定本柳田國男集 第五卷(新装版)、筑摩書房、1968、10、21(1971.10.28.4刷)
 
(1)   傳説
 
(3)     自序
 
 昭和十三年の日本民俗學講座で、六七回續けて私は傳説の話をした。それを本にして見ないかと勤められて、簡單に引受けてしまつたが、書き始めて見ると中々まとまらぬ。例は興味の有りさうなものを澤山に講座では引用したけれども、それを繋ぎ合せる説明が不十分であつた。少しでもそれを補つて置かうとすると、談義に流れて事實が乏しくなる。それで大いに困つて實は二年近くの日を空しく過した。漸く此一册の本は出來上がつたが、まあよからうといふ心持は少しも起らず、寧ろ竊かに公約を悔いるばかりである。強ひて氣休めを求めるならば、日本は傳説の殊に多く又色々の特徴を備へた國であつて、しかも各地方で無數の傳説集を出して居るにも拘らず、今以て之を利用するやうな小册子すらも公けにした人が無い。是が最初だといふことは何ぞの意義がある。さういふつもりは少しも無いけれども、此本は問題をばらまいて、多くのまじめな人たちの論議の種にはなるであらう。だから其意味では又傳説の研究を促進するかも知れない。時事問題として傳説と歴史との關係を論ずるのは、實は甚だ損なことである。私は地方を旅して居て、毎度この問題では當惑した經驗がある上に、傳説の近代相といふものを説く必要から、つい少しばかり歴史化の批評をして見たが、靜かな讀者諸君には是は決して勸めない。そんな事に手を出さずとも、傳説の研究は幾らでも出來る。寧ろ歴史上の人又は事蹟に觸れて居るものを避けて、其他の方面に入つて行く方が、興味も豐かなれば功益も多いのである。採集は今出て居るものでも間に合ふが、もう一度土地で年を取つた人々の口から、よそ行きで無い話を聽くに越したことは無い。ノートの紙はばら/\のものを使つて、類似の傳説を一まとめにし、その異同を比べて見るのが面白いのである。最後に出來るならば「一目小僧その他」、一つ/\の題目に就いて前に私の書いたものを讀んで見て戴きたい。さうすれば少しは此書(4)の言ひ落しを補ふことが出來るだらうと思ふ。
       昭和十五年六月十八日
 
(5)          一
 
 傳説が一つの日本語として通用するやうになつたのは、ほんの近頃からのことである。現在この言葉を以て呼んで居る言ひ傳へは、無論いつとも知れない大昔からあり、一方には又文字を識つた人たちは、傳説といふ語を時々は使つて居たのだが、それが今日我々のいふ「傳説」ばかりを、言ひ表はすものともきめては居なかつた。四十年ほど以前、高木敏雄氏と其友人などが、頻りにこの問題を論じた際に、始めて獨逸語でザァゲ、佛蘭西語でレジャンドといふ語とほゞ近い意味に、この「傳説」の文字を用ゐ、それが又忽ちに全國の口言葉にもなつたのである。高木氏の書いたものは、「日本神話傳説の研究」といふ本に大よそ纏められて居る。同じ人は又東京朝日新聞に頼まれて、其頃ちやうど全國から募集した傳説の選者となり、後にそれを整理して一册の本にして世に送つた。是が傳説の興味を我邦に普及させたと共に、自然にこの言葉の限界をきめる結果にもなつたことは、私たちが先づ活きた證人である。但し其範圍は僅かばかり、我々の考へて居るところと違つて居るのだが、それを討究するまでにまだ世間の關心は進んで居ない。さうしてたゞこの一つの日本語だけが、むやみと國中に取囃されることになつたのである。
 傳説はもと所謂漢語ではあるが、あちらでは却つて文字通りに、今でも二つの動詞の結合としか解して居らぬ人が多いやうである。故事といふ語を我々の「傳説」の意味に使つて居るのをよく見かける。日本でも漢學の出來る人、即ち耳から人の言葉を受取らうとせぬ人たちには、傳へて説くものならすべて傳説と謂つてよからうと思つて、可なり弘い範圍にこの語を解しようとするむきも少しはある。結局は多數の行く方に從はねばなるまいが、現在はまだ折々の牴觸を免れぬのである。たとへば我々の携はつて居る學問なども、此頃は日本民俗學といふ名にほゞ落着かうとして居るが、前には物があつて衆人の一致した名が無かつた。或ひは民間傳承の研究と謂ひ、又は外國の習はしを認めて、之をフォク・ロアと呼ぶ者も多かつた。三字でないと學らしくないやうに感ずる人々は、或ひは之を俚傳學と(6)謂はうとしたこともあつた。ハートランドの一著「宗教と呪術」の國譯本を讀んで見ると、其中には傳説學といふ字が幾つも出て居る。ひどく氣になるので原本に當つて見たら、是がフォク・ロアに對するこの譯者だけの日本語であつた。無論是を「傳説」のみを調べる學問と解して居るわけではない。國に傳はつて居る昔からの習慣や考へ方までを、傳説と呼んでもよいやうに思つて居る人が、あの頃はまだ有つたのである。大正の半ば頃に出て居た雜誌に、「土俗と傳説」といふのがあり、十何年間も續けて出して居る「旅と傳説」といふ雜誌もある。幾分か範圍は狹いかも知れぬが、昔話でも諺でも、歌でもかたりものでもすべて其中に包容して居るらしいから、やはり國民の話題に上る古いことならば、一括してさう呼んでもよいやうに、少なくとも元は考へて居た人が付けた名であつた。しかも我々の「傳説」が紹介せられたのも、今までは主として斯ういふ雜誌の上であつたのだから、紛らはしかつたわけである。
 それでまづ最初に、この二通りの意味を明らかに見分けた上でないと、傳説の話は進めて行くことが出來ない。事實を有るがまゝに述べるならば、日本では傳説といふ言葉を、人によつて今でもまだ廣く又は狹く用ゐて居るのである。廣いといふのはすべての前代からの語り傳へ、口で人々が暗記して居るものは申すに及ばず、かはつた信仰や行事などの、問へば何とか説明してくれるものも、皆傳説だとする見方である。是に對してその傳承のほんの一種類、しかも我邦に限つて特殊に發達し、且つ途法も無く豐富に隅々まで分布して居る語り方のものだけを、傳説と謂はうとする狹い解釋があるのである。この二つはさういつ迄も兩々對立して居るわけに行かぬ爲であらうか。輪廓は幾分かぼやけては居るが近頃の口言葉では、追々に後の方に統一せられようとする傾きが見える。さうして自分が爰で考へて見たいのも、やはりその狹い意味の「傳説」の方なのである。民俗學で取扱ふべき現存資料の全體は、綜合して之を傳承と呼ぶことにして居る人が多い。その傳承を我々は假に三つに分けて居る。一つは眼で看ても大よそはわかるもの、之を有形文化又は行爲傳承ともいふが、何れにしても名が少しばかり覆ひ足りない。もつとよい名を見つけなければならぬが、とにかくに爰にいふ「傳説」が、其中に入らぬことだけは確かである。第二には專ら耳で聽くも(7)の、即ち國語に通じない他國人などには、注意も採集も出來ないもの、之を言語藝術或ひは口頭傳承と謂ふのだが、更に此以外に言語にも現はされず、畫にも寫眞にも殘すべき形跡が無くて、大部分は直接に心に感じ又は覺らなければならぬ、内部傳承とも名づくべきものがある。その第三の傳承は、今までは信仰傳承、又は俗信の名を以て呼ばれて居たが、實は信仰といふ語の意味をよほど廣く解しても、まだ包みきれないやうに思ふ色々の觀念、好み樂しみ又は選擇などゝいふものをも含んで居る。是からもう少し内容を整理して、もつと適切な名を付與しなければならぬ。傳説は人が語つてくれなければ知る便宜が無い故に、通例は口頭傳承もしくは言語藝術といふ第二類の中に入れることになつて居るのだが、よく氣を付けて見ると、傳説を語る言葉には定まつた形が無い。聽いても其通りを次の者に傳へようとはせず、長くも短くもし又改造をする者も多く、しかも要點になつて居る部分は、うそをつかうとせぬ限り元のまゝなのである。此點から見れば私たちの分類の、第三類の方に屬してよいものであつた。たゞ是と最も近い内容をもつたものが、言語藝術の中の昔話にも多く傳はり、或ひは「語りもの」となり歌謠ともなり、ことわざにも地名にも保存せられて居る爲に、丸々引離して置くことは不便なので、私などは是を二と三との中間に別置して、ちやうど橋架けのやうな役目をもたせようとして居る。すべての民間の傳承を一括して、之をデンセツと稱へる日本語は、現在はもう行はれて居ないと謂つてもよいのだが、それにも拘らず是が我々の研究に取つて依然として大切なわけは、この特殊な地位を狹義の「傳説」が占めて居るからであつて、それが又日本民俗學の斯くも盛んになつた今日、まだこの興味ある問題に身を入れる人が少なく、よい加減な考へ方のなほ通用して居ることを、深く歎かねばならぬ理由ともなつて居るのである。
 
          二
 
 近世の教育の玉に疵は、やたらに古くから有るものに新しい名を付けて、前後の續きを忘れさせようとして居たこ(8)とにあるのだが、傳説は亦確かに其一つの例であつた。用語の新舊を別にして考へるならば、元は日本人くらゐ傳説を大事にし、よかれ惡しかれ是に制約せられて居た民族も稀なのである。古い國でも政治の變革が多いと、人が傳説を守らうとする念慮はもとのまゝであつたところで、傳説そのものゝ内容がちがつて來る。乃ち國がらは改まらざるを得ないのである。我々の邦とても、無論少しも變らずに上代の姿を留めて居るとは言へない。國民の智能が磨かれ經驗が加はると共に、松杉樫の木が古葉を落しつゝ伸びる如く、用の無いものは追々と棄てゝ來たが、外から強ひられて變へなければならぬ點が、よそとは比較にならぬほど少なかつたらしいのである。無論いつの世にも見た所は統一して居て、保存と變更との繼ぎ目は目に立たないが、それでも此中から追々に、久しく傳はるものを見付け出す方法はあつて、是から次々と話をして見ればわかることだが、存外に多くの昔の姿は消えずに居たのである。それが若干の變化を受けて居る場合でも、變化そのものが既に古風であり、又その變りぶりにも前代人の氣持を認め得る。知らずに我々が傳説を承認し、甘んじて其限界の中に働いて居る場合は今も多い。さうして斯ういふまじめな場合だけは、寧ろ新しい傳説といふ語を用ゐることを好まぬやうに思はれるのは、又一つの過渡期の兆候であつて、いよ/\以て此問題を永く打遣つて置くことが、國の昔を粗末にする結果に、陷りさうな不安を抱かしめるのである。
 さて傳説といふ名稱は新しく、ものは遠い昔から既にあつたとすると、そんなら元は何と謂つて居たかといふことが、次に起る疑問である。是は土地々々の人に言はせて見ても、今のうちならばまだ知ることが出來るだらうが、大體にイヒツタヘといふのが最も上品な、又誰にでもわかる口言葉であつたやうに思ふ。言ひ傳へは勿論書いて見ても明らかなやうに、爰で謂ふ傳説よりも範圍が弘い。藥の秘法や仕事のこつ〔二字傍点〕でも、書いて殘さぬものは皆此中に入つて來るであらう。單語はいつの世にも最初は用途が寛やかで、後に必要と慣行につれて、たとへばカヤを或草に、グミを或果實だけに、追々と限ることになつたやうな例は多い。數ある口頭傳承の中でも、他のものにはナゾとかムカシとかそれ/”\の新たな名が出來て、それを引去つたあとには、この傳説だけが最も有力に殘るのである。だから實際(9)には此語を使つても、誤つて解せられる懸念は先づ無かつたので、傳説といふ新語は必ずしも差別の必要に促された發明でなかつたことは、今なほ境目のやゝぼやけて居るのを見てもわかる。つまりは何か耳を新たにする二字の漢語がほしかつた迄である。
 古い時代にも、このイヒツタヘといふ語は通じたらうと思ふが、別に又カタリツタヘといふ語も存し、或ひは「語り繼ぎ言ひ繼ぎけらく」などゝ、二つ竝べても用ゐて居たのは意味のあることであつた。カタルは本來は改まつた物の言ひ方をすることであつた。乃ち我々の傳説が、常の馴々しい口調を以て、人に聽かせるものでなかつたことを推測せしめる。現在は東北では「馬鹿かたンな」などゝ、殆と「言ふ」と同じ心持にも用ゐ、或ひは又人を騙して財を取ることだけを、カタルといふ例も多いが、それは後々の變化と見られる。今でもカタリモノと謂へば、必ず句の形の定まつたものだけになるのである。上代のカタリゴトは是よりもずつと弘く、我々が傳説と呼んで居るものも、其中に含まれて傳はつたことだけは確かだが、それがどの位の部分を占めて居たかは、もつと詳しく沿革を調べた上でないと言ふことが出來ない。名は同じであつても、内容が時につれて少しづゝ變つて來ることは、其カタリゴトも傳説も共に免れなかつたからである。或ひはフルコトといふのが、特に歴史に屬する語りごとのみを意味して居たかとも想像せられるが、この單語ももはや今日の口言葉の中には殘つて居ない。さうして之を漢字化した故事といふ語が、支那とも又ちがつたやゝ狹い内容を以て、教養ある人々の間だけに行はれて居るのである。
 傳説をもし強ひて日本風な言葉で呼ばうとするならば、イハレといふのが最もよく當つて居るかも知れぬ。此語の起りは普通に考へられて居るよりも古く、曾て至尊の御諱とさへなつた大和の磐余《いはれ》といふ地名などもそれであり、又沖繩の島にあるキコエ大君、又は阿母《あむ》シラレ等の例と比べると()、ことによつては雙方同じ趣旨の語であつて、本來は「言ふ」といふ動詞の受身の形を、「忘れてはならぬ」ものゝ名として居たのかとも思はれる。たゞ何分にも近世は是を粗末に取扱つて居た。それといふのが餘りにも其イハレを説く者が多く、又しば/”\名を是に借りて、自分ば(10)かりに都合のよい主張をする人があつた爲に、聽く者が玉石一樣に輕しめるやうになつたのであらう。江戸人士の物を茶にする氣風には、時として腹立たしいものがあるが、イハレ因縁故事來歴などゝ續けていふときには、幾分の可笑味をさへ含み、少なくとも何かといふとイハレを説きたがることは、老人の惡い癖のやうに認められかけて居たのである。だから是を再び往古の嚴肅なる用法に戻すといふことは、實際に於て簡單な仕事では無い。しかもさういふ色々の行掛りに囚はれずに、我々は眼前の「傳説」を考察すべき必要を感じて居るのである。響きや字面は必ずしも滿點とは言へなくとも、なほ時代の新たなる?況に應じて、斯ういふ一つの新語は採用しなければならぬ。たゞ傳説と謂つたのではどうしても呑込めぬ人たちだけに對して、以前イハレと言ひ又は言ひ傳へとも言つて居たものといふ、註脚を添へたらそれでよからうと思ふ。何といふ名を用ゐても、境目には問題があり又誤解もある。是は要點を明らかにすることによつて、自然に整理して行くの他は無い。
  (補註) 聞得大君、近世の沖繩人は字には斯う書いてチフィジンと發音して居た。神に仕ふる最高の女性で、多くの點に於て上代の齋宮と似て居る。名の起りは「世に知られたる」といふ意味かと考へられる。其下に屬した上級の祝女の稱呼にも、アムシラレといふのがあつて、アムは阿母と書き刀自又は夫人の義である。宮古島などの土官の名に豐見親といふのも、禮讃を意味するトヨムといふ動詞がもとで、是は配下の民から見た語であつた。同じ語形はもう内地には行はれないが、大和のイハレも其例かと自分は思つて居る。
 
          三
 
 傳説の要點は人が之を信じて居るといふことに在り、之を信じて居る人の數の、歳月と共に段々と少なくなつて行くといふのが、又一つの爭ひ難い特性であつた。古い時代に於ては、表現の方式即ち之を人に傳へる言葉の技術が定まつて居て、それが史實を語る方式と、雙方からよほど近づき似寄つて居たと思はれるが、その點はもう古今を一貫した不變のものでなかつた。第一に一方の史實の方は、文字に移されて次々に文書になつた。紛れて幾つかの傳説が(11)其中に入つたことは有り得るが、大體に於て他の一方の傳説の方は、なほ久しい間口頭の傳承に殘り、それに伴なふ徐々の變化を受けて居たのである。記録がその出現した或一つの時點の姿を、精確に傳へて居るのに對立して、是はいつでも成長の勢ひを示して居た。文書は破れ蟲ばみ又は讀み解きにくゝなるといふ以外には、後の世からの影響を被らぬものなるに反して、傳説は草木の如く、種は無始の昔にあつても伸び茂り又は片枝枯れゆがんで居る。海の渚のやうに沈み又は遠ざかつて居る。詳しく見る人ならば此間に立つて、時の進みといふものが人生に與へた、大きな變革の跡をたどることが出來るのである。是が二つのものゝ内容に於て、どんな事があつても混同してはならぬ理由であり、同時に又史料として高く評價せられなければならぬ傳説の價値である。
 傳説の時世と共に變化して來たこと、それを具體的に説いて見るのが此本の目的であるが、其中でも外形即ち之を他人に話して聽かせる方法に至つては、もう細かな説明を必要とせぬほどに、誰にもわかり切つて居る昔今の差異がある。たとへば近頃の人は無やみに忙しい。土地に評判の珍しい傳説があつても、停車場の掲示板にはたゞ一行の文字を録するのみで、旅人の聽いて戻つて人に語る場合は勿論、知つて信じて居る男女の故老でも、先づ結末を語つて、あとは質問に應じてぽつ/\と補足するのである。郷土誌其他の書が新たに之を筆録する場合にも、順序を立て又年代や人の名を精確にしようとは努めるが、たゞ斯く/\の事實があつたと言ひ傳へるといふ迄で止めて居るから、記述は簡明を極めて、之をもてはやす人々の感動は傳へない。ところが一方まだ現存する宮や御堂の縁起、もしくは父祖以前の舊記類があるとすると、是には丁寧に話に來歴があり、たゞ徒らに夢に近いことを信じて居るのでは無いわけを、言ひ添へようとして居るものが多い。元は恐らくは巡見使や、殿と名の付く人の御小休みの節でもなければ、路傍の立話などには言ひ出すべきものでないやうに、重々しく考へられて居た名殘であらうと思ふ。世の中が改まつて人の往來が繁く、次第に今のやうな粗略な話し方が普通になつたけれども、なほ家々には昔からの、年寄から若い者への引繼ぎが行はれて居たらしいことが想像せられる。外部の我々には其樣式を知ることが、今ではもう大分むつ(12)かしくなつて居るが、やはり神祭の御籠《おこも》りの晩とか、年に何度かの集會の席上とかゞ、始めて聽く者は耳を傾け、知つて居る者は記憶を確かにする、大切な機會だつたやうである。以前は特別に莊重なる言葉使ひを以て、先づ傳説だけを語らうとした習はしがあつたのかも知れぬが、一夜を語り明かすとすれば是ばかりでは足りない。他にも敷あまたの雜談は其中に交へられ、少なくとも近世になつてはその話し方に、彼と此との差別は立てられて居ないのみか、寧ろ新奇なる外來の話題に、氣を取られる傾きが強くなつて居る。話は庚申の晩などゝいふ諺が行はれたのも、傳説以外のちつとも重要でない色々の説話が、斯ういふ夜ばかり盛んに持出されて居たことを意味するものであつた。是と傳説との境目が、段々と紛らはしくなつたのも已むを得ない。いづれ古くからの傳説でも覺えて居るといふ位の人ならば、大抵は話し上手であり、又他の多くの話の種も持つて居て、所望によつてはさういふものも聽かせてくれたことであらう。毎度くり返される古來の言ひ傳へよりも、少しは耳新しい又時々は笑ふやうな話題を、所望する聽手が追々と多くなつて、傳説の立場は押付けられるか、さうでなければ是をもやゝ面白をかしく、他の説話のやうに修飾する風が生じたかも知れぬ。其中でも我々の謂ふ昔話、學者が民間説話又は民譚とも謂つて居る一種の説話は、殊に大昔以來の因縁があつて、傳説と混同せられやすかつた。その因縁は後に詳しく述べるつもりであるが、ともかくも傳説をまるで短篇小説でもあるかの如く、人が勝手に引伸ばして書き立てようとする流行などは、必ずしも近頃に始まつたものではないのである。
 西洋でも或ひは限地説話(ローカルテールズ、英)などの名を以て、人が別種の取扱ひをして居るものは、實は説話ではなく、この傳説の昔話化したものをいふやうである。普通の昔話は誰でも知つて居る通り、必ず昔々或處に、或一人の貧しい木樵が住んで居てといふ風に、どこに持つて行つても通用し、又どこでも無いといふ印象を與へるものであるに反して、一方はあの山この淵、老いたる樹大きな巖、もしくは某の舊家の由來、土地に生まれた豪傑や美女に關して、傳はつて居る幾つかの物語などは、たとへその話し方が昔話と近く、又其内容にも似通うた點があるに(13)しても、地物と結び付いて居る以上は、其儘の形では何處へも移すことが出來ず、人も亦よそに同樣の話があらうとは思つて居ない。私たちから見れば、是は可なり重要な根本の相違であつた。即ち一方は最初から話す者も聽く者も、本たうに有つた事では無いのを承知の上で、次から次へと授受して居たに反して、此方は少なくとも事實だと信ずる者が一部にはあつて、其證據には現に記念の樹がある、山の名があるといふやうな、一種昔風な論理で之を支持しようとしで居る。人のこの二つのものに對する考へ方は、今でも可なり明瞭にちがつて居る。たとへ近頃は同じやうな話しぶりで之を説かうとする者が出來て居ても、既に限地的である以上は、所謂民間説話の中には入れることは出來まいと思ふ。
 
          四
 
 傳説が昔話と混同せられやすくなつた理由は、單に近頃の話し方が互ひに似通うて居て、しかも?同じ一夜の集まりに、まぜこぜに語られることが多かつた爲ばかりで無い。兩者が人に傳へようとする事件の内容にも、不思議に共通なものが以前から多かつたらしいのである。日本はさういふ中でも特にこの?態がよく保存せられ、從つて比較の試みやすい國ではなかつたかと、私などは思つて居る。ほんの二つ三つの最も著しい例を擧げて見ても、たとへば昔一人の正直な爺が、山に行つて木を伐つて居て、誤つて斧を谷川の淵に落す。水の中から白いきものを着た老人が出て來て、是はおまへのかと謂つて金の斧、次には銀の斧を示す。いゝえ私のは鐡の斧の古いのですといふと、正直な者だと褒められて三つともくれるから持つて行けと言はれ、大悦びで還つて來る。それを羨んだ隣の慾深爺は、眞似をする位なら其通りを眞似すればよいのに、うつかり金銀の斧も私のですと謂つたばかりに、怒られて自分の鐡の斧まで返してもらへなかつたといふ話。これなどは外國にもあり本にも出て居るので、或ひは輸入のつもりで居る人もあらうが、それにしては田舍の隅々まで、あまりにもよく知られて居るのみならず、更に斧淵といふ名の淵が方々(14)にあつて、その村限りでは昔それに近い出來事が實際にあつたやうに、語り傳へて居るものが稀で無い。或ひは話がもう一段と込入つて居て、爺が落した斧を探しに、裸になつて淵に入つて見ると、水の底には大きな家があり、美しい姉さまがたつた一人で機を織つて居た。傍へ寄つてよく見たら、それが前年居なくなつた長者殿のまな娘であつた。機臺の片脇になくした斧はちやんと立て掛けてある。斧は返してやるが、歸つてからわたしが爰に來て居ることを、誰にも言つてくれるなと堅く口止めしたといひ、それでもしまひには父の長者が聽き知つて、多くの人を集めて淵の水をかへほして見たが、どうしても底に屆かなかつたといふ類の話が附け加はつて居て、普通に機織淵《はたおりぶち》の名を以て知られた傳説と、繋がつて居るものが東北地方などには多い。島根縣口碑傳説集に、隱岐島の安長川の蟹淵の傳説として載せてあるのは、又一つの別系統の例であつた。斧を瀧壺に落した木樵が、爰ではもう斷念してすご/\と歸つて來ようとすると、美しい女性が出て來て後から呼びとめ、なくした斧を返した上に厚く禮を述べたと謂つて居る。年頃兇暴な大蟹が入り込んで、水の神を苦しめて居たのが、偶然にも木樵の取落した斧によつて足を斫られ、鐵氣の毒にあたつて神の敵は自滅した。其功勞に報いる爲に、これより後は家の幸福を護つてやらうといふ約束があつたといふので、少なくとも子孫の者だけの、久しく信じて來た言ひ傳へであつたことが窺はれる。斧を淵に落すといふ昔話が如何に流布しても、それから斯ういふ種類の傳説を考へ出して、新たに信じ始めるといふことは不可能であらう。是には何か特別の起原があつて、聽く人記憶する人の心持次第、傳説ともなれば又只の昔話にもなつたものと、推測するのが最も自然なやうである。
 或ひは又弘法水、土地によつては御大師井戸などゝいふ傳説があつて、我邦には殊に分布が弘く、先づ大抵の人が二つや三つは知つて居る。見馴れぬ旅の僧が村に入つて來て水を所望する。甲の村では女が機を織つて居て、手を止めるのが煩はしいのですげなく拒絶する。もしくは洗ひものをして居た汚れ水を汲んで出す。乙の村では女がわざわざ機から降りて、遠くの井戸まで水を汲みに行つてくれる。こゝの水は濁つて居て上げられぬから、遠くへ汲みに行(15)きましたと謂ふのを聽いて、それは氣の毒なと早速もつて居た杖を土に突き立てると、清い清水が忽ち涌き流れて、永くこの通りと今でも其井戸があつて、村中が集まつて汲み、其傍には?大師の石の像などを祀つて居る處もある。旅僧は微行の借空海であつたと傳へて居るのである。水を拒んだといふ甲の村では、其報いだと謂つて水が惡く、近くに住む故にいつと無く隣の傳説を聽き知つて、名譽な話でも無いのに共々に之を認めて居る。同じ種類に屬する傳説としては、九州には大根川《だいこんがは》といふものが多い。是も大根を洗ふ女が無慈悲で、行脚の僧の求めを拒絶した故に、今でも大根を洗はうといふ季節になると、此川だけは水が無くなつてしまふと謂ふ。若狹の水無し川なども是と同じ話で、やはり心掛けの惡かつたのは女、與へなかつた品は大根といふことになつて居るが、東の方へ來ると石芋・喰はず梨、又は團子石などゝ稱して、團子の形をした小石のごろ/\として居る土地も多い。何れも是は石ですとか堅くて食はれませぬとか、口實を構へて遣らずに置かうとした罰に、いつ迄もさういふものが殘つて居るのだと傳へ、現に又栽ゑても作つても食べられるやうなものが出來ないと謂つて、梨や芋などは斷念して居る土地さへある。この不思議な旅人の物語は、弘法大師の出世よりもずつと前から、日本でも國々の風土記に録せられて居ただけで無く、捜せば外國の田舍にも幾らでも類型を見出すことが出來るが、事柄があまりに珍しく、又原因と結果との繋がりが今風で無い爲か、大抵は更に一段の空想を取添へて、昔話の形にして之を興じて居る。我々の間でも、眼前に殘つた證跡を見て、爭はれぬものだと感歎するやうな人は追々と少なく、やはり只斯ういふ言ひ傳へがあると、世間話のやうに説く者ばかり多くなつた。さうして又一方には、是から分れたことの明らかな昔話もあるのである。我々が寶手拭といふ名で記憶して居る話も其一つで、普通には昔々或處に、ある一人の旅僧がやつて來てと説いて居るが、時によつては是も何郡何村に、あつた事件のやうに言ふ者もある。主婦は心がかたましくて旅の僧に物を惜しみ、若い嫁又は女中が、そつと匿して施しをする。僧は行きがけに少しの布ぎれをくれる。又は片袖とか法衣の端とかを切つて渡したともいふ。その若い女は見にくい顔をして居たが、教へられた通りにその布で拭いて居ると、日ましに美しい顔か(16)たちになる。主婦がわけを聽いて大急ぎで近在を捜しまはり、無理に連れて來て今度はうんと旅僧にもてなしをする。ところがちやうど舌切雀の重い葛籠も同じに、折角貰つた布ぎれで顔を拭いて見るが、段々と長くなるばかりで、しまひにはヒヒンと鳴いたなどゝ謂つて、座頭の坊たちは人を笑はせて居た。是はもう明らかに傳説では無いのである。それからなほ一つ、此方は外國にもよく似た昔話が流布して居る上に、内容は又一段と傳説らしく無い。我々の間では弘法機といふ名で、この話を呼んで居る者もある。昔々弘法さまが貧相な乞食坊主に化けて、村々をあるいて居られた頃に、或家では心のすなほな女房が、機を織つて居た手を止めて、ねんごろに色々ともてなしをした。御前は親切な人だから、果無しといふ仕合せを遣らうと謂つて出て行かれた。それから機の布を卸して卷いて見ると、いつまで卷いても布の長さは盡きない。端から其布を反物に切つて、家は大福長者になつた。それを羨んで隣の女房が眞似をしたが、先づ水でも汲んで來てから、ゆつくりと果無しの布を卷きませうと思つて、水桶を提げて歸つて門口で轉んだ。さうすると桶の水が果無しに流れて、その屋敷がしまひには池になつた。斯ういふ昔話は寧ろ御大師井戸の言ひ傳へが有名になつてから後の空想で、人が聽いて一段と面白がるやうになつたのであつて、たとへよく似たものが外國にあらうとも、是に基いてはまじめな傳説は生まれず、又まに受ける者も有り得なかつたのである。
 
          五
 
 機織淵又は機織池といふ名を以て、記憶せられる傳説も日本には至つて多い。土地によつて言ひ傳へは一樣でないが、その一つは五月機を織つてはならぬといふ女の物忌と關聯して居る。昔々田植の月に機の道具を背に負うて、水の邊りを通つて居た女が、どうしたわけでか水に墮ちて死んだ。それから以後は眞夜中に、又は雨の降る靜かな日などに耳を澄ませて聽くと、水の底から機を織る音が聞えるといひ、素より幻覺である故に今でもどうかすると私は聽いたといふ人があり、從つて土地ではまだ之を只の話だと思ふ者が少ない。或ひは村の舊家に美しく慧しく、織機に(17)巧みな少女があつて、水の神に誘はれて淵に入つたといふかたりごとも數多く、是も空模橡の變らうとする日などに、水の中で機を織つて居る音が、よく聞えるといふのが常である。社や寺の古來の縁起に、是を中心としたものがある外に、近代の小説がしば/\趣向を此方面に求め、積り積つて文學の古臭さを釀して居ることは、若い人たちは既に感じて居るであらう。しかし我々にはどうして斯ういふ傳説が始まつたかゞ、實はまだ解けない大きな謎になつて居る。大抵まちがひ無しと思ふ私の推定では、是は水の神の祭の奉仕者に、處女を任命して居た古い習俗の痕跡であつて、神の御衣の布を織るといふことは、御饌《みけ》の飲食を調へることゝ共に、さういふ女の第一の役目であつた故に、之を人間の主婦の手わざと引き比べて、神の御妻といふ想像の生まれたのも自然である。五月は水神の御力の最も強く、頼み又求められる田植時であつた。此月機を織つてはならぬといふ戒めは、專ら神の爲に彼女たちの布を織るべき季節であつたからで、之を民家日常の用に供するのを、禁じて居たことを意味するかと思ふ。ところが此信仰は時世の移り變りと共に、少しづゝ弛み又衰へて來て、家々の愛情は人の子が神の御用に召されることを、怖ろしくも又不安にも感ずるやうになつた。さうして古くからの口碑に、次々の改造が加へられたらしいのである。その改造の幾つと無き段階が、日本にはすべて保存せられて居る。それを排列して見て細かな比較をすることの出來る國は、外にはあまり無いやうであるが、我邦の學問だけには幸ひにしてそれが許される。若い美しい一人の娘が水の神に娶られたといふ言ひ傳へは、一方の端では笑ふべき昔話となり、他の一方の端では歴史に近い確信となつて傳はり、なほその中間には無數の等差がある。名主莊屋といふ類の或舊家の娘のところへ、夜深く人知れず通うて來る若者があるといふのは、中世最も普通だつた婚姻の方式である。親はうす/\は之を知つて居ても、ところ現はしの日までは黙つて居るのが、是も亦昔の作法であつた。其うちに追々と娘は身もちになつた樣子が見える。子の父は誰かと母が尋ねると、此あたりの人とは思はれぬ上品な青年であるが、まだ名も家も語らないといふので不審する。青い狩衣を着て來るとか、戸を開く音をさせぬとか、肌がつめたいとかいふやうな插話が爰に伴なうて居る。それでは試みに苧環《をだまき》の絲の端(18)を、そつと其衣裳に附けて置いて見よと、教へる所までは古今共に同じで、それから後が物語の形は分岐して居る。或ひは其絲を針に通して、紋所に刺して置いたらそこが大蛇の眼であつたといふ話さへあるが、中世以來の多くの傳へでは、とにかくに水の靈は針の鐵氣の毒に中《あた》つて、巖窟の奧に返つて命を殞したとなつて居るのだから、此點はもう明らかに大三輪の神話を改めて居るのである。しかも其苧環の長い絲をしるべに辿り辿つて神のありかを突き止めたといふ迄は、數千年の昔から少しも絶ち切れずに傳はつて居る繪姿であつた。立聽によつて神秘の世界の消息を知るといふ趣向が、是に續いて強調せられて居る。人が絲に附いて遙々と跡を追うて來たとも知らず、岩屋の奧では唸き聲が聞え、又ひそ/\と問答の聲がする。それだからあの樣にたつて止めたのに、由無い人間の娘などに戀をするから、斯うした悲しい目に遭ふのだと一方が謂ふと、いや/\身はたとへ針の毒に傷けられて死なうとも、種は人間に殘して來た。思ひ置くことは少しも無いと一方が答へる。普通の昔話では、此處に又一つの趣向が添へられて居る。大蛇の母は死んで行く子の答を聽いて、いや/\人間といふ者は中々賢い。もしも五月の菖蒲と蓬の葉を煎じて、それで行水を使はせたとしたらどうする。或ひは九月節供の菊を酒に入れて女に飲ませたら、胎内の子が皆下りてしまふでは無いかなどゝ謂ふことになつて居り、それを立聽して居た母もしくは乳母が、すつかり聽いて歸つて其通りにしたといふのが、多くの昔話の結末になつて居る。ところが一方に越後の五十嵐川の谷に於て、或舊家を中心に語り傳へた話などでは、大蛇の計畫は絶望のもので無かつた。自分は斯うしてもう死んでしまふが、人間の少女には尊い偉れた兒を與へて來たから、思ひ殘すことは無いといふのを、立聽して歸つて來る。さうすると果して此地方一流の勇士、五十嵐小文次は此家から生まれたといふのである。源平盛衰記にも載つて居る豐後の花の本、緒形氏一族の元祖の物語も、全く是と同じい著名なる傳説であつた。今も日本全國に亙つて繁榮し、中世には九州一角の歴史をさへ左右した武人の一族も、曾ては自分たちの家の由緒として斯ういふ傳へを信じて居た時代があるのである。紀州の或村ではその村長の美しい娘が、自ら山中に入つて神の夫と問答したといふ例もある。宮古島の漲水御嶽《はりみづおたけ》の歌縁起では、(19)龍蛇と人との間に生まれた童女が、父を尋ねて角を攀ぢ頭に登つて嬉遊したとも傳へて居る。もしも是が昔話に説く如き、怖ろしくも又氣味の惡い一つの災難であつたら、家に其樣な傳説を保存して、永く世上に誇つて居た理由は無いのである。
 或ひはどういふわけで或一人の美しい處女が、特に水の神の嫁君に指定せられたかといふ點に、力を入れて説かうとするものがあつて、是も特定の舊家だけは傳説として久しく之を信じ、信じ得ない人々は又昔話として、面白く空想を展開せしめて居た。近頃世に出た福井縣の南條郡誌などは、その誠に興味多い一例であつて、大蛇の妻になつて池の底に入つたといふ同じ一つの言ひ傳へが、甲の村では或家の昔の出來事として歴史のやうに取囃され、乙丙の土地では昔話の形を以て行はれて居るのが、隣どうし竝べて採録せられて居る。噂に聽いた人も多からうと思ふが、此郡の山奧、美濃國との境村に夜叉《やしや》ヶ池といふ物凄い大池があつて、今でもよく/\の旱年には、農民が雨乞に行く場處となつて居る、又天氣が荒れることを恐れて、刃物を持つた人が此池の近くを通ることを嫌ふといふ風説もある。或舊家の一人娘が、夜叉ヶ池の神にとついだといふ傳説の、最も早く書いたものに現はれて居るのは美濃の方であつた。父は安八太夫といふ一郷の富農であり、娘の名は夜叉御前でそれから池の名が起つたともいふ。爰で珍しいと思ふことは其夜叉御前が、一年に一度日を定めて、生家に還つて來ると謂つて居たことである。是と根源が恐らく一つであらうが、東近江の村々にも又何箇所かの夜叉ヶ池があつて、やはり清らなる少女が里人の惱みを濟ふべく、自ら身を淵の底に沈めて神の怒りを和げたといふイハレを存する。越前の側にも某村の孫右衛門とかいふ舊家に、さういふ娘が出て生家を有名にし、又繁榮させた話がたしか新著聞集の中に出て居る。乃ち何れも皆稻作の田の水を程よくする爲に、水の神の心を取結ぶ必要から發したやうに、考へられて居たらしいのである。昔話の中にも此點はなほ往々にして保存せられて居る。昔々ひどい大旱の年に、或一人の百姓が水を見まはりに出て、あゝどうかしてこのひゞわれた田に水を掛けてくれる者があつたら、三人ある娘の一人をくれるにと獨り言をいふと、知らぬうちに一面の田(20)が、漫々と水を湛へて居る。驚いて歸つて來るとその次の日、青い狩衣に折烏帽子といふやうな颯爽たる若者が一人、玄關に案内を乞うて拙者は聟でござる、約束の娘御を迎へに來ましたといふので、さてはと思つて周章狼狽する。所謂大蛇聟入の昔話には、斯ういふ發端をもつたものが今でもまだ稀でない。ところが他の多くの例では、爺が輕々しい約束を誇張するの餘り、或日田の水を見まはりに行つて、蛇が小蛙を追掛けるのを見て、やれ無惨や、呑むな娘を遣らうなどゝ、ちよつくら約束してしまつたことになつて居り、其代りにはあとで蛙が恩返しに娘の厄難を救つたといふ點は、山城國蟹滿寺の古縁起と近くなつて居る()。我々が大蛇と謂つたのは池の主、即ち水の底に住む靈物といふことで、人が幻にもめつたには見ないものである。たゞ蛇の形に近いやうに想像した爲に、中世以後此樣な名が出來たに過ぎない。だから九州などには川童の聟入、奧州には田螺の聟入などゝ云つて、ほゞ同じやうな水貰ひの昔話があるのであるが、其以外にもう一つ、今日非常に人望のある猿聟入といふのも、同じ系統から分れ出た昔話であつた。此方は笑話であるが故に出來るだけ頓狂に、たとへば爺さんが粟畠の草取をして居て又は牛蒡を拔きに出て、やれ腰が痛い、誰ぞ助けてくれるなら三人ある娘の一人を遣るにといふ。畠の畔の木から猿が下りて來て、爺さんわしが手傳はうといふなどゝ、發端から笑ふやうな話しぶりにもなつて居るが、それでも稀には近江や佐渡にもあるやうに、老翁が山田の旱魃に、稻が枯れかゝつて居るのを見て愚痴な獨語をすると、娘をくれるならわしが水を當てゝやらうと、猿が田の畔に立つて小便をしたら、忽ち水が一ばいになつて稻の葉が蘇つたといふやうな、有り得べからざる不思議を説いて居るのもある。何れにしても聟が猿だとあつては爺も困り、三人ある娘の姉も聽かず仲も承知せず、末の一人だけが幸ひにすなほな子で、私は猿のお嫁に行きますが、嫁入支度には臼を一つ下さい。もしくは水甕を一つ下さいと謂つて、それを猿の聟に背負はせてさつさと山に入つて行く。崖の櫻とか藤の花の盛りの枝を所望して、猿に木登りさせるとしまひに枝から落ち、臼なり甕なりに水が入つて、ぶく/\沈んで行くのを見て遁げて還つたことに、今ある多くの昔話の結末はなつて居る。是は如何にも自由な空想のやうに見えるが、大蛇聟入の方でもこ(21)の臼や水甕の代りに、瓢箪を千箇と針を千本、嫁入荷物として持つて行くといふ形にもなつて居る。いよ/\池の岸に來てさあ是から入らうといふ時に、その瓢箪を殘らず水の中へ投込んで、是を持つて行かなくてはならぬといふと、大蛇は泳ぎまはつてそれを沈めようとするが一つも沈まない。さうして疲れ弱つて居る處へ、千本の針をばら/\と投げる。それが一つ/\鱗の隙間に刺さつて、大蛇の聟は死んでしまふのである。會て苧環の長い絲の端に、たつた一本だけ通して居た針が、こゝでは千本になつて水の聟を必死にして居る。瓢は恐らく猿聟入の臼や水甕の原型であらうが、どういふわけがあつてか上代の川の神の祭の供物の一つとなつて居る。六月の天王さまの日に瓜を川に流し、又は其日以後もしくは其日まで、瓜を食べてはならぬといふ慣習、或ひは水の恠が胡瓜を好み、もしくは忌み嫌ふといふ各地まち/\の俗信なども、どうやら關係が有るらしいが、まだ確かなことは言へない。少なくともこの昔話の瓢箪を投込んで、水の靈の力を試みたといふ話だけは、非常に古い時代から始まつて居る。日本書紀の茨田《まむた》の連《むらじ》衫子《ころものこ》、二つの全匏《おほしひさご》を水中に投げて、もし眞の神ならば此匏を沈めて見せたまへ、匏沈まずば僞の神と知らん、何ぞ徒らに吾身をうしなはんやと謂つたのが其一つの記事であり、又備中の縣守淵《あがたもりのふち》の由來として、三つの全匏を投じて水中の?《みづち》を試み、?は鹿に化けて匏を引込まうとしたけれども沈まなかつたといふことが、同じ仁コ天皇紀の末の條にも見えて居る。瓢箪は其頃から既に水の神の眞僞を確かめる手段として用ゐられて居たのである。昔話の大蛇聟入に、其數を一千にもふやしたといふことは、それ自身が水の神の信仰の絶縁を意味して居る。
 しかも民間に在つては、是が必ずしもたつた一つの此話の結末ではなかつたのである。考へて見てもすぐ氣がつくやうに、三人ある娘の、上二人は親の意に背いて、嫁に行かうとしなかつたのに何の罰も無く、一方おとなしく大蛇の所へでも、とゝ樣が行けと言はつしやるなら行きますと言つた末の娘が、瓢箪を池へ投げ込んでたゞ遁げて戻つたといふだけでは、昔話としても少しく釣合ひが取れない。だから又信州上伊那郡などの同系説話では、嫁聟仲よく三日日の里歸りに、美しく着飾つて遣つて來て、親の言ふことを聽かなかつた二人の姉たちを羨しがらせたといふこと(22)にもなつて居るのである。相手がしまひまで大蛇であつたら、此樣な幸福なる婚姻は望むべくもない。話の中には今は言ひ落して居るが、元は最もすぐれて貴い聟君が、假に怖ろしい姿を現じて妻問ひをして居たのだといふ一條があつたものであらう。西洋ではグリムの説話集などに、蛙の王子といふのが是に該當する。日本でも古くは大和の箸塚の物語の如く、神が錦の小蛇の形を以て、姫の櫛笥《くしげ》の中に居たといふ語り方もあり、又現在でも東北地方の田螺の長者、もしくは九州各地にある蛙の聟が湯に入つて人間になつた話のやうに、最初は何か理由があつてさういふ人竝でない者の姿をして居たのが、忽ち新妻の力によつて、立派な若者となつて樂しく榮えたと説く例は幾つかある。獨り傳説が名家の誇りとして、この奇恠なる婚姻を記念して居るのみでなく、昔話の方でも亦斯ういふ風に、所謂大蛇聟入の結果が、孝行娘の爲にも又その親たちの爲にも、幸福なものであつたと説くものがあつたらしいのである。それが民衆の趣味と合はなくなつて、話は排撃とか征服とかの方向へ變つて來たけれども、なほその事件の前半分を竝べて見て、是と傳説と雙方もとは同じ種であることを疑ひ得る者は無い。さうして日本はこの比較資料の、特に豐富に保存せられて居る國、即ち又傳説の問題を、最も自由に研究し得られる國なのである。
  (註) 元享釋書に出て居るので古くから有名であるが、同じ傳説は今も諸國に行はれて居る。蟹に食物を施して居た女が、その報恩によつて大蛇に取られる厄難を免れる話である。
 
          六
 
 傳説と昔話と、二つはしば/\題材を同じくし、又甚だよく似通うた敍法を以て語られる故に、それ故に特に其境目をはつきりとして置く必要がある。といふわけは根本に肝腎かなめともいふべき相違があつて、それを無視して居ては二つとも、到底その成立ちを考へることが出來ぬからである。前にも述べたことだが今一度要約して言ふと、第一には傳説は人が之を信ずる。昔話の方では「昔々あつたさうな」、「舌を切つて放したといふ」、其他ゲナとかチフと(23)かを必ず附け加へて、自分は決して實驗者では無いのだから責任を負はぬ。もしくは只さういふ噂だから信じない方がよいといふ意味を、むしろ丁寧すぎる程も反復して居たに反して、傳説の方はうそだらうといふと時には怒られる。但し以前は知つて居る者だけは皆信じたといふ時代もあつたかと思ふが、近頃は信ずる人の數が限られようとして居る。同じ一家のうちでも老若によつて態度がちがひ、又一般に中心から遠ざかるにつれて、其紹介が冷淡になり、殆と昔話と同樣に「さうな」を添へて話す者も今は多い。乃ち傳説には中心のあることが第二の特徴であつて、是も最初からのものと思はれるが、此頃更に顯著になつて來たのである。傳説の中心には必ず記念物がある。それは當然に神社佛閣塚墓その他の靈地、家も本家だけはもと信仰の機關でもあつた故に、それ/”\に傳説の花壇ともいふべき地位を占める。村が一つの中心になつて居るのも、この發生地の外廓としてゞあり、奇巖老木清き泉、橋とか坂とかの一つ/\も、元は大きな織物の一模樣の如きものであつたらうかと思ふが、現在は多くは獨立して或傳説の記念物となつて居る。記念物が存在するからには其傳説は確かだといふ推理法は、もはや一般には承認せられて居るわけで無いが、とにかく物が眼の前にある限り記憶には絶間が無く、その記憶は又信じて居たといふ記憶でもあつたので、一方の何處へでも持つてあるかれ何處にでも通用して、たゞ新しさとをかしさとによつて珍重せられて居る昔話とは、はつきり區別することが出來たのである。
 傳説の定義として擧げ得べき第三の點は、是もすべての信仰と同じやうに、人に説き明かすのに定まつた形が無いといふことである。昔話も今では敍述の長たらしいのを嫌つて、單に要點だけを拾ひ上げて紹介する者が多くなつたが、以前は「日本一の黍團子」でも、又は舌切雀の「お宿はどこぢや」でも、ちやんと順序があり言ふべき言葉がきまつて居て、それが一つ落ちても逆になつても、幼い聽手などは聽く方からちがふと謂ふ。わざとちがへて言ふとすれば、又一つの別の昔話になるので、其點は寧ろ手鞠唄や盆踊のくどきといふものに近かつた。之に反して傳説は、知り且つ信するといふ心のうちの働きに過ぎぬ故に、同じ話主でも相手と場合により、幾通りにも言ひかへることが出(24)來る。老人や女性の固く信じて居る者ほど、却つて言葉少なに問はれただけを答へようとする。それを今まで豫想もしなかつた人々に、合點の行くやうに説き聽かせようといふことになつて、始めて前後の説明を添へ、又は切れ/”\のものを繋ぎ合せる類の技巧が試みられる。三百年來の寺々の縁起などは是に屬するが、口で語らうとする場合にも、後世はやはり多少の加工を必要とせぬ者が無いやうになつたのは、つまりは傳説の表現が夙くから自由であつて、是非ともこの形式を以て語らねばならぬといふ、何等の約束も無かつた結果である。人が昔話を聽くことを樂しみにして居たと同じ晩に、輕々しく土地の傳説をまじへ語るやうになつて、もしくは傳説の夕ともいふべき時刻に、昔話までを持出す風が始まつて、一方が他にかぶれて來たといふことは確かにあるが、獨り兩者の話し方が紛らはしくなつたのみで無く、話の筋にも互ひによく似たものが此通り多いのだから、兩者の境目は紛れやすかつたのである。しかしさういふ中でも昔話は古び且つ侮られてゆくに反して、傳説は幾分か久しく殘り止まらうとする傾きがある。だから旅人の來往が繁く、又は遠征冒險が盛んになつて、只の所謂世間話が面白い時代になると、昔話は引込んで、傳説は又その世間話にかぶれる。政治や社會問題の關心が爐ばたの話題を彩どるやうな地方でも、傳説の信仰がなほ續いて居る限りは、是が又新たなる方式を以て、所謂有識者の論議の種ともなるのである。近年の短篇文學、殊に郷土の歴史小説の流行が、しば/\傳説を飴の棒のやうに引伸ばしたことは、我々の記憶に新たなる事實である。彼等は何かといふと農夫やその美しい娘に名前を付與し、又その問答を會話體に書かうとした。傳説は昔話でないから、昔から會話などは傳はつて居ない。それが斯ういふ形で世に行はれるやうになつたのも、やはり其表現に定まる方式が無かつた結果である。
 或ひは傳説の第四の特徴としてもう一つ、「歴史になりたがる」といふ點を擧げなければならぬやうに、思つて居る人もきつと有るだらう。いかにも傳説の或一つの部面だけを見て居ると、是はたしかに看過すことの出來ない現實であるが、しかし傳説の數は日本には非常に多い。其種類も亦色々に分れて居る。弘く全體を見渡した上から推斷する(25)ときは、寧ろ徐々として歴史から遠ざかつて行かうとする傾向の方が強いのである。一方には少なくとも土地人の眼から、歴史と一つになつて何處を境とも、見分けられなくなつたものも有るには有るが、是に對してずつと數多くのものが、今や永年の管理者の子孫によつて、夢だ空想の美しいものだと、解せられ咏歎せられようとして居るのである。歴史がまだ文筆の士の手にかゝらず、均しく記憶によつて保持せられ、口から耳へと受け繼がれて居た時世に溯つて考へて見ると、是と傳説との差別は、實はどこにも無かつたのである。傳説も昔或時、めい/\の祖先が直接に目で視、手で探つた實驗であつて、それをよく覺えて居て語り傳へたのだと信じて居る上に、それと同じ形の言葉で説くのだから、是をも歴史と認めたのに何の不思議も無い。乃ち以前は却つて「歴史になりたがる」必要などは無かつたのである。然るにいよ/\紙の上に、文字を以て書き殘して置かうといふ企てが始まると、漸うにして茲に人間の辨別が働くやうになつて來る。或事件は既に數十代の記憶を重ねて居るに拘らず、疑ふ餘地も無い重要なる實歴であるが故に無論載録する。又或ものは是に伴なうて、夙くその當時の人々に斯くありと信ぜられて居たといふことが、明らかなる事實であるが故に是も亦大切に存置する。この用意は普通今日の人には望み難いことで、深く我々の感謝しなければならぬ親切であつたが、彼等はなほこの以外に、多くの雜然と竝び行はれて居る言ひ傳へを、或ひは後になつて新たに生まれ、もしくは著しく改定せられたかと氣遣つて、知りつゝもわざと書物の圏外に置かうとしたらしいのである。その中には信ずる人があり又中心の記念物があつて、明らかに傳説としか呼べないものが幾らでもあつた。傳説に定まつた形が無く、時と共に成長するものだといふことを、今ある比較研究の方法に依ること無しに、別に古人は經驗する機會をもつて居たので、是と歴史とを區別する必要を認めて居たのである。史學といへば何やらむつかしくも聽えるけれども、是が必然なる人の智能の進みでもあつた。智能が進めば信仰も之に伴なうて改まらなければならぬ。それに支持せられて居た傳説だけが、獨り形を變へずに居られる筈は無かつたのである。
 地方の舊家門閥と呼ばれる家々では、文字を基調とした近世の教養を受けてから、次々に家傳由緒書の類を子孫の(26)爲に書き殘すことになつたが、是にも亦何人の勸説をも待たずして、おのづからなる史料の選擇が行はれて居た。同じく先祖の時代にあつた出來事として記憶せられて居るものゝ中でも、自分と周圍の者のみは牢く信じて、他人は必ずしも之を認めぬかと思はれる部分はわざと省き、もしくは少なくとも斯く語り傳へて居ると、豫め明示して之を載せて居る。さうして主人の學問の風によつては、更に若干の自分にも信じ難いと思ふものを取除いて、それだけは家族門黨の昔風な保管に、委ねて居る例を折々見かける。乃ち或種或階級に屬する傳説は、決して歴史の方へ接近して行かうとはせずに、寧ろ反對の趨勢に向はうとしたものが、もう大分前からあつたのである。記録と全く交渉をもたぬ人々の傳説でも、尚且つこの歴史との對立を許す傾きがあつたのを見ると、或ひは是が本來の性質であつて、たゞ新しい社會の?勢に動かされて、急に一段と顯著になつただけかとも考へられる。異なる經驗ちがつた感情をもつ者が、めつたに接觸することのなかつた時代には、問題は起らずにすんだ。一たび複雜なる心の交通が開けると、一方には成るべく多數、出來るならば全部の承認を得ようと思ふやうな傳説が、幾つと無く拔き出されると同時に、他の一方には今まで抱へて居た當人すら之を信ずることを斷念し、外側から世間の人々と共に、興味深く眺め且つ樂しむやうになるものが、又若干は出來て來るのである。傳説を以て歴史と文學との混合體のやうに、考へることは無論正しくない。しかも片方の端が歴史と近くて時としては其境が紛らはしく、他の一方の端は文學に接して居て、しば/\其中へ移り動かうとするまでは事實であつて、其兩端の距離は世の中の開けて行くと共に、次第に遠く伸びるといふこともほゞ確かである。或ひは斯うして伸びて居るうちに、しまひには切れるのでは無いかとも思ふが、少なくとも今はまだ繋がつて居る。さうして又盛んに成長し變化して居るのである。傳説を觀祭する者にとつて、後にも先にも斯んな都合のよい時期は無いやうに自分には思はれる。
 
(27)          七
 
 この歴史と文學との中間といふ言葉は、ちよつと耳に響くから標語として用ゐて見たが、是が正確に當世の文學、乃至は歴史と謂ふものと、合致するとまでは私には保障することが出來ない。寧ろやゝ漠然と信仰と空想、もしくは「おのづから」と作爲との中間と、言つて置く方がよいのかも知れない。とにかくに如何に衆人が信じて惑はなかつた時代にも、傳説は外に在つて之を承認しなかつた者が少々は有り得たと同時に、他の一方の端即ち昔話と最も近いものでも、自分等だけは眞事と心得て、うそを感歎して居た者は小兒のみとも限らなかつた。乃ち雙方は下に隱れて行き通ふ溝の如きものがあつたので、たとへを引くならば蕗の葉と蕗のとう、又は杉菜と土筆とのやうに、單に季節の早い晩いによつて、斯ういふちがつた形で我々の目にはとまるのである。元は一つの根の伸び榮えて來た跡であるといふことが、特に研究者の興味を深くする。人の性情と是に働く世の力と、この二つのものが爰でも大きな仕事をして居る。それを現在はまだはつきりと見ることが出來るのである。
 大體の趨勢は時の進むと共に、次第に兩端の間が遠く、繋がりは弱くなつて、しかも文藝の分子が表に出て、濃く彩どられて來るやうに思はれるが、日本はそれでもまだこの變遷の、よほど緩やかな國である。我々の周圍には無數の過渡期が見られ、或ひは以前の動かない確信の方へ、もう一度戻つて行かうとする試みさへ折々は見られる。私たちの謂ふ所の歴史との距離が、元は今よりもずつと近いものであつたことが、是によつて推測し得られるだけで無く、傳説は本來之を信ぜんが爲に、又信ずる人々の手によつて保管せられるものであつたことが、段々と判つて來るのである。出來るものならば自分も共々に信じたいといふ心持は、今でもまだ一般にと言つてもよいほど、弘い區域に亙つて行はれて居る。輕々しく人の信じて居ることを疑ふまいとするのは、必ずしも單なる社交上の禮儀のみではない。多くの場合にはこちらの方にも、亦別種類の若干の傳説を抱へて居て、それを自分等ばかりで大切にして居ただけで(28)は物足らず、成るべくは人からも粗末にせられぬやうに、互ひに認め合はうとする下の動機も、手傳つて居るらしいのである。それ故に個々の傳説には既に問題があり、釋き切れない不審が指摘せられて居るに拘らず、國總體としては、傳説はまだ信じ且つ認めなければならぬものゝやうになつて居るかと思はれる。永く其樣なはつきりとせぬ?態に、國民の知識は止まつて居られるものでない。乃ちこの研究のやがて大いに起るであらうことを、自分たちの豫想して居る所以である。
 過去に傳説が今よりも一段と自然に、たやすく信ぜられた事情が幾つもあつて、其事情がもう消え失せようとして居ることを、先づ初めに注意して置く必要がある。一つの最も興味深き變化は、「昔」といふものに對する考へ方で、是が単なる時の距離では無く、「今」とは全く類を異にした法則の、自在に行はれて居た世の中であつたといふ想像が、何よりも傳説を信じやすくして居た。古い記録には、「草木ことゝふ」などゝいふ文字もあつて、人と自然の木や鳥獣との間にも、意思を通ずる道が昔はあつたと、思ふことが出來たのである。さういふ安らかな、印象の強い言葉は既に忘れられたが、我々の間にも昔ならばさういふ事があつたかも知れぬといふ心持が、今なほ少しばかりは殘つて居る。しかも一方ではいはゆる昔話は之を口實にして、特に信じ難い奇譚を説く時には、わざと大昔だの「ずつと昔のその昔」だのといふ言葉を用ゐて、非常に「今」からは遠い時のやうに語つて居たが、沖繩の神歌などでは、?むカシの對句として、ケサシといふ語を用ゐて居る。ケサシは後に今朝といふ意味になつたケサと同じであらうから、さう遙かな過去では無い。ムカシも語の起りは多分ムク・ムカフと一つで、もとはたゞ現在と對立して存するものゝやうに考へられたのであらう。それが主として其「ムカシ世の始まり」をのみ説き立てる習はしとなつて、次第に今との隔たりが大きくなつたらしいことは、琉球神道記などに現はれた土地の祭の沿革からも窺はれるが、それでもまだ南の島々の神代はよほど近世に近かつた。時を算へる多くの目安をもたぬ人々が、昔を目前の親しみあるものゝ如く取傳へて居たことは、沖の島も山あひの靜かな村里も同じであつたらう。乃ち最初に兩者の間を引離した力は、我(29)々の年代記の知識であつたといふことが言へるのである。
 歴史の學問が精確になればなる程、元の姿のまゝでは信じ續けられない傳説が多くなつて來る。殊に我邦では修史局の學者たち、たとへば久米邦武翁などが、出雲民族に對する外交とか、經津主《ふつぬし》武甕槌《たけみかつち》二神の戰略とかいふことを言ひ始めて、古代の言ひ傳へを普通の人事と認める類推法が盛んになつた。いくら大昔でも其樣なことは有らうと思はれぬと、素朴な記録の文をその儘は受入れようとせずに、寧ろ其背後に隱された政治上の大事件を、判讀しなければならぬものゝ樣に、主張する人さへ多かつた。斯うなれば勿論傳説はすべて歴史となり、少なくとも記録の上からは一掃せられるであらうが、如何に亂暴な臆測を下しても、あらゆる傳説から第二の意味を見付け出すなどゝいふことは出來るわざで無く、第一に又そんな假託をしなければならなかつた理由といふものが、昔あつたらうとは考へられない。殊に文書にこそ定まつた管理者は無いが、家々に取傳へた傳説はそれ自身が説明である。今更それは斯ういふ事實を暗示して居るのだと言つて見たところで、承知する氣遣ひはないのである。昔を今日とまるでちがつた社會だと認めることが出來なくなつて、まごつき又惱んだのは傳説を守つて居る人たちであつた。自分等が祖父母から、聽いて覺えて居ることには誤りの餘地が無い。しかも一方には歴史の次々の教育が、急に「有り得べからざること」の領域を擴張して來るやうに感ぜられる。是を或秘密の暗示だといふやうな、學者くさい解釋は素人には出來ない。だから一部は性急に概括して古い言ひ傳へ、老人の説いて聽かせようとすることを輕蔑し、他の半分のなほ何とかして信じて居たいと念ずる者は、僅かな隙間を見つけ許される限りの修飾を加へて、ちつとでも信じやすい形に傳説のかたり替へをしようとし、茲に他の國々では恐らくは類の少ない、第二の合理化といふことが始まつたのである。
 
          八
 
 人が傳説を出來るだけ信じやすい形にして、いつまでも信じて居ようとする念慮には、同情しなければならぬ眞劔(30)味があつた。祖先は無意味に有りもせぬことを記憶し、又語り殘す筈が無いといふ心持は、時あつて近代教養の所得、我々の名づけて常識と謂ふものによつて脅かされる。その常識と今までの確信とを折合はせ共存させることは、固より自己の利害であつて、外部の思はくなどを顧みた結果では無かつた。だから變化の跡によつて判斷すれば、確かに傳説の改定と見るべき場合にも、當事者は寧ろ之を補充と考へ、もしくは今まで隱れて居た點を、明瞭にし得たとも思つて居る場合が稀で無い。以前の傳説はそれ程にも單簡で言ひ殘した部分が多く、拔きさしの可なり自由なものであつた。それが人の名は明らかになり年代がきまつて、追々と具體的に歴史と結び付くことになつたのは大きな變化であつた。之をも傳説の成長と謂つてよいか否かは問題であるが、とにかくに爰まで進んで來るともうこれ以上には變へられず、又元あつた形にも戻つて行くことが出來ない。少なくとも之を一つの固定の?態として、新たなる比較をして見ることが許されるのである。
 例を捜して見ようとすれば、もつと多くの適切なものがあらうと思ふ。私のふと心づいたのは宮城縣の南部、刈田郡宮村の式内苅田嶺神社を中心にした一團の言ひ傳へである。この御社の信仰は今もまだ少しも衰へて居ない。近世は參詣者の便宜の爲に、里の宮の祭を主とするやうになつたが、以前は一年を半分に分けて、山の宮からの往來の日、四月と十月の八日に祭を營むことにして居たのは、なつかしい古式であつた。藏王といふ名で世に知られて居る高嶺は、此あたりから最もよく拜まれ、殊に古來の官道に接して居た故に、遠近の語り草となつて居たものと思はれる。この御山に祭る大神を父の宮と崇め、里近く齋《いは》はるゝ西の宮・子の宮を御妃王子として、年々御通ひなされるやうに信じて居たことは、二荒その他の山の信仰も同じだつたらうと思ふが、爰ではいつの頃よりか日本武尊が、東征の旅の途すがら、やゝ暫く淹留なされたといふ傳説が行はれて居る。神の御妻はこの土地の人であつた故に、都に御伴して行くことが出來なかつた。一人ある美しの御兒を、悲しみの餘りに川に投げ棄てると、靈異の御生まれとて忽ち白鳥に化して、遠く西の方に飛び行きたまふとも傳へて、兒投川・長袋等の地名が其昔の跡といふことになつて居た。(31)會ては語りものがあつて特にこの別離の條を咏歎して居た名殘かとも思ふが、その詞章はもう保存せられて居ない。奧羽觀迹聞老志の記する所によれば、苅田宮の祭神を日本武尊にしたのは、吉川|惟足《これたり》が始めださうである。それを確かめることは容易でないが、少なくとも此人などが世に尊敬せられて居た時代に、京都の學者に頼んで御社の縁起を書いてもらひ、それに始めて日本武尊の御名が掲げられた、といふまでは想像し得られる。其以前は又よほど久しい間、用明天皇の御妃を祭るといひ、又は其王子の御魂、化して白鳥と現じたまふものを祭ると謂つて、土地には今なほ之を説く人もあるから、此改定は專ら文書の上に行はれ、口碑は寧ろ古いまゝを引繼がれたものが多かつたかと思はれる。隣の柴田郡の方にも同じ傳説は及んで居る。こゝにも大高山神社、民間に白鳥大明神といふ古社があつて、封内風土記の編纂せられた元文の頃までは、土地では普通には用明天皇の皇子を御祀り申すといひ、別當寺にある縁起だけが、日本武尊といふことになつて居た。さうして民間には新舊を通じて、たゞ一通りの語り傳へしかなかつたのである。この御社から近い金ヶ瀬の小豆坂《あづきざか》といふ處に、昔萬能長者といふ有コの人があつた。或すぐれて尊い御方が遠い都から遙々と御下りなされて、この長者の聟となりたまひ、神々しい若君御誕生の後、京に御還りあつて三年が間何の音信も無い。それを歎き悲んで命死なんとしたまふ際に、御母はその幼い君を、祝して川の流れに投げ入れたまへば、乃ち白鳥と化して飛び去りたまふといふ點は、苅田の宮の方に傳へたのも一つであつた。さうしてこの白鳥の奇瑞といふことは、兩處の信仰の最も主要なる部分であつた。つい近頃になるまで此地方一帶に、非常に白鳥を崇敬して其飛翔を見ても拜をなし、追うたり捕へたりせぬは勿論、たま/\誤つて其肉を食べた者と合火《あひゞ》しても、忽ち大熱を發し又は口中が腫れ痛むとさへ畏れて居たのも、全く神が時あつて此鳥の形を假りて、去來したまふことありと信じて居た結果と思はれる。京都の神道家たちが用明天皇説を有り得べからざることゝし、白鳥といふからには東夷を征伐なされた日本武尊の御事なるべしと、考證したのは歴史の知識であつたが、奈何せん皇子の御墓所について語り傳へて居る白鳥はシラトリで、しば/\立居をする鷺などかと思はれるに對して、この奧州苅田嶺の麓の白鳥(32)は、ハクテウ即ち鵠《くゞひ》といふ大きな鳥のことである。津輕小湊の雷神樣を始めとし、東北には今でも毎年この白鳥の渡つて來る場處が幾つかあつて、土地の人の感覺はどこも一樣に、程度はちがふか知らぬが皆之を靈異視して居る。さうして是を日本武尊の東征と結び付けて考へて居る例は爰だけにしか無いので、それには今一つの誘因があつたからかと思はれる。
 用明天皇がまだ御位に御即きなされぬ頃に、遠く奧州に御下りなされて、  稍々久しい御滯留があつたといふことは、今から見ると一段と信じ難いことであるが、是にはなほ色々の言ひ傳へが附いて居て、其來由を説明することが出來る。たとへば江戸時代の始め頃に、金ヶ瀬の惣兵衛といふ家の先祖の者、林の大木を伐つてその空洞の中から、古い一つの笛を見つけたことがある。土地の人々は是を山路《さんろ》の牧笛だと謂つて、永く持傳へて居たといふことが封内風土記に見えて居る。この山路の草苅る夜の笛といふのは、有名なる中世以來の舞の曲であつた。國中第一の美女を御妻に得たまはんが爲に、牛飼の童に姿をかへて遙々と御下りなされたと説く物語は、多分は三輪山系統に屬する古い神話の名殘であつて、是を用明天皇の畏れ多い御名に繋けるやうになつたのも、決して単なる文藝の趣向ではなく、本來は神と人間の清き少女との婚姻によつて、世にもすぐれたる聖の御子の誕生があつたとのみ説いて居たのを、然らば必ず聖コ太子の御事であらうと解釋して、乃ちその御父君の遠い御旅寢を、語り傳へるやうにもなつたものかと思ふ。日本の民間の言葉では、君にも神にも共通の敬語が多かつた。それを漢字で書き現はすやうになつて後も、なほ宮とか王子とか御幸とかの、無差別に使用せられる名目が幾つも殘つて居る。歴史の知識がやゝ進んで、所謂合理化の必要が感じられると、寧ろ斯ういふ誤解は起り易かつたのである。しかも此誤解の如きは或一つの土地だけに孤立して起つたものでは無かつた。遠く九州の山間の村に於て、宇佐の信仰を中心として先づ唱へられ、それが印象の深い文藝に化してから、追々と東の方へ流布して來たものであることは、神の御妃の名を玉倚姫、其父の名を萬納長者、又は山路の牧笛といふことを、人が容易に心づいたのを見てもわかる。さうして同じ物語の斷片として傳はつて居る(33)處は、まだ何箇所かゞ奧羽地方にもあるのである。この間題に就いては「海南小記」といふ本の中に、「炭燒小五郎のこと」といふ見出しで詳しく述べて置いた。それを見て下さると私一箇の空想で無いことがわかる。
 
          九
 
 それからもう一つ、歴史の學問が段々と進んで、古い解釋を守つて居たのでは、到底信じ續けることが出來なくなつて、後に再び傳説を説明しなほした例が、やはり爰から餘り遠くない會津の山の中にもある。越後東蒲原郡の中山といふ奧在所、ちやうど會津との境の御神樂嶽《おかぐらだけ》の麓に、深山には珍しいやゝ大きな古塚があつて、土地の人は是を高倉天皇の御陵だと傳へて居た。天皇は世の中の亂れを御厭ひなされて、伊豆守仲綱といふ武士を召し連れたまひ、潜かに此地に行幸あつて數年の後、御隱れなされたと稱して、其從者の末といふ者が十數戸、祖先の誇りをもつて今もそこに住んで居る。御廟山《みべうやま》・御所平《ごしよだひら》その他數々の地名は後に附けたとも見られるが、土地の人々の注意せずに居られなかつたのは、塚の傍に御所車の形をした石の工作物があつて、其左右に彫り添へた車の輪が、十六瓣になつて菊の紋に似て居たといふ。かゝる山奧に石工の技藝の跡を見ることが、既に珍しい事實であつた上に、この意匠は確かに又尋常に異なつて居る。それ故に高倉天皇の御陵といふことは、何分にも信ずることが出來ないが、多分は御兄弟の高倉宮、以仁王の御事であらうと、弘く外部の人たちが考へ始めて、之に關する著述などが出てからでも、土地の住民や關係者だけでは、なほ前からの傳へを改めようとしなかつたのである。此事は温故之栞といふ越後の本にも見えて居る。或ひは二通りのちがつた口碑があつたのかも知れない。越後の方にも五十嵐川《いがらしがは》の上流、有名な八十里越、その山道に接した吉《よし》ヶ|平《ひら》の附近にも、點々として御遺跡といふ處が多く、蝶名林《てふなばやし》の舊家には高倉を苗字とする家もあり、ずつと離れた頸城《くびき》の高倉村にも、高倉天皇の御妃、故あつて爰に隱れ住みたまひし故にこの村の名が出來たといふ傳説もある。ところが一方に會津の方面で主張するのは、以仁王は宇治川敗戰の後、近江の信樂《しがらき》から東海道に出て、甲(34)斐信濃を經て上州の沼田へ、それから尾瀬沼《をぜぬま》・檜枝岐《ひのえまた》を越えて、段々と今の御藏入《おくらいり》の方へ入つて行かれたと、まるで其頃の日記でも殘つて居るやうなことをいふのである。宮城三平といふ人の高倉宮以仁王御墳墓考といふものが、北越史料叢書の名の下に印刷に附せられて居る。是が最も有力なる近世の考證であるが、敷十年も前から少しづゝは京江戸の學者にも知られて居た。續群書類從にも採録せられた會津高倉宮勸進帳といふ文書が、或ひは村々の傳説合理化の元祖ではなかつたかと思ふ。明應九年書記する所とあるけれども疑はしく、文體は幕末の日本外史式ともいふべき漢文であつた。其大要を見ぬ人の爲に拔書きすると、高倉宮は陸奧の探題某を頼んで、檜枝岐山から南山に入り、關山峠の麓に留まり住したまふに、探題及び大寺三千坊等、慾心を起して宮を攻め奉る。車輪の如き火の玉散亂して敵軍を惱ます。今の火玉峠是なり。村民宮を奉じて新たに殿を作る。大内倉谷は其故迹である。一年の後此地を去りたまふとて、御運もし開けずば、永く氏神となつて村民を護ると仰せられ、神輿に乘せまつりて伊名に至り、泣く/\御別れ申して歸つて來た。邊愛永く存して一宇の小社を建立し、高倉大明神と崇め祀るといふので、御終焉の地とは謂つて居らぬのだから、隣國東蒲原郡の御墳墓の言ひ傳へと、必ずしも兩立しないものでもない。しかし會津の村々に行はれる同系の傳説は、一言でいふならば餘りに多すぎる。たとへ互ひに直接に牴觸することは無くても、到底或一人の生涯に於ては、爲し遂げられさうにも無いさま/”\の事蹟が、今は悉く高倉宮の御經歴となつて居るので、是を取集めて考察するとなると、一部は少なくとも信じ難いといふことに歸するのである。人が少しでも作りごとをしようとせぬ場合にでも、斯ういふ結果になることはあり得ると、私などは思つて居る。つまりは此地方には古くから、斯ういふ風に解しても大よそ差支へ無い傳説が、村毎にあつたのである。以仁王の御行方が不明であつたことは、玉葉その他の當時の日記にも見え、殊に東國奧州の方に、御立退きなされたらしいといふ風聞はくり返されて居た。今でも交通の便利とは言はれぬ南會津の山間に、都方からといふ或貴人の足跡があつて、御名は高倉とまで傳へて居たとすれば、時代がはつきりとして居らぬ限り、もしやさうではあるまいかと想像するまでは、歴史を讀んだ者のま(35)づ義務と言つてもよい。それを若松城下の教養ある人々が試みたのである。しかも一旦さういふ説を耳にするや否や、隣の土地との關係は考へても見ずに、必ずさうだと決めてしまつて、其積りで説明もし主張もするのは、寧ろ學問をせぬ者の所行であつた。平家物語や盛衰記の有ることも知らず、有つても讀むことの出來なかつた時代に、斯ういふ固有名詞などは一つでもあつた筈はない。勿論最初は口にするのも勿體ないやうな旅の御方がとか、何でも遠い都の方から貴い神樣のやうな御人が御降りになつてとか、いふ風に語り繼いで居たのを、それが事實ならば日本武尊の他にはない。もしくは高倉宮の御事としか考へられぬと、新たに教へてくれる人は外に在つたのである。既に自分は事實と認めて居るのだから、其點だけを疑ふことは出來ない。まして書物を讀む人に對する信頼は、昔も今の如く分外に強烈であつたのである。是に就いて想ひ起す一つの逸話は、會て武州松山の近くの百穴に於て、至つて篤實さうに見える年とつた番人が、見物の衆に説明して居るのを脇で聽いたことがある。百穴は葬處か又は穴居の跡かといふ問題は、發見當時から今に未決であるが、この番人は坪井説であつたらしく、誰が斯んな穴を掘つたのですかといふ問に對して、頻りに大昔ドジンといふ人が爰に來て、掘つたものだといふことをくり返しで居た。ちやうど岩窟ホテルといふものゝ進行して居た頃なので、自分には一しほ興味が深かつたが、つまりあの時分の學者が先住民を土人と呼んで居たのを、この老翁には或一人の英傑のことのやうに感じられたのである。同じまちがひは又東北にもあつたらしい。仲夏流行病の不安の多い際に、村の境や大きな屋敷の門口に、藁又は萱の葉で男女の人形を作つて立てる風は古く、以前は草仁王《くさにわう》又は鹿島香取、大助人形《おほすけにんぎやう》とも謂つて居る處があつて、眞澄の紀行などにも幾つかの寫生が出て居る。是を秋田の附近では現在ではドウジンといふ人が多い。元は少しも聽かぬ言葉だから、やはり此地方の學者が之を蝦夷などを威嚇する手段と推測して、土人人形と謂ひ出したのが起りかと思ふ。學者は固より「と思はれる」、もしくは「に非ざるか」を添へて述べたことでもあらうが、そんな言葉はいつの間にか飛び散つてしまつて居るのである。
(36) 自分などが常に惜しいと思つて居るのは、無始の昔から承け繼いで來た村々の言ひ傳へ、神が遙々と一つの土地を目ざして訪らひ寄り、ゆかりを住民との間に結んで、永く四時の祭を享けようとなされるといふ信仰を、斯んな只一度きりの歴史の片端と繋ぎ合せて、しかも折々は矛盾を指摘せられ、もしくは可能性を疑はれて居ることであるが、是とても根原には世の進みにつれて、少しづゝ本ある姿ではたより無く、又一方には斯んな草深い山谷の空間にも、曾ては直接に中央の大御門と、何か一つの關聯があつたといふことを信じたかつたからで、動機は至純であり、さうして又誤解にも一わたりの順序はあつたのである。殊に高倉といふ名稱の如き、由緒無しには生まれ又記憶せられるわけが無いと、今でも會津の人たちにはさう思つて居る者が多いであらう。しかし山嶽の麓に居て神を祭る人々が、この古語を口にして居たのは不思議で無い。クラは巖石の重疊した土地をもいふが、同時に神座であり又祭壇のことでもあつて、元は一つの語の分岐かと思はれる。さういふ場處に於て天降ります神を祭つたのは常の事で、從つて他の地方にも高倉といふ神は多く、京都の地名なども元はその一つの適用に過ぎなかつた。至尊流寓の畏れ多い物語を、是から導き出すことは土地の人には出來なかつたらう。全體に他から暗示を受けて輕々しく信じたらしい形跡は多い。たとへば中山の御所平に伊豆守仲綱を説き、さては渡邊の唱競兄弟、猪隼太《ゐのはやた》などゝいふつはものゝ忠節と奮戰とを傳へて居るのは、平家物語を讀んだことの無い者の能くする所でない。さうかと思ふと一方に南會津の方では、檜枝岐大納言・尾瀬中納言といつたやうな人々が、殿下を奉じて防衛の任に當つたとも謂つて居る。斯ういふ飛んでも無い名流を假説するのは、木地屋《きぢや》といふ山中の職業圍體にしか無いことだがと思つて居ると()、果してこの武將の連名に、小椋《をぐら》少將實何とかいふ人もまじつて居る。それでわかるのは東蒲原の山中に、御所車の形をしたといふ石の塚を作り、其左右の車の輪を十六瓣の菊花に擬したことで、是も轆轤師の彫刻には折々見られ、江州の本據の寺では近頃まで之を紋にして、それによつて又何とか御所といふ名をさへ用ゐて居た。會津は蒲生家の縁もあつて、夙くから多數の木地屋が近江から呼寄せられたことが、新編會津風土記にも詳しく出て居る。この人たちが先づ土地の古傳に由(37)つて、少しづゝ自家の立場を作らうとした例は他にもよく見られる。然るに會津の地方史家は其跡について、是をさへ合理化しようとして居たのである。傳説は變化せずには居られなかつたわけである。
  (註) 木地屋又は轆轤師といふのは、轆轤を以て椀類の木地を製作すべく、山中に生活して居る一派の人々で、現今多くは其土地の住民と見られて居るが、近年までは滋賀縣の東小椋村から出稼したものであつた。家の苗字は殆と皆|小椋《をぐら》で、東北だけには佐藤と名のる者もある。惟喬親王の從者の後裔なりと稱し、それと信じさせるやうな色々の書き物を持つて居て、それが皆歴史とは合致せぬ
 
          一〇
 
 我々にとつて最も大切なことは、この勘定も出來ぬほど遠い先祖の代から、土地毎に語り傳へ信じ切つて居た古事が、本來は如何なる種類の眞實を、保存して居たのであつたかを見出すことであつて、其研究が今は却つて御留守になつて居る。村に育つた人々が老少男女、擧《こぞ》つて年久しくさう思つて來た事柄が、空な無意味なものであつた筈が無い。多くの傳説が御社を中心とし、もしくは際立つて尊敬して居る御方と、因縁のあることばかりを説いて居るのを見れば、恐らくはもと神々の祭に仕へる人たちの、至つて嚴肅なる考へ方が、さうであつたものと見てよからう。たとへ書物の上には全く痕跡が無く、又は兩立し難い記録があらうとも、それによつてすぐに根本から、まちがつて居ると斷ずることは不當だつたのである。人が親々から聽き傳へて居るものを、出來るだけいつまでも信じ續けて居たいといふ心から、所謂合理化の運動に參加しようとするのは無理も無いことのやうだが、大抵の場合にはその提案者は外部の人であり、實は又傳説の少なくとも一部を、否認しようとする人であつたのである。彼等は近世の史學にかぶれて、固有名詞と年月日を重んじ過ぎて居た。伊勢貞丈などゝいふ人は、氏名が無く年代の知れぬことは歴史で無いとさへ明言して居る。ところが前代の日本人には、貴い方々の名は忌諱であつた。假に知つて居たところで口にする者は無い。さうして自分たちだけの呼び名を設けて居た。それだけでうそだらうと思はれては、古い傳承者はたま(38)らなかつたのである。傳説の變化は斯ういふ隙間、即ち土地の人々も後には何と無く物足らぬやうに感じて居る區域から、入つて來るのが普通であるが、中にはそれ以上に突き進んで、若干の調和し難い部分を刪除させようとする場合も稀でない。其點ばかりは何かのまちがひであらうとか、爲にする所ある者の造りごとゝしか見られぬといふだけの理由で、近年になつて無視せられ、強ひて忘れさせられた言ひ傳へが隨分ある。幾つもの例を掲げることは出來ないが、長野縣南境の山村に、昔ユキヨシ樣といふ貴い御方が、こゝで惡者に攻められて御果てなされたのを、御祭り申して居るといふ傳説などは、後に南朝の皇孫、信濃宮とも申上げる御方のことかといふ説が出た爲に、次第に遠慮をして引込めた口碑も少なくない。たとへば或部落では草鞋をくれと、ユキヨシ樣が所望なされたのを、すげなく御斷り申した罰に、今でも或舊家では代々足の病を煩ふ者があるといふなどは、事は小さいが注意すべき手掛りであり、土地の誇りでも無いことを記憶して居るのだから、簡單な作りごとではあるまい。又|波合《なみあひ》といふ村では不思議と家の猫に蚤が居ない。是もユキヨシ樣が御滯在の頃に、猫を憐んでさういふ御誓ひをなされたからと謂ふので、例は秋田の七座《なゝくら》山麓の里を始め、隨分各地で信じて居る神の奇瑞の一つであつた。ところが現在歴史のやうに見られて居る浪合記などの記録では、宮は僅かな日數であわたゞしくこゝを通過せられ、さうした靜かな日は無かつたやうになつて居るから、今はごく愚直な者しか之を誠とすることが出來ないのである。それよりももつと重大な否認は、此地方の人は永い間、口と耳とによつて只ユキヨシ樣の名を記憶して居た。それを二百年ばかり前から誰が始めたものか、尹良親王と字には書いて居たが、土地での稱へ方はまだ元のまゝであつた。然るに歴史の知識の進むと共に、是をどうしてもタダナガ親王と言はねばならぬことになつて、傳説はすつかり眞二つに割れてしまつたのである。斯ういふ保存の仕方といふものはあらう道理が無い。村々の言ひ傳へでは宮御最後の日といふのが、八月十五日ともいへば又三月二十四日ともなつて居り、其場處といふのも方々にあつて、文書に殘つて居るだけでも幾つかある。御辭世の歌といつて多くの人の記憶するものも、少しづゝ言葉がちがふ迄は已むを得ないとして、中には二度目の合戰の折に、宮(39)の御子の爲に忠死した世良田某といふ武士の作とした本もある。記録が出來たり石の表に刻まれたりすると、それと反するものはすべて誤りになつて、文字を識る人が先づ忘れて行かうとする。さうで無ければすべての他に存するものを贋作としなければ、成り立たぬ主張を強調することになるのである。曾て豐富を極めた村々の傳説は、この前後を顧みない歴史化の爲に、追々に痩せて行かうとして居る。それも人間らしき自然の迷ひではあるが、斯ういふ變化の歩みの中から、以前の生活の姿を窺ひたいと思ふ人々には、この急激な近年の改定によつて、少なくとも大きな困難の加はつたことだけは否めないのである。
 今まで考へて見ようとする人の無かつた原因がまだ二つある。その一つは傳説の所謂合理化が、如何なる場合にも或一つの場處、甚だしきは僅か數人の群の爲に、丸々よそのいふことを參酌せずに企てられたこと、さうして第二にはその各地各人のもつ傳説が、既に其時までに思ひ/\の發達をして居て、もはや一筋繩では括れなくなつて居たことである。つまり傳説は我々の歴史とはちがつて、夙くから全國共通の知識では無かつたのである。他處に類似の言ひ傳へがあることも知らず、ましてやそれが如何なる形を以て、記憶せられて居るかなどは少しも考へずに、自分たちばかりに關係のあることを、仲間限りで固く信じて居たのである。其仲間の大小は區々であつて、是によつて著名とか著名で無いとか謂はれるが、とにかくに之を支持する土地と人の數とが限られて居たことは、歴史と區別してもよい傳説の特徴であつた。個々の傳説の行はれて居る區域を、私たちは便宜の爲に傳説圏と名づけて居る。伊那谷や南會津の山村のやうに、同種の傳説の傳説圏が接觸しもしくは重疊して居る地方では、當然に統一が行はれ又多くの場合には勝負がある。いくら小さな傳説にも必ず核心があつて、併合又は兩存がむつかしいからである。一つの折合ひの方式は、主人公を非常な旅行家にすることであつた。東京内外の多くの八幡社、それから關東東北へかけての、色々の遺跡を歴史と見る爲には、八幡太郎の父と子とは、前後の九年三年を旅路に費したとしてもまだ足りない。弘法大師は杖を突立てゝ、千に餘る清泉を迸り出さしめる爲に、終生全國をSの字形に、行脚しなければならぬことに(40)も歸着するので、乃ちこの歴史解釋なるものが、當初から個々の傳説圏の爲に試みられ、未だ曾て今日の比較綜合を、豫期したもので無かつたことがわかるのである。
 しかも一方には個々の傳説圏が孤立して、互ひに相知らず又は矛盾撞着を氣づかずに居る場合も、今はまだ相應に多いかと思はれる。平家谷といふのはその一つのよい例であり又日本を特色づける傳説でもあつた。ブルノ・タウトは飛騨の白川村の珍しい家の建て方を、恐らく平家文明の名殘であらうと謂つて居る。平家はその世盛りにも西國が地盤であつて、阪東の平氏は寧ろ源家に從屬して居た。それが白山の東側まで遁げて來て居るのは解せぬやうだが、そんなことに驚いて居ては切りが無い。越後の山奧から出羽奧州へかけて、大よそ屋島壇浦とはかけ離れた僻村に、そこにもこゝにもといふほど平家谷がある。今まで住んで居る人々と、類を別にしたやゝ氣品の高い群が、後から入つて來れば即ち落人である。さうして平家は夙に最も有名な落人だつたから、我も人もさうらしく考へ出すのは自然である。起りを尋ねて行けば種々あらうが、主たる一つは平家物語が、目からも耳からも早くから普及して居たこと、其次には小松といふ名が、何か仔細あつて可なり弘く、斯ういふ新來者に用ゐられて居たことで、是は自分なども少しばかり考へて見たことがある。彼等の傳説圏は地形や生活事情によつて、通例は孤立して居る。もしもこの人々が遠い昔の由緒を以て、崇敬して居る神樣があるとすれば、是を一族が西海の果まで奉戴した、尊い大君であつたかと思ふのも、必ずしも學者の示唆をまたぬことであらう。
 
          一一
 
 今日の交通  状態を以てすれば、かゝる容易ならぬ聖跡の言ひ傳へが、幾つとも無く各地に併存するといふことは、想像も出來ぬことであるが、それが許され又土地毎に信じ且つ傾聽せられて居たといふのは、畢竟は互ひに相知らず、もしくは稀に傳へ聞くことがあつても、始めから我村以外のものを、到底有り得べからざることゝして、問題にせず(41)に置くことが出來たからである。百年餘り以前、蒹葭堂雜録の世に出た頃には、既に京以西に八箇所の、養和のみかどの御隱れがと傳ふる土地があつた。攝津の能勢の山奧の舊家から、一通の古文書が出現して、こゝに最後の御宮居があつたと言つて騷いだのも、同じ頃の出來事である。土佐と薩摩大隅にもまだ此以外に、領内の學者のみはよく知つて居て考證し主張し、他郷では難波の蒹葭堂のやうな博識でも、全く心づかずに居たものが幾箇所かあつた。それが現在は大抵は皆顯はれたのみならず、新たに探り得たといふ遺跡も附け加はつて、今や全國を通じては其數が大分のものになつて居るのである。一部の人たちの謂ふ郷土研究のやうに、單に或土地限りの知識を守つて、よそで何と言つて居るかに掛構ひ無く、附近の者ばかりで感歎して居るだけだつたら心配なことも無いが、今日はそれを全國に承認させようとして居るのである。奈良縣では鳥見《とみ》の靈畤の御跡に相違ないといふ場處が、あの狹い管内に十箇所近くもあつて、目下判定者を困惑させて居るといふが、是に似た眞僞の爭ひは實は他にもたくさんあつて、今は只少しでも問題の解決を遷延しようとして居るに過ぎない。同胞國民の多くの者を、無知なる誤信者、乃至は有りもせぬ證據を虚構して、人を動かさうとする者の如く斷定するに非ざれば、到底成り立つ見込みの無いめい/\の主張を、もしも此勢ひを以て貫徹しようとしたら結果はどうなるであらうか。
 我々が是非とも先づ考へて置くべかりしことは、當代の史學に果して之を決定する能力があるか否かであつた。少なくとも第三者の承知するだけの理由を具して、一を正しく殘りのすべてを誤りと明示し得るまでの用意があるかどうかであつた。私の見る所では、恐らくは誰にも其用意が無い故に、この豐富にして又興味深き日本の傳説をうるさがり、内心窃かに今のやうな「傳説の研究」の、餘り盛んにならぬやうに念じて居る者が多いのである。歴史と傳説との境目、殊に傳説といふものゝ性質と範圍とを、明らかにしてかゝる必要は爰に在る。傳説は或一部の人が思つて居るやうな、「やゝ不確かな歴史」では決してない。といふわけは時代と共に、現に傳説の形態と内容とは變つて來て居るからである。同じく信ずるとは言つても傳説を信ずるのと、歴史が過去の事實だつたといふことを疑はぬのとは、
 
(42)本來は二つ別のものであつた。是をごつちやにするやうになつたのは、固有信仰の側から言へば衰微である。歴史の二葉は多くの民族に於て、最初は傳説の中に包容せられ、記憶せらるべき歴代の大事件は、すべて信仰と結び付けて傳へようとしたことは事實であるが、一たび記傳の道が朝に行はれるや、其分界は世と共に明瞭になつて、歴史は終に一つの學問の根柢を形づくる迄になつた。獨り文字の恩惠に與かり得なかつた草莽の民のみが、なほ久しい間以前の  状態に止まつて居た爲に、彼等が管理する傳説の中にも、同じく若干の歴史が含まれて居なければならぬといふ、類推が下され得たのみである。是も勿論絶無とまでは斷言が出來ない。現に村として又家としてのよく/\の大事件は、百年以上に亙つて之を記憶する者があり、其方式も亦大よそは傳説と似て居るのである。しかも經て來た年代の長さに比べると、村々の言ひ傳への總量はあまりに少なく、且つ其種類が甚だしく限られて居る。大抵の場合には或すぐれた人の、一つの事蹟を中心とした一群の記憶ばかりが特に鮮明であつて、それも私が列擧するやうな、全國共通の型に屬するものが寧ろ多いのである。田舍の生活が極度に平穩無事であつた證據と、之を解することは出來ぬだらう。飢饉疾疫その他の怖ろしい大災害でも、記録があつた場合だけに改めて之を知り得るので、辛うじて其厄難を切拔けて來た家々の後裔でも、それを口頭の話題として居る期間は四代とは續かない。近代は殊に文書に信頼して、忘れて行く速度が早くなつたやうであるが、しかも歴史は必ずしも斯ういふ土地毎の大きな幸不幸までを、筆に傳へて置くべきものともきまつて居なかつた。歴史は一國の大事、殊に偉人の傳記を中心として、時代全體の動きを明らかにするものだといふ先生が、日本には今でも居る。英傑以外の人の色々の小さな生活が、どうして斯うなつて來たかを知りたいといふ願望の、強く表示せられたのは近頃のことで、それにはまだ十分な方法が備はらず、古人は素より豫め其答を用意して置いてはくれなかつた。だから此樣な無理をしてまで、平家物語とか太平記とかいふやうな、最も通俗な書物の知識と結び付けることだけが、所謂合理派の歴史化であつたのである。斯ういふ一般の思ひ違ひも、それを助長するやうな知識人の態度も、亦一種の弘い意味の史實には相違ない。其證跡の我々の世まで殘つて居てく(43)れたのは有難い。たゞ一つ困ることには、是が前面に立ち塞がつてしまつた爲に、折角悠久の昔から保存せられた傳説の眞の價値が、いつまでも我々の寶とはならぬのである。人が是はど大切に親子代々覺え續けて居たことが、笑ひや嘲りや、又時としては憎み罵りの目標とさへなるといふのは悲しいことで、それがもし學者の輕慮、乃至は比較綜合の怠慢から起つたとすれば、我々はこゝに改めてこの大御國の爲に、反省し且つ精進しなければならぬのである。
 村々の歴史が中世以後に對しては忘却せられ、たつた一つか二つの大昔の出來事にばかり、精彩を盡した語り傳へが殘つて居るといふことには、先づ隱れたる理由が無くてはならぬ。香や煙草が人間の嗅覺を弱めたことは、山で原始に近い生活を續けて居る人々の、鼻の感じの鋭いのに比べてもよく到ることだが、是と  稍々似た事情は或ひは文字の教育の結果にもあつたのかと想像せられる。是は後にきつと再び入用があると思ふことは、帳面につけ又は證文に書いて、其他は安心して記憶の爲に格別の苦勞をしなかつたといふことが、全體に我々の口頭傳承の任務を、小さくして居ることは爭はれない。もちろん其中にも筆豆と筆無精とがあつて、前者は次第に減じ又は職業化して行くやうだが、以前とても誰でもかでも、すべてがこの傳承に熱中して居たわけでは決して無く、寧ろ記憶の特技をもつ者が有ることを知つて、他の多數は安心して其人に記憶を託し、勝手に其日々々の事ばかりに注意を向けて居たことは同じであつた。たゞさういふ傳承者を重んじ、其言葉に耳を傾けようとする念慮が、書册文化の進出につれて、追々と淡くなつて來たらしいのである。暗誦の特技には素質があり、どうやら又遺傳の働きもあつた。だから今日でも折々は突發して、何でも無いたゞの民家の子女が、妙に古い事を知り且つ之を人に語りたがるのに出逢ふが、それ等の傳承者の現はれた事情も、根源を辿れば尋ねられる。即ち一部にはやはり若干の利害があつて、たとへば賞讃せられ利用せられるが故に更に努力し、もしくは他の記憶の良い人の言ふことに感動して、それを承け繼がうと心掛ける者も出たには違ひないが、其間にもおのづから血筋家筋といふものがあつたのかも知れない。固より衣食の種といふやうな露骨な動機からでは無しに、或ひは由緒ある名門の少しく衰へかゝり、又は老女が生き殘つて幼い孫にかゝらなけ(44)ればならぬといふやうな場合に、殊に昔を説く念慮が盛んになつて行くのを見ると、以前も一族の中心となつて、群の誇りを失はぬ責任を感ずる家から、斯ういふ技能のある人は輩出したので、それが主として貞淑なる女性であつたといふことも、恐らくは偶然では無からうと思ふ。性の分業は今でも可なり明瞭に、日本では認められて居る。獵とか釣とか戰闘とか、女には出來ない又させてはならぬといふ多くの仕事があると同時に、他面には家の存立といふことにかけては、男の執心は寧ろ一方よりは淡かつたのである。さういふ人々の氣力が、どんな方面に向つて發揮せられたかは想像することが出來る。さうして又行く/\は心理生理の學問の開發によつて、この必然性は證明し得られるかと思ふ。少なくとも歴史は女性の記憶力の貴かつたことを、推測せしめる資料に充ちて居るのである。それが文字の教育の世に入つて、單に彼等の分け前のやゝ少なかつた爲ばかりに、この古くからの機能を輕視し、之を不十分なる記録の歴史に、委讓せしめようとして居るのである。書かれざる歴史の保存が不可能になつたのは、其結果で無かつたとは言へない。さうで無くとも歳月が積り、人事が日増しに錯綜を加へて來れば、次第に覺えきれなくなるわけなのに、おまけに今までほど女の物覺えを感謝せず、又大事にもしなくなつたとすれば、口から耳への傳承は段々と興味の多い文藝の方に向ひ、土地の新たな歴史も忘れがちになつて、たま/\古くから消えずに居る傳説まで、是を通俗の史書に附會して、後には却つて信じにくゝしてしまつたのも已むを得ない。文字の恩惠は他の片隅に於ては、斯ういふやゝ過當の信頼によつて、今まで發達して居た記憶の技術を衰微させ、もしくは別方面に轉囘させてしまつたのである。此事はもう少し詳しく説明する必要があるが、日本には限らず、我々の知つて居る多くの民族では、必ず後世に傳へたいと思ふ大事件だけは、言葉を精選し句形を整へて、聽いて印象が深く、又暗記の練習に便利なやうにして居た。對句やたとへといふやうなものも、其爲に數多く設けられて、聽いて悦ばしく又永く忘れ難いものになつて居た。其樣式は今でも傳はつて、決して我々は之を粗末にして居ないが、其|器物《うつはもの》に盛られるものは、既に文藝と化し又信仰とは分れてしまつて居る()。さうして人が娯樂の爲に、頻々と之を演ぜしめるやうになつてからは、年(45)年歳々の生活記録は、却つてこのカタリゴトの方法を以て傳へることが不似合ひになつた。是が又村々の歴史の埋没した一つの理由かと私は考へて居る。
  (註) カタルといふ動詞は昔のまゝに行はれて、近世のカタリモノは淨瑠璃をはじめ、すべて皆男子の管掌になつた。是はまことに大きな變遷であるが、幸ひにして以前の姿はまだ少しばかり、民間に痕跡を留めて居る。御前《ごぜ》と呼ばれて居た盲の女の職業組織もその一つである。一方には舞といふものにはまだ女性の領分が少しある。さうして舞は本來語りと不可分のものであつたやうに私たちには考へられる。少なくとも信仰行事の方面では、曾て傳説が女子によつて取傳へられたことが、今は無言の舞の手からでも窺はれるのである。
 
          一二
 
 以前は或ひはもつと色々の言ひ傳へが、こま/”\と語られて居た時代もあつたのか知らぬが、それはもう確かめて見る方法も無い。現在はとにかくこの大昔の言ひ傳へだけが記憶せられ、之に續くものといへば僅かに祖父母の見聞、又はたまさかに殘つた舊記の類ぐらゐの、それもずつと現代に近いもので、其中間の敷百歳は茫とした空虚である。村に住む者がその少しばかりの傳説を、又無く重要視し愛護したのも尤も千萬なことで、後世時として解説を補充したり、又は固有名詞を嵌め込んだりしたといふのも、動機は全く之をいつまでも信じて居たかつたからで、別な言葉で言へば元からの形のまゝでは、何とやら頼り無く感ずるまでに、時代の智慮分別が進んで來たからであつた。多くの土地の傳説はそれ故に、少しづゝは皆變化して居る。あるものは特に荒唐無稽のやうに思はれる部分を、意識して取除いて居る。又或者はよその話を借りて來て、説明の脱落を補填しようと試みたのもある。仔細に視て行けば加工の痕はわかるのであらうが、中には丸々型にはづれて居て、ちよつと研究者をまごつかせ、それだけに又興味の深いものがある。何れにしたところで最初は皆、父祖と同樣に自分たちも、信じ續けることが出來るやうにといふのが趣旨で、人が成程と言つてくれゝばなほ嬉しかつたであらうが、そればかりを目當てにしたものなどは無いのである。(46)如何に昔のまゝと言はれる慣習制度でも、斯ういふ愛着に出發した徐々たる改廢は皆許されて居る。恐らく傳説にも夙くからそれが目立たずに行はれて居たので、歴史の知識の應用なども、言はゞその新しい一例に過ぎぬのかも知れない。たつた一つの悲しむべき點は、其中に結果の甚だ良くないものがあつたことで、しかもそれが傳説の特に重々しいものであつた。弘法慈覺最明寺時頼といふやうな、幾らでも行脚をする人が、曾て通過し去つたといふだけの話ならば、少しはをかしいかも知れぬがそこも爰も、さて/\よくあるいたものだと敬服しても居られる。之に反してたつた一人しか無い英傑が、こゝで生まれたと言つて産湯の井戸があり、又は貴い御方が此地で御果てなされたと稱して、墓どころがあつたりするとなると、同種の傳説を抱へて居る二つの土地は、排撃し合ひ又諍はなければならぬのである。めつたに突き合せるやうな機會が無いといふ一事で、辛うじて一時凌ぎをしなければならぬのである。是が傳説の學問を、永く今日の?態に、打棄てゝ置けない實際上の理由で、世人は寧ろ學者より以上に、其急を感じて居るのである。
 學問はいつの世にも疑惑から發足して居る。さうして何の不審も抱かず、是が當り前だ、是でも些しも差支へが無いと思つて居る人たちは、よほど程經てから、多くの研究が通説と化してしまつてから、やつと其恩惠に浴することが出來るのである。我々は之に先だつて、是非とも平家谷のやうな同型のしかも兩存し難い傳説が、全國十敷所に亙つて行はれて居るのは何故かといふことから、疑つてかゝらなければならぬ。是まで耳にした普通の解説は、いつでも一方的だから一向に當てにはならない。小さい例でいふと番町の皿屋敷、あれは私などのくにでは播州皿屋敷と謂ひ、現に井戸もありお菊蟲も居る。口拍子が似て居るから作者があつて、番町の方へ捲き上げられたものと皆考へて居る。ところが同じ言ひ傳へは土佐の幡多郡にあり又長州にもある。何れも六部か行脚僧が聽いて還つて、播磨にも江戸にも移植したに相違ないと土地ではいふ。さうすると關東方は頗る歩が惡いやうに思はれるが、何ぞ知らんや上州妙義山麓の小幡氏一族には、ちやんと足利時代からの同種口碑があつて、信州松代藩の小幡家を始め、此一門の移(47)住先では多くその怨靈を祀つて居た。主人又は主婦が惨虐で、召使の美女が怨みを含んで死んだといふ點は皆同じで、おまけに其幽靈の名は必ずお菊であつた。お菊などゝいふ女の名は、さう古くから用ゐられた筈は無い。さうして美女虐待の物語といふだけならば、是は寧ろ有り過ぎると評してもよい程に、我邦ではよく流行したカタリゴトであつて、中世にはたゞ觀音地藏の靈驗によつて、現世の苦難を救はれたといふ風に傳へて居たのを、後に一くねりくねつて執念の鬼となり、大いに化けて出て惡い者を惱ませ、最後に念佛の功力によつて得脱したといふ風に語られ、更に又一歩を進めてはぞく/\と身振ひをしなければならぬやうな怖いところで、話を切上げてしまふといふ趣味も起つたといふのみである。勿論斯ういふのは一方の端の例であつて、多くの傳説がすべて同じやうな、流轉の仕方をして居たといふのでは無い。しかし是によつても或一つの見當が付いたやうに、もしも我々が同じ型、幾つかの共通點をもつて居る傳説を、一つ/\丹念に又遠慮無く、集めて比較し且つ考察して見たならば、末には此一致の決して偶然で無く、寧ろ斯うあるのが當り前であるやうに、思ふ時代が來ぬとは限らぬ。同じ國語を用ゐて數千年の昔から、山越え海を渡つて往來して居た日本人が、土地のちがふ毎にそれ/”\異なる傳説を抱へて居たとしたら、其方が却つて不可解といふことにならうも知れぬ。さうで無いまでも一つの根源から、分れて出たものといふ證據を擧げるだけは、今ですら或程度にはもう出來るのである。それよりもやゝ困難なのは第二の問題、即ち此樣なむしろ有りふれた、しかも時としてはどう考へても二つとは有り得ない昔の事蹟、冷淡なる外部の者の眼から見れば、一つ以外は必ず誤り、事によると皆どうかと思ふやうな言ひ傳へを、何故に又そこでも爰でも、誠とせぬ人を憤り怒るまでに、斷乎として信じ切つて居るのかといふ點であつた。
 是には色々の現世利害、複雜なる動機の加はつて居ることも認めずばなるまいが、そんなことは我等の管轄の外だから言はない。何よりも土地の人々の忍び得ないことは、是ほど純一に又いつの世からとも無く言ひ傳へて居る神聖な物語を、たゞ有り得ないといふ一言を以て評し去り、時としては肩を聳かし頸を振つて、意味ありげな冷笑を浮べ(48)る人があり、それでは私等をうそつきと仰せあるかと、詰問でもせずには居られぬやうな、變な態度を示されることである。もしくは日頃こちらでこそ疑はしいと思つて居る同種類の傳説地で、さも/\にせ物のやうに、自分の方の噂をしたことがわかつた時である。うそつきとにせ物は此世にもあるが、傳説を信ずる人などは大よそそれからは縁が遠い。うそは田舍では元は戯れについて遊ぶものとなつて居た。笑はずにうそを言ふ者などは非常に憎まれた。人が眞顔になり言葉を改めて、心無い者には説くまいとまで、慎しんで話して居ることを、さもにせ物かの如く噂せられたのでは、單にめい/\の輕信が侮られるといふだけでは無く、同時に又父祖の靈に對する侮辱でもある故に怒るのである。無論欺いたのは諸君等では無い。ずつと以前に諸君をさう信ぜしめるやうに、巧んだ者があつたのだと言つて見ても、それとても格別の慰めにはならず、又實際に證據も無いことである。近頃參詣を集めて居る地方の堂宮の中には、二百年此方の縁起をもつて居るものが多い。一時に急激な需要があつた爲か、其内容には全國同型が多く、たとへば本尊の水中出現、又は異人の彫刻とか神龍の呵護とか、古く著名であつた中央の記録の、受賣としか見えぬものが隨分ある。だから傳説にもこしらへものが無いとは言はれぬと、思つて居る人もあるか知らぬが、縁起は書いたもので始から明らかな目的があり、寧ろ山下の住民の參與せぬものが多い。それでも土地に口で傳へた傳説が有れば、それを足場にせずには居ないだらうが、其解釋に至つては獨自のものであつて、再び里に下つて受賣せられることの不可能な話になつて居るのである。まして全然こゝには種の無いことを、如何に巧妙に記述し又讀み聽かせたとしても、信徒總代でも恐らくはあつけに取られて、相槌を打つことは出來ないであらう。土地に一つの傳説が根を張つて居るといふことは、素より縁起の盆栽仕立てのやうなものを意味しては居ない。單に種がこぼれて芽を吹いたといふ以上に、別に是を大きく成長させ、美しい花を開かしめた土の力、空氣の力にも譬ふべき、目に見えぬ因縁が年久しく働いて居るのである。だから我々は末々の枝葉の問題をあげつらふ前に、是非とも先づ其根と幹とを見ようとしなければならぬのである。
(49) 單に親々の言葉を疑はなかつたといふ以上に、前にもそれ/”\の時代の知性の限度に於て、信ずべきものであつたといふことを認めなければならぬ。今でも多くの傳説の縁起と異なつて居る點は、後者が汎く一般の神威佛コ、即ち深く信じ熱烈に祈願する者に對し、應驗を示したまふと説くのを通例とするに反して、一方は進んで一郷の安寧と、一門の繁昌とを守護なされ、又さういふ御契約が、古くからあつたと傳へて居ることである。この新舊の信仰のちがひは、もう誰でも知つて居ることであらうが、それが此樣に顯著に傳説の上に、認め得られるとまでは氣づかぬ人が多い。傳説の神々は或土地或家の、特に年久しいゆかりの有る人々を愛せられる。笈に負うてあるく神體が俄かに重くなり、又は三たびまで同じ漁夫の網に入りたまひ、我を此地に齋《いつ》き祀れと示現なされる。或ひは樹の小枝、鞭や杖や幕串、晝餉《ひるげ》に用ゐた箸などを土に刺して、もし神慮に叶はゞ此地に根付かしめたまへと念ずると、程無く芽を吐き成長して今見る大木になつたといふなど、何れも皆或一定の地域のみが、神の尋常に絶した眷顧を受くべき道理が有ることを説かうとして居るのである。だから斯ういふ單純なる傳説の領分には、一人の特別に信心深い者などは出て來ない。人は一樣に恭敬であり、又信ずるのが當り前であつた故に、取立てゝ賞譽を受けるといふ者も無く、たまたま全體の感覺に背く者だけが、罰せられ災ひを蒙ることになつて居たので、寧ろさういふ場合のみが數多く記憶せられて居るのである。昔の神々が峻嚴で、個々の罪咎を寛假したまはぬやうに見えるのも、我々には少しも不思議ではない。人は常の道を履み常の式によつて仕へ申すことを條件として、尊き當初の御約束の永遠に變るまじきことを、總括的に信じて居たからである。沖繩では御祭の日に遊ばぬ者だけが、ハブに咬まれると考へられて居た。越後の田舍でも、物日に働くと田植に雨が來ぬといひ、雨が無くてもよいなら雨除けも無用だらうと、村の人たちから屋根を剥がれたといふ話も殘つて居る。たつた一人の小さな違反でも、結果が公共に及ぶから制裁は大きかつたので、傳説はつまり近世の歌にも有るやうな、「?らずとても神や護らん」の?態を確保するが爲に、必ず衆人をして牢記せしめようとした、最も大切なる神と土地との由緒譚であつた。だから近世の多くの縁起に見るが如き、個人が恩寵を被つ(50)たといふ例は一つだつて記録せられては居ないが、背けば罰せられるといふ此言ひ傳へこそは生活の基礎、村の福祉を支持した唯一の證據物であつた。たま/\其眞實性に向つて疑ひを插まうとする者が、非常な勢ひで排撃せられたのも、當然であつたといふことが出來る。しかも時代の力とは言ひながら、之を昔のまゝの形で持ち傳へて行くことが、當事者たちの間にも追々と困難になつて、僅かばかりの書物の力を以て之を修飾しようとした爲に、却つて一段と早く傳説を信じにくいものとしたことは、考へて見ると如何にも心淋しい話であつた。
 
          一三
 
 しかしこの傳説の變化成長といふことは、必ずしも近世に入つて始めて現はれたものではないやうである。一つの傳説を有るがまゝでは信じにくゝ、何等かの小さな思ひちがへ又は聽き落しがあつたのではないかといふ不安は、それをはつきりと意識し得ない時代から、もう少しづゝ萌して居て、それが寧ろ純朴無垢な信頼をもつ者には、一段と忍び難い眼の中の微塵のやうなものではなかつたかと思はれる。今となつては拔き差しのならぬ、國として殆と始末に困つて居る各地の歴史化なども、決して單なる事を好む者の進言では無く、實はやゝ久しい内からの需要に誘はれて、いつと無く浸み込むやうに入つて來たものかも知れぬ。だから傳説の今でも活きて居るものと、殘形又は痕跡ともいふべきものとを、區別して見ることは必要であるが、この徐々とした經過を考へると、境目を何れの點に置くのがよいかに、可なり迷はずには居られぬのである。最も我々の心を打つ言葉は、「何だか知りませぬがこの土地では、みんなが斯う謂つて居ります」といふ謙虚なる辯明であつて、是には私などはもう反對は出來ない。つまりは現在是だけのことが信じられて居るといふ事實を、一應は受け入れるの他は無いのである。歴史の學者がこの百年ほどの間に、自分も固く信じ人にも強く説いて居たことが、後に誤謬を指摘せられ又は意外な證據が出て來て、當然に自ら改めもしくは人から訂正せられた例は、至つて寡聞な私でももう大分數多くを知つて居る。それを我々は學問の進歩と(51)名づけ、なほ將來に向つても更に多くの發見を期待して居るのである。たつた一人か二人の或一時に考へ付いたことが、如何なる事情の下にも易へられない解釋となつたとすると、それはもう學問の領分の外である。形はいくら歴史と似て居ても、又土地に取つてどれ位大切な知識であつても、之を管轄すべき力は全く別な處に在るので、多くの史學者が淡く之を見放し、もしくは避けて觸れまいとして居るのも、必ずしも無責任とまでは言はれない。傳説がもと/\信仰を根として生ひ立つたものである以上、それの續いて居る限りは今日の?態になつても、まだ活きて居ると見た方が正しいやうな氣がする。古い言ひ傳への紹對に信ずべく、それには又二つ以上の解釋が有り得ないことを、固く執つて動かぬ人々が無かつたら、却つて斯ういふ次々の改訂も誘致せられず、末には本來の傳承とよほどちがつたものとなつてしまつて、もはや化石によつて古生物の面貌を窺ふやうな手がゝりを、丸々得られなくなつて居たらうと思ふと、たとへ誤りにもせよ大切に守つて居てくれたことは嬉しいのである。
 つまりは傳説は活きて居るが故に、成長しないでは居られなかつたのである。たゞさういふ中でも注意せられることは、其成長ぶりにもやはりそれ/”\の時代の型があつて、初期と中期には又著しい差異がある。さうして幸ひに國内にあらゆる段階のものが竝び存するので、或程度までは之を比較して見ることが許されるのである。ちやうど最近の考證方式が、前人の會て豫想もしなかつたものであるやうに、我々の祖父母曾祖父母等は、今日全く無視せられて居る證據もしくは宣言を、非常に力あるものとして公認して居た。手短な語でいふと神靈の啓示、夢の告げとか巫覡の言葉とかいふものがそれである。夢は雜然と取止めのないものが多いことを、誰でも氣づいて居る世の中になつても、なほ其中には正夢といふものゝ、稀には有るものだといふことを認める人がある。機會は極めて稀であり、寧ろ物語にしか傳はつて居らぬと言つてもよいのだが、たとへば夫婦兄弟の者が、あり/\と同じ筋の夢を見たといひ、又は三夜續けて同じ枕神のさとしがあつて、しまひには何故にさまでは疑ひ惑ふぞと、戒められたといふ話さへある。今一つ以前にはその夢を待ち迎へて、宮堂の中に籠り明した者も多かつた。斯ういふ人々には夢とも無く現《うつゝ》とも無く、(52)ちやうど其中間の所で尊い御聲が聞かれ、或ひは内陣の戸を引き開けて、還り入りたまふ御後影を見たといふ記録さへ傳はつて居るのである。それを現實の實驗と同樣に、固く信じて疑はぬ者が有つたとしても、昔の世の信仰では、些しでも批判を插むべき餘地は無かつたのである。
 或ひは迷信といふ語を以て之を呼ばうとする人も今日はある。其名の當つて居るか否かは私にはまだ斷言しきれないが、とにかくにさうした古風な物の考へ方が、新たに注ぎ込まれた所謂科學常識と入りまじつて、到る處に存續して居ることだけは事實である。神樣の御告げだもの、窺つて見たら斯ういふ御示しがちやんと有つたのだもの、其通りの事がたしかにあつたものと、見るより他はないぢやないかといふ人が、實は百年前に比べて、今も格別少なくなつても居らぬのである。此種の人たちの立場から考へると、同じ人間どうしの説いて聽かすことですら、優れた賢い人のいふことは皆事實であり、自分が直接に耳にしたことでなくとも、書物に載せてあれば誰でも之を信じようとして居る。ましてあらたかな神靈の啓示を、まのあたり自ら受取つたのだから、是ほど確かなことは有り得ない道理である。國史の教育が普及してから、自然と過去を語る言葉が制約を受けて、歴史と矛盾しさうな問題に、觸れまいとする傾向が見えて來たことは確かだが、その部面といふのも實は限られて居た。我々常民の背後には、茫漠とした人跡未到の野がある。何に染めても染められるやうな、記録の空白は遠く連なつて居るのである。轉生の教理は佛者がもたらして來たものであらうが、是が又ひどく俗衆の空想を自由にしてくれた。たとへば私などの少年の頃までは、生まれて滿一年の兒の餅踏みの日に、愛する親姉たちは箕を以て三度その子を?ぎ、おまへは何ぢやつたと前の生を問ふ風習があつた。大抵は半ば戯れにしたことだが、周圍の若干の者は之を信じ、且つ色々と解釋を附け加へる。やつと歩く位の緑兒はさう多くの物の名を知つて居ない。普通に答へるのはモウモウとかワンワンとかンマとか、動物の名であつたのも不思議は無い。さうするとどんな牛、馬ならばどういふ人に飼はれて、生まれ替つて人間になるやうな因縁を結んだかといふことが問題になり、假に川中島へ上杉謙信が乘つて來た黒の駒だつたと推定しても、聊か(53)も正史と牴觸することにはならなかつたのである。奧州には曾て清悦といふ奇僧があつて、頻りに落城以前の高館の舊事を語り、人は之を常陸坊海尊の長命して今も居るものと信じて居た。源義經が反齒《そつぱ》の小男であつたといふことも、この清悦の説に基いたものらしく、又武藏坊辨慶は面長《おもなが》で色が白く、存外の好男子であつたといふことも、亦彼の口から出たことであるが、此方はどうだかと思つて居る人がまだ多い。しかしともかくも是等は皆今日の未知世界であつて、何と説明して置いても一應は事實として通用し得る。要するに之を信ずる者の有るか否か。もしくはどれほどの熱心と專念とを以て、之を傾聽するかといふことに由つて決するのである。近代の傳説の昔と異なる一點は、牢く信ずる者の隣家に全く信じない者が住んで居て、蔭でひやかしたり批評したり、すなほにそれを又其隣へ運んではくれぬことで、其爲に我々の謂ふ所の傳説の社會性が具はらず、從つて往々立消えの姿で終ることもあるのだが、之に對しては一門知音、同じ志の者を糾合して、進んで所信を世に説かうとする運動も一方には起り、或ひは又新たに實を結ばうとする傳説を賞美する餘りに、飜つてその根柢となつた夢や幻覺を、是認してもよいと云ふ者も出來て來る。是が恐らくは一つの末期現象と名づくべきものなのであらう。とにかくに丸々孤立して伸び育たずにしまふといふ傳説も、思ひの外少ないと共に、何の批評も受けず又妥協もせずに、昔のやうにすく/\と成長して行くといふことも、もう段々と望み難くなつた。さうして土地により又人によつて、力の入れどころがかはり共通の點が減退し、個性が著しくなつて却つて他を感動させる條件を失つてしまつた。斯うして或ひは傳説といふものが、一つの國土から跡を絶つ時代が來るのかも知れない。
 しかも現在はなほ過渡期であるが故に、その見究めが殊に付きにくいのである。田舍には今でも祖先の抱へて居たものを、ちつとも改めないで持ち傳へて居る人が可なりある。或ひは又熱烈の度にかけては、聊かも前代に劣らない信仰を以て、新たな幻を見て是に動かされ、何の疚しい心も無くその「眞實」を説き立てようとする者も居る。學問や才能を加味して、時世に適應するやうな解釋を下された傳説と、是が入り交り竝び進んで居るのだから、手短には(54)處理し得られないわけである。我々の方法としては、判るだけはこの新しい事情に生まれたものを引離して、成るべく多くの昔からのものばかり、集めて比べて見るやうにしたいのであるが、其境目は紛らはしいのみで無く、古いと謂つてもそれに又段階があつて、少しづゝ移つて今の世に續いて居るのである。歴史の知識が傳説に干渉する風が、既に三百年も前から始まつて居ることは前に述べた。それとは反對に靈驗を根據として、新たなる事實を主張し得る者が、今でもまだ少々は殘つて居るかと思ふ。斯ういふ氣質は誰が考へて見ても、新たに學び取り又は作り立てられるものでない。さうすれば爰にも遠い昔の傳説の生ひ立ちを、推測する手掛りの一つはあつたのである。以前私の親しくした壯年の實業家で、特に神信心の深い者があつた。それが或時大變なことを私にさゝやいた。御伊勢樣は昔から女性の神樣だと傳へられて居ますが、あれは誤りでした。私は拜みました。御年は七十ばかりの、途法もない丈の御高い、白い長い髯をはやした御方ですと謂つた。自分はそれを制して他言をせぬやうに戒めたのだが、後になつて考へて見ると、この幻覺にもやはり由來する所はあつたやうである。中世の神々は記録の存する限り、いつもけだかい童子の御姿を以て、示現なされたやうに傳へられる。諸社に奉安した木像繪像にも童形が多く、さうでなければ美しい女體の御神とし、稀に男神の若くすこやかな御形を寫し出すだけで、老年の御姿といふものは殆と無かつたやうである。ところが中世以後、神が白髪の翁と現じたまふ例は段々と多くなつた。たつた一つの最も身に近いものを擧げると、私の生まれた村では五年七年に一度、兒童が夜に入るまで家に戻つて來ぬので大騷ぎをすることがあつた。さういふ場合には必ず氏神の御導きで歸つて來たやうに傳へられ、中には白い髯のおぢいさんが、早ういね、路はこつちぢやと言はれたとか、わしは鈴の森ぢやと名乘られたとさへ謂つた少年もある。さうして私などはそれを些しも疑つて居なかつた。つまりは知らぬ間に我々のまぼろしは新たになつて居たのである。純一無雜の信仰によつて支持せられる傳説は、活きた傳説といふより他は無いが、その信仰の態樣が世と共に少しづゝ變つて來て居るらしいのである。是は民衆の心の内の現象で、教理の統制の及ばぬ區域であつたのみならず、その教理も亦次々に變化して居る。(55)即ち活きた傳説ならば寧ろ成長せずには居られなかつたのである。
 
          一四
 
 人が靈夢を見、又は不思議の奇瑞を實驗するといふやうなことは、一生に一度も無いのが普通だから、この方の影響はまだ事が小さい。それよりも遙かに大きな力をもつて居たのは、幽界の消息を傳へる者の言葉であり、それが常例となり又職業と化するに及んで、傳説はその面貌を改めずには居られなかつた。所謂小道巫術の制禁は既に上世に存し、託宣の必ずしも信じ得られなかつた證跡は、國史の上にも一再ならず掲げられてあるのだが、もと/\信ずるが故に之を聽かうとする者が多く、聽いてさて信ずべきか否かを決するといふことは容易で無い。しかも其内容はいつも新しく、今まで人間が知らずに居たことを、始めて是によつて學び知るのである。古い言ひ傳へが段々と下積みになり、時としては訂正せられ、又は少なくとも重要性を減じて行くことは、託宣の殊に盛んであつた宇佐や北野の、今殘つて居る記録を見てもよくわかる。この二つの御社には限らず、都方では賀茂貴船を始め奉り、稻荷祇園愛宕の諸社、大和では春日、西國では宗像、東國では香取鹿島に富士淺間、越前の白山信州の諏訪等、大よそ二十所ほどの尊い神々だけが、弘く全國の町村に亙つて、幾千百ともなく勸請せられ、各其土地の鎭守うぶすなとして崇敬を受けて居られるといふことは、上代には全く無かつたとは言はれぬまでも、少なくとも中世以後に於て、非常に顯著になつた現象であるが、是にも數々の奇瑞のうちで、特に託宣が大なる力であつたことが、それ/”\の社傳に記し留められて居る。傳説の最も嚴肅なるものが、之に伴なうて新たに生まれ、且つ最も熱烈に支持せられて居たことは、現在漸く消え薄れ、又は解説を改めようとして居るさま/”\の口碑の中からでも、なほ之を窺ふことが出來ると思ふ。日本が何れの國よりも傳説の豐當な、又異常の成長ぶりを示して居る國であつた原因の、一つは爰に在るやうに私などは考へて居る。
(56) この固有信仰の大なる特徴、さしもに隆盛を極めた託宣といふ風習が、どうして又今見る如き變化を經たのかといふことは、早晩何人かの努力によつて解き究められなければならぬ大切な一問題である。人が神がゝりの言葉に耳を傾けるといふ心は現在も強いが、それはもう内務省の管掌する神社を離れ、文部省の宗教局がその一部を監督し、他の大部分は警察が之を取締つて居る。託宣といふ言葉は憚つて我々は之を用ゐず、もしくはゴタクといふ類の淺ましい戯語にまでおちぶれてしまつた。さうして多數の神がゝりをする人々は、過半は後暗いしかも放膽なる發言を以て、人を迷はせて居る連中なのである。是が傳説の驚くやうな變化と、假に何等の關聯は無いものとしても、この歴史こそは明らかにして置かなければならない。昔もこの通り亂雜で檢束し難いものであつたやうに、想像する者があつたら大變なことだからである。
 單に記録の上に散見する史實ばかりを拾ひ集めて、この千年を越える永い經過を、明らかにしようといふことは不可能に近い。民俗學の方法としては、先づ眼の前の世相の中に、どれだけ迄の古い世の習はしが、殘り留まつて居るかを見渡すことである。丸々痕も無く曾て有つたものが、消え忘れられて居る場合も絶無とは言へぬが、日本は人も知る如く、さういふものゝよく保存せられる國であつた。昔の生活ぶりの衰頽して居るといふことは、單に其後に生まれ出たものが幅を利かし、社會の表層に現はれて顯著になり、前からあるものを蔽ひ又は片隅に押付け、偏鄙な山間とか離れ島とか、さては舊弊と言はるゝ物固い人の周圍などに、幽かに傳はるだけにしてしまつたことを意味するのが通例で、それは氣を付けて捜せば見つかり、又數度の觀察の繰返しによつて、誰にでも共同に認識し得られることは、自然史の分野も異なる所は無い。我々の採集が進むにつれて、あらゆる變化の各段階が、それ/”\の條件に應じて保存せられて居ることがわかつて來る。それを時の順序に排列することは、技能の問題であつて練習もさして困難で無いが、別に史籍の斷片的なるものに引當てゝ、古い新しいの照準とすることも出來る。國が全體として一齊に變化しきつてしまはなかつたといふことは、制度教理の何度とも無き沿革を透して、國固有の信仰を跡づけようとす(57)る者に取つて、どの位しあはせな事か知れぬのである。
 一例をこの神がゝりの方式の變遷にとつて、民俗學の方法を説明しようとするのも、目的は單に傳説の今と昔との比較の爲であつて、こゝで此ついでに神道の歴史を略敍しようといふやうな考へは無いのだが、或ひはさういふ方面にも少しは參考にならうも知れぬ。私などの見た所では、神の示現の突如として、我も人も何の豫想もせぬ際に、不意に或一人の口を假りて、神秘の語を宣りたまふといふのが、最も古いものゝやうであるが、是は現在も甚だしく零落した、いかゞはしい形で稀に殘るのみであり、記録の上にも殆と確かなる實例は無い。たゞ僅かに第二の方式を書き傳へた筆の跡に、その若干の面影を窺ひ得るに過ぎぬ。たとへば天滿天神託宣記に、近江國比良宮に於て、禰宜|神良種《じんのよしたね》が男太郎丸、年七歳なる童に託《つ》きて宣はく、我言ふべき事あり、良種等聞けとて、子が父に向つて神像の御姿、物の具の所在、二人の從者の氣質其他の事を告げたといふ記事がある。是は如何にも突如たる、思ひ設けぬ現象のやうであるが、實はこの前後に京都にも筑前にも、同じやうな異變が起り、大和の御嶽《みたけ》には又亡靈の憤怒を説いた僧などもあつて、當時菅公が神に祀られたまふべき民間の機運は釀成せられ、人は漠然と既に此種の奇瑞を豫期して居たのである。文書の表面には明記せられてないが、神に指定せられて隱れたる眞實を語る者が、神と何ぞの宿縁をもつて居たことは推測し得られる。ミコとかカウノコとかいふ古い名稱が、その由緒を説明するものと私などは解して居る。即ち或場合には神の後裔、又は神の仕へ人として選まれた清い處女によつて、尊い御血筋を傳へた者のみが、この樞要なる任務に服することが出來るので、人はその時々によつて新たに指示せられるまでも、少なくとも家だけは兼て定まつて居るといふ考へ方が、よほど夙くからこの國民の間に行渡つて居たらしいのである。其痕跡は後世にも認められる。たとへば伊豆の島々では、村長の家がもとは祝《はふり》であつた。近世に入つて始めて祭の職を第二の家に委ねたことは、諏訪氏鹿島氏等の中古の歴史とも似て居る。沖繩では本所根所《もとどころねどころ》、即ち一門の本家の家刀自《いへとうじ》が祝女であつて、今でもまだ別に專門の神官といふものが無い。内地の村々でも氏神を村總體の鎭守とせず、もしくは別に小さく一門(58)の神を、同族限りで祭つて居る例は多いが、さういふ場合にも祭祀の事務を主管する者は、必ず本家の主人夫婦であり、豐後の緒形家の家傳として特に有名な花の本式傳説、即ち先祖の最も美しい女性が、神に愛でられて半神半人の英雄を生んだといふ類の言ひ傳へが、もし有るならばきつと其本家に屬して居る。周圍の人たちはたゞ單に熱心に之を支持し保障するだけである。元は少なくとも舊家の繁榮が、決して偶然の原因からでないといふ證據であつた故に、徒らに之を包み隱したり、もしくは否認しようとしたりする者は無かつた。ところが世が變り交通が開けて行くと、先づ外部に冷淡なる人々が多く出來、之に次いでは全く別の角度から、斯ういふ家々の大切な古い由緒譚を、批判し又鑑賞する風が年増しに盛んになり、あの家では昔話を歴史だと思つて信じて居るなどゝ、笑ひ嘲りもしくは訝る者も稀にはあつて、新しい時代に觸れた舊家の若主人等は、苦惱せざるを得なくなつた。前にも擧げた福井縣の南條郡誌でも、あの地方で特に評判の高い夜叉ヶ池傳説が、實に色々の形式に化して人々に記憶せられ又記録せられて居る。或家では是を自分等の先祖の代に、女兄弟の一人の身の上に現實に有つた事だと思ひ、それ故に水の神の恩寵が今もなほこの一門に厚く、土地が榮えて居るやうにも謂つて居り、さうかと思ふと他の一方には、大蛇が夜な/\娘の閏に通うて兒を生ませたとか、又は田の水の乏しい年に、思慮の足らぬ親爺が三人ある娘の一人を嫁に遣らうと約束して、魔性のものに末の子を連れて行かれたが、其子が賢いので、難なく遁げて還つて來たといふやうな話し方をして居るものもあり、なほこの二つの中間に位する話も幾つかあつて、雙万縁の無い言ひ傳へでないことだけは誰にもわかる。弘く全國の類例を比べると、水の神と縁組したといふ傳説を、信じて居る家の方はもう追々と少なく、之に反して所謂蛇聟入の説話の方は、自由にどこまでも流布し、且つます/\面白をかしく、子供でも聽いて笑ふやうに作りかへられて居る。どうして又斯んなたわいも無い昔話と似通うた出來事を、我家だけでは實際あつたことのやうに、代々信じて來たのだらうと、恠しむ人々はまだ實直な方で、多數は概括的に之を古人の無智蒙昧に歸し、努めて問題の外に置かうとしたのが、所謂歐化時代の普通の?勢であつた。それが全然跡形も無くなつてしまはぬ前に、早く此(59)事に氣が付いたのはしあはせだつたと思ふ。疑ふ必要などは始めから無かつたのである。是は最も小規模なる祭政一致、即ち個々の族長が自ら神を祀り、別に專業の神職を設けて居なかつた時代に、直接に啓示を受けたものゝ保存であつた。たゞ後々の發明と展開と流行とが、それを段々に蔽ひ包み又は混雜させて居るのである。此點だけは新たに立證する方法を見つけなければならない。
 
          一五
 
 神がゝり樣式の第三次の變遷は、神社專屬の或家筋の者の活躍によつて誘致せられ、是が又大きな影響を傳説の今ある形の上に及ぼして居る。儒教を中心とした近世の合理派教育は、出來るだけ奇瑞を公認せず、寧ろ人心の動搖を抑制するやうな、行政方針を執り續けさせて居た爲に、この痕跡はもう大分幽かにはなつて居るが、それでも期間が非常に長かつたのだから、今も氣をつけて見ると端々には、古い世の姿を思ひ合せるやうな現象がくり返されて居る。新たに神を迎へ小さな祠を建てゝ、心の行くばかり祭りたいといふ心持なども其一つであつて、其動機は既に複雜を極めて居るらしいが、なほ大半は何か不思議の靈告があつて、さうせずには居られなかつたやうに説明せられる。ともかくも殆と禁止にも近い嚴密な條件があるのに、いつとは無しに屋敷の隅、又は持山の片端などに、さういふ登録もせられない小社が幾つも出來て、よい機會があればそれが少しづゝ大きくなる例は、今日も必ずしも稀有でない。以前は更に多かつたものと思はれて、名ある御社の舊記のうちにも、たゞかりそめの草葺きの中に、最初僅かな里人のかしづき仕へて居たのが、程も無く遠近貴賤の信心を集めて、莊嚴美々しい御造營を見たといふ類の記事が?ある。現在無格社の名を以て認められて居る數多くの御社にも、事實その過程に在るものが幾つとなく算へられる。その創立が特に或一つの時代だけに限られて居らぬのを見ると、斯うして次々に新たなる神を勸請してもよかつたといふことが、或ひは我邦固有信仰の一つの性質では無かつたかと思ふ。少なくともこの大御國の始めから、既に在つた(60)といふ御社などは一つも無く、何れも皆それからの二千六百年間に、遲く早く其地に御鎭まりなされたことだけは確かである。
 古い書物の上では、是を顯祀と謂つて居る。顯祀は今日の解釋からいふと、祭場の固定といふことが主たる目的のやうにも見えるが、それよりも前に必要であつたのは、住民が先づ神の御名を知り、且つ神コのすぐれて高くあらたかなことを、身にしめて感じ覺ることであつた。勿論個人は單獨に之を發明することが出來ない。感謝と祈願の毎年の方式、何を御供へ申し又どれだけの物忌をすべきかといふことも、人が定めたものに依ることは心もと無く、普通は神樣の御差圖を受けて、それを守ることにきまつて居た。右か左かといふやうな單一な疑問ならば、卜によつて決する方法もあるが、言葉の説明が無くては判らぬものは、依りましの口を通して聽くより他は無かつたのである。神を顯はし奉りし者が乃ち其神の仕人となり、御名を家の名に負うて世襲したといふことは、夙に猿女君《さるめのきみ》氏の舊辭にも掲げられて居る。同じ原則は末代にもなほ認められ、多くの御社には女子で相續する特殊の家筋が從屬して居たのみならず、巫女を教祖として新たに一派の信仰を開き、職を肉身の子孫に傳へて居る例が現在もある。神に最も親しいことを證明した者の特權として、何人も之を爭はうとしなかつたのである。
 所謂司祭職の沿革に關しては、算へきれない程の色々の説があるやうだが、少なくとも我々が自ら證明し得ることは、日本では是に變遷があり、大きく分けて二つの段階があり、しかも前のものは全く消え盡さずに、片隅には殘り留まつて居る故に、今見る國民の信仰形態に、餘分の複雜さをもたらして居るといふことである。その二つといふのは、專門の神職の無いか有るかの差であつて、是は職といふ言葉の定義にもよることだが、とにかくに以前は祭の事務を掌ることによつて衣食の營みをして居る家、即ち職業の世襲などは有り得なかつたのである。神樣が或土地及びそこの住民の一團と、久しい特別の縁故をもつて居られるといふ考へは、昔の方が遙かに強かつた。そこに自然に定まつた中心の家があつて、其主人は代々奉仕の任に當つては居たが、是は族長であるが爲に祭の役を勤めただけで、(61)すべて一方にめい/\の生産事業を持ち、通例は皆富裕であつた。御互ひのまだ記憶する頃まで、草分けの舊家で村一番の物持といふ家の、屋敷は昔から御社の境内に近く、祭日には必ず出て最も重要な役目に就き、人からは鍵取《かぎとり》とも、又時としては神主さんとも呼ばれて居るものが、幾らも榮えて居た。斯ういふ家々の主人は由緒に明るく、神の恩コを仰ぐの念は誰よりも深く、是を譽れとも誇りとも考へて居たことは專業の家に讓らず、殊に其信仰が世に弘まつて、領主を始め外からの參詣が多くなれば、公けの交渉は此側面のみに繁く、次第に世襲の神職と同視せられるやうになつたが、大きな相異はこの方は家あつての祭であり、祭に仕へるが故に興した家では無かつた。是と現行の任命制度とを比べて見て、變化の著しいことは言ふにも及ばぬが、以前も頻々たる移動が無かつたといふだけで、神を祭るといふことを職業とした家が、別に是と對立して可なり古くから出來て居たのである。之を神職と呼び、職で無い方を神主といふ呼び方も稀に殘つて居るが、一般には二つの語はもう混同してしまつた。社領給付の方式にも差別があつて、舊家は?家舊來の持地に、公課免除の特權を付與せられて居ただけであつたが、是も後々には直接に神社に寄進せられるものが多くなつて、之に養はるゝ神職の地位を有利安固にし、農民地主として兼て神を祭るといふ家が、進んで專業の列に加はることを辭せぬことになつたのである。物質の問題に觸れるのも好ましくないが、是は何分にも大きな變革であつた。一方では年々の祭典が支出であり消費であつたに反して、新しい職務では是が收入であり又生計であつた。このプラスとマイナスの相異は、やはり暗々裡に信仰の形態を動かさずには居ない。少なくとも地方の傳説の發達の上には、是が目に立つほどの影響を與へて居る。それを説明するだけが私の此話を試みる目的であつた。
 前に傳説が神がゝりによつて展開することを述べて置いたが、その神がゝりといふものが非常に面貌を改めたのである。第一にはこの重々しい任務に指定せられる人の種類がちがひ、第二には其機會がもとは少なく、後には著しく増して來た。第三には又之によつて傳へられる言葉が、次第に内容を異にして來たのである。族長が自ら神の祭に勤(62)仕して居た時代は、同時に又新たなる啓示の必要の最も少ない時代でもあつた。人は其高祖に與へられたといふ神の教を誠實に銘記して、之に基いて毎年の恒例を立て且つ守り、一方世の中は平穩であつて、問うて決しなければならぬ迷ひ疑ひが稀だつたからである。尤も月々の晴雨冷温、作物のよさあしさは不定であつたらうが、是は年頭の粥占《かゆうら》、灰占《はひうら》、氷《ひ》の樣《ためし》()、其他自然の兆候によつて、簡單に告知を受ける慣行が、殆と經驗と近いものになつて利用せられて居た。さうして何か人智を超越するやうな、大きな事件が起らうとする前には、必ず我神の御示しがあるものといふ、確信だけは續いて居たのである。是にも異常な物音がして盗賊火災に心付いたとか、山の鳥獣の鳴き立てるので敵の攻め寄せることを知つたといふ類の、人を介せずして覺る場合は多かつたが、愈事態が錯雜して、群に何等かの心構へ、又は轉禍爲福の方法が講ぜられるべき際に臨み、爰に始めて神の託宣は降つたのである。めつたに無いことである故に、極度に其印象は強烈であつた。文字が具はつて居れば無論記録が出來、上司にも申告せられる。その能力の無い人の集まりでも、記録に優るほどの細密なる言び傳へが出來る。是が傳説の源を養うたことは、幸ひにして若干の證據を留めて居るのである。大體に求め又は豫期して聽くといふことは尠なく、意外な時と處と人に於て現はれるのが例だつたかと思ふが、突發と云つたところで實は空氣はもう動搖して居たのである。從つてその空氣に觸れ易く、又特に敏感であつた者が、依りましになつたのは自然である。初期には幼童の私の心無しと見られる者が、忽然として庭上に走り出で、跳り上つて神靈の語を吐いたといふ話が多かつた。それが妙齡の處女を主とし、後更に人の妻も指定せられることになつたのも一つの變遷だが、何れにしたところが家主の身うち又は從者などの、自身獨立して何等の主張も利害も無い者の言でなければ、人が歸依禮讃の耳を傾けなかつたことは同じである。但し一たび此樣な神變奇瑞に參與した童子女性の、殘りの生涯は特殊のものであつたらう。さういふ人々をたゞの亭主女房とし、尋常の勞作に服せしめることは、貴い記念が之を許さなかつたかも知れぬ。少なくとも周圍は之を別扱ひにし、本人も亦色々の物忌を守り、その一言一行は自他ともに注目して居たことゝ思ふ。神の祭の日にはなほ更のことで、是には(63)定まつた座席や役目のあつたことも想像し得られる。もしも三十年五十年に一度づゝも、同じ現象が再起するやうであつたら、同じ大家族の屬員でもあつたことだから、この前後二人の神依女《かみよりめ》の間には、相續と謂つてもよいやうな聯絡が行はれ、内部には又氣質の遺傳、氣風の感化といふことも有り得る。たとへば叔母の一人が曾て神の御言葉を傳へたことのある家では、それを目撃し又は話に聽いて居る姪女の中から、又一人の神つきが出るといふ場合が多く、自然に女系の相續のやうに見られることになつたらうが、たゞ此方の神がゝりはそれほど頻繁に現はれたらうとも思はれず、又少なくとも神おろしの作法が、技術として傳授せられるやうなことは以前は無かつたのである。乃ち靈煤の地位の專門になつたのには、なほ一つの有力な理由が、隱れて久しい昔からあつたといふことを考へさせるのである。
  (註) 正月十五日の粥の中に蘆の管などを入れて、作物の豐凶を卜し、又は十二の豆や胡桃を燒いて月々の晴雨を問ふの類は、今でも各戸の行事として行ふものが多い。
 
