定本柳田國男集 第六卷(新装版)、筑摩書房、1968、11、21(1971.10.15.4刷)
 
(1)  口承文藝史考
 
(3)     序
 
 神話といふ言葉を、此頃政治家や社會評論家が頻りに使ふやうになり、それが少しばかり私たちの思つて居るのと意味がちがふらしいので、斯ういふ書物を書く際には、何とか一言して置かなければならなくなつた。古事記や書紀の神代卷などに、筆録せられて居る大昔の世の言ひ傳へは、本居氏系統の學者は傳説と謂つて居たやうである。少なくとも之を神話と名づけたのは彼等で無く、或は「東亞の光」といふ類の大學の雜誌、殊に高木敏雄君等の同輩が始めではなかつたかと思ふ。この人たちの神話は勿論飜譯語であり、しかも内容の若干の近似に依つたまでで、是が希臘で神話と謂つたものと、方式も用途も一つだといふことを、確かめての上の適用では無かつたかも知れない。
 一方神話學といふ名前は用ゐる者も少なかつたが、ともかくも我々の神話研究は、日本にも神話といふべきものが果して有つたかどうかの問題から發足して居る。それから一歩を進めて如何なる形、如何なる目途の爲に生れ出でたものが、神話であつたらうかを考へて見たのである。私の考へは最も正しいとも言ひ切れぬが、先づほゞ安心して日本にも曾ては神話があつた、今でもよく捜せば少しは何處かに殘つて居るだらうと、いふことまでは出來るやうになつた。
 誰にも恐らくは否と言へないのは、神話は本來口傳へのものであつた。人が文字を知り之を以て言葉を表現し始めたよりも、遙か以前から行はれて居たものだつたといふこと、それから今一つは信ずる人の言葉であつて、神に仕ふる者のみがもとは管理して居たといふこと、是なども多分外國の研究者の、既に一致して居る所だらうと思ふ。さうなると神話が文學で無いことは論をまたず、更に文學に近い形を以て、之を書き傳へた記録を、神(4)話と謂つたことが正しかつたかどうか。それさへ問題になるのである。
 日本と同じやうな書物になつた神話が、有ると思つて居る人などはよその國には無いだらう。單に祖先と共にいつまでも、何とかして信じ續けて居たいと思ふ古い美しい幻想を、假に神話の名を以て呼んで居ただけで、寧ろこちらのやうに別にさう呼ばれて居るものが有る國ならば、誤解の處れ無しには眞似られない言葉だつたのである。誰でも知つて居るやうに、我邦最古の記録が出來たのは、いはゆる神話時代を過ぎて、千年も後のことである。よしや大昔の神話であることが確かとしても、久しい間の傳承があり、又編纂者の取捨があつた。それを後世の者が信ずるのと、以前に家々で之を信じて居たのとは、信ずるといふ言葉は一つでも、心持はまるで異なるのである。この差別を明かにしないで置いて、又一つの新らしい用法を加へたといふことは、無益な混亂の種であり、又私たちの學問に取つては迷惑の至りであつた。
 神話が歴史で無いといふことは、曾て一たびは其通りの事實があつたと信ずる者が、此世に有つたといふことを、打消さうとするものでは無いだらう。たゞ是を近年の如き一つの流儀に解釋して、古來常にこの通りと思はせようとしたのが惡いのである。そんな事をすれば何ものでも惡くなる。だから私などは、頭から神話を否認しようとするなどはまちがつた話で、寧ろ近よつてもつと詳かに、神話とはどんなものだつたかといふことを、熟視する方がよいのだと思つて居る。紀記風土記等が神話の記録であることは、私などもほゞ認めて居る。しかも是が多くの氏族の傳承を集めたもので、其中には種類があり且つ互ひに兩立し難い點も多く、是をさながらに信ずることは容易で無い。然るに今までは却つて半分の疎遠を以て、たゞ遠くから之を崇敬せしめようとして居た爲に、殆と受賣以外の研究は起らなかつたのである。それから今一つ、こゝに列擧せらるゝものゝ外には、後にも先にも神話は日本に無かつたものゝやうに、きめてかゝつたことも亦間違つて居る。この程度の痕跡又は斷片ならば、文書記録は勿論、時としては口承文藝の中にすら、まだ殘つて居らぬとは言へないのみか、それが後年(5)新たに生れ且つ信ぜられたといふことも、決して絶無だつたとは思はれない。神話を持ちたがる國民の氣質は、少なくとも信仰世界に在つては、最近までもなほ續いて居たのである。
 神話學といふ學問は、日本でならば可能である。特に一定の目的ある載録以外に、神話から無意識に導かれ、又文藝化したかと思はれるさま/”\の民間資料は、この國土には充ち溢れて居るからである。神話そのものは文藝ではないけれども、信仰がやゝ緩めばたゞ愛着のみ強く殘ることは、奇拔に過ぎた譬へながら、酒や餅などもよく似て居る。敍述の方式の美しさを慕ふ者は、之をさま/”\のかたり物に應用し、又内容の珍奇を樂しいと感じた人々は、うそと知りつゝも永く昔話として、その最も不可思議なる部分を保管して居た。この二つの殘留の綜合だけからでも、熱心なる外國の學徒などは、既に亡びたる神話の復原が出來るやうに考へて居るのに、おまけに我々の間には莫大な量を以て、傳説といふものが分布して居るのである。傳説は傳承の方式が定まらず、嚴格なる意味では口承文藝の中には入れられぬものだが、その存在が土地と結びつき、且つ必ず一部の信ずる者を持つて居た點は、前の二つよりも神話の元に近かつた。たゞ其根柢に神に對する一般の信仰がもう無くなつて、勢ひ是を本物の歴史であるやうに、解しようとする人の多いことが、之を神話の壞れて殘つて居るものと、見ることを許さなかつたのである。この點からいふと、古い日本の正史に載録せられたものなどは、或は本居平田の學派の人々が、傳説と呼んで居る方が正しいのかも知れない。ともかくも現在は正しく神話と謂ふべきものが、社會の尋常知識の表面からは消えて、たゞ間接に右の三つの傳承資料から、其存在を探り當てるだけになつて居るのである。さうしてこの三つには見過すことの出來ない共通と聯絡とがあつた。乃ち是を併せて説く必要が大きいのである。
 始めて私が口承文藝大意といふ題名の下に、本書の前半を書いて見たときには、用意が足りなくてこの關係を、判るやうに説くことが出來なかつた。それが氣になつて後にも色々と試みたものがあるのだが、どれも是もまだ(6)成功して居るとは言はれない。今度は又一つの方法として、昭和十年の頃「昔話研究」といふ雜誌に連載した文章を是に添加して、主としてこの方面から傳説との交渉を考へ、もしくはこの道を辿つて神話の本來の姿に、近よつて行く素志を明かにしようとするのである。讀者に先だつて自ら此書の批評をして見るならば、我々の祖先が何を信じ、如何に信じて居たかを知ることは痛切なる必要であるが、この書物には今一つ、それにも劣らぬ大きな問題、即ち古く謂ふ所の言靈思想、日本人は如何に自國の言葉を愛重し、どれほど力を盡して之を守り立てて居たかを、尋ね究むべき任務があるのだが、私はこの二つの目的をたゞ併存させて、今はまだ互ひに扶けしめようとして居ない。それが幾分か散漫の感を讀者に與へずには居ないであらう。著者の能力がなほ許すならば、いつかはこの二つが融合して、我々の日本人を世界に特色づける、一つの國民性を作り上げて居たのだといふことを、やはりこの國語の藝術として、最もわかりやすく且つすが/\しく説いて見たいのだが、それは實現し難い企てゞあつて、結局はたゞ嗣いで出て來る人たちの、同情と嗟歎とを喚起するのみを以て終るかも知れない。
     昭和二十一年八月
 
(7)     口承文藝とは何か
 
       一 新名稱
 
 始めて口承文藝といふ名を用ゐた人は、佛蘭西のポォル・セビオといふ民俗誌家であつた。今から五十年ほど前に此人が、la littérature orale といふことを唱へ出した頃には、まだ何處にもそんな語を使つて居た者は無かつたと、自分が謂ふのだから信用すべきであらう。一體佛人は我々が蕗の薹の苦味を嗜むやうに、いつも僅かばかり矛盾の有るやうな新語をこしらへて、感覺の刺戟を樂しむ風が有るが、この「口承文藝」なども生眞面目な人の耳には、何か落着きの惡い自家撞着を、含んで居るやうに響くことであらう。文藝は本來書いたもの、主として人の眼に愬へる爲に、文字を傭うて表現するものゝ名では無いか。それをば口で談り耳で聽いて、空に傳はることを詮とするものゝ、名稱とするのはをかしいといふ風に考へる人の有ることを承知の上で、わざと稍々意外なる俳諧的興味を、喚起さうとしたのが此語であつた。さうして其序を以て、今まで一向に氣の付かなかつた人たちに、なるほどさういふ「文藝」以外の文藝も、此世には有るのだと思はせることが出來たならば、更に第二の目的も遂げたことになる。氣の利いた命名法であつた。私も今度は此新語を借用して見ようと思ふ。
 日本でも文藝又は文學の「文」といふ漢字は、やはり原産國の説文に見える通り、もとは手わざといふ意味しか有(8)つて居なかつたものゝやうである。少なくとも王仁が千字文を朝貢する以前、即ち漢字が我々の常用に供せられる迄は、是に該當する日本語は無かつたと見えて、之を原音のまゝでモンとかブンとか呼ぶか、又はたゞ少し和らげてフミといふのが普通であつた。しかも一方には其フミでは無いところの言語藝術が、ずつと其以前から久しく存して居たことは、是亦歴然として爭ふべからざる證跡が有るので、「書くこと」を以て國の文藝の最初と見る者などは一人も居ない。さうすると新たに問題になつて來るのは、その文で無かつた一方の文藝を、本來の國語では何と謂つて居たかであるが、今までは是をまだ考へて見ようとした人が無かつたのである。
 
       二 綺語
 
 或はウタとかカタリゴトとかいふ名前が、その作品の一種毎に附いて居て、それを一括した總稱は無かつたものと、考へて置いても濟むのかも知れぬが、それは對立する相手が無かつた頃の話で、國の一區劃に文筆の業が盛んになり、しかも一方には全く文字といふものを使ふことの出來なかつた者が、あれ程一世に充滿して居た時代を想像して見ると、何か茲に謂ふ「口承文藝」の代りになる名稱が、無くては困る場合があつたらうと思はずには居られない。それを昔の人たちは何と言ひ現はして居たらうか。中世の書物を讀んで居ると、狂言綺語といふ文字がよく眼に着くが、是などは今私の説かうとする文字を用ゐざる文藝に、最も其意味が近いかと考へられる。狂言といふ語が我邦では特に變つた内容を具へて居ることは、説き立てる必要も無いほどに諸君が熟知して居られるが、綺語といふ方にも單なる詩歌文章以外、一段と廣い心持が有つたらしく、或はわざと其用法を筆の藝術で無いものに、限らうとした如く見える場合さへあるのである。勿論斯んな六つかしい漢語を、發見したのは文人であつたらうが、それが常の會話に入り、ほゞ通俗の間に流傳することになつたといふのは、ちやうど又さういつた一語の、時に入用があつたことを語る(9)ものかも知れない。今はまだ單なる想像説に過ぎぬが、事によると其前既にアヤコトバといふ日本語が出來て居て、綺語はたま/\是とよく一致する文字なるが故に、それを用ゐてあの樣に人望を博することになつたのでは無いか。狂言といふ方もタフレゴト、もしくはタクラダといふ國語を仲に置いて、辿つて行くと其推移の痕が察せられる。アヤといふ語の本の意味も、確かに今よりは範圍が廣かつた。たとへば沖繩では九州と往來する彩色した船を、アヤフネ(紋船)と謂つて居た。我々が言葉のアヤなどゝいふ場合にも、アヤシ・アヤカル・アヤマチなどの同系語の、兼ての心持も附纏うて居たので、必ずしも織物の綾のみから、思ひ付いたものでは無かつた。別な言ひ方をするならば、平凡單調で無い或人の心の働きが、物の言ひやうに現はれて聽く者を動かすことであれば、至つて單簡であつても是をアヤコトバと名づけ、乃至は綺語といふ漢字を之に宛てゝ、今でも少しも無理は無いのであつた。從うてもしこの矛盾ある「口承文藝」の語を借用せず、是非とも在來の所謂文學と引離し、相對立せしめて考察するがよいといふならば、他の歐米の國々はいざ知らず、日本ばかりは格別その用語の無きに苦しまない。綺語又はアヤコトバと謂つて居れば用は足りるのである。
 
       三 傳承の二樣式
 
 但しさういふことをしない方が、文學の研究には却つて遙かに有利なのである。我邦には限らず、この口承の文藝が孤立して居た國、即ちその隣に在る手承眼承の本格文藝と、手を繋いで歩んで居なかつた國などは一つも無い。民に文字の無い時代又は種族が有つて、まるで書物の文學を持たなかつた場合は幾らでも想像することが出來るが、是と反對に今日謂ふ所の文藝のみは有つて、綺語は解しない社會といふものは絶對に考へることが出來ぬ。さうして此二つが竝び存すとすれば、互ひに又交渉せずには居られなかつた筈である。早い話が日本國民の持ち傳へて居る最も(10)古い昔話の一つは、そのかみ記憶力の優れた或一人の若い女性が、暗誦して居たものゝ筆録であつた。建國一千二百年の後に至つて、始めて編修せられたる漢文の國史には、王仁歸化以前の神々と貴人との、御歌をあまた載せて居るのである。他の一方には又後代の言語藝術に於ては、如何に無識なる咄家たちの漫談でも、曾て讀書裡より導き來つた話柄を、少しも應用して居ないものなどは何處にも無い。我々は單に各時代の横斷面に於て、或種の文藝が口頭に傳承せられて居るために、今日は集拾がやゝ六つかしく、他の若干のものは記録を以て保存せられてある結果、比較的いつでも手にし易くなつて居ることを知るのみで、前者が識者學問僧の指導の下に、時々の改訂を免れ得なかつたと同樣に、他の一方も亦すべて石山寺の紫式部の如く、紙を伸べ筆を捻つて無より有を作り出したものと、推斷することまでは許されて居ないのである。勿論この中には文人の棄てゝ省みず、もしくは之と反對に隨喜して必ず寫し傳へようとしたものがあつて、二種はおのづから二つの流を爲して居たであらうし、是を問ひ尋ねて前代を明かにする者にも、興味の向ふ所はそれ/”\の別れがあつたらうけれども、しかも全然他の一方の側に無關心で、なほ一國文藝の趨向を説き得べしと信じた者は、幸ひに先づ近い頃までは無かつたのである。印刷といふ事業は社會文化の上に、怖ろしい程の大きな變革を齎らして居る。以前雙方がほゞ歩調をそろへて、各自の持場を進んで居たものが、瞬く間に兩者その勢力を隔絶してしまつた。必ずしも智識の欲求が急に片方に偏傾した爲では無くして、たゞ或ものが特に與へられ易くなつたのである。同じ書物の中でも數少ないものは退き隱れて居る。所謂定本の權威は專横になつて來た。個々の小さな口から耳への傳承が、是と對立して其由緒を語ることを得なくなつたのも、乃至はその特殊なる流布の樣式によつて、國の文藝の大體を説明し得なくなつたのも、共に前人の全く豫想しなかつたことである。國の文藝の花模樣は、色取り取りに人の心を惹くけれども、我々はもう其下染を忘れようとして居るのである。だから文學が當初字で書くことを條件としたといふの故を以て、其研究の對象を是までの樣に、眼の前に傳はつて居る文獻に限らうとする不利益は、今日に於て殊に忍び難くなつて居るのである。
 
(11)       四 讀と誦と
 
 そこで先づ第一に傳承の口と文字とが、如何なる關係をもつて居たかを考へて見る。この新舊二樣の文藝が、きちんと二通りに分れたのは近年の事であつた。西洋の學者には一方を未開人の藝術、もしくは文明國内の特に教育に乏しい者のみが、もてはやす所の歌や説話の類とし、他の一方を新らしい學問に惠まれた優雅階級のみの産物であるかの如く、解説して居る人もあるやうだが、其定義は今とても事實と背馳して居る。文字に縁の無かつた人々が、眼の文學を利用し得なかつたのは當り前であるが、實際には彼等の參與を全く豫期しない文藝といふものは稀であつた。耳の文藝に至つては更に其以上に、彼等以外のいはゆる眼の見える人々との交渉が深かつたのである。如何に教育といふ語を狹く解しようとした日本の家庭でも、耳の文藝に育くまれずに大きくなつたといふ人は、宮にも藁屋にも恐らくは曾て無かつたらう。獨り口舌の趣味が次の代の文藝を誘致すること、近くは講談が大衆小説の隆盛を促したやうな場合が多かつたゞけで無く、以前の著述には最初から、耳による流傳を目的としたものさへ少なくない。所謂七五調の文段はつい此頃まで、讀み本の常の形であつた。よみ本は決してたゞの讀本では無かつた。ヨムといふ我々の動詞は算へること、又は暗誦することをも意味して居た。雀はたわいも無いことを囀りつゞけて居る鳥であるが、之を南の島々ではヨム鳥と名づけて居る。新聞や雜誌に歌の樣な面白い節を附けて、聲高に讀む人は今でも居る。さうかと思ふと傍に寄つて來て、筋だけでもよいから話して聽かせよと、せがむ者も子供だけでは無かつたのである。私が稚ない頃に最も敬慕して居た一女性などは、伊呂波も書かぬ程の無筆ではあつたが、一度讀ませて聽いた草册子は皆會得して、誰よりも上手に繪解きをし又註釋をしたゞけで無く、四書や小學の素讀を監督して、どし/\と私たちの讀みちがひを正すほどに暗記をして居た。日本で一ばん古く、且つ有名なる幾つかの讀み本は、久しい間正眞の盲(12)目が之を管理して居た。本の不用な人たちが讀んで居た平家物語を、今は目あきが寫し取つていつ迄も持ちあつかつて居るのである。塙保己一の記憶力は特殊なる才能として、永く我邦の文運を耀かして居るが、彼を世に出す迄の歴代の修養といふものは、埋もれ放題に忘れられて居たのである。目あきは不自由なものだと謂つたといふ??の逸話などは、此人で無くとも有りさうな昔話で、さう謂つて我々の他力主義を、嘲り笑ひ得る盲人は幾らでも居たのである。單に盲だから其力を暗記に傾けたといふだけで無く、寧ろ常人を凌駕する彼等の長處が、此點に於て夙く認められて居たのである。さうで無かつたならばたとへ非凡なる塙氏が生れても、卒然として之を一國の學問文獻と、結び付けることは出來なかつた筈である。所謂明き盲の場合も問題は同じことで、本は「覺える」ことがその當初の目的であり、昔は又印刷複製の代りでもあつた。それだから今でも若い人の記憶力のみが尊重せられ、口移しが勉強の主要部分のやうに、考へられる傾向を存するので、口承文藝の範圍限界などは、少なくとも日本ではまだ明瞭に立つて居たとは言へないのである。
 
       五 作者意識
 
 この混同は獨り讀者の側ばかりで無かつた。二種の文藝は文字の用不用によつて、なる程追々に其樣式を分化して行かうとはして居るが、しかも文筆が全然無筆の者と没交渉になつたのは、純外國式の漢文や詩だけであつて、其他の部分に於ては今以て彼等の協力を絶ちきつて居ない。人のよく知る三州伊良湖の糟谷磯丸などは、型の如き漁翁であつたが歌を詠んだ。さうして手習は其歌を書く爲に、後になつてから始めたといふのである。昔は神氣の添うた婦女兒童が、ゆくり無く歌を口ずさんで感動せられた例が多かつたが、今でも童謠作品などゝ稱して、表現のそれと近いものを事の外に珍重して居る。こそけれける哉の學びにくい三十一字ですらも、階前縁下からにじり出て私も一首(13)仕りましたと、謂つたといふやうな話は何程も傳はつて居る。ましてや俳諧に至つては最初から執筆をたよりに、文字の無い者までが誘ひ催されて、連衆に加はるのが常の事であつた。口語の文藝は時代の要求につれて、庭訓往來から腰越?とまで發達して來たが、其中でも連句などは無造作で、自然に通俗の文藻を此方面に展開して、披講さへあれば何人にも、即座に其面白さが解るやうになつて居たのである。宗匠の註釋は寧ろ之を幾分か、わざと六つかしくしようとした傾きがあるが、さうすると又それを煩はしがつて、次には俳諧の更に俳諧なるものが生れて來た。土佐でテニハと云ひ、阿波でアンジと名づけ、肥後で肥後狂句、薩摩で薩摩狂句などゝ稱するものは、文字で傳はるから狹い意味の文藝かも知れぬが、其實は今でも世話人が帳面と筆とを持つて、口の應募者から名吟を集めまはつて居るのである。剽竊燒直しの沙汰は、當然に此間から起らねばならなかつた。元來投書文學なるものは、明治文化の大いなる特徴の一つであつたが、この突如として中央に集合した何萬といふ短歌俳句が、各新らしくして重複も暗合も無く、乃至千篇一律に墮し去らざることを、希望しようとしたのが無理な話であつた。地方の歌俳諧は單に年久しく割據して、他園に如何なる作が有るかを知らうとしなかつただけで無く、更に一方ではこの口承文藝の約束に遵うて、大體に昔から定まつたことを言はなければならなかつたのである。それが文書に録せられて、弘く全國中を比較することゝなれば、同案の?突き合ふのは當然の結果と言つてよい。以前家集の辨といふものが江戸の文人の間に論ぜられた時にも、此事はもうよく知られて居た筈である。つまり何かの便宜でいち早く書物に出された者が、一人で作者になつてしまふことを許し難いほどに、型と趣向とには共通のものが多かつたのである。淨瑠璃や草册子にも寶物の紛失、孝子の讐討や本領安堵、きまつてさうならなければ濟まぬといふ筋が色々あつたが、此方はいよ/\目先をかへることが必要となれば、長いだけにまだ幾らも取合せを工夫する餘地がある。短い文學に至つてはどうしてもさうは行かなかつたのである。私の祖母の一人は數學が好きで、今から八十年も前に、天が下の歌の數といふものを勘定して見て居る。もう一人の方の祖母は一代に二萬何千とかの歌を詠んで、それを年とつて後は時々再用して間に合(14)せて居た。所謂花晨月夕の當座の興なるものは、誰が詠歎して見てもさう違つたことは口すさび得なかつた。祝言や贈答には定まつた樣式が守られたのみならず、戀とか述懷とかいふ我心境の所産とするものでも、なほ全然意外なことを發露しては居ない。是が各個人の名と結び付いて、最早ほの/”\と明石の浦と言つてはならぬと、制限せられるやうになつたのは名歌のコであるが、同時に又書物の力でもあつた。人が必ずそれ等の制限の下に於て、何か新らしいことを言はねばならぬとなつて、文藝の受用は乃ち面目を一變するわけであるが、我邦は今尚其過渡の橋を渡り切つて居らぬのである。作者と暗誦者との地位はまだ至つて近い。或者は最も忠實に片言隻句までを守らうとし、又或者は頻りに新意を加へて、古來の傳承に時代の粧をさせようと力めるのであるが、共に聽衆が豫て期待する所の範圍から、遠く離れまいとする態度は一つである。群が作者であり作者はたゞその慧敏なる代表者に過ぎなかつた古い世の姿は、今もそちこちに殘り留まつて居るのである。口と筆との二つの文藝が、截然として袂を分つて進むものゝやうに、考へてしまふにはまだ少しく早いかと思ふ。
 
       六 臺本の問題
 
 記録の最初の用途が、精確なる傳承を期するに在つたことは無論である。個々の暗誦家がもしも凡庸なる物語座頭の如く、口移しに先人の言ふ所を眞似して、意味の理解と感動とを二の次に置く者ばかりであつたならば、或は文字の利用はまだ永い間、文藝の方面までは擴張しなかつたかも知れない。古來の傳承には定まつた幾つかの口拍子があり、今でも無視することの出來ぬ普通の樣式があつて、何れも記憶の爲に大いなる便宜を供して居る。暗誦は必ずしも文字に依頼する人たちが想像する如く、難澁至極なものでは無かつたので、それが次々に亂れ改まつて、原形の保存を必要とするに至つたのは、別になほ一つの新たなる原因があつたからである。其原因は知識經驗の増加と言つて(15)もよく、或は又信仰の不統一と名づけでもよい。兎に角に之を傳へんとした者の内部の生活が先づ複雜になつて、それが無意識にも又意識的にも、自然に異なる表現を促すことになつたのである。神話が外來の新らしい學問に影響せられて、永く固有の形を守ることを得なくなつたのは、その最も著しい一つの例であつた。古い文藝は多くの民族に於て、いつも惜まれつゝ薄れ又消えて行つたが、日本でもそれを繋ぎ留めようとした最初の事業が、それ自身頗る鮮明に、同じ感化と動搖の痕を示して居るのである。國々の風土記などの忠實に昔を語り傳へんとしたものが、新らしい言葉で説き改められて居ることは誰でも知つて居る。是が數百年來の歌謠文章を登録する場合に限つて、全然今日の蓄音機寫眞板の如くであつたらうといふことは、實は容易に斷定し難いことであつた。
 記録は勿論遠い將來に向つて、或一つの時代の最も正しい型を保存し、文藝の自由なる進化を抑制するの力をもつて居たが、同時に一方では今まで有るものを整理する點に於ても、個々の口頭傳承が爲し得なかつたことを爲して居る。古歌が新撰六帖以下御歴代の撰集に於て、どれ程まで寫しかへ吟じなほされて居たかといふことは、偶以前の記録の併存する場合にのみ、我々が心付くだけであるが、それを他の部面の撰者たちが絶對に避け慎しんで、常に稗田阿禮の如く口移しの暗誦を詮として居たと見ることは、如何にも心もと無い古文辭研究者の態度であつた。所謂定本の沙汰は印刷萬能の世に入つてからのことで、限りある經典の信仰を以て裏付けられたものを除く外、以前は筆寫も亦口頭の傳承と同じやうに、毎囘少しづゝの成長は豫期せられ、記録はたゞ次の一本の現はれる迄の期間、乃至は他の同種のものゝ知られざる地域に在つてのみ、一つの文藝を固定する力を具へて居たのである。
 近年の例として私たちの經驗したのは、古河古松軒の東遊雜記、是などはたつた一囘の愉快なる道行振であるに拘らず、殆と有る限りの寫本が多少とも内容を異にして居る。著者は一方に門人の傳寫を許しながら、終始之を座右に置いて筆刪を續けて居たのである。菅江眞澄の信州の三紀行などは、その當時のものが近頃になつて發見せられたが、是を四十年後の自筆本と比べて見ると、序述の改定があるのみか歌までが多く詠み直されてある。同じ一人の僅かな(16)一生にも、時を隔てるともう是だけの變化は見られる。ましてや人がかはり世態環境が改まつて、元の文藝が存續し得ず、しかも次々の換骨奪胎を以て、時としては模倣剽竊の非難を免れるほどに、外形を新らしくすることを得たのは當然であつて、我々は寧ろ斯うしてまでなほ大昔の趣味に縋り、古い樣式の或ものに約束せられようとした、國の文學の持續性とも名づくべきものを、感歎せずには居られないのである。芝居道の作者が今でもまだ一囘の演出をしか支配して居らぬ如く、講談師の著作權なるものが、此頃漸く問題になりかゝつて居る如く、或は又前人の發明を拾ひ集めた書き物が、著述と銘うつて幾らでも世に行はれて居ると同樣に、文筆は單なる傳承の一方法たるに過ぎぬ場合が多かつた。是が讀書であると暗誦であるとによつて、太い分堺線を引くことは不可能である。所謂天才の創意は?口から耳への文藝の中にも閃めいて居る。さうかと思ふと只の寫し物の、下手な燒直しをすらも敢てし得なかつたものが、手本が夙く消えた爲に上も無く珍重せられ、いつ迄も筆者の人柄をゆかしがらせて居る例も多いのである。さういふ書册が水火の厄を脱して、稀に後代に傳はつたのはたゞの偶然に過ぎない。是が御互ひの文學史研究にとつて、唯一又安全なる對象で無かつたことは、今更絮説する必要もあるまいと思ふ。
 
       七 所謂讀者文藝
 
 私などの見た所では、二種の文藝の最も動かない堺目は、今いふ讀者層と作者との關係、即ち作者を取圍む看客なり聽衆なりの群が、その文藝の産出に干與するか否かに在るやうに思ふ。今日の大衆小説などは、大衆の趣味が既にひねくれ、又際限も無く複雜になつて居て、作者が果して是に迎合して其筆を左右して居るのか、はた又皮肉に其裏を掻かうとして居るのか、見究め難いやうな場合も毎度あるが、以前は單純に人が意外を承知せぬ爲に、文藝は常に一定の方向に導かれて居たのであつた。是も芝居者の逸話に殘つて居るが、或田舍では馬が非常に好きで、馬の出ぬ(17)芝居にはすぐ退屈してしまふ。そこで妹脊山だらうが千代萩だらうが、「馬を出せエ」と見物が騷ぎ出すと、是非も無くその舞臺へ馬が乘込んで來ることになつて居たといふ。さういふのは誇張せられた一つ話だとしても、出し物が土地によつて大よそは極まつて居たことは、獨り小屋掛の興行には限らなかつた。歌でも昔話でも内容をほゞ豫期したものが、ちやうど適當な折を見て又現はれ、たま/\新意匠を悦ぶ者が有つても、その作り替へや後日譚にも、やはり許さるゝ限度といふものがあつた。神佛の威コが靈驗無しに終らなかつたは勿論、薄命の美人は必ず濟はれ、桃太郎は結局凱旋せずには居なかつた。殊に群衆が歌を思ふ場合などは、それが踊の庭であり酒盛の筵であり、はた又野山に草を刈る日であるを問はず、未だ聲を發せずして彼等の情緒は一致して居た。何人よりも巧みに且つ佳い聲を以て、之を言ひ現はさうとした者が當日の作者であつて、通例は之を音頭と謂つて居た。音頭を取る者は各自の器量次第、もしくは趣味の如何によつて、有りふれたる歌をうまく歌つて褒められ、或は人の知らぬ文句を暗記して折を待ち、或は即興に自作を發表する者もあつたらうが、何れにした所で聽く者の言はんとして能はざる感覺を、代表するより他のことは出來なかつたのである。信仰が一つの團體を統括して居た時代に、古く定まつた語りごとが寸分も逸脱を許されず、正しい傳承者のみが尊信せられたに反して、後には群衆の空想がやゝ茫漠と延長して、寧ろ新らしい變化を期待する傾きは生じたが、何れにした所で相手の「理解」が限界であつたことは、口も筆も皆同じであつた。つまり文藝は此方面に於ては、たゞ通常人の智能と共にしか成長せず、しかもその一般の水準が大いに高まつて來た爲に、爰に我々は今日の文運を見ることになつたのである。
 だから史學の當世風に倣うて、二三各時代の最も著名なる作者を飛石に、國の文藝の進展を跡づけようとする試みは誤まつて居る。彼等が天分は誠に超凡であつたにしても、それを證明させたのは背後なる凡庸の力であつた。たとへば西鶴や大淀三千風の文は、今日はどれ程面倒な註釋が添うても、もう其本意までを捉へ得ぬ人が多くなつて居る。作者がたゞ單に後代の鑑賞を豫期して居たのだつたら、あの表現法などは確かに失敗であつたといへる。しかも俳諧(18)の習練か、浮世わたりの經驗かは知らず、とにかくに同じ世に生れた町の人々のみは、之を讃歎し又時としては模倣し得るほどに、氣早な聯想と精微なる理解力とを具へて居たのである。獨り時代の知識と感覺とが、之を受入れるに適して居ただけで無く、或はなほ一歩を進めて、此種の文藝の生れずには居られぬやうな、世俗の趣味といふものは既に存し、たま/\之に促されて先づ起つた者が、大きな喝采を以て迎へられたとも見られぬことは無い。さうなつて來ると、作者を或一人の筆執る人に限ることは愈六つかしく、假に何等の兆候の文獻の上に認められるものが無くとも、社會が絶えず次の代の文士を著名ならしめる爲に、路を開いて來た勤勞は無視することが出來ぬのである。
 
       八 口碑零落
 
 是を後代の讀者の立場から言ふと、文藝の鑑賞の自然なる方法は、作者と同じ時代のたゞの人の心持に、なつて見るより以上のものは無い。彼等には直ぐに解つて面白く、我々には講釋をして貰つてなほ首をかしげるといふ相異の、由つて來るところを究めるが眼目である。近代の註解類も純なる受賣書で無い限り、追々に此途へ向つて來ようとして居るが、さて其復原には難易さま/”\の差等があつて、必ずしも近いからよくわかるとも定まつて居ない。適切なる例は俳諧の連句で、是は作られる片端から不明になつて行く。さうでも無いのか知らぬが七部集の評註などを見ると、十あれば十ながら言ふことが違つて居る。さうすれば少なくとも九人には誤解させて居るのである。語法の不精確とか省略の過當とかゞ、假に其原因であつたにしても、兎に角に其日の連衆には理解せられぬものがあらう筈は無いから、其心持だけは忘れられたのである。發句は別物として付合の方は仲間が狹く、且つ又外の人と懸離れて居た上に、興味が高まつて來ると一種内輪のみの空氣が釀されて、次第に獨り言に近い言葉までが、膝を拊つて共鳴せられることになつたもので、是などは所謂文藝の社會性、即ち紙よりも筆よりも、はた各人の才能よりも今一つ背後に、(19)之を左右する或力の臨んで居たことを、誠に具體的に日本人には説明してくれる。
 古來文學を歴史として研究する者の動機に、幾つかの段階があることは爭ふべからざる事實である。その最も通例なるものは、之をよく學んで自分も優れたる歌文を世に遺さうといふに在つたが、是は前にもいふ周圍の作者、即ち讀者層の支援を念頭に置いて見ると、殆と無益の辛苦であつたことがよく知れる。擬古文は結局浮世風呂の鴨子鳧子の如く、互ひに褒め合ふ以外に致し方の無いものであつた。次に出て來るのは古今の境の垣を撤却して、單に人としての情懷才藻を評價しようと努めるものであるが、是とても自分の今立つ地位が、曾て作者の向つて説かうとした方角と別であることを、十分に自覺した上で無いと獨り合點に陷り易い。古人の遺物はそれが金石に勒して永く傳へようとした記念塔の類であると、はた又偶然に落ちこぼれ消え殘つた紙ぎれであるとを問はず、今となつては之に由つて自らを語らうとせぬものは無いのである。其中でも殊に謙遜に、何かの背後から幽かに存在を示して居るものは、多數凡俗の常の日の姿であつて、それは今人の強ひて知らうとする所であるにも拘らず、時も隔てずして先づ埋もれ、忽ちに我々の過去を繋ぎの無いものにして居たのである。ところが文藝は今と昔と二つの側から、仰ぎ望む高根であつただけで無く、それが今見る形に積み上げられる迄には、無始の彼方からの記録せられざる運搬があり通路があつたのである。最初はたゞ一人の聲の美しいものに命じて述べしめたのが、後には記憶と改作とを擧げて之に托し、終には各人の自由なる選擇に一任して、大衆はたゞ追隨を以て能事とする迄になつたが、何れにした所で其作者との間に、時代が指定する約束だけはあつた。さうして其一方の要求なり期待なりは、今ではこの表現せられたものを通さなければ、認めることの出來ぬ場合が多くなつて居るのである。此節やゝ唱へられて居る文藝の文化史上の意義なるものは、斯ういふ風にしか私たちには解せられぬ。是が鑑賞といふ樣な良い時間を持たぬ我々にも、なほ前代の美辭麗句が、遠く高嶺の花の如く看過し得られない一つの理由である。
 今一つの理由は今日の書籍藝術が、ちやうど野山の花を園中に移して、元の種の在りかを忘れようとする形のある(20)ことである。此譬喩は幸ひに私の説明を簡略にしてくれるが、文藝が最初悉く民人の口によつて傳はつて居たことは、草木の自然も亦同じであつた。それが秋好む前栽に掘り栽ゑられたことは、平家や義經記などの色々の册子にも似て居る。朝顔やダリヤは好事の人の手にかゝつてから、思ひがけぬ新種が次々に生れたが、それでもまだ此花のみは、人が作り出したのだと信じて居る者は無い。ところが文藝には早くから産地を知らず、人が曠原に立つてその天然固有の美しさを愛したことが、今日之を庭上の誇りとするに至つた因縁であつたことを、夢にも考へぬ者が多くなつて居るのである。我々の植物學は園藝家のそれでは無い。是が手短かに現存の口碑の採集によつて、國の文學進化の經路を覓めようとする、私たちの態度を説明してくれるのである。
 
       九 採集と分類
 
 口碑といふ言葉は、一切の口承文藝を綜括した稱呼として、用ゐて見たいのが私の念慮であるが、習慣はまだ少しばかり是が障碍となつて居る。人が口碑といふものを省みようとするのは、文字の記念物の全く保存せられなかつた場合か、さうで無ければ是が一方の誤解であることを、例示する爲に入用な時だけで、既に記録といふものが同じ事柄を取扱つて居る以上は、口碑は當然に朝日の前の霜と、信じて居る者がまだ中々多いのである。實際に又文書の影響は大きかつた。明治以來の世にもてはやされた傳説などは、讀書の洗禮を受けぬものは無いと言ふも過言で無い。從うて我々が當然認めねばならぬ事實、今すら此通り口碑が多いのだから、以前文字が無く言語のみで用を足した時代には、是よりも遙かに豐富であつたといふこと、第二には文字記録の始めて結集せられた際には、當時の口碑のたゞ偶然なる一部分が、是と接觸したのに過ぎなかつたといふこと、第三には僅か一地域の寫本の傳承には、全國の口碑を統一してしまふほどの力は無くて、後々傳はつた口碑には若干の不純はあつても、なほ書傳と從兄弟であり又再(21)三從兄弟の關係に立つものが幾らでも存在し、其一部は又現今にも遺つて居るといふこと、この三つの事實に對しては、世上の認識は今も甚だしく不足である。
 是を今頃になつて立證しなければならぬといふのは、馬鹿げたことのやうにも考へられるが、さうで無くとも我々の事業は、採集を以て始められねばならない。さうして又現在の事實の集積より外に、此問題を解く手段は無いのである。但し採集は誰にでも、さう手輕に出來るといふ仕事では無い。永い辛抱が入用であり又時々の小さな成績によつて、採集者に働く張合ひを感じさせる必要もある。それで實際は出來るだけ記録との交渉が無く、誤解や混淆の少ない部分から始めて、先づ獨立して或程度の推論に到達し、それから順序を追うて、書かれた文藝との比較に入らうとして居たのである。多くの外國では其階段を履み終るのを待兼ねて、文學史の研究者が迎へに出て來て居る。フォクロアの暗示は幾分か時早く、之を前代文藝の解説に利用せられようとし、其爲に却つて民間傳承の堅實なる調査ぶりを、疑はしめる樣な結果をさへ見た。日本は幸ひなことに株を守る學者が多く、文學は即ち書籍の城壁に立籠つて、學べばそれでよいものと信じて居てくれた御蔭に、此頃漸くのことでほゞ系統立つた採集が始まつて、無理をせぬ比較が可能になつて來たが、それには又他の文明國で見るやうな雅俗二つの階級の隔離が無く、終始手を組んで一流れの藝術を育くんで來た國情にも感謝しなければならぬのである。
 各地採集者の二十年間の骨折は、ちやうど又無名作者の背後の事業の如きものであつた。之を利用する人が後々出なければ、其功勞は永く酬いられぬのである。しかも一千年の久しきに亙つて、人が自然の流傳に放任して居た大切なる民間の事實を、その將に亡びんとする間際に引留めて、之を確實にした記録だけは殘つたのである。以前も傳説などは少しづゝ報告した人があつたが、其目的はやゝ異樣であつて、之を新らしい讀物にしようといふ念慮のみ強く、趣味と文才とに任せて幾らでも元の形を變へて居た。近頃の採集だけは、意識して保存を專らとしたのである。從うて假に忘却や誤謬が有ると知つても、古くからあるもので之を補はうとしない。是だけ小口の多い現在の傳承を探す(22)のに、二十年は勿論長いとは言はれぬが、我々の本意としたのは或一定の時代の、全國に瓦つての横斷面を見ることに在つた。我邦は地勢の然らしむる所、地方の經驗が平地と山間と、海と高原とによつて、それ/”\の差等がある。それを或時點の現?に於て比べて見たならば、同じ一つの成長する文藝などは、或はその展開の各段階が、個々の環境によつて順序立てられるかも知れぬと思つたからである。此推測は大體に於て誤まつて居なかつた。何人が運搬に參與したかは、改めて又一つの問題となるが、兎に角に一つの傳承の分布して居る區域は弘いものであつた。さうして可なり特殊と見られる曲解や布衍までが、地を隔てゝ一致する例さへ稀でなく、細かく系統を立てゝ見たら、成長の經路を辿ることは難くないやうに思はれる。この比較の爲に何より大切なものは、精確な分類でなければならぬ。是は題目なり物の觀方なりの異同に基づいて、縱に細かく切分けることが必要であるが、果して最初から利用者が通覽の煩を忍ぶかどうかゞ疑問である故に、此方は何か簡便なる索引を工夫するの他は無いやうである。今一つの方法は口承文藝の外形に由る分類で、是も細かくすれば際限も無いが、大よそ通俗の名稱に從うて、先づ八つか九つの項目を立てゝ、それを場合に應じて小別することも出來る。一つの便利は外國の學者が、略この區分に基づいて其研究を手分けして居ることである。勿論各部は互ひに牽聯して居て、一つに深入りする爲に他の一つを省みぬわけには行かぬが、少なくとも前人の勞作に助けられて、幾分か直接の捜査の手を拔くことも出來るのである。それで今囘はこの分類法を採用して、之に由つて古來一つの民族の文藝心が、如何なる外形を取つて進化して來たかを見ようと思ふが、是は主として今後の採集者、殊に自分も樂しみつゝ民間の傳承を記録して行かうとする人に役立つべきもので、單に之を利用しもしくは論議せんとする者に對しては、更に第二の今一段と具體的な分類法をさし加へて、縱横二つの筋から我々の資料を、確實にする必要のあることは勿論である。
 
(23)       一〇 命名技術
 
 さて是から愈口承文藝の實體を説くのであるが、所謂あや言葉の特色を知る爲には、簡單なものから複雜なものへ、進んで行くのが自然の順序である。野外採集の作業としても、言葉の形ほど容易でしかも必要なものは無いのであるが、外國では奇妙に此項目が粗末にせられて居る。英國は別に方言調査の事業が進んで居た爲かと思ふが、さうでも無かつた國々までが、地方語の至つて大切な一つの起原を見落して居る。察するに是は民種によつて此技能に著しい徑庭があり、且つ國際の關係が認められなかつたのと、狹義の文藝の方には是と對比すべきものが無かつた爲に、歌歟や説話のやうに人の興味を惹かなかつただけで、日本で其眞似をすべきものでは無いのであらう。我邦でも文人は單語の選擇には中々やかましかつたが、其割に自分で新語を案出して、世に行はれることには成功して居ない。牡丹を二十日草といひ時鳥を死出の田長と呼んだなどは、噂には聞くのみでまださういふ日本語のあつたことは知らない。つまり言語は彼等に取つては、たゞ與へられたるものであつて、それを巧みに利用する以上に、文字の藝術は多能なることを得なかつたのである。ところが民衆は之に反して、その多數の力を頼みに、幾らでも新語を制定し、其一半は既に全國の標準になつて居る。新たに出現し又は分裂した事物には、造語の必要があつたからとも言へるが、外國から入つて來たものなどは或ものは原名を容認し、一部は改訂し又一部は此方の名を付與して居る。此判別取捨も亦他の者がしたのでは無かつた。それから明白に以前の名のあつたものに、今更作り設けてさし替へるやうな面倒もして居る。從來は是を一律に、方言はすべて誤まつた記憶の結果の樣に見て居たが、過失は新らしいものを作り上げる筈が無かつた。全體に一つの單語の使用が繁くなると、飽きて第二のものを持つて來ようとした傾きが見える。即ち最初は元の語を失うたので無く、單に異名として新らしいものを交へて居るうちに、言はゞ人望が此方へ集注し(24)たのである。異名は勿論氣の利いた、聽衆が説明を求めずに直ぐに笑つて雷同する底の語で無くてはならなかつた。即ち亦口承文藝の一般の法則に遵うて、群の感じを覺るに敏な者が、代表して總員の言はうとする所を言つたのである。斯ういふ技能の競爭は現代までも續いて居る。明治以來のものでも帽子のトリウチ、發動機船のポッポブネの如きものが數多い。紺屋が店を持つたのは年代も略知れて居るが、それから以後に於て「つゆ草」はコウヤノオカタとなり、「げんごらう蟲」はソメヤノババサとも呼ばれ始めた。「かぶと蟲」がバリカン蟲と名を改めたのは、あの髪刈器械の入るより前だつた氣遣ひは無い。つまり我々は人が同意をするであらうならば、何とぞして新らしい言葉を設けて樂しみたかつたのである。
 この種の言語藝術の活躍は、或は刺戟の多い近代の生活に入つて一段と盛んになつたのかも知れぬ。少なくとも文筆の振はなかつた上代の退屈しのぎでは無かつた。鳥蟲草木の多くが、如何に我々の言葉作りを促して居たかは、小野氏の本草啓蒙のたゞ一書を見てもよくわかるが、是は一方には色々の固有名詞の上にも弘く及び、たとへば近世自由になつた生れ兒の名、又は新らしい商店商品の名などに、可なり濃厚なる流行の有つたことは人も知つて居る。地名は住民の數と利用度に比例して、日本ほど多くなつた國も無いのであるが、それが命令や文人の發意に出たものは、字を替へる位が精々であつて、土地には根つから永續して居ないのに反して、大衆の自ら名づけたものは、際限も無く遠く行はれて居る。たつた一つの例を引くならば、道路の川に沿ひ民居の谷を登りに開かれた結果、水の姿と響とによつて付けられた地名、ドウメキ・サワメキ・キロメキ・ゴボメキの類が、南北何れの府縣にも到る處の同じ地形に行渡つて居る。何メクは「さういふ樣子をする」といふ古語であつて、是ほど率直に各自の印象を打明けた語は無かつた。それ故に萬人が異議も無く之を受入れたのである。
 
(25)       一一 新語と新句法
 
 しかも根本に於て國語の固有の法則から、一歩も踏出さうとしなかつた所に、是が他の種の文藝と同列に置かるべき理據はあるのであつた。自然の音響は最初から、言葉と同樣に意味の有るものと、昔の人たちには考へられて居た。だから新たにそれを模倣して單語とすることは、ちやうど小兒が始めて親たちの語を使ふのと同じであつた。所謂擬聲語はそれが爲に、最も無意識に非常な數に増加して居る。或は日本人が特に語音の變化を悦び、之を新らしく且つ複雜にすることに、餘分の才能を有つて居たのかも知れぬ。最初はたゞ同じ語を二つ重ねて、其意味を強く又明確にしようとしたものが、後には下半分の形をちがへて、意味より寧ろ音の面白さに興じ、しかも却つて副詞などの、形容力とも名づくべきものを大きくして居る。都市にもメチャクチャとかシンネリムッツリとかいふ例が若干あるが、大體に標準語では是を下品として避けようとする傾きがあり、古風な町田舍に入つて行くほどづゝ、其使用と發明とが益多くなつて居る。米澤方言集や出雲万言考などには、驚くべく多數の實例が採集してあるが、其他の地方でも急いで走りまはることをスッタカツタと謂つたり(陸中東山)、狼狽することをアワタキサワタキと謂つたり(西蒲原)、慎重にするのをダイジホウジと謂つたり(東葛飾)、或は凹凸をダンダリヘンブリ(紀伊那賀郡)、有り餘るをアバレコバレ(筑後柳河)、分け取りする有樣をテントロボントロ(肥前平戸)と謂ふやうな例は無限に集められる。是等にはまさしく詩歌と共通なる約束さへあつたので、無名ながらも何人か必ず、衆に先だつて此選擇を試みた者があつた以上は、之を藝術と名づけて聊かも其不可を見ないのである。
 のみならず是が又他の色々の語辭利用の上に、大きな影響を與へて居たことも、追々と證明せられようとして居る。言葉の妙味などは國限りのものであつて、之を國際的に品評すべき尺度とては無いが、我々の歌謠や語り物の面白さ、(26)さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなほ幼い者をまで引付ける力が有つたのは、偏へに音と間拍子とを粗末にしなかつた永い間の習練の御蔭であつた。個々の新語の世に行はれて、永く廢れなかつたのも惰性だけではなかつた。單なる落想の奇警は飽きられる時が來るが、音の興味には愛着の念が副うたのである。
 大體に新たに發明せられて行く言葉は、どうしても少しづゝ前のものよりは長くなる傾きを持つて居る。殊に現存の單語の適用を、やゝ意外な方面まで擴げて、人に氣の利いた思ひつきを認めしめようとするには、前觸れも必要なれば誤解も防がなければならぬ。それを響きの好い記憶に便な形にまとめるには、やはり一般の文藝と同樣に、その背後に許多の失敗と埋没とのあつたことが推測し得られるのである。今日及第して稀にまだ殘つて居るものには、信州のコタツベンケイ(炬燵辨慶)、上總のフッパリドヂャウ(頬腫泥鰌−蝌斗)のやうな微笑無しには採集し得なかつたものが多いが、それを一々例示して居ては手短かに話はすまない。爰にたゞ一言して置きたいのは、この複合は必ずしも常に動植物の異名に見るやうな、キツネノタイマツ・ネズミノマクラ・サルノコシカケの如き名詞形を以て現はれるだけで無く、往々今一段と手の込んだ動詞形容詞の改造にも成功して居ることである。是は多くの場合に於て或行爲の輸入でも無く、又或?態の新發見でも無かつた。今までとても之を言ひ現はす何等かの言葉はあつたのだけれども、それよりももつと適切に又は感じよく、之を相手に傳へようとする方法が採用せられたのである。最も簡單な例は食物の不味なことを、モミナイといふ方言は「うまうも無い」である。是とよく似たのは醜いをミツトモナイ、「見たうも無い」といふ婉曲な表現であつて、共に必ず近世の何人かゞ、用語を擇んだ結果に過ぎぬのだが、之を賛成して踏襲した者が餘りにも多かつた爲に、終には生え拔きの單語ででもあるかの如く、取扱はれるやうになつてしまつたのである。動詞の方にも此例は昔から多かつたやうである。たとへはウドム・イドム・ヨドムの始の吾、ドナル・ガナル・ウナルの始の音などは、最初誰かゞ持つて來てくつゝけたものであるが、今では當然として其技巧を感ずる者も無くなつた。近頃行はれて居るブリツルやテボフル、もしくはエボツル・マストル・ホロマク・ウザネハク(27)等も、何れも短かいながらに一篇の文章であつて、始めて之を唱へ出した者の、機智も空想も其中から窺はれるのであるが、現在は既に衆人共用の國語の一形式と化し去つて、著作權の所在なぜは全く不明に歸して居る。是と比べると他の一方に於て、古今常用の秋月春花の一句が、千たび繰返されても尚それ/”\の獨立した文藝であることは、甚だしく釣合ひのとれぬ話である。是は筆承文藝の領域が未だ定かならず、今なほ文字の垣根の中にまで入つて來て、この共同耕作の種を播かうとする者が、有るのだから致し方は無いのである。
 
       一二 諺の範圍
 
 しかも此傾向は必ずしも不幸なものとは言へない。狹義の文藝の大なる弱點の一つは、樣式が早く古び、材料が忽ち不足を告げて、自由に思つたことを組立てられぬことであつたが、斯うして外側の口語の世界から、絶えず新たなる補給を受けることになれば、その心配だけは先づ安まるわけで、實際今までは文人が一歩俗衆に近づく毎に、其作品は目に見えて生氣を帶びて來たのであつた。たゞ問題になるのはその外界の新語と新表現法が、果して順當に培養せられつゝあつたか否かである。一つの國語の盛衰を卜する標準としては、知られたる單語の分量や、文法の變化だけでは役に立たない。辭典には幾十萬語が列擧してあらうとも、毎日我々の使ふのは限られたものである。それが飽きもせずに前人の型を追ひ、乃至は粗造なる外國品で間に合せて、いつ迄も自分たちに適したものを考へ出さうとしなかつたら、國語は恰かも大男の四つ身の着物の如く、似合はぬものになつてしまふのは當り前である。文字教育の普及が日本のやうな國柄に於て、如何なる反射を口承文藝の上に與へたかは、特に此意味から注意する必要があつたのである。元來コトワザといふ語は言語の技術、即ち言葉の活用の全體を包容すべきものであつた。それを其一部の最も不變にして、寧ろやゝ古臭いのを特徴とするものに、限定しようとしたのが誤解の元であつた。英語などの Pro (28)verbs は、支那でも日本でも、諺の字を以て譯すべき語では無いやうである。プロバーブも素よりコトワザの中ではあるが、それは專ら暗記の力によつて、久しく持傳へられて居るものを意味して居た。我々の技術は更に此以外に、新たに色々の物の名と物いひとを考案して、毎日の會話を快活ならしめんとして居たのであるが、其大部分は格別の印象無しに、忘れられて再び出現せず、殘りの僅かだけが無暗に模倣せられて、次第に舊來のタトヘゴトなどゝ、同じ地位に祭り上げられることになつたのである。是は恐らく社會人が多忙になり、考へて物をいふことが少なくなつた結果かと思ふが、一時は可なり澤山の蓄積の中から、稍耳新らしいものを選擇して、幾分か相手を引付けようと試みて居たものが、今では我も人も知れきつた流行言葉の、ほんの少しのものを競うて使ふ故に、すぐに飽きてしまつて次のつまらぬものを待つことになるのであつた。江戸期の文學を讀んで見ると、何人にも目につくのは都市人の談話術の退歩である。秀句や口合ひの如き下品なコトワザにまで、新たに生れるものが段々に少なくなつて居る。其癖人は益多辯になつたのだから、話が單調に陷つて聽く者に馬鹿にせられ、從うて大きな感化を次の代の筆の文藝に、及ぼし得なかつたのも誠に已むを得ないのである。
 
       一三 譬へと格言
 
 今日謂ふ所の俚諺が雜駁を極めたものであることは、採集によつて忽ち之を感じ、又若干は之を順序立てることも出來る。私などの信じて居る所では、是が民間に最も早く行はれたのは、敵を攻撃しもしくは仲間の心得ちがひの者を、誡める手段としてゞあつた。是は通俗の日本語に於て、この簡潔にして奇警なる一種の物いひを、タトヘと呼んで居た事實からでも推察し得られる。近世小兒の玩び物とした伊呂波ダトヘなどは、名はタトヘであつても既に色々の樣式のものを交へて居るが、それでも其大部分は人間の愚劣弱點を嘲つて、聽く者の笑ひを催さうとした文句であ(29)る。笑ひは刃物以外の最も鋭利な武器であつて、之によつて敵を悄氣させ、味方を元氣づける力は大きなものであつた。今でも子供の喧嘩などによく見る如く、相手の眞似を醜くするのが一つの方法であり、其次には皮肉な批評をするのが、又一つの口の攻撃であつた。タトヘには殆と褒めたタトヘといふものは無かつた。即ち出來るだけ意外なものを持つて來て、目の前の問題と比較すること、是が人を笑ひの的にする手段であつたのである。之を戰爭には使はぬやうになつて、幾分か仲間の内では婉曲の巧みと、教訓の趣意とが加はり、後にはたゞ其外形を轉用して、たとへば「乾の夕立と叔母御の牡丹餅はもつて來ずには居らぬ」といふ類の、笑ひを記憶の便に供する習慣を生じたのである。
 斯ういふ第二段のタトヘには説明が添へられ、もしくは勸説命令の形をさへ具へたものがある。それは用途が追々に郷黨の間に多くなつて、單なる非難だけから反省を促す手段へ、進んで行つた結果であらうと思ふ。西洋のプロバーブには特に此段階に在るものが多く傳はつて居るから、是を以て直ちに我邦のタトヘを解説することは出來ない。格言といふ物々しい名稱などは、彼には或はあてはまるかも知らぬが、此方のものは只其一部分しかさう呼ぶのに適しない。肥前でチャーモンと謂ひ壹岐でテーモンと謂ふのは、「といふもの」といふ語の地方音である。中部には又イヒゴトとかヒキゴトとかいふ地方も有るらしいが、是等は或程度までかの格言といふ語と合致して居る。此種の諺が最も能く人に記憶せられ、後々若干の教育用のものを考案して、之を流布しようとした人が出來たのも、本來の原因は若い男女が、特に會話のあや言葉に注意し、之によつて巧みに嘲笑せられまいと、警戒して居た習慣に在つたやうである。何にもせよ今後の採集者たちは、もう一度コトワザの分類をし直す覺悟を以て、幾分か廣汎に一般人の物いひを觀察する必要があるので、もし是を書册の記録に限り、もしくは在來の定義に服從して、少しでも教訓の趣旨の含まれて居る文句だけに止めようとしたならば、其結果は折角我々の間に發達して來た言語藝術の一面を全然度外に置いて、日本の文藝史を講説するやうなことになつてしまはうも知れぬ(アルス兒童文庫本、ことわざの話參照)。
 
(30)       一四 謎とあかしもの
 
 謎も根原に於ては亦一つのコトワザであつて、後にたゞ其用途を異にしたものに過ぎぬことは、今でも外形の類似から之を説明し得られる。たとへば「尾ざき谷口宮の前」といふいひごとは、さういふ場處に屋敷を開くべからずといふ教訓を暗記用にしたもの、また「木六竹八へい十郎」といふのは、樹は六月に竹は八月に栽ゑ、塀は十月に修覆するがよいといふ意味ださうだが、是を最初に聽いたものは説明してもらはねばならぬ。其他の嘲語や輕口の如きものにも、人の智能によつて或者は覺つて先づ笑ひ、他の或者はぽかんとして聽き流すといふ差等はあつて、そこに刺戟も生じ又興味も涌いたのである。勿論終局に於ては全部が皆理解し、一同に豫定の心持に到達することを期せざるものは無かつたが、なほ其過程に於ては各人の力を競ふ餘地を存して居た。極端な例は未成年者、もしくは他所者が新たに入つて來た場合に、多數の共に笑ひうなづき合ふのを見て、心淋しく感ずるなどがそれであつた。群の信仰に仲介者解説者を生じ、それが職分となり又家筋の特權となつたなども、又その一種の變化であつて、彼等は永く優越の地位を保持せんが爲に、力めてそのコトワザを解し難くせんとした。秘密といふ言葉の人間に生れ出でたのは、起りは此樣な至つて單純なものであつた。
 ちやうど戰爭や狩獵が諸種の競技を盛んにしたやうに、所謂考へる遊戯(thinking gymnastics)の起るべき動機は爰に在つた。ナゾは要するに比較的意味を取りにくいコトワザの終りに、「何ぞ」といふ語を添へて人間に問はうとした形であり、言はゞ練習用の  稍々實際に遠いものである。職業として入用な隱語や符牒、もしくは信仰を共にする者のみが理解する忌詞の類は、是と獨立して寧ろ一段と六つかしくなつて行き、同時に他の一方には此競技の發達に伴なうて、我々のコトワザには又新たなる一種類が加はつたのである。謎の特徴は答が最も簡單又平凡で、問自身(31)が出來るだけ意外なことであつた。さうして聽く者をしてその奇拔な取合せに吹出さしめる點は、幾分かタトヘゴトの俳諧を受繼いで居た。近世は謎解坊主などゝいふ職業の者が現はれて、其樣式が全く一變し、答は問ふ人の豫想したもので無く、勝手な思ひ付きを答へて置いて、「其心は」を以てこじつける三段のものとなり、從うて地口同然に言葉のみのもぢりになつてしまつたが、それでもなほ古くからのものを蹈襲して、是を知らぬ人ばかりの群へ分布しようとする傾向は殘つて居る。將來に向つてその活?なる成長を期待することは出來ぬまでも、少なくとも從來我邦の民間空想が、如何なる經路を歩んで現在の?に達したかといふことゝ、國語が此目的の爲にどれほど迄自由に、驅使し指導せられて居たかといふことゝが、我々の採集によつて明かになつて來るわけで、この新たなる文化史上の「あかしもの」に關しては、婦人小兒こそは却つて感謝せらるべき保管者であつたのである。
 
       一五 唱へごと
 
 ナゾの新舊二通りの比較は、啻に我々の言語藝術の零落を例示して居るだけで無い。和歌なども亦是と同じ傾向を追うて、後世は所謂掛け詞の口合ひに才分を認められ、もしくはたゞ本歌の句の聯想に縋つて、格別言ふつもりでも無いことを、言つてしまつて居るものが多くなつた。實地の入用に基づいた論文や手紙のやうなもの迄が、型にはまつたのを上乘と認められるやうになつたのも、やはり文章の社會教育が、振はなかつた一つの痕跡である。我々の民間文藝研究が主として古い姿を尋ね、又はたゞ幽かに傳はつて居るものに注意を向けなければならぬ理由は、一度は何としてもこの永年の因習の外に出て、國語と民族心理との關係を見直すべき必要が有るからであつた。唱へごとが我々のコトワザの最も古い形の一つであるにも拘らず、常に時代と共に其形體を改めつゝ、しかも未だ曾て語音遊戯の末技に走らなかつたといふことは、此意味に於て今からでも考察するの價値があると思ふ。
(32) 我邦の唱へごとは信仰の變化によつて、今日既に其數が非常に少なくなつて居る。現在普通にさういふ名を以て呼ばれて居るものも、最初呪法の目的に出でたことは同じであり、又呪文としての効果は其方が多いのかも知れぬが、それは個人の秘傳に屬するもので、他の一方の群が共有して居るものと重要なる點に於て相違し、從うて又トナヘゴトの名には當らぬのである。神靈には耳を傾けさせても人には聽かせまいとするのだから、口承文藝の範圍には入らぬものである。之に反して本來の唱へごとには、無意識の誤傳はまゝあるが、兎に角に定まつた形を具へて誰にでも聽かしめ、それを又必要な折にのみ繰返して居る點は、頗る我々が想像して居る神話などゝいふものと近い。しかも現存のものは、何れもいつの間にか古代の表現法を改めて、近代の國語に依らうとして居る。是が私たちには文藝のまじめさ、即ち遊戯消閑の爲に自由に模倣することを許さなかつた、遠い時代の面影を窺はしめるやうに思はれるのである。
 となへごとの都市に傳はつて居るのは、祭の神輿を舁く時の詞、又は踊や歌の囃子の至つて簡單なものだけであるが、農村には今少しく内容の豐かなものがある。それが採集せられずに此頃迅速に消えようとして居るのである。たとへば雨乞の詞として私などの記憶して居るのは、
   雨たアもれ龍王いのり
   雲に汁氣は無いかいのウ
 是が土地によつて僅かづゝ變化し、阿波の木頭などには問答體のものもあるといふ。それから神送りの色々の詞、或は「がい氣の神送つたア」と謂ひ、又は「うんかの神送れよウ」とか、もう少し進んでは、「實盛殿は御上洛、稻の蟲は御伴せい」とかの類は、何れもさう言はぬと兇神は還り去らぬと信じたのだから、傳承の確實であつたのも當然である。正月には又色々の唱へごとが、集めて見てもよい程多く行はれて居る。「鬼は外福は内」は最も有名だが、その他にも土龍打ち、なり木責め、鳥追ひ猪追ひは歌謠に近い所まで發展して居る。それから今でも稚ない者の口移(33)しに教へられて居る「正月樣どォこまで」、又は三月雛送りの、
   海見ィやれ里見ィやれ
   櫻の花を見てごォざれ
の如きは、形も既に整ひ又平凡で無い感動も伴なつて、時としては民謠と同一視せられて居る。是を唱へごとだから文藝で無いなどゝ、斷定する者は恐らくは無からうと思ふ。
 
       一六 童言葉
 
 さういふ中でも聽くたびに哀れを催すものは、盆の魂祭の日の火を焚く折の唱へごとであつた。土地によつて方言の差はあるが、迎へ火の夕は「ぢいな・ばあな、此あかりを見て來たうらい」と謂ひ、又送り火には「ぢい樣ばあ樣、此火でおいきやれ」と謂つたりすることは、日本東半分の山里の普通であつた。成人が少しづゝ賢こくなつて來ると、ちやうど正月の年男に少年を選んで、若水迎への詞や「ゆの木の下のおん事」を言はせたやうに、是も興奮する子供だけに唱へさせて、親たちは黙つて聽いて居たのである。しかも斯ういふ文藝は小さな人の胸からは生れなかつた。又それほど由來の新らしい文句でも無かつた。いつの世からかは知らぬが、保管者だけが變つたのである。さうなつて來ると暮春から新秋へかけての夕暮などに、小兒等が外に居て大きな聲でわめきあるく言葉の中でも、どれ迄が彼等自身の需要によつて起り、どれだけが年長者のいふことを模倣したものか、堺目が甚だはつきりせぬことになるのであつた。正月十四日の夜のホトホトや粥釣りなどは、現に今でも青年が之を唱へて來る地方がある。亥の子の門祝ひや山の神の藁勸進の類も、利害は兒童に屬するが背後には之を教へ、又誤つて居れば正さうとする者があつたのである。「夕やけ小やけ」や「螢來い」などの、何でも無いやうな遊戯語の類とても、最初たゞ彼等の一人の空想に生れ(34)たものであつたら、斯樣に永く傳はり又弘く分布することが出來なかつたらう。察するに童話が童子の爲の昔話であつたと同樣に、童謠も亦彼等共通の感情を代表した、所謂先覺たちの言語藝術、即ち子供用としての唱へごとであつたのである。
 ところが世間には是を勘ちがひした人があつて、新たに童謠を幼なき作者の中に求めようとしたのは、彼等にとつては迷惑至極な話であつた。兒童の國語に對する立場は、明かに大人とは違つてゐる。第一に文藝の主要なる要件である所の、言葉の取捨選擇といふことが許されて居ない。彼等の爲し得たことは最初には音と形によつて文句を覺え、それを繰返して居るうちに、次第に其各部分の單語の意味を會得し、それを積み重ねて行つて漸くに新たな組合せが出來るやうになるのである。人の言ふことがよく解るやうになつてから、更に何年かを經なければ口は達者にならぬ。それを褒めそやして何かを言はせようとすれば、ちやうど神童に歌を詠ませたやうに、いづれ誰かの口眞似になるのは知れて居る。さうで無くても今日は心を輕んじ言葉を愛し、思はぬことでも言つてしまはうとする世の中である。堂々たる有髯男子さへ人がうまく言つたことをいつ迄も記憶して居る餘りに、いつかは之に近いものを自分も出して見ようと、苦心して居るやうな有樣になつて居る。國語を次の代の者に授與すべき職に在る人たちが、模倣をよい事と考へて、無智の者の片言を憫まうとしなかつたことは、たしかに國文學の一つの流弊であり、又唱へごとの起源に關する誤解でもあつた。
 
       一七 手?唄の經驗
 
 兒童が忠實なる民間文藝の管理者なると同時に、作者としては最も不適任であつたことは、何れの國民よりも日本人がよく實驗して居る。大和田建樹氏の歌謠類聚以來、手毬唄の採集は全國の隅々に亙つて、既に數千の多きに達し、(35)之を比較して見ることが今やいと容易になつて居るのだが、此歌の如く章句の離合集散が常なく、意味が不可解になつて、しかも永く記憶せられて居るものは他に無いのである。その主たる理由は手毬の遊戯が、歌を伴なふことによつて興味を深くし、其技術が進むと共に前よりも長い歌を要するやうになつたことゝ、今一つは兒童がその各部分の情景を愛しつゝも、甚だしく全體の結構に無頓着であつたことに在るらしい。手毬唄の根源は幸ひに多くの類型の排列によつて、大よそは之を究めることが出來るやうになつたが、以前職業として之を弄んで居た品玉の藝人から、引繼いだかと思ふものは案外に少なく、且つ概して筒單なやうである。大體に鞠の藝を揚げるものと突くものとに分つて、揚鞠の方には品玉から出たらうと思ふ歌も幾つかある。たとへば「あれ見ィやれ」とか「向ふ小山に」とか謂つて、毬を見つめる者の眼を外へ誘はうとするなどは、曲藝の徒の今でもする事であるし、「雀が三びき」だの「よい子が三人」だのといふのは、もと三つ毬の遊びに名づけたものだらうから、是を子供の二つ毬に歌ふのは轉用であつたらうが、それさへも今は原の形を認め難い迄に、他の縁の無い章句と繋ぎ合されて居る。今一つの突鞠の方に至つては、後々木綿絲その他の彈む材料が多くなつてから、童女たちの中に於て發達したかと思はれて、之に使用した歌は愈雜駁に、耳にする限りの色々の歌から借りられて居る。舊來の品玉歌を調子を變へて、強ひて此方に合せようとしたは勿論、「つく」といふ言葉から以前の手杵唄なども、今は却つて鞠の唄に多く保存せられて居る。それから子供を相手にしてしが無い生計を立てゝ居た旅の者の歌なども、折々は手毬に採用せられて居たと見えて、「とうからお出でたおいもやさん」といふ鑄物師の戯れ歌なども、是を只鞠歌としてのみ記憶して居るものが多い(參照、拙著海南小記)。現在やゝ纏まつた内容をもつ「おるせ」の哀話、又は井筒屋お駒の旅で殺された話、小夜の中山の母無き赤子、千松の手紙といふ類の四五篇は、本から採つたのでも無く自ら作つたのではなほ無くて、何れも讀賣の節から流行した名殘であることはほゞ察せられる。小兒自身の小さかしい發明も、絶對に無かつたとは言はれぬが、少なくとも他の大部分は聽き覺えを利用して、それを僅かな語音の類似から、際限も無く間違へて繼ぎ合せ、又はよい加減の所で止め(36)て他に轉じて居たのである。斯んな奇拔な民間文藝の實驗を、爲し得た國民は日本の他には無いかと思ふ。今さら童話などゝいふわけのわからぬ名を設けて、兒童の言語技術の不可能性を、試みる必要は無かつたのである。
 
       一八 子守唄變遷
 
 童謠の本來の作家は愛する親たちであつた。兒童は作つて與へられなければ、必ず大人のものを聽いて眞似した故に、それよりは彼等の心境に適したものを、考へて授けようとしたのが愛情であつた。今でも口不調法な老人や母親が、子の爲には甘んじて詩人となり、小説家たらんとして居る努力はよく見られる。さうして又是が上代に溯つて、作家意識の一つの起因でもあつたのである。彼等の唱へんとしたのは只の唱へごとであつたが、兒童が長い文句の歌に似たものを要求する故に、自然に童言葉は歌謠に近くなつた。是は作者が國語を自由に使役し得る人たちであつた故に、聽き手がまだ精確に之を模倣し得ず、耳で學ぶのが精々であつたうちから 其作品には手鞠唄のやうな内容の混亂は無かつた。我々日本人の大切な傳承の中には、「ねんねのもりは何處へいた」と、「お月さま幾つ」との二章があつて、今でも土語に言ひかへて全國の隅々まで之を用ゐて居る。晴れたる夕方に門の近くなどに立つて、月を指ざして彼等と語つた者は、即ち又盆の迎火の宵に喚びかけらるべき爺な婆なであつたらう。單純を極めた彼等の空想の表現は、稚ない鑑賞者の感覺を貫ぬいて、永古に不朽であつたのである。
 それからもう一つ、何れの府縣に行つても必ず殘つて居る長篇に、
   わらしャど/\花折に行かねか
   何花折りに、梅菊牡丹
などゝいふ語を以て始まつて居るものがあるが、是は土地によつて子守唄に使用せられ、又他の土地では手鞠唄とし(37)て利用せられ、さうして早著しく入り亂れて居る。此歌の最初の「わらしャど」は複數形であつた。抱かれて居る幼兒の先づ目につくもの、即ち其足元に遊んで居る子供たちに歌ひかけたことは、ちやうど夕月を見て「年は幾つ」を尋ねたのも同じだから、是も根源は子を遊ばせる歌であつた。それが相手の「わらしャど」にも記憶せられて、共有となつて久しく傳はり、今では作者の動機も不明になつて居るが、それだけに又今まで埋もれて居た小兒の社會史を、暗示する所も小さくは無いのである。
 伊豆の新島の守父母(モリトウ・モリカア)の慣習を見ても心づくやうに、子守が純然たる雇人となつたのは、さう古い時代のことでは無かつた。藁のつぐらに兒を入れて置くのが、何だか不安なものに考へられる樣になつて、生れたばかりの赤子を小女の背にくゝり付け、朝から晩まで路傍や寺の庭で、遊ばせる風が盛んになつて子守唄は一變した。どどいつと同じ語數の近頃の守の歌は、土地によつては數百首も採集せられて居るが、此中には小兒と共々に自然を詠歎したやうなものは一つだつて無い。そんな事を言つても解らぬやうな、赤子を負うて居たのだから是非も無いが、「泣くな」と「。寢てしまへ」より他には共通の題目とては無く、其以外に歌はれるのは主婦のわる口と親の家の戀しさ、それから仲間同士の情合ひかあてこすりか、さうで無ければよその戀歌の口眞似をする迄であつた。私などは三つ四つの頃に、斯ういふ種類の歌を幾つと無く覺えて居たが、それを口まねするたびに必ず親たちから笑はれ且つ制止せられた。つまり童言葉との聯絡は全く絶えて、子守唄は既に純然たる勞働歌となり切つて居たのである。
 
       一九 仕事唄と戀歌
 
 民謠は諸民族の口承文藝の中堅を以て目すべきものであるが、以前の鑑賞家は殆と一人として其研究者では無かつた。日本は其發生?態の殊に尋ね易い國であるのに、斯んないゝ加減な取扱は何としても損な話である。子守の仕事(38)唄よりも今一期おくれて、我々の間に出現したものに工女唄があつた。工女は一つの階級で特殊なる利害と心理とを持つて居た。如何なる文獻も彼女等の歌以上に、其生活を説くものは無いとさへ言はれて居る。さうすれば歌がどうして生れたかも、考へずには居られなかつた筈である。今の絲取工場の組織せられる以前、「しんきしのまき云々」といふ本歌をもつた篠卷節といふ絲紡ぎ歌があつた。是も絲車といふ新器械の採用に伴なうて、新たに發生して來た哀調の一つであつた。年頃の女たちが群を爲して、一人々々の手わざに辛苦して居れば、戀歌が其中から生れるのも自然である。彼等はさういつ迄も仕事がつらいといふ事のみを、歌うては居られなかつたのである。
 仕事唄は多數の合同作業を必要としなくなつて、次第にその第一次の目的を忘れて行つたやうである。古い例では今でもまだ僅か殘つて居る草苅唄、茶摘唄などゝいふものがそれであつた。是は促迫が無く又多數の仲間と手を揃へる必要が無い故に、調子は伸び/\と緩み、歌の言葉にも遊びがあつた。西洋で牧歌といふものは其上に、牛羊のむつびたはけるのを眼の前に見たのである。男女の間柄を文藝の主題とする發端は、是ばかりでは無いが是も亦有力な一つであつた。單に勞働の苦難を紛らす爲のみならず、人を一心にする爲にも戀愛は好箇の題目であつた。男は此以外にも今一つおどけたことを言ふ技術を知つて居たが、女は笑ふ役であつて笑はせる役では無かつた。だから彼等の唄には艶情が常に濃厚に、時としては稍大膽にさへ表白せられる風を生じたので、是によつて工女たちの品行をまで、推斷しようとしたのは素より當を得ない。
 歌は仕事の性質と是に携はる者の境涯によつて、節も言葉も次々に變つて居る。同じ臼唄で以前三人の女が、手杵を執つて物を搗いて居た頃には、曾て伊藤左千夫氏が萬葉物語の中に、小説化したやうな歌が多かつた。それが摺臼の遣り木を男の手に委ねて、音頭を取りつゝ粉をひくやうになると、
   臼をひくときやいねむりまなこ
   團子食ふ時や猿まなこ
(39)といふ類の、皮肉な諺に近い道化唄が飛び出して來るのであつた。田植唄が最初は至つて謹嚴な、儀式歌と言ふよりも寧ろ信仰の力を以て、田人の情熱を統一するやうなものであつたことは、中國各縣の大田植の歌を聽けばよくわかる(參照、東石見田唄集)。それが一旦中絶に歸すると、分散して地方に傳はるものは悉く、日の永きをかこち腰の痛さをわび、さては花嫁を嘲り子持を羨むやうな、卑近なものばかりになつて居るのである。しかも民謠の根源が個々の作業に對する共同の唱へごとであつたことは、たとへば綿打木挽油締といふ樣な、新らしい職業の歌にもなほ認められるだけで無く、一方には古來の石搗や木遣のやうに、徹頭徹尾衆人の力を糾合する爲のみに、音頭の利用せられて居た例も我邦にはまだ多いのである。後世進化した作家たちの動機は何とあらうとも、人が協力して或一つの仕事をする必要が無かつたならば、民謠は恐らく我々の間には起らなかつた。さうして民謠は無いけれども詩歌だけはあつたといふ時代も、亦我々には想像することが出來ないのである。
 
       二〇 酒盛作業
 
 但し爰に謂ふ「仕事」の中には、獵や戰爭や神祭りや競技等の如く、今日渡世といふ語の外に置かれて居る活動をも、包含しなければならぬのは勿論である。人間の「仕事」に斯んな二通りの差別が有つてよいものか否かは、私たちに判斷が付かぬが、少なくとも雙方が共に精根の集注を必要とし、從うて又數多い心と筋肉との働きを、一種の掛聲によつて統一しなければならなかつたことは事實である。音頭は明白なる勞働の指揮であり、又見樣によつては強制でもあつた。近代は甘んじて此誘導に從はぬ者が多くなつて、普通の掛聲は愈其促迫を加ふると共に、一方には是が悠長なる民謠とまで成長したことを、信じたがらぬやうになつて來たのである。或は又仕事唄が民謠の一つの形であつたことは認めながら、それよりも戀歌の方が更に古かつたなどと、言はうとする人も隨分あるが、さう言つて(40)見たところで結論に變りは無い。渡世では無いけれども戀も亦重要な人間の一つの事業であつた。互ひに一人を指定した男女の協力ほど、間拍子を精確に合さねばならぬ仕事は他には無かつた。是にも亦大いに歌の必要であつたことは當然である。
 實際婚姻には昔から無數の歌があつた。最初に先づ現はれたのは妻問ひの歌であつた。西洋では之をセレナタと名づけて居る。次にアウバァドと稱して後朝の歌、是も今一度互ひの心を見るために、筆の文藝の世になつても、日本では儀式的に續けられて居た。それから忘れずと誓ひ待つといふ心を通はすべく、事にふれ物に寄せての樣々の歌はあつたのだが、尚其以外にも和歌集の類題にも豫想しなかつたやうな歌の入用が、民間實際の生活には有つたのである。
 酒宴が婚姻の完成に缺くべからざる要件であつたことは、其理由極めて明かである。今まで他人であり敵であるかも知れなかつた人々が、是から長のよしみを結ぶ爲に、一つの甕のものを酌んで、同じめでたさの感じに融合しなければならぬとすると、この新たな人生作業の一致にも、掛聲の殊に美しいものが必要であつたのである。古人が珍客の前に盃を進めて、「肴をする」と謂つたのは歌ふことであり、又その歌の面白さを舞ふことであつた。歌と酒とは二つながら、共に其用途のまだ/\廣いものではあつたが、是が相助けて一つの晴やかな光景を演じたのは、專ら珍客の來つて相交はる場合だけであつた。或は最初は皆戀の歌の延長であつたのかも知れない。少なくとも亭主が家の子や身内の者のみを侍らせて、長夜の宴を張ることは濫用であつた。しかも飲酒の樂しみが惡癖となつた如く、歌の興奮が深い印象を殘して後は、それを聽かうが爲にも人は酒盛の席を戀しがつた。さうしていつ迄もめでた/\の勸酒の歌をくり返すことを止めて、終には色々の歌をよその仕事場から借りて來た。それにも男女の唄の尚多かつたのは自然であるが、醉うて其適用の當れりや否を省みなかつた爲に、後々は亦小児の手鞠唄の樣に、亂雜なる混淆を來すことになつたのである。
 
(41)       二一 踊とくどき
 
 是とよく似た紛糾は又踊の方面にも認められる。踊が人間の最も重要な作業の一つであつたことは、今でも踊る人たちがよく之を知つて居る。盆の精靈を久しく里中に留め置かぬやうに、足踏みを荒らかにして境に送つたのは、この月下の踊の素朴なる起原であり、蟲送ボウ送雨風送の類も、共に其目的は一つであつた。雨乞は其趣意が少しばかり不明になつて居るが、是とても旱魃が一つの邪神であることを考へると、やはり亦踊によつて之を追散らさうとしたものであつた。念佛が此等の共同作業の掛聲として利用せられたのも、乃至は踊が却つて佛徒の宣傳の手段に供せられたのも理由はあつたが、なほ是たゞ一つに我々の努力を、集注せしめ難い事情はあつたやうである。それを言ひ現はす言葉は最初から無かつたけれども、以前も服装の自由を意味する風流といふ名だけはあつた。風流は多分祭の日の物忌の徽章のことであつたらうと思ふが、それが一轉して踊を踊る者の、勝手放題な出立ちを謂ふことゝなり、後には踊そのものをさして風流といふまでに、其變装の趣向に興味をもつて來た。男が女になり娘が職人の絆纏を着て出るなどは、今でも踊の夜の常の習であつて、風流といふ語の使用せられるよりも前から、是が此行事の一つの條件であり、しかも合同念佛の信仰とは、必ずしも調和し得るもので無かつたのである。歌の章句の上にも同じ常例の無視があり、又その完全なる不檢束があつたことは、古くは筑波山のかゞひの歌にも窺はれる。つまりは定まつた或期間の自恣といふことが、特に此呪術の效果の爲に必要なものと考へられて居たのである。それが歳月を重ねて行くうちに、次第に男女の定情の機會にもなつたといふことは、寧ろ一つの進化と言つてもよかつた。それと同樣に我々の民間佛教は、この無意識の一致に乘じて大いに榮え、我々の民謠も同じ傾向を利用して、亦一種の新らしい樣式を發達せしめることになつたのである。
(42) 現在各府縣の踊の文藝を採集して見るのに、是も子守唄の如く長短二通りの、全く類を異にするものが竝び行はれて居る。しかも此方は發生の順序が逆であつて、純然たる作業歌の短いものが先づ起り、他の長篇の「くどき」と名づけられる方は、却つて内容の踊と關係が無いものを、後から持つて來て取附けた姿があるのである。勿論踊は長夜の遊びであつたから、歌が缺乏して外から借用したものが、短い方にも相應に有るけれども、主として歌はるゝものは踊れ/\といふだけの歌であつた。たとへば「盆よ盆よも今日明日ばかり」と言ひ、「盆の十六日踊らぬやつは」といふ類は、言葉は新らしくても其動機は至つて古風である。或は踊の輪が少し亂れたと見ると、急に聲を揚げて「そろた揃うたよ」と歌ひ、もしくは「踊をどるなら品よく踊れ」といふなどは、何れもまだ素朴なる作業唄の、本質を失うては居らぬのである。之に反して他の一方の何々口説といふ類の語りものは、如何なる要求があつて踊の庭に現はれるやうになつたか。一應は其理由を疑はねばならぬものばかり多いのである。私の想像では、是は音頭といふものゝ最初の技術であつた。ちやうど群衆の手振足拍子がよく揃うて、俗に踊がしゆんで來たといふ時刻は、何か新らしい物語をして聽かせるのに、最もよく適した機會でもあつた。それを見て取つて彼等の希望に投じ、又是非とも聽かせて置きたいと思ふことを、踊の調子と合せて長々と説き立てることが、音頭の地位に立つ者の昔からの習はしであつたかと思はれる。今は傳はつて居らぬ神話といふものの話し方も、恐らくは是と最も近いものであつたらうが、踊はたま/\その獨白の異常心理によつて、彼に絶えたものを此に永く保存することが出來たのである。同じ作用は幾分か微弱なる程度に於て、木遣や行軍の歌などにも現はれようとして居る。諏訪の御柱が十日も半月も、毎日たゞ一句の「御願ひだア」をくり返して居るに對して、江戸の所謂西行たちの間には、既に十三卷の地方用文章なるものが出來て居た。口説の今説く所はたゞ何でも無い新聞種の如きものであるが、古くは又之によつて苅萱や美女丸のやうな、讃佛乘の因縁を述べようとした者も多かつたらしいのである。
 
(43)       二二 舞の本
 
 「くどき」は盆雨乞の踊と結び付く以前より、既に獨立して一派の口承文藝であつた。後に瓦版の讀賣とまで進化した口説節は、夙に踊とは關係の無い旅の藝人の職業であつて、踊では寧ろ其奇聞の内容と共に、名稱をも是から採用したらしいのである。さうすると是が淨瑠璃を以て代表せられる他の多くの「語りもの」と、果してどういふ點に於て異なつて居たかといふことが、次には問題として考察せられねばならぬ。私の見る所では、是は同時に又民謠と「語りもの」、及び踊と舞との差別をも明かにする要點であつて、しかも從來の鑑賞家なるものが、一向夢中に看過して居た事實でもあつた。前に引用した佛蘭西のセビオなども、民謠をシャンソネットと謂ひ、「語りもの」をシャンソンと呼ぶ普通の稱へに遵うて居るが、日本でも歌を小歌と心得て、別に長々とした大歌が有るやうに思つて居る人がある。それ程この二つのものが相似たる起原を持つて居るか否か。一應は訝つて見るのが至當であつたと私は信ずる。
 現在國民の語感に於ても、ウタフとカタルとは決して同じもので無い。それと同樣にマフとヲドルとも、亦全く別のものと考へられて居るのだが、然らばどう違ふか、ダンスは何れであるかと問はれた時には、今はまだむにやむにやと答へる他は無いやうである。實際外形から見たばかりでは、この二つのものゝ區別は昔でも容易には立たなかつたらう。さうして平賀源内の矢口渡にも有る如く、東國に於ては早くから名稱の混同があつたのである。踊がもと人間の生活に必要なる作業であり、歌は則ち其作業を圓滑ならしめんが爲に、之をまじなはうとした一種の「唱へごと」であることに心づく人がもし有つたならば、さういふ誤解は防ぎ得たわけである。つまりは舞の伎藝を誘導した「かたりもの」が、まだ田舍の隅々にまで行渡らぬ前に、踊に歌を伴なふ慣習が十分に發達して、二者の分堺が稍紛れ易くなつて居たのである。しかもこの所作と文藝との本末順序が逆になつて居ることだけは、注意して見れば今(44)でも之を認め得られる。歌が新作せられてそれに手を附けたといふ踊がある如く、舞にも之を助ける舞の歌といふものが後には出來たが、通例は靜かに語りの言葉だけを、聽いて居る時間が舞にはあつて、踊には假令僅かでも義太夫の「押明け入りにけり」の如き、前文句が丸で無いのみならず、踊のなかばにも?歌が切れて、歌へ歌へと促さるゝ場合が多いのである。又或土地の盆踊などに於ては、たつた一くさりの短い踊り歌を、夜すがら打返して踊り拔くに反して、舞は一條の物語が終れば、それでめでたく舞ひ納めるが例になつて居る。作業といふ語をもし押擴めて用ゐるならば、舞では群を爲して物を聽くといふことが作業であつた。それが言葉である故にもうそれ以上に、又は單なる掛聲を挿む以外に、これを統一する爲に言語技術を施すべき餘地は無かつた。だから高興の自ら制し難い境に達すれば、我も人も思はずに起つて舞うたのである。舞が祭の式の間に始まつたといふことは、そこに奉仕者の一心に耳を傾けた語り言があつたといふことを意味して居る。南太平洋の或島の島人が、曾て白人の學者の物を訊ねるに對して、「さういふ昔話はまだ踊つたことが無い」と答へたといふ有名な話があるが、其ダンスといふのは即ち舞であり、昔話と譯されたものは即ち物語のことであつた。曾我や高館などの、諸君が文學と名づくる昔語りが、「舞の本」と題せられた理由もそこに在つた。舞は要するに一つの國民の、古い傳承に對する感激の影であつた。今は消え果てたる或日の印象を、後代に持運ばうとする種板のやうなものであつた。詞章は既に改まり又絶えたとしても、なほ舞を我々の民間文藝の列に加へて、比較し研究して見なければならぬのは其爲であつて、口説が變遷して終に今日の踊の歌となつた理由なども、やはり此方面からで無いと尋ねて行く途が無かつたやうである。
 
       二三 芝居のもと
 
 歌と「かたりもの」と、踊と舞とが、今のやうに互ひに接近して來た原因としては、樂器の共用といふことが又一(45)つ念頭に浮んで來る。中代以前の田園の作業歌に於て、その樂器の任に當つたものは何であつたかといふと、それはごく普通の働き手の、足取りと息づかひとであつて、間拍子は單に押したり擔いだりする物の、重さ大さ等によつて支配せられ、それと合はない歌は役に立たなかつた。人が新たに相親しまうとする見參の酒宴なども、尚且つ定まつた感覺のリズムがあつて、それを扇や手拍子で傳へて居り、たとへば問答の形の間の休みなどは、今よりずつと短かかつたと思ふ。踊は其中では比較的伸縮が自由であつたが、それでも斯う踊らぬと踊で無いといふやうな、約束の限度があつたのである。それが數多くの唄を求めた餘りに、變へ得るだけは我擧動を變へて、珍らしい歌をうたふ樣になつたのみか、後には手を止めて聽惚れて居る場合をさへ生じたのである。口説音頭の輸入は民謠としては退歩であつた。
 「かたりもの」の方では是とちやうど反對に、新たに其間に取入れた音樂の面白さに絆されて、幾分か以前の表現の自由さを、自ら制限した姿があつたかと思ふ。少なくとも各部敍述の區切りを最初から指定して、舞の演出を群の感動の自然には任せて置けなくなつた。從うて是に參加して居た見衆の統一は先づ崩れたが、其代りには時と土地との要求に應じて、次々に古來の傳承を修飾し改造して、文藝活躍の端緒を開くことになつたのである。明月記その他の鎌倉時代の日記を見て居ると、今ある能樂の幾つかの曲目は、あの頃から既に舞はれて居た。しかも一方に現在の謠の文を讀んで見れば、是が足利期の趣味と智能を反映して居ることは、寧ろ服飾や身のこなし以上とも言ひ得るのである。さうすると是は前代の舞の手を永く樂しまんが爲に、進んで「かたりごと」の詞章を改定して、目の前の時世と調和しようとした一つの例であつた。或は殘つて居るのは曲の名ばかりで、舞の手振も亦變つたらうとも想像し得られるが、かの狂女ものゝ謠の「面白う狂うて見せ候へ」などが、實際は未だ完全に物狂の本質を説明して居ない如く、この文學の趣向に基づいて、新たに作り出されたとは思はれぬ舞は多いのである。
 歌舞伎の方にも同じ例はつい近頃まであつた。たとへば道行と名づくる中間の一幕に、主人公の美男美女がいつ迄(46)も一つ舞臺をあちこちとして居るなどは、假に近松や出雲が如何に巧妙に其經過を述べて居らうとも、兔に角に突如として彼等の空想に、浮び出でた結構で無いだけは事實である。是は十二段の册子の御曹司東下り以來、否それよりもずつと遠い昔から、我々の語りごとの何よりも感深かりし部分であつたが故に、それが文藝のあらゆる變化を經た後まで、なほ舞といへば必ず見物が、此所作事を期待することになつて居たのである。
 歴代の文士の人望とか人氣とかいふものは、大抵この古臭い約束をうはべに守り、内に破つて行かうとした手腕によつて決して居た。文藝の進歩は結局は舞の道の衰頽に歸したのだけれども、尚此程度の公衆の參加があつた御蔭に、其來歴だけは埋もれてしまはなかつた。能の物狂の「親子鸚鵡の袖」、又は淨瑠璃御前の海道下りなどが、消えて年久しい固有信仰の名殘であつたといふことは、まだ/\廣汎なる比較を重ねた上で無いと、之を論斷することが六つかしいとしても、少なくとも我々の「語りごと」が、文字に記録せられて世に遺る以前に、既に民間傳承の幾多の曲折を經由して居ただけは、之を推定せしむるに足るのである。
 
       二四 旅の語部
 
 芝居は本來は緑の草原の藝術であつた。それが煙塵の地に留まつて都市と共に成長し、田舍は今僅かに其餘瀝を啜るに過ぎぬやうになつたのは、畢竟は技藝の分裂を意味するのである。或一つの語りごとが、時を定めて一群の人の心を集注せしめて居た時代には、それから自然に生れて來る感動は何人に代表せられても、そこに各自の内の姿を見ることが出來た故に、わざの巧みは問題とする餘地が無かつた。人の信仰がやゝ入亂れ、文章が新たに解説の任に當ることになつて、茲に始めて二つの技藝の合致が批判せられ、從うて支持者を多人數の中から、拾ひ集めなければならぬやうになつて來たのである。關東は以前村々に神事舞の太夫が住んで居て、一時は皆我處の神の昔を、舞ひつゞ(47)けようとしたのであつたが、桐も市川も追々に江戸に出てしまつて、終には大厦高樓の人情ばかりを、語らうとする職業に化し去つたのである。是と同時に他の一方には、故郷の見衆と袂を別ち、誰も舞ふ者の無い身一つの「語りごと」を、寂寞として持ちあるいて居た旅の男女が、元からも有つたか知らぬが此際に於て非常に數多くなつた。さうして耳を主要とする我々の文藝は、ゆくり無く再び一しきりの盛りを見ることになつたのである。ことわざ其他の言語利用法も、間接に是が影響を受けて居る。繊細を極めた都市人の色彩香味の趣味と對立して、獨り言語の感覺のみが、やゝ過敏といふ迄に田舍には發達して居るのも、原因は或は是に在つたかと思ふ。
 尤も此等の旅人の中にも、機會が有るならばなほ舞うて見ようとする者があつた。奧羽地方などは、曾て旅のわざをぎが村々を巡つて、自ら祭の日の舞を舞つたこともあるらしい。古くは立烏帽子惡玉御前、次では松浦小夜姫の物語の各地に傳はつて居るのを見ると、其役者は女性であつたかと思はれるが、それもいつしか中絶して、今はたゞ化粧坂傾城清水などの遺跡の名を傳ふるのみとなつた。舞まひといふ藝人は部落を爲して、今でも中部以西の谷合ひに土着して居るし、豐前の長洲や播州の高室のやうに、此頃まで俳優の村として知られて居たものもあるが、彼等がたゞ一歩を進めて中央の同業を模倣せんとする事は、忽ち又其退轉の因となつて居るのである。今まで此人たちが孤立して其立場を保持して居たのは、別に地方の語りごとの、よそに競爭者の無いものを傳へて居たからであつたが、それさへも次第に部外の同業者に、語り取らるゝ結果を見た。全體に日本は語りごとを職とする者が、法師とか比丘尼とか其種類の數多い國であつたが、其中でも一ばん活?に、長く働いて居たのが瞽女と座頭であつた。幸か不幸か盲には仕事の多い國であつた。彼等の特長はその專心の暗記力によつて、長い時間一座をもてなすことの出來たのと、師弟の恩誼によつて團結の力を養ふことがたやすかつたことであつたらう。其上に彼等は言葉の滑稽によつて、演出の不得手を補充しようとして居た。義太夫で耳につく婆や小兒の聲色、殊に會話の今一句前から、もう其聲にならうとする厭味などは、餘りに念入りだから目明きの發明では無いやうな氣がする。語りものは本來その種類が多く、仔(48)細にその辭句を觀察すれば、系統のもとは必ずしも一つで無いことを知り得ると思ふが、勤勉なる御坊たちは順を追うてそれを手に入れた。奧州の音曲は今日はボサマ以外に、之を管轄して居る者は誰も無いが、是は併呑であつて最初からの獨占では無かつた。平家は大分古くより座頭と不可分のやうに認められて居るが、是とてもさう有らねばならぬ理由は、實はまだ明白といふ程でも無い。盲が水の神を信じ辨天が琵琶を持ち、其琵琶が平家を語る合の手に用ゐられた、といふやうな事實だけならば、他にもまだ幾つか立證し得られるだらうが、是だけでは平家が何故に早く文書に録せられ、且つあの通り鮮明なる色彩を以て、描寫せられて居たのかを説明することは出來ぬのである。
 
       二五 昔話と神話
 
 しかも技藝が一たび盲人の支配に歸屬すると、忽ち特殊の發達を遂げ、其效果を擴大して行くことだけは事實であつた。彼等が日本の口承文藝の形態に與へたる影響は、何人も之を否むことは出來ぬと思ふ。平家物語の本文の逐次の改刪の如きも、私にはどうやらそれに參加した人の心が、之を通してやゝ窺はれるやうな氣がする。殊に源平の闘諍に比較的無關心であつた地方、即ち平語の流行が遲く始まつた東日本に於て、座頭が其生活の爲に立てゝ居た設計などは要領を得たものであつた。九州の所謂ケンギュウやシノンボは、竈神の御祈?をいつ迄も大切に守つて居たに反して、奧州のボサマは夙く信仰から遠ざかり、しかも家を重んずる人々の歸依を得たことは、却つて本式の法師にも超えて居た。此方面の古い移住者が、家を著名な勇士の後裔と信じたがつた氣持は熱烈なものであつた。熊野權現の祀られてある村ならば、大抵は各一戸の鈴木といふ舊家はあるのだが、それが座頭どもの「語りごと」によつて、いつと無く總て鈴木三郎の直系の如く感じられて居る。勇士の事蹟は勇士自身の靈の言葉から、聽いて讃歎するのが古い習はしであつたと見えて、戰記は何處に行つても古戰場の周圍の地から起つて居る(參照、拙著「雪國の春」東北文(49)學の研究)。それが稍離れて居ると、次には所縁の者が現はれて中間に立たうとする。伊豫土佐の山村に鬼王團三郎、もしくは曾我の母の滿こう御前までが、來て住んで居たといふなども其例である。佐藤は東北に最も數多い家の名であるが、遠く屋島吉野で討死した嗣信忠信は直接に來り臨まずして、こちらでは其二人の美しい妻、二人の若などが物語つて、別に又感動の涙を濺がしめて居るのである。現行の義經記などは七卷もあるけれども、この北上川の平原に流布して居たのは、たゞ僅かな一部分の選り喰ひであつて、しかも他の一方にはその後日譚のみが際限も無く展開して、殆と「義經は成吉思汗也」のつい傍まで屆かうとして居たのである。この種の文藝が當初何人の作爲に出でたかは、私にはもう問題でも無いやうに思はれる。京都では雨夜皇子又は蝉丸の傳説が發達し、酉國には生目八幡の景清の話が起つた如く、奧州で安倍氏の系圖として傳はつて居るものは、多くは貞任の兄であつたといふ井殿の盲目の名を掲げて居るのである。他の地方の傳説の、歴史としては信を執り難く、訛傳誤解にしては餘りに筋が通つて居るといふものには、曾ていさぎよく我單獨の空想は思ひ切り、甘んじて斯ういふ大衆との合著を、企てた者の多いことを思はねばならぬ。假に現存の記録と照し合せることが出來ぬ場合でも、作品そのものが?之に與かつた者の技巧と苦心とを物語つて居るものはあるのである。
 盲人が頻りに旅をして居たことも、所謂官位の授受の風よりは前からであつた。是が民間傳水の分布配合を助けたことは、語りものゝ世界ばかりでは無かつたやうである。日本の民間説話がもし他の民族には見られぬやうな珍らしい成長を遂げて居るとすれば、是にも片端は目の見えぬ旅客の、精一杯の努力が加はつて居ることを察してよい。九州の古い大名たちには、領内に盲僧の大きな寺を建立し、知行と色々の特權とを與へて置いて、其徒に間諜の役を勤めさせたといふ話がある。知らぬ他所者でも座頭ならば關所を通し、又は武將が傍近くまでも寄せ付けたのである。陣中假屋の生活などゝいふものは、案外に講談本にも殘つて居ない。遊女傾城を招いて遊んだともいふが、そんな事は誰も彼もが、毎目して居るわけに行かなかつた筈で、殺伐な男たちが夜長の篝の陰に、大人ばかりで聽いて居たも(50)のには、歌や琵琶以外の面白い説話も必ずあつたのである。グリム兄弟の蒐集以來、説話はたゞ家庭の火と搖籃との中間に於て、培養せられたものと考へる風が盛んであつた。勿論其形を以て昔から、記憶の誤り以外にはめつたには變更せずに、傳はつて來たものも必ず有らうが、それが全部で無く又新たに外で生れたものを、忌み避けて必ず差別を立てゝ居たとも限らない。無意識の混入は至つて多かつた。以前は咄家が家に來ても話したのみならず、又子供が外に出ても聽いて來た。乃ち昔話は決して常に悉く童話では無かつたのである。ましてやそれが代々の人の智慧、異なる事情の下に改作せられ、翻案せられたものが次々に多かつたとすると、比較は何よりも先づ分類を以て精確にされなければならなかつたのである。神話といふ言葉が折角はつきりと別になつてあるのに、之を出鱈目に使用することは、必ずしも日本の學者だけでは無い。彼等が羅拜せんとする西洋の先輩の中にも、少し古風なりと認むる民間説話に出逢ふと、之を神話と呼んで勿體を付けようとした者もあつた。しかしそれは惡癖であり又正しく無い所業であつたから眞似るには及ばぬ。未開國の説話といふものには、往々にして我々が「神話」が斯くあつたらうと想像して居る所と近いものがある。しかもそれがもし本物の神話であつたならば、さう何でも無い機會に採集者の手帖に載るわけは無かつたのである。つまりは若干の神話式説話、即ち其特徴の推究によつて、曾て存在した神話の資質を髣髴し得るものが、稀には文明國の説話中にも潜んで居るといふだけで、所謂現代の神話學は即ち之を尋ねようとする學問であつた。只の一つでも正眞の神話を把へ來つて、之を解説する學問では無いのである。そんなことをしようとすれば此學問は無くなつてしまふだらう。我々の民間説話の何れの部分が、神話に近いかゞ先づ問題である。日本では説話を保管する人よりも、之を改定して見ようとした者の方が多く活躍した。さうして其手法も亦世と共に進歩したのである。それが家庭に引繼がれて保存せられたとすれば、變つたまゝが殘つて居ることになるのである。神話の闡明が上代を對象とする研究でありながら、やはり目前の材料に就いて始められなければならぬ理由も茲に在る。口承文藝の採集が未だ遍ねからず、神話が果して如何なる時期、如何なる形式の下に誰から誰へ、傳承せられて居たかも(51)考へることが出來ずに、たゞやたらに神話呼はりをすることなどは、いゝ加減に止めて貰つた方が學問の爲である。
 
       二六 ハナシと御伽
 
 我々は Mythus といふ洋語を、うつかり神話と譯してしまつたが、あれは實際は後悔してもよい不出來であつた。是あるが爲に神話も今日の説話の兄分ぐらゐである如く、又はハナシの形によつて傳へられてゞも居たやうに、速斷する者を生じたのである。我々の口語が此講座の文章の如く、だら/\と續けられるやうになつたのは新らしいことであつて、以前は少し纏まつたことを言はうとすれば文段を考へ、ゆつくりと切口上で述べ立てるの他は無かつた。「かたりごと」は寧ろ自然の話法であり、輕口は演舌などゝいふ語の出來る少し前までは、新らしい技藝に相違なかつたのである。古い日本語の語彙にはハナスといふ語は無かつた。今は幸ひに標準語に公認せられて居るけれども、土地によつてはまだ之を用ゐず、人が物いふことをカタルと謂ひ、乃至はシャベルと謂つて居るものが稀で無い。所謂神話が此意味のハナシで無かつたことのみは、少なくとも之を斷定して誤りが無い。我々の日常の用務だけは、多くは符號附きの短句の交換を以て、間に合はせて居たことは昔とても同じで、是にも何か動詞があつた筈であるが、それはヨブとかモノイフとか聲カケルとか謂つて居たと見えて、特に此爲に備はつたらしき古語も無い。ハナシは天武紀の無端事が元だなどゝいふ説もあつたが、それはあの時代から既にさういふ語のあつての上の問題である。現實に此名が我々の用途に横たはつたのは、自分の知る限に於ては足利將軍家などの、咄の者といふのが始であつた。最初は話の字をカタルの方に殘して、咄だの噺だのといふ和製字を用ゐて居た。即ち言葉のみで無く、物それ自體も新らしかつたのである。
 咄の者は一に又御伽の衆とも呼ばれて居る。伽も亦新字で人扁に加はる、即ちカタルといふ語の他の一つの意味で(52)もあつた、江戸期の始めになつては御伽は唯幼ないを相手の、わざくれの樣に使はれて居るが、それでも他の一方に喪家に通夜することをトギ、或は夜の伽などゝいふ語もあつて、兎に角に睡を忍び起き明かすことを意味して居た。武將には後世までも足利義滿見たいな人が多く、自分は咄が下手か又は不能で、しかもげら/\と夜更まで、人の喋りを聽いて居ようとした癖はあつたらうが、尚その連中の需要の爲ばかりに、斯ういふ技術が新たに榮えたらうとは思はれない。あの前後の兵亂時代に全國的に普通であつたのは、やはり陣營生活の夜のトギであつた。人は用さへ無ければ幾らでも寢られた世の中に、起きて火を焚いてたゞ番をして居るといふ者が、必要と實驗とによつて新たに話術を改良し、後次第に上級の人へ之を薦めるやうになつたことは想像が出來る。話は夜のものといひ、晝間話をすると鼠に笑はれるなどゝいふ諺の殘つて居るのを見ても、最初から是が理解に難い肩の張るものでも無く、又神話のやうな信じ尊むべきものでも無くて、多分の可笑味と若干の作者技巧とを、豫期して居たものであつたことは考へられ、それが又一つの封禄の資となつて、後代曾呂利や沼の藤六の如き、名手を輩出させた理由も亦わかるのである。
 たゞ問題になるのは我々のいふ民間説話が、この最初の伽噺のどれ程の部分を占めて居たかである。もつと具體的にいふと、この我々の昔話を取傳へる必要から、話術が伽の衆の間に發達したか。但しは又後者が間接に昔話の今ある形に影響したらうかである。民族によつては人に世間話の關心が乏しくて、集まれば直ちに珍らしい民話の類を聽かうとする例もあつた。亞細亞と往來した行商や旅藝人の群が、ドナウ兩岸の城市を訪れ、もしくは北海の海賊船が嵐凪ぐ間の船繋りをした際などが、多くのメェルヘンの歐大陸に持込まれる横會だつたと言はれて居るが、日本の御伽に於ては既にやゝ其時期を越えて居た。我々の民間説話は「昔がたり」、もしくは「爺嫗の物語」などゝ稱して、一旦は暫らく語りものゝ形を以て、流布した時代を經て居るのである。盲の坊樣たちの參加は、此方面にも痕跡を留めて居る。彼等は其語りごとの最初にか中程からか、兎に角にこゝへも頭を出して來た。さうしてそれが今日のハナシの形になる迄、引續いて是に關係して居たのである。越後から兩羽の農村にかけて、以前彼等の藝であつたといふ早(53)物語といふものが、消え盡さんとしてまだ僅か殘つて居る。話の内容よりも語り方に重きを置き、ちやうど子供たちの「柿食ふ客」などの如く、口の達者をはやされんとする藝であつた。其一名をテンポ物語とも謂つて、奇拔なそら言を相手も騙されぬ程度に、説き立てる物語でもあつた。即ち傳承の眞實性とも名づくべきものは夙に振棄てゝ、人を笑はせ樂しませようとする作者意識が、既に明かに現はれて來て居るのである。是は昔話にとつては大いなる一劃期であるが、その時期はハナシが完成する前から、日本ではもう到達して居た。それが話術の次の革新と共に、徐々として舊來の家庭の説話に侵食したのである。笑話の根源は何れの國民に於ても、之を究め難いものと目せられて居るが、我々の民間文藝では此等職業的話者の介在によつて、幸ひにその一面の消息を窺ふことが出來るのである。
 
       二七 話の種
 
 可なり大切な一つの發見は、説話の笑ひといふものが咄の衆の新案で無くて、既に語りごとの時代から之に伴なひ、後者は只作爲して大いに之を發達せしめたに過ぎぬといふことである。從うて神話は最も崇高なる無意識の文藝ではあつたが、なほ必ずしも生眞面目一方のもので無かつたことも想像せられ、ちやうど又古文獻の側から、さういふ解釋に到達した人たちと、互ひに力付け合ふことが出來るのである。日本人の俳諧を愛好する氣質は、神代以來のものと私には思へる。勿論其笑ひは至つてたわいも無いもので、たとへば娘たちの感覺が鋭くて、我々の未だ笑ひ得ざるものを笑つたのに似て居た故に、後々はそれをもつと濃厚なるものに進めて行く必要はあつたやうである。笑ひが民間傳承の主要なる目的となつて、殊に誇大の烈しくなつたことも事實だが、兎に角に是が無くては一方のかしこさも忝けなさも、身に沁みなかつたことは昔からであつた。正直な爺が神靈の援護によつて福分を授けられる。それをいい氣になつて粗末にして失敗する。或は又隣の爺が資格も無い癖に、そつくり其通りを眞似しようとして眞似そこな(54)ふ。一心に耳を傾けて居た以前の聽衆は、たつた是だけの變化にも一つ/\笑つたのであつた。それでは餘りにも笑ひの味が淡いとあつて、後の人は瘤二つを兩頬にくつゝけさせて見たり、或は煽ぐと鼻が伸びて天に屆き、上の國の圍爐裏の次の中から鼻頭を出したとまで、空想の翼をのして行つたのであつた。そんな事をいふから子供だつて信じはしない。それ位ならば寧ろ全く前の句に縛られず、自由に各自の夢の花園に遊んだらよさゝうなものだが、それでは又群と共に樂しむ民間の文藝では無くなるのである。古人が話の種の定まつた趣向を尊重し、曾我や忠臣藏などの吉例を追はうとした心理は、もう我々には會得しにくゝなつて居る。たま/\其足跡を踏まうとする者があれば惰性である。話の種の保存がもし一部の人の考へて居るやうに、信念の持續であり永古の美に對する渇仰であつたならば、所謂三輪式神話を猿聟入の醜い大團圓にまで、持つて來ることはよもや無かつたらう。しかも其動機は何であれ、結果に於では古い世のものが多く傳はつて居る。我々の話術は幾度と無く改革せられ、聽衆の種類は丸で變つて後まで、以前の題目は笑はれつゝも尚繰返されて居たのである。さうなつて來ると、今日既に認められて居る國際間の一致なども、再び又新らしい日の光によつて、其由來を照し出さなければならぬので、單なる甲乙二國の話の種の共通から、直ちに借用を推し輸入を斷定するやうな時代ではもうないのである。それが相接する或民族だけの特徴で無い限は、そんな論證はさつぱり價値が無く、しかも今日は説話の世界的普遍性が、ほゞ採集によつて確實にせられて來たのである。相似たる説話の傳播は寧ろ自然であつた。それよりも我々はこの隔絶した各國土に於ける、百千年間の存留をこそ不思議とすべきであつた。當初近世神話學の目的として居た所のもの、即ち一國の上代信仰の?を問はうとする事業の如きは、この第二の新たなる神秘に比べては、或はまだ小さな志であつたと言はなければならぬかも知れない。
 
(55)       二八 跋語
 
 私は此講座の稿を起すに際して、先づ一通りの題目を按排して布置を立てゝ見た。さうして成るべく引例を省き解説を要約しようと試みたのであつた。ところが斯ういふ話にはまだ馴れて居ない爲に、どうしても少しづゝ長くなつて、幾つかの豫定の章を殘して、もう與へられた紙數に充ちてしまつた。今まで書いて來た所には幾らか削つてよい部分が有るか知らぬが、それでもまだ説き足らぬと思ふことばかりが多い。さうしてなほ後段の説話の箇條に於て、幾つかの惜しい題目を、逸してしまつたのは不手際なことであつた。
 此次に述べて見たいと思つて居たのは、第一に通例民間説話の三種別と目せられる動物説話と本格的昔話との二つのものゝ、日本に於ける分布?態であつた。その今一つの「笑話」の方も、是が我國では珍らしい經路を通つて成長したといふことを言つたのみで、實際農民の間に歡迎せられた大話《おほばなし》の常の型も説かず、又それが職業界に取殘されて、今日の落語とまで零落した理由も言はなかつた。所謂本格的昔話は童話を以て代表せられて居るやうに考へる人もあるが、よく見ると二者は互ひに入れちがつた所がある。童話は目的とする聽衆の理解の爲に、幾分かわざと形を素朴にして居るので、是を説話の古くからの形の如く感じ得るが、實は最も多くの技巧が加へられ、多數民衆が最も熱心にその作成に參與したのは是であり、しかもハナシの話術の興隆につれて再び彫琢せられ、更に記録の文藝の爲に又々制御を受けたのも童話である。童話の厄難は日本に於て、殊に滋かつたといふことを言ふつもりであつた。是に比べると動物説話の方は、存外にうぶな姿が保存せられて居る。口承文藝本來の傾向によつて、自然に成長して面目を改めた以外に、餘りにいはけ無い爲か是だけは餘り學者が干渉しなかつた。もし童話を其字義通りに解しようとするならば、此方こそは童兒の爲の話として、特に珍重すべきものだといふことが説きたかつたのである。
(56) 次に説話の形式といふことに關しても、私は無限の興味を感じて居る。昔話といふ語は他に幾ら的確な語があらうとも、日本では記念として永く棄つべからざる呼び名であつた。我々の民間説話は法則として、必ず「昔々ある處に」、もしくは是と近い語を以て始まつて居る。それがこの一國の文藝に名づけて、昔語又は昔話と謂つた理由である。獨り初頭の一句のみで無く、話の中間にも幾つかの定まつた形があり、終末には「めでたし/\」の意味で、「それで一期《いちご》さかえた」と祝したり、或は又外國にも?例が有る如く、余は唯傳へられたるものを語るのみといふ意味に「是でどんどはらひ」とか、又は「是でおしまひ」とかいふ語を添へたのであつた。笑話の話術家等はいち早く聽衆の飽滿を察して、色々と此文句ををかしく改めて見ようとし、それが又村々家々の傳承者にも眞似られて居るが、大體手織布が野暮なやうに、それが商賣人の手を經たものか否かは、この外形を一見すれば判別し得られ、從うて又此方面からでも、説話の古い姿を復原して行く路があつたのである。私の想像では、説話は時と共に短くなつて來て居る。之を短くするには一つの長話を幾つにも切つたこともあつたが、大抵は敍事を省略して其目的を達することが出來たらしい。今でも淋しい田舍に住む人には、話の長いことをちつとも苦にせぬ者があるから、丁寧は恐らく神話以來の引續いた弱點であり、又長處でもあつた。其例として引き得るのは、子供があまり話をせがむ場合に、撃退策としてよく使はるゝウソムカシの一種の、果無し話といふものなどである。水の畔に?の大木があつてどんぐりが一ぱいなつて居る。其實が一つ落ち又一つ落ちるといふ風に、續けて行けばいくらでも續けられる。是ほど馬鹿々々しいものでは無かつたらうが、十二人の兄弟が順つぎに出て物をいひ、もしくは六十六國の名山を一つづゝ、登つて人を尋ねたといふ甲賀三郎のやうな物語も有り得る。即ち長たらしいことが説話の特色であつた。斯うして段々に考へて行くうちには、假令今日はどこの隅にも傳はつて居なくとも、古い口承文藝の形は少しづゝ復原して見られると説いて見たかつたのである。
 傳説の方面に付いては、不幸にして一語も之を談ずるを得なかつたが、私の言はうとすることは相應に重要なもの(57)であつた。傳説は今でも時々昔話と混同せられるが、それは往々にして同じ題目を、二者が共通に取扱ふことがあるからであつた。しかも截然たる區別は一方は人が信じないこと、傳説もたま/\嘲つて之を弄ぶ者が無いとは言はぬが、之を管理する人々は少なくともそれを曾て有つたことゝして居る。だから學問の進みによつて、それが有り得べからず信ずべからずと決すれば、此次に説く際には必ず是を合理的に改めて居る。假令歴史とは背馳しても、兩立し得べくんば必ず之を兩立せしめようと努力するのは其爲であつた。次に傳説と昔話との差別は、一方には話法に?方式があるに反して、他のものは全然自由なる事實として傳へて居たのである。長々と小説風に引延ばさうも、一言で片付けようも傳承者の氣持次第で、從つて傳説は口承文藝の作品の間には、伍を爲すことの出來ぬものである。しかも其内容は説話からも採られ、又時としては説話に材を供して居るのみか、歌でも諺でも又物の名でも、此知識を基礎に置いて表現せられて居るものが無數である。それ故に之を我々の民間文藝の比較から、離して見ることの出來ぬのは舞や踊以上で、たゞ在來の地方の研究者の態度、即ち之をコント風のものに書かうといふ癖だけは、丸々改めてしまはなければならぬといふことを言はうとしたのである。
 この通り多くの問題が殘つてしまつたのは、何としても遺憾なことであつたが、是は追々に雜誌などにも書くつもりであるし、又今までも一部は公表して置いた。詳しくこの研究に入つて見ようとする人に、この短い一篇が十分な參考とならぬことは勿論であるが、兎も角も日本の口承文藝が、どれだけの深みと幅とを持ち、何と何との問題を我々に提供して居るかといふことだけは、一應は讀者の知見に觸れたことゝ思ふ。私は教員の經驗が無いから講釋は下手である。しかし諸君が如何に多くの學ぶべきものを殘して居るかといふことを、力説するだけの熱情ならば、何人よりも多く持つて居る。或はそれが爲に少しは失禮な言を吐いて居るかも知れない。
 
(58)     昔話と傳説と神話
 
       昔話の範圍
 
 一 昔話といふ言葉が、昔から日本には有つて、その意味が大よそ我々の研究したいと思ふものと、範圍を同じくして居たのは好都合なことであつた。私には是が日本の昔話研究の、末々繁昌すべき前表のやうにも考へられる。よその國々ではこの名をきめるのに先づ苦勞をして居る。ちやうど似つかはしい言葉が民間に行はれて居なかつたからである。たとへば獨逸でメェルヘンといふものには、文藝の士が紙と筆とを以て、新たに書き下した作品もまじつて居る。それと區別するには特に民衆のメェルヘンと謂ふ必要があつた。さうして其フォルクスメェルヘンといふ名は、在來の獨逸語ではなかつたのである。佛蘭西のコントも是と同樣で、やはり新作のコントでないことを示す爲に、此方を妖精のコントだの、鵞鳥の母のコントだのと總稱しなければならなかつた。英國でもつい近い頃まで、フェアリテェルズと謂ふのが、必ずしも妖精の話だけに限らない、我々のいふ昔話の總名であつた。それでは誤解が生じ易いので、新たにフォクテェルズといふ語を用ゐ始めた。佛蘭西でも今はコントポピュレエルが普通の名になつて居て、この二つは共に民間説話と譯せられて居る。あちらでこそ有りふれた二つの單語の組合せだから、誰が聽いてもあれだなと直ぐにわかるだらうが、もしも日本にこの「昔話」といふ語が無くて、これを譯して使はなければならぬとし(59)たら、どの位採集に不便であつたかわからぬ。いかに物覺えのよい年寄りでも子供でも、恐らくは皆民間説話なんか知らないと答へるであらう。民謠がちやうど今其不便を經驗して居る。ミンヨウは學者の作つた語で、民衆の知つて居る日本語では無いからである。さうかと言つてたゞ歌とばかり謂つて尋ねると、野口西條氏等の小唄をきかされぬとも限らない。仕方が無いので不精確ではあるが、我々はたゞ古い歌、もしくは昔の唄と謂つて尋ねまはつて居る。
 
 二 ところが昔話の方には、始めからもつとはつきりとした意味があつて、單に古い話又は昔の話といふだけでは無いのである。子供が親から聽き、もしくは老人の記憶して居る話にも、色々樣々の種類がある。「昔話」はその中のたつた一つ、即ち形式として其話の初めの一句に、必ず昔とか昔々とか、或はもつと戯れて「とんと昔」、「昔の昔のその昔」等の語を用ゐて、是が他の種の話で無いことを、表示するものだけに限られて居る。だから地方によつては話といふ語を略して、ムカシムカシとも又單にムカシとも呼び、東北では是にコを添へてムカシコとも謂つて居る。ハナシといふ語のまだ普及しなかつた時代にも、「昔々の物語」などゝいふ語もあつた。ムカシといふ發語が或種の説話の要件であつた證據は、伊勢物語にもあれば今昔物語にもある。今昔は即ち今は昔、現在の話では無いといふことを意味する。古い話だから眞僞のほどは定め難いといふやうな、責任のがれの口上とも解されるのである。
 
 三 此點が又昔話の一つの特質であつた。今昔物語の中には堂々たる史傳事實も多いに拘はらず、その結末の一句がすべて「何々となん語り傳へたるとや」となつて居るのは、前々からの形式であつた爲かと思はれる。語り傳へるといふのは、人が斯う謂つた、自分が實地に就いて確めたのではないといふことで、もつと露骨にいふと話だから信じてはいけない、もしくは面白ければそれでよろしいといふ心持があつて、此點で最も嚴肅に、古く傳はつた「信ずべき物語」と、差別をしようとしたものゝやうである。現在の昔話に於ても、この表示法は可なり堅苦しく守られて居(60)る。その形式は少なくとも三つあつて、一つは右の「語り傳へたるとや」と同じく、東京と其附近では「あつたとさ」、「言つたとさ」とトサを添へ、上方では多くトイナを附けて話す。東北のムカシコには「あつたづぉん」、又は「あつたちふ」といふ土地もある。他の談話には用ゐないから耳に立つ。中國九州では普通には「あつたげな」を用ゐ、だから又ゲナ話だのゲナゲナ話だのゝ名もあつて、昔話には限らずとも、すべて笑を目的にしたまじめでない話の名になつて居る。外國の所謂民間説話に、果して是に該當する文句の特徴があるかどうか。原話に當つて居らぬから明言は出來ぬが、少なくとも有名なる若干の採集記録だけには、日本の昔話ほどの細かな用意は窺はれない。
 
 四 第二の形式としては、固有名詞の故意の省略がある。是は年代を超越した昔といふ表現に伴なふもので、やはり亦聽く人話す人に、何のかゝはりも無いことを明かにした手段であつたらうと思ふ。話は勿論名を謂つた方が覺え易く感も深いから、桃太郎とか瓜子姫とかいふ名だけは折々附けるが、彼等が源氏か平氏か藤原氏であるかは曾て言はず、住處も領主もすべて不定であつて、たゞ聽く者の映像を濃厚ならしめる爲に、日本では時として「この村で謂へば何々坂の下のやうな處」でとか、「爰ならば五兵衛どんのやうな御大盡の家」にとか、たとへにして近くのものを引用する形がある。さういふ場合には殊に明晰に、ずつと昔ある處に、ある一人の大金持があつてと斷つて、それが決して歴史でないことを知らしめて居るのは、よく/\徹底した文藝意識であつて、此點は他の何れの民族の昔話にも、ほゞ一貫した大切な一つの特徴のやうに思はれる。
 ところがもう一つ、是は日本の昔話だけに、幾分か強烈に保存せられて居るらしい第三の形式がある。グリムの説話集にも五つか七つ、最後に奇拔な笑を催すやうな文句を附け添へたものはあるが、他の多數は採録の際に落ちたものか、何の變哲も無く、事實の終りを以て話の結びとして居る。我々の昔話はそれと反對に、一つ一つ必ず形式の句があつて、それが地方毎に一定して居る。昔話覺書といふ本の中にも、各府縣の多くの例を列記してあるが、其後に(61)報告せられたものが又色々とある。誰かゞもつと詳しく比較研究すべき問題だらうと思ふが、大體から言つて目的が三つほどに分たれ得る。一ばん單純で數の多いのは是でおしまひ、又は話はこれだけといふ意味の短句である。奧羽の村々でドンドハラヒと謂ひ、中國のそちこちでムカシコッキリとか、コッポリショとか謂ふのも、すべて全部が終つたといふ言葉の樣式化したもので、それを是非とも添へなければならぬ趣意は、本來は一種傳承者の宣誓であり、聽いて知つて居ることは是だけだといふのは、即ちおまけも無く匿しも無いといふことを、言明する方式だつたとも解せられる。多分は今ある昔話よりも以前から、聽いて信じなければならぬ説話にも、既に伴なうて居たものだらうと私は思ふ。少年の頃に讀んだアァヴィングのリップ・ヴァン・ウィンクルの發端の引用句にも、古いサクソンの神にかけて、自分の物語の僞りでないことを誓つたうけび言が出て居た。白人の國でも元はやはり此趣旨を以て、話毎に斯ういふ一句を附加する風習があつたと見える。それが我邦の昔話では永く今日まで持續して居たのである。
 
 五 日本でもう一つ、今も殘つて居る昔話の末の文句に、「めでたしめでたし」といふのがあつて、是は文學にも多く採用せられて居る。説話研究者の謂ふ所の本格的昔話が、必ず幸福なる大團圓を以て結ばれて居ることゝ、相照應する言葉であることは疑ひも無く、小さな點ではあるが深く考へて見る必要がある。前代の東京人は、?是に代るに「それで市が榮えた」といふ一句を以てした。町の人だから市と解したのも自然であるが、古くは「一期さかえた」と謂つて居たのを、誤りもしくはわざと言ひかへたものかと思はれる。一期榮えたは即ち昔話の主人公の、好き妻好き兒を得て福分充足し、天壽を全うして世を終つたといふ凡人の理想を、簡明に言ひ表した印象的な言葉で、市の盛衰などとは比べものにならぬほど、聽手に取つては關心の深い敍述であつた。東北には別に「孫子しげた」といふ結びの句もなほ行はれて居る。諸國の端々を弘く捜して見たならば、是と類する他の言ひ方もまだ見つかるかも知れない。兎に角に當初昔話を語り又聽かうとした目的が、主として人の家の忽ち運を開き、末々繁昌して行く道又は順序(62)ともいふべきものを、知つたり教へたりするに在つたといふことが、是からでも大よそ判つて來るのである。ところが後々その昔話の、信ずべからざるそら事であり、興味を詮とする空想の産物であることが明かになつて、人は次々に古い形を改め、新たなる面白さを求め出さうとする傾向を逐ふに至つたのだが、それでも今日のやうに丸々以前のものと縁の無い新作を、提供したのでは聽く者が合點せぬので、目だゝぬ部分から少しづゝ、在來の昔話を修飾し、又は切取り繼合せたり、入れかへたり補充したりして居たのである。だから一期榮えたといふ言葉の意味が、假に不明になつてしまはずとも、是を市が榮えたと謂つた方が、珍らしく聽えるやうな場合もあつたのである。
 大體に結末の文句は長くなる傾きがあつた。稀には猫の尾のやうに形ばかりになつてひつゝいて居るのもあるが、改める位ならば何か一ふしの、思ひつきを示さうとしたであらうし、又是によつて最後の高笑ひをそゝらうとしたので、昔話の追々の笑話化と併行して、爰にをかしい意外なる文句が、段々に發明せられることになつたのである。グリムのメェルヘンを讀んで見ると、滑稽に富んだ長々しい結びの文句が、或地方のものに限つて附いて居る。人によつては是を其話だけの必然なる一部分の如く思ふ者もあらうが、實はたゞ採集者が個々の採集に忠誠であつたといふのみで、それと本文との間には格別の連鎖は無く、少しも變へずに之を別の話に持つて行つて附けられるものばかりである。つまりはグリム生時の獨逸の田舍には、もう此程度の改造した結びの文句しか行はれて居なかつたので、是を日本の昔話の、まだ色々の古風な形式を保存して居るのに比べると、研究の便宜は確かに少ない。だから我々は今後この一點の綿密な調査からでも、まだ外國の學者の氣づかなかつたものを拾ひ上げることが出來るのである。
 一つの特色としては日本の昔話の、「そればつかり」とか、「是れつきり」とかいふ文句が、もとは傳來の正しいといふことを宣誓する語であつたものが、いつの間にか幼ない聽衆のもう一つもう一つと、話の後ねだりするのを拒絶する用途に供せられて居ることが擧げ得られる。それから又説話の改造せられて、所謂おどけた話やほら話になつて居るものは、いくら子供にでもまじめに取られては困る理由が、普通の話よりは一層大きい故に、それを警戒しようと(63)いふ念慮が愈著しく表はれる。だから話が笑話の方へ發達して行けば行くほど、この終りの文句も共に頓狂な、又笑はずには居られぬものになつて居る。グリムの集めた説話にも、その親切な長老の用意が、田舍相應のユーモアとなつてよく出て居るのだが、是を日本譯した人はそんな事を知らぬと見えて、その譯文だけがちつともをかしくないのである。
 
