定本柳田國男集 第七卷(新装版)、筑摩書房、1968、12、20(1970.12.10.3刷)
 
(1)  物語と語り物
 
(3)     自序
 
 「耳の文藝」といふ標題を最初には考へて居たが、それを説明するやうな文章が、この書の中には無いので、誤解を氣づかつて今の名と替へることにした。
 茲に排列して見た幾つかの物語は、結局は眼で視る文藝に化して、皆さんの前に現はれたのだが、もとは久しい間耳で受取り、口で引繼ぐといふ相續をくり返して居た。さういふ中には目の見えぬ者も多くまじり、記憶は又口移しとちがふので、殆と毎回の改版ともいふべき愉快な變化が行はれて來たらしい痕跡がある。それが今日と比べるとずつと單純で素朴な人たちの所業であつた故に、その數多い變化を綜合して行けば、逆に斯くあらしめた歴代の生活事情、殊に信仰と社會觀の移行を、推測し得られる興味があるのである。時間が足らぬので私は僅かしか試みなかつたが、是はその中のやゝ纏まつた部分を、たゞ是からの同志の勞を省く爲に、殘して置かうとするのである。
 今一つの私の意圖は、日本海の潮の香にはぐゝまれた山陰北陸の一帶は、中古の交通に於て特に重要なる舞臺を提供して居る。爰に民間文藝の何か他と異なる色相を留めては居らぬかどうかを尋ねたいのである。是は義經記を讀み又八百比丘尼の口碑を蒐集した頃からの、自分の一つの興味であつたが、今度も亦出羽の黒百合姫の物語によつて、眼に見えぬ山々の通ひ路が、今も幽かに辿り得られるといふことに心づいた。さういふ中でも越中はさながらに立山の裾野であつて、遠いゆかしい越の白山のかたり事が、分れてこの御山にも根づいて居ることは、曾て老女化石譚にも書いたことがある。信濃の靈場を拜みに行く遠近の旅人が、爰では?不思議な事を見る習ひだつたといふことも、奇異雜談集の筆者が夙に之を説いて居る。是なども多分土地の人たちの收容力、即(4)ち話を珍重し又保存する素質を、よそよりも多く備へて居て、自然に民間文藝の一中心を、なして居たことを意味するものかと思ふ。
 角川書店主はその越中の生まれであつて、自身も學生の頃から頻りにこの流れの水源を尋ねようとして居た。愈出版事業のやうな激しい現實世界に出で立つことになると、もう當分は悠長な道連れも捜せまいが、故郷だけは忘れてしまはぬやうに、この一卷の書を以て、馬の餞けとしようとするのである。記録に扶けられない前代の文化が、まだ一筋は北國に傳はつて居るといふことは、この本を讀む人の有る限り、思ひ出される折が必ず有るだらう。それを今少し精密に調査し、今少し上手に敍述したものを、是から次々と世に送り得るやうに、なればよいがといふ私の祈願も、この中に籠められて居る。
       昭和二十一年八月
 
(5)     一寸法師譚
 
          一
 
 説話の本質を、もし計數に基いて論じようとするならば、其前に非常に骨折な準備が無くてはならぬ。現在我々の目に觸れる或記録は、それが一地一時代に流傳したものゝ、代表であるといふ證據は到底得られないのみならず、單なる偶然の一粒の落ちこぼれとしても、果して各要點に忠實であつたか否かゞ覺束ないからである。慣習禁忌の類に於ては、通例鄰家鄰村も同じ事をして居るといふ推定が、ほゞ安全に成立つ故に、其一を採つて例示と認めることも許されるが、物語や歌は之を傳ふる動機が、社會によつて一樣では無かつた上に、文筆は寧ろ若干の潤色を必要とし、時の好尚は次々に要點を移して居る。假に各地の採集がまんべんなく行屆いた場合でも、なほ童兒の悦樂に供した昔話と、信仰を堅めることを目的とした本式の神話とを、一つに取扱ふことは危險である。いはんや學問ある旅人が手帖を持つて通過したかしなかつたかによつて、現はれ又は埋没する異民族の口碑を、僅かに目の及ぶ限り寄せ集めて見て、共通類似を説くことが既に亂暴である。殊にその一部の過不足によつて、忽ち不一致を論斷するに至つては、餘りにも非科學的であると思ふ。
 今の學問の進度に在つては、先づ國内の實例の出來るだけ多くの蒐集が急務である。書物の譯讀以外に外國事物を採擇した機會が、殆と想像し得られない日本などでは、假令説話の傳來輸入を疑はないにしても、個々の事例に就い(6)てさう手輕には、之を民種親近の證明には使はれぬ。成程民間の守舊力には豫想外に強靭なるものがあつた。新たに學ばずとも大昔以來、無意識に記憶して居たものが無いとはいはれぬ。それが雙方三方に殘つて居るからは、曾て一つの爐の傍に於て、共々に聽いて居た證據だとも論じ得られようが、それには中間の千二千年の變化が、何であつたかを究めて置く必要があるのである。是が自分等の國内の昔話を大よそ整理してしまふ迄、説話を民族起原論の資料に供したがらぬ理由である。
 すでに蛇聟入猿聟入の昔話でも見たやうに、人が同じものと速斷して居る口碑でも、二つあれば二つ、三つあれば三つながら互ひに異なつて居る。單に或成分を缺き又は添へて居るのみならず、往々にして別系統のものと繼ぎ合せて、もう其縫目の何れに在るかを知らぬ迄に古色を帶びて居る。同時流傳の鄰縣の例すらも此通りである。ましてや久しき歳月に亙つて、これを民族遷移前からの確實且つ一樣なる投影なることを、何人が斷言し得ようか。しかも若し地方區々なる變化があるとしたならば、それは悉く國内の原因からであつて、よその種族の與り知る所では無いのである。
 説話の神話的起原といふことは、自分等も勿論之を認めて居る。現在笑つて童兒に語つて居るおどけ話の中にも、會て髯ある者が謹慎して傾聽した古傳が、必ずまぎれ込んで殘つて居ることは疑ひがない。たゞ問題とすべき點は、何の原因が元それほど大切であつたものを零落させ、しかもいつ迄も之を保存して居たかである。如何なる標準が後代の藝術を指導して、説話の或部分を改訂し、又他の或部分を踏襲せしめるに至つたかである。この法則がもし少しでも判明し得たならば、或ひは國内だけでは次々に、舊信仰の系統をたどつて行く端緒を見出すかも知れぬが、不幸にして今はまだそれだけの資料すらも集まつては居ないのである。
 
