒ヶ嶽後一覽記に、前嶽の五六分目、はひ松(152)の中に一夜を明す。此處に止宿のことは村役人人足までも不承知にて、彼是と申すに付き其趣旨を尋ねて見ると、すべて斯樣の山尾根先は天狗の通路であつて、樵夫の輩一切夜分は居らぬことにして居ると述べた。然らば村方の者共は、山の平に廻つて止宿せよと申聞け、自分だけ其場に止宿したと記して居る。紀州熊野でも山中に小屋を掛ける人たち、谷の奧が行拔けになつて向ふ側へ越え得る場所は之を避け、奧の切立つて行詰まりになつた地形を選定するのを常とした。其理由は行拔けの出來る谷合は、通り物の路に當つて居るからだと、南方熊楠氏に告げた者があるさうだ。

　さうかと思ふと一方には、人が開いた新道を、どし／＼彼等が利用して居る場合もあるらしい。秋田から仙北郡の刈和野へ越える何とか峠には、頂上に一軒家の茶店があつた。秋田の丹生氏が曾て此家に休んだ時、わたし等ももう何處かへ引越したいと、茶屋の主が謂ふので、如何いふわけかと訊ねて見ると、實は夜分になると、毎度のやうに山男が家の前を通る。太平山から日々木の方へ越えて行くらしく、大きな聲で話をしてどや／＼と通ることがある。此峠は疑無く山鬼の路らしいから、永くは居られませぬと答へたさうである。遠野でも町から北へ一里ばかり入つて、柏崎の松山の下を曲がる邊に、路が丁字に會して其辻に大きな山神石塔を立てゝある。近い年或人が通行して居ると、山から下りて來る足音がするのを、何の氣なしに出逢うて見たところが、赤い背の高い眼の怖ろしい、眞裸の山の神であつた。はつと思ふなり飛退いてしまつて、自身はそこに氣絶して倒れた。石塔は即ち其記念の爲であつた。遠野物語にも其話は筆録して置いたが可なり鋭敏な鼻と耳との感覺を持ち、又巧みに人を避けるらしい山人にも、尚人間らしき不注意と不意打とはあつたのである。第一晝間人間の作つて置く路などを、降りて來たのは氣樂過ぎて居た。

　

　山鬼と云ふ語は安藝の嚴島などでは、久しく天狗護法の別名の如く考へられて居る。或は三鬼とも書いて其數が三人と解する者もあつたらしい。御山《みせん》の神聖を守護して不淨の凡俗の之に近づくを戒め、?々奇異を示して不信者の所(153)業を前以て愼ましめようとして居た。最も普通の不思議は廻廓の板縁の上に、偉大なる足跡を印して衆人に見せることである。或は雪の朝に思ひがけぬ社の屋の上などに之を見ることもあつた。其次は他の地方で天狗笑ひ又天狗倒しともいふもので、山中茂林の中に異常の物音を發し、或は又意味不明なる人の聲がすることもあつた。之を聽いて畏れをのゝかぬ者の無かつたは尤もである。秋田方面の山鬼ももとは山中の異人の汎稱であつたらしいのが、後には太平山上に常住する者のみをさういふことになり、終には三吉大權現とも書いて、儼然として今は既に神である。しかも佐竹家が率先して夙に之を崇敬した動機は、すぐれた神通力といふ中にも、特に早道早飛脚で、?々江戸と領地との間に吉凶を報じた奇瑞からであつた。從つて沿道の各地でも今尚三吉樣が道中姿で、其邊を通つて居ることがあるやうに考へ、殊に其點を畏敬したのであつた。神を拜む者は是非とも其神の御名を知らなければならぬといふのは、隨分古くからの多くの民族の習性であつた。天狗がいよ／＼超世間のものと決定してから、太郎坊三尺坊等の名が始めて現れたことは、從來人の注意せざる所であつた。どういふ原因でそんな名前が始まつたかを考へて見たら、又多くの新たなる答が出て來ることであらう。

　

　　　　　　　二八　三尺ばかりの大草履の事

　

　また山男の草履を見たといふ話がある。夏冬を打通して碌な衣裳も引掛けて居なかつた者に、履物の沙汰もちとをかしいとは思ふが、妙に其噂が東部日本の方には擴がつて居る。信州木曾邊は殊に之を説く者が多い。出羽の莊内の山中でも仙人が之を拾つて來て、小屋の入口の柱に吊して置くと、夜のうちに持つて還つたか、見えなくなつたなどと謂つて居る。上州の妙義榛名でも獵師木樵の徒、山中で此物を見るときは畏れて之を避けたと、越人關弓録といふ書には説いてある。

(154)　其草履の大きさは三四尺、之を山丈の鞋と稱すとある。四隣譚叢などに依れば、信州は千隈川の水源川上村附近の山地に於ても、山姥の沓の話を信じて居る。藤蔓を曲げ樹の皮を以て織つてあるなどと、中々手の込んだものゝやうに言ひ傳へて居るのである。大きいと言へばすぐに長三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、假に之に相應するやうな大足の持主があるにしても、そんな物を履いて山の中があるけたもので無い。我々風情の草履ですらも、野山を盛んに飛廻つて居た時代には、アシナカ（足半）と稱するものを用ゐ、又は單に繩で足の一部分を縛つて、大抵は足一杯の草履は履かなかつた。即ち足趾の附け根の一番力の入る部分を、保護するだけを以て滿足したのであつた。

　但し此類の話などは、誇張妄誕と言はんよりも、寧ろ幻覺であつたかと思ふ。見たかと思つたら直ぐに無くなつて居たといふ樣なもので、確かな出來事では無かつたかと思ふ。色々製法や材料配合の話はあつても、尚何處かで採集して來て博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちは之を以て一種の昔話として置きたいのである。勿論話にしたところで根原が無ければならぬ。作つて僞を説く者はあつても、さう皆が信ずる筈は無いからである。只話ならば少しづゝ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸郡の淨法寺村などで、深山に木を伐る者の發見したといふのは、例のマダの樹の皮で作つた大草履で、其原料のマダの皮が、凡そ馬七頭に附けて戻る位の分量であつたと話して居る。面白いと言つて聽くのはよいが、全體に今ではもう話になり過ぎて居る。それと謂ふのが風説のみ次第に高く、實際に見た出逢つたといふ人の例が、段々少なくなつて行く結果である。

　山丈山姥の鞋といふ話は、我々の持つて居た沓掛の習俗、即ち淺草仁王門の格子の木に無暗な大わらんぢの片足をぶら下げた行爲などと比較して考へて見るべきものかと思ふ。現在各地の街道筋に、沓掛といふ地名のある處には、通例は道の神の森又は老樹があつて、通行の人馬の古沓などが引掛けてある。或は下から高く投げ上げて占ひをしたといふ地方もあり、又は支那で言ふ鮑魚神同然にその草鞋の喬木の梢に在るを異として、神に祀つた話もある。靈山(155)の麓などでは山の土を遠く持出すことを山神惡みたまふといふ信仰もあつて、必ず登山の鞋を脱いで行く場處もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して獻上する例も弘く行はれて居た。山の神は一本足だと稱して、大きな片足だけを供へる。竈の神は馬であり若くは馬に乘つて來るといふので、新しい馬の沓を上げて居た根原は、恐らく繪馬なども同樣に、之を召しておはしませ、之を召して立たせたまへと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思ふが、勿論信仰は段々に變化して居る。殊に路の傍や辻境などに偉大な履物を作つて置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠つて居た。いつの世から始まつたことか知らぬが、斯んな大きな草履を用ゐる者が、此村には居るから馬鹿にしてはいけないといふことを、勝手を知らぬ外來者、即ち鬼や疫病神に知らしめる爲に、一種の示威運動として斯うするやうに、解釋して居る者も少なくは無いのである。敵に對しては詐術も正道と、つい近頃まで我々も信じて居た。さうかと思ふと海南の小島に於ては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れて來たと言つて、畏れ愼んで居た話もあつた。此方が多分一つ前の俗信で、つまりは己の心に欲せざる所を、人に向つて逆用しようとしたものであるらしいのだ。

　

　だから第二の假定説としては、山人の大草履も自分の爲には必要で無いが、世人を畏嚇する目的でわざ／＼之を作り、成るべく見られ易い處に置いたものとも考へられぬことは無い。併し其樣な氣の利いた才覺は、つひぞ彼等の擧動から見出したことが無いから、今ではまだそれ迄買被ることが出來ないのである。尤も深山の奧に僅少の平和を樂む者が、いや獵人だの岩魚釣りだの、材木屋だの鑛山師だの、又用も無い山登りだのと、毎々來て邪魔をすることは鬱陶しいには相違ない。止めて欲しいと思つて居ることは、此方からでも想像することが出來た。そこに單獨の約束が起り法則が生じて、後漸く宗教の形になつて行くことは、何れの民族でも變りはなかつた。しかも冷淡なる第三者の目を以て判ずればそは單に一方だけの自問自答であつて、果して此方の讓歩が先方の滿足と相當つたか否かは、確(156)かめたわけでは無いのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所又は靈地と名づけて敢て侵さなかつた。それが自然に原住土人に取つての一種のレザーヴとなつたことは、原因とも結果ともどちらとでも解せられる。所謂入らず山に強ひて入つた者の、主觀的なる制裁は多樣であつた。最も慘酷なるものは空へ引上げて、二つに割いて投げ下すと謂つた。或は何とも知れぬ原因で躓いたり落ちたりして傷き又は死んだ。永遠に隱されてしまつて親兄弟を歎かしめることもある。凡そ尋常邑里の生存に於て豫知すべからざる危難は、悉く自ら責め深く愼むべき理由として之を認めたのが山民の信仰であつた。

　其以外にも豫告警戒の如きものは幾らもあつた。天狗の礫と稱して人の居らぬ方面からばら／＼と大小の石の飛んで來て、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあつた。斯んな場合には山人が我々の來住を好まぬものと解して、早速に引上げて來るものが多かつた。是ばかりは猿さへもするから、或は山人の眞の意趣に出たものと考へてもよいが、それがいつでも合圖に近くして、曾て之によつて傷いたと云ふ者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起り、別に或種の隱れた原因があるらしいから、まだ何とも斷定は出來ない。それから足音や笑ひ聲の類は、偶然に之を聽いた者がおぢ恐れたといふだけで、固より其樣な計畫のあつたことを、立證することは容易で無い。殊に最も有名なる天狗倒しの音響に至つては、果して作者が彼等であつたかといふことさへ、尚疑はなければならぬのであつた。或は狸の惡戯などといふ地方もあるが、本來跡方も無い耳の迷ひだから、誰の所業と尋ねて見ようも無い。深夜人定まつてから前の山などで、大きな岩を突落す地響がしたり、又はカキンカキンと斧の音が續いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐り倒すやうな音がする。夜が明けてから其附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら亂れては居なかつた、などと謂ふのが最も普通の話で、斯ういふ出來事があまり毎度繰返されると、山が荒れると稱して人が不安を感じ始め、終には其谷を「よくない處」の一つに算へて、避けて入らぬやうにもなるのである。併し多勢が一度に聽いても幻覺はやはり幻覺である。或は同じ物音を共に聽いたと思つても、甲の暗示が乙を誘ひ、(157)又丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子、或は廣島などでいふバタバタの怪、始めて鐵道の通じた土地で、汽車汽鑵車の響を狐狸が眞似するといふの類、凡そ異常に強烈な印象を與へたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、實は他にも數限りが無いので、たま／＼山の生活と交渉のある場合ばかり之を目に見えぬ山の人の神通に托するが如きは、寧ろ我々の想像の力の致す所であつたかも知れぬ。

　但し是をも我々の實驗の中に算へて、見た出逢つたと云ふのと同じ程度の、信用を博して居る物語は多いのである。少なくとも其二三の例は、後の研究者の爲に殘して置く必要があると思ふ。

　白河風土記卷四に、鶴生《つりふ》（福島縣西白河郡西郷村大字）の奧なる高助と云ふ所の山にては炭竈に宿する者、時としては鬼魅の怪を聽くことあり。其怪を伐木坊《きりきばう》又は小豆磨《あづきとぎ》と謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐の聲ありて　　ﾃﾝ木の響を爲す。明くる日其處を見るに何の痕も無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を爲す。其聲サク／＼と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。

　笈埃隨筆卷一に、途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何れの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と云ふ人、豐後杵築の産なり今は京に住めり。此人の云ふ。國に在りし時、雉子を打ちに夜込に出でたり。友二三人と共に鳥銃を携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に當りぬべく覺えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押靜め、先づ下に坐せしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥しかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫と云ふものなり。曾て中《あた》るものには非ず。若し中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず獵無し。今夜は歸るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一も獲物なくして歸りたりといへり。

　今齊諧卷二に、加賀金澤の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶えたる谷川の岸を行きしに、水邊には蘆すき間(158)も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた對坐して談笑する聲聞ゆ。篠原之を怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮られて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦行かず。因つて其犬の四足を捉へ、力を極めて之を蘆原の彼方へ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏を抱き家に歸る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。

　北越奇談に、神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生を好む。村の十餘町奧なる山神社の下の溪流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩を流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。曉に及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺ふに、長一丈餘りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕の如き手を出して攫み上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば氣絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。

　次も同じく越後の事であるが、是は會津八一氏の話を聽いたのである。妙高山の谷には硫黄の多く産する處があるが、天狗の所有なりとして近頃迄も採りに行く者は無かつた。ところが先年中頸城郡板倉村大字横町の何右衛門とかいふ者、此に眼を着けて十數名の人夫を引率し、此山に入つて谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜は此小屋に集まつて寢た。或夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先づ寒いから火を焚かうとして居ると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入つて來た。皆の者は怖しさに片隅に押しかたまり、蒲團を被つて樣子を伺つて居ると、かの者はづか／＼と板の間に上つて來たやうであつたが其後の事はわからず。夜の明けるのを待つて見れば、かの何右衛門だけは首を後向きに捻ぢ切られてつめたくなつて居たと謂ふ。今でも此谷に入つて若し硫黄の一片でも拾はうとする者があれば、必ず峰の上から大聲で、そこ(159)取んなアとどなる者があると謂ひ、又首を捻ぢられるからと少しでも侵す者は無いさうだ。又此邊の村に往つて天狗などは此世に無いものだとでも言はうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。此時の人夫の一人に、近い頃まで生きて居たのがあつて、其老人から直接に此話を聽いた者は幾人もあつたのである。

　

　　　　　　　二九　巨人の足跡を崇敬せし事

　

　山人の丈の高いといふことは、古くからの話であつたと見えて、オホヒトと云ふ別名も久しく行はれて居た。是もオホヒトと謂ふからには、ちつとやそつとでは承知が出來ず、見上げるやうな高い樹の幹に、皮を剥いた痕があつたとか、五六尺もある萱原に、腰から下だけが隱れて居たとか、又は山小屋を跨いでゆさぶつたとか、色々な珍しい話を傳へて居るかと思ふと、一方には我々と大抵同じくらゐの、やゝ頑丈なる體格であつたと謂ひ、六尺より低いのは見たことが無いといふ類の、穩健なる記録も亦幾らもあつたので、きのこか何かででも無い以上は、其樣な大小不揃ひの物が有るわけは無いから、乃ち是も又聞きの場合の掛値であつたことを、想像し得られるのである。

　或は雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも傳へられる。中にはあんまりえらい大股であるくのを、やはり大昔から人が想像して居る通り、一本足で飛びまはるのが眞らしいと考へて居た人さへあつた。それ等の觀察の精確を缺いて居ることは、論の無い話であるが、もと／＼大きいが故に之を山男の足跡だらうと謂つた人があるとすれば、即ち迷信の原因は別に既に有つたものと認めなければならぬ。

　しかも日本は古くから、足跡崇敬の國であつた。神明佛菩薩勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けて居る國であつた。言はゞ山人思想の宗教化といふことには、正しく先蹤があつたのである。我々平民の祖先は、國土平定といふ如き記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に歸して居たのみならず、諸國の地方神に(160)隨從して神�ｺを宣傳したと云ふ眷屬の小神にも、亦大人の名を附與して其遺跡と口碑とを保存し、更にオホヒトが山に居る異種人の別名なることを知つた場合でも、尚單なる畏怖の念以上のものを以て、其強力の跡を拜まうとして居たのである。

　東部日本の諸縣に於て、オホヒトと謂つたのは山人のことであつた。勿論大きいからの大人であらうが、其大きさが驚くべく一樣で無かつた。見た人が次第に少なく、語る人　　益々多かりし證據である。今に至つては實?を確かめることも六つかしいが、區々の異説は及ぶ限り之を保存して置かねばならぬ。

一　陸奧と出羽との境なる吾妻山の奧に、大人と云ふものあり。蓋し山氣の生ずる所なり。其長一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入來る。村人之を敬すること神の如く、其爲に酒食を設く。大人は之を食はず、悉く包みて持歸る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作せしことを聞かず。神保甲作の話なり（今齊諧卷四）。

二　上野黒龍山不動寺は、山深く嶮岨にして、堂宇其間に在り。魔所と言ひ傳へて怪異甚だ多し。山の主とて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐するとき膝の高さ三尺ばかりあり。偶々足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十餘間を隔つと云へり（日東本草圖彙）。

三　高田の大工又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路の引廻りたる處にて圖らずも大人に行逢ひたり。其形裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ、眼の光星の如く、手に兎一つ提げて靜かに歩み來る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ（北越雜記卷十九）。

四　飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之(161)を開きたる人無し。或獵師山深く分け入りて獣多き處を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り來ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方無くせめては斯くもせば助からんかと、飢の用意に持ちたる團飯を取出で、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる樣なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒と云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありで此者狐貉夥しく殺しもて來り與へぬ。團飯の恩に報いる也けり。獵師勞無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎に團飯を包み行きて獣に換へ歸りたり。然るを隣なる獵師之を怪み、竊に窺ひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん彈こめて打ちたり。打たれて遁げければ獵師も歸りぬ。前の獵師此事を聞きで、あな不便の事やとて、猶山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ樣なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇を、我に怨みやせんと怖しくなりて止みぬ。斯くて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の傳へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知愼語れり（視聽草第四集卷六所録荻生徂徠手記）。

　

　巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけで無い。小田内通敏君が聽いて來て教へてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊した處、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあつた。主人に其のわけを尋ねると、つい近い頃に、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅つて居ると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であつた。怖ろしいから茅の蔭に隱れて居て、後に其場所に行つて見れば、川原に甚だ大きな足跡があつた。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んで來て見せると、一同は崇敬の餘り、其足跡の砂を取分けて各自の家に持還り、斯うして神棚に上げて置くのだと答へたさうである。

(162)　雪の上に大きな足跡を見たといふ話はまだ澤山ある。其二三を擧げて見ると、

一　遠州奧山郷白鞍山は、浦川の水源なり。大峰を通り凡そ四里、山中人跡稀なり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す（遠江國風土記傳）。

二　駿河安倍郡腰越村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて續けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ぎに渡りしと覺えしは、其川向二三間にも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞を見當ることあるに鈴竹といふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり（甲子夜話）。

三　小蟲倉山、蟲倉明神、公時の母の靈を祭る。因つて阿姥《おうば》明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭ひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり（信濃奇勝録卷二）。

四　文政中、高岡郡大野見郷島の川の山中にて、官より香蕈を作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と稱し、常にあるものなり。香美郡にもあり（土佐海續編）。

　土佐では山人を一般に山爺と呼んで居る。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、之に遭つたと云ふ人さへあつた。紀州熊野の深山でも、一たゝら、又は一本踏鞴などと傳へ、曾て勇士に退治せられた話がある。其他の府縣でも、山に一本足の怪物が居るといふ説は多いが、單に雪の上の足跡から、推測し得べきことでは勿論無かつた。即ち實驗以前から、さういふ言ひ傳へが既に有つたので、誤信ながらもそれには又、別途の説明があつたのである。

　又雪の上では無くとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かして居た。信州戸隱でも大雨の後、畑などの土に二三尺の足跡のあるのを度々見たと謂ひ、越後の苗場山でも雨後に山上に登れば、長さ尺餘の足跡を見ることがあると、越後野志卷六に書いて居る。播州揖保郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と傳ふる古塚があつて、石(163)の祠が安置してあつた。嘉永の初年とかに、或人此邊を拓いて畑とした處が、一夜の中に踏荒して大きな人の足跡があつた。さうして其家は全家發狂してしまつたと、西讃府志卷五十一に書いて居る。

　仙梅日記には駿州梅ヶ島仙ヶ俣の旅行に於て、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野と云ふ處の向ふ山には、山男が石に歩みかけた足跡がある、岩が凹んで足の形を印して居る。如何ほどの強い力だらうかと謂つたさうである。

　斯ういふ人々の心持では、巖石の上に不朽の痕跡を止めることも、大人ならば不可能で無いと思つたのであらうが、親しく實際に就いて看ると、殆と其全部が山男たちの關與する所では無かつた。大人足跡と云ふ口碑は、既に奈良朝期の常陸風土記大櫛岡の條にもある。丘壟の上に腰かけて大海の蜃を採つて食つたと謂ひ、足跡の長さ四十餘歩、廣さは二十餘歩とある。播磨風土記の多可郡の條にも巨人が南海から北海に歩んだと傳へて、其踰ゆる迹處數々沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の靈物があつて、誤つて其名を山人に付與したのでは無いかと云ふことになるが、若しさうならば之と共に足跡に關する畏敬の情までも、移して彼に與へたことになるのである。即ち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのは寧ろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になつた爲に却つて一層之を神秘化したもので無いかとも思はれるのである。

　

　現在の大人足跡は中國に最も多く、四國紀州等は之に次ぎ、何れも地名と爲つて各國數十百を算する。併し他の地方とても決して絶無では無く、殊に偉大な足跡は到る處に散在して居るが、その或ものは單純に之を鬼の足跡とも謂ひ、或は又大太法師とも唱へて居る。關東の各地でダイラボッチ、若くはデエラ坊の話といふのも是で、多くは所謂足跡に伴なふ傳説である。東京の近郊などにも現に幾つかあるが、全國を通じて大體に之を二樣に區別することが出來る。其一つは前の駿州仙ヶ俣の場合の如く、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石の如く堅いものを(164)踏み窪めたといふ點に在り、從つて獨り山人のみに非ず古來の偉人勇士例へば辨慶曾我五郎と云ふ類の人々までが作者である故に、其形はさして大きく無い。さうして其石は大抵崇拜せられて居る。之に反して第二の種類には幾らでも大きなものがあつて、從つて鬼物巨靈にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田《だいだ》と云ふ停留場の邊には、昔大太法師が架けたと云ふ橋があり、それから僅か南東に在る足跡は、足形こそしては居るが、面積は約三町歩、内部は元杉林であつたが、今では文化住宅でも建つて居るかも知れぬ。踵に當る處には地下水の露頭があり、其傍には小さな堂も在つた。それから又東南方には二ヶ處の足跡あり、駒澤村に在るものは更に偉大であつた。何れも泉の噴出に起因する窪地で、形?は足跡とも見られぬことは無かつた。上總の鶴枝村で見たものは、小川を隔てゝ雙方の岡の上にあつた。其一つは既に崩れて居るが、他の一つは約一畝歩、四周の樹林地の中に此だけが土地臺帳で別筆となつて、其分を開いて麥か何かゞ播いてあつた。甲州信州邊のデエラボツチャも、大抵は孤立した濕地であつたが、さうで無い足跡もあるやうである。何にしても附近と地形が違つて、それが略々足形をして居れば、大人の跡と謂つたのである。

　大人は富士を脊負うて、何れへか持つて行かうとしたり、又は一夜に大湖を埋めようとして簣を以て土を運んだ。其簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だ此山だといふ話は何處にでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきは悉く水土の工事に關聯し、處によつては山を蹴開き湖水を流し、耕地を作つてくれたなどと傳へ、頗る天地剖柝の神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言ひ傳へには相違ないのである。大きい行止まりは加賀國の大人の足跡、東は越中境栗殻山の打越に一つ、次には河北郡木越の光林寺の址といふ田の中、次には能美郡｜波佐谷《はさだに》の山の斜面、即ち此國を三足であるいた形である。何れも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壹岐の島の國分の初丘に在るもの、爪先北に向つて南北に十二間、幅は六間で踵の處が二間、之を大の足跡と呼んで居る。大昔に大といふ人、九州から對馬へ渡らうとして、この中間の島に足を踏立(165)てた。其跡であると謂ふ。少し窪んで水が出て居る。こんな處は附近に多いと壹岐名勝圖誌には記して居る。

　大人は九州の南部では、大人彌五郎と稱し、又大人隼人などとも謂つて居る。八幡神社の眷屬のやうにも謂へば、又昔此大神に治伐せられた兇賊の如くにも傳へて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作つて曳きあるいて居る。さうして隼人は又此地方では、征服せられたる先住民の總稱である。隼人が上代の被征服者である爲に、之を大人隼人などと呼んで居るのならば、我々の傳へんと欲する山の人も、オホヒトといふ別名を得た理由が別に尚あつたかも知れぬ。併し考へて行くほど却つて段々に六つかしくなるらしいから、もう此邊で一旦は話を止めて置かう。

　

　　　　　　　三〇　是は日本文化史の未解決の問題なる事

　

　爰で打切つては勿論此研究は不完全なものである。最初自分の企てゝ居たことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外な現實の影響が強かつたといふことを、論證して見るに在つたのだが、殘念ながらそれにはまだ資料が十分で無い。後代の篤學者は尚多くの隱れたるものを發掘することであらう。併したゞ一つほゞ斷定してもよいと思ふことは、中世以後の天狗思想の進化に著しく山人に關する經驗が働いて居たことである。單に眼が光る色が赤い、背が高いなどの外形のみでは無い。佛法方面の人からは天魔の扱ひを受けつゝも、感情があり好意惡意があつて、或は我々に近づき或は又擯斥し、機嫌にも時々のむらがあつて、氣に向けば義侠的に世話をしてくれるなど、至つて平凡なる人間味の若干をまじへて居ることは、それが純然たる空想の所産で無いことを思はしめる。

　彼等は又時として我々から、ひどく遣つゝけられたといふ話もある。天狗の神通を以てして、不覺千萬のやうではあるが、かの杉の皮で鼻を彈かれて、人間といふ者は心にも無いことをするから怖ろしいと謂つた昔話などは、少な(166)くとも曾て人間と彼等との間に、對等の交際があつたと云ふ偶然の證據である。欺くに方法を以てするならば、天狗必ずしも恐るゝに足らずとする考は、我々の世渡りには大切なる教訓であり又激勵であつた。故に或は自分だけは筍を喰ひ、相手には竹を切つて煮て食はせて見たとか、又白い丸石を爐の火で燒いて、餅を食ひに來た山人に食はせたら、大いに苦しんで遁げ去つたとかいふが如き詐謀を以て之を征服した物語が、諸國に數多く傳はつて居るので、しかも其古傳の骨子を爲す點が、主として火の美感であり、穀物の味であり、何れも山人と名づくる此島國の原住民の、殆と永遠に奪ひ去られた幸福であつたことを考へると、山の人生の古來の不安、即ち時あつて發現する彼等の憤怒、乃至は粗暴を極めた侵掠と誘惑の畏れなども、幾分か自然に近く解釋し得られるかと思はれ、之と相關聯する土地神の信仰に、顯著な特色の認められるのも、畢竟は此民族の歴史が、之を促したといふことになるのである。

　

　最後に尚一つ話が殘つて居る。數多ある村里の住民の中で、特別に山の人と懇意にして居たと云ふ者が處々にあつた。其問題だけは述べて置かねばならぬ。天狗の方にも名山靈刺の彼等を佛法の守護者と頼んだもの以外に、尋常民家の人であつて、やはり時としてかの珍客の訪問を受けたと云ふ例は相應にあつた。其中でも殊に有名なのは、加賀の松任《まつたふ》の餅屋であつたが、たしか越中の高岡にも半分以上似た話があり、其他あの地方には少なくとも世間の噂で、天狗の恩顧を説かるゝ家は多かつたのである。今では殆と廣告の用にも立たぬか知らぬが、當初は決してうか／＼とした笑話でなかつた。訪問のあるといふ日は前兆があり、又は豫め定まつて居て、一家戒愼して室を淨め、叨りに人を近づけず、しかも出入坐臥飲食ともに、音も無く目にも觸れなかつたことは、他の多くの尊い神々も同じであつた。災害を豫報し、作法方式を示し、時あつて憂や迷を抱く者が、此主人を介して神教を求めんとしたことも、想像に難くないのであつた。即ち只一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲の如く、專門の行者となつて一代を風靡し、若くは近世の野州｜古峰原《こぶがはら》のやうに一派の信仰の中心となるべき境まで來て居たので、しかもその大切なる顯冥兩界の連鎖を爲(167)したものが、單に由緒久しき名物の餡餅であつたことを知るに至つては、心竊に在來の宗教起原論の研究者が、徒らに天外の五里霧中に辛苦して居たことを、感ぜざる者は少ないであらう。

　始めて人間が神を人の如く想像し得た時代には、食物は今よりも遙かに大なる人生の部分を占めて居た。餅ほどうまい物は世の中には無いと考へた凡俗は、之を清く製して獻上することに由つて、神御滿足の御面ざしを、空に描くことを得たらうと思ふ上に、更に其推測を確かめるに足るだけの實驗が、時あつて日常生活の上にも行はれたのである。我々の畏敬して止まなかつた山の人も、米を好み殊に餅の香を愛したのであつた。特別なる交際が餅を以て始まつたと云ふ話は、勿論話であらうが今に方々に傳はつて居る。是を下品だとして顧みないやうな學者は、いつ迄も高天原だけを説いて居るがよい。自分たちは今ある下界の平民の信仰が、如何に發達しで斯う迄完成したかを考へて見ようとするのである。前に話した馬に七駄のマダの皮で、草履を作つて居たといふ陸中淨法寺の村で、或農夫は山に行つて山男に逢つた。晝辨當の餅を珍しがるから分けて遣ると、非常に喜んで之を食つた。お前の家ではもう田を打つたか、いやまだ打たぬといふとそんだら打つてやるから何月何日の晩に、三本鍬と一緒に餅を三升ほど搗いて田の畔に置けと謂ふ。約の如くにして翌日往つて見ると、餅は無くなり田はよく打つてあつたが、大小の田の境も無く一面に打ちのめしてあつた。それからも友だちになつて、山に行くたびに餅をはたられて困つた。其山男が又彼に向つて、おれは誠によい人間だが、かゝアは惡いやつだから見られないやうに用心せよと度々言つて聽かせたといふ話もあつて、六七十年前の出來事のやうに考へられて居る（郷土研究一ノ九佐々木君、次も同じ）。此地方の昔話の「山はゝ」は實際怖ろしい。鬼婆｜天《あま》のじやくのした仕事が、こゝでは皆山はゝの所業になつて居る。

　又｜閉伊《へい》都の六角牛《ろつこうし》山では、青笹村の某が山に入つてマダの樹の皮を剥いで居ると、じつと立つて見て居た七尺餘りの男があつた。おれもすけてやるべとさながら麻を剥ぐやうに忽ちにしてもう澤山になつた。それから傍の火にあぶつて置いた餅を指ざし、くれといふから承知をすると、無遠慮に皆食つてしまつた。來年の今頃も又來るかと聞く故(168)に、後難を恐れてもう來ないと答へると、そんだら三升の餅をいつ／＼の晩に、お前の家の庭へ出して置いてくれ、一年中のマダの皮を持つて往つて遣るからといふので、是も其通りにして見ると翌年は約束の日の夜中に、庭でどしんと大荷物を置く音がした。凡そ馬に二駄ほどのマダの皮であつたと謂ふ。それから以後は毎年同じ日に、此家の庭上で所謂無言貿易は行はれたのだが、今の主人の若年の頃から、どうしたものか餅は供へて置いても、マダの皮は持つて來ぬやうになつたと謂つて居る。

　津輕舊事談に弘藩明治一統志其他を引いて、岩木山の大人と親善だつたと記して居るのは、麓の鬼澤村の彌十郎といふ農夫であつた。是は後に自分も亦、大人となつて行方を知らずとも傳へられる。彼は最初薪を採りに入つて偶然と懇意になり、角力などを取つて日を暮し、素手で歸つて來ると必ず一夜の中に、二三日分ほどの薪が家の背戸に積んであつた。或は又大人が彌十郎を助け、新たに此土地を開發したのだとも謂ひ、又赤倉の谷から水を導いて村の耕地に灌漑したのも、同じ大人の力であつたと稱して、その驚くべき難土木の跡に就いて、逆さ水の傳説を語つて居る。村の名の鬼澤と産土の社の名の鬼ノ宮とは果して今の口碑の結果であるか、はた原因であるかを決しかねるが後々までも村に怪力の人が輩出したと謂ひ、或は又大人が鎭守を約諾して、其代りには五月の節供に菖蒲を葺かず、節分に豆をまくなかれと言つたとあつて、永く正直に此二種の物を用ゐなかつたのは少なくとも近代の雜説では無かつた證據である。大人が彌十郎の妻に姿を見られたのを理由にして、再び來なくなつたと謂ふのにも何か仔細がありさうだ。其折記念に遺して去つた蓑笠は鬼ノ宮に、鍬は藤田といふ家に傳はつて居るさうだが、藤田は多分彌十郎の末で即ち草分けの家であつたらう。南部の方でも三戸郡の荒澤不動に、山男の使つた木臼が傳はつて居ることを糠部五郡小史には録して居る。是で樹實を搗いて食つて居たといふ話は疑はしくとも、昔曾て彼等と交際のあつたことを信じて居たことだけは推察せられる。

　津輕の山人は角力を取つたといふのみで餅をどうしたといふ話は殘つてないが、秋田の方へ越えて見ると、此二つ(169)の事件も結び附いて居る。是も小田内通敏氏の談であるが、五城目《ごじやうのめ》近在の木樵で兼て田舍相撲の心得ある某、或日山で働いて木を負うて立たうとすると不意に山男が出て來て相撲を取らうと言うて留めた。そこで荷を再び下に卸して力を角し一番は先づ彼を投げたら強いと褒めてくれた。二番目にはわざと勝を讓つて還らうとしたが、山男は少し待つてくれと言つて、更に二三人の仲間を連れて來て取らせたので、何れも一番は勝ち一番は負けて別れて來た。それが縁になつて其後も折々出會ふうちに、或時いつ幾日には其方の家へ遊びに行く。家の者を外へ遣り、餅を搗いて待つて居よといふので其通りにして一斗程の餅を振舞ふと、數人の山男が悦んで終日遊んで歸つた。それはよかつたが其後も折々遣つて來て、酒を飲ませろの何のと言ふ爲に、終には其煩しさに堪へず、之を氣に病んで久しく寢て居るやうなことになつた。村の人たちは之を見て、山男などと附合をするのは、何れ身の爲には好くないことだと話し合つて居たさうであるが、若し此樵夫にせめて松任の餅屋ほどの氣働きがあつたら、神經衰弱などにはならずに濟みさうなものであつた。しかも因縁ばかり永く續いて人に信心の稍々薄れた場合に、尋常一樣の手段では元奉仕した神と別れることが難かつたといふことは、?々巫術の家に就て言ひ傳へられた話であつた。餅が化して白い小石に爲つたといふことゝ、石を火に燒いて怪物を攻めたといふことゝは、共に古くからある物語には相異無いが、山人の場合には二つの話が合體して、あまり毎晩餅ばかり食ひに來るので、後には閉口して白い丸石を圍爐裏に燒き知らぬ顔をして食はせて見ると、火?を吹いて飛出して去つたとか、又は其祟りで大水が出たのが年代記にある所の白髭水だなどと、何れも皆一旦の好意と其後の不本意な、絶縁とを傳説する地方が多いのは、或は何か此方面の信仰の次々の變化を暗示するものでは無いかと思ふ。

　角力によつて山男と近付になつたと言ふのも亦偶然では無かつたやうである。今日中央部以西の日本に於て、矢鱈に人と相撲を取りたがるのは、川童と話がきまつて居る。土佐ではシバテンと謂つて芝天狗の略稱かとも考へるが、擧動は殆と川童と同じである。見た所小兒の如く如何にも非力であるが、勝つと何遍でも今一番といふので、うるさ(170)くて仕方が無い。わざと負けて遣るとキヽと嬉しさうに鳴いて、又仲間をうんと喚んで來る。何にしても厄介な相手で、彼等に挑まれた爲に夜どほし角力を取り、後には氣狂のやうになつたといふ話が九州などには多い。それで居て必ずしも狐狸の如く騙す積りでは無いらしいのである。川童にせよ何にせよ、どうして又斯んな趣意不明なる交渉が始まつたと謂ふか。それには角力其ものゝ歴史を、今少しく遡つて考へる必要があるやうである、朝廷の相撲召合は七月を例とし、古い年中行事の一つではあつたが、所謂唐制の模倣でもなければ、又皇室專屬の儀式でもなかつたらしい。恐らくは中央文化の或段階に於て、民間の風習を採用して國技とせられたらしいことは、力士の諸國から貢進せられたのを見てもわかる。即ち所謂田舍相撲の方が起原に於ては一つ前である。佐渡では今も村々を代表する選手があり名乘を世襲し、會津の新宮權現でも、祭の日には村々の名を帶びた力士が出て、勝つた村では其年は仕合せ好しと信ぜられたこと、歩射《ぶしや》馬驅けなども同じであつた。乃ち祈願祈?を專らとし怪力を神授と考へ、部落互ひに技を競ふ他に、常に運勢の強弱ともいふべきものを認めて居たのは、背後に大いに頼む所の氏神、里の神の御威光があつた爲で、しかも彼等は信心の未熟に由つて之を傷けんことを畏れて居たのである。時代が漸く進んで全民族の宗教は愈々統一し、小區域の敵愾心などは意味も無いものになつたが、それでも古い名殘は今だつて少しは認められる。況んや土地毎に守り神を別にし、家門にはそれ／”＼の信仰があつた際である。豐後の日田の鬼太夫の系圖が、連綿として數百年に及ぶが如く力の筋を神の筋に歸し、之を以て郷黨の信望を繋ぎ又は集注せしめた者が、即ち神人であつたものかと思はれる。山男に名ざされ、又川童に角力を挑まれると云ふことは、言ひ換へれば其者が不思議を感じ易く、神秘の前に無我になり易い性質を具へて居たことを意味し、一方には鞍馬の奧僧正谷の貴公子のやうに、試煉を經て其天分の怪力を發揮し得るのみならず、他の一方には目に見えぬ世界の紹介者として、亦大いに神靈の道を社會に行ふことを得た筈であつたが、不幸にして國は既に事大主義、宣傳萬能の世と爲つて居た爲に、割據したる小盆地の神々は單なる妖怪を以て遇せられ、未だ十分に其感化を實現せぬ前に有力なる外來の信仰に面して悉く其光を失ひ、神(171)が力を試みるといふ折角の舊方式も、結局無意味な擾亂に過ぎぬことになつたのである。

　自分の見る所を以つてすれば、日本現在の村々の信仰には、根原に新舊の二系統があつた。朝家の法制にも曾て天神地祇を分たれたが、後の宗像《むなかた》賀茂八幡熊野春日住吉諏訪白山鹿島香取の如く、有效なる組織を以て神人を諸國に派し、次々に新なる若宮今宮を増設して行つたものゝ他に、別に土着年久しく住民心を共にして固く舊來の信仰を保持して居るものがあつた。莊園の創立は以前の郷里生活を一變し、領主は概ね都人士の血と趣味とを嗣いで居た爲に、佛教の側援ある中央の大社を勸請する方に傾いて居たらしく、次第に今まであるものを改造して、例へば式内の古社が殆と其名を喪失したやうに、力めてこの統一の勢力に迎合したらしいが、之と同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼て持つものに引付けた場合が少なくは無かつたらしい。又右の二つの系統が時としては二つの層を爲し、必ずしも一郷の八幡宮、一村全體の熊野社の威望を傷けることなくして、屋敷や一つの垣内《かいと》だけで、尚古くからの土地の神に、精誠を致して居た場合も多かつた。頭屋の慣習と鍵取の制度、社家相續の方法等の中を尋ねると今とても此差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、殊に永年に亙つて必ずしも官府の公認する所とならずとも、家から家へ又は母から娘へ、靜かに流れて居た信仰には、別に中斷せられた證跡も無い以上は、古いものが多く傳はると見てよろしい。それといふのが信仰の基礎は生活の自然の要求に在つて、強ひて日月星辰といふが如き莊麗にして物遠い所には心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとして居た結果、夙に祭を申し謹み仕へたのは、主としては山の神荒野の神、又は海川の神を出でなかつたのである。導く人のやはり我仲間であつたことは、或は時代に相應せぬ鄙ぶりを匡し得ない結果になつたか知らぬが、其代りにはなつかしい我々の大昔が、大して小賢しい者の干渉を受けずに、略々うぶな形を以て今日までも續いて來た。例へば稚くして山に紛れ入つた姉弟が、その頃の紋樣ある四つ身の衣を着て、ふと親の家に還つて來たやうなものである。之を笑ふが如き心無き人々は、少なくとも自分たちの同志者の中には居ない。

　

(172)　　　　　山人考　大正六年日本歴史地理學會大會講演手稿

　

　　　　　　　　　　一

　

　私が八九年以前から、内々山人の問題を考へて居るといふことを、喜田博士が偶然に發見せられ、かゝる晴れがましき會に出て、それを話しせよと仰せられる。一體これは物ずきに近い事業であつて、固より大正六年やそこいらに、成績を發表する所存を以て、取掛かつたものではありませぬ故に、一時は甚だ當惑し且つ躊躇をしました。併し考へて見れば、是は同時に自分の如き方法を以て進んで、果して結局の解決を得るに足るや否やを、諸先生から批評していたゞくのに、最も好い機會でもあるので、なまじひに罷り出でたる次第でございます。

　

　　　　　　　　　　二

　

　現在の我々日本國民が、數多の種族の混成だと云ふことは、實はまだ完全には立證せられたわけでも無いやうでありますが、私の研究はそれを既に動かぬ通説となつたものとして、乃ち此を發足點と致します。

　我が大御門の御祖先が、始めて此島へ御到着なされた時には、國内には既に幾多の先住民が居たと傳へられます。古代の記録に於ては、此等を名づけて國つ神と申して居るのであります。其例は日本書紀の神代卷出雲の條に、吾は是れ國つ神、號は脚摩乳、我妻號は手摩乳云々。又高畠産靈神は大物主神に向ひ、汝若し國つ神を以て妻とせば、吾(173)は猶汝疎き心有りと思はんと仰せられた。神武紀には又臣は是れ國つ神、名を珍彦と曰ふとあり、又同紀吉野の條には、臣は是れ國つ神名を井光と爲すとあります。古事記の方では御迎ひに出た猿田彦をも、亦國つ神と記して居ります。

　令の神祇令には天神地祇といふ名を存し、地祇は倭名鈔の頃まで、クニツカミ又はクニツヤシロと訓みますが、此二つは等しく神祇官に於て、常典に依つて之を祭ることになつて居まして、奈良朝になりますと、新舊二種族の精神生活は、もはや名殘無く融合したものと認められます。延喜式の神名帳には、國魂郡魂といふ類の、神名から明らかに國神に屬すと知らるゝ神々を多く包容して居りながら、天神地祇の區別すらも、既に存置しては居なかつたのであります。

　しかも同じ延喜式の、中臣の祓詞を見ますると、尚天津罪と國津罪との區別を認めて居るのです。國津罪とは然らば何を意味するか。古語拾遺には國津罪は國中人民犯す所の罪とのみ申してあるが、それでは之に對する天津罪は、誰の犯す所なるかゞ不明となります。右二通りの犯罪を比較して見ると、一方は串刺｜重播《しきまき》畔放《あはなち》といふ如く、主として土地占有權の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すと謂ひ、獣犯すといふやうな無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、即ち後者は原住民、國つ神の犯す所であることが解ります。日本紀景行天皇四十年の詔に、東夷の中蝦夷尤も強し。男女交り居り父子別ち無し云々ともあります。何れの時代にこの大祓の詞といふものは出來たか。兎に角に斯る後の世まで口傳へに殘つて居たのは、興味多き事實であります。

　同じ祝詞の中には、又次のやうな語も見えます。曰く、國中に荒振神等を、神問はしに問はしたまひ神掃ひに掃ひたまひて云々。アラブルカミタチは又暴神とも荒神とも書してあり、古語拾遺などには不順鬼神ともあります。此は多分右申す國つ神の中、殊に強硬に反抗せし部分を、古くからさう謂つて居たものと自分は考へます。

　

(174)　　　　　　　　　　三

　

　前九年後三年の時代に至つて、漸く完結を告げた所の東征西伐は、要するに國つ神同化の事業を意味して居たと思ふ。東夷に比べると西國の先住民の方が、問題が小さかつたやうに見えますが、豐後肥前日向等の風土記に、土蜘蛛退治の記事の多いことは、常陸陸奧等に讓りませず、更に續日本紀の文武天皇二年の條には太宰府に勅して豐後の大野、肥後の鞠智《きくち》、肥前の基肄《きい》の三城を修繕せしめられた記事があります。是は固より海寇の御備へで無いことは、地形を一見なされたら直ぐにわかります。土蜘蛛には又近畿地方に住した者もありました。攝津風土記の殘篇にも記事があり、大和には固より國樔《くず》が居りました。國樔と土蜘蛛とは同じものゝやうに、常陸風土記には記してあります。

　北東日本の開拓史を見ますると、時代と共に次々に北に向つて經營の歩を進め、しかも夷民の末と認むべき者が、今尚南部津輕の兩半島の端の方だけに殘つて居る爲に、通例世人の考では、すべての先住民は壓迫を受けて、北へ北へと引上げたやうに見て居ますが、是は單純にそんな心持がするといふのみで、學問上證明を遂げたものでは無いのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今では只漠然と、絶滅したやうに看做されて居るが是も固より何等の根據無き推測であります。

　種族の絶滅といふことは、血の混淆乃至は口碑の忘却といふやうな意味でならば、之を想像することが出來るが、實際に殺され盡し又死に絶えたといふことは景行天皇紀に所謂撃てば則ち草に隱れ追へば則ち山に入るといふ如き?態に在る人民には、到底之を想像することが出來ないのです。播磨風土記を見ると、神前《かみさき》郡大川内、同じく湯川の二處に、異俗人二十許口ありとあつて、地名辭書には之を今日の寺前長谷二村の邊に考定して居ます。即ち汽車が姫路に近づかうとして渡る所の、今日市川と稱する川の上流であつて、實は斯く申す私などもその至つて近くの村に生れました。和銅養老の交まで、此通り風俗を異にする人民が、その邊には居たのであります。

(175)　右に謂ふ異俗人は、果して如何なる種類に屬するかは不明であるが、新撰姓氏録卷の五、右京皇別佐伯直の條を見ると、此家の祖先とする御諸別命、成務天皇の御宇に播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と爲す云々とあつて、或は其御世から引續いて、同じ者の末であつたかも知れませぬ。

　此佐伯部は、自ら蝦夷の俘の神宮に獻ぜられ、後に播磨安藝伊豫讃岐及び阿波の五國に配置せられた者の子孫なりと稱したといふことで、即ち景行天皇紀五十一年の記事とは符合しますが、此と姓氏録と二つの記録は、共に佐伯氏の録進に據られたものと見えますから、此一致を以て強い證許とするのは當りませぬ。恐らくは釋日本紀に引用する暦録の、佐祈毘（叫び）が佐伯と訛つたといふ言ひ傳へと共に、一箇の古い説明傳説と見るべきものでありませう。

　サヘキの名稱は、多分は障碍といふ意味で、日本語だらうと思ひます。佐伯の住したのは、勿論上に掲げた五箇國には止りませぬが、果して彼等の言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、此等の書物以外の材料を集めて後に、平靜に論證する必要があるのであります。

　

　　　　　　　　　　四

　

　國郡の境を定めたまふといふ事は、古くは成務天皇の條、又允恭天皇の御時にもありました。是も亦姓氏録に阪合部朝臣、仰せを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸阪手阪梨（阪足）などと共に、中古以前からの郷の名里の名にありますが、今日の境の村と村との堺を劃するに反して、昔は山地と平野との境、即ち國つ神の領土と、天つ神の領土との、境を定めることを意味したかと思ひます。高野山の弘法大師などが、獵人の手から靈山の地を乞ひ受けたなどといふ昔話は、恐らくは此事情を反映するものであらうと考へます。古い伽藍の地主神が、獵人の形で案内をせられ、又留まつて守護したまふといふ縁起は、高野だけでは決して無いのであります。

(176)　天武天皇紀の吉野行幸の條に、?者二十餘人云々、又は?者之首などとあるのは、國樔のことでありませう。國樔は應神紀に、其爲人甚淳朴也などともありまして、佐伯とは本來同じ種族で無いやうに思はれます。北山抄江次第の時代を經て、それよりも又遙か後代まで名目を存して居た、新春朝廷の國栖の奏は、最初には實際此者が山を出でて來り仕へ、御贄を獻じたのに始まるのであります。延喜式の宮内式には、諸の節會の時、國栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜郡に在りとあります故に、他の十五人は年々現實に、もとは吉野の奧から召されたものでありませう。延喜式の頃までは如何かと思ひますが、現に神龜三年には、召出されたといふ記録が殘つて居るのであります。

　又平野神社の四座御祭、園神三座などに、出でて仕へた山人といふ者も、元は同じく大和の國栖であつたらうと思ひます。山人が庭火の役を勤めたことは、江次第にも見えて居る。祭の折に賢木を執つて神人に渡す役を、元は山人が仕へ申したといふことは、尤も注意を要する點かと心得ます。

　　　ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ

　是は後代の神樂歌で、衛士が昔の山人の役を勤めるやうになつてから、用ゐられたものと思ひます。ワキモコガはマキムクノの訛り、纏向穴師は三輪の東に峙つ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召に基いて、此山にも一時國樔人の住んで居たのは、御式典に出仕する便宜の爲かと察しられます。

　然らば何が故に右の如き嚴重の御祭に、山人如きが出て仕へることであつたか。此は六つかしい問題で、同時に又山人史の研究の、重要なる鍵でもあるやうに自分のみは感じて居る。山人の參列は只の朝廷の體裁装飾で無く、或は山から神靈を御降し申す爲に、缺くべからざる方式では無かつたか。神樂歌の穴師の山は、勿論後に普通の人を代用してから、山かづらをさせて山人と見ようといふ點に、新たな興味を生じたものですが、古今集には又大歌所の執り物の歌としてあつて、山人の手に持つ榊の枝に、何か信仰上の意味がありさうに見えるのであります。

　

(177)　　　　　　　　　　五

　

　山人といふ語は、此通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の國津神が末二つに分れ、大半は里に下つて常民に混同し、殘りは山に入り又は山に留まつて、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至つては次第に此名稱を、用ゐる者が無くなつて、却つて仙といふ字をヤマビトと訓ませて居るのであります。

　自分が近世謂ふ所の山男山女・山童山姫・山丈山姥などを總括して、假に山人と申して居るのは必ずしも無理な斷定からではありませぬ。單に便宜上この古語を復活して使つて見た迄であります。昔の山人の中で、威力に強ひられ乃至は下され物を慕うて、遙に京へ出て來た者は、勿論少數であつたでせう。然らば其殘りの舊弊な多數は、行く／＼如何に成り行いたであらうか。是からが實は私一人の、考へて見ようとした問題でありました。

　自分は先づ第一に、中世の鬼の話に注意をして見ました。オニに鬼の漢字を充てたのは隨分古いことであります。其結果支那から入つた陰陽道の思想がこれと合體して、今昔物語の中の多くの鬼などは、人の形を具へたり具へなかつたり、孤立獨往して種々の奇怪を演じ、時としては板戸に化けたり、油壺になつたりして人を害するを本業としたかの觀がありますが、終始此鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があつて、往々にして勇將猛士に退治せられて居ります。齊明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖の上に踞まつて、大きな笠を着て顋を手で支へて、天子の御葬儀を俯瞰して居たといふ鬼などは、此系統の鬼の中の最も古い一つである。酒?童子にせよ、鈴鹿山の鬼にせよ、惡路王大竹丸赤頭にせよ何れも武力の討伐を必要として居ります。其他吉備津の塵輪《ぢんりん》も三穗《さんぼ》太郎も、鬼とは謂ひながら實は人間の最も獰猛なるものに近く、護符や修驗者の呪文だけでは、煙の如く消えてしまひさうにも無い鬼でありました。

　又鬼といふ者が悉く、人を食ひ殺すを常習とするやうな兇惡な者のみならば、決して發生しなかつたらうと思ふ言ひ傳へは、自ら鬼の子孫と稱する者の、諸國に居住したことである。其一例は九州の日田附近に居た大藏氏、系圖を(178)見ると代々鬼太夫などと名乘り、?々公の相撲の最手《ほて》に召されました。此家は歸化人の末と申して居ます。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。此事に付ては前に小さな論文を公表して置きました。二三の顯著なる異俗があつて、誇りとして近年まで之を保持して居ました。黒川道祐などは之を山鬼の末と書いて居ます。山鬼は地方に由つて山爺のことをさうも謂ひ眼一つ足一つだなどと謂つた者もあります。一方では又山鬼護法と連稱して、靈山の守護に任ずる活神《いきがみ》の如くにも信じました。安藝の宮島の山鬼は、大凡我々のよくいふ天狗と、する事が似て居ました。秋田太平山の三吉權現も、亦奧山の半僧坊や秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持つて居るが、やはり亦山鬼といふ語の音から出た名だらうといふ説があります。

　それよりも今一段と顯著なる實例は、大和吉野の大峯山下の五鬼であります。洞川《どろかは》といふ谷底の村に、今では五鬼何といふ苗字の家が五軒あり、所謂山上參りの先達職を世襲し聖護院の法親王御登山の案内役を以て、一代の眉目として居りました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内といふ地名もあつて、此地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸國の山伏の家の口碑には、五流併立を説くことが殆と普通になつて居ます。即ち五鬼は五人の山伏の家であらうと思ふに拘らず、前鬼後鬼とも書いて役の行者の二人の侍者の子孫といひ、從つて又御善鬼樣などと稱して、之を崇敬した地方もありました。

　善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼の他に別に團體があつたわけでは無いらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼と謂ふのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戰國の頃からだと申します。其時代までは彼等にも通力があつたのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、後には只の人間になつたと謂ふ者もありますが、實際にはごく近代になる迄、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、呉れると言つたら一畠の茄子を皆持つて行つたり、尚普通人を威服するに十分なる、力を持つ者の如く評判せられて居りました。

　兎に角に彼等が平地の村から、移住した者の末では無いことは、自他共に認めて居るのです。是と大昔の山人との(179)關係は不明ながら、山の信仰には深い根を持つて居ます。そこで此意味に於て、今一應考へて見る必要があると思ふのは、相州箱根三州鳳來寺、近江の伊吹山上州の榛名山、出羽の羽黒紀州の熊野、さては加賀の白山等に傳はる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師などは、奈良の佛法とは系統が別であるさうで、近頃前田慧雲師は之を南洋系の佛教と申されましたが、自分は未だ其根據の何れに在るかを知らぬのであります。兎に角に今ある山伏道も、溯つて聖寶僧正以前になりますと、教義も作法も共に甚だしく不明になり、殊に始祖といふ役小角に至つては、之を佛教の教徒と認めることすら決して容易では無いのです。仙術即ち山人の道と名づくるものが、別に存在して居たといふ推測も、尚同樣に成立つだけの餘地があるのであります。

　

　　　　　　　　　　六

　

　土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、是れ山みこといふ者だと謂つて、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕へる女性若くは童子の名で、山人をさう呼んだことの當否は別として、少なくとも當時尚此地方には、彼等と山神との何等かの關係を、認めて居た者のあつたといふ證據にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官系統の學説に基き、名目と解釋の上に大なる變化を受けたことは、恰かも陰陽道が入つてオニが漢土の鬼になつたのと似て居ります。今日では山神社の祭神は、大山祇命か其御娘の木花開耶姫と、報告せられて居らぬものが無いといふ有樣ですが、之を各地の實際の信仰に照して見ると、何としてもそれを古來の言ひ傳へとは見られぬのであります。

　村に住む者が山神を祀り始めた動機は、近世には鑛山の繁榮を願ふもの、或は又狩獵の爲といふのもありますが、大多數は採樵と開墾の障碍無きを?るもので、即ち山の神に木を乞ふ祭、地を乞ふ祭を行ふのが、此等の社の最初の目的でありました。さうして其祭を怠つた制裁は何かと言ふと、怪我をしたり發狂したり死んだり、可なり怖ろしい(180)神罰があります。東北地方には往々にして路の畔に、山神と刻んだ大きな石塔が立つて居る。建立の年月日人の名なども彫つてありますが、如何して立てたかと聽くと、必ず其場處に何か不思議があつて、臨時の祭をした記念なること、恰かも馬が急死すると其場處に於て供養を營み、馬頭觀音若くは庚申塔などを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問へば、大抵は山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので氣絶をしたといふ類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赭い眼の光の鋭い、略々我々が想像する山人に近く、又一方では之を山男とも謂つて居るのであります。

　天狗を山人と稱したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思つたと謂ふ方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも畫道の約束見たやうなもので、太平記以前の色々の物語には、隨分盛んに之を説いてありますが、左程鼻のことを注意しませぬ。佛法の解説では之を魔障とし善惡二元の對立を認めた古宗教の面影を傳へて居るにも拘らず、一方には天狗の容貌服装のみならず、其習性感情から行動の末までが、佛法の一派と認めて居る修驗山伏とよく類似し、後者も亦之を承認して、時としては其道の祖師であり守護神ででもあるかの如く、崇敬し且つ依頼する風のあつたことは、何か隱れたる仔細のあることで無ければなりませぬ。恐らくは近世全く變化してしまつた山の神の信仰に、元は山人も山伏も、共に或程度までは參與して居たのを、平地の宗教が段々に之を無視し又は忘却して行つたものと思つて居ります。

　今と爲つては僅かに殘る民間下層の所謂迷信に據つて、切れ／”＼の事實の中から昔の實情を尋ねて見るの他は無いのであります。一つの例を擧げて見ますれば、山中には往々魔所と名づくる場處があります。京都近くにも幾つかありました。入つて行くと色々の奇怪があるやうに傳へられ、從つて天狗の住家か、集會所の如く人が考へました。その奇怪といふのは何かと謂ふと、第一には天狗礫、どこからとも無く石が飛んで來る。但し通例は中つて人を傷けることが無い。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシン／＼と挽き斫る音が聽え、程無くえらい響を立てゝ地に倒れ(181)る。しかも後に其方角に行つて見ても、一本も新たに伐つた株などは無く、勿論倒れた木なども無い。第三には天狗笑ひ、人數ならば十人十五人が一度に大笑ひをする聲が、不意に閑寂の林の中から聽える。害意は無くとも人の膽を寒くする力は、却つて前二者よりも強かつた。其他に稍々遠くから實驗したものには笛太鼓の囃しの音があり、又喬木の梢の燈の影などもあつて、實は其作者を天狗とする根據は確實で無いのですが、天狗で無ければ誰がするかといふ年來の速斷と、天狗ならばし兼ねないといふ遺傳的類推法を以て、別に有力なる反對者も無しに、後には斯うして名稱にさへ爲つたのであります。

　しかも必ずしも魔所と謂はず、又有名な老木などの無い地にも、やはり同樣の奇怪は折々あつて、或者は天狗以外の力として之を説明しようとしました。例へば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさへ之を傳へ、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んで此變を示すなどとも謂ひました。又｜伐木坊《きりきばう》といふ怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすといふ地方もあり、狸が化けて此惡戯をするといふ者もありました。深夜に色々の物音がきこえて、所在を尋ねると轉々するといふのは、廣島で昔評判したバタ／＼の怪、又は東京でも七不思議の一つに算へた本所の馬鹿囃子の類です。單に一人が聽いたといふのなら、おまへはどうかして居ると笑ふ所ですが、現に二人三人の者が一所に居て、あれ聽けと言つて顔を見合せる類の所謂アリュシナシオン・コレクチーブである爲に、迷信も亦社會化したのであります。

　私の住む牛込の高臺にも、やはり頻々と深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンといふ太鼓だけですが、加賀の金澤では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聽きましたのは、この天狗の御膝元に居ながら之を狸の神樂と稱し現に狸の演奏して居るのを見たとさへ謂ふ人がありました。近世謂ひ始めたことゝ思ひますが狸は最も物眞似に長ずと信じられ、獨り古風な腹鼓のみに非ず、汽車が開通すれば汽車の音、小學校の出來た當座は學校の騷ぎ、酒屋が建てば杜氏の歌の聲などを、眞夜中に再現させて我々の耳を驚かして居ます。しかもそ(182)れを狸のわざとする論據は、皆がさう信ずるといふ事實より以上に、一つも有力なものは無かつたのです。

　此等の現象の心理學的説明は恐らくさして困難なものでありますまい。常は聽かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の條件の下に鮮明に再現するのを、其時又聽いたやうに感じたものかも知れず、社會が單純で人の素養に定まつた型があり、外から攪亂する力の加はらぬ場合には、多數が一度に同じ感動を受けたとしても少しも差支へは無いのでありますが、問題はたゞ其幻覺の種類、之を實驗し始めた時と場處、又名づけて天狗の何々と稱するに至つた事情であります。山に入れば?々脅かされ、さうで無い迄も豫め打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安の如きものと、山に居る人の方が山の神に親しく、農民はいつ迄も外客だといふ考とが、永く眞價以上に山人を買ひ被つて居た、結果では無いかと思ひます。

　

　　　　　　　　　　七

　

　そこで最終に自分の意見を申しますと、山人即ち日本の先住民は、最早絶滅したと云ふ通説には、私も大抵は同意してよいと思つて居りますが、彼等を我々の謂ふ絶滅に導いた道筋に付てのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、其一は歸順朝貢に伴ふ編貫であります。最も堂々たる同化であります。其二は討死、其三は自然の子孫斷絶であります。其四は信仰界を通つて、却つて新來の百姓を征服し、好條件を以て行く／＼彼等と併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着し且つ混淆したもの、數に於ては是が一番に多いかと思ひます。

　斯ういふ風に列記して見ると、以上の五つの何れにも入らない差引殘、即ち第六種の舊　　状保持者、と謂ふよりも次第に退化して、今尚山中を漂泊しつゝあつた者が、少なくとも或時代迄は、必ず居たわけだといふことが、推定せられるのであります。ところが此第六種の?態に在る山人の消息は、極めて不確實であるとは申せ、つい最近になる迄(183)各地獨立して、隨分數多く傳へられて居りました。それは隱者か仙人かであらう。いや妖怪か狒々か又は駄法螺かであらうと、勝手な批評をしても濟むかも知れぬが、事例は今少しく實着で且つ數多く、又其樣にまでして否認をする必要も無かつたのであります。

　山中殊に漂泊の生存が最も不可能に思はれるのは火食の一點であります。一旦其便益を解して居た者が、之を抛棄したといふことは有得ぬやうに思はれますが兎に角に孤獨なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には蟲魚鳥小獣の外に草木の實と若葉と根、又は菌類などが多く、生で食つて居たといふ話は澤山に傳へられます。木挽炭燒の小屋に尋ねて來て、黙つて火にあたつて居たといふ話もあれば、川蟹を持つて來て燒いて食つたなどとも傳へます。鹽はどうするかといふ疑の如きは疑にはなりませぬ。平地の人の如く多量に消費しては居られぬが、日本では山中に鹽分を含む泉至つて多く、又食物の中にも鹽氣の不足を補ふべきものがある。又永年の習性で其需要は著しく制限することが出來ました。吉野の奧で山に遁げ込んだ平地人が、山小屋に鹽を乞ひに來た。一握みの鹽を悦んで受けて此だけあれば何年とかは大丈夫と謂つた話が、覊旅漫録かに見えて居りました。

　それから衣服でありますが、是も獣皮でも樹の皮でも、用は足りたらうと思ふに拘らず多くの山人は裸であつたと謂はれて居ります。恐らくは裸體である爲に人が注意することに爲つたのでせうが、我國の温度には古今の變は少なからうと思ふのに、國民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなつたのを考へますと、馴らせば無しにも起臥し得られて此點はあまり顧慮しなかつたものと見えます。不思議なことには山人の草鞋と稱して、非常に大形のものを山中で見かけるといふ話がありますが、それは實用よりも何か第二の目的、即ち南日本の或海岸の村で、今でも大草履を魔除けとする如く、彼等獨特の畏嚇法を以て成るべく平地人を廻避した手段であつたかも知れませぬ。

　交通の問題に付ても少々考へて見ました。日本は山國で北は津輕の半島の果から南は長門の小串の尖まで少しも平野に下り立たずして往來することが出來るのでありますが、彼等は必要以上に遠くへ走るやうな餘裕も空想も無かつ(184)たと見えて、居るといふ地方にのみいつでも居りました。全國の山地で山人の話の特に多い處が、近世では十數箇處あつて、互ひに隔絶して其間の聯路は絶えて居たかと思はれ、氣を付けて見ると少しづゝ、氣風習性の如きものが違つて居ました。今日知れて居る限の山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。殊に日本海へ近よつた山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川の上流から越後秋山へかけての一帶、東海岸は大井川の奧、次は例の吉野から熊野の山、中國では大山山彙などが列擧し得られます。飛騨は山國でありながら、不思議に今日は此話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入なども今はもう安全地帶のやうであります。之に反して小さな離島でも、屋久島は今尚痕跡があり、四國にも九州にも勿論住むと傳へられます。四國では劍山の周圍殊に土佐の側には無數の話があり、九州は東岸にやゝ偏して、九重山以南霧島山以北一帶に、最も無邪氣なる山人が住むと謂はれて居ります。海が彼等の交通を遮斷するのは當然ですが、尚少しは水を泳ぐことも出來ました。山中には固より東西の通路があつて、老功なる木樵獵師は容易に之を認めて遭遇を避けました。夜分には彼等も隨分里近くを通りました。其方が路が樂であつたことは、彼等とても變りは無い筈です。鐵道の始めて通じた時は嘸驚いたらうと思ひますが、今では隧道なども利用して居るかも知れませぬ。火と物音にさへ警成して居れば、平地人の方から氣が付く虞は無いからであります。

　山男山姥が町の市日に、買物に出ると云ふ話が方々にありました。果してそんな事があつたら、衣服風體なども目に立たぬやうに、濟まして只の田舍者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、直ぐにも百姓に同化し得る部類で、言はば一種の土着見習生の如きものであります。其以外には力めて人を避けるのが寧ろ通例で、自分の方から來るといふはよく／＼の場合、即ち單なる見物や食物の爲では無かつたらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、即ち配偶者の欲しいといふ情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思ふ事實があります。

　尤も山人の中にも女はあつて、族内の縁組も絶對に不可能では無かつたが、人が少なく年が違ひ、久しい孤獨を忍(185)ばねばならぬ際に、堪へ兼ねて里に降つて若い男女を誘うたことも、稀では無かつたやうに考へます。神隱しと稱する日本の社會の奇現象は、餘りにも數が多く、其中には明白に自身の氣の狂ひから、何と無く山に飛込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭になつたものは曾て無いので、しかも多くは還つて來ず、一方には年を隔てゝ山中で行逢うたといふ話が、決して珍しくは無いから、斯ういふ推測が成立つのであります。世中が開けてからは、假に著しく其場合が減じたにしても、物憑き物狂ひがいつも引寄せられるやうに、山へ山へと入つて行く暗示には、千年以前からの潜んだ威壓が、尚働いて居るものと見ることが出來ます。

　それを又他の方面から立證するものは、山人の言語であります。彼等が物を言つたといふ例は、殆と無いと謂つてよいのであるが、平地人の所謂日本語は、大抵の場合には山人に理解せられます。隨分と込入つた事柄でも、呑込んで其通りにしたと云ふのは、即ち片親の方から其知識が、段々に注入せられて居る結果かと思ひます。それで無ければ米の飯をひどく欲しがり又焚火を悦び、?々常人に對して好意と迄は無くとも、じつと目送したりする程の、平和な態度を執つたといふ話が解せられず、殊に頼まれて人を助け、市に出て物を交易するといふだけの變化の原因が想像し得られませぬ。多分は前代に在つても最初は同じ事情から、耕作の趣味を學んで一地に土着し、僅かづゝ下流の人里と交通を試みて居るうちに、自他ともに差別の觀念を忘失して、乃ち武陵桃源の發見とはなつたのであらうと思ひます。

　之を要するに山人の絶滅とは、主としては在來の生活の特色の無くなることでありました。さうして山人の特色とは何であつたかといふと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈高く、殊に手足の長いことなどが、昔話の中に今も傳説せられます。諸國に數多き大人の足跡の話は、話となつて極端まで誇張せられ、加賀ではあの國を三足であるいたといふ大足跡もありますが、もとは長髄彦若くは上州の八掬脛《やつかはぎ》ぐらゐの、　　梢々我々より大きいといふ話ではなかつたかと思はれます。北歐羅巴では昔話の小人といふのが、先住異民族の記憶の斷片と解せられて居ますが、日本(186)はちやうど其反對で、現に東部の弘い地域に亙り、今以て山人のことを大人と呼んで居る例があるのです。

　私は他日此問題が今少し綿密に學界から注意せられて、單に人類學上の新資料を供與するに止らず、日本人の文明史に於て、まだ如何にしても説明し得ない多くの事蹟が此方面から次第に分つて來ることを切望いたします。殊に我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じて居るかも知れぬといふことは、我々に取つては實に無限の興味であります。

　

(187)　　　史料としての傳説

　

(189)　　　　　史料としての傳説

　

　　　　　　　　　　一

　

　世に安�ｺ天皇の御舊跡と傳ふる地、「蒹葭堂雜録」卷四には、九州の數ヶ國と對馬、それから阿波・因幡・攝津などの例を擧げて居るが、勿論これを以て盡しては居ない。土佐だけでもまだ三箇所あると、「土佐海」卷三には記して居り、その一所は現に政府の刊行する地圖の上に、安�ｺ天皇御陵傳説地と指示してある。いはゆる平家谷の口碑を運搬する人々は、必ず貴き童兒の神を崇め祀つて居たらしいから、至尊流寓の畏れ多き物語が彼等の間に成長することは最も自然である。さうして平家の殘黨の世を忍んだと言ふ處は、南は既に薩南の諸島から、遙かの果の與那《よな》國にまで及ぶのみならず、東北は又出羽の莊内・最上《もがみ》にわたつて、その數は殆と無限である。これが偶合でないことを信ずとすれば、將來恐らくはその比較研究によつて、中代の國民遷移を支配した、興味ある理法を見出すことが出來ようと思ふ。たゞ如何せん現在に於ては、一般史學者のこれに對する態度が、なほ過當に冷淡であつて、所謂齊東野人の語を以て視るばかりか、時としては單純なる地方人を、あたかもうそつき〔四字傍点〕なるかの如く取扱ふが故に、彼等がいよいよ其確信に固執するの結果となり、彼等と共に靜かに傳説の歴史としての價値を、考へて見ることの難きは勿論、寧ろ折々は政治の力によつて、國民史の記述を改訂させようとする運動を、喚起することにもなるのである。

　地方に於てはこの類の衝突は、多くは傳説の勝利を以て終つて居た。地方人が切に信ぜんと欲する事蹟を信じ得な(190)い者は、郡史・村誌を著す資格がないものと認められた。從つて所謂式内の神社が、神名帳所載の數に數倍し、小野小町が五十箇所に生れ、百箇所で葬られたことになつても、これは互に如何ともする能はざる事であつた。しかし最近中央の問題にならうとする津輕北部の長慶天皇御遺蹟　茨城縣の某村に、新たに見出されたと謂ふ後醍醐天皇の御陵、或ひはこの二つと到底兩存し得ない富士山麓の、南朝大本營説の如きは、何れも今一歩を進めて一般國民から、承認を要求せんとするものである以上は、歳月をして自然に眞僞を決定せしむべく、打棄てゝ置くことはむつかしい。しかも南方朝廷の隱れたる御事蹟に對しては、思慕同情のなほ至つて濃厚なるものがあれば、將來類例の諸國に出現すべきことも、想像するに難からず、史學者が簡單なる否認抹殺を以て、これを始末してしまふことの出來ないのも、また殆と明らかになつた。

　かくの如き新しい傾向、即ち世間が何と思ふかに頓着せず、信ずる者だけでこれを信じて居ようとした態度から、信ずべき舊傳であるからは早く世間に知らしめて、從來の誤謬を正さねばならぬと言ふ考へに、地方の人が移つて行く?態は、勢ひ傳説の研究方法を改めねばならぬ結論を導くと思ふ。

　從來の史家は揃ひも揃つて、傳説のほんの一小部分を史實としてそのまゝ採録し、他の大部分はまる／＼排斥した。發生成長の順序、及びこれを承繼する者の立場、土地との關係等から考へて、傳説にはその樣な顯著なる類の差別はないので、彼等が取捨は如何にも無法であつた。他の一方には又、重きを藝術的效果に置いて、鑑賞者の趣味は如何樣にも傳説を變化させ得るものゝ如く考へ、既にこれを空想の領分に引込んで、故意に史的價値を破壞したものも多かつた。雙方共に年代と群衆との、微妙な力を無視した罪は同じである。大きな國民ではあるが日本人は、まだ自分の過去に關して甚だ憫れな智識しかもつて居らぬ。殊に人間生活の大なる半分、即ち思想と感情との二千年の變化に付ては、かつて豐富に存在した史料を、自ら大急ぎで滅さうとして居た。それをやゝ遲蒔ながらも、今漸く我々が心付いたのである。

　

(191)　　　　　　　　　　二

　

　天皇潜幸の諸國口碑が、悉く平家谷系統の移住譚から發生したものでないのは勿論である。上代より保存せらるゝ國々の風土記、若くは正史に採擇せられた家々の舊辭を見ても明らかなるが如く、この民族が最も大なる熱心を以て語り傳へたのは、我邑・我族と大御門《おほみかど》との關係、殊にはあきつ〔三字傍点〕神の稀の行幸であつた。その光榮を記念するのは誠に國人の至情であつて、歳月の久しさを以て、その確實を危むことは出來ぬが、しかもいつの間にかその記憶の一半は、いはゆる傳説に化して居り、從つて大昔もなほ今の如く、直ちに之によつて歴世の御國巡りの跡を推し知ることは難く、結局は日本人が遠き國に住みながら、永く朝家に向つて渇仰の情を抱いて居たことを、認めしむるに過ぎぬわけであつた。

　世情が全く改まつて遠國の行幸が、政治上の大不幸を意味するやうになつて後も、同種の傳説は依然として行はれた。沖の小島の御假宮或ひは西海南山の悲しき御旅路に關聯して、珍しい色々の語り草の殘るのは、さもあるべきことであるが、諸國の事例はこの場合には限られて居らぬ。例へば宮城・福島二縣の境に於て、諸邑に用明天皇と御妃及び王子を語り、土佐と薩摩・大隅の海邊に於て、到る處に天智天皇の御宮居の跡を説き、東國では上總に弘文天皇の御陵、又三河には文武天皇、美濃には宇多天皇の假宮を傳ふるの類は、何れも土地に久しく齋き祀つた、神の社の由緒として、附近住民の信仰生活に、深い根をさして居るもので、注意して見るとその言ひ傳への中に、共通して居る箇條が少くない。當時供奉をして來た臣下の者が、永く定住して代々神祭の役を勤めたこと、美しい少女があつて御左右に召され、若宮を生み奉り、或ひは別離の後、愛慕の情に堪へずして命終つたと言ふなど、之をこの種の小説が大いに流行してしまつた後代から見ると、平凡謂ふにも足らざる事件の如くであるが、文學に縁の少かつた村々の人には、必ず偉大なる感動の泉であつた。傳説の起原と諸國に於ける一致は、多分この方面から解釋して行けること(192)と思ふが、今は敢てこれを企てぬ。必要なるは唯日本の國民が、よその民族よりも遙かに立ちまさつて、帝王巡國の傳説を信じやすい習性を具へて居た事實を、注意してもらふことである。

　さうして自分の見る所では、平家谷の口碑はこの便宜に乘じて、かくの如く海内に流布したのであつて、源平の旗の色と稱する白色赤色の忌、小松氏に對する特殊の人望、モリと言ふ語尾を伴ふ人々の名前などは、單に少しづゝその傳説の成長を助けたに止まるやうに思はれる。但し東西の各山村に於ける細部の異同を、詳しく調査した上でなければ、果して自分の想像するやうに、その口碑の發生に參與した種族が、全國を通じて唯一つであつたと言ふことは、證明し得られぬであらう。これは問題が大きいだけに、研究としても大事業である。一囘の論文でこれを盡すといふことは望み難い。よつて先づ手始めには、近世に至るまで引續いて諸國を移動して、特殊の傳説を運搬して居た一種族、近江の小椋《をぐら》氏の事蹟を考へて見たい。

　言ふまでもないが、自分はまだこの徒が平家谷傳説の作者だと謂ふのではない。單に比較的材料の多い方面から、我邦には歴史に見落された國内移住が、可なり系統的に行はれて居たことゝ、傳説はあたかも北海の霧が、寒暖二種の潮流の遭遇から生ずるやうに、文化の水準を異にした二つの部曲の、新なる接觸面に沿うて現れやすいこと、傳説の變化には別に作者を要せず、それ自身の力でも色々に成長して行くものだと言ふことを、考へて置くだけである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　後醍醐天皇の御遺蹟は、又愛知縣西部の郡村にも、これを主張するものゝあつたことを記憶する。その傳説の根據の一つは、土地に古くから在る王塚《わうづか》と言ふ塚であつた。この點は常陸の近頃の類例が、天王塚の名稱を以て、これを御陵の證據とするのに似通つて居る。通例天王と謂へば四天王、又は大梵帝釋の如き、その崇敬の式に土壇を必要とする眞言派の神々を考へねばならぬ筈であるが、最初から天子の行幸を信じて居る人々には、これだけの名稱でも一(193)つの力であつた。

　王塚と言ふ方は更に不明白で、或は大きいから大塚であつたらうと謂ふ人も多いが、それは土地の人の語の心持を無視した説である。又、王ならば天皇でない筈と、考へる人も多くなつたが、これ亦昔の田舍の人の物言ひに疎い批評であつた。近世までの俗語では、王と天子と二つの名詞に大小の差はなかつた。めつたに使はぬが王と謂へば、やはり國王のことであつた。それから政治上の細かなことは知らぬ故に、王子と謂つてもやはり「至つて貴い御方」を意味することはほゞ同じで、これを君と神とのみに限つて用ゐた。

　最初は單に偶然の選擇であつたものが、天王と謂つた爲に陛下と解して、忽ち記録との矛盾を指摘せられ、すげなく否認せられる場合の多いに反して、王又は王子と謂つて居ると、いつまでも假容せられる。或は皇統譜に記入がなくとも漏れたのかも知れぬと言ふことになる。但馬・越前で謂ふ表米親王、丹後海岸での金碗《かなまり》皇子、攝津勝尾寺の開成《かいせい》皇子、出羽の羽黒の蜂子《はちのこ》皇子など、有名なる例だけでもなほ幾つかを列擧し得られる。今日では是が全く別種の傳説にならうとして居るが、最初は恐らくは一つであらうと思ふ。

　この話をして置く必要は、越後東蒲原の所謂高倉天皇陵に關聯して殊にこれを感ずる。この陛下は御在世も久しからず、また記録の豐富なる時代であつて、御生涯には隱れた隈もないのに、突如としてその遙々の御旅路を信ずる村が、やはり北國の田舍にあつたのである。但し東蒲原郡の方では「温故之栞」第二十四編に、天皇世の亂れを厭ひたまひ、伊豆守仲綱以下の武士を案内者として、來つて留らせたまふと記したる小川莊上條谷、又この地に在つて神隱れたまひ、御遺骸を葬ると傳ふる中山の御廟山に付ては、共にこの頃では地方の學者たちの意見に從つて、高倉天皇は高倉宮の誤りと言ふことに一致して居る。無論さうした方が確かに信じ易くはなるが、それはたゞ傳説を信じ易くしたと謂ふだけのことであつて、果して話の元の形が、この通りであつたか否かは、また別の問題である。

　思ふに高倉宮｜以仁《もちひと》王の御行衛が、宇治川合戰の當時から、既に種々なる風説を生じて居て、結局は不明に終つて居(194)る故に、奧州・越後の境の山に、御遺跡があつても不思議でないと言ふことを人が始めて心付いたのは、さまで古い頃の事でないやうだが、しかもかう言ふ切れ／”＼の、各地必ずしも兩立せぬ言ひ傳へは、ずつとそれ以前から行はれて居た。

　例へば中山部落の十三戸の清《せい》（ノ）氏の本家は、珍しい舊家であつて、元祖の銀太郎・銀次郎の兄弟が路を開いたと稱して、その名を以て呼ばれて居る山もあり、いはゆる小野の猿丸太夫と何かの關係があるらしいにも拘らず、今では最近の解説と妥協して、以仁王の從臣の子孫と謂ふ者があると、又さうでもあらうかと思つて居るやうである。文字の記録が出來ると傳説は固定してしまふが、勿論それを以て口碑發生の時代を決することは出來ぬ。故に我々は寧ろ地方の史學が甚だしく不完全で、誤謬・偏見・曲解を以て充ちたる書物のまだ殘つて居るうちに、大急ぎでその矛盾の中から、將に合理化せんとする傳説の本來の姿を、一瞥して置く必要を感ずるので、それにはこれから考察して見ようとする小椋氏の記傳が、今ちやうど頃合の熟し方であるのを幸ひとする。

　

　　　　　　　　　　四

　

　「高倉宮以仁王御墳墓考」と言ふ書物がある。宮城三平と言ふ人の著述で、北越史料叢書の第二卷に採録せられて居る。親切周到なる勞作であるが、實は我々の目的から申せば、この本だけは少しく熟し過ぎて居る。最初にその結論を要約して見ると、以仁王は著者の斷案に從へば、宇治川敗戰の後、まづ奈良路から近江の信樂《しがらき》に遁れ、東海道を下つて甲斐より信濃に入り、上州の沼田に越えて片品川の流れを溯り、檜枝岐《ひのえまた》の山村を過ぎて、南會津に入られた。故に只見川右岸の村々に、宮御通行の遺跡が無數に分布して居るのである。しかも近隣の武士に敵意を含む者があつて、更に安全なる武陵桃源を求めたまふとすれば、これから東蒲原の小川莊へは、たゞ國境の山一重であつた。かつて忠義の誠を致した者が、在所に御違蹟・遺物を保存して、家の昔を誇るのは、至つて自然の結果だと論じてある。

(195)　この書の功績は不幸にして資料の判別の方面にはなかつた。「東山村地誌」と言ひ「會陽小川風土記」と言ひ、色々珍しさうな寫本の名は擧げてあるが、すべて「新編會津風土記」より後のもので、しかも、つとめてこれと抵觸すまいとしたものばかりらしい。會津郡の村々には「治承四年書之」とある社誌とか、養和年間の日記とか、取分けて怖ろしいものが多かつた。續群書類從第七十四卷に編入せられた、「會津高倉社勸進帳」の如きもその一種で、表紙には「明應九年所書記也」とあつて、文は聖堂式とも名づくべき近世風の漢文であつたが、宮城氏の著述には此等の文書の多くが採用せられて居る。由緒ある舊家に於て、王より賜はつたと傳ふる寶物にも、牡丹を描いた南京皿十枚とか、梅に根笹の模樣あるひゞ燒の盃の類少なからず、或は又無銘の刀子、矢の根、五器《ごき》や朱塗の椀などと言ふ物も、是非ともまづ年代を見極めてから、その由來を聽くべきものであつた。殊に注意すべき點は、宮の御詠と傳ふる三十一文字が、如何にしてもあの頃のものらしくないことであつたが、これも些しも考への中に入れられてゐなかつた。

　次にはその傳説の内容であるが、多くの平家谷の口碑と比べて見て、變化が新しい爲か、この方には一層無理が多い。一言で謂へば何の爲に、この樣なひどい山中へ、王子が御入りなされたかゞ明らかでない。難を遁れ亂を避けて、安住の地を求め給ひしものとしては、そちこちに戰爭の跡が多く、家來たちが功名手柄を現し過ぎて居る。と言ふよりも全體に少し話が多過ぎる。今ある附近の御遺跡をみな眞なりとすれば、宮は頼朝が志を得てしまつた後までも、こんな狹隘なる山里を蜘手十文字に、行き巡つて居られたことになつてしまふ。恐らくはそれまでの理窟は考へない人々の間に、王子流寓の物語が久しく人望を博して、次から次へと成長して行つた結果がこれであらう。しからば又その中心は何れに在り、如何なる力によりて統一せられて、今日の樣な一編の歴史となり、多くの會津人をして終ひにこれを信ぜしむるに至つたかと問へば、どうしても若干の嫌疑を掛けてよい人が、實はかの山中に早くから、入つて來て住んで居たのである。

　いづれの村でも、家筋の古いことだけは確かで、これを具體的に證出することの出來ぬ家では、何とかしてその便(196)宜を求めようとするのが普通だが、小椋を苗字とする木地屋《きぢや》の部曲は、更に一歩を進めて目的の爲に手段を擇ばなかつた。少なくとも彼等の中の歴史家は、歴史は小説と同じく人が製作してよいものと思つて居たらしい。さうして其趣向には常に定まつた型があつて、必ず中心を以仁王の如き、不遇の皇族にして居たのである。

　越後小川莊中山の清一家が、小椋氏の古い分派であつたことは證據がない。或は後に會津の傳説にかぶれて、共々に高倉宮を稱することになつたのかも知れぬ。これに反して會津側の舊傳に作爲の痕のあることは、王の從臣の顔觸れを見ればよく分る。大内・水拔・萩原等の諸村に於ては、まづ以仁王なるが故に源三位入道の一門が來て働いて居る。伊豆守仲綱は御伴をして、八十里越から越後に入らうとして、途で死んだことになつて居る。乙部右衛門佐源重頼と言ふ者があつて、また頼政の子であつた。何故の乙部かは知らぬが、この地方に子孫の家がある。それから渡邊長七唱、猪野隼太《ゐのはやた》勝吉なども遣つて來て大いに戰うて居る。それ以外に宮の直臣として、尾瀬中納言藤原頼實がある。その兄大納言頼國は檜枝岐の山に留るとあつて上州藤原村民家に傳ふる古系圖に、檜枝岐二郎・尾瀬三郎兄弟とある者と、どうやら同じき理想人物らしいが、何れにしても國境尾瀬沼の附近が、勤王派の勢力圏であつたことを謂はんとするものらしい。又、三河少將光明と言ふ人もある。明治十五年に檜枝岐村の三河澤を燒畑して、一箇の塚を見出した。これその三河少將の墓なりと宮城氏が謂ふのは、どうした證明方法であるか分らない。最後に今一人の大切なる人物として、小椋少將藤原定信と言ふのがある。これ即ち木地屋部落の眉目と認むべき忠臣であつて、會津では少將などとやゝ謙遜をして居るが、彼等が本國江州の小椋に於ては、之を小椋太政大臣實秀と傳へて、やはり小野宮｜惟喬《これたか》親王に隨從して、あの山中に土着したことにして居るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　傳説が前代信仰の久しい記憶から、時につれて成長した場合には、仲綱となり猪早太となることは?々あつても、(197)かう言ふ思ひがけぬ人傑が横あひから飛出すやうなことは滅多にない。かう言ふことをするのは殆と木地屋特有の癖である。假に會津の山村に古くから、高倉と呼ばれた神の宮があつて、王子巡遊の口碑は自然に以仁王の傳説を發生せしむべき傾向をもつて居たにしても、その從臣の連名に小椋少將を加へるまでは、只の神官の企て能はざる所である。しからば其小椋氏の一族は、どうして又こんな遠國の山中に、來あはせて居たのかと謂ふに、それには簡單に述べ盡しにくい興味ある沿革があるのである。

　山地を旅行する諸君には、もう説明の必要もないことだが、木地屋は山中の樹を伐つて、轆轤《ろくろ》を以て椀類の木地を製作する特殊の工人のことである。その郷里は前に述ぶる如く、近江｜愛知《えち》郡の伊勢に境した東小椋村であるが、その大部分は數百年以前から、郷里を離れて原料の豐かな諸國の山に、分散して住んで居り、或至つて珍しい組織を以て、常に故郷の村との聯路を保つて居た。

　會津は東部の日本にあつては、殊に彼等の多く集合する一箇の中心地であつた。即ち今日も猶盛んに産出せられるこの地方の名産、會津漆器業の有力なる參加者である。曾て「日本及日本人」の郷土光華號に、二瓶唯由と言ふ人が會津漆器の由來を掲げたことがある。この中に土地の傳説として、昔源平時代に平家の遺臣、遁れ來つて會津南奧の地に住し、木地挽きに從事した者を以て元祖とする。その子孫相傳へて小椋を以て姓とすと謂つて居る。平家と言ふ二文字だけを拔き差しすれば、すなはち第二の傳説にも通用したのである。

　但し奧州の山に於て轆轤を以て椀類を製したのは、勿論この傳説の如く古い時代からではあるまい。豐臣氏の頃に會津を領して居た蒲生氏郷は、本國が近江の日野であつた。日野は日野椀の産地にして、小椋の山と關係があつたらしく、現在の會津塗は、或は事情に通じた蒲生氏の奨勵が、これを促したものかも知れぬ。「新編會津風土記」に依れば、天正十八年に蒲生氏は、近江の慈教寺の僧に勸められて、小椋莊の君ヶ畑から、木地頭の佐藤和泉・同新助の兩人と、五人の木地挽きとを喚び寄せて、若松城下の七日町に屋敷を與へ、山村に入つて木地を製せしめた。最初に(198)は會津郡慶山村、それより次々に他の地方にも及んだ。この徒の土着する部落は多く、大抵木地小屋を以て村の名として居る。耶麻郡｜酸川野《すかはの》の端村なる木地小屋には、木地頭彦右衛門あり即ち佐藤和泉の後裔である。木地師は常に山林に於て小屋を掛け、良木盡くれば他山に遣り、その住所を一定せず、其居を移すことを「飛」と稱すとも書いてある。同書に擧げてある木地屋の部落だけでも中々の數であるが、彼等は人に知られずに自由に飛んで居たのだから、これ以外にも勿論多かつたことゝ思ふ。しかも氏郷以前にも、少ないと言ふだけで、既に久しく木地挽きは入つて居た。「檜原軍物語」には文明年間に耶麻郡の檜木谷地に兇賊が據つたことを述べる序に、「此所深山高地にして五穀登らず、農夫居らず、只木地挽等七十餘戸あるのみ」と謂ひ、なほ天正十三年の小谷山城成就の條には、檜原の宿から百姓木地挽等を新城の城下へ移したことを述べて居る。これら蒲生以前の木地屋が、何處からどの樣にして來たかは、考へて見る價値がある。彼等には轆轤と言ふ特別の技術がある爲、たゞの農民からは自然に轉業し難いのみならず、かうして山奧などに群をなして住むからには、やはり他所から昔も移住して居たのである。

　會津以北の奧羽地方にも、山の木を伐つて椀や杓子を製する者が、到る處に住んで居て、或は地名としても殘つて居るを見れば、相應に古くからの事であつた。秋田邊にも會津と同樣に、「飛」をして居る木地屋があつた。ただ不明なるは、彼等も亦いつの頃かに近江から移つて來たかどうか。及び何か都の貴人の由緒又小椋少將の忠義と言ふ類の話を、傳へて居たか否かである。磐城の北の境の遠刈田《とほかつた》の温泉では、松川を隔てた對岸の、新地と言ふ部落が木地屋である。もとは附近の木地屋敷と言ふ處に居たと稱し、彼處にもなほ若干の木地屋が住んで居る。彼等の苗字は小椋であるに反して、新地の方では全部佐藤を稱し、佐藤忠信の後裔と謂つて居る。「牽鑽表始命記」と題する一卷の由來書を持ち傳へて居ると謂ふ。牽鑽は或は捲胎の覺え誤りか、とにかくに轆轤のことを意味するらしい。佐藤庄司の系圖を説くとすれば、必ず又別箇の傳説であらう。何とかして一見したいものと思つて居る。佐藤を稱する二人の木地頭が、近江から招かれたことは前にも述べたが、これには何か深い事情のあることで、單に佐藤の苗字が東北六縣(199)に於て最も古く、且つ最も有力であるから、借りたと言ふだけではないやうに思ふが、殘念ながら今はまだ詳しくこの點を論ずる力がない。