 六 以上私の説明もあまり氣の利いたものとは言へぬが、兎に角に我々の研究しようとする昔話、日本で昔から昔話と呼んで居た話が、大よそどんなものかといふだけは述べたつもりである。もう一ぺん要約していふと、我々がハナシと謂つて居るものゝうちで、「昔々ある處に」といふ類の文句を以つて始まり、話の句切り毎に必ずトサ・ゲナ・サウナ・トイフなどの語を附して、それが又聽きであることを示し、最後に一定の今は無意識に近い言葉を以て、話の終りを明かにしたもの、此形式を具備したのが日本では昔話、西洋の人たちは民間説話とでも譯すべき語を以て呼んで居る特殊の文藝である。此文藝は口と耳とを以て世に流布して居た。僅かに近世に入つてその一小部分が筆録せられたのみで、筆の達者な文人もまだ安全には之を模倣し得ない。さうしてこの昔話には大體に定まつた内容があり、其内容が未開既開の諸民族を通じて、可なり著しく一致して居る。何故に、又如何にして是が一致するか。それを我々はとくと研究して見たいのである。
 
     童話といふもの
 
 七 昔話研究者だけの爲にならば、特に面倒な定義などを掲げて置く必要は、今のところではまだ幸ひにして無いのであるが、外部にはとかく色々の誤解がある。うぶの素人はとにかく、鼠色の分が中々やかましい。問題が起きて(64)から言ふと水掛論にしむけようとするにちがひないから、今のうちに一通り堺目を立てゝ、他日の左券とするのである。昔話の範圍などゝいふものは、本來は格別紛らはしいものでないのだが、わざと多くの似よりの名目を設けて、時々の都合で離したりくつゝけたりする者が近頃は出て來た。それを一つ/\處理して置くといふことは、手數であるけれども我々の爲にも必要である。最初にきめなければならぬのは童話といふもの、是と昔話とはどこが違ふかといふ點である。童話は正直にいふとまだ滿足な日本語ではない。近世ぽつ/\と文人の使ふ漢語のうちに現はれ、次いで學校の教員が用ゐるやうになつて、急に普及はしたがまだ/\自分では口にせぬ人が多い。さういふ風だから意味が又區々になつて居る。大よそ童兒にして聽かせる話ならば、すべて童話だらうと思つて居る者も、ラジオ界などにはあるらしいが、さうなると餘り散漫で物の名とも言へないやうである。童話協會などでいふところの童話は一種の作文、即ち童兒に聽かせるといふより寧ろ讀ませる爲に、新たに筆を執つて書いたものゝことゝ見えるが、是ならば明々白々に昔話とは別である。假に形態を昔話に似せ、且つ口から耳に訴へる方法で之を利用しても、それによつて昔話と化する氣遣ひは無いのである。たゞさういふ童話を製作する人々が、時あつて我々の昔話を聽いても、日本童話だの「在來の童話」だのと呼ぶ故に紛らはしくなるのだが、是は二つの異なるものを、一語で呼ぶ場合に起る不幸な現象で、どちらか一つを罷めるより他に、是を免れる途は無い。グリムの採集は人も知る如く、「童兒及び家庭の説話」と題せられて居る。あれを簡略の爲に童話集と譯したのが、或はこの混亂の基かも知らぬが、其以外に別に諸民族の昔話にも、彼等童話作家の如き最初の執筆者、もしくは發明者とも名づくべき者があつて、特に童兒の爲に説話を作つたかの如く、思つてゐる人があつたのではないかと思ふ。もしさうだとすると誤解が原因であり、同時にグリムの「童話集」も誤譯であつたといふことになる。
 
 八 昔話研究者の側からいふと、童話といふ名稱は必ずしも入用でない。ましてや斯樣な紛らはしい、二つ異なる(65)ものに共通となつて居る言葉などを、其まゝ持込まれることは尚更の迷惑である。しかし假に他の一切の新作品には改名させ、久しく日本に傳はつた桃太郎舌切雀の類のみを、童話と呼ぶことにしたとすればどうかと問ふ者があるとする。出來ないことだらうと思ふが、そんな場合には斯う答へるのがよい。曰く、童話は昔話のうちで、特に子供に聽かせる趣旨の下に、若干の改刪を加へたものゝ名としては似つかはしいが、同じ一つの型の昔話でも、土地により家によつて少しづゝ、話し方がちがつて行はれて居るから、分界を立てることが困難である、個々の場合としては童話と名づけてよい昔話でも、國全體を通じてはさうは言ふことが出來ず、たゞ普通に又は多くの土地で、子供に向くやうに話されて居るに過ぎぬのだといふことを知らねばならぬ。つまり童話は話の種類で無く、單に話法の差異を示す語であるとも言ひ得られる。たとへば桃太郎の如きは夙く一つの型がきまつて、純然たる童話になり切つたやうに見えるが、なほ地方によつては子供に用の無い妻覓めなどを、中心として説いて居る例もある。日本一國でも徹底した童話は無い。まして世界の諸民族を比較する場合に、必ず兒童用ときまつて居る昔話などの、見つからう筈は無いのである。だからグリム兄弟はあゝいふ名前を説話集に附けたけれども、もう今日では特に兒童の讀物に書き改めた赤本といふもの以外にまで、童話といふ語を使はうとする國は、日本だけしか無いと言つてもよいのである。
 
 九 或は現在の昔話は、子供より他には聽かうとする者も無いから、是を童話と呼んでも誤つて居ないなどゝ、強辯する者もあらうがそれもうそである。昔話を悦ぶ者は決して少年少女だけで無い。中には其座に彼等が居ないのを見澄まして、始めて語り出さうとするやうな隱微なる笑話も數多くあつて、話ずきならば皆その六つ七つ以上を知つて居る。それから色々の昔話とても、最近の世間話の種が激増した爲に、次第に不人望になつて行くといふばかりで、どこに一點聽衆の幼ないといふことを期待して、彼等の理解の爲に用意した痕も無いものが、幾らあるか知れないのである。兒童と言つたところで年齡には階段がある。祖母に添寢をして貰ふほどの小さいのでも、話がすきならば後(66)ねだりをして、忽ち自分とは交渉も無い馬鹿聟や和尚の失敗譚まで聞き出すが、稍成人すると舌切雀や猿蟹に飽いて、寧ろ親兄の話にまじりたがり、中には所謂爲にならぬ話を、知らぬ顔をして聽いて居り、大きくなるまで覺えて居る者は多いのである。さうで無いまでも彼等が參與したのほほんの偶然で、單に好奇心が強く記憶がよい故に、管理の役を引受けたに過ぎぬものを、どうして童話と謂はなければならぬのか、誠に理由の無いことだと思ふ。察するに是は古くからある御伽噺といふ語の誤解に基づいて居る。御伽は主人や長上と對坐して夜をふかすことで、トギの語原は知らぬが、睡らないことを意味するは確かである。さういふ必要のあつたのは軍陣夜營、もしくは庚申や日待の夜で、其爲には火を焚き色々のをかしい昔話をしたので、我邦でこの民間文藝が、流行し又發達したのも其結果であつた。寧ろ兒量とは全く縁の無い風習だつたと言へる。その御伽の話を童話だと思つたのは、事によると小波の叔父さん位が始めかも知れない。さういふ誤りを吟味もせずに踏襲するから、終に今日のやうな無用の混亂を以て、學問の進歩を妨げるのである。之を要するに、昔話を御伽噺といふまでは、不精確ながらもまだ許されるが、それが童話と一しよくたにされる樣では、あまりにも事實に反するから訂正しなければならぬ。
 
       説話とハナシ
 
 一〇 説話といふ語の意味、これと昔話との關係も明かにして置く必要がある。幸ひなことには此語はまだ「昔話」のやうに、完全に普通語にはなり切つて居ない。少數の專門家より他は之を使はず、使つて居る者もその心持は區々である。今ならば相談づくで、どうとも其内容を約束することが出來るかと思ふ。それで私は是を日本語のハナシ、即ち口で語つて耳で聽く敍述に、限ることにしたいのである。「語る」といふ中には淨瑠璃や祭文もあるが、是は臺本が既に備はつて居るから、ヨムといふ方が寧ろ當つて居る。單なる暗記を以て傳へて來たものならば、是を説話に入(67)れて差支は無いのだが、それも文句に節のあるものだけは、特に古風のまゝにカタリモノと名づけて、ハナシとは區別して居るのだから、堺をこゝに設けてよからう。同じ人間の言葉の取り遣りでも、毎日用ゐられて居る呼びかけや應答、注意勸説批判詰問の類は、敍述で無いから素より説話の中には入らない。是を會話と謂つたのも誤譯だらうと私は思ふ。
 
 一一 ハナシといふ日本語は、近世少しづゝ適用の範圍が廣くなつて來て居る。或は是に宛てられた支那語の「話」が先づ變化したための影響かも知れぬが、兎に角に日本のハナシは元は聽くものであつた。一人が多く語り、他の人々が黙つて受返事だけをして居るもので、此點で對談や論判と、はつきりとした差異があつた。「話」の漢字を是に宛てる以前、久しく「咄」の字を以て之を表示して居た。或は噺の字などもよく用ゐられて居る。咄も噺も共に中古の和製文字であつたらしい。何か特殊な文字を設けて、是だけを區別しなければならぬ必要が、昔の人には感じられたのである。英語などでも to tellと to say とは全く別の行爲で、説話の Tales は前者から出て居る。うそを言ふとか冗談をいふなとかの語は有つても、「昔話を言ふ」とは誰も決して言はぬのは、ハナシが本來は普通のモノイヒで無かつた證據である。然るにも拘らず、古い文獻の中にはハナシといふ日本語は見當らない。たま/\話の字があればカタルと訓ませて居る(漢文で書いた陸奧話記、この話記なども和訓はカタリゴトであつたらうと思ふ)。東北地方には今でもハナスといふ動詞は無い。昔話はムガシ又はムガシコと謂ひ、昔話をすることをムガシカタルと謂つて居る。標準語のカタルは段々と用途が局限せられ、淨瑠璃以外には詐欺をすることだけになつて居るが、地方では今も範圍がずつと廣く、夫婦の契りから小兒の遊戯まで、人のあらゆる共同が皆カタルで表はされて居る。中央も曾てはさうであつたらしいことは、加擔といふが如き奇妙な熟字が、その痕跡を留めて居る。現在は用法が色々と加はつて、單なる同形異語の如く見られて居るが、話のカタルにも元は多數の參加、知識の共同の意味があつたのかと私は思ふ。(68)それが名詞になれば即ちモノガタリで、我々の昔話も當然に其中に含まれて居た筈であるが、後年漸く分化して行つて、書いて眼で見るものに物語が多く、樂器に合せて節面白く説くものだけを、語り物などゝいふやうになつて、別に新たにハナシなどゝいふ語の出現流布を、必要とするに至つたのである。その噺も今は又古くなり、且つ輪廓がやゝぼやけて來たのである。それを踏襲して折々の紛亂を招くよりも、ちやうど出來合ひの説話といふ語が大よそ間に合ふから、是からの入れ物に之を使はうといふわけである。
 
 一二 もう一度言ひ直すならば、「説話」は標準語でハナシと謂つて居たものと、範圍が  略々同じいと今でも考へられて居る。一方のハナシといふ語の用法が少しく弛んで來た今日、出來るものならば説話の方を其代りにして、成るたけ精確に使ふやうにしたい、といふのが私の提案である。是に對しては日本では大體苦情が無ささうに思ふ。佛蘭西などのコントには、多くの文藝作品を含み、活字になつて初めて世に現はれ、ハナスにもカタルにも御厄介にならぬものが多いのだが、それ等は幸ひに説話とは譯されて居ない。説話といふ字が幾分か重苦しい爲であらうか。形を是に似せて文士たちの書くものでも、實話と謂つたり隨筆と名づけたり、又はコントといふ外國語を其まゝ用ゐたりして、説話は先づ耳に訴へるものだけに、限られて居るのは好都合なことである。童話ばかりは前にも言ふやうに、話といひながらも創作があり、又「作り話」といふと可なりちがつた意味をもつことになる。この文字の感覺は多分今後も持續するであらうから、ハナシを裸ではもう説話の意味には使へないのである。
 
 一三 假に説話を以て以前のハナシに置きかへるとすると、昔話との關係は可なり明瞭になつて來る。人が仲間の人々に話して聽かせるのが説話ならば、「昔話」は即ちその一部分、冒頭に昔々とことわり、一句毎にゲナ又はサウナ等を副へて話してくれる一種の説話だけが、昔話だといふことになつて、從つて是を外國風に民間説話と呼び、又は(69)誤解の虞れの無い場合のみは、略して神婚説話とか逃竄説話とか謂つても、差支へが無いといふことにもなるわけである。關君の島原半島民話集などの民話も、私はたゞ民間説話の略語と見て居る。昔話といふ一種の説話だけを、特に民間と呼ぶのは變かも知らぬが、是は諸外國でさう謂つて居るといふのみならず、實際に最も古くから、文字の無い階級に是のみが保管せられて居たのだから、國際的には此方が便利なことが多い。要はたゞ今日説話と謂つて居るものゝ中に、昔話即ち民間説話でないものも、幾通りかあるといふことを認むれば即ち足るのである。
 
 一四 昔話の分類をして見ようとするには、是に先だつてまづ説話の種別を明かにして置く必要がある。昔話は滅び衰へ又零落することが、開けた國々の常であるけれども、人の話好きの本性は必ずしも是に伴なうて退縮はしない。獨りで引込んで本を讀むなどの習慣の無い者は、昔話を聽かぬとすれば別にそれに代る何かの話を聽きたがる。好みの昔話が次々に變化して行くやうに、説話も時代につれて次々の流行と推移とがあつたのである。近世の實例では大きな戰爭が何度かあつて、田舍の隅々までも人の關心がこれに集注すると、歸還兵士の見聞談といふやうなものが、本人又は受賣によつて家々の爐端を賑はして、その時間だけは古くさい説話が排除せられる。新聞や雜誌の發行部數の増加につれて、之を讀んだ者が讀まぬ者に、話して聽かすことが多くなれば、自然に無用に歸するものが一方に出來るわけで、ハナシの種類は際限も無く多岐になつて來るが、さういふ新たな大事件の極めて稀であつた社會とても、決して昔話ばかりをして夜を更かして居たのでは無い。村の日待の寄合の晩などに、昔も非常に人望のあつたのは、土地の舊事を敍述する歴史説話とも名づくべきもの、是もほゞ一定の形を以て、耆老の記憶の中に活きて居た點は昔話と一つだが、聽く者説く者が共に之を眞實とし、笑つたり疑つたりすると無禮になる點が、斷然他の一方の昔話と異なつて居る。しかも此中にも愉快で奇拔で、且つやゝ傳來を批判し得るものが、折々はまじつて居るのである。
 
(70) 一五 それから今一つの説話には、是も廣義の歴史であつて、話す人に全く別の用意態度のあつた見聞談、もしくは報道説話とも名づくべきものがある。平和郷裡の新たなる出來事は、多くは衆人が知識を共にするので、是には意見の交換があつても、説話の成立つ餘地は無いのを常とするが、それでも稀には旅とか探險とか、又は偶然の遭遇とかによつて、一部少數の者のみが知つて居るといふ場合がある。斯ういふのは速かに經驗を平等にする必要から、特に説話化する傾向が強かつたのである。話者獨自の才能が敍述の表面に現はれ易い點はよほど文藝に似通ひ、又後期の昔話とも縁を引くのだが、この方は兎に角に事實に基礎を置いて居る。説話が眞相に近ければ近いほど、流傳の效果が大きかつたといふことは、我々の昔話との差異であらうと思ふ。歴史説話の題目が最初から限定せられ、且つ文字の教育の普及につれて次第に其地位を是に讓り去つたに反して、報道説話は日を追うて多種多彩、目まぐろしい迄の變化を重ねて、さしも興味深かりし歴代の民間説話を、つひに片隅へ押し遣つてしまつた。さうして自身は、亦もとの形を崩して、只のおしやべりや掛合と擇ぶ所も無く、聲を高く調子を剽輕にしなければ、耳を假す者が誰も無いまでに、烈しい生存競爭をするやうになつたのである。
 
 一六 昔話零落の主たる原因は、書物の進出でも無く、時間の缺乏では尚なかつた。最初には説話の他の種類のものが、人の成長して行く智能を占領したのが端緒で、それが圖らずも無限に變化すべき素質を具へて居た故に、次第に追隨者が戻つて來られなくなつたのである。他の種類の説話といふ中には、人を本有に繋ぎ附けようとする故事來歴の歴史説話、もしくは形をそれに借りた説教や講釋を含むのは勿論だが、是等は材料が限られ又管理者が一定して居た。たゞの若輩の尋常人が、卒然として説話の主となり、滿座の視線の焦點となり得る場合は、個々の見聞の報告より他に無かつた。だから口舌の自信ある者が、競うて其機會を窺うたのである。是には固より個人の行動、群には知られない拔驅けの試みが、やゝ自由になり且つ必要になつて居ることを條件とするが、一方には又さういふ話の種(71)を儲けたいばかりに、好んで獨立孤往する者のあつたことも推測せられる。本來は聽く者を樂しませ驚歎させるのが趣意だから、報告とは言つても相應に誇張やほらが多く、且つ廣すぎるほど取材の範圍の廣いのが、恐らく此種の説話の新らしい魅力であつたらうと思ふ。世間話といふ語は學術的でないかも知らぬが、是等を總括し且つ昔話と對立させるのに、似つかはしい名前だから、私は採用する。「世間」は日本の俗語では、我土地でない處、自分たちの屬しない群を意味して居る。そこから出た話だから幽界の消息と同じく、仲間の好奇心を刺戟するのである。ところが交通の便は如何に開けても、個人の見て來る事實は實際は高が知れて居り、うそでもつかなければ、さう/\は珍らしいものが近まはりには落ちこぼれて居ない。從つて説話の功名は此方面からは收めにくい。耳で聞く方とても直接のものは同樣に乏しいが、是には人間を仲に立てゝ、次から次への言ひ傳へがある爲に、一つの奇事異聞が幾らでも運んで來られる。それが世間話の最も豐富なる倉庫であり、我々の爐端の文藝に革命を引起した主要な力であつたことは、今ある材料からでも安々と立證し得るのである。
 
 一七 大きな天災地變や戰亂のあつたあと、個々の直接見聞者の溢れるほど多い時代ですら、なほ確實なる小體驗談よりも、奇拔な噂話の方をもてはやす氣風が見られる。ましてや平穩無事の村里に於て、日毎に新らしい報告を徴するとしたら、話者は誰であらうとも、世間話は又聽きの外に出ることを得なかつたらう。所謂風説の責任の輕かつたことは、昔話と比べて殆と等差が無かつた。だから又ゲナだのサウナだのを句の終りに副へても話したのだが、さうは言はなくとも何の某が、他の某から聽いたと語つたと言つても、事實の有無は自分が突留めたのでないと、言ふ意味に變りがない。しかもさう聽くと更に是を他へ受賣するにも、格別に氣が樂であつたのである。話者の動機の今日謂ふ所の報告と、同じで無かつたことは明かである。根本に説話を要求する聽衆の心といふものが無かつたならば、かゝる風説は流傳もせず、又始めから生れなかつたかも知れない。即ち昔話は自然に消え亡びたのでは無くて、第二(72)の世間話といふ説話に、其寵を奪はれたのである。我々の殊にユウモラスに感ずることは、是ほど自由な借用と複製とを許されて居りながら、なほ或時代には世間話の種が盡きて、古びきつた昔話を記憶の底から引出し、それを燒直して新らしい衣裳を着せて、近頃の事件のやうにして話して居たことである。昨年どこそこの川端で狐に騙された者があるといひ、何とか寺の和尚の若い頃の話だとか、何村の物特が運の開け始めだとか、さも/\そこきりで他には無いやうに、今でも説き傳へて居る一條の物語が、少しく昔話を知る者には半分聽けば後はわかるやうな、定まつた形を持つて居るといふ例は無數にある。しかもさういふ話が比較的永く、記憶せられて傳はつて行くのを見ると、昔話の文化人に飽きられたのは、專らその話法形態の方であつたかとも考へられ、今日土地々々の史實と信じられて居るものゝ中にも、まだ我々が氣附かぬ舊式の説話が、粧ひを變へて匿れ潜んで居るやうにも想像せられる。昔話の比較を徹底せしめようとするには、少なくとも斯ういふ世間話の重複と類似に、眼を放すことが出來ぬと同時に、一方久しく傳はつて居る昔話の外形方式を、粗末に取扱はぬやうに心がける必要があると思ふ。
 
       傳説は説話か
 
 一八 昔話と傳説との堺目はどこに在るかといふことは、實際採集家の最も必要とする知識であるが、それを確定する以前にまだ一つの問題が答を待つて居る。傳説とは全體何か。さう言つて問ふことが餘りに無責任ならば、傳説は果して「説話」の一種か。昔話と對立させて、簡單に異同を比較することの出來るもの、即ちやゝ構造なり樣式なりを異にした第二種の説話と言つてよいかどうか、斯ういふ風に尋ねて見てもよい。世間は先づ大抵が其通りと思つて居るのである。山島民譚集を世に送つた頃には、私なども現に同じ意見で、今ならば明かに傳説と名づくべき諸國の口碑を、民譚即ち民間説話の中に算へて居た。或は意見などゝいふべきもので無く、只世間竝みにさう信じ切つて(73)居たのかも知れない。しかし昔話が追々に研究せられて來ると、如何に内容では縁の深いものがあらうとも、其成立ちから見て傳説はハナシで無く、その世に傳はつて居るのはコトであつて、コトバで無かつたことを感ぜずには居られない。さうなると名稱が既に當らなかつたといふことに歸着するが、是を今替へたら一段と混亂する虞れがある故に、當分はそつとして置く方が御互ひに便利だと思ふ。
 
 一九 傳説には兎も角も定まつた形が無い。同じ一つの土地にある同じ傳説でも、これを談つてくれる人によつて、長くも短かくも眞面目にもをかしくもなるは勿論、時と場合を異にして試み問へば、同じ人でも告げ樣が亦色々に變つて來るであらう。昔話は説話だからさういふことは無い。忘れたりわざと省略したりする部分はあらうとも、殘りは歌謠謎諺などゝ共に、順序や文句の定まつた型を保ち、それが壞れてしまへば只の噂、即ち世間話の方に轉屬するのである。傳説の昔話と同じでない要點としては、第一にそれが我々の謂ふ言語藝術で無く、實質の記憶であつたことを擧げなければならぬやうである。
 
 二〇 是に反對する人々は、それでも我々はハナシとして之を聽くではないかと言ふだらう。成るほど傳説の存在を知るのは、百中九十五の場合まで必ず耳だから、説話の形體を以て是を聽くことが今でも多いであらう。しかしさうでない場合が追々に増加し、たとへば停車場の案内標に、辨慶背競べ石南へ何町とあるだけを見て通つても、此地に斯ういふ傳説が有るとは言へる。實際地名などには曾て信ぜられた事實を語るのみで、今では詳しく説明をしてくれる人が、探してもちよつと見當らぬ場合は多い。乃ち保存の方法が昔話よりは搖かに自由だつたのである。
 口から耳への所謂口頭傳承の樣式にも、傳説は色々の選擇をもつて居た。近代に入つて殊に盛んになつたのは文學化で、是は專ら筆録を伴なうて居るが、常民の多數にまだ文字の教育が行屆かなかつた間は、それを節調のある語り(74)ものにして聽かせて居た。さうなると順序や敍述手段が固定して、保存がその外形と共に終始することは、多くの地方記者の傳説集も同じであるのみならず、ハナシで無いだけで言語藝術の類には入るのだが、それは偶形がさうなつたといふ迄であつて、寧ろ其結果は傳説の活力を拘束し、且つ固有の性質を稀薄ならしめて居る。活きた傳説に對して、是は一種の化石のやうなものである。本物がもう滅びた場合のみに、曾ての存在を跡づける資料になるだけである。多くの所謂傳説文學がさうであるやうに、古くは十二段の册子から、最近の祭文浪花節に至るまで、何れも傳説はたゞ趣向として借用したに止まり、是を保存し流傳せんが爲に、この種の樣式を擇んだのでは無いから、是を手掛かりとして傳説の由來を尋ね、もしくは昔話との異同を明かにしようとすれば、毎度誤りの推論に陷るの危險を、冒すことになるであらうと思ふ。
 
 二一 それと比べると第二の表出樣式が、少なくともその一部にはまだ傳承の意圖があつた。ちやうど村々の記憶せられた歴史が、大よそ一定の説話形を以て話されるやうに、舊家の言ひ傳へを子孫後裔の者が説く場合などにも、永い間洗煉せられた辭句が、ほゞ順序立てゝ配列せられるやうになつて居るものがある。是は明かに傳説の説話化であつて、しかも古い實質のなほ究め得られる場合であるが、奈何せんさういふ形のものは減つて行く一方であり、外には又その眞らしさの形だけを模して、自分は些しも信じない事實、もしくは人を驚かせ面白がらせる爲の傳説を、話さうとする者が多くなつて來て居ることは、世間話と異なる所が無いのである。或は是を名づけて直接に、傳説の世間話化と謂つてもよいのかも知れぬが、今はまだ其中間に、人が傳説そのものと考へて居る一種の話し方が、日本にだけは別に少しばかり遺つて居るので、此部分が殊に昔話と混同せられ易いのである。
 
 二二 但し同じく説話化した傳説の中でも、ちつとも混同の處れの無い若干のものがある。私たちはそれを傳説の(75)最も古い段階と思つて居るにも拘はらず、近代は次第に之を別物にして、傳説の起りを考へる場合の、目標としたがらぬ者が多くなつた。さうして其種の歴史的傳説も、それ自身時と共に成長し進化しようとして居るのである。傳説の昔話と異なつて居る根本の點は、彼は努めて内容の眞實でないことを表白しようとして居るに反して、是は何としてゞも言ひ傳への全部を信じ、且つ信ぜしめようとしたことに在る。未開人生活の觀察者が頻りに説く如く、以前の人心にはムカシといふものに對する滿幅の信用があつた。今の世としては到底有り得べからざる、たとへば草木禽獣が言問ふといふやうな事實でも、神々の代ならば普通であつたかも知れぬ。現在出來ないやうな事が出來たのは、「昔」だと、さういふ風に考へて居た期間は永かつた。それから進んでは特殊な能力、或優れた人のみに不可能が可能であり、又は隱れたる世界には、常の經驗から類推の出來ない非凡の意思と技能とがあつて、不思議は乃ち其産物であつたやうに解して、ほゞ今日まで我々は活きて來たのである。それを丸ごと覆へすことは恐らくはまだ出來まいが、一般の智能の少しづゝ進むにつれて、其信用は端から稍薄れて、所謂荒唐無稽の領域は擴大したのである。
 
 二三 この新らしい境界劃定に、最も多く參與したのが記録であり、又是を取扱ふ歴史家であつた。傳説の彼等が批判の箭を防ぎ得なかつたものは退却したが、その大部分は解釋を改訂し、もしくは一部の誤謬を容認して、却つてその殘りの部分を以て、歴史と提携することになつたのである。それといふのが傳説は本來信ずべきものゝ名であり、其點にかけては歴史と少しでも目途を異にしては居なかつたからである。その二つの信ずべきものが牴觸した場合に、記録の證跡は口頭の傳承よりも改訂しにくかつた。しかも傳説の方はこの對決が無くとも、最初から稍自由に時代と協調し得るものに、其發源をもつて居たのである。たとへば處女幼童の如き無邪氣な者に神が憑り、もしくは三人四人の正直な人々の夢枕に立つて、或一つの重大なる舊事を告げる靈があつたとすると、それを信ずるのは昔の人としては自然である。しかも其幻覺者たちの無意識なる經驗といふものは、毎に時代によつて養はれて居たのである。(76)だから知りつゝでも又知らずにでも、傳説はさう古い形にのみは固執せず、たゞ出來る限りその全部を、周圍のすべての者に信じ得るやうに、して居る必要が常にあつたのである。歴史の學問が大いに起つて、傳説が次第に歴史説話化し、從つて史料となつたとても不思議は無いが、それは如何なる場合にも活きて居ること、即ち信じられ行はれて居ることを條件とする。一旦聽く者が之を異常視し、單に其ロマンチックを愛玩する爲に説くやうになれば、それは精確に言つてたゞ傳説の痕跡に過ぎない。しかも今日は爲にする者が故意に二つの堺を茫漠とし、明かにゲナだのダサウナだのを添へて、噂や世間話や昔話と同じ話し方をして來たものを、歴史へ押付けようとするので傳説は混亂する。所謂英雄傳説の區域に於て、此弊害は特に大きいやうである。
 
 二四 西洋にはこの活きた傳説、即ち土地の人々に固信せられる傳説といふものが、至つて少なくなつて居る故に、日本のやうな問題は起らない。稀に寺院や堂社に伴なうて、強ひて信仰によつて支持して居るものはあるが、それは我邦も同樣に縁起として別に取扱はれる。其他はもうよほど以前から、一種の文藝乃至は話術として、會て信じられて居た痕跡が遺つて居るだけであり、だから又其外形に於て、往々に民間説話と似通うた點が見出されるのである。外國の學者の説を受賣することの、何が馬鹿げて居ると言つても、このザアゲやレジャンドに關する議論を、其まゝ持つて來るほど甚だしいことは他には無い。もし本元へ詳しく知らせてやつたら、腹を抱へて笑はぬ者は無いであらう。我々の中に在る傳説は、ほんの片端しか昔話と似て居ないのである。
 
 二五 斯樣に色々な樣式で傳説が殘留して居る國で、そのたつた一つの説話化型のみに氣を取られ、折角はつきりとして居る二者の差別を、學問の爲に利用し得なかつたのは、誠に恥かしい飜譯主義であつた。日本で傳説といふものゝ特徴は色々ある。その昔話とちがふのは前にも言つた如く、第一には説話では無いこと、さうして又何等の言語(77)藝術でも無くて、寧ろ慎んでさうやたらには談らず、黙つてさう信じて居るのが純な形であることである、從つて内容は通例甚だ簡單であり、奇異はあつても説話のやうなヤマも無く構圖も無い。是を面白をかしく話さうとする者だけが、前後に色々の潤飾を施すだけで、しかもさういふ人たちは多くは信じて居ない。傳説には本來之を信ずる者が少しでも必ず有る。私たちは是を領域と謂つて居るが、それから外へ出て行つて始めて説話の形を取るのが今までは普通であつたから、その説話との近似が、本質の一部で無いことは確かである。第二の特徴としては昔話が徹頭徹尾、或時或處に或一人の爺又は女や子供があつたといふに反して、傳説は必ず一地一家に固着して居る。最も多いのは木と石、池沼淵川橋峠等に伴なふのだが、もつと複合したものでも家の先祖、村の草分け、宮や堂の創建者、然らずんば一つの行事、一つの事物の根原等を説くに限られて居る。歴史上の記憶なども、或は其物體の一つだつたかと思ふが、我邦には寧ろ其例が乏しい。英雄傳説といふのも、人あつて傳説が是に附着するよりも、傳説が生れてからずつと後に、固有名詞が新たに來て是に結び付いたものが多いやうである。斯ういふ風に、傳説には必ず動かぬ證據、又は記憶を新たにするだけのシルシが、土地の上に根をさして居るから、當然に昔話の如く領域外へは移動しない。しかもそれが全國に亙つて、今は驚くばかりの重複一致を見るやうになつて居るのは、一半は是を發生せしめた精神的條件の一致、他の半分が別に是を空中に浮遊させ、更に再土着を誘うた後期の原因を推測せしめる。傳説の説話化も其一つと言ふことは出來るだらうが、それよりも今日痕跡の覓められるものは、中世の語り物と語り部の活躍である。是を次々に推究めて行くことが、傳説蒐集の殊に意義多き途と見られて居る。昔話の研究者たちも是には無關心では居られぬのである。
 傳説は縁起となり又歴史となり世間話となることは容易なやうだが、それが色々の形式を要求し、且つ敍述に約束の多い昔話に、化するといふことは想像しにくい。それにも拘はらず、現在最も類型の多い著名の昔話で、一方には或家或村の、傳説となつて居るものが日本には多いのである。我邦が特に傳説のむやみに豐かな國であり、今でもど(78)うかすると新たに生れようとする國であることゝ、何か關係のある現象ではあるまいか。昔話の研究者は勿論この問題をも管轄して、將來は世界の民間説話研究に、寄與し得る資料を發見しなければならぬ義理がある。
 
       傳説の教へること
 
 二六 傳説と昔話との差別は、私には是ほど明々白々なものは無いとまで感じられる。詳しく説明すれば切りは無いが、眼目はたつた三つ、(イ)一方は是を信ずる者があり、他方には一人も無いこと、(ロ)片方は必ず一つの村里に定着して居るに對して、こちらは如何なる場合にも「昔々或處に」であること、(ハ)次には昔話には型があり文句があつて、それを變へると間違ひであるに反して、傳説にはきまつた樣式が無く、告げたい人の都合で長くも短かくもなし得るといふこと、是だけは先づ認められたものとして私の話を進める。昔話の方は我々が始めて、學問上の語に使ひ出したのだから、是には異論はあり得ないが、傳説の方は學者によつて、もう少し汎い用ゐ方をしようとする人がある。しかし其中にも必ず爰に謂ふ所の傳説は含んで居るのだから、少なくともその部分に就いては、右の境界標は承認せずには居られまいと思ふ。
 さうすると直ぐに起る實際問題が二つある。その一つは、それほどしかとした差別があるならば、何故に多くの採集家が毎度この二つをごたまぜにして採つて來るかといふ不審である。第二には果して傳説が全く昔話の外だとすれば、今後の昔話の研究者は之を敬遠し、乃至疎外してもよからうかどうか。この二つの點が必ず問題になると思ふ。是に對する自分の考へは、たとへ傳説は昔話とは全く別であらうとも、後者を理解する爲の可なり有力なる手掛りである。だから混同は慎んで避けなければならぬが、決して粗末に投げ遣り又人まかせにして置くべきでないと思ふ。さうしてそれは如何なる理由でかと言はうとすると、自然に又第一の問題の説明にもなるのである。
 
(79) 二七 傳説と昔話と、二つが現代に傳はつて居る形は丸で別でありながら、其内容には爭ふべからざる一致のある場合は多い。昔話の昔からの話し方を省略して、手短かに言つてしまはうとする場合などは、殊にこの類似が眼に立つので、折々は採録者も迷ふのである。一つの例をいふと越後の八石山、上古この山に一本で八石も稔つた巨大なる、大豆の木が、生えたことがある故に山の名となつたと謂ふのは傳説である。或は其事件の當事者の末といふ家があり、又はあの山門は其豆の木を材にして建てたといふ寺があつたりするが、寺や御宮の縁起にはどうあらうとも、土地でぼんやりと記憶して居る由來談は、大抵は他の諸國で昔話として話されるものと一つである。繼母に憎まれて、大豆の種を炒つて渡されたのを無邪氣に播く。それが只一本のみ不思議に芽を吹いて、天を突いて成長したといふので、即ち亦一種の兄弟話、もしくは異常幸運話の定まつた型である。それが寧ろ餘りに異常な爲に、?大話化し笑話化し、奧州などでなまけ者の長者になつたといふおどけた例にさへなつて居るが、起りは遠く新羅の世に行はれて居たといふ旁※[施の旁]といふ人の蠶の話に筋を引くもの、即ち「殘り物には福がある」といふ古い諺の、根原を説明する昔話であつた。是が傳説となつて傳はつて居るものも、奧州氣仙の百疋塚の貧富二兄弟の口碑から、溯つては三河の犬頭蠶の由來のやうな、貧しい妻の幸福を得た物語にも及ぶやうだが、今でも最も數の多いのは、やはり豆の木の驚くべき成長を説く、小兒の興味を目的にした昔話である。
 
 二八 それからどの地方でもよく聽く弘法水又は御大師井戸、是なども井戸が存し大師の末徒が指導する以上は、傳説となつて關係者をして信ぜしめ易いであらうが、あまりに類が多いので却つて其起原の他に在つたことを推測せしめる。水の清濁とか石芋喰はず梨、もしくは澁無し蕨の由來とかならば、或はその不思議を説明する爲に、各地にさういふ空想が生れたとも考へられるけれども、九州に幾らも分布して居る大根川の傳説などは、大根は其場には無(80)いのだから、偶然には其一致は起り得ない。即ち別に話として是を運んだ者があるので、實は傳説とも呼び難い位である。ましてやあの地方にも折々ある若水汲み、即ち貧しいよい爺嫗は其水を飲んで若者になり、惡心の隣の長者は猿になるといふ話、又は寶手拭と稱して氣立のよい下女はそれで顔を拭いて美人になり、慳貪なる主婦は馬見たやうな面になつたといふなどは、流石に皆今でも昔々或處での話となつて居る。東北では是と趣向を同じくした「果無し仕事」といふのがあるが、是などは歐洲にもよく似た話がある。一人は心掛けがよいので、布を機から卸し始めたら卷けども盡きず、一方の惡婆は先づ水を汲まうとして、それを戸の口で飜したところが、家が覆没するまで流れ止まなかつたといふの類、誰が見ても別の系統とは言へないものが、捜すと尚追々に出て來るのである。
 
 二九 次のやうな假定は之によつて、恐らくは成立つのであらう。即ち或種の傳説と或昔話とは、最初共通の起原をもち後に岐れて各特別の形態をとつて傳承し流布したかと思はれる。その共通の起原の何であつたかは、重大なしかしも六つかしい問題であるとしても、少なくとも今日昔話としてしか殘らない桃太郎瓜子姫等にも、他にやゝ意外に變化した傳説形があるのかも知れぬと同時に、一方に傳説としてのみ知られて居る各地無數の口碑にも、將來の昔話研究者を賢こくするやうな、色々の暗示を含んで居るだらうといふことは期待し得る。假に現今傳説だけを專門に、研究して居る人があつたとしても、尚我々は其全部を是に委ねては置けない。ましてやどこにもまだそんな人は居ないのである。だから昔話と傳説との堺目を明かにする必要は大いにあるが、それで一方をいゝ加減に取扱ふことは、我々に許されないのである。
 但し今ある傳説のすべてが、悉く當初昔話と同じ母胎から、生れた同胞だと思つて居るのでは決してない。私は寧ろ其反對に、早く後期に生成した傳説だけを分離しなければ、その學問上の一般價値を、明かにすることが出來ないと信ずる者である。前に掲げた三つの眼目以外、傳説の昔話と異なる點はまだ色々あるが、其中でも見遁がせないの(81)は後者が消滅か脱落か變形か、大體に衰亡の一路を辿つて來たに對して、傳説は古いものゝ稀薄になるのが補強せられると共に、新たに別種のものが次々に生れて居る。昔絶無であつて後に出現したといふ昔話は、文書を通さなければ先づ無いことであるに反して、傳説は近世に入つて却つて増加して居る。是は一方が或世代の文藝産物であり、傳説の方は次々繼起する信仰現象の領域に屬する爲かと思ふが、詳しい事情はまだ私には解説する力が無い。何にもせよ今日のやゝ珍らしい傳説といふものは、却つて尋ねれば容易に知れるやうな、新たな機會に際して成つたものゝみで、しかも依然として昔話との因縁を絶たないのは、興味の深い現象だといはなければならぬ。
 
 三〇 是も實例で話をした方が早い。私は曾て全國の白米城傳説の分布を考へて見た時に、片端だけ此問題に觸れたことがある。籠城の武士が白米を瀧に流し又馬の脚を洗はせて、水はまだ幾らもあることを装うて寄手を欺いたといふ話などは、可なり複雜なる智能の所産なるのみならず、どうやら漢土にも古い型がある。それが南北三十幾つの府縣、六十餘箇所の山の上毎に、各箇獨立して發生したとは思はれない。土地では略信じられて居る口碑であらうとも、必ず他所から運び込んで來た者がある筈だと言つたのである。しかし此話などはどうも其原形が昔話であつたとは考へにくい。もつと適切な例は上州の茂林寺、もしくは陸中黒石の正法寺等に、寺の什寶として持傳へた文福茶釜の由來である。御寺に行つて見ると立派に其釜は傳説の證據として保存されて居るのに、一方兒童の間では、狸の文福茶釜は御伽噺の一つである。狐狸が恩に感じ又は人を助けんとして、身を馬に變じ美女に變じ、もしくは茶釜になつて賣られるといふのは、極めて類例の多い昔話であるのみならず、それが茶釜である場合には必ず寺へ賣られ、且つ又「痛いぞ小僧、小僧そつと磨げ」などゝ謂つたことになつて居る。寺に頃合の釜があると、此昔話の土着し易かつたと同樣に、別に靈獣の僧に化けて、久しく住んで居たなどゝいふ言ひ傳へのある處に、斯ういふ可笑しな話までが、寄つて來て根を下さうとしたのである。だから私はすべての傳説が、悉く昔話と相生のものだとは信じない。(82)時としてはやゝ零落に瀕する頃まで、女兒翁媼の間に取傳へて來た昔話が、ふと轉身して傳説に化することもあつたのである。
 
 三一 是には恐らくは説く者と聽いて受持するものとの間に、辨別能力の一段の差等があつたことを想定すべきであらう。昔話のゲナだのダサウナだのといふ形が、少々くど過ぎる位に其内容の眞實でないことを宣言する場合にも、なほ或年齡に達するまでの幼年者は、之によつて心から畏怖し又昂奮する。ましてや敍述の樣式が昔ながらに物々しく、且つ外形だけでも一定の嚴肅さを保持して居たとすれば、それが成熟した俗衆までを動かすことがあつても不思議は無いと思ふ。古い語りごとの筆録せられて、固定して傳はつたといふものは日本には無い。從つて説く者聽く者が共に固く信じて、一種宗教的の作業として代々の傳承を重ねて居た場合に、果してどんな形を取つて居たかは不明と言へば不明だが、座頭の平家でも、保元平治の物語でも、作者には明かに虚構文飾の意圖があつたに拘はらず、つい近頃まで聽衆の過半は是を事實として聽いて居た。わざと欺かうといふ迄の念を抱かなかつたにしても、最初に梓弓を執りユリの底を敲いて、眼に見えぬ神靈の口を寄せた者が、其席を去らずに更に或種の故事を演じたとすれば、白米城でも何でも、人はすぐ之を傳説にしたであらう。其上に壇浦高館の昔語りなども、後代の武日掃部の長者話と共に、目的は亡者の供養であつたらしいのである。敍法は恐らくは神憑きの言葉と非常によく似て居た。しかもそれが人の知らぬ間に文藝化しつゝあつたとしたら、傳説の新たに語りものから導かれるのは、昔話の場合よりは遙かに容易であつた筈である。
 
 三二 我々が昔話の背後に、仄かに其面目を窺はうとして居る上代の神話には、もと或はこの三つの側面が兼ね備はつて居たのでは無からうか。即ち語りものは專ら其音律句法の外形を踏襲したのであつたが、夙く職業の徒の管理(83)に歸し、新たに異郷の文藝と言語とを加味して、追々に民衆の實際生活と遠ざかり、同じく實質には觸れない傳承であつても、特に初期の興味に固執する後者の文藝即ち昔話と、永く手を分つに至つたらしいのである。ところが傳説のみはこの二者に反して、曾て信じられたものを信じ續けようとしたのであつたが、それは時代と共に不可能になつて來る故に、?改訂せられ又増補せられ、たゞ其資材としての昔話、もしくは形の最も整うた語り物が先づ弘く迎へられたのかと思ふ。
 多くの語りものは、其發達の各階段に於て傳説に化して居る。しかも語りものそれ自身は傳説ではなかつた。寧ろ外形を重んずる點と興味を目的とする點では昔話の方に近く、誤つてより外には人が之を信ぜず、一つの土地の由來を説かうとせぬ點も亦明かに傳説と反して居る。それを一部の文學史家の如く、義經傳説だの美女傳説だのといふのは、多分は Saga と Sage との混同であらう。サガは曾て信じられて居た頃の語りものゝ存録であつて、流行の語でいへば即ち神話である。ザァゲは信じられて居る事柄であつて、本來は説話の形を具へて居ない。形を前代に借りて話者の信ぜざる雜説を文藝化した物語は、近世の語りものであるが傳説では無い。是非とも是を傳説と呼ばうとするなら、先づ豫め我々の謂ふ傳説を改稱しなければならぬ。二つを同じ名に自分だけでして置いて、二つ別なものに一貫した解説をこね上げようとするのだ。結論の誤謬に陷るのは當然の話である。
 
       三種の昔話
 
 三三 昔話の起りの途法も無く古く、且つ世界諸民族を通じての幾つとも知れない類似があることを、最も安全に立證しようとする事は、先づ以て各國共同の分類法を立てることが必要であるが、一方に是から日本の昔話を採集する諸君、乃至は昔話とはどんなものであるかを、知りたがつて居る外部の人たちにも、分類はやはり缺くべからざる(84)手順である。或土地或一人の一度しか話し得ないやうな説話は、大抵は作り話として警戒しなければならぬのだが、形を似せられると馴れた者も折々は欺かれる。それには豫め我々の捜索して居る此方面の傳承が、ほゞどれ位の範圍に及んで居るかを、一つ/\の型に就いて心得て居るべきであるが、分類に依らなかつたら、其準備は容易の事業では無いであらう。他日改訂をしなければならぬまでも、昔話研究の同志としては、ともかくも一つの分類案を掲げて、是に據つて進止するのが急務であるかと考へる。私は今後の新たなる採集が、寧ろ意外な疑問を投げ掛けて、追々にこの一つの提案を補正せんことを期待しつゝ此意見を述べるのである。
 
 三四 昔話の分類については、歐米の諸國にはもう一つの定説見たやうなものが出來て居て、大分久しい間反對の案は出ないやうである。所謂民間説話を三つに別けて、
  一、動物説話、又は、天然説話
  二、本格説話、即ち、狹義の民間説話
  三、笑話
と名づけることが、今は先づ動かすべからざる法則の如く見られて居る。一見した所理論的で無く、又隅々に行き渡らぬ名目のやうに感じられるが、實際西洋で民間説話と呼ばれるものは、ほゞ其全部がこの三つの何れかに屬し、雜の部ともいふべきものは至つて稀であるのみならず、我邦の昔話に適用して見ても、大よそ亦此分類は當つて居る。昔話ではあるけれども三つの名の外に置かなければならぬと言ひ得るものは、二つや三つはあるか知らぬが、ちよつと私等に拾ひ出すことが出來ない。然らば此分類でもう滿足してよいかといふと、然りとも答へられぬ理由は、やはり三つが餘りにもちぐはぐだからである。殊に昔話の古代の?態を想像して見ると、斯ういふ三つが面を列ねて、竝び立つて居たものとは想像することが難い。從つてこの分類の當否は尚一度。發生學的の立場から、檢討して見る必(85)要があるわけである。
 
       昔話出現の順序
 
 三五 僅か一囘限りの事實を比較して見ても、昔話の數は時代と共に増加して居る。丸々種無しに新たに生れたものは無いといふのみで、根を分け枝をさして次々に別話として算へられるものが、日本で無くともどこの國にも甚だ多い。即ち現存の昔話は、古いと謂つても相生では無く、一つ/\に著しい年齡の差があるのである。其中でも第三の笑話なるものが、比較的近代の所産であつたことは、一般に既に認められて居る。新らしいと言つた所で二百年や三百年はもう經つて居るのであらうが、兎に角に人はさう自分たちの生活に縁の無いことは笑へない。笑話が今聽いてもをかしいといふことは、其内容に幽かながら現代との連鎖があり、もしくは想像を許すだけの記憶が殘つて居るからである。例でいふならば我々の謂ふ旅學問、古くは朱椀朱折敷と名づけられ、今は上洛下洛などゝ謂つて居る知つたかぶりの話なども、都鄙の交通が可なり盛んになり、文字を學んだ農民が若干は田舍にも居るやうにならなければ、折角話して聽かせても呵々大笑する者が有り得ない。松山鏡は鏡を知つた後、?燭や元結を食つたといふおろか村の話も、それ/”\其品物の普及を條件として居る。是等を骨子とした説話ならば、全體に新たな出現と見てもまづ誤りは無いであらう。
 
 三六 だから三種の昔話のうち、笑話を時の順序として最後に置くことは、何人にも異存は無いのである。たゞそれと同じ筆法を以て、所謂動物説話を最初の出現と解し、曾て一たびは昔話といへば是だけで、全然本格説話の生れて居なかつた時代が、有つたと想像することは私には出來ない。時を同じくして二つが共に現はれたのでないならば、(86)前からあつたものは寧ろ第二種の、狹義の民間説話の方であらうと私は信じて居るのである。然るに世にはこの三通りの種別を認めつゝも、時の順序としては動物説話の方が一つ古いものゝ如く、考へて居る人が案外に多數を占めて居るらしい。この一點にかけては私の説とは正面に相反する。どちらか一方は誤りでなければならぬとすると、我々の研究は何よりも先づ其論證と裁決とに向つて、進んで行く必要があるのである。
 
 三七 古來もうあらかた決着して居るやうに見える學説でも、少しく考へて見れば疑問の餘地はある。ましてやこの間題などはさう十分な資料に據つて、周到に考へ盡したものでもなかつたのである。大體に鳥獣草木その他の自然物が、人と一樣に物を言ひ物を思ひ、もしくは喜怒哀樂するといふことが今風で無いのみならず、今ならば別途の科學を以て、容易に解説し得られるやうな事物の由來を、やたらに訝かりながら又たわいも無く合點するといふことが、人類としては如何にも幼稚である。さうして現在も尚幼稚と言つてよい民族の間に、特に數多く斯ういふ話が保存せられ、時としては其まゝ信じられてさへも居る。是が多分は天然譚を第一次の發生と目せしめた原因であらう。勿論是は動物説話の古いといふ證據にはなるが、さりとて此點だけでは他の第二のものが、それよりも更に前のものであつたらうといふことを、否定する理由には足らぬのである。希臘で我々の神話と譯して居るもの、記録に保留せられて居るのは多く簡單である。それが自然の現象を解説しようとした點は、未開人の動物説話ともよく似て居る。さうして西洋では是を最古の民間文藝の如く、信じて居た時代が永かつたのである。私たちから見れば、記録になつて居るといふ事實は、寧ろ其内容の新らしいことを意味して居る。そのもう一つ以前の形が無かつたといふ證據にはならぬのみか、現に印度にも埃及にも、ずつとそれよりも古い本格説話の、最も複雜なるものが行はれて居たことが判つて來たのである。短かい簡單なものから、長い複雜なものになつて行くのが順序だといふことは、此場合にはあてはまらぬと思ふ。碎け壞れて大きなものが小さくなることは、既に近代の笑話の上にも見られて居る。さうして如何な(87)る成長の過程を以てするも、所謂自然説話からは、多くの本格説話は展開して來やうが無いのである。
 
 三八 是に反してそれと逆の場合は想像し得られる。大體に説話はその盛りの時を過ぎると、段々と短縮して行く傾向が見られる。殊に信仰と儀禮との之を支持して居た力が薄れ、時を費す新文化の少しづゝ増して來る時代に入ると、壓搾によつて比較的重要でない部分が、次第に遊離することになるのも自然であり、事によると説話の嚴肅味と興味とが、兩端へ徐々に手を分つことになつたかも知れぬのである。少なくとも近世の笑話は、さういふ足取りを以て進化して居る。神話と文藝との堺目はさうはつきりとしたものでなかつたかも知らぬが、もしも我々の想像して居るやうに、今ある昔話がもと信仰の中から生れたものとするならば、夙に詩文に援用せられ乃至は容易に外來者の耳に留まつた天然説話などは、言はゞ神話の最も文藝らしき部分であつて、當時なほ其背後に今一段と神聖なる母胎が、潜んで採集を逸したことを想像せしめるのである。一つの神話なる語を以て彼と是とを總括せしめようとした爲に、今日の多くの誤解は起つたのだが、其中でも記録に傳はつて居る若干の天然説話のみを以て、神話の全部と認めて居たことが、特に悲しむべき混亂の種であつたやうに私は思ふ。
 
       説話の派生
 
 三九 今ある我々の三種の昔話を見くらべると、第二の所謂本格説話と、他の二つのものとの間には、可なり著しい形の上の差別が有る。大體に前者の敍述が複雜で、從つて言葉の分量も多く、又色彩に富んで居るのが常であるが、それよりも更に具體的なる特徴は、事件が必ず愉快なる安心、即ち英語で謂ふハッピーエンドを以て結ばれて居ることである。この昔話の主人公に限つて、例外も無く非凡の人物であり、神の恩寵が特に厚く、もしくは福運のまはり(88)合せが極端に好くて、普通では到底望めない財寶を獲得し、又は身の毛立つやうな危難をうまく遁れる。その人間一生の大事業が完成して、もはや何等の語るべきものを殘さぬ所まで到達して、話はめでたし/\を以て終つて居るのである。笑話はもとよりのことであるが、動物説話も大部分は或日の遭遇、又は或一つの事件を問題とした逸話風のものであるに對して、こちらは明かに傳記の性質を帶び、時としては呱々の生ひ立ちから、一期榮えて孫子の繁昌するまでを説かうとして居る。殊に數多く繰返される幸福なる婚姻。美しい長者の姫に聟入し、或は靈界の仙女が押掛け女房にやつて來て、家を十分に富ませてから還つて行く話などを聽いて居ると、目的は必ずしも一個の異常人物の生涯を傳ふるに止まらず、曾てさういふ傑出した人を元祖として、永く續いて居た一門の存在を、胸に描いて居たことが想像せられる。特に説話が其事實の確信から出發したことを認めなくとも、是と他の一方の切れ/”\の小空想とを比べて見れば、何れが前であつたかは判別に苦しまぬだらう。多くの由來譚又所謂なぜ話は、成ほど問題としてこそ單純であるが、其答に至つては手が込んで居る。何等の基礎なしにこの空想は生れようとも思はれぬ。そこで私たちは、是も曾ては本格昔話の一部であつたものが、後に切離されて獨立したのであらうと考へるのである。
 
 四〇 單に初めて此世の中に現はれた時代が、大分に隔たつて居るといふ一點を除いては、笑話も動物説話も其成立ではよく似て居る。即ち普通に本格説話の中にも、しば/\登場して且つ問題となつた色々の鳥や獣が、爰では單獨に活躍し、又幸運話などの脇役となつて居る。既に散々に笑はれて來た隣の慾深爺婆が、改めて一人御目見えをして、もう一度我々に腹を抱へさせるのと同じなのである。だから今日でも澤山の長い昔話の興味を習熟した者ならば、少しづゝは新たにこの二種の小話を派生せしめることが出來る。しかも自由な創作童話の跳梁する世になつても、尚話に出て來る動物の種類や、又は其擧動の型がさう變つてはしまはぬのである。
 
(89) 四一 その派生の古い原因は二つ、一つは昔話の長さを切りつめ、小ぢんまりと僅かな時間に話し了らうといふ好みが現はれたこと、今一つは此部分が特に興味本位で、日常少しの閑暇にも愛玩するに適したことで、よく氣をつけて見ると同じ動機のもとに本話から遊離したものは、必ずしも動物の話と濃厚なる滑稽とだけには限らなかつたやうである。たゞ其中でも特に幼稚で、素朴な前代人のみの趣味にしか向かなかつたのが、鳥獣草木の物を言ふといふ類の話であつたことは爭へない。だからもし信仰に支持せられた説話即ち神話と、娯樂が目的であつた今日の昔話との間に、明瞭なる一堺線が引けるものならば、其線から此方に先づ現はれた説話が、是であつたといふことは言へる。たゞ私たちから見ると、そんな堺線は引き得ないのみならず、是は寧ろ古い説話の最も文藝化し易かつた部分、即ち純なる神話から見れば、早期の落伍者に過ぎなかつたのである。
 
       説話の可笑分子
 
 四二 昔話の流傳が、文野兩端の人類團に共通した全世界的事實であつて、單なる一國の調査から其淵源を究めることが出來ぬものである以上は、自分の分類案の如きも、やはり之を外國のあらゆる場合にあてはめて見て、いよいよ差支の無いことを確めるまでは、是を今後の動かぬ標準とすることは許されぬであらうが、今日知られて居る限りの日本の事實では、先づ此意見に牴觸する反證は出ぬやうに思ふ。
 
 四三 念の爲にもう一度私の案といふのを要約して掲げると、自分は昔話が二つの可なりちがつた種類に、大別し得られると思つて居る。其一つは西洋人のいふ本格説話、是を私は假に完形昔話と呼ぶつもりである。通例主人公の生ひ立ちを以て始まるものであるが、それが少しづゝ省略せられるやうになつても、なほ結末があらゆる願望の充足、(90)あらゆる障碍の解除に歸着することだけは變らない。言はゞ或非凡なる一人の傳記、もしくは或一門の鼻祖の由緒を、説くかと思はれる形を具へたものである。是に對して或時の一つの出來事、又は或一人の若干の擧動のみを、取立てゝ話題としたものを、笑話はもとより古風な鳥獣草木譚までも引きくるめて、私は之を派生説話、もしくは不完形昔話とでも謂はうかと思つて居る。雙方が共に昔話であるわけは、話者の相手に知らせたいと念ずる單一の目的、核とも名づくべきものがそれ/”\に含まれて居るだけで無く、外形はすべてムカシムカシを以て起り、コレバッカリ等の句を以て結ばれて居る點が同じだからである。
 
 四四 しかも二つの者の對立は可なり著しい。一方がそれからどうしたのかの不可測部分、即ち後世替へたり誤つたりする繼目の多いに反して、他の一方は概ね單簡で、時と多くの想像力を要しないのを常とし、從つて又是に聽き入る者の用意も始から違つて居て、年齡性別境涯等によつて、好みも選擇も相應に有つたかと思はれる。それよりも一層具體的な相違點、今後の資材増加によつてなほ試驗を重ね得る目安は、第二の派生説話の話材もしくは話の種 Story germs が、概ね第一の完形昔話の中に含まれて居るといふ一事である。近代に入つて非常に繁延した笑話の部面では、煩はしいけれども注意さへすれば、其事實はほゞ滿足に立證し得られる。完形説話の元の約束は守りつゝ、其話法の法外に滑稽じみたものは既に多く、是と別個の派生譚との間には、今もまだ行通ふ溝渠さへあるのである。後者が前者の可笑分子だけを切離したものなることは、少しく例を竝べたら誰でも納得する。たゞそれと同じ樣な證明方法が、所謂天然説話の領域にも成立つか否かゞ、今までは危まれて居たのである。私とてもまだ確信までは無いが、前に立つてそれを試みなければならぬ責務はある。萬一にもそれが不可能であつたら、乃ち私の分類案は落第だからである。但し一應はその遊離派生がどういふ風に起るかを見る爲に、順序として先づ笑話の場合から、考へて見ようとするのである。
 
(91) 四五 それからもう一つ、派生が笑話と天然説話とだけに限られるとすると、私の推定は幾分か我儘なものになり、強ひてこの二つの類似をこじ付けるやうにも取られる虞がある。もしも是と同一の趨向を取つて、徐々に完形昔話の中から、岐れて行かうとしで居るものが、此他にもあるといふことが判つて來れば、私の所説もよほど耳を傾け易くなるのである。遠い他國の場合は未だ知らず、日本でならば其實例は擧げることが六つかしくは無い。或は我同胞民族が敏活にして變化を好み、話を聽く餘暇と念慮とは有りながらも、古い形のものだけではもう滿足せぬといふ、氣風などが手傳つたのかも知れぬ。一方にはどし/\と笑話の數を加へて行くと同時に、更に他の一面ではさうでない新話を、色々と流行させて居る。其中でも目につくのは、狐狸や河童天狗などの怪談で、是は大抵は世間話の形にして傳へて居るが、さうでない證據には五つか六つかの、定まつた内容のものが全國に分布して居る。察するに是も比較的新らしく發逢した完形説話の一つ、我々の名づけて厄難説話といふものゝ中から、特に身の毛の立つやうな部分だけを、引拔いて別の短話にしたものであらう。それから佛道の人々のいふ因縁譚、即ち隱れて我々のまだ心づかぬ法則が此世にはあつて、時折その一端が現はれるといふ類の昔話なども、是と同樣に元は何等かの大きな一篇から、興味を認められて獨立したものが多いやうに思はれる。人の智慮分別や術藝が重きを置かれる世の中になると、その點ばかりでも優に一つの話柄となり得たので、其爲に古くは盗賊や魔法の話とか、日本でいふならば狂歌秀句、又單なる言葉の綾が、笑話にもなれば又感話にもなつたのである。是等の派生説話は出現が既に遲く、又一民族限りの條件に基づく場合が多いので、動物説話などの如く世界的比較も望み難く、そのうちに人生はもはや昔話などを必要としなくなつて、大抵は成長の中途に於て停止し、徒らに民間説話の性質を判りにくゝする結果を呈して居るけれども、注意してその發生の根源を探つて見れば、ちやうど我々の笑話も同樣に、古來の或一つの完形説話の外には、別の出處は無かつたのである。是を現實の經驗から起り、又はその誤れる記憶に因るものゝ如く解する者は、何れも比較を(92)怠り分布の眞相を知らぬ人ばかりである。
 
 四六 さういふ中でも日本に特に發逢して居る繼子話、籠で水汲めだの葦の莖の橋を渡れだのといふ、悲慘な又慰めの無い哀話は、今でも文書文藝の凡庸なる一部をなしてさへ居るが、是などは現代の少女小説と同樣に、それが聽衆にわかる程度の物の哀れであつた故に盛んになつた迄で、事實を基礎としたものでも無く、又特殊の才藻によつて産み出されたものとも考へられない。やはり東西の世界に古くから流布して居た灰かつぎ娘、日本で粟福米福などゝいふものから、順を追うて此形に來たもので、曾てまゝ娘が難苦に堪へ忍んで、末には圓滿なる婚姻生活に入つたといふ點を主にしたのが、いつかは其子のひどくいぢめられる個條に、興味の中心が移つて行つたので、その兩間の段階としては、所謂お銀小銀の話などがある。即ち是も亦一種の派生説話であつた。是等を詳しく述べようとするには、一通り完形昔話の全範圍を明かにし、且つ之をも分類して見なければならぬ。後日或はもう一度是に觸れるかも知らぬが、今は先づ昔話の分裂といふことが、決して笑話の上のみの現象でないことを、證明するに止めて置くつもりである。
 
 四七 笑話は中古以來、説教の資料などにする必要上、文書を通じて國外から採用したものも多く、可なり著しい傳播があつてよいわけであるが、實際に今日民間に行はれて居るのは、なほ其大部分が國産であり、日本人の機智と滑稽、及び固有の趣味の窺はるゝものが多い。私は大體之を三通りに分けて見ようとして居る。是にも時代に伴なふ推移があつて、近年は最も簡易なる愚物譚、所謂ばか聟だらのあんまの類を以て、昔話の眞只中のやうに思ふ者が多くなつたが、同じ笑話でも前世紀までのものは、今少し複雜で技巧に富み、且つ變化が多かつたやうである。自分たちは假に之を大話と總名して、乃ち笑話の第一類に算へるのである。
(93) オホバナシといふ名前は土地によつて、婦人と同席しては聽かれぬ樣な、話ばかりを意味して居る處がある。感覺の幾分粗笨なる人々の間で、必ず聽衆を哄笑せしめんことを期すれば、勢ひ下がゝつたみだりがましい話になるのは已むを得ぬので、さういふやゝ狹い解釋に陷つて居ても、本來は別の語では無いのである。東北地方で「へやの起り」などゝしやれて居る屁ひり嫁の話は、由緒の最も古い竹伐爺や黄金の瓜の話などに連絡をもつて居り、それ自身まだ完形説話に屬すべきものさへあるのだが、興味を放屁の一点に集注する段になると、末には飛んでも無い形にまで發展して來るのである。或は寧ろ聽き手の群の好みが、迎へてさういふ方向につれて行つたと見ることが出來るかも知れない。親子の庇ひりが夢中で夜盗を逐ひ拂つたといふ類の話も他の多くの怪我の功名、たとへば「高名の鼻きゝ」とか「見透しの六平」とかのやうに、當初無意識の擧動が、測らざる效果を生じたといふだけの一挿話に過ぎなかつたものが、一笑ひ笑はれる毎に、次第に大袈裟なものになつて、しまひには其點ばかりで獨立した一篇を、爲すに至つたのかと思はれる。
 
 四八 斯ういふ誇張を唯一つの目的とした昔話が始まつて、我々の民間文藝は新たに大飛躍をしたやうである。可なり愉快な又日本的な笑話が、此際に出現して居る。肥後の南部で丸山學君が採集せられた「幸運な獵師」の話の如きは、不思議な位に東西の端にまで流布して居て、それに又少しづゝの地方的潤色があり、單なる職業の徒の運搬以上に、各地の傳承者も亦その結構に參與したことが察せられる。個々の空想は思ひ切つて奔放なものであるにも拘らず、なほ一方には古くからの完形昔話と、一脈の聯絡を通じて居るのは、是が純然たる外部の作品でなかつた證據かと思ふ。實例は他日稿を改めて詳説しようと思ふが、たとへば「鴨取權兵衛」が鴨に飛ばれて、五重の塔のてつぺんに落下したといふ話などは、九州では阿波國の粟の大木に引つかゝり、その粟を伐倒すと又彈かれて、故郷の家の屋根の上に落ちたといひ、奧州の方では粟の大木を倒すと、その風の煽りを食つて長者どのゝ和子が、飛んで黒石正法(94)寺の塔の上に落ちたなどゝ謂つて居る。是等は何れも前に述べた越後八石山の大豆の大木と、同系の趣向と思はれるが、それが或土地に在つて雲を突拔いた茄子の木の大話となり、それを梯子にして雷神の家へ、聟入した話まで出來て居る。自分などが源五郎話の名を以て呼びたいと思つて居る「夕立の手傳」や、さては不思議の扇でうつかりあふぎ過ぎて、鼻が天の川の川底を突拔いた話などは、勿論ふざけ過ぎて居ることは非常なものだが、是とても羽衣その他の人と天人との婚姻譚、即ち私たちが天人女房と名づけて居る昔話が前に無かつたならば、單獨唐突には決して生れて來ぬ空想であつた。
 
 四九 この誇張を主眼とした大話といふ種類の話は、一時中々流行したことがあると見えて、今日傳はつて居るものだけでも、擧げきれぬ程數が多く、且つ變化に富んで居る。しかも他の一方の完形説話の中にも、?同じ趣味の可笑味がやゝ小規模に編入せられて居るのを見ると、最初はたゞ敍述の色どりに、又は愛嬌の爲に用ゐられて居た挿話の、次第に人望を集注させて、其部分だけが獨立するやうになつた經路が、ほゞ明かである。昔話がこの人生に出現し又保存せられた最も主要なる理由、殆と唯一つの重點とも認むべき、或一人の非凡なる幸運といふものが、斯うして自由に形容しかへられ、ひたすらに聽く人の笑の聲を高くする方へばかり進んで來たといふことは、信仰史の上から見ても至大なる變遷であつて、私などはそこに正しい意味の上代の神話と、民間文藝に屬すべき昔話との、はつきりした堺線が引かれる樣に感ずる。從うて假に時の順序としては他の種の笑話の方が早からうとも、尚この大話の部分に、より大いなる重要性をもたせようとするのである。
 大話と對立する他の二種の笑話といふのは、一つは眞似そこなひの話、かつて私が隣の爺型などゝ謂つた話の後半であり、他の一つは愚か者のしくじり話であるが、その細説は次へまはすことにしたい。以上の三種の外にも笑話は全く無いとも言へず、何れに屬せしめてよいかの分類に迷ふものも若干は有るだらうが、自分は先づ大抵是でまかな(95)ふやうに思つて居る。問題になるものがもし殘つて居たら、寧ろ將來の研究の爲に仕合せな刺戟と云つてもよいのである。そこで一旦今までの説明に基づいて柳田一流の昔話分類表をこしらへて見たのだが、果して是が外國の民譚研究にも適用せられ、大した故障を生ぜぬものかどうか。諸君と共に注意して見て居たいと思ふ。
 
        昔話分類案 その一
                   この分類は第二表を見よ(一二八頁)
 
          完形昔話(本格説話)
 
 昔話             鳥獣草木譚(自然説話)
                繼子話
          派生昔話  因縁話
          化物話
                大話
          笑話    眞似そこなひ話
                おろか者話
 
       神話と笑話
 
 五〇 笑話を三種に分類するといふことは、私は必ずしも強く主張しない。それは第一に大話の範圍があまり廣く、もつと細かくも分けて見られる上に、笑話はどの部分にも大か小か、話を誇張して笑を催す技術が普遍して居るから(96)である。しかし自分として前にも述べた點、即ちすべての派生説話には、必ず是を派生せしめた本來の完形説話がある筈だ、といふことを證明しようとすると、今はまだこの三つ以外の、根源を擧げることが出來ない故に、先づ假に斯うして置いて、追々に考へて見ようとするのである。
 昔話の基調は徹頭徹尾、奇瑞に在り異常に在り又不可測に在つた。西洋の學者にはクラウストンの如く、超自然譚と自然譚とを分ち、或はアァルネの分類案のやうに、呪術的もしくは宗教的のものと、さうでないものとを對立させようとした人もあるが、それは後世或時代の智能を尺度としたものであつて、話が出來た當時の心持から言へば、均しく皆珍らしいから、普通に聽かぬことだから話になつて傳はつたのであつて、其間に段階の差はあらうが、堺目などは無かつたことゝ思ふ。是に對する聽衆の態度にも、信ずるか信じないかの二つしか無かつた。さうして信ずることはもう出來ないが、もしそんなことがあつたら面白からう、乃至は怖ろしからうといふ、想像上の興味をもつ者が多くなつて、其昔話が少しづゝ、誇張せられて行くのは自然である。大話はさういふ中の最も信じにくい部分、しかも想像して見て最も心地よい部分に、特に意識して結構せられたので、從つて其發生には時の順序があり、化け物退治や天狗だましなどは可なり後のもので、怪我の功名やへの字鐵砲といふ類の、極度の幸運譚はそれよりも古かつたらうと思はれる。
 
 五一 この中間の推移と増減とがまだ明かでない爲に、起源を説くことが困難であることは、私のいふ「眞似そこなひ」話も同じことである。以前この種の笑話の中央にも非常に流行したことは、醒睡笑の一書を讀んで見たゞけでもよくわかる。たとへば或家のちごとか女房とかゞ、よく氣轉が利き分別があつて、秀句や見ごとな振舞で座客を感心させる。それを見て還つて話をすると、そんな事ぐらゐは私にも出來ると、早速次の機會に試みて失敗したといふ話。斯ういふたゞ一つの型さへ十ばかりも列ねられて居る。新作も或はまじつて居るかと思はれるのは、是を文字の(97)教育に利用したらしい形跡があるからで、この中には自分等の少年の頃まで、全く書物を離れて三百年もの間、家々に記憶せられて居るものが少なくはなかつた。今日もなほ全國の隅々に、僅かづゝ形をかへてもてはやされて居る上洛下洛、又は「タヒラのリンかヒラリンか云々」といふ詞で、平林といふ家を尋ねあるいた話などは、後年かの安樂菴の話集を讀んで見て、其由來の久しいのに私なども喫驚した位である。しかし大體から言つて、單なる眞似そこなひの笑話は、古くさくなつて追々にすたれ、其代りになるものが引續いては現はれなかつた樣である。近頃でも時々採集せられて來るのは、馬鹿の一つ覺えとか段々の教訓といふ類の、幾分か複雜な形に限られ、其數も大いに減じて居る。だからもう少し比較の資料を集めて見なければ、此方面の笑話の本の話を見つけることは困難かも知れぬが、起りは他の多くの愚か息子、又は愚か聟の話とは別であつて、こちらは竹伐爺や花咲爺の隣人が、元來資格も無いのに片端ばかり眞似をして、結局はつまらぬ損を招いたといふ、今でも傳はつて居る澤山の完形説話から筋を引いて居るらしいのである。この對照式話法の可なり原始的なものであり、それだけに又強い印象を單純なる頭に打込むに適して居たことは、幼ない兒たちに試みて見てもすぐわかる。或は説話が至つて重要な教育的の任務をもつて居た頃から、もう斯ういふ表裏二面からの丁寧親切なる敍述法が出來て居て、人は嚴肅なる諦聽のあひま/\にけら/\と高笑ひするやうな、感動の波瀾起伏を味はひ得て、一段と説話の興味を深めて居たのかも知れない。もしさうだとすると、現在は稍衰へて居るけれども、此種の笑話の淵源は遠く、且つ極めて幽玄なものであつた。
 
 五二 笑が神話の中にも有つたらうか否かといふことは、まだ考へて見た人も餘り無いやうだが、私たちに取つては頗る關心の多い問題である。大話と他の二種の笑話との最も明らかな差別は、前者が信仰のあつた時代には到底笑ふべからざりし事柄を笑はうとして居るに反して、眞似そこなひと愚か者との話は、以前の敬虔なる聽手までが、やはり笑つて聽くことが出來たといふ點に在る。勿論笑ばかりを目的とした不完形の説話が派生するに及んで、著しく(98)滑稽の主題は誇張せられ、或は古人の本意に背くやうになつたかも知れぬが、それは程度の問題であつて、境目は決して立つて居らず、現に本格説話の最も笑の少ないもの、たとへば瓜子姫の殺されるといふ話でも、或土地の傳へでは姫に化けて機を織るアマノジャクの後から、太い尻尾がだらりと垂れて居たと謂ひ、或は繼子の粟福が長者の嫁にもらはれて、美しい飾り馬に乘つて行く姿を羨んで、本の子の米福を母が木臼に載せて、嫁ぢや/\と轉がしてあるいたといふ樣な隣の爺型もある。心のやさしい善い娘の、終には幸福になつた事實を信ずる爲には、どんなに一方の惡い娘の眞似そこなひを笑つても、妨げにはならなかつたのである。
 
 五三 此意味に於ては、神に惠まれて末大いに立身をする若者の、最初まだ埋もれて凡人の眼には、さういふ福分を備へた者とも見えなかつた間の出來事なども、却つて反映によつて後の感動を深くする爲に、存分に笑ひ拔いてよかつたのである。日本では御伽草子にもなつて居る一寸法師、物草太郎などが其例であつた。竹取の鶯姫や桃太郎なども、曾ては小さいといふ點で人を笑はせて居たのかも知れぬが、今は至つて其痕跡が薄い。おろか者の話としてはグリム集の「ハンスの馬鹿」がある。同じ型は既にペンタメローネの中にもあつて、共に主人公が未だ自分の能力を知らず、薪の束に乘つて是が馬ならよいにと言ふと、其薪束がとこ/\と走り、それを御城の窓から見て笑ふ姫君に、孕んでしまへとのゝしると忽ち姫が身ごもるといふ類の、突兀たる奇跡を演じさせて居る。我邦でも同じ例は探せば決して稀でない。炭燒長者が黄金の山に住んで、尚極貧の生活に甘んじ、折角もらつた小判を池の水鳥に打ちつけて、始めてそれが富貴の材料だといふことを、新嫁に教へられたといふなどは其一つである。是が主人公の此世の智惠が、竝以上に乏しかつたことを説いて、一應凡慮の人々を笑はせて置く手段であつた證據には、東北では主人公が我が影法師に米を投げ遣つた笑話に、話しかへられたものもあるのである。是と派生説話の最も徹底した愚か聟話などゝの間には、既に目的の著しい差がある爲に、二者の聯路を心づかぬ人もあるけれども、それは皆中頃の變遷であつて、(99)言はゞ笑を切り離した題材とした結果なのである。
 
 五四 近世昔話のあまりにも主要なる地位を占めて、少々我々をうるさがらせて居る聟入話なども、根源を溯つて見ると此上も無くゆかしい。聟は嫉まれ又いぢめられる者となつてから、人は面白づくにも此話を誇張したけれども、なほ遠くの田舍に殘つて居る類例を比較して居ると、始めに笑はれて居たおろか者が、却つて最も立派な聟殿であつたといふ筋がたどられる。通例は三人聟と稱して、三人兄弟の出世話と近く、或は鉢かつぎなどの後段の嫁くらべ、又は雀の枝折りとか新草履の眞綿渡りといふやうな結末に於て、日本でいふ姥皮、グリムの千枚皮の話とも繋がつて居る。早川君が集めて居る三河の花祭の、翁のかたりの聟入話にも、兎や山の薯の「幸運獵師」の笑ひが入つて居る。貧乏な末の聟が手ぶらで舅禮に行く途中、圖らぬ功名をした大話は又東北にも遺つて居るのである。要するに最初のおろか者笑話は、寧ろやたらに人を笑つてはならぬといふ訓誡から派生し、又盛んに誇張せられたものであるらしい。人を無意味にたゞ笑はせようとするに至つたのは、さういふことをして飯を食ふ職業の者が、多くなつてから後のことかと私は思つて居る。
 
       動物と人
 
 五五 自然説話といふ名稱のあまり行はれぬわけは、此一類の昔話は何れの國に行つても、殆と大部分は生きものの事ばかりで、寧ろ古くからの動物説話の名の方が、精確ではないが印象とよく合するからである。その動物といふ中でも、獣の話が一般に多いのは、大きくて最も人間に近い爲であらうが、氣をつけて見ると役者の數が又限られて居る。たとへば日本では野猪がめつたに登場せず、西洋でも昔からの家畜であつた豚があまり省みられて居ない。鳥(100)類の話の特に東洋に多いのは仔細があらうが、是もやはり我々の平常見て居る小鳥の中で、若干のものだけが特に頻々と噂せられるのである。蟲類に至つてはこの偏頗が更に著しく、稀に話題となつても取扱ひが冷淡で、或は後代の作意であり、類推であるかと思はれるものが多く、どこかにまだ説話の主人公となり得る資格ともいふべきものが、隱れて實は定まつて居るやうな氣がするのである。
 
 五六 是を單純に物を言ふか、從つて人間と同じに思惟し又感動する能力を、誠に意外な區域まで延長させて居た以前の考へ方の名殘と解することは、今ではもう決して牽強附會ではない。幾ら大昔でも又未開の杜會でも、あらゆる天地間の物が悉く魂を具へ、すべてが對等に言語し交渉し得たと、認めて居た證據は無いのである。それには種類があり條件があり、其上に又時の進みに伴なふ制限が加はつて來た筈で、現に植物ならば稀有の老樹、岩石ならば形の最も畸なるものゝみが、それも僅かに夢幻の機會に乘じて、來つて話しかけるといふことを信ぜられ、他の多數の凡常のものにまで、其樣な可能性を付與してあつたのではないと思ふ。説話が民間の文藝に化して後は、どうせ昔々の話なのだから、何を引込まうとも空想は自由だつたやうに思はれるが、なほ聽く者の方が承知をしなかつたと見えて、傳來の約束は思ひの外固く守られて居る。擬人と銘を打つて種々の無生物などに人語させることは、却つて近世の作文時代に入つて多くなつて居るのである。即ち所謂動物説話の主人公が、主として或種の大きな動物に限られて居ることは、大體に於て大昔の神話時代にもさうであつたからと、説明してほゞ誤りは無いやうである。
 
 五七 それから尚一つ、多くの先輩の心付かなかつた點は、此種の獨立した小話に中心となつて働く動物には、他方に又末めでたしの完形説話に於ても、ワキツレの役を勤めて居るものが多いことである。話の時間が段々に節約せられ、長い語りの脱落して行く傾向と考へ合せると、比較的本筋と縁の遠い部分が、先づ切離されて別の機會の用に(101)廻され、其爲に又少しづゝ修飾せられ、改訂せられたことが想像せられるのみならず、なほ笑話とも同樣に、同じ一つの特質又は傾向が、獨立しても又長い話の一挿話としても、共通に用ゐられて居る場合が多いのである。例は探したらもつと適切なものもあらうが、九州と東北とで、カチカチ山の前段として語られて居るのは、狸が出て來て憎まれ口をきく話だが、人間は智惠がある故、翌朝はそつと石の上に黐を塗つて知らぬ顔をして居る。そこへ坐つていつもの通り爺をからかひ、さて身を飜へして遁げて行かうとすると、どつこい尻が引附いて取れないので捕へられる。此狸は陸中では狼の話ともなつて居るが、沖繩ではそれがヨモ猿であり、しかも貧富善惡の二隣人が神の旅人に試みられたといふ説話の結末を爲して居る。貪慾な長者は猿の姿に變へられて山に放たれ、其家を情深い隣の貧翁に與へられたが、毎朝その猿が門前の石の上に來て坐つて、恨み泣くので困つたといふのは呪詛であつたらう。それで神樣の教へにより、其石を燒いて熱くして置くと、次の日は猿が來て尻を焦がして逃げて行つた。それ故に今も猿の尻は赤いのだと謂ふさうである。白い石を燒いて餅と見せかけ、それを食はせて山の怪物を退治した話なども、やはり亦人間特有の技能が、異類を制御するに足ることを説いた動機は同じである。乃ち本來は完形説話の一つの趣向であつたものが、此部分のみ分離して、狸の冒險譚を派生せしめたものと見てよからう。
 
 五八 人と動物との交渉を説いた昔話で、今日最も數多く傳はつて居るものは報恩譚であるが、これは或祖先の幸運や名聲と、結び付けて説くのが自然だから、派生して居るものは今でも少ない。しかし氣を付けて見ると此中にも段階があつて、重きを動物の方に置かうとする試みも無しとせぬ。日本の南北に分布する人と狐と蛇の話、人が三者の中では最も忘恩だつたと説く點は寓話くさいが、わざと殿樣の子を咬んで、恩人の醫師に功を立てさせるといふ智惠は、狐蛇の爲に設けたる趣向であつた。是と稍似たのは我々の謂ふ「猫檀家」、即ち貧乏寺の老和尚を救ふ爲に、猫が火車《くわしや》に化けて長者の葬式を脅かすといふなども、和尚はワキだから動物譚と謂つてもよいのである。しかし此一(102)例からも想像し得るやうに、獣が人間に向つて物を言つたといふことは、夢枕ででも無いと出來さうもないやうに、後世の人には考へられた故に、あれ程數多くの本格昔話に、種々の動物が參與して居るにも拘らず、話はこの方面には餘り派生しなかつたやうである。支那にもあるといふ「古家の漏り」などは有名な一つ話であるが、是は老夫婦の家の中の會話を、單に虎狼が立聽きして驚いたことになつて居る。聽いたり驚いたりする迄は、獣にも可能と認められたのであつて、自分には大よそこの類の説話の分立した時代が、斯ういふ點からも推測し得られるやうな氣がする。
 
 五九 鳥や獣が人語するといふ空想には、幾つかの段階があり、仍て又持續性の強弱があつた。彼等の聲と擧動とを注意する者には、何か言ふらしく又理解するらしく、たゞ我々だけには其が通ぜぬのだと思はれて居た時代は隨分と久しかつた。それだけならば寧ろ常識であつて、空想とすらも言ひ得ないのである。人が外形によつてやゝ不條理なる類推を試み、たとへば鶯の巣に卵を持込む時島を、惡意ある惰け者と認めるやうな習癖は今だつて有る。つまりは此種の空想は尚續いて居るのである。それがこの方面の動物説話だけを、異常に進展させ改造させたのにも不思議は無い。二種以上の動物が同時に登場し共に働くといふ場合は、完形説話に於ては至つて少ないにも拘らず、彼等同士の葛藤を敍述した昔話が、現在至つて多いのは其結果でないかと思ふ。手近な例を引けば犬と猫の仲惡る、是は失はれた寶物の指輪などを、取戻しに行く説話にも既に現はれ、そこへは鼠も川の魚も出て來て、他日の派生説話の資料を豐富にして居る。それと同系かと思はれる桃太郎の鬼ヶ島征伐には、犬猿雉が隨行する。是には西遊記の演義で見るやうな、家來間のいがみ合ひはもう説いて居らぬけれども、今ある「猿と雉の寄合ひ田」のやうな説話は、到底偶然には思ひ付けない取合せである。猿蟹合戰や「猿と蟇の餅爭ひ」とても、何か別に由來する所があつたのか知れない。少なくとも單獨に生れた空想だと、斷言する人は少ないであらう。
 
(103) 六〇 西洋にはあの有名なライネッケ・フックスを裏付ける一群の動物譚が、久しい間諸國を流傳して居たといふが、その肝要なる幾つかの場面は、現に日本にもあつて新らしい起原でない。白人はたゞ法外に之を珍重して、漸次に結集し又補綴したまでで、究竟する所は個々の動物の、癖や擧動をやゝ物々しく、對立させて見たものとしか思はれない。特にそれ自身に語り傳へられねばならぬ程の、重要な事實は無いのである。察するに是も昔話の可笑味と同樣に、長話に變化を付與して聽衆の感を新たにしようとした用意であつたのが、後に分離して成長したものであらう。話の種から見てもそれ以上の目的が、前にはあつたものと考へることは出來ないのである。
 此種の動物説話は、大抵は笑つて聽くやうに出來て居るが、是を笑話化とも言へないわけは、もつと眞面目に語られた形を、想像して見やうも無いからである。現在日本に最も多い例は、二つの動物の走りくらと、三つの動物の拾ひ物分配に第三の者がうまい事をする話などであるが、共に彼等の智惠なり力量なりの、優劣比較といふことが問題になつて居て、此點にかけては歐羅巴の獣界物語も、複雜單純の差以外に、異なる所は無いのである。譎詐憤怨闘諍といふ類の、人間に在つては聞き棄てにならぬ大事件が、畜生なるが故にたゞ面白く聽いて居られるといふことに、大きな價値があつたことは雙方共通で、説話が最初から娯樂の爲にあつたと信ずる人でなければ、到底此樣な動物譚の獨立した發生を認め得ないのである。
 
 六一 それでも猿の尾はなぜ短い、兎の唇はなぜ切れて居るかといふ様に、物の根源を説明する話になつて居るのは、起りの至つて古い證據では無いかと、言はうとする人が今でも少し居るらしいが、さういふ考へ方こそ却つて古いのである。どんな蒙昧な社會でも、今ある「なぜ話」の如き解説を以て滿足し得た者が果してあらうか。それよりも第一斯樣な疑問を抱いて、所謂神話作者に尋ねようとした者があつたらうか。自分をして言はしむれば是は單なる形である。曾て今一段と重要な問題に、斯ういふ方式を以て答を與へ、記憶を確實ならしめようとしたことはあつた(104)にしても、それを猿の尾や蕎麥黍の紅い莖などにまで、擴張して見たのは模倣であり、乃至は素朴な戯れであつた。日本は古事記風土記の上代から、竹取以降の物語册子に至るまで、話の段落に「是よりぞ始まりける」を挿んで、特殊の印象を期した例に充ちて居る。それが敍述の眼目で無かつたのは固より、信じて告げ聽いて信ずるのが目的ですらもなかつたのである。近頃この話し方が漸く止んだといふのみで、是は寧ろ説話を古風にする常用の修飾法であつた。其文句がある爲に、曾ては尻尾の釣りの樣な出來事を、信じた時代でもあつたかの如く推論する者は、餘りにも古人を見縊つて居る。少なくともこの日本の多くの先例を知つた人ならば、そんな机上の空論には陷らないであらうと思ふ。
 個々の昔話の古さ新しさを決するものは内容であつて、斯樣な取つて附けた形式では有り得ない。私は動物が人語をしたといふ空想の種別に、各時代の智能の段階が、映發して居ることを推測する者であるが、其順序は又完形説話の成長とも併行するやうである。ざつとした分類を假に此尺度に據つて試みると、前に竝べた二つのもの、即ち鳥獣が直接に人に話しかけたといふ話と、彼等同士の間に色々の會話が行はれたといふ話との中間に、今一つ動物が獨りで語る型があつて、是は最も鳥類に多く、又特別に我邦の昔話に多い。支那や印度や南海の島々に、是がどの程度の類似を示して居るか。西洋の學者には全然新らしく又試みにくい研究問題であると共に、我々の爲には手頃の題目である。此頃の野鳥は人さへ見ればびく/\するが、以前は相對して朝から晩まで、同じ文句と擧動を繰り返したので、小さな兒は固より、年取つた人々の想像にも、何かよく/\言はずには居られぬ身の上話があるかのやうに、奇異なる印象を與へたのである。鳥の言葉に實は深い意味と賢こい智惠があるのだといふことは、聽耳頭巾や童子丸の昔話、さては瓜子姫カチカチ山などにも既に説かれて居るが、我々の派生説話の方には大體定まつた型があつて、主たるものは親子兄弟の死別れ、是に伴なふ思慕と悲歎といふが如き、極めて特殊なる出來事に限られ、しかも必ず前生は人であつたものが、化して或種の鳥となつて、その最後の言葉を言ひつゞけることになつて居る。さうで無いものにも(105)雲雀と借金、又は百舌の沓縫ひや梟染屋のやうに、曾て負ふ所があつて果さずして世を去つたといふことを、頻りに説き立てゝ居るものが普通になつて居る。靈魂が空を行き、時あつて人界に去來するといふ信仰と、深い關係のある空想であつたことだけは疑はれないのである。しかもそれがこの小話の起つた動機であるか否かは又別問題で、私などはやはり長い話の倦怠を休める爲にたま/\枝葉に走つた挿話だけが後に遊離して、それ自身一つの發達を遂げたもので、最初から斯んな事項のみを、傳へようとして出來たので無いと信じてゐる。
 
       智巧譚
 
 六二 西洋人の所謂本格説話、もしくは狹義のメェルヘンなるものは、幾分か私たちの完形昔話と稱するものより、範圍が廣いやうに感ぜられるかも知れぬ。笑話動物譚その他是と近い二三の派生説話を取除いてしまつても、殘る所のものはまださう單純に、或昔のすぐれた男女の立身致富の話ばかりにならぬからである。即ち民譚なるものは最初から、もつと色々な種類を含み、複雜な目的を併せ有して居たやうに思はれるからである。分類は云ふまでも無く研究の便宜の爲に、我々の考案する人爲の方法に過ぎぬ。もしもさうする方が解り易いといふならば、爰でもう一つ中間の項目を立てゝも差支は無いが、私は前に擧げた派生の説話に對して、他の全部のまだ派生とは謂はれないものを一まとめとし、是を成長の順序によつて竝べて見ることが、最も昔話の沿革を明かにするのに、好都合だらうと思ふのである。
 完形といふ語も急ごしらへであるが、是はたゞ派生でないこと、即ち説話の一部分だけが、分離獨立したものでないといふ意味で、其要點は終局がめでたし/\になり、幸福な主人公の幸福を、説かずにしまふ樣なことが無いものを完形と謂ふのである。此點を目安とすれば、一切の昔話はとにかく二者のどちらかに入れられる。さうしてほんの(106)僅かな問題は殘るかも知れぬが、先づ所謂本格説話の全部は、私の分類の完形昔話に入つてしまふのである。勿論その全部が同年齡であり、頭を揃へて一時に生れたものだとは、あちらの人とても想像してゐない。此類に屬する幾つかの昔話が、或ものは早く或ものは遲く、生れもし發達もしたとすれば、單に一方が他を促し又感化したといふに止まらず、時としては甲から乙へ、一部もしくは全部が移り變つたものも當然に有り得る。問題はたゞ其時の順序、二つ又は三つあるものは何れが前、何れがより若い弟であるかを決する點に在る。關係脈絡の有るか無いかといふ方は、是は外形だから認識はさして困難で無いのである。
 
 六三 この昔話の年齡といふものは、非常に古くもあり又土地毎に違つても居る樣だから、之を確定することはなるほど容易な業でないが、比較によつて似寄つたものゝ發生の後先を察することだけは、笑話などに就いては素人でも毎度試みることで、是もやはり外形のやゝ綿密なる觀測を以て、可なり一般的に可能だと私などは信じて居る。たとへば同じ完形昔話の中に入れてあるものでも、一言のうまい文句の御蔭に幸福を獲得したとか、もしくは竝の人には出來ない思慮分別を以て、大きな仕事を樂々と爲し遂げたといふ類の、我々が假に名づけて智巧譚と謂つて居る一群の昔話の如きは、是にも新舊があらうが大體に其大きさ、形態又は結構の何れの角度から眺めても、前に幾つかの別な話があつて、それを足場に踏まへて伸びて來たものであることがよく判る。話を此樣に奇拔に又濃厚に、しかも出來るだけ簡略にしようとした努力などは、さう早くから始まつたものと思はれぬのみならず、こゝにも亦笑話や鳥獣譚と同樣に、曾て若干の共通點をもつた他の昔話から、變化して來た證跡は擧げ得られるので、派生では無くても完形説話の中では、比較的新らしいものといふことが出來るのである。
 
 六四 智巧譚に屬せしむべき昔話はさう多くない。我邦で最も弘く流布して居るのは「話千兩」、即ち高價を拂つ(107)て學んで來た教訓が、程無く役に立つたといふ道話めいた一篇であるが、全國兩端に及んだ數十の例が、殆と皆留守の妻を疑ふことゝ、堪忍のコとを結末にして居るのを見ると、たしかに職業者の手によつて運搬せられたものである。之に就いて自分が特に興味を抱く點は、あゝいふ諺とも格言とも名づくべき短文句をも ハナシと呼んで居る例の多いことである。クラウストンの援用して居る King saved by an Axiom も同じ型であつて、もとは多分中古の輸入であり、それが今昔物語などの「最愛の者を射よと教へられた話」を、一部分に置換へたものと私は見て居るが、何にもせよ日本のハナシといふ一語が、まだ斯ういふ短句を意味して居た時代、即ち我々の話術のちやうど變り目に、悦び聽かれた昔話だといふことは是で稍わかる。笑話の「旅學問」が都言葉。即ち標準語の思想の眼覺めを語つて居ると同樣に、長たらしい教訓などはまだ一般に不得手で、特に斯ういふ爲になる文句が、ハナシと謂つてもてはやされた頃に、「話千兩」は行はれて居たので、さう近世でもないが又あまり古い時代の事ではあるまいと思ふ。普通聽衆の智能がまだ是を消化し得なかつた社會で、斯んなものを暗記して居るわけは無いからである。
 
 六五 西洋の説話界で、非常によく發達して居る「魔術師と其弟子」などは、やはり智巧譚の中に算へてよいものだが、日本の民間にはまだそつくり該當するものが發見せられて居ない。此種の空想はすべて説話の信じられなくなつた後に、文藝として積み重ねられたもので、その荒唐無稽を以て起原の遠く古いことを立證しようとするのは、誤つた論法だと自分は考へて居るのだが、爰の問題でないのだから特に力説はしない。我々として一寸まごつくのは、他のすべての完形昔話の主人公が皆善人であるに反して、この術くらべの系統の話には、盗人や詐僞などのけしからぬ奴の成功譚が、少しばかりまじつて居ることで、是を人類の道義觀のまだ低劣であつた頃に、既に發生して居た證據だといふ學者も、外國にはあるのである。日本では「俵藥師」などゝ稱して、狡猾極まる下男が何遍と無く主人を騙して、結局金持になつたといふ話が、半ば笑話化して可なり弘く流布して居る。昔話が興味を本位としたものであ(108)る以上、人間の智惠の愉快な效果を説立てる爲に、所謂勸善懲惡を度外に置いて、最初から斯んな形をとつたものがあつたとしても不思議は無いが、私は尚以前鬼とか化物とかの、騙して少しも差支ないものを騙した話があつて、それが面白づくに此樣に變化したのだらうと見て居る。是は我々の謂ふ隣の爺型の常の傾向で、旦九郎田九郎の「賢弟愚兄」でも、乃至「和尚と小僧」でも、一方の非凡を強調する途として、相手をシーソーゲームの他の一端のやうに、どん底まで落すのがきまりであつた。つまりは俵藥師はたゞ利口な下男といふ話の誇張であつて、聽く者も其道コ的效果までには氣をまはさなかつたのである。
 
 六六 盗賊の名人の話は、三人兄弟の三番目の大成功、能田太郎君等が「五郎の缺椀」と名づけて居るものにも出て來る。普通には石川五右衛門の生ひ立ちとして語られるが、五郎の方は是で立派に長者になりきるのである。話の眼目は人の意表に出づる手段で、だめだと思つた者が、最も出世するといふ點に在り、それが稍笑話化しかゝつて居るのを見ると、第二次的の新らしい趣向と言つてよい。親子泥棒の話は埃及出土の斷篇中にもあるから、途法も無く古いのだといふ説はよく聽くが、説話が盗人の教科書として發明せられたものでない限り、是とてもそのもう一つ以前の形が、無かつたとはよもや斷言し得られまい。要はたゞさういふ事を趣向にしても、なほ面白がられた時代が曾てあつたといふのみで、それを泥棒公認の世の發生だときめてしまふことは出來ぬのである。
 しかも此一件が長い複雜な出世譚の、一つの挿話に過ぎなかつた場合と、之を中心とし其點ばかりを説き立てた場合とでは、我々の印象は大分ちがふわけであるが、私は前にも言明した通り、簡潔な個々の小話が幾つも寄せ集められて、大きな完形説話を組立てたとは信じないのである。話の枝葉が備はつた後に、其骨子だけを拾ひ取つて、長篇の綾模樣にするといふことも考へられない。敷衍といふことは聽衆の好奇心、もしくは物足らぬ感じに誘導せられて、起るべきものと見なければならぬ。智巧譚は派生説話では無いが、一つの事柄に特に力を入れて、そこだけを詳しく(109)又有效に敍べようとする點はやゝ似て居る。話の時間の制限といふことが始まつて、氣永に全體を聽いて味はふ餘裕が無く、部分を獨立させ又意義あらしめる爲に、新たなる小さいヤマを、見付けようとした點は、是も亦同傾向の推移であつたと思ふ。
 實例を以てこの説明を補足するならば、亭主が賭け事で負けたのを女房が往つて取返して來る話は、越後にも(加無波艮夜譚)、壹岐にも(昔話集)、甲斐にもあつて(昔話集)、夙くから少しづゝ笑話になりかゝつて居るが、是だけから言へば正しく智巧譚に屬する。しかも話のヤマとする問題が新らしいのみで、妻の才能で夫の困つてゐるのを救ふ條は、普通「天人女房」の後段となつて居る殿樣の難題には幾らも例があり、それも今一つ素朴な「難題聟」、即ち好い娘を娶る條件に、男自らが難題を解き、もしくは女に意があつて竊かに助勢してくれたといふ話から、筋を引いて居ることは内容からでも證明し得られる。即ち特に昔話の此部分に興味をもつた人々が、こゝばかりを追々と日新らしく改造させたので、あべこべに是が種となつて、天人女房の打たぬ太鼓の鳴る太鼓などを、成立させた氣遣ひはないのである。
 
 六七 この女房の助太刀を、或は又息子にした話もあり、老いたる爺婆にした例もある。後者は我々が謂ふ「棄老國」、即ち古來有名な蟻通しの物語であるが、是にも亦殿の難題から轉用した衣繩千束だの蜂太鼓などの趣向がある。所謂七曲の珠の穴や、流れ木の本末のやうな部分ばかりから、是が輸入を説くのは速斷であつて、一方には姥棄山同系の固有の昔話が素地ともなり、複合の種ともなつて居る。故に此話の結末は珍らしく變化に富み、歌に感動したといふものも幾つかあれば、或は若返りの泉や打出の小槌と結びつき、又は小兒の慧しい言葉によつて、悔悟して親を連れ戻つたともなつて居るのである。
 小兒の言葉を中心とした昔話は、日本が特にさうなのかも知らぬが存外に多いもので、一部は既に笑話となり、又(110)猥談とさへもなつて居る。智巧譚の中にも「和尚と小僧」は別として、なほ秀句問答などの色々の型がある。それよりも更に特色の多い、或は日本だけの財産かとも思はれるのは、「屁と親子」の昔話であるが、以前自分の研究に供した資料以外に、喜界島などの幾つかの例が現はれて來た。庇をひらぬ女に栽ゑさせよと謂つて持つて來たといふ植物は、今は黄金の茄子といふものが多いが、其中に一二金色の瓜といふ例があつて、沖繩の久高島では、それが東方の海上から、遙かに漂流して來たことにもなつて居る。是をうつぼ舟に入れて母子を海に流したことゝ、父親が後に大いにやり込められて、前非を悔いるといふ點とによつて、ペンタメローネ以來西洋に數多い无父懷胎の昔話との、連絡が察せられるのみで無く、更に溯つてはその根源の如何に神秘であり重要であつたかも、我邦に在つては之を解説し得られるのである。是が凡々たる屁の原理を中心とした智巧譚の、單なる保存でないことは明白であつた。如何なる氣まぐれが斯ういふたゞ一つの形のみを、斯くまで全國的にしたかはそれはまだ判らないが、少なくとも選ばれたる一人の兒童の異常に賢こかつたことを、もとは骨子として居たと迄は斷定してよい。さうなれば桃太郎や一寸法師以下、同じ系統の完形説話は、指を屈するに遑ないほど多いのである。それと現在の「屁と親子」との發生期の先後は、どんな強辯の者にも爭ふ餘地はない。一方が既に行はれて年久しい末に、他の一方は寧ろ目先をかへる爲に起つたのだから、是を一列に竝べて見るのも誤つて居る。つまりは所謂本格説話の存在を既に認めた學者も、まだ是を第一次のものと第二次のものとに、區分する方法を知らなかつたのである。
 
       昔話の英雄
 
 六八 昔話の主人公が出世して長者となり、子孫末永く彼を一門の鼻祖と仰ぐといふまでには、何かその生涯を價値づけるだけの、對社會的業績が有つてよいわけであるが、妙にこの部面に關してはどこの國の昔話でも、語り傳へ(111)て居る所が少ない。是が日本武尊やヘラクレス一流の英雄物語と、我々の民間説話とを二つに分けて見なければならぬ、肝要なる境目であつたやうに私には感じられる。たとへば日本では桃太郎が勇壯なる遠征をして居る。しかし其結果は鬼が島の金銀珊瑚等を持還つて、老いたる父母の家を富ましたに止まり、更にその地方的異傳を見れば、囚はれて居た美しい御姫樣を、救ひ出しに行くのが目的であつた。即ち他の多くの婚姻致富譚も同樣に、隱れたる小さき英雄が世の中に立場を作るまでの、身一つの經營辛苦に過ぎなかつたのである。其樣に非凡な傑物である以上、いづれは萬人に讃へられるほどの、立派な功業を立てたに相違ないとまでは言へる。しかも昔話は其點を演べようとはしなかつたのである。我々は此事實に基づいて、或一人の神靈に惠まれ乃至は幸運の豫定ある者が、如何なる境遇に在つても結局は顯はれずにはしまはないといふ個條に、特に餘分の關心をもつ人々が、初期の聽衆であつたと推測することは許されぬであらうかどうか。曾て神話が全傳を語つて居た時代があるとすれば、今ある昔話は何等かの理由があつて、專ら其前半にのみ重きを置くやうなことがあつたのでは無いかどうか。私はどうやらさうらしいといふ假定を持つて居るが、それを明確に決する人は次の代の學徒の他には無い。今はたゞ其決定に必要なる資料を、出來るだけ精確に保存するだけを以て滿足しなければならぬ。
 
 六九 今日の昔話の中でも、主人公が最も怖るべき厄難に遭遇して、不思議に脱出し且つ永遠の勝利を收めたと説くものは數多く、日本では是を鬼昔などゝ稱して、可なり重要なる一角を占據して居る。時の順序からいふと、是がちやうど英雄物語の、事業功勞の部に該當するのであるが、それと一つに見られないわけは段々ある。第一にはこの妖怪との抗爭は、殆と皆消極的の努力であり、又は意外なる障碍であつて、それを排除する目的も亦一身一家の他には無い。話を聽く者はたゞ我を主人公の地位に置いて、その力の遙かに及ばざるを感歎するだけで、世の中への恩澤の記念に値するものとては無いのである。第二に多くの災厄と威嚇とは、其内容に於て主人公の成功譚、即ち彼が無(112)類の好配偶を得、もしくは一朝に大福長者となる際に、突破しなければならなかつた困難と同じ性質のものである。彼の榮達の日を中心にして言ふならば、古くは其以前の出來事として語られて居た話が、後々は獨立してその中年期の守成時代に、新たに起つた問題ででもあるかの如く、説く傾きが多くなつて居る。同じ一つの趣向が或土地では早期に用ゐられ、又或土地では遲くなつてから突如として現はれて居る。さうして後者の中には是といふ天分も無く、又格別心掛のよくも無い者が、なほ不世出の英雄と同樣の勝利を獲て居るのである。兩者何れがもとで、何れが第二次の變化であつたかは辭を費すまでも無い。私などの想像では、初期の長々しい完形昔話の中で、爰が最も人望ある聽き所であり、又智惠や秀句の話と同樣に、話者の才覺によつて次々の新機軸を出し得る部分であつた故に、比例以上に發達して、原の器に盛つて置くことが出來なくなつたのである。「話は是つきり」といふ結語はあつても、「それからどうしたの」といふ追究は抑制し得たとは言はれない。さうして所謂後日譚の向ふところは、常に聽衆の好みに偏せざるを得なかつたのである。
 
 七〇 この實例は、グリムの中にも可なり適切なるものが見られる。折角花のやうな王女の聟にまでなつて、是でめでたしめでたしかと思ふと、又その花嫁が居なくなつて、それを捜しに出て幾瀬の苦勞をする。仙人に貰つた稀世の寶物を、騙されて宿屋の亭主に匿され、其取返しの爲に再び若干の葛藤がある。ちよつと見ると二個の説話を繋ぎ合せた様でもあるが、實は今日の舞臺藝術の、アンコールに近いものだつたのである。日本でも奧州の笛吹藤平などは、天人の女房を娶つて樂しい家庭を作り、二人つれ立つて天上の親里へ舅禮に行くが、それで話はおしまひにならずに、姫を赤鬼に盗まれて又何年か行方を尋ね、其間に色々の奇跡があるのである。是を片手に置いて考へて見るならば、「鬼の子小綱」や「桃賣殿樣」といふやうな、それだけ獨立した女房捜しの話も、別の起りであつたといふことが出來ぬのみか、後代合卷類の最もありふれた趣向となつたアンドロメダ式武勇譚の如きも、亦この流行の末梢であ(113)り惰性であつたことが察せられるので、出現は假に古からうとも、最初から昔話にさういふ種類のものがあつたのでは無いと思はれる。是を完形説話中の、第二次のものと認めて分類することには、ほゞ十分な根據があるのである。
 
 七一 説話の主人公が直面する危險は、大體に定まつた型があり、指折り算へられるほどの種類に限られて居る。さうして是を克服する手段として、尋常の武力が一向に用ゐられて居なかつたといふことも、注意しなければならぬ一つの特徴であつた。是は昔話の害敵の常に超人間的に手強く、所謂一筋繩では手におへぬといふことも理由であらうが、又一つには是が本來は昔話の眼目でなかつた證據とも見られる。つまり厄難はたゞ或目途への條件であり又關門であつた故に、之を通過するに必要なる最少限度の對策しか講じなかつた名殘が、今に内容の上に痕を留めて居るらしいのである、闘うて打伏せたといふ話よりも、逃げて還つて助かつたといふ方が遙かに多いので、或は逃竄説話の名を以て、この一類を總絶稱しようとする學者のあるのを見ても、是が英雄の功業を録すべく、企て構へられた傳承でないことは察せられるのである。但しさういふ中でも日本人のやうに、逃げたといふ話をあまり好まない民族があつて、比較的夙くから他の手段を以てさし換へようとして居るが、假に膽力や機轉を以て、相手の惡巧みをそらしたと言つても、歸する所は策謀であり譎詐であつて、未だ曾て岩見重太郎の如く、堂々と健闘した者は昔話の中には無かつた。さうかうして居る中に、聽衆の構成がやゝ變つて、少しは加減して化け物の怖ろしさを説かねばならぬやうになり、後には妖怪も怖るゝに足らず、之を制御するにはおのづから道があるといふことを、教訓しようといふ動機も加はつたものか、昔話に限つて鬼天狗は驚くべく間拔けであつて、言はゞ隣の爺の失脚の如く、勝利者の痛快味を濃かならしめる役割しか演じて居ない。おばけ話の多くは斯くの如くして、終に子供が高笑ひを以て聽くものになつてしまつたのである。
 
(114) 七二 この沿革を念頭に置いて考へると、昔話の冒險譚に非常に大きな差異種別があるのも、すべては時の力であることが略わかる。分類は出來るだけその順序に依るべきである、古さうなものから列記して見ると、先づ最初には親の病氣に、危難を犯して藥を求めに行く話がある。日本でも「なら梨採り」などゝいふ名で、深山に入つて鬼と戰ふことになつて居るが、内外ともに是が三人兄弟の器量比べであり、末の弟が最も思慮深く且つ膽力があつて、やす/\と目的を遂げ、更に二人の失敗した兄を救出するを例として居る。詳しくは敍べてなくとも甲賀三郎と同じに、後に其爲に選ばれて家長となるのであらうから、是などは出世譚の一つの形と見てよい。次には一旦手に入つた稀代の寶物を、盗まれて取戻しに行く話であるが、その最も普通の型に犬と猫と、鼠と魚との干與するものがある。無くして弱つたといふ點が主人公の危難で、相手も?鬼であり魔女である。動物報恩の傾向を伴なふものが多いから、さう古くからの成立ともいへぬが、兎に角中途で一度失ひ、再び手に入れるまでが一續きの難關で、是を通り越して始めて長者の地位は定まるのだから、やはり私の謂ふ致富譚の一挿話であつた。それが獨立した興味の爲に、次第に本話から分離して、或は犬と猫との仲の惡い由來などゝ、説明せられる樣になりかゝつて居るのである。第三には前にも擧げて置いた美女奪還譚で、是も亦好き妻の極度に獲にくかつたといふ難行苦行の變化かと思ふが、話はよほど古くから二つに分れ、日本では娘の父親が鬼の宿に尋ね當り、やはり内應によつて共々に遁げて出る話、もしくは鬼と女との間に生れた小鬼が、智略によつて母を助け出す話なども出來て居る。
 
 七三 單純なる逃竄説話としては、日本でも「三枚の護符」といふのが全國に行はれて居る。是も發端が少しく略に過ぎて、こゝに脱落のあることを想像せしめるが、現在の多くの例は主人公が只の小僧で、別に英雄兒の生ひ立ちの樣には語つて居らぬ。鬼婆は彼を追ひかけて來て寺に入り、和尚と問答して芥子粒になつて呑まれてしまふなどゝいふ結末を添へたのを見れば、どうやら近世の改作を經て居るらしい。七つの小芋又は赤頭巾系統の話なども、我邦(115)では狼を山姥又は鬼婆にしたのが多く、未はやはり逃竄説話に繋がつて居る。最後に天上から金の綱が下がり、子供は助かり妖怪は落ちて死ぬといふのが、相應に古くからあつた形かと思はれる。我々のおばけ話で國際的の比較を許されるものは、大體右に列擧した四通り位なもので、其他は殆と皆此國限りで成長したものと見られる。國内の分布と一致とは甚だ顯著なるにも拘らず、外には是と似よつたものがまだ見出されない。さうして多くは又近世風に笑話に化しかゝつて居る。
 
 七四 さういふ中にも國としての特徴が強く表はれて居て、しかも來由のやゝ遠い昔に在るかと思はれるものが二つほどある。その一つは關君も既に研究に着手して居る「牛方山姥」、是は後段が二つに分れて居て、純然たる逃竄談を以て始終するものと、被害者の牛方が其山姥の家に忍び込み、苦しめからかひ終に退治してしまふものとがあつて、趣向は後の者が新しく又面白い。他の多くの類話が悉く受け身の厄難であつて、嚴格な意味では冒險譚とも言はれない位であるに反して、是だけは少しばかり事を好んだ形がある。今ある話し方は餘りにもたわいが無く、餘りに山姥を愚かなものにして居るが、是にはもと笑話化以前のやゝ嚴肅なる傳承があつたのかも知れない。もしさうだつたら今に何處からか出て來るだらうと思つて居る。第二に日本風なのは私たちの「喰はず女房」、もしくは「口無し女房」とも呼んで居る一話である。主人公は?桶屋といふことになつて居るが、飯を食はぬ女房なら貰ひたいものだと、勝手なことを言つて捜して居ると、私は飯を食べぬから置いてくれと謂つて、訪ねてやつて來た見知らぬ女がある。食はぬにしては不思議に米が減るので、そつと還つて來て物蔭から覗いて見ると、髪をほどいて頭の中の隱れた口へ、莫大も無い握飯をほうり込んで食つて居た云々といふ話である。土地によつて細部には異傳が多いが、覗くといふ點と押掛の嫁入とは、共に「蛇女房」の話にある趣向だから、頭のてつぺんに口があつたといふのも、恐らくは又蛇の變身を意味するのであらう。現在の「喰はず女房」は、夜分蜘蛛に化けて來て退治せられ、或は蓬菖蒲の香に(116)妨げられて、男を捕へそこなつたなどゝいふ話になつて居るが、是も曾ては亦異類婚姻譚の一つの型で、めでたい結末をもつて居たらしく、乃ち昔話の怪談化といふこともあつたのである。化け物の空想などは、どんなに自由であつてもよいわけだが、尚國々で夙くから、最も普通になつて居た昔話が應用せられる。他日一つ一つの話に就いて、なほ詳しく述べて見ようと思つて居るが、かの荒寺の妖怪や、「何が一番こはい」の話などに、?小判大判が山の如く積まれて、忽ちにして主人公を大金持にしてしまふなどゝいふのも、曾ては是がもつと眞面目な長話の一部であり、又その變形保存であることを推測せしむべき、大きな手掛のやうに我々は考へて居るのである。
 
       昔話の近世史
 
 七五 私の昔話分類案は、これで先づ一通り述べ終ることになつた。時間ばかり長くかゝつたから、もう一度要點をくり返すと、三つに昔話を分ける今日の通説は、單なる便宜主義ならば兎も角も、本質論の上には利無くして寧ろ妨げがある。もとは一續きの纏まつた話の中から、特にをかしいと思はれる一小部分を切取つて、そこだけを話にした點は、笑話も動物譚も同じだからである。この二つの後者が單純幼稚で、前者がやゝ智能的であるのは、派生獨立の時期の早い遲いを示すとは言へるが、それも各篇を比べて見ると、必ずしも動物譚の方が皆古いとも限らない。其上に是等と類を一にする怪談や因縁話なども有る。總括して是を派生説話もしくは不完形説話と呼び、目的に從つて其中を小別すべきである。然らば一方之に對する完形説話、古くは本格説話と謂つたものゝ特質は何かと言ふと、手短かに申せば終末を「めでたし/\」、或は「それで一期榮えた」と謂つて相應する者、即ち主人公の生ひ立ちから、家門の安固なる基礎を築き上げたまでを、説いて詳かにしようとするに在つたと、私などは信じて居るのである。或はそれではあんまり狹くなると氣遣ふ人々は、多分は後代の複雜なる變化に紛らされて、まだ十分な見通しが付いて(117)居ないのである。日本は幸ひにして此修業をするのに、都合のよい國らしいから、我々はもう一息努力をして見なければならぬ。
 
 七六 それには最初に注意してかゝるべき點が三つほどある。其一つは前にも述べた様に、同じ完形昔話の中にも化け物を退治しただけ、又はたゞ一囘きりの術なり智惠なりで、災難を遁れもしくは大きな利益を得たといふだけ、即ち大きな一代記からいへば一節一頁にしか當らぬ部分を、細かに記して他を省略したものゝ多いことである。結末の幸福を強調する點を除けば、是も一種の派生説話なのだが、それを別にすることの出來ぬわけは、昔話は昔から、さう無限の時を費すことが六つかしく、又力を入れなければならぬ箇條が區々であつたので、やはり或程度までの繁簡は免れなかつたからである。例へば誕生出現の奇跡に重きを置くものは、大きくなつてからの話が略になり、婚姻の珍らしさを説かうとすると、もう其年頃までの經歴をたゞ數語で片付けてしまふ。つまり話の中心は移り動いて居たのである。所謂逃竄説話や智巧譚は、その傾向が數段と強くなつたといふに過ぎない。だから等しく完形といふ中にも、古風と第二次のものとの等差があることを、知つて居ればそれでよいのである。第二には是等の昔話の部分的獨立が始まる以前、笑話でも動物譚でも、はた冒險譚も頓智話も、共に纏まつた一つの長話の中に、可なり顯著な地位を占めて居ただけでなく、後々はそれが一方の既に派生したものゝ感化を受けて、それ/”\新らしい模樣替をして居ることである。「寢太郎聟入」は大國主命同系の古い婚姻譚であるが、物臭太郎では笑話のなまけ者に近く、宇治拾遺には既に博突打ちとさへなつて居る、是等は數多くの比較を以て、出來るだけ改造の少ない形に近よつて行かなければ、單なる眼前の特徴のみによつて、この成立の順序を説明することは出來ぬのである。
 第三の問題は我邦では是も昔話と呼ばれ、又その話し方も全く他と異なること無きもので、私の分類のどちらにも入らぬものが、十足らずであるが可なり有名になつて居ることである。それを一つ/\取揚げて、是はどうかと問は(118)れると、ちよつと返答がまだ私には出來ない。しかし或は自信が強過ぎると言はれるかも知らぬが、其説明は今に出來ることゝ思ふ。即ちこゝに謂ふ昔話の一つが、稍ちがつた經路を通つて發達したか、さも無くば昔話でないものが中途から紛れ込んで居るのである。勿論何れであつても、行く/\は立證せられなければならぬ。それがまだ出來なくても、分類はやはりして置く方がよいと思ふ。さうしてもしそれが例外で無かつたら、この分類の試みは徒勞に歸するのだが、まあ大抵大丈夫の積りである。例を擧げ始めると長くなるから、茲にはたゞ知らぬ顔をして通り過ぎるのでないことを言つて置くのである。
 
 七七 中世以後の數百年の間に、昔話の變化しなければならなかつた理由は、それは/\算へきれぬほどもあつた。私は寧ろこの關門を通つて來て、なほ是だけの古い姿を保存して居られたことを、大きな不審の一つにも見て居るのである。誰でも容易に想像し得る改良動機は、昔話が追々童話と呼ばれるやうになつたと同じく、聽き手の範圍が世と共に狹くなつて、從うて話し手との距離が遠くなり、單純に物知りと物知らずとの關係に化した結果、人が意識して是を教育の用に供したことである。この心持は笑話にも、化け物話にさへも見られるが、完形説話の第一次的なものゝ中では、我々が名づけて隣の爺型といふものに、最も露骨に表白せられて居る。二人の隣どうしの爺は、いふことすることが明かに黒と白で、當然に又其結果も逆になる。それでもまだ足らずに終りのところに、「だから何々するもので無い」などゝ、御丁寧なる一句を挿む爲に、却つて慾深爺の方の傳記のやうになり、結語の「それで一期さかえた」と、聯路が取れないことになつて居るのである。しかも氣をつけて見ると其教訓といふのが、どこの土地へ行つても人眞似をするな、やたらに人を羨むなと戒めたものばかりが多く、絶無でもあるまいが傲慢はいけないとか、親切であれとかいふ類の、性行に干渉したものゝ少ないのには意味があるらしい。昔話の福運にはかねて冥々裡に指定せられた者があつて、他の常人には企て望むことが出來ないといふ點が、本來の主眼であつたからであらうと思ふ。(119)謙遜親切正直その他普通の道コ律を忠實に遵奉した者が、決して稀でなかつた前代社會に於ては、その條件さへ具備すれば誰でも同じ結果が得られるかの如く、説いて聽かせることは到底出來なかつた。それ故に惡い爺婆の失敗の淺ましさを、喋々と述べ立てる昔話になつても、尚この恩寵は天意であつて、横取り均霑を願うてもむだだといふことを、訓へて居たといふことは寧ろ古風の名殘だと思ふ。
 
 七八 それと同じことは又、人と動物との交渉についても言はれる。近世の老人が動物すらなほ恩を知る。人にして報恩をしない者は、動物にも劣るといふ教訓をする場合に、  屡々引用した例は多くは昔話であるが、其起りは寧ろ別途の必要に在つたらしい。即ち動物はもと人間から、何等の好意を寄せられなかつた場合にも、やはり往々にして昔話の主人公を援助して居る。粟福米而話の繼子が、繼母に命ぜられた大きな仕事に困つて泣いて居ると、澤山の雀が來て嘴で稗の皮を剥いてくれる。西洋にはそれを實母の亡墓の所爲の樣にいふものもあるが、日本ではたゞ雀等が感動して助けに來るといふのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教へてくれたといふ鳥類は色々あつたが、是も其時まで主人公と、何かの關係があつたとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩といふ中にも、命を助けて貰つたなどはどんな禮をしてもよいが、たつた一つの握飯を分けてやつて、鼠の淨土へ招かれて金銀を貰つたり、或は蟹寺の如く無數の集まつて大蛇と闘つたり、取ると與へるとの釣合ひは少しもとれて居ない。是などは禽獣蟲魚に對する我々の考へ方がかはつて、斯樣に解釋することが比較的尤もらしくなつたからで、斯うしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだといふことを、永く記憶して居たのは昔話の賜と言つてよい。人と動物とが對等な交際をした時代があつたことを、傳へて居る歴史といふものは昔話の他には無いのである。
 
 七九 報恩が我々の  枢要な道コであつた時代に、報恩説話の大いに發達したことは爭はれぬが、斯うなる萌しは早(120)くから既にあつた。動物が人にさま/”\の好意を寄せたといふ話にも、よく見ると古いと新らしいとの二通りがある。濱邊で魚を釣り上げると其魚が物を言ふ。私を助けてくれるなら何々といふ寶物を遣らう。もしくは小蛇や龜の子に姿をかへて居て、兒童にいぢめられて居たのは龍王の愛娘であつた。斯ういふのに限つて人に報償を與へることが出來たので、普通の同類は何萬何千あらうとも、素よりそれだけの能力ありと認められては居なかつたのである。鳴いて色々の秘密を教へたといふ小鳥も同じことで、凡俗の眼にこそ見分けはつきにくいが、彼等の中にも靈を具へたものが稀にあり、是と遭遇し得た者ばかりに、昔話の奇瑞は現はれたのである。此點からいふと神々によみせられて、或一人のみが莫大な福徳を授けられたといふ話も、相距ること遠くはなかつた。それが毎日見る鳥獣の親しみに誘はれて、如何なる固體でも悉く恩を報ずる能力あるかの如く、盛んに其類の話を變化し改造して來たのは、言はゞ後世の小話派生の端緒であつた。所謂動物説話の起源は遠いけれども、其増加の原因はなほ此間に求むべきものであらう。
 
 八〇 誇張が民間説話發達の一大動力であつたことは、固より一二の部面だけに限られて居ない。たとへば藁しべ長者が觀音の夢の告を受けて、たつた一筋の藁から次第に有利なる交易をして行くといふ話に就いて言へば、その藁しべは寶物でも何でもない。單に神靈の思しめしに叶うた男には、斯程のはかない品でも、なほ立身の有力なる武器になるといふ、言はゞ極端なる事例を擧示したに過ぎなかつたのである。煽ぐと鼻を高くするといふ扇、尻を撫でれば鳴音がするといふ杓子の如きも、そんな至つて有りふれた誰でも持つて居る物にすら、意外な呪力が表はれたといふのが、話の本旨であつたらうと思はれるにも拘らず、後には是あるが爲に人は富み、之を失へば忽ち又貧しくなるといふまでの、大きな意義を持たせることになつて、我々の分類は混亂せざるを得なかつた。殊に日本で人望のある「隱れ蓑笠」、もしくは「八化け頭巾」の話のやうに、天狗狐の通力が是を奪ひ取つた者に、そつくり移つて行くといふ類の話し方は、新らしくもあれば又十分に茶化しても居る。この樣な荒唐無稽は、寧ろ信じなくなつて後に起つた(121)ものが多い。だからこの變化の順序を明かにせずして、片端から昔話が上代の宗教觀を映發するかの如く、臆斷することは此上無く危險なのである。
 
 八一 ちやうど動物報恩譚に新舊二つの型があつた如く、寶物話にも段々の時代相がよく現はれて居る。古い方の寶物は打出小槌でも黄金小臼でも、たゞ單なる幸運の運搬具のやうなものであつた。元の力は此爲に増減せず、言はゞ手形のやうな役目をして居ただけで、其任で無い者の手に入れば、忽ちしくじつて用に立たなくしてしまふ。さうして外國には異人が持つて來てくれたといふやうな無造作な話が多いに反して、我邦では可なり重大な條件を踏んで之を獲て居り、それが多くは水底の都との交通であつた。殊に面白いと思ふのは、まはせば黄金を出すといふ小さな石臼などは、土地によつては金をひり出す龜の子と語られ、或は猫とも小犬とも馬ともなり、又は見たところ少しも美しくない小兒とさへなつて居る。水の神から送られて來た童子の話は、恐らく日本で特によく成育して居るものと思ふが、それだから話の元の種までが新らしいとは言へないわけは、是を中に置いて始めて一方の寶物譚と、他の一方に蛤女房や魚女房系統の、異類婚姻譚との脈絡がわかつて來ることである。所謂豐玉姫神話をたゞの昔話の落ちこぼれと見ることが、まだ我々には出來ないのは勿論、地方の至つて有りふれた「龍宮聟入」ですらも、?其縁組によつて幾人かの子女が生れ、後に殘つたやうに説くものが多いと共に、母は某池の主といふ類の驚くべき言ひ傳へを家の由緒に掲げて居たものが、中世にもなほ數多くあつたといふことは、つまりは此昔話が存外に近い頃まで、單なる民間の文藝でなかつた證據と言つてもよく、從つてその短日月の變化と殘留とを、我々ばかりは一望の下に集めて見ることが出來るのである。日本の昔話研究は、決して閑事業では無いと思ふ。
 
(122)       統一研究への途
 
 八二 説話の分類が、たゞ單なる研究の一つの手段で無くして、もしも此學問の實體の一部分を爲すものだとしたら、最近のアァルネ・トムプソンの綿密を極めたる排列法ですらも、なほ早計であつたといふ批評は免れ得ぬだらう。といふわけはあの二人の推服すべき學者は、自國の異常に豐富なる資料の一つ一つを、丹念に考察しただけで無く、現在學界の力で手に入れ得る限りの、世界の説話集は皆集めて見て、それ等にも當てはまり、又遺漏のないやうな意見を立てゝ居るのだけれども、さういふうちにもなほ新らしい實例は後から後から發見せられ、意外な問題は起らうとして居る他に、全然知られて居ない地域が今はまだ中々廣い。たま/\片端のみ手を着けられて居る民族でも、紹介者の立場と人柄とによつて、精粗濃淡の差が甚だ著しい。將來まだ何ほどの變化が確認せられて、あの分類法をかき亂すか、測り難いものがあるのである。現に我邦たつた一つの實際を見ても、是まで西洋の人々の參考し得たものといへば、無論歐譯であつて其譯者も適任者とは限らない。しかもこの十年間の、我々の採集などは少しも參酌しては居らず、乏少とも雜駁とも、批評して差支の無いものであつた。假に御同前の骨折などは別にするとしても、近頃始めて活字になつた千篇近くの昔話が、有ると無かつたのとでは推論に變化が無い氣遣ひは無い。朝鮮滿蒙の類例が未知數であるとすれば、同じ變化はまだ/\繰返されるかも知れぬのである。如何に完全な分類案を遺して置いたところで、それはたゞ目下の知識に於ては、斯うも考へられるといふ迄の假定に過ぎず、又是が不便になり不用になる位に、我々の調査が進んでくれなくては困るのである。
 
 八三 それよりも差當り更に困ることは、民間説話の分類に今日の智能を働かせて、合理的とか不合理的とかいふ(123)類の、差別を立てゝ見ようとすることである。古人の不思議として驚いたものゝ中に、今は何でも無い自然の現象が多いやうに、自然と超自然の堺とても、我々の引いた線がいつ迄續くかわかつたもので無い。昔話の以前の聽衆は、素より此樣な區分を立てゝは居ない。奇特といふべくばどれも奇特、當り前と見るならばすべて當り前で、昔ならそんなことが有つたかも知れぬと思ひ、現在にはさういふ事の起らうとも思つて居なかつたことは、どの話だつて皆同じである。それが今日のやうに可なり互ひに相異なつた形になつたのは、寧ろ是からの比較研究によつて、追々解釋して行くべき環境の作用かと思はれる。説話に最初から其樣な特質があつたやうに、思はせるだけでも此分類は不利である。殊にアァルネ先生の如く、強ひて呪術的とか宗教的とかいふ標目を設けて、それ/”\の話の關聯を疎隔することは、一時の便法としても私たちは感服しない。呪とか信とかいふ人類の心意上の諸事相が、如何なる經路を取つて現代の文化にまで歩み寄つたかといふことを、明かにしようが爲にこそ我々は昔話を討究し、又新たに其資料を採訪して居るのである。それが分類の役に立つまでに、もう確定してゐるなら分類も實は價値が少ない。是は全く多くの素人の間に、やゝ普通になつて居た概念が累を爲したもので、又一つには昔話の成長の過程を、個々の民族に就いて充分に、調べて見るだけの餘裕が無かつた爲だらうとも思ふ。
 
 八四 だから私などは國々の分類案が、將來もなほ幾つとなく競ひ進むことを期待して居る。一つの最も周到なるシステムを以て、全世界を統制しようといふ野望は、まだ抱かぬ方がよいと思つて居る。記憶と探索には若干の不便はあるかも知らぬが、分類のし方が區々になつて居る爲に、比較が出來ないといふ心配は些しも無いのみか、却つて縱から見横から眺めることによつて、各部の氣づかれなかつた脈絡の、見出されることが多からうと思ふ。二つ以上の分類表を對照するのは、單に記號だけの問題だから、一度注記して置けば用は足りる。事情の異なる國の獨特の排列の中へ、我々の採集を一つ/\、嵌め込んで行くといふことは容易な仕事で無い。しかも此方面の智識が年と共に(124)増加して、さういつ迄も或時代の分類を、批評も改良もせずに持續する見込が無いとすれば、私は寧ろ國々が各自の經驗により、それ/”\の提案を作つて比べ合ふ方がよいと思つて居る。たとへばこゝに提出した私の分類意見が、最上のもので無いと決するのは、是が根柢をなす私の考へ方に誤謬が指摘せられるか、是を適用し得ない意外な事實が見つかるか、もしくは今一段と簡明なる昔話の説明方法が出て來るか、何れにしたところで學問の一歩進んだ時である。強ひて目前の整理の便宜の爲のみに、國際的の一致を講ずるにも及ばぬのである。
 