(7)          二
 
 さう考へて見ると、私の一寸法師研究も、何か一つの皮肉のやうな感じがする。所謂矮人觀場の笑止なる譬へごとは、恰かも今日の如き大家林立の世の中に於て、足を爪立てゝ前途を望まんとする筆者等が境遇に似つかはしい。しかし今日傳はつて居る此類の昔話を、もしも大切に我々が研究して行くならば、後には必ず靈妙なる打出小槌を見出して、急に成長して屈強なる大男になるにきまつて居る。日本の神話學なども、早くさういふ目出たし/\に、到達せんことを?るの他は無い。
 一寸法師といふ名詞が、夙くからの此説話の題目でなかつたことは固よりである。嬉遊笑覽卷四などにも既に注意して居る如く、小兒其他の法師に非ざる者に、何々法師といふ綽名を付與することが、盛んに流行した時代があつた。御伽の「一寸法師」が讀み物として出現したのも其影響であつて、それが俳諧の連句などに?擔ぎ出されて居るのを見ても、あの頃何人かゞ始めて思ひ付いて、一時新しい興味を喚起した名なることが察せられる。即ち此話を文筆に固定した動機は、寧ろ名稱の新奇に在つたらしいのである。
 甚しく後のものとも見えざれども、其文見るに足らずと古代小説史などに評して居る。如何にも今代の小説と同じく、作者自ら趣向を立てたものとするならば、この貧弱なる文藻はいぶかしき限りであるが、それは必ずしも一卷の草子のみの疑問で無い。單に繪を弄び手習の用に供する爲に、稚ない姫たちに書き與へたものが、偶然に寫し傳へられたといふに過ぎぬものを、著述として批判せんとすれば、常に此評は免れないだらう。内容の古さ新しさの如きは、通例始めて之を筆にした人の、關與する所ではなかつたのである。「一寸法師」の卷には、後世版本として行はれる場合にも、是非とも繪にしなければならなかつた箇處が二つある。其一つは現在の童謠にもなほ保存せられたる「お椀の舟に箸の櫂」であり、他の一つはもう忘れてしまつた「足駄の下に隱れて見えなかつた」といふ可笑味である。(8)それが物語の骨子とは寧ろ關係が無いにも拘らず、自然に此一篇の所謂山を爲して居るのを見ると、當時少なくとも京あたりには知られて居た昔話であつて、しかも既に稍童話化しかゝつて居たことが推定せられる。
 さうすると、新しい流行の一寸法師の名を以て、之に結び付けたのが働きといふことになるが、それとても果して御伽話を草子にした人が、たゞ世間から受繼いだので無いか否かは決し難い。しかし兎も角も名が後のもので話は前からの在り來りといふならば、其前は之を何と呼んで居たらうかといふことが問題になるのだが、自分だけは次のやうな鏈鎖の存在によつて、本來はチヒサコと謂つて居たものと想像して居る。小子の物語は即ち上代の神話であつた。前に雷の神の信仰變遷と伴なうて一端を述べて置いたやうに(一)、靈ある神子は少彦名命以來、最初至つて小さな形を以て出現する如く、信じ又説明せられて居たのであつた。
 
          三
 
 最も嚴肅なる神の出現を述ぶる場合にも、或ひは鷦鷯羽《さゞきのは》の衣や白?皮《かゞみのかは》の舟を説き、或ひは指の間より漏れ墜ち、粟莖に縁つて彈かれて常世郷《とこよのくに》に渡つたことを説くなどは、まだ其理由を説明した人は無いが、とにかくに古い世からの言ひ習はしであつた。それが物語の殊に興味ある部分となつて、神秘を解する能はざる者にも記憶せられ、信仰衰へて後まで、永く殘るといふことは、恐らく毆羅巴南北の古傳の、今はたゞ育兒室の窓の下に殘留するを見た者の、均しく想像せずには居られなかつた所であらう。神話が後代の上古史と行き方を異にした一點は、必ず之を表出する形式に在り又方法にあつた。中にもそれに携はる人々の智巧才能に由つて、次々に珍奇なる敍説法を添加して、印象を深くし又光景を如實ならしめんとしたことは、それが繪となり美しい旋律となり、更に伎樂の手振身振となつた事實と、根原を一にするものと思はれる。さうすれば假に本旨に於ては千古を貫通して不易なるものがあるにしても、少なくとも他の一方には國内限り民族の氣質次第、他と獨立して寧ろやゝ頻繁に、變化して來た部分のあることを認めなけ(9)ればならぬ。所謂御椀の舟に箸の櫂の一段が、假に自分の想像の通りでは無くとも、今ある特徴の全部を提げて、之を國際比照の用に供せんとする不用意さだけは、十分に指摘し得ると信ずる。
 金田一君の譯出せられた北蝦夷の古謠などに、山中で鹿の姿を見たといふ形容として、梢に食むときは角を伏せ、土にあさるときは角を樹てるといふ鮮明なる一聯の句が、何度も處々に繰返され、或ひは宮古の伊良部島の新アヤゴに、再び「肝打合ひ/\てぞ」を使つて居るのを見ると(民族一卷八九頁)、口碑傳承の第二期が、主として末端の言ひ現はしに傾いたことは認められる。しかもそれが夙くからの神話の一つの方式で無かつたら、是ほど目的の相異した古今二種の説話が、敷千年の脈絡を保つわけは無いと思ふ。さうすると普通插話などゝ呼ばるゝ此類の細部の研究が、少なくとも國の歴史に於ては非常に必要になつて來るので、今後の採訪の興味又は重點は、どうしても茲に置くの他はあるまい。又さうしなければいつ迄も、粗相な概括論を防止することが出來ぬであらう。
 故に忍耐して問題の特に微細なるものから、私の研究は出發するのである。一寸法師譚の御椀の舟は、水に浮く木の食器がほゞ一般に知られて後、又法師が身を匿したといふ高足駄は、あんな履物が普通になつた時代から後の事(餓鬼の草紙の畫にも斯ういふ足駄が見える)、と言はうよりも寧ろ其當座の人の思ひ付きであつたと思ふが、それより以前の小男の形容法にも、何か必ず相應の代りのものがあつた筈である。それを順序を立てゝ考へて行くならば、先づ第一には寶暦七年に世に出た吉蘇志略に、信州木曾黒川村の小子塚《ちひさこづか》の由來を傳ふる話がある。曰く、相傳ふ木曾殿の?子其長一尺二寸、故に小子と謂ふとある。御伽の一寸法師がたけ僅かに一寸で、十二三歳まで少しも成長しなかつたといふに比べると、あれは話、是は或ひは有りさうな事の樣にも聞えるが、なほ其説明として之に附加へられたのは、里民之を養ひて臼の中に隱し、又笠を覆ふに其形見えず、その矮きこと知るべしといふ一節である。即ちいつの時代かの昔話から、此部分ばかりが殘留し、しかも野中の塚の一つが、曾て其名に於て祭られもしくは拜せられた記憶があつて、木曾殿の子といひ歿後爰に葬るといふ口碑は、之と結合するに至つたのである。勿論こればかりでは説(10)話で無く、塚の傳説としても不完全である。斯ういふ場合には今一度故地に就いて他の破片を捜して見たならば、或ひは一つ以前の形が復原せられるかも知れないが、現在自分等が手掛りとする點は三つある。其一つは小子塚の傍に長櫃塚といふが在つて、小子の寶物を埋めたと稱し、觸るれば病を發すと信じて恐れて之を侵さなかつたことで、それが事によると一寸法師の鬼の國征伐、數々の金銀財寶を携へ還るといふことゝ系統を引いて居りはせぬかである。第二には同じこの黒川村に箕作山があつて、箕作翁といふ萬福長者の物語を存することである。これは或ひは住吉明神に?つて申し兒を得たといふ一寸法師の老いたる親、及び竹の中から耀く姫君を見付けたといふ竹取の翁と、何かの共通を具へては居なかつたらうか。人も知る如く現存の竹取物語は、亦一箇偶存の草子であつて、異傳の他に多かつたといふだけは證據がある。さうして是も小子の古傳の一例には相違ないのである。
 