　

　　　　　　　　　　六

　

　右の遠刈田新地の木地屋たちが、佐藤氏の家紋と稱して用ゐて居る源氏車は、これ亦王孫流寓の傳説を研究する者の、看過すべからざる一點である。この事は多分十六本の輻《やがら》を有し、甚だしく菊花御紋章に紛らはしいものだらうと推測するが、果して實際はどうであらうか。それに付ては今一度たち戻つて、越後小川莊中山村の、所謂高倉天皇御陵の記事を尋ねて見る必要がある。村から五丁ほど西に當つた、僅かな山上の平地であつて、やはり小倉嶺と呼ばれて居る。土地の人の最も尋常に非ずと感じたのは、その墓地の構造であつた。諸書の記述を綜合すると、附近は一圓の栗林であつて、塚の上にも老木の栗の木があつた。その傍に事の形に造つた石塔の如きものがあり、中は空虚にして履み石の左右に、十六の車輪を彫り付けてあると言ふ。それから北の方へ十六間ほど隔てゝ又一箇の石の車家形が立ち、その背後に封土あり塚の上に老樹あること南陵と同じく、これを御連枝四ノ宮の御陵と傳へ、それより東へ少し下りて、御所跡と稱する二町四方の平地があつたと、「温故之栞」には記して居る。成程、里を離れた栗林の奧などに、この樣な石の工作物があつては、驚く方が當り前である。普通の人は不用の金があつても決してかう言ふことはしない。第一これだけの石工は山中へ呼び寄せるにしても、乃至は作つた物を運搬するにしても、平和の農村にあつては年代記的大事業である故に、知らぬ間に建つて居たと言ふことを信じ得ないのであるが、見る人が見たならば石の産地や技工の巧拙から、年代も作者も容易に分る筈であるのに、それをも試みずしていつまでも、素人と共に空漠たる想像を馳せて居た學者があつたのである。

　全體日本の工藝史の研究は、今まで非常に貴族的であつて、刀鍛冶や蒔繪師の傳統ばかりを穿鑿し、平民の生活を(200)現?まで進めてくれた、木や石の製品に付ては少しも考へた人がなかつた。關東の平蕪に充滿する年代明白なる板碑の彫刻は、これと大凡時期を同じくして、北上川流域に流行した長大なる石塔の彫刻と、何程の異同があるか。又これだけ精巧なる彫刻をする爲には、鑿やたがね〔三字傍点〕の製作も相應に進んで居た道理だが、如何なる人がこれに參與し、又どうして地方にこれを分配したか。そんな事を考へずしては、勿論いはゆる車家形の由來などは考へられぬ。金屋・石屋の國内移住の跡は、木地屋に比すれば更に一層不明であつて、彼等相互の關係の如きは、到底これを窺ひ知る端緒もない。從つてこの山奧に石屋が居なかつたと言ふ證據もないわけだが、假に自分の想像するやうに、特殊の刃物を持つた器用なる木地屋が、何等かの趣意を以てこんな石塔を作り上げたと言ふことは疑はしくとも、少なくとも所謂十六の車輪、即ち放射線の十六本ある圓盤紋樣だけは、正しくこの人々の意匠に出で、且つ恐らくは彼等の携へて居た轆轤の應用であつた。その證據と謂つてもよい事實がある。

　信州伊那の大河原村は、宗良親王御經過の地であり、吉野に劣らざる南朝方の根據地であつただけに、郷人思慕の情を基礎にして、その口碑に注意して見ると、浪合記一流の無理な傳説が幾らも出來て居る。小椋一族がこれに參與した確かな痕跡はないが、この邊も亦彼等活動の舞臺であつた。松下赭山君の言に依れば、この村木地屋敷と言ふ地には小椋又は大倉と言ふ苗字の家多く、他とやゝ異なる風俗がある。例へば圍爐裏にカギを用ゐず、五�ｺの大なるものを用ゐて飯を炊くなどはその一つである。又木地墓場と言ふ處があり、彼等の墓では石碑に菊の御紋を刻んで居るとある。無理にその理由を問ひたゞさうとすれば、如何なる事を言ひ出すか知らぬが、近世の木地屋には彼等にも解らぬ由緒があつて、菊の御紋を用ゐて居た者は、決して一二山中の同業者だけでなかつたのである。近江小椋庄｜蛭谷《ひるだに》の筒井八幡社は、全國の木工に知られて居る神社だが、近頃まで頒布して居た御影の掛軸は、正面に高く「器地轆轤之租神惟喬親王命尊像」と書し、其尊像の上方左右には、十六の菊と五七の桐とを描き、歌加留多の繪で見る姿の男女二人が、その前で古風な轆轤を廻し、椀を製して居る所が繪にしてあつた。即ち祖神が惟喬親王である故に、この(201)御紋を用ゐると言ふつもりらしいが、或はその樣な説明のない頃から、彼等に屬したシムボルであつたかも知れぬ。是も後年決定せらるべき興味ある問題の一つである。

　蛭谷は君ヶ畑と境を隣して、共に所謂小椋六ヶ畑の内であるが、久しい以前から利害を異にして軋轢して居る。即ち蛭谷の筒井八幡宮に對して、君ヶ畑には大皇《おほきみ》大明神があつて、何れも惟喬親王の御廟と稱し、全然同樣なる傳説を語り、しかも雙方ながら一手に全國の散在木地屋を、支配しようとして他を排斥した。諍訟は元禄・寶永の頃から、文化・文政に及んでなほ解けず、結局は東西の本願寺、本當二山の修驗者と同樣に、管轄區域を定めて境を守ることにした。兩社の事務員が毎年各地を經廻して、木地屋同士の聯絡を保つのを、妙な名稱であるが氏子狩と稱した。宇佐八幡の例に倣うたものと謂ふのは果して事實であらうか。

　彼等が旅行には一定の道中手形があつた。又｜會符《ゑふ》と稱する札を立てゝ荷物を運んだが、その札の上には亦例の、十六の菊の紋が描いてあつた。蛭谷の方では其下に公文所御用と書したのは、八幡の社務を筒井公文所と呼んだ爲で、これはまだ遠慮深い方だが、君ヶ畑では菊の紋章の下に、高松御所御用と書いた會符が、今でも記念品として保存せられて居る。御所とは惟喬親王の昔の御所の意味で、宮を開基と傳ふる金龍寺のことであつたらしい。それが穩當か否かは、もう遠い過去の問題に屬する。我々の問題は二村が喧嘩を始めるよりも以前から、菊に似た紋章の用ゐられて居たか否かで、それがやがては越後小川莊高倉陵の所謂車屋形の石塔の、本來の性質を決定することになるのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　近江蛭谷の筒井八幡宮では、明治十三年に一千年祭を擧行して居る。この山中の惟喬親王は、「日本紀略」よりは十七年早く、「皇胤紹運録」などよりは七年おくれて、元慶三年に三十六歳で御隱れになつて居るから、その翌年から算(202)へて正に千年にはなるのであつた。この時は北海道を除いて、殆と全國から寄附金が募集せられた。又、文化十三年の社頭營造には、京都外三十六國を勸進して、三千六百餘名の者がこれに應じたと謂ふことである。この中の大部分は木地屋であつて、しかも筒井派に屬した者だけであらう。君ヶ畑の方では、明治五年三月に「諸國木地師人別帳」と言ふものを作成した。その集計を見ると〆めて五百九十二戸、内奧州が二口で合せて百七十八戸、信州が三口になつて百九戸、遠州が八十八戸、三州が二十戸に濃州六戸、越州とは越前のことか二十二戸、中國筋では播州二十九戸、作州二口で三十戸、因州十戸に伯州十七戸であつた。この中には次に言はんとする吉野に熊野、丹波から但馬方面、東國では箱根大山等を包含する相州も入つて居らず、甲斐も兩毛も脱してをり、美濃・信濃が有つて飛騨がなく、四國では阿波も土佐も、木地屋の多く働いて居る地方であるのに、少しもこの中には算へてない。其等が何れも筒井八幡の方の管轄であつた爲に、この統計からは漏れて居るのか。或は又諸國の木地屋中には、故郷との聯絡が絶えてしまつて、自然に蛭谷・君ヶ畑のどちらからも獨立してしまつた者が、多かつたのであらうか。自分としては多分兩方の原因からであらうと考へて居る。

　君ヶ畑は愛知郡の行き止りで、伊勢の山に境した嚢の底のやうな谷であるが、東に越えて犬上郡に入ると大君ヶ畑と書いてオジガハタと言ふ山村あり、それも元は木地屋であつた。オジは即ち王子であらうと言ふことで、ここにも惟喬親王の舊傳に近きものが及んで居たらしいのである。彦根の老學者横田香苗翁の談に、維新前櫻田の藩邸に、大君ヶ畑から出た若者が一人働いて居た。道樂をして金に困ると、折々箱根の木地屋即ち所謂箱根細工をする者の處へ往つて、若干の金子を調達して居たことを記憶すると謂はれた。ずつと昔に君ヶ畑と大君ヶ畑とは權利を爭うて、後者が敗訴したやうな歴史があつた。記録は傳はらぬが、折々は犬上郡の方の木地屋も諸國にあつたのではないかと思ふ。さうでなくとも木地屋は飛んであるくから、年に一度の氏子狩ぐらゐでは、全國の同職の大部分が、二つの本社の統制の下に、網羅せられることはむつかしかつたわけである。

(203)　それが明治の世の中が新たになつて、一層集拾を不可能ならしめたのである。前述の人別帳から二十三年後、明治二十八年の一月一日調べでは、東小椋村の七大字、即ち君ヶ畑・蛭谷以外の舊五ヶ村まで合せて、人口總數は二千八百二十八人、その内現在は一千九百二人三百六十四戸で、他の九百二十六人は木地職出寄留人だとある。即ち戸數にして二百戸内外が、本籍を小椋村に置くだけで、其他の木地屋たちは、もう皆他國の人になり切つてしまつたのである。かうなるまでにはえらい歴史があつた。實際彼等にとつては維新は大革命であつて、しかも普通の農商とは異なり、木地屋だけはこれによつて、簡單に生活の組織を破壞された。と謂ふのは彼等が持つて居た特權の如きは、ほんの慣習の惰性に支へられた、何物よりも微弱なもので、いはゆる四民平等の法則の前には、風に木の葉の如きものであつたからである。

　この過渡時代の大苦惱を、一目瞭然たらしむるものは、明治六年から十一年へかけて、君ヶ畑村の戸長・總代等が、滋賀縣令松田道之氏と往復した數通の文書である。最初には先づ三河・信濃・美濃等の山間に、夥しく散在する木地師出稼人、從來の通りに本村にて支配することかなはず、それ／”＼各地の人別に附くやう、嚴しい御吟味があるが、如何したものかと言ふ伺ひである。それに答へて、一人別に本村の籍を入れ、その後何方へなりと出寄留を、願ひ出よとの指令である。しかし昔から引續いて他國に出稼して居る人々なれば、村には地面・屋敷も持たず、從つて記入すべき番地もない。これはどうしたものかと伺ひ出ると、その有樣では先方に於て、無籍のまゝ居任して居らうとは思はれぬ。戸籍が二重になる懸念はないかと尋ねられる。

　要するに彼等が諸國の山を、二年三年で移りあるいた實情を、知つて居る人が滋賀縣廳にはなかつたので、以前君ヶ畑なり蛭谷なりに、古くから持ち傳へた一通の免許?さへあれば、大手を振つて誰の領分でも踏破した時代に比べると、府縣の制度は實に窮屈なものであつた。南信地方の山々の如きは、官林に確定してから木地職の由緒をまづ否認した。どうか年々何程かの山税を取立てゝ各地の官林へ入つて働けるやうにして貰ひたいと願ひ出ると、滋賀縣の(204)方からは、それは各地管轄の縣廳へ願ひ出づべき筋と心得よと指令せられる。しかも漂泊を性とする多數の山民にはこの樣な複雜なる事情を、解決するだけの力はなかつた。小椋在住の先覺者たちが、彼等の將來の爲に顧慮してやつたのは、大なる親切には相違なかつたが、結局は一時數多き無籍者が、新しい制度に反抗して、竊かに所々の山林を盗伐してあるくやうな、變態の發生を免れなかつた。君ヶ畑では非常な努力を以て、一時六百戸に近い地方の木地屋を入籍せしめたが、遠方からでは殆と世話も出來ないので、追々送籍を奨勵して、今では又殆と其全部と絶縁してしまつたと言ふことである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　以前御料局の技師であつた江崎林學士などは、最も木地屋の盗伐に惱まされた一人であつたと自分で謂つて居る。三河の段戸《だんと》山の周圍の如きは、殊に事件が多く、折々はこれに伴ふ山火事もあつて、造林事業は?々妨げられ、少し位の檢擧ではこれを豫防することもむつかしいので、終ひには根負けしてこちらから、相當有利な條件で木地屋に土地を貸與し、飛びあるかない木地屋部落を作らせて、林木愛護の責任を分たしめた。村々でも同じ方針から、後には彼等の來住を忌み嫌はず、追々に公民權を認めた。伊豆の天城や富士山麓をあるいて見て、時々は地圖に何等の記入もない意外な新部落を見出すのも、大抵は近年の木地屋土着である。無籍の家などは今では殆となく、各府縣の山村には小倉・大藏などと言ふ苗字が、あれから後非常に増加したやうである。

　尤も木地屋の側から謂つても、山から山への飛生活は、必ずしも理想ではなかつた。たゞ本田《ほんでん》百姓の落着いた村では、少しでも平衡を破られることを厭うて、極端に移住民を歡迎せず、從つて山で稼いで居るうちはとにかく、木地の材料が乏しくなれば、その土地に何等の足場が得られぬから、木地屋の方でも寧ろ最初より親交を希はぬのであつた。從つて條件のこれに異なる場合には、勿論土着をして傍ら炭も燒き田畠も耕した。林野がなほ無王の地で、四隣(205)に利害の相容れざる者の居らぬ地方では、往々にして木地屋自身が草分けの隱田百姓であつた。

　起原こそ不明ではあるが、近江の東小椋村も恐らくはその一例に他ならぬ。即ち國境近くの廣漠たる山であつたが、木地原料は夙に足利時代に伐り盡して、或者は他國の山を求めに出ると同時に、一半の殘留者は跡地を經營して、燒畠を作り或は炭を製し又は茶を製して、今日に及んで居る。茶は日本中部以西の山嶺に、到る所に野生して居つて、今なほ無盡藏に採取せられて居る。これを支那から輸入したと謂ふのは、單に用法の輸入を意味するか、然らざれば誤りである。小椋の所謂｜政所茶《まんどころちや》は、これも六ヶ畑の野生であつたのを、次第に培養して後には玉露までを産出した。木地師の往來の序でを利用すること、あたかも中世の鑄物師が米麥などの取引に携はつたと同じ事情であつたか、この地の茶は遠國までも賣出された。本居宣長翁が採録した君ヶ畑の茶もみ歌は、

　　　こゝで揉む茶が秋田へくだる、秋田女郎衆にふらりよかよ。

　ふると謂ふのは茶筅《ちやせん》を用ゐて、番茶の泡を立てゝ飲むことを意味する。さう言ふ時代から、茶でも作らうかと言ふ土地勞作者であつた。同じ漂泊の生活でも、傀儡師・梭《ひ》かき・箕直《みなほ》しなどとは、全然習性を異にして居たのである。

　外部から彼等の土着を誘うた事情が、昔の時代にもあつた。即ち會津漆器の起原のやうに、領内の物産を起さんが爲に、木地職を保護した政策である。注意して見ると現在の漆器工業に、木地屋の來住を基礎としたものが多い。或は塗物のみ大いに榮えて、材料の木地は遠方から取寄せた土地もあつた。日野椀・日野｜折敷《をしき》の名が天下に響いてから、日野は久しく中國北國から遙々と木地を買つて居た。根來《ねごろ》も黒江も近傍の山だけでは、塗るだけの椀の數を揃へることが出來ず、これを他國から求めて居るうちに、次第にその各地元に競爭者を作つたやうである。林業地方では又木地の生産のみを以て滿足し、山中に轆轤の技術を傳習せしめようとしたものもあつた。しかしどう言ふ理由であるか、近江以外の系統で木地の職の獨立して盛んになつた例を知らぬ。或は小椋氏一族の特權が獨占的のものと認められて(206)居た爲かも知らぬ。

　各藩の林政が進んで來ると、また木地屋の利用を制限する必要が起つて來る。これも維新後の御料局の處辨法と同じく、寧ろ特定の者を土着させて、これを愛護するのが便利であつた。津山蕃などは或時代に、因幡へ越える峠の要處に、一戸二戸の木地屋を住ましめて、本業の傍に山番をさせ、冬分旅人が風雪に襲はれて難澁をする者を助けしめた。かう言ふ救ひ小屋の例は他にもあつたやうに思ふ。峠の茶店を木地屋に開かせるのは名案である。越前で有名な湯（ノ）尾峠の孫杓子なども、其一例であつたかと思はれる。杓子もやはりもと小椋氏の專業で、近江では多賀の宮とも關係があつたらしく、これには殊に信仰上の由來を伴うて居た。

　

　　　　　　　　　　九

　

　これを要するに諸國山中の木地屋は、明治の新政に際して、籍を故郷の小椋村に登録しなかつた多數の者のみならず、それ以外にも古くから次第に獨立土着した者があつて、起原は一つであつても信仰と傳説とは必ずしも統一せられて居なかつた。その上に本國に於ては、君ヶ畑・蛭谷の二神社が永く爭つた。その教派の反目から、地方に於ては殊に傳承の紛亂があつた。いはゆる高倉宮社傳の小椋少將のやうな物語が知らぬうちに幾らでも出來て居たのである。さうして彼徒の習性若しくは史的良心とも名づくべきものが、どの位までに自由自在であつたかを知る爲には、弘く全國の山地に分散する木地屋部落に就て、その由緒沿革と稱するものを尋ねて見るの必要があるが、尚それに先だつてごく簡單に、最近に至るまで江州東小椋の二つの神社に於て、所謂皇子流寓譚のオルトドキシイとして、主張せられて居た傳説とその根據とを掲げ、これを他の地方の變化と對照するの便宜に供したい。

　近江に現存する惟喬親王の御異傳に關しては、「近江與地誌略」以下の郷土誌に、若干の記述を見ないものはないが、要するにとりとめのない話のみであつた。特にこの問題の研究書として、會津に於ける宮城三平氏の「高倉宮御墳墓(207)考」に該當するものは、田中長嶺氏の「小野宮御偉蹟考」を隨一とする。此書は明治三十三年の八月、本居・黒川・栗田等當時の史學界の耆宿、或は谷鐵臣、品川彌次郎、其他の大家の題辭を冠して堂々として出版せられた立派なる著作で、その經營辛苦は優に講學者の範とするに足るものであつたが、缺點を申すならば研究方法の無視であつた。筒井八幡宮に屬する一切の文書を、無判別に信用したことであつた。

　「偉蹟考」の斷定に從ふと、親王は貞觀二年、即ち御弟宮御即位の次の年の三月に、水無瀬《みなせ》の閑栖を立ち出でたまひ、漂然として近江の山村に遊びたまふ。御供の面々には藤原實秀、後に小椋の姓を下されて、縁起類には小椋太政大臣とある人、筒井の神主大岩某が家の始祖である。或は阿野大納言と稱する阿野某、堀川中納言と傳へらるゝ谷後某などもあつた。秀麗なる山水をめでて、土民に命じて假の宮所を結構せしめたまひ、暫らく御滯留ある間に、この地は古樹老木に富めり、これを棄て置くは國の寶を空しうするもの也と仰せられて、轆轤の挽きやうを教へて日用の食器を作らしめたまふ。轆轤は卷物の軸の紐に倣ひ、或は又｜?《かし》の實のうてなを見本となされて、親王自らこれを發明したまふとある點は、奈良に一百萬基の三重小塔などもある以上は、信じ難いことだと田中氏も謂つて居る。

　それから今一つ、これは相應に重要な點に於て、土地の人が田中氏に讓歩せねばならなかつたのは、十九ヶ年の小椋御在住と、この山中の御所に於て薨去なされたと言ふ主張であつた。「偉蹟考」ではこの地の要求を二ヶ年に制限し、その後京に還つて伊勢物語にある御歌ども詠じたまひ、やはり洛北の小野宮に於て、御隱れなされたことに改めて居るのである。かくして出來る限り中央の記録と一致させ、この傳説を信じ易からしめたのは、大なる恩惠のやうに見えるが、しかも内々は其が所謂ありがた迷惑であつて、成るべくは此書物の澤山賣れてくれぬやうに、祈らねばならない人もあつたのである。

　今日ではどうでもよいことになつたが、若し田中氏の著作が五六十年前に成つたとしたら、第一に困つたのは太政大臣實秀の後裔であつた。轆轤が小椋山中の小松御所に始まり、其地が十九年間の行宮で親王の御墓もこの地に存し、(208)神社がその尊靈を齋祀したものでないとするときは、これを木地師が唯一の祖神として、全國の信仰を統一するの企を斷念せねばならぬのみか、以前の縁起系圖の公正謄本を請ひ受けて、國々の山林に於て主張した特權の、根據にして居た者が弱つてしまふ。大變な經濟問題であつた。單純なる愛郷心の侵害だけではなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　いはゆる氏子狩の慣例は、蛭谷に於ては天正四年の四月に、小椋實秀二十九代の孫、大岩助右衛門重次これを始むと傳へて居るが、年代の誤りがありさうに思はれる。筒井八幡宮に常神主の置かれたのは、慶安二年からの事と謂へば、その以前は隣部落の君ヶ畑と同じく、一年神主と稱して氏子が年番に、神祭の役を勤めに還つたので、從つて村の方の人が出て地方を巡る、暇も必要もなかつた筈である。君ヶ畑の大皇大明神の方では、ずつと後までもこの制度を守つて居たらしい。「玉勝間」卷六にはこの事を記して、一年神主は一年の勤役を終つて、後なほ一年の物忌がある。これに當つた者を公殿《こうどの》と呼び、家貪しき爲に公殿を勤めずして老いたる者を、犬と謂ふとある。「笈埃隨筆」卷八に、この役を勤める家は三十戸しかない。三十年目には順番で他國より還り來る。昔は三百戸などもあつたと謂ふのは、次第に田舍の木地師が神役を迷惑がり、人任せにしようとした傾向を意味するのであらう。即ち常神主の制度の起るべき、一般的の事情を示すものである。神主に當つた者は白衣・白丁を着て朝毎の神供を奉り、侍烏帽子に髪は藁を以て結び、この一年の間は誰でも小椋信濃と名乘つて居たともある。

　果してこの話の如く三十年もしてから一度づゝ、遠國より戻つて來たのであつたら、勝手不案内の爲に團體の利益を防衛することもむつかしく、おのづから外部の侵略を免れ得なかつたことゝ思はれる。君ヶ畑側の記録によれば、蛭谷の大岩氏は天文の頃から、筒井の神主と稱して地方の木地師を説き廻り、後には木地師の中より別に八幡宮の年番神主を勤める者さへ出來たとあるが、これは一年神主の制度が獨り君ヶ畑の社の特有でもなく、昔は諸國の舊社に(209)往々にしてこの事あつたのを知らぬからである。

　寛永年間の事とあるが、君ヶ畑の神主に小椋吉太夫なる者あつて、大岩助左衛門に誘惑せられ、神祇管領吉田家の裁許を受けて、小椋信濃を受領《ずりやう》せりと僞り、御｜綸旨《りんし》御免?等の重寶書類を悉く大岩に讓り渡し、自身は何國へか出奔した。君ヶ畑はこれによつて暗夜に燈を失つたが如き感ありしに反し、他の一方はそれより次第に吉田家にとり入り、且つその綸旨免?等に基づいて、種々の文書を作成して諸國の木地屋を惑はしたと言ふのである。

　百年以上も二村の間に、訴訟になつて居た問題であるから、今その眞僞を我々が決し得ないのは當然であるが、少なくとも田中長嶺氏が、史料として採用した文書の中には、この前後に作成せられたらしいものゝ多いことだけは事實である。ところが面白いことにはその蛭谷側の古文書を、更に僞造した者が大阪にあつて、これは訴訟をして詫び證文を取つた。大阪總木地屋中宛の一札が殘つて居る。日附は延寶七年五月六日、當人の名は淨入坊とあるが、いづれ小椋村出身の者であらう。僞造した所の八幡宮縁起の卷物十六幅、内四幅は熊野山へ、四幅は吉野山へ賣つてしまひ、七幅は取戻し殘りの一つは書損じであつた。その他にも綸旨が六枚、これは尊氏將軍の御教書の似せ物であつたと謂ふ。似せ物と謂つたところが實は寫しで、唯これを賣つた淨入坊に、その樣な權能がなかつたと言ふ迄である。現にその後にも近江から大阪へ出張して、色々の古文書の複本を頒布した者の、値段附と言ふものを見たことがある。遠國の山に住む木地屋たちが、一々本書を保有して居られる筈がない。鑄物師が家々に傳へて居た鵺退治の由緒書が、各地同文もしくは少しづゝの異同を以て、幾つとなく出て來るのと同じ事情で、古さうな顔をして居れば、寫しであつても人がその文書を信じたのである。

　これによつて考へて見ると、所謂氏子狩の目的も大抵明白である。本國神社の神�ｺを講説し、時々の奉納金を勸進することもその一つであつたらうが、それだけでは歡迎せられさうにも思はれぬ。木地屋は常に山奧に小屋住みをし、人が死んでも里のやうな佛事を營むこと能はず、從つて又檀那寺と言ふものがない。宗門改めのやかましかつた時代(210)に、それでは困るから故郷の支配所から巡回をして貰ふのだと言ふ説があり、實際又地方の聯絡には、君ヶ畑では金龍寺、蛭谷では歸雲菴の住僧が、參與したこともあつたが、これとてもその必要が、さまで適切であつたとは認められぬ。根本は「近江與地誌略」又は「近江名跡案内記」に謂ふ如く、轆轤師職の免許?若くは印鑑を、二つの社の何れからか貰つて置かぬと渡世が出來ず、しかも遠方からこれを請けに行くのは苦しいから、時々役人の巡回して來るのを便とした結果であらう。「斐太後風土記」の卷十四に、昔は木地師親の繼目に、一度近江の總録所に出て、烏帽子直垂着用の免許を受けたさうだとあるのは、この事を意味するやうに思ふ。筒井の八幡宮に「烏帽子着」と名づくる古風の禮式があることは、「偉蹟考」にも挿畫を入れて詳しく記してある。初めて木地職になる者は、烏帽子單衣を着して神前に額づき再拜して、阿野の定盛にて候、又は谷後の家次にて候と、恭しく神に氏名乘りを告げる。その式終つて後烏帽子親と定めた者と盃をして名を改め、始めて一人前の木地屋になるのだと謂つて居る。東西四五百里に亙る日本の中央山脈に、散在して居る小椋黨が、一々還つて來てこの式を濟まさぬと、一人前にはなれぬとあつては不便至極である。故に必ずこれに代るべき略式があり、又その略式の價値を高める爲に、一層古來の本式を事々しく説明して居たものと思はれる。

　能狂言の膏藥煉りを見ても分るやうに、昔の諸藝道に携はる者は、その由緒を説かずには一日もその業を行ふことが出來なかつた。さうして世を離れた山中の木地屋が、家の昔を學ぶべき唯一の機會は氏子狩であつた。又それ以前は各地の首領株の、年番の歸國がそれであつた。その永年の結果が今日の如き、傳説の分布となり統一となつたのも、亦怪むには足らぬのである。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　小椋一黨の口碑の策源地は、これでほゞ明瞭になつたが、斷つて置きたいことは近世の木地師等が殆と全部忠實な(211)る傳承者であつて、新たに異説を作爲する必要をも感ぜず、また能力をも有しなかつたことである。それにも拘らず時代と地方との差に伴ひ、傳説に區々の異同があつたのは察する所昔の少數の策士の間にも、往々にして利害の牴觸が起り、古くは犬上郡｜大君《おじ》ヶ｜畑《はた》と、他の六ヶ畑との訴訟の如く、次には君ヶ畑・蛭谷間の軋轢の場合のやうに、勢力の中心が分れたり移つたりした爲である。現存の證文類は、成程その大部分が蛭谷部落の有に歸して居るが、それが必ずしも君ヶ畑で主張する通りに、他から卷き上げたらしきものゝみではない。

　例へば天正十一年六月丹羽長秀の、「日本國中轆轤師事從先規如有來云々」、又同十五年増田長盛の、「從當畑諸商賣事於總國中如有來不可有別儀云々」の免許?の如き、何れも宛名は江州筒井公文所とあつて、筒井八幡の關係を想像せしめる。問題はたゞその關係が果して後世大岩氏の主張の如くであつたか否かである。殊に惟喬親王の由緒は、天正の二文書では何も分明せぬ。その少し以前の元龜三年の綸旨、筒井職頭之事とあるものは、宛名を小野宮社務としてあるが、樣式文言が大分もう怪しく、更にずつと古くなつて承平五年十一月九日、即ち小椋で信じて居る、惟喬親王の三十七囘の正忌日に頂戴したと稱する綸旨は、實に致し方のないものである。僞造と知りつゝこれを公表するのも人が惡いが、傳説と最も深い聯絡があるから、その作成の時代を考へる爲に掲げて置く。

　

　　近江州愛智郡小椋庄筒井轆轤師職頭之事稱四品

　　小野宮製作彼職相勤之所神妙之由候也專爲器質之統領諸國令山入之旨西者櫓櫂立程東者駒蹄之通程被免許訖者

　　天氣所候也仍執達如件

　　　　　承平五年十一月九日

　　　　　　　　器杢助　　　　　　　　　　左大承（印）

(212)　まずかう言つた形のものであつた。これ以外に大切にせられて居たものは、仁和四年の冬、藤原實秀、九十八歳の高齡を以て命終るに臨み、書き遺したと言ふ斷簡、及び應�ｺ二年二月十一日、太政大臣實秀、九十八歳の高齡を以て命終るに臨み、書き遺したと言ふ斷簡、及び應�ｺ二年二月十一日、太政大臣實秀卿四代後、藤原朝臣小椋藏人助實元と自署して下に書判をした一通の、親王と三人の從臣の薨去の日を書いたものである。

　自分に取つての大なる興味は、これ等の什書が果して正保・慶安の頃に、爭奪の目的物としたものであつたか否かである。君ヶ畑の方では重代の證文類を、皆持つて行かれたと稱しながら、やはり色々の綸旨・下文を貯へて居る。その中には延文二年の「尊氏將軍在判」とある免?、天正七年柴田勝家奉行の織田氏の下文、佐々木家の老臣永原豐後が、永原豐後武昭答と著した書翰などがあり、更に天正七年の君畠社宿禰宛の綸旨と言ふのには、「木地椀濫觴者於當郷惟喬之製作吾國之寶器也云々」と書いてあつて、如何に人々が傳説の擁護に、一所懸命であつたかゞ、これらによつてよく窺はれる。

　人々がこれ程までの大努力をしたのも、要するに皇子流寓の口碑が、古來存して居たからであらう。この種の物語は一、二山村の天才が、空想から發生し得べきものでない。筒井公文所の大岩氏の家傳に依れば、江戸時代の初期に六ヶ畑が犬上郡の大君ヶ畑と山論をした時、隣村岸本の藏人と言ふ家に、秘藏して居た卷物を借用し、これを彦根の殿の披見に入れて、訴訟は終ひに勝利に歸した。後には持主に所望をして讓り受けたのが、即ち八幡宮の縁起であつて、代々の大岩氏が諸國を持廻つて、木地屋を勸進して居たのも是であつたと言ふ。

　その卷物には勿論、惟喬親王の御事蹟が書いてあつたのであらう。しかも今日傳ふる所の兩村の舊傳には、既に澤山の不一致があつて、必ずしも出處のこれ一つであつたことを證して居らぬ。こま／”＼とした點は煩しいから略すとして、親王に隨從してこの地に土着したと言ふ人の名でも、一方では阿野大納言・堀川中納言なる者が、既にいはゆる藏人助の覺書にも書いてあるのに、君ヶ畑にはそんな人は居ない。獨り共通なのは例の小椋大臣實秀だけで、それ(213)以外には大藏大臣惟仲、又は大藏卿ともあるもの、民部卿頼貞等の顔ぶれであり、別に宮樣から最初に木地製作の法を拜受した杣人に、系圖を得さすべしとあつて、一人は信濃守藤原圖書久長、又一人は伯耆守藤原小椋藤内光吉と言ふ、途法もない名を賜はつたことになつて居る。而もその信濃と伯耆との受領名は、木地師の先途眉目とする代々の通稱であつて、まる／＼所謂仁和五年の臣下大臣筆書記だけの、出鱈目でもなかつたのである。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　京・江戸・大阪に在住した小椋氏は、移住もやゝ新しく近江との聯絡も容易であつたから、忘却以外には傳説の統一を破る懸念はなかつたが、邊土に居住した木地屋は正直でまじめ〔三字傍点〕であつただけに、各々自分の境遇が許し得る以外の、歴史を信ずることが出來なかつた。そこで會津蒲原に存する如き、大なる變化をも見たのである。その經過を考へる順序として、御退屈であらうが少しばかり、諸國の木地屋の最近までの　　状態を述べて、この徒の移住が相應に大なる、埋もれた社會事實であることを明らかにしたいと思ふ。

（一）　最初には手近の神奈川縣から始める。小田原の西の早川村の木ノ宮權現は、地藏菩薩を本地《ほんぢ》とし、全然別系統の惟喬親王口碑を存して居る。「相中襍志」の中卷によれば、親王は天安二年に伊豆國に流されたまふ。その翌々年の貞觀二年に御息所は若宮・姫宮を具し、小倉次官兼久、加藤中務丞光俊、その弟光吉の三人を供に連れたまひ、宮の御跡を追ひて御下りなさる。七歳の若宮途に薨じたまふを、神に齋《いは》うたのが同じ足柄下郡岩村の、岩ヶ崎兒大權現である。親王は海上風波荒れて、思はずに相州｜唐土《もろこし》ヶ浦に御着きなされ、この早川の里に於て御隱れ遊ばされたのを、御住所の跡に社を建てゝ、貴宮《きのみや》と崇め奉り、加藤・小倉の二人の家代々これに仕へた。これが後世の早川黨の祖であつた。永正十七年の舊記にも、加藤景晴・小倉兼高などの名が見えて居るから、相應に古くから言ひ傳へた話である。

　木の宮はこの海岸一帶に、折々聞く所の社の名で、元は神木に由つて呼んだかと思つて居たが、やはり木地師と因(214)縁をもつて居たのである。この社傳の最も大なる興味は、磐城の苅田宮、陸前柴田の大高山神社等に於て、用明天皇の巡狩を語るものと、著しく相似て居る點に存する。又、上臈が夫を慕うて、遙々の旅に下つたこと、貴人の若君が靈あつて神に祀らるゝことは、更に一段と弘く國々に行はれて居て、近江の山の皇子異傳も、亦その系統に屬するらしきことが、これから次第に分明になつて行くのである。宮の二人の從臣は、東小椋村の信濃・伯耆に該當するかと思はれ、又その名乘りも甚だしくこれに近いのである。

（二）　足柄の山地を越えて甲州に入ると、道志《だうし》川の上流盆地は古く杓子の産地であつたが、この村成立の由來はまだ聞いて居らぬ。富士の北麓に廻つて西八代郡の上・下｜九一色《くいしき》村は、早く木地屋の開いた村のやうである。現在なほ轆轤を用ゐるや否やを知らぬが、村の名の九一色は、多分木工を以て一切の年貢に充つる意味と思ふ。「甲斐國志」の四十二に、この村は大山の間にして耕地に乏しき爲、諸商賣の役を免ぜられて居る。壬午の歳（寛永十九年？）の七月十二日附、大久保新十郎の名を以て免　　状を賜はり、武田の時の例の通り、他邦へ赴く者毎人鑑札を帶びて貨物を駄送するに、驛場に於て口錢を收めず、また他所に在りて店を開くに、人敢て妨ぐることなし。陸には馬蹄の踏む所、海には舟楫《ふなかぢ》の濟《わた》る限り、往來自由なりと誇つて居たと謂つて居る。この文言は前に全文を擧げて置いたいはゆる承平五年の綸旨とよく似て居る。尤も鑄物師などの免?と言ふものにも、これに近い對句があるやうだが、土地柄だけに武田氏の産業政策が、招き寄せて住ませた者が、やはり小椋の黨類ではなかつたかを感ぜしめる。

　富士川右岸の所謂西山の人にも、木地屋の居たことは疑ひがない。明治二十五年一月七日の山梨日々新聞に、鳳凰山の奧に住む五器挽《ごきひ》きの家族の生活が詳しく出て居て、山中の食料その他風俗のことを記して居る。彼等の婚姻は諸國の山に離れて住む故に、本家の照會によらなければ、良縁が得られぬとあるのは、即ち江州の舊支配所又は地方地方の頭役が世話を燒くことで、これも昔は氏子狩の、一つの恩惠であつたのかも知れぬ。良縁が郵便を以て定まつた場合に、男が自ら出掛けて女を連れて來るとあるは、さもあるべきことである。「人類學會報告第三」に、山崎直方(215)氏は近江を郷里とする一種の木挽きの事を述べ、どこの山での話かは知らぬが、切支丹の嫌疑を受けて、檀那寺の證明を取寄せて助かつたことゝ、この徒の間には叔父・姪・兄・妹までも夫婦となることがあることゝを記して居る。木地屋の婚姻習慣は必ず特色があつた筈と思ふ。

（三）　信州には多數の木地屋が入つて居た。伊那の大河原の木地屋敷に付ては、既に菊の紋の墓じるしの條に謂つてしまつた。飯田から南の、山地から三河の北設樂《きたしだら》郡にかけて、有力なる彼等の集團があり、中に就て飯田の大藏玄信高正、高遠《たかとほ》山の大藏源太夫英敬は、安永中の文書に其名を顯し、三州稻橋の大藏權右衛門は文化初年のこの地方の頭分であつた。稻橋村の名族古橋氏も、明治の中頃には木地製造に携つて居たが、右の大藏氏とは如何なる關係があつたか。まだこれを聞いて居らぬ。この地方の木地屋群には、文化四年の小椋の二社の軋轢の餘波を受けて、前代未聞の大事件が起つた。その一件記録は幸ひにして自分の處にあつて、木地屋の歴史を知るには有力な材料であるが、長くなるから別の機會に殘す他はない。

　

　　　　　　　　　　一三

　

　伊豆・駿河の方面に關しては、まだ少しも材料を持たぬ。遠江も「諸國採藥記」に、この國深山に木地挽きと言ふ者あり、板へぎ〔二字傍点〕などの業にて渡世する者多しとあるのと、寛政十年に本願寺再建の用材を求むる爲、信州遠山の地方まで跋渉した眞宗の僧の紀行、「遠山奇談」と稱する書に、池口山の奧に於てこのさきにキジンの家があると聞いて仰天したが、それはこの邊りでの方言であつて、實は木地挽きの藤右衛門なる者が住んで居たとある二つの記事を知るばかりである。三河に付て前にも段戸山の木地屋を談じた。東海道は全體に話が少ないから、伊勢を殘して引返して飛騨に入つて見る。即ち木地屋の通る路である。

（四）　飛騨は山國だけに、三郡到る處の山に木地師が多かつた。吉城《よしき》郡では小鷹利《こだかり》・小島・高原の諸村、これは古川(216)の町を市場とする。大野郡では小八賀・小鳥の二郷から白川の山村、益田《ましだ》郡は阿多野・馬瀬《まぜ》等に居つて、生産品は高山の商人に賣り、何れも紀州の日方《ひかた》へ原料にして積み送り、漆器はもと土地でその業を營む者が少なかつた。先祖は惟喬親王の從臣小椋大臣なりと稱して、何れも小椋某を名乘り、近江の總録所に支配せられて居た。

　「後風土記」には木地屋は男女とも深山の小屋に住んで、日光に照らされず、疱瘡は世に行はれてもこの邊までは蔓延せぬ故に、自然に顔色白く尻腰が大きい。俗に色白く腰の太い女を見ては、木地屋の娘だらうと謂ふとあつて、彼等が生活の有樣を色々と繪に寫して居る。また木地の住居を木地師小屋敷と謂ふ。五年七年にして一山の用木を伐り盡せば、又他の山に移つて生涯を一つ處に終ることは出來ぬ。故に度々引越しする人を、俗に木地屋の宿替へと謂ふともある。轆轤に挽く木はトチ・ブナ・ケヤキなどである。まづ木を伐り倒してその場で椀形を起し、これを持ち還つて木地には挽くのである。自分は白川郷の旅行に處々でその作業を見たが、かうして大木を横目に椀形に取ると、材料の浪費ではあるが丈夫なものが出來る。木地屋のやうに人の山に入つて取れるだけ取る者には、この方が利益であつたが、材料の木に金を拂ふことになれば、細い木を輪切りにして椀の高さづゝに取るから、縦目になつて縁が損じ易いのである。しかも世の中はもう改まつて、無代の木はいくら捜してもないから、所謂木地屋の宿替へはその必要がなくなり、寧ろ取引の便宜の爲に、土着して何村の木地屋さんと、呼ばれた方が都合がよくなる。單に戸籍法や宗門取締りの壓迫のみではなかつたのである。

　飛騨にはこの事情から、なほ最近の移住もあつた。例へば益田郡では、木地は今でも林産物の重要品目の一つであつたが、明治三十七年の二月に滋賀縣人大藏幸平と言ふ者、上原村大字久野川に來つて工場を設けたのが始めで、追々に他の町村に及んだ。これらは皆在來の木地屋と反對に、人里にまじつて居を占めて居り、製品も普通の輸送方法で、名古屋や加賀の山中にこれを賣ると、近年の郡誌には書いてある。傳承の變化のかう言ふ機會に伴うて起ることは、定めて著しきものがあつたらうと思ふが、しかも別系統の木地職の次々の來住と土着は、決してこの地方の明治(217)時代だけではなく、中國・四國でも奧羽でも、近江の勢力の及び難い邊土に於ては、殊に早くからこの事があつたらしい。

　前に言ふのを忘れたが、南會津の保城と言ふ部落などは、十八戸の住民大抵は土藏を有し、家屋も普通の農家よりは立派であつて、やはり漆器原料の生産を以て活計を立てゝ居た。蒲生氏に招致せられた佐藤の一類とは全く別流で、保科正之公の保護を受けたと傳へて居るが、實はそれよりも遙か後、寛政九年に他國から入つた者である。村内に大皇明神を勸請して氏神を獨立して居る。君ヶ畑との交通が今一段と困難であつた時代に、流れ／＼てこの類の土着があつたとすれば、いはゆる高倉宮の異傳ぐらゐは、至つて容易に發生し得たのである。

　飛騨でも柳里恭が「雲萍雜志」に、木曾義仲の家臣畑六郎左衛門この國の山に住む御器挽きの娘を、強ひて所望して妻に貰ひ受けた話を載せて居る。その女は武家にも珍しい烈女であつて、六郎左討死のとき、谷に投じて節に殉じたと謂ふのは、何の書に基づいた話か知らぬが、恐らくは亦古い傳説の破片で、曾てこの地方にも源平時代の軍物語を、家の由緒に綴り織つた、一團の木地師が居た結果であらう。とにかくに彼等には只の農民よりはやゝ豐富なる歴史の知識があつた。

　

　　　　　　　　　　一四

　

　北陸方面では越中以東の事情が、まだ少しも自分には分らぬ。但し入込んで居ることだけは確かである。越後は東蒲原の奧に、木地屋が居たといふのも空想ではない。馬取川上流の木地小屋｜梅木平《うめのきだひら》などには、安永九年に會津の方から移つて來たと言ふ者が、近い頃まで働いて居た。越中境に接しては西頸城《にしくびき》郡小瀧村大字｜大所《おほどころ》、これも一箇の土着の例であつて、今では木地製造のみならず、自ら塗物の業をも營んで居る。何れの頃の事か領主より三百餘町の山を預けられ、伐採跡地を開拓して農作をも兼ね行ふやうになつたが、なほ自ら親王の遺民と稱して居ると、田中氏の書に(218)は記してある。

（五）　加賀では温泉の山中村附近に、一箇の中心地があつた。「三國水路大經」に、大聖寺《だいしやうじ》領九谷の内に木地屋村、その近くに六六師村ありと謂ふもの、恐らくはこの事であつて、今の江沼郡西谷村大字眞砂、俗に木地眞砂と稱する部落である。「江沼郡誌」によれば、一日九谷の人、谷川に舊き食器の流れ來るを見て、始めてこの村あるを知つた。今の山中の漆器も桃太郎の桃と同じく、かうして流れ傳はつたのである。根源は近江の人、吉住・倉谷・大道丸の三人、越前の越知《をち》山よりこの地に立越え、轆轤を挽き又杓子を作つた。朝廷の免?を持つて自由に山林に入り、また烏帽子を許されて居たので、頭役の者にこれを憑《たの》みて驕傲なる者があつた。藩ではこれを憎んで代官所へ其證文を取り上げ、終ひに紛失したと傳へて居るが、しかも依然として杓子の木を伐るのみか、山中温泉の木地屋仲間には、今でもまだ三通以上の古文書が傳はつて居る。その一つは前に全文を擧げた承平五年の綸旨、二つには天正十一年の丹羽長秀?の寫しであるが、第三の一通だけは、正しく近江小椋の與り知らざる所である。本文を掲げる方が話は早い。

　

　　越前州今南東郡吉河鞍谷大同丸漆塗師屋同轆轤方之蕪頭事正應正安任度々例以織田信忠總國中塗物以下於末代無相違可進退旨定訖若違亂輩有之者堅可停止之旨可命下知正重由天氣所候也仍執達如件

　　　　天正八年三月十六日　　　　　　　　　　　　左大辨次兼

　　　　　　左史殿

　

　まづかう謂つた質のもので、即ち木地眞砂に傳ふる所のものであつた。しかも折角の綸旨が存するにも拘はらず、早また話は一くねり〔三字傍点〕くねつて居る。右文面の吉河・鞍谷は、加賀で説明するやうに人の名ではなく、九谷の奧山へ越(219)えて來たのは、大同丸一人らしいのである。鞍谷は越前今立郡の東南部、今の味眞野村の一隅で、大迹《おほと》皇子即ち繼體天皇の御遺跡と稱する口碑の分布して居る地方である。越知山とはやゝ離れて居る。「偉蹟考」に大野郡鞍谷とあるは誤りであらう。この地に轆轤師多く居住し、斯業に關する御綸旨を秘鞍すと傳へられた。蛭谷の大岩家の説では、或年氏子狩に出た者、兵亂の爲に旅行を續けること能はず、終ひにこの地に留まつた者があると言ふことで、系圖の中にも足利の末に近く、助三郎實忠なる者越前大野郡に住すと注した人があると謂ふ。その實否は知らず越前方面に、小さい中心が出來ようとする懸念はあつたのである。

　自分は十五、六年前にこの邊を旅行し、若干の椀木地が人馬の背を以て平地の漆器工場へ運ばれて出るのを實見した。河和田の塗物は今も物産の一つであるのみならず、越前は又漆掻きと稱して、諸國の漆畠に往つて汁液を買ひ集める、特殊の行商人の本居であつた。中世には又多くの白山神人を出し、近代には野大坪萬歳を出し、西ノ谷の金山師を出し、五箇山の冬場稼ぎを出した。木地師等の旅行智識が彼等と没交渉であり、その往來が互に芝居のだんまりの如くであつたとは思はれぬ。殊に中央の山脈を横斷する峠路は、面白いほどよく發達して居り、いはゆるボッカの生活は範を他の地方に示して居る。この點も亦折を見て今少し詳しく考へて見る必要があるのである。

　

　　　　　　　　　　一五

　

　それから尚西の方へ進む前に、少しばかり山の南へ越えて、美濃と北近江のことを謂はう。美濃では郡上《ぐじやう》の八幡に於て、自分は澤山の木地屋の噂を聞いた。あの周圍の山には今でも中々居るが、手帳が見當らず又大した話もなかつた。小椋の記録中には大野郡小澤山の木地師の名が見える。又郡の名は知らぬが水島村と言ふ地にも居た。何れも百年以内のことである。近江では高島郡の朽木谷《くつきだに》が、盆椀類の産地で、京都を經て諸國へひさがれた、轆轤村と言ふ地もあつて、古さは却つて小椋村よりも前かも知れぬ。

(220)　湖東では阪田郡常喜の常喜椀が有名である。郡誌に全盛の時は木地屋三十餘戸あり、今は富田某たゞ一戸なりとある。元龜・天正の三文書、蛭谷に存するものゝ寫しを、こゝでもちやんと持ち傳へて居る。筒井八幡の極盛時には、郡中處々に山林を買入れて、これを宮山としたと言ふことだから、その直轄の植民地もあつたであらうが、今はどうなつて居るか判明せぬ。

　若狹と丹波とに關しても、まだ自分は何も知らぬ。

（六）　丹波では中郡｜五箇《ごか》村大字｜鱒留《ますとめ》の大成と言ふ一區に木地屋が居る。「中郡誌稿」に依れば全戸數二十三戸の内、小倉を苗字とする者を木地屋まき〔二字傍点〕と呼んで居る。但馬から入つて來たと傳へられ、今も宗旨は山向ふの但馬の方と同じであるから、古い移住ではないのである。小倉喜右衛門の家には椀彫り道具を持傳へ、又最初の轆轤を藏する者もある。ところが一方には此里を、平家の落武者の部落だと言ふ説もあつた。鱒留の人々は川の上から、木地屑の流れて來るのを見て人の住むを知り、その儘にして置くと但馬の領分になつてしまはんことを恐れ、鱒留の方からも入込んで住んだ。田中苗字の家がそれであると謂ふのは、二つの傳説の中間に立つやうな話である。大成に隣りを接して、大路《おほぢ》と言ふ一區があつた。この里の古くからの子守唄に、

　　　おほぢの山のきじの子、鳴くと鷹がつかむぞ

と言ふのがあつた。土地では昔木地屋の小兒、あまり泣くので親が怒つて、小屋から外へ出しておいたら、鷹が來て連れて往つたなどと謂つてゐるが、元は多分木地屋を輕蔑して、村の子供たちが雉の子などと、からかうた詞であつたかと思ふ。即ち鑄物師をお芋屋さんと言ふ類である。

（七）　但馬では竹田椀の名を聞いて居る。竹田では主として美作の木地を用ゐたやうに、「漆工傳統誌」などには謂つて居るが、それは初期の事であらう。後々は國内の山にも、他郷へ出て行くほど居たのである。自分の郷里播州の方からも木地は輸入せられた。書寫山には紀州の根來《ねごろ》から傳へた技術があり、播州椀の名も知られて居るが、今は決し(221)て盛んでない。自分の子供の時、隣の村に轆轤屋があり、又木地屋と言ふ商人も居た。後にその一人に聞いて見ると、後者は臨時の商賣で、、近江とは關係がなかつた。轆轤屋は加賀の山中温泉から來た者で、後に但馬の竹田へ引越したと言ふ。即ち越前系である。同じ老人の話には、但馬の大屋市場は木地類の小市場で、取引の爲に往來をしたが、その附近三里ほどの山奧にも、木地屋彌兵衛なる者が居たことを記憶するさうである。大屋は但馬の西南の一隅に在て、播磨・美作。因幡の境山に近い。今以てこの一帶は、この連中の一根據地をなして居るやうである。

（八）　因幡は木地師の爲にも古い國で、既に「七十一番職人盡歌合」に、因幡｜盒子《がふし》と言ふ語が見える。ついでだから爰にちよつと、職人盡によつてあの時代の、木地と塗物との關係を考へて置かう。七十一番の歌合には二十番の轆轤師があつて、別に十七番に「ひきれ賣」の繪がある。ひきれ賣りは普通の椀を前に列べて、「これは因幡がふしにて候、めせ」と謂つて居る。「がふし」は「入れ子」の蓋物のことだとする「嬉遊笑覽」の説は、この繪と歌とを見ると頗る疑はしくなる。有名なる「山賊《やまがつ》の白木のがふし云々」の歌もあつて、「塵袋」の説の如くに朱と漆とを合せて塗るから合子だらうと言ふのも信ぜられぬが、とにかくに白木は至つて珍しく、普通は漆を塗るものゝ名であつて、入れ子鉢と言ふ類の特別の細工でないことは、山賤が用ゐたのを見てもわかる。さうするとその名詞の意味はとにかく、「ひきれ賣」は轆轤師の作つた物を求めて、更に加工をして賣る商人であり、因幡合子と謂ふ以上は、この地方に古く漆器業があつたのである。しかも今日は木地師ばかりが、なほ盛んに山中に働いて居るので、進化と盛衰は主として塗物の方にあつたことを語つて居る。

　「因幡志」には木地屋の記事が豐富である。今の岩美郡登儀村大字中河原、雨瀧の奧には殊に木地山多く、製品は鳥取へ持出して、それから近江の日野へ廻送した。木地屋がやゝ誇張の話をすることも、亦この書を透して窺はれる。但馬と接する境の山は海拔の高くない割に物深いことは虚言ではないが、扇《あふぎ》の山《せん》は麓の里から百餘町、雪中に非ざれば登る能はず、頂上に方三里の平地ありと謂ふが如き、菅山《すげのせん》は廣さ四十里、その外は四方切り立つて、人跡絶えてな(222)しと謂ふが如き、共に實際の地理とは思はれぬ。或は國境の山頂に尊い御神があり、但馬の木地屋と取合ひをして、この方が勝つて麓の村まで負うて來たとか、昔落武者の通つたのを、木地屋が告げ口をして追手に殺させたと言ふ類の、如何にも彼等が話ずきで、又やゝ里の人を驚かしたい氣のあつたことを、考へしめる話が少なくない。

　

　　　　　　　　　　一六

　

（九）　美作の木地屋は、「東作誌」に苫田《とまだ》郡加茂村倉見、及び同郡阿波村等に住する者、何れも同一の家傳書を藏することを記して居る。阿波村には木地挽き五戸あつて、何れも苗字は小倉であつた。惟喬親王御由來書、署名者は大藏卿惟仲、民部卿頼貞及び藤原定勝三人であること、江州君ヶ畑に現存するものと同じであるが、唯彼にあつては承平二年壬辰とあるに反して、作州のはそれではあまりだと思つたか、蛭谷本に依つてるか、承久二年庚辰となつて居り、何れも干支には誤りがない。驚くべき年代記の知識である。次には蛭谷に屬する元龜三年小野宮社務宛の綸旨の寫し、彼には左大辨兼氏（？）の署名があるのに、これには其脇に「印」と書いて、下に小椋太政大臣實秀公と細書してある。かう言ふものに勿體を附けて、地方の同業には賣り付けて居たのである。

（一〇）　伯耆も東隣の二ヶ國と同じく、木地屋と言ふ山中の地名が甚だ多い。大山《たいせん》の麓の東伯郡以西村の大字、大父《おほぶ》と山川との二つは、何れも本村より二十丁も奧に、各々大父木地、山川木地の二つの小部落あること、五萬分一圖に見えて居る。恐らくは近世の土着である。これから少し離れて居るが同じ郡の小鴨村大字鴨河内の入口に木地山と言ふ三十戸ほどの部落があつた。その奧で今から十五年程前に、境の港の醫師坪内八藏君一人の老いたる農夫に雪路を案内させ、人形峠を作州に越えんとして、偶然に彼の先祖話を聽かれたさうである。自分の家には先祖が惟喬親王樣から賜はつた御墨付がある。前年東宮殿下の行啓の折に、郡長の勸めで上覽に供したこともある。惟喬親王樣は或疾の爲に、都を立退いて江州の清水谷に隱れて御住居なされ、四方から同じ病の者を御呼び集めあつて、木地の業を御(223)授けなされた。後にその一類が四方に散じたとき、自分の先祖は此處に移住して來たので、親王樣は木地を作る者の爲に、山奧何町とか以内を免租地とする勅許を得て、吾々を庇護せられたもので、その爲に御一新まで年貢はなかつたと謂うたさうである。

　この或疾と言ふ話は、今まで木地師の中では他で聞いたことがないが、鉢屋・茶筅・夙《しゆく》・唱聞と言ふ類の部落では、折々これを説く者がある。誤傳は勿論のことゝして、何人が如何なる心持ちから、これを信じ始めるやうになつたかが、意味深き問題である。

　それから、尚、出雲の方に近よつて、日野郡米澤村大字｜下蚊屋《さがりかや》、これは今漆器の産地として知られて居る。小椋廣太郎と言ふ家がこれに携はる舊家で、先祖の小椋尊房は江州日野の木地屋であつたが、多數の同業と打連れて、この地には移つて來た。慶安中の事と謂ふが、二十六、七代前と謂ふから、何れかゞ誤りである。

　近江の方では蛭谷の大岩氏に、こんな話が傳はつて居る。中興の祖として居る助左衛門重次、元和六年に國々を巡つて、この村へ來つて木地職の小屋を訪ねると、我々は既に木地屋を罷め、今は塗師屋になつてござると、至つて等閑の待遇をするので取敢へず、

　　　これたかの流れの末はさがりかや木地屋をぬしとぬつたりはげたり

と詠んで見せると、皆々感じ入つて心得違ひを覺り、改めて先例を守ることになつたとある。これに由れば移住の年もずつと古くなるが、この狂歌の調べの新しさ、氏子狩の起原のさう昔でないこと、それに下蚊屋の小椋氏の分家が亦大岩氏であることを考へ合すと、やはり注意すべき傳説と言ふまでのやうである。

（一一）　出雲では木地屋敷と言ふ地名の多いことを除けば、まだ何も知らぬから石見へ行く。「俚謠集」には同國邑智郡の田植歌として、

　　　三ばいのおん盃はどこ木地か、

(224)　　　紀の國木地でやら見ごと

と言ふのを擧げてゐるが、しかも亦諸所に木地挽きは入つて居た。美濃郡｜檜木見《ひきみ》村の深山中に、假星住居をする者のことは「石見外記」に見え、鹿足《かのあし》郡｜吉賀《よしか》郷に居た木地屋に就ては、「吉賀記」に記事がある。六日市村の御立山には寛延中より安永の頃まで居た。七日市村の拔舞と言ふ部落では、元禄の前後に田植を見物に出て來て醉狂した木地屋を、百姓が打殺した大事件があつた。彼等が小屋掛けの民であつたことは確かだが、全體にこの邊から西では近江の移住者と言ふことがまだ證明し得られぬ。吉賀で唯一つ注意すべきことは、木地屋床と言ふ地に金屋が住んで居て、今も菩提地と言ふ墓跡の遺つて居ることである。享保頃のことであつたと謂ふ。近江の東小椋でも足利末期に銀山が始まつて、それが移動の一つの原因らしく思はれるので、二つの部曲の關係が想像せられる。

　

　　　　　　　　　　一七

　

　九州の木地屋分布はまだ一向に明白でない。肥後の五箇庄に古くこの産業のあつたことは、偶然に「天草島鏡」の中の古文書に見えて居たが、今その年代を記憶して居らぬ。仁田尾村の庄屋と年寄が保證をして、山鹿新町の根取七郎兵衛、木地屋源八の兩人及び菊地郡隈府町の根取孫四郎、渡世の爲八梃の轆轤を用ゐて作業をしたいと言ふ願書の事で、毎年十月頃に提出するとある。隈府・山鹿の禰取と言ふのは、苗字ではなくて職業の名であらうか。それにしても何處から移つた者かゞ分らぬのである、「三曉菴隨筆」の上卷には、大隅根占の漆器製造が、本來紀州根來に學んだものであることを説く序でに、又こんなことを記して居る。曾て肥後の八代の放生會の時に彼地に行き掛り、宿の亭主が料理を出したが、その器は根來手筋の黒椀であつたから、珍しいと思つて出て來た亭主に問ふと、是は八代から二三里の奧に一村あつてこの椀を作るが、元は根來山から出た者で、今にその子孫が續けて作つて居ると言ふ話であつた云々。かうして近世に漆器原料の新なる需要が起つたとするならば、五箇山中の木地製造も、同じ郡だけにこ(225)れと關係があつたかも知れぬ。

　近世の漆工業に根來の影響の多かつたことは既によく知られて居る。しかしそれが九州へ入つて來た路筋を知るには、やはり先づ漆の産地を考へねばならぬ。根占田代の椀類の起原は、あの地方に良質の朱を産した爲であつたこと、色々の書物に見えて居る。即ち木地は寧ろこれに誘はれて起つた工業である。しかし小椋の黨が説く如く、昨日の農夫今日から轆轤を挽くと言ふわけに行かぬ故に、その傳來を遠く東國に尋ねるのも、必ずしも無理でないのである。

　この序でに更に考へて見るのは、琉球塗と稱する赤い漆器の始めである。その木地は如何して製し、いつ頃この島には轆轤の使用法を入れたものか。「琉球國舊記」には木地引勢頭一員、王家に置かれたことは相應に古いやうに書いてある。近世に至つては別に引物奉行を建てゝ分管すとあるが、挽くと言ふ以上は雙方共に轆轤を用ゐたことゝ思ふがどうであらうか。「遺老説傳附録」には、大隅國分の人鮫島某、海上逆風に遭ひ漂流して沖繩に到り、留まること數年の後、宮古島の女を娶つて子さへ生れた故に、終ひに歸化して安里掟《あさとおきて》と稱し、久茂地から後に若狹町に住んで、引物を以て産業とし、後又その業を國中に教へた。俗にこれを引物工、又は轆轤工と謂ふ。本國の轆轤これよりして始まるとある。年代が書いてないから何とも謂はれぬが、これでは話が少し新し過ぎるやうである。この器械の島に古くからあつたことは、必ず證明せられると思ふ。鮫島氏は單に民家日用の器物の製作に、この機械を利用することを教へたゞけではあるまいか。それにしても今日の島名産の塗物は、やはり近江の恩澤を間接に受けて居るかも知れぬのである。

（一二）　九州にはもう澤山の話がないから海を渡つて土佐へ往つて見る。土佐では山奧の木地屋、列擧することも出來ぬほど多く、その或者は亦土着して居る。「南路志」卷三十五には何村の事とも書かずに彼等が藏する四つの文書を掲げて居る。一は美作にもあつた承久二年の漢文縁起、第二は、例の承平五年の、西は櫓櫂の立つ程、東は駒の蹄の通ふ程とある御綸旨である。第三には君ヶ畑に傳はつたる延文二年の尊氏の免?、宛名は江州小椋一類君ヶ畑木地引(226)中へとあるから、作者も年代もほゞ推測することの出來るもの、第四は眞物で、近く寛保三年の宗門改め手形である。これは蛭谷方の歸雲菴から出したもので、結局この四通は、同じ家の所藏ではなさゝうに見える。

　次に「土佐州郡志」に載せた一つの口碑は、木地屋由緒談の參考として、こゝに書き漏すことが出來ぬ。要點だけをかい摘んで言ふと、今の何村の内か長岡郡下名と言ふ村から、西北伊豫の方に越える路の傍に王子權現のある地を、土地の人はカリヤと呼んで居る。その昔京から五人の公卿流されて來てこゝに居た。里人これに同情してその無聊を慰めんが爲に、毎年八月廿三日より廿八日まで、この地に於て市を立てた。隣國の商賈も追々來た故に假屋とは謂つたので、上假屋・下假屋と南北に店屋を設け、且つ運上を收めた。王子權現は即ち五人の公卿歿してこれを祭つた社であつた。後に伊豫の商人等路遠く運搬に不便なるを以て、願うてその市を彼國川之江町に移し、その折の約束として入子鉢・杓子・折敷・曲物の四種類だけは、この村以外の者にはこれを賣らせず、下名の人が川之江の市に行けば、最も便利の地を擇ばせる習ひであつたが、年久しくしてその法は廢れ、たゞ今以て川之江には市がある云々。加賀や丹後で椀が流れて來た木屑が流れて來たと謂ふのと同じで、山に在る物が平地へ下つて來るのは自然の話であるが、市立に縁の少ない京の流人を説き、なほ其神を王子權現と傳へたのは、どうしても杓子・入子鉢製造者の、故郷が近江であつたことを推測せしめる。

　伊豫も西の部分には又別箇の木地屋集團があつた。松山市大唐人町新立町の木地問屋市郎兵衛の名は、寶暦二年の君ヶ畑寄進帳に見え、その次には浮穴《うけな》郡杣野村戸泥山の、木地師若干が名を連ねて居る。杣野は今の杣川村の大字で、即ち久萬山の内である。久萬山の口碑類には特色があつた。源三位頼政の舊所領と傳へて、鵺の亡魂の話や矢竹の雙生のこと、その他比較研究によつて、或時代に大規模の口碑運搬があつたらしいことを窺はしめるものが多い。或は木地屋のこれに參與したことを發見し得る時が來るかも知れぬ。

　

(227)　　　　　　　　　　一八

　

（一三）　阿波では美馬《みま》郡｜一宇《いつちゆう》村の赤松谷に住した小椋六三郎・同幸太郎・吉藏等が、百年前の江州小椋村に於て知られて居た。「甲子夜話續編」五十一に、�ｺ島城下より西南三十里、半田からも十八里、劍山の奧に住む木地挽きとあるのは、これとは又別地であつたらうが、とにかくに山中多くの木地師の中心と頼んで居たのは、半田村の半田塗であつて、その本家は前年代議士にもなれば又藍綬褒章をも賜はつた大久保辨太郎氏であつた。この家にも元龜三年の綸旨即ち前に謂つた小野宮社務に宛てた一通を傳へ、ほゞ其頃に近江筒井峠の麓から移つて來たと稱する。「漆工傳統誌」に元暦年中の開業と言ふ説を傳へて居るが、それは近江の本家の歴史か、はた又半田に於て或者がさう信じて居たのか、祖谷《いや》を始めとして劍山山彙の中には、殊に平家谷の話が多いから、かうした年代の口にせらるゝも至つて自然なことである。

（一四）　次には紀州の話になるが、自分の聞いて居るのは、熊野山中の事ばかりである。熊野は既に二百五十年も前、大阪から僞物の卷物を賣込んだ話もあり、木地屋の居るのは古いことであるのに、何故か最近の二つの報告では、他國から新たに入込んだ者がある。西都二川村兵生の山には、明治三十年頃に阿波から五六戸來て居たが、後に又何處へか去つた。始めて知つたことは、彼等が單に「木地」と謂つて居たものは、脚の有る白木の高杯《たかつき》で、神祭の用に限り用ゐられる。言語習俗、土地の者と同じからず、又木地屋は神の器物を作る者なれば、その娘を貰ふと位負けがするなどと謂つて、一般に縁組みを欲せぬが中々美人が多く、從つて一二常人に嫁して居るのもある。また御幣餅を作つて食ふ風がある。握り飯を串に刺し燒いて味噌をつけたもので、自分はこれを甲信遠參の地方食物かと思つて居たが、彼等が阿波の山でも食つて居たのを見ると、なほ考へる必要がある。

　次には東牟婁《ひかしむろ》都の高田村の邊に居た木地屋も、土佐から移つて來た者らしく、木地は元土佐國に始まつたもので、(228)本職人は必ず土佐の卷物を持つて居ると謂つた。樫の實の御椀を見て、工夫發明したとも謂ふ。この連中に就て始めて知つたことは、彼等が神信心で、月の朔日・十五日には必ず神詣りをなし、その時は大峰參りの袈裟に似たものを懸けると謂ふが、何であらうか。以上の二つの報告は「郷土研究」に出て居る。

　「紀伊國續風土記」の、東牟婁郡請川村野竹の條には、熊野の木地屋にもと近江から來た者の多い證據の、興味ある話を載せて居る。元文年間の事であると謂ふ。この村の彌七郎と言ふ七十ばかりの親爺、病氣に罹り突然悶絶したので、家内の者びつくりしてこれを喚び活かすと、正氣は附いたが言語態度がまるでかはつて、女房子の顔も見知らず、言語は熊野の人でなく、木地引の言語となつて居た。木地引の者には近江國の詞が多く、誰が聽いてもすぐ分るのである。これはその頃同じ村の山奧に、同じく彌七郎と言ふ木地屋が住んで居て、近頃死んだばかりで魂がまだ消えずにあつたのが、我名を聲々に喚ばれるので、戻つて來て別の彌七郎の體内に入れかはつたのであらうと言ふことであつた。さうして尚十年ばかりも生きて居たと言ふ話。その批評はこゝには略して置く。

　熊野の木地屋が近江と往來し、能く惟喬親王の舊事を記憶して居たことは、色々の材料から知ることが出來るのに、尚この間にも異傳は混入する。例へば西郡栗栖川村の下芝と言ふ部落の如き、同じく「續風土記」七十三によれば、山を小倉山と謂ふに拘らず、護良親王の舊事を語つて居た。親王この山中を御通過の折、木地作る者の小屋に一宿したまひ、木地職の免許?を御與へなされた。故に小倉山の頂上の地を、木地ヶ平と謂ふ也とある。人も知る如く熊野の山間で、近代最も人望ある半神の貴人は大塔宮であつた。故意にせよ誤謬にせよ、この混淆は亦極めて自然である。

（一五）　熊野も熊野川を渡つて三重縣の管内に入ると、又事情がやゝ變化して來る。一方には吉野の北山、他方には多氣《たき》の奧から、大臺ヶ原山の南面にかけて、別天地を又更に區劃して居たらしいのは、或は中世以來の信仰生活に複雜な原因を根ざして居たのではないか。これを明白にするまでには尚年月を要するが、少なくとも伊勢神宮の勢力がこの方面の木地屋に影響したことは事實である。尾鷲の中井浦の金剛寺は和深の山中に居住する木地引に對して、支(229)配の權を持つこと、ほゞ近江の筒井公文所又は高松御所の如きものがあつた。これも「續風土記」の記述によれば、木地引はもと江州君ヶ畑の親王家の臣であつたが、親王家斷絶の後浪人となつて諸國の深山に入り今の渡世を營んだ。親王家の免許?も持つて居るが、江戸時代になつて切支丹の禁令嚴しく、この徒の取締りがむつかしいので、伊勢では山田の御師《おし》、出口信濃太夫及び八ツ野兵部太夫に命じてこれを支配せしめたが、紀州の和深山は宗門改めも行き屆かず、これを又當寺に委託して支配せしむることゝした。それより永く檀家として、春夏の間に徒弟を遣つて山々を巡り彼等の小屋に就て讀經せしめることゝした。兩木星と名づけて木地引には二派あつた。一を木地屋小屋、他の一を負禰《おひね》小屋と謂ふとある。負禰の意味は自分には分らぬが、或は前に出した肥後五箇庄の轆轤業の、根取某と言ふのと關係があつて、仕事の過程から來る分業であつたか。はた又君ヶ畑・蛭谷と言ふ類の、所謂仲間割れであるか。今にこの名稱に基づいて追々に判明するであらう。

　南伊勢の山間の村には、現に小椋の苗字を名乘りつゝ、轆轤の作業に從事せぬ者が中々多い。「本朝國語」に採録せられた多氣郡藤小屋村の如きは、單にその一例といふまでゝある。藤小屋は有名なる杓子生産の中心地で、惟喬親王の臣倉橋左大臣なる者、親王の令旨を帶して、近國の山々より杓子の材料を、自由に採取すると傳へられる。杓子も小椋庄の産物の一つで、宮御考案の四品の中に算へられ、近代の文書にも其名が見えるが、諸國の所謂木地屋等は多くは純然たる轆轤師で、杓子の方には與つて居らぬ。さうして杓子工の分布を考へると、今まで列擧した區域よりも、又遙かに弘くなるので、結局は小椋の産業に發達の階段があつて、器械の簡單な杓子の方が、古く稚く且つやゝ疏んぜられて、早く分れて出たことを想像せしめる。多氣の藤小屋村などは杓子の方の一の本山であつて、しかも近世は江州との聯絡が全くなかつたやうに思はれる。

　

(230)　　　　　　　　　　一九

　

（一六）　一巡して愈々大和の南まで還つて來たが、熊野と吉野とは昔の江州の氏子狩にも、行き惱む山阪であつた如く、今以て路は幾股にも岐れ、至つて昔の筋が辿りにくい。まづ第一には大峰の根本行者、前鬼の中にも、前鬼の木鉢があつた。それが木臼などのやうに只の刃物を以て、彫りくぼめたものであつたか否か。古い漆部の時代はとにかく、中世の吉野根來又は吉野塗の盛んな頃まで、木地は手で造るのが一般で、轆轤細工は、近江の者のみに任せて居たか。多分は獨立してこの地方にも同じ生業が起つたことゝ思ふが、その證跡は未だ得られずに、却つて小椋一類のおぼつかない傳説が、次第に浸潤した名殘を見出すのである。

　その例として最も顯著なるは、吉野郡川上村大字高原の住民が、自ら信じ又人をして信ぜしめんとして居る舊記である。「吉野名勝誌」はこの間題に關して、推賞せらるべき親切の書である。參考に必要なる一切の材料を採録して、宮城・田中の二氏の如き斷定がしてない。これに由れば、高原には今も惟喬親王の御所跡と稱する一地がある。井光の伊藤某氏には其由來を記した文書があつて、「桂上田兩家起立系譜」と稱す。曰く聖武帝の臣に船手大臣なる者、能戸國に立越えて木地を司る元祖となる。その裔近江國君ヶ畑の在家に養子となり、後に木地師の司に任ず云々。惟喬親王吉野に入り住したまふ後、君ヶ畑に赴き留りたまふこと九年なり。後再び高原には還りたまふ。桂將監御供す云々。又一通の文書には、親王は貞觀九年八月九日を以て、吉野の井氏の宅に移りたまふ。井氏の女を左右に召されて、御子あり高胤と謂ふ。後に井氏を嗣ぎ吉野の首長たり云々とある。「川上村誌」の記する所では、高原區の木地ヶ森は、惟喬親王の從臣たち、居を構へて始めて木地を製した故跡である。後年植林事業が繁盛して、木地の業は中絶したが、今も木地屋衆・木地屋筋などと稱してその家がある。村共有の古文書に、元弘三年八月、當時の領主北畠殿に宛てた由緒申立書の案と言ふのがある。これもいつそ全文を擧げて置く方が簡明である。

　

(231)　　木地司山住之一件依御尋書附指上候

　　惟喬親王君ヶ畑より供奉御隨身此所に止り

　　大君御在世の御時より木地職を營み侍によつて、承久二庚辰年九月二日帝より鳥のつばさの及んだけ駒のびつめの至ん程と有之綸旨を頂き木地の司なるものは君ヶ畑と高原に住候是宮浪人なり年月を重ねて北山熊野攝津有馬湯抔に同姓有之事者分明候其他諸國の山住に同姓の者有之由雖申傳候全國之事者不詳唯依往古免文置?等五通竝に木地根本君ヶ畑と高原頂戴致置候綸旨の二書指上候

　　　　元弘癸酉三年八月　　　　　和州吉野郡川上七保内高原總中

　　　　　　北畠殿

　

　この中の鳥の翼駒の蹄の印象深き勅書は、即ち蛭谷で承平五年霜月九日の日附を以て傳へられる文書のこと、又承久二年壬辰は所謂木地屋の卷物の方の日附で、君ヶ畑で承平二年庚辰とあるのと同文のものである。次から次へかうして作つて行くうちに、自分たちまでが折々取違へるほど、込入つた細工である。

　自分がこの間題に注意をする點は二つある。その一つは北山の木地師が何故に、近江の傳統に從順ならず、新たに色々矛盾を招いたかと言ふことである。彼等は大阪の淨入坊から、近江の卷物綸旨を買入れる位に、昔の事を知りたがつては居たが、しかも來住が古くて自分にも別の傳説があつた爲に、まる呑みが出來ずに若干の調和を試みたのであつた。高原區の木地屋衆吉川友造氏の家に在る大永三年十一月二十七日の置文なるものは、自分の知る限りで一番古い本物の文書である。假名文で不明の箇所が多いが、その要領は辻の六郎左衛門・井上兵部・中しましやうげん・高之だんじやう・半太郎兵衛長・山本かげゑ左衛門の六人の者が、ぬかのを才三郎なる者の子孫に由緒を認めて、將(232)來或條件具足の場合に、その格式を引上げることを約したもので、つまり門地の爭ひの解決である。「その證據には堂の別當、若衆の頭、木地の座、衣類身のまはり、萬六人のなみにすべき者也、但し名乘は初瀬川の朝臣胤清也」とある。

　小椋と言ふ家號は他の國と異なり、吉野の北山では少しも用ゐられぬが、これ等の人名を注意したら、なほ何か近江との關係がわかるかも知れぬ。例へば辻氏は東小椋村にもあつて、近年の村長の家もそれだ。吉川は加賀の木地眞砂の古文書にもある。恐らくは杓子・折敷・曲物の方面に携はる舊同族の家號と、大いに比較して見るべきものであらう。

　第二に注意する點は川上郷最重要の歴史、即ち入之波三之公の「小倉宮御傳記」との關係である。我々は京都の物知りに從つて、後龜山上皇の御孫金藏主、還俗して再び吉野に入りたまひ、若君御二方あつて、自立の御志があつたのを、赤松の家人等欺き近づいて害し奉ると聞いて居るが、吉野の地方史は少なくも近世以後、中々こんな簡單な事では濟ませて居らぬ。寛永十三年筆と稱する「南朝治爭之事」、或は「南山雲錦拾要」などの如き、浪合記一流の本が幾らもある。「南朝遺史」は文政五年の著、主として材料を川上村の諸記録に採つた。「南山義烈史」も井光の伊藤氏の文書を承認して筆を立てゝ居る。さうして舊記と題するものは多くは新記であつて、甲乙對比すれば必ず一方を僞作とせねばならぬものであつた。又その目的も大凡知られて居る。

　全體の批評は自分の事業でないが、木地屋に關係ある一節だけを拔萃すると、「南山義烈史」には小倉宮の御事を述べて、「敗れて近江に走り、君ヶ畑に至り、山村某の家に隱れ、備さに辛苦を嘗む」とある。「吉野郡舊記」は嘉永五年の著であるが、この話をもつと詳しく、「江州山奧甲賀郡君ヶ畑へ行玉ひ、民家に安居し玉へり。空因王君ヶ畑民家の婦を妻となし住せたまふ。こゝに若宮二人御誕降被爲在事云々。文安五年戊辰八月君ヶ畑御出發せられ云々、入之波奧三之公皇居被忍行座御案居と云々」とあるが、これ等は共に幾つかの記録の繼ぎ合せで、その材料の一つは惟喬親(233)王の陪臣だつたと傳へらるゝ桂某の家の、「北山莊由來記」に、「父宮尊義王嘉吉の變に江州甲賀郡に遁れ、武内の末裔の山村の女を幸し生まれたまふ云々」とあるのと、次には前に擧げた伊藤氏の覺書に、「萬壽寺宮江州潜居中二王子あり、後井光に來り伊藤五郎太夫祐國に寄り、其女を容れて第三王子を生む。尚尊王と謂ふ。後難を避けて外姓伊藤氏を稱す云々」とあるのと結び合せ、その上に君ヶ畑だけは、木地屋の祖神惟喬親王の近江から、ほんの時借に借りて來たものであつたことが知れる。この伊藤家の著述はよく／＼のもので、村の水源に聳つ三峰山を、小倉山、一名龜山と稱すと謂ひ、昔應神天皇行幸ありて暫らく潜居したまふ處などとまで書いて居る。入用とあらば天武天皇もおはしますのに、ほとんど貪欲の沙汰とも謂ふべきほど、高貴の方々を山奧へ迎へたがつて居る。これを要するに「小倉宮御傳記」の最もゆかしい半分は、近江の小椋村から出た人の話が種になつて、後年に誤解若くは曲解せられんとして居るのである。

　

　　　　　　　　　　二〇

　

　會津越後の高倉宮傳説の、中古の作者かと言ふ疑惑は、今や小椋一黨の上にかゝつた。その小椋氏の國内移動の消息は、自分が不完全ながら、諸君の前に述べて見たのである。さうして置いてこゝに自分は、最も鮮明に傳説に對する態度を表白する。日本で今歴史家と謂はれる人の二分通りは、つとめて傳説を信ぜんと欲し、「亦以て古史の闕《けつ》を補ふに足る矣」などと謂ふ人である。他の八分通りはこの弊に鑑みた結果、これを史料の敵の如く心得て、その説く所が何を意味するかをも、考へて見ようとせぬ人である。そんな態度は雙方ともいけないから、自分はこれに與しない。國史の編纂に從事して居る人たちでも、もう既に感じ得たであらう。我々の昔は至つて大きく且つ長いのに、殘されて居る文字は乏しく且つひどく偏つて居る。國民生活の中心たる最高最貴の御系統すらも、端々は決して明瞭でない爲に、今に於てなほ驚くべき異傳を發生する。況んや草莽の間に隱れて、幾千百歳を經た家々の經歴、殊にその交錯(234)と結合調和、これに基づく大なる統一に至つては、僅に六百年五百年の近い過去だけでも、單なる注意深い捜索と排列、又精細なる推理だけでは、結局その跡を尋ねることが出來ぬと、答へねばならぬ懸念はないか。さうして我々の史學は正にこれを要求して居るのである。史學には限らず何の學問でも、要求は皆不審を散ずるにあり、國民は今やこの茫漠たる大きな過去に對し、無限の不審を感じで居る。如何に奮勵して見ても、到底の不可能は勿論ある。しかし方法は盡さねばならぬ。史學にあつては今日まだその方法を盡したとは謂はれぬのである。

　字で讀む以外の多數の史料の中で、眼を働かしめる部分は次第に延びて行く。考古學などは追々に役立つであらう。これに反して耳で考へる方面が殘されて居た。日本人は最も耳を重んじない國民か。學校でも講演會でも、聽いた通りを信ずるか、しからざれば丸々これを斥けて考へて見ようとせぬ。村落に文字のなかつたのは近い頃までゝ、口から耳への傳承は、實は文字に數十倍して居たのである。文字には偏狹なる目的あるものが多きに反し、口碑には偶然のものが多かつた。それを右の如き態度で臨んだ爲に、先づ以て一見無意味なる莫大の昔が亡びんとして居る。故に我々は先づこれを保存するの術と、次にはこれによつて教へらるゝ方法とを學ばねばならぬ。今までの成績の貧弱を悲しむ歴史の學徒は、殊に外界の援助に對して謙遜であることを必要とする。

　木地屋の惟喬親王の如きは、拙劣なる近世の假托であるかも知れぬ。明白なる虚構に非ずとも、この矛盾とこの誤解とは、到底我々を誘うてこれを信ずる者に伍せしむることを許さない。しかも自分の見る所を以てすれば、傳説の史料としての價値は、全然これと別問題である。殊にその國々の變化が、最も見易い法則に遵據して進んで居ることは、研究者の爲に大なる便宜である。これによつて單に第一次の事實、即ち近江の一山村にかくの如き事蹟を信ずる者あり、出でて遠近の府縣に棲住して、?々丁寧にこれを語つて居たことを心附くだけでも、恐らくは新しい一の發見であり、又説明であらうと思ふ。況やこれだけの熱心これだけの結構を以て、皇子潜幸の物語を、一族の祭神に附會しなければならなかつた理由、その皇子を惟喬親王となさねばならなかつた必要等は、幸ひにして之を明かにし得(235)たならば、必ず更に進んで一般的に、國内各地の信仰生活の特質、又はこれに與る人々の性情習癖と、なほ其原動力となつた天然の理法、即ち名づけて民族の運命とも謂ふべきものを、見出し得ることになるかも知れぬ。問題の側から言ふならば、我々が往々にして逢着する疑ひ、例へばどうして日本には國々に平家谷の傳説が多いのか。又は何故に天皇・諸皇子は、しばしば田舍の山奧に御隱れなされたやうに傳へられたまふかの如き、これまで史學者が知らぬと答へて竊かに恥ぢて居た多くの社會現象が、やゝ分明して來る上に、やがては又我々の世の中の觀やうを改良せしめてくれるのである。

　

　　　　　　　　　　二一

　

　本文で既に述べたやうに、自分は傳説に對する學界の待遇を批判するが目的であつた故に、木地屋の生活に關しては、まだ多くの不明瞭の點があるまゝで、この研究を發表してしまつた。從つて愈々何故にかくの如き珍奇なる史的現象が存したかを解説するには、よほど力の不十分を感ずる。後日訂正すべき點が定めて多いことゝ思ふが、とにかく現在これによつて考へて居る二三の意見と共に、豫め今後の研究方針を掲げて、同情者の援助と補正とを待たうと思ふ。

（イ）　木地師の移住史は、第一に日本の不思議な社會現象、即ち苗字の今日の如き分布混淆を或程度まで説明させてくれる日が來るかも知れぬ。小椋は今日小倉・大倉・大藏などとも變化して、弘くこの徒の行く處に伴うて居るが、彼等がこの苗字を唱へたのは、さう古いことでないらしく、却つて本村には色々の家名がまじつて居る。これは多分小椋太政大臣實秀を、惟喬親王の第一の從臣とした舊記が、愈々成立したのみならず、それが諸國に居る同業に、尊重せられるやうになつてからの流行と思ふ。即ち近江からの巡回員に烏帽子料を納め、元服の時などに授與して貰つたのが元と思ふ。

(236)　しからば太政大臣がどうして小椋の苗字を賜はつたことに、説かるゝに至つたかと謂へば、それは土地の名が小椋庄であることも一の原因だが、本來小椋は好ましい苗字でもあつた。京都にもこの家名の公卿があつた上に、近江では小倉は相應に名家の名であつた。「蒲生郡誌」に引いた永源寺文書を見ると、永正・天文の頃に若干の小倉氏が活躍して居る。佐々木の被官としては良い顔であつたが、それがまた小椋庄を以て、所謂名字の地にして居たのである。

　小椋庄の起立は隨分古い。「兵範記」の原本保元二年の條の紙背の文書に小椋御庄の名が見え、近衛殿の御領となる前に、冷泉宮領として既にあつたらしい。地名は大いに古く、苗字は大いに新しいとすれば、他の原因からこの苗字が出來たとは言はれぬのである。さうしてこの地名は地形から來たもので、他の多くの小倉と同樣に、クラは巖石ある地のこと、即ち今の八風越《はつぷごえ》の昔の路が、岩根を踏んで登る峠であつたのが、やがてこの邊の弘い地名になつたものと思つて居る。これまで考へる必要はないのだが、外來民族で且つ特殊の信仰を携帶した大藏氏と、何かの關係があるやうに、一度は自分も考へたことがあるから、豫めその推斷を防ぐのである。

（ロ）　木材工藝に從事することゝ、諸國山地の移住とは必ずしも相伴はねばならぬ理由がない。從つて木地師が此村から出て、他國の山に入るに至つた始めは、又何か別個の動機があつたわけである。この地に木工の起つたのは、單に山の中だからと謂つてもよし、檜物御庄の入野であつたからと謂つてもよい。村に材料が乏しくなつて、どうして出て行く便宜が出來たかと謂へば、最初は商賈と工作の爲に旅行の免?を得たのであらう。轆轤の利用が些しでも他の地方より早かつたら、それは大なる特長に相違ないが、その他に見遁がせない二つの點は、多賀宮の杓子に關する信仰と、庄内の政所部落に一時繁昌した銀山である。前者は土地の割合に需要を急増するから技藝を進歩せしめ、後者はこんな山村に廣い世間を結びつけて、旅で稼ぐ心持を刺戟した。或は金山師の來住が轆轤を教へたのかも知れず、或は失業鑛夫の或者が、白身最初の旅の木地屋であつたかも知れぬ。金屋も同じ頃に國内をあるいて、金山を發見すれば土着して開いたらしい。木地屋の小屋掛も同じ境遇で、働きながら旅をして居ると、自然に土着することになる(237)のであつた。但し女房はいつ連れて行つたと言ふ問題はある。自分は寧ろ行く先々の土地で、たゞの人から娶つたかと思ふが、伴うて出てもよい事情はあつた。轆轤はちやうど女か小兒か、半人分位の助手を要したのである。

　要するに木地星移住の初期は他の旅行商業とほゞ同時代で、即ち官營の本式の運送方法が次第にむつかしく、普通の往來の却つて困難であつた南北朝以後、足利氏中期位に、何か僅微なる特典に刺戟せられて、寧ろひきれ賣りなどの商賣の方から入つて、漸次に工業の方に移つたものと思ふ。だから山中の住民の割合に、説話が多かつたのだと思ふ。

（ハ）　惟喬親王を祖神とするに至つた原因は、その三つ以上を想像し得る。

　第一には小野宮又は小野明神と言ふ神の、この國で弘く祭られて居たことである。即ち小椋庄の小野宮も、この風潮に基づいて、先づ起つたのであらうと思ふ。湖西の小野郷に住んで居た小野氏といふ一族は、猿女《さるめ》氏の傳統を負うた特殊信仰の宣傳者であつて、これも小椋氏のやうに弘く全國に分布して神に仕へて居る。小野宮はこの系統に屬するものらしく、君ヶ畑にも或はこの一族が神を運んだものかとも思ふ。さうすれば住民の旅行上手にも遺傳があり、各地の傳説が小野系を脱しないのも説明が出來る。惟喬親王は山城の小野に御住居なされてやはり小野宮と申上げたから、混同は自然である。湖南の各村には親王の御遺跡と言ふものが他にも多く、又古くからのことであつた。舞の詞曲の景清にも、既に馬淵畷の無生寺の惟喬皇子の御跡を語つて居る。田中長嶺氏の「御偉績考」は、此等の傳説地を繋ぎ合せて、宮御旅行の道筋を説き、ひとり小椋山中の民だけが空想したのではないことを證せんとして居る。それほどに自然なる解釋であつた。宮はその御不遇が歴史を讀む者の愛慕を集めたまふ上に、京近くでも近江と獨立して、その遺臣が御靈を祭るといふ傳説が二三の村に存し、人によく知られてゐた。それも亦、近江の小野氏の事業であるか否かは知らず、如何にも仰ぐに堪へたる貴人であつた故に、村々の王子の御神に御名が入用となると、この親王を勸請するやうになつたのである。但しこの皇子を轆轤の發明者とするのは、どこまでも意外なることである。

(238)（ニ）　君ヶ畑と蛭谷との爭ひは、最後迄白川・吉田兩家の衝突であつて、君ヶ畑の先に敗れたのは、吉田が蛭谷に味方した爲であつた。君ヶ畑はその前から終始白川家に附隨して變らなかつたのである。しかもこの小椋庄は、古く神祇伯家の初祖兼覽王の御領であつたと傳へ、偶然の因縁でないやうに考へられて居た。惟喬親王は又その兼覽王の御父である。白川家の方でも或はこの理由から、特に親王を祭る社などを、京近くにも經營して居たのではなかつたか。とにかく君ヶ畑側ではこの關係から、どうしても御神が惟喬親王なることを疑ひ得なかつた。

　この序でになほ言ひたいのは現在の多くの系圖集には、兼覽王の御妹に古今集作者の三國（ノ）町を記入して居る。恐らくは證據のない説と思ふが、親王を神祇伯家の始祖と見る場合には誤りにしても意味がわかる。マチはマウチキミ、マチキミなどに同じく、神に侍する者の名であつたからである。君ヶ畑の金龍寺を、後に潜して高松御所などと唱へるに至つたが、一方由緒書には宮の假御所を小松ヶ畑、又は小松御所と書いて居るから、多分一つであらう。これが多數の平家谷口碑に、小松氏と言ふ舊家を中心として居る事情を、説明するものでないかと自分は思ふ。即ちコマツと呼ばるゝ神人が、我神を貴人なりとし、京都より下りたまふなどと謂うたのが、諸國によく似た傳説を發生せしめたと考へられるのである。小野宮の御女に町と言ふ名のあるのは、やがて又小野小町一人に非ずと論ぜらるゝ程に、各地に同じ口碑のある理由であつて、君ヶ畑の中古の縁起は、手筒ながらも傍から、かういふ傳説の流布する時代の心持を少しづゝ教へてくれるやうである。