 八五 其代りにはアァルネ氏の案は言ふに及ばず、その他の分類方法にも十分の注意を拂はなければならない。けだし世界のどの隅にもあてはめられるといふ、昔話の分類などは大へんな事業である。よつぽど根氣のいゝ人か、さもなければ旨蛇の荒つぽい獨斷を敢てする者でないと、今日はもう手が出ない程に資料が集積して居る。從つて一たび自信に充ちた新たなシステムが提示せられると、それに聽從しようといふ者が多くなるわけであるが、以前國際の通報手段がまだ具はらず、各自が國内の昔話だけを、主として研究して居た時代には、案外無邪氣に自分等のもつ事實に、通切なる分類をして居た者があり、それが又我々には大きな參考になるのである。例へば獨逸で J,G,v,Hahn が、希臘アルバニヤの民話と共に公表した一案の如きは、既に八十年の昔の説であり、又次々の新らしい意見によつて覆へされてしまつた樣でもあるが、なほあの當時、どうして斯んな分類をしようといふ氣になつたかは、もう一度考へて見てもよい問題であつた。
 今は省みる人も少ない樣だから、右のハーンの分類をざつと紹介すると、此人は民間説話を三つに大別する。その第一は家族に關するもの、第三は内外二界の對抗と謂つて居る。即ち主人公の敵又は知らぬ世界との交渉で、大よそ私などの謂ふ厄難説話と、多くの智巧譚とが此中に包括せられる。この點までは中々氣の利いた、今の人たちをも頷かせる分け方なのだが、甚だ厄介なのは此中間に置かれた第二類で、ハーンはそれをしも雜の部と名づけ、更に其中(125)を小分けして一つを妻もとめ、其二を美女の誘拐、其三を種々なる話題として居る。もう辯解の出來なくなつた人を、強く責めるのは男らしくないが、斯樣な種々だの其他のものだのといふ部門をこしらへて、始末の惡いものを皆ほり込んで置くことが許されるなら、分類ほど容易な仕事は無い。我々は出來るならそれを絶無にしようと念ずればこそ、前以て何か一つの、大きな標準を定める必要を認めるのである。ハーンの分類法は平たく言ふと、單に昔話の中には家庭生活を主題にしたものと、主人公たる男女の尋常ならざる經驗を、取扱つたものとが隨分多いといふことを、例示したに過ぎない。しかも第二類の中でも妻覓めは第一へ、美女の厄難は第三に編入して少しも差支が無いから、結局は殘りの種々雜多なものを、一括りにして片隅へ推し遣つて置いたことになるのである。
 
 八六 英國でも私たちに馴染の深い Rev.Baring-Gould といふ老僧は、右のハーンの意見に從うて是に若干の改訂を加へたと言はれるが、是は前案の第二第三類を合せて雜々といふ部となし、是を第一の家庭説話と對立せしめて居るのである。二つに分けると殊に分類らしく感じられるが、後者はいよいよ雜駁となり、之を更に四つに小分してあつても、それだけでは漏れるものが甚だ多い。即ちやはり處理し易い部分だけを處理して、其他を後の人に押付けたといふ點は同じで、分類としてはまだ決して成功しては居らぬのである。しかし我々はそれにも拘らず、この二人の先進の努力を高く評價して居るわけは、是が其後の精密なる分類家の、或はなほ怠つて居たかと思ふ點に、注意をしてくれたと思ふからである。弘く世界を見渡さなかつたことゝ、論理の徹底しなかつたことは弱點だらうが、少なくとも彼等が自分の周圍の實例に、忠實であつただけは爭はれない。即ちこの人たちの育つた國の昔話は、所謂家庭生活と外界との衝突とを、主題にしたものが殊に多く、もしくは重要なる部分を占めて居たので、偶然ながらも昔話の中心もしくは發源とも名づくべきものが、この區域に在つたことに心づいて居たのである。アァルネ氏等が分類も、是が大きな話柄であることは認めて居るが、まだそこ迄は前の二人の直感に共鳴することは出來なかつたのである。
 
(126) 八七 そこで立戻つて是が日本の場合に、適用したらどうなるかを考へて見るのに、私などは假にあの獨英の二人のやうな熱心なる研究者が、六七十年前の我邦に居たとしても、やはり同じ分類案を立てたらうと思つて居る。日本の多くの進んだ田舍では、もう昔話といふと聯想はすぐにおろか聟おろか村、乃至は何物が一番怖いといふ類の Stupid Ogres 頓間な鬼の話に馳せて行くが、祖父母の代までの目ぼしい昔々は、こゝでももつときまじめな家庭譚が多かつたのである。話の結びの句の、「それで一期さかえた」、もしくは「孫子しげた」といふなども、之を證明して居ると私は思ふが、更に之を確實にする爲には、試みに此部分ばかりの内容を、彼と是と比べて見るのも一方法であらう。ハーンの第一類は夫婦と親子と兄弟の三つに小分して居る。ベアリング・グールド師は是に約婚を加へて居るのは稍蛇足である。爰に列記した個々の説話には、日本にまだ見つからぬのが無論多少は有るが、その大體は心あたりのあるものゝみで、是ほど離れて居てもなほ雙方の興味には共通のものがあることが、段々と判つて來るのである。
 
 八八 其結果として我々の昔話分類は、たとへ少しでも國外の學説を參酌せずとも、自然に任せて置いてもやはり右の樣な前例と似て來るのである。私の案では桃太郎を最初にもつて來たいから、婚姻より前に誕生を掲げて居る。是には川上から流れて來た桃瓜等の中に居たといふものゝ他に、土の中から誕生したといふローマンスに近いのもあれば、鷲に捉まれて遠くから運ばれたといふのもあり、或は又小蛇や蛙や田螺の姿で、やゝ大きくなる迄居たといふのもある。其種類は多いが之を一貫して、特徴とすべき點は子の無い親二人の願掛け、次には至つて小さい子の急激の成長、及び大きくなつて好い婚姻を志すことで、即ち此點で第二の女夫話と連絡して居るのである。昔話の婚姻にもやはり世界的にほゞ定まつた型がある。尋常多數の人には到底期待し得ない配偶者が、?魚や鳥の姿になつて嫁(127)に來る。もしくは貧しい農夫と長者の姫といふやうな段ちがひの縁組が、一見不可能なる或條件の具足によつて結ばれる。女を主人公にしたものでは我邦では蛇の聟入が殊に多く、それも聽く人の好みの變化によつて、段々と不幸な事件のやうに解する傾きを生じたが、古い形ではそれが純粹に女の家の富貴繁昌に歸して居る。三人ある姉妹の上二人が拒絶して、後で悔い羨んだといふ Psyche 型は今でも殘つて居て、此點では又第三の同胞話に繋がつて行くのである。女の兄弟でたゞ一人が幸福な縁に附く話は、シンドレラ型といふものが世界的である。是も日本では繼子の哀話の方へ成長してしまつたが、男性の方は甲賀三郎などのやうに、一人が非常に優れて居て、好き妻を得又長者になるといふ例は、最も奇拔なる「五郎の缺椀」をはじめ數が多く、別になほ笑話に化してしまつた二人兄弟の賢愚の話もある。是等の説話は力の入れ所のちがひによつて、それ/”\別の部類に編せられようとして居るが實際世に行はれて居るものは今でもまだ相連結し、長い話になると三者を併せ説くことも稀でない。この分裂の傾向はやがて又、立身の具となつた寶物と守り神、動物の援助、勇氣膽力よい智慧好い言葉などが、他と切離されて獨立の短い話となり、更に派生しては笑話となり動物の逸話となるのと、本來一筋の軌道の上の相前後した動きであつたらうと、私などは考へて居るのである。
 
(128)     昔話分類案 その二
 
               誕生の奇瑞
               不思議な成長
               幸福なる婚姻
               兄弟の優劣
    完形昔話       財貨發見
               厄難克服
               動物の援助
昔話             言葉の力
               智惠の働き
               ………
 
    派生昔話(不完形昔話)
                   この分類は第一表を見よ(九五頁)
 
(129)     夢と文藝
 
          一
 
 是は信州北部の山村を見てあるいた友人の手帖に、書留めてあつた話である。五月代掻き馬を里の方に貸して居る家で、急にその馬が病氣になつたといふ沙汰が來たので、親爺さんが出掛けて行つた晩、女房が夢を見たさうである。常日頃可愛がつて育てゝ居た馬だから、さういふことがあつたのだらうと謂つて居る。これはえらい病氣でとても助かるまい。賣つてしまはうとうちのとつ樣がいふと、馬はむつくりと起き上つて、もう斯んなに脚が立つから、どうか賣らずに置いてくれと、拜むやうに頼んで居る夢であつた。いやな夢を見たものだと思つて、子どもたちにもその話をして居るところへ、やがてとつ樣が戻つて來て、しかたが無いで馬は賣つてしまつたと報告した。それを聽いて火ジロのはたで、其日は一日泣いて居たと謂つて居る。
 鳥獣が物を言つたといふ夢は、自分などには見た記憶がもう殘つて居ないが、元來夢といふものがこの話のやうに、後に奇妙に思ひ當ることでも無いと、忘れてしまふのが普通だから何とも言へない。以前は田舍では夢の話をする人が、今よりも多かつたやうである。特に心の動搖した場合で無くとも、何かやゝ變つた夢を見ると、其印象のまだ鮮かなうちに、よく誰かに聽かせて置かうとするのである。自分の母などもたしかにその古風な一人であつた。斯うすれば事は現實に化するから子供にも記憶せられる。さうして其中には、毎度動物の人語した夢があつたのである。
(130) この種我々の内部の慣習は、殊に消えやすく改まりやすく、又その崩壞を防止する手段が無い。第一に存在を確めることが簡單でない上に、假に是から實驗をして見ようとしても、既に斯ういふ話をしてしまつた後では、その新たな影響も割引して見なければならぬ。つまりは我影と同じで、捉へようとすればもう元の姿では無くなつてしまふのである。所謂フォクロアの無意識なる傳承に據つて、たゞ辛うじて曾て有つたものを、尋ね究めて行くことの出來る問題は、必ずしも夢の場合だけではないのだが、此方面では分けても今までの無關心がひどかつた。從つて又微々たる村の女性の一言一行までが、思ひがけぬ大きな暗示にもなるのである。
 
          二
 
 少なくとも二つの忘れられかけて居た精神生活の變遷が、こゝに幽かなる銀色の筋を引いて、遠い昔の世まで我々を回顧せしめる。其一つは夢を重んずる氣風である。孔子が周公を夢に見なくなつたことを、心の衰へとして悲しまれたやうに、夢が何等かの隱れたる原因無しに、起るべき人生の現象でないことを、最も痛切に古人は認めて居た。さうして今とても之を疑ひ得る者は無いのである。たゞ其解釋が國により時代により、又經驗の狹さ廣さによつて、群毎に甚だしく區々であつただけである。我々の親たちは靈の自由を信じて、身がらが無爲の境に休息して居る間に、心は外に出て色々の見聞をして來るものと思ひ、又未知の世界からの音信に接することが、出來るものとも思つて居た。從つて平凡なる社合の光景に觸れても、それは看過し聽きのがして語り傳へようと努めないが、何か思ひまうけぬ異常の夢であつた場合には、其印象が遙かに我々の受けるよりは強烈であつて、通例は是を次に起るべき事件の、豫報の如くにも解して居たのである。外部の或力が時あつて之に干與するものゝ如く、信じて居た點が今日とは異なるが、それも亦何れが正しいのか、未だ必ずしも確定はして居ない。人をして夢みしむる不思議の力を、或は枕神と謂つて居る土地もある。さうで無くとも日頃の神佛に願を掛けて、進んで夢を念じ夢を待ち、それが應驗の有つた場(131)合も多かつたことは、前期の文藝に親しむ程の人は皆知つて居る。それが悉く現代に於ては排斥せられて居るのである。たま/\父祖と同じに夢を見て喜憂する者があらうとも、之を表白して其兆候の適中するか否かを、試みようとする人は殆と無くなつた。人生の不安はまだ若干は殘つて居て、古來之を慰撫して居た有力なる一つの手段は、既に忘却の淵に臨んで居るのである。
 何がこの消えたるものゝ代りとして、未來の空隙を盈さうとして居るのかを、我々は痛切に知りたいと念じて居る。夢の神秘の最も究め難い部分は、一家一門の同じ惱みを抱いた人々が、時と處を異にして同じ夢を見、それを語り合つて愈其信仰を固めるといふ場合である。是は近世に入つて一段と稀有の例になり、僅かに文筆の間に稍おぼつかない記録を留むるのみであるが、現實には却つて之に似た遭遇が多い。自分は夙くから是を共同幻覺と呼んで居る。たとへば荒海の船の中で、又は深山の小屋に宿して、起きて數人の者が同じ音樂や笑ひ聲を聽き、又はあやかしの火を視ることがある。それを目耳の迷ひだと言はうとしても、我も人も共にだから容易にはさうかなアと言はない。似よつた境涯に生きて居ると、同じやうな心の動きが起るものか。もしくは甲の印象は鮮明で強く、乙丙は弱くして漠然たる、稍近い感じを受けて居るに過ぎぬ場合でも、一人が言ひ出すと自然に其氣になり、又段々にさう思ふやうになるのか、是は遠からず實驗をして見る人があるであらう。夢が文藝に移つて行く經路を考へると、或は後の方の想像が當つて居るのではないかと思はれる。
 
          三
 
 夢は語つて置かぬと見た人もやがて忘れる。好い夢は人に語るなといふ戒めは古くからあつて、昔話の「夢見小僧」はそれを誰にも語らなかつた爲に、親の家から追出されて難儀したけれども、しまひには其夢の通りに千萬長者になつたと言はれて居るが、是は寧ろ一家のうちでは、夢も本來は共有の物であつたことを意味するかと思ふ。夢を(132)見る役と夢を語る役とに任ずべきものが、以前は定まつて居たのではなかつたらうか。主翁も年を取り激勞せぬやうになると夢を見るが、やはり一家の幸福に最大の關心をもつ者が、自然に此任務に當つて居たやうである。女房は小さな事に氣をつけ、文字の利用せられぬ時代には帳面の代りもして居たのだから、家の中ではどうしても口を利くことが多い。少なくとも夢を談る役には、主婦以上の適任者は無かつたのである。
 人々が夢を重んじ、夢の指導の力を信じて居た世の中では、無論割引もせず又おまけも添へず、それを一族限りの大きな事實として、解釋し又判斷をして居たことゝ思ふが、其間の消息は小説ぐらゐにしかもう傳はつて居ない。たゞ若い者が蔭を向いて 舌を出すやうな時節になつて後まで、老女の夢を説かうとする癖が、なほ田園には殘留して居るだけである。
 
          四
 
 斯ういふ小さなことを穿鑿して居る者を、非難する氣風ばかり今日は盛んになつて來たが、私たちに言はすれば、それだから國民に夢が乏しくなつたのである。それだから夢よりももつと頼りない、何の礎石も無い獨り言が、人の耳を引張つて聽かせ、人の額を押さへてうなづかせる迄に、出しやばつて來たのである。少なくとも斯うなつて來た經路だけは、久しきを誇る國ならば明かにして置かねはならぬ。
 つまり我々の共同の夢は發達したのである。さうして世と共に變遷し、又不純にならざるを得なかつたのである。一族一門の大きさは加はつても、之を組立てゝ居る個々の小家にも力が出來て、到底或一人の主婦の夢解きを以て、利害を統一することが六つかしくなつて來たのである。彼女等の夢みる能はざる人事世事が、段々に増加して來たのである。それ故に地方の最も能く夢み、又最も美しく夢を語り得る者を推薦して、公衆の爲にその見る所を敍説せしめ、更にさういふ人も無力になつて來ると、旅の職業の女性が聘せられて遠くから渡つて來た。彼等は萬人の覺めて(133)眼を圓くして居る中に圍まれて、獨り自在に夢の國を歩むことが出來た。其代りには言ふことがあまり適切で無く、又時々は有り來りの語辭をおまけに添へた。うそだから惡いといふ良心までが共に睡つて居た。この夢語りには又報酬があり、自身も捲き込まれるやうな憂ひと悲しみはなかつた。だから取越苦勞の主婦の夢のやうな、淋しい薄墨色の陰影は無かつたのである。文藝の芽ばえは常に紅色を帶び、又は淺緑の晴々とした色をして居た。昔あつたといふ神に惠まれた若者、又は清麗玉の如き少女の、少しは苦しみつゝも末めでたく長者となるといふ類の、遠い祖先の事などが例に引かれ、我等は其子孫だといふ喜びを以て、現世の不安を追拂はせる物語が多くなつた。其空想は繁り又榮えて、末には之を信ぜずともよいばかりか、うそで休息しようといふ新たなる趣味を、養ひ立てることにもなつたのである。
 しかも我々の姉妹の多數は、今以て芝居で泣き小説で泣き、明かに是は作りごとだと知つて居ながらも、なほ何等かの生活の手本を、其中から得なければ損だと思つて居る。夢といふ至つてまじめなものゝ代りを、文藝に勤めさせようとして居た因習の痕跡では無いかと思ふ。川上は遠く霞んで居るけれども、この洋々たる文藝の流れには、かつて埴生の小屋の背戸をおとづれた、數限りも無いせゝらぎの水がまじつて居るのである。さうして衆と共にする文藝の樂しみが、次第に我々各自の夢を、粗末にさせることにもなつたのである。
 
          五
 
 此話にあまり深入すると、折角言はうと思つた次の間題が御留守になる。信州の老女が見たといふ馬の夢は、更に第二の昔人の考へ方を思ひ起させる。以前九州の田舍をがた馬車で走らせて居た時に、御者が小ひどく鞭を打つのを見て、あんな語りのならぬ者に惨いことをすると謂つたのが、十六七の同車の貧しげな小娘であつた。さうして此娘も賣られて行くところであつた。人は泣いたりわめいたりするからよいが、獣はたゞそれだけが出來ないと、思つて(134)居るらしい言葉を聽いて、始めて自分はこの人たちの生活觀に觸れたやうな氣がした。それから氣をつけて居ると、同じ形容句は多くの人が用ゐて居る。中には口癖で意味も無しにさう謂ふ者もあらうが、家畜がまじ/\と人を見る眼つきには、もし言はれるなら何か言ふだらうと、思ふやうな場合が?あつた。耳は形が全く人とは似ないのだが、それですら確かに聽いて居ると、信ぜずには居られぬ樣子をすることが多い。他に聽き手が得られないやうな場合に、もしくは彼等に向つて感情が動く場合に、話をしたくなるのは鹽原多助のみでは無かつたと思ふ。古人は必ずしも今日の漫畫のやうに、すべての動物がむだ話までするものと、信じて居たわけではよもや無かつたらう。たゞ何ぞの止むに止まれぬ場合に、殊に其中の資格を備へた者だけが、日本語を用ゐて我々に話しかけることを豫期して居たのであらう。草木も言問ふといふ上代の記録が、何等の限定の辭をも添へなかつた故に、或はもし/\龜よ龜さんよの如く、又はルナールの物語の如く、彼等にも人がましい社交があつたといふ空想は新たに生れ又擴張したのである。さうして動物が人語する機會又は條件の、次第に退縮したことに心付かしめなかつたのである。
 當りまへのことを言ふやうだが、鳥獣が現實白晝に物を言つたといふことは、確かな記録には殆と見えて居ない。しかも夢に現はれて物を言つたといふことは、此通り今でも稀ながら有るのである。世間話の一つとしてよく知られて居るのは、猫がお孃樣の傍を寸刻も去らないので、氣味を惡がつて棄てようかと相談して居ると、早速夢に現はれてどうか棄てずに置いて下さい。實は長蟲が附け狙つて居ます。私が居なくなれば危難が忽ちだからと言つた話。或は猫が惡者で害を主人に加へようとするのを、?が知つて居て色々と警戒するが人にはわからず、あべこべに自分が山に棄てられる。そこで愈夢の中に出て來て、旅の六部に顛末を語り、援助を求めたといふやうな話。此類のものなら耳からでも書物からでも、まだ何程も集められるのだが、是を實際にあつた事として、耳を傾ける者はもう無くなつた。しかし如何して斯んな單純な趣向の話が、是だけ有名になつて居るかの元を考へると、たとへ話する者は受賣であり又捏造であらうとも、聽いてさもありなんと思ふ者が一方に居なかつたら、それこそ話にもならなかつた筈(135)である。乃ち多くの文藝は民衆に許容せられて、僅かに其聲名を高うするを得たことは、昔も今日と變るところが無いのである。
 夢の統一は國民としては大きな事業であつたが、其代りにはどこへ行つても通用しさうな種ばかりを選む故に、話の單調に陷るのを防ぐことが出來ない。殊に中世の代表者は無能であつて、且つそれ/”\の人の惱みの爲に、新たに空想してやるだけの親切も無かつた。一度群衆の好みに投じて、深い感動を與へた經驗のある物語は、弟子から弟子に傳へて後生大事に持ち廻つて居る。著聞集以來の有名な發心譚、夢に鴛鴦の雌が上臈の姿で現はれて、あはれな歌を吟じて泣いたといふ話などは、今でも氣の毒なほど多くの村の人が、附近に似よつた名の古沼さへあれば、皆自分の土地に昔有つた事實のやうに傳へて居る。是ほど美しい夢を愛する人々に、斯ういふ有りふれた古いものを抱かせて置いて、それでも悦んで居るのだからいゝぢやないかと、澄まして見て居るのは私は罪だと思ふ。
 
          六
 
 しかし一方では又その御蔭に、よくも時代と折合はない古風な考へ方が、まだ幾つと無く我々の間には殘つて居て、歴史の乏しさを補つてくれて居る。是がもし次々に人の利害に適切な、新らしい夢を見て居たのだつたら、それらは下積みになつてもう手輕には發掘し得られなかつたらう。色々引きたい例も有るのだが、今はうつかりとしたことは言はれぬ世の中だ。寧ろ動物が物を言つたといふ話の續きをした方がよい。西洋の動物説話はイソップ以來、既に半分以上は諷刺に化して居る。事實その樣な狼狐が居たといふよりも、どこかの人間の所業を獣の名に托して、あてこすつて居るのだと覺られる話ばかり多い。是に反して我々の田舍では、その今一つ以前の?態が窺はれるのである。殊に鳥類が軒端を過ぎ、又は庭前の木にとまつてくりかへし鳴く言葉を、彼等自らの身の上を訴へるものゝやうに、聽いて同情した昔話は多いのである。時鳥は昔誤つた恨みで弟を殺した男が、罪を悔いて「庖丁かけた」と歎くのだ(136)と謂つたり、郭公や青葉づくは一人子を失つて、いつ迄も其子の名を喚ぶのだと謂つたり、不孝な鳶や鳩は親が死んだ後に、墓を川原に作つたことを後悔して、雨が降りさうになると悲しんで鳴くといふ類の言ひ傳へは、兒童の頭に沁み込んで段々にその鳴く聲が、人間の言葉にさへ聽えて來る。從つて話はまだ活きて居るのである。あの世を空の向ふに在るものと思つて居た時代から、人の魂が羽翼あるものゝ姿を借りて、?故郷の村に訪ひ寄るといふ信仰があつたものと思はれる。それが佛法の教理に蔽はれてしまつて後まで、なほ斯ういふ切れ/”\の記憶によつて、昔の交通を維持して來たのである。
 鳥の聲の聽きなしは土地によつてちがひ、又明白に新しく始まつたものもある。たとへば山鳩は「爰へ鐵砲」と啼くと言はれると、成るほど聽いて居るうちには、さうとしか解せられなくなる。ところが東北では或飢饉の年に、炒粉を山畠に働いて居る父の處へ持つて行く兄が、中途で路草を食つて居たので父は餓死してしまつた。それを悲しんで此鳥になり、テデェコォケェ(父よ粉を食へ)と啼いて居るのだといふ地方もある。乃ち或一つの考へ方が元になつて、話は次々に作られて行くのである。斯ういふ文藝は多くは他地方へは通用しない。乃ち作者は凡人であり自家用である場合にでも、我々の空想は是だけまで自由であつた。曾ては日本に此種の文藝の盈ち溢れて居た時代もあつたのである。それが限りある專門作者の才能を過信したばかりに、人は次第に夢見る力を失ひ、我と我身に近いまぼろしを振棄てゝしまつた。殊にこの込入つた學びにくい文字を通してゞ無いと、さういふ凡俗な文藝にすらも接し得ぬことになつては、子供や女たちは全く手があいて、頭をからつぽにして日を送らなければならぬ。彼等の生活を寂寞にして置くといふことは、國の未來の爲にうれしいことで無いにきまつて居る。
 但し是をもう一度、以前の?態に戻せといふやうな、出來ない相談を始めても益が無い。自分の望んで居ることはたつた二つ、もう少し世の中が斯うなつて來た原因を、はつきり突留めようとして貰ひたいこと、次には書物を見てもそんな歴史は書いてないから、飜つて今も不用意に、少しの古風を保存して居る村々の生活を、輕しめ賤しめずに(137)ぢつと見ることである。村々の同胞は、ゐなか者といふ名がふさはしくない程に、精緻なる情操と、機敏な感覺とを夙くからもつて居た。それが又中央統一の新しい文化の波に搖蕩せられて、行き着くところに迷つて居る原因でもあつた。今日はたしかに正しく信ずべきものが指導して居るのであらうが、もしも萬々一それが惡かつたらどうしよう、といふ懸念は常に有るのである。彼等をして自ら將來の最も好ましい姿を、胸に畫かしめるやうにしたところで、現在の日本でならば、決して再び割據分立の世に復るやうなことはあるまい。だからもし許さるゝならば、私の第三の希望は此點に置きたいのである。
 
(138)     文藝と趣向
 
          一
 
 最近に或場處で話をしたのは、日本の文藝には今でもまだ解除してもらへない若干の約束があつて、少なくとも讀者もしくは見物といふ者の大多數は、正直に其履行を豫期して居る。それが何れも皆古い/\大昔からの引繼ぎであつて、なつかしさもなつかしく、實際又無視し難い效果を收めても居る。果してこの?態をなほ當分は續けて行くことが、御互ひのしあはせなのであらうか。但しは又何でもかでも突破つて、新らしい道を切開くのが道であるか。之を決することは無論容易ぢやあるまいが、とにかくに一通りは行掛りを知つて置く必要がある。といつた樣な例の民俗學の效能書きであつた。是は文藝史の至つて尋常なる一方法であつて、やがて國民の常識となることは請合ひなのであるが、不思議に今日はまだ省みる人が少ない。仍て僅かばかりの知つたか振りを竝べて、もつと精確な研究の出現を促したいと思ふ。
 
          二
 
 趣向といふ言葉は、近頃の文士はめつきりと使用しなくなつた。多分一時代前の先輩が、幾分か之を用ゐ過ぎた反動であらうが、他にも考へれば理由は無いこともない。私などの知つて居る小説家は、よくタネは無いかなどゝ謂つ(139)て居た。タネも趣向も根原はほゞ一つである。此頃はどうやら材料といふ語が行はれ、之を纏めることを構圖とか構造とかいふらしいが、斯うなるともう少しばかり氣持がちがつて來る。江戸の作者の趣向と謂つて居たのも、よく視ると少しづゝの用法の推移はあつて、後にはほんのひよいとした思ひ付き、排列とか取合せとかの微々たる技巧を意味するやうになり、それが素人の日常の會話にも入つて來て、たとへば不斷着のだらしの無いおかみさんが、まあ斯んないゝシコウでなどゝ、自ら嘲る言葉にさへなつて居るが、以前にいや誰の趣向を盗んだの、支那の小説から借りて來たのと言つた頃の趣向は、そんな末節の名であつた氣遣ひが無い。文字の上から考へても、是が作品の骨子であり、要素であつたことは想像し得られる。だから民間文藝に興味を持つ我々などは、西洋の學者のよく使ふモチーフといふ語を、今では少し無理かとも思ふが、先づ/\趣向と譯して用を辨じて居るのである。この古風な又嚴格な意味に於ける趣向が、をかしいほど日本には制限せられて居た。といふよりも新らしいものが一向に通用しなかつた。大きく分類すれば七つか八つ、十種は越えまいと思ふ重要な趣向があつて、歴代の文藝は言はゞその目標のまはりを近く遠く、僅かな角度をかへ又は取合せの加減をしつゝ、廻つてあるかうとして居たのである。もう我々は忘れかゝつて居るが、斯ういふ國なればこそ曾て自然主義が、一世を驚倒したこともあつたのである。寫實だの生活描寫だのといふ當りまへの言葉が、さも新らしげに押出して來たのも、あんまり趣向にばかり囚はれて居た反動であつて、つまりは文藝をそんな自由なものとは考へない人が、今でも有るやうに以前は更に多かつたらしいのである。惡い記念とまでは私などは考へて居ない。
 
          三
 
 古人に勝手なことを言はせると、文藝から人生を經驗しようなどゝするのは慾が深すぎる。社會の現實には大小高下、望み次第の先例が充ち溢れて居る。亂世には亂世のやうに、無事平和の日には又その樣に、歎き欣び悲しみもし(140)くは樂しんで、活き通して來た人々のまのあたりの記録は、出來たての湯氣の立つやうな?態で、幾らでも供與せられる。情けもひねくれもせずに其中で働いてさへ居れば、自然に入用なだけは人生を學ぶのである。本や舞臺や語り人の口から、教へてもらふべきことは別に色々ある。いくら自由になつたからとても、文藝をさう粗末に利用してはいけない。さういふ心持が米麥魚鹽以上に、我々をして文藝の作品を尊重せしめたのである。
 尋常なる毎日の生活の繰返しに於て、到底得られない經驗といふものは元はきまつて居た。後には旅人が長い旅から還つて來て、遠い異郷の平凡を語るやうにもなつたらうが、當初我々の求めて居たものは奇拔であつて、しかもその奇拔の種類が限られて居たのである。是を久しい歳月に渡つて大切にもり育て、次から次へと配合を新たにして、とにかく現代まで持傳へて來たといふことは、個々の天分ある者の力と言はんよりも、寧ろ民族總體の技能、もしくは是が根柢の根強さと認められる。きつと誰かゞ旨蛇などゝ評することであらうが、私は文藝の起原が上代の信仰生活に在ることを、日本でならば證明し得るものと信じて居る。たゞその變遷の細密なる目録を、取揃へる時間が有りさうも無いだけである。興味をもち出したら若い諸君が今に企てるであらう。作者や作品は字引で引けるまでになつて、この古今を繋いで居るモチーフの歴史だけが、まだ我邦では省みる人も無いのである。國文學がもしも學問であるならば、そんな片輪な?態で永く留まつて居る氣遣ひは無いと思ふ。
 最も手輕な方法は限りある上代の文獻に就いて、如何なる趣向が曾て大いにもてはやされ、後に痕形も無く消え忘れられて居るかといふことを尋ねて見るもよい。恐らくさういふものは一つだつて無く、時代はたゞ固有名詞を替へ新らしい衣裳を着せて、同じ感動を次から次へ、運ばせようとして居たことがわかるであらう。之に對して一方は近世の讀み本、もしくは舞臺藝術の上で、是だけ封じてしまつたらもうどうすることも出來ぬといふ肝要な趣向、たとへば化け物退治に御寶物紛失、貞女の苦節や孝子の仇討といふ類のものに、新發明は無いばかりか、御手本すらも手近には無い。いつの世からとも知れぬといふ以上に、時には言葉もわからぬ外國人までが、繪で見て合點するほどの(141)世界共通さへあつたのである。趣向の永續といふことは神秘であるが、是が無かつたならば國の文藝は榮えなかつたらうし、如何なる天才も取附く島は無かつたらう。是を單なる束縛と解したり、もしくは無意味な舊弊と嘲つて、由來を究めようとせぬ人ばかりが多くなると、文學は乃ち香水や煙草と同じやうに、やはり舶來が上等といふことになつてしまふかも知れぬのである。私は以前も今も浪漫派では無いけれども、この國民の胸を波うたせて居た、古い大きな感動だけは愛惜する。それが寒む/”\とした後姿を見せて、遠ざかつて行くのを見ると悲しまずには居られない。
 
          四
 
 遠い素朴の世の文藝のモチーフが、流れ傳はつて數百千年の後に及び、たとへ曲りなりにもせよ今日のいはゆる大衆小説にまで繋がつて居るといふことは、驚くべき奇跡ではあるが、日本でならばほゞ理由を辿ることが出來る。同じ一つの進化の途を歩む者の、後れ先だつさま/”\の段階が、我々の中には見られるからである。島や山間の數多くの地方差を竝べて、之を時代差の倒映と見ることが許されるからである。出雲の國女が京師を風靡しても、江戸の歌舞伎が桐市川等の統一を受けても、それには頓着無しに村々の神事舞太夫は、傳へられる限りは家々の技を傳へようとして居た。舊社大寺の年々の儀式の中には、古い信仰と不可分なものが殘つて居る。是にも勿論暗々裡の改良はあつたらうが、改良である以上はさう遠くまでは行かない。しかも何等の申し合せをまたずして、久しく傳はつたものと新たに持運ばれたものとが、津々浦々に於て一致しようとして居るのである。
 澤山の例を引くことはまだ出來ないが、今でも大衆小説の缺くべからざる武器として居る「美人の薄命」、是などは石器土器よりも前からかと思はれる世界的の趣向であつて、更に此島に來てから特殊な發達を遂げて居る。どうせ人間には艱苦は附き物であるが、それは何も美人に限つたことでは無い。寧ろ實際は美しいお蔭で、やゝ樂しく暮して居る多くの者を發見するのである。それを明烏の浦里の如く、そんなにまでして見せずともよからうと、反抗を感(142)ずる程にもひどい目に遭はせる。昔話のアンドロメダは、必ず一旦は鬼に捕へられ、鐡の鎖に繋がれ、もうだめかと思ふ際まで往つてから、のそりと之を救ひ出す勇士が出現する。もしくは髪一筋の奇跡で生きて戻る。未だ結末を知らない新進の鑑賞者には、是が恐らくは好い修行になつたのであらうが、實は斯ういふのが神に指定せられて、無類の幸福生活に入つて行く段階として、或は又後期の悦樂を一段と華やかならしめる爲に、作り設けられた假の陰翳に過ぎないのである。最初はたゞ前後の變化を際立たすべく、爰に空想の自由を許して居たのが、次第に力が籠つて人の感動は集注し、後にはつい殺してしまつて種無しにしたものもあるが、是は作者のあやまちだつたと見えて、大抵は不思議の力を以て復活させられて居る。日本で流行したのは漂泊と發狂、中にはこの二つを兼ねたのも多かつた。能の舞だけでも物狂ひは二十番に近く、古くは源平時代からもう始まつて居る。末にはめでたしめでたしの再會となるにしても、とにかく笹を持ち鉢卷などをして、際限も無く舞ふのである。舞は斯ういふものだといふ約束が無かつたら、氣の毒でさう長くは見て居られるものでない。もしくは國民の性情が殘忍で、特に美しい女の瀧の如く涙を流し、黒髪をくはへて悶え苦しむのを、見て悦ばうとする好みでもあつたやうに、解せられさうな懸念もあるが、いづくんぞ知らんや是は皆、人間の最も清い慧しい一人が、神に愛でられて家の名を高くする過程を、少しく大袈裟に説き立てようとした名殘なのである。
 
          五
 
 それから今一つはいはゆる「貴き童子」のモチーフ、是が又我邦では特殊の發育をして居る。諸國に數の多い西行戻り、もしくは宗祇法師の閉口したといふ歌問答は、誰が持ちまはつたか、とにかくに諸國の話が皆一致する、神佛がかりそめに少年の姿に化して、都の一流の名士をびつくりさせ遁げ返らせたといふ、田舍に淋しく住む人々に氣に入りさうな題目だが、その趣向の中心をなす歌が同じなのだから、むしろさういふ類の旅の者が、教へて行つたもの(143)だといふことが察せられる。昔話では和尚と小僧、外國ならば魔術師と其弟子といふやうな、所謂後世恐るべしの教訓に傾きがちであつたが、我々だけはなほ別に二つの珍らしい形を成長させて居る。その一つは落城の火?の中から忠義の乳母などが抱きかゝへて出て世を忍び、永い年月の辛苦の末に、御家を再興するといふ感激の物語、是には政岡や武部源藏のやうに、奇妙に御身代りの挿話を伴なふものが多く、しかも追々に兒方の活躍が少なくなつて、人形にでも勤めさせられるやうになつて居る。是に反して他の一方には、その童子が段々と大きくなつて、武勇衆にすぐれて九郎判官のやうな若大將となるか、さうでなければ容顔玉の如く、才藝文藻を以て數々の戀の勝利を重ねて行くか、何れにしても追々と大人の世界へ、進出するやうな物語も亦多いのである。是は英傑の生ひ立ちに向つて、もつと詳しく知らうといふ好奇心のあらはれとも見えるが、なほ私などは日本の宗教團に、是がたつた一人の美しいもの、墨の衣に高足駄といふやうな、荒涼たる生活の中の花形の役であつた故に、おのづから衆人憧憬の的となつて、次第に幽情を養はしめたものと思つて居る。「からくして思ひ忘るゝ戀しさを」といふ有名な歌物語をはじめとし、近昔の文學に詠歎せられた少人たちは、何れも物の哀れを解すべく餘りにも幼ない。強ひて外側から取附けた趣向、言はゞ讀者の要求に基づく改良であつたことが、是で大よそは察せられ、後には忌はしい色子の生活にまでも墮落したけれども、起りは遙かに清く又神々しく、むしろ菩提の道に近いものであつたことは、江戸に馴染の深い一つ屋の石の枕、姥が誤つて我娘を殺した話などがよい例である。旅の童子に化現したまふ觀世音には戀心は無い。獨り思ひを寄せた少女が身を捨てゝ、母の惡業を濟度したといふことが、この痴情を同情すべきものとして居るのである。少なくとも表面に現れたものは宗教的の感激であつた。
 ところがこの物語は江戸に入つて來る以前、もう大分諸國をあるいて居た。奧州安達ヶ原の黒塚などは、奧の一間を覗いて見たらといふことになつて、青い髯といふ西洋の話の方に近いが、他の土地では何氣無い子守女の唄から危險を覺つて旅僧が遁げ出したと謂ひ、又は草刈童の歌言葉に、「野には臥すとも宿借るな」といふ文句があつて、そ(144)れは觀世音の御告げであつたといふ風に、淺草などでも傳へられて居たといふ。もとは慧しい童子の御蔭で、惡魔の陷し穴から脱したといふだけの、Tot a Tit 一流の趣向であつたのを、後々やゝ艶かしく脚色するやうになつたのが、多分は新らしい聽手の好みであつたらうと思ふ。斯ういふ一部の改造はどの部面にも見られ、又文化の劣つた民族にも、古い趣向のまゝを形もかへずに、たゞ繰返して居るといふことがなかつたのである。
 
          六
 
 この脚色の技能が殊に精巧で、しかも其底を流れる國固有の感覺に、無類に忠實なのが日本人ではなかつたかと思ふ。曾我の芝居は足利期から始まり、一時は春狂言の吉例とさへなつて居たといふが、其名の物語が世に行はれる以前、少なくとも文獻の上には、是に類似した事跡は傳はつて居らぬ。だから近頃の心中ものなどゝ同じに、最初はニュウスとして舞臺に登せたものゝ如く、推測して居る人も無いとは言はれぬが、單なる仇討をめでたいものとして迎へる筈は無い。要點は二人の英氣颯爽たる青年、千鳥蝶鳥を狩衣に染めたやうな若々しい兄弟が、肩を連ね又は左右相對して、多年の本望を達した悦びを、誰憚らずに語り合ふ光景に在つたので、是が又もつと昔の大昔から、我々の祖先が待ち望んで居た、最も心地よい舞臺面であつた故に、此樣に大きな人望を博したのかと思はれる。古い説話の趣向には力比べ、又はまごゝろ比べとも名づけてよい世界的に著名なものがある。小兒その他の素朴なる聽手に對しては、一方は善人、兄は無慈悲であり又は隣の爺は慾深で、忽ちにして神の選擇は決し、一方が永く榮え一方は化け物に食はれたり尻を切られたり、笑ふべき最後を遂げるといふ話し方も無論あるが、別に他の一方には「いづれあやめ」、二人何れが優るかを豫想し難いものがある。是にも美女の試煉と同じやうに、際どい突詰めたスリルはあるけれども、其代りには最後の場面が悲しい。秋山春山二人の男の妻爭ひには、まだ若干の差等が設けてあるやうだが、生田川などでは女が先づ死に、無論雙方の戀人も活きては居ない。何といふ芝居であつたか外題は忘れたが、祖父が(145)二人の孫を闘はせて相傷つくのを、ぢつと見て居る悲劇を私なども記憶して居る。曾我は其前半の壯烈さを殘して、結末を滿足に導いた所に、大きな改良の效果があつたのであらうが、しかもあの美しい左右の對立は、富士筑波以來のものであつた。その一方の靈嶽を背景に、松の竝び立つ駿河の海を前にして、時は五月末の梅雨晴れの曙に、一念到達の歡喜を味はひ得たといふ光景は、偶然とも言へない文藝の好條件ではあつた。しかも之によつて敵打をよいものとし、四十七人で共に之を企てたことを、更に面白い芝居だと考へさせるやうにしたことは、最初の舞臺監督の計畫でないばかりか、又恐らくはその豫想の外でもあつた。文藝を成長させるものは時代であつたといふことが言ひ得られる。作者のおめ/\と是に曳かれて、附いて來た場合もさう珍らしくはなかつたのである。
 文字の教養がまだ重んぜられなかつた時代から、既に我邦には堂々たる文藝があつたといふことに氣付かぬ限り、恐らくこの不可思議を解釋することが出來ぬであらう。毎日の新聞小説に挿繪が無くてはすまなかつたり、全國多數の芝居が終始大衆文藝とばかり手を組んで、所謂純文學を袖にしたりするのも、奇拔といへば可なり奇拔だが、讀んで考へるといふ我々の鑑賞法が、非常に遲い發達であつた結果と見ることが出來る。舞は退屈するほど長々しい語りを伴なうて居たらしいが、その感動の焦點は所作に在つた爲に、繪樣 Tableaux となつていつ迄も記憶に留まるのみか、時としては旅の孤獨の歌うたひまでが、その聽手のもつ幻しを利用して、舞臺と同じ樣な效果を擧げて居た。文學は言はゞこの踏み明けられた路を通つて、漸く今日の?態にまで進出し得たのである。解釋學などゝいふ有難すぎる學問が起つたのは後の事で、以前は讀者の想像力の限界が、あらゆる天才の翼の制約であつた。その鳥籠の分外に廣かつたといふことは、勿論その中を飛翔するものゝ力では無い。つまり日本人がよく夢みる國民であり、同時に過ぎたる日の感激に忠實であつた故に、既に形を失うた數々の趣向を、まだ無意識に貯へ傳へて居たのである。毎日の平凡に倦み疲れ、殊に此頃の落漠たる不安に堪へかねて、再び生存の興味を取戻すべく、幼ない日のローマンスを復活させようとする念願が、所謂大衆文藝を支持して居るのである。之に對してたゞ相も變らぬ大たぶさと長脇差、(146)敵の名前と寶物の品目とを、取替へたばかりのやうな幕末ものが、連發して居るのは誠にやるせない。泉鏡花が去つてしまつてから、何だかもう我々には國固有のなつかしいモチーフに、時代と清新の姿とを賦與することが、出來なくなつたやうな感じがしてならぬ。
 
(147)       文藝とフォクロア
 
          一
 
 岩波講座の私への割當ては、「土俗學より觀たる日本文學」となつて居たが、そんな見出しではとても書けさうな氣がせぬので、急に改めて「口承文藝大意」とすることに相談をして極めた。名前なんか何でも構はぬ樣なものだが、今日我邦で土俗學だの民俗學だのと謂つて居るものは、丸で高度計を忘れて來た飛行機同然な乘物である。そんな上から物を觀たところで、第一問題の大きいか小さいかも判る氣づかびが無い。想像力の乏しい我々には、そんな離れわざは出來ないのである。私たちは今全國で盛んになつて來た民間傳承の、採集資料の整理に没頭して居る。さうして成るべく其各部面に注意を配つて、相互の關聯を見落すまいとして居るのであるが、どうかすると興味に引付けられて、特殊な題目の爲に大體の觀察を忘れる虞れがあつた。だから一層結論めいたことを書くのに尻込するのである。
 
          二
 
 昨年中私のして居た仕事は、地方の言葉の驚くべき異同に心づいて、其現象が如何にして起つたかを尋ねて見ることゝ、今一つは是も子供見たやうなことだが、昔話があまり廣汎に全國の隅々まで一致して居るのを見て、誰が此樣なものを斯くも丹念に、遠くまで運んであるいたのかを知らうとすることであつた。どこにも日本人が居るのだから(148)當り前の話だと、言つてもしまはれないのは、近世の特徴が多く入つて居ることで、人が移住してしまつてからずつと後に、荷造りして屆けて來たらしい形跡が有つたからである。それで一つ/\の説話の用途や形態を考察して、先づ其中に男のした話と、女物とが有るらしいことを考へ出した。それから段々に見て行くうちに、比丘尼や子取婆などの知つて居たものかと思ふ分と 盲人で無ければ話すまいと思ふ話とが、見分けられる樣な氣がした。座頭の管理した「文學」の話などならば、ちつとは此講座の爲に書くことが出來る樣に感じたので、始めはさういふ文章を計畫して見たのであつた。
 
          三
 
 その方が面白かつたらうになぜ止めたと、詰問する人も有るか知らぬが、正直な所、まだ世間はさういふ研究を聽くには適して居ない。どなたが文學總論を書いて下さつても、この私たちの遣つて居ること迄を、包容しては豫報せられたためしが無い。何で其樣に田夫野人の間に、落ちこぼれて居るものばかりを拾つて來たがるかを、訝る人の方が今はまだ多さうな心配が有る。故に私は先づ文筆以外の文藝といふものゝ存在を、承認してもらふ必要を感じたのである。それから其中にも終に採用せられて、書册の形で世に遺つて居るものと、今尚記憶の間のみに保存せられて、此頃急に輕しめられ、肩身狹く消えて行かうとして居るものとの二種があり、後者は多くは新資料なるが故に、一段と參照の價値が高いといふことを、説いてから後のことにしようとしたのである。それも實際はさう容易な業で無からうと思ふのは、常民の文化史觀には分類が無いから、其文藝も亦限られたる資料のみからは組立てられて居ない。假令至つて簡略にでも、彼等の宗教と人生觀の全般に親しんで後で無いと、素朴な者の言葉は却つて會得しにくゝ、採集は外形に走るか、さうで無ければ主觀の選り喰ひを、黙許することになつてしまふからである。
 
(149)          四
 
 國の文學が今殘されたる最後の一方法によつて、改めてもう一度調査せらるゝ爲には、我々の民間傳承は其全部を悉く利用するの必要がある。民謠や傳説の如く今やゝ知られて居るものゝみを、引合ひに出されることは有難迷惑と言つてもよいのである。現在地方の我々の同志たちが、手分けをして採集記録して居る傳承資料は、既に相應の分量に達した。どんな世間知らずの學者の書齋にでも、御注文さへあればいつでも配達せらるゝ迄になつて居る。或は寧ろ其量がかさ高である爲に、なまじ手を付けたら始末が惡からうといふ風な、心持をさへ抱かせて居るのであるが、是も一通りの整理さへ濟めば、そんなに厄介なもので無いことがやがて判るであらう。一番自然なる分類法によると、我々の今持傳へて居る前代文化の名殘は、主として目で看ることの出來るものと、耳で聽くことの出來るものと、直接に觸れて感ずるの他無いものとの三つ有つて、所謂口承文藝はちやうど其まん中の三分の一に該當する。一方に國民の生活と不可分なる多くの事物と、それが應用せらるゝ方式の大部分を知らなければ、歌や物語を聽いても呑込めないと同樣に、他の一面には何があはれ、何が面白いかの年久しい習はしを、曲りなりにも解して居る者で無いと、文藝はたゞ徒らに音響の組合せにしか過ぎぬのであらう。今日は心までも米人露人になつたやうなことを、言ひもし思ひもして居る者が若干はあつても、尚且つ彼等は國の文字で書いたものによつて、一喜一憂するだけの素養は具へて居る。たゞそれが日増しに稀薄になつて行つて、知つて居るといふ者さへ實はたゞの表皮であつたが故に、わづか過去に入るかたゞ一歩街の巷を出てしまふと、人の言ふことがよい加減にしか通じなくなるのである。文學は同時代人の間の一つの連鎖であると共に、親や祖父母との交感の手段でもあつた。それが煩雜を極めた語釋を重ねても尚わからぬといひ、或は却つて外國で昔書いたものゝ方がよくわかるといふやうでは、書物は幾らあつても國の文學は、役に立つて居るといふことが出來ないのである。別の言葉でいふならば、日本文學はあんな風船玉の如き土俗學上よ(150)り觀られたりする前に、先づ自分の姿を一通り整へて見なければならぬのであつた。それに鏡が入用だといふならば、私はこの民間傳承の、今漸く磨がれようとするものを、御貸し申してもよいといふ迄で、使ふと使はぬとは私たちの問題では無い。
 
          五
 
 私たちの側からいふと、文學も又重要なるフォクロアの一種であつて、それは我々の分類の第一類の第九項か第十項かに屬して居る。即ち目で看て前代の人たちの生活技術の痕跡を、考察すべき大切なる資料の一つと心得てよいのである。書字の傳承ばかりを別に取除いて、部外の學問と見ようとした先進國の學者の態度は、幾分か因習に囚はれ過ぎたものであつた。日本の文藝の中には、表現の方法そのものが、特にフォクロアの性質を十分に帶びて居るものが多いことは、座頭や歌比丘尼の例がよく示して居る。それを推究して見る迄が民間傳承の學問であつて、之を文藝の解説に使はうとするのは應用である。應用の益盛んになつて行くことは、學問興隆の好兆候として、何人よりも以上に私は之を歡迎するが、たゞ自分だけは時が足りないので、出來るだけそれを活氣のある人に押付けようとして居る。是がいはゆる土俗學の上より、文學を觀たがらない又一つの私の理由であつた。
 
(151)  昔話と文學
 
(153)     序
 
 この僅か十年ほどの間に、我々は昔話に就いて二つの新らしい經驗をして居ります。一つは全國の端々に亙つて、古い形の昔話が、まだ幾らでも殘り傳はつて居るといふこと、もう一つは是を採集して學問の用に立てるのに、意外な色々の故障が有るといふことであります。古い形といふのは、或は外部の人には問題かも知れませんが、此本の中にはそれを稍力強く説いて見ようとして居ります。つまりは交通往來の最も想像しにくい遠隔の土地に、偶然とは言へない一致のあることが、日本でならば容易に見出し得られるので、それを我々は久しい以前に持つて分れた名殘と見て居るのであります。此想像のいよ/\確かめられる爲には、採集の事業が今よりも又ずつと進まなければなりません。
 ところが古風な佳い昔話といふものは、他の新出來の敷物と比べると、もと/\管理者がちがつて居たらしいのであります。我々は話を活計の助けにして居た者が、どこへでも運んでくれるのに馴れ安んじて、まだ其品柄の好惡を吟味するだけの心構へが無かつたことは、ちやうど此節流行のモスリンやスフと似て居ります。麻の手織とか綿密な菱刺しとかいふやうなものは、別に此以外に家々にあつたのであります。グリムの説話集の名にもなつて居るやうに、昔話は本來家庭用又は兒童用のものでありました。目的は專ら親しい心置きの無い者を娯しましめる爲であつて、外から新らしい材料を取入れることは有つても、内の物をよそへ出す必要は認めなかつたものであります。しかも忙しい季節に入ると、使ふことが無いので隅の方へ片付けて置いて、折々は忘れてしまふこともありました。是を改めて仔細に味ははうとするには、心ある人たちの内部からの援助を求めなければなりません。普通の話し家にあつらへて置いても持つて來ないのです。それを捜し出す方法が、今はまだ無いので(154)あります。
 私はこの一つの難關を乘り越える爲に、今までにも色々の方法を試みました。たとへばさういふ懷かしい昔話の、數多く潜んで居るらしい家々の娘たちの群に、その感動の最も深さうな年頃を見はからつて、昔話が以前どれほど大きな女子教育を、なし遂げて居たかを説いてあるいたこともありました。しかし彼等の現在の夢は、あまりにも異なつた繪具で彩どられて居りまして、もう笑ふより以外には昔話の古い趣きを味はふことが出來ません。或は又今日田舍に最も數多く傳はつて居る昔話を集めて、小さな手帖を作つて若い人たちに分けたこともあります。是を見て行くうちには幼ない頃の記憶が蘇へり、思はず私も聽いたと書付けてくれるやうに、白紙の部分を添へて置いたのであります。是は少しづゝ利用して居る人も有るやうですが、まだ少しも我々の處へは戻つて來ません。此次にはどうしても忘れてしまつてはならない數十の昔話の名だけを、せめては桃太郎舌切雀の程度に、言葉として國民の間に保存させる爲に、簡單な昔話名彙ともいふべき本を、こしらへて置きたいと思つて居ります。
 「昔話と文學」と題したこの一册の文集も、實はさういふ企ての一つに過ぎません。採集といふ事業は、それ自身が或興味をもつて居りますが、通例は數を貪り、又は人の知らない珍らしいものをといふ慾が伴なひまして、時々はうそ話に騙され、又はわけも無い笑ひ話に執着したりします。是には兼て私が説いて居りますやうに、何の爲に昔話を集めるか、集めてそれをどういふ目途に、利用しようとするのかを、明かにしてかゝる必要を感ぜずには居られません。昔話が大昔の世の民族を集結させて居た、神話といふものゝひこばえであることは、大體もう疑ひは無いやうであります。從つてもし方法を盡すならば、此中からでも一國の固有信仰、我々の遠祖の自然觀や生活理想を、尋ね寄ることは可能でありまして、之を昔話研究の究極の目途とするのは、決して無理な望みとは申されません。たゞ現在は其準備が甚だしく不十分で、たとへば日本などでは神代史の嚴肅な記事を、平(155)氣で昔話の列にさし加へたり、又は神話と童話とを混同してしまつた人も多く、如何に複雜なる過程を通つて、神話が昔話となり、又退縮して童話とまでなつてしまつたかを、考へて見たことも無いらしい人が、斯ういふ問題に觸れようとして居るのであります。世界のあらゆる異民族の間に、しば/\説話の爭へない一致と類似とがあることは、殆と神秘ともいふべき我々の驚きでありまして、それが亦この研究の強い刺戟でもあることは事實ですが、そこへ進んで行く爲にも、豫め先づ眼前の?態を詳かにし、斯う成つてしまふまでの一歩々々の足取りを、大よそは知つて居なければなりません。國の内外の昔話採集が、今の三倍にも五倍にも加はつて行くといふことは、寧ろこの爲に入用なのでありまして、是を豫め神話學などの名で呼ぶことは、よつぽど言葉の用法に大膽な者で無いと、實はまだ出來ない藝當なのであります。
 さうすると第二段に、何をさし當りの樂しみにして、人に昔話の保存を勸めるかといふ問題になりますが、私はちやうど世の中の二度三度の變り目に際會して、政治以外のあらゆる文化の、久しい未決着に惱まされた者であります故に、出來るだけ是を生活の疑問の解決に、應用して見たいと念じ、又さういふ希望をもつ人の他にも多かるべきを信じても居ります。昔話を中心にした民間の多くの言語藝術は、常に今日謂ふ所の文學と相剋して居ります。人に文字の力が普及して、書いたものから知識を得る機會が多くなると、それだけは口から耳への傳承が讓歩します。小兒か文盲の者かゞ主たる聽き手といふことになれば、彼等の要求は又新たに現はれなければなりません。一方には又その古くからのものを排除してしまつた空隙には、ちやうどそれに嵌るやうな文學が招き入れられるのであります。一口に言つてしまへばたゞ是だけですが、それには時代もあり土地職業の變化もあつて、この文學以前とも名づくべき鑄型は、可なり入組んだ内景を具へて居りました。それへ注ぎ込まれたものの固まりである故に、國の文學はそれ/”\にちがつた外貌を呈するのではないかと私などは思つて居ります。何べん輸入をして見ても文學の定義が、しつくりと我邦の實?に合つたといふ感じがせぬのもさうなれば少しも不(156)思議はありません。單なる作品の目録と作者の列傳とを以て、文學史だと謂つて我慢をしなければならなかつたのも、原因は或は斯ういふ處にあつたかも知れぬのであります。テキストの穿鑿に没頭する此頃の研究法といふものに、私たちはちつとも感心しては居ませぬが、それをひやかすことは此書物の目的で無く、勿論又我々の任務でもありません。本意は寧ろ文學の行末を見定めたいといふ人々に、出來ることならば明瞭に又手輕に、今まで積み上げられたものゝ輸廓を御目にかけたい爲で、それには愈昔話の採集を、廣く全國の隅々に屆くやうに、我人ともに心がけなければならぬといふことを、實例に依つて御話がして見たかつたゞけであります。
 二三の外國學者の著述を讀んで見ますと、此類の文章は最初から讀者を其道の人だけに限定して居るやうに見えます。一々の昔話の筋を細かく述べ立てることは、むだだと思ひ又玄人の退屈を恐れた樣子で、必要の痛切なもの以外、努めて原話を引かないやうにして居ります。私も最初はそれにかぶれて居ましたが、日本はインテリの間に餘りにも昔話が疎まれて居ります故に、それでは通用しないであらうといふことを感じて、後には少しづゝ態度をかへました。この一册の中でも、讀者の想定が篇毎に喰ひちがつて居りますのは其爲で、始めの方が殊に理窟つぽいやうであります。それで注意をして昔話の索引といふのをこしらへて、卷の終りに附けることに致しました。それを一通り見て下さるならば、多分讀者は苦い顔はなされぬことゝ思ひます。或はこの中の最も親しみの多い題目から讀み始めて下すつても結構です。放送の二篇は殊に年若な、優雅な人たちの聽いて居られることを豫期して、出來るだけ言葉を平明に話しました。衆と共に樂しむことが出來ぬやうであつたら、私の勞作は實は無益だからであります。
          昭和十三年十一月二十九日
 
(157)     竹取翁
 
          一
 
 去ぬる七月二十四日(昭和八年)の夕、富士山の頂上から、「靈山と神話」といふ題で私の放送したのは、この竹取翁の話であつた。時間その他の都合で言ひ殘した點が尚多く、又あのまゝでは皆樣の批判も承はりにくいので、今とても決して完全では無いが、もう一度考へなほして是を文章にして保存することにした。
 最初に私の意見の要點を先づ掲げると、富士登山史の上で最も大切な一つの古記録、即ち本朝文粹卷十二の富士山記の中に、
  亦其頂上、匝池生竹、青紺柔?云々
とある一節は、果して此御山に登つて實見した者の筆、もしくは其談話に據つたものであるか香かといふ問題に對して、新たなる一つの答が有りさうだといふことに歸する。私は是によつて、今ある竹取物語の性質を明かにし、同時にこの一篇の文學と、富士の信仰との  稍々間接なる聯絡を、見つけ出すことが出來るとも考へてゐるのである。
 右の富士山記の珍らしく詳細な記事を、文字通りに事實として受入れ得ずに、改めて問題とするには一つの理由がある。此記の作者都良香は、元慶三年に四十六歳で歿した人である。さうして我邦の永い歴史を通じて、ちやうど此人の生きて働いて居た時代ほど、富士山の噴火の激烈であつたことは他に無いのである。或は生前の天長初年の爆發(158)よりも以前の見聞を、遲く聽いて書取つたのでは無いかと、思ふ人も有るか知らぬが、貞觀年中の御山荒れは、此筆者もよく知つて居る。現に右の一節の直ぐ前にも、
  其頂中央窪下、體如炊甑、甑底有神池、………亦其甑中、常有氣蒸出、其色純青、窺其甑底、如湯沸騰、其在遠望者、常見煙火、
とあつて、それからあの竹の記事には續いて居るのである。當人が自ら之を目撃しなかつたは勿論、記事も亦二つ三つの話を、綴り合せたものゝやうに思はれるが、何れにしても今日の常理を以て、信ずべからざるものを信じて居たことは事實である。
 以前も此點に疑を挾む者は既にあつた。たとへば甲斐國志の編者の如きは、この竹は苔の誤りであらうと考へて居る。しかし明かに竹とあるものを、苔と讀まうとすることが既に無理であるのみならず、苔ならばこの煙火沸騰の峯の上に、生育して居たらうといふことも尚想像しにくい。今日の御山は至つて靜かであるが、それでさへ硫黄の氣が強くて、あらゆる植物の青く柔かに茂ることを許さぬのである。
 さうするとこの富士山記の竹は、虚構といふ以外に解し樣は無いかといふに、私などはそれは今風の物の見方であつて、あの時代としてならば、別に合理的な説明が幾らでも付くと思つて居る。富士は最近二三十年の前までは、可なり嚴峻なる一定の條件を履んだ者で無ければ、登つて行くことが出來ぬ山であつた。しかも其道者が先達に誘はれて、群を爲して登つたのも富士講以後のことで、もう一つ前になると代願代參、即ち限られたる特殊の宗教家に、身に代つて精進さへして貰つて居たのである。斯ういふ行者たちの登山のし方には、色々の樣式があつたやうに思はれる。普通は高い杖をつき、一枚齒の足駄などをはき、雲を踏んで上下した如く傳へられて居るが、或は又北亞細亞の巫覡と同じく、我體は爰に置いて、心のみ自由に彼山に往來することを、一種の登山と認めて居たかも知れぬのである。我邦では聖コ太子、甲斐の黒駒に召して、三日を以て大和より行き通ひをなされ、役(ノ)小角は身伊豆の島に在り(159)ながら、夜毎に海上を歩して富士の峯に往來したといふことが、夙くより語り傳へられて居る。斯ういふ人々の幻覺は、語られ又信じられた。その信仰の支持がある限り、是を個人の私の事實とは見ることが出來なかつたつである。
 既に公の記録の中にも、この時代の一般的幻覺を、認めた事例が幾つか有る。たとへば貞觀六年の大噴火があつた次の年の十二月、甲斐の國司は北の麓から富士山を望み見て、頂上に目もあやなる石の神殿が、建つたといふことを報告して居る。
  仰而見之、正中※[ウ/取]頂、飾造社宮、垣有四隅、以丹青石、立其四面、石高一丈八尺許、廣三尺厚一尺餘、立石之間、相去一尺、中有一重高閣。以石構營、彩色美麗、不可勝言
とあつて、石の寸法まで近よつて見たやうに、詳しく記してあるのはやはり巫祝の言であつたらう。たとへ山燒けの全く無い年でも、到底人間の力では斯ういふ造營は出來ない。それから今一つ十年ほど後に、稍似た事件が駿河の側にもあつたことが、富士山記の中に載せられて居るが、是は又一歩を進めて、多くの人が共にまぼろしを見たと謂ふのである。
  又貞觀十七年十一月五日、吏民仍舊致祭、日加午、天甚美晴、仰觀山峯、有白衣美女二人、双舞山巓上、去巓一尺餘、土人共見
とあつて、先づ或一人が見えるといふと、直ちに居合せた他の者が似たる幻覺を起し、其傳播には語つて之を聽き信ずるといふだけの間隙すらも無かつたのである。後代「羽衣」の能藝中に幽かに痕跡を留めてゐる駿河舞の姿が、是と脈絡を引くといふ迄は證明し難いにしても、もしも人間の空想が虚無を素材として、自由に構成せられるもので無いとすれば、此等の二大事件にも亦無意識の根據は有つたらうと思ふ。それと同樣に靈山頂上の御池の岸に、青々と美しい竹が茂つて居たといふ報告の如きも、是を見たといふ者と、聽いてさも有らんと思つた者と、雙方の心の奧に何物かの豫識があつて、それが此事實の公認に、小さからぬ力を供したのでは無かつたらうか。私の竹取翁考は、實(160)は斯ういふ新たなる疑ひを解かんが爲に、試みられたる一つの研究の過程に他ならぬ。
 
          二
 
 今ある竹取物語には、傳本のさして古いものは無いといふことであるが、偶然に源氏の繪合の卷の中に、是に關して費されたる數語が、ほゞ其内容の一部分と合致して居る以上は、端々の書替へ寫し改めは別として、大體斯ういふ形の文學が、あの頃は既にあつたと見るの他は無い。日本の民間説話の研究に取つて、是は相應に重要なことである。もしも此物語が在來の昔話に據つて、之を敷衍し修飾し、震旦佛土の書物に有る趣向を加味し、もしくは力の入れ所を脇に遷して、變化の面白みを新たにせんとしたのだといふ通説が動かぬものとすれば、少なくとも紫式部の世盛り以前に、その昔話は既に弘く行はれ、且つ稍有りふれたものになつて居たといふ結論にもなるからである。實は私などは是をさう古いものとも考へて居なかつた。假に繪合の卷の偶然の旁證、「阿倍のおほしが火鼠のおもひ」だの、「車持のみこの蓬莱の玉の枝」だのといふ文句が無かつたならば、或は誤つて是をもう少し後代の、同名異種の作品と解して居たことであらう。竹取の文章は大さう古體だといふ話もあるが、さういふ鑑定術は私などの理解の外である。他に色々の確かな尺度が有るわけでも無く、寧ろ古いと聞いて居る爲に、さういふ風に感じられるのかも知れない。人の名前が極めて寫實だといふなども當てにはならぬ。それが實録でも逸話でも無い限りは、却つて時を隔てゝから、案出せられたといふ推測に便な位である。しかし何れにしたところ文獻の反證によつて、今日は既に年代の下の區切りが先づきまつた。即ち此文學の臺になつた一つ以上の説話は、あの頃は既に昔話化してしまつて、もはや原形を固守し又信受しようとする者も無く、自由に才能ある者の作爲を以て、之をあの樣な笑話の程度にまで、變へて語ることをさへ許されて居たのである。説話が國民の知能と信仰の推移によつて、次第に斯く變るのは何れの國へ行つても同じで、私たちは唯それが日本で、意外に早かつたことを感ずるのみであるが、世にはまだ/\この顯著なる(161)時代差を認めずに、今尚童話の中からでも、國固有の神話が探り得られるやうに、説いたり思つたりして居る人が有るのである。さういふ學者には、是は非常に悲しい發見であるだらうと思ふ。
 竹取物語が純然たる一個の創作で無く、世にある説話を採つて潤色したものだといふことは、もう何人かの註釋家の言に由つて、是を否み得る人は無くなつて居ることゝ思ふ。今日問題にしてよいのは其筆者の働き、即ち何れの部分が新らしい趣向の添附であり、どこが其時代に既に行はれて居たものゝ踏襲であつたかの境目如何であらうが、作の表面に現はれて居るだけのものは、之を判別することもさまで困難では無い。比較的面倒なのはその新らしい敍説法によつて、わざと置きかへられ、又は隅の方へ押し遣られてある部分が、前にはどういふ形を以て行はれ、又どれ程の重要さを持つて居たらうかを知ることである。仕合せなことには是には僅かながらも舊記の資料があつて、一見稍奇に過ぐる我々の推測の、廣い空隙に飛石を配つてくれる。其中でも私の考察の路筋を開く爲に、最初に見て置きたいのは富士山との關係である。物語の竹取翁の舞臺はどことも記して無いが、大和の京を去ること遠からぬ里であつたやうに取れる。富士はたゞ終りの段に、「何れの山か天に近き」といふ仰せ言があつて、始めて駿河國に朝家の御使は下るので、見やうによつては是はたゞ一つの、新らしい思ひ付きとも考へられる。山の名と絶えぬ煙の由來を説く最後の條は、通例は説話の特に重要とする部分であるが、此物語の如きは各段の終り毎に、少々うるさい程度に、「それよりして何々とは言ひける」を繰返してゐるのだから、爰にばかり格別の力を入れたものと言ふことも出來ない。殊に此一篇と最も縁が深く、時代も近からうと思ふ今昔物語の竹取翁譚の中には、少しも富士山との交渉は敍べてないのである。從うて當初作者の採用したあの時代の説話に、既に靈山の背景を具へて居たといふことは、此方面からは推測することが出來ない。手掛りは寧ろ此文藝作品より遙か時おくれて、文字に成つて居る二三の資料に在ると思ふが、それには先づ是が多くの註釋家の考へたやうに、專ら竹取物語の追隨であり、もしくは其感化を受けた新作のみであつたかどうかを、決定してかゝる必要があるやうである。
(162) 本朝神社考の著者林道春が、駿府で見たといふ富士淺間縁起の説は、大體に詞林采葉抄に載せて居る富士縁起を承けて居るかと見えるが、細かに比べて見ると、是とても單なる記録の轉寫では無いのである。現代の編輯事業とは違つて、文書の利用はもとはさう容易で無かつた。それよりももつと手近で且つ普通な口の言ひ傳へが、機會のある度に採録せられることは、縁起の類に於ては殊に自然であつたらう。兎に角にこの新舊二極の縁起などは、丸々竹取物語の存在を知らぬ者でも、書くことが出來たと言ひ得るだけで無く、寧ろ物語をよく讀んで居たならば、斯うは書けまいと思ふ位の別傳であつた。前者と共通するのは單に竹の節の間に照耀く少女を得たといふことゝ、至尊が其名を聞し召して、親ら御妻問ひをなされたといふ二つだけで、其他には彼から採つた何一つも無く、しかも亦久しく此山下の里に住んで、後に頂上の金崛に隱れ入ると稱し、富士との因縁は一段と濃かになつて居るのである。次に海道記の筆者が旅の途すがら、眼の前に此高峰の雲を仰ぎ望んで、昔來てこゝに遊んだといふ仙女を想ひ起しそれから引續いて赫奕姫の、天に還りし故事を説いて居るのも、私には大きな意味が有るやうに思はれるし固より此旅人の記憶の中には、都に行はれて居た竹取物語が有つたでもあらうがもしそれだけが資料であつたならば、あの鶯の卵子から身をかへたといふ、鶯姫の名は生れて來なかつたらう。此文の中に有る三首の歌は、終りのものが筆者の自作、前の二つは竹取物語の文藝を、其まゝ承繼いだ證據のやうにも認められて居るが、それにも自分などは尚聊かの疑ひがある。
   今はとて天の羽衣着るときぞきみをあはれと思ひ出でぬる
 此一首のみは、卷中の他の諸詠と歌がらも稍異なるやうに感じられるのみならず、今見る竹取物語の筋とも十分に合致して居ない。さうして物語には「着るをりぞ」とあるが、「時ぞ」の方が吟味に適するやうに思はれる。少なくとも當時一方の記録の古文藝と併行して、別にこの歌などを中心とした、一つの民間の傳承が尚あつたのでは無いか。斯ういふ想像を廻らし得る餘地は十分に有るのである。
 
(163)          三
 
 所謂羽衣の説話が、この竹取物語の結構に參與して居るといふことは、誰が言ひ始めたとも無く、今ではもう通説の如くなつて居る。私も多分はさうだらうと思つて居るのだが、現在の證據だけでは、まだ決して安全とは言へないのである。別に考へて見なければならぬことは、富士を背景として居る駿河國の海のほとりに、曾て今ある能の舞の羽衣より、もつと羽衣らしい神婚の古傳が、歌でなり舞の形でなり行はれて居て、それが文藝の竹取との間に、橋渡しをしたのでは無いかといふこと、今一つはこの羽衣を「着る時ぞ」の歌が、もう少し適切に代表し得るやうな語りごとが、一度は流布して居たことを文獻の方からも、推斷して行く途は無いものかどうかである。容易な業ではあるまいが不可能とも私は思つて居ない。最近五七年の昔話採集事業は可なり進んだ。是が一つ一つの新説の資料となつては、徒らに研究を混亂せしめる懸念無しとせぬが、その自然の綜合は、既に古文學に對する鑑賞の態度を、改めてもよい時期に到達して居るのである。
 現在我邦に分布する羽衣説話、もしくは或地或家の傳説として殘つて居るものは、其樣式が可なり著しく一致して居る。私は假に之を近江式、又は伊香刀美系と名づけて置いてよからうと思つて居るが、白い犬を遣はして盗ませたといふ稍奇異なる一條を除いては、沐浴する神女の羽衣を取匿して、押して之を娶つたといふ點は大體に共通して居る。從うて後日その羽衣の匿し場所を發見すると、妻はさつさと之を着て還つてしまふのである。斯ういふ人間の智慮計略を理由としたものが、靈界婚姻譚の最初の形であつた氣遣ひは無い。乃ち幸運の空想としては奇拔で面白いけれども、しかも信仰の側から見ると幾分か冒?の嫌ひある説話の形が、是には早くから現れて居るのであつた。單に或地方の風土記逸文とおぼしきものに、是が録せられて居る故に古いといふのでは無い。この同種の話し方の全國的なる分布は、到底短かい歳月の間に爲し遂げられるもので無いからさういふのである。伯耆民談記に見えて居る羽(164)衣石山《うえしやま》の古傳もしくは打吹山の由來と稱するものは、八人の天女が白鳥に化し降つたといふことも無く、又白犬を遣はして末の姫の衣を盗ませたといふことも無く、たゞ一人の美女が石の上に衣を乾かすを窺ひ見て、之を箱の中に取隱して乞へども返し與へず、終に夫婦となつて二子を生ましめた。後に天人は其子を欺いて、箱を開き衣を取返し、之を着て忽ち杳冥の空に昇り去るとあるのだが、是は京都がまだ近いから、或は帝王編年記の記事を知つて、借用したやうに思ふ人が無いとも言へない。さうは見られぬのは沖繩の島に、今も村々の昔話として、もしくは名門の母方の系圖として、幾つとも無く之を傳へて居ることである。以前海南小記の「南の島の清水」の章にも其一例は述べて置いたが、是などは愈余吾湖の八乙女の話には遠く、伯耆の羽衣石山に今説いて居るものに近い。天女の生んだ姉の娘、弟のもりをしながら子守唄をうたつて居る。それに耳を傾けると飛衣《とびぎぬ》は稻倉の奧に、六股の倉の稻の下に、匿してあるといふことが判つたので、急いでそれを取出して、身に着けて天に還るのである。是と大よそ同じ説話が、喜界島にもあることは、此頃になつて報告せられた。天女の生みの子は伴はれて天に昇り、もしくは送り返されて最高の巫女の祖になつて居る。母と子の縁は永く絶えなかつたけれども、強ひて婚姻した夫はなほ仇であつた。是が爲に「今はとて云々」の和歌を、留めて置くまでの情愛はまだ認めることが出來ぬのである。
 
          四
 
 此傳承が南の島々に入つて行つたのは、隨分と古い世のことであつたらしい。沖繩では所謂|茗苅子《みかるしい》の祠堂があり、遺老説傳には詳かに其根原を記して居るのみならず、球陽には又三つの土地の傳説として、同じ昔語りを採録してゐる。島の人々の感覺では、之を外から學んだものとは思へないであらうが、偶合で無い限りは必ず運搬がいつの時にかあつたのである。東日本の方にも、是とよく似た形のものがやはり分布して居る。信州などで是を駿河の三穗松原の昔話だと傳へて居るのは、或は謠曲の感化かも知れないが、内容は兎に角に是を踏襲しては居ない。小縣郡民譚集(165)の録する所に依れば、漁夫は此海邊に八人の天女の水に浴するを見て、其一人の羽衣を取隱して欺いて之を娶つた。後に一兒を儲けてやゝ成長した頃に、圖らず其羽衣の所在を知つて、其兒が父の秘密をしやべつてしまつた。さうすると母は早速それを着用して、還つて行つたといふ迄で話は終つて居る。長い年代に亙つて斯ういふ一種の樣式が、我邦の羽衣説話を統一して居たことは略明かで、是だけから見ると他の外國の白鳥處女譚などゝは、可なり行き方の違つたものになり、總括して竹取物語の根原が天人女房説話に在るといふ説を立てることは、一層無理のやうにも考へられるのである。
 しかし私などの意見では、是はたゞ變遷の一つの段階に過ぎない。如何に分布が弘く、又其出現の時が古からうとも、最初から日本に此形を以て存在したものとは思はれぬのである。然らば其一つ以前にはどんなであつたか。又少しでもそれを證明する手段が、果して有るかといふと、私は有ると答へ得る。勿論斷定を下す迄には、尚多くの精確なる採集を要するが、今ある類例の比較だけからでも、若干の暗示は求むるに難くないのである。たとへば奄美大島の南部、燒内村の山田といふ部落で採集せられた一話などは、ちやうど喜界島と沖繩との、まん中に位する土地であるが、是には近江の余吾湖の記録以上に、犬が出て一役を持つて居る。印刷になつて居らぬ故やゝ詳しく敍べると、
  此村の山奧に、周り三町ばかりの、晝なほ暗き池がある。昔此あたりに一人の翁住し、クロといふ犬を飼うて居た。(帝王編年記の方は白犬とある)。或夜音樂の音を聽いて池の岸に行つて見ると、松の枝に飛衣といふものが引掛けてあるので、それを取つて家へ還つて來た。池の水に浴して居た天女は、飛衣を取られて歎き悲しみ、翁のあとを追うて來て煙草を求めた。翁は是を我家に留め、妻となして三人の子を生ましめた。或日その二番目の子が末の兒の子守りをしつゝ、泣くな/\、泣かぬなら粟倉を開けて、飛衣を出して與へようと歌ふのを、母の天女が聞きつけて其衣を見出し、之を着てその二番目の子を頭に載せて天へ飛び還つた。其折に末の子も手を引いて連れて行かうとしたが、重いので仕方なしに後に殘した。父の翁は是を知つて愛慕の情に堪へず、急いで千(166)足の草履をこしらへて、それを踏んで天に昇つて行かうとしたが、千足と思つた草履は九百九十九足で一足足りない。さうすると小犬のクロが、私が其草履の代りにならうといふので、一疋の犬と九百九十九の草履とに乘つて天界に昇つた。一番の夜明け星になつたのは其翁、二番の夜明け星は其犬と云つたやうな由來談が後に附いて居る(地方叢談)。
 犬と羽衣との交渉といふことは、確かに又一つの手掛かりである。獨り近江の古記録に載せられて居るのみで無く、かの新舊二種の富士縁起の中にも、箕作翁の妻は犬を飼ひ、後に犬飼明神と祀られたといふことが、やゝ突兀として掲げられて居る。昨夏刊行せられた天草島民俗誌を見ると、あの地方の七夕の由來譚は、よほど我々が書物で學んだものと異なつて居る。棚機樣の御亭主は犬飼樣と謂つて養子であつた。聾で仕事が下手で折々棚機樣に叱られたなどと謂ひ、或は又棚機樣が嫌つて逃げて行かうとなされたので、その羽衣を取隱して土の中に埋めて置いた。それを棚機樣が畑打ちの際に見つけ出して、すぐに着用して天の川を飛び越え、遁げて行かれたなどゝも謂ふさうである。南九州の他の村々を尋ねて見たならば、或は此方面からも以前の言ひ傳への一つが、追々と明かになつて來るかと思つて居る。しかし只今の所ではまだ資料も乏しく、又餘りに竹取物語との縁が遠くなるから、此點は先づ是までに留めて置く。それよりも珍らしいと思はれるのは、天人が煙草を請求したといふ一條である。新たなる挿入には相違ないが、是には深い仔細があつた。是も南方の島々に於て最も有名な昔話の一つに、母が最愛の一人娘を失つて、毎日墓にあつて歎き悲しんで居ると、見馴れぬ一本の草が生えて來た。煮て食べて見ると苦くて食べられなかつたが、管につめて煙にして吸ふと、恍惚として深い憂を忘れた。それが今日の煙草の起りだといふので、つまり島に生れた女たちが、異常の愛着を持つこの特種の植物を以て、置き換へられたる忘草説話であつた。是が奄美大島の羽衣談の中へ、織込まれて居るのには理由が無ければならぬ。それを私は竹取物語の終りに近い一節の、
  ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほしかなしとおぼしつることも失せぬ
(167)もしくは之を敷衍した前段の文に、
  衣着つる人は心ことになる也といふ。物一言いひ置くべきことありけり
とあるのと、關係が有るやうに考へて居る。即ち天の羽衣は靈界の心意を脱ぎ去つて、人間社會の世の常の情愛に、身を托すべき重要なる契機であるやうに、語り傳へられて居た説話の痕跡が、彼にも是にも偶然に保存せられて居たので、必ずしも是が或一人の作者の、新たなる思ひ付きでは無かつたことが判つて來るのである。
 
          五
 
 是は必ずしも根據の無い推測ではない。一つの例證は前に掲げた伯耆羽衣石山の昔話であるが、是も民間に傳承して居た形は、幾分か史籍の録する所と異なつて居る。近頃の因伯昔話に採集せられて居るのは、天人が農夫に羽衣を取られてしまふことは同じだが、其後で一つの夢を見たことになつて居る。
  暫らくの問人界に住め。何年かの後に白い花の咲く蔓草の下で、子供に救はれるだらうと夢の告があつて、それから全く天上の事を忘れてしまふ。さうして偶然に其農夫の家に來て夫婦になり女の子が二人出來る。二人の娘は音樂が好きで、又舞が上手であつた。親子三人で倉吉の神坂へ遊びに行つた時に、何も知らず其羽衣を持つて往つた。姉の娘が先づそれを着て舞ひ、妹も次にそれを着て舞つた。其あとで母親が試みにその羽衣を着て見ると、忽ち人間の心を失うて天上に昇る氣になつた。さうして其處には夢の告の如く、井の上に夕顔の花が白く咲いて居た。二人の娘が樂を奏した故に、今に其山を打吹山といふのだとある。
 此話は多分打吹山の周圍で言ふことであらうが、近頃の作り話で無いことだけは、先づ信じてよいと思ふ。たとへば井の上の夕顔の花といふやうな、一見何でも無いものに類型があるからである。遠く懸離れた青森縣の昔話に、「天さ延びた豆の話」といふのがある。是も大要を抄出すると、
(168)  昔天人が飛ぶ着物を脱いで、沼に下りて水を浴びて居た。一人の若者がそれを拾つて隱したので、天人は仕方無しに其女房になり子が生れる。其子が啼いて困る時は、いつも或松の樹の下へ來ると奇妙に啼き止むといふことを、アダコ(子守女)が母に教へてくれる。それで其松の樹の下を掘つて見たところが、以前の飛ぶ着物が隱してあつた。之を着て見ると身が輕くなり、又天に還りたくなつた。アダコには御禮に一粒の豆をくれる。此豆粒を流しの下さ栽ゑて置け。大きくおがつたらば(成長したならば)それに傳はつて天さ昇つて來いと言つて、天人は還つてしまつた。アダコは言ひつけられた通りに豆を播き、其子供を育てゝ待つて居た。豆が大きくなつたので是に傳はつて、子供と二人で天に昇つて行つたといふ(津輕昔ご集)。
 天まで屆いた植物といふ話は、越後八石山の豆の木を始めとして、諸國に數多く殘つて居るが今では大抵は誇張笑話、即ち私たちのいふ大話《おほばなし》に化し去り、過半は又羽衣との繋ぎが切れて居る。しかし人間の若い男が、之を攀ぢ登つて天上へ聟入をしたといふ例も、集めればまだ六つや七つは有るのである。だから伯耆の打吹山の夕顔なども、曾ては神女の子孫として誇つて居た家が、先祖は此梯子に由つて天と往來して居たことを、説いて居た名殘とも見られぬことは無い。たゞそれが當面の竹取物語と聯絡が無い故に、詳しく之を説く必要が無いだけである。考へて見なければならぬ點は、多數の我邦の羽衣説話が、夙くから斯うした謀計と發覺、豫期せざる幸運といふが如き、稍探偵物風なる出來事を普通のモーチーフとして居たにも拘らず、今尚その背後からもう一つ以前の形、即ち過去忘却といふ意味の深い人間事實を、趣向に採つた説話が、ちら/\と其片鱗を示して居ることである。竹取物語に於ては天界の飛び車が、羅蓋をさしかざして姫を迎へに來たとあり、是を記憶して居たかと思ふ海道記の美文中には、全然羽衣の有無をさへ記して居ない位であるのに、なほ其間に「今はとて天の羽衣」の一吟を挿んで、之を説話の中心として居るのは、殘留で無くて何であらう。だから前代の文藝は、今一段とその素材を分解して見た上でなければ、さう容易には創作家の才能を讃歎することは出來ない。古い頃の文人及び讀者に取つては、口で無筆の者が語りはやして居る(169)ことを、文字にするといふだけでも一事業であつた。當代の小説作者たちの、無斷借用とはわけがちがつて居る。自分のもので無いといふことが、恥だと迄は思つて居なかつたからである。
 但し以上の發兄を以て、私は日本の羽衣説話の、本來の形を捉へたといふのでは無い。永い時代の變遷から見ると、是も亦一つの段階に過ぎなかつたのみならず、其變遷は必ずしも歴史教科書のやうに、全國を明白なる時代層には分けて居なかつた故に、土地の事情によつては未だ改まらざるものが、?隣を連ねて相比べることを許したのである。「過去の忘却」を以て主たる動機としなかつた話も、確かに亦痕跡を留めて居る。たとへば陸中の綾織村に於て、村の光明寺の古い曼陀羅の由來として、言ひ傳へて居るものなども其一つであつた。聽耳草紙の第十一章をこゝに引用すると、
  或若者が七ッ池の巫女石《みこいし》の上で、美しい羽衣を見つけて、腰籠《こしご》に入れて持つて還る。朴《ほゝ》の葉で裸身を蔽うた天人が尋ねて來て、それを返してくれと頼んだが、餘り美しい物だから殿樣に獻上して、今戻つて來たところだと嘘をつく。(さうして後には實際獻上したと話して居る。斯ういふあたりに新しい形の感化がありさうである)。天女はせん方無しに、三人役ほどの田を貸してもらつて、それに蓮華の花を植ゑる。さうして巫女石の近くに笹小屋を建てて、蓮の絲を取つて來て其中で毎日機を織つて居る。其小屋の中を決して覗いてはならぬと堅く戒めて居たにも拘らず、或日若者がそつと隙見をしたところが、梭の音ばかりして居て天女の姿は見えなかつた。その内にマンダラといふ見事な布が織上げられる。是を女の勸めで殿樣に獻上し、それから御目見えをすると類ひの無い美人である故に御殿に留められる。しかし天女は物も食はず仕事もせず、歌つて御殿に居るばかりであつた。そのうちに夏が來て土用干があり、前に若者のさし上げた羽衣も出して乾してあつた。天女はそれを見付けるや否や、すぐに着用して六角牛《ろつこうし》山の方へ飛んで行つてしまひ、マンダラだけ殘つたので、是を綾織の光明寺へ寄進した云々。
(170) 此話なども始と終りだけは、やはり國中に充ち滿ちた通例の羽衣であるが、其間に早三つの異分子、即ち殿樣と機織と、機屋を覗くなといふ戒めとが加はつて居る。其中で「殿樣」だけは、竹取の物語とも關係が有るから、後の節で別に之を考へて見る。殘りの二つの點がやはり亦各地の天人女房説話に、往々にして附いて廻つて居る要素なのである。人が天女を妻にした幸福は、實は今までの説話では、まだ其内容を明かにして居ない。多くの巫祝祠官の家では、單に家の血筋が天人から、流れ續いて居る故に天と縁が深い、といふだけでも滿足し得たであらうが、是が昔々の或一人の翁の、身の仕合せといふ話になると、美しい女性といふだけでは十分で無かつた。それのみならず、斯ういふ厚運に惠まれる者は、もと甚だしく貧窮なることを常として居るのである。竹取の翁が後に同じ竹の節間から、度々黄金を見出したといふのは興少なく、此點は寧ろ海道記にあるやうに、姫は鶯の卵の中から、黄金は竹の中にと分けた方が面白く聞かれるが、兎に角に此例はまだ他には無い。村の聽衆には黄金の富よりも、今一層心を動かされ易いものが以前には有つたのである。丹後の比治里の和奈佐老夫婦が、天女を子にして後、美酒を釀して富を積んだといふ話は、幾分か我々の耳には疎くなつて居るけれども。尚折々は其殘形に出逢ふことがある。それよりも數の多いのは、其女性が機織に巧みで、或は量を豐かに又は稀代の布を織つて、是を以て夫の家を富ましめたといふ例であるが、是には固より羽衣を取つて匿したり、騙して家に誘ひ入れるやうな、輕薄冒險な相手方で無いことを條件として居る。語を換へて言ふならば、所謂近江系又は和奈佐式の羽衣譚は、實は天女の直接の援助によつて、家が富み榮えたといふ説明とは、始から調和することが出來なかつた話であつた。だから機を織つて家を金持ちにしてくれたといふ話が出ると、もう羽衣を盗み匿した話は引込まなければならなかつたのである。
 
          六
 
 さうすると問題になるのはこの陸中の一例であるが、是は明かに其形の上に、過渡期の混亂を示して居る。話が餘(171)り面倒になりさうだから、逆に自分の假定の方から先へ述べると、斯ういふ人力以上の巨大なる幸福を、授與せられる理由は早くから變化して居た。最初は多分隱れたる神意、即ち凡俗の眼には寧ろ意外の極なる者、たとへば貧しい愚かな見苦しい弱い、又は何一つ爲し得ない惰け者などが、却つて其選に當るやうに説かれて居たと思ふ。支那の小説などに宿縁とか、天縁とか言つたのも此部類で、つまりは常理を以て測り難い法則の存在を認めようといふのであつたらしいが、それが益信頼しにくゝなつて、次第にその馬鹿々々しさを誇張するやうになつた。第二に現れたのは本人の眞の力、何か底に隱れた功績によつて、人は省みずとも自然は之を表彰するといふ風な考へ方である。今でもよくいふ正直爺や孝行息子、心のすなほな貧乏人などから、機敏で頓智に富む道化者まで、各自分の價値によつて大きな福分を捉へたやうに、追々と改まつて行つたやうに見える。羽衣を見つけて早速之を匿したなどゝいふのも手柄話の一つかも知れぬが、普通には是は相手が鬼や天狗の如き、いぢめても構はぬものである場合に限られて居る。其他の場合ならば大抵は何か一つの善い事をして、それを悦ばれて褒美を受けた形になつて居るのである。
 東日本で折々見る天人女房の昔話には、笛吹藤平の如く、笛の上手であつたといふ青年の例がある。是などは大神氏《おほみわし》の家の藝と考へ合せて、遠く上代の信仰まで入つて行かれる問題と思ふが、既に「桃太郎の誕生」に其片端を説いて置いたから省略する。次には書物の好きな若者の所へ、天女が嫁いで來た話もある。此等は私のいふ第二次の動機か、はた又古い形の少しばかり改まつたものか、今はまだ判別することが出來ない。此以外に龍宮を訪ねて、美しい乙姫を乞受けて來た話に、或は花を捧げ薪を贈つたといひ、又は親を慕うて孝養を怠らなかつた者、もしくは物を拾うて正直に之を返した者などの例があるのは、何れも人間の幸運譚に、何か常識的説明を要するに至つてから、後の發生と見てよからう。日本ばかりの現象では無いかも知らぬが、所謂動物報恩説話は屡亦之と結合して居る。人は何とも思はない或一つの小蛇や龜を助けてやると、それが美しい神女の化身であつたといふ類の話は、命を救はれた本物の魚鳥が、身を人間の美女に變じて、嫁に來て恩を報いたといふ話と、殆と堺目も付かずに一續きに繋がつて居(172)る。其中でも私たちの謂ふ鶴女房、もしくは鸛鳥《こふのとり》女房の話などは、それが或は天人の假の姿であること、たとへば近江の余吾湖の記録の通りでは無かつたかと思ふばかりで、何れも必ず機を織つて、夫の家を富ましめるのである。或は其織物を鶴の毛衣であつたと謂ひ、男が竊かに機屋の中を覗くと、鶴の姿になつて胸毛を一本づゝ喰ひ取つて、織込んで居たなどゝも謂ひ、後には裸鶴の傳説とまで展開しては居るが、その女房ぶりのよいことは天女と異なる所無く、しかも相昵びて永く留まつて居らうとして居たのである。機屋を覗かぬといふ約束の違犯が、たつた一つの絶縁の原因になつて居ることは、多くの神婚説話と共通であつた。女房はあやしの我姿を見られたことを知つて、歎きつゝ遠く歸つて行くので、前代の説話の一つの大いなる感動が、久しく此點に在つたことは今からでも推測し得られる。故に一たび此感動の中心が外へ移されるならば、説話は當然に其外貌を變へて行かねばならぬ筈である。
 我々の竹取物語が、必ずこの羽衣説話の何れかの段階を、足場にして立つて居ることは、たゞ一首の歌からでも之を推斷してよからうと思ふが、是によつて簡單に其以前の形を察し得ることは、今はまだ望み難い。駿河は可なり古くから、羽衣を取匿して天女を抑留したといふ話法の行はれて居た國のやうで、現に本朝神社考卷五に、「風土記を案ずるに云々」と引用してあるのも、前に掲げた信州小縣郡のと同じであるが、竹取物語は少なくとも其影響を受けて居ない。たゞどういふ原因で赫奕姫が、翁の子となるに至つたかを、説明する部分が見當らぬのである。私はそれも此本文の間から、いつかは現はれて來るものと思つて居る。多くの讀者はそこ迄は氣が付かずに、あの頃の文學なら大抵は唐か天竺から、受賣したらうとばかり想像して居たのである。ところが案外に此話は日本風であつた。たとへば天人を妻とせずに子として養つたといふなども、よその國には例が少ないか知らぬが、先づ丹後の比治里がそれであつた。鶴女房でも甲斐と信濃、陸中に存するものは共に押掛け女房であるが、信達民譚集の鶴沼の口碑では、老人に助けられた鶴が美しい娘になつて、尋ねて來て子になつたと謂つて居る。次に述べようと思ふ繪姿女房の話でも、出羽の黒川村の一つの例だけが、緑兒を拾つて育てたことになつて居る。家を長者にする方が話の骨子で、妻でも養(173)女でも結果には變りが無かつたのである。しかも説話が次々に成長して行く段になると、此相異は終に大きな變化を生じた。斯くして元一つの言ひ傳へが、いつと無く別の話になつたものと私は考へて居る。
 
          七
 
 我々の説話が成長し又變化して行つた經路には、口頭も書卷も元は格別の違ひは無かつた。説話が耳で聽く在來の文藝から、目で看る文字の記録に遷る際に、何か餘分の學問なり技能なりが、働いたものゝ如く想像するのは誤つて居る。といふことを私は言つて見たいのである。是は近代の御伽册子の類を讀む人の、恐らく大抵は承認する所であらうが、大分以前に現出して、且つ仲間の少ない竹取物語などに就いては、そんな事を言ふのが今はまだ少しく大膽に聞える。しかし文筆の領土が尚狹く、口承文藝の年久しい威力が、未だ衰へなかつた時代に在つて、進んで凡俗の題目を取扱つたとすれば、其拘束は寧ろ後世よりも多かつたと見なければならぬ。少なくとも何が踏襲であり又保存であつたかを、檢めて見る迄は失禮でも何でも無いと思ふ。我々の興味を感ずるのは、當時一般人の具へて居た豫備知識とも名づくべきものに頼つて、效果を擧げようとした物語の筆者の態度である。乃ち此一篇の間に於て、必ずしも多く力を用ゐず、淡々として筆を略して居る處に。澤山の昔々が横たはつて居るらしきことである。此點は尚後にも擧げなければならぬが、大體に既に世人の知つて居る事實の上に、新らしい物語を盛り上げて行かうとして居ることは、氣の利いた手法と言つてよい。もしそれをしなかつたら長たらしくなつたのみならず、或は作者の狙ひ所も人を動かさずに終つたか知れない。
 然らば何れの部分に、竹取物語の文藝としての目途が有つたか。筆者その人の働きといふものは、果してどの點に現れて居るのか。斯ういふ疑問があるなら私には容易に答へ得られる。それは他を捜して類型の無い部分、もしも一々捜すのが厄介とあらば、主としては五人の貴公子が、無益に妻問ひをして結局は蹉跌と落膽とに終つたといふ、あ(174)の面白い五通りの敍述である。是には一つ/\歌と一種の口合ひとが附いて居て、目先をかへることに十分の力が用ゐてある。さうして此書以外には、前にも後にも斯ういふ類の話は無いのである。私たちは是を説話の變化部分、又は自由區域と呼ばうとして居る。獨り後代の御伽册子が、其眞似をして居るだけで無く、口で言ひ繼がれる昔話に於ても、婦人などの忠實に聽いた通りを話さうとする者の外に、其場相應の改作と追加とを、可なり巧妙に試みる者があつたのである。上古の最も嚴肅なる神話時代にも、是は尚認められて居た技術だと私は考へて居る。即ち赫奕姫に幾人もの求婚者があり、如何なる方法を以て近よらうとしても、徹頭徹尾決して許さなかつたといふ大筋は不變であつて、たゞそれを例示する幾つかの場合を、話者又は筆者の空想の活躍に委ねたのである。是も餘りに面白く巧みに出來たものは、後には定まつた型となつて守られ、或はそれから又一つの新らしい話が分岐することもあつたやうだが、原則としては取捨を許されて居た。近頃の例でいふと、小兒などの印象を鮮かにする爲に、話者の添附する説明にも近いものがあつた。こゝでいふならば何兵衛どん見たやうな金持があつてとか、此村なら何川のやうな川の橋でとか、一々比較して聽かせるなども此部類であつた。或は山寺に泊つて夜の更ける迄の間に、色々の小さな不思議があつたり、狐が勇士を騙さうとして、次々に術をかへて失敗するといふの類、何れも事が小さく又たわいも無い部分だけに限るのが常であつた。獨り竹取物語の五人の冒險談のみが、是に比べると特に精彩あり、又傳ふるに堪へたる好文字であつたといふ迄である。
 但しこの求婚者試驗譚の、全部さながらは創作で無かつた。其輪廓は豫て描かれてあり、文藝は言はゞ其内側を見事に色どつたのである。口から耳への授受に際しても、此部分は常に説話者の才藻に期待せられて居た。この約束がある爲に、寧ろ變化の興味は深かつたのである。姫がさま/”\の難題を提出して、問ひ寄る人々を困らせた話は、竹取の場合などは無論よほど誇張せられて居る。殊に相手の眞情と智能とを試みる爲といふよりも、却つて始からその失敗と斷念とを希うて居たといふのは、新らしい趣向のやうに考へられるかも知らぬが、是とても既に先型は有つた(175)らしいのである。今昔物語の竹取翁於篁中見付女兒養語などは、文字に録せられた時が後だと認めれて居る爲に、必ず一方の文藝の相續なるが如く、速斷して居る者も多いやうであるが、是がもし所謂燒直しならば、斯ういふ風に變更する筈は無い。第一に竹取物語の懸想人は五名、難題の數も五つであるが、こちらは三つであつて、それも空に鳴る雷と優曇華の花と、打たぬに鳴る鼓とを持ち來れといふことになつて居る、誰が比べて見たつて此方が單純であり、又古風であることは認めぬわけには行くまい。だから此方が前の形と、きめてしまふことも出來ぬけれども、少なくとも併行して別種の話し方の、行はれる餘地だけはあつたものと見てよい。尤も、この今昔の一文はやゝ略筆に過ぎ、或は斷片で無いかとさへ思はれるのであるが、尚他の一つの竹取との相違は、必ずしもこの求婚者の冒險といふ部分に、重きを置いて居ないことであつた。それが偶然に保存してゐた敍述の形が、却つて後代の民間傳承と、より多くの共通のものを含んで居るといふことは、私たちに取つては大きな意味がある。
 
          八
 
 今ある諸國の天人女房説話にも、この難題提供の一條は?伴なうて居る。一つの著しい竹取などゝの相違は、是を課せられる者が多數の求婚者では無くして、普通に其天女の夫が之に苦しめられ、妻の力にょつて始めて救解せられることである。多くの場合には殿樣が引合に出されて居る。殿樣は天人女房の美しさに動かされて、色々の不可能なる命令を出して、それが爲し遂げられずば女をさし出せといふのだが、こちらは天人だから少しも困らず、亭主に援助をして片端から其要求に應じ、最後には殿樣を閉口させ、或は代つて其地位に就いたといふ例さへある。この殿樣の難題の出し方が、今でも私の謂ふ自由區域、即ち説話者の空想の遊歩場になつて居る。數は大抵は三つであるが、答さへ何とか面白く附けば、どんな奇拔な難題を出したと言つても構はぬことになつて居る。しかし實際はさう新らしい趣向も無いので、ほゞ在來の八種か十種の變化の中から、時に應じたものを選んで、我々は之を踏襲して居た。(176)さうして其内には今昔物語と同じく、「打たぬ太鼓の鳴る太鼓」を差出すべしといふ、難題もまじつて居るのである。空に鳴る雷を捉へて來いといふ命令などは、書紀の小子部連の物語にも既に見えて居て、恐らくは無理な注文の最も著名なるものであつたらうが、是さへも尚今に至るまで用ゐ續けられて居る。是も陸中の紫波郡昔話に、「天の御姫樣と若者」といふ見出しで、採録してあるなどが其例である。殿樣の難題といふのが爰では二つ(第一の難題はマンダラを織ることであつたらしいが、前段と混同して居る)。其一つは灰繩《あくなは》を千把持つて來いといふので、是は例の棄老國説話から取つたもの、最後の一つは又天の雷神を連れて來いといふのであつたが、そんな事は天人には難題でも何でも無かつた。早速箱に入れて持つて出る。細目に蓋を開けるとカラカラコロコロと鳴るし もう少し開けるとガラガラピカピカと稻妻まで光り、是は面白いと無理に其蓋を全部取放させると、御殿を括り動かして大雨が降つて來る。主も家來も頭を抱へて、以後は再び難題は言ひかけない。どうか持つて還つてくれるやうにと、すつかり降參してしまつたといふ話になつて居る。つまり此部分が後々まで、斯ういふ前型ある挿話によつて、取かへ引かへ潤色せられて居たのである。竹取物語の文藝的手柄は、そんな古臭い形は眞似ず、特にこの與へられたる自由區域に於て、最も自由に其異色を發揮した點に在つた。
 貴人が絶世の美女を強ひて娶らんが爲に、種々なる難題を言ひかけたといふ例は、やゝ古い所では舞の本の烏帽子折の段に、豐後の眞野長者の物語として録せられて居る。娘を差上げぬに於ては芥子《けし》の種を一萬石、けふ一日のうちに奉れといふ嚴命であつたが、是は長者が富の力を以て、造作も無くすんでしまふ。すると次には蜀江の錦を以て、兩界の曼陀羅を二十尋に七流れ、織つて進らせることが叶はずとならば、姫を内裡に參らせよといふことで、是はもろ/\の佛たちが天降つて一夜のうちに織つて下されたと記して居る。此物語は人も知る如く、後に山路と玉世姫の婚姻譚が繋がつてゐるのであるが、是と同系の現存説話、我々が名づけて繪姿女房と謂つて居るものゝ多くは、何れも殿樣の難題を解決してしまつて、其謀計を失敗させて居り、是と後半分を共通にした笛吹藤平の類でも、やはり是(177)によつて神婚の幸福を完成して居るのである。等しく難題提出の挿話を伴なふ天人の説話ではあるが、是と竹取物語とは結果に於て、又方向に於て全く相反する。最初から唯單なる偶然の一致であつたか、はた又何等かの理由があつて、一方が後に他のものに變化したか。もし後者とすれば何れが元であつたらうかが、問題とならざるを得ぬのである。私の今抱いて居る意見では、妻問ひする者が豫め其不成立を患へて、難題を以て劫かすといふことは、自然に人の想像に浮び得るものでは無い、是は始に聟を試みる話が有つて、それが自由な改作を許される部分であつた爲に、段々變化を重ねて聽く人の興味を惹き、後には此程度に迄目先をかへたものゝ、普及を促したのでは無いかと思ふ。男が最も優れた妻を獲る爲に、幾多の艱苦を經なければならなかつた説話は、日本でも色々の形になつて傳はつて居る。眞面目なのは頼政のいづれあやめの類から、機智と滑稽とを詮とした難題聟の笑話まで、是も多くの變化の段階を重ねて居る。此方が多分古い形であつたらうと思ふ。だから竹取物語の難題盡しなどは、この第一次の姿を保存して居ると言つてよいのだが、幾分か新意を出さうとして居た爲か、五人の候補者をして悉く落第せしめ、且つやゝ結末をグロテスクにして居る。昔話の普通の型では、最終の一人の成功を花やかならしめるべく、前に來る若干人の行爲をわざと可笑しく馬鹿々々しく敍述することは有るが、此編の構造には其結末さへ附けて無いのである。ちやうど他の多くの羽衣説話の、最も淋しい破綻を其後へ直ぐに續けて居る。此點などが民間文藝の敢てせざる所、即ち此作家の作家意識ともいふべきものではなかつたかと思ふ。
 
          九
 
 竹取物語に對する私の盲評は是で略終つた。次には是を構成して居る竹取翁の性質を説いてもし出來るならば富士山との關係を考へて見たいのである。在來の多くの註釋書に對して、私の抱いて居る不滿の一つは、此篇の主人公を後々の小説と同じやうに、作者の新たに設け爲した人物である如く、最初からきめてかゝつて居るらしき點である。(178)是は此種の文藝が生れた時世が、文字に著はさゞる數々の説話を以て飽和して居たといふことを考へず、僅か遺つて居る文獻のみを見て、その若干の年代の差によつて、所謂甲乙の系統を説かんとする、方法論の誤りに基づくものと私は信じて居る。但し是をたゞの水掛論としてしまはぬ爲には、或は今少しく我々の資料の集積する時を待つた方がよいのかも知らぬが、現在のやゝ貧弱なる採録だけでも、仔細に之を省みた人ならば、尚以前の一本調子な態度を、少しは思ひ直すことが出來はせぬかと考へる。一つの例をいふと竹取翁の光り耀く養ひ子を、海道記の方では鶯姫と名づけて居り、且つ其生れを竹の林の鶯の卵、子の形にかへりて巣の中にありと敍べてある。是を筆録の年代が後であるといふ理由だけで、記憶の誤りか又は書きひがめと決してしまふことは、他に資料の無い場合でも尚安心のならぬことであつた。鳥の卵から人間の子を得たといふ傳承はそれこそ竹王の話などより遙かに數多く、又年久しく東亞には分布して居るのみならず、日本でも現に天草島の竹伐爺の昔話には、鶯の卵を三つ拾つてといふ例も遺つて居る。當時斯ういふ別種の型も、行はれて居たと見る方が自然であるのみか、前にも言つた如く竹取物語の方で姫も黄金も共に竹のよから光つて出たとあるのが、既に不用意なる改造では無かつたかとさへ推察せられるのである。天女が白鳥の姿で飛下つて水に浴したことは古記にもある。空より通ふものが鳥類に身を換へるといふのは、誰にも納得し得られる話し方である。だから竹取の翁に就いても、鳥との關係を目標にして、もつと民間の異傳を捜すべきであつた。
 次に今までの讀者が比較的輕く看過して居たのは、この鶯姫の誠に驚くべき成長ぶりであつた。鶯の卵から生れたといへば、無論又ずつと小さかつたらうが、物語の方でも三寸ばかりの人、いと美しうて居たりとあり、それが養ふほどにすく/\と大きくなつて、
  三月ばかりになるほど、よき程なる人になりぬれば、髪上げなどさうして(?)云々。
と謂つて居る。それが又末段に至つて、菜種の大きさにておはせしをともあるのだから、何だかよくは判らぬが、兎に角に始めは非常に小さかつたことを高調して居るだけは事實である。この三月ばかりで人竝になつたといふことが、(179)何氣なしに説かれて居た筈は無い。もしも物語の筆者が之をよい加減に取扱つて居たとすれば、寧ろ當時その點が既に言ひ古されて居た證據にもなるのである。斯ういふ昔話は他にも多く傳はつてゐる。西洋にもプチ・プッセの話などはあるが、日本の一寸法師や五分次郎の話は、殊に際だつて詳細に敍述せられ、其起原は遠く少名御神の神代まで溯つてゐる。それよりも更に近代に普及して居たのは、川上より流れ下つた瓜や桃の實の中に、籠つて居たといふ小さ子の説話である。小兒は自身が?「大きくなつた」といふ語を聽く者である故に、是が童話と化して後は、却つて此點に重きを置かぬ樣になつたらしいが、さういふ僅かな空隙の中から出た者が、忽ち人間と同じ形になつたといふことは、其出現に劣らざる大事件であつた。非凡な大事業を爲し遂げたり、又は長者の家を興したりした神異は、一半は先づ是によつて理由づけられて居たのである。いつから斯ういふ形を以て話さるゝやうになつたか、實はまだ明かな手掛りは無いのであるが、奇妙に此系統の説話のみは、日本では起りが古いといふ推定を受けて居る。この竹取の物語などこそ、間接に異常成長を要素とした口碑の、上代に既に行はれて居たことを證明するものである。
 それから今一つ、是も大して注意を惹かなかつた點であるが、桃太郎の柴苅爺が比較に登つて、始めて明白になるのは竹取翁の社會上の地位である。天が下の老爺は必ずしも常に柴を苅り竹を伐つて生活をしては居ない。是は恐らくは老翁になる迄、竹を伐り又は柴を苅つて居なければならぬ人、即ち至つて貧しい者といふ意味であつたらうが、此心持も久しくもう忘れられて居た。たとへば竹取物語に、
  野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事につかひけり
とあるのを、海道記の方では早「翁が家の竹林云々」と改めて居る。家に竹林のある位の翁ならば、田地もあり眷屬も共に住んだであらうが、是は本來は野山にまじつて居たのであつて、それも一つの職業だつたと、簡單には考へることは出來ない。今日でも公共原野の竹や藤蔓を取つて、器物を作つて賣つて居る者は少し居るが、普通の百姓は仲間とは之を見て居ない。まして古代の耕作を根據とした時代に、さういふ誰にでも手に入る物を集めて來て、布や穀(180)類と換へて貰はねばならぬ者の、身分が世間竝であつた氣遣ひは無いのである。さうすると後々何でも無かつた事のやうに考へられて居る竹取翁も、實は一つの説話中の、至つて大切な要點であつて、是が一朝にして寶の兒を見つけ、安々と富を積んで長者になつたといふことは、それだけでも大なる驚異であり、乃ち又永く傳ふるに足る事柄でもあつた。だから一篇の物語の中では、恐らく此部分が最も古く、事によると人が説話を其儘に信受して居た時代から、續いて傳はつて居たかとも思ふのである。
 さうして此部分は更に後の代にも遞送せられて居た。富士の縁起に此翁のことを記して、作箕爲業とあるのも、同じく又天女を子とし養つた者が、始め至つて貧しき竹取翁であつたことを意味する。箕は最近に全く其使用の廢れる迄、ずつと引繼いて貧人の作品であつた。所謂野山にまじりて生を營む者のみが、是をこしらへて持ちあるいて居たことは、箕直しと稱する特殊の部曲の名からでも證明し得る。それが斯樣にして世にも稀なる長者となつたといふが故に昔話は特に興味が深かつたのである。吉蘇志略及び之を引用した名所圖會の類を讀んで見ると木曾にも早くから箕作翁といふ途法も無い大富人の口碑があつたらしい。それが童觀翁といふ他の一人の富人と、寶競べをしたといふ話が、斷片となつて今も傳はつて居る。是などもやはり長者の名が箕作翁であつた爲に、それだけでも既に聽く人をほゝ笑ましむに足りたので、此世の常法を以て推せば、さういふ名の長者は存在し得る理由が無かつたのである。私は前に昔話の立身譚の説明に、前後二つの段階があつて、それが又各細かく變化して居たことを述べた。此分類からいふと、竹取翁の元の形は、第一期のやゝ末の方のもの、即ち人間には解らぬ隱れたる法則に因つて、最も豫想外なる者が特に惠まれるといふ話の、幾分の不信と反抗とによつて、少しく笑話風に誇張せられたものと言ふことが出來る。グリム兄弟の採集などの中にも、此程度の説話は甚だ多いので、無論神話などゝいふものからは遙かに時が降つて居る。
 
(181)          一〇
 
 日本に此種類の民間説話が、どれ程弘く行はれて居たかといふことは、上代に溯つてまで之を考へて見ることは六つかしいが、少なくとも萬葉集卷十六の竹取翁は、同じ集團の一つの記録、もしくは其斷片だと言つてよからう。是を全然別途のものと説き、乃至は竹取翁といふ人名のみは、偶彼から思ひ付いたと謂つて居る人もあるが、是も亦文獻の殘留せる僅かのものを以て、古代史料の一切だと考へてしまつた結果である。萬葉集の竹取翁が説話であつたことは、あんな一章の歌の力によつて、九人の美しい女性が口を揃へて、「我も依りなん」と返歌したといふだけでもわかる。さうして是が又或一人の文士の創作した小説で無い證據には、是ばかりの説明では實は前後の?況を解するに苦しむのである。是は當時其背後に、竹取の翁が無上に幸福なる婚姻をしたといふ話が、豫て一般の智識となつて流通して居た爲に、一半をその聯想に托することを得て、許多の敍述を必要としなかつたのである。さうして九人ではないが八人の天つ少女に逢つたといふ例は後々まで存し、たゞ其中で妻か養ひ子かといふ點は變化し得る部分であつた。竹取物語の筆者が無視し得なかつた羽衣の説話、もしくは近江の伊香登美の家に傳はつたやうな説話は、僅かの相違を以てあの頃も既に世に行はれて居たのである。
 そんなら他の一方に、是が後世に至つて如何なる結末を示すかと問ふと、今日の童話時代まで此系統は尚綿々と遺り傳はつて居る。關西の方では一般に、屁こき爺といふちつと尾籠な名で知られて居る昔話が、土地によつては又竹伐爺の名を以て呼ばれて居る。北は青森から南は熊本まで、ほゞ間斷無く採集せられてあるが、その現存の形は案外によく一致して居る。つまりは今日の花咲爺が代表して居るやうに、慾深な隣の爺の眞似そこなひの滑稽に、興味の中心を置かうとしたものであるが、偶然にそのどうでもよい部分に、以前の痕跡を保留して居たのである。昔貧乏な一人の爺が、藪に入つて竹を伐つて居る。そこへ出て來たのが地頭殿、又は山主とも山の神とも、殿樣とも言つて居(182)るが、末の御褒美の關係から殿樣といふ話が多くなつて居る。其殿樣が竹伐爺を見つけて、そこに居るのは何者か。日本一の屁こき爺でござる。そんなら一つこいて見よといふ問答があり、珍らしい音を出して御褒美を山と貰つて還る。それを隣の爺が羨ましがつて、同じ問答をして失敗を演じ、尻を切られて戻つて來る。婆が遠くから之を見て、爺殿は赤い衣裳を尻に纏うて歌をうたうて歸つて來るさうな。そんなら今までの衣裳は無くてもよいと火にくべてしまふと、實は血だらけになつて泣いて來たのであつた。それだから矢鱈に人の眞似はするもので無いと、などゝ謂つて小兒を笑はせて居る。瘤取雁取を始めとして、此型は我邦にはよく發達して居る。(さうして花咲爺の後段は多分雁取爺と此竹伐の混成改作であらうと思ふ)。自分などは中國で生れた爲に、この日本一の屁こき爺に、由來譚の附いて居たことを久しく知らなかつたが、是も可なり弘い區域に分布して居るのだから、新しい添加では無かつたのである。その最も普通の形といふのは、爺が山畠に行つて働いて居ると、一羽の小鳥が來て爺の口の中へ飛込む。この小鳥の名も土地毎にちがひ、又どうして口へ入つたかに就いても、色々の説明が出來て居る。信州南部の一つの例では、爺の辨當の蕎麥のかい餅に、山雀がくつゝいてぱた/\して居る。口で甞めてもちを取つてやらうとすると、思はずつる/\と呑んでしまつた(旅と伝説五卷七號)。或は餘りに可愛いので、ついうつかりと呑んだともいふ。さうして後で腹を撫でゝ見ると、臍のすぐ脇に其小鳥の足が、又は尻尾が出て居て、それを引張るとよい聲で面白い歌をうたふなどゝいふ。要するに既に完全に童兒用のものに化して居るのである。
 私は曾て御苦勞にもその爺の腹から出る文句といふものを、二十近くも集めて比較をして見たことがあるが、無論話者の空想で何とでも言へるに拘はらず、其間には共通の傾向が見られた。つまり小鳥の可愛いゝ聲を模しつゝ、何かめでたい祝言を敍するのであつた。東北では「黄金さら/\錦さら/\五葉の松云々」などゝいふのもあるが、他の多くは鳥の音に近くする爲に、句の意味は段々判らなくなつて居る。東京の小兒などは、もはや此話を知る者も無からうと思ふが、それでも幼ない者が一寸した怪我などをした時に、親がよく唱へた「チチンプイプイごよのおん(183)寶」といふのは、正しくこの竹伐爺の鳥の語の名殘であつて、是と全く同じことを此話の中でいふ例も各地にある。斯ういふ唱へごとの面白味を中心とした昔話の、盛んにもて囃された時代も元はあつたので、更にその一つ前を尋ねて見れば、必ずしも今のやうな卑近な利得を説いて居たのでは無いらしく思はれる。今日の諸國の例の中にも、町へ出て行つて大評判になり、多分の錢を儲けたなどゝいふのもあるが、古い形は竹を伐るのを咎めに來た地頭とか山の神とかゞ、その目出たい小鳥の歌によつて、非常に悦んで御褒美をくれたといふ類の話であつたのかも知れない。今後の採集がもう少し進めば、斯ういふ點は追々明かになるものと私は想像して居る。
 
          一一
 
 私が此論文の中で考へて置きたいと思ふのは、是が上代の竹取翁の物語と、どれだけ迄の脈絡を持つかといふ點である。我々の竹伐爺には、小さい美しい天女は終ひまで出て來ないが、其代りには小さな美しい鳥が來て、主人公を幸福の生活に導いて居る。是は單に聽き手が幼童になつた爲のみで無く、本來この竹取の立身譚といふものが、必ずしも常に神女の出現を唯一の條件としなかつたこと、もしくは鳥と神女とが往々互ひに身を轉じ得たやうに、説いて居たことを意味するのであらう。さうすると近代の竹伐爺と小鳥との遭遇は、もう少し近よつて其變化の種々相を檢めて見なければならぬ。最近に我々の知り得た資料の中に、知里眞志保君が和譯してくれた、アイヌのパナンペ・ペナンペ譚がある。東日本の竹伐爺の話は、よほど新しい形になつてから、蝦夷の間に入つて行つたと見えて、是には既に赤い小袖を着て歌をうたつて來たといふ笑ひまで附加はつて居るが、此話ではパナンペが山で可愛い小鳥を見て、悦んでそれを拜むと、忽ち彼の口中へ飛込んだとなつて居る(郷土研究七卷五號)。即ち其小鳥を靈物として、尊敬したらしい話しぶりである。又九州の方では天草島の昔話「屁ひりの上戸」といふのに、正直なる爺が竹を伐りに行つて、鶯の卵を三つ拾つて、之を懷に入れて戻るといつの間にか無くなり、やがて庇の音がホーホケキョと鳴くやうに(184)なるといふのがあつた(郷土研究七卷六號)。他の地方の竹伐りは殿樣に出逢ふかはりに、さう腹が鳴るなら竹でも伐つて、風呂を沸して入つたらよからうと、婆に勸められたといふ話にさへなつて居るが、肥後では其小鳥の卵を拾ふのが、もう竹の林の中であつた。つまり中國地方の屁こき爺は、改作と同時に又短縮でもあつたのである。かくや姫の鶯の卵のことは、たゞに海道記の道行きぶりのみならず、又臥雲日件録にも三國傳記にも、謠曲の「富士山」にも廣益俗説辨にも出て居る。たとへ竹取物語の本文には採られて居らずとも、後世國内弘く之を傳へたものはあつたのである。是と肥後天草の屈ひり爺との距離は甚だ近い。
 そこで攻めて自分の假定を述べるならば、この竹取物語といふ文筆の基になつた竹取翁説話は、それよりも遙か以前から我邦に流布し、しかも地方毎に可なり著しい話し方の差を生じて居たらしい。富士南麓の低地に行はれて居たものは、特に今日の所謂天人女房説話と接近したものであつたことは、謠の羽衣の下染を爲す所の駿河の古傳説、もしくは能因法師の作といふ、
   有度濱に天の羽衣むかし着てふりけん袖やけふのはふり子
といふ歌からも想像し得られ、それが又竹取物語の利用した素材にも近かつたらしい。富士の靈山の信仰は最初からか、もしくは中頃からかは知らぬが、兎に角に是と結び付き、且つ其信仰を支持して、從うて竹を頂上の御池の邊の幻しに、青々と描き出すことを許したのかも知れない。貞觀年間の火山の最も烈しく荒れ、しかも山麓住民の信仰の最も強く燃えて居た頃に、かの富士山記の竹の記事が現はれたのは、どうも自分だけには偶然とは思へないのである。
 古文學の註釋者の眼には、とかく其文字が赫奕姫の如く光り耀いて見え、又唯一のものゝやうにも見えるらしいが、是は鑑賞といふものとは別箇の心理のやうに私は思ふ。私などの氣になるのは、今日既に固定して居る本文の中に、落付かぬもの又後の書き添へ書き直しかと思ふ箇所の、そちこちに見えることである。殊に遺憾なのはあの中にある十餘首の歌が、平板にして感動少なく、朗々として之を誦し且つ記憶するに堪へざることである。たゞさういふ中に(185)二つだけ佳い歌がある。一つは前にも擧げた「今はとて天の羽衣」の歌で、是は此作品の由緒を語るものとしても、又前代常人のペソスを映じ出したものとしても、小さくない印象を我々に與へる。今一首は車持皇子のうその南海漂流談を聽いて、老翁が歎息して詠んだといふ歌に、
   呉竹のよゝの竹取野山にもさやはわびしきふしをのみ見し
 斯んな所に出て居てはをかしいといふだけで、是も亦いつ迄も覺えて居てよい歌である。是から考へると竹取の物語は即ち代々の説話であつて、當時既に幾通りかの變化があつたけれども何れも皆其前段には、野山の生活の侘しいことを語つて居たのである。即ち昔話に最も數多き型通りに、亦是れ一箇貧人の致富譚であつたといふことを、其竹取翁自身が言明して居るのである。それをどうあつても前代の匿名文士が、獨りで考へ出した新趣向であるかの如く、是非とも解しなければならぬといふのは難儀なことだと私は思ふ。
 
(186)     竹伐爺
 
          一
 
 竹取物語に車持皇子、蓬莱の玉の枝を求めんとして、三年が間海上を漂ひあるき、數々の危難を經て來たといふ大うそ話を聽いて、之をまことと信じて歎息して翁の詠んだといふ歌、
   呉竹のよゝの竹取野山にもさやはわびしき節をのみみし
 是は一篇の中でも殊に面白く、且つ重要なる一首だと私は感じて居る。近頃の最も手に入り易い流布本には、歌の語の竹取を「竹取る」と讀ませて居るが、果して確かなる根據の有る書き方であるかどうか。問題にしてもよい樣である、私はテキストの正僞を論辨する學者では無いけれども、子供の時から是をタケトリと名詞に讀んで居る。さうして今も「竹取る」と連體言に解するのはうそだと思つて居る。其理由は幾つもある。第一にそれでは誰がその「侘しき節を」見たと言ふのかが不明になる上に、「よゝの竹」といふのが何の事だかわからなくなつてしまふ。しかも吟じて見れば直ぐ氣がつく樣に、歌の調べが非常に惡くなるのである。物語の主人公讃岐造麿一人が、今まで方々の野山に竹を捜して居たことを、「よゝの竹取る」と謂つて果して通ずるかどうか。そんな日本語が古くも新しくも他にあるかどうか。恐らくは「有る、竹取物語に一つ有る」と、答へなければならぬことであらう。ヨツギ・ヨトリの例でもわかる如く、ヨといふのは人の一代のことである。察するに是は(187)此歌の「よゝ」といふ言葉を、餘りに輕く見た古くからの習ひに、囚はれて居る説であつただけで無く、同時に又野山といふ句の底の意味を、把握して居なかつた結果では無かつたかと思ふ。「野山にまじりて」は極貧の意であつた。家に專屬した田園から、衣食の資料を得るたゞの百姓ではなくて、僅かに公共の土地に採取して、大寶令に所謂山川藪澤之利によつて、活計を立てゝ居たといふのである。その貧翁が一朝にして寶の美少女を得、更に次々に竹の中の黄金を見出でて、希有の福人となつたといふ點に、かねて此説話の根本の趣向はあつたのである。その意味の竹取の翁ならば世々にあつた。僅かに細部を變へて今の世にも及び、又天涯萬里の國々にも流布して居る。たま/\此名を以て保存せられて居た一篇の記録文學と相生ひに、始めて我邦のみに産れたもので無いことも推測し得られる。乃ちこの久遠の傳承が無かつたならば、かの「野山にも」といふ歌も詠み出でられず、もしくはたゞ晦澁の一作品として、永く諸先生の曲解を許したことであらうと、私などは思つて居るのである。
 
          二
 
 單なる言葉の上からの感じでは、「よゝの竹取」とは歴代の竹取、即ち昔も同じ樣なわびしい生活を營む者が次々に有つて、それが相應に皆人に知られて居た、といふことをしか意味しないやうだが、考へて見ると其樣な貧賤な老夫が、著名になるべき手段方法は普通の道筋ではあり得ない。何か後世の者には忘却せられてしまつた樣な機會があつて、毎度世上の問題になつて居たればこそ、たゞ簡單に世々の竹取と言つても通じたのである。車持皇子の蓬莱島探險談が、口から出まかせの作り事であることは、筆者も前に述べ、又述べなくとも大抵はわかつて居る。それを眞に受けて感慨無量の歌を詠じた所に、いはゆる正直爺樣のユウモアもあれば、又一種樂屋落ち風の滑稽も含まれて居たのかと思ふ。即ちこの當時既に竹取は昔々の物語であつて、囘を重ねて少しづゝ新意を添へる時代に入つて居り、從うてその「世々の竹取」の一句は?民間の話し手によつて用ゐられて居た言葉なるが故に、この通り生眞面目一方(188)の三十一文字が、却つて一段の可笑味を増加したらしいのである。我々の用語では、此?態を昔話の笑話化と呼んで居る。今ある記録の竹取物語などは、夙にこの笑話の部類に屬して居た。此點を一向に無視して居たのだから、成るほど今日の解釋學は御苦勞なわけである。
 以前も日本に竹取の昔語りが行はれて居たことは、幸ひにして萬葉集卷十六が證據である。萬葉の竹取翁は殘片であるけれども、なほ其中からでも窺ひ知られることは、この一傳が特に「天人女房」譚の趣向に重心を置いて居たこと、及びあの當時京華文藻の士が、競うて説話の修飾に參加して居たことである。即ち現存竹取物語一流の文藝化には古い先型があり、數百年の前代へ溯つて見ても、尚一部のよく開けた階級の間には、うぶのまゝの長者話を保持する力をもつて居なかつたことが、偶然ながらも是によつてわかつて來るのである。しかも其現象はたゞ一部に止まり、別に無筆の大衆が語り傳へて居た、昔話の自然の流れが絶えたので無いことは、是も亦實例によつて私は主張することが出來る。今昔物語・海道記・詞林采葉抄等々の諸書に、全然記録の竹取物語の筋を引かぬ竹取翁譚を、どこからか持つて來て書き留めて居ることが一つの證據である。更に他の一方に是等とも品かはり、許多の新しい意匠を以て改造し修飾した昔話が、今日各府縣に於て口から耳へ、依然として授受せられ、少しく比較をして見れば其中の異同が、大よそ竹取りのしがない暮しをして居る老翁の、測らざる幸運によつて家富み榮えたといふ、昔ながらの範圍に限られて居ることを、見出すといふのが又一つの證據である。木曾や上總にもあつたといふ箕作り翁の箕作りは、「竹を取りつゝ萬の事に使ひけり」とある、其仕事の重要なる一つであつた。桶屋は近世の箕作りの如く、常人に齒ひせられざる窮民ではなかつたけれども、やはり原料を無主の山野に採つて居たと見えて、是も亦一定の地に村居しなかつた。さうしてこの二つの者が、今に至るまで我々の多くの昔話の、シテの役を勤めて居るのである。之を要するに口碑の竹取物語はまだ活きて居る。是を參酌もしないでたゞ徒らに古典を羅拜するのが、當世の國文學の癖でもしあるならば、私たちは少なくとも時代の急いで變轉することに、大きな希望を繋けなければならぬ。
 