          四
 
 第三の特徴として注意して見たいことは、臼に隱して小子を養育したといふ點である。臼は食物との深い因縁から、及びその中窪なる形から、古くより神の座として使用せられて居た幾つもの例がある。それを比較し解説して見ることは此次の仕事として、先づ何故に小子の小さいことを述べるのに、特に臼といひ笠と言はなければならなかつたかを考へて見る必要がある。
 其爲にはやゝ煩雜なる綜合が入用になつて來るが、私は成るたけ議論をせずに濟むやうな順序に由りたいと思ふ。紫波郡昔話を見ると、あの地方の「一寸法師」は其名をスネコタンパコと謂つて、話は大體に違つて居ながら、なほ見遁すべからざる二つの類似を持つて居る。或百姓夫婦、藥師如來に子を?ると、葦の根を尋ねても茅の根を尋ねても、お前たちに授ける兒は無いのだが、餘りに願ふ故に臑に孕む子を一人遣らうといふ夢の告があつた。それから女房の臑が段々太くなつて、月滿ちて小指ほどの男の子が生まれた。臑から生まれたからすね子たんぱ子と名を附けた。(11)十五六になる迄ちつとも大きくならなかつた。それが鄰の長者へ行つて、智惠をもつて長者のうば子樣(弟娘)を嫁に貰つて來たといふ話である。玄關で御頼み申すといふから出て見たが誰も居ない。よく見るとすね子たんぱ子が下駄の下に匿れて居たといふのは、全く御伽草子の通りである。それから術計を以て姫を得て還つたといふ、最も肝要な一條も一致して居る。恐らく上方の文人が此話を採録した前から、斯ういふ形を以て東國の果までも行はれて居たもので、御伽の本を讀んでから後に、殘りの部分を改作したものでは無いと思ふ。
 ところが同じ紫波地方の採集の中に(二)、今一つ鄰の長者どんに嫁を貰ひに出かけた話(蛇の息子)が、やはり亦小子譚であつて、それは明白に蛇聟入の別の話と結合して居る。更に其大要を摘記するならば、ある子の無い百姓の夫婦が雨の日に畑に出て居ると、笠の中に小さな蛇が入つて居て、何ぼ追うても又入つて來る。ちやうど子が無いから育てようと思つて、家に連れ還つて鉢こに入れて養うて置くと、段々成長して鉢に入れて置かれなくなり、それから盥に入れ次は馬槽《うまふね》に入れて置いた。其蛇息子が或時父母に向つて、今夜長者どんに聟に行くと言つた。それから後が三人の娘の末の方が、嫁に來るといふ例の話になつて居るのである。
 しかも其娘は蛇を退治して還つて來るのでは無くて、蛇は我家に戻つて藁打石の上に登り、俺は爰に寢て居るから、其藁打槌で俺の肝を打つてくれといふ。花嫁が其いふ通りにすると肝がパチンと彈けて、向ふの隅に行つて美しい青年になつた。娘は喜んで抱合つて爐にあたつて話をして居る。二親が畑から戻つて來て、あれは何處の和子だと問ふ。蛇の息子が斯うなつたのだと答へて、目出たし/\で話は終つて居る。この藁打槌も亦打出小槌であつて、同時に藁打石は小子の臼であつた。蛇が成長し又壯男になつたといふ話は、常陸風土記の?時臥山《くれふしやま》の話、それと關聯した道場法師の古傳などを、弘く見渡した上で無いと其意義が捉へにくいが、少なくとも爰に引用する三つ四つの話が、  各々孤立して突然と空想せられたもので無いだけは、もう認められてよいと思ふ。
 察するに此系統に屬する昔話は、まだ若干の興味ある變化を具へて、東西の府縣に行はれて居るのである。それが(12)やゝ集まつて來たら私の意見も、或ひは訂正の必要を生ずるか知れぬが、佐賀縣藤津郡の五町田といふ村にも、次の樣な一例がまだ童話にもなり切らずに、行はれて居るといふことである。
   三百年ほど以前、五町田に喜左衝門といふ百姓があつて、子が無いので籾岳神社に願掛けをした。さうすると滿願の日に夢の御告があつて、御前たちにはどうしても子供は出來ぬ。今日還り途で最初に足にさはつた者を、拾ひ上げて養育するがよいといふことであつた。悦んで下向する路すがら、足にさはつた者は小さな蛇であつた。驚きながらもつれて歸つて可愛がつて居るうちに、小蛇は人間の物を食つて日一日と大きくなり、四五年もすると一丈四五尺の大蛇となつて附いてあるくので、村の人が怖れてつき合つてくれぬ。そこで夫婦の者は大蛇に向ひ、今まではお前を我子として育てたけれども、村の人たちがこはがるから一時は身を隱してくれと、涙ながらに言つて聞かせると、別を惜しみつゝ家を出て行つた。それから年が過ぎて夫婦が老いて働けなくなつた頃、毎年田植の時になると、鹽田川の井手が切れて、川下一圓の村では農作が出來ない。庄屋が心配して易者を頼んで占はせると、それは喜左衛門の大蛇の所業である。是からは村々の百姓が少しづゝの米を出し合つて、老いたる蛇の二親を養へば其災が止むとある。果して其通りであつた故に井手の神樣に祀つて、今でも秋の彼岸中日には鉦浮立《かねふりふ》の參拜がある。村の喜左衛門谷といふ小字は彼の屋敷跡で、夫婦の墓も近くの山に立つて居る(藤井利作君報)。
 是は正しく曾て引用した大和龍田の地名傳説の類系でもあるが、この中間にもし陸中紫波郡の昔話が一つ聽き落されて居たら、誰が一寸法師譚を以て道場法師の亞流と言ひ得よう。だから私は思ふ。速斷は神話研究の大敵である。
 