（ホ）　最後に今一つだけ、惟喬御傳記の起つた事情を擧げて見たい。蛭谷の筒井八幡の縁起と言ふのは大岩氏の家傳では、もと隣村岸本の藏人と言ふ舊家から、讓り受けたことになつて居る。蛭谷で承平二庚辰、君ヶ畑で承久二王辰として居る所の、大藏卿惟仲以下三人の署名ある下手な漢文の一卷は、その實物でなくとも、書物だと稱して居たものらしい。その中には岸本村に關することが、末に只一箇條書いてあるだけである。その文はよく讀めないが、親王薨去の事に引續いて、

(239)　　同日愛知郡岸本太子殿南表　皇大明神正八幡宮薨竝立毎月八日九日小椋大臣出仕畢

とある。これを字の通りに解するならば、岸本に太子殿と言ふが前からあつて、その南表に伊勢と八幡の二社を新營したとなるやうに思ふが、後の小椋村の人々は、この文によつて君ヶ畑の大皇大明神、蛭谷の筒井八幡を、共に惟喬親王を祭ると解したやうである。さうして君ヶ畑では小野宮を今の名に改稱してしまひ、爲に大なる不利を招いたのではなかつたか。惟喬には太子の位を御爭ひなされたなどと言ふ物語はあつたが、親王の廟所を直ちに太子殿と言ふ道理がない。これは河内の例と同じく、聖�ｺ太子の御堂のことである。さうなれば今の傳説の固定する以前からこの山村には聖�ｺ太子の御巡歴を語つて居た信仰があつたのであらう。この太子ならば甲斐の黒駒・秦の河勝、如何なる國へも御供申したのみならず、東西の諸國でこれを木匠の神と崇めた例も多い。しかも亦その傳説の今一つ前は、奧州・豐後で共に語るやうに、用明天皇とその御妃に該當する男女の御神まづ出でたまひ、その間に生れたまふ智�ｺ充足の若君を、即ち豐聽耳なるべしと考へたのが、次第に佛者に利用せられたので　現に大隅薩摩では今なほ同じ舊傳を天智天皇に寄せ、賀茂大三輪ではこれを天つ神と玉依姫との御戀語りとして保存して居る、文字に乏しい里の翁が、自らかくの如き半分の調和を、歴史の書に求める筈はない。全く前代の學者が、選んでこの樣な不自然な固有名詞を注記し、さうして自繩自縛に惑うて居たのである。その間を我々の愛する里人は、終始變せず御名などには頓着なしに、尊き現人神來つてこの民を助け惠みたまふと信じ、すなはち之を疑ふ者を斥け憎んで、終ひにかくの如き舊傳を固定したのである。それが大切なる村々の神道であつた。さうして又多くの不可解なる傳説の根原であつたやうに思ふ。

　

(240)　　　　　杓子と俗信

　

　　　　　　　一　高輪のオシャモジ横町

　

　近年活版になつた加藤雀菴の「さへづり草」に、江戸高輪南町、鹿兒島・久留米兩侯邸の間の小路を、土俗オシャモジ横町と呼べり。二町ばかり入りて石神の祠あり。寄願成就の者樹木を携へ行きて社地に植ゑしを、いつの頃よりか飯匙を納むることゝなりたる由。石神のシャクジより杓子横町となり、更にオシャモジ横町となりしものなるべしとある。「江戸名所圖會」の記事とほゞ同樣であるから、多分は判斷もなく、あれから抄出したものであらう。

　「江戸砂子補正」と言ふ書には、この祠の神が以前オシャクジと呼ばれて居たことを記して居る。他にも多くの類例があるから、オシャモジサマがオシャクジから變化したことは、たいてい明白である。たゞ同書にこの詞の由來として、或大名の不幸なる姫君が、自分と同じく縁遠い婦人の願掛けを叶へむと誓ひ、歿後この神に齋《いは》はるゝに至つたと言ふ話を傳へて居るのは、例の畸形の神體などから思ひ付いた近世江戸風の浮説としか思はれぬ。

　右のオシャモジ樣の御神體が、考古學家の所謂石棒であつたことは、既に有名な話である。山中共古翁の手録に依れば、この祠の在つたのは、高輪安泰寺の境内で、元の名は、釋士大士（？）と言ふのであつた。この寺現今は、南郊の蒲田村へ引移され、これと共に、祠も行つてしまつた。近頃淺草金剛院移轉の際、土中から出た例の風流志道軒(241)の墓石を、同じ蒲田の寺へ持込んだのは、心ある者の所業か云々。

　石神と言ふ祠にして、その神體が石棒であるものは、このほかにも東京附近に若干の例がある。さうして石神なるが故にこれを音讀してシャクジと言ひ、更に轉じてオシャモジと成つたと言ふ「さへづり草」等の説は、松浦武四郎翁の「撥雲餘興」石棒の條にもこれを承繼して居り、なほ故坪井正五郎博士の如きは、これを凡てのシャクジの社の説明に適用せむとさへせられた。自分はかつて大いにこれを疑つたことがある。その仔細は、同じ名の祠は弘く東海東山の國々に分布し、その數も至つて多く、悉く同じ誤解に陷つたとは思はれぬ上に、單に御幣を樹てゝ居るのみならば、曾て祀られた石體が紛失したとも見られるが、明白に神主の木であつたシャクジも且つ存するからであつた。

　しかし此度は、それを再び論ぜむとするのではない。全く別の方面から、オシャモジと言ふ名稱、竝びに報賽に杓子を奉納する風習が、左樣な偶然の誤解に始つたものと見ることが出來るか否かを考へ、能ふべくは、諸君助力の下に、この問題が如何なる方面まで、我々を導いて行くかを窮めて見ようと思ふのである。むやみに先進の説を疑ふのも善い事ではないが、學者が商人などの如く、問あれば即ち答ありと、即座に決定をする風も流行させたくないから、道の爲に不本意ながら、從來の研究に對する不信用を表榜し、全く新しい心持で進んでみたいのである。

　

　　　　　　　二　杓子を納める社

　

　高輪安泰寺のオシャクジに、飯匙を報賽としたのは、比較的新しいことで、以前は、生樹を進獻したと言ふのは、事實かも知れぬ。但しこの事實によつて、石神を杓子と誤つた結果かの如く斷定するは、もとより早計である。これは單にこの一社に限つて右の如き慣例のあつた場合に於て、始めて假定し得べき一説である。さうして杓子を納める(242)社は、捜せば隨分とあるらしく、又杓子そのものにも、神に捧げて祈?の效果を増加する手段とするに、十分なる性質を具へて居たのである。

　同じ例は、駿河・遠江の間に、今も行はれて居る。「安倍郡誌」に載せて居る三保松原の杓文字神社などは、その一例である。東京のごく近くでは、北足立郡植水村大字｜水判土《みづはた》及び同指扇村の内俚稱阿彌陀の兩地に在るオシャモジ神の如きも、村民杓子を奉納する習ひであることを、山中翁、土地の人石川某氏より聞かされたさうである。又、丸山太一郎君の私信によれば、野州足利郡山前村大字山下字平石の西方山林中に在る小祠は、額には、「御尺神」とあつて、杓子を報賽として居る。上州新田郡笠懸村大字阿佐美のオシャクシサマ、これも亦同樣であつて、土地の者は、これを風の神と信じ、社頭の杓子を拜借して還り、報賽には、別に新しい一箇を添へて返すと言ふことである。かくの如く、多數の誤解の場合は、普通でない。或は正反對に、杓子を賞美し給ふが故に、オシャモジ樣と呼ぶに至つたと、想像し得られぬこともないのである。

　この想像の當否を判ずる爲には、更に弘く神佛に杓子を奉る風習の分布を考へてみねばならぬ。シャクジ又はオシャモジと稱せぬ祠や社で、杓子を進獻する例も、多少はあつたと思ふが、さし當り、自分が場所を記憶して居るものが少ない。讀者諸君の今後の御援助に待つの他はない。

　かつて田村吉永君の「郷土研究」に報告せられた、奈良の春日若宮はしり元（御手洗）の大黒樣などは、少くもその一例である（郷土研究二の一八八、三八二頁）。小兒の夜泣きを止める願掛けに、まづ社頭より一箇の杓子を借りて還り、これに其兒の名と年とを書いて、戸口に打付けて置き、效驗のあつた場合に、新しいものを添へて、御禮に參ること、上州阿佐美の例と同じである。この爲に、社の附近には、杓子を鬻ぐ店屋までもあると言ふことである。

　この二つにして返納すると言ふ方式は、何人が何れの代に案出したものか知らぬが、頗る近世の世相人情によく調和して居る。社地の小石乃至は樹の枝を請ひ受けて行くことは、古くからあつた。しかも神が、土石草木の類をも愛(243)惜したまひ、輕々しく之を持去ることを憎まれるは、常の有樣であつたから、單にこの思想を人工の物品にまで擴張したゞけであらうが、さりとては又、巧妙な思ひ付きであつた。都會は都會だけに、場處の數も多く、なか／＼春日の大黒社前の如く、特に杓子を賣る店が立ちにくい。のみならず店屋が鼻の先にあつたのでは、有難味も薄いが、何處から上げたともなく、同じ品物が神前に集積するとあれば、途往く人も自然に心留まり、鉦鼓歌舞のこと／”＼しい刺激を須たずして、徐ろに神の�ｺ澤を流行せしめることが出來る。これが恐らくは杓子ばかりでなく、いや房楊枝だの、枕だの、或は又天狗の面や、土燒きの御狐の類が、神にも供へれば、參詣の家苞ともなり、從つて我々幼時のおもちや箱の内容を豐富にした原因でもあつたらうと思ふ。

　

　　　　　　　三　社寺と杓子

　

　春日の大黒樣などは、杓子の賣店が附近にあつた爲か、今では貸借の關係をぬきにして、社參の人々が言はゞ出來心に、その場で生れ歳、男女などを書附けて納める者が多いと、また田村君は報ぜられて居る（郷土研究二の三八二頁）。かうなると、幾分の遊戯的分子を雜へることは免れぬ。藝州宮島の杓子なども、一方には、多量の製品を縣外まで販賣して、島民の生計を助けて居るのみならず、俗に千疊敷と稱する舊大經堂の壁柱の如きは、文字を認めた大小無數の杓子を以て蔽はれて居り、その繪葉書さへもよく賣れて居る。これを誰かゞ、日清戰役當時からの現象であつて、敵を「めしとる」と言ふ縁起を祝したのだなどと、誠に手筒なる口合を以て、歴史を攪亂せむとするは宜しくない。杓子に三錢の切手を貼つて、郵便で出す位な發明なら、明治の新人物にも、これを企て得たか知らぬが、今まで只の商品であつた臺所道具を、始めて堂舍の中へ持込むだけの意匠が、武邊一遍の兵士等にあつたとは思はれぬ。

　兎に角に宮島杓子の、起原新しいものでないことだけは、何人もこれを認めて居る。「藝藩通志」卷十六には、至つ(244)て簡單なる記事があるだけで、誓信と言ふ道心者、かつて種々の器物を作りしが、中にも木杓子尤も多く、之を誓信杓子と稱して、今も（文政初年）續いて作る者があると述べ、如何なる點に於て、信仰と交渉があつたかを尋ね得ぬが、他の近似の例から推して、若干の想像は下し難くない。

　その例の一つとして數ふべきは、江州多賀の杓子である。これも近世は、物産としての世評大きく、もはや何の爲、何の動機で、これを作り始めたかを問ふ人もないが、近くは本年（大正六年）の七月に、滋賀縣廳の案内でこの大社に參拜した東西の新聞記者等、おたま杓子實はお多賀杓子と言ふ陳腐なる學説を聞かされ、且つ門前兩側の家々に、めつぽふ大きな杓子の列べてあるのを見て驚いて居る。疑ひ深い當世人には、長壽安泰の效驗も、或は賣る爲の廣告のやうに感ぜられたか知らぬが、當宮四月午日の御祭の行列に、その大杓子に白布を延《は》へて、騎馬の神官のすぐ後から渡つたと言ふからは（年中故事六）、少くもこの物が、神社の信仰と古くからの關係があつたことだけは、推せられるのである。

　

　　　　　　　四　二所の杓子町

　

　中山道碓水峠の熊野權現は、ちやうど上信二州の境上にあり、今も、一社にして兩縣の縣社である。祭禮は十月の十五日、南北朝以前より地方の崇敬を受けて居た證據がある。往還の兩側に、社家町が立ち續き、こゝで亦大小の杓子を賣つて居た。仍て杓子町とも稱へて居たさうである（上野志上）。これとよく似て居るのは、箱根の杓子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一區劃、湖水に臨んだ芦川町の邊に在つた。海道がまだ北岸を通つて居た頃には、山杓子を細工して、これを箱根權現の坊中に鬻いで活計となし、當時今よりも遙かに盛大であつた修驗者等は、その杓子を檀家への配札に添へて贈つたと言ふことである（新編相模風土記）。

(245)　碓氷權現の方でも多分箱根同樣に社家の手で配布して居たのであらう。さうして、これが與田君（土俗と伝説一の五三頁）又は田村君（郷土研究四の三八二頁）の報告せられた如く、單純な歳暮又は御年玉であつたか否かは、かつて栗岩君の報ぜられた信州戸隱の杓子配りの例によつても容易く決せられ得る問題である。戸隱では四十戸の舊院坊、今も古來の慣行によつて年の暮には數十萬の札講中に向つて一本づゝの杓子を配り、これを受けた家々ではその杓子を大戸に打附けて、正月の護符とすると言ふことである（同四の一八八頁）。

　

　　　　　　　五　くつめき御免

　

　之によつて直に聯想せられるのは、今日東京の市中で到る處に見掛ける、戸口の上の杓子である。恐らくは唯の荒物屋で買入れた品であらうが、宮島産同樣の小形の平杓子に、徑二分ばかりの黒星を、竪に三箇書いてあるものなどは、我々に取つては、最も不可思議である。但し普通には、「くつめき御免」と書いてある。「くつめき」は「のどけ」即ち、百日咳・氣管支加答兒などのことだと言ふ。古い「東京人類學會雜誌」に、この杓子の文字の種類が集めてあつたけれども、今手近にないので引用することが出來ぬ。中には、「きつねつきごめん」とあるのもあつたさうだが、これなどは、「くつめき」の轉訛かも知れぬ。

　西多摩の五日市邊で見たのは、「何の歳の男又は女、十五になる迄くつめき御免」などと、念入りに趣旨を書いてあつた。或は又、生れ歳と男女とのみを記し、或は「鎭西八郎爲朝宿」などの類もあつたと思ふが、その地方を記憶せぬ。大いに讀者諸君の援助を乞ふ所である。

　種痘の普及した今日では、小兒に怖しいのは、第一に百日咳である。佐賀縣ではこの病を、チゴツキと呼んで居る。これを治するには厭勝《まじなひ》として、杓子に人の顔を描いて、路傍に立てゝ置き、千人の人に見られると直るといふ俗信が(246)あるさうである（日本週遊奇談一八三頁）。常陸土浦附近では、「百日咳堅く無用云々」と書いて、門口にも貼れば又、天井に打付けて置くこともあると、吉原君は言はれた（郷土研究一の五六二頁）。必しも家の入口には限らなかつたのである。又これに書く文字も佛教・道教の樣に、是非とも必要でなかつたのは面白い。高木誠一君の報ぜられた、石城《いはき》平邊の流行眼病除けの厭勝の如きは、單に杓子を爐の鍵に括り附けて置くとあるから（同一の五一〇頁）、恐らくは何も書いてなかつたのであらう。

　病神對抗の策として、杓子を利用した最も有名な一例は、越前湯ノ尾峠の孫杓子である。孫〔右△〕とは、どういふ意味か知らぬが、或は又孫嫡子などともこじつけ、此峠の茶店の亭主、曾て疱瘡神と契約し、子々孫々永く其災を被らぬといふ保障を得たので、有縁の人に守護札を出すことになつたと、蘇民將來系統の平凡な由來談を傳へて居るが（地名辭書）、社の正體は、一箇の杓子であつたらしく、幕臣佐野越前守が、寛政十一年の書上に依れば、もとこの家の舊物にして、これを同國の日吉家に傳へ、彼家よりこれを湯ノ尾峠に納め、峠の茶屋がその版畫を發行することになつたのであると言ふ（祠曹雜識十二）。しかるに奇妙な事には、この杓子、これよりも十數年前の天明年中に、既に江戸に引移つて、駒込七軒寺町の海藏寺内に祀られ、信者も相應にあつたと見えて、長�ｺ四年この峠に於て、疱瘡神安倍晴明に逢ひ驗を示し、永く湯尾嶺頭に跡を垂れたまふ。本地は東方藥師如來などと言ふ新縁起まで出來て居る（十方菴遊歴雜記五篇の中）。しかも尚不思議なのは、本山湯ノ尾峠の方でも、依然として守り札を出して居る上に、一方では、この神引越の理由として、天明の頃越前領主の若君疱瘡によつて逝去せられしより、國君の家族をも守護し得ぬ孫杓子ならば益なしと、社壇破却の上、神主もろともに國を追拂はれ、それより江戸駒込の鰻繩手の寺へ遣つて來たと、噂せられて居たことである（同書二篇の下）。

　誠に取留めもない話ではあるが、自分の注意するのは、湯ノ尾峠が箱根碓氷と同じく、古來の官道の衝に當つて居たことが、肥前のチゴツキの厭勝に、路傍に杓子を立てゝ千人の眼に觸れるといふことゝ、何かの關係がありさうに(247)見える點である。今一つは、これから列擧する幾つかの例でも知られる如く、多くの場合に、小兒安泰の祈願と、特に縁が深さうに見える點である。自分は能ふ限り、牽強附會を避けて、その古い事情を尋ねてみたいと思ふ。

　

(248)　　　　　おたま杓子

　

　　　　　　　一　杓子を持つ神

　

　おたま杓子は御多賀杓子の轉訛であらうといふことは、既に「足薪翁記」卷三などにも言つて居るが、必ずしも確かなる根據があつたのではなかつた。我々にはかくの如き假定を通説として受入れる前に、まだ種々の方面から考へて見ねばならぬことがあつたのである。例へば何故に多賀宮以外の多くの神社佛閣に於て、祭典・法會の晴の儀式に、杓子を以て缺くべからざる物品として居るか。風流と名づくる行列の装ひには、各處爭うて年ごとに新意匠を凝らすことが、中世以來の風習であつたには相異ないが、杓子はこの場合にも單純なる思ひ付きの飾りではなくて、寧ろ儀式の中心をなして居たやうにも思はれるのである。又地方々々で使用の目的こそは同一でないが、何れも杓子を門戸に掲げて災害の防備に供せんとして居るのは何故であるか。これを多賀の舊社で壽命長久の護符と稱したのに基く如く考へる人が若しあるならば、結果と原因とを?倒したと評せらるゝ危險を怖れぬ人である。何となれば杓子の如き普通日常の物品によつて、新たに多賀の神�ｺを宣傳せんことは、十萬の歩行巫《あるきみこ》を雇ふといへども尚なし遂げられぬことであるから。思ふに箱根・碓氷・戸隱・宮島等の杓子分配の如きも、各地申合せ或は乙が甲を眞似したとは認められぬ。必ずや山家相應の出來合ひ品を利用したと言ふ外に、別に弘く日本人民の中に、法師・修驗の徒からこの物を(249)貰ふのを有難がる思想が存して居たからに相異ない。釜や甑《こしき》や椀・折敷《をしき》の類には具はらずして獨り杓子にのみ附隨して居た「まじ」の力は、そも／＼如何なる性質のものであつたらうか。さうして自分がこの間題の解決に向つて一歩なりとも進んで見たいと考へるにつけて、注意を拂はずに居られぬのは、杓子が人魂の形に似て居ると言ふ一見空漠たる言傳へ（越後名寄七等）である。

　おたま杓子には限らず、これまで厭勝の爲に用ゐられた種々の器物が、如何なる事由の下にその目的に供せらるゝに至つたかを、十分に討究する人のなかつたのは、全くこの學問の甚だ新しいものである故に他ならぬ。出口米吉氏の「飯杓子に對する俗信の由來」と言ふ論文は、今度始めて讀んで見たが、やはり總括に急なると資料の批判に疎かであつた結果、折角の博覽多識もその利用をなさず、僅かに「飯杓子を食物の表識として之を以て豐稔を折り、後これを稻荷神と祭るに至つたのだらう」の假定を立てゝ、江戸名所圖會以來の石神訛音説に近寄らうとして居られる（東京人類學會雜誌二六五號）。かくの如き斷案に矛盾し、又は反證する民間傳承が、如何に多く取殘されてあるかは、恐らくは出口氏自身が最も善く知つて居られることであらう。

　例へば薩隅地方に多い田の神の石像が、必ず右の手に杓子を持つて居るのは、一箇の好適例であり、又は野州足利在｜五十部《いそべ》の水使《みづし》神社の御影に、婦人杓子と飯櫃とを持つて立つて居る形のあるのは、現在の信仰はとにかく、安永度の縁起文に依れば明白に田祭の痕跡があるから（郷土研究二の一八三頁）これも亦杓子を以て穀神の標章とした一證になるか知らぬが、この他に別に杓子を手に持つ神像、或はこれを中心とする儀式乃至は呪術があつて、些かも農作とは關係がなかつた場合に、果して何を以て一方が古い本當の信仰で、他の一方が第二次の變轉であることを證せられるか、頗る覺束なく考へられる話である。

　

(250)　　　　　　　二　女房と杓子

　

　これは曾つて南方熊楠氏の注意によつて知つたことである。「黄表紙百種」の中「浮世操九面十面」と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被り、番頭の九郎兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれ／”＼の面を被つて出る中に、女房は不斷山の神の面をかぶり時々あばれまはるとあり、更に又「この時山の神杓子を持ちてあばれる故、今の世に十二神樂の山の神は杓子をもちてさわぐ云々」とも見えて居る。東京などでは十二神樂と言ふ語は今もあつて、しかもこれと山の神との關係は既に不明になつて居るが、越後や會津で十二所又は十二神と言ふのは山の神のことで、或は二月十月等の十二日を以て之を祭る村もあれば、又十二本の神木の話など傳はつて居るやうである。さうして山神と杓子との因縁は單にこればかりではなかつた。美濃の土岐郡の某村には、或舊家で毎年長さ一丈もある産衣を仕立てゝ山の神に獻納すると、その禮物には大きな杓子を下されて家に傳へたと言ふ話が、「扶桑怪談實記」卷二に見えて居る。杓子を持つて踊ると言ふことも、最初は我々の考へるやうに滑稽一方の所作でなかつたことは勿論である。出羽羽黒山十二月晦日松例祭の夜の年籠りに、終宵「しやもじや節」を謠ふは玉依姫神これを好みたまふ故と言ふが（三山小誌）、果して杓子の舞があるか否かを知らぬ。豐後三重町邊では御日待講の時に杓子踊と言ふがあり、新參の會員の役であつたとのことであるが（郷土研究四の四四七頁）詳しくはなほ伊東君などの報告に期待せねばならぬ。津輕地方に吉行はれた正月二十日の杓子舞に「杓子舞を見さいな云々」と言ふ古風な章句を傳へて居るのは（同一の五〇五頁）、明らかに杓子工が杓子を持つて舞ふことを示し、後世羅漢舞などに變化した大原木躍の囃事などと共に（嬉遊笑覽十上）、山の神を和めるのが本の趣意であつたことを想像せしめる。これによつて考へると、女房を山の神と呼ぶのは何故かと言ふ難問題も、いろは歌で「おく」は「やま」の上に在るからなどといふ牽強附會を忍ぶまでもなく、そ(251)れこそ女房を山神の如く、杓子を表識として居るから、と言つてしまへばそれで好いのである。

　杓子を女房の徽章とすることは理由もあれば實例もある。杓子は即ち食物分配の唯一の機關である。嫁に杓子を渡すと言ふことは、姑から世帶を引繼ぐことである（諺語大辭典）。佐渡などではこの杓子を渡した日から、飯も嫁に盛つてもらはねばならぬと言ふ（郷土研究四の六一七、六九七頁）。即ち杓子を以て少なくとも一種の regalia として居たことがわかる。又口寄せ巫の隱語の中に、亭主を弓取りなどと謂ふに對して、女房を「へらとり」と稱するは人のよく知る所である。「へら」は即ち扁平なる飯匙のことで、現在の米飯に普通我々が使用し、なほ又「くつめき御免」などを書いて門戸に打附ける平杓子を、東北其他の各地で「へら」と呼んで居るのは、殆と方言とも言はれぬ程である（陸中東山の例は同上、三八二頁）。津輕地方では食物に不足することを「へらかつぐ」と謂ふ。用ゐる所がないから擔ぐのであらう。又單に「へら」と謂へば姉女房即ち夫の年下なる場合を意味するさうな（青森縣方言訛語）。多分は亦「へら」の實力の大いに行はれて居る?態から起つた語であらう。何れにしても女房を山の神と言ふのは、杓子を仲に置いて考へて見ると、あまりに無理なしこ〔二字傍点〕名でもない樣に感じられる。

　

　　　　　　　三　杓子を靈物とする思想

　

　しかし考へて見れば、如何に家庭的の婦人でも、昔の官吏が笏を持つやうに常に杓子を携へて居たのではない。しかるに數ある家具の中で、是をしも主婦の權力の標識とするに至つたのは、本來何か特別の理由があつて、杓子をその通例の用途以上に重要なる物と考へて居た結果ではあるまいか。語を換へて言へば、山の神が持つ程の杓子なるが故に、これを持つことが人間の山の神をも重からしめたのではなからうか。「遠野物語」の中には靈山に入つて黄金の杓〔右○〕を見付けた話がある。最初は何故に山中に於て杓〔右○〕などを言傳へたかと訝るばかりであつたが、似たやうな物語は(252)攝州能勢の奧、酌子峠に就ても存して居たのである。この峠は普通は道の曲つて居るによつて此名があるとも言ひ（攝陽群談三）、或は路傍に酌子岩と言ふ杓子に似た石のある（同上十七）ためとも傳へて居たが、近年採集せられた土地の口碑によれば、源頼光大江山から黄金の杓子を分捕りして來たが、鬼の靈のこれに托するを知つて、この地に之を埋め石塔を立てゝ去つた。その後三日三夜の間この山に悲しい聲を立てゝ泣く者があるので、里人が來て見ると今までなかつた此岩があつた。石碑によつて頼光の此峠を通つたことを知り、更に又杓子の化して此岩となつたことを知つた。今も丹波との境の山頂に杓子岩のあるのはこの爲であると言ふ（故郷見聞録、喜多岩太郎）。黄金を以て杓又は杓子を作ると言ふからは、これを尋常一箇の道具とは考へて居なかつたことが分る。即ち江州多賀の祭にこの品を擔ぎ出すのも、單にこの地にあつて縁喜の好い前例があつた爲ではなく、元來この物に附隨して神異なる作用が語り傳へられて居た結果と見る方が正しいであらう。

　同じく大杓子を以て世に聞えて居た芝愛宕社の一月廿四日の祭の如きは、伊勢の津の觀音寺二月一日鬼押への式とよく似て居る。即ち雙方共に毘沙門天の御使者と稱する者、武具を着して手に大杓子を携へ、行列の中心をなして居た（年中行事大成二）。美濃の美江寺の舊正月晦日の御蠶祭なども、生きた人間の代りに大人《おほひと》彌五郎式の人形ではあるが、その手にやはり大きな杓子を持たせて山車に載せて牽きあるき、その杓子の上向きと下向きとによつて、年内の晴雨を占ふ習ひであると言ふ（日本風俗志中）。山の神だけならば、春の始めに里に下つて田の神と祭られると言ふ信仰も弘く行はれて居るから或は出口氏の説の如く、米と飯との關係を以て根原とするやうにも説き得るか知らぬが、これからも追々例を擧げる如く、神の種類、祭の目的を問はず、杓子が多く出て働くのであるから、自分はその樣な手輕な總括論には同ぜぬのである。

　それならば如何なる理由を以て、或神像には杓子を執らせ申し、又、或祭式には大杓子を以て行列の中心とするに至つたと言ふか。現在自分の集め得る材料だけでは、甚だ面倒な推論と、幾分の想像とを加へなければ假定が立たぬ(253)が、自分はこの根源を昔の人の人の杓子に對する珍しい考へ方、即ち之を以て靈魂の宿る所と見て居つた事實に歸せんとするのである。

　思ふに普通人がかくの如き舊思想を忘却したのも近頃の事ではなかつた。從つて例へば神が女體であるとか、又は田穀を掌る神である場合のみは、後世の所謂常識だけでも説明が付くので、追々と適用がその方へ傾いて居たのであらう。この有樣で八十年百年を過ぎたならば、よほど本意を知るに困難になることゝ考へるが、幸ひにして今はまだ、これだけでは解釋し得られぬ若干の民俗が併存して居て、我々の智慮では不可解と見える民間の現象を、無意味又は訛傳と斷定してはならぬ好い實例を提供して居る。例へば諸國の田舍で杓子を使用する場合の細かい規則、これを犯した場合の制裁の如き、既に記録に殘つて居る分だけでも、よく見ると色々の事を暗示する。さうして我々はなほこれ以外にも注意して採集せねばならぬ。

　杓子と最も親しい人間の山の神が、一番しさうな事でしてはならぬのは、杓子を嘗め又は口に當てることである。箸の發達はその結果であるか又原因であるか、とにかく多くの他の民族とは異なつた一特色である。その罰としては、豐前筑上郡では嫁入りの時犬が吠えると謂ひ（郷土研究三の七六三頁）、土佐長岡郡では同じく雨が降るといふ（同三一五頁）。これは外の禁忌にも謂ふことで、單に娘として最も情ないと思ふことを擧げたまでかも知らぬが、信州松本でかはき〔三字傍点〕の病に罹ると謂ひ（同四の三八二頁）、佐渡等で杓子顔に成ると言ふ（同二の五五五頁）。これも今日は人の好んでせぬことなのであらうが、或は以前は逆にこの法を以て眼に見えぬ物を呼んだ名殘りかも知れぬ。陸中東山などで箆《へら》即ち平たい飯匙で猫の背を撫でて置くとその猫が家に住みつくと言ふなど（同一の三八二頁）はこれと近いが、一方には又杓子の背で飯をよそふと繼親にかゝると佐渡では謂ひ（同四の六一九頁）この方は杓子の内側を大切にして居た一例とも考へられる。一杓子で飯を盛切ることは葬式の時ばかりだとか、或は刑に遭ふ者だけにすることだなどと言つて、非常にこれを忌むのは各地の例である。紀州の粉河《こかは》では、これも繼子にかゝるなどと威嚇せられて居る（同二の (254)七〇〇頁）。しかし自分はやゝ異なる想像を持つて居るので、これは恐らくは東上總の本納村で、御玉杓子は必ず二本づゝ買ふべきものとして居る（南總の俚俗）慣習と共に、本來この物が一箇では完全でないと考へられて居たといふ、重要なる暗示ではないかと思つて居る。

　

　　　　　　　四　杓子の魔力

　

　一方には又積極的に、杓子によつて多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これも少くも食物の表識だけでは説明が付かぬのである。例へば江州愛智郡西菩提寺村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すを以て有效なる雨乞方法として居たなどは（　　近江國輿地誌略）、或は杓と杓子と本來一つであつた一の證據で、神池の水を掬するを以て龍王の力を借るの途とした名殘かも知れぬが、少くも近世に於てはこれを挑發手段に供したらしいのである。これが佛道その他宗教上の承認を得たものでないことは、往々にして無理又は不道�ｺな目的にも使はれるのでよく分る。紀州田邊で杓子を懷中して行くと頼母子が當るといふ迷信の現存して居る（郷土研究四の四四七頁）などもその一例であるが、更に顯著にして且つ弘く行はれて居るのは、倡家青樓の客引き手段にこの物を用ゐる風である。同じ田邊に於ても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懷中して四辻に行き、之を以て四方を招けば客が來ると信じて居た（同二の四三四頁）。

　尋ねて見たらまだ各地にある風習と思ふが、既に京都の某處でも、杓子で三度招けば待人來ると言ふさうであるし、山田角人君が奈良の木辻で實見せられたのは、杓子ではなく十能であつたが、やはり街頭に出て客を誘ふ呪術にこれを利用して居つた（同四の三八二頁）。東京吉原の一例に至つては、極めて露骨にして且つ恐らくは古風である。即ちその四辻に携へ行き四方を招くと言ふ杓子には眼鼻が描いてあり、術者はこれを以て前を三遍叩いたと言ふ話である(255)（郷土研究二の二八一頁）。客商賣の者は今日なほ、まじなひの類を過信し、從つて奇拔に過ぎたる新方法も、隨分流行することは事實であるが、杓子はこの通り東西揆を一にして居る外に、大文字樓の舊物といふ黒塗にして内側丸く朱塗になつた杓子が、久しく神秘の靈體として錦のきれに包まれ、かの家に祀られて居たと言ふ話（共古日録七）を見ても、偶然でなかつたことを知り得る。だから奧州・越後等で倡女を杓子と呼ぶのは、例の飯盛りと同じ意であらうと言ひ（俚言集覽）、或は杓又は「ひしやく」と謂ふのは流れを汲むと言ふ心だなどと、これまで甚だ手輕にして居つた説明は、今一應よく考へて見ねばならぬ樣に思はれる。

　兎に角に杓子には、その表向きの商法と全く關係のない「招く」と言ふことが、常に大なる働きをして居る。待人を呼ぶにも三度招き、又は四方に向つて客を招く。かと思ふとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言ふ話もある（同上）。何れも自分が前に掲げた所の假定、即ち杓子に人の魂を攝取する力があると考へられたものと見ることによつて、始めて説明が可能である。一方には又赤兒に産聲を揚げさせる手段として、杓子を以て扇ぐ風習が周防かどこかにあること（郷土研究四の三八二頁）から推論して、京都などで杓子の折れ又は毀れるのを、近親に子の産れる前兆と見たのも（同二の五七二頁）、一の魂の解放とも考へることが出來る。これは決して「おたま杓子」の稱呼に拘泥した説ではない。これから更に進んで杓子の本來の形に考へ及ぶ時には、いよいよその推定が事實らしくなるのである。京都の大炊道場聞名寺には遊行上人の熊野から相傳したと言ふ和布の杓子があつた。「上人のもてあるきぬるめの杓子、衆生をすくふしるしなるらん」（京童跡追一）、如何してこの樣な品が念佛の寺に在るのか。尋ねたいものと思ふ。

　

(256)　　　　　杓子・柄杓及び瓢箪

　

　　　　　　　一　杓子の進化

　

　現今通用の「しやくし」と言ふ語は、全體いつの頃から始まつたものかと言ふ問題は、これまで誰も考へて見た人がなかつたやうである。我等が生活に一日も缺くべからざる此物の名が、久しい期間一度も都鄙の文學に現れて居なかつたのは、必ずや別に「しやくし」に代るべき一箇の語が行はれて居た爲で、飯匙の漢字を以て宛てゝ居た「いひがひ」は即ちこれであらうと思ふ。さうして或時代に貝を以て物を掬ふの用に供して居たことが、又この語によつて想像し得られるのである。貝は今でも柄を取附けた貝杓子なるものがある。又「かながひ」と稱して鋼・眞鍮で作つた匙も、なほ庖厨に用ゐられて居る。しかるに何れの世如何なる事情の下に、かくの如き一般の改稱は起つたものか。若し杓子と言ふ文字が本來のものならば、この語は必ず禅僧などの齎し來つたものであつて、しかも當世の「こつぷ」「らんぷ」などと同樣、或程度の生活改良と相伴つて發現した變化だらうと考へて居る。

　なる程木を削つて飯匙《いひがひ》を造る風習は近世に始まつたものでないかも知れぬ。しかし材料の至つて豐富で鍬・鎌の柄などは自由に手細工をした山間の村までが、杓子だけは杓子削りと稱する特別の種族があつて、常に供給をこれに仰いで居たのを見ると、何か特別の技巧、乃至は新意匠の遠く及ばざるものがあつた爲に、夙にその自給自足を斷念し(257)て居たものと考へられる。陸前玉造の杓子は實に土地の産ではなかつた（郷土研究四の六三九頁）。飛騨では大野郡｜有道《うだう》の汁杓子、夙に有名であつたにも拘らず（斐太後風土記五）、同國朝日村で宮島から教師を招き、始めて杓子の製法を傳習したのは明治四十五年であつた（益田郡誌）。高野山附近の山中では、杓子削りは特殊の漂泊種族に限られた生業であつた（紀伊國續風土記高野山五十九）。これは恐らくは自分が説いて居る江州小椋村の轆轤師の一派であつて、やがて、又同國多賀宮の杓子を、あれだけ有名にした原作者であらうと思ふ。杓子には轆轤の用がないのは勿論であるが、苟くも此徒の村をなして居る處には必ず一通の寫しを傳へて居る。元龜三年の文書で、こればかりは多分後作でなささうな小野宮社務宛の免?に、「諸國轆轤師杓子師塗物師引物師云々」と一續きに書いてあり、其他土州｜下名《しもな》村の木地屋が永く伊豫川之江の市で杓子を賣る特權を有し（土佐州郡誌）、加賀の山中に於ても久しく杓子を切つて山林を荒して居た（江沼郡誌）と言ふなどを見ても、今日行はるゝ同品が、當初必ずしも模倣の容易なものでなかつたことを知るのである。

　

　　　　　　　二　飯の進化と杓子

　

　我々が物を覺えてから以後にも、杓子の樣式は實は著しく變つて居る。通例「くつめき御免」に使用せらるゝ都會の杓子の如きは、大きさがずつと元のよりも減じて居る上に、殆と一枚の板を切拔いても作れる程に、扁平なものになつて了つた。これは材料の節約もその一理由であらうが、他の一方には、米の飯が現代普通の物より今一段軟くても又強くても到底これを使用し得ぬことを考へると、やはり所謂時勢の然らしむる所であつたのである。讀者諸君の御在所では如何あらうか。自分が幼時の記憶では、汁杓子と飯杓子との最も著明なる差別はその横幅であつた。即ち後者の昔風なるものは、背にも丸味を持ち、内側も少しく窪み、事によつては今日の粥をでも掬ふことが出來た。米(258)飯のゆるさがかくの如き凹處を必要とせぬに至つても、なほ徑一寸四五分の圓形だけ塗色を變へたりなどして、古い名殘を留めて居たやうに思ふ。しかも今は既に因習の拘束はその力を失つてしまつたのである。甑《こしき》で蒸したぽろ／＼とする「いひ」、又は金碗に盛つて出したといふ薄い「かゆ」などが、前代人の常の食であつたとすれば、これに用ゐた杓子の形も想像にあまりがある。しかも學者で鼻を突く日本にも似合はず、この重要な問題が、脚氣病豫防調査會より外ではまだ研究せられて居らぬのは妙である。

　次に近世の杓子の柄は、飯杓子のも汁杓子のも共に眞直である。「用捨箱」の著者が古い百鬼夜行の畫卷を引いて、杓子の柄の大いに曲つて居たことを證し、更に寛永十一年刊行の「尤の草紙」、明暦二年の「玉海集」によつて、多賀から出した杓子だけは、後世までも柄が曲つて居たのだらうと言ひ、有名なる杓子定規といふ諺も、近世のやうな杓子では解釋が付かぬと喝破したのは、誠に大なる發見であつた。さうして自分がそれから一段進んで附加へたいと思ふのは、宇津木雨赤が玉造の温泉で見て來た古い杉の汁杓子に、柄の附け根が突起して居たもののある事である（郷土研究四の六三九頁）。この突起は汁が柄を傳つて戻らぬ便利から始まつたとも言ひ得るか知らぬが、杓子を前下りに持つ女は先づあるまいから、その爲だけに面倒な細工をしたのではあるまい。やはり無意識に久しい間仕來つたこと、あたかも柄の曲り乃至は飯匙の内側の圓みの如きものであらう。畫が出來るとずつと説明が樂になるが、文句で述べられぬほど込み入つた話でもない。これを要するに杓子の頸部の高くなつて居ること、即ち椀形の縁邊より少し下から柄が出て居たことは、杓子の柄の曲つて居たこと竝びにその背面の必要以上に丸くなつて居たことゝ共に、古く瓢を竪に切つて同じ用途に供して居た風習の痕跡ではないかと言ふのである。

　

(259)　　　　　　　三　杓は即ち「ひさこ」

　

　杓子が瓢箪に始まると言ふ説は、杓と杓子との以前の關係を知るときは、必しも無理な臆斷でないことを認め得る。杓は漢語に於ても水を斟《く》む器の名であつて、その和名は古くから比佐古であつた（倭名鈔）。その全部が瓢のみでなかつたことは、内宮延暦の儀式帳に「木杓二十柄、二十柄」とあり、匏にあつては特に他と區別する爲に、奈利比佐古即ち自然の比佐古と言ふ稱呼のあつたのを見ても明白であるが、しかも「なりひさこ」の名は民間には行はれず、比佐古が「ひさご」と濁つて今は瓢箪の專有に屬するを見れば、この品の曾て普通であつたことは疑ひがない。しかるに一方に水を汲む器を訛つて「ひしやく」などと呼ぶに至つた結果、偶然に音の近い漢語の杓から出た語の如く皆が信じて、檜木の薄板を曲げて作るから檜杓だと言ひ、或はこれと言ふ理由もなく柄杓と書いてさう訓ませて居た。しかも少々滑稽な事には、比佐は本來匏器の名であれば、比佐古の「古」の字は擬人稱呼の「兒」であつたかも知れぬと思ふのに、更に杓の下に子を附して杓子と言ふ語を造つたのである。

　杓に柄を刺したのも後世の工夫でなかつたことは、「ひたえのひさこ」と言ふ語が寧ろ之を證明する。「ひたえ」は漢字に書けば混柄で、文覺上人の消息には「混柄の鎚」などともある（松屋筆記四）。今の語で言へば「作り附けの柄ある杓」である。但し木杓は皆柄を刺し、奈利比佐古なら必ず混柄であつたとは解せられぬ。八年前自分が越前大野郡西谷村｜秋生《あきふ》の山家より得て來たものは、瓢で柄は竹であつた。軒に幾つか乾してあつた中から、目の前で一つ取下して側を三分一ほど切捨て、無造作に穴をあけ柄をすげて呉れた。これと同時に木杓の混柄なる物も決して想像し得ぬことはないが、かの竹芝の長者が酒甕の上に引掛つて、東吹けば西へ西風には東へ、ぶら／＼と動いて居たと言ふ比佐古だけは、どんな事があつても奈利比佐古で、しかもまだ青い未製品の夕顔棚ではなく、手に採れば直に酌まれる(260)酒の杓であつた故に、旅に在つて殊になつかしかつたのだらう（更科日記）。

　今日に於ては、語の上からは一段と瓢に近い所謂柄杓よりも、名前の由縁の更に遠い杓子の方が、形に於ては却つて本の姿を多く遺して居るのである。材料の儉約から言へば、柄を別にして置くのは雙方共に便宜であつたかも知れぬが、水を掛む器の方は特に其形を大きくする爲に、いよ／＼「ひたえ」のものを得ることが難くなつたらしい。これも亦、家用水の歴史に伴ふもので、飯の變遷に劣らぬ面白い問題である。泉を控へ筧を引き、さては軒近い小川に掬んだ時代には、許由《きよいう》が携へた程の比佐古一つで事足りた人々も、或は谷に下つて遠く汲み、乃至は五戸七戸の間に井を掘つて水を貯へるやうになつては、桶に棒を通したやうな大きな柄杓も用ゐねばならず、足場によつては跪いて柄の短い杓を使ふことが出來なかつた。これに反して家の内で使ふ器には、大きな物を別製する必要のなかつた上に、今一つは水でない飲食には中央に柄が通つて居ては不便な場合が多かつたと思はれる。そこで二種の比佐古が次第にその形?を分化し、却つて何故にその名稱又はこれに伴ふ俗信に、若干の共通點があるのかを、訝らねばならぬ迄になつたのである。

　

　　　　　　　四　杓に付ての俗信

　

　我々に取つては最早當然の話であるが、今では別物とより見えぬ杓と杓子の俗信が似て居るのは、少なくも之が近世に始つたのでないことを認めしめる。例へば信州に於て柄杓を擔いであるくと雨が降ると言ふのは、或は水を飜す形と同じだからとも言へるか知らぬが、同地方で杓で水を飲めば物忘れをすると言ひ、或は石見國に於て、同じ行爲の制裁として杓のやうな子が出來ると言ふ類は（以上三件諺語大辭典）、共に杓子を嘗めるなと言ふ誠めと、元一つであつたことを疑はぬ。紀州粉河の杓藥師に於て、小兒の皮膚病の厭勝《まじなひ》に、杓に符字を書いて堂の内へ納めることは、逸(261)木清流師これを報ぜられたが（郷土研究四の一二一頁）、駿州三穗松原の子安神の祠でも、安産の願掛けの報賽に底を拔いた柄杓を獻じたと言ふことで（駿國雜志二四上）、これ亦子供の守護者が杓子のみを以て神�ｺ宣傳の具とせられなかつた例證である。殊に安産の願ほどきに杓の底を拔いて納めたと言ふのは、杓子の破損を以て身内に兒の生れる前兆とする習とも似た話で、東京の近郊で今も折々見る同種の供へ物の、小さな曲物《まげもの》の輪を幾つか括り合せて一見何とも分らぬものや、或は古椀｜焙碌《はうろく》などの底を拔き、甚しきは穴のある小石を拾ひ集め絲に貫いて上げる類、通例聾の祈願に限るが如く信じ、又は願事の透るやうにと言ふ意味だなどと、末世相應の理窟を附けて居るものも、或程度までは本意を尋ねてこれに到ることが出來るやうである。これに就て思ひ出すのは、瀬戸内海の沿岸では船幽靈の畏怖が今もなかなか強い。水で死んだ者の亡魂は仲間を引込んで自分の苦難を助からうとする爲に、往來の船さへ見れば杓をくれ杓をくれと叫んで止まず、これを遣ればすぐに水を汲込んで其船を沈めてしまふ故に、かねて澤山の底拔け柄杓を用意し置き、彼等の希望に應じつゝ其害を被らぬ算段をするといふ。亡靈がこの樣な詭計に乘るほど淺慮であるならば、さ程怖れるにも及ばぬ道理であるから、察するにこの風習よりも後に作られた説明である。現に尾州知多郡の海上などでは、「あやかし」を鎭めるには柄杓を多く投ずればよいと言ふ話はあつて（秉穗録三篇上）、別に其杓の底を拔くとは見えぬ。十二月晦日に舟を浮べると殊にこの患があると言ふが、自分が以前伊良湖崎邊を旅行した時は、盆の十五日にも同じ理由で出船を戒めて居るのを實驗した。盆暮二期節は共に聖靈を送る日である。しからばこれに柄杓を供するのも、本來は魂の宿りであつたことが想像出來る。

　中山君が曾て報告せられた足利地方の一習俗は、この關係に於て甚だ重要なものである。他の府縣にも、これに似た例があるか否か、自分は是非ともこれを明らかにして置きたいと思ふ。同君は曰く、「足利郡福居などで、死者のあつた家では籠又は笊を座敷中轉がし、其に杓子を附けて野中の道に棄てる」ことがあると（郷土研究二の六二頁）。之をその病人の爲に神佛に祈願をかけて效のなかつた場合に限り願果しの代りに行ふと報ぜられたのは果して如何か。(262)喪家で驅靈の法として籠などを轉がすのは多く聞く例で必ずしも願掛けと終始せぬやうに自分は思ふ。この場合特に注意したいのは杓子を附けてこれを野外に棄てる點である。即ち死人の靈をして杓子に依らしめたかと思はるゝ點である。ネフスキー君が陸中遠野で聞いて來られた例では、新佛は三年の間は盆にも家に來ることは出來ぬが、唯代りを墓場に置いて來れば來られるといふので、その三年の間は盆ごとに墓場に瓢箪を持つて行き、これを代りに置いて聖靈を迎へて來ると言ふことであつた。死靈を怖れてこれを驅逐した昔の魂祭が、次第に送るよりも迎へる方に重きを置くやうに變化したことは、夙くその大體を述べたことがある（郷土研究二の二二七頁）。各種の比佐古がこの場合に用ゐられたと言ふのは、今の説明は何とあつても、魂の入れ物と言ふ意味を離れてはその起原を想像することが出來ぬ。

　

　　　　　　　五　採物の比佐古

　

　杓子の變遷を語るにつけて、こゝに又興味ある一の舊話がある。伊勢では宇治の浦田町に、瓢箪屋と言ふ曲物師があつた。この町に於て杓を賣る商人ども、毎年一二の柄杓をこの家に納めこれを運上と稱して居た。是はこの家が御笥作《みくしげづくり》内人土屋氏の下職人であつた遺例で、瓢箪屋と言ふ名も匏《ひさご》より出たのだと言ふ（郷談）。杓の製作が曲物師の手に歸した時代又は事情は誠に知り難いが、近江でも杓子師の出た小椋（ノ）庄は昔の繪物（ノ）庄の地に接し、且つ職業上の關係があつたらしい。即ち奈利比佐古が既に上流の調度から退けられて後にも、何かの仔細があつて、かつて之に伴つて居た俗信だけは彼等へ傳はつたのである。強ひて解を下さんとすれば空想に流れるが、先づは其ほど間斷なき應用のあつたものと言ひ得るのである。松本地方の歳神樣の饌米入れは、必ず新しい柄杓の柄を拔いた物に限つて居たと言ふことなど（郷士研究四の六二一頁）、自分には偶然の仕來りとは思はれぬ。曲物の用途は勿論至つて廣かつたが、就中神祭に關聯したものは、近頃のブリキや瀬戸引の流行に及んで、始めて終りを告げたものがなか／＼ある。旨人(263)仲間の嚴重なる儀式であつた春秋の石塔會に、花紅葉の枝を立てゝこれを結び附けたと言ふが如き例は（年中行事大成）、恐らくは亦遠く採物《とりもの》の昔にまで溯り辿るべき風習であらう。神樂の採物は人も知る如く八種あつた。或は「葛《かづら》」と「韓神《からかみ》」とを加へて十種なりと考へた人もあるやうであるが（顯昭古今集註二十）、この二者に至つては「皆手に採る物なり」とある説明に合はぬ。これを外にしては榊と篠との天然の枝、或は神を降し申す者に缺くべからざる「みてぐら」即ち御幣、次には是も御手代《みてしろ》の徽章とする忌枝《いみえだ》、これに弓と劍と鉾の三武器を加へ、殘る第八が杓即ち比佐古である。この比佐古の奈利比佐古でなかつたか否かは、杓とある文字だけからは決し難いが、その柄のある杓であれ瓢箪であれ、何故にかくの如き物品を以て人長《にんちやう》の神に近づいて居る合圖としたかは、たゞ自分の假定を以てのみこれに答へることが出來る。後世の杓子舞・杓子踊、或は所謂十二神樂の山神の杓子などが、鉢屋法師の叩く「ふくべ」さては椀久の話の始めかと言はれた「かしく」坊の瓢箪念佛などと無關係ではなかつた如く、瓢を以て祭の行列の中心とすること、恰も多賀宮で大杓子を渡すのに類した例も稀にはある。丹後峯山附近の四箇所の神社で、八月二十六日の察禮に「さゝはやし」と稱へて居た儀式などはその一つである。「しんほち」（新發意？）と呼ばるゝ一人、白帷子に袴、網笠に襷掛けで團扇を持ち、長い瓢箪を笹で包み竹に差し、赤青白の紙を以てその竹を包み、七八人の子供の太鼓の囃の中に、これを持つて練りあるいたと言ふことである（丹後中郡風俗問?）。世間竝みの人間の子供が、短期の物忌をしたと言ふだけでは直ちにその者を神の依坐《よりまし》と信ずるには不十分な事情もあつたと見えて、或時には笠を着せ面を被せて能ふ限り俗界と遮斷せんと試みた如く、又或時は兼て聖視して居る物件をこれに附與して、先づ本人をして自ら其の靈體なることを感ぜしめんとした方法は色々あつた。その中でも人形と魂筥《たまばこ》とは最も具體的なる手段として、如何なる田舍人にも容易にその作用を解することが出來たらしい。丹後で近代まで行はれて居た比佐古の採物の如きは、この二つの任務を兼ねたもので、外形が人に近き爲に紙の衣を着せ、内部が「うつぼ」なる爲に神靈入り宿ると見たものであるらしい。

　

(264)　　　　　比丘尼石の話

　

　　　　　　　一　次第

　

　村に年久しき池又は泉がある場合に、我々の祖先は實に意外なる名前と傳説とを、これに附與して居つた。國々の祖母井《うばがゐ》・姥ヶ池・姥ヶ淵などはその一例である。單に或老女が、曾て水の邊りに住んだと言ふだけなら、まだ後世の推測だと見られるが、多くの同名の池等に於ては姥と童兒と老幼の二人が、入つて死んだなどと説くのである。念佛水もしくは「うはなりの湯」と稱して、人が一定の語を唱へると、忽ち水が湧き上るなどと謂ふのは第二の例である。これにも信州江尻在の姥ヶ池のやうに、大小二つの靈魂の水に宿つて居ることを傳ふるものがある。而もこれらの全國に分布した話が、常に必ず或一部分の相異と、又或一部分の共通とを具へて居るのは、果して何事を意味するものであるか。

　自分だけはかう言ふ風に考へる。元來は其泉に關聯して、至つて單調なる記憶だけが遺つて居た。愚直なる人の口吻を以て言つて見れば、「何でも昔子供をつれたウバが、こゝに祭られて居たと言ふ話だ」これくらゐの所であつたらうと思ふ。それのみでは何分話に成らず、しかも昔の人は話を好んだ爲に、特に誰の力と言ふこともなく追々に尤もらしく語り傳へたものかと思ふ。だから氣をつけて見ると、傳説にはそれ／”＼時代の香がある。主人の愛兒を殺して(265)申譯がないとて、乳母が飛込んだのを感歎したのも、城が落ちて落人の母子が殺されたのも、乃至は木母《もくぼ》寺の梅若のやうに、上臈が物狂ひになつて兒を慕つて來たと言ふのも、各社會の趣味を以て彩つた染め模樣に外ならず、たゞ、これを一貫した一種の情愛、形を變へて小兒の無病成育を?る信仰と現れたものが、滔々たる人世の忘却を免れ得た、古い何物かの破片とも見られる。書いた物の勢力が今日より小さかつた時代には、民間の話は縁起や紀行を離れて又變化する。暫らくして再び來て見れば、面白い位に外形が改まつて居る。その一つの最も著しい實例が、江戸の眞中の淺茅原にもあつた。

　

　　　　　　　二　石の枕

　

　淺草寺では安永六年の三月二十日から六月一日まで、境内神佛の總開帳があつた（一）。一千年前の石の枕も、この時再び大いに世にもて囃されたらしい。觀世音の今の縁起に、靈寶磐居の石枕と稱する物と、果して同じであるか否かは確めにくいが、その開帳に於ては、これを姥石と名づけて見せたやうである。萬一にも眞物であつたとするならば、湛念な採集者もあつたものである。一つ家《や》八鬼婆が世を去つて後、久しからずして荒れ屋敷となつただらうから、その遺跡に來て、これがあの枕だと謂ふには、いはゆる鑑定が必要である。今も昔も鑑定家は大膽なもので、現にその靈寶を見たと言ふ當世の人の中にも、なあに古墳から出る石器だよと、謂つた人もあるさうだが、是とても感心したい人しか感心せぬ説である。枕の恰好に近い石もそこらに隨分あるだらう。我々は寧ろ或一つの石に名があつて、それが姥石であつたことに注意したい。淺草では沙渇羅龍王《さかつらりゆうわう》の化けた姥、磐居と磐融との二つの石を以て、旅人の頭をひしぎ殺すと謂つて居る。さうして一方の石しか殘つて居らぬのである。全體寢て居る旅人を殺すには、石の枕が既に大仕掛な話である。その上にどうして今一箇の石まで、用意した如く考へ始めたものか。この方がよつぽど不思議(266)である。しかも尾州石枕の里の俗傳にも、枕の下に石を置き、槌を取り首を碎くとある（二）。北會津の荒井村の姥子屋敷にも同じ類の話があつて、これには老女ばかりが二人住み、かうして旅の者の命を縮めた。

　　　荒井小松に宿とりあるな、石の枕に槌一つ

と言ふ唄も永く傳へられたが、その槌も石の槌で、小松の部落に在つて早く紛失し、石枕ばかりが荒井には遺つて居た（三）。どう言ふ形か、大きいか小さいか、それが分らぬから話がしにくいが、枕と謂ふ以上は中凹みの、やゝ平たい石ではあつたらう。石を枕にする風習は日本にも確かにあつた（四）。又、人を葬るのに石の枕をさせたことも、久しい間であつたらしい。たゞ淺草寺又は會津の姥子屋敷に在る石を、それだと斷定するには、ちと證據が足らぬ。すでに鬼婆の殺人事件をあつた事とすれば、多數の石が枕らしくも見えるであらうし、ない事とすれば愈々以て轉がつて居る理由が分らず、更に又死人の枕になる石があつただけでは、こんな怖しい話は發生しさうもないからである。これは何でも姥石と謂ふから例の枕だらうと、早合點をした人があつた結果に相異ない。その心持ちで今度は姥石と名づけた石の話を、少しばかり捜して見ようと思ふ。

　

　　　　　　　三　關のをば石

　

　姥石には固より色々の形がある。甲州八田の「しはぶき婆の石」などは、何でもない二貫目程の三角石だと謂ふが、他の多くの場合は珍しい姿を以て先づ人を驚かしたらしく、中には明白に人工を加へた石もある。

　日光街道の楡木の宿の西、椴山、一名大師ヶ窪の岡の上に在る姥石は、高さ五六尺あつて四面から四體づゝ、合計十六體の地藏樣が彫つてある。弘法大師大蛇調伏の處と傳へ、即ち大師と姥との因縁話の例である。この外に尚どうした石かまだわけの分らぬ姥石には、上總君津郡の關村字姥石に在るものが有名である。高さはこれも約五尺だが、(267)周圍が二丈八尺で形は八角、上面に穴があいて居る。或は關の御場石と書くべしと言ひ昔この村の關所のあつた時の柱の礎だと稱するが（六）、こんな巨大なものが入用だつたとも思はれぬ上に、現に祭神石凝姥命《いしこりどめのみこと》などと謂ふ姥神樣の祠があるから、ヲバ石の説明は不必要である。但し以前は二つあつてその一を取退けて祟られ、代りの石を南方の山の上に置いたと言つて居る。最近の百年間に重量が十倍したとは、少しく觀察が精密過ぎたが、兎に角に崇拜せられた石には相違ない。この類の石は寺や社に伴つて諸國に在る。何某將軍の旗立石などと言傳へて、それに相應する口碑があるが、實はまだ明白には目的が分らぬ。と言ふのは石に穴を穿ち、乃至は穴ある石を大切にした理由が、必ずしも一通りだけでないらしいからである（七）。

　上總の關の姥石には咳の病を祈つたかどうか知らぬが横濱に近い上星川の釜壇山などでは、上の石塚の上に、これに似寄つた石があつて、風邪や咳で惱む者、その石の苔を採つて飲めば必ず癒え、御禮には竹の筒に酒を入れて供へること、亦淺草姥ヶ淵の信仰に近かつた（八）。而もこれには姥が何した話も遺つて居らぬが、曾て富士の狩の時に、茶を立てた釜壇の石だなどと謂つて、或は次の姥ヶ釜の例を考へ合せると、老女火祭りの跡かとも思はれる。

　姥ヶ釜は播州赤穗郡、有年《うね》から大津へ越える横山の嶺にあつた。六道三遍照院と言ふ寺があつたと言ふ。石を疊んで竈のやうなものを作り、その旁の三四尺の石に、女性が火箸を手に持つた像の彫つてあつたのを、二百年程前に備前の人携へ去ると、その時代の本に記してある（九）。同じ國姫路の城の姥石は、現に繪葉書も出來て居る位の一名物であるが、これが亦中凹の、ちよつと石の枕と謂つでもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも／＼一夜の中に崩れ、當惑の折柄、名も知らぬ老婆現れ來り、臼のやうな小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積上げることが出來たと、現今では説明せられて居る（一〇）。この城の守護神は老女では決してないが、最も威靈ある女性の神であつたことは、この話と共に注意して見ねはならぬ。石を御神體とする姫神姥神は數多いが、その形容を比べて見ることは容易な話でない。

(268)　甲州の逸見には「おみさき樣」の御神體の、中凹の石なる例が正しくある（一一）。同じ北巨摩郡の若神子では、大石神社の東の田圃の中に、巨大なる石あつて之を姥神に祭つて居た。その形?をそつと申すならば、著しく女の或部分に似て居り、土地の人は隱し疾をこれに願掛し、驗あれば小さな腰卷を奉納するの習ひであつたさうだ（一二）。勿論少し位この樣な例があつたとても、あゝ成程などと輕々しく膝を打つてはならぬ。が何事にしても昔の人の感情は粗大であつた。祈年欲求の切なるあまり、時にはこの類の石からも奇瑞を感じ、乃ち其形によつて姥の神靈これに宿るが如く、信じた場合もあつたことだけは考へられる。さうしてわが淺草の石の枕の姥石がこの範圍の中か外かは、よく見なければ何とも言はれず、又決定してしまふ必要は少しもない。

　

　　　　　　　四　姥石と二つ石

　

　淺草の姥石の石の枕は、兎に角に妙音院の淵の近くから、持つて來たことだけは確かであらう。さうだとすれば是まで人の心付かなかつた二つの特性が、やはりこの姥石にも共通に存して居たのである。その二つと言ふのは外でもない。一つには、その石が水の中又は近くに在つたこと、次には、その數が二つであつた點である。後の方は上總の關の姥神石もさうであつたが、なほ一段と言傳への明瞭なのもある。

　例へば武州金澤の稱名寺の境内には、美女石と姥石との二つが、一つは蓮池の中央に、他は池の岸に臨んで在つた（一三）。幸ひにして長々しい縁起談は聞かぬが、瀬戸橋の北の袂の「いぶし島」と言ふ少しの地に、照手松又は「姥が燒きさしの松」と稱する名木があつて、小栗判官の愛人照手姫を、ある老女が松で燻した故跡と傳へて居るのは、多分相關聯する昔話であらう。これと似て居るのは上州神流川の姥石と女房石、共に多野郡｜三波川《さんばがは》村の池に在つて、東と西に相去ること一里半、その中間には兒石《ちごいし》その他の名石もあるが、この二つは相對して殊に秀でて居る上に、姥石の方は(269)昔はこの川の瀬にあつたのを、鬼が盗んで行かうとして途中重さに堪へず、棄てゝ往つた爲にこんなに隔たつたと言ふ傳説もある（一四）。

　川の瀬は通例邑里の境であるから、二つある立岩を天然の境神と拜むことは、峠に二子山の間の路を選び、原野に二子塚を築いて無形の外敵を防いだのと、多分同じ信仰の發現でもあらうが、これを夫婦兄妹の男女神とは考へずに、老若二人の婦人に托したのは、私に取つては意味深く思はれる。その仔細は後まはしとして、更に二三の例を附加へると、東北では磐城の館山村に、大姥石・小姥石の二大石がある（一六）。阿武隈川の中流に竝び立ち、共に水底からの高さ三丈餘と謂つたが、近年幾度かの出水で、どう位置が變つたかを知らぬ。陸前では氣仙郡濱田の姥石河原にも、二箇の老婆石があつた（一七）。陸中でも一關近くの山（ノ）目村に、高名なる一つの姥石がある。これ亦近世には磐井川の川中にあつたが、その前には一時東の岸に聳え、修驗者がこの岩の上に來て雨乞の祈　　　祷をしたこともあつた。さうしてこれに對立する西岸の爺石は、もとは流れの中央にあつたものだと言ふ。この類の巨巖が殊に二つまで通路の衝に立つ場合には、人が氣を附け且つ敬意を拂ふのは自然の事だが、これを姥石と呼び始めた最初の動機は、必ずしも妹背山式の對稱からでないことは、前の大姥小姥等の例からも察せられる。安藝の水内川の伯母石なども、獨身生活で川の中流に屹立し、船頭筏師の最も用心する難所であつた。水の邊に在るから姥石だとするに、何か特別の理由があつて、爺石はこれが相手に後から出來た名ではあるまいか。

　

　　　　　　　五　姥石の怪

　

　美濃の養老郡大墳村、莊福寺の境内に在る姥石は、昔は石の肌が常に人の如く暖かであつた。歌人兼禅僧の徹書記、この國在住の間、これを聞いて、

(270)　　　おほぢ（爺）には逢ふこと難き姥石のさこそ肌のつめたかるらめ

と言ふ一首を詠んだ處、その怪永く止んだと謂ふ（一九）。こんな歌ぐらゐで止むやうな不思議では、最初から大した事でもなかつたのかも知らぬが、どの地方の姥石でも、概して勢力の衰へたものか、さ程こはくない不思議ばかり多い。

　例へば東部讃岐の石田村に於ては、姥ヶ石はあつても由來がよく分らず、寧ろこれに關連して細川民部大輔國弘の強勇譚だけを殘して居る。文禄元年の十二月、國弘山に遊びしに老媼あり路を横ぎる。すなはち大石を取つて投付けると、媼は飛び去り石のみ姥ヶ石と稱して今も轉がつてある。又尾崎と言ふ處に行くと、小僧が二人顯れて國弘を苦しめんとした。これもあべこべに、その咽首を拉《ひし》ぎ池に投込んだ、その池を葦迹池と謂ふとある（二〇）。折角の話をけなすでもないが、几そこのくらゐ無理な名の附け方もなからう。婆さんが前を切つたと謂つて、岩を投付けるのも牛刀なれば、姥に投付けたから姥ヶ石と呼ぶ筈もない。察する所、兼て細川氏の強力を知りながら、これを試さうとした變化のもので、飛び去つたと謂ふからは山姥であつたらうが、殘念ながら今では作り事をするより外に、筋の立つた話を聞かれさうにもない。さうして今の内に注意して置かぬかと、當世風に尤もらしい話が、果して色々と出て來ぬとも限らぬ。

　壹岐は誠に窮屈なる島國であるが、海に臨んだ立石村の潟長江には、百間田と稱して長さ二町以上の大きな田がある。この田のまん中に横たはる姥石は、長さが九尺六寸横四尺餘で、別に三尺ばかりの石が其上に重なつて居る。昔、高麗國から、スマンカクセイと言ふ名の女性が來て、この百間田の石の下に隱れた。仍てこれを姥石と稱すと言ふ。もとより人の匿れ得るやうな石でもないが、昔はどうであつたかと、「名勝圖誌」の著者は疑つて居る。しかし以前の日本人には必ずしも、これは疑ひでなかつた。或石には魂があること、及び人に宿る魂は又他の物體にも移り得ることを認むれば、全く我々の引越し見たやうなものである。しかも高麗から渡つて來た女性と言ふのは、多分は巫女であらうから、そんな事は御手の物である。怨み憤つて死んだ者の靈が石と成る話。或は又石を神體として或人の靈を(271)祀つたと言ふ話を、あり得べからざるやうに考へ始めた者が、頻に人間の化石談に耳を傾けんとしたのは、五十歩百歩の譬の通りであつた。自分は、先年肥前の田島神社に詣つて、松浦佐用媛の望夫石を拜して來た。久しく想像して居た立ち姿とは似も付かぬ、他の地にあつたら龜石とでも呼ぶべき中高の石であるのを、なほ泣き伏したまふ御形のまゝなどと、神官たちは肉身の化石のやうに説いて居た。さうまで骨を折らずともと思ふやうであつたが、これ亦聽き手の時代が承知をせぬのだから仕樣があるまい。多數の姥石の歴史は、かうして益々荒唐無稽になつて行くやうである。惜しい話である。

　

　　　　　　　六　姥捨山

　

　會津の磨上新田《すりあげしんでん》の媼石は、或時代に毎晩女に化けてあるいたから、媼石と謂ふのだと傳へて居る（二二）。姥の魂が石に成つたと言へば、出るのも入るのも自由だから、これも同じ系統の話と見られるが、強ひて化石の説明を信じようとすると、この石などはたゞの妖怪談に歸してしまふ。岐阜の瑞龍寺の山の姥石は、姥の坐した形で、その前に苧桶石《をごけいし》と言ふ石もあると謂ひ（二三）、駿河の瀬戸新屋の臼祖母石は、人の口を開いた形をした大岩で、誤つて足を掛けた者は瘧《おこり》をふるふと信ぜられた（二四）。甲州では北巨摩郡祖母石村の祖母石、形は老女が頤を支へて坐つた處に似て居るが、高さが一丈以上で周りが十二間もある。何れもどの位よく似た形でも、かう大きくては人が化してこの石に成つたと言ふことは出來ぬ。さうすると全く別の話になるのである。山の峯や岬の端にある姥石で、遠くこれを望んで松浦小夜姫同樣の物語を説いて居るものでも、仔細にその寸法を測量した結果、これを聽く人をして徒らににやりと笑はしめて止むに至るのは、要するに化石とする方が幾分か尤もらしからうかと思つた結果である。姥の靈は屡々池や淵の水にも宿つて居るのである。さう窮屈に考へてしまふべきものではなかつたのである。

(272)　名所の昔話はあまりに旅人がこれを珍重し、土地の人たちも成るべく歌になるやうに話す故に、とくと考へると却つて合點の行かぬものになりがちだ。而もその弊は近頃に始まつたのではない。信州の姥捨山の如きは、既に古今集の中に「我心なぐさめかねつ」と言ふ一首があり、これに基づいて大和物語其他の古書に、女房にそゝのかされて伯母を棄てたと言ふ話が、さもあつた事の如く喋々せられて居るが、土地では必ずしもその通りには傳へて居なかつたらしい。汽車で通つた人は知らぬ者もあるまいが、あの停車場よりもまだ下の方に、高さの六七間あるやゝ角張つた一つ石が、姥石と稱して立つて居る。姥捨の峯から言へば、ほんの麓の口で、いはゆる田毎の月の田の畔である。こゝで置き去りを食はしたのでは殆と話にならぬが、やはり實地を見ない京の人の間には、捨てられた老女がこの石に成つたと謂ひ、或は又小山を隔てゝ今一つ、棄てさせた嫁の母も石に成つて居るなどと傳へ（二五）、一説には伯母の怨念この石に化したとも謂つたのが、隨分と夙くからのことであつた。しかし姨捨の地名を説明した元の話には、石の事は一向ないのだから、二種の傳へを一括することは容易でない上に、その姥捨と謂ふのが右申す如く、老女の形にも何にも似て居らぬのだから、さうでなくても書物を信じやすい世間の人は、あの岩の上に置いて往つたのだらう位に、手輕に斷定して去つてしまひ、結局遺跡と縁の深い方の姥石傳説は、も早あらまし消滅しようとして居る。是も亦松浦の望夫石と同じく、化石の話が煩をなして居るので、損害は獨りこれ一箇の名所だけのものではない。

　そこで自分が少し考へて見ようとするのは、一寸した引掛りであるが第一にはこの山の附近に、今一つ女の石になつたと言ふ例のあること、二つには姥捨と言ふ奇拔な地名が、更に一箇處大和の金峰《きんぶ》山にもあつて、いらぬ老人を處分したと言ふ話以外に、何か新しい語學上の解説が、後日加へられ得るやうに思はれることである。

　

(273)　　　　　　　七　石になつたといふ女性

　

　女が石に成つた話は存外に多くある。美作｜苫田《とまた》郡｜香々美《かがみ》中村の繩目石、これは曾て妬深い婦人化して成ると傳へ、これに觸るゝ者には祟があつた（二六）。次には尾張知多郡内海村の姥撻石《うばはりいし》、澁谷金王の足跡石と言ふのと、二つ竝んで居る。源義朝が長田の爲に欺し討ちに殺された時、從者の金王は何も知らずに漁に往つて居た。主人の大事と聞いて此處まで馳せ還り、老女に逢つて樣子を尋ねると、もう夙に殺されてしまつたと言ふので、悔恨の餘りにその婆を撻つた所が、忽ちにして化して石と成るとある（二七）。迷惑至極な話であつた。どうしてその樣な原因結果があるものか、まだ何とも説明に能はぬ。しかし此等一二の異例を外にして見れば、他の話には極めて著しい幾つかの共通點がある。

　その一つは、これ等の石が更科の姥石と同樣に、多くは或山の登り口に在ることである。津輕の靈山岩木山の姥石の如きは、説經祭文で有名な安壽御前の乳母、姫を慕うて登らうとして、此處に於て石に成つたと謂ふ（二八）。安壽對王二人の孤兒の物語も、やはり淨瑠璃などで泣く分は土地の話と大ちがひで、姉は山椒大夫と言ふ強慾な長者に、丹後の由良の湊で殺され、弟ばかり後に出世をして敵を打つたと傳へて居るが、津輕富士の神話にあつては、姉弟ともに還つて來て、大坊の鎭守熊野權現の獅子踊を見物し、弟が疲れて假寢をして居る間に、姉の姫竊かに先づ登つて、この山の神と成つたと謂ふのである（二九）。これを一つの事件の裏表と見ることは、殆と不可能かと思はれるにも拘らず、強ひて融合させて今では岩木山の女神が、曾て世に在つて由良で苛められたものと解釋し、丹後の船が十三の港に來て繋ると、天氣が荒れるなどと言ふ俗信まで出來た（三〇）。凡そこんな風に話は變化して行くものなのである。

　私の見る所では、山椒大夫は室町期の小説に、幾らも型のある人買ひの話、及び親子兄弟の生別れを材とした、一向平凡なる脚色であつて、文句や節には永く殘るだけの面白味があつたのか知らぬが、他にはこれと言ふ歴史上の背(274)景もなく、強ひて奧州との關係を言へば、父を五十四郡の元の領主、岩木判官正氏と稱する點であるが、それが又出鰐目である（三一）。但しそんなら何もかも、皆昔の大夫たちの作り事かと思へば、奇妙な事には淨瑠璃の方でも、やはり安壽姫等の乳母と言ふ女性が、格別用もないのに出て、さうして死んで居る。寛永板の飜刻かと言ふ正本には、「御めのとのうば竹」御供をしてと唄つて居り（三二）、他の書物にはその名を宇加竹《うかたけ》とも傳へ（三三）、この女ばかりに特に注意をして居るのは、何か仔細があるらしい。また岩木一族の人買ひ船に賣られたのは、越後の直江津でと言ふことにしてあるが、その附近の居多村の鎭守を、古くは姫嶽明神と稱へて、この乳母の「うばたけ」を祀つたと謂ふ説がある（三四）。察するにこの語り物が自由に趣向を立てた當時、既に日本海の船乘り等の間には知れ渡つた岩木山の舊話があつて、乳母が石に成つたと言ふ奇拔な一條が其中にあつたので、丸々これを無視した淨瑠璃も、作ることが出來なかつたものであらう（三五）。越後の媼嶽明神は、勿論津輕からの勸請ではあるまいが、恐らくは信仰に一部が似て居た爲に、つひに人買ひの悲劇までが、この近海を舞臺とするに至つたので、要するに山の神に姥石を結び付けた二箇の例が出合つたものだらう。

　媼嶽の最も有名なのは、豐後と日向の境に在る山だが、その事は後に折を見て言ふことにする。それとも亦大いに懸け離れて、東京の近くにある一例をこゝには言つて置く。飯能の町から近い上直竹村の淺間社は、關東によく見る模造の富士山であるが、參詣路の中腹に媼ヶ嶽と稱する地點があり、それから上は婦人を登らせない。昔或老女が禁を破つて、強ひて上らうとして石に成つたと言ふ話がある。媼ヶ嶽の名はこれから起ると傳へて居る。一つしかなかつたならば、これもやはり不可解なる怪談と見るの他はなかつたのである。

　

　　　　　　　八　姥石と女人結界

　

　陸前｜氣仙《けせん》の五葉山は、あの地方での名山であるが、亦一箇の姥石があつた。ある老婆が女人禁制を破つて、無理に(275)登らうとしてこの石に壓されて死んだ。それで姥石と謂ふ話になつて居る（三六）。恐らくは石の形が大きくて人に似ない爲に、石に化したと傳へても信ぜられなかつたのだらう。磐城相馬の姥澤山の中腹にも、一つの姥石があるが是は由緒をまだ聞かぬ。

　次に越中立山にある姥石、これは誰でも老女の化石として評判するが、果してそれ程精密に似て居るかどうか。殊に由來記の區々であることは驚くばかりで、或は「あぶらか」左衛門なる者の乳母、登山して石に成ると謂ひ、或はこの山の開祖佐伯有瀬の繼母藤波と謂ひ、又或は若狹｜小濱《をばま》の老尼、其名を止宇呂尼《とうろのあま》と謂ふ者などとも傳へて居る（三七）。それは誰であつたにしても結界を破つて山の清さを穢さうとしたのは同じで、その制裁に額に二本の角が生えたとも謂ひ、現に社の寶物の中にその角があつたとある。あんまりだとは思ふが、信じ難いのは何もこれ一つでもないから黙つて居る。而もこの越中立山の一例によつて、頗る啓發せられる點は、乳母でも老女でも又は比丘尼でも、等しく化して石と成り、その石の名が姥石である。即ちさう若くもない女性なれば皆ウバで、かの姥捨山の窮屈な物語のやうに、假名ちがひで行きづまるやうに狹い姥石ではない。さう考へて進んで行くと、一體どんな種類の婦人が、山に半分登りかけて石に成るかの問題は、やがて又何故に池や泉に姥の名を呼ぶ者が多いかの、答をも導いて來るやうである。

　例へば姥捨の姥石から山一つ隔てゝ、よくない甥の嫁の母親も一つの石に成つて在ると謂ふのと、同じかどうかは明白でないが、眞の姥捨山はこの山と稱する冠着山《かぶりきやま》の麓、羽尾と言ふ村には、比丘尼石なる岩があつて、昔はこれから奧へは女人を許さなかつたのが、今では轉じて嫁入りのこの側を通るのを戒めて居る（三八）。高さも幅も四尺ほどの野石で、周圍を石垣で圍うてある。比丘尼が石に成つたと言ふ話は聞かぬが、而もこの山と、深い信仰上の關係のあつたらしい戸隱山の方では、鳥居川の邊の中院と言ふ地に、また一箇の比丘尼石があつて、その傍に女人堂あり、こゝを女人參拜の限りとして居たのみならず、曾て結界を破つた尼が、この石に成つたと傳へて居る（三九）。

(276)　羽後の靈山八澤木の保呂羽山《ほろはさん》では、權現の社家大友氏の舊記に、守子石の由來として同じ話を遺して居る。これも同じく山中に在る石で、曾て禁を犯し強ひて登つた守子、神罰によつて忽ちこの石に成つたと謂ふ（四〇）。モリコは東北地方に活動する一種の宗教職業で、處によつてイタコとも謂ひ、男で言へば山伏の如く、神佛二道の中間を行く祈?者である。

　日光の中禅寺も、以前は立派な女人結界であつた。馬返しよりはなほ奧の方、大尻或は不動阪と言ふ邊に、やはり神子《みこ》の化して成ると言ふ神子石があり、古い書物にはこれを亦守子石とも記して居る（四一）。日光でも昔はモリコと呼んで居たものらしい。その神子も押し強く男體山に登らうとしたのを、女人は禁制だと制せられたにも拘らず、我は神に仕へる者だから只の女でない。もし又土を踐《ふ》み穢すが惡いとならば、牛に乘つて登ればよからうなどと理窟をこね、ずん／＼行くうちに牛がまづ牛石になり、それを叱つて居ると思ふと、やがて又一つの神子石が出來たと謂ふ。

　佐渡の金北山大權現は、本地勝軍地藏で別當が眞言宗の眞光寺、この島第一の高山にして又女人禁制である。或巫女、自分は神職だから宜しいと、強ひて登山をする間、風雨雷電あり、忽ちその女の行方を失つた。それ以後山路に見馴れぬ大岩が一つ出來た。頭は婦人の髪を結つた形なので、今にこれを巫女岩と呼んで居る（四二）。

　海を越えて羽前の莊内にも、よく似た話が猶二つある。その一つは月山《がつさん》の中腹、小月山から登つて行く路にあるミコ石、或は皇子石と書いてこの山開山の蜂子皇子、この岩の上に魔障を加持したまふなどとも謂ふが又一説ではやはり巫女の結界を破らんとした者、こゝに到つて脚痺れ進む能はず、乃ち此石となると謂ふ（四三）。第二には莊内六名山の一なる金峰山、今から二十年餘り前までは、女は石に成ると信じて一歩も登る者がなく、現に社務所のすぐ上の路傍に、昔の巫女が罰せられてなつたと言ふ大岩があつた（四四）。この金峰山も大和の本山と同じく、藏王權現を祭つた山であつた。武藏の内にも更に尚一つ、秩父の兩神《ふたかみ》山の山路富士見阪にこの話がある（四五）。碑文も何もない自然石の立つて居るのを、或は一位墓とも稱へで居るが、そのイチヰが巫女の別名たるイチの誤りであることは、同じく、結界を破つた巫女が(277)成つたと謂ふのを見ても察せられる。

　

　　　　　　　九　姥登山の同行者

　

　中禅寺舊道の神子石牛石と殊に似て居るのは、これも羽後の一名山、赤神山のイタコ杉犬子石である。曾て一人のイタコ、犬を牽き連れ、押して女の登られぬ嶺に登らうとして、やはり忽ちにしてその杉、その石になつたと謂ふ（四六）。他の山々では何れも石であるのに、これだけが樹木である點は亦一變化である。しかし是とても決して類例を有せぬのではない。現に越中立山の姥石の話にも、これに伴つて女が樹に化したと言ふ美女杉・禿杉の話がある。止宇呂の尼、立山に登るに、壯女と童女各二名を連れて來た。姥が石になるに先だつて、壯女忽ち杉の木に化す。これを美女杉と言ふと古い本には書いてある。童女の方はどうしたか不明であつたが、近頃は何の都合でか同行者を一名に減じ、或は八百比丘尼の從妹加牟呂とか、或は佐伯の繼母の腰元禿とか謂つて、加牟呂杉の由來をのみ語つて居る（四七）。禿は女童のことゝ思はれるから、或はもと二本あつた杉が一本枯れ、かくの如き合體を見たのかも知れぬ。何れにしても石に化したのでは、形や寸法を問はれる心配があるが、樹木なれば自由なもので、さうして又昔の思想に近いのである。

　處が又加賀の白山の方を尋ねて見ると、立山と殆と瓜二つと言つてもよい程の話があつて、しかも同行の美女は杉にはならずに、美女石と言ふ石に化して居る。繰返しに近いがざつとあらましを述べると、昔白山の麓の瀬戸村に、融《と托る》の婆、入道して融の尼と言ふ女住み、法術祈?を業とし兼てよき酒を造つて富を得た。或時白山に登つて酒を諸國の參詣者に賣らうと思ひ、美女を連れて中腹まで登ると、山神激怒して風雨鳴動し、見る／＼若い女は石になつたのを、なほ怖れずに進むうちに、終ひには自分も石になつてしまつた。今の姥阪の姥石即ち是である云々（四八）。この地と美(278)女岩阪との中間に、甕破《かめわり》阪と言ふ地があつて、老女持參の酒甕がそこで碎け散つたと傳へて居る。

　一から十までまるで同じなら、或は、一方が眞似たと言つてもしまはれようが、要點がよく似て端々に差異があり、しかも各々その山の現實と符合して居るのはどうしてか。殆と凡慮の解釋し得る所ではない。その上に更に驚くのは、今一點の奇拔なる共通である。日光でも神子が罵つたと謂ふが、立山では童女の怖れて進まぬのを、尼が小便をしながら大いに叱つた。その小便の跡と云ふのが偉大な穴となつて殘つて居り、名づけて叱尿《しかりばり》と謂つて居る。白山の登り路でも伏拜《ふしをがみ》よりずつと上手に、大小二つの呵責溺があつた。他の地圖には柴刈塹とも書いて居るから、やはりシカリバリで、その跡が塹《ほり》のやうであつたと知れる。この方では雲霧の中から山の神が大いに叱り、これを嘲つて融の姥が尿をしたことになつて居る。この樣な儚い又人の聞きたがらぬ點まで、如何にして類似を見ることになつたのか。

　三河の鳳來寺山では立白二山の如き若い同行者の話はないのに、やはり岩の上で罵つて尿をした遺跡と言ふのがあるさうである（四九）。この山の巫女石の由來は、少しばかり他と異なつて居る。大昔開山の利修仙人、巖窟の奧に在つて修行して居ると、淨行尼と言ふ尼が尋ねて來た。七日の間この岩の上に立つて待つたが、女人を忌んで利修は終ひに對面せず、尼は大いに怒つて岩を碎いて尼谷へ投げ込んだ。その地を今も尼の行道と呼んで居ると謂ふ（五〇）。

　

　　　　　　　一〇　名僧と老女

　

　如何に神秘の山の法則でも、人を石にするのは些しく酷に失するの感がある。殊に姥石の多數はあたかも女人禁制の結界に立ち、その地點までは後世でもたゞの姿をすら許して居るのに、言はゞ信心の巫女・比丘尼を化石させるとは聞えぬやうであつた。又姥の方としても、その樣に抵抗してまで登りたがる動機も分らなかつた。そこで猶色々と尤もらしく説明しようとした人がある。岩を谷底へ突き落したと言ふなども、低い處にある姥石に理窟を附けた一方(279)法ではなかつたか。

　越前の越知山は泰澄大師の修行を始めた山である。この山では同種の大岩に夜泣石の名を與へ、今も眞夜中には聲を立てゝ啼くと謂つて居る。或尼が我も佛の御守をする者だからと、無理に結界を超えて入込まうとして、忽ちに谷の大岩の下に投げ落されて死んだ處と謂ふ（五一）。泰澄在住の時のことださうである。この尼と大師との關係は勿論分らぬが、別に白山三箇年の山籠りの間に、大師の御母が逢ひに登らうとして、中途で妨げられた話が殘つて居て、この點も亦越中立山の開山の母の話と近いのは珍しい。越前平泉寺の縁起に依れば、この方面から路を四里ばかり登つて、七難の岩と言ふ處がある。大師の母、これまで歩んで來ると、急に風雨夥しくして岩が二つに割れ、呆れ彳《たたず》んで居ると泰澄神通を以てこれを知り、飛ぶが如くにその場に馳せ付け、これより上は佛菩薩影向したまふ所、女の御身では叶ひ申さず、その代りには妙理權現授けたまふ所の女人禅定の印文、同じく即身成佛の曼陀羅、これを進ぜますから御還りあれと言ふにより、老母はこれに從つて二物を受けて山を降る。後果して百年の齡の末に、往生極樂の素懷を遂げたと謂ふ（五二）。この話は言はゞ平泉寺の銅版曼陀羅の廣告見たやうなもので、その爲に末は目出たしで結構に納まつて居るが、やはり一箇の姥石傳説であつたことは、女人の登山を戒める爲に、風雨大いに荒れて岩が二つに裂けたとあるを見てもわかる。

　江州伊吹山の寺ヶ嶽にも、同種の話があつて石の名を手掛岩と名づけて居る（五三）。この山は役行者、それから行基菩薩が相ついで修行に入つた仙境で、麓には三の宮女一權現の社なども祀つて居るに拘らず、山六分目の大平と言ふ處から上は、里の女は相戒めて決して登らず、それから更に進んで七分目の處に、右の手掛岩は在るのである。これも一人の比丘尼が、曾て無理に登山しようとすると、この邊に於て雷電震動しその尼は死んだ。苦惱の餘りにこの岩に手を掛けたと謂つて、五本の指の痕歴然と殘つて居る。この比丘尼も亦何が爲に、天氣も考へずに是非登らうとしたか不明だが、高野の山ではあたかもよく似た石の話に、やはり弘法大師と母夫人との關係を語ること、白山の泰澄大師(280)と一樣であつた。

　高野の登山路では五十四番の町卒都婆の傍に、捻石と稱して捻ぢつたやうな形の石が立つて居る。八十の老母我子の住む山を見たさに、これまで來たけれども山の掟で許されぬ。悲歎の涙は永く涙川となつて流れ、後の世の人の母に、今の恨みの跡を見せたいと、手づからこの石を捻つたと傳へて居る。但し空海も越《こし》の大�ｺと同じやうに、この地へ遣つて來て母親に對面はしたのである。捻石から僅か上手の不動坂、大師の足の跡及び手の跡が、やはり岩の上に殘つて居る。老女は一念を制し難く、押して登りたまふとならばこれを踏んで歩みたまへと、大師が石の上に脱いで投げた神聖なる袈裟に、なほ足を掛けて進まうとすると、忽ち火燃えて袈裟を燒き盡し、其石は碎け散り、又大龍は火の雨を降らせた。其時大師が親子の情で、大きな岩を押揚げて其下に母を隱し、火の難を救はれたのが押揚石で、今に亦高僧の手の跡が、その面にちやんと附いて居るのである（五四）。

　この類の話は境の石の手の形と言ふことが、最初の種を作つて居ることは確かである。手形は單に證文の上に、我々の印の代りに捺して居たのみならず、誓約の僞りでない驗として、殊に法力の優れた人の所作として、不朽の岩石の上にもこれを遺したと言ふ口碑が多い。同じ弘法大師が惡魔を封じたと言ふ甲州の押手澤、或は陸中岩手の三つ石に、鬼が再び來ぬ證據として、岩に手印を押したと言ふ話など、例は擧げきれぬ程あるのだから、女人を許さぬ山寺の結界の石に、これを説くことは不思議でない。たゞ我々の考へて見たいのは、どうしてそれが一轉すれば老女が石に成つたと言ふ縁起になるか、それよりも猶わからぬのは、各地の姥ヶ池に老若二人の死靈を説く如く、靈山の姥石にも時あつて親子の對面の物語が、附きもなく結び合されてあることである。

　

(281)　　　　　　　一一　部藍尼と役行者

　

　越中立山の止宇呂の尼、加賀白山の融の姥の變つた名前は、更に又大和の金峰山の昔の仙女、都藍尼《とらんのあま》と共通の起原を持つものらしい（五五）。都藍の傳は、「元亨釋書」にもあるが、更に古くは「本朝神仙傳」の中にも出て居る。久しく吉野山の麓に住し、若狹の八百比丘尼の如く長命を得た所の尼であつた。修行功を積んで後、何とぞして女禁制の金《かね》の御嶽に登らうと思ひ、中腹までは進んだが、やはり雷電｜霹靂《へきれき》して、終ひにその目的を達しなかつた。日光の守子が牛に乘り、赤神山のイタコが犬を連れて往つた所を、都藍は仙人だけに龍を呪してこれに乘るとあるが、やはり進むこと能はずして大いに罵ると謂ひ、瞋《いか》つて踏む所岩は悉く崩れ裂けたと謂ふ。

　更に多くの話と似た點には、我は女の身ながらも戒行を具へたものだ、凡婦と同じに視られては承知せぬと、自信は最も厚かつたけれども、なほ且つ金北山の巫女などのやうに、中途から行方が不明になつた。都藍尼の突いて登つた杖は、棄てた處に自然と根を差して、終ひに大木となると傳へられる。今では山中の樹立に紛れてしまつてどの木だか分らぬが、その故跡と稱して山上の行場路に足研山《あしずりやま》と言ふ處がある。尼が憤慨して蹉?《あしずり》した現場と稱す。而も何れの時代に造つて置いたものか、別に猶二尺餘りの老女の石の像が、この地の道の脇にも、又奧の院の安禅寺の本堂にもあつて、面白い事には俗にこれを役行者の母君だと傳へて居る（五六）。行者の母は歴史にも出て居る人だが、勿論龍に乘るやうな仙女ではなかつた。たゞ誤りにした所が何か事情があらうと思ふのは、第一には高野の弘法と白山の泰澄と又立山の佐伯有瀬とに、共に母親の尋ねて來た話のあること。第二には役小角が金峰を開き、高山の宗教にかけては、最初最高の一大人格であること。第三には東日本の山々で同じく女人の登山を説き石を説く處には、往々にして吉野の峯から、藏王權現を勸請したものゝあることである。