(189)          三
 
 但しこの箕作りとか桶屋とかも、共に中古以來の模樣替へであつて、是に據つて直ちに日本人固有の生活ぶりを説くことが出來ぬことは、竹取物語といふ一つの文藝記録も同じことであるが、是を斯ういふ形に改めるのが時代の嗜好、乃至は個人の意匠であつたと同時に、其背後には改めたら斯うもなる元の種、即ち古來の制約のあつたことが、是から探り得られる點も雙方に共通する。もつと簡單にいふと、日本が竹の茂る竹細工の盛んに利用せられる國で、しかも靈界の恩寵が往々にして窮民に及ぶといふ説話を、夙に持傳へて居る國でなかつたなら、たとへば佛説月上女經とやらを、口語譯にして無代で配布しようとも、なほ我々の竹取物語は生れて來なかつたらうことは、桶屋の昔話も變りは無いのである。だから方法さへ立てば今ある事實の中からでも、此の如く追々に改まつて來た、所謂流行の跡を辿ることが出來ると思ふ。さうしてその一つの實例として、茲には先づ「よゝの竹取」を考へて見ようとするのである。
 過去一千年の間に、我々の竹取翁は可なり其行装を變へて居る。之を零落といふのは當らぬかも知らぬが、兎に角に話は短くなり、又ばか/\しくならうとして居る。笑ひは此方面では取分けて浮氣なもので、一度大いに笑つてしまふと、もう同じ話では人は中々笑はない。故に一旦少しでも笑話化の傾向が始まると、早い速度を以て目先がかへられる。さうして稍流行の行留まりへ來て、忘れ放題にして棄てて置くのである。今日我邦の田舍に、殆と到らぬ隈も無く分布する竹伐爺といふ一話などは、其初現も可なり古く、今ある形に固定してからも、亦大分の年處を經て居るらしく思はれるが、それにも拘らずもう此以上には改造せられ樣も無いといふ?態にまで達しで居る。話の中心は優雅なる諸君の前で説くを憚るやうな、屁の功名といふ尾籠至極なもので、勿論自分などもたゞ單なる名稱の相似ぐらゐを以て、是を竹取の翁の後身と斷定する勇氣は無かつた。寧ろ反對の證據をさへ捜して居たのである。たゞ奈(190)何せん次々の比較によつて、推移の經路はわかり、脈絡は益明かになつて來る。さうして所謂「世々の竹取」の痕跡かと思ふ文句が、こゝにも尚附いて廻つて居るのである。かの「竹取る野山」と讀んで居らるゝ人に頼んで、何か異なる解説を聽出したいと思ふほどである。
 狂言記を見た人ならば誰でも記憶して居る。あの悠長なしかも一つ/\獨立した作品でも、あまり毎々出場する我儘大名の爲には、事々しい名乘りを繰返させては居ない。御存じの大名でござる、隱れも無い大名です、又は八幡大名などと謂つて、十分なる效果を擧げて居る。我々の日常の會話に至つては、ほんの二度三度話題に上つた人物にも、きまつて例の男だの、いつもの先生だのと、互ひに知合つて居ることを自得した口氣を樂しんで居る。是は必ずしも手數の儉約でなく、寧ろ相手に自己の記憶を復活させて、我手で一段と鮮明な胸の繪を描かせんとした巧みであつたかと思ふ。竹取の説話が古い傳承を墨守せず、往々に異處後日の新趣向を添附しようとした場合に、改めて主人公の身元生ひ立ちを敍べたら、却つてふつつかに聽えたであらう。だから私は「世々の竹取」といふ語なども、この竹取翁の歌になる以前から、?用ゐられてあの世の人たちに、耳に親しいものであつたらうとさへ想像するのである。
 
          四
 
 少なくともさういふ氣持を以て、近世には略語が用ゐられて居た。我々の竹伐爺は、話の本筋はどれも是も皆同じだが、その話し方には廣略の三通りがあつて、大體に地域によつて區別せられる。近畿以西殊に中國に分布して居る形は、專ら爺と殿樣との問答、もしくは隣の慾深の眞似そこなひに力を入れて、如何にしてこの奇拔極まる尻の技能を感得したかといふ發端は省いて居る。次に中部から關東奧羽にかけては、鳥が爺の腹中に飛込んでから、忽ち名譽の屁を出すやうになつたとして、詳しく其來由を説くのを普通とする。第三には四國ではまだ採集が進まず、九州でも一部しか尋ねられて居ないが、熊本縣などで拾はれて居る例は、更にもう一段と前に溯つて、この竹取爺が不慮に(191)長者となつた因縁を説かうとし、從うて舊來の竹取説話と、又若干の接近を認めるのである。この三方三通りの相異が、一期に現はれたもので無いことは誰でも信ずるだらうが、たゞ其變化の順序を逆に短いものから長いのへ、追々に頭を附け、わざと竹取の方へ歩み寄つたものの様に、推測しようとする人は有るかも知れない。しかし民間説話の常の傾向は、何れの種類に於ても省略と斷截が行はれることで、新らしいもの程いはゆる一口話の形に近くなつて居る。是は話を聽く場處と時間の關係であり、又成るべく數多くのちがつた珍らしい話を、聽きたがる樣になつた結果とも思はれ、殊に笑話となると笑ふ個所は少しだから、是を目的とする以上さう長々とは語れなかつたのである。同じ一つの屁の手柄の發端に、北と南の一致した鳥話が附いて居るなども、其點を缺いて居る中央の今の形が後の變化であつたといふ證據にはなると思ふが、もつと詳しく見て行くと、他にもまだ色々の目標の、時代の古さ新しさを分つものがある。さうしてこの主人公を紹介する言葉なども、亦其一つに數へられるのである。
 それを比べて見る前に、序でだからちよつと述べて置きたいのは、例の竹伐爺が藪に入つて、たん/\と竹を伐つて居る時に、「そこで竹を伐るのは何者ぢや」と、出て來て又は通りかゝつて咎める者がある。此人が後で爺の技能に感心して、大いに褒美をくれて隣の慾深爺を羨ませるのであるが、是を自分などは「殿樣の御通りがあつて」と聽いて覺えて居る。又他の土地では地主の旦那樣といひ、庄屋どのがと謂つて居る。岡山附近の一例にヂトウロウが出て來てと謂ふのは、多分は地頭殿の片言と思はれるが、何れにしたところで竹藪は既に主があり、之を伐ることは盗伐になる世の中に入つて居る。爺は褒められる前に先づ一應は咎められなければならなかつたのだから、此點「野山にまじりて」自由に竹を取つて居た、竹取翁の世界とは違ふのである。ところが岩手縣の北部、下閉伊の奧にたゞ一つ、山の神が現はれて其方は誰だと問ふ話がある。もつと類例が出ないと速斷は出來ぬが、事によると是は山野がまだ神靈の支配に屬して居た頃からの型で、即ち神に貧翁が異常に惠まれたことを、主眼として説いて居た話の名殘かも知れない。もつと想像を逞しうすれば、都に竹取物語などの筆記せられる前から、既に農間には此類の粗野なる出世譚(192)が、行はれて居たといふ事實を暗示するものかも知れない。それは或は考へ過ぎだつたとしても、少なくともこの二つのワキ役のうちで、殿樣と山の神と、どちらが古い形を傳へて居るかを、判定するまでは容易のわざで、從つて南北の邊土は進化して居て、近畿中國にあるものが改まらなかつたのだといふ推斷は、先づ此點に於て成立たなくなるのである。
 
          五
 
 次にこの殿樣乃至山神の詰問に對し、何と我々の竹伐爺が答へたかが問題になつて來る。私などの覺えて居るのは、
  はい、日本一のへこき爺でござります。
  そんなら一つこいて見い。
 斯ういふ問答が交へられたことになつて居る。是と同じ言葉は信州下伊那の昔話を始め、駿河富士郡、近江高島郡から岡山鳥取廣島島根の四縣にかけて、既に二十以上の例が採集せられて居る。所謂頻數論者の統計的研究法を用ゐるならば、すぐに是を以て固有の型だといふだらうが、私などは丸々反對のことを考へて居るのである。日本に日本一といふ心地よい言葉が始まり、人も我も是に感動させられて、次々に都鄙に持渡つた時代は、大體いつの頃と見るべきであらうか。是は確かに好箇の課題であつて、國史學の方面ではもう手を着けて居る人もあるかと思ふが、我々は先づ以て昔話の語り手聽き手が、只の大衆であつたことを考へなければならない。例へば文字ある朝紳僧侶の間に、既に「日本一」を筆にした人があつたにしても、それが尋常になり會話の語になるには又若干の年處を經なければならぬ。鏡の銘などよりは古い氣遣ひは無いのである。それからまだ一つ、此語が流行して口癖の樣になる前には、是に置換へられた元の言葉があつた筈である。それとの關係も考へて見なければ、「日本一」の最初の意味も本當はよく判らないのである。昔話の中では別に日本一の花咲爺といふのがある。是などは形が似て居て、或は竹伐からの轉用(193)かとも思はれるが、更に桃太郎の日本一の黍團子に至つては何が日本一なのか實は誰にも説明が出來ない。單に有名なるとか隱れも無いとか、又は狂言記の八幡大名の如き、ごく氣輕な意味に用ゐられて居たとしか見られないのである。
 それでつまらぬ穿鑿の樣だが弘く他の地方の例を比べて見る。小縣郡民譚集の傳承では、爺が我から「へつびり爺がまァかつた」と振れて歩きながら殿の行列に路で行逢ふので、是などはよつぽど古風で且つをかしい。其他に甲州で「これはへつびり爺でござります」、三河の南設樂で「はいはい、へこき爺でござります」、もしくは「村のへひり爺でござる」といふのも藝州の海岸にはあるが、奧州の方へ行くと是が又大分かはつて居る。岩手縣では膽澤稗貫紫波三郡三處の話が、共に「山々の屁つぴりおんぢでござる」と謂ひ、老媼夜譚に出て居る上閉伊の例では、「なみ/\のへつぴり爺」となつて居る。前に引用した下閉伊のものは「みな/\のへひり爺」と謂ふのだが、是は二つ同じでナミナミといふ方が前かと思ふ。さう思ふわけは青森縣の津輕地方に行つても、やはり「まい/\の屁ふりおやぢです」、又は「前の前のへふりぢいこだしャ」とも名乘るものがあつて、この前の前のもかの竝々も、共に尻鳴の功名によつて長者となり得た話が、決して突如として發明せられたもので無く、やはり桃太郎の黍團子同樣に、久しい傳統に依據することを示すからである。三州の北設樂などにはたゞ一つ飛離れて、「昔々のへひり爺だ」と明かに宣言して居る例もある。しかもさういふ古い形は、一人だつて今は之を記憶する者がない。だから無かつたのだ、新たに斯う言ひ始めたのだと見ることは、ちやうど又竹取物語の肝要なる「よゝの竹取」の一句を、無視してしまはうとする人々の態度と似て居る。日本の文學史研究は、この意味に於て前途多望といふべきである。
 
          六
 
 いはゆる前々のへひり爺の、たつた一種だけ文書に傳はつて居るものは福富草紙である。是は岡見正雄君が今に大(194)いに述べるさうだから私は骨惜みをするが、ほんの一二の關係ある點を掲げて置くならば、まづこの册子繪には大切なる竹伐の條が無い。故に他の多くの點で共通した後世の「竹伐爺」が出て來ないと、是と竹取物語との聯絡は絶えてしまふのである。奧州の方は寒國で高い竹林が無い爲に、幾つかの話は花咲爺と同樣に、山に上つてだんぎり/\と樹を伐つて居たことに改まつて居る。此等を一つの系統の傳播であり刪定であると見定める爲には我々はもつと採集にいそしまなければならぬのである。今日傳寫本のたつた一字の假字ちがひまでも、無上に取囃す勞力の一半を割いて、目に一丁字なき人々の千百年の間、愛惜保持して居たものを訪ひ寄らなければならぬのである。現在採録せられて居る數十篇の「屁ひり爺」は、まんべん無く國の四端に分布して居るとはいへども、まだ/\所謂失はれた鏈が多いのである。是を五倍にも七倍にもした曉には、もう私のやうな餞舌の用は無くなる。現に又さういふ方向に、我々の發見は進んで居るのである。
 福富草紙の技巧、もしくは文學的手法ともいふべきものは、幾つかの點で竹取物語に似て居る。繪畫を中心にしたなども獨創では無論無かつた。竹取の最初の畫卷は傳はらぬ様だが、あの本文にはところ/”\美しい繪樣がある。さうして文句は著しく切れ/”\である。事によると是も今いふ御伽ものの、古い見本であつたかも知れぬのである。主要人物の敍述は世人の年久しい記憶に委ね、技術を新意匠の方面に傾けた點、及び出來るだけ滑稽の味を濃くしようとした點など、文字を弄ぶ者の古今を通じての念願では無かつたかと思ふ。福富といふ名前なども下に語音の聯想があつて、亦一つの小さな趣向であつたらうか。とにかくに説話の最も興味ある部分のみは、聽衆の豫期に反してさし替へることが出來なかつたのだから、作品と言はんよりも寧ろ筆録といふのが當つて居る。興味の中心も話によつては時代と共に少しづゝずれ動いて居るが、この竹伐爺の尻鳴りの音ばかりは、聽かずにしまつては話にならなかつたのは勿論、さう奇拔に改めてしまふことも出來なかつたかと思はれる。私は物好きにも此文句を比較して見たことがあるが、やはり東北の端々だけには、福富期の舊型の儘を保存して居るものが見出されたのである。是をかの草紙を(195)目に觸れた者が、まちがへ又改造して傳へたとも言はれぬ譯は、宇治拾遺の瘤取りや藁しべ長者も同じ樣に、書いたものに無い方が詳しく且つ筋が通り、もしくは古風に話されて居るからである。此點は中世の竹取異傳を解説する場合にも、一つの參考たる事を失はぬと思ふ。古く文筆の上に現はれたから、其形の方が前だと言はうとするには、他の種の説話を運んだ者が、何れも一應此物語を見たことを前定しなければならぬ。さうして此類の卷物は大家に藏せられ、同じ京都人でも知らずに居た人が多かつたのである。ましてや東北の田舍者が、圓本ではあるまいし、ちやんと讀んで居た氣遣ひは無いのである。
 
          七
 
 だから斯ういふ一致には別の理由を見出さなければならない。福冨草紙の繪にある屁の音は、
   あやつゝ、にしきつゝ、こがねさら/\
とあつて、御蔭で是だけは元の心持が大よそ解るのだが、現在各地に行はれて居るものに至つては、殆と一つ殘らずに毀れゆがみ、もしくは角が取れて丸くなつて居て、如何にこの永い年月の間に、盛んに使はれ弄ばれて居たかが察せられるのである。綾と錦と黄金との三くさは、古來凡人の最も貴しとした財寶であつた。それがつう/\と引きほどかれ、又はさら/\とこぼれ出るといふのは、つまりは昔話の取れども盡きぬ寶を、鮮明に耳に訴へようとした言葉であつた。斯程めでたい物の響きを、短い句で表はす音は他には有得ない。いつの世からとも無く我々が之を暗んじて、樂しい笑ひと共に引繼いで居たのは當然であつたが、しかも小兒や貧しい人々に取つては、あんまり縁の遠い物の名であるが爲か、知らぬ間に少しづゝ言ひちがへをして居たのである。稍うら悲しい慰みではあるが、試みに片端ばかり其例を竝べ比べて見ると、先づ「黄金さら/\」の方は中國地方にも傳はつて居る。因伯童話には、
   ジージーポンポン
(196)   コガネサラサラ、 チチラポン
 雜誌「民俗」に報告せられて居る備後の例では、
   コガネサラサラ、 ニシキサラサラ
   スッポコポンノポン
などと言つて居るが、別に此地方では丹後但馬だの備中備後だのと、國の名と尻の音とを通はせた樣な、口合ひも多く行はれて居る。中部から關東にかけては、此言葉がもう可なり變つて鳥の聲に近くなつて居るやうだが、越後や奧羽に行くと再び錦さら/\が出て來る。たとへば陸中紫波郡のあたりでは、
   ニシキサラサラ、 ゴヨノマツ
   チリンホンガラヤ
と鳴つたといひ、遠野郷の一話に於ては、
   アヤチュウチュウ、 ニシキノオンタカラデ云々
といふ音でやはり笑はせて居る。殊に注意するのは秋田縣仙北郡の昔話で、武藤鐵城君の集めて居るものの中には、話の結語で東京などで「市が榮えた」、もしくは「それで一期昌えた」といふ代りに、
   綾チュウ/\、 錦サラサラ、五葉ノ松原
   通ッテ參レヤ、 トッピンパラリノプウ
といふ數句を、屁ひり爺でない昔話にも、取付けたものが幾つもある。昔話の終りの句は結末を明かにし、もしくは兒童の後ねだりをせぬやうに、わざと事々しく大聲で唱へる例が多いのだが、それにこの文言を宛てゝ居るといふのは、つまり此一節の特に著名であり、又人望があつたことを思はしめる。しかも擴張は是に止らず、江戸では小さな兒がちよいとした怪我をして、いざ大いに泣かうとして居る際などに、慌てて母姉の唱へたチチンプイプイゴヨノオ(197)ンタカラといふ句も、たしかに亦この昔話から出て居たのである。さうして今でも古風な人は是を用ゐて居る。證據の最も近いものは信州下伊那郡の昔話集に、竹伐爺の、
   チチンプヨプヨ、 ゴヨノオンタカラ
があり、同じく小縣郡にもチチンピヨロ、もしくは、
   ピピンピヨドリ、 ゴヨノサカヅキ
   ちよつと持つて飛んで來い
がある。さうして「五葉の松原」は福富草紙の方には無いけれども、全國各地に保存するから、古くからのものであつたらうかと思ふ。
 
          八
 
 正直爺が放屁のコを感受した因縁なども、福富草紙では道祖神に祈請し、夢を見、婆が合せたことになつて居るが、それを固有の型と見られぬのは勿論である。近畿中國の十數例は、全然どうしてさうなつたかを省いたのだから問題の外である。今見る各地方のへこき爺話は、すべて皆鳥との交渉を具へて居り、神に祈つて得たといふものは一つも無い。だから佐々木喜善君の如きは、總括して之を鳥呑爺と名づけようとして居たのであるが、それでは又やゝ狹くなることは、中國地方などの前段を略した型がある爲ばかりでは無い。同じ鳥話の中でも甲斐昔話集にあるのは、罠にかゝつた鵯鳥を助けて遁がしてやつたら、其晩家に還つてからピピンピヨドリ云々の屁が出たと謂ひ、越後南蒲原郡に傳はつて居るのは、一つは夢に小鳥が口の中へ飛込むと見たらといひ、又一つは握飯をほしがるので一つと半分遣ると、小鳥は爺の口の中に飛んで入つて、繩帶を解いて見たらその美しい片羽が臍から出て居る。それを引張ると奇特なる音がするといふのもあつて、必ずしも爺が呑んだとは限られて居ないのである。
(198) それから又呑んでしまつたといふ話し方の中にも、をかしい程色々の種類がある。たとへば越前の坂井郡では、小鳥が何かに追ひかけられて、善い爺さんに助けを求める。それを口の中に匿してやつたところが、腹へ入つて出なくなつてしまつた。さうしてちやうど臍のあたりから足が出たので、それを引くとぴよ/\と好い音を出すといふのがあり、信州南部の例では山がらの脚に附いた黐を、甞めて取つて遣らうとして口に入れると、つるりと腹にはひつて尾が出たといひ、或は辨當の蕎麥のかい餅を、桑の枝に塗つて置いたら山雀が食ひに來てひつついたといふ、カチカチ山の發端と近いのもある。是を晝飯を鳥に食はれたので、腹がへつて其鳥を?つて食つたとか、又は辨當箱の中に一羽だけ、味噌まみれになつて晝寢をして居たので、怒つて毛を?つて食べてしまつたらなどといふのは、恐らくは後の改訂であり、又一段の笑話化であらうと思ふ。たゞむしや/\と食べたといふのでは、後の腹中の小鳥の聲と、聯絡が取れぬことになるからである。
 此點などは隨分勝手に話しかへて居た樣子であるが、食べたと謂つて居るものは存外に少ない。同じ信州でも小縣郡の二例は、一つは山畠で辨當を盗んだ雉子を、とつつかまへて丸呑みにしたらと、有得べからざることをいひ、今一つは綺麗な小鳥に握飯を分けてやると、段々に馴れて來て腹の中に飛込んだと謂つて居る。三河でも南設樂郡で採集せられた方は、美しい小鳥が爺さんの鍬の柄に來てとまり、手を出すと掌の上に乘つたので、可愛や/\と甞めて居るうちに、ついうつかりと呑んでしまつたといひ、駿河も富士郡の話は、鳩が鍬の頭にとまつたのを、ふつと吹くと口の中へ入つたとあるに對して、隣の安倍郡では畠の傍の木で、
   ニシキカラマツ、 シタカラヒヒン
と啼いて居る小鳥に、あまり佳い聲だから今度は鍬の上で啼いてくれ、今度は舌の上で啼いて見せてくれと、段々近くへ來たのをぺろりと呑んでしまつたといふ話もある。さうしてこの最後の型は、以前の悠長なる時代の話し方であつたと思はれて、遠く隔たつた陸中上閉伊の、
(199)   アヤチュウチュウ、 ニシキノオンタカラ云々
といふ鳥呑話にも、「あまり面白いから此次は俺の舌の上に來て啼いて聽かせろ」といふのがあり、爺がえへつと笑ふべとしたら、やはりぺろりと其小鳥を、生呑みにしてしまつたと謂つて居る。即ち爺と鳥との關係は、どうも食物としてでは無かつたらしいのである。
 
          九
 
 細かな比較を盡さうとすると、話が長くなるからもう此程度で止めよう。終りにたゞ一つだけ附け加へて置きたいのは、爺が腹中に入つて片羽又は片足を出して居たといふ鳥の種顆である。雉・鳩・鵯・山がらなどの例は前にも述べた。加賀では雀とシジフカラとが登場し、後者は中國にもあつたらしいことは、爺の鳴り音の文句からも察せられる。或は又シトドもしくはシヨウトといふ鳥の話もあるが、是は鵐のことである。鵐はアヲジの古名と思つて居る人も多いやうだが、それは青シトドで、別に赤シトド即ち我々のいふホジロがあり、中國の方では是を專らシヨウトと呼んで居る。二鳥ともに甚だしく人を恐れず、從つて其擧動が注意せられ、之を鳥占の用にも供して居たのが、日本で鵐の字を是に宛てた理由かと私は思つて居る。しかも竹伐爺の昔話に、此鳥の參與した例はあまり多くない。是には行く/\説明せらるべき、何等かの理由が潜んで居るのである。
 一つの想像はスズメといふ日本語の意義變化である。文章の中心をはづれた土地では、今もスズメを以て小鳥の總名と解して居る處は稀でない。學問上の分類に反するは固より、見た目にも丸でちがつたものにヤマスズメ・カハラスズメ・ヨシハラスズメ・カナスズメなどと謂ふものが幾らもあり、スズメカゴといふ語は一般の小鳥籠を意味して居り、我々の今いふ雀にはサトスズメ・ノキスズメ、或はマスズといふ例も常陸にはある。さうすると昔話の舌切雀、もしくは東北で「雀の仇討」といふものなどには、もとは他の種の小鳥の話が含まれて居たかも知れない。現に「雀(200)の仇討」の如きも、安藝の昔話にはシヨウトとして語られるものが幾つかある。即ち鵐も亦昔のスズメのうちであつたのである。竹伐爺の小鳥なども、曾てはこの廣い意味のスズメとして話されて居たのが、後に追々意義が限局せられるにつれて、今謂ふ里雀であつては本意に合はぬところから、斯樣にさま/”\な鳥の話になつたのではあるまいか。爺が大金持になる迄の順序はすべて一致して居ながら、たゞその腹に入つた鳥の種顆のみが、雉子から四十雀まで土地毎にちがつて語られるといふことは、それで無くては私には合點が行かない。それよりもかねて想像して居た鶯の話が、意外に乏しいのが實は私には氣になるのである。
 
          一〇
 
 記録で知られて居る限りの竹取説話異傳では、翁を富ましめた小鳥は鶯である。竹の中なる鶯の卵、化して美女となつて翁に養はれ、後に帝妃となつて一門を光輝あらしめたと説くのが普通で、是と所謂鳥呑爺の話との間にでも、まだ/\橋かけ難い空湟の大きなものがある。假令竹伐の名の基づく所は一つであらうとも、それだけでは是を同一説話の Variant と斷言することは無論出來ない。しかし私はこの兩端は、次第に接近するだらうと思つて居る。文獻の上にも新たなる資料の、發掘せられる望みは無しとせぬが、もつと有望なのは口頭傳承の出現である。何となれば此方面では、今なほ國土の五分の一も採訪せられず、しかも近年の限られたる捜索が、既に若干の收穫をもたらして居るからである。文字や文章に關する是までの考へ方の、此暗示によつて少しづゝ改めらるべき時が先づ來るであらう。たとへばウグヒスをほう法華經と啼く鳥に限るといふことも、夙に歌文に見え地方も亦是に倣うて居るけれども、是とてもスズメと同樣に、都市の指導によつて内容を限局せられて來たのかも知れぬのである。この異常に多音節なる、又歌ひものに適した音結合をもつ一語が、どうして始まつたかを説明し難い限り、又紀州でホケジロと呼び古くは法吉鳥と謂つたなどの異例存する限り、前代又は或地方でウグヒスと謂つた小鳥が、今謂ふ鶯で無かつたので(201)はないかといふ、想像も尚成立ち得るのである。春の初音の微妙なる歌の曲を除いては、此鳥は決して美しくない。その笹啼に至つてはたゞの一つのスズメに過ぎない。さうして我々の説話の鶯姫は、專らその姿の神々しく清らかなりしことを説いて、歌や音樂の巧みには及んで居ないのである。土から生れた文藝の元の意味を考察するには、之を組立てた一つの言葉の、固有の感覺をも併せて理解しなければならぬと思ふ。
 鶯の昔話の今日に傳はつて居るものには、稍難解なる「見るなの座敷」 Forbidden Chamber 系の一篇がある。不思議の美女を娶り又は其家に假宿した男が、竊かに戒めを破つて其一室を覗くと、内は梅の花の盛りで光り耀いて居たが、女はそれを知つて大いに歎いて飛去つたと謂ひ、もしくは折角人にならうと念じて貯へて居た法華經讀誦の力を、一朝に空しうしたなどとも謂つて、大分後年の改造もあるらしいが、どこかにまだ「天人女房」譚の俤を留めて居る。肥前下五島で採集せられた一話は、著しく桃太郎又は瓜子姫の昔話に近よつて居る。川上から流れて來た大きな栗を、爺と婆とで二つに分けると、中から美しい女の子が出て來た。之を栗姫と名づけて我子として育てる。大きくなつてから爺が大病を煩ひ、鶯の卵を食べさせたら治るといふことで、栗姫がそれを捜しに行く。さうして山の中で鶯に逢つて、教へて貰つて其卵を得てかへり、親を本復させたといふ山の無い話し方で、或は蛇聟入譚の鸛の鳥の卵や、三人兄弟譚の奈良梨採りなどから、影響を受けて變化したのかと思ふが、こゝにも尚美しい姫と鶯との結び付きは見られるのである。
 一方かの尾籠なるへひり話の中にも、若干は鶯との關係をもつものがあつて、其一つは五島と交通の多かつた肥後の天草島に行はれて居る。この二島の間に在る海山の村々こそ、後日この研究を推進する新資料の、まだ埋もれて居るらしき地域である。東北では羽後仙北郡の角館邊に、鶯屁と稱して色々と屁をひり分ける技能を、不思議に感得して殿樣の感賞に預つた話があるといふが、是などはまだ多くの鳥呑話を聽いた上で、後の人が考へ出すことも出來る話といへる。天草の方の一話に至つては、到底さういふ想像は許されぬのである。昔ある一人の老翁が、竹を伐りに(202)行つて鶯の卵を三つ見付ける。その卵が不意に見えなくなつたと思ふと、爺の屁に鶯の音がするやうになる。それを藝にして五年の間諸國を廻り、金持になつて還つて來た云々。是だけをたつた一つ引離して聽くと、諸國の竹伐爺の一變型と言はうよりも、むしろ上代の竹取説話を、作りかへたといふ風に見えるかも知らぬが、昔話は斷じて孤立獨存しては居ない。老人が死に絶えない以上、必ずこの周圍の古風なる家々に、是と同じで僅かづゝちがつたものを、誰かが傳へて居ることと思ふ。たゞ採集に適任者を得ぬことを憾むのみである。最近に廣島高等師範の丸山教授は、肥後の人吉に於て「竹の子童子」といふ珍らしい一話を得られた。竹の中から五寸ばかりの人が出て來たといふが、それは姫では無くて男の子であつた。齡は一千二百三十四歳、惡い筍に捉へられて、今まで天に還ることが出來なかつたと謂つて、御禮に七つの如意呪を授けて行つた。但し助けた主人公といふのは、三吉といふ桶屋の小僧であるといふ。丸山君の研究が出るといふから、是も私は先まはりを敢てしない。たゞ一言評すれば、もし我々の集めようとして居るやうな話が、一つも此附近から採訪せられて居なかつたら、是などは却つて竹取物語の一變型といふことを、人に納得せしめることが稍困難だつたかも知れない。しかしそれも是も今は用無き假定である。現在は既にあらゆる階段の昔話が集められ、又引續いて斧斤未だ人らざる原始林を、是からも求めあるかうといふ人が輩出して居るのである。古來の民間説話の伸び進み流れ擴がる區域は、京傳馬琴等が所謂換骨奪胎よりは、寧ろずつと大きく且つ自由奔放であつて、しかも時代の感覺に敏であつたことがわかつたのである。是を湛念に比べて見る人だけが、まだ隱れたる古文藝の、多くの持味を味ひ得るであらう。だから是からは國文學を嗜み、同時に一方には村に住む人々のきれぎれに持傳へた口碑を、聽き出し問ひ合せて參考にしようと心がける者を、蝙蝠だの雜學者だのと言つて笑はぬやうにしなければならぬ。
 
(203)     花咲爺
 
          一
 
 昔話は昔からあつたもの、さうで無ければ古びたり損じたり、とにかく零落して辛うじて殘つて居るものゝやうに、勝手にきめてかゝつて居た今までの物の見方を、匡正する方法は有ると私たちは信じて居るのだが、それを試みるに手頃な題目が、ちよつと見當らぬので困つて居た。花咲爺などもまだ準備は十分でないけれども、ふとした因縁があつて之を考へて見ることになつたのである。都合のいゝことには他の多くの古來の民間説話には、記傳の文學がいつの世にか干渉して居るに反して、是だけは終始殆と自由に變化して居る。さうして都雅と凡俗との二階級の文藝は、是非とも別々の態度用意を以て、其伸展の跡を見究める必要があつたのである。最も無視し難いのは作者の地位、といふよりも Edition の性質である。彼に在つてはそれが著名で又重要で、しば/\講説者の唯一の目標とせられるが、こちらはそんなものは無かつたと言つてもよい位に、知らぬ間に推移つて居る。作者と讀者との堺線は幽かで、從つて又時代の文藝能力、次々の人生の欲求なり趣味なりが、直接にこの改版を支配して居るといふ大差がある。之によつて學び得られる我々の過去が、二者方角を異にするは固よりのことで、之を尋ねる方法もおのづから獨立して存しなければならぬ。それにはこの花咲爺のやうな、今まで文獻から遊離して居た作品の、枝ぶり樹ぶりを見て行くことが、新たなる藝術觀賞法の習練になると思ふのである。
(204) 今までの採集によつて知られて居る限りでは、花咲爺の分布は全國には及んで居ない。さうして是とよく似た別種の話が、その外側を包んで居る。二者の交渉がどの程度のものであるか即ち分岐か癒合かといふ點を明かにする爲に、出來るだけ話の筋の込入つた分析しやすい例を取つて見る必要がある。人も知る如く繪本などになつて居る都會の花咲爺は、老いたる夫婦が犬を養ふに至つた、緑由は些しも説いてない。それが偶然に後から來て引附いた部分か、はた又前にはあつて後に省略せられたかは、可なり重要なる觀點であるが、私たちは只の尋常の犬であつては、是ほど大きな手柄をするわけが無いといふ心持から、この發端の有る方を原の形と思つて居る。それを證明する順序として、こゝには先づ越前阪井郡の一話を掲げる。
 昔、爺と婆とが年を取つて子が無いので、三國の湊へ子を貰ひに行く途中、松原に可愛らしい白い小犬が居て爺に言葉をかける。ぢいさん/\何處へ行く。三國の町へ子をもらひに。わしを子にして下さらぬか。三國へ行つてよい子が無かつたら、歸りにおまへを子にしよう。斯ういふ問答をして三國の町に行つて捜したが、好い兒が無いのでその小犬をつれて歸つて來た。それから魚を煮てもみどころは犬に食はせ、我身は骨のところを食べて、子の樣にして大事に育てた。山に其犬をつれて行くと、犬が爺の裾を引いて、こゝ掘れわん/\といふ段は東京などゝ同じく、それから家に戻つてその金を蓆の上へ竝べて居ると、隣の婆が「火一つくんさい」と謂つて入つて來る。この火貰ひといふことは、村で隣の家の内情を窺ひに來る常套手段であつたと見えて、所謂隣の爺型の話にはよく附いて居る。
 それから隣の爺が犬を借りに來て、自分も掘らせて見る段は他も同じだが、爰には惡い爺の惡さが可なり濃厚に、又その失敗が可なり念入りに話されて居る。たとへば魚を煮ても我身はみを食ひ、犬には骨を食べさせる。山に入つても犬は何とも言はぬので、こゝを掘るかいなと爺がきくと、掘りたけりや掘り、掘りたくなけりや掘るななどゝ犬が答へる。あとは大體に他と同じで、犬を埋めた處に栽ゑた松が、一夜に大木になりそれを伐つてから臼を造る。米を搗かうと思つてぽんとつくとぽんと金が出る。ぽぽんのぽんとつくとぽぽんのぽんと金が出たなどゝ謂つて居る。(205)隣の爺の方では米を抱いても粟をかつても、出るものは皆砂であつた。怒つて臼を焚いてしまつたといふので其灰を貰つて還ると、それが又風で飛んで枯木にかゝつて花が咲く。是は面白いと町をふれてあるき、殿樣の御庭の二年も三年も花の咲かぬ木に、頼まれて灰をふり撒くと見事に花が咲いたといふ點だけがたゞ少しちがつて居る。さうして隣の爺と婆との、三度の問答を同じ文句で、くり返す所に可笑味の一つを置いて居る。即ち話はもうよほど今風になつて居て、なほこの發端の犬子話をくつつけて居るのである。
 
          二
 
 犬が自ら名乘つて爺婆の子にしてもらふといふなどは、よつぽど奇拔な構想のやうに聽えるが、是は申し兒の話には幾らも例がある。どんな粃《しひな》のやうな兒でもよいから一人御授け下さいと、一心に祈願して歸つて來ると、不意に路傍から言葉をかける者がある。それが小さな田螺であつた場合が妙に多く、肥前島原にも備前岡山にも、又遙かに飛離れて奧州五戸にもある。まさか斯ういふものを子にするわけにも行くまいといふと、それでもあなたはどんな兒でもいゝからと御願ひ申されたでないかと理窟をいひ、もしくは下向路で最初に出逢つた者を、子にせよといふ御告げがあつたではないかと謂ふ。成程さうだつたと正直な老人たちだから、すぐに合點をして連れて還り、子供にして愛し育てたといふことになつて居る。越前の花咲爺では三國の町へ、子を貰ひに行くといふだけがもう少し變つて居るのである。
 或は全く別の方面から、犬の出現を説かうとする例もある。是は遠州の白羽村、即ち御前崎に連なつた海岸での採集だが、爺は柴苅りに婆は川へ洗濯に行くと、川上から三つ組みの重箱が流れて來る。拾ひ揚げて明けて見れば上の重にはえのころが一匹、中の重には牡丹餅、下には赤飯が一ぱい入つて居た。婆さんは大いに悦んで、持つて還つてその御馳走で犬の子を養ふと、日一日といかくなつて、賢こい犬になつたと謂つて、あとは普通の花咲爺と同じださ(206)うである(靜岡縣傳説昔話集)。是は桃太郎や瓜子姫の昔話の、定まつた發端の型となつて居るだけで無く、土地によつては舌切雀の雀までが、香箱の中に入つて又は烏籠のままで、上流から運ばれて來たといふ例もある。つまりは話の主人公となるやうな非凡兒は、たとへ人間の姿をして居なくても、やはり普通の手續きでは出現しなかつた。もつと進んで言ふと神の御授けであつたといふことを、説かなければならぬ習はしがあつたからかと思ふ。犬の子の場合に在つても後に詳しく言はうとする灰撒爺の話では、大抵は亦川上から流れて來る。さうして因縁があり理由がある爺婆の手に拾ひ上げられ、其家を富貴にすることになつて居るのである。
 更にもう一つの懸離れた例を引くと、羽前東田川郡の狩川村で採集せられた一話では、婆が川へ出て洗ひ物をして居ると、向ふの方から香箱が一つ流れて來る。それを拾ひ上げて中をあけて見れば、白い小犬が一匹入つて居る。うちにはもう猫が一匹居るので、おまへは入用が無いからと又流してしまはうとすると、其小犬がわん/\と鳴く。そんなら猫をいぢめず仲よくするかと婆がきくと、又わん/\と鳴いたので連れて還つたとあつて、後は長者の家の鼠を脅かして、打出小槌と延命小袋と、二つの寶物を犬猫二人で持つて來て、終に爺婆の家を金持ちにしたといふ、グリムの童話集にもある指環奪還と、同系統の話に續いて居るのである。我邦の民間説話に於ては、川を流れて下つて來るといふことが、海を漂うて來て岸に着いたといふことゝ、いつも大よそ同じやうな感じで迎へられて居る。犬でも奇瑞を現ずべきものは、やはり斯ういふ出現の形式を取らなければならなかつたのである。
 
          三
 
 筑前鞍手郡に行はれて居た花咲爺も、發端だけが又我々の聽く話と異なつて居た。貧乏な爺が歳の暮に、讓葉と橙とを賣りに出て、少しも賣れないで歸る途すがら、之を海の神樣に獻上しますと謂つて海に投込む。さうすると海神が出て來て、喚び止めて禮を述べられ、返しに一匹の狆を賜はる。毎日小豆を煮て食はせ育てよといふことであつた。(207)それが金銀の在りかを教へて爺に掘らせ、家は忽ち富裕となる。それを羨む隣の慾深爺が、強ひて犬を借りて行つて生煮えの大豆ばかりを食はせ、金銀を掘出さうとしたが失敗して怒つて犬を殺す。それを埋めて遣つた處に木が生えてすぐに成長し、臼となり又灰となつて枯木に花を咲かす段は、他に在るものと格別かはつた所も無い。同じ發端をもつた昔話の流傳は、飛び/\にほゞ全國に及んで居るが、水の神の御禮が小犬であつたといふ代りに、猫だの石龜だの馬だの、又は人間の醜い顔をした子供などゝいふ場合が多く、犬であつた場合にも今少し手取早く、西洋で黄金の鵝鳥といふ話の樣に、身から金の小粒を出して忽ち爺の家を富ませてしまふので、結末を順次に花咲かせにまで運んで行くものは至つて少ないのである。
 九州で現在知られて居る花咲爺はもう一つある。それをよく見て居ると近代の昔話が、どれだけ頻繁に又敏活に、切替へ繋ぎかへられて居たかが察せられ、一つのきまつた形といふものが書物以後、もしくは文字の拘束の結果であることが判つて來ると思ふ。豐前の築上郡から出た材料であるが、爺が年の暮に山に木を採りに入つて、何で年を取らうかと獨り言をすると、米で年を取らうぞと脇で答へる者がある。驚いてそこを見ると一匹のクウヅ即ち石龜が居る。それを連れて來て物を言はせて金を儲ける。隣の爺が慾張りで強ひて龜を借受け、町へ持つて出たが一言も言はぬので、腹をかいて其龜を竈にほうり込んで燒殺してしまふ。好い爺さんは悲しんで其骨灰をもらひ受け袋に入れ、明れば正月の元日に、枯木に花を咲かせて殿樣の褒美をいたゞく云々といふので、たつた是だけを見ると又別の話とも取れるが、實はこの中間に二種の花咲かせを繋いで居る例がある。たとへばこゝからさう遠くない筑前宗像地方の昔話には、爺が暮に餅搗杵を伐りに行つた還りに、池の堤から杵の一本を龍宮樣に戯上する。さうしてやはり餅搗杵は切つたれど年は何で取るべきぞと獨語すると、米や錢で取りやれと、傍から龜が返答をする。(即ちその龜は水の神の返禮であつたのである)。こいつは面白いと思つて長者の家に持參し、何度も問答をして見せて澤山の金を貰ふ。隣の慾張爺は龜を借りて、眞似をして見たがまんまと失敗し、怒つて龜を殺して其屍を竈の側に埋める。さうすると(208)其場處から竹が生えて、忽ち生長して天上に屆き、天の黄金倉を突き貫いてしまふ。爺婆早う蓆敷けといふ聲が天から聞えて、蓆をひろげたら山盛りに金銀が降つて來た云々。即ち此話は結末が花咲かせで無いだけで、順序は鞍手郡などの海の神の狆の話と、大分又近くなつて來て居るのである。
 
          四
 
 但し最後の二つの話では、龜だからまだ縁が遠い樣にも感じられるが、是が犬となつて居る例も別に又有るのである。喜界島では富んで無慈悲な兄と、親に孝行な貧しい弟との話に是がなつて居る。年の暮に僅か一升の米を借りに行つたが、怒つて叱つて追返されて來る。せん方無しに山に入つて花を採り、それを賣つてあるいたけれども少しも賣れぬ。歸りに濱を通つて此花は買手も無いから、ネィンヤ(根屋――龍宮)の神樣にでもさし上げませうと、花を波原目がけて投げ込んだところが、其處からほつと一人の男が出て來て、是は誠に忝けない。ネィンヤでは今ちやうど正月の花を捜して居る所だつた。御禮をするから來てくれといふことで、其男の跡について龍宮へ行く。此道行の條は詳しく又美しい語りが尚傳はつて居る。ネィンヤでは神樣が何が欲しいかと問はれるから、犬が欲しいと言ひなさい。是が根屋でも貴といものだからと、途々男に教へられて其通りにして犬を賜はつて還る。此犬は大事にして、毎日四つ組の膳で飯を食はせねばならなかつた。それを約束の通りにちやんとこしらへて供へると、犬は食つてしまふや否やすぐに飛び出して、山に入つて猪をうんと捕つて來る。それが毎日續いたので弟は大金持になる。強慾な兄はそれを羨んで、無理に犬を借りて行つて色々と御馳走をしたが、猪は捕りに行かずに飛び上つて兄を咬んだので、怒つて打殺してしまひ、弟は悲しんで其犬を庭の手水鉢の根に埋めるとあつて、それから後は福岡縣の話とよく似て居るのである。斯ういふ話の型は東日本にはまだ見當らない。弟が次の日朝起きて犬を埋めた處を見ると、そこから一夜のうちにドウチンチャクといふ竹が生えて、天とうに屆くまで伸びて居た。それが天とうの米倉といふものを突(209)き破つて、一節伸びれば千石、二節伸びれば二千石と、大相も無い米が庭に降り積つて、しまひには屋根よりも高くなつた。(といふのは竹の米さしからの聯想で、節の中を通つて降るといふ意味であらう)。慾張りの兄は是を又羨んで、無理に犬の屍骸を借りて歸つて、自分の家の庭の手洗鉢の元に埋めると、こゝからもドウチンチャクが一夜のうちに天まで伸びて行つたが、今度は天とうの糞袋(倉?)といふものを突き破つて、際限も無く糞が降り積り、兄の一家はみんな押潰されてしまつたと謂つて、話はもう花咲かせまで、進展する餘地が無くなつて居る。私たちが是によつて考へて見ようとして居ることは、昔話の興味の中心といふものが、時と處につれて少しづゝ移動して行くらしい點である。たとへば爰でいふドウチンチャクの一條の如きは、九州の北部までも擴がつて居るのが不思議な位で、さう早くから此形で傳はつたとも思はれぬのだが、それでも此部分に聽く人が大笑ひをし、話手も亦是へ力を入れるとなると、自然に前から有る部分が粗末になり、話を手短かに又子供に向くやうにする場合は、きまつて古い方から落ちて行く傾きがあるやうである。しかも一方には前にも言つたやうに、話の繼ぎはぎといふことが行はれて居た。よつぽど數多くの懸離れた類例を集めて見た上でないと、今ある花咲爺の斯うなる迄の姿は、突止めることが六つかしい。假定ではあるが現在のところ、大よそ想像し得るのは犬の素性、次には其犬が死んでも跡を留めて、何等かの植物となつて再び奇瑞を現はしたこと、更に第三にはその犬の手柄が、以前は金銀財寶では無くて、最も豐かなる獵の獲物であつたらうかといふことで、この終りの點は喜界島の一例と、遠く奧羽の端に分布する雁取爺との比較が之を支持するのである。
 
          五
 
 奧州の灰撒爺は、花咲かせとの對照の爲に、我々は雁取爺といふ方の名を採用して居るが、實地には上の爺下の爺、もしくは是と似よりの名を以て記憶せられるものが多く、既にアイヌの中にまでも、此名の昔話が數多く入込んで居(210)るさうである。元來は善惡二組の爺婆が、一方は幸運に惠まれて家富み榮え、他方はすべてが其逆を行つて破滅する話の、全部を總括する名稱だつたかも知れぬが、其中でも特にこの犬の子を川から拾ひ上げる話が、さう呼ぶのに似つかはしかつたと見えて、現在はほゞ是一つに限られて居る。もう有名になつて知つて居る人も多いと思ふけれども、比較に入用な個條だけを列記すると、
 一、上下二人の爺は、春になつて川に簗を掛ける。上の爺の簗に小さな白犬が流れて來る。上の爺は無慈悲でそれを取つて投げると、今度は下の爺の簗に行つて掛かる。下の爺は拾つて還つて可愛がつて育てる。岩手縣の一例には木の株が一つ流れて來たといふのがある。それを下の爺が拾つて還つて割らうとすると、中から聲をかけて小犬が出て來たとも謂つて居る。越後の南蒲原では婆が洗濯をして居ると、香箱が流れて來て其中にえのころが居たといひ、越中の上新川郡のは流れて來たのは大きな桃で、それを持つて來て臼の中にしまつて置くと、いつの間にか小犬になつて居たとも謂ふ。
 二、その小犬はちよつとの間に大きくなる。一ぱい食はせば一ぱいだけ、二はい食はせば二はいだけ大きくなつたとも謂へば、椀で食はせると椀だけおがり、皿で食はせれば皿だけおがつたとも謂つて、色々の形容で急激の成長ぶりを説いて居るのである。
 三、その犬が大きくなつてから、山へ鹿捕りに爺を誘うて行く。鉈も小ダスも辨當も爺樣もみんな背なかへ載せて行くといふところに、子供の面白がりさうな犬と爺との數囘の問答がある。
 四、それから山に入つて、喜界島などよりは又ずつと大がゝりな狩獵が行はれる。あつちの山の鹿も來い、こつちの山の鹿も來いといふ類の呪文の詞を、犬が自ら唱へたといふのと、爺に教へて唱へさせたといふ例と二つあるが、兎に角に之に由つて莫大な獲物をもつて還つて來るのである。
 五、上の爺がそれを羨んで、強ひて犬を借りて同じ事を試み、悉く失敗する條は他の話も同じく、怒つて犬を叩き(211)殺して山に埋めると、そこから樹が生えて急激に成長する。それを臼に斫るから松の木と謂つて居る例もあるが、コメの木となつて居る方が話は面白い。コメの木は方言で、土地によつて木は一定せぬが、とにかく灌木で臼などになる木ではないからである。
 六、其木を臼に窪めて、唱へごとをしつゝ物を搗くと、金銀又は米が際限もなく涌き出す。上の爺が借りて試みて又失敗し、怒つて焚いてしまつて灰になるまでは亦他の話と近い。
 七、たゞ最終の灰の利用だけがちがつて居るのである。人の善い下の爺は灰を籠に入れて、風の吹く日に屋根に上つて待つて居ると、雁の一群がダェグェと鳴いて通つて行く。こゝでも「雁の眼さあぐ(灰)入れ、爺の眼さあぐ入んな」と唱へ言をして衣を撒くと、果してばた/\と雁が空から落ちて來る。例の眞似爺は呪文を取りちがへたので、自分の眼へ灰が入つてころ/\と屋根から轉げ落ちる。それを婆が下に待構へて居て、雁だと思つて棒で打つといふのがおしまひで、粗野だと言へばまア大分粗野な話である。
 
          六
 
 此昔話は東北の各郡に亙つて、既に二十に近い存在が知られて居る。微細な異同を竝べて見れば果しが無いが、大體に以上の要點だけは皆共通して居るのみで無く、まだ外にも意外なる一致がある、たとへば下の爺の家で鹿汁をこしらへて食べて居る所へ、もしくは米の飯を炊き雁汁を煮て居る所へ、三度が三度とも上の家の婆が、白ばつくれて樣子を見にやつて來る。それを岩手郡などの話では、
   火ッこたもれヤツンツクレン
と謂つて來たとなつて居る。ツンツクレンなどゝいふ言葉が有るわけでは無い。是は厚顔に口實を設けて、内の異?を偵察に來た擧動の形容で、簡にして要を得、我々でも思はず微笑をする話し方である。それを他の多くの傳承者は(212)もう理解しかねて、「火こチリンとたんもエ」と謂つて來たと話したり(九戸郡誌)、もしくは只火を貰ひに來たとだけですまして居る。僅かなことだが是は聽衆の質の變化を暗示して居ると思ふ。
 それから今一つ、善い爺が數々の仕合せに有附いた手續きを、匿す所無く口傳して置くにも拘はらず、惡い爺は必ずそれをまちがへてしくじる。其中でも「爺の眼さあぐ入れ、雁の眼さ灰入んな」と、あべこべに言つてしまつて失敗するなどは、子供にもよく判つて笑ふだらうが、それがもう一つ進むと口合ひになつて彼等には呑込めない。コメの木を臼に斫る代りに、家の内庭にもつて來て立てゝ、「錢ふれバラバラ米降れバラバラ」などゝ悠長に唱へて居たのを、慾深爺が早手まはしに一括して、「タメになるもの降れ」と謂つたら糞小便が降つたといふのも、米倉小盲から思ひ附いたきたない洒落だが、是も新らしいだけにまだ大抵の聽手にはをかしい。それより一層解しにくかつたのは鹿捕りの呪文で、下の爺が「あつちのスガリもこつちや來う、こつちのスガリもこつちや來う」といふと、鹿がびんぐりびんぐりと走り集まつて來る。上の爺が眞似をして同じ呪文を唱へると、四方の蜂が飛んで來て爺を螫したといふに至つては、このスガリといふ奧州の方言が、鹿を意味し同時に地蜂を意味し、相異はたゞ僅かの音抑揚の差にあつたとすると、是は座頭か何かの口で話す昔話だけに、保存し得るやうな微妙なるユウモアである。文字に録すれば忽ち消えるは勿論、餘り容易に面白がる女子や少年にも、或は氣づかれず又忘れられて、脱落や改造の原因ともなつた樣に思ふ。しかも其爲に笑ふ人が少なくなつても困るので、新たなる補充が企てられて居る。たとへば厚顔なる上の家の婆が、散々鹿汁や雁汁を御馳走になつたあとで、椀の底にぽつちり殘して是をうちの爺に持つてつてやらうやと謂ふ。そんな事をせずとも、爺どのには別に遣るからと、山盛りにしてくれたのを、還る途中で厩の陰か何かで又半分平らげ、そこらにあるものを交ぜて一杯にして持つて還る。それを少しも知らずに馬鹿爺が、何だかまぐそ臭いどもうまい/\と、喜んで食つてしまつたといふ個條を、二度も三度もくり返すなどは惡趣味の極だが、それでも職業話者の意匠だつたと見えて、現在半數以上の雁取爺には是が附いて居る。そればかりか更にもう一歩を進めて、眞に(213)御話にもならない後日譚が、老媼夜譚などには出て居るのである。
 
          七
 
 私などの想像では、古い民間説話が童話に赴く路と、所謂笑話化とは本來は二筋のものであつた。童兒には成人の跡をつけようといふ本性があつて、聽けば喜びもし記憶もしたであらうが、哄笑爆笑は必ずしも彼等が第一次の關心事ではなかつた。殊に話を聽かせる側の者から見て、わざ/\斯んな試みを子供の爲にしてやらうとした筈は無いのだが、是も貧家の子の衣類などゝ同じやうに、無ければ間に合せに、數が足りなければ是も其數に加へて、不用になつた古着を彼等には着せたのかと思ふ。實際近世の昔話くらゐ、成人に不用になつたものも少ないのである。それ故に子供が最後の殘壘となつて、よしあしに拘らず有る限りの昔話をため込み、後には彼等までが笑つて聽くものを昔話と、解するやうになつてしまつたのである。
 花咲爺の分布が著しく中央部に偏し、地方の端々の之に代るべきものが、この雁取爺のやうな荒い衣裳をつけてあるいて居るといふことは、後者の資力がまだ童兒の爲に、特別の説話を仕立てゝ給するまでの餘裕を有たなかつた爲とも見られ、或は又笑話に對する一般の需要が、それよりも更に大きかつた爲とも解せられる。變化は雙方に共にあつて、たゞ其方角が同じでなかつた。無論一方をより古い形とは言へないと同時に、是より以前の形といふものが有るならば都鄙ともに有つて、それは現在の二者よりは又遙かに相近いものだつたらう、とまでは完全に推定し得られる。此推定が當つて居るとすれば、物を改める力は都會の方が強い。田舍は律儀で保守的であるだけで無く、思ひ切つた改良をするだけの資料も乏しく、主として中央からの感化によつて、やゝ時遲れてから動いて居たので、その何れの點から見ても足跡は尋ねやすい。從つて是が他の一方の歴史を探る者の助けとなることは、その反對の場合よりも多いわけである。
(214) しかも中央の新らしい文化の中に、改造せられて出來た童話にも、決して古い名殘は埋もれ盡しては居ない。たとへば岡山附近に行はれて居る花咲爺話で、犬が老夫婦に疊の上で育てられ、庭へ行きたいチンコロリン、鍬が持ちたいチンコロリンと謂ひ、爺婆が止めるとそれでも持ちたいチンコロリンなどゝいふ一條は、折口君の報ぜられた大阪郊外の村の例も同じだが(土俗と傳説三)、斯んなあどけない又簡單な形の中からでも、なほ我々は二つの點に於て、前代の至つて大切な趣向の殘存を認め得るのである。其一つは爺婆が犬をたゞ飼つて居たのではなくして、我兒として愛育して居たことである。この要件は東北の雁取話にも既に稀薄になつて居るが、最初の越前の話ではよく現はれて居るやうに、姿が犬といふことは桃太郎の桃のやうに、本來は假の形で現實は親子の仲であつた。さうで無ければ疊の上では育てず、又人語して親を富貴にする筈も無かつたのである。第二の重點はその人間の語を發するといふことで、是は幸ひに兒童の好奇心を刺衝する力を永久に持つて居た爲に、非常に古いものであつたに拘らず、殘存して今日に達することを得たのである。この二つの無意識なる傳承が無かつたら、我々は單に今日の製作童謡が、グリムにかぶれて居る程度の因縁だけを、花咲爺にも認めて居てよかつたかも知れぬ。しかも斯ういふ趣向は獨創からは生れない。殊に第二の犬が物を言ふといふ趣向の方は、あらゆる灰播き話に伴なうて地方的に變化して居る。どこでも方言に譯され、又兒童の氣に入る樣に節を附けられて居る。即ち此部分だけは今も活きて居る。偶然とは言ひ得るかも知らぬが、この保存は完全に兒童の手柄であつた。
 
          八
 
 是と比べると花咲爺の名の起り、灰を枯木にふりかけて花を咲かせるといふ趣向が、同じく聽衆の好みに應じて、自然にさう話さねばならぬことになつたか、否かといふことは大分不確かになつて來る。「雁の眼さ灰はひれ」も、可なり荒つぽい空想ではあるが、是は鐵砲が行渡らず、此鳥の數の多かつた時代には、朝晩隨分低い處を鳴いて通つ(215)たことを私等さへ記憶して居る。まして東北の田舍ならば、灰によつてこゝ迄考へが走つてもさう不自然では無い。之に反して一方は其根據が無く、且つやゝ書卷の臭氣さへあるのである。或は親切なる民間作家の、部分的作品でなかつたとは斷じ難い。とにかくに是はさう古い變化では無さゝうである。
 東北の雁取り話では、事件が三段に展開することになつて居るが、竹伐り・猿地藏・團子淨土などの、多くの隣の爺型の昔話は、何れも一囘きりで運不運が決着する。正直な爺の成功のすぐ後から、惡い爺が出て來て逆なことをして、失敗するのも一度である。犬を中心にした兄弟話では、黄金小犬といふのが二段になつて居る。慾な兄きは借りて來ても犬が黄金をひらぬので、怒つて打殺し弟が其屍を埋める。さうすると其土から黄金のなる木が成長する。それが今日の蜜柑だなどゝいふ例は多くの土地にある。前に引用した天の米倉を突き破つた竹の話も、二段で結末を告げる。この白黒對照の興味を、更にもう一段と増高しようとしたものが、即ち雁取りや花咲かせになるのだらうが、一夜に竹や木が大きくなつたといふだけでも、相應によくまとまつた結末だから、灰から以後は中古からの附け足しであつたかも知れぬ。是非とも斯う歸着せねばならぬといふ、話自身からの要求は無かつたやうである。
 ところが近頃高橋盛孝君の研究によつて始めて知つたのだが、支那には現在も枯樹開花、もしくは狗耕園といふ名で、花咲爺とよく似た説話が、可なり弘く分布して居るさうである(  昔話研究一卷九號)。發端は善兄惡弟で、犬を殺して埋めた塚に竹を生じ、それを籠にして漁獲多しといふは日本の臼と同じく、更に燒棄てられた灰を散じて、宰相の家の枯牡丹に花を咲かせたといふ話までも續いて居るといふ。是を偶合といふことは何人にも出來ぬとゝもに、それが何かの機會で日本に入つて來てから、次々分布して雁取りや天上の米倉を突き破る話に、變化して行つたらうといふことも考へられず、さりとて上古以來斯ういふ形で、雙方一致した説話を持つて居たらうとはなほ言へない。私の之に對する解釋は、犬を子にして長者になつたといふ昔話が、各地それ/”\の時代の需要に應じて、追々と修飾せられ又敷衍せられる場合に、最も海外文化の入口に近く、且つ童話化の意識をもつて居た人だけが、多分讀書の知識(216)によつて、知りつゝ雙方の説話を接近せしめたものかと思ふ。燕石襍誌の著者や其信奉者たちは、一部に一致があれば直ちに傳來と飜譯とを承認し、殘りの變化は後からの加工と見ることを苦にしないが、もと/\國内に丸で種の無い話が、どうして安々と萬人の口頭傳承を、支配するかといふことは説明し得ないのである。昔話の丸ごとの移植といふことは、今日ですら決して行はれては居ない。接木接穗といふことは臺木のあることを意味し、又その臺木のほゞ同種のものなることを必要とする。さうして似寄つた性質の樹木といふだけなら、隨分飛び離れた異境にも古くから分布して居る。我々が一致を驚くのは、主としてその成長のし方、即ち現在の形になるまでの經過である。もとは一つの説話であつても、國内ですら既に變化が區々である。是が外國のとよく似て居るとすれば、原因は寧ろ新らしい時代に無ければならないのである。
 所謂花咲爺の場合でいふと、神から授かつた物を言ふ犬、それが養ひ主の善人の爺を富ませ死しても尚死せずして、靈妙なる大木に化したといふまでは、慨に類似の話が異民族の中に多くあらうとも、なほ我々は是を日本の國産と見ることが出來る。問題になるのは更に其木の灰を以て、若干の奇瑞を現じ得たといふことが、すべて近世の舶載にかゝるか、但しは又爰にも或種の偶合と歩み寄りがあつたか。即ち上の爺下の爺の「雁の眼へ灰」は、花咲かせの灰からの新らしい變形か、もしくは別に奧州の座頭等が、既にさういふ灰利用の趣向を設けて居たので、其爲に新たに讀書知識から導き込まれたらしい枯木に花といふやうな灰撒きの挿話までが、格別に流布しやすかつたかに在つて、是はまだ現存の資料だけからでは、私たちには決定することが六つかしい。
 
          九
 
 我々がまだ本式には説明し得ない理由によつて、世界の諸民族の説話は?一致して居る。是からも其實例は増加する一方であらうと思ふ。人や商業にはほゞ完全なる鎖國が行はれて居た時代にも、此方面には下に行通ふものがあ(217)つたと同じく、遠い大昔のまだ學問の光の屆かぬ區域に於ても、尚且つこの一筋の通路だけは、あり/\と四方に伸び繋がつて居るのである。支那や印度であればこそ、輸入を説くこともやゝ容易であるが、類似は決してそんな狹い範圍に限られては居ない。たとへば犬を養うて富貴を獲たといふ話なども、思ひがけぬ異色人の社會に、似た例は幾らでも出て來さうなのである。だから我々は説話の傳播に、古今悠久の時の長さがあり、又幾度かの寄せ來る浪があつたことを認めなければならぬ。さうしてその最も目につき易い前面の一つの例だけを見て、直ちに根原を決するやうな速斷を戒めなければならぬのである。根原の研究は大切で又興味を惹かれるが、その終結は實は程遠い。徐々と其方角へ歩みを運ぶにしても、先づ我々は國内の變化、即ち今ある形に伴なうて居る日本的なるものを明かにしてかゝる必要がある。さうして其部分が比較的效を奏しやすいと思つて居る。
 一つの例をいふと、花咲爺が殿樣の御通りに出逢つて、日本一の花咲爺と聲高に名乘るといふ段は、おとなが聽いても心持がよい。稚ない聽衆が喜び且つ感動したことは十分に察せられ、其爲に又近頃の繪本などにも、爺が高い木の梢に昇り、或は扇をひろげて笑つて居る處などを描いたものが多いのである。さうして此部分は輸入では無かつた。曾て竹伐爺に就ても説いた樣に、日本一といふのは有名なる、又は評判のといふ文句と似たものであつた。だから土地によつては「前々の屁ひり爺でござる」とも謂ひ、古いところでは「いにしへの世々の竹取」といふ歌にもなつて居る。その興味多き一場面又はポウズが再びこゝに轉用せられて居るのである。殿樣が出てござつて「そこに居るのは何者ぞ」、もしくは「そんなら一つ花を咲せて見い」といふ壘の問答がある個條なども、竹伐りの方には地方的の變化があり、且つずつと複雜になつて居て、是には地主や山の神が、盗伐を咎めた樣に話す例もある。花咲爺の方では自分で隱し藝を觸れてあるかぬ限り、實は殿樣にも氣が付かぬ只の爺に過ぎなかつたので、つまりは一方の古くからある面白い形を、爰へちよいと借りて來たことがよく判る。越後中蒲原郡の「花降り爺」などでも、松の木の高い枝に登つて灰を撒く詞に、チリリンパラリンゴヨノマツと謂ふなどはやはり亦東北一帶の竹伐爺の屁の音と同じであつた。(218)それから隣の爺が尻を斬られて還つて來るのを、婆が遠くから眺めて赤い衣裳を着て來るさうな。斯んな古い着物はもう用は無いと、せゝなぎの中へ突込んでしまつたとあるのも、屁の失敗ならばこそ似つかはしいが、こゝには誠に用の無い尻斬られであつた。子供に聽かせる昔話などは、今も昔も至つて輕い心で、ほんの有合せの繼ぎはぎをする者が多い。しかもさういふ中からでも、間接に國の民間文藝の歴史は窺はれるのである。それを只一片の傳來説を以て、片付けてしまはうとする人たちは親切だとは言へない。
 
 (附記) 本篇に引用した各地の實例の、特に出處を附記してないものは、すべて雜誌「昔話研究」の中に出て居る。此中にはもつと多くの好資料がある樣に思つたが、今はたゞ其場々々の參考として記憶に浮んだものゝみを擧げて置くことにした。
 
(219)     猿地藏
 
          一
 
 故佐々木君の江刺郡昔話(大正十一年)以來、猿地藏の説話の我邦で採集せられたものが、岩手縣に五つ、青森縣に七つ、秋田縣に二つ、中部では長野縣に一つ、中國では島根と廣島とに各一つ、九州では大分縣に二つ、福岡熊本の二縣にも各一つで通計二十一、他に筑後と喜界島とに變り型があり、紀州の田邊にも痕跡が一つ見出されて居る。是と今から六百三十餘年前、嘉元二年に成つたといふ雜談集卷二の、たつた一つの文書記録とを引合せて見ると、我々には一通り昔話といふものゝ、新らしくなつて行く傾向が察せられるだけで無く、中古以前といへども尚且つ成長し、又それ/”\の時と處とに應じて、次々變化するものが昔話であつて、書册のたま/\之を保存して居るものも、その單なる或一つの段階を代表するに過ぎなかつたことが、判つて來るやうに思はれる。斯ういふ記録が全く缺けて居るか、もしくはこの十五年間の採集が、假りに少しも試みられなかつた場合、學者が大よそどの樣な解説を下さうとするだらうかを考へて見ると、至つて微小なる果實とは言ひながらも、やはり我々は注意して之を収穫して置く必要を認めざるを得ない。
 
(220)          二
 
 記述の繰返しを避ける爲に、最初に江刺郡の一例を掲げ、それを分析して標準尺の目盛りとし、變化の特にどの部分に多いかを見ようと思ふ。猿地藏といふ名稱は用ゐぬ土地が多い。ここでも「猿等と二人の爺の話」とあるが、是は筆者の付したものかと思ふ。
 一、爺が蕎麥燒餅を晝辨當に持つて山畑に行つて草取りをして居ると、山から多くの猿が來て燒餅を取つて食べてしまふ。それを畑の眞中に坐つたまゝ、黙つて爺が見て居ると、
 二、猿どもは、こゝに地藏樣がござる。斯んな處に置き申しては勿體ないから、川の向ふの御堂に守り申せと、めい/\手車を組んで爺を載せ、川を徒渉して行くとて囃し詞を唱へる。
   猿ぺのこよごすとも
   地藏ぺのこよごすな
 三、是を聽いてをかしかつたけれども、ぢつと目を閉ぢて我慢して居ると、やがて對岸の山の御堂に擔ぎ込んで上座にすゑ、多くの猿が代る/\御賽錢を上げて、皆どこへか往つてしまふ。あとで爺は其金を集めて、色々美しい着物などを買つて家に還つて來る。
 四、隣の婆がやつて來てそれを見て大そう羨み、早速自分の家の爺を勸めて眞似をさせる。爺が蕎麥燒餅を持つて山畑へ行き同じ事をすると、同じ樣に猿が來て手車に載せ、同じ囃し詞を唱へて川を渡る。
 五、其文句があまりをかしいので、思はず吹出してしまつて、川のまん中で眼をあけた。さうすると猿どもは驚き且つ怒り、手車の手を解いたから爺は水に流され、やつと川楊の枝につかまつて助かつて還つて來る。
 六、うちでは婆がそんな事とは知らず、今に美しい衣類を買つて戻ると思ひ、古いのは皆燒いてしまつて裸になつ(221)て待つて居る。さうして爺が濡鼠になつて泣いて還るのを、あれあれおらが爺は歌をうたつて來ると言つた。
 
          三
 
 右の六節のうちで、四と六とには少しでも特色が無い。花咲爺や其前型の屁ひり爺を始め、善惡兩隣の老夫婦を説く場合は、いつでも此通り羨んで眞似て、まねそこなつた事になつて居る。人によつて少しづつは、即座の機轉でも話しかへられる代りに、其變化の範圍が至つて限られて居るのは、それが或一つの説話の主要部分ではなくして、掛軸でいふなら※[衣頁表]装のやうな役目を、果たして居たが爲だと思ふ。話術としてはこゝでもう一度、前の善い爺の話の興味ある個條を再演して、印象を濃厚にする效果を收めるのだが、それもよつぽど幼稚な聽手で無いと歡迎せず、從つて近頃はよく短い言葉を以て、略敍せられようとする部分になつて居る。第五段もちやうど第三段の裏を行くだけで、新たな空想が働く餘地の甚だ尠ない區域であつた。さうして一方のよい爺が、笑を忍んでぢつとして居た爲に、夥だしい財貨を獲て戻つたに對して、眞似爺にはその辛抱が出來ないでひどい目に遭つたといふことは、是も此話だけの特徴では無くして、たとへば鬼の博奕を見て鷄の啼聲を眞似るといふ地藏淨土の昔話でも、九州東北ともに笑つて失敗したといふ例が幾つもある。たゞ其雙方が共に地藏であるといふ點から、何か下に隱れたる意味が、あつたのではないかといふ想像は浮ぶのだが、それも今のところではまだ少しも判つて居らぬのである。
 
          四
 
 この「笑の咎」とも名づくべき一趣向は、弘く世界に行渡り、又可なり原始的のものゝ樣にも思はれる、是が近代非常に盛んになつた笑話の根源と、如何なる交渉をもつかは考へて見てもよい問題であるが、猿地藏が果してその代表的の資料として、解決に寄與するか否かも實はまだ決し難い。といふわけは話が好い爺の慎しんで笑はなかつたと(222)いふことを中心として、次第に展開して來たものと考へるべく、あまりにも前段が奇拔であり不可解であり、又割合ひに變化が乏しいからで、ことによると此方が先づ生れて、後に笑つてしくじつたといふ個條が、氣輕に取つて附けられたのかも知れぬからである。
 それで最初に先づ川を渡つて行く猿の群の、囃し詞といふものを比較して見ると、是はなるほど笑はなかつた方がどうかして居ると、思はれる位のをかしい文句だが、全國どこへ行つても大體に同じ型で、僅かに三つか四つの話しかへを見るの外、殆と皆こゝに話の山を置かうとして居るやうに見える。筑前鞍手郡で採集せられたのは地藏といはず、爺に頭巾を被せ、美しい衣裳を着せて駕籠で擔いで、
   猿は沾れても爺さんな沾らしやせぬヨイショコラ
と囃したとあるが、それぢや格別をかしくも何とも無い。一方奧州五戸の一話には、猿の舟沾らすとも地藏の舟沾らすなと歌つたとあるが、是なども話者が注意深い女性であつたことを察せしむるのみで、是でたまらなく隣の爺が笑つたらうとは受取れない。さうして他の多くは皆笑ふべきものを笑つて居るのである。其中でも森口多里君の「黄金の馬」に、載録せられたものなどは形が更にをかしく、隣の爺が笑ふと猿は心づいて、
   地藏ふんぐり流すとも
   猿ふんぐり流すな
と逆に歌ひかへて、即座に贋物を川へ流したと謂つて居る。是等を見渡して行くと子供等が、此話をたゞ「猿ふぐり」の名で記憶して居ても、少しも不思議は無いので、少なくとも笑の罰のモーチーフなどは、こゝではもう埋没してしまつて居るのである。
 
(223)          五
 
 話はどうしてもさう上品であり得ないが、こゝに尚屁問答ともいふべき子供らしい一節を伴なふものがある。始めてそれが採集せられたのは、久長興仁君の石見國の例で、「旅と傳説」の第一昔話號に報告せられて居る。好い爺が山で酒の泉に行當り、飲んで醉つて寢て居ると、猿どもがやつて來て、おゝこゝに地藏さんが寢てござると、擔いで行きながら爺と問答をする。
   「ぶらツと下がつたァなァんぢやい」
   「御香の袋」
   「ぷうンと出たァなァんぢやい」
   「お香のにほひ」
と爺が返事をして、たうとう地藏になりすまして色々の御供物を受けた。ところが眞似爺の方は順序が逆で、おならが先へ出たのでをかしくなつてくす/\と笑ふと、忽ち露顯して散々に引掻かれたとなつて居る。安藝の山縣郡にあるのもやはり此型だが、途中で屁が出たのを、
   「今のは何の音なら」
   「ありやりんの音よ」
といふ問答はちと無理であり、又隣の爺は笑ひもせぬうちに擽ぐり殺される。しかし此話は必ずしも中國の或地方で考案せられた新意匠でもなかつた。豐後の杵築でも「地藏のちんちんぬうるゝな」といふ滑稽な囃し詞の後に、やはり是と同じい二度の問答をして、こりこそ本當のお地藏様と、澤山の供へ物を上げる。一方隣の眞似爺はうつかり屁ぢやと答へたばかりに、こりこそ糞爺と川の中へほうり込まれたと謂つて居る。
 
(224)          六
 
 喜界島で採集せられた今一つの話は、猿とも地藏とも無いから別ものゝやうだが、中間に右の屁問答を置いて考へると、聯絡は可なりはつきりと付く。昔或男が身に濡紙を貼つて、阿旦の葉を採りに行くと、數多の鬼が出て來て男の耳や乳を引張り、是は何といふ物かと三度問答をする。其三度目がやはり「ふぐり」になつて居る。さうして又後に眞似をした男は、人間とわかつて食はれたといふから、最初の紙を貼つた男の方は、人で無いものと認められて居たらしいのである。鬼に耳を引かれた耳切團一の話とも似て居るが、是には何かもう一つ前の形の、やゝ猿地藏と近いものがあつた爲に、融合してしまつたのでは無いかと思ふ。東北地方の狐話の中に、夫婦が夜分互ひの身の内を探つて、問答して居たのを立聽せられたといふ、やゝ叨りがましいものが殘つて居る。或は婆さんの尻べたの三つ疣を、狐が知つて居て役人に化けて、取りに來たといふ話も越後にはある。さういふのを一つ/\取上げて見たゞけでは、起りを知ることも容易でないが、今後もう一つか二つ、喜界のやうな例が採集せられるならば、或は又別種の古い趣向の、是等の昔話に影響して居たものを、發見することが出來るかも知れない。先づそれ迄の間は假に中國以西の猿地藏話に、屁問答といふかはつた型があるといふだけを、注意して置けばそれでよからうかと思ふ。
 
          七
 
 次に第三の地藏とまちがへられた爺が、ぢつと我慢をして笑はなかつた御蔭に、うまく有附いたといふ仕合せにも變化は少ない。賽餞を寄せ集めて好い着物を買つて還つたといふのが、或は餅になつたり果物になつたり、どうせ猿だから大したことは出來ぬわけだが、中には爺が空腹のあまりに、手を出してむしや/\食つたところが、猿どもはそれを見て無上に有難がり次には黄金を持つて來て供へたといふのもある(紫波郡昔話)。羽後角館の話はそれよりも(225)更に昔話らしく、爺の體が少し傾きかけると、やア地藏枝が轉びさうだ。早く千兩箱を持つて來てあてがへと年寄猿がいふ。其通りにすると又一方へかしぐので、そりや今度はこつちの方からと又一つ千兩箱を出して來て支へる。さうして行つてしまつた後で、その二箱をかついでさつさと戻つて來る。眞似をした隣の爺はもう一つせしめてやらうと、三度目に又前へ傾いてもう一つ千兩箱を當てゝもらつたはよいが、猿の手がさはつて擽ぐつたくなつて思はず笑ひ出し、それで忽ち化けて居たことが露顯したといふ話になつて居る。大體に先づ此程度の、強ひて求めた變化が一つ二つあるだけで、多數は皆供へ物を收得して歸るといふのが結末であつた。
 
          八
 
 ところが只一種だけ、可なり奇拔な飛離れた型が、奧州の舊南部領内に四つばかり拾ひ出されて居る。猿どもは例の猿ふぐり云々の歌を唱へて、爺をかついで御堂の中に安置し、代る/\地藏樣の機嫌を取る。さうすると地藏になつた爺が、男猿は山さ往つて木を伐つて來て大槌をこしらへろ。女猿は町さ出て布と針とを買つて來て大きな袋を縫へと命令し、猿を殘らず其大袋の中に入れてしまつた。さうして袋の口を少しあけて、出て來る猿を一匹々々、その大きな槌で打殺し、其皮や肉を持出して、斯う謂つて町をふれあるいて賣つた。
   猿皮三十、みは六十
   かうべ三百、はアちょん百/\
 さうして俄金持になつたといふので、是には勿論眞似そこなひを説く餘地が無い。
 八戸地方の例では、猿の家へ爺をかついで行つて神棚に坐らせ、猿たちは代る/\地藏様地藏樣、何が御好きだといふので、おれは「やまが槌」が好きだとさういふと、それを拵へてもつて來て供へる。猿どもが寢靜まつて後に、神棚から下りて其槌を揮ひ、片端から打殺したといふのがおしまひであり、五戸でも其猿を持つて還つて猿汁を煮て(226)食つたといひ、後は全く雁取爺の通りになつて居るが、鹿角地方へ行くと、やはり「猿こ三百身は六十云々」の文句を伴なふ話になつて居る。如何にも痛快で又粗暴な、狩獵時代の一つ古い型ででもあるやうに見えるか知らぬが、實際は此方面限りの座頭どもの新案で、是も亦一種の笑話化であつたやうに、私などは鑑定して居る。似た例は狐退治譚の全國的なものを、東北だけで改作して居るのがある。多くの狐が騙されて袋に入つたところを、上から太い棒でなぐり付けたといふので、其棒の音と狐の苦しがつて鳴く聲とを、琵琶の調子で模倣して人を笑はせて居た。多分は「猿こ三百」なども振賣の言葉ではなくて、もとは大祐神社の鮭捕りの囃しごとと同樣に、袋の猿を打殺したといふ語りの合の手であつたらうと思ふ。
 昔話の二つ以上ある變化の、何れが前のもの何れが後といふことは、さう簡單には決し得られぬのが普通だが、是は右にいふ想像以外にも、現在の分布がまだ著しく狹いこと、及び六百年前から保存せられて居る記録が、やはり今日最も數多く行はれて居る口頭の傳承と、順序と要點とに於てほゞ一致して居ることが、共にこの槌と袋の形の新らしい改定であることを指示するので、老いたる無住法師の氣まぐれなる筆豆も、こゝでは意外の援助を我々に遺して居るのである。
 
          九
 
 雜談集卷二の本文は至つて簡略で、筆者が意を加へ修飾したと思ふ形跡は殆と見えない。即ちあの時代關東又は尾張の民間に、流布して居た「猿地藏」は斯ういふ形であつたのである。
  昔アル山里ニ、マメ祖物グサ祖トテ隣家ニテ栖ケリ。マメ祖ハ朝夕田畠作リ、大豆小豆粟ナドマデタノシクモチタリケリ。或時畠作リクタビレテ、居眠リシタルヲ猿ドモ見テ、佛ノオハシマス供養セントテ、薯蕷野老栗椎ナド多ク將來テ、山塚ト前ニトリオキテ去ニケリ。フスフス負テカヘリヌ。物グサ祖ガ姥セガミテ云ヒタタシ、装(227)束アリテキテ行ヌ。イザコノ佛河ムカヘニ具シテ行テ供養セントテ、手車ニノセテ、山河ノ早ク深ヲワタリケルガ、ヤレ袴カキアゲヨトテ尻毛ヲカキアゲケルヲカシサニ、フト笑ヒタリケレバ、ヤレ人ニテアリケリトテ河ニ投入テケリ。衣裳ヌラシテ水一腹ノミテ、死ナヌバカリニテカヘリテケリ。婆イヨイヨニクミ腹立ケリ。ヨシナキ物ノマネスベカラズ。
 現在の同系説話と對照して興味をひかれる點が幾つかある。其一つは地藏樣とは言はずに、單に佛のおはしますとあることで、是で幾分か問題が寫實に近く感じられる。地藏は通例石像だから、爺がそれに見られるのは間ちがひが餘り頓狂だが、佛ならば木を刻み衣裳を着せ申したものも有り得たので、現にこゝでも隣の爺には、「装束ありて着て行きけり」と謂つて居る。地藏が昔話の人氣役者であり、又小兒の親しき友であつた故に、後にはどこでも是を喚び出すことになつたのであらうが、其御蔭に此話はのつけから笑話になつてしまつた。乃ち前に掲げた喜界島の阿旦林の鬼の話などと考へ合せて、もう少しまじめな元の形が、曾てはあつたことを推測せしめるのである。
 
          一〇
 
 次に隣の爺が眞似をして失敗した笑ひの種を、流石に雜談集ではやゝ上品に、川を徒渉しようとして猿どもが口々に、やれ袴をかき揚げよと言つて尻毛を撫で上げたといふのが、鳥羽僧正の繪卷を見る樣で無上になつかしい。是は中世の雜人が川を越すときに、恐らく最も普通にいふ言葉であり、又最も見馴れたる擧動でもあつたらう。それを猿がさも人間らしく、尻毛をかき上げつゝさう謂つたとしたら、隣の爺でなくても誰だつて笑ふだらう。是が無住の獨創でもし無いならば、中世日本のユウモアも決して隅には置けない。しかも斯ういふ洒落が段々不明になつて、代りに出來たと思ふふぐりの歌なども、少しげびては居るが簡潔でよく同等の效果を擧げて居る。即ちこゝでは何か是非とも笑はせるやうな言葉を必要として居たのである。
(228) たゞ是を現在の樣に改作して見ると、猿でなければならぬ理由は殆と無く、從つて此昔話のツレの役が、最初から何か別の理由によつて、猿であつたやうに誰しも考へさせられるが、前の形から想像すると、この袴をかき揚げた人眞似の擧動を、をかしくする爲に猿にしただけで、元は他の動物でも鬼でも、よかつた時代があつたとも言はれぬことは無い。後藤貞夫君の引用した豐後東國東都の例では、爺が川端で眠つて居た所を、猿と蟹とに運ばれて行つたといふのもある。筑後の八女郡で採集した昔話には、爺が誤つて糊を頭から被り、山で洗つて岩の上で休んで居ると、山の上から狐と狸と兎とが出て來て、是は/\よい地藏様が出來たと、菓子や鰻頭や花を上げたといふのがあり、是は眞似爺が手車の囃し詞を聽いて、をかしくて吹出して贋物が露はれたとあるだけで、其文句がもうはつきりとは殘つて居ないが、同じ話であることは疑ひが無い。即ち地藏も鎌倉期以後に地藏ときまつたと同じく、猿も本來は是非とも猿でなければならぬ理由は無く、是も一種の動物援助譚の、やゝ珍らしい形であつたものが、話し方の後々の都合で、終に今ある猿地藏の式に、固定したものであつたかも知れぬ。
 
          一一
 
 爺が山畠にくたびれて晝寢をして居て、猿に佛像とまちがへられるといふ點は、あまりにも無造作な趣向であつて、いくら雜談集にさうあらうとも、之を本來の筋とは見ることが出來ない。さうして又現在の口で傳へて居る昔話に於ても、こゝが最も複雜に變化して居る部分である。私の想像では、この變化には早くから土地毎の方針見たやうなものがあつて、必ずしも新らしいものに倣ふことが出來なかつたのでは無いかと思ふ。二十幾つの例を竝べて見ると、少なくとも三通りの違つた型が擧げられる。假に名を附けるならば、一つは偶然型、次は計劃型、第三は謝恩型ともいふべきもので、居眠りして居たら云々といふ話し方は、この一と三との合の子のやうなものだつたかとも思ふのである。
(229) 先づ偶然に猿を誤解させた例を擧げると、是は九州の方にならばまだ見つかるかも知れぬ。豐後の杵築でいふのは、爺が山田を打つて居る所へ婆がハッタイ(炒粉)を晝餉に持つて來る。それが乾いて居たので顔一ぱいに引つついたまま休んで居ると、猿が出て來て之を見つけ、川原のお地藏樣がこゝ迄來て憩《よこ》ひよらといひ、それから猿ちん/\の囃し詞、屁問答になつて行くのである。筑後八女郡でも前にいふ通り、爺が棚の飯櫃を下さうとすると、それが飯では無くて婆の糊だつたので、頭から糊を被つて川へ洗ひに行き、岩の上で休んで居たとなつて居る。共に騙さうと思つてさうしたのでもないのが、偶然に地藏樣のやうに見えたので、無心の擧動が幸運の絲口に役立つたといふ、昔話の古風にかなつた話し方と言つてもよい。
 
          一二
 
 是は東北地方に今も行はれて居る風習の一つ、春毎の祭の日に路傍の石佛を白く塗り、又は穀粉にまぶし立てる行事と、關係のあることが推察せられる。即ち粉だらけの顔をして居たが故に、猿にも地藏様かと思はれたらしいのである。しかも奧羽の方でも稗しとぎを身に塗つて畠の傍に爺が坐つて居たらといひ(上閉伊郡)、又は粢を塗りたくつて畠に行つて坐つて居たらともいふが(五戸)、大抵は其行爲には目的があつたのである。たとへば羽後の角館では、山畠を猿兎に荒らされて困る爺が、白餅を身に塗り立てゝ、裸で畠の番をして居たといひ、五戸の今一つの話では、あらき起しをして粟を播き猿追ひをする爺が、粢を身に塗つて石の上に坐つて地藏の眞似をしたともある。鹿角郡の宮川村の話は、「旅と傳説」の第二昔話號に出て居るが、是などは向ふの河原を猿が石地藏を擔いで行くのを見て、こいつは面白いと自分も米の粉を身にまぶし、臼を引くりかへして其上に立つて居ると、猿どもは茲にも地藏樣がござると、手車に載せて色々の歌を唱へたとある。「自分も」とあるからには本物の石地藏にも、同じく白い粉を塗つて居たのである。
(230) 或は又信州の小縣郡民譚集のやうに、たゞ單にある人が地藏の眞似をして居たらといふ例もあるが、是は恐らく話がもと有つて忘れられたので、何等か理由が無くては、そんな眞似をわざ/\する筈は無い。だから八戸地方などでも、三つの話が三つとも、粟畠蕎麥畠を猿に荒され、又は豆畠を鳩にほじくられて困るので、婆と相談の上、粢とか蕎麥の粉とかを顔にもからだにも塗つて、畠のまん中の根株の上に坐つて居た、といふ風になつて居るのである。或は害獣を追ふ爲に、畠のまん中に石佛を祭る習俗があつたのかも知れぬ。兎に角に斯うなると話はよほど狸退治などと近くなる。從つて槌で袋の猿を打殺し、猿汁をこしらへて食ふといふ話し方も、さう亂暴な作り替へではないといふことになるのである。
 
          一三
 
 しかし斯ういふのが一番古い型で、話は最初は皆是であつたかといふと、それは又別の問題であつて、現に今日まだ殘つて居る色々の話し方の中でも、是より前のものだらうと思はれるものがあるのである。大體に人間の智慮才覺が働いて成功したといふ類の話は、自然に又は思ひがけなく幸運を獲たといふものよりも、後から現はれたと見るのが普通である。人には到底知ることの出來ぬ法則が、隱れて行はれて居るのだといふことを、信じてすましては居られぬ世の中になつて、始めて斯ういつたわかり易い原因を考へ出すか、又は途法も無い偶然を空想し出したものらしいが、もう其時代に入ると今一つ前の形は、滿足には傳はつて居らぬので、之を見つけ出すのがさう容易でないのである。
 この猿地藏の話に就いて見ても、右に列記した二つの場合以外のものは、もう大分こはれて明瞭に其範圍を指示することが出來ない。是を謝恩型と名づけるのも當つて居らぬかも知らぬが、とにかくに別に今一つの猿に地藏と見られる原因が、あつたことだけは認めることが出來る。此篇の初頭に梗概を擧げて置いた、江刺郡昔話がその一つの例(231)である。爺は山畠の草取りに、蕎麥燒餅を辨當に持つて行き、それを木の枝に掛けて置くと、猿どもが出て來て取つて食つた。それでも畠のまん中に坐つたまゝ、だまつて見て居たところが、やがて猿どもが近よつて來て、こゝに地藏樣がござる云々と謂ひ出すのである。織田秀雄君の集めた膽澤郡の昔話でも、やはり山畠で爺の蕎麥燒餅を食つてしまつた猿が、あゝもつたいない地藏樣だ、川向ひの堂に奉り申すべと口々に謂つて、手車に載せて例の猿ふぐりの囃しをしながら行くとある。少なくともこの二つの話に在つては、勝手に辨當の燒餅を食はせて置いて、追拂はうともしなかつたことが、先づ猿どもに好感を持たせたらしいのである。
 
          一四
 
 雜談集にはたゞ手輕に、くたびれて居睡りをして居たとあるが、全體山畠へ行つて寢てしまふなどといふことは、農民として普通の所行では無いから、こゝに恐らく何等かの意味があるのだらう。現行の昔話でも、藝州山縣郡の例を始め、同じ氣樂な爺の話が二つ三つあり、石州のは山中に酒の泉を見つけ、それをたらふく飲んで睡つて居たとさへいふが、さういふ無頓着な浮世離れのした老翁なればこそ、猿に地藏とまちがへられたのだと、いふ樣な意味もあつたのでは無からうか。ずつと遠くの例だが鈴木清美君の字佐郡昔話にも、山薯はりに行つた農夫が、辨當を猿に食はれてしまつて、仕方が無いのでごろりと横になつて居ると、こゝに地藏樣が寢て居ると一匹の猿が、多くの友を喚び集めて、猿の尻は濡らしても云々と唱へながら、かたげて行つたことになつて居る(第二昔話號)。
 是と第二の型の猿追ひ猿の番の話とは、脈絡があるやうに私には考へられる。即ち後者も猿の畠を荒すのを制止しには往つたのだけれども、やはり畠のまん中などに坐り込んで居て、成績は擧がらなかつたらしいから、結果に於てはほゞ同じであつた。現に羽後の角館などではここに見たことの無い地藏樣がある。是を川向ふへ守り申して、あとでゆつくり餅を食ふべやと、千兩箱二つを尻の支へにして置いて、猿どもは餅を食ひに又出て行つたとある。要する(232)に是も亦彼等を悦ばしむに足りた一種の供養であつた爲に、測らざる恩賞を得たものと解せられるのである。單に山の畠に坐睡して居たのみで、地藏の待遇を受けたといふことは、うそにしても餘りに筋が立つて居ない。だから雜談集がなんぼ古い記録でも、尚この點には脱落又は省略があつたものと、私などは推定して居るのである。
 
          一五
 
 そこで最後には此書物の中だけにあるマメ祖モノグサ祖の人名に就いて、一通り考へて見たい。マメは素よりモノグサの懶惰に對する語で、二人性情の相反する隣どしの老翁を、竝べ比べて説かうとする昔話獨得の話術によるものであらうが、是が幸運の爺の名前になり、モノグサが隣の眞似そこなひをする方の爺の名となつて居るのは、私には寧ろ意外の感がある。高名なる物臭太郎の御伽を初として、民間には三年寢太郎の聟入譚の如く、凡人の眼にはなまけ者の役に立たずとしか見えなかつた若者が、後に萬福長者となつてめでたしめでたしを告げることは、殆と昔話の常例であり、又決して我邦ばかりの特徴でもない。之に反してその物ぐさが機會を失し、躓きおちぶれ難儀をするといふなどは、餘りに有りふれた平凡の法則である爲か是まで滅多に昔話の題材とはなつて居らぬ。幾らくたびれたとは言つても、畠に出てぐつすり寢込んでしまふやうな爺を、マメ祖と呼ぶことも實は解せぬ話で、私には是が二人の爺の名を取ちがへたのでは無くして、元來は物ぐさ爺といふ名だけがあつて、それが主人公の好い爺の方の名だつたのを、無住法師又は其同業などの單純なる倫理觀から、さういふ筈が無いと思つて、わざとか又は知らずにか、是を隣の惡い爺の方に讓らしめ、別にそれと對立するやうなマメ祖の名を、新調したものゝ如く考へられる。無論まだ色々の證據を重ねる迄は、斷定することは許されないが、少なくとも今ある二十幾つの同系説話を見渡しても、マメと形容してよい主人公は一人も無いのみか、寧ろ笑ひもせずに猿の手車に乘つて行つたり、辨當を食はれてあきらめて寢てしまつたりするやうな、やゝ遲鈍な人の好い爺が、豫想もせぬ仕合せに有附いた話ばかり多いのである。謝恩と(233)は言つてもこの爺の辨當は、猿に食はせようと思つて持つて來たので無い。單に其態度が淡泊であり飄逸である爲に不思議に天然の氣にかなつて、一人だけ最も豐かに酬いられたので、其成立ちからいふと、是は所謂動物援助譚の、古い形に屬すべきものだつたかと思ふ。何にもせよ口承も書承も、共に本有の形からは既に遠ざかつて居る。さうして一部分は後者の夙に失つて居るものを、前者がなほ六百年以上も持ち傳へて居てくれたのである。書物にあるからそれが又古いから、其方がより多く純粹であらうと、思ふだけでも既に誤つて居る。ましてや偶たゞ一つ殘つて居た記録を正しとし、其他の口碑はすべてそれからの零落の如く見ようとするなどは、全く何の據りどころも無い迷信の一種である。假にもさういふ基礎の上に、説話の國際比較などを試みる者があるとしたら、其結論のあぶなさ加減は、却つて全然の無學よりも甚だしからうと思ふ。
 
(234)     かちかち山
 
          一
 
 かちかち山の狸話は、日本人の常の思想に反するから、國固有のものでないと謂つた人がある。私も前年それほど斷定的にではないが、もしも此昔々が流行せず、且つ文人が此獣の毛を筆に用ゐなかつたら、日本の狸は今少し幸福であつたらうにと歎息したことがある。即ちやはり内々は固有でないやうに思つて居たのである。昔話の固有といふことが、單に千年も前から我邦に在つたといふだけの意味ならば、此説は大體當を得て居る。しかしもう一歩を進めて外國から來たもの、書物で學んだものといふ風に主張しようとするのであつたら、それは證據のとても見つけられさうにない話である。燕石襍誌の著者が擧げた位の類似ならば、さう弘く捜さずとも何處にでもある。それを今日のかちかち山の形にまで持つて來たのは、なほ日本人であつたといふことにはなるのである。文藝は必ず國民思想の産物でなければならぬやうに思つて居る人々に、果してさういふ系統立つた物の觀方の中から、多くの歌や物語が出て來たのかどうかを考へてもらふべく、今はちやうどこのかちかち山の童話などが、頃合ひの一つの參考資料であるかも知れない。
 
(235)          二
 
 誰にもすぐ眼に着く三つの部分、二つの繋ぎ目といふものが此童話にはある。最初は可なり頓間で爺の手に捕へられたほどの狸が、婆の稻搗きの場面になると、忽ち極度に惡賢こい僞善者になつて、うま/\と老女を騙して繩を解かせ、相手を殺して變装して、うその狸汁を調理して食はせたのみか、東京などの話し方では、歸りがけに冷酷なる棄てぜりふをして行くのである。人でも是程皮肉な者ばかりは居ない。それが又最後に兎に出逢ふときは、まるで子供見たやうに好奇心に釣られて、少し可愛さうな位に向ふの言ひなり放題になつて居て殺される。この樣な一貫せざる性格といふものは有り得べきでないが、昔話だけには妙に時々是が見られる。たとへば是も全國的に著名な「牛方山姥」の一篇でも、峠で旅商人を脅して積荷も食ひ、牛も食つてしまふ程の兇暴なる妖怪が、家に還つて來ると只の婆になつて、天井に潜んで居る牛方に餅も食はれ甘酒も飲まれ、しまひには大釜に入つて寢て居るところを蓋をして蒸し殺される。或は又「天道樣金の綱」と同じに、樹に登つて居る男を逐掛けて來て、騙されて足の裏に油を塗つて滑つたり、もしくは水に映つた男の影を捉へようとして溺れたりして居る。多分はあまり御話が短か過ぎるか、逃げた負けたといふだけで終つては物足らぬやうに思はれる場合、深くも考へずに斯んな繼ぎたしをするので、それには幼ない聽衆の意向も干渉して居るかは知らぬが、作者自身といへどもさう大したえらい人では無かつたのである。それで居て一旦斯んな形がきまると、永く世に傳はり又弘く分布するのは、やはりその一つ/\の部分に、眞實と名づけてもよい程の古い/\由緒があつたからで、即ち又或場合の、一時の出たらめでなかつた爲であらうと思ふ。だからよその民族の民間説話と比較して見る前に、先づ國内だけで一通りの變化を明かにして置く必要がある。それには今日までに集まつて來て居る材料が、ざつと是から後に竝べるほど有るのである。
 
(236)          三
 
 最初に近代人の趣味に最も合はない部分、即ち第二段の婆を料理して、狸汁と僞つて爺に食べさせるといふ話が、どうして生れたらうかを考へて見たい。是はグリムなどの説話集に、勇敢なる童兒が鬼の子と寢床を換へ、又は冠などを取つて被つて、親鬼にまちがへて自分の子を食はせるといふのと近く、西洋では非常に遠い昔の生活の、痕跡だらうといふことになつて居るが、普通にはさういふ目に遭ふのは鬼であり、騙して遁げて來るのは英雄であり、其説話の主人公である。然るに日本では不思議に此個條が遊離して、主客をとりちがへて別の話にも附いて居る。此種の敍述の寫實味が夙に無くなつて、單なる誇張の挿話として、滑稽と同じ意味に用ゐられて居たのかとも想像するが、もつと類例を探つて見ないと、斷言することは無論出來ない。
 一つの最も顯著なる例は、瓜子姫の昔話である。瓜子は瓜の中から生れた美しい小さな姫で桃太郎と同樣に川上から流れて來て、やはり爺婆の手で育てられる。機織が上手で後に殿樣に嫁入るべき女性であつたのを、アマノジャクといふ怪物がやつて來て、色々といぢめることになつて居る。東西日本の話し方の大きな相異は、中部以西の各地の瓜子姫が、梨の木又は柿の木の梢に縛られて居り、鶯や鳶などの啼き聲に教へられて、親が氣づいて助け下すといふのに反して、奧羽方面の昔話では殺されて食はれてしまふのである。さうしてアマノジャクはその瓜子姫の皮を着て、すまして機などを織つて居るのである。或は俎板にのせて細かく切つて、小豆餅にこしらへて爺婆に食はせたら、うまい/\と言つて食つたなどいふ無茶なのもあり、村によつては遁げて歸りがけに、「糠屋の隅の骨を見ろ」と謂つたので、始めて美しい姫の殺されたことを知つたといふのもある。糠屋は物置のことであるが、壹岐島などでは土間の片端をもヌカワの隅といふ。乃ちかちかち山の「流しの下」に當るのである。遠野あたりの例では家の?が、「糠屋の隅を見ろぢやケケロ」と、鳴いて教へることになつて居る。急いで行つて見るとそこに娘の骨が、一まとめにして(237)置いてあつたといふ。其骨を繋ぐと不思議な力で、復活してもとの美しい姫になつたといふ風な、又一つ別の話し方がもと有つたのではないかと思ふが、其樣な形の話はまだ今日までは發見せられぬ。アマノジャクを捉へて仇を返したとあると否とによらず、今ある東北の瓜子姫は、多くは此の如く陰惨な、子供には聽かせたくもない話ばかりである。
 
          四
 
 しかも爺婆の町へ嫁入支度を買ひに行つた留守に、一人で機を織つて居る瓜子姫の處へ、アマノジャクが忍び寄る光景は、西洋でいふ「七つの小羊」、もしくは赤頭巾などゝよく似て居る。だましすかして細目に戸を明けさせ、それへ手をかけて押して入つて來るまでの問答は、子供等の最も胸を轟かして聽く部分であつたからか、どこの國でも非常によく發達して居る。あんまり際どいところ迄、怖い話を持つて行かうとするので、時々はつい堺を踏み越えて、狼の腹を割いたら活きて出て來たといふやうな、とぼけた話し方をしなければならぬことにもなつたのかと思ふ。日本でも前にいつた「天道さん金の綱」といふ話は、山姥の化けたにせ者の母が、毛だらけの手につはぶきの葉を卷いて、戸の間から子供にさはらせて見るといふ點まで、西洋の赤頭巾の話と同じだが、此方では三人ある兄弟の末の赤ん坊だけが、北けものに食はれてしまつたことになつて居る。「おつかさん何を食べて居るの」と次の間の姉と兄とがたづねると、これだよと謂つて投げてくれたのが小指であつた。それでびつくりして二人は遁げ出して樹に登るなどゝ謂つて、この赤ん坊も、我々の昔話では復活しないのである。
 瓜子姫を主人公とする昔話に於て、姫が食べられてしまつたのでは話にならぬやうだが、數ある全國の例の中には、さういふ型にはづれた結末のものも幾つかあるのを見ると、誤つて身内の者の宍を食ふといふ如き氣味の惡い空想も、昔話の世界だけにはよく/\根強い魅力をもつて居たのである。是が人類の Savagery の、世に隱れたる殘壘でで(238)もあるやうに、解せんとする説には私は心服しない。自分でさうした、さういふ目に遭はせたと説くのとはちがつて、狸やアマノジャクといふが如きくせ者ならば、何をするか知れたものでない。ましてや是は昔々、鳥や獣の物を言つた世の出來事だといふのである。かゝる奇拔な又驚くべき空想は、一旦學んだ以上は幾ら文化が進んでも、消えてしまはぬのが寧ろ當然であらう。新たに今日の人が斯んな趣向を、思ひ付いたといふ場合とは話がちがふ。私は寧ろ石斧や石鏃と同樣に、あんまり珍しいので大切に保存せられたものと見て居るのである。
 
          五
 
 奧州では我々の花咲爺と同系の昔話に、雁取爺といふのが弘く行はれて居る。寶の在りかを教へる白犬が殺されて、それを埋めた場所にコメの木が生えて一夜にして大木となる。それを臼に彫つて搗くと金銀が湧き、それも隣の爺に割つて焚かれてしまつたが、其灰を貰つて來て屋の上に登つて撒き散らすと、雁の眼に灰が入つてばた/\と空から落ちて來る。慾張爺さんは是も羨ましくて眞似をすると、灰が自分の目に入つて、雪隱の屋根からごろ/\と轉がり落ちる。下では棒を持つて待つて居た婆さんが、雁だと思つて我が爺を敲きつけた。といふ所までで話を結ぶ所もあれば、それを雁汁にしてうまがつて食つたとか、まだ進んでは一ときれだけ、しわくて食ひ切れぬ所があつたとまでいふ例がある。かちかち山の方でも秋田縣の仙北郡などでは、「婆々、あんまりシネヤ貉だねか」と爺がいふと、鴉が屋根の上から「シネヤも道理かねや、ばばあケェツの皮だもの、ガオランガオラン」と鳴いたと話すのださうである。是は疑ふぺくも無く田舍座頭の細工で、素より決して上品な趣味ではないが、興に乘ずると次々に斯ういふ後日譚までが附加せられて來るので、究竟は昔話が時と共に成長するといふことが、すべての變化を説明し得るのである。
 此かちかち山の第二段の如きは、明かに西洋の學者の謂ふ動物説話であつた。狸が持前の惡智慧と横着とを以て、厄難を脱したといふことを話の山にして居る。是を或農民の老夫婦が、いたづらな狸を生捕つたといふ話と繋ぎ付け(239)たばかりに、主客顛倒の不調和が起つただけである。事によると斯ういふ鏈鎖譚めいた話法が、流行つた時代があるのかも知れぬが、とにかくにこの二つの狸話は、各その部分だけで完結して居る。さうして後の方は狸を人のやうに取扱つた一種の冒險譚であつた。相手に婆汁のやうな殘虐な損害は與へないけれども、智慧で相手をだまして繩目を脱したといふ話ならば、是も東北ではそちこちに行はれて居る。たとへば番をして居る子供に餅の話などをしかけて、向ふが得意になつて是くらゐ大きいと、兩手で恰好を示さうとする時にするりと遁げて來たとか、又はもう少しオブシーンなる話題を提出して、うつかり氣を取られて居る間に飛出したやうな話もある。その主人公が狐であり又は狸である場合の多いのは無論だが、をかしいことにはそれを兎だといふものも稀でない。兎は土地によつては愚か者の隱語にもなつて居るが、日本の動物説話に於ては、比較的重い敵役などを勤めて居たやうである。
 
          六
 
 其話に入る前にかちかち山の前段、狸と爺婆との交渉を一通り述べて見よう。狸がどういふ事情で老翁に捕へられたかは、東京ではやゝ簡略に過ぎた話し方をして居る。以前見たことのある誰だつたかの英譯には、山畠に働いて居る爺の晝辨當を、狸が出て來て盗んで食べたとあつた。爺が怒つて其狸を捉へたといふのは、何だか狗か猫見たやうで少しをかしいが、今では斯ういふ形が普通になつて居るらしいのである。小鳥に晝餉を食はれたといふことは、有名なる「屁ひり爺」の趣向にも用ゐられ、山畠の爺といふのも亦、最も多くの昔話の發端になつて居るから、此點に格別力を入れて話さうとせぬ限り、自然に斯んな風に切詰められてしまふものと思はれるが、原の形は是よりもずつと曲折があつたらしく、少なくともちがつた一つの話し方は各地に傳はつて居る。是も東北地方に流布する例であるが、聽耳草紙といふ説話集に採録したものをやゝ詳しく引用すると、爺が山畠で豆を播いて居る。
   一つぶ蒔けば千つぶゥ
(240)   二粒まけば二千粒ゥ
と祝ひ言葉を唱へながら蒔いて居ると、狸が出て來て木の伐株に腰を掛けて、斯う謂つて爺の歌をひやかす。
   ハア一粒まけば一粒よ
   二粒蒔いたら二粒さ
   北風ァ吹いて元無しだァ
 爺が腹を立てゝ逐つて行けば、さつさと山へ逃げて入り、又次の日も同じことを謂つてからかふ。そこで三日目には工夫をして、黐を持つて來てうんと其伐株に塗つて置く。それとも知らずに狸は又のこ/\と、同じ株に腰かけて相變らず憎まれ口をきいて居るが、爺さんは平氣で、
   三粒まけば三千粒ゥ
   五粒まけば五萬だ
と歌ひつつ、繩を持つて狸の方へ近づいて行くと、どつこい狸はもう逃げることが出來ない。そやつをぐる/\卷きにして擔いで歸り、さア婆さん晩には狸汁といふことになるのである。
 
          七
 
 此話は奧羽のそちこちに採集せられて居る他に、又遠州の海岸近くにもある。爺が畑へ出て一生懸命に耕して居るのを、狸が出て來て近くの石に腰をかけてからかふ。
   ぢいさん畑打ちや腰ぼつくりしよ
 いま/\しい奴だと思つて追つかければ直ぐ逃げ込む。よし/\見て居れと次の日は黐を持つて來て石の上に塗り、それから後は大體同じ話である(靜岡縣傳説昔話集)。九州の方でも私は四つの例を知つて居る。一つは壹岐島昔話集(241)に、一つは「昔話研究」に肥後北部の例として、今一つは土地を明示せぬが福岡縣かと思はれ、それに肥前諫早の話といふのが、「口承文學」第八號に出て居る。いづれも老人の腰つき手元を嘲つたひやかしの文句で、
   あの爺が田ァ打つにャ
   左鍬にャぎィッくり
   右鍬にャよりよりより
   のちャ尻ャどッさとせ
といふ類の、子供の興がる囃し詞として傳はつて居るが、たつた一つの變つた點は、肥後の例だけでは石に腰掛けた惡者が、狸でなく猿になつて居る。從つて後段は狸汁の代りに猿膾であり、婆を食はせた迄は同じでも、兎の仇計の條は附隨して居ないのである。
 それからトリモチを石に塗つて置いたといふのも、現在は是だけ懸け隔たつて東西の一致があるのだが、たゞ一つ壹岐島のかちかち山だけは、糊をこて/\と塗つたとなつて居るので、此點にも私は人知れず大きな重要さを認めて居るのである。鳥を捕る爲ばかりの樹の皮のモチが、普及してから後に此話は生れたものと、思ふことが出來ぬからである。陸中紫波郡の昔話の中には、狸が狼となつて居る同系の一話がある。是も爺が畑に豆蒔きに行つて、一粒蒔いたら千粒になァれと祝して蒔いて居ると、山から狼が出て來て畑の傍の平たい石に坐つて是を眺めながら、やはり「一粒まけば一粒だァ」と憎まれ口を謂つて居る。それで家に還つてから婆と二人で餅を搗き、次の朝早くその平石の上に持つて行つて塗りたくつて置く。それが尻にくつついて狼は動くことが出來ず、其晩は狼汁になつたとあつて、それだけでこの話はおしまひである。田の畔や畠の傍の平たい石や伐株といふものには、元は是に腰かけて農作の成就を祈念するといふ用途が、有つたのでないかと私は思つて居る。即ち狸や猿や狼が來なくても、餅はこの上に塗る爲に搗いたのでは無かつたか。とにかくに狸の惡口としては、九州などの方が面白かつたかも知れぬが、最初の心持(242)と爺が腹を立てた理由は、東北の方がはつきりして居るやうである。狼は本來山の靈の代表者と認められて居た。それが人間と同じに物を言ふのが荒唐だといへば、猿だつて狸だつて同じことである。さういふ空想は種無しには起らなかつた。
 
          八
 
 猿は沖繩ではユームー(ヨモ)と謂つて居るが、現在は少なくとも此群島に、一匹も棲んで居ない。さうして是に關する珍しい昔話だけが殘つて居るのである。其昔話といふのはやはり全日本に分布するものであつた。昔々長者と貧者と二戸軒を竝べ、長者は貪慾で無慈悲で、貧しい老夫婦は善人であつた。一人の不思議な旅人が來て宿を求める。一方はすげなく拒絶しこちらは快く款待したので、其禮に蓋きぬ寶、若がへりの泉などを賜はるのであるが、沖繩では慾深の長者一家をユームーと爲し、山に追遣つて跡を隣の貧しい夫婦に與へたとある。さうすると門の脇の一つの石の上へ、毎日猿が來て坐つて、恨みを述べ泣言を竝べるので甚だ困つた。然らば斯うして見よとの神の教へで、其石を燒いて熱して置くと、さうとも知らずに猿が石の上に坐り、燒けどをして慌てゝ遁げて往つた。それ故に今でもユームーの尻は赤いのだなどゝ謂ふさうである。肥後の猿膾の昔話なども、只偶然に斯う變つて來たのではあるまいと思ふ。人間獨得の智慮によつて、外部の支障を斥けたといふ點は、モチも燒石もよく似て居るからである。山姥山男の類が人に迫つて來て、怖しくて十分の活動の出來なかつた際に、餅によく似た形の川原の丸石を拾つて來て、小屋の爐の火の傍に燒いて竝べて置くと、黙つて入り込んで怪物がそれを取つて食つた。それから再び來なくなつたといふ類の話は、昭和の今日なほ山奧の小屋では活きて居る。單に其口碑を記憶するだけで無く、時々は作法としてさういふ形の白い石を、焚火の近くに竝ぺて置く小屋もあるといふ話も聽いたことがある。之に反して田畠のほとりに平石や伐株を存する風習などほ、今や大抵は消え去り又は理由を忘れてしまつた。狸その他の獣が是を利用して、人(243)に邪害を加へんとして罰せられたといふ一話が、もはや獨立して其存在を保ち得ず、僅かに或動物説話の序品のやうな地位に痕跡を留めて居るとしても、それは致し方が無いのである。
 
          九
 
 しかし折角の爺の狸汁が、斯樣に悲惨な結末に持つて行かれることは、何と無く物足りなかつたに相違ない。實際又昔々ある處に、爺と婆とがあつたとさといふ語り出しのものに、此の如き不愉快な結末を告げる例は他には無いのである。そこで幼ない聽衆の失望を慰むべく、爺が泣いて居る處へ兎が訪ねて來て仇討を約束したといふ、渡り廊下見たやうなものが發明せられたので、其手本としては既に猿蟹合戰の、蜂栗石臼等の助太刀の話などがあつたことと思はれる。とにかくに斯ういふ繋ぎ合せの起るよりも前から、所謂兎の大手柄を主とした昔話は、別に備はつて居たのである。子供は今でも面白がつて聽くけれども、かちかち山の趣向は餘りに突兀として居て、なんぼ愚鈍な狸でもそれで納得したといふことが、考へて見ると少し變である。山がカチカチとかボウボウとかいふことは、有りさうにも無いことだからである。是も他の地方の例と比べて見ると、斯うなつて來た道筋がやゝ判る。たとへば「加無波良夜譚」に出て居る越後の例を見ると、兎は義?家であると共に又横着者でもあつた。貉を誘つて萱山に入つて共同で萱を苅り、腹が痛むと僞つて其萱を全部貉に負はせ、今度は又足が病めると謂つて自分までが貉の背に乘つかる。さうしてカチカチと燧石を打つて、「あすは天氣かカチカチ蟲が鳴く」といひながら、其萱に火をかけるのであつて、成るほど其手段は可なり陰險で、又日本風で無いとも言へる。それから兎は知らぬ顔をして、今度は蓼山に入つて味噌をすつて居る。次には笹山に行き、杉山に行き、そのたびに貉に詰問せられて、前の所行は自分でないと言ひ拔けるのだが、その話の運びなどは、やはり聽耳草紙にある話の方が面白く出來て居る。「兎々、そちや昨日はおれをひどい目に遭はせたな」と狸が謂ふと、それは萱山の兎であらう。おれは樺皮山の兎だからそんなことは知らないと答へ(244)て、又新らしい方法で狸をいぢめることになつて居る。樺皮山の次には笹の葉山、それから最後に楢の木山に入つて、舟をこしらへて狸をおびき出すのだが、その次々の場合のかはり目毎に、似たやうな問答を積み重ねて、聽き手を笑はせる技法は凡でない。東京のカチカチ山なども、興味は同じ兎が同じ狸を何度でも騙すところに在るのだが、今ある形のやうではよく化けの皮が露はれないものだと、子供でも思はずには居られなかつたらう。
 
          一〇
 
 殊に聽衆がもう少し尤もらしい人たちであつた場合に、斯んな幼ない説明では通用した筈がない。だから私などは幾分か智巧の加はつた、それだけ引離しても一通り理の詰んだやうな話を、却つて一つ以前の形だらうと想像して居るのである。この兎の惡智慧の趣向を、狸の膺懲に結び付けた例は、他にもまだ有るだらうが私は右の二つしか知つて居ない。岩手山麓の雫石といふ村の話は、同じ説話集に載つて居るが、是は兎が熊をいぢめた例であつて、從つて爺婆の狸汁とは何の關係もない。それをやゝ詳細に紹介して見ると、熊は鈍八だからうんと稼いで伐つた薪を負ひ、おまけに兎まで背に載せてやつて還つて來る、途中で背の兎がカチリカチリと燧石で火を切る。「兎どのあの音は何でござる」と熊が訊くと、「あれはカチリ山のカチ鳥の聲さ」と答へる。それから大火傷をしてうん/\と唸りながら、熊が一つの山を越して來ると、兎はちやんと先廻りをして、路傍で藤蔓を切つて居る。さつきはよくも騙して火傷をさせたなといふのに對して、「前山の兎は前山の兎、藤山の兎は藤山の兎、おれが何知るべさ」と答へるので、それも尤もだと熊は思つて、兎にすゝめられて藤蔓で手足を卷いて山の側を轉げて見たが、面白いどころか死ぬほどの苦しみであつた。漸うのことで起き出して見ると、兎はとつくに逃げて蓼味噌をこしらへて居る。藤山の兎は藤山の兎、蓼山の兎は蓼山の兎だ。おれはそんなことは少しも知らぬ。うち身で痛むなら此味噌を塗つてはどうかと、又其傷に蓼をこすりつけてうんと熊を苦しめる。さうして最後には杉山の兎になつて、熊は黒いから土の舟、兎は白いから杉(245)の木の舟に乘つて出ようと、誘ひ出して殺してしまふのである。是が婆に化けて婆汁を食はせた罰でもなく、單に賢いと愚かとの差なのだから惨酷である。さうして此話には、更に死んだ熊を爺さんの家に持つて來て、熊汁をこしらへて一人で食ひ、頭の骨を爺さんにかじらせて齒拔けにした話が附いて居る。憎い兎だととつつかまへて子供に番をさせて置くと、又其子を騙してうまく逃げおほせたことになつて居る。斯うなると馬琴などの喋々した白兎の信用はまるでゼロである。
 
          一一
 
 この昔話の或土地限りの新作でない證據には、近頃世に出た加賀の江沼郡昔話集にも、一つの類型が採集せられて居る。もう破片であるが、やはり兎が騙して熊を燒き殺すのである。それを農家へ持込んで、子供をだまして鍋を借らせ、自分だけで熊汁をこしらへて食つてしまふ所までが岩手縣の例と同じ話であり、是も爺に逐はれて尻を叩いて逃げて行くと謂つて居る。丸で狸と兎との二役を兼ねて居るのである。かちかち山の話は爰にも別にあるのだが、それも狸を誘うて薪を苅りに行くときに、自分は少しも働かずに、狸にばかり荷を負はせて還つて來たといふことになつて居て、まだ持前の横着さを留めて居る。乃ち爺に代つての兎の仇計といふことが、後の取合はせであつた證據である。
 それから今一つ、同じ石川縣南部には、兎と蟇との話がある。二人が餅を搗いて臼のまゝ山から轉がして、一方は空の臼を追うて遠く走り、足の遲い蟇は途中の木に引掛つて居る餅にありついたといふ話は、土地によつては猿と蟹、猿と蟇との競走にもなつて居るが、北陸ではこゝでも越後でも猿の代りに兎が出て來る。さうして加賀の兎は餅をしてやられた口惜しまぎれに、蟇を騙して燒討ちをするのだが、是にも兎が火を打つ音を聽いて、「兎どん/\チンチンいふのは何ぢやいの」、「ありや山のチンチン鳥や」、次には又小屋が燒ける音を、「ありや山のボウボウ鳥や」と謂(246)つたやうな問答が行はれて居る。つまりは一種の誤解の滑稽が、昔話を愛する者の興味の中心であつて、兎はたゞ其一幕の役者として、夙くから記憶せられて居たといふに過ぎぬかと思はれる。
 かちかち山といふ珍しい言葉の起りも、斯ういふ順序を辿ると大よそは判つて來る。つまり本來はさういふ聲で鳴く鳥の名としたのを、蓼山樺皮山などの話のつゞきで、無造作にかちかち山としてしまつたのである。前に掲げた「牛方山姥」の諸國の民譚には、牛方が先まはりをして敵の山姥の家に遁げ込み、隱れて居てうまく仇討をしたことを説くものが多いが、其中にも折々このカチカチ鳥が出て來る。たとへば備前邑久郡の山姥が、風呂に入つて寢た所を下から焚かれる條にも、
   カチカチ鳥が啼き出いた
   はや夜も明ける
   ドンドン鳥が啼き出いた
   はや夜も明ける
と山姥が獨語するしんみりとした語りがある(岡山文化資料三卷四號)。隣の鳥取縣でも山姥が燧石の音を聽いて、
   キチキチ鳥が啼くさう
   夜も深いな
それから竈の火の燃え上る音を、
   バウバウ風が吹くさう
   大分あたゝかくなつた
などゝ、只の婆さんでも謂ひさうなことを謂つて居る(因伯昔話)。阿波の名西郡の「繼子の椎拾ひ」話では、鬼婆の家に宿を求めて、やはり釜の中に寢た鬼婆を焚き殺すのであるが、是も鬼婆は身に迫つた危險を知らずに、
(247)   カチカチ鳥が啼いたんぢやさうな
   ポンポン鳥が啼きよんぢやさうな
などゝ(昔話研究三號)、氣樂な獨語をするのを子供たちはをかしがつて聽いたらしい。妖怪を退治するといふやうな、人間社會の最大事件でも、昔話になつて何千萬囘と無く語つて居るうちには、追々とこちらの望みに靡いて、此樣に容易な又滑稽なものになつてしまふことは、必ずしも牛方山姥の一篇のみでない。ましてや獣類相互の間の聞爭や外交などは、どうなつた處で人間の責任では無い。故にルナールやライネッケの文學は、どこの國でも奔放に發達するのである。但し民族の異なるにつれて、高みの見物にも色々のちがつたひいきが出來て來る。それを國民氣質の反映の如く見ることはどうかと思ふが、我々は熊の鈍重を憫れみ、狸の無知を齒がゆく思ふの餘り、兎の敏捷に對してはさう多分の好意は寄せて居なかつたのである。それが今ある形のかちかち山の成立によつて、急に兎はいゝ男になつたとすれば、それは偶然であり又誤解によるものと言はなければならぬ。獨り一篇のかちかち山のみといはず、あらゆる文物は皆變遷して居る。その變遷のたつた一つの段階に由つて、全部を價値づけるやうな態度を取らうとすれば、人生は決して昔話の聽衆の如く、朗かな又幸福なものでは無いであらう。
 
(248)     藁しべ長者と蜂
 
          一
 
 「藁しべ長者」は昔話の名であるが、私はこの多勢の若い諸君を捉へて、昔話などを聽かせようとするほど我儘ではない。たゞ日本の民間説話研究が、最近どの程度まで進んで來たかを報告するのに、一つの實例を以て解説することが便利で、又印象が多からうと思ふだけである。獨り説話の方面だけでなく、他の多くの民間傳承の問題にも、今日は既に適切にして且つ興味の多い資料が色々と現はれて居る。それを援用しようとせずに徒らに談理を事とするのは、無益な心力の浪費だと思ふ。どうか是からは斯ういふ話のし方の少しづゝ流行する樣にしたい。
 我々の昔話採集は、グリム兄弟の時より、ちやうど丸一世紀おくれて居る。併し單なる採集だけから言へば、ペロール以來の佛蘭西の説話集の方が、獨逸より又數十年早いのだが、保存だけでは實は效果が乏しい。集めてどういふ目的に供するかの態度如何によつて、採録の價値に大きな等差が出來ることは、現物が既に證據を示して居る。即ち我々は一通りの理解と、もつと細かに昔話の成立ちを知らうといふ熱意とを、豫めもつてかからねばならなかつた。それを用意して居るうちに採集はおくれる。日本では幸ひに、先づ間に合つてよかつたと言ひ得るのだが、幾分の遲延の損失を忍ばねはならぬ。地方の昔話はもう可なりこはれ損じ、且つ一方には前代文藝に對するやゝ間違つた考へ方が蔓こつて居る。是を訂正するだけ餘計の仕事が附け加はつて居るのである。
(249) 國の文藝の二つの流れ、文字ある者の間に限られた筆の文學と、言葉そのまゝで口から耳へ傳へて居た藝術と、この二つのものゝ聯絡交渉、といふよりも一が他を育くみ養つて來た經過が、つい近頃まで心附かれずに過ぎた。昔話のやゝ綿密なる考察によつて、始めて少しづゝ我々にわかつて來たのである。是はたしかに遲過ぎる。所謂説話文學に限らず、歌でもことわざでももとは一切が口の文藝であり、今でもまだ三分の一はさうだ。現にカタリモノなどは、活字になつても尚カタリモノと呼ばれてゐる。即ち少しも筆を捻らぬ人々の隱れたる仕事のあと始末だつたのである。それが文人を尊敬するの餘りに、悉く皆縁の下の舞になつてしまつた。讀者といふ者の文藝能力を無視して、大衆はアレキサンドル大王の兵士の如く、どこへつれて行つて討死させてもよいものゝやうになつた。まことに淺ましいへりくだりだと思ふ。この心持を改めて、文學を總國民の事業とする爲に、この私の「藁しべ長者と蜂」が、少しばかり入用なのである。
 今日の大衆文藝が、いつ迄たつても講釋師のおあまりを温めかへしたやうなものばかりで、前へもあとへも出て行けないのを見た人には、聽き手又は讀者に指導せらるゝ文藝などは、不愉快な拘束だと思はれるかも知らぬが、私たちの見た所では、是とても中代の屈從の名殘であつて、以前は今すこし自由に、書かぬ人たちも空想し得た世の中があつたのを、紙と文字と模倣性とが、あべこべにこのやうに型にはめ込んだものと思つてゐる。此點は武家時代に入つてからの、文學のマンネリズムを見た者には、すぐ氣づかれる筈だが、一方には又口承文藝の若干の比較によつて、いと容易に之を立證し得る望みもある。大體に多分の言説を費さずして、單なる事實の排列だけから知られるものを知るのが我々の理想だが、今日は採集がまだ半途なるが故に、折々の假定が必要になつて來る。それが當るか否かをためすのを、私たちは又一つの樂しみにしてゐる。さうしてなるべく當りさうなものを擇んで御話したいのである。
 
(250)          二
 
 藁しべ長者は藁しべ一本から、次第に立身して長者になつた昔話である。さがしたら世界のどこかの隅にも、きつと同じ型のものがあることゝ思はれる、至つて單純な、しかも愉快な空想談である。私は日本昔話集の中に、宇治拾遺物語を現代譯して、此話を載せて置いたが、それと今昔物語卷十六の、參2長谷1男依2觀音助1得v冨語第二十八とは、先づ同じ話といつてよいはどよく似て居る。人によると宇治拾遺は今昔を讀んで書き直したやうにいふらしいが、それはまだうつかりとは信じられない。如何にも雙方に共通の話は十幾つかあるが、一つの土地でほゞ同じ時代に、説話集を書けば重なるのは當り前で、當時この話の有名だつた證據にはなつても、乙が甲から採つたといふ事にはなり難い。寧ろ知つてゐたら避けたかと思ふから、是は御互に見せ合はなかつた證據かもしれぬ。二つの話集でどの點がちがつてゐるかを見て行く爲に、こゝで御承知の人も多からうが筋をざつといふと、長谷の觀世音の御告げによつて、藁しべをたつた一筋、手に持つて下向する途すがら、虻がうるさいので其藁でゆはへて(虻のこしを藁でしばるとは寫實でないが)、木の小枝につけてもつて行く。それを參詣の貴人の兒が、車の中から見てほしがる。
  前の簾をうちかつぎてゐたる兒の
といふ繪のやうな記述がある。今昔の方は、
  車ノ簾ヲ打チ纏テ居タル兒有り
とあつて、寧ろやゝ文章化してゐる。快く進ぜると禮に蜜柑を三つ下さる。それを今度は咽が乾いて死にさうになつてゐる徒《かち》參りの上臈に與へると、大悦びで御禮には白布三反(こゝのところが宇治拾遺の方は少しくどい)、次に名馬の頓死したのを見て布一反と交易してしまふと馬はすぐ生きかへる。京都の入口まで乘つて來て、是から旅に出ようとして居る家に賣るのである。このあとが二書は可なりちがつてゐる。一方は馬の代物に、この附近にある田一町(251)と米少しを與へたとばかりであるのに、宇治拾遺の方では田を三町、おまけに此家もあづけて置くから住め、歸つて來なかつたらずつと居てよろしいといつて、馬の買主は出立する。さうして終に歸つて來なかつたのだから、自然に男はこの大きな家の主になるのである。今昔の方の話のやうだと、ちよつと長者になるのに手間がかゝりさうに思はれる。この話し方の相違は、果して宇治拾遺の筆者の添作といへるであらうか。私には別にさういふ話し方もあつたものとしか思はれない。
 次に無住法師の雜談集卷五の例を比べて見ると、是は非常なる略筆であるが、もうその中にすら、具體的な變化が見られる。たとへば路で名馬を乘り倒した武士を、
  大番衆ノ大名ゲナルガ、七大寺詣デシケル。引馬ノ稻荷ノ邊ニテ、俄ニ病テ臥シマロビテ、半死半生ナルヲ云々
とあつて、場所は奈良路の光景が特に畫き出されてをる。それから其馬を求めた人のことを、
  太宰大貳ノ筑紫ヘ下リケルガ見テ、此馬ハ賣物カト問テ云々
と記して、在任四年の間島羽の田代二町を預ける、留守して待てといつたので、
  四ヶ年待立テヽ留守シ疊サシナド用意シテ、一任スギテ上洛シタリケルニ、イミジキ物ナリトテ後見シテタノシカリケリ。
といふことで、人の家來となつたのだから、もう長者の話ではない。是などは殊に他の二種の記録を見てゐたのならば、必ず斯うは書かなかつたらうと思ふ。
 しかもこの三つの記録は同じ話である。當時長谷寺の御本尊の靈驗を語り傳へる定まつた型があつて、之を耳にした者の數は、寫本の文學を眼に見た人よりも遙かに多く、同時に之を口にする者の數も亦、寫本の數よりはずつと多く、且つ弘く分布してゐたことが想像せられるのである。長谷の靈驗はこの一つの説話以外にも、筆録せられたものが色々と世に傳はつてゐる。遲くまで文字には現はれないが、もとはこゝから出たかと思ふ民間の語り草もなほ多い。(252)之を運んで遠國の田舍まで流布させた者が、如何なる組織をもち、又どういふ種の仕入れ方をしてゐたか。興味ある課題であるが、今はまだわかつてゐないのである。今日のところで問題になるのは、安藝國昔話集(一一〇頁)に、呉市に古くからあつたといふ一話で、これは長谷とは無いがやはり觀世音の御告げで、寺を出て最初に手にふれたものを持つて行けと教へられ、藁一本が虻になり、蜜柑になり布三反(布子とある)になり、馬になり田地の占有になる順序は全く同じい。たゞちがふのは咽が乾いて死にさうになつた旅の上臈が、こゝでは或土地の呉服屋となつてゐる。これが、
 一、 宇治拾遺を曾て讀んだ者の記憶に出たか、
乃至は、
 二、筆録以前の長谷寺縁起が、別に保存せられて今まであつたか
は、決しかねるといふ方が安全だらうが、大體先づ前の方と見て誤りはあるまい。説教の種本には可なり中古の説話集がよく利用せられ、是がまた此等の本の今まで傳はつて來た一つの力でもあつたのである。さうすると一旦既に文書に固定した傳承でも、なほ歩詣りの女性を旅の呉服屋とし、又は早朝に旅立する家の前に行きかゝつて馬を賣付けた話を、一夜の宿を大きな家に求めて、主人から留守を托され馬を所望されたといふ風に、語りかへる迄の改作は有り得たのである。是はもと單なる忘失かもしれないが、少なくとも原書を傍に置いてそれに依つたのでなく、説話は一旦記録になつてから後も、尚俗間には之を成長させ變化させる力を具へてゐたのである。さうして我々の筆と紙は、昔も今もそのたつた一つの段階をしか、跡づけることを許さぬのである。
 同じやうな例は東北に今一つある。紫波郡昔話(一六九頁)に蜻蛉長者といふ名で、是も或觀音に祈請して福を得た説話の、順序ほゞ同じきものがある。但しこれは藁しべ一本ではなくて、御寺の門を出て最初に轉んで手につかんだものが、もうちやんと蜻蛉を結はへた馬の尾の毛であつた。(是は京都の人のやうに、藁しべで虻の腰がしばれるも(253)のとは思へなかつた爲かと思ふとをかしい)。それを多くの供をつれた立派な和子さまに與へて、蜜柑をたつた一つ貰つたまでは同じだが、咽が渇いて弱つて居る女の條は全くなくて、そのたつた一つの蜜柑を以て、名馬の死にかゝつたのと交換したことになつてゐる。それからもう一つは小さいことのやうだが、觀音樣の御告げに、「最初手に持つたものは放すな」の外に、「人の爲なら何でもせよ」の一條が附加してあるのは意味があると思ふ。根本が宇治拾遺の知識から出たにしても、それから後幾人かの耳と鑑賞とを經て、やはり或土地或時代の人の悦ぶ形に、説話は改まらざるを得なかつたのである。
 