          一六
 
 是は日本人のみが特に豐富にもつて居る經驗であつて、他國の學説を借用するといふことが、わけても固有信仰の理解の爲に、大きな妨げになつて居るよい例かと思ふ。所謂一神教の國では、稍似た現象があつても、ちがつた見方をしなければならなかつたらうが、我邦では昔から天神地祇、もしくは國中大小の神祇といふことを謂ひ、それを中央の官府のみで無く、後には個々の地方に住む者も皆口にするやうになつて居た。顯はれたまふ神々の數は多かつたのである。大直日・大禍津日の御名は古記に見えるのみで、善惡二神の對立闘爭はむしろ聽くことが稀で、小神はよく恚り?祟るが、之に對しては大神の統御があり抑壓があつた。八幡北野を始めたてまつり、中古の多くの神々の、全國に尊奉せられた起りはそれらしいが、其點は別に述べたものがあるから爰では省略する。地方の神々は各(64)土地を劃して、專ら縁由ある住民の庇護に任じたまひ、元は相互の交渉は無かつたらうと思ふのに、甲乙境を接し人の往來の多い處に限つて、屡神いくさ又は神の御仲が惡いといふやうな口碑がある。是などは寧ろ住民の歴史、もしくは過去の感情を映發したもので、由つて來たる所は別にあつたものか、私にはまだはつきりと説明しかねる。是だけを外にして考へると、少なくとも一つの地域内に於ては、神々の間には協力があり分擔があり、讓歩があり又時としては交渉さへあつて、大小新舊の數多い御社があつても、曾て衝突といふことは無かつたやうに思はれる。京都あたりの古い大きな御社には、その境内に全國の著名な神々を、幾つとも無く末社として迎へ祭つて居る。田舍でも神信心の盛んな村といふと、氏神以外に算へ切れぬほどの祠を建てゝ、それへ順繰りに參つて居る。門の戸口には諸社の御礼を貼り、神棚には又幾つもの神を齋《いは》ひ籠めて、毎朝その御名を唱へて拜んで居る家も多い。さうしてまだ一方を拜むといふことが、他の一方の御氣に入らぬといふことを聽いたことは無いのである。是は確かに日本の神道の、一つの特徴といふべきものだと思ふが、果して大昔から此通りであつたか。又はさうなつてもよい理由だけはあつて、後にこの傾向が殊に顯著になつたものか。何れにしても説明せられなければならぬ。今まで構ひ付けずに居たことが寧ろ奇恠である。
 私などの解する所では、是は神々の新たなる出現、此地に祭り申せといふ御示し、即ち昔の記録に顯祀と謂つて居る現象が、末々小規模に又非公式に、しかも頻々と續いて起つて居た結果であつた。早期に鎭座なされた御社の基礎が既に固く、且つ其數が多くなると、あとから顯はれたまふ神々の立場は、勢ひ若干の變化を示さなければならなかつたのである。昔と後の世との可なり著しい相異は、延喜式の三千餘社を始めとし、古史に見えたる神の御名が、大半は所在の地名を稱へ、又はそれ/”\の意味をもつ言葉を以て呼ばれたまふに反して、今日は全國共通の著名の御社の名ばかりが多い。この中には戰亂流離の間に元の傳へを失ひ、もしくは便宜の爲に表向きの名稱だけを改めたといふものも有るやうだが、大抵は社記が殘つて居て勸請の年と、その神秘なる動機とを説いて居る。實際又神を奉じて(65)新たに移住して來た村も多かつたらうが、もしもこの御社の勸請以前から開かれて居た土地だとすれば、斯ういふ新たな神々の名などは、内に居て一つの御社だけに年頃仕へて居た者の想像には浮びさうも無い。一言でいふならば世上の知識である。必ず外側からそれを運び入れた者があるのである。さうして其機運はもう久しい前から動いて居た。
 古くは鹿島の王子神が、奧州の各地に出現なされたといふ記事は三代格に見えて居り、又その御社が後世までもあつた。京都の周圍に於ても、王子又は若宮の信仰を伴なふ大社は、すべて皆移動したまふ神であつた。今の解釋はどうなつて居るか知らぬが、是は神の御子の言葉によつて、御父神の神コを感じ知るといふ、一つの託宣方式が備はつて居たことを意味し、從うて多くの神人の是が爲に旅行して居たことを意味するかと思ふ。さういふ中でも八幡の若宮だけは、特にこの教理が發達して居たかと思はれて、恨み憤りを含んで世を去つた人の靈を、若宮として祭つて居るものが全國に多い。長くなるので詳しい話は出來ないが、是も神がゝりによつて大神の力を示された點が、他の多くの御社の若宮信仰と一致して居た故に、さうなつて來たのだらうと私は解して居る。
 とにかくにこの神々の新たなる出現は、地方にとつては非常に鮮かな又力強い印象であつた。祖先以來のところの神樣は、どちらかといふと受動的で、無事平穩の日の恆例の祭には、心の底からの感謝を捧げることも出來るが、一朝災厄に脅され又は憂患不安の絶えない時代に入ると、慰撫の力はあつても惑ひを釋くまでのはつきりとした御教へが無い。冷淡なる外部の者の目から見れば、是は神がゝりに任ずる者の能力と素養、もしくは用語の不足と形式化との致す所なのだが、物をさういふ風に考へないのが純朴なる昔の人の性であつた。神も亦その氣質を反映して、率直に他の神の威力を認め、或ひは禍害の今までの方法を以て、防ぎ難いものがあることを告げられて居る。乃ち託宣の樣式は此際に於て又大いに變化し、その機會もやゝ頻繁になつたかと思はれるのであるが、それが聽く人の心を動かす力に至つては、なほ遙かに新たなる來住者、即ち信仰に關する色々の知識を積み貯へ、自在に數多くの神の名を擧げて、其靈驗を積極的に述べ立て得る者には及ばなかつた。是が傳説の時代相、即ち後々持込まれたものゝ色彩に富(66)み、且つ幾分か文藝に近く、展開して行かうとした事情を説明するかと思ふ。旅の神人たちとても、最初は必ずしも技術として、神降しの道を學んだのでは無かつたらうが、彼等を感化した信仰の雰圍氣は特殊に濃かで、殆と練習と名づけてもよい程の經驗を重ねて居る。是が一處に定着して形式化してしまふまでは、始めての印象は花々しくも又感深いもので、到底素人の家に成長した臨時の神憑きの、肩を竝べることも出來ぬものであつた。其結果として、少なくとも諸國の名ある御社だけには、みこの家といふものが專屬し、神は必ずある定まつた女性を介して顯はれたまふことになつた。新舊大小の社毎に、祭祀の方式が著しくちがつて來て、古い形が寧ろ日蔭にまはつたのも、原因は是に在るやうに私などは想像して居る。勿論土地の信仰と調和しなければ、外から入つて來た者の定住し得る筈も無い。又在來の氏人の中から、家産を分たれて社家となつたものも多いことであらう。とにかくに今まで持傳へて居た家々の傳説が、正面から否認せられるやうなことは絶對に無かつたらうが、それが新たな解釋を添へられ、もしくはもつと複雜な物語の一部に編み込まれてしまつたといふことは有り得る。この雄大な同化作用は、實はもう千年も前から始まつて居た。それが色々と形をかへて、私領割據の時代にもなほ續いて居たことは、次々に擧げようと思ふ事例からもわかつて來るのである。さういふ變革を計算に入れないで、直ちに今ある傳説を以て上世信仰の倒映と見ることは、學問としては確かに不當であり、又危險である。警戒しなければならない。
 出來るだけ話を手短にしようとして、或ひは説き漏らした點があるかも知れぬ。こゝに是非とも附加へて置くべきことは、神降しの職能の發達した結果、第一には專業の巫女の隷屬して居る大きな御社と、他の從來の土地の住民が主になつて祭を營んで居るものと、信仰行爲の外貌に非常な差異を生じたことである。公けに知られて居るのは素より前者に限る故に、是が正規となつて後者の特徴は認められずに終り易い。たとへば古い靈感がなほ潜み流れ、たま/\此間から臨時の神憑きが顯はれて、人の心を捉へたとすると、作法が手筒《てづゝ》であり言ふことが粗朴に過ぎる爲に、折々は淫祀を以て目せられることもあつたのである。第二には一方專門の巫女の役目が、段々と形式化して行くこと(67)である。今まで知られなかつた神の名を顯はし、祈願の必ず驗ある幾つもの前例を説き示すといふことは、斯ういふ人たちのすぐれた能力であり、それが又御社との因縁を動かぬものにした理由でもあつたが、一旦その地位が固まつてしまふと、同じ奇瑞はさう度々はくり返すことが出來ない。新たなる示現に大きな效果があれば、信條は之によつて改まらなければならぬからである。それ故に基礎の確立した多くの御社の祭典には、湯立てとか笹ばたきとか、其他色々の託宣の外形はあつて、年の豐凶日の吉凶といふ以上に、耳を驚かすやうな意外な靈告はもう聽かれなくなつて居る。もとは稀にそれがあつたのでもあらうが、近世は殆と其跡を絶つて、舞やかたりごとは古い定まつた記憶の復習に止まり、それも追々に技藝としての獨自の發達を遂げることになつた。神と人との年久しい交通の一つの路、さうして又新たなる傳説の一つの泉は、却つていつと無く埋もれて行つたのである()。
  (註) 村の農家に生まれた娘たちの説く言葉は、どんなに強烈な信仰に裏付けられて居ても、単調であり又素朴であつた。是と色々の素養をもつた外來の巫女の、花やかで又整つた神語りとが比べられると、印象に大きな差等があつたことは明らかである。しかも之を信じようとした人の心は元のまゝだつたとすれば、古くからの傳説の消え薄れるのも止むを得ない。さうで無くとも新しい託宣は、前からあつたものを訂正する性質をもつて居たのである。
 
          一七
 
 傳説が少なくともその發生の地に於て、信ぜずには居られなかつたわけ、しかも歴史の知識の普及すると共に、?訝られ修正せられ、又は丸々否認せられなければならなかつたわけは、私だけは説明することが出來ると思つて居る。たゞその説明の仕方が拙な爲に、もしや合點せぬ人がありはしないかと危むばかりである。最も大きな今までの不審は、同じ傳説があんまり方々に有り過ぎるといふこと、是は二通りに解することが出來る。元來一つの民族だからそこでも爰でも、一つの事を信じたのは當り前である。それをたゞ歴史上の事實に引當て過ぎる故に、同じ人が數處に生まれ、數處で世を終つたといふやうな結果にもなるので、是は寧ろ後の修正が惡いのである。第二には或ひ(68)は同じ傳説の種をもつた者が、手分けをして諸國を歩きまはり、無意識に又は意識して、其種を行く先々に播いたかも知れない。この方は比較的後世のことである故に、尋ねて見れば其形跡は確かめられぬことも無い。仍て順序として先づその部分を説いて見ようと思ふ。
 もしも自分などの推測する如く、神がゝりが傳説の主流であつたとすれば、その方式の古今の差といふものは、必然に後者の形態に影響して居る。示現の言葉はいつの場合にもたけ高く力強く、日頃の物言ひとは異なつて居たであらうが、單に里人の中から或一人の童兒なり女房なりが、俄かに之を宜べ傳へる役に指定せられ、他の一同が集まつて承はるといふ際などに、さういかめしい辭句が用ゐられたらうとは思はれない。方言が既にあるならばそれも恐らくはまじつて居たであらう。ところが後世は之に關する特別の用語が、いつの間にか數多く出來て居る。さういふ中でも口寄せなどゝいふ者の言葉は、全國が大よそ同じで聽き馴れた人には解るが、他の多くの場合には通譯のやうな人が必要で、是が普通には問ひ手の役をも兼ねて、段々と重要な地位を占めることになつて居る。所謂司祭職の發達には、常人に企てられない作法の端嚴、もしくは物忌潔齋の徹底ぶりといふことも、確かに原因の一部ではあつたらうが、もとはそれよりも更に大きな條件として、この人々の仲介能力、即ち神の語を最も適切に且つ感銘深く解説し得る力が、重んぜられて居た。何れの宗教でも、一度はこの段階を經過せぬものは無いと思ふが、殊に日本には今なほ痕跡といふより以上のものを留めて居る。是が練修と瞑想により、乃至は學問の進みに伴なうて、次第に精密に又論理的になるといふことは、ちつとでも歎かはしい傾向ではないのだが、その暗々裡の影響を受けて、他の半面には神の直接の御言葉が、愈幽玄微妙のものになり、殆と獨立しては意味を取り難く、もしくは幾樣にも解し得られるやうな、餘りにも大まかなものになつてしまふことを免れなかつた。以前の臨時の依女《よりめ》因童《よりわらは》が、斯ういふ語り方をして居た氣づかひは無い。それでは多くの人が只あつけに取られて、信心の統一すらも望めなかつたらう。まして其印象を後の世の語り草に、斯うして數あまた留めることは出來なかつた筈である。神學の研究が盛んになつて、始めて(69)啓示が間遠《まどほ》になり又日蔭のものとなつたことは、よその宗教も異なる所はなかつた。たゞその中間の過渡期現象が、日本では今もまだはつきりと認められるだけである。
 出來ることならば是をやゝ詳しく、實例によつて説いて見たい。八丈島の八郎爲朝傳説は、その根據かと思はれる巫女の語りものが幸ひにして記録せられ、それが又栗田博士の古謠集にも轉載せられて、誰でもたやすく讀んで見ることが出來る(國文論纂一三四五頁以下)。今ある保元物語を假に眞實の記録と定めても、是は又それとさへ合致せぬ點が多いのである。第一には爲朝が狩野介の軍船に攻寄せられて、最後の花々しい矢いくさをしたといふ場所が、彼には明白に伊豆大島の館とあるに反して、此方は八丈島の屬島、小島といふのが其遺跡と傳へられて、そこにはいつの頃よりか爲朝大明神の神があつた。物語には九歳になりける嫡子島の冠者爲頼を喚びて刺殺し、其弟の五つになる男子、二つになる女子をば、母抱へて失せにければ力なしとあつて、是は大島での出來事であつたのに、八丈の方では爲頼の子次郎爲宗、後に僧となつて父の遺骸を改葬し、其地に寺を建てゝ子孫相續すといふのを、即ちその遁げ去つたといふ五歳の弟だらうと解して居たのは、地理を無視した亂暴な結論であつた。是とよく以た推論は琉球の方にもある。簡單にいふと、さういふ風に解釋したい人が先づあつて、啓示の重點は寧ろ次第に其方へ引寄せられたのである。巫女の言葉はいつの場合にも、さうはつきりとした意味は傳へて居ない。單にさうも取れぬことは無いといふ程度の茫漠としたものであつたのを、權能ある説明者が傍に在つて之を敷衍し、聽く人は之を合せ信ずることを得たのである。八丈島の神衆《かみしゆ》のかたりものは、この點に於てよい一つの例であつた。後には或ひはもう少し具體的なことを語つて居たかも知れぬが、記録に傳はつて居るものは實に思ひ切つてぼんやりして居る。試みに其一部を拔書きして見るが、之を讀んで見ても何の事を述べて居るのか、わからぬといふ人がきつと多いであらう。しかし少なくとも島近くで船戰があつたといふことゝ、靈が曾ては其事件の中心であつたことゝ、弓を射る人であつたことだけは窺はれる。聽く人々にはもうそれだけでもひし/\と、聯創の胸に迫るものがあつたのではないかと思はれる。
(70)   ………………………
   しげとう眞弓に弦かけて
   四こうの所物馳せめぐり
   こがねの花を尋ぬるが
   つつみが澤に見かけたれ
   大かりまたを引きかけて
   一寸ほれば掘り出さず
   二すんほれども掘り出さず
   三ずんほれども掘り出さず
   四寸五ぶんで見かけたり
   五分半寸でほりかけて
   五りやうの堀河おもしろな
   十や三ひろ掛けわたし
   大樋こう樋かけはし(わたし?)
   樋口そろ/\いでる水
   君がたのめとあるものを
   これもにやうのたらし水云々
 後段はその泉の水を田に引いて、米を作つたことを述べて居るのが、石清水の信仰などを思ひ合される。島は特に水の貴い、泉を大切にした土地である故に、是が感銘の深い昔からの語りごとだつたかとも想像せられる。とにかく(71)此部分まではまだ平和であるが、それからいよ/\船戰のことに及び、しかもその移行が尋常を絶して居る。
   四郷の百姓申すとて
   上臈五ぜんたて(で?)申出す
   十や三人と申しては
   おんのみたけと(申?)しては
   京の殿まで申し出す
   二ほ(日本)の殿えかもういけや(?)
   二ほのかたきの寄せ來れや
   千ぞう小舟を押し浮けて
   夜のま忍びてやさしやな
   山ほうしのびてやさしやな
   共にしくれてやさしやな
   水無き島え馳せつけて
   人見の石に腰かけて
   水にかられてこいかれて
   はたきりおれてはたきか(?)
   中のこしまの水とりて
   君がぞうふとあけちもの云々
と再び又水の事を語るやうであるが、最後にはなほ一度くりかへして、
(72)   二ほんのかたきの寄せ來れや
   からすべつとう寄せたるか
   君がへんじはかはらぬか
   君にへんじはかはらぬと
   二ほんのかたきの寄せくれや
   君がなびきにわれ參る
   さらばべつとうやさしやな
   さらばかいれよしやうこくえ
   ほうしがみ舟は一そうで
   二ほんのかたきは十二そう
   かたきの箭だね取りつくし
   君がいたけにか積みちむの
   おしろまいにか積みちもの
   山崎くれないさしひらき
   十二やそうはおもしろな
   十おふみそなえ召されたれ云々
と述べて、とにかくに寄手の兵船と、箭いくさをしたらしいことだけは我々にも感じられる。斯ういふ取留めない文句を援用するのも如何なものだが、是は過渡期のみこ言葉の珍しい型であつて、以前の突發的な靈託と異なる點は、人が記憶して居て何度でも同じ詞章を語り、後は次第に世の常の語りものとなつて行つたことで、しかも是にはまだ(73)最初の示現の方式を、些しも刪定せずに保存して居るのである。前に抄録した文段の中途に、
   さらば還れよしやうこくえ
とあるのも其一つだが、神靈は斯うして常に今や靈媒の身を去つて行かうとすることを告知する。恐らくは最後の教へだから注意して聽くやうにといふ意味だつたらうが、殆と形式化して今でもまだ梓巫《あづさみこ》の言ひ立ての中に殘つて居る。愈かたりごとが終りになると、それを一段と明らかにくり返すことは勿論で、八丈の例は必ずしも特異では無い。
   一夜のさくれかしやうの人たち
   七大(代)までも拍子《ひやうし》せよ
   遊び還るぞはが(我)ところへ
   人見の石にはが所へ
   象が鼻へはがところへ
   大澤つほ澤はがところへ
   すきかとのみは(?)にやが所へ
   もやのやしろやはが所へ
   ひろのちやうはいはが所へ
斯う謂つて靈の言葉は終るので、「我所」は即ち人の畏れて行かぬ靈地であつたかと思ふ。
 それから又一方には語りごとの始めに、
   はや乘りかはりや/\/\
   數の明神あかすゑて
   神しやうろうぞそれしだい
(74)   次第々々に入れそうな云々
といふ句があり、中間の變り目には、
   ほうほう/\七ほうてう、
   木の根ほうてうかなほうてう
   いそ根ほうてうかなほうてう
といふ樣な意味の取りにくい言葉がある。「乘り替り」とは多分一つの靈が去つて、第二の靈が來り依る時の合圖であつたらうが、後には單なる開始の語となつたことは、義太夫節などの最も不審な語り出しの文句、「入りにけり」や「押しあけ入りにけり」と同一系統のものであらう。たしかに作者のあつた近世の語りものにすら、なほ時折はこの無意識な殘留がある。まして或時代の奇異の靈告に驚嘆したものが、できるだけ其言葉を保存しようとしたのは當り前のことゝ思ふが、さて實際に殘つて居るものが、案外にまだ見つかつて居ない。一つには捜し方もたしかに足りなかつたらう。しかしこの業務に携はつた男女の、境涯と素養とにも激變があつて、古い樣式は棄てられた場合が多かつたのである。だからみこ言葉の變遷を大よそ見究めた上で無いと、信仰と傳説との關係は考へて見ることがやゝむつかしいのである。
 
          一八
 
 八丈島の八郎傳説が、始めて江戸の學者に認められたのは、今から百三十五年前の文化十三年、即ちこの悲壯な船戰があつたといふ日から、六百五十年ほども後の事であつた。自ら源爲朝の後裔なりといふ宗福寺の主僧が、病氣療養の爲に出府して、深川六間堀に住む弟の家に滯在して居た際に、之を診察して居た杉田公勤といふ御醫者が、其話を聽いたのが弘まつたといふことは、大田南畝の南畝莠言にも見え、又杉田氏同藩の伴信友が、中外經緯傳にも同じ(75)事を詳しく述べて居る。寺には勿論その以前から、爲朝を始祖とした系圖が出來て居た。二十年ほども前には境内から石槨が顯はれて、爲朝之臣鐵丸作といふ文字を彫つた硯が、紐鏡や磁器と共に出たといふ話も知られて居た。しかし文字が此島に利用せられ出したのは、實はさう古いことで無く、年代記にはたゞ天文頃からの事件が、ほんの少しばかり傳はつて居るだけである。其以前は單に口から耳への承繼で、それ故に又神靈に依られた女性の語りごとが、格段に耳を傾けしめたのであつた。聽けば忘れることの出來ない數々の印象が、此中には含まれて居て、必ずしも文句を暗誦しようとする風習は無くとも、自然に同じ語りが何度とも無くくり返されたことは、殊に新たな經驗の少ない島地では、他と比べて一層著しかつたことゝ思ふ。もとより異常心理に發した言葉であるが故に、次々と變化して來た部分はあるにしても、中には或ひは八郎爲朝の時代よりも前から、取傳へて居た文句も交つて居るかも知れぬのである。問題は寧ろさうした古來の語りごとの間から、どういふ風にして爲朝の傳説といふものを、導き出すことを得たかといふ點に在る。外部の人々の是までに注意して居たことは、島では八男を意味する八郎といふ語を、ハッチョゥに近く發音する。從うて今日八丈の文字を宛てゝ居る島の名も、もとは八郎が島と解せられて居たかも知れぬのである。次には御曹司といふ言葉、是が中世の二つの物語によつてひどく著名になり、後には爲朝義經兩名の專有物の如くにもなつたが、果して源氏の世盛りの頃から、之を若大將の意味に用ゐて居たかどうかは疑問である。以前の用法では曹司はつぼね、もしくは門長屋のやうな別房である。婚期に達した息子をそこに住まはせる故に、さういふ名の出來たことは後世の部屋住みといふ語も同じだが、それは何もこの二人に限つたことでは無い。非凡の英傑の弱冠の頃を、主題とした説話は我邦にもよく發達して居る。中でも桃太郎と最も近い「御曹司の島渡り」などは、いつの頃からか之を九郎判官の逸話の如く心得て、その餘りにも史傳と兩立し難いのを、歎息して居た人もあるが、それこそは餘計な心遣ひであつた。人が悉く物語を信じて居た時代から、それが文藝として鑑賞せられた最近世に至るまで、神に縁由をもち又は特別の恩寵を蒙つて、興り榮えたといふ家々の始祖は、多くは年少の日に於て奇瑞を現じ、(76)もしくは偉業を爲し遂げたことになつて居る。日本はそれ程にも若いといふことを重んじた國であつた。たゞ土地により又は場合によつて、その主人公を呼ぶとなへが區々であり、御伽草子の盛んに行はれた時代には、之を御曹司の名を以て語ることが、人望があつたといふに過ぎないのである。海路を遙かに隔てゝは居るが、是は人間の口言葉であるが故に、人が渡つて行くからには附いて行くことは不思議でない。乃ち八丈島の御曹司の言ひ傳へが、偶然に後の爲朝傳説の素地を、用意して居たといふことが想像せられるのである。
 そこで第二段に問題となるのは、島では現實にいつの頃から、源爲朝といふ勇將のあつたことを知つたらうか。もしくはこの語りごとを口にした巫女たちが、既にさういふ名を覺えて居たらうかどうかである。今でこそ日本外史などがあり又色々の繪本が出て居て、七八つの兒童でも爲朝を記憶して居る者が多いが、もとは普通の本としては保元物語に書いてあるだけであつた。それが八丈の島に持渡られたのが、さう早い世の事だとは思はれないのである。前に引用してある船戰の箇條、「にほんのかたきの寄せ來れや」といふ文句が、何か偶然の一致では無いやうに、ふと考へ付く人は多いかも知れぬが、是を狩野介が武藏相模の軍勢を催して、大島の館へ押寄せたことに、解するといふことが實はやゝ無理である。八丈の人たちは昔から、島を日本の内と考へて居る。對岸の國地から渡つて來る者を、日本の敵と呼ぼうとは思はれない。是は寧ろ日本の國に仇なすもの、即ち惡鬼魔障の類を、邊土であるだけに殊に警戒して、神に依つて禦ぎ守らうとしたものとも見られる。源平時代の確かな記録にも、裸で腰蓑を着けた黒い鬼が、伊豆の半島に上陸して人を殺した報告が載せられて居る。さういふ實驗を記憶して居たのでは無いまでも、旱魃その他の島の災害を國土の敵として、怖れもし又戰ひもしたことは有り得る。それだからすぐに此句に續けて、「君がなびきにわれ參る」と謂ひ、或ひは「君にへんじはかはらぬ」とも、にほんの殿に申し出でたとも謂つて居るので、意味ははつきりとしないが泉を掘つて田に注いだといふのも、もとは旱魃を邪靈のわざと見た、同じ一續きの對抗策のうちであつたかも知れない。とにかくに既に保元物語の内容を熟知して居た者ならば、たとへ夢幻の間にでも、よもや(77)斯ういふ風には爲朝の語を傳へなかつたらう。要するに解説が先づ大いに進んだのである。さうして代々の神衆《かみしゆ》の言葉が、それに引かれて少しづゝ動いて來たのである。他の府縣の多くの傳説にも、同じ傾向は一樣に現はれて居る。歴史がぐん/\と發達する學問であつた爲に、あまり早目に是に擁護せられた傳説は、妙な拔き差しのならぬ姿に固定してしまふだけで無く、時々はその注釋の不信用に捲添へを食つて、本來の價値をさへ疑はれることは、必ずしも八丈ばかりの不運なる例ではなかつた。
 しかも比較と客觀の困難な事情は、島地であるだけに幾分か多かつたとは言へるであらう。島の人たちの中世に關する知識が、ほんのもう少し精確の方へ近よつて居たら、寧ろ爲朝の傳説などは信ぜずにすんだかも知れぬのである。是を流人の輸入文化だと言ひ切ることは出來ないが、とにかくに直接保元物語を讀んで考へて見た人は幾らも無くて、たゞさういふ話が有るといふことを、聽き傳へて居た者だけは相應にあつたらしく、それが又巫女の語りごとの中にも痕を留めて居る。たとへば「八郎そうし」といふ名は、たゞ數多くの人の名の列記の中間に見えるのみで、果して爲朝のことをいふか否かも疑はれるが、その總員の數を「五十四きも皆參る」といひ、又は其あとに、
   五十四きは御三《みさ》ぶらい
   一のふなめにかみそうせ
   五へいかきたれそうせちか云々
ともあり、又他の一篇にも、
   五十四きがその中に
   まつさきかけるは忠次郎
   忠次郎一人もつならば
   六十六くにおししない
(78)   七つ島ばらおしゝない云々
ともある。流布本には「附從ふつはもの二十八騎ぞ具したりける」とあるが、鎌倉本と呼ばれる一異本には、其勢都合五十四騎とあるさうで、此點はよく一致し、たゞ何と無く言ひ出したのではないやうである。爲朝といふ名を明らかに示したところも、「御きみなのり」の歌詞の中に一箇所だけはある。しかも其敍述は精確を缺き、到底保元物語の文段を耳にしたことのある者の、思ひ浮べさうな空想では無いのである。煩はしいけれども神がゝりの光景を髣髴せしめる爲に、今少しばかり引用して見るならば、
     御きみなのり
   うき世/\は有りもしつ
   君が御さかりてこそ(?)
   うき世/\は皆參る
   おぢなふ(の)さうを名のろうか
   おぢなのそうは九ていどの
   ちゝの五(御)そうは十てうどの
   ためとも八郎どのとは我らがことにて
   さうぞうろうそな、ふりうたち
   おほのそたちはせいかわかとの
   はゝのみ大《だい》を名のろうか云々
 こゝでちょつと註を加へると、「ふりうたち」は風流たち即ち神踊の人數のことで、其中心に立つ巫女が斯ういふことを群の爲に説いたものらしく、「うき世/\」は爰では意味が無いが、是が尋常でない事を語り出す前提の言葉だつ(79)たと思はれる。それから又別な段に入るに當つては、早乘りかはりやといふ句があつた。「のりかはり」は即ち同じ人の口を假りて、新たなる靈がものいふことである。
   はや乘りかわりや/\
   數のみやう神あかすへて
   かみしやうろうそれし大
   しだい/\に入れそうな
   やはれ五りやうの生れおば
   六でうほりかわうまれなり
   つくし博多でそだつなり
   十五と申すにえぼし着て
   左の折りのえぼしきて
   宇佐へ參りはつそうし
   つくし博多御むらい(侍?)
   つくし博多と申しちに
   火取るたまも持たれちか
   水とる玉ももたれちか
   二ほ(日本)のとのおがしないちか
   京のとのおがしないちか
   ゆくさのじやうまでかけ入れて云々
(80)「五りやう」といふのは曾我物語にもあつて、其若大將の事だと解せられ、文中になは數多く用ゐられて居る。もとより靈に依られた者の言葉だから、文學として説明し得ないのは當然だが、如何にしてこの樣な沖の島に住む女性が、是だけの詞を唱へ得たかは問題になり得る。文字の技能はまだ惠まれて居なくとも、なほ是だけの地理と歴史の知識は、いつとも知れず海を渡つて居たのである。それが無かつたならばこの傳説は成長しなかつたらう。信ずると否とは又別の力である。
 
          一九
 
 八丈島の神衆は、夙く國地の語りものゝ影響を受けて、しかもまだ十分に讀書家の解釋に追隨し得なかつたに反して、沖繩本島の爲朝傳説は、その成立の事情が大分又是とちがつて居る。第一に世間がこの言ひ傳への存在を知つたのは、八丈などよりはずつと古く、島津氏の討入よりも前、慶長三年に成つたといふ中山世鑑に、可なり詳しく記録してあるのが始めである。さうして此書の筆者は明らかに保元物語をもう讀んで居る。伴信友以下の日本の學者がびつくりしたのは、爲朝が琉球に上陸したといふ宋の乾道元年が、ちやうど我邦の永萬元年、即ち白鷺の沖の方へ飛んで行くのを見て、海の彼方に島あることを察し、船を艤して大島を漕ぎ出でたといふ年に當ることだが、この一致こそ寧ろ保元物語に據つて居る證據で、少しも驚く必要などは無かつたのである。それよりもずつとをかしいのは、大島を今朝立つて次の日の午の刻に、着岸したといふ鬼ヶ島改め葦島を、沖繩のことだと言はれて承知した人たちの心持で、飛行機でも無ければそんなことは到底出來ず、又之を八丈に屬せしめたといふ本文の記事とも合はぬのであつた。是は中山世鑑の著者の政治的意圖で、日本で最も有力な武將の家々と、島の上代とを繋ぎ合せようとすれば、爲朝より他に可能性の多い人物は求められぬといふことを、知り拔くほどの學問があつたことを意味し、何か隱れた愛國の動機から、新たにさういふことを考へ出したものと、一應は認定せられても致し方が無いのである。しかしさう(81)いふことが果して出來るものかどうか、少なくとも或一人のすぐれた人の言つたことが、忽ち島の民の傳説となり得るものかどうかといふことが、我々の問題とならずには居らぬ。袋中大コの琉球神道記は、慶長十年の序文を添へて刊行せられて居るが、此書の成つたのは或ひは世鑑よりも古くはないかと言はれて居て、その中にも鎭西八郎爲伴此國に來り、逆賊を威して今鬼神《なきじん》より飛礫をなす。其石長さ人の形ばかりで、今も波上權現の地に留まると出て居る。文之和尚の南浦文集、日下部景衡の定西法師傳などは、何れもこの時代を去ること遠からぬ頃の著述であつて、共にこの勇將の渡來を認めて居る。それ等を悉く世鑑の記事に學んだものゝ如く、斷定することは少しく無理で、つまりは民間にも之を信じ説く者が既に多く、たま/\保元物語に據つてほゞ之を精確にしたのが、この島最初の史書であつたと見るのが、穩當なる解釋であらうも知れぬ。是とよく似た傳説の合理化ならば、今に至るまで國内ではくり返されて居る。書物に親しまない土地の住人は、もとは固有名詞は知らなかつた。知つて居ても忌名として口にはしなかつたらうが、實際に教へられても居なかつたやうである。何でも力の強い貴い御方がとか、特に弓箭の道にすぐれた若い大將が、あまたの臣下を引連れてとかいふやうに覺えて居り、島々では又それが對岸の大きな島から、突如として船を寄せたと説いたのも自然である。ぐつと年代を引下げ弘く史籍をあさるならば、陸續きの土地にはまだ數多くの偉人も物色し得られるが、島となると爲朝以外に心當りは無い。傳説を必ず歴史の片割れと見た以上は、そこへ持つて行くのは牽強附會とも言はれぬ。或ひは之を一つの發見とも思ひ、一方には又始めて名を教へてもらつて有難いと喜ぶ者も多く、それが新たなる普及となつたことは想像し得られるが、もと/\何の種も臺木も無くて、是だけの構想に成功する筈はないと同時に、之を日本の源爲朝だと知りながら、黙つて其時から四百何十年、誰かゞ記憶して居たとするのも自信の無さゝうな話だ。つまりは強ひて鎭西八郎だと解すれば解せられぬこともない言ひ傳へが、いつの頃よりか島には生まれて居て、それを確定したり年代を合せたりするだけが、學問ある人の功業であつたらしいのである。今日の眼から見れば功業とも言ひにくいが、とにかくに其時代の人は之を必要とし、又感謝して居たと(82)までは推察することが出來る。
 おもろ雙紙の第十四卷に、採録せられて居る次のやうな「おもろ」が、至つて幽かながらもこの間の消息を洩らして居る。どういふ折にであつたかはもうわからぬが、沖繩の祝女《のろくめ》はこの神歌を誦して、神の祭に御仕へ申して居た。
   ぜりかくののろの        (勢理客の祝女)
   あけしののろの         (右對句)
   あまぐれおろちへ        (急雨を降らしめて)
   よるいぬらちへ         (鎧を濡らして)
   うむてんつけて         (運天に船を寄せ)
   こみなとつけて         (小湊に船を寄せ)
   かつおうだけさがる       (嘉津宇嶽を下りに)
   あまぐれおろちへ        (急雨を降らしめて)
   よろいぬらちへ         (鎧を濡らして)
   やまとのいくさ         (大和の軍勢)
   やしろのいくさ         (右對句)
 各句の續き方は明確でないが、「おもろ」は皆斯ういふ形で、聽く人の既に持つ記憶を喚び起さうとして居る。是が日本から攻寄せた軍船が、ちやうど此島の北岸に上陸しようとした時に、雨が降つて甲冑が皆濡れた。それは近くの村の祝女たちが、?り招いた驟雨であつた、といふ意味であるらしいことは、大よそは我々にも想像が出來る。たゞ是を以て爲朝の運天港上陸を呪つた「おもろ」だと、伊波普猷君の釋かれたのは、やはり亦中山世鑑流と評するの他は無い。先づ一方の歴史化を承認した上でなければ、思ひ當るやうなふしは此中には見出せないからである。嘉津宇(83)嶽の雲が雨になつて、船から上らうとする武人の鎧が濡れて行く光景は、美しくも又珍しい繪樣にはちがひないが、それだけに遙か後の世になつてからの、幻想であつたことが考へられるので、時を精密に算へることを知らなかつた昔の人たちの、折角稀々に持傳へた史實の記憶をさへ、傳説にしてしまふ原因は是に發して居る。悠久なる過去の間には、驚くべき色々の大事件が起り得た。もしくは時を隔てゝ確かに是々の事件が曾て起つたと、萬人が共々に信じきるといふことも有り得た。この二つは何れも大切な我々の歴史なのだが、それを末代に保存する方法が、どれも是も完全でなかつたのである。文筆の記録法の遲く始まり、國の隅々までは行渡らず、しかも散佚紛亂の危險の多かつたことは、今ではもう誰でも知つて居るが、一方の所謂口頭傳承に於ても、世の變り目毎にさま/”\の難關を通らなければならなかつた。最初は恐らくあまりにも有名で、詳しく説くにも及ばぬといふ以上に、寧ろくだ/\しい敍述を嫌つたのであらうが、後には更に忘却を防ぐ爲に、その中の特に印象の深い部分のみを律語の形にして暗記するやうになつたかと思はれる()。是さへ聽けば忽ち事實の全部を、人は一樣に胸の中にゑがき出すことの出來るやうな、共同生活も久しく續いて居たのであらうが、一朝何等かの災厄が起つて、村が壞れ老幼は離散するやうなことがあれば、もうこの記憶の櫃と鍵とが別々の存在となつてしまつて、片方は早く消え薄れ、又は飛び散つてよその物に附き、他の片方は孤立して、何か又是にふさはしい解説を、見付けずには居られぬのである。のろの?りによつて雨が降つた、海を渡つて來たつはものゝ鎧が濡れたといふだけの、古い謠ひものは記録でも無く、證據では尚更無いのだが、その根源に於て人の作爲に成つたものでないことを知る故に、破片になつて後まで、なほ牢乎として之を信ずることが出來たのである。今から振囘つて見ればこそ、寧ろ贔屓の引倒しで、不幸な補修であつたと評し得るものはあらうが、是が時代の學問の全力であり、又多くは共に信ぜんとする者の誠意ある所業であつた。稀には二つ以上の推定が許されるのに、特に其中の聽くに快い方に就いたといふ場合もあらう。しかし島々の生活では解釋が限られて居る故に、其選擇さへも望めなかつたのである。
(84) 島の古い歴史は埋もれて居る。曾て大海を横ぎつて許多の文物を運び入れた船と人とが、確かにあつたといふだけは爭はれない痕跡を存して、住民も亦幽かに悠遠の昔を覺えて居る。必ずや一たび史書に名を勒した名士でなければならぬとなつて、もはや源氏の御曹司平家の公達より前には溯ることが出來ず、こゝを境にして向ふは鬼ヶ島の世となつてしまふのみならず、僅かな不條理の發見によつて、折角久しく傳はつた貴重な口碑までが、捲添へを食つて亡びて行くのである。傳説は決して其樣なものでないといふことを、先づ知らなければならぬのは島の人だと思ふ。もとは三十六島のうちであつた北隣の奄美大島にも、爲朝の渡つて來たといふ故跡がある。實久《さねく》三次郎といふ加計呂麻《かけろま》隨一の英雄が、島の娘に生まれた彼の遺子であるといひ、母と子の墓石が實久村に建つて居り、社の森を曹子山といふ。是から更に沖繩へ向ふ途中、喜界島にも沖永良部島にも、それ/”\落胤の家といふものがあると傳へられるが、どの程度にまで主張せられて居るかを知らぬ。とにかくに保元物語以外には文獻の證據は無く、物語では伊豆の島に還つて來て、五年の後には討死をすることになつて居るのだから、さう永らくの滯在は出來ない。それで或ひは十四から十八歳まで、九州に活躍して居た頃の出來事かといふ者もあるが、さうなると記録の根據は全く無いのである。たゞ伊豆大島からですら渡つて來た位だから、九州の方からならばもつと容易であつたやうに思はれるだけで、結局は却つて一方の不可能を、認めたことに歸するのである。平家の貴公子が壇ノ浦の敗後、波路を漂泊して諸處の島に上陸したといふ想像は、人の數も多く期間も限りが無い故に、各地の口碑と妥協する餘裕は遙かに多いわけで、實際又十島の黒鳥硫黄島以南、遠くは與那國《よなぐに》の島にまで八島墓は分布して居るが、それとてもやゝ漠然と、名は傳はらぬが誰か公達の一人がと、謂つて居る間だけは互ひに相呼應して、爰ばかりでさう傳へて居るのでは無いといふことが出來た。一朝「八島の記」とか「平家之落人喜界島到着の由來」とかいふ類の、具體的なる記録が成立してしまふと、三方四方牴觸をせずには居ない。一つを認めることは忽ち他のすべての島々の、命に懸けて守つて居るものを否認することになり、今はひたすらに對決を囘避して、各自の誇りを擁護しなければならぬやうな、氣の毒な結果を見るの(85)である。さういふ人たちを餘りに多く我々は知つて居る。だからたゞ總括的に、もう一度考へて見てもよい點だけを擧げて置くのだが、南島沿革史論などに出て居る例を見渡しても、島に上陸したといふ平家の大將は、資盛・有盛・行盛の三人にほゞきまつて居り、或ひは又之を盛の三神と呼んで居る處もある。喜界島の祝女《のろくめ》たちの、二月八月の七日の祭を、平行盛卿の祭典だと思つて居たのは、次のやうな歌を唱へて居た爲であるらしい。
   行《ゆき》の盛《もり》、ゆきのたけ
   あを仁屋、上さすかき
   めよこの明川
   島が上、國が大城
   盛《もり》よい三神よい
   男瀬名の新造王殿
   やわれしのくら
   二俣大膳、友野光成
   人主くぬき丸
   あまの君、大美田
   こは盛の三神
   あらよすか王殿………
 はつきりとした意味はもう唱へる人自身にもわかるまいが、是と似よつた歌は記憶なり記録なりに、まだ方々に殘つて居る筈である。それを比べ合せたら元の意味は採れると思ふ。モリは南島の語でタケと同じく、神の靈地を意味し又神の御名でもあつた。一方には又身分ある人の實名を、呼び棄てにするといふことは有り得べからざることであ(86)り、靈として祀らるゝ場合はなほ更である。人の名の中間に「の」を入れるといふことも亦想像し得られない。しかも近代の平家物語普及につれて、是がさうした歴史上の人物を聯想させたことは發見であり、又絶大の感動でもあつたらうが、實は源平の合戰などよりもずつと前から、島ではさういふ名の杜を拜んで居た信仰の、忠實なる繼續であつたかも知れぬのである。意味が判らぬからとて替へも忘れもしなかつただけは、文字の無い「のろくめ」たちの大きな手柄であつた。
  (註) 土地に古くからあつた傳説は、もと/\成長した住民の全部が知つて居り、若い者のすぐに學び得るものであつた故に、その語り方はすべて簡明で、たゞ其要點の二三句を感動の深い言葉で述べただけで、復習の目的は達し得たに對して、新たに外から入つて來たかたりものは、始め終りを詳しく敍述するのが普通であつたらう。この新舊の著しき差があつた爲に、古いものは愈々忘れられやすく、新しいものは愈々文藝化しやすかつたものと私などは考へて居る。
 
          二〇
 
 島の歌謠が外部の影響を受けることが尠なく、新たに附け添へられる材料が限られて居た爲に、自然に古い姿を保存し得たかと思はれる點が、自分の特に考察を此方面に片よらせた動機であつた。目に見えぬ交通は絶無でなかつたらうが、少なくとも其中に一つ、海によつて隔離せられて居たものは女の旅行であつて、是が又歌やかたりものゝ成育と、濃い因縁を結んで居たのである。家々の母や妻娘が土に繋がれて、異郷を知る者はたゞ僅かの例外であつたことは、本州もその隣の島も一樣なのだが、茲には我々の歴史が示して居る如く、昔を語り信仰を勸めつゝ、旅をして歩く若干の女性が居て、それが數々の新しいものを運んでくれた。之に反して荒海の向ふに起伏する小さな島々だけでは、彼等の往來は殆と望み難かつたと見えて、此方面には共通のものが至つて少ない。從つて又斯んな別れ/\の  状態の下に、もしも何等かの兩方の一致が見出されるとすれば、それは大きな文化史上の事實だといふことにもなるのである。
(87) さういふ中でも八丈島の方は、沖繩に比べるとまだ幾分か近より易かつた。島の女が國地に渡つて來て、再び島に戻つたといふ樣な話は少なかつたが、江戸期の初頭には京都の上臈が、罪あつてこゝに配謫せられて居た例もあり、其後も引續いて遊女の島に流された者が、數多く流人帳の中には見えて居る。どうして遊女を斯んな島まで流すことにしたかの理由は知り難いが、是も或ひは船の旅を、何とも思はぬ彼等であつた故に、思ひ切つて遠くへ放したのかも知れぬ。少なくとも前にもさういふ例があつた爲かと察せられる。島の女たちの歌の曲の中に、僅かばかりの外部文藝の浸潤があつたとしても不思議は無く、それが琉球の群島の方では、全然と言つてもよい程に想像し得られぬことであつた。素より程度の差ではあるが、其結果は二つの島の、爲朝傳説の上にも現はれて居るやうに私には感じられる。再び保元物語を説明の具に供するが、此種の文藝の起りを考へた人ならば、誰でも認めずには居られぬやうに、是には空で覺え口で語り又は舞ふ者と、文字に書いたものを目で讀む者と、二通りの利用者が最初から有つて、多分は前者の方が數多く、又は主たる者であつたのである。平家物語は百人の爲に書いて與へたと言はれて居て、是がよくわかるが、遊行の女婦とても實際は文盲であつたらう。職人盡の類には繪があるが、見臺を前にすゑて居る者などは無い。女義太夫なども體裁に本は置くだけで、讀まねば語れぬといふ程に未熟な者は商賣はして居ない。このそらよみ(暗誦)といふ第一種の利用法が、沖繩の島には未だ渡らず、八丈の島には片端は渡つて居たらしい形跡がある。同じ一つの爲朝傳説の歴史化が、一方は民間平俗の雜説に起り、他の一方のみは堂々たる一流政治家の筆を煩はして、漸く固定した理由も茲に在るかと思はれる。
 この語りものゝ運搬といふことは、近世は一般に男子の職業となり、且つ其樣式もずつと複雜になつて、傳説との縁は絶えかゝつて居る。二つの島群のやゝ古風な例を比べて見ないと、心づかずに過ぎる處も無しとせぬが、實は是には可なり有力な暗示が含まれて居るのである。我々の今まで解き惱んだ難問題は、傳説はもとこれ/\の事件が、昔この土地に起つたことがあるといふ確信であつて、其點からいへば一種の歴史であり、それが歴史化しようとする(88)のは少なくともその自然の性質である。然るに其結果は個々の土地の人の期待に背いて、比較を進めると兩立は愈困難となり、歴史の知識の正確になると共に、追々に影が薄くなつて行くものばかり多いのは何故であらうか。もつと具體的に言へば、たゞ一囘しか有り得べからざる過去の事實が、そこでも爰でも出現したやうに傳へられ、末は互ひに贋物呼はりをしなければならぬ?態に、陥つてしまつたのはどうしたわけだらうか。是は差迫つた史學の一課題であつて、しかも誰かゞ作り事をしたとか、そつと他處から持つて來たとかいふ類の、面と向つては言へない樣な答を、持つて居る人ばかりが多いのである。もつと明朗な説明が私には出來るやうに思ふ。是は今日の所謂歴史化が試みられるよりも前に、既に傳説の文藝化とも名づくべきものが始まつて居たのである。さうして本來は神の啓示を仲介する役であつた人たちの旅行が、急激にこの變化を促したのである。同じ傾向はよその國にもあつたかも知れぬが、日本では是が大きな特色であつた。だから傳説ばかりは外國の學者の言ふことを、受賣してはだめなのである。
 是も離れ島の實例を以て説明して見たい。伊豆の三宅島には三宅記といふ名で、土地の神々の御來歴を述べた古い記録が傳はつて居て、是は此方面の學者に非常に重んぜられて居るが、別にその以外に今一つ、此島の大明神の縁起といふものを見たことがある。現在も島の人々が記憶して居るかどうかを確かめて見たいと思つて居るが、この方は明らかに流布の物語であつた。伊豫國の長者橘の清正、最愛の一人子を鷲にさらはれて、物狂ひのやうになつて諸國を尋ねまはり、終にこの島に來て親子の再會をする。後に神と現じて爰に祀られるといふ筋の、荒唐無稽を極めたものであつたが、物語が旅をしてあるく證據として、自分には大きな興味がある。人も知る如く此話は靈異記にも今昔物語にも見え、又水鏡にも古い代の史實として傳へたのみならず、奈良の東大寺の良辨僧正の生ひ立ちの記として、物に誌されたのも近頃が始めでは無い。つまりは最も人望の多い民間文藝の趣向の一つだつたのである。三宅島にあつた形と特に近いものは、「みしま」といふ題で奈良繪本に板行せられて居る。記述が至つて詳しいだけで人の名までが相同じく、たゞ結末が伊豫の大三島の御本地となり、翁嫗二人の親が立身した我子に廻り逢ふ以前に、辛苦艱難を(89)した思ひ出として、拜殿には柱を立てず、神供の米には摺臼を用ゐない。又鷲が兒を引掛けて行つた樹であを故に、枇杷の木を大事にせよといふ類の、注意すべき二三の由緒談を語り添へた點だけがちがつて居る。伊豆と伊豫との文化關係を説かうとする人には、是は一つの好い資料と思ふが、それはとにかくに此話が、一旦伊豫の三島を通つて、伊豆の島に來たことのみは爭はれない()。しかも斯うした御伽ものゝ形を取る以前、話はもう散々諸國をあるきまはつて居たのである。良辨僧正の言ひ傳へは、奈良の本元の杉の老樹をはじめに、山城の南の方にも相州の大山山麓の村にも、鷲に攫まれた現場といふ處があり、地誌には之を載せ住民は信じて居る他に、加賀の江沼郡にも其話がある。單に或一人の名僧がといふだけならば、西は九州の島原半島に一つ、中部では駿河の話として甲州の側に一つ、北は岩手縣にも亦一つあつて、共にそれ/”\の昔話集に採録せられて居る。捜したらまだ/\出て來ることだらうが、何れにしてもそれは各一囘の應用に過ぎず、元の形は又別のものであつたことは、二つの中世の記録からでも察せられる上に、現に千葉縣の東海岸などには、母が悲しみの餘りに郭公といふ烏になつた昔話ともなつて居るのである。話の要點は奇拔なる災厄、之に直面した者の極度の感動、もしくは九死に一生を得た奇蹟といふやうな點に在つて、赤子の發達などは第二次の空想であつたことが想像し得られる。最初或一人の實際の遭遇に基くか、はた又夢幻の所得であつたかは究め難いとしても、どうしてこのたつた一度有つても不思議といふ事件が、斯くまで弘く久しく傳はり且つ移つたかといふことは問題にしなければならぬ。是を旅する女性の運搬だといふことは、勿論斷定のしにくいことだが、さう思つてもよい幾つかの手掛りのやうなものは有るのである。奧州の遠野地方では、鷲に兒を取られた母の名といふのが、長須田の「まんこ」として知られて居る。聽耳草紙の採録する所によれば、この土地には今でもまんこ屋敷といふ家の跡が山中に在つて、川戸の石積みも坪庭の區劃も殘つて居り、又その尾根續きを地獄山と謂つて、塚と古木の松とがある。まんこは鷲に子をさらはれた丁度十三年目の其日に、爰に來て我子に再會したと語り傳へられるが、しかもその地獄山といふ地は爰だけで無く、此邊一帶にはそちこちにあつて、中部地方でよくいふ「さへの(90)川原」に該當する。愛兒を失つた悲しみの母が詣る處であり、又松の木に耳を當てると地獄で子供の泣く聲が聽えるとも謂つて居た。さういふ事から考へると、「まんこ」はもと或ひは童子の靈の口を寄せた巫女の名であつたのかも知れぬ。姥ヶ井・姥ヶ池の傳説といふのは、主人の子を誤まつて水に墮し、自分も悲しんで身を投げたといふ話になつて居るのだが、其女の名にもあまんといふ名が多い。信州の南山で疫病神を送るのに、藁で男女の人形を作り、こゝでは是を關のおまんと呼んで居た。昔關城が落ちた時に、城主の奧方が若君を連れて、遁げて行かうとして途で殺された。その怨靈を慰める爲と説明せられて居る。即ち何れも皆小兒を中心とした哀話の、ワキの役をする女性の名が「まん」なので、偶然の一致ではあるまいと思ふ。以前尋常の女が名を呼ばれる場合は少なく、其名の限られて居て且つそれ/”\に意味があつたことも考へて見なければならぬ。曾我の十郎五郎の母の名がまんこうであつたことも、江戸人はよく知つて居たが、それはまだ曾我物語の中にも出て居ないことなのである。そのまんこうが四國の果までも旅をして傳説を殘して居るので、多分はその古曲を語る女の名であつたと私などは想像して居るのである。諸國の靈山の開基といふ異人に、滿行《まんこう》といふ名が傳へられて居る例の多いのも、事によると同じ原因かも知れぬ。ウバとかアッパとかウマアイとかの如く、最初はたゞ目上の婦人を呼ぶ敬稱であつたのが、次第に語音を固定してこの階級の婦人だけを、包括する通稱となつたものとも見られる。是は將來集まつて來る資料が、自然に裁決してくれると思ふから必ずしも強く主張はせぬが、たゞ少なくとも七八百年の間、鷲に子をさらはれたといふ昔語りが、たゞ僅かづゝ形をかへただけで、弘く國内を周遊して居たことゝ、それが時あつて海を渡り、伊豆の三宅くらゐな島までは分布して居たのは、たとへ今日ではまだ理由を説明し得る者が無くとも、何か隱れたる力の系統立つたものが、あつたからだといふことは認めずばなるまい。私の考へて見ようとして居るのは此點である。
  (註) 「みしま」は室町時代物語集第一の卷に出て居る。是も獨立した新作品では無く、安居院の神道集にも既に三島大明神の本地として、内容のほゞ同じいものが出て居る。この二つの文獻の注意すべき差異は、古くて且つ詳しい神道集の方の記事(91)に、却つて此神が伊豆國へ御移りなされたことを説き、鷲も武藏の大田圧に神として祀られて居るといふことを述べて居る。即ち此傳説は少なくとも旅行をして居るのである。
 
          二一
 
 國の端々に今でも殘つて居る生活の中から、以前の世の姿を探るといふことは、一年増しにむつかしくなつて來るが、それも我々の注意次第、又方法も色々あつて、必ずしも絶對に不可能なことではない。たとへば「あるきみこ」といふ言葉は近頃まであつて、巫女のよく旅行する者であることは誰でも知つて居た。或ひは又「雇はれみこ」といふ者が、毎年定まつて祭禮の日に、よそから遣つて來る地方もそちこちにある。名だゝる御社には何代と無く、世襲して居る男女の神職の家があつて、それが既に衰へたり轉業したりして居るのに、一方にはずつと昔から、村人ばかりで神樣に御仕へ申し、たゞ大祭の日だけに專門の業者を聘するといふ慣例を續け、又はそれをさへ丸々頼まぬ御社もあつて、この方が數に於ては遙かに多いのである。斯ういふ幾つもの段階が、最初から竝び存して居たらうと見る者は無いのみならず、どれが早くどれが後に改まつたかの順序に至つても、比べて見れば迷ふほどの問題ではない。
たゞ今まではさうは思つて居ない家があつたのと、一般には無關心な人が多かつた爲に、書かれぬ歴史が埋もれて居ただけである。歩行巫《あるきみこ》の方も警察の取締が嚴しくなり、又質の惡いのばかり殘つて、此頃は零落の底に沈んで居るが、是は老人の記憶がまだ鮮明である。大體に移動の區域の廣さによつて、可なり際だつて二種に分れて居た。單に一社に專屬して居ないといふのみで、何村の某女といふことが判つて居て呼びに行く者と、物腰言葉に訛りがあつて、遠くから來たことがよく察せられ、しかも國處を名のらぬ者とがあり、それも少しづゝは大都の附近などに定住しようとして居る。彼等の郷里といふものが元は全國に亙つて數多く、記録以外にも其痕跡は指ざし得られるが、あまり長くなるから其話は別にする。其中で一つだけ、最も弘く知られて居るものは信濃巫《しなのみこ》、この名を最近まで使つて居たの(92)は、却つて信州から遠い京阪地方である。縣巫《あがたみこ》もしくは「あがたさん」と謂ふのも、名の起りは同處と私などは心得て居る。諏訪の御社では、其信徒の住む區域をもとの神領と稱して、近世まで是を縣《あがた》と呼び、その縣の一つは郡の名になつても居る。さうして信濃巫の故郷はその小縣《ちひさがた》郡の禰津《ねづ》といふ村のうちだつたのである。そこには旅をして居た女たちの家はまだあつて、其職だけはもう殘らず罷めて居る。是では生計が立たぬといふのが一つの理由、第二には他にも似合ひの仕事が幾らも出來たからで、是は恐らく他の地方も、又昔の世にも共通な理由だつたらうと思ふ。
 但し以前の轉業の道は、よほど又今とは變つて居た。概括していふと同業の數が多くなつて、少しづゝ新手を出さぬと競爭に堪へぬので、段々と似寄りの仕事の範圍を擴げて行つたやうである。その一例として偶然に文獻のやゝ傳はつて居るのは歌比丘尼《うたびくに》、是などは先づ名をかへたので別のものゝやうになつて居るが、最初は熊野から出て神々の本縁を説いて居たものが、次第に後生の道を繪解きして姥後家女房を泣かせ、いつと無く佛法を利用するやうになつたといふが、それでも村に還れば家庭もあり、夫《をつと》は山伏だつたといふ説もあつて、ともかくも比丘尼ではなかつた。それが街道の辻に立つて歌をうたひ、後は大都の中にまぎれ込んで、はかない商賣をした末輩もあつたといふことは、隨筆文學が面白づくに喋々して居る。起原は決してそんな事を、目途にして居なかつただけは證明し得られる。一つには勿論供給過多の爲だらうが、旅が餘りに長くて本社との縁が薄れると、先づ信仰の共同といふことがこはれて、個人々々の感情を相手にする結果を見るのは已むを得ない。諏訪の縣の縣巫なども、曾ては主神の根原と奇瑞とを、宣傳するのが役であつたことは、諸國の靈山から出た女たちも同じだつたやうで、その語り物もまだそつくりと殘つて居るのだが、近世はもう之を語つて旅をする者も無くなつた。主たる收入の種は死靈の口寄せで、新たに近親を喪うた者が、哀慕の餘りに今一度逢つて話をして見たいといふ願ひから、依頼するやうな場合ばかりが多くなつて居る。市子《いちこ》又は市女《いちぢよ》といふ言葉も、以前は神社の祭に仕へる婦人の名であつたものが、後にはこの口寄せを專業とする旅の女に限るやうになつた。梓巫《あづさみこ》とか「大弓もり子」とかいふ一種の者は、弓の形をした物を手に持つのが特徴で、是だ(93)けは最初から祭と縁が無かつた樣にも想像せられて居るが、なほ其詞を聽くと先づさま/”\の神の名を唱へ、且つ生口《いきくち》か死口か、もしくは如何なる神靈を降さうとするかを尋ねる。時としては聽く人の方にも心當りは無く、單に一身の憂ひがあり不安がある故に、何が彼女に託して物を言ふかを、たゞ漠然と試みようとした者も多いのである。一處に安住し又は一つの堂宮の靈驗を宣傳する者とはちがつて、態度も自由であり從つて又長處も或部分に偏し易かつたが、なほ其方式だけには幾つもの共通があつて、たとへば口寄せがまだ半醒半睡の間に、自己と聽衆とに暗示を與へる爲に唱へる詞などは、形もほゞ定まつて居り、又技藝としての傳習があつた。この序曲ともいふべき文句の、特によく發逢したものが日本では語りものとなり、重きを後段の靈の言葉を傳へる點に置いて、前者の單調に陷るのを省みなかつたものが、所謂「いちこ」の口寄せとなつたものかと自分たちは想像して居る。都市とその周邊の地に於ては、近世はこの二つが全く分立して居る故に、或ひは餘りに大膽なる臆測と評せられるかも知らぬが、東北のイタコなどではまだ兩者接近の例が見られるのみならず()、我邦には幸ひに本地《ほんぢ》ものと稱する珍しい形の文藝が多く傳はつて居て、この分裂の順序を跡づけさせてくれる。前に引用した伊豫の「みしま」、又は信州の甲賀三郎などにも是が見られるが、神はその御由來を説くことを悦びたまひ、それを聽いて感動する者の祈願を納受せられるといふ考へが、自他の間に普及して居たのである。それが佛法の經文の影響であつたか、はた又獨立偶合のものかはまだきめられないが、とにかくに以前の示現が突發であり、託宣が臨時であり、託女が豫め定まつて居なかつた時代には、斯ういふ章句は固定する機會がなかつた筈である。たとへ過去の奇蹟によつて萬人が印象づけられ、祭のたび毎に其記憶を新たにしたとても、之を詞章に綴つて聲高々と唱へるだけの、用意は何人にも無かつたらうと思ふ。如何なる無事平和の年にも必ず神語を宣べ、しかもそれに參與すべき職掌が備はるに及んで、自然に禮讃の辭は具體化して、かたりごとゝなり且つ舞とならざるを得なかつたのである。猿女君《さるめのきみ》氏の累代の女性が、移つて次々の都の御式に御仕へ申して居た由緒も是かと思はれる。諸國の微々たる門黨の内の神にまで、是が行渡るには年處を要したのである。他郷(94)で練修をした女の宗教家が、田舍の隅々を經廻るやうになつた頃には、もう色々の外部の影響が、之をやゝ別樣に彩色せずには居なかつたのである。
 一言を以て説くならば、傳説の異常なる統一といふことが、この結果として現はれたのである。萬を數へる全國大小の靈場に、隈なく分布して居る傳説ではあるが、よく見ると其種類は意外に限られて居る。獨り方向の一致だけならば、是は固有信仰の爭はれぬ姿とも言ひ得るが、問題にしてよいのは文藝なら趣向に該當するもの、即ち或珍しい出來事の組合せ、それも原因と結果だけで無く、細かな變化と其順序までに、それは私の方のだと言はなければならぬものが、海山を隔てゝ何箇處にも竝び存するのである。どこかに元起つた場所があるにしても、他のすべては運ばれたに相違ないのである。單に旅から持つて來たといふだけなら、昔話にはなつても傳説として信ぜられて居るわけが無い。乃ちその旅人が人を信ぜしめる力ある者であつた證據かと思ふ。「和泉式部の足袋」といふ話が、北九州にもあれば三河にもあり、藥師如來と歌問答をして、瘡の病を治したといふ奇瑞が東西の十敷箇處にある。是は鳳來寺の峯の藥師の山下に、一群の歌比丘尼が據つて居た名殘であらうといふことは「桃太郎の誕生」といふ本で既に述べた。それよりももつと早くから著名であつたのは、阿曾沼の鴛鴦が夢に來て歌を詠んだ話である。是は勇猛の武夫を菩提の道に誘うたといふので、もう神社の本據とは離れて居るが、たゞの話としても相應に美しく、妹背の戀の悲しみは何人にも理解せられるものであつた故に、如何なる山里へ持つて來ても所謂受けたのである。さうして是をたゞ假設の物語とはせずに、此沼此御堂の昔に曾て有つたことゝ、信じて傳へさせたのは語り方の技術であつた。歌が必ず之に伴なひ、それが又必ず、
   日暮るればさそひしものを○沼の
   まこも隱れの一人寢ぞうき
であつたのも、根源の一つであつたことを思はしめるのみならず、同時に此物語の結構せられた時代をさへ推量せし(95)める。水利土木の難事業を完成する爲に、水の神に犠牲を奉るといふことになつて、偶然に最初その案を提言した者が、選ばれて人柱として水底に沈められたといふなども一奇譚である。單にむかし津の國の長柄《ながら》の橋に於てとか、もしくは入道淨海が兵庫の築島《つきしま》を作つた時にとか、いふ風に語つても聽く人は感動したであらうに、今日傳はつて居るものは大半はその各の土地での出來事であつた。袴に横繼ぎのあるものとか、襟に黄金の縫ひこめてあるのを氣付かずに、水に投げ入れたので我衣だけが沈み、それで人柱に立つことにきまつたとか、小さな趣向は區々になつて居るが、それとてもたつた一つしか例の無いといふものは無い。其中でも數の多いのは母と子と二人の旅人が、其場へ來合せて人柱を勸め、そんなら誰彼と詮議をしても決し難い。いつそお前さんたちを頼まうといふことになつて、即座に二人を水に沈めたと傳ふる女堤《をんなづゝみ》といふ類の傳説でも、東日本には其時背の子が食べかけて居たからと謂つて、今に片割れしどめだの片側の梅だのゝ、實のると評判せられる植物があり、九州には又豐後の山國川のやうにお鶴と小市との母と子の靈を、水のほとりに祀つた祠さへあつて、是が上代の水の神の信仰と、幽かな縁を引いて居ることが窺はれる。單に或一人の自在なる空想から、發明せられた文藝では無くて、しかも之を潤色し敷衍して、新しい印象を與へようとして居たことは、是も數あまたの後代の小説に、借り用ゐられて居る雉子の歌、雉子も鳴かずば打たれざらましといふ下手な文句を、その人柱に立つた人の娘が、歌に詠じたといふなどがよい例である。一種才慧しくして書物は多く讀まぬ女性が、この改作には參加して居たことゝ、それがちやうど又或時代の地方の聽衆に、偉大な效果を與へて居たことだけは、認めないわけには行くまいと思ふ。
  (註) イタコは東北の數縣のみに居る盲目の口寄せ巫で、兼て占ひや神祭をする。オシラサマといふ木の人形を舞はしてかたる物語があることは、遠からず別に述べて見ようと思つて居る。中世イタカと稱して居た一種の漂泊民と關係があるかとも思はれるが、アイヌ語にも「かたる」を意味するイタクといふ動詞がある。人類學雜誌第二九卷六號以下參照。
 
(96)          二二
 
 更に適切なる一つの例としては、白米城の傳説といふのがある。是も今一度精しく述べて見たい計畫をもつて居るので、こゝにはたゞ荒筋だけを述べると、或山の上の城砦が水攻めにあふ。城中では水の乏しいことを隱す爲に、馬を崖の端に牽き出して白米を以て脚を洗ふ眞似をして見せた。遠くから之を望んだ寄せ手は欺かれて、水攻めは無益と一旦引揚げて還らうとしたが、たま/\鳥類犬などの擧動によつて謀計が暴露し、又は老女が告げ口をした爲に實際が判つて、終に落城して滅びたといふ類の話である。伊勢の松坂に近い阿坂《あさか》といふ城跡が、參宮街道から見える爲に夙く有名になり、二三他の地に在るものは移植であらうと言はれて居た。そんな筈が無いと思つて氣を付けて居るうちに、自分が集積した資料は全國の二十數府縣に亙り、其數も今や七十に近くなつた。土地では悉く之を歴史上の事實と信じて居るので、交通の十分で無かつた時代に、城の大將のみがどうかして此策略を知り、しかも之を試みて皆失敗したものと見る人もあるのである。それには地形が第一にこの推測を支持した。確かに一度は城であつて、水には成程困つたらうと思ふ場所である上に、稀には山の中から燒米が出て來たり、又は米の化石とも見られる樣な白砂の敷き滿ちて居る處もある。それよりも大きな力は先祖以來、少數にもせよさう信じて傳へて居るのに、それを作り事だといふことは氣の弱い者には出來ない。是をどう説明すれば歴史になるのかといふことは、傳説を研究する者のよい課題であつた。私の意見は無論假定である。もつと適切な答の出るのを待つだけであるが、以前亂後の荒涼たる田舍に於て、人が寂莫と不安とに堪へず、しば/\奇恠と現實の苦難とに襲はれて、其理由を知るに惱んで居た場合、隱れた物を視る力があるといふ旅人が、訪れて來たとしたらどうであらう。さうして此人が既に多年の修行を積んで、之に應ずる樣な若干の語りの樣式を貯へ持つて居たとしたら、或ひは斯ういふ結果にはなりはしなかつたか。傳説の文藝化は勿論雙方平等には起らないのみならず、同じ一人の昔を語る旅の女にも、眞實と作爲との區別は、必(97)ずしもさう明瞭では無かつたのである。第一には語りごとは多くは覺えたもので、各自の考案が通例は加はつて居ない。第二には是は自分にも有り得べしと思ふ説明であつて、人が語つたならば信じたかも知れぬものであり、更に第三には自己も亦恍惚の境に居て説くのである。最初一つの虚誕を作り設けて、それを到る處に播いて歩くのとは、よほど又事情がちがつて居る。勿論時代と共に技巧は進み、猾智は加はつて來たといふことは出來る。死人の口寄せをする「みこさん」などの言葉を聽いて居ても、師匠の傳授といふものゝ有力であつたことがわかる。最初にはたゞ生口か死口かを尋ね、次にはたゞ死んだ日などを知るだけで、男か女かをさへ問はぬのを通例とする。それで序品には漠然と、死出の山三途の川の一人旅の心細さやあぢきなさを説いて居るうちに、次第にすゝり泣きや一人言が始まつて來るのである。それに注意して居れば喚ばれる死靈は親か子か、又はどの人の連合ひであつたかゞ判つて來る。是までは醒めた時の仕事だが、愈若い娘だ老いたる祖父だときまると、それから言ふことは段々と效果を生じ、膝を乘出してかきくどく者さへ現はれるので、後には自分も亦暗示を受けて、終に夢中になつて死者の爲に語ることが出來れば、よく當つたなどゝ言つて聽く人も感激するのである。それを信じない者は一人も有り得ない。さうして近世は專ら肉親の靈を問ふことになつたが、以前は誰とも知らぬ人をも、招いて語らしめることがあつたので、白米城の場合には多分城主の靈が之を告げたのであらう。其言を信ずると否とは、靈の存在を認めるか否かに歸着する。たま/\其説話に類型があるといふことは、之を傳へる職業に系統のあつたことを意味するだけで、騙しに來たのでないことは昔も今も同じだと思ふ。
 傳説が個々の社會の閲歴に伴なうて、それ/”\特異の成長ぶりを示すといふことは、我々に取つて興味の深い教訓である。個々の邑里の神祭の方式が、もしも全然大昔のまゝを守つて居たか、さうで無いまでも是に奉仕した男女の智能と心理が、もしも總國一樣に進展して居たならば、我々の傳説は夙に散漫のものとなり、たま/\保存せられてある場合にも表現の力が弱く、多くは識者の省みる所とならなかつたらう。無理な歴史化は可なり後世の迷惑ではあ(98)るが、幸ひにしてまだ復原の不可能な程度にまでは變化して居らぬのみか、それを或段階に喰ひ止めて、崩壞を防いでくれた手柄さへあるのである。しかも他の一方の文藝の技術も、ちやうど斯ういふ一種の保存工作の許される位に、始めはごく徐々として進んで居たらしいのである。是がもし語り物の花やかさを愛づる餘りに、近松門左衛門はさて置き、假に金平本《きんぴらぼん》時代の脚色ほどにも飛躍して居たならば、如何な愛郷史家でも是を地方の埋もれたる史實として、取上げる氣にはならなかつた筈で、言はゞうそでも好いから樂しませてくれるといふ、讀者層の出現は遲かつたのである。思ふに年々の神を祭る日に、今まで衆人が心の裡に想ひ起して居たことを、巧みに清々しく美しい言葉で、敍べ立てる風習が先づ行はれ、それが神人を共に悦樂せしめるものと認められて、技術として練習せられた期間が久しく續いたのである。技術である以上は優劣はたやすく聽き分けられる。殊にその一部の爭はれぬ長處を具へた人々が、之によつて繁榮を得、次には數が剰つて追々に外に出たので、必ずしも流民の糊口のよすがを之に求めたのでは無く、寧ろ招かれて輔導の任に就いた者の多いことは、是も國々の社家神職の、大よそ一致した言ひ傳へが推測せしめる。たゞ斯ういふ人たちの土着には、幾百年に亙つた年代の差があるのみならず、現に近い頃まで一社には專屬せず、旅行を生涯とした者も一方には澤山あつて、それだけが少しづゝ墮落を始めて居たのである。根源は一つであつたといふことは、さう證明のむつかしいことでは無い。村のまじめな故老だけは語り繼いで、旅の語部《かたりべ》どもが全く知らなかつたといふ話などは少ない。但し藝を主にした方の語りごとは誇張せられ又大いに修飾せられ、且つ必ずしも信じられることを期して居ない。即ち今日はもう文藝化してしまつて居るのである。
 たとへば長者の滿ちかゞやいた榮華の生活を、あらゆる彩色を盡して描き出したものが、十二段の草子の笛の段であり、もしくは美濃の青墓の遊女が源氏の御曹司に、語つて聽かせたといふ山路童《さんろわらは》の物語である。是が矢矧《やはぎ》と豐後内山との故郷に於て、遺跡を指し示して信用を強ひられる傳説となつて居るのは、或ひは文藝の威力とも見る人があらうかも知れぬが、それとは又別の長者の屋敷跡、昔巨萬の富を積んで、一門繁榮したといふだけの傳説ならば、府縣(99)毎に百を以て算へるほども有る。蘆と芒の原だつたといふ新たなる大都府にも、古くは竹芝の長者があり、後には白銀の長者だの柏木の長者などが輩出して、どこでも聽くやうな長者ヶ池、朝日夕日といふ類の逸話を留めて、やがて又過ぎ去つて居る。實際あつたのだと思ふ方が、私たちにも樂しみなのであるが、何分にも話は皆有りふれて居る。一ばん多く聽くのは糠塚すくも塚、毎日食用の籾を精げた殻が、積つて小山となつたと稱して其名の岡があることで、是などは既に和銅の風土記の中にも見えて居る。或ひは二人の長者が財寶を競べる話、まされる寶子にしかめやもと、一子の無いことを歎いて居るうちに、神佛の恩寵によつて玉の如き男子、花にも見まがふまな娘を儲け、それが又やがて次の葛藤を導くといふ類の、大よそ七つか八つの事件だけが、この莫大な數の長者に就いて記憶せられて居る。さういふ萬福長者も今は皆夢で、目前の證據としては何の値も無いのだが、それが果報盡きて滅び失せたのも、やはり命數であり前世の約束であり、又は目に見えぬ御力又はおぼし召しだつたといふ風に今でも皆解して居る。是から推して考へると、何でも無い只の人が一朝に長者となつたのも、すべて一樣にこの貴い法則に、準據してさうなつたものと見て居たのであらう。最初はそれがたゞ村々の舊家の、初代夫婦の者の事蹟であつたことも想像せられるのだが、次から次へと修飾せられ誇張せられて、終には日本にたつた一人有つても不思議と思ふほどの、大袈裟な話と化したのは發達である。即ちこの語りごとに參加した者の、少しづゝ積み重ね養ひ育てゝ來た技藝と見るの他は無いのである。私たちは是を物語の自由區域と名づけて居る。素より本筋の眞實をそこなはうといふ意圖は無くて、出來る限り當面の聽衆の耳を怡ばしめ、夢を樂しく花やかなるものにして、祭の日の印象を鮮麗にした者が、歡迎せられたことを意味するに過ぎなかつたのである。しかも世を經るまゝに其樂しみのみが後に殘り、終に信仰とは引離され、時も處も構はぬ有力者の慰みとなつて、自在に天下を浮遊する文藝といふものゝ素地を爲したことも亦爭はれない。長者の傳説といふものが此通り數多く、且つ是ほどの統一と成長の各段階とを、目前の例を以て示して居る國でないと、文學の起原に關する一つの説、即ち文學はもと宗教の養ひ子ではなかつたかといふ説の、當否を吟味することも(100)實はむつかしい。その條件の具はつた日本に於て、今まで傳説の研究を怠つて居たといふことは、惜しいといふ以上に義理の惡い話であつた。いよ/\それが實地の問題となつて、もう何とか解決をしなければならぬ時世が來たことは、御他力ながらも寧ろ有難い機縁といふべきである。
 
          二三
 
 例は何程も有るのだが、それを竝べて居ると長くなる。其中でもう二つだけ、新たに加はつたものとごく古くからあつたかと思はれるものとを對照させて、傳説の成長せずには止まなかつた中世の社會事情を考へる足掛りとして置きたいと思ふ。陸前|七北田《なゝきた》の洞雲寺の縁起として傳へられるのは、昔開基の名僧がやつて來て、此山に年久しく住む男女の異人から、伽藍の地を乞受ける際に、錫杖を地に立てゝ其影の及ぶだけと約束し、一旦之を諾すると其杖の影忽ち全山の端々に達したので、異人は居る所が無くなつて已むを得ず明け渡して立退いたといふことになつて居る。是が我邦ばかりに限られた奇蹟で無かつたことは、後に博識の人たちの考證によつて明らかになつたのである(續南方隨筆二二二頁)。其中でも印度の話として阿育王傳に載つて居るのは、尊者が大龍と約して一身を坐するだけの地を乞ひ、やがて其身を大にして國中に滿ちて趺坐したと謂ひ、慈覺大師の入唐記に五臺山の古傳として録したのは、文珠菩薩が僧形を現じて一座具の地を皇帝から請ひ受け、その敷物の大きさが見る/\五百里を覆うたといふので、共に佛法興隆の瑞相に他ならぬに反して、一方歐羅巴人の東洋進出の手段に供せられたといふものは、話は同系であつてしかも純然たる譎詐であつた。たとへば和蘭が臺灣の土人を欺き、又は佛郎機が呂宋の國王をすかして地を乞うたのは、何れも牛の皮一枚で圍へるだけの地面をと約束して、其皮を細く裂いて紐にして繩張りをしたといふことが、それ/”\に臺灣府志と明史とに出て居るさうだが、是は夙く西洋に於ても、昔カルタゴ國を創立した王女ヂドの謀計として知られて居た(以上)。どれを最初といふことまでは極められぬが、兎に角に世界を周歴して、日本に遲く入つ(101)たことまでは考へてよろしい。斯ういふ大きな旅行をして來た傳説もあるので、種が古び感銘が薄れたものは取棄てられ、代りにこの樣な意外なものを、輸入することも後には試みられたのである。さうすると何處かに選擇の中心が、あつたといふことが想像せられると共に、更に他の一方には地主神の思想、即ち今まで占據して居た者の約諾を得なければ、如何なる好事業も創始し難いといふ考へ方が、元から我邦にもあつた爲に、此繼合せが可能であり、又は必要でさへあつたことがわかるので、是は佛教には高野の丹生《にふ》明神を始め、數多くの類例を存するのみならず、別に常陸風土記の夜刀神のやうな、もう一つ古い形も殘つて居る。是がもし異なる信仰の併存?態、新舊移住民の接觸面に於て、曾て體驗せられた心理現象の痕跡であつたとすれば、この根本の共通こそは寧ろ傳説以上の興味である。
 世の多くの文化傳播論者なる者は、二つの種族が交通すれば、すぐにも甲の長處が乙に入つて行くやうに、單純にきめてしまつて居るが、少なくとも信仰の部面に於ては、さういふ獨斷はまだ決して成立つて居ない。數限りも無い外國の知識、もしくは御手本ともいふべきものに圍繞せられ、殆と自ら省みる隙間も無かつたと思はれる時代が、是ほど久しく續いて居た國であつたけれども、我々の言ひ傳へはなほ常に獨自の成長の途を歩んで居た。愈本來の心持が其まゝには受入れにくゝ、一方人間の智慮が書物によつて磨かれるやうになつて、茲に始めて可なり意外な又複雜な説明を、借りて繼ぎ合せても通用する時代が來たので、京や鎌倉以外の土地では、それが大抵は近世に入つてからの事であつた。諸國の宮寺の縁起は江戸の初期、元禄前後までのものが最も多く、新しい型といふのは是を介して世に知られて居るのだが、今でも附近の住民の説くものと、二流れになつて流布する場合が稀でない。つまりは縁起を編述した階級の教育が先づ進み、以前の傳説はなほ暫くの間、文字の學問と縁の薄い人たちで支持して居たのである。兩者のまん中には大きな問題が横たはつて居る。私たちは斯ういふ民間の多數が、支持し參與したものを信仰だと思ふのだが、一方世間では書いたものゝ指導に附いて來ず、又はその一つ前の考へ方に止まつて居らうとする者を、迷信と呼ばうとする人も中々多く、しかもその教理と學説は刻々に改まつて居たのである。古い信仰の埋没は誠に免(102)れ難い結果であつた。わざと判らなくしてしまつてから、尋ねて見ようとして待つて居るやうな嫌ひさへあつた。獨り傳説だけが許されて昔を殘して居たものである。是を粗末にすると恐らくは信仰の歴史は完備しないであらう。
 前にもやゝ詳しく述べて置いた所謂三輪式神話は、夙く神話の條件を振棄てゝしまつて、傳説となつて今日までも活きて居る。是などは最も適切なる連綿の例であらうと思ふ。上代の史書に認められた事實と、中古の花の本の物語とを比べて見ても、少なくとも二つの緊要なる變化はあつて、しかも聽く者の牢く信じて居たことは古今同じである。第一に神は妻の君の願ひを辭みかねて、假に錦色の小蛇の姿になつて、櫛笥の中に伏しいますと傳ふるに對して、他方では大蛇が優美なる青年の姿に化して、夜な/\姫が閨を訪れたことになつて居る。大蛇と説くが故に水のコを專らとし、豐かなる田の水を供して妻の家を富裕にしたといふ點は、美濃の安八長者の話以下、無數の新しい例に一貫して居り、それが又米作を大事にした日本の社會に、永く忘れられない幸福なる印象でもあつた。第二の著しい變化は、名を知らぬ貴い聟君の衣の端に、苧環《をだまき》の絲を取附けて其行くへを確めようとしたことは、三輪の地名をさへ説明する古い言ひ傳へであるが、中世に入つてからは、必ずその絲のさきに針が附いて居た。水の靈は乃ち鐵氣の毒に中つて、戀の爲に命を終つたことになつて居るのである。それがどうして人間の知る所となつたかといふと、爰に立聽といふ一つの挿話が必要になつて來るのである。立聽によつて靈界の秘密を知るといふのは、説話の古い趣向の一つであつた。機屋《はたや》産屋《うぶや》を覗くなといふ戒めなどゝ、元は脈絡のある語りごとかも知れぬが、是には人智の優越といふことがあつて、既に一部の征服を含んで居る。しかも固有の傳承の變化であつて、別に新たに空想し得たものでないことは、苧環の絲が確かなる道しるべである。つまりはたゞ一筋の語りごとが、家により又恐らくは時代によつて、何段とも無く次々に變つて來て居るのである。父无くして身ごもつた娘の子の、良き神の御子たることを立聽によつて知り、果して不世出の英傑を育て上げたといふことを、遠祖の誇りとして傳へて居る一族も、今なほ各處に散在して居るが、それよりも數多いのは同じ偶然によつて、測らずも水の靈の計畫を覆へし、完全に靈界との交通を絶つたと(103)いふことを、昔の出來事として傳へて居るものである。是は單なる厄難の囘避に止まり、家の由緒にも土地の自慢にもならぬやうに思はれるが、それが時あつてなほ信ぜられて居たのは、内の信仰の目に見えぬ推移に伴なうて、ほんの片端から少しづゝ、永い間に變つて來た爲であらう。元亨釋書の蟹滿寺縁起などゝ比較して、彼には動物の報恩とか讀經の功コとか、新たな説話分子の採用せられて居るに反して、是はたゞ岩屋の奧の大蛇のひそ/\話と、その立聽とがもう少し長く續くだけである。そんなことを謂つても人間といふものは中々賢い、もしも三月三日の桃の酒を飲み、又五月五日の蓬菖蒲の湯を浴びさせたらどうする、折角の子種も流れてしまふぢやないかなどゝいふ聲がする。是はうまい事を聽いたと歸つて來て、早速その通りにすると娘はもとの丈夫な?になつた。めでたし/\などゝいふ樣な話は、ちやうど昔話と傳説の中間の地位を占めて居る。或人は是を以て節供の儀式、桃菊菖蒲等を缺くべからざるものとする理由として之を説き、又或者はさういふ事件のあるやうな大昔から、既に我家我村の榮えて居たことを證明する爲だけに援用して居るが、起原は是も亦今一段と嚴肅なものであつて、又いつの世からとも無く傳はつて居た故に、是を單なる民間の文藝として、見放してしまふことが容易でなかつたのである。
 神が人間の清き處女を娶つて、聖なる若御子を此世に降したまふといふことは、深い仔細はまだ知らぬが、とにかくに上世の諸民族に共通した信仰であつた。國の事情によつて後々の展開は區々になつて居る。日本には婚舍を女の父の家に設くる慣習が普通であつた爲か、特に外戚の親を重んずる考へ方が、この方面に於ても顯著であつた。萬人のうちに只一人、選み出されたる者の光榮は大きかつたが、其光榮は悉く兄から甥の筋へ、永世に相續せられたのである。獨り聲望の四隣を壓したのみでなく、祭祀をこの記念に集中して門黨の結合を鞏固にし、愉悦繁榮の生活を導き得たことは、記禄の内外に算へきれぬほどの例がある。だから稀にも其樣な古い記憶を傳へ、もしくは新たなる示現によつて之を知つたとすれば、あらゆる方法を盡して其忘失を防いだであらうことは、想像に餘りありと言ひ得る。しかも實際には類型がやゝ多きに過ぎて、寧ろそれ故にこの傳説の尊さを制限して居る姿がある。もしも土地毎に一(104)族毎に、自ら信じて各孤立の傳承を守つて居たならば、此樣な細部の一致までは無かつたらうと思ふ。乃ち技藝の練習と普及とは、却つてこの單調化によつて、幾分か信仰の根を搖がせて居るのである。旅から入つて來た語部の女たちは、早く定まつた一つの型を以て、その與へられたる空想の自由區域を統一しようとして居たらしく、それが交通の開け進むにつれて、又かといふ者が段々と多くなつて來たのである。個々の傳承者は無論最後までの防衛者であつたらうが、それでも間接の影響を受けて、いつと無く其解説を改め、又は力を入れて説く中心を移して居る。其上に水の惠みを施したまふ神コを力調して、その御姿を水の底の、畏るべき大きな形のものに想像する風が始まつたのである。是も外國宗教からの感染と認められるが、もと/\幻であつた故に、凡人も之を胸に描くことが出來た。さうして先づ兒女子の感情が之に反撥したのである。大蛇なんかの御嫁になるといふことを、幸福とは考へ得ない人が次第に多くなつて、やつと遁れた追返したといふ類の話のみが、耳を傾けて聽かれて居るうちに、終には猿聟入とか川童聟入とかいふ、子供も笑ふやうな童話とまで零落したことは、別に書いても居るし、又澤山の實例で説明して見ようとも思つて居る。爰で言つて見たいのは是と傳説との境の線に於て、もう幾つかの改造が試みられて居ることで、それには蟹寺の蟹の恩返し、爺に命乞ひをして貰つた蛙の御禮などの外に、武藏下總備前等の鴻《こう》の宮の傳説といふのがある(郷土研究一卷十號)。大蛇の聟殿は女房の「つはり好み」、即ち姙娠中の異常食慾を充す爲に、大木に匍ひ登つて鸛鳥《こふのとり》の卵を取りに行き、却つて鳥の嘴に突かれて墮ちて死ぬ。さういふ話が一方にはあつて、他の一方には又社の神の大蛇が殺されて、其以後は之を殺した鸛鳥の方を、神として崇めるやうになつたといふ土地も多いのである。内の信仰が漸く移らなかつたなら、如何に感銘の深い插話が運び込まれようとも、それを受入れて我物とするまでには至らなかつたらう。この兩者の交渉に働いて居た法則はまだ明らかになつて居ないが、少なくとも我々の傳説には、中古の改良といふものが幾段もあつたことだけは、三輪式説話なるものゝ比較がよく證明する。是を省みること無くして、此中に日本最初の信仰を見つけ出さうとする者がもしあつたら、その結論の如きは承らぬうちからもう誤りだ(105)といふことが出來る。
 
          二四
 
 さて愈この長たらしい講釋を終らねばならぬが、自分には假定があつて結論といふほどのものは無い。將來蒐集せらるべき許多の資料によつて、もし確認せられるならば大きな幸ひ、或ひは誤謬の訂正せられるものがあつたとしても、それも亦喜ぶべきことだと思つて居る。是をこのまゝに鵜呑にせられることは、誰よりも筆者が之を望んで居ない。たゞ傳説の今後なほ微細に研究すべきものであつて、現在の如き敬遠主義は、國を愛する者の忍ぶべからざる?態であることを、重ねて明言する必要を感ずるのみである。日本民俗學に於て、傳説によつて知りたいと念じ、又知り得ると信じて居ることは二つある。一つは勿論上代の信仰、會て國民の間に傳説が盛んに花咲いて居た頃に、如何に我々の祖先が觀照し又諦念して居たかといふことであるが、それを詳かにする爲にも先づ以て、第二の目途、即ち百千年の久しきに亙つて、直接間接に是に影響し、是が變化を見ずば止まじとしたもろ/\の社會事情を、少なくとも主要なるものだけは尋ね究めて見ることであつて、さうして發見の怡びは實は此方に多いのである。書物はこの中でも最も有力な干渉であつたが、其痕跡は明らかに殘り、又その及ぶ區域が元はよほど限られて居た。今でも教育の效果に就いて、我々が不安を抱かずには居られぬやうに、教へる材料と機關との存在は、未だ必ずしもどう教へられ、どう覺えて居るかを知る目標にはならぬのである。どれだけ働いたかは結果によつて確かめるの他は無い。アビラウンケンソハカを油桶そわかと、覺えて居た老婆の話もあるのである。傳説の變遷はたゞ傳説が之を説明してくれる。それも總國が一遍に、掌をかへすやうに改まるものならば、是を前から此通りと、強辯する者が現はれぬとも限らぬが、幸ひにして日本は地形の然らしむる所、殆とあらゆる段階のものが、竝んで今の世までも保存せられて居るのである。所謂歴史化は遠く平家物語一流の語り物の普及に始まり、最初は九郎判官八幡太郎、空海慈覺といふやう(106)な少數の名士に、全部を引受けさせるやうな勢ひであつたものが、後漸く日本政記國史略の全盛期に入つて、その解説の範圍は著しく擴張し、千年も經つてから始めて偉人の墓地を知つたといふ樣な例ばかり多くなつた。それが再び又覺束なくなるといふことは、知識の増加であり比較のたまものであり、もつと大まかに言へば史學の進歩である。以前は人の心が學問に對してはすなほであつて、今まで弘法大師と思つて居たのが、最明寺時頼だときまると又さうかとも思つた。今日はそれが稍頑固になつて居る。學問の行止まりの兆候でなければよいと念ずる者は私のみではあるまい。我々の傳説の中には、此等の歴史上の人物の、呱々の聲を揚げるよりもずつと前から、たしかにあつたと認められるものが幾らもある。どうか一旦の思ひちがへによつて、何の根據も無かつた辨慶や小野小町と共に、古來の大切な言ひ傳へまでを心中させたく無いものである。
 人が地方の傳説に注意し始めたのは、和銅の風土記が既にさうだから、隨分と古いことである。もしも昔の學者が之を讀み比べて居たなら、あれだけでも傳説はどういふものであるかゞ判つて、後々のいさかひの大半は防止し得たであらうのに、それから嗣いで起つた人々は多くは地方の住民で、その見る所は割據の域を出でなかつた。惡く言へば遼東頭白の家猪であつた。よそを知らないちび/\とした研究だから話が紛糾する。新たなる研究の、再び採集を以て條件としなければならぬ所以である。傳説の分類といふことは自然に唱へられざるを得ない。私にもまだ好い案は無いが、大體に語りの中心として信ぜられて居る事實を目標にし、人の名はたゞ其中の小分けとした方がよいやうに思ふ。甲州では日蓮上人が杖を立てゝ成長した竹があり、越後の七不思議には親鸞の逆さ竹がある。それはたゞ竹のある御寺の宗旨の差に過ぎない。是を杖立ての傳説として置けば話はすむのである。高木敏雄氏のいふ英雄傳説といふ名目は、用心をして私などは用ゐぬことにして居る。之によつて八幡太郎義家の、通つた路筋を調べる者があつても困るからである。傳説の最も多く附いて居るのは岩石竹木、それから日本には泉と井戸、池沼淵川に伴なふものが特に多い。今ある各地の地誌類の中から、斯ういふものを拔くのは機械的の勞務で、僅かな費用をかけると明年に(107)も出來る。さうして是だけを別にして見ると、殘りはもう四分の一ほどの、珍しいものになつてしまふのである。是ばかりの手數をもして見たことの無い御方が、やたらに傳説を論ずるのだから話は面倒になる。がしかし今暫くの辛抱だと我々の仲間では樂觀して居る。
 傳説の數といふものは日本では莫大であるが、それは決して種類の多いといふ意味でないことは、排列分類をして見れば忽ちわかる。岩なり清水なりに傳説のあるものは幾らあつても、其事實は五つか七つで、後には名を聽いただけでも内容が察せられるやうに、奇妙に同じ名稱が東西の府縣に分布して居る。私たちはもう久しく之を承認して、それに普通の型といふものを見出し、どこがちがつて居るかを先づ知らうとして居るが、大抵は之に關係した固有名詞だけのやうである。歴史化以前の?態は是からでも察せられる。たゞ此序でを以て言つて置きたいのは、現在は既に傳説の分解が始まつて居るといふことである。昔その地にあつた傳説の形は、もつと込入つた一續きの語りごとであつたこと、たとへば前節に掲げた奧州の苅田の宮、或ひは信州園原の炭燒長者のやうであつたものが、折々はそのたゞ一部の、言はゞ證據といふやうなものだけが、忘れ殘された場合もあるのである。物言はぬ木石を證據といふのはをかしいが、曾て旅から運んで來た話ならば、それを一つの土地に括りつける爲に殊に必要であり、假にいつの世からとも無く根を生やして居たにしても、さういふ朝夕に目に觸れるものを指ざして説けば、話が一段と身に沁みて聽かれたのである。勿論それは只の地物で無く、或ひは神木の注連を張つた樹であり、又は御手洗《みたらひ》の泉に臨む形の珍しい石で、それ自身が既に靈視せられて居たので、愈人を欺く筈が無いと思つたのである。傳説の單形複形といふことを自分などは考へて居る。多くの單形傳説は、背後にやゝ色あせた複形を控へ、氣を付けるとまだ其輸廓が辿られる。しかし一方には既に破片となつて、其點ばかりを力説するものがあり、もつと衰へたものでは、停車場の掲示板に書いてある名前以上に、土地の人も知つて居らぬのがある。斯ういふのが?文人の筆によつて、新たな作り話を添へられることもあるが、それすらも大よそ全國のどこかの隅に、あつてもよささうな複形傳説になつて居る。爰(108)にも一つの統一傾向が、ほゞ民衆の想像の進んで來た途を示して居るのである。
 傳説が國の或大切な歴史を語つて居るといふことを、誰よりも先に私は認めるのだが、それが近代の歴史化なるものと、結果に於て相背反することは遺憾ながら致し方が無い。史書を愛讀する風が地方に普及して、古い事なら必ず此中に書いてあるものと思ひ、自分たちの親代々信じ傳へて居る物語を、それに當て嵌めて見ずには居られなくなつたといふ事は、それ自身が我々の認識しなければならぬ重要な史實である。それがまちがひであり結果がどうなつたかは、歴史ともいへないほどの眼前のニュウスである。次に全國に分布する傳説には、偶然とは見られない大規模の一致があり、其中には京都その他の中心地から、確かに運んで來たと言ひ得るものが、多いといふことも興味ある歴史である。その携帶者を若い美しい女性であらうといふことは假定で、自分だけは今でも證明し得ると思ふが、行く/\反證が擧がつて一部分は聖《ひじり》であり座頭であり、或ひは金屋石屋等の旅の職人であり、しかも男女の問にも材料の交換借用が行はれて、一段と近世の民間文藝を複雜にしたといふことになるのかも知れない。それはどう極まつても傳説の内容が中古著しく統一せられたことだけは、もう爭はれない歴史と見てもよい。さうすると次に問はれるのはこの以前、どの程度にまで相似たる傳説が、日本の上代には有つたかといふことで、上代は正史に明記せられたものの外、推定によつて決すべき問題ばかり多いのだが、是も安全率は著しく高めることが出來る。第一に上代にも傳説と名づけてよい傳へごとが多く、その信じられ方も後代の比で無かつたことは、歴然たる文獻の根據がある。それが次々の語りかへを受けて、半分近くもちがつた話になつて居る例を見ても、假にまだ先型を見出し得ない傳説にも、少なくとも接穗《つぎほ》の臺木だけはあつて、それがある故に新しい傳説は、根をさし成長し得たのだといふことが出來ると思ふ。
 それから今一つ、所謂單形傳説の數多くの類似といふことが、偶然ながらも前期の傳説の、普通の姿を彷彿せしめる。是が何れも至つて素朴な、敍述の技巧を要しないもののみで、わざ/\諳記して遠くの土地から、運んで來るに(109)も及ばぬやうなのが多いからである。即ち我々の故郷の言ひ傳へは、少なくとも斯ういふ部分に於ては早くから一致して居たので、從つて又それを前代論理の證據法として居た物語の間にも、幾つと無き共通點のあつたらうことが推測せられるのである。是をやゝ具體的に證明するならば、杖を立てゝ樹となつたといへば或尊敬すべき人の來ては又去つたことを想像させるが、さういふ話は現存の傳説の中にも多い。だからこの部分だけは昔からあつたのかも知れない。箸は尋常の生活では野外で用ゐたものは必ず折つて棄てることになつて居る。源頼朝などゝいふ人がそれを地に刺して、やがて成長して片葉の蘆、又は一村|薄《すゝき》となつて殘つたといふ傳説が安房上總には多いが、斯うした誓《うけ》ひ又は占問《うらどひ》の方式が元はあつて、それは相饗《あひにへ》の祭と共に行はれ、しかもすぐれた武將の場合にはそれほどの奇瑞があつたといふのであらう。是に類する言ひ傳へは、書物にも見え又今日もなほ語つて居る。腰掛石といふ形のやゝ平らな石は、關東東北に行くと數多く、たゞ是に腰掛けた名士の名前のみが區々である。太平記には笠置の山の御夢の話として殘つて居るが、物古りたる大樹の下に、腰を掛けるにふさはしい岩座《いはくら》を置いて、そこを祭の庭とする慣習は今でもある。恐らくは昔斯ういふ祭をした際に、何か神秘の示現のあつたといふ傳へが、特にこの部分だけ濃厚に記憶せられて居るのである。その他水邊に兒《ちご》と老女との最期を説くものゝ多いこと、もしくは母と子の人柱に片割れの梅の哀話の存することなど、一つ/\を擧げては切りも無いが、要するに是だけはまだ本來の複形傳説を想像し得られぬと、思ふやうなものには滅多には出逢はぬのである。他日更に多くの類例を取重ねて、今は修飾せられ文藝化せられて居る傳説の原の姿といふものが、次々に探り當てられる望みは十分にある。必要はたゞ倦きずに其だけの捜索が續け得られるだけの、興味を若い人たちに抱かせることである。
 旅から運ばれて來た色々の文藝が、專ら傳説を混濁させる結果しか無かつたやうに、速斷した人があつたらそれも誤りである。彼等遊歴の詞客は戯作者の元祖であり、師匠があつて修業を積み、中心地があつて種を仕入れに戻り、新しい感銘を期する餘りに、其種を新渡の學問に求めるやうなことも有つたのは事實だが、少なくとも初めのうちは、(110)國内の最もすぐれた傳説に自身も深い印象を受け、殊に其敍法の精妙なるものを學んで、之をまだ知るまいと思ふ土地に移植したのである。さうでなかつたら國内に昔から、數多く同じ話があつたわけだが、個々の實例を比べて見ると、それは到底考へることが出來ない。たとへば宗祇戻りや西行法師閉口の歌のやうに、行脚の歌人が牛飼童、又はあやしの賤の女と問答して、田舍にも智能の秀でた者があるのに喫驚し、高慢の鼻をへし折られたといふ話などは、今でもその田舍の人が樂しんで聽いて居る。是は謠曲の「白樂天」が小國の文才を試みに來たといふ話も同系で、多くは土地の神祇が假に兒女老翁に姿を現じて、外の侮りを防いで下されたといふので、書物や經文からの燒直しでないことは明らかだが、その又歌といふのが、「うるかといへる綿はありけれ」、或ひは「うつせみのもぬけのからに道とへば」とか、又「鼓の瀧を來て見れば」とか、どこへ行つても大よそはきまつて居て、どれもこれも中世の趣味、さして教養の高くない人の思ひ付いた秀句なので、斯ういふ方面からも流布の經路はわかる。しかも神童が老いたる僧尼の仲介によつて、土地を教化したといふ類の傳説ならば、日本の一つの特徴と言つてもよい程に、さま/”\の美しい展開を見せて、古く弘く傳はつて居るのである。貴人の流寓といふやうな畏れ多い物語が、餘りにも數多く邊土に分布して居るのも、たゞ此方面からのみ説明することが出來る。上世其塁の現實の歴史が、まだ一度も起らなかつた以前から、村々の現人神《あらひとがみ》は幻の都から、遙々と天降りまして民の家に宿し、清き處女を御妻に召されて、土地に由緒の深い若い神を留められたのである。それを限りある記録文獻と結び付けんとした者は、學者以前に既に歌比丘尼等があつた。我々の祖先は無始の昔から、無上の憧憬を以て此種の傳へごとを聽き、かつは幽かなる一筋の因縁の、種族の貴い中心と繋がつて居ることを信ぜんとして居た。それをたゞ彼等のみが洞察して居たのである。是がこの大きな影響の後永く殘つた所以であらうと思ふ。我々の學問は更に一段の深い同情を以てこの事情を理解し、それに依つて新たに未來の文藝を計畫しなければならぬ。
 
 
(111)  一目小僧その他
 
(113)     自序
 
 この卷に集めて置く諸篇は、いづれも筆者にとつて愛着の深いものばかりである。或題目はすでに二十何年も前から興味を抱き始めて、今に半月とこれを想ひ起さずに、過ぎたことはないといふのもあり、或ひはかの諏訪の出湯の背の高い山伏のやうに、何を聽いても、とかくその方へばかり、話を持つて行きたくなるものもある。全體に書いて何かに公表した當座が、自分の執心も凝り、また友だちや讀者の親切もあつて、却つて新しい材料の多く集まつて來るのが、年來の私の經驗であつた。どうしてあのやうに急いで文章にしてしまつたらうかと、いつでも後悔をする例になつてゐるが、さりとて今日までこの問題をかゝへ込んでゐたならば、果して纏まりがついたらうかといふと、それには自分がまづ勿論とは答へることができない。
 材料は今でもまだ集まつて來る。たとへば目一つ五郎考の中に、郷里のうぶすなの社殿の矢大臣が、片目は絲見たやうに細かつたといふことを書いてしまふと、それからはどこの御宮に參拜しても、きまつて門客人の木像に注意をせずにはゐられなくなる。その木像には年を取つた赭ら顔の方の左の眼が、潰れてゐるのが多く、またはさうでないのもある。これを見ると私は非常に考へ込むのである。隱れ里の椀貸しの口碑などは、最初は稀々に出逢つて驚くくらゐであつたが、去年南部の八戸に往つて聽くと、あの邊は到るところの川筋に二軒三軒の舊家が、大抵は家の昔としてこの話を傳へ、また時々はその借りたといふ椀や蓋物を藏してゐる。さうしてその附近には奇妙にダンズといふ類の地名が多いと小井川君などはいふのだが、これがまた自分をして、佐渡の隱れ里の狸の長者の名が團三郎であつたり、薩摩では狸をダンザといふ方言があつたり、或ひは曾我の物語に出る鬼王團三郎の兄弟が、遁れて來て住んだといふ伊豫土佐その他の深山の遺蹟などを、次々に思ひ出さしめるのである。
(114) 橋姫の話は早く書いて見ようとしたものだけに、殆と際限もないはどの後日譚を導き出してゐる。水の女神の「ねたみ」といふことは、以前は凡庸人の近づき侮るを許さぬ意味であつた。それが嫉妬の義に解せられて、二個の女性の對立を説き、山の高さ競べの傳説などゝ、似通ふやうになつたのも新しい變化でない。赤兒を胸にかかへて行人に喚びかけるといふことも、山にあつては磐次磐三郎などの兄弟の狩人の物語となり、水のほとりに於いては龍宮の嬰兒の昔話に繋がつてゐるが、いづれも素朴謹直の信者を恩賞する方が主で、たま/\その寵命を輕視した者だけが罰せられたのである。だから豐後の仁聞菩薩の古傳を始めとして、さういふ遺跡は崇祀せられてゐる。それがいつの程にか信仰を零落せしめて、九州の海ではウブメは既に船幽靈のことにさへ解せられてゐるのである。しかし我々の同胞は谷や岬に立別れて、それ/”\自分の傳承をもり育てゝゐた。故にその例の多くを比べて見ることによつて、進化のあらゆる段階を究め、從つて端と端との聯絡をも明らかにすることが出來るのである。遠江三河の山間の村には、水の神から送られた小さな子が、幽界の財寶を貸しに來る口碑も多い。隱れ里の膳椀の言ひ傳へはその一部分が、何かの因縁を以て特段に發達したものであつた。鹿の耳を切る近代の風習は、處々の神の池の片目の魚、もしくは神が眼を突いたといふ植物のタブーとともに、生牲の祭儀の名殘であつたことが判つたやうに、橋姫と椀貸しとも元に於いては一つの根ざしであつた。これを木地屋の信仰の基礎になつた小野一族の傳道と、なにか關係のあるものゝ如く推測した自分の一説だけは、あの頃ちやうどこの問題に深入りしてゐたための、考へ過ぎであつたやうに今では思つてゐる。
 流され王の一文はあの當時いろ/\の都合があつて、すでに自分の胸に浮かんだだけの、事實のすべてを敍説することが許されなかつた。それが次々に珍しい新例を追増して來て、しかも今日は率直にその委曲をつくすことが、一段と困難な世柄になつてゐるのである。魚の物を謂ひ飯を食つたといふ話なども、氣をつけてゐるためか、なほぽつ/\と現はれて來る。熊谷彌惣左衛門が稻荷として祭られた話の如きも、いつの間にか津輕の御城(115)下まで遠征してをり、これと縁があるらしき飛脚《ひきやく》狐の記録に至つては、全國を通計すれば十余箇處にも及ぶであらう。これ等は説きたてるに何の斟酌もいらぬことだが、その代りそれはたゞ同類の例が、まだ幾つかあるといふだけの話で、自分はともかくも他の人には少しくうるさい。全日本の巨人が岩や草原の上に遺した足跡は、魚にも植木にも見られぬやうな、大小の差異があり、また成長がある。その中でもダイダラボッチの一群だけに、特に奇拔な形容があり、また滑稽な誇張があるのは、中世關東人の趣味と氣風とが、もうそろ/\と今日の萌しを見せてゐたのかも知れない。しかしそのお蔭にこの口碑などは、盛りが早く過ぎて辛うじて記憶を守るまでになつてゐる。これに反して、いはゆる一目小僧樣の方は、今でも年ごとに武相の野の村を訪れてゐたのであつた。二月と十二月の八日節供の前の晩に、門に目籠を竿高々とかゝげて、目の數を以て、これと拮抗して見ようとしたり、もしくは茱萸《ぐみ》の木を燃やし、下駄を屋外に出しておくことを戒めて、彼にその一つの眼を以て家の内を覗かれるのを避けんとしてゐる。さうして必ず樣づけを以てこれを呼ぶのを見ても、神と名づけてゐなかつたといふのみで、たゞの路傍の叢の狸|貉《むじな》などゝ、同一視せられなかつたことは明らかである。毎日飛行機の唸つてゐる我々の青空も、今なほ彼が去來の大道であつたことを、つい近頃になつて私は學び知つたのである。さういふ無知を以てこの長々とした傳記を書いてみようとしたことは、少なくとも彼一目小僧樣に對して、恐縮の他はないのである。
 たゞ幸ひなことには自分はまだ、何とも相すまぬといふやうな斷定はしてゐなかつた。この一つ目の一篇にはかぎらず、私の書いたものには悉く結論が缺けてゐる。たまにはかうでないかといふ當て推量を述べてみても、後ではそれが覆つてしまふほどの、意外な新しい事案の顯はれて來ることを、むしろ興味を以て待ち構へてゐるのである。しかし實際はさう大した反證といふものが擧らなかつた。かつて私の提出した疑問は、今でもまだ元のまゝに保存せられてゐる。二十何年もかゝつてそんな小さな問題が、まだ解けないとはをかしいといふ人もあ(116)らうけれども、小さいといふことゝ問題の難易とは、少しでも關係がありはしない。それに本當は小さくないのかも知れぬのである。いづれにしても私の目的は、これが或人間の半生を費して、なほ説明してしまはれない問題だといふことを、報告しておけばそれで達するので、もしなほ注文を加ふれば率直に物をいぶかる心、今まで講壇の人々に顧みられなかつた社會現象は無數であり、それが悉く何等かの意義を潜めて、來り採る者を待つてゐるのだといふ希望、もしくはこれを薪とし燈火として、行く/\この無明世界の片隅を、照らして見ることが出來るといふ樂觀などを、能ふべくは少しでも多くの人に、勸説して見たいと思ふだけである。答も稻妻と雷鳴とのやうに、問とのあひだが遠いものほど、大きからうとさへ考へてゐるのである。
 たゞしこれ等の文章を公けにしてから後に、新たに集積したいろ/\の資料だけは、正直のところ如何に始末してよいかに當惑をしてゐる。いづれ索引でも設けて誰にでも利用し得るやうにするの他はないが、さし當りの方法として、一旦書いてあるものをばら/\に解きほぐし、新舊の材料をあはせてもう一度組立てゝみてはどうかといふと、それではもう最初の日のやうな樂しみはなくなつてしまふだらう。この始めて旅行をして來た小學生のやうな活?な話し方を、今頃踏襲してみることは自分には少しむつかしい。その上にこの各篇の中には、多くの故友のもう逢ふことも出來ぬものが、卓子の向ふ側に來て元氣よく話をしてゐる。うちの娘たちも極めて幼い姿で、眼を圓くして一目小僧の話に聽入つてゐる。これに對してゐるあひだは、私などもまだ壯者であり勇者である。それを投げ棄てゝ現在の左顧右眄時代に戻つて來ることは、理窟はなしにたゞ惜しいやうな感じがする。だから古い形のまゝでもよいから、まとめて本にしておいたらどうかと勸めてくれる人々は、自分は故郷の隣人のやうになつかしいのである。
 
     昭和九年五月
 
(117)     一目小僧
 
       一
 
 今まで氣がつかずにゐたが、子供の國でも近年著しく文化が進んだやうである。
 自分は東京日日の爲に一目小僧の話を書きたいと思つて、まづ試みに今年九つと六つになる家の娘に、一目小僧てどんな物か知つてるかと聞いてみた。すると大きい方は笑ひながら、「眼の一つあるおばけのこと」と、まるで言海にでも出てをりさうなことをいふ。小さいのに至つてはその二つの眼を圓くするばかりで何も知らず、そのおばけは家なんかへも來やしないかと尋ねてゐる。つまり兩人とも、この恠物の山野に據り路人を劫やかす屬性を持つてゐたことを、もう知つてはをらぬのである。
 たうとう一目小僧がこの國から、退散すべき時節が來た。按ずるに「おばけ」は化物の子供語である。化物は古くはまたへんぐゑ(變化)とも唱へ、この世に通力ある妖鬼又は魔神があつて、場所乃至は場合に應じて、自在にその形を變ずるといふ思想に基いてゐる。鬼が幽靈に進化して專ら個人關係を穿鑿し、一般公衆に對して千變萬化の技能を逞しうせぬやうになると、化けるのは狐狸といふ評判が最も盛んになつた。狐狸にはもとより定見がないから、續々新手を出して人を驚かすことを努める。從つて記録あつてより以來終始一箇の眼を標榜し、同じやうなところへ出現してゐるこの恠物の如きは、嚴重なる「おばけ」の新定義にも合せず、少なくとも舊型に拘泥した、時代の好尚に(118)添はぬ代物と云ふことになる。家の子供等の消極的賢明の如きも、いはゞ社會の力で、これを家庭教育の功に歸することは難いのである。
 しかし昔は化物までが至つて律儀で、およそ定まつた形式の中にその行動を自ら制限してゐたこともまた事實である。尤も相手を恐怖せしめるといふ單純な目的からいへば、この方が策の得たるものであつた。無暗に新規な形に出て、空想力の乏しい村の人などに、お前さんは何ですかなどゝ問はれて説明に困るよりは、そりやこそ例のだといはせた方が確かに有效である。つまり妖恠には茶氣は禁物で、手堅くしてをらぬと田舍では、この道でもやはり成立ちにくかつたのである。
 自分の實父松岡約齋翁は、篤學にして同時に子供のやうな心持の人であつた。化物の話をしてくださると必ず後でそれを繪に描いて見せられた。だから自慢ではないが自分は今時の子供見たやうに、たゞ何とも斯ともいはれぬ怖い物などゝいふ、輪郭の不鮮明な妖恠は一つも知つてをらぬ。一目小僧について思ひ出すのは、大抵は雨のしよぼ/\と降る晩、竹の子笠を被つた小さい子供が、一人で道を歩いてゐるので、おう可愛さうに今頃どこの兒かと追ひついて振囘つて見ると、顔には眼がたつた一つで、しかも長い舌を出して見せるので、きやつといつて遁げて來たといふやうなことである。
 この話は多分畿内中國にわたつた廣い地域に行はれてゐたものと思ふ。さまで古い頃からのことであるまいが、二三の畫工が描き始めた狸の酒買の圖は、これから思ひついたものらしい。笠の下から尻尾がちらりと見える形が面白いので持て囃され、例へば京の清水などには、いづれの店先にもその燒物を陳べてゐる程の流行であるが、流行すればする程、化物としてはちつとも怖くない。これは要するに鳥羽僧正のやうな天才でも、その靈筆を以てして活きたおばけを作り得なかつたのと同じ道理で、如何に變化でも相應の理由がなければ出ては來ず、況んや一人や二人の萬八や見損ひから、これだけ強力なる畏怖を惹き起し得るものでないことを證據立てる。
(119) 自分がまさに亡びんとする一目小僧の傳統を珍重し、出來る限りその由來をたどつて見たいと思ふのも、全く右申すやうな理由からである。
 
          二
 
 一目小僧の問題について、自分が特に意味が深いと思ふ點は、この妖怪が常に若干の地方的相異を以て、殆と日本全島に行きわたつてゐることである。これはおひ/\と讀者からの注意によつて分布の?況を明らかにすることゝ信ずるが、自分の知つてゐる限りでも、この物の久しく農民の圍爐裏ばたと因縁をもつてゐたものであつて、例の物知りや旅僧によつて、無造作に運搬せられたものでないことだけはわかる。
 例へば飛騨國などには、一目小僧はをらぬが一目入道がゐる。高山町の住廣造氏の話に、雪の降る夜の明方に出るもので、目が一つ足が一本の大入道である。よつてこれを雪入道と稱して子供が怖がるといふ。
 一目はかねて足も一本だといふことはまた隨分ひろく言ひ傳へられてゐる。高瀬敏彦氏の話に、紀州伊都郡では雪の降り積んだ夜、ユキンボ(雪坊?)といふ化物が出て來る。小兒のやうな形をして一本脚で飛んであるくものと傳へられ、雪の朝樹木の下などに圓い窪みの處々にあるのを、ユキンボの足跡といふさうである。
 この話では小僧の眼が幾つといはぬから、普通の數と見るの他はないが、同じ紀伊國でも熊野の山中に昔住んでゐた一踏鞴《ひとつたゝら》といふ兇賊の如きは、飛騨の雪入道と同じく、また一眼一足の恠物であつた。一踏鞴大力無雙にして、雲取山に旅人を劫やかし、或ひは妙法山の大釣鐘を奪ひ去りなどしたために、三山の衆徒大いに苦しみ、狩場刑部左衝門といふ勇士を頼んでこれを退治して貰つた。色川郷三千町歩の立合山は、その功によつて刑部に給せられたのが根源であつて、後にこの勇士を王子權現と祀つたと「紀伊國續風土記」に出てゐるが、土地の人は狩場刑部左衛門は實は平家の遺臣上總五郎忠光のことで、維盛卿を色川の山中に住ませるため、恩賞の地を村の持にしておいたのだといふ(120)よし、新宮町の小野芳彦翁は語られた。
 「續風土記」の記事だけでは、一踏鞴は單に或時代に出て來た強い盗賊といふまでゝある。しかし熊野の山中には今でも一本ダヽラといふ恠物がゐるといふのを見れば、これを普通の歴史として取扱ふことは出來ぬ。これは南方熊楠氏に聞いた話であるが、一本ダヽラは誰もその形を見た者はないが、しば/\積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足づゝ、印して行つた跡を見るさうだ。
 つまり一本脚といふことは、雪の上に足跡を留めたによつてこれを知り、その姿は見た者がないところから、眼の一つであつたか否かはこれを論議する折を得なかつたので、これから自分の列擧せんとする各地の例から類推すれば、いづれも一目小僧の系統に屬せしむべき恠物であつたかと考へられる。
 土佐では香美《かゞみ》高岡等の諸郡の山奧に、一つ足といふ恠物のゐたことが、「土佐海」といふ書の續編に見えてゐる。文政の頃藩命によつて高岡郡大野見郷島ノ川の山中に香茸《かうたけ》を養殖してゐた者、往々にして雪の上にその一つの足跡を見たといふ。或ひは一二間を隔てゝ左足の跡ばかり長く續いてゐることがあれば、或ひは右の足ばかりで歩いてゐるのもあつたといふ。
 
          三
 
 深山雪中に出て來る恠物の足が一本であつたことを、その足跡だけを見て推測することは實は困難である。彼等は何かの都合上、ちん/\もが/\をして飛んでゐたのでないとは斷言が出來ない。しかし一方には、また現にこれを見たといふ者が、幾人もあるのだから是非に及ばぬ。
 土佐の山村では山鬼《きんき》又は山父《やまちゝ》といふ物、眼一つ足一つであると傳へられてゐる。山父はまた山爺《やまぢい》ともいふ。即ち他の府縣にいはゆる山男と同じ物である。
(121) 寶暦元年に年四十歳でこの國土佐郡|本川郷《ほんかはがう》に在勤してをつた藩の御山方の役人春木次郎八といふ人は、その著「寺川郷談」に次の如く記してゐる。曰く山父は獣の類で變化の物ではない、形は七十ばかりの老人のやうでよく人に似てゐる、身には蓑のやうな物を着し眼一つ足一つである。常は人の目にかゝることはないが、大雪の時、道路の上にその通つた跡を見ることがある。足跡は六七尺に一足づゝあつて、圓い徑四寸ばかりの、あたかも杵を以て押したやうな凹みが飛び/\についてゐる、越裏門《ゑりもん》村の忠右衛門といふ者の母はこれに行逢つたといふ。晝間のことであつたが向ふから人のやうにたこりて〔四字傍点〕來た。行き違つて振り囘つて見ると早その姿は見えなかつた。あまり膽をつぶし家へ立ち還り行く所へ行かず止めたり。何事もなし。昨日のことゝ語りしまゝに書き付け置く也とある。
 どうして飛んだにしても、一足に六七尺づゝでは相應な大?《おほがら》でなければならぬが、他の書にはまた、形人に似て長《たけ》三四尺ともあつて、少しく一致せぬ。
 或ひはまた眼は一箇にして足の方は常體であつたやうな記事も往々にしてある。例へば阿波の山奧に於いて、杣《そま》のゐる小屋へやつて來て、よく世間に語り傳へてゐるやうに、人の心の中を洞察したといふ山父の如きも、その眼が一つであつたと「阿州奇事雜話」に記してゐる。
 豐後の或山村の庄屋、山中に狩する時、山上二三尺の窪たまりの池の端に、七八歳ばかりの小兒總身赤くして一眼なる者五六人居て、庄屋を見て龍《りゆう》ノ髭の中に隱る。これを狙ひ撃つにあたらず、家に歸れば妻に物憑きて狂死す。我は雷神なり、たま/\遊びに出でたるに何として打ちけるぞといひけり。これを本人より聞きたる者話すといへり。
 これは「落穗餘談」といふ書の中に録せられたる記事で、今から約二百年も前頃の話である。
 また園は何處であるか知らぬが、有馬左衛門佐殿領分の山には、セコ子といふ物が住んでゐた。三四尺ほどにて眼は顔の眞中にたゞ一つある。その外はみな人と同じ。身に毛もなく何も着ず。二三十づゝ程連立ちありく。人これに逢へども害をなさず。大工の墨壺を事の外欲しがれども、遣れば惡しとて遣らずと杣どもは語りけり。言葉は聞えず(122)聲はヒウヒウと高くひゞく由なりと、「觀惠交話」といふ書に出てゐる。これも同じ時代のことである。
 これだけ詳しく見た人が何ともいはぬのだから、足の方はちやんとしてゐたことであらう。「日東本草圖彙」といふ書には畫を添へて、またこんな話が出てゐる。上州草津の温泉は毎年十月八日になると小屋を片づけて里へ下る習であつた。或年仕舞ひおくれて二三人跡に殘つた者、夜中酒を買ひに里へ下るとて温泉の傍を通ると、湯瀧の瀧壺の中に白髪は銀の如き老女がゐて、何處へ行くか己れも行かうといふのをよく見ると、顔の眞中に一つしか眼がなくて、その眼が灼然と照り輝いてゐたので、小屋へ飛んで還つて氣絶した云々。この婆さんなどは湯に入つてゐたのだから、足の報告に及ばなかつたのは尤もである。
 
          四
 
 一目が同時に一つ足であつたといふ話はまた越中國にもある。「肯構泉達録」の卷十五に、同國|婦負《ねひ》郡|蘇夫嶽《そぶだけ》の山靈は一眼隻脚の妖恠にして、かつて炭を燒く者二人これに殺され、少し水ある蘆茅の中に投げ棄てゝあり、また麓の桂原といふ里の者夫妻、薪を採りに登りて殺さる。脳を吸ふと見えて頂に大いなる穴が明いてゐたとある。誰か喰ひ殘されて見屆けた者があつたのでなければ、到底恠物の正體が右の如く世に傳はる道理はないのである。
 さらに不思議なのは、江州比叡山にも一眼一足といふ化物久しく住み、常は西谷と東谷のあひだに於いて人はこれに行き逢ふが、何の害をもせぬ故に知つてゐる物はこれを怖れないといふ話がある。「萬世百物語」にはこの事を載せて、さらに或法師が一夜月光の隈なき時、圖らずこの物を見たといふ話を録し、さうして「前の山を足早に驅け降るを見れば云々」といつてゐる。足早に驅け降るなどゝいふことは、足が二本以上ある者にして始めて望み得べきことである。
 話が岐路に入るが、ついでに言うて置く。右の叡山の一眼一足についてはかう書いてある。曰く「十五六にも見ゆ(123)る喝食の、顔はめでたけれども目一つなるが、厠の口に近寄りてそとたゝずむ。こは如何にと見れば足も亦一なり云々」。喝食《かつしき》とはまだ知つてゐる人も多からうが、大寺の借に隨從して給仕慰藉を一つの任務とした一種の宗教的少年である。大入道には事を缺かぬ比叡山にあつて、特に一目をこの種の子供だと言ひ傳へたのは、これも上方一帶にわたつての俗信と關聯するところがあるのかも知れぬ。自分としてもこの化物が老婆だ老翁だと聞いては一寸合點が行かぬ氣がする。たゞし目が一つであるのに「顔はめでたけれども」は、如何に興味を主とする物語でもあんまりだと思ふ。
 それよりもなほ一層始末の惡いのは足の方である。いやしくも深山に出没しようといふ妖恠が肝腎の足がたゞ一本ではどうなるものか。これが文字通りの變化の物であつて、何なりとも入用な形に身を變へて出る先生であつたとすれば、物ずきにもそんな不自由な支度をして來る筈がない。しかるにこの妖恠ばかりは久しいあひだ、善く民間の言ひ傳へた通りを遵守してゐたのである。それには何か相當の理由があつたことゝ考へる。その理由の見つからぬかぎりは、折角今の時世に流行らぬ化物の話をしようといふ人も、やはり鍔《つば》目があはぬと嘲られるのは厭だから、つい足のところは略してしまふやうなことになる。
 自分の判斷はいつも無造作であるが、これほど無理な一本足の話が、あつちでもこつちでも語り傳へられてゐるといふ事實は、すでにそれ自身に於いてよく/\深い因縁の存することを暗示すると思ふ。土佐では一眼一足を山鬼又山爺などゝいふ外にまた片足神と稱する神樣が處々に祀られてあつた。例へば安藝郡室戸元村船戸の片足神などは、巖窟の中に社があつて、この神は片足なりと信じ、半金剛の片足を寄進するのが古來の風であると「南路志」に見えてゐる。東日本の田舍でも、神に捧げる沓草履がたゞ片一方だけである場合は多い。何故といふことは知らぬやうになつたが、或ひは同じ意味に基いてゐるのかも分らぬ。長山源雄君の話によれば、南伊豫の吉田地方では正月の十六日には必ず直徑一尺五六寸もある足半草履《あしなかざうり》をたゞ片方だけ造り、これに祈?札を添へて村はづれ、または古來妖恠の出(124)るといふ場所において來る。我が村にはこの草履を履くくらゐの人がゐるから、何が來てもだめだといふ事を示す趣旨であるといふ。
 さうして見れば一つ足で能く奔《はし》るといふ不思議も、我々の祖先にはそれだから神だ、それだから妖恠だといふやうに、むしろ畏敬を加へる種となつてゐたのかも知れぬ。奇恠千萬などゝいふ語が、詰責の時に用ゐられるやうでは、もはや世の中も化物の天下ではない。
 
          五
 
 一目小僧の目のあり處についても、考へて見ればまた考へる餘地がある。通例繪に描くのは前額の正面に羽織の紋などのやうについてをり、自分もまたさう思つてゐるが、それではあまり人間ばなれがして、物をいつたとか笑つたとかいふ話と打ち合はぬのみならず、第一に眼といへば眼頭と限尻がある筈であるが、左右どちらを向けてよいかも分らぬ。それだからなみ外れて眞圓《まんまる》な眼を畫などには描くのであらうが、それにしても長い舌に始まつて鼻筋の眞通りに、一直線に連なつてゐては顔の恰好をなさぬ。
 近世或ひはこの點を苦にした人もあつたかとみえて、「南路志續編稿草」の中に抄録せられた「怪談集」といふものに、また土佐の人の談として次の如き説がある。山爺といふ者は土佐の山中では見た人が多い。形は人に似て長三四尺、總身に鼠色の短い毛がある。一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さい。ちよつと見れば一眼とも見える故に、人多くはこれを知らずして一眼一足などゝいふのである。至つて齒の強い物で猪猿などの首を人が大根類を喰ふ通りにたべるさうだ。狼はこの者を甚だ恐れる故に、獵師はこの山爺を懷《なづ》けて獣の骨などを與へ、小屋にかけておく獣の皮を、狼が夜分に盗みに來るのを防がせる云々。いくら片方が小さくとも、一寸見ては一目に間違ふといふ二目はないと思ふが、これならば先づ一目といふは、極めて人間の眇者《すがめ》に近似した者だといふことになつてかたがつ(125)く。
 さうしてこの話は、決していゝ加減に笑つて看過すべき話ではないのである。自分は主として一目の恠が、山奧に於いてその威力を逞しくしてゐる事實に着眼して、實は最初にこれと昔の山の神の信仰との關係を、探つて見たいと思つてゐるところなのである。
 かく申せば何か神を輕しめて、一方には妖恠に對し寛大に失するやうに評する人があるか知らぬが、いづれの民族を問はず、古い信仰が新しい信仰に壓迫せられて敗退する節には、その神はみな零落して妖恠となるものである。妖恠はいはゞ公認せられざる神である。
 この推定を後援する材料は幾つかある。高木誠一君の話によれば、磐城の平町《たひらまち》近傍ではかういふことをいふ。舊暦九月の廿八日には神々樣が出雲の大社へ行かれるので、この日は朝早く小豆飯を上げて戸を明けはらふ。また十月朔日に御立ちになる神もある。出雲で色々の相談をなされて十月廿八日から霜月朔日までのあひだにお還りになる。たゞその中で山神はかんかち〔四字傍点〕で夷《えびす》樣は骨なしで、ともに外聞が惡いといつて出雲へ行かれぬ故に、十月中に行ふのは山神講と夷講とだけである云々。このカンカチは火傷の瘢痕のことだと今は解せられてゐるが、常陸の方へ來るとかんち〔三字傍点〕即ち片目のことだといふ者がある。
 次に信州の松本平では、山神を跛者《びつこ》だと言うてゐるといふ事は、平瀬麥雨君がこれを報ぜられた。この地方では何でも物の高低あるものを見ると、これを山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行はれてゐるのは、稻草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神が出來たなどゝいふさうである。これから推測すると、一本ダヽラその他の足の一つといふことも、眇者《かんち》を目が一つといふほど自然ではないが、やはりまた元は松本地方で考へてゐるやうに、跛者を意味してゐたのではなからうか。さうしてこの地方でも土佐の片足神などゝ同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけださうである。
 
(126)          六
 
 今もし兩眼の一を盲してゐるのを名づけて一目《ひとつめ》というたとすれば、神樣の一目も決して珍しい話ではない。また確とした社もないやうな山神樣のみにはかぎらぬのである。
 勿論こんなことは神社の記録に出てゐるわけでもなく、また國學院でも出られた程の神官ならば、必ずこれを否認せられるに相異ないが、如何せん氏子がさういふのである。氏子の中でも一層神と親しい老人たちがいふのだから仕方があるまい。さうしてまた、それを聞書きした書物などもだん/\殘つてゐる。
 自分の郷里などでも、何村の氏神さんはかんち〔三字傍点〕ぢやさうなといふ類の話を、幼少のをりにしぱ/\聞いてゐる。それが多くは最初からさうだとは言はず、不思議なことには隣村の鎭守と喧嘩をして石を打たれた爲といふやうに、いづれも或時怪我をしてさうなつたといふことになつてゐる。
 この點をこれから些し考へて見たいと思ふ。お斷りをするまでもないが、自分は決してこの類の言ひ傳へある村々の神を以て、かの一目入道等の徒黨だと論ずるのではない。たゞ妖恠だからどんな顔をしてゐてもよいやうなものゝ、人間の形である以上は、額の眞中に圓が一つといふことはあるまじきやうに思はれ、ことによると以前はこれも山神の眷屬にして、眇目《すがめ》といふことを一つの特徴とした神の、なれの果てではないかと推測し、他の方面にも神の片目といふ例はないかどうか、あるならどういふ樣子かといふことを、參考のために調べて見るだけである。氣樂だけれども、これも一つの學問には相異ないのである。
 神樣が一方の眼を怪我なされたといふのは、存外に數多い話である。失禮ながら讀者の中には、まだそれを我在所だけの珍話だと、思つてをられる人があるかも知れぬ。
 さてこれをどう解釋してよいかは、先づ幾つかの同じやうな例を列べてみた後にした方が便利であらう。自分の得(127)た例は信州のものが最も多かつた。同じく平瀬君の報告によると、松本市宮淵にある勢伊多賀《せいたか》神社の氏子たちは、この神降臨のとき栗の毬で御眼を突かれたといひ、それ故に村内には栗樹決して生ぜず、栽《う》ゑてもし生長すれば、それと反比例にその家が衰微すると信じて今でもこれを栽ゑず、東筑摩郡島立村の三の宮|沙田《いさごだ》神社の氏子には、この神樣松で眼を傷けられたといふを理由として、正月に門松を立てぬ家が少なくないさうである。
 神が眼を突かれたといふ植物は、他の例では妙に農作物が多い。小林乙作君の話に、同じ信州の小縣郡浦里村大字當郷管社の鎭守樣に合祀せられてある神樣は、昔京都からこの地へ御入りの時に、胡瓜の蔓に引掛つて轉んで、胡麻の莖で御眼を突いた。それからして胡麻を作ることは禁制で、今も百七十戸の部落が一戸もこれを栽ゑる者がない。この附近にはなほ五六ヶ處までも胡麻を氏子に作らせぬ社がある。その神樣は一々違ふが、御眼を突いたといふ話だけはみな一樣である云々。
 
          七
 
 これが米麥の類であつたらそれこそ大事《おほごと》であるが、幸ひにも多くはそれ以外の農作物で、物堅い氏子の家で今以て栽培を禁じてゐるものが各地にある。その理由を聞くと、單に鎭守樣がお嫌ひなさるからといふばかりで、どうしてお嫌ひになつたかは忘れてしまつたものも隨分多いが、たま/\そのわけはかう/\といふのを聞けば、すなはちみな言ひ合せたやうな御眼の怪我である。
 東上總では一帶に、小高姓の家で大根を作らなかつたと、「房總志料」といふ書に見えてゐる。また同續編には夷隅《いすみ》郡小高村の小高明神の氏子、並に同郡東小高村の鎭守大明神の氏子の者悉く大根を作らぬとある。この風習は今日までもずつと繼續してゐるといふことで、内田醫學士の著はされた「南總之俚俗」によれば、その理由といふのがやはりほゞ同じであつた。昔小高區の鎭守樣は大根に躓《つまづ》いて轉んで、茶の木で眼を突かれたから、それ故に部落中一戸も(128)殘らず、大根は作らぬのみならず、稀に道側に自生してゐるものを見つけても大騷ぎで、村中集まつて御祈?をするくらゐであると書いてある。
 信州の胡麻と胡瓜の類例から推せば、第一にけしからぬのは茶の木でなければならぬのに、上總では專ら大根の方を責めてゐるのはどうしたものであるか。一見して理窟が通らぬやうに思はれるが、そこがまた自分等の眼をつける所で、一眼の恠の同時に一足であつた如く、眼の怪我にはまた足の失敗を伴なふといふ點に、何か共通の理由が潜んでゐるのかも知れぬとして考へてみたいのである。
 里内勝治郎氏の通信によれば、近江栗太郡笠縫村では一村今以つて麻を植ゑず、植ゑても生育せぬ。その仔細は大昔この地に二柱の神降臨ありし時、附近に麻があつて神これを以て眼を傷けたまふ。それよりしてこの郡の天神宮の御神體も、今に御眼より涙を御出し成されるといふ。これは甲の神が眼を痛めて乙の神の眼から涙が出た例であるか、はたまた神御自身の御怪我が、御靈代たる御像に移つたといふのか、今一應尋ねてみなければ精確でない。
 美濃加茂郡大田町では、五月五日の日に粽《ちまき》を作つてはならぬ風習がある。その由來といふのは、今は郷社加茂縣主神社と稱する加茂樣が、大昔騎馬で戰に行かれた時、過つて馬から落ちて、薄の葉で片目を怪我なされた。粽は薄の葉で包む物であるから、それで今に粽をこしらへぬのであるといふ。怪我をなされた神樣が馬に乘つてをられた一例である。戰といふのは騎馬とあるのから出た話と見るの外はない。これは林魁一君の報告である。
 遙かにかけ離れて伯耆日野郡の印賀《いんが》村では、同じ理由を以て全村竹を栽ゑないさうだ。原田翁輔氏の話に、昔この村の樂福《さゝふく》神社の祭神、竹で眼を突いて一眼を失はれたといふ言ひ傳へで、その爲に竹は一切國境を越えて、出雲能義郡の山村から、供給を仰ぐことになつてゐるといふことである。
 この最後の例で注意すべきことは、樂福神社は日野郡では殆と各村に祀られたまふ社で、しかも印賀村のがその本社といふのではない。加茂でも天神でも同じことかも知れぬが、一の神樣が五箇所も八箇所にも勸請せられてある場(129)合に、その内の一社でのみ眼を怪我せられたといふのは、どういふ結果になるのであらうか。
 
          八
 
 村の人といふ者は、思ひ違ひはしても虚誕《うそ》はつかぬ者と自分などは思つてゐる。殊に轉んだの目を突いたのと、少々は我が神の御威信にも關はることを、皆が口を揃へていふのにはわけがなくてはならぬ。今時の人の空想にてんから浮びさうもない、いはゆる面白くもない話を、假に誰かゞ思ひついたとしても、まに受けられる道理がない。誤解は必ずあるであらうが、何か基くところのあつたものと見るのが至當である。
 さうなると今少し細かくこの話を分析して見る必要が生じて來る。第一に問題になるのは片目を怪我せられたのは果して神樣かといふことである。怪我は人間界の事實で神は超人問であるが、二者は如何にして相結合するのであるか。
 或ひはこの出來事を以て、神がまだたゞの人間としてこの浮世に生きて御座つた時代に起つたものと解するであらう。それにも都合のよい例はないではない。例へば武州|妻沼《めぬま》町の有名な聖天樣は、昔松の葉で眼球を突かれたといふので、妻沼十三郷の人民は松を忌むこと甚だしく、庭にも山にもこの木を栽ゑぬは勿論、門松の代りには榊を立て、什器衣服の模樣にも一切松を用ゐず、屋號にも人名にもこの文字をさへ避けるといふ。これは足利の丸山瓦全君その他の人の話であるが、また一説には眼を突いた人は御本尊ではなくして、この聖天樣を護持佛としてゐた齋藤別當實盛であるともいふ由、三村竹清氏は語られた。實盛は人も知る如く中世の勇士で、死して後その靈が稻の害蟲となつたと傳へらるゝ人である。白髪を染め錦の直垂を着て、加賀の篠原で討死をした時には、首實檢があつたやうだが、別に眇目の沙汰もなかつたのを見ると全快であらう。妻沼では雉子が來てその眼の傷を嘗《な》めた故に、爾來今に至るまでこの鳥を大切にするといふ口碑もある。
(130) 雉子から聯想せられるのは、この地からさほど遠くない下野安蘇郡戸室の鞍掛大明神は、足利中宮亮有綱の靈を祀ると傳へられてゐる。有綱遺恨の事あつて足利矢田判官と赤見山に戰ひし時、山鳥の羽を矧《は》いだる流失一つ飛來つて左の目にあたる。有綱はその痛手を忍んで戸室郷まで落ち延び、山崎といふ地でその目の傷を洗ひ、つひにそれから二三町西手のところで自害して果てた。しかるにこの地方でも入彦間《いりひこま》といふ村などでは、足利忠綱が山鳥の羽の箭《や》で射られたと稱して、人民が山鳥を食ふことを忌んでゐる。この話は「安蘇史」といふ書に出てゐる。
 この郡には今一つ驚くやうな類例がある。それは旗川村大字小中の人丸大明神に關するもので、「安蘇史」の記すところによれば、昔柿本人丸といふ人、手傷を負うてこの里へ落ちて來て、小中の黍畑に遁げ込んで敵を遣り過し難を免れたが、その節黍殻の尖りで片目を潰し、暫くこの地に留つてゐたことがある。その縁を以て土人人丸の靈を社に祀り、柿本人丸大明神と稱し、以來この村では黍を作るのを禁ずることになつたといふ。歌の聖の柿本人丸が目一つであつたといふことは、他の記録にはないから、事によるとこの落人は僞名かも分らぬが、それでも將來に向つて永く作物の制限を命令してゐるのである。
 かういふ話ばかりを見てゐると、神が眼を傷けたといふのも在世中の一つの逸話で、人間としてならば氣の毒でこそあれ怪我は怪しむにたらず、なほ進んではそのやうな壯烈な傷をした爲に、一段と敬慕の情を強めたものと見られぬことはない。
 