(282)　更に一歩を進めて考へて見ると、日本に一つかと思つた姥捨と言ふ山の名が、この大和の霊山の名所の中にもあると謂ふのは、或は猶老いたる女性とその子との不可思議な舊關係が、假に棄老傳説の唐模樣の衣裳を着て、信濃の更科にも出現した原因であつて、地名の眞の由來に至つては、これから更に尋ねて見ねばならぬものかも知れぬ（五七）。

　

　　（一）　増訂武江年表一四一頁。

　　（二）　帝國書院本の鹽尻卷五十二にもこの話はあるが、たゞ打殺すとばかりで、どうしてとは書いてない。釣天井式の方法などは、更に後の作り事であらう。

　　（三）　新編會津風土記、上荒井村の條。

　　（四）　夫木和歌抄卷三十二。「ひとり寢の床にたまれる涙には石の枕も浮きぬへら也」。戀歌には珍しい石の枕である。

　　（五）　日光驛程見聞雜記。

　　（六）　上總町村誌。

　　（七）　この點に付ては「郷土研究」三卷三二八頁以下、旗鉾考に引いた例を見て戴きたい。

　　（八）　新編武藏風土記稿、都筑郡上星川村の條。

　　（九）　舊本の赤穗郡誌。

　　（一〇）　故郷見聞録、長谷川安治君報告。

　　（一一）　進藏百太郎氏手紙。

　　（一二）　甲斐國志卷二十九。

　　（一三）　新篇鎌倉志卷七、鎌倉攬勝考卷十二及び新編武藏風土記稿、久良岐郡金澤村泥龜の條。

　　（一四）　上野志中卷、及び上毛國風土記に依る。

　　（一五）　この點は別に「たけくらべの話」として書くつもりである。この序でに述べてしまふことは少しむつかしい。

　　（一六）　仙臺封内風土記、同村の條。今は伊具郡矢問村の大字である。

　　（一七）　同書。今の何村か知らぬ。

　　（一八）　同上。及び關邑略志。

　　（一九）　新撰美濃志。この村今は多藝村の大字。

　　（二〇）　讃岐三代物語上卷。石田は今の大川郡石田村。この話はダイダラ法師系の話と混線して居るやうだ。

(283)　　（二二）　新編會津風土記この村の條。今は岩代耶麻郡磐梯村の一の字である。

　　（二三）　新撰美濃志に、鹽尻に依るとして出して居る。

　　（二四）　駿國雜志卷二十八。今の志太郡青島村の大字である。

　　（二五）　類聚名物考卷三百二十に引いた古今抄。藤原爲家の作と謂ふ。次の説は昆陽漫録に、榻鴫隨筆を引用して爲氏の説だと謂つてゐる。元は同じかも知れぬ。越遊行嚢抄卷六下には、「姨が石に爲りたる由土地の人は謂ふ」とある。

　　（二六）　作陽志、此村の條。

　　（二七）　張州府志卷三十。近年編纂の知多郡誌上卷にも見えて居る。

　　（二八）　「津輕のしるべ」等。

　　（二九）　「日本及日本人」の郷土光華號、藤田信氏報。

　　（三〇）　橘南谿の東遊記卷三其他。

　　（三一）　舞の本の「志太」などが一番これとよく似て居るやうだ。

　　（三二）　�ｺ川文藝類聚卷八の八五頁。

　　（三三）　和漢三才圖會卷六十五。

　　（三四）　明治神社誌料上卷、この社の條に引用した越後名寄及び越後土産。乳母の一念大蛇となつて海に入り主の跡を慕ひ、後に海上鎭護の神に祭られたと謂ふのである。

　　（三五）　「郷土研究」三卷六五頁以下に山莊大夫考の一篇を書いて置いた。故に大部分は爰には省いて置く。

　　（三六）　仙臺封内風土記、氣仙郡上有住村の條。

　　（三七）　一は山中笑翁の土俗談語、二は山林公報の大正三年六月號、三は越中舊事記其他色々の書物に在る。若狹の八百比丘尼だと言ふ説もある。これから分れたものらしい。大日本老樹名木誌などがそれである。

　　（三八）　「郷土研究」三卷一二一頁、高島冠嶺氏報。

　　（三九）　信濃奇勝録卷二。信濃佐々禮石卷十四。

　　（四九）　雪之出羽路卷四に依る。

　　（四一）　古い方は日本鹿子卷九。次は諸國里人談卷二、木曾路名所圖會卷六其他。

　　（四二）　佐渡土産卷上。

　　（四三）　三山小誌に依る。

　　（四四）　酒田の人今井安太郎氏報。

(284)　　（四五）　新編武藏風土記稿。

　　（四六）　眞澄遊覽記卷二十九。

　　（四七）　前に掲げた四種の本に依る。

　　（四八）　白山遊覽圖記卷二及び卷七。漢文だから少し精確でない。

　　（四九）　「郷土研究」四卷四四六貢。早川君報。

　　（五〇）　日本風俗志中卷一二五頁。

　　（五一）　「郷土研究」一卷三七三頁。井上建重氏報。

　　（五二）　平泉寺は白山參諸の越前路の、久しい間の管理者であつた。越前名勝志にはこの縁起の全文を擧げて居る。七難と言ふ珍しい名の岩は、能郷の白山の登り口たる、美濃の根尾谷の川の中にも在る。巫女の信仰に因むものと思ふが、あまり複雜になるから爰には述べることが出來ぬ。

　　（五三）　近江國輿地誌略卷八十一。

　　（五四）　紀伊續風土記、高野山之部卷五十七。

　　（五五）　此點に就ては、「郷土研究」四卷三三九頁以下の老女化石譚にも論じてある。「おとら狐の話」の中にも、狐の名の「おとら」は亦同じく巫女の名に起るかと言ふことを説いて置いた。

　　（五六）　兩國名所圖會卷八。元亨釋書の方は卷十八。

　　（五七）　吉田博士の地名辭書に、ヲバステはヲハツセ（小長谷）の誤で、初瀬の觀音の關係から出た名だらうとあるのは、少し大膽に失した斷定である。

　

(285)　　　妖怪談義

　

(287)　　　　　自序

　

　どうして今頃この樣な本を出すのかと、不審に思つて下さる人の爲に、言つて置きたいことが幾つかあります。第一にはこれが私の最初の疑問、問へば必ず誰かゞ説明してくれるものと、あてにして居たことの最初の失望でもあつた事であります。私の二親は幸ひに、あの時代の田舍者の常として、頭から抑へ付けようともせず、又笑ひに紛らしてしまはうともしませんでした。ちやうど後年の井上圓了さんなどとは反對に、「私たちにもまだ本たうはわからぬのだ。氣を付けて居たら今に少しづゝ、わかつて來るかも知れぬ」と答へて、その代りに幾つかの似よつた話を聽かせられました。平田先生の古今妖魅考を讀んだのは、まだ少年の時代のことでしたが、あれではお寺の人たちが承知せぬだらうと思つて、更に幾つもの天狗・狗賓に關する實話といふものを、聽き集めて置かうと心がけました。

　川童を私などの故郷ではガタロ即ち川太郎と申しました。家が市川の流れと渡しに近かつたために、その實害は二夏と途絶えたことは無く、小學校の話題は秋のかゝりまで、ガタロで持切りといふ姿でありました。それから大きくなつて三十年餘、ずつと續けてといふとうそになりますが、旅に出たり本を讀んだりして、その頃を思ひ出すことが益々多く、たうとう持ち切れなくなつて大正三年、世間が全く改まらうとする頃に入つて、川童駒引といふ古風な一册の本を世に出すことになりました。今となつて考へると、これが適當な時節であつたとは言はれませんが、少なくとも問題の保存には役立ちました。私などのうつかり見過さうとして居た隅々の事實が、各地の同志者によつて注意せられ、又報告せられるやうになりました。うす／＼は自分もさうでないかと思つて居たことが、もう今日ではほゞ確かになつた例が幾つかあります。

(288)　たとへば川童の地方名は、何處へ行つても大抵はカハの童兒、そのカハは水汲み場又は井堰のことでありました。沖繩の諸島に行くと、こちらの川童即ちカワラハとよく似た靈物を、インカムロとカーカムロとの二つに分けて居ります。即ち海の童と井の童で、曾ては海中の盡きぬ寶と、次々耕されて來た陸上の富とが、共にこの幼ない神たちの管理に屬したことを、語るものかと思ひます。日本の古典の中の珍しい文字使ひ、遠い航路を守る神で、同時にみそぎ〔三字傍点〕といふ嚴重な神事に立會ひたまふ神が、しば／＼少童といふ漢語を以て表現せられてあるのも、恐らくこの方面からでないと説明が出來ぬかと思ひます。

　こんな話をつゞけると、愈々序文らしくなくなりますが、終りにもう一つだけ附け加へたいことは、最初この本に入れるつもりで、後に削つてしまつた砂まき狸の話であります。これは説明があまりにあくどいので、一應引込めて置いたのですが、あれにもなつかしい思ひ出が永く附き纏うて居ります。私がたしか十四歳の年、兩親に離れて遠く利根川の岸の町に住んで居た頃、始めてこの話を聽いて大きな印象を受けました。話をしてくれたのは四十ばかりの女性で、さう巧妙であつたわけではありませんが、問題の樹といふのがこんもりと、たつた一本だけ堤のつい目のさきに見えて居るので、渡し小屋の床凡に腰を掛けるたびに、何回でもその折の光景を胸に描いて見たのであります。月の明るい夏の晩の宵の口に、下から土手づたひに歸つて來た或人が、ちやうどこの近くまで來ると一匹の小さな獣が、土手を飛び越えて水の岸まで走つて行くのを見ました。砂場の廣さは二三十間で、何も植ゑては無かつたといひます。この近くには農家も一軒あるので、そこの猫だらうとは思つたのですが、少し擧動が變つて居るので、歩みを緩めて遠くから見て居ますと、一旦淺瀬の水の中をあるいてから、すぐに砂地の上をころ／＼と轉げまはりました。さうして引返して來て土手の上の、そのこんもりとした一本木の梢に、かき登つてしまつたといふのであります。そこで漸く猫では無いと心づいて、用心をしい／＼その樹の下を通つて來ると、果せるかな澤山の砂が降つて來ましたが、樂屋を見て居るから、聲を立てる程には驚かなかつた(289)といふ話。これを私が戸川殘花先生の編集せられた「たぬき」といふ本に、全部實話のつもりで報告してしまつたのであります。今から心付くと、あれは狸の爲には迷惑な、輕妙なこしらへ話でありました。

　戸川さんは、今でも覺えて居る人が多いと思ひますが、半生を江戸會誌の事業にさゝげられた老學者で、この頃は紀州の�ｺ川侯などと共に、今いふ文化財の保存事業に手を着けて居られました。段々生物學方面の人の話を聽いて見ると、狸くらゐ耕作者のために、蔭の援助をつゞけて居る野獣は少ないのに、由無き「かちかち山」などの昔話が流布したばかりに、居れば必ず捕つて食はれるまでに、農家の同情を失つてしまひ、近年はめつきりと數を減じ、野鼠や害蟲の害がこの爲に非常に多くなつたといふことだ、これは何でも一つ、心ある人たちの協力の下に、この狸の眞實を世に明らかにしなければならぬといふ趣意から、最初に先づ喚びかけられたのが狸の會といふ、數年前から出來て居た有力な團體でありまして、それがこの珍しい一卷の書の、發行にも參與して居たのであります。

　東京にも以前は確に狸屋敷といふ評判の家がありました。現に私なども中學生の頃に、二年足らずもさういふ家に、兄と共に住んで居たこともありますが、よほどびく／＼して居ても、曾てそれらしい形跡が無く、たま／＼二階の雨戸にさはる音を聽いて、がらりと開けて見たら尾の長い猫だつたので、兄が狂歌を詠んだといふ位が思ひ出であります。あれから又ざつと六十年、地下には色々の人の掘つた横穴が縱横に通り拔けて居る世の中に、いくら理解があり趣味が豐かな人たちであらうとも、こゝで狸の眞相を究めさせようとしたことは、戸川先生の無理な望みでした。しかも考へて見なければならぬことは、かうしたきらめくやうな新しい文化の中に於て、なほ且つ古風きはまる化け物を信じたり怖れたり、たま／＼おまけ〔三字傍点〕だ誤解だといふことがわかつても、それを噂にして人に話して見たり、自分も時々はもしやと思つたり、更に巧者な人は新たにこしらへて世に傳へ、こればかりはいつも舶來の更に精妙なるものを以て、さし換へて置かうとする者の無いことであります。

(290)　私は幼少の頃から大分この方面にむだな時間を費しましたけれども、今となつてはもう問題を限定しなければなりません。我々の畏怖といふものゝ、最も原始的な形はどんなものだつたらうか。何が如何なる經路を通つて、複雜なる人間の誤りや戯れと、結合することになつたでせうか。幸か不幸か隣の大國から、久しきに亙つてさま／”＼の文化を借りて居りましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、又は幽靈などといふものゝ本質を、解説することは出來ぬやうに思ひます。國が自ら識る能力を具へる日を、氣永く待つて居るより他は無いやうであります。

　　　　　昭和三十一年十二月

　

(291)　　　　　妖怪談義

　

　　　　　　　　　　一

　

　化け物の話を一つ、出來るだけきまじめに又存分にして見たい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、從つて或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供與する資源でもあるからである。私の目的はこれに由つて、通常人の人生觀、分けても信仰の推移を窺ひ知るに在つた。しかもこの方法をやゝ延長するならば、或は眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致し、迷ひも悟りもせぬ若干のフィリステルを、改宗せしむるの端緒を得るかも知れぬ。もしさういふ事が出來たら、それは願つても無い副産物だと思つて居る。

　私は生來オバケの話をすることが好きで、又至つて謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め續けて居た。それが近頃はふつとその試みを斷念してしまつたわけは、一言で言ふならば相手が惡くなつたからである。先づ最も通例の受返事は、一應にやりと笑つてから、全體オバケといふものは有るもので御座りませうかと來る。そんな事はもう疾くに決して居る筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判つて居る筈である。乃ち別にその答が聽きたくて問ふのでは無くて、今はこれより外の挨拶のしやうを知らぬ人ばかりが多くなつて居るのである。偏鄙な村里では、怒る者さへこの頃は出來て來た。なんぼ我々でも、まだそんな事を信じて居るかと思はれるのは心外だ。そ(292)れは田舍者を輕蔑した質問だ、といふ顔もすれば又勇敢に表白する人もある。そんならちつとも怖いことは無いか。夜でも晩方でも女子供でも、キャツともアレエともいふ場合が絶滅したかといふと、それとは大ちがひの風説はなほ流布して居る。何の事は無い自分の懷中にあるものを、出して示すことも出來ないやうな、不自由な教育を受けて居るのである。まだしも腹の底から不思議の無いことを信じて、やつきとなつて論辯した妖怪學時代がなつかしい位なものである。無いにも有るにもそんな事は實はもう問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思つた人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困つて居るだけである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　都市の居住者の中には、今は却つて化け物を説き得る人が多い。これは一見不審の樣であるが、その實は何でも無いことで、彼等は殆と例外も無く、幽靈をオバケと混同して居るのである。幽靈の方ならば、町の複雜した生活内情の下に發生し易く、又少々は心當りの有る人もあつて、次々の噂は絶えず、信じて怖れをのゝく者も出て來るので、これを我同志者と心得て意見を交換しようとすると、がつかりする場合ばかり多いのである。幽靈もそれ自身討究されてよい現象であり、又最初の聯絡と一致點はあつたかも知らぬが、近世は少なくとも丸で物がちがつて居て、此方は言はゞ御寺の管轄であつた。それをオバケとは謂ふ者はあつても、化け物と謂ふとまだ何だか變に聞える。お岩も累《かさね》も見覺えが有るからこそこはいので、これを化けて出るといふのは言葉の間違ひである。へんぐえ〔四字傍点〕といふからには正體が一應は不明で、しまひに勇士に遭つて見顯はされるものときまつて居る。それを平知盛幽靈なりなどと、堂々と自ら名乘つて出たものと一つに見るのは、つまりは本物の種切れとなつて後まで、なほこの古い名前に對する關心の、失せて居なかつた證據とも見られる。

　誰にも氣のつく樣なかなり明瞭な差別が、オバケと幽靈との間には有つたのである。第一に前者は、出現する場處(293)が大抵は定まつて居た。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くはさずに濟ますことも出來たのである。これに反して幽靈の方は、足が無いといふ説もあるに拘はらず、てく／＼と向ふから遣つて來た。彼に狙はれたら、百里も遠くへ逃げて居ても追掛けられる。そんな事は先づ化け物には絶對に無いと言つてよろしい。第二には化け物は相手を擇ばず、寧ろ平々凡々の多數に向つて、交渉を開かうとして居たかに見えるに反して、一方はたゞこれぞと思ふ者だけに思ひ知らせようとする。從うて平生心掛けが殊勝で、何等やましい所の無い我々には、聽けば恐ろしかつたらうと同情はするものゝ、前以て心配しなければならぬ樣な問題では無いので、たま／＼眞つ暗な野路などをあるいて、出やしないかなどとびく／＼する人は、もしも恨まれるやうな事をした覺えが無いとすれば、それはやはり二種の名稗を混同して居るのである。最後にもう一つ、これも肝要な區別は時刻であるが、幽靈は丑みつの鐘が陰にこもつて響く頃などに、そろ／＼戸を敲いたり屏風を掻きのけたりするといふに反して、一方は他にも色々の折がある。器量のある化け物なら、白畫でも四邊を暗くして出て來るが、先づ都合のよささうなのは宵と曉の薄明りであつた。人に見られて怖がられる爲には、少なくとも夜更けて草木も眠るといふ暗闇の中へ、出かけて見た所が商賣にはならない。しかも一方には晩方の幽靈などといふものは、昔から聽いたためしが無いのである。大よそこれほどにも左右別々のものを、一つに見ようとしたのはよく／＼の物忘れだと思ふ。だから我々は怪談と稱して、二つの手をぶら下げた白装束のものを喋々するやうな連中を、よほど前からもうこちらの仲間には入れて居ないのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　そこで話はきつすゐの晩方のオバケから始めなければならぬのだが、夕をオホマガドキだのガマガドキだのと名づけて、惡い刻限と認めて居た感じは、町では既に久しく亡びて居る。私は田舍に生れ、又永い間郊外の淋しい部落に住んで居る爲に、まだ少しばかりこの心持を覺えて居る。古い日本語で黄昏をカハタレと謂ひ、もしくはタソガレド(294)キと謂つて居たのは、ともに「彼は誰」「誰ぞ彼」の固定した形であつて、それも唯單なる言葉の面白味以上に、元は化け物に對する警戒の意を含んで居たやうに思ふ。現在の地方語には、これを推測せしめる色々の稱呼がある。例へば甲州の西八代で晩方をマジマジゴロ、三河の北設樂でメソメソジブン、その他ウソウソとかケソケソとか謂つて居るのは、何れも人顔のはつきりせぬことを意味し、同時に人に逢つても言葉も掛けず、所謂知らん顔をして行かうとする者にも、これに近い形容詞を用ゐて居る。歌や語り物に使はれる「夕まぐれ」のマグレなども、心持は同じであらう。今でも關東ではヒグレマグレ、對馬の北部にはマグレヒグレといふ語がある。東北地方で黄昏をオモアンドキと謂ふのも、やはりアマノジャクが出てあるく時刻だといふから、「思はぬ時」の義であつたらしく考へられる。

　村では氣をつけて見るとかういふ時刻に、特に互ひに挨拶といふものを念入れて、出來る限り明確に、相手の誰であるかを知らうとする。狹い部落の間ならば、物ごし肩つきでも大抵はすぐに判る筈だが、それでも夕闇が次第に深くなると、さうだと思ふが人ちがびかも知れぬといふ、氣になる場合が隨分ある。最も露骨なのが何吉かと呼んで見たり、又はちがつてもよい積りで、丁寧に「お晩でございます」と謂つたりする。それもしないのはもう疑はれて居るので、即ち所謂うさん臭いやつである。だからこの樣な時刻に里を過ぎなければならぬ他所者は、見られる爲に提灯を提げてあるく。その前は恐らく松の火であつたらう。見馴れぬ風體で火も無しにあるくといふのは、化け物でなくともよくない者にきまつて居る。さう取られても致し方の無い所に、旅の夕のかなしさといふものは始まつて居る。それがこの節は町の子供などに、もう提灯は火事か祝賀會か、涼み舟ぐらゐの聯想しか浮はなくなつた。さうして又白晝にも知らぬ人同志が、互ひにウソウソと顔を見てすれちがふやうになつた。化け物の世界も一變しなければならぬわけである。

　

(295)　　　　　　　　　四

　

　この見たことの無い他所者のことを、肥前の上五島などではヨシレンモンと謂つて居る。今では小兒の間にしか用の無い語かも知れぬが、昔の無事太平の田舍では、それが通つたゞけでももう一つの事件であつた。私などの小さい頃には、ヨソの人といふ語にこの不安を托して居たが、少し西へ行くとボウチといふ語がある。岡山縣でも Stranger を意味する語を、面と向つてはボーッツアン、陰ではやはりボウチと謂つて居る。同じ呼び方は備後から安藝、或はもつと西へも及んで居るやうだが、その起りは未だ明らかでない。越中の氷見地方では、以前賤しめられた或部落をボーシ、遠江ではこれをホチ・ポチ、又はポチロク、三河では下級の職工にホチと呼ばれる者があるから、事によると法師といふ語からの分化かも知れぬが、とにかくに子供たちには氣味の惡い、普通の通行人とは全く別なものに、感じられて居たことはほゞ慥かで、少なくとも中國地方のボウチには、薄暮の影響があつたかと思ふ。九州の南部は日向でも大隅でも、ヤンボシと謂へば化け物のことである。夜分山路をあるくと時々出逢ふもの、坊主が首を縊つた處には必ず出るといふ、ぼうとした大きな人影のやうな妖怪ださうで、只の山伏もヤンボシ又ヤンブシと謂つて通ずるが、此方は通例ヒコサンと謂はれて居る。

　だから黄昏に途を行く者が、互ひに聲を掛けるのは竝の禮儀のみで無かつた。言はゞ自分が化け物でないことを、證明する鑑札も同然であつた。佐賀地方の古風な人たちは、人を呼ぶときは必ずモシモシと謂つて、モシとたゞ一言いふだけでは、相手も答へをしてくれなかつた。狐ぢやないかと疑はれぬためである。沖繩でも以前は三度呼ばれる迄は、返事をしてはならぬといふ、甚だ非社交的なる俗信があつた。二度までは化け物でも呼び得るからと言つたが、無論これは夜分だけの話であらう。加賀の小松附近では、ガメといふ水中の怪物が、時々小童に化けて出ることがある。誰だと聲を掛けてウワヤと返事をするのは、きつとそのガメであつて、足音もくしや／＼と聞えるといふ。能登(296)でも河獺は二十歳前後の娘や、碁盤縞の着物を着た子供に化けて來る。誰だと聲かけて人ならばオラヤと答へるが、アラヤと答へるのは彼奴である。又おまへは何處のもんぢやと訊くと、どういふ意味でかカハイと答へるとも謂ふ。美濃の武儀郡でも狸が今晩はと謂つて戸を開けたりすることがあるが、誰ぢやと聲かけるとオネダと答へるさうだ。オレダといふことが出來ぬので、化けの皮が露はれるのである。土佐の幡多郡でも、狸には誰ぢやときくと必ずウラヂャガと答へるといふ。即ちオラとは謂ひ得ないのである。そこで此方でも「ウラならもとよ」と言ひ返してやると、もう閉口して化かすことは無いといふ。人の至つて多い都會のまん中にも、今なほ「今晩は」・「どなた」・「あのわたくし」などといふ問答はよく行はれ、あぶない話だがこれだけで直ちに承認される。それほどまでに我々は、互ひの語音を記憶し合つて居るので、從つて己をウラと謂ふ地方の人々は、うつかり土佐の幡多都へは行けなかつた。しかしそんなに近づいてからでは、遁げるにも實は骨が折れる。これは先づ一つの噂であつて、人々はそれよりももつと遠くから、用心して居たに違ひないのである。陸中大槌地方の小兒等は、狐は人に化けても手頸のクロコボシが無いから直ぐ判る。だから狐らしいと思つたら、手を出して見せろといふがよいなどといふが、そんな大膽な事はいよ／＼出來さうにも無い。

　

　　　　　　　　　　五

　

　親たちが日暮に子供の外に遊んで居るのを、氣にすることは非常なものであつた。子供も臆病なのから順々に、まだ蝙蝠も飛び出さぬうちから、家の近くへ／＼と戻つて來るし、さうで無くとも心の内では、御飯だよと捜しに來られるのを待つてゐる。さういふ中に僅ばかり、誰も呼びに來ぬ兒がまじつて居た。

　　　親の無い兒は入日を拜む

　　　おやは入日のまん中に

(297)といふ子守唄があるが、奉公に來た者でなくとも、何か家の樣子で飯時にも自分の方から、そろ／＼還つて行かねばならぬ兒はあつた。かういふのが?々神隱しに遭つたのである。

　東京では「蛙が鳴くからかへろッ」といふ田舍じみた童言葉が、今でも町なかに唱へられて居るが、田舍では却つてさういふ口合ひは聽かない。佐渡の島には「あとの子は貉《むじな》の子」といふ諺があると、中山�ｺ太郎翁は書留めて居られる。これも多分は遲れた子をからかふ語であらうが、さういふ不安は少しは伴なうて居たと思ふ。小兒を夕方に誘うて行く怪物を、多くの地方では隱し神と謂つて居る。沖繩人はこれを物迷ひと名づけ、神といふ土地でも今はたゞ怖れるばかりである。丹波の夜久野《やくの》では暗くなる迄隱れんぼをして居ると、隱し神さんに隱されるといひ、若狹の名田莊でも、又ずつと離れた肥後の玉名郡にも、同じ言葉がある。栃木縣の鹿沼邊では、カクシンボと謂つて居る。隱れんぼは今は單なる遊戯であるが、最初或は信仰と關係のあつたものかと私は想像して居る。秋田縣雄勝郡ではカクレジョッコ、夜分隱れん坊をすると、カタレジョッコに攫はれるといふ點は同じである。

　神戸市ではこれをカクレババといふ者がある。小兒は夕方に隱れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隱れ婆といふのが居てつかまへて行くからといふ。島根縣その他ではこれをコトリゾと謂つて居た。子取りは本來は産婆のことだが、夙くさういふ名を以てこの妖怪を呼んだのである。足利時代にも臥雲日件録か何かに、丹波から子取尼といふ者が出て來た風説が載せられ、實際亦さういふ惡黨も無かつたとは言へぬが、今ある名稱に至つては空想の産物である。出雲の子取りなぞは子供の油を絞つて、南京皿を燒く爲に使ふなどと、丸で纐纈城かハンセル・グレッツェルの樣なことを傳へて居り、東北では現にアブラトリといふ名もあつて、日露戰爭の際にも一般の畏怖であつた。東京では普通にヒトサラヒといふ判り易い語を使ふが、信州の埴科地方ではフクロカツギが通稱で、大きな袋を持つてあるいて居る樣に想像せられる。これも夕方に隱れ鬼をして居ると隱すのである。親が子供の「なぜ？」に答へる爲に、こんな急ごしらへの名前をお化けに附した例は多い。私などの幼ない頃には、泣くとやつ(298)て來るのはチンチンコワヤであつたが、これなどはよく考へて見ると夜蕎麥賣りの聲色であつた。名前が出たらめだから怖いのまで虚誕であつたと、いふことは出來ぬやうである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　この事はずつと以前、「山の人生」の中にも説いて置いたが、秩父の山村では五月高麥の頃に、小兒の神に隱される者が最も多く、その怪の名をヤドゥカと謂つて居た。ところがヤドゥカとは高野聖のことであつて、迂散くさい旅人には相違ないが、要するに只の人間に過ぎない。だから怖くは無いとも言はれぬのは、それにも拘はらず子供が隱されたからである。不思議の根源はもう少し底にあつたやうに思ふ。隱し神は子どもを取匿すからさう名づけたと見てよいが、神戸の隱れ婆や秋田縣のカクレジョッコなどは、もう一度どうしてそんな名が出來たかを、考へて見なければならぬ。關東では子供が隱れ座頭に匿されるといふことを、半ばは戯れにだらうが近頃まで説く人があつた。或は夜中に踏唐臼の音をさせ、又は箕を屋外に出して置くと借りて行く怪物だなどとも謂つて居たが、さて子供を取つてどうしてしまふのかは全くわからない。つまりは子供の時々見えなくなる事實と、こんな名前とを結びつけた迄である。羽後の横手では、隱れ座頭は踵の無い盲人だといふが、これには害をした話は無く、却つて市の日にこの座頭を見つけると、福を授かるなどと傳へて居た。北海道でも江差と松前の間の海岸に、昔は隱れ座頭といふ化け物が出る場處があつたさうだが、見た人は勿論なくて、たゞさういふ名の岩窟があるのみであつた。段々考へて行くと、座頭と解したのは全くの思ひ違ひで、これだけは古くからある隱れ里の口碑が、少しづゝ化け物話に變つて行く過程らしいのである。茨城縣のどの地方かには、隱れ座頭の餅を拾へば長者になるといふ説があつた。その餅は山野の草の間などに、ゆくりなく見出されるものであるといふ。さうかと思ふとその隣縣の芳賀郡あたりには、隱れ里の米搗きといふ話があり、たま／＼その音を聽いた者は、長者の暮らしをすると傳へて居る。ちやうど鼠の國の昔話にも有る樣(299)に、昔の米搗きは三本の杵で、唄をうたつて賑やかなものであつた。それが地面の下などから聴えて來るのである。或は又シヅカモチとも稱して、夜中にこつ／＼と遠方で餅を搗くやうな音を、人によつて聽いたり聽かなかつたりする。靜か餅を搗き出されると謂ふのは、その音が追々遠くなつて行くことで家の衰へる前兆、これに反して段々近く聽えると、搗き込まれたと云つて運が開ける。その音を聽いた人は後向きに箕を突出すと、その箕へ財寶が入つて來るとまで言はれて居る。諸國里人談その他の近世の見聞録に、隱れ里の話は餘るほど出て居るが、それは悉くめでたい瑞相とあつて、人に災ひしたといふ言ひ傳へなどは一つも無い。しかもこま／”＼とした内容が忘れられて、名稱ばかりが後に殘ることになると、とかく人はこれをお化けの方へ引付けたがる。信仰は世につれて推し移り又改まるが、それが最初から何も無かつたのと異なる點は、かういふ些細な無意識の保存が、永い歳月を隔てゝなほ認められることである。その中でも殊に久しく消えないものは畏怖と不安、見棄てゝは氣が咎めるといふ感じではなかつたかと思ふ。もしさうだとするとこの隱し神の俗信などは、前期の?態の殊に不明に歸した場合である。私の方法以外には、これを遡り尋ねて行く道は恐らくあるまい。

　

　　　　　　　　　　七

　

　固より一つや二つの事實に據つて、大きな斷定を下すことは許されない。故に私たちは他にもこれと同じ樣な過程をとつて、進化して來たらしい化け物があるか否かを、探して見ようとして居るのである。一つの類例は本所の七不思議などと稱へて、オイテケ堀といふ怪談がある。魚釣りの歸りなどに「置いて行け／＼」と路傍から呼びかける聲ばかりのオバケで、氣がついて見ると魚籠は空つぽになつて居たといふ類の評判がある。しかしこれは江戸以外には稀にも聽かぬ話で、狐や山猫はよく携へて居る食物を奪ふといふけれども、闇の横合から聲を掛けるといふことは無い。聲を掛ける各地の路の怪は、寧ろ反對に持つて行けといふのが普通である。多くの昔話に傳はつて居るのは、昔(300)正直な爺樣が夜の山路を通ると、頻りに路脇から「飛びつかうか引ッつかうか」と呼ぶ者がある。あまり何度もいふので「飛びつくなら飛び付け」とつい答へると、どさりと肩の上へ重い物が乘りかゝつた。家へ擔いで戻つて燈の下でひろげて見れば、金銀一ぱいの大きな袋で、これに由つて忽ち長者になる。それを大いに羨んで隣の慾ばり爺が、同じ時刻に同じ處を通ると例の如く、これに答へて「引つくなら引つけ」といふや否や、どさりと背一面に落ち被さつたのは松脂であつた云々。かういふ話が僅づゝ形を變へて、今もまだ多くの女子供の記憶に活きて居る。

　運は生れる時から一人々々に、定まつたものがあつて動かせない。もしくは善心の男に授かるべき福分は、どんなに眞似ようとも横着者には横取りが出來ない。強ひて眞似ると却つて災ひを受ける、といふ樣な教訓が昔話にはよくついてまはつて居る。不思議は誠に不思議だが、これには少しでも化け物の分子は伴なはぬ。從つて他日さういふ事件の起りさうな夜路をあるいても、怖しくもこはくもならなかつたわけである。ところがこの如き現實は當然に夙く信じられなくなつて、しかもその全部を丸々の作り話とは認めない人々が、何とかしてその要點だけでも保留しようとするらしいのである。薩摩の阿久根近くの山の中に、半助がオツと稱する崖がある。地名の起りは明治十年頃の出來事だといふさうだが、四助と三助といふ二人の友だちがあつた。或日四助は山に入つて雨に遭ひ、土手の陰見たやうな處に休んで居ると、どこからとも無く「崩ゆ／＼」といふ聲が聞え、あたりを見まはしても人は居ない。四助はこの聲に應じて「崩ゆなら崩えて見よ」といふと、忽ちその土手がくづれて、澤山の山の薯が手もかけずに取れた。三助はこの話を聽いて大いに羨み、やはり同じ山に往つて松の木の下を通ると、又どこからとも無く「流る／＼」といふ聲がする。「流るゝなら流れて見よ」と答へたところが、今度は松脂がどつと流れて來て、三助がからだを引包んで動けなくなつた。三助の父の半助、炬火を持つて山へ捜しに來て」おーいと喚ばはるとおーいと答へるので、近よつて松の火をさしつけたら、忽ち松脂に火が移つて三助は燒けてしまひ、父の半助は驚いて足を踏みはづして落ちた。それで半助がオツと稱すると謂ふのは、歴史の樣に見えるが、疑ひ無く改造せられたる昔話である。これと下半(301)分だけ似通うた話は、濃尾の境には傳説となつて多く殘つて居る。何れも木曾の川筋に在るから、源流は乃ち一つであらう。尾張の犬山でもヤロカ水、美濃の太田でもヤロカ水と謂つて、大洪水のあつたといふ年代は別々でも、この名の起りは全く同じであつた。それは大雨の降り續いて居た頃の眞夜中に、對岸の何とか淵のあたりから、頻りに「遣らうか遣らうか」といふ聲がする。土地の者は一同に氣味を惡がつて黙つて居たのに、たつた一人が何と思つたか、「いこさばいこせ」と返事をしたところが、流れは急に増して來て、見る間に一帶の低地を海にしたといふのである。これと同樣の不思議は明治初年に、入鹿池《いるかいけ》の堤の切れた時にもあつたといふが、それも一種の感染としか思へない。木曾の與川の川上では古い頃に、百人もの杣が入つて小屋を掛けて泊つて居ると、この杉林だけは殘して置いてくれといふ、山姫樣の夢の告があつた。それにも拘はらず伐採に取懸かると、やがて大雨が降つて山が荒れ出した。さうしてこれも闇の夜中に水上の方から、「行くぞ行くぞ」と頻りに聲を掛けた。小屋の者一同が負けぬ氣で聲を合せ、「來いよー」と遣り返すと忽ち山は崩れ、殘らず押し流されてたつた一人、この?末を話し得る者が生き殘つた。話はかういふ風に段々と怖ろしくなつて來るのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　傳説と昔話とは、今でもごつちやにして喜んで居る人があるが、二者の堺目はかなり截然として居て、説く者聽く者の態度が共に全く別であつた。即ち昔話はどうせ現世の事でないと思つて居るから、出來るだけ奇拔な又心地よい形にして傳へようとして居るに反し、傳説は今でも若干は信ずる者があるので、怪異を有りさうな區域に制限する。從うて時代々々の智能と感覺はこれに干渉し、?々改造を加へて古い空想を排除する。化け物の話などはその好い例で、昔話の天狗、狐、鬼も山姥も皆少々愚かで弱く、傳説の方では殆と常に強剛で人を畏服せしめる。この點だけから云ふと近代に入つて、人は却つて怯懦となり無能となつた樣にも見え、事實亦妖魔の世界も進化して居るのだが、(302)これは要するに迷信の最後の殘壘を意味するのである。曾て昔話の中に誇張せられて居る樣な奇跡が、一般に承認せられて居た時代が無かつたら、今ある怪談の如きものだけが、唐突として我々の間に、生れ出るわけはなかつた。所謂ヤロカ水の史實もこれを暗示して居るが、これと關聯してまだ幾つかの例證がある。たとへば姿は見せないで、聲だけで人を嚇すといふ化け物の中に、越後ではバリオン又はバロウ狐といふのが居る。あの土地の人なら少しづゝ皆知つて居ることゝ思ふが、これが狐ときまつたのはさう古いことでない。バロウは方言で「負はれよう」を意味する。南蒲原郡の昔話に、昔惡い狐が晩方になると、路のほとりへ出てバロウ／＼と謂ひ、村の通行人を怖がらせた。或一人の若者があつて、おれが往つてぶて來ると、皆の留めるのも聽かず、擂鉢を被つて一人で出かけた。果してバロウバロウと謂ふから「さアばれ、さアばれ」と、繩で背中へぐる／＼卷きにして戻つて來た。狐は逃げようとして若者の頸筋に咬み付くが、堅くて齒も立たない。大きな尻尾を出して降參したけれども、構はずに燒き殺してしまつた云々。先づざつとかういふ風に、昔話の方では取扱つて居るのである。ところが他の一方にまだ少し信じて居る土地では、傳説はずつと尤もらしい形で殘つて居る。同じ越後でも古志郡上條村の、大榎の下へ出たバローンといふ化け物、これは狸であつた。剛膽な一青年が行つてこれを負ひ、逃げようとするのを無理につれて來て、仲間と共に殺して煮て食つた。さうしたら食つた者が皆死んでしまつたなどと傳へられる。

　この二通りの話は今でも全國に竝び行はれて居る。たとへば岩手縣遠野の昔話には、老翁が夜分山畠小屋に居て鹿追ひをして居ると、向ひの山に美しい娘が一人、兩腋に瓢箪を抱へて現れ、

　　　おひょうらんこ・ひょうらんこ

　　　ししっぽひの爺樣さ行つてばッぼされたい

といふ歌をうたふ。爺はをかしくなつて「そんだら早く來ておんぶされ」と謂ふと、娘は直ぐに飛んで來て爺樣の背に負さつた。と思つたらすぐに消えてしまつて、背中には大きな黄金の塊が乘つて居た。さうして爺樣は忽ち長者に(303)なつてしまふ。津輕の昔話では山中の荒寺へ、元氣な若者が化け物退治に行く。本堂の來迎柱の下から化け物が出て來て「おぼさる／＼」と頻りにいふので「そつたらにおぼさりたがらおぼされ」と答へると、「そら負ぼさる」と謂つて若者の背中へ、がら／＼と何か來て乘つかつた。それを夜が明けてから見ると殘らず大判小判云々。こんなのも亦ちつとも怖くは無いやうである。さうかと思ふと羅城門の綱、美濃の渡の平季武、さては太平記の大森彦七以來、負はれて甚だしく物凄かつた例も段々にある。それが悉く負はれようと呼び掛けたといふのは、前の話と無關係とは思はれない。三州長篠の乘越峠などでは、夕方そこを通ると「負んでくれ負んでくれ」と呼ぶ聲がすると謂ひ、近村の某といふ男はさう云はれると急に肩が重くなり、麓の寺の灯が見える處まで來ると、急に輕くなつたと思つたといふ樣な話が、つい近年の實事としても噂せられる。阿波の�ｺ島の市外に、オッパショ石と稱して名所の如くなつて居たものも、やはりこの亞流であつて、オッパショは即ち「おんぶしよう」である。諸書の記述は區々になつて居るが、星合茂右衛門といふ勇士これに遭ひ、然らば負うてやらうと擔いで來ると、段々に重くなるので奇怪に思つて、おのれと言ひさま地上に投付けたら二つに割れた。それ以後オッパショといはなくなつたといふ説もあつて、久しい後まで路傍に轉がつて居た。その眞僞はともあれ、怪談は普通勇士によつて、過去へ送り込まれることになつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　ところが今一つ、諸國のオバケ話のをかしい特徴は、かうして出處進退を誤つて退治せられたといふやつが、暫くするとやがて又現はれるといふ評判の立つことである。信州桔梗ヶ原の玄蕃丞、藝州比治山のお三狐を始めとし、狐狸には殊にこの話が多いが、その他の化け物でも、岩見重太郎一流の壯快なる征服記が、數多く公表せられて居るに拘らず、その割には彼等の數が減少して居ない。これは恐らく風説が限地的のもので、互ひに他を統一するだけの力(304)が無い爲であらうが、又一つには昔話と傳説との對立併存、殊に退治譚が昔話の系統の方に、屬して居る結果かと私は思つて居る。記録がこの問題を解釋する資料にならぬことは、この一點からでも主張し得られる。何となればその大部分が、我々の耳に快い人間勝利の記念塔に他ならぬからである。たとへ幽かであつても現實に感じられ、又黄昏の幻の中に描かれるものを尋ねなければ、到底化け物の由來の全面を知ることが出來ない。それが今日はわざと忘れようといふ時代に臨んで居る。この點永久に不明でもよろしいと思ふ人以外、誰でも心せはしく國の隅々を、採訪しようとせずには居られぬのである。

　しかもその仕事は相應に面倒である。相手が多くは我々とは話したがらぬ人たちで、その上に各自の經驗は限られて居る。うかと或人或土地の談話のみによつて、結論を下さうとすれば必ず誤る。比較と綜合が何よりも大切なのである。そこでその資料に僅ばかりの見聞を掲げて置くのだが、今日北九州の海で働く人々が、現實に畏怖して居るウグメといふ怪は、船幽靈のことである。不知火灣内でも、海で死んだ者の亡魂がウグメに成ると謂ひ、一方に島や汽船に化けて漁夫を迷はすと言ひながら、他の一方では「あか取り」を貸せといつてついて來るとき、底を拔いて貸さぬと舟を沈められるなどと、まるで東國の海坊主と同じやうなことを信じて居る。海上の妖魔は九州沖繩方面では、もとはシキ幽靈又はソコ幽靈と呼んで居た。夜分に水の色を眞白にし、或は色々の幻を見せて、船乘りの肝を冷させて居た。それがいつの間にかウグメと呼ばれる樣になつたのが、ウブメの間違ひであることには證據がある。つまり化け物は名前までが變幻出没して居たのである。

　十七世紀の初頭になつてロドリゲエスの日葡語典にも、既にウブメは産婦の死して化したるものと信ぜらるゝ亡靈、下《しも》にてはウグメと謂ふとあつて、その語だけはもう生れて居た。これを海の怪とするに至つたもとは、出雲石見あたりで今も有るやうに、この赤兒を抱いた精靈が、濱や渚に現はれることが多かつた爲で、海姫磯女も恐らく同一系統の、日本ではかなり注意せらるべき、大きな未解決の問題かと私たちは思つて居る。少しちがつて居るのは壹岐島の(305)ウーメが、青い火の玉で空を飛びまはるものと言はれ、肥前諫早地方のオグメが、三度手を叩くと山の峰から飛んで來るといふなどであるが、その他は大體に西國も東日本と同じに、陸上のウグメは子持ちの女性である。たとへば豐後直入郡の或寺の入口では、ウグメが現はれて通行の人に兒を抱いてくれと頼む。抱いて遣るとやがてその子が藁打槌であつたり、石であつたりするものだといふ。東松浦の山村でも、姙婦が死ぬとウグメに成ると謂ひ、抱いて遣ると赤兒はいつも石塔になると謂ふかと思ふと、又一方にはウグメには何か欲しい物があるとき、頼めば授けてくれるとも傳へて居る。この點は殊に自分等の面白いと思ふ所で、弘く古く尋ねて行くほど、これが寧ろウグメ本來の使命であつたかとさへ思はれて來るのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　山口縣の厚狹郡あたりでは、同じ産女の怪をアカダカショ、又はコヲダカショとも謂つて、古い道路の辻などへ晩方に出るものと謂つて居た。やはりその名の如く子を抱かせようとしたと思はれる。化け物の目的が人を畏怖せしむるに在り、乃至は隨筆家の所謂姑獲鳥のやうに、人間の赤兒に害を加へるに在るならば、いつそ手ぶらで現れた方が仕事がし易かつたらうと思ふのに、必ず自分の乳呑兒をかゝへて、母子二人で出て來るといふのには意味が無ければならぬ。伊豫の越智郡の某川は、折々死んだ兒が包に入れて、棄てゝあるといふ氣味の惡い處だが、時として赤子の啼聲が川に聽えるのを、土地ではやはりウブメと謂つて居た。夜更けてこの堤を通行すると、そのウブメが出て兩足にもつれる樣な感じのすることがある。そんな時には自分の草履を脱いで、それ／＼これがお前の親だよと投げて遣ると、一時は啼き止むともいひ、又子供だけで夜釣りなどに行く時は、このウブメは決して出て來ないとも謂つて居る。つまり赤兒を啼かせることが、以前はウブメの怪の要件といつてもよかつたのである。二百年ばかりも前に出た百物語評判といふ書には、ウブメは産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形腰より下は血(306)に染み、その聲オバレウ／＼と啼くと申し習はせりと記してある。越後のバリオンなどと大分近くなつて來るが、かういつて母の方が啼くのでもあるまいから、やはり子をつれて出るといふのが眼目であつたらうと思ふ。

　ウブメに百人力を投かつたといふ話は、曾て日本昔話集にも掲げて置いた。頼まれて抱いて居るうちに段々と重くなつたといふことは、今昔物語の中にも出て居るが、これをじつと辛抱して居たら、ウブメが還つて來て大いに感謝し、その禮に非常な腕力を授けてくれたといふ類の話が、今でもそちこちに有るのである。或は又莫大の金銀財寶を、褒美に貰つたといふ話もある。さうかと聽いてわざ／＼ウブメの赤兒を抱きに、出かけて行く者もまあ有るまいけれども、兎に角に彼の眞意は人を試みるに在つて、キャッと言はせるだけが目的で無かつたことは、近頃までも想像して居た人が多かつたのである。越後のバリオンなども三條附近で傳へて居るのは、負はれようといふのを承知して負うて遣ると、それは重いもので還つてから見ると黄金の甕だつたなどといひ、これにも富と幸運との輸送者であつたかの如く、解して居る信仰はあつたのである。肥後の天草島ではこれをもつと露骨に、カネノヌシなどと呼んで居る。大晦日の眞夜中に、武士の樣な姿をして現れる怪物で、これと力競べをして勝てば大金持となる。仍てその名を金の主といふとある。吾妻昔物語に出て居る北上川原の化け物は、ある大膽な男が大刀を拔いてその列の一人を斫ると、ぐわらりと音がして地上に落ちこぼれたものは黄金珠玉であつたといふが、この話も古く各地方に行はれて居る。つまりは怖れ無く膽力のある者が、かねて目ざされて大福長者に取立てられる爲に、かういふ靈怪を以て試驗せられたといふ迄の話であつた。それを到底事實とは信じ得なかつた人々が、いよ／＼誇張してをかしい昔話を流布せしめただけで無く、一方にはその小部分の不思議な因縁の、普通の人にもさも有りなんと思はるゝ個條を、大事に保存して獨りで勝手にこはがつて居たのである。かういふ分裂はよく見ると川童にも山男にもある。信じて聽從する者には無限の恩惠を施す代りに、多數の不信者の「世の中にお化けなどがあるものか」といふ者は、毎度眞青になつて氣を失ふやうな目に遭はせられた。それと同時に心の奧底でたゞ少しばかり、不思議は全く無いとも言へぬと思つて居る人(307)人には、雙方二種の口碑が、いつ迄もチャームとなつて殘つたのである。お化けを前代信仰の零落した末期現象といふことは、私の發明では無論無い。たゞ我々は外國の學者に盲信せず、自分の現象を檢し、自分の疑惑を釋くことを心掛ける必要を認めるのみである。こんな話ならばまだ／＼澤山にあり、私は又大よそこれを順序立てゝ、竝べて置かうといふ用意もある。たゞ果して當世の讀者の好奇心と忍耐とが、どれだけ迄續くだらうかを問題とするのみである。

　

(308)　　　　　かはたれ時

　

　黄昏を雀色時といふことは、誰が言ひ姶めたか知らぬが、日本人で無ければこしらへられぬ新語であつた。雀の羽がどんな色をして居るかなどは、知らぬ者も無いやうなものゝ、さてそれを言葉に表はさうとすると、段々にぼんやりして來る。これがちやうど又夕方の心持でもあつた。即ち夕方が雀の色をして居る故に、さう言つたので無いと思はれる。古くからの日本語の中にも、この心持は相應によく表れて居る。例へばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であつた。夜の未明をシノノメといひ、さては又イナノメといつたのも、或はこれと同じことであつたかも知れない。

　私は今國々の言葉に於て、日の暮を何といふかを尋ねて見ようとして居る。加賀と能登ではタチアヒといひ、熊野でマジミといふなども深い意味があるらしいが、それはなほ私には雀色である。信州では松本の周圍に於て黄昏をメソメソドキ、少し北へ行くとケソメキともいつて、暗くなりかゝるといふ動詞はケソメクである。これも感覺を語音に寫す技能と言つてよいと思ふが、あの地方では人が顔を合せ難い事情などがあつて、そしらぬ振をして通つて行くことを、ケソケソとして行くといつて居る。越中の山近くの町で、夕方のことをシケシケといふのは、しげ／＼と人を見るといふなどが元のやうでもあるが、富山の附近の者は氣ちがひのことをシカシカといつて居るから、最初は却つてシカとせぬことをシカシカといつたのであらう。曠野集の附句に、

　　　何事を泣きけん髪を振おほひ

(309)　　　　しか／”＼物も言はぬつれなさ

　　　恥かしといやがる馬にかき乘せて

　これなどにはまだ少し古い感じが遺つて居る。

　尾張の名古屋などは、以前の方言は黄昏がウソウソであつた。ウソはいつかも奧樣の會で話した如く、近世一つの惡�ｺと解せられるやうになる以前、殆と今日の文藝といふ語と同じに、あらゆる空想の興味を包括して居たことがあつた。六つかしく言へば現實の粗材、即ちもう一歩を踏込んで見ないと、それを經驗とも智識ともすることの出來ぬものゝ名であつた。迂散などといふ漢字を宛てようとした動機が、この言葉の中には籠つて居る。タチアヒといふ言葉が夕方を意味したのも、此方から追々にわかつて來るかも知れない。今でも取引所の中ではよく使つて居るが、タチアヒは本來市立のことであつた。仲間で無い人々が顔を合す機會は、もとは交易の時ばかりであつた故に、同じ用語を以て所謂雀色時の、人に氣を許されぬ時刻を形容したのでは無かつたか。富山の町でも夕方をタツチヤエモト、金澤では又イチクレとさへいつて居るのである。

　地方の言語が追々に集まつて來れば、もう少し説明がはつきりとすることゝ思ふが、今でも黄昏が如何なる時刻であつたかは、これだけの材料からほゞ推測し得られる。皆さんが或は心づかれないかと思ふことは、人の物ごし背恰好といふものが、麻の衣の時代には今よりも見定めにくかつたといふことである。木綿の絲が細く糊が弱くなつて、ぴつたりと身につくやうな近頃の世になると、人の姿の美しさ見にくさはすぐ現れて、遠目にも誰といふことを知るのであるが、夕を心細がるやうな村の人たちは、以前は今少しく一樣に着ふくれて居たのである。見やうによつてはどの人も知つた人の如く、もしくはそれと反對に、足音の近よるを聽きながら、聲を掛け合ふ迄は皆他處の人のやうに、考へられるのがケソメキの常であつた。さうして實際又この時刻には、まだ多くの見馴れない者が、急いで村々を過ぎて行かうとして居たのである。

(310)　鬼と旅人とをほゞ同じ程の不安を以て、迎へ見送つて居たのも久しいことであつた。ところがその不安も少しづゝ單調になつて、次第に日の暮は門の口に立つて、人を見て居たいやうな時刻になつて來た。子供がはしやいで還りたがらぬのもこの時刻、あても無しに多くの若い人々が、空を眺めるのもこの時刻であつた。さうして我々がこはいといふ感じを忘れたが爲に、却つて黄昏の危險は數しげくなつて居るのである。

　

(311)　　　　　妖怪古意

　　　　　　　　――言語と民俗との關係

　

　　　　　　　　　　一

　

　東北の名物は算へきれぬほどあるが、特に言語の側から考へて見るによいのは、秋田沿海部のナマハギなどが主たるものであらう。昔の年越の節であつた舊正月十四日の夜深に、村の青年の中から選拔せられた者が、蓑笠で姿を隱し、怖ろしい面を被つて鍬と庖丁とを手に持ち、何か木箱やうの物をから／＼と鳴らしつゝ、家々に入つて來て主人と問答する。小兒等がこれを懼るゝことは鬼神に對すると同じであるが、成人の男子は曾て自分もこれに扮したことのある者が多い故に、單に嚴肅なる一つの儀式としてこれを視て居る。南太平洋の多くの島々で、Duk-duk その他の名を以て知られて居る神秘行事と、細かく比較をして見なければならぬ重要現象の一つであるが、その點は他にも發表したものがあるから今は説かない。こゝにはたゞその名稱の由つて來たる所、言葉がどの程度にまで人間の心の動きを、永い後の世に痕づけて居るかといふことを、この尋常で無い事實に沿うて、考へて行かうとするだけである。

　

(312)　　　　　　　　　　二

　

　ナマハギは現在もなほ行はれて居る。秋田では通例生剥の字をこれに宛てゝ、ナマハゲと呼んで居る者が多く、また八郎潟の西岸の村々、男鹿の神山の麓の里ばかりに、限られたる風習の如く思つて居る人もある。その推斷の共に誤りであることは、比較に由つて追々に明らかになつて來るのである。ナマハゲといふ語の意味は、土地のこれに携はる人々にも、もう説明が出來なくなつて居るが、僅か前まではナモミハギといつて居たことは、今なほ次のやうな唱へごとを口にしつゝ、その生剥が遣つて來るのを見てもわかる。

　　　ナモミコ剥げたか剥げたかよ　庖丁コ磨げたか磨げたかよ　あづきコ煮えたか煮えたかよ

　同じ縣の河邊郡戸米川村｜女米木《めめき》、又は由利郡大正寺村などにも、同じ行事があつて現にこれをナモミハギといつて居る。そのナモミは「秋田方言」に依れば、火斑《ひがた》即ち長く久しく火にあたつて居る者の、皮膚に生ずる斑紋のことで、由利郡でさういふとあるが、他の郡にも無い語ではあるまい。ヒガタは國語辭典などには全く出て居ないが、東京でも知られて居る語であり、又ヒダコともアマメともいつて通ずる。一言でいふならば働かぬ者の看板である。それをこの年の夜の怖ろしい訪問者が、庖丁を磨ぎすまして身から剥ぎ取り、小豆と一しよに煮て食つてしまはうといふのが、右の唱へごとの出來た時の趣意であつた。これにも若干の演戯性を含んで居るが、とにかくに以前は小さな子供ばかりを、嚇かさうとして居たので無いことは想像し得られる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　右のナモミが野草の名の、ヲナモミ・メナモミと關係があるらしいことは、夙く折口君などがこれを説いた。關係はあるかも知らぬが少なくとも直接では無く、又今はまだ少しも證跡が無い。火斑のナモミは北部の地に行くと、m (313)が g に變つてナゴメとなつて居る。青森縣の西津輕郡では、やはり小正月に同じ行事があつて、これをナゴメタグレ、もしくはシカダハギといふさうである。シカダは火斑のことでナゴメも同じもの、タクルといふ動詞は捲き起すことで、剥ぐといふよりも一段と適切に、惰け者の皮をむく意味をよく表現して居る。

　これと殆と同一の語は、又太平洋の側面にも行はれて居る。例へば岩手縣下閉伊郡の岩泉地方では、ナモミは火斑を意味し又ナモミタクリの行事もある。これも正月十四日の晩に、蓑に手甲蒲脛巾雪靴といふ装束で、面を被つて家々を巡るのがナモミタクリであり、その假面をナモミメンと呼んで居る。九戸郡久慈町でも小正月の天ナガミといふ者が遣つて來るが、これは子供の行事であつてホロロ・ホロロと唱へつゝ家々を訪れて餅を乞ふばかりで、そのナガミを剥ぎ又はタクルといふことは言はない。この地方的の變化も私たちには意外では無い。成人の忘れた多くの儀式を、引繼いで保管する者はいつも兒童であつたからである。

　同じ岩手縣でも上閉伊の釜石附近では、右の小正月の訪問をナナミタクリといひ、これが大ナナミと小ナナミとの二種に分れて居た。小ナナミは前の久慈地方のナガミの如く、少年たちの餅をもらひあるく行事であり、大ナナミは男鹿のナマハギと似て居た。神樂面の中の成るべく怖ろしいのを被り、腰には注連繩を蓑に卷いて、家々にあばれ込むのは若者團の役目であつた。このナナミタクリと秋田のナモミ剥ぎと同じ語であることは、比較によつて全く疑ひが無いのである。嶺を一つ隔てた遠野の盆地などは、この名がもう無くなつて同じ行事だけがある。箱に何かを入れてから／＼と鳴らして來る代りに、こゝでは小刀を瓢の中に入れて、打振つて村中をあるくといふことである。それをモコ又はモウコといふ者もあるが、本當の名はヒカタタクリであつた。惰けて火にばかりあたつて居るやうな者を、ひどい目に遭はさうといふことは中世以後の風であらうが、いつの間にかこれほど廣く、互ひに相知らぬ土地まで行き渡つて居たのである。

　

(314)　　　　　　　　　　四

　

　だから今後の採集によつて、なほ他の地方からも似た例が出ることゝ思つて居る。能登の鹿島郡などでは、除夜の晩はアマメハギといふ者が來て、足の皮を剥いで行くからといつて、子供たちを早く寢させる習はしがある。勿論半ば以上戯れであらうが、曾てこの地方にも火斑を剥ぐと稱して、年越の夕に訪れた者があつた痕跡には相違ない。アマメといふのが亦秋田などのナモミのことだからである。同じ半島も西海岸の皆月あたりへ行くと現にまだ一部分にはこの行事が活きて居る。それは正月の六日年越の夜、青年等天狗の面を被り、素袍を着て御幣を手に持ち、從者三人槌や擂小木を手に携へて、家々を巡つて餅を貰つてあるくといふのが、以前のアマメハギの殘形であらうかと思はれる。これと同種の行事ならば、昔の年越であつた小正月の宵にも、中國四國その他の田舍で、今なほ到る處の村に行はれて居る。たゞその名稱が奧羽のものと別なので、簡明に系統の同一を證し得ない迄である。甲州の平野の村々で道祖神祭といつたのも、装束はこれとよく似て居たが主として新婚の家を訪ひ、嫁壻をいぢめて酒食の料を徴發することに力を注いだ。越後の出雲崎などは獅子の面を被つて來る爲に、普通これを獅子舞とは呼んで居るが、やはり法螺貝などを吹き怖ろしい樣子をして押しあるくので、小兒がこれを見て閉息することは、秋田のナマハギや閉伊のモウコも同じであつた。近年弊害があるので面だけは警察で禁じたといつて居る。さうすれば終には普通の獅子舞と同じものになつてしまふだらうが、その獅子舞すらも子供たちには元はこはかつた。御獅子に?んでもらふと惡い所が治るといつて、惡戯をする私たちは?々手をその口の中へ入れられた。その日は年越の宵では無かつたけれども、これなども曾てはナマハギと同じ趣旨を以て、自分等の郷里の方を廻つて居た名殘では無いかと思ふ。

　

(315)　　　　　　　　　　五

　

　私は前に岩手縣の海沿ひを旅して居た際に、閉伊の大槌の宿舍に於て詳しくあの土地のナゴミタクリの話を聽いた。こゝではこの小正月の訪問者を、モウコ、ガンボウ又はナゴミタクリといつて居た。モウコもガンボウも共に畏ろしいものを意味して居る。ナゴミといふのは何の事ですかと、知らぬ顔をして私は尋ねて見た。さうすると宿の主人の年四十餘なる者が、きまじめにやはり妖怪のことでござりませう。この邊ではナゴミは怖いものだと思つて居ますと答へた。火斑ある皮をタクリに來るといふことは、もうあの土地では言はなくなつて居たのである。土地で忘れたといふことは、その單語のやゝ古いといふことを意味するだけで必ずしも獨立の解釋を支持する力にはならない。モウコ又はモコといふ名稱なども、近頃文字を解する者はほゞ一致して蒙古のことだといふやうになつて居るが、それは弘安の役などの歴史知識が、普及せぬ以前には考へられさうにも無く、たま／＼さういふ説を立てゝも記憶せられさうにも思へぬから、起原のよほど新しいものと見ることが出來る。しかも一方には彼が人間の火斑を剥ぎに來るといふことも今こそこの樣に弘く言ひ傳へられて居るけれども、又決して最初からあつた信仰では無く、寧ろこの行事が幾分か形式化して、人がその言動に劇的の興味を、少しづゝ抱き始めてから後の話と思はれるから事によるとその今一つ以前の名が、モコ又はモウコであつたかも知れぬのである。假にさうだとすると、こんな小さな一語でもやはりその起りを尋ねて見なければならない。それをしなければその又以前の事を考へて見る足場が無くなるからである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　所謂モクリコクリの名稱は、かなり夙くから中央の文獻にも見え、これをお化けのことの樣に、思つて居た子供も(316)少なくは無かつた。それが暗々裡に東北の蒙古説を誘發したまでは意外とも言へない。我々の不思議とするのは、寧ろこの善意なる初春の訪問者が、さういふ異國の兇賊の名と解せられて、何人もこれを否認せぬ時代まで、なほ以前からの外形と言葉とを、ほゞもとの儘で持ち續けて居たことである。妖怪そのものに對する日本人の觀念が、極めて目立たずに少しづゝ變つて居たのである。さうしてその過程を明らかにする手段が、今ではもうこの二つの幽かなる痕跡以外に、我々の爲に殘されては居らぬのである。單なる學者の心輕い思ひ付きが、多數の信奉者を混亂させた例は、この方面にはまだ幾らもある。たとへは嬉遊笑覽その他の隨筆に引用せられて居るガゴゼ元興寺説なども、これを首唱した梅村載筆の筆者などには、格別の研究があつたわけでも無いが、誰でもこれを聽いた人は覺えて居て、一生に二度や三度は少年等に言つてきかせる。昔大和の元興寺の鐘樓に鬼が居て、道場法師といふ大力僧に退治せられたことが靈異記にある。それ故に妖怪をガゴゼといふのだといふのは、ちやうど陸中などのモウコと同じく、もしもこの時始めてばけ物が日本に生じたといふので無ければ、これに命名し又改名するのが、學者物識りの役目であつたことを意味するもので、二つながら我々の想像し得ないことである。これは要するにさうでは無いやうですと言ひ得る者の、一人も居り合はさなかつた席上の説であつた。言葉はそれを使用する者の地に立つて考へて見なければ、少なくともその起りを知ることは出來ない。さうしてモウコは又婦女兒童の語であつたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　遠い昔の世のことは、私たちにはまだ明瞭には知れて居ない。人が老幼男女を通じて、一樣に眼に見えぬ神靈を畏れて居た時代には、多分はモノといふ總稱があつたらうといふことになつて居る。沖繩には今なほマジモノといふ語が行はれ、又バケモノといふ語も内地には出來て遺つて居る。しかし實際にこれを怖がつて居る者の間には、別にそれよりも一段と適切なる語が、新たに生れて來るのが自然であり、又必要なことでもあつた。ガゴやモウコといふ語(317)は現在の使用階級に取つては、必ずしも簡單に過ぎもせず、又餘りに幼稚でも無かつた。さうして日本のかなり廣い地域に亙つて、今でもまだ活きて働いて居るのである。

　前にも一度書いたことがあるから、こゝにはたゞ分布のざつとした色分けを述べて見よう。所謂化物を意味する兒童語は、大體に全國を三つに分け、それも少しづゝ改まつて來たやうである。最近の實?によつて言へば、モウコの方言區域は東北六縣よりも大分廣い。岩手秋田の二縣はこの頃は寧ろモッコが多く、外南部ではアモコとさへいつて居るが、山形縣各郡はほゞ一圓にモウ又はモウコである。それから仙臺でも元はモウカ、福島縣でも岩瀬郡などはマモウだから、僅な變化を以てこのあたり迄は來て居るのである。日本海の側では越後にモカ、出雲崎の附近は既にモモッコで、それが富山縣の北部までは及んで居る。石川縣に於ても金澤はモウカ、能登はモウがあり又モンモウがある。蒙古の一説を以て總括することは出來なくとも、これを別個の發生と見ることは先づ六つかしからう。

　次に信州では長野の周圍からはまだ聽き出さぬが、犀川上流の盆地ではモッカもしくはモモカ、天龍水域ではモンモが行はれ、甲州も亦モンモであるといふ。靜岡縣は内田武志君の方言新集に、靜岡市以西は大體にモーン又はモーンコ、東部には一部にモーモーといふのがあるが、主として行はれるのはモモンガーもしくはモモンジーであつて、偶然にモモンガも同一系統の語であつたことを確かめ得たのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　さて妖怪を何故にモウといひ始めたかについては、たわいも無いやうな話だが私の實驗がある。曾て多くの青年の居る席で試みにオバケは何と鳴くかと尋ねて見たことがある。東京の兒童等は全くこれを知らない。だから戯れに仲間を嚇さうとする場合に、妙な手つきをしてオバーケーといひ、もしくはわざとケーを濁つていふこともある。つまり我名を成るたけこはさうに名乘るのである。ところが或信州の若者はこの問に對して、簡明にモウと鳴きますと答(318)へた。丸で牛のやうだなといふと、他に鳴きやうがあらうとは思はなかつたといつた。それから氣をつけて居るのに、子供がモウと唸つて化物の眞似をして居るのを折々見る。これは誰でも試みることの出來る實驗で、もし東北のモウコが他の聲で鳴くといふ例が幾つか現れたら、私の推定は覆へることになるのだが、私だけはこれが鳴き聲といふのもをかしいが彼の自らを表示する聲から、そのまゝ附與せられた名稱であつて、犬をワンワンといつたのと同じ態度だと思つて居る。

　そのワンワンを又化物の名として居る地方がある。たとへば筑前の博多ではオバケの小兒語がワンワン、同じく嘉穗郡ではバンバン、肥後玉名郡でもワワン、薩摩でも別にガモといふ語はあるが、小兒に對してはワンを用ゐ「ワンが來ッど」などといつて嚇すさうである。かういふ土地でも實驗は容易に出來る。もし化物がワンといつて現れるので無かつたら、かういふ名稱は新たに生れることは出來なかつたらう。從つて歴史を奈良朝に托せんとして居るガゴゼなども、一應はやはり彼が出現の合圖の聲に據つて、起つたものと見て置いてその當否を究むべきである。ガゴゼは自分等の郷里播磨などで、以前はさういつたといふことであるが、近世はもう無くなつて居る。京都でも文獻には見えて今はさうで無く、本元と言はるゝ北大和も唯ガンゴである。但しこのゼといふ接尾辭は、東北のコなどとは違つて、偶然に附着したものでは無いやうに思はれる。四國では阿波が一般にガゴジ又はガンゴジであり、伊豫にはガンゴといひ又ガガモもあるが、周桑郡の兒童語には鬼をガンゴチといふのがある。それからずつと飛び離れて、關東の方でも水戸附近がガンゴジ又はガンゴチ、これと隣接した下野芳賀郡もガンゴジーである。理由の無い附會にもせよ、元興寺説の起つたのは、始めはこれに似よつた音を以て、呼ばれて居たことを推測せしめる。

　

　　　　　　　　　　九

　

　化物をガゴ又はこれと近い音で呼ぶ區域は、殆と完全に前に掲げたモウコ區域と隔絶して居る。たつた一つの例外(319)らしく見えるのは越中であるが、これとても多分は對立であつて、一地の二つの言ひ方が併存して居るのでは無からうと思ふ。さうしてこの地方は雀、蟷螂又蝸牛の方言でも見られる樣に、不思議に異種の語の入り交つて居る處である。大田君の富山市近在方言集に依れば、幼兒を嚇す語に「泣くとモーモに?ましてやるぞ」といふとあるが、それは新川郡の平野でのことらしく、五箇の山村では別に子供を威すのにガーゴンといふ語がある。即ちこの縣の奧地だけに、ほゞ孤立してこの系統の分布を見るのである。それから又ずつと飛び離れて、關東では常野境上のガンコジがあり、その南に繼いで新治稻敷等の諸郡のゴッコがある。これがどの位の版圖を持つかはまだ調べられて居らぬが、とにかくに現在はさう廣く及んでは居ないやうである。注意すべき類似は却つて遠方にある。即ち山口縣では、山口も下關も、共に鬼やおばけがゴンゴであつた。石見ではこれをゴンといふ兒童もあるが、別にゴンゴジー又はゴンゴンジーといふのも怖ろしい人又はモノのことだから、つまりこの地方と常陸の一角とは一致して居るのである。さうして此方は九州の北部、及び四國島の北東二面とも接續して居る。阿波のガゴジのことは既に述べた。讃岐はまだ當つて見ないが、伊豫にもガンゴチがあり、又喜多郡などはガンゴであつて、たゞその南の宇和四郡だけが、第三のガガモ系に屬して居る。九州の方では筑前のバンバンなどがあるが、それを飛び越えて肥前は佐賀藤津の二郡がガンゴ又はガンゴウ、對馬でも同上、肥後は南端の球磨郡がガゴウで、嶺を越えて日向の椎葉村がガゴもしくはガンゴ、大分縣にも亦處々にガンコがある。起原が一つで無かつたならば、これまでの弘い一致は現れまいと思ふ。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　そこでなほこの序でに問題とすべきことは、これと東日本一帶のモウコ乃至はモモンガと、丸々縁無しに別々に生れたか否かであるが、私はやはり始めは一つだと思つて居る。これも當然に實驗から入つて行くべきであるが、恐らくは化物はさういふ聲を發するものと、思つて居る子供又は子供らしい人が、今でも機會ある毎に見出し得られると(320)思ふ。それがもし違つて居たら、乃ち私の假定は覆るのだが、そんな心配は先づ無ささうである。現在のおばけを意味する方言には、別に第三種の g m の二音を組み合せたものがあつて、その分布の?態は一段と廣汎であり、しかもこれを調理する母音の傾向が、かなり顯著に前二者と共通して居る。これを兩者の中間に置いて考へると、變化の道筋は大よそ判つて來るやうに思はれるからである。少し事々しいが他日追加の便宜の爲に、表にして置くことを許されたい。私の手帖に拔き出してあるのは、今のところ次の十餘例に過ぎぬが、これは追々に増加する見込がある。

　　鹿兒島縣　　　ガモ、ガモジン（ガゴ）　　長崎市　　　　ガモジョ（アモジョ）

　　出雲　　　　　ガガマ　　　　　　　　　　伯耆東伯郡　　ガガマ

　　加賀河北郡　　ガガモ（モウカ）　　　　　飛騨一圓　　　ガガモ

　　備後福山　　　ガモージー　　　　　　　　伊豫喜多郡　　ガガモ（ガンゴ）

　　伊豫西宇和郡　ゴガモウ　　　　　　　　　紀州熊野　　　ガモチ

　　伊勢宇治山田　ガモシ

　右の諸例の中で備後や長崎の如く、語尾に元興寺と同樣の一音節を添へてあるものゝ多いのは、私には意味のあることに思へる。我々のオバケは口を大きく開けて、中世の口語體に「咬まうぞ」といひつゝ、出現した時代があつたらしいのである。その聲を少しでもより怖ろしくする爲には、我邦では k を g 音に發しかへる必要があり、又折としてはその g 音をまゝなく（吃る）必要もあつたかと思はれる。それが今日のガモ又はガガモの元だといふことは、昔を考へて見れば必ずしも無理な想像では無い。私などの幼ない頃の言葉では、妖怪はバケモンであり又ガゴゼであつたが、なほ昔話中の化物だけは、やゝ古風に「取つてかも」といひつゝ現はれた。カムといふ言葉が端的に、咬んでむしや／＼と食べてしまふことを意味したのである。その用法は南の島にはまだ殘つて居る。これが嚥下の動作までを包含せぬ動詞となつて後も、なほ努めて日常の「食ふ」とか「たべる」とかいふ語と、差別した語を使はうとしたこ(321)とは、關東でよく聞く蚊がクフや、犬がクラヒツクなどと異曲同工と言つてよからう。

　

　　　　　　　　　　一一

　

　鳥や獣のやうな言語の丸でちがつたものゝ聲でも、我々は何かこちらの言葉で物を言つて居るやうに聽かうとした。梟は糊つけ乾せ、畫眉鳥は一筆啓上仕り候といふやうに解せられて居た。まして化物は人間の幻を以てこしらへたもの、それが最初から意味の無い聲を出して來る筈は無かつたと思ふ。しかも彼等の要求は、以前はさう過大又複雜なもので無かつたのが面白い。「かまう」は多分猛獣などの眞似で、實際にその意圖があつたので無く、やはり「小豆が煮えたか」と同樣に、相手が懾伏し畏怖するを以て目的とする恫喝の語であつたのであらう。その語義が一旦は不明になつて、却つて語感の展開して來たことは、今ある小正月のナマハギやナゴミもよく似て居る。咬まうがモウとなつたのは所謂アクセントの問題である。東北の方では西南とちがつて第一音節の ga に力が入らなかつたものと思はれる。さうなると蒙古人のことだといふ新説も生れ易く、又は亡靈をモウコンといふ新語を案出し得られた。化物と亡靈とは本來は同類で無いのだが、それがモウと鳴いて出て來る奧州や信州では、亡魂と解せられて居る一種中間の化物が加はつて居る。さうして冥界の危險は世と共に痛烈になつた。この混同は日本の固有信仰の爲に、一般に有害であつたと言つてよい。

　一方この邦の言語學の側からいふと、これには又他では得られない幾つかのよい史料を含んで居る。陸中の上閉伊などでは、お化けをモウコといふ語と併立して、別に西國流のガンボウといふ名も傳はつて居る。第二音節のモウに力を入れた發音のし方も、最初からのものでは無くて、曾てはガの音に重きを置いて居た單語が、こゝにもあつたことを想像せしめるのである。ガゴウといふ語はやゝ古く文獻に録せられて居るから、これが今邊土に遺つて居るガモウなどの、一つの音訛の例だといふことは信じ得ぬ人があるかも知らぬが、私の説明は無造作だ。一方は日本語とし(322)て少し意味があり、他の一方は無意味だ。人の空想から生れた語ならば、少しでも意味のある方が前のもので、それが慣用によつて約束せられた後で無いと、他の一方の轉訛は起り得まいと思ふのである。ガゴゼ、ガンゴジ等の不可解なる接尾語が、諸處に殘つて居るのもその痕跡だと見られる。だから古く知られて居る故に正しい元の語だとも言はれぬと同時に、音韻の訛りは常に或傾向に沿うて進むとしても、それには?々社會的原因とも名づくべきものが參與して、單なる生理作用だけではその過程を解釋することが不可能だといふこと、かういふ相應に重要なる定理も、行く／＼はこれから導いて來ることが出來さうである。つまらぬ小さな問題の樣に見えて、その實は決してさうで無い。

　

　　　　　　　　　　一二

　

　オニといふ日本語の上代の意義は、頗る漢語の「鬼」とは異なつて居た。これを對譯として相用ゐた結果が、いつと無く我々のオニ思想を混亂せしめたことは、曾て白鳥博士なども力説せられたことがあつた。それと同樣に方言のモウコ、ガゴジ、ガモジョ等を、直ちに標準語のお化け又は化け物に引直すことは即ち又常民信仰史の眼に見えぬ記録の數十頁を、讀まずにはね飛ばしてしまふやうな不安がある。方言は早晩消滅すべきものであらうが、殘つて居るうちは觀察しなければならぬ。さうしてその意義を尋ねるのが學問だと私は思ふ。所謂、お化け話の民間に傳はつて居るものは、今でもまだ若干の參考を我々に提供する。人に恨みを含み仇を復せんとする亡魂は別として、その他のおばけたちは本來は無害なものであつた。こはいことは確かにこはいが、きやアといつて遁げて來れば、それで彼等の目的は完了したやうに見える。單に化物などといふものはこの世に無い筈といつたり何がこはいなどと侮つたりする男が、ひどい目に遭はされるだけである。さうして時あつては産女《うぶめ》が子を抱いて居た者に大力を授けたり、水の精が約束を守る者に膳椀の類を貸してくれる等、素直に彼が威力を認めその命令に從順である者に大きな恩惠を付與し(323)たといふのみならず、更に進んでは妖怪變化と見えたのは、實は埋もれたる金銀財寶であつたといふ話にまで發展して居るのである。人をそこなふ爲に現れるので無かつたことだけはよくわかる。目的は要するに相手の承認、乃至は屈伏にあつた。それ故に通例は信仰の移り變りの際に、特にこの種の社會現象が多いものと、昔からきまつて居るのである。東北諸處の田舍の年の夜の訪問者が、家主も謹んで迎へ、又これに携はつて居る若者も、嚴肅なる好意を抱いて演じて居るに拘らず、單に火斑剥離者の名を以て知られ、もしくは化け物と共通の名を以て呼ばれて居るといふことは、これをやゝ零落せんとする前代神の姿として、始めて解し得る不思議である。彼等はたゞ自分の威力を畏れ又崇めなかつた者をのみ罰せんとして居たのである。だからその表現には恫喝があつた。取つて咬まうとどなりつゝその實は咬まなかつた。神秘に參加せざる未成年者のみがそれを知らぬ故に大いに慄へたのである。しかも信仰は愈々變化して、今では兒童の最も幼ない者の間に、僅かに殘壘を保つに過ぎないのに、他の一方には何とかしてお化けを怖ろしい形に作りかへて、いつ迄もこれを信じようとする者が絶えない。おばけの話の年と共にあくどくなるのは、考へて見ると面白い人心である。

　

　　　　　　　附録

　

　お化けを意味する我々の方言が、土地によつて始終變つて居たらしいことは、今ある複合語の中からもこれを窺ふことが出來る。たとへば東京は現在一樣にオバケといふが、なほ關西のアカンベを、ベッカコウといふ語だけは殘つて居る。ベッカコウは即ち目のガゴで、わざと目を剥いてこはい顔になることである。下野の河内郡などでは、瞼に腫物が出來て赤く脹れて居るのをメカゴもしくはメカイゴといふ。これも眼だけのガゴであらうと思ふ。仙臺のお化けの聲はモウカであるらしいが、なほ隱れ鬼の遊戯はカクレカゴであり、水に住む源五郎蟲をガムシといつたと濱荻(324)に見えて居る。この源五郎蟲は恐らく「田がめ」の誤りであらう。この蟲の水中の擧動が似て居ると見えて、これを妖怪と同じ名で呼ぶ例は、備前丹後その他の地方にある。鹿兒島縣の種子島などでも今では妖怪をガモといふやうになつて居るらしいが、この田鼈だけは東北流にタモツコウといふさうである。なはこの因みにいふと、タガメのガメも石龜のことで無く、やはり水中の怪物の名として、かなり廣い區域に行はれて居るから、或はガモ、ガガモの方から導かれたものかも知れぬ。

　次に氷柱を豐前あたりでモウガンコといふのも、同じ言葉の適用かと思ふが、北九州には今はモウといふ語は消えかゝつて居る。植物の畸形をさしてバケバケなどといふことは、東京附近でも折々聽く語であるが、その中で最も普通になつて居るのは薯蕷の子のムカゴである。加賀は今日はモウカの地域であるが、零餘子のみはゴンゴといひ、越中も各郡ともにガゴジョ、飛騨もガゴジョであつて、たゞ袖川村などがガモンジョになつて居る。九州も豐後筑後肥前などがすべてカゴで、浮羽郡吉井だけはヤマイモカンゴ、壹岐島はイモカゴ、廣島縣の一部ではマカゴといつて居る。ムカゴの「ム」は多分芋であらう。或はヌカゴともいつて古くから文筆にも現れて居るが、本來はお化けのガゴから出て、もう一度優雅な k 音に復したものなることは、他の諸例から頼推し得られる。怪物を曾てガゴといつて居た地方は、今よりも廣かつたものと思はれる。岩手縣のモウコ地帶にガンボウのまじつて居るのも、やはりこの地方に或時代の變化があつたことを想像せしめる。

　

(325)　　　　　おばけの聲

　

　　　　　　　　　　一

　

　オパケ研究の專門雜誌が、最近に盛岡から出ようとして居る。又宮崎縣の郷土志資料には、あの地方の妖怪變化の目録が、先々月から連載せられて居る。ばけ物は勿論至つて古い世相の一つではあるが、それを觀ようとする態度だけがこの頃やつとのことで新しくなり始めたのである。私たちの見た所では、人が今日の問題などと珍しがるものでも、大抵は以前何度と無く、だれかゞ考へて見たものばかりだ。今頃だし拔けに現れてくるといふ問題は、もうこの人生には無い方が當り前である。單にこれまで氣のつかなかつた實例、それを機縁として新しく見直さうとする心持、今一つは寧ろ久しい間ほつたらかしてゐたといふ事實が、次々に問題を新たにしてくれるのである。この意味からいふと、ばけ物なども大いに新しい部類に屬する。たとへば我々がこれに興味を抱いて居るといふと、直ぐ「有るものか無いものか」を問はうとする人が、まだ世間には充滿して居るのである。かうした一方からしか問題に近よることの出來ぬ人たちが、いはゞ現代のためにいろ／＼の面白い題目を貯藏して置いてくれたので、新たな怪談と觀察との學問が、ちやうど起らずにはをられぬやうに世の中はなつて居る。

　

(326)　　　　　　　　　　二

　

　最初まだ當分のうちは、いはゆる眞面目な人々は相手になつてくれぬかも知れない。しかし氣樂で時間の多い子供とか年寄とかゞ、仲間に入つてくるならばそれで結構である。何でも出來るだけ單純な目標、殊にもつとも實際的なる毎日の言葉からたどつて行くのが便利なやうである。私はある時同志の青年を集めて試みに「ばけ物は何と鳴くか」を比較して見たことがあつた。東京などの子供は戯れに人をおどす時、口を大きく開き尖らせた十本の指を顔のそばへ持つて來て、オーバーケーとうなるやうに發音するのが普通のやうだが、これは近頃になつての改造かと思はれる。といふわけはオバケといふ日本語は、さう古くからのもので無いからである。關東の近縣から、奧羽北陸の廣い地域に亙つて、化物の鳴き聲は牛のやうに、モーといふのだと思つて居る人は多い。それがどういふわけかは考へて見た人も有るまいが、大よそ人間のしたりいつたりすることに理由の無いものがあらうはずは無い。もし今以てそれを解説し能はずとすれば、乃ちその根源にはいまだ究められざる事實があるのである。

　多くの動物の名がその鳴き聲からつけられて居る如く、オバケもモーと鳴く地方では、大抵は又それに近い語を以て呼ばれて居る。例へば秋田ではモコ、外南部ではアモコ、岩手縣も中央部ではモンコ、それから海岸の方に向ふとモッコ又はモーコで、あるひは昔蒙古人を怖れて居た時代に、さういひ始めたのだらうといふ説さへある。しかし人間の言葉はそんな學者くさい意見などには頓着無しに、土地が變ればどし／＼と變化して行つて居る。今日私たちの知つて居るだけでも、まづ福島縣の南の方ではマモウ、越後の吉田ではモッカ、出雲崎ではモモッコ、越中の入善でもモモッコ、加賀の金澤ではモーカ、能登にはモンモだのモウだのといふ呼び方がある。信州でも伊那は普通にモンモであるが南安曇の豐科ではモッカといひ、松本市ではモモカといつて居る。これから考へて見ると、江戸で「むささび」のことをモモングワ、それから一轉して一般に野獣の肉をモモンヂーなどといつたかも知れぬ。上總の長生郡(327)などでは、今でもモンモンヂャといへば化け物を意味して居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　オバケの地方名は、大げさにいふならば三つの系統に分れて居る。その一つは九州四國から近畿地方までに割據するもので、主として、ガ行の物すごい音から成立つて居る。鹿兒島縣でガゴ・ガモ又はガモジン、肥後の人吉邊でガゴーもしくはカゴ、日向の椎葉山でガンゴ、佐賀とその周圍でガンゴウ、周防の山口でゴンゴ、伊豫の大洲附近でガガモ又はガンゴ同じく西條でガンゴーといふなどがその例である。

　對馬では子供が兩手の小指を以て目の端を張り、こはい顔をすることをタンゴウスルといひ、又はガンゴメともいふさうである。これで思ひ當るのは東京などのベッカッコウも、本來は又目ガッコであつて、即ちばけ物の顔といふ意味であつたらしい。それから小兒の遊びのカゴメ／＼なども、「いつ／＼出やる、夜明けの晩に」といふからは、やはりオバケを圍んで伏せて置く仕草であつたのかも知れない。化け物をガンゴといふ言葉は奈良にもあれば、越中でも富山の周圍や五箇山ではガーゴンといひ茨城縣などにもゴッコ又はガゴジといふ語が殘つて居る。それを大和の元興寺の昔話から、始まつたやうに稱へて居たのは、本を讀んだ人たちだけのひとり合點であつた。

　次に第三の種類はモーとガンゴとの結合したもので、九州でも薩摩のガモだの長崎のガモジョだのがある他に、紀州の熊野でガモチといひ、飛騨は一般にガガモといつて居る。私の想像ではこれが多分は古い形であつて、他の二つはそれから分れて出たもの、即ち最初には彼自身「かまう」と名乘つて、現れてくるのを普通として居たために、それが自然に名のやうになつたのかと思ふ。人が既にオバケを怖れぬやうになつて、「かまう」ぐらゐではこはさが足らず、「取つて食はう」とでもいはないと、相手がオバケだとも思はぬやうになつてしまつた。さうしてカモーを無意味なる符號の如くに、自分勝手に變形して使つて居たことはちやうど我々の固有名詞も同じであつた。しかも唯これだ(328)けの單に一語からでも、なほばけ物に對する以前の感覺は推測し得られるのである。

　

　（附記）

　家庭朝日といふ雜誌は、昔朝日新聞で新聞購讀者に無料で配布したもので、編集長は津村秀夫氏だつた。今は保存して居る人も少なぐ、朝日新聞社にすらないといふことである。幸ひ奈良の水木直箭氏の手許にあり、筆寫させてもらつたが、きけば水木氏も八戸の夏堀謹二郎氏より送られたものとか、「妖怪古意」と内容が重なつてゐるが、いろいろの思ひ出の爲、加へることにした。

　

(329)　　　　　幻覺の實驗

　

　これは今から四十八年前の實驗で、うそは言はぬつもりだが、餘り古い話だから自分でも少し心もとない。今は單にこの種類の出來事でも、成るべく話されたまゝに記録して置けば、役に立つといふ一例として書いて見るのである。人が物を信じ得る範圍は、今よりも曾てはずつと廣かつたといふことは、かういふ事實を積み重ねて、始めて客觀的に明らかになつて來るかと思ふ。

　日は忘れたが、ある春の日の午前十一時前後、下總北相馬郡布川といふ町の、高臺の東南麓に在つた兄の家の庭で、當時十四歳であつた自分は、一人で土いぢりをして居た。岡に登つて行かうとする急な細路のすぐ下が、この家の庭園の一部になつて居て、土藏の前の二十坪ばかりの平地のまん中に、何か二三本の木があつて、その下に小さな石の祠が南を向いて立つて居た。この家の持主の先々代の、非常に長命をした老母の靈を祀つて居るやうに聞いて居た。當時中々いたづらであつた自分は、その前に叱る人の居らぬ時を測つて、そつとその祠の石の戸を開いて見たことがある。中には幣も鏡も無くて、單に中央を彫り窪めて、徑五寸ばかりの石の球が嵌め込んであつた。不思議でたまらなかつたが、惡いことをしたと思ふから誰にも理由を尋ねて見ることが出來ない。たゞ人々がそのおばあさんの噂をして居る際に、いつも最も深い注意を拂つて居ただけであつたが、そのうちに少しづゝ判つて來た事は、どういふわけがあつたかその年寄は、始終?石のまん丸な球を持つて居た。床に就いてからもこの大きな重いものを、撫でさすり抱へ温めて居たといふことである。それに何等かの因縁話が添はつて、死んでからこの丸石を祠にまつり込めるこ(330)とに、なつたものと想像することは出來たが、それ以上を聽く機會は終に來なかつた。

　今から考へて見ると、たゞこれだけの事でも、暗々裡に少年の心に、強い感動を與へて居たものらしい。はつきりとはせぬが次の事件は、それから半月か三週間のうちに起つたかと思はれるからである。その日は私は丸い石の球のことは、少しも考へては居なかつた。たゞ退屈を紛らす爲に、ちやうどその祠の前のあたりの土を、小さな手鍬のやうなもので、少しづゝ掘りかへして居たのであつた。ところが物の二三寸も掘つたかと思ふ所から、不意にきら／＼と光るものが出て來た。よく見るとそれは皆寛永通寶の、裏に文の字を刻したやゝ大ぶりの孔あき錢であつた。出たのは精々七八箇で、その頃はまだ盛んに通用して居た際だから、珍しいことも何も無いのだが、土中から出たといふこと以外に、それが耳白のわざ／＼磨いたかと思ふほどの美しい錢ばかりであつた爲に、私は何ともいひ現せないやうな妙な氣持になつた。

　これも附加條件であつたかと思ふのは、私は當時やたらに雜書を讀み、土中から金銀や古錢の、ざく／＼と出たといふ江戸時代の事案を知つて居て、その度に心を動かした記憶がたしかにある。それから今一つは、土工や建築に伴なふ儀式に、錢が用ゐられる風習のあることを少しも知らなかつた。この錢は或は土藏の普請の時に埋めたものが、石の祠を立てる際に土を動かして上の方へ出たか、又は祠そのものゝ祭の爲にも、何かさういふ秘法が行はれたかも知れぬと、年をとつてからなら考へる所だが、その時は全然さういふ想像は浮ばなかつた。さうして暫らくは只茫然とした氣持になつたのである。幻覺はちやうどこの事件の直後に起つた。どうしてさうしたかは今でも判らないが、私はこの時しやがんだまゝで、首をねぢ向けて青空のまん中より少し東へ下つたあたりを見た。今でも鮮かに覺えて居るが、實に澄みきつた青い空であつて、日輪の有りどころよりは十五度も離れたところに、點々に數十の晝の星を見たのである。その星の有り形なども、かうであつたといふことは私には出來るが、それが後々の空想の影響を受けて居ないとは斷言し得ない。たゞ間違ひの無いことは白晝に星を見たことで、（その際に鵯が高い所を啼いて通つた(331)ことも覺えて居る）それを餘りに神秘に思つた結果、却つて數日の間何人にもその實驗を語らうとしなかつた。さうして自分だけで心の中に、星は何かの機會さへあれば、白晝でも見えるものと考へて居た。後日その事をぽつ／＼と、家に居た醫者の書生たちに話して見ると、彼等は皆大笑ひをして承認してくれない。一體どんな星が見えると思ふのかと言つて、初歩の天文學の本などを出して來て見せるので、こちらも次第にあやふやになり、又笑はれても致し方が無いやうな氣にもなつたが、それでも最初の印象があまりに鮮明であつた爲か、東京の學校に入つてからも、何度かこの見聞を語らうとして、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされたことがあつた。