          三
 
 そこで我々に明かになつたことは、文書が文藝の外形をきめてしまはうとする傾向と對立して、別に民間には之を變化させ成長させる力があり、それが少なくとも鎌倉時代以後、常に働いてゐたこと是が一つ、今一つはそれにも拘らず、語りごとの中心をなしてゐる最初の趣向が、連綿として六百年、文字と縁の薄い者の間にも尚保存せられてゐたといふ事である。もしも直接に今昔・宇治拾遺などが支持してゐた結果でないとすると、同じ?勢は是等の文學以前から、既に始まつてゐたといふか、或は更に進んで、説話固有の性質によるものといふことが出來ると思ふ。それを是からの各地の採集が、立證し又は反證するわけである。
 今日既に知られてゐる若干の藁しべ長者話からでも、長谷寺觀世音の靈驗を語る爲に、全然利用せられなかつた同種の傳承が、幾つかあることだけは大よそ判つた。さうすれば是は成書以前からのものといふことが出來るかと思ふ。是に對しても意地わるく、いや觀音信仰の傳道者の手をはなれた後に、斯ういふ風に話しかへる者があつたのかも知れぬと、水掛論を試みることは出來るやうだが、幸ひなことにはこゝに一匹の小さな虻がある。是がどうして突如として、藁しべ一本の話に入つて來たらうかを考へて見ることによつて、幾分でもその今昔以前の存在が窺はれるので(254)ある。
 この別系統と思はれる「藁しべ長者」話は、長谷寺の靈驗記には全く觸れて居らぬやうな、幸福なる婚姻と結びつけて説かれるものが多い。壹岐島昔話集(一七〇頁)には、虻も蜂も出て來ないが、運勢の意外な段々のぼりを説く點に於て、前の話と幾つかの一致を示し、又他の一方の話をも代表してゐる。貧乏な家の一人息子が、富裕な隣家の娘を懸想する。藁しべ一本を金千兩にして來たら聟にとると、娘の親がいふのでそれを試みる。是にも「人の爲なら何でもせよ」の教訓が下に含まれてゐる。最初に老人が風で植木の倒れるのを防いでゐる所へ行つて其藁をくれてしまひ、御禮に芭蕉の葉を一枚もらふ。それを雨に困つてゐる味噌屋の蔽ひにくれて、又御禮に三年味噌を一玉もらふ。これを或家にとまつて盲婆と共に食ふと、あゝ鹽辛いと飛上つた拍子に眼があくといつて、そろ/\こゝへ笑話化の分子が入つて來る。御禮には爺の殘した剃刀、それで旅の武士の月代を剃つてやつて、禮に又脇差をもらふ。その刀がはからずも名刀であつて、殿樣から大金を拜領して、目出たく約束の娘の聟になるのである。
 五島民俗圖誌(二四四頁)に出てゐる上五島の有川の話は、少しばかり新らしくなつてゐるが、主人公は孝行息子で、父の草鞋作りの殘りの藁三本を賣りに出る。葱を洗ふ女に所望せられて其藁をやり、禮に葱を貰つて或家の祝宴に、葱を求めてゐる所へ行合せて亦やつてしまふ。今度は御禮が三年味噌だが、それを人に與へて錆刀をもらふ點が少し心もとない。とにかく其刀を以て大蛇を斬つて、美しい娘を助け、それを見て居た寺の和尚に、其刀を千三百兩で買はれる。父が大いに悦んだとあるのみで、その美しい娘と婚禮したと迄はないが、以前の形は大よそ想像し得られる。
 喜界島の話(昔話研究一卷五號)は、繼母に逐出された兄弟の出世話で、藁しべの發端はないのだが、その兄の方が流浪の旅に於て、餅つく家で餅をもらひ、それをくれた御禮に、味噌つく家から味噌をもらひ、又それを人にやつたので、山奧の家から寶物の刀を御禮にもらふ。それを佩びて池の端に睡つてゐると、刀がおのれと鞘を出て鬼を追ひはらふ。殿樣がそれを見て居て、刀を所望するがくれないので、つれて歸つて娘の聟にする。味噌から刀への順序だ(255)けは、三つの島の話は同じである。
 南島説話(九三頁)に、沖繩の話として載せであるものは、屍が黄金に化した話と複合してゐるので一部分しか殘つてゐないが、やはり親の遺産は藁一本しかない男が、それを首にかけて旅に出で、それを味噌屋に賣つたことになつてゐる。其價の一文餞を首にかけて、或寺に奉公したとあつて後は第二の話になるのである。長谷寺の舊話に、「柑子三つを陸奧紙の清げなるに包みて」とある部分が、どういふわけでか四つの島では共に味噌である。三年味噌は勿論上古からあるわけでもあるまいが、さりとて最初からこれが非時香菓であつたとも思はれない。何か今一つ前の共同の意外なものがあつたのである。
 
          四
 
 ところがこの同じ三年味噌の話が、更に東北の田舍にかけはなれて分布してゐる。一つは老媼夜譚(二三五頁)に、陸中上閉伊郡の昔話として、昔、ならず者の息子が親から勘當されて、其しるしに藁しべ一本をもらつて出た。途中山路で朴の葉を拾ひに來た娘が、葉を風に吹飛ばされて困つてゐるのを見て其藁しべをやると、悦んで御禮に朴の葉をくれた。それを持つて或町を通ると、又女が味噌を求めて包むものがなくて困つてゐるので、朴の葉をやるとその味噌を分けてくれる。それを携へて宿屋にとまり、味噌と粉との出し合ひをして團子をこしらへて食つたとあつて、其あとが全く縁のない「笑ひ骸骨」の話につゞき(これには味噌桶につき込まれた死骸の條はあるが)、もう少しも味噌のことを言はないのは混線であらうと思ふ。無闇に自分に都合のわるい話をまちがひといふのはいけないやうだが、是には相應な理由がある。同じ岩手縣でも膽澤郡で採集せられた話が聽耳草紙(六五頁)に出てゐる。さうして此一例が最もよく、遠方の壹岐の昔話と似てゐるのである。ある金持の家で聟探しの高札を門に立てる。その難題が三つあつて、第二のものが藁しべ一本を千兩にして來ることであつた。男がその打藁をもつて町をあるくと、向ふから朴の(256)葉を括りもせずに、風に吹飛ばされさうにして持つて來る人がある。それに其一本の藁をやつて、これで括るがようがすと教へると、御禮に朴の葉を二枚くれる。それをもらつて又行くと、今度は味噌賣が三年味噌は/\と賣りに來る。味噌の入物には蓋も何もしてないので、これを味噌の上にかけておくがようがすと、その朴の葉二枚をやつたら、又禮に味噌玉を二つくれた。之を持つてあるいて日が暮れたから、ある立派な家に泊めてもらつた。ところが其家の旦那樣が病氣で、三年味噌を食はぬとどうしてもなほらぬといふのに、それが手に入らない。それで早速進上すると非常な欣びで、命の禮だと千兩をくれたといふのは、ちつとばかり一足飛びな話である。或は此中間に名刀名馬の如き一段があつたのが落ちたのかも知らぬが、兎に角結末から見て西端壹岐の昔話と別の話でないことだけはよくわかる。もしも長谷寺の靈驗記を改作し、もしくは間ちがへたとすれば、數百里の山川を隔てゝその歩調を一にしたといふ事が、到底説明し難くなるのである。從うで斷定はまだ出來ぬにしても、これが又一つの獨立した傳承であつたと推測することまでは許される。さうして兩者どちらが前からあつたか、又古く我々の中に在つた話に、より多く近いのはどちらかといふ問題も生れて來るのである。
 それを解決する一つの手掛りとして、ちやうどこゝへ長谷寺の虻を引合ひに出して來るのが都合がよいと私は思つてゐる。今昔物語以下の二三の文獻では、虻が最も似つかはしく又説話のあやをなし、朗かな春の朝の光景を描いてゐるが、これは長谷觀音靈驗談の獨得の手法で、虻は日本の民間説話の中には、絶對にといつてよいほど現はれて來ないのである。さうして蜂ならば我々の難題聟入話に、必ず常にといふ位につきまとつてゐる。現にこゝに擧げた陸中膽澤郡の話などもさうである。この聟入話には四つの難題がついてゐる。第一の條件は森の中の化物退治で、全然私の話とは關係がないが、第二は右申す藁しべ一本を千兩にして來る事で、それに成功すると、今度は後の唐竹林に唐竹が何本あるか、日暮迄に算へて來いといはれる。あんまり多いのでぼんやりつつ立つてゐると、そこへすがり即ち蜂が飛んで來て、
(257)   三萬三千三百三十三本ブンブンブン
と唸つたので、それを其通り報告する。村中の人を頼んで算へさせて見たら、果して其通りであつたのでこれも大成功。次には三人ある娘を同じ衣裳を着せて竝べて、どれが御前にやる娘かあてゝ見よと、又無理なことをいふ。即ち源三位頼政もしくは源太景李の逸話と傳へらるゝ「いづれあやめ」と同じ話である。マックロックやジェデオン・ユエの民間説話論中にも頻りに説いて居るやうに、嫁まぎらかしの風習の名殘か否かは別として、諸國の昔話に例の多い一つの趣向で、それを或昆蟲に教へてもらふといふ例が、歐羅巴にも幾つもあるさうだが、この陸中の話に於ても、男が困つて廁に立つと、蜂が出て、
   中そだブンブン、中そだブンブン
と教へてくれる。それを言ひあてたので流石の長者も我を折り、とう/\此男が長者の聟になるのである。
 
          五
 
 話があまり長くなるから、此あとは手短かに類例だけを擧げる。蜂に教へてもらつて長者の娘を得る話は外にもある。同じ聽耳草紙(六二頁)にも、秋田縣角館のが一つ出てゐる。これは三人の下男の一人が聟になつた話で、主人が屋根の上から、一間四方もある大石をころがし落し、これを受留めたものに一人娘をやるといふ。自信が無いので太郎は野原へ出て草を苅つてゐると、どこかで歌をうたふ聲がする。それは一ぴきの蜂であつて、
   石ではなくて澁紙だア
   澁紙だア、ブンブンブン
といふので、難なく大手をひろげて、其大石をかゝへ込んで聟になつた。其蜂といふのが前に子供にいぢめられてゐたのを救つてやつた恩返しであつた。
(258) 飛騨の丹生川の昔話は「ひだびと」(四卷三號)に採録せられてゐるが、是も山の木の數を算へ得たものを聟にする約束で、山に入つて閉口してゐると、曾て命を助けてやつた蜂が、
   千三ブーン、千三ブーン
と唸つて内通してくれたとある。
 信州でも小縣郡民譚集(一九三頁)に、やはり他の話と複合してゐるが、聟になるのに三つの難題を解くべきを、三つとも蜂に教へてもらふ。其一つは山に入つて大木のはりの木を伐つて來いといはれた所が、蜂の歌に、
   向ふ山のはりの木は
   かーみで張つたはりの木だ
   ハーズルズルン
と鳴いて歌つた。次には裏の山の木を算へよといはれると、
   うーらのやーまの木の數は
   三萬三千三百三十三本ブーン
と、木の數までが奧州と同じであり、最後に同じ髪同じ嫁支度の三人の娘を、どれがさうかと迷つてゐると、又蜂が小聲で、
   お酌にさせ、ブーン
と告げたので、銚子を持つ娘が嫁だといふことをいひ當てた。
 だから長者の聟になる難事業を、蜂の援助によつて爲しとげた昔話は、日本にもと流布してゐたことがわかる。さうして現在は東北にたつた一つ、しかもたゞ一續きにつながつてゐるといふだけで、藁しべ一本をもとでに妻覓ぎの條件を充したといふ話と、蜂の援助によつて成功した話とが、前には結合した例もあつたことが察せられるのである。(259)かの長谷寺の虻も三書に共通で、明かに筆者の潤色ではなく、語部の口に傳はつてゐたものだが、假に意識して蜂の援助を繼承したのでない迄も、少なくともその構想を暗々裡に支配してゐたものが、或小さな羽蟲の隱れたる力であつたといふことはほゞ明かである。假に此推測が當つてゐたとすると、二つの今まで心づかれなかつた大切な點がわかつて來る。第一には我々の傳承には、表と裏と、外形と内部感覺と、二通りの路筋があつたらしいといふことである。第二には大きな動物の援助譚よりも、蟲や小鳥のやうなものゝそれの方が、一つ古い形であつたらしいことである。命を助けた恩返しといふやうなことが、蜂についても稀には説かれてゐるが、それは如何にも有り得ざることに聽える。所謂アニマル・スクラァブル、即ち何等の義理もないのに、尚或特定の人を助勢する動物があつたといふ話は、曾て精靈のかゝる小さな生物の形で去來することもあるやうに考へて居た、上代信仰の痕跡であつたといふ説が、無理なく斯ういふ場合にはあてはまるやうに私は思ふ。盆の魂祭月にことに注意せらるゝシャウリャウバッタ、シャウリャウヤンマ・ホトケノウマなどには、日本では俗信そのものもまだ幽かには傳はつてゐる。昔話の方でも小鳥の前生が人であつたことを、中心にして居る昔話の多いことなどは、其傍例と見るべきものであつた。
 蜂は此點にかけては、特に意味の深い役割を、日本の民間文藝の上に持つてゐた。昔話にあらはれて來るだけでも、前に掲げた難題聟以外に尚二つ、一つは夢を買ふ話で、二人の貧しき旅人が路の邊にいこひ、一人が寢てゐて黄金を發見する夢を見る間、その鼻の穴から蜂が飛んで出て、やがて歸つて來るのを他の一人が見て居た。つまり魂が此蟲の姿をして飛びあるくといふのである。これは豐後にも甲州にも越後にもあるが、加無波良夜譚(一頁)に録した、佐渡の白椿の話だけは、その出てゆくものを「虻が一匹」と傳へて居る。それから今一つの蜂は、例の「打たぬ太鼓に鳴る太鼓、うそふき口の袖かぶり」の話にも用ゐられてゐる。今では和尚と小僧の困らせ合ひ、又は下男の頓智とか、なまけ者の金儲けとかの、笑ひ話の列までおちぶれてゐるが、九州と奧羽の兩方の端には、やはり今一つ古い形が數多くのこつてゐる。普通我々は之を「天人女房」と呼んでゐるが、その天から嫁に來た美しい女房を取上げよう(260)として、殿樣が色々の無理な命令を出す、それを一つ/\女房の才覺でなし遂げるのだが、灰繩千束とか、馬の親子を見わけるとか、材木の本末とか、蟻通しとかいふ親隱しの話と共通のものゝ外に、必ずついて居るのは「雷神《なるかみ》の子をつれて來い」と、今一つはこの「打たぬに鳴る鼓」である。現在のは何れもそれが出來ぬならば、女房をさし出すべしといふ眞野長者式になつてゐるが、既に今昔物語(卷三十一)の竹取翁の話にも、あまたの懸想人に對する姫の望みごとゝして、この二つの條件が掲げられてゐるのを見ると、本來は是も亦難題聟の系統に入るべきもので、もうあの頃から得がたき長者の娘を得る事業に、蜂が介助した昔話が生れてゐたらしいのである。
 現在まだ少しも調査せられてゐない遠くの小島、又は山あひの村々の昔話が、もし豫定の如く追々に集まつて來たら、この私の假定の正しいかどうかはやがて明白になると思ふが、それも遠いことではない(あまりひまがかゝると實はもう間に合はない)。他の一方四隣の民族の間にも、可なり比較に値する材料がまだあるらしい。それと今日は全く觸れなかつたが、歐洲舊國の類例が細かく參考せられて行くならば、どうして蜂ばかりが特にこの樣に、人間の幸運に力添へをなし得るものと、想像せられるやうになつたかも、説明し得る時が來るであらう。至つて小さく美しい神が、蜂に乘つて空を飛ぶといふ妖魔の空想など、研究の手掛りはまだ幾らもあるらしいのである。それ迄は自分には手がまはらぬ故に斷念してゐる。たゞ尠なくとも現在の横斷面に於て、國内の各地に頭を出してゐる昔話には、一つ/\の年齡と變化の段階があつて、若い者も知つてゐるから新しい話とはいへぬ如く、書物に出てゐるからその方が更に古いと速斷することは出來ぬこと、及び其出現と進化の順序を知る鍵は、意外な小さなものゝ中に在つて、行く/\この茫漠たる過去の雲霧を押開いて、一つの民族の智能と文藝感覺の展開して來たあとを一目に見ることも、さまでの空想ではないといふこと、この二つを力説して置くだけは自分の任務だと心得てゐる。
 
(261)     うつぼ舟の王女
         ――ペルヴォントと※[ワに濁点]ステラ――
 
          一
 
 昔々、ペルヴォントといふ貧乏で懶け者で、見つともない顔をした青年があつた。母にいひ付けられて薪を刈りに行く路で、野原に三人の子供が石を枕にして、暑い日に照らされて睡つて居るのを見た。可哀さうに思つて樹の枝を伐つて來て、きれいな小屋根を掛けて日蔭を作つて遣つたら、子供たちはやがて目を覺まして大そう其親切を悦び、「お前の願ひ事は何でも叶ふやうに」と言つてくれた。三人は魔女の兒であつた。それから森に入つて、木を伐つて居ると草臥れてしまつたので、あゝあゝこの薪の束が馬になつて、私を乘せて行つてくれるといゝがなと、いふ口の下から薪の束があるき出した。さうしてペルヴォントを乘せてとこ/\と、町の方へ還つて來た。
 王樣の娘の※[ワに濁点]ステラが、御城の高い窓から顔を出して、薪に乘つて來るこの若者を見て笑つた。まだ生れて一度も笑つたことの無い※[ワに濁点]ステラが高笑ひをした。するとペルヴォントは腹を立てゝ、「御姫樣孕め、わしの子を生め」と謂つたところが、是も忽ちその通りになつた。父王は驚いてどうしようかと思つて居るうちに、月滿ちて黄金の林檎のやうな美しい二人の男の兒が生れた。
 そこで家來たちと相談して、その兄が七つになつた年に、國中の男を集めて父親を見つけさせようとした。第一日(262)には大名小名を集めて宴會を開いたが何のことも無い。二日目には町の重だち金持ちを招いて見たが、二人の子供は知らぬ顔をして居る。終りの三日目には殘りの貧乏人たちが喚ばれて、其中に醜い姿をしたペルヴォントもまじつて居た。さうすると二人の子は直ぐに近よつて、しつかりとその手を取つて離さなかつたので、彼の兒であることが顯はれてしまつた。王樣はいきまいて母の姫と兒と彼と四人を、うつぼ舟に押入れて海へ流してしまへといひ付けた。
 腰元たちがそれを悲しんで、乾葡萄と無花果とを澤山にうつぼ舟へ入れてくれた。さうして風に吹かれて海の上へ出て行つた。姫の※[ワに濁点]ステラは涙を流して、お前は何故に斯んなひどい目に私を遭はせたかと問ふと、葡萄と無花果とを下さるなら話しませうと言つた。それを貰つて食べてしまつてから、ぼつ/\と薪の馬の日の話をした。お姫樣は溜息をついて、それにしてもこの樣なうつぼ舟の中で、四人が命を棄てゝしまつてどうならう。もしも願ひ事が何でもかなふならば、早く是が大きな屋形船に變つて、もと來た海邊の方へ還るやうに願ひなさいと言つた。さうするとペルヴオントは、もつと其無花果と葡萄を下さるならばと答へた。
 若者の願ひ事は直ぐに叶つた。愈船は陸に着いたから、爰に廣大な御殿が建つて、家來も諸道具も何でも揃ふやうに、願つて下さいと姫が勸めると、それも即座に其通りになつた。折角御殿が出來ても、あなたが其顔ではしやうが無い。早くりゝしい美青年に變るやうに、願つて下さいと頼んでその願ひ事もかなひ、悦んで四人仲よくその御殿に住んで居た。
 そこへ父の王樣が狩に出て、路に迷うて偶然に訪ねて來る。二人の子はこれを見て、お祖父樣お祖父樣と大きな聲で言つたので、忽ち今までの一部始終が明らかになつた。それから善盡し美盡した御取持を受けて、王樣は大いに喜び、聟の一家を王城に呼び迎へて、めでたく其國を相續させることになつたといふ話。
 
(263)          二
 
 バシレの五日物語(ペンタメロネ)の一の卷に、始めてこの昔話が採録せられてから、もう彼是三百年になつて居る。斯んな輕妙な又色彩に富んだ物語が、一つの昔話のもとの形であつた筈は無いのだが、西洋の説話研究者の中には、此本が餘り古いために、丸のまゝで其起原を説かなければならぬ樣に、思つて困つて居る人も有るらしい。實際また後に發見せられた國々の昔話は、どれもこれも形が是とよく似て居て、たゞ比較の數を重ねて行くうちに、最初力を入れて語つて居た點が、案外な部分に在つたといふことに氣づくだけである。つまり十七世紀よりもずつと以前、又恐らくは歐羅巴以外の地に、既に話術といふものゝ發達はあつたので、それが又頗る今日のものと、異なる法則に指導せられて居たらしいのである。
 グリムの第五十四話Aの「愚か者ハンス」では、如何にしてとんまの青年が、願ひ事の何でもかなふ力を持つに至つたかを述べてない。其代りに父の王樣が訪ねて來た時に、姫が知らぬ顔をしてもう一度男に「願ひ事」をさせる。寶物の玉の杯がいつの間にか老いたる王のかくしに入つて居て、王樣は盗賊のぬれ衣を干しかねて當惑する一條が附いて居る。それ御覽なさい。だから無暗に人に惡名を着せてはいけませんと言つて、始めて親子の名のりをすることになつて居る。ジェデオン・ユエの民間説話論の中には、多分最初は斯んな形であつたらうといふ想像の一話を復原して載せて居るが、是も結末にはこの小さな仕返しを説いて居り、發端は若者が漁に出て物いふ魚の命を宥し、御禮に願ひ通りの力を貰つたことにして居る。それから不思議の父無し兒に、父を見付けさせる方法としては、何か小さな物を其子の手に持たせて、それを無心に手渡しする相手が、誠の父だといふやうに話す例が最も多いさうで、是が恐らく上代の慣習であつたらうとユエは言つて居る。グリムの説話集でも、子供がシトロンの實を手に持つて城の門に立ち、入つて來る國中のあらゆる若者の中で、最も見にくい顔をした貧乏なハンスに、それを渡したことになつて(264)居るのである。
 ユエなどの考へて居る昔話の「最初の形」なるものが、果してどの程度の最初であるかを私は知らぬが、日本に生れて自國の口碑に興味を有つ者ならば、此昔話の複合であり、又ある技藝の産物であることを認めるに苦しまないであらう。少なくとも曾てこの樣な形を以て、人に信ぜられたことがあつたかの如く、説かうとする樣な無理な學問を、日本人だけは受賣りする必要が無いのである。
 
          三
 
 大體この一篇の古い昔話には、八つほどの奇拔な話の種が含まれて居る。その一つは微力な見すぼらしい貧しい青年でも、ある靈の力の助けが有るならば出世をする事、もしくは英雄が始めはそんな姿で隱れて居たことである。是は桃太郎でも安倍晴明でも、日本にも異國にも弘く行渡つた昔話の型であつて、第二の非凡なる「如意の力」と共に、寧ろ餘りに普通であることを、不思議と言はなければならぬ位である。
 第三には處女の受胎、それがたゞ一言のうけび〔三字傍点〕に由つて、忽ち效果を現じた例だけは日本には無いが、其代りには東方の諸國には丹塗りの矢、もしくは金色の矢といふ珍らしい形があつて、神と人間との神秘なる婚姻を語つて居る。第四にはうつぼ舟に入れて海に流すといふこと、是は我邦にも色々の傳へがある。大隅の正八幡では七歳の王女、父知らぬ兒と共に此中に入れられて、唐から流れ着いたのを神に祭つたといふ記録もあり、それは又朝鮮の古代王國の創始者の奇瑞でもあつた。
 第五には小童の英明靈智であるが、爰では之に伴なうて第六の父發兄の方法が問題になる。宮古島の神代史を飾つて居る戀角戀玉の物語に於ては、この二人の女の子のみは、人の怖るゝ大蛇を自分の父と知つて、背に攀ぢ頸を撫でて喜び戯れたと言つて居る。播磨風土記の道王姫の父無くして生める兒は、盟び酒の盃を手に持つて、これを天目一(265)箇命に奉つた故に、乃ちその神の御子であることが分つたと傳へられる。山城風土記の逸文に出て居る賀茂の別雷大神の御事蹟は、恐らく神話として久しく信ぜられたものと思ふが、前の例よりも今一段と具體的である。外祖父の建角身命は八しほりの酒を釀して神々を集め、七日七夜のうたげを催した。それから汝の父と思はん人に此酒を飲ましめよと言つて、杯を其童子の手に持たせると、童子は天に向つて祭をなし、直ちに屋の瓦を分け穿ちて天に昇りたまふとあるのは、即ち御父がこの地上の神で無かつたことを語るものであつた。
 第七には世にも稀なる幸運の主が、妻に教へられ勸められるまでは、少しも自分のもつ力の大いなる價値に心づかず、これを利用しようともしなかつた點、これは日本では炭燒長者の話として傳はつて居る。これが八幡神の聖母受胎の信仰と關係あるらしいことは、「海南小記」といふ書に前に説いて見たことがある。第八の特徴はぺンタメロネにはまだ見えて居らぬが、僅かな人間の智慮を以て、勝手に此世の出來事を批評してはならぬといふ教訓、これが又我々の國に於ては、實に珍らしい形を以て展開して行かうとして居るのである。今日の笑話の宗教的起原ともいふべきものを、深く考へさせるやうな屁の話が是から出て居る。最近に壹岐島から採集せられた一つに、昔ある殿の奧方が屁をひつた咎によつて、うつぼ舟に入れて海に流される。それが或島に流れ着いて玉のやうな男の子が生れる。其童子が大きくなつて茄子の苗を賣りに來る。これは屁をひらぬ女の作つた茄子だといふと、殿樣が大いに笑つて、屁をひらぬ女などが世の中にあるものかといふ。それなら何故にあなたは私の母を、うつぼ舟に入れて海に御流しなされたかと遣り返して、めでたく父と子の再會をするといふ話。是が他の地方に於てはうつぼ舟を伴なはぬ代りに、屁をせぬ女が栽ゑると黄金の實が結ぶ木とか、又は黄金の瓜とかいふ事になつて居り、又沖繩の久高島では、その種瓜が桃太郎の桃の如く、遠くの海上から流れて來たことにもなつて居る。人が長老の語ることを皆信じ得た時代には、斯んな笑ひの教訓なども入用は無かつたらうが、後に疑ふ人が少しづゝ現はれて、話し方は追々巧妙に、また複雜になつて來たのである。それに又國限りの孤立した發達があつて、比較は何よりも意味の多いことになつた。西洋の説話(266)研究者たちが、素材のなほ豐かなる日本の口碑蒐集に、深い注意を拂つて居るのは道理あることである。
 
(267)     蛤女房・魚女房
 
          一
 
 今まで地方に保存せられて居た蛤女房の昔話は、まだ採録の數も少なく、形も省略せられ、又極端に笑話化して居る爲に、御伽の「蛤の草紙」と比べて開きが餘りに大きく、この二つを同じものだといふことには、即座に同意しかねる人が多いかも知れぬ。我々としてもそれは假定であり、半ばは豫言のやうなものでもあるが、追々に集まつて來る各地の事實は、大體に之を立證する方に向つて居る。昔話の零落は今や殆と全般的の  状勢であつて、しかも其萌しは相當に古く、中には前に有つたまじめな型を、見つけ出すことの困難なものもある。斯ういふ場合には、たつた一篇の、可なり自由に改定した文藝記録でも、中世の名殘とあれば大切な目標にはなる。御伽文學の研究者と稱する人々に、役に立つかどうかは考へずともよろしい。我々は少なくとも此種の殘留資料を粗末にせず、是によつて第一段には新舊の系統を明かにし、第二段には過去の作品を指導して居た其期の民間傳承が、どの程度に今と異なつて居たかを見究める稽古をしなければならぬ。さういふ趣旨の下に、この不完全なる一つの習作を公表する。
 
          二
 
 蛉女房、即ち蛤が美女に化して嫁入して來たといふ説話は、意外にも海から遠い信州上伊那郡のものが一つ報告せ(268)られて居る(民俗學一卷四號)。むかし或處に若い男があつた。そこへ何處からとも知れず、美しい嫁樣が來た。男が外へ出て働いて居る留守に、色々の御馳走をこしらへてくれる。毎日の味噌汁が不思議にうまくなつた。あまり不思議に思つて、出て行くふりをしてそつと裏の方へ廻つて覗いて見ると、嫁は擂鉢で味噌を摺つてから、これに跨がつて中へちう/\と小便をした。男は之を見て大いに憤り、すぐに中に入つて女房を追出した。嫁はあやまつたが宥してくれないので、大きな蛤になつてもくり/\と匍つて行つたといふのは、まるで蝸牛か何かのやうな話である。
 是は山國らしい一つの空想で、貝の露が汁の味を好くするといふ所から思ひ付いた、ふざけた頓作のやうにも見えるであらうが、少なくとも此土地限りの發生では無かつたのである。關君の集めた島原半島の民話中にも、同じ形のものがある以上は、もう可なりの期間又地域に、流布して居たことだけは疑はれない。但し此方もやはり省略形で、ちがふ所は其家が既に長者の大家内であつたことゝ、どこへ還つて行くかと跡をつけさせたら、濱に近づいて大きな蛤になり、海の中に入つて行つたとあるのみで、如何なる因縁に基づいて長者の妻になつたかを説かず、此點は頗る蛤の草紙の主人公の、母に孝なるが故に觀世音菩薩に賞せられ、童男童女神が大蛤に蛮をかへて、來り嫁いだとあるのとは異なつて居る。
 
          三
 
 話が一體いつの頃から、斯んなきたない小便の秘密などになつたかといふことは、無論明確にすることが難からうが、兎も角も其變化の經路だけは察し得られる。同じ奇拔な内助の功の趣向は、亦魚女房の昔話をも彩どつて居るからである。たとへば越後の長岡市もしくは新潟市に行はれて居たものは、其女房の本性は鯛であつた。曾て命を助けて貰つた男の處へ、嫁になつて來て、やはり此手段で汁をおいしくして居たのを見顯はされた。恩返しに嫁に來たのだといふことを語つて、泣く/\歸つて行つたことになつて居る(民俗學二卷六號)。昔話研究(一卷六號)に報告せら(269)れた秋田縣仙北郡の昔話にも、魚女房の話が二つあり、其一つの鮒の方は、子供の釣つて歸るのを買取つて放してやつた爺の家へ、若い女になつて其鮒が來て働いてくれる。妻になつたとはないが、是も毎日のお汁が途法も無く旨く、やはり覗いて見ると汁鍋へ小便を垂れて居た。氣持が惡いので其椀に箸をつけずに居ると、女は氣がついて、私のだしを入れる處を見たでせうと謂つて、大きな鮒になつて裏の溜池へだぼんと飛込んだ。小便と見えたのは、實は腹の白子を絞り出したのだつたなどゝ説明せられて居る。
 それから今一つの方は女房が鯉の化けた女だといふ話で、是も節穴からそつと隙見をしたら鍋へからだを入れてごし/\と洗つて居たといふのだが、此話も他に亦類例がある。たとへば隣の岩手縣雫石にあるものなども、やはり其女房が來てから不思議に味噌汁がうまくなつた。そつとマゲ(梁の上)に隱れて見て居ると、尻を擂鉢の中に浸けて洗つて居た。素性をさとられたと知つて還つて行く別れに、水のほとりに於て寶の小箱をくれた。主人公は貧しい漁夫で、曾て助けて貰つた魚の恩返しであつたといふ(聽耳草紙三六一頁)。加賀に傳はつて居た昔話もそれと似て居るが、斯ういふ魚を捕つて活計を營む者が或魚を助けたといふ點に、本來は意味があつたらしい。右の二つの話でも、前者は無慾で入用の他は皆遁がしたといひ、後者は川鱒の柳の枝に腮を引掛けて、苦しんで居るのを放してやつたと謂つて居るが、多分はグリムなどの幾つかの貧人致當譚にある如く、それが特に魚の中の、靈ある者であつたと説いて居たのであらう。今一つ氣のつくことは、加賀ではその魚を助けた時に、漁夫にはまだ元の妻があつた。それが病氣で死んで弱つて居るところへ魚女房がやつて來るので、この點は又少しばかり狐女房の安倍保名とも似て居る。島原半島の蛤女房なども後添であつた。前の嫁は鯛を食はせたのに、二度目の嫁は少しも魚を用ゐず、鍋へ小便をしこんで汁をうまくして居たことが、露顯して追出されたことになつて居る。是なども何か意味のある以前の話し方の名殘かと思はれる。何れにもせよ最近の形では、話の中心が皆この汚ならしい食物の調理法になつて居て、何が奇縁やら思返しやらわからぬ程度にまで變化して居り、加賀の話などは、亭主の隙見によつて正體が露はれ、「うら人間で(270)無いさけ行くわ」と、すご/\と歸つてしまつたといふのが結末である(江沼郡昔話集一二一頁)。是では幸運の婚姻話といふよりも、寧ろ妖怪退治譚に近いのであるが、實は此傾向は必ずしも一地方に限られて居ない。現に前述の羽後仙北郡の例でも、發端は全く世の常の「喰はず女房」の型であつた。或獨身の男が、飯をくはぬ女房なら欲しいと口癖のやうに謂つて居ると、そこへ鯉が女に化けて嫁に來て、其こしらへるお汁が滅法に旨いので云々といふことになつて居る。單なる混線とも解せられぬことは無いが、元々この昔話は、頭の頂上に大きな口があつたなどゝも謂つて、魚か蛇かは知らず、とにかくに水の靈の人間に嫁いだ話に屬する。今のやうに怪談化してしまはぬ以前の形が、有つてもう失はれたものとも想像し得られるのである。
 
          四
 
 それは今直ちに斷足し得られぬとしても、少なくとも現存の蛉女房譚が、「魚女房」と同系であることだけは明かだと思ふ。そこで立戻つてこの二種の話と、御伽の「蛤の草紙」との關係を考へて見ると、三つか四つの肝要なる觀察點が、我々の比較に上つて來る。その一つは蛤が美女の姿に化けて、押掛嫁にやつて來る因縁を、册子の方では孝行のコに歸し、口の傳東では丸々之を説かず、もしくは魚に就いては助命の恩を報いる爲となつて居ることである。是は何れが本であり何れが改造であるかを決し難いが、二つともに人が不思議の根原を訝かるやうになつて後に、新たに設け作られた趣向であつて、以前は動物は時あつて助けに來るもの、人には解し難い隱れた理由から、魚や蛤でも人間と婚姻して、夫の家を富貴にすることが出來るものと、信じ得られた故に不要であつたかと思ふ。さういふ痕跡は幽かながらまだ遺つて居る。多くの報恩譚には、釣合ひの取れぬもの、たとへば時々の飯粒を施された小蟹が、大蛇と闘つて幾千とも無く命を棄てたり、僅かな好意に對して希代の寶物をくれたりする話もあれば、中には又瓜子姫の※[奚+隹]や鴉、藁しべ長者の蜂のやうに、何等の恩無くして尚大いなる援助をした例もある。魚鳥狐などの場合ならばま(271)だ何とでも説明は付かうが、是が蛤になると報恩とはちよつと結び合せにくい。恐らくは最初から、嫁になつて來る理由は説かなかつたものであらう。一方親に孝なる子が、天の惠みを受けて末榮えるといふ話は、東洋諸國の文學の最も人望ある題目の一つではあるが、其割には口から耳への傳承には出て來ない。たま/\有るものも後代の文字の教養ある人によつて、補填せられたかと思はれる節が目につくのである。異類婚姻の説話に就いて見ても、たとへば飛騨の岸奧村で、嫁が淵の傳説となつて居るものは、主人公が孝子であつた故に龍女が嫁に來たといふのと、別に何等の縁由を説かぬものと、二通りの話が書留められて居る。信州南安曇郡で矢村の彌助、越中長澤村の六治古といふ男などは、何れも孝行者であつた話にはなつて居るが、なほ一方は罠にかゝつた山鳥を助けた爲に、好き妻を得たといふ恩返し話として傳はり、後者は又市で求めて來た鹽鮭を洗つて居たら、活きかへつて遁げて行つて、後に女房になつたといふ笑ひ話の方へ展開して居て、共に孝行は餘分の附加へになつて居る。察するに元からある解説の無理もしくは不十分を感じた者の、後から其隙間を充さうとした試みが、成功しなかつた例であらう。「蛤の草紙」の發端を爲す語り方は、よその國にも似た例があつて、固より筆者の創意ではあるまいが、是を直ちに一段と古い形のやうに、見てしまふことは少しく心もとない。ただ此説話の主人公に、母があつたといふ例の至つて多いのには、何か隱れたる意味があるらしく考へられ、それから孝行のコといふ話に移つて行くことが、如何にも自然であつたらうと思ふばかりである。
 
          五
 
 次にこの御伽册子の提供する興味は、蛤の女房が人間の男にもたらした幸福が、茲では價三千貫の布を織出して、市に賣らせたことになつて居る點であらう。現在の民間説話に於ては、布織りは悉く「鳥女房」の話の中心をなすだけで、魚や蛤に就いては一つでも聽く所が無い。此點は後で言はうとする覗き見の戒めを破つた個條と關聯するもの(272)で、鳥だと幾分か機を織る光景が、心の畫に描かれやすい爲に、次第に其專屬のやうになつて、裸鶴や鶴の毛衣の話は生れたのであらうけれども、話によつては今でも蜀江の錦などゝ謂つて、胸の毛を?つて織込んだといふやうな、亂暴な説き方はして居ない。陸中の「天人子」の昔話には、機屋を覗いて見ると人の姿は無く、梭と筬とが獨り手に動いて居たと説いたのもある。覗けば必ず正體を見顯はすものときまつて、此挿話を魚や蛤には應用し難くなつたのだらうが、元は此點が最も仙女の靈の力を例示するにふさはしかつたので、水天兩部の婚姻譚に共通に用ゐられて居たらしいことが、「蛤の草紙」によつて推測せらるゝのである。細かなことだが私たちに氣の付くのは、男が其女房の織つた布を賣りに行くくだりに、「をかしげに申しければ」とか、「人の笑草になることの無念さよ」とかいふ文句のあるのは、此記録の筆に上つた當時、既に空想はあまりに誇張せられて居て、まじめに此奇特を聽く者の少なかつたことを意味するやうである。東北地方の「天人女房」の或一つの型にも、亭主が何と謂つて賣りあるいたらよいかを女房に相談すると、「うちの見たくなしの嚊が織つた、たゞそ布賣らう/\」と、ふれてあるいたらよいと教へられる。さう謂つて市を廻つて居ると、やはり此御伽册子のやうに見馴れぬ上品な人が出て來て、高い値段で其布を買取つたといふのである。是などは自分はつい近頃の座頭の、案出した滑稽かと思つて居たが、斯んな夙くからもうこの笑の種は播かれて居た。それが成育して純乎たる笑話になつたのは後であるが、話の意外さを強烈ならしめる爲に、此の如く綾どり彩どることが本有の要件であつたといふことが、是からでも察せられるのである。
 
          六
 
 ところが此種の曲折と誇張の技術は、食物の幸福の上には稍施しにくい。強ひてこの部面で人の笑を博せんとすれば、勢ひ下がかつた滑稽に傾いて來るのは是非が無い。今日知られて居る民間の「蛤女房」などが、墮落の姿であることは爭はれないが、さりとて是によつて御伽の布職話が、一期古くから存在したことを、證據立てようとするの(273)は過ぎて居る。是は寧ろ人間の想像力の發達、惡くいへば慾の深くなつた順序の、食から衣の方へと進んで來たものが、たま/\形を變へて前の分も殘つて居たと、見る方が當つて居るのでないかと思ふ。嫁が來てから珍なる食物を豐かに供へてくれるといふ例は他にもある。飛騨の嫁が淵では、男が高黍の間から隙見をすると、女房は大蛇の姿になつて魚を捕らうとして居た。見られたのを知つて還つてしまつたから、それで岸奧一部落は今でも黍を栽ゑることを禁忌として居ると謂ふ。佐々木君の採集した東北の一話には、豆を炒ることをいひ付けて覗いて見ると、蛇の正體を現はして梁の木にぶら下り、尻尾で炒り鍋をかきまはして居たといふのもある。異類の女房が夫の家を樂しくする手段には、是ほどにも手輕なものがもとは有つたのである。それが聽衆の期待の高まるにつれて、段々と高價な且つ自在な寶物を、置いて行かねばならぬやうになり、寧ろ昔話の寫實味は減退し、成人日常の慰藉には適せず、從つて皮肉な誇張の笑ばかりが、幅をする結果をも招いたのかと思ふ。嘗めて小兒に飢餓を忘れさせたといふ蛇女房の眼の珠などに比ぶれば、すぐれて美しい布を織つて、市に賣らせて百千の黄金を獲せしめたといふのは、まだ幾分か着實なる夢と言ひ得る。しかしそれよりも食物を旨くしたといふ方が、更に一段と素朴な者の心には近かつた。此方が後に考へ出された氣遣ひは無いのである。「蛤の草紙」の我々に與へる暗示は、單に此類の説話が數百年も前から、日本にも知られてゐたことを推測せしめるに止まらず、今は離れ/\の「龍宮女房」と「天人女房」とが、本來一類のものであることを明かにして、説話の根原を究めようとする者に、小さからぬ刺戟となつたことは爭へぬ。たゞ年代順に是を古い形、現在口承のものを其轉化の姿と、見てしまふにはまだ少し早い。此中には文筆の技巧、乃至は書物から得た經驗によつて改刪せられ、しかも國の隅々に住む多數の俗衆の記憶を、左右するに至らなかつた部分も若干はある筈で、それと今一つ以前から持傳へて來たものとを、見分けることが我々の仕事なのである。
 
(274)          七
 
 我々の持傳へて居る異累婚姻の昔話は、現在でもまだ中々多種多樣であつて、是を何とか一通り分類した上でないと、其成立ちを考へて見ることも容易でないのだが、今まで自分等が採用して居た方針、即ち第一に男女を別ち、夫婦がたゞの人間であつたといふ場合のうち、嫁が蛤であり又魚であり、乃至は大蛇・蛙・狐・鶴・山鳥等であつたものを、それ/”\對立させて見ようといふ試みも、その外形の簡明なるに似ず、よほど用意をして居ないと速斷を招きやすい。といふことが「蛤の草紙」によつて教へられるのである。この色々と異なる鳥獣魚介が人にかたらひ、訪ひ寄り還り去る姿といふのは、話になつてしまふとそれ/”\の異色を以て、聽く人の印象を彩どらうとするが、今ある多くの報恩譚にも見える樣に、それはたゞ或日の舞臺衣裳のやうなもので、假に姿を此等の動物に装うて居たものも、實は人よりも更に美しく氣高く、又すぐれたる境涯から出て來たのだといふことが、やがて判明することになつて居るのである。ところが後々その假の姿に、話の興味の焦點を置く風が盛んになつて、もしくは小兒が未開人と同じやうに、さういふ風にしか物を考へることが出來なくて、個々の動物に似つかはしい逸話のみを受入れようとするやうになり、從つて蛤の女房が布を織るなどゝは、考へにくい時代が來たのかと思ふ。此點から考へると、この御伽册子
が敷衍してくれた昔話の型は、幸ひになほ一段と古いものだつたと、認め得るかも知れぬのである。
 ところが我々の謂ふ所の龍宮女房説話、即ち魚蛤や大蛇の形を假らずに、生のまゝの美女の姿を以て、根の國から迎へられたといふ話では、今日南方の島々に數多く分布して居るものを始めとし、日本最古の記録に筆載せられて居るものに至るまで、一貫してまだ一つも機屋の奇瑞を説いたものが無い。殊に喜界島の諸例などでは、殿樣がその美しい女を横取りする策として、灰繩千束等の難題を言ひかけるといふ一條、即ち奧羽地方では天人女房の方に附いて居る挿話まで、共通にもつて居るに拘らず、此點になるとはつきりと二つに分れ、同じく覗いてはならぬといふ戒め(275)でも、一方は必ず機屋、他の一方は大抵が産屋といふことになつて居る。天から花嫁が降りて來たといふ昔話と、海の都から迎へられて來たといふそれとは、根源から二つ併存して居たとも思はれぬ以上、いづれ或時期に分化したに相異ないが、それが非常に早い頃で、まだ人間が衣服の幸福を念頭に置かぬ前の出來事か、はた又それを理想の妻に期待するやうになつてより後かは、是から尚發見せらるべき遠近の類例に據つて、徐ろに判定せられるの他は無い。いくら中古の記録でも、「蛤の草紙」一つではまだ心もとない。殊に筆者がどの部分まで、當時の傳承に忠實であつたかは、はつきりとせぬと言はうよりも、寧ろ反對の箇所が指摘し易いのである。
 
          八
 
 此點がまさしく今昔宇治拾遺等の説話集と、所謂御伽册子との相異する點であらう。同じ御伽の中でも筆録の年代、もしくは筆者の立場目的の如何によつて、原話遵依の程度に幾段かの差があることは承知しなければならぬが、「蛤の草紙」の如きは、その改刪増補の意圖が可なりあらはである。たとへば末のくだりの「後々とても此草子見給うて親孝行に候はゞ、かくの如くに富み榮えて、現當二世の願ひたちどころに叶ふべし云々」と、孝行の勸めと信心とを綯ひまぜたる數句の訓誡などは、無論此類の作品の常套形ではあるが、さういふ中でも模範的と言つてよいほどに力強い。つまり讀書手跡を學ぶほどの年頃の者に、兼てコ行と佛法歸依とを説いて、家庭の要求に應ぜんとしたのである。單に孝行が現世の報を得たといふだけならば、傳來の説話を承け繼ぐことも出來なからうが、是には更に其印象を濃厚ならしむべく、額で母の足を温めて泣いたといふやうな珍らしい記述があり、又天人の口を假りて永々とした物語がある。親に孝なる鳥の話が其中に出て來るのも、私には面白いと思ふが、更に觀音經の詞句を多く援用し、且つ自ら童男童女身などゝ名乘らせて、言はゞ此説話の中心ともいふべき龍宮の乙媛様、もしくは月界長者のまな娘といふ箇條を、遠慮會釋も無く差し替へて居るのを見ると、私には大よそこの無名作家の人柄なり境涯なりが、察せら(276)れるやうな氣がするのである。
 そこで自然に起つて來る二つの問題は、第一には「天竺摩迦多國の傍に住む、しじらと申す貧しき人」の、親に孝行であつたといふ物語、即ち我々がまだ全く知つて居らぬ別種の説話と「蛤女房」とを手際よく組合はせたのでは無いか、もしくは其一方の話の中にも、蛤の姿を假りて化現した仙女から、大きな富みを受けたといふ一條が既にあつて、それを文書から文書へ飜譯したのではないかといふ疑ひである。是は宏大なる印度又は支那の説話の海を渉獵した上でないと、否といふ斷言も容易には下し得られぬわけだが、この構造の手筒で又冗漫な所から判定して、私などは多分繼合せの手製であつて、鹿野苑の市とか南方普陀落世界といふのも、單に説話の神怪性を添へんが爲の借用かと思つて居る。但し主人公のシジラといふ珍らしい名前が、もし只單なる出たら目でなかつたとすれば、或は國内だけには既に先型があつたといふことになるかも知れぬ。此程度の留保を以て、今暫らくこのシジラといふ人名の動機の、見つかるのを待つて居るのもよいかと思ふ。
 
          九
 
 第二に一部の人たちが抱くかも知れない疑問は、そんなにまで新らしい工作が加へてあれば新作ぢやないか。強ひてそれを昔話の一種の採録として、取扱ひたがることが無理なのだと、言はうとする者がありさうである。此點は前にも擧げた母一人子一人の家へ、美女が來り宿して嫁になりたいといふ形、もしくは布を夫に持たせて市へ出て賣らしめる手順などの、今でも我々が忘れて居ない一二の特徴を引合せて見るだけでも、さうでないと言ひ切れるのだが、もつと動かせない確かな證據は、竊かに覗いて見るなの戒めを破る條に在る。これは非常に古い且つ普遍的な、殆と異累婚姻譚の要素ともいふべき部分だが、それも追々に時代につれて變りかけて居る。たとへば魚蛤女房の昔話、是と縁を引くかと思ふ「喰はず女房」などでは、單に相手の豫期しない機會に、隙見をして其秘密を知つたことになつ(277)て居り、狐女房では無心の子役を中に置いて、それが正體を見つけたことにして居り、何れも前以て何等の約束もせぬのであるが、それでもやはり見られたが百年目で、忽ち二世のよしみは切れるのである。乃ち別離の哀愁は始まらずには居なかつたのである。ところが「蛤の草紙」の方はどうかといふと、布を三千貫に賣渡して大悦びで夫が還つて來ると、それは斯ういふわけなのだと、凡て作者自身がする筈の説明を女房がして、それでは左樣ならと行つてしまふのである。こゝには殆と何の趣向も無い。それにも拘はらず、前段には夫に頼んで黒木もて機屋を造らせた後、「かまへてこの機織り見む程、この方へ人を入れまじき」と語つて居り、しゞら心得候とて母に此由かたりけりと記して居る。何の爲にこの一節の文が存するかは、讀者はもとより、筆録者自らも、之を説明することが出來ないのである。其上にいよ/\其忌機殿に籠つてから、夕暮に若き女一人、いづくよりとも知らず來つてこの機屋に宿を借る。「人を入れまじと仰せ候が、何とて宿を御貸し候や」と母がきくと、此人は苦しからずと、二人して機を織つたとあるのは、實は相應に苦しい趣向であつた。同情ある解釋は恐らく一つしかあり得ない。即ち當時いやしくも蛤の女房といへば、必ず人を入れぬ機屋があり、覗くなかれの戒めを伴なうて居たので、全然その點に觸れない蛤の草紙などは、爺嫗は勿論、小娘といへども承知しなかつた。從うて是を何としてなりとも殘して置きたいといふ點に、御伽册子の立場もほゞ窺はれる。即ち現在一般の人口に膾炙するものを踏まへてで無いと、文字と教理の訓育は共に行ひ難かつたので、是が又或時代を劃して、此種の文學の盛んにもてはやされた理由でもあるかと思ふ。
 
          一〇
 
 それ故に、御伽册子の少なくとも一部分だけには、以前の民間説話の特に著名なものが、保存せられて居ると認めて誤りが無い。たゞそれがどの點からどこ迄といふことが、個々の實際問題として殘るわけだが、是とても比較の進むにつれて、決していつまでも明示し難いものでないと思ふ。今日はまだ個人の作り話にも騙され、もしくは紛亂さ(278)せられて居る時代であるが、私たちの經驗した所では、古くから傳はつた昔話ならば必ず分布がある。昔はあつたが既に消え失せたといふものが、全國を通じていふと至つて少ないと同樣に、一つの土地又は家にしか保存せられて居なかつたといふ例も、絶無といつてよからうとまで思つて居る。だから内容樣式の共に昔話といふに適したものでも、他に遠隔の地に等類の見出される迄は、たゞ注意して別にのけて置くのだが、さうすると何時かは其證據が現はれて來る。それが此節ではさう久しい間待つて居ることを要しない様になつた。一方に是はどうかとやや訝かしく思ふものが、是によつて確かに曾て行はれた昔話の、破片もしくは變化であつたことを、知り得た例も幾つかある。古い文學に對して最も判別に苦しむのは、我邦で民間の文字無き人々の間に、久しく行はれて居たものと同種の外國説話が、直接書物から譯し又は飜案して、採録せられて居る場合である。是も結局は現存の口頭傳承の有無によつて決する他は無いのだから、稀には頬型の未發見の爲に、折角の記録が價値を發揮せぬ場合も無しとせぬ。「蛤の草紙」でいふと、孝子が海へ出て處々に釣を垂れて居ると、三度まで同じ蛤が絲に引かれて揚つて來る。何か仔細があらうと、三度目には海へ返さずに、舟の中に取入れたといふ條は、昔話としてはまだ知らぬが、傳説では御神體の靈石などに就いて折々は聽くことだから、或は日本のものとも思へる。しかし其蛤が俄かに大きくなつて、貝が二つに分れて中から容顔美麗なる十七八歳の女房が立出でたといふところだけは、果して新らしい借物であるやら、はた又こちらにもこの珍らかなる話し方が前から行はれて居て今は既に絶えたのやら、まだ何分にも決しかねる。少なくとも我邦の龍宮女房系の昔話中には、斯ういつた形はまだ一つも民間から採集せられて居ない。今後の照合が待遠しいことである。
 それだから此點は、大切に管理して置かねばならぬと思ふ。もしも是が私等の期待するやうに、曾て前代に行はれて居た話し方だといふことを證明し得るならば、今ではきたならしい小便話にまで零落して居る「蛤女房」が、遠い西洋のアフロヂテの神話と、筋を引いて居ることがわかるのみで無く、國内に於ても亦桃太郎や瓜子姫、殊に後者の美しくして機に巧みであつた昔話と、至つて重要なる點で聯絡して居ると謂ひ得るのである。昔話の神女が機を織つ(279)て家を富ましめるといふことは、日本に限らぬまでも日本に於て特によく發逢して居る。是が神祭りに伴なふ最も古風な行事、及び處々の淵沼や清き泉に、名となり傳説となつて記憶せられる機織の神秘と、下に行通うて居たことは想像に難くない。大昔我々の祖先に、其血筋を海の國、或は天上の聖地に引く女性があつて、綾や錦のすぐれたる技藝を傳へて、國土を美しく又豐かにしたといふ語りごとが、久しく信ぜられ記憶せられ、後々は單なる文藝としても、尚永い間この若い國民を樂しませて居たことが明かになつて來るのである。昔話の宗教的起源ともいふべきものが、たゞこの一筋からでも遙か奧深くまで尋ねて行かれる希望が、是によつて新たに生れるのである。之を考へると、單なる文筆技能の一階段として、御伽册子を見ることは私たちには出來ない。
 
(280)     笛吹き聟
 
          一
 
 御伽册子の「梵天國」と同じ話が、今でも民間に口から耳へ傳承せられて居る例は、少なくとも三つまで採集せられて居る。册子の文藝は修飾が多く又長たらしく、全然同じといふものは勿論有り得ないわけだが、次の三つの點の配合と順序立ては、私には偶然に一致し得ぬものと考へられる。
 第一には殿樣の難題である。權勢ある人が世にも稀なる天降り女房の、清くあでやかな姿を慕うて、わざと出來さうもない任務を課して、それがもし成らぬ樣なら妻を差出すべしと命ずると、男は大いに憂ひ、女房は又自在なる神の娘である故に、案外にたやすく其御望みの通りに調達してさし上げる。この一條が先づ奇跡の發端として掲げられて居る。
 第二の要點は是と自然の繋がりの無い、全く新たなる一つの厄難であつた。男が舅の天王を訪問した際に、一粒服すれば千人力が附くといふ米を饗せられる。それを知らずに屋後の一室に金の鎖で縛られた疫鬼の如き者が、あまり欲しがるので分けて遣ると、それは我女房に横戀慕した爲に、囚へられて居る羅刹國の惡王であつた。慈悲が仇となつて忽ち鎖を切つて飛び去り、急いで還つて見たがもう女房は奪つて行かれて居たといふ條である。
 第三にはその盗まれた美女を取返す爲に、數々の艱苦を嘗め盡して、結局は成功するといふことは、世界の鬼昔に(281)共通な趣向と、も言ひ得るが、爰ではその手段が我邦でも比較的珍らしい一つ、即ち笛を吹いて鬼とその一黨に氣を許させたといふものに限られて居る。
 以上三つの特徴のうち、第二は外國には捜せばあるかも知らぬが、我邦の昔話では少なくとも今まで採集せられたものが此以外には無い。他の二つはそれほど稀有でなく、殊に前者は非凡の婚姻と結びついた説話が最も古いらしく、笛の方も御伽の御曹司島渡り、それと縁のありさうな義經記の淨瑠璃御前、その又前型かと思はれる眞野長者の牛飼ひ童の物語等、古風な聟入話には毎度附隨して居る。故に斯ういつた趣向が一つ一つ、乃至二つまでは組合つて居たとしても、同じ説話なりと認めるにはまだ早い。只それが中間に鬼を放すといふ一條を挿んで、順序經過もほゞ一樣なものが併存する以上は、たとへ片方は非常な文飾が施され、口承文藝の方では極度に粗野であり質朴であらうとも、普通の人ならばよもや別物とは見ないだらうと思ふ。今までそれを言ふ人が無かつたわけは簡單である、即ち一方を賞玩する者が、妙に他の一方に就いて知る所がなかつたからである。
 
          二
 
 眼の前の例だから説き立てるのも事々しいが、この「梵天國」と同じ昔話の、活字になつて居るものは次の三つで、何れも御伽册子の産地とは隔絶した、東日本の片田舍に偏して居る。
一、紫波郡昔話第九五話。「天の御姫樣と若者」といふ新らしい名を付けられた話。以前この説話を解釋しようとした頃には、實は私はまだ「梵天國」の内容をよく知つて居なかつた。
二、昔話研究二卷一號に報告せられた越後南蒲原郡の「笛吹男」。是は私は夙く原稿で見て居て右の岩手縣の話が此地まで行つて居ることに注意して居た。
三、今一つも二年前に新聞に出たのだが、昔話研究では二卷二號に發表せられた八戸市附近の昔話で、「三國一の笛(282)の上手」と題せられ、やはり笛の力によつて、女房を取戻した點に中心を置いて居るものである。
 京以西にまだ類例が見つかつて居ないのは、必ずしも絶滅ではなからうと私は信じて居る。殊に東北では笛吹藤吉郎、又は笛吹藤平といふ昔話が此他にもそちこちにあつて、同じ話の破片であることは略疑ひが無いのだが、それを決しようとすると辨證が複雜になる。爰に擧げた三話に至つては讀めば判る。單に三つの要部が一致するだけでなく、それを繋ぎ合せた話の筋にも、幾つと無き共通の點が認められ、しかも御伽に對し又三話相互の間に、僅かづゝの話しかへがある。それを比べて行くとこの一つの場合に限らず、昔話は一般にどういふ歩み方をして、昔から今日へあるいて出るものであつたかゞ、やゝ明かになつて來るのである。
 私の問題にして見ようとする點を先づ掲げて置くと、一言でいへばこの現存の昔話の最初の話者が、御伽册子の「梵天國」を讀んで居たか否かである。もしも田舍者であり又文盲であるが爲に、そんな文學のあることを少しも知らなかつたとすると、この三つもの肝要なる一致を、一貫する偶然といふものは有り得ないから、乃ち御伽册子が昔話を、寫し取つたといふことになりさうなのである。勿論豫め後世のものを學ぶといふことは出來ぬし、話は人によつて現に今でも話しかへられるのだが、少なくとも御伽筆者の土地と時代とに於て、今ある三ヶ處の傳承と大樣は同じものが、行はれて居たらうといふ推測が可能になり、從つて又其筆者を今いふ意味の文人なりとして居る、普通の概念は覆つてしまふのである。故にこの兩者の前後を決することは、たとへ私たちの問題で無くとも、日本で文學の歴史を調べて居ると稱する人々の、ほつたらかして置くべき問題ではなかつたのである。
 
          三
 
 それには尚進んでこま/”\とした異同を、比較して見るのが方法かと私は思ふが、小口が多いからとても全部には手が付かない。ほんの二三の心付きだけを、見本としてこゝに掲げて置くと、先づ最初に御伽册子の先行を證明する(283)かの如く思はれる一點は、主人公の名前である。是は八戸地方の昔話だけに、子の無い夫婦が觀音樣へ願掛けをして、夢の御告げがあつて男の兒が生れる。玉とも星とも譬へやうの無い有難いワラシなので、玉太郎と名をつけたとあるのが、必ずしも説話の主題とは關係が無くて、しかも御伽の「梵天國」と似通うて居て且つ粗末である。御伽では男の父の名を五條右大臣高藤などゝ謂ひ、清水の觀世音に子を?る條があまりにも詳しく述べてあり、夢の菩薩が高僧の姿を現じて、磨ける玉を大臣の左の袖に移し入れたまふと見て、やがて北の方懷姙して一子を産む。喜んで玉若殿と名をつけ、光るやうにぞおはしけるとも記して居る。この二つだけを見ると、後者が新たなる思ひつきであり、前者は其模倣のやうに考へるのは無理でない。しかも他の二つの昔話には無い部分だから、或は斯ういふ風にも推測し得られぬことはあるまい。即ちこの一話の傳承の中途に、測らず御伽册子との類似に心づいた聽き手があつて、それは申し兒の條が前段にある筈だと言ひ出し、抵觸もせず又話を美しく引伸ばし得る故に、採用して補充したといふ場合もなかつたとは言へぬのである。しかし其樣な想像に走らずとも、異類婚姻の多くの昔話には、往々にして主人公の生ひ立ちから説き起し、それを子の無い夫婦の祈願及び神佛の靈驗に基づくやうに説くものがあつたのである。玉といふ名の神の子も稀ではない。夢に珠玉を得てそれが美しい子の生れるしるしであつたといふことも、古い卵生説話以來の話の種で、桃太郎の桃、瓜子姫の瓜も、いはゞその變形であつたのだから、必ずしも御伽册子の文藝が筆録せられる折に、五條右大臣の名の如く、ふと思ひつかれたものと見ることを要しない。即ちその當時既に斯ういふ形の説話が流布して居て、それが筆者の聽く所であつたと見ることも出來るのである。全體から言つてこの梵天國の一話は複合型であつた。今いふ意味での一つのコントでなく、數多くの「さてもその後」を以て繋がれた歴史風の話し方であつた。さういふ話し方の愛好せられた時代には、斯うしてところ/”\に小さなヤマを配置する必要もあつたのである。
 
(284)          四
 
 次にもう一つ八戸の昔話では、玉太郎が鬼が島から女房を連れ出して逃げる際に、鬼の大將がどん/\追掛けて來てもうつかまりさうになつたとき、女は御月樣の娘だから、御月様助けて下さいと願ひ事をすると、天上から鶴が一羽、下りて來て鬼の百里車にどんとぶつつかる。車はさつくと二つに裂けて、鬼は落ちて死んだとある。壯快なる場面だが、鶴の出現はやや突如として居る。是は御伽册子の方に、夫婦はもう觀念して鬼に捕へられようとして居る所へ、迦陵頻と孔雀との二つの鳥、不意に飛來つて羅刹と夫婦との車を前後に蹴放ち、更に一方の車を奈落の底へ蹴落したといふのとよく似て居る。さうして御伽に於てはこの二種の異鳥が、前に主君の難題によつて、又天人女房の才覺によつて、天から喚び寄せて御庭で七日の間、舞はせて御覽に入れた鳥だつたといふのである。斯うして見ると、此點も或は昔話の側の模倣のやうに取られるかも知れぬ。しかし一般に所謂逃竄説話に於ては、この最後のモメントが一番六つかしいところで、何かよく/\危ふかつたことゝ、且つ鮮かに脱出したことを説かねばならぬので、古來色々の工風が積まれ、且つ話者の技倆に若干の自由が認められて居た。日本に現在多い形は、杓子で尻を叩いて鬼を笑はせ、呑み乾さうとして居た海の水を吐き出させる話、又は鬼と女房との間に出來た小鬼が、身を棄てゝ母の側に加擔するといふやうな、幾分か技巧に過ぎた趣向のみであるが、それ等に比べても御伽册子の展開は拙劣である。殊に前段の難題の引合ひに出た鳥を、もう一度登場させるなどは用も無い小刀細工であつて、寧ろ斯樣にしてまでも爰で鳥類の援助を説かなければならなかつたのには、前からの隱れた約束があつたからで、八戸昔話の救ひを父の神に求めると、鶴の姿になつて飛び下つて車を擘いたといふ方が、比較的自然に原の形を傳へて居るかとも考へられる。他の二地方の例はどうあるかと見ると、越後の「笛吹男」では此部分がもう失念せられて居るが、陸中紫波郡の例では、姫が危急に迫つて聲の限り、父の天王に救ひを求めると、天王自身が鬼を目がけてさつと下りて來て、ずた/\(285)に斬殺してしまつたとある。それ位なら今少し早めに、助けてやつたらよさゝうにも思へるが、それでは話にならぬのだから是は致し方が無い。なほこの序にいふと一息に千里走る車と二千里走る車とに差等をつけた元の趣意は、實は上等な方に主人公が乘つて遁げ、鬼が二等の方で追掛けたが及ばなかつたと、説かうとするに在つたらしいが、梵天國系統の昔話ではもう一くねり變化させて、二千里の車は取出せないので、千里の車で辛抱して遁げることにして居る。そんな事をするから爰に今一つ、何か奇拔な趣向を凝らさなければならなかつたので、その危機一髪をほつとさせる手段としては、迦陵頻と孔雀だけでは少しばかり有效でなかつた。つまり册子の筆者は決して昔話の專門家ではなかつたのである。
 
          五
 
 それから今一つ、是は小さな看過されさうな點だが、折角天王が八本の鎖で縛つて置いた羅刹の王に、由なき慈悲心を以て施したのが仇となつたといふものを、御伽册子では長さ一尺もある米粒の飯と書いて居るのは、「汝舌を出せ」といつて舌を出させて見ると、其長さが一尺もあるのでびつくりしたとある一條と共に、事によると此筆者の空想だつたかも知れぬ。昔話の方では奧州の二話だけが、共に其飯を一粒食へば千人力が附く米の飯と謂つて居り、越後の一例に於ては是を千人力の出る藥といふのみで無く、それに伴なうて又一挿話がある。即ち男が天上へ聟入りをしようといふ際に、留守をする女房から教へられる。天では莫大の黄金を引出物にくれようとするだらうが、それはいらないから藥を下さいと言へといふので、其通りに所望すると、大事な娘の聟のいふことだすけと、わざ/\天竺の又天竺から其藥を取寄せてくれた。それをこの鬼が知つて居て分けてもらふのである。大分腹がへつて居るやうだと思つて、聟が臺所から大きな燒飯を持つて來て與へると、わしは燒飯はいらないすけに、其藥を一服分けてくれといひ、貰つて飲んでしまつてすぐに鎖を絶ち切り、さき廻りをして女房を奪つて行くのである。米と藥とでは二通り(286)の趣向で、越後へ傳播するまでにもう是だけの改造が起つたことは察せられる。靈界の米には一粒が鍋一ばいの飯になるなどゝ、?昔話の題材になつて居るのがあるから、之を藥にかへたのは寧ろ忘却に伴なふ合理化と見られる。しかもその一粒の長さが一尺などゝいふのも、是亦爭ふぺからざる大話の類であつて、早くからさうあつたらうとは考へられぬ。現在東北の二つの話し方の如きは、もしも御伽册子の方の御手本を知つて居たなら、到底斯う尋常には語ることは出來なかつたらう。乃ち口承の昔話の方が、却つて三百年前の文藝よりも、古い内容を持つて居ると思はれる所以である。
 
          六
 
 それよりも重要な點は、この笛吹き聟が天に登つて行つた事情であるが、此部分は御伽册子と三箇處の昔話とは、明白にちがつて居る。梵天國の方では主君の難題の三つまでは容易に解いたが、最後の第四番目の難題が、梵天王のぢきの御判を取つて來よといふので、是だけは流石の天人女房にもよい思案が無い。自分は葦原國に契りがあつて、天に還ることが出來ない。別れはつらいけれどもあなたが貰ひに行くより他は無いと言つて、不思議の龍馬を見つけよく/\秣を飼つて、夫一人を親里へ赴かしめるのである。是は如何にも苦しい理由づけであり、又他のすべての同種説話の「殿の難題」の結末とも一致して居ないのだが、果して現在の三つの昔話では、何れも至つて無造作に聟一人で、天上の舅へ初禮に行つたことになつて居る。是は私の推察する所では、婚禮を濟ませて大分の月日が經つてから後に、男がたゞ一人で初聟入をするといふ民間の慣習が、中央のよい社會、少なくとも御伽册子でももてはやさうといふ家庭には、全く認められないか又は理解せられない行事であつた爲だらうと思ふ。しかも女が奉公その他によつて遠くに行き、自然に縁につき男をもつた場合には、夫婦つれ立つて親に逢ひに行く便宜も少なく、程經て男ばかりが舅に見參をするといふことは毎度あつて、田舍では格別奇異なることでもなかつたのかと思はれる。所謂天上聟(287)入は昔話の最も興味多い部分で、誰しも一生に一度はもつ經驗である故に、その變つた形を説くことには人望があつた。それを此樣な天王の判もらひといふ樣な、類の無い趣向に置きかへたのを見ると、私などには或はこの御伽册子の筆者を、世俗の見聞に乏しい大家の奧女中、たとへば小野於通か又はその作品中の人物、冷泉などのやうな身分の者ではなかつたかと想像せられるのである。
 ところが昔話の多くは都に生れ、又田園の草の香の中に成長して居る。之を都府の文學に化することは、外國小説の飜譯に近い難事業であつたことゝ思ふ。一例をいふと羅刹の惡王に千人力の米を食はせる條などでも、御伽の方では「傍なる間を御覽ずれば、骸骨のやうなものあり。……金の鎖にて八方へ繋がれて居たり」とあつて、恰かも御殿の一部が鬼の牢獄だつた如く見えるが、そんな不精確な記述があるものでは無い。一方昔話の方を見渡すと、嫁の親がけふは一つ屋敷を見物したらどうだといふので、あちこちを見てあるくと家の裏に牢屋があつてといひ(越後)、或は聟が歸りに寶の米を貰つて、大悦びで門の裏まで出て來るとゝも謂つて(八戸)、何れも大よそ家の外の、厩でもありさうな箇處に鬼が繋がれて居る。是は偶然では無くわざとであらうと思ふ。昔の田舍の舊家でも、聟と舅の對面にはさう豐富な話題が無い。それで愛相に邸内をつれまはし、自慢の馬などを見せそれを又引出物にもしたことは、古い物語などにも見えて居るだけでなく、現に馬鹿聟話にさへ惜しい所に穴がある。あれに一枚短册でも掛けては如何と、馬の尻を指さした笑話があるのである。東北に一つある仙郷滯留譚に、知らぬ間に月日の立つ形容として、飼草を手に持つて厩の前に立つと、見て居るうちに草食はぬ馬が瘠せて行くなどゝいふのもそれで、つまり聟殿は初禮の日には、よく厩を見てあるくものだつたからである。さうして其機會に天の王樣の聟は、妻を奪はうとして居る惡い鬼を見つけ、知らずに千人力の米をそれに飼つたのである。
 
(288)          七
 
 意外に長くなつたがなほ一つだけ、言ひ落せないことがある。殿が美しい女房を取り上げようとして、言ひかける難題は紫波郡では二つ、灰繩千束と天の雷神をつれて來いといふ至つて古典的な御用ばかりである。八戸のは此點が省かれて居るが、老媼夜譚の「笛吹藤平」でも、やはり灰繩千把と打たぬ太鼓の鳴る太鼓、及び「天の雷神九つの頭をさし出せ」であり、越後の笛吹男でも灰繩千尋と、打たぬ太鼓の鳴る太鼓、及び雷樣の子を十疋であつて、三つともに造作も無く取りとゝのへて、結局は殿が閉口めされる。然るに獨り御伽の「梵天國」に在つては、一度は前にもいふ迦陵頻と孔雀、二度目は鬼の娘の十郎姫をつれて來い、三度目が天の鳴神を呼び下して七日の間鳴らせて見よといはれ、それも首尾よくすむと今度は梵天王の直の御判と來るのである。難題を承知の上で命ぜられるのだから、どんな途法も無い注文でもよいのだが、やはりまた今昔物語以來の傳統から、さう遠くへは逸出しては居ない。しかも計劃の成功と否とに論無く、この一篇の册子の主たる目的は、この空想の自由領域に於て、出來る限りの新意匠を出すにあつたらしい。是が竹取物語の五人の求婚者の、解かずに居られなかつた五つの課題と、制作動機に於て同じいことは、今更くだ/\しく説く迄もあるまい。彼と是とのちがふ點といへば、一方は戀ひらるゝ者が難題を出し、こちらは戀ふる者が出すといふことであるが、是は昔話の方にもあまた例のある變遷で、根源はすべて之を解いて幸復なる婚姻を完うしたといふ信仰説話から出て居るのである。さういふ中でも竹取はその解決を未解決に引直して、豫期せられざる結末を導かうとして居るが、「梵天國」はしまひまで昔話のまゝである。文學の芽生えとしては此方が一段と價値は低い。
 
(289)     笑はれ聟
 
          一
 
 昔話を三つに大別して、第一に本格の昔話、第二に動物説話、第三に笑話と、三つの似も付かぬものを竝べることは、素人には勿論奇妙に見えるが、是は現實にこの三通りの話ばかりが數多く、我々が昔話と謂ひ又は民間説話と呼んで居るものが、大抵は三つの何れかに入つてしまふのだから致し方が無い。どうして又この樣な?態の出現を見るに至つたかを、もつと精確に發生學的に解説し得る迄は、まだ當分はこの粗末な分類法を、承認して置くの他は無いのである。しかし是から更に論を進めて、右三種の昔話が共に古く、三もと相生ひの木として育つて來たものと、考へてよいか否かは別の問題に屬する。西洋の學者の中には動物譚が子供らしく、笑話がいつでも單純である爲に、或はこの二つの方が却つて前のものであるやうに、言はうとする人も有る樣子だが、少なくともそれには證據が無く、又私等から見れば反對の資料がある。印度の説話を研究して居ると、彼處には非常に古い動物説話があり、又時としては今でも流布して居るおどけ話の、元の形と見るべきものに出合ふことがある。是が他の新たに興つた國々の、本格説話より前であることを、證明するのはいと容易な業であらうが、それはたゞ單に國の年齡に大きな差のあることと、昔話の笑話や動物譚になつて行く路筋が、種族の同異を超えた共通性をもつて居ることを暗示するのみである。印度は文化が非常に古い故に、この二つのものも早くから現はれて居たことは判るが、更にそれよりも古いものが、(290)無かつたといふことは誰にも言へない。記録は寧ろ新たに生れたものを珍重して、古臭くもしくは普通なるものを省みなかったとも考へられるからである。今殘つて居る文獻のみによつて、民間文藝の起原を推究しようとした方法は誤つて居る。
 是には先づ以て或一つの國内の實驗、同じ一國の民族が自分の中に在る昔話を、如何に養ひ育て又變化させて來たかを、仔細に觀察して行くことが自然なる順序であるが、さういふ便宜をもつ國は今まではあまり無かつたのである。日本の有利なる條件は三つ、一つには資料の意外に豐富なこと、久しく外部の人からは氣付かれずに、島々と山の奧にまだ澤山の昔話が持傳へられて居たこと、第二にはこの互ひに比べて見る機會も無かつた各地の傳承が、無意識にあらゆる變化の段階を代表して居ることであり、更に今一つのよその國には望まれないことは、過去數千年の永きに亙つて、國外の影響が少なく、絶無で無いまでも其入口が限られ、是を跡づけ選り分けることが、必ずしも不可能で無いことである。昔話の研究の早く進んだ國々は、生憎にもこの條件の二つ又は一つを缺いて居た。從つて我々の新たなる經驗は、まだ/\多くの好參考を世界に供與することが出來るのである。さういふ中でも所謂動物説話の方は、獨立して一類の昔話となつた時代が、大分笑話よりも早かつたかと思はれ、他の類の昔話との交渉が稀薄であり、又錯綜して居る。人は具體的なる證據の隙間を縫うて、今後もまだ若干の假定説を試みることが出來るかも知らぬ。しかし是とても一方の笑話の方が、徐々として本格の説話の中から、分れて發達して來つた事情が明かになつて行けば、後には類推によつて幾分か聯絡が見つけやすく、解釋が下し易くなるかと思はれるが、今は假りにこの分は不問に付し、主として先づ笑話の如何にして生れ且つ普及したかを、出來るだけ想像を加へずに説明して見よう。
 
          二
 
 日本で昔話の採集せられた土地は、現在のところではまだ百箇處に滿たず、さういふ中でもやゝ纏まつて、二十三(291)十といふ數の同時に筆録せられて居るのは、又その半數にも足らぬ?態であるから、是だけの資料では勿論まだ大體の傾向しか説けぬわけだが、一般には笑話が最も數多く、且つ最も活?に流布して居るといふ印象を與へられる。都市とその周圍の既に開けた土地には、時としては笑話即ち昔話と思つて居る者もあり、又は小兒までが是を昔話として聽かされて居る例も多い。しかしたゞ是だけの地方的な現象によつて、國全體としての笑話の數が、遙かに他の種の昔話を壓倒して居るものの如く、斷定しようとしたらそれはまちがひである。其理由は至つて簡單で、他の種の昔話は分布がやゝ稀薄で、同じ一つの型は多くの土地からは採集せられず、地を異にすれば必ず若干の變化が見られるに反して、此方は「團子聟」だの「牡丹餅化け物」だの、又はやゝみだらなる「絲引合圖」の如く、殆と丸々同じと言つてよい話が南は九州の果から北は奧羽の片隅まで、一様に行渡つて居て何度でも採集の網にかゝり、土地では他處を知らぬから、それ/”\に一話として通用して居るのである。是には何か特別の原因が無くてはならぬ。話が手短かで模樣替への餘地も無く、且つ一般に趣向の今風であることも、斯ういふ異常な流行を促した理由だらうとは思はれるが、なほそれ以上に有力だつたのは、新らしい運搬機關、即ち座頭とか太鼓持ちとかいふ類の、主として人の機嫌を取る職業の者に、傳授があり師弟の系統があつて、どこ迄も持つてまはらうとしたこと、次には又是に對應した地方需要の變化といふことも考へられる。或は昔話を聽く機會が、以前はやゝ限られ、後々は増加し又自由になつた爲かも知れぬが、とにかくに人は同じ話を又聽く根氣を、段々に失つて來て居るのである。淨瑠璃その他のかたり物ならば、さきを知つて居る方が却つて面白く、聽いて暗記までして居る聽き巧者といふものもあるが、是が「はなし」となれば古びといふことをひどく恐れ、知つて居ると言はれると中途からでも止めるし、又あの話をとせがむ者は、もう兒童の中にも追々と少なくなつて來た。順序・間拍子・表現のし方よりも、中味に重きを置く傾きが加はつた爲とも見られるが、大きな他の原因はやはり笑ひといふものが、新奇と意外とを生命として居たことに在つて、一たび笑話の獨立した存在が認められると、それから以後は急劇に數を増して、多くの古ぼけたものはどし/\とすたり、(292)しかも其代りの注文に應じ切れないので、僅かばかりの人氣のある話だけが、全國を飛びまはるのである。是とやゝ似た事情は古代にも又外國にも、心付けばきつと見出されることゝ思つて居るが、日本ほどはつきりとそれの顯れて居る所は先づ無いのである。誰でも知つて居て片端をちよつと言へば、すぐに思ひ出して一緒に笑へるやうな突ひ話は、我々の間ではどれも是も、大抵は近世の國産といふ刻印を打つたものばかりである。
 
          三
 
 熱心なる多くの昔話研究者が、この類の笑話を輕蔑し、粗末に取扱ふのには相應の理由がある。何處で聽いても又かと舌打ちするものばかりで、しかも覺えて居る當人は面白がり、之を覺える爲に他の古風な好い話を忘れて居る。昔話衰頽の顯著なる一つの兆候とも是が認められるからである。前代を理解しようといふ我々の學問が、遲く始まつた爲に時期を逸して居るのは是一つのみでは無い。困難は益多くなつて居るが、なほ此期に及んでも學ぶべき必要がありとすれば、方法は決して無いわけで無く、寧ろ斯ういふ零落の姿の中からでも、幾つかの幽かな暗示を捉へ得ることを悦ばなければならぬ。笑話はまことに走馬燈の如く、次から次へと目先をかへて行くやうに見えるが、やはり其背後には一つの中心の光があつて、それによつて定まつた表面に照し出されたものでなければ、我々は之を昔話としては受入れなかつた。人の空想は世と共に遠く奔逸し、自然の可笑味も新たに幾らでも經驗せられて居るに拘らず、たゞ其一小部分の限られた型に屬するものを拾ひ出し、又は無理にもその在來の型の中にはめ込んで、それだけを昔話だと謂つて大衆は笑つて居るのである。この暗黙の約束のやうなものの中に、或は若干の歴史が埋もれて居るのではないか。日本でならばまだ是を考へて見ることが出來るやうに、私などは思つて居る。
 今日昔話として全國に流布して居る笑話は、存外にその數が多くないばかりか、趣向の上から見て行つても大よそは種類がきまつて居る。私は先づ四通りに是を小別すれば十分かと思ふのだが、或はもう一つ二つは増した方がよい(293)といふことになるかも知れぬ。その四つといふのは第一には惡者の失敗、所謂隣の慾深爺の類から、小氣味よく退治せられる鬼山姥狐狸などの敗北の醜態が、幼ない聽手の高笑ひの種になるのだが、是は成人の間にはさほど人氣が無い。第二には大話又はテンポ話などゝ稱して、天まで屆いた茄子の木といふ類の誇張談、近代人の想像力が幾らでも新らしい方面を開拓して行けさうな話で、可なり專門家の努力が試みられたらしいに拘らず、是にも隱れたる限界があつて、それから外へ出ようとすると直ぐに昔話では無くなる。第三には術競べ智慧比べの話で、是ををかしく語らうとすると、勢ひ第二の大話と近くなるのだが、以前は意外な優勝といふ點に、笑ひを誘ふものが別に幾つかあつたやうである。最後になほ一つ、特に私が爰で詳しく述べて見たいと思つて居るのは聟入話、是が現在の昔話の中では、圖拔けて有力な地位をもつて居る。この四つのものは勿論入交り、又何かといふと二種以上を組合せて、少しでもをかしみを濃くしようとする者が多くなつては居るが、さういふうちにも一方には空想の行止まりがあり、且つあまりにも現實から遠くなつて、新たなる技巧の施しやうが無く、次第に黴の香が鼻について來るに反して、この第四の笑話だけは、種を次々の人生の魯かさから供給せられて、幾らでも新鮮になり、從つて又御注文が絶えなかつたのである。中世以來の婚姻制の變遷、聟が友だちの少ない他村に入つて來て、嫉み憎まれないまでも同情の淡い空氣の中に、息づき働くやうになつたことが、著しく此流行を助けたものかと私たちは想像して居るが、それを安心して主張し得る爲にも、やはりもう少しこの類の笑話の成長ぶりを、注意して見なければならぬのである。
 少なくとも聟が笑はれ嘲けられ易い境涯に陷つた頃から、我々の聟入話は一段と馬鹿々々しいものになつて來て居る。笑話としては純化して來て居る。以前は或一つの複雜した婚姻成功譚の一部分をなして居たものが、そこだけ引離されて獨立に、人に腹を抱へて笑はせるやうになつた。例で説明をした方が筆者にも樂しみが多いが、たとへば炭燒長者と稱して、ある貴人長者の姫が、神佛の靈示に信頼して、山間の貧しい炭燒の小屋へ嫁に來る。男は金塊の山と積まれた中に居て、齷齪と稼いで居るのだが、自分ではまだそれに心付かない。始めて女房から小判といふものを(294)貰つて、米を買ひに行く途で、それを沼の水鳥に投付けて無くしてしまふ。或は月夜の我が影法師のひよろ/\として居るのを見て、おまへもひもじいかと其米をつかんでは投げて遣り、袋を空にして戻つて居る。斯ういふ途法も無い物知らずではあつたけれども、持つて生れた運は爭はれず、後には山一ぱいの黄金を世に出して、長者夫婦となつて光り輝く家の先祖になるといふ話。この昔話の前後二つの部分の中で、後の方は勿論肝要だからさう矢鱈には變へられない。從つて時經るまゝに印象がやゝ弱くなるに反して、前段は所謂自由區域だから、追々目先をかへて聟殿の愚鈍であつた例を面白くしようとし、末には爰だけでも結構一つの笑話となるのみで無く、時としては幾分之を修飾して、聽手の興を少しでも長く繋ぐことも出來る。今でも各地にまだ行はれて居る「馬鹿の一つ覺え」、私たちが假に「段々教訓」などゝ呼んで居る一話は、この滑稽を數多く積重ねたもので、關東以西では是が馬鹿息子となり、火事だ鍛冶屋だ牛の喧嘩だなどゝ、幾つもの大袈裟な事件を竝べ立てゝ居るが、東北には是をおろか聟が舅へ禮に行くたびに、色々の引出物を貰つて來る話として、傳へて居るものが今でもある。聽耳草紙に採集せられた一話などは、發端が炭燒長者と同じで、貰つた錢を沼の水鳥に投付けて、手ぶらで還つて來た所から始まつて居る。今度は財布に入れて來るがよいと教へると、馬の首に財布を被せて牽いて來る。それは手綱でよく結はへて來ればよいにと教へると、今度は又茶釜を引ずつて來て壞してしまひ、弦だけを門の柱へ繋いで置いた。といふ樣な間の拔けたことを次から次へくり返すので、こゝではまだ其教訓をするのが母親だが、土地によつては女房が氣をもんで、色々と口上を教へ又珍らしい土産物を持たせ遣るといふやうな、聟入話の形を保存したものもあるといふことである。斯んなたわいも無い投遣りな道化話でも、よく見ると徐々の改作があつて、突如として或一人の才能ある者の、發明に出でたといふものは實は無いのであつた。發明は必ずしも不可能な事業ではなかつたらうが、勝手な創作をしても聽衆が承知をせず、それを昔話とは認めなかつたのかと思ふ。我々國民の九割九分が、たゞ昔話の笑話によつてのみ、外部を笑ふことを許され居た時代は、存外に永く續いて居た。其名殘は膝栗毛や八笑人の類を通して、今でもまだ少しは常民の(295)笑ひを拘束して居る。人は闘爭を賭し憎惡の危險を犯さなければ、さう自由にはをかしいものを笑へなかつたのである。是が笑話の繁榮を支持した力は大きかつたと共に、一方には暗々裡に世の滑稽の品目と方向とを指示して、容易に其埒外に逸出するを得ざらしめたことは、今日の所謂大衆文藝家が、眼に見えぬ讀者層から受けて居る壓迫よりも、又幾倍か強い首枷であつたかと思はれる。必ずしも日本人がユウモアの才に缺けて居た爲でなく、我々の無害な且つ比較的上品な笑ひは、久しい間斯んな狹苦しい切通しの樣な途を通つて、漸くのことで持傳へられて來たのである。昔話の歴史は此意味に於て、別に專門以外の人々の注意に値するのである。
 
          四
 
 多くの馬鹿げきつた聟入話を聽いて居るうちに、自然に何人にも少しづゝ氣の付くことは、古い形式の本格昔話との、無意識な聯絡である。たとへば厩に行つて馬の尻を見て、此穴にも十三佛の御礼か何かを貼つて置けばようござらうと謂つたといふなどは、舅がひどく氣にして居る床の間の節穴を、嫁に教へてもらつてさう謂つたのが成功したので、もう一度その傳を試みて馬鹿が顯れたことになつて居るが、加賀では新調の屏風を譽める際に、指で彈いて見て「内張り外張りよう張れとるもんぢや」と言ひなされと教へられて來て、それを舅が秘藏の厩の馬に應用してすぐにしくじる。或は喜界島などでは馬が死んだと聞いて見舞に行くのに、挨拶の口上を女房から口授せられる。「馬を死なせて殘多いことをしました。けふは又燒いて共にカッチィさせ」て下さいと謂つたまでは上出來であつたが、後に姑の死去の悔みにも、同じことを言つて怒られてしまつた。カッチィといふのは御馳走のことださうで、島では死馬の肉も共食する風俗があつたのである。斯ういふ場合にさへ馬鹿聟といへば必ず馬の話を伴なうて居るのは、是は一つの傳統といふものであつたかと思ふ。既に「梵天國」の御伽册子の聟入の段にも見えて居るやうに、初對面の聟舅は手持無沙汰で、?馬の話が話柄となり、それから厩を見てまはつて、譽められて引出物に牽くといふ段取りに(296)進むのが、武家時代の現實であつた故に、笑話として獨立してしまはぬ前から、もう缺くべからざる聟入話の敍法となつて居た。それがいつ迄も痕跡を留めて居るのである。
 それよりも一段と意味が深いのは、新嫁の忠言といふ點である。聟の愚かしいのに誰よりも先づ氣をもんで、斯ういへあゝ言へと女房が口上を教へると、元々附け燒刀だからやがて剥げてぼろを出すといぶのが、今日の笑ひ話の通例の型であり、中には猥雜なる「絲引合圖」、左樣の頭がもげさうでござるといふ樣な、話にならぬものまで考案せられて居るが、此等を引くるめてまでなほ認め得られる特徴は、舅がそれほど迄に批判的で、何かといふと娘を取戻さうといふ態度であるに對し、いつも忠實に聟の身方になつて、陰に居て初見參の上首尾を念ずる者が嫁であることで、是は寧ろ今日の馬鹿聟話だけで見ると、やゝ解し難い愛情とも見られるのだが、御曹司島渡りなどの古い型から、ずつと見渡して來ると、その趣向には合點が行く。女房が夙く夫の本心を見拔き、もしくは他人のまだ氣付かない美點をよく知つて、終始心をかへないといふ點に、古來の戀愛文藝の中心は置かれて居たのである。笑話が最初から手の付けられぬ愚か聟を、笑ひ飛ばす爲に生れたものでないことは是でもわかる。乃ち多くの本式昔話の趣向と共に、貧しく見苦しく又小賢しからず、常人の目には鈍と見えて、散々輕蔑せられて居た男が、末つひに幸運に見まはれ、莫大なる富と幸福の主になつたといふ爲の、是が下ごしらへであつたのである。昔話の聽衆はさういふことを豫期しつゝも、やはり一旦は最初の愚かさの條に於て、腹の皮を撚るほど笑ふのが慣例になつて居た。さうして爰に話術の巧みが著しく加はると、終には熟した果實のやうに、話の根幹とは縁の切れた、別箇の存在となつてしまふらしいのである。
 是が私一箇の獨斷で無いことを證する爲には、所謂愚にも付かぬ昔話を例に引かなければならぬ。「結ひ付け枕」といふ名で知られて居る一笑話などは、今ではもう奧山家のおろか村の、文化に立ちおくれて居るといふ例證となつて、首掛け素麺や飛込み蚊帳などゝ同列に見られて居るやうだが、我々の見た範圍では岩手縣の二箇所、甲州と飛騨(297)と因幡とにほゞ同じものがあつて、形は壞れてゐるがまだ昔の聟入話の痕跡を存して居る。聟が枕といふものを今までしたことが無いので、舅の家に來て泊つて枕がはづれて困つた。それで褌を以て頸に括り付けて寢る。それを解くのを忘れて翌朝はのこ/\と、爐の傍へ來て坐つたので大いに笑はれ、こんな馬鹿者には娘はやつて置けぬといはれる。東北の例では嫁がそれを悲しんで聟の朋輩にそつと頼んで遣ると、次の日は聟の村の若い衆が數人、何れも枕を頭に括り付けて前の林へ來て雉子追ひをした。おら方の村では外へ出るときは、皆あゝして枕を結はへ付けてあるくと娘が言ふので、土地の風とは知らなかつたと、親も納得して再び添はせることにしたといひ、或は又友だちが聟のしくじりを聽いて、雪の降る日に鹿を追うて來て、揃つて嫁の里に泊めて貰ひ、翌朝一同に枕を褌で括つたまゝ膳に坐つた。おら方の村の作法では、心置きなく泊めてもらひましたといふしるしに、皆客に來ると斯うして朝飯をよばれますと謂ふので、聟のしたことが馬鹿な所作では無くなるともいふ。飛騨では里の母親が一人、下女たちの聟を笑ふのを制して、ところにはところの作法もある。よく尋ねて見なければ笑へぬと謂つたともあつて、嫁の辨疏といふ方が古くからの形ともいへぬが、朋輩の援助によつて馬鹿者と長者のまな娘と、不釣合ひな婚姻を成立たせたといふ話は、關西諸州でいふ隣の寢太郎、奧羽でせやみ太郎兵衛だの蕪燒き笹四郎だのと稱して、能無しのなまけ者が、一躍して富と美しい妻とを得たといふ昔話には、殆と例外無しに附隨した挿話になつて居る。是亦突然に考案せられた新らしい趣向ではないのである。
 或は女房から教へて貰つた口上を取違へて、飛んでもない時にそれを言つて笑はれるといふ滑稽なども、元は今一段の由緒があつたものかも知れぬ。是も東北の一例だが、舅の坪庭の大事なオンコの樹が枯れたので、それを見舞に行つて氣の利いたことを謂つて譽められ、今度は婆が亡くなつた時にも同じ挨拶をしてどなり付けられるといふ話がある。それを地方によつては舅禮の挨拶に、何と言つてよいかに困つて、途中で木を伐つて居る老人に相談をすると、老人は又其木を何にするのかと問はれたかと勘ちがひして、(298)   一ばんもとは二斗ばり臼、二ばんもとは一斗五升ばり臼
   三ばんもとは一斗ばり臼、しんは削つて杵にする
と答へると、其通りを年始の挨拶に述べて、嫁の親たちをびつくりさせたといふ話になつて、此方が幾分か自然に聽える。近世の旨法師どもは口だけが達者で、たゞこの文句を繰返して腹をかゝへさせたのであらうが、元は何等かの第二の意外が附いて居て、この挨拶が偶然に馬鹿聟の成功に歸したといふことになつて居たのかも知れぬ。やはり同一系統の「口傳聟」の中には、隣のぢい様が川の向ふで魚すくひをして居る。聟がそこを通りながら、舅禮の辭儀を教へてくれといふと、爺は澤山捕つたかと問はれたものと早合點して、「なアに今朝はわからない、朝飯前に是ばかり」と、魚籠を頭の上に擧げて見せる。其文句を後生大事に暗記して、女房の里の門から、一升樽を頭に載せて、さう謂ひながら入つて行つたなどゝいふのもある。話者も聽手も是だけでもう笑つてしまふが、斯んな纏まりの付かぬ話が最初からあつた筈は無い。似寄つた多くの例を比べるとわかる樣に、曾てはその魚なり臼杵なりを、初聟入の禮物に持參した一條があつたので、即ち言葉は無調法で馬鹿にせられるが、立派な附け屆けをして、嫁の親たちを滿足させたといふことを、可なり露骨に敍説した昔の粗朴な人々の話し方が、斯んな笑話ばかりに消え殘つて居たものと思ふ。
 
          五
 
 現在流布して居るすべての馬鹿話が、何れも皆前代の本格昔話の斷片だといふことを、一つ一つに就いて證明することは私には多分まだ出來ないであらう。しかし其中の主要なもの、殊に世人が曾呂利新左衛門、野間藤六輩の新案に成るかの如く思つて居る多くが、實は少しづゝ舊來の傳承を引曲げ捻曲げて、末にはこの笑ひの部分だけを取離したのだといふことを認め得れば、少なくとも笑話の此種の根源が、無視することの出來ない證據にはなり、或は更に(299)進んで他の若干の未知のものにも、今日は既に消えて居る元話の有つたことを、類推してもよい時が來るかも知れぬ。所謂大話や術競べの話、殊に化物や強慾爺のしくじつた笑話には、今でもまだ長い末めでたしの本格説話の中に織込まれて、獨立して居ないものが幾らもある。さうして一方には中古の記録に、同じ趣向をやゝ改作した小話の滑稽が、既に數多く採集せられて居るのである。農民の子女と都府の文化人との間には、趣味の懸隔は素より顯著であつたが、今とても全國は必ずしも平均せられては居ない。乃ち其比較に由つて昔話の經過して來た道程を大よそは遡り辿つて行くことが出來るのである。
 澤山の例を擧げることは斷念するが、醒睡笑の中でもやゝ上作の部に屬する一話、
 一番に構へられた聟殿、舅の方へ始めて行き(中略)、友の教へけるやう、初對面に物を言はずばうつけとこそ思ふべけれ。相構へ何とぞ時宜をでかせよ。心得たりとうけごひつるが、一言の挨拶も無し。既に座を立たんとする時、聟殿が言ひ出すやう、何と舅殿は一かゝへほどある鴫を御覽じたることはおりないか。いや見たることはおりない。私も見まいらせぬと。言はぬは言ふにまさるとやらん。
 是などは現代人の全く歴史を省みぬ者が讀んでも、やはり笑はずには居られぬ新しいをかし味ではあるが、考へて見ると「一抱へほどある鴫」はあまりに突兀として居る。是には萬葉集の生田川以來、聟と水鳥とに歴代の因縁があつたことも考へられるが、それよりも手近な所では、縁で結ばれた義理の親子の間に、?頓狂な問答が取交されたといふ一條が、笑ひの種となつて挿入せられて居たらしいことである。是も聟入話を面白くする或時代の新案かも知れぬが、聟と舅との初對面の會話に、所謂テンポ比べをしたといふ話が折々ある。たとへば福島縣の海岸部に行はれて居たものでは、おれは牛千疋を洗足させるほどの大きな盥を見たと舅が謂ふ。わしは又天に何かへりも屆くやうな竹を見ました。そんな長い竹を何にするか。多分牛千疋の盥のたがにするのでせうと謂つて、舅殿を開口させたといふのである。同じやうな大法螺吹の話は他でもよく聽くが、それを聟入話とし、又牛千疋と天に屆く竹とを説く點は、(300)私たちには確かに心當りがある。是も大話の系統の天上聟入の一話に、天人が匿された羽衣を見つけ出して、それを着て天へ還つた後から、千頭の黄牛を土に埋めてその上に瓜を播くと、瓜の蔓が伸びて天に屆き、それを梯子にして登つて行つたと謂つたり、もしくは長い竹が成長して天の米庫を突破り、それを樋にして屋敷に米の山が降り積もつたと謂つたりすることは、この古くして又世界的なる異類婚姻譚の、日本に於ける近世式變化であつた。人がこの説話を愛玩するの餘りに、新たに脱ぎ替へさせた時代の装束であつて、それを又やゝ縫ひなほして斯ういふわざ競ぺの場合にも着せて見ようとするのである。笑話がたゞ氣紛れの思ひ付きでなかつたことは是だけでもわかる。
 それから又一つの大話で、今でも田舍の子どもが面白がつて聽き、多分は一生涯記憶して居る「兎と山の薯」といふ話がある。或は「まの好い獵師」などゝ呼ぶ土地もあるが、幸運は狩だけでなく、主人公は必ずしも獵師でない。發端は色々あつてへの字形に曲つた鐵砲で狸の群れて行くのを撃つと、一發で全部の狸に中つたとも、又は寒い朝池の水に足を取られて居る數百羽の鴨を、引拔いて片端から腰帶に挾んだとも謂つて、先づ極端なる不可能事を説いて面くらはせるのであるが、話はそれを以て結ばれずに意外から意外へ、展開して行くのを興味の焦點として居る。個人の才能の應用し易かつた舞臺である。其中でも鴨の方は追々に朝日が高く昇つて氷が融けると、一時に羽ばたきして大空に舞上がり、末には何とか寺の五重の塔のてつぺんに落ちたなどゝいひ、所謂「鴨取權兵衛」の冒險譚になるのだが、他の一方では水を渡つて歸つて來る路で、何だか腰が重いと思つて氣が付いて見ると、股引のふくらみに泥鰌が一ぱい入つて居る。こいつはたまらぬと岸へ這ひ上らうとすると、木の根と思つて捉まへたのが兎の後足又は晝寢をして居た野猪の脚であつて、彼は苦しまぎれに崖の土を引掻くので、そこから又何十本といふ太い山の薯が掘起されたなどゝ、際限も無くうまい出來事ばかりを重疊させて行くのである。大抵の昔話はこの大笑ひの連續を以て、もう結末を付けようとして居る。笑ひも是くらゐ續けば聽く者も大息をついてしまふからである。ところが三河の山村の花祭の演伎などでは、是が聟入話の序の口をなして居たのである。早川孝太郎君が蒐集した大きな記録の中には、(301)是が「おきな」の語りとして綿密に文句を傳へられて居るのみならず、村々現在の實演でも僅かづゝの變形を以てまだ語られて居る。翁は芝居の三番叟に出て舞ふものと同じで、齡も知れない程の神々しい老人だが、それが出現の始めに於て、長々と若かりし日の聟入語をすることになつて居る。いつの頃から始まつた狂言かは知らぬが、その聟入の途中の出來事として、やはり野猪と山の薯との、莫大な收穫を語つて居るのである。是が參河の山奧だけでの偶然の取合せでなかつたことは、ちやうど幸ひに奧州の「三人聟」に明白なる證據があつた。又と言つてもよい機會があるまいから、今少し詳しく後に其話をして見たい。
 昔話の主人公が、若い頃は微賤であつて、豫期せざる天縁により美にして賢なる妻を娶り、一躍して富貴圓滿の長者になるといふことは、世界のあらゆる民族に行渡つて、いやしくも昔話といへば之を知らぬ者は無いほどの、古い一つの語りごとの型であるが、それが常人の信用を繋ぐには餘りにも古過ぎ美くし過ぎた爲か、もしくは又其不可能が餘りにも顯著であつた爲か、夙くから空想の食物になつてしまつて、一般にどこの國でも誇張の傾向が先づ現れて居るやうである。日本は其上に婚姻制度の變遷が加擔して、特に色々の笑話の分子を、持つて來て是に取附け、是非とも笑つて聽く樣な話にしてしまはうとした形跡がある。さうで無かつたならば彼と是とは別々に、傳はつて居たらうと思ふ笑話までが、今では馬鹿聟の尾鰭となつて居ることは、大岡政談などの智慧話ともよく似て居る。グリムの童話集で御馴染の「一殺七頭」、怪我の功名の仕立屋の話の如きも、我邦にあるものは皆若干は女房が參加し、見透しの六平、鼻利きの助太郎、何れも妻に手傳はせてその根據の無い名聲を維持して居る。九州の南部で是を鎌倉權五郎と謂つて居るのは、何か隱れたる由來のあることゝ思ふ。昔貧乏な草履作りの親爺の、片目で片足な點だけ權五郎と似て居る者が、其名を僞つて田舍に下つて款待せられる。弓矢をいぢくつて居ると偶然に矢がはづれ、其向ふに盗人が居て中つて死ぬ。荒馬に乘せられると飛んで跳ねて崖下に寢て居る野猪を踏殺す。其眼に箭を突刺して、すまして還つて來て大に褒められる。毒の入つた握飯を知らずに持つて出て、それを敵共が奪つて食つて皆死んでしまふ。(302)是にもあとから一本づゝ矢を刺して還つて來る。先づ斯ういつた風に段々と手柄を現はすので、こゝでは女房が毒を入れて置いたのが、圖らず男の仕合せになつたやうに話されて居るが、東北地方にある話は是も純然たる聟入話となつて居る。たとへば長者が三人の聟を集めて、馬に乘つて鹿狩に出かけると、二人の姉聟は騎馬の上手でさつさと馳せて行き、三番目は跳ねられて「おんかないでや/\」とわめいて居ると、舅は遠くからあゝ謠をうたつて行くさうな、達者なものだと大いに感心する。野原には鹿が三匹、どうしたことか斃れて居て、馬がそこへ來て足を止めたので、早速降りて其鹿に矢を突刺すと、後から舅殿がやれ御手柄と譽めたといふやうに話すもあれば、或は又舅に案内せられて倉小屋を見てあるくと、弓と箭が掛つて居る。夜中に嫁をせがんで其弓矢を持つて來させ、あても無しにそこいらを射てかへつて寢ると、翌朝倉の戸前に盗賊が矢を負うて倒れて居る。誰だ、昨晩の御手柄はと舅が言ふので、娘はあれはおら方の人だすと謂つて、皆から褒められ御馳走をせられた。それだけですませばよいのに又次の朝は、誰だゆふべの仕事はと舅がいふのを、よく見もせずにそれも俺の手柄々々と名乘つたら、何者かゞ爐の中へ汚ないものを垂れて居たので、飛んでもないことだとなつて、大事のおかたを取返されたといふ結末のものもある。この二つは紫波郡昔話といふ集に出て居るが、二つとも東北では可なりよく分布して、土地毎に若干の變化を見せて居る。
 
          六
 
 この昔話の最も普通の形かと思はれるものを、前に昔話研究二卷一一號にも二つほど出して置いたが、是と大同小異のものが奧羽各地、信州あたりでも採集せられて居るから、知つて居る人はまだ多いことゝ思ふ。陸前桃生郡の例が手近にあつたから、出來るだけ要約してあら筋を述べて置くと、三人の娘を縁につけた町の聟と里の聟と山の聟との三人が、何れも夫婦づれでお舅禮に來て泊る。二人の聟の贈り物は美々しいが、山の聟だけは手ぶらであつた。夜中に小便に起きて弓が掛けてあるのを見つけ、あても無しに箭をひゆうと放すと、翌朝は前の苗代田に鶴が二羽墮ち(303)て居た。けさの大勝負はどなたと舅が喚はると、おら家だべと山の聟の嫁がいふ。それから御馳走が出て散々に食ひ、夜中に便所はどこだと騷ぎまはるのを、あした早く私が片付けるからそこらに垂れらえと嫁が謂つたとあつて、いつでも汚ない話が是に附いて居るのは、誰も笑へるやうにといふ座頭などの細工であらう。是も朝起の舅が見つけて、けさの大勝負はどなたと怒鳴ると、町と里との聟は寢床の中から、大急ぎでわしでがす/\。是では半分以上も他の二人の方が馬鹿聟である。或は村によつては山の聟が愚かなので、嫁が夜中にそつと起きて、前の田に下りて居る雁に一心に石を打付け、それを捕つて來て門口に下げて置いてといふ處もあるが、是が八戸地方のやうに、次の晩にも闇雲に箭を射て置くと、馬盗人がそれに中つて厩の口に殪れて居たといふやうな、途法も無い怪我の功名が重なつて行く話となると、嫁の援助といふことは用が無いから引込んでしまふのである。紫波郡の一話では、三人聟が秋餅に招かれて來る。上の娘の聟は貧乏で土産物が無いので、鐵砲をかついで途中で二羽の鴨を打つた。其一羽が傷を負うて橋杭の間に挾まつたので、股引を脱いで入つて行つてつかまへると、橋杭かと思つたのは太い山の芋で十七本もある。それも序に皆拔取つて上つて見ると股引が無い。風に吹飛ばされて水の中に落ちて居るから、それを引揚げて見たところが雜魚が一ぱい入つて居る。舅の家では大きな聟が遲いので、どうしたことかと嫁が心配してゐるとやがて入つて來てかか樣臺を一つ拜借と、獲物をずらりと竝べる光景が爽快に敍述せられる。うちには二つしか臺が無いからと、今度は膳を貸すと太い十七本の山薯を其上に載せてさし出し、二人の妹聟はまじ/\とそれを眺めて居るともあり、おまけに其晩は月が良いので、前の林へ行つて雉子を三羽、打つて來て戸の柱にそつと掛けて置くといひ、結末だけは前の分と同じく、この聟貧乏なばかりで一向に馬鹿では無いのである。雉子といふ條は信州の山家聟の話にもある。思ふに狩の手竝みの優れて居るといふことが、娘にも其親にも注意せられる時代又は地方があつて、話はこの方向に展開し、末には「間の好い獵師」のやうな大話とも結合することになつたのであらうが、本來は三人ある聟の中でただ一人、鈍で頓狂で女房より他には、誰も重きを置く者の無かつた男が、實は大變なえら物であつたといふ(304)點を、強調しようとした昔話に違ひない。さうして其形の説話ならば、亦弘く全世界に分布して居るのである。同じ三人兄弟の話の中でも、親の病氣に靈藥を求める爲に、一人づゝ深山の奧へ入つて行くが、上の兄二人は短慮であり、又は不親切であつて、魔ものに捉へられて目的を達せず、末の弟だけは勇氣があり親切で智慧があつて、首尾よく藥を取り且つ兄たちを救つて來るといふ風に語られるものゝ他に、なほ一つの最初から若干の可笑味を備へた話もある。親が三人の子供に金を遣り又は年月を限つて、何か一かどの功を立てゝ還つて來いと言つて出すと、二人は眞面目に職を習ひ又は商賣を覺えて、意氣揚々として歸省したに引かへて、太郎は出た時の着物を襤褸にして、一つの缺椀を懷に入れて戻つたといひ、又は盗みを覺えて來ましたと答へたといふのもある。さうして結局は親を感心させ、流石は太郎は太郎だけのことはあると言はせるのである。私などの面白いと思ふことは、この三人兄弟の中の優越者を、この話に限つて長男として居るものが、日本には多いことである。總領は普通に大まかであつて、甚六などゝいふ異名を付けられながら、いつと無しに權力を得て行く國情が、自然に斯うした話し方に寫實味を付與するので、是を裏がへしに末の弟がとぼけて居たとしたのでは、何と無くうつりが惡かつたのである。ところが甲賀三郎式の戀愛成功譚、もしくは富の相續の説話になると、多くは三番目の弟が結局は優位を占めることになつて居るのは、末になるほど常識上の希望は薄く困難は多く、從つて冒險の興味は倍加するからであらうと思ふ。神代の昔から傳はるものでは、葦原醜男命の御物語などが是に該當する。私などの想像して居るのは、話を三人兄弟の鼎の足型にしたのも改良で、今一つ以前には八十の神々、もしくは十二人の同胞といふやうな人々の不成功を、全部氣永に竝べ立てる話術が行はれ、是によつて最後の一人の幸運を一段と鮮明に、映出しようとしたのではないかと思ふが、其實例はもう「果無し話」にしか傳はつて居ない。現在普通の構成は三人がきまりで、舞臺でも又繪絹の上でも、あらゆる三つの感動は皆この組合せを元にして居て、相應に根の深い約束となつて居るやうである。
 
(305)          七
 
 笑話は何と言つても昔話の零落を意味して居る。單に其需要が酒の渇きなどゝ似て居て、底をさらへて糟を起すことを厭はしめなかつたゞけで無く、之を掬んで味はふ者の種類を限定して、入用をもたぬ者にまで偏した一種の感覺を強ひ、色々の笑ひ以外の靜かな情緒を養ふべき機會を失はしめた。女性は兒童に次いで熱心なる説話の支持者であつたのに、是も酒造りの技術と同樣に、別に專業の管理人が出來ると、其選擇と分配の役目をそれに委ね去つて、只の傍聽者となつてしまつた。彼等の思ひ出しては樂しむやうな、なごやかな且つ柔かな昔話は多く消え、一國を通じて民間文藝の外貌は改まつてしまつたのである。我々の古い姿を探求する心の陰には、言はず語らずの間にこの前代の女子教育、女が昔は持つて居て今は失つた何ものかを、知らうといふ念慮が潜んで居る。是は世の父・兄・夫として、少しも不自然とは言へない史學に對する期待であると思ふ。
 太郎を愚か者にした三人兄弟の昔話でも、土地によつては三人の嫁の心々、殊に兄嫁の氣をもみなさけながる條を、詳しく説かうとするものはまだ多いが、全體に笑を中心の趣向に取ると、結びを急ぐ場合には嫁や母が省略せられる。しかし話を妻問ひの成功に持つて行かうとすれば、何としても之を脱落し得なかつたのである。だから聟入話の半面には、必ず又三人娘の話が取囃される。一つのよい例は此頃よく發見せられる「猿聟入」であるが、猿を谷川に突落して遁げて還つたといふ程に笑話化した語りごとでも、なほキング・リイヤの悲劇を思ひ合せるやうなペソスを伴なふのが常例である。上の二人の娘は老翁の惱みも知らず、誰がお猿なんかの嫁になるものかと、襖をばたんと閉めてどた/\と行つてしまふ。そこへ末の妹が入つて來て話を聽き、とゝさんが言はしやんすことなら、お猿の處へでも私は行きます。それよりも早く起きてまゝ食はんせなどゝ謂つて居る。是がたゞ偶然の思ひ付きでなかつた證據には、後に姉二人が行かず後家になつて、妹の仕合せを羨んだり、世話になつたりしたといふ例も多い。シンドレラは日本(306)では糠子米子、或は紅血缺皿といふ名になつて居て、繼母の實子を一人だけにしたものが普通だが、是にも姉といひ又二人といふ話が折々あり、それと極めて關係の深いグリムの集などでいふ「千枚皮」の婚姻譚には、日本では大抵三人の嫁競べの段が附いて居る。あまり下品な話ばかりした口直しに、終りにほんの少し、この昔の美しいまぼろしを描いて見よう。
 シンドレラの繼子は日本でも、竈の側で灰によごれて日を送つて居るが、是には西洋のやうな灰かつぎといふ類の名は無く、たゞ「姥皮」といふ衣裳を身に纏うて、きたない老女に化けて長者の家に働くといふ時ばかり、之を臺所の火焚き婆さんなどゝ呼んで居る。ところが一方には是を男性に置換へた一話があつて、由ある大家の和子樣が戀の爲に、又は親に憎まれて流寓する際に、姿をやつして長者の家に雇はれ、其名を灰坊太郎といふことになつて居る。灰坊太郎の出世は必ず聟入であつた。他の二人の尋常なる姉聟が、一應は舅姑に賞玩せられた後に、出て來る三人目の灰坊太郎が、きつと恥かくと思はれた豫期に反して、光り耀くやうな若侍となつて身元を名のる所は、くはしく敍述せられるなら日本のローヘングリンであつたのだが、今では夢の濃かな娘たちにも、既にこの話を知つて居ない者が多い。つまりは近世の口承文藝が、笑ひを先途として此前を驅けて通つたのである。
 三人嫁の方の話は、「鉢かつぎ」の册子といふのが是を筆録して傳へて居るが、不幸なことには運搬者が愚痴な歌比丘尼の徒であつた上に、あまりに趣向を好んで「姥皮」の素朴な古着を、今は見ることも無いやうな木の刳鉢に取替へた爲に、手桶バケツの中で育つた新らしい娘には聽いても胸の上に畫を描いて見ることが出來なくなつた。しかし是はまだ類型の比較が可能である。たとへば筑紫野民譚集や文部省の俚謠集に出て居る牡丹長者のかたりものには、うつぼ舟に入れて海に流された京の姫君が、嫁競べの席上で始めて氏素性を語る一條がある。奧羽地方に流布して居る「姥皮」では、夜分に元の姿になつて本を讀んで居る所を、長者の三番息子が隙見して戀病みをする。いよ/\三人の嫁の器量くらべとなつて、あちらは田舍だけに、新しい藁草履をはいて眞綿の上を歩かせて見たり、又は雀のと(307)まつた枝を折らせて見たりする。二人の兄嫁の足は眞綿だらけになり、雀は勿論ばつと立つてしまふのだが、未の女房のみは物靜かで、安々と眞綿を渡り、又雀の枝折りをもつて來る。長者の女房となるべき嫁は是でなくてはといふことにきまるので、素より少しでも腹をかゝへるやうな挿話は無いのである。
 或はこの話が全く童話の形になつたものも出來て居る。豐後臼杵の例として後藤貞夫君の覺えて居たのは、長者の家の末の息子が、風呂焚きの婆に戀ひ焦れて強ひて嫁に取つたまでは、東北の「姥皮」も同じ順序であるが、ある日母親がその三人嫁に向つて問答をする。
   總領嫁はどーこの子、 呉服屋の娘。
   中嫁はどーこの子、  藥屋の娘。
   弟嫁はどーこの子、
ときいても、私は知りませんと謂つて中々答へなかつたが、何べんも尋ねて居るうちに、しまひに「がつかい長者のおと娘」と謂つたので、成程弟息子が嫁に貰うた筈ぢやと喜んだとある。この月界長者は既に梵天園の御伽册子にも見えて居る。始めて命名したのは文人かも知らぬが我々は是を空の國の王樣と考へて居た。さうして多くの「天人女房」の昔話でも語つて居るやうに、その天上聟入が人間の聟入話の、最も幸福なる場合でもあつた。是が僅かに百年か二百年の間に、村々では團子聟・蟹のふんどし・風呂の香の物といふやうな、馬鹿話と入れ替つたといふことは、それこそ雲泥の差と言はなければならぬ。しかも時過ぎればそれも亦消え去つてしまふであらう。いつも證據の絶滅するのを待つて、自由に空想を闘はせようとするが如き古代研究の態度は、痛快かは知らぬが私たちは悲しんで居る。
 
(308)     はて無し話
 
          一
 
 むかしむかし長崎の港に、多くの鼠が住んで居た。ひどい飢饉の年に難儀をして、もしか薩摩へでも行つたら食物が得られようかと、大勢打揃うて舟に乘り、岬を廻り廻つて不知火の海へ漕ぎ出した。さうすると遙か向ふの方から、薩摩の國の鼠たちが、是もあんまり世の中が惡いので、長崎へ行けば少しは食ふ物があるかも知れぬと、一同相談をして舟を漕いで遣つて來た。長崎の鼠の舟と、薩摩の鼠の舟とが、海のまん中で出會うて、互ひに聲を掛けて何處へ行くのかと尋ねる。さうして詳しく雙方の樣子を話し合つて、それでは折角渡つて行く甲斐も無い。いつそ此海へ入つて死んだ方がよいと言つて、先づ長崎の鼠が一疋、チュウチュウと泣いてドンブリと海に飛び込む。さうすると今度は薩摩の鼠が一疋、チュウチュウと泣いてドンブリと舟から身を投げる。其次には長崎の方の鼠が又一つ、チュウチュウと泣きながらドンブリと飛び込む。……
 大よそ斯んな風に何十疋でも、小さな聽き手がもう止めてくれといひ出す迄、二箇所の鼠が海に入つて行くといふ昔話が、この不知火灣の岸に沿うた、肥後の上益城の村々にあつたさうである。普通には之をチュウチュウドンブリと名づけて、如何なる話好きの少年でも、是に辟易せざるは無かつたといふことである。私などの在所の方では、今一つの  稍々手輕なものが行はれて居た。昔或川のほとりに藪があつて、其後に大木の?の樹があつた。といふ話が始(309)まると子供はもう諦らめて寢てしまふことになつて居た。若しふんそれからとでも言はうものなら、其團栗の實が一粒づゝ、落ちてはサハリと笹の枝を滑つて、次には石垣の石にカチリと當り、それから水の中へドブンと沈んで、夜が明けても又次の晩になつても、とても落ち盡しさうには思はれぬからである。うそ話といふものも嬉しくは無いけれども、それでもまだこの果無し話ほどは閉口しなかつた。能の狂言の「どぶかつちり」なども、既に座頭の坊の欺かれる話になつて居るが、恐らく幼少の頃あの團栗の落ちる音で、酸つぱい思ひをした經驗を有つ者ばかりに、特に其名前がをかしかつたのであらう。今になつて考へて見ると、兒童と成人の文學の、是が一つの堺の垣根であつた。我々が後に成長して一人殘らず、此方へ來てしまつて笑ふからよい樣なものの、聽く者の望みと語る者の下心と、是ほど喰ひ合はない藝術も他の方面には稀であつた。我々は年長者の談話群にまじつて、色々の物の哀れを學ぶ以前、先づ此樣な殘忍な方法に由つて、笑ひといふものの最初の意義を、教へられなければならなかつたのである。
 併しさういふ中にも九州のチュウドンブリには、まだ懷かしい昔人の情味が籠つて居る。第一に鼠島の物語は、絶えず南國の民が口にする、最も有名な年代記の一部であつた。凶年には海を越えて無數の鼠が、遠くの島から渡つて來て、木の根草の實を食ひ盡すといふ話は、近い頃までの現實の畏怖でさへあつた。兒童は其歴史の片端を語つて聽かされて居たのである。其次には兩地の鼠が海上に行逢うて、一度に雙方の夢想の空であつたことを覺る段、是は浪華の蛙と京の蛙が、天王山の嶺に立つて背後を見て、故郷の景色と同じだから、わざわざ見物に行くまでも無いと、各もと來た路へ引返して往つたといふ話になつて、今尚「隣の花は赤い」といふ諺を説明して居る。村に老い了らねばならぬ農民の子供らには、此種の教訓譚は古くから入用であつたのである。それから今一つは長崎と薩摩、是が又近代の富と所謂異郷情調の、新たなる話の泉の露頭であつた。それ等の材料を爰に面白く結び合せて、單に始めて聽く子の興味を浮き立たせたのみならず、豫め次に來るべき失望を慰め、又忍耐を褒美せんとして居たのは情がある。徒らに笑ひの陷穽に無智なる者をおびき寄せて、その蹉跌を見て樂しまうといふ惡意からで無かつたことは、誰にで(310)も想像が出來たのである。
 
          二
 
 それならば全體何の動機、如何なる種類の親切に基づいて、斯ういふ子供の困る果無し話は始まつたか。此問題が今私たちを考へさせて居る。昔話は大昔からずつと引續いて、所望せられてするものにきまつて居た。子供が際限も無く話をねだるといふのも、實は彼等が話し手に取つて、最も大事な信者であり、又最も忠實なる門下生であることを意味したのである。現代おかあ樣の志す所は知らず、多くの家庭には別に子供の好奇心に應へるといふ以外に、若し斯ういふ熱心な聽衆を得なかつたならば、曾て自分たちが眼を圓くし、胸を轟かせて聽いたものを想ひ出さず、もしくは空しく携へて次の世界へ、移つて行かねばならぬ寂しい人が居たのである。是もよい折があつたら話して置いた方がよいと思へばこそ、傳はり弘まつて我々の代まで遣つたので、わざ/\其樣な防禦法を發明して、いたいけなるかなし兒の要求を、撃退する必要などは彼等には無かつたのである。
 此意味に於て我々の果無し話は、近代の一つの教育樣式であつたといふことが言へる。昔話は幼童の發育のために、缺くべからざる一種の榮養ではあつたが、それにも尚見分けて與へなければならぬ能毒の差があつた。我々の名づけて昔話の弱點としたものは、同時に又昔の生活の共通の弱點であつたかも知れない。一年にたつた一度春の末の風に乘つて、遠い島々へ寶物を換へに行き、冬の初風に吹かれながら戻つて來るといふ樣な、大まかな生涯の割り方をして居た人々には、時をセコンドで量つて次の仕事を考へて置くといふ心持はなかつた。一つの昔話もやはり人間の命と同じに、續き得るだけは續かうとして居たのである。然るに新たなる勤勞が我々をそれから遠ざからしめると共に、幼なき者も段々に學ぶ事が多くなつて、さういつ迄も單調の忌むべきものであることを、覺らずに居ることは出來なかつた。さうして彼等の昔話も、知らぬ間に非常に短かくなり、其數ばかり年と共に増加しようとして居るのである。
 
(311)          三
 
 神話のもとの形は勿論斯ういふものでは無かつた。神が一つの土地に縁の深いことを説く爲には、例へば倭姫命の御國巡りの如く、丹生の姫神の忌杖刺しの舊辭のやうに、長い旅語りを繰返す必要があつた。甲賀三郎は蓼科山の幽穴に入つて、地底の國々を經歴する以前に、先づ六十五箇國の名山を訪らうて居る。それを安居院の神道集には、一つも落さずに述べ立ててあるが、近世の諏訪の歌ひ物には、もう十何箇所かに制限してしまつたのである。或は又特に忌まれたる一人の幸運、末榮ゆる者の元祖の事蹟を顯はすには、八十人の同胞はそれ/”\何等かの缺點があつて、天つ神の神意に副はなかつた中に、獨り只この主人公のみが、完全であつたといふことを細敍したことと思はれるが、記録は埃及の壁畫などのやうに、單に競爭者の數が無數にあつたことを説いて、其他は一種の略筆の間に、看る人の想像力を誅求することになつたのである。金石遺文は上代の保管者であり、又有力なる道しるべではあつたが、人が彼等を信頼するやうになつて、内に具はつて居たものが漸くに影薄くならうとして居る。殊に何等の書き傳へられたものも無い我々の生活には、たとへ果無し話のやうなはかない笑ひ草でも、是に依らなければ辿り得ぬ昔は多いのである。
 近代人の中では、童兒だけが稍先祖と似た心持を抱いて居た。成人が神話の破片の中から、自分たちの信じ得るもののみを拾ひ上げて傳説としたに反して、彼等は尚永く物語の外形をめでて、出來るだけは元のままを保存しようとして居た。昔話のムカシといふ語なども、言はば少年の手によつて、その本來の意味を取傳へて居たのである。然るに話の實質が之と伴ふことを得ず、終に時代の彩色を深くして來たのは、全く親々の善意の干渉からであつた。私の今住む村に近い世田ヶ谷の太子堂にもあつたやうに、會ては十二人の惡い女に憎まれて、艱難辛苦をしたといふ一人の善き女の話は、神子誕生の物語の極めて普通の形であつたと思ふのに、十二人は餘りに多いと之を三人ばかりに(312)削減した例は多い。或は八人の兄弟があつて末の子の只一人が、名を揚げ富を積んだといふ類の話があると、それも三人あれば趣意だけは徹底するからと謂つて、現在ある話は大抵は三人になつてゐる。其他桃太郎の桃でも其家來の數でも、話を聽く子供は今尚もつと多いことを望んで居ても、それを最少限度に打切つて、之を以て形を整へたと思つて居るのみか、更に進んでは長話の馬鹿げて居ることを、斯んな皮肉な例を以て同感させようとしたのである。
 併し一方には又チュウチュウドンブリといふ類の話が殘つて居る御蔭に、昔の昔話が如何なる形であつたかといふことも想像せられる。曾て佛領印度のチャムといふ山間の村で、新しい生活方法が害をなして、多數の人間が死んだ際に、頭目たちを集めて其計數を調べようとしたが、一人も之に答へ得る者が居なかつたといふ話である。そこで氣永に誰と誰とが死んだかを言はせて見ると、彼等は悉く其時と人の名とを記憶して居たといふ。數字によつて各個の人の生活を、想像し得るやうになつたのは、餘程の習熟を積んでから後の事である。自分の他に尚多くの者の、其場に居合はさぬものがあつたことを語る爲には、一々斯うして其名を擧げ、聽く者をして其姿を胸に描かせる必要があつたのである。タヒチの島に活き殘る語り女には、今でも我家の尋常の民ではなかつたことを、四十代五十代の先祖の名の列擧によつて、證明しようとする者がある。創世記の最初の頁は、何れの民族でも系圖であり、又其混同を防ぐ爲の、僅かづゝの大事件の挿入であつた。斯くして日を算へる術は漸次に暦の事業を擴大させた。歴史が今あるやうな形を取らなければならなかつたのも其結果である。ヨムといふ動詞は我々が文字の恩惠を、學び知るよりも以前からあつた。それが書を讀む以外に數取りを意味し、又暗誦を意味するのも由緒のあることである。短かな時間で其仕事を片付けることの出來なくなつたのは、國なり家なりのもつて居る過去が、至つて幸福なものであつた結果に他ならぬ。しかも我々はもう其負荷に堪へなくなつて、僅かに最も大事な片端だけを留めて、他の大部分を省略する爲に、果無し話の如き斯んな人の惡い方法までを用ゐたのである。
 昔話は此意味に於て、夙に零落の淵に臨んで居た。殊に近年の蒐集者は、消え去るものの後影を逐はんとする熱情(313)から、往々にして援助をこの批評力の大なる壯年の村人に求めた故に、單に話を愛する小さき者の心持から遠ざかるのみならず、實際之を語らうとする老人の計劃よりも、更に今一段と要約したものを、數のみ徒らに多く採録しようとして居るのである。町に住む人の俳諧式機智は、是を尚變化させ又非凡にしなければ承知しなかつた。それには今日の語でいふ小説家、昔の「咄の衆」といふ者の生活も亦考へて見ねばならぬ。一千一夜の永い宵を重ねて、話の種を常に新らしく、氣の利いたものにしようとすれば、自然に磁石の鐡を引く如く、遙かなる國のものが喚び集められる。日本でも法談の聖などが、特に其話を數多くすることに苦辛をしたかと思はれるが、農民の家ではそれが唯庚申の一夜であり、それも野の仕事の忙しい頃には、とても六十日に一度は廻つて來なかつた。近世の俳諧と對立して、文藝の最も野暮なるものと認められたのは、盆の踊りの口説きであり、又は芝居の道行きであらうが、あれなどは實は一年にただ一度、しかも念入りに聊かの誤解も無く、古い傳へを立合ひの人の胸に、深く彫り込ませる事業だから、斯んな簡單なる一つの目的の爲にも、我々は尚其夜の曉となることを悲しんだのであつた。神が青雲の遠き彼方より、遙に訪ひ寄ることを描き出さうとすれば、同じ調子の笛の音は際限も無く吹き續けられねばならぬ。一族が此世の中の何れの家よりも惠まれて居ることは、「くどき」といふほどのくどい方法を以て、之を敍説するの他は無かつたのである。がそれさへも後は祭の日と縁を切つて、名ばかり昔のままで實際は變化を求めようとして居た。だから我々の果無し話が、嘲られ笑はれつつも今まで殘つて居たのは、まだ偶然の幸ひであると言つてよいのである。
 