          五
 
 新井白石の逸話として、非常に有名になつた小蛇成長の話なども、それが所謂蟄龍の寓話と化する以前、たゞの昔(13)話として民間に行はれて居たことは疑ひが無い。折焚く柴の記の自敍を見ても、「我昔或人の申せしことを聞きしに」とあり、又「後に之を父に語りしに、珍しからぬことなれども好き喩にもありつる哉と笑ひたまひたりき」とも謂つて居る。話のどこ迄が先生得意の才藻を以て文飾したものかは究め難いが、少なくとも至つて小さい蛇の、次第に怖ろしいクラヲカミになつたといふ話だけは、別に種々なる曲折變化を以て、大人の世間話の中にも紛れ込んで居たのである。三州横山話を始めとして、凡そ物凄い青淵の不思議談に、是ほどよく出て來るものは他に無いと思ふ話、蜘蛛が水上を往來して足の栂指に絲をかけに來たのを、恠しんで移して傍の大樹に繋いで置くと、やがてみり/\と音がして根こそぎに引倒したなどゝいふのも、右の靈蛇の忽ちに成長するのを見たといふ話が無かつたら、斯う迄展開しなかつたことは「一寸法師」も同じことである。何にせよ淨杯に神子を盛り壇を設けて安置するに、一夜の間に已に抔中に滿てり、更に瓮を易へて之を置けりといふ風土記の努賀?刀sぬかひめ》の古譚と同じ神話が、上古僅かづゝの變形を以て、常陸以外の國にも行はれて居たことは、自分等の先づ安心して推定せんとする所である。
 桃太郎童話の根原に關しては、既に高木君等の若干の討究があつたが、是もその變形を辿つて行くと存外に小子《ちひさこ》の物語と接近する點がある。或ひは一時代、斯ういふ名を以てもてはやされたのが、特に人望を博してこの美しい發展を見たのかも知れぬ。高木氏は始めて母の股から生まれたといふ一例を見付けて珍重したやうだが、それはやがて亦東北のスネコタンパコであつた。しかし一方には瓜子姫子と謂つて、瓜の中に入つて川上から流れて來た話もある。此方は竹取の姫と同じく美麗の少女であつて、後に山姥に捕られたことに普通はなつて居るが、新羅の古傳に於ては之を高祖の海を渡つて來た者に托し、もしくは空穗舟《うつぼぶね》の物語として、末遠く流れ傳はつて居るのだから、基く所は決して近代で無く、從つて時に伴なふ改定は繁かつたものと見ねばならぬ。しかも現存の信仰に於ても、瓜を祇園の爲に忌む例は弘く、此神の祭の日を過ぎてからは、胡瓜の中に蛇が居ることがあると稱して、之を食ふことを戒めて居る者が多い。精靈が此種天然の器物に入つて、人間に出現するものと信じたことも、恐らくは「一寸法師」の御椀の(14)舟の、隱れたる動機になつて居ると思ふ。
 諸社根元記の上卷に、齋宮は倭姫命也。化現の人也。箱の中に小蟲あり、其を育てたまへば倭姫なり。此姫壽量七百餘歳也とあるのも、同じ神話の痕跡と見てよいであらう。本朝神社考卷五には秦河勝化生のことを説いて、大和洪水の折初瀬川大いに漲り、大甕流れ來つて三輪の社頭に止まる。土人開き見るに玉の如き一男子あり云々。後に又小舟に乘つて播磨に着き大荒明神となるとも記して居る。此等は何れも説話の形式を脱して、今は單なる縁起の一説といふ迄になつて居るが、曾ては亦之に伴なうて興味ある敍述があつたのでは無いか。三輪は神婚姻の物語一つを以て、古くから有名になつたけれども、土地にはなほ其以外に、珍しく多くの傳承を存して居たらしいことは、切れ/\の記録の中からも之を窺ふことが出來る。例へば山中岩窟の女神が、幼兒をつれて此社の地に入つて祀られたといふが如きは、本紀と一致せざるが故に概括的に否認せられて居るが、今でも拜殿の板敷の上とかに、御子神の御足形と稱して、至つて小さな跡があるといふ者もあると聞く。或ひは後代信仰が變化して、特に此點を高調することになつたのかも知れぬが、丸々最初から無かつたものが、新たに來て代つたと認めることは出來ない。祇園の社なども同じことであるが、中古の神傳は今よりも多樣であり、又我々の心付かぬ聯想があつて、且つ多くは議論無しに信じられて居たやうである。
 
          六
 
 故にもしたゞ一つの假定、それも自分が他の論文に於て、大略立證し得たと思ふ假定、即ち神が小蛇の形を以て人間に出現したまふと信じた時代が、曾てあつたといふことを念頭に置いて考へるならば、多くの現在の童話の成長し(童話から見れば成長である)、且つ分裂して來た道筋を見渡すことも困難で無く、今は全然別物として取扱はれて居る「一寸法師」と、蛇が聟入をして來たといふ怖ろしい昔話とが、或ひは奧州の田舍に於て結合して一つになつて居て(15)も、それを無茶だとは言つてしまはれぬことになると思ふ。神話はそれ自體が信仰につれて、久しい間移り動いて居た上に、愈解放せられて一般娯樂の用に供せられる段になると、更に又末端の言葉の綾に絆されて、話の中心ともいふべきものが幾處にも割據するからである。
 古典の正しい解釋は、今の世に於てもなほ難事である。微力我々の如き者の之を能くすといはぬのは固よりであるが、上代|小子部連《ちひさこべのむらじ》の家の祖が、皇命を奉じて行き迎へたと傳ふる三諸の山神の最初の記事は、既に書紀の一書に見えて居る。即ち神意に由つて此神山に住みたまひ、後に又|甘茂《かも》の君大三輪の君たちの始祖の父となりたまふとある。其家々の家傳の如何なるものであつたかは、別の書物に久しく之を述べ立てゝ居る。即ち其條下に書き續けられたる三島|溝?姫《みぞくひひめ》、又の御名玉櫛姫の傳記などゝ、所謂同工異曲なるものである。神父人母の多くの古傳は、必ずしも一は他の一の訛傳と見ることを要しない。當時此の如くにして我家の血の半分が凡庸に屬して居ないことを、信ぜしめ得た者が族長となり、又祖神の祭を專管する風があつたのである。而うして一方に神光海に照り忽然として浮び來る者、吾は是汝が幸魂也と告げたといふ記事が、少彦名神の一異傳であつたことは推察せられる(其事業の跡に就いて判ずれば)。即ち神靈はもと往々斯ういふ形式を以て去來したが故に、後漸く臼の中に神を安置するといふ信仰をさへ生ずるに至つたので、之を考へると出雲の稻佐濱に、今に到るまで繰返されて居る幽恠なる龍蛇樣の行事なども、由つて來る所甚だ遠かるべきを知るのである。
 説話は自分などの用語法では、一切の語り事、例へば池沼大樹巖石等に附著する零碎の傳説までも包含する(三)。所謂昔話は終始この傳説と交渉して、二者分堺を明らかにし得ぬ場合が多いから、斯ういふ總稱を必要とするのである。しかし現在の實?では、昔話は勿論説話の大部分を占めて居り、且つ主として少年以下の者のみが參與して居る。從うて最早童話といふ名目を立てゝ、是と對立せしめるにも及ばぬと思つて居る。昔話の構成は世と共に益煩雜である。一二百年來の現實の歴史も、話し樣によつては其中に編入せられるのみならず、全然の作爲を以て新たに此中に(16)加はることさへも許容せられる。しかもその中には若干の基礎、もしくは由緒あるものがやゝ別待遇を與へられ、又童兒からも、之を語り聽かせる爺嫗からも、重んぜられて居るのである。其理由は單に古いからといふのみで無く、正しく前代人の内部生活の中に、太い根をさして養はれ培はれたからであつた。之を神話的昔話といふことも、大體に於ては失當で無いと認める。
 神話はもし今日も現存するならば、明らかに我々の説話の一部であり、且つ其方式と目的とから言つても、必ず昔話と對立せしむべきものであるが、最早之を求め出すことが容易で無く、又純乎として純なるものを指示することが出來ぬ故に、今は主として昔話の中から、古い世にあつたものを復原して見るばかりである。但し歴史を愛する者の感情には反するが、巫道を以て人心を統御する或種の老女の、夢うつゝの出鱈目は即ち神話と謂つてもよい。必ず信奉する聽衆を擇んで、定まる時定まる場所に於て、嚴肅に之を語るといふ條件は具はつて居るからである。而うして之を通例さう謂つては承知せぬ理由は、獨り餘りに新し過ぎるといふ程度問題のみでは無く、今一つには以前の神話が殊に力を施した形式の面白味、例へば濟んだ直ぐ後でわざと間違へ眞似そこなひ、叱られたり嘲笑せられたりする役目の人を、豫め任命して置くことを怠つた點などでもあらうと思ふが、それを神話の定義の中に算へて、新古區別の標的としてよいかどうかは、自分にはまだ決しかねる。今日の昔話の或ものが、信仰の全く變化した後まで、兎に角に大昔の面影を保存したのは、少なくとも計畫せられたる狂言の御蔭であつた。故に假に綾部や丹波市等の地で、新たに如何なる有力な神話が出來ようとも、それが昔話に化して第三十世紀まで、傳はる氣遣ひは決して無いのである。
 