　話はこれきりだが今でも私は折々考へる。もし私ぐらゐしか天體の知識をもたぬ人ばかりが、あの時私の兄の家に居たなら結果はどうであつたらうか。少年の眞劍は顔つきからでも直ぐにわかる。不思議は世の中に無いとはいへぬと、考へただけでもこれをまに受けて、曾て茨城縣の一隅に日中の星が見えたといふことが、語り傳へられぬとも限らぬのである。その上に多くの奇瑞には、もう少し共通の誘因があつた。黙つて私が石の祠の戸を開き、又は土中の光る物を拾ひ上げて、獨りで感動したやうな場合ばかりでは無かつたのである。信州では千國の源長寺が廢寺になつた際に、村に日頃から馬鹿者扱ひにされて居た一人の少年が、八丁のはばといふ崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢さまが揃つて泣いて居る」といつた。それを村の衆は一人も見ることが出來なかつたにも拘らず、さては御寺から外へ預けられる諸佛像が、こゝへ出て悲歎したまふかと解して、深い感動を受けて今に語り傳へて居る。或は又松尾の部落の山畑に、壻と二人で畑打をして居た一老翁は、不意に前方のヒシ（崖）の上に、見事なお曼陀羅の懸かつたのを見て、「やれ有難や松ヶ尾の藥師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかつたのだけれども、忽ちこの崖の端に今ある藥師堂が建立せられることになつた。この二つの實例の前の方は、豫め人心の動搖があつて、不思議の信ぜられる素地を作つて居たとも見られるが、後者に至つては中心人物の私無き實驗談、それも至つて端的に又簡單なものが、終に一般の確認を受けたのである。その根柢をなしたる社會的條件は、甚だしく、幽玄なものであつたと言はなけれ(332)ばならない。

　奧羽の山間部落には路傍の山神石塔が多く、それが何れも曾てその地點に於て不思議を見た者の記念で、大抵は眼の光つた、せいの高い、赭色をした裸の男が、山から降りて來るのに行逢つたといふ類の出來事だつたといふことは、遠野物語の中にも書留めて置いたが、關東に無數にある馬頭觀音の碑なども、もとは因縁のこれと最も近いものがあつたらしいのである。駄馬に災ひするダイバといふ惡靈などは、その形が熊ん蜂を少し大きくしたほどのもので、羽色が極めて鮮麗であつた。この物が馬の耳に飛込むと、馬は立ちどころに跳ね騰つてすぐ斃れる。或は又一寸ほどの美女が、その蜂のやうなものゝ背に跨がつて空を飛んで來るのを見たといふ馬子もある。不慮の驚きに動?したとは言つても、突嗟にその樣な空想を描くやうな彼等でない。乃ち馬の急病のさし起つた瞬間の雰圍氣から、こんな幻覺を起す樣な習性を、既に無意識に養はれて居たのかも知れぬのである。

　我邦の古記録に最も數多く載せられて居て、しかも今日まだ少しも解説せられて居ない一つの事實、即ち七つ八つの小兒に神が依つて、誰でも心服しなければならぬやうな根據あるいろ／＼の神秘を語つたといふことは、この私の實驗のやうなものを、數百も千も存録して行くうちには、まだもう少しその眞相に近づいて行くことが出來るかと思ふ。「旅と傳説」が百號になつたといふことが、たゞ徒然草のむく犬のやうなもので無いのならば、今度は改めて注意をこの方面に少しづゝ向けて行くやうにしたらよからうと思ふ。所謂説明のつかぬ不思議といふものを、町に住んで居て集めようといふのは稍々無理かも知らぬが、それでも新聞や人の話、又は今までの見聞記中にもまだ少しづゝは拾つて行かれる。實は私も大分たまつて居るつもりだつたが、紙に向つて見ると今はちよつとよい例が思ひ出せない。そのうちに折々氣づいたものを掲げて、同志諸君の話を引出す絲口に供したいと思つて居る。

　

(333)　　　　　川童の話

　

　以前數年間鹿兒島に居られた石黒忠篤氏は、鳥の聲に詳しい人であるが、親しくこのヒョンヒョンを聽いてその話をせられたことがある。その説ではムナグロ（胸黒？）といふ大きな千鳥の類の群だといふことである。水虎考略後篇の卷三に、日向高鍋の某村に於て、土堤普請の番小屋の側を、夜分になると水虎數百群をなして通る。或人是非その姿を見んと思ひ、樹蔭に隱れ窺ひたれどもどうしても見ること成らず。次の夜鐵砲を持參し程を見定めて一發すれば忽然として聲を潜めた。水虎の鳴聲は飄々と聞える。日州で川童をヒョウスヘと呼ぶのはこの爲だとある。尾花石黒二君の説と合致して居るが、ヒョウスヘの稱呼の由來に至つては未だ直ちには信じ難い。

　右の水虎考略は後篇の方はあまり世に流布して居らぬ。第三卷の新聞雜記といふのは天保年間にある書生が下手な漢文で筆録した三十篇の川童話である。この序でにその中から二三耳新しい箇條を書拔いて置かう。（一）肥後の天草には川童多く住み常に里の子供を海へ連れて行き水泳を教へてくれる。その言ふ通りにすれば何の害もせぬが、機嫌を損じると甚だ怖しい。子供等は時々親に頼み川童を喚んで御馳走をする。その姿小兒等の目には見えて父母には見えず。只物を食べる音ばかりして歸る時には椀も茶椀も皆空である。これは佐賀の藩士の宅へ奉公に來て居た天草の女中の談。（二）佐賀白山町の森田藤兵衛なる者曾て對馬に渡り宿屋に泊つて居ると、夜分に宿の附近を多人數の足音がして終夜絶えなかつた。翌朝亭主に何うしてかう夜歩きする者が多いのかと聞くと、あれは皆川童です、人ではありません。川童は晝は山に居り夜は海へ出て食を求めるので、この如く多く居ても別に害はせぬものだと語つた。(334)（三）肥前では人の川童の爲に殺さるゝ者あれば、その葬には火を用ゐしめず。衣類から棺まで白い物を用ゐさせぬ。これを黒葬といひ、黒葬をすればその川童は目潰れ腕腐つて死ぬものだといふ。（四）佐賀高木町の商家の娘十一二歳の者、寺子屋の歸りに隣家の童子に遇ひ、觀成院の前の川で遊ばうと約束して置いて、家へ戻つて食事をし出て行かうとする時、親がこれを聞いて用心の爲に竈の神樣を拜ませ、荒神樣守りたまへとその子の額に竈の墨を塗つて出した。約束の童子つく／”＼と娘の額を見て、御前は荒神の墨を戴いて來たからもう一緒に泳ぎたく無いといつて憮然として去つたとある。それで川童であることが顯はれた。この本にはまだ數十件の川童の話が載せてある。

　

(335)　　　　　川童の渡り

　

　かういふ題を掲げても、川童を鳥だと思つて居る人が有るわけでは無い。むしろ或鳥類を川童だと思つて居る者のあることを報告して置きたいのである。私はもう大分以前に、宮崎縣の耳川流域でこの話を始めて聽いたのだ。が薩摩の川内川筋でも同じことをいふさうであり、南九州ではそちこちの人がこれを知つてゐる。川童は秋の末から冬のかゝりの、雨などの降る暗い晩にヒョンヒョンと細い鼻聲見たやうな聲で鳴いて濱の方から山手へ、空中を群をなして飛んで行くものださうな。それから春さきやゝ暖かくなつた頃、やはり同じやうな夜中に同じ路筋を逆に、山から海岸へ啼いて出て來る。だからガアラッパといふものは冬だけは山に入つて住んで居る者に相違ないといふ類の話で、今でも聽かうとさへすれば、隨分眞顔になつて教へてくれる人があると思ふ。

　眞暗な晩だといふから、無論姿を見た人は無いのである。それを川童の渡りと推斷するには、もう一つ別の根據が無くてはならぬ。だが、信じて聽かうとする者に取つては、古いといふことが實は一つの證據なので、成程近頃になつて始めてそんな事をいひ出したとしても、誰も耳を藉きうとする人が無いことだけは確である。ところが一方には羽の音がするといふ人もある。さうして羽のある川童といふのは聽いたことも無いのだから、疑ふ人々はそれは一種の鳥であらうといふのだが、たゞ一種の鳥だけでは、私等でもまだ合點が出來なかつた。自分の友人では、石黒忠篤君などがその聲を聽いて居る。さうして誰かその道の人に、あれはムナグロといふ千鳥の群だといふことを教へられたといつて居る。この點を私はもう一度、「野鳥」の問題にして見たいのである。果してムナグロがそんな聲で啼き又(336)その季節にさういふ去來をする習性をもつものかどうか。私は繪でより外その鳥をじつと見たことが無いのだから當然その聲は耳にして居ないのである。川口君を始め九州の鳥に明るい人がこの會には多い。ムナグロならさういふ誤解を引起すかも知れぬと、いふ程度に迄でもこの問題を進めて置きたいのが私の願ひである。

　話はこれだけだが前以て御禮のしるしに、私の方でも判つて居ることを御參考にのべて置かう。鳥と人間との交渉が目標なら、こんな話でもまだ野鳥の會の領内だと思ふ。東京附近の人に考へさせると、川童がその樣に群をなして行動するといふことが既に一つの疑問であらう。この淵には居るといふ話があつても大抵は一頭で、畫に描いても又泉君芥川君が小説に書いても皆一つで濟ませて居る。ところが朝川善菴の隨筆に出て居る常陸の海邊の川童の如きは五頭か六頭か數は忘れたが、大分かたまつて漁夫の眼にふれたといつて居る。それから北へ行くと化けて女の所へ來たなどといふのは單獨だが、出逢つて見たといふ例は群になつて居る。寂しい水邊のよく川童の出て遊ぶ砂原には朝方通つて見ると無數に足の跡があり、それが小兒の足の如く又水鳥の趾痕のやうであつたともいつて居る。川童が出て來て角力を取らうといつた話は東日本に少なく西へ行くほど多いが、これも最初に出て來るのは一頭で、勝つてはふり投げても、わざと負けてやつても、後から後から仲間が加はつて來るといふ。姿を隱して始めから控へて居るらしいのである。九州の川童も人間を試みに來る時には矢張此方の樣に子供などに化けて一人で現れるのだが、一旦手に合はぬと見ると何處からとも無く多數の同勢を寄せ集めて來て、手取り足取りして相手を閉口させなければ止めない。それでゐて常は水の底に一ぱい居ても、丸で海月などのやうに透きとほつて少しも見えぬといひ、或は又形を變へることが自在で、馬の蹄で作つたほどの小さな水溜りにも、千匹ぐらゐは必ず隱れて居るといふ話もある。そんな都合のいい動物といふものが有る氣遣ひは無い。強いか強くないかは別問題として、かういふ出方をするからには化け物にきまつて居る。それが土地によつては數の力を以て我々を威迫するかの如く、以前から考へられて居たのである。

(337)　川童が冬は山に入つて山童となるといふことを、今でも盛んに説くのは九州であるが、これは他の地方にも折々は聽く話である。山ワロは楠氏の西遊記にも出て居るやうに、裸で背高で擧動が鈍く、人の言葉はわかるが一言も物を言はず、力だけは山で働く人よりも強くて、材木をかついでその駄賃に提飯を貰つて悦んで還るといふやうな、いづれ怪物ではあらうが、かなり人間に近い逸話の持主でもある。それがヒョンヒョンと啼きながら空を飛んで行くなどといふのは、餘りとしても大膽な想像を描いたものだとも言はれるが、もと／＼左樣なものが全然居ないか、少くとも見たといふ人が、實は受賣であつたり、もしくは作りごとであつたりしたのだとなると、此方はまだ聲だけでも聽いて居るのだから根據がある。つまり雙方ともに、冬は山へ行くといふ古くからの言ひ傳へが、形をかへて新たに流布して居る迄のものらしいのである。紀州はドンガスだのガオロだのと、川童の異名の多くある地方であるが、それが又冬は山奧へ入つてカシャンボといふものになるといふ。青い衣を着た少年の可愛らしい姿に見えるが、これが中々の惡戯で、人をからかつて仕方が無い。カシャグといふのも方言でくすぐることを意味するのだといふ人がある。さういふ徒ら者だが又一方には義理固い所もあつて、熊野も二川村の何とかいふ舊家では、谷へ入つて來るカシャンボは一人づゝこの家の外へ來て、石を打つけて到着の知らせをするともいふ。吉野では川童を川太郎といふさうだが、これも冬になると山に入つて、山太郎となると傳へて居る。その山太郎はどんな事をする者かまだ判つて居ないが、肥後の人吉附近では山ン太郎は山の神だといひ、山神の祭文には近山ン太郎、中山奧山の太郎各々三千三百三十三、合せて一萬に一つ足らぬ山太郎が、山に働く人々の祈願を叶へることを敍して居る。さうしてやはり亦冬の間だけ、川太郎が山に入つて山太郎になるといふ話もあるのである。山太郎の里へ下つて來る道筋は定まつて居た。二月朔日の朝早く或川の用水堰の堤の上などに往つて見ると、そこには必ず澤山の川太郎の足跡があつた。長い三本の趾のすぐ後に踵の跡があつて、人なら土踏まずといふ部分がまるで無かつたといふから、これもどうやら鳥類の足跡のやうに思はれる。

(338)　それから今一つ川童の聲のことであるが、私たちの知つて居るのは、人間の子供に化けて來る時だから、無論日本語のしかも方言で、泳ぎに行かうやとか角力を取らうやといふのだが、それでも不審に思つて聽き返すと次第に判らなくなり、しまひにはキキーといふ聲ばかり高くなるといふ。或は角力を取つてこちらが負けると嬉しがつて、そこでもこゝでもキキーといふ猿のやうな聲をするので、始めて川童につかれて居ることを知るのだともいつて居る。ところが秋の終りと春の初めに、暗夜に空を飛んで山に出入するといふ土地だけが、そんな低い淋しい聲で、ヒョンヒョンと啼くといつて居るのである。どうしてその樣な一致せぬ話が、僅な地域の間に併存して居るのか。どちらも誤解であらうと言つてしまへば濟むだらうが、それにしたところで昨今の誤解では無いのである。日向では川童を又ヒョウスンボといふ者が多く、それはこの啼聲から出た名だと今でもいふが、百數十年以前の水虎考略にもその事は既に述べてあるのみならず、一方には太宰府の天滿宮境内を始めとし、川童を社に祀つてヒョウスヘの神といつた例は九州に數多く、又そのヒョウスヘの神の名を唱へて、川童除けの呪文とした歌は全國に流布して居る。即ち曾て或一種の冬鳥の渡りの聲を聽いてそれを水の靈が自ら名のる名の如く思つた者が、かなり古くからあつたことが推測せられるのである。鳥の習性には、時代の變化が尠く、同じ現象は何千年もくり返されて居るだらうが、たゞそれだけでは無論こんな俗信は發生しない。今でも田の神が春は山より降り、秋の收穫が終ると再び歸つて山の神になるといふ信仰が、國の隅々に殘つて居るやうに、神は年毎に遠い海を越えて、島の我々を幸福にしようとして、訪れ來るものといふ考へが、夙くから渡り鳥の生態を極度に神秘化して居たのであつて、川童もムナグロの聲も、いはゞ無意識に保存して居た古い記録の消え殘りに他ならぬのでは無からうか。

　

(339)　　　　　川童祭懷古

　

　　　　　　　　　　一

　

　夏祭は都市の繁昌につれて、次第に華やかな又目新しいものになつて來た。見物の衆がこれに心を取られて、いつと無くその姿を移し學び、後には農村の秋春の祭禮まで、神輿に山鉾に同じ風流を競ふ例が、多くなつたのも無理はないと思ふ。當世は變り改まり、又ねんごろに根原を求め尋ねる。一たびこの行事の由來が、我々の遠祖の生活と、如何なる交渉をもつかを考へて見るのも、今においては必ずしも無意義の業とはいはれぬであらう。

　誰でも知つて居るのは、祇園はもと行疫神であつたことである。部下の荒ぶる神々を統御して、その災禍を神を敬ひ祀る者に及ぼさぬといふ御力が、特に民衆の仰ぎ信ずる所であつた。津島の天王の信仰は夙に東國の方に行はれて居たやうだが、これは更に御葭神事《みよしのしんじ》といつて、追ひ放された疫神の行くへを、信徒に警戒せられる方式さへ設けられて居た。この二箇所の御祭を美々しく、且つ極度に面白くしようとした動機はわかつて居る。

　流行病に對する不安は、本來は都會のものであつた。さうして又上代に於ても、やはり新たなる外來の文化と共に、先づ中心の地を目ざしたことは史證がある。夏の祭が田舍にももし古くからあつたとすれば、その最初の目的は別であり、方法も亦おのづから異つて居た筈である。それがどの程度に感化を受け、又どれだけ以前の心持を傳へて居るか。これを明らかにするのは田舍の生活について視るの他はないのだが、先生が町にばかり固まつて住んでござる結(340)果、今まではとかく都市の知識によつて、全國を類推せられる傾きがあつて難澁した。今度の川童祭復興の噂は、この意味に於て我々の注意しなければならぬ話である。

　田舍の舊六月は水の神の祭り月であつた。これを天王樣とも祇園とも呼ぶのが普通になつて居るが、今でもその趣旨は他に色々とある。日が照り過ぎれば、植田の泥は柔らがず、梅雨が強く降れば挿した苗も漂蕩する。川の堰や流れを飲水にしてをれば、毎日の涸れ濁りを苦にしなければならぬ。惠みも惱みも一つ神の力であつた。日本はこれほどまでに水をよく使ひ、水に頼り切つた國民でありながら、どうして昔から水の祭が、こんなにいゝ加減なのかと訝かる人もあるやうだが、實はいゝ加減で無く、又「昔から」でも決してないので、單に水道などで顔を洗つて居る人が其方に冷かだつただけである。いはゆる御靈會系統の都市の祭でも、この月營まれるものは水の縁が深く、濱降り神輿洗ひ泉の御旅所、さては船の中の伎樂などと、すべて水の神の祭と態樣を同じくして居るのだが、何か理由があつたと見えて、その神を水の支配者とする信仰は、記録の上にはまだ現れて居らず、人はたゞ夏だから又は涼しさうだから、位にしか考へて居ない。しかも惡い病の流行は毎年のことでもないから、次第にその目的がはつきりとしなくなつて、町では涼み祭などといふ清遊氣分が横溢するやうになつたのは、勿體ない話だと私は思つて居る。

　前年神奈川縣の秦野で簡易水道を作つたときに、赤痢が流行つて大騷ぎをしたことがある。自分たちの目には水道の出來るのが、遲きに失した爲としか見えなかつたのに、土地では却つてこれが水神の御氣に入らなかつた罰のやうに、解した人が多かつた。町ではこの類の災禍と水に對する不謹愼とが、同時に起ることが稀でないので、昔もかういつた信仰解釋が行はれ、或は水の神をその怖ろしさの半面から、疫病の神と見るやうになつたのではなからうか。さうで無ければ天王と水の神との同じ日の祭、瓜を氏神の供へ物とする理由、殊に川童と胡瓜との約束が、祇園樣の日を期限とするわけが説明し得られぬのである。

　

(341)　　　　　　　　　　二

　

　文學に川童が二度目の登場をしたのは泉鏡花さん、故芥川龍之介氏などの御骨折であつて、御兩所とも私たちの川童研究から、若干の示唆を得たやうに明言せられて居るのは光榮の至りだが、遺憾に思ふことはまだ少しばかり、川童を馬鹿にしてござる。恐らく幼少の頃に見られた近代の繪空言の影響で、あれでは我々の胸に描く所の水の童子と、相去ること遠きは素より、普通の村の人の今考へて居るものよりまだ見つともない。やはり例の化競丑滿鐘《ばけくらべうしみつのかね》の類の文學に、「かつばと伏して泣きたまふ」などとしやれ飛ばした圖柄の、延長としか見られないのである。笑つちやいけませんといひたい位のものである。

　尤もこれには川童の側にも責任があるかも知れない。彼は零落して行く精靈の常として、やゝ化物根性とでもいふべきものを發揮し過ぎる。水全般の信仰を守らうとはせずに、たゞ自分一箇の存在を主張する。淵や靈泉に對する敬不敬には構はず、いやしくも川童を否認しようとすれば乃ち出て嚇す、といふ風に考へられ勝であつた。さうして現在のところでは、その活躍の範圍が甚だしく限局せられ、それも段々に怖くなくならうとして居るのである。その滑稽化は寧ろ運命だつたといつてよい。しかも江戸末期に出たあの烏天狗一流の似顔畫の如きは、いはゞ或個人の幻覺であつて、二つ以上を引合せて見れば、すぐにその眞でなかつたことが判る。要するに困つたものが流行したのである。

　川童を水虎だ?《をん》だと話した人は、日本に居るものは何でもかでも、皆支那にもあるといふ謬見から、出發して居るのだから相談は出來ない。日本の實地からこの問題を考へて見ようとしたのは、以前に水虎考略といふ四卷の書があり、その第一卷だけが流布して居る。これには諸方の見取圖なるものが載せてあるが、鼻の低いもの、犢鼻褌をかいたもの、甲羅があつて四つ匐ひのものなどが、雜然として竝んで居て、實は空想のまだ統一して居なかつたことを立(342)證する。見た出逢つたといふ者の陳述も又區々であるが、これにはなほ一貫した特徴のやうなものがあつて、奇怪とはいひながらも心の底から、古人のさう信じて居た數々の痕跡が尋ねられる。相撲を取りたがるなどといふもその一つである。東北で山人又は大人《おほひと》といふものを除くの外、そんな氣さくな化け物は他には居ない。人に近づき交渉を持たずには居られなかつた名殘かと思ふ。紫臀その他の體質に特徴ある者が、特に引込まれ易いといふ口碑と、かの民間説話の川童が美しい娘に壻入したといふものとは、關係がありさうである。後者は汎く水の靈全體についてもある話で、それを恥とも不幸とも考へずに、舊家自らがそれを信じ傳へて居た時代もあつたのである。

　それからこの水底の童子の援助の下に、家が富み榮えたといふ話も方々に傳はつて居る。無論傳説であつて、事實その樣なことがあつた證據にはならぬが、少なくとも或頃さう信じた者があつたことのみは推測せしめる。淵から膳椀を貸したのが不信用のため貸さなくなつたといふ類の、後年の絶縁を説く例は無數にある。つまりは今のやうに害ばかり企てるといふ以前に、接するにその道を以てすれば、恩惠を示した時代もあり、又その中問に惡戯をして、人を揶揄してゐた段階も長かつたのである。九州の方では殊に多いやうだが、川童が人間に害をせぬ約束をした話、もしくは馬を引込まうとして失敗し、詫びて怠?を書いたり、骨繼ぎの秘藥を教へたりしたのも、五十や六十の例ではなかつた。畠の作物ことに瓜類を悦んで、夜分に出て來て食ひ荒すといふだけでなく、人もその初生りを串などに刺して、畠の端に立てゝ機嫌を取つたといふのも、恐らく本來は供物であつた。それが又六月の川祭の行事ともなつて居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　國學院大學の一部の若い學者が、この水道萬能の都の中に居ながら、なほ上代の水の神の神�ｺを仰いで、出來るだけ古式に近い村里風の川祭を、毎年の行事として經營して居るのは、單なる好事のわざとは私には思はれない。かう(343)いふ感覺こそは復習をせぬと消えるからである。たゞ氣になるのは夏休の都合か何かで、新暦六月の畠の胡瓜も無い頃にくり上げたことで、温室の小さな花落ち瓜ぐらゐでは、果して「川の殿」が滿足せられるかどうかである。月夜と瓜畑は歴史ある我々の田園幻想に、缺くべからざる條件であつた。私などの生れ故郷では、胡瓜は祇園さんを過ぎると食べるものでないといつて居た。

　ところが土地によつてはこれと反對にこの日をすませてからで無いと、食つてはならぬといふ處があり、或は又この滿月の一晝夜だけ、絶對に食はぬといふ習俗の村もある。つまりはこの頃が全國を通じて、ちやうど胡瓜のしゆん〔三字傍点〕でもあり、又これを以て水の神に供進する節日でもあつたのである。祇園には御紋瓜の口碑もあり、瓜生石の傳説も記憶せられて居るが、神と瓜との關係は今ではもう尋ね難くなつて居る。

　これに反してこの禁忌を犯す者の制裁は、依然として水中童子の管理する所なのである。胡瓜を食つてその香のするうちは、川に泳いではならぬといふ土地もある。これに子供の名と年とを書いて、川に流すとガタロに尻を拔かれぬといふ所もある。それを天王樣に上げるといふ場合にも、畏れて居る相手はやはり川童であつた。

　胡瓜は胡《えびす》の瓜と書くが、この信仰は輸入で無く、又中頃からの發明でもないらしい。古くは匏《ひさご》と川菜とを以て水の神に供へ、又火鎭めの祭をして居る。備中｜縣守淵《あがたもりのふち》の舊傳にもあるやうに、今ある昔話にも瓢箪千を持つて池に嫁入し、これを沈めて下さつたら、私も入りますといふやうなのが多く殘つて居る。目的は單なる食物以上に、これを以て水の靈の、力を試みるにあつたらしいのである。

　我々日本人はまだ外國の傳染病も知らぬ頃から、既にこの神の怒の半面を經驗し、畏れ愼んでこれに觸れまいとして居たのである。古風な多くの信仰は學問によつて裏切られたけれども、水の災は現實になほ絶えず、他には優れた説明もない場合が田舍にはあつたので、妙にこの部分だけが孤立して永く傳はつた。それをかはる／”＼嘲り笑つて居るうちに、終に今の樣な滑稽な化け物にしてしまつたのは、國民として少しく心苦しい次第だ。

(344)　農民の生活からいふと、今でも舊六月は水の惠みの豐かに溢れる月であると共に、家々の小さな不安の抑へ難い月でもある。その滿月の夜頃を中心として、心を引締める物忌の行《ぎやう》に入つて行く心持だけは、たとへ自分はこれに倣はぬまでも、もつとよく理解してやつてよかつたのである。今日まで來由を知り得ない六月朔日、東部日本では衣脱朔日《きぬぬぎのついたち》、もしくはむけの朔日などといふ日でも、越後では川童が天竺から下る日と稱し、九州南部では川童の龜の子配りといつて、龜の子が足らぬと人間の兒を算へ込むなどといつて居るのを見ると、やはり戒愼して水に入らぬ日であつた。夏物斷ちと名づけて、この日は野菜を食はず、もしくは夕顔の下へ行くなといふのにも意味がある。六月晦日は又｜川濯《かはすそ》祭などといつて、私等の國では水の邊の祭としたが、西國ではこの日を又水に入らぬ日として居る例が多く、天草あたりではこれを川童供養の日のやうにも考へて居る。

　さうかと思ふと他の一方には、この日必ず海に浴するといふ土地もあれば、人は入らぬが牛馬だけは是非とも入れるといふ處もある。つまりは只の日ではなかつたのである。汎く全國の言ひ傳へを比べて見ることが出來ぬ限り、古い信仰は消えてしまはぬまでも、年を追うてをかしくなる一方であらう。それを食ひ止めて一通りは知つて置かうとすれば、どうしても都市の若い學徒の、共同の反省に待つより他は無いと思ふ。

　

(345)　　　　　盆過ぎメドチ談

　

　　　　　　　　　　一

　

　もうそろ／＼氷でも張らうかといふ頃になつて、メドチの話を始めるのも氣が利かないが、これでも來年の夏の手まはしとしてならば、早いと褒められてもよからう。奧南新報の記事目録は、この節きまつて東京の一二の雜誌に掲げられるやうになつた。大よそ日本廣しといへども、こんな例は一つだつて他には無い。三浦利亢君とその一味の人々とが、鼻を高くしてござることは寫眞を見なくともよく察しられる。しかし八戸の諸君がこれに由つて、もしも世間に類の無い奇事珍聞がこゝだけに有り、それを聽かせてもらつて驚いて居るのだと、想像せられる樣だつたら、それだけは當つて居ない。たまにはそんな人も何處かに居るか知らぬが、我々は寧ろその正反對に、外でも格別珍しくは無い事柄、今まで何遍か承つたやうな話が、遠く南部の三戸郡あたりにも、歴然として存するといふことに眼を圓くして居るのである。それがどうしてその樣にびつくりすべき事なのかは、共同にこれから考へて行くによい。單に他府縣の人に物を教へて遣るだけなら、新聞の役目の外である。それでは第一に地元の讀者に相濟まぬ。「村の話」が實際は國の話であり、或は弘く人類の話であるかも知れないわけが判つてこそ、讀んでもう一度考へて見ようといふ人が、土地にも追々と多くなつて行くのである。問題はまだ他にも幾つかあるが、先日是川村のメドチの話を面白く讀んで、今でも覺えてゐるから一つその話をして置かう。

　

(346)　　　　　　　　　　二

　

　私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分れて風俗も既に同じからず、言葉は時として通譯を要するほど違つてゐるのに、どうして川童といふ怪物だけが、全國どこへ行つてもたゞ一種の生活、まるで判こで押したやうな惡戯を、いつ迄も眞似つゞけて居るのかといふ點である。たとへば人をみて角力を取らうといふこと、これはいやしくも川童といふものが居る限りは、必ず誰かにさういふ經驗をさせて居る。奧州方面だけには例が少ないかと思つてゐると、八戸では念入りに二人連れで化けて來てゐる。をかしいことには名前や外貌が少しづゝ違つてゐながら、角力のすきな點のみが特別に一致してゐる。九州では通例ガワッパだのガアラッパだのと呼ばれ、色も東北とはちがつて半透明の白色だといひ、一つの水溜りに千疋もかたまつて住むなどと言はれてゐるが、やつぱり人を見ると「おい角力とれ」といつて近づいて來る。取つて負けてやればキキと嬉しさうな聲をしてもう一番といひ、負けるとくやしがつて何疋でもかゝつて來る。今でも實際あつた事のやうに思つて居る者が少しはあるが、他人が通りかゝつて傍から見ると、相手の姿は少しも見えず、大の男がたゞ一人相撲を取つて居るのであつた。それがしまひには取り疲れて、夜が明けるとまるで病人のごとく、又は熱が出たり稀には發狂してしまふ者もあつて、あの地方ではこれを川童憑きといひ、修驗を頼んで加持して貰ふことになつてゐたさうだ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　これは九州でも筑後川流域、もしくは豐前の小國川、これに隣接する小盆地などに、近い頃まで行はれて居た風説であるが、他の多くの地方、殊に中國から近畿方面へかけては、噂は今少しく説話化して、もう迷信の區域は通り越して居る。第一に川童を見たといふ者が非常に少なく、たま／＼出逢つたやうにいふ者でも、よく尋ねて見ると後姿(347)ぐらゐのもので、話は一體にぼんやりとして居る。その癖に川童は角力を挑むものださうな、うつかりと見ず知らずの者と、角力などを取つてはいけない、といふ類の評判ばかりは無闇に流布してゐる。彼の頭のまん中には窪みがある。その中に水が溜まつてゐる間はえらい力を持つて居る。だから是非とも角力を取らねはならぬ樣だつたら、先づ丁寧にお辭儀をするがよい。さうすると向ふもうつかりと答禮をして、その水を飜してしまふからなどと、さも／＼誰かゞさういふ經驗でもしたやうに、私も子供の頃にはよく年上の友人から教へられたものだつた。中國では川童をメドチとはいはない。私などの故郷ではガタロ即ち川太郎、備前備中では川子又はコーゴ、廣島縣からさきはエンコウといふ土地が多い。しかも奧州の三戸郡と同樣に手を引けばする／＼と拔けるから手を引くに限るといふことも、亦この地方では傳へられてゐるのである。近世の文人畫に猿猴の月を捕る圖と稱して、途方も無く長い手をした猿が、樹の枝につかまつて片手を伸ばし、水底の月を?まうとするものがあつた。もとは禅家などの寓意に成つたものだらうが、かなり流行してたゞの民家にも?々拙いのが描かれてあつた。川童のエンコウも多分これから出た名であらう。私たちの郷里でも一種エンコザルといふ水邊に住む猿だけが、手が左右兩方に拔け通つて、一方を縮めると一方が伸びるといふ、便利至極なのを持つてゐるやうに考へて居たのであつた。さうしてそれと川太郎とは同じものとは思はなかつたけれども、後者も亦手を引けば直きに拔けるやうに傳へて居るのだから、今からふり囘つて見ると、たしかに關係のあることであつた。さうで無かつたならば、あんな繪はこの樣に普及しなかつた筈だ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　何故に川童が人を見るといつでも角力を取りたがるのか。今まであまり有りふれた話だから注意する者も無かつたが、考へて見ると奇妙なことである。川童の妖怪である所以のもの、平たく言ふと川童の怖ろしいわけは、人を引込んで尻の子を拔くからであらうが、それと角力とは何分にも兩立しない擧動であつた。人の命を取るだけの自信があ(348)り、又計畫のある川童ならば、何もわざ／＼力を角して見る必要は無いわけである。だから子供などは既にそんな話を信ぜず、普通は彼が水浴びに誘ひに來るといふ方を怖れて居た。實際毎年の夏になると、折々さういふ疑ひのある悲慘事が起つた。他の子供の出て居らぬ時刻に、又はその群からずつと離れた場所で、たつた一人だけで子供が水の中に死んで居る。又は今まで遊んで居たのが急に見えなくなる。さうして大抵はきまつた淵などである爲に、現場を見た者は誰もなくても、それが川童の所爲だといふことになるので、人間にこの説明し難い不幸のある限り、メドチの信用はいつになつても恢復する見込は無いだらうが、それにしては人と角力を取つて、勝つて嬉しがつてたゞ歸つて行つたといふ話が、愈々以て解し難い不思議になるのである。

　この點に關しては、私はもう大分前から奧州南部のメドチに注意しなければならぬと思つて居た。その理由は、私等の郷里で水に溺れて死ぬ者は、他に説明のつかぬ限り、誰でも川童に引かれたといふ推測を受け、御互ひはすべてその危險が有るやうに怖れてゐるのだが、東北ではどうやらそれが最初から、人について定まつて居ると考へられて居るやうである。この兒は水のものに取られる相があると言はれて、注意をしてゐたけれどもやはり取られたといふ類の世間話は多い。川童に尻ごを拔かれる資格といふのもをかしなものだが、今でもよく聽くのは紫臀《むらさきげつ》をした者が、特にメドチによく狙はれるといふことで、後になつてから成程あの子供は、ほんにさうであつたといふ場合が當地でも多いといふ話である。尻の紫は私の聞いた所では、キンゴリヤ系民族の常の現象ださうで、現に日本人の中にはその例はざらにある。それが川童の眼に好ましく見えるやうでは、格別我々も安心といふわけには行かぬが、とにかくに彼に選擇があり、その條件に合した者だけが取られるといふのは、何か仔細が無くてはならぬことであつた。さうして氣を付けてゐると他の地方にも、以前は同じやうに考へられて居たのでは無いかと思ふ節が、少しづゝ現れて來るのである。

　

(349)　　　　　　　　　　五

　

　そこでメドチが角力を取りに來たといふ話が、又大いに參考になるのである。人を途上に待伏せして、角力の勝負を挑むといふ怪物は、必ずしも川童だけでは無かつた。土佐でシバテン又は芝天狗といふものも、他にはこれといふ惡戯をした話も無いが、たゞやたらに角力ばかり取りたがる。さうしてうか／＼とその相手をして居た者が、しまひには發狂したとか、命を失つたとかいふ風説ばかりが多かつた。但しこの話はまだ大分川童と似て居る。土佐には川童といふものも別に居たのだけれども、芝天が多く川の堤や橋の袂に現はれ、その形が七八歳の小兒と似て居たなどといふのも、どこと無く川童の出店のやうであつた。ところが今一種、これとはよほど性質はちがつて、しかも角力のすきな怪物が東北には居た。津輕から秋田に連なる深山幽谷に於て、山人、おほ人又時として鬼ともいつたものが即ちそれであるが、此方は一向に人を害せんとする樣子は無く、たゞ我々を見かけて角力を取らうといふのみで、勝つたり負けたりして居るうちに段々と懇意になり、しまひには家へ遊びに來るまでになつたといふ話さへある。一旦交際を始めると中途で止めることが出來ぬらしく、怒られるとこはいからいつ迄も機嫌を取つて居なければならぬことが、迷惑といへば迷惑だつたかも知れぬが、命を奪はうとせぬのみか、時には相撲の相手をして貰ひたい爲に、薪を伐りマダの皮を剥ぎ畑を起す等、大きな力で山仕事を手傳つてくれたといふ話も傳はつて居る。つまり素直に彼のいふことをきいてさへ居れば、本人の利得に歸することが多かつた。その點がよほど九州の川童などと違つて居るのである。

　或はその九州の川童とても、もとはかういふ風に平穩な交際であつたのかも知れない。單に川童や芝天が出て來て角力を取らうと言つただけならば、考へて見ると怖い筈は無かつたのである。女や老翁の最初から自信のないものならば、第一にこれに應じて力を角する氣にはならなかつたらうし、たま／＼その道の心得のある者でも、負けてばか(350)り居るやうだつたら、彼も相手にはしようとしなかつたらう。それが少しばかりの力自慢で、勝つた經驗のある樣な男が、つい挑まれて何のこいつがと、一番負かしてやる氣になつて引掛かるのである。或は實際こつちの方が強くて、相手を投倒した爲に後の祟が怖ろしかつたといふ話もある。何にもせよ人と川童との交渉は一般的で無く、必ず一定の資格ある者に限つたことは、角力も紫尻の場合と異なる所が無かつた。

　

　　　　　　　　　　六

　

　我々の妖怪學の初歩の原理は、どうやらこの間から發明せられさうに思はれる。その一箇條としては、ばけ物思想の進化過程、即ち人が彼等に對する態度には三段の展開のあつたことが、この各地方の川童の擧動と稱するものから窺ひ知られる。第一段には所謂敬して遠ざけるもので、出逢へばきやつといひ、角力を取らうとすれば遁げて來る。夜分はその邊を決して通らぬといふ類、かうして居れば無難ではあるが、その代りにはいつ迄も不安は絶えず、或一定の場所だけは永く妖怪の支配に委棄しなければならない。それを出來るだけ否認せんとし、何の今時その樣な馬鹿げたことが有るものかと、進んで彼の力を試みようとして、しかも内心はまだ氣味が惡いといふ態度、これが第二段である。狐・クサイの化けかゝつて居るのを見破つて、却つていつの間にか自分が坊主にされた話、又は天狗を輕蔑して力自慢をして居た勇士が、これでもこはく無いかと毛だらけの腕でつかまれ、腰を拔かしたといふ類の話は、何れもこの心境の所産であつて、これには?々角力の勝負を伴なうて居た。つまり人にはさま／”＼の考へ方があつても、社會としては半信半疑の時代であつた。それが今一歩を進めて信じない分子が愈々多くなると、次に現れて來るのは神の威�ｺ、佛の慈悲、乃至は智慮に富む者の計略によつて、化け物が兜をぬぎ正體を現して、二度と再びかやうな惡戯をせぬと誓ひ、又は退治せられて全く滅びてしまつたといふ話が起る。それは聽いて居ても面白く興があるので、次第に誇張せられてしまひには、馬鹿げて弱く愚鈍なる者が、妖怪だといふことに歸着し、それを最後として追々に(351)説話の世界から消えて行くのである。現在の昔話に僅に殘つて居る妖怪は、この三つの種類が錯綜して、順序が明らかで無い爲に時々は誤つた解釋があるのだが、將來もう少し親切な觀察者が、細かな分類をしてくれたらこれだけは判つて來ることゝ思ふ。さうして川童の角力といふ言ひ傳へは、これに關しては可なり有力な參考であると信ずる。

　

　　　　　　　　　　七

　

　これは同時に又相撲といふ競技の今まで不明であつた歴史をも暗示する。何故に相撲が神社に伴ひ、もしくは必ず節日の行事であつたかといふ問題は、この方面からで無いと解説することが出來ぬやうだ。古人は腕力と勇氣との關係を、今よりも一層深く結び付けて考へて居た。力の根源を自分一箇の内にあるものと信ぜずして、何か幸福なる機會に外から付與せられるものゝ如く解して居た。石を持ち擧げて見てその重さ輕さの感覺に由つて、願ひ事の叶ふか否かを卜したと同樣に、相撲は又神靈の加護援助が、何れの側に厚いかを知らんとする方法の一つであつた。勝つた力士の自負自尊は非常であつたが、その背後には常に熱烈なる信仰があつたのである。神に?つて大力を得たといふ口碑は、東北には殊に多い。それは平素の心掛け、もしくは難行苦行の致す所でもあつたが、兼て又その人々の持つて生れた約束のやうにも認められて居た。現在の遺傳論に照して不思議は無いやうなことまで、家に特別の力の筋といふものがあると傳へて、その理由を説かうとして居た。これが又地方の頭目の永く優勢の地位を保持して居た理由にもなつて居る。

　奧州などの川童が角力を挑んだのは、恐らく最初は主としてかういふ種類の人たちに向つてであつたらう。關は今日の語でいふと選手であり、又記録把持者であつた。第二の競爭者の進出をせき止めて、自分が覇を稱して居るからそれで關取といつたのである。彼等の強力の根柢と頼む所が、近世風に自分一箇の體質又は習練と稱せられ、或は又全然別なる神佛の御利益に基づくものと信じられて居る限りは、川童や山人は是非ともこれと力を角して、我威力を(352)承認させなければならなかつた。さうして昔の習はしのまゝに、負けて平伏したものは庇護せられ、これと抗爭して或は勝ち或は負けたものは、いつ迄も惡戰苦闘を續けたのである。妖怪はつまり古い信仰の名殘で、人がその次の信仰へ移つて行かうとする際に、出て來てかういふ風に後髪を引くのである。日本の新舊宗教は殊に入亂れて居る。さうして今日はおばけの話を透してゞ無ければ、もはや以前の國民の自然觀は窺ひ知ることが出來なくなつた。

　南部地方の怪談にはこの意味に於て、尚珍重すべき色々の資料を保存して居る。たとへば今日既に童話化してしまつた猿の壻、或は大蛇のおかたになつた娘の話などにもこちらにはやゝ古さうな形のものが併存して居る。櫛引村のおほよが物語を始めとし、遠野には川童が壻入をして、子供を生ませたといふ家なども殘つて居た。即ち水の神の信仰を宣傳し又立證しなければならぬ舊家が、いや／＼ながらもまだ古い因縁に繋がれて、急にはこの傳説を振棄てずに居たのである。をかしい話ではあるが、水の物に愛せられるといふ紫臀の子供なども、世が世であるならば亦一箇の神主の資格であつたかも知れない。

　

　　　　　　　　　　八

　

　この問題をこれだけの簡單な言葉で、説かうとしたのは無理であつたやうだ。それは又改めて詳しく述べることにして、さし當り御知らせをしたいと思ふのは、メドチといふ語の分布及び由來である。北海道の土人が水の神をミンツチと呼び、その怪談には若干の一致があることは、夙く金田一教授がこれを説いて居られる。この蝦夷のミンツチと八戸などのメドチと、同じ語であることは大よそ明らかだが、問題はどちらが眞似たか採用したかである。南部では馬淵と北上との分水嶺が境で、岩手縣ではもうメドチといつて居らぬらしいが、津輕にはたしかにその名がある。但し平尾魯仙翁の著書などを見ると、メドチと川童とは別々であるやうにも思はれ、前者は少なくとも長蟲のやうな形に空想せられて居る。それにも拘らず私はなほこれを川童の地方名の如く信じて居るわけは、遠く離れてこれと近(353)い語が行はれて居る故である。現在知られて居る例は三箇處、能登の半島では我々の川童が明らかにミヅシで、頭の皿に水があり、相撲を取りたがり、又馬を引かうとして失敗したなどといふ逸話をもつて居る。次には滋賀縣で湖水東岸地方、これもミヅシといひ又同樣の俗信が行はれて居る。この兩地のミヅシと奧南部のメドチとは、聯絡が無いものとは考へられない。さうすればこれはアイヌの方が後に聞いて、少なくとも日本から名を學んだのである。

　それから最後にはずつと懸離れて九州南部、薩摩と日向大隅の一部では亦確かにミヅシンといつて居る。ガアラッパ又はガオロといつても通ずるが、此方が多分新しからう。かういふ靈物には忌んで名を言はぬ場合があるので、第二の稱呼が起り易いのである。ガオロ・ガアラッパは共に「川童」の日本訓みであるが、九州では現在又カハノトノもしくはタビノヒトなどと稱へてこの語を避けようとする傾向も見えて居る。ミヅシンは土地の人たちが「水神」の湯桶よみだと解して居るらしいが、これを八戸方面のメドチや蝦夷地のミンツチに比べて見ると、始めて古語のミヅチと同じものであり、たゞこの國の三方の端々にのみ、たま／＼保存せられて居たことが判つて來るやうである。ミヅチは蛟と書き又?と書いて居る。だから蛇類では無いかといふ人もあらうが、それに答へては支那ではさう思つて居たといふより他は無い。日本のミヅチといふ語には水中の靈といふ以外に、何の内容も暗示されて居らぬ。それが果して長蟲であつたか猿に似て居たかは、メドチを喚んで來て體格檢査をした上で無いと決しられぬ。我々の幻覺乃至空想は今でもまだ勝手次第である。

　

　　　　　　　　　　九

　

　それから川童の手が拔けるといふこと、これもアイヌの中では知られて居り且つ説明せられて居る。昔神樣が多くの人數を集める必要があつて、急に草を束ねて小さな人形を作り、それに生命を吹込んで活躍させたが、用が濟んでしまつたのでこれを湖水に放ち棄てた。今あるミンツチの始めはこれであるといふ。色々惡戯をするが元來が一本の(354)棒を突通して兩腕にしたのだから、片方を持つて引けばする／＼と拔けるのだといつて居る。

　これと半分以上同じ話が、又三戸郡にもあつたかと記憶する。少なくともこれに似た話は各地に存するのである。昔左甚五郎が某地の佛閣を建立した折に、大工の手が足らぬので人形を多く作りこれに息を吹込んで働かせた後川に捨てた。それが川童になつて今でも居るのだといふ話は、奈良縣などでも聽いたことがある。九州では肥前の或舊社の傳へとして、やはり人形が川童になつた話が殘つて居る。その?末は北肥後戰記といふ書にも出て居るが、一つの特徴はその川童を利用したといふ橘島田麿といふ人の子孫が、澁江氏と稱して中世の豪族であり、今でも各地に分居して永く川童の取締りに任じ、現に右申す御社の神主の家もこれであることである。九州の川童はその災害も系統的であつたと共に、これを統御して水難を防止する役目も亦非常に發達して居た。これはヲサキ狐を攘ひ除ける三峰山の信仰區域だけに、ヲサキ持ちの家が最も多く、人狐專門の行者の居る出雲伯耆に、人狐の跳梁して居るのと同樣に、なまじ祈?の效能を説く者が居る爲に、いつ迄も住民にこれを忘却することを許さぬのであらうと思ふ。とにかくにこの人形の話は形跡無しには起るまい。さすれば曾てかういふ腕の拔け易い或偶像を作つて、ミヅチ即ち水の神を祀つて居た時代があり、その風習は弘く國の南北端まで波及して居たもので無かつたらうか。現在はもうさうした祭り方をせぬ樣になつたとすれば、これ位の話の變化、想像の成長はありさうなことで、我々日本人は殊にその方面では氣が早かつたのである。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　最後にもう一つだけ、小さな八戸地方の世間話が、我々をして膝を打たしめた點を述べて置かう。既に信仰者を失つた水中の靈物が、なほ角力を取つて人間の關取を押伏せたといふことは、土地の人にとつては安からぬことであつた。何とかして結局彼等を負かしたといふ話にしようといふには、彼の秘密を聽き知つたといふのが最も手輕でよい。(355)これは六つかしく言ふならば、人類の知識が進んで、次第に自然を制御して行くといふ理想を具體化したものとも言へる。便利なことには見馴れぬ若い者が二人づれで遣つて來て、歸りに後について聽く人があるとも知らず、不用心にも自分の腕の拔けやすいといふ秘密を、洩らしてくれたといふ話になつて居るが、これなども我々の妖怪に對する態度の變化であつた。さうしてこの空想にも前の型があつたのである。

　川童にはめつたにこんな失策が無かつた樣だが、同じ挿話は日本では蛇壻入の話には多かつた。夜來て曉に歸つて行く不思議な壻殿を見あらはす爲に、母が勸めて絲のついた針をその衣服のはしに刺させる。さうして翌朝はその絲をたぐつて、山奧の洞穴に行つて大蛇を見たといふ迄は、古く且つ弘い言ひ傳へであつたが、我邦では通例これに立聽きの話が附いて語る。靜かに聽いて居ると岩穴の底で、唸り苦しむやうな聲がきこえる。その傍に誰か介抱をして居て、だからあれ程私が止めたでは無いか。やたらに人間の娘などに手を出すから、針を立てられて銕氣の毒に苦しめられるのだといふと、他の一方の呻く者の聲で、いやおれは死んでも思ひ殘すことは無い。種を人間の中に殘して來たからと答へる。なアに人といふ者は思ひの外賢いものだ。もしも菖蒲と蓬の葉を湯に立てゝ、それで身を洗つたらどうする。折角生ませようとした子が皆下りるぢやないかと言つて居る。これはうまい事を聽いて來たと、早速家に歸つてその通りにした所が、果して盥に何ばいとかの蛇の子が死んで出てしまひ、その娘は丈夫になつたといふ風な話は、少しづゝの變化を以てどこの國にも行はれて居る。これにも尋ねて行けば又原の型はあらうが、近頃では先づ主として、水の神との絶縁をかういふ話にして説いて居る。角力の川童が腕を拔かれた理由に、これを適用して居ることは我々の文藝であつた。さうして格別古い頃からの言ひ傳へでも無かつた。しかも他の人は知つて居ないかういふ大切な知識を、持つて居るものは神主であり又は教師であり酋長であつたことは、大昔以來かはりは無かつたらう。

　諸君は乃ちそれを時代に適應するやうに改定しつゝ、今に至るまで我々の人生觀を指導して居られるのである。徒らに僅の珍しく古臭い習俗を、告げて驚かせるを以て能事終れりと、誤解せられずんば幸である。

　

(356)　　　　　小豆洗ひ

　

　清水時顯君の、小豆洗ひは崩れ岸を意味するアヅといふ地名から出た流言だとの御高説は（郷土研究三卷）、御高説であるが信じにくい。最初に地名の眞の意味を忘れ、次にその地名あるが爲に小豆を洗ふやうな音を聞くといふことは、若し一箇所ならば飛んだ間違ひ又はよい加減な虚誕などといふべき事か知らぬが、弘く全國の各地に亙つて偶合のありさうも無い話である。願はくはその多くの實例を竝べて見せて下され、さうする中には必ずどうしてそんな音がしたか若しくは聞えたか、何故にその音を小豆を洗ふ音と解するに至つたかといふ、今一段と直接なる二箇の疑問が判明することになるであらうと思ふ。常陸の例は清水君自ら擧げられ、阿波の例は遠藤君が報ぜられた（同四卷六二頁）。この外に土佐因幡甲斐羽後陸中東京等にもあつたのである。元來何の音もしなかつたのを、單に地名から小豆洗ひの音を幻覺したとはいはれぬやうである。土佐の小豆洗ひは西郊餘翰卷三幡多郡中山田村の條に、「此里なる寺門の外に赤小豆洗ひと云ふ怪談あり、夜により赤小豆を炊ぐ吾せり、須臾にして止むとかや」とあり、土州淵岳志中卷にも、「宿毛の中山田と云ふ所に寺あり、此寺の門外に赤小豆洗と云ふことあり、時々夜更けて小豆を洗ふ聲するなり、半時ばかりにして止むと云ふ」とあるが、原因までは究めようとしなかつた。これは寺の門外とあるから、やはり小溝あり橋があつたのかも知れぬ。因幡の分は有斐齋剳記に「因州の留邸《おるすゐ》寺尾氏の夜話に、其國の一江崎と云ふ所に一の小溝あり、其溝にて夜水中に赤小豆磨と云ひて、小豆を磨ぐ音のすること時々あり、人怪みて之を求むる者、必ず其水中に陷る。怪我は無しと。坐に良白耕ありて曰く、吾國にも此事あり、但しアヅキコシと謂ふ。鼬の老いた(357)るもの必ず之を爲すと云へり」とある。良白耕といつた人は何處の人であるか知らぬが、アヅキコシと呼ぶ例は自分はまだ耳にせぬ。甲州のは裏見寒話卷六に、「古府の新紺屋町より愛宕町へ掛けたる土橋あり云々、こゝを鷄鳴の頃通れば橋の下にて小豆を洗ふ音聞ゆといふ。又疊町の橋の下も此の如しと云へり」とあつて、鷄鳴の頃と限つて居るばかりであるが、津村氏の譚海卷六には、「甲州の人の談に、ムジナはともすれば小豆洗ひ絲繰りなどすることあり、小豆洗ひは溪谷の間にて音するなり、絲繰りは樹のうつぼの中に音すれど、聞く人十町二十町行きても其音耳を離れず、同じ音に聞ゆるなり」とあつて鼬も同樣だが水中に居りさうにも無い獣類の所爲にしてしまつて居る。奧州の白川でも、たしか阿武隈の水源地方の山村に小豆磨の怪あることを、白川風土記の中に記してあつたかと思ふが、只今原文を檢する方便が無い。又山方石之介氏は曾て佐々木君が陸中遠野郷には「川に小豆磨ぎあり云々」と報ぜられたに對して、氏の郷里羽後秋田邊では、「小豆磨ぎ」は水中の怪では無く、寧ろ山の神の所爲と信ぜられて居るといはれた。要するに比較討究のなほ必要なる理由は、第一に小豆洗ひの不思議の有る場所が、果して常に崖の崩れ又は岸の埋まり淺くなるやうな場所或はその附近か否かといふことを確めねばならぬからである。蓋し音響の怪は右の二種の外、天狗倒しとかバタ／＼とか、列擧すれば數多いことである。山中といふも深夜といふも結局は同じことで、孤獨寂寥の折からで無ければ今の音は何だらうと平然として穿鑿する筈で、これを變化のわざと解するのは豫め怖いといふことを伴なふからである。清水君は土橋といふことを崩れる方へ聯想せられたやうだが、これは多分はさうで有るまい。昔から妖怪は必ず路傍に出て通行人を嚇かすのが原則であつた。つまり小賣商が市街に面して店を開く如く、怖がる人は即ち妖怪の花客《おとくい》であつた爲で、殊に峠と坂、濟《わたし》と橋などは彼等の業務を行ふに最も適當な地點であつたのである。しかうして妖怪の中でも眼に訴へる者よりは耳を襲ふものゝ方が尤もらしい者が多く、井上圓了氏を聘せずとも解説の出來るものが、音響の不思議に多かつたことは事實である。夜間の怪聲に鳥の聲又は羽音であつたものがある如く、小豆洗ひを鼬又は貉といふのも必ずしも冷笑すべきで無い。佐渡の砂撒き狸のことは茅原老人前にこれを報ぜられた(358)が、自分少年の時に下總で聞いた話にこんなのがある。或男月夜に利根川の堤の上を歩行《ある》いて居ると、何か猫ほどの物が路を横ぎつて川端へ走り下り、寄洲の水際で轉がつて居るやうに見えた。立留つて見て居た處、やがて又走せ還つて、行く手のこんもりとした木に登つた。猫だらうと思つて何氣なくその下を通ると、木の上からばら／＼と砂を降らせたといふ。樂屋の方から先に覗いたからよいやうなものゝ、これが暗夜でもあつたら、又二度も三度もあつたら、必ず亦砂撒き狸の根據地を作つたことゝ思ふ。彼地方の者は確かにこれを狸だと信じて居るのである。曾て試にこの話を狸通の川瀬博士にした處が、狸はその位な惡戯はするかも知れぬといはれた。實際我邦ばかりで無からうが、鳥獣の生活?態殊に直接食物捜索と關係の無い習癖には、明白になつて居らぬものが多い。ヲサキや犬神の話を聞いても、或種の獣の存在が全然知れて居らぬのか、然らざれば或獣の著しい性質が確かめられて居らぬのか、二者必ず其一だと思ふことが多い。といふて自分は小豆洗ひの興行權者を鼬又は貉と決定したのでは無く、又鼬や貉では實は少々困るが、何か大さ形などがこれに近い水邊に住む獣が、産育の時とか遊牝の時とかに、急はしく砂を掻き動かすといふやうなことが、小豆洗ひの怪の原因で無いとは斷言し得られぬと思ふ迄である。但し今一つ申添へたいことは、清水氏もいはれた如く、何故に音も色々あらうのに、小豆を洗ふ音ばかり聽き取るのが例であつたかといふ疑である。私はその答を小豆その物に關する我民間俗信の方面に覓めるのが自然の順序かと考へる。各地の小豆阪小豆峠の中には、アスといふ動詞に基づいたものも決して交つて居らぬとはいはぬが、何かその外にも小豆に關した習俗がその地名の起原となつた場合が無いか否かを考へて見ねばならぬ。今一段溯つては小豆がどうしてアヅキといふかも研究すべき一の問題である。近い頃の神符降臨の騷ぎの時も、何か赤い樹實の降つたのを小豆が降つたと言ひ傳へた例もある。怪談老の杖卷三に、「小豆ばかりと云ふ化物の事」と題して、麻布近所の二百俵ばかり取る大番士の家で、夜分はらり／＼と小豆を撒くやうな音がした。後にその小豆の音段々高くなり、終には一斗ほどの小豆を天井の上へ量るやうなる體で、間を遣いては又はら／＼となること暫くにして罷む云々といふ話がある。即ち小豆は既に土橋の下ば(359)かりで洗はれて居らず、人家の天井の上でも活躍して居るのを見れば、鼬貉のみでは天下の小豆洗ひを解説し盡すことの出來ぬのも亦明らかである。猶同種の話を多く集めた上で講究を續けたい。

　

(360)　　　　　呼名の怪

　

　名を呼んで人の心神を奪ひ去る妖怪のことについて、櫻井秀君の擧げられたのは元和四年と元久（文久？）二年と兩度の記事であつたが、その外にもこれと同じ不思議が、これは京都以外の地で起つた。月堂見聞集卷二十九、享保十九年五月の條に左の記事がある。「同年九州の地夜に入り家々の戸を叩き候へば、開き候と其者絶入仕候。是は去年五月の中旬の頃に御座候。此間は備中備後地へうつり候由。或者教へて曰く、たぞやたぞ我名を知らでいふ人はいづくへ行くぞこゝは神やど、右の歌を書付け門戸に張る。依之近き頃は少許《すこし》うすらぎ候由。備中國の便宜に申來候なり」。但し後段の記事に依ると、九州小倉へ行つた人の話に、彼地では何の事も無かつたといふことであるから、或は虚説であつたかも知れぬが、神宿云々の歌は文久度のものとほゞ同じであるのを見れば、由來のあることであらう。

　

(361)　　　　　團三郎の秘密

　

　先だつて八戸へ遊びに行つた時に、小井川潤次郎君から耳よりな話を聽いた。あの市の周圍の村には幾處となく、隱れ里の傳説が分布して、昔は頼むと膳椀を貸してくれた。その返却を怠つたので貸さなくなつたといつて、古い道具の一部を持傳へて居る舊家も少なくないといふことである。私が始めて椀貸元の話を書いた頃には、これはまだ算へるほどの一致であつたが、今では全く無いといふ土地が却つて珍しい位に方々で發見せられて居る。しかし三戸郡の異例は、かたまつて數多くその遺跡が有ることゝ、今一つはダンズといふ地名であつた。小井川氏は曰く、この膳椀を貸したといふ淵や池の邊には、必ずといつてもよいほどダンツカアラ、もしくはダンズといふ地名が存する。他の場處にはまだ氣がつかぬから、これが何か傳説と縁のある語では無いかといふ意外なことだが誠に大切な手掛りである。他の地方の椀貸し口碑にも、果してこの地名を伴なふ例ありや否や。或は又何かこの語を説明するやうな別の話でもあるかどうか。この答が得られたら我々の研究は躍進すると思ふ。

　しかし自分のこれに就いて、聯想し得ることは僅しか無い。佐渡には二つ山の團三郎といふ狸の大家族が居て、金を貸して居たといふ話がある。金山隆盛の數百年の間に、自然に落ちこぼれた財貨を拾ひ集めて、相川河原田の中間の山奧に、狸が長者のやうな暮しをして居たといふのである。島の方では醫者が招かれて往つて外科の療治をしたの、産婆が子を産ませてやつて莫大の禮を受けたのといふ、他の地方でもよく聽く話が記録せられて居ないが、越後の方の地誌には却つて奇拔な傳へがある。今でもこの海岸から佐渡ヶ島を望むと、ちやうど二つ山の上あたりに絶えず彩(362)雲のたなびくを見る、あれが團三郎の住んで居る城郭だといつて、乃ち隱れ里のあこがれは濃やかだつたのである。島に生れた湛念な人ならば、或はまだ耳に傳へた昔語りを保持して居るかも知らぬが、こゝでは主人公が狸になつてから、以前の傳承は變色したのである。それを復原してみることは可なり困難かと思ふ。

　膳椀類の貸主を狸だと想像して居た例は、關東の方にもあつたやうである。それから又貉の内裏と稱して、地下にすばらしい大きな殿堂があり、貉がその居住者であり又頭目であつたといふ話は、武州にも上州にも近くまで遺つて居て現に私はその見取圖の如きものを一見したことがある。夢のやうな風説だが空には生れなかつたと思ふ。この地方の椀貸しは半分は洞穴であつた。以前は必ず水のほとり、又は淵の底から出して貸したのだらうが、それが横穴の泉の出口などになると、いつと無し穴の獣の、しかも人間の姿に化けることを好む者に假托せられる傾になつたのかと考へる。つまりは普通の人々が漸く眞としなくなつた結果である。佐渡の例に於て何よりも注意に値するのは、その隱れ里の狸の名が團三郎であつたことで、この點も變へるならもつと狸らしく變へたらうから、これは偶然に古い部分の殘片かと思ふ。ところが一方に遠く鹿兒島縣の方言集を見るとあの地方でも狸をダンザといつて居る人がある。これは珍しい一つの旁例であつて、或はその根源に佐渡と系統を同じくする傳説でも有るのでは無いかどうか。それを尋ねるためには彼地方に住む人たちの協力を求める必要がある。

　かういふ問題を一つの郷土の内で、解釋しようとするのはいつでも無理である。それが簡單に答へられるやうだつたら、とくの昔に問題の事實も無くなつて居たらう。誤つて居ればこそ今の形で殘つて來たのである。團三郎といふ名前が又別種の形となつて、傳はつて居る處が四國にもある。伊豫と土佐との境の山村に亙つて、これを曾我の十郎五郎の忠義な家來、鬼王團三郎の兄弟の者が、落ちて來て隱れ住んだといふ話にして居る。この兩人の事蹟は曾我物語の中でも一寸頭を出して最後までは述べられて居ない。だから如何なる遠方の山奧へでも引張つて來ることは可能であるが、これがもし小説であり史書の上の人物で無いとするとその始末はかなり妙なものになるわけである。とこ(363)ろが伊豫の山などではこの後日譚がやゝ進展し過ぎて居る。團三郎は奧州の常陸坊海尊などと同じく、又土地人の幸福に寄與して居た。さうして一人の老女を伴なひそれが曾我兄弟の母の滿江であつたともいへば、一方にはその女性が又山中に永く住んで、たしか近代の和靈大明神の神靈となつた、山家《やんべ》清兵衛の物語とも交渉を持つやうな話がある。これも私にはダンザといふ言葉の、全く別途の成長であつたやうな氣がするのである。土地が相接して居ると却つて種々の影響感化がある。隱れ里の思想の古い起原を知らうとするには、寧ろ懸離れた遠方の、飛んでも無い言ひ傳へを見る方が暗示は多い。さうして私の知つて居たことは、佐渡と伊豫土佐と九州の南端と、偶然にも國の四方の隅々であつた。これが一つの信仰の末梢現象であると、速斷しようといふのでは毛頭無いが、とにかくにこの四箇所の互ひに知らぬ郷土誌家に今後の調査によつて獲たものを、參考として交換してもらひたいと思ふだけである。

　

(364)　　　　　狐の難産と産婆

　

　古い話が新しい衣裳を着て、今でもまだその邊をあるいて居る。これはそのたつた二つの例である。

　一つは五六年前といふ。筑後渡瀬驛に開業する産婆、深夜に見知らぬ家に招かれて車で行つた。使の者は三十前後の商人體で、非常な早口の男であつたといふ。鷄鳴の頃にやつと産があり絹布の夜具にねかされてとろ／＼としたと思ふと、江の浦街道の路傍の藁の中に寢て居た。但し枕元には紙に包んで、新しい本物の五圓札があつた。

　今一つは三十年前の因幡鳥取市での話。市中で有名な産婆が、これは駕籠で迎へられて一里ばかり郊外の立派な家に往つた。非常な難産であつたが漸くすみ、山を下り野を行くやうな感じをして、又送られて駕籠で還つて來た。翌朝縁の外に見事な雉子が二羽、その次の朝は鳩とか鶉とか、鳥ばかりの贈物が一月近くも毎朝續いた。産婦の家もどう考へて見てもありさうに思はれなかつた。狐の家に相違ないといふ評判であつた。

　こんなタワイも無い話は幾ら集めても仕方が無いやうなものだが、土地と話手のかはるに伴なうて、少しづゝの變化はある。それを重ねて見て注意すれば、末には必ずどうして始まつたかゞ知れる筈である。場所と人名などの判明したものを、出來るだけ多く集めて置きたいと思ふ。

　

(365)　　　　　ひだる神のこと

　

　三十年も以前に、學友の乾政彦君から聞いたのが最初であつた。大和十津川の山村などでは、この事をダルがつくといふさうである。山路をあるいて居る者が、突然と烈しい飢渇疲勞を感じて、一足も進めなくなつてしまふ。誰かが來合せて救助せぬと、そのまゝ倒れて死んでしまふ者さへある。何か僅な食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルといふ目に見えぬ惡い靈の所爲と解して居たらしい。どうしてかういふ生理的の現象が、或山路に限つて起るのかといふ問題を考へて見るために、先づ成るべく廣く各地の實例を集めて見たいと思ふ。一旦印刷せられて出て居る記事も、參考のため簡單に列記して、我々の共同の財産にして置かうと思ふ。

　最も古く見えて居る書物は、今知る限りでは柳里恭の雲萍雜志卷三である。伊勢から伊賀へ越える或峠で、著者自身がこの難に逢つた大阪の藥種屋の注文取を助けた話を載せ、これには餓鬼がつくといふとある。目には見えねど此のあたりに限らず、處々に乞食などの餓死したる怨念、其處に殘り侍るにや云々とある。

　同書には更に附記して、その後播州國分寺の僧に逢つたところが、この人も若い頃、伊豫國を行脚して餓鬼につかれたことがある。それからは用心のために、食事の飯などを少しづゝ紙に包んで持つてあるき、つかれた人があれば遣ることにして居るといつた。

　大和附近の山地には、殊にこの例が多かつたやうに思はれる。和歌山縣誌下卷五八七頁に、或書に曰くと書いて、(366)熊野の大雲取小雲取の山中に、幾らとも知れぬ深い穴が幾つかあつて、それを飢渇穴と呼んで居た。旅する者がこの穴を覗くと、忽ち前に述べたやうな症?を感ずるとて、或旅僧の實歴談を記して居る。道行く人に教へられて、口に木の葉を咬みつゝ、漸く十町ばかりある山寺に驅付けて助かつたとある。

　同じ書には、俗にこれをダニにつかれるといふ。同縣西部の絲我阪にも、これに似た處があるといふ。絲我の阪は縣道で、相應に人通りある處である。

　ダニとあるのは聞誤りかも知れない。森彦太郎君の南紀土俗資料方言の部に、山路などあゆみて疲憊するをダリつくといふとあり、又日高郡｜山路《さんぢ》の山村に於て、ダリにつかれた時は、米といふ字を手掌に書いて嘗めるまじなひのあることを、同書俗信の條に記して居る。

　大和の方では又、宇陀郡室生寺の參詣路、佛隆寺阪の北表登り路中程に、ヒダル神のといつく〔四字傍点〕といふ箇處のあることを、高田十郎氏の一人雜誌「なら」第二十七號の奧宇陀紀行にのせて居る。その難に遭つた者を見たので無いが、そこに文久三年に建てた供養塔があり、法界萬靈の文字の下に、十六字の偈と一首の歌が刻してある。

　　　まこゝろに手向けたまへば淺はかの水も千ひろの海とこそなれ

　　　摩尼山下　溪水津々　若供一杓　便是至仁

　今でも食物を持たずに腹をへらして通ると、ヒダル神が取憑いて一足も動けなくなる難所だといつて居る。

　遙かに懸離れた長崎縣の温泉岳の麓にも、同じやうな道の災ひを言ひ傳へた地方があつて、そこではこれをダラシと呼ぶさうである。故井上圓了氏の「於ばけの正體」といふ書に、讀賣新聞の記事を引用して、ある學生がこの山の字小田山といふ處から降つた辻といふ阪路で、一人の被害者を救ひ、後に冬休で再びそこを過ぎた時、自分も亦ダラシにかゝつた話を掲げて居る。動かうとすれば少しも手足が動かず、休んで居ると別に苦痛は無かつた。何か食物を携へて居ればこの難が無いといぶが、或年には鰯賣りの男が、鰯の荷の側で昏倒して居た例もあるといふ。

(367)　同じ地方の實例の最も具體的なものが四つ以上、本山桂川君の編輯して居た「土の鈴」第四號に出て居る。同じく温泉岳の周圍ではあるが、南高來郡愛野村から島原の城下へ行く岩下越の峠附近とあつて、前のとは別の地點かと思はれる。室生の例の如く精確に一つの地點とはきまつて居なかつたやうである。これもダラシといひ、これにつかれると?中がだらしなくなるといつて居るが、突然手足がしびれ力が無くなり、冷汗が出て腹がこはばる。又は腹を抑へてアイタ／＼といひながら來る者を見たともあつて、前の學生の實驗とは少しの相異がある。僅の食物の食ひ殘りを近い藪の中へ投げたら治つたともある。以前旅人がこの邊で餓死し、その魂が附近に留つて居るともいひ、又かつて此處で首を釣つて死んだ者があるともいふ。米の字を手掌に書いて、嘗めるとよいといふのも紀州に似て居る。

　右の如く名稱は各地少しづゝの差があるが、便宜のために分り易いヒダル神の名を用ゐて置く。少しでもこれに近い他の府縣の實驗談と、若しこの間題を記載した文獻があるならば報告を受けたい。理由又は原因に關しても意見のある方は公表せられたい。これだけは既に世に現れた材料であつて、自分はまだ特別の研究を始めたわけではない。

　

(368)　　　　　ザシキワラシ　（一）

　

　紀州高野山の舊記の中に、座敷稚子の事が見えぬといふのは、多分二人の紀州人のいはれた通りであらう。而も私が書物には無くても、實際有つた事かも知れぬといつたのは、あの大阪の雜誌に出たといふ話が、これを信じて報告した人の話らしかつたためばかりでは無い。私は未だ「新社會」を讀んでは居ないのである。

　東京にも百年ほど昔、一種のクラボッコが住んで居た例がある。家の人に多少は世間へ隱す心持もあつたので、存外に夙く忘れてしまはれ、又は他の不思議と混合せられたのが多いのであらう。本所二丁目の、相生町と緑町との横町であつた。梅原宗得といふ人の家の古い土藏に、妖怪とはいつても、別に何か害をした話の無い妖怪が居た。いろ／＼の形で現れたといふ。この土藏に入つて働く者、俄に大小便を催すときは、即ちこの物の出ようとする前兆として、急いで飛出したといふことである。

　夜は鐵《かな》棒を曳く音がした。金剛三昧院の小僧と同じく、これも火防の神として祭られ、この家から火災除の守札を出し、その靈驗を認められて居た。祭の日はどういふ譯か、四月の十四日であつた。燈明菓食音樂等を以て厚く祀つたとある。而も唯の神樣では無かつた。或年近火が有つて、この家も片付が間に合はなかつた時に、見馴れぬ女が一人出て來て、荷物を纏めて庫へ入れてくれる。髪長く垂れて、顔はどうしても見えなかつた。やがてその庫の中に自分も入つて、うちから戸を閉ぢたといふことである。江戸では遙かこれ以下の奇瑞が有つても、直に守札を受けに來る者があつた。祭るのはこのためであつたかも知れぬ。古土藏は石庫で、中には何の變つた事も無かつたが、唯隅の(369)棚の上に、五六寸四方の箱が一つあつて、昔から置處を換へず、又手を着ける人も無かつた。これが不思議の源であらうかといふことであつた。この話は十方庵の遊歴雜記第二編の下に出て居る。その梅原氏と古土藏とは今どうなつて居るか。或はやつぱり燒けてしまつたかも知らぬ。

　ザシキワラシの話が、私のこれと一緒に出す田原藤太の話の心得童子と、若干の關係が有るらしいのは、偶然ながら面白いことである。佛教の方で護法といひ、又は天童とも使者ともいふのは、本來その宗教の大きな力を以て招き寄せたものだから、人といつてもせい／”＼名僧の處へ來る迄であるが、我々の心得童子は在家にも來て仕へる。さうしてその家を長者にせざれば止まぬやうである。その中には至つてザシキワラシと近い者もある。出羽の鯉川といふ處に住む貧乏な夫婦、或時から、ふとこの類の者の援助を受けるやうになつた。寶暦七年の事であるといふ。姿は決して見せたことは無いが、何處からともなく人の聲で物をいふ。後には馴れて怖くもなくなつた。主たる援助は夫婦の問に應じて、何でも未來の事をいつてくれて、それが皆中ることであつたが、時としては食物などを彼等の求に從ひ、何なりとも調へて持つて來て食はせる。これと同時に近隣の家では、餅なり饂飩なりそれだけの物が無くなる。人有つてその聲に由つてその物を取留めんとすれば、形は見えないが力すこぶる強く、相撲を取り捻合をする體にして、曾て誰にも負けなかつたとあるが、何處までが誇張の噂であるか分らぬ。津村氏の譚海卷二に出て居る。後いつと無くその怪止むとある。

　佐々木君蒐集のものが、ずつと物語化した二人の娘の話などの外、豫言はおろか碌に物もいはぬらしいのは、ザシキワラシ以上の不思議である。これは後世どう説明せらるべきものであらうか。尤も人と神との懸隔は、概して時と共に遠くなるものであるが、出現の囘數が段々と稀になり、常の事が非常の事のやうになるに至つて、何も語らずも、姿を見せるだけで目的の全部を達したからと、考へて置いてよからうか。然らば即ち民間巫道の衰微を示すものである。佛教の高僧が護法童子を天から呼んだと同じく、我々の巫女たちは秘法を以て各自の心得童子を作つたやうであ(370)る。而してこれを旅行等に同行する便宜のために、體?から引離した魂だけにして連れて居たやうである。さうすれば勿論人に見えず、又いろ／＼の物にも宿ることが出來る。これを自在に利用して、陰から不審の事を説明させ、或は他人の身の中迄も往來せしめる。但し一つの不便は、既に不用に爲つても、元々自己の體を具へぬ靈魂であれば、他には行所が無い。それ故にいつ迄も術者の家に留り住んで居る。これ等が舊家に纏綿する所のザシキワラシと關係あるものでは無からうか、もしさうだとすれば、これも今ちやうど、私が「おとら狐の話」の附録に於て、すこしく説いて見ようとする問題である。

　最後に今一つ、何故に座敷に住む者が多くワラシであつたかといふこと、これは至つて重要な點であるらしい。生きた人間の中では、老人が最も賢明にして且指導好きであることは、殊に我々の明治大正に於る經驗であるが、奇なる哉神樣には、若い形が多い。少くとも童子に由つて神意を傳へたまふことが多い。ザシキワラシもその現象の一の場合ではあるまいか。未開時代の人の考では、教育や修養に因つて人柄が改良するなどとは思はぬから、所謂若葉の魂の、成るべく煤けたり皺になつたりせぬ新しいものを、特に珍重して利用したのではあるまいか。佛教でいふ輪廻の思想では、魂は蟲や鳥に宿つても同じ魂で、人間に來てから別に成長することも無いとして居るのだから、一日でいへば早旦、一年でいへば正月が結構なやうに、暫く休養して來た新しい魂を上玉《じやうだま》と認めて、出來るならばこれを使はうとしたことが、今日に至る迄、赤兒を墓地には送らぬといふ奇風習の、もとを爲して居るのでは無いか。それだとすれば他の亞細亞民族の中に、ぽつ／＼殘つて居る子供を家屋等の守護者とする手段の、話をするさへ恐しい儀などと、遠い昔に於て縁を繋いで居たのかも知れぬ。ザシキワラシが時として火事の前觸をするといひ、或は又この災を防ぐ力があると迄思はれたらしいのも、曾ては火を怖れた人がこれを祀つた名殘であつて、すなはちこの怪物の由つて來る所を暗示するのかも知れぬ。何にしても、死んだ水子の取扱ひ方は、我々の父祖の變つた心持を推定する好い材料である故に、私は又別に赤子塚の話に於て、人の運と魂との、古い關係を考へて見ようと思つて居る。但し家の(371)中に埋めるといふ分はまだ少しも注意して居なかつた。これは佐々木君に頼んで、今後大いに調べて貰はねばならぬ。

　その他オクナイサマとの隱れた關係、オシラサマといふ名前の起り、それからザシキワラシの顔の色の赤いといふこと、小豆がすきだといふこと等、それからそれへと仔細を尋ねて行くならば、今この話を只面白いと思つて讀んで居る人達が、漸く國民といふものを考へねばならぬ時分になつて、顧みてこれ等の書物の存外に深い意味を持つものであつたことを感じ始める頃には、ちつとは我々平民の歴史を知る手掛りにもなるであらう。ちやうど今から十年前に、私が佐々木君の話に據つて遠野物語を書いた時には、誰もザシキワラシなどを問題にする者が無かつた。それが現在では、とにかく一團の研究者が起つて、眼を皿のやうにして解決の鍵を捜して居る。而して遠野は佐々木君の力で、學問のための一箇の高千穗峰と爲つたのである。無しといふ返事が來たり、又は丸々に答の來なかつた地方でも、何時かは氷の解けて水草の青い芽が見えるやうな春が來ぬといふこともあるまい。どうかこの書物を以て、茫洋たる湖上の一扁舟として、猶更に處々の岸に棹さしたいものである。

　佐々木君が遠く各地を旅行するの餘裕が無くて、ひたすら猿ヶ石川の小盆地ばかりから、有る限りの舊話を搾り取るやうにせられたのは、氣の毒ではあつたが又得がたい好經驗であつた。この一つの物をじつと見詰めるやうな態度は、我々普通の散漫な旅人には、到底望まれぬものであつて、又これでなくては次いで起るべき蒐集者の手本とするには足りぬのである。この篇は篇者自ら奧羽民譚集の第二卷と稱して居る。然らばその是非とも第一卷とせねばならぬ一篇は何であるか。どうか次から次へと相互に脈絡を辿つて、世に隱れたる東北文明の尊い起源を明らめ、我々の靈魂が未だその宿を移さゞる前に於て、鏡に向ふやうにこの國民の、眞面目に對してみたいものである。

　

　（附記）

　この文章は佐々木喜善氏の「奧州のザシキワラシの話」（爐邊叢書）の卷未に書いたものである。

　

(372)　　　　　ザシキワラシ　(二)

　

　明治四十三年の夏七月頃陸中上閉伊郡土淵村の小學校に一人のザシキワラシ（座敷童）が現れ、兒童と一緒になつて遊び戯れた。但し尋常一年の小さい子供等の外には見えず、小さい兒がそこに居る此處に居るといつても大人にも年上の子にも見えなかつた。遠野町の小學校からも見に往つたが、やつぱり見た者は一年生ばかりであつた。毎日のやうに出たといふ。十七八年ばかり前、遠野の小學校がまだ御倉（南部家の米倉）を使用して居た頃、學校に子供の幽靈が出るといふ噂があつて、皆が往つて見たことがあつた。友人にこれを見たといふ人がある。夜の九時頃になると、玄關から白い衣物を着た六七歳の童子が、戸の隙より入つて來て、教室の方へ行き、机椅子の間などをくゞつて樂しさうに遊んで居たといふ。それも多分ザシキワラシであつたらうと思ふ。

　

(373)　　　　　己が命の早使ひ

　

　「遠野物語」に、あゝいつた風な話を、極くうぶのまゝで出さうとした結果、鏡花君始め、何だ、幾らも型のある話ぢやないか、といふやうな顔色《かほつき》をした人が、段々あつたけれども、負け惜しみのやうだが、自分は、あれを書いてる時から、あの話が遠野だけにしかない話だとは思つて居なかつた。寧ろ、西は九州の果にまで、類型のあるのを、珍重したくらゐだつた。けれども、それを列記したらば、その面白味が減ると思つて、木地を出す事にばかり苦心したのである。

　例へば、川童の駒引の話などでも、あの前から、自分は、内々研究して居つて、羅生門の綱の話などと、脈絡のあるといふ、面白い事實を考へて居た。

　あの中に、今一つ、一寸異つた話で、今お話をしようと思ふのは、或金持の家の先祖が、始めて金持になつた時の、由來を書いたものである。

　　閉伊川《へいがは》の原臺の淵といふ處を、通つて行くと、非常に綺麗な女が現はれて、この手紙を或處へ屆けてくれといつた。無筆な男だから、後生大事に、持つて來る道で、山伏に出遇つた。處が、山伏が、その話を聞いて、そりや劍呑だから開けて見ろといつた。そして、開けて見ていふのには、この手紙をこの儘持つて行つたら、お前の命はなかつたんだ。私が書き直してやらうといつて、別に手紙を書いてくれた。それを、何食はぬ顔をして、その男が持つて行つたらば、先方にはやはり、綺麗な女が出て來て、その手紙を受取つて、開封をして見て、非常に(374)喜んで、お禮に小さな石臼をくれた。欲しい物がある度に、その石臼を一廻し廻すと、何でも出て來る。

といふ話なんだ。處が、こんな珍なる一つの話も、決して、突如として現れたものではない。數百年數千年の、歴史上の基礎を持つて居る。

　先づ、近頃の同じ型の話を、二つばかりして見ると――

　　甲州の國中に、國玉村といふ村がある。この村に、名は大橋といひながら、極めて短い石橋がある。この石橋は、郡内の猿橋と大變仲が惡い。猿橋の上でこの大橋の噂をしても、きつとおそろしい事がある。

　　昔、武州から甲州へ行く者が、猿橋を渡る時に、うッかりと國玉の大橋の噂をした。處が、一人の婦人が、不意と現れて來て、甲府へ行くのならこの文を一通國玉の大橋へ屆けて貰ひ度いといつた。けれども、宛先も言はなかつたのを、後で心付いて、途中でこッそり開けて見たら、その中に、この男を殺せ、と書いてあつた。

　　それからして、大いに驚いて、早速、自分の矢立の筆で、決して殺してはならぬ、と書き直して、何食はぬ顔をして、大橋へ持つて行つた。

　　處が、橋の上で又一人の婦人が現れて來て、甚だ怖い顔をして見て居つたが、その手紙を渡すと讀下して後に、急に顔の色が變つて、お禮をいひながら別れた。そして、何の障りもなかつたといふ事である。

　これと同じ話が備前の福山附近にある。これはその地名を一寸忘れたが――

　　或馬方が、馬を牽いて、夕方に某地の坂を通ると、やはり婦人が出て來て手紙を一つ托《ことづ》けた。事の爲體《ていたらく》が何分にも不審であつた故に、途中で出會つた山伏に、内々その手紙を讀んで貰つたら、その手紙には、前文御免で、

　　一、馬牽男の腸　　一具

　　　　右差進じ候事

と書いてあつた。それから馬士《うまかた》は仰天して、やはり自分に都合の好いやうにお書き直して貰つて、これも先方へ屆(375)けた。

　然し、これも別に、金持になるやうな、打出の小槌も貫はなかつたやうに書いてあつた。この話の日本に於る元祖は、ずつと八九百年の昔にあつて、「今昔物語」の中には、これに似た話が二つ三つある。その一つをいふと――

　　京へ歸る旅人が、美濃路の或處で手紙を一通托せられた。差出人は、やはり女であつた。勢田の長橋へ持つて行けば、受取人が出て來るといふ事であつた。

　　これもやはり手紙を途中で開封して見た處が、些《ちつ》とも解らぬ事ばかり書いてあつた。

　　何食はぬ頚をして、これを封をして、勢多の橋まで來ると、はたして、水の垂れるやうな綺麗な女が出て來て、

　　私に托かつて來た手紙はないかと聞いた。

　　旅人は恍けて、その手紙を出すと、女は目の前で開封をして見たが、忽ち面色變じて、お前は惡い人だ。途中でこの手紙を開けて見たらう、とさういつた。

　　すると忽ち天地怪鳴して、旅人の命は有ると無いの境ぐらゐに行つて了つた。

　この話の如きは、何故にかういふ思ひも付かぬ事が、古今東西かたちを同じくして居るか。不思議といへば、事實それ自身よりもこの方が猶不思議なくらゐである。しかも、近頃になつて心付くと、この話は支那から來て居る。顧炎武の「山東考古録」といふ書物は、泰山を研究した書物である。この中に、彼地方の傳説と稱して、かういふ話が載せてある。

　　昔、或旅人が、山東を旅行して、泰山の麓を通つた時に、老人が出て來て、手紙を一通托した。揚子江を渡る日に、河の半ばで現れて來る者に、この手紙を渡してくれといふ依頼である。

　　不思議に思ひながら、この男は、無邪氣であつたと見えて、開封もせずに、これを揚子江まで持つて行つた。

　　處が、果して、揚子江の中流に行つた時に、一人の美しい若い婦人が現れて、その手紙を受取つた。

(376)　　この手紙の中には別にこの男を殺せとは書いてなかつた。

　　何かお禮の品を貰つて、所謂この後話なしといふ事になつて了つた。

　　然し、その手紙といふのは、泰山の山の神が、兼て自分の娘を揚子江の河の神に嫁入らせて居た。そして、山東旱魃に就き、少々雨を送つて貰ひ度いといふ、依頼　　状であつたといふ話である。

　以上の話でも解らないといへばやつぱり解らない。何故にこんな突拍子もない話が態々日本にまで輸入せられたか。又、假りに偶合であるとすれば、何故に人の頭腦の中にかういふ思ひ懸けぬ空想が發現したか。これ等は、學者が、萬年かゝつても、とても明らかにする事の出來ない人類の秘密で、妖怪研究の妙味も、結局する處、右の如き神韻渺々の間に行かなければならないのかと思ふと、やはり宇宙第一の不思議は、人間その物であるといはねばならぬ。

　

(377)　　　　　山姥奇聞

　

　　　　　　　　　　一

　

　遠州のどの通であつたか、汽車の走る廣々とした水田の間から、遙かの北の方に縣境の連峰が、やゝしばらくのうち旅人の眺望に入つて來る處がある。時には雪を持ち、又は白い雲が搖曳してゐる。

　かつて私は天龍川の上流から、あの片端を越えて奧山の谷に降りて行つたことがある。人間は水路をたどつて案外な入野まで伐り開いて住んでゐることに驚いたが、しかし山の力がこれによつて少しも弱められたり衰へたりしてゐないのには更に驚いた。平地に住む者の想像を超脱した寂漠たる生存、これにともなふ強烈な山の情緒が、人間の心を衝つてやまない。

　「遠江國風土記傳」といふ百年前の記録に「豐田郡久良幾山、奧山郷大井村字泉に至り、巖一所、明光寺の山の上、名づけて子生たわと謂ふ。天�ｺ年間山姥これに住し、時として民家の紡績を助く。多年にして三子を生む。一男名は龍筑房、龍頭嶺の山の主なり。二男は白髪童子、戸口村神之澤の山の主なり。三男常光房は山住奧院の山の主なり」とある。山住の常光神社は今なほ參遠地方の靈神としてあふがれてゐる。この神の使ひは御犬即ち狼であつて、信徒がこれを招請して、あらゆる邪惡を驅逐治罰せしめるといふ。

　しかも同じ書物によれば、山姥の三子は或時は里に下つて民家の小兒を害したために、平賀中務矢部後藤左衛門の(378)二人が朝命を奉じてこれを征伐し、その子孫の者終に土着して奧山郷に佳んだといふ。

　母の山姥はこの後秋葉山に逃れ住み遺跡はかの地に存するのであるが、なほ後世に至るまで毎年子生たわの岩の上で山姥を祀つた。山香の相月といふ村にも山姥の社がある。神の澤では今も雪中に白髪童子の足跡を見ることがあり、山住山の常光房もまた時として雪の上にその跡を留めて行くことがあると記してある。かの地方の山村の人は知つてゐるだらうが、藁科・大井・氣多・天龍の谷々には、山男の大足跡の噂は絶えたことが無い。たゞそれが白髪童子の三兄弟の末であるか否かは、信仰以外にこれを決する者が無かつただけである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　山姥山姫の話は信越の境の山々を始めとして、山國の里に多い。關東から奧羽へかけては、山母はアマノジャクに近いものとされ、今では單なる童話中の妖怪にまで零落してゐる。だが山姥も最初は山をめぐり里に通うて、木樵の重荷を助け民の妻の紡織を手傳つたといふ説があり、北ヨーロッパのフェアリーなどと同じく、單なる空想の産物ではなかつたらう。阪田公時を足柄山の山姥の子といふことなども、前太平記以前には確な記述もないやうだが、相當根據のある作りごとであつたらしい。阿波の半田の奧の中島といふ村の山には、山姥石といふ大きな岩がある。この邊には山姥が住んで、時々里の子供を連れて岩の上に出て來て火を焚いてあたらせることがある。それを見たといふ人も以前にはあつたさうな。他の地方の山村でも、冬の特別に暖かい年は、「今年は山姥が子を育てゝゐる」と戯れのやうにいふ處が少なくない。それがほんたうかどうか、信じないのは勿論我々の權利であるが、何も理由が無くこんな話の發生することはあるまい。説明が出來ないからといつて無視しようとするのは横着だ。

　私はこれについて、こんな風に考へてゐる。

　第一には、現實に山の奧には、昔も今もそのやうな者がゐるのではないかといふことである。駿遠でも四國でも、(379)または九州の南部でも、山姥がゐるといふ地方には必ず山爺がゐる。或は山丈ともいふが、ジョウとは老翁のことである。山母に對しては山父といふ語もあり、山姥に向つてはまた山童がある。これを總稱しては山人と呼び、形の大きいために大人といふ名もあつた。果して我々大和民族渡來前の異俗人が、避けて幽閑の地に潜んで永らへたとしたら、子を生み各地に分れ住むことは少しも怪しむにたらない當然のことである。問題は寧ろ文明の優れた低地人が、何故に彼等を神に近いものとして畏敬したかといふ點にある。

　第二には正反對の側面から、山の神の信仰には以前は明らかに狼の恐れが含まれてあつた。狼が群をなして移動する威力、或はその慧敏と狂猛に恐れをなして、祭れば害をまぬがれるだらうと考へて大口眞神の名を與へ、更に進んでは人間に准じてその隱れたる成育を想像した。御犬が子を生むといふ場處は靈地であり、又その季節には戒愼して、特に十分なる食物を寄贈する風習も各地にあつた。武藏の三峰山のごときは今でもこの時の儀式があつて、御犬は夜深く吠えて祭の催促を信號すると傳へられる。又狼の首領が老女の姿を借りて人間に往來したといふ話は多い。さすれば、山姥の子育てといふことも、これから類推した物語りの類かも知れぬが、それにしては深山の雪に殘した足跡が人の足跡であることが、改めて解釋せねばならなくなる。

　

　　　　　　　　　　三

　