(314)     放送二題
 
       一 鳥言葉の昔話
 
          一
 
 日本の昔話は、もうよほど前から衰頽期に入つて居ります。桃太郎とか猿蟹とかカチカチ山とかいふ、子供のよく知つて居る五つ六つの改良した童話と、ごく短い愚か聟などの笑ひ話の若干を除けば、田舍に行きましても、昔話を教へてくれる年寄が尠なくなりました。三十そこ/\の女の人などで、幾つでも話を覺えて居るといふのは、まづ非凡の部に我々は數へて居ります。ところが此頃になつて漸う列つて來たことは、斯んな流行おくれの前代の遺り物が、不思議にも世界の諸民族の持つて居る民間説話と、非常によく似通うて居るのであります。たとへばグリムの家庭兒童説話集だけで見ましても、粟袋米袋、即ち普通シンドレラの名で知られて居る繼子話とか、手無し娘とか、猫と鼠とか、藁と豆と炭火の話とかの、九分通りまで同じものが十幾つもあり、一部分だけ似て居るといふのを加へると五十以上、或は六十を超えるとさへ謂つて居る人があります。世界といつても、多いのは印度から西歐羅巴の諸國が主でありますが、是はこの區域が昔話の最も細かく調査せられて居る土地である爲で、其以外の土地でも、新たに採集(315)した本が出ますと、必ずその中には若干の類例が現はれます。人種が同じだから、又はもと一ところに住んで居たからといふわけでは決してありません。時の順序から申しますと、印度にあるものが最も古く、又證據も色々と殘つて居ますが、それは此國に夙く文化が榮え、書いたものが多く傳はつたといふのみで、他にも根元があつたといふことを、豫め想定する理由にならぬのであります。たゞ斯ういふ互ひによく似通うた昔話が、偶然に無關係に生れたといふことは、想像し難いだけであります。
 
          二
 
 つまりこの驚くべき昔話の世界的一致は、まだ片端だけしか原因が明かになつて居らぬのです。さうして是が又我々の學問の、大きな刺戟とも希望ともなつて居るので、世の中にはまだ/\是から、學んで覺り得ることが多いといふ、心強い證據が提供せられて居るわけであります。その一つの實例として、鳥言葉といふ昔話に就いて、私の知つたゞけを御話して見ませう。此問題では、世界の最も有名な學者が三人まで、既に其研究を發表して居ります。一人は獨逸の碩學テオドル・ベンファイで、今から七十何年も前に、「動物言葉の昔話」といふ題で書き、次にそれから二十五年ほど後に、英國第一流の學者サー・ジェムス・フレエザアが、是もラングエジ・オブ・アニマルス、即ち動物の言葉といふ題で一文を公けにしました。第三には芬蘭の大學教授アンティ・アァルネ、この人は説話研究界の恩人として、全世界の學徒から尊敬せられて居る學者ですが、是は千九百十四年即ち世界大戰勃發の年に、「動物の言葉の解る男と聽きたがる女房」といふ長い題で、やはり同じ説話の蒐集比較を致しました。ちやうど二十五年ほどづゝ間を置いて、三人が三度に同じ問題を論じたのでありますが、大體に三人とも、是が印度に生れて段々と西の方へ、流布したのだといふことに一致して居りまして、印度から東、即ち極東諸國のことはまだ眼中に置いて居りません。調べて見ようにもまだ其頃は材料が、至つて乏しかつたからであります。
 
(316)          三
 
 それでごく荒つぽく、此昔話の筋を述べて見ますが、是には大人向きと子供向きと申しませうか、趣向のやゝ複雜なのと單純なのと、二通りの型があるやうで、日本には前の複雜型の方は丸で見つかりません。歐羅巴では北は芬蘭から、南は伊太利の西海岸に引いた線から東、阿弗利加は地中海岸からモザンビク迄の東半分、それから亞細亞の西半分といふ、可なり宏大な區域に亙つて、二千年近くも前から今日まで、行はれて居る話の方が複雜型でありました。アァルネ教授の論文の題が語るやうに、是には女房とのやゝ珍妙な交渉が附いて居ます。昔々ある男が蛇の親方の爲に善い事をして遣つて、御禮に鳥獣の言ふことが解る力、もしくは其力を生ずる寶物をもらつて來ます。たつた一つの條件は其話を他人にしてはならぬこと、或は其秘密を傳へてはならぬことで、其條件に背けば立ちどころに命を失ふことになつて居ります。それが或時女房と二人居る所で、ふと動物の話をするのを聽いて、思はず知らず笑ひ出しました。つまり笑つてはならぬ禁戒を犯すといふ趣向が中心になつて居るので、この笑はせられる原因は、説話者の技倆次第に、幾らでも變化させてあるのです。女房は夫の笑ふのを聽いて、何がをかしいのかをどこ迄も知らうとする。是をいふと命が無くなるのだからこらへてくれと言つてもまだ聽きたがります。よく/\女房孝行な男で、それぢや致し方が無い。語つて死なうと思つて葬式の支度をして居ます。こゝにも色々と話の巧者が入つて居ますが、アラビヤンナイトなどでは、其自家の中庭に狗と?が居まして、狗は主人の死を知つて憂鬱であり、雄?はふざけまはつて居ます。旦那の死なれるのが悲しくは無いのかと、狗が小言をいふと?が、何のあんな馬鹿な人はどうだつていい。おれはこの通り五十人もの女房をもつて、まだ一ぺんもぐづ/\言はせたことが無い。うちの旦那はたつた一人の女房に我儘を言はせて、死んでしまはうといふのだから馬鹿だと答へる。それを此男は聽いて居てはつと思ひ、早速女房を叱り飛ばすとか打つとか追出すとかして、死なずに濟んで一期榮えたといふのであります。
(317) 是と大體に同じ話がラマーヤナにあり、又マハバーラタにも確かな痕跡があると言はれ、その他私などの名も聽かなかつた幾つかの古書にも出て居るさうで、アラビヤンナイトの如きはその又翻案でありました。安南にも蒙古にも此話は傳はつて居り、西はシリヤ・アルメニヤ・現代ギリシヤ・スラブ諸族、芬蘭だけでも六十二話採集せられ、アフリカ大陸にも幾つかの例があつて、不思議に西部歐羅巴と日本とには、まだ一つも採集せられて居ないのであります。
 
          四
 
 日本にある鳥言葉の昔話は、私の集めた日本昔話集に、聽耳頭巾といふ名で出て居るのがその一例であります。是は岩手縣の猿ヶ石川流域で採集せられましたが、是と半分似通うた聽耳笠の話は、他の一方の國の端、鹿兒島縣下の喜界島にも傳はつて居り、又その隣の奄美大島にも、やゝ完全に近い形で一つ殘つて居るのです。東北の方の聽耳頭巾は、被ると鳥の言葉がすつかり判る赤い頭巾でありました。或一人の貧乏で信心深いぢい樣が、氏神のお稻荷樣から頂戴したことになつて居りますが、又この近傍には今一つ、狐を助けた恩返しに、狐の親から貰つて來た聽耳草紙といふ寶物を耳に當てますと、鳥獣蟲の聲がすべて人間の言葉に聞えるといふ話もありまして、雙方ともにそれを聽いて、長者の一人娘の大病の原因を知り、すぐに直してやつて澤山の御禮を受け、仕合せがよくなるといふ點は一つであります。一方南の端の奄美大島の話は、發端が浦島太郎とよく似て居ります。龍宮の御姫様がきれいな鯛になつて遊んで居て、大きな魚にいぢめられて居る處へ、或一人の男が行合せて助けます。さうすると龍宮からの御使の女が迎へに來ました。南の島々では龍宮即ち海の底の都のことを、ネリヤ又はニルヤと謂つて居ります。そのネリヤへ連れて行かれる途中で、使の女が教へてくれますには、あちらへ行けばネリヤの神樣が、きつと御禮には何を上げようかと問はれるに相異ない。その時は金銀などゝ言はないで、キキミミといふ物を下さいと言ふやうにと教へてくれ(318)ました。さうしてそれを持つて還ると、鳥の言葉が皆わかるのであります。それで雀のいふことを聽いて居て、川の飛石が皆黄金だつたことを知り、それを持つて來て大金持になります。其次は又鳥の言葉から、殿樣の最愛の姫君の大病が蛇の祟りであることを知つて、早速それを直してあげて姫の御聟樣に立身するのです。喜界島の方では聽耳笠を被ると、樹の上で鳥が二羽、話をして居るのがよくわかり、それで親の病氣の元を知つて直したといふのですが、この南北四つの昔話は元來同じ話だつたやうに思はれます。
 
          五
 
 このキキミミといふ寶物の話は、岐阜縣の益田川のほとりにも、以前傳説の形で行はれて居りました。是は或舊家の酒屋に永く傳はつて居た箱で、之を耳に當てると地の底の話が聽えるなどゝ謂ひましたが、やはり昔其家の小僧が、此川の淵から龍宮に行つて、戴いて來たものと申しましたから、龜の恩返しといふ樣な昔話があつたらしいのであります。それとよく似た寶物の話はまだ他にもあります。信州の飯田附近では是をリウセンガン、越前の三國地方ではリウガンセイと謂つて居るのは、どちらかゞ誤りでありまして、しかも話は雙方よく似て居ります。越前の方では是が浦島太郎の話となつて居ります。龜の命を助けて美しいお姫樣に迎へられ、龍宮に行くまでは普通の通りで、還りにこの寶物を貰つて來るのであります。其寶物を耳に當てると、烏が二羽で話をして居ます。浦島といふ男は八百年目に還つて來た。今頃歸つても家も無いのにと一羽が謂ひ、他の一方は王樣の御病氣のもとは、屋根の下で蛇と蛞蝓が一處に取籠められて、喧嘩をして居るからだと秘密を語るのです。それから後は又普通の浦島話に戻つて居るのですが、この大病の原因とよく似た話は、他にも方々の鳥言葉の昔話に附隨して居ります。それから今一つの信州の方のリウセンガンでも、やはり龜を助けて龍宮から、御禮に戴いて來るのですが、この方は安倍の童子丸、即ち狐を母にして生れた兒の話となつて居ります。この寶物を耳に當てゝ聽くと、「童子京へ行け出世が出來る、早うカアカア」(319)と謂つて烏が教へてくれます。それで京に出て、「忽ちわが災難を知らぬ者こそふぴんなれ」と、大きな聲でふれてあるいたと申して居ります。私などの生れました上方地方では、どこも一樣に安倍の童子丸が、鳥の言葉を知つて占ひをしたといふ話になつて居るやうであります。大阪府の南部の紀州に近い山村でも、童子丸は八卦見に化けて、「さるべく災難、知らぬものこそふびんなれ」と、ふれてあるいたことになつて居ります。さうして是には龜を助けて寶物を貰つた條は無く、母の狐の魂が入つた仕込杖だなどゝいひますが、それでも和泉の烏と熊野の烏と、行逢つて世間話をして居る言葉を聽いて、殿樣の病氣の原因が、蛇と蛙と蛞蝓と三種の蟲が、床の下に埋めてある爲だといふことを知るのですから、乃ち越前の浦島太郎と、一つの話の變化であることが明かなのであります。
 
          六
 
 つまりこの安倍の童子丸の物語は、國内に流行して居たのであります。是を語つてあるく職業の者が弘く旅行をして、段々に物語の新趣向を補充するうちに、其材料の一つに鳥言葉の昔話も使はれたのであります。東北は岩手青森の二縣にも、安倍の保名と狐の子ドンジ丸の話が行はれて居ります。その子の成長して行く段までは、所謂信太妻の物語の通りですが、やはり龜の命を助けて、龍宮に行つて藥を貰ひ、又烏の聲を聽分けて貴人の奧方の病氣の元を知ることになつて居ります。乃ち日本では斯ういふ二つの説話が、結合してからも大分弘く流布して居るのですが、しかも其爲に古くからの話の要點は、丸々消去つても居らぬのであります。私どもが驚いて居りますことは、二千年も昔に印度に起り、そこから隣大陸の南北の端々までも分布した一つの昔話があるにも拘はらず、それとは又別の鳥言葉の話が日本にも是ほど行はれ、更に他の一方では歐羅巴の西半分にもあつて、その二つの遠く離れたものが、却つて互ひによく似通うて居ることであります。是はグリム兄弟の昔話集には、三つの言葉といふ題になつて居ますが、通例は、「羅馬法皇になつた子供の話」として知られて居ました。昔父親が子供を修業に出す。一年して還つて來て、(320)何を勉強したかと問ふと、犬の言葉を覺えて來ましたと答へます。怒つて又出してやる、と次の年は鳥の言葉、又次の年は蛙の言葉を覺えて來たと謂つて還つて來ました。あまり腹が立つので下人に命じ、森の中へつれて行つて殺させる。下人が殺すに忍びないでそつと遁がし、それから難儀をして諸國を流浪するといふ條は、他の話に附いて日本にもあります。この旅行の間に鳥の言葉を理解して、金持の娘の難病を治したり、又は黄金を發見したりして段々と出世し、しまひに親に惡かつたと言はせるのであります。或は魚を助け小蛇の命を救つて、鳥の聲を聽分ける術を授けてもらつたといふ形もあります。或は其子が親と共に食事をして居て、小鳥の聲を聽いて微笑するので、あれは何と啼いて居るか判るかと父が尋ねます。わかるけれどもそれを言ふと貴方がきつと怒るから言ひません。いや何でもいいから言つて見よ。そんなら言ひますが、あれは今に私が偉くなつて、足をお父樣に洗はせ、お母樣にタヲルで拭かせるやうになると鳴いて居るのですと言ふと、果して大立腹で忽ち息子は家を追出され、流浪の旅に上るといふのは、是も日本で夢見小僧などゝいふ話、よい夢見たよい夢見たと悦んで飛びあるき、それを話せと言つても話さぬので追出され、後にその夢の通りに立身出世したといふ話と、同一系統に屬しますが、しかも一方に獨りで笑つたといふ點は、前の印度以來の「知りたがる女房」の話へ、一筋の脈絡があるやうであります。
 
          七
 
 この二つの鳥言葉の昔話を比べて見ますのに、同じく笑つた爲に後が面倒になつたといふ中でも、女房に責められて命を棄てる覺悟をしたといふ方が、二段も三段も込入つて居り、人の作爲が多く加はつて居ることは誰にもわかります。たゞこの方は二千年の古い記録があり、獨逸のテオドル・ベンファイは勿論、其他の人も説話の本家は先づ印度ときめて居ります爲に、それよりも遙かに自然で且つ子供らしい他の一方を、後から變化して斯うなつて居るやうに考へるのですが、それは無理な想像のやうに思はれます。書いたものゝ證據は假に一つも無くとも、話はもと/\(321)無筆な人々の間に傳はるのが普通ですから、それは何でもありません。つまり其古記録の出來たよりも更に前から、今ある安倍の童子丸式昔話が、既に世界のどこかに有つて、それが我邦と西洋の三四の國に、殘り傳はつて居たのであります。笑つてはならぬ、笑つて損をしたといふ昔話はこの他にもまだ色々ありまして、それにはどうして笑はずには居られなかつたかといふ一つの點に、色々の新趣向をさしかへて用ゐて居るのです。かの「知りたがる女房」の昔話などは、單にその趣向の或ものが、偶然なる事情から、大當りに當つた例に過ぎぬかと私は思つて居ります。
 動物の言葉を理解する男が、どういふ話を笑つたかといふ點は、世界の到る處で次々に變化して居ますが、その中の有名なるエピソードが、二つは又たしかに日本などにもあります。たとへば牛と驢馬との働く働かぬ問答、これは大津の車牛の話ともなり、又は土手の陰から角だけ見えて居て、話を立聽せられたのを殘念に思つて、今でも牛が角を以て土手を突くといふ昔話などもその痕跡であります。今一つは牝馬が、前の牡馬にもう少しく遲くあるいて下さい。又は奧樣も私もおなかに子があるからこちらは四人づれだと謂つた話、是なども奧州の所謂ドンジ丸には、仔馬が母のあとから附いて來て、乳が呑みたいと謂つたといふ風に、?ボサマたちによつて語られて居ます。鳥獣の言葉をよく聽分けたといふ實例を竝べようとすれば、自然に斯ういふ挿話が出來て來るのでせうが、亭主がそれを聽いて居て思はず笑ひを洩らしたのを、女房が氣をまはして、何でも其わけをいへとせがんで、非常に困らせたといふに至つては、又一つの新らしい趣向であります。そこの點だけが亞細亞の東の端と、歐羅巴の西部諸國とにはまだ普及しなかつたのであります。聽いてその部分を棄て又は忘れたのではあるまいと私は思つて居ります。だから昔話の根原の研究は、我々日本人の參加によつて、是から又大いに進むことゝ思ひます。
 
(322)     二 初夢と昔話
 
          一
 
 この正月二日の晩に、東京の町では今なほ「おたから/\」と、寶船の版畫を賣りに來る聲が少しは聞えます。あれを蒲團の下に敷いて寢て、好い夢を見るやうにといふわけであります。その寶船の繪には、七福神が數々の寶物を滿載して、順風に帆を揚げて海を渡るところが描かれて居ります。さうして、
   ながき夜のとおのりふねの皆めさめ浪乘りふねのおとのよきかな
といふ、賛の歌が書いてあるのが有名になつて居ります。上から讀んでも下から讀んでも、文字が同じといふ點は珍らしいけれども、其代りには意味がさつぱり判らず、ましてや此紙を敷いて寢れば、好い夢が見られるといふ、説明にはちつともなつて居りません。
 全體いつの頃から、斯んな風習は始まつたらうか、といふことが先づ問題になります。格別古いことでもなさゝうであります。室町時代の京都では、初夢を見るのは節分の晩でありました。やはり船の繪を敷いて寢たと謂ひますが、其船はからつぽであつて、時によつては其繪の上に、「獏」といふ文字を書いて置く例もありました。獏は夢を食べてしまふといふ傳説の獣であります。それ故に本來はこの空の舟も、惡い夢を見たときに流してしまふ爲の用意であつたらうと、嬉遊笑覽の著者などは申して居ります。をかしいことには近世の寶船にも、狛犬のやうな獣が二匹、ちやんと七福神や寶物と同船して居るものが折々あります。それがどうもこの夢を食ふ役目の獏だつたらしいのであります。
 
(323)          二
 
 私などの小さい頃にも、年寄は正月の初夢が惡いと、翌朝は急いで寶船の繪を川へ流し、又何でも無い夢であつても、此繪紙を棄てゝしまひました。さうして好い夢を見たときだけ、年月日などを記入して保存して置いたものであります。正月早々に惡い夢などを見ると氣になる所から、前以て之に備へるのを主としたやうであります。それ程にも新年は無事を理想として居たのでありますが、後には進んで積極的に、この寶船の繪によつて、何かめでたい夢を迎へようとするやうになつたのであります。
 一富士二鷹三茄子といふことを聞きますが、めつたにさういふ夢を見たといふ人はありません。全體に好いとも惡いとも言へない雜然たる夢ばかりが多いのです。其中でもやゝ氣になるといふのは、起きて居るとき見ても不愉快なことを夢で見た場合で、それを「夢だ」といつてたゞ忘れてしまふ人と、どうしたわけだらうと考へ込む人とありますが、以前はこの第二の種類の方の人が、今よりも多かつたらしいのであります。
 それから又、どうも不思議な夢だといふのがあります。三晩つづけて一つ夢を見たとか、母も妻も同じ夢を見たなどゝいふことがありまして、さういふ時にもやはり氣に掛けました。近世の小説はよく是を趣向にして居りますが、それは夢判斷の適中したものだけが、珍らしい話として傳へられるので、其他にまだ是の何十倍何百倍のものが、至つてあやふやで我々を迷はせて居たのであります。古人は此不安を處理する手段として、色々の方法を採用致しました。其中でも最も舊くからあつたのが夢合せ、つまり一種の解釋學です。是は多くの解釋學の如くほゞ職業化して居たやうであります。「夢は合せがら」などゝいふ諺さへあつて、惡い夢でも上手に合せると幸福な結果を導き、其代り好い夢も惡く合せて災を招いたといふ昔話が、幾らも世に傳はつて居ります。
 第二の方法としては夢ちがへ。是も言葉によつて惡い夢をよく取りなしたものと思はれ、「夢は逆夢」といふ慰めの(324)言葉などが今でもありますが、其他に別に夢ちがへの式もあり、又呪文も元はありました。或は又氣になる夢を見ると、改めて祈?や占なひを頼むこともあります。たとへば信州の一部で、蛇の夢を見ると神詣でをするがよいと謂ふなどがそれであり、又牛の夢を見ると先祖の墓を供養しなければならぬといふ土地もありますが、其樣な手數を掛けずにもし惡い夢だと思つたら、「獏食へ獏食へ」と唱へたり、又はこの舟の繪を川に流すといふやうな方法もあつたのであります。しかし是には豫めどんな夢が好いのか、どんなのが惡いのかを知つて居らねばなりません。ところがこの社會生活の複雜化につれて、人間は勝手に新らしい夢を見るので、今まであつた僅かな言ひ傳へだけでは、總ての夢の好い惡いを決することが出來ないのです。それに困るならばもう少し、自分たちの經歴を考へて見ればよいのに、斯んな點でも日本人は、なほ外國の書物から學ばうとして居たのであります。
 
          三
 
 今から五六年前に、セリグマンといふ英國の有名な學者がやつて來まして、日本人は一體どんな夢を見て居るか、研究したいから參考書を捜してくれと謂ひます。それで私は方々の本屋に頼んで、夢判斷に關する書物を色々と買集めて見たのですが、驚いたことにはその殆と全部が、支那の夢占なひの本の飜譯でありました。夢ばかりはまさか人眞似をして見るといふわけには行かない。從つてよその民族の學説が、雁にどの樣に精密であらうとも、其儘受賣は出來ぬ筈でありますが、昔も今も本でも著述しようといふ者は、いつも此樣な樂な仕事ばかりしたがるのであります。もしも日本人が春立ち還る毎に、今後も尚大いに夢見ようといふ國民であるならば、先づ以て自分たちの、是までの經驗を再認識しなければなりません。それは各人の今でもまだ持つて居るものであつて、氣づかず比べても見なかつたばかりに、無いも同然の姿で今は埋もれて居るのであります。外國人の研究が本當に役に立つのは、もう少し自分の事を知つてから後の話であります。
 
(325)          四
 
 夢に幾通りかの種類のあることは、夙く支那人なども説いて居りますが、我々の祖先はそれとは別に、やはりこの事を認めて居たやうであります。先づ最も多いのは襍夢ともいふべき所謂取止めの無いもの、「夢のやうだ」などゝ言はれる夢でありますが、其以外に奇夢などゝ隣國人の呼んで居るもの、即ち何等の待設けも無いのに、あり/\と思ひがけぬ事實を夢み、又それを記憶して居る場合があります。是を何事かの暗示と考へ、氣にかけ又は解を求めるのは自然であります。夢合せの必要は斯ういふ時に起り、「夢は逆夢」といふ諺なども、斯んな時に多く用ゐられました。よく我々が耳にしますのは、物を食べる夢は風を引く前兆とか、斬られた夢を見るのは金が身に入るのだから好いとかいふので、是等はもう今日となつては解釋の値うちよりも、曾て日本人がよくさういふ夢を見て居たといふ、史料としてばかり有用なのであります。或は又嫁に行く夢を見ると死ぬと謂ひ、鯉を捕る夢は親しい者に死に別れるなどといふ類の、色々の言ひ傳へが地方にはありまして、捜して居ると中々珍らしい例に行當ります。是等の夢解きは舶來でないだけに、深く考へたら何か隱れたる理由があり、少なくとも國民の心理の研究に、或暗示を與へるものがあると、私たちは思つて居ります。勿論其夢解きを信ずるといふのでありません。
 其以外にもう一つ、日本に昔から多かつた夢は、かの逆夢に對して正夢と名づくべきもの、所謂マボロシ即ち起きて居て見たり聽いたりする不思議と最も近い夢であります。此夢を見る方法が後世失はれてしまひまして、單に夢合せの適中した奇夢をも、マサユメと呼んで居た例がありますが、それは名稱の擴張であつて、古くは我々の祖先は、求めてこの正夢だけを見ようとしました。それが日本人の夢占《ゆめうら》といふものであります。何か一生の大事で心に決し難い問題のある場合、一念を籠めて夢を待つのであります。通例は神佛の前に出て夢の告を願ふのでありますが、惠心僧都といふやうな信心深い人たちは、却つて坐ながらにして貴い夢を見て居ります。しかもそれは佛教の産物ではな(326)かつたので、今でも田舍ではこの夢さとしをする神を、枕神と名づけて佛法の外に置いて居ります。神が枕がみに立つといふことは、即ちこの思ひ寢の恍惚境に於て、神秘なる啓示を受けることであります。しかも其夢は必ず好い夢ときまつて居りました。たとへば戰をしようかすまいかといふ時に、してはならぬといふ靈夢の告を受けたとしましても、其方が利益であり又正しいのだと解しますから、やはり好い夢であつたので、是だけは決して逆夢とは考へませんでした。この新らしい時代になつても、斯ういふ正夢は尚大いに必要であります。即ち常日頃から崇め信ずる力に頼つて、今抱いて居る自分たちの空想の當れりや否やを決することは、今後も形をかへて我々日本人の、特殊の技能となつて續かなければなりません。たゞ近頃の初夢のやうに、それを七福神と金銀財寶の寶船にばかり、求めようとするのは感心せぬといふだけであります。
 
          五
 
 理窟ばつた話は是くらゐにして、終りに少しばかり昔話を附加へて置きます。昔話の正夢もやはり大抵は皆長者になつた夢ばかりであります。これは見る人が凡人なのだから、何とも致し方の無い次第であります。夢の昔話で殊に世界的なのは、日本で「夢見小僧」と呼んで居る話であります。或小僧が正月早々に、好い夢見た/\と嬉しがつて跳ねまはつて居ますと、それを主人とか親とかゞ話して聽かせろと謂ひます。いやだと謂つて一人で喜んで居たので、怒られて追出されてしまふのです。それから難儀をして方々を經廻つて居るうちに、段々運が向いて來て終には其夢の通りに、すばらしい萬福長者となつて故郷に還り、私の見た好い夢は是でしたといふ話。これなどは我邦だけでなく、少し形をかへて歐羅巴にもあるさうです。今でも好い夢を見たら人に話してはならぬと考へて居る者がありますが、或はこの昔話と、起りが一つではないかと思ひます。
 其次に是はまだ日本以外の民族に、有るかどうかを知りませんが、奧州南部の田山のダンプリ長者の話があります。(327)ダンブリは即ちトンボ、蜻蛉の導きで長者になつたといふ話であります。昔貧乏な正直者が山畑を開きに行つて、くたびれて少し晝寢をして居ると、蜻蛉が一疋、此男の口にとまつては向ふの山の陰に行き、何度と無く往復しました。傍で見て居た女房が男を搖り起すと、わしは今珍らしい夢を見て居た。向ふの山の陰に行つて見るときれいな清水が涌いて居て、それを飲んで見たら良い酒であつた。今でも口の中が甘いといふので、不思議に思つて夫婦でそこに行くと、果して泉があつて其水は美酒でありました。それを賣つて大金持になつたとも言へば、又其泉のまはりは殘らず黄金であつたとも謂ひます。つまり女房の眼にダンプリと見えたのは、寢て居た長者のたましひであつたといふのであります。
 それと半分以上も似た夢の話は、是も二人づれの旅人が、松竝木の陰かなんかで休息し、その一人が睡つてしまつたので見て居ると、鼻の穴から蜂が一疋飛出して、遠くへ行つては又還つて來て鼻に入る。それを不思議に思つて起して聽くと、やはり金銀のあまたある處に、往つて來た夢を見て居たと謂つて、詳しく其場所を話します。そこで戯れに托して僅かな錢で其夢を買取り、夢を見なかつた方の男が、後でそつと行つて其財寶を掘起し、非常な大金持になつたといふのであります。九州の方では是を日向の外録《とろく》の金山を開いた、三彌大盡といふ人の出世譚として傳へて居りますが、越後國では間瀬村の仁助といふ長者の話だといひ、夢の蜂は乃ち四十九里の浪の上を渡つて、佐渡の榎木谷の正光寺の庭で、黄金の壺を捜しあてたことになつて居ります。伊勢の大金持の東壺屋西壺屋の由來といふ昔話は、山梨縣の富士山麓などに行はれて居りました。是も二人の旅人ですが、夢を買取つたといふ部分だけはありません。たゞ一方が晝寢をして、其鼻の穴から小さな蜂が飛出し飛返つたのを、他の一方の男が見て居たといふだけです。それで睡つた方の男は夢をたよりに、黄金の壺を一つ掘出して大金持になります。そこへ以前の道づれ男が訪ねて來て、所望して其壺を見せてもらひ、何心無く壺の底を上に向けたところが、そこに「都合七つ」と書いてある文字を發見します。さうして二人で又出かけて行つて、二人とも大へんな萬々長者になつたといふのであります。
 
(328)          六
 
 夢を買取つた者が、夢を見た者の福分を横取りしたといふ話は、既に宇治拾遺物語にも吉備眞備の逸事といふのがあります。それよりも有名なのは日本外史にも出て居る鎌倉の尼將軍政子が、まだ娘の頃に妹の夢を購つたといふ話がありますが、是などは朝鮮の東國輿地勝覽にもそつくり其儘のものがありまして、どうも日本固有の形だつたと思はれません。多分は南部のダンブリ長者や、伊勢の東西壺屋のやうな話が元からあつた所へ、後に夢を買ふ話が入つて來て、筋が似て居るから繋がつてしまつたものかと思ひます。
 日本の多くの昔話では、斯んな好い夢を見る程の人間は、生れ落ちるときから定まつて居りました。夢を賣つたぐらゐでは其福運は他へは移らないのであります。信州北安曇郡の小谷で言ひ傳へて居ますのは、越後の能生の岡本といふ家の先祖が、正月二日の夜の初夢に、青木湖畔の山の陰に黄金が埋まつて居るといふ夢を、三年も續けて見たといひます。家來が其話を聽いてそつと往つて掘つて見ると、果して黄金は出ましたが、それが青い光になつて飛んでしまひ、還つて見れば主人の家は、座敷も勝手も埋まるばかりの金又金であつたさうです。この同じ話を、人によつては又斯ういふ風にも覺えて居ます。即ちやはり旅人が二人で、青木湖の端で休憩し、一人は睡つて夢を見る。一人は夢の話を聽いて、後からそつと行つて掘り出しますと、やはり財寶が青い光に化して空を飛んで行つて、夢を見た方の人の家に、落ちたといふ話になつて居るのであります。
 昔話も夢と同じやうに、支那と印度と西洋と日本とでは、それ/”\に話し方が變つて來て居ります。日本では最初から、正夢を見るの資格とでもいふべきものが、定まつて居るやうに考へられて居たのであります。だから私は又將來の日本の爲に、大いに夢みることの出來る人がもし幸ひに有つたとすれば、それを早目に搖り起したり、又嘲つたり欺いたりせずに、出來るだけ莊嚴なる正夢を、ゆつくりと見せてやりたいと思ふのであります。
 
(329)  昔話覺書
 
(331)  改版序
 
 この本が初めて世に出たのは、昭和十八年の四月、まだ終局の悲運までは豫想し得なかつたけれども、人は新聞にばかり氣を取られて居て、もはや昔話などは省みる者もあるまいと思ふやうであつたが、前から採集をつゞけて居た岩倉市郎君、その他の同志の記録が十幾つかたまつて來たので、これだけは何とかして出して置きたいものと、まづ試みに三省堂の店の人に相談をかけてみたところが、それが自分にも意外なほど手輕に成立して、僅かな期間にあれだけの「全國昔話記録」を世に殘し、更にその餘勢を借りてこの「昔話覺書」までが、少部數ながら出て行くことにもなつたのである。
 これは勿論好意であり、又「桃太郎の誕生」以來の因縁でもあつたが、その以外になほ一つ、かういふ出版物の隱れた需要があつたことを、たゞ自分などが氣付かずに居たのである。國の隅々に行渡つて、あの頃最も盛んであつたのは、いはゆる慰問袋の蒐集と輸送で、これには專ら女性が參與して居り、その心を籠めた數々の物品の中には、大抵は一册か二册の本がまじつて居た。私たちの昔話集も戰地で讀んでみたといふ通信は受けたことがないが、少なくともある部數、海を渡つて行つたことは確かであつて、それは結局燒いたり破つたり、無いも同然に歸したのであらうけれども、さうは思へないでなほ當分の間、極めて稀有なる幾つかの場合を空想して、その終局の效果を待つやうな氣持が抑へられなかつたのである。
 これは空想に終つたけれども、しかもその後の變遷には又豫期以上の悦ばしいものがあつた。佐渡の島に古い昔話の語り方を、ほゞ前代の形のまゝで記憶して居た老女が出現したのを機縁にして、多くの若い人たちが新たに興味を抱きはじめ、それに引續いて中越地方には、數多くの傳承者を發見する水澤君等の活躍が始まつた。雪(332)多く冬の爐邊の生活の靜かな地方だけには、越後には限らず、まだ/\昔話の元あつた姿が、見つけ得られるといふ希望が、十何年來の私などの悲觀を、可なり痛快に覆へしてくれたのである。自分はもう皆と共に働けないけれども、曾てやゝ大膽に公表して置いた幾つかの假定が、もう一度試驗せられる時代がやつて來たのである。人が全體にもう少し賢こくなるものならば、私などの落第も決して不幸ではない。
 「昔話覺書」は、前の「昔話と文學」に對立して、彼は一國の文學の文字になる以前といふものを考へてみようとした代りに、こちらは主として二つ以上の懸け離れた民族の間に、どうしてこの樣な一致又は類似があるのかを、考へてみようとした試みのつもりであつた。これには勿論もつと多くの本を集めて、もつと綿密に讀み比べてみなければならぬのに、大きな戰が始まつて外國書の輸入がとまり、自分も生活が煩はしくなつて、讀書が意の如く進まなかつたので、それを口實にして中止してしまつたのだが、實は始めから、これは一人では覺束ない大事業であつた。殊に今までのやうに地域が限られ、手の及ばぬ問題の多い日本では、仲間を多くして仲よく助け合ふのが、何よりの準備作業であつたのに、戰もまだ初期の頃から、同志の人々は次々と落伍して行つて、たがひの通信も絶え/”\になつて來た。人に笑はれるだけの大言壯語が、淋しく書棚の片隅に殘り、しかも日本人は昔から、實は大勢順應主義の忠誠なるしもべ〔三字傍点〕であつた。かうしてやゝ早めに、採集はなほ可能だといふことが、ともかくも實例を以て證明せられたことは、學問のためには悦ばしい轉囘期であつた。微々たる豫言者の失敗の恥がましさなどは、世間は言ふに及ばず、自分でもやがて忘れてしまふことであらう。
 そこで終りになほ一つだけ、附け加へて置きたいことは、この頃大分行はれ始めた「民話」といふ用語の意味、これと「昔話」とはどれだけの差があるかといふ問題である。私は今から十何年か前に、始めて「昔話研究」といふ雜誌を出した際に、とくとこの問題を考へてみたのであるが、その結論は、二者は全く同じもの、たゞ採集を出發點とする場合に、民話では全く元方に通じない故に、わざと他の多くの國に、民話と譯した方がよい言葉の(333)あることを知りつゝも、それを使用することを避けたのであつた。その理由は最も簡草で、日本には昔から民話といふ語は無く、澤山のいはゆる「民話」を語り傳へて居る人々は、自分では使はぬばかりか耳で聽いても、ミンワとは何ですかと、一度は問ひ返さずには居ないからである。この點は前に久しく、民謠といふ語において、ひどい經驗をして居た。しかもこの方は聽いて早速に口眞似をする人が幾らもあつたので、二三十年もするうちには、これがミンヨウとも言ふのだなと心付いて、自分でも折々は使はうとする者が出來てきたけれども、今でもまだ口眞似をしようとする者が少ない。その上に民謠の方は漢語ではあるが、古いいかめしい日本書紀などゝいふ本に、ちやんと使はれて居るといふので押付けることが出來たけれど、こちらはそれよりもずつと内輪で、寧ろ絶對に漢語などは使はなかつた人々の、靜かな家の中で祖母から孫たちへと持傳へて來たのを、成るたけ元の形で聽いて置かうといふには、こちらにも亦それだけの用意が無くてはならぬ。いづれ昔話は時代と共に變化し成長するものときまつて居るが、其中には幾つもの段階と路筋がある。近世に採訪せられた若干の實例を見比べてみても、家に物覺えのよい長命の女性などがあつて、世盛りには家政に氣を取られて、めつたに思ひ出す折をもたなかつた者が、孫が何人か生れてその中には自分の幼ない頃と、よく似た感覺をもつ兒のあることに心づいた時に、思はず話をして聽かせたといふやうな場合に、特に古い話が數多く、又精確に傳はつたといふ實例は、幾つとなく發見せられて居るのである。これと座頭などの招かれて座興を添へた場合、乃至は山小屋とか繋り船の中とかで、我勝ちに何か奇拔な語り草で、落ちを取らうとした場合の笑ひ話などゝを、一つに見られてはたまつたものでない。
 自分たちがもう田舍にも古風な昔話は殘つて居ないと思ひ、今まで集まつた一地方の昔話集だけで、昔話の研究を進めて行くことを不可能とまで考へて居たのは、いはばこの民話式の、思ひやりの足らぬ態度に懲りたからである。日本内地のよく開けた邑里においても、なほある程度までは昔に近い形が傳はつて居るといふことは氣(334)づかなかつたが、現に南方の島々においては、まだ/\澤山の説話の採集し得られさうなことは、現に岩倉君がこれを立證し、近頃は又田畑英勝君などが若干の例を附加して居る。たゞ最近まで氣が付かなかつたことは、これと他の一端の雪國の多くの村里に、どうしてこれほどの水郷説話などの共通性が見られるのかといふ理由が、やはり女性の移住力と、これに伴なふ傳承性といふものに在ることに、心付かなかつた結果であつた。これを反省するにはもう一度、土地を隔てた一致と類似とに、細かな注意を拂はなければならぬ。最近の佐渡越後の採集には、まだこの方面の資料は足りないが、かうして捜せば古いものはなほ見つかるといふことだけは判つた。世界の遠い端々の不可思議なる類似とても、行く/\はもう少し根源にたどつて行かれるかもしれない。たゞ民話などゝいふ新語を平氣で使つて、これでももとの姿が説明し得られるなどゝ思つて居る人たちに、成るべく遠くの方から見て居てもらはぬと、久しく東海に孤存して居た日本島群の、固有の文化史的使命といふものが果せないかもしれない。それが少しばかり氣づかひである。
     昭和三十二年九月
 
(335)  再版の序
 
 三省堂の全國昔話記録が、戰時中にも拘らず飛ぶやうに賣れてしまひ、その一部は確かに外地に滯留する同胞の手に渡つて居ることを知つて、私はやゝ美し過ぎるといつてもよい夢を、胸のうちに描いて居た。尋常一樣の旅行に於ては、到底入込むことの出來ぬやうな珍らしい異郷に、もはや干戈の必要の無い二以上の種族が、相接近して互ひに相手を知らうとして居る。こちらの軍人も半數は職業で無く、日頃の好みを異にした色々のインテリである。少しく言葉を學び又生活の片端に觸れ得たとすると、其次には斯ういふ罪の無い、しかも彼等には必ず意外な類似のある昔話などが、笑を催すやうな話の種になつて、たとへ採集はして來ぬまでも、いつかは採集をしに行く價値のあるものが、分布して居るといふことまでは心付いて、還るかも知れぬと思つて居たのである。
 現在は同じ日本の國内ですらも、同じ昔話が西と東、離れた隅々に於て語られて居たことを、想像もしなかつた人が實は多いのである。それが何かの拍子にたとへ一つでも、今まで名も聽いたことの無い土地に有るといふことが判つたとすれば、その驚きは或は啓示になつたかも知れない。遠い昔の平和なる交通の痕跡が、寧ろ隔離と疎遠とを不自然なものだつたと心付かしめる機縁になつたかも知れぬのである。手段が誤つて居たから失敗に終つたのであらうが、我々が互ひに親しく知り、友にならうとした志までは惡いもので無い。寧ろ今までは餘りにも關心を缺き、いゝ加減な推測をして居たことが、この慘澹たる悲劇を生んだと言つてよいのである。何れにもせよ此一册の本が、目ざして居たやうな光明界は、こゝ暫らくの間は望めなくなつてしまつた。心靜かに斯ういふ問題を、再び考へて見るやうな時代まで、今ある各地の資料は果して保存せられて居るだらうか。それを改めて取上げてくれる人々は、彼か我かはた第三國の學者であらうか。それを豫言することももう出來なくなつた(336)が、責めてはこの覺書が世に殘ることによつて、少しでもさういふ日の早く到來するやうにしたい。私一個人としても、今からだつたら新たに斯ういふものを、書いて置く氣は起らなかつたらう。それが斯うして又世の中へ出て行くのだから、因縁は決して空しいものでは無い。昔話の研究はどこの國でも、今漸く半途に在り、又この世界の動亂によつて、足踏みをさせられて居るのであるが、未來の復興は或は早いかも知れない。是を以て序とする。
     昭和二十一年六月
 
(337)  第一版自序
 
 全國昔話記録の、次々に世に出るやうになつた歡びを記念すべく、あれこれ書き散らしてあつた小文を取りまとめて、又一册の本をこしらへて置くことにした。前集は主として國内の發達、いはゆる説話文學との交渉を説かうとしたものが多いに反して、この方は比隣の諸民族がもつて居る説話と、どういふ關係に在るのかを考へるのに力を入れて居るが、是は私のやうな時間の不足な者には、容易に進めさうにもない遠い險しい路である。前から集めて居る僅かな書物も中々讀み盡されず、外國には又是に何十倍もの古來の文獻があつて、名を聞くばかりで當分は手に入りさうにも無いからである。その上に西洋の學者の今までの研究は、多くは印度以西の古い交通路上の資料で、近頃やつと少しづゝ、世界の他の隅々の調査が始まつたのだが、それも偶然の機縁といふほどのもので、たとへば東方亞細亞の諸民族などでは、たゞ昔話が必ず有るといふことを知るだけで、採集はまだ少なくともあまり公表せられて居ない。故に是からは或は斯ういふ小さな片端の研究でも、之を讀んで始めて興味を覺えたといふ日本人が、出かけて段々に聽いて來るといふ、端緒にならうかも知れぬのである。問題は大きく人の一生はあまりにも短かい。すつかり集めて置いてからさて愈研究に取りかゝるといふ樣な順序には行かぬのである。
 昔話といふものは十人が八人まで、幼ない頃に聽いて覺えて居る。どんなまじめな人でも折々は、きつと腹の内では憶ひ出して居る。たゞそれがあまりにたわいも無いことだと思ひ、又自分等だけのものだらうと獨斷して、互ひに話し合つて見ることが無いばかりに、古い人類の寶が埋もれたまゝで、或はもう消えて行かうとして居るのである。さういふことだけなりとも少しでも早く、心づいて居る方がよいのである。この本の中にも僅かな實(338)例を擧げて置いたやうに、我々の昔話には全國の子供が、曾ては皆同じものを聽いて居た時代があつた。附近の諸民族の中にも、到底偶合だとは言へない位に、よく似通うた話を聽く場合が多いであらう。それがある以上は先祖は一つだらうとか、又はこちらから往つて教へたのだらうとか、きめてしまふやうな人も元はあつたが、迂闊にさういふことの言へないわけは、この類似の及ぶところは法外に廣く、北はシベリアの雪氷の荒野から、南は緑輝く珊瑚の島々にまで、捜せば時々は同じ話が行き渡つて居ることがあるからである。今から百何十年も前に、グリム兄弟が獨逸の片田舍で聽き集めたものゝ中にも、日本で我々の祖先たちが、樂しみ語つて居たのと先づ一つといつてよい話が、五十は安々と拾ひ上げられると謂つて居る人もある。今日はまだはつきりと説明し得ないにしても、是は何かよく/\の、全く我々の知らない原因があるのだと、いふこと迄は考へて見なければならぬ。
 歴史を超越した遠い/\大昔に、同じ一つの焚火にあたつて居た者が、別れて年久しく孫から曾孫へ、大よそまちがひ無く、しかも文化に相應する修飾を加へつゝ、語り傳へて居たのだとしても大へんな奇蹟である。或は又人が隣から隣へ、順送りにどこまでも持運んでしかも大切に守り續けて居るのだとしでも、さういふ大規模な入組んだ交通は、まだ文化史の上では何人も説明して居ないのである。第一に言語の極端なちがひ、今でも飜譯には無理ばかり多く、いゝ加減なところで辛抱して居る者が幾らもあるのに、例へば糠福米福や姥皮の話の如くに、そつくり其儘をどこの國でも、それ/”\に自分の言葉の藝術としてもてはやして居る。是などは單なる國語の機能としても、現在の常理を以て期待し得ないことを、いつの間にか昔の人は爲し遂げて居るのである。果してどういふ手順を重ね、又はどれ程の年月をかけたら、斯んな不思議がもう一度實現し得るものか。我々にはまだ之を明かにする方法は立つて居ない。是をたゞ二つの民族の接觸と交通さへあれば、自然に斯うならずには居らぬものゝやうに、勝手にきめ込んで居る氣樂さに至つては、是を各個の民族に獨立發生したものだ、それが偶(339)然に互ひによく似て居るだけだと、思つてすまして居る無責任にも劣らない。
 西洋の學者には流石にそんなのは少ない。良心の強い人は皆決斷に迷つて居る。しかも一方には地位や職業から、何とか意見を述べずには居られない者が、若干あることだけは我邦と同じである。數多い事實を累積し整理し、且つ之を安全なものにする技能にかけては、確かに向ふの人は一日の長があるのだが、さて愈是から一つの結論を導かうとすると、やつぱりこじつけでも有り又思ひちがひも多い。マックス・ミュルラーの言語頽廢説以來、たつた百年足らずの間に前説の覆没し去ること、昔話研究の方面のやうに、頻繁であつたものは他には無いかと思ふ。それといふのが世の進みと共に、段々と新らしい資料が加はつて來て、それに對して頬冠りをすることが出來ないからである。以前の限られた知識でならば、昔話の源頭は印度であり、それから東西に流れ下つたなどゝいふ類の説もなほ成立つたらうが、さういふ水筋とは縁も無ささうな、遠い島邊にも同じ實例のあることがわかり、おまけに東大陸の洪大な地域のやうに、捜せば何が有るか知れないといふところが、手を付けずに殘されて居るのである。日本に於ても、近年我々の手で集めた昔話の如き、獨逸で一部分の飜譯が出來たゞけで、まだ少しも向ふの人たちには利用せられては居らず、しかも是を印度の方から、支那を經て入つて來たらうといふことは、たゞ何も知らぬ者がさう推測するだけで、そんな形跡はまだ我々には見出し得ないのである。
 國の學問の自主といふことを考へて見るには、或は意外の感を抱く人があるかも知れぬが、昔話研究などが殊に手頃なる目標であつた。日本で學者と言はれる人の中には、向ふの本だけしか見て居ないのが元はあつた。昔話の本質を論じようとする場合にも、あまり色々のよい材料を貰ふので義理があるとでも思つたものが、彼等先進國の不確かな結論をも、合せて頂戴したのである。まさか破られてしまつた古い學説の受賣まではしないが、最近最新のものだといふことがわかると、公然と之を信奉し且つ援用して居る。實に腑甲斐ないことだつたと我々は思ふ。文化人類學の他の多くの問題に就いても、さういふ嫌ひはよほどある樣だが、つまりは我々の事實、(340)彼等白人のまだ參酌することが出來ず、しかも我々にはよく呑込み得る資料を、是からどし/\と集め且つ整理して行くより他に、斯ういふ情け無い屈服を排除する途は無いのである。
 全國昔話記録の個々の事業なども、今まで無いも同然であつた國民生活の一面を、知り且つ檢査し得る?況に置いたといふだけでも、一つの功勞だつたとは言へるであらうが、それよりも更に大切なことは無意識の間に、この人類の過去にとつて最も興味の深い事績を、國の學者の創意によつて、判別し又解説するといふ事業の最初の推進となつて居るのである。勿論昔話の國内に於ける發達を、細かに見て行くといふこともよい學問であらうが、是と併行して日本と四圍の諸民族との心の繋がり、もしくは精神生活の歸趨ともいふべきものが、下に隱れてどれだけの一致を具へて居たかといふことを、見つけ出さうとする努力も輕んじてはならぬ。又さういふ幻しを胸に描いて進んで行くといふことが、この艱難時代の一つの慰安でもあらうと思ふ。斯んな小さな本を出して置いて、大きなことばかりいふのはをかしいかも知らぬが、是でも此の研究が國の學問を新らしくする、一つの機縁であらうぐらゐには私は樂觀して居るのである。
      昭和十七年十一月
 
(341)     昔話採集者の爲に
 
       一 昔話の意味
 
 是まで自分等が民間説話と謂ひ、又はそれを略して民譚と謂つて居たものと、爰でいふ昔話とは全然同じものである。一方にもし範圍のやゝ不明な點がありとすれば、此方でもやはりそれは問題になつて居る。昔話と謂ふのは差支へ無いが、民間説話の中には入れられないといふ樣な話は無いと共に、昔話で無い民譚といふものも、一つも無いといふことを私は信じて居る。そんならば何故に今頃「昔話」などゝいふ古臭い語を、持ち出して使ふかといふ疑問が起るかも知らぬが、それには堂々たる幾つかの根據がある。主たる理由は斯う言はぬと採集が一層六つかしいから、私は是非とも此語を將來の精確なる日本の用語とし、他の一方のものを必要な場合の代用語にして置きたいと願つて居る。
 民間説話は佛蘭西語のコント・ボピムレェル、もしくは英語のフォク・テェルズの直譯であつて、果して「民間」が原語の趣旨を表して居るかどうかも心もと無いが、是でも外國人と學者とだけには通用するのであらう。しかし少なくとも實際の當事者、即ち昔話を記憶し又は聽きたがる人々には、是は思ひも付かぬ新語なのであつた。通例最も多くの昔話を知つて居るのは村に生れた老女たちであるが、もし假に彼等に向つて民間説話を聽かせておくれなどゝ(342)云ふ者があつたら、彼等は恐らく目を瞠らずには居ないであらう。即ち此言葉は警察兵營の語と同樣に、まだ通譯を要する程度の日本語であつたのである。英佛の二つの名稱も、近頃急に用ゐられるやうになつたことは同じだが、是は今まで知られて居る二つの語を繋いだだけであつて、字を書いて見なければ想像も出來ぬやうな漢語とはわけが違ふ。しかもそれすらもなほ採集者は、出來るだけ使はぬ樣にして居るのである。野外と書齋とでは別な語を用ゐようとして居るのである。ところが我々の國だけでは、ちやうど兩方に通じて少しも差支への無い「昔話」といふ語があるのである。それを持合せなかつた國の眞似をする必要などは更に無い。
 昔話は以前或は昔語り、もしくは昔物語と謂つた時代があつたかも知れぬが、それを昔話と謂ひ始めてからも、もう隨分久しいことである。人によつては昔の話をするのだから昔話だと思ひ、又さういふ意味に此語を使ふ者も段々多くなつたやうだが、是はさう解しても抵觸しなかつたといふのみで、この單語の起源は今少しく具體的のものであつたと思ふ。一つの證據は土地によつて、今でも是をムカシムカシと小兒などが呼んで居ることである。東北ではコを附けてムカシコといふのも古くからのことであつた。即ち冒頭に必ずムカシといふ一語を用ゐて説き出す話を、人が其特徴に據つてムカシ話、或は昔々と名づけたのであつて、必ずしも其内容の古代であることを要しなかつたのである。伊勢物語の「昔男ありけり」以來、ほゞ現代まで此樣式はずつと續いて居る。コントといふ語は其本國に於ても、用法が漸次延長して來たが、所謂民間説話に對立する文藝説話即ちコント・リテレェルには、避けて此形は使はぬやうにして居るのみか、同じ凡人大衆の間に流傳する説話でも、「昔話」で無いものは出來るだけ、是と異なる表現法を採らうとして居る。單に最近の見聞を傳へんとする世間話は固より、同じく過去の出來事を語らうとする場合でも、それが歴史でありはた傳説であつて、我も然りと信じ又聽く者にも信を置かしめようとするものは、最初から話し樣が別であつた。即ち昔話と古い話とは、決して一つの物では無いのであつた。尤もこの傳説や世間話と昔話との間には、實質上の混亂は若干ある。たとへば世間話の形を以て、誠しやかに語られるものが、實は昔話として久しく(343)行はれて居るものであつたり、もしくは餘りに珍らしい實話が、いつと無く昔話になつて行つたりすることもあらうが、話者は少なくとも其分堺を明かにして居た。さうして我々の考へて見ようとする民間説話なるものも、すべてこの境の線の此方の側に屬して居ることは、「昔話」と更に異なる所が無いのである。
 
       二 昔話の範圍
 
 昔話の外形は一方の製作説話の影響を受けて、追々に自由になり不精確にならうとして居るが、まだ/\日本などでは其特徴の認められるものが多い。人は僅かに最初の一句だけを聽いて、容易にその昔話であるか否かを判別することが出來る。聽衆が普通幼少な者ばかりで、其更迭が頻繁であり、且つ單調を氣にかけなかつた爲でもあらう。しかし永い間には、是でも幾分か新意を出す必要はあつたと見えて、少しづゝは地方によつて違つて來て居る。東京の子供のよく知つて居るのは、
  昔々あるところに、爺と婆とがありました
といふ形であるが、それをわざと長たらしく、
  昔の昔のその昔、ずつと昔の大昔に……
と謂つて待遠に思はせて見たり、又は省略して、
  まづ或處に……
と言つて見たりした。全國各地の例といふのも、大體にこの二つの形の中間を動いて居る。試みに私の知つて居る二三の例をいふと、肥前島原半島のは、高陽民話(旅と傳説三ノ五)にもある如く、
  昔ぢやつたげなもん……
(344) 同じく伊王島の例は本山君の「民俗研究」に、
  昔ぢやつたちふ……
 出雲の例は「郷土研究」に、
  とんとむかし……
 伯耆米子のは「民俗」に、
  とんと昔あつたげな。あるよその國に……
といふとあるが、勿論是が唯一種しか無かつたといふわけではあるまい。「とんと昔」は江戸でも曾て使つた省略法であつたと見えて、何かの落し話に化物が芝居をしたといふことがあつて、さげ〔二字傍点〕は其一人が「とんとんかかか」と言つたとある。即ち拍子木の音と昔話の初の文句とを引掛けたのである。富山縣の實例は高崎正秀君の報告(  民族三ノ一)に、
  昔あるとこに、餅のすきな姑はんがあつたと
と出て居るが、大田榮太郎君の「灰まき爺」などの初の語りは、
  とんと一つあつたとい
といふので、採集地は同じ上新川郡である。越後でも色々の形はあらうが、私の聞いてゐるのは西蒲原などに、
  あつたてんがのに……
といふ例がある。信州は松本附近で、
  昔あつたさうな。爺と婆とあつたさうな
 甲州の九一色では、土橋里木君の報告に依れば、普通の「昔ある處に……」の他に、「まアある所に」、もしくは、
  まァ昔ある村に、爺と婆とがあつたさうだ
(345)といふ例も多いといふ。是とよく似て居るのは、仙臺地方の、
  ざつと昔、ある處に……
 此もあまり「昔々」を謂ひ古した後の革新と認められる。以前私が問題にした鹽竈神社の「ざつとな」なども、つまりは人の惡口を昔話の形にして言つたものであつた。山形縣の例は、近頃出た故三矢博士の莊内語法に、
  昔あつたけど。ぢんぢとばんばとあつたけど
といふのが見えて居るが、最上郡の方には又、
  昔はあつたけとよ
と謂つてはじめる土地もあつた(豐里村誌)。岩手縣は田中喜多美君の採集に「昔はありましたとさ」と謂ひ、青森縣では川合勇太郎君の集録に「むがしがあつた」とあるなどは、何と無く次の語りと打合はぬ樣な感じもするが、それに近い形のものは既に他にもあつたので、もと/\形式である故に必ずしも其内容を問題にしなかつたのである。川合君の「津輕むがしこ集」の跋文には、特に此發端の一句の變化を擧げて居る。之に依ると、同じ津輕だけにも次のやうな色々の形があつた。
  むがしにせエ。爺樣と婆樣どあつたど
  むがしこァあつたど
  むがしァあつたぢん
  むがしァあつたど
 是は時代の推移といはんよりも、寧ろ村又は家々の風、人々の流儀ともいふべきものであつたらう。現に内田邦彦氏が津輕口碑集に寫生せられた一例の話法には、別に又、
  昔にあつたどす。おやづとかゞとあつたどす(346)といふのもあつた。全國を詳しく調べたら、細かな變化と同時に又、顯著なる共通點をも見出すことが出來ることゝ思ふ。播州の郷里で五十年前に、自分などが聽いたのはやはり、
  昔々あつたといな
であつたやうに思ふ。今の内ならばまだ各人が、その記憶する所を比較して見ることも容易な筈である。之を要するに「昔話」といふものは、至つて古くからの習はしに從うて、必ず冒頭に昔々といふ一句を、副へて語つて居るハナシであつた。其種のハナシだけが具へて居る特徴は幾つかある。是と然らざる普通の話との差別には歴然たるものがあつた。その一方を尋ねて居る人が、境を踏み越えてこの特徴を具へぬものまで、一緒に考へて見ようとしたことは混迷のもとであつた。故に私は先づ昔話の範圍といふものを明かにしたいのである。
 
       三 話法の特徴
 
 「昔話」の特質は、決して最初の一句に昔といふ言葉があるのみでは無かつた。既に前の列擧の中からでも認められるやうに、其語りの殊に重々しい部分は、悉く直接の實驗では無く、單に「私はさう聽いて居る」といふ意味の語が副へてある。それが「あつたちふ」であらうと「あつたさうな」であらうと、一つとして他の人がさう謂つたのだといふことを、明かにして居らぬものは無い。是は恐らく古傳を尊敬して、大切に之を引繼がうとした時代からの仕來りでもあらうが、之を支へる信仰が薄れ、一方に人が珍奇諧謔を愛するやうになれば、いつと無く次第に責任を避ける目的のやうに解せらるゝに至つたのも已むを得ない。又話す者もさういふ心持で、東京などでは「あつたとさ」を使つて居る。「とさ」といふ語の中には、「私もどうかと思ふけれども」といふやうな感じまで含んで居て、眞面目な傳達には我々は之を用ゐなかつた。九州の各地で「げな話」といふのも同じ趣旨で、「だらう話」よりも尚一段と確實な(347)らず、寧ろ信じてはいけないといふ意味をすら持つて居た。六つかしくいふと、人が空想を自由に働かせ得る區域、うそを吐いても罪にならぬ土俵場として、夙くからこの形式の埒を結ひまはしたので、小説(フィクシヨン)といふ文藝の萌芽を發するには誠に似つかはしい新開地でもあつたのである。人は餘りに注意して居ないが、遠くは今昔物語の「……となん語り傳へたるとや」も此形式であつた。勿論全部が作りごとで無くともよい。單に面白いから語るので、其實質の眞僞、乃至は一部の修飾誇張の有無は、話者の與り知る所で無いといふことは、もうあの頃から諒解せられて居たのであつた。
 傳説と昔話との差別は此點から之を立てることが出來る。傳説も前代の事實を説くことは同じであるから、當然に昔又は大昔といふ語を使はねばならず、通例亦それを劈頭第一に唱へたであらうが、しかも如何なる場合に於ても、「あつたとさ」の形を以て之を人に説かうとする者は無かつた筈である。そんな事をすれば之を聽く者が、傳説として受取ることをしなかつたらう。尤も今日の傳説の中には、説く者が既に之を信ずる能はず、所謂斯んな話として笑ひながら語るものも多くはなつたが、さういふ退化の?態に於てすらも、まだ之を全く昔話として説くことを敢てしない。ましてや寺社の縁起や由緒書に書き上げられ、それを以て一地方の信心を繋いで居るもの、もしくは村の起り家の先祖の奇瑞として、紋にしたり苗字にしたりして居る言ひ傳へ、それから今日でいふと進んで歴史を改訂せんとまで意氣込んで居る口碑、たとへば、長慶天皇の御墓所とか、菅原道眞の子孫とか稱する熱心な主張に至つては、假に「ださうな」であらうとも「である」と言つて居る位で、少しでも昔話に近い形態を以て話すことは、ぶち毀しになるから絶對に之を避けて居るのである。然るに傳説を昔の話だから「昔話」に混入していゝと思ふ人は、寧ろ傳説の衰へ又は病み、今まで通りに働くことの出來なくなつたものだけを見て、それを傳説の本來の姿だと思つて居るのである。この見方は多くの今も活きて居る傳説に對して不當なるのみならず、更に一方の昔話の成立を考へて見る爲にも煩ひをなすものである。二者の區別は決してあやふ〔四字傍点〕やで無い。一方は説く人聽く人の最初から信じようとしなかつ(348)たもの、それ故に古い形をいつ迄も保存し得るものであつた。之に反して他の一方は、常に信じられ又信じようとして居たものであつた。新らしい知識の光に照らされると、ぢきに信じ難くなるが故に、度々その外形を改めて行く必要のあるものであつた。傳はり信じられるものは話の骨子、特に重要なる内容だけであつて、人の名や年代さへも時々はさしかへようとして居る。話法や形式の無い方が當然であつて、事實は少しでも文藝めいた色彩を放つことを、努めて今までは避けて居たのであつた。是が幾分か昔話と近く、やゝ混同を受けるやうになつたのは、傳説としては零落の兆であつた。しかも多くの傳説は今とても思つたほど昔話化して居ない。昔話の弘く國内を週遊したに反して、此方は一地に定着し、たま/\同種のものを遠近に發見すれば、直ぐに剽竊呼ばりをしようとさへして居る。さうして當代の地方文士によつて、一種新式のコントに書き改められるまでは、未だ曾て口頭傳承の文藝の間に、一個の座席を要求しようとはしなかつたのである。ところが昔話の方は流傳の力が強いので、時としては未だ其鑑賞に馴れない人たちの間に入つて、却つて傳説として受入れられ、もしくは傳説の種を供することになつたことは、曾て白米城について又隣の寢太郎説話等について、自分が擧證した通りである。其結果は同種の物語の或土地には昔話として愛玩せられ、又他の土地では傳説として土着したものが多く、愈人をして二者混同に陷らしめることになつたやうに思はれる。しかし是とてももし私の列記する形態の差異を明かにすれば、兩々相對して互ひに成長進化の跡を映發するに足るのであつた。一言で言ふならば一方は技術、他の一方は單なる記憶であり、一方は定まつた形のある文藝作品であり、他の一方はその素材となるべき事實といふに過ぎなかつた。元方に行つて見ればこの二つのもの程、はつきりした差別のあるものは無かつたのである。然るにそれを我々に語らうとする人が、今までは有りのまゝを傳へようとせず、之を中央の言葉に飜譯する場合に、この大切な「げな」や「とさ」を無視してしまつて、雙方を同じやうな語調によつて紹介したのがよく無かつた。其爲に今では傳説も昔話も、共に斯ういふ粗雜なる要領だけしか、知つて居らぬ者が地方にも多くならうとして居る。所謂學問の無い人がまだ少しでも殘つて居るうちに、もう一度改めて根(349)本に就て、採集して見なければならぬ理由は爰に存するのである。
 
       四 昔話の結語
 
 グリム兄弟の集録を見てもわかる如く、昔話の形式はまだ此他にも色々あるうちに、殊に顯著なるものはその末尾の一句であつた。傳説は勿論のこと、尋常平凡の世間話のやうなものでも、未だ曾て着けることを許され無い若干の言葉が、原則として民譚の後には附けられて居た。さうして初頭の「昔々」とは反對に、此方はやゝ自由な變化を遂げて居た爲に、何れの形が最も古いかを確めることが容易で無いが、それでも日本でならばまだ之を尋ねて行くだけの資料が集められさうである。現在の私の假定では、やはり昔話の多く傳はつて居る東北地方などのものが、うぶ〔二字傍点〕な形に近くは無からうかと思ふ。
 津輕の實例は内田氏の口碑集に「とつちばれ」、川合氏の集には「とツちばれ」とか、もしくは「そごとつてとつちばれ」とあり、或は稀に、
  とッちばれの藤吉ア家のばばア
とも謂つたとあるが、この「とッちばれ」の意味は、此土地だけで考へて見ても解るまいと思ふ。是と一番近いのは岩手縣であるが、盛岡に於ては「どッとはらひ」、紫波郡昔話を見ると「どんどんはらひ」、或は「これでどんどんはらひ」と謂つて居り、聽耳草紙の豆子噺(  二二〇頁)などには、
  ……惡りい婆のせんたく〔四字傍点〕燒きだとさ。どんどはらひ。法螺の貝ごぼぼうぼぼうと吹いたとさ
と謂つて居る例もある。思ふに津輕の「とッちばれ」も此「どんどはらひ」と一つで、「はらひ」は出拂ひなどの拂ひ、即ち是で全部(C'est tout)といふ意味であつたらう。現在は何と説明せられて居ようとも、さういふ趣旨の結末の弘(350)く行はれて居る以上は、この推測は一應は之を認めねばなるまい。江戸では以前「それで市が榮えた」と謂つたさうだが、今でも普通「それでおしまひ」といふことになつて居る。甲州九一色の例は土橋君の言に依れば、
  何々したさうだ。それもそれつきりイ
と、引延ばした語を以て終つて居た。信州松本では「そればッかり」、もしくは「そればッかりしよ」と老人などは謂つたさうである。遙かに西へ飛んで伯耆の米子などは、
  昔こつぽり
といふのを末の文句にしたことが、雜誌「民俗」に出て居るが、今はどうであらうか。その隣接各郡村の例と共に、もう一度確めて見たいものである。是などは謂ふ者も恐らくはもう意味を知らなかつたらうが、やはり「昔は是ばかり」であつたのが、後に「昔こつぽり」などゝ、移つたものと考へられる。それと似た例は長崎縣の伊王島で、現在は單に「そるばーつかり」と謂ふのを、以前は、
  そるばーつかり、こるばーつかり
と謂つて居たといふ話があり、更に島原半島の一角まで行くと、
  てるばッかるばんねんどん、あばん忠れんどん、江の浦ん彦れんどん云々
といふ文句を添へて、是は昔小濱の湯に入りに來た切支丹宗徒の者の名であつたやうに謂つて居ると、榊木敏君は報じて居る。子供はいつ迄も話の後ねだりをする者だから、それを切上げさせるべく、此樣な剽輕な言葉を、高く唱へ始めたとも想像せられようが、假にさうだとしても下地はあつたので、しかもこの九州の向ふの端まで行つても、尚且つ「是ばかり」といふ語が用ゐられて居たのには、遠く由つて來る所が無くてはならぬ。
 夙く書物になつて居るものでは、中川喜雲の私可多咄(寛文十一年)に、
  昔はまつこう、猿が面はまつかいな
(351)といふ文句を以て、結尾とした猿の一話がある。是なども文句は假に新作であらうとも、斯ういふ語を着けるまでは創意で無かつたらう。「昔はまつこう」は伯州米子の「昔こつぽり」と同じく、「昔はまツ此の如く」の意に夙くから用ゐられて居たらしいからである。「それで市がさかえた」などは好い言葉であるが、或は「一期さかえた」から轉訛したものでは無いかとの説もある。佐々木喜善君の今度の集録の中にでも、「孫子繁げた」といふ文句が、二三ヶ處見える。昔話の結末は大抵は幸運者の成功だから、單なる「是でおしまひ」以外に、別にさういふ結語も出來たのかも知れない。越後ではこの「市が榮えた」が流行したと見えて、西蒲原の吉田附近では、
  えッちがさッかえぽッきと折れた
と謂ふのを、昔話の末句にしたと、幸田文時氏の「里言葉」には見え、又南蒲原では之を、
  市の樹がぽーんと折れた
といふと、外山暦郎君は報じて居る。二つとも尚「話は是を以て終る」といふ意味を、丸つきり失つては居なかつたやうである。一つの珍らしい例は五十嵐力博士の「趣味の傳説」の中に見えて居る。是は山形縣から秋田縣にかけて行はれて居るものらしいが、其地方に於ては話の終りに「どうびん」といふ語を用ゐる。或はそれを大袈裟に、
  どうびん三助、三助アうちに火アついて、權助ア屁でふつ消した
ともいふことがあるさうである。此「どうびん」については一つの想像説があるが、それは後でいふとして、もう一つの變つた例は越中の富山市附近で、昔話の終の句が、
  語つても語らいでも候
といふこと、此點は高崎大田の二君共に之を報じて居る。無意味な言葉のやうで、自分には深く考へさせられる。即ち「是でおしまひ」や「是つきりイ」が、單にうるさいからもう聽かうとするなの意味で無く、最初から語らうにも語るまいにも、話者の聞き知つて居ることは是だけしか無い。即ち傳ふべきものは悉く傳へてしまつたのだといふ趣旨(352)の、一種の誓文であつたことを、之に由つて推測せしめるのである。我々の固有信仰の會てまだ旺盛であつた時代には、今の傳説の骨子であるものを内容とし、今の昔話の特徴であるものを形態として、祖先以來の傳承は授受せられて居た。其形跡は追々に指證せられようとして居るのである。神話といふ名目は今はやゝ濫用せられて居るが、是を「信ぜられて居た時代の昔話」と解するのが、此語を創始した人の志には合するのである。我々が子供でも無いのにこの切れ/”\の民間説話を珍重し、一方には又如何に頽廢し又は引き曲げられた傳説をも粗末にせぬのは、有りやうは此二つの方面から推して行かねば、其神話の全體を察することが出來ぬからで、その前提としては昔話と傳説との、永い間の進化の經路を明かにする必要があるのである。近世新たに入り又は改造せられたものを、千年五百年の昔のまゝのものと同じに見るやうでは、到底精確なる斷案に到達する見込は無い。しかも日本のやうに斯ういふ色々の目標物が、豐富に保存せられて居る國はさう多くは無いのである。自分が僅かに知つて居る地方の事案にも、もう是だけの一致と變化、また是だけの暗示がある。此上猶詳しく尋ねて行つたならば、其收穫は或は意外のものがあらうも知れぬ。だから先づ最初に此點を考察して見たいと思ふのである。
 
       五 昔話の合の手
 
 今まで主として注意せられて居たのは、昔話の内容、もしくは趣向ともいふべき部分であつた。しかし内容は實は時代と共に、驚くばかりの新陳代謝をして居る。獨り傳説のみが聽衆の期待に應じて、次々の改造を遂げたのではなかつた。昔話とても決して古い儘を語つては居なかつた。例へば「黄金小犬」に見るやうな孝心な弟の幸運談は、いつの間にか兄を騙した「金ひり馬」の笑話に化し、たつた一粒の殘りの豆が、天に屆く大木になつたといふ奇瑞談などは、後には屁ひり爺や雷神の手傳ひの如き、大話とも結合することになつたのである。しかも一方には此變遷とは(353)關係無しに、殆と無意識に古くからのものを持傳へて居たのが、前に列記したやうな幾つかの話法であつた。細かく注意して居たらまだ此以外にも、昔話にしか無いといふ特徴が見出されようも知れぬ。兎に角に折角今日まで保存せられて居たものを、愈採集に臨んで棄てゝ來るといふことは無い。假に記録の方法は改めることが六つかしいにしても、少なくともさういふものが有るといふことを、承知した上で採集するやうにだけはしたいものである。
 西洋の昔話には話の初と終との他に、中間にも時々挿む文句のあることが注意せられて居る。たとへば英語の説話集に、クリック・クラック・ストーリーズといふなどがそれで、話者は折々話中にクリックといふ一語を入れて、聽衆が果して傾聽して居るか否かを試みる。其時に後者が直ぐにクラックといふ語を以て應じないと、もう其晩の話はそれで終るのであつた。我々の邦にはさういふ風が無かつたかどうか、久しく尋ねて居たがそれまでを記録した者は無かつた。ところが内田邦彦氏の骨折に多謝しなければならぬのは、津輕の口碑集にその一つの例が現はれて居る。同書一五頁の亡靈の戻つて來る話の中に、突如として關係の無い次の一句が入つて居る。
  むがしこ早くて寢目になつたどす
 是は傳承者が是も話の一部かと思つて、意味も考へずに暗記して居たものらしいが、其爲に偶然婆や母が、話の間に斯んな語を挿んで居たことが知れたのである。勿論此場合には、聽いて居るわらし〔三字傍点〕が寢てしまつたのなら、止めようといふ積りでさう言つたのであらうが、何にもせよ其一句を話のやうにして入れるといふ習はしは前からあつたのである。説話が兒童を睡に遣る爲に用ゐられる際には、是も催眠の子守唄の類であつたらうし、望みとあらば話してやらうといふ成人どうしの間ならば、或はセビオ氏などの言つた如く、後は明晩といふ合圖とも解してよいが、それが今一段と大切な教育であつた時代には、是も或はもう少し深い意味のある語であつたかも知れない。クリック・クラックといふ簡單な單語の、最初の語義も調べて見なければならぬと同樣に、日本でも之に該當する文句の何であつたかを、今些しく各地に渉つて尋ねたいものである。「昔こア早くて寢目になつたどす」は、東京でならば「此兒はも(354)う寢たさうな」とも謂ふべきところである。そんな場合には幼ない聽手たちは、必ず慌てゝ「うゝん、まだ寢ない」といふが、弘前邊では果して何と應へて居たらうか。普通は話者からさういふ探りを入れられる迄も無く、寧ろ稍煩しい程に「うん」と「それから」を連發し、話が所謂山に達する頃には、一度聽いて筋を知つて居る兒までが、この受け返事を愈繁くしたのであつた。人はこの習慣を以て、或は兒童自然の好奇心の現はれと解して居るかも知れぬが、彼等とても昔話以外の談話には、さうやたらには此音聲を放たない。それと同時に成年の間にも、受け返事を繁くする談話と、さうで無いものとを區別して居る。よく落語家などが笑の種にするが、少しは受け答をしてくれないと話をするのに張合が無いといふと、それではと言つて無暗に「ふん成程」をくり返し、又話の腰を折つてしまふといふをかし味などは、我々もよく理解して居る。しかも眞面目な會話ほどこの合の手が少なく、面白い話では適切な箇所に之を送つて、後段をたぐり出すやうにするのを聽上手と謂つて居た。事によると是も昔話の方から移して來たものかも知れぬのである。併し「うん」とか「それから」といふ類の單に謹聽々々を意味する語ならば、移して日常の世間話に用ゐたとも言へるし、又偶然に發明せられたとも言へるが、昔話の合の手は元は必ずしも其樣な簡明なものばかりで無かつたらしい。たとへば紫波郡昔話の第百十一章にある一種の「果無し話」などでは、話好きのお婆さんが話の句切れ毎に、
  口にえぼうしはア
と答へたとあつて、この話の文句は既に意味が不明になつたと言つて居る。私は斯ういふ類の文句が、尋ねたらまだ他の地方にも、小兒などの間に遺つて居やしないかと思ふ。五十嵐教授の集録の中で見た「どうびん」の如きも、本來は或は此類のもので、話の中間に挿んで居たものでは無かつたか。津輕口碑集には、山形縣の先達在家といふ處でも、昔話の終末に「とろびん」と言ふ例があると記して居るが、私は是が意味不明であり且つ餘り短かい故に、曾ては「解つたか」とか「よく聽いて居たか」といふ心持に、話の段落毎に挾んで居たものを、後には唯「市が榮えた」の(355)代りだけに用ゐたのかと想像して居る。「市が榮えた」の起りがもし「一期榮えた」であつたならば、是なども決して話の終末だけに、附加せらるべき文句では無かつたのである。
 
       六 保存部分と自由部分
 
 昔話の初中終の三つの形式の中で、「終」が特に複雜なる變化を示した理由も、私には大よそ解るやうな氣がするが、其方は爰では差控へて、まだ當分は不明なものとして置く。しかし是とはちやうど反對に、以前必ずやゝ複雜なものがあつたらうと思ふ中間の形式が、追々幽かになつて、後は單純な受返事の如きものに化した理由だけは、さまでの面倒無しに之を説明することが出來る樣に思ふ。一言にして盡すならば、昔話は時と共に益短かくなつて來たからであつた。中程で相手の傾聽するや否やを確める必要が無い位に、早く片附く話ばかりが多くなつた爲であつた。是は事實であつて誰でもよく知つて居るが、其原因は三つほど有る。一つには時間の短縮、二つには話の種の増加、三つには之を聽く者の態度の變化である。古風な昔話は神話の世の名殘を受けたものか。或一つの重要事を懇切丁寧に、個人が自ら實驗する以上に、裏から表からと繰返して知らせようとし、それを又面白いと思つて氣永に聽いて居る者も多かつたのである。ところがもつと他の話をといふ要求が段々に盛んになつて、勢ひ一つの話は省略せられなければならなかつた。
 手近な例でいふと猿聟入の話に、老翁が還つて飯も食はずに寢て居る處へ、三人の娘が見舞に入つて來る。それに一人々々猿に約束したから嫁に行つてくれと言つて、上二人の姉は腹を立て、末の娘がおとなしく承知をする。この二囘半の問答は、同じ文句を同じ調子でくり返さないと、三番目の優しい情愛は映らぬのであるが、近世は忍んで其全部を聽いて居らうとする者が無い。人に之を傳へようとするにも、當然に「同じことを謂つた」の一句を以て間に(356)合せようとする。話は始めから要項に過ぎぬから、そんな文句までは保存せられないのである。ところが或時代には、是が三人に止まらず、或は七人の姫であり、十二人の兄弟であることさへあつた。それを殘らず聽かせようとするには、前に擧げたやうな時々の警策が入用であつた筈である。我々の名づけて隣の爺型といふ昔話、即ち灰撒き爺や庇ひり爺なども、最後の或一點の相違を顯著ならしめる爲に、特に同一の問答を二度づゝ語るのであるが、子供こそは善惡二人の老人が、引續いて同一の所作をするといふことに、嬉々たる興味を抱くであらうけれども、成長した我々にはそれが如何にもまだるつこい。從うて少しでも其問答の數を少なくしようといふ試みも現はれて居るが、鼠の淨土の信仰がなほ殘り、もしくは道端の地藏を貧者の友と見て居た時代には、寧ろこの稀有の會話が長たらしく、たとへば近頃の軍縮會議の議事録の如くならんことを、欲して居た者も多かつたのである。
 一番最初にこの親切なる話法に對して、叛旗を飜へしたものは「果無し話」であつた。是も後々は子供の話ねだり〔三字傍点〕を懲らさんが爲に、一種の防禦用に保存せられて居た形はあるが、わざと此樣な平凡なる出來事、たとへば鴉がカアと啼き、蛇がによろ/\と動いたといふ樣なことを、際限も無く繰返さうとしたのは、起りはやはりあの餘分の丁寧に倦んだ成人たちの、昔話に對する趣味の變化であつたらう。笑ひ話の發生にも幾通りかの起りがあつた。単に退治せられた妖怪や眞似そこなつた慾深爺の、見苦しさを誇張するだけで無く、一方には又成功した者の幸運と福分、もしくは寶物の奇瑞や藝術の精妙などを、どうせ夢ならば思ふさま大きく夢みようと、馬鹿々々しい程度まで述べ立てた大話といふものも出來た。雁と共に天を飛んだ話とか、額に柿の木が生えた話などがそれである。大話や果無し話の間接の影響は、笑話で無いものゝ上にも現はれて居る。話は理が詰んで又手ばしこく筋が運ぶのみならず、出來るならば數を多く種を新らしく、變化を豐かならしめんとした努力は、主として亦之に基づいて居たやうである。是には固よりこの技藝を職とした者の存在が要件であつたが、彼等が其衣食の資を斯樣な業から、求め得られるやうになつたといふのも、一方にそれを聽いて樂しむ者、殊に笑話の微妙なる心理を、たとへ漠然とでも會得する者が、次第(357)に世の中に多くなつて來た結果である。
 私たちから見ると、是は「昔話」の歴史の上で、かなり大きな革命であつた。所謂民間説話の比較研究をするといふ人が、定義も下さずに神話といふ文字を濫用するのも困つたことだが、それよりも差當つての迷惑は年代の無視、即ち説話がいつもかも同じ形で行はれ、殆と日本では何の進化展開をも見なかつたやうに、人に説かうとすることである。是は今一段と蒙昧な民族に對してでも、許し難い斷定であるが、殊に我々の祖先ほど昔話を愛玩し又利用して居た人々が、土地にも時代にも無頓着に、移住當初の儘を保存したといふことは有り得ない。早い話が一郷黨一家庭に、知られて居る限りの昔話を集めて見ても、現在のところでは六七分、處によつては八九分までも、滑稽惡謔を以て充ちて居る。昔話とはをかしい話、笑はせられる話だと思つて居る者さへ少なくない。それが果して千年はさて置き、五百年以前の日本に於てすらも、普通の  状態だつたと言へようかどうか。少なくとも今ある記録の中から、斯ういふ獨立した笑話が三百年前にもあつたことを、證明することなどは自分には出來ない。滑稽の用途は昔とても無論有つた。それがある爲に昔話は面白く、又此通り永くもてはやされたのでもあらう。しかももとは唯壯烈なる行爲の反面に、もしくは驚歎すべき事件の前後に、言はゞ感動の波瀾を重疊せしむべく、交へ織らるゝに過ぎなかつたものを、引離して個々の短篇のおどけ話とするやうになつたのは、中世新たに現はれたる咄の者、一名御伽坊主なる者の術藝であつたと思ふ。昔話の輸送は彼等以前にも、何か類似の機關によつて行はれて居たらしいが、其方はまだ自分には確かめることが出來ない。兎に角に此期に入つて急に話が多くなり、今まであつたものを分解し又改造する他に、更に新供給を内外の文籍にも、仰がうとしたことだけは爭へないのである。我々の「昔話」の分類を必要とし、この新古の差を無視して、概括の論を立つる能はざるは當然であつた。しかも同じ話の復演を厭うて、ひたすら職業的製作品を歡迎した都會地は別として、他の大區域の田舍に於ては、聽く者も又話す者も共に、依然として昔からの昔話を見棄てなかつた爲に、實際はやゝ雜駁なる混淆があつて、人を此誤謬に誘ひ易かつたのである。それを今日に於て(358)整理排列しようとするには、特に私の前に擧げたやうな、昔話のフオルミユールに注意を拂はなければならぬのである。之をもつと具體的にいふと、我々の老幼が等しく昔話として記憶して居るものゝ中には、
 (イ)室町時代前からもあつて、單に歳月によつて自然に缺け損じただけのものと
 (ロ)何人かゞわざとそれを作り替へもしくは切りちゞめて短くしたものと
 (ハ)丸々新たなる考案模倣によつて作り出したものと、
少なくとも此三つが併存して居り、後の二つはごく僅かな例外、たとへばお銀小銀の繼子話などのやうなものを除けば、大抵は滑稽を主としたものであつた。從うて之に伴なふ發端又は結尾の語辭も、新らしいものだけは少し頓狂に改作せられ、中間に挿んだ應酬の文句などは省略せられることになつた。新舊説話の混淆する歩合は、土地によつて等差がある筈であるが、それは略この始中終の形式語の、古風を存すると否とに由つて、是を觀察することが出來ると、私などは思つて居るのである。
 
       七 昔話の發生順序
 
 昔話だから皆昔からあつた話だと思ふことの誤りは、最早くだ/\しく之を論ずるの必要もあるまい。そんなら其樣な後の附け加へなどは綺麗さつぱりと、證據のあるものなら取除けてしまふがよいといふ樣な早合點の方こそ、寧ろ我々は大いに反對しなければならぬのである。單にそれを棄てゝは淋しくなるといふが如き未練だけで無く、是が無かつたら恐らくは昔話といふものゝ、如何なる方向を取つて進化して行くものかを知ることも難く、又この民間の文藝が、進んで落語となり滑稽文學となるに至つた經路をも詳かにし得ず、人は依然として之を地底の石片骨片の如く、千古不變だとするやうな觀察を改めることが出來なかつたらう。是は説話の學問の爲に、誠に怖るべき魔障であ(359)つた。其上に我々の曾て大事にして居た昔話で、夙く改造によつて原の姿を失ひ、今は只滑稽化したる第二第三の形をのみ保存して居るものも多い。才分ある咄の衆などの作爲によつて、新たに考案せられたといふ昔話の中にも、尚無意識に古い話法と内容の一部とを、持傳へて居る例は少なくない。おろか聟おろか息子の趣向は皆近世であらうとも、是を笑はせつゝ若い聽衆に、自然に其反對を學ばしめんとした古人の親切はなほ窺はれる。さうしてこの以外には、最早前代の滑稽教育の痕跡は殘つて居ないのである。
 古い昔話の成長し又退化したといふ事實、殊に上古に於ても何囘と無く、趣味の推移があり選擇の異動があつたらしいことも、この笑話の旁例と對比することによつて、追々に確かめられる希望があるのである。たとへば動物由來談が切り離されて、比較的簡單な一群の説話を爲して居ることも、或はある時代の流行に出でたものかも知れず、狐狸や妖怪の出現の益巧妙に又意外になると共に、一方に是と闘ふ者の勇力智能も加はつて、單なる逃竄から完全なる退治にまで、幾つと無き勝利の階段を示して居るなども、それが現在の河童天狗の失敗した笑話と續いて居るのを見て、始めて追々の改良であつたことを察し得るのである。我々の分類はこの最終の一轉囘期を堺線として、今少し綿密に其前と後との變化を比較するやうになつたならば、或は更に進んで一方の古風昔話が、現在の形になつて來た足取りを、究めることが出來るかも知れぬと思ふ。
 そこで將來の國内採集家に向つて希望しなければならぬのは、何よりも先づ昔話が、本來形式を重んずる口碑であつたといふことを承知してかゝつて貰ひたいことである。形式は或は調子口拍子と謂つてもよく、又は固有の敍述法と名づけてもよいが、兎に角に文字の記録以外の手段を以て、古くからある言ひ傳へを後代に引繼がうとするには、何か特別に印象を深くし、記憶力を扶助するものが入用であつた。歌謠や語り物に定まつた節調があり、諺や唱へごとのやうな單純な文句にまで、尚その爲の句法語法があつたことは、認めない者も無い今日であるが、昔話ばかりは其折々の雜談も同樣に、たゞ自由に事柄だけを覺えて居たものゝ如く、思つて居る人が少なくは無いのである。さう(360)いふことが果して常人に出來るものか否かは、僅かな實驗を以て知り得られることだが、そこ迄は多數が考へ及ばなかつた。是は全く傳承法の相異、即ち昔話が歌物語などのやうに、敢て全篇の逐句的暗誦を要求せず、單に中間若干の重要なる辭句を記憶せしめて、其他を自然の再現に放任してあつた結果である。桃太郎の「一つ下され御伴せう」、花咲爺の「こゝ掘れわん/\」の類は、一々引證する必要も無いが、實際大抵の子供は永遠に是等の言葉を忘れず、其爲に又話の全體をいつ迄も覺えて居る。しかも其記憶力には最初から不均等なる配分があつて、久しい歳月には他の從屬的部分は、改められ又は誤らるゝ機會が比較的多かつたのである。昔話の變化すべかりし原因は爰に在り、人が往々にして全體を古傳の儘である如く、誤信する理由も亦爰にあつた。さうして説話の大體の構造のみに重きを置き、其骨子を爲した若干の會話を、偶然のものゝやうに思ふ人が多くなつて、更に一段の烈しい改造が行はれるやうになつたのである。一つだけ手近の實例を擧げて見るならば、例の「屁ひり爺」の尻の鳴る音などは、殆と村毎に其文句が變化して居つて、しかも遠方の地にまでまだ一部分の一致が殘つて居るのは、是が本來は説話の不變分子であつた證據である。ところが如何に嚴密に其形式は保持せられて居ても、そればかりではなほ説話を元のまゝに傳へられなかつたことは、其前半の方を比較して見るとよくわかる。即ち「そこで木(竹)を伐るのは何者だ」、「山々の屁ひり爺でござる」云々とある問答は、全國ほゞ一樣といふ程度に踏襲せらるゝにも拘らず、誰がさういふ咎めだてをしたかといぶ點に至つては、暗記部分で無い爲にもう甚だしく變化して居て、甲の地では殿樣、乙の地では地主又は旦那樣、丙の地方に於ては之を山の神とさへ謂つて居るのである。元は瘤取りや笠地藏と同樣に、此音を愛して悦んで恩惠を垂れた者は、恐らくは神靈であつたらうが、是は自由に話し得る點なるが故に、後には村内生活の有り得べき逸話のやうな形をとり、從うて屁の文句の如きも、呪言の意を去ること遠くなつてしまつたのである。部外他種族の説話の採集、殊に白人が阿弗利加や大洋洲に於て試みたものなどは、理解の能力が到底かゝる形式の辭句に及ばぬのみならず、話者も最初から通辯の望み無きことを知つて、さしも彼等に取つては肝要の部分を、いゝ加減に端折つて(361)筋を運ばせた場合も多かつたのは致し方が無いだらうが、言語感覺を共通にして居る我々までが、此流儀に倣うて記録を省略し、折角僅かでも遺り傳はつて居るものを、抛り出してしまふことは損失である。ちやうど木の板に書いた墨の文字が、板が磨り耗るにつれて高く殘る樣に、この口拍子でくり返された若干の應答や唱へごとだけは、比較的古いものが鮮かに浮き出して居る。是が昔話の年代をきめる上にも、又は各地の類例を比較する上にも、今では殆と唯一の手がゝりになつて居るのだが、それだけに用語が古臭かつたり、又は片言になつて意味の取りにくい場合もあるので、無造作な「研究家」には、之を今風に書き、もしくは略した人が多い。彼等は多分外國の採録者が、ほんのよんどころ無くさうして居るのを見て、是でよいものと思つて眞似をするのであらうが、是は誠に悲しむべき破壞事業であつた。どうか我々だけはそんな仲間に入りたくないと思ふ。
 
       八 童話と昔話
 
 神話とか傳説とかいふ文字は、流行はして居るがまだ日本語になり切つて居ない。是に如何なる内容を持たせるのも、今ならば使用者の勝手であるかも知れぬ。しかし將來も學問の上に永く使用しようとするには、少なくとも分堺を立てゝ、同じものに二つ名があつたり、他のものに一つも名が無かつたりする樣な、だらしの無いことだけは避けなければならぬ。昔話を傳説とも呼んで居る人は、他の何等の形式も具せず、用語も一定せず、しかも信じて語り又聽く者を信ぜしめんとして居る一團の言ひ傳へに、別にどういふ名を付與するかをきめた上で無ければ、恐らくいつ迄もそんな混用を續けるわけに行くまい。昔話の集録に向つて、神話何々とかいふ名を附して居る人も同樣である。日本にはまだ現在はしかと發見せられて居ないが、曾て自分たちの信じ傳ふる所を、時を定め場所を限り又一定の形式によつて、語り聽かせて居たといふ事實だけは確かにあつた。それと今日の所謂民間説話とは、少なくとも日本に(362)於ては明かに別物である。昔話は三尺の童兒までが之を正傳とは信じて居らぬのみか、話者も力を盡して是が架空のものなることを暗示しようとして居る。昔々ある處に、ある貧しい一人の爺があつたと謂つて、立證の責任の無いことを明かにして居る。單に其中には以前全幅の尊信を以て傾聽したもの、即ち神話の一部分が形だけを、混じ傳へては居ないかを感じられるだけである。外國の學者の中には、若干の蒙昧の種族が、今なほ半信半疑の過渡時代に在ることを推測し、又は今ある昔話の幾つかに、神話の名殘とおぼしきものがあるのを見て、時あつて稍大膽に、さういふ神話式昔話をもミスと呼ばうとした者があつた。又ミトロジーといふ名稱を、昔話の中から神話の痕跡を探らうとする研究にまで、推し擴めようとした學者のあることも事實である。しかし其爲に所謂神話學で取扱ふ資料が、忽ち神話と名づけられてよいといふ結論にはならない。斯んな判り切つたこと迄が、我邦ではまだ間違へて教へられて居る。だから私は馬鹿げた勞苦を拂つて、昔話の特徴たる二つの點、即ち形を大事にすることゝ、内容を信ぜず自然の改作に任せて居たといふことゝを説いて、一應其範圍を明確にしようとしたのである。
 それと同じ趣意を以てもう一つ、最後に昔話と童話との關係を明かにして置きたい。昔話の若干は近世になつてから、特に幼なき聽衆の興味を顧慮して、之を簡明に且つ無邪氣に、語り改めようとする傾向を生じたことは事實である。それから一方には成人の事務と話題が多くなつて、昔話の愛好者が追々と兒童ばかりにならうとして居ることも亦事實であるが、しかも之に由つて昔話の全部を、童話と名づくることは當を得て居ない。現に近代に發達した笑話の中には、わざと兒童の居合はさぬ時刻をはかつて、話さなければならぬものが無數にあつて、しかも兒童はいつの間にか之を聽き知り、長者の居ない處ではこそ/\と話し且つ笑つて居る。昔話の席上に兒童の參加するものは以前とても多く、近頃は其歩合が益増加して居るが、さりとて昔話の大部分が別に兒童用となつたわけでも無かつた。たとへば所謂五大御伽の桃太郎だけは、曾て要素であつたらしき妻覓ぎの一條を省略し、犬猿雉の問答を稍あどけなく改めてゐるが、カチカチ山の「婆喰つた爺やい」に至つては、隨分と感心し難い慘虐のまゝになつて居る。其他(363)子供の高笑ひするおろか聟、小僧の頓智と和尚の弱點の如き、どこに彼等の爲に用意したと見るべき個所も見つからぬのである。童話をもし兒童の爲に設けられた昔話と解するならば、そんなものは稀だと言はうよりも、寧ろ當節の製作童話以外には、無いと言つた方が精確なのである。グリム兄弟の話集の標題が、或は人をして誤つた速斷に陷らしめたかも知れぬが、是は「昔話」といふやうな要領を得た單語を、持合せなかつた國の不幸である。英國でもつい近頃になるまで、フェアリーテールズといふ語が、妖精を説かない昔話の類をも包含して居た。古人はもと總名を附けるに疎かであつたから、時には無理な延長をも免れなかつたのである。日本は幸ひにして其樣な必要の無い國であつた。ましてや童話といふ語は耳馴れない新語でもある。しかし一旦行はれた以上は棄てるにも及ばず、ちやうど「笑ひ語」や「大話」といふ名が、三四百年來の變化に成つたものを指示するに適した如く、この近頃の家庭向き改造の部分を、名づけて子供話もしくは童話といふのは幾分の便利がある。たゞ古來民間に集積して居る澤山の昔話を總括して、之を童話と謂ふに至つては寸毫の理據も無く、又そんな當らぬ語を強ひて採用せねばならぬ必要は、本をひさぐ者の算盤以外に、自分は之を發見することが出來ないのである。
 これに附け添へてちよつと提案して置きたいのは、この我々の昔話と對立させて、新たに「世間話」といふ名目を採用して見たいことである。同じ一夜の火の傍の夜話に、昔話で無い今一種のハナシがあつたことは、是も恐らく上代以來であらうが、世の中が新たになると其方は自然に量を増加して、主として昔話の領域を侵食することになつた。それに何等かの總括的名稱が入用とすると、「世間話」が一番當つて居るやうに思はれる。多くの話ずきは先づ新らしい世間話を求め、それが太平無事の田舍なるが故に種切れになると、それから昔話の復習に戻つて來た。旅行や讀書の自由で無かつた時代にも、この世間話は成長する傾向をもつて居たのみならず、更に昔話それ自身の展開の上にも、可なり大きな刺戟を與へたかと思ふが、それと同時に強ひてこの世間話を豐富ならしめんとした努力は、往々にして材料を昔話の方から引寄せて居た。爐邊に最も人望のあつた狐の話狸の話、その他驚いたり笑つたりする人生の逸話(364)が、形は事實の報告の如く見えながら、其實は種を古い昔話に借りたものであつた例は、どこの地方にも有りすぎる位ある。それが昔話の歴史を知る上に、缺くべからざる史料であることは素よりであるが、同時に又人は如何なる種類の風説に興味をもち、如何なる方法を以て其供給を圖つて居たかといふことも、民間文藝の發達過程を知る上に大切な參考である。昔話を集める人たちに、私はなほ一歩を進めて世間話の研究を慫慂したい。
 
       九 採集の協力
 
 昔話の分類といふことは、多くの採集者が熱望して居る程には、自分などは其急務を認めない。單に現在の?態ではそれが稍困難な仕事だといふだけで無い。強ひて概括的な名目を對立させなくとも、よく似た昔話を一處に集めて置けば、それで全體の見渡しがつく位に、其種類は實際は少ないからである。バーン女史の「民俗學概論」の末に列記した數は七十二だが、あの中には餘りに近くて別にするに及ばぬものがある。日本では多分一百あまりのものであらう。其中には勿論新らしい形が次々に出來て居るが、個々の種類の間にもやはり古さの差等があつて、全部が一時に世に現はれたのでは無い筈である。從うてもし注意深い考察を重ねて行つたならば、行く/\は之を發生の年代順に排列して見ることが出來るものと信ずるが、それは非常に大きな問題であつて、實は我々の研究其ものと言つてもよいのである。この分類が滿足に出來上つた時は、即ち昔話の學問の完成であつて、それ迄は假に分類をして置いたところで、何度でも改訂しなければならぬのである。今日の聽衆が目標にしたがる點は、大抵は土地や時代によつて變化する部分であつた。鬼だ狸だ山姥だと言つても、桶屋だ山伏だ牛方だと言つても、僅か隣へ行つて見ると直ぐに他のものと入れ替つて居る。まさか是を狸説話・桶屋説話などゝ名づけて、はい分類しましたと言つて居るわけには行くまい。つまり急いで見ても本當のものは出來ないのである。
(365) それよりも急を要するのは昔話を知つて居る人のまだ居るうちに、少しでも數多く變化のあらゆる形を拾ひ集めて置くことである。今まで印刷せられた十餘種の話集を見ても知れる如く、又今度の催しでも實驗した如く、昔話の日の光を見たものは所謂九牛の一毛である。舊日本の全版圖に比べると、百に一つと言ひたいが、まだそれだけの面積をすらも覆うて居ない。手の屆かぬ方面には數百の小さな島、山の奧や岬の片陰などの村で、最も冬の夜が淋しく長く、且つ世間話の威力の及ばぬ區域が殘つて居る。そこに話を多く知つて居て聽く人を得ず、又は他に運び出す磯會を有たぬ老人たちが、既にくづほれて行かうとしで居るのである。是に共鳴して居る若い男女も、恐らくまだ決して少なくはあるまい。今は唯この人たちをして、心置き無く聽いて居たことを公表して、我々の學問に貢獻せしめ、飜つては又その背後の寂しき人々を尊敬せしむべきである。
 學問ある人たちの餘分の干與、上品過ぎる飜譯は戒めなければならぬ。折角大切なる形式の傳はつて居るものを、殺して持つて來るやうな紹介ははやらせたくない。あんまり當世のコント風に書き改めて居るものは、もう一度元方に就て正しく聽き直すやうにしたいものである。是に對する故障は、それでは報告があまりに長たらしくなり、同じやうな文句が何遍でもくり返されて、第一面白くなくなるといふことであるかも知れぬ。それは尤もな話で又勞力の浪費である故に、私は早く今度の樣な計畫を重ねて、新たに一つの基準昔話集を作つて置きたい。前年公けにした「日本の昔話」は、大體其目的を持つてかゝつたものであるが、分量も少なく又兒童用を主とした爲に、日本の昔話の片端にしか手が附けられなかつた。そこで昔話の今後の研究者の爲に、新たに五つほどの要項を提案して置く。幸ひに篤志者の團體などが出來て、これが實現に協力せられるならば、日本は當然に世界の民間説話の實驗所となることが出來るであらう。
 一、基準昔話の選定と公表。各地から報告せられる同種昔話の中から、比較的形のよく整うた一つを選んで、それを精確に記述したものを公表して置く。
(366) 二、類型昔話の捜索と比較。是を内と外國の仕事に分つて、重きを内の方に置く。但し大抵の場合には基準昔話と比べて、異なつて居る點のみを報告すればよいことにする。
 三、國外類型の分類と索引。是は常に成書のうちから發見するのだから、珍書でも無い限りは頁數だけを掲ぐれば可。但しこの類似には程度の差があるから、何か標準を設けて甲乙丙丁の順序を作り、たゞ爪の尖ほど似て居るものを見つけても、直ぐに鬼の首を取つたやうに騷がぬこと。
 四、基準昔話の改定と新設。後から見つかつた類話の方が、更に完備して居た場合には、前のを罷めてそれを基準にし、又類似が微弱であると見たものは、其爲に新らしい目を立てる。但し二つ以上の話の面白い部分を繋ぎ合せることは、虚構と同樣に之を嚴禁すること。
 五、昔話の名稱一致の申合せ。是は番號でもよいのだがそれでは興味が少ない。名稱は成るべく新たに設けず、弘く行はれて居るものから採るやうに心掛ける。さうして行く/\は之によつて、單に一二の異なつた點を附記すれば、それで長い昔話を話すのと、同じ結果を得られるやうに努める。
現在私の抱いて居る希望は「是つきり」である。願はくは永遠に向つてこの昔話の市が榮えんことを。
 
(367)       昔話の發端と結び
 
          一
 
 「旅と傳説」の昔話特輯號に、昔話の初めと終りに附くきまり文句の、諸國に行はれる形を二十ほど竝ぺて見たのは、今から十年餘り前のことであつた。あれから昔話の採集が又よほど進んで、大よそは比較をして見ることが出來るやうになつたから、爰でもう一度、重複しないものだけを列擧して見よう。言ふまでも無く是は多く集まつたのを自慢するためではなく、寧ろ是からの採集者にむだをさせない爲である。この問題には限らず、方言でも子供歌でも、又はもつと重要なる信仰や社會律の現象でも、最初から國内各地が區々であつた筈は無い。それが此樣に思ひ/\の變化を見るやうになつたのは、存外に近い時代になつてから後のことで、少し氣永に注意してゐたならば、段々にその事實が判つて來るのみならず、更にその無數の地方的變化を一貫した、法則とまでは言へなくとも、傾向ぐらゐは明かにし得るといふこと、それをやゝ顯著なる昔の一例によつて述べて見たいのである。個々の郷土に止住して同情ある觀察を續け、限られたる區域の採集に精進しつゝも、それが一國全體の學問に、果してどれ程の寄與貢獻をなし得るものであるかと、思ひ惑うて居る人に取つては、この小さな綜合も亦一つの希望であり激勵であらう。さういふ中でも昔話の採集などは、前途に雄大な世界的發見を目ざしながら、常に人からは下らぬ道樂の如く、輕んじられやすい仕事である。せめては日本の中だけでも、協力の效果が是ほどにも大きく、又研究の興味が是ほどにも深いもので(368)あることを、急いで心づかせたいのがこの編者の願ひである。
 
          二
 
 我々の昔話は、「昔々ある處に」といふ言葉を以て始まるのが、中世以後の習はしであつたかと思ふが、それがいつの間にか地方毎に、僅かづゝ言ひかへられようとして居る。しかも今まで誰にも知られなかつたのは、その變り方にも各地の類似があり、變へた理由も大よそは共通だつたことである。山形縣の大部分で「昔あつたけど」、長野縣の中部に「昔あつたさうな」といふ例は既に擧げたが、是は或はどれよりも古い形だつたかも知れない。「あつたけど」は文語でならば「ありたりけりといふ」に該當する。始めの一句で此話が現代のものでないことを明かにし、從つて話者が直接見聞した事實ではないといふ意味を表はさうとして居るもので、方言は異なつてもその言ひ方だけはどこも同じである。
 たとへば秋田縣では仙北郡の大曲や角館に、
  昔あつたぞん……
といふ言ひ方があり、それはちよつと聽くと「あつたぞ」と斷言したやうに取れるが、實は「あつたづおん」を早く言つたので、やはり「有つたといふものね」と、標準語でならば言ふべき場合である。是と心持も形も近いのは、
  昔あつたでおん……            秋田縣河邊郡
  あつたづお……              同  雄勝郡
  あつたづおーな……            同  上
 この後の方の例に於て、昔といふ一語を添へないのは省略で、越後蒲原地方の「あつたてんがのし」と同じく、あまり度々「昔」をくり返すので、無くても通ずるやうになつたのである。
(369)  昔々あつたおね……           岩手縣西磐井郡
  昔あつたげだ……             新潟縣南蒲原郡
  昔あつたさうぢや……           石川縣能美郡
  昔はあつたてな……            岐阜縣吉城郡
  昔あつたさうな……            香川縣志々島
  昔はあつたげな……            高知縣長岡郡
 勿論必ず此形でしか話し出さなかつたわけで無く、もつと色々の添へたり略したりする言ひ方も交へ用ゐられて居たのであらうが、とにかくに斯ういふのが前から用ゐ續けられて居た樣式であつて、それが又「昔話」といふ名稱の起りにもなつて居たのである。
 ところがそれだけではどうもまだ安心がならず、もつと明瞭に到底この世の出來事で無いといふことを、聽手に承知させて置かねばならぬ樣な、空想に充ちた話ばかりが多くなつて、更に一段と此點を強調する必要が感じられた。そこで、
  昔々大昔のことだェ……          宮城縣刈田郡
と謂つて見たり、又は今風に、
  昔々うんと昔……             宮城縣桃生郡
  うんと昔であつたげな……         福岡縣鞍手郡
といふやうな形が現はれたのである。九州の方では又、
  昔々ずつと昔……             熊本縣鹿本郡
  昔々じーつと……             長崎縣北高來郡
(370)  昔々じーとのまい……          長崎縣北高來郡
とも謂つて居た。「のまい」は「のうお前」、即ち相手の注意をひく呼びかけである。東北の方にも、
  昔々ずつと昔……             宮城縣栗原郡
といふ形はあるが、それよりも「ざつと昔」といふのが廣く行はれて居た。
  昔々ざつと昔に……            宮城縣名取郡
  ざつと昔その昔……            秋田縣平鹿郡
  昔ざつと昔……              同  上
 それで昔話をザットムカシと謂つて居る者も多く、何か面白い話をしようとする際に、先づ「ざつとな」と呼びかけ、相手に「何とや」と受けさせてから、  愈々本筋に入るといふ風もあつたといふが、この「ざつと」もやはり亦、他の地方の「うんと」や「ずつと」と同じく、本來は思ひ切つて古い昔を意味する方言であつたと思ふ。
 
          三
 
 現在はもうさういふ使ひ方が無いといふことは、其始まりが相應に早く、後には昔話以外のものには聽かぬやうになつたからで、さうなれば一層言ふ人の目的に合したわけである。小兒が昔話のことをトントムカシと謂つて居たことは前にも記した。是なども久しくこの語り傳への發端だけに限つて、さういふやゝ奇拔な表現を聽き馴れて居た爲で、現に又同じ文句の分布は、今でも東西にわたつて弘いのである。
  とんとむかさあつたけど……        山形縣北村山郡
  とんと昔があつたとさァ……        新潟縣佐渡
  とんと話があつたとさ……         同  島
(371)  とんとん昔があつたての……       新潟縣中蒲原郡
  とんとん昔があつたがやな……       島根縣隱岐島後
  とんとん昔もあつたげな……        同  美濃、鹿足郡
  とんとん昔があつたといや……       山口縣周防大島
  とんと昔もあつたさうな……        愛媛縣上浮穴郡
  とんとん昔であつたさうな……       福岡縣小倉市
  とんと昔もあつたげな……         香川縣仲多度郡
  昔はとんとあつたげな……         同  地方
  とんと昔あつたさうな……         コ島縣三好郡
  とんとん昔あつたんぢや……        同  祖谷山
 是等は大抵「とんと」がどういふ意味を持つものやら、考へても見ずに使つて居るらしいが、最初はやはり全然今と隔離した世界の出來事だといふことを、表示する爲の「とんと」であつたのが、それがいつと無くこの一群の説話の、總稱か又は看板の如くなつてしまつたものである。
 但しその言葉がよほど耳に快く、又忘れ難い響きをもつて居ないと、この樣に永くは保存し得なかつたらうと思ふ。日本人は殊に單調に倦みやすく、いつも目先をかへることを趣味として居た。一夜に七つも十もの昔話をするのに、すべて前置きが同じであつては、説く者自らが先づ心おくれをする。それで必然に新らしい替りの文句も起り、又色々のものをまじへて使つたことゝ思ふが、案外にそれが傳はつて居ない。富士山の北麓に行はれて居るといふ「まア昔ある處に……」などは、東京の家庭にも「まづある處に……」となつて存するやうだが、是はたゞ一つの本式なものを、餘りくり返し過ぎた際に息拔きの意味で、折々は斯うも言つて見た迄かと思はれる。さういふ中でたゞ一つ珍ら(372)しいのは、鳥取縣の八頭郡に、
  なに昔ある處に……
といふのがあり、又雜誌「安藝國」に出て居る昔話には、
  なんの昔があつたさうな……
といふ例もある。是などはナニが今のやうに純然たる疑問辭となるよりも前から、單なる口拍子として傳はつたのかも知れぬが、とにかくに言葉の内容にはさまでの注意を拂はず、たゞ一つの方式として斯ういつて居た時代が、久しく續いて居たことは想像せられるのである。岩手縣西磐井郡の一部にも、
  こは昔あつたとさ……
といふ發語がある。古くは昔話の一つ毎に、「こは」といふ語を添へて居たのが、偶然に消え殘つたものとも考へられる。とにかく始めには伊勢や今昔の物語のやうに、たゞ簡單に「昔」とだけで濟んで居たものが、やがて「昔々」となり「とんと昔」となり、同時に是非とも「あつたとさ」を、下に添へなければすまぬやうになつたのは、全國一般の趨勢らしいのである。
 
          四
 
 昔話の結末の一句も、本來の趣旨は至つて手短かに、たゞ是だけが傳承の全部で、知つて語り殘して居る部分などは無いといふことを、表白した誓文のやうなものらしいが、此方は後々の變化が多く、又一般に長たらしくならうとして居る。是は昔話の終りの文句が、斯ういふものだといふことだけを知つて、もう其言葉の意味をよくは意識しなくなつたのが一つの原因であらうが、なほ其以外に昔話の奇拔さが誇張せられ、笑はせる分子が段々と幅をきかすやうになつた結果、それに伴なうてこの最後の言葉の修飾に、力を入れる話手が輩出したものかと思はれる。
(373) とにかくにこの結びの文句に於ては、東北と西南との一致が殆と無く、各地思ひ/\の變化を遂げて居る。それで地理的に南の方から、竝べて見るのが便利かと考へるが、最近に沖永良部島の昔話集が世に現はれて、先づこの南の島の例が明かになつた。それは、
  ……がつさとうさ
  ……がつさとうさでろ
などゝ言ふので、ちよつと聽くとよく/\別系のものゝやうに見える。しかし説明をして見れば、是も亦「斯くなん語り傳へたる」の一變形に過ぎぬので、しまひのデロ又はデェロは沖繩のデェビルと同じく、「侍る」に基づいた「候」以前の敬語で、標準語の「でございます」に該當する。ガッサは此島ではカ行の或ものが濁音化するから、「斯くぞある」もしくは「斯うだ」がこんな風に變つたので、それにいつの頃からか此方でいふトサを採つて附けたので、元はガッサだけでも用は足りたものらしい。喜界島の方でも昔話の結末に、今では、
  ……ていさ
といふ簡単な語を添へる。是は「とぞ」「といふことだ」又は「とさ」と同じものだと、其島出身の岩倉君は説明して居る(喜界島方言集)。
 鹿兒島縣にはまだ色々の注意すべき形が傳はつて居るらしいが、普通に市の附近などに行はれてゐるものは、
  ……そひこぢやつた
  ……そひこんこつぢやつた
といふので、或は略して「そひこん昔」ともいふさうだが、そのソヒコは即ちソシコの發音差で、「それまで」もしくは「それだけ」の話といふこと、他の地方の「是つきり」なども同じであり、現に又甑島の中甑などでは、
  ……こんかぎいのむかアし
(374)ともいふことになつて居る。即ち「此限りの昔ぞ」といふ意味である。
 
          五
 
 他の九州海上の島々では、まだ詳しい調査が出來て居らぬが、對馬では、
  ……とうすんだ
 壹岐では、
  ……そうりぎり
と言ふのが、昔話の一つの結び言葉である。後者は「それきり」で意味は明かであり、「とうすんだ」も古風な言ひ方で、今ならば「もうおしまひ」に該當するものと思ふ。
 佐賀縣にも、
  ……そいけん、こいでおしまひ
といふ形があるが、通例用ゐられてゐるのは、
  ……そいばつきや
  ……そいばつきや、もう知らん
といふのであり、又略してたゞバッキャと謂ひ、もしくはソガブンとも謂ふさうである。なほ同じ例は、
  ……そいばつかし             長崎縣北高來郡
  ……そりばつかし             熊本縣阿蘇郡
などにも見られるが、是が天草島に行くと大がゝりになつて、
  ……そりばつかりのばくりうどん
(375)  ……そりばつかりのばくりうどんの大きん玉
などゝ謂つて居る。島原半島から報告せられた「こるばつかるばんねんどん云々」といふ奇拔な形も、斯ういふものから更に又一つの變化を重ねたものと見られる。
 大分縣の速見郡は、九州としてはやゝ變つて居て、
  ……昔かつぽ、米のだご
  ……もうすこす米ん團子
  ……すこす米ん團子、はよ食はにやひゆる
などゝいふ形がある。「昔かつぽ」は對岸中國地方には多いから、あちらのものを持込んだかと思はれ、米の團子は人間一生の終りに作るものだから、それでもうおしまひの意味に、使ふのだらうといふこじつけ説もあるさうだが、ほんの口拍子なのだから意味が有つたら却つてをかしい。モウスが昔話には似つかはしくなつて、或は「もう少し」と感じ米の團子などを取つて附けたのかも知れぬが、是は他の地方にもある形で、今にその古い文句に近いものが、比べて居るうちには出て來ようと思ふ。
  ……申すばつかり猿のつべはきつかりきつかり        山口縣周防大島
  ……昔まつこう瀧まつこう、猿のつびやアぎんがり      高知縣長岡郡
  ……もうすべつたり釜のふた                島根縣鹿足、美濃郡
  ……とんとすべつて釜のふた                同  上
  ……べつたりべつたりべたのふた。ひらは大このすくひ込み  山口縣阿武郡
 先づこの程度に段々と變つて行くものなので、さういふ中でも猿の尻だの、又は釜の蓋などのやうな思ひも掛けぬものが、何か動機があつて毎度援用せられるのである。
 
(376)          六
 
 注意すべき全國の共通點は、壹岐でソーリギリといふのが岩手縣でもソレキリといふやうに、意味なり語勢なりの是と近いものが、どこに行つてもまだ少しづゝは殘つて、しかも追々に變らうとして居ることで、是を見ても簡單な形の方が古いといふことは言へると思ふ。島根縣の石見の方には話のしまひに、ポッチリ又はソレポッチリといふ例があるが、是も久しい間「是ばつかり」と謂つて居たのが、飽きて斯うも言ひかへたもののやうである。廣島縣安藝の山間部にも、トウカッチリと謂つて居る村が處々にある。狂言記に出て居る座頭の笑話の「どぶかつちり」、又は果無し話のどんぐりの實の話などが、是に影響して可笑味を添へて居ることは想像し得られるが、さう言ひ始めた元は「とうすんだ」などのトウと、是つきりといふ感じの語との結合らしい。さう想像する根據は同じ地方に、
  ……かつちりこ              廣島縣山形郡
  ……もうし昔けつちりこ          同  上
  ……けつちりこどぢやうの目        同  神石郡
があり、又一方には、
  ……昔こつぷり              廣島縣山縣郡
  ……昔かつぷり泥鰌の目、とうらんけつつり 同  比婆郡
  ……昔こつぷり鳶の糞           同  上
  ……昔こつぷり泥鰌の目のくり玉      同  神石郡
  ……昔こつぷりどぢやうの目        岡山縣阿哲郡
等があつて、それが山陰地方の「昔こつぽり」に繋がつて居るからである。
(377) それから今一つ、「是で一昔」と謂つたやうな形もあつたかと思はれて、飛び離れて各地に行はれて居る。私の記憶するのは、
  ……これもこれも一昔           岡山市附近
  ……これも十年一昔            愛媛縣上浮穴郡
などで、後者は十年一昔といふことわざが、起つてから後の變化と見られる。或は又是が前のものと結合して、
  ……あと昔こつぷり            廣島縣双三郡
  ……一昔こつぷり             同  神石郡
  ……それがまつこう一昔          同  深安郡
ともなつて居り、遠く離れて岐阜縣の郡上郡にも、
  ……それでちよつぴりきのこあし
などゝいふのが出來て居る。但し此地方の例は飛騨を除いては、まだ餘り多く知られて居ないから、現在は聯絡が明かになつて居らぬ。
 
          七
 
 「讃岐民俗」を見ると、瀬戸内海の島々には又一つの古さうな形がある。
  ……さうらへぱく/\           香川縣志々島
  ……さうなさうらへばく/\        同  上
  ……さうぢやさうな候へばく/\      同  佐柳島
 是が富山縣の「かたつてもかたらいでも候」と、系統を同じくすることは想像してよからう。區域が可なり弘いの(378)で、少なくとも一地の特發でないことだけはわかる。
  ……語つても語らいでも候の權八やつたと  富山市附近
  ……昔きつて候              富山縣中新川郡
  ……さうらいきり             石川縣能美郡
 この終りのものは「候ひけり」であつたのを、やはり是限りの「きり」の方へ近づけて居る。關東では秩父の大瀧の山村にも「それだけ」といふ代りに、
  ……それぶんきり
といふのがあり、どうやら白山山麓のサウライキリと、繋ぎがあるやうに思はれ、又越後岩船郡の三面村にも、
  ……つゞきさうろ
といふのが殘つて居る。
 飛騨は鈴木君や澤田君が、夙くから興味を以て集めて居るが、爰には他では聽かぬシャミシャツキリ云々といふ文句が、可なり奔放に發達して居る。尤も是はたゞ吉城郡の高原郷と、大野郡の丹生川郷との例のみで、西部の山間殊に白川の谷などはどうなつて居るか。それが判つて來たら面白いであらうが、今はまだ報告をした人がない。
  ……しやみしやつきり鉈づかぽつきり、藏の鍵ぴィん
  ……しやみしやつきり、稗がらばさごそ/\
  ……さみさつきり中ずりぽつきり、小便ぼろ/\
  ……さみさつきり中ずりぼうきり、御話ようても茶菓子が無い
  ……しやみしやつきり燈臺がらり/\、茶碗の蓋ちやんちやらりん
  ……しやみしやつきりせんち板がた/\
(379)  ……しやみしやつきり箒で掃いたらばらり/\
 この文句の起りはまだどうも考へ附かれないが、とにかくにその色々の變化には共通點がある。どれも是も何等かの物の音であつて、それへ注意を向けさせて、もう話を打切らうといふ趣旨のやうにも解せられる。シャミは何であるか知らぬが、少なくともシャッキリはやはり「是つきり」のきりであらう。さうしてどの言葉も皆少しづゝの滑稽を帶びて居るのは、昔話は終りに近づくと共に段々と笑ふ話になり、もう切り上げるといふ際に斯ういふ長たらしい結びの言葉を、聲高に唱へることになつて居たので、一つ/\に是が附いたのでは多分あるまい。
 
          八
 
 それから  愈々前囘に疑問にして居たドウビン三助の一聯を竝べて見るが、この形式の分布は思つて居たよりも廣い。
  ……とんぴんからり            山形縣鶴岡市附近
  ……どんべからつこねつこ         同  最上郡
  ……とつぴんぱらりんさんしよのみ     秋田縣雄勝郡
  ……それきつてのとんぴんぱらり      同  平鹿都
  ……とつぴんぱらりのぷう         同  仙北郡
等があるばかりか、今から百五十年前の岩手縣膽澤郡の農村にもトッピンハラリがあつたことは、菅江翁の「雪の膽澤邊」の記事にある。ハラリ又はカラリはやはり亦、是で全部といふことを意味して居たのであらう。山形縣の東田川郡で、
  ……そんでとつぴんからりイねえけえど
  ……とつぴんからりんあどねえけえど
(380)などゝ謂つて居るのは、是だけでは何を言ふのかよくわからぬやうだが、ネェケェドは「もはや此以外には何も無いとさ」といふことらしい。其隣の最上郡眞室川などでは、
  ……とんびかんこ無いけど
  ……とんびんかんこ無いとは
とも謂つて居る。ナイトハは此地方で子供にもう斷念させる時の言葉である。
 或は江戸にも是とやゝ似通うた文句が、曾ては行はれて居たのではないか。「茶壺に追はれてとつぴんしやん」といふ子供詞の、何だか無上にをかしくて事柄のわからぬのは、其一つの痕跡のやうにも思はれるのだが、是は證明することが困難かも知れぬ。たゞ一つ同じ山形縣の北村山郡などで、
  ……どんびん三助猿まなく、猿のけッつさ牛蒡燒いてぶつつけろ。
といふのだけは、東京の惡太郎にもやゝ心當りがあり、同時に又「昔はまつこう猿の面はまつかいな」とも、隱れたる筋を引いて居る。實際我々の昔話の中では、猿は最もよく働く一役者であつた。普通はたゞ短くドンビンと謂つただけでも、話は終つたといふことを告げるには十分だつたが、愈夜が更けてもう子供に後ねだりをさせまいとすると、言葉が大げさになり、又?猿が飛び出して來るのである。ドウビン三助の三助も或は猿かも知れない。
  ……どんぴん三助猿まなく
  猿のまなくに毛が生えた
  けん/\毛拔きで拔いたれば
  めん/\目つこになりました
といふやうな、長いものも同じ地方にはあつて、是などはよほど今日の所謂童謠の香がする。恐らくは何某先生作詞といふやうな新らしいものであらう。それと比べると昔なつかしいのは、藤原無想翁の記憶して居られた、仙北|生保(381)内《おぼない》村の「錦の長者」の結びに、
  ……錦の長者とよーばれた
  よーびも呼んだしよーばれた
  それきてとつぴんぱらりんぷん
といふのがある。斯ういふ風になると形はよく整うて居る。更に是から北の方の村々に、弘く行はれて居るといふトッチバレなども、元は或は同じやうな語り方があつたのかも知れぬが、今はたゞ各地の殘留を比べて見て、その變化の跡を想像するばかりである。
  ……それきつてどつとはれア        青森縣三戸郡
  ……それきりどつとはらい         岩手縣岩手郡
  ……どつとはらえ             同  九戸郡
  ……どつとわらえ             同  上
  ……どつとわれえア            同  上閉伊郡
 青森岩手二縣は殆と全區域に、この系統の文句が行き渡つて居るが、もう其意味を知つて使ふ人は無いやうに思はれる。ドットワラエと言ひかへて居る土地などでは、或は又新たなる「笑へ」といふやうな解釋が始まつて居るかも知れぬ。
 
          九
 
 あまりこま/”\と煩はしいが、次にもう一つだけ、以前文字を知る階級の間に、是が最も標準的なものと見られて居た、
(382)  ……それで市が榮えた
といふ結びの言葉が、今はどうなつて居るかを考へて見たい。「市が榮えた」は亦一つの改定であつて、本來は「いちご榮えた」、即ち昔話の主人公が長者となり、一期滿々と繁昌したといふことで、多くの物語の「めでたし/\」も同じであつたらうことは前にも述べたが、地方の多くの變化も大體にそれを證據立てゝ居る。新潟と宮城の二縣には、殊に其痕跡が多い。鳥取縣の八頭郡などにも、
  ……一ごさんごくらえた
といふものがあるさうだが、越後の西頸城郡などは更に原形に近く、
  ……いちごさかえたぞ
といひ、又はそれをやゝをかしく、
  ……えちやぽんとさかえた
とも謂ふのは、「さかえた」が口語から消え去つて、それを「裂けた」の意に取る人が多くなつたからであらう。東頸城郡に移ると簡單に、
  ……えちやおえた
  ……えちやばらり
  ……えちやぽん
といふ者が多くなり、更に中蒲原郡に於ては、
  ……いちごぶらんとさがつた
  ……いちごさんがいた、ぶらりとさがつた
といふ風にも變つてゐる。佐渡の島では、
(383)  ……それでいつちようはんじようさけたとさ
  ……いつちようはんじようさけたとさ
といふやうな形を存し、又は全く言ひ方をかへて、
  ……一生安樂に暮らしたとさ
といふこともあるさうだから、此島だけはまだ古い感じが殘つて居るのである。
 宮城縣は仙臺で何と言ふか、まだ聽いて見たことが無いが、それから以北はほゞ陸中のドンドハラヒの堺まで、似たやうな文句が流布して居る。それを一列に竝べて見ると、
  ……是でよんつこもんつこさげたのさ    宮城縣桃生郡
  ……これでまん/\ときまつたのさ     同  栗原郡
  ……いんちこまん/\さかえた       岩手縣東磐井郡
  ……いんつこもんつこさかえた       同  西磐井郡
  ……いんちくもんちくさかえた       同郡一(ノ)關
 是等隣接各郡の僅かづゝの差異は、もう少し細かな採集によつて、やがて其推移の跡を明かにし得るだらうが、是だけから見ても、最初は「それで一期滿々と榮えた」と謂つたものが、意味が不明になり語音の印象のみ強く、次第に斯ういふ變化を遂げたことがほゞ推測せられる。さうして是が又一生をイチゴと謂つて居た時代の、新たな思ひ付きであつたことも先づ明かで、其以前はやはり最も平凡な「これだけ」「これきり」の形を、ほんの僅かづゝの言ひかへを以て、守り續けて居たのではないかと思ふ。
 我々はまだ見究めることが出來ないが、或は是が同時に昔話全體の語り方の、地方差を伴なうて居るのかも知れず、もつと進んでは前代の交通と、文化浸潤の經路を示すものかも知れない。ちやうどこの新舊樣式の交錯する陸中水澤(384)のあたりには、
   ……この話誰が聞いた、猫と鼠が棚の隅できいた
といふ樣な、グリムの説話集にでも有りさうな結びの文句もあるといふことを、森口多里君は言つて居られる。東西偶然に斯ういつた奇拔な形が併存して居るとすると、是は又一つの興味深い問題になるが、自分の耳に觸れた限り、他ではまだ類例に出逢つて居ない。之に反して、
  ……ちやうどほんの昔ばなし、それで慾はせんもんぢや   兵庫縣氷上郡
もしくは「だから人の眞似はするもんぢやないと」といふ類の、訓誡の辭を以て昔話の結末とする例は、全國到る處に今は流布して居り、動機は明白であり聽手の誰であつたかも大よそわかる。既に中世の記録に筆せられたものがあつても、是が最初からの形を保存したものでないことは、認めずには居られまいと思ふ。
 