 註一 「妹の力」といふ論文集の中に、雷神信仰の變遷といふ題で出して居る一篇は、この一寸法師譚よりも一年前に、同じ雜誌で公表したものであつた。文章がまづいので十分理解してくれた人が少なかつたことゝ思ふが、(17)この方は主として一寸法師を生むべき母神の側から、この神秘な問題に近よつて行かうとしたものであつた。私の意見では、??《すがる》といふ人を始祖とした小子部連《ちひさこべのむらじ》氏は語部であり、其中でも猿女君氏に次いで、特に面白い話を數多く持ち傳へたる舊家であつた。蠶とまちがへて小兒を集めて來るといふ滑稽を演じて、家の名を賜はつた由來談も、三諸岳に登つて雷神を迎へ申したといふ功名談も、共に此家に保存せられた昔話であるだけで無く、この二つの語りはもとは連繋したものであつたらしい。さうして雷神の所出であり又田の水の管理者であつた大力僧の道場法師と其娘たちも、同じ小子部の一門であるか、又はしか信じられた語り物の主人公であり、之を記録に留めた日本靈異記の著者沙門景戒も、事によるとこの系統に屬する人かも知れぬといふことを、前半の論點としたのである。神がしば/\靈蛇の形を以て顯現したまひ、人間に最もすぐれたる小兒を授けたまふといふことに力を入れた結果、他の一面にその半神半人の小子が、最初極度に小さく、後驚くべき成長ぶりを示して、幸福なる婚姻をなし遂げ、立派な一氏族の基を開いたといふことを説き殘したので、其部分だけを特にこの一寸法師譚に於て取扱つて見たのである。近世の同種説話に、西洋でいふ蛙の王子型と最も近い「田螺の長者」がある。それと一寸法師との中間に、今も語り傳へられる蛇聟入の昔話を置いて考へると、神話がこの一つの耳の文藝に化して來た經路は、推測に難くないといふことが述べたかつたのである。但し西洋の蛭の王子説話に、獨立して既に斯ういふ研究があるか無いかは知らぬが、多分日本の豐富な資料を利用し得る人々のやうに、確かな具體的なことは言へないだらうと思ふ。この小子部連の末流が、後々どういふ風に大御國の中に、分れて榮えて來たらうかといふことは、日本だけの問題ではあるが、その興味は私たちにとつて、決して前のものに劣つては居ない。それが或ひは全國民の文學心の、地下の埋もれたる泉の頭だつたかも知れぬからである。
 註二 紫波郡昔話は大正十五年の始めに、爐邊叢書の一册として世に送つたものだが、是は部數があまりに少な(18)かつたので、もう目に觸れることが稀である。それを最初の採録者小笠原謙吉氏に依囑して、昭和十七年の終りにもう一度、改編して貰つたのが紫波郡昔話集で、この方は三省堂の全國昔話記録の一卷として出て居り、發行部數もずつと多く比較的によく流布して居る。たゞ意外なことはスネコタンパコの話の方は、僅かな變更を以て兩方の書に出て居るが、今一つの蛇息子といふ方は、どうしてか小笠原君の昔話集には見えない。恐らくこの家から出た話で無かつたので、省かれたものと思はれる。前集の編纂者佐々木喜善君が、同じ紫波郡中の他の傳承者から聽いて、併せ録した話は他にもまだ十數話あるのである。蛇が長者の娘の聟になつて後に、新妻に頼んで我身を打たせ、忽ち美しい人間の若者になつたといふ話は珍しいが、是とよく似た形のものは他にも幾つかあり、「桃太郎の誕生」中に私がやゝ詳しく紹介した田螺の長者も其一つである。是も玄關の足駄の蔭になつて、案内を乞ふ聲はするが姿は見えなかつたといふ一寸法師譚の挿話を保存して居て、その採集地は紫波郡のごく近くであつた。西洋の拇指小僧の昔話も、之に似よつた笑の挿話を具へては居るが、一方の蛙の王子の話との間には、是までの共通點は無いやうである。
 註三 説話はいはゆる民間説話、即ち私たちのいふ昔話以外に、まだ色々の種類があり、それが近世次第に數を加へつゝあることは誰でも認めて居る。傳説はさういふ中でも殊に早い頃から、しば/\説話の形を以て傳承せられて居たことは事實であるが、それにも拘らず、一つには其表現の方式があまりにも自由であること、二つには傳説は專ら其内容を信ぜしめるのが趣旨であつたのと、三つには昔話と傳説とは可なり性質の相反するものなることを忘れて、二者を混同する人が今日では多く、ひいては雙方の正しい理解を妨げる虞れがあるのと、以上三つの理由によつて、近來私たちは傳説だけを、説話の外に置かうとする方針に傾いて居る。それで二十年前のこの一篇の説と、どこか折合はぬやうな點が認められるが、つまりは二つの見樣があるのである。傳説は近い頃(19)のものは殊に、昔話その他の文藝の影響を多く受けて居り、形にも内容にも昔話と繋がつた部分が多い。或ひは最初神話といふ信じられる説話があつて、それが半分づゝ雙方へ流れ下り、面白さをかしさを主として昔話の方に、眞實又は確信を傳説の方に、分ち傳へようとしたのかとも考へられる。民間傳承の分類としては、自分は假に之を第二部の言語傳承と、第三部の信仰現象との中間に、橋架けのやうにして置かうとするのである。それ故にこの一册の中で傳説といふのは、今日いふところのものゝ全部では無く、言はゞ昔話や語り物との接觸面、もしくは文藝の傳説的分子とでもいふ意味に解してもらつてよい。
 