　第三には、山に入つて行く女のことが考へられる。山隱れする女は多くの場合狂女で、いはゞ常から山の力の威壓に堪へ兼ねてゐた山村の女であつたが、彼等はしば／＼山の神に娶られると信じて喜び進んで山に入つてゐる。或女は産後の精神異?から山に入つたなどといふ話もある。

　日本固有の宗教には神の御血筋といふ思想がある。後には轉じて高祖を神と拜む慣習に併合したが、地方の端々にはなほ年久しく、明らかに人間以上の神靈を祖先とした家があつた。その靈がもし男神ならば、人間の少女を配する(380）と神の子を生むと傳へられる。別に又上總の玉前神のやうに、姫神にして自然に子を設けたまふ例もあつた。これがやがては我國神道の成長力となつたもので、鹿島も八幡も諏訪も熊野も、一つとして御子神若宮の信仰にもとづかずに、その教へを傳播した例はなかつた。故にもし山中の口碑が純然たる精神上の破産であつたとしても、やはり遠江の奧山に傳へた如く、今の神は前の神の御子と考へて祭るのほかはなかつたのである。

　話は長くなつたが、私の説は假定であつて、まだ結論でも何でもない。ただ山嶽を、いはゆるアルプス黨の蠻勇によつて始めて占領した空閑の地の如く考へないやうに、最後にも一つだけ何か理由のあるらしい奇異なる物語を附添へよう。

　今からもう十七、八年前のこと、私は九州の南部市房山の麓の村に入つて、一卷の狩の傳書を見たことがある。文字が横なまつて精密な意味は取れなかつたが、その一節に次のやうな話が、唱へ言として殘つてゐた。

　昔大滿、小滿といふ二人の猟師が狩の支度をして山に入ると、一人の女が來て、私は今子を産んだ。産腹を温めたいから何か食物をくれといつた。それを一人は狩の前の血の忌を畏れてすげなく拒絶したが、他の一人は快く承諾したといふのである。話はこれで終つて何の意味か分らなかつたが、最近に佐々木喜善君の東奧異聞が出版せられて、始めて一千里の北の端まで、同じ神話の流布してゐることを知つたのである。岩手縣の獵師の口傳にあつては、二人の名は萬次、萬三郎であつた。産をした女は山の神であつて、血の穢れをも厭ふことなく、その望みをかなへた獵人は永く豐富なる獲物をもつて報いられたことになつてゐる。これは常陸風土記の富士と筑波の話、もしくは備後の巨旦《こたん》蘇民《そみん》の二兄弟が、武塔天神を待遇した話から、近世になつては瘤取りや花咲爺まで、賢愚善惡の二つの型が、神の選擇によつて盛衰した昔話のたゞ一つの變形といふに過ぎないが、それにしても山の神が女性であり、山にあつて子を産むといふことがその信仰の重要な一部をなしてゐたことは、假に九州と東北と二つの一致がなくても、なほ小さからぬ暗示である。問題はたゞ山を愛する人たちが、かうした山の神秘を顧みるか否かにある。

　

(381)　　　　　入らず山

　

　山の神秘と、それが人界に傳はつて評判になるといふことゝは、二つ全く別々の話であつた。山の人には我々の眼から見ると、少し重くるし過ぎるかと思ふほどの思慮があつた。第一に山小屋の火の傍では、さういろ／＼の山の話はしない。現在不思議なものが見えたり聞えたりしてゐても、不馴れな若者たちの怖れるのを憐れんで彼等が自ら注意するまでは知らぬ顔をしてゐる。

　大井川の上流で雪のしん／＼と降る晩に、何度とも無く小屋の周圍を、どしん／＼と大きな足踏みをして、まはつてあるく者がゐる。何だらうと一人が驚いて問ふと、相手の親爺はふんと氣の無い返事をしたきりで寢てしまふ。やがてその足音が止まつたと思ふと、不意に小屋の棟に手でも掛けて、ゆさぶるかと思ふやうな響がした。キャッと飛び起きて再び老人を喚び覺すと、老人が怒つてどなりつけた。山に寢りやこんなことは幾らでもある。それを一々騷いでゐてどうする。黙つて寢ろ、といつたがなか／＼眠れやしない。翌朝は早々遁げて還つて笑はれたといふ話が、駿河新風土記にも出てゐる。あの邊は殊にかういふ經驗の多かつた土地である。

　素人は山小屋に泊つて、火を焚いて夜を更かしてゐる際などに、よくこの類の話が聞いて見たくなるが、早速その問に答へて話すやうな人は少ない。山にいろ／＼の不思議があるといふことは、直接に山の威力の承認を意味する。そんなことをいつてしまへば自分が先づ氣が弱くなる。だからだまつて笑つてゐるだけで無く、中には明白に今まで一向にそんな經驗は無いと、答へる者さへ多いのである。實際また個人として、さう澤山の物凄い目に遭つてゐる者(382)は無かつたらうが、人の話ならば長い間に、幾らでも聞いて知つてゐるのだ。たゞそんな場處で問うたり語つたりする問題では無いのである。

　多くの神秘談は死の床で、もしくは老衰してもう山で稼げなくなつた者が、經驗を子弟に傳へようとする序でにいひ殘すのが普通になつてゐて、さういふ話の聞書には眞實味がある。さうで無い場合に面白げに話すのは、作りごとで無いまでも、受賣の誇張の多い話と見てよい。これは二三度も同じ場合に臨むと、素人にもすぐ鑑別が出來るやうになる。里の妖怪とは違つて、山奧では?むとか食ひ付くとかいふやうな話は少ない。たゞ何ともかともいひやうが無いほど怖ろしかつた。又はぞつとして毛穴が皆立つたといつて、話はもうそれで終りである。しかもその時限り獵は止めたといひ、またはあの澤だけへは入らぬことにしてゐるといふ結論に達してゐる。またそれほど大きな不思議では無くとも、當人はとにかくこれを承認してゐる。何のこれしきのことといふやうな反抗心は抱かない。それ故にまた矢鱈に批評したり、考へたりする者には話したがらないのである。

　中にはさういふ話ならよくあるといふ者もあるが、それも否認ではなくて、山の人は始めから總括的に信じてゐるのであつた。山には人里において不可能なる法則が、行はれてゐることを信じてゐるのである。その中で私が今集めてゐるのは天狗笑ひ、天狗倒しの類、または木伐り坊などと稱して、斧を打ち鋸を挽く音が長い間きこえ、或は數多の人の話し聲笑ひ聲、それから雪の深い高山の峰から、笛太鼓の音がきこえるなどといふのも、會津の御神樂岳のみで無かつた。意味が深いと思ふのは一村數十人の者が、我も人も同時にこの幻覺を起すことである。眼の迷ひといふ方にも、一人が實驗し、他はそれを聞いて信ずるといふ場合のみで無かつた。美作のある山奧には池があつてそこの水鳥は皆片目であつたので、遁げて歸つたといふ話もある。さういふのも皆共同の信仰であつた。山を樂しむ者に完全なる個人主義が行はれたら、その時は山の神秘の晴れてしまふ時であらう。

　

(383)　　　　　山人の市に通ふこと

　

　南方殿の「眞の山人」とは如何なる意味なるか。よく我々が「彼こそ眞の日本武士」などといふ「眞の」ならば御同意である。保守舊弊の山人の裸體徒跣であつたことは疑はぬ。併し凡ての山人の子孫皆然りといふ推論には反證がある。單に裸といふやうな顯著なる事態が記述に漏れる筈は無いといふだけの消極證據では無い。拙者は遠野物語の第七節を引證する。即ち言語通ぜず、日本人との合の子を殺すか食ふかするやうな山男が、衣類などは世の常なりとある。この外にも一二の例があるが今引いてしまふのは少し本意で無い。要するに山人が米の飯を好み及び衣類を便とするに至つたのは、開化か墮落かは知らず、彼輩近代の變遷であつて、拙者はこの風を以て山人中の混血兒より始り、その混血兒はこれをその日本人たる片親（多くは母）より學んだものと考へる。然らば衣類を織り又は縫ふのは如何と詰《なじ》る人が、もし有つたならばその人はあまりに都人士だ。木綿を産せぬ寒國の村民は古着を買ふのは常のことである。既に關東の田舍の市日にも、頭巾襟卷足袋股引は勿論、襦袢でも羽織でも何でも賣る。一概に古着といふが出來合の新着もある。皮膚のやゝ弱くなつた山人は、こつそりと里に下つてこれを買つたと思はれる。陸中の海岸大槌町の市の日に、語の訛近在の者と思はれぬ男、毎度來りて米を買つて行く。この男丈は高く眼は圓くして黒く光れり。町の人はこれを山男だらうといつてゐた（佐々木氏報）。相州箱根の山男は裸體にして木葉樹皮を衣とす。深山に在て魚を捕るを業とし、市の立つ日を知つてこれを里に持來り米と交易す。人馴れて怪むこと無し。賣買の外多言せず、用事終れば去る。その跡を追ひて、行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の道も無き處を鳥の飛ぶが如く去る(384)故、終に住所を知ること能はずといふ。小田原の領主よりも、人に害を作す者に非ざれば必ず鐵砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かすこと無しといふ（譚海卷十一）。これは不幸にして古着を買つた例ではないが、彼等が市に通ふまでに開けて居たことだけは證明し得る。市人が山男だらうと思ふ迄には隨分永い間往來交易をしたことゝ思ふ。尤も平和なる田舍の山にも、他國者の杣木地屋が久しく入つて居ることもある。殊に嶺を越えて隣國の谷川にヤマメなどを釣る爺には、山氣に染んで變に無口になつて居る者もある。この徒が里へ出たのであつて、山男とはちと空想と申さるゝ御方もあらう。口の減らぬ言ひ草だがそれは烏の雌雄である。山男が母などに教へられ如何にも杣又は木地屋らしく乃至はヤマメ釣の爺らしい顔をして、すまして古着を買ひに來る者も亦あるわけである。而して町の者の方で山男だらうと見るのには何か根據があつたのであらう。實は山人が相手といふことを承知の上で、もつと自動的の貿易を大規模に行つた例もある。これは外國では鬼市《きし》又は黙市　Silent trade などといつたこと、南方氏最も詳しく知つて居られる。諸國里人談又は蘭山の本草記聞などにも、本草綱目の交趾國の奇楠《きやら》の交易の話が引いてある。日本では武藏と甲斐との境の大菩薩峠、多摩川奧から秩父大宮へ越える六十里越の道祖神の祠の前、又は内外の日光の境の嶺などで、つい近頃まで黙市が行はれた。勿論當事者は無名の山人でもなく、主たる目的は雙方歩行の儉約であつた。併しその起原を考へて見ると、足を厭ふといふ外に、互にあまり顔を合せたく無い者どもが、律義を保證人としていつと無くかゝる約束を設けたので、いくらも例があつたものと思ふ。物をいはず吉凶の交際もせず單に當面の便宜のために交易だけをするとなれば、山一つ隔てた彼方の住民が、平家の殘黨であらうが八掬脛《やつかはぎ》や惡路王の後裔であらうが、一向顧みる値の無い差別であつたらう。

　

(385)　　　　　山男の家庭

　

　山男が市に往來し古着を買ひ米を買ふといふことは、奇怪なやうだが今では有りふれた事實である。何故に古着又は米を買ふかといふ問には、拙者は只その方が暖かいから旨いからと答へるの他は無い。然らば如何にして古着の暖かく米の飯の旨きを知るに至つたかと問ふ人が有つたとする。これに對しては亦やゝ説くべき肝要なる箇條が殘つて居たのである。蓋しこの點は山人文化史上最も顯著なる一時代を劃するもので、吾々が山人を研究すべき必要もそれから出て來るのだ。山人はその本能の要求を滿さんがために、彼等が敵視する日向人の中からその配偶者を得ねばならなんだのである。勿論彼等の中にも色の白い女子はあつた。

　　熊野山中にて炭を燒く者の所へ、七尺ばかりなる大山伏の來ることあり。魚鳥の肉を火に投ずれば腥きを嫌ひて去る。又白き姿の女の猪の群を追掛けて來ることありといふ。（秉穗録）

　　熊野の山中に長八尺ばかりなる女の屍あり。髪は長くして足に至る。口は耳のあたり迄裂け、目も普通よりは大なりしとぞ。（同上）

　　日向國｜飫肥《をび》の山中にて、獵人の掛置きし罠へ怪しき者罹りて死に居たり。惣身女の形にして色白く、黒髪長く赤裸なり。人に似て人に非ず。これは山の神ともいひ又は山女ともいふものにて、深山に有るものなりと。考ふるに人間の始は全くこの山女より多く生み出せしなるべきか。さあらずはいかで赤子の内生育するの理あるべき。人自然にわき出でたりとは虚説に近し。後世にも阪田公時の如きその證とすべきもの也。（野翁物語卷二）

(386)　後半の原人説は引用の必要も無いか知らぬが、阪田公時を後世の類例に引き、我々の難物とする山姥問題を無造作に解決した勇氣が頼もしいから出して置く。これと同じ話かと思はれるのは、

　　日向國飫肥領の山中にて、近き年｜菟道弓《うぢゆみ》にて怪しきものを取りたり。惣身女の形にて色ことの外白く、黒き髪長くして赤裸なり。人に似て人に非ず。獵人も之を見て大に驚き怪しみ、人に尋ねけるに山の神なりと云ふにぞ、後の祟も怖しく、取棄てもせず其まゝにして捨て置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟も無かりと也。又人の言ひけるは、是は山女と云ふ物にて深山にはまゝ有るものと云へり云々。（西遊記卷三）

　　薩摩の人上原伯羽の談に、彼國の深山中には時々婦人の姿なる物を見る。髪を振亂し泣きながら走り行くと云へり。思ふに此も山氣の産する所なるべし。（今齊諧卷四）

　　寶暦五年の秋、（土佐）高岡郡影野村往還の路より十間ほど山に入りたる所の松の枝に、髪の長さ三間餘ある婦人腰を掛けて居たり。村の者集まり見れば其まゝ飛下り行方知れず消失せり。下は茅原にて候所、分け行きたる所も見えず。草の葉一つも損ぜず候由。田中勢左衛門書中にて丙子（寶暦六年）の正月申し來る。影野は相間氏領知なり。彼家の家來和田彦左衛門に此事を尋ね候へば、夫は昔より折節村の者見申す由。五六尺ほどの茅原を行くとて、腰より上まだ六尺餘も見え候由。多くは後姿又は横顔を見たるばかりにて、正向の面を見たる者無しと承り候と云へり。（南路志續篇稿草卷二十三、怪談抄）

　　信州蟲倉山に山女住すると云ふ洞《ほら》三あり。其中に新なるあり。古洞は谷を隔てゝ古木繁茂せる中に在りて、山燕の巣甚だ多し。新洞と名くるは絶壁の中間に在るを仰ぎ見るに數十丈あり。山女は見ることなけれど、洞口草苔生ぜずして出入する者あるが如し。雪中に大人《おほひと》の足跡ありと云ふ。（越後野志卷十八）

　最後の例は姿を見たといふので無いから、或は例で無いかも知れぬが、とにかく山人にも女性が有ることだけは、歸納法を用ゐても證出することが出來たのである。これ等の山女は赤裸とある一事で、山に生れた者であることがわ(387)かる。至つての深山に居る幸福なる山男は、これ等の山女を呼ぶことが出來て、或は永く血統の純を保ち得たかも知れぬが、元々孤立獨走の生活に陷り易く、飢餓に迫られ獵人に追はれてあちこちと經過の中には、夜などは堪へ難く寂寞に感ずる場合が多かつたであらう。その結果や果して如何。日本には人を運び去るやうな猛獣は居らぬのに、神隱しと稱して兒女の失踪する者が甚だしく多い。加賀の金澤の按摩曰く、この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を歩いて、迷子の／＼誰それと呼ぶ聲と、これに伴なふ淋しい鉦の聲を聞かぬ晩はありませなんだ云々。冬季に限つてこの事の多いのは何れの地方にも共通の事實であるかと思ふ。一日の中では黄昏を逢魔が時などともいひ、一人出て居る者に災がある。この如き季節や時刻の選擇は、超人間力の天魔波旬等が必要とすべきもので無い。さて例も段々あるが、さのみは諸君の要求せらるゝ所ではあるまい。拙者は唯近世迷信の進化を説明する料に、或一點の特色を指示して見たいと思ふ。それは神隱しに遭つた者が、他日必ず一度は親族知音に姿を見せるといふことである。

　　盛岡の邊にては黄昏に婦人小兒の戸外に在るを忌むこと殊に甚だし。十年ばかり前のこと也。此町に住みて醤油の行商を爲す者の妻、夕方戸口に立ちて唯一人外を見て居りしを、近所の人々氣遣はしきことに思ひしが、それなりにふと行方を失ひたり。亭主は狂氣の如く諸方を求めあるきたれども、絶えて消息も無くして其年を過したり。翌年の夏綱張の温泉に湯治に行き、日暮に宿の外を見るに、僅か一二町さきの山腹の熊笹の中に、かの失せたる妻立ち居たり。急ぎ走り出で追掛けたれども、次第／＼に遠ざかり嶺の方へ登りて、終に又見えずなりたりと云ふ。（柳田聞書）

　　陸中岩手郡雫石村の農家にて、娘を嫁に遣るとて飾り馬に乘せ、松明の火を附けて居る間に其娘見えずなりたり。百方に覓《もと》むれども其效無し、二三年の後此村の者近村に行きて酒屋に立寄り居酒を飲みてありしに、初夜の頃酒買ひに來たる見馴れぬ女あり。よく見れば我村のかの娘也。あまり奇怪なれば傍人と眼を見合はすばかりにて語(388)も掛けず、女出で行きたる後直ちに潜戸《くゞりど》をあけ其跡を附けんとしたれども、早既に遠き影も見えず。足音も聞えず。怪物庇の上に居り女を引上げて還りしなるべしと云ふ。（柳田聞書）

　　陸中上閉伊郡鱒澤村にて農家の娘物に取隱され永く求むれども見えず。今は死したる者とあきらめてありしに、或日ふと田の掛稻の陰に、此女の來て立てるを見たる者あり。其時は既によほど氣が荒くなりをり、竝の少女のやうでは無かりきと云へり。それより又忽ち去り終に歸り來らずと云ふ。（水野葉舟君談）

　　同郡松崎村の寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集まりてありし處へ、極めて老いさらぼひて其女歸り來れり。如何にして歸つて來たかと問へば、人々に逢ひたかりし故歸りしなり、さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騷がしき日には、けふはサムトの婆が歸つて來さうな日なりと云ふ。（遠野物語）

　　伊豆宗光寺村（田方郡田中村大字）にて言傳へたるは、此村の百姓惣兵衛が娘にはつとて十七の女、ゆくりなく家を出でて歸らず。今（寛政四年）より八十餘年前の事なり。はつの母亡せて三十三囘に當る年の其月日に、此女をのが家の前に佇みけるを、あたりの者見付けて聲を掛けたるに、答もせで馳せ出し、又行方知れずなれり。其後も此國天城山に薪樵り宮木曳きなどに入る者、稀にはつに行逢ふことあり。いつも十七八の顔形にて、身には木葉など綴り合せたるあらぬ物を纏ひてあり。詞を掛れば答もせで遁げ行くこと今に然りなりと云ふ。（槃遊餘録第三編、伊豆紀行）

　歸化した里の女までがこのやうに長命することの信ぜられぬのは、年老いて迄も日本人の情合を有して居るのでも明らかであるが、山に入つてやゝ永く生存し居ることは、物馴れた保護者のあつたことを想像せしめる。同じ遠野物語の中には、山女が故里の人に逢つて夫とする者の酷薄にして疑深いことを歎いた一條が載せてあつた。それから推(389)せば取られた女は誰も彼も末は食はれてでもしまつたかと思はれるが、元來が女といふ者はよくそんな事をいふもので卑近な譬を引けば夫婦喧嘩を仲裁しに往つて恥を掻いたなどといふものも同じ消息であらうと思ふ。酒?童子のハレムに住まば知らず、泣きながらも遁げて出なかつたのには、やはり恩愛の絆があつたものと見ねばならぬ。因つて思ふに、羅馬人の最初の母たちも、亦この如くにして敵人の家庭を和げたのである。假令夫は心強く怖しい人であつても、その子に至つては我乳房に縋つた者である。時には母の獨言にも同情し、或は昔戀しの里の歌に耳を傾けたものかも知れぬ。語《ことば》などは母の教へるものである。山男が天孫人種の談話を理解したとて必ずしも不思議では無い。拙者などは人煙稀少なる山奧の地では、山男が知らん顔をして土着し草屋を葺き田を作り、今日の大字何々字何々になつたのもあらうと思つて居る。農業などは學び難い手練秘密のある産業で無いから、やゝ氣永に母が勸誘したら相の子の山男などは終にこれを企てたことであらう。況やキモノが暖かくしなやかで、米が甘く柔かだといふ位の簡單な眞理は、捨てゝ置いても覺り得たであらうと思ふ。次には山女のことである。女も亦人間であるとすれば、獨居して偶を懷ふは當然の推理であるが、これが又多くの例證を具へて居る。

　　秋田の早口澤と言ふは二十七里の澤間也。去る丁巳（寛政九年）の七年初、此澤六里程奧に長さ二里餘の堤を一夜の中に造り出す。兩方より山崩れ溪流を塞ぎ留めしを見れば四丈五丈に餘る大石にて築き成せり。如何なる者の仕業にや。此山口にはニシコリと云ふ木あれば山※［獣偏＋?］鬼童のすだくとも云ふ。此山中に折として童の鬼の如くなるを見ることあり。先つ年或人の見る一人の大童は、十人しても抱へ難き大石を背負ひ、うつ伏して澗水《たにみづ》を飲み居たり。之を鬼童と云ふ。又或人の云へるは、仙人山中無聊のときは必ず彼のニシコリを燒きて、色々の怪物を集め見ることあり。南部境の山奧にて燒きし時は怪しき女を出せり。薜茘《へいり》に身を纏ひ荊棘に亂せる尺の髪は白き針金の如くなるが、年の程まだ四十ならず見えしは、兼て聞きたる毛女郎雪女なども是等を謂ふかと思はれたり。ほゝ笑みて仙人に馴れ昵ぶ有樣に、仙人も無聊の折からとて之を犯したりと云へり。（黒甜瑣語第三編卷四）

(390)　　播州表より和州芳野へ大勢｜?《かせ》ぎに行通ふこと年々なり。予が近在よりも行者多し。或時歸りての物語に、當年は例の働き場所に、さしたる仕事もなく、上市より五里ばかり川上へ入込み、仲間十人小屋を打ち罷り在り候が、或夜八つ頃にてもあるべし。眼の醒めたるもの二三人ありしが、俄かに身毛立つばかり恐しくなりし所に、小屋の入口に下げ置きたる莚を揚げて來る者あり。見れば女なり。身の丈を過ぐる程の髪を亂し、眼の光強く消え入るばかりなりしとかや。見たるものは何れも五七日づゝ氣色を煩ひ候ひき。私は仕合よく正體も無く寢入りて別條なく候ひし。後に處の者に尋ね候へば、稀にさやうのことあり、山姥と申す者にてあるべしと云ふ。又木の子と云ふ者、三つ四つ位の子供の如くにして身には木葉を着たり。姿は影の如く有りとも無しとも定まらず。杣人或は山働きの者共、油斷をすると中食を木の子に取られ難義仕事に付、木の子見ゆるや否棒を以て追散し申候。是は銘々共も度々見て珍しからず候へ共、此邊にては一向聞かぬ事ゆゑ御話申すと語れり。（扶桑怪談實記卷二）

　　播州揖東郡新宮村に七兵衛と云ふ土民あり。正�ｺ年中のこと也。山へ薪樵りに行きて歸らず。親兄弟歎き悲しみて二年を經たりしに、或夜同村の後の山へ來りて、七兵衛が戻りたるぞ／＼と大聲に呼ばるを、元より聞知りたる聲なれば悦びて山へ走り行けば、近所の者聞付けて共々麓に走り行く迄は峰に聲しけるが、尋ね上りて見れば居らず。慥かに此のあたりなりしとて、追々に集まる人其近邊を殘る方無く探し求めたれど、終に見えざればせん方なく皆々歸りたり。さては天狗につまゝれ奴となりたるならんと沙汰しあへり。其後村の者久しく東武に在りて歸國する折柄、興津にて出合ひ物言ひかはしたる由なれば、東國邊を徘徊してあるにやと、東國へ下る者には必ず頼み置きけれども、其後は逢ひたる人も無く、風の音信《たより》もなかりしとかや。右は彼が一度村の山へ戻りし時、共に尋ねに行きし人、年經て後語りける趣を書傳ふるもの也。（西播怪談實記卷一）

　男の神隱しに遭うたのは未成年者が多い。然らざれば些し所謂拔けた男である。この輩が山人の社會文明に幾何の影響を與へたかは問題である。山姥とは言へ女などに勾《かど》はかされるやうな柔弱さでは、果して永く髪結の亭主の如き(391)地位を保持し得たとは思はれぬ。但し右の七兵衛の如きは屈強な壯男であれば、或は話の如く天狗につまゝれて奴となつたのかも知れぬ。然りとすれば誠に笑止な一生涯であつた。

　　世の物語に天狗の情郎《かげま》と云ふことありて、爰かしこにて勾引《かどはか》さるゝあり。或は妙義山に將て行かれて奴となり、或は讃岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稻澤村の盲人が傳へし不思議物語にも多く見え、下賤の者には別して勾引さるゝ話多し。近くは石井某が下男は四五度もさそはれけり。始は出奔せしと思ひしに、其者の諸器褞袍も殘りあれば、それとも言はれずと沙汰せしが、一月ばかり過ぎて立歸れり。津輕を殘らず一見して委しきこと言ふばかりなし。其後一年程過ぎて、此男の部屋何か騷がしく、宥して下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影なし。此度も半月ほど過ぎて越後より歸りしが、山の上にてかの國の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辭を左右に托して言はず。若し委曲を告ぐれば身の上にも係るべしとの戒を聞きしと也。四五年を經て或人に從ひ江戸へ登りしに、又道中にて行方なくなり。此度は半年ほどして大阪より下れりと云ふ。（黒甜瑣語第一編卷三）

　一度朋友の中に復歸し得た以上は、懲りて又行くまいと思ふに、右の如く呼出されるのを見ると、何か抵抗し難い力あるやうに人の思ふのも無理は無い。又神隱しが中途祈?等の效驗に由り發見せられた話も多い。その者の精神?態から推して醫者はこれを一種の病氣と見て居る。遺傳に基づく心力の故障が病氣の内とすれば、その斷定も決して誤では無い。津輕南境の田代岳の麓村で、農家の娘氣が變になり、おれは山の神へ嫁に行くのだと常に言ひ、時々飛出す樣子のあるのを、よく／＼用心して居る處、ある日家人の眼を盗んで家を出で、心づいてそれと追掛けたるに、走ること飛鳥の如く終に田代岳に入つて見えなくなつた事がある。これは狩野享吉先生の話であるが、あの邊一帶の山彙に於ては、山人は久しく相應な優勢を保つて居たらしく見える。

　

(392)　　　　　狒々

　

　所謂山丈山姥の研究を徹底的ならしむるには、是非とも相當の注意を拂はねばならぬ一の問題がまだ殘つてゐる。それは?々深山の人民と混淆せられて來た狒々といふ獣類の特性、及びこれと山人との異同如何である。全體狒々といふやうな獣が果してこの島に居るかといふ事が、現代學界の疑問であるのに、近年自分の記憶するだけでも狒々を捕つたといふ新聞記事は二三にて止らず、更に前代の記録に亙つて攷察すると覺束無い點が多い。本草家に限らず、日本の學者には妙な一癖があつて、支那に在る物は日本にも在るといふ前提から議論する場合が多い。益軒ほどの先覺までが、往々にしてこの弊に落ちて居る。陸地を蹈まねば移ることの能ぬ動物に於ては、殊にこの豫斷は危險な筈であるが、例の山※［獣偏＋?］木客から狒々の類までも、いつの間にか遠い國土の記述が和譯せられて我邦のことのやうに傳へられて居る。言海を引いて見るとかうある。「ひゝ（狒々）、怪獣の名、深山に棲む、猴に似て極めて大きく、又極めて猛く、人を見れば大いに笑ひて脣其目を蔽ふと云ふ。詳ならず。猴の年を歴たるものをいふにや。ヤマワラハ、ヤマワロ（以上）」これでは日本でヒヒといふ物がこの通りであるとしか見えぬが、さうで無いらしい。本草啓蒙四十八などを見るに、狒々の上唇至つて長く笑ふとき目を掩ふ故に笑はせて置いて唇の上から錐で額を突刺して補へるといふのは實は外國に於る話であるやうだ。日本のヒヒの唇の寸法は未だ必ずしも檢せられなかつたのである。しかも支那の一地方でこの物を山笑と稱し我邦には又ヤマワロと名づくる物が山に居るといふのを、同じく「山笑ふ」の意と解し二物同じと認めたので、而もヤマワロのワロはワラハの方言で山童の義であるのを察せなかつた。從つて狒々深山(393)中に棲むといひ「木曾飛州能登豐前薩摩に有りと聞けり」とあるのも二者いづれを意味するかわからず、「人形にして毛ありて猴の如し毛は刺の如くして色赤し、死すれば脱落す」とあるも、狒々の話か山童の話であるかを決しかねる。唯疑を容れざる一事實は、近世各地で遭遇し乃至は捕殺した猴に似てこれよりも遙かに大なる一種の動物を、人がヒヒと呼んで居たといふことだけである。和訓栞の狒々の條には安永以後の或年に伊賀と紀州とにこの物現れしことを記し、更に天和三年に越後桑取山で鐵砲を以て打取つたのは大さ四尺八寸云々、正�ｺ四年の夏伊豆豐出村で捕つたものは長七尺八寸餘云々と述べて居る。但し最後のものは果して狒々であるか否か疑はしい。面は人の如しとあるが而も鼻四寸ばかり手足の爪は鎌のやうで水掻があつたとある。この類の怪獣記事は江戸期の隨筆類には往々にして見えて居り、何れも傳承の際に誇張があつたとおぼしく、畫圖などの添ふ者は却つて不信用の種が多い。即ちその獣が眞の狒々か否かを究める前に、果して話のやうな動物が有り得るかを問はねばならぬことになる。但し何れの場合にも何か獵師も見たことのない異獣を獲へたといふだけはうそでないらしい。内閣文庫に在る雜事記といふ見聞録の卷四十にも、天明二年に會津磐梯山の麓塔澤の温泉で滯在中の少年が幾人も取られるのでこの山に怪獣あるを知り、或武勇の者往きてこれを打留めたといふ物の圖を載せて居るが、これなども尾と水掻とあつて鼻は天狗のやうに長く、それで立つてあるくとあるから、何物とも解し難い。そこで自分などの兼々考へて見ることは、これ等前代の記録を能ふ限り多く集めて見るも一方法であるが、それよりも急務は靜岡の新聞などに冬になると殆と毎年一つ位づゝは現れる狒々捕殺の事件を精査して行くことである。これとても十年か二十年の間には大袈裟な噂になつて、始末がつかぬやうになるかも知らぬが、幸に後から後からほゞ同じ地方に同じ出來事が繰返されて居るから、今の内なら土地の人に就てゞも、果して猿の年經た者といふ世上の説が正しいかどうかを知る方法はあらうと思ふ。新聞の報道は常に一度きりで滅多に正誤なども出ぬから疑へば疑はれるが、或は蜜柑畠へ來て荒すのを撃つたとか、鐵砲の上手な町の醫者が打留めて持つて還つたとかいふ類の話があつて、志太郡島田あたりのこともあつたやうに記憶する。かういふ實(394)地の例に由つて狒々と漢譯してよい一種の猴が日本にも居ること、乃至は普通の猴の中にも稀には非常に強大且つ神怪なる者のあることが立證せられることになると、神隱しその他深山の蠻民の所爲と認められて居た多くの不思議が何でも無くなるかも知れぬが、同時に又所謂ヒヒはそれ程大きなえらい動物でも無いと決すると、結局古來猿神などと稱して人の怖れて居た怪物は正眞の山男を誤認して居たことを知るに至るかも知れぬ。有斐齋別記の一節にある寶暦中越後の山中で撃取つた狒々の如きは、これを實見した人上京しての談話に、「?猴とは類せず別種の物ならん」というたとある。この物常に山巓に據り大石の上などに踞まり居り、これを見た人若し頓首跪伏して通して下されと頼めば敢へて害を加へず、無事に行過ることを許したとあるなど、大分山人の方に近い話である。

　

(395)　　　　　山の神のチンコロ

　

　日本の動物學が未だ山の迫海の隈の總てを支配して居らぬことは、遺憾ながら既に犬神土瓶神の話についてもこれを認めざるを得なかつた。出雲の人狐伊豫の犬神などは、往々路傍にその死屍を見るといふ話さへあるのに、見た人が常に素人で、今以て不必要なる畏怖を散ずることが出來ぬ。拙者が畠にも大學あたりで調べて戴きたい獣が大分居る。その一つをこゝへ牽出して來て見よう。信濃奇勝録卷三に曰く「八ヶ嶽（諏訪郡）の麓槻木新田の上には老木の穴洞の中に小獣ありて住めり。之を名けて山神の?子《ちんころ》と謂ふ。鼠よりは大きく猫の子ほどにて、鼬の如くにして尾は短く脚も矮し。冬月霜の降る頃に出づ。?捷にしてよく走るが故に審かに其形?を視ること能はず。毛色最も麗しく淡白淡黄或は黒白の駁あり。木曾にて山神のオコヂョと云ふもの之に同じ。安曇郡に云ふ貂鼠の類なるべし」オコヂョといふ語は何を意味するかまだ知らぬ。とにかく普通のイタチ又はテンでは無いらしい。木曾名勝圖會卷三には左の如き記事が透る。「木曾の深山に山神の?子《ゑのころ》と云ふ物あり。形猫の子の如くにして少しく大なり。頭は栗鼠に似て短尾矮脚、毛色或は薄白く或は淡黄にして腹の下白し、或は鹿の如く斑文ありて脚黒し。人を見て驚かず。三四匹づゝ群を爲し、十月初雪の後山中の小屋に居れば旁に來る。之を捕ふれは山神の祟ありとて敢て捕ふる者なし」。山の神の何々と呼ぶ動物植物は隨分多い。これも前に名が出來て後に怖れたのかも知らぬが、とにかく山人の住みさうな深山でなければ居らぬのを見ると、今一段と深い由緒のある名稱かも知れぬ。前にもいつた如く、海道では大井川の川上が山人の都であるが、そこにもこの物が居てその記事が一層幽怪である。駿河志料卷三十に依れば、「駿河安倍郡井川(396)村の山中に里人が山神の※［獣偏＋蒿］《ゑのころ》と名くる一種の怪獣あり。小さき獣にて毛色は白又は黒、或は白黒交れる斑もあり。鼠の大さなれども形は黒犬の如く、耳を垂れ尾を卷き、鳴く聲も亦犬の吠ゆるに似たり。常には之を見ること無し。稀に見ることあれば杣人などは溪水に垢離を取り、山神の森に向ひて山中無事ならんことを祈る。此獣多くは山神の森にて見るが故に里人かく名けし也」とある。深山にある山神の森については亦言ふべきことがあるが、要するに靈異ありとして斧を觸れない寂寞の場處である故外では見掛けぬ物も住むのであらう。同じ大井の谷の西岸、遠州上川根村千頭郷の中にも、寸股川の上流には細尾といふ僅か二戸の里があつた。「深山晝暗く人を食ふ獣ありて住めり。俗に之を山鼬と云ふ。細尾の住民此獣の爲に食ひ盡されて今は人家無し」と、遠江風土記傳卷十三にあるのは、食はれる處を見たやうな記事であるが、恐らくは同じチンコロに負せた冤罪であらう。近世の博物圖にも採録せられ、處々の見世物には勿論よく出る雷獣といふ動物は、拙者はこれと同じ物で無からうかと思つて居る。紀伊續風土記の産物部に、「木狗、クロンボウ、本草に俗に雷獣と云ふ。大抵形小狗の如く體細く尾長し。全身黒色にして咽の下より胸まで一道の赤黄色あり。齒爪堅利にして飛走甚だ疾し。天氣隱晦し又風雨の時は其勢益甚し。其糞香ありて麝香の如し。先年より高野山奧及び有田郡山保田庄山中にて捕ふること間々あり、日高牟婁兩郡の山中にも亦あるべし。土佐には他色のものありといへど未だ見當らず」とある。毛色はともあれ尾の長いといふのが氣になるが、クロンボウといふ名からかく想像する。クロンボウは又山人族の外稱の一つであつた。和漢三才圖會卷四十に「攫、音却、和名ヤマコ、按ずるに飛騨美濃の深山の中に物あり、猿の如くにして大きく黒色長毛なり。能く立ちて行き又よく人言を爲す。豫め人の意を察す。敢て害を爲さず。山人呼びて黒坊といふ。互に怖れざりしももし人ありて之を殺さんとすれば則ち黒坊先づ其意を知りて疾く遁げ去る故に之を捕ふること能はず」と記してあるのは、正しく山男の一つ話であつて、これからサトリといふ別名も起り、駿臺雜話だつたかにはこれに基づいた教訓譚まで出來てゐる。この黒坊と紀州のクロンボウと同じ物だといふのでは無いが、何れ一方の名は他の一方から轉用したもので、從つて雷獣も山神と關係(397)があるのではなからうかと思ふ。尤も飛州志には三才圖會に「飛騨の黒坊のこと見ゆれども古のことにや今は其沙汰無し」とある。噂話には訛傳が多いから、吟味をしたら證據不十分に歸せざるは稀であらうが、さりとて空から又書物からこんな話が起つたと斷定し得ない。狒々の話でも亦さうである。狒々が日本に居らぬときまつても、狒々と誤り名づけられた猿だか人だかは居たのかも知れぬ。名前などは何れ物識が後につけたものであれば、それに合はぬのは直ちに虚誕の證據ではない。

　

(398)　　　　　大人彌五郎

　

　彌五郎といふ巨人があつたといふ話は、曾て竹崎嘉通氏も報ぜられたことがある。その大要をいふと石見國邑智郡田所村大字鱒淵字臼谷に三丈ばかりの瀧があつて、その瀧壺を彌五郎淵といふ。昔巨人名を彌五郎といふ者、石臼を負うてこの地を過ぎ、誤つて瀧に落ちて死んだと傳へ、瀧の中程の岩に足跡の如き凹がある。臼谷は則ちその石臼の流れ止つた地である。彌五郎淵の水は鱒淵本村の高善寺淵と地下に通ずと稱せられ、巨人の屍は地底を流れてその高善寺淵に浮び出たといふ云々。これは例の大人足跡の數多い村話の一であつて、類型を諸國に求むれば限も無くあるが、自分の特に珍しいと感ずるのは石見でも大人の名を彌五郎といひ傳へて居たことである。

　三國名勝圖會などに依れば、ずつと懸離れた日向大隅あたりで、やはり大人彌五郎の樣々の昔話をば傳へて居る。例へば大隅囎唹郡市成村大字諏訪原の二子塚は、塚といふよりも小山といふが當つて居る。平野の中に駢立して一は高さ二十丈許り周り五町四十間許り、他の一は高さ十一丈周り二町三十間ほどで、相距ること一町内外、樹木無き芝生地である。昔大人彌五郎が草畚（簣《あじか》？）で土を運んで居た所、棒が折れてその土が飜《こぼ》れ、この二つの塚になつたので、片荷は土が半分殘つたために少し小さいのである云々。この話も至つて弘く行はれて居るもので、本誌にも既に幾つかの報告があつたが、これを關東各地方の「だいだ坊」山移し譚に比べて最も著しい相異は、海南二州の、大人に在つては更に重要なる後日譚の附隨して居ることで、大人が必ずしもその非凡なる強力のみを以て名を轟かしたので無いことは、これに由つて少しづゝ判つて來るのである。毛坊主考の餘論として今度はこの問題を片端述べて見よう。

(399)　彼地方のいひ傳へでは、大人彌五郎は終に殺されたといつて居る。大隅｜姶良《あひら》郡國分村大字野口の枝の宮といふ社は、彌五郎の四肢を斬つて埋め且つ祀つた故跡である。なほ鼻面川には彼の鼻を埋めたといひ東國分寺大字福島ではその弓を埋めたと稱してゐる。同じく國分村大字上小川には拍子川といふ川あり、その橋を拍子橋といふ。土人等は昔大人隼人といふ夜叉の如き者あつて、此處に於て皇軍に誅伐せられたといふ話を傳へて居る。大人隼人記といふ書物に曰く「大人彌五郎殿は上小川の拍子橋に於て日本武尊御討ちなされたり、共時舞躍して手拍子を取りしよりこの名あり云々」（　　以上三國名勝圖會）。

　大人彌五郎を隼人といふ武士見たいな名にしたのは、多分は八幡愚童訓などの八幡王子が隼人を誅戮せられたといふ記事に合せたものであらう。同書下には次の如く記して居る。「隼人打負テ頸ヲ被v切、故ニ惡縁トナリ依v致2其難1、御幸ノ前ニハ二百人騎兵奉v隨、隼人打取給御鉾ヲ號シテ名2隼風鉾1、實長八尺廣六寸也云々」。即ち御大將は日本武尊では無いが、御孫の應神天皇と同じきが如くに傳へらるゝ王子神であつたといふので、つまりはこの口碑の大隅正八幡宮即ち今の鹿兒島神宮の祭と因あるものなることを示して居る。現今この地方の神社で大人彌五郎の故事を傳へて居るものは何れも八幡である。その一は日向北諸縣郡山ノ口村大字富吉字的野の圓野《まどの》神社、古くは的野正八幡宮と申せし社の十月二十五日の例祭に、濱殿下りといふ儀式があつて、朱面を被り刀大小を佩いた一丈餘の偶人を作りこれを大人彌五郎と稱し、四つ輪の車に載せ十二三歳の童子數多これを押して行く。隼人征討の故事に依るものといふとある。大隅囎唹郡末吉村字中島の八幡宮十月五日の祭にも、同じく濱下りの式あつて大人の形を作り神輿の先拂ひとする。長一丈六尺、梅染の單衣をき大小を帶び四輪車の上に立つ、これを大人彌五郎といふとある。明治神社誌料には同郡岩川村大字中ノ内の八幡神社の條に地理纂考を引いて、殆とこれと同じ事を述べてゐるが、二社別々であるか否かを確め得ぬ。但し此方は祭日が十月十五日である。又大人彌五郎は武内宿禰のことだとの説もあるといふ。

　大人彌五郎と稱する人形の祭は、前に些しく述べ置いた奧州津輕その他の所謂｜侫武太《ねぶた》流しと如何にもよく似てゐる。(400)舊日本兩極端の地ではあるがこれは偶合であるまいと思ふ。ネブタは何れの地方でも七月中元の頃の行事で彌五郎は十月下元の前後に行はれた。然るに季節に於てもちやうど二者の中間に、地理上からいつても大隅と陸奧との中程なる、越前大野郡のある村に於て亦同種類の儀式が行はれた。大野郡誌に依ると、同郡下味見村大字西河原では正月十五日の左義長に、大なる藁人形を作つて兩手に日の丸の扇を持たせ、左義長の火の車へ入れて共に燒く。これをヤンゴロと名づけた。昔彌五郎といふ惡者あつて全村を燒いたのを火刑に處した。その記念といふことである。こゝには大太坊のやうな傳説は伴はぬかも知らぬが、惡者の人形に日の丸の扇を持たせるは、兇暴に由つて誅罰せられた大人に梅染の單衣を着せ大小を差させるといふのと同程度の不思議で、つまりは二者に共通なる彌五郎といふ名稱の陰に、何か隱れたる仔細があるらしいのである。關東でも野州氏家と喜連川との中間舊奧州街道最初の峠の名を十貫彌五郎坂といふ。坂道半分上つて右手の山に彌五郎の墳があつた（武奧行程記）。この彌五郎などは、如何なる經歴の彌五郎か。往來からは見えぬが石碑も立つて居たさうだ。御承知の人があらば教示を乞ひたいものである。

　話がこれまで進んで來ると、どうしても一寸批評を試みねばならぬのは愛知縣の縣社津島神社の境内社に、彌五郎殿の社と祀らるゝ神の由來である。後世社家の傳ふる所では祭神を彌種繼《いやたねつぐ》命といひ、或は又彌五郎をそのまゝイヤイツヒコなどとも稱へて居たが、鹽尻の著者の説に依れば、この地方の名族堀田氏の舊記に、その祖先彌五郎正泰なる者、正平元年戊の年の七月十三日に、家の高祖武内宿禰を祀つたのが最初で、これに由つて社名を彌五郎殿と呼ぶのださうである。併し社の名は常に祭神の名に從うのが延喜式以來の舊例で、殊に信者若くは勸請者の名を呼ぶが如きは、なんぼ中古からの事にしても穩當で無い。この社の創立の隨分古いことは、遷宮牒の殘缺が傳はつて居て、應永十三年十月以後度々の遷宮が記録せられて居るので疑を挿むことが出來ぬが、而もその堀田家の舊記といふものが果してどの位舊いのか。今少し具體的にいへば、僞本の評ある浪合記などの出てから後のものか否か、果してこれに基づいて編述したもので無いかどうか、今となつてはこれを明らかにする途が殆と無いのである。尾州から出て大名に(401)なつた堀田家が紀氏を稱し武内宿禰を祖先として居たことは人の知る所で、彌五郎殿を武内宿禰といふことは大隅にもあるが、何よりも奇異に感ぜられるのは八幡でも無い津島天王の末社に、紀氏の祖神が祀られて居たことである。

　浪合記はもと美濃高須の�ｺ川家に在つた書で、それが世に現れたのは寶永六年の七月、その發見者はやはり鹽尻の著者天野翁である。南朝の王子良王君難を避けて尾張に隱れ、堀田大橋等の土豪の援助を得て、終に津島社の神職となられたことを述べたもの、記事中に見える年號は文正元年を以て最後とするが、王子の叔父に當るといふ世良田萬�ｺ丸政親が遊行上人に命を救はれ、三河の松平に住して次第に家榮えたことを力説して居るのを見ると、少なくとも�ｺ川氏の天下になつて後始めて筆録したものと察せらるゝ。しかして津島の彌五郎殿社の根源はこの書中にそつくり出て居るので、彌五郎殿社本の名は佐太彦宮、堀田彌五郎夢想に由つてこれを崇祀し、時人願主の名によりて彌五郎といふ。祭神は武内大臣と平定經、定經は地主の神也とある。この定經は鹽尻に大橋太郎貞經ともあつて、大橋一族の先祖らしいが、この家は源平亂後に尾張へ移住したもので、その樣な新分家の初代を武内大臣と相殿に祀つたといふのも、又これを地主神といふのも共に受けられぬ話である。浪合記の中にはまだ幾組かの矛盾撞着が潜んで居るらしいが一々取立てゝいふにも及ばぬ。假に全然の虚構で無いにしても、茫漠たる口碑の斷片を遙か後年に綴り合せ、つい一通りの鍔目を合せて置いたに過ぎぬらしく、善意に解した所で應永以來既に存して居た津島の彌五郎社が、この社に仕へて居た社家中の有力者堀田大橋の遠祖と關係があることを知る迄である。唯我々として注意すべきはこの社の創立を七月十三日とすることゝ、その一名を佐太彦宮と呼んだ點である。大人は或地方では猿田彦のことだとも傳へて居る。伊勢の多度神社はこの神を祭ると稱し、その末社中に三つの何々大人社がある。大人の足跡を地方に由つては大の足跡といひ、又神事の行列に出る鼻高の面を「王の鼻」といふ例は多い。因幡などでは大人の足跡を猿田彦の神跡と解する者もあつたことが因幡誌に見えて居る。而して津島の彌五郎社の如きも、地主神とあるのが正しいとすればこれを國神《くにつかみ》たる左太彦の名に繋くるも差支が無いかも知れぬ。

(402)　鹽尻の天野翁の如きは右の浪合記と内容を同じくする堀田家譜の記事を信じ切つて居られた故に、他の處々の天王社の末社に彌五郎社の多いのは甚だ謂れの無いことだと論ぜられたが、津島の彌五郎殿にして實際社人又は有力な氏子の祖先であつたとすれば、その事實が永く隱されて居る筈も無く、これを知りつゝその樣な特殊の末社までを勸請する筈も無い。殊に地主神に至つては何れの地にもそれ／”＼既に存するが故に、それを本社から移して來る者はあるまいと思ふ。然るにも拘らず彌五郎を末社とする社が往々あつたといふのは、何か別途の仔細があつたものと考へて見るべきであつた。今日でも名古屋の廣井天王（州崎神社）の境内に一の彌五郎社あり、祭神を武内宿禰と稱して居る。元和以前に建立せられた古社である（名古屋市史社寺篇）。美濃可兒郡上之郷村大字中切の牛頭天王も古い社であるが攝社の彌五郎殿社には永禄六年の棟札を傳へて居る。この天王もとは寶泉寺といふ山伏寺の鎭守神で明治の初めまでやはり眞言派の法印がこれに仕へて居た（明治神社誌料）。この社でも津島の天王と同じく祭禮には車樂《だんじり》を牽出すのが例であるが、その期日は舊暦七月十四日で、彼は十一艘の飾り船を出すのに反して、こゝは二輛の眞の車樂を牽くことになつて居る。土地のいひ傳へでは近郷の送木《おくりぎ》といふ里に昔時送木御所といふ人があつて神鉾を獻納したといひ、今でもその村の者が來て鉾だけは装《かざ》る例になつて居るといふのは、何か尾張の方の傳承と異つた由緒が存して居たものと思はれる。

　津島の車樂祭は海道第一の評ある花やかな祭であつた。その期日は各地の祇園と同樣に六月の十四日で、十一艘の船を飾り立てゝ神輿に供奉するのは所謂濱下りの一形式であらうが、これをしも「だんじり」といふのは珍しいことと考へられて居た。他に確とした舊記も無いから不本意ながら又浪合記を引くが、浪合記にはこの儀式の起つたのは永享中の事で、所謂四家七名字の祖先の者共天王の神託を拜し、良王君に讐を爲す佐屋の臺尻大隅守がこの日祭を見に押渡るを待受け、十艘の飾り船を以てその船を取卷き、悉く大隅が一類を討取つた。それよりしてこの日の祭には右の光景を象つて十一艘の船を出すことになり、後世に至る迄だんじり討と囃すべしとの良王の命に從ひ、毎年この(403)囃子變ること無しとある。この話の眞僞如何は必ずしも佐屋に臺尻氏なる者が住んで居たか否かを詮議する迄も無く、八幡の祭に大昔王子のために誅戮せられたといふ大人彌五郎の人形を車に乘せて曳いた例、或は越前西河原の兇賊彌五郎の記念祭なるものを考へ合せて見れば、測り知ることがあまり六つかしく無い。「だんじり」が津島の天王だけのものならば或はかういふ話も永く用ゐられ得るか知らぬが、縁もゆかりも無い中部諸國の神祭に、この物を牽き出して神事を送る例は多いので、「だんじり」といふ語の意義こそは不明であるが、鉦鼓歌舞の花々しい歡樂の背後に、今人の感覺にはやゝ強烈に失する殺伐なる昔語を潜ましめて居たことが、髣髴として窺ひ知られるといふに過ぎぬことである。若狹高濱町の縣社佐伎治神社などでも、以前は六月上酉日の大祭に太刀振といふ式あり、氏子等刀を拔いて撃合ひをして後、やはり「だいじりうつた」と口々に?《ののし》つたといふ。この社の祭神は素盞嗚尊外二神で祇園祭には相違ないが、祭の式は津島天王と異つて居るのに、伴信友翁の如き學者までがこの社の式内の神なることを主張しつゝも、しかもその「だいじりうつた」を尾張から模倣したものゝやうに説かれるのは、理窟に合はぬことである。

　自分の見る所では、尾張の臺尻大隅守は取りも直さず越前又は日向大隅の彌五郎である。從つて今日社家の傳ふる所に合致すると否とを問はず、津島末社の彌五郎殿は必ず車樂祭の最初の目的と關係する所が無くてはならぬ。而して彌五郎が果して實在の人物であつたか否かに答ふる前に、是非とも一考して見ねばならぬのは牛頭天王と御靈會との關係である。京都では所謂八所の御靈の如き、近世に至つて既に儼然たる獨立の社となつたが、山城朝廷の初期に御靈の祭を行はしめられた頃には、時に臨んで祭場を設備し、これを古來の神々の如く常在の社地とは認められなかつたのである。御靈會が年々時を定めて繰返さるゝことになつて後、乃ち祇園今宮等の社は起つたのである。これ等の臨時の社が彼時代の神道に同化した道筋は非常に簡單であつた。僅々百年餘の間に早くも主なる宮社の中に地位を占めて、寧ろ次第にその當時の諸大社を御靈化したといつてもよい。而も御靈に對する世人の畏怖は増しても減ずることが無かつた故に、古い御靈が高い地位に昇ると共に第二第三の御靈が祭られ、終に前述の如き兇賊退治の昔話を(404)發生するに至つたのである。御靈は日本の語でいへば「みたま」である。太古以來の國魂郡魂も同じことで、本意は現人神即ち實在した人の靈を祀るといふに過ぎなかつたが、平安朝初期の御靈は特に冤枉を以て死んだ人々をのみ祭るやうな信仰に變化した。武家全盛の時代を經過して、名だたる多くの荒武者が神となつたのも、つまりはこの威力の怖しさを體現した結果であつて、何でも強い人が死んでなる神といふ所から、御靈の社とさへいへば多くは何の五郎といふ人を祀ると傳へられた。美濃で落合五郎、信濃で仁科五郎、會津で加納五郎、下總で千葉五郎、相州で曾我五郎の類、勿論そんな武士はあつたにしても、神と稱へたのは御靈の音に近かつたためである。就中鎌倉では御靈の宮を鎌倉權五郎といふこと、最も弘く信ぜられた説である。もと梶原村に在つて彼が後裔鎌倉權八郎某なる者これに奉仕したともいふが、要するに最初は鶴岡の八幡に從屬して居たものに違ない。八幡はそれ自身が祇園と共に最古の御靈祭場から發達した神である。それ故に九州などでは八幡社の末社に御靈が多く、又意外な西國の田舍に權五郎景政が建立したなどといふ八幡が多くある。何れもこの神が今のやうに盛んになつた當初の動機を暗々裡に語るもので、權五郎の權も彌五郎の彌もどういふはずみに附着したかは知らぬが、御靈即ち人間の亡靈の是非とも慰撫し且つ送却せられねばならぬことを固く信じて居た人々の、やさしい心持を今日に遺して居るものに他ならぬ。而してその彌五郎の御靈といふ思想中に、國魂即ち先住民の代表者ともいふべき大人に對する追懷若しくは同情を包含して居た例がありとすれば、愈々以て我邦民間に於るこの種信仰の由來古いものなることが察せられるのである。

　

　（附記）

　信濃時事の記者中原君の話に、三河八名郡富岡の附近で、ヤハタヤゴロウ（八幡彌五郎）といふ神の名を耳にしたことがある。但し軍隊に居た頃の忙しい行軍中のことで詳しい話は知らぬといふ。この件誰か御承知の人は御報告を乞ふ。

　

(405)　　　　　ぢんだら沼記事

　

　相模野のまん中、今の横濱線淵野邊の驛から東南へ小一里のところに大沼小沼といふ二つの沼がある。これが以前「郷土研究」へ報告せられたぢんだらの沼であることは、他にはもう沼らしいものが無いのだから推定してよからう。あの奇拔な人を樂しましめる傳統が果して現在どういふ形で行はれて居るかを試すべくこの十一月未の晴れた或日落葉を踏んで訪ねて行つて見た。昭和五年に出た二萬五千分一圖に比べると地形はもう大分變つて居て、附近には開いたばかりの畑が多い。場處は正確にいへば神奈川縣高座郡大野村で大字鵜野森に屬する東の方の小沼は僅かな水溜りと堀とを殘してあら方一毛作の水田になつて居る。一方それから西に竝んで居る大沼の方はことごとく蘆原となつて居て、舟も無く小高いところも無いから、中央に水面があるのやら無いのやらも確かめることが出來ない。たゞその西北岸の大沼神社と、それから南北に連なる大沼新田の民居とによつて以前の沼の位置を誤らないだけである。

　大沼新田の廣い通りの四つ角には、寛延の年號を刻した石地藏がある。もうその頃から表向きの名が大沼であつたことは疑ひが無い。しかし此方は面積が八町歩ばかり今一つの方も大よそ同じ廣さで、これを小沼といふことは少しく當つて居ない。單に同じ位な沼が二つ竝んで居て、一方が早く開けて大沼と呼ばれることになると、勢ひ第二のものは口拍子でも、小沼とならなければならなかつたのであらう。地圖の上だけでは想像もつかぬことは、この所謂大沼の北に連なつて街道と併行した細長い窪地があつて、現在はこれが最も沼らしく青々とした水を湛へ、周圍の畠地の縁へ水苔などを多く漂着させて居る。その岸に住む農夫に尋ねて見ると、今は水窪と呼んで居るさうだが、これが(406)多分ぢんだら沼に對する、ふんどし窪なるものゝことであらう。

　周圍の地形を見てもよくわかるが、大沼、小沼は二つとも元はほゞまん丸な恰好をして居た。それが或時期の一部の人の間にもせよ、とにかくぢんだらといふ名稱が行はれた原因かと思ふと、獨りで眺めて居ても思はず笑ひたくなる。

　關西の諸君には或はわかるまいが、ヂンダラはこちらの方言で尻餅を搗くことである。それも後へ倒れてたゞ一度だけつくので無く、兩足を前へ投げ出してはた／＼させ、そのために尻のふくらみを土に印することで、即ち亦ヂダンダといふ語とも縁を引くかと思はれる。漢語で頓足といふのがこれに當るであらう。口惜しくてたまらぬがどうすることも出來ぬといふ場合に、昔はあぐらで居たからこれをよくしたのだが今日はもう幼な兒にもこんな擧動は見られなくなり、そのために又ダダヲコネルといふ複合動詞が一段と意味不明になつて居る。關西の方では尻餅と地團太とは、全然縁の無いやうに考へられて居るであらうが、たつた一ぺんだけ尻を土につけることを餅を搗くといふのも實はをかしく、立つて居て足ばかり上下させるといふことも誰にでも可能な藝當では無い。こんな小さな常人の習癖でも世と共にいつかは變遷し、言葉は案外に長く傳はるのである。爪彈きとか後指をさゝれるとかいふことも今日は既に一種の修辭であつて滅多に我々はさういふ擧勤をする者を見かけなくなつて居るのである。

　近頃の方言集の中には東國のヂンダラを地團太と譯して居るものも折々はあるやうだが、それをどういふことをするのかと問ひ返して見ると、恐らくは答はもう區々であらうと思ふ。

　ところが相模野のぢんだら沼では現にその痕が沼の形で殘つて居るのだから明らかに古い方の尻餅であつたことが知れる。大昔大太良坊といふ滅法界に巨きな人があつてこゝへ來てヂンダラを踏んだので尻の跡が窪み、この八町歩餘の二つの沼が出來たといひ又その折に前に垂れて居たものを、引摺つた跡がふんどし窪になつたともいふのである。私は大沼新田の村人たちが今でもこのいひ傳へを保存して居るか否かを知りたくて色々の形で話を引出さうとして見(407)たが、もうこの名を口にする者に出逢はなかつた。元はヂンダラ沼といつたさうぢやないかとも水を向けて見たが、ちやうどこのふんどし窪の北側に一軒はなれて住んで居る農家の主は何だか變つた表情をして知らぬと答へた。ヂンダラといふのはこの邊では尻を突く事だがといつたのを見ると全くさういふ話は聽いて居らぬ樣子である。傳説はこれを信ずる者が少なくなつて寧ろ止めども無く展開するものだが、それも大きな背景があつての上のことで元が弱つてしまへばこれだけでは獨りあるきが出來ないものと見える。ともかくも曾て相模野の荒々しい火山灰農業に僅な潤ひを與へて居た笑の傳承の一つは、もう消え去らうとして居るのである。

　どうして又その大太良坊といふ人はこゝへ來てぢんだらを踏んだかといふとそれは「郷土研究」の報告者は聽いて居なかつたやうだが、別に高田與清の松屋筆記の中に、この大沼の事を書いたものがある。大だら坊は富士山を背負つて行かうとして、その綱にする蔓を捜したが無かつた。それで腹を立てゝ去つたから、今でもこの附近には葛ふぢの類が生えぬのだといひ傳へると記して居る。これも關西地方の巨人傳説ではいはぬことだが、こちらでは處々にこれと似た話がある。實際に土性その他の原因からこの植物の妙に少ない野山があつて、それをかういふ風に戯れて説明することが、以前は流行して居たらしいのである。富士山をかついで行かうとしたなども、勿論この御山の見えぬ地方では考へ出せさうも無い話であるが全國を通じて今も知られて居る巨人のいひ傳へは、綱が切れたとか、擔ひ棒が折れたとか、何か最後の一點で思ひ通りにならず殘念がつたまゝで行つてしまつたといふことになつて居るのが普通である。眞面目に理由を考へて見てもよい問題だが自分の想像ではこれは第二次的にこの國土を支配した神々の、更に立ち優れて有力であつたことを説くためで、即ち又現在の多くの舊社に巨人を統御なされたといふ物語があり、もしくはわざをぎの行はれたのと、同じ信仰の表裏とも考へられ、六つかしい語でいへば國津神思想、或は地祇信仰の殘留とも解せられるのである。

　磯戸内海から西の方のオホヒトは、名は巨人であつても形がずつと小さく力は萬人に匹敵するやうにいつて居ても、(408)足跡は尋常のものからさう圖拔けては大きくないらしい。それで時としては武藏坊辨慶の逸話にも托せられ、さうで無くてもよほど人間味が多く加はつて居り、同じ誇張でも、關東で見るやうな笑ひ話の種にはなりにくい。これも自分の解釋は神敵觀との融合があつて、神の勝利の花々しい光景を胸にゑがくためには、あんまり大きくては始末が惡かつたからでは無いかと思ふ。しかし播磨風土記の多可郡の條には、天につかへて屈んであるいたといふ人の記事もあり、九州でも筑後の矢部川の奧には、谷を蹴開いたといふ巨靈の話が傳はつて居る。さういふ昔語りも學者の手にかゝると何とかかんとか古史の記録を調和させようとし、又は時代の常識で合理化させなければ承知しないが、文字の無い人々が舊い事を傳へようとした動機には、それとは又格別なものがあつたらしいのである。第一には親々の固く信じたといふことに同情して、それをいつ迄も覺えで置かうといふ心持ち、第二には「昔」といふ時の中にはどれだけ多くの神秘奇瑞があつたか知れぬといふ一種の憬慕、更に又現在生活の不如意と不安とを、しば／＼かういふ思ひ出によつて忘れようとした、素朴な藝術欲などと、これから進んで我々が明らかにしなければならぬものが、まだ幾らでもあるのである。

　學問が段々と民間に普及するにつれてかういふ省みられなかつたものが省みられることは、自然であり又我々の努力を要せぬかも知れぬが、讃岐は舊國であり且つよく開けた地方であるが故に、大切な資料も利用者のまだ出て來ぬうちに、消えたり改まつたりしてしまふ懸念が多い。行く／＼この會に熱意ある會員の數を増して、互ひに他の人のまだ心付かぬ文化現象に手分けをして觀察の歩を進め、末には巨人の尻餅や地團太といふやうな埋没した古い信仰の痕跡までが、一目に見渡されるやうにしてもらひたいものである。學問は興味から、もしくは好奇心から入つたものが最も根強い。さういふ考へに基づいて、私はこの頓狂な一つの話題を提供する。

　

(409)　　附　　大太法師傳説四種

　（一）　昔デエラボッチといふ非常に大きな人がゐた。或時富士山を背負はうとして、相模原の原中をふぢ〔二字傍点〕蔓を見つけて歩いたが、どうしても山を背負ふだけのふぢ〔二字傍点〕蔓が見付からない。それを殘念がつてヂンダラ〔四字傍点〕蹈んだその跡が、今原の中ほどに在る鹿沼《かぬま》と菖蒲沼とである。

　　　○ヂンダラとは「地圖太」といふのと同じで、臀を地に下し手足を振動かし、體を搖りつゝ口惜しき表情をなすこと。

　　　○菖蒲沼の西の端を横濱線の鐵路が通つて居る。鹿沼に水の湛へてゐる時は、淵野邊の停車場で汽車の窓から見る。二つの沼の距離は三四町位。

　（二）　相模原の中ほどに幅一町ばかり南北に長く凹んでゐる褌窪といふ凹地がある。デエラボッチが褌をひきずつた跡ださうな。

　（三）　南多摩郡由井村字｜小比企《こびき》から南、同村｜宇津貫《うつぬき》へ越える所に、俗に池の窪と稱する凹地がある。東西に長くて（長さ十五六間幅十間位）、ちよつと足跡といへばさうも見られる形をしてをる。昔デエラボッチが富士の山を背負はうとして一跨ぎ蹈張つた。一足が駿河の國に、他の一足が此處に印せられたのだと言ひ傳へてをる。

　　　○池の窪はふだんは乾いてをるが、五月雨頃などには水を湛へて湖水のやうになる。

　（四）　同郡川口村山入小字｜繩切《なぎれ》に、附近の山から一つ飛離れた小山がある。これは昔デエラボッチが何處からか背負つて來たのであるが、此處まで來ると繩が切れて落ちた。デエラボッチは繩を繋がうと思つてふぢ蔓を捜したが見つからなかつたので口惜しがつて「この山へふぢ〔二字傍点〕は生えるな」といつたから、今以て葛《ふぢ》が生えない。背負つて來た山(410)は此處に殘つて繩切といふ字の名がその由來を語つてをる。

　　　○同郡由木村にも一つ巨人に關する傳説がある。但しデエラボッチとはいはず。（中村成文）

　

　（附記）

　この問題に關しては「一目小僧その他」の中の「ダイダラ坊の足跡」をおよみ下さると參考になると思ふ。

　

(411)　　　　　一つ目小僧

　

　舌切雀の重い葛籠の中へ、やたらに詰込まれたやうな有合せのおばけにも、尋ねて見れば由緒もあり系圖もあるといふのは、斯道に心を寄せる我々に取つて誠に張合のあることである。深夜に少年の笠を目深かに被つて酒買ひに行くのを、すれ違ひさまによく見ると顔の眞中に圓い眼が一つあつたといふ話など、今は五歳の幼童も承認せぬやうな事件であるが、或時代にはこれを固く信じた人々も多かつたと見える。拙者などはこれは狸が化けるので、狸は飄逸にして而も智謀周密で無かつたゝめに、かゝる類の妖怪を現ずるのだといふやうに聞いて居たと記憶する。然るに拙者よりは年下の住廣造氏の言に依るに、飛州高山などでは雪入道と稱して目が一つ足が一本の大入道の話が、同氏子供の頃にも語り傳へられて居たといふ。雪の降る夜の明け方に出るものといふことである。高瀬敏彦氏の報ぜられた紀州伊都郡のユキンボも雪夜に飛びあるくとあるが、一本脚とのみあつて目の沙汰は何とも無い。且つ小兒のやうな形といふ。前に出した熊野山中の「一本ダタラ」（郷土研究四卷）も同樣に、雪の朝樹木の下などに出來る圓形の窪みを以てその足跡といふ由で世にいふ雪女又は雪の精の如く、雪降るに由つて始めて現れる者とも考へられて居たので無く、雪は寧ろ足跡の話について居るのであらう。越中の舊事を録した肯構泉達録卷十五に、婦負郡蘇夫嶽の山靈は一眼隻脚の妖怪にして、曾て炭を燒く者二人これに殺され、少し水ある蘆茅に投げ棄てゝあり、又麓の桂原と謂ふ里の者夫妻薪を採りに登りて殺さる。腦を吸ふと見え頂に大なる穴が明いて居た。山海經にいふ所の獨脚鬼ならんか云々とある。石川日觀石川泰惠二人の話を集めた故に觀惠交話と題してある一書にも、何れの地方のことかまだ知らぬが(412)次のやうな一條がある。曰く「左衛門佐殿領分の山にセコ子といふ者あり。三四尺程にて眼は面の眞中に只一つあり。その外は皆人と同じ。身に毛も無く何も着ず。二三十づゝ程連立ちありく。人これに逢へども害を爲さず。大工の墨壺をことの外欲しがれども遣れば惡しとて遣らずと杣ども語りけり。言葉は聞えず、聲はヒウ／＼と高く響く由なり」と。害はせずとあるが一つ目小僧が隊を爲して横行したら相應に怖しいであらう。又日東本草圖彙といふ書には挿圖まで添へてこんな話を掲げて居る。上州の草津温泉は毎年十月八日になると小屋を片づけて里へ下る習であつた。或年仕舞ひおくれ二三人跡に殘つた者、夜中酒を求めに里へ下るとて温泉の傍を通ると、湯瀧の瀧壺の中に白髪銀の如き老女が居て、どこへ行くか己も行かうといふのをよく見ると顔の正中に一つしか眼が無く、その眼が的然と照り輝やいて居たので、小屋へ飛んで歸つて氣絶した云々。佛經などの中には捜せばこの類の鬼も居るかも知らぬが、人間竝に男女あり老幼あり、上野にも越中にも飛騨にも近江にも土佐にも、見た聞いたといふ話がかう多いのには、何か又然るべき仔細が無ければならぬ。一本足で飛びあるくといふに至つては何分にも手がつけられぬが、これも平瀬氏報告の如く單に山の神はちんばといふだけになれば（郷土研究四卷一一號）有り得べき想像になる。所謂顔の眞中に眼が一つもこれと同樣の誇張で、本來は山の神が眇者《すがめ》であるといふたのを、今も用ゐる語法で「目が一つ」と言ひ傳へたとすれば、則ち亦神の片目の一例に他ならぬ。磐城平地方で山神樣はかんかち〔四字傍点〕だから十月にも出雲へは行かれぬといふ由高木氏の報ぜられたのは、恰もその證據であらうと考へる。この序でにいふが、神が目を傷つけられたといふ昔話は、片目魚考に引かれた外にも、伯耆伊豆新島等本誌に多くの報告が見えて居る。又片目の魚の話の中でも殊に好參考となるのは、遠州横須賀邊で天狗が夜炬火を持つて泥鰌を漁しその目を拔いて行くので、この邊の泥鰌に片目が多いといふ一條である。本年一月十八日の東京日々新聞に、琉球ではハブ（蛇）を捕へてその左の目を抉つて呑むと精力を増すといふ俗信があつて今もこれをやるのを聞いて、東京の某富豪も近頃ハブの左眼を本場の琉球から取寄せて密かに用ゐて居るとある。これも何かの關係があるらしく思はれる。

　

(413)　　　　　一眼一足の怪

　

　紀伊國續風土記卷八十、牟婁郡色川郷樫原の條に、昔｜一蹈鞴《ひとつたゝら》と稱する妖賊ありて、熊野の神寶を奪ひ雲取の旅人を掠む。狩場刑部左衛門なる者三山衆徒の頼みに應じこれを退治しその功を以て三千町ある寺山を色川郷十八村の立合山にしてもらひ、死して後はこの地に王子權現と祀られたとある。南方先生は曰く、右のヒトツダヽラは只の泥坊ではあるまい。熊野の山中には今でも「一本ダヽラ」といふ怪物住むといふ。その形は見たものが無いが、幅一尺ばかりの大足跡を一足づゝ雪の上に印して行つた跡を見るといふ。このダヽラは多分かのダイダラ法師のダイダラと同じく大人を意味する語で、漢字に書けば大太郎で、即ち元は大男の異名であつたらう云々。何太郎を何ダラといふ例は三太郎法師をサンダラボッチ、沖繩の芝居にも京太郎と書いてキョーダラといふのがある。又大力の男を大太郎といふのは、宇治拾遺には盗賊の頭の大太郎、盛衰記には日向媼嶽の神の子に大太童などがある。又一足の怪といふことは熊野ばかりの話では無い。安藝の宮島でも雪の晨に廻廓の屋根舞臺の上などに、常人の足を三つ四つも合せた程の大足跡が、一丈ばかり隔てゝ雪の上に印して居ることがあるといひ（藝藩通志十七）、土佐でも高岡郡大野見郷島ノ川の山中で、文政の頃官命を以て香箪《かうたけ》を養殖して居る頃、雪中に大なる足跡の一二間を隔てゝ左足ばかり續いて居るのを見た者がある。或は右足ばかりの跡もある。これは「一つ足」と稱して常にある者である。香美郡にも有るといふ話である（土佐海續編）。宮島の方は左右の足で大股に歩いたのかも知れず、土佐の「一つ足」も只片足で飛んだのかも知れぬが、土佐にはずつと前から隻脚にして更に片目なる怪物が山奧に居ると傳へられ、しかもそれは山男のことだ(414)との説もある。高知藩御山方の役人春木次郎八繁則といふ者、寶暦元年四十歳で土佐郡本川郷の山村に在役中見聞を筆記した書物に「山鬼といふものあり、年七十ばかりの老人の如し。人に以たり、眼一つ足一つ、蓑のやうなる物を着す。本川の人『山ヂイ』と謂ふ。俗にいふ『山チヽ』なるべし。變化の物に非ず、獣の類なる由、されど常に人に見ゆること無し。大雪の時足の跡あり、人往來の道を通る。六七尺に一足づゝ足跡あり、丸き物なり、徑四寸ばかり、例へば杵にて押したるやうに足跡あり、飛び／＼して行くよし、足跡は見けれども其姿を見ず、越裏門《ゑりもん》村の忠右衛門といふ者の母は行逢ひたる由、晝のことなり、人の如くたこりて〔四字傍点〕來ると也。忠右衛門母は行ちがひけれども、見返りたれば行方無しといふ。あまり膽を潰し家へ立歸り、行く所へ行かずやめたり、何事もなし。昨日のことゝ語りしまゝに書付け置く也」とあり、又その次には「山鬼と蛇と百足と道行くことを爭ひたるといふ書あり、其書の名を忘れたり、サンキはけだもの也」ともある（寺川郷談）。この話は多分足の一本の者と無い者と百ある者との爭であらう。されば山城八瀬村の元祖の如くいふ山鬼などと別で、この邊では山鬼は足一本ときまつて居たのである。これよりは時代は大分後かと思はれる土佐の怪談集の中に又こんな説もある。「或人云、此一眼の者は土佐の山中には見る者多し、其名を山爺といふ。形人に以て長《たけ》三四尺、惣身に鼠色の短毛あり、一眼は甚大にして光あり、一眼甚小さし。ちよつと見れば一眼と見ゆるなり。人多くこれを知らず、一眼一足と云ふ。齒甚強き物にして、猪猿などの首を人が大根類を喰ふ如くたべ候由。狼この物を甚恐れ候故、獵師この山爺を懷け獣の骨などを與へ、小屋に掛けたる獣の皮を狼の夜分に盗取るを防がする由、土州の人の話なり」（南路志續編稿草廿三）。本川郷の山爺には身長の記事が無いが、六七尺に一足跡とあるからは三四尺の小男とは到底思はれぬが、それにしても杵で押したやうな丸い跡とあるなど熊野の話とも打合はず、しかも見たことは無いといふ本物の話ばかりが一致するのも妙である。又雪の中の足跡などに右とか左とかゞさう明瞭に分るわけは無いから、結局山中の怪物が片足だといふことは、別に何かかく想像すべき理由があつたのではあるまいか。片目といふ方は愈々以て空な話のやうに思はれる。併しこれをいふのは土佐ばかりでは無(415)かつた。阿州奇事雜話卷二の山父山姥の話は、半分以上笈埃隨筆や西遊記などの受賣と見受けるが、しかもその末に録した同國三好郡の深山で山父が小屋へ來て、例の如く人の心を讀んだといふ話の中に、その山父が一眼であつたことを述べて居る。落穗餘談卷五には又次のやうな話もある。「豐後の或山村の庄屋山中に獵する時、山上二三尺のくぼたまりたる池の端に、七八歳の小兒惣身赤くして一眼なる者五六人居て、庄屋を見て龍の髭の中に隱る。之を狙ひ撃つに當らず、家に歸れば妻に物憑きて狂死す。我は雷神なり、たま／＼遊びに出たるに何として打ちけるぞといひけり。之を本人より聞きたる者話すと云へり」山?一足にして反踵とは支那の書物にもあるさうだが、これ等山に居る大小いろ／＼の一つ目が、何故に一つ目と傳へられて居るかについては、なほ研究せねばならぬと思ふ。

　

(416)　　　　　片足神

　

　土佐山中に住む怪物で山ヂイとも山鬼ともいふもの一本足であるといふ俗信（郷土研究四卷四七七頁）と思ひ合さるゝは、南路志の同國安藝郡室戸村大字元字船戸の條に、「片足神、社は巖窟也、此神片足なりとて半金剛《はんこんがう》の片足を寄進すること古來の風なり」とあることである。土佐では岩穴の中に神を祀る例同書に多く見えて居り、必ずしも山の神とは定まつて居らぬ。草履の類を捧げ物にする神は諸國に幾らもあり、その一二は常に片足のみ供へて居るが、未だ神一足といふ説明は聞かぬ。秩父の横瀬川入の孤屋《ひとつや》で自分が目撃した正月に竈神に上げるといふ馬の沓なども、大きいのを只片方だけであつた。書物の名は忘れたが江戸の人の紀行に、甲州の郡内某村に於て一足鬼形の石體を祭る社ありといひ、?《き》といふ神かと記してあつた（徂徠であつたかも知れぬ）。山中先生の「甲斐の落葉」に依れば、その地では今は既にそれを?といふ神にして了つて居るさうである。しかも實物を見ると只の狛犬の片足｜毀《と》れたのであるとて圖迄出して笑つて居られた。併しこれを耳に疎い支那の神にしたのは法外としても、或は土佐の例の如く片足として尊崇する信仰がこの邊の民間に有つたのかも知れぬ。今一段問たゞしてみねばならぬ事である。

　

(417)　　　　　天狗の話

　

　　　　　　　　　　一

　

　私が天狗を研究して居るといふのは無論虚名である。只昔の人の生活を知るために、いろ／＼の方面から考へて居る間に、自然少しくそんな點にも心ついたのである。從つて天狗に關し何等の結論をも持つて居らぬ。今の人は何でも普通の論理で物を討究しようとするが、おばけにロジックは無いから、不理窟でも現れる。それを嬉しがる私が分らぬのか、當世人が話せないのか、何だか知らぬが、こんな話もあるといふことで聽いて貰ひませう。

　我國には一時非常に奇怪な物語を喜び、利口な人が集つては所謂空虚を談ずるといふ、一種デカダン氣風の盛んな時代が有つた。この時代を我々は假に今昔時代といふ。天狗傳説に羽が生えて天下を飛び廻つたのはこの時代のことである。今昔時代には只の鬼と天狗とは別種の魔物と考へられて居つて、各々偉大なる勢力を振つて居つた。その後鬼黨は次第に零落して、平凡なる幽靈亡靈の階級まで退却して了つたが、これに反して天狗國は久しく隆々として、田舍及山間を支配して居つた。天狗の社が出來たのは却つてこの次の時代である。今日と雖も決してその領域は縮んでは居らぬ。

　但し天狗道にも時代があれば從つて時代の變遷がある。中世の歴史を見ても、南都北嶺の僧侶たちが大多數京師人の子弟である世には、その行ひや殊勝であつたが、一旦武家が勢力を加へてその子弟を坊主にすれば、法師でも強く(418)てあばれる。�ｺ川時代に百姓の子が僧になれば又おとなしくなる。正法の對象である所の魔道でも、これと同じ道理で、武家時代の天狗にも亦、武士的氣風がある。元來天狗といふものは神の中の武人であります。中世以來の天狗は殆と武士道の精髄を發揮して居る。少なくも武士道中の要目は天狗道に於て悉く現れて居る、殊にその極端を具體して見せて居る。即ち第一には清淨を愛する風である、第二には執着の強いことである、第三には復讎を好む風である、第四には任?の氣質である。儒教で染返さぬ武士道はつまりこれである。これ等の道�ｺが中庸に止れば武士道で、極端に走れば即ち天狗道である。殊に高慢剛腹の風といふものは、今日でも「あの人は天狗だ」などと、諺になつて都會にも行はれて居る。少なくも近代魔道の一大徴侯としてある、王朝時代の天狗に比べると大分變られた點がある。明治の新時代の天狗はこの上更に如何なるアットリビュートを添へられることか、長命をして知りたいものである。この事實は一方から論ずれば又國民性の煥發とでもいふか頗る面白いことである。西洋でも北部歐羅巴に今なほ活動して居るフェアリーの如き、その發祥地である所のケルト民族の特性をよく代表して居る。フェアリーの快活で惡戯好でしかも又人懷こいやうな氣風は慥にセルチックである。フェアリーは世界のおばけ中正に一異色である。これに比べると天狗はやゝ幽鬱である。前者が海洋的であればこれは山地的である。日本は内外人の想像して居るよりも一層の山國である。山高きが故に貴からず、高くは無いが深山は甚だ多いのである。我々の祖先は米が食ひたさに爭つて平地に下つた。平地と山地とは今日なほ相併行して入交らざる二つの生活をして居る、從つて平野居住者が丸々天狗傳説を忘却しても、他の一半の日本に於る魔道の威力は必ずしも衰微したものとはいはれぬのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　併しながらこれがため我々平地人にとつて、所謂天狗道の愈々了解しにくゝなつたことは亦事實である。語を換へていはゞ百年の昔に比べて不可測の範圍は却つて昔より大いに擴張した。一時神道の學者は好い磯會があつてその一(419)端を窺ふことが出來たものだから、悦び勇んでその説明を試みたけれども、その效果は決して大なりとはいはれぬ。斯道が學者の取扱に適せぬ理由はいくらも有るが、第一に書いた物が少ない。多くの材料は空吹く風の如く消え易い口から口への話である。又幽冥に往來したといふ人の物語、これが史料としての價値はあまり高くない。神童寅吉即ち高山平馬の話、又は紀州の或學者の筆記した少年の談話の類は五つも七つもあるけれども、その間に何等共通の點が無く、一つの世界の話とは如何にも受取られぬ。成ほど虚誕では無からう、本人は正にかく信じたのであらう、併しこれを以て單純なる青年の一妄想で無いとする根據に乏しい。何となればその記事は一つも學問のない若者の世間的智識乃至は想像の區域を脱して居らぬ。神道の學者は神道に片よつた幽冥談を悉く信ぜんとするけれども、佛道の方にも靈現記類の書物に佛道に片よつた幽冥談のよくこれに似たものがある。續鑛石集の下卷に出て居る阿波國不朽物語などはその一例であつて、形式は全然これに似て居る。立山の地獄、恐山の地獄の話の如きも筆者は人を欺くとも思はれぬから、少くもこれを見たといふ人が有つたのであらう。これ等の話が多く出て來れば來るほどこれを信ずることは困難になる。それよりも今日幽冥に交通して居る極めて少數の人々が、微々として笑つて何もいはないのはいくらゆかしいか知れない。併しそれでは我々の研究のためには全然無方便である。

　誤解をせられてはこまるのは、假令些も研究の好材料が得られないからといつて、不思議の威力には寸毫も増減する所は無いのである。幽界の消息と稱するものが假に不實であつたとすれば、幽界の勢力の強烈なることは却つて愈々深く感ぜられるのである。この世に不思議が絶えたらとか、近くは寶永年中より六十年に一度づゝ必ず現れる伊勢の御蔭參りはどうであるか、如何な樂天的學者でも單純なる社會心理の現象として説明し得られるか、御蔭參りの年には諸國に無數の御礼が降る、本物の御礼が空から降る、維新の際にも澤山降つた、大神宮の御祓も降れば關東には阿夫利山の御礼も降つた、これ等は學者の説明し得なかつた事實であつて、しかも亦嚴然たる事實である。偶然私と貴方とがこれを見なかつたからといつて、一言の下に否定し得るやうな簡單な問題ではありません。

　

(420)　　　　　　　　　　三

　

　これはほんの一例、その他無數の魔界の現象があるが、これには到底門外漢は手を着けられぬのであらうか、今の處では先づ然りと答へるの外はあるまい。唯こゝに少しばかり、私の獨り心づいて居ることがある。昔から殊に近代に於て山中の住民が堅く天狗現象なりと信じて居るものゝ中で、どうもさうで無からうと思ふことがあります。山民は幽界を畏怖するの餘に、凡ての突然現象、異常現象を皆天狗樣に歸して了ふ。併しその一部分は魔王の與り知らぬものがある。この濡衣を乾せば魔道の威光は却つて慥に一段を添へるであらうから一寸その話をして見たい。それは外でも無いが日本の諸州の山中には明治の今日と雖も、まだ我々日本人と全然縁の無い一種の人類が住んで居ることである。これは空想では無い、當世のロジックでも説明の出來ることである。順序を立てゝいふが、第一我國は小さな人口稠密な國でありながら、所謂人跡未到の地がまだ中々多い。國と國、縣と縣との境は大半深山である。平安の舊都に接しても、近江丹波若狹に境した山はこれである。吉野の奧伊勢紀州の境も深山である、中國四國九州は比較的よく開けて居るといふが、伯耆の大山、出雲の三瓶山の周圍は村里が甚だ少い。四國の阿波土佐の境山、九州の市房山地方も山が深い。京より東は勿論の事で、美濃飛騨から白山立山へかけての山地、次にはいやな名だが所謂日本アルプスの連山、赤石白根の山系、それから信越より南會津へかけての山々の如き、今日都會の旅人の敢て入込まぬは勿論、獵師樵夫も容易に往來せぬ區域が隨分と廣いのである。これ等の深山には神武東征の以前から住んで居た蠻民が、我々のために排斥せられ窮迫せられて漸くのことで遁げ籠り、新來の文明民に對しいふべからざる畏怖と憎惡とを抱いて一切の交通を斷つて居る者が大分居るらしいのである。

　中學校の歴史では日本の先住民は殘らず北の方へ立退いたやうに書いてあるが、根據の無いことである。佐伯と土蜘と國巣と蝦夷と同じか別かは別問題として、これ等の先住民の子孫は戀々として中々この島を見捨てはせぬ。奧羽(421)六縣は少なくも頼朝の時代までは立派な生蠻地であつた。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。又この方面の隘勇線より以内にも後世まで生蠻が居つた。大和の吉野山の國巣といふ人種は蝦蟆を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸が凡て文明化した後まで、我々の隣人として往來して居つた。新年に都へ來て舞を舞ひ歌を歌つたのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他國へ立退いたとも聞かぬ。播磨風土記を見ると、今の播但鐵道の線路近くに數部落の異人種が奈良朝時代の後まで住んで居た。蝦夷が遠く今の青森縣まで遁げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼が居て、その鬼は時々京迄も人を取りに來たらしい。九州は殊に異人種の跋扈した地方であつて、奈良朝の世まで肥前の基肄、肥後の菊地、豐後の大野等の深山に近き郡には城があつた。皆所謂隘勇線であつたのである。故に平家の殘黨などが敗軍して深山に遁げて入ると如何なる山中にも既に住民が居つて、その一部分は娘を貰つたりして歡迎せられたが、他の一部分は或は食べられたかもしれぬ。

　さてこれ等の山中の蠻民が何れの島からも舟に乘つて悉く他境に立退いたといふことは、とても出來ない想像であつて、なる程その大部分は死に絶え、乃至は平地に降つて我々の文明に同化したでもあらうが、もと／＼敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山の底に踏留り野獣に近い生活を續けて、今日迄も生存して來たであらうと想像するのは、強ち不自然なる空想でも無からう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も殘るであらうが、山中を漂泊して採取を以て生を營んで居る以上は、人に知られずに永い年月を經るのも不思議でなく、況や人の近づかぬ山中は廣いのである。

　併し永い年月の間には?々我々の祖先にも見られた。常陸風土記にある海岸地方の巨人の跡の話、これは珍しくも無いが唯巨人とあるが注意すべきである。この蠻民を諸國で皆大人といつて居る。出雲松江の大人塚は雲陽志に見えて居る。秋田地方は今でも大人といふとは小田内君の話である。飛騨の山中に大人が住んで居つて獵師がこれと交易をしたといふことを徂徠先生が書いて居る。怖いから大きく見えたのか、その足跡は甚だ大きいといふ記事が作陽志(422)にも有る。併し大人といふよりも分りのよいためか、今日は山男山女といふ方が通用する。又山童ともいふ。冬は山童夏は川童といふ説は誤であらう。

　山童に行逢つたといふ話は慥なものだけでも數十件ある。一つ／＼の話はこゝには略しますが、凡て皆彼等は一言をも話さぬといつて居る。共通の言語が無い以上は當然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の國巣のやうに山菜や魚や菌であらう。米の飯を非常に嬉ぶともあり餅を欲しがつたともあり鹽は好まぬともある。衣服は何も無いこともある。日向の飫肥《をび》の山中で獵師の罠に罹つて死んで居つた山女は髪長く色白く裸體であつたとある。奧州は寒いから上閉伊の山中で逢つた女は普通の縞を着て居つたが、ぼろ／＼になつた處を木の葉で綴つて居つた。多くは徒足《すあし》だらうと思ふけれども同じ山中に寢て居つた大人は山笹でこしらへた大きな履物を脱いで居た。

　なほ大人の人である證據はいくらでもある。?々山の中で死んで居るのを見た者がある。寢て鼾をかいて居た山男もある、杣や木樵は近世になつては食物を與へで山男を使役するといふ話がある。先に食物を遣れば仕事を捨てゝ逃げて行く、人の先に立つて行くを好まぬ。その無智であることは餅とまちがへて白石の燒いたのを?んで死んだ話がある。

　これ等の話を綜合すれば、極めて少數ながら到る處の山中に山男は居る。分布も廣い上に往來も海上の外は自由なのであらう。多くの日本人はこれをしも「おばけ」の列に加へて眞價以上に恐れて居るのである。そこで自分の考では今日でも片田舍でよく聞く神隱しといふことは、少なくも一部分はこの先生の仕事にして天狗樣の冤罪である。彼等も人なり、生殖の願は強い内部の壓迫であらう。山中の孤獨生涯に堪へ兼ねて、黄昏に人里へ來り美しい少年少女を提げて歸るのは、全く炭燒が酒買ひに來るのと同じである、恐ろしいといふのは此方のことで、異人種は別に氣の毒だがとも思ふまい。夕方になると田舍では子供の外に出て居るのをひどく氣遣ふ。地方によつては女はおとなでも夕方は外に居らぬ。山坂を走ることの我々よりも達者なことは思像し得られるが、一度捕はれた男女の還つて來る者(423)の少ないのは、如何なる威力であらうか。或は久しからずして皆死ぬからであらうか。

　尤も二年三年の内には隱された者が必ず一度は姿を見せると信じて居る所もある。一昨々年盛岡では近年の神隱しをいくつとなく聞いた。岩鷺山は高くは無いが物深い山である。かの麓にはこの現實の畏怖が止む時も無い。雫石の百姓の娘が嫁に行くとて炬火をつける間に飾馬の鞍の上から捕へられた。二年の後夜遲く隣村の酒屋へ酒を買ひに來たのがその女であつた。すぐに跡から出て見た者があつたが影が無かつた。

　私は珍世界の讀者の助力でなほこの種類の話を蒐集したいと思ふ。舊民族の消息が明白になることは、誠に趣味ある問題といはねばならぬ。

　

(424)　　　　　妖怪名彙

　

　怖長と信仰との關係を明らかにして見たいと思つて、所謂オバケの名前を集め始めてから、もう大分の年數になる。まだ分類の方法が立たぬのも、原因は主として語彙の不足に在ると思ふから、今少し諸君の記憶にあたつて見たい。或は時期が既に遲いかも知れぬが。