          九
 
 神に祀られた古今の英雄の中でも、殆と片目を傷いた爲ばかりに祭られるやうになつたかとまで考へられるのは、鎌倉權五郎景政といふ武士である。この人の猛勇は自分としてもさら/\疑つてはをらねが、たゞその事蹟として生年僅に十六歳の時、鳥海彌三郎なる者に戰場に於いて左の目を射貫かれ、その矢も拔かぬうちに答《たふ》の矢を射返して相(131)手を殺したことゝ、これに關聯して友人が顔に足を掛けて目の矢を拔かうとしたのを、怒つたといふ話が遺つてゐるだけであるのに、九州の南の端から始まつて出羽の奧まで、二所三所づゝこの人を祀つた社のない國がない程なのは、全體どうしたわけであらうか。
 それはなほ後の問題として、自分が先づ疑ふのは片眼の怪我は神の在世中の出來事なりとする斷定である。これは明らかに總べての神はもとみな人であつたといふ説から出發してゐるが、大いに危ないものである。大蛇を祀つた、鳥を祀つたといふのは假に無學者どもの造説であるとしても、しからば淵を家とし森を住居としたまふ水神山神は如何か。神代卷の大昔からすでに神の名を以て仰がれて御座つた方々に、そのやうな慌だしい人間生活がかつてあつたと見られるか。少なくも後世の者にそのやうな事を想像させる餘地があるか。殊に一柱にして數十の村々に祭られたまふ御神が、たゞ一社に於いてのみこの事を傳へられたまふは何と説明するか。その説明ができぬものだから、話の全體をあはせて總て虚誕だといひたがる。困つたものである。
 自分等の見るところは至つて簡單である。これはもと祭のをりに或一人を定めて神主とし、神の名代として祭の禮を享けさせた時、その人間について起つた出來事に他ならぬ。生の魚島や野菜などの、我々風情ですら臺所へ廻して半日も待たねば口にし能はぬやうな品物を、高机に載せてお薦め申す如き新式の祭典ばかりを見た人には分るまいが、昔は御饌といへば飯も汁もみな調理がしてあつた。今とても昔風を保ち得る田舍の社ではさうしてゐる。それを潔齋した清い童男または童女が、その日ばかり神になつて神としてこれを食したのである。尸童《よりまし》を神と見る信仰の堅かつた時代には、同時にいろ/\の願や問を申して、その口から神意を聞いたのである。神樣が片目を潰されたといふ事實は、その御代理の身上にあつたことゝ思ふ。
 第二に問題とすべき點は神の御怪我といふことである。神または行末は神と祀られようといふ方々に、かくの如き粗相のしば/\あり得べからざるは勿論、一日一時の間なりとも身に神の憑つてゐる人間にして、到底怪我などがあ(132)らうとは考へられぬ。これは未來を洞察したまふ神の御力が曇つたものと解せられて、尊信の念を根底より覆へすべき大事件であるが故に、さう推定するばかりではなく、偶然の出來事にしては餘りに同じ例が國々に數ある所から先づ疑ふのである。
 甲地から乙地へ移し、または模倣した證跡がなくして、同じ例が方々にあれば風習と見るより外はない。風習は中絶して少しく年を經れば動機が不明になる。原因が不明で事柄のみの記憶が殘れば、時代相應智力相應の説明が案出せられるのは當然である。
 そんなら如何なる風習が昔あつて、それがかくの如き奇拔にして、しかも普通なる傳説を生ずるに至つたかといふと、これも無造作に失する斷定と評せられるか知らぬが、自分などは或時代まで、祭の日に選ばれて神主となる者が、特にその爲に片目を傷つけ潰される定めであつたからで、口碑は即ちその痕跡であらうと思つてゐる。
 
          一〇
 
 神樣が何々の植物をお嫌ひなさるといふ類の言ひ傳へは、多くは忌といふ語の意味の取り違へに基くものと思はれる。神聖な祭の式に與《あづか》る人々は、一定の期間喪を訪ひ病を問ふ等の不吉な用向は勿論、世間普通の交際にも携はつてはならぬ。或村に於いてはこれがために一切の外來者を謝絶し、また或社では妻子眷屬までも遠ざけて、いはゆる別火といふことをする。これは今日でも物忌と稱へて通用してゐる。それと同じ理由で、祭のために用ゐられる靈地は注連《しめ》を張り或ひは齋垣《いがき》を繞《めぐ》らして、平日でも人のこれを常務に使ふことを禁じ、また祭の供物や用具の類は、特に神物であることを表示して他の品との混同を戒める。その規則をもまた忌と名づけてゐたことは、今では忘れてしまつた人が多い。
 忘れるくらゐであるから忌の制裁は甚だしく弛んでゐる。しかし僅々八十年か百年の前に戻つて考へてみても、い(133)はゆる宵宮の晩の嚴重さ加減はなか/\一通りではなかつた。況やそのまた昔の世に、由緒あつて神の祭の最も緊要なる部分に用ゐられ來つた草なり木なりが、至つて重い忌の一つに算へられてゐたとしでも、ちつとも不思議はないのである。
 しかるに漢字の忌といふ語が、日本のイミといふ語に、ぴたりと合つてをらぬためでもあらうが、忌むといへば避ける嫌ふといふのと似た意味に取られ、何か縁起の惡い物でゝもあるかの如くいふやうにもなつたが、それは明らかに本の趣意ではない。神樣の方から見れば、忌は即ち獨占である。あまりに有難くあまりに淨いから、たゞの人の用には使はせぬのである。忌を犯せば犯した人に罰があたるのを、始めから有害であるから障らぬものゝやうに考へ出した。それからして神もお嫌ひだといふ想像が起り、つひにお怪我などゝいふ説明が捻出せらるゝに至つたのである。
 この類の祭式に或一種の植物のみがかぎつて用ゐられるのは常の事である。御一物《おひとつもの》と名づけて尸童《よりまし》が手に持ちまたは腰に插すものは、しば/\笹薄または葦であつた。また眼を突くといふ風習と何かの關係があらうと想はれる初春の歩射《ぶしや》の神事に、的を射た矢は梅桃柳桑などの枝を用ゐた社が多く、また葦の莖で作るを例としてゐたものもあつた。必ず一種の植物と定めてあつたところを見ると、その初めに當つては深い理由のあつたことゝ思ふが、遺憾なことには、いづれも不明に歸してゐるのである。
 たゞしこれ等の社に於いて、假に氏子が柳なり桑なりを栽ゑぬ風習があつたとしても、恐らくは神もお嫌ひといふ説は起り得まいと思ふ。現に或二三の神社では御神體を刻んである材が桑であるために、桑樹を栽ゑぬといふものがある。これなどももとより同じ忌であるが、間違ひの種がないので單に恐れ多いからといふ風に説明してゐる。山城伏見の三栖《みす》神社などは、昔大水で御香宮《ごかうのみや》の神輿が流れた時、この神これを拾はうとして葦で目を突かれたと傳へてゐる。しかもその理由を以て今も十二月十二日の御出祭《おいでまつり》の夜は、葦を以て大小二本の大松明を作つて、御出の路を照すのを慣例としてゐる。神御自身の用には全く忌まなかつた明白なる一證である。
 
(134)          一一
 
 議論は別席ですることにして早く話に戻らねばならぬが、その前になほ一つだけいひたいのは、何が故に祭の中心人物たる神主の眼を、わざ/\手數をかけて突き潰す必要があつたかといふことである。自分とてもこれを明確に答へることは出來ぬ。昔の人の心持にはまだどうしても解らぬ點が大分ある上に、當人たちにも根本の理由は呑み込めずして、昔からかうだといつて續けてゐた事も少なからぬ筈である。片目にしたからとて別に賢くも淨くも畏ろしくもなつたと考へられるわけはないと思ふが、或ひは消極的の側から、さうしなければ神樣がその神主の身にお依りなされぬ、即ち一目でなければ神の代表者たる資格がないといふ風に、信ぜられてゐたのかも知れぬ。
 右の如く推定を下して進むと、さらに今一つ以前の時代の信仰  状態をも窺ひ得るやうな氣がする。それを至つて淡泊な言葉でいひ現はすと、ずつと昔の大昔には、祭の度ごとに一人づゝの神主を殺す風習があつて、その用に宛てらるべき神主は前年度の祭の時から、籤または神託によつて定まつてをり、これを常の人と辨別せしむるために、片目だけ傷つけておいたのではないか。この神聖なる役を勤める人には、ある限りの款待と尊敬を表し、當人もまた心が純一になつてゐる爲に、能く神意宣傳の任を果し得た所から、人智が進んで殺伐な祭式を廢して後までも、わざ/\片目にした人でなければ神の靈智を映出し得ぬものゝ如く、見られてゐたのではないかといふのである。
 この推測には或程度までの根據があるつもりであるが、なほその當否は一通り證據材料を見た上で決せられたい。實はあまり大膽な説であるから、むしろ反證が十分にあつて、打消されて見たいやうにも私は思ふのである。
 話は再び神樣の御眼の怪我といふ口碑に復るが、この場合には往々にして神がその傷の眼を洗はれたといふ話を伴なうてゐる。例へば野州鞍掛大明神の神は、自害するに先だつて山崎といふ地で目を洗つたといひ、信州沙田神社の御神も同じくで、その地を今に御目澤と呼ぶさうである。羽前羽後には鎌倉權五郎目洗ひの故跡と稱する清水が、幾(135)つかあつたやうに記憶する。
 この類の多くの例の中で、一つ自分が珍しいと思つてゐるものが東京の近くにある。十方庵の「遊歴雜記」の中に見えてゐる。今の埼玉縣南埼玉郡荻島村の大字野島の淨山寺に、慈覺大師一刀三|禮《らい》の御作と傳ふる延命地藏尊があつた。信心の者は請?を入れて、小兒をこの地藏の奉公人にしておくと、丈夫に育つといふので有名な本尊である。俗にまた片目地藏とも御名を申し、或時茶畑に入つて御目を突かせたまひ、これを洗はんとして門外なる池の水を掬ひたまひしより、今に至るまでその池に住む魚はすべて片目であるといふ不思議が語り傳へられてゐる。
 魚の片目といふことは動物學者の方では必ず認められぬ話で、現に何處の標本室にも陳列せられてゐることを聞かぬにもかゝはらず、少々の品こそかはれ、そんな魚の住むといふ池川は全國に二ヶ所や三ヶ所ではない。殊に池中の魚が皆その通りと稱し、右の如き因縁を談ずるに至つては、その説の歸納法によらざりしものなることは最も明白である。
 
          一二
 
 ついてはこれより右の一目の魚といふ小恠物の正體も、ついでにざつと調査しておきたいと思ふ。
 池の中の魚どもが、目の傷を洗つたといふ神佛にかぶれ〔三字傍点〕て、永遠に片目になつてしまつたといふのは、如何にも奇恠なる取沙汰には相違ないが、これがまたよく聞く例である。かういふ場合には社家社僧輩の舊記には、普通「其因縁を以て」とか、「此の如き謂れあれば也」とか書くのであるが、考へてみればそれは至つて不精密なる語で、神道佛法いづれの教理から推論しても、そんな變妙なる傳染作用が起り得る餘地はない。強ひていへば昔の大事件を記憶せしめんがために、さういふ噂を遺しておいたとでも見られようか。兎に角空な話であるだけに、始めてこれを言ひ出した人々の心持が、如何にも面白くかつ意味深く想はれる次第である。
(136) 岡山縣勝田郡吉野村大字美野の白壁の池に、片目の鰻といふのが住んでゐたことは、「東作誌」といふ地誌に出てゐる。昔一人の片目男があつて、馬に茶臼をつけて池の側を通るとて、水中に墜ちて死んだ。その因縁で池の鰻の目は一つとなり、なほ雨の降る日などは水の底に茶臼の音が聞えたといふ。たゞしこれだけではどうして水に落ちたかといふ點が不明になつてゐる。
 江州|伊香《いか》郡での古い言ひ傳へに、昔郡内の某川に大きな穴が出來て川の水を吸込み、沿岸の農村悉く田の水の缺乏を患ひてゐたとき、井上弾正なる者の娘、志願してその澤《ふち》に飛込み、蛇體となつて姿を隱すや、忽ち岸崩れて、その穴を埋め、水は豐かに田に流れ入るやうになつた云々。即ち弟橘媛の物語以來久しく行はるゝ、水の神に美しい生牲を奉つたといふ話の部類ではあるが、なほこの地ではその娘が片目であつたといひ、その故にこの川の鯉には今でも一尾だけは必ず一つしか目がないと言うてゐる。一尾だけといはれては、全部捕り盡して見るまで證據が上らぬから、少しく始末が惡い。
 越後|中頸城《なかくびき》郡青柳村の星月宮、俗に萬年堂ともいふ社の池にも、片目の魚がゐるといふ話がある。昔この池の主が艶かなる美女に化けて、月次の市へ買物に出たところを、この國安塚の城主に杢太と稱する武士あつてこれを見染め、戀慕やみ難くしてその跡を追ひ、つひに己れもこの池に入つてしまつた。杢太は片目であつた故に、池の群魚今もなほ片目であるといふ。たゞしこの分は誰か實驗して見た人でもあつたものか、「越後國式内神社案内」といふ書にこの事を記して後、片目ではなくして一方の眼に曇りがあるのだと訂正してゐるが、さうすると杢太の悲劇はとんと冱《さ》えぬものになつてしまふ。
 大蛇が白羽の箭を立てゝ、いはゆる人身御供に美しい女を要求し、或ひは人の娘の所へ押し掛け聟にやつて來たなどゝいふ類の話は、殆と古い池や沼の敷だけくらゐあるやうだが、自分は必ずしも祭に人を殺した舊慣があつたといふ證據に、そんなものを援用せんとするのではない。たゞ祭の時、神と人との仲に立つて意思の疏通を計つた特殊の(137)神主が、農業に取つては一番利害關係の大なる水の神の祭に、比較的ひろくかつ久しく用ゐられてゐたらしいことゝ、飲食音樂以外の方法で神の御心を和げ申すといふ、今日の人にはやゝ苦々しく感ぜられる思想が、特にこの方面に永く殘つてゐたらしいことゝは、先づこれで明らかになつたやうに思ふので、この目的のために指定せられた男女の一目であつたことがたゞではあるまいと思ひ、さらにその話が魚の片目と若干の關係を有することを、意外な好材料と認めるのである。
 
          一三
 
 我々は沼川を穿鑿して片目の魚の實否を確める前に、先づ土地の人たちがさういふ魚に對して、如何なる態度を取つてゐたかを見る必要があるやうに思ふ。
 越後ではまた北魚沼郡堀之内にもこの種の不思議の池があつた。この驛の上手に當つて俗に出入變りの山と呼ぶ山があつた。如何に目標を設けて入つても、どうしても元の路からは出ることができぬといふ一種の魔處である。この山の麓にあつて宿の用水の水源をなしてゐる古奈和澤の池は、いはゆる底なし池であつて、しかもこゝに住む魚類は殘らず片目であつた。捕へてこれを殺すときは必ず祟があり、また家へ持つて來て器の中に放しておいても、その晩の中に元の池に還るといふことである。さすれば滅多に捉へて眼を檢査した者もないわけである。
 同國長岡市の神田町民家の北裏手には、もと三盃池と稱する小さな池があつた。サンバイとは多分田の神のことであらう。この池にゐた魚鼈《ぎよべつ》もすべてまた片目であつて、食へば毒ありといひ傳へて、これを捕へる者がなかつたさうだ。
 同じく古志郡上組村大字宮内の一王神社でも、社殿の東の方三國街道を少し隔てた田の中に、十坪ばかりの僅かな沼があつた。明治十七八年の頃に開墾せられ、今は全部田になつてしまつたが、以前はこの池の魚もやはり片目とい(138)ふ評判であつた。最後に片づけた人々はこれを確かめたかどうか知らぬ。この地は元來一王神の春秋の祭に、生牲を供へたといふ御加持ヶ池の跡であつた。以上の三件はいづれも明治二十二三年頃に出た「温故之栞」といふ雜誌の中に見えてゐる。
 これだけの實例を見ても、片目の魚は噂ばかり高くても、常に捕つてはよくないといふ俗信によつて掩護せられ、十分に正體を現はしたものでないことは分る。毒があるなどゝいふのもつまり神樣と縁が絶えて、何故に惡いかゞ不明になつた結果で、恐らくはみな最初は神物なるがために平民に手をつけさせなかつたので、右の如き不確かな説を傳へ始めたものであらう。
 上州では北|甘樂《かんら》郡富岡町大字曾木に片目の鰻のゐるところがあつたことが、「山吹日記」といふ紀行に見えてゐる。即ち村の鎭守高垣明神社の境内なる清水の流れで、僅か一町ほど下の方で川に注いでゐるが、川に入つてからは一匹も片目のものなどはなく、たゞこの間に住む鰻だけがさうだといふことで、しかもこの村の氏子どもは、片目と否とにかゝはらず、一切鰻を口にしなかつたといふ話である。
 大田清君の説によれば、名古屋市正木町の八幡宮は鎭西八郎爲朝の建立などゝ傳へ、以前は大きな森で森の中に池があり、その池に例の片目の鮒がゐた。「尾張年中行事抄」には、この鮒を請ひ受けて瘧《おこり》を病む者が呪禁《まじなひ》に用ゐたと記してある。御禮には別に二尾の鮒を持參してこの池に放つとあるさうだが、その新參の鮒も、程なく片目になるのかどうかは明瞭でない。
 これを要するに魚もまた片目のものは常に神物である。伊勢では河藝《かはげ》郡|矢橋《やばせ》村の御池、備後では世羅郡吉原の魚ヶ池など、單に片目の魚がゐるといふのみで宗教的關係を傳へぬものも、前者は池の名によつて、後者はその淵が旱魃に雨を?る靈場であつて、魚ヶ石と稱する大きな石の水に臨んであるといふによつて、神の祭にこの生牲を供へた遺跡であることが察せられる。
 
(139)          一四
 
 片目の魚の由來については、さらに一箇の奇拔なる口碑が傳へられてゐる。伊豫の松山の七不思議の一つに、山越の片目の鮒といふことがある。昔弘法大師諸國遍歴の時に、この地に來て法施を求められたところ、里人に貧困にして志深き者あつて、我が食事のために支度した一尾の鮒の、片身だけ燒きかけたものを取つて御僧に進らせた。大師その志をめで受けて傍なる井手に放されると、鮒は忽ち蘇生して泳ぎ去り、それよりしてこの水に棲む鮒は今に至るまでみな片目である云々。
 折角法力で助けられた動物が、目にかぎつて快復し能はず、しかも累を子孫に及ぼすといふのは七不思議以上であるが、これがまたとんだ類例の多い出來事であつた。例へば「攝陽群談」等の書に、昆陽池に片目の金魚あつて古來有名なりとある。行基菩薩かつてこの地に來つて病者の魚を欲するを憐れと見たまひ、自ら長洲濱に出でゝ魚を求め、これを料理してその病者に食はしめ、殘つた半分を池の水に投ぜられると、忽ちにして化して目一つの金魚となつた云々。金魚とはあるが實はやはり鮒であつた。濱で買つて來たといふからには海魚らしいが、池に放されて繁殖したので、仕方なしに「化して」などゝ傳へたのであらう。これも食ふと癩病になるといふわけで、土人この池に釣もせず網もせぬと述べてゐる。
 行基はまたその故郷なる和泉國|家原寺《えはらじ》の放生池に、殆とこれと同種類の魚の種を殘された。或時この村の若者ども、池の堤に集まつて魚を捕へ、これを肴に酒盛をしてゐるところへ、ちやうど行基菩薩が還つて御座つたので、戯れに魚の膾《なます》をこの高僧に強ひたところが、拒みもせずにむしや/\と食つてしまひ、後で池に向つてこれを吐き出すと、その膾はみな小魚となつて水の上に遊びたり。それよりして今にこの池には片目の魚ありと、「和泉名所圖會」の中に見えてゐる。池の名の放生池は生けるを放つであるから、膾を吐いたのでは少々理窟が惡いが、まあざつと、これほ(140)どまでに偉い坊樣であつたのである。
 ところがまた越後の方にはこんな話もある。中蒲原郡曾野木村大字|合子《がふし》ヶ作《さく》は、舊名は「合子ヶ酒」である。その昔親鸞上人この地御通行の折しも、里人そのコを慕つて家々より手製の酒を持參し、村の山王神社の境内に於いて、これを合せて上人にすゝめたによつてこの名がある。その時酒の肴に取添へた燒鮒を、親鸞は少しばかり食べて餘りを社頭の池の中に投ぜられた。その結果として今でも山王樣の古池に住む鮒は、殘らず腹に燒焦げの痕がある。それのみならず池の傍なる上人法衣掛の榎といふ古木は、伐つてみると木目に必ず鮒の形が現はれるといふので、この地を親鸞上人燒鮒の舊跡と名づけ、永く信徒に隨喜の浜を揮はしめてゐる。
 片目とは言はない此方の話が、比較的もつともらしいやうに一寸見えるが、考へて見るとちつともさうでない。元來この種の因縁話は親鸞上人では左程でないが、戒律の正しかつた如法僧としては、どうしてもかうしても殺生戒を破らせられることが出來なかつたといふ結論に導くつもりであらう。しかしそれ程の親切があるなら眼はどうしたものか、腹の痣はどうしたものぞ。殊にその鮒の何十代かの後裔にまで難澁を遺傳させるのは、それこそ生殺しではないか。それといふのがその邊にあり合せの口碑を無暗に取り込んで、我が寺の縁起にしようとするから木に竹の不手際になるので、むしろ先輩のコを害し、しかも山王樣始め多くの社の傳説を紊《みだ》してゐる。
 
          一五
 
 いはゆる放生會の御式の最も盛んであつたのは、八月十五日の八幡樣の祭であつた。これも男山の社僧たちにいはせると、神が佛教の感化を御受けなされて、慈悲の惠を非類の物にまで及ぼしたまふなりなどゝ説くであらうが、また明白に中古以來のこじつけである。まことその御趣意であつたならば、わざ/\江湖に悠遊してゐる物を捉へて來て、窮屈千萬なる小池の中に放せと仰せられる筈がない。これは疑ひもなく祭に生牲を屠るの行爲のみは、僧徒の干(141)渉によつて廢止しても、これに供すべき魚類を一箇年前から用意しておく儀式の方は、害がないからその儘殘り、後に理由が不明になつて、右のやうに有難がらせようとしたのである。石清水などでは、この日の祭の行列は喪を送るの式によく似た出で立ちであつたさうである。ずつと以前に魚よりも一段と重い生牲を捧げた痕跡と見なければ、恐らくは滿足な説明をなし得る者はないであらう。
 來年の生牲の片目を拔いておくといふ直接の證據はまだ見出さぬが、これを想像せしむるに十分なる例はあるのである。近江坂田郡入江村大字磯の磯崎大明神では、毎年の例祭卯月八日、網を湖中に下して二尾の鮒を獲て、その一を神饌に供へる。他の一尾は片鱗を取つて湖中に放しておくと、翌年の四月七日に網にかゝるものは必然としてその鮒であつたと、「近江國輿地誌略」に載せてある。即ち前年度しるしをつけておいた分を神に供へるとともに、次年度の分をきめて一旦放し飼ひにすると云ふのである。琵琶湖の如き廣い水面にあつても、神コによつて指定せられた魚は外の用には宛てられなかつたとすれば、僅かばかりの御手洗の池に入れた魚などは、別に一目にしておくにも及ばなかつたらうと思ふ。さうすれば片目も片鱗も、さてはまた前に擧げた行基弘法の片身の魚なども、要するにみな話であつて、實際その通りであつたか否かを穿鑿するまでの必要はなからう。
 魚屬が鱗を剥がれて一年も活きてゐられるか否かは先づ大いに疑はしい。これは何でも事情のあるべきことで、多分は片身または片燒の鮒などゝともに片目では物たらないところからの誇張であらうと思ふ。
 近江には今一つ似たやうな話がある。東淺井郡上草野村  大字高山の安明淵《あんめいぶち》といふところでは、昔頼朝がこの淵に於いて鯉を捕り、その片身の鱗を拭いて再び放した故に、今でも草野川の流には一方に鱗のない鯉が住んでゐるといふことである。この淵の上には何か文字を彫刻した岩があるが、苔既に滑かにしてこれを讀むことは出來ぬともある。何のために頼朝がこのやうな川へ來て鯉を取つたかは想像に及ばぬが、祭の行列に出て來る馬に乘つた兒を、誤つて頼朝と呼んでゐる村は、近江にもまた他の國にも少なくなかつたのである。
(142) 遠州横須賀の人渡邊三平君の話によれば、あの地方では御一新前よく天狗樣が出られて、夜分は天狗の殺生に出かけられる火と云ふのを、しば/\見たと老人たちはさう言うてゐる。まるで松明のやうであるが、今田圃の上にあるかと思ふと、すぐに大きな松の木に現はれるなど出没自在であつた。その時分には田や溝に片目の泥鰌《どじやう》がいくらもゐたもので、それはみな天狗が殺生に出られて、拔き取つて行かれるのだと言うてゐたさうだ云々。
 これ等の話を考へあはせると、片目の魚の噂の起りは、捉へてたしかめた人の報告に基いてをらぬことは確かである。當初は境内の池の魚は捕つてはならぬといふ戒めと、片目の魚は食ふまじきものだといふ教へと二つであつたのが、恐らくは縁が近いために合併したので、共に生牲を或期間放し飼ひにした慣習の痕跡と見るべきものである。
 
          一六
 
 神社によつては必ずしも丸一ヶ年といふやうな永い期間でなかつたかも知れぬが、大祭が春か秋か、兎に角年に一度であつて、いろ/\の六つかしい儀式はその物忌の間に擧行するのが例であつた故に、生牲の魚の進獻と放養も、やはり一年前にするものが多かつたことゝ自分は思ふ。少なくとも八幡宮に於いてこの式を放生會などゝ誤り傳へるに至つた原因は、その日が前の年の同じ日であつたこと、かの近江の磯崎大明神などの通りであつたからに相異ない。また放養の期間がかくの如く永かつた爲に、片目の魚が住んでゐるといふ噂ばかりが、獨立して人に記憶せられる結果にもなつたのであらう。
 それならばどういふ理由で捕りたての新しい魚類を即時に調理して差し上げなかつたかといふと、これは後々の説明では「今まで何を食つてゐたか分からぬから」というたであらうと思ふ。我々の勝手もとでも、鰌や貝類などは一晩泥を吐かせるがいゝといふが、人間とは比べ物にならぬほど清淨潔白なる神樣の御體の一部になるべき品であれば、それだけの用意のあるは當然である。しかし自分の見るところでは、右の如き思想もまた一朝にして起つたものでな(143)く、さらに一段と悠遠なるところに由來をもつてゐるやうである。
 前に擧げた片目の鮒を請けて歸つて瘧のまじなひにしたといふ話でも、やゝ察せられるが、或地方では生牲に指定せられた魚を以て、單純なる御食料とのみは見ず、これを神の從屬者乃至は代表者の如く考へて崇敬してゐた形跡がある。これなどは到底鮒のやうな微々たる動物について、新たにいひ始めたものでないことは明らかである。即ち生牲は一方に神の御心を取るべき禮物であつたと同時に、他方氏子等に向つては、量りがたい靈界の消息を通信する機關でもあつた故に、少しでも永い期間これをかこうておく必要があつたことゝ思ふ。
 各府縣の府縣社郷社の古傳を集めた「明治神社誌料」といふ書に、次の如き話が載つてゐる。日向國|兒場《こゆ》都下穗北村大字妻の縣社|都萬《つま》神社に於いては、宮の御手洗の花玉川の流れに今も片目の魚を生じ、或ひは片目の魚を以て神の御眷屬と稱へてゐる。それは大昔祭神の木花開耶姫尊が、この川に出て御遊びなされた時、神の御装ひの玉の紐が水中に落ちて鮒の目を貫いた。片目の魚のゐるのはその爲で、それ故にまたこの地に於いては、玉紐落の三字を書いて布那《ふな》と訓《よ》ませてゐる云々。即ち幽かながらもこの口碑から窺はれるのは、魚の目一つは神業であつたことゝ、目を傷けたがために神靈界に入ることを得たことゝである。
 同じ書にはまたこんな話もある。加賀國河北郡高松村大字横山龜山の縣社賀茂神社は、大同二年に現在の社地に遷座せられたといつてゐるが、その理由は至つて不思議な話である。或日この社の御神、鮒に身を現じて御手洗川に遊びたまふ時、遽かに風吹き立つて汀《みぎは》の桃水中に落ち、その鮒の目にあたつたところが、忽ちにして四面暗黒となり人みなこれを恠んでゐると、その夜靈夢の御告があつて、つひに社を今の場處に移すことゝなつた云々。それだけでは何だか桃が落ちて御怪我をなされたのに御憤りあつて、前の社地を引拂へと仰せられたやうにも解せられるが、それは大根に躓いて御轉びなされたといふ話と共に、桃の木を忌む風習の説明を誤つた結果であつて、要領は却つて片目の生牲を介して、神意を知り得たといふ點にあるのであらう。神が御身を鮒に託せられたといふ點は、日向の話よ(144)りもさらに一段進んでゐる。
 いらぬ講釋かも知らぬが、右の二件の傳説に、神が遊びに出られたといふのは祭典のことである。祭の日、祭場へ御降りなさるのが即ち神遊であつて、人間のやうに暇があるから遊びに御出でなさるといふことは神樣にはないことである。鮒の目の傷の偶然でなかつたことはこれからでもわかる。
 
          一七
 
 生牲の鯉鮒の片目といふことが、決して單獨に發明せられたる便法ではなくして、前代の神祭に一眼を重んじてゐた餘習であるらしいといふ説の根據として、この次には蛇の片目の話を一くさり述べて見ようと思ふ。
 コ島の人河野芳太郎氏の話に、阿波の富岡町の東に當つて福村といふ處に、周囘三十町程の池あり、その池の中に周九丈高さ一丈ばかりの岩があるのを、土地では蛇の枕と呼んでゐる。この池の魚族は鯉鮒はもとより小さな雜魚に至るまで、一尾として兩眼を具へてゐるものはない。傳へいふ昔この池に大蛇の住んでゐたのを、月輪《つきのわ》兵部といふ勇士狙ひ寄つて放つた箭、その左の眼を射貫いて頭の半分を射碎き、をろちは苦痛に堪へずこの岩の上で悶え死す。その怨み後に殘つて月輸殿の一家を祟り殺し、それでもたらなかつたか、池の魚までを悉く片目にしてしまつたといふさうである。
 この言傳へを全部誤りのないものとする爲には、先づ第一に蛇の巨大なものは水の中でも生息し得るといふことを認めねばならぬが、それがちよつと困難である。田舍へ出ればきつと聞く古い池沼の主の話は、稀れには牛だ犀だとも言ふが、十中八九まで蛇體といふことになつてゐる。恐らくは佛教の龍王などから出た想像上の動物で、單に水神の假の形と見ておいてよいであらう。それよりも、こゝで問題になるのは、話の中でもさほど重きを措かれてをらぬ水中の岩である。この類の孤岩は水に洗はれて、世の穢から遠ざかつてゐるのをめでたものか、殆と常に祭場に用ゐ(145)られてゐる。殊にまた魚の生牲を供へる場合に、かういふ岩の上を使つてゐる。備後吉原村の魚ヶ石などは多くある例の一つに他ならぬ。さうすると右の月輪兵部の冒險談の如きも、その戯曲的分子を取りのけて考察すれば、やはり前に擧げた片目の男女を水に投じた話とともに、魚を一目にしたのは神の意志に基くといはうか、一目の尸童《よりまし》の託宣に從つたといはうか、さらに今一段の臆測を加味すれば、新たに魚を代用として、人の眼を突く式を罷めたことを暗示してゐるともいはれるのである。
 蛇の片目の話はまた佐渡にもあるが、或ひはその原因をこの島の歴史中で最も大きな御人、即ち順コ天皇の御逸話と結びつけてゐる。茅原鐵藏老人がこの事を報ぜられた。或時帝、金北山へ御參詣の山路に蛇を御覽なされ、かゝる島でも蛇は眼が二つあるかと仰せられたところ、それより後この地の蛇はみな片目になつてしまつた。土地の字を御蛇河内《おへびかうち》といふはその爲である云々。即ちまた片目の蛇が徒に片目であるのではないことを示し、神に對して極端に從順であつた故に、その蛇にも十分の尊敬を拂ひ來つたのであることは、地名がこれを傳へてゐる。
 近頃刊行せられた「岐阜縣益田郡志」を見ると、飛騨には今一層神に接近した片目の蛇の話が遺つてゐる。この郡萩原町の諏訪神社の社地は、中世暫くのあひだ國主金森家の出城になつてゐたことがある。金森氏の家臣佐藤六左衛門なる者、命を受けてその工事を指揮し、神靈を上村といふ處へ遷さんとするに、神輿が重くなつてどうしても動かぬ。よつて六左衛門梅の枝を以て神輿を打ち、辛うじて遷座を終ることが出來た。また一説には、この時一匹の青大將が社地に蟠《わだか》まつて如何にすれども動かぬのを、六左怒つて梅の枝で蛇の頭を打ち、蛇は左の眼を傷いてつひにその地を去つたともいふ。その後六左衛門は大阪陣に赴いて討死をした故、村民これを機として土木を中止し神社を舊の地へ復したが、今に至るまで境内に梅の木成長せず、また時として片目の蛇を見ることがある。これをば諏訪明神の御使として崇敬してゐるといふ。
 蛇はもとより生牲として神に進ずべきものでないから、鯉鮒と同列に論ずることは出來ぬ。しも加州横山の賀茂樣(146)の鮒の如く、魚の方にもまた神を代表して一目になつてゐた例はあるのである。故にその片目を以て一概に慰斗《のし》や水引の意味と見ることはできぬのである。
 
          一八
 
 伊豆地方には富士|愛鷹《あしたか》から海上の島々にかけて、神戰《かみいくさ》の神話が比較的うぶな形で古くより傳へられてゐた。よくありがちな歴史上の事蹟人物との混同もなく、神々たちが鳥と蛇との形を現じて水陸を馳せ廻られたことになつてゐる。尾佐竹猛君が近年島に渡つて聞いて來られたのも、その一節の少し變化したものである。曰く大昔新島の白鳩を大蛇が追ひかけて、鳩は差地山《さしぢやま》の躑躅で目を突いて飛べなくなつたのを、大蛇が殺して三宅島へ逃げようとした。新島の神樣の大三皇子、母神兄神と力を合せて大蛇を退治し、その屍を三つに分けて八丈と三宅と新島との三つの島に埋められた。それよりして新島の蛇は人に喰ひつかず、三宅島には蛇住まず、また差地山の躑躅は神の怒に觸れて花が咲かなくなつたといふ。たゞし三宅島でも躑躅平といふ地の躑躅は花が咲かず、やはりこれと同じ口碑を存してゐるさうである。
 或大きな神樣の眷屬または使令と稱する鳥なり蛇なり、または魚なりが、躑躅または梅の枝または玉の紐でそれぞれ眼を傷けたといふ話は、たとひどのくらゐ他の説明に相異があつても、基くところは一なりと認めねばなるまい。殊に三者地を隔て神を異にし結論を同じくせぬ事實は、明らかに後世の傳播でない證據である。自分がこれを以て悉く生牲の眼を拔いた風習の反映である如く考へるのは、或ひは用心深い老輩諸氏の同意を得がたいかも知らぬが、少なくとも神の眷屬が特に一目の者に厚かつたこと、從つて神人の仲介者にはなるべくこんな顔の人を擇ぶ習ひのあつたことだけは、推論してもあまり無茶とはいはれまいと思ふ。
 伊勢桑名郡の國幣大社多度神社の攝社に、古來一目連の社といふ神のおはしますことは人の善く知るところである。(147)當世の記録には本社の祭神|天津日子根命《あまつひこねのみこと》の御子で、「姓氏録」に桑名|首《おびと》の祖|天久之比乃命《あめのくしびのみこと》とある御神のことだといひ、「古語拾遺」に伊勢の齋部の祖神|天目一箇命《あまのまひとつのみこと》とあるのも同じ御方であると稱へてゐる。自分等は勿論神の御系圖に暗いから賛成も反對もできぬが、關東の各地にも右の一目連を祀つた祠の多かつたことゝ、伊勢の本社に於いても特に俗人の信仰を受けてをられて、いろ/\有難い奇瑞のあつたことゝ、その御名前が御目の一つだつたことを意味してゐることだけは受けあつてもよいのである。また同名の神がもし他にないとすれば、天目一箇命は金工の始祖である。
 話がこれまで進んで來ると、どうしても今一度鎌倉權五郎のことを考へて見ねばならぬ。權五郎を神に祀つたと稱する宮は、勿論鎌倉長谷の御靈《ごりやう》神社が一番古い。大阪の御靈社などは、近世鎌倉から勸請したことが分つてゐるが、九州の南にある諸社の如きは恐らくは同樣で、鎌倉がまだ政權の中心であつた時代にでも、往來の武家が迎へ下つたのであらう、鶴岡八幡と併置せられた御靈社が少なくない。
 權五郎景政が神に齋《いは》はれたといふことは、その左の眼を射られたといふ話とともに、「保元物語」の中にちやんと出てゐるが、この本には未だ御靈社がその社だとは書いてないのである。ところが鎌倉の御靈社は頼朝公の時からすでに相應に重い社であつたこと、「吾妻鏡」などを見ても明らかであつて、家來筋の景政を尊信するにはあまり年代が近過ぎるやうに思はれる上に、京都に今も立派にある上下の御靈社の如きは、權五郎の生まれるより二百年も前頃から祭つてゐた神であり、ひとり京都ばかりの御靈でなく、諸國に御靈社を置くやうにといふ勅令が、それよりもまた六十何年か前に出てゐるのである。尤もこの社の祭神は早くから曖昧ではあつたが、それにしても鎌倉ばかりが中頃から土地出身の英傑を推薦して、神の交迭を敢てしたとは考へられぬ。
 
          一九
 
 「鎌倉攬勝考」にはいはゆる權五郎社に關して次のやうな説をかゝげてゐる。この社もとは鎌倉の西北なる梶原村に(148)あつた。幕府で崇敬してゐたといふのもその時分のことである。權五郎殿の一門に梶原權守景成といふ人、平氏の始祖葛原親王を神に齋ひ、これを葛原の宮とも御靈の社とも稱へてゐたのが始まりである。その後鎌倉權八郎景經といふ人があつて、この社に先代の權五郎景政を合せ祀ることになつた爲に、却つて權五郎の社を以て呼ばれるやうになつたが、これは正しくない云々。
 自分はこんな言譯みたいな由來談に對しては、容易にさうですかを言はぬのである。また無造作な新説ではあるが、御靈は昔から神とか社とかの語を添へずに呼ぶのが常である。然らば鎌倉の御靈殿を、鎌倉權五郎殿と聞き誤り覺え誤つたとしても、平民等なら、いさゝかも不思議はないではないか。兎に角兩方ともえらい御方なのだから、願を掛けたら聞いて下さるだらうと有難く思つたのである。
 御靈を五郎と間違へてゐた例は幾らもある。岩代耶麻郡三宮の三島神社境内の五郎神社は加納五郎の靈を祀ると言ひ、中山道美濃の落合には落合五郎兼行の靈社あり、信州高遠の五郎山には仁科五郎信盛の首なき屍を埋めたと傳へて、其處にある祠を五郎の宮と稱し、昔の城主なのに呼捨てにしてゐる。さらに南して同じ上伊那郡赤穗の美女森の社の神を五郎姫神といひ、即ち日本武尊に侍かれた熱田の宮簀姫の御事だと申してゐるが、これなどは姫神を五郎といふので殊に珍しく感ぜられる。
 また何の五郎であつたか知らぬが、作州勝田郡池ヶ原の熊野權現の山に義經大明神といふ社があつて、しかもこの地は義經が平家の殘黨五郎丸なる者を攻めた陣場の跡と傳へでゐる。近江甲賀郡松尾村には五郎王樣といふ社あり、俗に暦の兩樣だといふのは面白い。尾張では東春日井郡櫻佐村の五龍社を、俗に五郎宮といふと「張州府志」にあり、また知多郡藪村には弓取塚と稱して小さな弓矢を奉納して瘧の平癒を?る塚を、人のために殺された花井惣五郎といふ者の首を埋めたところと、傳へてゐたことは有名な話である。花井といふは泉の傍で神を祭つた風習を暗示する名稱であるかと思ふ。
(149) 下總では或ひは御靈を千葉五郎といふありさうな勇士の名に託した例もあるが、「印旛郡誌」を見ると同郡千代田村大字|飯重《いひしげ》の舊無格社五郎神社等、祭神を曾我五郎の靈とするものが二三ある。相模足柄下郡の曾我谷津村の五郎社の如きも、本場であるから無論祭神は曾我五郎になつてゐる。曾我兄弟の祠または石塔は縁もなささうな遠國に何十ヶ所もある。或ひは大磯の虎尼となつて廻國し、或ひは鬼王團三郎來り住むなどゝいつて、何とかして本源を究めようと土地の人たちは骨折つてゐるが、あまり數が多いのでいつも思ふやうに行かぬ。これも御靈が雙神であると傳へた場合に、そんなら五郎十郎の兄弟かといふことになつたので、大磯の虎といふのも實は御靈にかしづいたたゞの尼樣だらうと私は思つてゐる。
 下總のついでにいへば、あの佐倉惣五郎なども大分此方へ近いものである。堀田樣こそ好い迷惑で、だん/\聞いて見ると大勢で作り上げたたゞの話であるやうだ。略縁起には靈堂に父子五人の靈像を安置すといひ、境内別に五靈堂あり、宗吾と事をともにして追放の刑に處せられた五人の庄屋たちの像を本尊としてゐるともいふが、しかも嘉永五年の二百囘忌といふ時の位牌を見ると、父と一處に殺されなかつた娘までの名を加へて五人にしてゐる。勿論信徒たちが聞いたら何か反證があらうから、自分はたゞまづ「らしい」とまで言つておく。
 
          二〇
 
 御靈が五郎に間違つたのにはなほ仔細がある。御靈は文字の示す如くミタマであつて、人の靈魂を意味してゐる。我々の祖先はその中でも若くて不自然に死んだ人のミタマを殊に怖れ、打ち棄てゝおくと人間に疫病その他の災害を加へる者と考へ、年々御靈會といふ祭をして、なるだけ遠方へ送るやうに努めたが、人の力だけでは十分でない所から、或種の神樣に御靈の統御と管理とを御依頼申してをつた。後世に至つては祇園の牛頭天王がその方の專門のやうになつてしまはれたが、古くは天神も八幡も、それ/”\この任務の一部分を御引受けなされたのである。
(150) 天神は人も知る如く、御自身がすでに御靈の有力なるものであつたから尤もと思ふが、八幡樣の方は今の思想では何故といふことが解らない。しかも石清水の如きは、その京都まで上つて來られた當初の形式が、如何にもよく紫野今宮の御靈の神などゝ似てゐたのみならず、近い頃まで疫神《やくじん》參りと稱して、正月十五日にこの山の下の院へ參拜する風があつたのを見ると、何か仔細のあつたことゝ思はれる。また若宮今宮などゝ稱して非業に死んだ勇士の靈を八幡に祭つたといふ例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などではそのやうな話を聞かぬのを見れば、この神に限つて能く御靈を指導して、内にはやさしく外に對しては烈しく、その肢ミを働かしめる御神コを昔は備へられたのであらう。
 若し然りとすれば鎌倉の權五郎、八幡太郎の家來で左の眼を箭で傷いたといふ話のある人を、鎌倉の御靈で八幡樣の攝社で、八幡の統御の下に立つ亡靈を祭つた社の神と間違へても、必ずしも無學の致すところとは言はれず、諸國の同名の社が成程と言つてこの説に從つたのも仕方がなかつたと見ねばならぬ。
 後三年役の古戰場と主張する羽後仙北郡の金澤に於いては、流に住む眇の魚を以て權五郎景政が魂を殘したものと傳ふる由、「黒甜佐瑣語」といふ秋田人の隨筆に見えてゐる。伊勢の神戸町の南方矢橋の御池といふ池に片目の魚のゐたことは前にも述べたが、「參宮名所圖會」を見ると、この村にも一箇の鎌倉權五郎景政の塚が、田中の森の中にあつたやうに記してあるから、池と塚と恐らくは關係があつたのであらう。權五郎の塚といふのはまた右の羽後金澤にもあつた。東京近くでは品川東海寺の寺中春雨菴にもあつた。今は社を營み氏神の如しと百年前の「遊歴雜記」にある。昔から戰場で目を射られた武士も隨分多かつたらうに、何が故に景政ばかりが、かくの如くもて囃されたかといふ問には、自慢ではないが自分が答へた以外には、まる/\答へないといふ方法しかあるまいと思ふ。
 つまり記録上の御靈には戰場か刑場か牢獄の中で死んだといふ人ばかりだが、その今一つ前の時代の文化の幼かつた社會では、入用に臨んで特に御靈を製造したらしいことは、片目の突傷といふ點からも想像し得られるのである。
 甲州では權五郎の代りに山本勘助を以て片目神の舊傳を保存させてゐた。山梨縣の商業學校で近年生徒に集めさせ(151)た口碑集の中に、甲府の北方にある武田家の古城の濠に住む泥鰌は、山本勘助に似てみな片目だといふ話が載せてある。久しく甲府に住んでをられた山中笑翁の説によれば、彼地の奧村某といふ家は山本勘助の子孫であるさうで、代々の主人必ず片目であるとのことである。
 この類例にはさらに二箇の新しい暗示を含んでゐる。その一つには山本勘助といふ郷土英雄が、單に權五郎の如く一目であつたのみでなく、なほ信州松本邊の山の神と同じく、いはゆる片足であつたことで、自分が解釋ができぬものだからそつとしておいた一眼一足の脚の部分に、一道の光を投じてゐる。第二の點は虚誕にもせよ、片目を世襲してゐるといふ噂である。
 自分が神主を殺すの目を潰すのといつたために、ぎよつとせられた祠官たちが或ひはあるか知らぬが、御安心めされ、神官は多くの場合には神主ではなかつた。神主即ち神の依坐《よりまし》となる重い職分は、頭屋《とうや》ともいひ或ひは一年神主とも一時上臈《ひとときじやうらふ》とも唱へて、特定の氏子の中から順番に出たり、もしくは卜食《うらはみ》によつてきめたりするものと、一戸二戸の家筋の者に限つて出て勤める、いはゆる鍵取りなるものとがあつたのである。さうして山本勘助の後裔といふ方はその第二種に屬してゐる。
 
          二一
 
 さて自分は不滿足ながら今まで竝べた材料だけで、一目小僧の斷案を下すのである。斷案といつても勿論反對御勝手次第の假定説である。
 曰く、一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本據を離れ系統を失つた昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなつて、文字通りの一目に畫にかくやうにはなつたが、實は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神樣の眷屬にするつもりで、神樣の祭の日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げてもすぐ捉まるやうに、その(152)候補者の片目を潰し足を一本折つておいた。さうして非常にその人を優遇し且つ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるといふ確信がその心を高尚にし、能く神託豫言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかも多分は本能のしからしむる所、殺すには及ばぬといふ託宣もしたかも知れぬ。兎に角何時の間にかそれが罷んで、たゞ目を潰す式だけがのこり、栗の毬や松の葉、さては箭に矧いで左の目を射た麻胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手觸るべからざるものと考へた。目を一つにする手續もおひ/\無用とする時代は來たが、人以外の動物に向つては大分後代までなほ行はれ、一方にはまた以前の御靈の片目であつたことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまつて、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかつたのである。
 右の自分の説に反對して起るべき最大の勁敵は、そのやうな事を言つては國の辱だと云ふ名論である。一言だけ豫防線を張つておきたい。
 第一自分は人の殺し方如何とその數量で、文明の深さは測られるものとは思はぬ。戰もすれば自殺もする文明人が、かくの如き考へをもつ筈がないからである。しかしそれが惡いとしても、人を供へて神を祭つたのは、近年の政治家が責任を負ひ得るやうな時代の事ではない。人もいふ如く日本國民は色々の分子から成つてゐる。千二三百年前まではまだいはゆる不順國神《まつろはぬくにつかみ》が多かつた。國神の後裔には分らぬ人も隨分あつたことは、大祓《おほはらひ》の國津罪の列擧を見ても察せられる。それでも行かぬといふなら、この島へは方々の人が後から/\渡つて來てゐる。さうして信仰上の記憶は至つて永く殘るものである。彼等がまだ日本といふ國の一部分をなさぬ前、どこか或地に於いての生活經歴を傳へてゐるのだとも見られる。
 まだそれでも行かぬとならば是非がない。どうかこの説は採るにたらぬものとして戴きませう。實はこの研究がまるでだめだとしても、自分はなほ一つ善いことをしてゐるのである。即ち民間の俗信と傳説とに對して、最も眞摯でかつ親切な態度を以て臨んで見たのである。これは今日まで他に誰も範を示した人がなかつた。
(153) 先頃この新聞でも各大學のよき青年に依囑して、地方傳説の蒐集旅行をして貰つた。あれは一寸結構みたいな企てであつたが、不幸にして學生諸君がそれ/”\非凡な文才をもつてをられた爲に、大正年代の文藝を以て傳説に念入りの装飾をしてしまひ、到頭すこしばかり傳説の香のする甚だ甘い物に作り上げたことは、あたかも柿葡萄を以て柿羊羹葡萄羊羹を拵へた如くである。傳説といふ物はそんな事をして食べるものではない。
 またそれほど無用な物でもないのである。歴史家が帳面の陰から一歩でも踏出すことをあぶながり、考古學者が塚穴の寸尺に屈託してゐるやうな場合に、たつた一人がお手傳ひに出て、無名無傳の前代平民等が目に見えぬ足跡をもとめ、彼等何事を怖れ何を患ひ何を考へてゐたかを少しでも明らかにしたのが、この自分の研究である。兎に角人の作つた習慣俗信傳説であれば、人間的に意味がなければならぬ。今の人の目に無意味と見えるだけ、それだけ深いものが潜んでゐるので、いはゞ我々は得べき知識をまだ得てをらぬのである。昔の人の行爲と考へ方にはゆかしく優しいことが多い。或ひはまた古くなり遠ざかるからさう感ぜられるのかも知れぬ。しかもそれがエチオピヤ人でもなければパタゴニヤ人でもなく、我々が袖を捉へて縋りつきたいほど懷しく思ふ、亡親《なきおや》の親の親の親の親たちの生活の痕ではないか。
 
          補遺
 
▽この三週間に新たに現はれた材料を一括して、今一度自分の説の強いか弱いかをしらべて見ようと思ふ。材料の一半は親切な讀者の注意によるものである。
▽本年三月刊行の加藤咄堂氏編「日本風俗志」上の卷の一六三頁に、四種の恠物の圖が出てゐる。出處を明らかにしてないが、江戸時代の初期より古い繪ではないやうである。その中の「山わろ」といふ物は半裸形の童形で、兩手に(154)樹枝を持ち腰に蓑樣のものを纏ひ、顔の眞中に眞圓な目が一つである。即ち土佐などで山爺を一眼といふのと合致する。たゞし脚は立派に二本ついてゐる。
▽小石川金冨町の鳥居強衛君から、「朝鮮の迷信と俗傳」と題する一書を贈られ、その中にトッカギイ或ひはトッケビイといふ獨脚の鬼の記事があることを注意せられた。大正二年十月刊行、楢木末實といふ人の著である。自分はこの半島の獨脚鬼については未だ何程も調べてはをらぬ。支那でも山海經に獨脚鬼の事を記し、或ひは本草に山※[獣偏+?]は一足にして反踵などゝあるさうだが、他の方面にもよく/\の類似點がないかぎりは、三國一元といふやうな推定には進まぬつもりである。從つて、たゞ參考品としてのみ陳列しておくが、この書の記すところによれば、トッケビイは通例樹蔭深きところに出没し、色は最も黒く好んで婦女に戯れ、或ひは人に禍福を授けると傳へられる。さうして目はいつでも兩箇を備へてゐる。
▽磐城平の出身なる木田某氏の注意に、自分が彼地方で「山の神はカンカチで外聞が惡いと言つて十月に出雲へ行かれぬ」といつてゐるそのカンカチを、眇目のことに解してゐたのは誤りだとのことである。平町附近でも眇目は他地方と同樣にメッカチまたはカンチといひ、カンカチといふのは火傷の瘢のことを意味する。これは山神が山の精で山に住んでゐる爲に折々山火事に遭ひ火傷をするのだと説明せられてゐるさうである。自分は一知半解の早合點で、カンチともメッカチともいふからカンカチも片目のことだらうと思つて大失敗をした。もとより第一の報告者の高木誠一君がさう言はれたのでないが、念のため更に同君に聞合せて見ると、その返事も全く同樣であつた。これで自分の一目小僧の話を書く動機になつた好材料の一つが空になつたわけであるがどうも仕方がない。その爲に山の神の祭に關する一部分の話は中途から見合せることにした。
▽高木君はこの序でを以て十年前に亡くなられた御祖父樣から聞いたといふ話を一つ報ぜられた。石城郡草野村大字|水品《みづしな》の苗取山に水品神社といふ社がある。もと三寶荒神樣と稱し五六十年前までは物凄い森であつて、天狗が住んで(155)ゐて大きな音をさせるともいひ、また一目小僧がゐるともいつて誰も怖がる場處であつた。或晩この社の宮守をしてゐる法印樣が便所に往つて、足を取られて吃驚して用もたさずに歸つて來たことがある。明くる朝早く起きて行つて見ると、古狸が引込み時を忘れてまだ其處にをつた。古狸は一目小僧に化けるものだと御祖父樣がいはれた云々。また木田氏の羽書《はがき》にはかういふことが書いてあつた。この地方の一目は大入道の姿で出る。足のことは何ともいはぬが眼は丸々としたのが額の眞中に一つあり、暗い夜白い衣物で出るものと子供の時に毎度聞いてゐた云々。即ちこの點がすでに全然朝鮮のトッケビイと共通でない。
▽信州松本地方の一目もまた小僧ではなくて入道である。これは貉の化けるものと傳へられてゐる由、平瀬麥雨君から新たに報ぜられた。たゞし飛騨の高山のやうに、雪降りの晩に出るとはいはず、こちらは別に雪降り入道雨降り入道などがあつて、山から出て來るともいふが、これには一眼または一足の沙汰はないさうである。同君また曰く、何でも物の高低あるものを山の神といふと書いたのは、いさゝか精確でない、むしろ高さの均しかるべき物が不揃ひになつたのをさういふと言ふべきである。通例の適用としては下駄と草履と片方づゝ履いたことを、履物を山の神に履いたといふなどである云々。
▽一眼一足といふやうな珍しい話が、かけ離れた東西の田舍に分布して存するのは意外だといつて、青森縣中津輕郡新和村大字種市の竹浪熊太郎氏が、その少年時代に聞いてをられた次のやうな話を報ぜられた。この地方の山神祭は舊暦十二月の十二日である。この日は昔から大抵吹雪が烈しく、かつ野原に出ると山神に捕へられるといつて、特に半日の休日になつてゐる。山神はこの吹雪を幸ひとして、背には大きな叺《かます》を負ひ、人間、殊に小兒を捕へに里に出て來るといふ。これを見たといふ人はまだ聞いたことがないが、古い人たちの話ではやはり眼が一つで足が一本である。山神祭にはいづれも長さ二尺以上もある大きな草鞋または草履を片足だけ作つて、村の宮の鳥居の柱に結びつけておくのである。これを見てもその一本の足といふのがよほど大きなものと想像せられてゐたことがよく分かる。たゞし(156)今日ではこの風習もおひ/\廢《すた》つて行くやうだとのことである。この話は南伊豫の正月十五日の大草履片足の由來を推定せしめる材料である。即ち山の神の一目といふものが信ぜられてゐた一の例證にはなるので、たゞ殘念ながら一目とはメッカチのことだといふ方の意見に對しては、何等の援助も得られないのである。
▽國書刊行會の某役員から一目小僧の記事がこの八月彼會出版の「百家隨筆」第一の五〇五頁落栗物語の中に出てゐるが知つてゐるかとの注意であつた。早速出して讀んで見たがその大要はかうである。雲州の殿樣が或時親しい者に今夜は化物の振舞をするから來いと招かれたので、一同如何なる趣向かと往つてみると、淋しい離座敷に通され、やがて茶を持つて出たのは面色赭く醜くして大きな眼の額の眞中に一つある小法師であつた。次に出た給仕は身長七尺餘の小姓であつた。後で聞いて見ると後者は出羽から出た釋迦といふ相撲で十七歳で七尺三寸ある少年、前者は侯の領内の山村に住んでゐた片輸者で、こんな者が二人まで見つかつたのでこの催しをせられたのであるといふ。珍しい話ではあるがこの材料は自分の手に合はぬ。如何した事かを考へる前に確かな話か否かを正して見ねばならぬ。この書は京都の人の聞書であるといふから、大分多勢の好事家の耳口を經て來たものと思はれる。
▽神樣が眼を突かれたといふ話も、またその後三つ四つ集まつて來た。小石川原町の沼田頼輔氏の知らせに、同氏の郷里相模國愛甲郡宮瀬村の村社熊野神社は、熊野樣であるにもかゝはらず、祭神が柚子《ゆず》の樹の刺で眼を突かれたといふ傳説があり、それ故に村内には柚子を栽ゑぬことゝしてあり、また植ゑても實を結ばぬと申してゐるといふ。
▽信州小縣郡長久保新町の石合又一氏の報道によれば、同地鎭座の郷社松尾神社でも、氏子の者が一般に胡麻を作らず、もし作ると必ず家族に病人が出來るといひ傳へ、今でもこの禁を破る者がない。つい近頃も他より寄留してゐる者が、この説を信ぜずして胡麻を栽ゑ、眼病にかゝつた例があるといふ。これは同郡浦里村の小林君が、他にも幾つか例があるといはれた一つであらうと思ふが、すでに何故にといふ點が不明になつてゐると見える。
▽また福島縣三春町の神田基治郎氏からは同縣岩瀬郡|三城目《さんじやうのめ》村に竹の育たぬ理由を報ぜられた。昔鎌倉權五郎とい(157)ふ武將が、竹の箭で目を射られ漸くにしてこれを引拔いた。それ以來この村では、如何に他方面から移植して來ても竹は成育せぬ。同氏も數囘往つてよく知つてゐるが、隣村にはあるのにこの村だけには竹を見ぬといふ。或ひは鳥海彌三郎と戰つたところはこの村だとでもいつてゐるのであらう。單に御靈社があるだけでかくの如き結果になるのでは、箭は先づ竹だから、東北などでは竹を産せぬ地方が非常に多くなる都合である。
▽武州野島村の片目地藏と同系の話が、東京のごく近くに今一つあつた。これも十方庵の百年前の紀行に出てゐるが、東小松川村の善通寺は本尊阿彌陀如來、或時里の鷄、小兒に追はれて堂に飛込み、距《つめ》を以て御像の眼を傷けた。それよりして今にこの阿彌陀の片目より、涙の流れた痕が拜せられる云々。これとても木佛金佛が人間同樣の感覺を具へてゐたといふ以上に、格別靈驗のたしにもならぬ事を傳へるには、別に隱れたる理由があるものと解するのが相當である。これには佛樣の中に特に子供がお好きで、子供のした事は一切咎められぬ御方があることを、考へあはせて見ねばならぬ。
▽本多林學博士の編輯せられた「大日本老樹名木誌」の中には、また次のやうな例もある。土佐長岡郡西豐永村の藥師堂の逆さ杉は、もと行基菩薩の突立てた杖であつたといふ傳説がある。しかるに或時或名僧がこの山に登つて來て、この杉の枝で片目を突き、それ故にその靈がこの杉に宿つて、今でも眼病の者が願掛けをすると效驗があると稱し、「め」の字の繪馬が樹の根元に澤山納めてある由。ところが藥師如來はこんな事がなくても、もとより眼の病をいのる佛樣である。
▽佛教の方の御本尊に片目の話があつても、それを本國から携へて來たものとは言はれぬ。名ばかり佛であり僧であつても、信仰の内容は全然日本式になつてしまつたものは、これのみではないのである。殊に地藏尊がさうであるやうに自分は思ふ。
▽近江神崎郡山上村の大字に佐目といふ部落がある。以前は左目と書いてゐたやうである。逆眞上人といふ人の左の(158)眼が流れて來て止まつたところなるが故に左目といふと、「近江國輿地誌略」卷七十一に出てゐる。逆眞は如何なる人であつたか、未だ自分はすこしも知らぬが、やはり土佐の山の名僧の一類であらう。
▽片目の魚の例も幾つか増加した。伊勢の津の四天王寺の七不思議の一として有名な片目の魚の池を、どういふわけで落したかと「津の人」から注意せられた。自分は確かに知つてゐる分だけを列記したので、この外にも無數に同じ話のあるべきを信じてゐた。津の話も由來等をもつと詳しく聞きたいものである。
▽作州久米郡稻岡の誕生寺、即ち法然上人の生地と傳ふる靈場にも、片目の魚の話があつたやうだと、あの國生まれの黒田氏は語られた。
▽相良子爵の舊領肥後の人吉の城下の北に、一の祇園社があつてまた片目の魚のゐる池があつた。祇園樣が片目だから魚も片目だといつてゐたさうである。なほこれより上流上球磨の田代|川間《かうま》といふところには、斑魚《まだらうを》といふ魚の口が二つあるものがゐるとも傳へられた。參考の爲に取調べをさせ、なほ出來るなら右二種の魚の干物を取寄せてやらうと、同子爵はいはれた。
▽鰹魚のすきな田村三治君が、かつて東海岸の或漁師から聞かれたところでは、鰹魚は南の方からだん/\上つて來て奧州金華山の沖まで來るあひだはみな片目である。金華山の御燈明の火を拜んで始めて目は二つになるので、一同これまでは必ずやつて來るといつた。これは同じ方向にばかり續けて泳ぐので、光線の加減か何かで一方の目に異?を呈するのであらうと、今までは思つてをられたさうである。
▽中村弼氏は越後高田の人である。その話に、青柳の池の龍女に戀慕した杢太といふ人のゐた安塚の城は、高田から四五里の地で、青柳村もまたその附近である。この青柳の池の水と地の底で通つてゐるといふ話で、杢太は池に入つて池の主となつて後も、この水を傳つてしば/\善導寺の和尚の説經を聽聞に來た。たゞの片目の田舍爺の姿で來たさうである。どうやら見馴れぬ爺だと思つてゐると、歸つた後で本堂の疊が一處ぬれてゐたといふことである。
(159)▽まだすこし殘つてゐるが、あまり長くなるやうだからそれは第二の機會まで貯へておく考へである。あゝつまらない話だつたといはれなければよいがと思ふ。
 
(160)     目一つ五郎考
 
       多度の龍神
 
 加藤博士の新説に勇氣づけられて、自分のまだ完成せざる小研究を公表する。けだしこの假定たるや、將來の事實蒐集者によつて、だん/\と支援せられて行く望みがあるとともに、たつた一つの反證によつてすら、根こそげ覆へされるかも知れぬ至つて不完全なるものではあるが、すでに「民族」誌上の問題となつた以上は、早晩最も正しい解決に導かずにはおかぬであらう。さうして民俗學の速やかなる成長は、自分たちの切なる祈願である故に、これに向つては如何なる犠牲でも惜しいとは思はぬのである。
 上古の神の名に意外の暗示があるといふことは、前代多數の國學者によつて承認せられてゐる。もし他には一つも解説の手掛かりがないといふやうな場合には、或ひは微々たる語音の分析を試みてまでも、いはゆる言靈の神秘を尋ねる必要があるかも知れぬ。單に古人が謎詞を以て露骨を避けたらうといふ想像だけなら、宗教行爲の自然にも合したことであつて、加藤氏の方法は要領を得てゐるのであらう。たゞ天目一箇命の問題については、別に若干の捜査を費すべき粗雜な資料が保存せられてゐる。大正五六年の交、自分はその資料の著明なる一部分を、雜誌と新聞とに陳列しておいたことがある(一)。それはいづれもありふれた刊本に散見したものを、拾ひ上げただけの手數に過ぎなかつた(161)が、少なくとも神に目の一つなる神があることを、人が信じてゐた時代が久しいといふことだけは、いろ/\の方面から證據だてゝおいたつもりである。故に例へば「播磨風土記」の一つの神名を、生殖信仰の暗示とする前か後には、明らかにこれと兩立し得ない他の多くの言ひ傳へを、一應は始末しなければならなかつたのである。しかし忙しい專門家にそんな手數を望むのは無理だ。故に自分の如き前からの行掛かりある者が、料理番給仕人の役目をするのは是非ないことである。
 出來るだけ單純に物を考へて見ようと努めるのがよいと思ふ。先づ最初に天目一箇神が古今たゞ一柱しかなかつたといふ考は、實は根據がないから止めなければならぬ。時と處とを異にした二つの傳承が、同じ系統の家族に由つて、しかも内容を改めて録進せられたといふことは、極端に想像し難いことだからである。乃ち或種の神樣にはさういふ御名を奉る風、もしくは神自らしか名乘りたまふ風が、やゝひろく行はれてゐたと解すべき史料である。それでは如何なる特徴に基いて、その名が發生したとするかといふと、第一次にはこの日本語の正面の意味、即ち御目が一つだからマヒトツと稱へたものと解して、それでは理窟に合はぬか否かを、吟味して見るの他はあるまい。我が民族にはかぎらぬ話だが、神が一つ目だといふ信仰は、少しづゝ形を變へて今日まで傳はつてゐる。信仰そのものを否認せぬ以上、それは珍しくも怪しくもない現象であつた。
 主として日本の手近の實例を擧げて見るならば、伊勢桑名郡多度山の權現樣、近世江戸人の多くの著述に一目連と記すところの神は、雨を賜ふ靈コ今なほ最も顯著であつて、正しく御目一箇なるが故に、この名ありと信ぜられてゐる。現在は式内多度神社の別宮であるが、かつては本社の相殿に祭られて、往々にして主神と混同する者があつた。新しい社傳には祭神を天目一箇命とある。即ちまた神代史の作金者と同一視せんとする例であつて、この推測にはすこしの根據はあつたが(二)、雨乞ひに參詣する近國の農人たちは少なくともさうは考へてゐなかつた。神は大蛇である故にこれを一目龍と謂ひ(三)、昔山崩れがあつた後、熊手の尖が當つて片目龍となり、それから今の權現池に入れ奉つて祭(162)ることになつたなどゝいふさうである(四)。兎に角に畏き荒神であつて、大なる火の玉となつて出でゝ遊行し、時としては暴風を起して海陸に災ひした(五)。即ち雨師といふよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられてゐたらしいのである(六)。最初は恐らくは海上を行く者が、遙かにこの山の峯に雲のかゝるを眺めて、疾風雷雨を豫知したのに始まり、後次第に平和の目的に利用する樣になつたのであらう。さうするとかういふ威力のある神の名を、目一つと呼ぶに至つた理由は、もとよりファリシズムではなかつたのである。
  (一) 「郷土研究」四卷八號「一眼一足の怪」、同十一號「片目の魚」、同十二號「一目小僧」等、ならびに東京日日新聞大正六年八月下旬以後、二十餘囘に連載した「一目小僧」談の中に、各々「目一つ神」の古今幾つかの記事を引用しておいた。
  (二) 「姓氏録」右京神別下に、桑名首は天津彦根命の男、天久之比命の後也とあるのを、郡名同じきに由つて直ちにこの社の神とし、それから轉じてまたの御名天目一箇命ともいふのであるが、社家以外の者には諒解し難い理論である。主神を天津彦根命とした最初の事情も明らかでないが、或ひは古い口傳でもあつたと見るべきであらうか。しかも父子別神といふことすら山下の民は考へてゐないのである。
  (三) 「市井雜談集」上に、此山の龍片目の由。依之一目龍といふべきを土俗一目連と呼び來れり云々。
  (四) 「民族」一卷一一一六頁、澤田四郎作君の報告に依る。
  (五)  上社の屏開くを望んで、一目連の遊行を知るといふ話があり(「周遊奇談」四)、または扉はなくして簾のみを懸け、神出遊の際にはその簾が飛び散るといふ傳へなどもあつた(「緘石録」三)。
  (六) 北國地方でも不時の暴風を一目連といふと「閑田次筆」卷一にあり、「市井雜談集」には物の一齊に疾く倒るゝを一目連といふとある。
 
       神蛇一眼の由來
 
 社傳と土地の口碑とが相容れざる場合に、一方は文書の形を具へ他方は空に行はれてゐるために、或ひはまた強ひて公けに爭はうとしなかつた故に、後者を負けとするのが今までは普通の例であつた。しかしこの類の民間の風説は、(163)假に巧みに作爲する者があつたとしても、ひろくこれを信じかつ記憶せしめることは容易でない。殊にその内容に於いて必ずしも愉快ならず、單に信者の悔恨と畏怖とを要求するが如き物語が、地を隔て且つ若干の細部の相異を以て、處々に流傳する場合にあつては、少なくともこれを一つの社會現象として、その起源を尋ねて見た上でないと、さういふ速斷は出來ぬ筈である。そればかりでなく文書は通例後代のものであつて、はたして確かなる根據があるか否かを、檢討せられなかつた例が多い。多度別宮の祭神の如きも、わづかに「古語拾遺」の註に、天目一箇命は筑紫伊勢兩國の忌部が祖なりとあるのが、恐らくは唯一つの證跡であつて、もし前に一目龍の言ひ傳へがなかつたら、これをこの御社の神に歸することも、むつかしかつたらうとさへ考へられる(一)。而うしていはゆる伊勢忌部の如何なる部曲であつたかは、まだ何人も説明し得ないことだが、はたして同族の一學者齋部廣成氏の説くところが正しかつたとすれば、いはゆる片目の龍の言ひ傳へも、また彼等が後裔の記憶から出たものと、想像することが出來るのである。
 播磨で天目一箇命を始祖とした家の言ひ傳へには、神が蛇形を現じたまふといふことは説かなかつたが、同じ系統の賀茂の神話にあつては、別雷神の名によつて御父の雷神であつたことを知り、同じく箸塚の物語に於いては、御諸《みもろ》山の大神は美麗小蛇となつて、姫の櫛笥《くしげ》の中にゐたまふを見たとあるのである(二)。故にもし伊勢にもこの類の由緒を以て、天神の御筋を誇らんとする者がゐたならば、それが記憶せられて現今の口碑の元をなしたとも考へ得るのである。蛇を祭り狐を拜むといふ信仰の本源は、もう少し親切な態度を以て考察せられねばならぬ。巫覡《ふげき》代表の力がすでに衰へて後は、人はしぱ/\幻に、人の形を示したまふ神を見るやうになつたが、それは元來凡俗に許されざることであつた。乃ち神がいろ/\の物の姿を借りて、現はれたまふと説明せられた所以であつて、同時にまた生牲の儀式の最初の動機が、近世の思想によつて解し難い理由であらうと思ふ。
 神が次々に靈の宿りを移したまふ場合には、それを同種の木石蟲魚鳥獣等の、極めて尋常なるものと差別すべく、外部に現はれたる何等かの象徴がなければならなかつた。或ひは單なる?況の奇瑞もあつたらうが、通例はその形に(164)ついて奇異とすべき點が見出され、それがやがては神の名となつて、永く傳へられたものゝやうである。目一つといふ神が一方に天岩屋戸の金工でもなく、忌部祖神の一つでもなく、また神龍の本體でもなかつたなら、或ひは文字に基いてどんな自由なる推測も出來るか知らぬが、久しい年代にわたつて我々が神を隻眼と考へた事例は餘りに多く、しかもその説明は制限せられてゐたのである。故に先づ古今の比較によつて、どうしてそのやうな想像がひろく行はれたかを、尋ねて見る必要が大いにあつたのである。
 多度の一目連がもと地中の蟄龍《ちつりよう》であつて、たま/\土工の熊手の尖に觸れて、片目を傷けたといふ説は荒唐である。或ひは神代に熊手があつたといふ證據を示せなどゝ、難題を掛けられぬともかぎらぬが、不思議にこれに似た話は國々の神蛇譚に多い。その二三をいへば飛騨の萩原の諏訪神社は、佐藤六左衛門なる者金森法印の命を受けて、社を遷して城を築かんとした時に、靈蛇出現して路に當つて動かなかつたので、梅の折枝を揮つてこれを打つと、蛇は眼を傷つけて退き去つたとあつて、今以て氏子は梅の木を栽ゑることを忌んでゐる(三)。阿波の副村の池の大蛇は、月輪兵部に左の眼を射られ、その靈、崇をなして池の魚今も悉く片目である(四)。駿河の足久保と水見色との境の山には、一つの池があつて三輪同系の傳説をもつてゐた。昔水見色の杉橋長者が娘に、夜な/\通ふ男があつて、栲《たく》の絲を襟に縫ひつけてその跡を繋ぎ、つひにこの池の主であることを知つた。長者憤りに堪へずして多くの巨石を水中に投じ、蛇はそれがために一眼を失ひ、その縁によつて今も池の魚が片目であるといふ(五)。即ち神ならば自然にかくの如しといつて、少しも疑ふ者はなかつたらうに、いづれも特に人間の手によつて、後に形を改めて目一つになつたといふのが、注意すべき要點ではないかと思ふ。佐渡の金北山の御蛇河内《おへびかうち》に於いて、順コ院上皇御幸の時、山路に蛇を御覽なされ、こんなところでも蛇の眼はなほ二つあるかと仰せられた故に、それ以後この地の蛇はみな片目になつたといふ(六)などもその例外とはいふことが出來ぬ。誤解にもせよそれは思し召しに基き、土地の名をさへ御蛇の河内と呼んでゐるからである。
(165)  (一) 現に「神名帳考證」には鈴鹿郡の天一鍬田神を以て、この忌部の祖神とし、多度の一目連はまた別の神だと説いてゐる。
  (二) 雷神受胎談の國々の變化については、「民族」二卷六七五頁以下に説いておいた。故にこゝには主として、その一二の例が目一つ神であつた點を説明したいと思ふ。
  (三) 「益田郡誌」四一九頁及び五六七頁。
  (四) 「郷土研究」一卷九號五七頁。
  (五) 「安倍郡誌」七九三貢。
  (六) 茅原鐵藏老人話。
 
       一つ目と片目
 
 雷を一つ目と想像した近世の例は、「落穗餘談」の五の卷に一つある。豐後國の或山村の庄屋、山に入つて獵をする時、山上の小さな水溜まりの端に、年の頃七八歳の小兒の、總身赤くして一眼なる者が五六人居つて、庄屋を見てリュウノヒゲの中に隱れた。これを狙ひ撃つにあたらず、家に還つて見ると女房に物が憑いて怖しいことを口走つて狂ひ死んだ。我は雷神である。たま/\出て遊んでゐたのに、何として我を撃つぞと謂つたといふことを、その庄屋から聽いた者がある云々。いはゆる別笛少童の信仰がすでに改まつて後に、かういふ幻がなほ民間に殘つてゐたのは珍しいが、それが偶然でなかつたといふことを確かめるには、さらに他の多くの類例を待たねばならぬのである。
 山に住む神の目一つであつたことだけならば、擧げ切れぬ程の記録があるのだが、その信仰は早く壞れてしまつて、これを神話の神々と同一視することを許されなくなつた。しかし單なる妖怪變化とても、由緒なしには斯くまでひろく、人心を支配することは出來なかつた筈である。或ひは外國の空想を借用したかの如く臆斷してゐた人も、一たびその類例の多くが山に屬し、久しい變遷を重ねて終始常民の生活と交渉したことを知るならば、後には態度を改めて(166)彼とこれと、かつて何等かの脈絡のあつたことを、考へて見ずにはをられまいと思ふ。目一つの鬼の最も古い記事は、「出雲風土記」の阿用郷の條にあつて、これは田作る人の鬼に食はるゝとて、アヨアヨと叫んだといふ地名説話になつてゐる。その次に私の知つてゐるのは近江の安義橋で旅人を追つかけたといふ今昔の物語、面は朱の色にて圓座の如く、廣くして目一つあり、長は九尺ばかりにて手の指三つ、爪は五寸ばかりにて云々とあるもの、それからまた「宇治拾遺」の方は、兒童もよく知る瘤取りの話の他に、今一つは越前の人、伊良縁《いらえ》の世恆、毘沙門を信じて福を得た話がある。神より授かつたる一通の下し文に、米二斗を渡すべしとあるを持つて、教へのまゝに高き峯に登り、大聲にナリタと呼ばはれば、たゞ見る額に角ありて目一つある物、赤き犢鼻褌《たふさぎ》をして忽然として彼が前に現はれ、下し文の面について米の袋を渡す。その袋はいはゆる取れども盡きぬ寶であつたとある(一)。この類の化物は常に佛法に疎まれ、光なき谷の奧に押し遣られてゐながら、何か人間に奇瑞の必要ある場合ばかり、かうして傭はれて來て空想の隙間を充たしたので、その物語の如何にも附きが惡く、何か説明の屆かぬやうに見える部分があるのは、恐らくは古い記憶の斷片なるが故であらう。
 中古以來の百鬼夜行畫卷などは、またこれよりも一層自由なる空想の所産であるが、なほ且つ暗々裡にこれを導いて、大よそ世人の信ぜんとするところに向はしめた何物かゞあつたらしい。中でも目一つは記述描寫が殊に區々であつて、名先づ存して形は後に案じたかと見えるにもかゝはらず、或種の約束のその行動を限定するものがあつたのである。例へば川童《かはわらは》は常に眼が二つであるのに、山童《やまわらは》になると一つに描いてをり(二)、阿波土佐その他の山中に於いて、山人または山父と稱し、よく人の意中を知るなどゝいふ靈物も、一眼にしてまた一足であるといつてゐた(三)。何故に獨り山に住む異形のみが、そのやうな特徴を以てひろく知られてゐたかは、必ずしも氣まぐれなる小さい問題でない。氣力ある若い學者ならば、幸ひに日本にばかり豐富に殘留した資料を處理して、これによつて希臘北歐の神話にも共通した、神秘の謎を解き得る望さへあるのである。この希望がある故に、假に當分は明晰なる結論に達することは出來(167)ずとも、自分だけは今少し辛抱強く考へて行きたいのである。
 片眼と片足との關係についても、四國の山神は二者をかね、東國一帶に於いては主として一本脚のみが傳へられ、また他の地方には目だけの不具を説いてゐる。この地方的變化は確かに比較の價値があると思ふが、それは長くなる故に別に一章にたてた方がよい。差し當り自分のすこしく研究して見たいのは、目一つが單なる妖怪とまで零落して來た經路である。出雲の阿用郷の鬼の話はあるが、現在でもまだ一般にはこの化物の害惡といふものが説かれては居らぬ。單に目が一つで怖ろしいからおびえた。何をするか知れぬと思つて遁げたといふまでゝ、魔神の段階としては至つて初期に屬するのみならず、なほ時としては好人に好意を送り、或ひは悃請を聽許したといふ例さへある。即ち出現の目的はむしろ信じ得ざる者を信ぜしめ、禮なき者を威嚇するにあつたと見ても差し支へなく、かつてはまた當然の崇敬を受けてゐた時代のあつたことも、ほゞ想像し得られるのである。江戸では近世に入つて一目小僧と稱し、狸などの變化《へんげ》して暫くその相を示すやうにいふ人もあつたが、勿論證據を擧げ得べき事柄でもない。小僧といふと如何にも輕々しいけれども、一つ前にはまた目一つ坊ともいつた(四)。奧州ではヒトツマナグ(五)、日向ではメヒトツゴロといふのが同じものである(六)。この最後の名稱は、特に自分の注意して原由を考へんとするところであるが、その分布區域は思ひの外ひろく、現に「長崎方言集覽」にも目一つの怪物を目一つ五郎、肥後でも球磨川水域では、それが山に住み谷の崖路などに現はれる妖怪の名である(七)。五郎には或ひは深い意味はないのかも知れぬ。鹿兒島縣の如きは殊に何にでも五郎をつけ、一つ眼をメヒトツゴロ、川童をヘヂゴロと呼ぶ以外に、兎はウサンゴロ、眼玉が大なればメンゴロ、朝寢をすればアサネゴロ、無精者はフユシゴロ、はにかみ屋はイメゴロである(八)。大分縣でもむだ口をシナ、むだ口をきく者をシナゴロといふ土地がある。?を中國邊でオシゴロまたはウシゴロ、それを單にゴロとのみいふのも、根源は一つらしい。即ち五郎は最も平凡なる男子の通稱であつた故に、かうして綽名の臺に用ゐたことは、かの助兵衛土左衛門の同類とも考へられる。しかしそれにしたところが、これを堂々たる目一つの妖魔に附與するに至つたの(168)は、相應の理由がなくてはならぬ。その上に目一つの神を五郎と呼んだ例は別にまだいろ/\とあるのである。
 それを説くに先だつて一言附加しておくことは、化物の目一つは顔の中程に怖しく大きいのが始めから一つあり、一方に多度の龍神などは傷ついて片目になつたのである。二者を混同するのはやはり、また名に囚はれたといふ非難を受けさうであるが、これは想像の成長として説明することが出來ると思つてゐる。信州の須坂邊で欅の大木の株から、額に眼の穴一つある髑髏を發掘した話があり(九)、或ひはまれには畸形兒が生まれたといふ話もあるから(一〇)、そのやうな想像は強められたかと思ふが、元來、姿を人間として眼だけ眞中に一つと考へることは、あまりにも現實から遠くなる。故に土佐の山爺に關しても、或ひは説明して實は一眼に非ず、たゞ一眼は甚だ大にして光あり、他の一眼は甚だ小さし。故にちよつと見れば一眼と見えるので、人誤つてこれを一眼一足といふ也などゝ説明をした者もあつたが(一一)、これもまたよほどむつかしい話であつた。ところがこのやうな珍しい考へ方にもなほ類型がありまた傳銃があつた。金田一氏の調べてをらるゝアイヌラックルの物語の中に、強い神の形容として、一つの目は山椒粒の如く他の一つは皿の如くといふ句がしば/\出て來るといふことである。野州足利の鑁阿寺の文書に、この寺の願主足利義兼、臨終に身より血を出して、次のやうな記文を手書したと傳へてゐる。曰く予神となつてこの寺の鎭守となるべし、まさに一眼を開き一眼を閉ぢんとする。一眼を開くはこの寺の繁昌を見んがため、一眼を閉づるのはこの寺の衰微を見ざらんがため云々(一二)。これはよつぽど無茶な理由ではあるが、多分はさういふ面相をした木像などが、永くこの寺に傳はつてゐたからであらう。どうしてまたそんな姿を遺したかといふと、自分の假定では、左右兩眼の大きさの著しい相異が、神と崇められもしくは大神に奉仕する者の、大切なる要件であつた時代がかつてあつたのかと思つてゐる。その事を出來るならば證明して見たいと思ふ。
  (一) 詳しくは「宇治拾遺物語」卷一五。この最後の一話の固有名詞には、何か暗示があるらしく思ふが、自分はまだこれを看破るの力がない。また強ひてさうするにも及ばぬと思ふ。
(169)  (二) 「日本風俗志」上卷に轉載した妖怪古圖などはその一例である。これはたゞし二手二足で、兩手で樹枝を持つてゐる。
  (三) これには澤山の實驗談らしきものが記録せられてゐる。日本では奇妙に手のことだけは注意せず、「目一つ足一つ」に手も一本であつたといふ話を聞かぬ。これが西洋のと異つた要點である。
  (四) 例へば「嬉遊笑覽」卷三の引用した淨土雙陸の繪など。
  (五) 「遠野方言誌」。
  (六) 「民族」二卷五九一頁。
  (七) 小山勝清君談。
  (八) 「鹿兒島方言集」による。
  (九) 「信濃奇勝録」卷五。
  (一〇) 「本朝世紀」久安六年十一月九日の條に例一つ、「宗祇諸國物語」卷五にも一つ。
  (一一) 「南路志續篇稿草」の卷二三、怪談抄。
  (一二) 「大日本史料」四編卷六、正治元年三月八目足利義兼入滅の條。
 
      神片目
 
 眼の左右に大小ある人はもとより多いが、それの特に顯著であり又一般的である場合には、いはゆるアヤカリを以て説明せられる。例へば福島縣石城郡大森の庭渡《にわたり》神社などは、以前の本地佛庭渡地藏尊の像、美容にして片目を小さく造つてあつた。それ故に大森の人はみな片目が小さいといひ、しかも美人の生まれぬのも鎭守樣が器量よしだからといつてゐた(一)。自分の生まれ在所では村の氏神と隣村の氏神と、谷川を隔てゝ石合戰をなされ、あちらは眼に當つて傷つかれた故に、今でも隣村の人は片目が小さいといつたが、しかもこちらの社の門客神、いはゆる矢大臣がまた片目を閉ぢた木像である。幼少の頃からこれを不思議に思つて、今も引續いて理由を知りたいと願つてゐる。片方の目は一文字に塞いで、他の一方は尋常に見開いてゐるのが、二體ある像の向つて右手の年とつた方だけであつたやうに(170)記憶する。今でもまだあらうから確めることは出來る(二)。勿論この彫刻は定まつた樣式に從つたまでゝ、特にこの社のみにかぎられたことではなからうが、他の實例はあの地方ではまだ心づかぬ。
 ところが數百里を隔てた東部日本の田舍に、却つて早く知られてゐた片目の木像がある。例へば福島の市から西の山、信夫の土湯村の太子堂には、太子御自作と稱する本尊がそれであつた。この像もと鳥渡《とりわた》村の松塚といふ地に安置せられたのが、後に自ら飛行して土湯村の澤のあひだに隱れてゐた。一人の獵夫かつてこの地を過ぐるとき、我を山上に負ひ行き守護し奉れといふ聲が草の中から聞えたので、驚き覓《もと》めてこの像を發見した。即ち恐懼してこれを負ひ高原の平地に移したといふのである。それにつけ加へた大不可思議は、この際獵人が大角豆《さゝげ》の蔓に蹴つまづき倒れ、胡麻の稈で尊像の眼を突き傷けたといふ古傳であつて、現に近世までも御目から血の流れた痕があり、また當村の人はいづれも片目が細かつた。その上に太子の御印判と名づけて、村民悉く身體に痣があるとさへいつたのである(三)。これは太子が自ら不具の像を作りたまふといふことが言へないために、かういふ風に語り傳へることになつたのであらうが、像が傷ついたか、はた傷ついた像であつたかは、一見して區別し得た筈である。御目より血流るといへば、恐らくは眼の部分が破損してゐたのではなく、最初から片目を閉ぢて作られてあつたのを、生人と同じく後に相貌を變じたものゝ如く信じてゐたらしいのである。
 即ち片目の神像は、別に何かそのやうに彫刻せらるべき理由があつたのである。上州伊勢崎に近い宮下の五郎宮、一名御靈宮また五料宮とも稱する社の神體は、狩衣風折烏帽子の壯士の像であつて、また左の一眼を閉ぢて作られてあつた。その理由は甚だ不明で、氏子たちはさう古くからのものとも考へてゐなかつたらしいが、一方に賀茂の丹塗矢《にぬりのや》と少し似通うた社傳があるために、私にとつて相應に重要な資料である。昔利根川がこの近くを流れてゐた頃、一本の箭が流れて來て村の人がこれを拾ひ上げた。後にしば/\靈異を現じたので、それを祭つて鎭守の神とした。その箭、人に盗まれて今の木像を安置することになつたといふのだが(四)、二つの出來事のあひだには今少し深い關係があ(171)つたかと思はれる。もしこの御姿が古傳によつて作られたものならば、この箭はまた恐らくは多度の一目龍の熊手に當るものである。
 けだし偶像を以て神體とする慣行が、單なる佛法の模倣とも言はれないのは、それが數多く舊社に保存せられて、何か別途の目的に利用せられてゐたのではないかと、思ふやうな形?を具へてゐるからである。さうして社殿に人形を置くべき必要はいろ/\あり、その人形は同時に靈物であつたから、これを別のところに安置すれば、優に一座の小神として、拜祀するにたりたわけである。御靈が古今を通じて一方には獨立して崇める神、他の一方には大社の主神に臣屬して、統制を受ける神であつたことを考へると、特に木像神體の習はしが、この方面に始まつたことは想像してもよい。單に想像に止まらず、その例證も少しばかりはあるのである。
 諸國に分布するところの澤山の御靈神社が、鎌倉權五郎景政を祀るといふ説は、もと片目の木像の存在によつてその信用を強めたのであるが、すでに上州伊勢崎のやうな五郎宮もある以上は、今一度その像のはたして彼の傳記に基いたものか否かを、突き止めて置く必要がある。景政年わづかに十六歳にして出陣し、片方の眼を冑の鉢附の板まで射貫かれて、そのまゝ答《たふ》の箭に敵を射殺したといふ怖ろしい話を、最初に述べたてたのは「保元物語」の大庭兄弟であるが、實際かの兄弟が我が先祖の事蹟として、さう信じてゐたかどうか。この物語の成立が古くても鎌倉時代を上らず、今ある各異本の親本が、どれだけの口承變化を經て文字に寫し取られたかも確かでない以上は、疑ふ餘地は十分にある(五)。しかも一方には南北朝期に出來たといふ「後三年合戰記」が、大よそ同じ形を以て同じ事を書き記しながら、をかしいことは彼には左の眼、これには右の眼を射られたことになつてゐるのである(六)。
 京では上下の八所御靈が、主として冤寂M《ゑんれいたゝり》をなす人々を祭つたと認められたにかゝはらず、鎌倉の御靈だけは別に目出たく長命した勇士を祭るといつたのも、隨分古くからの事であるらしい。「尊卑分脈」に鎌倉權守景成の子同じく權五郎景正、御靈大明神是也とあるのは(七)、事によると後の?入《ざんにふ》と見た方がよいかも知れぬが、すでに鎌倉幕府の初(172)期に於いて、景政といふ名前が御靈の社と關聯して、世に知られてゐたことは注意に値する。「吾妻鏡」を見ると、文治二年の夏秋にかけて、しきりにこの社の怪異が申告せられ、人心はすこぶる動搖して居つた。ところがその年も暮に近くなつて、下野の局といふ女房が夢の中に、景政と號する老翁來つて將軍に申す。讃岐院天下に祟をなさしめたまふを、我制止し申すといへども叶はず、若宮の別當に申さるべしといつた。夢覺めてこれを言上するや、武家は若宮別當法眼房に命を下して、國土無爲の所を行はしめたとあるのである。鎌倉の若宮も諸國の同名の社と同じく、御靈の祟を鎭める爲に、本宮に先だつて鶴ヶ岡に祭られた神であつた。さうしてこの老翁の景政は自らその助手の如き地位に居らうとしてゐる。それがはたして大庭梶原等の先祖であり、また後三年役の武勲者のことであつたか否かは、夢の記事だけに確めやうもないが、兎に角にその後鎌倉の御靈社を目して、鎌倉權五郎を祀るとした説の、基くところは久しいのであつた。たゞこゝで問題となるはその神の片目は、その傳説の原因であるか、はたまた結果であるかである。
  (一) 高木誠一君報。「民族」二卷二號、また「土の鈴」一〇號。
  (二) 土地を精確に記せば、兵庫縣神崎都田原村大字西田原字辻川の鈴の森神社である。
  (三) 「信達一統誌」に「信達古語」といふ書を引用して、なほこの外に鹿落澤・尋澤・鹽野川・荒井川等の地名傳説を記述してゐる。太子信仰の聖コ太子以前からのものらしいことは、他日片足神の研究のついでにこれを細説する必要がある。
  (四) 「上野誌料集成」第一編に載録した「伊勢崎風土記」下卷。寛政十年の自序はあるが、それ以後の追記も多い。神の箭を盗まれたのは六十餘年前とあるのみで、確かな時は知れない。
  (五) 「前太平記」の類の演義文學が、「保元物語」の文辭を踏襲しつゝ、末に「今は神と齋はれたる鎌倉權五郎」の一句を附加してゐるのは、物語成長の一實例であらう。「保元物語」は二條院の御時、多武峯の公喩僧正、因縁舞の兒のために作るといふ一説は、もとより現存の詞草に筆を下したことを意味しなかつたと思ふ。
  (六) 「康富記」文安元年閏六月二十三日の條を見ると、少なくともあの時の「奧州後三年記」は内容が現行の「後三年記」と同一である。池田家には貞和三年の玄慧法師端書ある異本を藏するといふ。それも右の眼を射貫かれたとあるか否かを尋ねて見たい。それより以前にも後三年合戰繪のあつたことは、「臺記」承安四年の條にある。いつ頃から景政眼を射ら(173)るゝ話が入つたかゞ興味ある將來の問題である。なほ「源平盛衰記」石橋山の條にもこの話があつて、これは右の眼の方に屬してゐる。國々の景政木像の片目が右か左か、これを統計して見るのも面白からう。
  (七) 「續群書類從」の系圖部などを見ても、景政の父祖の名は家ごとに區々である。それから大抵はその子孫の名が見えて居らぬ。注意すべきことである。
 
       御靈の後裔
 
 何人も今まで深く注意しなかつたことは、御靈景政説が鎌倉の本元に於いて、却つて必ずしも強く主張せられないことである。從つて諸國の御靈社の、現に鎌倉から勸請したと稱するものも、なほ意外なるいろ/\の由緒を存し、さらにまたその外にもこれと獨立して、珍しい信仰と傳説とがある。これを悉くかつて鎌倉に始まつて遠く流布したものと見ることは困難なやうである。そこで實地の比較を試みると、地方によつて無論若干の異同はあるが、大體次の如き諸點が、今日の社記や口碑の特徴として算へられる。さうしてその大部分は鎌倉の本社の與り知らなかつたことであるらしい。
 第一には主として奧羽地方でいふ片目清水、即ち權五郎が戰場からの歸途に靈泉に浴して箭の疵を治したといふ傳説である。例へば羽前東村山郡|高※[木+箭]《たかだま》の八幡神社にも、景政の來り浴したといふ清池があり、その折鎌倉より奉じ來つた八幡の鑄像を、岸の樛木(ヌルデ?)に掛けて置いたら、靈異があつたのでこの社を建立したと稱し、今も境内社の一つに御靈社がある(一)。羽後の飽海郡平田村の矢流川も、景政射られたる片目をこの水に洗ふと稱して八幡の社がある。川に住む黄?魚《かじか》はこれに由つてみな片目なりといつてゐる(二)。同じ山形縣の名所の山寺にも景政堂があつた。土地の蟲追祭にこの堂から鉦太鼓を鳴らして追へば、蟲たちまち去るといつたのは正しく惡靈退治の信仰だが、こゝにも(174)景政の目洗ひ池片目の魚の話があり、この山即ち鳥海の柵址とさへいふ者があつた(三)。それから嶺を越えて福島の平野に下ると、城下の近くの信夫郡矢野目村は、景政眼の創を洗つて平癒した故に村の名が出來たといび南矢野目にはまた片目清水がある。後世池中の小魚悉く左の目眇であるのは、疵の血が流れてこの清水にまじつたからといふさうである(四)。宮城縣では亘理郡田澤村柳澤といふ處に、景政を祭るといふ五郎宮一名五郎權現があつた。柳澤本來は矢抽澤《やぬきさは》であり、祭神が鏃を拔き棄てた故にこの名があると説明せられた(五)。かういふ實例は多くなる程證據としては弱くなるが、それでもまだ奧州路ならば、こゝだけは本物とも強辯することが出來る。よく/\説明のむつかしいのは、信州伊那の雲彩寺などの、やはり權五郎來つて眼の疵を洗つたと傳ふる故迹である。池の名を恨の池と呼んでゐるのは、恐らくは別に同名の異人があつて、その記憶を誤つたことを意味するかと思ふが、こゝでもその水にゐる蠑?《ゐもり》は、今に至るまで左の眼が潰れてゐるといつてゐる(六)。要するに傳説の景政は單に超人的勇猛を以て世を驚かすのみで滿足せず、一應は必ず靈泉の滸《ほとり》に來て、神コを魚蟲の生活に裏書することになつてゐたのである(七)。これに基く信仰が一轉して眼病の祈願となり、例へば武州橘樹郡芝生村の洪福寺に、景政の守り本尊、聖コ太子の御作といふ藥師坐像を、目洗ひ藥師と名づけて崇敬したなどゝいふのは、至つて自然なる推移であつた。
 第二の特徴として注意すべきは、景政が神を祭り佛堂を建立し神木を栽ゑまた塚を築いたといふ口碑が、北は奧羽から南は九州にも及んでゐることである。即ちこの人の神に祀られるに至つた主たる理由は、自身が先づ非常に信心深く、より大なる神に仕へて最も敬虔であつた故に、その餘コを以て配祀を受けたといふものゝ多いことである。これにも澤山の例を擧げ得るが、先を急ぐから省略する。奧羽の方面の例は前に述べたが、九州に於いてもやはり主神を八幡とし、男山石清水を勸請したといふ場合が多く、大抵今は相殿の一座を占め、さうでなければ境内の主要なる一社であることが、若宮と八幡との關係によく似てゐる(八)。十六歳の時に眼を射られて全治したといふ以外に、これといふ逸話もなかつた權五郎としては、實際主人の八幡太郎と縁の深かつた八幡神の關係を除いては、かやうにひろく(175)祭られる理由は考へやうがないわけである。
 第三の特徴は、この神が常に託宣によつて、神コを發揮したらしきことである。品川の東海寺にある鎭守の御靈社は、長一尺四寸幅三寸餘の板を神體とするが、これはかつて當時門前の海岸に漂着したものであつた。これを祀つた小丘を景政塚といひ、景政の塚はこれだといつてゐたが(九)、突然にそんな事の知れたのは神の告であつたらう。告を信じたのは祟があつたからかと思ふ。もつと明白なのは福島郡仁井田の滑川《なめかは》神社の御靈である。景政征奧の途次この地に於いて水難に遭ひ、村の人に助けられて謝禮の歌を短册に書いて殘したといふものが、四百十餘年後の文明三年に、始めて神體としてこの地に祭られたのである。それからまた九十年後にも、領主の滑川修理が新館を築く際に託宣があつて、舊恩を謝するためにこの地に鎭護せんと告げた。さうして今日まで八幡天神と合祀せられてゐるのである(一〇)。かういふ隱れたる事由がなかつたなら、多くの御靈社の口碑は實は虚妄になるのであつた。記録の證跡はなくとも由來談は自由に成長して、聽く人のこれを疑ひ得なかつたといふのは信仰である。最初至つて不明であつた權五郎の事蹟が、世をおうて次第に精しくなつたのはこの結果と見るの他はない。從つて古くは「吾妻鏡」に記すところの、鎌倉の女房の夢に見えた景政なども、或ひは間接に今日の御靈社社傳に參與してゐるのかも知らぬ。たゞ問題は如何にしてそのやうな夢が、語られることになつたかに歸着するのである。
 最後に一番重要なる特徴は、諸國に景政の後裔のだん/\に顯はれて來たことである。その中で目ぼしきものは上州白井の長尾氏、これは系圖にも景政の後と書いて、熱心に御靈を祀つてゐた(一一)。信州南安曇の温《ゆたか》村にもその一派が居住し、後に越後に移つて謙信を出したのである(三)。奧州二本松領の多田野村に於いて、御靈を祀つたのも長尾氏であつた。只野油井などの苗字に分れて、今も彼地方に榮えてゐる。子孫五流ありといふ説なども彼等から出たのである(一三)。長州藩の名家香川氏もまた景政の後といひ、その郷里安藝の沼田郡八木村には景政社があつた。近世改修して眇目の木像が神體として安置せられてあつた(一四)。野州芳賀郡七井村大澤の御靈神社なども、神主の大澤氏はもと別當山伏であ(176)つて、寺を景政寺と稱し梶原景時の裔といつてゐた。景時この地を領する時に建立したと傳へるが、社は八幡三所を主神としてこれに權五郎を配し、さらに今では日本武尊の御事蹟を語るところから、その從臣の大伴武日尊をさへ合祀してゐるのである(一五)。その他能登では鳳至郡|谷内《やち》村、打越の與兵衛といふ百姓が、鎌倉權五郎の子孫であり(一六)、東國にもたしか同じ言ひ傳へを持つ農民があつた。
 自分は今に及んで彼等が系譜の眞僞を鑑定せんとするやうな、念の入り過ぎた史學には左袒《さたん》する氣はない。眞にせよ僞にせよ、はた巫覡の夢語りにせよ、何故に當初かやうな事を信ずべき必要があり、それがまた地を隔てゝこの通り一致したか。別の言葉でいへば、景政を先祖にもつといふことの意義如何。所領相傳の證據にもならず、乃至は血筋の尊貴を誇るべき動機でもなしに、なほこの類の由緒を大切にした所以のものは、別に何か目の一つしかない人の子孫であることが、特に神寵をもつぱらにすべき隱れたる法則があつたのではないか。陸前小野郷の永江氏の如きは、鬱然たる一郡の巨姓であつて、必ずしも御靈の信仰に衣食した者でないにもかゝはらず、寺を興し社を崇敬して、すこぶるかの地方の景改遺迹を史實化した形がある。白井の長尾氏、藝州の香川氏などもその通りで、これはむしろ家の祖神の言ひ傳への中に、偶然に眼を傷つけたる物語が保存せられてゐたために、進んで解釋を著名の勇士に近づけた結果かも知れぬ。さうすればまた源に溯つて、鎌倉の御靈に奉仕した梶原その他の近郷の名族が、却つて今ある「保元物語」の奇談の種を、世上に供給するに至つた事情もわかるのである(一七)。たゞし如何なる場合にも、傳説の原因は單純でないのが常である。殊にその發生が古ければ、一層これを分析することが面倒である。長たらしくなるがこのついででないと、こんな問題を取り扱ふことは出來ぬ故に、今少しく辛抱して神と片目との關係を考へて行かうと思ふ。
  (一) 「明治神社誌料」による。
  (二) 「莊内可成談」。「和漢三才圖會」卷六五に、鳥海山の麓の某川とあるのも同じ處のことらしい。
(177)  (三)「行脚隨筆」上卷。
  (四) 「信達二郡村誌」卷一〇下。及び「信達一統誌」卷六。
  (五) 「封内名蹟誌」卷五。「封内風土記」卷八。
  (六) 岩崎清美君編「傳説の下伊那」。
  (七) 獨り魚やゐもりだけでなく、安積郡の多田野村などでは、村に御靈社があるために、この地に生まれた者は一方の目が少しく眇すとさへいはれてゐる。
  (八) 「民族」二卷一號「人を神に祀る風習」を參照せられたし。
  (九) 「新編武藏風土記稿」卷四六。
  (一〇) 「北野誌」首卷 附録二八三頁。
  (一一) 「上毛傳説雜記」卷九 に御靈宮縁起を傳へ、この神九歳の時力成人に超え、十歳より戰場に出たなどゝ述べてゐる。即ちまた神自らの言葉を書き留めたものであらう。
  (一二) 「南安曇郡誌」による。
  (一三) 「相生集」卷二、卷一〇など。
  (一四) 「藝藩通志」卷七、「陰徳太平記」の著者香川宜阿。歌人香川景樹の家などもこの一門の末で、御靈は鎌倉のを拜むべき人々であつた。
  (一五) 「下野神社沿革誌」卷六。
  (一六) 「能登國名跡志」上卷。
  (一七) 權五郎景政が信心の士であつたことは、「吾妻鏡」卷一五、建久六年十一月十九日の條に見えてゐる。後世かの一門を御靈社と結びつける力にはなつてゐたかと思ふ。いはゞ彼は我々の立場から見ても、なほその片目を傷けらるゝにたる人であつた。
 
       神人目を奉る
 
 九州の一つ目信仰には、まだ色々と考へて見るべき點が殘つてゐる。薩摩では日置郡|吉利《よしとし》村の御靈神社、神體は木(178)の坐像が八?であつて、なほ權五郎景政を祭ると傳へてゐる。當村|鵜野門《はとのもん》に居住する農民某、これを鎌倉より奉じ下る者の苗裔と稱して、今でもこの神社の祭典に與かつてゐるが、その家の主人は代々片目である(一)。代々片目といふことは餘程想像しにくい話だが、こんなことにまで遠方の一致があつた。甲州では古府中《こふちゆう》の奧村氏、山本勘助の子孫と稱して、代々の主人が片目であつた(二)。山本勘助ははたして實在の人物か否かさへ問題となつてゐるが、その生地と稱する三州の牛窪では、左甚五郎もこゝから出たと傳へてゐる。これが同國横山の白鳥六所大明神に於いて、この神片目なる故に村に片目の者が多いといふ話(三)、もしくは前に擧げた自分の郷里の隣村などの例と、源頭一つであることは想像してよからう。
 さうすると次に問題になるのは、何故に神にそのやうな思し召しがあるかといふことであるが、これは單に古くからさうであつたからと、一應は答へておくの他はあるまい。自分は以前片目の魚の奇瑞に關して、二つ三つの小發見をしたことがあるが、その一はこの魚の住むのは必ず神泉神池であつて、魚の放養が生牲の別置に基いたらしいこと、第二には神が特に魚の片目を要求したまふらしきことであつた。例へば魚釣りの歸路にあやかしに逢ひ、還つて魚籠を開いて見たら悉く眼を拔いてあつたといふ話があり、遠州の南部などでは深夜天狗が殺生に出ると稱して、神火の平野水邊を來往するを見ることがあるが、その當座には水田に泥鰌の片目なるものを多く見かけるといつてゐた(四)。東京の近くでは上高井戸村醫王寺の藥師の池に、眼を患ふる者一尾の川魚を放して祈願を籠めるが、その魚類は何時となくみな片目になつてゐる。夏の出水の時などに下流で片目の魚をすくひ得たときは、これは藥師の魚だといつて必ず右の池に放すといふことである(五)。即ち數かぎりもない同種の言ひ傳へは、大抵は神が其方を喜ばるゝ故と、説明することが出來るのである。
 しかも生牲が魚である場合には説明はむしろ容易で、かくして神の食物を常用と區別し、その清淨を確保したといへるのだが、その理論は推して他の生物には及ぼしがたい。加賀の大杉谷では、那谷《なた》の奧の院と稱する赤瀬の岩屋谷(179)の觀音堂附近に於いて、大小の蛇こと/”\く片目なりといふこと、あたかも佐渡金北山の御蛇河内の如くであつた。現在は物語風に、やすと稱する片目の女、旅商人に欺かれて、恨を含んで身を投げて死んだなどゝいふが、今でも小松の本蓮寺の報恩講には、必ず人知れず參詣すると稱して、本來は信仰に基いたらしい言ひ傳へであつた(六)。越後頸城郡青柳の池の主なども、附近の某大寺の法會の折に人知れず參拜し、後に心づくと一つの席が濡れてゐるなどゝいつたが、これはもと安塚の城主の杢太といふ武士で、美しい蛇神と縁を結んで池に入つて主になつた。それでこの池の魚も片目になつたといふ(七)。野州|上川《かみのかは》城址の濠の魚もみな片目だが、これは慶長二年五月の落城のとき、城主今泉氏の愛娘が身を投げて死んだ因縁からといふ(八)。その際匕首を以て一眼を刺して飛込んだといふからには、これもまた同系の話である。作州白壁の池にも片目の鰻住み、こゝにもかつて片目の馬方が、茶臼を馬に負はせて來て引き込まれたといふ話があつた(九)。同じ例はなほ多からうと思ふが、いづれも水の神が魚のみか人の片目なる者をも愛し選んだといふ證據であつて、それは勿論食物としてゞはなく、多分は配偶者、少なくとも眷屬の一人に加へる場合の、一つの要件の如きものであつたのである(一〇)。
 自分は努めて根據の乏しい想像を避けようとしてゐるが、なは一言を費さゞるを得ないのは、早く古澤瑠璃の中に影を潜めた權五郎|雷論《いかづちろん》の起源である。或ひは「景政いかづち問答」と題する曲もあつて、現存のものは終始金平式武勇を演じ、雷は單に名刀の名に過ぎぬが、これを若君誕生の祝に獻上したといふのを見ると、何か上代の天目一神神話から筋を引いたものがあるのではないか、なほ本文について考究して見たいと思ふ(一一)。眇をカンチといふのは鍛冶の義であつて、元この職の者が一眼を閉ぢて、刀の曲直をためす習ひから出たといふことは、古來の説であるが自分には疑はしくなつた。秋田縣の北部では、カヂといふのは跛者のことである(一二)。恐らく足の不具なる者のこの業に携はつた結果であつて、別に作業のためにそんな形を眞似たからではあるまい。作金者天目一箇の名から判ずれば、事實片目の者のみが鍛冶であつた故に、眇者を金打《かぬち》と名づけたと解するのが自然である。本來鍛冶は火の效用を人類の間に(180)顯はすべき最貴重の工藝であつた。同時にまた水のコを仰ぐべき職業でもあつた。日本では火の根源を天つ日と想像し、雷をその運搬者と見たが故に、乃ち別雷系の神話は存するのである(一三)。これを語り繼ぎ述べ傳へた忌部の一派が、代々目一つであつたにしても怪しむに足らぬ。たゞそれが一轉して猛く怒り易い御靈神となり、また多くの五郎傳説を派生するに至つた事由のみは、上代史の記録方面からは説き盡くすことが六つかしいのである。
  (一) 「薩隅日地理纂考」卷四。
  (二) 山中翁「共古日録」卷七。この古城の堀の泥鰌も勘助に似てみな片目といふ。
  (三) 早川孝太郎君「三州横山話」。
  (四) 「郷土研究」四卷三〇九頁、渡邊三平君。
  (五) 「豐多摩郡誌」。俗名所坐知抄卷下に、陸奧の三日月石、眼の祈願の禮物に鮒泥鰌をこの邊の溝川に放てば、一夜にしてその魚片目を塞ぐとある。
  (六) 「石川縣能美郡誌」九二二頁。
  (七) 越後國式内神社案内。
  (八) 「日本及日本人」の郷土光華號。
  (九) 「東作誌」。
  (一〇) 及川氏の「筑紫野民譚集」一四一頁には、人蛇婚姻の一語に伴なうて、蛇神が眼を拔いて人間の幼兒に贈つたといふ珍しい一例がある。詳しく考へて見たらいはゆる三輪式説話の新生面を開くであらう。
  (一一) 「繪入淨瑠璃史」中卷五〇頁。今あるものは爲義産宮詣と稱する。自分はまだ親しく見たのではない。
  (一二) 「東北方言集」による。
  (一三) この問題は「海南小記」の「炭燒小五郎が事」に幽かながら述べておいた。八幡神はもと水火婚姻の神話の中心であつたことは、他にも推測の根據がある。
 
(181)       人丸大明神
 
 神職目を傷つくといふ古い口碑には、さらに一種の變化があつた。下野芳賀都南高岡の鹿島神社社傳に、垂仁天皇第九の皇子池速別、東國に下つて病のために一目を損じたまひ、これによつて都に還ることを得ず、この地に留まつて若田といふ。十八代の孫若田高麿、鹿島の神に?つて一子を得たり。後に勝道上人となる云々とある(一)。この話と前に擧げた信夫の土湯の太子堂の太子像の、胡麻の稈で眼を突かれたといふ傳説とは、完全に脈絡をたどることが出來る。野州は元來彦狹島王の古傳を始めとして、皇族|淹留《えんりう》の物語をしきりに説く國であつた。さうして一方にはまた神の目を傷つけた話も多いのである。例へば安蘇郡では足利中宮亮有綱、山鳥の羽の箭を以て左の眼を射られ、山崎の池でその目の疵を洗ひ、後に自害をして神に祭られたといふ、京と鎌倉と二種の御靈を總括したやうな傳説がある外に、別に村々には人丸大明神を祭る社多く、その由來として俗間に傳ふるものは、この上もなく奇異である。一つの例を擧げるならば、旗川村大字|小中《こなか》の人丸神社に於いては、柿本人丸手負となつて遁げ來り、小中の黍畑に逃げ込んで敵をやり過して危難を免れたが、その折に黍稈の尖りで片眼を潰し、暫くこの地に滯在した。そこで村民その靈を神に祀り、且つそのために今に至るまで、黍を作ることを禁じてゐるといふ(二)。
 神が植物によつて眼を突いたといふ話は多い。その二三をいふと山城伏見の三栖神社では、昔大水で御香宮の神輿が流れたとき、この社の神これを拾はうとして葦で目を突いて片目になられた。それ故に十月十二日の御出祭には、大小二本の葦の松明をともして道を明るくする(三)。江州栗太郡笠縫村大字川原の天神社では、二柱の神が麻の畑へ天降りたまふとき、麻で御目を突いて御目痛ませたまふ故に、行末我が氏人たらん者は永く麻を栽ゑるなかれといふ託宣があつた(四)。同國蒲生郡櫻川村川合では、河井右近太夫麻畑の中で打死した故に、麻の栽培を忌むといつてゐた(五)。阿波(182)の板野郡北灘の葛城大明神社では、天智天皇この地に御船|繋《かゝ》りして、池の鮒を釣らんとて上陸なされた時、藤の蔓が御馬の脚にからんで落馬したまひ、男竹で眼を突いてお痛みなされた。それ故にこの村の藪には今も男竹が育たぬ(六)。美濃の太田の加茂縣主神社でも、大昔加茂樣馬に乘つて戰に行かるゝ時に馬から落ちて薄の葉で目をお突きなされた。それ故に以前は五月五日に粽を作ることを忌んだ(七)。信州では小谷の神城村を始め、この神樣が眼を突きたまふと稱して、胡麻の栽培を忌む例が多い(八)。或ひはまた栗のいが、松の葉などを説くものもある。例のアルプス順禮路の橋場|稻核《いねこき》では、晴明樣といふ易者この地に滯在の間、門松で眼を突いて大いに難澁をなされ、今後もし松を立てるならば村に火事があるぞと戒められたので、それから一般に柳を立てることになつた(九)。
 忌むといふことの意味が不明になつて、神嫌ひたまふといふ説明が起つたことは、もう誰でも認めてゐる(一〇)。多くの植物栽培の忌は、單に神用であつた故に常人の手をつけるを戒めたといふだけで、神の粗忽がさう頻繁にあつたことを意味しない。兎に角にこれだけ多くの一致は、或法則または慣行を推定せしめる。即ち足利有綱にあつては山鳥の羽の箭、景政に於いては鳥海彌三郎の矢が、これに該當したことはほゞ疑ひがないのである。それよりもこゝに問題となるのは、神の名が野州に於いて特に柿本人丸であつた一事である。その原因として想像せられることは、自分の知るかぎりに於いては今の宇都宮二荒神社の、古い祭式の訛傳といふ以外に一つもない。この社の祭神を人丸といつたのは、勿論誤りではあるが新しいことでない(一一)。或ひは宇都宮初代の座主宗圓この國へ下向の時、播州明石より分靈勸請すとも傳へたさうだが、それでは延喜式の名神大はいづれの社かといふことになるから、斷じてこの家の主張ではないと思ふ(一二)。「下野國誌」にはこの社の神寶に早く人麿の畫像のあつたのが、誤解の原因だらうと説いてゐるが、それのみでは到底説明の出來ぬ信仰がある。この地方の同社は恐らく數十を算へると思ふが、安蘇郡|出流原《いづるはら》の人丸社は水の神である。境内に神池あり、舊六月十五日の祭禮の前夜に、神官一人出でゝ水下安全の祈?を行へば、その夜にかぎつて髣髴として神靈の出現を見るといつた。さういふ奇瑞はひろく認められたものか、特に社の名を示現神社(183)と稱し、またいはゆる示現太郎の神話を傳へたものが多い。近世の示現神社には本社同樣に、大己貴《おほあなむち》事代主《ことしろぬし》御父子の神、或ひは豐城入彦を配祀すともいつてゐるが、那須郡|小木須《こぎす》の同名の社などは、文治四年に二荒山神社を奉請すと傳へて、しかも公簿の祭神は柿本人麿朝臣、社の名ももとは柿本慈眼大明神と唱へてゐた(一三)。さうしてこの神の勢力の奧州の地にも及んだことは、あたかもこの神の氏人の末なる佐藤一族と同じであつた(一四)。例へば信夫郡淺川村の自現太郎社の如きは、海道の東、阿武隈川の岸に鎭座して、神この地に誕生なされ後に宇都宮に移し奉るとさへ謂つてゐる(一五)。神を助けて神敵を射たといふ小野猿丸太夫が、會津人は會津に生まれたといひ、信夫では信夫の英雄とし、しかも日光でもその神傳を固守したのと、軌を一にした分立現象であつて、獨りこの二種の口碑は相關聯するのみならず、自分などは信州諏訪の甲賀三郎さへ、なほ一目神の成長したものと考へてゐるのである。
 しかし一方人丸神の信仰が、歌のコ以外のものに源を發した例は、すでに近畿地方にも幾つとなく認められた。山城大和の人丸寺、人丸塚は、數百歳を隔てゝ始めて俗衆に示現したものであつた。有名なる明石の旨杖櫻の如きも(一六)、由來を談る歌は至極の腰折れで、むしろ野州小中の黍畑の悲劇と、聯想せられるべき點がある。「防長風土記」を通覽すると、山口縣下の小祠には殊に人丸さまが多かつた。或ひは「火止まる」と解して防火の神コを慕ひ、或ひは「人生まる」とこじつけて安産の悦びを?つた。またさうでなければ農村に祀るわけもなかつたのである。人はこれを以て文學の退化とし、乃ち石見の隣國なるが故に、先づ流風に浴したものと速斷するか知らぬが、歌聖はその生時一介の詞人である。はたして高角山下の民が千年の昔に、これを神と祭るだけの理由があつたらうか。もし記録に明證はなくとも、人がさう説くから信ずるにたるといふならば、石見では四十餘代の血脈を傳ふと稱する綾部氏(一に語合《かたらひ》氏)の家には、人丸は柿の木の下に出現した神童だといふ口碑もあつた(一七)。或ひは柿の樹の股が裂けて、その中から生まれたといふ者もあり、もしくは二十四五歳の青年であつて姓名を問へば知らず、任所を問へばいび難し、たゞ歌道をこそ嗜《たしな》み候へと答へたともいふ(一八)。これでは井澤長秀の考證した如く、前後十五人の人麿があつたとしても、これ(184)はまた十六人目以上に算へなければならぬのである。
 播磨の舊記「峯相記」の中には、明石の人丸神實は女體といふ一説を録してゐる。因幡の某地にあつた人丸の社も、領主龜井豐前守の實見談に、内陣を見れば女體であつたといふ(一九)。さうすると芝居の惡七兵衛景清の娘の名が、人丸であつたといふ話もまた考へ合される。景清の女を人丸といふことは、謠曲にはあつて舞の本にはない。旨目になつて親と子の再會する悲壯なるローマンスも、さう古くからのものでないことが知れる上に、景清目を拔くといふ物語すらも、實は至つて頼もしからぬ根據の上に立つのである。それにもかゝはらず日向には儼たる遺迹があつて神に眼病を?り、また遠近の諸國にはしば/\その後裔と稱する者が、連綿としてその社に奉仕してゐる。即ちこれもまた一個後期の權五郎社であつたのである(二〇)。その一つの證據は別にまた發見せられてゐる。
  (一) 「下野神社沿革誌」卷六。
  (二) この二件とも「安蘇史」による。
  (三) 「日本奇風俗」による。
  (四) 「北野誌」首卷附録。たゞ御目痛ませたまふといふのは、現在片目ではないからであらう。しかも二柱の神といふを見れば明らかに菅原天神ではなかつた。
  (五) 「蒲生郡話」卷八。これは目を突いた例でないが、必ず同じ話である。神輿を麻畠に迎へ申す例は方々にある。
  (六) 「傳説叢書」阿波の卷。出處をいはざるも「粟の落穗」であらう。池の鮒といふのはこの社の池の魚であつて、やはり片目を説いたものらしい。
  (七) 「郷土研究」四卷三〇六頁、林魁一君。
  (八) 「小谷口碑集」一〇三頁。
  (九) 「南安曇郡誌」。
  (一〇) 始めてこれを説いたのは、大正十三年の小者「山島民譚集」葦毛馬の條であつた。
  (一一) 「和漢三才圖會」の地理部にも、當然のやうにしてさう書いてある。
  (一二) 下野西南部の人丸社では、今日はもう宇都宮との關係を忘れて、藤原定家この地方に來遊して、この神を祀り姶めたと(185)いふ一説が行はれてゐる。定家流寓の傳説はまた群馬縣にも多い。無論事實ではない故に、旅の語部の移動の跡として、我々には興味が多いのである。
  (一三) 以上すべて「下野神社沿革誌」による。
  (一四) 拙著「神を助けた話」には、宇都宮の信仰の福島縣の大部分を支配してゐたことを述べてある。
  (一五) 「民族」一卷五六頁及びその註參照。
  (一六) 百人一首一夕話による。上田秋成の説らしいから小説かも知れぬ。菅公が梅の本に現はれたといふと一對の話で、我々は便宜のためにこれを樹下童子譚と呼んでゐる。
  (一七) 「本朝通紀」前編上。
  (一八) 「滑稽雜談」卷五(國書刊行會本)にさう書いてある。
  (一九) 「戴恩記」上卷、存採叢書本。
  (二〇) 景清と景政と、同一の古談の變化であらうと説いた人はあつた。自分は必ずしもこれを主張せんとせぬが、少なくともカゲもマサもキヨも、ともに示現神即ち依女依童と、縁のある語であることだけは注意しておかぬばならぬ。
 
       三月十八日
 
 人麿が柿本大明神の神號を贈られたのは、享保八年即ち江戸の八代將宰吉宗の時であつた。その年の三月十八日には人麿千年忌の祭が處々に營まれてゐる。即ち當時二種あつた人磨歿年説の、養老七年の方を採用したので、他の一説の大同二年では餘りに長命なるべきを氣遣つたのである(一)。月日についても異説があり、すこしも確かなることではなかつた。「續日本紀を見れば光仁天皇の御宇三月十八日失せたまふと見えたり」と、「戴恩記」にいつてゐるのは虚妄であるが、「まことや其日失せたまふよしを數箇國より内裏へ、同じ樣に奏聞したりといへり」とあるのは、筆者の作り事ではないと思ふ。即ちいづれの世かは知らず、相應に古い頃からこの日を人丸忌として公けに歌の會を催し、またこれに伴なうて北野天神に類似した神秘化が流行したらしいのである(二)。そこで自分が問題にして見たいのは、假(186)に人丸忌日は本來不明だつたとして、誰がまたどうしてこれを想像しもしくは發明したかといふことである。誰がといふことは結局我々の祖先がといふ以上に、具體的には分らぬかも知らぬが、如何にしてといふ方は、今少し進んだことがいひ得る見込がある。我邦の傳説界に於いては、三月十八日は決して普通の日の一日ではなかつた。例へば江戸に於いては推古女帝の三十六年に、三人の兄弟が宮戸川の沖から、一寸八分の觀世音を網曳いた日であつた。だからまた三社樣の祭の日であつた。といふよりも全國を通じて、これが觀音の御縁日であつた(三)。一方にはまた洛外市原野に於いて、この日が小野小町の忌日であつた。九州のどこかでは和泉式部も、三月十八日に歿したと傳ふるものがある。「舞の本」の築島に於いて、最初安部泰氏の占兆に吉日と出たのもこの日であり、さうかと思ふと現在、和泉の樽井信達地方で、春事《はるごと》と稱して餅を搗き、遊山舟遊をするのもこの日である(四)。暦で日を算へて十八日と定めたのは佛教としても、何かそれ以前に暮春の滿月の後三日を、精靈の季節とする慣行はなかつたのであらうか。
 このあひだも偶然に謠の八島を見てゐると、義經の亡靈が昔の合戰の日を敍して、元暦元年三月十八日の事なりしにといつてゐる。これは明らかに事實でなく、また觀音の因縁でもない。そこでたち戻つて人丸の忌日が、どうして三月十八日になつたかを考へると、意外にも我々が最も信じ難しとする景清の娘、或ひは黍畑で目を突いたといふ類の話に、却つて或程度までの脈絡を見出すのである。「舞の本」の景清が清水の遊女の家で捕はれたのは、三月十八日の賽日《さいにち》の前夜であつたが、これは一つの趣向とも見られる。しかし謠の人丸が訪ねて來たといふ日向の生目八幡社の祭禮が、三月と九月の十七日であつたゞけは(五)、多分偶合ではなからうと思ふ。それから鎌倉の御靈社の祭禮は、九月十八日であつた(六)。上州白井の御靈宮縁起には、權五郎景政は康治二年の九月十八日に、六十八歳を以て歿すといつてゐる。
 私は今少しくこの例を集めて見ようとしてゐる。もし景政景清以外の諸國の眼を傷つけた神々に、春と秋との終の月の缺け始めを、祭の日とする例がなほ幾つかあつたならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪し(187)い口碑に、胚胎してゐたことを推測してよからうと思ふ。丹後中郡五箇村大字鱒留に藤社《ふぢこその》神社がある。境内四社の内に天目一社があり、祭神は天目一箇命といふ。さうしてこの本社の祭日は三月十八日である(七〕。今まで人は顧みなかつたが、祭の期日は選定が自由であるだけに、古い慣行を守ることも容易であり、これを改めるには何かよく/\の事由を必要とし、かつそんな事由はたび/\は起らなかつた。故に社傳が學問によつて變更せられた場合にも、これだけは偶然に殘つた事實として或ひは何物かを語り得るのである。
  (一) 大同二年八月二十四日卒すといふ説は、何の書にあるかを知らぬが、「滑稽雜談」と「閑窓一得」とにこれを引用してゐる。ともに一千年忌より少し前に出來た本である。「鹽尻」卷四七にはこの年七月十三日、竹生島に人丸の靈を崇むとある。大同二年は寺社の縁起や昔話に最も人望のある年であつたことは誰でも知つてゐる。
  (二) 「日次記事」三月十八日の條には、古へ宮家御影供を修す、今に於いて和歌を好む人々、多く斯日歌會を修すとある。「徹書記物語」はまだ讀む折を得ないが、さらに三百年前の書であるのに、やはり昔はこの日和歌所にて歌會があつたと記してゐるさうだ。
  (三) 但し何故に三月の十八日が、觀音にさゝげてあるかは私にはまだ明白でない。
  (四) 「郷土研究」四卷三〇二頁。
  (五) 「太宰管内志」による。たゞし「和漢三才圖會」にはこの地に景清の墓あり、水鑑景清大居士建保二年八月十五日と記すとある。八月十五日は八幡社放生會の日である。熱田の景清社も例祭は九月十七日である。
  (六) 但し景政でない京都の上下御靈も、有名なる御靈會の日は昔から八月十八日であつた。大阪の新御靈は鎌倉から迎へたといふが、祭禮は九月二十八日であつた。
  (七) 「丹後國中郡誌稿」。
 
       生目八幡
 
 日向景清の奇拔なる生目物語を、ひろく全國に流布したのは座頭であつたらうといふことは、證據はまだ乏しいが(188)多くの人が推測する。いはゆる當道の饒舌なる近世記録でも、まだ明らかにならぬ諸點の中で、殊に興味を惹くのは雨夜皇子の事、及び日向に澤山の所領があつて、その年貢を以て養はれたといふ言ひ傳へである。コ川氏の新しい政策によつて、京と江戸との旨人の一群が、偏頗なる保護を受けて競爭者を壓抑したが、それ以前の勢力の中心は西國にあつたかと思はれる。これは社會組織の地方的異同などを參酌して、考へて見るべき問題であるが、少なくとも奧羽地方には見られぬ宗教的支援が、西へ行くほど必要になつてゐるのは、久しい沿革のあつたことであらう。京都の團體でも妙音天堅牢地神の信仰を佛教に基いて敷衍する外に、なほ守瞽神だの十宮神だのと名づけて、一種の獨立した神道を持つてゐた。九州では肥前黒髪山下の梅野座頭を始めとして、僧侶よりもむしろ神主に近い盲人が多かつたやうである。その特徴の特に顯著なるものは帶刀の風であつた。「廣益俗説辨」の著者は熊本の人であるが、景清盲目の談を説明してこんなことを言つてゐる。曰く景清が盲になつたのは、痣丸《あざまる》といふ太刀を帶びてゐた故である。その後もこの太刀を帶せし者はみな眼しひたりといふ云々とある。即ちかの地方の座頭等のあひだには、東へ來ると通用し難いやうな、いろ/\な昔語りが行はれてゐたので、景清の眼を抉《ゑぐ》つて再び生じたといふ神コは勿論、同じく八幡神に附隨して今も祭らるゝ後三年役の勇士の話なども、自分は却つて當初あの方面に於いて?釀したのではないかとさへ思ふのである。痣丸の太刀のことは謠の大佛供養に見えてゐる。かの曲には母を若草山の邊にたづねて、やはり親子が再會したことを述べてゐるが、人丸もなく阿古屋もなく、また目を潰したといふ話もなく、單にこの太刀によつて呪術を行ひ、霧に隱れて虚空に消え去つたといふのみである。しかしそれもこれも景清といふが如き一小人物を、英雄として取り扱ふ習ひある遊藝團がなかつたならば、恐らく民間文藝の題目となる機會なく、また信仰を背景とした或勢力がなかつたら、これだけの流傳を望むことは難かつたので、即ちまた平家の哀曲とともに、遠くその淵源を京以西の地に尋ねなければならぬ所以である。
 いはゆる光孝天皇第四の皇子の口碑は、亂暴には相異ないが彼等の大切なる家傳を、出來るだけ史實に接近しよう(189)とした努力と見れば解せられる。即ち祖神が神子であり、從つて最も惠まれたる者であつたことを述べるのは、すべての宗教に共通した宣傳法である。その單純にして自然に巧妙なるものが感動を與へて記録せられ、しかもそれが時代とともに推移つた故に、つひには相牴觸して分立してしまふのである。これをもとの形に復原して見ようとする場合に、後に取りつけたる固有名詞に拘泥することは誤りである。先づ共通の趣旨ともいふべきものを見出すべきである。
 けだし眼を傷つけた者が神の御氣に入るといふ類の話だけならば、代々盲目または片目の神人が社に事《つか》へてゐるあひだには、自然に發生しまた成長變化したかも知らぬが、それだけでは何故に最初そのやうな不具を神職に任ずることにしたかゞ證明せられず、且つその祖神が特に荒々しく勇猛であつたかゞ分らぬ。しかるに一方には天神寄胎の神話の一つに天目一神の御名があり、それと同名の忌部氏の神は作金者であつた。即ち太古以來の信仰の中に、すでに目一つを要件とする場合があつたのである。宇佐の大神もその最初には鍛冶の翁として出現なされたと傳へられる。而うして御神實《おんかみざね》は神秘なる金屬であつた。譽田別《ほむだわけ》天皇を祭り奉るといふ説が本社に於いてすでに確定して後まで、近國の大社には龍女婚姻の物語または日の光の金箭を以て幼女を娶つた物語を存してゐた。さうして近代まで用ゐられた宇佐の細男舞の歌には、「播磨風土記」と同系の神話を、暗示するやうな詞が殘つてゐたのである(一)。
   いやあゝ、ていでい、いそぎ行き、濱のひろせで身を淨めばや
   いや身を清め、ひとめの神にいく、いやつか/\まつりせぬはや
 即ちこの社に於いても天の目一つの信仰があつた故に、關東地方からやつて來た權五郎景政が諸處の八幡社を創建し、また惡七別當が目を抉つて、後に大神の恩コを證明することになつたのではないかと思ふ。
 生目八幡は日向以外に、豐後にも薩摩にもあつた。さうして眼の病を?る八幡はそればかりではないのである。さういふ幽かな名殘を止むるのみで、今は由緒の傳へらるゝものがなくとも、これを盲人の神に仕へた證據とすること(190)は、もう許されるであらうと思ふ。たゞ彼等が自ら進んでその目を傷つける風習が、いつ頃まで保たれてゐたかは問題であるが、遣傳の望まれない身體の特徴によつて、或特權を世襲せんとすれば、世俗的必要からでも或ひはその儀式を甘受したかも知れぬ。もしくは景清の物語のやうに、目の復活の芝居を演じてゐたか。兎に角に人の生牲といふことは放生會などよりも遙か前から、單に前半分だけを保存して後の半分は省略してゐたから、一層古代のいひ傳へが誇張せられたものと思ふ。「若宮部と雷神」の一章にも述べた如く(二)、御靈の猛惡を怖るゝ風が強くなつて、若宮の思想は一變してしまひ、その上に實在の貴人を以て祭神と解する世になると、かの童貞受胎の教義も片隅に押し遣られたが、幸ひにして御靈は本來神の子または眷屬であつた人間の靈魂を意味したといふことが、目一箇神の一片の舊話から窺ひ知られるのである。加藤博士の如く粗末にこの資料を取り扱ふのはよくないと思ふ。
 話が長くなつたがもう一言だけ述べて結末をつける。後代化物の「目一つ五郎」とまで零落した御靈の一つ目と、魚の片目との關係があることを證するのは、源五郎といふ鮒の名である。近江の湖岸にも魚を生牲とする祭式は多く殘つてゐるが、遠く離れて奧州の登米郡などにも、錦織源五郎鮒を近江より持つて來た口碑があつて(三)、しかも方々の神池の鮒は眇目である。その中でも上沼村八幡山の麓の的沼といふ沼の鮒は、八幡太郎の流鏑馬《やぶさめ》の箭が水に落ちて、目を傷けてから今以てみな片目になつたといふ。日向の都萬神社で神の帶びたる玉の紐落ちて鮒の目を貫くといひ、加賀の横山村の賀茂神社では汀の桃おちて鮒の目に當るといつたことは、かつて「片目魚考」の中に述べたから細説せぬ(四)。その他各地の神社佛閣に武士獵人の箭に射られた、或ひは?に蹴られたなどゝいつて、現に尊像の眼の傷ついたものが多いのは、到底一つ/\の偶然の口碑でないことも明らかである。世相が一變するとわづかな傾向の差によつて、これが逆賊退治惡鬼征服の別種の傳説にもなり得たことは、則ち亦御靈信仰の千年の歴史であつた。時代の推移を思はない人々には、古史の解説を托すべきでないと思ふ。
  (一) 故栗田博士の「古謠集」に、「豐前志」から採録してゐる。なほ同じ集には「玉勝間」から、肥後の神樂歌として次の一章(191)を引いてゐる。
  一目のよとみの池に舟うけて のぼるはやまもくだるはやまも
この「一目」もまた目一つ神であらう。
  (二) 「民族」二卷四號。
  (三) 「登米郡史」による。
  (四) 「郷土研究」四卷六四七頁。
 
(192)     鹿の耳
 
       神のわざ
 
 この石は今でもまだあるかどうか、一度ぜひ見に行きたいと思つてゐる。南津輕の黒石の町に近く、シシガサハといふ山路の傍に、めぐり五六尋もある大岩の面へ、大小無數の鹿の頭を彫刻したものがあつた。我々の敬慕する白井秀雄といふ旅人が、百三十年ほど前にこの地を訪ねて、詳しい日記と見取圖とを遺してゐる。何よりも珍しいと思つたのは、鹿の顔が素朴なる寫實であつて、しかもその耳が特に大きく、鼠などのやうに描いてあることであつた。さうして首の位置は亂雜で、次々に彫り加へて行つたことは疑ひがない。岩の横手の大木の空洞には小さな石が入つてゐて、それにも同じやうな鹿の首が刻んであつたといふ。
 場處は淋しい山の中であつた。どうしてこのやうな彫刻がこゝにあつたものか、その當時でもすでに説明し得る者がなかつたさうである。土地の言ひ傳へには、たゞ神のわざであつて、毎年七月七日には、二つづゝ新たな鹿の頭が彫り添へられてあるともいつた。附近の村々ではシシヲドリ(鹿踊)の面が古くなると、必ずこの岩の脇に持つてきて埋める慣例があつたが、その由來もまた明らかならずといふことであつた。奧州では村々に神樂の獅子舞と似たものがあつて、これを鹿踊といふのが普通であつた。そのいはゆる獅子頭を權現またはゴンゲサマと稱して、面はやゝ(193)細長く枝角があり、確かに鹿の頭を擬したものであつた。これとこの岩石の表の彫刻と、何か關係のあつたことだけは、誰にでも想像することが出來るのである。
 
       鹿の家
 
 諸國の獅子舞の作法を比較してみると、これほど面白く内外二樣の慣習の混同した場合も少ないかと思ふ。第一には二三食用の獣類を、日本語でシシといつたこと、これが偶然ながらも獅子舞の普及を容易ならしめて、この輸入舞樂の幾つかの特徴がだん/\に固有宗教の祭儀に採用せられることになつた。カノシシ・ヰノシシの踊とても、最初から今のやうに手の込んだものでなかつたかも知れず、新舊の堺がわからぬといふよりも、或ひは大部分が唐樣に改まつてゐるのかも知れぬ。しかもその唐獅子の頭の上に、つい近頃まで角の痕跡が殘つてゐた如く、氣をつけて見るとまだいろ/\の前代信仰が、却つてこれに由つて保存せられてゐたのである。
 例へば獅子舞が惡魔を攘ふと稱して、疫病流行の際などに村中を巡ること、これも獅子だから、またこはいからと、今では手輕に考へられてゐるやうだが、それはいはゆる大法會の獅子などの本來の目的ではなかつた。伎藝に携はる者の地位系統、乃至は信仰上の條件などにも、佛法からは解説の出來ぬものがあつた。村々のシシは通例三頭の連れ舞ひであつて、中ジシの役は重要であつた。牝牡相慕ふの?を演ずるまでは石橋《しやくけう》なども同じであるが、歌の章句には往々にして、嶺の秋霧に妻を隱されて、戀ひ求めて得なかつたといふ悲しみが敍べてある。即ち大昔の牲祭《にへまつり》の式に伴なうたかと思ふ清哀の調が、なほ幽かながら傳はつてゐるのである。これを新秋七月の靈送りの頃に、行ふ土地の多かつたことも意味がある。「新撰陸奧風土記」に牡鹿郡|鹿妻《かづま》村の口碑として、鹿の供養にこの踊を始めたとあるなども一つの例で、それ以外にも府縣に多くの鹿塚があつて、やゝ似通うた歌物語を傳へてゐる。古くは津の國の夢野の(194)鹿、「萬葉集」に採録せられた乞人《ほがひゞと》の吟、それから和泉式部の逸話と稱する、いかでか鹿の鳴かざらんの鹿の如き、久しい歳月を一貫して、我が文學もこれによつて拘束せられてゐた。即ち一種國民共有の情緒とも名づくべきものが、鹿の死をめぐつて成長しつゝあつたことを認めるのである。
 獅子舞の異國風が模倣せられる以前、我々はすでにカノシシの頭を以て祭に仕へる習はしを持つてゐた。これも同じく攝津國の昔話だが、原田の鹿家の由來談の如きは、或程度まで津輕シシが澤の異聞を解説してくれるやうである。以前原田の社といふのは春日大明神の攝社であつて、毎年神職が奈良から來て祭をした。春日山の神鹿もこれに伴なうて來り、或時この地に於いて殪《たふ》れたと傳へられ、衡門《かぶきもん》の外にその塚があつた。それより以後は神像の材を以て鹿頭を彫刻し、毎歳九月の朔日から九日までの間、十一箇村の氏子の村を巡り渡すを以て神事としたといふのは、多分はかつて活きた獣を牽いてきた代りに、像を用ゐて古い記念を存したことを意味するのである。春日鹿島などの鹿を神使とした根源も、行く/\はまたこの方面から明らかになつて來るであらう。春日では鹿が死ぬと、これを埋葬すべき一定の靈地があつた。西大寺の邊なる小山のあるところで、神宮から人が出て法事を行うたと「譚海」には記してゐる。
 京都でも清水觀音の地内に鹿問塚があつて、御堂創建に功のあつた鹿の頭を埋めたといふ口碑が傳はつてゐる。かういふ話の一つ/\は、到底學問の資料とするだけに、取り留めたものでもないけれども、幾つかの例を比べて見るうちには、すこしづゝ我々の不審を散ずることが出來る。古い獅子舞の頭が靈寶として社寺に傳へられ、雨乞世直しに?れば應驗があるといふなども、恐らく日本だけの昔からの信仰であつて、それがこの伎藝を中繼として今日までは記憶せられたものであらう。近江の膳所《ぜゞ》の中庄の獅子森は、牛頭《ごづ》天王獅子に乘つてこの地に降りたまふといふ一説の外に、中古この邊に住んでゐた鹿が死に、土人憐みてこゝに埋むともいひ傳へ、三州伊田の獅子舞塚なども、天子御惱の御?りとして、六十六國に獅子頭を一つづゝ、下し賜はるともいへば、或ひは納められたのは御子でなく鹿の(195)頭で、それ故に實は鹿前塚だといふ説もあつたのである。
 