          一〇
 
 最後に昔話の中間の受け返事、即ち忠實に耳を傾けて居ることを表示する「あひの手」の言葉も、色々有る筈だが今はまだ僅かしか知られて居ない。是は恐らくは簡單なものが多い故に、改廢も容易であり、又普通の用語と一致することになつて、いつしか方式だといふことを思はなくなつたのであらう。現在列擧し得るのは宮城縣の南部、白石大川原の附近に殘つて居るゲン又はゲイ、是は昔話以外には用ゐず、昔話のこたへとしては子供までがさういふので、定まつた形だといふことが知れるが、本來は亦一つの常用語であつて、今でもコ島縣の木頭《きとう》の山間などには、ゲイは傾聽を意味する感動詞として行はれて居る。以前はゲニといふのが普通で、文藝には?「實に」の文字を宛てゝ居た。相手の言ふことを是認する場合が多いから、實にと解しても誤りはなかつたらうが、なほ語原は明かでは無いのである。
(385) 次には佐渡の島では一般に、サソといふのが昔話を聽く者の合槌の言葉で、それで又「サソを繼ぐ」といふと、身を入れて話を聽いて居ることを意味する。是も「嘸」などの新字を宛てた「さぞあるらん」のサゾであつたらうが、今はもう其本意を忘れた者も多いかと思はれ、サースともセースとも謂つて後をせがむ者もあり、村によつてはチャソだのチャだのといふ子供があるさうである。
 東北の田舍にも、このサソのまだ殘つて居る土地が有るといふことだが、たしかにどの邊でとまではまだ言ふことが出來ない。岩手縣の西磐井郡などではハーリヤ又はハート、前者は「あれは」に輕い驚きのハァを副へたもの、ハートは再びそれから分化したものかとも思ふ。自然に任せて置いても斯んな語を出すかも知れぬから、是を方式とまでは見なされぬやうだが、飛騨の吉城郡などのヘントといふ語に至つては、昔話には必ず伴なひ、昔話の外には稀にも用ゐられない。さうして元は之を聽く兒童に、ヘントといふものだと教へたこともあるさうである。しかもその起りは東京の女たちが、深く感じた場合に發するヘーエなどゝ、別のものであつたらうとも私には考へられない。
 話を聽く子供が其さきを催促するのに、秋田縣の大曲あたりでは、ソレカラシタバヨと謂ふのが例であつた。シタバヨは寧ろ話者の語りを繋ぐ爲の「さうしたれば」を採つて用ゐたもので、是もまた古くからの形のまゝで無かつたのである。我々の間でも今はどうなつて居るか知らぬが、曾てはウンソレカラといふのが普通であつた。昔話以外の受け返事に、さうは言つてはならぬ者までが、きまつて此文句を使用したのだから又一つの方式だつたとも見られる。九州の南の方でもウンと謂へ、オウとかハイとかは謂はぬものだと教へられたといふことだが、果してさうであつたらうかどうか。
 野村傳四君の「昔話研究」(一卷八號)に報告せられた、大隅肝屬郡の昔話などは、今から四十年ばかり前までは、必ず最初に先づ次のやうな問答をしたものださうである。
 とんとある話。あつたか無かつたは知らねども、昔のことなれば無かつた事もあつたにして聽かねばならぬ。よ(386)いか
 之に對して相手の少年に、ウンといふ返事をさせて後に、始めて昔々と語り出したものださうである。是とよく似た例は薩摩の海上、黒島といふ小さな島にもあつて、
  さる昔、ありしか無かりしかは知らねども、あつたとして聽かねばならぬぞよ
と、言ひ渡すことになつて居たと、「古代村落の研究」には報じて居る。私などの見る所では「さる昔」だの「とんと昔」だのといふ發語は、中世昔語りが純然たる民間文藝となつて後に、新たに採用せられた形式に違ひない。それにこの樣な信じて聽くべしと言はぬばかりの、改まつた誓約をさせることは、明かに一方のゲナ・サウナ・デアッタトといふ類の語り方と撞着する。しかも斯ういふ兩立し難いものゝ中から、或は嚴肅なる神話時代の殘留を探り當てる望みを、今日になつてもまだ抱くことが出來るのかも知れない。今日東北の兒童が「うそ昔」と稱して非常にいやがつて居るものは、個人が製作した新らしい昔話であつた。古くからある昔話はゲナでもトサでも、なは彼等の爲には眞實なものであつた。
 
(387)  (追記)
  昔話の始めと終りの句は、この後かなり數多く集まつてゐるが、特に變つた形といふものは見當らない。參考の爲に大よそ本文に分類し敍べた順序で、並べておくこととする。
 始めの句
  昔あつたづう            岩手縣二戸郡福岡町
  昔あつたけどよ           山形縣東田川郡大泉村
  昔あつたさうだ――昔あつたことだけど――昔あつたと――昔々あつたげな                        同 西置賜郡中津川村
  昔あるつけど――昔あるどごえ――むかし 新潟縣岩船郭中俣村
  昔あつたで             同 北蒲原郡赤谷村・川東村
  昔あつたつ|つお《(つあ)》――昔あつた|げど《(ろ)》 同 古志郡宮内村
  昔あつたげのう           同 佐渡都畑野村
  昔あつたとつさ           富山縣射水郡
  昔々かたらう            同 西礪波郡西太美村
  昔じつとあつたげなら        對馬南部
  昔あつた事ぬ            沖永良部島
  ずつと/\昔            富山縣射水郡
(388)  トン/\昔あんで         新潟縣北蒲原郡赤谷村・川東村
  トン/\昔あんで          新潟縣北蒲原郡赤谷村
  トン/\昔があつたてがんだ     同 中蒲原郡五泉町
  トン/\昔があつたけど       同 古志郡山古志村
  トン/\昔があつたげな       隱岐島前
  トント音があつたでがなや      同 中村
 結びの句
  とーさ――とーさがつさ       沖永良部島
  そりぶんぎり――そんだけ      埼玉縣秩父
  こるでおしまひ           富山縣射水郡
  昔ゃむけた鼻ん先ゃはげた――昔かつぽん米ん段子、いしーぢ食はんと冷ゆるぞ
                    大分縣速見郡立石町
  ぽつちり              島根縣那賀郡都治村
  語つても候、語らいでも候、帳面ばつたり鍋のふた 富山縣射水郡
  昔とうびんなえけえど        山形縣東田川郡大泉村
  昔どうび――どうぴん昔――とうぴつたり(ぴつたい)――昔とぴつたり――ともぴつたり                 同 南置賜都中津川村
  とつぴんからりんけえりみむがし――これで昔はながつたけど――これで昔はとつぴんからりんだつたけど          新潟縣岩船郡中俣村
(389)  とつちぱれこ           青森縣津輕地方
  どつとはれえ            岩手縣福岡町
  ざつと昔つつさげた         新潟縣北蒲原郡赤谷村
  トン/\昔つつさげた――いちご昔とつさげた――トン/\昔ぶらつと下つた――いちが昔つつさげた            同 川東村
  一期榮え申した――一期さつかえどろつぺん――一期さつかえぶいぶい                          同 古志郡山古志村
  いきがぽーんとさけた――いきがさけた鍋の下がらがら 新潟縣宮内町
  さつけろつぺくらさきすつとん――いちごぶらーんとさげた 同 南蒲原都下田村
  ほつとほつと            富山縣西礪波郡西太美村
  トン                隱岐中村
  にやーぢや             鹿兒島縣喜界島
 合の手の句
  おつと               山形縣北村山都西郷村
  おー                同 東田川郡大泉村
  ざつと               同 舊伊達藩
  さんすけ              新潟縣古志郡宮内町
(390)  ハア/\             新潟縣北蒲原郡川東村
  ふうんふうん――なんけゆう     富山縣射水郡
  ふいー               沖永良部島
 
(391)     猿と蟹
 
          一
 
 説話と所謂説話文學との關係に就いて、人が折々誤つた速斷をすることは日本だけでは無い。たつた一つの古い記録以外、別に何等資料も手に入らぬといふ場合、是を全國共通の昔話の定まつた形とし、甚だしきは古來斯くの如しと見ようとすることは、書物に信頼する多年の慣行を考へると、些しでも不自然な弱點だとはいふことが出來ない。しかも國によつてはこの誤りに、心づく機會が中々得られないこともある。我々の後世から非難せられなければならないのは、現に立派に幾つかの異なる資料が出揃ひ、昔話は人により時と處とにつれて、無心にも又有心にも、次々語りかへられて居たことがちやんと判つて居りながら、なほこの前々からの考へ方を改めようとしない點にある。是では一國の文化の重要な一項目が、いつになつても正しく理解せられる見込が立たぬだけで無く、折角亡失を免れた前人の勞苦の跡までが、無用か又は有害にしか利用せられないことになると思ふ。此意見を實例によつて説明する爲に、最も有りふれたる猿蟹合戰の話をする。
 
          二
 
 江戸では馬琴の燕石襍誌が出るよりも又數十年前から、蟹の仇討となつて此話は傳はつて居た。猿が木の上から柿(392)の實を打つけて、甲羅を潰されて蟹は死ぬ。その子蟹が集まつて仇討の相談をする。又は親蟹が大怪我をして穴へ戻つて死ぬと、其腹から生れ出た子蟹が、成長して仇討に出かけるなどゝ、少しでも自然を觀察した者ならば、承知をすまいと思はれる形にさへなつて居る。此點たつた一つから見ても、是が都會の産物だといふことは察せられるのである。現在是と同じ話の採録せられて居るのは、甲州と越後と佐渡、是以外にも探せば勿論あらう。京都大阪の町方を始めとし、田舍でも私などの聽いて居たのは是で、何だか其通りでないのはにせ物のやうな氣がして居たが、是は赤本類の次々の普及の結果だから、ちつとでも不思議は無い。其上に人は童話の眞實から遠いことを氣にかけぬのみか、寧ろ斯ういふ根も葉も無いほどの虚誕を、子供に向くものとして歡迎して居たらしいのである。
 猿蟹合戰といふ大袈裟な名稱も、或は一つの時代の流行かぶれかとも考へられる。鳥獣草木はいふに及ばず、時には臺所道具にまでも鎧を着せて、戰をさせるやうな文藝さへあつたのだから、單なる二種の動物の喧嘩を合戰と呼んだのも自發では無かつたかも知れぬ。しかし是に比べても、蟹の一子の復讎といふのは大きな改作であつた。其根源に溯ると永い期間の曾我流行、もしくはそれから追々に目先をかへたかと思はれる奧州白石噺、田宮坊太郎といふ類の影響も、たしかに原因の一つとは考へられるが、なほそればかりでは是までの變化が、爲し遂げられようとも思はれない。それには今一つ都市の人々が、あの頃はまだ知つて居て後には忘れてしまつた昔話が、背後にあつたらうといふことが想像せられるのである。
 東北地方の二三箇所で採集せられて居る「雀の仇討」といふのが、何よりも近代の猿蟹話と近い。こゝでは敵は山母であり又は鬼婆であつて、其惡虐が猿よりは何倍か烈しい。雀の親が藪の中で巣を作り、一生懸命に卵を温めて居るところへ、何度もやつて來ては卵をねだり取つて食ひ、愈最後には其親雀まで裂いて食つてしまふのである。其時たゞ一つだけ巣からこぼれて藪の底に落ちて居た卵が、かへつて小雀となり、それが成長して親の讎を打ちに出掛ける。其支度としてあちらの稻架から一房、こちらの架から一房と稻穗を集めて來て、團子をこしらへて之を背に負(393)ひ、途々それを配つて栃の實以下の助太刀を求める。其同勢中に蟹が加はつて居るのも注意すべき一事實である。是とやゝ似た話は栃木縣の東部にもあつた。こゝでは惡者は山姥で無くて猿になつて居る。猿が雀の卵を取つて食ふといふのは少しをかしいが、とにかくまだ親雀までは食はれてしまはぬうちに、鴉が助太刀にやつて來て猿を撃退するので、從つて又仇討では無いのである。猿は怒つて其時から面が赤くなり、鴉のアホウ/\と啼くのもそれからだといふ由來譚が附いて居る。
 此昔話の一地方で發生したものでない證據には、廣島縣の幾つかの郡内にも、大よそ同じ形を以て行はれて居る。敵は鬼であり、討つ者は雀又はショウト(頬白)であるが、是は忘れがたみの一子では無くて、子どもを鬼に食はれた親雀の方になつて居る。やはり黍團子を用意の兵糧として、栗・蜂・臼・牛の糞等の珍らしい同勢を糾合し、鬼を退治に行く點は奧州と似て居る。鬼といふ方が前の型かと思ふが、是とても變化があつたらしく、爰では臼の挽木の穴の中に、もしくは地藏樣の耳の中に、雀が子を孵したといふことになつて居て、最初から第三者の干與があるので結末がうまくついて居ない。鬼の強慾で次から次へ、飽くことなき要求をするといふ點に、最も力を入れて語るのは牛方山姥といふ昔話であるが、普通にはその牛方が遁げて山姥の家に潜んで、復讎をしたことになつて居る。ところが豐前地方にあつた一つの例では、其被害者の馬方の子供が、女房に黍團子をこしらへて貰つて、山爺の處へ仇討に行くことになつて居り、是も助太刀は栗・針・石臼・粘土等で、其中には蟹も一役買つて出て居る。或は又オロンコロンが黍團子を持つて、丹波の篠山へ親の敵を打ちに行くといふ話も同じ地方にはある。敵は山姥で助太刀は栗・蜂・臼・牛だが、どうして仇打に行くのか不明であり、オロンコロンの素性も一向にわからない、斯うなると愈以て桃太郎の方に話は近いのである。
 
(394)          三
 
 それから今一つ現在の猿蟹話に於て、子供でも訝かしく思ふであらうことは、猿が柿の實に對して貪慾なことはよくわかつてゐるが、蟹がどういふわけで其樣に喧嘩をする迄に、是に愛着して居たかといふ點である。埼玉縣下の多くの例で見るやうに、單なる猿蟹の合戰で子蟹の仇討などは説かぬものでも、なほ葛藤の發端を柿の種と握飯との交換、及び柿の實收穫の不自由に置いて居り、九州の北部にも是とは又獨立して、幾つもの柿爭ひの話があるのだが、私の想像では是は明かに後のさし替へであつて、餅としたものゝ方がその一つ前から有つた。其改作の動機としては、勿論一方の役者を猿としたことも考へられるが、他の一方には蟹の擧動、即ち二つの手を高く擧げて合せ、恰も何事かを祈念するやうに見えるところから、浮び出た空想も加はつて居て、それに多分もと別の話があつたのが、融合してしまつたものであらう。小學讀本などには猿の淺慮、蟹の忍耐又は先見の明ともいふべき點のみが力説せられて居るが、どこでも此話を耳で聽いたほどの子供には、必ず印象深く覺えて居る文句があつた。私などの郷里では「芽が出にやつめきろ」といふのであつたが、到る處で是を方言に譯し、通例は三段三度に繰返すことになつて居る。念の爲にその二三を竝べて見ると、續甲斐昔話集の話では、
  生《お》いない、ほじくるぞ
  太くならない、はさみ切る
  ならない、ぶつ切るぞ
 是を各三度づゝ唱へ、それを聽いて柿の木が芽を出し、成長し、又實のつたことになつて居る。佐渡の片邊でも、
  生ふらずか、鋏みきらう
  太らずか、はさみ切らう
(395)  成らずか、はさみ切らう
と順々に言ふとあり、越後南蒲原郡でも之に近い唱へごとがある。九州の猿蟹の柿話などは、結末が全く異なるにも拘らず、やはり、
  生えにや踏みしやぐ/\
  ならにや切る/\
  うれんとこつきる/\
などゝ筑後の三井郡では謂ひ、更に隣の八女郡の方では、
  太れ/\、太らんとはさみ切る
  なれ/\、ならんと鋏みきる
  うれろ/\、うれんとはさみ切る
と謂つたとも語られて居る。是を聽いて誰でも思ひ合せるのは、今も全國の各地で正月十五日の朝、もしくは其前夜に果樹の下に行つて、強ひて其年の豐熟を約束させる呪法で、是にも亦多くは小兒が參加して居る。柿の種は彼等の知つて居る限りの最も無價値のもので、何かと言ふとそれを戯れの言葉にも使ひ、又天狗を騙して隱れ蓑笠と交換したといふ笑話などもある。それを承知の上で握飯を以て是に換へ、斯んな呪ひの語をもつて早い收穫を擧げたといふ話があつたとしたら、是だけでも十分に子供は笑ふことが出來たであらう。だから私などはさういふ一話が、曾て獨立して別に存し、それが猿蟹の合戰などゝいふ話と、複合したかとも想像するのである。
 九州の諸處で採録せられて居る猿蟹話などは、合戰とも言へないほどに結末がたわいなく、或は寧ろこの交換の成功といふ點に、話の中心が置かれて居たとも見られる。何處のも大抵同じだからほんの一二の例を引くに止めるが、此話を知つて居る土地は中々多いのである。蟹は折角柿の實をうんとならせたが、木登りが不調法で取ることが出來(396)ない。そこで猿が代つて登つて勝手にもいで食ひ、下から蟹が催促をすると、
  蔕ども食はさい、核ども食はさい
と謂つて、種子や喰ひかけばかり、投げ下すといふ點は江戸の話と同じだが、それから後は全然別のものである。蟹は一計を案じて猿に向ひ、おまへの父さんは逆さになつて降ることが上手であつた。お前にはそれが出來るかなといふと、猿は調子者だから早速それをやつて見せようとして、懷から柿の實を皆落してしまふ。それを拾ひ集めて穴の中に持込んで、一人で蟹が食つて居る。或は又、袋に柿を入れて枝の上に置き、ゆすぶつて見なさい面白いからといふと、猿が騙されて袋を下に落したとも謂ひ、或は樹の傍に穴を掘つて置いて、騙して柿を落させて皆其穴に持込んだと謂ふ者もある。とにかくに今度は猿が穴の口に來て俺にも少し分けてやれと謂ふと、蟹が口眞似をして「蔕ども食はさい云々」を繰返す光景は、聽手を笑はせるに十分な力があつた樣である。是で復讎もすみ結末もついて居ると思ふのだが、九州の話には何れもなほ其續きがある。猿が大いにくやしがつて、穴の口へ尻をもつて來て、汚ないものを垂れ込むと謂つて脅すと、蟹はすかさず其鋏を以て尻をはさみ、毛を?り取つて猿を敗北させる。もしくは猿が尻の毛を遣つて堪忍してもらふ。それ故に今でも猿の尻は毛が無くて赤い。もしくは山蟹の兩の爪には毛が生えて居るのだといふ風な、由來譚が附いて居るのである。我々のまだ説明し得ない理由によつて、古い昔話には?この「事の由」が附いて居る。或は逆に Why So Stories とも謂つて、物の起りを説明するやうに話が出來て居る。是だけは日本でも竹取物語もしくは其以前から、中代の所謂本地ものにも其片端を現はして居て、本を讀む人たちも皆知つて居られる。事々しく爰に辯ずる必要も無いことである。
 
          四
 
 自分が新たに述べて見たいと思ふ點は、この柿の實と全く一つの話が、同じ九州でも半分は餅の爭ひとなつて行は(397)れて居ることである。たとへば私の持つて居る寫本の福岡縣昔話集を見ても、前に擧げた三井八女の二郡、筑前の糸島郡などで採集せられたものは柿であり、「ならぬと鋏み切る」の呪文を伴なうて居るが、其他の多くの郡、殊に豐前の三郡のものは皆餅で、猿が餅の袋をつかんで柿の木の上に登つて一人で食ふとあり、それから後の蟹の計略、猿の降參の段は雙方同じである。他の地方をざつと見渡しても、大分縣速見郡の猿は澁柿を樹下の蟹に打付け、鹿兒島縣肝屬郡の蟹は、餅を枝に載せてゆさぶりながら食ふとうまいと謂つて猿を騙す。肥前下五島では、柿の木に登つて柿を食つて居る猿を羨んで、ぶらんこをすると柿がうまくなると欺いて、こぼれ落ちる柿を蟹が拾ひ集めるといふに對して、壹岐島では猿が餅を木の枝に引掛けて、蟹を羨ましがらせようとするうちに、餅を落して穴の中へ運び込まれてしまふ。さうして結局長い尻尾を切取られ、乃至尻の毛を蟹に取られてしまふのは一樣に猿である。勿論餅の方の話になると、柿の種交換の發端は有り得ないが、それの代りになる部分も九州は略一致し、又他の地方のとも明白なる聯絡がある。鹿兒島附近では是を猿と蟹の寄合餅といひ、豐前京都郡では餅ビカリとも謂つてゐる。兩名申し合せて苅田に出て穗を拾ひ、又は小豆拾ひに出かける。愈餅を搗くといふ段になつて、最も數多い例では蟹を山へ杵伐りに遣り、一度伐つて來たのを此杵は歪んで居るからだめだと謂つて又伐りに出し、其間に一人で曲つた杵で搗いてしまふ。其餅を袋に入れて持つて木に登つて食つて居るのである。斯ういふ不埒な猿だから始めから同情が無い。結局は穴の口での喧嘩となつて、「毛くりゆう/\」と毛を出して宥してもらつたと佐賀附近では謂ひ、或は此時から毛が三本足りなくなつたと、阿蘇地方では謂ふのである。猿の尻はなぜ赤いの説明なども、餅爭ひの話の終りにも附けば、又全く別の昔話の結末ともなつて居る。是を伴なうて居る故に、柿の實の話が古いとは無論言へないのである。猿が横着で蟹が機敏であつたといふ、元の形はそつくりとして置いて、餅と杵との部分を柿の種の成長したといふ話に、置きかへる位のことは誰にでも出來たのである。
 この二つを根原相異なるものと見ることは不可能であると共に、同時に竝び生れたと見ることも恐らくは六つかし(398)いであらう。柿と蟹とでは如何にも縁が遠く、何か今一つの引掛りが無いと、是を猿との合戰の原因には、もつて來られなかつたらうと思はれるからである。そんなら餅ならば猿が好むかといふ詰問も有るか知らぬが、それには又相應の順序と沿革とがわかつてゐるのである。しかし其問題に入るに先だつて、今一つ考へて見なければならぬことがある。話は少しばかり九州の方に偏して居たが、この柿の實を猿から奪ひ返すといふ話は、必ずしもかの地方だけの特産ではなく、蟹の仇討話の早くから出來て居た東京の近くにも、同じ形の語り方が可なり廣く分布してゐる。埼玉縣郷土研究資料を見ると、南は北足立から北端は大里秩父まで、各郡ともに略同樣の形であり、近頃世に出た川越地方昔話集にも、よく似た話ばかりが幾つも報告せられて居る。此縣下の猿蟹話に於ては、爭奪の目的物がすべて柿の實であつて、前段は最も九州のそれと近く、たゞ後段が甚だしくちがつて居る。蟹は一計を案じて樹上の猿を欺き、昔の猿は逆さ降りがよく出來たが、今の猿たちにはそれが出來ないと獨り言のやうにつぶやくと、之を聽いてのこのこと猿は木から逆さに下りて來る。懷の柿が皆こぼれ落ちたのを早速に拾ひ集め、穴に持つて入つて何と言つても分けてくれない。そこで猿は大いに憤慨し、よし/\覺えて居れ、今夜は夜盗に入つて蟹なんか甲羅を敲き潰してくれると謂つて行く。蟹が心細くなつてしく/\と泣いて居る處へ、色々の物が見舞に來て話を聽いて助太刀を約束するのである。其連中が土地によつて少しづゝ皆ちがひ、たとへば秩父ではひよう/\栗と疊針と立臼と熊ん蜂、北埼玉郡では蜂と臼と卵と水で、水がお猿に水を掛けることにもなつて居るが、何れも幼童でも聽いて其取合せの奇拔に驚くやうなものばかりであつて、此等が合同してうんと猿をいぢめ、結局毛を拔き又は尻尾の長いのを切つて、それから今のやうな形の猿になつたといふ點は皆同じく、素より子蟹の仇討などの沙汰は無いのである。たつた荒川の一つの流れを隔てゝも、先づ是ほどにもちがつて民間の話は傳はつて居る。それが遠方の九州や奧羽各地と、たとへ一部分にもせよ爭はれない一致があるといふのは、是は又何等かのわけが無くてはならぬことで、今まで知らずに居た燕石襍誌一流の研究家が、何と之を説明するだらうかは私には寧ろ興味がある。
(399) 東北各地の猿蟹合戰の話を、この埼玉縣の諸例と比べ合せて見ると、是は又九州の方とちがつて居る點ばかりが主として一致し、しかも其東北と九州の間では、埼玉地方に無い部分ばかりがよく似て居る。目に立つ特徴だけを拾つて言へば、先づ第一に喧嘩のもとになつた柿の實と餅、是が九州には二つともあつて結末全く同じく、埼玉地方では柿ばかり、東北は餅の方が幾らもあつて、柿を爭ふといふ話は一向に見當らない。柿が自分の想像のやうに、比較的新たな趣向であり流行であるとすれば、是は説明がつくのである。次には猿が失敗し閉口しただけで話を打切らず、更に合戰と呼んでもよいやうな、大がゝりな攻撃に移る段は、九州にも全く無いわけではないが、それの猿蟹の話に伴なつて語られる例は、少なくとも私はまだ聽いたことが無い。それが中央から東の方に來ると、臼蜂栗等の助太刀は、必ず猿蟹の合戰に伴なふべきものと認められ、たま/\離れた土地で蟹以外の主人公の登場するものがあれば、其方を却つて作り替への如く、見るやうな傾向を生じて居るのである。是がそも/\の誤りの元かと、自分などは思つて居る。
 
          五
 
 此點にかけては奧州の猿蟹話は、たつた一つの柿と餅との差を除いて、實によく埼玉縣下に普及するものと似通うて居る。發端は幾分か九州の曲つた杵よりも込入つて居るが、是も兩名の者が山の上で寄合餅を搗くのである。紫波郡昔話などに見えて居るのは、猿が其餅を獨りで食つてやらうとたくらんで、もういゝ加減に搗けたと思ふ頃に、杵で餅臼の端をどんと突くと、臼はごろ/\と谷間に轉がり落ちて行く。それを止める顔して猿は飛んで行き、蟹はどうせ取られてしまつたものと諦めてそろ/\と山を下ると、豈はからんや餅は中途の木の根に引掛かつて居て、猿の追掛けて行つたのは空の臼であつた。大喜びでそれを一人で賞味して居る處へ、がつかりした樣子で猿が上つて來る。こゝに子供でも笑ふやうな猿と蟹の問答があつたらしいが、其先がまだ附いて居る爲に、大抵は半分ほどに省略せら(400)れて居る。猿は色々と蟹の機嫌を取るのだが、何と言つても其餅を分けてくれない。そこで大いに怒つて覺えて居ろ、今夜夜盗に行くからさう思へと謂つて山へ入つてしまつた。餅は腹一杯食つたものゝ蟹は心配でたまらない。家へ歸つて來ておい/\泣いて居ると、例の如く雌鷄に針、午だの臼だのがやつて來て、蟹どの蟹どのなしてさう泣いて居ると、仔細を尋ねて何れも加勢を約束するのである、さうして此話では蟹も鋏を研いで水甕の中の一役を持ち、結局は猿を殺して猿汁を一同で食つたことになつて居る。
 是と殆と同じやうな話が、秋田縣の鹿角郡でも(第一昔話號)、又津輕地方でも採集せられて居るが(津輕口碑集)、元來は二つの話の繋ぎ合せであつたことが、繼ぎ目が有るので誰にでも容易に察せられる。さうして又この話の前段だけを以て終るものが、數も種類も多く、地域に於ても遙かに弘いのである。主人公は必ずしも猿と蟹とには限らぬが二つの動物が約束をして、寄合田を耕作し又は穗拾ひをして寄合餅を搗く、一方が横着で色々の口實を構へて勤勞を他の一方に押付け、餅搗きになると出て來て又獨占しようと企てる。臼轉がしは殊に光景の繪になるやうな話方である故に人望があつた。是には兎といふ例も幾つかあるが、猿とした方が擧動が似つかはしかつたのかと思はれる。猿は谷底まで空の臼に附いて行き、失望してのこ/\登つて來る。取つた者が勝といふ約束だから文句をつけることが出來ない。それでぢつと見て居て「蟹どん/\、そこは木の葉が附いて居るに、こつちの方から食つたらどうか」などゝいふと、
  木の葉が附いてゝも土が附いてゝも、おつぱらふ吹つぱらひ食へばうまうござる
と答へたといひ、又は、
  上から食はうと下から食はうと、蟹が餅は蟹が勝手よ
と謂つたなどゝ、土地相應の皮肉な挨拶をしたことになつて居る。子供には或は此淡々たるユウモアが、さとりにくい湯合もあつたのであらう。更に一歩を進めてちつとばかり分けてくれといひ、そうら遣るぞと投げてくれた餅が、(401)顔にくつゝいて剥がすと皮がむけ、それで猿の面は赤いのだと謂つたり、どうしてもくれないので怒つて背中を踏み、それからあの通り平たくなつたと蟇の場合には話し、或は兎の場合だとくやしくて傍の木の皮をかぢつたとか、餘り走つたので足がすり切れて短くなつたとか、色々の至つて平易な笑ひを其後に取附けて居る。九州の猿蟹話の結末も無論その一つの方式の著名になつたものであつたらうが、蜂・栃・臼・牛糞その他の助太刀の話とても、決して最初から是に附いて成長したものでは無かつたのである。兒童に取つては稍もの足りない結末を補充する爲に、今まで用ゐて居た平凡なる猿の尾、猿の面の由來譚の代りに、新たに外から斯んなものを持つて來て、變化の興味を加へようとした計畫がどこかに有つたので、或はこれを童話發達の一段階に、算へる人があつても私は強ひて反對をしない。
 
          六
 
 そこで暫く方面をかへて、今度は二三隣接民族の間に行はれて居る昔話を問題にして見たい。一昨年五月に英譯せられた獨逸人エーベルハルトの支那民話集を讀んで見ると、其中に廣東省の某地から採集したといふヌングアマの話といふのがある。話の發端は日本でいふ牛方山姥、又西洋の赤頭巾などゝやゝ似て居る。或一人の女が餅を持つて道を通ると、此名の怖ろしい鬼が出て來て其餅を食はせろといふ。親の處へ持つて行くのだから遣れないと斷わると、よし/\それでは今夜、おまへを食ひに行くからさう思へといふので、女は恐ろしさに堪へず、家に遁げ歸つて泣いて居る。そこを通りかゝつた小間物商人が、何を泣いて居ますかと近よつて來てわけを問ひ、それではと言つて二十本の針をくれ、それを戸に挿して置けと謂つた。次には家畜の糞を拾つてあるく者が通つて、同じ問答の後に若干の糞をくれて、入口に塗つて置けば鬼が滑るからと教へてくれる。次には同樣にして蛇賣りが蛇を二匹、之を水甕の中に放して置けば、鬼が來て手を洗ふからきつと咬まれるといふ。次には魚賣りが通つて是も人を螫す圓魚といふ魚を(402)二尾くれる。其次には卵賣りが卵、臼屋が臼、何れも商人が之を女に贈與したことになつて居て、物が自身で來て援けたといふ程には奇拔で無いが、其等を適當に配置して大敵に意外な逆襲を食はせ、あべこべに之を退治したといふ順序は我邦と同じである。商人を仲に立てたのは、單に幾分の現實味を添へんが爲としか思はれない。だから是がもし今數年も後に採集せられたのだつたら、或は日本の兵士が彼地に滯留して居る間に、村の兒童に教へたのだといふやうな、想像説も成立つたかも知れぬのである。
 ところが同じ話は南支那だけで無く、全く方角ちがひな處にも既にあつた。鳥居きみ子刀自の集めて來られた蒙古の童話といふものが、「旅と傳説」(九卷四號)に出て居るが、其中には四人の娘の母が、餅を持つて夜歸る路で鬼婆に食はれ、其鬼が母に化けて家に來て戸を叩くといふ、日本では「天道樣金の綱」といふ話と、發端の全く一つなるものがある。是は警戒して戸を開けなかつたので、そんなら明晩來ると謂つて鬼が歸つて行く、それが怖ろしさに四人で集まつて泣いて居ると、そこへ卵と石臼と鋏と針と豚とが、順次に通りかゝつて助太刀を約束し、其晩再びやつて來た鬼婆を退治してしまふことは、悉く我々の猿蟹合戰と合致するのみか、姉妹が爐の火で餅を燒いて居る香を嗅いで、それを一つ下さればと協力の條件にする點までが附いて居るのである。蒙古とあつては是が向ふの人が學んだとも、又は日本へ輸入せられたとも、言ひ難いことは共に同じであるが、さて現在のところではまだ何分にも、此一致の原因を考へ出すことが出來ぬのである。
 しかし其うちには少しづゝ、判つて來る望みが有ると思つて居る。たとへば孫晋泰君の集めた朝鮮民譚集に、慶南馬山府で聽いたといふ惡虎懲治の一話がある。是などは一つだけ引離しては、まだ同じ話の變化とも言ひ切れないが、將來もし半島各地の傳承が比較し得られる時が來れば、系統は追々に明かになると思ふ。この惡虎の話に於ては、老婆は前々から虎と知合ひである。明日の晩は粥を食はせるから來いと招いて置いて、晝の中に炭火・唐辛子の粉・針・牛糞・乾し莚・背負梯子といふ類の、手近の物ばかりを助太刀に用意する。それが皆人のやうによく働いて、順(403)序よく虎を退治してしまふので、こゝには弱者に同情するといふが如き、意外の物の義侠心は全く現はれて居ないのだが、斯ういふ老婆の裏切といふ類の話も、捜せばまだ日本にも絶無ではない。續甲斐昔話集の「蟹の仇討」話二つを見て不審に思つて居たことは、爰では同勢が猿の家に攻めて行くと、そこには猿のお婆が火じろに當つて一人留守して居る。やがて主が歸つて來て、待伏せをして居た栗がはね、蜂が螫し針が突くといふ際にも、それを妨げぬばかりか脇から口を添へて、猿を次々の危險の方へ向はせるのである。現在の猿蟹合戰に至つては、斯んなお婆は少くも用が無い。それが出て來て一役を持つて居る所に、何かもう一つ以前の異なる話し方が、痕跡を遺して居ることが察せられるのである。澤山の類例を竝べて見て、蟹に助太刀をした者の仲間の、大よそきまつて居たことは誰にでも認められるが、是とても土地毎に顔ぶれはちがつて居る。この一つの點からでも斷言し得るやうに、此話は休みも無く變化して居たのである。形が古風だから最初から此通りであつた如く思つてかゝることが誤解のもとである。
 
          七
 
 我々日本人の生活ぶりには、對岸大陸の諸民族と、傾向を一にするものが有るのではあらうが、之を見現はすことはまだ中々容易で無い。たま/\文化の外貌の似たものがあるかと思ふと、それは明かに文籍によつて、彼から學んだものであつたりする。さういふ中に於て根源も詳かならず、或は雙方の偶合ではないかとさへ思はれる昔話がたつた一つ、是だけ爭ひ難い一致を示して居るといふことは、重要な現象だと私は思ふ。是非ともどうして斯くあるかを突止める必要があるのである。輸入舶來といふ説明は氣が樂でよいやうなものだが、證據を見つけることの不可能なるは勿論、いつ頃どういふ人がどんな機會にといふことを、想像して見ることも實は容易でない。是が長崎平戸とか坊津とかの附近に、特に濃く殘つたといふのなら格別、現に全國の隅々にまで擴がつて居るのである。さういふ運搬と分配は唐藥や唐織物でも出來なかつた。賣らうといふ品すら買ふ力の無い者の手には入らず、又入用を感じなけれ(404)ば無いも同じであつた。是をたま/\入口がたつた一つ、開いて居たといふだけの理由を以て、採擇と見ようとするのは無理な話である。
 だから自分などは書證の有無によらず、一應は國に古くから、持傳へで居たものと見て置くのであるが、それには又氣になる點も幾つかある。第一には蒙古の一例で特によく表はれて居る内外の類似である。昔話の國際一致といふことは珍らしいことで無い。何等互ひの交通の跡づけられぬ區域にも、捜せば幾らでも似通うた筋と趣向があつて、世界の説話の差は、言はゞ組合せのちがひであるとまで言つて居る人も有るのである。しかしこの臼蜂牛の糞等の助太刀の話となると、事情は又他とは異なつて居る。是は或一つの組合せの一致である上に、目的が先づ思ひも掛けぬものゝ協同によつて、聽く人の笑ひを惹かうとするに在つた。殊に牛糞などを斯んな仲間に取入れゝば、驚き又笑はれることは請合ひであるが、それを我々の祖先が單獨に思ひつき、もしくは古い素朴な昔話を、斯ういふ風に笑話化したらうとはどうも考へられない。一言でいへば話がやゝ變り過ぎて居る。
 それから今一つ私たちの心づくことは、このやゝ複雜に過ぎたる挿話の用途である。現在知られて居る海外の三つの例では、是が説話の中心をなし又は主題であるに反して、我々の間に於てはいつでも結末の、附録のやうな地位を占めて居る。殊に猿蟹話などでは蟹の機智乃至は其忍耐と先見の明とによつて、既にそれだけの教訓的效果を收めて居るのに、それから又新たに一本の線を出して、其あとへ斯ういふ話を取添へて行くのである。寄合餅の臼轉ばしの例を見てもわかるやうに、猿が空の臼を谷底まで追掛けて、失望して歸つて來る間に、蟹は根株に引掛つて居る餅を、獨りでしんみり/\と食つて居る。是でおしまひになつて居る昔話も、數に於ては遙かに、助太刀を頼んで猿の夜盗を撃退したといふのよりも多いのである。斯うして今までの單純なる結末のものを斥けて、もつと大きく笑へるやうな長話にさし替へたといふ所に、後者が借り物であるといふ名殘を留めて居るのではないか。もしもさうだつたとすると國の需要があつたわけで、近世何かの序に對岸から持つて來た説話でも、もて囃されて座頭などの手にかゝり、(405)弘く端々までも運ばれるといふことがあり得るのである。しかしそれも是も今はまだ假定で、他日或はその渡來の道が明かになるかも知れぬと共に、又或はもつとちがつた形で、久しく我邦の内にあつたと決するかも知れない。少なくとも是が猿蟹合戰の昔話の、最初からの構成部分でなかつたといふことだけは、今日でも斷言して差支ないであらう。現に我邦でも雀の仇計にも之を説き、又牛方山姥の復讎譚にも、之によつて成功したと話す例があるのである。さういふ幾つかの試みの中で、特に一つの子蟹の猿退治だけが、本筋のやうに見られて居るといふのは、都府の力と言はうよりも、赤本があの通り赤く又安かつた偶然の結果だと思ふ。蟹が餅の配給の力によつて同勢を集めたといふ點などは、蒙古にもあるのだが普通の猿蟹からは落ちて居る。さうして奧州の雀仇討にはあり、九州のオロンコロンにはあり又桃太郎にはある。柿の實を説かない九州東北の猿蟹話などは、多くの助太刀の條を説くものも説かぬものも、一樣に話の中心を餅にして居る。私は是が多分新舊二つの部分の、接續點だつたらうと思つて居る。
 
          八
 
 昔話はこの通りに、時々別な話をよそから借りて來て、後へ繋いで面白味を新たにする技術であつた。それも聽手が子供なら子供に向くやうに、下品な笑ひしかわからぬ人ならば又その樣に、目先をかへて行く方法が幾らもあつて、それを生計にする者が世に現はれてから其變化が目まぐるしくなつたやうである。是に就ても話はまだ色々あるが、次を急ぐからこの位にして置かう。古い話を覺えたまゝ語ることは、家々の祖父祖母の今でも守る方針であるが、それにも拘らず、古い形に飽きるといふ癖が、世と共に少しづゝ増長して來たらしい。昔話の根源を究めようといふ人々には、是は往々にして迷ひの種であるが、もと/\變遷の順序をも調べずに、單刀直入に古い事を知らうとするのが、横着かもしくは無謀なる企てゞあつたのである。さうして千年五百年の長い歩みを認めて之を學ばうとする者だけが、この二つの傾向の對立、町では新らしいことを好み、田舍では以前の習はしに附くといふ現象が、自然に中間(406)の幾つかの段階を、土地毎に殘して居ることを知るのである。全國の傳承を集め比べて見る事業が我々の興味を惹き、同時に一つの學問ともなる理由はそこに在り、一方又殘り傳はつて居る前代の説話文學が、意義ある遺物として我々を樂しましめるのも此爲である。古人は説話が眞實を語る手段では無くて、單に我々の夢を遊ばしめる花苑であることに心づいてから、急に著しく聽手の悦びといふことに重きを置くやうになつたやうである。必ずしも愛する幼ない者の爲に、出來るだけ彼等に適應した昔話を供與せんとするだけで無く、大人の間にも互ひに珍らしく面白い形を示し合ふことを心がけ、殊に所謂笑ひ話の數は追々と増加して居る。娘たちの間には又泣かせる話さへ新たに普及した。しかも其能力は甚だしく限られて居て、專門の技藝を傳へた者以外、さう思ひ切つた改作の途に出ることは出來ない。だから交通に惠まれない山間や孤島では、今なほ一部分だけしか古い形を棄てず、從つて又遠い土地との類似を、幾らでも拾ひ出すことが許されるのである。勿論そのたつた一つを取上げて見ただけでは、何の判斷をも下し得る筈は無いが、比較の數を重ねて行くうちには、自然にどの變化が新らしいものであり、どの變化がそれに先だつて起つたかを確かめることもさまでは困難では無いと思ふ。
 たとへば信州小縣郡の西部には、猿と雉との豆拾ひといふ話があつた。猿は拾ふそばから食べてしまつて一粒も殘さず、雉は袋の中に貯へて置いたのを、寒くなつて食物に困つて猿が貰ひに來るといふのは、何だか西洋の蟻と蝶々の話くさいが、それを拒絶したので猿が怒り、それでは今夜夜盗に來るぞと謂つて歸り、雉が心配して泣いて居ると卵と蜂と蟹、牛糞と臼と腐れ繩が來て助けてくれる點は、全く他の地方の猿蟹話も同じである。同郡東部の村では是を栗拾ひと謂ひ、猿の袋には穴があいて居るのを知らず、雉は後からまはつてそれを拾ひ、すぐに一杯になつたのでもう歸るといひ出し、それが喧嘩になつて結末は前のと同じである。此方が少しは古いかも知れぬが、穴のあいた袋といふのも「繼子の椎拾ひ」、即ち繼母の惡意から姉には破れ袋を持たせ、其穴からこぼれた椎の實又は栗を、妹が又拾つて自分ばかりさつさと歸るといふ話が、弘く全國に亙つて流布して居る以上は、此場合はたゞ應用としか思は(407)れない。乃ち臼・蜂・卵・牛糞などの奇拔な援兵が、協力して猿をやつゝけたといふ點に興味を置いて、それへ話を導いて來る段取りに、雉との喧嘩といふ話を考へ出して、取つて附けたかとも見られることは、雙方共に同じなのである。
 さうするとこゝに問題になるのは、既に隣の埼玉縣などの、猿が計略にかゝつて柿の樹から逆さに降り、柿を取られてしまつて合戰になつたといふ話が、相應に行渡つてから後にそれを傳へ聞いて、其蟹を雉にさし替へたのであらうかどうかである。自分にはさうは思はれないわけは、信州以西ではまだこの猿と雉の話は採集せられて居ないが、東北には可なり弘く是が分布して居り、或は蟹よりも數が多いのでは無いかと思はれるからである。此方の發端もやはり區々だが、是には信州とは違つて一つのヤマが有り、且つ一般に寄合田の話となつて居る。秋田縣の淺舞附近に行はれて居るものは、此地方でよく聽く稻束の分配で、猿は田植にも草取にもちつとも出て働かぬくせに、稻を分ける時にはずるいことをする。是も子供らにもよくわかる滑稽だが、猿一把雉一把マス一把と謂つて分けて行くので、結局二把づゝ取ることになる。マスは「ましら」と同じで猿の異名だからである。雉は腹を立てゝ復讎をすることになり、助太刀には栗・蟹・臼・びた糞などが參加する。南部の五戸あたりで謂ふのも喧嘩のもとは是に近く、猿が雉ぱたきにして食つてしまふぞと脅すと、雉は怖しくなつて泣いて居る。其話に同情して手を貸さうといふ者に、卵や臼以外に風がある。風がごう/\と寒く吹いて、猿を圍爐裏の傍へ寄らせるといふなどは、寒國の思ひ付きらしくて至極よい。隣の九戸郡に行くと是が又寄合畠となつて居る。爰の話の他とかはつて珍らしいのは、其一つには猿と兎と雉と三名の契約となつて居り、もう一つの方では猿の代りに、敵役が兎である。雉は時々一人で畠見に行くが、その度毎に粟を少しづゝ食つて來る。それを兎が大いに怒つて、十二串にさして燒いて食ふぞとどなりつける。何で泣いて居るぞと雉を慰めに遣つて來て、力を貸して兎を降參させるのが、此土地では栃と蟹、臼と牛の糞になつて居るが、喧嘩は少しばかり雉の方が無理で、この兎はやゝ氣の毒である。
 
(408)          九
 
 興味の中心の推移といふことが、この土地毎の變化を説明するかと自分は思つて居る。世界的なる「尻尾の釣」といふ話でも見られるやうに、當初熊とか猿とかいふ全體に尻尾の短い獣が、どうして尾を無くしたのかを問題にして居るうちは、どんな事があつても主人公を他の動物にさし替へることが出來ない。それが日本ではいつの間にか、あの太い房々とした尻尾をもつ狐が、不誠實の罰として其尾を氷に挾まれ、切つて遁げることにもなれば、又切れなくて水汲みに叩き殺されたことにもなつて居るのである。古い何故話に段々と興味を引かれなくなつて、石臼とか牛の糞とかいふ意外な物が、義?心を起し且つそれ/”\の働きをしたといふ話を、珍らしがつて人が聽くやうになれば、もはや主人公はどれでもよく、寧ろ新顔の方がをかしくて歡迎せられたのである。そんなら是だけを引離して、全く別な話として傳へたらよさゝうなものだが、それが出來ないのが昔話といふものゝ、見逃してはならぬ大きな特徴だつたかと私は考へて居る。此頃は田舍の筆を執らぬ者の中にも、折々は所謂童話作家にかぶれて、新たに話を自作する者があり、それを又後生大事に採録して來る者もあつたが、半分も聽かぬうちに女子供にもうそはすぐ判る。數ある鳥獣草木の中でも、昔話に出るものはきまつて居り、又その出る舞臺も略定まつて居た。そんな筈が無いといふことを、昔話だけには言ひ得たのである。それでも永い間には熊が狸となり、猿が兎の類に取つて代られて居るが、是にも今はまだ隱れて居る何等かの約束があつたものと見えて、其變化の範圍は全國を通じて大よそは定まつて居る。針や卵の助太刀の條が、いつ迄も或一つの話の後段としてのみ語られて居るのも、原因は爰に在つたと同樣に、猿の相手が蟹でなければ雉で、其他にはもう是といふ顔ぶれの現はれぬのも、たゞの偶然とは自分には考へられない。即ち斯ういふ風に徐々として變つて行くだけの、路筋が始めからあいて居たのである。陸中花卷附近の寄合田話では、猿は口實を構へて一向に出て働かなかつたにも拘らず、苅上餅の日だけ雉と立會つて、臼を轉がして早く取つた者が(409)食ふといふ提案をする。空臼と知らずにむだに走つて、餅は雉に見つけられることは例の通りで、戻つて來て色々と世話を燒くに對して、「ひつぱりおつぱり食へばうまうござる」と雉が皮肉を謂ひ、それから腹を立てゝ其晩夜盗に入込み、却つて栗・疊針・にが味噌・蟹・臼・びた糞等に撃退せられることも他と一致してゐるが、是などの殊にをかしいのは、蟹や蟇蛙なればこそ足が遲いから負けもしようが、立派に羽があつて飛んで行ける雉に、斯んな競爭を申込むといふ話はない筈である。つまり新らしい部分の面白さに氣を取られて、それへ話を持つて行くまでの手順を粗末にしたものなのであらうが、それで居てなほこの臼轉がしの一條を棄て切らぬのは、説話のさう容易には改まつてしまはない證據であり、同時に又今ある猿蟹合戰の賑かな結末が、少なくとも日本の東半分に於ては、蟹とか柿の種とかの話が纏まるよりも以前から既にあつたことを、推測せしめる一つの根據でもある。もつと色々のかはつた例が出揃ふ迄は、斷定は必ず差控へなければならぬが、九州の一部と奧羽一帶では、喧嘩のもとは皆餅になつて居る。雉は言ふまでも無く柿などは省みもしない。餅ならば省みるかといふことも疑問だが、とにかく蟹雉二種の話に共通して、寄合田と餅搗きと臼轉ばしとがあるのだから、此方が一つ前であつて、爰で蟇といひ蛙と謂つて居た役を、後に雉にかへ蟹にかへ、更に一轉して柿の種の交易とまでなつたものかと思ふ。蟹と雉とは何れが早かつたとも決しかねるが、少なくとも二つの話の併存する土地だけでは、外部と共通して居る蟹の方が、後から入つて來て訂正したものであることは、九州各地の猿蟹話の、餅から柿への變化と同じであらう。
 猿と蟇との餅爭ひに就ては、餘り長話になるから爰にはたゞ要點だけを述べる。第一にはこの昔話の分布區域、是が今まで竝べて見たどの話よりもずつと廣く、四國はまだ尋ねて見ないが、本土は殆と全部、九州にも亦明かな痕跡が有る。此一點からでも、是が古い形であつたことは窺はれる。第二には此話の最も普通の結末が單純な「なぜ話」、その爲に猿の面はあの樣に赤うなつたとか、蟇は腹一杯に餅を食つたので、あの樣に膨れて居るといふ類の笑ひになつて居ることで、たま/\猿が怒つて踏付けたといふ位の變化はあつても、夜盗だの復讎だのといふ所まで話は展開(410)して居ない。第三には臼轉がしと兎と龜式の走り競べは此話の興味の中心だつたと見えて、大抵の場合には保存せられて居る。たゞ其前後を少しづゝかへて話さうとした傾向は既に現はれて居る。たとへば寄合田の約束の代りに、穗拾ひだの米と臼杵との持寄りなどもあるが、東北には蟇に赤兒の聲を眞似させて、御産のある家の待餅を盗むとか、井戸へ大きな石を投込んで、子供が落ちたのかと家の者を動顛させて、其間に餅臼を抱へ出したといふやうな新趣向も、一部には流行して居る。即ち此樣なよく整つた人望のある昔話でも、やはり古くなると片端から、少しづゝ變へずには居られなくなつた前例が見られるのである。それから終りにはなほ一つ、猿を兎に替へ又は兎を加へて三名の競走にした例が、至つて飛び/\に全國に現はれて居ることも注意に値する。福岡縣の三井郡では、猿と兎とが餅を搗いて居る處へ、龜が遣つて來たのに分配することを厭ひ、山へ持つて行つて驅けくらをして龜を斷念させようとした話があり、一方岩手縣の北端では、猿と兎とが走り過ぎて却つて失敗し、のろい蛙が餅に有りついた話にもなつて居る。即ち前にも幾度か繪樣を取替へて見ようとした試みがあつて、結局は蟹に落ちついたのだが、是には或は「ならぬと摘み切る」の呪文とか、又は「蟹どん何を泣く」といふやうな、印象の深い敍述の偶然なる支持があつて、兎や雉の話にはそれが得られなかつたからとも見られるのである。
 
          一〇
 
 猿蟹合戰の昔話の成長して今ある形になつた歴史は、是で先づ一通りはわかつたとして、最後にまだ一つの殘つた問題は、この前型かと見られる猿と蟇と餅の話が、どうして我邦には生れて來たらうか。即ちその又一つ前の手本乃至は種といふべきものが、如何なる眼鼻を具へて我々の間に存在したらうかであるが、之を推定せしめる樣な資料はもう現在の生活の中にも、又は文獻の上にも共に乏しくなつて居るのだから、斷念をする必要も無いが、よほど困難なものだといぶことは認めなければならぬ。自分が抱いて居る一つの希望は、何等かの暗示がこの説話の變遷から、(411)もつと具體的にいふと、蟇や蛙が後に蟹と話しかへられて通用したといふ點から、得られはせぬかといふことである。兎とか雉とかは山の者だから、猿の相手になつてもまだ不思議は無いが、わざと配合の奇を求めた近世の趣向でも無しに、蟇や蛙を猿に對立させたといふのには、何か隱れた意味があるかも知れぬ。是に就て自分の言ひ得ることは、猿が日本の昔話に入込んで來た路順が、少しばかり他の民族とはちがつて居るらしいことである。元來があの通り頓狂な、どんな滑稽の一役でも買へさうな顔をして居るに拘らず、猿の説話の記録に出て居る最初は、猿神の畏怖であつた。年經た猿丸が人の屋の棟に白羽の矢を立てゝ、娘をさし出さぬと祟をするといふ話は、幾つかの小説の趣向となり、又今以て民間にも傳承せられて居る。六部がその酒宴の歌を立聽して、名犬を求めて來て退治したといふ物語などは、既に三國傳記の中にも見え、又多くの土地で傳説化して殘つて居る。今ある猿聟入の御伽話の如きも、片端は是と聯絡して居るやうであるが、是は少なくとも成立の動機を異にして居る。近年多くの研究者の手を附けて居る問題だから、爰では簡單に入用な點のみを述べるが、蛇が若侍の姿に化けて人間の美女を娶つたといふ昔話などは、其結末から見て幾つかの階段に分れて居る。あるものは姉二人が羨み悔ゆる程の幸福な婚姻を結んで、末は長者となつて榮えたといふ話で、是は多くの舊家の言ひ傳へとして、水の神の恩寵と血筋の特權とを説くものと、近い關係をもつて居ることが察せられるが、なほ其以外に人間の智慮の淺さから、無上の幸運の縁を絶つたといふ、色々の説話も殘つて居る。神が蛇體を以て示現するといふ信仰が、追々に普通の感覺と背馳するやうになつて、それが先づこの種の民間文藝の上に、一つの傾向を作つたものかと私などは思つて居る。さういふ中にも苧環の絲を辿つて、遠い奧山の岩屋の中の問答を立聽し、逆に靈物の言葉を利用して、絶縁の手段を講じたといふやうな、新舊の思想の境目を示す説話もあるが、一方には又鐵の針とか瓢とかいふものを武器として、異類の押掛け聟を撃退したなどゝ、丸で妖怪征服と同じやうな話し方をするものも出來て居る。さうして其中の殊に子供らしくたわいの無いものが、今では猿聟入の昔話として笑ひ興じられて居るのである。弘く全國に分布する猿聟入と、蛇聟入の最も笑話化したものとは、(412)話の内容なり順序なりがよく似て居る。何人が見ても兩者を別系統のものとは言ふことが出來ない。大蛇と猿とでは、今日では全く縁の無ささうな二つのものであるが、是は我々の幻覺にもまだ幽かに殘つて居る水の靈の姿といふものを中に置いて考へると、必ずしも推移の跡を尋ねられぬことは無いやうであるが、それはもう爰では辯じないことにする。とにかくこの猿聟入に最も近接した蛇の聟の昔話にも、やはり蛙が干與したり、又蟹が出て來たりするのである。
 この美しい人間の娘に、はからずも忌はしい異類の聟を取り合せて、百方苦心して之を引離すことを得たといふ昔話には、今でも幾通りかの話し方が傳はつて居る。猿の方ではたゞ水瓶とか臼とかを背負はせて、岸の梢の花の枝を折らせたといふのみだが、是にもよく見ると瓢や針の遺形を留めて居る。蛇の方の話では大體に四つの方式がある。其一つは長い絲を針に通して、男の衣の端に刺して置けと教へるもの、第二には妻の病を治す爲と謂つて、鸛の鳥の卵を採りに遣る話だが、この二つは私の問題とは直接の縁が無いから略して置く。第三には蛙報恩型と我々の呼んで居るもの、第四は即ち蟹報恩型である。この二つの中では、蛙の方は爺さんが水を見廻りに出て、蛇が蛙を呑まうとするのを見つけ、やれ宥してやれ其代りには娘をくれるなどゝ、餘りにも無造作な約束をしたことになつて居て、話は大分笑話化しかゝつて居る。其蛙が後に巫の婆に化けて來て、蛇の聟を追退ける手段を教へてくれたなどゝ、前後の照應はついて居るが、話としては全體によほど幼なく出來て居る。之に反して他の一方の蟹報恩は、既に元亨釋書・沙石集・著聞集・今昔物語等を見た人は知つて居る如く、又其出處かと思ふ日本靈異記に、二つも重複して出て居るやうに、千年以上も前からの日本の昔話であり、今日もなは能登の稻船村と飛騨の丹生川、遠州の濱松と燒津、丹波の上夜久野と紀州の有田郡、北は岩手縣の蟹澤、南は長崎の伊王島などに、口頭傳承として保存せられて居る。語りつゝ運んで居た者が曾てあつたとしても、民間にも亦深い印象を以て之を受入れ引繼ぐだけの、素地があつたことだけは推測せられるのである。現在の猿蟹話の類は、人間の參加しない純然たる動物譚であつて、固より此系統に(413)は屬せざる別種の説話であるが、少なくとも猿と蟇又は蛙が餅を爭つた一話を、猿と蟹とが柿を爭つた話にまで、改作する位な因縁にはなり得たかと思ふ。
 自分が茲に掲げた資料から、下し得る推論は寧ろ消極的のものである。猿が古くからの説話文學の上に占めて居る地位は、可なり顯著に今ある猿蟹合戰、乃至は其前型たる猿と蛙の話などゝちがつて居る。即ち一方が動物と人との交渉を説くに反して、此方はイソップ以來の、人の樣な心を持つた動物仲間だけの葛藤を敍するものである。説話としては二者は全く成立ちを異にし、是に屬する鳥獣蟲魚も、おのづから二つの種類に分れて居る。さうして全世界の動物説話は、土地により又時代によつて、頻々として其役者を取替へようとして居るのである。それ故に自分は寧ろ日本の猿と蛙の餅爭ひなどは、たとへ書いたものゝ證跡が無いにしても、さう夙くから此形のまゝであつたものと思つて居らぬ。以前に少なくとも一囘以上、熊なり狸なり何か他の動物の逸話として話されて居たことがあつたものと想像する。臼轉がしの趣向はよく纏まつて居て面白いが、是とても餅なり臼なりの大きな變遷を考へると、新らしい興味の産物だつたやうにも思はれるのである。儘かな年代の間に猿が兎になり、蟇や蛙が蟹になり又雉とも話されるやうになつたといふのも、元々此部分が變化し易い傾きをもつて居た爲であらう。たゞ慾が深く鼻元思案ばかりで結局失敗をするといふ主人公を猿にした以上は、自然に其相手を蛙とし又は之を改めて蟹とすることが、多數の聽手に承認せられやすかつたらうといふことは謂へる。蟹は我國の民間傳承に於ては、頗る特殊の地位をもつて居て、それが今忘れられて居るらしい。山城蟹幡寺の縁起だけでなく、榛名山の神池の傳説でも、水の神の妻になつたといふ上臈の侍女が、蟹になつたといふことが言ひ傳へられて、今もなほこの御社の信仰の一部をなして居る。或は又それとは反對に、是が水底の靈物を征御する一つの力であつたやうに、語られて居る例も少なくない。さうして猿も亦山川の岸を住家として、蟹を取つて食ふ獣だといふことが知られて居たのである。我々の猿蟹合戰は、可なり新しい産物とは思はれるが、斯ういぶ形のものが生れて來る素地だけは日本にあつたので、たゞ是に柿の種の交易談を配したの(414)が日本人の才能、是に栗・卵・臼・牛糞等の助太刀の條を結び附けたのが、日本人の應用力の新たなる現はれだつたといふことが出來るだけかと思ふ。
 
(415)     續かち/\山
 
 何かどうしても書かねばならぬといふことになつて、Mrs, Leslie Milne の“Shans at Home”(1910)を出して見る。此中には最も人に知られないシャン族の昔話が二十ばかり載せてあつて、その一つは日本のかち/\山の後半と同じ話である。兎が小屋を建てようぢやないかと虎を誘つて萱刈りに行く。苅つた萱を虎の背に負はせ、自分は加減が惡いと僞つて萱の上に載せてもらひ、燧石で火を打つて其萱に火を付けるのである。今のは何の音だと虎が訊くと、寒む氣がするので齒がかち/\いふのだと答へる。虎は大火傷をして苦しみ、兎はちやつと逃げて何食はぬ顔で、大きな蜂の巣のかゝつた木の下にしやがんで居る。そこで何をして居るか。おぢい樣の釣鐘の番をして居る。おれに一つ撞かせてくれ。そんならきいて來てやると謂つて逃げてしまつた跡で、虎は一人で鐘をついて見ると、蜂だから飛出して來てうんとからだ中を螫す。斯ういふ風に何度でも騙されてはひどい目に遭ひ、おしまひには泥沼の中に二人で入つて、兎は虎の頭を踏んで自分だけ飛出して助かるといふ話である。
 同じ著者の“The Home of an Eastern Clan”(1924)を見ると、此一話は少しづゝの變形を以て印度支那の各地まで行渡つて居るといふが、Palaungs 族の間では、被害者は虎でなくて熊になつて居る。こゝにも熊ん蜂の巣を釣鐘だと言つて撞かせる條があるのは、多分南方山地だけの特産であらうが、熊をいぢめたといふ話ならば、日本でも加賀にあり又岩手青森の方でも採集せられて居る。相手が狸で無くなると共に、婆汁を食はせるなどゝいふ前段は引離され、從つて又義?でも仇討でもなく、たゞ惡智慧のある兎といふ話になつてしまふのである。今あるかち/\(416)山は二つ又は三つの話の繼ぎ合せで、多分は狸が逃げて行つたといふ迄で話をおしまひにしては、あまり子供には本意ないので、ちやうど有合せの兎の話を持つて來て附けたのだらうと思つて居たが、それが斯樣な遠方の異種族の中に、分布して居らうとは實は氣づかなかつた。兩者は別々の起原と云つて見たところで、やはりどうしてこれほどまで似た空想が浮んだらうかゞ問題になる。運ばれたものだとすればいつの時代に、誰がどうして持つてあるいたか。少なくとも記傳以外の文化交流が、遙か昔の世に行はれて居たことだけは窺はれて、それが斯ういふ意外の方面から、徐々に判つて來さうな氣がするのである。
 それよりも當面に私たちの感歎するのは、斯ういふ大陸と共通の素朴な古文藝を、こゝで我々の祖先が風土に適應させ、又時代の好尚に合致させた伎倆の竝々で無いことである。短いあつけない話の繼ぎ足しに之を持つて來たなども、何人かの即席の思ひつきであつたらうが、其話し方の器用さとても、練習を經たものでは無いのである。それを追々と面白いものを採り、いやな趣味のものを退けて、今ある形にしたといふことは、半分以上は聽手としての鑑賞法で、話者が多くはたゞ平凡なる常の暗記者だつたことを考へると、  愈々民衆智能の總和といふものが、文化の展開に對する大きな力であつたことを感ぜずには居られないのである。兎が熊をいぢめたといふ東北地方の例は、もう知つて居る人も多いから詳しくは茲には引かないが、この緬甸の土人などの喜んで聽くものと比べると、それは段ちがひにさらりとしたユウモアがある。すばしこい兎は逃げて先まはりをして、蓼山に入つて蓼を摺つて居る。うさぎ/\、そちはよくも俺に大火傷をさせたなと熊が言ふと、萱山の兎は萱山の兎、蓼山の兎は蓼山の兎だ。それを俺がなに知るべさと答へて、再び蓼を塗りたくつて熊を苦しめ、其次には藤山、杉山と、順々に同じ問答をくり返して、終に泥舟の悲劇にもつて行くのである。是が Kaarle Krohn の曾て證明したやうに、世界の陸地の半分以上にも流布して居る動物闘諍譚の一つの表現だとすると、日本をさし置いて説話傳播の説を説き盡さうとすることが、既に樂觀に過ぎたる學者の企てであつたとも評し得られぬことはない。
(417) しかも知識慾のまだ我々程度にも達しない民族は數多い。それを一つ/\ミルン夫人のやうな親切な學徒が訪ね寄つて、採集を殘してくれる日を待つて居られないことは知れ切つて居る。我邦の昔話が此頃の勢ひで、どし/\集つて來ることになると、自分たちは先づ何よりも國内の傳承に於て、どれが諸民族共通の形、どこから先が日本の話好きの、追々と加工し改良した部分であらうかを、見分けるこつといふやうなものを習得しなければならない。私なども時々是は輸入であらう。是は書物からの復原であらうなどゝいふことを豫言するが、それが適中したこともあれば、見ごと反證を擧げられたことも  屡々ある。猿の聟入だけは和装であらうと思ふと、支那にも近い話があり、又南洋の何島とかにもそれがあるといふので氣が氣でない。「虎狼より漏るぞ恐ろし」と云ふ話の後段に、猿が長かつた尻尾を頼まれて穴の中へ探りに入れ、それを切られてから尾が短くなつたといふ部分などは、所謂尻尾の釣りの話の應用で、日本人の才覺であらうと思つてゐると、是もちやんと隣大陸の方に有つたのである。支那は誠に驚くほど豐富な昔話の採集地で、且つ我邦との往來も最も久しく且つ親しい。十數年來の南北の採集は、まだ我々には目に觸れる機會が乏しいが、僅か片端を知つただけでも、こちらと似通うた話例が、うつかりして居られない程もある。しかもそれが決して學者の考へて居たやうな、書物を通して學ばれたものだけではないのである。西洋人の出してゐる本では、Mac-Gowan の支那民話集でも、又 Y.S.Gale の朝鮮民話集でも、實は名ばかりで古書の飜譯だからがつかりするが、是はまだ民間の採集が一向に進まなかつた時代の産だから致し方が無い。第一我々は不自由な横文字の寫しに依らずとも、此國だけは直接に土地の人から聽いて書いたものを、讀まうと思へば讀めるのである。小さい仕事だと考へずに、常民の心の最も奧に潜むものを、是によつて互に突合せて見るやうにしなければなるまいと思ふ。一昨年英譯せられて出た W.Eberhard の支那民話集は、まだ獨逸語の原文は見ないが、珍らしく實地に採集した昔話であつて、筆者は一つ/\の出所と名とを擧げ、それが皆最近の民間傳承の記録らしい。近くに居ながら知らなかつたのは恥かしいが、向ふに行つて住んで居れば、白人さへも斯ういふ機會はあつたのである。此中で早一つ私の學んだのは、(418)普通日本で猿蟹合戰の後段として語られる栗・卵・蜂・臼・牛糞等の助太刀といふ話が、南支那では獨立して妖怪退治の一話になつて出て居る。爰でも助力を受ける中心の人物は別にあるのだが、目的は主としてこの樣な意外な者の組合せが、縁あつて人間の災難を救つたといふ點に興味を置いてある。それを我邦では小蟹の如き微々たる無力の者が、勁敵を殪したといふ奇譚に應用したもので、近世日本人の才覺としては、種さへあれば是くらゐのことはお茶の子であつた。それよりも驚くことは鳥居きみ子刀自は、内蒙古の昔話中に同じ趣向の存することを夙く注意せられ、又孫晋泰君は其朝鮮民譚集の中に、老婆が惡虎を退治した話の、同一系統かと思はるゝものを報告して居る。小學生の地理知識でも、この四ヶ所の發見地の相互の距離は莫大である。それがいつ如何して流れ傳はり、又土着して根生ひの如き觀を呈して居るのであらうか。人類が歴史に録せられて居る以上に、古來隱れたる親しみを交して居たものであることを前提としなければ、偶合としてゞもこの著しい一致は説明し得ない。五族協和の痛切なる未來の問題の爲にも、是は現在のやうな切れ/”\の好奇心の、餌食として置けないのは勿論、又我々の如く一國文藝の發達を、培養基の成分から見て行きたいといふ者にも、手輕に看て通れない新しい發見である。
 世界の昔話をよせ集めるといふ事業は、現在ではもう個人の一生には盛り切れぬやうになつた。それでも西洋には何萬集めたなどゝいふ人があるといふが、どういふカードの作り方をするにしても、是に力を注げば其原因を究める部面に、手がまはらぬのは已むを得ないことで、第一にそれを讀み通すことが、我々には望めない根氣である。是は何でも機械的の部分だけは別にして、自由に誰にでも檢索し得るやうな便宜を、外部から供與しなければならない。最近の民俗調査が、中央ではちつとも成績が擧がらず、却つて臺灣とか朝鮮とかの役所で、永く後代に遺るやうな立派な仕事をして居ると同じく、新鋭?剌の計畫者に、至つて僅かな好意と費用とを、割いてもらふことは望まれないものでもあるまい。滿洲國の最高學府などで、もし斯ういふ事業に手を着けたとしたら、どの位世界に平和の氣を漲らすか測り知られぬ。しかも方法さへ立てばごく容易な又樂しみな仕事でもあると思ふ。私も折を見て獻策して見た(419)いと思つて居るが、是には幾つかの段階を立てれば、一歩々々に成果を收めることが出來る。たとへば個々の老翁老嫗に就て採集を試みることは、この兵馬倥?の際には六つかしいとしても、今まで出て居る話集を標出して、之を分類することは何でもない。それが個人には困難で、公の仕事にならほんの二人か三人の勢力の問題である。世界の隅々に、殊に亞細亞の東半分に、無始の昔から人が聽いて樂しんで居る説話が、是だけ一致して居るといふことは想像しても面白く、しかも個々の傳承者にとつては、それは何れも皆新らしい啓示なので、是あるによつて再び又、自分の持つものを大切にするやうにもなることゝ思ふ。囘顧すれば三十餘年の昔、故高木敏雄君は丸善の書棚を訪問し、歸つて來ては失望してよく斯ういふことを謂つた。あそこでは兒童用の繪入昔話と、我々の研究する説話集とを區別することを知つて居ないと謂つた。其?態は三十年後の今日も改まつては居ないやうだが、それは日本に又は極東に、まだ丸善をして此態度を改めしめるだけの、學問が起つて居ないことを意味するだけかと思ふ。小兒は御承知の通り今では昔話を馬鹿にしようとして居る。もう是からは保存の役をもしてくれまい。空しく研究の好機會を逸し去る懸念が、此頃になつて殊に我々を憂鬱にするのである。
 
(420)     天の南瓜
        ――中河與一君の天の夕顔を讀みて――
 
          一
 
 無意識傳承といふ言葉を、我々の仲間では好んで用ゐる。今まで考へて見たことも無い昔風、誰も殘して置かうと企てなかつた「日本人らしさ」とも名づくべきもので、その發見は大抵の場合には樂しく、又御互ひの向學心を刺戟する。殊に文學藝術の新たなる花野を歩んで、たまさかにその隱れたる流れの音を聽くなつかしさは、既に二十年前の歌人の心を動かして居る。求めてたやすくは得られない機會である故に、私などは深くこの偶然の遭遇を喜び、改めてあの、
   いにしへの野中の清水ぬるけれど本の心を知る人ぞ汲む
の歌を、吟誦せずには居られないのである。
 天に夕顔の花を咲かしめて、思ふ人に見せたいといふ空想は、作者はどこまでも自由なものだつたと言つて居る。さうして中河君の稚ない頃に、讃岐に是と近い昔からのかたりごとが、傳はつて居たらうと思はれる形跡は一つも無い。しかし我々が日本人である爲に、特にこの筆の跡に引寄せられ、他の何れの國民よりも身に沁みて、物のあはれを感ずべき理由だけは有るのである。文學の先祖は讀者であつたか、但しは作者が先づ生れたかといふ大きな問題に、(421)結局は是が歸着するのであらうが、まだ私にそれ迄論ずる力が無い。たゞ夕顔の蔓が我々のまぼろしの中に、如何に芽を吹き又どういふ方角へ伸びて行つたらうかを、片はし考へて見ることが出來るやうな氣がして居る。さうして是が文藝に國々の型のあること、世界の統一する傾向にどの程度までか對抗し得るといふことの、一つの根據になりさうな豫感があるのである。
 
          二
 
 天を一つの大きな穹窿と見て、かの蒼々たるものゝ彼方に、住んで此世へ通はうとする人があるといふことを、信じ難くなるまで信じようとしたことは、獨り未開半開の種族のみで無く、開け切つた國々にも?その痕跡が殘つて居る。たとへば植物を梯子にして天へ昇つて行つたといふ昔話などは、日本は英語がはやるから國内に昔からあるものよりも、却つて「ジャックと豆の木」の方が多くの人に知られ、又もてはやされて居る。決して我邦ばかりの固有のものと、思つて居る人などは無いのである。
 つまらぬ穿鑿のやうに思ふ人もあるか知らぬが、私は日頃このジャックが梯子にした豆の木即ち Beanstalk が、蔓のある豆だつたか否かを確かめたいと念じて居る。といふわけは、蔓ならば伸びが早く、又知らぬうちに何處までも進んで、稀には天までも屆くことがあらうと、考へられたかも知れぬからで、もしも是が我々の大豆のやうな木だつたら、それが青空を突拔くといふことは完全な不可能事で、愈この昔話が何人をも信ぜしめようとしない、只の慰みごと即ち文藝化の?態に在ることがわかるからである。
 日本にも實はもうこの?態まで、改作せられて居るものが既に有るのである。たとへば陸中江刺郡の、天に昇つて雷神樣の聟にならうとした話などは、「ジャックと豆の木」に最もよく似て居て、もう其梯子が茄子の大木とさへなつて居る。昔々愚かな息子が、母に命ぜられて茄子苗を買ひに行き、百文でたつた一本の高價な苗を求めて來る。それ(422)が成長して天に屆き、紫の雲が掛つたやうに花が咲く。七月の七日にその茄子の實を採りに木登りをしてゆくと、しまひに天上の御殿の庭へ出た。あゝ是はおまへの畠から伸びた茄子の木だつたか、もう毎日採つて御馳走になつて居たよといふわけで、雷神樣とその二人の美しい娘に款待せられる。それから雨を降らせる御手傳に出て行つて、あやまつて雲を踏みはづして、故郷の村へ墮ちたといふ笑ひ話は、後から附けたものと見えて他の國では言はない。
 をかしいことだが私などは幼年の頃、こんな茄子の大木の話でも、まだ一部分だけは信じて居た。或は何かの本に出て居たので無いかと思ふが、八丈の島は暖いから、秋になつても茄子の木は枯れない。それで高い梯子を掛けて登つて採るやうな大木が幾らでもあるといふことを、可なり大きくなるまで事實かと思つて居た。僅かな海を隔てただけでも、南の方の島ならばそんな珍らしいことが、有るかも知らぬと思ふことが出來たのである。ましてや「昔」は不思議の世界であり、子供は一様に物を信じ易かつた。神話の時代がさう手の裏を返すやうに、全體に一度に改まつてしまふことはない筈である。おとなは忘れたり笑つたりする世の中になつても、なほ片隅には古い幻を守つて居る者が、絶えなかつたといふことは想像し得られる。
 
          三
 
 この民族の半醒半睡とも名づくべき?態は、文藝の發育の爲には非常に重要なものだつたやうだが、それが日本では特殊に永く續き、且つ快くすが/\しい傾斜面を示して居る。天の夕顔の無意識傳承なども、他日或はその適切なる一例として、再び取上げて見る人があらうかと思ふので、單に豫言のやうな心持で、今知つて居るだけを書きとめて置くのである。蔓がよく延び遠く屆き、すぐにからまつて梯子として重寶だといふだけならば、どんな蠻民にでも夢み得られる空想かも知れない。一夜に植物の驚くほども成長する熱帶の島にでも住んで居れば、是を天上への通路にしたいといふ、現實の願ひさへ抱き得たかも知れぬ。たゞ其蔓ごとに眞白な清い花、あのたそがれをおぼめくとい(423)ふ夕顔の花を、持つて來て咲かせたのは日本人の巧み、巧みと言はうよりも我が親々の、夢を美しくする能力では無かつたか、といふやうなことを私は考へて居るのである。
 日本の豆の木話は、私の知つて居る限りでは二筋に分れて居る。その一つは繼母に憎まれた孝子が、冥助によつて大きな幸福を得るといふので、シンドレラ系の昔話との結び付きが強い。越後では今は一種の傳説に化して、八石山の由來といへば想ひ出さぬ人が少ないほど有名なものになつて居る。その豆の木で某寺の山門を建てたとか、又はそれを伐つて胴にした太鼓が、何村に有つたさうなとか、所謂大話の誇張は、一本で八石採れたといふ豆の木にばかり集注して居るが、是も最初は一つの繼子話で、折角生えた大豆苗を其母が拔き棄てゝしまつたのが、たつた一本だけ見落されてゐて、成長して八石の收穫があつたといふ風に、覺えて居る人もあつたさうで(越佐傳説夢を買ふ話)、その殘りものには福があるといふだけの趣向ならば、支那にも古くから、又日本にも各地に分布してゐる。つまりは此地方だけの産物ではないのである。
 能登の半島でも松波の松岡寺、この寺の太鼓は豆殻の木で作られ、それ故に山號を吼木山と謂つた。その太鼓には空海判といふ署名があるなどゝ傳へて居たが(能登國名跡志)、是もやはりあのジャックと豆の木の破片であつたことは、同國鹿島郡千石村の千石山に、一本から千石の豆を取つたといふ話があるのを見ても察せられる。
 
          四
 
 能登の千石山の豆の大木の話は、陸中稻子澤の粟の大木の話とやゝ似て居る。前者でも土地の大百姓の下男等が、播けと命ぜられた五合の豆を食つてしまつて、たつた一粒だけ殘つたのを土に伏せ、寄つてたかつて其上に小便をして、豆よ大きくなれと祝して歸つたら、それが芽を吹いて千石とれるやうな大木になつたと謂つて居る。一方の稻子澤の長者には何百人といふ奉公人があり、其中には寢手間取りと稱して、たゞ寢て居るだけを一役とした者も居た。(424)それが五合蒔きの粟畑をもらつて、五合の粟の種をたゞ一所に蒔いてしまつた。粟の草は一本立ちに取るものだと教へられると、愚かな者だからそれをまちがへて、たつた一本の苗を殘してあとは悉くそれを拔棄てゝしまつた。そのたゞ一本の粟が成長して、七人の木樵りを頼んで、斧で伐つてもらふやうな大木になつたと謂つて居る。斯ういふ念入りな大話は、聽いて信ずる者の無かつたことは勿論で、言はゞ此附近では是を一つの文藝として傳へて居るのである。
 しかも此話には注意すべき後段があつた。長者の息子さんはあんまり珍らしいので、畠に出て見物して居ると、粟の大木の伐り倒されたあふりを食つて空に舞ひ揚がり、飛んで黒石の正法寺の屋根の上に墜ちた。それをどうかして助け降さうとして、大きな風呂敷をひろげて下で待ち受けて居ると、飛びおりた拍子に四隅を持つた小僧が、鉢合せをして眼から火が出る。其火で黒石の正法寺は燒けたのださうな。斯ういふ風な結末で人を笑はせて居る。
 黒石の正法寺は文福茶釜の寺であり、同時に又澤山の旨法師を庇護して居た寺でもあつたらしい。座頭の職業は、一つには斯ういふ罪の無い笑ひ話を、なるだけ人が誤つて信じないやうに、やゝしつこく談ることであつたが、その爲には別に又大いに、新しく學んでも居たのである。
 或はもう知つて居られる人もあらうと思ふが、この粟の大木の大話は遠來の輸入品であつた。コ島縣即ち阿波では、其國名の由來として、大分古くから同じ物語が流布して居る。さうして粟の穗に彈かれて飛んで行つた先は、大阪天王寺の五重の塔のてつぺんといふことになつて居る。此地方でも鴨取權兵衛の如く、鳥に引張られて空を飛んだといふうそ話は多いが、粟の穗に彈かれてといふのは、どうも阿波の國が本場らしい。さうして私などは是によつて、遠くは少彦名の神代から、もう斯ういふ話をして笑ふ人々が、國の一つの層には有つたのでは無いかといふことを想像する。文藝がすぐれた記傳者の苑に芽ばえて居たといふことを以て、全國の草莽を類推することを得ないのは勿論である。
 
(425)          五
 
 飜つて第二種の豆の木話の分布を見て行くのに、是は全體に都からは遠く、しかも遠方に於て互に若干の一致を示し、且つそれ自身の成長をして居る。重要と思はれる共通點は天上との交際であつて、殊に日本では羽衣の奇蹟を説くものが、北は奧州から沖繩の島まで一貫して居る。津輕では天女の羽衣を匿して、之を松の樹の下に埋めて置くと、啼いて居る赤兒が妙に其樹の傍に來れば啼き止む。子守の小娘が其話を天人女房にして聽かせたので、喜んでそこを掘つて羽衣を見つけ、それを着て天へ還つて行く。行きがけにたつた一粒の豆を其子守女に渡し、之を背戸の外に播いて成長して天に屆いたら、子供と二人でそれを攀ぢて登つて來いと教へる。さうして其通りに豆の木がたけ高く伸びたので、二人は約束の如く天へ昇つてしまつたといふことで話は終つて居る(津輕ムカシコ集)。何だかこの方がジャックの豆の木よりも、今一段と素朴なやうな感じがするのである。
 山口縣の周防大島でも、是と半分似通うた話が二つ採集せられ、それは二つとも動物報恩譚と結び附いて居た。天人は自分で羽衣の在りかを見つけて、それを着てさつさと天に歸つてしまつたが、あとで狸が恩返しに豌豆を一粒だけ持つて來てくれる。それを蒔いて置くと成長して天まで屆き、男は之を梯子にして天へ登つて行つたといふのと、今一つは天人女房が自ら豌豆の種を殘して行つたのを、蒔いて成長して天に登ることが出來たが、向ふで色々の難題を課せられて困り拔いて居ると、前に助けて置いた動物が遣つて來て加勢をしてくれる。どちらが古いかは一寸きめにくいが、少なくとも御伽册子の天若彦は後者と近く、又他の地方にある犬飼七夕の昔話も、天へ聟入してから舅の難題で、苦しめられる方の話が多いのである。さうして是と「ジャックと豆の木」の昔話とを比べ合せて見れば、結婚を主眼とせぬ點に於て、ジャックの話の方がずつと少年向きになつて居る。即ち假に根源は同じであつたにしても、日本の羽衣は一段と幹に近い所から、岐れた枝だつたといふことが言はれさうなのである。
(426) さうなつて來ると、この周防大島の豌豆一粒といふのが、後々の一部改定であつたことが知れる。古くこの話の我々の仲間にもてはやされた頃には、まだ碗豆などゝいふ豆は無かつたかも知れぬからである。天を貫ぬく梯子用の植物は、是非とも一つのもので無くてもよかつた。忘れてもまちがへても亦わざとでも、成るだけ似つかはしい早く成長しさうなものを持つて來ればよかつたので、又その爲に我々が天と交通したといふ要點にまで、模樣替へをする必要は無かつたのである。天の夕顔も恐らくは同じ事情から、徐々として日本人の空想の中へ、入つて來たのであらうと私などは思つて居る。
 
          六
 
 この實例のはつきりと殘つて居るのは、鳥取縣伯耆の打吹山の口碑であつた。信州隨筆の中にも載せてあるから、爰には只要點のみを述べると、天女は地上の男に羽衣を取つて匿されると、忽然として身の昔を忘れ、たゞの此世の女房になつてしまつて、二人の娘の母になつて苦勞する。ところがその二人は舞が好きで、母の羽衣を携へて打吹山に遊んで舞を舞ふ。それを見て居ると母も興を催して、偶然にその舞衣裳を着て見たところが、古い記憶があり/\と蘇つて、空の國に還る氣になつたといふ點は、竹取物語などゝも同じであつた。夕顔はちやうどその母と子が舞を舞うた山に、其時咲いて居たといふのが意味のあることゝ思ふ。今ある傳説では娘も其父も、是に傳はつて天へ昇つたといふことは無く、單に天女の母が其花の咲く時に、故郷に歸り得るといふ夢を見たといふことになつて居るが、是は恐らく説明がしにくゝなつたからで、或は其遺跡の附近に住む人に尋ねたら、今でもまだ記録と異なつた言ひ傳へを保存して居らうも知れぬ。
 さういふ想像をする他の一つの理由は、同じ羽衣説話の九州各地の異傳に、天と地上との階段となる植物を、絲瓜にしたり又南瓜などにしたものが多いことである。南瓜などは素より大いにふざけて居る。斯ういふものにさしかへ(427)るのは笑はせるつもりで、それ故に話が又一段と誇張せられ、或はあめ牛を一千疋、その根元に埋めると南瓜は天まで伸びると謂つたり、又は足なか草履を一千足、作つて埋めよと教へられたのに、一足だけ數が少なかつたと謂つたりして、到底有り得べからざる話にしてしまつて居るが、私などからいふとさういふ空想は、縁もゆかりも無く突兀としては起り得ない。一度は夕顔の花美しい瓜の種子を播いて、それに縋つて妻の國を訪ねたといふ話が、弘く行はれて居た時期があつて、それがやゝ尋常になつた頃が、ちやうどこの絲瓜とか南瓜とかいふ植物の、普及し始めて珍らしかつた時に際會したのかと思ふ。さうで無くても昔話の信じにくさが追々と募つて、是をいつそのこと茶にしてしまはうといふ氣風は、近世に入つて急に著しくなつたのである。江戸や大阪では滑稽がやゝ過當にもてはやされて居る。是も私などは神話に對する失望といふ風に見ようとして居るのである。
 
          七
 
 或は子供らしさに對する批判もしくは反省と謂つてよいかも知れない。是は往々にして亂雜に墮し易く、又その爲に素直な清いものを、何の計算も無しに滅ぼしてしまふ歎きがあるが、それを防がうとするには片方にも用意がなければならぬ。器も色どりも昔のまゝで、何の考へも無しに永く保存させようといふことは、日本人のやうな雋敏な民族には殊に無理だつたかと思ふ。少なくともどうしてあゝいふものが久しく傳はり、又は突如として變形するかといふ事情だけは、知つて居なければよい思案は出ない。しかも常民に對する上層の同情は、今のやうな世になつてもなほ乏しいのである。私は特に彼等の中から、新たに卓越して外國ばかりを見て居る秀才を戒めたいと思つて居る。諸君の優れて居ることはもう判つて居る。しかし此次には諸君自ら、まだ優れなかつた昔を知らなければならぬ。それは必ずしも彼等だけの、幸福の爲では無いのであると。
 話が思はず理に落ちたが、まだ少しばかり夕顔の無意識傳承について、話さねばならぬことが殘つて居る。この植(428)物の文獻にあらはれたことは古いが、山野の自生が絶無なのを見ると、もとはやはり輸入であり、その分は「ひさご」の用法が之を誘致したものだらうから、花に我々の祖先が心を引かれたのは、第二次の經驗であらうと思ふ。朝顔晝顔の二つの花と合せて、名を附けた昔の人の心持が考へられ、或は萬葉集の「かほ花」といふのも、斯ういふ一輪咲きのぢつと見つめられる花を、人の顔になぞらへたのがもとかとも推測して居る。さういふ中でも夕顔は折からがあはれだつたのみで無く、後に結ばれる實にも數々の神秘があつた。第一に形が珍らしく且つ大きく、中がうつろで水に浮ぶことが、始めて見る者を驚かすに足りたであらう。それ故か今日の所謂共榮圏内では、どの島でも内陸でも之を尊重し、たゞに器物として普く利用するのみか、之に關した呪法俗信、又さま/”\の言ひ傳へが多く、昔話の中にも毎度出て來る。日本に數ある「うつぼ舟」の口碑なども、本來は特殊に大きな「ひさご」であつたらうことは、朝鮮の古傳の瓠公の例からでも察せられる。それから又一つは藝州の羽衣譚に、天女が二子をつれて天に還つて、男が獨り泣き悲しんで居ると、こゝでも恩を知る動物として鹿が白髪の翁となつて現はれ、今度は此川の水を汲みに、天から黄金の擔ひ桶が下つて來るから、それに入つて天へ登つて行けと教へてくれる(安藝國昔話集)。それと殆と同一の話は朝鮮にもあるが、たゞこの水桶だけが、大きな水汲瓢として語られて居るのである(朝鮮民譚集)。さうして見ると夕顔は絲瓜や南瓜とちがつて、花になる前からもう既に、天に下界の人を運んで行く力を認められたのであつた。それが又この白々とした黄昏の花を、無限に懷かしいものにして居るのかと思ふ。
 
          八
 
 我々が不思議に思つて居るのは、北と南との懸け離れた一致であつて、西國だけならばまだ何とか説明は付かうが、奧羽の果までも折々は同じ話が入り込んで居る。たとへば人間の若者が天上へ聟入すると、色々の難事業を課せられてしまひには追出されるといふ點は、羽衣説話の普通の結末であるが、其悲劇の中心には妙に甜瓜を食べたことが説(429)かれて居る。犬飼七夕と私などの呼ぶ話、即ち一年に一度しか逢瀬の無いといふ理由に、瓜を横に切らずに縱に切つたのが惡かつたと説明して居るのは、九州各地のものが最も詳しく、それに近い話が又信州にも東北にもある。たとへば秋田縣の平鹿郡の一例に、水屋尻の夕顔の蔓に匐ひ登つて行けば、好い嫁がもらへるといふ夢の告げを得た若者の話がある。天上の親方の家にきれいな娘が三人、それがこの男の命ぜられた三つの困難な仕事を、そつと來てそれ/”\に助けてくれるが、結局作つて番をして居た甜瓜を一つ食べたばかりに、ふわりと體が浮いて下界に落ちて來るのである(昔話研究二ノ一〇)。斯ういふ取留めも無い失敗譚を笑つた人々が、夕顔ではまだ可笑味が足らぬので、絲瓜にも南瓜にも取替へたのであらうが、本來は瓢でないと縱に切つてはならぬといふ戒めが意味をなさぬやうである。横に切れば浮寶になり、空を渡る船の代りともなり得るものは、夕顔といふ大きな瓜の外には無い。それが氣づかれなくなつて、瓜の種類は次々に變化して來たやうだが、本來はこの天上の瓜作り挿話も、人を空の國に運んだ夕顔の花咲く蔓の、末に結んだ大きな實であつたかも知れぬ。昔話はまことに不思議なもので、是だけは日本の國産であらうと思つて居ると、それが支那にもあり南海の小島に在り、或は北方の草原にゆくりなく見つかることもあつて、しかもこの聯絡系統は、まだ少しでも明かになつて居ないのである。だから將來の採集によつて、この假定説は覆へるかも知れぬが、少なくとも今は私は斯う信じて居る。瓠の海に浮び遠く漂ひ得る如く是が天上に、も行き通ふ手段のやうに考へて居た者が、最初に「豆の木」の空の梯子を、横に匐ふ夕顔の蔓に置きかへた。それは或は大陸のどこかの海のほとりだつたかも知れない。是が日本人にも久しく信じられて居るうちに、彼等の幻しはこの瓜の花を見つめて居ることによつて、段々と美しくなり、それがこの蔓の如く伸び/\て、終には絲瓜とも南瓜とも、言ひかへて大いに笑ふやうになつたのであらうと。
 
(430)          九
 
 もういゝ位にして止めたらどうかと言はれさうだが、又といつても折が無いから、今一つだけ附け加へて置く。岩手縣の紫波郡昔話には、夕顔長者といふ話が出て居る。是だけは羽衣とは關係が無く、昔二人の兄弟の兄は富みて吝嗇、弟は人柄がよくて貧困なのがあつた。籾種を借りに來たのに種を悉く熱湯を通して貸したので、苗代には苗が一つも生えず、たゞその田から夕顔が一本だけ、際限も無く伸びて多くの實がなつた。その大きなのを庖丁で切らうとしたが切れない。まさかりで割つて見ると白米が一ばい。次々の瓠も皆其通りで、忽ち夕顔の長者となつたといふのは、宇治拾遺などの腰折雀と片端は似て居る。つまりこの大きな丸い瓜を切つて種のこぼれ出るのを見た者の、是が米だつたらといふ空想が培養した話だつたのである。兄弟の善惡對立、最後の瀬戸際まで行つて忽然として大福長者になる話は、近くは氣仙郡の百疋塚、遠くは三河の犬頭蠶のやうな例もあつて、最も由緒のある話術であつたが、それが夕顔と結びついたのは、是一つしか今はまだ知られて居ないから少し心もとない。
 ところが一方西海の壹岐島昔話集には、遠く離れてこの程度に似通うた話がある。昔隣同士、一方は極度に貧しく、他の一方の金持に粟の種を借りに行くと、心の良くない者で其種を炒つてから貸した。少しも生えないので不審に思つて居ると、その八斗八升蒔きの大きな畠のまん中に、たつた一本の南瓜が芽を出し、やがて成長してたつた一つだけ南瓜がなつた。さうして其中から笛太鼓三味線の賑やかな音が聽える。取つて還り家に置くと、毎日遠方から多くの人が其囃子を聽きに來て御賽錢を置いて行くので、急に貧乏人が金持になる。それを羨んで隣の惡い金持が、無理に借りて行つたが何の音もしない。それを腹立てゝ庭に投げ付けると、南瓜は割れて其中から、ちやうど貸しただけの粟種の炒つたのが出て來たといふことになつて居る。南瓜の中の音樂は異樣だが、是も世界に行き渡つて居る「歌ひ骸骨」、心の清い者だけが骸骨に助けられて、歌を聽かせては財寶を獲たといふ一系統の昔話を、瓢の米の奇蹟にさ(431)し替へたもので、惡い隣人は眞似をしても無益だつたといふことの、根本の趣旨まで一貫して居る。これが雙方の話の面白さを、十分體驗した人の作爲であつたか、はた又自分にもさう記憶して心づかずに改めてしまつたかは、未來が決すべき大きな問題であるが、少なくとも曾て祖先の深く心を動かしたものだけは、いつかは機會があつて思はずに胸に浮び、又はさういふ形に近い物語に觸れると、比例を超えた痛切なる感銘を受ける。或は何か其部面の神經細胞が、千百年の遺傳を重ね/\て、やがては發見せらるべき變質をして居るのかも知れない。とにもかくにも國民文學の未來を説かうとするやうな人が、思ひをこの無意識傳承に致さぬのは間違つて居る。
 
(432)     俵藥師
 
 斯ういふ昔話を、どこかで諸君は聽かれたことはないか。横着で惡智慧のある下男が、何度でも旦那をだまくらかしてひどい目に遭はせる。もう何としても宥して置けないとなつて男を俵にぶち込んで大川へ流しに遣る。橋の袂まで來るとおい/\と泣き出して、こんなことならあの匿してある金を使つてしまへばよかつたと言ふ。それを擔いで來た二人の百姓が聽いて、どこにある/\と尋ね、俵をそこに轉がしたまゝ、それを見つけに還つて行く。其處へ馬に魚を負はせて魚商人が一人やつて來る。俵の中では惡い下男が頻りに「俵藥師、目の養生」とくりかへし唱へてゐると、ちやうど其魚賣が目の惡い人間だつたので、どうしたことかと近よつて來てわけをきく。これは目腐れのすぐに治るまじなひだ。わしも御蔭であら方よくなつた。そんなら暫くの間代つて私を入れてくれと頼んで、魚屋は俵に入り俵の口を括つてもらひ、下男はさつさと馬を牽いて、別の路から歸つて來る。そこへ二人の百姓が、又うそをこきやがつたと、ぷん/\と怒つて戻つて來て、有無を言はさず俵を川へ投げ込んでしまふ。旦那の家の大戸さきへは、川へ流した筈の惡下男が、ぢやらん/\と馬の鈴を鳴らして、威勢よく乘り込んで來る。御蔭で龍宮さんからこんな馬と、さかなを一荷貰つて來ました。あそこにはまだ何ぼでも魚も馬もありますといふと、人のいゝ旦那は又うつかり騙されて、さうかそんならおれも一つと、同じやうにして川へ入れてもらつたと謂つて、それから後にまだ少し話が續いてゐる。
 日本でこの話の存在が既に知られてゐるのは、秋田縣に一つと岩手縣に二つ、關東では栃木縣によほど壞れたもの(433)が一つあり、信州では二つの採集がある。近畿中國四國の中では備後にたつた一つ、九州は福岡大分熊本の三縣に一つづゝ、それから飛び離れて南島の奄美大島に又一つある。外國の類例と最も接近してゐるのはこの大島にある形で、他の地方の昔話では嘘の名人が、何れも下男となつて居るに反し、是だけは所謂二人椋助、即ち愚兄賢弟もしくは富兄貧弟の話を發端にして居るのである。どれだけまでの一致が東西民族の間にあるかといふには、すべてを竝べて見るに越したことは無いのだが、そんな退屈なことは到底出來ない。日本だけでも既に少なくとも十一はある。クラウストンの民間説話考に擧げてあるのは、愛蘭の Little Fairly を始めにして、英佛獨から諾威に希臘、阿弗利加北岸のアルゼリヤにもあり、それも國によつては何箇處からも發見せられて居て、結局は印度の記録にあるものが最も古いといふことになつてゐる。つまり昔話は機會が有る毎に、天涯萬里の果までも運搬せられて居るが、其割にはさうひどく原の形を損じては居ないといふことが是でよくわかる。自分などはこの東西の一致に驚歎するよりも、寧ろ多くの類話の比較によつて、個々の民族の改造技能が、少しでも現はれて居る點に興味を惹かれる位のものである。
 俵藥師は恐らく日本で始まつた趣向であらう。上總の東海岸などでは、昔俵に藥師如來の木像を入れたものが、漂着したといふ口碑もあつて、何かこの佛にはそんな信仰なり縁起なりが附いて居たらしく、しかも我邦では主として眼病の願掛けをして居る。俵といふものも稻の國だから話になるので、西洋の各地では大きな袋に入れてといひ、又は樽につめて流さうとしたとも謂ひ、印度の舊話には三つある二つまでが、手足を繩で結はへて轉がしたことにもなつて居る。しかし袋の中から騙したといふので無くては、實は此話はさう面白くはないのである。
 目病みの魚屋が通りかゝつたといふのは、少しく偶然を濫用した嫌ひはあるが、日本の話では大抵が皆さうなつて居る。東北の方では「目くされまなぐの御用心/\」と唱へて居たといひ、九州の方でも、福間の又兵衛は目の養生目の養生と謂つて、目たゞれの魚賣を引掛けたことになつて居る。日本で斯ういふおどけ話をする者が、しば/\座頭であつたことを考へると、此點も或は國産でなかつたかと思ふが、既に朝鮮にも目が治ると謂つて騙した話がある(434)といふことだから、是はまだ何とも斷言が出來ない。たゞ少なくとも俵藥師を引合ひに出しただけは、我々の先祖の輕妙な思ひつきであつたらうと思ふ。歐羅巴の話はグリムを始めとして、どれもこれも滑稽が少し重くるしく、大きな聲で「大僧正になるのは御免だ」と謂つたり、「誰が殿樣の娘などを嫁にするものか」などゝどなつて居る。さうすると通行の牛方とか羊商とかゞ、立寄つて來て話を聽いて騙され、そんならわしが代つて其袋に入り、僧正にならうとか、姫の聟君にならうとかいふのである。或は極樂の近路と謂つて、富裕の農民を誘うて樽に入らせたとも、智慧の袋だと稱して旅の書生を欺いたといふのもあるが、どれ一つでも其まゝ日本へ受賣したら、ちやうど又今日の飜譯御伽のやうな氣の拔けたものになつたことであらう。それをトラホームか何かのよく有りさうな旅商人にしたことは、誰の細工か知らぬが氣の利いた思ひつきであつた。
 それから今一つ、大陸の話は殆とどれも是も、家畜を牽いて通る旅人が騙されることになつて居るが、是は昔の人が長者になる普通の段階であつたといふまでで、水の底から戻つて來たといふ話とは、何分にも調和しさうもない。この點を我々の話術者が採用しなかつたのも思慮があると思ふ。グリムの話集などでは、空の白い雲がむく/\と水に映じてゐるのを指して、あれあの通りまだ澤山の羊が居ると、最後の嘘をついたといふのは面白く、或は又水に投込まれて死んだことゝ思はれてゐる男が、太つた豚の群を追うてのこ/\と村に歸つて來る光景も繪にはなるが、日本ではとにかくさういふ空想は成立たなかつた。それ故に是をそつくりと、こちらは村で歡迎せられる魚屋に取替へてしまつたのである。魚を龍宮から貰つて來るといふ話は、勿論クラウストンの列擧した中には一つも無いが、神代卷以來親しみのある挿話を、爰で應用したといふことはたしかに昔話の骨法を得て居る。日本が此昔話の本家だと言はなくても、是までに安らかに又面白く改良した技能、もしくはそれを承認して他のものを排除した鑑別力は、我等の祖先をさしおいて何人のものでも無いのである。
 東西の説話を比べて見てもう一つ氣づくことは、この嘘つきの名人が俵に入れて棄てられるまでの段取りが、日本(435)に行はれて居るものは特別に短い。通例我邦の昔話に共通して居るのは、山へ働きに遣られて寢轉んで日を暮しながら、鷹の巣を見つけましたと謂つて主人を喜ばせる。生米を?んで居たのを樹の下に吐きかけ、又は衣類の肩袖に少し附けて、この通り鷹の糞が落ちるなどゝ謂ふ。是は外國の類例中にはまだ一つも見當つては居ない。向ふで最もよく知られて居る挿話は二つ、一つは一匹の痩牛の皮を賣りに出て、思はぬ幸運によつて大金を得て還る。それを其牛の皮の價だと謂つて騙したので、仲間が又は金持の兄が、有るだけの牛を殺して皮を賣りに出かけ、少しも賣れないので怒つて歸つて來て袋に入れるのである。それから今一つの點はグリムなどにもあるやうに、痩牛の皮を携へて一夜の宿を借りた家で、女房が夫の留守に惡いことをする。それを隙見して居て亭主が戻つて來てから、其皮を使つて占なひをすると稱して、一々の隱し事をすつぱ拔くのである。相手は感心して皮を高價で買取り、もしくはその隱し男が助けを乞うて澤山の御禮をするといふので、聽いて大笑ひをするやうなをかしい出來ごとが、もうこの前段の中にも幾つか盛り込んであるのである。日本人が斯ういふ話もよく知つて居たことは證據がある。たとへば第二の挿話は鼻利きの何某とか、見透しの六平とかいふ題名で、やはり女房の隱し事を片端から暴露するといふのが各地にある。第一のたつた一匹の痩牛といふ話も、極東の諸國に古くあつたのみならず、我邦でも陸前氣仙の百匹塚などゝ稱して、兄は九十九匹のよい馬を持つて居てしまひに貪乏し、弟はその一疋の痩せたのを元にして忽ち長者になるやうな話もあれば、或は金ひり馬だと僞つて愚かな兄へ賣付けるといふ形になつたのもある。もとはそれ/”\が別の笑話であつたのを、後にあちらでは繋ぎ合せて長話にしたのか、或は夙くから膝栗毛などのやうに、次から次へ笑ふ話を竝べて居たのを、日本の方では切りほごして數多い短篇を作つたものか、どちらが早いといふことはちよつと決しかねるが、何れにしても我々の中の話好きは、笑話はさうだら/\と引伸すものでないことを知り、又は少なくともさういふものを珍重しなかつたのである。從つて次の笑ひの來るまでの退屈といふやうなものを、經驗しないですんだ代りに、日本の笑ひはいつもあまりに無造作な一口話、もしくはそれを更に切詰めた秀句見たやうなものになつてしまつて、(436)組織のある滑稽文學は成長する機會が無く、其爲に一生樂しい笑ひといふものを味ふことが出來ぬ人を多くし、たま/\笑はうと思へば馬鹿を友だちにしなければならぬやうな、それこそ笑へない世の中をこしらへてしまつたのである。是が國柄であるか、はた又歴史の偶然であつたかは、私にはまだ何れとも言へないが、ともかくもたつた一つの昔話の消長からでも、國と國との歩む道が異ならねばならぬ、うら悲しい法則が見出されさうな氣がする。
 
 (追記)
岩手縣一(ノ)關市 「むぐふき較べ」(「女性と經驗」一ノ五六)。福島縣石城郡 「俵藥師の目の要心」(磐城昔話集)。新潟縣宮内町 「俵藥師」(昔あつたてんがな)。コ島縣祖谷山 「俵藥師」(阿波祖谷山昔話集)。鹿兄島縣離島 「オーバ話」(甑島昔話集)。奄美大島 「ボックワと兄」(奄美大島昔話集)。
 
 右はこの文章をかいてから後に、新たに採集記録された類話である。このうち最後の奄美の例の外はすべて「嘘つき」であるが、奄美大島の話は本文に引用された昔話研究(二ノ九)の「慾の深い兄」の話と同じく二人椋助型の富兄貧弟で、要點は殆と同じものである。又「眼の養生」を云はないのは岩手縣の例一つであるが、祖父山の話は白雲頭の老人を嘘つき小僧が騙すといふ話になつて居る。
 
(437)     峠の魚
 
 私の「日本の昔話」に、土佐の黒鯛大明神の由來として採録して置いた一話は、そちこちで我土地だけの奇談と信じて傳へて居る。白石實三君の書いたもので始めて知つたが、私の今居る多摩川の邊の村でも、是を昔の名代官田中丘隅の逸事のやうに謂つて居るさうだ。但し話は魚商人とした方が自然に聽えるのである。
 昔々ある一人の魚賣が、山路をあるいて居ると、路傍に獵師の掛けて置いた罠に、山鳥が一羽引かゝつてばた/\騷いで居る。あたりに誰も居らぬからそれを取つたが、只持つて歸るのも氣が咎めるので、代りに其わなに黒鯛を一尾くゝり附けて來た。村の人たちは後でそれを見つけて、斯樣な深山に黒鯛が飛んで來て、罠にかゝるといふは只事で無い。是は何でも有難い御示しに相違ないと言つて、早速其場所に祠を建て黒鯛を祀つて、黒鯛大明神と唱へて拜んだところ、如何なる祈願も成就せずといふことなく、信心の徒が踵を接して參詣して來る。そこへ以前の魚商人、偶然に再び通り合せ、びつくり仰天して白?をしたといふのが土佐の話だが、他の地方でいふのは少しづゝ説明がちがつて居る。田中代官などは、その鰹を引出して刺身にして一杯飲んだとかいふのだが、是はやゝ日數が經つて居て感心しなかつたことであらう。
 支那の所謂小説にも鮑魚神といふのがあつて、顛末は是と大分近い。さうして其方がずつと前から有名だつたらしいから、二國別々に同じ事件が、幾度も起つたものと見ることは困難である。さうすると誰が斯んな話を知つて居て、知らぬ顔をして諸國の山路の傍に、そつと殘して行つてしまつたかも問題になるが、更に不思議なことは土地の人た(438)ちが、いつの間にか是をそれ/”\の場所に、曾てあつた出來事と信じ、假に他の府縣にも同じ話が有るといふと、きつと爰から持つて行つたのだらうなどゝ、互ひに言ひ下す位に自分のものを大切にして居ることである。幾ら面白い口碑であらうとも、よそにも在ると知つてから眞似る者は先づ無からう。
 是には第一に我々の世間を知らなかつたこと、其次にはさういふ風に話す人があつても、それを作り話だとは氣がつかぬだけの、素朴な下地が以前から出來て居たものと見なければならぬ。私たちは寧ろ其點に興味を抱いて居るのである。
 六七年以前、盛岡から海岸の宮古鍬ヶ崎へ越える大きな峠の路で、縣の役人の久米君から斯んな話を聽いた。
 昔、と言つてもさう古いことでは無いらしい。此峠の頂上に在る平たい大きな石の上に、鯖が三尾ちやんと載せてあつたことがある。それを不思議に思つて色々と詮議して見ると、やがて其魚を置いて行つた主が判つた。正直で親孝行な若い農夫で、時々遠路をして濱へ出て魚を買ひ、持つて歸つて親たちに食べさせて居た。或時この峠にかゝると急にもや〔二字傍点〕がかゝつて、山路が眞暗になつて前へも後へも踏出すことが出來ない。それで携へて居た鮮魚を此石の上に三つ竝べて、熱心に拜んで居たら、忽ち天地が明るくなつた。それを通りかゝつて見た人が、有るとか無いとかいふ樣な話であつた。
 私は之を聽いて非常に心を動かし、どうして又魚をこゝに置いて拜む氣特になつたでせうと、根ほり葉ほり尋ねて見ようとしたが、今はもう自動車がぶう/\走つて通るやうな時代だから、是以上の事は皆目知つて居る人が無かつた。もし私が記憶して居ないとこれだけの話でも、つかまへ所が無いから大抵の者は忘れてしまつたらう。とにかく三陸の境の峠には稀には魚を置いて通る習はしがまだ殘つて居たので、祭をしたのは却つて當の本人であり、後々之を發見した人たちでは無かつたのである。他にもやゝ似た記憶がもし片端でも傳はつて居たならば、是はたしかに考へて見るねうちがあると思ふ。
(439) 我々の子供が悦んで聽く諸國の昔話の中に、假に私などの牛方山姥と名づけて居る、一つの化物退治譚がある。
 昔々ある一人の牛方が、牛に鹽鮪を積んで山路を越えて來ると、怖ろしい老婆が現はれて其鯖を一尾くれと言ふ。くれなければ手前を取つて食ふぞといふので、仕方無しに一つだけ拔いて後に投げ、すた/\と牛を牽いて逃げて來る。聽手が五つ六つの幼ない子供であると、此鹽鯖を一尾くれといふ問答を、先づざつと一駄の魚の數だけ繰返して聽かせる。
 つまり山路の段が非常に長いのだが、我々が聽く場合には二度ほどで後を省略して話すことになつて居る。其鹽鯖を殘らず食つてしまふと、今度は牛を食はせろといふので、片足づゝ遣つて逃げて來る。それでも怖ろしさはもう終局にならないで、此次に牛方おまへを食ふと言つて追掛ける。
 それから後の話が、土地によつて二通りになつて居る。一方は菅苅りや臼切りや船はぎに助けられ、湖水の岸にある松の樹に上つて匿れ、鬼婆が其影を見そこなつて水の中へ飛込んで自滅する話。今一つは途中で婆の住む一軒屋に逃げこんで、天井裏に隱れて居て、餅を刺し取つたり甘酒を吸ひ取つたり、猿蟹合戰以上の可笑味があつて、最後に其山姥を退治する痛快な復讐譚になつて居る。
 前段の壓迫が忍び難かつただけに、後の方の話が兒童には悦び聽かれる。何れにしても今ではたわいも無い童話になつて居るのだが、峠と魚との奇妙なる因縁は、こゝでもなほ若干の原の姿を窺はしめるのである。
 此昔話も南北に分布して居る。中國九州では牛の代りに馬であつたり、又その鹽鯖を大根とし、もしくは鹽俵だと言つて居るものもあるが、鹽俵はとにかく、大根では遠く運ばれる理由が無い。
 童話が斯ういふ風に變つて行つたもとは、牛方を普通の駄賃附けと考へ出した爲かと思ふ。是が本來は立派な旅商人であつたことを、此頃の子供はもう知らずに居るのである。以前も牛方は壯年の農夫であつたけれども、自分で牛を持ち又商品を仕入れて、それを運んで遠くまで賣りあるいたのである。他人の中へ入れば話をすることが近づきに(440)なり易い。語をする位ならば自分の仲間を主人公にして、怖ろしい目にも遭へば手柄もしたといふやうな話を、成るべく多くしたことゝ思ふ。即ち牛方山姥は牛方のよくする昔話で、何れ改作も彼等の所爲であらうが、話の種も亦この仲間の、持傳へて居たものであつた。
 彼等隊商の通路は、海岸線と直角に、少しでも早く魚や鹽の乏しい土地へ行く爲に、?峠路を越えなければならなかつた。さうして我邦では海の物を嗜み食した人々が、次第に山奧を開いて居るのだから、何は置いても魚や鹽の交易は、早くから始まつて居た筈である。鹽賣の旅にも路の傍の清い石の上に、鹽を供へて神祭をしたといふ故跡が多く遺つて居る。
 山に入るに山の神を祭るといふことは、木を樵る者でも畑を燒く者でも、乃至は鳥獣を狩する者でも、すべて眼に見えぬ昔からの關門であつた。
 「黒鯛大明神」が鳥罠の雉山鳥と引換へに、魚を置かずには行かれなかつたと言つて居るのも、やはりこの古風な關税制度の名殘を、近世の心持で解釋しようとしたもので、たとへどれ位面白い話が支那の書物に有らうとも、何も無い土地へは勝手には土着することは出來なかつたらう。
 それと同樣に、午方山姥の昔話なども、やはり魚賣が昔から往來した峠と、そこに殘された幽かな昔の世の記憶とが、代々の聽衆の想像力を支持して居たものと思はれる。
 旅の魚商人は、鹽物乾物をかついで、今でも驚くやうな山間まで入込んで居る。さうして永年の得意の心を捉へる爲に、成るべく悦ぶやうな且つ手輕な品物を、兼て用意をして行く習はしが有るやうである。
 その一つの例として、夙くから自分たちの注意して居るのは、ヲコゼを山の神に上げる風習であつた。宮崎縣の椎葉の山村で、猟師が海ヲコゼを大切にするといふ話を聽いてから、折々人に話をして見ると、私の郷里でもさうだといふ地方が、今日では既に北端の秋田津輕にも及んで居る。東京の近くでは、秩父郡の奧、妙義榛名の周圍の村など(441)でも、たしか越後あたりの旅商人が、時々みやげに持つて來るといふ話を聽いた。
 食べる所も無いやうな刺だらけな小魚の、見たところ怖しい顔をしたものだが、是を山神ヲコゼとも只ヤマノカミとも言つて、山神が事の外是を愛したまひ、獻上を約束すれば狩の運は思ふまゝであり、又は木樵が斧や鉈を紛失した場合でも、之をさし上げるとすぐに見つかる。たゞ是を持參するにはよつぽど氣をつけぬと、うつかり手に持つて居ると手ごと拔いて持つて行かれることがある。それほど迄山神はヲコゼに眼が無いのだといひ、或は何十枚もの紙に包んで、一度に其紙を一枚づゝ解いて、永い御樂しみにして居る土地さへある。
 山の人が珍重して居るのも、やはり山神が是を悦ばれるからで、其風習は既に室町期からあつたことは、多くの文獻によつて南方熊楠氏も證明せられて居るが、數多い海の魚のうちで、特に怖しい顔をしたあの小魚だけが、是ほどまで山の中で重ぜられ、殆と通貨と同じやうな役割をして居るわけは、私にはまだ考へ出せない。
 一つの注意すべき點は、少しばかり形の似て居るカナガシラといふ魚などにも、やはりミコ魚だの君魚だのといふ異名があつて、神祭には折々用ゐられて居ることである。
 ヲコゼの刺の多いことが或は一つの要件でなかつたかと思ふ。中部地方でヲコゼといふ動物は、魚では無くて梅毛蟲などゝいふ、最もひどく刺す一種の毛蟲のことであり、又一般に毛の多い蟲をもさういふ土地があるが、どうしてさう呼ぶかは今のところまだ明かでない。
 山の人々が海ヲコゼをほしがるに對して、海邊の人たちは山ヲコゼを重んずるといふことも聽いたが、その山ヲコゼは毛蟲のことでは無かつた。土佐で山ヲコゼといふのはキセル貝の一種だともいふ。但し海の幸を求むる人々に、果してそのキセル貝が尊重せられて居るかどうか。其點はまだ確かめられては居らぬのである。「河と海」の讀者諸君は、多分是からはさういふ話を聽かれる場合が多いであらう。峠と魚との雜談はまだ大いに成長することゝ思つて居る。
 
(442)     鯖大師
 
 昔話の「牛方山姥」では、鹽鯖を牛の背につけて峠を越す男が、山姥に出逢つたといふ話が特に多いやうである。後々其鯖を鹽とも大根ともさし替へて話すことになつて、感じの出なくなつたのは兎も角も、何か大切な一つの古いものが脱落した。それを私は「黒鯛大明神」の話の研究によつて、取戻して見たいと念じて居るのである。四國八十八箇所巡りの路筋、阿波から土佐へ越えようとする八阪八濱の中ほどに、遍路さんなら皆知つて居る鯖大師といふ傳説が横たはつて居て、弘法大師であつてもよさゝうなものだが、爰だけは奇妙に行基堂となつて居るのである。「阿波名所圖會」にも出て居る筈だが、今手元にないので、「雲錦隨筆」を引用すると、
 昔この邊りを、或男が馬に鹽鯖の荷を負はせて通る時に、旅僧が近よつてその鯖を一ぴきくれよと謂つた。馬方は承引せぬのみか惡口をして行かうとしたところが、その僧が一首の歌を詠んだ。
   大阪や八阪阪中鯖一つ、行基にくれで馬の腹病む
 さうすると忽ちその馬が煩ひついて一足もあるかなくなる。是は尊い御僧だと驚き心づいて鯖主、いそいで行かうとする旅僧の衣の袖を捉へて、くれ/”\も無禮を詫び且つ鯖を獻じたので、僧は取敢へず、四句目の「くれで」の濁音符を取り、腹病むを「腹止む」とも解せられるやうにしてくれたので、即座に馬の病が平癒したといひ傳へて居る。その繪姿が今でも信心者に分配せられて居て、此書に載せた挿繪も其寫しらしい。茣蓙を背に括つて草鞋をはいた和尚が、左の手には數珠、右の手には高く尾を以てぶらさげた鯖が、何だか初鰹と似て居るのも興味がある。
(443) 法師が魚の無心をするといふことは、不似合な話だが昔も例が多かつた。殊に行基菩薩には攝津の昆陽池、又は泉州の家原寺などに、有名な言ひ傳へがあつて、現に其池の魚は片眼であり、又は片身が焦げたまゝで、今でも活きて居るのがよい證據だなどゝ言ふ者さへある。弘法大師にも同じ奇蹟は折々あつたのだが、流石にその信仰の中心地では、是はやゝ有難迷惑であつたものか、爰ばかりは之を本職の行基に委ねたまゝになつて居る。
 斯ういふ珍らしい傳説が旅人の知る所となつて、それ/”\の故郷に傳へられ、又何かの拍子に他の場處に移るのは不思議でないが、九州地方ではそれが一つの信仰になり、しかも其名を鯖大師と謂つて居るのは、少しばかり考へさせられる。福岡縣遠賀郡の漁村をあるくと、時折路傍の石佛に鯖大師といふのがあつて、其像には手に鯖を下げた僧形が彫られて居るのみか、あの阿波國の八阪阪中の歌の文句が、若干の轉訛をもつて傳承せられて居るといふことであり、櫻田勝コ君の實見した一つなどは、昭和五年何月女連中云々の文字を刻してあつたといふ。漁村だから多分馬は飼はなかつたらう。たゞ腹痛のときは鯖をこの石體に上げて?ると驗があるといひ、又漁の願ひ事をもすると謂つて居る。
 この變遷はどういふ風に説明すべきものであらうか。無論一つの原因としては、この四國の奇蹟談が、先づ四國方面の馬を飼ふ農家に行はれ、此歌が何處へ行つても馬の腹病を治す力をもつやうに考へ、且つ利用する者が多くなつた結果、馬に利くほどならば、人は尚さら自分で信心するのだからもつと早い御利益があらうと、類推したものとも考へられる。現に其證據には宮崎縣の北部にも、腹痛の時のまじなひに、文句は少しこはれて居るがこの歌を唱へるさうであり(日向郷土資料六號)、そこから西北に山を越えて、熊本縣の阿蘇谷に入ると、古城村の北阪梨の邊りでは、馬が蟲がせく(腹が痛む)ときのまじなひとして、
   大阪の八阪の阪の阪中で
   虚無僧に逢うて
(444)   鯖三匹もろうて
   此蟲はやせきやませ
といふ文句を唱へて、笹の葉で馬の腹を撫でてから、その笹の葉を馬に食はせるといふ風習がある(旅と傳説九卷五號)。しかしまだ是だけでは、路の辻に鯖大師の石像を安置して、祈願に鯖の魚を供へるまでの理由にはならぬ樣な氣がする。
 それよりも元に溯つて、全體何人がこの樣な歌を作つて流布させたかといふことが問題になる。すぐに氣のつく點はたつた一文字の變更によつて、歌が全く反對の意味になるといふ趣向が、かの關寺小町の「見し玉だれの内やゆかしき」を、「内ぞゆかしき」にかへたといふ話と同じいことで、作者は一人で無いまでも、一つの仲間の智惠だつたといふことが考へられ、しかもさう古い世の文藝で無いことも明かである。ところが「旅と傳説」の一〇卷九號に、天文年間に成つたといふ馬書の「勝藥集」なるものに、馬の腹病のまじなひとして、この歌を利用したものがあることを報告した人がある。
  一、馬の耳に口あて、歌に曰く
   大阪屋八阪阪中鯵一つ、きやうきにくれて駒ぞ腹やむ
   と七返よみ、「我手にてはなきぞ、おうたせんの御手なり」とて背を撫でべし。
とあるさうで、鯖が鯵にかはつて居るのも面白いが、更に「おうたせんの御手」といふのが、今は不明だけれども又新たな手掛りを提供する。次には栃木縣の安蘇郡に於て、近年倉田一郎君が採集して來た一例、是は競馬に勝つ爲に走り馬(相手の?)をとめる呪文とあつて、歌は又大分こはれて不可解のものになつて居る。
   大阪の八阪の阪に阪一つ、さそふにつれて駒ぞやむ
 アビラオンケンソハカを三度唱へるのだといふ。察するところ既に歌に伴なふ物語は忘却せられて、其文句の神秘(445)ばかりが、やゝ過度に信ぜられて居た時代が、土地によつては四百年も前から始まつて居たので、しかも雲錦隨筆に載せたやうな奇蹟譚が、阿波の南海岸では無いまでも、何處かに行はれて居なかつたら、恐らく歌だけが裸で學び取られるわけは無いから、其以前にもう斯ういふあまり巧妙でも無い歌物語を、そちこち持つてあるく者が日本には居たのである。
 我々の改めて考へて見たいのは、單に阿波の八阪の古傳説が、うそか本當かといふやうな小さな問題では無い。是が南海の濱に漂着して、どうして根を生やしたかといふことも、國内交通史の資料としては有用かもしれぬが、それよりも意味が深さうなのは、山路と鯖と旅の宗教家との縁の遠い三つを、始めて結び合せたのは何人の思ひ付きであらうかといふ點で、それには人間の財政制度に、關税があり又は入市税があつた如く、靈界にも亦一種の運上信仰とも名づくべきものがあつて、鯖が何等かの理由で特に重んぜられたらしいことが想像せられる。山鳥の掛罠に鮑魚を挿んだといふ話は支那からの輸入だが、是が日本人の感じにも不自然には聽えず、安々と土着し得るだけの素地が此方にもあつたのでは無いか。「牛方山姥」の如き全く別な昔話の流布が、さういふ想像を私に許すのである。肥前長崎邊の鯖腐れ石の傳説は、既に司馬江漢の西遊日記にも見えて居る。佐賀縣東松浦郡北波多村の弦掛岩の辻にも、現在同じ名の岩があつて、やはり魚商人がこの危ない大岩の下を通り兼ね、ぐづ/\して居るうちに其鯖を腐らせてしまふからと謂つて居るさうである。鯖は腐りやすい魚となつて居るので、面白半分にもそんな名を付けたとも見られるが、是がもしなほ他の多くの峠越えにもあり、しかも其あたりにはちやうど鯖を載せて置くやうな、平たい別の石でもあつたとすると、私は陸中宮古街道の二十年前の妙な經驗を、思ひ合せずには居られないのである。それで讀者の注意によつて、新たなる資料の報告せられるのを待つ間、やゝ冒險ながら一つの假定説を出して、學問の運をためして見ようと思ふ。
 私の大膽な當て推量といふのは次の如くである。曰く、海岸の住民が魚を捕つて、之を内陸の農産物と交易に行く(446)のには、昔は境の神を祭り魚を供へる風があつた。その場所は大抵道の辻森の下、その他或特別な感じを起すやうな隘路などで、そこには魚を載せる爲の石が置かれ、それが又靈地の目標ともなつて、次々變化して行く傳説を支持して居たのであらう。「馬の腹やむ」のまじなひ歌などは、それ一つ獨立してゞも記憶せられ、又は利用せられたかも知らぬが、もしも其土地に鯖を路の神へ上げる信仰、又は其破片が少しでも殘つて居る場合だつたら、印象は確かに何層倍で、從つて鯖を手に下げた石の大師像を、新たに建立する位のことは何でも無かつたらう。福岡縣遠賀郡の各漁村は言ふに及ばず、事によると今日本家本元のやうに見られて居る阿波海部郡の八阪八濱なども、斯んなへぼ歌の暗記せられるよりもずつと前から、山間に交易を求めに行く濱の人たちが、鯖を供へて通る習俗は、夙にあつたのかも知れない。なほその魚が必ず鯖であつたといふ點にも、きつと何等かの隱れたる意味があると思ふが、それは又他の折に考へて見ることにしたい。
 
(447)     片足脚絆
 
          一
 
 前にも野鳥の會の集まりで、鳥の觀察に詳しい方々の意見を尋ねて見たのだが、何れもさういふ心當りが無いといふことであつた。日本の昔話には、親が子を失なつて傷心のあまりに鳥となり、今でも名を喚んで鳴いてあるくといふ、あはれな前生譚は數多いが、それには又脚絆の片足を脱ぐいとまも無く飛び出したので、それで其鳥の足は一方が白く、他の一方は黒いのだといふ條を添へたものが、是亦二箇所や三箇所の特例ではないのである。果して其樣な兩足の毛色のかはつた鳥が實際居るものか。もしそんなことは無いとすれば、どうして一つの空想が是ほどにも廣く根を張つたのか。何れにしても我々には興味が深い。問題は勿論さう容易には解決し得られないだらうが、とにかくに手掛りを見つけるために、先づ事實を集めて置かうと思ふ。
 最初にこの話に私たちが注意したのは、内田邦彦氏の「南總の俚俗」の中に採録せられたもので、此書の世に出たのは大正四年、上總長生郡の本納・味庄などゝいふ古い村に行はれて居るといふことであつた。昔くらといふ名の女が幼兒を畔に寢かせて置いて田の草を取つて居るときに、鷲が來て其子を攫み上げて、遠くの空へ飛んで行つた。母は大急ぎで田から出て、股引を半分脱ぎかけたまゝで、其後を追うたが取返すことが出來なかつた。それで我身も鳥になつて、クラッコ、クラッコと鳴きまはつて居る。百舌鳥より少し大きな一種の鳥だと謂つて、爰では郭公とは別(448)な鳥のやうに考へて居る。片足の白いのは股引を片方脱いだからで、それで又一方の足は黒くきたないといふ。此土地の女たちは、田に入る時だけ股引をはくことにしてゐるので、話は斯ういふ風に變つたのである。くらを子を尋ねる親の方の名としたのも、他の地方の言ひ傳へとはちがつて居るが、母一人子一人の淋しい親子が、田植の頃に死んだといふ哀話ならば、奧州では仙臺の小鶴池、九州では薩摩の池田を始めとし、全國に廣く分布するものであつて、それとこの片足脚絆の由來とが、結び合つて居るのが珍らしいのである。鷲に赤兒をさらはれるといふ話に至つては、今一段と起原が古いかと思はれる。文獻に現はれて居るのは今昔物語、また水鏡の中にも歴史のやうになつて傳へられ、是等は共に都近くの出來事として居るが、現在は關東以北に多く殘つて居る。最も有名なものは東大寺の良辨僧正がその赤子で、年經て母親と對面したと謂ひ、今ある良辨杉の傳説なども是を記念する木であるが、それはたゞ一つの話し方といふに止まり、土地々々の語部は大昔以來、是に少しづゝの潤飾を添へて、しかも最初の深い感動を持傳へようとして居たのである。どうして此樣な單純な一つの驚きが、地をかへ人をかへて永き世に語り繼がれて居たか。東上總のクラッコ鳥の由來は、先づこの根本の問題を我々に提供する。さうしてそれをこの小さな天然の特徴、たとへば鳥の啼聲や羽の色と、結び附けて説くやうになつたのは、果して何人の智慮に基づくかといふ疑ひが、之に次で起つて來ずには居ないのである。
 
          二
 
 如何なる文化の階段に居る者にも、親が子を取られる悲しみは理解せられる。それが尋常一樣の原因からで無しに、鷲にさらはれたといふに至つて、話は更に新奇を添へ、之を聽いた者は忘れず、又その深い感動を次々の人に語り傳へることが出來たのである。現代のニュウスがそれであるやうに、曾ては語りごとが是だけで完結した時代もあつたかと思ふが、後々、其上に若干の解説を附加し、又は理由を尋ね結果を問ひ究める等、餘分に人間の智能を働かせる(449)ことが普通になつて、説話の構造が追々と複雜化して來て居る。鷲の喰ひ刺しと謂つて友だちが嘲るので、不審に思つて親に問ひ、始めて自分の運命を知つたといふもの、或は後に學問をして名僧となり、年を經て故郷の母に再會したといふやうな、新たな後日譚がいつとなく考へ出されて、次第に今日の文藝といふものに近くなつて行くのである。始めてさういふ新しい空想を胸に描き、もしくは二つの別々な言ひ傳へを、結び合せたのは何人であらうか。どこでどういふ場合に其變化が起つたらうか。それはまだ解決し得ない興味ある問題であるが、少なくともその説話は旅行をして居る。新舊何れの形態に於ても國の内に分散し、たつた一つの土地でしか知られて居ないといふものは殆と無い。隱れた運搬者のあつたといふ證據かと思ふ。
 たとへば鷲に子を取られた母が、悲しみの餘りに鳥になつたといふまでの話は他にもある。廣文庫に抄出してある「温故日録」といふ書物は、まだ私は見たことも無いが、是には作州のつるぎ山といふ山の中で、相見乙人なる者の妻、背に負うた兄を鷲につかみ去られ、ハヤコハヤコ(早來)と喚び死にゝ死んで鳥になつた。それがはこ鳥といふ鳥だといふ話が出て居る。はこ鳥はたしかに今の郭公のことで、其鳴聲を「早來」と聽いた例は、此書以外にも色々のものに見えて居る。或は女が山路を日の暮れ方に、幼な子を負うてあるいて行くと、頻りに早來と鳴く鳥の聲が聽えて、其兒の魂はいつの間にか喚び取られて居たといふやうな、寂しくも又神秘な言ひ傳へもあつて、鷲に取られたといふ形ばかりが、古くから分布して居たのでは無いといふことがよく判る。つまりは二つの有名な話が何かといふと結び附いて、一續きに語られる傾向をもつて居た、痕跡と見て誤りはなからうと思ふ。
 人が本地物と呼んで居る中世の説話文學なども、必ずしも遠く淵源を異國に求めるには及ばない。あんまり簡單だとか、それだけでは曲が無いとか、とにかくに物足らず感ずる者が多くなると、幾分の無理をしてゞも二つ以上の話を繋いで、或程度の長さと變化とを作り設けようとするのは、初期の至つて素朴なる技巧だつたらう。其上に思ひ掛けない非凡な出來事を聽いて、人の感動の強く濃く深く、他のあらゆる雜念を振ひ落し、純一な心の?態になつて居(450)る際に乘じて、次の大切な教へを説かうとすることは、わざ/\よその國から學ぶまでも無く、多くの民族に共通な大昔以來の習はしであつたとも思はれるのである。鷲に空中を運ばれて命を全うしたといふやうな出來事は、いかに草昧の世にでもさう度々は起らなかつたらうのに、今なほ結末の若干の差異を以て、廣く世界の國々の話題となつて居たのも、言はゞこの接木の臺として似つかはしく手頃であつた爲に、後々の用途が多かつたから保存せられたらしいのである。奧州海岸の或舊家では、先祖が鷲の爪に攫まれて、絶海の孤島から脱出して來たと、傳へて居る例を聞いたことがある。伊豆の三宅島でも伊豫國の或郷士が、我子を鷲に取られて其跡を追ひ、終に此島に渡つて來て神になつたといふことが、神話のやうにして久しく語られて居り、それと半分以上似た話は、たしか又福島縣の山間の村にもあつた。良辨僧正の生ひ立ちといふ類の物語も、事實でないと同樣に又獨創ですらもなかつたのである。捜せば類例のどちらが先とも言へないものが、まだ/\澤山に見つかるかも知れず、或は是からでもなほ新たに生れるかも知れない。たゞさういふ中では鳥に兒を奪はれて、その母が又鳥となつたといふのが、配合の技術としてはさう上乘のものではなかつたといふことは言ひ得られ、それから又是に片足脚絆の由來を取添へて傳へたものは、上總以外の土地ではまだ我々は知らないのである。果して關東の片隅の特産であるか否か、今後の採集を待つて決したいと思ふ。
 