　分類には二つの計畫を私はもつて居る。その一つは出現の場所によるもの、これは行路・家屋・山中・水上の大よそ四つに分けられる。行路が最も多く、從つて又最も茫漠として居る。第二には信仰度の濃淡によるものだが、大體に今は確信するものが稀で、次第に昔話化する傾向を示して居る。化け物が有るとは信じないが話を聽けば氣味が惡いといふものがその中間に居る。常の日は否認して居て、時あつて不思議を見、やゝ考へ方が後戻りをするものがこれと境を接して居る。耳とか目とか觸感とか、又はその綜合とかにも分けられるが、それも直接實驗者には就けないのだから、結局は世間話の數多くを、大よそ二つの分類案の順序によつて排列して見るの他は無い。要するにこれは資料であり、説明といふものからは遠いのだが、出所を掲げて置けば後の人の參考にはなるだらう。どうかこれに近い話があつたら追加してもらひたい。

　

シヅカモチ　下野益子邊でいふ（芳賀郡郷士研究報）。夜中にこつ／＼こつ／＼と、遠方で餅の粉をはたくやうな音が人によつて聽える。その音が段々と近づくのを搗込まれるといひ、遠ざかつて行くのを搗出されるといひ、靜か餅を搗(425)出されると運が衰へる。搗込まれた人は、箕を後手に出すと財産が入るともいふ。或は又隱れ里の米搗きともいひ、この音を聽いた人は長者になるといふ話もあつた。攝陽群談、攝津打出の里の條にもある話で、古くから各地でいふことである。

タタミタタキ　夜中に疊を叩くやうな音を立てる怪物。土佐ではこれを狸の所爲として居る（土佐風俗と傳説）。和歌山附近ではこれをバタ／＼といひ、冬の夜に限られ、續風土記には又宇治のこたまといふ話もある。廣島でも冬の夜多くは西北風の吹出しに、この聲が六丁目七曲りの邊に起ると碌々雜話に見えて居る。そこには人が觸れると瘧になるといふ石があり、或はこの石の精がなすわざとも傳へられ、仍てこの石をバタ／＼石と呼んで居た。

タヌキバヤシ　狸囃子、深夜にどこでとも無く太鼓が聞えて來るもの。東京では番町の七不思議の一つに數へられ（風俗畫報四五八號）、今でもまだこれを聽いて不思議がる者がある。東京のは地神樂の馬鹿ばやしに近く、加賀金澤のは笛が入つて居るといふが、それを何と呼んで居るかを知らない。山中では又山かぐら、天狗囃子などといひ、これに由つて御神樂嶽といふ山の名もある。

アヅキトギ　又小豆洗ひとも、小豆さら／＼ともいふ。水のほとりで小豆を磨ぐやうな音がするといひ、かういふ名の化け物が居て音をさせるともいふ。その場處はきまつて居て、どこへでも自由に出るといふわけで無い。大晦日の晩だけ出るといふ處もある（阿哲）。或は貉の所行といひ（東筑摩）、又は蝦蟇が小豆磨ぎに化けるともいふ（雄勝）。不思議は寧ろその分布の弘い點に在る。西は中國、四國、九州、中部、關東、奧羽にも居らぬといふ處は殆と無い。何故に物は見もせずに、磨ぐのを小豆ときめたかも奇怪である。或はこの怪を小豆磨ぎ婆樣、又は米磨ぎ婆と呼ぶ例もある（芳賀）。信州北佐久郡の某地の井では、大昔荒神樣が白装束で出て、

　　　お米とぎやしよか人取つて食ひやしよかショキ／＼

といひながら、米を磨いでは井の中へこぼしたと傳へ、今でも水の色の白い井戸が殘つて居る（口碑集）。この言葉も(426)全國諸處の小豆磨ぎの怪が、口にするといふ文句であつてその話の分布も中々弘い。

センダクキツネ　洗濯狐。夜になると水の岸に出て、ざぶ／＼と物を洗ふ音をさせる怪。遠州西部ではその作者を狐ときめて居る（靜岡縣傳説昔話集）。

ソロバンバウズ　路ばたの木の下などに居て、算盤を彈くやうな音をさせるから算盤坊主（口丹波口碑集）。

コナキヂヂ　阿波の山分の村々で、山奧に居るといふ怪。形は爺だといふが赤兒の啼聲をする。或は赤兒の形に化けて山中で啼いてゐるともいふのはこしらへ話らしい。人が哀れに思つて抱上げると俄かに重く放さうとしてもしがみ付いて離れず、しまひにはその人の命を取るなどと、ウブメやウバリオンと近い話になつて居る。木屋平の村でゴギャ啼キが來るといつて子供を嚇すのも、この兒啼爺のことをいふらしい。ゴギャ／＼と啼いて山中をうろつく一本足の怪物といひ、又この物が啼くと地震があるともいふ。

カヒフキバウ　備前和氣郡の熊山古城址に居たといふもの。聲は法螺の貝を吹くやうで在りかを知らず、その貌を見た者も無い。土地では貝吹坊と呼んで居た（東備郡村誌卷四）。

コクウダイコ　周防の大畠の瀬戸で舊六月の頃に、何處とも知れず太鼓の音が聽える。これを虚空太鼓といふ。昔宮島樣の御祭の日に、輕わざ師の一行がこゝで難船して死んでからといふ（郷土研究一卷五號）。

カハツヅミ　信州の小谷地方では、川童は人を取る二日前に祭をするのでその鼓の音が聽えるといふ。それを川童の川鼓といつて大いに怖れる（小谷口碑集）。

ヤマバヤシ　山中で深夜どことも無く神樂の囃子がすることがある。遠州阿多古ではこれを山ばやしといひ、狸のわざとして居る。熊村では日中にもこれを催すことがあつて、現に狸が腹鼓を打つて居るのを見たといふ者さへある（秋風帖）。

タケキリダヌキ　竹伐狸。夜分竹を伐る音がする。ちょん／＼と小枝を拂ふ音、やがて株を挽き切つてざゝと倒れる(427)音がする。翌朝往つて見ると何事も無い。丹波の保津村などは竹伐狸のわざといつて居る（旅と傳説一〇卷九號）。

テングナメシ　普通には天狗倒しといふが陸中上閉伊郡などは天狗なめし、ナメシの語の意味は不明である。木を伐る斧の音、木の倒れる葉風の感じなどもあつて、翌朝その場を見ると一本も倒れた木などは無い（遠野物語）。

ソラキガヘシ　天狗倒しのことを福島縣の田村郡、又會津でもさういつて居る。鹿兒島縣の東部でも空木倒しといふ。斧の音、木の倒れる音はして、地に着く音だけはしないと前者ではいひ、他の一方でも丸で木を倒す通りの音をさせるが、たつた一つ材木の端に牛の綱を通す穴をあける音だけはさせぬので、眞僞を聽き分けることが出來るといふ。その音のする場所は一定して居る。

フルソマ　土佐長岡郡の山中で、古杣といふのは伐木に打たれて死んだ者の靈だといふ。深山で日中もこの聲を聽くことがある。始めに「行くぞう／＼」と呼ぶ聲が山に鳴り渡り、やがてばり／＼と樹の折れる響。ざアんどオンと大木の倒れる音がする。行つて見れば何の事も無い（郷土研究三卷四號）。

オラビソウケ　肥前東松浦郡の山間でいふ。山でこの怪物に遭ひ、おらぴかけるとおらび返すといふ。筑後八女郡ではヤマオラビといふ。オラブとは大聲に叫ぶことであるが、ソウケといふ意味は判らぬ。山彦は別であつて、これは山響きといつて居る。

ヨブコ　鳥取地方では山彦即ち反響を呼子又は呼子鳥といふ（因伯民談一卷四號）。何かさういふ者が居てこの聲を發すると考へる者もある。

ヤマノコゾウ　伊豆賀茂郡では山彦を山の小僧といふ。駿河でも山の婆々、遠江には山のおんばアといふ名もある。山彦といふ名も山の男といふことだから元は一つである。或はこれを又アマンジャクといふ土地も關東にはある。天の邪鬼とも書いて、人の意に逆らふ惡�ｺをもつといふのも、やはりこの山中での經驗では無かつたかと思ふ。サトリといふ怪物があつて人の心中を見拔くといふ昔話も、起りは口眞似からさういふ想像に走つたのであらう。

(428)イシナゲンジヨ　肥前江ノ島でいふ海姫、磯女などの同系らしい。五月靄の深い晩に漁をして居ると、突然に岩が大きな音をして崩れ落ちるやうに聞える。次の日そこに行つて見ても、何の變つたことも無いといふ。

シバカキ　夜分に路傍で石を投げる怪物だといふ（玉名）。シバは多分短い草の生えた處のことで、そこを引掻くやうな音もさせるのであらう。

スナカケババ　奈良縣では處々でいふ。御社の淋しい森の蔭などを通ると砂をばら／＼と振掛けて人を嚇す。姿を見た人は無いといふ（大和昔譚）のに婆といつて居る。

スナマキダヌキ　砂撒狸は佐渡のものが著名であるが、越後にも津輕にも又備中阿哲郡にも、砂まきといふ怪物が居るといひ（郡誌）、越後のは狸とも又鼬の所屬ともいふ（　　三條南郷談）。筑後久留米の市中、又三井郡宮陣村などでは佐渡と同じに砂撤狸と呼んで居る。利根川中流の或堤防の樹でも、狸が川砂を身にまぶして登つて居り、人が通ると身を振つて砂を落したといふ話が殘つて居る（たぬき）。

コソコソイハ　備前御津郡圓城村にこの名の岩がある。幅五尺ほど、夜分その側を通ると、こそ／＼と物いふ音がする（岡山文化資料）。

オクリスズメ　山路を夜行くとき、ちちちちと鳴いて後先を飛ぶ小鳥がある（　　南紀土俗資料）。聲によつて蒿雀《あをじ》かといふ人もあるが、夜飛ぶのだから鳥ではあるまい（動物文學三三號）。那智の妙法山の路にも以前はよく出た。紀州は一般に、送雀が鳴くと狼がついて來るといひ、又は送狼がついて居るしらせだともいふ（有田民俗誌）。伊豫の南宇和郡では、ヨスズメといふ一種の蛾がある。夜路にあるけなくなる程飛んで來ることがある。そのヨスズメは山犬のさきぶれだといふ（南豫民俗二號）。

オクリイヌ　又送狼ともいふも同じである。これに關する話は全國に充ち、その種類が三つ四つを出でない。狼に二種あつて、旅犬は群を爲して恐ろしく、送犬はそれを防衛してくれるといふやうに説くものと、轉べば食はうと思つ(429)て跟いて來るといふのとの中間に、幸ひに轉ばずに家まで歸り着くと、送つて貰つた御禮に草鞋片足と握飯一つを投げて與へると、飯を喰ひ草鞋を口にくはへて還つて行つたなどといふ話もある（播磨加東）。轉んでも「先づ一服」と休むやうな掛聲をすればそれでも食はうとしない。つまり害意よりも好意の方が、まだ若干は多いやうに想像せられて居るのである。

ムカヘイヌ　信州下伊那郡でムケエイヌといふ狼の話は、更に一段とこの獣の性質を不明にして居る。送狼のやうに跡からついて來るので無く、深夜山中で人の來るのを待受け、人が通り過ぎるとその頭上を飛越えて、又前へまはるなどといつて居る（下伊那）。多分送犬の信仰が衰へてからの分化であらう。

オクリイタチ　伊豆北部でいふこと。夜間道行く人の跡について來るといふ。草履を投げて遣ればそれからはついて來るのを止めるともいふ（郷土研究二卷七號）。

ベトベトサン　大和の宇陀郡で、獨り道を行くとき、ふと後から誰かゞつけて來るやうな足音を覺えることがある。その時は道の片脇へ寄つて、

　　　ベト／＼さん、さきへおこし

といふと、足音がしなくなるといふ（民俗學二卷五號）。

ビシヤガツク　越前坂井郡では冬の霙雪の降る夜路を行くと、背後からびしや／＼と足音が聽えることがあるといふ。それをビシャがつくといつて居る。

スネコスリ　犬の形をして、雨の降る晩に、道行人の足の間をこすつて通るといふ怪物（備中小田）。

アシマガリ　狸のしわざだといふ。正體を見せず、綿のやうなものを往來の人の足にからみつけて、苦しめることがあるというて居る（讃岐高松叢誌）。

ヤカンザカ　東京の近くにも、藥罐坂といふ氣味の惡い處があつた。夜分獨り通ると藥罐が轉がり出すなどといつて(430)居た（豐多摩郡誌）。

テンコロコロバシ　備前邑久郡の或地に出るといふ怪物。夜分こゝを通るとテンコロがころ／＼と坂路を轉がつて行くのを見るといふ。テンコロは砧即ち衣打ち臺のことだが、それに使ふ柄の直ぐに附いた木槌をもテンコロといつて居る。又茶碗轉ばしの出るといふ場處もあつた（岡山文化資料二卷六號）。

ツチコロビ　小豆洗ひの正體は藁打ち槌の形で、一面に毛が生えて居り、人が通ると轉げかゝるといつて居る地方も九州にはあるが（郷土研究一卷五號）、これは野槌などといふ道の怪との混同らしい。野槌はたけの至つて短い槌のやうな形をした蛇で、道の上を轉がつて來て通行人を襲ふと傳へられ、中部地方の山地にはそれが出るといふ峠路も多かつたといふが（飛騨の鳥）、この空想は名稱から後に生れたものと思はれる。ツチはミヅチが水の靈であると同樣に、本來はたゞ野の靈といふに過ぎなかつたことは、古く學者もこれを説いて居る。しかし現在はこの槌形の怪は全國に弘まり、伯耆中津の山間の村でも、槌轉びといふくちなはが居て、足もとに轉がつて來て咬ひ付くといつて居る。

ヨコヅチヘビ　越後南蒲原郡の或堤防の上の路には、以前ヨコヅツヘンビ（横槌蛇）といふものが居たといふ。頭も尾も一樣の太さで、ぴよん／＼と跳ねて動いて居た云々（三條南郷談）。

ツトヘビ　又はツトッコといふ蛇が居るといふことを、三河の山村ではいひ傳へて居る。或は槌蛇とも野槌ともいひ、槌の形又は苞の形をして居て、非常に毒を持ち、咬まれると命が無いと怖れられて居た（三州横山話）。或は又常の蛇が鎌首をもたげて來た所を打つと、すぐにその首が飛んで行つてしまふ、それを探してよく殺して置かぬと、後にツトッコといふ蛇になつて仇をするともいつて居た（郷土研究三卷二號）。見たといふ人はあつても、なほ實在の動物では無かつた。

タンタンコロリン　仙臺で、古い柿の木の化けた大入道だといふ。柿の實を取らずに置くとこれになつたともいふから、コロリンのもとは轉がつて來るといつて居たのであらう。

(431)キシンボウ　肥後では椿の木を擂木に用ゐると、後に木心坊になるといふさうである（民族と歴史六卷五號）〕古椿が化けて火の玉になつたといふ話は、記録にも二三見えて居る。以前京都でもいつたことである。恐らくこの木は擂木にしなかつたのであらう。

ツルベオトシ　釣瓶落し又は釣瓶卸しといふ怪物が道に出るといふ話は、近畿、四國、九州にも分布して居る。井戸の桔槹《きつかう》といふものが始めて用ゐられた當座、その突如たる運動に印象づけられた人々の、いひ始めた名と思はれる。この妖怪も大木の梢などから出しぬけに下つて來るといふので怖れられたのである。或は大きな杉に鬼が住んで居て、下を人が通ると金の釣瓶ですくひ上げたといふ話もある（愛知縣傳説集）。人をさらふためだけなら金にも及ばなかつたらう。何かこれには隱れた意味が有りさうである。

フクロサゲ　信州大町の附近には、昔狸が出て白い袋を下げたので、袋下げといつて居る處がある。田屋の下の飯つぎ轉ばしといふのも同じ怪であつたといふ（北安曇郡郷土誌稿卷七）。

ヤカンヅル　夜遲く森の中を通ると樹の上から藥罐が下るといつて居る（長野附近俗信集）。

アブラスマシ　肥後天草島の草隅越といふ山路では、かういふ名の怪物が出る。或時孫を連れた一人の婆樣が、こゝを通つてこの話を思ひ出し、こゝには昔油瓶下げたのが出たさうだといふと、「今も出るぞ」といつて油すましが出て來たといふ話もある（天草島民俗誌）。スマシといふ語の意味は不明である。

サガリ　道の傍の古い榎樹から、馬の首がぶら下るといふ話のある場處は多い。備前邑久郡にも二つまであつて、その一つは地名をサガリといつて居る（岡山文化資料二卷六號）。

ヌリカベ　筑前遠賀郡の海岸でいふ。夜路をあるいて居ると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といつて怖れられて居る。棒を以て下を拂ふと消えるが、上の方を敲いてもどうもならぬといふ。壹岐島でヌリボウといふのも似たものらしい。夜間路側の山から突出すといふ。出る場處も定まり色々の言ひ傳へがある(432)（續方言集）。

イツタンモメン　一反木綿といふ名の怪物。さういふ形のものが現れてひら／＼として夜間人を襲ふと、大隅高山地方ではいふ。

ノブスマ　土佐の幡多郡でいふ。前面に壁のやうに立塞がり、上下左右ともに果が無い。腰を下して煙草をのんで居ると消えるといふ（民俗學三卷五號）。東京などでいふ野衾は　鼠《むささび》か蝙蝠のやうなもので、ふわりと來て人の目口を覆ふやうにいふが、これは一種の節約であつた。佐渡ではこれを單にフスマといひ、夜中後からとも無く前からとも無く、大きな風呂敷のやうなものが來て頭を包んでしまふ。如何なる名刀で切つても切れぬが、一度でも鐵漿を染めたことある齒で　　噛切ればたやすく切れる。それ故に昔は男でも鐵漿をつけて居たものだといひ、現に近年まで島では男の齒黒めが見られた（佐渡の昔話）。用心深い話である。

シロバウズ　泉州では夜分路の上でこの怪に遭ふといふ畏怖が今もまだ少し殘つて居る。狸が化けるものゝやうにいふが無論確な話でない。狐は藍縞の着物を着て出るといふから、この白坊主とは別である。

タカバウズ　讃岐の木田郡などで評判する怪物。背の途法も無く高い坊主で、道の四辻に居るといふ。阿波の山城谷などでは高入道、正夫谷といふ處に出る。見下せば小さくなるといふ（三好郡誌）。

シダイダカ　阿波の高入道とよく似た怪物を、長門の各郡では次第高といふ。人間の形をして居て高いと思へば段々高くなり、見下してやると低くなるといふ。

ノリコシ　影法師のやうなもので、最初は目の前に小さな坊主頭で現れるが、はつきりせぬのでよく見ようとすると、そのたびにめき／＼と大きくなり、屋根を乘越して行つたといふ話もある。下へ下へと見おろして行けばよいといふ（遠野物語再版）。

オヒガカリ　備後の比婆郡などでいふ化物の一種。あるいて居ると後から覆ひかゝつて來るものといふ。

(433)ノビアガリ　伸上り、見るほど高くなつて行くといふ化け物。川獺が化けるのだといふ。地上一尺ぐらゐの處を蹴るとよいといひ、又目をそらすと見えなくなるともいふ（　　北宇和）。かういふ種類の妖怪の、物をいつたといふ話は曾て傳はつて居ない。出て來るのではなくて、人が見るのである。

ミアゲニフダウ　東京などの子供が見越し入道といふのも同じもの、佐渡では多く夜中に小坂路を登つて行く時に出る。始めは小坊主のやうな形で行く手に立塞がり、おやと思つて見上げると高くなり、後には後へ仰けに倒れるといふ。これに氣づいたときは、

　　　見上げ入道見こした

といふ呪文を唱へ、前に打伏せば消え去るといひ傳へて居る（佐渡の昔話）。壹岐では東京と同じに見越し入道といふが、夜中路をあるいて居ると頭の上でわら／＼と笹の音を立てる。その時黙つて通ると竹が倒れかゝつて死ぬから、やはり「見こし入道見拔いた」といはなければならぬといつて居る（續方言集）。

ニフダウバウズ　入道坊主、見越し入道のことである。三河の作手村で曾てこれを見たといふ話がある。始めは三尺足らずの小坊主、近づくにつれて七八尺一丈にもなる。先づこちらから見て居たぞと聲を掛ければよし、向ふからいはれると死ぬといふ（愛知縣傳説集）。

ソデヒキコゾウ　埼玉縣西部では袖引小僧の怪を説く村が多い。時は夕方路を通ると後から袖を引く者がある。驚いて振返ると誰も居ない。あるき出すと又引かれる（川越地方郷土研究）。

オイテケボリ　置いてけ堀といふ處は川越地方にもある。魚を釣るとよく釣れるが、歸るとなるとどこからとも無く、置いてけ／＼といふ聲がする。魚を全部返すまでこの聲が止まぬといふ。本所七不思議の置いてけ堀などは、何を置いて行くのか判らぬやうになつたが、元はそれも多分魚の主が物をいつた例であらう。

オツパシヨイシ　土地によつてはウバリオン、又はバウロ石などともいふ。路傍の石が負うてくれといふのである。(434)�ｺ島郊外のオッパショ石などは、或力士がそんなら負はれいといつて負うたら段々重くなつた。それを投げたところが二つに割れ、それきりこの怪は絶えたと傳へられて、永くその割れた石があつた（阿波傳説物語）。昔話の正直爺さんが、取付かば取付けといふと、どさりと大判小判が背の上に乘つたといふのと、系統を一つにする世間話で、實は格別こはくない例である。

シヤクシイハ　作州箱村の箱神社の近傍に在る杓子岩は、夜間人が通ると味噌をくれといつて杓子を突出したのでこの名があるといふ（苫田郡誌）。味噌を持つてあるく人もさう有るまいから、これはもと味噌を供へて祭つた石かと思はれる。

ヒトリマ　火取魔といふ名はたゞ一つ、加賀山中温泉の例が本誌に報告せられたのみであるが（民間傳承三卷九號）、路傍に惡い狐が居て?燭の火を取るといふ類の話は諸處にある。果してこの獣が?燭などを食ふものかどうか。或は怪物の力で提灯の火が一時細くなるといふ石川縣のやうないひ傳へが、他にもあるのでないかどうか。確めて見たい。

ヒヲカセ　火を貸せといふ路の怪が出る場處が、三河の北設樂郡にはある。昔鬼久左といふ大力の男が夜路を行くと、さきへ行くおかつぱの女の童がふりかへつて火を貸せといつた。煙管を揮つて打据ゑようとして却つて自分が氣絶してしまつた。淵の神の子であつたらうといふ（愛知縣傳説集）。或はこれとは反對に、夜分人が通ると提灯のやうな火が出て送つて來るといふやうな所もあつた。或村の古榎の木の下まで來ると消える。それでその古木を伐つてしまつたら出なくなつたといふ（同上）。

ミノムシ　越後では評判の路の怪で或は鼬のしわざともいふ。小雨の降る晩などに火が現れて蓑の端にくつゝき、拂へば拂ふほど全身を包む。但し熱くはないといふ（西頸城郡郷土史稿二）。信濃川の流域にはこの話が多く、或はミノボシともいふ。多人數であるいて居ても一人だけにこの事があり、他の者の眼には見えない（井上氏妖怪學四七九頁）雨の滴が火の子のやうに見えるのだともいふ（三條南郷談）。越前坂井郡でも雨の晩に野路を行くとき、笠の雫の大きい(435)のが正面に垂れ下り、手で拂はうとすると脇へのき、やがて又大きい水玉が下り、次第に數を増して眼をくらます。狸のしわざといひ、大工と石屋とにはつかぬといふのが珍しい（南越民俗二）。秋田縣の仙北地方で蓑蟲といふのは、寒い晴れた日の早天に、蓑や被り物の端についてきら／＼光るもので幾ら拂つても盡きないといふから、これは火では無い（旅と傳説七卷五號）。利根川圖誌に印旛沼のカハボタルといつて居るのは、これは夜中に出るので火に見えた。これも越後のミノムシと同じものだらうといつて居る。

キツネタイマツ　狐火と同じものらしいが、羽後の梨木羽場といふ村では、何か村内に好い事のある際には、その前兆として數多く現れたといつて居る（雪の出羽路、平鹿郡十一）。どうして狐だといふことが判つたかゞ、寧ろより大きな不思議である。中央部では普通に狐の嫁入といふが、これは行列の火が嫁入と似て居て、どこにも嫁取が無いからさう想像したのであらうが、それから更に進んで、狐が嫁入の人々を化かし、又は化けて來たといふ話も多く出來て居る。

テンピ　天火。これは殆と主の知れない怪火で、大きさは提灯ほどで人玉のやうに尾を曳かない。それが屋の上に落ちて來ると火事を起すと肥後の玉名郡ではいひ（南關方言集）、肥前東松浦の山村では、家に入ると病人が出來るといつて、鉦を叩いて追出した。或はただ單に天氣がよくなるともいつたさうである。

トビモノ　光り物といふ言葉は中世には色々の怪火を呼んで居る。この中には流星もあり、又もつと近い處を飛ぶ火もあつた。茨城縣北部では現在も飛び物といつて居る。蒟蒻玉が飛びものになつて光を放つて飛ぶことがあるといふ。山鳥が夜飛ぶと光つて飛びものとまちがへることがあるともいふ。京都でも古椿の根が光つて飛んだといふ話などが元はあつた。

ワタリビシヤク　丹波の知井の山村などでは光り物が三種あるといふ。その一はテンビ、二は人ダマ、三はこのワタリビシャクで蒼白い杓子形のものでふわ／＼と飛ぶといふ。名の起りはほゞ明らかだが、何がこれになるのかは知ら(436)れて居ない。

トウジ　暴風雨中に起る怪光をトウジといふ（土佐方言の研究）。不明。

ゴツタイビ　鬼火のことゝいふ（阿山郡方言集）。

イゲボ　伊勢度會郡で鬼火をイゲボといふ。他ではまだ耳にせぬので、名の由來を想像し難い。

キカ　薩摩の下甑島で火の玉のことだといふ。大きな火の玉の細かく分れるものといふ。鬼火の漢語がいつの間にか、こんな處に來て土着してゐるのである。

ケチビ　土佐には殊にこの話が多い。大抵は人の怨靈の化するものと解せられて居る（　　土佐風俗と傳説）。竹の皮草履を三つ叩いて喚べば近よるといひ（郷土研究一卷八號）、又は草履の裏に唾を吐きかけて招けば來るといふのは（民俗學三卷五號）、もとは人の無禮を宥さぬといふ意味であつたらしい。佐渡の外海府にも人魂をケチといふ語がある。

ヰネンビ　沖繩では亡靈を遺念と呼び從つて遺念火の話が多い（山原の土俗）。二つの注意すべき點は、大抵は定まつた土地と結び付き、さう自由に遠くへは飛んで行かぬことゝ、次には男女二つの靈の火が、往々つれ立つて出ることである。これは他府縣でもよく聽く話で古い形であらうと思ふ。但し亡靈火と現在よばれて居るのは、專ら海上の怪火のことで、これは群を爲し又よく移動する。

タクラウビ　備後御調郡の海上に現れるといふ怪火で、火の數は二つといふから起りは「比べ火」であらう。藝藩通志卷九九に見えて居るがこの頃はもういはぬやうである。藝備の境の航路には又京女郎筑紫女郎といふ二つの婦人の形をした岩の話などもあつて、もとは通行の船の信仰から起つたことを想像せしめる。

ジャンジャンビ　奈良縣中部にはこの名をもつて呼ばれる火の怪の話が多い。飛ぶときにジャン／＼といふ音がするからともいふ。火は二つで、二つはいつ迄も逢ふことが出來ぬといひ、これに伴なふ乙女夫川・打合ひ橋などの傳説が處々にあつた（旅と傳説八卷五號）。柳本の十市城主の怨靈の火と傳ふるものは、又一にホイ／＼火ともいふ。人が城(437)址の山に向つてホイ／＼と二度三度喚ぶと、必ずジャン／＼と飛んで來る。これを見た者は病むといふから（大和の傳説）、さう度々は試みなかつたらうが今でも至つて有名である。

バウズビ　加賀の鳥越村では坊主火といふ火の玉が、飛びあるくことが有名である。昔油を賣る男が惡巧みをして鬢附けを桝の隅に塗つて桝目を盗んだ。その罰で死んでからこの火になつたといつて居る（能美郡誌）。しかし油商人なら坊主といふのは少しをかしい。

アブラバウ　近江野洲郡の欲賀《ほしか》といふ村では、春の末から夏にかけて夜分に出現する怪火を油坊といふ。その火の?の中には多くの僧形を認めるといつてこの名がある。昔比叡山の僧侶で燈油料を盗んだ者の亡靈がこの火になつたと傳へられる（郷土研究五卷五號）。河内枚岡の御社に近い姥が火を始めとしてこの怪し火には油を盗んだ話がよく附いて居る。或は民間の松の火が、燈油の火に進化した時代に、盛んにこの空想が燃え立つた名殘かも知れぬ。越後南蒲原の或舊家に昔アブラナセといふ妖怪が居て家の者が油を粗末に使ふとすぐに出て來てアブラナセ、即ち油を返濟せよといつたといふ話がある（三條南郷談）。鬼火では無いがこれと關係があるらしい。以前は菜種は無く皆胡麻油であつた。つまり今日よりも遙かに貴重だつたのである。

ゴンゴロウビ　越後本成寺村には、五十野の權五郎といふ博徒が、殺された遺念といつてこの名の火の燃える場處がある。今では附近の農家ではこれを雨の兆とし、この火を見ると急いで稻架を取込むといふ（三條南郷談）。

ヲサビ　日向の延岡附近の三角池といふ池では、雨の降る晩には筬火《をさび》といふのが二つ出る。明治のなかば迄は折々これを見た人があつた。昔二人の女が筬を返せ返したで爭ひをして池に落ちて死んだ。それで今なほ二つの火が現れて喧嘩をするのだと傳へて居る（延岡雜記）。二つの火が一しよに出るといふ話は、名古屋附近にもあつた。これは勘太郎火と稱してその婆と二人づれであつた。

カネノカミノヒ　伊豫の怒和《ぬわ》島では大晦日の夜更に、氏神樣の後に提灯のやうな火が下り、わめくやうな聲を聽く者(438)がある。老人はこれを歳�ｺ神が來られるのだといふさうである。肥後の天草島では大晦日の眞夜中に、金ン主といふ怪物が出る。これと力くらべをして勝てば大金持になるといひ、武士の姿をして現れるともいつた（民俗誌）。多くの土地ではこれは一つの昔話だつたやうである。夜半に松明をともして澤山の荷馬が通る。その先頭の馬を斫れば黄金だつたのに、氣おくれがして漸く三番目の馬を斫つたら、荷物は全部銅錢であつて、それでも結構長者になつたなどといつて居る（吾妻昔物語）。

ヤギヤウサン　阿波の夜行樣といふ鬼の話は民間傳承にも出て居る（三卷二號）。節分の晩に來る髭の生えた一つ目の鬼といひ、今は嚇されるのは小兒だけになつたが、以前は節分・大晦日・庚申の夜の外に、夜行日といふ日があつて夜行さんが、首の切れた馬に乘つて道路を徘徊した。これに出逢ふと投げられ又は蹴殺される。草鞋を頭に載せて地に伏して居ればよいといつて居た（土の鈴一一號）。夜行日は拾芥抄に百鬼夜行日とあるのがそれであらう。正月は子の日、二月は午の日、三月は巳の日と、月によつて日が定まつて居た。

クビナシウマ　首無し馬の出て來るといつた地方は越前の福井にあり、又壹岐島にも首切れ馬が出た。四國でも阿波ばかりでなくそちこちに出る。神樣が乘つて、又は馬だけで、又は首の方ばかり飛びまはるといふ話もある。

　

　示現諸相の中でも、最も信者の少ない妖怪のいひ傳へは、實在の言葉で採録して置くより他に、その形體を把捉するの途が無いので、諸君の力を借り、出來るだけ多くの名と説明とを集めて見ようとするのである。まだ中々續きさうなので、これからは時々中絶するつもりであるが、中絶しても蒐集を止めて居るのではない。五十音順にでも整理して置いて、なほ續々不足を補はれんことを希望する。

　

(441)　　　山神とヲコゼ

　

　　　　　　　　　　壹

　

　平田篤胤翁晩年の門人で、翁の著書玉襷の中にも其名の見えて居る宮負定雄と云ふ人は、下總香取の農家の主人であつた。年老いて後一生の間に聞き溜めた諸國の話を集めて奇談雜史十卷を著した。此書物は其子孫の家にも傳はらず、將に世中から亡びようとしたのを幸にも著者の親友であつた紀州の某氏の家に殘つて居ることが發見せられて、其寫しが一部出來た。是は悉く宮地嚴夫氏の力である。十卷數百篇の珍しい物語の中で、最も自分の心を動かしたのはヲコゼを以て山の神を祀ると云ふ話であつた。

　紀州熊野路の八木山峠の下に、八木山と云ふ部落がある。今の何郡何村に屬するか地圖にも大字一覽にも見えて居らぬ。此村の産土神は山神で、社は里離れたる山中に在る。祭禮は霜月（舊暦十一月）の八日、この祭の式は極めて珍しい。先づ社頭の廣庭に莚を布き、氏子一同之に坐り神酒を戴くのである。氏子の中に當番の者があつて眞中に坐り、女や子どもは莚の外に立つて祭の式を見物する。當番は、初から懷中に一尾の干したヲコゼを入れて居る。神酒一巡の後、氏子一同から當番の者に向つて、貴殿御懷中のヲコゼを見せて下されと云ふ。當番はいや／＼見せ申すまい、皆の衆は御笑ひなさるであらう故にと云へば、笑ひますまい、一目でよいから見せて下され、それならばと懷へ手を入れ、右の手で持てば左の袖口から、左の手で持てば右の袖口へ、干したヲコゼの頭をちよいと出す、一同がハ(442)ハハハと笑ふ。當番はわざと不機嫌な顔をしてヲコゼを引込める。一同は又酒を飲み、暫くあつて再び懇望をする。いや／＼決して見せることでは無い、あのやうに御笑ひなさるゝ故にと言ふと、今度こそは笑ひますまい、平に見せて下されとたつて云ふ。そんならばと又出すと、前よりも一層高く笑ふ。同じ順序でこれを三度、終には當番も見物も皆笑ひ、最初は儀式に笑つたものが、三度目の酒が巡ると自然にをかしくなつて我慢が出來ねやうになる、これが祭の式である。此邊で人が大笑をすることを、山の神にヲコゼを見せたやうだと云ふさうである。

　笑祭の儀式は決して八木山の山神ばかりではない。周防の某村にも村中が寄つて大笑をする祭があることは、新風土記に見えてをり、近くは北豐島郡の赤塚村でも、昔は正月の田遊と云ふ祭に、氏子が大笑をしたことが四神地名録に見えて居る。併しこはい顔をしたヲコゼの顔を見て笑ふと云ふのはよほど振つて居る。同じ奇談雜史の續きに猶こんな事が書いてある。ヲコゼは山の神の甚だ好みたまふ物で惡魔除ともなれば、貧乏神のごく忌み嫌ふ物である。之を食べると、第一中風や肺結核のやうな難病が治り、人が丈夫になる。小兒の喰初にヲコゼを食べさせると、一生涯魚の骨を喉に立てる患が無い。凡そ山國に住む者は常に山中に入るのに此魚の乾物を懷中するが宜しい。狩をする前には山の神に祈り、もし獲物を下さるなら、懷のヲコゼをお見せ申しますと願掛し、願事が叶へば、左の手で持つて右の袖口から、又は右の手で持つて左の袖口から、此魚を山神の照覽に供するのである。殊に猛獣を捕らうとする折の願掛には、ヲコゼを丸々一尾差上げますと祈るべきである。さて御禮にヲコゼを持參するときは必ず棹の先に絲を附け、絲の先に魚をくゝり附けて山に入るがよい。さうすれば何時の間にか山神が絲を切つて取つて行かれるのである。ある時之を忘れて、ヲコゼを手に握つて山に入つた者があつた。其狩人は何時の間にか腕ともに拔いて行かれたと云ふことである。鷹匠もヲコゼを懷中して居る。是は鷹が反れたときヲコゼを以て山神に祈る爲である。江戸では昔は山神ヲコゼと云つて、霜月八日の山神祭の前日に此魚を賣つた。それは木具屋（指物師）、金物屋、鍛冶屋などが、之を買調へて山の神に供へる風があつたからである。

(443)　此迄が奇談雜史卷五の記事である。自分は明治四十一年の七月に、宮崎縣西臼杵郡椎葉村と云ふ所へ行つて、かの深山の村に存在して居る猪狩の話を村長から聞いたのを書いて、後狩詞記と云ふ小さな本を出版した。その中にも日向の山のヲコゼの話がある。此本は僅ばかり作つて友人に分けてしまつて町には無いから今一度其中の話をすれば、椎葉でも猪を打ちに行く獵師はヲコゼを珍重する。併し山奧であるから數百人の中にヲコゼを持つて居る者は七人か八人である。山狩に行くには必ず之を紙に包み、小さな籠に入れ、紐でもつて肩に掛けて行く。狩の前にはヲコゼを手に持ち、斯う言つて祈る。ヲコゼ殿ヲコゼ殿、今日は一頭の猪を捕らせて下され、其御禮にはあなたに此世の光を見せませうと云つて清淨な紙でヲコゼを包む。願の通り猪の捕れた時は、更に又一枚の紙で其上から包み、今一つ猪をとらせて下されば此世の光を見せませうと云ふ。何のことは無い、ヲコゼ殿を欺すのである。だから古いヲコゼになると、昔から捕つた猪の數だけ白い紙に包んである故、持主といへども中を見たことが無い。先祖のヲコゼを相續した人はヲコゼとはどんな魚であるかを知つて居らぬ。併し川ヲコゼは海の漁に、山の狩には海ヲコゼなどとも云ひ、又狩人がヲコゼを大事にして家の者にも秘し隱す所から、吝嗇な人をヲコゼ祭と云ふ諺も出來て居る。此地方では、山神がヲコゼを好むと云ふことは聞かなかつた。祈?願掛もヲコゼに向つてである。

　六七年前に田山君と自分と二人で校正して、博文館で出版した奇談全集の中に、尾張の人三好想山の書いた想山著聞奇集と云ふ本がある。此中にも一寸ヲコゼの記事がある。是は元の本も活版本も共に決して珍本では無いが、恐らくは誰も氣が付くまい。實は自分でも忘れて居た。越後の國、出羽の國などでは杣も狩人も山に入るのにヲコゼと云ふ魚を懷中して行く風がある。大木を伐るに難儀する時、之を供ふれば難なく伐ることが出來る。狩人も終日狩をして獲物の無いときは、山の神に祈請してヲコゼの頭を少々見せかけ、感應があつて獣を獲ましたら全形をお見せ申さうと?るのである。きつと靈驗のあるものであるが、中々容易には行はれぬ御祈?で、運の究まつた時でなければ感應も無いものである。此書物には一つも空事は書いて無い。人に欺かれたなら知らぬこと、自分で信じないことは決(444)して書いては無い。此三つの材料に依つて自分は日本の西の端と東北と中央部と、又此國の東西の海岸で山に行く者がヲコゼをまじなひに使ふの風習があることを明らかにしたのである。

　ヲコゼは昔はヲコジと云つて居たやうだ。倭名紗には?の字に乎古之、新撰字鏡には?の字に乎己自を當てゝあるが、果して和漢同じ物であるかどうか多少の疑がある。?と云ふ魚のことは山海經と云ふ支那の古い書物にも見えて居るが、他の書物には鰕に似て居るとある。又川に住むとある。和漢三才圖會には河湖有鱗魚の部にヲコジを入れて置きながら、今日魚肆に出るのは海でとれる物であると云つて居る。併し今まで氣が付かずに居たが、此あとにヲコゼは形甚だ醜し、故に之を醜女に譬ふ、其刺人を螫す、俗に云ふ山神?を見ることを好むと書いてある。和漢三才圖會の著者寺島良安は攝津の醫者である。

　自分には物が分らぬ時によく聞きに行く所がある。其度毎に多いか少ないかはつきりとした答を得なかつたことは未だ曾て無い。それは農科大學の白井教授である。茲に其手紙を記念として掲げて置く。

　　　　　山ノ神と云ふヲコゼの事

　　昨日歸宅後藏書に就き取調べ候處、水族志にはヲコゼ（常品）の他にハナヲコゼ、ヒメヲコゼ、イラヲコゼ、ツチヲコゼの諸品あることを記し、就中ハナヲコゼには左の記事あり。御話の獵師の珍重するヲコゼは此のハナヲコゼに外ならざることを知り申候。仍て左に其説を抄録して供貴覽候

　　水族志紀州畔田翠山著百四十四丁六

　　　ハナヲコゼ　紀州在田郡湯淺浦　　一名ヤマノカミ　紀州若山　　ギギ　伊豫西條　　大灘《だいなん》ヲコゼ　紀州海士郡本脇村　　ガシラ　熊野　　ヨロヒウヲ　紀州日高郡綱代浦　　アカヲコゼ　讃州高松領津田浦　　ホゴ　防州岩國　　ガガニ　阿州海部郡日和佐浦　　ハチフリ　筑前姪ノ濱　　ミコイヲ　同上福間浦　　ヒヲコゼ　備後因島　　キミヲコゼ　土佐浦戸同須崎　　ヨロヒ　熊野矢口浦　　女郎ヲコジ　勢州阿曾浦　　マギラス　同上慥柄浦　　シ(445)マヲコゼ　本草啓蒙　　ミノカサゴ　同上讃州　　クソツポウ　同上淡州　　ナヌカバシリ　同上藝州　　クミテフ／＼　同上豫州松山　　トビウヲ　同上仙臺　　トビギス　同上

　　　形?ガシラ及メバルに似て、淡紅色にして、黒條背より腹上に至る、其條巨細相竝ぶ、腹は淡紅色紅細斑鱗形を爲す、頭は全くガシラの如し、眼上短刺あり、眼より口頬に至り淡黒條あることガシラに似たり、頬淡紅色にして淺藍色を帶ぶ、喉下?白色に淡紅を帶び、脇翅大にして尾に至り紅色にして、黒斑相竝ぶ、背鬣の刺長く二三寸、紅色にして黒斑あり、尾淡紅色長くして岐無し、腰下鰭淡紅色淡黒斑あり、腹下翅紅色にして黒斑あり。紀州湯淺浦の漁人云ふ、漁人ヤマノカミを取るとき、之を惡みて切りて海中に捨つ、其の人を螫すことを怖れてなり。筑前姪濱漁人曰く一種白色の物ありと。〔イ〕クサイ、按ずるに本草啓蒙にハナヲコゼ一名ヤマノカミとクサイを混じ説く誤なり。大和本草の圖にクサイは吻上左右に髯あり、ヤマノカミには無之、クサイは形?ヤマノカミに似たり、脣に鬚あり、色は紅色の物褐色の物あり、脇肢大なることヤマノカミの如し、背鬣尾倶に長くヤマノカミに似たり、一種眼の上に兩鬚ある者あり。（以上）

　　水族志には説のみなれば、更に所藏の魚圖を檢し左圖を得申候に付、御目に懸け候、豚兒に寫させ候爲、唯原圖の彷彿を得候に過ぎ不申候段は御了知願上候。

　　愚考に、獵師どもの此物を珍襲致候は、第一稱呼の山の神と云ふこと、第二鋭刺ありてよく物を螫することに關連して、獵師が獣を射殺し又は突殺すにも利益を及ぼすべしとの信仰に出でたるかと存じ候、之を山の神と呼ぶ所以に至りては未だ考へず候。

　　　　　明治四十三年七月三十日　　　　　　　　　　白井光太郎記

　　　　　　柳田大兄研北

　　二伸　本草啓蒙には能く海上を飛ぶ、死するときは紅色消盡す、?書に飛魚頭大尾小有v翅善跳福人名2鯡魚1以2(446)其色紅如1v緋と云ふものなりとあり。

　白井さんの坊ちやんの寫して下すつた畫は色がよく分つたけれども、茲には出すことが出來ない。先生がヤマノカミを祭る理由と言はれた點は、或はさうかも知れぬと思ふばかりで、まだ決めて了ふわけには行かぬ。自分はハナヲコゼに種々の異名を付けたわけを今少し調べたいと思ふ。例へば筑前で之をミコイヲと云ふのは巫魚であらう。これは色又は形の似た爲かも知らぬが、事によると巫の祭祀又は信仰と關係が無いとも言はれぬ。と云ふのは土佐で此魚をキミヲコゼと云ふことである。キミと云ふのは田舍で昔巫女を尊敬して呼んだ語であるらしい。山の中の地名に君が畑又は君が澤と云ふ所が折々ある。巫が深山で神を祭つたらしい痕跡は地名にも傳説にも澤山ある。十分な證據は無いがヲコゼは巫女の持つた Totem（靈代《たましろ》）の一種かと思つて居る。讀者諸君の盡力でヲコゼの方面から山神の信仰を研究したいと思ふ。此一點からでも日本と朝鮮滿洲との關係が大分明らかになることゝ信じて居る。

　

　　　　　　　　　　貳

　

　ヲコゼ問題は愈々南方氏の手に由つて研究せられ始めたれば、明瞭なる結論を見るも遠きに非ざるべし。樂しみなる事なり。自分は昨年九月の學生文藝と云ふ雜誌に此魚に關する一小話を掲げ置けり。本會の諸君には縁故少なき雜誌なれば茲に再び其目次を掲ぐ。

　　一　奇談雜史に載せたる紀州八木山の山神祭にヲコゼを用ゐること

　　二　同上紀州諸村にてヲコゼを山神に供すること

　　三　同上江戸にても山神に供するヲコゼを賣りしこと

　　四　拙著後狩詞記に載録せる日向西臼杵郡椎葉村にてヲコゼを以て狩の幸を祈ること

　　五　想山著聞奇集に見えたる越後出羽の狩人樵夫がヲコゼを以て山の神に折ること

(447)　　六　和漢三才圖會の記事に山神ヲコゼを見ることを好むとあること

　　七　白井博士書簡山神と稱するヲコゼのこと

　　八　同上ヤマノカミ一名ハナヲコゼの圖

　　九　此ヲコゼをミコイヲ又はキミヲコゼと云ふは巫女の祭祀と因縁あるに似たりと云ふ説

　其後諸國のヲコゼ談を蒐集するに苦心せるも未だ何等の成績を得ざれども、此機會に於て二三件の新見聞を追録して他日の用に供せんとす。切に同志諸君の助勢を仰ぐ所なり。

　一〇　紀州｜八鬼山《やきやま》の近村曾禰莊甫母（今の三重縣南牟婁郡荒坂村｜甫母《ほば》浦？）には山神社の外に阿古師神社あり。ヲコジと音近きこと。橘井清五郎氏書簡

　一一　武藏大里郡の山村にても山神の祭にヲコジを供す。此は乾物にて越後邊よりの行商が村人の機嫌を取る爲の土産なり。柴田常惠氏談

　一二　三四年前相模箱根町に逗留中、宿の女房が怖しき顔して皿一杯になりたる魚を膳に添へたるを、名を問へば「山の神」と云ひ、伊豆の海岸にて捕るゝよし也。山の神が山の神を食はせたと戯れしことあり。此魚逗子の海岸にもありき。石黒忠篤氏談

　一三　「世話盡」と云ふ書に「山の神にヲコゼ」と見え、「毛吹草」と云ふ書には「山の神にヲコゼ見するが如し」とあり。犬子集と云ふ連歌の書には「四方《よも》を見て慰みたまふ山の神」と云ふ句の下に「ヲコゼや廣き海に住むらん」以上三俚言集覽。此書物の時代を知らば此信仰の起原の古さ分るべし。

　一四　大和本草卷十三に、ヲコゼ（和品）。フグに似て稜あり、背に針あり、赤色の斑あり、其長さ一寸ばかりなるを海人用ゐて山神を祀り日和と獲物のあらんことを祀る。

　一五　本朝食鑑卷九ヲコジの條に、集解に云ふ、形河豚に類して全身衣色赤文あり、面は虎猫の如くにして稜あり、(148)鱗なく赤斑あり、鰓後に長鰭あり翅の如し、亦赤し、大さ二三寸に過ぎず。其中に首尾一寸なる者海俗呼んで「山神?」と號す、或は寸を擇ばず混じて山神?と云ふは非なり。若し海上連日風濤惡しく網釣する能はざれば漁人手に一寸?を捧げ敬して山神〔二字傍点〕に供して曰く風穩に波靜かに釣網便あれと、則ち明日は必ず海上平穩漁人獲多し。此魚相豆房總の海濱にて雜魚の網に入來る、海西の諸濱も亦稀に之を得云々。山神?は人未だ之を食はず云々。

　一六　紀伊續風土記に依れば、ヲコゼには雜字簿に依りて虎魚の文字を宛て別に山神魚《やまのかみうを》あることを云へり。

　一七　山海名産圖會には黄?魚ギギ。山城嵯峨にて「ミコ魚」と云ひ、播州にて「ミコ女郎」と云ふ。物類稱呼には越前にて「赤ニコ」と云ふとあり。自分は播州神崎郡の出生なるが、ギギはギギと云ひ、「ミコ」と云ふこと知らず。但し此魚にも亦刺あり。後狩詞記に所謂「川ヲコゼ」なるものには非ざるか。

　一八　信濃北安曇郡八坂村字ヲコジラ。

　南方氏が熊野山中の奇草を得んが爲に山神とヲコジの贈を約せられしは一場の佳話なりと雖、其ヲコゼは果して山神の所望に應ずべき長一寸のハナヲコゼなりしや否や。自分は山神と共に少なからざる懸念を抱きつゝあり。又海人が山神を祀りヲコゼを之に貢することは頗る注意すべきことなり。恐らくは此信仰は「山島に據りて居を爲せる」日本の如き國に非ざれば起るまじきものにて殊に紀州の如き海に臨みて高山ある地方には似つかはしき傳説なり。四國中國の山村にも此慣習ありや諸君の捜索を願ふ。

　

(449)　　　山人外傳資料

　　　　　　（山男山女山丈山姥山童山姫の話）

　

　拙者の信ずる所では、山人は此島國に昔繁榮して居た先住民の子孫である。其文明は大に退歩した。古今三千年の間彼等の爲に記された一册の歴史も無い。それを彼等の種族が殆と絶滅したかと思ふ今日に於て、彼等の不倶戴天の敵の片割たる拙者の手に由つて企てるのである。此だけでも彼等は誠に憫むべき人民である。併し斯言ふ拙者とても十餘代前の先祖は不定である。彼等と全然血縁が無いとは斷言することが出來ぬ。無暗に山の中が好であつたり、同じ日本人の中にも見たゞけで慄へる程嫌な人があつたりするのを考へると、唯神のみぞ知《しろ》しめす、どの筋からか山人の血を遺傳して居るのかも知れぬ。がそんなことは念頭に置かない。茲には名譽ある永遠の征服者の後裔たる威嚴を保ちつゝ、かのタシタスが日耳曼《ジエルマン》人を描いたと同樣なる用意を以て、彼等の過去に臨まんと欲するのである。幸にして他日一卷の書を成し得たならば、恐らくはよい供養となることであらうと思ふ。

　山人史の史料は乏しくして且若干の矛盾がある。何れの國の歴史にも事實に傳説の織込まれてあること恰も金襴に金絲の織込まれてある如くであると同樣に、山人の歴史も亦今では子供より外承知しない多くの夢物語を雜へて居る。而して其原因が亦共通のものである。即ち傍觀者の誤解と語部の善意の誇張、殊には又聽者の物を信じ易い癖である。此等の三が著しく減少したのが即ち現代である。今若し傳説を混じて居ると云ふ理由で排斥するならば、多くの國に古代史が無くなる。但前にも言ふが如く、將に出んとする山人外傳は一敵人の筆に成るものである。從つて其記述は(450)一國の創業史のやうに國民的確信を基礎として築き上げることが出來ぬ。論爭から超脱した前提なるものが些も無い。山人が曾て此國に存在したと云ふ單純なる事實からが、既に嚴しい吟味批判を受けねばならぬのである。拙者は此出發點の困難を凌ぐ爲に、將來に向つても勿論あらゆる便利なる及び不便利なる史料を蒐集し且つ其抵觸を解説するだけの勇氣を有つて居る。獨自分の豫斷を確めて行くに止らず、又各種の懷疑派の立場にも立つて、想像し得る限の反對説に熟慮を吝むまいと思ふ。併し徂徠翁の「なるべし」や平田氏の「疑なし」や某々氏の「ならん」「あらざるか」などの連續では歴史は書けない。故に此際賢明なる讀者に對して切に望むことがある。自分は敢て山人は人であると云ふ假定を承認して下されとは言はぬ。唯願はくは少し此假定に同情をして貰ひ申したい。せめては自分が山人に與へて居る同情の七分の一ぐらゐの同情が望ましい。

　支那は昔から史料編纂官を優遇した國である。孔丘《こうきう》董狐《とうこ》等の筆を神の如く尊敬した國である。世が治れば蠻夷戎狄が八荒の果から其都に集つた。此程豐なる見聞を備へながら、山海經を始として歴朝の所謂｜職方《しきはう》の記録は如何であつたか。鶴に食はれるやうな小な人、腹に眼があり穴があると云ふ人間、不精密も亦甚しいでは無いか。是皆民族としての同情が足らぬからである。初から五感四肢自分の類では無いと考へて掛つたのが誤の本である。比較文明史の研究者から見れば、我邦でも尻に尾があつたなどと云ふ風説を史書に載せたと云ふことは、却つて國民の外交能力の未發達を示して居る。併しあの時代には山人の眷屬もまだ多く、狹い此島に雜居して居たのであるから、存外詳い消息が傳へられて居る。世降つて日本人が充滿し彼等が所謂山人となり終つた頃は、恰も郷土誌編纂の事業が大いに頓挫した時である。山人の生活はさて置き、平民の歴史までが追々不明になつた。而して終には馬來《マレイ》型の顔もアイノ手の眉鬚も悉く源平藤橘何かの朝臣に決定することゝなつたのである。歴代の對山人策も無論田舍文獻の消長に伴つて變遷して居る。今之を諸國の大和種族の植民地が此連中を觀察した態度に依つて言へば、幸にも近世の流行に從つた時期の分劃をすることが出來る。御愛嬌に先生方の尤らしい口吻を眞似て見ようと思ふ。第一期は名づけて國津神時代と(451)云ふ。神代より以降略々山城遷都の頃を以て終る。山人の先祖がまだ多く谷平野に群居して我々の部落と對抗した時代である。日本人は彼等の酋長を荒神邪神と呼び、一朝歸服して路を開けば乃ち彼等が信仰を尊重して一番優い者を國津神と云ひ、其家の祖先を國魂郡魂などと云つて祀ることにした。第二期は少しく短いが鬼時代又は物時代と云ふ。阪上田村麿等の名將軍の盡力で、歸化する者は早く歸化をさせ其他は深山の中へ追入れた。併し官道の通らぬ山地には險を憑んで安住し、與黨が稍々集れば再出でて交通を劫した。大江山鈴鹿山の峠のみならず、時には京都の町中まで人を取りに來る。京都人は彼等が出没の自在なるに驚いて人間以上の物と認め、當時色々の浮説を之に附加へたやうである。又武具の力では制せられぬと斷念して祈?の方に力を入れ、從つて山人を以て單純なる鬼物と認めようとした。併し此鬼物が空想の産物であれば其空想の由つて來る所がなければならぬのに、其記事は文字通の變化百出であつて、少なくも其中心の實驗の綜合であることがよく分る。此時代の終期は一段と定めにくいが、自分は例に依つて鎌倉開幕の時までとして置く。實際太平記其他次の期の書物の鬼は前代の書籍に養はれた思想であることがよく分る。第三期は山神時代であつて江戸將軍の始に迄及んで居る。山人の多くは鬼と言はれながらやはり歸化土着した。山に殘る頑冥派は愈々孤居寂寞の者となり、最早平地人と戰ふの勇氣もなく、僅に姿を見せることはあつても人を畏れて直に隱れた。而も其爲に山人の不思議は却つて加はり、堂々たる敵人の態度を罷めて盗に近い卑屈な作業を敢てするのまでを、地方人は其神�ｺの中に數へ、鬼時代には曾てしなかつた禍福に付ての祈願をした。或は又｜狗賓《ぐひん》時代天狗時代と名づけても宜しい。此信仰の發生に參與したのが山を半生の家とした所謂馳出の山伏等である。山中の修行の只の人に出來ぬことを立證する爲に、山人に緋の衣を着せたり頭巾《ときん》を戴かせたり羽扇を持たせたり、其他突飛なる色々の特性を附加へて今も其傳説を各地に留めて居る。第四期に至つては大なる零落である。自分は涙を揮つて之を猿時代と名づける。足利氏の末頃から追々進んで來た醫學につれて物の名を詳らかにする本草家と云ふ學問が起り、�ｺ川時代の文明が之を成長させて終に貝原氏の大和本草、寺島氏の和漢三才圖會となつた。此以後の書には山男山爺(452)などは寓類の中に數へられて、狒々の次に置かれてある。實際山人族の文化の退歩も亦甚しいものがあつた。彼等と我々との懸隔は莫大なことであれば、人類學の今のやうに進む迄は抗議をするにも材料が無かつたかも知れぬが、實は此分類は支那書の受賣であつた。さて自分が今自ら評判して居る書物が若し出版屋を見出したならば、日本人の對山人史は明らかに其第五期に入ることであらう。

　右に陳述した歴史上の五大分期は、形は御覽の通り立派なものであるが、やはり他の多分の例に洩れず、各期の尻と頭とが錯綜して曙染を爲して居る。結局何の爲に分けて見たか一寸答へられぬことにならぬでも無いが、少なくも眼前紛雜を極めて居る山人史の資料を、右の思想の變遷に從つて處理淘汰して行くに都合が良い。併し自分は誓つて其やうな易行道には赴かない。其理由は澤山あるが、一には此時代分は更に第二の大なる假定である。第一の假定の確立せぬ中に又一歩を進めるのは信任の濫用である。二には自分の取扱はんとする問題は今日の山男である。近世の史料に基づいて近世の山人の生活を明らかにせんとするのである。日本人に滅された又は日本人となりすました彼等が從兄弟の傳記に多くの力を割くことが出來ぬ。三には此五期の分類に依るときは到底何れにも屬せしめ得ない近代の貴重な材料がある。本草家の中には一方に山人を猿の類に入れるやうな事大主義の存すると同時に、我々と同じ心掛で重きを實際の觀察に置き、之を忠實に書殘して斷定を後昆《こうこん》に任せた一派がある。此勞力を徒らにせぬ爲には、時代時代の思潮から立離れて、面倒を厭はず個々獨立の見聞録の矛盾を解明して見ねばならぬ。而も其矛盾には大分厄介なものがある。自分は生憎研究法の學者を友人に有たぬ爲に、自ら考へて見てもちと不細工な粗い分類をして居る。諸君笑はれては困るが、それは第一類山男等が物を言つたと云はぬ記事第二類山男等が物を言つたと云ふ記事である。彼等を神でも妖怪でも無いとする自分の假定に從へば、ごく大ざつぱに一類を事實に近きもの二類を傳説と分けてもよいやうであるが、さうは出來ない仔細があつて後に述べる。又傳説だから顧るに足らぬと云ふやうな不親切なことは言はぬ。一々鄭寧に考察すべきは勿論であるが、順序として此から先づ第一類の史料に手を着けて見よう。

(453)　近世の山男記事では駿河と土佐の二國に存する者が最も古い。而も此二國は今日に至るまで山人の足跡の甚だ多い地方である。

　　慶長十四年四月四日、駿府御殿の庭に人あり。四肢に指無し。弊衣を着、亂髪にして青蛙を食ふ。何方よりとも無く來る。其居所を問ふに唯手を以て天を指すのみ。天より來ると言ふなるべし。左右之を殺さんとす。家康公仰せに殺すことなかれとのこと故、之を御城外に放つ。其行方を知らず。（東武談叢）

　此話は駿國雜志に從へば亦一宵話と云ふ書にも載せてあつて、多少の相違があるさうである。思ふに當時の大評判であつて區々の噂があつたらしい。天を指した時に見たのであれば指の無かつたことは確であらうが、それは怪我でもして居た山人である。弊衣を着て居たとあつても其材料は不明なのは遺憾なことだ。天より來たと解したのは所謂山神思想の痕跡であるが、靜岡に現れたと云へばどうしても安倍川又は藁科川の上流の居住者と見ねばならぬ。

　　寛永十九年壬午の春、豐永郷の深山より山ミコと云ふ者を高知へ連來る。大の男にて肉合逞しく、年齡は六十ばかりに見ゆ。食を與ふれば何にても食ふ。二三日して本の處へ返し遣ます。（土州淵岳志）

　寛永十九年は前の話より、三十三年の後、今から二百七十年ばかり昔である。豐永は吉野川の上流で土佐長岡郡、此邊では山ミコと云ふ名もあり本の處も知れて居たのである。同じ時代に山陰道の方面にも之に付て若干の實驗をし得た者があつた。

　　寛永年中の事也。安成久太夫と云ふ武士あり。備前因幡國換の時節にて、未だ居屋敷も定らず、氣高郡鹿野の在に假に住みけり。或夜山に入りけるに、夜更け月の光も薄く木立も奧暗き岨《そば》陰より、何とも知らぬ者驅出で、久太夫が連れたる犬を追掛け遙の谷へ追落して、傍なる巖窟に驅入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に入れんとするに、犬怖れて入らざれば、若黨に命じて彼者を探り求めしむ。人の長ばかりの猿の如き者也。若黨引出さんとするに、力強く爪尖りて若黨の手を掻破りけるを、漸くに引出したり、久太夫葛を用ゐて之を縛(454)り村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに、髪長く膝に垂れ面相全く女に似て、其荒れたること繪にかける夜叉の如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只にこ／＼と打笑ふのみ也。食を與ふれども食はず、水を與ふれば飲みたり。遍く里人に尋ぬれども仔細を知る者無し。一村集りて之を見物す。其中に七十餘の老農ありて謂ふには、昔此村に産婦あり、俄かに狂氣して驅出でけるが、鷲峯山に入りたり。親族尋求むと雖終に遇ふこと無しと言傳へたり。其年歴を計るに凡百年に餘れり。若は此者にてもあらんかと也。久太夫速に命を助け山に追返しけるに、其走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しと云へり。（雪?夜話）

　因幡西部の山地での見聞である。里の男女が發狂して山に入つた話は多いことで、何の目印も無く彼女であらうは速斷であつたが、少なくも此邊の深山にも外にあまり心當の無い程、珍しい事件であつたことが分る。犬を追落した樣子に依つて幾分か此者の常の生活も察せられる。猶追々列擧する記事と比較して貰ひたい。

　

　山人が尋常一樣の妖怪の類で無い證據として先づ諸君の注意を乞ひたいのは、此物が小さな島に居らぬと云ふ點である。若し我々の想像の産物でありとすれば、人の行く處には必ず追隨すべき筈であるが、實際の遭遇談は舊日本の三箇の大島の、而も凡そ定まつた十數箇所の山地にのみ傳へられて居るのである。要約して言へば山男の居りさうな處にばかり山男は居る。假令其話の十中二三が幻覺であつたとしても、猶幻覺相應の根據があるらしい。今地圖の上に於て此等山人の居住地の相互關係を考察すると、海上交通の問題だけは特別の説明を必要とするかも知らぬが、其外に於ては極めて自然なる聯絡が存して居るやうに思はれる。即ち最初は麓の方から騷け登つたとしても、一旦山に入つてから後の遷徙《せんし》異動に至つては、全然下界と没交渉に之を行ふことが出來る處ばかりである。九州で申さば今でも此徒の活動して居るのは彦山の周圍と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通れば殆と無人の地のみである。但し阪梨の峠を鐵道が横ぎるやうになつたら彼等は大に面食ふことであらう。四國では石鎚山山彙と劍山の奧が(455)本據であるらしい。吉野川の上流には處々に閑靜な徒渉場があるのみならず、多くの山の峯は白晝大手を振つて往來しても見咎める者も無く、必要があれば一寸鬱散の爲に海岸に出て見ることも自由である。それから本土に於ても彼等に取つて不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、例へば木曾の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石農鳥に就いて北に向へば、高遠の町の火を眼下に見つゝ、そつと蓼科の方へ越えることも出來る。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭なら、守屋嶽の峯傳に岡谷の製絲工場の些し下流で天龍川を渡つても宜しい。鹽尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏して居る。山人に取つては恐らくは里近い平野が我々の方の山路峠路に該當することであらう。我々の旅人が麓の宿の旅籠に泊つて明日の山越の用意をするやうに、彼等は又一人旅の晝道は危いなどと、言つて居るかも知れぬ。所謂赤石山脈の縱斷などは近頃になつて山岳會の諸君が冒險をする迄は、�ｺ川氏の初期に勇敢なる駿州の武士が之を企てたのを傳へて居るのみである。秋葉の奧山の如きも亦安全な路線である。天龍の峽谷で足を沾すことさへ承知ならば、何の骨折も無く木曾駒ヶ嶽一帶の幹路に取附き得る。木曾から立山へ、又は神通川が面倒なら位山川上岳の峯通に直接に白山に掛り、能郷の白山から夜叉池の靈地を巡遊して、北國海道などは一飛に比良にも鞍馬にも比叡にも愛宕にも出られ、柳櫻の平安城を指點して、口先だけならば將門純友の豪語も爲し得たのである。それから西へ行けば大山｜三瓶《さんべ》山、因幡出雲にも小さな植民地がある。又熊野の奧へ越えるのには逢阪山に往來の人がちと多過ぎる。故に湖東膽吹山の筋を迂囘して伊勢大和の境山を行く。路は稍々遙ではあるが住心地の好い南の海邊である。夜寒の苦が少なくして且白く柔い海の魚を取得る望もある。伊豆の天城よりは近所が靜でよい。夏になれば富士川を越えて東北の新天地にも遊ぶことが出來る。富士の八湖を左手にして籠阪を夜半に横ぎり、笹子大菩薩を經て秩父の奧に行けばゆるりと休息する。荒船から碓氷にかゝり淺間の中腹を傳つて、左に折れて戸隱黒姫妙高山附近の故郷を訪ねるもよし、或は又白根から南會津に入れば、只見川の水源地の如きは安樂國の一である。駒ヶ嶽飯豐朝日嶽まで行けば廣い國と大な海が見える。鳥海山へは大分迂回せねばならぬが、奧州境の山に沿うて北(456)秋田に入り、田代岩木の山に行けば多くの同類が居る。阿仁から岩手山の方に出てもよし、鹿角の澤へ下ると銅山の煙には弱るが、北上川の分水嶺を過ぎて東海の荒濱の見える閉伊の山地にも落付くことが出來るのである。勿論山人の道中記とは符合せぬかも知れぬ。又彼等の間には此の如き大旅行の必要は無かつたかも知れぬが、諸國の山奧に散在する此等の人民がもと一種族であつたことだけは容易に想像し得ることである。

　前に列擧した山國に於ては山人の居たと云ふ確な話が段々あるが、後の説明に入用なものは先づ爰には略しておき、最初には唯此者に逢つたと云ふだけの例を二つ三つ出して見よう。

　　對馬某は物産に精し。常に藥を叡山に採る。或日溪の側に憩ひしに、偶々谷を隔てたる山の下に、一人の小兒が出でて石の上に遊べるを見たり。數々躍下りて復上る。是は必麓の村の民家の子が來りて遊ぶならんと思ふ程に、其小兒は去行きぬ。其後此邊を通り見るに、石は高さ數丈あるものなりき。之を以て料れば、かの折小兒の如く見えしは身長一丈もありしなるべきか。蓋し山魅《やまのかみ》の類なるべしと。（有斐齋剳記）

　　川路聖謨先生或年公の命にて木曾に入りある山小屋に宿す。月の明らかなる夜深に、小屋の外に來て頻に聲高く喚ぶ者あり。刀を執りて戸を開けばそこには早影も見えず、極めて丈高き男の小屋の前なる山を降行く後姿、遠く月の光にて見ゆ。山男なるべしと其折從者に語られしが、他日終に再此事を口にせられず、日記にも傳にも未之を記するものを見ずと。（石黒忠篤君談）

　　越前丹生郡三方村　　大字杉谷の、勝木袖五郎と云ふ今五十餘の男、十二三歳の頃の事なり。秋の末枯木を取りに村の山へ行くに、友だちは欺きて皆外の處へ行き、此者一人村の白山神社の片脇なる堂ヶ谷と云ふ處にて木を拾ひてありしが、ふと見れば目の前のカナギ（くぬぎ）の木に凭れて大男の毛脛すくと見えたり。見上れば目の屆かぬ程に丈高し。怖しければ直に引返して程近き我家の背戸口に馳せ歸り再其山の方を振返り見るに、大男は尚もとの場所に立ち、凄き眼をしてじつと此方を見てありしかば、其時になりて正氣を失ひたりと云へり。堂ヶ谷は(457)宮にも民家にも近き低き山なり。（前田雄三君談）

　　四國の深山に山爺と云ふ物あり、形は痩せたる老人なるが絶崖巉岩を行くこと平地の如し。山民時として之を見る。さまで神仙の術あることも聞かず。誠に山澤の?仙と看つべきもの也。南部の山中にも松栢の葉のみ食ひて餘物を食はず、澗飲して年代を知らざる者あり。皆是此類ならんと云へり。（日東本草圖彙卷十二）

　

　拙者の山男談は二囘や三囘で種の盡きるほど不景氣なものでは無い。唯天孫人種の昔話であまり賑かである故に、山男風に暫く退嬰して居たのだ。又そろ／＼と御意を得たいものである。さて山男が眞の人間である證據として最も有力なるは食物の話かと思ふ。此人種の氣の毒なのは火を自由に用ゐ得ないことである。それも初から火食の便宜を丸々知らぬのならばよいが、火と云ふ物は暖いこと正に夜分の太陽とも名づくべきもので、僅の間其上に肉類を載せて置くと、大變に脆く且つ香しくなることを記憶し又は聞傳へて居る身には、生活の大必要からとは言ひながら、火の光を避けねばならぬ第二の天性を作るまでには定めて苦難を忍んだことだらう。自分で火を燒《た》くなどと云ふことは窟の中でも斷念せねばならぬ。殊に次の冬まで持越すべく夏中火の番をして居るには勞力の融通がつかぬ。故に是非もなく寒さに堪へるだけの皮膚になつた。（山から小僧が泣いて來たと云ふ歌は、あれは御寺の小僧のことである）。彼等は谷川の魚又は山鳥羚羊等の肉を生で食つたらしい。此は人の想像し得ることであるが、慥な史料もあるのである。其一例を擧げるなら、

　　高田（越後）の大工又兵衛、西山本に雇はれをり一夜急用ありて一人山路を還る。岨道の引廻りたる處にて圖らずも大人に行逢ふ。其形裸身にして長は八尺ばかり、髪は肩に垂れ眼の光星の如し。手に兎一つ提げて靜かに歩み來る。大工驚きて立止れば、彼も亦驚けるさまにて立止り終に物も言はず路を横ぎりて山に登り去りしとぞ。（北越雜記卷十九）

(458)　大人《おほひと》と云ふ語は我國東半分に弘く行はるゝ山男の別名である。此兎は何の爲に運搬して居たか、言はずとも知れた彼等の辨當乃至は家苞である。本草綱目釋義、獣の部に、

　　「山※［獣偏＋噪の旁］」ヤマヲヂ、（筑前）ヤマヂ、（阿波）ヤマヂイ（讃岐）。九州又は四國に多し。山深く續く處に居る。木曾にも有り。常の人よりも小にして男の形、はだか也云々。仙人山中に入る時火を焚けば、傍に來て蟹などを燒きて食ふ。何事も害をせぬ物なり。

とある。大分多勢の口を經たらしい記事であるが、外にも、之と似た記録がある。

　　會津領耶麻郡磐梯山の西北の谿、多く藥草を産す。川?《せんきう》殊に宜し。山下の村民稼穡の暇には山を攀ぢて之を採る。文化の初年に、村民二人深く奧山に入り出ること能はず、澗《たに》の側なる大木の虚洞にて夜を明かすとて穴の邊に火を焚きてありしに、其谿の内より出來る者あり。其?猿の如く唇長く、長は六尺ほどにて女人の姿に似たり。髪の毛は六尺餘、大凡踵を隱すばかり也。兩人を見て笑ふ。其凄きこと言語に絶えたり。やがて火の傍により捕へ來たりし澤蟹を焙り食ふ。是俗に謂ふ山ワロと云ふ物にて野?《やゑん》の年經たるなりとぞ。奧羽の間の深山にはまゝ居る由なり云々。（龍章東國雜記第六集）

　此話の中、唇長く云々の二三句は皆樣御信用御隨意である。火を借りに來て世辭笑をしたのを物凄いなどと云ふ兩人が、口元によく氣を留めたとも思はれぬ。此は全く野?の年經たものと聞いて居たからの文飾らしい。其事は後に狒々の條に述べたいと思ふ。

　次に常識者流の言ひさうなことは鹽の問題である。我々は山人を海より杜絶して甲斐の信玄にして了つた。交易なしにどうして山中に住めると詰じるであらう。之に對しては簡單に山鹽又は鹽の井のことを告げたら十分だ。明治四十三年かに、專賣局が所謂鹽田整理をするとき迄、信州飯田の收納所で買上げてやらねばならぬ製鹽があつた。それは南朝皇族の御隱家であつた下伊那郡大鹿村大字鹿鹽の鹽井の産であつた。赤石の北、白根の西、稀なる深山の奧で(459)あつたが、拙者知合の阿波の人が久しく住んで鹽を造り、終に此時賠償金を貰つて罷めた。鹽の字の附いた温泉鑛泉は最も多い。交雜物はあるが鹽水である。甲州では奈良田の鹽の井、即ち西山の湯の所在地である（甲斐國志）。越後では魚沼郡妻有郷の鹽澤驛、古志郡｜橡尾《とちを》郷鹽谷の鹽川村、蒲原郡菅名庄下條村鹽澤の鹽泉、同郡奧山庄鹽谷村鹽入の温泉外數箇所（北越雜記）。會津大鹽の鹽泉なども之を煮て鹽を製した（東國雜記）。出羽の庄内では東田川郡東村の田麥俣、飽海《あくみ》郡平田郷圓道河内の臺淨權現の奧院鷺の澤も鹽井である（三郡雜記）。羽後北秋田郡切石村西山の麓の鹽井は弘法の突鹽と稱へ、大師の法力に由つて出たもので元は白鹽であつたと云ひ、今でも此水で魚を煮たり蔬菜を儲藏する（秋田縣案内）。西部の諸縣にもあるがあまり多くて煩しい。此だけあれば山男の嘗めるには澤山であらう。駿州奧仙俣の奧に青色の泥の出る處がある。土に鹽氣があつて時々鹿が來て嘗める（仙梅日記）。鹿の湯、狐の湯などと云ふ温泉に、此等の動物に教へられて靈驗を知つたと云ふ口碑がよくあるが、斯なのを見掛けたのが元であらう。野飼の牛馬が烈しく鹽を欲求することは誰でも知つて居るが、野獣も野獣相應に需要を充す術があつたのである。但し山に住む者は習慣の力を以て出來るだけ消費を制限してゐたには相違ない。吉野の山中の異人が一握の鹽を小屋に來て貰ひ、此だけあれば十年は凌がれると云つた話が、馬琴の覊旅漫録かに見えて居た。

　植物性食物の方面に於ては、拙者は本誌第三號の大野君の問、同第四號の南方君の答に由つて大に辯明が樂になつた。野生植物の食用に適する物は年中殆と間斷が無い。實が盡きると根が肥える。春より夏にかけては色々の嫩芽が出る。次から次へ食べて行かれる。殊に樹果には人をして山を愛せしむるに足るものがある。今昔物語の猿などは、山に入つて栗柿梨子｜栢《かや》榛《はしばみ》郁子《むべ》山女《あけび》などを採來つて僧に供養したとある。梨子なども山中の休場に大木があつて旅人の食ふに任せてある者が今でもある。殊に栗などはあまり多くして食つて取つて來ることも出來ぬのは、一寸平野の人には想像のならぬ所である上に、時としては早く山人に占領せられ居る樹があつた。

　　伊那郡（信濃）と筑磨郡との境に、南小野より諏訪へ越ゆる少しの峠あり。三分《みわけ》村の峠なれば之を三分峠と云ふ。(460)峠の下に天狗の林と云ふあり。小さき林なれど一本も餘の木は無く、すべて皆栗の木なり、此栗枝垂れて柳か絲櫻の如く、實のある時には其枝地を掃くばかりなれど、是天狗の栗なりとて之を打落す者なく、唯地に落ちたるを拾ふなり。實は至つて小さく何にもならねば取る人も無しと謂へり。（千曲之眞砂附録）

　山越の者が此木を採らぬやうになつたのは、多分何度も石を打附けられるとか劫かされるとかした經驗に由るので、何にもならぬと云ふのは危險を犯すだけの價値が無いと云ふ迄であらう。而して栗を食ふ天狗とは則ち山男のことに相違ない。次に根を掘つて食ふ物には山百合などが主たるものである。此草の多い場所は淺い山にもある。アイヌの姥百合の例を見てもわかる如く、三百人や五百人の食物はどこにでもある。山慈姑《かたくり》蕨《わらび》薯野老《いもところ》も澱粉に豐である。併し此外にも町の人が蕗の薹を食ふやうに、オツな食物としては何があつたか分らぬ。山人の食鑑は我々にはとても編輯が出來ぬ。

　　中村澤目蘆谷村と云ふは、岩木山（陸奧津輕）の?（？）にして田畠も多からねば、炭を燒き薪を樵りて活計の一助とす。此里に九助と云ふ者あり。常の如く斧を携へて山に入り、柴立を踏分け溪水を越えて二里ばかりも登りしが、寥廓たる平地に出でたり。年頃此山中を經廻すれども未だ見たること無き處なれば、始めて路に迷ひたるを覺り、且は山の廣大なることを思ひ歎息して彳《たゝず》みしが、偶々あたりの谷蔭に人語の聞えしまゝ、其聲を知邊に谷に降りて打見やりたるに、身の長七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔を摘取る樣子なり。背と腰には木葉を綴りたる物を纏ひたり。横の方を振向きたる面構は、色黒く眼圓く鼻ひしげ、蓬頭にして鬚延びたり。其?貌の醜怪なるに九助大に怖を爲し、此や兼て赤倉に住むと聞きし大人ならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶き轉び落ちて却りて大人の傍に倒れたり。仰天して口は物言ふこと能はず脚は立つこと能はず、只手を合せて拜むばかり也。彼者等は何事か話し合ひしが、やがて九助を小脇に抱へ、嶮岨巖窟の嫌なく平地の如くに馳せ下り、一里餘も來りたりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して忽形を隱し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始め(461)て幻夢の覺めたる如く首を擧げて四邊を見廻らすに、時は既に申の下りとおぼしく、太陽山際に臨み返照長く横はれり。其時同業の着手に／＼薪を負ひて樵路を下り來るに逢ひ、?末を語り介抱せられて家に歸り着きたりしが、心中鬱屈し顔色憔悴しで食も進まず、妻子等色々と保養を加へ五十餘日にして漸く回復したりしと也。（小田内通敏君寫本）

　　大井川（駿河）の奧なる深山に山丈と稱する怪獣あり。島田の里人に市助と云ふ者、材木を業として此山に入ること度々あり。或時谷畠の里を未明に立ち、智者山の嶮岨を越え八草の里に至る途中、夜既に明けんとするの頃深き林を過ぐるに、前路數十歩を隔てゝ大木の根に長一丈餘の怪物凭掛りて立ち左右を顧みるを見たり。案内の者潜かに告げて謂ふ、かしこに立つは山丈なり。行逢へば命は計り難し。近づくべからず、又聲を揚ぐぺからず。此林の繁みに影を隱せと云ふ云々。かの怪物樹下を去り峰の方へ疾走す。之を窺ふに形は人の如く髪は黒く、毛は身を蔽ひたれど面も人のやうにて、眼きらめき長き唇反りかへり、髪は一丈餘にしてかもじを垂れたるが如し。市助は之を見て身の毛竪ち足の踏所を知らず。されど峰の方へ走り行くを見て始めて安堵の思を爲し、案内と共に彼處に至りて其跡を閲するに、怪獣の糞樹下に堆く其多きこと一箕ばかりあり。あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥き探りたる跡あり。導者謂ふ、是怪物があま皮を食ひたるなり。又好みて篠竹を食ふと云へり。糞の中には一寸ばかりに?碎ける篠竹あり。獣の毛も交りたりしとかや云々。（駿河國巡村記、志太郡卷四）

　此話は單に唇の點のみならず、よほど疑はしい部分があるから、どれ迄を採擇してよいかちよつと決しかねる。併し大井川の源頭は山人人口の最も稠密な地方であれば、此記事は參考にせぬわけには行かぬ。さて話が愈々終局まで來たから、次には章を改めて山男が米の飯を欲しがると云ふことを述べたいと思ふ。

　

　山男がむやみに背の高い大人であると云ふ話と對立して、子供のやうに小さいと云ふ記事の少なくないのは妙な現(462)象である。段々と比較をして見ると結局はさほど大きくも小さくも無いのが事實らしい。更に山人の食物のことを御話して見よう。

　　「山猿」俗に山ワロと云ふ。按ずるに九州の深山に山童と云ふ物あり。容貌十歳ばかりの童子の如し。遍身細毛あり。柿褐色にして長き髪面を蔽ひ、肚短かく脚長く、立行して人言を爲し早口なり。杣人と互に相怖れず。飯雜物あれば喜びて之を食ひ、木を斫る用を助く。力甚だ強し。若し之に敵すれば則ち大に害を爲す。（和漢三才圖會卷四十）

　右の寺島氏の説はどう見ても實驗者の言では無い。肚短く云々から早口であると云ふ點まで、近世の川童に關する九州からの報告と吻合して居るのは頗る注意すべきことで、或は次の「夏は川に住みて川太郎と云ふ」とある記事に筋を引いては居ないかと思ふ。但し川童には飯を喜ぶと云ふやうな話はあまり聞かぬ。

　　九州西南の深山に俗に山童と云ふ物あり。薩州にても聞きしに、かの國山の寺と云ふ處にも山わろ多しとぞ。其形は大なる猿の如くにして常に人の如く立ちてあるく。毛の色甚だ黒し。此寺などに毎度來りて食物を盗み食ふ。然れども鹽氣ある物を甚だ嫌へり。杣人などは山深く入りて木の大なるを伐出す時、峰を越え谷を渡らざれば出し難く出し惱む折には、此山童に握飯を與へて頼めば、如何なる大木といへども輕々と引きかたげて、よく谷峰を越し杣人の助となる。人と共に大木を運ぶときは、必ず後の方に立ちて人より先に行くことを嫌ふ。飯を與へて之を使へば毎日來り手傳ふ。先づ使ひ終りて後に飯を與ふる也。始に少々にても飯を與ふれば食し終りて逃去るが故なり。常には人の害を爲すことなし。若し此方より之を打ち或は殺さんと思へは不思議に祟を爲し、其者發狂し或は大病に染み或は其家俄に火を出すなど、種々の災害起りて祈?醫藥も及ぶことなし。此故に人皆大に怖れ敬ひて手ざすこと無し。此物只九州の邊境にのみありて他國にあることを聞かず。冬より春へかけて多く出ると云ふ。冬は山に在りて山わろと云ひ、夏は川に住みて川太郎と云ふと或人の語りき。されば川太郎と同じ物(463)にして所により時によりて名のかはれるものか。（西遊記）

　此話は之を載録した書物と共に非常に有名になつたもので、享和元年の野翁物語を始とし、多くの隨筆類にも丸寫しに轉載せられて居るが、固より著者が旅行中に聞いて來たと云ふばかりで、實は空な噂である。一體がちと仰山な人であるから、事によると所謂薩州山寺の話の序に、平素愛讀して居た和漢三才圖會の記事を面白く布衍したのかも知れぬ。山男が人の心中を洞察すると云ふこと及び冬は山童夏は川童と云ふことなどは、殊に九州で聞いて來たとは思はれぬ。此等は山男に關する最もありふれた俗説であつて、「他國にあることを聞かず」などと云ふのは、人を疑つてはすまぬが少々とぼけ過ぎて居ると思ふ。併しながら拙者は此が爲に山男の米の飯を愛し或は人家に入つて之を盗み或は勞働と交易すると云ふ事實を否定しようとは思はぬ。次に擧げる一報告の如きは、根據の確で無いことは同じながら、話がよほど具體的である。又之を旁證し得べき他國の例も段々あるのである。

　　豐前中津領の山賤など、奧山より木を伐出す時、馬牛の通ひ難き場所は山男と云ふ者に頼みて山の口まで之を出す。甚だ便利なり。山男は大抵長六尺、高きは六尺四五寸もあるべし。力量至つて強き者なり。材木を負せて出すに、一向人と言語を爲さず、唯此方の言ふことは聞分ると見えたり。此木を山口の何と云ふ處まで出しくれよ、其賃には此握飯を遣すべしと約束す。又もし此木二本持たば二つ遣んと言へば、其側に寄り木を持試み、二本持たるゝと思へば之を傍へよせて二本一所の由を示すなり。足は至つて遲し。總身人と同じくして毛多し。尤も裸なり。下帶とても無し。男女しるしはあれど股のあたりは殊に毛深く、眼の色と大小とにて男女を別つばかりなり。甚だ正直なる者にて、約に違へば大に怒り大木なりとも之を微塵と爲し、且つ其人を忘れず重ねて逢ふことあれば無二無三に飛掛りて半死半生に爲す也。そは握飯二つと言ひて一つ遣しなどしける折のことなり。此樣子蝦夷人に似たりと謂ふべきか。山中往來の場處限ありと見えて、其處よりは少しも里へ出でず。又岩角谷川如何やうの所にてもゆたり／＼と歩む。川深ければ牛の如く頭の隱るゝ川にても底をば平地の如く歩み行くなり。男(464)は大抵肥えて色青黒し。又山女は木葉樹皮ていの物を割きて莚の如く編綴り、それを身に纏ふなり。色は青白く丈も男より少し低く痩せたる方なり。是は一寸は人の眼に係れど中々傍へは寄來らず。如何やうの場處に住み居るにや知る者無し。獵人などたま／＼深山の岩窟に眠りて居るを見ることありと云ふ。國により住む國と住まぬ國とあるにや、はた山によるにや知れ難し。仙人などとは樣子異なるものなり。平生は何を食類と爲すかと思ふに、多く木實又は鳥獣それ／＼の得物を求め生物を食す。或は其皮を着もし敷きもすると見えたり。又藤葛を裂きて絲の如くし用ゐることあり。齒は男女とも至つて白し。されど甚だ穢しき臭氣ある由なり。（周遊奇談卷三）

　此書も近世出板の通俗讀本であつて、其目的の都人士をして驚歎瞠目せしむるに在つたことは西遊記と同じく、何れは行逢の旅人から聞傳へたものに相違ないが、よほど上手に根掘葉掘をしたと見えて、記實が要領を得て居る。橘春暉がもし此本を見たなら、恐らくは冬は山童夏は川太郎などの俗傳を蛇足しなかつたであらう。出板もたしか此方が大分後である。但し此著者が秋田方面に於て白身山男を見たとあるのはちと如何なものかと思ふ。見たにしては冷淡な記事である。

　　出羽國仙北より水無銀山阿仁と云ふ處へ越ゆる近道、常陸内と云ふ山にて路を踏迷ひ、炭燒小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豐前のに同じけれど力量は知れず。木も炭も石も何にても負ひもせず、唯折々其小屋へ食事などの時分を考へ來ると也。飯などを握りて遣せば悦びて持退く。人の見る處にては食せず。如何にも力はありさうなり。物は言はず、のさ／＼立廻り歩くばかり也。尤も惡きことはせず、至つて直なる由なり。此處にては山女は見ず、又其沙汰も無し。（同上卷三）

　飯の時刻を狙つて來るとは隨分と山人を蔑視した言であるが、彼等の無邪氣なことはよく解る。尚之と同じく山人が米の飯に心を引かれたと云ふ例は澤山ある。

　　飛騨の山中にオウヒトと云ふ者あり。丈は九尺ばかりもあるべし。木葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞(465)きたる人無し。或獵師山深く分入りて獣多き處を尋ねけるが、思はず此者に逢ひたり。走り來ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方なく、せめては斯もすれば助からんかと、飢の用意に持ちたる團飯《むすび》を取出で手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる樣なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒と云ふ例も思出でられて、斯る物食ひたるは始てのことなるべしと思はる。暫くありて此者狐貉夥しく殺しもて來て與へぬ。團飯の恩に報いるなりけり。獵師勞なくして獲物多きことを悦び、夫よりは日毎に團飯を包み行きて獣に換へ還りたり。然るに隣なる獵師之を怪み、竊に覗ひ置きて深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん彈こめて撃ちたり。打たれて遁げければ獵師も歸りぬ。前の獵師此事を聞きで、あな不便のことやとて猶山深く尋ね入り峰より見たるに、此者谷底に倒れ伏したるを、同じやうなる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。もし近づきなば他に打たれし仇を我に怨みやせんと怖しくなりてやみぬ。斯て後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを人の傳へたりし也。深き山には斯る物もありけるよとて細井知愼語れり。（視聽草第四集卷六、荻生徂徠筆記）

　此話はあまり調子がよくて話のやうだ。隣同士の二人の爺などは花咲爺と同じ形式である。唯話した人も聽いた人も立派な先生である上に、多くある例であれば飯と獣の交易までは信用したいと思ふ。

　　越後魚沼郡堀之内より十日町へ越ゆる山中七里の間道あり。或年夏の初、十日町の縮問屋より堀之内の問屋へ、白縮若干急ぎ送るべしと言來りしかば、其日の晝過る頃より竹助と云ふ剛夫を選び荷物を負せて出したり。道半に至る頃日ざし七つに近し。竹助は道の側の石に腰掛け燒飯を食ひ居たるに、谷合の根笹を押分けて來る者あり。近づくを見れば猿に似て猿に非ず、頭の毛長く背に垂れたるが半は白く、長は常竝の人より高からず、顔は猿のやうに赤からず、眼大にして光あり。竹助心剛なる者故、用心の山刀を提げて身構したれど、此者は害を爲すべき氣色も無く、石の上に置きたる燒飯を指し、くれよと云ふさま也。心得て投げ與へければ嬉しげに食ひけり。(466)此に心を許し又も與へければ近よりて食ふ。竹助曰く、明日は歸りに又與ふべし。急ぎの使なれば行くぞと、下したる荷物を負はんとせしに、彼者之を取りて輕々と肩に掛け先に立ちて行く。さては燒飯の禮に我を助くるならんと跡に附きて往くに、彼は殆と肩に物無きが如く、嶮阻の山路も此爲に安く越え、凡そ一里半も行き池谷村に近くなりて、荷物をば卸し山へ駈登る。其早きこと風の如くなりしと云ふ。竹助此事を十日町の問屋にて詳しく語りたり。是今より（天保中より）四五十年前の事なり。其頃は山稼する者折々此異獣を見たる者ありと云へり。（北越雪譜第二編卷四）

　　池谷村（越後南魚沼郡）の者の話に、我十四五の時、村内の娘に機の上手あり。問屋より名をさして縮をあつらへられ、雪のまだ消え殘りたる窓の下に機を織りて居るに、窓の外に立つ者あり。猿のやうにて顔赤からず、髪の毛長く垂れて人より大なるが、内を覗きてあり。此時家内の者は皆山?ぎに出でて娘一人なれば、殊更惧れ驚き逃げんとすれど、機に掛りたれば腰に卷着けたる物ありて心に任せず。兎角する程に彼者そこを立去り、やがて竈の下に立ち、頻に飯櫃を指してほしきさま也。娘この異獣のことを兼て聞きたりし故、飯を握りて二つ三つ與へければ嬉しげに持去りぬ。其後家に人無き時は折々來りて飯を乞ふ故、終には馴れて恐しとも思はず食はせけり。其頃は山中にてたまさかに見たる者あり。一人にても連あるときは形を見せずとぞ。（同上）