       村の爭ひ
 
 奧羽地方の鹿踊の鹿頭は、一般に靈あつて能く賞罰すと信ぜられたのみならず、隣同士で喧嘩をして咬み合つたといふ話が、幾つともなく傳はつてゐる。秋田縣では平鹿郡淺舞のシシ塚などが、その有名な一つの例であつた。昔大森の町から鹿踊《しゝをどり》がやつて來て、こゝで山田の鹿頭と闘つて負けたので、それを埋めてこの塚が築かれたと謂つてゐた。同郡の河登といふ部落にもシシ塚の梨の木といふのがあつた。周圍五尺餘りの空洞木で、下にはまた鹿踊の頭が埋めてある。これも古くシシの大喧嘩があつたので、埋めてあるのは負けた方か勝つた方か、その點は明瞭でないが、兎に角この村へはそれから以後、鹿踊が入らぬことになつてゐた。同じ名前の塚はなほ村々に多く、由來はいづれも同樣であつたが、土地の人たちは或ひはこれを實際的に解して、以前鹿踊の大いにはずんだ〔四字傍点〕時代、喧嘩のために傷つき死する人があつて、それを埋めたものであらうといつたのは、全く塚まで築いて踊の面ばかりを、埋めたといふ理由が不明になつたためで、それだけまた著しい信仰の變化が、古代を近世からひき離してゐたことも察せられるのである。
 右の舊傳を録した「雪之出羽路」といふ書物は、同じく白井翁の遺稿であるが、これには鹿踊を獅子舞と書いてあつた。鹿ならば殊にそのやうな荒い闘爭をするわけがないと、考へられたのも尤もなことである。しかし立派に角があるのだから、何としても仕方がない。村々鹿踊の組が各その力を發揮しようとすると、かういふ衝突は免がれぬわけだつた。殊にこの踊の目的は災害を我が領分から追拂ふのだから、隣村より見れば常に侵害である。雙方の主張を折り合はせようとすれば、爭闘がなくともやはり境の上に、塚でも築くより他はない。それ故に必ずしもその通り(196)の事蹟はなくとも、かういふ言ひ傳へは起り易かつたのである。現に東京の近くでは二合半《こなから》領の戸ヶ崎村に、また次のやうな話もあつた。村には古くから三つ獅子と稱して、越後獅子ほどの頭に俣のある二本の角あり、鷄の毛を以て飾としたものがあつた。寶永元年の大洪水の時、水練の達者な者がこれをかぶつて、夜明け前に向う岸へ泳いで行くと、水番をしてゐた人々は大蛇かと思つて、驚き怖れて逃げ散つた。そのあひだにやす/\と對岸の堤を切つて還り、我が村の水害を免がれたといつてゐる。これなども多分は話であつたらうと思ふ。
 
       耳取畷
 
 いづれの土地の話でも、大抵はこの程度にぼんやりしたもので、とても法官の如き論理を以てこれに臨むことは出來ぬが、兎に角鹿踊の面は人間以上に喧嘩をする。だから靈がある性があると、畏敬してゐた場合は多いのである。下總船形村の麻賀田神社の神寶、飛騨の甚五郎作と稱する三個の獅子面なども、面の影を水に映して後にその水を飲めば、病氣がなほるとまで信ぜられ、毎年の春祈?にはこの面を被り、神を勇めて五穀豐饒を念ずるのであるが、それが靈驗あらたかといふ證據に、却つて毀れたまゝにしてあつたのも一奇である。或年祭が終つて面を箱に納める時、順序を誤つて入れておいたら、三つの獅子が仲間喧嘩をして、箱の中で咬み合つたといふことで、今では三つながらその舌を拔いてある。即ち巨勢金岡の馬が、夜な/\出でゝ萩の戸の萩を食つた類であるが、咬み合つたから舌を拔いたとは少しばかり平仄《ひやうそく》が合はぬ。また一つの獅子の眼の球が破裂してゐるのも、かつて産の忌ある者が手を觸れたからといつてゐる。これなどもやはりその理由が現代を超越してゐるのである。
 そこで立ち戻つて奧羽のシシ塚の話になるのだが、我々の感じて悟らねばならぬ二つの問題は負けたにせよ勝つたにせよ、喧嘩をしたから塚の中に埋めるといふのはどうしたわけか。一方には古び且つ損じた面でも、修繕もせずに(197)大切にして拜んでゐる例もあるのに、かういふ元氣横溢の鹿頭を埋めてしまつたといふのは、即ち塚が生存の終局を意味せずして、何か新たなる現實の開始であつたからではないかといふこと、これが一つ。第二には木で作つた鹿の頭が、喧嘩をしたといふのはどうすることを意味したか。殊にその勝つたとか負けたとかは、何を以て決したかといふことである。これが單なる想像上のものであつたら、少なくとも負けた方の村が承知し得なかつた筈である。
 「遠野物語」にもすでに一つの例を擧げてあるが、あの地方ではなほ處々に同じ話が傳へられる。權現樣が喧嘩をしたといふ場合には、多くは一方が耳を食ひ切られたことになつてゐて、現に今ある御面にも耳のちぎれたまゝのものがある。これを後代の假託とするときは、各村うその話の申し合せをしたといふ結論に歸着せねはならぬのみならず、そんな奇に過ぎたしかも名聞にもならぬ説明を傭はずとも、他に幾らでも神異を宣揚する途はあつたのである。故に誤解にしても共通の誤解、隱れたる原因のこれを一貫するものが、かつてあつたことを想像してよろしい。自分が津輕シシが澤の大磐石に、特に耳を大きく彫刻した鹿の顔を見て、さてこそと膝をうつたも故なしとはせぬのである。
 或ひは一方が特に耳大きく、他の一方では咬み取られてもうないといふに、何の關係かあらんと訝る人もあらうが、兎に角に鹿の耳は東北地方に於いて、可なり重要なる昔からの問題であつたのだ。先づ順序をたてゝ話を進めて行かねばならぬが、秋田縣でも仙北郡の北楢岡では、或年龍藏權現の獅子舞と、神宮寺八幡宮の獅子頭と衝突をしたことがあつた。神宮寺のシシは耳を取られたと稱して、今もその故迹を耳取橋と呼んでゐる。その時一方の龍藏權現も鼻をうち缺かれて、そのまゝ長沼に飛込んで沼の主となつてしまつた。それ故に沼の名をまた龍藏沼といふとある。耳を失つた神宮寺のシシはどうなつたか。今では多分尋ねてみてもわかるまいが、自分はそれよりもなほ多くの興味を、耳取橋といふ地名についてもつてゐるのである。
 勿論獅子頭の?み合ひといふが如き、奇拔な原因の一致する筈もないが、不思議に耳取といふ土地は府縣に多く、それがまた大抵は部落の境などにあるやうに思はれる。福島市の近くでは、信夫郡の矢野目丸子のあひだを北に流れ(198)て、伊達の鎌田村で八反川に合する小流を、耳取川といふなども一つの例である。鎌田の水雲《みくまり》神社はその川の岸にあつて、昔御神體が流れて來てこの地に漂着し、それを拾ひ上げて安置したから御身取揚川だなどといふ説もあつたが、別にその地名の由來として、この川に妖恠住み、夜ごとに出でゝ行人の耳をもぎ取つた。その恠物を神と祭り、よつて川の名を耳取と稱すともいつてゐる。しかもこの地方には他にもまだ耳取といふ地名はあるので、いくら妖恠でもさう/\は人の耳を取つてばかりもゐられなかつたかと思ふ。
 ところが遠く離れて三州|小豆坂《あづきざか》の古戰場近くにも、やはり耳取|畷《なはて》があつてよく似た話を傳へ、日暮れて後この路を通ると、變化の者出現して人の耳を引き切り去るといつた。これ以外になほ方々に耳取といふ字《あざ》が、通例往還の傍などにあるのだが、果してこんな口碑をもつか否かを知らぬ。人が地名などは何の意味なしにも存在し得るかの如く考へ始めてから、尋ねて聞かうともせぬやうになつたのであらう。さうでなければ自由なる空想を以て、いはゆる常識に合した解説を下し、或ひは記憶の不精確を補はうとしたやうである。九州では南端薩摩の坊津から、鹿籠の枕崎に越えて來る境の嶺が耳取峠であつた。開聞岳《かいもんだけ》をまともに見る好風景の地であつたが、冬は西北の寒風が烈しく吹きつけて、耳も鼻も吹き切るばかりであつた故に、こんな名前をつけたと説明せられてゐる。それが始めてこの名を呼んだ人々の、心持でなかつたことは確かであるが、さりとて三河や岩代の妖恠談が、全國無數の耳取の由來を説明し得べしとも思はれぬ。たゞ幾分か古くして且つ案外であるだけに、或ひはまだ偶然に何等かの暗示を、與へはせぬだらうかと思ふだけである。
 全くつまらぬ小さな問題に、苦勞をする人もあつたものだ。實際どうだつていゝぢやないか知らぬが、これがはつきりせぬと我々の前代生活に、開明せられぬ點が一つ多く殘るのである。史學はあらゆる方法と資料とを傾けて、久しい努力を續けたけれども徒勞であつた。平民の過去の暗さは神代も近世も一つである。もし他にすこしでもたどるべき足跡があつたとすれば、これを差しおいて今さら何物の來るを待たうか。しかも地名は有力なる國民の記録であ(199)つて、耳取は至つて單純なる二つの語の組合せに過ぎぬ。各地別々の動機に基いて、結果ばかりの一致を見るといふことがない以上、必ず全國を通じてかつてはさういふ名稱を發生させるだけの、一般的生活事情があつたものとしてよいのである。それを尋ねて見ようとするのは、別に無益の物ずきでもないと思つてゐる。
 
       生贄の徴
 
 たゞしさういふ理窟ばかりこねても、凡その見當がつかなければ何にもならぬ。自分の推測では、耳を取られるといふやうな平凡でない昔話が、何等の經驗にも基くことなくして、そこにもこゝにも偶發することはあるまい。夢であつても夢の種はあらう。いはんやたゞの誤解であり誇張であつたとすれば、すべての歴史が學問によつて精確になつて行く如く、必ず元の事實がその陰に隱れてゐるのである。幸ひにして若干の手がゝりはすでに發見せられた。或地の耳取橋に於いて耳を取られたといふのは、祭の式に奉仕する靈ある鹿の頭であつた。事によると生贄《いけにへ》の慣習が早く廢せられて後、その印象深き一部分のみが、かうして幽かに記憶せられたのかも知れぬ。假にさうだつたら我々の信仰史の、重要なる變化の跡である。是非とも一應は考へて見なければならぬ問題である。
 魚鳥を御贄とする神の社は、現在なほ算へきれぬほど多い。諸國の由緒ある舊社に於いて、獣を主とした例も少なくはなかつた。九州では阿蘇、東國では宇都宮また信州の諏訪の如く、特に祭の日に先だつて狩を行ひ、供進の用にあてた場合には、鹿はその氣高い姿、またさかしい眼の故を以て、最も重んぜられたことも疑ひがない。ところが奈良の春日の若宮などの御祭の贄には、澤山の狸兎猪の類が集められたけれども、鹿のみは靈獣としてその列に加はらなかつたらしいので、或ひは異議を挾む餘地があるやうだが、これはむしろその地位の一段と高かつた證據になる。イケニヘとは活かせておく牲である。早くから神用に指定せられて、或ものは一年、或ものは特殊の必要を生ずるま(200)で、これを世の常の使途から隔離しておくために、その生存には信仰上の意義が出來たのである。諸處の神苑に鹿を養うたのも、恐らくはこれを起原としてゐる。八幡の放生會の如きも、佛者には別種の説明があるが、要するに彼等の教條と牴觸せざる部分だけ、在來の牲祭《にへまつり》の儀式を保存したものであらうと思ふ。
 片目の魚の傳説はこの推測を裏書する。即ち社頭の御手洗の水に住む魚のみが、何等かの特色を以て常用と區別せられたので、實際またかうして一方の目を取つておくのが、昔の單純なる方式でもあつたらしい。耳ある獣の耳を切るといふことは、これに比べるとさらに簡便であり、また牲の生活を妨げることが少なかつた。最初は我々が野馬に烙印し、もしくは猫の尻尾を切る如く、常人の家畜乃至は俘虜などにも、かうして個々の占有を證明したかも知らぬが、後には方法そのものまでが、神の祭にかぎられることゝなつて、おひ/\に普通の生活からは遠ざかつて行つたらしいのである。
 牲の頭が繪となり彫刻となつて、つひには崇高なる感情を催すだけの、一種の装飾となつてしまつたことは、希臘の昔なども同じであつた。たつた一つの相異は日本の學者が、今まで神樂のお獅子に對して、根源を問はんとしなかつた點である。さうして生贄の耳を斷つといふことは、珍しい例でも何でもなかつた。日本でも諏訪の神社の七不思議の一つに、耳割鹿《みゝさけじか》の話があつた。毎年三月酉の日の祭に、俗に御俎揃《おまないたぞろ》へと稱する神事が前宮《さきみや》に於いて行はれる。本膳が七十五、酒が七十五樽、十五の俎に七十五の鹿の頭を載せて供へられる。鹿の頭は後には諸國の信徒より供進したといふが、以前は神領の山を獵したのである。その七十五の鹿の頭の中に、必ず一つだけ左の耳の裂けたのがまじつてゐた。「兼て神代より贄に當りて、神の矛にかゝれる也」ともいつて、これだけは別の俎の上に載せた。「諸國里人談」には「兩耳の切れたる頭一つ」とあつて、いづれが正しいかを決し難い。兎に角にこれは人間の手を以て、切つたのでないから直接の例にはならぬが、耳割鹿でなければ最上の御贄となすにたらなかつたことは窺はれる。或ひは小男鹿の八つ耳ともいつて、靈鹿の耳の往々にして二重であつたことを説くのも、かうしてみると始めてその道(201)理が明らかになるのである。
 
       名馬小耳
 
 六百七十年前の「諏訪大明神畫詞」に、次のやうな奇瑞譚が出てゐるのを見ると、生贄の耳を切る方式は、この頃はやすでに絶えてゐたのである。曰く信濃國の住人和田隱岐前司繁有、當社|頭役《とうやく》のとき流鏑馬のあげ馬|闕如《けつじよ》して、一族に石見入道といひける者、黒駮の良馬をたて飼ひけるを借用しけるに、古敵の宿意ありて借與に及ばず、且つは使者の詞をだにも聞き入れざりけり。祭禮の日に當つて、この馬にはかに病惱してすでに斃れんとしけるが、左右の耳たちまちに失せにけり。奇異の思ひをなしてつら/\思案するに、揚馬に借られたりし事を思ひ出でゝ、神道に種々の怠りを啓し、幣をつけて本社の神馬に獻じければ、病馬たちどころに平癒して、水草の念ももとに復しけり。兩耳はやうやう出現しけれども、もとの如くにはあらざりけり。近年當社に小耳といふ名馬は則ちこれなりと。即ち耳の消滅によつて神の御用に心づくまでの傳統はまだ絶えてゐなかつたのである。
 切るのが必ず耳でなければならなかつた所以は、これ等の動物の習性を觀察した人ならば知るであらう。耳で表現する彼等の感情は、最も神秘にして解しにくいものである。常は靜かに立つてゐて、意外な時にその耳を振り動かす。だから外國にもこれを以て幽冥の力を察せんとした例が多い。佐々木喜善君の郷里などでは、出産の場合に山の神の來臨を必要とする信仰から、馬を牽いてお迎へに行く風が今も行はれてゐるが、馬が立ち止つて耳を振るのを見て、目に見えぬ神の召させたまふ徴とする。故に遠く山奧に入つて日を暮らすこともあれば、或ひは門を出ること數歩にして、すぐに引き返して來ることもあるといふ。數ある鹿の子の中から、いづれを選みたまふかを卜する場合にも、恐らくはもと耳の動きを見たので、それが自然の推理として、切るならば耳といふことに定まつたものではないかと(202)思ふ。
 いはゆる占べ肩燒の用に供せられた鹿なども、必ずあらかじめ神意に基いてこれを選定する樣式があつたのである。それがもし自分の想像する通り、嚴重の祭典と終始したとすれば、これを耳切りもしくは牽き來つて屠つた場處も、永く神コを記念すべき靈地であつたらう。石を存し樹を植ゑ、土を封して塚とする最初の目的は、常人の拓き耕すことを防ぐにあつた。諸國の獅子塚がしば/\靈ある獅子の頭を埋めたと傳へるのは、もし誤聞でないならば則ちこの古風の踏襲であつて、奧羽地方の鹿踊のわざをぎ〔四字傍点〕と、これに伴なふ幾つかの由來談とは、たま/\中間にあつて能く過渡期の情勢を語るものであつた。
 
       耳塚の由來
 
 なほこれと關聯して考へられる一事は、京都の大佛の前にある耳塚が、純乎たる近世史の史蹟ではないらしいといふことである。太閤秀吉の朝鮮征伐は、なる程つい三四百年前の出來事だが、京都人の好奇心はそれから後にも數々の傳説を發生せしめてゐる。だから耳塚の如きもたゞの話かも知れぬと、自分などはかつて考へてゐたのであるが、實際は方々の諸侯家に、確かなる證文が殘つてゐるといふ。たゞしその證文によると、朝鮮から鹽に漬けて送つて來たのは鼻であつた。それを何故に耳塚と呼ばせたかに至つては、やはりまだ解決せられざる疑問である。ところが國々にはこれ以外に同名の塚が、よくも捜してみないのにすでに十何箇處とある。古くしてしかも京の耳塚に似てゐたのは、筑前香椎の濱にあつた耳塚、これは延寶年間に發《あば》いてみたが、内はわづかに三間ばかりの石室で、四尺程の刀のみが納めてあつた。それを畏れ多くも神功皇后の御事蹟に、久しい前から附會してゐたのである。伊豫の新濱の耳塚山なども、今は塚處の有無さへ明らかでないが、やはり越智益躬が播州蟹坂に於いて、外寇の賊將銕大人及びその(203)從者を誘ひ殺し、その耳を馘して持ち還つて埋めたと傳へてゐた。丸々歴史にはなさゝうな話である。
 これに由つて考へてみるのに、耳塚は謂ふが如き異賊退治の決算報告ではなくして、むしろ今後の侵犯に備ふべき豫算の如きものではなかつたか。江戸でも上澁谷の長泉寺の境内に加藤清正が朝鮮から取つて來た耳を埋めたといふ耳塚があつたさうだが、かうなると全く信じにくい。それから武藏野に入つて行くと、府中の西南|分倍川原《ぶばいがはら》の地續きにも、また小さな耳塚があつたが、その附近に弘長年問の古碑があつたといふのみで由來は知れず、その上になほ頸塚だの堂塚だのもあつて、いくら古戰場でもなる程とはいへなくなる。その他備前の龍ヶ鼻の耳塚、日向の星倉の耳田塚の如きも、單に古戰迹であるから空漠たる想像が浮ぶといふのみで、其實は後からさういふ名を附したのかも知れなかつた。
 信州でも有明山の麓の村に、かなり有名なる耳塚傳説があつた。田村將軍に滅ぼされた中房山の大魔王、魏石鬼《ぎしき》の耳を切つて埋めたと稱し、これにもまた首塚立足村等の地名由來談が附隨して、すこぶる我々の蚩尤《しいう》傳説と名づくるものに接近してゐる。規模に於いては勿論京都の耳塚に劣るが、その宗教的威力に至つては、或ひは彼を指導するにたるものがあつた。死屍を分割して三つ七つの塚に埋めたといふ口碑は、大抵は山と平野、もしくは二つの盆地の堺などに發生する。密教の方にはこれを説明する教理も出來てゐるらしいが、要するに無類の惨虐を標榜して、外より來り侵す者を折伏《しやくぶく》する趣旨に出たものらしく、しかもそれは近代の平和生活に對しても、多少の實用ある言ひ傳へであつた。土佐の本川郷の山奧などにも、伊豫との堺に接して耳塚があつた。「會て豫州の者數十人|竊《ひそ》かに材木を取る。追つて之を捕へ耳切りて之を埋めたりといふ」と「土佐州郡誌」には記してあり、「寺川郷談」には「以前盗人の耳をそぎ、箱に入れ御城下へ出し、其後御境目へ埋め置き候やう申し來り、即ち埋めて今耳塚といふ」ともある。果してその通りの事があつたか無かつたか。あやふやなところに深い意味があつたやうに思ふ。
 
(204)       境の殺戮
 
 しかしそれだけの事由では、まだ耳塚といふ如き小さな名稱が、獨立して永く記念せられるにはたりなかつた。これにもやはり獅子舞のお獅子が耳を咬み切られたといふ類の、古い神話が來て助けたのである。即ち耳取りが境の大切なる條件であることを記憶する人々が、この口碑の成長にも參與してゐたのである。或ひはこれに基いて鹿よりも今一つの以前の、大昔の生贄慣習を尋ねることが出來るかも知れぬ。實際我々の祖先が信じてゐた靈魂の力は、餘程今日とは違つてゐた。例へば味方の靈でも死ねば害をしたと同じく、敵の怨靈も祭りやうによつては利用する途があつた。殊に堺の山や廣野には、むしろ兇暴にして容赦のない亡魂を配置して、不知案内の外來者に襲撃の戈《ほこ》を向けしめようとしたことは、必ずしもよその民族の遠い昔のためしではなかつたのである。人を頼んで川の堤の生柱《いきばしら》に立つてもらひ、後にこれを水の神に祭つたといふ話などは、勿論たゞ話であらうがあちらこちらに殘つてゐる。黒鳥兵衛だ東尋坊だといふ惡漢が、死ぬると直ぐに信心せられたのも、祟るから祭つたのだといふ説明だけでは、まだ合點の行かぬところがある。恐らく人間の體内には神と名づけてよい部分が前からあつて、それがこの上もなく一般の安寧のために、必要なものと信ぜられた結果、時としてはわざ/\これを世俗の生活から、引き離して拜まうとした風習がかつてあつたので、勿論現在の生死觀を適用して見れば、到底忍ぶべからざることには相違ないが、その豫定があつてこそ始めて生牲といふ語が了解せられる。即ち死の準備の或期間が、人を生きながらの神ともなし得たので、神に供へる鹿の耳切りは必ずしも鹿を以て始まつたる方式でないのかも知れぬ。
 至つて古い時代の民間の信仰が、獨りその形骸を今日に留めて、本旨を逸失した例は無數にある。近世文學の中に散らばつてゐる神恠奇異にも、詩人獨自の空想の所産なるが如く、我も人も信じてゐて實はさうでないものが多かつ(205)た。久しい年代の調練によつて、隱約の間に養はれてゐた思想が、無意識に顔を出すのである。由緒ある各地の行事の中にも、同じ名殘はなほ豐かに見出される。獅子舞などがすでに平和の世の遊樂になつてゐながら、しば/\殺伐なる逸事を傳ふるもそのためである。伊勢の山田の七社七頭の獅子頭が、常は各町の鎭めの神と祭られつゝ、正月十五日の終夜の舞がすんで後に、これを山田橋の上に持ち出して刀を揮うて切り拂ふ態を演じ、即座にこれを舞衣に引つくるんで、元の社に納めたといふなども、假に如何やうの解説が新たに具はつてゐようとも、到底後の人の獨創乃至は評定を以て、發案せられる趣向ではなかつたやうである。
 
       耳切團一
 
 そこで話はいよ/\近世の口承文藝の、最も子供らしく且つ荒唐無稽なる部分に入つて行くのであるが、自分たちの少年の時分には、「早飯も藝のうち」といふ諺などもあつて、いつまでも膳にかじりついてゐることが非常に賤しめられ、多くの朋輩と食事をともにする場合に、大抵は先に立つ者が殘つた者の耳を引張つた。痛いよりも恥がましいので、いはゆる鹽踏みの奉公人などが、淋しい涙を飜《こぼ》す種であつた。どうして耳などを引くことになつたのかと、子供の頃から不審に思つてゐると、「嬉遊笑覽」卷六の下、兒量の遊戯の鬼事の條に、鬼になつた者が「出ずば耳引こ」といつて、柱にばかりつかまつてゐる者を挑むことが記してある。「鷹筑波集」に塚口重和、出ずば耳引くべき月の兎かな。即ちもう俳諧の連歌の初期の時代から、鬼事の詞となつて我々に知られてゐたのである。
 鬼事の遊びのもと模倣に出でたことは、その名稱だけでも證明せられる。以前諸國の大社には鬼追|鬼平《おにひけ》祭などゝ稱して、通例春の始めにこの行事があつた。學問のある人はこれを支那から採用したといひ、または佛法がその作法を教へたやうにいふらしいが、何かは知らず古くから鬼が出て大いにあばれ、末には退治せられるところを、諸國わづ(206)かづゝの變化を以て、眞面目に神前に於いて、日を定めて演出したのであつた。さうして子供は特にその前半の方に、力を入れて今以て眞似て遊んでゐる。耳を引くといふ文句もその引繼ぎであつたかも知れぬ。さう考へてもいゝ理由があつたのである。
 小泉八雲の「怪談」といふ書で、始めて知つたといふ人は却つて多いかも知れぬ。亡靈に耳を引きむしられた昔話が、ついこの頃まで方々の田舍にあつた。被害者は必ず旨人であつたが、その名前だけが土地によつて同じでない。小泉氏の話は下ノ關の阿彌陀寺、平家の幽靈が座頭を呼んで平家物語を聽いたことになつて居り、その座頭の名はホウイチであつた。面白いから明晩も必ず來い。それまでの質物に耳を預つておくといつたのは、すこぶる「宇治拾遺」の瘤取りの話に近かつたが、耳を取るべき理由は實は明らかでなかつた。
 ところがこれと大體同じ話が、阿波の里浦といふ處にかけ離れて一つあるので、右の不審がやゝ解けることになる。昔團一といふ琵琶法師、夜になると或上臈に招かれて、知らぬ村に往つて琵琶を彈いてゐる。一方には行脚の名僧が、或夜はからずも墓地を過ぎて、盲人の獨り琵琶彈くを見つけ、話を聽いて魔障のわざと知り、からだ中をまじなひしてやつて耳だけを忘れた。さうすると次の晩、例の官女が迎へに來て、その耳だけを持つて歸つたといふので、これは今でも土地の人々が、自分の處にあつた出來事のやうに信じてゐる。耳を取つたのが女性の亡魂であつたことゝ、僧が法術を以て救はうとした點とが明瞭になつたが、それでもまだまじなひの意味がはつきりしない。
 それを十分に辻褄の合ふだけの物語にしたのが、「曾呂利物語」であつた。江戸時代初期の文學であるが、こちらが古くて前の話がその受け賣りだともいへないことは、讀んだ人には容易にわかる。これは越後の座頭耳きれ雲一の自傳とある。久しくおとづれざりし善光寺の比丘尼慶順を、路のついでを以て訪問して見ると、實は三十日程前に死んでゐたのであつたが、幽靈が出て來て何氣なく引き留め、琵琶を彈かせて毎晩聽き、どうしても返すまいとする。それを寺中の者が注意して救ひ出し、馬に乘せて遁がしてやつた。後から追はれて如何ともしやうがないので、或寺に(207)かけ込んで事情を述べて頼むと、一身にすき間もなく等勝陀羅尼を書きつけて、佛壇の脇に立たせておいた。すると比丘尼の幽靈が果してやつて來て、可愛いや座頭は石になつたかと體中を撫でまはし、耳に少しばかり陀羅尼のたらぬところを見つけて、こゝにまだ殘り分があつたと、引きちぎつて持つて行つたといつて、その盲人には片耳がなかつたといふのである。
 その話なら私も知つてゐると、方々から類例の出ることは疑ひがない。この民族がまだ如何にもあどけなかつた時代から、いな人類がいろ/\の國に分れなかつた前から、敵に追はれて逃げて助かつたといふ話は、幾千萬遍となく繰り返へして語られ、また息づまる程の興味を以て聽かれたのである。それがごく少しづゝ古臭くなり、人の智慮がまた精確になつて、だん/\に新味を添へる必要を生じた。そこへ幸ひに耳の奇聞が手傳ひに出たといふまでゝある。鬼や山姥に追ほれた話でも、大抵は何かこれに近い偶然を以て救はれたのみならず、その記念ともいふべきいろ/\の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である。古い話の足がゝりのやうなものである。さうすれば座頭その者がやがてまた、見るたびにこの話を思ひ出さしめる一種の大唐櫃や、蓬菖蒲の如きものであつたともいへる。
 
       旅の御坊
 
 つまり小泉八雲氏の心を牽いた耳無し法一の神異談は、彼が父母の國に於いても今なほ珍重せられるいはゆる逃竄説話と、異郷遊寓譚との結びついたものゝ、末の形に他ならぬのであつた。西洋では説話運搬者の説話に與へた影響は、まだ本式に研究し得なかつたやうだが、日本には仕合せとその證迹が、見落し得ない程に豐富である。殊に盲人には盲人特有の、洗錬せられたる機智が認められる。例へば江戸川左岸の或村の話で、鬼が追ひ掛けて來て座頭の姿(208)を發見し得ず、わづかに耳だけが目に觸れて、おゝこゝにキクラゲがあつたといつて、取つて喰つたと語つてゐるなどは、盲人の癖にといひたいが、實は目くらだから考へ出した、やゝ重くるしい滑稽である。そんな例は氣をつけて御覽なさい、まだ幾らでもあるのである。
 實際座頭の坊は平家義經記のみを語つて、諸國を放浪することも出來なかつた。夜永の人の耳のやゝ倦んだ時に、何か問はれて答へるやうな面白い話を、常から心掛けて貯へておいたのである。しからば耳の切れた盲人が何人もあつて、御坊その耳はどうなされたと、尋ねられるやうな場合が多かつたかといふに、さうかも知れず、またそれ程でなくともよかつたかも知れぬ。片耳の變にひしやげたり、妙な恰好をした人は存外に多いものだ。さうでなくとも目のない人だから、耳の話が出る機會は少なくはなかつたらう。耳と申せば手前の師匠は、片耳が取れてござつたなどと、そろ/\とこの話を出す手段もあつたわけだ。さうしてその話といふのは實に一萬年も古い舊趣向に、現世の衣裳を着せたものであつた。故に今こゝで我々の不思議とすべきは、その話の存在や流布ではない。單に何故さういふ耳切りの話が、盲人によつて思ひつかれまた持ち運ばれたかといふ點ばかりである。
 即ち澤山の盲人がかけ離れた國々をあるいて、無暗に自分たちの身の上話らしく、同じ一つの妖魔遭遇談をしたのが妙なのである。その説明を試みても、そんな事があらうかと恠み疑ふ人すら、今日ではもう少なからうと思ふが、それでも何でも自分は證據が擧げたい。つまり座頭は第一に自分たちが、無類の冒險旅行家であることを示したかつた。第二には技藝の頼もしい力を説かうとしたのである。第三には神佛の冥助の特に彼等に豐かであつたこと、第四には能ふべくんば、それだから座頭を大切にせよの、利己的教訓がしたかつたのかと思ふ。この條件を具足してしかも亭主方の面々を樂しましむべき手段がもしあつたとしたら、これを一生懸命に暗記し、且つやたらに提供することも、即ちまた彼等の生活の必要であつた。
 
(209)       山神と琵琶
 
 村の人は村にゐて聽く故に、大抵は土地ばかりの舊事蹟と考へたのである。さう考へさせることもまた有力なる技術であつた。座頭辭し去つて數百年のあひだ、それが物々しく保存せられ、次第に近郷の人々に承認せられると、再び説話はその土地に土着するのである。今日ではもう信じにくいといふことは、少しも農民をうそつき〔四字傍点〕とする理由にはならぬ。古くからある物は誰だつて粗末にはしない。
 一例を擧げると羽前の米澤から、越後の岩船郡に越える大利峠《おほりたうげ》、一名折峠又蛇骨峠、座頭峠ともいふ。頂上には大倉權現が祭つてある。昔々一人のボサマ、日暮れてこの嶺に獨宿し、寂寞のあまりに琵琶を彈じて自ら慰めた。時に女性の忽然として現はれ來る者あつて、曲を聽いて感歎止まず、且つ語りて曰く、我はこの山中に久住する大蛇である。近く大海に出でんとすれば、關の一|谷《たに》は水の底となるであらう。必ずあの村には長居はしたまふな。また命にかけてこの事を人に洩してはならぬと告げた。それにもかゝはらず夜明けて關谷に下るとき、意を決してこれを村の人に教へたので、盲人はたちどころに死し大蛇もまた村人のために退治られた。その盲人が頂上の祠の神であるともいへば、或ひは惡蛇の靈を祀るといふのは、兩方とも眞實であらう。最近の傳説では大倉權現は盲女おくらの怨靈、獵夫鯖七の女房にして禁肉を食つて蛇となる者ともいつてゐるさうである。
 しかるに同じ米澤からさらに他の一人の座頭が、北に向つて大石田越といふ山路で、ほゞ同樣の功をたてゝ死してまた神に祀られてゐる。大石田に於いては森明神といふのがその盲人の靈であつた。或時山中を過ぎて一老翁に逢ひ、琵琶の一曲を所望せられ、傍の石に坐して地神經を彈じたとある。老人感歎してさて曰く、謝禮のために教へ申すべし、今宵は必ず大石田に宿りたまふべからず云々、それから後は例の如く、村民は何とかして恩人の命を助けようと、(210)唐櫃の中へ三重四重に隱しておいたが、開けて見たれば寸々に切られて死んでゐたといふ。
 越後ではなほ小千谷の町の南はづれ、那須崎の地藏堂にも同じ話があつた。盲人は蛇の害の迫れることを語るや否や、血を吐いてたちまち死んだが、里の人たちは早速手配をして、鐡の杭を山中の要路に打ち込み、あらかじめ防遏することを得たりと誌されてゐる。大蛇に取つては鐵類は大毒であつた。故に大利峠の蛇精の女なども、一番嫌ひなものは鐡の釘だと、うつかり座頭に話したために退治られたといひ、關谷の村には鍛冶屋敷の迹さへあつた。信州では山に法螺崩れと蛇崩れとがあつた。蛇崩れの前兆には山が夥しく鳴るので、直ちに檜木を削つて多くの?《くひ》を作り、それをその山の周圍に打ち込むと、蛇は出ること能はずして死んでしまひ、年經て後骨になつて土中から出る。それを研末して服するときは瘧病《おこり》を治すなどゝもいつた。即ち盲目の教を待たずして、すでにこれを防ぐの術は知られてゐたので、或ひは座頭がその受け賣りをしたのだと思ふ者があつても、さう立派に反對の證據を擧げることは出來なかつたのである。
 
       盲の效用
 
 それにもかゝはらず、座頭がこの話をすると人がさもありなんと考へたのは、單に話術の巧妙ばかりでもなかつたと見えて、今では何處に行つても彼等だけでこの話を持ちきつてゐる。まだ他の府縣にもあるだらうと思ふが、自分の今知つてゐるのは磐城の相馬にも一つ、堂房《だいぼ》の釋師堂樣といふ池の神が、或時信心の盲に目をあけてやつて、こんなことを教へたといふ話である。自分は近いうちに小高の一郷を湖水にする企てがある。それを人にいふと汝の命を取るぞと、堅く戒めておいたが本人は身を捨てゝ里人に密告した。小高の陣屋ではこれを聞いて、領内に命じて澤山の四寸釘を造らせ、それを四寸おきに丘陵の周圍に打ち込ませた。蛇は鐵毒のために死して切れ/”\となり、それの(211)落ち散つた故跡として、今に胴坂角落村耳谷などゝいふ地名がある。しかも折角目の開いた盲人は旋風に卷上げられて行方知れず、琵琶塚ばかりが後代に遺つてゐる。この邊からは實際鐵の屑が出るといふのは、或ひはこの話が鍛冶屋との合作であつたことを語るものかも知れぬ。
 伊豆ではまた三島の宿の按摩の家へ、夜になると遊びに來る小僧があつた。後に來ていふには、我はこの山を七卷半卷いてゐる大蛇である。毎日往來の人馬に踏まれる苦しさに、大雨を降らせてこの邊を泥海にして出て行かうと思ふ。御身一人は遁れたまへ。人に語ると命を取るといつた。人助けのためにその秘密を明かし、山に鐡の杭を繁く打ち込んでつひに大蛇を殺させたが、一村は難を逃れて按摩は死んだ。その石像を作つて香火永く絶えずといふのは、果して今もあるかどうか。兎に角にこの山とは箱根のことであつたらしく、話が按摩になつてはもう關係も薄いが、實は水土の神の蛇體は、佛教の方では琵琶を持つ女神で、且つ早くから琵琶を彈く者の保護者であつた。座頭の地神經はその神コをたゝへた詞である。農家が四季の土用に彼を招いて琵琶を奏せしめたのも、最初の目的はその仲介によつて、神の御機嫌をとり結ばうためであつた。故に村民はいはゞどんな話を聽かされても、黙つて承認せねばならぬ關係にあつたのである。
 盲人がこの技藝に携はつてからの、歴史だけはもう大分わかつてゐる。今さらそんな事を述べて居ればたゞの編輯になつてしまふ。それよりも理由が知りたいのは、どうして日本に入つて琵琶が當道の業となつたかである。何故に盲が大蛇の神の神職を獨占したかである。この疑問に對しては耳切團一の話が、やはり有力なる一つの暗示であつた。自分の想像では生牲の耳を切つて、暫く活かしておく慣習よりも今一つ以前に、わざとその目を拔いて世俗とひき離しておく法則が、一度は行はれてゐたことを意味するのではないかと思ふ。日向の生目八幡に惡七兵衛景清を祭るといふなども、或ひは琵琶法師の元祖が自製の盲目であつたといふ幽かな記憶に、ローマンスの衣を着せたものとも解せられぬことはない。兎に角にこの徒が琵琶の神即ち水底の神から、特別の恩顧を得た理由が、目のないといふ點に(212)あつたことだけはほゞ確かであつた。
 
       蛇と盲目
 
 さうすると、自分などのかういふ思ひきつた假定説のやうなものを批評する場合に、昔からよく聞く「めくら蛇におぢず」といふ俗諺なども、今一度とくとその起原を考へてみる必要はあるまいか。元來目あきが蛇を畏るゝ道理も、實はまだ明白でも何でもないのだが、我々の流儀ではそれを究めようとはしない。單に畏れてゐるか否かを問うて、靜かにその事實の何物かを語るを待つだけである。しかし少なくも盲の蛇を畏れざる所以を、なんにも知らぬからであらうと速斷したのは誤りで、彼等はこの通り蛇に關する珍しい知識を、昔から持つてゐたといふ事實が擧がつたのである。從つて行く/\彼等の蛇をおぢなかつた積極的原因も、改めてまた發見せられるかも知れない。
 今だつてもう少しは分つてゐるのである。第一には全國にひろく分布する琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛び込んだといふものは、往々にして蛇の執念、もしくは誘惑を説くやうである。即ち盲人には何かは知らず、特にいはゆるクラオカミによつて、すき好まれる長處のあるものと想像されてゐたのである。第二には勇士の惡蛇退治に、似合はぬ話だがをり/\目くらが出て參與してゐる。九州で有名なのは肥前黒髪山下の梅野座頭、これは鎭西八郎の短刀を拜借して、谷に下つて天堂岩の大蛇を刺殺したと稱して、その由緒を以て正式に刀を帶ぶることを認められてゐた。しかもよほど念の入つた隱れた理由のないかぎり、人は到底盲人を助太刀に頼む氣にはなり得まい。即ち彼等には一種の神力を具へてゐたのである。
 西國の盲僧たちには、寺を持つてその職務を世襲した例が多い。よその目くらを取子とする以前に、なるべくその實子の目が潰れてくれることを、親心としては望んだであらう。即ちかつては自ら目を傷つけて、神に氣に入る者と(213)ならうとした時代が、あつたと想像し得る根據である。耳の方ならばなほさら差し支へが少なかつたわけである。昔信仰の最も強烈であつた世の中では、神に指定せられて短く生き、永く祀らるゝことを欣幸とした者も多かつた。その世が季になつて死ぬことだけは御免だと考へ始めた頃には、よくしたもので八幡の放生會の如く、無期の放し飼ひが通則として認められた。耳切團一が信仰のため、また同時に活計のために、深思熟慮の上で自ら耳を切つて來たとしても、自分たちはこれを恠まうとは思はぬ。またさうまでせずとも話は成立したのである。
 しかし彼等如何なる機智巧辯を以てするとも、我々のあひだにこれを信ぜんとする用意がなかつたならば、畢竟は無益のほら吹きに過ぎぬ。ところが我々は忘れたるが如くにして、實は無心に遠き世の感動を遺傳してゐた。鹿を牲とすれば耳が割けて居り、獅子を舞はしむればたちまち相手の耳を喰ひ切り、記念に巖石に姿を刻めば、耳を團扇の如く大きくせざるを得ず、さうして盲人を見ると永く水の神の威徳と兇暴とに對して、一喜一憂するを禁じ得なかつたのである。これを無意識にしかも鋭敏に、測量し得た者がいろ/\の歌を物語り、また數々の言ひ習はしを作つて、久しく我々の多數を導いてゐたのである。前代は必ずしも埋もれ果てたとは言はれない。例へば耳に關しまた目について、普通の同胞が信じかつ説いてゐる小さな知識の中にも、日本の固有信仰の大切な「失はれたる鏈《くさり》」を、引き包んで假に隱してゐる場合が、まだ幾らでもあるらしいのである。
 
(214)     橋姫
 
 橋姫といふのは、大昔我々の祖先が街道の橋の袂に、祀つてゐた美しい女神のことである。地方によつてはその信仰が早く衰へて、その跡にいろ/\の昔話が發生した。これを拾ひ集めて比較して行くと、すこしづゝ古代の人の心持を知ることが出來るやうである。私は學問の嚴肅を保つために、煩はしいが一々話の出處を明らかにして、寸毫も自分の作意を加へて居らぬことを證據立て、かういふ研究のすきな人たちの御參考にしようと思ふ。
 山梨縣東山梨郡國里村の國玉組《くだまぐみ》に、俗に國玉の大橋と稱する橋がある。大橋などゝいふ名にも似合はぬわづかな石橋で、甲府市中の水を集めて西南に流れ、末は笛吹川に合する濁川といふ川に架つてゐる。今の國道からは半里ほど南であるが、以前はこの筋を往還としてゐたらしい。一説には大橋ではなく逢橋であつたといひ、また行逢橋といふ別名もある。元は山梨巨摩八代三郡の境であつたと「甲斐國志」にあるが、果してさうか否かは知らぬ。百五六十年前に出來た「裏見寒話」といふ書の第六卷に次のやうな話がある。この橋を通行する者が橋の上で猿橋の話をすると必ず怪異がある。猿橋の上でこの橋の話をしても同樣である。昔武藏國から甲州へ來る旅人があつた。猿橋を通る際にふと國玉の大橋の噂をしたところがそこへ一人の婦人が出て來て、甲府へ行かるゝならばこの文を一通、國玉の大橋まで屆けて下されといつた。その男これを承知してその手紙を預つたが、如何にも變なので途中でそつとこれを披いて見ると、中にはこの男を殺すべしと書いてあつた。旅人は大いに驚き早速その手紙を殺すべからずと書き改めて國玉まで携へて來れば、この橋の上にも一人の女が出て居つて、如何にも腹立たしい樣子をしてゐたが、手紙を開い(215)て見て後、機嫌が好くなり、禮を敍べて何事もなく別れた。とりとめもなき話なれど國擧りてこれをいふ也とある。また今一つの不思議は、この橋の上で謠の「葵の上」を謠ふとたちまち道に迷ひ、「三輪」を謠ふと再び明らかになると、これも同じ書物の中に書いてある。
 この話の單純な作り話でないことは、第一にその鍔目の合はぬことがこれを證據立てる。旅人がわざ/\書面を僞作して正直に持つて來たのもをかしく、それを見て橋姫が悦んだといふのも道理がない。恐らくは久しく傳へてゐる中に少しづゝ變化したものであらう。明治二十年前後に出版せられた「山梨縣町村誌」の中には、現にまたさらに變つた話になつてゐて、この橋の上を過るとき猿橋の話をなし、或ひは「野宮《のゝみや》」の謠をうたふことを禁ず、もし犯すときは必ず怪異あり、その何故たることを知らずとある。六七年前にこの縣の商業學校の生徒たちの手で集められた「甲斐口碑傳説」中にある話は、またこんな風にも變化してゐる。或人が早朝に國玉の大橋を渡る時に、「野宮」を謠へば怪ありといふことを思ひ出し、試みにその小謠を少しばかり諷《うた》つて見たところ、何の不思議も起らず二三町ほど行き過ぎたが、向うから美しい一人の婦人が乳呑兒を抱いてやつて來て、もし/\甚だ恐れ入りますが、足袋のこはぜを掛けます間ちょつとこの兒を抱いてゐて下さいと言ふ。それでは私が掛けて上げようと屈みながらふと見上げると、たちまち鬼女のやうな姿になり眼を剥いて今にも喰ひつきさうな顔をしてゐたので、びつくりして一目散に飛んで歸り、我が家の玄關に上るや否や氣絶した云々。これも小説にしては乳呑兒を抱けと言つたなどが、餘りに唐突で尤もらしくない。
 さてどうしてこのやうな話が始まつたかといふことは、我々の力ではまだ明白にすることはむつかしいが、これとよく似た話が、眞似も運搬も出來ぬやうな遠國に、分布してゐることだけは事實である。不思議の婦人が手紙を託したといふ話は、先年自分の聞き書きをした「遠野物語」の中にもある。陸中遠野の某家の主人が、宮古へ往つて歸りに閉伊川の原臺《はらだい》の淵の脇を通ると、若い女が來て一通の手紙を託し、遠野の物見山の沼に行き手を叩けば名宛の人(216)が出て來るから渡してくれといつた。請け合ひはしたものゝ氣に掛つてどうしようかと思ひながら來ると、道でまた一人の六部に出逢つた。六部はその手紙を開いて見て、これを持つて行けばきつと汝の身に大きな災難がある。私がよいやうに書き直してやらうといつて別の手紙をくれた。それを携へて沼へ行き手を叩くと、果して若い女が出て書?を受取り、その禮にごく小さな石臼を一つ與《く》れた。この臼に米を一粒入れてまはすと下から黄金が出る。それで後々は富裕の身代になつたといふ話である。又今一つ、羽後の平鹿郡大松川の奧に、黒沼といふ景色の好い沼がある。沼尻に小さい橋があつて月夜などに美しい女神が出ることが折々あつた。昔この邊の農夫が伊勢參りの歸りに、奧州の赤沼の脇に休んでゐたら、氣高い御姫樣が出て來て手紙を預け、出羽へ歸つたらこれを黒沼へ屆けて下さい。その御禮にはこれをと紙に包んだ握飯のやうな重いものをくれた。この男は黒沼の近くまで來た時に、大きな聲で赤沼から手紙をことづけられたと呼ぶと、振袖を着た美しい女が出てこれを受け取り、大姉君の音信《たより》は嬉しいと、これも同じやうな紙包をくれたので、後にこの二包を市に持ち出して錢に代へようとすると、汝《おまへ》一人の力ではとても錢では持つて還られまい。金で持つて還るがよいといつて山のやうな黄金をくれたので、たちまちにして萬福長者になつたといふ。この話は「雪の出羽路」といふ紀行の卷十四に出てゐる。
 この二つの愉快な話とは反對に、氣味の惡い方面が國玉の大橋とよく似てゐるのは、「福山志料」といふ書に採録した備後蘆品郡服部永谷村の讀坂の由來談である。昔馬方が空樽を馬につけて歸つて來る道で、一人の男に出逢つて一通の手紙を頼まれ、何心なく受け取つたが屆け先を聞いておかなかつたことを思ひ出し、ちやうどこの坂道で出逢つた人にその?を讀んでもらつた。名宛が怪しいので封を剥がして文言を讀むと「一、空樽つけたる人の腸一兵進上致候」と書いてあつた。さては川童の所業に相違なし、なるだけ川のある處を避けて還れと教へられ、迂路をして漸く危害を免れた。それよりしてこの坂を讀坂と呼ぶやうになつたとある。即ち手紙を讀んだ坂といふ意味である。この話に馬と空樽とは何の縁もないやうであるが、川童は久しい以前から妙に馬にばかり惡戯をしたがるものである。(217)六七年前早稻田大學の五十嵐教授が學生に集めさせて、「趣味の傳説」といふ名で公刊せられた諸國の傳説集の中にも、豐後九十九峠の池の川童、旅の馬方の馬を引き込まうとしてあべこべに取つて押へられ、頭の皿の水が飜《こぼ》れて反抗する力もなくなり、寶物を出しますから命ばかりは助けて下さい、手前の家は峠の頂上から細道を七八町入つた處にあります。そこへこの二品を持つて行つて下されば、必ず寶物と引き換へますといつて、渡したのがやはり一通の手紙と樽であつた。この馬方は字が讀めたので、途中で樽の臭の異樣な事に心づいて手紙を開いて見ると、「御申付の人間の尻子百個の内、九十九個は此男に持參致させ候に付御受取被下度、不足分の一個は此男のにて御間に合せ被下度候。親分樣、子分」とあつたので、喫驚《びつくり》して逃げて來た。それよりこの峠の名も九十九峠と書くやうになつた云々。
 さて自分がこゝにお話したいと思ふのは、これ程馬鹿げた埒もない話にも、やはり中古以前からの傳統があるといふ點である。それは「今昔物語」の卷二十七に、紀遠助といふ美濃國の武士、京都からの歸りに近江の勢田橋の上で、婦人に絹で包んだ小さな箱を託せられ、これをば美濃|方縣《かたかた》郡唐の郷、段の橋の西詰にゐる女に屆けてくれとの頼みであつたのを、うつかり忘れて家まで持つて還り、今に屆けようと思つてゐるうちに細君に見咎められ、嫉み深い細君はひそかにこれを開けてみると、箱の中には人間の眼球、その他の小部分が毛のついたまゝむしり取つて入れてあつたので、夫婦とも大いに氣味を惡るがり、主人は早速これを段の橋へ持參して行くと、果して婦人が出てゐてこれを受け取り、この箱は開けて見たらしい、憎い人だといつて凄い顔をして睨んだ。それから病氣になつて還つて程もなく死んだとある。勢田橋は御承知の如く昔から最も通行の多かつた東路の要衝であるが、しかもこの橋の西話には世にも恐しい鬼女がゐて、しば/\旅人を劫《おびや》かしたことは、同じ「今昔物語」の中にもいろ/\と語り傳へられてゐる。神から神へ手紙を送るのに人間の手を借りたといふのも、古くからの話である。例へば「宇治拾遺」の卷十五に、越前の人で毘沙門を信仰する某、不思議な女の手から書?を貰ひ、山奧に入つて鬼形の者にこれを渡して、一生食べても盡きない米一斗を受け取つた話があり、「三國傳記」卷十一には比叡山の僧侶が、日吉二宮の文を愛宕の良勝とい(218)ふ地主の仙人へ持參して福分を授かつた話がある。その話が日本だけに發生したものでないことは、支那でも「酉陽雜俎」卷十四に邵敬伯といふ人、呉江の神の書翰を託せられて濟河の神の處へ使ひに行き、寶刀を貰つて歸つた話もあり、まだその他にも古いところにこれに似た話があつたのを見ても分る。
 そんならこの類の諸國の話は、支那からもしくは和漢共通の源から起つて、だん/\各地に散布し且つ變化したと解してよいかといふと、自分は容易にしかりと答へ得ぬのみならず、また假にさうとしても、何故に我々の祖先がそのやうな話を信じて怖れたかについては、新たに考へて見ねばならぬ事が多い。手紙の託送を命ぜられた人がそのために命に係はる程の危險に陷り、それが一轉すればまた極端の幸福を得るに至るといふのには、何か仔細がなくてはならぬ。今日の如く教育の行き渡つた時代の人の考へでは、文字も言語も輕重はないやうに見えるかも知らぬが、田舍の人の十中の九までが無筆であつた昔の世の中に於いては、手紙はそれ自身がすでに一箇不可解なる靈物であつたのである。支那でも日本でも護符や呪文には、讀める人には何だ詰らないといふやうな事が書いてある。あたかも佛教の陀羅尼や羅馬教の祈?文が、譯して見れば至つて簡單なのと同じである。「いろはにほへと」と書いてあつても無學文盲には、「この人を殺せ」とあるかとも思はれ、「寶物を遣つてくれ」とあるかとも思はれ得る。これがこの奇拔な昔話を解釋するに必要なる一つの鍵である。しかしまだその前に話さねばならぬことがあるから、其方を片づけて行かうと思ふ。
 近年の國玉の橋姫が乳呑兒を抱いて來て、これを通行人に抱かせようとした話にもまた傳統がある。この類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んでゐた。ウブメは普通には産女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓などを夜分に外に出しておくと、ウブメが血を掛けてその子供が夜啼をするなどゝいふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものといふが、別にまた兒を抱いた婦人の形に畫などにも描き、つい頼まれて抱いてやり、重いと思つたら石地藏であつたといふやうな話もある。これも「今昔物語」の卷二十七に、源頼光の家臣に平の季武といふ勇士、(219)美濃國渡といふ地に産女が出ると聞き、人と賭をして夜中にわざ/\其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれといふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたといふ話を載せ、「此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子産ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いてゐる。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づこれに遭へば喰はれぬまでもおびえて死ぬ程に畏れられてゐたにもかゝはらず、面白いことには産女にも往々にして好意があつた。例へば「和漢三才圖會」六十七、または「新編鎌倉志」卷七に出てゐる鎌倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔この寺第五世の日棟上人、或夜抄本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋《えびすだうばし》の脇より産女の幽魂現はれ出で、冥途の苦難を免れんと乞ひ、上人彼女のために囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。この寶塔は即ちその金を費して建てたものである。夷堂橋の北のこの寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までもあつたといふ。加藤咄堂氏の「日本宗教風俗志」にはまたこんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産《うぶ》の玉と稱する物は、これもこの寺の昔の住持で日行といふ上人、或時途上ですこぶる憔悴した婦人の赤兒を抱いてゐる者が立つてゐて、この子を抱いてくれといふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは氷のやうであつた。上人は名僧なるが故に、少しも騷がず御經を讀んでゐると、暫くして女のいふには御蔭を以て苦難を免れました。これは御禮と申してくれたのがこの寶物の玉であつた。今でも安産に驗《しるし》ありといふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。この例などを考へて見ると、謝禮とはいふけれども實はこれをくれるために出て來たやうなもので、佛法の功コといふ點を後に僧徒がつけ添へたものと見れば、その他は著しく赤沼黒沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能としてゐなかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちとなつて現はれたのも、自分には意外とは思はれぬ。
 それから今度は謠をうたつては惡いと云ふ言ひ傳へをあらまし説明しよう。これもまた各地方に同じ例の多い事で、(220)九州では薩州山川港の竹の神社の下の道、大隅重富の國境白銀坂等に於いて、謠をうたへば必ず天狗倒しなどの不思議があつたことは「三國名勝圖會」に見え、越後五泉町の八幡社の池の側では、謠を謠へば女の幽靈が出ると「温故之栞」第七號に見えてゐる。また駿州靜岡の舊城内|杜若《かきつばた》長屋といふ長屋では、昔から「杜若」の謠を嚴禁してゐたことが津村淙庵の「譚海」卷十二に見えてゐるが、これは何故に特に「杜若」だけが惡いのか詳しいことは分らぬ。しかし他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へば近頃出來た「名古屋市史」の風俗編に、尾張の熱田で「楊貴妃」の謠を決してうたはなかつたのは、以前この境内を蓬莱宮と稱し、唐の楊貴妃の墳があるといふ妙な話があつたためで、「新撰陸奧風土記」卷四に、磐城伊具郡尾山村の東光院といふ古い寺で、寺僧が「道成寺」の謠を聞くことを避けてゐたのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追ひかけたといふ安珍僧都が、實はこの寺第三世の住職であつたためであるといつてゐる。信濃の善光寺へ越中の方からある上路越《あげろごゑ》の山道で「山姥」の謠を吟ずることは禁物と、「笈埃隨筆」卷七に書いてある理由などは、恐らくはくだ/\しくこれを述べる必要もないであらう。しからばたち戻つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと「裏見寒話」にあり、近代になつては「野宮《のゝみや》」がいかぬといふことになつたのはそも如何。これは謠といふものを知らぬ若い人たちでも、「源氏物語」を讀んだことのある方にはすぐに推察ができることである。つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉み深い婦人、六條の御息所といふ人と、賀茂の祭の日に衝突して、その恨みのために取殺されたのが葵の上である。「野宮」といふのもいはゆる源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との爭ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。「三輪」を謠へば再び道が明るくなるといふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名な三輪の神樣が人間の娘と夫婦の語らひをなされ、苧環《をだまき》の絲を引いて神の驗の杉の木の上に御姿を示されたといふ話を作つたもので、その末の方には「又|常闇《とこやみ》の雲晴れて云々」或ひは「其關の戸の夜も明け云々」などゝいふ文句がある。しかしいづれにしても橋姫の信(221)仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずつと古くからあるは勿論、「源氏物語」の時代よりもさらにまた前からあつたことは、現にその物語の中に橋姫といふ一卷のあるのを見てもわかるので、これにはたゞどうして後世に、そんな謠を憎む好むといふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。
 國玉の大橋の上で猿橋の話をすると災ひがあり、また猿橋で國玉の事をいつても同樣であつたと云ふ言ひ傳へは、かうしてみると謠の戒めの話と裏表をなしてゐることが判る。この二つの橋はともに甲州街道の上にあつて、旅人によく知られてゐた橋である。さうして猿橋の方にもやはり橋の西詰に、諸國の猿曳が尊信する、俗に猿の神樣などゝ呼ぶ小社があつた。昔の神樣は多くはいはゆる地方神であつて、土地の者からは完全なる信仰を受けられても、遠國の旅客などには自由な批評が出來たためであるか、往々にして甲地乙地何方の神が有難いといふやうな沙汰があつた。なほその上にこの種の神々は當節の大神とは違つて、人間とよく似た感情または弱點をも有つて居られた。いはんや失禮ながらそれが御婦人であつたとすると、他方の女神の噂などを聽きたまふ時の不愉快さは、なか/\謠を聞いて思ひ出すくらゐの微弱なものでなかつた筈である。薩摩の池田湖は山川港に近い火山湖で、わづかな丘陵を以て内外の海と隔てられ、風景の最も美しい靜かな水であるが、この湖の附近に於いて海の話をすればたちまち暴風雨が起ると傳へられてゐたことが「三國名勝圖會」に見え、阿波の海部川の水源なる王餘魚瀧《かれひのたき》一名轟の瀧に於いては、紀州の那智瀧とこの瀧とを比べまたは瀧の高さを測らんとすることを、神が最も忌み嫌ひたまふといふこと、「燈下録」といふ書の卷十に見えてゐる。かういふことは、昔から人のついしさうな事で、しかもごくわづかばかり劣つた方の神樣に取つては、甚だ面白くないことに相異ない。富士と淺間の煙競べといふことは、今の俗曲の中にもあるが、古代の關東平野では、早くより筑波と富士との對抗談があつたと見えて、「常陸風土記」にはそれに因んだ祖神巡國《みおやがみくにめぐり》の話を載せ、勿論自國の筑波山の方が優れたやうに書いてゐる。羽後に行くと島海山が富士と高さを爭つたといふ昔話がある。鳥海はどうしても富士には敵はぬと聞いて、口惜しさの餘りに山の頂上だけが大海へ飛んだ。それが今の飛島である(222)といふ。前に引用した「趣味の傳説」には加賀の白山が富士と高さを爭ひ、二山の頂きに樋を渡して水を通してみると、白山の方が少し低かつたので、白山方の者が急いで草鞋を脱いで樋の下にあてがつて平らにした故に、今でも登山者は必ず片方の草鞋を山で脱いで來るのだといひ、三河の本宮山《ほんぐうざん》と石卷山とは、相對して一分も高さが違はぬ故に永久に爭つてをり、二つの山に登る者、石を携へて行けば草臥れず、小石一つでも持ち降れば罰が當り參詣が徒爾となるといふなどは、いづれもよく似た山の爭ひである。この外「越中舊事記」によれば、婦負郡舟倉山の權現は能登の石動山の權現ともと御夫婦であつたが、嫉妬から闘諍が起つて十月十二日の祭の日には今でも礫《つぶて》を打ちたまふ故に、二つの山のあひだの地には小石が至つて少ないなどゝいふさうである。昨年秋の院展に川端龍子君の手腕を示した二荒山縁起の畫なども、やはりまたこの山と上州の赤城山との丈競《たけくらべ》古傳を理想化したもので、これなどは最も著しい例であつた。今でも赤城明神の氏子たちは日光には參られない。舊幕時代には牛込通の旗本御家人たちの赤城樣の氏子であつた者は、公命によつて日光の役人になつた場合、氏神に參詣してその仔細を申し、自分だけ一時氏子を離れて築土《つくど》八幡又は市谷八幡の氏子となり、在役中の加護を願つたといふことが、十方菴の「遊歴雜記」五篇の中に見えてゐる。
 この例はまだいくらもある。中でも珍しいのは「日次記事」の三月の條に、京都の西の松尾の人は紀州の熊野へ參らず、熊野の人も松尾明神に參詣してはならぬ。この禁を破れば必ず崇があるとある。畏れ多いことであるが、伊勢の大廟にも、在原姓の者は參宮をしなかつたといふ話がある。それは先祖の業平が伊勢物語にある如く、神聖なる齋《いつき》の宮に懸想をしたためであつた。京都粟田口明神社の坊官鳥居小路氏の如きは即ちその家で、參宮がならぬ故に別にこの宮を建てたと「粟田地誌漫録」に見え、上州群馬郡の和田山極樂院の院主も、先祖の長野右京亮が在五中將の末であつたために、今に至るまで伊勢大神宮に參詣かなはずと「山吹日記」といふ紀行にある。このほか守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に、信濃の善光寺に詣づれば災あり、佐野氏の人は田原藤太の後といふことで、神田明神の(223)祭に逢ふと惡いといふ話が、「松屋筆記」卷五十に出てをり、その平將門の子孫と傳ふる今の相馬子爵の先祖が、奧州から江戸へ參覲する道で、常陸の土浦を通る日は必ず風雨または怪異があつたのは、將門に殺された叔父の國香の墓がこの町にあつて、國香明神と祭られてゐたからだと「新治郡案内」にあるが如き、或ひは東京西郊の柏木村の人は、鎧《よろひ》大明神の氏子でその神は將門の鎧を御神體とすると傳ふる故に、敵の田原藤太秀郷の護持佛だつたといふ成田の不動へは參らなかつたと、山中共古翁の日録にあるが如き、いづれも謎の如くまた下手な歴史の試驗問題のやうであるが、實はみなこの系統の話である。この頃出來た「奈良縣高市郡志料」に、この郡眞菅村の宗我神社は蘇我氏の祖神を祀つたかと思はれるが、俗には入鹿宮と稱して氏子等は今なほ多武峯《たふのみね》に參らぬ者が多いとある。これは多武峯には藤原鎌足の廟があるためであるが、さらに注意すべきはこの山から五六里も東、大和と伊勢の國境の高見山に、蘇我入鹿の首が飛んで來て神に祭つたと云ふいひ傳へのあることである。この山の神を信心する者は、多武峯に參ることのならぬは勿論、「即事考」といふ書の卷一には、鎌を持つて登つてさへ、必ず怪我をするかまたは山が鳴るとある。これなどは明白に山の爭ひが神の爭ひとなつた一つの證據で、この近邊で秀でゝゐるのはこの二つの山のみである所から、多武峯の競爭者なら高見山は入鹿といふことになつたのであらうと思ふ。
 「諺語大辭典」を見ると、京都などでは弘法樣の日(二十一日)に雨が降れば、天神樣の日(二十五日)は晴天、弘法樣の日が晴天なら天神樣の日は雨といふとある。これは他の地方でも廣くいふことであるが、東京などでは今は金毘羅が天氣なら水天宮は雨、水天宮が天氣なら金毘羅は雨といつてゐる由、ついこの頃子供が女中から聞いたといつてゐた。しかるに蠣殻町の水天宮も虎の門の金毘羅も、ともにわづか百年ほど前に勸請した流行神で、これと比べると東京の天候の方が何千年古いか分らぬ。つまりこれも形式のやゝ異なつた神の嫉みで、最初から僧空海と菅原道眞との二人格が相爭つたことはあり得ぬのである。それに就いてなほ言ひたいのは、關東の各地に藤原時平を祀るといふ社の多いことである。これなどは天神樣に對する反抗者といふの外に、この邊で神に齋《いは》ふべき道理のない人物である。(224)前にも引いた「譚海」の卷十に、下總佐倉領の酒々井《しゆすゐ》では、産土神が時平の大臣である故に、一帶に天滿宮を祀らぬとある。下野下都賀郡小野寺村  大字古江の鎭守は時平大明神である。而してその南隣の安蘇郡犬伏町  大字黒袴では菅原道眞を鎭守としてゐるために、昔から兩村のあひだにとり結んだ縁組は一つも終りを完うしたものはないと、「安蘇史」といぶ近年の地誌に記してゐる。日本の縁組などは至つてこはれ易いもので、殊に惡いとなつたらなほ早く破れたであらうから、單純な迷信とも見られようが、どうしてまたそのやうな事になつたものか、第一に古江の氏神がなぜ時平となつたかを考へて見ると、これは最初黒袴村の方で天神を村の境の守護神として祭り始めたからであらうと思ふ。これも類例を擧げて見なければ本意を知り難いが、通路の衝に祭る神樣に嫉みといふ神性があると考へた結果として、婚姻といふ如き縁起を重んじ、しかも嫉妬の目的物となりやすい交通に、これを避けたといふのは人情の自然である。「人類學會雜誌」の第四十五號に、信州下伊那郡の伊賀良村と山本村竹佐との境に、二つ山といふ小山があつてその麓は縣道である。山を南北にするこの二箇村では、縁組をすれば必ず末遂げずといつて、次第に通婚が絶えてゐたのを、三州伊良湖の漁夫磯丸といふ歌人に歌を詠んで貰ひ、その後この患がなくなつたとある。「岐蘇古今沿革志」を見ると、右の二つ山は一名を恨山といひ、飯田の城下へ出る古道は二つの山のあひだを通つてゐた。高さ大小共に同じ程の二つ山で、西の方が少し低いかと思はれる。嫁入の行列は勿論のこと、その荷物ばかりでもこの道を通つて行けばきつと離縁になるとて、常に廻り道をして行くとあつて、しかもこの書は磯丸が死んだ後に著されたものである。福島縣信夫郡宮代村の日枝神社には、源頼義の側室尾上の前が夫を慕つて來て死んだなどゝいふ口碑と石碑とがあるが、その附近の屋敷畠には弘安三年の文字ある今一つの碑があつて、何か由縁のある他の上臈の墓だとも傳へてゐる。この村でも婚姻の者はこの石塔の前を通ることを忌むので、後にこれを中村某の屋敷内へ移したと、二十年ばかり前に出版した「信達二郡村誌」に出てゐるが、今日はどうなつてゐるかを知らぬ。
 さらに東京附近にある數例を擧げて見れば、武藏比企郡南吉見村大字江綱の鎭守元巣大明神の社の前は、嫁入には(225)通行をしなかつた。これは神樣の名がモトスであつて「戻す」の音に近いからと説明せられてゐるが、同じく南足立郡|舍人《とねり》村の諏訪社に於いては、夫婦杉と稱へた二本の杉の木の前を、嫁入の行列は避けて通らなかつた。この杉は幸ひにして後に枯れたが、この如き俗信の起るに至つたのは、今から百九十年前の享保十三年、三沼代用水の掘割の時、二本の夫婦杉の中間に溝を掘つてから後であるといふ。これは自分の結論のために入用なる一例である。八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂は、村の南部で大藏院といふ寺の前の坂であつたが、この坂でもこれを通つて縁づいた者は必ず還されると傳へられてゐた。以上の三件はともに「新編武藏風土記稿」に載つてゐる。或方面の人には今でも有名な下板橋の縁切榎のことも同じ書中に記してある。これも岩ノ坂と稱する坂路の側で、その榎は第六天の祠の御神木であつた。今ではこの木の削り屑を戴いて歸り、別れたいと思ふ相手の者にそつと服ませるとたちまちだと信じ、背中合せの男女を描いた繪馬札を賣る店屋までが出來たさうだが、これはむしろ神の惡徳を利用した江戸の人間の働きで、元は他の村々と同樣な困つた障碍であつた證據には、この地が中仙道の往來であるにもかゝはらず、現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、廻り路にわざ/\臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度ではなかつた。東京の眞中でも今の甲武線の水道橋停車場の附近に、つい近頃まであつた三崎稻荷の社は、一名を縁切稻荷と稱し、婚禮婦人にこの前を通れば必ず離別するとて通らなかつたと「江戸志」にある。また王子の町から北に當る荒川の豐島の渡でも、嫁入婿取には決してこれを渡らず、雙方川向へ縁組をするに上の渡又は小代河岸《をだいがし》へ迂回をしたと、「遊歴雜記」二編中卷にある。その昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衛門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を着せられて豐島家を追ひ出され、歸りに荒川の淵に於いて十二人の侍女とともに身を投げた。その怨念が今も消えぬのだといつたさうであるが、その事實の有無は未定としても、この渡し場の少し上に足立姫嫁入の時、父の宰相が特に架けさせたといふ橋の跡があつて、近昔まで橋杭が殘つてゐたとあるのは、やがてまたこの地も橋姫の勢力範圍であつたことを想像せしめる。新宿の西、青梅街道の上、井頭《ゐのかしら》用水に架けられた淀橋(226)といふ橋は、小さな橋だが町の名となつて人がよく知つてゐる。中野長者といふ人此橋の向うに渡つて財寶を土中に埋め、秘密の洩れんことを恐れて伴《とも》の下男を殺したといふ傳説があり、橋の名も元は姿不見橋と呼んだのを、何代かの將軍鷹野の時にこれは吉《よ》くない名だと仰せられ、ちやうど橋の袂に水車小屋があつたので、淀の川瀬の水車の縁を以て淀橋といふ名を下すつた。それにもかゝはらずこの橋でもやはり縁組を嫉み、廂髪の女學生上りまでが御嫁に行くのにどうしてもこゝを通過せず、えらい大廻りをしたり、または田の中の小路を歩いたりして居つた。大正二年の十一月二十一日(自分が今この事を書いてゐるのも四年目の同じ日であるのはまた一つの不思議である)、右の水車の持主で淀橋銀行の頭取もしてゐる淺田さんといふ長者の家で、嫁御を東京から迎へるにどうしてもこの橋を渡らねばならぬ際、いつそこのついでにといふわけで盛大な鎭祭《しづめまつり》を擧行し、自分も傳説を知つてゐるといふ廉でその式に招かれて行つた。祭場は橋から下手へかけて水の上に大きな棧敷を構へ、あんな立派な祭はかつて見たことがない。その時の神官の祝詞及び來賓名士の演説は奇天烈を極めたものであつた。さうしてその次の日には何臺かの自動車はブーブーと、花嫁さんを乘せて花々しくこの橋を渡つたのである。自分は單に民衆心理の研究から、ひそかにその後の成績に注意してゐると、一年もたたぬ内にはや近所では御嫁さんは病氣ださうなとか、その他いろ/\の不吉な事ばかり噂をしてゐた。確かな人の話でそれは全く虚誕と判明したが、しかもかの方面の人々がその後自由にこの橋を通つて縁組をしてゐるかどうか。自分などはやつぱりだらうと思つてゐる。
 少し御退屈かも知らぬがすこし京都方面の事をいはねばならぬ。京都では岡崎町池之内即ち大學の先生の多く住んで居らるゝ邊は、中古俊寛僧都の住んでゐた法勝寺の跡で、今も俊寛屋敷有王屋敷などの傳説がある。なかんづく滿願寺と法雲寺との向うを西から東へ通ずる路は、俊寛が鬼界島へ流される時に通つたからといふことで、今日でも婚姻の時に通らぬ土俗があると、「京都坊目誌」に見えてゐる。「都名所圖會」卷二に曰く、西洞院四條の角の化粧水、昔此處に小野小町の別莊があつた。そこから三間ほど北の方に、四條通の人家の下を西へ流れて西洞院川へ落ちる溝(227)川があつて、その名を藍染川といふ。小町に心をかけた人が望みを遂げずしてこの川へ落ち入つて死んだと傳へ、これ故に今なほ婚禮の輿入にはこの橋を渡らない云々。小町はもとより古今の美人であつて、心をかけて死んだ人も多かつたかは知らぬが、もし、それがかの深草少將のことならば、伏見に近い墨染の欣淨寺《ごんじやうじ》から宇治郡の小野村へ通ずる一里ばかりの道を、少將の通路《かよひぢ》といふと「山州名跡志」卷十三及び十四にある。たゞし太閤在世中訴願の事あつて伏見の城へ行く者、この道を通れば必ず不成功であつたために、つひに人が往來せぬやうになつたとばかりで、婚禮の事は傳へて居らぬ。「出來齋京土産」卷七には、また宇治橋の橋姫の宮の前を、嫁入する時には通らぬといふ話を載せてゐる。宇治久世二郡の民、縁を結ぶには橋の下を舟で渡る。橋を渡れば橋姫の御嫉みにより夫婦の末とほらずとかやとある。嫉みの神としては山城宇治の橋姫は最も古くかつ有名である。比較的新しい俗説では京に一人の嫉み深き女があつて、夫を恨んで貴船の社に?り、神の教に隨ひ宇治橋に行つて生きながら鬼となり旅人を惱ました故に、これを橋の南詰に神に祭つたといふのであるが、その以前に別に橋姫物語といふ書が幾種かあつた。鎌倉室町時代文學史によれば、その一種現存するものには某の中將に妻二人あり、その一人は名を宇治の橋姫といふ。産に近づいて五ひろの若海布《わかめ》をほしがるにより、夫これを取りに伊勢の海邊に行き龍王に招かれて還らなかつたので、橋姫は赤子を抱いて伊勢へ尋ねて行き、次いで他の妻も來たといふ話であるといふが、「山城名勝志」に引用した「爲家抄」にあるのは、二人の妻の爭ひといふことはなく、宇治川の邊に住む夫婦の者あり、夫は龍宮へ寶を取りに行つて歸らず、妻は戀悲しみて橋の邊に死し、橋守明神となつたといふので、こちらが多分さらに古く、前者に伊勢へ行つたとあるのは、恐らくは伊勢の神宮の宇治橋にも古くより橋姫を祭つてゐたためだらうと思ふ。「古今集」には宇治の橋姫といふ歌がすでに二首あつて、いづれも男が女を愛する心を詠じたまでゝ嫉妬のことはない。顯昭の註にはまたこの橋の北にある離宮と申す神樣が、毎夜橋の南の橋姫の社に通ひたまふといふ話が民間にあつたと記してゐる。さうしてこの人は源平時代の學者である。
(228) 傳説の解釋は面白いものだが同時に中々むつかしく、一寸自分等の手の屆かぬいろ/\の學問が入用である。この場合に先づ考へて見ねばならぬのは、ネタミといふ日本語の古い意味である。中世以後の學者には一箇の日本語に一箇の漢語を堅く結びつけて、漢字で日本文を書く便宜をはかつたが、その宛字の不當であつた例はこればかりではない。ネタミも嫉または妬の字に定めてしまつてから後は、つひに男女の情のみを意味するやうに變化したが、最初は憤り嫌ひまたは不承知などを意味してゐたらしいことは、「倭訓栞」などを見ても凡そ疑ひがない。而して何故にこの羸の氣質ある神を橋の邊に祭つたかといふと、敵であれ鬼であれ、外から遣つて來る有害な者に對して、十分にその特色を發揮して貰ひたいためであつた。街道の中でも坂とか橋とかは殊に避けて外を通ることの出來ぬ地點である故に、人間の武士が切處としてこゝで防戰をしたとおなじく、境を守るべき神をも坂または橋の一端に奉安したのである。しかも一方に於いては境の内に住む人民が出て行く時には何等の障碍のないやうに、土地の者は平生の崇敬を怠らなかつたので、そこで橋姫といふ神が怒れば人の命を取り、悦べば世に稀なる財寶を與へるといふやうな、兩面兩極端の性質を具へてゐるやうに考へられるに至つたのである。また二つの山の高さを爭ふといふ類の話は、別に相應の原因があるので、逢橋と猿橋と互に競ふといふなども、ネタミといふところからこれへ結合したのかと思ふが、信濃の恨山で同じ程な二つの小山のあひだを通る路に、この神の信仰が遺つてゐるなどは、即ちもと境を守る神が男女の二柱であつた一の證據である。箱根の二子山で、昔の路がわざ/\あの中間を通つてゐた如く、境の通路には男神《をがみ》女神《めがみ》などの名を以て、二つの丘または岩のある例は、水陸ともに極めて多く、その或ものはこれによつて地名を「たけくらべ」などゝもいつてゐる。けだしかくの如き路を造つた昔の人の考へは簡單であつた。即ち男と女と二人竝んでゐるところは、最も他人を近寄せたくない處である故に、即ち古い意味に於ける「人ねたき」境である故に、もし其男女が神靈であつたならば、必ず偉い力を以て侵入者を突き飛ばすであらうと信じたからである。「東山往來」といふ古い本を見るに、足利時代に於いてもこの信仰の痕跡がなほ存し、夫婦または親族の者二人竝び立つ中間を通る(229)のは最も忌むべきことで、人が通るを人別れ、犬が通るを犬別れと謂つてともに凶事とするとある。つまりこの思想に基いて、橋にも男女の二神を祭つたのが橋姫の最初で、男女であるが故に同時に安産と小兒の健康とを?ることにもなつたのである。ゴンムの「英國土俗起原」やフレエザーの「黄金の小枝」などを見ると、外國には近い頃まで、この神靈を製造するために橋や境で若い男女を殺戮した例が少なくない。日本ではわづかに古い/\世の風俗の名殘を、かの長柄の橋柱系統の傳説の中に留めてゐるが、それはこのついでを以て話し得るほど手輕な問題ではないから略しておく。近世の風習としては、新たに架けた橋の渡り初めに、美しい女を盛装させて、その夫がこれにつき添ひ橋姫の社に參詣することが、伊勢の宇治橋などにあつたと、「皇大神宮參詣順路圖會」には見えてゐる。橋姫の根源を解説するには、なほ進んでこの渡り初めの問題にたち入つてみねばならぬのである。
 
 自分は傳説を愛せらるゝ人々に勸告する。傳説はその片言隻語といへども大切に保存しなければ、たちまち無用の囈言《うはごと》になつてしまふ。故にこれを人に語る場合には誇張してはならぬ。修飾してはならぬ。殊に變更に至つては罪惡である。我々の祖先の墓を拜すると同じ心持を以て、祖先の思想信仰の斷片をも尊敬せねばならぬ。この趣旨の下になるたけ多くの傳説の蒐集せられんことを切望する。
 
(230)     隱れ里
 
          一
 
 このあひだ理科大學の鳥居龍藏氏は、日本學會とかで亞細亞諸民族のあひだに行はれた無言貿易の話をせられ、今日日本の各地方に存する椀貸傳説はまた一種の無言貿易である。傳説學者は大抵の事をみな傳説にしてしまふ傾きがあるが、椀貸などは實はエスノグラフィーの方の材料であると斯う言はれたさうである。その意味は十分には解らぬが、もしこの傳説の語るやうな土俗がかつてあつたといふのならば勿論誤謬、もしまたこれが昔の或土俗の訛傳である痕跡であるといふのならば、御説をまたずして恐らくは誰も否とはいふまいと思ふ。いづれにしても實例を擧げて説明をせられなかつたのは缺點である故に、自分はその御手傳のつもりで、目下集めかけてゐるいはゆる椀貸の傳説を少しばかりこゝへ列べて見ようと思ふ。一々出處は掲げないが、みな世にありふれた書物から忠實に拔き出したものであることを最初に斷つておく。
 自分は鳥居氏のいはれた傳説學者の中ではない筈であるが、右の椀貸傳説なる名稱は實は近年我々の仲間だけで用ゐ始めた語である。各地の言ひ傳へが大同小異であつて、しかも共通の名がないのは不便なので、一二の地方に椀貸というてゐるのを幸ひに、餘り好い語ではないが假にさう呼んでゐるのである。そこで便宜上先づその話から始めることにする。
(231) 香川縣三豐郡大野原村の椀貸塚、これがその一例である。寛永年中に勸請したといふ八幡宮の塚穴で、近村中姫村の人々食器類をこの穴から借りて、塚の上の祠を祀るを例としてゐた故に、椀貸塚ともまた椀貸穴とも呼んでゐたが、後に借りた者が一の器を紛失してから貸さぬやうになつたとある。大野原が開墾せられ八幡を祭るに至つたのはそれよりもさらに後の事で、以前は塚穴の中に大子殿《おほじどの》といふ神が住んで居られたなどゝ傳へてゐる。これを椀貸と名づけたのは偶然で、現に同郡財田上村には膳塚と稱して、昔村民の請ひに任せ膳を出して貸したといふ故跡もある。
 自分の郷里兵庫縣神崎郡越知谷村の南にも、山の麓に曲淵一名を椀貸淵といふ處があつて、淵の中央に大きな岩がある。昔は椀を借りたいと思ふ者は、前夜にこの淵に向ひ數を言つて頼んでおくと、次の朝は必ずこの岩の上にその通りの椀が出してあつた。後に椀を一つ毀して返した者があつてから、絶對に貸さぬやうになつたといひ、なほこの淵は底が龍宮に通じてゐるといふことであつた。
 福井縣の丸岡から中川村へ行く道の右側に、椀貸山といふ丸い形の芝山があつて、土地の人はこれを椀貸塚とも呼んでゐる。「越前國名蹟考」に影響録といふ本から抄録した下久米田の黍塚といふのがもしこれであるならば、この地でも慶長の頃までは申し込みに應じて椀家具を貸したさうである。それからさらに七十年ばかり後の延寶の頃までは、この岡から出る何とか川の水に、毎朝米の磨水《とぎみづ》が流れたとも言ひ傳へてゐる。
 石川縣河北郡傳燈寺村アラヤシキ小字椀貸穴といふ處には、口の幅二尺七寸高さ三尺程の横穴が田の岸根に一つある。今ではたゞ穴の内に石が多く投込んであるが、昔この穴にゐた古狐が椀を貸したといふ話がある。岐阜縣飛騨の益田川の流域、下呂村大字小川にも椀貸せ淵といふ淵があつて、播州の椀貸淵とほゞ同じ話がある。龍宮に通ずる穴といふのは、その淵では岩の眞中にあいて居つて、この穴に向つて借用を頼んださうである。返辨の時一人前を損じてそのまゝ返したために、「龍人の怒に觸れて其後は如何に乞ふも貸さずなりしと云ふ」と、二年前に出た「益田郡誌」にも書いてある。
 
(232)          二
 
 これから先の話はいづれも椀貸といふ名稱をもつて居らぬ例である。すこしづゝの異同によつて分類をしてみると、第一に氣がつくのは讃州の大子殿の如く、その地に神樣があるといふ點である。靜岡縣島田驛から一里の上流、笹ヶ窪の楠御前といふのは、樟樹の茂つた森の中の祠であつた。この祠でも願ひによつて膳椀を貸したといふ。立派な朱の家具であつて、それが知らぬ間に宮の前の岩の上においてあつた。謝禮には竹の筒二つに酒を入れて社へ捧げたとあつて、わづかながら借賃を收められた珍しい例である。同縣安倍郡安東村のワンバコサマは、熊野神社の東にある社地一坪ほどの小さな祠であつたが、やはり住民が膳椀に不足する場合に、借用の祈願をすると翌朝必ず效驗があつたさうである。この地は靜岡市の郊外で、明治三十年に練兵場を設けた際、かほどの神樣を村の西谷某方の稻荷に合祀して、型なしにしてしまつたのである。
 ワンバコサマは後の埼玉縣の例を見ても分る如く、文字に書けば多分椀箱樣であらう。貸すのは神樣であつたらしいが、これも讃州と同樣に塚が一つあつて、櫻の古木があるために櫻塚とも呼んでゐたさうである。神樣が塚に據られるといふことは近頃餘り言はぬことであるが、この種の話にかぎつて塚があるのは注意すべき第二の點である。例へば飛騨|吉城《よしき》郡國府村大字廣瀬町の龜塚一名椀塚、長野縣では上伊那郡松島の龍宮塚、富山縣では射水郡水戸田村大字市井の甲塚、三重縣では安濃郡曾根村東浦の椀塚、コ島縣では阿波郡西林村の箭塚、美馬郡|郡里《こほさと》村友重の雙塚等、いづれも似たり寄つたりの昔話を語り傳へ、人の心が不正直になつた故に、今では貸さなくなつたといふことまでが同じである。
 たしかハルトランドのサイエンス・オブ・フェアリテエルズに、佛蘭西にも塚に頼んで鍋を借りてゐたといふ話があつたと記憶する。小人が人間の無心を聽いて名劔を鍛へてそつと出しておくといふのも、多くは塚の邊であつたや(233)うである。しかし日本だけの話で見ると、いはゆる椀貸の話が古塚に伴なふのは、その場に口が開いてゐたためであるやうにも見える。例へば阿州などでは、少し大きな塚穴にはみなこの種の傳説があるといふ人もあるくらゐで、現に右に申す西林の箭塚の如きも、元禄年中まで椀を貸してゐたといふにもかゝはらず、百餘年前の著書に「瓢形にして後部に塚穴あり」とある。郡里村の雙塚もまた二つの塚穴であつて、その中に以前は二つの髑髏《どくろ》があつたといふ。その他麻植郡森藤村の塚穴、那賀郡|日開野《ひがいの》村の塚穴等、食器を貸したといふ話が古くからあつた。そこで阿州の古い學者の中には、古墳の副葬品のいろ/\の土器を、質朴なる昔の村民が借りて來て時々使つたところから、かういふ話が始まつたのではないかといふ人もあつて、これはちよつと尤もらしく聞える一説である。
 
          三
 
 椀貸傳説の存在する地方には、往々にして借りておいてつひに返さなかつたのがこれだといつて、その一人前だけを持ち傳へてゐる舊家がある。その物を見るといづれも模樣などのついた立派な塗物であるといふ。さうでなくても貸したのは多くは木具であつたといふが、コ島縣だけには茶碗や皿を貸したことになつてゐて、事によるとそれが素燒の氣味の良くない品であつたのかと思はれぬこともない。飛騨の學者なども、昔は墓にその人の使用した臺所道具を埋めてゐたところから、かういふ話が起つたのかと説いてゐる。しかし我々の祖先が木製の食器を用ゐてゐたことと、木具の土中にあつては早く朽ちることゝを考へてみると少し疑はしい。それよりもさらに有力なる反對の證據は、膳椀を貸したといふ場所が必ずしも古墳ばかりではないことである。現に阿波でも家具の岩屋と稱して、この口碑を伴なふものに天然の岩窟が幾つもあり、たとへ天然でなくても墓穴ではない岩屋の中に、この話を傳へた例は各地に存するのである。
 例へば淡路の三原部下内膳村|先山《せんざん》の某寺で、あたかも上州館林の文福茶釜の如く、客來のあるごとに椀その他の雜(234)具を借りたといふのは、天の磐戸とも稱した大洞穴であつた。清めて穴の口に返しておけばいつの間にか取り入れた。今から百六十年前の寛延年間まで貸したといふ。駿州吉原在にも膳を貸したといふ處が二箇所あり、その一つは傳法村膳棚といふ畑地の中の小さな石塚、今一つは石坂と呼ぶ地の石の穴であると、山中共古翁は話された。美濃では稻葉郡古津村の坊洞、一名を椀匿し洞ともいふ、村の後の山の下にある岩穴である。また一箇所は武儀郡西神野村の八神山《やかいやま》の半腹にある洞、この二つは後に水の神の話をする時に詳しくいふ。越後では北蒲原郡加治山の一峰要害山と稱する山の半腹にある窟で、その名を藏問屋《くらまや》と呼び、これは九十年前の文政年間まで貸してゐたさうである。ちやうど葛飾北齋が北齋漫畫の中に面白がつて描いた頃には、まだ盛んに實行してゐたことになるのである。この岩窟は毎年正月の元朝に震動し、山下の民その響の強弱によつて年の豐凶を卜したといふ説もあつて、すこぶる村の信仰生活と交渉してゐる。能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村といつた處ださうである。
 同じ越中の西礪波都西五位村大字鳥倉には、少しばかり奇な一例がある。この村の山の上にも、近郷の民に器物を用立てたといふ深い洞穴があつて、その山の名をトカリ山或抄はカタカリ山またモトヾリ山ともいつた。かつて或農夫拜借の道具の立派なるに心を取られ、返却を怠つてゐた者があつた。この家に生まれた一人息子十五歳になるまで足立たず、夫婦これを悲しんでゐると、その年の秋の取り入れ時に米俵を力にして始めて立つたので、悦びの餘りにさらに一俵を負はせて見たら、そのまゝすた/\とこの山の方へ歩み去り、跡を追ふも及ばず、つひに洞穴の奧深く入つてしまつた。あつけに取られて立つてゐると、中では話の聲がする。一人が貸物は取つて來たかと問ふと、漸く元だけは取つて來たと答へた。これが元取山の名の起りである云々。
 
(235)          四
 
 古墳では説明のつかぬ實例は決してこれのみではない。或府縣ではすでに水の底からも膳椀を借りてゐたのである。これも椀貸淵といふ名は普通は用ゐぬが、越中でも簑谷山の絶頂にある繩池一名家具借の池には同じ話があつた。この池の神は靈蛇であつて、毎年七月十五日には美女と化して池の上に出て遊ぶ。或時貧しき民あつて人を招くに器のないことを歎いてゐると、忽然として朱椀十人前水の上に浮び出た。それ以後村人はこれに倣うて入用のたびごとに就いて借りることを例としてゐたところ、遙か後世になつて或尼三人前の器を借りて十日も返さず、つひに中盆二つを損じて不足のまゝ返したので、池水鳴動して大雨氾濫し、尼は居《いへ》覆《くつが》へり命を殞《おと》し、この不思議もまた止んだとある。尼が神罰を受けたといふのは立山または白山の登宇呂の姥の話と同系統の古傳であつて、面白い來歴のある事であるが、枝葉に亙るからこゝには略しておく。
 次に武藏の椀箱沼といふのは、今の埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木の中程にある沼で、形の細長いためか一名を宮川とも呼んでゐた。これも昔は農家來客の時に、椀具の借用望み次第であつたが、こゝでは必ず請求の旨を書面に認めて沼の中に投げ込むことになつてゐたのが、他の地方の話と異なつた點である。山梨縣では南都留郡東桂村の鹿留川に同じやうな話がある。その地を御南淵《おなんぶち》といふのは多分もとは女淵であらう。村民必要に臨み膳椀何人前と書いてこれを附近の岩の上におき、お頼み申しますといつて歸ると、翌朝はその數だけの品がちやんと河原に列べてある、返す時にも同じ場所に持つて行つておけばよいのである。或時村民某面白半分に一人前だけ殘して返すと、それ以後はどう頼んでも決して貸さぬやうになつた。たゞしその膳は今でも寶物にして持ち傳へてゐるといふことである。同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺の藪の中にある洞穴は、水邊ではないがやはり龍宮に通ずといふことで、また村民に道具を貸してゐた。これも望みの品と數とを紙に書いて穴の口に入れるのであつた。群馬縣では榛名の南の室田の長(236)念寺の底なし井戸、これも龍宮まで拔けて居て、寺の振舞ひの日には膳椀を貸した。入用を手紙に書いて前日に井中に落しておくと、その品々が夜の中に井の傍まで出してあつた。寺も井戸も現存してはゐるが、やはりまた貸主を怒らせて夙にその慣例は絶えたといふ。
 近頃までの學者には、このやうな變則の例を提出すると、それは訛傳だ眞似損ひだと、自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖があつたが、鳥居氏は我々同樣に新しい人だから、必ずもつと穩健な解答をせられるに相異ない。しからば右に列擧するが如きいはゆる椀貸傳説は果して如何なる方面から、日本の無言貿易土俗を説明するのであらうか。無言貿易の問題については、自分はたゞグリイルソンの「無言貿易論」一册を讀んで見たゞけであるから深い事は知らぬが、何でも山野曠原を隔てゝ隣り住む二種の民族が、互に相手と接觸することを好まず、交易に供したいと思ふ品物のみを一定の地に留めておいて、迭《かは》る/”\出て來ては望みの交換品を持ち還る風習をいふのである。日本で人なし商ひなどゝ稱して、主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確かに土佐の遍路筋などにあつた。鳥居氏はこれもまた無言貿易であるやうに説かれたが、それではあまりに定義が廣くなりはせぬか。土佐で自分等の目撃したのは路傍に草鞋とか餅、果物の類を臺の上に列べ、脇に棒を立てゝ錢筒を吊し、その下には三文又は五文の錢の畫が描いてあつた。中央部の如く街道の茶店が發達せず、わづかの小賣のために人の手をかけては居られず、幸ひ相手が貧人ながら信心のための旅行者であれば、その正直を頼りに右の如き人なし商ひをしたまでゝ、本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ。
 
          五
 
 また諸國の峠路には往々にして中宿といふものがあつた。雙方麓村から運んで來る荷物をこゝに卸して、隨時に向うから來てゐる荷物を運び歸り、それ/”\名宛先へ屆ける風習が近頃まであつた。これも鳥居氏は自説に引き込まれ(237)るか知らぬが、やはり明白に勞力の節約を目的として始まつた文明的の運送契約である。その中宿のあつたといふ地は澤山あるが、秋田縣ではこれを易荷《かへに》と稱し、砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路、また生保内《おぼない》から岩手縣の橋場へ行く峠にも、このために無人の小屋が設けられて、單に下から運んで荷物をおいて還るのみならず、椀小鍋等の食器までが一通り備へてあつた。小安村から仙臺領へ越える道にもこの中宿があつた。關東では野州日光町の人が栗山方面の山民に味噌や油を送り、彼から木地や下駄材を取るにもやはりこの中繼法を採用し、最近までも安全に交易が行はれてゐた。甲州東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠、及び多摩川水源の日原《につぱら》から秩父の大宮へ越える六十里越などにも、ともに百年前までは道半分の處にこの種の中宿があつた。信仰の力を以て相手の不正直を豫防せんとしたものか、後者には道祖神の宮があつて荷物はみなその宮の中へ入れて置き、前者もまたその地に雙方の村から祭る妙見大菩薩の二社があつて、そのために峠の名を大菩薩坂と呼んでゐた。すでにこの如く信仰までが彼此共通であつたくらゐで、これを異民族間に始まつた無言貿易と同視し得ないのは分明なことである。
 中宿に膳椀の類を備へて人の使用に任せるといふことも例の多いことである。會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越にも近い頃まであつた。いはゆる日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたといふ話は登山者から聞いた。丹後田邊の海上三里の沖にある御島《おしま》、または北海道の奧尻島の如き、ともに食器炊器とともに若干の米さへ殘してあつて、誰も管理する人はゐなかつた。これは風波の難を避けて寄泊する船人のために存する舊慣で、丹後の方ではやはりその地に祭神不明の神社があつて、その社の中に藏置してあつたといふ話である。
 要するに通例人がゐて管理すべき取り引きを、何かの都合で相手次第に放任しておいたとても、これを以て直に窮北未開民族の間に存する奇異なる土俗と同系のものと見ることは速斷である。たゞし今一段とその根源に遡つて、後世我々のあひだに行はれた人なし商ひも、最初は觸接を憎んだ異民族間の貿易方法を、學んだものだらうといふ假定はたち得るかも知らぬ。しかもこれを確實にするためには別に證據材料がなくてはならぬ。府縣に散布してゐるいは(238)ゆる椀貸傳説が、殘念ながらその證據にはちつともならぬことは、これから自分がまだ言ふのである。鳥居氏がこんなあやふやな二つの材料を以て、日本にもかつて無言貿易の行はれた論據とせられ、二つも材料があるからは殊に確かだといふ感じを、與へんとせられたのは宜しくないと思ふ。
 家具を貸したといふ諸傳説に於いて、最も著しい共通點は報酬のなかつたことである。たゞ一つの例外といつた駿州大井川の楠御前でも、竹筒に二つの神酒は單に感謝の表示で、借料とは到底考へられぬのである。しからばこれ明らかに恩惠であつて對等の取り引きではない。第二に注意すべきは文書を用ゐたといふ例である。小學教育の進んだ當節では、如何なる平民同士のあひだにも文書は授受せられるが、農人の大部分が無筆であつた前代に於いては、これは或智力の勝れた者の仲介を意味してゐる。相手もまた手紙の讀めるえらい人または神であつたといふことを意味してゐる。語を換へていへば、たゞに今日の人の目にさう見えるのみでなく、この話をなかば信じてゐた昔の田舍人に於いても、この不思議を以て信仰上の現象、または少なくとも呪術のいたすところと考へてゐたのである。從つて次々になほ述べるやうに、椀類の貸主に關する多くの言ひ傳へは、無言貿易の相手方などゝは大分の距離がある。水の神といひ龍宮からといふ説明も、偶然ながらこの傳説の成り立ちと、その後の變化とに關する消息を漏らしてゐるやうに思はれる。
 
          六
 
 山中共古翁の椀貸古傳についての解釋は傾聽の値がある。翁の意見では、昔は村々の佛堂の中に膳椀を藏するものが多かつたらしい。それは村の共同財産で、例へば庚申待の日には庚申堂の棚の中にある品を取り出して使ふといふやうに、信仰と結合して考へられてゐたものが、道具が散逸して後このやうな記憶に變つて行つたのであらうといふ。これは古墳の土器を借りたなどゝいふよりは勿論事實に近さうである。長い山路の半途にある小屋の食器なども借り(239)られた。地方によつては岩穴の中に藏置したかも知れぬ。虚實は不定であるが、幕府時代に加州侯家では、信濃飛騨の深山を通過して、江戸と往來する間道を用意しておかれたといふ説がある。その道筋に當る丁場々々には社又は佛堂が建てゝあつて、その中に一通りの家具調度が匿してあつたとも傳へてゐる。さらに今一層傳説化した話には、滋賀縣|犬上《いぬかみ》郡の五僧越《ごそうごえ》に近い河内村の山奧に、天狗谷と稱して如何な高コの聖も行くを憚るやうな物凄い大岩の上に、自然と佛具類備はり、常行三昧の法の如くであつたのは、多分山の神の在すところであらうといひ、或ひは泉州|槇尾山《まきのをさん》の奧にも佛具岩があつて、平生佛具の音がするなどゝいふのも、元は同じやうな器具保存法から起つた話ともみえぬことはない。たゞ如何せん穴や岩場から貸出したものは、必ずしも椀や御器《ごき》のみに限られてはをらぬので、多くの類例を陳列して行くと、何分これでは説明のつかぬものが出て來る。
 例へば前に擧げた飛騨國府の龜塚の如きも、一説には國府山《こふのやま》の城主文書を塚の口に差し入れていろ/\の器物を借りてゐる中に、或時紫絲縅の鎧を一領借出して還さなかつたので、以後塚の口は永く閉ぢその城もまた衰へた。その鎧は當國一宮に納めて什寶となつてゐるといふ。さらに奇拔なのは美濃加納領の某村では、穴の口に願書を入れておくと口中療治の處方書を附與したといふ例もある。たゞしこれは靈狐であつて、土地の百姓の娘と少々譯があり、療治以外にも望みの者には書を書いて與へたとて、近郷にはその狐の筆跡が相應にあつたといふ。
 三重縣伊賀の島ヶ原驛の附近に三升出岩《さんじようだしいは》と俗にいふ石があつた。この石を信ずれば毎日米が三升づゝ出たといふことで、元はこの側を通行する者五穀綿麻などを供へて拜したといふ。栃木縣鹽谷都佐貫村の岩戸觀音は、鬼怒川の絶壁の中程に岩穴があつて、その中に弘法大師の安置したといふ金佛の觀音がある。この穴では三十三年に一度づゝ頂上から布を下げ、その布に取りついて穴の中へ入りいろ/\の寶物を取り出す例で、これを岩拜《いははい》と名づけてゐた。同縣上都賀郡上永野の百目塚は、高さ七尺の塚であつたが平地のやうになり、わづかに一基の石碑を以てその地を示してゐる。村の熊野神社の寶物を埋めたと言ひ傳へ、また昔はこの塚に一文の錢を供へると後に必ず百倍になつたので(240)百目塚といふ。或氣短かの慾張りが一時に數百倍を供へてみたが效驗なく、却て本錢まで亡くしたのを憤つてその塚を發《あば》かんとし、大いに祟を受けたといふから、多分その折以後例の通り恩惠の中止を見たのであらう。
 この話などは、今ではすでに落語家もいひ古した程の平凡事であるが、しかもたち戻つて或時代に大阪の商人を狂奔せしめた泉州|水間寺《みづまでら》の觀音の賽錢拜借、そのまた前型かと思はれる隱岐の燒火山《たくひさん》雲上寺の錢壺の信仰などを考へ合せると、借りるといふことが貰ふよりもさらに有難かつた昔の人の心持もわかつて、椀貸の不可思議は到底手輕実用向の説明だけでは片づかぬことが知れるのである。關西の方の事はもう忘れたが、東部日本で最も普通な民間信仰は、齒の痛みに神佛の前から箸や楊枝を借り、小兒の百日咳に杓子を借り、子育に枕を借り小石を借る等で、常に願が叶へば二つにして返す故に、靈驗ある堂宮の前には同じ品が非常に多く集まるのである。いはゆる椀貸も或ひはまたこのやうな意味を以てその由來を尋ぬべきものではないであらうか。
 
          七
 
 自分が徒らに話を長くする閑人で無いことは、大急行の話しぶりでも御諒祭が出來るであらう。何分問題が込み入つてゐるので今少し他の方面から廻つて見ぬと趣意がたゝぬ。椀貸と無言貿易との關係を窺ふ爲に、是非とも考へておかねばならぬのは、貸主に關する各地色々の言ひ傳へである。愛媛縣温泉郡|味生《みぷ》村大字北齋院の岩子山の麓の洞穴には、昔異人この中に住んでゐて村の者に膳椀を貸したといふ話がある。これも前日に洞の前に往き口頭または書面にて申し入れておくと、翌朝は數の如く出してあつたといひ、また横着な者が返辨を怠つてから貸さなくなつたと傳へてゐる。異人と聞くと何となく白髪の老翁などを聯想するが、他の地方には越中の家具借の池のやうに、美しい女神を説くものが多いのである。例へば信州木曾の山口村の龍ヶ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松樹を生じ形?怪奇であつた。「吉蘇志略」にはこの事を記して「土人云ふ昔龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、(241)後或ひは其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩といふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るにみな意の如し、その後黠夫あり窺ひ見て大いに呼ぶ、水神水に没してまた見えずと「濃陽志略」に見えてゐる。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山《やかいやま》で、これも同じ書に山の半腹にある戸立石といふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、その末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女ありこの岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後つひにその事絶ゆとある。九州では宮崎縣東臼杵郡北方村荒谷の百椀とゞろと呼ぶ谷川の潭にも、水の中から美しい女の手が出て百人前の椀を貸したといふ處がある。この淵もまた龍宮へ續いてゐるといふことであつた。或時馬鹿者が椀拜借に來て、その美しい手を引張つて見てから以後、ここでも永く椀を貸さなくなり、しかも今以てその水で不淨を洗へば祟がある。
 これ等の話だけを粗末に見ると、故坪井先生の珍重せられたコロボックルの少女の手を窓越しに握つてから、アイヌとの交通が絶えたといふ北方の言ひ傳へと、ちよつと似てゐるやうにも思はれるが、日本で水の神を女體とすることは古く且つひろい俗信であつた上に、浦島子傳よりさらに以前の神話から考へても、佛教ならびに支那の思想のつけ添へから推して見ても、龍宮は寶の國如意の國、最も敬虔にして且つ幸運なる者が、わづかに稀に通ふことのできる國と定まつてゐたので、さてこそかやうなこちらにばかり好都合な交通が、處々の水際に於いて行はるゝものと考へ得るに至つたのである。これをしも譬へば蝦夷の妻娘でもあつたかのやうに想像することは、恐らくは當世の新人物といへども、なほ好い感じを起さぬであらうど思ふ。
 
          八
 
 椀貸穴を以て龍宮の出張所の如く見た例はまだ幾らもある。前に擧げた信州上伊那郡松島村の龍宮塚はその一つで、(242)同郡勝間村の布引巖とともに、やはり證文を差し入れて人々は穴の中からいろ/\の道具を借りてゐた。こゝでもつひに返却を怠つた者のために、中止の不幸を見たことは同樣で、現に村の藤澤某方に持ち傳へた古い一箇の盆は、龍宮の品であるといふ話であつた。愛知縣では三州鳳來寺山の麓の瀧川といふ處の民、常に龍宮から種々の器物を借りて自用をたしてゐた中に、或時|皆朱《かいしゆ》の椀を借りてその一箇を紛失したために、また貸すことが絶えたといふ。利根川の流域にも多くの椀貸古傳が分布してゐるが、その上流の上州利根郡東村大字|追貝《おつかひ》の吹割瀧の如きは、瀧壺が龍宮に通ずると傳へて、これにも膳椀の借用を祈つたといふ。翌朝その望みの食具を出しておかれたといふ大きな岩が、今でも瀧壺の上にある。龍宮の乙姫この水に住んで村民を守護せられる故に、膳椀を頼んでも貸して下されぬやうな祝ひ事は、神の思召に合はぬものとして中止するので、乃ち若い男女等はこの瀧に來て縁結びをも祈つたといふことである。
 けだしこんな淋しい山奧の水溜りにまで、しば/\龍神の美しい姫が來て住まれるといふのは、基く所は地下水といふ天然現象に他ならぬ。天の神が雲風に乘つて去來したまふと同じやうに、水の神は地底の水道をたどつて何處にも現はれたまふものと信じてゐたのである。殊に山陰や岩の下から迸り出る泉の、絶えず盡きず清く新しいのを見ては、朝夕その流を掬みまたは田に引いてゐる人々は、これを富の神、惠の神と考へずにはゐられなかつた筈である。椀貸傳説の終局がいづれの場合にも、人間の淺慮に起因する絶縁になつてゐるのも、いはゞ神コに對する一種の讃歎であり、遠くは鵜戸の窟の大昔の物語に始まつて、神人の永く相伴なふこと能はざる悲しい理法を説明した、古今多くの神話の一分派で、稀に舊家に遺つてゐる一箇の朱の椀こそは、即ちエ※[ワに濁点]女が夫に薦めたといふ樂園の果《このみ》に他ならぬのである。
 塚の底や窟の奧に隱れ住んで人民の便宜を助けたといふ靈物には、他にもいろ/\の種類がある。加賀の椀貸穴で古狐が椀を貸してゐたことはすでに述べたが、それよりも更に意外なのは佐渡の二つ岩の團三郎|貉《むじな》である。二つ岩は(243)相川の山續き、舊|雜太《さわた》郡|下戸《おりど》村の内でまた二つ山ともいふ。岩の奧に穴があつて貉の大一族がその中に住み、團三郎は即ちその頭目であつた。折々化けて町へ出で來り人をだまして連れて行くこともあるので、島民は怖れてその邊へ近よる者も少なかつたが、彼もまたかつては大いに膳椀を貸したことがある。一説に最初は金を貸し、あまり返さぬ者があるので後に膳椀だけを用立てたが、それも不義理な者が多いところからつひには何も貸さぬことになつたといふ。兎に角至つて富裕な貉であつた。佐渡は元來貉の珍重せられた國で、毎年金山の吹革の用に貉の皮數百枚づゝを買ひ上げたといふのは、彼等に取つて有難くもないか知らぬが、俚諺にも「江戸の狐に佐渡の貉」といふくらゐで、達者でゐても相應に幅が利いたと思はれ、砂撒き貉の話なども遺つてゐる。右の團三郎などは二つ岩の金山繁昌の時代に、日雇ひに化けて山で稼いで金を溜め、後次第に富豪となるといふが、しかも金を貸すのに利子を取つたといふ話はない。越後古志郡六日市村の淨土宗法藏寺は後に長岡の城下へ移つたが、元の寺の裏山に天文の頃、團三郎の住んでゐたといふ故迹がある。衆徒瑞端といふ者をだましたこと露顯し、時の住職より談じ込まれて佐渡へ立ち退いたともいへば、他の一説には寛文年中までなほ越後國にゐたともいふ。龍昌寺といふ寺の寺山の奧にはこの貉のゐたといふ窟がある。團三郎二度目に惡い事をしたによつて、庄屋の野上久兵衛村民を語らひ、青杉の葉を穴に押し込んで窮命に及ぶと、彼は赤い法衣を着た和尚の形をして顯はれ來り段々の不埒を詫びてその夜の中に佐渡へ行つてしまつた。その跡は空穴となつて彼が用ゐた茶釜|折敷《をしき》の類の殘つてゐたのを、關係者これを分取して今に持ち傳へてゐる者もあるといふ。
 越後の寺泊から出雲崎へかけての海岸では、春から秋のあひだの晴れやかな夕暮に、海上佐渡の二つ山の方に當つて雲にも非ず藍黒き氣立ち、樓閣城郭長屋廊下塀石垣などのみな全備して見えることがある。これを俗には二つ山の團三郎の所業と言つたさうである。相川の町などでも團三郎に連れられて彼が住む穴に入つて見た者は、中の結構が王公の邸宅の如く、家内大勢華衣美食してゐるのに驚かぬ者はなかつた。或醫者は夜中頼まれて山中の村へ往診に行(244)き、このやうな立派な家はこの邊にない筈だがと思つてゐたが、歸宅後だん/\考へて見て始めて二つ岩の貉の穴だつたことを知つたといふ話もある。或ひはまたこの穴の中の三日は浮世の三年に當るといふ浦島式の話もある。或ひはまたこの仙境で貰ひ受けた百文の錢は、九十九文まで遣つても一文だけ殘しておけば夜の中にまた百文になつてゐて、その人一生のあひだは盡きることがないといふ話もある。主人公が貉であるばかりに特に珍しく聞えはするが、他の部分に於いては長者の福コ圓滿を語り傳へた多くの昔語りと異なるところがないので、それではあまり化物らしくないとでも考へたものか、穴の中で見て來た事を人に語るとたちどころに命を失ふといふ怖い條件をちよつと添へてはあるが、しかも右申す如くすでに世上の評判となつてゐるのだから何にもならぬ。
 
          九
 
 日本の長者の話には、往々にして福分の相續とでもいふべき思想を含んでゐる。即ち前期の長者は縁盡きてすでに没落し畢り、その屋敷は草茫々として井戸ぐらゐより殘つて居らぬのに、後日其處へ來て偶然に埋めてあつた財寶を掘り出し、また掘り出すかも知れぬと思つて永いあひだ人が探したこともあつて、その後半は傳説から現世生活にまで繋がつてゐる。中にも黄金の鷄の類に至つてはその物自體に靈があるやうにも傳へられ、これを手に入れ得た者の幸運は申すに及ばず、或ひはその地底の啼聲を聞いて出世をしたなどゝいふ話もある。飜つて思ふに二つ岩の團三郎は貉ながらも昔の長者である。その手元から貸し出さうといふ膳椀であつたとすれば、これを持ち傳へて果報にあやかりたいと思ふのは常の情である。飛騨の丹生川の鹽屋村で膳椀を貸した故跡の名を長者の倉といひ、或ひは伊勢の椀久塚その他に於いて、長者が家の跡に築いたといふ塚に椀貸の話のあるのも、つまりはこれを借りて一時の用をたす以外に、あはよくば永久にこれを我が物としようの下心が、最初からあつての上の占領とも見られぬことは無いのである。
(245) 千葉縣印旛沼周圍の丘陵地方は、昔時右やうの食器貸借が最も盛んに行はれたらしい注意すべき場所である。なかんづく印旛郡|八生《はぶ》村大竹から豐住村南|羽鳥《はとり》へ行く山中の岩穴は、入口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は疊七八疊の廣さに蠣殻まじりの石を以て積上げてある。里老の物語に曰く、往古この中に盗人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出て貸したといふことである。大竹の隣村福田村にはこれから借りたといふ朱椀が一通り殘つてゐる由云々。茨城縣眞壁郡關本町大字船玉の八幡宮は、鬼怒川の岸に近い小さな岡の上にある。石段の右手に當つて口もとは四尺四方の平石で圍み、中は前の穴に數倍する古い窟がある。以前にはこの奧に井戸があつたといひ、隱れ人といふ者がこゝに住んでゐて、やはり篤志の椀貸をして居つたといふ。それから先は他の地方のと同じ話である。
 盗人といひ隱れ人といふだけではまだ正體がよく分らぬが、さらに同縣關宿附近の長洲村に於いて膳椀を貸したと傳ふる岩窟は、その名を隱れ座頭の穴と稱し、やはり前夜に頼んでおけば翌朝貸出したこと、及び里人の違約に起因してその事の絶えたといふ話を、「弘賢隨筆」には二人まで別々に報告をしてゐる。隱れ座頭は「諺語大辭典」によれば茶立蟲の異名とあり、また俗説には一種の妖恠とあつて、夕方|迷藏戯《かくれんばう》をして遊ぶと隱れ座頭が出るといふ諺のあることを記してゐる。菅江眞澄の文化年中の紀行を見ると、北海道渡島の江差に近い海岸に、黒岩と稱する窟あつて圓空上人作の地藏を安置し、眼を病む人は米を持參して祈願をかけ驗あり、この穴の中にはまた隱れ座頭といふ者住み、心直き者には寶を授けたりと童の語り草とせりとある。高田與清の「相馬日記」もこの時代に出來た紀行であるが、下總印旛郡松崎村の附近に三つの大洞穴があつて、その中に隱れ座頭と稱する妖恠の住んでゐたといふ噂を載せてゐる。しかるにその松崎は前にいふ八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があるといふ點まで似てゐるから、疑ひもなく今日の土地の者が、盗人が椀を貸したといふ穴と同じであつて、また他の一二の書にはこの穴の名を隱里と唱へてゐるをみれば、隱れ座頭といふ新種の化物は、その隱里の誤傳であつたことが容易に知り得られる。
(246) 隱里から器具を借りた話はこの外にも段々ある。津村氏の「譚海」卷四に、下總成田に近き龍光寺村とあるのは、印旛郡|安食《あじき》町大字龍角寺の誤聞で、即ち盗人とも隱れ座頭ともいうた同じ穴のことらしい。窟は大なる塚の下にあり、これを築造した石はこの地方には産せぬ石材で、これにいろ/\の貝の殻がついてゐた。「村の者は隱里とてそのかみ人住める所にて、好き調度など數多持ちたり、人の客などありて願ひたるときは器を貸したり、今も其を返さで持傳へたるものありと云へり」とある。「相馬日記」より少し前に出た著書である。また同じ郡の和田村大字下勝田から同直彌へ行く路の田圃に面した崖の中腹にも、隱里と稱して道具を村民に貸した窟がある。昔はこの穴の中で夜ふけには米を搗く音がしたといふ。明治三十四五年の頃土木工事の時、この附近から錆びた刀劔と二三の什器と二人分の骸骨とが出た。將門亂の時の落武者だといふことに決したさうである。また同郡|酒々井《しゆすゐ》の町の北、沼に臨んで辨天を祭つてある丘の背面にも、同じ傳説ある窟があつてこれを嚴島山の隱里といふ。一名をカン/\ムロとも呼ぶのは、この窟に入つて土の面を打つと、金石のやうな響がしたためである。維新以來この中に盗人も住み狐狸も住んだといふが、今では到頭その地が分らなくなつた。
 「利根川圖志」卷二には下總猿島郡五霞村大字川妻の隱里の話を録してゐる。村の名主藤沼太郎兵衛の先祖、下野から來てこの村を拓いた頃、村に隱里あつて饗應の時は此處から膳椀を借りた。故あつて十具を留め返さず、今なほ其一二を存す、朱漆古樣すこぶる奇品だとある。「弘賢隨筆」の隱れ座頭の穴はこれから近い。或ひは同じ穴の噂かも知れぬ。前に出した常州眞壁郡船玉の隱れ人の穴も、「茨城名勝志」にはやはりその名を隱里と稱へてゐる。同郡上妻村大字|尻手《しつて》の文珠院に、こゝから借りて返さなかつた椀が大小二つあつた。内朱にして外黒く朱の雲形を描き、さらに金泥を以て菊花及び四つ目の紋を書いてあつたといふ。四つ目の紋は我々に取つて一つの手掛りである。越中|市井《いちのゐ》の甲塚《よろひつか》は、「越の下草」といふ書には甲塚の隱里とある。百五十年前既に田の中のわづかな塚であつたといへば、今では痕跡すらも殘つては居るまい。他の多くの例では前日に頼んでおくと翌朝出てゐたといふに反して、これは一度歸(247)つて來て暫く經つて行けばもう出てゐたといつてゐる。この點だけが一つの特色である。
 
          一〇
 
 椀貸の穴が水に接すれば龍宮といひ乙姫といひ、野中山陰にあるときは隱里といひ隱れ座頭といつたのは、自分には格別の不一致と思はれぬ。龍宮も隱里もともに富貴自在の安樂国であつて、たやすく人間の到り得ぬ境であつた。浮世の貧苦に惱む者の夢に見うつゝに憧れたのは、出來る事なら立ち歸りにでもちよつと訪問し、何か貰つて歸つて樂しみたいといふにあつたこと、兩處ともに同樣である。否むしろ龍宮は水中にある一種の隱里に外ならぬ。話が長くなつたがこの事を今すこし言はうと思ふ。
 三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石といふ石はまた昔膳椀を貸したさうである。人の惡い者が返さなかつたために中止となつたこと例の通りである。鸚鵡石は人の言語を答へ返す故に起つた名で、これまた國々に多い話であるが、椀を貸したのはこゝだけかと思ふ。人のよく知る鸚鵡石は伊藤東涯翁の隨筆で有名になつた伊勢度會郡市之瀬の石であるが、この附近にもなほ二三の同名の石があつた外に、江州蒲生郡、越前敦賀の常宮浦、東國では伊豆の丹那村、武州御嶽の山中等にもあり、飛騨の高原郷で鳴石、信州伊那の市之瀬同じ更級の姨捨山で木魂石、福島縣白河附近の小田倉村でヨバリ石、さては南津輕の相澤村でホイ/\石、西部にあつては、土佐の穴内の物言石、備後安藝の山村に多い呼石の類、或ひは言葉石といび答へ石といひ、または三聲返しの石といふが如きもみな同じ物である。元は恐らく反響をコダマ即ち木の精と信じた如く、人の口眞似するのを鬼神の所爲としたのであらうが、それはあまり普通の事と分つてから後は、いやコダマではなく返事をするのだとか、または一度呼べば三度呼び返すとかいつて、強ひて不思議を保持せんとしてゐる。甚しきに至つては「和漢三才圖會」に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石、八月二十七日の祭の日にかぎり、人がこれに向つて「物もう」といへば「どうれ」と應へるなどゝいつて、醴酒《あまさけ》と芒の(248)穗を供へたとさへも傳へてゐる。
 その鸚鵡石がさらに進んで膳椀借用の取り次ぎまでもしたといふのである。これなどは多分他の家具の岩屋などゝは異なり、地下にも水底にも通ずる穴が無かつたであらうから、コロボックルとも土蜘蛛とも説明はしにくからうと思ふ。「白山遊覽圖記」に引用した「異考記」といふ書に、今より六百八十何年前の寛喜二年に、六月雪降りて七日消えず、國中大凶作となつた時、白山の祝《はふり》卜部良暢、窮民を救はんがために山に上つて斷食し、幣を寶藏石といふ岩に捧げて?ること三日、たちまち白衣玉帶の神人現はれ、笏を以てその石を叩けば石門洞然と開いて、内は丹楹碧砌《たんえいへきぜい》の美しい宮殿であつた。その時一條の白氣その中より出でゝ麓の方に靡き、村々の竹林悉く實を結んで餓ゑたる民、食を繋ぐことを得た云々。「亞刺比亞夜譚」の隱里の物語と、日を同じくして談ずべき奇異である。これについてさらに考へるのは、上州利根の奧で食器を貸したといふ龍宮の出張所が、その名を吹割瀧と呼ばれたことである。これはまた水で造つた仙俗二界の堺の塀であつたのが、時あつて二つに開くことあるべきを意味したものであらう。廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ヶ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、その後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれば、隨意に奧に入り佛を拜し得る、これを山靈の所爲としてゐたさうである。日光の裏見の瀧などは十餘年前の水害の時までは、うしろにちやんと徑があつたが、また以前はこの類であつたらう。美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧も、自分はかつて往つて見たが、同じくまた水の簾が深く垂れ籠めてあつた。これを繪本西遊記風に誇張すれば、やがてまた有縁の少數者にのみ許された隱里に他ならぬ。現に「今昔物語」の中の飛騨の別天地などは、浮世の勇士を頼んで猿神を退治して貰ふ程のしがない〔四字傍点〕桃源ではあつたが、やはり導く者あつて跳つて入らねば、突き破ることのできない程の瀧の障壁が構へられてゐたのである。
 これ等の事柄を考へ合せて見ると、膳椀の貸借に岩穴あり塚の口の開いたのがあることを必要とし、中に人がゐて(249)出入を管理する筈と考へるやうになつたのは、或ひは信仰衰頽の後世心かも知れぬ。これを直ちに元和寛永の頃まで、その邊に姿を見せぬ蠻民がゐた證據の如く見るのは、或ひは鳥居氏の御短慮であつたのかも知れぬ。
 
          一一
 
 隱里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。たゞどうしてもすこしく言はねばならぬのは、西日本の隱里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々それが尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。「薩藩舊傳集」には無宅長者の話がある。有馬といふ薩摩の武士、鹿籠《かご》の山中に入つて、四方の岩が屏風の如く取り繞らすところを見つけ、獨りその内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に微明あるに心づけば、四方の石はみな黄金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國を見ることがある。地を清め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねてその地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。肥後では舊|合志《かはし》郡|油古閑《あぶらこが》の群塚《むれづか》といふ邊に昔仙家があつて、仙人の井といふが獨り遺つてゐる。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見るといふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。
 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることの出來ぬ閑靜な山陰があるので、これに託していろ/\の話を傳へたものと見えるが、別にまた同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつてかつて旅僧がこれに入り宮殿樓閣を見たといふ話もある。尾張名古屋の隱里といふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某といふ若侍が、鷹狩に出て法《かた》の如き隱里を見たことが「沙汰無草」の中に見えてゐる。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康水の參詣記にあると「神都名勝志」にこれを引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬によつて翌年の豐凶を占ふ風あること、京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したといふ話が「勢陽雜記」に出てゐ(250)るひ近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷といひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたといふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根にあつてまた一個の鼠の隱里であつたといひ、「昔此所に鼠ども集り居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひを爲し、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らひをまなぶ云々」と「因幡民談」にあるのである。
 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、こゝでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。たゞし鼠倉または長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたといふ證據にはなるのである。「攝陽群談」の傳ふるところによれば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。即ち豐能郡池田の北、細川村  大字|木部《きのべ》の南に當つて、昔この地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるにたらずといふことなしといへども、つひに亡滅して名のみ隱里といへり。今もこの地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふといふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記してゐる。後世に至つて隱里のいよ/\人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、これに由つてせめて身の幸運を頼んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ヶ窪でも、享保の始め頃、或百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふにこれを知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。その家はたして大いに富み、後は千石餘の高特となつたといふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いてゐた男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたといふ結末と、同調異曲の言ひ傳へのやうである。
 
(251)          一二
 
 播州書寫山の登路にも、袖振山の北の端を隱《かくれ》ヶ鼻として山腹に大きな岩穴があり、大昔老鼠が米を搗いた故跡と言ひ傳へてゐる。東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコッペイの窟《いはや》、或ひは羽後の男鹿半島寒風山の隱里、陸中小友の土室神社の如き、岩窟に隱里といふ者のあるものは多いのだが、それがかつてみな右やうの傳説を件なつてゐたか否かは疑はしい。殊に次に列擧する如き多くの隱里といふ地名などは、一々みなこれであつたとも思はれぬ。恐らくは山を隔てた世に遠い小盆地で、單に年貢が輕かつたといふ他に、何の特長もなかつたたゞの隱里も多いことゝ思ふ。
  相模中郡吾妻村二宮隱里
  常陸那珂郡隆郷村高部隱里
  陸前遠田郡成澤村隱里
  陸奧下北郡川内村隱里
  羽前東田川部横川村隱里
  羽後雄勝郡輕井澤村隱里
 近世の記録に隱里を發見したといふ實例の多いことは、人のよく知る通りである。九州では肥後の五箇圧、日向の奈須及び米良《めら》などは今以て好奇の目を以て見られ、周防の都濃郡|須々萬《すゞま》村の日比生《ひゞふ》は、天文の頃獵師の發見した隱里だなどゝいふが、その多くのものはやはり東の方にあつた。例へば羽前と越後の境の三面《みおもて》、岩代信夫郡の水原、同伊達郡の茂庭《もには》などもそれだと云ふ。水原は谷川に藁が流れて來たのでこれを知り、よつて水藁と名づけたといふ話があり、茂庭はアイヌ語かと思ふが、始めて役人が在つてみたときには村長が烏帽子を着てゐたなどゝいふ話もある。こ(252)の茂庭の一村民が、本年の冬、忰の近衛に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ。會津と越後の境大沼郡本名村の三條といふ部落などは、越後の方とのみ交通してゐて復島縣の人は存在を知らず、明治九年の地租改正の時始めて戸籍についたといふ。語音が會津式の鼻音でないために、三條の鶯言葉などゝ言はれてゐる。江戸の鼻先の武州秩父でさへも、元文年間に始めて見出した山中の一村があつた。雨後に谷川に椀が流れて來たのでこれを知つたといふなどは一奇である。この他何時となく里を慕つて世に現はれた村で、地方《ぢかた》役人の冷かな術語では隱田《おんでん》百姓と稱し、亂世に立ち退いて一門眷屬とともに孤立經濟をたてゝゐたといふものが、まだ幾らともなく山岳方面にはあつたやうである。
 平家の落人の末と稱して小松を名乘り、或ひはまた重盛の妹か姪に當るやうな尼公の信心話を傳へ、世上の同情と尊敬とを博せんとした僻村は、大部分右の如き隱里の發達したものらしい。或ひは同じ平家でも平親王將門の子孫郎黨の末といふものがある。信州には三浦氏の落武者といふのが處々にある。御嶽南麓の瀧越部落の如きもその一つであるが、地名のミウレは方言で水上を意味するらしく、ちつとも相模平氏の流れらしい證據は無い。會津の南半分から下野と越後へかけて、高倉宮以仁王御潜行の故跡充滿し、渡邊の唱や競や猪早太等、凡そ頼政の家來で強さうな人はみな網羅し、しかも一方或部分は畏れ多くも高倉天皇の御事として、その御陵の事まで云々してゐるのは、西の方の府縣で平家谷といへばたちまち安コ天皇二位尼の御隱家と主張するのによく似てゐる。歴史家諸先生の飛んだ御迷惑をせられるのも恐らくはこの點で、現に宮内省でも御陵墓參考地といふやうな不徹底な榜示《ばうじ》を、何箇所となく立てておかれる。「蒹霞堂雜録」の中には安コ帝御舊跡といふ地を七八箇所も擧げてゐて、今日ではさらに若干を増加してゐる。自分はこれについても少々の意見があるが、關係地方の人たちの心持を考へると、やはり十分にこれを論辯することが出來ぬ。よつてこゝにはたゞこの口碑と隱里椀貸と、どうしても關係のある部分だけを述べておき、それ以外は最近の機會に、今すこし閑靜な處で發表したいと思つてゐる。
 
(253)          一三
 
 復井縣大野郡の山村は、これまた平家谷口碑の至つて數多い地方である。その中で下味見《しもあぢみ》村大字赤谷の平家堂といふは、崖の中腹にある二尺四方の岩穴で、穴の中は古墳である。土人最もこれを尊崇し毎年二月十九日に祭をする。この窟の石戸は人力では動かぬが、世中に何か事があると自然に開閉するのを、村民は「平家樣が出られる」といふ。日清日露兩度の戰役中、この石戸の常に開いてゐたことは誰も知らぬ者がないといふ。この話を發表した人は自分の知人にして且つこの村の住人である。その誠實はよく知つてゐるが、しかも如何せんこの話には傳統がある。奧羽地方に於いてはこの種の岩穴を阿倍城《あべじやう》といひ、岩戸の開閉の音を聞いて翌朝の晴雨を卜する例が多い。中央部では鬼ヶ城などゝもいひ、山姥が布を乾すといふことになつて居り、やはり里の者の神意を察知する話が少なくない。さらにその昔をたどると山姫佐保姫の錦を織ると云ふ言ひ傳へにも關聯するものであらう。けだし屋島壇浦の殘黨のみに對してならば、いはゆる平家樣の崇敬はすこし過分である。故に如何にしても安コ天皇を奉じ來ることのできぬ東北地方に於いては、一門の尼公と稱しまたは以仁王と申し上げて、その缺陷を補はんとしたのではあるまいか。しかし農民は昔も今も虚言を述べ得ぬ人である。さうして最も人の言を信じ易い人である。しからば最初果して何人あつてかくも多い平家谷の話を全國に散布したのであるか。これが椀貸傳説と交渉ある唯一つの點で、同時に鳥居氏の無言貿易説の當否を決すべき重要な材料であるやうに自分は思ふ。
 鳥居氏の御意見といふものが、もしこれ等各地方の異傳を親切に考察した上で發表せられたものであつたならば、自分等はたとひ末梢の問題に於いて觀察の相異があるにしても、かやうな失禮な批評文は出さなかつたであらう。何となればいはゆる椀貸の話にはかぎらず、多くの傳説の起源は常に複雜なもので、時代々々の變化または新たなる分子の結合はありがちであるから、最初長者と打出小槌と古墳と水の神の信仰とが、この不可思議なる岩穴交通の話の(254)基礎であつたとしても、別にまた或事情の下に、鬼市もしくは黙市と稱する土俗の記憶が、同じ物語の中に織り込まれたことは絶無と斷定し能はぬからである。民俗學の現在の進歩程度では、殘念ながら消極的にも積極的にも、何の決定をも下し得ぬことが明白であるからである。
 自分が主として證明せんとしたのは、單に膳椀の持主または貸借の相手が、アイヌその他の異民族であつたらしい痕跡がまだ一つも無いといふ點であつた。これ以外に於いて何か手掛りとなるべき特徴ではないかと思ふのは、話の十中の九まで前日に頼んでおいて翌朝出してあつたといふこと、即ち先方が多くは夜中に行動をしたといふ點である。それよりもなほ一段と肝要なのは、わづかな例外を以て貸した品が、常に膳椀その他の木製品であつたことである。隱里から出すには他に物もあらうに、木地の塗物のと最も土中水中に藏置するに適しない品のみが常に貸されたことは、何か特別の仔細がなくてはならぬ。陸中の遠野などではフェアリイランドの隱里の事をマヨヒガと稱し、マヨヒガに入つて何か持つて來た者は長者になるといふ話がある。さうして自分の採録した話の中には、やはりその隱里の椀を授かつて富貴になつた一例がある。高知縣長岡郡樫野谷の池は、村民が元旦にこの水を汲む風習あり、また村に不吉の事起らんとする時には、水底に弓を引く音が聞えたといひ、時としては赤い椀の水面に浮ぶことがあるといふ、此の如き場合にまでいつも椀といふものゝついて廻るのは、果して何を意味するであらうか。
 
          一四
 
 伊勢の龜山の隣村阿野田の椀久塚は、また一筒の椀貸家であつて、貞享年中までこの事があつたと傳へてゐる。土地の口碑では塚の名の起りは椀屋久右衛門或ひは久兵衛といふ椀屋から出たといふ。この椀久は大阪の椀久の如く、或時代の長者であつたらしく、數多の牛を飼ひ品物を送り五穀を運ぶために、險岨の山路を道普請して牛の往來に便にしたといひ、今も牛おろし坂といふ地名が遺つてゐる。椀久は農家ながら多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、(255)これを三都諸州へ送つて利を收めた。その家斷絶の後舊地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名づけた。村民の客來などのために膳椀を借らんとする者は、やはり前日にこの塚へ來てこれを祈つたといふ事である。さてこの話を解釋するためには、最初に先づ塗物師が器を乾かすために土室を要した事を考へねばならぬ。次には木地師の本國が近江の愛知郡東小椋村であつたことを注意する必要がある。龜山在から山坂を越えて行くといへば行先は近江南部の山村である。而して東小椋村の中君ヶ畑と蛭谷との二大字は、數百年以前から今日まで引續いての木地屋村で、その住民は中世材料の缺乏して後、爭うて郷里を出で、二十年三十年の間諸國の山中を巡歴し、到る處に於いて轆轤《ろくろ》の仕事をしたことは人のほゞ知るところである。諸國の木地屋はそれ故に今でも大多數は小椋或ひは大倉等の苗字をもつてゐる。日本全國大抵分布せぬ地方はない中にも、伊勢は山續きで最も行き易かつたらしく、南伊勢から紀州へかけて小椋氏の在住して木地を業とする者今も多く、いろ/\の古文書の寫しを傳へ藏し、同族のみで山奧の部落を作るために、なほ若干の異なる習俗を保持してゐるらしい。自分は六七年前の「文章世界」に木地屋の話を書いたことがある。近日また少しばかりの研究を發表したいと思つてゐる。近江の檜物莊の成り立ち、及び中世盛んであつた日野椀日野|折敷《をしき》の生産と關係があるかと思ふが、未だ確かな證據を發見せぬ。
 伊勢にはまた安濃郡曾根村東浦の野中に椀塚と稱する丘があつた。東西十五間南北十間で頂上に大松があつた。これには椀貸の話はあつたといはぬが、昔は神宮の御厨《みくりや》の地で、秋葉重俊なる者近江より來り住し、文暦元年には判官職であつた。その後片田刑部尉重時の時、兵亂に遭つて御厨は退轉した。その時は太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのがこの椀塚であつたと傳へてゐる。この言ひ傳へが、椀久系統の人の口から出たことは、わづかながら證據がある。小椋の人々はどうした譯か以前から、あまり歴史には名の見えぬ物々しい人名を引き合ひに出す風があつた。君ヶ畑蛭谷の二村に今も大事にして居り、諸國の舊い木地屋が必ず一組づゝ傳寫してゐる多くの古文書、それからこの地の舊記や社寺の縁起類は、持主の眞摯なる態度に敬意を表し、新聞などで批評をすることは見合せる。(256)この村では清和天皇の御兄皇子小野宮惟喬親王、都より遁れてこの山奧に入り、山民に木地挽く業を教へたまふと言ひ傳へ、この宮を祭神とする御社は今も全國木工の祖神であるが、この由緒を述べた仁和五年酉五月六日とある古記録等には、親王に隨從してこの地に落ちついたといふ人々が、大藏大臣惟仲、小椋大臣實秀などゝ署名してゐる。この實秀は太政大臣ともいひ、今の小椋一統の先祖である。一説には小椋信濃守久良、小椋伯耆守光吉、親王よりこの藝を教へらるゝともある。作州苫田郡阿波村の木地挽が舊記には、奧書に承久二年庚辰九月十三日とあつて、やはり大藏卿雅仲、民部卿頼貞等の署名がある。伊勢でも多氣郡の藤小屋村などでは、杓子を生業として惟喬王子倉橋左大臣を伴なひこの地に匿れたまふ時、土人にこの業を傳へたまふといつてゐた。右の外北近江でも吉野でも紀州でも飛騨でも、親王のかつて御巡歴なされたことを信じてゐて、あまりとしても不思議に思はれるが、すでに明治の三十一年に田中長嶺といふ人が「小野宮御偉蹟考」三卷を著して、全部東小椋村の舊傳を承認し、本居栗田等の大學者が序文や題辭を與へられた後であるから、自分には誠に話がしにくい。詳しくは右の書について考へられんことを、讀者中の物好きな人に向つて希望する。
 