(20)     孝子泉の傳説
 
          一
 
 養老改元の詔の文に依れば、天皇不破の行宮におはします時、親しく多度山の美泉を掬ませたまひ、其水を以て盥《てあら》ひたまふに御肌滑かになり、痛む處を洗ひたまへば乃ち御快くならせらる。當時此泉を飲み又は浴する者、或ひは白髪再び黒く頽齒更に生ずと言ひ、或ひは眼病其他の痼疾此水に依つて輙く平癒すべしとの説もあつた。符瑞書に曰く醴泉とは美泉也、以て老を養ふべし蓋し水の精なりと。此理由を以て新たに年號を定めらるゝといふのである。是より二十五年前、持統女帝の七年にも、近江|益須《やす》郡都賀山に醴泉涌くと云ふことが傳へられ、沙門法眞等をして往いて試みしめられたこともあつた。此時も益須寺に諸方より病人共集まり來り、此水を飲んで差えた者が衆かつたとあつて、しかも後年はたと其評判は絶えてしまつた。察する所美濃の方でも亦時の信用を博した沙門などがあつて、微妙なる法術を其泉に託したのでもあらう。我々は到底古代の人の輕信を嘲る權利の無い者である。さあラヂウムと言へば直ちに壜詰めを配達させて飲むやうな今日である。唯珍しいと感ぜねばならぬ一事は、確かな歴史ある養老の清水が、何時の間にか芳烈なる美酒の香を帶ぶるに至つた點である。是は決して後世の漢學先生が醴の字を讀み誤つたと云ふやうな簡單なる行違ひでは無いやうである。そこで巫女考の一節として些しく此問題を考へて見ようと思ふ。
 醴泉が單に美なる泉を意味し、今で言へは「稀代の名水」と云ふ位のものだつたことは、あの世の人はよく知つて(21)居た筈である。延喜式二十一泊部省祥瑞の條にも、醴泉は美泉なり、味美甘にして?醴酒の如しとあるだけであるのに、十訓抄古今著聞集の時代になると、既に早「汲みて嘗むるにめでたき酒なり」と云ふ話になつて居る。繪などでよく見る所謂養老の瀧の孝子の話は、つまり此中間の二百餘年に於て出來たのである。樵夫天の惠に由つて父の寢酒を無代價となし得たのみならず、孝行の賞として美濃守に任ぜられ、後は家大いに富み榮えたとあつて(著聞集八)、正しく長者説話のめでたし/\を具備して居る。更に降つて養老寺縁起編述の時代となると、孝子其名を原丞内と謂ひ、其子孫に白山權現の靈夢の告を蒙る者あり、信心の極かの神を勸請して養老寺を建立したと傳へ、鷲の使や金銀十二の卵の話などゝ云ふ、長者にふさはしい多くの挿話が發生した。虚誕《うそ》と言へば皆虚誕かも知れぬが、しかも其虚誕には多くの約束があり、殊に孝行なるが故に泉が酒になつたと言ふことにしたなどは、必ずしも學問ある人の模倣説で無いだけに、自分等が甚だ面白いと思ふことである。
 著聞集以前の酒泉傳説は、自分は唯其二つを知つて居る。一つは今昔物語卷三十一、通2大峯1倍行2酒泉郷1語第十三で、「此ノ泉ヲ飲ムト思テ寄タルニ其ノ泉ノ色頗ル黄バミタリ、何ナレバ此ノ泉ハ黄バミタルニカ有ラント思テ吉ク見レバ、此ノ泉早ウ水ニハ非ズ酒ノ涌出ル也ケリ云々」とある話である。此隱里が人間の住む地で仙家の夢幻境で無かつたことは、秘密を保つ爲に旅人を殺害したとあるを見ても明らかで、言語思想も亦平地の人と相通であつた。今一つの話は其よりも遙かに古く、播磨風土記の中に既に昔の話として載せてある。即ち其所在は印南郡|含藝里《かむきのさと》(神吉村)の酒山で、大帶日子《おほたらしひこ》(景行)天皇の御世に酒泉湧出づる故に酒山と曰ふ。百姓此泉を飲み醉ひて相闘亂するが故に之を埋め塞がしめらる。其後庚午と云ふ年に人あり掘出す、永く猶酒の氣があつたと云ふ。さて此等民間の語り草を捉へて、證據も無しに唐天竺より移して來たと云ふ人には、自分は無造作には賛同せぬ者である。假に最初は飜案であつたにしても、何か相應の仔細が無くては田舍の隅々まで、弘く且つ年久しく行亙る道理が無い故に、先づ以て其仔細奈何を究める必要があるかと思ふ。
 
(22)          二
 
 後世日本の酒泉傳説には、主として三種の因縁話が附隨して居る。其一は神佛の奇瑞靈驗であつて、是は當然の事とも言ひ得られる。其二には福分豐かなる者が奇なる泉に遭遇し、之に由つて大いに富み榮えるといふ筋である。即ち常の人には常の清水としか見えず、又は長者去つて後只の泉と異なる所が無くなつたと云ふ結末になつて居る。第三は即ち自分の主題とする點で、前の二者とは違つて一見何の理由も無さゝうな老いたる親と若き子との話が、多くの酒の泉に伴なうて居ることである。是は自分には偶然のことゝは思はれぬ。
 さてこの三つの重要なる特色を、中世人の常識に基いて成るべく尤もらしく綴り合せて見ると、即ち今日俗間に行はれて居る養老の瀧の由來談が成立つので、從つて或ひは他の地方にある同種靈泉の口碑は、悉くかの著聞集の物語の片端を、引裂いて持つて往つたのだらうと速斷する人があるか知らぬが、さうも言はれぬ證據は次々の例が自ら之を示して居る。
 二十四孝の中にでも有りさうな養老瀧の話は、健全にして且つ興味のある好い話である。是が人望を博して各地に其話を傳へたとしても、聊かも不思議は無い。しかも我々は容易に類型の陰から個々の特色を見出し、模倣といふ解説に由つて蔽ふことの出來ぬ昔の姿を窺ふことができるのである。其一つの例は、薩州出水卿の地名の由來として傳へらるゝものである。今の出水郡大川内村角石岡と云ふ地に、甕岩《かめいは》とて形?甕に似たる岩がある。昔孝子あり、家貧にして老父に酒を給せんとするに意の如くならず、或日山に登りて盛んに酒を出す甕あるを見つけ、喜んで之を酌み其父に飲ましめた。父死して酒は出ぬやうになつたが、此よりして其地を酒元(坂元)と呼び、終に此郡を酒泉の里と稱ふるやうになつた。出水と云ふ郷名も舊くは泉と書いたのである(出水風土誌)。坂元と云ふ有りふれた地名の説明がこじつけ〔四字傍点〕なることは明白である。岩の形が既に酒瓶であつたこと、泉の水が酒になつたと云ふことは、必ずしも(23)孝行のコを以て解釋することを要しなかつたことゝ思ふ。下總印旛沼の周圍にも往々にして養老系の傳説があるが、此方は幸にして強清水《こはしみづ》と云ふ地名が遺つて居た爲に、耳馴れたる孝子譚に同化して了ふことを免れ得た。奇談雜史卷十に下總名所圖會といふ未刊の書を引いて擧げて居る一の酒泉は、今の印旛郡|安食《あじき》町大字酒直の谷間にあつた清水である。清水の上なる山は幽境であつて、膳椀を貸したと云ふ岩窟などもあつた。昔酒を嗜む老父あつて、行きて此泉を飲み常に醉うて還るのを、其子訝つて其跡をつけ、自ら飲み試むるに尋常の水であつた故に、終に「子は清水」の名が起つた。乳不足なる婦女之を飲めば乳が出ると傳へて居る云々。然るに同じ話が此附近に何箇所もあるのは如何云ふわけであるか。隣部落の大字龍角寺でも、道路の傍に在る泉を「子は清水」と稱し、昔茲にも養老の故事を現出したと印旛郡誌にはあるが、しかし同書に引用した龍角寺記の中には、當山の名所舊跡を列記して「親は古酒子は清水の井戸」と云ふのを擧げて居るから、此地でも同樣の口碑があつたのである。同郡|酒々井《しゆすゐ》町大字酒々井  内方の圓福寺にも、酒の井の址と云ふがある。碑の文字は讀み得られぬが、此にもぼんやり〔四字傍点〕と孝子酒泉の話が傳はつて居るから、やがては學校の先生たちの盡力で、立派な養老談の模型が出來るであらう。同郡和田村大字直彌に傳へらるゝ話に至つては、既に十分に養老化してしまつて居るが、なほ此村の舊家櫻井氏を人呼んで「子は清水」と謂ふ。當主の名は櫻井幾太郎、邸内の小池こそは、其昔無限に酒が湧いたと稱する池である。今一つ同郡旭村大字吉岡にも僅かばかりの小池があつて、舊編佐倉風土記に同種の物語を録して居る。同書は漢文であるから六つかしく「子也泉」などゝ書いてあるが、「因父以爲酒而子也以爲水之義名其泉焉」とあるから、やつぱり一箇のコハシミヅに相違ない。之を要するに老翁の忰は必ずしも非常に孝行で無くても、泉の水が酒に化する場合もあつたと云ふ實例を、此等の村々では今尚競ひ進めて居る次第である。
 「子は清水」が單純なる一箇の口合に過ぎぬことは論ずる迄も無い。強清水又は剛清水と云ふ地名の東部日本に多く、何れも名水の存在に起因するものなることを知る人は、此話の清水の名に基くことを認めて下さるだらう。而うして(24)何の故に其強清水に酒泉の傳説が伴なうて居るかに就いては、自分の假定説はあまり根據に乏しいから暫く發表を見合せ、此には只孝行を要素とせぬ親子の民と酒の泉との話が、懸離れた他の地方にも存在することだけを述べて置く。手近な處では武藏北多摩郡清瀬村  大字|清戸下宿《せとしもじゆく》の南方に、俗にコハシミヅと稱する僅かな清水があつた。昔一人の農父之を汲みて飲みしに酒の心地し、日毎に此泉に至つて醉を取るを、其子之を恠しんで父に訊き、自らも行つて飲んだが只の清水であつた。故に此名があるのだと云ふ(新編武藏風土記稿)。北豐島郡上板橋の西、國道から左へ四五町入つた所に、清水ある爲に清水と稱する小部落がある。此地にも殆と是と同樣の話があつて、其水は中々の良い水であつた(遊歴雜記初篇上)。其地を酒泉澗と云ふとのことでコハシミヅの名は録して無いが、「其子飲む時は水にして老親の飲めば則ち美酒なり」とあるからは、大抵想像が出來る。山形縣では米澤から會津へ越える路の沓掛坂と云ふ地に、清水あつて其側に茶屋二軒あり、此清水にも同じ話があるので、茶屋の名を「親は諸白《もろはく》子は清水」の茶屋と稱へて居た(米府鹿子一)。越後でも古志郡の萱峠《かやたうげ》の頂上に「親皆酒の子に清水」と云ふ長い名の清水があつた。今は省略して「子は清水」と呼んで居る。此附近一帶は弘法大師の靈跡であつて、「三谷足らず」と稱して例の建立見合せの口碑もあり、萱峠の清水も大師が岩に杖を突立てゝ山の神に求めた水と傳へて居る。或年の夏麓の里の老翁にして大師を崇信する者、其子を伴なひて此峠を越え、此清水が酒ならよからうと言つて手に掬びしに、紛れも無い美酒であつた。其子は心に疑念を抱いて居た爲に飲んでも只の水であつたから、終に此名が出たと云ふ(温故之栞四編)。此等の話から推して考へると、強清水は特に「子は清水」と書いて居る他の國々にも、此通りの話がまだ何程もあつて、土地の人は大抵我村ばかりの珍歴史と考へて居る場合が多かつたらしいのである。
 