　　勢州桑名に良傳と云ふ遁世者、人の情にて僅なる草菴を結び栖みけるが、或日遠方へ行きて歸りしに、戸の鑰《かぎ》は人の入りたる體は無くして、竈の中にのみ薪取りくべて火の熾なること全く人の爲せるが如し。釜の蓋を取りて見れば、中には炊米《かしぎよね》既に熟して飯となれり。良傳怪みながら定めて近邊の若者などの惡戯ならんとさのみ心にも留めざりしが、其後留守の度毎に飯つぎ家具など取散しあり。狐狸の所業なるべしと思ひ、一日疊を除け床板を放し見るに、方三尺深さ六七尺も窪みたる穴あり。さればこそと思ひ内を視るに、三尺ばかりの坊主あり。曲者よと引出せば、年は八十餘と見えたり。人の顔を見てにこ／＼と笑ひ居たり。集り來れる壯夫共、此ぞ狐狸の妖(467)ならんとて、手毎に松明を持ち口鼻を薫せどもさして傷む氣色も無く、さては人にやと詞を掛くれども返答せず。皆々腹を立て毆き殺さんに如かずと既に撃たんとせしに、其中に老人ありて云ふ、我若き時に聞きしことあり、越前の家中に斯樣の物出でて庭に遊びしを家の侍鐵砲にて撃殺せり。此物人に害なし、又凶事も無し。北國にては下屋入道と謂ふと云へり。命を取るも詮なし。遠く追放すべしと云ふ。皆々同心して放ちたり。後六年を過ぎて又或山寺の古井より出でたり。此古井もとより水無し仔細ありて之を埋めんとし、草を拂ひて見たるに、以前の法師容貌前に變らずして出でたりと云ふ。（日東本草圖彙卷十二）

　　明治の始頃、三州豐橋の北方、南設樂郡海老町の東にあたる官林に小屋を掛けて木を伐りし者外の仕事より小屋に歸りて見るに、長《たけ》ことの外高く髯生ひたる男、小屋の内に入り頻に自分の用意したる飯を食ひ居たり。つと小屋に入りたれど一語をも交さず、飯を只したかゝに食ひて去る。其後も折々來て食ふ。物は言はず、又人に害を爲さず。（土尾小介氏話）

　桑名の坊主は或は普通の老人であつたかも知れぬが、斯な平野の海近くまでも山男の出て來ると云ふことも想像し得られぬことでは無い。つまりは食物の爲である。此は別としても白髪の翁になるまで、ひたすらに米の飯に執着するのは又然るべき仔細があつたのである。其仔細を語るには先づ順序として彼等の食物以外の生活上の必要に就いて考へて見ねばならぬ。

　

　山人の國は次第に荒れ且つ狹くなつた。新來の日本民族の方では是を閲發と名づけて慶賀して居る。谿に棧橋を通じ嶺に切通しを作つて馬も荷車も自在に來往するやうになつても、まだ／＼深山は山人の領土であつて、深夜雨雪の折は元よりのこと、必要があればいつでも平地人を畏嚇して逐ひ退けることが出來たものが、舶來の大踏鞴《おほたゝら》を持込んで來て山の金銀を鎔《とか》す時節となつては、騷がしく眩くして最早其澤には住まれず、ましてやかの眞黒な毒煙には非情(468)の草木すら枯れる。さては又夜中も罵り走る怖しい鐵車がある。とてもうか／＼と峯を傳うて遠國の友を訪ふことは出來ぬ。山人の人口は夙くより稀少であつたが、それよりも猶淋しいのは右の如き文明の遮斷であらうと思ふ。

　私は力めて外側から見た山人の生活誌を多く羅列しようとしたが、今に及んで切に感ずるのは、將來此類の話が手元に集まつて來る速力よりは、彼種族の性情境遇の變遷の方が一層急激では無からうかと云ふ虞である。語を換へて申すならば、確實に近しと見ゆる史料のみに由つて、今日の歴史家が書くやうな山人の歴史を書き得る時代は、いつに成つても到來しさうに思はれぬ。即ちこの勇壯にして昔風なる民族の生活の跡は、僅かに我々の如き氣紛れ者の夢物語に由つて辿るの外は無いのである。如何にも氣の毒な話と言はねばならぬ。

　私は今存する限の史料に依り次の如く想像して居る。山人とは我々の祖先に逐はれて山地に入込んだ前住民の末である。彼等の生活は平地を占據して居た時代にも至つて粗野なものであつたが、多くの便宜を侵入民族に奪はるゝに及んで更に退歩した。殊に内外の壓迫が漂泊を餘儀なくさせた爲に、彼等は邑落群居の幸福を奪はれ、智力啓發のあらゆる手段を失つた。而も配偶の要求は天性である故に、時には無理な方法をも用ゐて平地人と雜婚し、?々優等人種の感化を受けて潜かに敵國に歸化したものもあつて、愈々つまらぬ者ばかりが元の?態に遺ることになつた。其爲に平地の人から往々野獣乃至は怪物と誤らるゝ場合が多かつた。併し此群島の或部分、例へば駿遠甲信の境山などには、稍々大きなる集團があつて、微弱なる社會交通も行はれたらしく、そんな地方には國語も保存せられ歴史も傳承せられて、國土恢復の大業は企てぬ迄も、比較的強力なる反動心敵愾心が存して居たかも知れぬ云々。

　そこで自分等の最も意味深しと考へるのは、各地方に於ける遭遇記事の變化である。地方に由つて山人の氣風とも云ふべきものに相異のあることである。是は勿論個人的受性又は境遇の然らしむるものもあらう。併し彼等とても要するに人であるならば、歴史的の怨恨が無意味な怖畏と變じ、警戒の忍耐が饑餓又は孤獨の苦痛に由つて弛むたびに、體内の一部を流るゝ母の血に誘はれて、徐ろに其故郷をなつかしむの情を催すのは自然で、撃たるゝとは知らずに里(469)に近よる例も折々あるのであらう。どうかして此問題を今少し討査して見たいものだと志して居る。

　山人が物を言つたと云ふ話は多くは型に嵌つた怪談に限られて居る。之に反して人語を聞分けると云ふのみの話には色々の變化があるやうである。是は然るべき理由あることで、彼等は假令日本語を解するにしても不完全に相違ない。又久しい間口舌を働かせぬ者が、突如として横濱のガイドの如く見知らぬ人に話し掛けられるものでもあるまい。仍て物を言つたと云ふ話は虚誕として自分は除外するのである。

　山日兩人種の關係は恐くは之を三樣に區別するがよからう。其一は單純なる排斥である。恐しい顔をして立去り又は我々を逐ひ退け、甚しきは害を加へる。一番やさしいので擔いで平地まで持出してくれる。此類の話は前に若干の例が載せてある。第二は冷淡なる應接である。握飯をくれるから働いてやるの類で、特に謝恩等の情誼の爲一時限り好態度を示すなども此部である。第三には歡迎と云ふか降伏と云ふか、つまり何とかして我々と親しくならうとする態度である。この第三の例を主として次に擧げで見ようと思ふ。

　　日向國南部某村の人身上千藏氏の談に、二十年ばかり以前（明治四十年頃より）、此人の祖父山に入りて異人に逢ふ。白髪の老人で腰から上は裸體、腰に帆布の如き物を纏へり。にこ／＼と笑ひながら此方を目掛け近より來る。此邊の人は山に行くには背に小さき刀を負ひ、肩より之を拔きざまに手裏劔に打ちて獣などを仕留める風あり。身上氏も此時此刀の柄に手を掛け、來ると打つぞと怒鳴りたれども、老人は少しも頓著せず猶笑ひながら側近く來る故、段々怖しくなり引返して遁げ下りたり。それより一月ばかりも過ぎて、同じ村の若者でよく人に附いて狩などに行く者、只一人で此山に入り雉を見付けて鐵砲の狙ひを定め、將に打放さんとしてありしに、不意に横手より近よりて此若者の右の腕を柔かに叩くものあり。振返りて見れば則ち其白髪の異人なり。やはりにこ／＼と笑ひ掛け、白髪の端には木の葉など附きてあり。あまりの怖しさに氣が遠くなり、錢砲を差上げたるまゝ久しく其場に立ちてありしを、後に里人に見出され喚活かされて此話を語る云々（水野盈太郎氏談）。

(470)　自分の此話を聞いた時の感じは、どうしても里から入つた痴人變人の類とは思はれなかつたが、之を人に信ぜしむる爲には二度までも物を言はざりし點を指示するの外は無い。次には女のにこ／＼した例を一つ擧げる。

　　獵夫金谷（磐城相馬郡金房村大字）の深山に入り櫓を揚げ、曉毎に笛を吹き鹿の來るを待つ。一夜四更に笛を吹きしに前の物蔭に大なる音あり。大鹿の來たるならんと思ひ鐵砲を取上げしに、藪の中より女の頭出でたり。其大さ大笊の如く亂れたる髪地に曳きたり。獵夫を見て微笑みたる物凄さ譬ふるに物無し。驚き怖れて密に櫓を下り走りて家に歸りつきて悶絶す。數日を經て漸く本心に復し其?末を語りたり。老人などは此者常に殺生を嗜むが故に山神之を戒めたるなりと言ひしかば、終に殺生を止めたり。此邊の風、正月及び十月の十七日を以て山神を祭る。此日山に入れば怪異を見、又は危難に遭ふこと往々ありと云（奧相志二十七）。

　山中の怪物が鹿笛を眞の鹿の聲と誤つて追つて來る話は折々聞くが、是は微笑したと云ふのが只では無い。もしや包むに餘る艶情の爲などならば、神と認められて遁げられたと云ふのは笑止であつた。併し山中の人は怪にして害意がなければ當然之を神と考へたものである。

　　西村某と云ふ鷹匠あり。馬を捕らんとて知頭郡（因幡八頭郡）蘆津山の奧に入り、小屋を掛け獨住みけり。夜寒の頃なれば庭に火を焚きてあたり居けるに、何者とも知らず其｜長《たけ》六尺あまりにて老いたる人の如くなる者來りて、ふと彼の火によりて鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて面貌人に非ず猿にも非ず。手足は人の如くにして全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば更に驚くこと無く、汝は何處に住む者ぞと問ひけれども敢て答へず。暫くありて立返る。西村も其跡に沿ひて出けれども、夜甚だ暗くして其行方を知らずなりぬ。其後又來りて小屋の内を覗くことありしに西村、又來たか今宵は火は無きぞと云ひければ其まゝ歸りけると也。里人に其事を語りければ、それは山父と云ふものなり、人に害を爲す者に非ず、之を犯すことあれば山荒ると言ひけると也（雪?窓夜話上）。

(471)　山父が焚火を慕うて來ると云ふ話はいくらもあるが、人も嚇さずすなほに歸るなどは殊にあはれに感ぜられる。又話の種類は稍々ちがふが、山人の沙留《さる》とも云ふべき遠州の奧山にも、稀には好感を有する個人もあつたらしい一例がある。

　　遠州秋葉の山奧などには、山男と云ふ者ありて折節出ることあり。杣山賤の爲に重荷を負ひ助けて、里近くまで來りては山中に戻る。家も無く從類眷屬も無く、常に住む處更に知る者無し。賃錢を與ふれども取らず、只酒を好みて與ふれば悦びて飲めり。物ごと更にわからざれば?を教ふる如くするに、そのさとり得ること至つて早し。始も知らず經も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山氣の化して人の形と成りたるなりと云ふ説あり。昔同國の白倉村に又藏と云ふ者あり。家に病人ありて醫者を喚びに行くとて、谷に蹈みはづして落入りけるが、樹根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何處よりとも無く出で來りて、又藏を負ひ、屏風を立てたるが如き處を安々と登りて醫師の門口まで來りてかき消すが如くに失せたり。又藏は嬉しさの餘に之を謝せんとて、竹筒《さゝえ》に酒を入れて彼谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大に悦びて走りしとぞ。此事古老の言ひ傳へて今に彼地にては知る人多し（桃山人夜話五）。

　山姥にも此類の慈善心あることは古くより言ふ話であつた。どの點迄が事實かは今は明らかに定めにくい。右の山男の酒ずきに對して、次には餅の例を擧げて見よう。

　　五城目（羽後南秋田郡）邊の某村の樵夫、兼て田舍相撲の心得あり。或年山に入りて木を伐り立たんとせし時、不意に後より待てと云ふ者あり。振返り見れば山男なり。相撲を取らうと云ふ。よりて再び木を傍に卸して取る。一番は先づ彼を投げたるに、強いと褒め今一番と云ふ故、二番目には態と負けてやりたり。其山男は此者を待たせ置いて更に二三人の仲間を誘ひ來り相撲を勸めるにより、何れも一番は勝ち一番は負けてやる。此が縁となりて折々出會せしに、或日其方の家に遊びに行くべし、家の者を外へ遣り餅を搗いて置けと云ふにより、其意に從(472)ひ一斗ほどの餅を振舞ひしかば、數人の山男終日遊びて歸りたり。其後も又折々酒を飲ませよなどと云ひて來ることゝなりしより、終には其煩はしさに堪へず、樵夫は之を氣に病みて久しく打臥してありき。村人は之を見て、山男などと交際をすればどうせ身の爲によからぬ事なりと言合へりと云ふ（小田内通敏氏談）。

　此話は山男が日本語に通ずと云ふのみならず、相撲の無理強ひもどうやら川童や芝天狗（郷土研究三卷三〇三頁）の評判に近いが、それにしては後段に何等の奇瑞を伴はぬのが妙である。山人を招いて酒食を供した話は外にもある。

　　陸奥と出羽との境なる吾妻山の奧に、大人《おほひと》と云ふ物あり。蓋し山氣の生ずる所なり。其長一丈五六尺、木葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入來る。村人之を敬すること神の如く、其爲に酒食を設く。大人は之を食はず、悉く包みて持歸るなり。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を爲せしことを聞かず。神保申作の話なり（今齊諧四）。

　他の點は此方が五城目よりずつと尤らしいが、只一つ一丈五六尺が始末が惡い。併し兎に角我々との平穩なる交際も、決して近頃に始つたので無いことは亦例證がある。

　　陸奧三戸郡留崎村荒澤の不動は頗る古社なり。往古山男の使用せるものなりとて木臼あり。高さ三尺廻二尺餘なり。又處々蟲ばみたる杵あり。之を以て木の實を搗き山男の食とせりと云ふ（糠部五郡小史上）。

　其臼の用法を、里の人々は如何にして知り且つ之を貰ひ受けることになつたか。自分は未だ書傳の之を語るものを知らぬ。

　

(473)　　　「イタカ」及び「サンカ」

　

　　　　　　　　　　一

　

　七十一番職人盡歌合の第三十六番にイタカあり。エタと組合せたり、其風體を見るに塗笠を被り覆面して坐せり。手には短き木の卒都婆を持ちて之を高くさし上げ「流れ灌頂流させたまへ云々」と云へる所なり。而して歌の文句にも「如何にせん五條の橋の下むせびはては泪の流れ灌頂」とあれば、恐らくはかの橋の下に坐して往來の人々に灌頂をすゝむる所を畫けるものなるべし。

　又同じ條の月の歌の方は「文字はよし見えも見えずも夜めぐるいたかの經の月のそらよみ」とあり。判の詞と合せて考ふれば、イタカは學問も無き賤者なれども經文を暗唱して物を乞ひありくと見えたり。歌合の畫は傳寫本なればおぼつかなけれど僧衣を着てあるものゝ如し。運歩色葉抄には似佛と書きてイタカと讀ませたり。仍て思ふにイタカは鉦打又は鉢叩などと同じく、半僧半俗の物貰にて佛教の民間信仰に據りて生を營む一種類には非ざるか、是より些しく此問題を攷究せんと欲す。

　イタカの初見は何れの時代にや。只今知れる限にては、看聞御記應永二十三年七月十六日以降數箇所の記事に阿波（ノ）法師と稱する者あり、其徒と共に山城桂地藏の靈驗を假托して人を欺き財を貪り終に召捕られたることあり。此僧實は阿波國住人には非ず或者之を罵りてイタカめと呼びしこと見ゆと云へり。右の御記の文は未だ自ら見ず唯櫻井秀(474)氏より傳聞せしものなり。

　イタカの語義に就ては後に臆説を述べんとす。之に充てたる文字は一樣ならず。節用集には居鷹者とあり。運歩色葉抄には爲多加、移多家などともあり。又似佛百面者ともあり。最後の百面者はイタカの性質を明らかにする爲には、重要なる鍵ならんも未だ説を得ず。

　新編相模國風土記に依れば小田原町古新宿に住する神事舞大夫天十郎大夫なる者は、以前伊豆北條の四日町に住し、小田原北條家の特別の保護を受けたる舊家なり。此家は淺草の田村八大夫由緒書にも見え、江戸幕府初期に於ける關東巫覡の管長なりき。所藏の古文書と云ふを見るに、先づ大永八年の下文には舞々イタカ陰陽方より役錢取るべきもの也云々とあり。次に天文二十四年永禄九年天正三年同十四年等の文書には、「致卜算移他家唱門師の類は大永八年の證文の旨に任せ舞々の下に之を附け了ぬと見ゆ」。右の致卜算は恐らくは「ウラヤサンヲイタス」と讀むべく、移他家及唱門師は共に卜占を業とし村々を廻りし者にして、戰國時代には往々之を細作間牒に利用する者ありしより、信用ある土着の層々大夫をして之を支配せしむるの必要ありしなるべし。同家文書の中にも「自今以後堅く相改め不審の者あらば申上ぐべし」などとも見ゆ。

　イタカと云ふ稱呼の行はれしは、少なくも西京附近にては存じの外短期にして近代は勿論罷みてあり。上方にて云ふ「クチヨセ」又は「タヽキミコ」は關東にては之を「イチコ」と謂へり。イタカとイチコとは語原を同じくするらしく、且兩者相似の點多きこと次に述ぶるが如くなれど、彼を以て此轉訛と斷ずるは不可なり。イチコと云ふ語は古くより存す。吾妻鏡卷二治承五年七月八日の條に「相模國大庭御厨の?の一古娘召に依り參上す」とあり。此の一古は即ちイチコなり。?は「カンダチ」即ち神館にして巫覡の居處、支那にて言はゞ道觀などに當るべし。

　奧羽にては近代迄イタカあり。新編會津風土記若松城下の條に曰く。イタカ町。今も此町の者をばイタカと稱し他の商賣と混ぜず。常は飴を煉りて之を販ぎ、年の始には夷、鍾馗、毘沙門などの畫像を城下及村里の家々に配り且つ(475)祝詞を唱ふ。其詞の中に「かほど目出たき御大黒祝ひ申候ては、戸に立てばキチヤウテン護りの御經に疑無し、棟に押しては火伏となり舟の中にては云々」と云ふことあり。又常陸國志には會津の人佐藤忠滿の言を引きイタカは大黒の神像を配り大神樂を業とすと云へり。何れにしても其業體の唱門師又は大黒舞の徒とよく似たるは爭ふべからず。

　活版本和訓栞の頭書には同じき佐藤忠滿の説として左の如く記せり。會津にイタカと云ふ種類の民あり。公役として城中を始め處々の草を刈らする也。平民と同火を忌むことは無けれども良と混ずることなし。但し穢多は別に又一種あり云々。

　會津のイタカの家に藏する寛永年中の古文書あり。上錢受取の證文にして宛名を「エビス大夫中旨？」と記せり。エビスと云ふ賤民は常陸にも住す。水戸の臺町にその部落あり。竈神又は夷神の神像を配るを業とす。鹿島の宮中村にもエビス十戸ほどあり。近世に至るまで人賤みて通婚せず。良と軒を竝ぶる能はず、凡て町のはづれに住居す。又足黒村に住する者あり。新安手簡に依れば金砂山の田樂の徒も亦之をエビスと稱するよし。以上は新編常陸國志に見ゆ。此徒をエビスと稱するは、戎神の神像を配るが爲にして、大黒舞と云ふも亦舞々の大黒像を配る故の名なると同じかるべく、蝦夷のエビスとは直接の關係なきならん。會津のエビス大夫もイタカの舊稱には非ずして二稱兼用なるべしと信ず。

　會津のイタカは口寄せの業を爲さゞるが如し。之を業とする者は別に之を「ワカ」と云へり。今日にても福島縣にては一般に之をワカと稱す。ワカは即ち若神子なり。若神子は若宮と云ふ語と同じく、巫覡は神の血統上の子孫なる故に、常人よりは一段神に近く神意を仲介するに適すと信ぜし思想に基づきたる名稱なり。此は主として婦人の職業にして、單にミコとも云ひ又梓神子とも稱す。梓は古き語なり。或は又大弓とも云ふ。梓の弓を手にして神靈の言を傳ふればなり。口寄せと云ふ語は最も古く、既に台記の久壽二年八月二十七日の條に見ゆと云へり。

(476)　梓神子若神子はイタカとは一見關係なきが如きも、東國に於て通例之をイチコと稱すること年久しく、且つイチコとイタカと二語の相近似することを考ふれば、しかく單純に之を看過すること能はず。前掲常陸國志に此者を「モリコ」と呼び、又は大市小市などと稱することを記し、其次に曰く東遊雜記に依れば津輕にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり、市子の訛なるべし。其イタコは「オシナ」又は「オシラ」と稱し、桑の木にて作れる棒に絹布など被せて、幣帛の如くなしたるを神明として祀ることあり。イタコの神を祭るを遊ばすと云ふ。而して常陸などにて市子をモリコと云ふも亦守護の義なるべし云々。

　奧州のイタコのイタカと同じ語なるべきは、殆と説明を要せず。イタコと稱する婦人は今日も岩手青森秋田の三縣などに多く存す。青森縣方言訛語（明治四十年出版）に巫女のことを津輕にてはイダコ、南部にてはイタコと云ふとあり。南部方言集にも巫女をイタコと謂ふは、�ｺ川時代に常陸｜潮來《いたこ》より流行り始めたる潮來節と關係あるかと云へり。此は單に一臆説に止り、如何に關係あるべきか、乃至は常陸の潮來の地名は如何にして起りしかに付ては、固より何の考も無かりしものと見えたり。

　東北のイタコに付ては未だ十分の報告を得ざれども、口寄せを以て主たる職業と爲すこと、東京邊のイチコと同じく尚卜占をも爲すが如し。外南部大畑の人堺忠七氏曰く、イタコと云ふ女子は、數珠の玉を數へて占を爲す。若き頃身の上を占問ひしに、御身は數珠の玉にも乘らぬ程遠き處より妻を娶るなるべしと謂ひしが、果して其言の如し云々。

　陸中遠野の人佐々木繁氏曰くイタコが神を降す時の辭は常に定れり。「アヤ、中々心掛ケテノ大願カナ、心盡シノ梓カナ、梓ニ呼バレテ物語スル」云々。此詞は節調に相異はあらんも殆と梓神子イチコの文句と同じき也。又曰く上閉伊郡土淵村大字柏崎に名譽の老イタコあり。濱の方へ頼れて口寄せに往きし時若者共横槌を物陰に吊し置きて、イタコの術を妨げんとしたり。イタコ弓を取れども、更に神の寄らぬ故、ア、此は誰か惡戯をしたなと、やがて口の中に呪文を唱へたれば、縁の下に匿れし若者二人忽ち死す云々。

(477)　同氏又曰く陸中東磐井郡地方にてはイタコをオカミサマとも云ふ。神がかりの折には、オシラサマの男體を左の手に、女體の方を右の手に持ち打振り／＼物語をする由云々。

　イタコの徒がオシラ神を奉祀することは常陸國志の説前に掲ぐる所の如し。此神の形像竝に其由來に關する諸説は、卑著石神問答及遠野物語に略々之を謂へり。此神の行はるゝは仙臺附近を南の境とすと聞くも、越後中魚沼郡田澤村大字市（ノ）越分にも「大シラ」と云ふ地名あれば、必ずしも信ずべからず。北方に於てはアイヌ亦之を信仰す。彼と我と何れが先なるかは、容易に決し難き問題なり。松前志に曰く蝦夷にはオホシラと云ふ神あり。其由來を知る者無し。桑の木尺の餘なるにおぼろけに全體を彫れり。男女二神なり。信心の者?ることありて乞へば、其木偶神を擁し來り、さて願主より木綿の切を出さしめて、神體を包み左右に持ちて咒咀す。其神女巫に掛りて吉凶を言ふことなりと云々。

　稻葉君山氏曰く、上野博物館に有るオシラ神像には胸のあたりに鈴を七つ結び附けたり。此結び方は一所に寄せ集めて附けたること、頗る滿洲のシヤマンが其杖に附けたる鈴と似通へり云々。右は或は偶合なるかも知れざれども、オシラ神の信仰のアイヌと共通なることは注意すべき問題なりとす。

　イタコの語原に關する自分の假定説は左の如し。イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。バチェラー氏語彙に依れば Itak＝to say、acknowledge, to tell とあり。又其次には Itakbe＝The stem of a spring bow とあり。イタクベの「ベ」は「ペ」即ち物の義なるべし。弓を名づけて語《かたり》の物と云ふは即ち梓の弓と意同じ。金田一京助氏は曰くイタクは我が「言ふ」に該當すれども普通の談話には用ゐず。恐らくは莊重なる儀式の詞を意味するならん。ユーカラなどの謠物の中に巫女が神意を告ぐる所には必ずイネ、イタキ（此の如く言へり）と云ふ語を用ゐたり云々。

　白鳥博士の談にイタクは蝦夷本來の語には非ずして、必ず隣接民族より傳へたるものならん。北方の諸民族には此語共通に神聖なるもの又は莊嚴なるものを意味す。我國の古語のミイヅ、イツク、イツクシなど皆此例なり云々。

　更に之を本邦の古典に徴するに古事記諾尊得三貴子の條下に即其御頸珠之玉緒母由良邇取由良迦志而。賜天照大御(478)神而詔之。汝命者所知高天原矣。事依而賜也。故其御頸珠名謂御倉板擧〔二字傍点〕之神とあり。御倉は神几にて祭壇の義なるべし。此板擧之神は古註に多那《たな》と訓めとあれど義通ぜず。恐らくはイタケの神にして、姫神が神父を拜祀したまふに、此遺愛の物を用ゐたまひしことを意味するならん。又紀州の國幣中社伊太祁曾神も社傳には日前國懸の二神齋祀の時に際して現れ來たまへりと謂へば、即ち一種の齋《いつき》の神なるべし。この神と五十猛命と同じと云ふ現今の通説は、單に日本書紀の中に、五十猛命を即紀伊所坐大神是也とあるに據れるのみ。伊太祁曾はイタキソにして、イタケソに非ざることは、倭名鈔の郷名に伊太杵〔傍点〕曾郷とあるも其一證にして、旁素尊御父子此國に祀られたまへりとて、直に伊太祁曾を以て之に充る能はざるを思ふべし。伊太祁を五十猛なりとせば、曾の字頗る解する能はず。蓋し五十猛命は別に父御神の齋祀に與りて、此名を得たまへるなるべく、恰も後世八幡に若宮あり、熊野に王子あると同じく此等のイタキ、イタケは凡て皆神子思想に胚胎せる靈巫の名稱に外ならざるべし。

　以上の假定説は或は十分なる證據を得ずとするも、少なくも東北のイタコが神意を宣傳するを職とする、一種の語部なることは疑なかるべし。東北には板子屋敷又は板小塚の地名多きこと、正に關東以西に神子垣内《みこがいと》、市子｜作《つくり》、又は君塚等あるに同じ。陸中上閉伊郡鱒澤村大字下鱒澤に字神子あり。足利時代のイタカは未だ知らず、今日のイタコが梓神子と同じきことは以上の説明にて明らかなるべし。

　常陸の潮來の地名に關する古風土記の説は、固より一の小説に止まれり。之を論ずるは殆と無用の業なれど、痛く殺しつと謂へりとて、之をイタクと稱すと云ふは口合としても拙劣且不自然なり。此地は夙に水陸の驛次として、船車の輻湊する所下級の巫女が土着して生を營むに適し、且鹿島香取の二大社を前後にして近ければ、語部に因みて地名を附せしことも想像に難からず。風土記の同じ條には、特に此驛の西方に榎林ありしことを記せり。榎は大昔より道傍に栽ゑ、境上に植ゑ最も民間の信仰生活と關係深し。此事に付ては別に所見あり、他日之を述ぶべし。最後に今一つ常陸のイタクのイタカ、イタコと關係あることを證し得る點あり。後段に之を詳論せんとす。

(479)　イチコと云ふ語も前代の分布は遙に今よりも弘かりしが如し。地名とし現存するイチコは、中國に及ぶ。もし市木市來の類亦之と同じとせば、更に九州四國諸地方に及べり。之に反してイタコの語は甚だ聞く所少なし。中國の山村に或はイタケ峠と云ひ、板木と稱する地名の少なからざるは、假に其痕跡として注意し置くべきなり。和訓栞に依れば、夏の日田や溝の水面に浮びて輪を書きて走る黒き蟲、東京にては水スマシと云ふ物を、或はマヒ／＼蟲と云ひ美作備中にてはミコマヒと云ひ四國の東部にてはイタコ蟲と呼ぶと云へり。自分等は幼少の折よく之をすくひて遊びたり。ゴマヒ蟲と云ひしやうに記憶す。微々たる一小蟲なれどイタコが舞々又は神子と同じく舞踏をも爲す巫女なりしことを想像せしむるに足る者なり。但し前掲の天十郎大夫文書には舞々は移他家《いたか》と同じ者に非ざることを示せども、同一系統に屬することは同時に之を覗知るを得べきなり。

　

　　　　　　　　　　二

　

　イタカ、イタコの性質論は未だ盡さゞれども、順序として先づ謂ふべきことあり。小田原の舞々が家の古文書にはイタカを移他家と記し、運歩色葉抄には之を移多家と書せるは注意すべきことなり。此三文字は勿論あて字には相違なけれども、此時代の人はよく理の詰みたる當字を爲すなり。イタカの萬葉假名ならば如何程もあるべきに故らに此字を擇びたるは必ず仔細あるべきなり。思ふにイタカは一定の邑落に住せず常に家を移して行きし爲に此文字を用ゐしならんか。會津のイタカも東北のイタコも近代にありては皆定住するが故に此説は頗る臆測に過ぎたるが如きも、通例村々を廻るイチコ梓神子の中には出處素性の不明なる者多し。其原因は基督がナザレにて輕蔑せられしと同じく、何兵衛の母たり、何作の女房たることが分りては、神怪を説くに不適當なる故に態と遠方に出て稼ぐ爲もあるべく、又此の如き職業は、樋屋や鑄懸の如く狹き得意場にては生計に十分なる需要者を得られぬ爲もあらん。（江戸にては龜井戸に梓神子の家筋あり西京にては大原より出でたりと云へば、大都の附近にては必ずしも遠く漂泊せざりし也）。(480)併し總體に此類の職業には、遠國の者と云ふよりも住所不定の者今も多きかと思はる。

　現今のイチコは單身にて漂泊すれど家を移して行くこと無し。一家族を擧げて終始漂泊的生活を爲すものは今日別に一種族あり。多くの地方にては之をサンカと稱す。サンカの語にも亦色々の宛字ありて本義不明なり。即ち之を散家と書するは彼徒の家が固定せざるが爲、山家山稼と書するは、山の陰などに假の住居を作り盗伐を以て生を營むが爲、又山窩の文字を用ゐるは岩の窪み土窟の中などに居るが爲の宛字らしけれど、共に未だサンカと云ふ語の意味を説明する者とは信ぜられず。

　サンカの生活?態に就ては言ふべきこと多し、無頓着なる人には之を以て乞食の別名の如く考ふる者もあれど、サンカは假令全然物貰を止め一地に定住して村落を爲してもやはり一の特殊部落なり。大阪其他の市街地には此徒の混入して常人の職を營む者あり。又は荒野、河原などの不用地に於て居住を公認せられ戸籍に編せらるゝ者段々多くなる傾はあれども、此徒の特色として農業を好まざる故に土地との親み今尚甚だ少なきなり。若し夫れ漂泊するサンカに至りては、旅人若し少しく注意すれば?々途上にて遭遇することを知るなるべし。衣類など著しく普通民より不潔にして、眼光の農夫に比して遙に鋭き者、妻を伴ひ小兒を負ひ、大なる風呂敷に二貫目内外と思はるゝ小荷物を包み、足拵へなどは隨分甲斐々々しきが、さも用事ありげに急ぎ足にて我々とすれちがふことあり。是れ大抵はサンカ也。彼等はジプシイなどと異なり決して大群を爲さず力めて目立たぬやうに移轉す。一月二月間の假住地に於ても小屋の集合すること二戸か三戸に限り、且つ其地を擇ぶこと巧妙にして、人里に近くして而も人の視察を避くるの手段最も周到なり。例へは京都にては東山に此者住することを知れども、其場所を突留むること難く、東京の西郊二三里の内にも多分サンカならんかと思はるゝ漂泊者の小屋掛あるなれど、警察官すら其出入を詳にせざるが如し。

　サンカは外部の壓迫なき限は、大抵夏冬の二季にのみ規則正しき移動を爲し、其他は成るべく小屋を變へざるに似たり。夏は即ち北方又は山の方に、冬は之に反し南方又は海の方に近づき氣候に適應すること候鳥と同じ。彼等の最(481)も好むは川の岸なり。其理由は水筋に沿ひて上下するの便あると、水を得やすきと魚を捕へ流れ物を拾ふとの利ある外に、川端は遠方より見らるゝ虞あるに似たれど、川除地には竹藪多くして密陰を爲し小屋掛の手數少なき上に、無代にて手工品の原料を得るの便もあればならん。彼等の簡易なる建築にては、風呂敷は即ちテントにて、油紙は常に之を所持し之を重ねて雨水を凌ぐ。家具としては二三の食器刃物などあるのみ、其他は到る處自由に採取調製して用を辨ず。

　大垣警察署長廣瀬壽太郎氏は、明治二十六年以來サンカの問題に注意し、種々なる方面より彼等の生活を研究したる人なり。本年の旅行に於で知得たる左の諸點は、サンカの來由を明らかにする爲に最も肝要の者なるが、其大部分は右の廣瀬氏より聞けり。今順序を立てゝ之を述べんに、第一サンカには種類多く中には全く乞食と緑なき者あることなり。サンカの中にて野外に小屋を作り魚を捕りサヽラ箒籠草履などを作りて賣り、又は人の門に立ちて物を乞ふ者はセブリと云ふ一種なり。セブリは數に於て最も多けれども此他に猶ジリャウジ、ブリウチ及アガリと云ふ三種あり。彼等は何れも小屋を掛けず木賃宿又は善根宿を求めて宿泊しやはり亦一所不住なり。警察道に熱心なる廣瀬氏の眼より見れば右の四種のサンカは直に四種の犯罪團體なりとも云ひ得るが如し。殊に後の三種に至りては其社會に及す害極めて小ならず、而も彼等の犯罪は各々一定の手筋ありて容易に何れのサンカに屬するかを知り得る由なり。即ち右の中にてジリャウジだ云ふは、必ず神佛の靈驗に假托して詐僞を爲す。其手段は杜騙新書などにあり得るが如き古臭き者なれど、愚民の之に欺かるゝもの年々絶えず。例へば婦人の顔の色惡き者などを見て、何々の祟なり何々に祈?して遣らん供物は百種を調進せよ。物調はずば金を包みて假に之を供へよと命じ、數日往來の間に隙を見て盗み去るなり。ブリウチの手口は稍々之と異なり。神佛を假托することは同じけれど、此方は靈藥又は靈符などと稱して、埒も無き物を高く賣りて行くなり。アガリと稱するサンカは常に難船して郷里に歸る能はずとか、又は親族を頼りて遠くより來たるに、大火の跡にて行方を知らずとか、有りさうなる不幸話をして人の惠與を詐取するなり。而して三(482)者共に最初の計畫失敗すれば、多くは轉じて破壞窃盗を爲す云々。　廣瀬氏の觀察にては、セブリも亦主なる職業は窃盗なりと云へり、僅ばかりのサヽラ箒などを賣りても衣食に給すべくも非ず、川魚などもさ迄の收穫ありとは思はれず。故に乞食をして不足なる部分は常に他人の所有物より内々補充すと推測したる也。成ほどサンカはよく掻拂を爲す、自分も幼少の折に四つ身の着物を乞食に持ち行かれたることあり。一里ばかり追掛けて捕へたるに五十餘の女サンカなりき。かゝる例は郷里にて?々之を聞けり。其他山の物田畑の物にても、入用の都度之を取るを意とせず。然れども此等の侵害の多くは、財貨に對する觀念の相異に基づくものとも云ふべく、大體より云へば此部類と我々との關係は平穩なる交通なり。只彼等の間に於て犯罪の歩合稍々多きが故に餘分の警戒を爲す必要あるのみ。

　サンカの徒が普通人の零落して、偶々變形したる者に非ざる一證としては、彼等の間に完全なる統一と節制とあることを述べざるべからず。勿論常民の此仲間に混入したる者は少なからざらんも、此等一代サンカは決して勢力を得る能はざるのみならず、十分に既存の不文法に服從し去り、終に彼徒の慣習の一部分をも變更し能はざるが如し。サンカには地方毎に必ず一の親方あり、其權力は中々に強大にして、時としては部内の美女を擇び二三人の妾を持つ者あり。（サンカには美人多しと稱す）、最も廣瀬氏の談に尾張三河美濃三合の境に三國山と云ふ松山あり。或時此山中にサンカの大集合あるを見たり。小屋の數は百を超え炊煙の盛なること夏季の輕井澤比叡山の如くなりき。而して此の如き大部落は永く繼續すること無く略々二三日を以て散じ去るものなるが、後に及び毎年一囘此地に於て會をなし仲間の婚儀を行ふものなることを知れり云々。此等は小屋掛を爲すサンカ即ちセブリの習慣なれど、他の犯罪團體の方にも各々親方ありて部下を統率し相互に有力なる援助を爲す者の如く、例へば或村に施を好む富豪あり、又は永煩の病人などの爲に祈?加持に手を盡す家あれば、甲より乙に遠に之を通知し色々のサンカの來訪する者絶えず。又彼等の仕事に都合よき村落の報謝宿の如きは、一覽表の如きものにてもあるにや。聞傳へて來らざること無し。凡そ此(483)徒の數敷全國を通じて極めて多く往來錯綜を極めたるに、途上に相見て如何にして互にサンカたるを認むるか。恐らくは掏摸などと同樣に、綿密なる暗號又は作法等の存するならんも、規律嚴にして外間に在りては之を知る能はず。偶々一二のサンカの職を得て土着せる者などを慊し實を吐かしめんとするも、仲間の制裁を怖れて決して之に應ぜず。又此等の者の中には他日意外なる慘殺に遭ひたる者も少なからずと云ふ。

　此文を草する時迄不明なるは、サンカの種々の名稱が自稱に出でしか、はた他稱に基づきしかと云ふ問題なり。此徒は如何なる場合にも身分を自白すること無ければ、仲間に於て何と稱するかを知る能はず。稀に定住して村を爲せる者は之に對して汝はサンカなりやと問ふに然りと答ふるのみ。又セブリ等の四種の名目も果して我々の推測の如くなりや否や、未だ之を確むるの道なき也。外部よりの稱呼としては少なくも關西地方にてはサンカの語最も弘く行はる。或は之をオゲと呼ぶ者あり。又ノアヒとも稱す。其生活?態に基づきては或は之を川原乞食と呼ぶ者あり。ポンス又はポンスケと呼ぶは此徒が川漁に巧にして殊に鼈を取るに妙を得たる故なり、ポンスは鼈の隱語なり、オゲと云ふ語は未だ解を得ず、ノアヒは野合にして郊野に居を占むることを意味するが如し。行政官は古語を愛せず單に之を浮浪者と呼べり。

　サンカの人口は豫想外に多し。大阪の附近には其數一萬三四千ありと云ふ。河川の改修及人家の増加により追々小屋掛の適地を失ひ、是非なく市中に入りて安宿等を根據とする者多く、早く其生活を調査せざれば、終に此趣味ある問題を逸し去るの虞あり。殊に近來に至り、警察の壓迫漸く強大となりたる爲、我々の觀察には一層不便となれり。然れども若し自分の想像するが如く、自他共にサンカの名を用ゐざるも宿泊の材料と少量の家具とを携帶して、郊野に假居する者を以て皆此部類に屬するとせば、此徒の分布は甚だ廣大にして、警察上の一大問題なると同じく文明史上の研究としても決して閑却すべき現象に非ざる也。今少しく東國に於る漂泊者の事を記述せんに、先づ東京の周圍にも所謂乞食の假住地あることを往々にして之を耳にす。和田堀之内より大宮八幡邊に掛けての松山雜木林の奧など(484)に此頃乞食の住む者ありと云ふこと、新聞の三面に何かの序に記載せしこと數囘なり。石黒君の話に、十年ばかりも前には高田馬場の射的場の後の邊、今山手線の停車場となれる附近にもよく小屋を見しことあり。狩野博士は二三年前に南郊馬込村の邊へ地面を見に行かれしに、やつれたる小兒の藥罐に水を汲みて林の中へ入り行くを見て、跡をつけたれば丘の陰に暫く住みたるらしき小屋あるを見られたり。又東北地方にても磐城相馬郡の石神村などに毎年來住する數家族あり。二宮�ｺ君の談に此村の外山には山腹には十數の土窟あり。村民此穴より煙の出づるを見て、今年も來て居ることを發見す、此地方にては之をテンバと云ふ。サヽラ又箒などをも作りて賣れど、主としては農家の箕を直すを以て活計とす。村民とは年久しき馴染となり居り、テンバの女房は家々を廻り注文をきゝ箕を持ちて其土窟へ歸り行く由なり。右の箕直しの職業は關東何れの地方にても特殊部落に屬するものにて、サンカ問題に付ては極めて重要の觀察點なりとす。昨年暮茨城縣にて特殊部落の調査を爲せしが、常陸にては所在十數所の箕直し部落あり。此は一定の地に家居するも、男子は箕直しの爲に村々を巡業す。而して此徒の中には破壞窃盗を常業とする者甚多く、箕直し村へ來れば民家にても警察にても非常に用心を加ふ。鋭利なる刃物を有し切破りの手口に特色あること西部のサンカとよく似たり。

　以上の事實は未だ十分に詳細ならざれども、自分は之に基づきて今のサンカと古のクヾツと系統を同じくすることを論ぜんと欲す。松屋筆記卷六十五に曰く、關東にて筬を造る者を久具都《くゞつ》と呼び平民おとしめ思へり。是れ古の傀儡の類にて、住處不定の者筬を賣りあるきたるなるべし。其子孫民間に雜處するを賤しみて平民縁などを結ばざる也。陸奧岩城邊にでは之を「筬かき女」と稱す。橋邊空閑の地などに家居し、筬を賣りありきて其料に米錢を乞ふなり。米袋を持ちありく故に乞食に似たりとなん。梅花無盡藏卷三ノ上に二日透過｜梭師之棧《くゞつのかけはし》登三國之嶽云々とあり（以上）。右の梭師の棧は地名なれど、あの時代に於て既に梭を作る者をクヾツと呼びし立派なる一證なり。筬又は梭と前に擧げたる箕サヽラなどとは物は異なれども、得易き山野の材料に由り鋭利なる刀物を利用して手工を爲すは相似たり。

(485)次に「筬かき女」の袋は亦注意を要す。米錢を入るといへば此麻布などにて製せしものならんが、クヾツに袋は昔より附物なり。今日にても米穀などを貰ふことなき都會の乞食にても猶此一物を所持せざるなきは全く年來の由緒あるが爲にして、要するに漂泊生活に便利なる爲なり。而して昔の、袋は布製には非ず。和訓栞にはクヾツ又はテクヾツの語はもと傀儡の文字とは關係なしとし、袖中抄等を引用してクヾツとはクヾと稱する一種の草にて編みたる袋のことにして、此徒の必ず之を負ひあるきしよりの名なるべしと云へり。此は小事ながらクヾツが袋を負ひしこと、大國主神の繪の如くなりしとは信じ難し。袋の用は物を携ふる爲に手を煩さゞるに在り。故に多分は之を首より胸に掛け又は腰のまはりに結び附けしならん。萬菓集卷三の「しほひのみつのあまめのくゞつもち玉藻苅るらんいざ行きて見ん」と云ふ歌など思ふべし。さて此歌の萬葉抄の解にもクヾツは細き繩にて作れる物入れにて、田舍人の持つ物なりとあり、萬葉註疏には更に之に附加してクヾツのツは苞の義ならんと言へど此は猶疑あり、又其原料もクヾ即ち現今東京にてクゴ繩など稱するクゴを用ゐしことは、未だ明らかならずとしても、兎に角袋の一種にクヾツと稱するものあること、及びクヾツが古くより袋を持ちたりしことは疑なし。融通念佛縁起中に畫きたる鉢叩も腰に編みたる袋を下げたり、此徒も宗教を衣食の種とし且つ中古は漂泊の生涯を送りしが如く、而も茶筅を作りて之を鬻ぎしなど幾分クヾツ又はサンカと似たる所あり。

　サンカと云ふ語の古く見ゆるは俊頼の散木奇謌集なり。同書卷十、連歌の部に「伏見にクヾツシサムカ〔三字傍点〕まうで來たりけるにさき草に合せて歌うたはせんとて喚びに遣はしたりけるにもと宿りたりける家には無しとてまうで來ざりければ、家綱、うからめはうかれて宿も定めぬか、つく、くゞつまはしはまはり來てをり」と見ゆ。只一つの證なれば誤字等も計り難けれど、右の詞書によれば傀儡師を其頃一に又サムカと稱せしなりとも解し得。右に云ふ「サキクサ」は人形芝居の一曲なるか。前掲松屋筆記の卷九十五に遊女と傀儡と同じからざりし一證として、體源抄の今樣の事の條を引用し、「前草《さきくさ》」は始はクヾツにて後には遊女になりて兩方の事を知りてめでたかりけりとある由を云へり。之を(486)考合すに舞を奏すべきクヾツシのみ來てあるに、之に合せて歌ふ者不在なりし失望を紛さんが爲に、かゝる連歌はありしにやあらん。要するにクヾツとサンカとは漂泊の生活を爲すこと、竹を原料とする手工を以て生計を爲すことに於て古今相似たる上に右の如く「くゞつ舞はし」をサムカと呼びたるらしき記事も存するなり。

　

　　　　　　　　　　三

　

　クヾツ又はサンカが山野の竹や草を採り、僅ばかりの器物を製作して之を販ぐは、かゝる大種族の生計の種として誠に不十分なり。大量生産の盛に行はるゝ今日となりては、其不足愈々甚だしく終に惡事の收入を以て幾分之を補足せんとするに至るも、是非なき次第なり。併しながら遠く古代の?況に溯りて見れば、彼等は此外にまだ相應の收入の道を有せし也。其一は即ち祈?にして、其二は即ち賣笑の業なり。而して歌唱と人形舞しは又之に伴へる第三の職業なりし也。時勢の變易と共に此等の業は既に分化して一々の專門となり、殘餘の一半のクヾツにして、智巧之に適せざるものは次第に零落して斯る氣の毒なる漂泊者となり、其本源の既に別異なる上、生活程度の差等は愈々以て平民との間に劃然たる分堺を生ぜしむに至りしかと思はる。

　クヾツの生活を明らかにするには傀儡子記（朝野群載卷三）は最も大事なる史料なり。されどあの漢文には文章の趣味に驅られたるらしき部分ありて少しく不安心なり。例へば「定居なく、常の家なし」とか、「一畝の田を耕さず一枝の桑を採らず故に縣官に屬せず皆土民に非ず自ら浪人に限れり」とか云ふは寫實ならんも、「穹廬氈帳水草を逐ひて以て移徙す」とあるが如きは誇張に近く、かの顯宗紀の牛馬滿野、又は銀餞一文などの記事と同じく漢史の丸取りかも知れず。併し反證なき間は假に其他の記事を以て總て眞なりとして之に依るぺし。此記に依れば從來クヾツに傀儡師の字を宛てたるは頗穩當ならず。クヾツが「木人を舞はしめ魚龍曼延の戯を爲す」は單に其生業の一部たるに止り、此他に猶男子は「弓馬を使ひ狩獵を事とす」とあり。此「馬」なども何分信用しにくし。又マジツクも其一の職業なり(487)き。次の文には「沙石を變じて金錢と爲し、草木を化して鳥獣と爲す」とあり。末の方には又「夜は即ち百神を祭る、鼓舞喧嘩以て福助を祈る」とも見ゆ。クヾツの語義既に人形舞しに縁なかりしとすれば、何故に支那の傀儡を以て之に當てたるかと云ふ説明としては、漢字の選定に疎漫なりしと云ふか、然らざれば唐朝以前の支那の傀儡にも移徙の風あり且巫術を兼行ひたりしと見るの外なく、而も後者に付ては未だ十分の根據を見出さず。

　クヾツには團體あること、及び定住なきにも拘らず甚だ富有なりしことは亦傀儡子記に見ゆ。曰く「東國にては美濃參川遠江等の黨を豪貴と爲す。山陽播州山陰馬州（但馬ならん）等の黨之に次ぎ西海の黨を下と爲す」と。而して何故にクヾツの或者が財に富み豪貴とまで言はるゝに至りしかと思ふに、到底人形舞しの收入を主とせざりしことは明らかなり。即ち伎藝以外別に身分ある常人より金錢を卷上ぐる方法としては、やはり近代のジリャウジ、ブリウチの徒と同じく人の迷信を利用せしに相違なし。其次には歌舞なれども是も女色を種にしての歌舞なるべし。同じ記の文に「女は即ち愁眉、啼粧、折腰歩、齲齒笑（何れも唐代美人の媚術）を爲し云々」と形容澤山に、彼等が色を鬻ぐの風習を述べたり。院政時代の文學には實際クヾツは重要の地位を占む。京都の貴夫人は支那などと違ひ夫に伴ひて地方に赴任すること少なかりし故、田舍の生活は如何にも無聊にて良家の子弟は之を厭ひ、偶々使などに出づることあれば往々にしてクヾツの女の歌舞に耳目を樂しましめたりき。東路にでは鏡山野上、西道にでは江口神崎などにクヾツの優良なる者居住し、京都の風流人は後には用も無きに旅をして之を愛するに至れり。所謂一曲纏頭不知數にて此收入は又以てクヾツを豪貴ならしむるに至りしならん。

　江口神崎の遊女は之をクヾツと記するものを見ざれども、此も亦漂泊の生活を爲せしものなることは次に言はんと欲する所なり。其第一には遊女と云ふ文字なり。娼婦をアソビと云ふは古きことにて、倭名鈔にも遊女、一に阿曾比と云ふとあり。アソビメと宇津保などにも見えたれば、人は往々にして遊女の遊は右のアソビのことならんと思へり。然れども既に狩谷氏も言はれし如く、アソビの義は音樂を奏することにて、此輩が歌舞を職とせしよりの名稱なり。(488)遊女の遊は全く之と關係なく單に漂泊を意味したりし也。遊女古くは遊行女婦と書せり。例へば萬葉集六に筑前水城の遊行女婦、字を兒島と云ふ者あり、同第十八に遊行女婦の字を佐夫流及土師と稱するあり、第十九には遊行女婦蒲生あり。倭名鈔の遊女の説明に楊氏漢語抄を引きて遊行女兒、宇加禮女とある如く、凡て皆ウカレメ又はウカラメと訓みしなるべし。ウカレは天智紀に浮浪人をウカレビトともあれば、右の遊行は即ち一定の貫住なく旅行を以て生涯とする意と解して可なるべし。其證としては懷風藻の釋智藏が傳にも負擔遊行とあるは、此僧の雲水生活を謂ふらしく又本朝文粹の大江以言が見遊女詩序にも「蓋し遊行を以て其名と爲すは以て名を信にする所」ともある也。後世に於ても遊行上人の遊行は即ち同じ意味なり。又大和物語等に見えたる河尻の遊女其名を白と呼ぶ者が、亭子院の御門に詠みて送りし歌に「濱千鳥飛び行く限ありければ雲居る山をあはとこそ見れ」と云ふが如きも、單に「遙にして遠きよしを歌に仕れ」とありし命を奉ぜしのみならず、自分の漂泊生活を以て千鳥の水上を飛ぶに譬へ、意の欲するまゝに東西することを得る身にはあれど、都の貴人の御側には近より難きこと、恰も高峰の雲を見るが如しと巧に言現はせしが故に殊に其才を感ぜられし也。

　水上に住むを遊女と云ひ陸路に居るを傀儡と云ふとの説は、恐らくは別に據なき推測ならん。江口神崎の遊女とても常々は陸上に居り唯其去來のみ船に依りし也。併し此を以て強ひて區別すれば、遊女は西國より來るもの多かりしなるべく、傀儡子は略々京以東の物なれば、二種の名稱は地方的の相違即ち方言の差なりと云ふを得るなり。クヾツの生活は前述傀儡子記の外に本朝無題詩の中に之を詠ぜし詩數篇ありて、其一端を知り得べし。例へば法性寺入道の詩には「傀儡子もと往來頻なり萬里の間に居尚新なり」とあり、敦光の詩には「穹廬妓を蓄へて各々身を容る山を屏風と作し苔を茵と作す」とあり。或は「郊外居を移して定處無し」とも「茅簷は是れ山林に近く構へ竹戸は?々水草を追ひて移る」ともあり。彼等が行人を物色し旅亭を訪問して笑を賣りしことも亦顯著に描寫せられたり。又此等娼女の晩年如何に成行しかは「壯年には華洛の寵光の女暮齒には蓬廬の留守の人」、「棲は卜す山河幽僻の地怨は深し聲貌老(489)來の中」若しくは「其れ奈にせん穹廬年の暮れたる後容華變じ去つて心を傷ましむ」などと有るにて知られ、「旅亭月冷にして夕に客を尋ね古社嵐塞くして朝に神に賽す」とあるにて彼等の巫女の業の一端も髣髴せらる。殊に珍奇なるは丹波のクヾツの何れも醜女にして尚客を得たりしこと、三河赤坂のクヾツには口髭ありて口髭の君と呼ばれしがありしことも此にて分る也。

　南方熊楠氏の言に依れば巫と娼と相兼ぬること外國にも例多Lとのことなるが、日本にても此風近代まで存せり。遊女考には王朝時代の名妓の名を多く蒐集す。其中には觀音小觀音文珠御前孔雀など佛教に因める名稱多し。是れ一の見所なり。遊女が白太夫神に事ふと云ふ遊女記の記事は最も注意に値す。白太夫は道神又は道祖神の一名にして、彼等は「人別に之れを刻期し數は百千に及ぶ能く人心を蕩す亦古風のみ」とあれば、恐らくは其光景現今東北の倡家がコンセサマを神棚に安置すると同樣なるべく、而も此神が倭名鈔及江談抄にも言へる如く行旅を保護する所謂遊行の神なるを思へば、亦以て遊女の生活の陸上のクヾツと異なること無かりしを證するに足るべき也。中右記元永二年九月三日の條に神崎の遊女小最見ゆ。此もコサイと訓み小道祖の義なるべし。

　カムナギには勿論上下優劣の階級ありて、朝家の御祭などを仕ふる者は清淨なる女子なりしならんも、身分低き田舍の巫女に至つては神を祭りし歌曲舞踊を轉用して又庶人の耳目をも悦ばしめたりしかと思はる。新撰字鏡には、※［女＋祓の旁］、魃三ながら同じ、巧也、冶也、遊也、加年奈支とあり。新猿樂記には「四の御許は覡女なり、卜占神遊寄絃口寄の上手なり、舞袖飄?として仙人の遊の如く、歌聲和雅にして頻鳥の鳴くが如し、非調子の琴の音には天神地祇も影向を垂れ、無拍子の鼓の聲には□□野干必ず耳を傾く、仍て天下の男女踵を繼で來り遠近の貴賤市を成して擧る云々」とあり。白拍子も其表面の業は佛神の本縁を歌ふるにありと云ひ、其白拍子と云ふ文字も興福寺の延年舞古譜、春日若宮神樂歌などに見ゆるが始なりと云へば、或は亦始より祭事と遊宴とに兩用せらるべき性質の者なりしならんか。

(490)　遊女にも夫ありしことは、例へば大江以言の詩序に「其夫壻ある者は責むるに淫奔の行少なきことを以てす」とあり。近江海津のかねと云ふ大力の遊女は法師を夫にしたりと著聞集に見ゆ。此法師と云ふは所謂阿彌陀聖又は聖坊主などの類なるべし。今昔物語等を見れば此種在家妻帶の聖人多くあり。其中には道力の清僧にも優れるが稀にはありたれども、一般には頗る賤しき者として取扱はれたり。梶村土佐守の山城大和見聞隨筆に依れば、奈良坂のシュク部落に寛元二年の訴?を藏せり。彼等は自ら非人と稱し而も其名前は近江法師淡路法師等の如く皆法師と稱すること前號に掲げしイタカの阿波法師などと同樣なり。此徒も皆妻あり。琵琶法師などの法師も亦此なるべし。此問題は枝葉なれば詳述せずと雖、兎に角に近代迄箱根其他の修驗派の道場に於ては山伏の女房は凡て比丘尼と稱して即ち巫女なりし也。而して其巫女の最粗末なる者はやはり倡を兼ねたり。熊野比丘尼は其最も顯著なる例なり。元禄頃の漢學者の隨筆仲子語録に支那の三姑六婆を説明して道姑は我國の熊野比丘尼の如しと云へり。比丘尼とは云ひながら普通の女僧にては非ざりし也。和訓栞に曰く熊野比丘尼は紀州那智に住みて山伏を夫とし、諸國を修行せしがいつしか歌曲を業とし拍板を鳴して歌ふ。此を歌比丘尼と云ひ遊女と伍を爲すの徒多く出來れり、すべて其歳供を受けて一山富めり云々。如何なる材料に基きしかは知らず那智の爲には大分不名譽なる記事なり。勸進比丘尼の事を説くものは人倫訓蒙圖會でも、東海道名所記でも皆此徒が倡を營むは後世に及びての墮落の如く主張するも、夫は決して確なる證據ある説に非ず。今日の眼より見れば甚だ兼ねにくき二種の職業も中世の社會慣習は之を當然と見しものかと思はる。

　和訓栞の編者は又庭訓往來の中に縣神子傾城とつゞけて書けるに注意し、更に曰く信州の諏訪にては普通の巫女の外に別に一種神家を離れたる縣神子ありて娼を兼ねたりと。仍て考ふるに攝州住吉社の御田植の神事等の如く古來遊女の出でて祭禮に奉仕するの例あるは、亦右の下級巫女なるべし。遊女を太夫と呼ぶは男の舞々を神事舞太夫設樂太夫などと云ふと同じ趣旨に出で、共に陰陽道の末流に屬することを示すものなるべし。之に付て一の傳説あり。竹葉寅一郎氏の調査に依れば、伊勢飯南郡射和村大字庄に二十二戸の特殊部落あり。此徒自ら稱すらく、其祖先は尾州熱(491)田の禰宜なりしが、或遊女と馴染を重ねたる後、女が此郡花岡村大字山室の穢多なりしこと現れ、其職に在ること能はず、終に女に伴なひて此地に移り來ると。伊勢は我々が知れる範圍に於ては此種人民の最多き地方なり。而して又今日も娼妓の最多く出る地方なり。明治三十九年には此縣の特殊部落より出でて娼妓となれる者四百五十人あり。此外に此業に就くと共に本籍を移せるもの猶多し。此徒に於ては昔より之を出世奉公と稱し金に困らぬ者も此業を爲すあり。彼等の奉公先は半分は東京なり。或妓樓の主人は娼妓は穢多に限る由を打明けたりと聞く。此間題は遺憾ながらあまり詳細に討究する能はずと雖、自分は右の現象を以て偶然のものと考ふること能はず。

　諸國の特殊部落には今尚歌舞、音曲を以て主たる生業とする者多けれども、所謂皮作衆に至つては稍々此と部類を異にするが如く見ゆ。大和其他のシュクの者は昔は一種の非人なりしには相異なきも、段々舊平民と近接し且つ穢多を賤視して相伍せず。サンカも亦生活程度は却つて皮太より低きにも拘らず猶常に後者を以て自分より一段低き者と主張す。併し之を以て彼等の根原の全然別物なることを推測するは恐らくは誤ならん。皮作の土着定住は戰國以來の事なるべし。戰國時代軍用の皮革の需要が増加し而も各領主が之を領内に於て供給せしめんとしたる努力は即ち多くの穢多村發生の由緒なるべく、其以前は彼等も亦群をなして國々を漂泊せしならん。エタと云ふ語が餌取に出づとしても是れ只名稱の適用にして此を以て今のエタを餌取の子孫とすること能はず。他の部落が穢多を疎遠するに至りしは、やはり又彼等が獣屍の取扱を專門とする爲にて言はゞ境遇の分化に他ならざるべし。即ち中世の社會に於ては同一人に結合して些も不調和と感ぜられざりし種々なる生活方法が夫々分立して後世多くの部類を生ぜしなり。�ｺ川時代の末に及び江戸の學者にもてはやされたる團左衛門の文書は僞造には相異なきも、あの中に列記したる支配下の賤業なるものは別に何か據ありしものならん。當道即ち盲法師の團體にても二十八種の下《さが》り職と云ふことあり。又身分は下りに非ずして職業のみ下りなるものあり。其名目を檢するに大部分足利時代の職人盡の職業と合致し、何れも土地の占有と關係なく從つて本貫を重ずるを要せざる雜戸なり。彼等が社會上の地位は果して一般に後世の如く低かり(492)しか否かは疑問なるも、兎に角通例百姓と呼ばるゝ階級の外に立ちしは事實にして、而も其原因は一身上の變動に在らずして家の?態に存せしなり。此類の穿鑿は往々にして迷惑を人に及ぼすことあれば勿論斟酌の必要あり。今日となりては既に普通人の職業となり新に之に從事する人には多少氣の毒なれど、少なくも舊時代に於ては遊女屋が一種の雜戸と認められしは事實なり。唯一方には特許を受けて久しく營業する者が舊家相應の格式を保有し、更に名妓崇拜と云ふ妙な風習の發生するあり、又劣等の私娼ある爲に公娼の地位の比較的に高めらるゝあり、記録の缺乏の追々に傳説捏造に便宜を與へたる等種々なる事情の集合は、終に完全に右の好ましからざる性質を隱蔽するに至りしのみ。

　日本の賣笑史は中世誠に闇黒に屬せり。諸國の遊所の由來も多くは不明にして、偶々記録あるは江戸幕府以後の特許を云々するのみなれど、其以前に在りて此徒の甚しく少數なりしと云ふことは到底認め難し。東京附近に在りては常陸筑波山の遊所は恐らくは甚古きものにて亦彼の神社と關係あるべし。同國潮來の遊廓に至りては文書燒けたりと云へど由來古きが如く、是亦例のイタカと關係ありて巫女の兼業に基づきしものと想像せらる。江戸にて一種の娼女をヨタカと稱するも自分は同じ語の轉用ならんと思へり。もし今後の捜索に依り此假定を立證することを得たりとせば、之に次いでは關西地方のサウカも亦少なくもサンカの語と來由を同じくするものとせん。サンカの名義は今尚不明瞭なり。同じく京都附近の特殊部落に産所又は算所と稱するもあれば、サンカは或は算家即ち卜占を業とするの義ならんかとも思へど、些しく安ぜざる所あり。此徒の製作する竹器にサウケと稱する一種の笊あり。此語主として九州に行はるゝも越前地方などにも笊をサウケと云ふと聞く。サンカ轉じてサウカとなると云ふは必ずしも強辯にあらざらんか。

　　○本篇散漫にして豫期の如く材料を蒐集する能はざりしも徒に期日を遲延せんことを虞れ一旦筆を收む。他日更に不備を補ふべき也　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　柳田生

　

(496)　　　山民の生活

　

　　　　　　　こんぐうち侍りける時、畑燒き侍りけるを見てよみ侍りける　　　　藤原長能

　　　片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山櫻はよきてはた燒け（拾遺和歌集卷十六）

　

　名山の頂上を窮めようと云ふ諸君ばかりの中で、少しく調子の合はん話ではありますが、自分は凡山の中腹以下の生活と云ふ低いことを御話します。日本は御承知の通の山國でありますが、その山國ぶりがよほど西洋の國々とは違ふやうに思はれます。取わけ北米合衆國の如き土地廣く人の少ない國は正反對のよき例であります。十五度とか二十度とかの傾斜度を境にして、それより險岨な部分は山地として其範圍内には殆と人が住みません。なるほど木樵炭燒牛飼羊飼が入り獵師藥草採も入り、又は登山の客避暑の客も來れば、之を相手の宿屋の類もありますが、其數は知れたもので、大體から申せば平野は人間の住處山岳は野獣の住所と云ふやうに、自然に區劃せられて居るかと思ひます。日本などでこんな區劃をしたらとても五千萬の大人數は居りきれる筈が無い。故に色々と都合をして二十度はおろか三十度四十度の山腹にもずんずん村を作つて早くから定住して居ります。何れの深山に入つても五里七里と續いて人家を見ない所の無いのは全く御國柄でありまして、つまり傾斜地を人間の住居に適應させる技術にかけては、日本は萬國に優れてをるかと思ひます。

　今日では段々山から里へ下つて來る傾向が顯はれて來まして、此先どうなるか少々氣がかりでありますが、昔山奧(494)を開いた人々は、十分な用意と計畫とがありまして、恐らくは自然の發達ではありませうが、山村には一定の型が出來て居ります。一例を申せば日本の民家は自由に建てさせれば凡そ三と二位の割合の長方形でありますのを、山腹の村では四と一位の長方形にして地均しの勞費を省いたのもありますし、飛騨白川の山中などでは三階四階の藁屋を作つて出來る限屋敷の地面を儉約してをります。之と申すのも四面は海、内は人口増殖の壓迫の爲で、苟も谷川の流があれば、之を溯つて奧へ／＼と開いて往つて、新しい學問で海拔何千尺と云ふやうな高地に、いつとなく寒い生活を始めてをります。「山口」とか「川上」とか云ふ村は、次の時代には既に川下に成つて其奧に又村が出來る。例へば若狹の南河の谷などは殆と源頭まで民家がありまして、「奧坂本」と云ふ村の奧に尚數箇の部落があります。我々の祖先は此の如き地形を河内と名づけ又入野とも呼びました。「我が戀はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奧もまかなし」と云ふ萬葉の歌などは、入野が盛に開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありませう。

　入野では三方の山から水が流れますから、勿論開けば稻を作ることが出來ますが、昔の人は米が食へぬから村を作らぬと云ふやうな贅澤は申しません。水田にする程の平地が無くても氣候が寒くても、猶ずん／＼と谷の奧へ上りました。うそのやうな話ではあるが、山國では兵役に出て始めて米と云ふものを口にした人が幾何もあります。冬中の糧には栗、ハシバミ、トチの類もやりますが、多くは山畑に粟稗大麥小麥の類を作つて食料にしてをるのです。今日全國の府縣は年々各々五萬三萬の金を使ひ、立派な技師技手を何人も置いて、稻はかうして植ゑるがよい、蟲はかうして取れ、肥料には何がよいと綿密に世話を燒くのが一般の風でありますけれども、此等の所謂農事改良とは丸々没交渉で二千年來の勝手放題な食物の得方をして居るのが燒畑切替畑であります。燒畑切替畑の行はれて居る區域は存じの外廣うございます。其方法は全國到る處略々同樣で、燒畑と申すのは山腹の樹林地を片端から伐拂つて、秋切れば翌年の春、春切れば其年の夏、一時に火を付けて之を灰にし、其灰分を肥料にして、粟なり馬鈴薯なり麻なりを蒔きます。作付する作物にも地方により一定の順序があります。大抵の山地では三年もすれば表土が流れて了ひますか(495)ら、之を打棄てゝ他の樹林地に向ふので、一旦荒した地方はよほどの年數が立たねば再び燒畑にすることが出來ませぬ。一寸考へて見れば亂暴至極の話で、よく農學の方では掠奪農法といふことを申しますが、此などは手も無く強盗であります。近年植林の奨勵が盛に成りまするし、且水源涵養の問題がやかましい所から、例へば傾斜何十度以上の山地には燒畑をするなと云ふやうな府縣令がよく出て居りますけれども、外に食物を得る道の無い間は實際禁止することが不能です。山の人とても物ずきに燒畑を作るわけでは無い。里近い所はとくの昔に燒き盡し、今は家から又二里も三里も離れた山中に、假小屋を設けて宿泊し野獣の害が多い地方では蒔くから刈るまで番をする。引札や鳴子では間に合はず、男は晝寢て夜は起明しましてホーイ／＼と夜通し怒鳴るのださうです。

　燒畑地の山水は特色があります。夏の頃旅行すると山の中腹に貧乏人の股引の如く、所々四角に色のかはつた部分の見えるのが、燒畑の麥が熟した有樣で、ひどく深山を求めんでも汽車から見える處さへあります。又以前燒畑をした場所は地貌でわかります。又地名でもわかります。燒畑と云つても通じますが、地方に由つては切畑切山と云ひ薙といひ、カシキと云ひ、アラクと云ひ、コバと云ひ、ヤブとも申しまして、それ等が其土地の字と成つて殘つて居るのです。新編武藏風土記稿には秩父では春切る山を「應《おう》」と云ひ秋切る山を「差《さす》」と云ふとありまして、武藏から甲州へかけ大ザス、黒ザス、天目ザスなどと云ふ地名が澤山あります。小石川區指ヶ谷町なども其一例であります。甲斐國志を見るとあの國では燒畑を刈生畑とも又ソリとも申したさうで、東西河内領の山中には何々草里と云ふ地名が澤山にあります。ソリは、アイヌ語かと思ひますが證據が見出せません。奧州にもあれば駿河美濃などにも山中に何々草履と云ふ地名があり、伊豆には大澤里、高?蜊などの地名があります。三河の段度山の麓には、大藏蓮、金藏連等、木曾には柿其、赤ゾレなど皆此であります。今日人の苗字に佐分利、佐分と書いてサブリと申しますのも、元は居住地の地名で、若狹の佐分郷の如きは倭名鈔時代から今日迄ありますが、疑もなく同一語であります。又諸國の山地の地名で何の草と云ふのが澤山にあります。

(496)　今日のやうに材木の高い時代に僅ばかりの物を作る爲むざ／＼と大木を燒倒すなどとは無智も甚しいと云ふ人があるかも知れませぬが、それは山に行かぬ人の考で、如何に山の人が單純でも山中の材木が運賃に引合ひ多少の得分が有るものなら、決して松や檜を立枯しにして所謂白珊瑚を作りはしませぬ。買手のある限入用のある限は木材を採取して殘物のみを燒きます。薪炭用の雜木までが運んで金になる場所では、假令其爲に土地の肥力が不足で外から補ふまでも先づ木を取ります。畑を燒くのは肥料を作ると同時に作物に對する障碍物を除くのですが、燒て灰にするよりは生のまゝ腐熟するのを待つ方が、肥力の足らぬ土地には好都合であります故、木を取る畑では燒くことをせぬ所も段々ありまして、此を切替畑と申します。燒畑のことをカシキと云ふ處もあるが、カシキは恐らくは苅敷でありまして切替畑に當つてをります。切替畑はつまり燒畑の一段進歩したものです。燒畑と切替畑との中間に位する農法、例へば伊豫の上浮穴郡などの三椏畑の如く、雜木の麁朶を採取して跡地を燒くものもありますが、少しも火を掛けず純然たる切替畑を作る實例は、先づ伊豆の大島などであります。かの島では薪を通貨とする位薪の澤山出來る所で、島マキと稱し昔から小船で東京へ運びます。火山の周圍の山地はその薪山であつて、十八年二十年の大島櫻や、ヤシヤノ木を伐り出して薪に賣つた後は、三年乃至五年ほど之を畑として利用します。此は一つには造林前の整地の目的でありまして、澤山の地面を持つ者は分家や出入の者に畑を作つて貰はねば手が廻りませぬ所から、あの島には小作料と云ふものがありません。又相州の高座郡所謂相模野の大部分武藏から下總へかけての高臺は、到る處非常な雜木林で、汽車などで通過してなぜに開墾をせぬかと訝る人もありますが、此が又大都會の爲に缺くべからざる燃料の供給地で、多くは大島と同じく切替畑の農法を行ふのです。それと云ふのが地租が低く手が掛らぬ爲に下手な雜穀を作るより引合ふので、ハンノ木の株を掘起し土釜炭に燒いても開墾費を償つて餘があると申します。薩摩の南部の丘陵地でも切替畑が行はれ、彼地方の一風景を爲して居る松林は皆以前の畑に松を植ゑたものだと云ふことです。

　燒畑切替畑の行はれますのは一には所有權の關係即ち村持字持で個人に屬せぬ爲もありますが、主たる原因は勞力(497)の問題であります。土地はいくらも有るがさうは食物も不要なり一戸で二町も三町も作るだけの手が無いから、自分に宛てられた土地の五十分の三乃至二十分の三だけしか耕作をしませぬが、愈々人數が多くなり又は桑や小麥の類がいくら有つても金に成るとわかれば、矮林仕立などの微弱な利用をせずに、手の及ぶ限地形の許す限土地を改良して常畠にします。信州などは隨分急傾斜の山が桑畠になつて居りまして、此でも明治になつてから燒畑切替畑のよほどの面積が常畠になつたのです。地名にばかり殘つて居る燒畑と云ふのは、再び造林せられた處も勿論ありますが、多くは切替畑に進みそれから又常畠に改良せられたものです。この常畠と云ふものが農業經濟の發達に伴つてよく見ると二通りに區別があります。此前まで四年目に林に戻したけれど今度からは肥料を施して續けて畑を作ると云ふやうな處では、以前の燒畑のまゝの山の斜面に沿うた高低のある畑です。表土がどうしても流れまして上の方から土地が瘠せてまゐり、よほど土留めと肥培とに注意せぬと切替畑同樣十數年の後は見棄てねばなりません。第二種の畠は最初に餘分の勞力がかゝりますが、此心配だけはありません。即ち山腹を横に切込んで平らな耕地を作るのです。勿論此には表土の厚さ其他地質上の條件もありませうし、又物理學上の理由もありませうが、先づ經濟の方から説明しますれば第二種の常畠は更に一段進んだものと言はねばなりません。甲州から信濃へかけてはよく第一種の山畠を見受けます。切株のやうな臺を水平に畠の端に作らねば肥桶も置けぬと云ふ有樣です。

　土佐の西海岸の蜜柑畠などは第二の例で、船の上から見ますと丸で山が皮をむいた筍のやうに見えます。瀬戸内海の島々は二種の山畠が(798)雜然と併存してをりまして、研究の方からは中々趣味がありますが、若干彼海の風景を害してをります。さてその次が水田は更に一進境とも申しませうか、第一種の常畠では如何とも早仕方がありませぬが、水平式の山畠ならばもし之に灌漑すべき水さへあれば、即ち更級や田毎の月となります。兎に角米が作りたい／＼と思ふ山民の希望を滿足させ得るのです。併し田にする以上は畠とちがひ單純な土留めだけでは不十分です。あまり水が漏らぬやう又崩れぬやうに工事を加へねばなりません。淺間山の麓を汽車から見ますと、上の田の下の境は石垣で築上げてある。肥後の阿蘇の西麓などは石が得にくいか、此が土でぬり付けてあります。年々田植時に改修するらしく中には高さの八尺も一丈もある處があります。同じ國でも天草下島などは又石垣で、その石垣が粗末なる、石の間に澤山の蟹が住んでゐまして、夜出ては下の田の稻を荒します。之を蟹?《かにがみ》と申しかの地方の害蟲の一であります。

　我々の同胞が久しい間此の如く深山の奧のその奧まで入込みまして、何んでもかでも其土地から生活の材料を得ようとした努力は、到底地貌の上に若干の影響を及ぼさぬわけには行きませぬ。地貌學では天然の地表に及ぼす影響を主として研究しまして、人間の力の方は勿論一段輕く見られてをりますが、日本のやうな舊國では道路とか海川に對する築堤などの外に、山地に對する人間の痕跡も可なり重大であつたことを考へねばなりません。昔は瑞穗の國と云つて非常に肥沃な國であつた話ですが、今はさほどでも無いと同樣、素盞嗚尊が韓國から造船用の樹木を持つて來られたと云ふ傳で、全國の山々は一面の樹林であつたと思はれます。殊に邑落として最愉快な所は青垣山を四方に取繞らした盆地であつたのです。然るにその青垣山が段々木が無くなり土が流れて岩ばかりでこぼこした黒垣山と成り、或は禿山の赤垣山と成りましたのも、その原因は數千年來の燒畑切替畑であります。燒畑跡は草ばかりよく茂り樹木は僅な雜木位で、それも繰返して居る間には段々山の肌が隱れなくなります。所謂坊主山は決して最初からの坊主ではなく、かゝれとてしもぬば玉のと云ふ歌のやうに、以前は眞黒に樹が生えて必ず北海道の未開地以上であつたにちがひありません。普通の燒畑跡は忘れるほど棄てゝ置かねばならぬ所から、再び立派な林に復つた所も有るでせうが、(499)地層に燐礦があつたり又は石灰の層が頭を出して居たりして、燒畑として人望のある所は殆と山骨を暴露せねば止まぬ爲に、終に寄つてたかつて坊主にしたのです。信州などは山國の癖に木山が乏しいのは今は絶えて居るけれども昔盛な燒畑國であつたからでせう。それから諸國の山相を此の如く變じたのには更に一の有力な手傳ひがあります。序に申しますがそれは外でも無い鹽です。西洋の諸國ではどうして來ましたか、日本では甲斐の信玄が鹽を留められて苦しんだと云ふ如く、各地方毎に鹽の地方的供給を確保せねばならぬ爲に、越後の糸魚川でも出羽の鼠ヶ關でも奧州の宮古鍬ヶ崎でも甚しきは津輕の三厩まで鹽濱を開き鹽を煮ました。山國では又うすい鹽泉を汲上げて皆殆と全部火力で蒸發させたのであります。家々の温室法も不經濟至極のものではありましたが、中國沿海の山々の殊に荒れたのを見ると、鹽の燃料として烈しい山の伐採をしたことが想像せられるのであります。

　燒畑の話に關聯して、自分ばかりかも知らんが面白い研究題目だと思ひますのは、此の如き土地利用法は果して我大和民族の渡來に始るか否かといふことです。此國の前の主がアイヌかコロボックルか、國巣は何人種か出雲族は同族か異族か。此等は別の問題として、所謂天孫種の土着まで日本の山野は原始のまゝであつたかどうかと申しますと、自分はどうもさうで無からうと思ひますが今の所證據を得ることが出來ません。併し前に申したソリとかサスとか云ふ語は、本來の日本語では無いやうでありますから、此方から論究するのも一方法であります。但し假に前の居住者も燒畑を作つて居つたとしても、之を我々の祖先が學んだとは申しません。疑なく祖先はどこかの山國から來た人でありますから、夙くから山地の利用法には長じて居たのでせう。唯燒畑を作つて衣食を營むと云ふことが決して大和民族の特性とは言はれぬばかりです。然らばその新參の我々祖先が生活の痕跡は何れの點に求めるかと申しますと、自分はそれは稻の栽培耕作だと答へたいのであります。之も一種の假定説で他日反證が出ぬとも限りませんが、今は先づその假定の下に山民の生活の他の方面を説明して見ようと思ひます。

　茲に注意すべき一の現象は我邦に田代と云ふ地名の多いことであります。田代は田の代《しろ》即ち水田候補地と云ふ意味(500)でありませうが、古くから荒地の意味にも用ゐられて居ります。この田代を舊村名、即ち大字とする地が市町村一覽に四五十個所あります。南は大隅の肝屬半島から、北は陸奧まで二十五國に分布して居る。小字の田代は現に五萬分一圖に見えるだけでも又數十ありまして、つまり全國到る處に有るのです。然るに僅の例外を以て田代と云ふ土地には略々共通の地形があります。それは例の河内の川上入野の奧で兩山の谷間の僅の平地であります。東京近くで其適當な例は、相模の田代は馬入川の支流中津川の上流にあります。駿河の大井川左岸を溯つても三つの田代が皆略々同じやうな地形の處にあります。信濃の上高地は勿論、上河内でありまして、そこの田代池も村では無いが一例であります。さて水田の豫定地と云ふ位なら平衍な水澤の地にでもあるべきのに、特に此の如き山中の小盆地に名づけられたのは變なやうですが實は頗る面白い見所であります。我々の祖先の植民力は非常に強盛でありましたがそれにも明白に一つの制限がありました。如何なる山腹にも住む氣はある。食物としては粟でも稗でも食ふが、唯神を祭るには是非とも米が無くてはならぬ。今日の考では解しにくいが昔の人の敬神の念は中々生活上重要なものでありました。そこで神には粢《しとぎ》なり神酒なり必ず米で製したものを供へねばならぬ故に、假令一反歩でも五畝歩でも田に作る土地の有ると云ふことが新村を作るに缺くべからざる條件であつたのです。物恐ろしい山間へ始めて入込むのですから殊に産土の神の力に依頼する必要のあつた上に、海岸などの平地では取別けてこゝを水田にときめて置く必要はなくても、山中では田代の地が非常に肝要であつた爲に、自然地名と成つて今日に殘つて居るのでありませう。

　此の如き次第で田代といふ大字小字があれば、其谷は日本人に由つて始めて開發せられたことがわかり、且つ　　略々其時代もわかります。殊に考へて見ねばならぬのは川除潮除の土工の關係であります。成ほど川の流末の水付いた所は稻を作るに適しては居るけれども、其代り水害も恐ろしい。堤防を丈夫に築く知識と云ふものは京都附近は兎も角も、田舍には存外いつまでも開けなかつたのです。故に今日ならば遠く海上に向けて埋立の新田を開くに適した所でも、中世迄は唯危險にして且つ困難な場所で、住居の出來ぬは勿論、遠くから往來して田を作ることも先づ斷念して(501)居りました。しかも田の用水なり飲料水なり水の必要は中々有つたのですから、村としては先づ水の害を出來るだけ避けて水の利益を出來るだけ多く得らるゝ所を擇ばねばなりませぬ。海に面し川口に面して開けた平野を控へて居る丘陵の中腹は申分なく此條件に合して居りますが、日本にはそんな誂向な地が少ない。據なく川上へ川上へと村の適地を捜索して行き、終に深山に田代を見出しました。エンバンクメントの技術が進んで後始めて海邊の平野に村を開き、井を掘る技術が發逢して始めて高原の平地に住む樣になつたのです。馬入川の上流田名の邊で川の西の高地から東の方を見渡しますると、所謂相模野が明らかに三段の段地に區分せられて居ることがよくわかります。この第一段即ち最も川に近い臺が最も古い村であるのです。

　地名の方面から見た山地の生活には今まで人の注意をせぬ多くの問題がある。大字小字に何澤と云ふ地名は何原何野などと云ふ地名と同じく、單に地貌を言表はした語では無く、同時に人の生活と大なる關係がある爲に特に之に名を附ける必要が生じたのです。澤は關西では谷と云ひます。地方に由つては洞《ほら》とも云ひ、又何久保とも云ひますが、大體皆民居に適する小さい入野のことで從つて今は多くは民居と成つて居るのです。之と類似の地形に又サコ、又はセコと云ふ名があつて、九州ではよく迫の字が宛てゝあります。サコは東國の万へ來ると段々少なくなり其代りにハザマと云ふ地名が用ゐられます。陸中の大迫町は、オハザマと呼びます。然るに自分の信ずる所ではハザマはアイヌ語のハサマ（底）で此の如き低地の行留りを云ふ名詞であります。岱《ぬた》又は仁田《にた》と云ふ地名は今日でも水のじく／＼した所即ち田代として適當な谷間を申すやうでありますが、此もアイヌ語のニタ（濕地）であります。道滿《どうまん》、當間《とうま》などと云ふ地名が處々にありますのは亦同じ語のトーマン（濕地）であります。殊に谷と書いてヤと云ひ、ヤツと云ひ又はヤトと云ひますのは明らかにアイヌ語のヤチ（濕地）でありまして、關東諸國に無暗に多くある地名です。現に奧羽には、ヤチと云ふ固有名詞も普通名詞も所々にあります。さて此事實は如何なることを意味するかと申しますと、我々の祖先は現にアイヌの祖先が居住して居る所へ後から入つて來て、アイヌの經濟生活にはあまり大關係の無い谷(502)合の卑濕の地を占有して田を開き其附近に住居を構へたと云ふことを想像させるのです。一寸人は蝦夷を追ひこくつて其空地へ日本人を入れたかのやうに想像して居りますが、彼等と雜居すること稍々久しくなければ決して此等の名詞を受け傳へる筈がありません。從つて全國の蝦夷が悉く北海道へ立退いたこと恰も臺灣の隘勇線の前進が生蕃を押出すと同じかつたとは思はれません。奧羽の邊柵で田村將軍が武威を耀してから後も、ずつと内地の關八州の山地などには蝦夷と日本人とが境を接して居つて、長い間平和なる又は武装的の交渉が絶えなかつたかと思はれます。

　我邦では所謂神代の歴史にも見えず延喜式其他中古の記録にも見えず、又後世の勸請でも無い小さき神社が非常に澤山あります。殊にホコラと稱する小さき社又は單に神ありといふのみで社も何も無い場所が、何れの地方でも澤山あります。關東ではネノ神、十二ソウ、テンパクなど云ふ神々もありますが、全國を通じて最も單純で且つ最も由緒を知りにくいのは、荒神、サイノ神、山ノ神であります。佛教でも神道でも相應に理由を付けて我領分へ引入れようとしますが、未だ十分なる根據はありませぬ。それだけに又此神々の起原の新しくないことが想像せられます。山ノ神は今日でも獵夫が獵に入り木樵が伐木に入り石工が新に山道を開く際に必ず先づ祭る神で、村に由つては其持山内に數十の祠がある。思ふに此は山口の神であつて、祖先の日本人が自分の占有する土地と未だ占有せぬ土地との境に立てゝ祀つたものでありませう。元來神の社に注連を延《は》へるのは人の田や屋敷に?示を打つのも同じことで、其境内を侵さぬことは大和民族の嚴重なる慣習でありました。奈良の春日山や信濃の諏訪の社が草原の眞中に鬱然たる杜《もり》を成して居りますのは即ち此結果であります。サイノ神や荒神は今日の有樣では社を立てた趣旨の不明に成つた所もありますが、つまり皆日本人の植民地と蕃界との中間に立てた一種の標識であつて、而も其神々は先方の所屬であつたが故に其名稱からも傳説からも由來を説明することが困難なのでは無からうかと思ひます。山の神は人の形をして丈高く色赭く眼の恐ろしく耀いて居る神で、折々山中で之に逢つた者があると云ふ口碑は今も各地方に存して居ります。

　又シャグジと云ふ神がある。東海道の諸國では古來各村に祀つて居ります。或は三狐神と書いて御食神《みけつのかみ》だと云ふ説(503)があります。或は赤口神《しやつくじん》で陰陽道から出たものとも申します。近年は又人類學會の先生たちが二三の地方でシャグジを石神と書き又はイシガミと云ふ神もある所から、先住民の遺物なる石器を祭る者だときめてをられますが、共に安心して承伏することが出來ません。殊に第三の説はすぐに反證が擧げられます。多くのシャグジは現に石器を神體にしてはをりませずシャグジ、サグジと云ふ地方は多くて、シャクジンと云ふ所は少ないのです。つまり此神も蕃神でありませうが、そのサイの神、荒神、山ノ神、天白などとの關係異同は今日となつてよくわかりません。併し駿河などにはシャグジは土地を守る神だとか又は土地丈量に用ゐた器具を埋めた場所だといふ傳説があります。荒神も三寶荒神などと云つて今は竈の神のやうに思はれてをりますが、地方では山神と同じく山野の神で、神道の盛な出雲國などにも村々に澤山あります。荒神の荒は荒野の荒でありませう。シャグジと云ふ地名は西は肥前の海上にもあつて全國に普及した地名であります。精進と云ふ地名もきつとシャグジと關係があるだらうと思ひます。

　

(504)　　　第四卷　内容細目

　

遠野物語（明治四十三年六月、聚精堂）…………………………………………一

〔1948年10月、文藝春秋社刊行〕

　

山の人生〔1947年5月、實業之日本社刊行〕

　自序

　山の人生（大正十四年一月〜八月、アサヒグラフ四卷二號〜五卷七號）…五九

　山人考（大正六年、日本歴史地理學會大會講演手稿）……………………一七二

　

史料としての傳説〔1957年10月、村山書店刊行〕

　史料としての傳説（大正十四年五月、史學四卷二號）……………………一八九

　杓子と俗信（大正七年九月、土俗と傳説一卷二號）………………………二四〇

　おたま杓子（大正七年十月、土俗と傳説一卷三號）………………………二四八

　杓子・柄杓及び瓢箪（大正七年十一月、土俗と傳説一卷四號）…………二五六

　比丘尼石の話（大正十二年五月、史學二卷三號）…………………………二六四

　

妖怪談義〔1956年12月、修道社刊行〕

　自序

(505)　妖怪談義（昭和十一年三月、日本評論十一卷三號）…………………二九一

　かはたれ時（昭和五年十一月、ござよう九卷十一號）……………………三〇八

　妖怪古意（昭和九年四月、國語研究二卷四號）……………………………三一一

　おばけの聲（昭和六年八月、家庭朝日一卷六號）…………………………三二五

　幻覺の實驗（昭和十一年四月、旅と傳説九卷四號）………………………三二九

　川童の話（大正三年五月、郷土研究二卷三號）……………………………三三三

　川童の渡り（昭和九年十月、野鳥一卷六號）…………‥…………………三三五

　川童祭懷古（昭和十一年六月、東京朝日新聞）……………………………三三九

　盆過ぎメドチ談（昭和七年十月十九日、二十二日、二十五日、奧南新報）…三四五

　小豆洗ひ（大正五年五月、郷土研究四卷二號）……………………………三五六

　呼名の怪（大正五年一月、郷土研究三卷十號）……………………………三六〇

　團三郎の秘密（昭和九年六月、東北の旅九卷六號）………………………三六一

　狐の難産と産婆（昭和三年九月、民族三卷六號）…………………………三六四

　ひだる神のこと（大正十四年十一月、民族一卷一號）……………………三六五

　ザシキワラシ（一）（大正八年十月）………………………………………三六八

　ザシキワラシ（二）（大正三年八月、郷土研究二卷六號）………………三七二

　己が命の早使ひ（明治四十四年十二月、新小説十六卷十二號）…………三七三

　山姥奇聞（大正十五年六月、週刊朝日）……………………………………三七七

　入らず山（昭和六年八月、週刊朝日）………………………………………三八一

　山人の市に通ふこと（大正三年八月、郷土研究二卷六號）………………三八三

　山男の家庭（大正四年三月、郷土研究三卷一號）…………………………三八五

(506)　狒々（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）………………………三九二

　山の神のチンコロ（大正三年六月、郷土研究二卷四號）…………………三九五

　大人彌五郎（大正六年一月、郷土研究四卷十號）…………………………三九八

　ぢんだら沼記事（昭和十三年十二月、讃岐民俗一號）……………………四〇五

　一つ目小僧（大正六年三月、郷土研究四卷十二號）………………………四一一

　一眼一足の怪（大正五年十一月、郷土研究四卷八號）……………………四一三

　片足神（大正五年十二月、郷土研究四卷九號）……………………………四一六

　天狗の話（明治四十二年三月、珍世界三號）………………………………四一七

　妖怪名彙（昭和十三年六月、七月、八月、九月、十月、同十四年三月、民間傳承三卷十號、十一號、十二號、四卷一號、二號、六號）………………………………四二四

　

山神とヲコゼ　（壹）（明治四十三年十月、學生文藝一卷二號）……………四四一

　　　　　　　（貳）（明治四十四年、人類學雜誌二七卷一號）……………四四六

　

山人外傳資料（大正二年三月、四月、八月、九月、大正六年二月、郷土研究一卷一號、二號、六號、七號、四卷十一號）…………………………………………………四四九

　

「イタカ」及び「サンカ」（明治四十四年九月、十一月、明治四十五年二月、人類學雜誌二七卷六號、八號、二八卷二號）………………………………………………四七三

　

山民の生活（明治四十二年十一月、山岳四卷三號）…………………………四九三

　

〔2014年11月1日（土）、午後5時10分、入力終了〕