          一五
 
 近江の東小椋村から出て國々の山奧に新隱里を作つた人々は、米合衆國の獨立見たやうに、折々は郷里の宮寺にある舊記を裏切るやうな由緒書を作つてゐる。東北では會津地方が殊に木地屋の多い處であるが、これは蒲生家が領主であつた時、郷里の近江から何人か連れて來たのを始めとするさうで、後年までこの徒は一定の谷に居住せず、原料の木材を逐うて處々を漂泊し、この地方ではそれを「飛び」といつたこと、「新編風土記」に詳しく出てゐる。
 一方には會津から越後へかけての山村に多い高倉宮の古傳には、やはりいろ/\の右大臣大納言が從臣として來り、猪早太輩と功を競ひ、またその子孫を各地に殘して舊家の先祖となつてゐる。その中には小椋少將などゝいふ人もよ(257)く働いてゐる。越後の東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵などは、土地の名を小倉嶺といひ、山下の中山村十三戸はみな清野氏で、御連枝四の宮の從臣清銀太郎といふ勇士の子孫である。
 大和吉野の川上の後南朝小倉宮の御事跡は、明治四十四年に林水月氏の著した「吉野名勝誌」の中に委曲論評を試みてあるから、自分は次の二つの點より外は何もいはぬ。その一つはこの山村に充滿する多くの舊記類はいづれも二百年このかたの執筆であること、その二は小倉宮の御名は洛西嵯峨の小倉の地に因む筈であるにもかゝはらず、この宮は一時近江の東小椋村君ヶ畑の土豪の家に御匿れなされ、その家の娘を侍女として王子を御儲けなされたことである。
 右の二箇所の事例とは全然無關係に、自分は今左の如く考へてゐる。木地屋には學問があつた。少なくとも麓にゐて旅をしたことのない村民よりは識見が高かつた。木地屋の作り出した杓子や御器は如何なる農民にも必要であつて、しかも杓子の如きは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからざるものであつた。新たに村の山奧に入り來り、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあつた彼等は、相當の尊敬と親密とを求めるために、多少の智慮を費すべき必要があつた。必ずしも無人貿易をせねばならぬ程に相忌んではゐなかつた彼等も、少しも技巧を用ゐずには侵入し得なかつたのは疑ひがない。そこでさらに想像を逞しくすると、彼等は往々岩穴や土室の奧から、鮮やかな色をした椀などを取り出して愚民に示し、これを持つてゐれば復コ自在などゝ講釋して彼等に贈り、恩を施したことがないとはいはれぬ。常州眞壁の隱里から貸した椀が、金で四つ目の紋をつけたのは一つの見どころである。四つ目は即ち近江の一名族の紋所であつた。斷つておくが自分はまだ證據を捉へぬから決してこの假定を主張するのではない。假に鳥居氏の言はれたのに近い交通があつたとしても、この場合には相手の方が旨く遣つたので、同氏のいはゆる文明のステージが違ふといふのは、ちやうど逆樣に違ふのだから、いさゝか滑稽でないかと言ひたいのである。
 常民が食器に白い陶器を使ふのは無論新しい變遷である。それ以前は木器であらうと信ずるが、少なくも朱椀など(258)は手が屆かぬ上流の用であつたであらう。それが次第にたやすく生産せられるやうになつたのも、さして古い事とは思はぬ。漆器の歴史を調査する人は、必ず我輩の隱里物語をその基礎の一つにせねばなるまい。またかの多情多恨の椀久といふ淨瑠璃曲中の好男子が、苗字は小椋で後の屋號が伊勢屋であつたか否か、これを明白にして下さるのは上方の學者方の任務である。
 
(259)     流され王
 
 武州|高麗《こま》本郷の白髭社に、修驗道を以て仕へて來た舊家の當主、自分も大いに白い髭あり、近來その苗字を高麗氏と名のり、さうして古い系圖が傳はつてゐて、見に行くほどの人はみな感心をする。これだけは正しく事實である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の歸化人千八百人ばかりを、武藏國へ遷したこと、及び高麗人中の名族にして、或ひは武藏守になつたこともある高麗氏が、本貫をこの郡に有してゐたことは正史に出てゐる。歴史が如何に想像の自由を基礎とする學問であるにしても、かほど顯著なる二箇の證跡は、ともにこれを無視して進むことを許されぬであらう。しかし右の二史實と今とのあひだには茫漠たる一千餘年が横はつてゐる。從つて彼からこれへ絲筋の引くものが、あるかと思ふのは或ひは野馬陽炎である。この關係はもしこれを決定する必要があるとすれば、是非とも今後に於いてこれを證明せねばならぬ。
 自分は試みにその問題の一小部分、即ち白髭樣だと自稱する新堀村の大宮明神が、果して高麗の王族を祀つたものと、解することを得るか否かを考へて、地方の舊傳をもてあつかつてゐる人々の參考に供して見たいと思ふ。
 古い證據が必ずしも確實でない一例は系圖である。古くからあつたとすれば後の部分が氣になる。そんなら新しい程安全かと申せば、元はどうであつたかゞやはり疑ひを招く。二者いづれにしても繼目の處はつねに難物である。それといふのが系圖には、千年間の書き込みといふことが想像し得られぬ故で、紙筆と文字とが昔からあつたとても、これを書かせる人または家はさうは續き能はぬからである。第一には系圖を傳へる動機が時代によつて一樣ではなか(260)つた。或時は部曲を統御しまたは代表するため、或時は所領の相傳を證するため、或ひは信仰上の由緒を説くため、或ひは單に舊家の名聞のためと、その都度あたかも此の如き必要に遭遇してゐた家で、零落や早死の不幸がすこしもなかつた場合でも、なほ且つ後代の主人に一種の編輯力とも名づくべき能力が入用である。即ち身を後世におき心を上古に馳せても、たゞ徒らに舊傳に忠誠であつては、むしろ不可解の誤謬を生ずるのが普通である。それが右の高麗郷にかぎり、近世的に鍔目がよく合つてゐるとすれば、恐らく春日阿蘇を始めとして、各地の舊社の信條をなすところの、神孫が神に仕へ來つたといふ思想が、溯つて久しい七黨繁榮の時代にまで、一貫してゐたためであらう。即ち現今のいはゆる武藏野研究者が、寄つてたかつて一つの白髭樣を重々しくしたと同じやうな外部の影響が、二百年前にも三百年前にも、何度か繰り返されて來たのかも知れぬ。高麗の一郷は離れ小島ではなかつた。これを取り圍んだ武藏國原にはさま/”\の衝動があつた。名族の去來盛衰も多かつたあひだに、法師も入り込み浪人も遊行したのである。これを一々に想像し試みるまでもなく、白髭といふ神の御名がすでに適切に昔を語つてゐる。この神の分布は日本の殆と半ばにも及んでゐて、もとより武藏を以つて發源地と目することは出來ぬ上に、この名を流行させた原因かと思ふ信仰の樣式は、外蕃歸化の盛んであつた時代のものではないやうである。從つて高麗氏家傳が古い歴史のまゝといふことは、まだなか/\信をとり難い。
 但し確信と眞實が往々にして一致せぬと同じく、單純なる懷疑もまた決して學問とは言はれぬ。故に自分はすこしく歩を進めて、右の最近の現象が何事を意味するのかを、他の一側面から考へて見ようと思ふ。先づ第一に心づくのは、白髭明神の祭神がたゞに神職の家の始祖といふだけでなく、特にこれを異國の王と傳へてゐる點である。人は餘り言はぬが同じ武藏の内でもずつと東京に近く、舊新座郡の上|新倉《にひくら》には新羅王の居跡がある。昔新羅の王子京より下つて住むと稱し、その地牛蒡山といふ村の山田上原大熊の三苗字は、その隨從者の後裔と傳へてゐるが(新編武藏國風土記稿四四)、これなどは以前は單に王又は王子といつたのを、新座郡だから新羅王とした形がよく見えてゐる。日本(261)に來てから新羅王も訝しいが、殊に珍なのは近く天文の元年にも、佐渡の二見港へ上陸した新羅王があつた。玉井といふ井戸はこの王が掘らせたといふ事と、毎日々々大文字を書いては、兎角墨色が面白くないといつて反故にしてゐたといふ話とが殘つてゐる(佐渡土産中卷)。相川の高木氏その子孫と稱して家號をシイラ屋と呼んだ。島には往々にして新羅王と署名した揮毫も傳へてゐる(郷土研究二卷六號)。これだけでも誤聞輕信とは認めにくいのに、かけ離れた常陸の太田附近にも、同じく新羅王と署名をした書を持つ者が多く、これもさして古からぬ時代に、船に乘つて到著した氣狂ひのやうな人であつたといひ、その書には諺文《おんもん》かとおぼしく、讀めぬ文字が多かつたさうである(楓軒偶記三)。旗の朝鮮人ならば字でも書くより他はなかつたらうが、如何なる動機から新羅王などゝ自ら名のつたものか。これが一つの不思議である。
 長門の秋吉村には、百濟國王が漂著して勸請したと稱する八幡宮がある。その境内の一古墳をその王の臣下の靈といふが如きは、即ち八幡信仰の常の形であれば、やはりこれも日本に面した對岸なるがために、百濟と謂ふやうになつたとも思はれ得る(長門風土記)。佐渡常陸の新羅王の如きも、或ひはかういふ舊傳と後世の漂著譚とが混淆したのではあるまいか。若狹遠敷郡椎崎御垣大明神は、御垣山王とも稱して山王樣であるが、社の側の塚を王塚と名づけ、かつて異國より「王ざまの人」船に乘り渡り來つて住み、死してこの地に埋めたと傳へ、その船の屋形を取つて作つたといふ御輿があつた(若狹國官社私考)。通例人はこの類の一部の形跡ある口碑などに接すると、或ひはそのやうの事實があつたのかも知れぬ、といふ程度で今までは觀察を止めてゐた。しかし王にもせよ王子にもせよ、そのやうな漂流が折々あつた筈もなし、またそれが日本の信仰になるわけもないから、塚とか神輿とかの舊物に託してこんな話のあるのは、何かさう誤傳せられるだけの事情があつたものと、考へて見る必要があつたのである。海近い村では神社を岬の山に齋き、しからざればいはゆる御旅所を渚に構へた例が最も多い。祭の日に濱下《はまお》りなどゝ稱する儀式を行ふ風習は、隨分奧の方の里まで行はれてゐる。西部日本には殊にその海岸の一地點を宮の浦と呼び、神の最初の影向(262)にもこれから上陸されたやうに謂ふのが普通である。しかも能ふべくは神を歴史上の實在の人と考へたいのが、近世一般の傾向であつたから、そこで菅公左遷の航路が大迂回であつたり、または神功皇后が到るところに碇泊ばかりしてお出でなされたことになる。島國であつて天の神を祭つて居れば、これは殆と當然の歸結であつて、岸から沖を見れば海の末は即ち空だから、乃ち鳥船磐船の神話も起り得るのである。東日本に於いては常陸の大汝《おほな》少彦名の二柱の御神、又は伊豆の事代主神の如く、誠に思ひ設けざる示現が古い世にもあつた。これを顯はし申したのは、もとより神懸りの言であつた故に、篤信の人に取つては事實と擇ぶところはなかつた。そこで對岸が三韓であつた地方には、自然に新羅王百濟王などの名前が、託宣の中にも出て來ることになつたのではないか。高麗神渡來の話も二つはすでに聞いてゐる。その一つは伊豆山の走湯權現で、御船は先づ相州中郡の峯に著き、一旦高麓寺山の上に鎭座なされたと傳へてゐる(關東兵亂記)。これは或ひは地名によつて後に出來た説とも見られるが、越中礪波郡の高瀬神社の如きは、何のつきもないのにまた高麗より御渡りなされた神と稱し、御著きの日は七月十四日、今の御旅所のあるたび川の流れは、その折御足袋を濯がせたまふ故跡などゝいふのである(越中國神社志料)。いはゆる客神蕃神の由來には、右の如き分子も含まれてゐることを考へておかねばならぬ。
 異國神渡來の説は、古くからあつてもやはり歴史と認め難いことは、「長寛勘文」にもある熊野の王子神、播州廣峰から出たらしい牛頭天王の王子神の事、或ひは大隅正八幡の古縁起と傳へた七歳の王子とその御母の話の如き、いづれもその證據である。これは單に靈感の最も旺盛なる神が突如として顯はれ祟る場合に、これを遠い國から移り臨みたまふものと考へる傾向が、大昔から我々の中にあつたといふことを示すまでゝ、決して元をたどり乃至今風の考證をして後に、いひ傳へたものではない。殊にこれを何の某の靈とまで斷定することは、後作に非ざれば僞作である。陸前千貫松山の東平王の故跡談の如きは、話の古いだけに取り止めもないのが却つて大なる興味である。この附近の街道の傍に、昔旅の空で死んだ唐人の塚があつて、その唐人の名はトウヘイワウであつたといふことが、五百數十年(263)前の著といふ「宗久紀行」にあるので、今に學者だけがこれを忘れることが出來ない。ところがこれは一種の謎みたやうなもので、單に故郷を思慕した旅人の墓の松が、こと/”\く西に向つて靡いてゐるのを見て、文選(卷四十三)の中の名句に、東平の樹咸陽を望みて西に靡くとあるを聯想し、誰かゞこれをいつたのがその人の墓のやうに傳へられた元であつた。しかも後には塚の跡も不明になり、千貫松山の千貫松が、これも多分は同じ原因、即ち東の風が多いために、著しく西の方へ靡いてゐるのを見て、東平王の墓處を此處にある如く推測し、しかも日本の東平王とは、大野東人《おほのあづまびと》のことだとか、又は惠美朝?《ゑみのあさかり》だとかいふ類の、一種の古墳攷證をした人もあつたのである(地名辭書四〇七五頁)。これなども前代の好事家が、容易に來由の知れるやうな名をつけておいたために、幸ひにしていはゆる史蹟の中に網羅せられる事もなかつたが、塚の神を遠來の靈として祀つて居れば、程もなく貴人流寓の口碑となつて行くのは、至つて自然の變化であつたので、塚の上の古木がもと來た都の方に片靡きをするといふのも、かの西行法師の見返り松の如く、東西には數多い説明傳説の例であつた。
 「吾妻昔物語」は江戸時代の初期に、僧徒などの手になつたかと思ふ南部領の舊傳集である。その一節に次のやうな話がある。昔いつの頃か、流され王と申す御方、稗貫郡鳥谷ヶ崎の瑞興寺に入らせられ、佛壇の上に登つて本尊と竝んでおいでなされた。朕はもと四海の主なり、凡夫と居を同じうすべからざる故にこゝに坐すと仰せられた。寺の住持これを制止すると、さらに御言葉はなくて、この寺を出て寺林村の光林寺へ向はせたまふ。北野の君ヶ澤といふ邊で南の方を指したまへば、見る/\その瑞興寺は燒けた。寺林から不來方《こじかた》の福士が館に入らせられ、津輕一見の御望みあり、急ぎ送り申せと仰せられたのを、福士は物むつかしく思つたか、道をたがへて比爪《ひつめ》の方へ送り參らすと、道祖神の傍の大槻木のあるを御覽じて、これは朕が不來方の道である。福士朕を誑《たぶら》かしてあらぬ方へ送る、必ず末よかるまじと仰せられたが、果して子孫に至つて福士の家は衰へ且つ亡びた。流された王は恐らくは吉野のみかど、長慶院の御事であらうとある。この書の中には天和年間の事までは書いてある。當時すでに津輕浪岡城の舊史は完成して(264)ゐたか否か、これ未だ自分の究めざるところであるが、兎に角一方は西海の果にも、御遺跡の參考地があるといふこの大君の御コが、東北邊土の人々の仰ぎ慕ふところとなつたのも相應に古くからであつたことを知るのである。しかし單にこの類の御通過の物語のみならば、如何やうにも折り合ひの道はある。これに反して確信を切望する地方人士に取つては、第三第四の御墓の發見を傳へ聞いては、さぞ驚きもすれば嘲りもするであらうが、靜かに物を考へると、日本海に面して三韓國王の漂著談があると同じく、中世以後の天子樣で、行方なき旅にお出ましになつたのは、長慶院御一方のみであつたことが、或ひはつひに右の如き紛糾を解くべきものではなからうか。
 諸國にひろく分布してゐる王神王塚の口碑の如きは、すでにその數に於いて後代の「紹運録」などを震駭せしめてゐる。世を隔てること遠ければ遠い程、信じ易くなることは勿論であるが、しかも單に皇子とばかりでは、固有名詞を即ち歴史と思ふ人に容れられぬためか、但馬に於いては日下部氏の始祖と傳ふる孝コ天皇の御子表米親王と説き、その東隣の丹後に於いては聖コ太子の御弟とて金麿親王を稱へてゐる上に、なほ出來るならばずつと後代の史書に見えてゐる貴人を推戴せんとしてゐるのは、即ち一般に神を人の靈を祀るものとした時代の説であることを推定せしめる。例へば會津越後の山村に於いて、各村往々にして兩立せぬ舊話を傳へてゐるのは、高倉宮以仁王の御事蹟である。この宮は玉葉などを見ても、何年かのあひだ御生死が明白でなかつた故に、田舍人の物語の中に、永く御隱れがを求めたまふことも出來たのである。
 しかも無謀なる確信家たちは、單に一人の皇族では滿足し得ずに、かつてまた高倉天皇の行幸を説いた者もあつたやうであるが、今では到頭讓歩し得るだけの讓歩をして、ほゞ高倉宮説に統一せられてゐる。ところがこの類の歴史との調和が、したくともとても出來ない古傳が猶若干ある。その中の最も甚しい二三を擧げると、甲州の西山即ち南巨摩郡の奈良田附近には、いつの頃からか孝謙天皇を説いてゐる。神の御名の奈良王であつたことの外に、今一つの原因らしいものは、長いからこゝには公表せぬ。若くして御かくれなされた文武天皇も、二三の地にその御遺跡を傳(265)へてゐるが、これは簡單に大寶天王といふ神の名から誤つたので、その名が今なほ現實の信仰に生きてゐる大梵天王の轉訛であることは、自分等には殆とすこしの疑ひもない。上總君津郡の俵田、及びその附近一帶の村々には、弘文天皇の御跡を傳へ、今では鼻であしらふこともすこし憚る程に、御陵と稱する古墳などさへも指示せられてゐる。これはバルバロサ實は死せずの傳説などども少し異なり、正統の天つ日嗣が、さう凡人と同じやうな御最後を遂げたまふ道理がないといふ、一種しをらしい春秋的論理も下に含まれ、甚だ珍重すべき口碑とは思ふが、しかも何が故にかゝる東國の果の一地域にかぎつて、これまでの發達を見たかといふことは研究の値がある。また信ぜられぬの一言を以て解決すべき問題でもない。この地方で注意すべき點は、いはゆる大友皇子の話には必ず蘇我殿の名がこれに伴なひ、さらにまた田の神祭の由來談の存することである。蘇我は上總の古い郷名であるが、俵田などでは皇子の隨從に蘇我大炊といふ人物を説き、田植の時に入日を招き返したといふ話などもあつて、村によつては四月十六日又は五月一日、俵田では五月七日を、蘇我殿の田植日といつて忌んでゐる。即ち蘇我の方が一段と古い固有名詞で、それから王子の神の名が出たやうでもある。村岡氏などは大伴氏の族人この地方に蕃衍《はんえん》して、その祖神を天皇に附會したやうに辯じて居られるが、それもまた一説である。日吉神社の創立とともに説かれる近江湖南の大友與多王の如きも、漠然たることにかけては上總と弟兄するにかゝはらず、土地が偶然に前朝の宮址にも、また御最後の地にも近かつたばかりに、吉田博士の如きすらほゞこれを信ぜられんとした。しかし御諱を忌まなかつたといふことが、すでにこの傳説の新しいことを證してゐる。名古屋の市内撞木町とかに、或ひは大友皇子の古墳かともいつたオトモ塚のあつたなども(名古屋市史地理第六四七頁)、やはりその附會説の古くないことは同じである。しかもそのオトモといふ語に、何等か信仰または儀式と關係のある意味があつて、特にこの天子の口碑を發達させる縁となつたのではないかと思はせる。四國では伊豫喜多郡の粟津森神社に、王子吉良喜命及びその御妃來つて牛頭天王を祀り、後に己も祭神の中に列したまふといふ傳へがあつて、王子は大友皇子の十世の孫と舊記に見えてゐるさうだが(明治神社誌料)、十世とはあ(266)まりに謙遜であつた。次に九州でも南端大隅薩摩の數箇所に、大友皇子を祀つた社があるが、これはいづれも主神を天智天皇と傳へるために、その王子の神として御名を掲げたこと、八幡の若宮といふところから仁コ天皇|菟道稚郎子《うぢのわかいらつこ》を説くのと同じである。天智天皇は暫く御駐輦なされた筑後川右岸の朝倉の外、土佐の朝倉にも盛んに御遺跡を主張してゐるが、鹿兒島縣のはまたさらに別樣の事情があるやうで、或ひは彦火々出見尊の御事を誤り傳へたのだと、斷定した國學者さへもあつた。これもまた一種の妥協である。
 自分が何かの折に述べてみたいと思つてゐたことは、右の類のなほ多くの話が、史學者の側から受くべき待遇を受けてゐなかつたことである。ひとしく村に傳はつた無邪氣な舊話なるに、誤つて一歩を踏み越えると直ちに荒唐無稽として卻《しりぞ》けられ、中に立つ者などがあつてわづかの折り合ひをすれば、乃ちまた史書の逸文の如く尊重せられる。しかも故老の心持からいへば、二者のあひだにはこれといふ差異もなかつたのである。近松門左が「用明天皇職人鑑」、古くはまた「舞の本」の烏帽子折の中にある、山路が草苅る夜の笛の話は、もとより突如として文筆の徒の結構に浮び出るやうな事件でない。しかし何が故に儼乎たる正史の文面に背いても、天皇潜幸のおほけなき物語を傳へたかを尋ねると、やはりまた誤謬にも一定の徑路のあつたことを知るのである。用明天皇を祀り奉るといふ傳は、攝州玉造の森之宮にもあつた(葦乃若葉卷二上)。式内の苅田嶺神社に當るといふ磐城刈田郡の舊稱白鳥大明神にも、用明天皇の御后宮を齋ふと稱して、その御名は豐後と同じく玉世姫である上に、この地に來つて皇子を生ませたまふといふ話もあり、近世の學者には白鳥によつて日本武尊の誤傳だと、改訂を試みんとした人もあつたが失敗した(神社覈録卷三三)。自分の觀るところを以てすれば、用明天皇と申し奉る理由は至つて簡明で、神の第一の王子をやはり太子と喚ぶ慣習がもとあつたために、その御父の神を日本で最も有名なる太子の、御父帝なりと解したものに他ならぬ。殊に豐後の眞野長者の傳奇に於いて、長者の姫の玉世姫を、宇佐の申し兒ともいへば、八幡神の放生會の日の弓の式に、微賤の身に隱れたまふ至尊の御上を神託によつて知つたと謂ひ、一方にはまた姫嶽の由來をさへも傳へてゐるのを見(267)ると(豐後遺事卷上)、神子神巫の大神氏古傳が姫嶽から宇佐まで一貫して、久しく且つひろく物語られてゐたことも想像せられる。東日本に於いては陸中鹿角郡小豆澤の五宮權現、繼體天皇第五の王子を祀るといふ古傳が、長者のまな娘召されて御后となつたといふ點まで、豐後の例と偶合してゐる上に、金丸兄弟なる者御馬の口を取り、東の嶽に登りたまふといふ一條は、最も甲斐の黒駒の話に近く、京近くの寺々で大切にしてゐる太子の縁起が、古いながらにさらに由つて來るところあるを知らしめる。その金丸はまた丹後では金麿親王といひ、或ひは聖コ太子の御弟椀子親王の御事だなどゝも傳へるのは、また多くの固有名詞が全然出鱈目ではなかつた證據といへば證據である。
 薩摩大隅の天智天皇にも、豐後の玉世姫とよく似た玉依姫の話が傳つてゐる。これと同時に王子の神を主として祭つた場合には、或ひは牛根郷の居世《こせ》神社には欽明天皇の第一皇子といひ(地理纂考卷二一)、佐多郷の十三所大明神では忍熊王子と傳へて、いづれも神船漂著の口碑の存することは、北海岸で半島の國王を説くものに近い(三國神社傳記卷中)、忍熊王子は越前丹生郡にもあるが、十三所といふに至つてはほゞその起源の熊野權現なることを示してゐる。しかも熊野にはかぎらず越前では氣比白山、東國では香取鹿島、さては西州の阿蘇も宇佐も、王子即ち苗裔神を以て遠國を經略せられた神々は、指を屈するもなほたらず、三輪と賀茂とは申すまでもなく、播磨の荒田里、常陸の哺時臥山《ねふしやま》の如き、或ひはまた美濃の伊那波神、上總の玉前《たまさき》神等、神が御子を産ませられて神コを永く傳へたまふといふ話は、殆と日本國教の第一の特色といつてもよい。それが我が國の民心に浸染したことは、後世の佛徒もこれを無視することが出來ず、如何に謙遜なる念佛聖の宗旨でも、御一方くらゐは無名の皇族を我が本山にかくまひ申さぬはなく、思ひ掛けぬ田舍の寺にも、つねに流され王の物語は釀成せられつゝあつたのである。自分は古風土記に記された世々の天皇の御遺址、乃至は國史の綾をなす英邁なる皇子の御事蹟まで、祖先民人が信仰の美しい夢であつたとはいはぬが、少なくとも今日なほ我々を迷はしめる國々の平家谷、小松寺や惟盛後裔の舊記の類だけは、かういふ立場から一應精細なる比較研究をして後に、それがどういふ意味で、我々の史料なるかを決定してみたいと思ふのである。そつ(268)としておいて次第に忘れさせようとか、またはごく内々で手を振るとかいふ態度が、これに由つて行く/\改まつたら、それこそ武州の高麗王等が無意識に世に遺すところの大なる恩惠である。
 
(269)     魚王行乞譚
 
          一
 
 江戸は音羽町の邊に、麥飯奈良茶などを商ひする腰掛茶屋の亭主、鰻の穴釣りに妙を得て、それを道樂に日を送つてゐる者の店へ、或日一人の客來つて麥飯を食ひ、かれこれと話のついでに、漁は誰もする事ながら、穴に潜んでゐる鰻などを釣り出すのは罪の深いことだ。見受けるところ御亭主も釣が好きと見えて、釣道具がいろ/\おいてあるが、穴釣りだけは是非止めなさいと、意見して歸つて行つた。ところがその日もちやうど雨大いに降り、穴釣りには持つて來いといふ天氣なので、好きの道は是非に及ばず、やがて支度をしてどん/\橋とかへ行つて釣りをすると、如何にも大いなる一尾の鰻を獲た。悦び持ち還つてそれを例の通り料理して見ると、右鰻の腹より、麥飯多く出でけると也といふ話。
 根岸肥前守守信著はすところの「耳嚢」卷一に、これが當時の一異聞として録せられてゐる。「耳嚢」は今から百二十年ばかり前の、江戸の世間話を數多く書き集めた面白い本である。これとよく似た書物はまだ他にも幾つかあるやうだが、あの頃の江戸といふ處は、特にかういふ不思議な現象の起り易い土地であつたらうか。たゞしは、また單に筆豆の人が當時多かつたから書き殘されたといふだけで、以前もそれ以後もまた他の町村でも、平均に同じやうな奇事珍談は絶えず發生してゐたのであらうか。兩者いづれであらうとも、問題は一考の價値があると私は思ふ。我々の(270)文藝は久しく古傳實録の制御を受けて、高く翔り遠く夢みることを許されなかつた。それがいはゆる根無し草の、やゝ自由な境地に遊ばうとしてゐたかと思ふと、たちまち引き返して現實生活の、各自の小さな經驗に拘束せられる結果になつたのである。空想は畢竟するところこの島國の民に取つて、一種鐵籠中の羽ばたきに過ぎなかつたのか。はた或ひは大いに養はるべきものが、未だその機會を得ずして時を經たのであるか。日本のいはゆる浪漫文學には未來があるか否か。これを決するためにも今少しく近よつて、自分たちの民間文藝の生ひ立ちを、觀察しておく必要があるやうである。「耳嚢」の同じ條にはさらに右の話に續いて、それに似たる事ありといつて、また次のやうな話も載せてゐる。
 昔虎の御門のお堀|浚《さら》へがあつた時、その人足方を引受けたる親爺、或日うたゝ寢をしてゐると、夢ともなく一人の男がやつて來た。仲間も多勢あること故、その内の者であらうと心得、起き出して四方山の話から、堀浚への事なども話し合つた。やゝあつてその男のいふには、今度の御堀浚へでは定めて澤山の鰻が出ることであらうが、その中に長さが三尺、丸みもこれに準じた大鰻がゐたならば、それは決して殺してはいけません。その他の鰻もあまり多くは殺さぬやうにと頼んだ。それを快く受け合つてあり合せの麥飯などを食はせ、明日を約して別れたさうである。ところが次の日はこの親爺差し支へがあつて、漸く晝の頃に場所に出かけ、昨日の頼みを思ひ出して、鰻か何か大きな生き物は出なかつたか。もし出たならばそれをこの親爺にくれと云ふと、出たことは確かにすさまじく大きな鰻が出たが、もう人足たちが集まつて打ち殺してしまつたあとであつた。さうしてこれも腹を割いて見ると、食はせて歸した麥飯が現はれたので、いよ/\昨日來て頼んだのがこの鰻であつたことがわかり、その後は鰻を食ふことを止めたといふ話である。さうして筆者根岸氏はこれに對して、兩談同樣にていづれが實、いづれが虚なることを知らずと記してゐる。
 
(271)          二
 
 即ち二つの話の少なくとも一方だけは、誰かゞいはゆる換骨奪胎したことが、もう聽く人々にも認められてゐたのである。江戸にはこの頃風説の流布といふことを、殆と商賣にしてゐたかと思ふやうな人が何人もゐた。たとへば「兎園小説」やその他の隨筆に、盛んに書いてゐる常陸國藤代村の少女、八歳にして男の兒を生んだといふ話もウソであつた。その地の領主が特に家臣を遣つて確かめたところが、さういふ名前の家すらも無かつたと、鈴木桃野の「反古の裏書」には書いてある。又同じ書物には、或夜二十騎町の通りを、鳶職體の者が二人提灯を下げて、女の生首の話をしながら、通つて行くのに逢つたといふ記事がある。今市ヶ谷の燒餅坂の上で、首を前垂に包んで棄てに來た者がある。番人に咎められていづれへか持ち去つたが、門先に棄首があつては迷惑なので、はや方々の屋敷でも見張りの者を出してゐるといつた。辻番所の者もこれを聽いて、それは油斷がならぬと夜明しをして騷いだが、翌朝尋ねてみると丸ウソであつた。さうして小石川巣鴨本郷から、淺草千住王子在までも、一晩のうちにその噂が傳はつてゐたといふことである。板谷桂意といふ御繪師などは、どうかして一度このウソを流布させて見たいと思つて、永いあひだ心がけてゐたさうである。彼が或人から梅の鉢植を貰ひ、それを二三年も過ぎて後に栽ゑ換へようとすると、その根の下から五寸ばかりの眞黒な土のかたまりの如きものが現はれた。その形が魚に似てゐるので、よく見てゐると少しづゝ動き、眼口髭などもだん/\にわかり、水へ入れて見ると全くの鯉であつた。これを櫻田あたりの濠内に放したといつて、御手のものゝ見取圖が、方々に寫し傳へられたさうな。これなどは大よそ成功の部であつたといふが、しかもその思ひつきたるや、少しばかりありふれてゐたのである。盆栽の土の底に珍とすべき一物あるを知つて、わざと植木が氣に入つたやうな顔をして値をつける。さうして明日また來るといつて還つて行く。持主はなんにも知らないから、御化粧をさせた積りで別の立派な鉢へ栽ゑ換へておく。あの鉢の土はどうした。もう何處へかぶちまけ(272)てしまつた。實は欲しかつたのはこの木の根にあつたこれ/\の品物なのである。あたら稀世の珍寶を種なしにしたと、足摺りをして殘念がる。これが我邦では長崎の魚石の話としてひろく行はれ、また最近には胡商求寶潭の名の下に、石田幹之助氏などが徹底的に研究して居られる、途法もなく古い昔話の系統に屬するものであつた。江戸の落語の天才が精々苦心をして、これに新たなる衣裳を着せようとしたのが、猿と南蠻鐡との話などであつたかと思ふ。海道の、とある掛茶屋の柱に、きたない小猿が一匹繋いである。その鏈の三四尺ほどのものが、南蠻鐡であることを知つた男、一計を案じてこれを猿ぐるみ安く買ひ取らうとする。或ひは母親がこの猿に生まれかはつてゐるといふ夢を見たともいひ、もしくは死んだ我兒に似てゐると稱して泣いて見せるなどの、可笑味を添へても話すのである。結局賣り渡す段になつて茶屋の亭主が、新しい紐を持つて來て結はへ直すので、これ/\どうしてその鏈をつけておかぬかといふと、いやこれはまた次の猿を繋いで、賣らなければなりませんといふのが下げになつてゐる。しかもこれなどもまだ人によつては、かつてその頃藤澤小田原あたりの松並木の蔭に於いて、實際あつたことの樣にも考へてゐた人があるのである。
 世間話の新作といふことも愉快な事實だが、それよりも自分たちの興味を抱くのは、隱れて絲を引いて居つた傳統なるものゝ力である。ウソをつく氣ならば思ひ切つて、新機軸を出した方が自由であつたらうに、何故にかく際限なく前代の滑稽に纏綿し、忠實に唯一つの話の種を守らうとしたのであらうか。古人の根氣は幾らでもあらたに創造するにたり、後人の技能はわづかに追隨踏襲を限度としてゐたのであらうか。或ひは西洋でいふインディヤニストのやうに、根源を求めて或一團の種族の、特殊の才分に感謝して居ればよいのであらうか。乃至はまたウソにも法則があり眞理があつて、嚴重にそれに遵據したものだけが、かうして末永く我々を欺き得たのであらうか。この疑問を一通り解決してからでないと、我々は到底明日の文學を豫言することが出來ぬのである。奇妙なことではあるが我々の大事にして保存してゐた話、時々取り出して人を驚かしてゐた話には、魚に關したものがどういふものか多い。前に掲(273)げた長崎の魚石もそれであるが、別になほ一つ有名なる物をいふ魚の話がある。これがグベルナチスなどの夙に注意した笑ふ魚の系統に屬することは、比較を進めて行くうちには判つて來るやうに思ふが、餘り長くなるから他の機會まで殘しておく。差し當り自分の集めてみたいと思ふのは、飯を食つて歸つたといふ魚の話の、内外の多くの例である。現在私はまだほんのわづかしか聽いてゐない。しかしかうして話してゐると、それならば今少し捜して見ようといふ人が、おひ/\出て來るだらうといふことだけは信ずるのである。
 
          三
 
 江戸でこの話をし始めたよりずつと以前、寛保二年の序文ある「老媼茶話」といふ書に、昔蒲生飛騨守秀行會津を領する頃、これとよく似て今少しく公けなる事實があつたといふことを話してゐる。時は慶長十六年辛亥の七月、殿樣只見川の毒流しを試みたまはんとて、領内の百姓に命じて、柿澁薤山椒の皮を舂《つ》きはたいて家々より差し出させた。その折節に藤といふ山里へ、旅の僧夕暮に來り宿かり、主を喚んでこの度の毒流しの事を語り出し、有情非情に及ぶまで、命を惜しまざる者はない。承はれば當大守、明日この川に毒流しをなされる由。これ何の益ぞや。果して業報を得たまふべし。何とぞ貴殿その筋へ申し上げて止めたまへかし。これ莫大の善根なるべし。魚鼈の死骨を見たまふとて、太守の御慰みにもなるまいに、誠に入らぬことをなされると深く歎き語つた。主人も旅僧の志に感じ、御僧の御話至極ことわりながら、もはや毒流しも明日の事である。その上に我々しきの賤しい者が申し上げたとて御取り上げもありますまい。この事は先だつて御家老たちも諫言せられたれども、御承引がなかつたと聞いて居りますといつた。それから私方は御覽の通りの貧乏で、何も差し上げるべき物とてもありませぬ、侘びしくともこれを御上り下さいと言つて、柏の葉に粟の飯を盛つてその旅僧にもてなしたが、夜明けて僧は深く愁ひたる風情にて立ち去り、村ではいよ/\用意の毒類を家々より運んで來て、それを川上の方から流し込む。さうすると無數の魚鼈、死にもやらず(274)ふら/\として浮び出る中に、長さ一丈四五尺の大鰻が一匹出て取られる。その腹が餘りに太いので惜しんで割いて見ると、中には粟の飯がある。昨夜の亭主進み出でゝ仔細を語り、さては坊主に化けたのはこの大鰻であつたかといふことに歸着したのである。
 さうしてこの話には更に若干の後日談があつた。同じ秋八月二十一日、大地震山崩れがあつて會津川の下流を塞ぎ、洪水はたちまち四郡の田園を浸さうとしたのを、蒲生家の長臣町野岡野等、多くの役夫を集めて辛うじてこれを切り開いたが、山崎の湖水はこの時に出來、柳津虚空藏の舞臺もこの地震に崩れて落ち、その他塔寺の觀音堂も新宮の拜殿もみな倒れ、それから次の年の五月には太守秀行は早死をしてしまつた。これ併しながら河伯龍神の崇りなるべしと、諸人をのゝき怖れたと記してあるのである。この大事件があつてから、話が書物になる迄に百三十年ほど經つてゐる。けれども柳津の御堂は人もよく知る如く、數多の遊魚を放生した清き淵に臨んでゐる。この寺に參詣して舞臺の上から、只見川の流を見下してゐた人々には、この昔話は思ひ出す場合が多かつた筈である。さうしてまたそれが物哀れに成長して行く機會も、決して乏しくはなかつたのである。藤といふ山里もこゝからは遠くない。話は恐らくはこの虚空藏菩薩の信仰圏内に於いて發生したものなのである。
 東北は一帶に神佛の使令として、氏子が生物を尊信してゐる例が多い。八幡の鳩とか辨天の蛇とかいふのは、他の地方でもしば/\いふことであるが、奧州にはそれ以外にも、いろ/\の魚の忌がある。虚空藏を社に祀つてゐる二三の村について聞いてみると、信者が一生の間決して食はぬ魚、もし捕へたら必ず境内の池に放す魚は、いづれも鰻であつたのは偶然でないやうである。江戸で麥飯を振舞はれたといふ大鰻などは、二つとも何でもない男に化けて來てゐるのだが、或ひはこれが僧であつたといふ方が、形は一つ古いのではあるまいか。最近佐々木喜善君が採集した岩手縣の一例は、聽耳草紙といふ題で昨年九月の「三田評論」に載つてゐるが、これもまた旅僧になつてゐる。盛岡の町から近い瀧澤といふ村で、これも七月盆の頃に、若い者が集まつて臼で辛皮を舂いてゐる處へ、一人の汚ない旅(275)僧が來てそれを何にするかと訊いた。細谷地の沼さ持つて行つて打つてみるといふと、悲しさうな顔をして、さうか、その粉で揉まれたら大きな魚も小さいのも、あれなかれ〔五字傍点〕みな死ぬべ。小魚などは膳の物にもなるまいし、思ひ止まりもせといつた。若者等は口を揃へて、なにこの乞食坊主が小言をぬかせや。けふは盆の十三日だ。赤飯をけるからそれでも食らつて早く行けといふと、旅僧は何もいはずに、その小豆飯を食つて立ち去つた。それから沼へ辛皮を入れて揉むと、やがて多くの魚が浮いて來て、その中の大きな鰻の、體はごまぼろ〔四字傍点〕になつてゐるのが出た。それを捕つてつぶ切りに切つて煮ようとすると、腹の中から赤飯が出たので、先刻の旅僧は池の主であつたことを知つた。といふばかりで後の祟りの話のないのは、多分跡を弔うたことを意味するのであらう。これなども結末の方から振り返つて見ると、僧寶を敬ふべしといふ教訓が、若者等の反語の中に含まれてゐるやうな氣がする。東北の説話の主要なる運搬者は、ボサマと稱する遊行の盲法師であつたが、彼等の遺した昔話には、ボサマを輕蔑しまたは虐待して、損をしたといふ類のものが多かつた。彼等は笑つてもそんな話をしやべり、また眞面目にもいろ/\の因縁話をしたかと思はれる。それから類推して鰻の旅僧の話も、やはりまたさういふきたない旅僧が、折々このあたりをあるいてゐたことを、暗示するものでないかと私は思つてゐる。
 
          四
 
 美濃惠那郡の川上・付知《つけち》・加子母《かしも》の三ヶ村、また武儀郡板取川の谷などでも、岩魚は坊主に化けて來るものだといつてゐたさうである。さうして現に化けて來た實例が毎度あつた。惠那の山村では山稼ぎの若者ども、あたりの谷川に魚多きを見て、今日は一つ晝休みに毒揉みをして、晩の肴の魚を捕つてやらうと、朝からその支度をしてゐた。その邊でも辛皮と稱して山椒の樹の皮を使ふが、これに石灰と木灰とを混じて煎じつめ、小さな團子に丸めて水底に投ずる。わづか二粒か三粒もあれば、淵にゐる魚のかぎりはみな死ぬといふ。たゞし小便をしこむとその毒が一時に消(276)えてしまふなどゝもいつてゐる。さていよ/\用意も整うて、一同が集まつて中食をしてゐると、何處からともなく一人の僧がやつて來た。御前たちは毒揉みをするらしいが、これは無體な事だ。他のことで魚を捕るのはともあれ、毒揉みだけはするものでないと言つた。いかにも仰せの通りよくない事かも知れません、以來は止めませうと挨拶をするとかの坊主、毒揉みばかりは魚としては遁れやうもなく、誠に根絶やしとなる罪の深い所業ぢや。もうふつゝりと止めたがよいと、なほ念を入れて教訓をするので、連中も少しは薄氣味惡くなり、もう慎みませうといひながら食事をしてゐたが、その僧は直ぐにも立ち去らず、側にたゝずんでゐるので、折柄人々團子を食つてゐたのを、これ參らぬかと進めると旨さうに食べた。それから飯も出し汁も澤山にあるので、汁掛飯にして與へると少し食べにくい樣子であつたが、殘らず食べてしまつてそのうちに出て行つた。跡で一同顔を見合せ、あれはどういふ人であらう。この山奧は出家の來べき處でない。山の神の御諫めか、または弘法大師ではなからうか。どうだ、もう毒揉みは止めようではないかといふ者もあつた。しかし氣の強い人々は承知せず、山の神や天狗が怖ろしくば、始めから山稼ぎなどはせぬがよいのだ。心の臆した者はどうともせよ。おれたちばかりでやつてのけると、屈強の二三名が先に立つて、たうとうその日も毒揉みをした。果して獲物の多かつた中に、岩魚の大いさ六尺餘もあるのがまじつてゐた。坊主の意見を聽いてゐたら、このやうな魚は得られまいなどゝ、悦んで村へ持ち還つて多くの見物の前で、その大魚の料理に取りかゝると、こは如何に晝間旅僧に與へた國子を始め、飯などもそのまゝ岩魚の腹の中から現はれた。これには最前の元氣な男どもゝ、流石に氣おくれがしてその魚は食はずにしまつたさうである。
 尾張の旅行家の三好想山は、久しく惠那の山村に在勤してゐた友人の、中川某からこの話を聞いた。さうしてかね/”\岩魚は僧に化けて來るといふ言ひ傳へのあるのも、偶然ならざるを知つたと言つてゐる。それから他國をあるいてゐる際には、常に注意して同じ例の、有り無しを尋ねてみたとも記してゐる。ところが文政三年の夏の頃に、信州木曾の奈良井藪原のあたりで、人足の中に岩魚の坊主になつて來た咄を、知つてゐる者を二人見つけたさうである。(277)これも同じ御嶽山の麓ではあるが、美濃とはちやうど裏表になつたこの近くの山川で、やはり毒流しをして大岩魚を捕つたことがあつた。一尾は五尺以上、他の一尾は今少し小さくて五尺ほどあつたが、腹の中から團子が出て來たさうである。それがその日山中に於いて、見知らぬ坊主に與へた覺えのある團子なので、大いなる不思議に打たれたといふことであつた。みな/\甚だ恐れ候との咄はたしかに承り候得共、我々は少し處ちがひ候故、その魚は得見申さず候と謂つたさうである。
 勿論これは魚の腹に團子の殘つてゐるのを、見たとか見なかつたとかの問題ではないのである。我々に取つては三好惠山を始めとし、かういふ話を聽いてさもありなんと、信じ得た者がどれくらゐ、またどの時代まであつたかゞ興味ある問題となるのである。今日の生物學を出發點とすれば、人はたゞ訛言造説が世上を走る速力、もしくはこれを移植繁茂せしむべき要件を問うて止むかも知れぬが、我々の自然知識には當初今一つ、別に濃厚緻密にして系統だち且つ頗る誤つてゐたものがあつて、過去の文化はこれに導かれて、つひに今見る如き形態にまで成長してゐたのであつた。それがかういふやゝ奇なる説話の殘片によつて、少しでゝ元の力の働きを理解させてくれるとすれば、たゞ笑つてばかりも聽いてゐるわけには行かない。殊に巨大なる鰻または岩魚が、時々は人に化けて來るといふ信仰が前からあつて、それが腹中に小豆飯團子を見出したといふ珍聞を、他のいろ/\の不思議話よりもより多く信じ易いものとしたといふことは、日本人に取つては好箇の記念である。異魚の奇瑞を實驗したやうに考へる者は、必ず始め洋海のほとりに住み、または大湖の岸に往來してゐた種族でなければならぬが、それが山深く分け入つて細谷川の水源に近く、いはゆる壺中の天地に安居して後までも、なほ六尺の岩魚や一丈有半の鰻を、夢幻の中に記憶してゐたといふことは、意味の深い現象といつてよいのである。佛教が公式に輸入せられ、その几上の研究がこれほどまで進んでゐても、なほ日本の島にはこの島らしい佛教のみが發達した。あらゆる經典のどの個條でも、説明することの出來なかつた地藏や閻魔や馬頭觀音、さては弘法大師の村巡りといふ類の特殊なる言ひ傳へが、實は多數民衆の信仰の根を固(278)めてゐた。だから私などは世のいはゆる傳播論者のやうに、單なる二種族の接觸によつて、直ちに一方の持つものを他の一方に持ち運び得たと、解することを躊躇するのである。この點に關しては、説話と傳説との分界を、明らかにすることが殊に必要である。説話は文藝だから面白ければ學びもし眞似もしよう。傳説に至つては兎に角に信仰である。萬人が悉く欺かれまたは強ひられて、古きを棄てゝ新しきに移つたとは思へぬ。外國の教法がこの土に根づくために、多くの養分日光をこゝで攝取した如く、傳説もまたこれを受け容れて支持する力が、最初から内にあつたが故に、これだけの發展を遂げることが可能であつたかも知れぬのである。
 
          五
 
 たゞし國民としてそれをどの程度までに意識してゐたかは、また別箇の問題に屬する。自分等だけでは全く新しい出來事かと思ひ、或ひは極端な場合にはウソをつく積りで話された話でも、それが偶然に國民のかねて信ぜんと欲した條件に合致すれば、意外な力を以て保存せられ、傳承せられる例はいつの世にもある。誰がしたとも知れぬ傳説の部分的改訂、風土と歴史に調和させようとする新しい衣裳づけ、それからまたアタビズムに類した各地方の分布?態なども、いづれもこの隱れたる我々の趣味傾向、もしくは鑑別標準とも名づくべきものを認めなければ、これを解説することが恐らくは出來なかつたのである。殊に物語を昔々のその昔の、物蔭多き曉闇の中に留め置かずして、強ひて暴露の危險ある我々の眼前まで、持つて出て樂しまうとした態度に至つては、これを國柄とまでは言ふことが出來ずとも、少なくとも近世日本の一つの時代風であつた。支那はどうあるか知らぬが、他の多くの文明民族には、さういふ例はありさうにも思はれない。前に引用した木曾と惠那との岩魚なども、現にたゞ一人を仲に置いて、ともに山で働いてゐた者の集まり見た話になつてゐるが、次に述べようと思ふ山口縣豐浦郡瀧部村の一例の如きも、またつい近頃の事件のやうに傳へられてゐるのである。瀧部では一夏非常な大旱魃があつて、村を流れる粟野川の骨ヶ淵の水(279)を、いよ/\しやくつて田に入れるといふことに評議一決し、村民總がゝりになつて汲み上げてゐると、やはり中食の時に一人の見知らぬ坊主が遣つて來て、どうか頼むから淵の水をかへ出すのを止めてくれと言つた。必死の場合だから一同はうんといはなかつたが、その中の一人が辨當の小豆飯を分けて與へると、僧は黙つてそれを食べてしまふと、突如として骨ヶ淵の水中に飛び込んで見えなくなつた。不思議に思ひつゝもなほ水を汲んで行くと、おひ/\に澤山の川魚が捕れたが、坊主の姿はどうしても見付からず、後にその魚類を片端から料理して行くうちに、一番大きな怖ろしい鰻があつて、その腹を割いてみると先刻の小豆飯が現はれた。この鰻もまた淵の主が化けて出て來たのであつたことが、これで明らかになつたと謂つてゐる。
 鰻は他の民族にも氣味惡がつてこれを食はぬ習はしが多い。最近耳にした例は臺灣紅頭嶼の島民であるが、單にその形のぬら/\と長いためばかりでなく、別にその習性に對する精微なる觀察が、何か容易ならぬ俗信を發生せしめてゐるらしく感ぜられるが、まだ確實でないかぎりは、それを説いて蒲燒屋の怨みを買ふにも當らない。日本では盛んに食つてゐるにもかゝはらず、群の中のすぐれたるたゞ一つだけは、靈物としてしば/\その奇瑞を説かれてゐた。神が鰻に騎して年に一度來往したまふ話なども、豐後の由布院《ゆふのゐん》には傳はつてゐる。或ひは年功を經た大鰻のみは、耳を生じてゐるといふこともよく聞くが、それは生物學上に説明し得ることであらうかどうか。久しく日本に駐まつて學問をしたニコライ・ネフスキイ君は、かつて南海の諸島を歴遊して後に、こんな意見を發表した。曰く支那では虹を蛇の屬に入れてゐるが、日本各地の虹の語音は最も鰻に近い。例へば羽後の一部では虹をノギ、琉球の諸島も中央部のヌーヂ・ノージから、端々に向へばノーギ、ノーキ又はモーギ等になつてゐて、鰻を意味するウナジ・ウナギと似てゐる。蛇も本土の古語にはノロシ、ナフサがあるから、二者はもと差別しなかつたのかも知らぬが、兎に角に水底の靈恠のヌシといふ語を以て呼ばるゝものが、蛇とよく似たまた別種の大動物と想像せられてゐたのは、少なくとも基くところは鰻であつたらうといふのである。アナゴとウナギの本來は一語であつたことだけはなる程もう誰にも(280)承認せられる。宮城縣の一部には鱧《はも》をアナゴ、穴子をハモといふ海岸があることは私も知つてゐる。何にもせよNとGとの子音を用ゐて、表示しなければならぬ水中の靈物があつたことは、我々がまだ池沼の岸を耕さず、山川の淵の上に家居せざる前から、すでにこの世には知られてゐたので、それが坊主になつて近頃また出て來たのである。
 岩魚は鰻とは違つて必ずしも薄暗い淵の底にのみは居らず、時あつて淺瀬にも姿を現はすであらうが、その代りには擧動の猛烈さ、殊に老魚の眼の光の凄さを認められてゐた。鳥や獣に比べると成長したものゝ形に、非常な大小の差のあることが、恐らく魚の親方の特に畏敬せられた理由かと思ふが、よく/\の場合でないとさういふ偉大なものの目に觸れることはないために、これも常には深い淵の底に、一種の龍宮を構へてゐるものと考へたのであらう。水の神の信仰の基調をなしたものは怖畏である。人は泉の惠澤を解する前、すでに久しくその災害を體驗してゐた。水の災ひの最初のものは掠奪であつて、なかんづく、物の命の失はれた場合に、その事件の場處近く姿を見せた動物を、あらゆる水の威力の當體と信じたのではなからうか。兎に角に古く我々が畏れまた拜んだのは、水その物ではなく水の中の何物かであり、それがまた常に見る一類の動物の、想像し得る限りの大いなるもの、または強力なるものであつたのである。岩魚とよく似た川魚で恠をなすものを、紀州などではコサメといつてゐる。大蛇で知られた日高川の水域にも、コサメが僧になつた話が幾つもあつたが、生憎その參考書を人に借りられて引くことが出來ぬ。紀ノ川支流の一たる野上川の落合に近く、また同類の話があつてこれは鯉であつた。前の半分は會津只見川の昔語に近く、たゞその期日が一方は盆であり、これは五月の節供であつた。紀州の殿樣が端午の日に、大川狩をしようと企てたところ、前の晩の夜更けて、その奉行の宿へ、白衣の一老翁あつて訪ひ來ると言つてゐる。私は山崎の淵の主であります。この度の御漁には所詮殿樣の網は免れ難い。願はくば一族の小魚を助けたまへと謂つた。何故に夜の内に遠く遁れて、この厄難を避けぬのかと問ふと、私が遁れると外の小魚がみな捕はれるからと答へたといふのは、早くも近世道義律の潤色を帶びてゐるのである。しかし相手の奉行のみは依然として古風に、別れに臨んでボロソ餅といふ團子を食は(281)しめて歸してゐる。ボロソはこの邊の五月節供の晴の食物で、小麥を粒のまゝに交へた特色ある團子であつた。翌日の川狩には果して一尾の小魚もかゝらなかつたが、最後に野上川の山崎の淵に於いて、長さ六尺にも餘る大鯉を獲て、試みに體内を檢すれば昨夜のボロソ餅が出て來たといふ。これは城龍吉氏の報告によつて知つたのであるが、今でも淵の上の小倉といふ村に、鯉の森と稱する小さな社がある。當時この奇恠に感動した人々が、鯉を葬つて供養した遺跡といふさうで、即ちこれなどは明白に一つの傳説となつて保存せられてゐるのである。
 
          六
 
 最初に掲げた江戸の二つの話では、簡單に麥飯と片づけられてゐるが、これはもと必ずしも魚とその化けた人との合致を、立證する材料として借りられたものではなかつた。團子や小豆飯等の變つた食物を調製し、集まつてそれを食ふ式日、即ち古く節供と稱する改まつた日でなければ、かういふ大切な事件は起ることがないやうに、昔の人が考へてゐた名殘でもあれば、同時にまたその日の晴の膳に向ふ度ごとに、一年に一度は想ひ起す機會があつたことを意味するのでもあるが、その事を説かうとすると餘りに長くなる。たゞ一點だけこれに伴なうて述べたいことは、過去の記念物に對する我々の祖先の、敬虔なる態度である。彼等がウソを構へ出すに巧みであり、且つまたこれを守持するに頑強であつたやうな誤解は、不幸にして主としてこれに基いてゐるのであつた。古人は性靈の大いなる刺衝に遭ふごとに、文士を傭うてこれを金石に勒せしむるが如き技術は知らなかつた。だから一家一郷のあひだに於いても、永く保存し得る場處または地物を指定して、日を期し相會して當時を追念し、さらに感激を新たにしたのであつた。これが祭と名づくる公けの行爲の、根源をなすものと私などは信じてゐる。少なくとも我々の靈地はそれ/”\の傳説を持ち、また傳説のあるといふことが靈地の條件であつた。しかるに人生は決して平和なる親子孫曾孫の引き續きでなかつた。飢饉や動亂のあひだには記憶はしば/\絶え、獨り外形の最も貴げなる遺蹟のみが、累々として空しく里(282)閭に滿ちたのであつた。新たなる傳説の來つてこれに據らんとすることは自然である。しかも世上には職業としてこれを運ぶ者が、昔は今よりも遙かに多かつたのである。巫覡遊行僧の妄談は必ずしもすべて信ぜられはしない。土地に住む人たちが周圍の事情、殊に内心の表示し得ない感覺によつて、受持しまた信頼すべしとするものゝみが、再び根を下し蔓をからみ、花咲き茂ることになつたのである。我々の語り物の沿革は、文字に現はれた部分だけは、いはゆる國文學の先生も知つてゐる。以前はこの資料が概して單純であり、土地で養はれた知識經驗が、たゞ無意識に組み合はされて出たゞけであつたが、後次第にその供給の源が複雜となつて、その大部分はこれを昔通りの傳説として、乾いた海綿の水を吸ふやうに、受け取ることが出來なくなつた。しかし根本の需要はもと缺乏の補充にあつたが故に、永いあひだには比較的殘り易いものが殘つたのである。一旦京を通つて來た外國の文學が、假に一隅に於いて再び傳説となつて信ぜられてゐようとも、それを以て直ちに上古諸種族の親近を證明することが出來ぬのは勿論だが、さりとてたゞ偶然の誤謬とばかりも解することは許されぬ。恐らくはこれもまた磁石と鐡との關係であつて、種は外から來ても牽く力はかねて内に潜んでゐたのである。さうでないか否かを檢するために、少なくとも話を日本人にわかり易く、また覺え易くした手順を究めて見る必要がある。いはゆる要點の比較だけによつて、無造作に説話の一致を説くことの、徒らに大きな混迷の渦卷を起すに過ぎなかつたことは、我々はすでに例の羽衣式、また三輪式傳説などの研究と稱するものによつて、經驗させられてゐるのである。
 中古以來の輸入説話にして、まだ最初の衣裳を脱ぎ盡してゐないために、この國へ來てからの變化の痕の、幾分か尋ね易いものもだん/\ある。東北地方に行はれてゐる蚕神の由來、名馬と美姫とが婚姻して天に昇つたといふのもそれかと思つてゐるが、この大魚の飯を食つたといふ話などもそれに近い。これを土地に適用してゐる昔からの約束と繋ぎ合せ、幽かに遺つた住民の感覺と、相反撥せぬものに引き直して行くことは、隨分と面倒な仕事であつたらうと思ふが、幸ひに聽衆の多數が大まかであつたために、初期の歐羅巴の耶蘇教徒はそれに成功し、日本でも田舍巡り(283)の布教僧たちは、古くは曼陀羅や三十番神の思想により、近くはまた物々しい縁起の漢文などを以て、どうにかかうにか目的を達してゐた。今の人の目から見るとをかしな事も多い。本地物などゝ謂つたのは、途方もない外國風の奇談を述べたて、末にたゞ一句この人後に何々明神となる、實は何如來の化身であつて、衆生に物の哀れ世の理を示したまふべく、假の姿を見せられたなどゝ謂つてゐる。そんなことでも一應はまづ濟んだのである。その代りには永くは榮えなかつた。やがて忘れられまたはたゞの昔話に化し、或ひはえせ文人の小説の趣向になつた。しかしかうしてゐるうちにも、少しづゝ沈澱してこの島の土に混じ、分つべからざるに至つたものもあつた筈で、私がこれからなほいろ/\の諸國の例を集めて見ようとしてゐるのも、目的は結局なにが殘り、なにが國風と調和せずして、消え去るべき運命をもつてゐたかを知りたいからである。
 例へば三河の寶飯郡長澤村の泉龍院の鰻塚、昔大鰻が僧に化けて來て、田村將軍に射殺された。その屍を埋めたといふいひ傳へになつてゐる。腹から飯が出て來たといふ話はもう落ちてゐるが、その後この沼の水を汲む者が、みな疫病になつたとも稱して、鰻を殺したのが悔ゆべき所業であつたことだけは察せられる。毒蛇退治の他の多くの物語と同じく、それが追々と英雄及び靈佛の功績の方に移つて來たのである。實際飯を魚腹に探るの一條などは、後の耽奇派には何でもないことだが、昔の常の人の想像力には、やゝ荷が勝ち過ぎてゐたのである。次には下總銚子の白紙明神の由來譚にある鮭と蕎麥、これは同僚鈴木文四郎君などが詳しく知つてゐるが、單に一個の長者没落物語の、前景を作るために利用せられてゐた。今の松岸の煙花巷に近く、昔は垣根の長者といふ宏大なる富豪が住んでゐた。利根の流れに簗を打つて、鮭を漁してこのやうな長者にはなつたのである。或日一人の旅僧來つて、殺生の業報を説いて諫めたけれども、それを聽かずして蕎麥を食はせて歸した。これも後に大いなる鮭の魚を獲て、腹を開けば即ち蕎麥が出たといふのである。長者最愛の一人娘延命姫、その祟りを受けて生まれながらにして白髪であつた。折ふしこの土地に流寓してゐた安倍晴明を戀ひ慕ふとあつて、日高川と同系の話が傳はつてゐる。晴明は姫を欺いて、帶掛の(284)松に帶を解きかけ、何とかの濱に下駄を脱ぎおき、身を投げた如く装うて遠く遁れた。姫はその跡を逐ひ歎き悲しんで海に入り、その亡骸が漂うてこの磯邊に上つたといふのである。これだけの細かなまた美しい哀話が、かつて一たび遊女の扇拍子に乘つたものでないといふことは、恐らくは一人もこれを斷言し得る者はあるまい。しかもその結構には右の如く、彼等の與かり知らざる由緒があつたのである。だから私どもは、記録を超脱してゐる民間口承の文藝にも、やはり後つひに尋ね究め得べき興味深き沿革あることを信じてゐるのである。もつと率直にいふならば、今日殘つてゐるだけのわづかなテキストに基いて、一國の文學史を説かうとする人の迂拙を嘲けるのである。
 
          七
 
 話が長くなり過ぎたから議論の方を省略する。私の説いて見たかつた一事は、一國民の文藝技術が、終始書卷の外に於いて成育しつゝあつたといふことである。本はたゞ單なる記録者に過ぎなかつたといふことである。これより以上に、昔を問ふ途のなかつた場合にかぎつて、始めて助力をこれに求むべしといふことである。ハナシといふ日本語は古い字引の中には見つからない。これは語りごとの樣式方法の、今は昔と大いに異なつてゐることを意味するかと思ふ。さうして軍陣羈旅の殊に盛んであつた時代になつて、咄の衆なる者は世に現はれて活躍したのである。咄または噺といふ文字が新案せられ、この語のしきりに用ゐられたのが、ハナシの技術の急に進化した時代と見てよからう。技術は進んでも内容はもと外部からの、自然の供給に仰がなければならなかつた。即ち話は上手になつても話の種は乏しかつた。そこで近代の話し家同樣の、いとも熱心なる捜索と、やゝ無理なる變形とが始まつたのである。いはゆる武邊咄の流行がほゞ下火になると、御伽這子《おとぎばふこ》一流の新渡小説の燒き直しが始まつてゐる。ウソにもまた一種の社會需要があつた。世間話の種の常に缺乏して、目先を變へるために傳説縁起の境まで、あさり歩かなければならなかつたのは、驚くべく幸福なる太平無事ではあつたが、聽く者の側からいふと、自分等の生活慣習とは打ち合はない、飜(285)案の痕の生々しいものよりは遙かによかつた。昔の讀者は少なくとも自主であつた。少なくとも今よりはナショナルであつた。作者は努めてこの要求に追隨してゐたことは、曾我が三百年ものあひだ、毎年初春の芝居であつたのを見てもわかる。
 以前京都の地に今日の東京の如く、話の問屋のあつたことは大よそ疑ひのない證據がある。自分等のゆかしく思ふのは、彼處の番頭等の見本鑑定眼、それを全國的に捌いて行く品柄見立ての腕前であつた。那津《なのつ》堺津の貿易の頃から、外國の文藝の次々に舶載せられたことは、事情もこれを推測せしめ、痕跡も顯著に殘つてゐる。それを我々國民が手傳つてやつて、今では立派な國産品にしたのである。私は魚が僧になつて來て飯を食つた話の、必ずもと輸入であることを信じて、今でもいろ/\の方面を捜してゐる。「法苑珠林」などは索引がないために、ありさうに見えてまだ資料を見つけない。南方熊楠氏のやうな記憶のよい人に助けて貰ふの他はないと思つてゐる。しかし「太平廣記」の中には少なくとも二つの例があつた。次に引いておくものが即ちそれである。その一つは同書卷四百六十九に、「廣古今五行記」を引いてかう記してゐる。たゞし私の持つ本は新刻の惡本であるが、大要だけは多分ちがふまい。曰く晋安郡の民、溪を斷じて魚を取る。たちまち一人の白袷黄練の單衣を着て來り詣るあり。即ち飲饌を同じくす。饌し畢りて語りて曰ふ。明日魚を取るに、まさに大魚の甚だ異なるが最も前にあるを見ん。慎みて殺す勿れと。明日果して大魚あり。長七八丈(尺?)、逕ちに來りて網を衝く。その人即ちこれを刻(?)殺す。腹を破きて見るに、食ふところの飯ことごとくあり。その人の家死亡してほゞ盡くとある。その二も同書同卷に「朝野僉載」を引いて、唐の齋州に萬頃陂といふ處あり。魚鼈水族あらざるところ無し。感享中たちまち一僧の鉢を持して村人に乞食するあり。長者施すに蔬供を以てす。食し訖つて去る。時に漁網して一魚を得たり。長六七尺。緝鱗鏤甲錦質寶章あつて、特に常の魚に異なれり。齎して州に赴きて餉遺せんと欲するに村に至りて死す。共に剖いてこれをわかつに、腹中に於いて長者施すところの蔬食を得たり。儼然として竝びにあり。村人つひに陂中に於いて齋を設け過度(?)す。これよ(286)り陂中に水族なし。今に至つてなほ然りとある。
 この話が直接に日本へ移植せられた元の種でないことは想像し得られる。さうして現にまた二國以外の民族のあひだにも行はれてゐるのである。何か總論の書で頭を養はれた人は、必ず待ちかねてゐたやうにして、源は印度といはんとすることであらう。勿論それもまた決して不自然なる推量ではなかつた。何にしてもかういふ現實に遠い話は、非常に古く始まり且つひろく旅行をしてゐたものと見なければ、第一に人の信じたことを説明し得ないのである。しかも果して天竺の雲の彼方より、漂泊してこゝに到つたものと假定すれば、さらに日本以外の古い一國に於いても、人に説話を傳説化せしめんとする傾向あり、珍聞を我地に固着させ、努めてこれを信じ易い形にして信じようとする無意識の希望があつたことを、明瞭にした結果になつて面白いのである。我々の昔話は信じ得ないのを一つの特徴にしてゐる。ウソの最も奔放なるものならんことを、むしろ要求さへしたのである。それが流傳のあひだに何度となく、傳説を欲する人々、即ち郷土を由緒あるものにしたい念慮ある者に執へられて、あたかも歴史の一部を構成するかの如く、取り扱はれようとしてゐたのは奇異であるまいか。これをしも旅の藝術家の説話の妙に歸して、土人はたゞ均しくこれに欺かれ了りたるものと解する説には、自分一人は斷乎として與しない。發育する者には食物の自然の要求がある。さうして教へられずして養分のいづれにあるかを知つてゐる。國土山川は廣く連なり、浮説は數かぎりもなくその上を去來してゐた中に、獨りその或一つがかうして成一處と結合したといふのには、もつと特別な原因がなくてはならぬ。古人はこれを察してしかも名づくるの途を知らず、たゞ漫然として因縁と稱してゐた。我々の新たなる學問は是非ともその因縁を精確にすべきである。魚の人間に化けて飯を食つた話は、またサンチーヴの聖母論(Les Vierges Meres et les Naissances Miraculeuses; Saintives; P.116)にも一つ出てゐることを、近頃松本信廣君によつて注意せられた。ランドの安南説話傳説集(一八八六年)に、昔一人あり兒なし。或大川の落合に棲む鰻魚を捕りて食はんとす。そこに來合せたる僧あつて、切に助命を乞ふも肯ぜず。去るに臨んで佛法の式によつて調理せられた(287)無鹽の蔬食を供した。後にいよ/\この流れに毒揉みをしてその大魚を捕殺し、腹を割いて見たところが、前に法師に供したる食物がそのまゝにあつたので、僧は即ち鰻の假形なることを知つたといふ。しかもこの男が鰻を食うて程なく、妻身ごもりて男兒を産み、それが彼の家の没落の原因となつたことは、下總銚子の垣根長者と同じであつて、人はこれを鰻の亡靈の報讎に出でたものと認めたといつてゐる。鰻の精分と生誕との關係、殊にこの魚の形態が男子の或生理機關を聯想せしめることが、果して最初からのこの話の本意であつたかどうか。この問題を外國の學者とともに論ぜんことは、到底私などの趣味ではない。こゝには單に我々の捜索が、まだ/\進んでより古き民族に及び得ること、さうして必ずしも一つの大陸のあひだにはかぎらず、或ひはなほ遠く洋海の地平の外まで、分布してゐないとは極められぬことを説きたいのである。日本だけでさへもこゝにははや十に近い變化が算へ得られた。今後さらに頻々たる類例の發見に逢うても、なほ最初の一定説を固守するまでに、西洋の學者は普通には頑陋ではない。それ故にその學説の早期の受賣りは日本のために有害である。我々はその前に先づ十分に、自分の中の事實を知るべきである。
 
(288)     物言ふ魚
 
          一
 
 兒童文庫本の日本昔話集(上)に、私の採録した「泥鼈《すつぽん》の親方」といふ一語は、今から百年餘り前に、美濃國のある淨土宗の僧の著はした、「山海里」といふ書物に出てゐるものであつた。大垣の城下から一里東の中津村で、古池を替へ乾して大きな泥鼈を捕つた男、それを籠に入れ肩に負うて、町の魚屋へ賣りに行く途中、他の一つの池の塘を通ると、その池の中から大きな聲で、
  何處へ行くぞ
といふ者がある。さうすると背中の籠の中から、
  けふは大垣へ行くわい
とまた大きな聲で答へる。
  何時歸るぞ
と池の中から問へば、
  いつ迄居るものぞ、あしたはぢきに歸るわい
と背中の泥鼈は答へた。籠を負うた男は肝を消して、これは池の主だつたと見える。しかしひけ目〔三字傍点〕を見せてはならぬ(289)と、殊さらに籠の葢に氣をつけ繩を強くかけて、明日は還るといふからには殺されるのではなからう。金を取つて寺へ施物とし、我も魚屋も罪滅しをして、これをかぎりに殺生を止めようと思案して、だまつてその泥鼈を魚屋に持つて行つて賣つた。その次に町へ出た時に魚屋に行つて見ると、魚屋の亭主の曰く、あれは誠に怖ろしい泥鼈であつた。刃物がなくては人にも切り破れないやうな生洲に入れて置いたのに、いつの間にか見えなくなつてゐたと談つた(以上)。かういふ風に實際あつた事として記してゐる。説教の種本には古くから、かういふ話し方が普通であつたのである。
 
          二
 
 私がこの「山海里」の記文を選擇した理由は、竹籠を背にした村の老夫が、池を見つめて驚いて立つてゐる繪樣が、特に兒童の幻に鮮かであらうと思つたからで、この話は決してこれがたゞ一つでもなく、また代表的なものでもなかつた。大もとはむしろ魚も稀には物いふといふ古い信仰で、泥鼈はたゞその印象を新たにしたに過ぎなかつた。同じ形の昔話は日本群島以外にも、遺つてゐるか否かはまだ詳しくは知らぬが、兎に角に今は我々のあひだの目録を作つておく必要があるやうである。
 この例の一つは鳥取縣の「日野郡誌」に、多里村大字|新屋《にひや》の山奧の出來事として傳へられるもの、これもたゞの魚ではなくて蜥蜴の方に近い大山椒魚、土地の方言でハンザケといふものゝことになつてゐる。昔この谷川に長さ一間餘のハンザケがゐたのを、村の者數人がゝりで捕へて擔つて來た。それが境の峠の上まで來ると、不意に大きな聲を出して、
  行つて來るけになア
といつたので、びつくりして擔ひ棒とともに投げ棄てゝ、遁げで還つたといふ話であるが、この怪魚もやはり大垣の(290)泥鼈と同樣に、土地の方言で叫んでゐるのが面白いと思ふ。
 それよりもなほ珍しいのは、海から入つて來た一つの昔話が、かういふ深山に土着するまでの經過である。中國の奧在所にはこの例が多かつたと見えて、嶺一重を隔てた岡山縣にも似たる口碑があつた。たとへば「東作誌」の卷三に、鯰が物をいつたといふ話を二つまで載せてゐる。その一つは今の勝田郡古吉野村大字河原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵で、昔三休といふ人が六尺ばかりもある大鯰を釣り上げたことがあつた。手に下げることも出來ぬので背に負うて歸つて來ると、途中でその鯰が大聲を出して、おれは三休の家へ背を炙りに行くのだと人語したので、びつくりして元の淵へ持ち戻つて放したと傳へてゐる。多分はもつと面白い顛末であつたのを、地誌の著者が省略して載せたのであらう。
 
          三
 
 それから今一つも同じ郡の隣村、勝田村大字余野での出來事で、これはなほ一段と實話らしく話されてゐる。享保年中にこの村に道善といふ者があつて、大鯰の背に負うて尾が土の上を引きずるほどのを釣り上げた。これも途中で背の上から道善々々と我名を呼びたてるので、怖ろしくなつて路傍の古井戸の中に投込んだと稱して、その井戸がつい近頃までもあつた。二つも同じ話があるのが變だといつたところで、山一つ彼方の伯州のハンザケ、もしくはこれから列記しようとする島々の話なども、引き比べてみた上でなければ、本家爭ひは實は出來なかつたのである。私はむしろ三休だの道善だのと、特殊な固有名詞の伴なうてゐるのを將來注意すべきことのやうに思つてゐる。
 たゞし三休が背の鯰にたゞ驚かされたといふだけで、その名が三休淵の名になるのは少しをかしい。これは事によると淵の主であつた恠魚の名であるのを、後に傳へる者が釣人の名の如く解したのかも知れない。鯰に名があるのも稀有なことに相異ないが、問答でもしようといふには名が無くては濟まなかつたらう。さうして九州にはそのやうな(291)例もあるのである。大分縣直入郡柏原村の話は、さきに「民俗學」の一卷五號に、長山源雄氏がこれを報告した。この村鴫田部落の小字網掛の下に、黒太郎淵といふ淵があつた。ある時ヒロトといふ處の者が、こゝで網を打つて大きな魚を得た。それを携へて網掛の坂まで上つて來ると、不意に下の淵から、
  黒太郎公、貴公はどけえ行くんか
と、豐後方言で喚びかけた聲がした。すると網の中の魚はこれに應へて、
  ヒロトさに背の甲あぶりに行く
といつたさうで、その人も肝をつぶして、網のまゝその魚を松の木の枝のあひだにおいて遁げ還つたとある。網掛といふ坂の名はその時からといふらしいが、黒太郎淵の名も當然にそれ以前には人が知らう筈はなかつた。
 
          四
 
 それからまたずつとかけ離れて、宮城縣登米郡錦織村大字嵯峨立の、昌坊瀧《まさばうたき》の例は「登米郡史」にも見えてゐる。ちやうど岩手縣の東磐井郡|黄海《きのみ》村と接した境の山で、瀧壺は一反歩ほどの湖水になつてゐた。昔この水中に大なる鰻がゐて、時々現はれて人を驚かした。
  昌坊來るか來んかと聲すれど
  來るも來ざるも嵯峨のまさ坊
といふ歌のやうな文句があつて、それ故に瀧の名を昌坊瀧といふとの口碑はあるが、これだけでは何のことかわからない。ところが幸ひなことには「郷土研究」の一卷十二號に、鳥畑隆治君の岩手縣側の報告が出てゐる。昔この黄海村の農夫が、この瀧壺に來て大きな鰻を捕へ、それを籠の中に入れて還つて來ようとすると、
  まさ坊/\いつ歸るか
(292)といふ聲があり、その返答としてはやゝ不明であるが、
  來るか來ぬかのまさ坊だ
といつたとかで、怖れて魚を棄てゝ遁げて戻つた。それよりして瀧の名を來不來瀧と書いて、まさばう瀧といふやうになつたとある。大分記憶が損じてゐるやうだが、兎に角同じ話の分布であつたとだけはいへる。
 實際たゞこればかりの話では、永く覺えてゐられなかつたのも尤もである。早川孝太郎君が「民族」三卷五號に報告した靜岡縣の例などは、幾分か話が込入つてゐるけれども、それだけに解説がいよ/\困難で、二つ以上を比べてみないと、何のことやらちよつと把捉しかねる。遠州周智郡|水窪《みさくぼ》町大字草木桐山といふ部落には「おとばう淵」といふ淵があつた。昔この崖の上に一軒の物持があつて、淵の主と懇親を結んで水中から膳椀を借り、また金銀の融通をも受けて、それで富裕な暮しをたてゝゐた。この家へはたび/\淵の主の處から使者が來たが、蓼汁だけは嫌ひだと常にいつてゐるにもかゝはらず、ある時家人がつい忘れて、振舞の膳に蓼を添へて出したところが、一口喰つてこれはしまつたと叫んで、そのまゝ前の淵に轉がり込んで行つた。その姿を見ると今までの人間の形とは變つて、赤い腹をした大きな魚になつてゐた。さうしてだん/\に川下へ流れて行つたが、流れながら頻りに「おとばうや、おとばうや」と喚はつたといふ。それ以來この長者は淵の主との縁も切れて、たちまち家運は傾いてしまひ、今は空しくおとばう淵の名を止むるばかりになつたが、幽かながらも魚には何坊といふ子供見たやうな名をもつ者もあつたことが、こゝでも我々には推測し得られるのである。
 
          五
 
 さうして同時にまた魚が人語したといふ傳説の、日本では相應ひろい區域に亙り、またこれよりもずつと複雜な形を以て、かつて行はれてゐた時代のあつたことを、窺ひ得るやうな氣もする。實際この話はたゞの一つの傳説とし(293)て、或地に根を生やし永く殘るためにも、少しばかり簡單に失してゐる。ましてやこれが次から次へと、しば/\何人かによつて持ち運ばれたものにしては、餘りにも荷造りが不完全である。もとは恐らくは今一段と纏まつた説話であつたのが、世の流行におくれて廢れてしまひ、最も印象の深かつたこの部分だけが、ちやうどまた傳説のやうに消え殘つたものであらう。さうでなかつたならば單にこれだけの話が、かやうに數多く分布してゐる筈はないのである。
 この私の想像が當つてゐるか否かは、今後の採集がおひ/\にこれを決してくれると思ふから、今はたゞ心づいてゐる事實だけを列擧するにとゞめておくが、寶暦二年(一七五一)の序文ある「裏見寒話」の末の卷にも、すでにまた一つの同じ例を載録してゐる。甲州は奧逸見《おくへんみ》の山間の古池で、ある夏の日の午後に土地の者が釣をすると、その日にかぎつて夕方まで一尾も竿にかゝらず、もう歸らうとしてゐる頃になつて、色の白い眼のきら/\と光つた見なれぬ魚を釣り上げた。それをびく〔二字傍点〕に入れてはや/”\還つて來ると、一町半も離れて後の池の方から、しきりにその名を喚ぶ者があつたといふのは、釣人の名を呼んだといふのであらう。何となく物凄く覺えて家に來てその魚を大盥に入れ、上からよく葢をして寢についたが、その夜夢の中に人來つて憤怒の相を現はし、我は池の神なり、汝何が故に我が眷屬を捕へ苦しむるぞといつて怒つた。さうして翌朝起きて盥を見ると、あれ程嚴重に葢をして大石を載せておいたのに、どうして出たものかその魚の姿は見えなかつたと話してゐる。これなども説話としては首尾の照應もなく、何か或一つの話の忘れ殘りの如き感あることは同じだが、それでも「一ぴき魚」といひ神の使はしめといふところに、多少の結構の痕を存してゐる。かういふ言ひ傳へが次々と今幾つか出て來れば、以前どういふ形を以てこれが流布してゐたかの、見當だけはつくことゝ思ふ。
 
(294)         六
 
 それから今度はずつと土地をかへて、これが沖繩縣の方ではどうなつてゐるかと見ると、前年故佐喜眞興英君の集めた南島説話の中に、中頭郡美里村大字古謝の出來事として、次のやうな口碑が採録せられてゐる。昔この村に一人の鹽燒男があつて、海水を汲みに出て一尾の魚を捕り、それを籠に入れて我家の軒につるしておいた。するとやがてその籠の中から「一波寄するか二波寄するか三波寄するか」といふ聲がする。不思議に思つて覗いて見ても、魚より他には何物もゐない。こんな魚は放す方がよいと思つて家を出ると、途中に知り合ひの無頼漢に出逢つた。放すよりは私にくれといつて、持つて行つて料理をして食べようとしてゐると、ちやうどその時に大海嘯がやつて來て、近隣の人畜こと/”\く押し流してしまつたといふのである。
 この話も傳承者の幾階段を重ねて、よほど破損したらしい形跡はあるが、それでも若干はもとの姿を髣髴することが出來る。即ち物をいふ靈魚を害しようとした者が大津波によつて罰せられたといふことは、同時に一方のこれを放さうとした者の助命を意味し、この鹽燒男が生き殘つた故に、怖ろしい誡めの話は後に傳はつたことになつてゐるのである。話がこれまで來れば類型は決して乏しくない。奧州でよくいふ黄金坑埋没の話、もしくは木曾川流域に數多い「やろか水」の洪水などの如く、小賢しく且つ不注意なる者は災ひを受けて死に、愚直にして靈異を畏るゝ者が助かつてその見聞を述べたといふのは、昔話の最も普通の、しかも由緒ある一つの樣式であつた。
 南の島々の古くからの災害として、いはゆるシガリナミ(海嘯)の記憶の最も印象強く殘つてゐるのは自然であるが、これがたゞわづか一尾の魚を尊敬するかせぬかによつて、さういふ怖ろしい結果を生じた如く傳へるのは、考へて見れば不思議なことである。尋ねたら必ず他の多くの離れにもあることゝ思ふが、この沖繩本島の珍しい例なども、早くから決して孤立のものではなかつた。寛延元年(一七四八)に出來た「宮古島舊史」といふ記録は、當時この群島(295)の稗田阿禮たちによつて、口で傳へてゐたアヤゴを國文にしたものらしく、中にも魚が物いうた一つの話が、今少し具體的に記されてゐる。見ぬ人が多からうと思つてこれだけは原文のまゝ轉載すると、
  むかし伊良部《いらぶ》島の内、下地《しもぢ》といふ村ありけり。ある男漁に出でゝヨナタマといふ魚を釣る。この魚は人面魚體にしてよくものいふ魚となり。漁師思ふやう、かゝる珍しきものなれば、明日いづれも參會して賞翫せんとて、炭を起してあぶりこにのせて乾かしけり。その夜人靜まりて後、隣家に或童子俄かに啼きをらび、伊良部村へいなんといふ。夜中なればその母いろ/\これをすかせども止まず。泣き叫ぶこといよ/\切なり。母もすべきやうなく、子を抱きて外へ出でたれば、母にひしと抱きつきわなゝきふるふ。母も恠異の思ひをなすところに、遙かに聲を揚げて(沖の方より?)
    ヨナタマ/\、何とて遲く歸るぞ
といふ。隣家に乾かされしヨナタマの曰く、
    われ今あら炭の上に載せられ炙り乾かさるゝこと半夜に及べり、早く犀《さい》をやりて迎へさせよ
と。こゝに母子は身の毛よだつて、急ぎ伊良部村にかへる。人々あやしみて、何とて夜深く來ると問ふ。母しか/”\と答へて、翌朝下地村へ立ちかへりしに、村中殘らず洗ひ盡されて失せたり。今に至りてその村の跡形はあれども村立はなくなりにけり。かの母子いかなる隱コありけるにや。かゝる急難を奇特にのがれしこそめづらしけれ。
 
          七
 
 宮古郡伊良部島の下地には、現在はすでにまた村が出來てゐる。さうしてこの仲宗根氏の宮古島舊史の存在を、全く知らぬ人が多いのである。彼等の耳で傳へてゐる大昔のシガリナミは、これを如何なる原因に基くものと傳へてゐ(296)るだらうか。必ずしもこの一部落でなくても、小さな島々にはどこにもこの類の話は遺つてゐることであらう。それを何と無く聽き集めてみることが恐らくはこの一節の説話の、巧まざる註釋を供與することゝ思ふ。
 一つの觀點は物をいふ魚の名を、この島ではヨナタマといつてゐたことである。ヨナはイナともウナともなつて、今も國内の各地に存する海を意味する古語、多分はウミといふ語の子音轉換であらうといふことは、前に「風位考資料」のイナサの條に於いて説いたことがある。それがもし誤りでないならばヨナタマは海靈、即ち國魂郡魂と同樣に海の神といふことになるのである。知らずして海の神を燒いて食はうとしたものが、村を擧げて海嘯の罰を受けたといふ語り事だとすれば、單なる昔話といふ以上に、もとは神聖なる神話であつたかも知れぬ。それが信仰の零落に伴なうて、豐後では「背の甲をあぶりに行く」といふ話にまでなつてゐたのであつた。もしその中問の過程を示す伊良部の記録が傳はらなかつたならば、これはたゞ農民空想の奇異なる一例としか考へられなかつたであらう。
 次に幼兒の無意識の擧動によつて、母と子のたゞ二人が命を全うしたといふことも、何かまた信仰上の意味が含まれてゐたのかも知れぬ。といふわけは我邦の海の神は、夙に少童の文字を以て示されてゐた如く、しば/\人間の世に向つて叡智なる若子を送つてゐたからである。しかしこの點を深く説かうとするのには、今はまだ材料がたりない。單に後年さういふ發見をする學者の出づべきことを、こゝでは試みに豫言しておくまでゝある。
 それから最後に日本以外の民族の傳承が、將來どういふ風な光をこの問題の上に投げるであらうかを考へて見ると、我々がまだ多くを知つて居らぬといふのみで、魚が物言つた話はおひ/\に出て來るらしいのである。近頃讀んで見たジェデオン・ユエの「民間説話論」にグリム童話集の第五十五篇A、「ハンスの馬鹿」といふ話の各國の類型を比較して、その最も古い形といふものを復原してゐるが、この愚か者が海に行つて異魚を釣り、その魚が物を言つて我が命を宥してもらふ代りに、願ひごとの常に叶ふ力をこの男に授けたことになつてゐる。出處は示してないがいづれかの國に、さういふ話し方をする實例があつたのである。私の想像では我邦の説話に於けるヨナタマも、一方に燒いて(297)食はうとする侵犯者を嚴罰したと同時に、他方彼に對して敬虔であり從順であつた者に、重大なる福コを附與するといつた明るい方面があつたために、かやうにひろく東北の山の中まで、「物言ふ魚」の破片を散布することになつたのではなかつたか。もしさうであつたならば、今に何處からかその證跡は出て來る。さういつまでも私の假定説を、空しく遊ばせておくやうなことはあるまいと思ふ。
 
(298)     餅白鳥に化する話
 
          一
 
 正月が來るたびに、いつも思ひ出すばかりでまだ根源は知らぬのだが、伏見の稻荷樣の一番古い記録に、餅が鳥になつて飛び去つたといふ話がある。
はたのなかついへのいみきはたのきみいろぐ
 都が山城國に遷された以前、今の稻荷山の麓の里に秦中家忌寸《》の一族が住んでゐた。その家の先祖|秦公伊呂具《》の時に、あつた事としてその話は傳へられる。伊呂具富裕にして粟米充ち溢るゝまゝに、餅を用ひて的としたところ、その餅白き鳥に化して飛び翔りて山の峰に居り、其處に稻が成生した。社の名もこれに由つて起り、さらに山を隔てゝ北の方、鳥部野鳥部山の鳥部といふ地名も、その餅の鳥が飛んで來て、とまつた森の跡だからといふのであつた。この話の永く世に傳はつた理由、即ちこの物語が古代の人々に供した繪樣は、今我々がこれに由つて感受するものと、大分の相異があつたのでないかと思ふ。いはゆる白い鳥の何鳥であつたか、何故に不思議がその鳥の形を假りて、よく人間の驚歎を深くし得たかといふことは、すでに日本武尊の御墓作りの一條に於いても、決しかねた問題であつたが、この場合は殊にその點がはつきりせぬと、昔の心持をたどりにくいやうな感じがする。
 福島縣の苅田嶺神社は、近世の學者によつて、日本武尊を祀ると説明せられてゐるが、土地の口碑を聽けば明白に滿能長者同系の物語で、天子の御寵愛を受けた玉世姫と、その王子の尊靈とを神に仰いだものである。さうしてこの(299)神の御使はしめの白い鳥は、ハクテウ即ちSwanであつた。豐後の田野長者の故跡と稱する山間の草原には、以前は年ごとに二羽の鶴來り遊び、それを長者が飼つてゐた鶴だと謂うたために、或ひは「豐後風土記」の中にもある同じ話、即ち餅が化してなつたといふ白い鳥を、鶴ではないかと思ふ人もあるかも知れぬが、勿論これによつて即斷をすることは出來ぬのである。
 「豐後風土記」の餅白鳥に化する物語は、これを繰返す必要もないほど、最初に擧げた「山城風土記」の逸文とよく似てゐる。この二つの風土記は文體から判斷しても、出來た年代に若干の差があるらしいから、一方の話がひろく世に行はれて、後に九州の方でもこれを説くに至つたのかも知れぬが、それにしてはあまりに根強く、新しい風土に適應し、且つ年を追うて成長してゐる。或ひは今一つ古い時代から、この民族に持ち傳へた空想が、何ぞの折にはかうしてそちこちに、芽を吹き花を咲かせる習はしであつたのではないか。
 二國の物語の最も著しい差別は、山城の方では秦氏の子孫再び神に宥されて故の地に繁榮し、自ら家の奇瑞を述べてゐるに反して、豐後に於いては其田野は永く荒廢し、たま/\その地を過ぐる者が、いろ/\に聞き傳へ語り繼いだ昔だけが遺つてゐる點である。田野とは田に似たる荒野といふ意味でつけられた地名であつた。今の玖珠郡|飯田《はんだ》村の中に、千町牟田と稱する廣いムタがあるのを、いはゆる田野長者の耕地の跡としてあるが、果して風土記以來の田野はこれなりや、まだ少しばかりの疑ひはある。風土記には速見都田野里とあるのに、右の千町牟田は分水嶺を越えてさらに西、筑後川の水系に屬する玖珠郡の地であり、かつ速見郡の方面にも、南北由布村の如く、田野とも名づくべきムタ即ち水濕の地はいくらもあるからである。
 ムタは關東東北でヤチといひ、中部ではクゴともフケとも稱して、排水のむつかしい平衍なる濕地のことである。海川に近い低地であるならば、何としてなりとも水田に開くが、山中にあつては温度その他の條件が具備せず、打ち棄てゝおかれて禾本科の雜草が野生する故に、地面を大切に思ふ農民たちは、これを見るごとに心を動かし、神の田(300)または天狗の田などゝ名づけて、いろ/\の奇異を附會した例が多い。豐後の田野でもそれに近い事情の下に、ありもしない大昔の長者を想像するやうになつたのであらう。千町牟田なども「豐日誌」の記事によれば、今も畦畝、儼として存し、春夏は草離々として畝ごとに色を異にす、或ひは蒼く或ひは赤く、禾苗《くわべう》早晩の  状をなすとあるのである。餅が白い鳥になつて飛んでいつたといふ昔話に、似つかはしい舞臺であつた。
 
          二
 
 長者の榮華窮まり福分盡きて、一朝にして没落したといふ物語は、琵琶でも説經でも何度となく繰返されたる、いとやす/\とした題目であるにかゝはらず、律儀なる昔の人はその空想のよりどころを求めてゐた。因幡の湖山《こやま》の池は、砂が造つたたゞの潟湖であるが、これあるがために湖山の長者は、昔あの岸の丘に住んだことになり、入日を招き返した天罰によつて、數千町の美田がこと/”\く水の底になつた。飛騨の白川の中流には姫子松の林を取りめぐらした大薙があつた。大昔の歸雲《かへりぐも》城は、その絶壁の下に埋まつてゐると傳へられる。その他津輕の十三潟、信州青木の三湖の如き、金碧を以て莊嚴した七堂伽藍が、門前の町屋とともに覆没し、時あつて大釣鐘の龍頭を、晴れたる浪の底に見るといふ類は、いづれも自然の風光を力杖として、よろぼひ立つてゐる忘却の翁である。荒涼たる田野の千町牟田のまん中へ、かつては朝日長者の名國内に響き渡り、大野の滿能長者の花聟となつて、凡そ人生の歡喜のかぎりを見極めたほどの大分限者をつれて來たのも、或ひはこの水草のあひだに靜かに遊んでゐた若干の白い鳥ではなかつたか。かういふ風に考へて行くと、稻荷の三つの御山の頂上に近い平地に、最初は稻に似た或種の植物の繁茂する靈地があつて、これへ往來する白い鳥の姿を、高い國からの御使の如くに感じた人々が、やがては餅と鳥との昔話を拾ひ上げて、これを我|家文《いへぶみ》の綾に織り込んだのではなかつたかとも思はれる。
 「豐後風土記」には田野里の口碑の他に、また次のやうな咄も採録せられてある。豐國直《とよのくにのあたへ》の先祖|菟名手《うなて》なる者、始(301)めてこの國に使して、豐前仲津郡中臣村に往き到り、一夜の宿を借りたるに、次の日の曙にたちまち白き鳥の群あり、北より飛び來つてこの村に集まる。僕を遣りて看せしむるにその鳥化して餅となるとある。それが片時にしてさらに化して芋草千株となる。株葉冬も榮えたりとあつて、南國の土民に用だつべき作物が、白鳥の神異に伴なはれて容易に見つかつたことは、なる程重要なる語り草であつた。しかしその中間にほんの少しのあひだ、一旦餅になつてゐたといふ點に不思議がある。事によるとこの時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、もしくは餅は往々にして飛び去ることありといふやうな考へが、何となく挾まつてゐたのかも知れぬ。
 私はまじめに右の如く思つてゐるのである。近世の子守歌にも、「縁があるならば飛んで來い牡丹餅」などゝ、笑ひながらだが歌つてゐた。手毬唄のしよんがえ婆さまにも、餅にこがれて逐つて行つたと云ふやうな歌がある。童話の鼠の淨土などにも、正直爺を團子が導いて隱里へつれて行くとあつた。鎌倉期の初めに成つたといふ「塵袋」の卷九には、餅の白い鳥に化した話を、豐後の玖珠郡の事件として載せてゐる。古風土記を見て書いたらうと謂はれてゐるが、果してどうであつたらうか。今ある「豐後風土記」とは、單に郡の名がちがうてゐるのみならず、全體に於いて記事がむしろ後世の言ひ傳への方に近い。しかしその中でも、何故に餅が飛び去つて長者の運が傾いたかの説明だけは、少なくともあの時代の人の考へ方と見てよいと思ふ。即ち餅を以て的とするなどは、たゞの奢りの沙汰として神の憎しみを受けるのみでない。餅は元來福の源である故に、これとともに福神が飛び去つたのだといつてゐる。「塵袋」の著者の時代には、福引といふのは餅を二人で引合ふ事であつた。恐らくは今でも若い人たちが戯れに煎餅をもつてするやうに、餅の兩端をとらへて引合ひ捻ぢ合ひ、結局二つに割れたとき大きい方を得た者を勝とし、勝てばその年は福が多いなどゝ謂つたものだらう。
 餅をフクダと呼んだのは、燒けばふくれるからの名だらうと思ふが、しかもその音の耳に快きをめでゝ、次第にこれを福の物と考へるに至つたのも、中世以來の習はしであつた。それがまた新たなる興味を刺戟して、こんなたわい(302)もない昔話を、ほゞ元の形で今日まで保存し得たのは、殊勝なる事であつた。常に史料の乏少を悲しむ前代生活の研究者たちは、この類の機會を輕んじてはならぬのである。
 
          三
 
 そこでこの餅が化して飛び立つたといふ白い鳥の、白鷺ではなかつたかと云ふことを、少しばかり考へてみる。宮古島では荷川取村の百姓、湧川《わくがは》のまさりやなる者、かつて釣に出でゝ大なる?の魚を娶つたことがあつた。後日再び海の滸《ほとり》に遊ぶとき、自らその子なりと名乘る小兒三人、彼を誘ひて海の宮に到りその母に會はしめたるに、氣高い美女であつた。樂しみ留まること三日三夜、別れに臨んで贈るに一箇の瑠璃の壺を以てす。これを携へて里に還れば、すでに人間の三年三月を過ぎてゐた。壺の中には味甘露の如き酒があつて、呑めども盡ることなく、一家これを服して長壽となる。島中の人これを聞き傳へ、壺を見に來る者引きも切らず、主人あまり煩はしさに虚誕《うそ》を吐いて、この神酒はいつも同じ味で、もう飲みたくもないのだといふや否、たちまちにして白鳥に化して飛び去る。群衆の者これを見て、いづれも地に伏して我方へ飛んで來よと招いたが、鳥は東の方へ翔つて、宮國村のしかほやといふ家の庭の木に下りて姿を消したとある。それから後の事は傳はらぬが、勿論まさりやは次第に貧しく、しかほやは新たに富んだことは確かであつたらう。さうして沖繩の島に於いては、鷺を神の使とした話が別に傳はつてゐるのである。
 例へば「宇治拾遺物語」の、博打の聟入と同系の昔話で、我々の中では「隣の禰太郎を聟に取れ」といふのが、南の島では次良《じら》の聟入の物語として、民間にもてはやされてゐた。次良は長者の信心につけ込み、夜潜かに一羽の白鷺を抱へて、庭の木の茂みに攀ぢ登り、娘の聟に次良を迎へよと、神の作り聲をして命令した後に、そつとその鷺を放したので、うま/\と長者は騙されてしまつた。即ち神が鷺の姿で天に還りたまふと信じてゐたのである。
 鷺を靈物とする信仰は、舊日本の方でも例が多かつた。攝津の住吉、越前の氣比《けひ》、ともにこの鳥を神使としたまひ、(303)諏訪にも白山にも鷺を祀つた末社があつた。尾張の熱田でも同じことで、神領の民は鷺を白鳥と呼んで、忌み且つ崇んだ。信長が桶狹間に義元を討ち取つた時も、豫て祈願の效空しからず、白鳥ありて社殿を飛び出し、今川の陣場に近づき森の樹に羽を休めた。その故迹と稱して鷺ヶ森の地あり、古木は今枯れて石塚に記念の碑が立つてゐる。關東その他にはこれ等の大社とは獨立して、なほ無數の鷺の森明神或ひは鷺ノ宮がある。祭神も信仰も、今では區々になつてゐるだらうが、初めてこの鳥を齋き祀つた人の心持は、さう/\變つてゐたものとは思はれぬ。
 馬琴の「化競丑滿鐘」などを見ると、白鷺は化物界の家老格にたてられてゐる。鷺が化けたといふ話は隨分聞くが、それは古くから言ふ事ではないらしい。一つには聲の怖ろしい五位鷺との混同もあらうし、一つには苗代をよく荒らして追はれることゝ、人間ならば誠に感心せぬ眼つきをしてゐることなどが、この説を助けたものであらう。
 しかもその擧勤がいつも落ちついてゐて、來往の場所や食物を求める習性に特色があり、殊にその形と羽の色の著しいために、宵曉の神の杜の出入が、つとに農民たちの注意を惹き、時として異常の場所に集まることなどがあれば、何かの兆候として警戒せられたのが、轉じて一種の惡評にもなつたのであらう。豐後の人たちは例の餅がなつたといふ白い鳥を、白鷺のことゝきめてゐたらしい。三浦梅園の「豐後事跡考」には餅白鷺と化して飛んで大分郡河南の庄内に止ると記し、「豐薩軍記」には白鷺は朝日長者の福神にてありけるが、飛び去りたまひて後は長者の威光次第に減少したと述べてゐる。この國の長者譚には、宇佐信仰の影響が最も強く、八幡は本來農作の愛護者であつて、今も諸國の田植歌の中に、白鷺のとまりはどこぞ八幡山《やはたやま》云々といふのが、盛んに歌はれてゐることを考へると、いはゆる田野の荒れたる水草原に立つて、行きて歸らぬ神の御姿を慕うたのも、誠に無邪氣な昔人の心であつたとうなづかれる。武藏の府中の六所樣では、今でも五月五日の大祭の翌日に、御田植と名づけて神田の中で祭の式がある。楓の若葉を以て飾つた傘鉾の上に、白鷺の形を造り添へて田の邊に建て、これを囘つて古風な歌を唱へ、太鼓を打つて囃すといふ。即ち神の森から神の田へ、曉に出ては夕に還るこの鳥の習慣を、やはり神靈の去來の如く、關東地方の人々も感(304)じてゐたらしいのである。
 
          四
 
 正月三箇日もしくは松の内のあひだ、雜煮を食はぬ家、或ひは餅をついてはならぬといふ一族は、思ひのほか多いものである。その理由は地方ごとに區々で、もう不明に歸したものも多く、問題の興味あるにかゝはらず、未だ眞の原因を知ることが出來ぬが、その中で石見那賀郡川波村大字|波子《はし》の一例は、ちやうど私の話に關係がある。
 「石見外記」の記すところによれば、昔この村に富豪あり、その家の息子、正月に破魔弓の遊びをする折節、的がなかつたので、歳コの神に供へてあつた鏡餅を廻して射たところが、不思議なるかなその鏃に血がついた。この神罰であつたか、その年からして餅を搗けばいつも凶變があるので、つひに正月に餅をせぬことになつた。この一族を的場黨と呼ぶさうだ云々。
 この話が山城か豐後の風土記を見てから出來たものであつたら、白い鳥を略してしまふわけはない。さうするとずつと古くからこの類の口碑が、ひろく諸國に保存せられてゐたのである。破魔弓を射たといふ點も古い記録にはないが、「豐後事跡考」の出來た頃には、あの土地でもさういつてゐた。田野長者一千町の田あり、一人の姫に聟を迎へたが、正月破魔弓の遊びに興のあまり、鏡餅を投げてこれを射たれば、その餅白鷺に化して飛んでしまつたとある。
 ハマはごく近い頃までは初春の遊戯であつた。關東以北の田舍に於いては、弓で射るかはりに樹の枝竹の竿などを以て轉がるハマをけし止める。その方法に二通りあつて、空中で拂ひ落さうとするのと、路上を轉がして横合から抑へるものとある。東京の近くでは路の上の遊びだが、雪の深い國では空中を飛ばすので、アイヌの中にまで行はれてゐた。京都以西に於いては、小弓で射留めるのが普通であつた。古い畫などに見えてゐるのは、少年が弓を張つて路の側に並び、やゝ高い處からハマを轉がし、はずみを以て飛び下るところを、横合からハマの穴を射貫かうとしたも(305)のらしい。武藝の練習にはなつたが、すこぶる危險な遊戯で、折々は生醉の禮者の足元を射たりするので、都市に於て先づ禁ぜられ、次第に田舍でも破魔弓ばかりが飾り物として殘ることになつた。しかもその一つ前に遡れば、決して少年ばかりの遊びでなかつたことが、全國各地の村境、或ひは神社に因ある土地の名に、濱射場といふものが至つて多いことから推測せられる。ちやうど諸國の神社の春の祭に、歩射《ぶしや》といひまたは百手《もゝて》などゝ名づけて、的射の勝負を爭つたと同じく、一年の縁喜を祝ひ、請願の成就を卜するために、成長したる氏子も精進して、晴の藝を試みる習ひであり、或ひはこの役を勤めるために特定の家筋などもあつたかと思はれる。
 ハマは或ひは?の字を書いて金屬の輪をまはしたものもある。關東では車戸の車の如く、樫の木で作つた徑五六寸の圓盤を用ひ、これをハンマ又はハマコロなどゝ呼んでゐる。その他に東北では簡單に柳の枝などをわがね、或ひは大和の山村や備後では、繩を圓座のやうに卷いて釜敷の如き物を作り用ゐ、または藤蔓を圓く卷いてハマとした例もある。土佐の高知などでは圓盤でなく、小提燈の形にして紙を張り、武家の青年がこれを飛ばして射藝を習つたといふ話もある。肥後の五箇山でも樹枝を以て球形のものを作つて高く抛り上げ、鑓を以て突き留める遊戯があつて、猿を捕る練習だといひ、またこれに似た風習が高砂族のあひだにもあつて、非常に興味の多い競技としてある。稻荷の秦氏の餅を的としたのも今風に射?《あづち》に置き又は樹の枝に吊るしたのではなく、かうして高く投げてゐるうちに、ふいと鳥になつて飛んでしまつたから驚いたのであるらしい。石見の餅を搗かぬ一族が、的場黨と呼ばれてゐることは、また次のやうな想像をも可能にする。彼等の祖先はむしろ餅をハマとして、弓占をする職業であつた。それが何かの異變があつてから、この式を中止してその話だけが殘つた。さうして他の多くの餅を搗かぬ家々と同じく、この家に於いては餅は神聖の物なる故に最初から忌んでゐたのであらう。山城豐後二國の類例も、事によると白い鳥の奇瑞によつて、餅を射る舊い儀式を中止しただけではなかつたか。それをたゞ奢りの沙汰なるが故に神の罰を受けたとする説明の如きは、的射の行事の至つて神秘なものであることを忘れてしまつた外國風の考へ方のやうにも感ぜられる。
 
(306)     ダイダラ坊の足跡
 
       巨人來往の衝
 
 東京市は我日本の巨人傳説の一箇の中心地といふことが出來る。我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去つた巨人のあることを想像してゐたのである。而うして何人が記憶してゐたのかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であつた。
 二百五十年前の著書「紫の一本」によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある。大多《だいだ》ぼつちが架けたる橋のよしいひ傳ふ云々とある。即ち現在の京王電車線、代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としては甚だ振はぬものである。しかし村の名の代田《だいた》は偶然でないと思ふ上に、現に大きな足跡が殘つてゐるのだから爭はれぬ。
 私は到底その舊跡に對して冷淡であり得なかつた。七年前に役人を罷めて氣樂になつたとき、早速日を卜してこれを尋ねて見たのである。ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があつた。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が藥研《やげん》になつて居り、踵の處まで下るとわづかな平地に、小さな堂(307)が建つてその傍に涌き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。
 あの頃發行せられた武藏野會の雜誌には、さらにこの隣村の駒澤村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあつた。それを讀んでゐた自分はこの日さらに地圖をたどりつゝ、そちらに向つて巡禮を續けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小學校と村社との中程にあつた。これも道路のすぐ左に接して、ほゞ同じくらゐの窪みであつたが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であつた。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれてゐる。それから第三のものはもう小字の名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなほ七八町も隔てた雜木林のあひだであつた。附近にいはゆる文化住宅が建たうとして、盛んに土工をしてゐたから、或ひはすでに湮滅したかも知れぬ。これは周圍の林地よりわづか低い沼地であつて、自分が見た時にもはや足跡に似た點はちつとも無く、住民は新地主で、尋ねても言ひ傳へを知らなかつた。さうして物ずきないはゆる史蹟保存も、流石に手をつけてはゐなかつたやうである。
 代田と駒澤とは足の向いた方が一致せず、おまけにみな東京を後にしてゐるが、これによつて巨人の通つた路筋を考へてみることは出來ぬ。地下水の露頭のために土を流した場處が、通例かういふ足形窪を作るものならば、武藏野は水源が西北にある故に、ダイダラ坊はいつでも海の方または大川の方から、奧地に向いて濶歩したことになるわけである。江戸には諸國よりいろ/\の人が來て住んで、近世始めて開けた原野が多からうと思ふのに、何時の間に處々の郊外に、かうして大昔の物語を傳へたものか。自分たちはこれを單なる不思議と驚いてしまはずに、今すこししんみり〔四字傍点〕と考へて見たいと思つてゐる。
 たゞ不幸なことには多くの農民の傳説が、江戸の筆豆にも採録せられぬうちに消えてしまつた。百年餘り前のことである。小石川小日向臺の本法寺といふ門徒寺の隱居に、十方菴敬順といふ煎茶のすきな老僧があつた。たゝみ焜爐(308)といふ物を茶道具と一緒に携帶して、日返りに田舍へ出かけて、方々の林の陰に行つて茶を飲み、野らに働く人たちを捉へて話を聽いた。「遊歴雜記」と題するこの坊さんの見聞録が、「江戸叢書」の一部として出版せられてゐる。それを捜してみるとほんの一つだけ、王子の豐島の渡しの少し手前の畑の中に、ダイダボッチの塚といふものがあつたことを誌してある。こゝでも土地の字は代田と謂ひ、巨人がこの邊を歩いた時、その草鞋にくつゝいてゐた砂が落ちこぼれて、この塚になつたと村の人たちが彼に話したとある。その場は今どこにあり、その口碑を談つた農夫の家は、どうなつてしまつたかも尋ねやうはないが、兎に角に生眞面目にこんな昔話を聽いたり語つたりした者が、つい近年まではこの地にさへゐたのである。
 
       デエラ坊の山作り
 
 「松屋筆記」にはまたこんな話を書いてゐる。著者は前の煎茶僧とほゞ同じ時代の人である。曰く、武相の國人常にダイラボッチとて、形大なる鬼神がゐたことを話する。相模野の中にある大沼といふ沼は、大昔ダイラボッチが富士の山を背負つて行かうとして、足を踏張つた時の足跡の窪みである。またこの原に藤といふものゝ少しもないのは、彼が背負繩にするつもりで藤蔓を捜し求めても得られなかつた因縁を以て、今でも成長せぬのだと傳へてゐる云々。自分は以前何回もあの地方に散歩してこの事を思ひ出し、果して村の人たちが今ではもう忘れてゐるか否かを、確かめてみたい希望を持つてゐたが、それを同情して八王子の中村成文君が、特に我々のために調べてくれられた結果を見ると、なか/\どうして忘れてしまふどころではなかつた。
 右の大沼とは同じでないかも知れぬが、今の横濱線の淵野邊停車場から見える處に、一つの窪地があつて水ある時にはこれを鹿沼と謂つてゐる。それから東へ寄つてこれも鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり、二つの沼の距離は約四町で(309)ある。デエラボッチは富士山を背負はうとして、藤蔓を求めて相模野の原ぢゆうを捜したが、どうしてもないので殘念でたまらず、ぢんだら〔四字傍点〕(地團太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だといふ。またこの原の中程には幅一町ばかり、南北に長く通つた窪地がある。デエラボッチが犢鼻褌を引きずつてあるいた跡と稱し、現にその地名をふんどし〔四字傍点〕窪ととなへてゐる。境川を北に渡つて武藏の南多摩郡にも、これと相呼應する傳説は幾らもある。例へば由井村の小比企といふ部落から、大字|宇津貫《うつぬき》へ越える坂路に、池の窪と呼ばるゝ凹地がある。長さは十五六間に幅十間ほど、梅雨の時だけは水が溜つて池になる。これもデエラボッチが富士の山を背負はんとして、一跨ぎに踏張つた片足の痕で、今一方は駿河の國にあるさうだ。なるほど足跡だといへばさうも見えぬことはない。また同郡川口村の山入といふ部落では、繩切と書いてナギレと訓む字《あざ》に、附近の山から獨立した小山が一つある。これはデエラボッチが背に負うてやつて來たところ、繩が切れてこゝへ落ちた。その繩を繋ぐためにふぢ蔓を探したが見えぬので、大いにくやしがつて今からこの山にふぢは生えるなといつたさうで、今日でも山はこの地に殘り、ふぢは成長せぬと傳へてゐる。たゞしそのふぢ〔二字傍点〕といふのは葛のことであつた。巨人なればこそそのやうな弱い物で、山でも擔いで持ち運ぶことが出來たのである。
 甲州の方ではレイラボッチなる大力の坊主、麻殻《をがら》の棒で二つの山を擔ひ、遠くへ運ばうとしてその棒が折れたといふ話が、「日本傳説集」にも「甲斐の落葉」にも見えてゐる。東山梨郡加納岩村の石森組には、そのために決して麻は栽ゑなかつた。栽ゑると必ず何か惡い事があつた。その時落ちたといふ二つの山が、一つは鹽山であり他の一つは石森の山であつた。或知人の話では、藁の莖で二つの土塊を荷なつて行くうちに、一つは拔け落ちて鹽山が出來たと謂ひ、その男の名をデイラボウと傳へてゐた。デイラボウはそのまゝ信州の方へ行つてしまつたといふことで、諸處に足跡がありまた幾つかの腰掛石もあつた。
 我々の祖先はいつの世からともなく、孤山の峰の秀麗なるものを拜んでゐた。飯盛山といふのが、その最も普遍し(310)た名稱であつた。御山御嶽として特に禮拜する山だけは、この通り起源が尋常でないものゝ如く、説明せられてゐたやうに思はれる。後には勿論これを信ずる能はざる者が、いはゆる大話の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きを置いたのは麻殻葛の蔓の點ではなかつたらうかと思ふ。むつかしくいふならばこの種巨人譚の比較から、どのくらゐまで精密に根源の信仰がたどつて行かれるか。それを究めて見たいのがこの篇の目的である。必ずしも見かけほど呑氣な問題ではないのである。
 
       關東のダイダ坊
 
 自分たちは先づ第一に、傳説の舊話を保存する力といふものを考へる。足跡がある以上は本當の話だらうといふことは、論理の誤りでもあらうし、また最切からの觀察法ではなかつたらうが、兎に角にこんなをかしな名稱と足跡とがなかつたならば、如何に誠實に古人の信じてゐた物語でも、さう永くは我々のあひだに、留まつてゐなかつた筈である。東京より東の低地の國々に於いては、山作りの話は漸く稀にして、足跡の數はいよ/\多い。即ち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の傳説の巨人を引き連れて、新たにこの方面に移住した結果とも、想像せられぬことはないのである。けだし形?の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味もなくダイラボッチと名づけたやうな場合も、或時代には相應に多かつたと見なければ、説明のつかぬ程の分布があることは事實だが、大本に溯つて、もしも巨人は足痕を遺すもの也といふ教育がなかつたら、到底これまでの一致を期することは出來ぬかと思ふ。
 上總下總は地名なり噂話なりで、ダイダの足跡の殊に遍ねき地方と想像してゐるが、自分が行つて見たのは一箇處二足分に過ぎなかつた。旅はよくしてもなか/\そんな處へは出くはせるものでない。上總では茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れてゐる。その右岸の立木といふ部落を少し登つた傾斜面の上の方に、至つて謙遜な(311)るダイダッポの足跡が一つ殘つてゐた。足袋底の型程度の類似はもつてゐるが、この邊が土ふまずだと言はれて見ても、なる程とまでは答へにくい足跡であつた。面積はわづかに一畝と何歩、周圍は雜木の生えた原野なるに反して、この部分のみは麥畠になつてゐた。爪先はこゝでも高みの方を向いてゐる。土地の發音ではライラッポとも聞える。川の兩岸の岡から岡へ一跨ぎにしたと言ふのであるが、向ひの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することが出來なくなつてゐる。たゞその少しの地面のみが別の地主に屬し、左右の隣地を他の一人で持つてゐる事實が、多分以前は除地であつたらうことを、想像せしめるといふだけである。
 「埴生郡聞見漫録」を見ると、この地方の海岸人がダンダアといふのは、坊主鮫とも稱する一種の恠魚であつた。それが出現すると必ず天氣が變ると傳へられた。或ひは關係はないのかも知れぬが、事によるとダイダ坊も海から來ると想像したのではあるまいか。常陸の方では、「風俗畫報」に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔|千波沼《せんばぬま》邊に住める巨人なりといふ。土人いふ、この人大昔千波沼より東前池《とうまへいけ》まで、一里餘の間を一またぎにし、その足跡が池となつたと言ひ傳ふる假想の者だとある。その足跡の話は吉田氏の「地名辭書」にも見え、或ひは椎塚村のダッタイ坊などの如く、そちこち徘徊した形跡は勿論あるが、それを「古風土記」の大櫛岡の物語が、そのまゝ殘つてゐたものと解することは、常陸の學者には都合がよろしくとも、他の方面の傳説の始末がつかなくなる。自分はさういふ風に地方地方で、獨立して千年以上を持ち傳へたやうには考へてゐないのである。
 下野ではまた鬼怒川の岸に立つ羽黒山が、昔デンデンボメといふ巨人の落して往つた山といふことになつてゐる。この山にかぎつて今なほ一筋の藤蔓もないのは、山を背負つて來た時に藤の繩が切れたためだといふのは、少々ばかり推論の綱が切れてゐる。或ひはこの山に腰を掛けて、鬼怒川で足を洗つたと謂ひ、近くにその時の足跡と傳ふる二反歩ばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼と呼ばれてゐる。足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメのやうだと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)、信州などの例と一致してゐる。
(312) 枝葉にわたるが足を洗ふといふ昔話にも、何か信仰上の原因があつたのではないかと思ふ。私の生まれた播州の田舍でも、川の對岸の山崎といふ處に、淵に臨んだ岩山があつて、夜分その下を通つた者の怖ろしい經驗談が多く流布してゐた。路をまたいで偉大なる毛脛が、山の上から川の中へぬつと突込まれたのを見たなどゝ謂つて、その土地の名を千束と稱するが、センゾクは多分洗足であらうと思つてゐる。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗ひといふ恠物を説くことは人がよく知つてゐる。深夜に天井から足だけが一本づゝ下がる。これを主人が※[?+上]※[?+下]で盥を採つて出て、うや/\しく洗ひ奉るのだといふなどは、空想としても必ず基礎がある。洗はなければならなかつた足は、遠い路を歩んで來た者の足であつた。即ち山を作つた旅の大神と、關係がなかつたとはいはれぬのである。
 
       百合若と八束脛
 
 上野國では三座の靈山が、初期の開拓者を威壓した力は、却つて富士以上のものがあつたかと想像せられる。乃ちその峰ごとに最も素朴なる巨人譚を、語り傳へたゆゑんであらう。例へば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだといふ上蘭の故郷で、我が民族のあひだに殊に美しく發達した二處の水の神の交通を傳ふる説話の、注意すべき一例を留めてゐる沼であるが、これもダイラボッチが赤城山に腰を掛けて、うんと踏張つた足形の水溜りだといふ口碑がある。榛名の方ではまた榛名富士が、駿河の富士よりも一もつこだけ低い理由として、その傍なる一孤峰を一畚《ひともつこ》山と名づけてゐる。或ひはそれを榛名山の一名なりともいひ、今一畚たらぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも傳へる。その土を取つた跡が、あの閑かな伊香保の湖水であり、富士は甲州の土を取つて作つたから、それで山梨縣は擂鉢の形だと、餘計な他所の事までこのついでを以て語つてゐる。この山の作者の名は單に大男と呼ばれてゐる。榛名の大男はかつて赤城山に腰をかけて、利根川の水で足を洗つた。その折に臑《すね》についてゐた砂を落した(313)のが、今の臑神の社の丘であるとも謂ふ。
 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太といふ無雙の強力があつて、足を以て蹴開いたといふ話がある。中仙道の路上からこの穴のよく見える半年石《はんねいし》といふ處に、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、その時の記念なりと傳へられた。「緘石録」といふ書には、大太は南朝の忠臣なり、出家してその名を大太法師、またの名を妙義と稱すとあるが、如何なる行き違ひからであらうか、見原益軒の「岐蘇路記」を始めとし、この地を過ぐる旅人は、多くはこれを百合若大臣の足跡と教へられ、あの石門は同人が手馴らした鐡の弓を以て、射拔いた穴だといふ説の方が有力であつた。百合若は「舞の本」によれば、玄海の島に年を送り、とても關東の諸國までは旅行をする時をもたなかつたやうに見えるが、各地にその遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の緑丸までが、奧羽の果でも塚を築いて弔はれてゐる。如何なる順序を經てさういふことになつたかは、こゝで簡單に説き盡すことは不可能だが、つまりは村々の昔話に於いて、相應に人望のある英雄ならば、思ひの外無造作にダイダラ坊の地位を、代つて占領することを得たらしいのである。
 自分のこれからの話は大部分がその證據であつて、特に實例を擧げるまでもないのだが、周防の大島の錨ヶ峠の近傍には、現在は武藏坊辨慶の足跡だと稱するものが殘つてゐる。昔笠佐の島が流れようとした時に、辨慶こゝに立つて踏張つてこれを止めたといふのである。紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山《にふやま》とは、同じく辨慶が畚に入れて荷うて來たのだが、鹿瀬峠で朸《あふご》が折れて、落ちてこの土地に殘つたと謂ひ、大和の畝傍山と耳成山、一説には畝傍山と天神山とも、やはり萬葉集以後に武藏坊がかついで來たといふ話がある。朸がヤーギと折れた處が八木の町、いまいましいと棒を棄てた處が、今の今井の町だなどゝも傳へられる。そんな事をしたとあつては、辨慶は人間でなくなり、從つてこの世にゐなかつたことになるのである。實に同人のためにはありがた迷惑な同情であつた。
 それは兎も角として信州の側へ越えてみると、また盛んにダイダラ坊が活躍してゐる。戸隱參詣の道では飯綱山の(314)荷負池が、「中陵漫録」にも出てゐてすでに有名であつた。これ以外にも高井郡沓野の奧山に一つ、木島山の奧に一つ、更級郡猿ヶ番場の峠にも一つ、大樂法師の足跡池があると、「信濃佐々禮石」には記してゐる。少し南へ下れば小縣郡の青木村と、東筑摩都の坂井村との境の山にも、その間二十餘丁を隔つて二つの大陀法師の足跡があり、いづれも山頂であるのに夏も水氣が絶えず、莎草科の植物が茂つてゐる。昔巨人は一またぎにこの山脈を越えて、千曲川の盆地へ入つて來た。その折兩手に提げて來たのが男嶽女嶽の二つの山で、それ故に二峰は孤立して間が切れてゐるといふ。
 東部日本の山中にはこの類の窪地が多い。それを鬼の田または神の田と名づけて、或ひは蒔かず稻の口碑を傳へ、また或ひは稻に似た草の成長をみて、村の農作の豐凶を占ふ習ひがあつた。それが足ノ田・足ノ窪の地名をもつことも、信州ばかりの特色ではないが、松本市の周圍の丘陵にはその例が殊に多く、大抵はまたデエラボッチャの足跡と説明せられてゐるのである。その話もして見たいが長くなるから我慢をする。たゞ一言だけ注意を引いておくのは、こゝでも武相の野と同じやうに、相變らず山を背負うて、その繩が切れてゐることである。足跡の濕地には甚だしい大小があるにかゝはらず、落し物をしてまつたといふ點は殆と同一人らしい粗忽である。小倉の室山に近い背負山は、デエラボッチャの背負子の土より成ると謂ひ、市の東南の中山は履物の土のこぼれ、倭村の火打岩は彼の燧石であつたといふが如き、いづれも一箇の説話の傳説化が、到る處に行はれたことを示すのである。
 たゞし物草太郎の出たといふ新村の一例のみは、或ひはダイダラ坊ではなく三宮明神の御足跡だといふ説があつたさうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異とも見えるが、さういふ變化はすでに幾らでも例がある。上諏訪の小學校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長といふ諏訪明神の御家來と傳ふる者もあれば、またデイラボッチだといふ人もあつて、舊神領内には數箇所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡から出來たといふ窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、單に給仕人また侍者を意味し、實際は必ずしも手の長い人たることを要しなかつたが、いはゆる荒海の障子の長臂國、長脚図の蠻民の話でも傳はつたものか、さういふ恠物が海に迫つた山の上に(315)ゐて、或ひは手を伸ばして海中の蛤を捕つて食ひ、或ひは往來の旅人を惱まして、後に神明佛陀の御力に濟度せられたといふ類の言ひ傳へが、方々の田舍に保存せられてゐる。名稱の起りはどうあらうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業をなし遂げた者は、必ずまた非凡なる體格を持つてゐたらうといふ極めてあどけない推理法が、一番の根源であつたことはほゞ確かである。それが次々にさらに良き神々の出現によつて、征服せられ統御せられて、つひに今日の如く零落するに至つたので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首《ろくろくび》でも、かつて一度はそれ/”\の黄金時代を、もつてゐたものとも想像し得られるのである。
 故に作者といふ職業の今日の如く完成する以前には、コントには必ず過程があり種子萌芽があつた。さうしてダイダラ坊は單に幾度か名を改め、その衣服を脱ぎ替へるだけが、許されたる空想の自由であつた。例へば上州人の氣魄の一面を代表する八掬脛《やつかはぎ》といふ豪傑の如きも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛の  亜流であり、また長臑彦手長足長の系統に屬するやうに見えるが、その最後に八幡神の統制に歸服して、永く一社の祀りを受けてゐるといふ點に於いては、依然として西部各地の大人彌五郎の形式を存するのである。而も嘗ては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌はれた巨人が、僅に貞任宗任の一族安倍三太郎某の、そのまた殘黨だなどゝ傳説せられ、繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をしたといふやうな、花やかならぬ最後を物語られたのも、實はまた無用な改名に累はされたものであつた。八掬脛はさう大した名前ではない。一掬を四寸としても精々三尺餘りの臑である。だから近世になるといろ/\な講釋を加へて、少しでもその非凡の度を快復しようとした跡がある。例へばこの國の領主小幡宗勝、毎日羊に乘つて京都へ參覲するに、午の刻に家をたつて申の刻には到着する。よつて羊太夫の名を賜はり、多胡の碑銘に名を留めてゐる。八束小脛はその家來であつて、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶが如くであつたのを、或時晝寢をしてゐる腋の下を見ると、鳥の翼の如きものが生えてゐた。それをむしり取つてから隨行が出來ず、羊太夫も參覲を怠るやうになつて、後には讒言が入つて主從ながら誅罰せられたなどゝ語り傳へて、いよ/\我ダイダラボッチを小さ(316)くしてしまつたのである。
 
       一夜富士の物語
 
 話が長くなるから東海道だけは急いで通らう。この方面でも地名などから、自分が見當をつけてゐる場處は段々あるが、實はまだ見に行く折を得ないのである。遠州の袋井在では高尾の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と稱する涌水の池があるのを、山中共古翁は往つて見たといはれる。見附の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水の溜まる凹地があつて、それは大ダラ法師の小便壺といつてゐたさうである。尾張の呼續町の内には大道法師の塚といふものがあることを、「張州府志」以後の地誌にみな書いてゐる。「日本靈異記」の道場法師は、同じ愛知郡の出身である故に、かれとこれと一人の法師であらうといふ説は、主としてこの地方の學者が聲高く唱へたやうであるが、それも辨慶百合若同樣の速斷であつて、到底一致の出來ぬ途法もない距離のあることを、考へてみなかつた結果である。
 例へば丹羽郡小富士に於いては、やはり一|簣《き》の功を缺いた昔話があり、木曾川を渡つて美濃に入れば、いよ/\そのやうな考證を無視するにたる傳説が、もう幾らでも村々に分布してゐるのである。通例その巨人の名をダヾ星樣と呼んでゐるといふことは、前年「民俗」といふ雜誌に藤井治右衛門氏が書かれたことがある。この國舊石津郡の大清水、兜村とかの近くにも大平《だいだら》法師の足跡といふものがあると、「美濃古蹟考」から多くの人が引用してゐる。里人の戯談にこの法師、近江の湖水を一跨ぎにしたといふとあることは有名な話である。
 「奇談一笑」といふ書物には何に依つたか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思ふものを載せてゐる。古|大々法師《だゞぼふし》といふ者あり。善積郡の地を擧げてこと/”\く掘りて一簣となし、東に行くこと三歩半にしてこれを傾く。その(317)掘るところは即ち今の湖水、その委土《すてつち》は今の不二山なりと。而うして江州にあるところの三上鏡岩倉野寺等の諸山は、いづれも簣《もつこ》の目より漏り下るものといふとある。孝靈天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したといふことは、隨分古くから文人の筆にするところであつたが、それが單に噴火の記事を傳へたのなら、恐らくこのやうには書かなかつたであらう。即ち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るといふことは當時至つて普通なる信仰であつた故に、詳しい年代記として當然にこれを録したといふに過ぎなかつた。「日本紀略」には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に鼓を鳴らすが如き音が聞えた。人ありて曰ふ、伊豆國西北の二面、自然に増益すること三百餘丈、さらに一島をなす。則ち鼓の音の如きは神この島を造りたまふ響なりと。伊豆の西北には島などはなく、大和の都まで音が聞える筈もないのに、正史に洩れて數百年にしてこの事が記録に現はれた。しかも日本の天然地理には、かう感じてもよい實際の變化は多かつた。乃ち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあつたのである。
 琵琶湖の附近に於いて、この信仰が久しく活きてゐたらしいことは、白髭明神の縁起などがこれを想像せしめる。木内石亭は膳所の人で、石を研究した篤學の徒であつたが、その著「雲根志」の中に次の如く記してゐる。甲賀郡の鮎河《あいが》と黒川との境の山路に、八尺六面ばかりの巨石があつて、石の上に尺許の足跡が鮮やかである。寶暦十一年二月十七日、この地を訪ねてこれを一見した。土人いふ、これは昔ダヾ坊といふ大力の僧あつて、熊野へ通らうとして道に迷ひ、この石の上に立つた跡であると。ダヾ坊は如何なる人とも知らず、北國諸所には大多《おほた》法師の足跡といふものがあつて、これも如何なる法師かを知る者はないが、思ふに同じ人の名であらうと述べてゐる。自分の興味を感ずるのは、ダヾ坊といふやうな奇妙な名はこれほどまでひろく倶通して居りながら、却つてその證跡たる足形の大いさばかり、際限もなく伸縮してゐることである。
 そこで試みにこの大入道が、果していづれの邊まで往つて引き返し、もしくは他の靈物にその事業を讓つて去つた(318)かを、尋ねて見る必要があるのだが、京都以西は暫らく後廻はしとして北國方面には自分の知るかぎり、今日はもうダイダ坊、或ひは大田坊の名を知らぬ者が多くなつた。しかし「三州奇談」といふ書物の出來た頃までは、加賀の能美郡の村里にはタン/\法師の足跡といふ話が傳はり、現にまたその足跡かと思はれるものが、少なくもこの國に三足だけはあつた。いはゆる能美郡波佐谷の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬ處があつた。その次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡といふ田の中に、これも至つて鮮明なる足跡が殘つてゐた。下に石でもあるためか、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかつた。今一つは越中との國境、有名なる栗殻の打越にあつた。いづれも長さ九尺幅四尺ほどゝあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小さゝだが、その間隔はともに七八里もあつて、或ひは加賀國を三足に歩いたのかと考へた人もある。勿論そのやうな細引の如き足長は、釣合の上からも到底これを想像することを得ないのである。
 
       鬼と大人と
 
 高木誠一君の通信によれば、福島縣の海岸地方では、現在は單にオビトアシト(大人足跡」と稱へてゐる。しかもその實例は極めて多く、現に同君の熟知する石城雙葉の二郡内のものが、九ヶ處まで算へられる。その面積は五畝歩から一段まで、いづれも濕地沼地であり、または溜池に利用せられてゐる。錢道が縱斷してから元の形は損じたけれども、久ノ濱中濱の不動堂の前のつゝみ、それから北迫の牛沼の如きは、大人がこの二ヶ處に足を踏まへて三森山に腰をかけ、海で顔を洗つたといふ話などがまだ殘つてゐるといふ。
 宮城縣に入ると伊具郡|?狼山《からうざん》の巨人などは、久しい前から手長明神として祀られてゐた。山から長い手を延ばして貝を東海の中に採つて食うた。新地村の貝塚は即ちその貝殻を棄てた故跡などゝいふ口碑は、必ずしも常陸の古風土(319)記の感化と解するを須《もち》ゐない。名取郡茂庭の太白山を始めとして、麓の田野には次々に奇拔なる印象が、多くの新しい足跡とともに散亂してゐたのである。たゞし大人の名前ぐらゐは、別に奧州の風土に適應して、發生してゐてもよいのであるが、それさへなほ往々にして關東地方との共通があつた。例へば「觀蹟聞老志」は漢文だからはつきりせぬけれども、昔白川に大膽子と稱する巨人があつて、村の山を背負つて隣郷に持ち運んだ。下野の茂邑山《もむらやま》は即ちこれであつて、那須野の原にはその時の足跡があるといふ。たゞし其幅は一尺で長さが三尺云々とあるのは、これも少しばかり遠慮過ぎた吹聽であつた。
 尤も大膽子を本當の人間の大男と信ずるためには、實は三尺二尺といつて見てもなほ少しく行き過ぎてゐた。だから惡路王大竹丸赤頭といふ類の歴史的人物は、後にその塚を開いて枯骨を見たといふ場合にも、脛の長さは三四尺に止まり、齒なども長さ二寸か三寸のものが、精々五十枚ぐらゐまで生え揃うてゐたやうにいふのである。從つて名は同じく大人といつても、近世岩木山や吾妻山に活きて住み、折々世人に怖ろしい姿を見せるといふ者は、いはゞ小野川谷風の少しのぴた程で澤山なのであつた。それが紀伊大和の辨慶の如く、山を背負ひ巖に足形を印すといふことも、見やうによつてはいよ/\以て尊び敬ふべしといふ結論に導いたかも知れない。即ち近江以南の國々の足跡面積の限定は、一方に於いては信仰の合理的成長を意味するとともに、他の一方には時代の好尚に追隨して、大事な昔話を滑稽文學の領域に、引き渡すに忍びなかつた地方人の心持が窺はれると思ふ。もしさうだとすれば中世以來の道場法師説の如きは、また歴史家たちのこの態度に共鳴した結果といつてもよいのである。
 奧羽地方の足跡のだん/\に小さくなり、且つ岩石の上に印した例の多くなつて行くことは、不思議に西部日本の端々と共通である。自分などの推測では、これは巨人民譚の童話化とも名づくべきものが、琵琶湖と富士山との中間に於いて、殊に早期に現はれたためではないかと考へる。しかも山作りの一條のその後に附添した插話でなかつたことは、ほゞ確かなる證據がある。會津|柳津《やないづ》の虚空藏堂の境内には、有名なる明星石があつて、石上の足跡を大人のだ(320)と傳へてゐるに、猪苗代湖の二子島では、鬼が荷なうて來た二箇の土塊が、落ちてこの島となると稱し、その鬼が怒つて二つに折れた天秤棒を投げ込んだといふ場處は、湖水の航路でも浪の荒い難所である。即ち足跡は大抵人間より少し大きいくらゐでも、神だから石が凹み、鬼だから山を負ふ力があつたと解したのである。「眞澄遊覽記」には、南秋田の神田といふ村に、鬼歩荷森《おにのかちにもり》があると記して、繪圖を見ると二つの路傍の塚である。あんな遠方までもなほ大人は山を運んであるいた。さうして少なくともその仕事の功程に由つて判ずれば、鬼とは謂つても我々のダイダラ坊と、もと/\他人ではなかつたらしいのである。
 
       太郎といふ神の名
 
 自分等が問題として後代の學者に提供したいのは、必ずしも世界多數の民族に併存する天地創造譚の些々たる變化ではない。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時からまた如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、もしくはこれに近い名を以て呼び始めたかといふ點である。京都の附近では廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、「都名所圖會」に描畫を入れて詳しく記し、乙訓《おとくに》郡大谷の足跡清水は、「京羽二重」以下の書にこれを説き、長さ六尺ばかりの指痕分明也とあつて、今の長野新田の  字大道星は即ちこれだらうと思ふが、去つて一たび播州の明石まで踏み出せば、もうそこには辨慶の荷塚《になひづか》があつて、奧州から擔いで來た鐵棒が折れ、怒つてその棒で打つたと稱して頂上が窪んでゐた。だからダイダ坊などはよい加減の名であらうと、高を括る人も或ひはないと言はれぬが、自分だけはまだ決してさう考へない。畿内の各郡から中國の山村にかけて、往つては見ないが大道法師、ダイダラ谷ダイダラ久保等といふ地名が、竝べてよければ幾らでもこゝに擧げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬ故に、大人といふ普通名詞で濟ましておき、辨慶が評判高ければあの仁でもよろしとなつたのであらう。笠井新也(321)君が池田の中學校にゐた頃、生徒にすゝめて故郷見聞録を書かせた中に、備前赤磐郡の青年があつて、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師といふ者が來て、山から山を跨いで去つた。それで土人がその足跡を崇敬すると述べてゐる。耶蘇教傳道の初期には、いづれの民族にもこんな融合はあつたものである。
 紀州の百餘の足跡はその五分の一を辨慶に引き渡し、殘りを大人の手に保留してゐる。美作の大人足跡もその一部分を土地の恠傑目崎太郎や三穗太郎に委讓してゐる。西は備中備後安藝周防、長門石見などでもたゞ大人で通つてゐる。それから四國へ渡ると讃州長尾の大足跡、また大人の蹴切山がある。伊豫でも同じく長尾といふ山の麓に、大人の遊び石といふ二箇の巨巖があつた。阿波は劔山山彙を繞つて、もとより數多い大人樣の足跡があり、或ひは名西地方の平地の丘に、山作りの畚の目から、こぼれて出來たといふものも二つもある。土佐でも幡多高岡の二郡には、いろ/\の例があつていづれも單に大人田、もしくは大人足跡で聞えてゐた。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間はないのかと思ふと、あに測らんや柳瀬貞重の筆録を見ると、却つて阿波に近い韮生《にらふ》郷の山奧に、同名の巨人は悠然として隱れてゐた。即ちこの筆者の居村なる柳瀬の在所近くに、立石光石|降石《ぶりいし》の三箇の磐石があつて、前の二つはダイドウボウシこれを棒にかつぎ、降石は袂に入れてこの地まで歩いて來ると、袖が綻びてすつこ拔けてこゝへ落ちた。それで降石だと傳へて居るのである。
 そこで私たちは、これほどにしてまでも是非ともダイドウボウシでなければならなかつた理由は何かといふことを考へてみる。それには先づ最初に心づくのは、豐後の姫嶽の麓に於いて、神と人間の美女との間に生まれた大太といふ恠力の童兒である。山崎美成の「大多法師考」に引用する書「言字考」には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹤と傳ふるものは、疑ふらくはこの皹童《あかゞりわらは》のことかと言つてゐる。證據はまだ乏しいのだから冤罪であつては氣の毒だが、少なくとも緒方氏臼杵氏等の一黨が、この大太を家の先祖とせんがために、すこぶる古傳の修正を試みた痕は認められる。なる程後に一方の大將となるべき勇士に、足跡が一反歩もあつては實は困つたもので、山などはかつい(322)で來なくとも、別に神異を説く方便はあつたのであらう。しかしどうして大太といふが如き名が附いたかといへば、やはり神子にして且つ偉大であつたことが、その當初の特徴であつた故なりと、解するの他は無かつたのである。
 柳亭種彦の「用捨箱」には、大太發意《だいたぼつち》は即ち一寸法師の反對で、これも大男をひやかした名だらうと言つてある。大太郎といふいみじき盗の大將軍の話は、早く「宇治拾遺」に見えてをり、烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて、至つてあり觸れた名だから不思議もないやうだが、自分はさらに溯つて、何故に我々の家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入つて來てちやうど太の字と郎の字を宛てゝもよくなつたが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦《たらしひこ》帶姫《たらしひめ》だのといふ貴人の御名があつたのを、丸で因みのないものと斷定することが出來るであらうか。筑後の高良社の延長年間の解?には、大多良男と大多良唐フこの國の二神に、從五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の「人間菩薩朝記」には、豐前の猪山にも大多羅※[口+牟]神を祭つてあつたと述べてゐる。少なくもその頃までは、神にこのやうな名があつても恠まれなかつた。さうして恐らくは人類のために、射貫き蹴裂きといふやうな奇拔極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡はまたその宣誓の證據として、神聖視せられたものであらうと思ふ。
 
       古風土記の巨人
 
 さう考へるとダイダラ信仰の發祥地でなければならぬ九州の島に、却つてその口碑のやゝ破碎して傳はつた理由もわかる。即ち九州東岸の宇佐とその周圍は、巨人神話の古くからの一大中心であつた故に、同じ古傳を守るときは地方の神々はその勢力に捲込まれる懸念があつたのみならず、一方本社にあつては次々の託言を以て、山作り以上の重要なる神コを宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなつてしまふので、むしろこれを語らぬのを有利とする(323)者が多くなつたのである。これは決して私の空漠たる想像説ではない。日本の八幡信仰の興隆の歴史は、殆と一つ一つの過程を以て、これを裏書きしてゐると言つてよいのだ。
 これを要するに巨人が國を開いたといふ説話は、本來この民族共有の財産であつて、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認もこれから出てゐた。それが東方に移住して童劫の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれてゐたので、その證跡は足跡よりもなほ鮮明である。諾册二尊の大八洲生誕は説くも長いが、今殘つてゐる幾つかの古風土記には、地方の?況に應じて若干の變化はあつても、一として水土の大事業を神に委ねなかつたものはないと言つてよろしい。その中にあつて常陸の大櫛岡の由來の如きはむしろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の國引きの物語、さては播磨の託賀郡の地名説話の如き、目を閉ぢてこれを暗んずれば、親しく古へ人の手を打ち笑ひ歌ふを聽くが如き感がある。まだ知らぬ諸君のために、一度だけこれを誦して見る。曰く、右|託加《たか》と名づくる所以は、昔|大人《おほひと》ありで常に勾《かゞま》りて行きたりき。南の海より北の海に到り、東より(西に)巡り行きし時に此土に來到りていへらく、他の土は卑くして常に勾り伏して行きたれども、此の土は高くあれば伸びて行く。高きかもといへり。かれ託賀《たか》の郡とは曰ふなり。その踰《ふ》みし迹處、數々《あまた》、沼と成れり(以上)。私の家郷もまた播磨である。さうして實際かう語つた人の後裔であることを誇りとする者である。
 證據は斷じてこればかりではなかつた。南は沖繩の島に過去數千年のあひだ、口づから耳へ傳へて今もなほ保存する物語にも、大昔天地が近く接してゐた時代に、人はこと/”\く蛙の如く這つてあるいた。アマンチュウはこれを不便と考へて、或曰堅い岩の上に踏張り、兩手を以て天を高々と押し上げた。それから空は遠く人は立つて歩み、その岩の上には大なる足跡を留めることになつた。或ひはまた日と月とを天秤棒に擔いで、そちこちを歩き廻つたこともある。その時棒が折れて月日は遠くへ落ちた。これを悲しんで大いに泣いた涙が、國頭《くにがみ》本部《もとぶ》の涙川となつて、末の世までも流れて絶えせずと傳へてゐる(故佐喜眞興英君の南島説話による)。アマンチュウは琉球の方言に於いて、天の人(324)即ち大始祖神を意味して居り、正しくこの群島の盤古であつた。さうしてこれが赤道以南のポリネシヤの島々の、ランギパパの昔語りと近似することは、私はもうこれを絮説するの必要を認めない。
 