          三
 
 然らばこの父は醉ひ子は疑うたと云ふ各地の昔話は、全く強清水と名づくる變つた地名の爲に誘發せられたものであつて、養老一味の孝子譚とは何等交渉の無いものかと云ふと、其は大いにさうで無いやうである。武藏西多摩郡明治村大字入野の山中に樽澤と云ふ所は、秋川の支流樽川の水源であるが、昔此谷間の括岩《くゝりいは》と云ふ岩から滴り落る水、甘くして恰も酒の如く、樵夫山に入つて此水を飲めば必ず酩酊した(新編武藏風土記稿)。それ故に澤の名を樽と謂ふとあるが、タルとは實は瀧を意味する古い語で、今も東國に於て用ゐられて居る。近くは東京の南につゞく荏原郡目黒村大字下目黒の、行人坂の手前の長峯と云ふ邊にも、同種の口碑ある涌井があつた。近世島原侯の下屋敷の内となり鐡製の井戸側などを設けてゐたが、以前此あたりのまだ野中であつた時、一人の馬方毎日暮方には酒に醉うて馬を曳いて還つて來た。其主人之を責問ひ、始めて此澤に酒の湧くことを知り、案内をさせて二人で往つて飲むに、果して醇酒であつた。處が其主人は慾の深い男で、一つ此酒を賣つて財産を作らうと云ふ考を起し、引返して大きな器を持つて汲みに行くと、はや其泉は只の水であつたと云ふので(遊歴雜記二篇下)、此などは馬方と主人との間柄に變化して居る爲に、コハシミヅと云ふ名があつたにしても活動する餘地が無い。
 しかし其は決して此地のみでは無く、さう云ふ清水の名は根つから聞いたことも無い國々にも、やはり此系統を引いたらしい話が往々にして傳はつて居る。例へば阿波の那賀郡寶田村の大日堂の中に一間四方ほどの石が有つて、其石に徑一尺五寸許り水ならば一斗も入るかと思ふ穴がある。今より七八十年前迄は此穴から酒が出た。大潟の魚賣の男、此村へ魚を賣りに來るたびに必ず之を飲み、醉うて還つては女房をいぢめた。其女房不審を抱いて夫の跡を付けて來て此始末を知り、恨めしさの餘りに汚れ物を石の穴に入れたが爲、忽ち酒は涌かなくなつた(阿波傳説物語)。穢れに由つて酒泉の奇瑞が絶えたと云ふ話は、攝州有馬郡藍村|酒滴《さかたり》神社の酒瓶池にもあつた(攝陽群談四)。しかし是は必ずしも此類の清水に限つたことでも無く、言はゞ今は昔のやうで無いと云ふ場合の型に嵌つた説明に過ぎぬのかも知れぬ。
 其よりも更に自分の看過し能はぬことは、泉の酒の發見がいつも此樣な無邪氣な人々に由つて爲されたと云ふ點で(26)ある。諸國の長者がゆくり無く無量の福コを我物としたと云ふ物語の中にも、一方には日頃の信心善行の感應であると云ふ所に、重きを置いたものが數多いかと思へば、他の一方には前世からの約束とでも言はうか、是と云ふ理由も無くして自ら大なる幸運の向いて來たやうに説くこと、かの炭燒小五郎や芋掘藤五郎の如き例も亦頗る多く、此分類を適用して見ると、「子は清水」の親爺などは常に後者に屬し、僧侶や物知りが隨分と骨を折つて何か教訓の種にする氣でも、さうは行かなかつた處が却つて意味は深いやうに思ふ。
 長者の中にも酒で富を作つたと云ふ者は昔から多く、さういふ話にも或程度迄、前述の酒泉談との脈絡が認められる。土佐の長濱の宇賀長者などは、牛に教へられて酒の泉を見出した。長者もとは家貧しくして牛小屋に桁も無く、草も十分に飼ふことが出來なかつたにも拘らず、其牛些かも痩せかじける樣子の無いのを不審に思うて居ると、夜更にどこかへ行つては程なく還つて來るらしいので、其跡をつけて見ると一所の清水があつて牛は之を飲んで居た。それを自分も味はふに恰も甘酒の如く、之を得てより次第に富榮えたと云ふから(海士の鹽木)、即ち又目黒の馬主が曾て企てゝ成らざりしことを成したのである。陸中鹿角のダンブリ長者に至つては、蜻蛉に教へられて酒泉を得たと云ふ話になつて居る。是も其長者がまだ貧困であつた時に、山畑の耕作に疲れて晝寢をして居ると、一匹の蜻蛉が二三度も向ふの岩陰に往つては又やつて來て、彼が口の中へ尾をさし入れるのを、夢の中に酒を呑んだと見て覺めて後此事を妻に聞き、其岩陰に行つて見ると泉は果して酒であつた(鹿角志)。此長者などは最初から大日神の厚い庇護を受けて居た人で、立身の端緒もやはり其神の夢の告に在つたと傳へられる。夢で説明する段になれば、話はいくらでも自由に變化して行くが、しかもこの微々たる一動物の案内と云ふかどが、一面には土佐の宇賀長者の話に類似をもち、他の一面には近江神崎郡の太丸長者が、宇賀大明神の靈夢に由つて酒の井を得たと云ふ話(三國傳記四)などゝ聯絡を伴なつて居るのは、攻究に値することかと思ふ。
 涌きて止まざる天然の清水がさながらの酒であるならば、之を發見した者は誰であつても長者になるのは知れたこ(27)とだ。唯如何せんさう云ふ旨い話は、醉翁の息子で無くても之を疑はざるを得ぬ。其爲であるか否かは知らず、他の多くの長者談に於ては、單に泉に由つて酒を造り、其酒を賣つて豪富になつたことになつて居る。話も此まで世話に碎けると、勿論傳説としての味は減ずるが、其代りに史實としても之を受入れることが可能になる。現に我々はつい近頃まで、村の酒屋の皆小長者であつたことを見て知つて居る。もし彼等にして特に造酒に適する強清水とでも云ふ清水を控へて居たとすれば、其酒はよく賣れて富が殖えるに相違ない。しかもその酒と云ふものには、酢や醤油などには見ることの出來ぬ、民間信仰と關聯した一種の特性が附いて居たのである。
 