          三
 
 鷲と全く關係の無い片足脚絆の昔話ならば、遠く幾山川を隔てゝさま/”\の類例が分布して居る。北九州で採集せられた四つの話を比べて見ると、同じ一つの説話の變化といふよりも、寧ろこの部分だけを共通にした、別の話と見たくなる程の差異がある。口碑が次々と結合するものでなかつたら、斯ういふ現象は見られない筈である。例によつて今少し詳しく説明すると、
 一、郭公といふ鳥の片足黒い理由として、筑前傳説集には次のやうな話を載せて居る。昔親一人子一人の或家で、(451)其子が不意に居なくなり、親は一生懸命に尋ねまはつたが、精魂盡きて倒れ死に、其靈が此鳥になつて今でもなほ尋ねまはつて居る。脱ぎかけた脚絆を片方はまだ着けたまゝで、家を飛び出したので斯んな足をして居るのだと謂ふ。此話は糸島郡の雷山の麓に行はれ、又寶滿山でも此山の郭公は片足が黒いといひ、やはり之を説明する子を失つた狩人の傳説がある。即ち爰では他に同じ話のあることを知らず、この土地ばかりの故事として信じて居るらしいのである。上總のクラッコ鳥と可なりよく似て居るが、此地方で親といふのは母でなく父である。さうして狩人が二人の子を見失つて、鳥になつていつ迄も尋ねまはるといふ話は土佐にもあり、東北では會津の山村にもよく知られて居るが、それにはこの片足脚絆の部分は無い。脚絆を脱ぐといふと、外から家に還つて來て始めて愛兒の居なくなつたのを知つたことになり、狩人といふ點とは打合はなくなるのだが、實は此話の今なほ人を動かすのは、淋しい山の中でいつまでも同じ鳴聲をくり返して、そちこち飛びあるく容子が、いかにも大切なものを見失つて、捜しまはつて居るかの如く聞えるからで、それ故に又是へ片足脚絆の由來を附け加へるといふのが、拙でもあれば又新らしいことだとも言へるのである。
 二、豐前京都郡行橋附近では、コンコンドリといふ鳥が片足に毛が無いと謂はれて居る。九州民俗學といふ一號しか出なかつた雜誌に其話は見えて居るが、昔この鳥がまだ人間であつた時に、親が大病といふ知らせを受けて、草鞋を片足だけはいて大急ぎで驅けつけた。それで今でも毛が無いといふのは、脚絆が草鞋にかはつてもやはり同じ系統と思はれるが、話は我々のいふ「雀孝行」、即ち雀と啄木鳥もしくは雀と燕とが、親の臨終に逢ひに來たといふものと近くなり、しかも尚親と子の別れを説くまでは一致して居る。安部幸六氏などに訊ねて見ないと斷言し難いが、このコンコン鳥は青葉木菟、即ち東國でポンポン鳥と謂ふものゝことらしく、其話も亦後節に擧げるやうに、他の地方には相應にあるのである。
 三、豐前民話集に採録した築上郡の昔話、是は又明白に郭公のことになつて居る。昔惡い繼母が父親の留守に、子(452)供を殺してそつと裏庭に埋めると、其土から竹が生えて見る/\成長する。其竹を伐つて造つた笛が、吹くと父戀しといふ音を立てたとある迄は、廣く我邦に行ほれて居る「繼子の笛」といふ話の通りで、其次に片足脚絆が續いて居るのである。此地方の郭公は片足が白く一方の足の毛は無い。父が還つて來て股引の片方を脱ぐいとまも無く、我子の行くへを探しに出て此鳥になつたからで、カッポウと啼くのはその殺された子の名だと謂つて居る。
 四、肥後の玉名郡でもカッコウといふ子が、やはり惡い繼母に殺されたといふ話がある。父が還つて來てもいつものやうに迎へに出ぬので、どこへ行つたかと尋ねると遊びに行つて戻らぬと謂ふ。まだ片足の脚絆を脱ぎもせずに、捜してあるいたが見つかるわけが無い。それでカッポン鳥といふ鳥になつてしまつて、今でも我子の名を喚んで鳴きまはつて居る。此鳥の一方の足だけに毛が生えて居るのは、脚絆を取るひまも無く飛び出したまゝだつたからと謂ふが、其カッポン鳥を郭公とは又別の鳥のやうに考へて居るらしいのは、多分は話になつて外から運び込まれた爲であり、或は又現實の郭公に、さういふ毛の特徴を認め得なかつた爲かとも思ふ(昔話研究一卷四號)。
 
          四
 
 果して鳥類に右左毛の色を異にした足をもつものがあるかどうか。そんな問題まで考へる必要が無いのかも知れぬ。現に他の土地にも類例が至つて多く、郭公の鳴聲を説明したのにちがひない話でも、是に片足脚絆の一條が結び附くと、それをカッポン鳥だのクラッコ鳥だのといふ名で呼んで、別にさういふ鳥が居るものゝ如く語ることになつて居たのは、乃ち又普通の郭公には、氣を付けて居てもさういふ足の特徴を認めることが出來なかつた爲とも考へられるからである。豐前で青葉木菟かとおもふコンコン鳥に、同じ片足草鞋の話があつたやうに、全く異なる鳥に此謡の附いて居る例が他にもある。たとへば山口縣の周防の大島で、「長吉來い」と鳴くといふ鳥などもその一つで、長吉は父が山に行つて居る留守に殺された。父が還つて來て長吉はと問ふと、お前の還りが遲いから山へ迎へに行つたといふ(453)ので、やはり脚絆を半分脱ぎかけて捜しまはり、鳴き死にゝ死んで此鳥になつたと言はれて居る。或は「幸吉來い」と謂つて居る土地もあつて、五月の頃氏神さまの森へ來て鳴く鳥だといふから、多分耳木菟のことだといふのは本當であらう(口承文學一〇)。木菟や梟の類ならば、愈以て足がどういふ風になつて居るかを、見究めることは出來ない筈で、つまりは實際の觀察から出た話ではなかつたのである。
 廣島市の附近では、梟は「要七來い」と謂つて鳴くといふことが、「安藝國昔話集」に出て居る。要七の母はたつた一人の大事な兒が、夕方遊びに出たまゝ見えなくなつたので、捜しまはつてたうとう氣が狂ひ、死んで梟になつたといふ話である。是は右の足に黒い足袋、左の片方には白い足袋を穿いて居た。それ故に今でもこの鳥は右左ちがつた色の足をして、要七來いと鳴いて飛びまはるのだといふ。白黒の足袋といふ珍らしい一點を除けば、この話は實によく全國に行渡つて居る。さうしてその數多くのものを比べて見ると、結局は鳥は何鳥ときまつたことは無く、たゞ人間が最愛のものを奪はれて、歎き悲しんで命を終り、魂が鳥に化して永くさまよひあるくといふことを、最も判りやすく説かうとするのが目的だつたやうに思はれる。從つて又同じうらさびしい一つの節で、同じ言葉を際限も無くくり返す鳥、殊に晩方から宵にかけて、里近くを鳴きめぐる鳥が、説話の主人公として迎へられたたのらしいのである。説話が成長し又複合する傾向を具へて居なかつたら、是だけの變化と保存とは期し難かつたらう。つまりは我々の祖先は靜かに鳥の擧動を觀察する能力と、時と同情とを兼ね備へて居たのである。
 
          五
 
 それにつけても是までは注意せられず、しかも隱れて大きな動機の働いて居たと思はれることが、今なほ數多く殘つて居るのには歎息せられる。親が子を失つて尋ねまはつたといふ話なども、不思議と相手は二人だつたといふものが多い。奧州では南會津のモナクナ鳥の話が、「話の世界」といふ雜誌(大正九年六月)に出て居た。元七黒七は老いた(454)る獵師の二人の子で、父を尋ねて山に入つたまゝ還つて來なかつた。父も崩れ岩に打たれて山中で死に、其靈がこの鳥になつて今でも二人の子の名を喚んであるくといふのは、少しばかり話が込入つて居るが、モナクナのナは親しい者を呼ぶときの添へ詞で、この鳥は郭公でも梟でも無いやうである。土佐西部の山中で白ベン黒ベンといふ鳥も、姿を見たといふ人も少ない鳥だが、是にも村毎に少しづゝちがつた説明がある。高木氏の傳説集に載せてある話では、惣六お千代といふ夫婦の者が、山で分れ/\に死んだといふことになつて居るが、是を親と子の悲劇として傳へた例もある。さうして白ベン黒ベンは其獵師の連れて居た二頭の犬の名で、それを舊主が鳥となつて喚ぶといふのが、前々からの言ひ傳へであつたかと思はれる。どうして獵犬が參加して居り、又その名が必ずクロであつたらうかといふことは、今はまだ解釋することが出來ぬが、九州の方では彦山の周圍、又山國川の谷合ひにも獵師鳥の口碑があつて、父を尋ねあるいた娘が鳥になり、「獵師來い黒來い」と淋しい聲で、今でも山中を鳴きまはると傳へて居り、それを又敷衍した春里長者の物語、或は井上巽軒、落合直文の孝女白菊の歌のやうな、色々の文藝の、追掛けて世に出て居るのを見れば、此話の評判のいかに高く、起りのどの位古いものであつたかも察し得られる。
 豐前の小倉あたりでは、獵師こひし黒戀しといふのが時鳥のことだと、小宮豐隆氏などは言はれる。彦山で獵師鳥と謂つたのは又別の鳥であらうから、乃ち亦一つの説話が色々の鳥に、移り動かうとして居る例である。時鳥の前生には弟殺し、或は「おと喉つゝ切つちよ」などゝ、兄弟の闘諍を説く話が最も多いが、是にも夫戀し母戀しと鳴くと傳へた例が、昔今に亙つて若干見出される。肥前五島の奈留島の時鳥は、「たん/\竹女、八やどけいた」と啼くといふが、其説明としては竹女は惡い繼母、八といふのは繼子の名であつて、父は不在の間に八の殺されたことも知らず、今なほ鳥となつてさう謂つて捜しあるいて居るといふ(五島民俗圖誌)。是などは明かに肥後玉名郡などのカッポウ鳥と同じであつて、たゞ其鳥がもう郭公では無く、且つ片足脚絆の挿話が落ちて居るだけである。
 
(455)          六
 
 旅をして鳥の話を聽いてあるいて居ると、時々驚くやうな偶合を發見する。下五島の福江で人のよくいふのは、ヨシトッカッポウと鳴く鳥は昔は人であつて、二人の子を一ぺんに失つて悲みの餘りに鳥になつた。カッポウはその弟の方の名だつたと謂つて居るが、奈留島の人たちはヨシとトクとの二人の娘、汐干狩に出て波にさらはれ、還つて來なかつたので母が鳥になり、今でも其娘の名を續け喚んで、ヨシトクと鳴いて飛びあるくといふ。日(ノ)島にも同じ話があつて鳥の名をヨウシトキ、何といふ鳥のことか知らぬといふ土地と、猫鳥のことだといふ土地とがある。九州西岸は一帶に、たしか青葉木菟のことをヨシカドリ、又ヨスケドリとも謂つて居る。多分はさういふ言葉で鳴くからかと思ふが、それにしては後に附いたカッポウが判らない。最初カッポウと鳴く鳥に就いて此話があつたのを、いつの頃にかヨシトクと鳴く鳥の方へ引移して、なほ痕跡を殘して居るのではないか。壹岐島でも昔貧乏な兄弟があつて、麥のみのる前に其弟は飢ゑて死んだ。それで毎年麥のよく熟した頃になると、出て來て「コよいコよい」と鳴く鳥がある。コはその死んだ弟の名、鳥は麥うませ鳥又クォックォー鳥とも謂ひ、梟のことだと説明して居る(壹岐島昔話集)。是も或はまた一つ前の、話の名殘を留めて居るのかも知れない。
 廣島地万の白黒の足袋と謂つた話に、「要七來い」と鳴く鳥はヨシトクと似て居る。それよりずつと東へ來て、讃岐の小豆島で梟の話として傳へて居るのが、更に一段と五島奈留島のものと近い。小豆島でもヨシトクは梟だと謂つて居る。昔大水で二人の娘を無くした母が、氣が狂つて死んで此鳥に生れ替つた。それ故に今でも夏になると、毎晩のやうにくら闇の中を飛びあるいて、死んだ娘の名を喚んであるくのだと謂つて居る。聽いてそれからつかまへて比べて見ないと決められぬが、この梟といふのも多分は九州のヨシカ鳥であらう。最近に丸龜女學校の生徒たちが、集めて來たといふあの地方の昔話を見るのに、四國の本島にも同じ話は廣く行はれて居る。たゞその姉妹の名といふのが(456)ヨシとトクではなくて、テッチョウカッチョウと鳴いて喚ぶといひ、是に又例の片足脚絆の挿話が附いて居るのである。青葉木菟の聲でも聽き樣によつては、銕よ勝よと聽えぬこともないか知らぬが、なほ最初の空想がもし自由なものだつたら、二人の娘の名をさうは附けなかつたらうと思ふ。即ちこの一つ背後にはやはり郭公の話があつて、それが追々と眞夜中まで鳴く鳥へもつて往つて、哀れを深うせんとして居たらしいのである。伊豫の周桑郡には時鳥の啼聲をスッポウカッポウと鳴くといふ處があるが、是は郭公のことにちがひない。土佐の檮原《いすはら》でも郭公をガッポウと謂ひ、爰には又ガッポウの足には片方に羽が生え、他の一方に生えて居らぬといふ言ひ傳へがある。以前は片足脚絆の昔話が、專ら郭公に附いて居た證據かと思ふ。
 
          七
 
 斯ういふ悠長な話をする機會は、又と與へられさうにも思はれぬ故に、茲で今少しく郭公のことを附け加へて置きたい。この鳥の啼聲啼き方には、我々でも注意せずには居られないが、以前數も多く又鐵砲などゝいふものゝ少なかつた時代に、是が近くの樹に來て朝から日の暮まで、飽きもせずに鳴き續けて居た村の生活を考へて見ると、子供は勿論女でも年寄でも、其聲に何等かの意味が有るものゝ如く、想像し始めたのは寧ろ自然である。其上に我々は遠い父祖の世から、靈魂が?を去れば高い處に行き、空を飛ぶものゝ形を借りて、故郷を訪れるものであることを信じて居た。盆に精靈蜻蛉の數限りも無く飛びめぐるのを見て、戒めて之を害せぬやうにして居る者が今でも多いと同じく、鳥を天馳せ使ひとして空の消息を受取つたといふ物語は、大昔このかた幾らあるか知れない。鳥の中には前の生が人であつたものがあるといふ話は、東洋一般かも知れぬが、日本には殊によく發達して居る。我々は單に大切にそれを記憶したのみならず、つい近い頃まで自らも話を考へ出して居たのである。さうして其暗示は多くの場合には啼聲であつた。鳴くといふことは聲を立てゝ人に告げることである。我々は之を聽いて空想したといふよりも、寧ろ告げら(457)れて其意味を覺つたやうに思つて居たのである。
 時鳥は昔愛情の深い弟を、疑つて殺してしまつた兄の靈が、罪を悔やんで啼き悲しんで居るのだといふことは、ほゞ全國に行渡つた昔話であるが、其話はちやうど此鳥の盛んに鳴く頃に、芽を出し次第に味が惡くなつて來る山の薯と、結び附けて説くものが最も多い。即ち壹州の麥うませ鳥の話のやうに、急いで薯を掘る季節になると、自分にばかりまづい所を食べさせたのかと邪推して、弟の腹を裂いて見た惡業を思ひ出すのである。ところが奧州の南部領だけでは、その殺された弟の靈も鳥になつて、ガンコガンコと啼いていつ迄も怨みを述べた。それが郭公といふ鳥だつたといふ話を持つて居る。ガンコは山薯のあの首の最もまづい部分のことで、私はそればかり食べて居たのになぜ疑つたといふ意味になるのだが、それはあの土地だけの近世の方言である故に、面白いけれどももう他の國には通用しない。
 「口丹波口碑集」には閑古鳥は親に不孝な鳥で、親が背なかを掻いてくれと謂つても掻いてやらなかつた。それを親が亡くなつてから思ひ出して、後悔の餘りに「掻かう/\」といつまでも鳴いて居るのだといふ。如何にも子供らしい話だが、大阪府下の北河内郡でも、カッポウ鳥は親が背なかを掻けといふのをうるさがり、足で掻いてやつたので鳥になり、岩梨の實をたべて生きて居る。さうして後悔をして親の死後、「今なら掻かう」と鳴くともいふ(近畿民俗一)。鳶とか山鳩とかあまのじやくとかゞ、親の言ひつけのいつも逆ばかりするので、親が考へて山に埋めてもらひたいのを、わざと川原に埋めよと遺言する。それだけを親の言つた通りにした爲に、雨の降る前になると心配して鳴くといふ話、是は古くから全國に分布し、或は外國から採つたかと思ふ技巧のある作品だが、明かに其影響を他の一方も受けて居る。即ちカコウカコウの鳥の聲を聽いて、やはり親と子の本意無い死に別れといふことを思ひ出したのである。信州美麻村などのは更に田舍らしい趣向が添うて居て、この鳥は昔母のいふことを聽かぬ子であつた。母が背なかが痒いといふのを掻いてもやらなかつた爲に、崖にこすり付けて自分で掻いて居るうちに、母は谷底に墜ちて(458)死んだ。それを悔い悲しんでやがて鳥になり、今でも掻かう/\と八千八聲まで鳴くといふのは(北安曇郡郷土誌稿卷二)、やはり時鳥との混合であらうが、自分などには此話をふと思ひついて、惡太郎にして聽かせた老女の顔までが、あり/\と見えるやうな氣がする。斯ういふ何でも無いあどけない説話が、なほそちこちに分布して居るといふことは、殊に我々には意味深く感じられる。たとへば話を職業にして居る者が、旅して國中をあるいて居たにしても、是には手を掛けて遙々と運ばうとしなかつたらうからである。
 
          八
 
 鳥の聲を聽けばあの世の人を懷ひ、新たな追慕の涙を最愛の者の爲に灑ぐといふ風が、恐らくは何物よりも大きな力となつて、保存にも流傳にも役立つたのであらうと思ふ。現代の書いた文藝からは既にほゞ縁を絶つて居るが、有りふれたる繼子話の葛藤の中にも、なほ民間では小鳥の悲しい歌を聯想したものが多く傳はつて居る。日本のシンドレラでは雀が稗の實を拾ひ分けて手傳つてくれる。是を亡き母の許から送られたやうに、話して居る例も稀にはあつた。或は煮え立つ大釜の中で煮殺して、背戸に埋めると竹が生え、竹を伐つて笛に吹くと父戀しの音がしたといふ代りに、そこに鶯が來て同じ言葉をくりかへしたといふのもあつて、我々は之を「繼子と小鳥」といふ名で分類して居る。紀州の鞆淵村の昔話には、杣人に三人の子があつて後添の母に憎まれ、父の辨當を持つて山に行く途中、谷へ突落されて三人ながら死んでしまふ。それを少しも知らずに還つて來た父が、日が暮れてまで尋ねまはつて死んで鳥になり、今でもワコウワコウと鳴きつゞけるといふなども(  土俗と傳説二)、明かに北九州の片足脚絆、又は「たん/\竹女」と同じ話であつた。しかもワコといふのが上流の家の息子の稱で、杣などする者の子のことで無いのを、もう知らなかつた人々の作である。
 山へ食物を運んで行くといふ話は、山鳩の前生に就いてもよく語られる。炒粉を晝飯の代りに畠に居る父へ持つて(459)行く途で、谷川の魚と戯れて其粉を皆魚に撒いてやつた爲に、父親は餓ゑて死んでしまつた。それを悲しんで其少年は鳩になり、テデェコォケェ・アッパツウタァ、「父よ粉を食へ母の搗いた」と鳴いて居るといふなどは、如何にも東北風な侘びしい空想であつた。多分山野遠く出て働く日が、殊に諸鳥の數しげく去來する季節であつたから、自然に空腹とか辨當とかを考へたのであらう。山村住民の觀察は驚くべく精確であつた。甲斐の昔話集にも郭公は前生が惡い繼母だつたといふ話がある。山の畠で麥苅をする日に、繼子に辨當を持つて來させて、下へ來ると上へ行き、上へ來ると又下へ行つて、何べんでもあるかせて居るうちに疲れて其子が死んだといふ。實際今でも郭公はさういふ擧動をするのである。早來といふ名も今は別種の説明のものしか傳はつて居らぬが、或は斯ういふ話の動機にもなつて居たのかも知れぬ。とにもかくにも昔話はよく變化をした。さうしてその最初の感情のみは、常に人知れず下に流れて居る。
 だから或は片足脚絆の起りなども、動物學の人たちがまだ氣づかない、何等かの特徴によつたものでないとは斷言し得ない。たとへば横から見た郭公の足の内側が殊に白いので、左右ちがつた足をして居ると思つたとも見られる。しかし是が轉じて色々の闇に鳴く鳥に移り、又は一方に毛が無いとも、足袋や草鞋の片方ともいふのを見ると、原因は或はもう少し古い所に存し、それを説明は出來なくなつても、まだ感情としては遺傳して居るのかも知れない。もしさうだつたら今後も氣をつけて、他の未知の地域を採訪する必要があると思ふ。私の考へて見たいのは、昔話の作者は、以前土地々々の素朴な兒女老人であつて、專門の説話業者はもと單なる運搬人に過ぎなかつたのが、追々に我手で加工もし製造もするやうになつたことは、ちやうど農産物の販賣なども同じで、日本では今なほ其餘風が殘つて居るのではないかといふことであつたが、それを討究する爲にもやはりこの片足脚絆のやうな、不可解なる趣向の分布して居る理由を知ることが必要である。二つあるものゝ一方といふことに、何か特別の深い意味があつたのでは無いか。行々子が前生は人の家の下郎で、誤つて人の草履片足を失つて首を斬られ、それを憤つて鳴くといふ話も考へ(460)合せられる。この話は私なども七八つの頃に、父に教へてもらつて永く記憶して居るのだが、父は或時又斯ういふ話もしたことがある。作書に據つたものか、自分でこしらへたものか。多分前者とは思ふがそれにしても古いものでない。郭公の話を書いて居て、頻りに其日の事を思ひ出すので、哀慕の餘りに爰に記して置く。曰く、
  昔々おまへ見たやうな惡戯な兒があつたさうな。雀を黐竿で刺したところが遁がしてしまうたさうな。それから其あした寺子屋に行つて、大きな聲で手習の本を、「昨日は御取持下され忝けなく存じ候」と讀んで居たさうな。さうすると窓の外へ雀が來て口眞似をして、「昨日は御とりもち下され、片足毛無く候」と謂つたさうな。それでおしまひ。
 鳥が物を言つたといふことゝ、片足に毛が無いといふことゝの二つの點だけは、斯ういふたわいもない作り話の中でも、なほ新たに發明せられたもので無かつた。どんな小さな我々の一言一行にも、ぢつと見て居ると傳統の絲は曳いて居る。鳥は年々に生れ、人は年々に老いるけれども、なほ其中を透してなつかしい親々は語つて居る。
 
(461)     食はぬ狼
 
 村岡淺夫君の「藝備昔話の研究」に、昔々貧乏で活きて行く望みの無い男が、夜中に家の後の山に登つて、狼さんたち私を食うて下されと言つて横になつて居る。北からも東からも西からも、ごそ/\と音をさせて狼が出て來るけれども食はうとしない。早う/\と催促をすると、なんぼう食へ食へいうても爰にや食ふ狼は居らんけえ、もういぬるがよいと謂つて、狼のマヒゲといふものを拔いてくれた云々といふ話が出て居る。双三郡作木村の、高等小學二年の女生徒の覺えて居たもので、惜しいことには少しの脱落がある。
 狼の睫毛は寶物であつた。是を目にあてゝ人を見ると、心の人でない者の姿は獣にも見え鳥にも見えて、眞人間とのちがひを見別けることが出來た。同じ話は奧州の方でも、「雉の一聲の里」などゝいふ名稱を以て、女がこの狼の眉毛で未來の夫を探しあてたといふ、炭燒長者系の昔話が行はれて居る。或一地の住人の空想でなかつたことは明かであつて、是がどうして分布し又保存せられて居たかには、小さくない興味があるのである。
 しかし私の今知りたいと念じて居るのは、別になほ一つ、斯ういふ頼まれても善人は食はぬといふ狼の話が外國にも有るものか、はた又日本だけの特産であつたかといふ點である。ほんの近年の文藝作品壺坂靈驗記にも、毎夜我夫の病眼を開けてもらはう爲に、信心に山に登つて行く貞女には保護を與へ、それを害せんとした惡者はすぐ食つてしまふといふ、畏ろしく判定力の進んだ狼の群が、あの健訟の弊を以て有名な地方に、住んで居たといふことが想像せられて居るのである。さうして是が又傳統ある我々日本人の、一つの自然觀でもあつたらしいのである。
(462) 狼が人の恩誼に報ずるの念に厚く、今の言葉でいふと義理固い獣類であつたことは、既に數多くの實例が記憶せられて居る。最も古くからあるのは咽に骨を立てゝ、それを拔いてもらつて禮に來た話、或は喧嘩をして居たのを仲裁してやつただけでも、非常に感謝せられたといふ話さへある。それから子を産んだ時に産見舞を持つて行つてやると、その重箱に鳥などをオタメに入れて、そつと返しに來たなどゝいひ、又は送り狼には門口の戸を閉てる前に、大きに御苦勞でござつたと一言挨拶をせぬと、怒つて家のまはりを荒して行くと言つたり、又は山中で狼の食ひ殘した野獣を拾つたとき、代りに少量の鹽を置いて來るか、少なくとも肉の一部分を殘して來ぬと、いつ迄も覺えて居て仇をするとも言ひ傳へて居るが、是等は何れも皆人間の側からの働きかけがあつて、其反應だといふのだからやゝ信じやすい。言はゞ我々の方にも少々の心當りがあつたのである。しかしそれにしたところが、他の獣にはあまり言はぬことを、どうして狼だけにはさう言ひ始めたものかゞ問題になる。所謂靈獣思想が特に狼に於て濃やかであつたことは、オホカミといふ一語からでも若干は推測せられるのである。
 東京の近くでは三峯御嶽、遠州の春野山や山住神社、但馬で妙見山といふ類の信仰は、まだ多く知られざる小區域に、神職無しに保管せられて居るものが多いかと思ふ。尋常片々たる田畠の害鳥獣を驅除するといふことまでは、或は本能の過信とも見られようが、夜行く人の中から惡人と善人、盗賊と番の者とを見定めて、一方だけを咬むといふことは、單なる主神の神コを實行するだけとは考へにくい。つまりは此獣の持前の力に、狗の嗅覺以上の何物かゞあつたこと、及び本來はさう矢鱈に人を食はうとするもので無かつたこと、この二つの信用がもとは遙かに今よりも高かつたので、狼の睫毛を目に翳すと、よくない人の姿が猫にも鳥にも見えたといふ昔話なども、それから岐れて出たものとして、漸くその成立の事情が明かになるのである。
 支那の近世の所謂小説の中には、雷電にさういふ超人的刑罰權を認めた話が多い。沖繩ではつい此頃まで、ハブは心のまつ直ぐな者には咬みつかぬといふ信仰が行はれて居た。以前は兩者の害が比較的少なかつたか、もしくは人に(463)知られなかつた結果かと私は考へて居る。其害が現實に少しづゝ増加して來ても、なほ當分はよくも推斷せずに、昔のまゝの考へを持續することも出來たものらしい。一生何等の惡聲を聽かなかつた好々爺でも、雷に打たれて死ぬと何かの隱し事、天のみ知る罪惡があつたらうといひ、且つ又さういふものを見つけ又こじつけようとした。支那ではそれでも濟んだが日本の狼の害は、到底さうしては居られぬやうに、近世急激に増加して居たのである。過渡期の俗信は文藝と共に、どうしても混亂を免れなかつた。是を平靜に理解する爲には、事實を粗末にしない民俗學の活躍が、何と言つても是からは必須であらう。
 
 (追記)
 宮本常一君が最近公けにした「吉野西奧民俗採訪録」三九四頁に、やはり備後と同一の話が、大和吉野郡の大塔村にも行はれて居ることを記して居る。狼が人語して、「お前はあたり前の人間だから喰ひ殺されぬ。わしは人に生れて居ても畜生であるものだけ喰ふのだ」と語つたとある。その狼から貰つた一本のマヒゲを持つて、四國を遍路したといふ事實談のやうな形で語られて居る。
 
(464)     味噌買橋
 
 飛騨の高山に斯ういふ名の橋が今でも有るかどうか。いろ/\捜して見たが少なくとも書いたものには無いやうだ。誰か年寄などで記憶して居る人はあるまいか。尋ねてもらひたいものである。澤田博士の續飛騨採訪日誌の附録で、最近に集められた丹生川の昔話には、その味噌買橋の話といふのが出て居る。話者は婦人で母から聽いたといふのだから、新らしい輸入ではない。其筋をざつといふと、
 むかし丹生川の澤上《さうれ》の長吉といふ正直な炭燒が夢を見た。高山の味噌買橋に行けば好い事があるといふ夢で、早速出かけて來て橋の上にいつまでも立つて居ると、そこへ橋の袂の豆腐屋の親爺が、遣つて來てどうしたと尋ねる。長吉の答へを聽いて豆腐屋は大いに笑ひ、夢をまに受けるとはおろかなことだ。わしはこの間から乘鞍の麓の澤上の長吉の屋敷の杉の樹の下に、金銀が埋まつて居るといふ夢を見るけれども、夢だと思ふから氣にも止めないと謂つた。長吉はそれを聽いて、歸つて我家の杉の根をほつて忽ち大金持になつたといふ。
 G.L.Gomme の著、Folklore as an Historical Science の卷頭に掲げられた一話は、この正直な炭燒を a pedlar(行商人)に、豆腐屋をたゞの一市民に、高山の味噌買橋を London Bridge に取替へれば、九分五厘まで同じものである。英國の方では乘鞍麓の澤上の代りに、Norfolk 州の Swaffham と、Yorkshire 州の Upsall との二地に此話が傳はり、現に其長者の建立したといふ寺もある。さうして前者には二百八十六年前からの記録があり、後者も大分久しい口頭の傳承があつたらしい。ゴンムは英人だから、倫敦橋の有名であつた點に重きを置いて説いて居るが、(465)さうすると日本の飛騨高山の味噌買橋はどうしたといふ疑ひがいよ/\小さな問題では無くなるのである。
 それよりも更に大きな問題は、誰が如何なる方法で運んで、この地球の兩端とも謂つてよい二つの國に、共通の昔話を分布せしめたかといふことである。偶合だといふのにも大よその限度があつて、是などは明かに同じ一つの話といふことが出來るからである。橋で埋れた財寶の所在を知つた話は世界的で、英國以外にもまだ數多くの例があることは、グリムの Kleine Schriften の中にも色々比較がしてあるさうだが、夢の交換を中心にしたものが他にもどれ位あるだらうか。私は此本を持たないからまだ受賣することが出來ない。日本の文獻で是に近い話は今昔物語に、占者が死後に今一人の占者の來ることを豫知して、それまで財寶を匿して置くといふのがあるが、是は又支那のものらしい匂ひがする。橋で福運に行き當つた話は、捜せば日本にもあり、夢に金銀の所在を見つけて、友人が脇に居てそれを知つたといふのは、蜂の話となつて幾らも國内に傳はつて居るが、二者が斯ういつた形で結合したものは、この味噌買橋の話が私たちには始めてゞある。
 一番無造作な想像としては、初期の英米の宣教師などが、覺えて居て此話をして聞かせたといゝふこともあるが、恐らく彼等のロンドン橋を、味噌買橋とは飜案しなかつたらうのみならず、別に今一つの反證といつてもよいものがある。英國では比較的遲く筆録せられた異傳に、更に一條の後日譚が附いて居て、其分は丹生川村には傳つて居ない。行商人は村に歸つて、夢に教へられた樹の下を掘ると、黄金珠玉の充滿した壺が現はれ、其壺には讀めない文字が彫りつけてある。それを何食はぬ顔して表へ出して置くと、通りかゝりの一書生が、又は見馴れぬ猶太人が立止つて讀んで行く。「私の下にはもつと好い物がある」、もしくは「更に深く求めよ」といふので、急いで同じ場所を掘り下げて見たら、果して更に大きな財寶の瓶があつたとある。ところが此話も別に又一つ我邦にはあつて、是は英國のよりはよく出來て居る。土橋里木君の續甲斐昔話集に、東壺屋西壺屋といふのがそれで、此方は蜂の夢の話の續きである。二人の旅人の一人は覺めて居て、友の睡中の魂が蜂の形になつて出て行つて、金銀の在りかを突留めたのを見た。友(466)が其爲に大金持になつたことを知つて、訪ねてその寶の壺を見せてもらつたとき、何心無く壺の裏をかへして見ると、「都合七つ」といふ文字がそこに書いてあつたといふ。それを二人で分けて二軒の長者が、軒を竝べて榮えたといふのは心地よい話だが、この日英兩國の挿話も、兩種別途のものではあるまいと思ふ。
 是から考へて行くと、少なくとも以前今少し長く變化のある形が、この味噌買橋の昔話にはあつて、飛騨へはやゝ切り詰めた話し方で入つて、人心を捉へたものゝやうである。さうして魂が小さな蟲の姿になつて、鼻の穴から出て遠くへ夢を見にあるいたといふ話も、類を同じくする昔話として、混同して記憶せられたことがあつたのかと思はれる。飛騨の澤上を發した丹生川の谷あひの流れが、乃ち倫敦橋下の水だといふ證據にはならぬまでも、我々のまだ省みない小さな事實は、?彼等の爲の大切な解釋になる、といふだけは是で明かになつた。我々の智慧の大海は一續きに續いて居る。今はたゞそれが餘りにも茫洋として居るのみである。
 
 
 飛騨の味噌買橋とほゞ同じ口碑が、西部獨逸には四つまでかたまつてあるといふ報告を、獨逸民俗學會誌一九卷三號(一九〇九年)で發見した。橋の名は爰ではコブレンツの橋、又マンハイム、ビルゲン、マインツの橋と、四つの土地に變つて居るが、其中で第一の話には幸運の賤の男を、新リンツェンベルグのエンゲルといふ家の主人とし、現に其土地には十六世紀の初頭に建てたといふエンゲル家が殘つて居るから、此話が最も古く、他の三つは引移したものだらうと報告者は論じて居る。
 編輯委員のヨハンネス・ボルテが之を批判して、同じ話は西暦一千五百年よりもずつと前からあるのだから、建物があるといふだけでさういふ解釋は到底出來ないと述べて居るのは、尤もな説である。グリムの小篇集以外にも、既に此比較を試みた學者が數人あり、更にボルテ自身の引用したものだけでも大分の數である。必要があつたら他日誰(467)かに譯してもらふとして、爰には自分が問題にしたい點だけを紹介すると、先づ一千一夜譚中の一話に、バグダットの一富人、一旦其富を失つて懊惱する折から、深夜不思議の聲あつてカイロに往つて福運を得よと教へられる。埃及では盗人と疑はれて入牢するが、彼の旅行の目的を聽いて役人が大いに笑ひ、そんな夢なら自分も三夜つゞけて見たバグダットの是々の泉のほとりに、莫大の財寶が埋まつて居るといふ夢だとの話、其泉がちやうど自分の家の隣なので、大急ぎに歸つて來て掘り出して再び大金持になる。橋といふ一點だけを除けば全く同じ話で、是は十世紀終頃のアラビヤ人の著述等にも出て居るから、起りは最も古いといふ。二つの夢の行きちがひによつて、寶の所在を知るといふだけの話ならば、他にも古い話が東方には多く、又ボルテが多分同系統の言ひ傳へであらうと謂つて擧げて居る猶太人の一記録では、旅行をするに先だつて賢人に夢を解いてもらふと、カッパドキヤヘ行けといふ夢の告げは、二十番目の腰掛の下を捜せといふ謎であつたので、わざ/\出かけるに及ばず、早速に親の隱して置いてくれた財寶が見つかつたことになつて居て、此方はいよ/\今昔物語の占なひの名人の話と近くなつて居る。
 話の要點が、つい眼の先に隱れて居る幸運を、わざ/\遠くへ出かけて教へられて來るといふ所に在るものとすれば、根源はまさしく亞細亞大陸であつた。たゞ我々が特に興味を抱かずに居られぬことは、その出來事の舞臺を橋の上としたものが、シリア・アラビヤには全く無くて、歐洲の類話は悉く皆橋となつて居ることである。ボルテは丹念にも數十個所の實例を例擧して居るが、それは何れも我々が捜して見ることも出來ない本ばかりだから、受賣をしてもし方が無い。要するに少しでも名を知られて居る都府に架つた橋には、此話の無い方が珍らしいといふ程度なのである。其うちで最も古いと見られるのは、シャルル大帝の若い頃の逸話奇聞を集めたと傳へられる Karlmeinet であるが、是には先づ巴里の橋が出て來る。亞刺比亞夜譚の方では埃及に出かけて、冤罪で牢に入れられて後に好い話を聽いたのと同じに、こゝでも夢の告げに巴里の橋へ行けば、苦と樂とを受けるだらうと教へられてそこへ行くと、橋番の兵士が馬鹿なやつだと言つて、先づ棒で擲つて置いてから自分が見た夢の話をしてくれる。是一つから見ても十(468)字軍の時代に、小亞細亞から持込んだ話の種であることが判ると、ボルテは謂つて居る。
 それに反對する論據は現在はまだ一つも無いが、こゝに問題になるのはどうして歐羅巴では話が皆橋になつて居るかといふことゝ、寧ろ距離からいへば原産地に近い日本に、なほ且つ飛騨の味噌買橋があるかといふことである。明治初年の外人宣教師が、譯して聽かせてくれたらうといふ想像は少しも根據がない。假に高山の町の人が知つて居り、又もつと堂々たる兩國橋とか五條の橋とかになつて居ても、私にはとてもさうだらうかとは思はれない。一つの解釋は此話の運搬が、少なくとも歐洲に於ては架橋土木の發達期に遭遇し、都會はもとより田舍の人々も、新たに架つた橋を評判にして居た際だつたので、話者が其中心をこゝに置いたのが、偶然にも大いに當つたのでは無いかといふことである。更に一歩を進めての想像は、橋が新らしい文化の表現であつた故に、是が占なひや呪なひの場處に使はれ、最も神秘を説くのにふさはしかつたので、話者も之を選び聽く者にも印象が特に強かつたのではないかといふことである。橋に伴なふ不思議話は日本なども決して乏しい方ではない。何れにしても、最初は單によその國の珍らしい昔話を、意識して移植したものであつたのが、餘りにあの橋の上でといふ條に、力を入れて説き又は聽いた爲に、終に其固有名詞と不可分になつてしまつて、隣地に同じ話があるのを知ると、すぐに盗奪ででもあるかの如く互に思ふやうになつたらしいのだが、斯うして多數の類例をならべて見ると、それはたゞ説話業者の技巧であつたことが明かになるのである。日本で白米城といふ傳説なども、變形の事情がよほど是と似て居る。
 
 (附記)
 武田明君の集録刊行した「西讃岐昔話集」三五頁に、香川縣西部の「味噌買橋」が二つ發見せられて居る。その一つは京の五條の橋、今一つは話者の居村と隣村との堺の無名橋だが、夢を見てそこへ尋ねて行つて人に笑はれ、同時に其人から自分の村の或樹木の下に、寶の埋まつて居ることを教へられた點は、飛騨のものと全く同じである。古くか(469)らのものとは多分言へまいが、假に説教僧などが珍重してもちあるいたとしても、彼等は西洋の書物から學んだ氣づかひは無い。どこかに隱れてもとの種子はあつたのである。或は今にその出處もわかつて來ようも知れぬ。
 次に高山の味噌買橋は、今でも此の地方の人たちの皆知つて居る橋の名で、表向きの名を筏橋といふ橋のことであつた。現在はコンクリート造り、その前は板橋、又その前は一本橋であつた。橋の此方に大きな味噌屋があり、對岸から買ひに來るのに、是を渡るのが最も便利であつたので此名がある。味噌屋とも言へないので豆腐屋にしたものであらう。
 それから今一つ、岩崎敏夫君の磐城昔話集に、「運の玉」といふのが同じ話であつた。出羽の本楯村の桃助といふ男が、江戸の日本橋へ行けば寶が得られるといふ夢を見た話になつて居る。
 
(470)     「壹岐島昔話集」
 
 此集の興味は色々の點に見出されるが、あまり長くなるから序文には、たゞ率直な讀後感を述べて置かう。特に面白いと思つた昔話がこの中に十ほどある。動物説話に於ては「かせ掛蚯蚓の由來」(八四)、是などは或は壹岐で生れたのかも知れぬ。少なくとも他の土地にはまだ之に近いものが無い。話の運びが自然であつて、しかも若干の智巧が加へてある。もとの形はずつと違つたものであつたのを、島の閑暇の多い人たちが、出來るだけをかしく話しかへたものであらう。時代は機織りの最も盛であつた頃と見てよい。
 所謂本格昔話の中では、鶴の話(一一二)などが私には新らしい。鶴を助けて長者になつた話は、普通には鶴が美しい女房になつて來て、毛衣を織つてくれることになつて居るのだが、此方は鼠の穴に招かれた話(二九)の影響を受けて改作せられて居る。前者を「鼠の淨土」と呼ぶのが習はしだから、私は是をも「鶴淨土」と謂つて置きたい。此形は至つて古いもので、今昔には既に小蛇を助けて其家へ招かれた話がある。但しこの鶴の婆の方には、婚姻はもう説かなくなつて、元日から七日まで男を引留める理由を、積重ねて行く所に童話式の興味を求めて居る。職業的説話者の介在を推測せしめるものである。
 次には一寸法師の系統に屬する豆藏の話(一二一)が、御伽草子と因州の五分次郎などゝの中間に立つものとして珍重せられる。プチ・プーセの研究に苦心して居る西洋の學者たちに、早く知らせてやりたいやうな好い例である。彼等の意外とする説話の類似が、日本に數多くあることは此頃になつて判つて來たのだが、それが斯ういふ海島に見(471)出さるゝに至つて、殊に學問上の意義は大きいのである。荒唐を極めた「手無し娘」の話なども、壹岐では川に洗濯に出て來た女(五四)となつて、もう餘程磨滅して居るやうだが、其同形は遠く地を隔てゝ、出雲と奧州とでもつと詳しいものが採集せられ、しかも一般に日本の例の方が説明は古い。無暗に南蠻貿易時代の、舶載とも斷定し得られぬのである。
 それから問題となるのは寶蓑(一一四)、是も全國に行渡つて居る説話ながら、他では寶物を交換した相手の方を、狐と謂ひ又は樹上に憩うて居た天狗と稱して、大分化物退治譚に近づけて行かうとして居るのに反し、壹岐のは歳コ神を欺いたことになつて居るのが非常に珍らしい。多分は機智によつて神の恩寵を博し得た話の、次第に滑稽化して來た路筋を示すものとして、後々重要なる資料となるであらう。それと稍似て居るのは河童と飴(六六)の話である。持つて生れた運勢は人力では變へられぬといふ前代の話し方を、後には誠に些細な方法を以て、左右し得た樣に説くことになつて、中心は次第に移り動いたのだが、しかも神の言葉を立聽きしたといふ點のみは、なほ最初のまゝで附纏うて居るのである。
 ぼら賣吉五郎(一四〇)の話もよく變化して居る。是を一撃七頭の仕立屋の童話と同じものだと謂つても、ちよつと承知する人は無いか知らぬが、我邦では是が驚く程度に土地毎の改作を受け、薩摩の南端に行はるゝものゝ如きは、優に一册の書卷をなすばかりに成長して居るのである。是には底に幽かなる反抗と皮肉とがあつて、必ずしも當初童男童女の爲に、結構せられたもので無いことは察せられる。話者が男であり、聽衆が壯年の人々であつた時代が、島や海岸の作業團體に於ては、可なり久しい後まで續いて居た結果では無いかと思ふ。もしさうだとすれば此集の刊行は、特に笑話の發生を研究せんとする者に、有力なる資料を供與するものと言ひ得る。
 昔話の分類といふことについては、山口氏はまだ心を勞して居られぬらしいが、今はもうその時期である。たとへば話を現在の形まで持つて來た者が、女性であつたか、はた之を職業とする人々か、乃至は素人であり又男子であつ(472)たかを考へた上でないと、是を手掛りとして上代の信ぜられた説話の、如何なるものであつたかを見出すことは出來ない。又それが出來ぬやうなら、今更斯ういふものを數多く竝べて見るにも及ばぬので、事情の懸け離れた一孤島の採集が、格別に價値ある理由も亦それからのみ説明し得られるのである。自分などの見た所では、此集の傳承者の三分の二以上が男であつたといふことは、島に笑話のよく發達してゐることゝ、偶然ならぬ關係があると思ふ。男は大いに笑ふ權利を持ち、又人を笑はせる任務をも負はされて居たからである。しかも其間に在つて、尚多くの繼子いぢめの話のやうに、終りの物悲しい涙小説が保存せられ、一方には又至つて罪の無い御伽話の傳はつて居たことは、少なくとも其保管に就て、島の女性も亦決して不熱心で無かつたことを證明する。たゞ殘念なことには他の地方も同じ樣に、總體に昔話は既に圓熟の期を過ぎて、採集が間に合はなかつた感じはある。前に掲げた手無し娘の例を始とし、皿皿山(七五、八三)でも食はず女房(八七)でも、牛方山姥(二二、三六)でも又天道さん金の綱(三二、八八)でも、折角殘つて居るのが今は皆破片で、單に斯ういふ分布が曾てあつたといふだけを、知らしめるに留まるのは是非も無いことである。
 最後に私は此集を精讀することによつて、將來の採録をどうしようかの問題に逢着した。昔話の地方的相違は、研究者にとつて一つ/\の意味はあるが、いつ迄もその一部分の變化によつて、同じ話を列擧して行くわけには行かない。簡單なる「魯か聟」や「おろか村」の話に於ては、今でも早我々はうんざりさせられて居る。爰にもさういふ笑話なら在るといふだけを、明かにする方法が欲しいものだと思ふ。長い古典的の昔話に於ても、出來るならば明確な名稱をきめ、代表的の一話を掲げて置いて、それと違つた部分のみを報告することにしたらどんなものであらうか。勿論幼少の頃からの親しみもあつて、誰しも我土地のものを古い形と考へたがるであらうが、それにも亦おのづから限度がある。あまり短かく前後の切れたものや、中に繼ぎ目があつて二つ以上を結び合せたものなどは、寧ろ今一段と纏まつた形の話が、早く何處からか出て來ることを希望せしめる。我々の取扱ひ方は、どうしても二通りにならなけ(473)ればならぬと思ふ。即ち世間に有りふれた昔話、もしくは破片になつて居るらしいものは、簡略に話題と要領とを掲げて、その分布の實  状を明かにするに止めると同時に、一方特に珍らしいか又は大よそ完備して殘つて居ると思はれるものは、十分丁寧に其原形のまゝを保存するやうに骨を折る必要がある。壹岐のかちかち山(三一)は成程變つた型で、遠く奧羽の方には是と近いものが行はれて居るが、所謂標準御伽では、もう狸が爺に縛られるまでの經緯は説いて居ない。だから此話を實際話して貰つた文句のまゝに、記録しようとした編輯者の用意には感謝する。たゞ同じことならばも少し粗末でもよいから、尚他の十餘篇の主要な昔話にも、其方法が應用して貰ひたかつた。たとへば文福茶釜の童話の一例、實伊と狐(一二七)といふ話なども、恐らく色々のをかしい問答があつたのであらう。他の地方に殘つたものは多くは破片で、是だけ筋の通つたのが實はまだ見付かつて居ないのである。是を他の色々の笑話類と一つに、小學校童話式の新文體に書改めてしまつたことは、如何にも氣遣はしく又惜しい感がある。壹岐に昔風の話好きが絶えてしまはぬうちに、殘りの部分をもう一度、別な方針によつて採集して貰ひたいものである。
 
 (追記) この序文をかいてからの二十數年間に、多くの昔話が採集せられ、從つて補充しなければならない資料は數へ切れない。引用した一つ一つに亙つて列擧して行く煩を避けて、比較的數多く集つて居るものを記すに止めたい。中でも最初に述べた「かせかけ蚯蚓」などはその著しい例で、私はそれによつて「マハツブの話」といふ一文を發表して居る(母の手?歌所收)。
 青森縣八戸地方 「テッチヌケの話」(昔話研究二ノ十二)。秋田縣鹿角郡 「ホンジキとマハチブ」(昔話研究一ノ三)。岩手縣稗貫郡 「ホホズキとマハツブ」(口承文學九ノ二)。大分縣大野郡 「蚯蚓と蟇」(直入郡昔話集)。香川縣志々島 「雀と?」(讃岐佐柳志々島昔話集)。鹿兒島縣喜界島 「雀と川蝉」(喜界島昔話集)。奄美大島 「ユンドゥリ(雀)と木チキャ(木つゝき)」(奄美大島昔話集)。
 
(474)     「島原半島民話集」
 
 昔話攷究の同志者として、著者關君と私とは、出來るだけ無我の心を以て、この集の後世に於ける價値を話し合つて見た。關君は以前は最も多く傳説に興味をもち、郷里で少年の頃から聽いて知つて居ることを、それも變名などで折々公表するのみで、民譚は餘りにたわいが無いといふ風な考へを抱いて居たらしいが、一たび「桃太郎の誕生」の類の僅かばかりの暗示に由つて、卒然として二者の相關を看破し、この民間文藝の大いなる地下流の行くへを究むべく、特に便宜の多い或一つの清き泉の邊に、生れて育つた自分であることに心づいたのである。さうして是は確かに學者が半生を捧げても、惜しくはない程の深い問題だと考へるまでになつて居る。今日の時節、諸國昔話のやうな茫漠たる民間の事象に、斯ばかり意を惹かれるといふのは稀有の例である。私にも少しく心當りがあるが、多分は隱れたる家の遺傳の致す所であらうと思ふ。
 話を聽きたがらぬ子供といふものは、それは尠いかも知らぬ。たゞ其中には幾通りかの種別がある。普通には次々の見聞の下積みにしてしまつて、程無く忘れて行く者が多いのに反して、妙に一ぺん聽いたことのある話をいやがり、胸に目録を作つて其數の増すことを念ずる兒もある。斯ういふ兒は概して記憶がよく、成長して昔話の群に關與せぬ齡になつてからも、黙つて傍聽して居て自分の記憶との異同を比較し、もしくは初期の説話を珍重する。老いて精確なる傳承者と評せられるやうな人は、多くは斯ういふ氣質の者の中に在つた。同じく昔話の上手といふ老人でも、孫に責められて漸う昔を想ひ出し、多少の誤謬は承知の上で話すやうな者と、若い忙しい頃から昔話となると氣がはず(475)んで、時には進んでも誰かにして聽かせたいやうな、活き/\とした記憶を貯へて居る者とがあり、後者にも聽手の悦ぶといふ點に興味をもつて、能ふ限り面白く又は爲になる樣に話さうとする人と、聽いて置いたゞけを是非聽かせて置かう、斯うして昔から傳はつて來たのだからと、忠實に古傳を守らうとする人とがあつて、女性には後の方の型が多いかと思はれる。近年亡くなられた關君の御母さんも、何かは知らずよほど澤山の昔話を、暗記して居られた樣子である。それを一つ/\細かに問ひ尋ねるまで、息子の學問がまだ進んで來ぬうちに、永い別離を見たのは、二重の悲しみといふべきである。親は有難いものであつたといふことを、孤兒になつてから私などもしみ/”\と感じてゐる。
 關君の母御は、果して何れの型に屬する説話保管者であつたらうか。それが先づ考へて見たい問題である。此集に出て居る姪の話といふのは、何れも其おばあ樣から聽いたものばかりだと云ふが、之を讀みかへすと何箇所とも無く、ずつと以前に母からか誰からか、聽いて覺えて居るのと違つた點があると、關君は謂ふのである。それはこの愛慕すべき老婦人が、同じ昔話の色々の話し方を知つて居て、一つを男の子に、他の一つを幼ない孫娘に、分配して與へられたものか、但しは又時や氣分や相手の兒の年頃などに應じて、少しづゝ作爲加減して話すだけの技能をもつて居られたのであらうか。其不審を散ずべき機會はもう來ないであらうが、大體に女性は物語を職業とする者までが、古傳の改刪には臆病であるのを例とする。肥前の島原ばかりにそんな大膽な氣風が、あつたと想像するのは無理だらうと思ふ。たゞもし人が昔話を好み、聽けば片端から記憶の引出しに、仕分けて藏つて置くだけの熱心さへ持つて居たならば、此地方はちやうど其望みのまゝに、一つの説話のさま/”\の小變化を幾つと無く拾つて竝べてみることの出來る時代に、入つて居たのかも知れぬといふ事は言ひ得る。我々の採集事業は、いつもこの時期といふものゝ牽制を受けて、必ずしも骨を折る程度と比例して、よい成績が擧がるとはきまつて居ない。殊に民譚に在つては其條件が力強くて、折角の優れた傳承者の値打を、時期の不利が割引することさへ有るといふことを、關君も私も此實例に依つて、(476)經驗しようとして居るのではあるまいか。
 田中長三老の場合は、我々に通切なる着眼點を供與する。此老は淋しい人生の旅人であつた。あらゆる土地と境涯の耳學問と共に、生れながらの話ずきの素質を抱きかゝへて、ぽつねんとして聽いてくれる人を待つて居た獨り者である。老翁の話には似合はず、彼のもたらすものには新鮮味があつた。話題は在來の範圍を出ないで、往々に粗野に過ぎたる一部の改造がある。海から運ばれて來た民譚の常として、久しく成長した男子のみの間に、是が取囃されて居た痕跡は顯著であつた。童話が單純無難の筋を悦んだのとは反對に、是には聽衆の興を高める爲に、聊か事を好んだやうな話しかへが幾つかある。此老が世に媚びてそれを敢てしたとも斷定しかねるが、少なくとも斯ういふ形を面白しとして、故郷の湊にまで持つて還つたことゝ、土地にも之を毛嫌ひして棄てさせようとするだけの、律義さはもう無かつたといふことだけは推測し得る。岩倉市郎君の喜界島昔話、壹岐の山口君の未刊の説話集などゝ比べ考へると、此?態は必ずしも外部の感化だけで無い。話をいつでも滑稽の方へ、又出來るだけ奇拔な展開に、導かうとする趣味は流行である。濱から荷揚せられる成人用とも名づくべき昔話が、いくら新しい色彩を帶びて來ようとも、陸上の老若男女の「昔」に對する考へ方が、古風であつたならば融合する氣づかひは無い。江戸であれほど盛んだつた落語が、種は往々にして同じでありながら、まだ家々の童話を變形し得なかつたやうに、二者は兩樣の待遇を受けて併存するか、もしくは異端として一方は片蔭に潜んだことであらう。グリムを譯して見せれば、忽ちにしてグリムの空想に、かぶれるといふ近代の説話界の如く、一種の文藝自由が既に此土地にも進出して居なかつたら、斯んな新しい話し方の移植は出來なかつたことゝ私は思つて居る。勿論その變遷にも原因はあり、交通は又一つの別の力であつたかも知らぬが、それは徐々たる影響で、二三の旅人は言はゞ機運に乘じた迄である。即ち社會がその内部に於て昔話の改造を念ずるやうになつて居たといふことが、この著しい地方的變化を招いたのであつて、所謂民間説話は結局は滅びるもの、急いで僅かに殘つたものを掻き集める必要があるといふ、悲しい推論も是から出て來るのである。優れ(477)た傳承者の資格を具へた者が假にまだ有つても、斯うなつてしまへば白象に瓦礫を負はしめるやうなものである。忠實なる保管をする者には選擇までは出來ない。つまらぬはやり唄や出たらめの故事來歴を、いとも大切に覺えて居る人たちに出逢つて、惜しい力だと思ふことは何度かある。それから見ると昔話などは、破片になつてもまだ研究に役立つが、同じことならばやゝ完き形の傳はつて居るうちに、此等の小さい稗田阿禮の天分は發揮せしめたかつた。
 茲に於てか傳承者の型の相異、もしくはその本意の純不純以外に、個々の地方の保存  状態が、如何なる段階に臨んで居るかを、先づ考察する必要は生ずるのである。説話の變轉期は國又は民族毎にほゞ一つの歩調が有り、たとへば獨逸はどこの隅を捜しても、もはや百年以前にグリムが拾つた樣な話は落ちて居ないが、普通教育の僅か遲れた其東隣の國に入れば、今でも口傳への民譚がまだ古風に行はれて居るといふ風な、概觀を下すことも可能であるが、我々は國内に在つて見るせゐか、日本だけはさう大づかみな事は言へないやうな氣がする。現に近頃までの二十種あまりの採集を比較して見ても、町と僻地とでは可なり著しい外貌の差異が認められる。大體に敍述が短くなり、話題の數が減じて行くことは、一般の傾向と言つてよいが、是にも地方によつて大いなる程度の高下があるらしいのである。その中に就て、笑ひ話の流行といふことは確かに一つの新らしい現象であつた。私は是を第四期と呼ばうとして居るが、都會で無くとも信州などは、既にさういふ土地が多い。昔話といへば何度聽いてもおろか聟、又は「ちやうづをまはせ」といふ類の、おろか村の話しかしてくれぬといふ老人がもう幾らも居るのである。今までは格別誰も氣づかなかつたが、斯んなたわいもない話ばかりに、却つて驚く程の全國的一致があるのは、恐らくは當初是には別途の管理者があつた證據だらうと思ふ。女や子供だけの力では、是は到底出來さうも無い運搬であつた。人は好んで童話の名を使ひたがるが、話のたちから見ても亦分布の?態から言つても、此種の民間説話には成人の關與した痕跡が歴然として居る。即ち山小屋の焚火の傍、或は浦の風待ちの船の中などに於て、屈強な男ばかりが此文藝を愛玩した時代の、影響は可なり大きかつたのであつて、後次第に是が在來のものを壓倒して、をかしく且つ手短かでなければ昔話(478)で無いかの如く、思つてしまつた地方さへ出來たのかと考へる。
 此推測の大よそ當つて居るらしい證據は、是に先行する第三期と名づくべき?態が、今尚到る處の田舍に見られることである。そこでは話の種類がさう少なくはなつて居らぬが、目立つて話し方は簡略になり、且つ知見の狹い婦女兒童の空想には、浮びさうにも無い新意匠が挿入せられ、殊に結末が多く取替へられて、必ず若干の可笑味が附加せられて居る。強ひて几上の論を闘はさうとする者にも、此方が原の形だと言ひ切ることの出來ぬ理由は、改作の部分が各地區々であつて、海外は固より、國内も遠い處との共通が無い。土地でも其改作に一致したのでは無く、たゞ偶然の選擇が殘つただけである。人が段々に説話の原型を守らうとする念を失ひ、新らしい巧智に耳を借す傾きが生じて、幾つかの話し方が競ひ進んで居た時代を私は想像する。職業的の語り部が旅の世代を重ねて、愈其藝術を零落せしめたのも此際であつたかと思ふ。今日の童話文學の歴史を尋ねて行くならば、こゝまでは遡られる。さうして現在も尚此?態に留まつて居る地域は廣いのである。斯ういふ地域は我々の採集地としては、刈入れ時は既に過ぎて居るので、全然収穫が不能といふわけでも無いが、是には特別の勢があり、又若干の用意を以てかゝらねばならぬ。少なくとも機械的なる比較法によつて、外國との交渉を推論するなどゝいふことは、もう許されない?態になつて居るのである。ところが我邦の學者の中には、あぶない人が大分に居る。彼等には特にこの採集期の問題を、明かにしてさし上げる必要が多いやうに思ふ。
 説話の頽廢は、素朴敬虔なる傳承者には氣がつかない。誰が其間に入つて混亂を敢てしたかを突留め得ぬ限りは、やはり外形の側から察知するより他の手段は無いのだが、幸ひなことには標準尺度となるべきものが有る。私は曾て昔話の樣式を説いて、その最後の文句は如是我聞、即ち省略も無く又誇張も無く、昔のまゝだといふ誓文の如きものであつたことを述べた。ところが其詞が繰返しによつて古臭くなり、後少しづゝそれをもぢつて新しい言ひ方を試み、終には話者自身も何のためにそれを附け添へるかを、知らずに唱へて居る場合が多くなつて來たのである。この結末(479)の文句の變化と、話の内容に關する古い約束、即ち要點は後々の趣向によつて改めてはいけないといふ法則の違背とは、ちやうど相伴うて居るかと思ふ。だから我々はこの外部形式の崩壞を見て、先づ警戒してかゝれば誤りを少なくすることが出來る。自由な近世人の技巧を加味することが、公許せられて居た時代の説話に據つて、直ちに固有の神話形態を類推せんとする樣な無茶者は、如何に盲千人の世の中でももう存在することが出來まい。さうなれば研究は義理にも些しばかり前へ進むのである。關氏一門の協力に成る所の説話集は、偶然ながらもこの説話變遷の堺目を、可なり明瞭に心づかせて居る點に於て、ともかくも若干の功績を擧げて居る。無用の勞苦であつたとは何人にも言へない。此上はたゞ我々の利用如何に待つのみであるが、それこそは御手のもので、編者自らが遠からず其例を示して、後世をして感謝せしめるであらうことを、私は期し且つ信じて居る。
 但しその利用は出來る限り早いがよい。遲いと間に合はぬかも知れぬ懸念があるからである。我々の所謂第一期、即ち説話が信仰の支持と拘束の下に、一つの定まつた形を守つて居た時代は、殆と此地球の全面から消え去らうとして居る。たま/\僅かばかり殘つた地域があるにしても、それを聽き出しに行く手段は閉されて居る。日本では宮古島の百五十年前の舊史などに、辛うじて曾て存在した痕跡を見出す位なものであるが、奇妙なことにはそれと第二期の説話との間には、大部分の一致があるのである。成人が説話の内容を信じなくなつて後も、努めて原の形を毀すまいとした期間が、久しく續いて居たことを考へずには居られない。獨り尚古家の立場からのみと言はず、昔話の本質を明かにしようといふには、是非ともこの第二期の現象は重視しなければならぬのだが、國を全體としては既に第三期から、四期へ移らうとして居る日本にも、まだ隅々の小區劃だけには、遊藝や旅廻りの者の影響が少なくて、古風の保存せられて居る例が二三で無い。勿論是にも次々の等差があつて、堺目近くに寄ると若干の浸潤は免れぬやうだが、大體に於ては一方ではよほど優秀なる傳承者を見つけても、最早變らない昔話を採ることが難いに反して、この方は通り一遍の話好きからでも、うぶな記憶を喚起し得るといふちがひは認められる。採集家の勞苦を償ふべき收穫(480)の多寡、殊に其中から入用なものを抽出して、之を整頓して行く手數に至つては、兩者は殆と競べものにもならぬのである。だから奧州の邊土や南海の離れ島などに、まだ少しでもこの變化以前の型が遣つて居るうちに、急いで比較の考察を進めるの要があるので、もしも此等の地域までが全國一樣に、三期四期の?態に入つてしまつたならば、末には何の爲に昔話を集めるのかを、答へることの出來ない採集家ばかりが、鉢合せするやうな社會にならぬとも言へない。私の判定にして誤らずんば、肥前の島原半島ももう第三期に入つて居る。此集の過半には新たなる作爲の痕が見え、又故意の省略さへ認められる。それを誠實に拾録するといふことは、無駄では決してないが損な仕事、甚だ張合ひの無い骨折とは言へるであらう。併しさうかと言つて自分の土地をさし置いて、遠い他國の沃土を耕して見ようといふ氣に、なり得ないのは當り前のことであり、又さうした方が利益とも思はれない。殊に關君の場合に於ては、その家郷に對する深い愛情と、該博なる豫備知識と熱烈なる研究心とが、優に一方の弱味を補填することを信じ得るのである。なまじひに資料の豐富なる地方の、いゝ頃加減な蒐集家よりも、遙かに立優つた收穫のもたらされることを、自分は少しでも疑つて居らぬのである。
 
(481)     「二戸の昔話」を讀む
 
 二戸郡の昔話は今まで殆と世に知られなかつたが、隣接の各郡ではもう可なり採集が進んで居る。たとへば昨年の九戸郡誌には數十話、下閉伊のは量はやゝ少ないが、岩泉附近のものが古く雜誌「民俗學」等に出て居る。鹿角では内田武志君が叔母さんから聽いた話といふのが、大分多く「昔話研究」にも報告せられて居る。三戸郡のは最近に私の整理した奧南新報同人の八戸地方昔話の他に、能田君夫婦の集めたものが、稿本ながら優に一卷をなすだけの數がある。岩手郡には雫石の田中喜多美君が纏めた「ねむた鳥」といふ昔話集がある。其中の五分の一ほどが發表せられたゞけで、殘りはまだ本になつて出ては居ない。
 「二戸の昔話」を是等の諸集と比較して見るのに、ごく僅かの笑ひ話の、やゝ遠方にしか見つかつて居ないものを除けば、他は何れも皆二つ三つの類型あるものばかりで、それもココウ次郎の蟹の話といふやうな、東北特有と思はれるものでは無く、弘く全國的一致の相應に濃厚なものが多い。昔話の精細なる研究に興味をもつ人か、さうで無ければ一郡内の事實だけを珍重して全く他處を顧みない人だけが、此本の將來の愛讀者であらうと思ふ。勿論それは必ずしも失望すべきことでは無く、今まで昔話を個々の家庭の小兒と老女との處理に委ねて、どうなつてもかまはぬと考へて居た郷土人に、是ほど共通なしかも傳來の古いものを、互ひに氣づかずに抱へ込んで居たことを、發見せしめることも亦一事業である。我々の仲間でも、始めから爰にさう/\新らしいものが、隱れて居ようとは豫期しても居なかつた。郡を隣して同じやうな生活を續けて居た人々の間にも、なほ小さいながらも數多い變化が見られるといふこ(482)とは、言はゞ昔話のよく變化するものであることの、何よりも明かな證據である。それが大體如何なる徑路を取つて變るかは、實はもと/\豐富なる採集、時としては一見徒勞にも近い筆録を、繰返して行かなければならぬので、今日は或はまださういふ人が少ないかも知らぬが、此點に十分な意義を認めた者で無いと、到底道樂から學問を分離せしめることは出來ぬのである。さうして「二戸の昔話」は、ちやうどこの二つの方角の、岐れ路に立つて居るやうに我々には見える。
 乃ち一つの書物の讀み方、或一人の篤志者の勞苦を、如何にすれば最も適切に利用し得るかを、考へて見るべき機會が作られたのである。自分の心づいた二三の點を擧げるならば、瓜子姫子の話は東北では一般に、今では皆姫が殺されてしまふことになつて居る。其慘虐はかち/\山の狸汁に近く、さうして又結末の明るさが無い。然るに此郡で採集せられた一例のみは、關西各地や信州などゝ同じに、木の梢につり上げられて縛られて居たのを、後に爺婆に助けおろされたことになつて居る。此方が恐らく一つ前の形であつたらうことは、別に栗を拾ひに梨を採りにといふ挿話が、この附近にあるのを見てもわかる。即ち前には姫が危難を脱したといふ形で入つて來たものと、後にどういふわけがあつてか、殺して皮を剥ぐなどゝいふ、怖ろしい改造を加へたものとがあつたのである。仙北地方に曾てあつたといふ錦長者の話などゝの元の繋がりは、もう少しこの中間の型を調べて見なければ尋ねられぬわけである。
 それから有名なる糠子米子の話は、西日本では既に痕跡となり、奧羽にばかり比較的完全に近いものが行はれて居る。二戸にあつたものは省略があるが、それでも繼子が後から神樂見に出かけて、妹の席へ??を投げつけた條が殘つて居る。是はシンドレラ説話の最も世界的な一挿話で、南歐羅巴ではオレンジの皮を投げたことになり、奧州でも或は飴の皮、饅頭の袋などになつてゐるが、それを此地方でヲコシ又は菓子とかへて、なほ同じ順序を追うて居るのは面白いと思ふ。斯ういふ食物が新たに流行するやうになると、話者は次々に小兒の好奇心に投じて、其物品の名だけを取替へながらも、なほこの箇條を入れることを忘れなかつたのである。「天道樣金の綱」といふ名で通つて居る、(483)三人の子供の鬼婆に喰はれようとする話なども、通例は鬼婆が墜死し小兒は助かつたといふだけで終るものが日本には多く、其まゝ天に昇つて星になつてしまふといふ形は、九州に二三と、朝鮮の類話にあるだけだと思つて居ると、二戸で語られる話は明かに星になつたといひ、しかも彼方には無い蕎麥の莖はなぜ赤いといふ條を保存して居る。三人兄弟の話には色々の變化があるが、魚の命を助けた御禮に、生針死針といふ寶物を貰つて來て、それを利用して長者になるといふ一例は、東北の方では聽くこと稀で、遙か離れた喜界島などでは、却つて打出小槌や延命小袋以上に、この生針死針の寶物が多く説かれて居る。是なども多分はやゝ古い頃からの流行が保存せられて居るものであらう。
 是とは反對に新たに變化して元の姿を留めないものでも、その變り方が少しでも他とちがつて居れば、之に由つて亦成立の經路を尋ねることが出來る。たとへば今日普通の「笠地藏」は、寒い歳の暮に町へ笠を賣りに行くとか、もしくは麻の布を賣りに出て、賣れなくて笠と交易して還つて來るとか、智慧の足りない老翁の所行に、先づ聽く人の笑ひを引いて居るのだが、二戸の一話では是を笠賣長者と呼んで居るのを見ると、本來は主人公が笠を賣つて生計を立てゝ居たところが要件であつた。即ち至つて貧しい、山野の植物に加工して、僅かに露命をつなぐ程の者が、なほ心やさしく信心深くして、惜しげも無く其笠を地藏樣に着せ申したといふ點が中心だつたかと思はれる。從つてかの尾州笠寺觀音の縁起のやうに、必ずしも暮の雪降りの日とは限らず、單に野中の俄雨に沾れてござるのを見てと語つても同じ話だつたのである。文福茶釜といふ話は、上州館林の茂林寺が有る限り、東京の子供にもなほ永くもてはやされるであらうが、考へて見ると實はあまりに突兀たる趣向で、通例の動物報恩譚とは發端が丸でちがつて居る。爺が折角丹精して作つた豆を、狐が食ひ荒したので怒つて捕へたところ、狐が罪を謝して其代りに茶釜となり、寺に賣られて金儲けさせてくれるといふ話は、津輕口碑集の中にも一つ見えて居るが、それだけでは實はまだ合點が行かなかつた。二戸郡の類話が現はれた御蔭に始めて氣がついたことは、是は我々のいふ「八石山」の話から分岐した、一つの大話の後に續くべきものであつた。東北では之を總稱して「豆こ話」と呼んで居たらしい。二戸でも其數例が採(484)集せられて居るが、他郡にあるものも文句は殆と同樣で、以前座頭の仲間が之を早物語の一つとして、暗誦して居たことが察せられる。たつた一粒の豆を拾つて、鍋で炒れば鍋一ぱい、臼で搗けば臼一ぱいになる。それを篩ふ爲に隣家へコオロシを借りに行けと嫁にいふと、表を行けば牛が居てこはい、裏からまはれば犬が居て怖いなどゝいふ問答があり、最後に爺の小袴の端で粉をおろしたといふことに今の話はなつて居て、最後の尾籠な屁の話に歸着して居るが、もとは三河の犬頭蠶の白犬や、打出小槌の話にある稻穗をくはへて飛去つた鳥のやうに、何かもう一段と際どい冒險があつて、それが忽ち轉囘して途法も無い幸運になつたと謂つて居たらしいのである。乃ちまだ容易には斷定を下し難いが、或はこの狐が茶釜や太鼓に化けてくれたといふのも、一種有り得べからざる誇張譚の一場面として、最初から聽手の笑ひを目的とした、空想の作であつたかとも思ふ。「八石山」の本話も奧州には可なり弘く分布して居る。此集に出て居る爺の豆植ゑの話の如きも、亦一つの面白い發達のやうに思はれるが、何分話し方が粗相で、肝腎の所が脱落して居てよくわからない。
 此以外には、時鳥と郭公の話に、殺されたのが弟でなくて母であつたり、猿と蛙の餅爭ひに、臼を山から轉がさずに坂の下から押し擧げたり、又は兎と狸の話で、後段では兎の方がやつゝけられて尻尾を失つたり、或は猫檀家の話に狐が參與したり、色々珍らしい變り方が目につき、昔話の歴史は亦それ等からも探り出せさうに思ふが、其爲にはもう一度土地に臨んで、第二の採集を試みなければ、是だけではまだ比較の資料には少し足りない。不思議でたまらないのはこの多くの種類の昔話が、「雲雀の貸金」とか「ほら吹き甚兵衛」とかのほんの二三の例外を除けば、他は殆と一樣に省略せられ、中には端切れ間の拔けたものさへ、幾つかあることである。聽手はもとより話者の側から考へても、是でよいと思ひ筋が通つて面白いと感ずる筈は無いわけだが、もう今日ではさまで内容を顧慮せず、單に昔話といふ言葉だけを聽いたゞけで、笑ひをかしがる樣に此地方ではなつて居るのであらうか。是も亦民間傳承の學に携はる者の、精細に留意すべき一現象である。
(485) 方言で各土地の昔話を記録することの適否といふことも、此書を讀むに際して又改めて深く考へられる。郷土の讀者にとつては、もう是だけの説明でも既に煩はしく、福島縣以南の全國の同志者には、是だけではまだ話の面白みまでを把握することが出來ないからである。其上に是等の資料は、大部分は中間の報告者があつて、そのまゝ文章になつたのでは無いから、筆者の若干の刪定は免れず、寫眞やスケッチとは同一に見ることが出來ない。つまり昔話が弘く世界人類の共有財産であり、合せ比べて見なければ價値が無いことを、認識した人なら採用すべからざる方式であつた。しかし今日の方言研究者にとつては、是は實用を例示した好參考であつて、之を保存して置くことは個々の單語集より遙かに利益が多い。今は先づその副産的の效果を以て、滿足して置くの他はあるまい。
 
 (追記) 冒頭に書いた「ココウ次郎」の昔話のその後について記しておく。東北特有と思はれたこの話は、採集の進んだ今日では既に若干の例が發見せられてゐる。何かわけがあらうと思はれるのは、その大部分が越中越後にかけて發見されてゐることで、あるひは近來この地方の採集事業が活?であることにも原因があらうが、なほ注目すべきことゝ考へる。もう一つ我々を驚かせたのは、遠く離れた甑島に殆と同じものが發見された事であつた。昭和十二年、故岩倉市郎氏の採集によるものである。
 新潟縣岩船郡 「蟹の甲」(民間傳承十二ノ五・六)。長岡市 「蟹こそこそこそ」(あつたとさ)。新潟縣宮内町 「蟹々こそこそ」(昔あつたてんがな)。富山縣射水郡 「蟹たべた婆」(射水昔話(稿本))。鹿兒島縣甑島 「蟹の甲羅」(甑島昔話集)。
 
(486)     昔話解説
 
       話を好む心
 
 既に二百年も前から、普通の成人の間には「昔話」といふと、何かよく/\無用なる暇潰しを意味するやうになつて居た。又おぢい樣が昔話をなさるなどゝいふ時には、蔭でくす/\と笑ふ者が必ず二三人はあつた。久しぶりに訪ねてくれた友人を引留める場合に、今夜は一つ昔話でもしてといふことは、別に是といふ目的も無いがといふ心持で、主客顔を見合せて微笑するのが習ひであつた。話好きといふ人は土地に必ず幾人かあるが、彼等に向つて昔話を承りたいといふことは、或はやゝ失禮なやうにも取れぬことはなかつた。
 それ程にまで有觸れた又古臭いものになり果てた理由は、一つはムカシといふ語の響き、二つには歴代の長老たちが、聊か此ものを利用し過ぎた反動でもあらうが、更に又昔話自身が消耗磨滅に由つて、年と共にその鋭利な力を失ひつゝあつたからであつた。新たに昔話を補充する苗床が、先づ最初に荒廢に歸したからであつた。名は昔話と稱しても其實常に清新であつたものが、次第々々に源に於て濁り始めたからで、乃ち單なる趣味の變遷のみを以て此零落を説明することは出來ぬのである。
 當世の所謂坐談に長じたる人たちが、友の心を引付けようとする用意を見ても、昔話の歴史の一半は窺ひ知られる。(487)彼等の話術にも固より若干の改良はあるが、それは唯古風な落語業などの、世を追うて人氣におくれまいとする苦心と同じ程度のものである。最も大いなる努力は圭として題目の選定に在つて、言はゞ出來る限り昔話と認められる懸念の無いやうな種を、見附けるのに骨折つて居るのであつた。けふも誰それが遣つて來て、色々な世間話をして行つたなどゝいふその世間話、もしくは四方山の話などゝ謂つたものが、いつと無く我々の昔話の領分を侵蝕して居るのである。世の中が多忙になつて、昔話をする餘裕が無くなつたやうにいふのは事實に反する。人は依然として話の爲に費し得る時を持ち、又話によつて休息を價値づけようとする念慮を抱くのみならず、多くの世間話は亦過ぎ去つた出來事であつて、人が昔話の輕蔑せられてもよい理由と認めて居るものを、大抵は具備して居るにも拘らず、是ならば安心していつ迄も長尻をする氣になるといふのは、畢竟するところ昔話の不人望になつた原因が、別に他に存することを意味するものではあるまいか。
 セケンといふ名詞を弘く人間社會といふ心持に解することは、さう古くからの風では無かつた。元は説教者などの用語を學んだものと思ふが、多くの田舍では之をたゞ外部といふ意味に使つて居た。世間師は即ち旅をした人、異郷の事を知る者のことであつた。それ故に彼等の世間話に耳を傾けようとする動機は、會て昔話を聽いた時と、大した相違も無かつたのである。昔話も其盛時に於ては、次々に外から供給せられて居た。之を運送した者は世間師の、特に職業的なるものであつた。それが段々に數乏しくなつて、土地に今まであるものを繰返さねばならぬことになると、自然に昔話は古池の水の如く、古び且つ沈滯せざるを得なかつたのである。
 或は需要が先づ衰へて、之を持込む者が引合はなくなつたからと、考へて見ることも出來るやうだが、都市の限られたる高級の生活者以外、多數の國民が話の缺乏に苦しんで居たことは、つい近頃までの現象であつた。讀み物の無差別なる流行は寧ろ其結果である。學校の教育が少しく文字の力を付與するや否や、怖ろしい程の好奇心を以て、何でもかでも書いたものならば聲高く、讀んで見ようとしたのは何故であつたか。新聞や雜誌が僅かな歳月の間に、苦(488)笑すべき日本一流の特色を作つて、講談と挿畫を以て客を引いて居ることを、誰が昔話の相續人で無いと斷言し得るであらうか。此種讀み物の效果は如何にも大きかつた。殊に戰爭といふ大昔以來、人の最も注意する題目が實際化してから後は、村では所謂世間話の中心を、兵士と其親族故舊とに置くことになり、それに變化を加へようとすれば、新らしい話柄を遠來の文書に求めるの他は無かつた。即ち古くは西洋で十字軍役後の動搖、日本でいふならば江戸時代初頭の、武邊咄から太平記評判までの推移と、ほゞ性質を一にする流行の型であつて、學問意識の是ほどに進んだ世の中でさへ、なほ通常人の態度には根本的の變更は無かつたのである。古くなり又廢れたのは「昔話」といふ名前であり、もしくは此名の起原を爲した顯著なる外形のみであつた。さうして其二つの者は前代に於ても、やはり時と共に改まつて居たのである。
 
       話と形式
 
 そこで問題はどうすれば「昔話」の範圍を、今少しく熟視に適するやうに、具體的に區劃することが出來るかといふ點に移つて行くが、大勢から言ふと話も亦他の技藝と同じく、追々に樣式の拘束から自由にならうとする傾きは確かに見える。從つて之を標準として新舊の差別を立てゝもよいやうではあるが、一方には現今の世の中にも、所謂相も變りませぬ前置きを以て、御機嫌を伺はうとする話し家があると共に、以前も少しづゝは新味を求める爲に、永く一つの形に停滯することはしなかつたのである。例へば昔話といふ名の起りと目すべき最初の一句の如きも、伊勢物語は必ず「昔男」を以て一貫し、今昔物語も亦「今は昔」で終始して居るのに、宇治拾遺に至つては既に處々「これも今は昔」と、  稍々其單調を破らうとする試みが見える。文書に固定した話にすら、少しづゝの時代變化が認められる。況んや口を傭ひ耳を借りて必ず傳へようとした場合、?定形に背いて自他の倦怠を避け注意を新たにし、乃至は作(489)爲を以て是は平凡の昔話で無いことを、感ぜしめんとしたことは當然である。或は上古に於ては必ず守るべき法則があつたかも知れぬが、少なくともそれを自由にしたのは決して新時代の事業では無い。
 小兒は獨り此間に在つて、いつ迄も在來の樣式の興味に心醉したといふことは言へる。現に巖谷小波氏等の新作に成るものでも、きまつて昔々或處にもしくは先づ或處に、王樣や魔法使ひが現はれて來るのである。ところが永い年月のうちには、此方面にさへも色々の破壞が行はれた。多分は親々兄姉などからの、間接の感化であつたらう。彼等の昔話さへも外形に由つて、分堺を立てることが幾分か困難になつた。土地なり時代なりに相應して、一つの公認せられた話し方があつたとは言ひ得るが、それが互に似て居なかつたことは、尚且つ今日と以前との差も同じであつた。東國から奧羽にかけての近世の型は、寧ろ故意に重苦しく念入りにするのが流行であつたらしい。
  むかし/\其昔、ずつと昔の大むかし
などゝ謂つて、幾分か中味を待遠に思はせたのも新技術であつた。必ずしも今日の實際では無いぞと、豫訓するだけの趣意では無かつたことゝ思ふ。しかし全體を遊戯化しようとした時代の文化は察知することが出來る。出雲國などの今日の御伽噺は、方言でトントンカチと大人も謂つて居る。言ふ迄も無く「とんと昔」であつて、それが御話の初の一句に基づいたものなることは明かである。恐らくは小兒が唯一の聽衆となつて後に、設けられたる方式だらうと思ふが、江戸にも此形は曾てあつたと見えて、近代の落語の中に其痕跡がある。たしか化物どもが寄合つて芝居をしたといふ落語で、三つ目入道か何かゞ下座の木の頭に乘つて、トントンカカカと謂つたといふのが下げになつて居る。今の人にはもう可笑しくも何ともないが、つまりは子供の昔話の中から、拔け出して來たものだつたといふ暗示に、意外の興を催したもので、即ち斯ういふ落語を賞翫した成人が、まだ自分の幼い頃の昔話の、一つの形式を記憶して居たのである。筆者等の聯想は、トントンカカカは祭の日の太鼓の音である。仙臺などの童言葉にも、御祭又は御神樂のことを、今でもドンドンカッカと謂つて居るさうだが、それも亦右にいふ「とんと昔」と語音が近い爲に、殊に(490)隱れたる面白味があつたのかも知れぬ。筑後の三瀦郡などでは菫の花のことを、子供たちはドドウマカチカチと呼んで居る。此花の形が少しく馬の顔と似て居るところから、他の地方で角力取花などゝいふ代りに、之を馬競べと謂つて遊んだものらしいが、それにも昔話の最初の一句の、口拍子は移つて居るやうに思はれる。即ち普通の話好きは一樣に、型にはまつた話し方を排斥するやうになつてからも、小兒ばかりは次から次へと流行を追うて、何か餘裕のある耳に快い語音を以て、先づ其好奇心を整理せられんことを要求して居た證據である。
 
       子供らしさ
 
 それが童話と名づけられるものゝ範圍の、つい近頃まではつきりとしなかつた理由であらう。現代の人は勝手に漢語の名稱を付與して置きながら、少したつともう忘れてしまつて、其文字から定義を推論しようとする癖があるけれども、元々何人の約束でも無いのだから、それが實際と合致する筈は無い。始めから子供だけにして聽かすといふ童話がもし有つたら、今少し際立つた發達をして居たらうが、グリムにしてもアラビヤ夜話にしても、乃至は二百年來の猿蟹・桃太郎の類にしても、それが小さい者に向くといふ部分は、強ひてあどけなく語らうとする外形ばかりで、其内容に至つてはどれも是も、一度は霜降る夜の篝火の影に照らされ、もしくは髯白き聖者のしはぶきの間から、貴き教訓の珠玉として拾ひ上げられた名殘を、留めて居らぬものは無いのである。それが年久しうして次第に新しい物の下積みとなり、たま/\初めて世に生れた者の手に取上げられるといふことは、可なり開けた社會だけの、限られたる現象に過ぎなかつた。童話は即ち或民族の口承文藝の、ほゞ終に近い一つの時期、もしくは次の文化に移らうとする階段の如きものゝ、名稱と謂つてよかつたのである。
 書物の學問に累はされなかつたならば、此變遷の經路を見知ることも、日本に於てはさまで困難で無い。昔話と童(491)話との關係は、同時に亦儀式と遊技、道具と玩具との關係である。村に住む人には今ならばまだ記憶する者もあらうが、以前は特に小兒の爲に製して賣出すやうな玩具は無かつた。おもちやは即ちモテアソビで、物差火吹竹踏臺の類、何でもかでも持出して遊んだのは、ちやうど昔話が彼等に向つて話されたと同じであつた。土地によつてワルサモノとも名づけて、別に木ぼこや紅木綿の猿などを作つて預けて居たが、それ等も皆家々の手製であつた。宮の祭とか寺寺の縁日とかに、馬だ弓矢だ笛だ狐の面だといふ類の賣り物も、もとは家の爲に大人が買つて還ること、鷲神社の熊手などゝ同じであつたものが、後には子供にせがまれて何と無く求めるやうになつた。斯くして導かれた今日のセルロイド流行は、つまりは大小の文學者たちの、所謂童話集に該當するものである。
 同じ比較は亦遊戯方法の變化に就いても繰返すことが出來る。例へばまゝ事や姉樣事は何人が考案して、特に彼等に教へたものでも無いが、兒童は時を構はずに幾度でも同じ模倣を重ね、小さい妹たちの之を見習ふ者が多い爲に、今では著しく現實の社交慣例とは違つて來たといふのみで、それが或時代の作法を眞似たものといふことは誰でも之を認める。しかもさかしい兒ならば少しづゝは自分の觀察に由つて、しぐさを改良して出來るだけ實際に近づけようとして居る。選擧が始まれば選擧ごつこ、戰爭中には兵隊ごつこなどゝ、自然に任せて置けば大抵は成人の所業の中の、一番珍らしく感動の多いものを模倣するが、子供は一般にやゝ保守的で、面白いものならは當分はなほ續けて行き、其中には型が出來て手本とは關係無しに、久しく保存せられるものもあるのである。所謂童話の兒重用の如くになつて傳はつて居るものも、多分は亦この面白い型の爲に久しく保存され得たといふのみで、假に其内容が今日の目には子供らしく見えでも、之を以て最初から彼等のために作られた證據とするわけには行かぬ。といふよりも反對の證據が、却つて幾らでも擧げ得られるのである。
 是が我々の幼稚園の先生たちと獨立して、別に子供の國から彼等の持つ昔話を、拾ひ集め且つ眺めて見ようとする理由である。三つの重要なる事實を親たちはもう忘れようとして居る。其一つは親が小さい者の爲に説かうとする動(492)機が、昔は丸々今と異なつて居たといふことである。鳥や獣の教育方法を觀察して居てもわかる如く、是だけは是非とも大きくなる迄の間に、覺え込ませて置かねばならぬといふことが、昔の社會には中々多かつたのである。單なる娯樂や笑ひの爲に、彼等の相手をして居ればよいといふ心持で、人が童話を語るやうになつたのは、ほんの近頃の變化であつた。第二には小兒が成人の事業に加入しようとする要求が、現在の集合教育の始まる以前は、遙かに今よりも強烈に且つ早期であつたこと、是は決して模倣の一面に止らず、又色々の生活方法の選擇の上にも現はれて居る。殊に多くの夜話の席などでは、獨り彼等が聽衆たることを許したのみならず、兼て最も細心なる觀察者であり、又記憶者なることをも認めて居た。即ち別種の昔話の、特に子供から子供へ傳はつて行くものを、想像し難い理由である。第三には前代の共同團體に於て、兒童に課せられたる分擔事務の可なり重要なものであつたこと、是も今日は計算に入れぬ人が多いが、祭や物忌や家々の儀式などに、彼等をして舞ひ又は語らしめたことは、決して彼等でも間に合ふからといふだけの、簡單なる便宜主義からではなかつた。特に穉い者の聲を借り畢動を透して見なければ、有難い又はめでたい大昔以來の民族的情感を、蘇らせることの出來ぬ場合が多かつたからである。さうして昔話は、假令久しい間もう中心からはづれて居たにしても、少なくとも其慣習の周りに於て成長したのである。即ち親たちが次々に他の問題を考へて行くべき世の中になると、却つて子供に頼んで古い話を傳承してもらふ必要が多くなり、從つて管理者の趣味が少しづゝ外形の上に加はつて、末には現實とは縁の遠い御伽の世界といふやうなものを、作り出すことになつたのである。
 
       童話と昔話
 
 童話と呼ばるゝものゝ學問上の價値は、此沿革をよく會得した上で無いと、本當に之を計量することが出來ない。(493)昔々ある處にといふきまり切つた一つの形式は、成程大切な多くの物語を、子供らしいものに零落させてしまつたが、同時に又是が無かつたら斯んなに久しく、我々の祖先の觀照と興味とを、貯藏することは出來なかつたらう。歴史は時代々々の政治の都合によつて、わざとでも解釋を改めて行かうとする。さうで無くとも今日の價値批判から、眼を遮ぎる高い垣根の向うに在るものを重んじないのは致し方が無い。ところが昔話は、曾て之を信じようとした時代ですらも、尚それが昔々の大昔であることを要件とせねばならぬ程、空漠たる物語であつた。もし童兒が其傳承に參與しなかつたならば、必ず次の新しいものと取換へられて、夙に雲煙の眼を過ぐる如く、消えてしまつて居たに相違ないのである。
 但し童話も亦久しからずして、遊戯や玩具と同じく新しいものを待つ時代が來ることゝ思ふ。十年餘り以前、南海の或田舍で、現に小學生の持つて居る話の種類を集めて見たことがあつた。私の喫驚したのは土地の口碑の少しづゝ壞れたものゝ間にまじつて、二宮・塙といふ類の偉人の傳記、それから巖谷小波著の博文館の西洋御伽噺などが、幾つと無く記憶せられて居たことである。考へて見れば其子供の母や叔母が、ちやうど拾ひ讀みをする頃に此本はもてはやされた。話をせがまれる大人たちが先づ思ひ出すのは、やはり自分等の小學校時代に、最も深い印象を受けたものであつて、それが再び顔を出すのは、實は意外でも何でも無い。話は結局二代を經れば、消えも改まりもするものであつて、それが殘つて居たのは世の中が今で無かつた御蔭と言つてもよかつたのである。
 昔話と童話との差別に就いては、學者の色々な尤もらしい説もあらうが、自分だけは寧ろ子供の一樣に抱て居る概念に從ひたいと思ふ。是も玩具の譬へを持つて來ると説明が樂であるが、大人はよく「物差をオモチャにするな」などゝいふが、子供は決してそんな物をオモチャとは思つて居ない。それと同じやうに買つて貰ふか作つてもらふか、兎に角に新たにあてがはれたものが童話であつて、前からあつたのを家なり村なりでして聽かされる場合だけ、之をオハナシ又は昔話と謂ふのである。二者に對する彼等の態度は、存外はつきりとして居る。作り話もしくは津輕でい(494)ふウソムカシの類には、一種の反感をさへ抱いて居る。即ち所謂爺姿の昔話のみは、ほゞ以前の世の成人と同じやうな心持を以て、之を覺えようとする風が見える。どうしてさうあるかは私にはまだ説明し得ぬが、多分人類の本性に具はつた歴史慾とも名づくべきものの作用であらう。固より年齡や氣質にもよるが、あの話を今一度してくれなどゝ、知つて居ながら又聽かうとするやうな念慮は、如何に面白くとも今風の童話の方では滅多に起らないやうであるに反して、昔話といへば殆と何遍でもせがんで聽くものにきまつて居る。
 だからこの二種類を童話の名に總括して、之を他の昔話と對立せしめることは、自分等には出來ないのである。或は童話を製作童話と傳承童話とに、分別すればよいといふ人があらうが、その傳承童話は正しく子供を仲次とする昔話で、今日はもう其以外には、取立てゝ昔話といふべきものは幾らも無いのである。殊に小兒の側では昔話は是しか無いと思つて居り、別に彼等を除け者にした秘密の昔話があらうとは信じない(實は少々あるのだが)。それが本來決して彼等の爲に出來たもので無く、從つて爲に良く無いと判定せられるものもあるか知らぬが、今頃其間に堺線を劃することは、出來もせず又恐らくは不必要である。さうして一方を保存する迄も無く、現實は良いものも惡いものも、共に/\消えて行く途に在るので、單に教育方法の立場からならば、最早急いで採録して見たところが、それをどうしやうも無いのである。過去數千年の民族の歴史を通じて、曾ては藝術を統一し思想を誘導した大いなる力の一つが、今や僅かに機嫌買ひの、寢つきの惡い子等の空想の中に、最後の殘壘を保つて居ることを知つた者は、假に現世の生活とは直接の交渉が無いまでも、何とぞしてせめて此方面から、所謂砂の上の足跡を幽かな前代に辿つて見ようとする故に、いゝ加減な今日の分類に任せては置かれぬのである。
 
(495)       記録性と現實味
 
 或はまだ心つかぬ人も多いか知らぬが、昔話の昔を保存する力、六つかしい語で記録性とも名づくべきものは、必ずしも評判の如くあやふやでは無い。其證據として殊に顯著なのは、同じ物語の色々の階段が、入交つて諸國に分布して居ることで、それが假に一種の運搬者の所業としても、土地で受入れて守護して居た期間も亦、それ/”\相應に永いことであつた。小兒ばかりの手で之を預つて居たものなら、もつと早く汚すなり壞すなりしたであらうが、實際は多くの場合に、用心深い後見人が附いて居た。自分々々の幼い時を回顧して見てもよくわかるが、我々は決して遊び仲間の誰彼から、面白い昔話を得ようとは豫期しなかつた。村の内でもあの人といはれるのは、大抵は昔を聯想し得るやうな老いたる物知りであつた。家庭にさういふ年寄りのある家の子供が、自身も亦いつと無く未來の話ずきになるのは、必ずしも遺傳の氣質ばかりで無い。閑暇と愛情とを綯ひまぜた親切が、最も有效に深い感化を與へて置くからで、偶然とも見られない事實は、其印象が常に人生の半分、働き盛りの約三十年ほど潜んで居て、孫たちの顔を見る頃になつて、油然として再び目さめるのである。別の言葉でいふと、昔話の寺社縁起などゝ異なる點は、これを話し手の趣味智能に由つて、改訂して置く機會の甚だ尠なかつたことである。
 傳承を一筋の鏈であるとすれば、昔話に於てはその個々の鐡の環が、大きくて又丈夫であつた。同じ五百年の世代を繋ぐものとしても、謎や諺や仕事唄と比べると、授受の度數が遙かに少なかつた上に、村毎に家庭毎に結び目がくひちがつて居る。昭和のお婆樣は明治の初年に聽いて置いた話をする。大正の少年は江戸期終りの頃の口碑を聽いて、それを更に未來の孫に引繼がうとするのであらう。其上に谷により濱によつて、早くからの組織の異同もあつた。詳しく聽きもせずに大抵はその話なら知つて居るといふが、實は比較に由つてまだ/\發明し得る部分が多いのである。
(496) 次には是も奇矯の言の如く聞えるけれども、自分などは小兒の昔話の中から、まだ澤山の現實味を認めて居る。英國の所謂フェアリィテェルズは、隨分讀んで居る人が日本には多いやうだが、あれに出て來る色々の小さい異人が、獨り教育ある都市の兒童に、微笑と夢の種とを供給するに止らず、今なほ淋しい草原の端、又は古城の木立の蔭などに住んで、稀々には農夫や馬車曳きの徒を驚かし、少なくとも瞬間の後姿、幽かなる月下の物の音などに由つて、まだ居るといふ感じを片田舍の住民に與へて居ることは知るまい。我々には又耳馴れた蛇や猫が仇を復す話、河童芝天天狗山男の類が、人に近づいて無闇に相撲を挑み、もしくは智慧競べをしようとする話なども、そんな事があるものかと心から嘲る者には、實は大して面白くは無いのであつた。其時は高笑ひをしたり戯れたりして居ても、知らず識らず最も引附けられて居るのは、所謂半信半疑の不思議であつて、暗い晩一人還るときなどは、幻しを作るまでに其印象が再現し、さうで無くともうつゝと夢の境には、何度となく其記憶が蘇つて居る。それが全然無いやうな境遇になれば、もはや昔話とは縁は切れてしまふ。語り手の方でもよく其實情を知つて、努めて效果のありさうな方面を求めて、その口碑を保留せしめんとしたのであつた。
 
       實生活の需要
 
 狐や狸の化けた騙したといふ話の如きは、如何に無頓着な昔の親たちでも、之を最初から子供にして聽かせる話として發明して置かう筈が無い。殊に自分等が早くからさう思つて居たのは、五大昔噺の一つとしては有名なカチカチ山、婆を汁の實にして爺に食はせるだの、流しの下の骨を見ろだのといふが如き話が、小兒の趣味に似つかはしからうなどゝは、誰だつて想像し得ないことである。そんな話が三つ四つの子の添寢の物語に殘つて居るわけは、全くこの小天地以外に、この傳承の生息し得べき一隅が無かつたからで、しかも他の一面には以前必ず此話の下染であつた(497)と思ふ狸憎惡、この無邪氣なる里の獣の、奇異なる習性に對する甚だしき誤解は、今以て實際に引續いて居るのである。古人は如何なる場合にも常に細心なる天然の觀察者であつて、同時に亦不可思議の承認者であつた。鳥獣草木の靈の力を對等視し、曾ては彼等も亦公々然と、物を言つたことがある時代を想像して居た。さうして各人の實驗の徐々たる訂正以外には、別に是といふ反證の手段も持たなかつたのである。故に未知の世界には絶えざる警戒を必要とし、最初は單なる力の闘爭を以て、次では優越なる者との妥協に由り、もしくは更に公正且つ親切なる第三者の介助を信じて、追々と環境の威壓から解放せられて來たのである。今日の目から見ればその何れの方法も無益であり、不安その物が無意味なる獨斷であつたかも知れぬが、兎に角にさう思つたことは現實であつた故に、子孫を安泰ならしめんと欲すれば、必ず昔話を記憶させなければならなかつたのである。
 だからカチカチ山の話の最も胸を轟かす部分、即ち敵を憎むの術、怨みは必ず報ずべき法理の如きものは、新しい社會倫理を以て正式に否認せられる迄は、生きて展轉してどこかに殘つて居なければならなかつたので、それが眼前の時代思潮と合致せぬといふことは、其外部樣式の子供らしさと共に、單に童話の世界に身を潜めて居た期間が、可なり永かつたといふ推測を導く迄である。歴史を讀んで行くとよく解ることだが、一般人類の屬性の中で、勇氣ほど必須であつてしかも長養し難いものも少なかつた。我々が小さき群を爲せばすぐに優劣の等差が著しく、一人を除いた他の全部は、自然と雌伏讃歎の生涯に入つて各個の行動を不可能にする。殘虐も一種の愉快であつて、或は新人の野心を誘ふに足りたか知らぬが、その惡弊はあまりに共同の生活には痛切であつて、到底その傾向を制限せずには居られぬ。正義と確信とが身の力の用ゐ處を辨別せしめる迄の間、個々の家長をして平和なる猛者たらしめんとする手段には、古人悉く心を惱ました痕跡がある。現に微々たる野獣の脅威に對してすらも、今尚完全に平氣であり得ない人が多く居り、彼等は相集まつて狐狸實は至つて愚であること、方法を以てすれば容易に其秘計を破り得ることを報告して、愉快なる經驗を集積し、且つは將來の對策を講じたので、その爲に夜話の會合は、つい最近まで滿座皆耳で(498)あり、殊に物知らぬ婦女と童兒とは、眼を丸くし息を詰めて、敬虔に之を傍聽して居たのであつた。
 しかし説話が文藝に成長して行く路筋としては、單なる闘爭の記録は餘りにも陰慘であつた。新たに供給せられる材料の中には、又實は幾分の悲觀の種さへあつた。(但し敗北者は通例隣り村の者、又は仲間ならば常から輕んぜられる中以下の人物であつたが、聽衆の半分は彼等だけの自信すらも無かつた)。所謂一つ話として、水く保存して置かうといふ考への起るものは、今少しく明るい嬉しいものでなくてはならぬ。勝つた悦び敵の亡びて行く面白さといふものは、前後を切り離して額面にして懸けて置いてもよい。獵や戰に主人を送り出す者の心には、我々の想像以上に此繪が一つだけ光り耀いて居た。羅馬の廢墟に凱旋門が立つて居る如く、今の心には是とても淋しさの種ではあるが、それが新たに現はれた世の中に於ては、恐らく一切の聯想を蔭に押籠めて、飽かず是ばかりを眺め入るだけの興奮があつた。否寧ろ人間の力に限りあり榮えて後は又衰へることを知れば、却つて若干の空想の花環が、其周りに纏ひ附けられたかも知らぬ。桃太郎に代表せられる寶島の征伐などは、被害者が鬼である爲に今の世にも通用するが、この壘の勝利譚は少しづゝ形をかへて、一切のめでたしめでたしに必ず伴うて居たやうである。その中の一番散文的なるものは、金を拾うた夢となつて今の世にも殘つて居る。村の小學枚の子供たちが、集まつて話して居る誇張談中には、單なる利欲もしくは幸運の豐富で無く、又相手の敗北といふだけの凱旋記でも無く、必ず今一段と具體的な、色彩好味芳香といふが如き、他人をして快い感覺に同化せしめるものが多かつた。自分の見聞が爰で役に立つなら、今でも心の動くまで鮮明に思ひ出すのは、萱原をあるいて居たら雉の卵が十二あつたとか、谷川の一方の岸が全部蕨で、まだ何人も手をつけて居なかつたとか、鹿が田の溝に入つたのを角を縛つて手捕りにしたといふ類の、珍らしくもまた心地よい事實談で、もし上手に話してくれるなら、ウソでも構はぬと思ふやうな繪樣が多く、しかも何人がいつ何處でといふ點は、とくの昔に忘れてしまつて居る。つまりは昔話の缺乏を、斯ういふもので補はうとして居たのである。
 
(499)       幸運の法則
 
 桃太郎が桃の中から生れたといふ一條は、固より取つて附けた外形の潤色でないに拘らず、あまり奇怪でありあまりにも「童話式」であつた。それ故に高木敏雄氏の如き人まで、平生尊奉せざるマックス・ミュルラァの故智を學んで、字義に基づく説明を試みんとしたのであつた。しかし此話の一つ前の傳へが瓜子姫子、即ち川上から流れて來た見事な瓜の中に、入つて居た小さき神童であつたことが解つて、後には其誤りを悟つて居たやうである。形は人間でも力は神であつた人を理解する爲には、殆と必然的にその異常生誕と突如たる成長を考へなければならなかつた。それが大陸の諸國に弘く行はれた金色の卵から、先祖が生れたといふ物語の根本の動機であり、降つては瓠に乘り又はうつぼ舟に閉籠められて、海の彼方から漂着したといふ言ひ傳へとなつたことは、大抵は疑ひが無いのであるが、我國自身に於てもかぐや姫は竹の節の中に、光り耀いて居て竹取の翁に見出され、伊勢の齋宮の第一世は、玉蟲の如き形をして貴き小箱の中に姿を現じたまふとさへ傳へられる。古くも新しくも似たる例はなほ多いのであつて、異なる點はたゞ童話として今の世までも、もてはやされるに至らなかつたといふのみである。我々の目から見れば、強ひて此樣な話にして愈實際から遠ざからしめるにも及ばぬやうなものだが、昔話を學ばうとした昔の人の要求は、寧ろさうして貰はぬと身にしみて古傳を受入れることが出來なかつた。具體的にいへば桃から生れた桃太郎で無いと、鬼が島を攻めて金銀珊瑚綾錦を、持つて還り得るとは信じられず、さうして彼等は何とかしてそれを信じて見たかつたのである。
 人が文學は作り物であることを承認し、自由自在に幻想の翼をひろげて、空をかけれかしと念ずるやうになつてからも、なほ笑止なほど人間の巧みは地に着いて居た。それは恐らくは餘りに年久しい約束であつた爲で、どんな頓狂(500)なるローマンスの中にも、時代々々の讀者の意識に於ては、有りさうな事といふ條件があつた。肉でも野菜でも鹽を附けぬと食べなかつたやうに、單なる幸福の夢は、幸福としては認められなかつた。わけも理由も無い致富成功勝利の類は、實際御互ひの如き利己主義の自由人にも、あまり頼りが無くて空想することが出來ない。況んや其中から共同の眞理を見出し、後日の計畫に參考しようとして、人の話を大切にして居た者が、其説明を求めずには濟まされなかつた筈である、畫や彫刻が幾らでも變化し、幾らでも自由に成長して行く割合に、物語にはいつでも背後の經過を、點檢せられるやうな弱味があつて、それが明白に書き添へられると否とを問はず、永い間ある定まつた趣向の中から、逸出し得なかつた理由は此邊に見出される。つまりは文人も亦昔話を聽く兒であつたのである。
 獨り御伽噺のみが外形の奇によつて、僅かに新味を添へようとしたことを責めることは出來ぬ。三十年間の古書飜刻を以てして、なほ片端しか拾ひ上げられぬ程の近世文學ではあるが、その面白味の要點は、古い/\四種か五種かの解説に括られて居る。即ち數千年の昔から、人がさもありなんと思つて居た事情から、自然に導き得る生活の些々たる變化、それがたゞ蒐集家のやうな樂しみを、見物に與へただけである。人のよくいふのは親のかたきと、御寶物の紛失、若君の守り立てと本領安堵、斯ういふ幾つかを封じてしまへば江戸文學などは春の淡雪だが、自分は今更そんな皮肉を弄するので無い。それよりも一つ水上に溯つて、例へば或主人公の非凡の生れつき、當世には時として遺傳などゝいふ語を使ふもの、古くは身の運といひ前生の因縁とも謂つたものが、普通人とちがつた境遇と業蹟とを附與すること是が一つ、神代卷では大國主命がその著しい例であり、中世に入つては牛若・辨慶・朝比奈等萬人の環視する英雄には必ずその生存の特別理由がある。美しい長者の一人娘が、信心の申し兒であつたのみならず、極惡の盗賊自來也天竺コ兵衛の輩に至るまで、素性を床しがられ法術を歎賞せられ、假に誕生の奇が無ければ強ひても前生の超凡を推測しようとする。これ等は悉く皆桃太郎の桃であつて、至つて天分の貧しいと謂はるゝ蒙昧民族まで、一貫してこれを昔話の骨子の一つとして居るのである。其眞似だと教へたらいやがつて中止したであらうが、現代の文學(501)に至るまで、滔々として先づ着想を此點に求めて居たのである。
 第二に顯著なのは所謂善玉惡玉觀、忠臣藏でいふと石堂藥師寺の二つの顔を以て、舞臺面を彩色しようとする心持である。一人の奇拔な善人又は名士を、本當に讃歎しようとすればコントラストが入用になる。最初人類が高く力ある者を意識して其恩惠に信頼しようとした時代には、この階級又は表裏の差は殊に容易ならざる實驗であつた故に、日本でいふならば富士と筑波の昔話、もしくは蘇民將來巨旦將來の兄弟が、一方は信心にして愛せられ、他は倨傲にして滅されたといふ話などが、深い慎みを以て聽かされたことは確かだが、是を一切の二人椋助譚の根源と見ることは不可能である。日と月・朝と夜との原始的な經驗が、物には二通りがあることを覺らしめることは簡易である。之を我々の善惡正邪まで持つて來るには手數を要するが、右か左か前か後かといふ對立は、寧ろ心の動搖の最もうぶな形と謂つてもよい。日本でもある時代には、神の職分を二つに分けて、力のほゞ均しいそれ/”\の管理者を認めて居たことがあり、耶蘇教の國でも魔神の親方に、祈れば祈られる程の高い力を認めたことがあつた。人間の運勢が一人毎に區々であり、孔子と盗跖と相隣して住むこともあるのを見て、ある二つの結果に二つの原因を考へ始めたのも、言はゞ根柢ある進歩であつた。昔話の世界では舌切雀の爺と嫗、もしくは花咲爺の隣同士、猿と蟹(猿と蟇ともいふ)などの性質所業の相異を考へて見ても、是が未知の法則の手輕なる解説となり、次第に人を促して宗教によつて其行爲を批判せしめた、因縁を爲したことは推察せられる。即ち人は徒らに幸不幸ならず、之を求むるにはおのづから方法のあることを、斯うして發明して來たのが昔話の手柄であつた。それが偶然かはた又最初からの計畫であつたかは、別に今一歩を進めた後の問題として、兎に角に是だから昔話は、是非とも若い者に聽かせて置かうと、思つた時代は確かにあつたのだ。
 
(502)       笑話零落
 
 世には江戸小説家の所謂勸善懲惡のみを目の敵にして、わざと反抗的に善人滅び、惡人末榮えて目出たからずの趣向を以て、自得しようとした一流もあつたが、是とてもやはり少しでも新しくは無かつた。そんな皮肉こそは昔の人は持たなかつたけれども、必ずしも後世の社會倫理を豫想して、それによつて昔話を統括しようとはしなかつた。超凡特殊の運命の寵兒は別として、只の人間の福を得、福を失ふ理由には、選擇すべき二通りの途があることを認め、單にその相異を指示するに專らであつて、正しい正しくないの標準は時代と共に移つて居た。さうして色々の時代の型が今もまだ錯綜して殘つて居るのである。大體から見ると活きる道は一つ、之に背いた者の失敗は當然だとして、やゝ現代の感情から見れば殘酷だと思ふ程、瘤を二つにされた老爺の方を嘲つて居た。醒睡笑の中でも田九郎旦九郎の兄弟、一方が利口で他方は頭を打たれる。師匠と弟子の世界共通の笑話に於ても、汝滑横着なる一方の成功を、何の斟酌も無く賞翫して居るのは、目的が譎詐の便益を説くに在つたからで、例へば伊呂波歌留多を教訓などゝ名づけても、あの中には小兒の無理解を仕合せとしなければならぬやうなものが、隨分交つて居るのと同じことで、實際戰はねばならぬ相手が居たのだから、戰ふには戰ふやうな方法を教へたといふに過ぎぬ。
 自分は曾て笑ひの根源を論じて、それが智力の勝負に於ける敗者を嘲るの聲から出たものでは無からうかと言つた。人間が素朴で敵も狩獵の獲物も、細かく區別をし得なかつた時代には、勝つた歡びは至つて單一且つ強烈なものであつたらう。腕力以外に色々な謀計を用ゐ始めると、其成功の誇らしさよりも、相手が意外に驚き自分のみ兼て知つて居たといふ懸隔が、必ず愉快なる高笑ひと之を説明する談話とを殘したと思ふ。現今我々が可笑しいといふ事柄の中では、之より古いものは一寸想像し得られない。其他は秘密の暴露にもせよ、又誤解の發見にもせよ、元は笑ひに化(503)する迄の込入つた?態は存在しなかつた。それから今一つの時代の變化は、昔は自ら辱めて人の笑ひを買ふといふ風が無く、笑ふ爲には特に笑はせる專門の奴隷を養はねばならなかつた。仲間友人同士では笑ふことは許し難い侵略であつた故に、たま/\敵人の笑ふべき者を見出した場合には、遠慮會釋なく歡呼したので、勝鬨もこの共同の高笑ひの形式化したものであらうと思ふ。
 平和が部落間に確立したといふのは、單に械仗を執つて相毆たぬことを意味し、進んで譎詐を交換せぬ迄も、退いて互ひに相欺いたことは、つい近頃までの實?であつた。乃ち嘲弄と戯謔とは彼等の消極的敵對方法として、武藝の他流試合ひ以上に發達しなければならなかつたので、笑話の大宗たる「おろか村」の物語も、能く天狗退治や狐狸失敗の奇談と共に、何等の弊害なく夜話の席を賑はし得たのであつた。面白いことには嫁聟・奉公人・分家・新田・野山入會の沙汰が起るに及んで、右の所謂おろか村は段々に山家奧在所のどん底まで押詰められた。それが物足らなくなると今度は馬鹿聟が笑はれる。聟は人間の最も肩身の狹い者で、通例村の娘を一人盗んだ程に憎まれて居た。しかし分限者の聟殿ならば、さうも馬鹿にならぬから、次には人のよい怒りさうにも無い者を捜す、其内には又自ら風狂を以て任ずる異常人物、諸侯家でいふなら咄の衆に該當する者が、志願して滑稽の題材になつた。是が我々の彦八又はウソつき彌二郎で、少し繁昌の村ならいつも其一人を缺かなかつた。
 昔話の本意からいふと、此方面には特に衰頽の跡が目に着いた。純なる笑ひは主として人間相互の交渉に根をさすから、其關係にして變化すれば、勢ひ古い形のものを保有することを得なかつたのである。人が一旦このやゝ殘酷なる快樂を味ふと、それを制限して他の比較的平穩なるものに向はしめることは、無器用な村人にはさう容易でなかつた。勿論其一部分は、依然として敵なる動物や妖怪の群に轉嫁し、又若干は偶然の誤解、即ち雙方落度無しの衝突などに取換へたが、他の大部分は一段と下劣なる男女の私事を採つて、強ひて笑ひたがる欲望に充てたのである。勿論是とても古くから存在する一種であつたが、元來は祭の前後の一定の日、特殊の興奮の用に供せられて居た。それを(504)日常のものとして田舍の羞恥心を一變させたことは、悲しむべき滑稽道の墮落であつた。童話の聽衆が敵を憎むの術を忘れたのは、大いなる恩惠には相違ないが、是と同時に彼等の必要とせぬ色々の知識は加はつた。對價としては可なり高いものであつたと謂へよう。
 
       話術と滑稽
 
 西洋の學者の中には、笑話は昔話として一番遲く發達したものだといふ人がある。さうかも知らぬが是は決して近世の事實を指したものではあるまい。人類の笑ひを知らず、笑ひを悦ばなかつた時代は想像することが出來ぬからである。只我々の笑ひ得る場合は、以前は可なり制限を受けて居た。それが今日の村の娘たちの如く、始終笑つて居るやうな世の中になる迄には、隨分大きな變遷があつたのである。先づ第一に笑ひは癖になり、案外な處まで浸潤して行くものでは無からうか。曾て大いに笑つたことのある者は、其原因が絶えてから後も、尚時々は笑ふことが無いとつまらなくて仕方が無いものらしい。心理學者の事業として、是は行く/\是非測定すべきものだが、同じ一つの民族の中でも、地方によつて著しく笑ひの分量の多少がある。獨り英人が笑はぬとか佛人がよく笑ふとか、大別してしまふことは出來ぬやうである。個人又は家庭によつて此差異の餘りに著しいものがあるのは、何か社會的原因であらうと思ふ。日本に咄の衆といふ者が出來て、御伽といふ語を昔話の代りの名にしたのは、記録は勿論其他の史料を求めても、足利時代より古い證據は無い。今昔物語の青常の話などを始めとして、人が笑はれたといふ話は次々に殘り、著聞集には興言利口の一篇まで設けられてはあるが、それを供給する職業の者が、果してもう存在して居るだらうかどうか。しかも物狂ひの歌舞が祭の日でも無いのに催され、もしくは時とも無くミキを飲む人が出來た如く、時々は強ひて笑ひの話を聽いて、有りし目の興を追はうとする風が盛んになり、從うて平生之を用意して居る者が、追々に(505)歡迎せられるやうになつたのかと思ふ。斯うなるとどうしても笑話は獨立して發達しなければならぬ。以前の滑稽の一種にはまだ我々には呑込めぬ物眞似といふものがあつた。是も元來は山の反響を妖精と解したやうに、必ず敵意を含んだ應答であつたらうと思ふに拘らず、不思議に嚴肅なる儀式のすぐ後で、之を模倣して參列者を笑はせて居たのである。即ち一つのしぐさ、一つの唱へ言には、必ず正しいものと之を似せたものとが重ねられて居た。どうしてさうするかは才藏や大神樂の狂言方などの、自身之に與る者にももう解らないが、兎に角に元はチャリばかり孤立しては行かなかつた。それが追々に本格と離れて價値を持つことになつたのは、單なる信心の破綻以外、別に新たなる理由があつたらしいのである。
 自分は沙石集の愛讀者であるが、此法師の物語の中にも、彼が天性の洒落から出たとばかり考へられぬ滑稽が多い。即ち世を慨した熱烈なる説法である爲に、特に其間に若干の惡謔を交へて置く必要が、彼の時代には認められて居たのでは無いかと思ふが、しかもその可笑味は最早田樂などのモドキでは無かつたのである。此書は後代俗間の説教師が、參考書として非常に珍重したものだが、それには少々似つかはしくないと思ふ程、生臭坊主を漫罵した個條が多い。何しにそんな事を書くかと訝るやうであるが、考へて見ると是は空也と市人と共に踊躍した如く、主としては話に導かれんとする聽衆の要求であつた。斯うして笑ひくつろいだ心持にならぬと、彼等の感動は新たに貴いものを受入れることが出來なかつたのである。恐らく此民族の宗教は、夙くよりそんな特性を具へて居た。所謂念佛法門の傳道は、初めて斯ういふ群の活動を開いたので無いばかりか、必ずしも研究して十分に之を利用したとも言はれないのである。
 現代の落語まで續いて來た坊樣の滑稽談、下手な説教に泣き比丘尼を傭うて來たといふ類の話、それから小慧しい小僧に遣り込められたといふ色々の失敗話の如き、之を法師に反感を持つ社會の産物と見ることは、どうも歴史には合はぬやうに思ふ。多分は沙石集も同樣に法話を話らしくする爲に、努力して合ひの手に人を興ぜしめて居たものが、(506)氣の毒にも肝腎の教はどこへか散つてしまつて、切り離されたクワンクワンや三串八串の團子の話ばかり、爺婆の昔語りの中に傳はつたのであらう。尤も後々は斯ういふことばかり得意にしやべる者が、談義坊主として現はれて來たかも知らず、生活の爲には段々の濫用もあつたらう。前に引用した醒睡笑の編者なども、序文を見れば誓願寺の隱居上人、安樂菴策傳であつた。誓願寺は京では有數の念佛道場であるが、そこから出たと稱する諸國遍歴者は、かたの如き賣僧であつたらしい。それが持つてあるいて居た歌物語の類は、どれがどれやらもう不明になつて、本山の方には却つて是だけの數の笑話のみが保存せられ、其中にはもう澤山の坊主を嘲つたものが入つて居るのである。
 琵琶法師を題材とした笑話やからかひの歌も相應に多い。亦同樣に彼徒の自作であらうと思ふ。平家は如何にも物悲しい語り物であるが、座頭に隨從する小盲は、跡で必ず口直しのやうに、腹を抱へさせるやうな早物語をした。東北地方で大家といふ程の家は、臺所が馬鹿に大きくて、始終色々の旅の者が泊つて居た。ボサマなどは殊に人氣があつて、藝と話で夜は遲くまで遊ぶのが習ひであつた。常居の爐の周りにも、一冬は毎夜のやうに夜話の寄合があつた。後には單なる閑潰しの如く、考へられるやうになつたらしいが、實は是も亦缺くべからざる年中行事であつた。殊に近世の三百年を一貫して、日待といひ庚申待といふが如き、殆と夜話を主たる目的とした會合が當番を以て催され、必ず其席に招かれる者は座頭であつた。座頭といふ名稱も或は斯ういふ處から出たかと思ふ。舊家には持佛の前などに盲人を泊める小座敷さへもあつた。奧州の昔話の今日の形は、思ふに此一間の中で改造せられたものであらう。といふわけは此階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技藝を以て飯の種としなければならなかつたからである。
 但し是は固より昔話の供給が、必ず盲の琵琶彈き等の片手わざであつたといふので無い。彼等が骨折つたのは新しい話の種の蒐集と修整利用で、それが聽手の期待に反せざる限り、是非とも純粹であり又眞實であることを念としなかつた故に、一時非常に其數を豐富にしたことは事實であるが、家々の祭の夜に昔々を語るといふ慣例は、新たに彼(507)等から始まつたわけでも無く、他にも色々の旅の宗教家が、各特徴ある語り口を以て、次々に新しい形の昔話を増加したことは、一部の今日に傳はつた記録だけからでも、之を證明することはさまでの難事で無い。例へば盲人とは縁の無い仕方話、舞や繪解きの眼の印象に手傳つてもらつたものは、おのづから其相違が久しい傳束の間にも痕を留める。少しく練習を積めば混合の間からでも、選り分けて見ることが出來ると思ふ。
 落語は或は盲人の昔話から、系統を引いたものかと思ふがどうであらうか。下品で信心氣が無くて題目が陽氣で、強ひて説き方ををかしくしようとする點は、少なくとも兩者に共通である。仙臺の方言では昔話をザットムカシ、越後の蒲原地方では、アッタテンガノニと謂ふ。共に此一句を以て後々迄も、小兒の昔話が始められたからである。斯んな形式を固定したのも、座頭の黄色な作り聲の力であらうが、それが又トントムカシと同樣に、千年來の一大條件に、丸々背き得なかつた面白い證據である。佛蘭西などの昔話には聽手の坐睡を防ぐぺく、中程にも時々挾む定文句があつたといふが、我々の中にもあつたか否か、まだ確かめて見ることが出來ない。最後の文句にも亦古くからの定型がある。東京などではソレデオシマヒ。古風な話し方ではソレデイチガサカエタ。越後では之を一つくねつて、エッチガサッカエボロントモゲタと謂ふさうだ。奧州南部ではソレデドンドハレ。富山附近ではカタッテモカタライデモ候。秋田では又ハイモノガタリカタリ候と謂つたらしい。「市が榮える」とは如何にも意味ありげな言葉だが、どうしてさういふことになつたかははつきりせぬ。子供の用に供するに至つて、色々滑稽に言ひかへたかと思はれるが、何等かの定まつた文言を附けることだけは、なほ成人の昔話からの引繼ぎであつた。今昔物語の卷二十八、銀鍛冶延正華山院の勘當を蒙る語に、延正御殿の端に出て大聲に事の顛末を述べ、其末に「此事聞きたもてやヲイ」と叫んだと記して居る。院聞し召し、此奴痛く申したる物云ひにこそ有けれと仰せられたとあるから、あの時代の物云ひ即ち話をする者は、末の一句としてこんなことを唱へたのである。それが上古の歌物語の、「事のかたりごともコヲバ」と同じ趣旨なることは想像し得られる。要するに昔話は後代に記憶せられんが爲に、特に形を整へて敍述する説話であ(508)つて、其點は恐らく今一つ以前の、正式なる神話も同樣であつたらう。それが今日幼兒の間にばかり幽かに殘つて居るのは、彼等の所望といふよりも、寧ろ彼等以外には聞き保つ人が無くなつた爲で、元は古い物を斯うして子供等に引渡す代りには、大人にも追々新らしい昔話が補給せられたものだが、今ではそれも絶えて、傳統はたゞこの一縷の絲に繋がつて居るのみである。
 
(509)  第六卷 内容細目
 
口承文藝史考〔1947年1月、中央公論社より発行〕
 
 序
 口承文藝とは何か(昭和七年四月、岩波講座「日本文學」)(原題、「口承文藝大意」)………………………………………………………………………………………七
 昔話と傳説と神話(昭和十年五月〜昭和十一年四月、昔話研究一號〜十二號)(原題、「昔話覺書」)……………………………………………………………………五八
 夢と文藝(昭和十三年十二月、革新一卷三號)…………………………一二九
 文藝と趣向(昭和十五年四月、日本評論十五卷四號)…………………一三八
 文藝とフォクロア(昭和七年四月、文學十一號)………………………一四七
 
昔話と文學〔1938年12月、創元社の創元選書として発行〕
 
 序
 竹取翁(昭和九年一月、國語・國文四卷一號)…………………………一五七
 竹伐爺(昭和十一年三月、文學四卷三號)………………………………一八六
 花咲爺(昭和十二年三月、文學五卷三號)(原題、「昔話覺書」)………二〇三
 猿地藏(昭和十一年八月、九月、昔話研究二卷四號、五號)(原題、「猿地藏考」)……………………………………………………………………………………………二一九
 かちかち山(昭和十年四月、文鳥六)………………………………………二三四
(510) 藁しべ長者と蜂(昭和十一年七月、國文學論究三)…………………二四八
 うつぼ舟の王女(昭和六年七月、朝日グラフ十七卷一號)(原題、「うつぼ舟の話」)…………………………………………………………………………………………二六一
 蛤女房・魚女房(昭和十一年六月、七月、昔話研究二卷二號、三號)
       (原題、「蛤の草紙によつて」)………………………………二六七
 笛吹き聟(昭和十二年十月、昔話研究二卷十一號)………………………二八〇
 笑はれ聟(昭和十三年五月、文學六卷五號)(原題、「昔話覺書」)………二八九
 はて無し話(昭和四年十二月、遊牧記一)…………………………………三〇八
 放送二題
  一 鳥言葉の昔話(昭和十二年七月、昔話研究二卷九號)……………三一四
  二 初夢と昔話(昭和十二年二月、旅と傳説十卷二號)………………三二二
 
昔話覺書〔1943年4月、三省堂より発行〕
 
 改版序
 再版の序
 第一版自序
 昔話採集者の爲に(昭和六年四月、旅と傳説四卷四號)…………………三四一
 昔話の發端と結び ……………………………………………………………三六七
 猿と蟹(昭和十四年三月、國文學論究九)…………………………………三九一
 續かち/\山(昭和十四年一月、學燈四十三卷一號)……………………四一五
 天の南瓜(昭和十六年四月、六月、文藝世紀三卷四號、六號)…………四二〇
(511) 俵藥師(昭和十四年四月、博浪沙四卷四號)…………………………四三二
 峠の魚(昭和九年五月、河と海四卷五號)(原題、「江湖雜談」)…………四三七
 鯖大師(昭和十七年八月、民間傳承八卷四號)………………………………四四二
 片足脚絆(昭和十五年二月、野鳥七卷二號)(原題、「片足脚絆の昔話」)…四四七
 食はぬ狼(昭和十四年九月、民間傳承四卷十二號)…………………………四六一
 味噌買橋(昭和十四年二月、四月、民間傳承四卷五號、七號)……………四六四
 「壹岐島昔話集」(昭和十年六月、山口麻太郎著「壹岐島昔話集」序文、郷土研究社)…………………………………………………………………………………………四七〇
 「島原半島民話集」(昭和十年五月、關敬吾著「島原半島民話集」序文、建設社)………………………………………………………………………………………………四七四
 「二戸の昔話」を讀む(昭和十三年一月、旅と傳説十一卷一號)…………四八一
 昔話解説(昭和三年四月、「日本文學講座16」、新潮社)……………………四八六
            (2013年10月13日(日)午後8時55分、入力終了)