       大人彌五郎まで
 
 これまでに大切な我々が創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜に基いて、後漸く微にして且つ馬鹿々々しくなつた。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を囘避して外海に向はんとしたかの如き姿がある。壹岐の名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先だつて、まづこの島の御津浦に上陸なされたと稱して、「太宰管内志」には御津八幡の石垣の下にある二石と、この浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述してゐる。いづれもその大いさ一尺一二寸、爪先は東から西に向いてゐる。信徒の目を以て見れば、それ自身が神の偉勲の記念碑に他ならぬのだが、しかも「壹岐名勝圖誌」の録するところでは、この島國分の初丘《はつをか》の上にあるものは、大は則ち遙かに大であつて、全長南北に二十二間、拇指の痕五問半、踵の幅二間、少し凹んで水づいてゐるとあるが、これは音|大《おほ》といふ人があつて、九州から對島に渡る際に足を踏み立てた跡だと謂ひ、しかも村々にも同じ例が多かつたのである。それまではまだよいが、肥前平戸島の薄香《うすか》灣頭では、切支丹伴天連と稱する恠物があつて、海上を下駄ばきで生月その他の島々に跨いだとも謂つてゐる。即ち古く近江の石山寺の道場法師の故迹と同じく、殘つてゐるのは下駄の齒の痕であつたのである。
 それから南へ下つては肥後鹿本郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留《はる》の大石の如き、ともに大人の足跡といふのみで、神か鬼かのけぢめさへ明瞭でない。その名の早く消えたのも恠しむに足らぬのである。ところがこれから東をさして進んで行くと、諸處にあたかも群馬縣の八掬脛の如く、神に統御せられた大人の名と話が(325)分布してゐる。阿蘇明神の管轄の下に於いては鬼八法師、または金八坊主といふのが大人であつた。神に追はれて殺戮せられたといふかと思ふと、塚あり社あつて永く祀られたのみならず、その事業として殘つてゐるものが、こと/”\く凡人をして瞠目せしむべき大規模なものであり、しかも人間のためには功績があつて、或ひはもと大神の眷屬であつたやうにも信ぜられたのであつた。
 その矛盾の最初から完全に調和せぬものであつたことは、さらに日向大隅の大人彌五郎と、比較して見ることによつて明白になるかと思ふ。彌五郎は中古に最も普通であつた武家の若黨家來の通り名で、それだけからでも神の從者であつたことが想像せられる。而うして大人彌五郎の主人は八幡樣であつた。大隅國分の正八幡宮から、分派したらうと思ふ附近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作つてこれを大人彌五郎と名づけ、神前に送り來つて後に破却し、または燒棄てること、あたかも津輕地方の侫武多《ねぶた》などゝ一樣であつた。さうしてその行事の由來として、八幡宮の大人征服の昔語を傳へてゐるのである。或ひはその大人の名を、大人隼人などゝ説いたのも明白なる理由があつた。即ち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く參與せられ、その記念として今日の正八幡があるのだといふ在來の歴史と、かうすれば確かにやゝ一致して來るからである。
 「大人隼人記」といふ近代の傳記には、國分上小川の拍子橋《ひやうしばし》の上に於いて、日本武尊大人彌五郎を誄戮したまふなどと謂つてゐるさうだ。その屍を手切り足切り、こゝに埋め彼處に埋めたといふ類の話は、今も到る處の住民の口に遺つてゐるのだが、しかも一方に於いては大人はなほ靈であつて、足跡もあれば山作りの物語も依然として承繼せられるので、それほど優れた神を何故に兇賊とし、屠つて後また祭らねばならなかつたかの疑ひは、實はまだ少しも解釋せられてはゐなかつた。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈周五町餘、他の一つはほゞその半分である。相距ること一町ばかり、これも昔大人彌五郎が草畚《ひもつこ》で土を運んだ時に、棒が折れてこぼれてこの塚となつたといふ點は、富士以東の國々と同じである。獨り山を荷うて來たのみでない。日向の飫肥《おび》の板敷神社などでは、稻積彌五郎大(326)隅の正八幡を背に負ひ、この地に奉安して社を建てたと謂ひ、やはりその記念として行ふところの人形送りは、全然他の村々の濱殿下りの儀式、隼人征討の故事といふものと一つである。それから推して考へて行くと、肥前島原で味噌五郎と謂ひ、筑豐長門に於いて塵輪と謂ひ、備中で温羅と謂ひ、美作で三穗太郎目崎太郎と謂ひ、因幡で八面大王などゝ傳へてゐる恠雄、それから東に進むと美濃國の關太郎、飛騨の兩面の宿儺《すくな》、信州では有明山の魏石鬼《ぎしき》、上州の八掬脛、奧羽各地の惡路王大武丸、及びその他の諸國で簡單に鬼だ強盗の猛なる者だと傳へられ、殆と明神の御威コを立證するために、この世に出てあばれたかとも思はれる多くの惡者などは、實は後代の神戰の物語に、若干の現實味を鍍金するの必要から出たもので、例へば物部守屋や平將門が、死後に却つて大いに顯はれた如く、本來はそれほど純然たる兇賊ではなかつたのかも知れぬ。それは改めてなほ考ふべしとしても、少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた證據がある。而うしてそれが殺戮せられて神になつたのは、また別の理由があつたのである。
 もう長くなつたから兎に角にこの話だけの結末をつけておく。我々の巨人説話は、二つの道をあるいて進んで來たらしい跡がある。その一方は夙に當初の信仰と手を分ち、單なる古英雄説話の形を以て、諸國の移住地に農民の伴侶として入り來り、彼等が榾火《ほだび》の側に於いて、兒女とともに成長した。他の一方は因縁深くして、春秋の神を祭る日ごとに必ず思ひ出しまた語られたけれども、こゝでも信仰が世とともに進化して、神話ばかりが舊い型を固守してゐるといふことは難かつた。乃ち神主等は高祖以來の傳承を無視する代りに、それを第二位第三位の小神に付與しておいて、さらに優越した統御者を、その上に想像し始めたのである。名稱は形である故に、もとよりこれを新たなる大神に移し、一つ/\の功績だけは古い分からこれを下臈の神におろし賜はつたのである。菅原天神が當初憤恚激怒の神であつて、後久しからずしてそれは眷屬神の不心得だから、訓誡してやらうと託宣せられ、牛頭天王が疫病散布の任務を八王子神に讓られたといふが如き、いづれも大人彌五郎の塚作りなどゝ、類を同じくする神話成長の例である。幾ら大昔でもそんな事はあり得ないと決すれば、恐らくはまた次第に消えて用ゐられなくなることであらう。
(327) 村に淋しく冬の夜を語る人々に至つては、その點に於いてやゝ自由であつた。彼等は澤山な自分の歴史を持たぬ。さうして昨日の向う岸を、茫洋たる昔々の世界に繋ぎ、必ずしも分類せられざるいろ/\の不思議を、その中に放して置いて眺めた。一旦不用になつて老嫗の親切なる者などが、孫どもの寢つかぬ晩のために貯へてゐた話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があつた。即ち童話と民譚との境は、渚の痕の如く常に靡き動いてゐたのである。而うしてもし信じ得べくんば力めてこれを信じようとした人々の、多かつたことも想像し得られる。傳説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なる注意の産物であつた。即ち岩や草原に殘る足形の如きものを根據としなければ、これを我村ばかりの歴史のために、保留することが出來なかつた故に、殊にさういふ現象を大事にしたのである。而うして我武藏野の如きは、かねて逃水堀兼井の言ひ傳へもあつた如く、最も混亂した地層と奔放自在なる地下水の流れをもつてゐた。泉の所在はたび/\の地變のためにいろ/\と移り動いた。郊外の村里にはかつて清水があるによつて神を祭り居を楢へ、それがまた消えた跡もあれば、別に新たに現はれた例もまた多い。此の如き奇瑞が突如として起るごとに、或ひはかのダイダラ坊樣の所業であらうかと解した人の多かつたことは、數千年の經驗に生きた農夫として、いさゝかも輕率淺慮の推理ではなかつた。説話は乃ちこれに基いて復活し、またしば/\その傳説化を繰返したものであらうと思ふ。
 
(328)     熊谷彌惣左衛門の話
 
          一
 
 私の小さな野心は、これまで餘程の廻り路をしなければ、遊びに行くことの出來なかつた不思議の園――この古く大きくまた美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけて見たいといふことであります。吾々は彼處がまことによい安息所であることは昔から知つてゐるけれども、そこへ踏み入るためには今日ではいろ/\の手數があつて煩はしい。型と名づくるものゝ澤山を承認しなければなりませぬ。
 幽靈は井戸のほとり、いつも柳の下に出るといふのは、泥鰌のやうでをかしな話、狸の小僧の酒買ひなどは、粉雪のちら/\とする寒い晩を待たなければならぬ。東京で怪譚を夏の夜のものと致したのは、多分白小袖と散らし髪の聯想でありませうが、これもまた不自由な話であります。第一に不思議を夜の世界にかぎるものとし、それをさらに際だたせるために、丑三つの鐘がゴーンなどゝ、餘計な條件を設けることになつて、却つてその他の時刻、眞晝間や宵の口には、得體の知れぬものが飛び廻る結果を見るのであります。
 吾々の不思議の園は荒れました。一筋の徑は雜草に蔽はれて、もはやプロムナードに適しなくなりました。鏡花先生の殊に愛せられる青い花のありかゞ、いよ/\不明にならうとしてゐるのであります。これはまことに大いなる人生の疲れでなければなりませぬ。そこで私どもは今一度、あらゆるこれまでの樣式から脱け出して、自在に且つ快活(329)に、いはゆる青天白日下の神秘を求めなければならぬのでありますが、それには殘されたるもう一つの入口、即ち、ちやうどこの吾々の社會の方へ向いた、まだ開かれない大通りがあるやうに私は思ひます。今囘の催しはいはゞそのための土地測量のやうなものであります。
 それ故にもし諸君の中に、今時そんな問題に苦勞をしてゐる人間があらうとは「不思議な話」だといふ人が、もしあつたならば、もうそれだけでも道が切り開かれたことになるのであります。少なくとも差し當つて、今晩の目的は達せられたわけであります。
 
          二
 
 しかし理窟をいふことは、不思議な話には甚だ似つかはしくない。不思議はたゞ感ずべきものであります。だから私はこゝに型を破つて、試みに出來るだけ事實材料ばかりを敍べて見たいと思ひます。
 話は吾々が尊敬する泉鏡花氏の御郷里から始まります。加賀國は鏡花門徒の吾々にとつて、また一個のエルサレムの如き感があるが、この地方の舊いことを書いたものに、「三州奇談」といふ一書があつて、すでに活版になつて居ります。その中に金澤城外淺野山王權現境内のお稻荷さまのことが書いてあります。これは元前田家の家中の小幡宮内といふ人の屋敷にありましたのを、後にこゝへ移して今以て繁昌してゐるのであります。その起源をかいつまんで申すと、明暦年中のこと、前田侯の家來に熊谷彌惣左衛門、本姓は渡邊といふ人があつた。知行は三百石、弓の達人でありました。或年の山科高雄(そんな處はない)の御狩の日に、この渡邊彌惣左衛門御供をして、孕める一匹の白狐を見つけ、あまりの不便さにわざと弓を射損じて、その命を助けてやりました。それ故に殿の不興を蒙つて彌惣左衛門、浪人となつて隣國の越前に行つて住みました。ところが前に助けてやつた牝狐が恩返しに、彼を武州秩父に棲むところの夫の狐のところへ紹介し、それからだん/\手蔓を得て江戸に出て淺草邊に侘住居をしてをると、白狐はこれに(330)授くるに奇術を以てし、よくもろ/\の病を治すことが出來た。仙臺の殿樣の御簾中、彼が名を聞いて召してその異病を加持させられたところ、即座に效を奏して禄五百石に取り立てられ、子孫を渡邊三右衛門といふとあります。その渡邊氏が御禮のために、淺草觀世音の境内に熊谷稻荷といふのを建立したといふのであります。金澤の方では右申す渡邊の舊友小幡正次なるもの、その話を聞いて、自分もその稻荷を祀つて同樣の利益にあづからうといふので、淺草觀世音境内の稻荷を勸請して邸内に祀つてゐた。小幡宮内はその正次の子孫でありましたが、狐を祀るといふなどは馬鹿げてゐると、その稻荷の祠を取り潰したところ、早速祟を受けて小幡の家は斷絶、それで本家小幡氏の領地淺野村の百姓たちが、その事あつてから約五十年の後、寶永四年四月に、再び祀つたのがこの山王權現社のお稻荷さまだといふことになつてをります。
 まるつきり跡形のないことではない證據には、確かに近い頃まで淺草觀音の境内に熊谷稻荷がありました。たゞ今では他の社と合祀せられて千勝神社となりましたが、「江戸名所圖會」その他には熊谷稻荷、一名安左衛門稻荷――彌惣左衛門ではなく安左衛門稻荷と出てゐるのであります。
 
          三
 
 私は今からもう十數年も前に、早川孝太郎君と協力して「おとら狐の話」といふ書物を世の中に出したことがあります。おとらは三州長篠の古城のほとりに棲んで、今でもあの附近の農村に非常な暴威を逞しうする老狐であります。老狐が暴威を振ふといふことはさもあるべしとしても、それにおとらなどゝいふ名のあるのは不思議ではなからうか。私は物ずきな話でありますが、これを問題にして大いに苦勞しました。しかし不思議には相違ないけれども、さういふ例は諸國に至つて多いのであります。例へば三河の隣の尾張小牧山の吉五郎、山中藪の藤九郎、同じくその近所の御林のおうめにおりつなど、これがみな男女の狐であります。中でも殊に有名なのは、大和の源九郎狐、これは「諸(331)國里人談」にも出て居りまして、その女房は伊賀の小女郎といふ牝狐だといつて、いろ/\の優しい話がある。
 この源九郎狐は人に頼まれて、飛脚となつて江戸とのあひだを始終往來して居つたところ、ある年小夜の中山で犬に食はれて死んだ。けれどもその持つてゐた?箱ばかりは完全に先方へ屆いたともいふのであります。甲府にはかつて浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衛門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました。それから陸前松島の雄島の稻荷さま、これは新右衛門樣と申して現在でも信心せられて居ることは、松島見物にお出でのお方は多分御承知であらう。非常に靈驗のあらたかなお稻荷さまで、久しく江戸へ出て歸つて來た、留學の狐でありました。私はすでに二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります。
 これはきつと何かの理由のあることゝ思ひますが、それを論究してゐるとお約束に背く。先づ今囘は省略しておきますが、兎に角に祀つてもらふことの出來るほどの狐ならば、名があり時としては苗字があるのは、いはゞあの頃の當然でありました。たゞ一つの不思議は、この場合においては熊谷彌惣左衛門は、祀られる狐の名ではなくして、これを祀つた人の名前と認められてゐることであります。この點だけが他の例と違つてゐる。それが何處まで他のいろ/\の狐の信仰と、一致するかといふことが問題であります。
 加賀の隣の福井縣では、南條都南日野村大字清水といふ北國街道の傍の村に、同じく熊谷彌惣左衛門稻荷といふのがありました。その由緒を記したものはいろ/\ありますが、「越前國名蹟考」に書いて居るのは、加州藩の浪人で苗字は不明、通稱を彌惣左衝門といふ者夫婦、この村に來たつて高木某といふ村の舊家に、二三年厄介になつてゐました。その後夫婦は江戸へ出て行くことになつて、途中武州熊谷の堤にさしかゝつたとき、一匹の白狐に出逢ひ、その白狐の依頼を受けて、淺草の觀世音の境内に、新たに建立して祀つたのが今の熊谷稻荷である。後年前の高木の主人次左衛門が江戸へ出て來て、かねて世話をしたことのある加州浪人彌惣左衛門を訪ねたところが、その稻荷のために大分工面がよくなつてゐる。それならば自分も祀りたいと、勸請して歸つたのがこの越前清水村の熊谷彌惣左衛門稻(332)荷であるといふのであります。このとき高木氏が國へ歸る途すがら、二匹の白狐が後先になつてついて來たが、その一つがやはり途中で犬にくはれて死んだ。それだから今のは後家だといふことも書いてあります。
 
          四
 
 この通り、加賀と越前の熊谷彌惣左衛門稻荷は、ともに松島の新左衛門同樣に江戸還りであります。ところがその淺草の熊谷稻荷の縁起も、現在あるものと古くからのものとは、よほど違つてゐるのであります。第一には稻荷の名でありますが、「江戸總鹿子大全」といふ元禄年中の書には、明瞭に熊谷彌惣左衛門稻荷とありますのに、「江戸砂子」の方には熊谷安左衛門稻荷とあります。現在の多くの書物の安左衛門は、すべて「江戸砂子」によつたものと思はれます。
 そこで江戸砂子の話をまた簡單に申上げると、年代は大分食ひ違つて居りますが、越前の大守、或年三日三夜の大卷狩を企てられたところ、その前夜に、御先手を勤める熊谷安左衛門のところへ、一匹の老狐がやつて來ていふには、どうか今度の卷狩には、私どもの一族だけは是非お宥《ゆる》しを願ひたいと、これは狐にも似合はぬ利己主義な話でありますが、どうか私の一族だけは助けて下さいと頼みました。そこで安左衛門が、お前の一族だか、他の狐の一族だか、その區別がどうして人間にわかるかといつたところが、私の一族は尾の尖が一寸白いからわかります。どうか尾の尖の白い狐は許して下さいといつて歸りました。そこで早速殿樣に話し、殿樣もまた人の好い方で、それでは助けてやらうといふことになつて、翌日からの狩には、白い尻尾を立てゝ見せた狐だけは助けてもらふことが出來ました。この安左衛門も後にやはり何かの理由で浪人をして、これも江戸に出て、白銀町に住んでをりました。ところが小傳馬町の藥師堂の前に住む障子作り、建具職の倅の長次郎といふ者が、ある日淺草觀世音に參詣して、手洗場の附近で、一見したところ田舍者らしき若い夫婦の者と喧嘩して歸つて來た。さうしたらその晩から狐がついて、大騷ぎになり(333)ました。俺は越前の國の狐である。無禮をしたからこの男に取り憑いた。どんなことをしたつて落ちないぞと、しきりに威張つてゐるそばから、しかしもしこの近所に熊谷安左衛門といふ人が居りはしないか。この人にはかつて狩場の恩があるから、その人が來ると俺は如何ともすることが出來ないと言つた。捜して見たところ白銀町の、いづれひどい裏長屋でありませうが、熊谷安左衛門といふ浪人が住んでゐた。是非々々お願ひ申しますと言つて頼んで連れて來たところが、狐は平身低頭をして早速に落ちてたち退いたといふのは、何だか豫め打ち合せでもして置いたやうな話であります。こゝに至つてかこの熊谷安左衛門が狐を追ひ落すといふことが評判になつて、小石川のさる御大家に抱へられて立身したといふ話であります。その結果最初には紺屋町邊の宮大工の店から、小さいお宮を買つて來て家に祀つて居つたが、後程なく淺草觀世音の境内に、熊谷稻荷として祀ることになつた、といふのが「江戸砂子」の説であります。「江戸砂子」が有名な著書である如く、この話も一般に非常に有名な話であります。「武江年表」にもちやんと出てゐるのであります。
 寛文三年六月十五日(淺草志には寛文二年)淺草に熊谷安左衛門稻荷社を勸請と、「武江年表」の中には出て居ります。それから四十五六年も經つて、また同じ年表の寶永四年九月四日の條には、熊谷安左衛門卒す。墓は新堀端横町本法寺にありとあつて、辭世の歌一首を掲げて居ります。
   拂へども浮世の雲のはても無し曇らば曇れ月は有明
 人に狐などをつけておきながら、これはまた餘りにすまし返つた辭世の歌だと思はれますが、狐と彼との關係とてもやはり一つの傳説で、ごく/\確かな話とはいへないのであります。第一に先程申す如く、この浪人の名字が熊谷だといふことは餘程疑はしいのであります。現にこの辭世の歌の刻んである本法寺の墓を見ますと、何處にも熊谷といふ名字は書いてないのであります。石碑の表は夫婦で、男の方は山本院東雲目頼居士とあつて、本來山本といふ名字であつたことが想像出來るのであります。淺草の熊谷稻荷の傍にも、元は一つの石碑がありました。この石碑には(334)山本院一中日頼とあつて、妻妹の戒名と連名になつて居りました。兎に角に曇らぱくもれ月は有明の歌をよんだ安左衛門といふ人は法華の行者でありまして、淺草の觀世音の境内にお稻荷さまを建てた人としては似つかはしくないのであります。又寛文三年に稻荷の堂を建てたといふ人が、四十五年後の寶永四年まで生きてゐたといふのも、かなりあり得べからざることであります。どうも少し長命すぎる。恐らくは同じ人ではなからうと思ひます。それから本法寺の石碑の方には、女房と二人名を竝べ、さらに淺草觀音にあつたのは妹と三人連名になつてゐるのでありますが、これ等の點から考へますと、どうやらこの法華の行者が狐使ひで、女房と妹を助手にして居つたのではないかと思ふのであります。もしさうでなくしてこれが熊谷安左衛門の墓であるとしたならば、女房は兎に角、妹まで出るわけがないのであります。つまり女房とか妹とかの口を借りて、五十年からさきの歴史を語らうとしますれば、話はするたびに少しづゝ、變つて來るのも決して不自然ではないのであります。外國ではしば/\試みられた社會心理の實驗でありますが、人を二十人か三十人一列に竝ばせておいて、簡單な百語か百五十語の話をこちらの一端で話して、それを順々に次の人に傳へさせ、後に他の一端に於いて言はせて見ると、もう非常に違つて來るのであります。かやうに隣同士が一列をなして、口から耳へ即時に傳へても、それが二十人からの人になると、もう元の形はなくなるのであります。ましてや數十年の久しきに亙つて、何度も同じ事をくり返して話すのであります。同じと思つてゐるうちにいつの間にか違つて來るのは、これはむしろ當然といつてよいのであります。
 
          五
 
 現在傳はつてゐるところの、淺草の熊谷稻荷の縁起なるものは、近頃印刷になつたいろ/\の書物に出て居りますが、これは確かに一種の改良であり、また整頓であつたかと思はれます。それを掻いつまんで申しますと、昔近江の國伊吹山の麓に山本圖書|武了《たけのり》といふ武士が住んでゐて、越前の太守朝倉義景に仕へて居つた。あるときの狩の前夜、(335)白髪の老人入り來つて、やつがれはこの一乘ヶ谷の地に永年のあひだ住居する一城小三太宗林といふ狐でござる。一女おさんなる者たゞ今懷胎して身重く、明日の狩倉の鏃を免れんこと覺束ない。どうか御家に傳はるところの傳教大師秘傳の「一の守り」を御貸しあつて、當座の危難を救はしめ玉へとわりなく頼んだ。狩倉の御人數として何たる不心得なことであつたか、快く承引して狐安全の護符を與へたとは、主人に對しては相濟まぬ話であります。ところがその後裔に山本武朝といふ者浪人をして、これもやはり江戸に出て大傳馬町に住し、その名を熊谷安左衛門と改めた。
 その隣町の小傳馬町の藥師堂の前に住む建具屋半左衛門の一子長右衛門――長右衛門の親が半左衛門は少々をかしい――寛文五年七月二十三日と、これは日まではつきり出てをります。その日にこの若い者に狐がついて、口走つて言ふのには、この者は町人の分際として、夏足袋に雪駄をはき、杖などをついたりして實に不埒な奴である。さうして觀音堂の水屋において、我に手水をかけておきながら、却つて喧嘩をしかけて、杖でこちらを打つた。憎い奴だからこの男についたと言ひました。註釋を加へるとまた理窟になりますが、寛文五年頃に夏足袋に雪駄をはいた町の若者といふのは非常に信じにくい。かういふ亂暴なアナクロニズムは、よく/\御粗末な大衆文藝家でもやれない藝であります。
 それからなほその狐がいふには、俺は越前一乘ヶ谷の小三太宗林の一類で越中安江の中の郷に住む宗庵といふ狐の子息、宗彌といふ狐である。山本家に對しては我先祖に取つて狩庭の恩がある。さうして熊谷安左衛門こそは山本家の嫡流であるから、その下知には從はなければならぬと告白した。そこでまた早速その熊谷安左衛門を頼みに行きまして、來てもらふとたちまち退散したといふことで、そのときには白狐ではなく、黒白斑の大狐が姿を現はして逃げて行つたといつて居ります。それから早速その翌日に淺草觀世音の境内へ祠を建てたといふのが、現在の熊谷稻荷だと新縁起には見えてゐるのであります。
 我々がこの話の不思議さを了解するため、或ひはこの話の意味を知るために、先づ問題にしなければならぬのは、(336)昔朝倉義景の時代にあつて、狐が夜分にやつて來て護符を貸して下さいと言つたといふやうな、さういふ隱密の事件を全體誰がいつまでも記憶して居つたかといふことであります。正面から見て最も主要な歴史家は、小傳馬町の建具屋の件、夏足袋雪駄の長右衛門であります。その次にはこの浪人の山本氏、即ち熊谷安左衛門君でありますが、これは極めて樂な地位であつて、黙つてやつて來て、なる程そんなこともあつたやうだといふ顔さへしてゐればよかつたので、積極的には別に大して働いてをりません。つまり誰が一番この話を保存するに盡力したかといふと、狐が人に憑いていふことを眞に受けることの出來た周圍の人々といふことになるのであります。さういふ人々の社會が、三百年前の奇なる史實を、かくして兎に角に不朽にしてくれたといふ斷定に歸するので、少しぐらゐの食ひ違ひはさうやかましくいふことも出來ないわけであります。
 
          六
 
 全體江戸の狐狸は、よく昔から北國筋へ往復してゐるのであります。例へば前の「三州奇談」の中に今一つ、有名な藤兵衛駕籠屋の話があります。これは上州茂林寺の文福茶釜の守鶴、小石川傳通院の宅藏司、江州彦根の宗語狐、或ひは鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつたといふ類の話と、日を同じくして談ぜらるべきものであります。
 これも金澤城下の淺野といふところに、山屋藤兵衛といふ駕籠舁が、通し駕籠で客を送つて江戸まで出て來た。その歸りに淺草橋場の總泉寺から、年とつた坊さんを京都の大コ寺まで送り屆けることになつて、武州深谷の九兵衛といふ男を相棒として、再び通し駕籠で北國筋を歸つて來た。そのときもやはり建長寺の狸のお使僧と同じやうに、所々の宿屋では書を書いて人に與へる。その字が今日まで殘つてゐるのです。さうして泊りを重ねて加賀の宮の腰といふ宿場にかゝつて休んでゐると、非常に強い犬が駕籠の中へ首を突つ込んで、その坊さんを引き出して咬み殺してし(337)まつた。びつくりして介抱すると、坊さんの正體は貉であつたといふのであります。さうしてその貉が金を澤山持つてゐる。しかし引き取るものがないので、二人の駕籠屋がこれを持つて、橋場の總泉寺へ來て話をしたところが、總泉寺でいふにはもう二百年も前から、あの老僧は我寺に住んでゐた。さうして是非京都へ行きたいといふので送り出したが、命數は免れ難く、いよ/\道途に於いて終りを取るといふ夢の告げがすでにあつた。その金はお前たちの方へ取つて置けといふので、たちまちこの二人が金持になつた云々といふ奇談であります。
 それからまた一つ、越中の滑川在の百姓八郎兵衛といふ者、家貧しくして營みを續け難く、親子三人で北國街道をたどつて江戸へ出ようとした途中、狐がお産をするのを見て、憐れんでその狐の子を介抱してやつた。それから難儀をしい/\武州へ入つて來て、熊谷から少し南の鴻の巣の宿へかゝつたが、食物がなくて路傍の茶店に休んでゐると、そこへ一人の見なれぬ老僧がやつて來て、お前はまことに善人だから餅をくれようといつて、店先から餅を買つて三人の者に食はせた。その老僧がたち去つてから、茶店の亭主がいふには、お前さんは何か善いことをして來ましたね。あの人は四五年前からこの土地をあるいてゐる不思議な坊さんだが、どうも狐らしいといふ評判である。あの人から物を貰つた者は必ず立身する。私も一つお前さんに縁を繋いで置かうといつて、江戸へ行つたらどこそこへ訪ねて行くやうにと紹介?などを書いてくれた。かうして早速の便宜を得て、江戸は駒込の何とかいふ處に住んで、だん/\に榮え金持になつたといふのであります。これ等は北國往還の旅人と、武州の狐との間に結ばれる因縁話の、最も普通の一つの型なのであります。狐が旅行をすることは前にも申しました。大和の源九郎狐と同じ話は、隨分諸國にありまして、その話なら自分の國にもあるといふ人によく出逢ひますが、その中でも一番有名なのは、秋田の城址の公園にある與次郎稻荷、これもやはり飛脚になつて、始終江戸へ往來をしてゐた。佐竹家には大事な狐でありましたが、或時新庄とか山形とかで、人のかけた鼠の油揚のわなにかゝつて殺されたのであります。獣類の悲しさには、殺されることを知りながらもそれを避けることが出來なかつた。跡には?筥が殘つてゐて、その?筥だけ江戸の藩邸へ屆い(338)たといふ話であります。また因幡の鳥取にも、どの飛脚よりも達者に、短い期限で江戸に往復してゐた狐の話があります。同じ例は三つや四つではないのです。ところが武州の熊谷堤でも犬に食はれて正體を現はしたといふ狐の飛脚の話があるのです。何に出てゐたか、今はちよつと見當りませぬが、その狐の化けた飛脚の名前が熊谷彌惣左衛門であつて、後にそれを稻荷さまとして淺草に祀ることにしたといふことが出てゐたのであります。
 それからこれと關係があるかないか、まだ私には斷言は出來ないのでありますが、右の熊谷堤の近くの熊谷の熊谷寺の境内に、やはり熊谷彌惣左衛門といふ稻荷さまがあります。一名を奴稻荷と申して居ります。近い頃の言葉でヤツコといふのは、子供の頭に剃り殘した鬢の毛のことで、上方でいふビンツであります。だから今日では、ヤツコといふのは即ち子供を意味するとこじつけて、專ら小兒の疱瘡その他を守護する神となつて居ります。信心する者は、その子供を十三までとか十五までとか年期をかぎりまして、稻荷樣の奉公人にするといつて奉公人請證文を書いて稻荷さまに納めます。さうするとその子供は、非常に身體が丈夫になると申します。面白いことには、子供をこの熊谷彌惣左衛門の奉公人にした以上は、決して親が叱つてはいけない。これは非常に深い意味のありさうなことで、子供は親の折檻に伏すべき者ではあるが、一たび熊谷稻荷の家來にした上は、親でもこれを支配するわけには行かぬといふわけであつたのかも知れませぬ。兎に角叱つてはいけないといふ奇異なるタブーに、一つの不思議が潜んでゐるのであります。
 さらに今一つの不思議は、熊谷彌惣左衛門といふ名は、この熊谷の町では正に狐の名といふことに明瞭に認められてゐるのであります。この點に關しても、早くからの口碑があります。熊谷家の中興の祖で、みな様十分御承知の熊谷次郎丹治直實が、戰場に臨んで敵手強しと見る場合には、必ず何處からともなく、一人の武士が現はれて加勢をする。そして我こそは熊谷彌惣左衛門といつて大いに働いて、戰が濟むとたちまちゐなくなつてしまふ。或時次郎直實があまりに不思議だと思つて御身はそも誰ぞと訊きますと、ちやうど「徒然草」に記されたる土大根《つちおほね》の精靈の話の如(339)く、我は君の家を守護するところの稻荷である。これから後も火急の場合あらば、彌惣左衛門出合へと呼はりたまへ、必ず出でゝ御奉公申すべしと答へて消え失せたといふ話であります。これはいろ/\の書物に出て居りますが、最も人のよく知つてゐるのは「木曾路名所圖會」であります。今から百三十年前の享和元年頃に世に出た書物でありますが、その内容はそれほど新しくはないので、私の知るかぎりに於いては、少なくもそれからなほ百年近く遡ることが出來るのであります。信州天龍川右岸の三河境、坂部《さかんべ》の熊谷家といふのは、あの邊で有名な舊家でありますが、その家に「熊谷傳記」といふ書が傳はつて居ります。先代の熊谷次郎太夫|直遐《なほはる》が、明和年間に書き改めたもので、ずつと前からの記録だと言つて居りますが、これにもやはり右にいふ彌惣左衛門狐のことが書いてあります。全體熊谷といふ名字は、三河にも信濃にも大分廣く分布して居つて、いづれも元は武藏の熊谷から轉住した家です。或ひは何かの信仰と關係した家ではなかつたかと思ふのは、別に政治上の原因でこの一族を、かやうにひろく移動せしめたものがないからであります。少なくともこの家の人たちはいづれも信心深く、かつ熊谷彌惣左衛門の實は稻荷であることを信じてゐました。他の地方の舊い熊谷家では現在も稻荷を信じ居るかどうか。私はおひ/\に尋ねて見たいと思つて居ります。
 兎に角にこれから考へて見ると、熊谷彌惣左衛門の通稱は、いかにも中世の勇士らしく嚴めしいまた物々しい名前ではありますけれども、實はそれは狐自身の選定、狐の趣味、狐の理想でありました。ところが狐のことであれば致し方がないといふものゝ、この彌惣左衛門といふ通稱には差し合ひがあつたのであります。熊谷家の系圖を調べて見ると、直實の子が小次郎直家で、その子が平内次郎直道、直道の次男に熊谷彌三左衛門尉直朝といふのがあつて、それが本家を繼いで居ります。即ち嫡流第五代の主人公が彌三左衛門であつたことは知らずに、さしもの靈狐も畜類の悲しさには、系圖などの吟味も行き屆かずして、平氣でいつ迄も彌惣左衛門の昔話をして居りました。
 私のたゞ今考へてゐるのは、不思議は決して一朝にして出現するものでなく、そのよつて來るところは、久しく深(340)く且つ複雜なるものがあるといふことであります。この書を御讀みになる方の中に、もし熊谷の一統に屬する人があつたならば、何と思はれるか知りませんが、どうも熊谷家には、何かといふとこの彌惣左衛門といふ通稱を用ゐたいといふ傾向が、昔からあつたやうに私は感ずるのであります。それはあたかも鈴木といふ家の人がよく三郎と名づけられ、あるひは龜井といふ苗字にはしば/\六郎と名乘る人が多いのと同じやうに、家に專屬した一種の趣味、または隱れたる性癖ではないかと思ひます。
 私の以前親しくしてゐた先輩に、農學士で熊谷八十三君といふ人があります。これは讃州高松の熊谷氏で、祖父八十三の長命にあやかつた名といひますから、原因は獨立してゐます。次には香川景樹の高弟で、「浦の汐貝」といふ有名な歌集の作者、熊谷直好といふ人も通稱は熊谷八十八でありまして、これは周防の熊谷氏でありました。
 そこでたつた一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、凡そこの世の中に、「人」はど不思議なものはないと。
 
  木思石語
 
(343)     自序
 
 この小著の特徴の一つは、旅を愛する若い人たちを聽手として、傳説といふものゝ意義を説いて見ようとした點に在るだらう。十四五年以前、ちやうど木思石語を書き始めた頃までは、まだ斯ういふ問題に興味をもつ人が、都府のまん中にも澤山に居たのであつた。今になつて考へて見ると、この期間は永かつたとは言へない。旅が詩歌の題材となつたのは古く、紀行文學の世に出たのも新しいことでは無いが、それが多數の追隨者を得たのは、明治中期の印刷文化の餘澤であつた。一方には交通が急に自由になつて、誰にでも漫遊が出來る時代が來たのである。春の好い季節の試驗休みは言ふに及ばず、夏の炎天の野でも山でも、無事に苦しんだ元氣な青年が、草鞋に脚絆といふやうな古風ないでたちで、どこと無くあるきまはるのを、元はよく見かけたものであつた。それが今日の所謂身心鍛錬の大群行動となるまでには、靴だゲエトルだ背嚢だ水筒だといふ類の、こまかな幾階段の改良を經て居るのだが、結局は觀て來る感じて來るといふやうな、寂しい素直な旅をする者が、いつと無く見られぬことになつたのである。旅行道の歴史に於いて、この約五十年は記念すべきものであり、又相應に大きな效果を擧げて居る。人が生まれ故郷の感覺から離れて、地方といふものをはつきりと學ぶのはこの機會であつた。祖先を共にする者の一致して持ち續けるものと、個々の境涯に應じて次々に發明して行くものとの、織り上げた綾模樣は美しかつたが、さういふ中でも傳説は然るべき仔細があつて、特に淡懷多感の旅人の胸を浪打たしめたのである。傳説といふ漢語が現在は全國の口言葉になつて居るのも、實は青年が先づ?之を口にしたからであつた。「旅と傳説」といふ雜誌が弘く世に迎へられて、十五年を重ねたのも其力であつたのみならず、私が斯ういふ問題に心を傾けて、情熱を以て之を人に説かうとしたのも、やはり又この時代の風潮に搖かされて、圖らずも(344)旅で新たなる知識を求めるやうになつたからであつた。
 しかも日本民俗學の諸項目の中で、傳説のやうに花やかで、同時に解釋の下しにくいものも稀である。誰でも片端は是に興味をもち、誰でも本當にわかつたといふ者は無い。始めてこの方面の學問に入り込むのも茲からであれば、最後に殘る未開地も亦茲に在る。木思石語を書くよりも又十五年ほど前に、私は既に山島民譚集といふ大膽なる一著を公けにして居る。それから後も機會を得る毎に、幾つかの文章を書き、一部分は是も本になつて居る。大體からいふと、多くの類例を集め竝べて見るまでは困難なことではない。又それだけでも人の關心を惹くことは出來る。たゞ其背後には深い根があつて、非力ではたぐり寄せることが出來ないのである。よその民族には自分の知つて居る限り、是ほど傳説の豐富なるものも無く、又斯ういふ形態を以て保存せられて居るものも少ない。つまりはこの一つの問題のみは、捜しても外國に參考書が無いので、それで世上の學者と呼ばれる人々が、講究を斷念して居たのである。次の代の日本人の能力は要求せられ又試驗せられ、更に大きな褒賞を以て待ち受けられて居る。私は不幸にしてまだ到達して居ないけれども、前途は遙々と見えて居るやうな氣がする。從つて斯ういふ微弱なる努力の一書でも、なほ後世に承認せられるであらうといふ、希望だけは失はないのである。
     昭和十七年八月
 
(345)     木思石語 一
 
       傳説と口碑
 
 今でもまだ傳説といふ言葉は、可なり色々の違つた意味に使はれて居る。出來ることなら一定して置く方が便利であるが、其爲には今少し御互ひに、話し合つて見る必要があると思ふ。強ひて主張するといふ程でも無いが、自分などは現在ごく狹い意味に此語を用ゐて居る。「旅と傳説」は之に比べると幾分か弘く、殊に讀者寄稿家の心持などは、それ/”\異同があり、其範圍も必ずしも一定しては居ない樣に見える。言ふにも及ばぬことだが、是は傳説といふ漢字の字義に由つて其當否を決すべきものではない。支那には稍々古くから斯んな熟語があつたといふのみで、今我々が日本で之を問題にしようなどゝは、誰だつて豫想したものは無く、又打合せをしてきめた者も無い。言はゞ耳馴れた有合せの漢語を、最も有效且つ便利に應用さへすればよかつたわけで、私たちもたゞ何と無く、傳説を「傳はつて居る説話」と解して居る人が多さうだから、それに從つたといふに過ぎない。ところが他方には又「傳へ説く」と動詞に使つて、何によらず親々の代から、口で與へ耳で受けて、次々に言ひ傳へたものは皆、傳説だと思つて居る者も尠なくは無いので、地方の人たちが口碑傳説と一口に謂ふのは大抵はさういふ考へに基いて居るやうである。しかし自分に言はせるなら、既に口碑といふ佳い語がある以上、大體それに似たものに今一つ、餘分の名を付與するは贅澤(346)であり、二つがもし全部と一部との相違なら、斯うして連稱することは當を得て居ない。口碑は其文字から何人も推測し得る如く、口を碑文の代用として後世に傳へんとする一切のもので、何と解釋しようとも、傳説は必ず其中に含まれる。斯んな氣の利いた單語の發明は、正に支那人の特長と言つても宜しい。西洋の方にはちよつと是に似た適切又は手輕な名前が無い。我々が通例「傳承」と譯して居るトラヂシオンは、事によると永年の法律制度のやうな、或少數の權力者の考へで定めたものまで、一しよくたにされる懸念がある故に、特に民間の「傳承」と斷らねばならぬ必要を認める。それでも尚「しきたり」と「言ひきたり」とを區別しようとすると、御丁寧に「民間の口頭傳承」といはなければ通じないことになつて居る。然るに我々日本人の間だけでは、コウヒといふ二音で他には何の紛れも無く、口と耳とで承け繼いで居る昔のものゝ全體を、總稱することが出來るのである。だからなまじつか傳説といふが如き、範圍のまだ劃然としない言葉を附け添へて置かぬ方がよい。要するに口碑は口碑である。傳説と相對して二種でも無く、又ぴつたりと同じものでも無い。二つを引離して考へて見る必要が先づあるのである。
 
       口碑の分類
 
 口碑は口に屬し又耳で管理せられるから、之に對立するものは目で見るもの、即ち主として手足の働きと、今一つは直接に心で感ずるものとで其間には判然とした堺がまだ立たぬ故に、普通には引くるめて之を風俗習慣等と謂つて居る。耳で聽かれる我々の昔風も、大抵は亦この二つのものと結合して、一つの印象となつて若い者を感化して居るので、今まではそんな差別も不可能の樣であつたが、試みに外國人などがやつて來て日本の平民の生活を知らうとする場合を想像して見ると、確かに彼等の知識は三段になつて入るのである。自信の強い英米人の如く一言も國語を知らずに旅行する者でも、神社に鳥居があり參詣人は手を合せて拜をするものだといふことぐらゐは分る。それから追(347)々に言葉を覺えて來て、始めて盆踊が單なる手足の上下で無く、素朴な音樂の陰に何代と無く引續いて、人を笑はせ又溜息をつかせるやうな、込入つた感情が歌はれて居た事を知るのである。しかも其以外に如何に思ひ遣りの深い彼等でも、到底理解し得ない無言の知覺、殊に信念といひ常識と名づけられて、同じ仲間の者ならば何の造作も無く、親から子に孫に相續して行くもので、異種の外人なるが爲に努力しても知り難い點が幾らでも殘るのである。だから自分たちはこの三つの中に立つ口碑に對して、一方には體碑、他の一方には心碑とでも名づくべき一團の傳承を、區別して見ようとして居るのである。しかし此問題は直接に傳説とは關係が無いから、先づ是以上には述べぬことにして、爰には主として口碑、即ち人間の口を以て傳はるものゝ、内容を分類することゝしたい。簡單なものから順を追うて列擧すると、第一には言語は主要なる口碑である。何べん造り改めても舟はフネ笠はカサ、是あるが爲に昔の人のしたことが、解らぬとは言つても大よそは想像せられる。動詞や形容詞の影も留めぬ過去の生活でも、言葉がある以上は心持となつて我々の中に遺つて居る。小は草木蟲魚の只かりそめの交渉から、大は人間の社會を統一に導いた義理情愛禮儀作法の一つ/\に至るまで、名があつて始めてそれが基く所遠く、隱れた因縁の容易に絶ち難いことを知るのである。殊に其中でも固有名詞と謂つて、ある人ある土地ある物に付與した言葉は、今でもそれ自身が歴史の本體であり、書物に事細かく書き記した場合は別として、耳で承け繼いで居る記憶の中で、最後まで保存せられるものは名前である。第二には之と關聯して、其言語の利用法、即ち單に語法を學んだといふだけでは、使ふことの出來ない特別の文句、長い間の親々の實驗を通つて、癖になるまでによく現はれる土地々々の物言ひである。其中にも之を始めた人の才能の働きによつて、聽く者に大なる興味を與へ、從つて眞似受賣の一段と盛んなるものがあつて、今日は之を諺と稱して、別途に傳承せられて居る故に、これを口碑の第三種に算へることが出來る。コトワザは必ずしも格言教訓の狹い目的をもつものばかりとは限らない。主たる用法は會話を簡單にし、短い語數で出來るだけ大きな效果を收めるに在つた。新しいものには輕口秀句、相手を笑はせることを主とした例も多い。それからタトヘと名づ(348)けて、奇警なる觀察批評を以て、人を感心させようとするものもあれば、単に入用な知識を記憶し易い形にして、其利益を普及したものもある。それを細かく分けて行くことは爰では六つかしいが、弘い意味からいふとコトワザの中に入れてよい物言ひで、通例は別に算へて居るものに謎言葉がある。これにも階段があつて前以て豫習をした人で無いと、どうしても悟れない程六つかしいものと、少しく智慮を廻らせば自然に解けるものとあるが、何れにしても本意を隱してゐるといふ點に、興味の中心を持つて來た點が他の諺とは違つて居る。しかも始めて聽く者に取つて新しいといふのみで、實は親代々の古い形を追つて居る。其中でも問答の形式を取つたナゾといふものなどは、今はもう流行らぬが以前は人望ある智慧の競技であつた。問答では關東によく行はれた「一羽の鳥をニハトリとは是如何」の如き、乃至は全國に知られて居る「子買を/\」の掛け合ひの如く、全然方式化してしまつたものがまだ幾らもあるが、何れも遊戯としての興味によつて、偶然に昔の生活の跡を保存して居ることは同じである。今此等のものを一括して第四種の口碑に算へるとすれば、次には又第五として、トナヘゴトといふ一類を設けなければならぬ。唱へ言も外形は諺とよく似て、現に其中に編入せられて居るものも多いが、その最初の用途は著しく異なつて居た。此方は寧ろあまり多くの他人に知らせぬのを利とし、知つた者同士の仲間ならば格別、さうで無ければ口の内で唱へるのを例として居た。つまりは諺が人と人との交通であるに反して、これは神又は靈を相手としたコトワザであつた、呪文と謂つて居たものゝ系統に屬するからである。從つて是には謎よりも更に解しにくゝ、又間違つた言ひ方をして有難がられて居るものが多い。しかし近世の成人は段々に唱へ言を使ふまいとする傾向がある。さうして子供等ばかりが尚盛んに、烏や鳶や螢や蝸牛、其他の微細なる天然に對して、今もをかしな文句を繰返して居るのである。人によつては之をも童謠の一つに見て居るが、少なくとも根原に於いては丸で別なもので、一方は是でも話術の一種であつた。それが改まつた場合には所謂切口上を用ゐ、特に其調子を花やかにしたのと、小兒は趣意を知らずにたゞ外形を眞似て居た爲に、段々に呪文の性質を失つて、歌と同じく自分たちの仲間だけで、樂しみ興ずる樣になつてしまつたので(349)ある。螢に「來い/\」と謂つて螢が來なくとも、何とも思はぬ樣になつたのである。
 
       歌と物語
 
 口碑の一番重要なる部分として、人が夙くから注意して居たのは歌であつた。是を自分は第六種に算へる。歌も最初には眼にも見えぬ靈界の聽き手の感動を、豫期して居た點は唱へ言と同じであつたが、此方は人間の中の幼少で無い者までが、其樣式の面白さに引付けられてしまつて、いつの間にか之を信仰以外の、自分たちばかりの娯樂に供するやうになつて居る。詳しい事情は私には説明が六つかしいが、察するに呪文といふ方は幾分か相手を安く見て、出來るものならば欺きもし、すかしもしようといふ智略がまじつて居たに反して、祭の歌は單純なる禮讃渇仰の聲であつたが故に、傍で聽いて居る同輩の情を動かすことが強く、言はゞ神靈よりも先に、之を悦ばしく忘れ難きものに、感ずるやうになつたものかと思ふ。そこで何かの折には知らず/\、之を口ずさむ者が多くなり、音樂は次第に成長して來ると共に、之を試みる場合が段々と繁くなつたのである。尤も田植とか木遣地突きといふ類の特殊の作業、又は祝宴酒盛などの會合は、今日我々が想像する以上に、歌の入用なる晴の儀式であつた。本來の趣旨は概してもう忘れて居るが、斯ういふ際に歌が無くては濟まぬといふ心持だけは、續いて日本には傳はつて居たのである。そればかりで無く、人が唱へ言に對して稍々冷淡になつた後まで、歌だけは始終大切に之を守り育てようとした理由が、まだ他にもあるかと思はれる。歌には最初から明らかに二通りの種類があつた。一つは短くて簡單で所謂餘韻を主としたものと、今一つは長い文句を丁寧に積重ねて、委曲を盡さゞれば止まぬものと、誰が見ても目的は同じとは考へられぬものが竝び行はれて居た。それを敍情詩と名づけて、正しいかどうかは疑はれるが、恐らく一方は人の爲に神に訴へるものであつたが故に、洞察を豫測して寧ろ絮説を省き、他方は神樣に代つて常人に説示する爲に、斯くの如く精(350)敍して其記憶に便にしたもので、即ち後世の言葉で歴史教育と謂つたものゝ起りは、昔は之を信仰の行事の中に、包容させて居たのでは無いかと思ふ。是はいま自分等の「傳説」と名づけて居るものとも、深い關係があることだから今少し詳しく考へて見たいが、個人の言語を利用するのに、言ふと聽くとの二通りの道がある樣に、一つの群又は部落が歌を聽く時にも、前からちやんと知つて居る事と、それは今まで知らなかつたといふものと、題材はおのづから二種に區別せられ、之に對する態度又は興味の中心といふものが、全然に別でなければならなかつたのである。然るに日本では以前その二つの歌が、常に同じ折のみに歌はれて居た名殘で、今でもまだ其堺をはつきりと立て得ない人が多いが、氣をつけて見ると發達の跡はほゞ二流れになつて居て、存外に混同をして居ない。例へば國々の盆踊の歌などでも、ごく簡單な何度でも繰返される短歌と、俗にクドキと稱する長篇の語り物とがあるのみで、其中程に位するものは一つも無く、クドキは年を追うて長くなり新しくなりつゝある。即ち「うたふ」と「かたる」とは元々異なるもので、單に莊重なる句法の外形が、一部分だけ似て居たのと歌をうたふ日に歌をうたふ人たちが、言はゞ其機會を利用して、必ず後の世に傳へなければならぬ物語をかたつた爲に、いつも二種の詞曲は一括して考へられるやうになつたのかも知れない。
 
       説話の元の形
 
 果して私の想像の如しとすれば、等しく口碑と謂ふものゝ中でも、第一種に擧げた日々の言語から、第五の唱へ言までが「傳説」で無いことは勿論、第六番目の歌と名づくるものゝ中でもその古くから有る大切な半分は、やはり亦傳説の外なのであつた。佛蘭西の學者などには此方を小歌(シャンソネット)、他の長々しい語り物を歌(シャンソン)と謂つて居る人もあるが、さうすると歌が如何にして始まつたかと考へる場合にも都合が惡く、又説話と物語と(351)の關係聯絡を説明する爲にも不便である。自分等の今日少しも疑つて居ない一事は、書物が普通の教育に利用せられたのは、至つて日が淺く、其以前は大部分見やう見眞似、即ち觀察と傍聽とに由つて自ら學んだものだが、さういふ中にも是だけは是非とも、改まつて教へ覺えさせて置かなくてはならぬと、父兄先輩の考へて居る事柄があり、それは主として歴史と修身とであつたが、何れも所謂口頭傳承の方法を採用するの他はなかつた。この場合にも昔からの仕來りがあつて、第一には此教育を施す時期を擇び、單に青少年男女の閑で遊んで居る時といふのみで無く、祭とか葬の前夜とか、或ひは冬の夜長の特に豫定せられた時刻とか、最も彼等の感情が純化して且つ鋭敏になつて居る際を待つて居た。それから第二には用語と敍述の順序を整頓して、たゞ面白く興があるといふのみで無く、最も印象深く且つ記憶し易く、他日更に次の代の者に引繼ぎ易い形體を具へることを努めた。尤もそれは教科書を三號活字で組むといふやうな、意識しての事業で無かつたことは無論だが、馬琴の小説の七五調などを見てもわかる通り、獨り朗讀する者の呼吸の都合といふだけで無く、同時にそれがこの國民の久しい昔から、物を受入れ理解して行く調子とも、自然に折合ひ又一致して居たのである。だからもし句を切つて節を設け、稍平生と異なつた速度を以て讀み上げること、乃至は珍しく又耳に快い語音を選拔してそれを綴つて文を成すことが歌ならば、古來の日本の民間説話は、曾ては悉く歌であつた時代がある。それが所謂小唄の如く、たゞ音樂を以て生命としたものと反して、人が其内容のみに一段と強い興味を持ち、文句は忘れたけれども斯ういふ内容の話があつたと、形と本質との二つを引離して、承け傳へることが出來るやうになつて、爰に始めて今日の「話」が出來たのである。古い國語を捜して見ても、ハナシといふ名詞は元は無かつた。咄とか噺とかいふ和製の漢字はいつ頃からのものか一寸確かめにくいが、兎に角に昔の書物の中には無い字であり、一方では又話といふ字の和訓も、以前はカタルもしくはモノイフであつた。人が今日のやうに早口で長い時間、物を言ひつゞける技術は實は新しい發達であつた。田舍には今なほ會話は簡短を悦び、聽く人を疲らせるやうな口達者は、オシャベリと名づけて忌み嫌ふ風が殘つて居る。即ち大切な問題で謹聽を必要とするも(352)のには、改まつた切口上を用ゐ、さういふよそ行きの言葉を使ふときは、忽ちあたりの人が眞顔になつて、ウソにも出鱈目にも動かされ易い弊害の生じたのも其結果であつた。ところが信仰や境遇の變化につれて、自然に歌ずきと話好きとの二派に別れ、形に倦む者は殊に熱心に、新しい世間の話を貪り集め、末にはとても其全部を、律語にして語ることも出來なくしてしまつた。さうして爰に始めて説話と名づけられる口碑の一部門を、獨立せしむることになつたのである。人は或ひは昔話といふ語によつて、昔も「話」があつたことを想像するか知らぬが、これはたゞ昔語りを話にした後のことで、しかも重きを形式に置かなくなつたといふことはあるが、それでも古いものほど、尚少しづゝは曾て明瞭なる句切りを以て、如何にも悠揚とかたつて居た痕跡を留めて居る。さうして單なる外側の條件から判別するならば、今日我々の仲間などで傳説と謂つて居るものは、その昔風の約束の最も少ないもの、最も自由に話の形式を更へて行くことの出來るもので、從つて時代に適應して始終新しく、いつも歴史の隣まで來て居ることの可能なる説話であつた。或ひは特にこの二種の口碑即ち歌謠と説話との中間に、更に一つの歌物語ともいふべき部門を、立てる方が便利では無いかとさへ思ふ。
 
       説話から傳説へ
 
 しかし兎に角に現在のところでは、まだ何人もさういふ分類をしては居ない。歌謠は歌謠であつて其中に古くからの歌物語を含み、説話は是と對立して、ハナシの形を以て出來るだけ多くの物語を、保存しようとする仕事と解せられ、傳説は即ち其説話の一隅を占めて、歴史とは截然たる區劃を立てられるものとなつて居る。それが果して實際に適合した分類であるかどうかは、是から尚進んで澤山の傳説を集め、細かく比較して見た上でないと決し兼ねるやうに、近頃になつて私も考へ始めた。しかし今日でも大抵まちがひの無い二つの事實は、傳説の改造が少しづゝ、目に(353)立たぬ程度で我々の時代にも行はれて居るといふことゝ、傳説の壁一重隣は我々が歴史と名づけて、國家公權の力を以てしてゞも、必ず學ばせようとして居るものだといふことゝであつて、それから推論して傳説は他の種の口碑よりも、一層急いで採集して置く必要があり、又出來るだけ確實に且つ弘く、傳説とは何であるかを知つて置かなければならぬといふことになる。謎や諺や歌謠の類は、單に消えるか殘つて居るかの二つに一つだが、此方は十年二十年の短い間にも、もはや前に聽いたものとはまるで變つた話が、ちやんと入れ代つて出來て居り、それが少なくとも外形に於いては、前より後の方がずつと精密に、且つ尤もらしくなつて居るのである。さうして何かといふと御隣の歴史の言ひ傳へと、手を組んであるかうとする故に、用心をしなければならぬのである。しかもたゞそれだけの厄介な誤解の種ならば、成るべく相手にせぬ様に遠ざけて居ればよいわけだが、傳説の大きく又新しくなつて行く現象には、まだ究められてない人間社會の法則があるのみならず、今ある傳説の中からで無いと見出すことの出來ない昔からの大切な言ひ傳へが、是から漸く整理せられなければならぬのである。旅人の多くはそんな面倒な仕事にまで、無論參與すべき義理は無いのだが、ほんの氣紛れの切れ/”\の採集でも、それがどれだけまでの學問上の手柄になるのかを、知つて居ることは愉快なことである。自分はもし能ふべくんば、日本の山水が變化に富み、生物には珍しい種類が多く、よその國々の人から羨まれてもよい經驗を供すると同じく、門を出ればすぐ目に觸れる一本の樹、又一塊の石までが、それ/”\の傳説を持ち、それが際限も無く活きて生長をして居るやうな國は、世界弘しといへどもさう澤山は無いといふことを述べて、如何に我々の旅行が張合ひのあるものであるかを、もうすこし細かく説いて見ようと思つて居る。
 
(354)     木思石語 二
 
       旅と傳説
 
 我々は日本人の保有する莫大な口碑の中で、特に「傳説」と稱する一種類ばかりが、何故に斯く旅人の心を動かし、その結果は或ひは誤つて、傳説即ち口碑のすべてでもあるかの如く、解する者をさへ生じたのであるか自分は此疑問に答ふぺく、三つほどの理由を擧げることが出來る。心ある旅人がもし其理由を咀嚼してくれられるならば、單に採集の興味が之に由つて更に加はるのみでは無い。行く/\は其協力に基いて、恰かも今日の植物學や昆蟲學が、確固たる一派の學問となつたと同じやうに、新しい社會知識の一系統を、打立てることも不可能では無いのである。
 私のいふ三つの理由は、同時に又傳説の三つの特徴といふことが出來る。其一つは傳説の形式といふか、或ひは寧ろ無形式といつた方が正しい。即ち傳説には定まつた順序、話し方が無いのみならず、之を語るべき人にも時にも、一切の制限といふものが無いことである。近世の民間説話は、一般に古くからの條件を無視して、何でも構はずに面白ければよいとして居る樣だが、それでも早面白いといふ要求の爲に、或程度までその内容を整頓しなければならぬ。其中でも童話といふものは、聽衆が氣の置けぬ連中だから、一向そんなことは無頓着でよいやうなものだが、それがやはり一定の型に囚はれ、小兒が聽いて居て、「そんなのはだめだ」と、排斥するものが意外に多い。其上に古くから(355)の話し方が、まだ少しばかり殘つて居る。例へば、「昔々先づある處に」とか、土地によつては「有つたてんがのに」とかいふ一句が無いと、幼い聽き手の眼は御話を聽く時の眼にはならぬ。話の終りにもつい此頃までは、「それで市が榮えた」といふ類の一句が、是非とも取つて附けられることにきまつて居た。話は又長過ぎても短か過ぎてもいかぬ。さうして中程には必ず印象の深い會話の語があり、それから少しあとには心を動かすべき興味の頂點があり、終りには彼等の小さな常識でさうあつて然るべきだといふ解決が來なくてはならぬ。童話以外の昔話といふものなどは、之に比べると遙かに奔放突兀たるものがあつて、所謂世間話の一小部分を改造しても、之を一つ話とすることは出來るやうだが、やはり童話と同じく笑ふならうんとをかしく、恐ろしいなら身の毛の立つ樣な、中心といふべきものを用意しなくてはならぬ。其上に時と場合があつて、冬なり夜分なりであることを要するのみでない。人が集まつたからとて最初から昔話をする者も無く、又話し手にも制限があつて、若い者から年寄に向つて、そんな話をして聽かさうとしてはならぬ。定義を示せと言はれてもまごつくが、誰が聽いても是は昔話と認める話は、存外に限られて居るものである。落語などはやはり民間の説話であるが、其形式が煩はしく融通がきかず、上手は兎に角、下手が之をやると、?ぢつとして聽くことが苦痛になる。其上に場處も人も、之を聽かうとする氣分にも條件があつて、それを具へなければたゞの物眞似になつてしまふのである。
 傳説も通例は説話の一種として算へられるが、上に列擧した澤山の條件の、一つをすら具へずとも依然として傳説である。例へば長さでいふならば極端に短く、ほんの斷片のやうなことを藪から棒に、早朝に路傍で小學校の兒童が、言つて聽かせてくれても我々は耳を傾ける。どんな平凡なしかも不完全な話でも、それが爲に傳説で無くなる氣遣ひは無く、或ひは面白くも何とも無いと言つて居るものにも意味があつたり、相手の與へようとする印象以外のものを、それから收穫して悦ぶやうな場合もある。定まつた形式が無いから追加も自由であるのみならず、之を語る人の用語にも制限が無いので、自由に標準語に譯して旅人にも解し得られる。それから話し手には多辯とか知つたか振りとか、(356)色々の素質があつて自然に適不適は生ずるが、それは資格といふ程のもので無いから、尋ねたら宿屋の女中でも、驛で働く人たちでも何程かの答はする。のみならず偶然に通りかゝつて、人の問答から傍聽することも出來る。つまりは一番自然に近い採集が、望み得られるといふことが特徴なのである。
 
       傳説と縁起
 
 縁起と傳説とは同じ物であるやうに、西洋の學者には説いて居る人もあるらしいが、少なくとも話し手の範圍に於いて、可なり著しい差別が認められる。文章に書き印刷にしたやうな、社寺の縁起は問題の外であるが、たとへば金閣寺銀閣寺等の小僧といふが如き、案内役の説明でも目的は別にある。さうして其御寺で飯を食ふ者で無ければ、言はないことを言ひ又言ふことを言はない。それが所謂千篇一律であるものと、臨時に説明したものたるとを問はず、縁起は必ず「我佛を尊し」として居る。門前の茶屋の亭主、熱心なる信徒の受賣をする場合にも、縁起はまだ傳説にはなり得ない。しかも傳説の一番不愉快なる癖、即ちこじつけと押賣りとは、却つて此方に於いて甚だしく感ぜられるのである。
 尤もこの二つの者の相違は階段の差であつて、其堺目に行けば領分は決してはつきりして居ない。縁起にも麻布の善福寺の杖銀杏などの如く、遠近の人が悉く之を傳へ知り、寺の僧は必ずしも強ひて主張しないのに、世間では面白がつて之を評判にする者がある。禅宗の和尚などの寺の由緒に對する態度は、大抵は此類であつた。それが奇妙に傳説の成長流布に力のあつたことは、却つて竝々のホラ吹きに勝つて居た。自身は悟りきつてそんな事はあらうとも思はぬのに人が「ださうですね」ときくと、にこ/\と笑つて居る。さアどんなものであらうかなどゝ答へる。さうすると縁起は舊い衣裳を脱いで、追々に傳説の部に入つて行くのである。之と同時に他の一方には、社と寺とはもう何(357)等の關係も無くて、しかも或限られたる土地の者ばかりが、飛んだ熱心さで主張する傳説がある。是などは寧ろ村の縁起、部落もしくは自稱門閥家の縁起といふ方が當つて居るかも知れない。近い隣に競爭者のある故跡、さうで無くとも一歩此境外へ出て來ると、それを打消すやうな人の多い樣な場合に、却つて旅客の袖を引張つて、聽かさずには歸すまいとする傳説が行はれて居る。しかしながら、それとても亦一つの事實である。傳説の支持者が多いか乏しいかは、さう容易には調べられるもので無い。今は停車場の驛長を始めとして、一人も故障を唱へる者が無からうとも、以前からさうであつたと斷定する方法はない。要するに縁起の既に管理者を失つたものが、傳説だと思つて居れば大なる過ちは無いわけである。
 縁起と縁を引かない土地々々の傳説の方が、自由で又興味の多い事は判り切つた話である。しかしその爲に少しでも縁起臭いものを差別し排斥しなければならぬ必要は毛頭も無い。問題は單に古いものと新しいものとを見分けて、出來るものならば原の形に近い方を、無くなる危險が多いから大切にするといふに止まるのである。宮寺の縁起には特にこの變遷の跡が見出し易い。これも傳説成長の跡を尋ねようとする人の、非常に有益なる參考であるが、普通に此方面には昔から學者が多く、文字の證跡が幾らも殘つて居る。古い處では元亨釋書や高僧傳の類、稀には其以前の記録も中央部にはあるが、大抵は稍後れて足利氏中期以後に、色々の縁起類が繪卷讀物として世に現はれて、群書類從などには大分見えて居る。それが戰國の混亂を經過して、江戸時代の初頭には早改造を企てられ、其新舊を比べて見ても、多くの兩立し難いものが加はつて居る。それから以後世人は益筆豆となり、再建や開帳の度毎に、縁起を整頓するのも信心の一事業と考へられた。前代の旅人たちは其間をあるき廻つて、幸ひにしてその忠實な紀行や見聞録を留めて居る。それを年代順に竝べて見れば、至つて容易に縁起の改造せられた部分が知れるのみならず、それを要求した各時代の信心にも同情がわいて來る。さうして更に一歩を進めて見ると、文字によつて社寺の言ひ傳へを書留めなかつた時代にも、同じ改造は必要であり且つ頗る容易であつたことは確かで、曾て金毘羅や善光寺の如く、(358)まだ遠國の道者を當てにせず、地元の住民と信仰を共同にして居た頃には、縁傳二つのものゝ關係は、當然に今よりも遙かに親密であつたといふことも亦察せられる。
 だから我々はその結論として、次のやうなことを言ふことが出來る。現在に於いてこそ社寺の縁起と、土地の傳説とは内容外形に可なりの差があるが、源頭に突き詰めて行けば一つであつた。傳説の多くは曾て使用せられた縁起の破片であり得るのみならず、今の縁起とてもその最も作爲を經ぬ部分には、まだ/\古來の傳説を保持して居る。それが如何樣に所謂合理化されて來たかは、同じ經路をやゝ時おくれて、進まうとして居る傳説の研究に取つても、看過すべからざる大切な參考である。
 
       傳説の第二の特徴
 
 一夜半日の旅の客に取つても、なほ傳説が親愛なる思ひ出の種である理由は、それが簡單に且つ容易に手帳に留められるといふだけでは無い。更に適切なる第二の理由としては、話に物があり記憶に具體的な足場のあることを擧げることが出來る。「旅と傳説」が寫眞を最も有力なる杖柱として、進出しようとして居るのを見てもわかる如く、傳説には土地と關係せず、風物と結合せずに浮遊するものは殆と一つも無い。否之を他の色々の説話と區別する爲には、寧ろ一つの地に根を下し、動かし移すことの出來ぬ點を、目標としようとする人さへあるのである。例を引くにも及ばぬか知れぬが、たとへば松の名所を巡つて播州の海岸を旅した者があるとする。歸つて來て其話を試みようとする場合に、先づ頭に浮ぶのは相生松はこんな姿、手枕松はこんな形といふやうに、同じ松ですら一つ/\、混合せずに思ひ出すことが出來る。それが偶然に個々の傳説の、差別の目安となるだけでも便利であるが、元々傳説はさういふ目に着き記憶し易い外形があればこそ出來たので、殊に樹や石の珍しい姿は、殆と其發生の唯一つの根據と言つても(359)よかつた。だから何心無く路を歩んで居る旅人でも、容易に珍しい木や石を見付けて、傳説に行き當ることが望み得られるのである。
 殊に面白いのは、傳説は往々にして路傍に出て居る。新道は明治になつて幾らとも無く開鑿せられたにも拘らず、二里三里と田圃路を折れ曲つて、やつと到達するやうな傳説地はめつたに無い。それは人が親切に其脇まで路を付け、交通往來をよくしてくれたのみでは無く、不便な地にあるものは遠慮して早く消え、茶店や橋の袂に近いものばかりが、  益々人望を博する結果であつて、之を見ても傳説の盛衰が存外に烈しく、且つ彼等は埋没を免れんがために、絶えず忘れな草の如く聲高く叫ぶものなることが窺はれる。汽車の各驛の案内板を見ても、名所と名乘るものゝ半分は是である。中には丁寧に傳説ありと書いたのもある。それが旅人の注意に上らなかつたら、先づはよく/\運の惡い、時世に向かない言ひ傳へを守つて居るものであるといつてよいのである。
 此點は他の一切の口碑に超越して、獨り傳説のみが郡村の地誌の類に、幅を利かして居る原因である。それと同時に唯數ばかり多く、斯ういふ類のものを集積して置くことが、土地の昔の生活の研究と何の交渉も無く、強ひて交渉をあらせようとすれば、心にも無いこじつけを敢てしなければならぬ所以でもある。其こじつけの最も粗製なものは、之を其儘歴史として受入れさせようとする企てゞある。例へば義經の腰掛石、金賣吉次の塚處の類が、もしも此兩人の通路であつたことを意味するならば、彼等は到底奧州平泉に行着かずして、もう其一生を終つてしまはねばならぬ、と言つてもよい位に其數が各地に多い。斯んな場合の説明として?聽くところは、いや彼方のは何かの間違ひだらう、もしくは眞似て殊更にそんなものを、作り設けたものであらうと言ふのであるが、しかも自分の方の立證方法としては、現に立派に石があり塚があるのだから疑ひは無いといふ。この二つの論法は兩立しない。最初から「さうだ」と言ひたい人より他の者には「さうだ」と言ひ得ない理窟である。それといふのが傳説と歴史との、一番肝要なる差別の點、即ち一方は遺跡がたゞ一つしか有り得ぬに對して、此方は寧ろ有力なるもの程、數多く出來るものだといふ(360)ことを忘れて居るからである。どうして此樣に多く一種の傳説が成長するかを、考へて見なかつた過失である。
 歴史は其事件の時日を過ぎてしまへは、もう新たに現はれる道は無いのみならず、歳月と共に追々光の薄くなることを免れぬものだが、傳説に在つては却つて後になる程づゝ、話が詳しくも又尤もらしくもなる。少しあやふやな、もしくは理窟に合はぬといふ部分は、削られるばかりか他のものと入れ替へられて居る。さうして昔から斯う言つて居るとばかりで、果して其通りを傳へて居たか否かを、調査させたことは無いのである。どういふわけで是ほど違つた二つのものが、相隣して混同されようとして居るのか。私たちには其事情が殊に興味深く、又傳説といふものを研究したくなる原因でもあるのだが、世間では今は寧ろさう聞いて聊か失望する人があるらしいのである。ところが旅客は斯ういふ問題に對して、?最も公平なる批判者であつた。即ち一方の割據的もしくは排外的になり勝ちなのに對して、是は比較と類推とに由つて、容易に其意味を理解し又經驗を重ねて、知識の眞價を明らかにし得るからである。傳説蒐集の興味が、單なる寫眞やスケッチの數の増加に比べられぬのは、言はゞこの分類と整頓との樂しみである。今まで格別に注意した人も無かつたが、傳説には通例不動の地點目的物が伴なふ以上に、十の八九まではそれに名があつて、其名稱も亦各地共通のものが多い。近い都邑ならば模倣剽竊の疑ひも懸けられるが、百里二百里を隔てて九州にも奧羽にも、同じ名の塚や淵、それから至つてよく似た説明の保存せられて居る例が多く、時によつては話はもう絶えて、地名ばかりがちやんとして殘つて居る處もある。澤山旅行をした人は幾らでも其實例を知り、どうして此樣に互ひに似て居るかを、不審がらずには居られない。これが又何よりも有意義なる我々の旅の魅力であつた。
 
       傳説と神話
 
 傳説の第三の特徴として、特に旅人の心を引き易い理由は、既にほゞ前段の中に述べたから再び詳しく説く必要は(361)無くなつてしまつた。それは何かといふと傳説は信ぜられて居ることである。語る者が?之を歴史と混同する位である故に、常に安心して人の問に答ふるは勿論、もし他に競爭者でもあるか、又は書物などにそれと兩立せぬことが出て居ると、寧ろ聽くことを欲せざる人の袖を捉へてゞも、説いて聽かせずには居られぬといふ程度に、熱心になるといふことである。だから漫遊とも名づくべき旅行を一度すると、よほど冷淡な者でも可なりな耳學問をして來ることになる。旅と傳説とは親密ならざるを得ぬ所以である。
 此序でを以て述べるのが適當か否かは知らぬが、日本の傳説の中で一番始末の惡いのは所謂平家谷、平家の落武者の住み着いたといふ村の口碑である。それも唯小松某もしくは維盛の子孫といふだけならよいが、村に氏神の社があれば安コ天皇を奉祀し、古墳石塔の大きなものがあれば、幼帝此地に御隱れなされたと謂ふのみならず、時には畏多くも其御末の如く、自らも信じて居た家のあつたことである。源平時代の舊記類を見ると、如何にも壇の浦の悲劇は傳聞を主とし、確實に御最後を認め得るものは無い。だから後日にもせよさういふ異説が公表せられたとすれば、容易にそれを打消すことも六つかしいか知れぬが、奈何せん近世百年内外の間に、さういふ主張をした土地が、九州四國にかけて十數箇所あり、單に平氏の殘黨だといふだけの者は、それに十數倍するものを私等でも聞いて居る。何れもどうだらうかと言ふと眞赤になつて、丸で至尊をないがしろにしたかの如き非難をする。明治の初年以來之を宮内省に申し立てゝ、所謂御陵墓傳説地の標木を建てさせ、陸地測量部の地圖の上に其記入をさせたものでも、人は氣付かないが十箇所に近いのである。旅人の之に對して取るべき態度は、何にしても容易なもので無い。しかし我々は如何なる場合にも、當該地方人の如く、其一つを正しきもの、他のすべてを贋物と、斷定してしまふことは敢てしない。それよりも何が故に僅かな年月を隔てゝ、近代俄かに同種類の主張が、斯うも數多く八方から、現はれるに至つたかを考へざるを得ぬのである。
 其説明の一つとして先づ想像するのは、最近に於ける國史知識の普及又は民衆化である。琵琶で平家の物語を聽く(362)といふ事が、山家片田舍では既に通常で無かつた上に、ほゞ國體の大義に通じて、如何に政戰黨爭の成行きとはいひながらも、よもや其樣な出來事が、貴人の御身の上にあつたらうとは思はれぬといふやうになつたのは、新しい教育のよほど行き亙つた後でなくてはならぬ。即ち其以前の數百年間は、年代勘定でも固有名詞でも、一向に注意をせぬ人々が管理して居た言ひ傳へであつたのである。言はゞ傳説の成長し得る時節に入つて、何れも突如として成長した傳説であつたのである。しかも一二の明白に虚構せられたものを除いては、土地の人々は正直で且つ些しでも其言ひ傳へを疑つて居なかつた。如何なる方法を以てしても、之を恠しむ人と爭はうとするだけの自信があつた。九州南部では、天皇は薩摩より外へは御出でましが無かつたといふが、南の島々には島毎に平行盛、資盛などの遺跡があつて、歌は事蹟を説き、塚には遺靈を崇祀するのみならず、現に多くの舊姓は其後裔として、之に相當するだけの門地を保持して居る。作り事と見ることは到底不可能であるに拘らず、たま/\其一つを承認することは、同時に他の一切の傳承を、不實と看做す結果になるのである。
 東北北陸の山の中に入つても、やはり平家の落人として立派に公認せられて居る者が多く、彼等はたゞ割據没交渉の一手段のみによつて、辛うじて家の誇りを保つて居る。我々は學問の爲でなかつたなら、今暫らくは之をそつとして置きたいやうにも思ふが、どう解してよいかと尋ねられるならば答へざるを得ない。私の答は斯うである。君の村、君の家の言ひ傳へは確かに古い。事によると源平の合戰よりも更に古いかも知れぬ。少なくともずつと古い時代から、日本にはさういふ傳説があつた。さうして傳説は信ずべきものである。たゞそれは元は單に最も貴い御方、もしくは神に近い御方と其家來たちと言つて居たのを、後になつてそれならば養和のみかど、平家の一門より他には無いと、新たな日本歴史の知識によつて決定したのでは無いか。それより以上には此不思議は解き樣が無いと言ふつもりである。
 天皇の御遺跡といふものゝ、國々に傳はつて居る例は非常に多い。其中でも美濃の宇多天皇、三河の文武天皇、上(363)總の弘文天皇の如き、到底正史の中からは半點も誠らしさを見出し得ないものが信ぜられて居る。甲斐や常陸の孝謙女帝の傳説は、確かに作り事の甚だしきものであるが、用明天皇の如きは御在位僅か二年、若くて御隱れなされたのに方々に巡狩の口碑がある。私の見たところでは、此説にも昔としては宥恕すべき誤解の理由があつて、寧ろ是によつて後代の諸皇子の、御傳説地なるものゝ原由を類推し得るのである。醇朴なる時代の日本語では皇子も神の子も一樣にミコであり、天王は又神の名として、久しい後まで普通に稱へられた。さうして平民は容易に今日の如く、貴き方々の忌名を口にする事を許されなかつたのである。もし平家谷の程度に自由なる註釋をなし得るとすれば、後年歴史の知識に由つて、之を日本武尊とし用明天皇とすることは、些しでも困難では無かつたのである。
 しかも此言ひ傳へは牢く之を信ずる者の口から、神の祭の日の如き最も改まつた機會に、必ず之を信ぜんとする人々の耳へ、嚴粛に語り傳へられ、あらゆる方法を以て其忘失を防いだのである。我々の仲間では特にこの類の古風な口碑を、神話と名づけて後々の傳説と區別して居る。神話の傳説と異なる重要な點は、何れの説話にも見られない程の窮屈なる方式のあつたことである。之を語る人と機會とが限定せられ、叨りに之を繰返すことを戒められて居たことである。さうして一般の信仰を以て之を支持し、同時に又之に由つて信仰を支へしめたことである。神道に時代の變遷があつて、先づ中央部の方から此類の神話を必要としなくなつたが、夙に分れて孤立して住んだ田舍人は、若干の退化を經ながらも、よほど久しい間神話と信仰とを結合させて居たのである。西洋の諸國には昔希臘に行はれて居たやうな神話は、もう何れの地にも絶えてしまつた。たゞ其痕跡としか認められぬ説話が、今尚子供の話などの中に交つて居るので、學者は往々にさういふ神話式説話を、簡略の爲に神話と謂ふこともあるのである。
 しかし神話式の民間説話が、もしも神話と謂ひ得べくば、神話から脱却して成長した傳説、例へば平家谷や御陵傳説の類も、やはり亦神話と謂つてよいわけだが、それでは得る所は紛亂以外の何物でも無い。私の考へて居る分類では、探したら今でもまだ純粹の神話が少しは殘つて居るかも知れぬが、それは過去のものとして別に置き、其中から(364)特に形式の面白味に心を引かれ、信仰が無くなつても尚以前の型を追はうとしたものが歌物語、次には外形よりも主として内容の奇異と變化とに興味をもつて、それを面白く語らうとしたのが昔話とも呼ばるゝ民間説話、それから最後には語り方や事柄の興味よりも、特に敍述の眞實に利害を感じて、それだけは必ず記憶し且つ主張しようとしたものが傳説と、ざつと斯んな風に分裂して、現今の口碑を作り上げたものと思つて居る。だから日本の神代卷の如く、古く記録の存する場合は除いて、他の民間の今は絶えたる神話は、辛うじてこの三筋の路を辿つて、次々に本の姿を突止め、是と古來の慣習や所謂心碑の幽かなる證跡とを照らし合せて、始めて固有信仰の實?を窺ひ知ることが出來るわけである。其中でも傳説は殊に豐富であり、可なりの近世の紛亂はあるにしても、幸ひに其整理と比較とによつて、最初の動機も追々に判明するから、資料として一番に有效に、且つ又我々の心を學問の興味に誘ひ易い。國を愛するの道といふものは、さう世間の想像する如く、理窟ばつたものでは無いと思ふ。要するに知ることが最初の順序であり、是ほど又適切に我々をして前代を理解せしめる手段は他にはあるまい。旅行が本當の日本人を作り得るものとすれば、それは山川草木の單なる形?や色彩ばかりではないわけで、斯ういふ外國の人には何の意味も無いやうなたゞ切れ/”\の傳説の中からでも、祖先の心の動きを感ずるといふことが、特に力強い教訓であつた爲と見るの他は無いのである。
 
(365)     木思石語 三
 
       傳説採集の興味
 
 旅行者に取つては是が恐らくは最も重要な問題であらうが、今までは誰も根本的に此點を考へて見ようとした人が無かつた。勿論人によつて眼の着け所は一樣であるまい。しかし學問の立場からいふならば、此興味は是非とも囘數を重ねる程づゝ、次第に濃厚になつて行くものでなければならなかつたのである。それにも拘らず、世にはたゞ事柄の奇拔無類なることを喜び、自分一個の狹い見聞を誇つて、一旦他の地方にも同じ話があつたことを發見すると、直ぐにがつかりして興を醒ましてしまふ人も多い。此等は全く最初からの考へ樣が惡いので、外形が是ほど歴史に近く、曾て其土地に現出した事實であるかの如く、人も認め自分も信じて居て、しかも本當はさうでなかつたといふ處に、傳説の不思議もあれば意義もあることを知らなかつた結果である。そこで何よりも先に言つて置かなければならぬことは、如何に傳説地の周圍に住む人が、斯んな珍しい話は又と有るまいと思つて居るものでも、捜せば必ずどこかに同じ例があり、殊に日本では一つの傳説が、遠く離れた十箇所二十箇所に、それ/”\獨立して分布して居る場合が多いといふことである。是はつまり西洋の諸國に比べて、非常に傳説の量の豐富であることも原因であるが、それ以上に同胞國民の精神生活が一樣で、且つ久しい間ちやうど傳説の成育に適した共通の心理を持つて居たことが、一層著(366)しい理由であつた。僅か形を變へて今日も其事情は續いて居る。即ち日本の旅人が特に傳説の研究に適して居る所以である。
 一つのをかしな實例を擧げるならば、私は今から十五年程前、川童が馬を水中に引込まうとして失敗し、もう再び惡戯をせぬといふ誓約をして宥してもらつたといふ話を集めて見たことがある。北は奧羽から南は九州の果にかけて、要點に於いてほゞ一致した言ひ傳へが三十以上もあつて、どこでも皆他と比較をして見なかつた爲に、我村ばかりの實驗である樣に思つて居た。何故にそんな奇怪がさう數多く傳はつて居るかは、出來るならば別に詳しく述べて見たいと思ふが、私は之を書物にして世の中へ出してしまつて後に、更にその倍よりも多い類例が現はれて來て、今では寧ろ増補の煩はしさに堪へず、もう少し待つて居て發表すればよかつたと後悔して居る。しかも傳説が移し動かすべからざる遺跡を伴なうて居るにも拘らず、到底之を歴史と同視することの出來ぬことは、斯うして幾つかの類推を重ねて行くうちに、愈明白になつて來るばかりであつた。
 だから傳説の採集は他の多くの採集事業に同じく、或程度に達すると更に分類の興味を加へて來るわけである。自分等の見るところでは、村毎に三つ五つ、全國では何百何千と算へるかも知れぬ傳説でも、末には案外限られたる項目の下に系統を立てゝ、其成長の順路を究めることが出來るかと思ふ。他の方面では中々容易に口碑研究の完成を見ることが望まれぬが、傳説ばかりは大凡終點が想像し得られ、從つて之を中心として口碑の總體、もしくは民俗の全般に亙つて見ようとする企ての、必ずしも無謀で無いことも認められるのである。但し此企てに對しては、心ある採集者の協力が甚だ必要で、もし幸ひにして之に若干の讀書を加味し得るならば、其成績の顯著なることは、蓋し案外なるものがあらうと思ふのである。
 此點はもう心づいて居る人もあるか知らぬが、傳説採集の第二の興味としては、更に古今の共通といふことが擧げ得られる。大體からいふと傳説は土地によつて次々の變化があり、其變化を生じたのは主として時の力であるが、其(367)中にも頻々として改まつて行く部分と、一向に變らうとしない部分とがある。それが我々などのちよつと想像し得ない事情からで、例へは川童の話に就いていふならば、「二度と再び害をしないといふ約束をさせた」といふ點が、最も強く記憶せられる。しかし此傳説などは、水中の靈物に對する我々の信仰が改まつたのだから、全體としては話が新しくなつて居り、其上に之を統一するやうな適切なる地物と名稱とが無かつたから、どうしても散漫になり易かつたが、稀にはまだ地名が保存せられ又は地形が不變であつた爲に、それに繋がれて古い口碑の變化せずに居てくれたものがある。實例でいふと、糠塚《ぬかづか》と稱して、野中などに孤立した塚の如きがそれで、是は何れの府縣でも五つか七つかはきつとあるといふ位に數多いが、土地では大抵は昔一人のえらい長者があり、其家の飯米を搗いた籾殻が、棄てゝ此通りの塚になつたと傳説する。稻はつい近頃まで籾のまゝで貯藏せられ、入用に臨んで搗いて、|粡糠《あらぬか》を塚の形に積んで置く習ひがあつた。それが大きくていつ迄も處分せられずにあつたといふことは、即ち祭とか大集會とか、過去の大事件の記念であつたに相違ない。しかも本物の塚や丘陵を以て、其糠の化して成つたものと見るには、必ず何人かの新たなる想像が働かなければならなかつた。さういふ想像が全國の數百箇處にわたつて、苟くも長者屋敷の跡と言へば大抵糠塚スクモ壕の言ひ傳へを伴なうて居るのが既に不思議であるのに、遠くは千二百年の過去に遡つて、奈良朝の時代に出來た播磨風土記の中にも、もう同じ話がやはり大昔にあつた出來事として、語り傳へられて居るのである。それは筆者の生まれた土地から一里ほど南、神崎郡|八千種《やちくさ》といふ村の邊で、今は其名を失つたが糠岡といふ一つの丘陵であつた。風土記の文を直譯して見ると、糠岡は伊和《いわ》大神と天日桙《あまのひぼこ》命との二神、各軍を發して相戰ふの時に、大神の軍勢打寄つて稲を搗き、其糠聚つて丘を爲す。又一説には品太《ほむだ》天皇の御世、參り渡り來たりし百濟人等、其俗に從ひ城を造りて居る。その簸《ひ》て置ける粳《ぬか》が塚と爲るとも謂つたとある。即ち單に分量が多くて、燒き棄て撒き散らすことが出來ないから殘つたといふ以上に、特に記念すべき糠の山であつた故に、化して土石となつて永遠に傳はるのだといふ思想が、上古以來久しく我々の祖先の中に行はれて居たことを知るのに、是は一つのよい證據である。
 
(368)       地方色と時代色
 
 右の糠塚傳説の數多い例の中で、古今南北を一貫してほゞ不變であつたものは、第一にはヌカと云ひ又はスクモと云ふ名稱であり、次にはそんなものが化して一つの岡となり塚となつたといふ通例で無い出來事である。傳説の保存と分布とを尋ねるには、この顯著なる共通を押して行くより他は無い。或ひは見る人によつては之を要素と名づけて、其點が同じいから一つの傳説だと言ふ我々の態度を、非難しようとする者が無いともいへぬが、もし斯ういふものを要素と認めず、例へば戰とか神樣とか將軍とかいふ類の、どし/\と變化して行くものによつて分類して行かうとしたら、少なくとも後には傳説でなくなつてしまふだらう。是も實例によつて解説して見るならば、東京の郊外などに最も多い旗立松、旗洗池の類、主として八幡宮の靈驗を證明すべく、或ひは旗を木の上に建てゝ戰勝を祈念したら、これ/\の奇瑞があつたと云ひ、又は自然に白旗が天より降つたと傳へて居るものである。それを甲社の由緒書には頼朝公奧州征伐の時と記し、乙の寺の縁起には八幡太郎殿凱旋の時にと述べてあり、多い中には日本武尊、さては太田道灌に託したものさへあるのである。是をそれ/”\の武將の事蹟に附隨させて、頼朝が參詣したといふからには鎌倉時代からあつたのだといふ風に、解釋して居つたのが今までの歴史家であつた。
 又千葉縣の九十九里濱に行つて見ると、かなり弘い區域に亙つて、矢指といふ地名、又矢指塚といふ傳説がある。義家又は頼朝が奧州から船で還つて、此邊の海岸に上陸し、土地の大きさを測量する爲に、路の一里に一本づつ箭を指して、九十九本に及んだと稱し、其百本目を納めたのが此社といふものが、香取神宮以外にもなほ所々にあつたらしい。しかも前九後三の戰役の海上凱旋は事實らしくないので、或村では既に之を頼朝公諸國巡視の際だと説いて居るが、其爲に別に史實に近くもなつては居ない。自分の考へでは金の短册を鶴の脚に括り付けて、千羽放したなどゝ(369)いふ昔語りも、恐らく之と關聯して居ると思ふが、兎に角九十九里の地名に由つて見ても、さう近い頃の發生で無いことは推測せられる。昔の神道には儀式上の神領とも名づくべきものがあつて、祭禮の日に先だつて其信仰の行はれて居る區域を點定し、柱や御幣や神木の杖を立てゝ、祭をする習はしがあつた。紀州熊野の九十九王子などは、今の王子權現が各地に祀られる以前、先づ畿内の海岸から始まつて、道中次々の攝社を巡拜し、其百番目を即ち本宮と見て居た時代もあつたらしく、古く名の聞えた幾つかの王子社が沿道に建つて居る。さういふ祭の折の玉串の事を、或ひは形?によつて矢とも謂つて居たばかりに、儀式が衰へ記憶が稍薄れると、之を所謂弓矢の家の人に、託せんとする傳説が發生したので、本當はずつと古い起源を持つて居るかも知れなかつたのである。從つて假に所謂英雄傳説を狹く解して、甲村の頼朝と乙里の義家を、共に動かすべからずとして分類を試みる人があつたら、其結論の如何にとぼけたものになるかは、想像して見るにも及ばぬ位である。
 勿論此中にも人と傳説と、殆と不可分になつたかの如く、見えるものも少しはある。例へば東國に數多い弘法水弘法井戸、之に伴なふ所の石芋や喰はず芋の話、或ひは又良い婆と惡い婆の話の如きは、どこへ行つても僧空海の奇跡と信ぜられ、それだから彼の傳記にはさうも見えぬけれども、よく/\氣まめな足の達者な大和尚であるといふ定評を得、四國八十八ヶ所は固よりのこと、九州に渡つても御大師水とさへ謂へば、すべて此大師の遺跡と解して怪まぬ様になつて居る。しかしそれがいつ頃からの變化かは考へて見る餘地がある。現に今日でも東北の一角は慈覺大師、攝州泉州の大部分は行基菩薩、其他格式ある大寺で、各それを開山上人の功力にした例は多く、殊に今一歩を進めて我々の謂ふ杖立傳説、即ち行脚の杖を地上に插して、此邊がよからうといふと忽ち成長して、後に大木となつた話などは、其一部分は弘法大師、其他の半分以上の作者は他の人になつてゐる。越後の七不思議の一つたる鳥屋野《とやの》の逆さ竹の如きも、一向門徒ばかりは親鸞上人の杖と確信し、他宗の人々はやはり弘法大師だと思つて居る。
 話が長くなるからもう澤山の證據は擧げないが、稍奇拔なものでは瘡藥師《かさやくし》の歌問答、或美人が「身より佛の名こ(370)そ惜けれ」といふ一首の歌を以て、祈願の效無きを怨ずると、忽ち戸帳の中より御聲高く、
   村雨はたゞ一時のものぞかしそのみのかさをそこに脱ぎおけ
とあつて、瘡癒えて痕も無しといふ話の如きは、南は日向國の法華嶽寺から中央部一帶にかけて、和泉式部の逸話として傳へられて居るのに、伊豫と上州では土地の名が小野郷なる爲に、小野小町の事蹟と稱するのみならず、更に早くから叡山に於いては、さる美しき兒《ちご》と謂ひ、又此話の發生地らしき三河の鳳來寺の峰の藥師に付ては、今は却つて一休和尚の頃作にかゝるものゝやうに、語る人が多くなつて居るのである。
 それから今一つ、是は近年私が中央公論に書いたが、大男の山作りといふ最も有り得べからざる古い説話がやはり傳説に化して其遺跡を處々に存して居る。昔々途方も無い大男があつて、富士の山を背に負うて、もしくは某山を棒で兩荷に擔いでやつて來た。其時藤の綱が切れた又は朸が折れた。その折に畚の目からこぼれ落ちたのが此塚だあの岡だと謂つて、今ではもう小兒の笑ひ話にしか通用せぬが、要點が各地共通であるのを見ると、何か冗談以上の元の理由があつたことだけはわかる。是などは流石に實在の人に托し得なかつたらうと思ふが、それでも紀州淡路から瀬戸内海の兩岸にかけては、之を武藏坊辨慶其人の大力の證據とした例が多い。それを土地によつてはたゞ大人《おほひと》と謂ひ、關東東海では大太法師、もしくは大多羅坊といふ固有名詞を付與し、肥前島原地方では味噌五郎、岡山縣などでは三穗太郎などゝも謂ふが、其他の多くの府縣ではもつと率直に、神とも鬼とも名づけて岩の上に其足跡、もしくは怒つて棒を投げたといふ類の遺跡が多い。辨慶や弘法大師には限らず、古今有名にして又人望ある史上の人物で、多くの傳説を占據した人は若干ある。九郎判官義經も其一人なれば、菅原道眞も亦それであつた。しかし瀬戸内海の島や浦なればこそ、天神の御足跡や腰掛石も考へられるし、或ひは又神功皇后の御由緒も説くことが出來るが、中部以東でそんなことを説かうとすれば、又一段の不條理を冒して、口碑の信用を傷けなければならぬ。それ故に大磯の虎の塚は四國中國まであつても、曾我兄弟の傳説は大井川利根川の對岸より外へは持つて行くことが出來ない。しかも糠塚(371)の物語が、各地の長者の時代より古くから存在したと同樣に、英雄の傳説は其一生の活動區域よりも、ずつと遠くの遠くの國まで、どし/\と擴がつて行はれて居るのである。それを出來るだけ歴史と調和させて見ようとしたところに、割據時代の弱點もあれば、今日の如き交通自由なる旅行者の、痛切に感得し得る興味もある。さうして書物の新しい讀み方も其中に指示されて居るのである。
 
       傳説結成と其材料
 
 それ故に私が傳説採集の興味と言つたものは、實は傳説ばかりの興味では無かつた。寧ろ人生の見方、文化の味はひ方、或ひは旅といふものゝ本當の價値と言つても誇張でない。人は一生を費して如何なることを調査研究し、もしくは之を信じて人にまで説かうとして居たかといふことを、決して冷笑的では無く、外から又は上の方から見て居るといふ態度が無かつたならば、學問も宗教と同じやうに、定まつた型の中に動き、末世を衰微とし、異説を叛逆と認めなければならなくなるだらう。人は今日も誤る如く昔も誤りがちで、其誤りは又往々にして全部を率ゐて居た。さうしてそれは殆と當然ともいふべき理由があつた。其中でも傳説の如く容易に且つ明瞭に、其理由を發覺して尚之に同情し得るものは少ないのである。人が私の動機無く家を懷ひ、又郷土を愛し國を守つて、必ず眞實の最も尊きものを、後に傳へて置かうとした場合ですら、なほ自然に陷らねばならぬ誤解があつたとすれば、其誤解も亦大切なる我々の歴史である。それを始めて學び知つて後の進歩の參考にしようといふことが、道樂好事の事業であるわけは無い。此點を篤と考へて見た人だけが、旅行を眞面目なる生活の一部だといふことが出來るので、其必要なることは少しでも地質の實例や博物の採集などゝ、甲乙する所は無いわけである。
 殊に我々に取つて意義の深いことは、この傳説の野外採集に於いても、やはり面白い發生學的の觀察が出來ること(372)である。少年の生物學が小鳥の卵、林の樹の實の芽生などから、其興味を導かれて行く如く、僅か注意する旅人等には、傳説生成のあらゆる階段が見られる。世の中が開け人が多くなると、野生生物の種類は減じて行くに反して、傳説はもと人間の中に成長するものである故に、一段と變化が複雜に且つ急速になつて行く傾きがある。日本では近代生活の影響、殊に信仰と經濟組織の驚くべき錯綜につれて、新たに色々の動機の傳説の外貌を改めんとするものが増加し、一方には若干の分化を促すと共に、他の一方には又意外なる統一を誘致した。其上に更に大きな役目を演じたのは、歴史の知識の普及であつた。しかも人は我土地の傳説を、信ずべからざるものとすることを欲しなかつた故に、屡思ひ切つた改造を加へて、二つの調和すべからざるものを調和させようとしたのである。東北地方でいふならば、三代田村の歌物語が古くから行はれて居た結果、坂上將軍利仁といふ英雄が認められて居たが、利仁は正史によれば丸で年代が合はぬ故に、もう傳説の上から殆と影を斂めてしまつた。用明天皇潜幸の畏れ多い言ひ傳へは、全く聖コ太子の御誕生を、自分の土地での出來事と信じた人々の想像であつたが、それが到底有り得べからざることを知るに及んで、代つて新たに唱へられたのは日本武尊の戀物語であつた。さうかと思ふと上總地方などでは、蘇我の王子神の信仰に基いて、突如として弘文天皇の行宮を説く者を生じ、其説は日を追つて詳密にして、或ひは古史の闕を補はんとするの姿がある。最近各地に主張せられる長慶天皇の遺跡なども、少なくともたゞ一つを除けば他は總て此類でなければならぬ。
 しかも前章に平家谷に就いても述べた如く、全國を通じて傾向は略相似たりとすれば、傳説は寧ろ最初から、斯う變つて來るやうな性質を具へて居たのかも知れぬ。別の語を使へば古い形は必ずしも元の形で無く、それも幾度か新人の信じ易いやうに、改めて各時代色の彩色を受けたものと、想像してもよからうと思ふ。例へば聖コ太子の御傳記と結合した山路《さんろ》の草苅る夜の笛の物語などは、少なくともその今一つ以前を尋ねて見ることが出來る。即ち貴き天つ神が人間の少女に聟入りをなされて、神の太子を此世に留めたまふといふ信仰が無かつたなら、如何に美しい歌が(373)行はれて居ても、それが根を生じて傳説となることは六つかしかつたので、此點から考へると、今はまだ明らかで無いといふのみで、如何に變化した現在の地方の傳説の中にでも、まだ至つて大切なる上代の史料が、潜んで遺つて居るといふことは疑ひ得ないのである。
 しかし斯うした傳説の骨髄を爲す信仰を、根本に溯つて悉く傳説と名づけてよいか否かは、又別箇の問題である。自分等の持つて居る傳説の定義では、寧ろ總體の信仰はもう失つてしまつた人たちが、努めて其破片の中の信じ易い部分だけを、信じ又信ぜしめようとする説話に限るのだから、傳説の起源は勿論ずつと新しく、或ひは個々の改造を以て、親子孫といふやうなそれ/”\別の傳説に算へてもよいのかも知れぬが、もしさうなると傳説を類別して、さういふ第二次のものと、始めて傳説として現はれた第一次のものとに、分ける必要を生じ、それから更に後者を小別して、直接信仰から殘留した「種」のある傳説と、中途で新たに發生した信仰と關係の無いものとにして見なければならぬやうにも感ずる。そんな面倒な談理は爰には用は無いと思ふが、この單なる擬似史實、自分等が名づけて無核傳説と謂ふものを、引離して置くといふことは研究の上の便宜である。
 傳説は手輕にどし/\と改造せられる如く、又近世に入つても決して其發生を停止して居ない。爲にする所ある虚構僞作を外にしても、なほ我々の知らぬ間に新たに入つて來て、少なくとも土地の人の全部をして、信ぜしめて居るものが多いのである。現代人の智能は、單に系統立つた宗教のあら〔二字傍点〕を捜す迄に進んで、却つて個々の不思議について没論理の指導を餘計に必要とするやうになつたので、其點は曾て神話が零落して、之に代つて傳説が盛んに現はれた時の事情と、異なる所は無かつたのである。二十四所巡拜圖會などを讀んで見ると、あの一向專修を勸めた平民佛教の中でも、高祖上人の行コだけに就いては、如何なる奇蹟靈恠を説くことも許されて居た。法華宗でも亦題目の功コとして、至つて古風なる幻覺をさへ信じようとして居たのである。結局多數の俗衆は不可解の空虚に堪へ得ず、何か形のあるものを胸に描いて、確かなよい代りの出來るまでは、兎も角も之に縋つて居らうとしたのであつて、人が忙(374)しく又冷淡になつたといふことは、たゞ彼等の傳説の選擇が、甚だしく粗陋輕率に傾くことを、意味するの他は無いのであつた。
 從つて之を民族幼稚の兆候とする説には、自分たちは同意をすることが出來ぬ。京城大學の朝鮮史の教授今西龍君は舊友であるが、會て斯ういふ經驗を私に語つたことがある。三十餘年前、始めて慶州の故都を訪れて、迎日灣頭に海の潮の去來を眺めた時には、此地名が殊に深秘な響きを與へた。そこで迎日といふ語の由來を問ひ、もしや大昔の神功皇后御親征の、幽かなる口碑でも遺つて居ないかを知らうとした。多分はこの村老の輩に向つて、かの新羅の王|波沙寐錦《はさむきん》叩頭出でて降るの物語を、あらましはして聽かせたものであらう。しかし其結果は聊かも獲る所なくして還つて來た。然るにそれから何年とか隔てゝ、再び同じ地に旅行して見ると、今度は案内者の中に自ら進んで、大昔この大海の彼岸から優れて猛き女性貴人が渡つて來て、新羅の國を攻め平らげたといふ傳説を、説き立てた者があつたさうである。是から導いた今西氏の結論では、朝鮮は今ちやうど、傳説生成の時代に在ると言つてよいとのことであつたが、今考へるとそれが果して、舊日本には適用し得ない斷定であるかどうか。常陸の青柳村邊には神の泉の湧く森があつて、其土地をミカノハラと謂つた。三十年前の私の旅行の時には、百人一首に「わきて流るゝ泉川」とあるのは爰だと稱し、それ故に此森をイヅミキの森といふのだと、教へてくれた物知りもあつた。大田蜀山が笑つたやうに、芝居にミテノミヤを祭り、和歌浦にカタヲナミを珍重するやうでは、今に其邊の山にカクト谷、サナキ谷などゝいふ名所が出來るかも知れない。伊勢の阿漕では平次の塚、古市油屋のお紺貢むつ言の間、上州伊香保の不如歸の遺跡の如き、眞面目で無いのかも知れぬが、入用が無ければ出來もすまい。佐渡の小木の湊なども、古い多くの傳説を忘れて、今は頻りに尾崎紅葉を説くさうである。權三屋お絲はまだ達者に暮して居るといふのに、早くも金色夜叉の原稿は、彼女の手に秘藏せられて居るだの、扇子に別れの發句を書いた峠の茶屋だのと、旅人を面白がらせるだけの話が現はれて來た。何等の固有の信仰をも含まぬ斯ういふ話までがもし傳説なら、我々は正しく其大工場主であつた。(375)しかもそれがたゞの雜草であつて、?採集者に無益の混亂を與ふるは事實だとしても、始めからそれ/”\の素性を知つてかゝる者だけには、其發芽繁茂の?態は、なほ觀察に値する大切な參考である。同じ植物の譬へを押進めて行くならば、土地色々の地味地質や、周圍の温度水分の如きものゝ他に、必ず種子があり種子の生活力があつて、人の蒔く蒔かぬは之に比べると、實は小さな干渉に過ぎなかつたのである。
 
       傳説消滅の痕
 
 旅人の氣輕な興味から言へば、數や分布?態又は變化の色々のやうに、最初は必ずしも心を惹かぬかも知れぬが、少しノートが溜まつて來る頃になると、誰でも考へずに居られぬのは、この傳説の種子の出處であらう。日本では村に住む者の昔から持つて居た神の道、久しく彼等の生活法を指導した對自然觀が、是まで一向理解せられて居なかつたらしい故に、殊に我々はこの傳説の荒野良を、奧ゆかしく思ふのである。海を越えて入つて來た國民としては、不思議に土の問題ばかりに我々は熱中して居た。海の口碑の分量に於いては、永年大陸を漂泊した佛蘭西人等よりも遙かに劣つて居る。是は寧ろ故郷が海の小島であつた故に、珍しい新地をもてはやしたのかも知れぬが、兎に角に日本に限り、又日本のみに特に成長變化したものが、どの種の傳説であつたかを知る爲に、蒐集と分類とを出來るだけ古い方へ進めなければならぬ。ところが幸ひなことには傳説に限つて、温帶の草木の如き一定した收穫の季節が無い。土地を隣して各階段の成長が見られるのみならず、更に翻つては其衰亡枯槁の過程をさへ知ることが出來るのである。
 是は傳説の大きな特徴で、もと/\それが土地に根をさして、動かずに成長するものであつた御陰と思つて自分などは悦んで居る。大多數の前代傳説は、今や單に地名となつて保存せられて居る。それが最初は地物の名であり、やがては又其傳説の稱呼であつたとも言ひ得るのである。是も實例で言ふ方が早いが、明治になつて多くの大木は倒れ、(376)又無數の古塚は平らげ開かれたが、傳説の名だけは其まゝになつて居る。壹岐の島でも幾らとも無き鬼塚が、つい此頃になつて片端から消滅したといふ話を聞いたが、鬼塚といふが如き特殊な地名がすぐ消える筈も無く、又偶然に附けられるわけも無い。恐らくは或時代、塚の中に目に見えぬオニを祭り、次いで其行事が絶え/”\になる頃から、塚に怖ろしい物が居るといふ話が擴がつて、空想は自然に之を彩つたことであらう。しかも探して居ると他の地方には、さういふ名の塚、さういふ傳説が少しづゝ形をかへて、まだ偏鄙な土地には殘つて居る。それがどの邊まで分布して居るかを知るには、單に傳説の存否を問ふだけでは足りない。町村の大字小字、或ひは鐵道の驛名でなりとも、其地名の痕跡が認められる限りは、曾て一頃は同系の言ひ傳への及んで居たところと假足してよい。さうすると鬼塚は全國の三分の二にも共通した信仰の、名殘であることが知れるのである。中國の田舍には大昔火の雨が降つて、住民が遁げ隱れたといふ僅かな塚穴があつたが、多くは崩されて、しかも地名で無い故に其傳説も消えた。ところが東京近くの埼玉縣各郡には、塚の名や小字の名に火雨塚《ひさめづか》が又多い。即ち想像を逞ましくすればノアの洪水の如く、世界共通なる天譴神話の痕跡、少なくとも曾て此土地の者だけが特別の庇護を受けて、一般の災害から生き殘つたといふ傳説が、可なり弘く我々の中にも流布して居て後にそれが消えたことが察せられるのである。
 或ひは京良木《きやうらぎ》、教來石《けうらいし》の如きは、もと疑ひも無く清ら木・清ら石であつて、之を無數のたゞの木石と差別して、畏敬し祭り又まじなうた遺跡であることがわかり、それが路傍であり又國郡町村の境に存するを例とするを見ても、如何に我々の天然物信仰が、強く農耕土着の社會にまで傳はつて居たかは察せられるのだが、今は木は枯れ石は移されて傳説も區々に獨立し、もしくは半ば忘れ又誤られようとして居る。加賀の山中温泉、秋田の寺内を始め、多くの土地の名所になつて居るコホロギ橋、それから峠の端や溪川の崖などに、比丘尼や座頭や牛馬が轉んだと稱して、何々コロゲ何々コロバシといふ地名があるのも、比較をして見た上で無いと受取られぬ傳説ばかりが多いが、いくら旨人でもさう/\は轉ばなかつたらうから、是も亦同じ清ら木又は石の傳説の、大改造乃至は忘却の痕跡である。
(377) なほ橋の序でに謂ふならば、江戸大阪長崎などの思案橋、何れも以前の遊所に近かつたさうで、行かうか行くまいかの思案をする處と解して恠まぬやうだが、そんな薄志弱行の遊冶郎が付けた名が、斯うした社會現象として弘く傳はるのは變だから、自分などは之を橋占の故跡と見て居る。細語《さゝやき》の橋は多くは神の社に伴なひ、行人の何と無き言語に依り、心の疑問を判斷した處であるが、其名から考へると恐らく神來つて耳にさゝやくべしと、信じた時代もあつたのである。次には例の多い姿見橋、面影橋、是も同じやうな幻を見たといふ傳説の跡であらう。轟き橋は橋板を緩く繋いで、渡ると足音がするからと思つて居た人もあるが、トドロは本來足踏みの音だから、是も事によると願ひ事の爲に、橋の上に立つて或所作をすること、例へば今日の御百度を踏むやうな慣習があつたのかも知れぬ。兎に角に獨り名前が珍しいばかりで無く、現在もまだ色々の傳説が、斯ういふ橋には附いて居るのを見ると、以前は何か信仰生活と交渉する所があつたのである。
 私は自身永い間の蒐集者である故に、まだ幾つでも斯ういふ問題を提出することが出來るが、そればかりでは勿論我々の傳説の如何なるものであつたかを説明するには足らぬ。名稱は要するに蛇の脱殻の如きもので、それを陳列して見たところが、到底實物の美しい斑紋を知ることは出來ない。只幸ひなことには一方にはこんな痕跡の存すると共に、他の一方には類例のまだ活きて居るもの、もしくは少しばかり衰へて將に消えて行かうとして居るものが、諸地に分布して其變化の各過程を示してくれるので、それ等を系統立てゝ對照すれば、自然に發明する所が多いのである。普通に傳説の消えて無くなる順序は、先づ最初に牢く信じて且つ之を大切に思ひ、是非とも語つて人に聽かせようといふ者が無くなること。戰亂饑饉其他の大事件で、暫らく夜話をするやうな機會を失つて居るうちに、ほんの二人か三人の老翁老婆が死んでしまふと、もう殘つた者は知つては居るが、わざ/\人に教へるだけの興味も持たず、其うちには改造が加はり又は新しい傳説が流行して、いよ/\元のものは御留守になるのである。故人の紀行などを見ると、路の傍に老樹があり塚がある。あたりの者に尋ねて見ても確かなる來由を知らなかつたとあるのがそれで、或ひ(378)は之を「由ありげなる處」とも記して居る。斯ういふ場合にも物があり名稱があると、人は尚之を傳説の中に算へるが、烏帽子の形に似て居るから烏帽子岩、箱の如く四角だから箱石だといふ類は、實は大抵は忘却失念の粕の如きものである。野石の四角なのは少しも珍しからず、烏帽子は百人一首の歌人の像を見てもわかる如く、殆とどんな恰好のものでもあるから、形容の語としては不向きである。是等は傳説の元の形、即ちそんな名を付與した動機が不明になつて、名ばかり殘留したからさうも説明したので、其證據には又他の地方で、現に今一段と實質的な傳説を持つ烏帽子岩、箱石の類がまだ幾つもあるのである。しかし右の如き間に合せの説明でも、名が保存せられなかつたら、曾て此地にも同じ系統の傳説があつたことを、知るべき機會は無いわけで、それが大字小字のたゞの地名だけに、辛うじて殘るやうな場合に至つては、愈傳説に名を付けて置いてくれた、故人の親切を感謝しなければならぬのである。
 地名の根原に就いても話して見たいことはあるが、少し枝葉に亙るから他の機會にして割愛する。日本の地名は奇拔にして不可解だといふことを、地理の教師や旅行者はよく言ふが、些しでもこの傳説が地名になつて行く經過を考へて見た人では無いのだから、判らぬのが寧ろ當然である。勿論他にも研究に値する原因があり、例へば北海道のアイヌ地名の如く、外形のみで解釋し得るものは寧ろ少ないが、少なくとも約四分の一は、行く/\傳説の研究者ならば、直ぐに意味を知るのみならず、又興味を感ずることも出來るやうになると思ふ。一方土地の歴史を學ばうとする者にも、傳説から來た地名の趣旨を知ることは大なる參考である。といふわけは一つ/\の傳説には、大よそそれが盛んに流布した時代があるから、之に基いて其土地が開け、人がそんな名を付與した時代を、ほゞ推定することも不可能で無いからである。
 それから傳説の名稱それ自身にも、注意して見ると用語の時代色といふべきものがある。全部とは言はれぬが或物は之に由つて、其名前の行はれた始めだけは考へられる。大體からいふとごく古い頃の傳説は、やゝ込入つた敍述があつて、昔話の如くはつきりとした中心が無かつた。一方近世のものにも複合接續が多くなつて、殊に歴史との調和(379)に急なりし爲に、事蹟を主とし土地地物に對する注意が稍薄れ、新たに樹石塚池等に、名を命ずる風は衰へたかと思ふ。即ち其中間の或時代のみが、殊に説話を簡約にして、最も多くの尊信を外部の奇瑞、殊に所謂奇跡の存留に向けたのである。即ち傳説に名があること、其名が物語にも歌にも適した好き響きの古語であつたことは、最も我々に取つて興味があり、又研究の價値の多い中世の傳説の特徴と言つてよからうと思ふ。私の採集はそれ故に、主として名前のある傳説を目がけ、又其名前を標的として、之を分類して見ようとしたのであつた。
 
(380)     木思石語 四
 
       傳説の分類
 
 此間題については、自分はたゞ最も平凡な、他の國でも?採用せられた一つの案を出して置くが、勿論是が極上といふわけでは無い。人によつてそれ/”\の趣味、各自の自己流を案出する餘地は幾らもある。しかし出來るならば旅人どうし、後日に話をして見ても頓珍漢にならぬだけの、大體の一致は望ましいことである。それには今日の實?に於いては、やはり先づ蒐集者の便宜を考へて、少しでも面倒な理窟を省き、自然に傳説の起原まで進んで行かれるやうな分類方法を、採用して貰ふ必要があると思ふ。故高木敏雄君の日本傳説集などは、主として傳説のモーチーフ、同じ一つの趣意を以て説明し得るものを、纏めて見ようとした樣である。其方が確かに學問的で、末には何れさうなるべきではあるが、奈何せん現在はまだ採録せられた實例の數が乏しく、おまけに其大部分は簡單に動機を推量することが出來ない。それを強ひて起原に就いて名目を分たうとすると、問題が孤立してしまつて比較も綜合も出來なくなる。さうでなければ英雄傳説とか天然傳説とかいふ風に、餘りに茫漠として分類を試みた甲斐が無くなる。傳説の中から英雄天然の二要素を除いたら、殘る所はちつとばかりしか無いのである。
 さうかと言つて同じ民族の、始終交通をして居る各地方の間を、或ひは武藏の傳説とか播磨の傳説とかいふやうに(381)區別することは、單に採集家の手帖の都合ならば兎に角、之を分類法と名づけることは出來ないやうである。所謂地方色は、何れも必ず後代の變化にのみ認められるもので、傳説の本質又は發生?態とは關係が無い。寧ろそれがある爲にいよ/\對照を必要とし且つ流傳の法則が推定せられるのである。民族が同じである限り、離れて住んで居ても永く重要なる共通を持つて居ることが、傳説の特色である。中世以後割據によつて其事實を發見し得なかつたことは、傳説の衰微であり又歴史の紛雜でもあつた。それが再び整理せられて、次第に元の姿に立ち復る樣になつたのが、自由なる今日の旅行の御蔭だとすれば、分類とは當然に縣境郡境を突切らなければならぬわけである。自分などの僅かな實驗によるも、土地々々の蒐集家は隣を知らず、又適當な標語を知らぬ爲に、銘々が非常にむだな骨折をして居る。一たび同種の傳説が同樣の條件の下に、次から次へ發生し得るものだといふことさへ心づけば、後には名稱によつて型を定め、大部分の重複を筆記せずに覺えて居られるのに、いつ迄も丸寫しに苦勞して、却つて肝要なる變化の點を看過しようとしたのである。村誌や郡誌の正確なものを作らうといふ人々は、或ひは義理にも故老の話を省略することが出來ないか知らぬが、それを集めて研究すべしと唱へながら、なほ傳説叢書のやうに國分けの方法を採つたのは、少なくとも讀者に對して不親切なことであつた。
 是に比べると傳説の時代別けといふことは、まだ幾分か意味があるやうである。明治以後には明治の特徴があつたやうに、聽く人説く者の社會環境の推移によつて、改造せらるべきものは全體に改められて居る。少なくとも百年五十年前の書物に書留められたものと、現在耳に觸れるものとを一括してしまふ事は、比較の價値を損ずる虞れがある。故に出來ることならば江戸期の傳説、十九世紀の傳説といふ風に大別して見たいのだが、實際に於いてはごく古い例は幾らも殘つて居らず、今ある記録は昔といつた所で、大部分は百年以内のものであり、一方現在の口碑にも古風を其まゝ、もしくはたゞ少しだけ變化させて、保存して居る地方も多いから、自分たちは強ひて年代の差別をやかましく言はぬことにして居る。しかし何れかといへば今後旅人の採集が進んで、直接にうぶな住民の口より聽取つたもの(382)だけを材料とし、一旦書物に載せられたものは、其時代以前に屬する傳説として、ほんの參考だけに之を利用する方がよいのである。差當り簡單な親しみ易い分類さへ立てゝ置けば、やがてはさういふ風になることも遠くはあるまいと信ずる。
 
       木や石の傳説
 
 私等は最初は日本に於いて一番人望の多い傳説はどれかといふことを考へ、其中でも殊に奇拔で、どうして人が之を信じ始めたかを、解するに苦しむやうなものに注意しようとした。それが少しづゝ興味の加はるにつれて、追々と其範圍を擴げて行つて見ると、存外に早くもうおしまひに近づいたやうな感じがしたのである。勿論斯ういふ列擧法を以て、傳説の領分を究め得べき道理は無く、又今日僅かに存するものは、却つて以前大いに行はれたものゝ名殘かも知れぬが、大體に於いて各種傳説の分布は非常に偏り、到底數の上から釣合ひを得た分類が出來ぬことだけは事實である。自分の考へでは、是は我邦ばかりの偶然で無く、元來傳説といふものが斯んな傾向を取つて、成長し又繁茂すべき性質を具へて居るので、假に初期に於いては遙かに普遍的に、宇宙と人生とのあらゆる接觸面に行渡つて居たにしても、其中には世の進みにつれて、早く消え又は移るものと、永く固守せられて元の形のまゝ、もてはやされるものとがあつたのである。
 そこで我々の分類法は、主として傳説の對象に由つて、就いて語らるゝ目的物の、普通の順序に竝べて見ようとするのであるが、其前に先づ動く傳説と、動かぬ傳説とに大別して置く必要があると見て居る。最初に説き始めた昔の人の心持では、日月風雲の如き天然の現象も、山川草木鳥獣蟲魚の類も、それ/”\一つの物であり傳承の題目であつて、其間には何の差別も立てなかつたのであらうが、一方は之を如何なる人の群に運んでも其まゝ通用し、一方は他(383)の多くの部落の經驗の外なるが故に、元の場所につれて來て同じ樣な見聞をさせた上でないと、同じ感動を期し難いものがある。古い例でいふと、日と月とが互ひに避くるに至つた由來は、曾ては天體に關する傳説であつたが、何人にも理解せられる代りには、特に此話を保有しなければならぬ者が無くなつた。之に反して富士と筑波の二つの山が、天の神樣によつて褒貶せられたといふ物語は、其樣式起源に於いて頗る前者と近いにも拘らず、たゞ二つの靈山の中間に住んで、朝夕に其姿を望む者ばかりが、興味を感ずべき問題であり、殊に筑波の方の麓に住む人に取つて大切な言ひ傳へであつた故に、傳説として常陸風土記には採録せられて居る。山と山との爭ひは、今でも諸國の傳説であるが、それを保存する者は何れか一方の山に寄つた方の住民で、例へば赤城と日光の山爭ひ譚を、どうして日光の人のみが保存する任に當つたかといふ理由は大抵は亦話の内容によつて察せられる。即ち傳説には其性質から、特に限られたる人數によつて護衛せられるものと、水や野草と同じく弘く一般に公開せられてよいものとがあつたので、久しい年月の間にそれが次第に別々の道筋をとつて、成長することになつたのは致し方が無いのである。
 是と同じ事情で、動物や植物に關する傳説にも、自由に國内を周歴して、後にはどの地方のものでも無く、所謂「むかし/\或處」の出來事として、稍亂暴に取扱はれて居るものが多い。例へば蕎麥の莖はなぜ赤いといふ話に、山姥の血が流れてとか、アマノジャクが神樣に斬られてとかいふ類は、日本國中の蕎麥が悉く紅い莖をして居る理由としては不完全であるから、元は必ず或村の山畑のみを見て居た人が、考へ出したことに相違ないが、外の土地に往つても蕎麥の根もとの色は皆同じだから、終には「その因縁にあやかつて」といふやうな説明を添へて、之を公衆の中へ差出すことゝなつて、一つの土地の産物では無くなつた。時鳥が昔誤つて弟を殺した兄であり、それを悔んで今でもホチョカケタと啼きまはるなどゝいふ話も、單に外形から見れば、時鳥の傳説と謂つてよいやうなものだが、之を説き聽かせようとする人の態度、即ち兎に角に此樣な言ひ傳へがあると言つて、信じられるならば信じたいと思ふ念慮は、もう話し手の方には無い。ところが同じ數多い生き物の中でも、例へば津輕の盆踊の歌の中に、
(384)   アヽ猿賀池のザッコは
   皆みんなメッコだあ
   みんなメッコでもねェや
   二三びきやメッコだァ
と歌ふやうに、或池又は流れに棲む魚が片目であると謂ひ、佐渡の御蛇河内では順コ天皇が蛇を御覽なされて、こんな島でもやつぱり蛇には二つ目があるかと仰せられてから、此谷に限つて片目の蛇が居るといふ如き、確かな證據は無いのに住民は今でも之を主張する。其他鳴かぬ蛙だの血を吸はぬ蛭だのといふのは、何れも或特殊のいはれによつて今でも七不思議などゝ稱し、それだけは昔話といふ程の面白い話でなくとも、土地の人が永く記憶して居る以上は、傳説の中に算へるより他は無かつたのである。
 面倒な理論を述べることは私の本意では無いが、是は要するに今と大昔と、物の観方がちがつて居た結果で、我々の如く類と個體とを明瞭に區別して考へるやうになつては、以前の傳説にはもう傳説として存在し難いものが多からざるを得ぬのである。古人も木を見て林を見ずなどと謂つて居るが、今一段と單純なる人の頭には、木といふ概念すら無くて、たゞ一本々々の松なり櫻なりを認むるのみであつた。それを我々が家族や村の人に對すると同樣に、ちやうど眼の前に現はれた一個體を相手として、其屬性や經歴を知らうとしたのが傳説であつた。去來常無き空の鳥や、限りも無く繰返される自然の現象に對して、たま/\付與したる傳説が、永く其誠らしさを保つことが出來ずに、次第に其樣式の面白味を賞美する文藝になつて來たのは已むを得ない。之に反して一處に定着して入代りの無い物には、それ自身古い話を思ひ出させて又忘れさせぬ力があつた。其上に物が在るのは言ひ傳への正しい證據だといふ妙な論理は、存外俗間には有力であり、曾て一たび信じたものは、新たな理由の現はれぬ限り、之を保存したいのも亦人情で、實は知らず識らずの問に時代の影響を受けつゝも、なほ大よそは昔通りの姿を失はずに居られたのである。現今(385)我々の傳説が土に根をさしたのも、殊に老樹巖石の如く、狹い地域の住民のみと交渉を持つものに限られるやうになつたのは、言はゞ消え易いものから消えて行つた結果で、全體を總括して比較をすれば、確かに前代の傳説とは同じ物で無いが、しかも殘つて居る一つ/\に就いて見れば、其實質も對社會の關係も、特に改まつたところは無いのである。
 
       傳説と地名
 
 我々の傳説は、斯ういふ意味に於いて次第に風土誌の領域に入つて來たのである。現在の實?では、まだ考へ深い旅人の方が、却つて世の所謂普通教育よりも、一層確かな仕事をして居るが、今後もし人文地理の研究が進むとすれば、なによりも先に人が、この大いなる天然とは如何なる條件を以て調和して來たか、何を頼みに我々の先祖が、或山脈の麓の野、もしくは或流れの淋しい岸に落ち着いて、家を構へ村を開くに至つたかを教へなければならぬ。而うして人の心持の内側を記録したものは、地名以外には殘つて居るものが殆と無く、其地名の中でも特に意味深きものは、大抵は昔の傳説と關係して居る。それも日本のやうにまだその大部分が活きて行はれて居る國で無かつたら、之に基いて既に消滅した傳説までを類推し、こんな幽かな痕跡の中から、隱れたる平民生活の過去を見出すことは出來なかつたので、此點については他の何れの國の旅人よりも、我々は最も豐かに惠まれて居ると思ふ。
 地名起原に關する調査の、日本よりも進んで居る國は幾らもある。しかし調査をして見て樂しみの多いことにかけては、我々に及ぶものは少ないであらう。是は單なる御國びいきからさう見えるのでは無く、個々の民族には色々の癖と流儀があるうちに、日本人の如く敏活に又自由に、新しい地名を付け且つ容易にそれに同意した國民も珍しいのである。獨り地名には限らず、草木蟲魚の異名でも男女の綽名でも、少しく奇拔なものが出來ると直ぐに流行する傾(386)きはあつたやうだが、殊に人間が早く増し土地が細かく利用せられた結果、地名の數量がどこの國よりも多かつた爲に、一層手輕に他人の思ひ付きを採用したばかりで無く、人には成るべく土地の上に深い興味を持たうとする自然の願ひがあつて、久しい間何十何番地といふやうな乾燥無味なる番號制を行ふことが出來なかつたのである。そこへ持つて來て我々の先祖は、非常に傳説が好きであつた、といふよりもそれに心を動かされ易かつた。傳説を地名にして置けば、人が欣んで之を記憶し、又一致して之を使用しようとした。即ち地名としての目的は十分以上に之を達することを得たのであつた。但し何かの事變によつて傳説の方が却つて消えることがあり、名稱ばかりが機械的になほ殘るが故に、地理學者の中には往々にして、日本の如く不可解の地名の多い國は無いなどゝ言つて、其研究を斷念した人もあつたが、不可解といふことは實は我々の學問に、まだ豐かなる獲物の殘つて居ることを意味するのである。
 
       傳説と家
 
 話は少しばかり枝路へそれるが、日本人の苗字に何田といふ例の多いことは、西洋人までが既に心づいて居る。苗字は本來居住地の地名から出たもので、實際又今日でも、小字の名に何田が澤山あり、現に東京の市中でさへ神田櫻田永田町などの稱呼が殘つて居り、決して田舍ばかりの特色では無いのである。田は水を溜める爲に傾斜地では特に區劃が小さく、それが多くの家に分有せられるのが普通であつたから、僅かな一村の地名にも、四十五十の何田が入用になつて來る。而うしてその中の取分け有名なものは、稍廣い地域にも通用せられ、たとへば柳田ならば「柳田」と呼ぶ田地のある一村をさう名づけ、それから名主と稱して其村を領した者の一門が、悉くその在所を名乘ることにもなつたわけである。日本の田地は古くから百萬町歩もあつた、それを一反づゝに切つても千萬の何田があつてよい。勿論村さへ違へば同じ地名を付けても構はぬが、それにしてもよほど種類が多くないと、差別の目的は達しら(387)れぬのであつた。日本人の命名法の巧者な事は、どうにか斯うにか番地制などを採用せずに、永い間各々の田の名を獨立させて來たのである。其中でも筆者等の苗字の如く、田の上に植物の名を冠したものゝ多いことは注意せられる。今日の尾張や越後の廣い耕地を見た人は、これは一種の想像上の符號で、あたかも今日の驅逐艦の名の如く、後から後から加へて來たものゝやうに思ふか知らぬが、それでは到底全部記憶せられる見込は無い。故に昔は單に附近にある何か一種の木を、田の名を傳へる爲に大切にして置いたといふよりも、寧ろわざ/\選定して伐り殘し栽ゑ付けもしくは枝を插した習慣があつたのでは無いか。是は今日もまだ行はれて居る信仰上の行事からも推察することは難くないのみならず、單にエゴが生えて居たから江古田と謂ひ、芹が多いから芹田といふ類の名稱以外に、杉田だの櫻田だのと、到底水田の畔には有りさうにも無い樹もあれば、其種類が又非常に限られて居て、松杉栗梅などゝいふ若干種が殊に多いのである。しかも其類の田の名が早く認められて、一村一郷の古い區域の名にもなつて居るのを見ると、由來はもう忘れたといふだけで、曾てはさう命名しなければならぬ至極重要な理由もあり得たので、全部とは言はれぬが斯ういふものゝ中にも、尚幾つかの傳説が潜んで居たことも疑ひが無いのである。
 伐る爲に樹を栽ゑる今日の人の眼には、或ひは所謂烏の黒雲の如く、甚だたより無い記念物のやうに見えるであらうが、古人は必ず傳説ある樹木を伐り殘したのみならず、なほ?計畫を以て、新たに後世の傳説を栽ゑようとしたのであつた。神社の神木に女夫木などゝ謂つて、左右一對の同種のものを見るのは、或ひはもと數多い林の中から、似合ひの二本を伐り殘したのかも知れぬが、それが相接して齡のほゞ等しい場合などは、自然の?態としてはさう普通で有り得ない故に、之を相生と名づけて奇瑞と認めると共に、又時としては特にさういふ栽ゑ方をして、其繁茂によつて神意を卜したこともあつたらしい。連理木だの鳥居木だのといふものに至つては、之を自然に見出すことは愈稀有である。恐らくは最初ある人の計畫に基くか、さうで無ければ更により以上に珍重すべき不思議の發見があつたので、從つて斯ういふ事情の下に成長した樹木に永遠性を認めて、之を地名として後に殘すことも不思議でない。(388)名が殘り物が存すれば傳説も通例は成長する。それが古くなると共に一層大切になることも、亦極めて自然な話である。私は以前東京郊外の村を散歩して、此地方の風景の一特徴たる丸太用材の杉林の片端に、しば/\後年の火の見梯子を作るべく、特に二本の杉苗を密接して栽ゑたのを見て、住民の遠大なる用意に驚いたことがある。かの二本松とか三本杉とかいふ地名の、村の境や山坂の曲り角の如き、常に土地の人々の話題に上るべき場處に存するのも、勿論其木があつたからには相違ないが、それを伐り殘し又栽ゑつけた人の心持には、更に今一つ以前の計畫があり、永く地名と爲り又傳説の宿となることも、最初から彼等の期待する所であつたかと思はれる。
 兎に角に我々は「名を後世に遺す」と謂つて、單に輸廓と目標とを留め、事蹟の細かな内容は次々の時代人の、最も好意ある想像に、一任し得る國民であつた。人が歴史よりも傳説を重んじ、寧ろ餘りに精密に確かなる記録の傳はつて居らぬ方面、例へば金時辨慶佐倉宗五郎の如き物語の中に、各自の好きな人物を描き出して樂しまうとした心持は、決して近世に始まつたものでは無かつた。地名や家名の往々にして耳に珍しく、五人三人が集まつて雜話をする場合優に一夕の話柄の全部を占領することが出來るのも、私は偶然で無いと思つて居る。單に差別の爲ならば甲乙丙丁でも番號でも構はぬものを、特に我々の好奇心に訴へるやうな印象深き名稱を思ひ付いて、それを使ふことに我も人も一致したのは、過去に忘るべからざる記念があると同時に、更に永遠の未來に向つて、何度と無くそれによつて所謂いはれ因縁故事來歴を語りかはして、空想の世界に遊ばせようといふ好意があつた爲で、此點から見れば竝木に松を栽ゑ清水のほとりに柳を栽ゑたのと同樣に、寂しく單調なる此人世の行旅を、少しでも活き/\とさせようとした昔の人の親切であつた。
 
(389)       名所と旅
 
 但し我々の方にも選擇の自由が許されて居た故に、後世の社會事情或ひは各自の趣味に任せて必ずしも古人の設けて置いてくれた名どころを、其儘には利用しなかつた。折角相續したものでも見棄てたり粗末に取扱つたり、又一方には別に自分たちで、新たに有名なものを作らうとしたこともあつた。殊に近頃の名所舊跡巡りなどは、何かは知らず人のよく行く場所だからといふだけで、最初に名の出來た時の事情などは、省みようともせぬ者が多い。さうして諸國の數限りも無い傳説地などは、現にちやんとした名が有りながら、少しも今日の所謂「有名」ではないことになつてしまつた。是は全く分類とか比較とかいふことに、忙しい旅客が興味を持ち得なかつた結果であらうと思ふ。
 地名や家名などのたゞ痕跡ばかりを留めて居るものから、其根本の傳説を詮議することは、馴れぬ人にはまだ六つかしいかも知れぬが、現に實物が存し話が殘つて居るものならば、我々はたつた三つの簡單な問答を以て、いと容易に採集の目的を達することが出來る。餘り講釋が長かつたから、ちよつと御慰みに其方法を傳授すると、村には通例傳説の中心ともいふべきものがあつて、それは多くは氏神の社の附近である。鎭守と因縁のある舊家や別當寺、又共同の井戸なども遠くには離れて居ない。そこへ行つて見ると必ず何か目に附くもの、何か言はれがあらうと直覺し得る木とか石とかゞある。立留まつてぢつとそれを見つめ、又出來るなら寫眞を取りもしくはスケッチをする。是が實は人寄せの手段なのである。さうして誰でもよいから一番近くに來た成人の一人に、次のやうな言葉をかけて見る。
  見事な木ですね(又は變つた石ですね)。
斯ういはれて何とか受答へをする人なら、必ず話をしてくれる人である。そこで第二囘は、
  此木(石・塚)には名がありますか。
(390)無いといふやうなら又方向をかへなければならぬが、大抵は笑ひながらでも、子供の時から知つて居る名を答へる。
  それは珍しい名前だ。きつと何か「いはれ」があるでせう。
 ざつと先づ斯んな風に續けて聞くと、新たにどう語らうかを案じて居る餘裕が無い。話があるならばほゞ有りのまゝに出て來るし、無いならば無いといふことが確かに知れる。さうして又此次に尋ねて行くべき方角なども、之によつて暗示せられるのである。
 ところが八かましい人たちの調査方法なるものは、何か傳説があるならば報告せよと來る。さうすると第一に傳説とは何かといふ問題が起り、次には何と書かうどう報告しようの評定が面倒で、結局は名文家を煩はすやうになり、村に今あるものとは遠ざかつてしまふのである。もしさうしてしまつてから定義を論じ、範圍を明らかにしても役には立たぬ。殊に書いたものが出來ると無筆の人はあべこべに之に縛られて、却つて自分の信じて居たものを棄てることさへある。つまりは名所といふものゝ本來の意味を、汲んで見ようとせぬ結果である。
 そこで自分の意見では、傳説には稀には移動し易くして今尚移動せず、限られたる地域に古代の眞實として、たゞ空に信用せられて居る話もあるかも知らぬが、數量に於いてそれは甚だ僅かであり、又以前人知れず、どこか他の土地から流れて來たのかも知れぬ故に、それは准傳説とでも名づけて假に別にして置き、主としては土地に定着し地物と不可分に傳はつて居るもののみを、出來るだけ多く採集しようとする。それから又餘りに有名であるが爲に、却つて之を指示すべき適切な名目の無い場合も稀にはあらうが、通例は地形地物に就いて語られる限りは、大抵その目的物が傳説の要旨を名に負うて居る。それが名木であり又名石であるのみで、未だ字の名や村の名に應用せられない間は、多くは傳説其ものゝ忘却と共に、名稱も消えてしまふものであるから、名がある以上は其陰につゝましく隱れて、まだ傳説も活きてゐるものと見てよいので、即ち單なる木石の呼び名を書留めることが、やがては又傳説の採集ともなるわけである。
(391) 此頃自分の作り始めた傳説目録では、專ら分量の多少を標準として第一に木の傳説、その中には腰掛松・矢立杉・杖銀杏・逆さ榎などの小別がある。第二には石の傳説、是にも腰掛石・休石を始めとして或ひは傾城石・比丘尼石等、細かく別けて十何種ほどの、可なり弘く分布した昔語りが算へられる。第三に塚の傳説、或ひは數は木や石などよりも多さうだが、今はまだ歴史との混淆が甚だしく、之を整頓するに餘分の手が掛かる。それから次に來るのは我々が總括して水部傳説と謂ふもの、池と淵とが最も多く、瀧とか温泉とかにもそれ/”\傳説を代表した珍しい色々の名があつて、それは悉く水の神の信仰の名殘のやうである。是と對立して陸上に道の神の威力を記念するものが、坂や辻、橋や渡し場などの傳説となつて殘つて居る。其次には森と野の一隅、古い屋敷地などにそれ/”\特色ある口碑があり、中にも長者の故跡といふものからは、特に我々の祖先の美しい想像力を認むべき、優秀なる文藝が伸び榮えて居る。それから最後には現在の人間生活を圍繞して、別に又一團の社寺堂閣舊家名門の傳説などが成長して居るのであるが、それを一々列擧することはまだ私の力の能くする所では無い。しかし何れにせよ日本の傳説には、今尚適切なる名稱を持つものが多い以上は、其品目によつて分類して行くことは、必ずしも衆人の一致の望み難いやうな面倒な事業では無いのである。
 
(392)     木思石語 五
 
       白米城の傳説
 
 傳説とはどんなものか、傳説採集の興味は何れの點に在るかを、實例を以て語らうとするに、やはりこの白米城《はくまいじやう》の話などが、適切な色々の條件を具へて居る。以前「郷土研究」に此問題が提出せられた時には、全國の白米城は、まだ八縣十一二箇處しか知られて居なかつた。土地の人々は何れもそれを記録に逸したる歴史と信じて居り、又さう認めても少しも差支へが無かつた故に、それを或平和な時代に、誰かゞ歌物語の形を以て運搬し、やがて似合はしき一地に定着したものと、言ひ切るだけの勇氣のある人も無く、ましてや如何にして斯んな話ばかりが、弘く國中を浮遊して居たかなどゝいふことを考へて見ようとする者は無かつたのである。つまりは最近まで約三百年ほどの間、我々日本人と傳説との關係は、殆と少しの變化も受けずに、昔のまゝで續いて居たのである。斯うして古い傳承の續いて居る國は他にはさう多くない。この研究の今後日本に盛んになるべき、一つの理由はこゝに在るかと思ふ。私は其後十何年、飽きずにこの一つの傳説の分布に注意して居た。さうして目に觸れる限りは手帖の端に書き留めて置いたのであるが、今算へて見ると更に二十近くの實例が加はり、區域は更に七縣にひろがつて、大よそ全國の端々にも及んでゐる。まだ幾つかの記憶を脱したものもあるかと思はれ、更に他の旅客によつて追加せられるものも多いことゝ信(393)ずるが、それが一つでも直ぐに役に立つやうに、大體今あるものによつて説明を試み、出來ることならば其原因の探求に向つて、一足の歩みを進めて見ようと思ふ。
 
 府縣の實例はその確かなる出處と共に、末の方に列擧して置くを便利と考へるが、其前にごくかいつまんで傳説の大略を述べると、第一に傳説の所在地は或岡又は山の上である。曾てそこには城が有つたと傳へられ、當然に其城主の名が近世の郷土史家の頭には響いて來る。しかしこの固有名詞は、今日の聽衆が考へて居るほど、古くから固定不動のものでは無かつたらしい。それよりも先に疑はしくなることは、そんな高い處に果して城があつたかといふことと、假令半月でも二十日でも、そこに籠城することが出來たかどうかといふことであるが、傳説は兎に角に籠城を以て始まつて居る。
 元來非常に要害のよい城であつたが、一つの大なる缺點は水の手の不自由なことであつた。夜深く麓の澤に下つて、水を汲んで來なければならぬのが弱味であつたといふ。それは當り前のことで、元々水の無い山の上に取籠つたといふことが、斯ういふ傳説を發生せしめざるを得なかつたのである。土地の人々はそこに水の無いことをよく知つて居る。我々ならば「まさか彼處には城は無かつたらう」といふべきところだが、昔の人は「だから白米城の物語が有るのだ」といふ風に考へて、却つて話を珍しがり又信じようとした。是が以前と今と人の心持、又周圍の社會事情の著しく異なつて居た點である。
 傳説の二十餘箇處に共通した部分は、寄手が其城の水に乏しかるべきを察して、水の手を斷つて城兵を苦しめようとしたことである。さうすると此謀計を中止せしめる爲に、わざと遠くの方から見える處へ馬を引出して、白米を注ぎかけて馬の脚を洗ふ樣子を見せ、水はまだ幾らでもあるといふことを装うて敵を欺いたといふのである。至つて簡單な智略のやうではあるが、斯んな出來事が二回も三回も、偶然に起らうとは思はれぬのみならず、白米が果して遠(394)方から眺めて、水と見えるかどうかも甚だ疑はしい。自分などは始めから想像上の奇談であらうと思つて居る。
 
 しかしそれが爲に此傳説の興味は、些しだつても減殺するものでない。假に事實の根據を持たぬものだとしたら、何か別に人にさう信ぜしめる原因が有る筈だからである。最初に我々が注意をして居たのは、所謂白米城の故跡から、?燒けた米が出ることであつた。米は農民の大切にするもので、やたらに山野に撒き散らさぬのみならず、そんな物があれば必ず鳥が來て啄んでしまふ。それが土の中から燒けて澤山に出て來るのを見ると、驚きもし訝りもするのは當然のことで、本當はそれと馬を洗つたといふ話とは關係がやゝ遠いのであるが、一寸考へると或ひはさうかも知れぬといぶ想像を起させるのであつた。
 土の中や岩の陰から燒米の出る土地は、必ずしも斯ういふ山の上の城祉のみとは限らない。平地にそれがある場合には、通例は昔の長者の屋敷跡だと傳へて居る。或處では長者が大火事に遇つて没落し、其米庫の米が朽ち殘つて居るのだなどゝ謂ひ、それを煎じて飲むと瘧の病が治ると信じて居る地方も少なくは無い。名和長年が、天子を奉じて籠城したといふ伯耆の舟上山の如きは、白米城の傳説は無いけれども、やはり赤土に交つて今でも燒米が出るので有名である。といふよりも或ひは燒米が出る故に、爰を太平記にある舟上山と、きめてしまつたといふ方が正しいかも知れぬ。
 燒米が出るから城地だ長者屋敷だと推定することは、實は頗る不安心なものであつた。殊に我々の過去は永く、大事件は只其一時點に外ならぬ。その前後の千百年に亙つて、何か別に燒米の土に埋もれるやうな原因が有つたのでは無いかどうかを考へずに、直ぐに二つの事實を結び付けようとするのは正しくない。米は前代の生活では入用に臨んで精げたもので、貯へて置くには籾のまゝであつた。長者の庫に白米が有つたといふことは勿論疑はしいが、幾ら籠城の際でも、馬を洗ふほど多量の白米を、用意して置いたといふことは信じられぬ。殊に軍陣の間では玄米が普通の(395)兵糧であつて、白米が今のやうに白くなつたのは、近世の所謂生活改良であつた。白米城の傳説を信じた者は、先づ是だけの事實をすらも、よくは知らなかつた人たちであるから、其推理に若干の誤りがあつたとしても不思議は無い。
 我々の考へて居るのは、以前山や丘の上の淨き土地で、祭をする習はしが今よりも盛んであり、其供物の米を祭が終つて燒いたか、もしくは今日の田神祭のやうに、燒米にして供へて居たのでは無いかといふことである。白米城の傳説地がもしさういふ祭をする處であつたならば後に其式は斷絶してしまつても、なほ常に格別の注意と敬意とを、其土地に對して拂ふ人が多かつたわけで、言はゞ傳説の特に成長し易い沃土であつたかも知れぬのである。
 
 次には此傳説が、かねて國中を流傳して居たとして、如何なる因縁がそれを此地に土着せしめたかといふこと、是も列擧した多くの例を見比べて少しづゝ其端緒を引出す事が出來るやうである。此物語の内容は、非凡なる人間の智能によつて、弱は能く強に勝つたといふ成功譚の系統に屬するにも拘らず、其結果は半分以上、不幸に終つて居る點が、見遁し難い一つの特徴である。即ち一旦は白米で馬を洗つて敵の眼を欺いたけれども、後に何かの事情で其術が露はれ、もしくは第二回の攻撃に由つて、城は結局落ち城主は滅びたことになつて居るものが多い。陸前登米の例は小鳥が其米に附いたので水で無いことが判つたと謂ひ、他の多くの例では老女とか寺の僧とかゞ内通して、事實を敵に知らせたといふことになつて居る。此種類の説話の通例の形に比べると、この悲劇的終局が著しく眼に着くので、是は私などの遺恨型又は怨念物と名づけようとして居る部類に屬して居る。能の舞などでは、必ず其事件の主人公自身の靈が、出て來て物語することになつて居る。さうしてやはり時には生前の得意談にも及ぶことがあるのであつた。例へば謠曲八島では後シテは源義經で、
   去つて久しき年波の
   夜の夢路に通ひ來て
(396)   修羅道の有樣あらはすなり……
と謂つて、殊に彼が一生涯の最も花々しかつた實驗を語つて居るのである。斯ういふ稍不調和な二つの説話の結合、即ち勝つた者の快い記憶を、沈んで居る者の淋しい詞から聽くといふことは、無論後年の複雜化に相異ないが、氣を付けて見ると日本の文學には其例が多い。斷定することは出來ないけれども、白米城の傳説の元にも、一つのこの種類の物語の流行が、曾てはあつたのでは無いかと思ふ。
 もつと具體的に私の假定を説明すると、最初は兎に角に誰かゞ話して聞かせなければ、土地の人たちは信じたくても、此傳説を知る折が無かつたわけである。全體何人が始めて斯んな話をしたのか。それが第一の問題であるが、私は至つて簡單に、それは此城に居たといふ或武士の幽靈であつたらうと思つて居る。幽靈の言つたことならば、昔の人は信ずることが出來たのである。
 何も私が信ずるといふのでは無いから、之を攻撃することは暫らく控へて貰ひたい。私は只以前斯ういふ風があつたらしいといふことを述べるまでゝある。幽靈が活きた人に話をする方法は、二通りあるものと考へられて居た。其一つは夢か幻かに現はれて語ること。人が追々不實を説くやうになつて、そんな事を謂つても信じない者が多くなつたが、それでもなほ眞面目に此方法によつて、死者の口から或事實を知つたと思つて居る人が今でも居る。第二の方法は口寄せといふ者の口を借りること。是も所謂知識階級こそは、有り得べからざることゝ考へて居るが、現在もまだ/\弘く行はれて居て、それを聽かうとする程の人ならば、全部で無いまでも一部は信ずるに足ると思つて居るのである。
 白米城の奇談が既に現實のもので無く、又城に在つて其秘術に參加し、更に寄手の中に入つて、水かと思つた當時の?況を聞合せることの出來た者が、落城の後まで生き殘つて、其實驗を人に語るといふことが六つかしいとすれば、(397)この二つの方法の何れにもせよ、兎に角に幽靈の言に聽くより他は、別の途は無かつたことゝ考へられる。さうして土地の人の想像力、所謂潜在意識の範圍は限られて居た。白米で馬を洗ふといふ類の奇拔な思ひ付き、しかも熟知區域が十里十五里の間隔を置いて、日本全國に分布するほどの一つの事實を、個々獨立して村々で聽くことは出來なかつた筈である。故に私は之を今日風に解すれば、口寄せの持つて來た話、信じた人たちの立場から言ふならば、幽靈が或優れたる歩行神子《あるきみこ》に託して、語つて聽かせた話の名殘であつたらうと思ふのである。
 
 近世の口寄せ神子の頼まれるのは、大抵は家庭的の交通だけであつた。新たに死んだ者の有る家では、通例其次に來る彼岸の日、又は中陰の終りに近く、一度は其人の口を寄せることになつて居る。又或家では定まつた季節に、祖先の靈を招いて幽顯二界の會話を試みることになつて居るのみで、無縁の亡者までには及ばうとせぬのが普通であるが、それでも何か一向に心當りの無い物の崇り、意外な障りなどに出くはすと、斯ういふ職業の者に頼んで、先づ憑《よ》らんとする者の誰であるかを知らうと試みる。さうすると犬神が出て來たり、天狗が現はれたりすることもあるが、時には突如として數百年前の死靈が、自ら名乘つて因縁を説くこともあるのである。
 それにも時代があり傾向があり、又は口寄せの專門も段々に分れたが、近頃は東京などでは動物や樹木の精は少なく、益盛んに死んだ名士の靈が語るやうになつて居るさうである。聽き手が多智多感であると、幽靈の言も亦どし/\と改良せられるであらうが、村には以前何物をも信じ得る人が、寧ろさう澤山の新奇を豫期せずに、各自の理解し得る靈驗を得ようとして居た。其上に靈媒の能力にも限りがあつた故に、今でも田舍の口寄せはその言ふことがやゝ形式化する傾きを有つて居り、又それで少しも差支への無いやうに、巫女は常に弘い旅行をして居たのである。
 戰爭は昔から、政治の大いなる混亂であつたと同じく、又靈界に向つても非常な動搖を與ふるものであつた。單に一時に多くの亡靈が出來るといふのみで無く、其靈は何れも氣力のなほ盛んな、無理に今までの宿りから追出された、(398)荒い憤つた所謂浮ばれない者ばかりであつた。佛法の方から見ても、さう容易には淨土へ移つて行かぬ怨靈のみが多かつた。村里の周圍を其樣な怖いものに充滿させて置いて、不安を感ぜざる人は無かつた筈である。殊に白骨が散亂し夜は陰火の燃えるといふやうな場處が、次から次へと不思議話を積み重ねて來たことは、それだけは少しでも不思議でなかつた。其?態がどれ程續くべきものであつたかは、細かな色々の原因も加はつて居るから、簡單には之を算定し得ないが、平家物語でも義經記でも、決して文章や情感のみから、あれだけの人の注意を引付けて居たもので無いことは、其中心の何處であつたかを考へて見てもわかる。能でも幸若でも、實は古戰場文學の一面の發達に過ぎなかつたのである。
 
 供養追善が追々に此動搖を鎭靜したことは事實であるが、その一つ前には色々の意外な災害と、其原因の探求とがあつたのみならず、之を逃れる方法の一つとして、出來るだけ詳しく過去の事蹟を説き、又忍耐してそれを聽かうとした風習のあつたことは、多くの記録に依つても之を跡付けることが出來る。幽靈は普通甚だしく饒舌なものであつた。其理由は私には説明することがさう六つかしくは無い。夢でも口寄せでも、實際は個人的であつたから、前に聽いて居る事實と大抵は一致しない。それ故に時代が進むと共に、益詳しく且つ具體的に語つてくれぬと、聽く者が合點しなかつたのである。
 之を白米城の傳説にあてはめて考へて見ると、村の附近に注意すべき一つの靈地があつて、そこに村人が折々は奇恠をみた。多分戰場であらうと想像して居るうちに、或時一人の優れた巫女が遣つて來て、口を城の主の亡魂に貸して、眼に見る如く以前籠城の日の光景を語つた。其語り事の中で特に心を動かした一節は、白米を水と見せて馬を洗つたといふ逸話であつた。成程さういへば此處には焦げた米が埋まつて居る。話はよく合ふといふ樣なことになつて、後には些しの疑ふところも無く、之を當地の歴史として人に誇り得るやうになつたのでは無からうか。それを一方の(399)口寄せの側から言へば、必ずしも山に燒米の出るといふことに暗示されずとも、是が高い處に靈地の有りさうな村に來て、昔の戰を語る一つの形式であつたのかも知れない。僅かづゝの組合せの相異はあつても、實際彼等の用ゐて居た語り事は、さう澤山の種類があらう筈は無かつた。今でもよく生靈か死靈か、男か女か目上か目下かなどゝ、寄せられる靈の人柄を尋ねて後に、言ひ出す文句も亦大よそは定まつて居るので、是が主として各地の物語の、細かな點までが共通だつた理由であらうと思ふ。巫女の故郷といふものは信濃とか丹波とか、尋ねて行くとまだ方々に有るらしいが、やはり最も大いなる中心は京都にあつたやうである。彼等にも師弟の系統はあり、又練修があり各自の發明があつた。白米で馬を洗ふといふ昔語りの如きも、他の多くの民間説話と共に、大本に溯れば學者の知識で、出處は佛典であつたり又唐宋の奇聞集であつたりするかも知れず、それから絲筋を引いて段々に、他の民族の影響も認められぬとは限らぬが、少なくともそれが日本の昔の物語となつたのは、個々のいはゆる白米城の所在地では無かつたのである。
 
 此意味に於いて我々の傳説は、今や全く埋もれてしまつた中世の一つの社會相を語つて居る。それも切れ/”\に自分の土地ばかりの、古い口碑を守つて居ただけでは、何の事やら分らずになつてしまふのであつたが、幸ひにして近來各地方の聯絡が開けて、斯くの如く一時に各府縣の類例を比較して見ることが出來た故に、人はどうしてもその共通の根原を尋ねずには居られなくなつたのである。
 最初に二つの問題が我々の研究を具體化させようとする。其一つは傳説の發生地、是には又二通りの別があつて、ちやうど作物ならば新たなる栽培地に當るものと、元から成長したものを採取した場處とがあり、新しいものには輸入種もあつたか知らぬが多數は原産地を以て目すべきものが分つて居る。例へば全國に分布して居る蛇の聟の話なども、半分以上は池なり洞穴なり、爰より外では無いといふ遺跡があつて、我々の定義の傳説の部類に屬するのである(400)が、しかも其出發點が大和の三輪であつたことのみは、如何に我處の言ひ傳へに忠實なる者でも、もう之を否定する力を持たぬのである。但し今日までは如何にして一つの傳説が、村から村へ移るかを知らなかつた爲に、輕々に剽竊だの模倣だのといふ斷定を下さうとし、それに服しない者が又無理な理窟を付けて見ようとしたのである。
 そこで第二の問題として、その傳説の運搬者が何人であつたかといふことが考へられる。通例は村から外へ旅行でもした者が、同じ傳説のあつた處に行き合せて、それを持還つて我土地のものにしたと推測せられて居るのであるが、それはウソツキの多い今日でも出來ぬことである。我々なら他にも類例が有るといふことを知れば、寧ろがつかりとして今まで信じて居たものを棄てるかも知れぬのに、幾ら昔の人でもそれから新たに信用し始めるといふわけは無い。是は反對に自分の村以外には、有るといふ事を知らなかつた結果と見る方が正しいのである。斯ういふ?態に於いて全國共通の話を、遠くから持つて來て信ぜしめ得た者は、さう多勢は居なかつた筈だから、我々には追々見當が付いて來るのである。
 餘り澤山の假定を設けずとも濟むやうに、出來るだけ顯著なる一列を見出さうとして私は苦心した。他日なほ詳しく述べて見るつもりであるが、和泉式部が瘡《かさ》の病に罹つて、藥師如來に願を掛けて歌を詠んだら返歌があつたといふ話、是などは歌の性質から推しても時代が略わかる上に、醒睡笑といふ本には之を叡山の兒童の話とし、一休諸國咄では三河の鳳來寺に於いて、和尚が戯れに作つた狂歌のやうに記して居る。即ち精々は江戸時代の始め頃に、それを和泉式部又は小野小町の如き、女の歌人の逸話として通用させることになつたのであるが、しかも藥師を安置した國々の靈場に於いては、今以てそれを自分の土地の歴史と信じ、また他の地方にも同じ文句のへぼ歌が、傳はつて居ることも知らぬのである。私は之を京都の誓願寺、即ち今も和泉式部の墓と木像があり、同じ女性の色々の事蹟を、語り傳へて居る御寺から出たものと認めて居る。此寺には何か原因があつて、面白い多くの昔話が傳はつて居た。前(401)に揚げた醒睡笑なども、曾て此寺の住持であつた安樂庵策傳が、聽いて覺えて居た滑稽譚だけを集めたと謂つて居る。さうして同時に諸國修業の比丘尼や法師が、爰を本山として絶えず出入をして居たらしいのである。最初それが何人の手を以て作られ、又どうして教へられたかはまだ判明しないが、兎に角に此連中が旅の身過ぎとして、歌ひあるいて居た讃佛乘の物語には、定まつた一つの型があつて、それが中央の或處に於いて統一せられて居た結果、斯ういふ奇異なる全國の傳説の、一致を見るに至つたことだけはほゞ明瞭である。
 但し其基本とも名づくべきものは、最初から無かつたらしいから出て來ないに極つて居る。從つて此一派の管理に屬した物語の種類は勿論、それが如何なる形を以て歌はれてゐたかも、今では只想像をして見るより他は無い。私の見た書き物の中では、安居院の神道集といふものがたつた一つ、無理な漢字を以て斯ういふ語り物を筆録した實例であつて、それは既に南北朝の末に出來上つて居る。安庶院も京都の念佛團體の一つで、やはり諸國を巡業した宗教的藝人の中心であつたかと思ふが、それと後代の誓願寺一派、即ち和泉式部を開祖の樣に謂つて居た歌比丘尼たちとの、脈絡はまだ明らかにし得ない。たゞ安居院の方に傳はつて居る諸國大社の本地譚が、何れも荒唐奇恠を極めて居るに拘らず、往々傳説と化して關係ある土地に保存せられ、中にも信州諏訪の甲賀三郎の物語などは、現實に歌ひ物として村々で歌ひ語られて居たと同時に、他の一方それに基いた傳説が、信州は申すに及ばず、近江常陸其他の土地に、既に根をさして成長して居ることが分つたのである。
 
 自分等は之を文藝が宗教の中から、次第に別れて出た一過程として、特に我邦の傳説にその豐富なる實例を引繼いでくれたことを感謝して居る。白米城の場合も多分さうであらうと思ふが、説く者は夙に物語の藝術的意義を認めて、豫め其樣式を準備する程度まで進んで居るのに之を聽く人ばかりはまだそれを人間の技能に出でたものとは考へず、もしくは其技能を、昔通りに靈界の事實を表白するものと思つて居たのである。
(402) 斯ういふ時代は可なり久しく續いて居たやうで、我々にも其境目は實ははつきりしない。落語で笑ひ芝居で泣くといふ人の心持なども、單に想像力とか同情とかの問題では無かつた。うそだとは知りながらも其時だけは、之を現實と同樣に迎へて見るやうな心理は今でさへ有る。井澤長秀翁の俗説辯などは、僅か二世紀前の學者の著述であるが、なほ澤山の民間小説を擧げて、是は信用が出來ぬといふことを力説して居る。即ちあの頃にはまだ有識者の間にも、俗説は原則として信用すべきものであつたのである。梓巫や口寄せのきまつた事を言ふのは、毎年だから誰でも知つて居るのに、それを頼んでは信じ且つ泣かうとして居たのである。或白人の東印度の島の見聞録の中にも、巫覡は託宣を頼まれると必ず作り事を語る。然るに自分にも何か決し兼ねることがあると、他の同業者を依頼してその靈託と稱するものを聽き且つ信じたと書いてある。
 即ち聽いたから信ずるといふよりも、本來信ずる必要があつて之を聽かうとしたのである故に、口寄せの言は永く有力であつたのかと思ふ。兎に角に白米城の話などは、早くより多數の語り部の共通の知識であつたに拘らず、土地限りに於いては、それを新事實の啓示として、非常な感動を以てそれを受入れた場合があつて、それだけが歴史の待遇を受けて、いつ迄もそこに保存せられたのである。歴史が今日の如く必ず書物であるならば、自然に二者の區別は立つべきだが、以前の社會では昨日あつた事實も、百年前の出來事も、實驗者から聽いた話も、靈から告げられた物語も、之を傳へる方法は常に唯一つより外は無かつたのである。
 靈に代つて昔の事を語る者が、もし村々に割據して外と交通せぬ者ばかりであつたら、傳説は恐らく日本のやうに、斯んな著しい各地共通を示さなかつたであらう。假に一つの民族としての、古い一致は持つて居たにしても、土地それぞれの變化といふものが、今少し多かつたことゝ思ふ。白米城には限らず、我々の村の傳説には尋ねて行くと丸で瓜二つといふものが、幾らとも無く出て來るので、それを私が試みた樣に排列して行くと、どうしても特殊の運搬者、それも一つの中心地に於いて材料の交換を續けて居た者が、あつたことを考へずには居られぬ。和泉式部と近い例は(403)靜御前があり、又大磯の虎御前の話がある。何れも殆と全國に亙つて、其遺跡又は出生地といふものが數多い。女性が二人で旅行をしたといふ例は、虎と少將といひ、祇王祇女といひ、又松蟲鈴蟲の二人の官女とも謂つて居る。斯ういふ傳説が新たに發生したとすれば、其時代は當然に限定せられる。それが念佛宗門の流布と關係して居る故に、先づ此方面に一つの中心を想像することが出來るのであるが、勿論一種の團體には限つたわけでは無からうと思ふ。時には男の中にもさういふ旅行者があつて、違つた系統の傳説を移植して居たかも知れぬ。白米城などもまだ明らかにどの運搬者の手にかゝつたかを察することは出來ぬが、たゞ稀に其密計が或老女によつて内通せられたといふ例のあるのを見て、女性が此物語の流布に干與して居たのでは無いかと思ふのみである。
 私の假定は尚今後の類例によつて、其當否を確かめなければならぬものがあるが、少なくとも今まで集まつた材料の上では、是だけの希望は繋ぐことが出來る。其一つには文藝に對する民衆の態度もしくは要求が、もとは今日と丸で違つて居たものだといふこと、其二つは歴史といふものゝ成立には、我々が今日史料と名づくるもの以外、更に一つの非常に豐富且つ有力なる供給源のあつたこと、第三には全國農民の生活に織り交へられて、或少數の移動分子が、可なり強烈に社會文化の表相を彩つて居たこと、第四には我々の大昔から持つて居る異常信仰の根底には、或ひは近代の傳説長養と同じ種類の作用が、暗々裡に加擔して居たのかも知れぬこと、先づ少なくとも此四つのそれ/”\に大切なる前代の事實、今日迄はまだ一向に人の省みなかつた歴史が、我々旅人の根氣のよい實地踏査から、段々明らかになつて來る見込がある故に、私だけは是をいゝ加減のところで打切つて置きたく無いのである。
 或ひは説明がまだ不足かも知れぬが、餘り長くなるから一旦此邊で止めて、次には具體的な例を述べて置く。番號は他日引用の便宜の爲に附けたものである。
 
(404)       白米城傳説の實例
 
(イ)埼玉縣比企郡松山町附近、有名なる吉見の百穴と相對した東南の丘陵を、上田某といふ武士の城山であつたと謂ひ、土中から燒米の出る處がある。昔籠城の折に水の手を切られ、白米を以て馬の裾を洗つて寄手を欺いたことがあるといふ(十方菴遊歴雜記初篇)。
(ロ)群馬縣吾妻郡中之條町の東北に聳ゆるタケ山の頂上の平地、大きな岩穴があつて中に白骨の散らばつて居るのは、昔此城で戰死した人の骨で、又矢の根も折々出て來る。敵が此南の青山に陣取つて攻めた時に、水の手を絶ち切つて城兵を苦しめたので、始めのうちは山の間から白米を落して瀧があるやうに見せかけて居たが、麓の百姓の内通によつて、後には寄手も欺かれなくなつて落城したといふ(郷土研究二卷二號)。武田信玄が上州一郷山の城を攻めた時にも、やはり白米で馬を洗つたことがあると、簑輪軍記には出て居るさうだ。まだ其書は見ないが、又別の話であらうと思つて居る。
(ハ)新潟縣南蒲原郡長澤村下大浦の釜蓋《かまぷた》城址、四面は絶壁で二萬坪ほどの平地、中央に大きな空濠を通じ、往々土器の破片を掘り出す。時代及び城主は不明、故老の説に、昔敵の一軍大崎村まで攻寄せ、斥候を淺市まで進めたが、要害堅固と見て水の手を取切り、長陣に攻め落さうとした。城兵は之に對して白米を馬に注ぎかけて水浴をさせる樣に見せかけた。敵勢遙かに望んで眞の水なりと信じ、用水は不足せずと思つて終に陣を引いたといふ(嵐溪史)。
(ニ)同縣古志郡山本村浦瀬の奧に在る城山、城主は高津谷入菴、天正七年上杉景勝の勢が攻め寄せた時、山の東の麓の土ヶ谷といふ村の老女、城内の用水は大澤といふ處の清水を、伏樋で引いて居るのだといふことを密告したので、土中を索めて其樋を切つてしまつた。それ故に城兵渇に苦しみ、敵を謀らんが爲に白米で馬を洗つて、水に困らぬ樣(405)子を遠見させたけれども、寄手は既に水の無いことを知つて居るから、六月二十八日の炎天に進撃して、城は遂に落ちて城主入菴、一族郎從悉く自害してしまつた。此邊には古墳が多く、又高津谷氏の屋敷跡といふ處からは、元禄十三年に朱の充ちたる二升ほどの瓶を穿り出したこともあり、村には其後裔と稱する者が種々の記念品を保存して居る。落城の日に寶物を埋めしめたといふ榎の大木があつて、深夜には折々陰火が其樹の下に燃えるのを見たといふ(温故之栞卷九)。寶を埋め金銀や朱の瓶を隱したといふ話は、最も土地の人の重きを置く點であつたと見えて、全國に亙つて非常に例が多く、是にも定まつた歌の型がある。さうして之に由つて今でも人が捜索をして居るが中々見付からないやうである。是なども自分は或時代の歌物語の流行を意味するかと思ふのだが、坪井正五郎博士は此傳説は通例古墳に伴なふから、當時その土工に從事した者の勞働歌であつたらうと言はれた。是も目録を作つて詳しく比較して見る必要があると思つて居る。
(ホ)長野縣埴科郡東條村の尼嚴《あまかざり》山、此山に霧がかゝらぬと雨が降らぬから、雨飾りの意味だとも謂ふ位で、至つて嶮岨な高山であるのに、傳説では源頼朝公の時、この山には雨飾殿といふ尼君が城主であつたと謂つて居る。頼朝木曾退治の爲に善光寺に滯陣し、遙かに此城の要害を探らしめた。城は水の手が乏しかつたけれども、尼君の謀を以て、白米を柄杓に汲んで馬を洗つて見せた。それ故に尼嚴と謂ふのだとも傳へられて居る(つちくれ鑑)。この山に附いた傳説は、幾分か他の地方のよりも複雜になつて居る。事によると最初此傳説の起つた因縁が、雨乞の祈?又は旱魃の惱みに在つたことを、推測せしむる手掛かりを供するものかも知れぬ。
(ヘ)私は實地を見ないのでまだ確かめ得ないが、やはりこの長野の市から三里ほどの處に、桂山といふ城址があつて亦一つの白米城であると謂ふ。或ひは同じ山の話が、今では此程度にまで變化して居るのかも知れぬが、桂山の方では城主は落合備中守といふ近世風の名になつて居る。城には兵糧の米が澤山にあつて、飲水には缺乏して居た。それで寄手が水攻にしようとするのに對して、山の中腹から盛んに白米を落して、大きな瀧があるやうに見せかけて居(406)ると、麓の或寺の住持が、あんな處に瀧は無い筈だと謂つたので、それが謀計であることが知れて、たうとう火を掛けて城を攻め落したと謂ひ、今でも山上に戰死者の墓がある。寺の僧は其祟を受けて死に、寺も燒けて色々の不思議が續いたと謂つて居る。石のやうになつた米粒が此山中から今でも出るのは、其時瀧に見せようとして山から落した白米の殘りであらうといふ(廣野あや子氏報)。しかし此場合のは單に米とよく似た白い砂礫であつたかも知れない。焦げずにさう長い間、穀物の殘つて居るわけも無いからである。
(ト)同縣小縣郡神科村上野の城山、上田の東北一里ばかり、城の名を米山城といふ。今も城址といふ處から燒米が多く出るさうだから、城の名とは慥かに關係がある。是も天文中に村上義清が、武田勢に攻められて水の手を斷たれた時に、馬の背中から兵糧の米を浴びせて、遠見には水が幾らでもあるやうに見せかけ、敵を油斷させて置いて其間に越後へ落ちて行つたと傳へて居る(傳説叢書、宮田氏記を引いて)。
(チ)次には同じ縣の北安曇郡中土村平倉の古城址、これは飯森十郎といふ武士が、武田方に攻められて水の手を斷たれ、白米で馬を洗つて見せたりして敵を欺かうとしたが、城中の飼犬が水を呑みに山を下つて來たので、其苦計も見顯はされて落城した。それ故に麓の里倉といふ部落では今でも戒めて犬を飼はない(小谷口碑集)。犬が水の在り處を教へたといふ方の話は方々に在る。それも今に列擧して見たいが、恐らく水の神の祭と此動物と、古く特別の關係があつたことを意味するものであらう。
(リ)同じ縣でもずつと南へ寄つて、下伊那郡上久堅村の神峯城址には、知久大和守が、是もやはり武田勢に攻められた時に、篝岩の上から白米を水の樣に流して、水攻の無效であることを示したといふ話がある。山本勘助が松の樹に登つて、遙かに之を望んでまんまと欺かれ、口惜しがつて地團太を踏んだと傳へて、今でもその地には少しも成長しない地團太松の老木がある(傳説の下伊那)。
(ヌ)それから嶺を越えて西筑摩郡に行くと、木曾の妻籠《つまご》の城址にも、亦一つの同じ話がある。是は天正十二年に山(407)村良勝が籠城した時に、伊那の菅沼小大膳が諏訪保科などの援兵と共に攻寄せ、水の手を切つて城兵を干乾しにしようとした。良勝は之に對し白米を以て馬を洗はしめたのを、敵が遠見して是は水があると思ひ、軍を伊那口へ引上げて行く處を、伏兵を設けて打破つたとまで傳へて居る(吉蘇志略卷一)。非常に詳しいから城主の日記の樣にも見えるが、後にも伊勢の例でわかる通り、軍記は普通斯う云ふ風に土地の多くの言ひ傳へを結び合せるものなのであつた。
(ル)つまりは此地方には斯ういふ傳説の起り得る樣な、水の少ない山城址の如きものが多かつたのである。更に木曾川を下つて岐阜縣に入つても、先づ惠那郡中津町駒場の阿寺《あでら》城址、地名を聞いただけでも嶮岨の山腹であつたことがわかる。爰でも天正二年の二月、木曾義昌が甲州方として攻寄せ、水の手の樋を切落したと謂つて、土地の名も斧戸と呼んで居る。此際城中では櫓の上から、米を瀧の如く落して見せたので、別に用水があるかと疑つて逡巡して居る間に、決死隊が突出して圍みを破つたと傳へて居る(惠那神社誌附録)。
(ヲ)次には同じ岐阜縣の飛騨の山國には、二つは少なくとも同樣の傳説があるが、中々二箇處位では無いと、土地の學者は謂つて居る。最も古く知られて居たのは、吉城郡國府村の簑輪《みのわ》城一名白米城、國司姉小路家の臣下牛丸攝津守、是に籠城して馬を洗ふの智計を廻らしたと稱し、話は全然他と同じであつて、或ひは敵退き去るといひ、又は終に落城したとも謂ふのである(斐太後風土記卷一一その他)。
(ワ)今一つは又同郡小鷹利村|信包《のぶか》の白米ヶ城、こゝでも姉小路家の幼主を、忠臣牛丸又太郎といふ者後見して籠城したといふ。「寄手の軍兵此城に水無き事をかねて知りけんや、籠城の面々水無き城なれば咽も乾くべし、是へ出て水呑めと敵陣より呼はれば、城主智勇の計略にや、白米を以て陣馬を洗はせ候由。寄手の軍兵等水無きよと思へば水多く有之よと感じけるとかや。依つて今に白米ヶ城といふ」と傳へて居る(飛騨國中案内)。
(カ)以上で中部日本の分だけは濟んだ。次には先づ東北の例を片付けて置くと、其一つは宮城縣登米郡米谷町大字北方の森合城、千葉新助明義といふ武士、敵に圍まれて爰に籠城し、水盡きたれば米を以て馬の脚を洗つて見せたと(408)ころ、生僧小鳥が來て其水を啄ばむによつて、忽ち水乏しきこと露はれ落城すと謂うて居る。それが慶長七年に死んだ人ともいふが、其頃その樣な手詰の戰があつたかどうかは確かで無い(登米郡史)。多分はもつと古くからの話を、此勇士の事蹟と混同したものであらうと思ふ。
(ヨ)同じ郡でも吉田村善王子の朝來《あさこ》といふ處では、長根づたひに土手の跡があつて、朝日長者白米を此堤の上に撒き、白壁と見せかけて賊を防いだといふ傳説があり、又藁人形を多く作つてそれを奉行人の中にまじへ立たしめたので、賊ども之に恐れて念佛壇に供養をして去つたとも謂ふ(同上)。朝日長者の故跡と之に伴なふ傳説とは此地方にも多い。長者で無ければ米を此樣な目的に使ふといふ、途方も無いことは出來なかつた如く、普通の質素な農民たちは考へて居たのである。又さういふ心理が、特に此種の傳説を非常に印象の深いものとしたので、以前の要點は智慮分別といふことよりも、さういふ大膽な思ひ切り又は處分の自由といふ所に在つて、それが没落後の昔話となつて、殊に哀傷の感をも誘うたものでは無いかと思ふ。
(タ)更に北上川の流を溯つて、岩手縣稗貫郡湯の高楯の城にも、さういふ傳説が軍記に化して殘つて居る。永享二年の二月に、南部遠江守が此城を圍んだ際に、「城中水の手を留められ大いに迷惑に及ぶと雖、寄手に是を悟られじと朝々に乘馬を牽出し、白米を張りかけ背洗ひの體に見せければ、寄手は遙かに之を見て誠の水と思ひ云々」と記してあるが、是も終には敵から箭文を射て、すかして降參させられたのであつた(吾妻昔物語上卷)。
(レ)高楯は即ち高い處に在るタテで、乃ち山城のことであつた故に、水攻めの物語が定着し易かつたのである。青森縣中津輕郡岩木村の高館でも、城主の名は言はぬが、やはり同じ樣な落城談が傳はつて居る。水の手を切られて困つたことを匿さんが爲に、馬に白米を注ぎかけて水で洗つて居る樣に見せたけれども、敵方がよく氣を付けて見ると、其水は切れ/”\になつて落ちて居るので水で無いことを看破し、一層水攻に力を入れたから遂に落城に及んだ、其際城の大將は馬に鞭うつて、隣の新法師といふ村に走り込んで、そこで戰死したと謂つて塚がある(津輕のしるべ)。何(409)かの折に此塚の靈が祟り、段々尋ねて見るとあの高い山の城が落ちた時に死んだ者の亡魂といふことになつたものと想像するが、さういふ序でにやはり白米で馬を洗ふ話をして聽かせたとすれば、土地が北の方に遠く隔たつて居るだけにこの符合には意味が深いやうに思ふ。
(ソ)そこで引返して西南部諸地方の例を擧げるが、世間で古くから一番よく知られて居たのは、三重縣一志郡の阿坂城、是は參宮名所圖會等といふ通俗の書にも繪入で出て居り、伊勢參りの道中からも遠望し得る城山であつた。應永二十二年の夏、足利家の諸軍勢が國司北畠氏を此城に攻め圍み、四方の水の手を止めて城兵を渇に苦しめたときに、城方手だてを廻らして櫓の前に馬を立て、柄杓を以て白米を汲み掛け馬を洗ふ如くにす。寄手是を見て退屈し水を斷つことを中止した。仍て俗に此城を白米の城と名づけたといふことが、南方紀傳や勢州軍記に載せてあり、江戸幕府公撰の後鑑などにも、史料としてそれを採用して居る位だから、土地の人たちは勿論事實と考へ、他縣の是と同じ傳説を其轉借の如く考へて居るであらうが、本當は爰のが最も古かつたと云ふ證據はまだ一つも出て來ない。單に文字に縁のある人々の耳に、少しく早くから入つて居たといふ迄で、それも果して此城の事蹟として、傳はつて居たかどうかはわからぬのである。
(ツ)同じ三重縣でも大河内の城に、やはり同樣に米で馬を洗つて見せたといふ話があることを、武功雜記といふ書には載せて居る。是も籠城をしたのは北畠方で、智慧を搾つたのは家老の某となつて居る。たゞ此方は永禄年中のことで、時代だけが百五十年も後の、織田信長の打入の時となつて居るのであるが、二度はさて置き假に一度だけでも、實際そんな事實があつた筈はないのである。
(ネ)ところが其の隣の滋賀縣に來ても、蒲生郡西大路村音羽の城に於いて、蒲生貞秀入道が細川政元の家臣澤倉某に攻められた時、水乏しきを隱さんとして米を桶に入れ、汲みかけて馬を洗ふ如く見せたといふ逸話が常山紀談に出て居る(醉迷餘録)。
(410)(ナ)京都府では丹後中郡五箇村の城で、城の主山岡民部が敵に攻められて水盡き、白米を以て馬を洗つて敵を計つたけれども、遂に落城したといふことが、丹後古事記といふ古い戰記に誌してある。天正年中の事とも謂ひ、或ひは天文十三年だとも書いたものがある(中郡誌稿)。
(ラ)島根縣では雲州の白髪城に於いても、尼子義久が毛利に攻められた際に、是は白米では無く白砂を以て馬を洗ひ、敵を欺いたといふ話が傳はつて居た(新續古事談)。醉迷餘録には此等四つほどの例を竝べて、元は何れか一つが眞實であつたのを、他の處々にも誤り傳へたものだらうと謂つて居るが、誤聞でもはた故意でも、それが根をはやすには數十年はかゝると思ふ。そんな事をして次から次へ移つて居たら、とても是だけ一致した傳説が、同時に國の端々にまで行渡ることは出來なかつたであらうと思ふ。
(ム)昔の人の推測はまだ充分に具體的でなかつたが、戰記は大抵江戸時代の初期、百年ばかりの間に各地とも出來上がつて居る。それが一つ/\獨立して、同じ白米城の話を記録して居るのを、單に作成の年月順によつて、前のを見て眞似たと見ることは、少なくとも動機と方法とが説明し難い。是は最初から既に共通の資料があつて、寧ろ互ひに他の地方を知らぬ爲に、之を珍重して書き殘すことを得たものと思ふ。九州の實例は大分縣に一つ、豐後鶴ヶ城の話が豐薩軍記に出て居る。天正中利光宗寅此城に於いて島津勢に圍まれ、箭に中つて戰歿したのを城兵色にも顯はさず、遊興の舞樂し白米で馬を洗つて見せた。薩軍城中用水に乏しからずと心得て、水の番を引いたと記してある(郷土研究四卷五號、南方氏報)。是などは或ひは筆者が既に軍談の型を熟知して、幾つかの籠城苦心談の一例に取合せたとも考へられるが、次にあげる一つなどは地名説明の傳説で、少なくも一旦は故老の口を經て居たことがわかる。
(ウ)佐賀縣では松浦一黨の根據地の一つ、岸嶽城址の南手に米の山といふ高地がある。或時寄手が水の手を切つて責め落さうと企てた時、城方其計を覺り、馬を此處へ出し白米を以て洗うて見せた。遠方からは水と見えたので敵が水責めの計畫を中止して退陣した。「其跡にて水の要害を拵へ申候由。白米にて駒を洗ひ候處を米の山と謂ふ」と傳(411)へて、それを土地の一つの舊跡に算へて居たのである(松浦昔鑑)。
(ヰ)四國でも或ものは既に記録の中に保存せられて居るだけであるが、やはり根原は口碑であつたかと思はれる。高知縣幡多郡鹽塚の城は、舗地民部少輔藤康これに立籠り、伊豫國の軍勢が之を攻めたけれども拔けなかつた。偶一人の老女用水の在り處を密告し、敵は水の手を切つて城兵を苦しめ、藤康は城の塀の上に馬を上せ、白米にて水使ふ眞似をして見せたが、遂に落城したといふのは、遠く離れた越後釜蓋城の例とよく似て居る。老女の告げ口は傳説の古い一つの型であつた。
(ノ)それから香川縣に行くと、今度は又土佐から攻められたといふ話になつて居る。其一つは大川郡富田村の境に在る雨瀧山の城址でも、大切なる水源地を長曾我部軍に破壞せられ、飲水が盡きて今にも干死に死なうとした時に、一計を案じて山から米の洗ひ水を盛んに流して見せた。寄手は之を望み、さては他にも水の用意があるのかと驚いたが、よく/\見ると多くの小鳥が來て其水を啄むので、始めて白水と見せたのは實は白米であつたことが知れ、構はず攻立てゝ翌日は落城したと謂ひ、討死した城主の墓も城地の近くに在る(藏本長市君報)。是などは宮城縣米谷の例と半分以上似て居るが、眞似たとしては互ひに餘り縁が無い。雨瀧は恐らく信州の雨飾りと同じく、元は戰爭と關係無き雨を?る山であつた故に、斯ういふ水不足の遺恨談が、自然に成長することを得たものと思ふ。
(オ)愛媛縣では喜多郡藏川村三重の城址に、やはり長曾我部軍の來り攻めた時、米で馬を洗つて寄手を欺いたといふ紀藤將監の話が傳はつて居り、なほ同じ郡内にもまだ二三箇所は同じ傳説があるといふことである(横田傳松氏報)。
 
 以上が今日自分が知つて居る實例の全部であるが、今後も讀者諸君が興味を持たれたならば、まだ/\澤山の類例が今無い地方からも出て來ることゝ思ふ。さうして其中の若干のみは、よその村に珍しい昔語りのあるのを羨んで、そつと持つて來て移植をしたといふ嫌疑を受ける者があるか知らぬが、此通り弘く分布した多數のものが、悉く其手(412)順を經たものとすることだけは絶對に出來ない。さうすると當然に誰が何處から如何にして、運んで來たかの問題が發生する。私の推定が信じにくいならば、第二第三の答は必然に出て來るであらう。結論は假に小さくとも、學問としてはもう十分に成立つて居る。ましてや文學と宗教と經濟生活との三つの方面に亙つて、今まで何人もまだ究めなかつた可なり大切な過去の事蹟が、たとへ薄々ながらも此道筋を通つて、始めて我々には窺ひ知ることが出來るのである。日本の靈界現象の複雜にして又豐麗なることは、僅かに存する文字の記録からでも推察せられる上に、今日の忙はしい世に住んでも、まだ毎日のやうに我々は之を實驗して居る。その不可思議に對する平民の敏感も、やはり年久しき文藝の感化であつて、之を全國的に統一しては又頒布して居た幾つかの漂泊者の群が、實は暗々裡に非常に大きな仕事をして居たといふことが、斯んな一つの傳説からでも、追々に立證せられるかも知れぬとしたら、採集の事業も亦決して無意味な道樂では無いわけである。
 
(413)     再び白米城の傳説に就いて
 
 其後「旅と傳説」に報ぜられた、(一)陸中江刺郡岩谷堂の城址(喜田博士)、(二)下野芳賀郡益子町高館山の城祉(高橋勝利君)、(三)陸奧三戸郡大館村大字妙の大茂館址(小井川潤次郎君)、(四)近江滋賀都坂本城址(垣田五百次君)の四つの例の外に、更に又幾つかの資料が加はつた。他日改めて精密なる比較は試みるとして、一應其目録だけを作つて置きたいと思ふ。便宜上北の端から列記して見ると、
(五)陸奧二戸郡神岡の古城。天正十九年の九月に、九戸左近將監政實籠城の際、國司勢に水の手を斷ち切られて、白米を柄杓に酌んで三百疋の馬に注ぎ掛け、城の水いまだ盡きざることを示したと、九戸軍談記には語り傳へて居る。續辞書類從に採録せられた九戸記其他の記録には其事が見えない。是は中道等君の注意によつて知つた。軍談記では九戸政實の立て籠つた城を宮野城と記して居り、宮野城は實は九戸氏の本居、九戸郡伊保内村に在るのださうだが、宮野を福岡城の舊名と解する説も既に久しいから、もし白米城の傳説が今も殘つて居るとすれば、やはりこの二戸郡の古城の方に附いて居ることゝ思はれる。尚この序でに、前編(タ)に載せた稗貫郡臺村(湯)〔三字傍点〕の高楯城のことは、邦内郷村志にもほゞ同樣の敍述がある。
(六)下野那須郡那須村湯本、即ち今の那須温泉の近くの城址にも、白米で馬を洗つた口碑のあることが、那須温泉案内といふ書にあるさうだが、私はそれを持つて居ない。近年出版の那須郡誌、又は明治三十七年の栃木縣誌には其記事が無いのを見ると、是も記録とは關係の無い民間の傳承であつたらうと思ふ。
(414)(七)越後では中蒲原郡川東村大字不動堂山に、もう一箇所の白米城の地があるといふことが、中蒲原郡誌に見えて居る。年代も城主の名も丸々不明で、只この妙策を用ゐたにも拘らず、終に落城して士卒が守將を殺して降つたとばかり傳へて居る。
(八)能登の半島にも二つの白米城のあることが、つい此頃になつて私には發見せられた。其一つは有名なる七尾の古城、畠山家の久しい根據地である。但しこれには馬を洗つたといふ話は無い。越後の上杉家の軍勢が此城を圍んで居たときに、水の手を切つて散々に苦しめ、もう參つたらうと思つて橋の上から伺うたところ、盛んに瀧の水が白く流れ落ちて居るので、失望して兵を返さうとした故に、其橋の名を今も戻り橋といふとある。しかも無數の鳥が其瀧の水に集まるので、始めて白米なることを知つて、取つて返して攻め落したとも謂つて居る。二三ヶ月前に出版せられた石川縣鹿島郡誌の記事である。
(九)今一つは是と隣する鳳至郡の宇出津町の城山の話で、同じく近年の鳳至郡誌の中に録せられて居る。城に取籠つたのは長與市景連、寄手は是も亦上杉謙信の軍であつた。七尾と宇出津とは船ならば數時間の距離であるが、口碑は二地全く同じで、是も白米の瀧を流し、鳥類の來り啄むによつて、その僞謀が暴露したと謂ひ、馬を洗ふといふ一條は無いのである。但し戻り橋の遺跡の代りに、爰では城山の海に臨んだ一面の、赤く崩れて目に著く處を、その白米の瀧の落ちて居た痕だと謂つて居る。
(一〇)それから西に進んで出雲簸川郡鳶巣村、今の平田の町の郊外に在る鳶巣城址にも、毛利の軍勢に攻められた尼子方の城兵が、虚勢を張つて白米で馬を行水させた傳説があると、小村力藏君は報ぜられた。前章に擧げた新續古事談の白髪城(ラ)とは、勿論別の話である。是も雲陽實記とかに出て居るさうであるが、私はまだその書を見たことがない。
(一一)其次には備中吉備郡高松村、高松の水攻めで名の高い清水氏の城址であるが、是だけは少しく話が違つて、(415)白米の妙計を施したのは寄手の羽柴方といふことになつて居る。最初城の東を流るゝ一宮辛川の堤に布を張り、其上から白米を少しづゝ流して見せると、城兵は遙かに之を望んで、この位のことならまだ日數がかゝると安心して居るうちに、不意に他の一方の足守川の水を切り入れて、忽ち此城を水で圍んだといふのである。落城と白米との聯想が前からあつたので無いと、ちよつと是だけ獨立しては、言ひ出されさうにも無い稍込み入つた物語である。此話は岡山の桂又三郎君から報知せられた。此縣内にはまだ燒米の出る城山が幾つもある。其中には或ひは白米城の傳説も殘つて居るかも知れぬ。
(一二)海を越えて四國に渡ると、讃岐香川郡上笠居村、即ち高松の市から西へ一里ばかりの勝賀山といふ香川家の古城に、やはり米を以て馬を洗ふといふ話が傳はつて居ることが、宮武省三君の讃州高松叢誌に誌されてゐる。是も同國大川郡雨瀧山の事蹟と同じく、天正十年土佐の長曾我部が攻寄せて、藤尾の城が降を納れた時のことだらうといふが、記録にはまだ見當らぬさうである。戰國交通の十分で無かつた時代には、何度か同種の謀計が燒き直して用ゐられたかも知れぬやうに、宮武君は考へて居られる。もう是くらゐ例が多いと、さういふ説明は六つかしからうと思ふ。
(一三)九州では豐前黒崎の麻生城に、同じ話があつたといふことが、右の宮武氏の著述中に見えて居るが、詳しい事はまだ聽いて居らぬ。
(一四)次には同じ國の香春岳の城址にも、馬に白米を浴せて水あることを示した傳説があると、秋野新君といふ人が報ぜられた。今一應土地に就いて確めて見たいと思ふが、是は城下の家の一人の女性が、敵の間者と縁を結んで、秘かに泉の在處を教へた爲に水の手を切られ、城は燒打ちに遭うて陷落し、奧方若君は谷に墜ちて死に、其娘の一家も祟の爲に死に絶えたと謂つて居る。さうして今でも亡魂のしわざとして、山中に入つて異樣の物音を聽くといふことである。
(416)(一五)肥前では藤津郡鹿島町と、能古見村との境に在る蟻尾山の上に、有尾城といふ城の址がある。文明年中大村家親が此城に居た時、千葉氏の軍勢に攻められて城中水乏しきを隱さんが爲、馬を小高い切所に牽き出して、白米を注ぎかけて水を使はせる  状を装うたので、敵軍は容易に攻入らうとしなかつたが、搦手の防備が手薄であつた爲に、後に其虚を衝かれて落城してしまつたと言ひ傳へる。
(一六)右の鹿島の町から二里あまり上流、能古見村の南端には本城といふ部落がある。京ノ岳の翠巒を控へた好景勝の地であるが、頂上に城山といふ五反歩ほどの平坦があつて、そこにも白米で馬を洗つた傳説が殘つて居る。城の主は原右近太夫清房、有馬氏に屬して居た。寄手は龍造寺の武將たりし鍋島豐前守であつたが、此城たつた一つの弱味であつた水不足が、白米の計略によつて巧みに押隱され、敵は攻めあぐんで空しく退却したと謂ひ、其時月毛の駒を引出して白米で洗つたといふ岩を、土地の人々は今に千石岩と呼んで居るさうである。此二つの例は右の本城部落の居住者、早田信四郎君の報告である故に最も確かである。
(一七)更に今一つの例は同國杵島郡朝日村黒尾、即ち高橋の停車場から西北に見える烏帽子岳の山上にも、多くの燒米を出土する城跡らしき地があつて、そこにも亦同一の傳説が保存せられて居る。この報道は鹿島實業學校教諭の原虎一君と右の早田君と雙方から私は受取つたが、年代に就いては必ずしも確かな言ひ傳へは無い樣に思はれる。即ち一説には是を源平時代の合戰と謂ひ、一方朝日村の村誌では南北朝の兵亂に、肥後の菊地勢が武雄の後藤氏と合體して、探題の今川氏を此城に攻め圍んだ際だと記して居る。兎に角に城兵が水の缺乏に苦しんで、白米で軍馬を洗ふの奇策を試みたといふことのみが、特に鮮明に住民の記憶には殘つて居たのである。
 以上前編を通じて今知られて居る例が四十三、南北十九の縣に亙つて居て、まだ此外にも現はれて來る見込がある。さうして自分はこの類例の際限も無く見付かるといふことが、最も大いなる學問上の價値だと思つて居る。澤山の理窟を述べ立てる面倒無しに、歴史と傳説との差別は誰の目にも明らかになつて來るからである。たとへは白米で馬を(417)洗つて見ようかといふ思案は、偶然に或ひは二人三人の頭に浮ぶかも知れぬが、是に伴なふ結果までが、一致するといふことは歴史では六つかしい。表に作つて見れば直ぐにわかることだが、小鳥が飛び集まつたので米だといふことの露はれたものが、宮城と石川と香川の三縣に四箇處、女が告げ口をして敵が悟つたといふものが亦何箇處かある。それよりも更に重要なる一つの共通點は、此傳説の?九戸車談記といふが如き、演義體の軍物語中に書き殘されて居ることである「演義は過去の或事蹟に關して、もつと詳しく知りたいといふ熱望が、誘ひ起した所の一つの技藝であつた。現在の講談師の實驗が教へる如く、是には長期の練習と口傳があり、又多くの樣式の成長とその自由なる配合があつた。水戸黄門や大岡越前守が人望ある話題となれば、古今内外の各種の昔話は、次から次へと來り加はつて、悉くこの二人の英傑の逸話にならうとする。それが前代の八幡太郎、弘法大師に於いても同樣であつたのみならず、遠く溯れば釋迦の前生を説き表したジャータカの物語とても、亦復是の如きものであつたのである。しかも文書を以て固定せられなかつた我々の「無教育」時代の事を考へると、この話の種の運搬と交易と、珍藏と活用と愛玩と感動とは、勿論今よりも何十倍か盛んであつたと見てよいのである。吉野拾遺や江源武鑑を始めとして、江戸時代に出現したといふ僞書の數は多い。近世の修史家が安心して引用して居た古記の中にも、一部は精確で、一部は作り事であるものは幾らもある。是を二三の天才あるウソツキが、空から書き上げるものと見ることは恐らくは不當で、其前久しい間口から耳へ、自由な著述が許されて居なかつたら、到底そんな事は考へ出す事も出來なかつたのである。但し其出鱈目を我々の現實生活に應用するやうになつて、そこに始めて禁止すべき弊害は現はれたが、過去は寧ろ國民の空想の、最も無害に逍遥し得る遊歩場であり、同時に又彼等の追憶を、淨化し美化するところの沈澱池でもあつたのである。兵馬劔戟の間にをめき叫びつゝ、殺戮せられた人々の爲には、殊にその淨化装置の必要は大であつた。是が平家物語の赤間ヶ關に起り、曾我物語の富士の裾野に成長すべかりし、必然の理由の如くに私などは考へて居る。だからもし強ひて白米城の傳説の責任者を明らかにしようとすれば、それは欺いた人でも無く又輕々しく信じた人でも無(418)く、寧ろ其土の久しく荒れて、秋の草の離々として居たといふことに、やさしい物の哀れを感じて居た人々こそ、當の本人だと言はなければなるまい。藝術は言はゞ人間の幸福なる弱味から、斯ういふ順序を踏んで段々に發達したものであるらしいのである。
 
(419)     白米城傳説分布表
 
 大正五年の始め、「郷土研究」四卷三號に此問題が掲げられたときには、實例の知られて居るものが九つしか無かつたのが、昭和四年には四十三、南北十九の縣に亙つて分布して居ることがわかつて來た。現在はそれがよほど多くなつて居る。無論是からも發見せられるであらうが、重複のむだを省く爲に、一應地域別に排列して見る。此中で片假名又は數字を括弧にして記入した分は、前篇に掲げたものだから詳しくは説かない。利用者は寧ろ此表に見えない同種傳説が、如何に面貌を異にして保存せられて居るかに、注意せられたら樂しみが多からうと思ふ。出來るだけ出典又は報告者の名を記入して置くことにした。
 
青森 中津輕郡岩木村 高館城 (レ)
同  三戸郡大館村妙 大茂館 (三)
岩手 岩手郡雫石村 滴石城 (岩手郡誌
   城將手塚左衛門尉、寄手南部方、蕎麥を苅る娘に教へられて水の手を斷ち切る。雀が白米を啄むによつて計略顯はる。
同  紫波郡煙山村 城内館 (旅と傳説三卷六號
    村の娘が白米の計略を敵に教へる。
同  稗貫郡湯 高楯城 (タ)
同  江刺郡岩谷堂町 城址 (一)
同  二戸郡頑岡町  城址 (五)
秋田 ――
(420)山形  ――
宮城 黒川郡大衡村 越路館 (郷土の傳承二
   城主大衡治部大輔、天正中伊達勢に攻めらる。雀によつて白米發覺す。
同  登米郡米谷町北方 森谷城祉 (カ)
 
同  同郡吉田村善王子 朝來堤 (ヨ)
福島 石城郡      住吉城祉 (石城郡誌?
   濠の水が旱できれたとき、倉の米を一ぱい敷いて水に見せた。烏がほじくつて顯はれる。
栃木 芳賀郡益子町 高館山 (二)
同  鹽谷郡大宮村大久保 城祉 (地方叢談
   城主大久保太郎、寄手梶原景時等、水攻にあひ白米を以て黒馬の足を洗ふ。餅賣婆の白?にて秘密あらはる。鷄を放ちて火攻にす。故に此村今も鷄を飼はず。
 
同  那須郡那須村揚本 城址 (六)
茨城 多賀郡高岡村下君田 古館 (大間知篤三君
   城主宇野氏、敵方欺かれて引返す。其地と稱して旗卷平の地名あり。
千葉 ――
新潟 中蒲原郡川東村不動堂 白米ヶ嶽 (七)
同  南蒲原郡長澤村下大浦 釜蓋城址 (ハ)
同  古志郡山本村浦瀬 城山 (ニ)
同  同  栖吉村栖吉 普濟寺山 (越の風車
(421)   城將夜遁れ城落つ。陣鐘は寺に殘る。
新潟 中魚沼郡倉村 倉俣城 (高志路七卷五號)
   外丸村辰ノ口城主に攻められしとき、白米を以て馬を洗ふ。敵遙かに之を望んで引返す。駒返はその遺跡かといふ。
同  岩船郡三面村布部 城山 (布部郷土誌
   米を瀧に流す。鳥が集まつて敵に見破られる。今も五月節供の日は、此山に白い幟が立ち白い馬が走る。之を見たものは死ぬといふ。
 
群馬 群馬郡? 一郷山 (ロ)
同  吾妻都  タケ山 (ロ)
同  利根郡沼田町 倉内城 (上野國志
   城主沼田三郎。保安元年七月の事といふ。他の多くの例よりも四五百年早し。
埼玉 比企郡吉見 上田氏城址 (イ)
東京 ――
神奈川 ――
長野 小縣郡神科村上野 米山城址 (ト)
同  下伊那郡上久堅村 神峯城祉 (リ)
同  東筑摩郡洗馬村本洗馬 城址 (伊那の中路
   村の名も是より起るといふ。
同  西筑摩郡吾妻村妻籠 城址 (ヌ)
同  北安曇郡美麻村 千見城祉 (郡郷土誌稿卷七
(422)   弘治年中、武田勢に圍まれた、といふ。城主大日方長辰、白米で顔を洗つて見せ又瀧に落す。城の犬が水を呑みに下りて來て見顯はされ落城す。
長野 北安曇郡美麻村 大野田城 (郡郷土誌稿卷二
   是は或ひは同じ土地の話かも知れぬ。
同  同 郡神城村 飯田城址 (同書卷二
   城將大日向某、是も犬によつて發見されたといふ。犬川といふ川が流れて居る。
同  同 郡中土村 平倉山城祉 (チ)
同  埴科郡東條村 尼嚴山 (ホ)
山梨 ――
靜岡 ――
富山 東礪波郡栴檀野村 増山古城祉 (越中舊事記
   城主熊川宗範、越後の長尾勢に攻められて、白米にて馬を洗ふ。雁の多く集りさわぐによつて顯はれるといひ、又老尼が兵糧路を教へたるによつて落城すともいふ。五月十二日云々。
石川 七尾市 古城址 (八)
同  鳳至郡宇出津町 城山 (九)
岐阜 山縣郡大桑村 大桑城址 (山縣郡誌
   天文中、齋藤秀龍に攻められる。晝は米倉の米を瀧の如く流し、夜は又その米を運び上げたといふ。今も其米がまだ落ちこぼれて居る。
同  惠那郡中津町駒場 阿寺城址 (ル)
同  吉城郡國府町簑輪 白米城 (ヲ)
(423)岐阜 吉城郡小鷹利村信包 白米ヶ城 (ワ)
愛知 ――
福井 足羽郡麻生津村中荒井 冬野城址 (南越民俗二卷一號
   老翁秘密を洩す。後に祟あり。こゝでは白米は糯だつたといふ。
同  坂井郡鷹巣村高須 鷹巣城址 (同誌二卷四號
   畑時能の城址といひ、なほ此傳説あり。
同  南條郡南杣山村阿久和 杣山城祉 (同誌二卷二號
同  遠敷郡野木村武生 箱ヶ岳城祉 (同誌二卷一號
同  大飯郡佐分利村石山 胴慾河原 (同 上
   秀吉水攻の折にといふ。色々の言ひ傳へを伴なふ。
滋賀 滋賀郡坂本村 坂本城址 (四)
同  蒲生郡西大路村音羽 音羽城址 (ネ)
三重 一志郡阿坂村 白米城 (ソ)
同  飯南郡大河内村 大河内城 (ツ)
京都 中郡五箇村五箇 城址 (ナ)
大阪 泉南郡西葛城村蕎原 白米塚 (口承文學十二
   根來勢が織田に攻められたときといふ。
和歌山 那賀郡上岩出村 城ヶ峯 (同 上
   楠勢の一部が立て籠つた時といふ。
(424)兵庫 城崎郡   山名氏城址 (土俗談話
   秀吉水攻。老女密告。其家には代々不具が生まれる。
鳥取 ――
岡山 御津郡大野村矢坂 富山城址 (旅と傳説三卷二號
   白米で馬の裾をさした話があつて、土中からは燒麥が出る。
同  吉備郡高松町 清水氏城祉 (一一)
香川 大川郡富田村 雨瀧山城址 (ノ)
同  香川郡上笠居村 勝賀山城址 (一二)
徳島 ――
島根 出雲   白髪城 (ラ)
同  簸川郡鳶巣村 鳶巣城址 (一〇)
廣島 ――
愛媛 新居郡橘村椿木 姥ヶ橋 (石槌山及道前の史蹟と傳説
   姥の密告によつて白米の計略顯はれ高峠の城は落城す。天正十三年、寄手は小早川隆景、城主は金子備後守。
同  喜多郡菅田村大竹 松野城址 (旅と傳説三卷七號
   矢野若狹守居城。長曾我部勢攻來るとき白米に灰をまじへ打水の態をなす。敵退陣の際打つて出て却つて破らる。
同  同 郡大川村藏川 三重城址 (オ)
同  北宇和郡三島村? 古城址 (南豫史?
   是も長曾我部攻のときといふ。落城に伴なふ色々の傳説を存す。城主芝一角。
(425)高知 幡多郡   鹽塚城址 (ヰ)
山口 ――
福岡 豐前黒崎? 麻生城祉 (一三)
同  田川郡香春町 香春岳城址 (一四)
同  嘉穗郡大隈町 益富城祉 (筑前傳説集
   天正十五年、是は籠城の秋月方の智謀で無く、寄手が城を乘取つて後に白米を散じて瀧の如く見せかけたとある。
同  朝倉郡高木村 鳥屋ケ城址 (同 書
   安倍貞任居城、白米が盡きたので次に油を流す、それに火を付けられて城は落ちたといふ。密告の家は子孫祟を受く。
大分 大分郡八幡村? 米山 (豐後傳説集
   姥が水を運んで居た話あり。或ひは山姥に水を汲ませて居たのが、一日に二日の水を運んで一日は休むのを怒つて斫り殺してから、水の手が切れたともいふ。高崎山籠城のときのことで、流した白米の落ちた所がこの米山になるともいふ。
 
同  同 郡竹中村 天面山城址 (同 書
   落城のとき多くの米麥を谷に流すといふのみで、馬を洗つた話は無し。燒け殘りの米を、今も拾つて腹の藥にする。
同  同 郡同 村 鶴賀城址 (ム)
同  直入郡竹田町 岡城址 (豐後傳説集
   是も鶴賀城と同じに、鰯の分配に漏れた足輕の怨みによつて内通したといふ話を伴なふ。
宮崎 ――
佐賀 神崎郡三瀧村 城山 (櫻田勝コ君
   城將クマシロカツトシ、龍造寺勢に攻められたときといふ。
(426)佐賀 西松浦郡   岸嶽米ノ山 (ウ)
同  杵島郡朝日村 烏帽子岳 (一七)
同  藤津郡能古見村 有尾城址 (一五)
同  同 郡同 村本城 城山 (一六)
長崎 ――
熊本 ――
鹿兒島 ――
沖繩 ――
 
  右の二十五府縣七十八か九の類例の中でも氣のつくことは、第一には事件の起つたといふ時代が皆新しく、大抵は足利末のいはゆる軍書時代に屬し、その以前の言ひ傳へといふものは三つ四つしか無いことである。第二には其大部分が敗北者の記録で、城は落ち守兵は戰死したといふものゝ多い事である。第三にはこの妙計も效を奏しなかつたといふ事情に、女子の干與したものが可なり多い。法師老翁の秘密を洩らしたといふものゝ他に、中部では犬、東北では雀その他の鳥類も出て來るが、其中では犬が最も意外なだけに、特に何等かの暗示をもつやうに感じられる。もとより計數によつて原因を推斷することは出來ず、又是ばかりの數ではまだ物の役にも立たぬが、別に解説の方法も無いとすれば、先づ斯ういふことを手掛りにするの他は無いのである。それで今後この言ひ傳へに出逢つた場合には、一應は必ず此點がどういふ風に保存せられて居るか、氣を付けて聽くことにしたいと思ふ。                               (昭和十七年五月)
 
(427)     傳説と習俗
 
       矢立杉の由來
 
 傳説の起原は、全部が白米城の口碑の樣に、面倒な解釋を要するものばかりでは無い。中には何年か氣を付けて居るうちに、自然に思ひ當るといふ類のものも隨分ある。たゞ何れにしても稍多量の材料を集積してからで無いと、往々にして仲間の者しか承知せぬやうな獨斷に陷る危險があるのである。私はどうかして少しも辯證の方法を雇はずして、起原が獨りでに明らかになるといふ實例を見出さうとして居るのであるが、遺憾ながら未だ完全に其注文に合するものに出逢はない。今度話をして見ようと思ふ矢立杉の傳説は、もう十何年も前に手を著けたもので、其頃一部分を公表して見たこともあつたが、詳しく聽かうといふ人が無いので、久しく亂雜の儘に打棄てゝあつた。しかし考へて見ると、是などは比較的發生の經路の明らかな、證據のやゝ豐富なる一例である。傳説が我々の歴史の、如何なる事實を表明するかを説いて、將來の蒐集者に若干の興味を抱かせるには、或ひは適切な題目であらうかと思ふ。仍て以前の白米城が幾分か理窟に過ぎたといふ評を受けた埋め合せに、爰には一つ、各地から集まつた材料ばかりを、出來るだけ話の樣に排列して御目に掛けようと思ふ。斯うして居て唯自然に、讀者諸君に自分と同じ判斷を下さしめ得たならば、それでこそフォクロアの目的は達したことになるのである。
 
(428)       一鎌箆竹
 
 最初に問題の要點を述べて置くが、日本には地上に箭を突刺して置いたら、それが芽を吹き根を下して、成長して竹となり樹となつたといふ傳説が諸處にある。それは明白に史實では無いのであるが、今までの人は、稀には其樣な不思議も有り得ると思つて居た。ところが同じ傳説は必ずしも稀有で無く、「昔」と名づくる時代には可なり頻々と、其不思議が現はれて居たといふことが、比較によつて此頃わかつて來た。さうすると何が其傳説を發生せしめたかといふことが、一つの問題になるのである。
 是ほど單純な傳説でも、永い年月の間には色々の事由が加はつて、徐々として誤解を尤もらしくして居る。我々の仕事はそれを手近のものから、段々に分析して行くことであるが、是にも傳説をして直接に自ら語らしむる方法があるのである。第一には箭が成長して繁茂したといふ竹がいつ迄も矢竹として用ゐられて居たことである。備後の鞆の津から二里ばかり西南、廣島縣沼隈都田島村の屬島に、周圍六町餘の矢箆《やの》島といふ小島がある。全島悉く篠竹で、其質が矢箆に適して居た。現在は村の人が之を採つて竹細工の材料として居るが、前には箭竹に用ゐた故に、此島の名が出來たのである。昔平家の勇士能登守教經、鞆の能登原といふ處から弓を射たら、其箭が此島に達して根を生じて此通り繁殖したと謂ひ、其能登原には又教經の弓掛の松がある(沼名前神社由來記附録)。
 東京の近くでは神奈川縣都筑郡|都岡《つをか》村大字今宿(現在横濱市)の東の堺に、矢箆ヶ淵といふ處がある。昔畠山重忠が二俣川で戰死した時に、此地に二本の箭を刺したのが、自然に根を生じたと謂つて、年々二本づゝの矢竹が生えて居た。今は絶えてしまつて、それを以て箭を製したといふ話は殘つて居ない(新編武藏國風土記稿)。しかし二本の竹の偶生するといふ點に、奇瑞を感じたことは次の話と似て居る。美濃では養老の瀧の邊に神社があつて、其社の後に黄金(429)竹と稱して、年々二本づゝ生えて一年限りで枯れる竹があつた。神社以外の地へは根を分けても生育せぬと謂つて居た(津村正恭、譚海二)。同國土岐郡の土岐の神箆《かうの》神社でも、根を一にし節を竝べて雙生する竹があつて、一鎌を以て一對づゝ伐ることが出來た故に、其名を一鎌竹《ひとかまだけ》と呼んで居た。是も昔土岐氏の元祖なる源三位頼政が、此竹に三十六斑の山鳥の尾羽を矧いで、禁中の恠鳥を射落したといふ傳説があり、猪早太の子孫と稱する猪野家の一門が、此社の氏子であつたといふから、單に箭竹に伐つただけでは無く、其箭は恐らく神祭の式に用ゐられたのである(稿本美濃誌、岐蘇古今沿革志)。
 頼政は射藝の大家であつたといふ所から、土岐以外の地に於いても?弓矢の傳説の引合ひに出される。愛媛縣の上浮穴郡などでは、あんまり話が珍奇であつた爲か、源三位とは謂はずに時の頼政といふ勇士と傳へて居るが、それでも土岐氏の一族の先祖であり、又鵺を退治して功名を立てた人だと言つて居る。久萬山中の麻生ヶ池の大蛇は、其頼政の實母であつた。我子に立身をさせたい爲に、化けて鵺となつて京都に飛び、あの大騷動を引起した。さうして豫め打合せをして置いて、息子頼政の弓に射られたのである。その時の箭を伐つたといふ處が、同じ久萬山の二つ野といふ地に在つて、毎年必ず二本づゝ揃うた矢竹を生ずることになつて居た。それを採取して永く松山の殿樣に獻上するを吉例として居たさうである(松山雜記)。篠竹はどこの山野にもあるが、何か普通と異なるもので無いと、斯ういふ口碑は發生しなかつた。松でも杉でも同齡のものが二本、竝んで成木して居るのを偶然で無いと考へたやうに、所謂一鎌箆竹が殊にめでたく、從つて又靈あるものと認められたこと、是が此傳説の一つの原因になつて居る。さうすると次には何の用に、何の目的の爲に、いつ迄もそれを大切にして居たかゞ問題になるのである。
 
(430)       惡鬼退治
 
 信州では戸隱山麓の西谷といふ處に、鏃八幡の社があつて、其周圍の森は悉く箭箆竹であつた。余五將軍維茂が鬼女を射たる矢二本、土に立つて根を生じたと言ひ傳へ、竹の産地ではあるが此竹だけは、領主より猥りに切ることを禁じられて居た(信濃奇勝録二)。
 肥前松浦の大野嶽の頂上には、龍ヶ池といふ古池があつて、昔鎭西八郎爲朝に退治せられたといふ黒髪山の大蛇が、折々此池にも通うて住んで居た。當時爲朝は先づ此嶽に登つて、池の畔から驗《しるし》の矢といふのを射た。其箭が三十何町を飛んで、ちやうど龍ヶ池の鬼門にあたる古野村の後谷といふ地に落ち、其まゝ竹林となつて永く榮えて居る(松浦昔鑑)。昔に比べて廣くもならず、又絶えもしなかつたといふから、其竹の産地は限られて居たのである。
 箭として用ゐられたものは獨り竹のみには限らなかつた。越後の彌彦山の御神は、和銅二年の八月に、始めて此米水浦に上陸なされたと傳へられて居るが、其折御突きなされた椎の木の杖が、永く神木となつて社殿の前に茂つて居た。國家事あらんとすれば則ちこの杖の樹が異を示した。神に祈請して其枝葉を取つて箭を作り、之を以て賊に向へば、指す所誅に伏せざる無しと謂つて居た(羅山文集伊夜比古神廟記)。
 是は尊い信仰であるが、千年の後まで其昔の奇瑞を銘記するには、單なる故老の口碑以上に、別に具體的なる方式があつたらしいのである。例へば陸前遠田郡の箆嶽《のゝだけ》には、矢竹を祀つたといふ箆宮《のゝみや》權現がある。昔坂上田村麻呂、巨賊高丸を此山に追ひつめ、終に之を射殺して首級を京に送り、胴を丘上に埋めて殘りの箭一筋を土に刺し、もし幸ひにして東夷再び起らずとならば、此箭七日七夜の中に活きて枝葉を生ずべしと誓ひ言を立てゝ、爰に凱陣の式を擧げた。さうすると果して其誓ひの通りに、兵亂永く熄み、矢竹も亦繁茂したといふ。それ故に今でも正月の二十五日に(431)は、この神聖なる竹を伐つて箭を作り、二人の少年をして歩射《ぶしや》を試みしむる祭典があるのである(日本宗教風俗志)。
 毎年春の始に歩射、奉射《ぶしや》又は備射《びしや》などゝ稱して、弓を射ることを嘉例とする神社は、算へきれぬ程諸國にある。其際に用ゐられる箭の材料は多くは定まつた樣式を以て、定まつた土地から採取せられて居たらしいから、もしどうしてさうするかの理由を尋ねて見たならば、大抵は又一つの傳説が聽き出される筈である。この弓神事の的には、鬼といふ文字を書くものが少なくない。しかしそれに由つて此行事の目的が、單に故事を解説するだけの演技であつたとも言ふことが出來ぬのは、鬼がやゝ形を變へて、いつでも此人生に紛れ込んで居るからである。例へば後世の疫病神、ウンカの神又は旱魃といふ鬼に對しても、是が充分なる警告であり又畏嚇であることを信じたればこそ、斯うして今も古式通りの弓の術を示して居たのである。それと他の一方の、年の豐凶を卜するといふ目的とも、やはり亦深い關係があつた。日本の占ひは保護神の啓示であるから、支那人の卜筮のやうに冷淡無私ではなく、出來るだけ人民に都合のよい前兆を示さうとした。從つて氏子は永く昔の奇瑞を記憶したのみならず、今も安心して毎年の祭の日に、同じ試みの箭を放つことが出來たのである。傳説と習俗とは、言はゞ一つの信仰から生まれた兄弟であつた。だから生き殘つた一方が、衰へた他の一方の心持を説明してくれる道理である。習俗は既に改まり盡し、僅かな傳説だけが保存せられて居るやうな外國でも、之に基いて前代の精神生活を尋ね出さうとして居る。ましてや我邦などは是から私が列擧して見ようとする如く、傳説と習俗と二つのものが肩を組んで、併行して傳はつて居たのである。それを別々の現象として取扱ふことは、先づ資料を粗末にする責を免れぬのである。
 
       遠矢の高名
 
 うつかり理窟に走らうとして居たが、今度は又事實だけを述べることにする。鎭西八郎が大野嶽の上から射た驗の(432)箭が、三十町を飛んで古野の村に落ち、能登守教經は鞆の津の弓掛松の處から、海上二里を隔てた矢箆島に射通したといふ類の話は他にも澤山あるが、大抵はあの人の弓勢ならばさもあるべしと思はせるやうな、偉人ばかりの逸話になつて居る。尾張海士郡の下田といふ部落には、源義經爰に在つて弓を射たと傳ふる、又一本の弓掛松があつた。其箭の墮ちたといふ處が百町村の矢落《やおち》の社で、それだから百町と名づけられたかの如く、土地の人たちは思つて居た(張州府志)。
 埼玉縣入間郡加治村大字川寺では、矢田川の上流に矢の根辨天の社がある。昔平將門が岩淵山の頂上から射放した箭、前《まへ》ヶ|貫《ぬき》矢下風《やおろし》の二村を過ぎて、爰まで飛んで來て落ちた故に、此祠を建てたと傳へ、矢ノ目といふ地名も殘つて居り、前ヶ貫の方でも、征矢神社といふ鎭守の社がある(入間郡誌)。
 磐城刈田郡圓田村大字矢付でも、昔源義家奧州入りの時に、同郡小原村の清水峠から射た箭が、落ちて地に付いたから矢付といふと稱し、そこには鉾付神社があつてその八幡太郎を祀ると謂つて居るが、恐らくは八幡大神であらう(刈田郡案内)。村の名の矢付も或ひはもと箭槻であつたかも知れない。神木に槻の木を栽ゑることは、昔から東北地方の風であつた。吾妻鏡には將軍頼朝奧州陣ヶ岡に滯在の時、高水寺の鎭守走湯權現に參詣し、神に奉ると稱して社の傍の大槻の木に上箭の鏑を射立てたといふ事が見えて居るが、其故跡と傳ふる陸中古館村の走湯神社には、今でも箭立の槻といふのが有つて、其神木の相續者だと謂つて居る。是も土地では八幡太郎義家が、戰の吉凶を卜せんとして弓を射ると、其箭あやまたず此木に命中したとも謂ふ者があつたが、兎に角に今から二百年前に枯れた前の木の根方には、その昔の矢の根がちやんと見えて居たさうである(紫波郡誌)。
 福島縣東白川郡の近津宮、即ち今日の國幣社|都々古別《つゝこわけ》神社にも、神木征矢の槻(欅)があつて、村の名は八槻であつた。大昔日本武尊、槻の木を以て征矢を作り、射て八人の土蜘蛛を殪したまふ。其箭地に立つて悉く芽を生じ、見事なる巨木となつた。但し今ある神木の槻は栽繼ぎである(大日本老樹名木誌)。
(433) 旅行者にはまだ幾分でもこの心持が解るかも知れないが、斯ういふ地名の傳説が、土地に育つた人々に與へる感興は、到底書いた物だけでは之を想像することが出來ない。小さな頃から知り過ぎる程よく知つて居る山川、其間に散らばつて居るやゝ珍しい幾つかの地名、それを一つの奇拔なる空想を以て繋ぎ合せ、歌なり物語なりに纏めて見るといふことは、假に虚構であつても面白い聽き物であつた。況んや是は昔から誰いふと無く、殊に尊い弓矢の業に伴なうて、保存せられて居る口碑である。聽けば忘れること無く又何度でも思ひ出して、次々語り弘めて永く又數多く、殘つて居るのも不思議では無いのである。上代の記録を讀んで見ても、斯ういふ地名の連鎖譚が、村々の過去を融和させて居た效果は察せられる。我々の言葉と共同の興味とは、恐らく此筋を進んで行つて、日本民族の歴史を次第に矛盾の無いものにしてくれたのである。
 近代の傳説に於いても、やはり地名の因縁に基いて、一つの言ひ傳への領域が大きくなつて行かうとする傾向が見える。例へば上總の舊埴生郡では、昔頼朝卿が矢口といふ處から射た箭が、矢田の地を經て金矢といふ部落に落ちたと謂つて、其間は四五町も離れて居た。さうして矢口には其故跡と稱して、畠の中に圓く矢竹の茂つて居る場所があつた(埴生郡見聞漫録)。或ひは又九十九里の濱の方に行くと、同じ將軍が此地方を測量する爲に、六町一里に一本づゝの矢を刺してあるいたといふ話があり、夷隅郡の矢指戸といふ處は、その百本目の指し止まりである故に、この地名が出來たと傳へて居る(房總志料續編)。山武郡蓮沼村の矢指大明神は、一説には百本の矢の指し始めといひ、他の一説では其中央であつたと謂ふ。他に或ひは日本武尊の射たまふ矢、一矢に六町づゝ九十九矢射通したまふとも傳へたのは、多分此序でを以て武射といふ郡名をも解説しようとしたのであらうが、兎に角に其處には亦記念の御社があり、なほ松と杉と各一株の御神木が栽ゑられてあつた。
 
(434)       矢は境の標
 
 矢指といふ地名は下總にも、又常陸にもあって右の傳説よりは古いやうである。神奈川縣でも都筑郡の、石川と下川井の二箇處に矢指があり、足柄上郡の岡本村にも、幾つかの矢佐芝といふ字があって、谷佐芝川といふ小川も流れて居る。如何にして関東の各地に此地名が發生したか。それを考へて見ることが、同時に又傳説の成立ちを探る結果にもなるかと思ふ。上總の土氣本郷町の大字の一つに、小食土と書いてヤサシドと呼んで居るなども、私には頗る興味ある一例である。小食は晝餉即ち野外の食事のことで、この矢指處がもと小食をする場處であった爲に、此文字を宛てたのでは無からうか。傳説の頼朝が此地方を巡遊して、?辨當を遣ひ其箸を地に刺し、それが又後に成長して蘆原となり薄の叢となって居るとは、「日本の傳説」の中に既に述べて置いた。肥前松浦領の境では、其箸が大きな樟樹にさへなって居るのである。相模の山村の矢佐芝といふ地名も、其故跡が永く靈地として遺つて居ることを意味し、つまりは境に矢を刺した習俗の一つの名殘では無からうか。それを實地に就いて確かめて見る前に、少しく別の方面から、此推測の必ずしも空なもので無いことを説明して置かうと思ふ。
 安房の入不斗《いりよまず》(岩井村)の竹林山滿能院は、もと熊野神社の別當寺であつた。此寺の庭には頼朝公の籏竿竹と稱して、節も揃ひ太さも同じ程の二本の竹が、毎年必ず偶生する竹藪があつて、此竹の多く生える年は豐作だと言ひ傳へられて居た。治承四年の八月二十九日、頼朝此社に參籠の折柄、寺の僧が庭前の竹二本を伐つて、それを目出たい旗揚げの旗の竿に獻上したところ、頼朝大いに悦んで褒賞は望みに任せるといふことになつた。仍て院主は弓を射て、其矢の屆く限りを以て寺領とせんと乞うて許された。斯ういふ傳説が縁起となつて殘つて居る(安房志)。是も察する所最初は此寺の所領が、到底普通の箭の屆かぬ境まで及んで居たのを、所謂二股竹の奇瑞に托したものであつたらう(435)が、後には一方を籏竿などゝ謂ふやうになつて、法師の射藝といふことが無意味な話になつてしまつたのである。
 是とよく似た話は三河國碧海郡、野寺の本證寺の舊記にもあつた。昔小山判官の弟親祐といふ弓矢の名人、或時主君の命として、汝能く遠矢を射る。今宜しく力を盡して射試むべし。其矢の屆く限りを領地として與へられんとのことで、乃ち遠矢を射て數十町の地を賜はつた。後に仔細あつて家を寺となし、僧となつて教圓と稱すともいへば(和漢三才圖會)、一説には小栗判官行重の子息、慶圓法師なる者が、弓を射て寺領を得たとも謂つて居る(二十四輩巡拜圖會)。是も恐らくはもと此寺内に竹林があつて、嘗ては其竹を切つて矢を製したと言ひ傳へて居たものであらう。
 武藏箕田村滿願寺の阿彌陀堂は、六孫王經基武藏守として當地に住する時、此堂を建立せりと謂ふとの口碑がある(新編武藏風土記稿五〇)。村は中仙道の吹上・鴻の巣の間に近いので、古くから往來の旅人に知られて居たが、堂の傍には少しの竹藪があつて、其竹は箭竹の如しと謂ひ、或ひは縱横に畫(スヂ?)あり、密にして束箭の如しとも記してある。寶暦九年に建てた石碑の文に依れば、經基の矢が爰に落ちて成長したといふ傳説があつたものか、この竹叢を名づけて射貫と爲すとあつた(大田蜀山、王戌紀行)。中仙道には今一つ、上州妙義山の射貫岩も有名であつた。昔百合若大臣が松井田の里はづれから弓を射たと傳へて、其時踏張つた足跡石も路傍に在り、そこから眞正面の山の上の巖石には、彼が射通したと謂ふまん丸な穴があいて居る。其矢の行くへはもう不明であるけれども、是も亦遠矢の驚くべき一つの例であつた。
 出雲の廣瀬町の富田八幡宮といふのは、昔平家の勇士惡七兵衛景清が遣つて來て、御社を今在る處に遷したといふ傳説がある。さうして景清が築いた城の跡といふのが、今でも高い山の上に殘つて居るのである。八幡の御宮は元はそこに在つた。これへ城廓を構へたい爲に、神に?つて社壇を遷したまふべきや否やを鬮に取ると、果して遷座あるべしとの鬮を得た。乃ち大いに悦んで白羽の矢を弓につがひ、闇夜に虚空に向つて之を射放したところが、其矢が落ちて來て今の社の地に立つた。是を神意なりとしてそこに社を興し、其白羽の矢を永く神寶の第一として持傳へて居(436)た(懷橘談)。社の神職の家を竹矢氏と謂ふ。元は田邊であつたのが、此奇瑞に因つて今の姓に改めたと謂つて居る(明治神社誌料)。
 白羽の矢が常に神意を代表して居たことは、古くから之を信じた人が多かつた。讃州木田郡牟禮の白羽神社は、もと白羽八幡宮とも稱へて居た。文明年中に土地の領主中村加賀守氏宗、夢に一つの白羽の矢が東の方より飛び來つて、城の北なる林の中に落ちたと見て是を神明の靈區を示したまふものと信じて、覺めて後往いて之を求めたところが、果して阿彌陀寺の後の山中に於いて、夢に見た通りの箭を見付けた。一同感歎してそこに御社を建てたのが、今日の白羽神社であるといふことである(讃州府志)。
 鳥取縣でも八頭郡屋堂羅村の式内|意非《おひ》神社、俗に老の宮といふ御社は、御神體が白羽の矢であつた。大昔武内宿禰が此國へ遣つて來た時には、まだ御宮は長砂村の一宮谷といふ處に在つた。武内は其處から矢を射放して、此矢の落ちた處へ神殿を建てようと言つた。さうして新たに造營せられたものが此社である故に、今も矢落谷といふ地名が殘つて居る。屋堂羅といふ珍しい村の名も、多分「矢通り」の變化だらうといふことである(因幡志神社考)。
 武内宿禰は確かで無いまでも、山に登つて占ひの箭を放し、その落ちた處を以て靈地の區劃とすることは、實際有り得べき前代の信仰行事であつた。ところが其距離だけは何處までも傳説で、親しく其地を視た人ならば、必ず喫驚するやうな遠方まで、神の箭が飛んで來て立つたことになつて居るのである。それで無ければ又語り傳へるにも足りなかつた。傳説はつまり平凡ならざる事蹟の要求であつたが、我々の空想には寧ろ制限があつて、幾ら奇拔なことを考へ出しても、第一に信じて之を語り傳へる人が無ければ何にもならなかつた。それでおのづから全國共通に、同じ一つの出發點から、同じ軌道の上を走らうとする傳説が、斯くの如く多くなつたわけである。
 
(437)       傳説の二系統
 
 或ひは又理窟に落ちる嫌ひはあるが、私は今後傳説の蒐集が進んで、細かな發生學風の系統分類が行はれるやうになれば、必然問題は前に述べた白米城の口碑の如きやゝ込入つた構造のあるものと、矢立杉の如き簡明なるものとが、何故に各個の地名の傳説として、同じ方法を以て保存せられて居たかといふ點に、向つて來る事と思つて居る。傳説は通例先づその不思議なる一致に注意せられるが、次には是が根本的の差別に、不審を抱く事になるのが順序である。是は我々が最初如何なる機會に於いて、斯ういふ平凡ならざる事蹟を信じ始めるに至つたかを、考へて見ることが出來れば何でも無い仕事であるが、兎角是までの學者は其傳説の文書に現はれた時代より、後の事ばかりを論じて居たのである。フォクロアといふ學問が起つて、茲に漸くこの映畫のフィルム、草木でいふならば地下に隱れて居る髯根と牛蒡根とを、調べて見ようといふことになつたのである。正しいか正しくなかつたかは別の問題として、兎に角我々の信じて人に語り得た體驗は、耳から入らなければ眼から入つて居る。此以外にも肌膚其他の感覺を經たものが有り得るが、それだけが獨立して働いた場合は、實際は至つて少ないのである。それで我々は發生の起源に溯つて、耳の傳説、眼の傳説と分類して見ることが出來るのである。現代は人が饒舌となり、又饒舌が必要になつて居る。從つてあらゆる傳説は口を以て引繼ぐのであるが、最初第一次に之を感得した人々に取つては、幾つかの神秘は言辭を超越し、文句の解説を無用として居たことは、傳説發生の最も大いなる機會、即ち昔の世の祭の式を想像して見ればよく分る。今でも信心深い村では其光景に接することが出來るが、祭の式場には絶對に雜談が無い。大切なる言葉と、沈黙の觀望とがあるばかりである。從うて我々の信ずべきものが、當然に二つに分類せられたのである。そこで私たちは是を耳と眼といふよりも、寧ろ神語記録と神態記録との、二系統に分けて見る方が、一層適切であらうと思つて(438)居るのであるが、其樣な用語を成立させる爲にも、やはり實例に就いて今少し詳しく述べる必要がある。
 近頃の傳説は多くは混成であつて、何れももと有つた形の儘といふことは出來ないが、それでも大體に於いてまだ若干の特徴だけは持つて居る。神語は大昔の「空中に聲あり」といふやうな強烈なる信仰が、追々に靈媒の口を藉りなければ、神の御告げを受けることの出來ぬ迄に衰へても、それを大切に保存しようとする努力には變りがなかつた。といふよりも疑ふ念が少しでも現はれようとすれば、却つて解説は一段と丁寧になり、傳承も亦一段と忠實になつて來る。耳から入つて來た傳説は全體に面白く、又形がよく整うて説話といふものに近い。之に比べると眼の實驗に始まつたものは、其感じを他に傳へる事が最初から容易で無かつた。ましてや年を隔て信仰が稍弱れば、何人も進んで註釋の任に當らうとする者が無く、寧ろ古傳の尊嚴を保つ爲に、出來るだけ敍述を簡約にする必要をさへ認めたのである。義經腰掛石といふ類の、名稱ばかり殘つて居るものなどは、其省略の最小限度に達した例であつて、儀式や記念物の消滅と共に、誤られ忘れられる場合も此方に多かつた筈であるが、しかも現在はまだ數量に於いて、遙かに語りごと式の傳説を凌駕して居る。さうして又其宗教上の根據はどうであつたかといふと、是も通例は他の一方のものよりも、尚一段と強固であつたらしいのである。自分たちが傳説の研究を所謂説話學の外に置き、別に習俗の側から比較を進めて見なければならぬと、思つて居る理由は爰に在るのである。
 話は少し遠まはしになるが、先年福島縣の南を旅行した時に聞いたのは、あの邊の村には何十年目に一人ぐらゐ、突如として驚くべき行者の出現する事がある。今まで普通の農民であつた者が、忽ち奇怪な事を口走り、祈?を始め豫言をし始める。それが皆當るのださうである。其靈力を發表する方法は略きまつて居た。いつでも先づ屋根の上に飛昇り、屋の棟に跨がつてグシをつかんで引動かすと、家全體が上下にがた/\と跳つた。それを近隣の者が一同に出て見て、始めて此男に靈の憑つたことを知るのださうである。現に此土藏の頂上に馬乘りになつて、建物を搖がせた男があると言つて、私は其記念の土藏を指さし示された。しかもつい二十年ばかり前の出來事と謂つたにも拘ら(439)ず、我々信仰を共にせざる者の眼には、傳説としてより他は受取る事が出來なかつたのである。岡山縣久米郡岩間の本山寺、大垪和《おほはが》の兩山寺等には、境内に護法社があり、又護法石・護法松等があつて、毎年七月の法會の日、護法實《ごほふざね》といふ者が託宣を爲し又恠力を現はした口碑を傳へて居る。此護法實も亦只の村の若者であつた。祈?精誠を凝らすと忽ち靈が宿つて不思議を示し、殊に穢れのある人を忌むこと甚だしく、さういふ者が近よれば取つて數十歩の外に投げたといふ(作陽誌)。ある時寺山某といふ武士が、兩山寺に來つて之を見物して居た時に、護法は彼が不淨を憎んで追ひのけようとした、寺山も勇士だから承知をせず、兩人掴み合ひの末、崖から谷底へ轉がり落ち、二人とも死んだといふ話であるが、是だけは少なくとも近代の事實らしい。しかも二人の屍を其處に合葬して、記念の爲に松を栽ゑ、之を護法松と名づけて居るのは、他の多くの傳説の樣式と異なる所はなかつた。詐僞や虚構がもし傳説の起原ならば、斯うして萬人の目に觸れる松や巖石の名になつて殘る道理が無い、といふ風に昔の人は考へて居たのである。兎に角に永い歳月の間には自然に誤傳せられるかも知れぬが、其發生の根本に於いては、少なくとも一般に承認せられた或出來事はあつたのである。傳説は要するに其事蹟の公けの記憶であつた。それ故に?我々の歴史と傳説とが混同せられようとしたのである。歴史と傳説とが混同せられてはなぜ惡いか。それを明瞭に説明しようと思へば、溯つて傳説の由つて來たる所、即ち人をして有り得べからざる事を信ぜしめた最初の力を、考へて見なければならぬことになる。それが日本では比較的容易の業なのである。
 
       眠りの衆
 
 我々が奇跡を承認するには幾つかの條件があつた。神コ佛力の最も普通なる發露は、言ふまでも無く罰と利生とであるが、それは大抵個々の人又は小家族に限られて、公衆共同の問題となるのが存外少なかつた。社會全體の事件と(440)しては、示現といふものが特に重要である。始めて守護の神靈が土地に降臨したまふ場合は固より、後々何か吉凶の大事が起らうとするに先だつて、何も氣付かずに居る人々に不時の御知らせがある。其感動は大きなものではあつたが、滅多に起らぬのみか豫め何の用意もせぬので、大事件の割には傳説として保存する方法が立たず、從つて時の經過と共に散漫に歸したものが多いやうである。保存の方法とは祠を建て塚を築き木を栽ゑ、もしくは其場所の土石の原形を維持して、誰でも其側を過ぐれば思ひ出すやうにする以外に、毎年期日を一定して自然に其記憶を新たにするのが習慣でもあつたらしい。ところが臨時突發の出來事だと、わざ/\其爲に記念日を設定しなければならぬが、既に期日の定まつて居る年中行事ならば、さういふ必要は無かつたわけで、是が儀式と關聯した古い傳説の、保存せられ易かつた原因の一つであつて、必ずしも昔の奇跡が儀式の起原であり、又は傳説が其儀式を説明せんが爲に案出せられたかの如く、考へるには及ばぬと思ふ。
 儀式の最も多く傳説を發生せしめて居るのは、やはり神佛の啓示指導を求むるもの、即ち普通に卜方《うらかた》といふ行事である。卜方は言はゞ要望せられたる示現、從つて又豫期せられたる奇瑞でもあつた。是にも頼朝の房州旗揚げ、義家の安倍退治といふが如き、特に臨時の大問題の爲に、吉凶を神に伺つたといふ話も傳はつて居るが、さういふ事件は何百年に一度も起り得ない。通例村の生活に於いて早く知りたいことは、何と言つても耕作の成果如何、それから風水旱魃と疫病害蟲の有無、或ひは新たに計畫する土木工事などの、果して安全に又幸福なりや否やで、是には地頭から下僕まで、共同の利害を感ぜざる者はなかつたのである。從つて其誠意熱情の凝り固まつた場合に、一致して不思議な現象を實驗したことが、時々はあつたかも知れない。それが信心を同じくする者の集合的幻覺であつたかどうかは、たゞ今後の社會心理學の、研究だけが之を決し得るので、漫然我々が信じ得ないといふ理由を以て、彼等の信じたといふ事實を否認することは出來ぬのである。例へば安房三河の寺の僧が射た箭だけは、衆人の見て居る前でいつ迄も鳥の如く飛んで、十町もさきへ行つて落ちたかも知れず、其箭が地に立つと成長して竹藪になつたかも知れない。(441)其證據は到底得られぬにしても、少なくとも周圍の關係者は、夙に一樣に之を信ずることが出來た故に、傳説は乃ち成立つたのである。別の言葉でいふと、弓箭を占ひに用ゐる習俗、心の奧底から其當りを以て神の御思召なりと解し得る信仰が、所謂白羽の箭の多くの傳説を産んだのである。
 さうして此信仰行事は何百年とも知れぬ繰返しを重ねて、現に其一部は我々の目の前までも傳はつて居る。大體にそれは二通りの目的があるが、最も例の多いのは定期の神事、土地によつて歩射とも的射とも、百手《もゝて》とも弓祈?とも謂つて居るもので、是には的に鬼の字を書き、箭竹を特定の地で採取するの作法などが守られて居る。第二は臨時に土地を區劃する場合に、神に祈請してから弓を射て境を定める風、今でも白羽の箭の形をしたものを地上に刺し、もしくは建て前棟上げの日の柱の上端に、弓に矢を張つて吉方に向けて射放す形にして置くなどは、普通に我々の目撃する所である。土佐の東部の山村では、墓地の選定の爲に箭を空中に射て、その落ちた處を神から與へられた土地と考へる風があつた。伊勢濱荻といふ書には、神宮の祠職たち、柩を埋めんとするに先だちて生木の弓、紙の羽の矢を以て空をさして射る風があつた。他國には無きこと也と著者は言つて居るが此通りにちやんと土佐にあるのである。
 武家が新たに城地の繩引をする際に同じくこの弓矢の占を試みたことは勿論であつたらう。琉球などは近代絶えて久しくこの武器を使用せぬ島であつたが、遺老説傳には久米島の仲城の按司、始めて仲城山の城を築かんとする時、士卒と共に此山に登り、弓箭四つを執つて躬ら之を試み、其善地なることを知つたといふ舊話を載せて居る。薩摩でも出水郡木牟禮の古城などは、建久七年島津忠久入國の際、老臣本田親恆此あたりに公の居城を定めんと欲して、笠山の頂上に昇つて、今もある矢石といふ石の上で神に?り、目を閉ぢて數囘廻舞して後に矢を射放し、箭の落ちた處に構へたのがこの城であつた。其時矢の勢ひによつて、後の山の上に雲を生じた故に、今に至るまでその後の山を矢之瀬山といふとの傳説もあるのである(出水風土誌)。
 傳説と習俗との關係を證明しようとするには、斯んな細かなことまでも注意して置く必要がある。例へば右の一例(442)の中で、目を閉ぢて四五へん廻つてといふ點などは、寧ろ傳説の基礎をなす所の、古くからの習俗を語るものだつたらしい。出雲の富田城址の口碑なども、突如として惡七兵衛景清の現はれ出たことを、土地の歴史家たちは何と解して居るか知らぬが、是も亦同じ習俗の九州南部だけの特色で無かつたことを、推量せしむるに足るものである。景清と八幡との因縁は、日向の生目八幡の方が元らしいが、是は偶然だとしても、少なくとも彼は人工盲目の代表者であつた。盲で能く信仰を談ずる者の鼻祖であつた。その盲の景清が闇の夜中に、虚空に向つて射た白羽の矢がもし適中したとすれば、それは人間わざでは無いといふことに、判斷し得られるのは當然の話であつた。
 次に鎭西八郎が大蛇を退治したといふ話は、肥前川上郷梅野村、即ち黒髪山下の一つの部落に、古來梅野の座頭と稱して住んで居た一團の盲人が、語り傳ふる所のものが元であつた。此座頭は老少と無く代々一刀を帶し、且つ爲朝の射殺した大蛇を、水中に飛込んで引揚げて來た盲の子孫だと稱して居た。其時爲朝の射た箭は飛んで川上明神の森の楠の木に立つたといふ傳説になつて居たが、二百年餘り前の頃其楠の枝が折れて、樹の中から偉大なる雁股の矢の根が顯はれたことがある。是こそ正しく爲朝所用の鏃なるべしとて、永く神社の寶物にしたといふことである(鹽尻一二)。誠に股の一方が八九寸もあり、中子は一尺以上もあるといふ大雁股ならば、それを射ることは只の人には出來ない。神に非ずんば則ち爲朝といふことに、決着するのも致し方は無いが、果して其樣な大きな鏃であつたかどうか。私は後に列記しようと思ふ多數の類例によつて、此神社の神木の楠に、箭を射立てたのは此時一度だけでは無く、さうして又刀を帶びて居た梅野の座頭が、毎年頼まれて此祭の箭を射たのでは無いかと思つて居る。
 瀬戸内海の周圍の諸郡には、村の春祭に百手の射禮を行ふ土地が多い。其中でも殊に嚴重なる例の一つは、香川縣三豐郡莊内村、大濱浦の船越社の式であつたが、今は早どう改まつて居るかを知らぬ。此神社の祭典の當日は舊二月朔日であつた。しかし正月の十一日から、もうその弓祈?は始まるので、二十二日には射場を定め、卷藁を作つて之を射るのであるが、卷藁の中には五穀を收めたといふから、其當りを見ることが他の地方の管粥粥占と同じく、一種(443)農作を占ふ方法であつたことは疑ひを容れぬ。ところが此射法を教へる人を、土地では禰武利《ねむり》の衆《しゆう》と謂つて居たさうである(西讃府志)。他の村里にも此名稱が行はれて居るかどうか。詳しく調べた上で無いと斷言は出來ないが、私は此ネムリは目を閉ぢることで、本來は弓射の式を行ふ者が、臨時に目無しになつて射放つのが式であり、全然其結果を神意に委ねて居た習慣に、基くものでは無いかと思つて居る。
 しかし實際は多くの場合に、そんな事をする必要の無い者が、此式には參加して居たのである。村の少年の、平生少しも弓矢を持扱つたことの無い者がたゞ短い期間の準備を以てこの役をつとめたのである。伊豫の大三島などの各村では、大抵正月の始めに弓祈?を行ふのであるが、射手の青年、其期に臨み射術を練習し、又祭の日の二十日も前から嚴重な物忌をして毎朝水垢離を取る。といふわけは此日の成績によつて、自分の部落の一年の吉凶が定まるものと思つて居るからで、本人の意氣込は固よりであるが、見物も亦手に汗を握るのである。此點は以前の村相撲、綱曳、競馬、牛驅なども皆同じであつた。祭の日の選手に取つては、技藝の練習と信心とは、何の差別も無い一續きの努力であつた。獵も戰も神事の一部分であつた時代が、彼等の心持を透してまだ窺はれるやうな氣がするのである。諏訪大明神畫詞といふ書物は、南北朝期の末に出來た記録であるが、其中には武家の射禮の事が多く述べてある。三月卯日の祭には的射の勝負があつて、負方は髪を亂され顔に墨を塗られると書いてある。武家の春の始めの賭弓《のりゆみ》に於いても、射損じて坊主になつたといふ話が多い。それは單なる名譽心の破産からでは無い。神に見離されるやうでは、最早侍の職に居られぬといふ意味であつた。弓矢の道といふ言葉には、斯ういふ宗教的内容があつたのである。だから其約束は獨り武人だけで無かつた。熱田神宮の正月十五日の歩射的會などは、神官馬場氏大喜氏、其他祝部中臈各二人づゝ、出でて毎年の役に任じたが、もし射損ずれば社輩を除名せられるのが、近世までの定めであつた(尾陽歳事記)。昔は腹を切つたこともあり、後々も神慮に應はぬ者として、即座に出奔しなければならなかつた。射はづした社人の家の赤飯などは、大地に棄てゝ置いても犬烏も喰はなかつたとさへ言はれて居る(尾張名所圖會)。
(444) ところが今日では實際はさう安々と弓は當らない。射術は信仰よりも更に衰へて居る。前年私は三州|作手《つくで》の山村に遊んで、處々の村社に設けられた祭の射場を視、又詳しく最近の實?を尋ねた。射場には金銀の小さな的を立てゝ、最後に之を射る競技がある。金的が當るとわざと箭を拔かず、的と射?の土とを一緒に、三寶に載せて其まゝ神前に持つて出て供へる。射手には大鏡餅其他の賞品が出るのだが、此地方には弓術の先生があつて、平生から稽古をして居るといふことであつた。そこで私は聞いて見た。もし其的がどうしても當らぬと、どうなるのかといふと、當るまで祭の日が延びなければならぬのださうである。下手ばかり多くて二日も三日も射はづして居る年は、先生を頼んで當てゝ貰ふこともあれば、時には箭を的のところへ持つて行つて突通し、それを進獻して祭を終らなければならぬこともあると、苦笑して私に告げた。神も多分は苦笑したまふことであらう。以前は眼を眠つてさへ遠くへ飛び、圖星と思ふ地點に突立つたことがあつたものである。スポーツの記録の毎年前進する時代には、過去を談ずる機會はあるまいが、それが退歩を始めるとレコードは即ち傳説となるのである。弓矢には限らず、劔でも槍でも又力持でも、昔の人の逸話には驚くことが多い。勿論其説には誇張もあつたが、眞僞の境などは話して居る者には判らない。例へば辨慶は千人力と謂ふのがうそでも、百人力も無かつたらうとは誰も云はぬ。それと同じ樣に大昔の弓の奇瑞は、時代が遠くなる程、  益々非凡になつて行くだけで、いつ何人が、僞りを言はうと思つて設けたといふことは無いので、それだから又一同が之を信じ得たのである。其上に我々は弓矢の信仰と技能との衰微を意識して居た。今でも大當りのシンボルに的を貫く矢をゑがく如く、神の白羽の矢が常に人間の幸福を、目標として居た時代があつたと思つて居た。是が我々の失立杉の傳説を、特になつかしいものにした原因であつたことは、先づ疑ひ無いやうである。
 
(445)     武藏野と水(昭和六年七月三日放送
 
          一
 
 水に因みある武藏野の傳説を、今夕私が放送して見ようとするのは、夏むきに少しでも涼しい話をといふだけでは無い。日本全國の隅々に亙つて、傳説は實は水に關するものが最も數多く、又最もよく知られて居る。今度各地方の同趣味者と共に、日本がどのくらゐ澤山の昔懷かしい傳説を持ち傳へて居るかを考へて見ようとするに當つて、出來るだけ誰にでも心付く實例を擧げるとなると、自然に我々の注意は此方に向つて行くのである。
 一口に言ふと、日本は水の豐かな國、さうして又水の恩コを深く仰ぐ國であつた。田植に雨を待ち雨を喜ぶ者が、三千萬人もある以上に、物を滌ぎ淨めると稱して、たゞ洗ふといふだけでは氣が濟まず、ざあ/\と水を流すことが國民一同の好みであつて、よほどたつぷりと水が無いと、どんな靜かな土地にも落着いて永く住み得なかつた。其水がもし少しでも足りないとなると、足りないといふことを非常に氣にかける。それで居ながら他の一方には、水の乏しい大陸の國の人たちの、全く知らない水害といふ苦勞をして居る。前と後との兩面から、水を忘れては片時も生活を續けられぬのが日本人であつた。所謂水部傳説が盛んに發生して、なほ次々に成長し進化して行くだけの、保件は具備して居るのである。
 だから我邦の傳説の種類が、假にざつと二百種あるとすると、其中の八十までは水に因みのある傳説で、樹木と巖(446)石に關するものを合併してほゞその同數、殘りの四十種が他の雜多なる言ひ傳へと、いふ位の割合にもなつて居るのである。この總計は無論概算で、今はまだ精密に之を算へ上げる方法も無いが、傳説の種類は兎に角にさう無限のもので無い。僅かづゝの相異を別々に勘定して見ても精々のところが七百か八百、千といふ數には中々屆きさうにも無い。そんならどういふわけで今日一郡の郡誌に、平均百近くの傳説が掲げられ、一つの村一つの名所を繞つて、時としては二十も三十もの傳説が記憶せられて居るのか。それを集めて見たら直ぐに一萬にも二萬にも達するでは無いか、と言つて詰問しさうな人がもとは隨分あつたが、此頃はもうそれだけは稍わかつて來たやうである。
 つまりは全國の端から端にかけて、同じ一つの傳説が誰の目にもよく知れるやうな共通點を具へて、そこにも爰にも竝び行はれて居たのである。以前は人が遠方の者と話し合ふ折が稀であつた爲に、各自之を我土地のみの珍聞とし、寧ろ類例の存することを知らぬやうな相手だけに、話して聽かせる爲に貯へて居た姿があつた。さうしてたつた山一重を隔てた隣の盆地にも、同じ言ひ傳へのあることを互ひに知らずに居たのである。六つかしい言葉だが我々はその孤立?態の一つ/\を傳説の共信圏と言つて居る。共信圏の半徑は少しづゝ大きくなつて行く傾向を持つて居るが、ちやうど水上に浮ぶ泡の球などの如く、二つが膨れて行つて兩端が接觸すると、一つが他を併合する場合は却つて少なく、大抵は二つともぱちんと消えてしまつた。さうして一人の最も優れたる旅人が、次々と村里を巡つて同じ樣な事をしてあるくといふ類の傳説のみが、差支へが無いので兩立して殘つたのである。ある一人の地方的英雄、もしくは高僧の遺跡と稱するものが、多く殘ることになつたのは此結果であつて、是には九州では人聞菩薩《にんもんぼさつ》、北陸では泰澄大師、他の地方に於いては高野の弘法さんなどが、最も人望の多い傳説の主人公になつて居た。
 
          二
 
 例へば昔、乞食のやうな破れ衣を着た旅僧が來て、畠の芋をくれないかといふ。遣るのが惜しさに此芋は固くて食(447)へないといふと、さうかと言つてさつさと歸つてしまつたが、それ以來其土地には斯んな芋が出來るやうになつたと稱して、水邊などには?「くはず芋」が茂つて居る。即ち此草の生ずる土地へは、大抵は弘法大師が來て居るのである。又旅僧が汚れた法衣を洗つてくれと頼んだところ、川に水が無いから洗へないとうそをつくと、それから其村だけは水が川を流れなくなつたといふ類の話が、多くの水無瀬川に就いては傳へられて居る。或ひは又之と反對に心の優しい女性の、機を織つて居たのが、わざ/\其機から下りて、遠くに往つて新しい清水を汲んで來て進める。そんなに此邊では水に不自由をして居るのか。よし/\私が水を出して遣らうと謂つて、柳の木か何かの杖を地面に突き差すと、そこから清い泉が湧き出して今の弘法井戸となり、其杖は根づいて大木になる。斯う云つた類の傳説はたつた一種でも、全國に何百箇處、事によると千以上もある。少なくとも目録には取りきれず、又殆と何人でも、一つ以上の例を知らぬ者は無いといふ實?である。
 珍しいのは決して或傳説が、たゞ一箇處にしか無いといふ點では無かつた。今でさへ他處に同じ口碑が有ることを知つて、力を落すやうな人たちである。さうやたらに借り物を持つて來ても、仲間の者が承知した筈は無い。同種國民の相似たる感情と想像力との産物とはいひ條、よくも是ほどまで各自申し合せたやうに、同じ形の傳説を持ち傳へて居たものである。殊には其記念として今も名に負ふ清水があり、もしくはその親切な婆の家といふのが殘つて居たりするのを見ると、どうして又此樣な言ひ傳へが、一致して各處に併存して居たかといふことが、實は何よりも大きな不思議であつたのである。
 我々がそれを格別の問題にしなかつたのは、めい/\が一時に方々の傳説を考へて見るやうな機會が少なかつたからである。つまりは地方の知識と研究が割據して居たからである。郷土の古い生活にそれ/”\の愛着を抱く人たちが、今囘のやうに共同してこの興味ある社會現象を考へて見ようといふことになれば、當然に我々は新たなる何物かを學んで、改めて互ひに隣の縣郡に住む者の生活を考へ直すことになり、追々には國が本當に一つの國であつたことを、(448)はつきりと意識し得られようかと思ふ。是はラヂオのやうな新文明の、最も有難い恩惠の一つと言つてよい。問題はただに一箇傳説の上のみに現はれた共同の思ひ出には限らぬのである。
 
          三
 
 私が只今住んで居る多摩郡の片ほとりなども、やはり昔の武藏野の野中であるが、武藏野だからといつて別に特色のある珍しい傳説が、殘つて居るわけでも何でも無い。單に此地方がいつ迄も野であり、又隣に大きな都會が興り榮えた影響を受けて、全國共通の同じ一つの傳説が、幾分か他の地方と異なつた經路をとつて、發達しようとして居たといふことが言へるだけである。
 その一つの特徴は、京大阪の周圍の田舍も同じやうに、夙くから記録文學の干渉を受けて居ることである。好い意味からいふと、古くあつた傳説が消えずに居る。其代りには後から新たに生まれたものゝ力が弱い。通例どこの土地でも、傳説の成長するといふことは、古くからあつたものが是に押されて、引込み隱れ消えてしまふことを意味して居た。それが書いたものに殘つて頑張つて居ると、少なくとも是を知つて居る者だけは、それと突き當る新しいものを信じ得ない。ところが大都と其近郊のやうに、國の四方から次々に寄留者の入つて來る土地では人は古い事を愛し又求めても、在來の居住民の共信圏には加盟し得ず、寧ろ書物を捜してそこに幽かに殘つて居るものを鑑賞しようとする。從うて僅かな地積の中に、新舊幾通りかの傳説が、入り交つて流布することになるので、ちやうど掘割などの新しい土工によつて、偶然に幾つかの地層を示したやうな結果を呈する。是が又過去少なくとも七八百年間の、この武藏野の水と人間生活との交渉を語つて居る點に於いて、ちよつと他の地方では見られない興味があるやうに思ふ。江戸の所謂知識階級が、この武藏野の前代生活を、懷かしがつたことは一通りでなかつた。其爲に中古の文藝記録は捜査せられ、殆と一切の斷簡零墨をも見遁さなかつたのみか、時としては其曲解誇張改造すらもあつた。それを編(449)纂した名所記地名考といふ類の書物には、消えて年久しいこの武藏野の傳説が、今も活きて働いて居るものゝやうに語られて居るのである。其中でも有名なもの、いやしくも文學に多少の修養ある人が、武藏野と聞けば直ぐに思ひ出すものは、遁げ水と掘兼の井の二つであつた。この二つは有名ではあるが二つとも、精確な意味での傳説では無い。言はゞ前かた傳説であつたものゝ痕跡ともいふべきものである。しかもそれが京都に於いて人に知られ、古く和歌などに詠まれて居る爲に最も確實なものゝ如く多くの讀書人には考へられて居たのである。
 にげ水は即ち遁げる水、有るかと思つて草を分けて近よると見えぬ、かげろふまぼろしの如きものであつたといふ説と、或ひは某村に在る年取らず川の如く、一年の或期間水が伏流となつて地下を行く故に、さういふのだといふ説とがあつたが、是は何れであつても大よそは同じことに歸着する。ところが今一つにげ水は苦水即ちにが潮のことで、海から上つて來る高潮の爲に、作物の害を受けることをいふと説いた人もあるが、此方は今まで多くある歌の記録とは一致せず、即ち歌人たちが間違へて居るのだといふことになるのだから話は六つかしい。にげ水はやはり文字通り、遁げる水と解した方が自然である。つまりは此野を行き過ぎる者が、常に飲む水の乏しきに苦しみ、水が遁げまはるといふ類の言ひ傳へを發生せしめて、それが遙々の都まで評判になつたもので、殊に武藏野に人の住み難く、村落の起り難かつた或時代を、想像せしめるに適して居た。是も必ずしも武藏野だけで無く、大よそ水の得にくい廣野にはどこでも有りさうな話で、それには又どうして其樣な珍しい現象が有つたかを説明した語り事なども存したことゝ思ふが、今は殆と皆消えてしまつて、殊に名ばかりが永く歌の題材として記憶せられるに過ぎなかつたのである。
 次に掘兼の井も、やはり名稱だけしか殘つて居ない。古くは「枕草子」に、「井は堀兼の井」とあるのが、誰にでも注意せられて居る。但しこの方は掘兼とは言つても、兎に角に井であつた。人が辛苦して漸く水に近づいたといふのだから、時代としては幾分か遁げ水よりも後であつたらうと考へるが、この二つはいつでも相關聯して、文人たちの話題に上つて居た。今日の所謂村山高地、以前|狹山《さやま》と謂つた丘陵帶の東側には、爰がその掘兼の井の舊跡だと、近世(450)になつて新たに指定せられた場所が幾つもあり、その一つは現に村の名にもなつて居るが、是は最初から一箇處で無ければならぬといふわけも無かつた。三つも五つもそちこちに有つて不思議は無いのである。但し江戸の文人の中には、餘りにも古い武藏野の生活を懷かしがる結果、これも前に言つた苦水と同樣に、出來るだけ海岸近く、又大都會の近くへ其遺跡を引寄せようとして居たが、是だけは確かに誤りであつた。後世太田道灌が設計したといふこの海沿ひの岡の都は、實は少しでも水が遁げたり、又井戸を掘兼ねたりする地では無かつた。此邊がもし早くから開けて往來の筋になつて居たならば、寧ろ其樣な傳説は起らずに濟んだらうとさへ思ふのである。
 今日の地形からも察せらるゝ如く、この東京の地などはもとは三方に大小無數の入江があり、水は多過ぎて排水が惡く、海は又遠淺であつて、船渡しの津も得ることが六つかしかつた。草に蔽はれたる廣漠の野を、東から西へ拔ける道などは斷念せられて居た。北から南に向つて武藏野を横ぎらうとするにも、又この邊は大分通り筋からはづれて居た。弓の弭《ゆはず》が隱れるといふ程の高い草原の中を行くのに、前途の見通しが付かなかつたら歩けるわけは無い。だから勢ひ西に寄つた村山の丘陵地帶に沿うて進み、折々は高地に憩うて目標を定めなければならなかつたに違ひない。所謂多摩の横山の名が先づ文獻に現はれたのも其爲で、實際多摩川右岸の小山脈は、北から來る村山路の前面に横たはつて居る。武藏の國府がちやうど其T字形の結び目に近く建てられたのも、武藏七黨と言つた舊家の多くが、この縱横の丘陵地の麓の地名を苗字にして居るのも、共に中世の國道がこの一帶の丘陵を利用したのと、同じ原因から導かれて居る。さうして同時に是が又、平安文學の遁げ水、掘兼井の發生した道筋でもあつたのである。即ち簡單なるただ一箇の井戸の名が、可なり鮮明にこの地方の生活を語つて居るので、つまり此方面に於いて今も折々屈曲した横穴の井の跡を見るといふ如く、爰は鑿泉の技術の何としても發達しなければならぬ土地であつたのである。
 
(451)          四
 
 中世以後の武藏野の村は、少しづゝ此筋から東の方に向つて新しくなつて居るが、それはたゞ平押しに東へ/\と、進んで來たのでは無いやうである。鎌倉繁昌の時代に浪人を寄せ集めて、多摩の野に田を拓かせたといふことは、既に吾妻鏡にも見えて居るが、其時は主として多摩川本流の兩岸の低地であつたらうかと思はれる。それでどうやら海岸へは早く達したけれども、この高い臺地の方は江戸期も半ば過ぎまで、尚依然として昔の草地のまゝであつて、たゞ飛び/\に處々の谷合、此邊の言葉でクボとかヤツとかいふものだけを村にして居たのは、是も用水の關係であつたらしいのである。
 幸ひなことには武藏野は東に向ふほどづゝ、段々に地下水の露頭が多くなつて居る。水がもう遁げなくなつて居る。それを草が深い爲に久しく心付かずに過ぎたのであつた。泉が發見せられると、村は皆其まはりに起つた。是が此地方の第三番目に古い村々である。多摩の各郡では近年方々で地下の調査をして居るが、此野の下の砂と小石と赤土黒土の層は、我々の傳説層以上に高低亂雜になつて居る。さうして記録には傳はらない度々の地變に因つて、それが又何回も動いて居たやうである。それをたゞ地面の上からばかり見て居ると、處々の谷合の片隅に、今まで無かつた泉が湧き出したり、流れて居たものが細くなり、又は突然止まつたことが度々あつたので、單純なる住民は途方に暮れ、又は水の有難味を深く感じた末に、いつでも其奇蹟を神佛の御利益に結び付けて考へようとし、從うて多くの傳説は新たに生まれたのである。
 傳説の起りが之を持つて居る村より古いといふことは有り得ない。遁げ水掘兼の井の名稱が京都に傳はり、歌になり歌枕にならうとして居た時代に、やつと開かれたらうと思ふ村にも傳説がある。清き泉の傍には例外無しに神の社又は佛堂が建ち、それに奉仕する法師修驗者等が、多くは村人の靈魂までを管理して居た。此人たちは閑に任せて、(452)土地の傳説を取り集め又修飾して、幾分か重苦しい縁起といふものに作り上げたものもあるが、實際に農民の胸の中に涌き起つたものは、さういふ中からでも之を掬みわける事が出來た。或ひは又此種の社傳寺誌とは獨立し、今に至るまで口から耳へ、耳から口へと傳はつて居たものも若干は殘つて居る。只殘念なことには持主も遠慮をし、隣の都府に來て住む者も之を輕んじて耳を傾けて聽かうとしなかつた故に、其一部分は知らぬ間に消えてしまつたのである。
 それを片端から尋ねて行くと、どうやら鎌倉以後の開墾者のどこから來てどうして暮して行つたかゞ、ちつとづゝ判つて行きさうである。大子といふ巡遊神の村の信者を憐み助けるといふ信仰は、實はよほど古くから有つたものらしいが、爰でも通例は之を弘法大師のことゝ解して、今尚深い感謝はこの幸福なる名僧に向つて捧げられて居る。しかし稀には又八幡太郎の弭の清水といふやうに、佛法以外の英雄にも靈泉發見の功績を歸した例がある。八幡の社が村々に多いのは、源氏の將軍の影響、殊にコ川家が此神を重んじた爲だつたといふ人がある。それはたゞ推量の説に過ぎぬが、兎に角に八幡太郎は前後兩度まで、奧州を征伐に往つて、どこか關東のこの附近を往復したらうと想像せられて居る武將だから、其人を神に紀つたといふ遺跡が、處々に傳はるのは自然である。
 しかも八幡太郎は八幡の申し子で、石清水の神前で元服した故に八幡太郎と呼ばれたといふだけであるのに、それにこの半分神樣のやうな宗教的威力を説く者があるのは、やはり其名に基いた一種の混同が久しくあつた爲、即ちこの人の通稱を解して八幡の太郎、若宮乃至は王子神としたからで無いかと思ふ。この邊の御社の神木には、往々にして源義家の旗掛櫻、又は白旗松などゝいふ傳へがあり、水には又旗洗ひの池などの名も殘つて居る。殊に珍しいのは同じ武將に托して、誕生井もしくは産湯の口碑を存することである。旅行だけならば行く先々で白旗を洗はせたといふこともあらうが、一人がさう方々で誕生しょう道理は無い。是も恐らく神の子の出現と泉の湧出とを結び付けた信仰が元であつて、多分は後永く同じ清水の滸に於いて、感謝の祭を執り行うて居た人々が、毎囘その由來を語つて居たものゝ名殘であらう。兎に角に人の名だけはちがふが、全國に亙つて至つて類例の多い傳説である。
(453) 新篇武藏風土記稿を見ると、府中の町に近い人見村の淺間様などは、村の西北の岡の下に清水があつて、御神體の一尺ばかりの銅の御像は、最初その泉の中から出現したと傳へて居た。さうして時々の雨乞の祭の際には、泉の傍へ其神體を持ち出して祈?をしたといふことである。即ち泉と神樣の出現とを不可分の關係に置いたことが、自然に誕生水の言ひ傳へを生じたので、もし御神體が無い場合には、普通には井の際に御社を立て、さうして信心深い人々だけは、そこに神樣の幻を見ることが出來たことゝ思はれる。北歐羅巴などの多くの田舍に於いても、やはり古い信仰は斯うして清い流れの岸に留つて居る。後に基督教の法師たちが、努めて之を聖母マリヤと御子の示現、さては代々の聖者達の巡歴譚などに改めて、いつ迄も之を保存せしめようとした。實際の生活の必要に基いて生まれたものを、根こそげ拔き棄てるといふことは、如何なる統一宗教の力でも容易でなかつたからである。
 
          五
 
 同じ解釋は他の幾つかの傳説の、御手洗の池に伴なふものにも適用して見ることが出來る。その一つは是も類例の最も多い片目の魚の話である。東京の近くでは上高井戸の醫王寺の藥師などがそれで、御堂の前の池に願掛けの人たちが、魚を持つて來て放すと必ず片目になる。下流の小川などにも稀にこんな魚が居ると、是は御藥師樣の鮒だと言つて食べてしまはずに必ず此池に持つて來て放したといふから、始めは二三疋でも段々に片目のものが多くなつたわけである。此話は武藏だけでも捜したら十箇處二十箇處では無ささうに思ふ。そんな話を遠方から借りて來て急に言ひ出さうとしても、近所の人たちが承知しよう筈は無い。つまりはさういふ習俗又は信仰が、個々獨立して方々に古くからあつたのである。其由來は今日は略判明して居る。それは生牲と稱して神にさし上げる生き物を、尚暫らくの間生かして置くことで、通例は丸一年、即ち前の年の祭の時から、是は次の年の御供物ときめて置いたのである。佛教の人たちは此慣習を利用して、八幡の社に於いては放生會といふことを始め、いつまでも殺さずに活かして殘す(454)ことにした。しかも間違つて人が捕つて食はぬやうに、片目は目じるしに拔いて置く習慣が、土地によつては永く現實に續いて居たので、本來は魚が自然に片目になつたわけでは無いらしいのである。しかも驚いたことは以前は其目じるしは魚ばかりで無かつたと見えて、神に奉仕した人間にまで、代々の主人は皆片目などゝいふ傳説が殘つて居る。是などは確かに習慣儀式の方が先きで、傳説は之に嗣いで起つたかと思はれるが、この武藏平原のやうに、近世に近くなつてから拓かれた村々にまで、斯んな古い口碑の分布して居るといふことは、歴史として前代の信仰生活を溯つて見ようとする者に、可なり有力にして又新しい參考である。
 其次には是も全國に例の多い強清水の傳説、即ち泉の水が掬んで見ると酒だつたといふ話である。日本では美濃の養老の瀧を始めとし、是にも妙に父と子との關係を説く者が多い。關東から奧羽へかけての多くの話は、親が酒ずきで買ふ錢も無いのに、いつでも醉つぱらつて還つて來る。息子が不思議に思つて跡をつけて行くと、がぶ/\と此清水を飲んでよい氣持になつて去つたので、自分も掬んで見たが只の水であつたといひ、「親はもろはく子は清水」といふ歌もあれば、或ひはそれを其泉の名にして居る土地もある。ところが事實そのコハシミヅといふのは、一種酒を釀すに適した水質の水を意味して居たらしく、同時に又其名のある清水の邊に、鎭守の神の御輿を迎へ申して祭をする例も諸國にあつた。乃ちこの例祭の日の神酒に限つて、必ず此強清水の水を用ゐて、造る習はしであつたことが推測せられるのである。
 東京府下でも清戸宿の附近に、清水といふ小さな部落があつて、やはり此傳説をもつて居たことが新篇風土記に見えて居る。この親子といふのは多分誕生水なども同じ關係で、神の生まれたまひし清水なるが故に、汲んで酒に釀して祭の日を樂しくするに足ると考へたものが、轉じて特殊に幸運なる親子の話となつたものかと思ふ。又南郊目黒の千代ヶ崎といふ處では、この酒泉の發見者は馬方であつたといふ話になつて居た。馬方は?神の特別の恩寵を受けたと傳へられる。それは神々が馬に乘つて此世に降りたまふといふ信仰と關係のあるものらしい。兎に角に馬方が此(455)水を飲んで毎日醉うて歸つて來るのを、或人が心付いて其所在を教へてもらひ、そこに酒屋を立てゝ忽ち長者になつたといふ。酒は今日でこそ會社の工場で造るが、もとは其條件がもつとやかましくて、祭の時にしか造つて飲むことを許されなかつた。それを平日から飲みたがる人が多くなつて、神主又は氏子中の頭だつた者が先づ酒造家になり、古酒を貯藏する技術が始まつて、始めて日本は今日の如く、晩酌おしきせ酒の本場のやうになつたのである。全國に遍滿する強清水の傳説は、偶然にもこの未だ調査せられざる歴史を暗示して居るかと思ふ。
 
          六
 
 この武藏野の海近くの、ずつと近代に接して始めて開かれたかと思ふ土地に、尚こは清水や片目魚の物語があるといふことは、傳説の文化史上の意義を考へる人にとつて、大變に重要なことである。多くの田舍では今ある傳説が出來る時に、古くからあつたものが、殆と皆消えたり、又は改造せられて跡方を留めなくなつた。それで口碑の内容が古いから、傳説そのものも亦同じ位古くからのものだらうと思ひ、たとへば弘法大師が來たといふから、延暦年間から立つて居た村だなどゝ、村の長命を誇る理由にもしたのであつた。ところが武藏野だけは、その傳説發生の年代を區切るべき目標が、中と外とに二通りあつた。内には幽かながらも舊傳説の形體がまだ殘つて居ること、外には村々の歴史が、ほゞ地理學上からわかることである。多摩四郡の村々は、水を獲得する技術の發達に伴なうて順次に起つた。(一)最初には川の流に就いて汲み、又は筧を以て谷水を引く村であつたが、是は地層の構造上伏流が多くて、表面の水は往々遁げて行き方が知れなかつた故に、何處に行つても自由に村を開いて住むといふわけに行かなかつた。それで大川の近くか、又は岡の側面に横穴を穿つて、入用の水が得られる處だけに、僅かづゝの聚落を作る他は無かつたのである。(二)次には地下水の露頭の捜索、是は東多摩の草原を掻き分けて行くと、案外に多くの井の頭を見つけることが容易だつたのである。その井の頭の中には今の井頭公園の如く、廣い池となり末が小川となつて居るも(456)のも幾つかあり、それが實際には東京を大都會たらしめた背後の力でもあつた。但し折々の地震で地下の樣子が變り、當てにして居た清水の量を減ずることもあれば、稀には又涸れてしまふこともあつた。是が今ある幾つかの村を榮えさせ又衰へさせて、その沿革が一段と不明になつた原因である。(三)其次には竪井戸を掘り下げる技術の普及した時代と、(四)大規模の水道を以てどこへでも水を呼ぶ時代とであるが、この二つはもはや傳説の管轄外であつて、人は自分の智能を信じ、且つ前の經驗を大事に保存して居る故に、新たに信仰の力を以て對天然の不安と弱點とを補充する必要は無くなり、新たなる傳説は此方面からは發生しなかつたのである。
 しかし江戸が今日の大都會の基礎を築いた時には、まだ右にいふ第二期の時代を出でなかつた。記録には神田明神と山王權現との岡の陰にある、御手洗の清水の末を汲んで居たと見えて居る。城中には勿論別の泉があり、又處々に小さな涌き水もあつたか知らぬが、市民は主としてこの二つの神樣の清水を、生活の源に仰いで居たのである。そのうちに程なく幾つかの掘井戸が掘られたが、なほ一半の供給を目に見えぬ神靈の力に期待して居たかと思はれる。谷中の清水町には稻荷の神社があつた。江戸名所記を見ると、爰にも弘法大師が來て、獨鈷を以てあの清水を穿り出したと言つて居る。無論そればかりの水では忽ち又不足になつて、先づ近郊の幾つかの井の頭から、蓋のある大筧を以て水を市中に引き、それから追々と遠く求めて行つて終に今日の如く多摩川の上流から、以前の村山丘陵の直下を貫通して、大規模の地下水を導いて來ることになつた。ちやうど傳説が遁げ水掘兼井のもとの形に戻るやうに、改めて再び最初の用水供給法に、近づいて來ることになつたのである。しかしこの二つの給水手段の中間には人の家ならば二十代か二十五代の有爲轉變があつたのである。古いことばかりを珍重したがる學者たちが、?見落してしまはうとする中世といふものがあつたのである。
 たとへば一旦神を祭り寺を建て、靜かに榮えて居た邑落なども、地面の下が變つて水量がひどく減じ、思ひもかけぬ處に新たなる泉が出始める。さうすると村は元の姿で取續くことが出來なくなつたのである。今でも東京の西の郊(457)外を散歩して、峽田《はけた》通りと稱する岡と岡との間を行くと、無數の泉の跡が既に乾き、人が去つて只の畠となり、又は僅かな林などになつた屋敷跡がある。或ひは單なる馬蹄形の窪地の、再び荒れて草の原に復つたものも多い。その形の至つて小さいものには、往々にして足形清水といふ傳説も保存せられて居る。大昔ダイダラ坊といふ巨人があつて、この武藏國をたつた二足か三足で跨いで行つた、其足跡だといふものがあつたり、或ひは又富士山を背負つて行かうとして藤蔓を集めたとか、その蔓がきれて地團太を踏んだ跡が凹んだとか、尻餅をついたのが何とかいふ大池になつたといふ類の話が、實はやゝ多過ぎるほどこの邊には散らばつて居る。たとへば京王電車の代田といふ驛の近くの村などは、此名の大男が架けたといふ橋もあり、又その近くに面積四五反ほどの足跡もあり、それから僅か四五町の東南にも、全くつま先の別方角を向いた足形が尚二つある。さうしてその多くは今も踵のあたりから、ほんの少しばかりの清水が浸み出して居るので、乃ち地下水の露頭の曾て存して絶えたことを知るのである。是なども日本全國に亙つて、非常に古く又數多い一種の傳説であつた。眞似をする氣は無くても同じ空想は無意識に遺傳せられて、隨處に出現することは地下水も同じであつた。我々の喜悦苦惱、我々の疑惑は曾て驚くほど共通であつたのである。從うて又同じやうな解釋を、要求せずしては止まなかつたのである。多數同胞が期せずして同じ一つの傳説を養ひ且つ育てて居たといふことが、此頃になつて始めて我々に分つて來たのである。
 
(458)     「うつぼ」と水の神
 
       一 玉手箱の古い思想
 
 曾て郷土研究誌上でも盛んに研究せられた諸國の時鳥傳説の中で、今も自分共の難解に感じて居る一の點は、此鳥が取分けて冥途の鳥又は死出の田長《たをさ》などゝ信じられた理由である。蜀の天子の亡魂などゝ云ふ支那の珍書の記事が、我邦田舍人の通説を作り上げたと云ふことは、既に頗る有り得べからざる話であるが、空を飛ぶ物を靈と考へるのは概して未開の世の常であれば、沓作り或ひは不悌の妹が化して此鳥と成ると云ふ迄は、彼此共通に基くと言つてもよからう。獨り他の百鳥は差置いて、時島ばかりが幽界との交通を掌つて居たと云ふに至つては、更に相應の理由の存する者が無ければならぬ。通例先づ人の考へに浮ぶのは此鳥の啼く季節であるが(郷土研究、四の二一五頁)、之に就いては未だ言ふべき所を知らぬ。次には其鳴聲である。昔の人は心靜かにこの天然の語を聞いて居て、常に色々の想像を抱いたやうである。今でも觀察に粗なる人々が時鳥の雌だなどゝ言ひ、或ひは郭公と書いて殆と相混じて居る「くわくこう」の鳴聲などは、事によると右の如き口碑の起原を爲して居るかも知れぬ。
 右の如き斷定には尚危い臆測が累を爲して居るとしても、兎に角この寂しい閑古鳥の聲には、夙くから一の俗信が伴なつて居たのは事實である。「くわくこう」は萬葉集の中に  屡々箱鳥と詠まれて居るものと同じで、「はこどり」の(459)「はこ」は正しく其聲に由つた名である(松屋筆記)。中代に至つては更に轉じて「はやことり」の稱があつた。源氏の河海抄に雄略天皇の御宇、美作つるき山と云ふ地に有つた事として傳へて居る一語は、婦人が山中に於いて鷲に我背の兒を捉られ早來々々と呼び死に死んだとあつて(倭訓栞中編)、最早人が死んで鳥に化したと云ふ有ふれた形式に落ちて了つては居るが、よく觀ると鷲に攫まれてから早來と叫んだのは理に合はず、恐らくは是も以前話のあつた呼名の恠の類で、小兒の魂が此鳥に早來と呼ばれるに因つて脱し去ると云ふ畏怖が、斯う云ふ話の起因になつたかと思はれる。而も其の早來と聞えた啼聲の怖しかつたのも、今一つ遡つて自ら箱々と名乘つた時代の印象を計算に入れぬと、まだ十分に我々には事情を會得せられぬやうである。
 誠や今日の如く下駄草履の類までも箱に入れて携へる時代の人には、如何に箱々と叫んでも寸毫も氣味惡くは無いだらうが、此樣に箱の使用の自由なことは、在所の住民に取つては是亦甚だしく近世からのことである。什具調度に豐かなる貴人上臈の際を除くときは、斯かる手の籠んだ工藝品の用ゐられる場合は限りが有つたので、中に就いても最も主なるものは信仰上の行爲、殊には靈魂の運搬に在つたことは略想像するに足るのである(郷土研究、一の四四九頁以下參照)。從つて少なくも杜鵑の一類と見て居た郭公又は布谷鳥を、冥途の使者なるが如く畏れて居たと解するはさ程無理で無いのみならず、延いては人の魂が體外に保管せられ得るとした古い/\思想が、形圓く内うつぼなる「なりひさご」といふ一物を通じて、終に今代まで連綿し來つた消息をも窺ひ知らしむる端となるのである。
 
       二 鎭魂の祭
 
 雲井の宮の奧に、今も行はせらるゝ御魂鎭めの御式は、既に如何なる程度に迄、新神道と協調して居るかは、自分の窺ひ知らざる所である。而も年中行事秘抄に由つて古く傳へられて居る阿知女於於於の鎭魂歌を見れば、所謂魂筥(460)の決して祭具の容器で無かつたことだけは明白である。議論は避けて茲には唯自分の讀み得たゞけの歌の章句を書列ね、此を沖繩のまぶひ込め(土俗と傳説二〇四頁)と、どの點迄似て居るかを考へて見よう。
  あちめ おおお」魂筥に木綿取りしでゝ たまち取らせよ」御魂狩 魂狩りましゝ神は 今ぞ來ませる」
  あちめ おおお」御魂見に いましゝ神は今ぞ來ませる」魂筥持ちて さり來る御魂魂返しすなや」
 所謂生靈と死靈との區別が、古人に取つては排氣鐘内の羽と鉛とであつたやうに、佛道其他の新宗教の行はれる迄は、「たま」にも人のと神のとの、待遇の差等が少なかつたやうである。固より散亂し易いのは雜念充滿せる生人の魂であつたらうが、而も部曲々々の里の神・家の神を鎭め申すに當つて、相似たる方式が採用せられては居なかつたらうか。自分は我邦固有の信仰に、所謂|御正體《みしやうたい》の存在を必要として居たと云ふ説を疑ひ、之を反證せんが爲めに此篇を起した者である。本地佛像の跋扈せぬ時代、又金銀の御幣などの大いに用ゐられぬ以前には、果して何を對象として崇敬の誠を致したものであらうか。之に關しては又、今では自社の神官にも輕んぜられて居る程の村の言ひ傳へを、調べて見なければならぬのである。
 村の神道を重んじて居る我々に取つて、看過することの出來ぬ著しい共通點は、神々の異動遷移と云ふことである。就中、神體の漂着と云ふのは最も多くの神社の創立誌であつた。是には尾州津島天王の御葭神事《みよしのしんじ》(郷土研究、二の二〇二頁)の如く、手續の至つて明瞭なものもあるが、古い處では多くは櫃箱の類に入つて流れ着いたことになつて居る。思ふに是には却つて古い櫃箱の存在に由つて、此の如き解説を促した場合が多いであらう。何となれば人の所業に出でざる偶然が、其ほど流行し得る理は無いからである。又一方には地形上どうしても漂着の古傳を成立せしめざる社もあつて、笈掛杉笈掛石などの縁起が之に屬して居る。若州遠敷郡堤村の箱明神は、式にも國神名帳にも有る古い神であるが、最初示現の時箱の中に在つて山上に降りたまふと傳へて其山を箱嶽と稱し(若狹郡縣志四)、備後雙三郡三良坂の御箱山は、天孫降臨の御伴に此神三種の神寶を容れたる箱を持ちたまふといふ説もあるが、一段と穩當なる他(461)の一説には神體を箱に納めて祭る故となつて居る(藝藩通志)。越前勝山の南なる筥の渡では、泰澄大師白山登りの折に筥に載せて九頭龍川を御渡し申したと云ひ、或ひは又櫃の葢に載せてとも云つて、大渡村には渡守の子孫と稱する者、其破片の材を傳へ有して居る(越前名勝志)。開けると眼が潰れるなどゝ信じて、箱の内容を究めなかつた間はよいが、古び損じ又は人が本の心を忘れて後は、空虚なる一箇の器を貴重視する理由を、神漂着の夢語りなどに托せんとするのは、極めて自然なる人の思案である。然るにも拘らず、今も尚一二の地方に於いて、時として容器其物を拜祀の當體として居るのは、其基く所魂筥の思想に在りとせずして、果して他に説明の途があらうか。
 土佐國には近世の調査ではあるが、神社の御神體を書上げた各部の神體記と云ふ本があるさうである。其中で高岡郡波川村の蘇我神社は、古くより八幡と相殿にして御神體は一尺二寸四方の箱とあり、香美郡赤岡村の「するた」八幡の神體は、鏡一面及び曲物の鉢一つで、其鉢には天正十二年の銘があつたとある(明治神社誌料)。南路志の記事には尚陶器の壺を神體とする社もあつたと記憶する。更に同じ國安藝郡秋津村の八王子宮の如きは、大昔異光を放つて此里の海邊に流れ着いたと云ふ一箇の石塊と共に、「もつく」と稱する漁民の食物を容れる器具を齋き祀つて居た。始めて神を勸請した村人の裔と云ふ者、代々神主として仕へまつり、神實《かみざね》の「もつく」は其時靈石を奉じ還つた器であると傳へて居た(明治神社誌料)。川村沓樹は梓巫の漂泊生活に由つて、その持つ箱の性質を説明せんとしたが、これ或ひは本末の顛倒であつて、例へば伊勢の齋宮の第一祖が、箱の中の小蟲から成長したと云ふ諸社根元記の舊傳の如き、多くの赫奕媛《かくやひめ》系の舊話などは、その由つて來る所を解き得ぬやうになりさうだ。唯近世の神輿と同源らしき「ほこら」と云ふ物の名稱が、神筥の「はこ」と云ふ語と因縁のあるらしいことだけは(郷土研究、一の四五一頁)、改めて爰に掲げて後の問題にする値があると信ずる。
 
(462)       三 御神體入換
 
 文化の初年迄江戸で大いに流行した例の池袋村の百姓助右衛門が家の天神と云ふのは、四五寸ばかりの箱であつて、是は釘付けにして開いて見なかつたと云ふことである。之に附隨して別に一箇の石あり、箱の神に祈念して後に其石を手に持ち、輕重に由つて神意を問ふことであつたが、此の如く物が二つに別れて居ては相互の關係も分らぬ爲か、久しからずして信仰地に墮ちたと云ふ話である(遊歴雜記二下)。此よりも更に三百年の前、臥雲日件録に記す所の、巫女鈴御前が携へあるいた方五六寸の箱の如きは、神意に反する場合には箱自ら手の中より落ちたと云ひ、又「箱の中に聲あり人語に彷彿す、蓋し神此中に託するか」ともある。或ひは酒を欲するにより箱を開いて密かに之を進むるに、能く一升を飲み盡したともある。箱は固より平人の眼には事も無げに見ゆる故に、常に此種の奇瑞を繰返すか、然らざれは嚴重なる神秘を保つて、始めて其靈驗を信ぜしむることを得たことであらう。田樂に由つて人に知られた常陸金砂山の明神に在つては、其七十二年目毎の大祭に、深夜に海際の御旅所に於いて、神體入代への式と云ふが行はれた。此御神體は一箇の生きた鮑だと云ふのが近代の言ひ傳へで、乃ち鮑形大明神の社號もあつた。壺の中に潮を湛へて其中に七十二年の間齋き祀り、七日の大祭の中日の夜、神輿に奉じて濱に下り之を海中へ返し奉れば、必ず新たに海上より浮び來る鮑あり、之を取上げて同じ壺に請じ入るゝとあつて(譚海八)、如何にも信じにくい説であるが、而も其壺は往々開き視ることもあつたと見えて、壺の中の潮の減少に伴なつて世中が惡くなる故に、大祭の日を待付けて新たに潮を滿たし、以て禾穀の豐稔を期するのだと言ふのは、則ち自分等が想像して居る古い魂筥の思想であつて、雲州日御崎の名高い祭との異同は問はずとも、國々に至つて例の多い濱下りと稱する神の行幸が、本來無意味なる賑かしで無かつたと云ふことだけは推論せしめ得るのである。
(463) 浦島子の玉手箱は萬葉の歌には「玉くしげ」とある。熊野新宮や香取等の大社では、御櫛笥は既に久しい前から神寶目録中の一色目で、紅粉や髪飾などの婦人調度と伍を爲して居るが、果して櫛の字を充てゝ正しいか否かを知らぬ。「開けてくやしき」の類話は南海の果にもある。即ち八重山大濱の崎原神、俗に新神とも稱する祭り嶽は、昔時晝捲伊と云ふ農夫兄弟、薩州坊津に航して白髪の老翁より授けられた箱の神である。洋中に於いて開くなかれと戒められたるにも拘らず、其禁を破つたら忽ち逆風に吹戻されて、再び前の港に着いた。内に一物を見ざりきとある。二度目に貰つた箱は其儘我島に持還り、伯母小妹と共に之を開くに、神乃ち其女に憑つたとある(遺老説傳二)。是だけ十分なる驗應を見せてこそ、空しき筥の中に在る者を確認し得るだらうが、固より屡すべき出來事では無かつた。凡人の情として風や潮水だけでは頼無かつたあまりに、假に其中に夢の鮑や小さな蛇を住ませたとすれば、是やがて末法の信の衰へを意味するもので、之れに由つて「あにみずむ」の原始形態を窺はんとするのは恐らくは無理である。唯此と同時に、些しく思を馳せて見ねばならぬ一事は、前にも見る如く魂筥必ずしも板を合せた四角な器のみで無く、又靈ある動物が自在に其形を大小にし得ることを認めるとすれば、樣々の「うつぼ」なる物の中でも、比佐古は最も自然にして且つ居心地のよさゝうな魂の宿りであると云ふ點である。かの祇園の祭を過ぎての胡瓜には、蛇が居ることがあるから食つてはならぬと云ふ俗傳の如き、稀には我々の觀察にも遭遇し得さうな事であつて、七十餘年鮑が一つの壺の中に生息するといふなどに比べると、事實上の基礎に於いて遙に強力なるものと言はねばならぬ。
 
       四 猿の皮の靱
 
 自分は以前山島民譚集の卷一に於いて、川童が馬を引込まうとして常に失敗し、怠?を立てゝ將來災を爲すまじき約束をしたと云ふ諸國の昔話が、猿を以て厩舍の守護とした東亞一帶の古習俗に起因するであらうと云ふ證據に、狂(464)言の靭猿《うつぼざる》の趣向と、越前萬歳の宇津保舞がもと厩安全の祈?であつたことゝを擧げたが、而も何故に宇津保が其樣な禁厭又は祈?に效があつたか、其時はまだ之を言ふことが出來なかつた。依て此機會に今一度順序を立てゝ考へて見ようと思ふ。先づ第一に「うつぼ」と云ふ語の本義は内空虚と云ふことである。木の「うつろ」を「うつぼ」とも謂つた例は、古事談六角堂觀音の條などにある。獨木舟をうつぼ舟と謂ふも之に基き、箱樋《はことゆ》の竪なるをうつぼ柱と謂つたのは(新野問答)、既に平家物語にも夫木抄にもある。禁中では葱をうつぼと呼び(海人藻芥)、職人盡の歌にも之をうつぼ草と詠んで居るのは、此物の葉の形であらう(諺語大辭典)。武家で箭を納れて携へる「うつぼ」の同じ理由に起因することは、物を見れば一目でこれを認め得る。而も此器具の始原は多分中世である。靱の字の正しい訓は「ゆぎ」である。「うつぼ」は八幡太郎笙の箱を見て作り始むと云ふ説(倭訓栞)は疑はしいが、而も義家、義光の時代から武器の盛んに用ゐられたらしい證據はある(古今要覽)。此「うつぼ」に對して靱の字を當てたのは、童蒙頌韻などの時代からであらう。問題は「うつぼ」と謂ふ名だけが後で、此形?の武具は其前から有つたのか、はた又名も物も共に八幡殿の頃に起つたのかで、自分としては決定に難いが、元來此器の必要は矢賦《やくば》りの爲などゝ云ふよりも、一度に澤山の箭を携帶し且つ羽の部分を損ぜしめぬ用意であるらしいから、少なくとも武人が遠國に往返することが盛んになつて後、大いに用ゐらるゝに至つたらうとは言ひ得る。或ひは又狩の爲に山に入るには便宜だから、田舍では夙くから行はれて居たと言ひ得るかも知れぬ。而して其「うつぼ」には獣の皮を掛けたのと然らざる物とあつて、前者のみを騎馬うつぼと稱へて居た。猿の皮の他には猪なども常に用ゐられ、足利時代の末迄も京都に「うつぼ」屋と云ふ特殊の工人あり、猪の革を納めるのは例の河原者の公事《くじ》であつた(言繼卿記)。さばかり實用ありとも思はれぬ獣の皮に、特段の工作を費したのを見ると、最初は或ひは信仰上の動機に出でたのかも知れぬ。飜つて能の狂言の靱猿に、單に馬の祈?に猿を舞はしむる爲ばかりに、大名の無理難題を靱の皮の所望に持つて行つたのは、どうしても初度の落想とは考へられぬ。多分は猿其物の外に「うつぼ」と云ふ品にも縁起乃至は呪術の力があつて、之を以て厩の祭等(465)を行つたのが越前字津保舞の名の起りであらうと思ふ。實際又野大坪の萬歳には猿を使つた歴史は無いのである。若し假に此物が專ら箭を盛る器となつて了つた前に、内空虚なるが爲に既に神を祭るの用に充てられて居たとするならば、是も亦靈の宿りとして、昔の人の眼には、似つかはしく感ぜられた結果であつて、頼政が退治た?の如き妖怪、其他、色々の不祥を「うつぼ舟」に載せて海に流したと云ふ口碑と、一本の筋を辿つて其由來を問ふべきものである。庶物の常の性と反して空を翔るものゝ靈と認められた如く、水に入れても沈まぬといふ一事、先づ以て此物の力の不可思議を驚かしめた時代が、曾ては一度我々の中にもあつたかも知れぬ。
 
(466)     豐前と傳説(小倉郷土會講演
 
          一
 
 私たちの學問も、今日の御時世の影響を受けて、何か現前の實益を期待せられて居る樣な氣が常にする。殊に聽衆が忙しい教職員であつたりする場合には、或ひは彼等を道樂に誘ひ込んで居るかの如く、人から見られはしまいかといふ懸念があつて、つい堅苦しい問題の方へばかり知りつゝも今までは傾いてゐた。ところが小倉の郷土會だけは、他の地方の同種團體とちがつて、比較的自由な人が會員に多く、それにどうやら最初は趣味の集まりから、成長したものゝやうに見られる。其爲に自分も心置き無く、どんな話をしてもよいつもりで、一つ取つて置きの傳説に就いての意見を、述べさせてもらはうと思ふ。是とても無益な又人生に適切でない問題だと思つて居るわけでは更々無いのだが、たゞ效果が今明日に顯はれて來ないといふだけは仕方がない。さうして又さういふ種類の研究も、後代の爲には缺くべからざるものなのである。
 民俗學の歴史は、他に書いたものもあるから、詳しくはこゝに説き立てないが、先づ大體にどこの國でも、所謂有閑階級の閑題目を以て始まつて居る。それが此方法ならもつと汎く應用が出來ると、言はゞ意外な自分の能力に心づいて、追々と活躍の範圍を擴げて來たのである。一方學問が對世間の價値を問はれるやうになつたことも、日本などでは著しい近年の變化であつた。私は決してそれを歎きも愁ひもしないが、とにかくに自分の眼の前に於いて、あら(467)ゆる人文學徒の態度はくるりと一轉した。學問の爲の學問などゝいふ言葉は、公然と之を口にする人が無くなつた。何かさし當りの目的をもつた本ばかりが世に出て居る。以前は手短かに言へばずつと悠長だつたのである。だから民俗學の方面でも、傳説の研究などは、今ではもう之を省みる人も尠なくなつたが、曾ては少しでも前代生活に興味をもつ者ならば、一應は皆是を問題にして居たのである。日本で一番早く始まつた研究で、しかも最も遲くまで成績の擧がつて居ないもの、是が傳説のかはつた一つの特徴である。今一つの特徴として、是非諸君に説いて置きたいのは、日本が傳説の異常に數多い國であり、又恐らく他の民族では見られない程度に、それが發育し且つしつゝある國だといふことである。「傳説がまだ活きて居る」斯ういふ言葉を私たちは折々使ふが、少なくとも維新以後、なほ引續いて流傳するだけで無く、追加改訂解釋補充等、あらゆる複雜化を重ねて來た國は、よそにはさう多く無さゝうに思はれる。是が時代の風潮に動かされて、はたと其考察を閉鎖せられるといふことは、惜しいといふ以上に、もつと重要な結果を生じて居るかも知れぬのである。
 
          二
 
 問題を此土地と傳説との關係に限局する必要があるのだが、豐前が二つの大きな島の渡り口に在つて、昔から人の出入の特に繁かつたところから、こゝに芽を吹き根をさした傳説の數多く、且つ千變萬化であらうことも想像し得られるに拘らず、それが久しい以前から片端づゝは人にも知られ珍重せられ、しかも綜合した研究の、我々の智慧を養ふに足るものがまだ現はれぬことは、殆と全日本の縮圖とも云つてよい。今の郷土會の諸君の新たなる用意が、どれだけまで此?態を更新し、如何なる未知數を展開し得ようかといふことは、冷淡なる傍觀者にもなほ興味がある。まして私のやうに大いに遣つてもらはうといふ下心で、實は此話をする者に取つては、此地が一つの手本となつて、末々斯邦の文化史の隱れたる一面が、たやすく何人の眼にも映ずるまでに、明るくなつて來る日さへ夢想し得られるの(468)である。
 或ひはまだ知らぬ方もあるかと思ふが、福岡縣では前年佐々木滋寛氏の勞作によつて、筑前一國の傳説集といふものが公けにせられて居る(最近には又その増補版が出た)。此書は一半は續風土記以來の前代記録を拾輯したものだといふことで、從つて今は既に消え又は改まつたものもまじつて居るのであらうが、それにしても非常な數であつて、しかも其傾向は大よそ定まつて居る。たとへば神樣又は偉人が、杖を立て小枝を插したのが成長したといふ老木、人の手の痕足の跡を殘してあるといふ大きな巖石の類、關東奧羽の果にも其例に乏しからず、こゝでも一つや二つは記憶して居る者があるといふ傳説は、筑前一國の中にも亦?分布して居るといふことが、是を見ればよく判る。各自の土地の人は相知らず、二つあるなら向ふが間違ひ位に今までは思つて居たのが、さういふわけのもので無いことだけは、此書によつて多辯をまたずして明らかになつたのである。單なる比較だけでも既に一つの啓發であつた。それから今一つ、今度は南隣の方には豐後傳説集といふものが出て居る。是は市場直次郎君などゝいふ我々の同志が、學校の生徒たちの集めて來たものを整理したので、全部が所謂同時採録だから、數に於いては稍劣るが、比較の意義は一段と深い。殘念なことには地域が限られて居るばかりに、豐前の人たちは斯ういふ本の出たことも心づかず、知つても必ずしも是に注意を向けようとせられない。方言集などにはよくあることだが、外部の人々は、やゝ近い二地の採集が公表せられると、其中間地帶はもう類推してしまはうとする。雙方何れかの色彩に塗るか又はぼかしにして見るから、愈その特色は埋もれやすいのである。正直にいふと豐前は聊か立ちおくれた。是を此まゝにして又何年か過ぎたら、或ひは隣にかぶれて我郷土だけに在るものを、氣付かぬ樣にならぬとも限らぬが、今ならば是も却つて刺戟であり、又一段と廣汎にしてしかも細密なる比較に、興味を引寄せる機縁でもある。傳説の研究をよい道樂だなどと謂ふのは、決して奧底までも見て還つた人の言葉でない。私も實はまだ詳しいことは知らぬのだが、果してどこ迄も世用皆無、人の社會と交渉の無いものであるか否か。五人や七人は今日の日本にも、是を究めようと試みる者があ(469)つてもよいと思つて居る。
 
          三
 
 同じ一種の傳説が少しづゝ趣をかへて、廣い國内の隅々までも分布して居るといふことは、どこの國でも見る現象で無く、從つて又何でも無い事實ではない。流傳であるとすれば中心がある筈であり、又移動して行く力があつた筈である。至つて古いものならば久しい相續が推測し得られ、近世に始まつたとすれば運搬者の大きな旅行が想像せられる。それが歴史の書に載せられて居らぬといふことは、即ち亦記録以外に、我々の知るべき歴史があるといふことを意味して居る。それを現存の傳説の方から、逆に遡つて探つて行く方法は無いものかどうか。斯ういふ點が先づ我々の問題になつて來るのである。今日判明して居ることはまだ多くはないが、私が茲で安心して諸君に語り得るのは、傳説は曾て一たびは事實あつた事として信ぜられて居たもので、從つて案外にこしらへものが無いといふこと是が一つである。第二には外國で傳説といふものは、今は信ずる人も無く、單に前代に斯ういふ事を信じて居たと語られるだけである故に、其性質はよほど説話と近く、形がほゞ固定して、誤聞と忘却以外には變化の折が無いに反して、我邦には一部にさういふ傳承者もあるが、他の大部分は今でも信じ、もしくは信ぜんとして居る者であることである。其結果として、父祖以來の傳説を、出來るだけ信じやすい形に改造しようとする、意識した又は無意識の努力が絶えない。即ち傳説はまだ活きて居るが故に、始終成長し發育して居るのである。是を學問的に觀察しようとするのは、一種の生體解剖のやうなもので、時としては許されず、又は敢てするに忍びない場合もある。それで歴史との混亂も起れば、ひい、では政治上の交渉を生ずることも稀でないのである。面倒といへば相應に面倒だが、この複雜さに社會的意義があり、同時に之を詳らかにする仕事の、實際の價値も含まれて居るわけである。
 それからなほ一つ、傳説の活きて育つて行くやうな土地には、折々は又新たに生まれもする。近頃はもう教育が變(470)つたから、よほどの作爲が無いと新傳説は起らぬが、以前はごく自然に、知らぬ間に可なり奇拔なものが現はれ、それが在來のものと肩を竝べ、同じ待遇を受けて流布して居る例が多かつた。從つて我邦の傳説には、年齡の無數の階級があり、その發生の起因に就いて分類すると、幾通りものちがつたものが、この中に包含せられて居ることが判つて來る。是なども確かに亦特徴の一つであつて、外國から來て觀る人には見つからずとも、同じ國語の感覺の中に住む國内の學徒だけには、早晩理解せられて傳説の性質、是が敷千年の人心を左右した機能を、明瞭に世に説くことが出來るやうになるかも知れぬのである。どんなものかといふことを碌に知りもせぬうちから、つまらぬとかつまるとかいふ論を、闘はして見た所が始まらぬ話である。
 
          四
 
 故に自分もいゝ加減に理窟を切上げて、寧ろ實地の例によつて諸君の關心をひくことにしようと思ふ。九州は前年一巡りした時から心づいて居たことだが、やはり他府縣と同樣に、弘法水もしくは御大師井戸といふ傳説が非常に多い。昔破れた法衣を着た旅僧が、ぶらりと遣つて來て水を飲ませてくれといふ。それを快く承引して、わざ/\遠くへ行つて汲んで來た善心の女の村に、新たに好い清水が湧き出し、すげなく斷つたといふ土地の水は、今でも甚だ濁つて居るといふ風の話が、いやしくも古來名水の聞えある泉には、必ずと云つてもよいほどに何處にでも傳はつて居る。是が紀州の高野の山で、開祖大師は死後までも毎年國々を巡つて居たといふ語り傳へと、相呼應することは確かであるが、考へて見るとこの嚴峻なる信賞必罰の態度が、第一に佛道の高僧らしくない。さうして餘りにも同じ奇跡が數多いのである。杖とか樹の枝とかを地に突立てたら、見る/\清き泉が迸り流れたといふこと、及び水を與へた者が女性であり、多くは布機を織つて居た點も、何かわけが有りさうに思ふが、それよりも注意せられるのは、到底弘法大師の行くことが出來なかつた土地にも、尚且つ同種の口碑の歴然と遺つて居ることである。たとへば沖繩本島(471)の二三の邑に、古い清水の由緒として説くものは、單にある尊い旅人神の話となつて居る。女が土の碗の縁を一ところ打缺いて、そこは私が日頃口を付けた所ですから、外のところからお飲み下さいと謂つたら、神樣が此上もなくその敬意を悦ばれたといふことは、古い記録にもあつて有名になつて居るが、大師と最も縁の深い四國の或土地にも、全然同じ傳説があつて、是は最明寺時頼の微行の際の出來事だとして居る。其方が此場合には一段と似合はしかつた爲であらう。私の推測では、北條時頼などは勿論のこと、話は僧空海の世に在りし時代よりも更に古く、かの常陸風土記の富士筑波、もしくは備後風土記の逸文にある蘇民巨旦の兄弟が、神を待遇するに冷熱の差があつたといふ舊記と、その系統を同じくするもので、たま/\世に知られた後代の偉人の名が、是に織り込まれたに過ぎぬものと思ふ。
 全國の互ひに相通はぬ村々に、百を以て算へられる同種の口碑が分布してゐる事は、それを其住民等が袂を分たぬ前から、既に持つて居たものと見なければ説明は先づ六つかしい。今までは單に列ね比べて見る機會が無いばかりに、それ/”\に別の一つの事實であつたと、信ずることが出來たゞけである。しかも採集の結果によつて、將來判明すべき點はまだ此以上にも多い。第一に斯くばかり長い歳月の間、よくも忘れもせずに同じ故事を、爺婆から孫へ引傳へたものだと思ふと、是にも可なり有力な根據はあつたのである。我々のすべての傳説には、必ず何等かの記念物を伴なうて居る。是を視る毎に必ず憶ひ起し、又いつ迄も忘れまいとしたと共に、是によつて自分たちの語る所の、眞實なることを證據立てようともして居たのである。だから豐かなる流れに汲み、もしくは次々に井を穿つて、自在に水の惠みを得る土地では、泉を重要視せぬ故にこの傳説は殘り存せず、却つて別途のやゝ珍しい現象が、是と同系の口碑によつて説明せられて居る。東日本には數の多い石芋・喰はず芋などは一つの例である。葉の形が里芋とよく似て、全く食用にならぬ一種の植物の茂つて居る土地では、昔弘法さまが來て芋を一つくれと言はれたのに、物吝みの男がこれは固くて喰はれませんと答へた。さうしたら其以後芋が皆斯んなものになつたといふので、安房半島南端の青木の芋井戸などは、二つの傳へが合併して、今でも井戸の傍にこの喰はず芋がうんと生えて居る。泉の由來に比べると、(472)芋の話の方は幾分か限地的であつた。九州の島にも絶無ではないか知らぬがそれよりも多く聞くのは大根川の傳説である。昔里の女が川で大根を洗つて居る所へ、大師が遣つて來て其大根を所望せられた。是も惜しんで與へなかつた御腹立から、毎年其頃になると川に水が切れて、大根を洗ふことが出來なくなつたといふので、此話は九州に澤山ある以外、自分の知る限りでは、福井縣の若狹に一つあるが、他ではあまり耳にしたことが無く、たゞ東北の端へ行くと、是を舊暦十二月九日の大黒祭に、二股大根を供へるいはれとして、説く者があるだけである。此方は至つて心のよい女だつた。主人の大根だから進上することが出來ず、幸ひ一本だけ二股のものがあつたから、それを打缺いで與へたといひ、大黒は餅をたべすぎて胸が燒けて困つて居たのが、半分の折れ大根を貰つて食つて、氣分がよくなつて大いに悦ばれた。それ故に今でも十二月九日には、同じ二股の大根を供へて、福を?ることになつたのだといふやうに傳へて居る。
 豐前豐後の地方的變化の中には、多分この大黒樣もしくは弘法大師を、仁聞菩薩とさしかへたものが、幾個處にもあるだらうと私は想像して居る。話せば長くなるが、この仁聞菩薩も實は頻りに國巡りをしたまふ神であつた。さうして豐の二州以外には、めつたに踏出されたことの無い御方であつて、我々には殊に意義が深いのである。寺々の縁起に録したものは、多くは實在の名僧と解して居るのだから、さういふことも言はぬ樣だが、もし直接に農村人の口から、諸君が採集せられたら氣付かれるであらうと思ふことは、此菩薩がしば/\道の辻に出現して、赤兒を助けられたといふ點で、是も數多くは他の地方に行はれて居ない。栃木縣の足利附近にたゞ一つ信心深い女性が或泉のほとりで、弘法大師の惠みによつて、小兒の夜啼きを治して貰つたといふ言ひ傳へがあつて、今も其清水だけが記念として殘つて居る。是とよく似た口碑は此地方ならば、決して稀でない筈である。
 
(473)          五
 
 しかし諸君はなほ訝かしく思はれるであらう。村にたつた一つの旱魃にも涸れぬ清水、石芋・喰はず梨・水無し川の不思議、乃至は松葉に火を點じて夜泣きする兒を照らせば、泣き止むといふ靈木の松などがあれば、成程それは大切な記念物に相違ないが、それなら銘々に別の由來があつて然るべきである。古い一種の傳説が到る處に、分れて獨立して爰ばかりといふ顔をして、附いて居るのがやはり不可解だと言はれるであらう。如何にも遠い昔の世のことだから、確實に斯うだつたと言ひ切ることは出來ぬが、考へて見やうは幾らもある。單純な人の心に先づ浮ぶ想像が、同じ民族なるが故に各地ほゞ一樣であつたかも知れぬし、至つて幽かなる無意識の記憶が目を覺したのかも知れぬし、之を思ひ出す地位に在る者に、定まつた傾向が豫てあつたのかも知れない。又一つの記念物の印象が強くなつて、新たに傳説の要求が起り、迎へて聽き歡んで信じようとする者が多くなつたかも知れぬのである。たゞそれを決するが爲には、更に一段と親切なる考察を要するだけである。私の觀る所では、古く傳説がさういふ事情の下に、或ひは移動し分立しもしくは出現したものならば、その同じ作用は後世新たに生まれたものにも、或程度までは認められなければならない。各時代の智能の差は無論計算に入れるとして、少なくとも今ある新たなる傳説の生まれ方や生長の仕方は、一部分大昔にもあつたものと認めてよからう。是には日本の如く今でも眼の前に傳説の育つて行く國、活きて若々しく働いて居る國は、よほど研究の便宜が多いわけである。
 是も實例によつて御話をすると、福岡縣では企救部の北端、即ち現在殷賑を極めて居る筑豐の境界線に近く、幾つかの十三塚といふものがある。既に損壞して僅かに地名を存するものなども多いことゝ思ふが、是は全國の諸府縣にも同じものが多いので、幸ひに名の起りだけは先づわかる。所在は最も普通に二つの郷莊の境で、古い道路などに沿うて塚が十三基、一直線に併立して中央の第七番目のものだけが特に大きい。二三の發掘の實驗では、中は只の盛土(474)であつて棺槨等は無く、稀に小形のカワラケが出る。始めてこの遺跡の性質を解かうとしたのは、私の知る限りに於いてはやはり貝原翁の筑前續風土記であるが、其説即ち人の死後十三度の法事に、一つづゝ築いて行つたのだらうとの意見には證據が無く、しかも當時まだ知られなかつたらうと思ふ二つの事實は、この十三塚が九州の地は素より、北は關東東海北陸奧羽にかけて、其分布の個處が百を以て算へらるゝことゝ、是と殆とちがはない十三基の境の塚が内外蒙古の各地にも、何れも交通路に近く見出されて居ることである。考古學者の領分かと思ふから其起原に就いての自分の考へは茲に述べないが、兎に角に中世以後のものと思はれるに拘らず、是を起した趣意はもう全く忘れられ、その代りに色々の傳説が生まれて居るのである。小倉の周圍にももしあるならば、黙つて現存の言ひ傳へを聽取つて置いて戴きたいのだが、是は比較的新しい記念物であるだけに、其傳説にも若干の新味がある。東京の周圍は實は全國中でも殊に十三塚の多い地方らしいが、自分の今記憶する二つの例をいふと、北部では尾久の荒川沿ひの原野に以前あつたものは、此地の領主豐島左衝門尉某の姫が、川向ふの何とかいふ武士に嫁入して、いぢめられて還されて來る途中、悲しんで大川に身を投げて死に、その十二人の腰元が、共々に姫のあとを追うて同じ流れに沈んだ。それを引揚げてこゝに埋めたといふことになつて居る。一方は市の南部、自分の住宅に近い世田谷の若林邊にあつたものは、是も今は全く市街の人の浪に蔽はれで居るが、世田谷舊記などゝいふ江戸後期の著書には、花やかな一つの傳説として書立てられて居る。昔世田ヶ谷家の殿樣の愛妾常磐、十二人の同僚に嫉まれて讒言を受け、無實の罪の爲に虐殺せられた。それが程なく惡巧みであつたと知れて、十二人の妾も悉く刑に遭ひ、常磐の墓を中心にして一列にこゝに埋められたといふので、あんまり空々しいから一部分は筆者の作りごとかも知れない。何にしても土地が江戸の傍であり、時代が近世である爲に、芝居錦繪や合卷ものゝ影響は可なり著しく感ぜられる。ところが田舍の十三塚には、此樣な艶めかしい傳説は到底向かない。だから多くの場合には曾て其附近に行はれたといふ戰爭に、常に十三人の武士が一緒に討死したことを謂ひ、時は天正十何年といふやうに、古い軍書によつて命日をきめ、安房の十三塚などには(475)いつの間にか人名までも判つて居る。九州の同名の塚にも、別に是と似たものが幾つか有る事と信ずる。然し是などは何れも塚が埋葬以外の目的の爲にも、?築かれるといふ習俗を忘れて後、即ち石工が入つて來て手輕に供養塔などをたてるやうになつてから、次第に完成した傳説といふことがほゞ明らかで、たゞ是一つからでも年齡の若いことがわかる。人はめつたに塚などに手を掛けなかつたけれども、一たび發掘して見たら、直ぐにも正誤をしなければならぬ傳説であつたのである。しかも塚と墓とは同じだと思ひ、野外に寂しく埋められるのは、多くは非業の死を遂げた人々だといふことを知つて居た者には、期せずして各地大よそ同じやうな言ひ傳へを、發生させ又信ずることを得たのであつた。それには一と十二といふやうな數の感覺も手傳つて居るかも知らぬが、とにかくに斯ういふ尋常でない數と排列との塚の群を持つ土地では、言はゞ傳説の需要が大いに有り、從つて容易に或少數者の空想の言をも信じ得たのであつた。是が近世の一つの世相だつたとすれば、もつと古い上代の、他に考へる問題も少なかつた社會では、更に一段と熱烈に、さういふ傾向を支持して居たらうことも察せられるのである。
 
          六
 
 但し近世の傳説は、必ずしも常に其樣な單調なものゝみで無く、中には若干の強ひて奇を好んだものもまじつて居る。たとへば仙臺領のやゝ古い地誌、封内風土記といふ書には、次の樣な話もある。現今は既に失はれて居るかも知らぬが、平泉の舊跡から東の方に當る山の嶺に、あの頃は十三個の立石が竝んで居た。是も十三塚と同樣に中央の一つだけがよほど大きく、左右の十二個はみな小形であつた。是を説明する傳説としては、昔中尊寺に法會の田樂のあつた日、一人の和尚が十二人の小坊主をつれて、どこからか見物にやつて來た。漸う此山の頂上まで辿り着いた時に、田樂はもうすんでしまつたと人の謂ふのを聞いて、さうかと言つたきりで茫然とそこに立ち盡した。それが其まゝ此石になつたのだと傳へて居る。少し前こゞみに平泉の方に面して、竝んで嶺通りに立つて居る石だつたと云ふから、(476)多分は是も十三塚と、もとは同じ目的で置かれたものだらうが、誰が斯ういふ物語じみた、しかも若干のユウモアさへある由來談を案出したものか。少なくとも只の麓の里の里人の空想には、自然に浮んで來さうにも無い一趣向であつた。
 さうして又氣をつけて行くと、日本には斯ういつた種類の可なり奇拔な傳説も、亦相應に諸方に現はれて居るのである。其一つとして、諸君の今後も遭遇せられるであらうと思ふのは、豐前には香春の山の城址を始め、たしか尚一二箇處はある白米城の傳説である。是が奇拔な割には分布の弘いもので、私が前年來心を留めて算へて見た所では、現在既に二十二三府縣に亙つて、六十ばかりの類例がある。昔或山の上に在る城が敵に攻められて、水の手を絶ち切られた。籠城の大將はそれに苦しめられる樣子を見せまいとして、崖の端へ馬を牽出して白米を以て盛んに馬の足を洗つた。遠く寄手が之を眺めて、何だ此城にはまだあの樣に水があるのかと騙されて引揚げて行つたといふ話の筋である。支那にも是と半分似た話が古くから、書物に載せてあると謂つた人もあるが、それを御互ひの先祖が讀んで知り、眞似てこしらへたか否かはまだ斷言できぬ。しかも是だけの事實が六十餘處に、一々實現したものと認められぬは勿論、甲乙丙丁互ひに無關係に、偶然に一致した空想とも想像し難いのだが、個々の地元に於いては今なほ我處のものを歴史と信じ、よそに在るものは何かのまちがひか、又は剽竊だらう位に思つて居る。又さうでも見るより他には、別に解説のしやうも無かつたのである。新時代の協同採集と比較とは、到底其樣な處理法で滿足することを許さない。是には何かもう一段と底の原因が無くてはならぬのである。自分の意見は前年發表して居るが、是には特殊の運搬者の系統と、その大きな旅行とが推測し得られる樣に、今でも尚思つて居る。平たく之を言ふと、語る者は必ずしも信ぜず、聽く者だけが眞に受けたといふ時代が、日本には暫らくあつたらしいのである。是は一つ/\の白米城傳説が、引用して居る人の名と戰爭の機會、及び始めて文筆に現はれたと思はるゝ個々の時期などを、詳しく調べて見たならば明らかになるかと思ふが、此出來事は何れもさう大昔のことゝは考へられず、大體足利末期の所謂戰國時(477)代に、あつたものゝ樣に説かれて居る。つまり現實に一つでもそんな事件があつたら、すぐに評判になつて又白米ぢやないかと、却つて寄手を用心させ得た時世の話なのである。それが僅かの風説半徑をはづれると、そこにも茲にも竝立して信ぜられて居たといふのは、要するに生まれが田舍であり、傳ふる者が交際の狹い農民であつたことを意味して居る。自分の心づいたのは、此種の口碑のある土地が、嶮岨な山の上で、幽かなる人工の跡があるのみならず、其半分近くまで、そこに燒米の落ちこぼれたものがあることが一つ、今一つは斯うしてうま/\と敵を欺き退けたにも拘はらず、結局その謀計が見破られ又は密告せられて、城は落ち城兵は討死してしまつたとなつて居ることである。戰跡の地の凄愴陰慘なる光景は、今は既に印象も薄れたけれども、其頃の人には怖ろしいことばかりで、それが色々と民間の俗信に影響し、拭ひ去り難き不安の種となつて、妖怪や祟りの沙汰は永く續いて居た。通例は祭典供養を營んで、目に見えぬ亡魂を慰めるのであるが、それにも物知り口寄せの力を假りて、豫め埋もれたる事件の顛末を知り、少なくとも祀らるゝものゝ名を、知らなければならなかつたのである。即ち別の語でいふと、以前我々の間には不審なる記念物、いはれを問はずには居られない奇怪な事實が、今よりも遙かに多かつたのである。私等は是を傳説の需要又は空隙と名づける。この缺乏を充たす爲に、一種の信仰的解説者が、天下を横行して居たことは、記録にも幾多の證據がある。彼等の素養は限られ、しかも修業によつて練達し、其一部は世の變化につれて、次第に其技能を遊藝化させて居る。一つの稍珍しい説明ぶりが師匠から弟子へと傳授せられ、地方に持廻られた例は他にもある。肥前や日向で異常に發達した和泉式部の物語などは其一例である。個々の土地の者はまだそれを文藝だとは知らぬから、昔の習ひに聽いたまゝを、古人の亡靈が口寄せの口を借りて、告白した事實と思つて居たらしいのである。傳説には今でも固く信ずる者と、そんな話もあるかとたゞ珍しがつて聽く者とがある。兩者の交渉は時代によつて大いに變つて來たが、必ずしも常に雙方一つの水準の上に居て、是を授受しようとせぬ例は最近にもなほ多く認められる。この白米城の話とやゝ似た樣な流布形態は、或ひは上世にも少しはあつたので、それで我々の傳説には、變つた面白いも(478)のが時々はあるのでないかと思ふ。
 
          七
 
 是を簡單に授受者雙方の、智能の差と解する事は誤謬かも知れぬ。職業的巫覡が物語の種を求めて、次第に花やかで又哀れなる若干のテエマを採擇し敷衍し、努めて感興を高め又聽衆の意向に投ぜんとしたのは、彼等の利害からであらうが、相手の方にも亦相應に積極的な注文はあつた。例へば記念の石なり樹なり、深い洞とか塚とかの在る部落では、隣の村の者よりも比較的牢く信じ、又いつ迄もそれを守つて居た。うそだと言はれると不快に思ふ感じも強い。同じ一つの里の中では、寄留や新宅の者より、舊家の方が熱心に之を説き、又之を疑ふ程度が鈍い。是を歴史では無いといふと、それに關聯して不確かになつて行くものが、餘りにも多いからである。娘が大蛇を聟にして、池の主になつて居るといふ家が池の上に在り、又は仔細あつて下女を手討ちにし、それが祟つて困つたから祀つたといふ若宮の祠を、家の屋敷神にして居るものもあれば、もつと極端なのは旅の六部を一泊させて殺し、それから金持になつたといふ例さへある。何れも新たに虚構して、わざ/\評判させて置く氣遣ひの無い傳説だが、父祖何世と無く認めて來たものを、斷然否認するといふことは當人には出來ない。そこで大抵は自分の方からは言ひ出さぬ程度にして置くと、周圍が中々之を忘れてはくれないのである。是を眞實に我家の歴史だつたかと思つて、内心悲しんで居る若主人もあるか知らぬが、私などは是を全く餘計な苦勞だと考へて居る。是は人間の感情が今のやうに繊細でなかつた時代に、專ら精霊の意力が強猛であり、それと我家とに特殊の關係のあることを思つて居た人々が、何か機會があつて信じ始めたことが、偶然久しく傳はつて居たゞけで、寧ろ遠祖の生活ぶりを知る爲の興味ある一つの手掛りであつた。それを今日の知識なり趣味なりに照して、批判をしようとすれば爐上の雪の如く、跡方も無く消えて行く性質のものだが、折角殘つて居るものを其樣にしてまで、急いで棄てゝしまふにも及ぶまいと思ふ。其代りには一方には、非常(479)に村や家の爲に都合のよい傳説でも、やはり傳説だといふことを記憶してかゝらねばならぬ。ところが世にはさういふ方面の言ひ傳へを強く主張し、或ひは勝手に氣に入つた部分だけを拔き出し、甚だしきは若干の改訂増補を敢てして、最も信じ易い形にして世に誇らうとする者が?あつた。江戸期の始め頃から盛んに文書化した社寺の縁起は概して是で、それを或者はうそも方便などゝ謂つて黙認して居たが、縁起は其積りで我々も見て居るからまだよろしい。個人がそれを試みたら方便ですらも無いのだが、是には亦已むを得ない別の動機があつた。しかも今日の人は多くは其策動に參與せず、たゞ何時からとも無く我家でさう傳へて居るから、自分も受繼いで牢く信じて居るといふ場合が多いのである。
 傳説の意識的改作、もしくは自ら信ぜざる者の發案といふことは、是もさう古い時代では無いらしく、假に古くからあつても發見することは容易で無い。今日誰にでも大よそわかるのは、やはり巡囘の巫女や座頭と同じく、後から入つて來た移住民が、舊來の居住者に對して、自己の立場を作る必要から、提出する由緒談の類である。九州にはやゝ例が尠ないが、中國四國から東の山地に弘く分布して居る轆轤師、又は木地作りといふ職業の者が、清和天皇の御兄皇子惟喬親王を開祖とし、其隨從者といふ多くの大臣や納言から、自分等の家が筋を引いて居るやうに、口でも述べ書類にも書いて出して居るのは其一つで、正直に之を信じて居る子孫の人には氣の毒だが、是は決して只の誤解では無い。しかも奧羽越後の一隅に行くと、彼等の言ひ傳へが元になつて、大變複雜した美しいローマンスが展開して居るのである。それから諸國の鑄物師の家に、丹南文書などゝ謂つて傳はつて居る舊記に、源三位頼政鵺退治の節、猪早太をして携帶せしめた鐵燈籠を鑄出した功により、諸役御免で諸國を巡業する云々といふ由緒なども、たとへ官邊に公認せられたことがあつたにしても、やはり作りごとであることは確かだが、此方は幾分木地屋のより古いかと思ふ。所謂當道の由來に、盲法師の祖神を雨夜王子とし、日向に大きな所領があつて全國の座頭を養つて居たなどゝいふ話も、或ひは歴史の如く取扱はうとした人もあつたが、紛ふ方なき人作の傳説であつて、たゞ後々此派の者が頑(480)強に之を信じて居ただけである。斯ういふ種類の、新しい史學とは妥協せず、時代の智能に應じて合理化しようともしなかつた傳説は、今となつてはもう批判も容易であり、從つて又人を誤解に導く虞れも無いが、此他にまだ少しばかり、始末の惡いものが殘つて居る。殊に何かといふと高貴の御名前を引合ひに出して、自由な論議に向つて防禦線を布くものが、もしも單なる誤信では無くして、一部の利害に發足したこしらへものであつたとしたら、其迷惑の及ぶ所は我々だけでは無いのだが、それも現在の所では絶無とは言へない樣子である。歎息すべきことだと私は思ふ。
 
          八
 
 是等と同列に論じては少々ひどいが、九州方面に特に數多い平家谷の傳説、平家の落人が來て隱れたといひ、時としては貴い御方が、そこに御在住なされたと傳へて居る口碑なども、關係者の信仰が強烈であり、又往々奧底までの討究を重ねずして、輕々に歴史に化し易い點はほゞ共通して居る。但し此方は起原が一段と遠く、誰がどういふ心持を以て、そんなことを言ひ始めたかを、突き留めることが更に困難なのである。大體にどこの山奧海の果でも、比隣の村里とは縁の無い人々が、いつからとも知れずこつそりと入つて來て、靜かに住んで居たのは皆同じだから、是を落人の末だといふ迄は少しもうそで無い。それが至つて僅かな手掛りや、今ならば人の認めない不思議の暗示によつて、自他ともに平家だと信じ始めたゞけだらうと思ふ。知識が一地區に限られて居た間は、爭ふ者が無いから愈確信が養はれる。たゞ今日の樣に數十箇處の平家谷が現はれ、殊に貴人の御遺跡といふ處が、そこにもこゝにも在るとなると少なくとも一つ以外は皆虚僞といふことに歸して、先づ相互の間に激しい論難をかはさねばならぬことになるのである。この實際の不便不愉快を散ずる爲にも、是非とも傳説の問題を正視する必要がある。
 中部以東の極めて意外なる平家谷でも、尋ねて見ると一通りの言ひ分はある。是は通例小松といふ苗字の家が古くからあつて、小松だから重盛又は維盛の子孫だといふことになつて居る樣だが、その小松のマツはマウチギミ、即ち(481)神に仕へる者といふことをしか意味しなかつた。小野小町の生地又は死處といふものが、全國に極めて多いのと同じ理由のやうに思ふ。それから一方南の島々に、平家が落ちて來て住んで居たといふ例は、壇浦から一續きの海だから幾分か誠らしさが多くなる感じはあるが、是とても一つを本當とする爲には、他のすべての島々のを作り事としなければならぬ場合が多い。奄美大島の北部には神祭の古い歌があつて、附近の城址かとも見える岡の頂の靈地を、何のモリかれのモリと詠じて居る。それで行盛や資盛の居た證據だといふのだが、神に祭らずとも身分のある人の實名を喚び棄てにした筈も無く、又其名前のまん中へ「の」を插む筈もない。寧ろ反對の論據といつてよいのである。其他の多くの場合にも、固有名詞の類似はすべて心もとない。元來がさういふ名を口にせぬのが、昔の禮儀だからである。全體に神と貴人とに對する尊崇の用語が、日本では昔から共通であつて、たとへば神の御子をも王子若宮、其御移動をミユキともイデマシとも謂つて居たのが、この誤解の根本かと思はれる。それに何處からとも知れず立退いて來たといふ記憶が加はり、又附近の常人に對する優越感があつたとすれば、わざ/\作爲するだけの謀計は無くとも、平家や盛衰記の流行に乘じて、永い歳月には自然に平家谷の想像は具體化したのである。其上に或者は動かぬ目的を以て證據を捜しまはり、又時としては強辯を試みただらう。「だらう」が「である」に進化するのも時の力で、子孫の忠實に之を信ずる者に、責任は些しも無いのである。
 鳥取縣の或山村で私の見た古文書の寫眞は、紛れもない江戸中期の無學者のこしらへものだつたが、それを大切に持傳へて居た舊家の金持は、是を證據にした復興運動の爲に、却つて没落して行方不明になつた。豐後で前年菅原道眞の嫡流と信じて、男爵にはなれると思つて居た或門閥家なども、古武士の風格を備へた素朴なる老人であつたが、證據に持つて來た古器は蒔繪の煙草盆であつた。斯ういふ人たちに告げ知らせたいことは、靜穩なる僻地に數百年の連綿たる繁榮を續けた一族には、往々にして平家其他の史上人物の後裔だといふ傳説が、來て附着するものだといふことである。さうして此事實は些かでも家の不面目でない。寧ろこの進んだ御時世に生まれながら、なほ頑固に信ず(482)べからざることを主張する方が、遙かに耻がましいことなのである。前に掲げた木地屋でも鑄物師でも、後から入つて來て是だけの地歩を占めるには、時代の水準を拔いた經驗と學問とを、もつて居たことは明らかである。それが如何なる種類のものであつたかを、我々が知らうとするには傳説はよい材料である。京都が兵亂の巷に化する以前、その周圍の豐かなる平野には、卜占祈?の術を以て生を營んだ者も多かつたかと思はれる。これが少しく供給過多になつて、小さな群に分れて地方へ進出した跡は、現在の居住?態からでもやゝ判つて來る。小野といふ苗字の神主が多いのもその一つ、安倍といふ一族が構成した部落のあるのも亦一つの現はれである。安倍は關東でも貞任宗任の子孫だと、自ら信じて居る所が折々ある。これなどは今の考へからいふと、晴明の末だと言つた方がよつぽどよいので、わざ/\何も蝦夷の酋長を先祖にするに及ばぬのだが、前代の感覺は又別のもので、やはり武士の家だと思つて居る方が、山の中の淋しい生活にとつては、心の慰めが多かつたのであらうと思ふ。
 
          九
 
 この傳説が必ず記念物に附くといふこと、又記念物と見るべきものがあつて、しかとした傳説の殘つて居ない場合には、それに合せて後から傳説の生まれ育つこともあるといふことは、私の意見であつて外國の本からの受賣では無い。大抵まちがひは無いと心得て居るが、なほ諸君にも十分檢討していたゞきたい。最後に附加へてもう一つ、二者の關係を明らかにして置きたいのは、その又記念物が、傳説の成長して印象濃くなるにつれて、少しづゝ變形せられて行くらしいといふことである。
 斯ういふ相互作用の爲に、一段と研究が面倒になつて來るわけだが、是とても押へるかんどころの樣なものを知れば、迷ふやうなことは無いと思ふ。一つだけ又豐前の實例を引くと、やはり香春地方につい近頃まであつたといふ水神祭の行事だが、私は同地出身で現在東京朝日新聞の社會部長をして居る尾阪與市君から聽いた。夏に入つて子供た(483)ちが重箱に御馳走をつめて川原へ出て川童の御祭をするのに、其重詰には筍の煮たのを入れて子供は盛んに食ひ、別に川童には竹を輪切りにしたものを供へる。是は先生が其竹を食はうとしても固くて咬めず、なんと人間の子供はきついものだ。此竹をあの通りむしや/\と食べて居ると驚歎して、今後尻子を狙はぬ樣になる爲だと説明せられて居るさうである。此話なら多分知つて居る人もあるだらうが、中津では吉吾、豐後の野津市ではきちよむさんといふ滑稽人の逸話として、昔話中に傳はつて居る所と略同じい。吉吾は竹を煮て食ふ秘傳を教へてやると騙して、婆さんに散々饗應させてから、竹を煮るには先づ獅子の油を五合買つて來いといふ。そんなものがあるものかといふと、それでは殘念だが竹は柔かく煮えないと謂つたやうな形になつて居る。もつと近い處では埼玉縣の秩父に「鬼と神力坊」といふ話があつて、「日本の昔話」の中にも載せて置いた。神力坊といふ山伏が鬼を客に招いて自分は筍を、鬼には竹を煮て食はせ、自分は餅を食ひ鬼には白い丸石を燒いて出した。流石我慢の鬼も人間の樣に、こんな硬い物をうまさうに食ふことは出來なかつたので、爾來敬意を表して害を加へんと企てなくなつたといふのである。白石を餅と見せかけて山男山姥を退治したといふだけの話ならば、古く弘くまだ諸國に行はれて居る。信州のたしかアルプスの谷では、岩魚捕りなどの山小屋に獨り泊る者が山の魔物を避けるまじなひに、今でも爐の中に餅に似た小石を竝べて燒いて置くといふ話も聽いたことがある。香春川原の川童祭と共に、是は明らかに一つの無形の記念物であり、傳説は之を説明する由來談であるが、この二つの何れが前に生まれ、何れが後に出來たかは一言で決し得る。即ち傳説の方が昔話の影響を受けてまづ生まれ、それを或ひは本當の事かと思つた者が祭の供物の式を改め、もしくは新たに白い丸石をまじなひに用ゐ始めたのである。川童といふ水の恠は、九州には殊に跳梁跋扈して居たが、是は本來の日本の信仰では無い。以前にはもう少し系統立つた水の神の信仰が有り、又もつと敬虔な畏怖と祭典とがあつて、是にも一通りの由來談が附いて居た筈であるが、それが新たな雜説の影響を受けて少しづゝ變化する頃には、他方折角の記念物たる川原祭の行事も亦、斯樣に子供らしくその供物の部分を改めたのである。原因は勿論これたゞ一つではある(484)まい。曾ては農民生活の樞軸をなしたかと思ふ水の神の信仰全般が、殆と古い姿を尋ね難いまでに、日本ではもう變化してしまつた爲に、他にも色々のおどけた民間説話が、言はゞ其隙間を狙つて、この生眞面目なる領域にも入り得たのである。傳説研究の興味はそれによつて更に深くなつて居る。
 
          一〇
 
 そこで私の考へるには、獨り傳説の問題には限らず、多くの種類の民間傳承は、もう今までの樣な悠長な趣味的態度を以て、ひねくりまはす風を止めなければならぬ。私なども元はさうして居たのだが、たゞ貪つて數ばかり多く集めて見ても、人生の用途からいふと實は價値が低い。凝るといふ形だけは何やら學者臭いが、僅かな仲間が感心する位がせい/”\で、結局は自分も處理に困つてしまふことは、繪馬や玩具を集める人も異なる所が無いのである。しかし幸ひなことには傳説は始めにも申した如く、採集を重ねて居るうちには遠方の類似がわかる。我土地唯一つで無いと理窟に合はぬ口碑が、遠近に兩手の指を屈めても足らぬほどあつて、是には何か別のわけがあらうといふことに心づかせる。即ち自分から進んで研究しようとはせずとも、向ふが自然に訓へてくれる場合も多いのである。之に反してなまじひに小さな有りふれた目的を抱いて、研究に取掛る者は却つて始末が惡い。傳説がどうして此樣に數多く、日本に現存して居るかを説かうとしても、單に上代の是を發生せしめた事情、即ち起原ばかりを穿鑿してゐては、物知りにはなるか知らぬが解説者にはなり得ない。それが我々の大いなる群島の内に、次々新陳代謝し蔓延し錯綜して、終に今日の世相を構成するに至つた、經過こそは大切な知識なのである。起りを調べてそれで滿足するのは、昔からの史學の弊といつてもよく、其後の變遷を詳かにせぬ故に、折角の物知りが目前の用には立たぬのである。そんな事をしたくはない國の人々も、斯ういふ研究の資料が無くては企てゝも無駄であり、それが又開け過ぎた多くの文明國の一般の歎きでもある。日本には幸ひにしてまだ其資料は豐かだ。豐前はさういふ中でも殊に重要なる多くのものを(485)しまひ込んで、まだ明けて見ない寶庫であるらしく見える。其まん中に起つた小倉の郷土會が、無爲にして歳月を徒費せられるやうなことは、假にしたくても到底不可能なことだと、私は牢く信じて居るのである。
 
(486)     「旅と傳説」について
 
 この雜誌の如く、初號から終刊まで十六ヶ年以上、一月も拔かさずに讀通したものは私にも他には無い。もう四五年も前から、編輯者の萩原君に向つて、君も一人前は十分働いて居る。もう何時中止しても、薄志弱行と言はないよ、と言つて居たのも私であるが、さて愈罷めたとなると、何か手の物を失つたやうに寂しい。
 改めてもう一度、初めから讀み返して見たい氣がする。公平に批判してどの部分が、一ばん後世に役立つ仕事だつたかを、考へ且つ説いて見たくもなる。私の處にはもう主要記事の索引も出來て居るのだが、この判定は實はさう容易な業では無い。しかし先づ大まかに考へて、婚禮誕生葬祭その他の特輯號を出し、又昔話號を二度まで出した頃などが、全盛期だつたと言へるかもしれない。こんなにまで多數の同志があつたかと、驚くほどの人々が全國の各地から、何れも好意づくだけでよい原稿を寄せ、所謂陣容を輝かしてくれたのみならず、此時を境にそれ/”\の問題に對する理解常識が、目に見えて躍進したので、之を讀んで居ない人の云ふことが、あれから以後は何だかたより無いものゝやうに感じられるやうになつた。つまりは民俗資料といふものは、集めて比較をして見なければ價値が無いといふことを、實地に證明してくれたのである。
 その以外に今一つ承認しなければならぬことは、萩原君は故郷の奄美大島の爲に、この雜誌を通して中々よく働いて居る。それには同郷知友の共鳴支援といふことも條件ではあつたが、とにかくに全十六卷を通じて、奄美大島に關する報告は多く、又清新な第一次の資料が多かつたことは爭へない。その一つの例として手近に私の心づいたことを(487)あげると、第一卷のたしか二號か三號に、島の先輩の露西亞學者昇曙夢さんが、アモレヲナグ即ち天降女人の事を書いて、我々に大きな印象を與へ、又より多くを知りたがらせて居たのだが、それが約十六年を隔てゝ最終號の中に、今度は金久正君といふ若い同志が、それを詳しく書いて我々の渇望を醫して居る。もう「旅と傳説」さへ大切に保存して置けばこの世界的興味のある一問題は、永久に學問の領分からは消えないのである。或ひはそれほどまで大きな問題だと思はぬであらう人たちの爲に、出來るだけ簡單に前後二ヶ所に出て居る天降女人の事を書き傳へ、出來るならば此上にももつと豐富な資料の、集まつて來る機縁を促したい。
 人も知る如くアモリは古語であつて、天より美しい女性が降つて人の妻となつたといふ話は、日本の本土にも沖繩の島にも、又遠近の諸外國にも弘く分布して居る。私たちの仲間では是に天人女房といふ名を付與し、王として昔話即ち民間口承の文藝として之を記憶して居るのだが、稀にはまだ傳説、即ち曾て大昔にあつた事蹟として、信じ傳へたものもあるのである。
 奄美大島の方にも之を昔話とし、又傳説としてもつて居ることは他と同じだが、珍しいことにはそれを實存の恠異、今でもさういふ名の女性が何處かに居るものとして、折々は世間話の中に現はれて來る。即ち其女に出逢つて誘惑せられ、ひどい目を見たといふ若者があるといふことを、夙く昇曙夢さんが語つて居られるのである。この點は西洋で、昔話の別名にもなつて居るフェアリイといふ者がやゝ之に近い。即ち盛んに昔話や、土地の口碑中に、大昔あつたことゝして傳へられる一方に、今なほ邊陬の古風な男女の中には、之に出逢つた又はいぢめられたといふことを、まじめに吹聽する者が多いことは是も一つだが、たゞ其方は話をまに受けて聽く人の癖、それに基く一種の幻覺の類と、今までは簡單に片付けられて、第二、第三の原因までは、考へようとする者が無かつたのである。ところが大島の天降女人のみは、成程と心づくやうなことが別に見つかつた。其實例を金久正君が幾つも擧げて居る。若い男たちが淋しい山路などで出逢つて、騙され誘惑されたといふアモレヲナグには、大體に思ひ當るやうな共通の型があるのださ(488)うである。無論目の醒めるやうな美しい女で、それが白い風呂敷の包みを背に負ひ、着物の左褄を手に取り又は背に挾み、下裳をちらつかせた艶かしい姿で、多くは村と村の堺の長根の辻などでたつた一人行き逢ふ。或ひは谷間に下り清水のある處に近よると、そこにヌブ(柄杓)を手にもつて水を汲み上げて居る女が居て、それが裸形の水を浴びる姿であり、又は髪を洗ふ處であつたりする。この二つは大島の人たちに、深い説明が無くても大よそわかる人體で、一つは近い世まで島中をあるいて居た遊女の姿、他の一つは巫女の始めて成道するときの行事であつたといふ。
 遊女と巫女とは近世では二つ異なる職業であつたけれども、前者をサカシとも謂つて居た一事が、系統のもと一つであつたことを考へさせる。さうして本土の中世の遊女も同じやうに、こゝでも人に近よる表の藝は歌と語りものであつたのである。巫女の普通の人から畏れ氣味惡がられて居ることは、島の方でもかはりは無いのだが、彼等も年功を經て一派の頭となるまでには、やはり久しい修業時代があり、それが又少なくとも歌舞の生活と因みがあつた。即ちこの山中の女性を、又はハゴロモマンヂョとも謂ふ名があるやうに、もと此昔語りを説く役は右にいふ二種の職業婦人に限られ、それも恐らくは、甲から乙と承け繼がれて、近世に達したのかと思はれる。是が説話の主人公の品性をまで、斯樣に零落させた例は他では聽かぬが、前から我々の注意して居た小野小町や和泉式部、大磯の虎御前や八百歳の比丘尼などの、諸國數十の場所に遺跡をとゞめ、もしくは實際に語りものゝ中に語るやうな事跡を、その行く先々の土地でしたやうに信じられて居たのは、やはり傳承者と語らるゝ人との混同であり、それも曾ては一人稱を以て、語つて居たことの名殘らしく考へられるのである。
 奄美大島といふところは、私の知る限りでも、内部歴史の珍しく豐かな島であつた。書いた記録といふものは僅かしか殘らぬが、近い百年二百年の間にも避ければ避けたかつた實に色々な經驗をしてゐる。さうして全體に今は古い拘束から解き放たれて、新時代のあらゆる機會を利用し、すぐれた人物が輩出して居るのである。住民自身としては忘れた方がよいやうな、外の者からは是非參考の爲に聽いて置きたいやうな、無數の思ひ出をかゝへて、まだ其處理(489)を付けずに居るといふ感じがある。此數からいふと、萩原君の如き人がもつと辛抱強く、古い埋もれたことを尋ね出さうとする知友を糾合して居てくれたらと思はずには居られぬのだが、それをもう謂つて見ても仕方が無い。それよりも雜誌をその時々の慰みなどゝは考へずに、いつまでも之を精讀する者の、是から日本にも多くなるやうに、我々もどうかして殘るやうな雜誌を作つて行きたい。
 
(493)     生石傳説
 
   君が代は千代に八千代にさゞれ石の
       巖となりて苔のむすまで
 今の日本人で此歌を知らぬ人は殆と無からうが、さて如何にして此の如き歌が出來たのか、それを考へて見た人は恐らくは誰もあるまい。老いては國と雖、物忘れをする。此歌は昔々神靈の宿つて居る石は、年と共に成長するものだと云ふことが民間普通の信仰であつた時代に歌はれた歌である。此信仰を自分は假に生石傳説と名づけて、其近代に於ける樣式を調査して見ようと思ふ。
 三重縣宇治山田市船江町の菅原社の傍に白太夫の袂石と云ふ高五尺ばかりの石がある。昔度會の神主松木春彦と云ふ老人が菅公に隨ひて筑紫に下り歸國の折に播磨の袖ヶ浦で此石を拾つた。其時は小石であつたがこゝに置く中に段々生長して大石と成つたが故に、其傍に菅公の社を建てたのだと傳へて居る(神都名勝志卷三)。袂石は袂に入れて來たからの名であらう。袖ヶ浦と云ふ地は聞いたことは無いが、播磨明石郡大久保村大字西脇の黒石大明神と云ふ神は以前の神體は一つの黒石であつた。昔旅人が東國から携へて歸つたもので年々大きくなつたと云ふことである(播磨鑑)。下總千葉都二宮村大字|上飯山滿《かみはざま》の舊家林氏の氏神は巾着石と云ふ石であつた。先代の主人が伊勢參りの歸りに大和を廻つて妙な形の石を拾つた。段々に生長して大石となつてしまつたのである。腰から下の病に靈驗があると稱せられて居る。同じ國印旛郡の太田と云ふ所の宮間氏にも、先代が熊野詣の路で拾つたと云ふ石を屋敷の中に石神社(494)として祭つて居る。此も變な物に似て居つた。始めは火打袋に入れて居たが、家に歸らぬ中から早成長し始めて其袋が破れた。終に五尺程の大きさになつたと云ふことである(奇談雜史卷三)。薩摩薩摩郡永利村  大字山田の石神神社は神體が大岩で其質堅くして御影石のやうである。今日でも鹿兒島及び市來郷守の石神家の氏神である。三百年前の石神氏が主君に從つて朝鮮征伐に行く折に道中で草鞋の間に小石が一つ挾まつた。何度取棄てゝも同じ石がはさまるので不思議に思つて持つて歸つたら終に此の如く大きく成つたと傳へて居る(薩隅日地理纂考)。
 肥後飽託郡島崎村の石神社も神體は石で年々太ると言はれて居る。此地は宇佐八幡の領地であつて、此石は到津男欝家の祖先が宇佐の社頭から持つて來て之を祀り領土安寧を祈つたと云ふことである(肥後國志)。石神は土地鎭護の神で殊に境を守る神コがあつた。遠江磐田郡下阿多古村大字石神にも石神大神と云ふ神があつて切通しの中程に祭つてある。神體は一箇の富士石で年を追つて増長したと云ふ(掛川志)。信濃佐久の山田と云ふ村に宗像明神がある。然も神體は石で以前辨天様と稱へて祭つた頃には、其石が年々成長して居たのを宗像大明神の神號を申下した時から其成長が止つた(信濃奇勝録卷五)。
 自分は石成長の目録を作るつもりも無いが、今一つ似た例の注意すべきものを擧げで置きたい。土佐高岡郡黒岩村大字黒岩御石北に大石神或ひは寶御伊勢神と稱する石を祭つた社がある。昔或人が伊勢から一つの小石を巾着に入れて持つて歸り當地に置いた處が、年月を經て此の如く成長したと傳へられる(南路志)。右の御石、大石又は御伊勢神は思ふにもとは一つ語で生石の義であらう。生石は「生ふる石」即ちうまるゝ石である。人が山から斫り出したのでも無く又は心有つて彫刻したのでも無くして、奇恠な形をした石が偶然に發現すると單純な人たちは之を神業だと信じた。石が産まれたのだと考へた。生まれたとすれば次には其成長を信ずるのは自然の順序である。語を換へて言へば石の成長の信仰は石の誕生の信仰に基くものである。二ヶ月ばかり以前に自分は吾野通りから正丸峠を越えて秩父に入り大水害の跡を見た。横瀬川の水源蘆ヶ久保村の山奧では山の土石が盛んに崩れて谷は悉く石原になつて居た。(495)大小の岩石には天然に珍しい形をして居る物が中々多く、殊に此邊には石灰岩の露頭があつたと見えて久しく水の浸蝕を受けて略人の容に似た石片などもあつた。一箇所假橋の詰に二つ並べて立てゝあつた石灰石の破片は、よく見ると成ほど夷大黒に似て居る。早くこゝを通行した人が純粹の信心からか乃至は半分の物好からかは知らぬが、之を拾ひ上げて行路神に祀つたのである。關東地方で路傍に立てる二柱の石神は必ず塞神《さへがみ》の男女神であつて、九州の如く七福神中の二傑を祀ることは無いと思つたのに、此山中に於いて一つの變例を見たのである。猶注意して見ると此天然の石像の脇に落書をした者があつて青面金剛と書いて居る。此の如くして段々諸種の信仰が混同するのだと思つた。秩父邊には社や寺の前に人に似た自然石の古いのが立つて居る所が數箇所あつた。水害の多い日本のやうな國では何處でもこんな石像は得られたことであらう。
 此と似たる發見は千年以前の記録にも存して居る。齊衡二年(西暦八百五十五年)の冬に常陸の大洗磯前の海邊に二つの恠石が現はれた。其翌日又二十餘の石體が現はれたがその或ものは形が沙門に似て居つて唯耳と目が無いばかりで、前の二石に侍座するやうに見えた。右の石神は大己貴少彦名の二神であつた(文徳實録)。二神の石像は能登の海岸にも祭つてあつた(延喜式)。貞觀十六年(八百七十四年)の秋には石見國の報告に石神二つ出雲國より來られたと云ふので其神に位を授けられた。海岸に發現したとは無いが人が勸請したとは思はれぬ書方である(三代實録)。其頃出雲には處々に多くの石の神が祭つてあつた(出雲風土記)。君が代の歌の出來たのは恰も此時代である。それと石神とは關係があると云ふ證據は無いが、當時既に生石神といふ社はあつたのである。貞觀九年には安藝の生石神に從五位上を授けられた(三代實録)。今日まで殘つて居る諸國の生石神は、假令氏子等の言ふことを信じないとしても決して近代の創立で無いことを推測せしむべき色々の事情がある。俗に石の寶殿と稱する播磨の生石子神なども其一例である。或ものは飯石の神と名又は思想を混同して居るかと思はれる。
 此次には石が石を産むと云ふ傳説即ち子持石のことを考へて見よう。大なる巖石の中にさゞれ石を包容して居つて(496)それがほろ/\と落ちることは地質學上別に不思議なる現象でも無いが、昔の人は夫をも神業と考へたのである。其最も單純なる形式は岩代南會津郡大宮村大字大新田の天狗岩は、高さが六丈幅が三十丈、前の方覆ひかゝつた奇形の石である。岩の下には天狗堂がある。此岩には小石が食み出して居て漸々に成長し往々岩を割つて落ちるものがある。土地の人は之を天狗の礫石と云ふさうである(新編會津風土記)。大なる磐石は眼に立たぬ程づゝ風雨寒暑に削られて中の砂礫が現はれては落ちて來るのを小石の成長する者と信じたのである。人が昔から最も不安を抱くのは分娩の危險であるが、此の如き無造作の誕生を目撃すると元來石を崇拜して居つた者の目には、神のコを讃歎せずには居られなかつたのであらう。故に落ちた石は粗末にせず産の前などに借りて來る外は、其まゝ親石の側に置いて手を觸れなかつたのである。陸前宮城郡根白石村大字小角の飯石明神社は、以前は古内某の別莊の屋敷内に在つて昔から之を石神と稱へて居た。神體は父石母石と云ふ二つの大岩で、子石は年を追つて生まれ仙臺封内風土記を編纂した頃には百三十六あつた。右の父石母石は人の形をも何物の形をもして居たことを聞かぬが、奧州から九州へかけて何百箇所と云ふ數限りも知らぬ女夫石又は陰陽石と稱する二つ石は、多くは或けしからぬ物の形に似て居る。男女一對の石神は子持石の傳説に伴なふ者も伴なはぬ者も共に昔の人に拜まれた。其理由は容易に之を推測することが出來る。天地間に此程神秘なる法則は無いのである。故に其生殖の力は轉じては富を増す神となり不思議の勢力と云ふ點から軍陣の神ともなつた。唯此神が更に境を守る神となつたのは今以て十分に説明することが出來ぬ、併し疑ひの無い事實である。密宗佛教で法事の前に障礙を除く趣旨で供養をする障礙神即ち聖天は男女の二神にして且つ障礙の功コがあるから之を境に祭り、此と大昔の境に石を立てゝ標とする思想と合體したのかとも思ふが、別に又道祖神と云ふ石神もある。但し道祖神はもと惡神又は道妨ぐる神と云つた神と同じで單に山越の道や川の渡に祭るばかりで男女二神であつたと云ふ記録も無いから、事に由ると、(一)石を領土の境に立つること、(二)生石の崇拜、(三)道妨ぐる神に對する畏敬、(四)男女和合の形をした聖天の信仰、右の四つが都合よく結合したのかも知れぬ。峠の神は多くは道祖神(497)であるが、相模駿河の境足柄山の頂上には路傍に聖天の森がある。六十年目の開帳に御正體を見たと云ふ義堂法師の話に依れば、それは天然の岩石に彫刻した陰相であつた。道祖神と云つて聖天を祭る例は外にもある。先づ略こんな事情から境の神と生殖成長の神とは合併したものであらう。子持石の信仰が石才即ち障神の石體に伴なつて居るのも此なら假に説明が出來るのである。四百年前の著書塵添?嚢抄にも、さいの神とて小社の前に圓き石を置くは石神かと見えて居つて、殆と其始を知ることが出來ぬ。今日でも旅人が石を以て此神に供物をするのは普通のことであるが、此は又第二の變化であつて神が石の増殖を悦ばれると云ふ思想のみが殘つたのであらう。壹岐の中ノ郷村で道の傍にある石神に往來の人が石を手向け(名勝圖誌卷四)、因幡などの道祖神峠で通行の者が必ず小石を一つづゝ持參して之を供へ或ひは此國の頭巾山の神に願事成就の者が小石を禮物とし(因幡志)、又は越後小千谷の石打明神で疣を取つて貰ふ願事に之を撫でた小石を宮の縁の下へ投げ込む(北越雪譜)、などゝ云ふのは多くある例の二三である。此風習は決して過去の者でないことは山中笑翁の甲斐之落葉に澤山の證據がある。甲州官遊記勝の中にも二つ迄其圖が乘つて居る。
 日本人の目から見れば佛舍利の信仰も亦生石傳説の中である。佛滅度後五百年にして阿育大王が世界に散布した舍利の數が八萬四千粒あつたと云ふ空想談などが原因となつた爲か舍利は常に自然に其數を増殖する。我々でも信心次第死後に舍利が發現して其舍利も子を持つのである。此は傳説では寧ろ現實の不思議であるのかも知れぬ。近代の人々にも自ら見たと云ふうそ〔二字傍点〕らしからぬ記録がある。實際國々に在る舍利の數はあまりに多い。舍利分生の説は佛教の導師に取つては都合の良い話である。茅窓漫録の著者の如きはあまりに唯物的である。舍利は釋迦の酢答だと言つて居る。此は斷言せずともよいことであるが、兎に角に靈石は有るべからざる處に發現した石であつたが故に、或ひは婦人の腹からも生まれ或ひは獣の身の中からも出た。佛の身から出たものなら其有難さも無上であらう、と昔の人は大いに此信仰を歡迎したのである。曾て近衛豫樂院殿の前で大膳介了安と云ふ人が以前に蚫を食つて眞珠を?當てた(498)處、程經て二つになりましたと申上げ、今もこゝに持つて居りますと胴亂をあけ小さな象牙の箱を出して見せたら眞珠は既に數十粒に分生して其爲に箱が毀れて居たと云ふことである(槐記卷一)。此等の石が凡て不思議に誕生し不思議に生長し不思議に子を生むことは我々にはとても偶合とは思はれない。北亞細亞の諸民族は酢答を以て雨を祈り戰爭の便宜を求めると云ふことであるが、日本にも此と同樣の功コある石が大山の石尊を始め諸國にある。現に先日の萬朝報にも常陸檜澤の山村からヘイサラバサラを東京へ持つて來た人のことが載せてあつた。此石を洗へば雨が降るのだ。石に雨を祈ることは水の大事な日本では昔から盛んに行はれた信仰であるが、外國の如く犬の玉、牛の玉ばかりには限つて居らぬ。
 
(499)     夜噂石の話
 
 今少し尤らしい話をするつもりの處、故障があつて延引致すにより、氣樂千萬なる茶話を以て御免を蒙る。我々の雜誌で一時評判になつた常陸筑波地方の昔話に、頭白上人縁起とて或婦人惡人に殺され土中に埋められしが、近邊の團子屋へ毎夜二文錢を持つて團子を買ひに來る幽靈ありしより足が附き終に藪の中の古塚から五歳まで成長した子供を掘出したと云ふのがある。童兒は團子を食つて生きて居たが、日の目を見ざりし爲頭髪が白かつた。後に高コの上人となり此地方を教化した云々。之と同種の話は勿論多い。例へば因州浦住村香林寺の通幻禅師、陸中稗貫郡大興寺の如幻通察和尚の生立ちも此通りで、唯頭白上人の方が當世向きに草册子的分子に富むばかりである。自分の鑑定では、此話などは三百年以上の古物で無い。又仕上げ彩色だけは或ひは寺方の内職かも知らぬが、出來は村方|在家《ざいけ》の手業らしい。品質は何れかと言へば粗造の方で、原料はざつと四通りほどある。就中最も新しく取附けたのは惡人に殺されたと云ふ部分、之は佐夜中山夜啼石にも用ゐられた月竝のローマンスである。二には異相誕生の部分、此は釋尊老?の昔から辨慶燈譽上人に迄一貫した偉人奇瑞譚である。三には佛法の不思議殊には佛體發見の奇瑞として靈異記以來頻々として行はれた話、此は所謂古渡の珍物だ。似たる一例を言ふならば、和漢三才圖會に見えたる鎌倉扇谷山海藏寺の啼藥師、昔開山源翁禅師の代に、當山の土中に毎夜赤子の啼く聲あり。和尚恠みて其地を尋ぬるに小さき墓あつて金光を放つ。乃ち袈裟を脱ぎ之を覆へば啼聲止めり。之を掘りて藥師の木像の首ばかりを得たり云々。此話の中では墓と云ふのが眼目かと思ふ。それは最後に言はんとする赤子塚の俗信と縁を引くからである。即ち墓の中に赤(500)子の啼聲と云ふのが特に私の書かうとする第四の點で、頭白上人の縁起からは既に脱落して居るけれども、前述陸中の如幻塚などにはちやんとある。
 佐夜中山で孕み女が殺され、其中から生まれて泣いて居た赤子を法師が救ひ上げ、其子成長の後に法師が?「命なりけりさやの中山」の歌を口吟するを恠しんで自分の素性を知り、終に敵を打つと云ふ小説は近年まで色々の草册子に用ゐられて流行した。私の子供の折に親から聞いたのは、近所の腕白共に切り口/\とからかはるゝを訝り、假の親をせがんで素性を知つたと云ふので、此は又今昔などの鷲に捉まれた娘の話の筋を引いて居た。佐夜中山の敵討は諸國旅雀にも既に見えて居る(此より古い出處を御存じの方は教へて下され)。併し旅雀には又東海道名所記から借用して同時に此山の夜啼松の話をも載せて居る。名所記の文に曰く、佐夜中山より十町ばかり西に夜啼の松あり。此松をともして見すれば子供の夜啼を止むるとて、往來の人削り取りきり取りける程に、其松終に枯れて今は根ばかりとなると。旅雀にも「根ばかりとなりにけり」とあるのは受賣口眞似で信じられぬ。併し恐らくは此峠では夜啼松の根は盡きても夜啼の名は盡きなかつたのであらう。夜啼松の類例は亦多い。本多靜六博士の近業大日本老樹名木誌の中にも、豐前下毛郡土田の夜泣松、豐後國東郡池ノ内の夜泣松、伊勢度會郡神田久志本の根起松などを擧げてある。此外にも伊勢鈴鹿郡|羽若《はわか》の夜泣松は伊勢名勝誌に、美作勝田郡新田の夜泣松は東作誌に見え、紀州其他の風土記にも二三散見して居たことを記憶する。何れも松の木ばかりである理由は説明することが出來ぬが、松の小枝を燈し又は葉を煎じ飲ませて子供の夜啼を止めると云ふ俗信の由來は、或地の夜泣松が單に願掛けだけをして枝や葉をば携へ歸らぬことゝ、及び夜啼と云ふ語が樹木以外のものにも及んで居て、常に道路の傍であることゝから推測するの外は無いと思ふ。房總志料續編に、夷隅郡|行川《なめかは》村の夜啼橋、一跨に足らぬ堀にかゝりてあり、小供夜啼するに此橋へ願をかけるときは自然と夜啼止むと云ふ。小さき繪馬を上ぐる也とあれば、此は正しく夜啼をとめる神を祀つた場所である。
 私は佐夜中山其他の夜啼松の俗信を斯う解して居る。近世の人が特に夜啼を路傍の神に?るに至つた原由は二つあ(501)る。其一つは子安地藏などに現はれた道の神が小兒を愛護すると云ふ信仰、此事は既に公表して置いた。第二には夜啼石夜啼松と云ふ名から特に夜啼に有效なやうに考へた誤解で、而も此名稱の起原は前の土中誕生の古譚と關係を持つて居る。即ち夜になると赤子の(少なくも人の)啼聲が聞える畏しい場所なるが故に夜啼石又は夜啼松と名づけたのを、夜啼を止むるに應驗のある石又は松と、手前勝手ながら情?を酌量すべき誤解をした者である。其證據を此から陳列する。諸國に多くある赤子岩赤子塚と云ふ石又は塚には大抵同種の口碑がある。即ち石ならば赤子の足跡があると云ひ、塚ならば赤子の啼聲がすると云ふのが普通である。越中西部に一つの赤子塚のあつたことは「越の下草」にあつたが今村名を忘れた。何でも積石塚であつたと記憶する。菅江眞澄の月之出羽路に、秋田縣仙北郡峰吉河村根岸の五十日子石《いかごいし》一名ニガコ石、路の側東北に在り、昔此石夜な/\乳子の聲して啼きたりと云ふとあり、又同郡半道寺村哭澤にも同じ話を傳へて居る。雄物川の平原には今日でも八幡太郎義家の古跡が多く、之に伴なうて往々赤子の啼聲を聞くのである。即ち安倍家の愛娘が敵の將軍に情を運び生埋にせられて、孕んで居た子が土中から生まれたとか又は其怨靈が啼くとか云ふ類である。東京の近くでは荏原軍道塚村の子取塚が亦其一例である。古松軒の四神地名録には、此邊に子取塚と云ふあり、土人の言ふ、雨夜丑滿の頃は赤子の啼く聲ありと云へり、信じ難しとある。今から五六年前に出來た通俗荏原風土記稿には、之と縁のあるらしい一語が出て居る。即ち同郡世田ヶ谷村の常磐橋に常磐塚と云ふがあつて、赤子を神に祀つて居る。常磐は世田谷吉良家の妾である。不義の寃を負ひ身持なるを殺された。其切口から赤子生まれ胞衣《えな》に吉良氏の定紋があつた爲に死後の寃を雪ぐことが出來た云々。此では其常磐を神に崇めるなら解つて居るが、赤子の方を祀るとはこりやどうぢや。併し私はそんな詮議をする暇は無い。それよりも考へねばならぬのは、夜啼をしたと云ふ塚の名を子取塚と呼んだ動機である。
 子安地藏の二種の靈驗のうち、子供の平安を祈る方は夜啼松の條で説いた。殘る一點の子を授けて貰ふと云ふ信仰、此は人間が賢明になつた爲か近世次第に衰へて行く。併し其痕跡は今尚十分で、殊に文明の進歩もまだ救ふこと能は(502)ざる不安不定、即ち産が輕いか重いか、生まれる子が男か女か、運勢と體質とが惡いか善いかと云ふ點は、我々の如き文明人までがやはり神か佛かに訊ねたいと思ふ所である。諸國の石の神の信仰には、右の凡人の至情を表現するものがいくらもある。梅園日記に見えたる日光街道の乞子石、能登國名跡志に見えたる産神宮の小石の類、何れも石が子を産むと云ふ聯想とは獨立して、所謂子安の信仰を保持して居る。伊勢飯高郡の赤桶村の礫石は男女を卜する例である。倭姫命の舊跡と云ふ川の中の大石で、往來の旅人小石を以て之に抛ち、中る者は男子を生み中らざるものは女子を生むと、五鈴遺響に見えて居る。但し是は赤子の啼聲は無いやうであるが、甲斐叢記に見えたる東山梨郡下粟生野の諏訪神社の神木の杉などは、氏子の家に出産あるに先立つて此木の下で生子《うまれご》の啼聲がする。神木の前に聞ゆれば男の子、神木の後に聞ゆれば女の子だと云ふ。是れ前段の夜啼松の説明のこじつけで無い一つの證據である。最後に言ふべきは子供を丈夫にするまじなひとして其子を棄てる風習である。勢國見聞集の説に、伊勢多氣郡四疋田村脇田の子得岩、一名子賣岩又名付岩、櫛田川の岸で郡境である。村民の子を育する者、生後七日間に其兒を抱いて岩の邊に至り、阿波曾村の人の來るのを見掛けて其子に名をつけて貰ふ。岩の字を用ゐしむれば其子成長を得るとある。名を附けて貰ふだけでは仔細が分らぬが、岩の字を冒すとある外に駿河に在る一例を考へ合すと、つまり此岩から子を貰ふのだと云ふことが知れる。山中共古翁の筆録吉居雜話に依れば、駿州大宮町神田より北へ行けば、福石子育神社あつて社前に扁平の石あり。維新前は四十二の歳に生まれた子又は成育を案ずる子供を、棄兒として此石の上に棄て置くと、舊大宮の公文所の若黨其棄子を拾ひ上げ、改めて之を棄主へ渡す。かくすれば其の小兒丈夫に育つと信ぜられ、其若黨を勤めし者後に舂米屋《つきごめや》を業とし近年死去したる時、會葬者の甚だ多かりしは皆拾はれた子であつたと云ふ。四十二の二つ子などゝ云つて神代の蛭兒の古風に習ひ一寸棄てゝ見る風は我々が物を覺えて後もあつた。昔は一層盛んであつたかと思ふのは、現にコ川家の祖先にも三河でそんなことをした人のあつたことを何かで見た。此等は皆石から子を貰ふと信じた遺習で、惡い子は取かへて貰ふ手續だけを履行したのである。道塚村の子取塚なども此例(503)であらうと思ふ。赤子の啼聲は即ち此地に多分の赤子の貯へがあつた爲であつたのを、そんなつまらぬことを信じ無くなつた者が、一方には夜啼松は夜啼の妙藥と解するに至り、他の一方には土中誕生の奇譚を架空するに至つたものに違ない。
 此話の中で如何にも幽玄に感ぜらるゝのは、子を求め子を祈る場處が路傍の塚又は岩だと云ふ點である。其理由に至つては多く世界の書を讀まなければ到底之を論斷することは出來ぬ。唯一つ思出すことは、フレエザー教授のトテミズム・エンド・エキゾガミイの中に、スペンサア及びジレンの名著を引いて、濠洲の或蠻族には今尚姙娠分娩の原因が男女の交會に在ることを知らぬ者があり、各部落には一定の靈地があつて死者の魂魄は悉く此地に集合し居り、通行の婦人を見掛けて其胎内に宿ると子が出來ると信じて居る。故に若い女の母となることを欲せざる者其地を通行する際には、わざと腰を屈め皺嗄聲を作つて、自分の到底子を産む能力無き者であることを装ひて魂魄を欺く云々と記してある事である。懸離れた幾多の民族に於いて其幼稚時代の社會心理の相似たりし例は決して是のみでは無い。日本の赤子塚も記録の存在より遙か昔に於いて、我々の祖先が之に似た俗信を有して居たものが、漸次説明を改めつゝ、外形のみを永く遺留したものでは無からうか。六つかしい問題ではあるが、何時かは此假定の當否を決し得る時の來るべきを信じて居る。
 
(504)     矢立杉の話
 
 矢立杉の傳説は、非常に長いもので之を詳しく述べるには、到底儘かな頁數では足りませんから、茲には簡單に其由來の一節として、矢立杉に關する古人の信仰に就いて敍述する事とします。
 往昔、杉樹(勿論其他の樹木にも其例は見られたが)に、矢を射立てゝ、神に奉るといふ事が行はれた。これは固より敬神といふ意味からであつて、其矢を射るといふ樹は、今日でも、よく諸國の神社等に現存して居る、所謂神木であります。勿論その樹は、最も嚴かなるものとして敬はれて居るのであります。然るに其樹即ち神木に矢を立てるといふのでありますから、敬神の念と矛盾して居るやうでありますが、これは又理由があるのであります。本來矢といふものは畢竟射るが爲のものであるから、既に射て了つた後は滓であります。其滓を神に奉るといふことは、受取れない話でありまして、又矢そのものを神に奉るとしたならば、手に捧げて奉献するのが當然であります。さうして見ると、これは今人の眼から見て考へる處では、却て捧げるのではなく、明らかに敵對行爲をする事になつて、矛盾も甚しく且つ極めて畏い事であります。これが抑後に至つて、或神が矢を射られたのであるとか、或ひはまた、神を信仰するものゝ爲に、樹に矢を留められたのであるといふやうな、傳説を生ぜしめたり、傳説に牽強附會の解説を附けさせた動機とも言ひ得るのであります。併し茲には兩説の考證から稽へて見て、古には事實敬神の意味を以て、矢を神に奉つたと言ふ事を記さうと思ふのであります。
 然し考へて見ると、神樣が矢を射られた、その矢が樹に立つたのだとすると、神はその信仰者の爲に夷敵を射らる(505)べき筈であるのであります。さうして見ると、少なくとも箭一本は、確かに射損じられた事になつて、可笑しい話でもあるし、神威に觸れる次第でもあります。又矢を樹に受けられたといふのはこれは頗る妥當な解釋らしい感はありますが、蓋し兩説共に、明らかに古人の傳説に幾分常識的な解釋を以て、後人が傳説の改良を試みたのであると見得るのであります。
 此矢立といふには、一説また家立と言ふのがありまして、其例は伊勢と志摩との國境、合坂山に家立の茶屋といふがあつて、西國名所圖會竝に參宮名所圖會にも記されてありますが、それは猿田彦の神家を立て創め云々とあります。其處は三つの石にて竈を立て、表戸は筵にして、一切佛事はせぬ事になつて居るのであります。この家立の説明は、後人の口碑でありますが、家立の例の中で、志州のが一番不明で、又最もこちたき〔四字傍点〕ものでありますが、然しそれならば、本來日本中に一つしか無い譯であるのに各所に隨分澤山あつて、高野山の(辻から五十九町)天の神社の別れ道、又は花坂ともいひますが、其處にも家立の茶屋がありまして、又やたて〔三字傍点〕の地藏もあります。此やたて〔三字傍点〕の地藏は其他にも南部の恐山にもありますが、兎に角やたて〔三字傍点〕には、矢立と家立とありまして、矢立の例には、倶利迦羅峠に矢立山といふがあつて、越の下草中に、矢立山の名義不詳とありますが、又イスルギ山より遠矢を射たともあります。又越後の西蒲原郡の彌彦山にも、北陸道の往還に矢立杉といふのもありまして、越後名寄中には、昔、蝦夷人一夜に城築き云々と擧げられて居ります。其他にも、木曾の美濃近くに、矢立竹、信濃の碓氷峠に矢立明神、甲州では笹子峠の頂上に、失立杉のある事が、甲斐國誌に見えて居ります。又秋田には、矢立峠の例が非常に多く、月の出羽路にも、仙北郡大字金澤中野、(但し之は峠ではないけれども)其處にもありまして、これは鎌倉權五郎功名矢の話であります。斯ういふ譯で自然本文の主題とする、矢を射たといふ例は非常に澤山ありまして、田村麿の射た事、曾我兄弟の射た話等と、數へ盡せないけれども、其一二の例を載せますれば、平家物語中に、越中の埴生村で、木曾義仲が獻上の矢を射た事や、太平記、東鑑には、頼朝奧州征伐の途中、高水寺裏の槻の樹に、同樣獻上の矢を射た事が記されて居り(506)ます。また大分の府中の近傍、ユスハラ〔四字傍点〕の八幡には、大友宗麟が散々に矢を射た話がある。之などは一寸宗麟が切支丹宗であるからとも言へるけれども、然しながら、如何にジェスイット教徒であるとは言へ、雜信を取りのけしめる爲云々は、疑はしいと思はれるのであります。
 斯ういふ風に矢を射たといふ例は、澤山にありますけれども、更にまた實際に射た事を證するには、文化年間、津輕の一本木、槻の木の枯れた際に、其うつろ〔三字傍点〕から、矢の根が多く出たとしてありますし、また陸前名取郡河口澤の矢立杉(明暦年間迄殘る)にて、船を作らうとて斧を入れた時に、それが鳴動してその中からは、澤山の矢が出たとも記録されて居るのであります。
 本多靜六君の著に「大日本老樹名木誌」といふのがあります。これは非常に學界の爲に貢獻する處の多い、よい參考書でありますが、其中にも、北會津の一箕村の八幡に八杉といふ杉あつて、蒲生氏郷の時これを切るとて矢を見出し云々との事もあります。又名古屋地志には、クラガリ〔四字傍点〕の森の八幡に、松の木があつたのを切つた時に矢が出て、而も八郎爲朝と署名してあつたといふが、私は此署名のあつたといふ事で失望はするけれども、矢張り矢が出たといひ、まだ其他にも、豐後と日向の國境の梓明神にある豐後杉の枯れたのを、仙人が切つて板にしようとした時にも、矢の根が出たと言ふ事もありました。斯うして矢を立てたのが近代に至つては、鎌等を立てるやうにもなつて、越中舊事記や、肯構泉達録にも載つて居りますが、本多靜六君の著書にも鎌の宮の境内に大樟があつて、七月二十七日の日に、鎌を打ち込むといふ事が書いてあります。それから糸魚川より六里、信越の堺に、白池栗といふのがありまして、其には信州と越後との雙方の國の村民が、鎌を打ちつけて盟ひをする事になつて居るので、別名を鎌立栗と呼びますが、鎌立栗などゝは、何となく矢立杉との對句なやうな感があります。それであるから、釘打ちの事なども、以上の樣な事から推して考へるに、必ずしも呪詛の時ばかりでは無いやうであります。尤も畫などで見ると女が頭に三本の?燭を立てゝ、丑の刻詣りをする者が畫いてありますけれども、之とても、現に妙淨の神に丑の刻詣りをすると、驗が立(507)ち處にあらはると言ふ話もありますから、呪詛とばかりは限らないやうであります。又三河の藥師堂の前の大松に釘を打つと、藥師樣の眼から涙が出た等といふ事もあります。これなどは、矢を立てる事が變化して來たのでありまして、中には伊勢の高田の泉州寺の梅の樹には、長刀を打つたともあります。豐前の相川村の斧始めの式といふのは、宇佐八幡宮の御造營の折に、樹を斧で切るといふ事であります。斯ういふ樣に、矢を射た事に就いての考證は隨分ありますが、これと反對な前に述べた矢を止めたといふ例には、相州の足柄郡岡本村に、八乙女社と言ふのがありますが、これが舊の名は矢留社といつて、現在でも矢を二本づゝ奉獻するさうであります。又常陸に爺杉といふのがあつて、佐竹の冠者を援護したといふ話もあります。
 さて又神が矢を射られたといふ例には、近江の余河に矢放大明神といふのがありますし、其他にも尚矢附に鉾付神社の神事等と、この例も亦甚だ尠くないのであります。
 要するに、之等は後人が常識的に傳説の調和を圖かつたものでありまして、矢を神に捧げんが爲に、射放したと言ふ事は、その昔、古人が信仰を以て武運を祈り、或ひは旅途の平穩を祈つて、矢を立てたのであります。如上の例に見るも、後代鎌を立て、釘を打ちて、冥助を?つた事から推して見ても、古人の信仰といふ事、即ち、敬神といふ意味以外ではないと言ふ事は明らかであらうと思ふのであります。
 
(511)     曾我兄弟の墳墓
 
 曾我兄弟の墳墓も可なりにあるが、大磯の虎御前の墳墓に至つては更に多い。何故に斯く多いかは面白い研究問題であらうと思ふ。
 よく人に知られてゐるものでは箱根蘆の湯傍にある兄弟の墓である。これは阿彌陀樣が彫つてあり年號も入れてあるが、全然後世の僞作である事は其裏に「永仁三年爲地藏講」とあるにても明らかである。併しこれのみを眞赤な嘘墓として笑ふわけに行かぬ。全く到る處に散在して居る。それも富士の裾野や、彼等が郷里の相州等にあるのは仕方ないとしても、何の縁故もない飛びはなれた處に彼等の墓として言ひ傳へられたるものゝ多いに至つては聊か嘘の下手なのを憐まずに居られぬ。
 遠い地方としては攝津能勢郡豐野西郷村に曾我兄弟の祠があつて、段三郎が僧となりて終生奉仕したと言ひ傳へられて居る。面白いのは相州の曾我社と同樣に瘧に靈驗ありとされてゐる事だ。又近江國犬上郡の或禅寺の境内にも兄弟の墓と塚とがあるし、信州上水内郡長沼村の諏訪神社内にも兄弟の木像がある。これは武田信玄が彫らせたのだと傳へられて居る。又越後國蒲原郡奧山庄野中村の山中にも兄弟の石碑があるが、これは弟の禅師坊が兄の冥福を祈る爲に建てたのだと言ひ傳へられ、同じく瘧の神樣となつて居る。それよりも更に奇拔なのは海を渡つて四國の伊豫や土佐にもある事だ。即ち伊豫にありては宇和郡一柴村奈良山等妙寺内に兄弟が祀られて居る。併し流石に此處で死んだとか又は埋葬したとも言へぬので、山中で兄弟の亡靈に逢ひ祀つたと言ひ傳へて居る。何んでも山奧に二人の老人(512)が居つたので、何年此處に住して居るかと問ふと、老人は何とも答へずして、二つの紙袋を出して示し、此中に生え代つた齒が入つてゐる、この齒の數だけ長く此處に居るのだと答へた。この兩人は鬼王と段三郎ならんと宇和郡舊記に見えてゐる。之は全然嘘八百の法螺でなく何等か左樣な事があつたものと見える。それは土佐と伊豫とを境せる山中に、鬼王と段三郎が仙人になつて祀つたといふ記事があるし、又土佐にも斯かる言ひ傳へ多く、お宮の多いのでも、何等かあつたものと察せられるのだ。
 ずつと東に飛び歸りては山形縣米澤にも曾我の祠があり木像を安置してゐる。角田浩々歌客君の説では越後より持來りしものだといふ事だが、其處のみならず此地方にまだ曾我の祠があつたと記憶するが今は思出せぬ。
 曾我の墳墓でさへ斯く全國に散在してゐる、何故に然るかは甚だ説明に苦しむ處だ。
 次に面白いのは虎御前の墓だ。この大磯の虎が全然架空的人物でない事は東鑑に尼となりて善光寺詣をしたとの記事があるので證明されて居る。その善光寺には果して虎の古蹟虎ヶ塚、虎清水、虎御前石などあり又「虎石庵」とて虎が住みしと傳へる庵さへもある。
 曾我物語には「虎は山々寺々拜みめぐりけるが流石に故里や戀しかりけん。又は十郎のありしあたりやなつかしく思ひけん。大磯に歸り高來寺の山の奧を尋ね入りて柴の庵に閉ぢ籠る」とありて、此婦人が諸國を遍歴旅行したといふ事だけは、古くより認められて居つた如きも、而も諸國の昔話は之と一致せずして、到る處に虎の歿し且つ之を埋めた口碑が殘つてゐて、中には頗る奇拔なのさへあるのだ。
 先づお膝下から言へば東京下谷新寺町法福寺内に虎女の墳なりといふ五輪塔がある。此塔は中古迄は或大名の屋敷内にあつたのを不思議の事ありて此寺へ移せりと傳へられてゐる。不思議の事ありて石を移すとは虎女の話に多い。虎女には何時も石がお伴をしてゐる。此事は後に至りて説かうと思ふ。
 試みに諸國に於ける虎女の墳巡りをやつて見よう。
(513) 甲州中巨摩都産安村安通組の伊豆神社には本社の相殿に曾我祐成と其妾虎御前とを祀つて居る。土地では、虎女は此村の生まれであるが人並勝れし美貌なりしかば大磯の長女の御内に迎へられて養女となりしに、祐成の歿せし後は、故郷に歸りて祐成の冥福を祈りしが此處に歿したので祀つたのだと傳へられて居る。祠の西には虎女の鏡石といふのもある。
 ずつと西へ飛んで但馬國朝來郡森村にも虎御前の墓がある。「大磯の虎此村に來り南某の家に泊せしに會々脚疾を患ひて歿せしかば村人厚く之を葬る」云々と「朝來誌」に記して居る。のみならず隣村大月村にも九重の石塔ありで、村人は之を虎御前の墓だと言つて居る。二ヶ村に竝んで二つ墓のあるのなどは餘り振ひ過ぎてゐて御挨拶に困るが、それでも「古代のものなるに似たり」と朝來誌は保證をして居るから面白い。
 次にまだ西へまはつて安藝國に行くと、此國では到る處に虎女の舊跡墳墓がある。第一は高田郡北村のもので、此處には虎が流寓の處といふのがある。さうして此處の縁起によると、虎女は今日の廣島縣下全體を踏破して居る。即ち初め豐田郡戸野村に居り、後、備後世羅郡赤屋村に移り、正治二年北村に來り、承元三年に三十六歳を一期として此處に歿すと記されてある。歿年及び年齡迄が確かに記してある。だから虎の墓のあるのは勿論、持つて來たといふ佛像も安置してある。然るにをかしきは戸野村にも墓があり、其處の字を大磯とさへ名づけて居る。又世羅村の方には虎少將二人の墓があるのみか、同伴して來たといふ鬼王段三郎の塚が三谿郡三良坂村にあるし、又赤屋村の文載寺には兩尼の携へ來りしといふ笈と觀音像とがあり、尚世羅村|小童《ひぢ》村には祓成の假墓と虎の墓と雙つ竝んで居つて、墓番には毎年掃除料として米若干を給與し、虎の命日を三月十五日とし毎年佛餉米五升を供して村内の正願寺で懇ろな佛事を營んで居る。斯く廣島縣には虎の舊跡が甚だ多い。
 少し山陽道を山奧へ這入つて美作國苫田の上田村引乘寺の本堂たる阿彌陀堂の南に虎の塚がある。土人は皆虎御前の墓だと信じて居るが、實は寺の大檀那の山名家の息女を葬つたのだといふ説もある。
(514) 瀬戸を飛び九州に渡ると、日向の南端なる志布志村大慈寺の境内にも虎の古蹟がある。流石に墓だとも言ひ難いと見えて、虎の建立に係るものだと傳へ、境内には虎ヶ石などもある。
 以上は單に一寸思ひ浮んだものゝみを竝ぺ立てたのだが、詳しく調査すれば此外にも虎の墳墓は尚諸國に存在して居る事と想像する。斯の如くに各地で死し且つ埋められて居るといふことは第一に嘘と考へられねばならぬ。以上の多くの墳塋の皆僞物なるは勿論だが、併し誰か別に虎に誤られさうな比丘尼があつて、當時に全國行脚をした事は或ひは有つた事かと想像されぬでもない。但だ、それにしても足跡の餘りに普きに過ぎ、一生の間に交通不便の時代に而も女の身で斯く廣く跋渉し得た事の聊か信ぜられぬと共に、又其の遍歴の順序の如何といふ見當さへも付け兼ねるのだ。故に之を解釋するのは殆と不可能にも近いやうだが、余は先づ虎ヶ石の問題を攻究するの外なからうと思ふ。虎女には必ず石の談が伴隨して居る。暫時居住せりと傳へらるゝ善光寺附近にあるのは勿論、本家本元の大磯にもありしと傳へられ、現に今日も存在して居る。談が少し傍徑に走るが、大磯に今日現存せる虎ヶ石は僞物らしい。小湊の僧十方庵の遊歴雜記によると、東京谷中の某寺に於いて、大磯より虎ヶ石を運搬して來て開帳をしたが、開帳は失敗に終り經費の償はぬ爲、止むなく其寺の大檀那たる四谷の商人某に泣付き其石を質として金を借りしが、返金する能はずして石は質流となり、今尚其寺に殘りて大磯へ持歸らずとの記事がある。この十方庵の遊歴雜記は嘘は書いてないものだ。故に大磯に現存する虎ヶ石は第二代のものである。斯く石の代はかはつても、傳説には何の影響もない。即ち昔の石も今の二代目も、美男が持てば輕く上り、醜男が持てば重く或ひは持ち上らぬと傳へられてゐて、此事は淺井了意の記にも立派に載つて居るから隨分と古いものである。これに似た話は大和の吉野にもあつて、たしか靜御前であつたか、婦人に關係の縁起があつて、其處の石は氣に入る人が持てば上り、氣に入らぬ人が持てば上らぬとなつてゐる。これに似た話は尚他にも少なくない。如斯は現代の科學的の頭より考へれば實に愚にもつかぬ莫迦氣切つた話であるが、併し意味極めて深長にして面白い研究ものだと思ふ。余の考へでは是等の話は要するに石占に外なら(515)ぬ。元來石占には長さによると重さに依るとの二種類があつて、長さによるものは、藁シベを背後で切り、それを石に當てゝ見て、恰かも石の高さ又は長さと同樣なれば願意が叶ひ、それに近ければ願意叶ふに近く、全く當たらねば神意にかなはぬとしてある。又目を閉ぢて一つの石より他の石の處まで歩み、當たれば願意叶ひ、外れる時は願意叶はぬとしたのもある。重さによるものは、持上げて見るので、この方法が最も古い石占である。現今東京附近の神社にも力石なるものがあるが、これが石占の遺習である。後世には村の若者や相撲取などの力試しにして娯樂半分のものとなつたが、元來は神意を問ふ爲のものである。かの辨慶の力石なども、同じくこの石占の變化したものである。又かの神輿が舁いで行く中に或場所に至りて重くなるなぞの話もこの石占の變化であるし、尚別に木像を背負うて行脚してゐる中に、其像が急に重くなりて動かぬ爲に其場所に安置したなどいふ縁起も澤山にあるが、これも同一の源流から來たものだ。即ち皆物の重さで神意佛慮を知るのである。虎の石の如きも亦此意味よりせるものだと考へる。
 其處で下谷法福寺の虎ヶ石と稱する古墳に不思議の事があつて移轉するといふのも多少の意味があるのを知る事が出來る。又箱根の蘆の湯の傍にある曾我兄弟の墓邊に虎女の五輪塔があつて、若し他へ移すと一夜の中に歸つて來ると土地の者は傳へて居る。以上は皆今日の思想よりせば一つ/\が切々の迷信の如きもこの間には何等か共通連絡せる一つの意味があるに相違ない。又奧州の福島の附近にある文字摺觀音堂内に文字摺石があるのは有名だが、この石は昔は觀音堂の南方の山上にあつて、麥の葉で石の面を撫摩すれば思ふ人の面影が現はれると言ひ傳へられたので、多くの人が其石を見に行き麥の葉で面を摺る爲に附近の麥畑は滅茶苦茶に踏み荒らされる所から、畑主は怒つて其石を山上より山下へ突落した。大磯の虎女は其事を知らず、十郎祐成の面影を見たしとて道々此石を訪ねて來た。然るに既に畑主に突落され、池中に埋もれしを聞き、惆悵として去つたといふ話もある。これも虎と石との關係の一つとして見る事が出來る。
 富士の裾野には有名で且つ現今では眞物とされて居る曾我兄弟の墓があるが、其傍に今日から少なくも五十年前迄(516)は一つの虎ヶ石があつた。此石は小川の中流にあつたのを、誰いふとなく此石を洗ひて祈願すれば如何なる病も治すとせられ、非常なる人出がして賑ひし事があつた。川の中に孤立して露はれてゐた石を姥石と名づけ信仰した例は隨分多い。裾野の虎ヶ石の信仰も此類であらうか。
 尚富士郡厚原にある曾我の社などは、以前は單に虎御前樣と言つて居つたに、何時の世にか曾我兄弟の祠とし浩々歌客の父君角田虎雄氏が近年撰文を書いて遂に本物の兄弟の祠にしてしまうたが、古く遡れば隨分疑はしい。斯樣にして兄弟や虎御前の古蹟の誤り傳へられたものは少なくあるまい。
 要するに余の考へでは、何か石占を行ふ婦人に虎と稱する者があつて、それによりて曾我兄弟に關する墳墓が諸國に増加したのではあるまいか、從つて虎御前は或一人の名前で無く、多くの女の名前ではあるまいか。彼の近江にある虎姫驛はトラゴゼンと讀むが、これなどは此地の長者の妻の虎といふものが蛇體を生みしを恥ぢ湖水に投じて死すと言ひ傳へられ、大磯の虎とは全く別人間であるが、後世には本物の大磯の虎の遺蹟と進化するかも知れない。
 それにしても曾我兄弟の仇打が人心を刺戟するの強くして、全國の虎ヶ石を悉く大磯の遊女の古蹟にするだけの力のあつた事は説明する迄もなからう。
 
(517)     傳説の系統及び分類
 
 地方の物識は各自我地方の傳説に付ては深き趣味を感じて居るけれども、其傳説が如何なる程度にまで日本國内に分布してあるかを知らぬ者が多い。偶遠隔の地方に同種の傳説が存して居ることを聞けば、直に之に對して根原の先後を爭はうとするのが普通である。私の見る所では、國の端々に亙つて各の山各の川には必ず夫々の傳説が附隨して居るけれども、其形式には共通の點が多く、數百千の昔物語は之を分類して見れば僅々十五種か二十種に纏まつて居ると思ふ。而も同種類の傳説と云へば甲乙の間に常に大なる差異が無いのみならず、各種の傳説の間にも必ず顯著なる脈絡系統がある。此事實は即ち奧州の外ヶ濱も筑紫の果も甚だ近い血族であること、竝びに中世の交通が意外に親密であつたことを證するものである。此頃物の序でに諸國の古傳説を少しく集めて見て、偶然にもこの愉快なる現象を發見したのである。誰か用の無い氣分の靜かな人があるならば、共にゆる/\とこの忘却せられたる問題を研究したいと思ふが、茲には先づ傳説の目線を掲げて見よう。名稱は便宜の爲假に私が附けたものである。
 一 長者傳説 諸國にはよく長者の屋敷跡と云ふ場所があつて、夢よりも美しい榮華物語を傳へて居る。多くの傳説は長者を中心にして枝葉を出して居るやうに見える。長者は古い語で族長のことである。勞働を家で統一した古代では、一族の多い長者は必ず富豪である。村には大抵一人の長者が有つた筈であるから、長者傳説の或ものは正眞の歴史かも知れぬ。併し其長者の生活と云ふものには必ず多少の傳説的記述がある。即ち極端に幸福であり又は極端に奢侈である。つまり平凡生活に於ける理想の極致を表現したものである。或ひは十町四方の屋敷を構へて住み、或ひ(518)は珠の如き娘を持つて居る。山城稻荷の秦氏は餅を的にして弓を射て神に惡まれた。昔の人としては驚くべき奢であらう。九州では菊池の米原長者の傳説が最も美しい。東北に行くと長者が金吾吉次に變形して居る。何でも長者には多量の黄金が伴なつて居る。黄金は日本に限らず何れの國でも傳説に缺くべからざる一つの花模樣である。支那人の家の幸福は五男二女であつたが、日本の長者は二十四人の男の子を持つことになつて居る。
 二 糠塚傳説 長者の家で米を舂《つ》いて其糠を棄てた所が塚となり丘と成つた。長者が住んで居たと云ふ土地にはよく此名の塚がある。糠塚又はスクモ塚と云ふは諸國に數多くあるが、其性質を説明し得た人はまだ無いのである。播磨風土記の中にも糠塚の傳説がある。此書の時代から既に此名の理由が不明であつたと思はれる。アイヌの中にも亦糠塚の口碑が殘つて居る。
 三 朝日夕日傳説 長者は死ぬる前に其財貨を土中に埋め其在處を人に隱し謎のやうな歌をよんで置いた。朝日さし夕日かゞやく木の本にと云ふ歌は殆と何れの國にも無い地方は無い位である。此歌に絆《ほだ》されて無益の土掘をした人も澤山ある。隱した寶の捜索は日本でも外國でも共に近代思想の東雲であつた。
 四 金?傳説 長者は黄金の塊の代りに金の?を鑄て土中に埋めたとも傳へられて居る。此傳説は將來の攻究者に取つて一つの有力な手掛りである。實際此物語は長者傳説と古塚岩窟に關する他の多くの傳説との鏈鎖を爲して居るやうである。地方によつては土中に金色の生きた?が居ると云ふ口碑もあるから、或ひは靈?傳説と埋金傳説とが此點に於いて結合したものかも知れぬ。道教の説に從へば金も?も共に西方の象徴で、又太陽信仰とも因縁がある。古塚又は岩窟の中に居る?は世の中に變のあるとき出て鳴くとも傳へられてある。此點は將軍塚鳴動或ひは鎌足像破裂などゝ同一系統に屬するものである。金?傳説は時として山神の信仰とも結合して居る。
 五 隱里傳説 此も長者傳説とも關係あれば岩窟信仰とも縁故がある。世の中から隔絶した富有安樂な別天地があつて稀に之と交通したものがあると云ふ物語である。鼠の淨土の御伽噺の原形である。鼠の淨土は甲子神又は子の神(519)の信仰に基くものとも見られるが、古事記の「外はすぶ/\内はほろ/\」のエピソオドもあつて、由來の甚だ久しいものである。今昔物語にも隱里の話が二つまである。武陵桃源の物語は現代人の耳にも快い感じを與へる。賦役に追はれ戰爭を怖れた昔の小民には、餘程強い感動を起さしめたに相違ない。肥後の五箇庄越後の三面《みおもて》の話が誇張して世に傳へられたのも決して偶然で無いと思ふ。自分は隱里の傳説を以て岩窟の信仰と關聯するものと信じて居る。岩穴の奧は幽恠且つ寂寞で、今日では人に畏怖の念を起させるのみであるが、然し此奧で富貴自在の神を祀つたとすれば、斯かる想像をも發生せしめぬとは言はれぬ。Venusberg の物語も岩窟の多い山國で無ければ起るまじき空想である。富士の人穴の古傳とても亦地形の産物である。
 六 椀貸傳説 此も隱里傳説と關聯して居ると思ふ。山中又は水邊の岩穴の前などに行つて、明日は來客で入用がある故膳椀を何人前貸して下されと頼んで歸れば、當日は必ず數の如くそこへ出て居る。何れの地方でも或ひは損じたり盗んだりして元の數の如く返さない者があつた爲に、今は貸さなくなつたと説明して居る。佐渡の二つ岩と云ふ所の團三郎と云ふ狸は、山の中腹に居て膳椀を貸したさうであるが、水邊に存する此傳説では必ず貸主が龍宮の神であるやうに傳へられて居る。是は多分椀貸傳説の原形であつて、即ち其由來の久しいことを證するものであらう。干珠滿珠の如意寶から打出小槌の御伽噺に至るまで、外國に亙つて類型の多い寶物の神話は、日本に於いては終に此の如き世話女房式の傳説に變形して居る。遠野物語に傳へられたマヨヒガの膳椀に至つては、其中でも著しく古意を存して居るもので、隱里の思想に附加するに更に増殖又は無盡藏の思想を表現する長者傳説の分子を以てして居る。
 七 生石傳説 物が生長し増殖すると云ふ幸福の理想を石の崇敬と結合せしめて居る。此傳説は殊に明瞭に其系統を辿ることが出來る。生石神と云ふ神は古くからあつたが疑も無く石を祀つたものである。近代の生石傳説に伴なふ信仰は略三通りに分れて居る。(イ)は靈異なる石の不時の發現である。(ロ)は靈石の成長である。(ハ)は即ち其數の増加である。石の數が天然に殖えて行くと言ふ信仰は同時に子安神の本原であらう。子安は子安貝と云ふ貝の形(520)が示す如く正しく女の或徴の形をした石である。昔より安産の守護神である。此傳説を元として一方には又人が神の石の數を増加して其意を欣ばしめると云ふ信仰を生じた。朝鮮では山神や城皇神にも石を手向けるさうであるが、日本では小石を供へしめる神は昔から主として道祖神であつた。故に此神の在る所は山中にも賽の河原が出來たのである。次に舍利には佛經の説では種々の靈コがあると云ふことであるが、日本に於いては專ら其數の天然に増加することを其奇瑞として居る。此と右の生石傳説とは二元の偶合であるかも知れぬが、今では正しく不可分のものになつてゐる。所謂|乍答《さくたふ》又は札答《さたふ》の傳説は、我國にも神代史の昔から存在して居るやうである。牛黄狗寶等には増加と成長とを説いては居らぬけれども、舍利の思想を鏈鎖としてやはり生石傳説と相關聯する所があるやうに思はれる。
 八 姥神傳説 幸視の理想としては長壽自在を具體せしめたものである。磐長姫神話の系統に屬するものである。深山の中に老女の靈異なる者が居つて種々の不思議を現ずると云ふ傳説である。女神信仰の最後の變形と見て宜しい。之も多くは石の崇拜と關聯して居る。因幡の山中では大きな巖石の上に條痕《すぢ》のあるのを、姥神が麥を蒔いた畝だとも云つて居る。姥石と云ふ石、山姥の座敷と云ふ岩窟、さては姥神の石像など數限りも無く諸國にある。姥神が怖ろしい神となつたのは全く右の山姥即ち深山に住する生蠻の事蹟と結合してから後のことで、其以前は單に不思議の力殊に長壽と云ふことが最も顯著なる特性であつたかと思ふ。
 九 八百比丘尼傳説 八百歳まで姿の老いなかつた比丘尼のあつたことは、若狹に限らず土佐にもあれば會津にもあつた。馬琴の小説では之を狸の化けたのにして了つたのはけしからぬ。是も恐らくは姥神傳説の一變形であらう。比丘尼は即ち女巫である。熊野比丘尼歌比丘尼などは佛教とは縁の遠いものである。神に奉仕する婦人が神の特惠を受けて長命であつたと云ふ信仰は古くから有つたものらしい。恐れ多いことであるが神宮齋王の第一世であつた倭姫命に付て既に正史には見えざる此傳説がある。
 一〇 三女神傳説 天神の子に三女神があつたことは東亞諸國共通の神話であるさうな。偶合であるかも知れぬが(521)古史の宗像三女神の記事も正しく是である。少なくも三女神傳説は古代に於いて宗像神の信仰と結合して居るらしく思はれる。然らざれば九州の神が早くから關東奧羽の山中に分布して居るのを説明することが出來ぬ。延喜式に數多く見ゆる御子神は即ち主神の御末で同時に神意の宣傳を職掌とした家の祖神であらう。語を換へて言はゞ巫女のミコは御子神若宮のミコと同じ語意から分岐したものであらう。而して姥神もオモの神即ち神に奉仕する神巫の義であると思ふ。
 一一 巨人傳説 山中に巨大なる人が居たと云ふ傳説は、既に常陸風土記に見えて居る。巖石の上に窪みがあり又は草原の中に草の生えぬ所があると、皆大人の足跡と云つて居る。此例は諸國に亙つて數十ヶ所もあり、中には一足に五町あるいたと云ひ、又は一里も歩んだやうに傳へ、其間隔を以て連續した足跡を留めて居る。是が一轉して、
 一二 ダイダラ法師傳説 になつた。此法師は東西の諸國に足跡を殘し、或ひは山頂に腰を掛けて湖水で足を洗ひ、巨岩を袂に入れて路傍に落したりなどして居る。其最も古いのは豐後緒方氏の元祖で、其名を大太郎と云ふ者であらう。姥嶽の神が麓の長者の姫に生ませた男の兒である。此傳説にも無數のヴァリエテがある。武藏坊辨慶の話が少し孫悟空と似て居るのは、其中へダイダラ法師を立たせて見れば、三者に共通の根源があつたのでは無いかと云ふ想像を愈深くさせることになる。
 一三 神馬傳説 大人の足跡から鬼の足跡神馬の蹄の痕と段々によく繋がつて居る。我邦の神山には馬の傳説を持つものが多く、駒ヶ嶽と云ふ山は皆此傳説をもつて居る。竈の神に馬の鞋を供へ、愛宕の神像を騎馬にしたのは、南方火コの縁から起つたものかも知れぬが、山神に馬を結び付けた諸國の信仰には、別に何か由來があるらしい。
 一四 池月磨墨傳説 宇治川合戰の二名馬は奧州の牧《まき》から出たと云ふのにも拘らず、上總にも駿河にもさては對馬の海島にまで其産地と傳へられた場所がある。是は單に名馬を出したと云ふを傳へる。名馬と云へば直に盛衰記を聯想したものであらう。
(522) 一五 川童馬引傳説 川童が馬を水中へ引込まうとして却つて馬に引ずられ、馬主に殺されようとしたのを漸つと頼んで助けて貰つた話。之が十數府縣に亙つて少しも形を違へずに傳はつて居る。全體川童と云ふ者は獣か變恠かそれが不明であるが、少なくも其馬に關する話は猿から來たらしい。支那の信仰で馬櫪神《ばれきじん》と云ふ神は猿で、我國にも之を輸入し、其爲に猿引が正月に厩を祝ひ、猿の馬を曳く御礼は厩の口に張られる。守護神であるべき猿が水に住むことゝなつた結果却つて馬に苦しめられるのである。是は稍新しい發生と見ねばなるまい。
 一六 硯水傳説 川童の額に小さい穴があつて水が溜まつて居る。其水の溢れぬ限りは川童は強い。此水と云ふのが又大人の足跡にも溜り、神馬の蹄にも溜つて居り、如何なる旱魃にも涸れずと云ひ、又は此水をかへ乾せば雨が降るとも言はれて居る。或ひは弘法大師の硯の水とも云ふ。飲料の外耕作の爲にも水の大事な日本で、不測の溜水を靈視するのは川童を待たずして既に動かぬ信仰であつたであらう。
 此外にも二つ三つ珍しい傳説があるが、之は秘密である。段々日の短くなる此頃に、さても/\急を要せざる問題に手を着けたもの哉。恐らくは誰も其あとを聞かうと云ふ人はあるまい。
 
(523)     傳説とその蒐集
 
 傳説を愛する心は自然を愛する心に等しい。春の野に行き藪に入つて木の芽や草の花の名を問ふ樣な心地である。散つてゐる傳説を比べて見ようとする心持がその蒐集である。
 傳説は古い國土の自然に生ひ茂つた椿や松や杉の樣である。其處に成長し繁茂してゐる植物も、皆夫々枝振りが異つてゐるから面白い。傳説研究は世態人情の微妙を窺はしめると同時に掬めどもつきない情趣がある。
 人はよく傳説と昔話とを混同する。然し學問はこの二つを區別する。傳説が植物なら昔話は小鳥に似て居る。何處へでも「昔々ある所に――」と云ふ同じい姿で飛び歩いてゐる。昔話には形式があるが、傳説は形もなく簡素で前も後もなく、唯内容だけが傳はつて居る。「義經腰掛の松」と謂へば唯それだけの事である。昔話と傳説とを混淆して居る人はそれを長くしたり前後をつけたがる。一番多く年號を添へたがる。女が出て來れば美人にして了ふ。それでは全く傳説の價値を失ひ、それでは近代の小説家の仕事にならう。
 傳説研究に最も大切な事はその蒐集である。出來るだけ多くを蒐める事である。傳説は同じ題材を採つても皆夫々の小異があり、ほんの一寸した所で違ふ。この小異の比較が眼目であり、その累積の中から發祥地を見出すのが趣であるに拘らず、世人は「そんな話ならあそこにもある、こゝにもある」と云つて捨てゝ了ふ。この意味で私の近著「日本傳説集」は新しい立脚點に立つて居る物と思ふ。一つだけでは解らない事だが同じ物を澤山寄せて見ると段々解つて來る物を蒐めて見たのである。
(524) 傳説に對する世人の誤解の主因は、傳説は事實あつた事だと考へてゐる人が多い點である。事實なら二つある筈がない。一つは必ず嘘である。有り得べからざる事であるといふ考が先に立つて、今の人も昔話と傳説との差異を知り乍ら傳説に對する考が濃厚すぎたり、事實でないなら嘘だと考へて否定したり、長くしたり前後をつけたりしようとするのである。所が嘘と眞實との中間は曖昧で一つの話が出て來るとあちこちから似た話が出て來る所に傳説の面白味がある。先般私が「白米城」の話を二十六蒐めた時同じ樣な物が更に七篇も各地から出て來た。此等を累積してゆく中にその大系を理解してゆく。だから傳説研究の仕事は殆と蒐集につきる。私はマッチのペーパーを蒐める心理で之を蒐めてゐる。
 「傳説半徑」といふものがある。ある傳説發祥地を中心として同一系統の傳説區域を限定出來る半徑である。文化地に於けるその半徑は長く田舍に行く程短い。山一つ隔てゝ異つた傳説があり而も互に知らない樣な事があるから面白い。その場合の半徑は山の彼方と此方とで異る。類似の物を蒐めてゆく中にその最初の中心――發祥地が判明してくる。中心が文化地である程半徑は長くなる。京都や大阪や江戸が發祥地であつた物は大きな半徑を有するわけで、書物や支那思想や佛教思想の影響が加味されてくる。
 傳説蒐集家にとつて最も大切な事はこの「傳説半徑」の小さなうちに蒐める事である。日本は今その最適の事情にある。即ち最近まで約三百年程の間我々日本人と傳説との關係は殆と少しの變化も受けずに昔の儘で續いて居たのである。斯うして古い傳承の續いて居る國は他にさう多くない。この點最も便宜な事情にあると言へるのである。
 昔話からもう一度傳説に戻つて來た傳説がある。即ち漂泊?態の小鳥から土着の樹木になつて來たのである。「炭燒藤太」の話など恰好なこの例である。南は豐後から北は津輕に亙つて整然としたプロットを持ち昔話として立派な形を具へて各地諸方の盆踊歌にまでなつて居る。この樣に普遍的な昔話を土地の者が自分のものにするのは日本のみで外國にはない事である。これは昔話を直ぐ事實と信ずる信仰が自己吸收にまでなつたのであらう。
(525) 又日本人は外國から傳説を輸入する以前から傳説に對する信仰があつた。西洋では一つの話はキリスト教の宣教師の口を經なければそれが傳説として信ぜられなかつた。
 「傳説を信仰する力」「傳説を土着させる傾向」は日本特有の現象である。芝居を觀に行つてオイオイ泣く心持――あの淨瑠璃の「身につまされる」心地に似て居る。これは單に想像力とか同情とかの問題ではなく、嘘だとは知り乍らも其時だけは之を現實と同樣に迎へて見る樣な心理が働くからである。井澤長秀翁の俗説辨は僅か二世紀前の物だが、その中に俗説は原則として信用すべきものである、と考へてゐた當時の有識者の意見を代表してゐる。
 神話、傳説(實質的なもの)、昔話(形式的なもの)この三個の連絡は西洋では學者の詳細な演繹的な説明をまたなければつかないが日本ではさうではない。
 つまり此等の事情は日本傳説はその背後に或話(形式)が行はれてゐた事を理解せしめ證據立てるものであり、私達の祖先が同じ樣な宇宙觀を持つて居た事を立證する好個の材料である。
 私の謂ふ傳説とは前述の如く形もなく簡素極るもの、内容のみで、多くの俗人が事實として言ひ傳へて居る話の一群であつて、從つて傳説研究の最重要事はその蒐集であると考へるのである。
 
(526)     橋の名と傳説
 
 來年は出來るならば傳説の比較を始めて貰ひたいと思つて居るので、今までにわかつて居ることを少しづゝ竝べて見る。最初には數の少ないものを擇んで、橋の名稱のやゝ變つて居るものを集めることにしたい。
コウロギバシ 此名の橋が全國に亙つて多い。蟲のコホロギのことだと説明するものは、越後柏崎の香積寺の傍に在つた橋。蟋蟀の形がもとは彫刻してあつたといふ(越後名寄)。陸中櫻町の赤石明神の前のも蟋蟀橋と書いて居る(武奧道程記)。菅江眞澄翁の墓のある秋田寺内の同名の橋も、竈馬橋と書く人もあるが、普通には香爐木橋と書き、或ひは又伽羅橋ともいふ(黒甜瑣語)。加賀では山中温泉のコウロギ橋がよく知られて居るが、金澤で枯木橋といふのも元はそれだつたらしい。飛騨の阿多野の一ノ宿では、神王橋と書いて亦同じ名を稱へ(斐太後風土記)、甲州の教良石と信州の蔦木と、二國の境の橋は今は甲六橋と字を宛てゝ居る。しかし教良石《けうらいし》の村の名でもわかるやうに衆人の崇敬する石や樹木を、「清ら石」「清ら木」と謂つたのが元のやうである。即ち橋本にその清ら木があつたからの名であるのが、後に不明となつて色々の傳説が出來かゝり、呼び名も宛て字もやゝ其方へ引付けられて行くのである。
シアンバシ 思案橋。江戸にも大阪にも長崎にも、その他の多くの都市にも此名の橋がある。附近に遊里のある場合が多い爲に、行かうか行くまいかと思案する橋だなどゝ説明せられて居るが、到底全體には通用しない。長崎の思案橋を暹羅橋だらうといふのなども同樣である。一つの變つた例は武總國境の大堤といふ處に(猿島郡勝鹿村)、靜御前の思案橋といふのがある。爰に來て義經の戰死をきゝ、低徊思案して京都に引返すことになつたと傳へられる(茨城(527)名勝誌)。思案といふのは後世の言葉だから、つまりは此橋が迷ひを決する處、即ち或種の橋占を問ふ地點であつたことを意味するかと思ふ。遊女の居住地が其橋の近くに在つた例の多いこと、もしくは有名な白拍子の物語に附會して居ることも、共に偶然ならぬ深い因縁のあつたことを思はせる。大阪の思案橋などは遊里の近くではないが、大正九年の十一月十九日、十六歳になる舞子が此橋に來て身を投げたことがあつた。何かまだ隱れた迷信が殘つて居たのかも知れぬ。
ササヤキノハシ 細語橋。この古風な橋の名は、男山八幡の麓に一つ、紀州熊野の參詣路に一つ、備後にも岩代にも各二つの遺跡があつて、何れも大きな御社と關係があるらしい。橋の名の解説は色々あるが、大體に夜更けで此橋を渡ると、どことも無く人のさゝやく聲が聽えるからと、いふやうに考へられて居るものが多い。橋に立つて行人の言葉を聽き、それによつて占を問ふといふ風習は、古い文學にも?見えて居り、今も現實に之を試みる者が稀にはある。たゞそれをササヤキといふ優雅な名に呼ぶに至つたのは、其間に歌謠に携はるものゝ介在を推測せしめる(郷土研究二卷一〇號參照)。
ウタノハシ 鎌倉では荏柄天神の前の橋が歌の橋と呼ばれて居た。澁川六郎といふ武士、將軍の罪を得て、十首の和歌を天神に奉つて宥された。それで御禮に此橋を架けたといふ傳説が、いつの頃からか出來て居る(攬勝考)。京都の北の郊外にも、歌つめの橋といふのが元はあつた。是は和泉式部などの逸話を傳へて居る。
ショウチバシ 信州下諏訪のうちに、承知橋といふ橋があり、小川の名も承知川といふ。武田信玄ある時此橋を乘打ちしようとして落馬し、之によつて神コのあらたかなることを承知したといふ傳説がある(郷土、石號)。或ひは鹽打橋の訛りで、鹽を打つて身を清めたからの名であらうとの説もある。しかし精進川精進橋の名は、大きな神社の參道には多いから、是もその一つの例だつたかも知れぬ。精進はサウジ又はショウジと訓み、潔齋をせぬ者はそれから内へ入れぬといふ意味であつた。
(528)クルカバシ 岩代伊達郡白根村の境松といふ處に、今でも此名を刻した橋がある。文覺上人がこゝを過ぎて、西行法師が追うて來るかと、獨り言をして後を振返つた故迹といふ。關西の方では昔は是を奧州第一の大橋と思つて居たさうだなどゝ、土地の人は語り傳へて居る(郡誌)。「來るか」は人を待つ言葉だから、曾ては爰に出て橋占を問うた名殘であらう。
オモカゲバシ 俤橋。百數十年來の江戸郊外の一名所(豐多摩郡誌)。戸塚から雜司ヶ谷に拔ける、元は田の中の淋しい路であつた。新宿の遊所から還つて來る者が、こゝに來て女の面影を見るなどゝいふ俗説は、やがて又之を信ずる者を生じたかも知れぬが、名の起りは別にあつたやうである。是を一名姿見橋といふのは誤りで、後者は今一つ北方の別の小流れに架つて居たといふ(新編武藏風土記稿)。
スガタミノハシ 姿見の橋。東京の西北部で古くから有名な橋だが、もう其所在がはつきりとせぬ。橋の左右は池で水が淀み鏡をなして居たので、昔在原業平此水に姿を映す等と事を好んだ者の作り話があつた。淀橋の姿見ず橋は是よりも更に後に生まれた名であらう。
セイシガハシ 誓詞橋。武藏の小手指村北野の砂利川といふ流れに架かつて居る。新田義貞の軍勢、こゝに來て誓詞をかはしたといふことになつて居る(入間郡誌)。
セイメイバシ 晴明橋。安倍晴明の故迹といふ地は全國に分布して居るが、常陸眞壁郡の猫島といふ部落(長讃村大字)には、特別に濃厚な數々の口碑がある。多分陰陽師の舊居であらうと思ふ。母の名は信太姫、葛の葉と稱すとも傳へられ、親子の名に托した二つの稻荷社も現存する。晴明橋といふ橋は他にも何箇所もあるらしいが、爰のは一段と橋占の行はれて居たことが想像しやすい。
サトヤバシ 昔この橋を架ける材に、大木の欅を伐つたところ、樹身より血を流して七日にして漸く倒れ、しかも重くして少しも動かなかつた。お里といふ美女に木遣りを掛けて曳かしめると、輕々とこゝに運ばれたといふ、三十三(529)間堂の棟木の由來と、同系のかたりごとが傳はつて居る(石城郡誌)。
アサムツノハシ 本來は淺水橋で、徒渉も出來るのになほ高橋を渡したといふ意味の名だつたらうが、飛騨では夙くから朝六橋と書いて、こゝに埋藏せられた寶物がある爲に、眞夜中にも此橋の處のみは朝の六つ時のやうに明るいなどゝ謂つて居た。それで居て同じ名の橋が他にもあり、其所在は却つて明瞭でもないのである(益田都誌)。奧州三戸郡にあるものには、旅人の殺された口碑がある。夜來て朝は姿を見ずなどゝ説明せられて居た。古い歌謠の「とゞろとんどろ」といふ心持は、飛騨の朝六橋にも幽かに殘つて居て、こゝでは一名ガタガタ橋とも謂つたさうである。轟橋は多分板を横に竝べた橋で、乃ち大橋であり、又著名の橋であることを意味するかと思はれる。
ワタウチバシ 阿波石井町を流れる渡内川に架けた橋。以前は綿打橋と書いて居た。其昔朝一番に渡つた綿打を擒へて、人柱に築き込んだといふ口碑がある(郷土研究、二卷九號)。綿打職人が旅をした頃では、話は餘り新し過ぎるが、此橋には佛像を刻した板碑を橋材にしたといふ説もあつて(阿波志)、何か特殊の信仰を伴なうて居たことは想像せられる。
シホトリバシ 鹽取橋。丹波船井郡の西田といふ里に在る。昔ある人が町から鹽を求めて來て、こゝに置いて用を足して居るうちに、其鹽が見えなくなつたから、此名があるといふ(口丹波口碑集)。鹽を供へて神を祭る例は、東京にも牛天神の牛石などがある。又米喰石のやうに、米俵を置いたのが見えなくなつたといふ話さへある。
タバコバシ 煙草橋。橋に由つて卜占をした一つの例である。信州北安曇郡の高瀬川に、毎年秋冬の交に架けられる假橋は、年によつて架け處が上下流に動く。其位置によつて煙草の相場の上り下りを察するといふ(郷土誌稿卷七)。或ひは五月の節句まで其假橋が殘つて居ると年柄が惡いとも謂つて居る。
シラサギバシ 白鷺橋。阿波の立江の土佐街道にある橋。一名を九つ橋といふ。むかし弘法大師が白鷺の瑞相によつて、立江寺を建立したといふ縁起があり、今も此橋に白鷺の立つて居るのを見れば渡つてはならぬと謂ひ、其戒めに(530)反して災に遭つた話もある。或ひはこゝで白鷺を見ずに、無事に渡ることが出來た者は善心の證據だとたいふ(大阿波の横顔)。
ウマコロシバシ 馬殺し橋。片瀬と藤澤との間といふ。馬が折々こゝに來て暴《には》かに死ぬので、試みに橋の石を覆して見たら文字が刻んであつたなどゝいふ。或ひは又馬鞍渡橋。頼朝公通行の際、馬の鞍を架して往來を通じたとも謂つて居る(神奈川縣誌)。
コマガヘシバシ 駒返し橋。相州中郡神田村大字田村。八王子往來にかゝつて居る石橋である。家康公鷹狩の時、村人が莚を橋の上に舗くのを見て、民の煩ひを思つて橋から引返したから此名があるといふ(  同上)。橋の袂に馬の神を祀つた例は多い。其信仰が絶えてしまふと、大抵は斯ういふ形の説明が始まるやうである。
ワカレノハシ 攝津の尼ヶ崎にあるものは靜御前、こゝで義經と別れたといふ(攝陽群談)。下野足利郡高松の別れが橋は、義經がこゝで金賣吉次に別れた處と傳へて居る(  郷土研究、一卷九號)。誰がそんなことを記憶して居たかと、言ひたい樣な話ばかりである。
エンキリバシ 縁切橋。足利市の井草といふ處に、昔はあつたといふ橋の名である。橋は無くなつても今なほ婚禮の行列は此町内を通らぬといふ(郷土研究、三卷七號)。東京でも淀橋の姿見ず橋は嫁入が通らなかつた。
ナミダバシ 涙橋。相模高座郡の小和田。東海道を横ぎる小流れに架かつて居る。この近くの茅ヶ崎にも仕置場があつた。そこへ行く時に渡つたからだらうといふが(神奈川縣誌)、ことによると單なる念佛橋だつたかも知れぬ。
ジフヤガハシ 十夜橋。伊豫喜多郡のコノ森。四國街道の往還筋である。弘法大師が異人の饗應を受けたといふ物語に伴なひ、一夜の露宿が十夜も寢たやうな思ひをせられたといふ(温故録)。
ミダシバシ 亂橋。珍しい名であるが例は多い。三河作手の山村にあるものなどは橋ともいへぬほどの小さなものだが、或ひは敵が渡らうとすると落ちる奇瑞があつたなどゝも説明せられた。是も分布の弘い動橋や轟橋と關聯して其(531)起原を考へて見るべきものかと思ふ。
ヒマネキバシ 日招き橋。陸前桃生郡中津山にある。八幡太郎此橋の上に於いて、入日を招き返したといふ傳説がある(郷土の傳承二號)。この地方には別に日招き壇と名づくる古塚も數箇所ある。つまりはこの一種の物語がやゝ根強く流傳して居たのである。
 
(533)   第五卷 内容細目
 
 傳説(岩波新書、1940年6月)…………………………………………………一
 
 一目小僧その他
   自序
  一目小僧(大正六年八月、東京日々新聞)………………………………一一七
  目一つ五郎考(昭和二年十一月、民族三卷一號)………………………一六〇
  鹿の耳(同年同月、中央公論四十二卷十一號)…………………………一九二
  橋姫(大正七年一月、女學世界十八卷一號)……………………………二一四
  隱れ里(同年二〜三月<十五囘>、東京日々新聞)(原題、「隱里の話」)…二三〇
  流され王(大正九年七月、史林五卷三號)………………………………二五九
  魚王行乞譚(昭和五年一月、改造十二ノ一)……………………………二六九
  物言ふ魚(昭和七年一月、方言と國文學2)……………………………二八八
  餅白鳥に化する話(大正十四年一月一日〜十三日、東京朝日新聞)…二九八
  ダイダラ坊の足跡(昭和二年四月、中央公論四十二卷四號)…………三〇六
(534)  熊谷彌惣左衛門の話(昭和四年八月、「變つた實話」)…………三二八
 
 木思石語
  自序語
  木思石語(一)(昭和三年八月、旅と傳説八號)………………………三四五
  木思石語(二)(同年九月、同誌九號)…………………………………三五四
  木思石語(三)(同年十月、同誌十號)…………………………………三六五
  木思石語(四)(同年十一月、同誌十一號)……………………………三八〇
  木思石語(五)(昭和四年三月、同誌二卷三號)………………………三九二
  再び白米城の傳説に就いて(同年十月、同誌二卷十號)……………四一三
  白米城傳説分布表…………………………………………………………四一九
  傳説と習俗(昭和五年一月、旅と傳説三卷一號)……………………四二七
  武蔵野と水(昭和六年八月、同誌四卷八號)…………………………四四五
  「うつぼ」と水の神(大正十一年八月、史學一卷四號)……………四五八
  豐前と傳説(昭和十一年四月十七日、小倉郷土會講演)……………四六六
  「旅と傳説」について(昭和十九年三月、民間傳承十卷.三號)…四八六
 
(535) 生石傳説(明治四十四年一月、太陽十七卷一號)……………四九三
 
 夜啼石の話(大正四年一月、日本及日本人六四五號)………………四九九
 
 矢立杉の話(大正六年一月、黒潮二ノ一)……………………………五〇四
 
 曾我兄弟の墳墓(大正四年三月、日本及日本人、春季の擴大號)…五一一
 
 傳説の系統及び分類(明治四十三年十二月、太陽十六卷十六號)…五一七
 
 傳説とその蒐集(昭和四年七月、卓上帖一ノ三)……………………五二三
 
 橋の名と傳説(昭和十二年十二月、同十三年一月、民間傳承三の四、五)…五二六
             (2013年9月18日(水)午後5時15分、入力了)