          四
 
 酒泉の根原を孝行のコに歸することは、必ずしも養老瀧一味の舊話にのみ限られて居たのでは無い。既に顯昭の古今集註の、玉だれのこがめやいづらと云ふ歌の條にも、酒をミキと云ふに兩説ありと言ひ、其一説として昔孝子あり、食物の初穗を亡親に手向くるとて木の股に置きけるが、いつとなく佳き酒になり、其に由つて家富榮えたと云ふ、鶚鮨《みさごずし》猿酒の沙汰に似通うた故事を擧げ、「其木の股三股にてありけるにより、三木とは謂へり云々」と述べて居る。酒をミキと呼んだ古語が此時代にもう忘却せられて居たと云ふのは意外である。但し此説の只の出鱈目で無かつたことを思はしむるは、大和|率川《いさかは》社の四月の祭に、三枝の花を以て酒樽を飾るの式あり、仍て其祭を三枝《さいぐさ》祭と名づけたことで(令義解二)、三枝とは百合のことだと云ふ説も久しく存しては居るが(和訓栞、サイグサの條)、神酒に此物を取附けた理由に至つては、今に是と云ふ説明も無いので、自分は右の誤つたる三木の傳説から推測して、事によると大昔大木の股に溜つた水を靈水と信じ、之を用ゐて一夜酒を釀した名殘では無いかと思うて居る。さてこの木の窪みに水が溜ると云ふことは折々聞くことで、多くの場合には雨水などでは無く下から涌くのだと傳へて居る。如何にも奇怪な話ではあるが、例も多いことだから、此序を以て些しく述べて置かうと思ふ。
(28) 最初に東京の近くでは豐多摩郡戸塚村大字下戸塚、天台宗寶泉寺の境内、俗に高田の水稻荷と云ふ社の古榎のうろに水あり、旱魃にも涸れると云ふこと無く、眼を患ふる者此水を掬んで洗ふときは必ず驗ありと傳へられて居た(新編武藏風土記稿)。此水現今でも出て居ると云ふのは(大日本老樹名木誌)果して眞であらうか。元禄十四年の四月夢想によつて出現し、一時代大いに持囃されたが後に出なくなつたとあるのが(遊歴雜記初篇下)正しいのでは無いか。御存じの方に尋ねて見たい。北足立郡川口町の附近、戸田川左岸に在る羽黒山權現に於ても、社の背後の大榎の根元から一丈五尺ばかり、二股の所が空洞となり、水を湛へて居るのを神水と稱して、汲み歸つて病人に飲ませたことがあつた。最初の木から三本目まで、一本に涌かなくなれば又次の木に涌いたさうで(同上)、圖を見るに板屋根を覆うてあるから雨水では無かつたのである。越後蒲原郡緒立の八幡宮でも、鳥居の前に在る大榎の、地上四尺ばかりに枝あつて空洞をなし、其中に深さ三尺ばかりの水が溜る。絶えて朽敗の臭無く渫へ盡せば頃刻にして又盈ち、夏月炎暑にも増減が無い。眼病者之を以て目を洗へば效驗ありと言ひ、其名を靈眼水と呼んで居た(越後野志十四、越後名寄二)、播州美嚢郡中吉川村大字|貸潮《かしほ》の潮潜堂と云ふに在る大木の榎の如きは、久しい以前に枯れて倒れ、其根株の徑四尺ばかりの空洞ではあつたが、其から涌く水は潮水で、常は至つて少なく近邊の家で潮潜(はやめ?)に用ゐんとする時、白米を少々投入すると暫時にして潮が涌出したと云ふ話である(播磨鑑)。近江坂田郡神照村の西村神明宮の御手洗も之と同じく、元來は榎のうろに涌いたものである。其榎夙く折れて高さ八尺ばかりの井側となり、往來の人々馬に乘つて之を掬するに程よしとて馬上水の名があつたが、後次第に其枯木朽ち耗つて高さ二尺ほどになり、形?搗臼に似たればとて世人之を神明の臼池と稱へて居た。それも終には持たないやうになつたので、寶暦五年に至つて村民申合せ切石の井筒を新設したと言つて其記録がある。諸病に效驗ある靈水であつたが、就中婦人乳乏しき者此水を頂戴して粥を煮て食べるに、其粥未だ終らざるに乳の涌くこと此泉のやうであつたと云ふ(淡海木間攫八)。此以外にもよく似た所は幾らもあるが、單に大木の根元から涌くと云ふのみでは妙が無い。又武藏橘樹郡旭村大字上末吉不動堂の(29)不動塚の松、同比企郡明覺村大字桃)木妙覺寺藥師の椋木(以上新編武藏風土記稿)、陸奧中津輕郡西目屋村大字藤川守澤の多門天堂の池の杉(眞澄遊覽記十五)、羽後仙北郡千屋村大字千屋の勝手社の橡木(月之出羽路二十)、美作英田郡河會村大字瀧宮の瀧宮のしでの木(東作誌)、さては日向宮崎郡上別府の咳の願掛をする柿木(人類學雜誌三)の如き、何れも地上數尺の樹間より水涌き、之を汲んで眼疾を治するなどの奇瑞はあるが、榎に限つて特にこの話の多いのは注意に値する。倭名紗に曰く、半天河水、木乃宇津保乃見豆。頓醫抄には「癲癇藥、半天河水を取りて煎じて服す、榎のうつぼの水なり」とある。鷹百首に「小壺の木の株にたまりたる水と申すは、榎木梨木竹の切株などにたまる水なり」。袖中抄にも「神さびて古榎にたまるあま水のみくさ居るまで妹を見ぬ哉云々、雨などのふり入りてたまる水にこそ、雨水の心にてもありぬべし」などゝあつて(以上古名録四に依る)、古くから當然空より降る水の如く考へられて居たのは事實であるが、前に擧げた多くの榎の水が下から涌いたと云ふのも強ち疑はれぬ。何か此種の樹木に幹を透して水を引く特性があつたか、或ひは又樹身が朽ちて後も永く生存し、自然に地下水の口となつたのであるまいか。下總東葛飾郡布佐町で、辰年の大水と言傳へて居るのは、文化五年八月十四日の利根川氾濫のことで、其跡は今も切處と稱して遺つて居る。長雨の降り續いた揚句に百姓傳右衛門なる者の庭の榎の根から、頻りに水の涌出すを不思議に思つて見て居ると、暫くの間に穴となり家も倉も一時に崩込み、上下三十人ばかりの男女溺れ死し、屋敷の跡は一面の沼となつた(續燕石十種二、其昔談)。此の如き實例もある上は今ならば別に奇とするにも及ばぬか知らぬが、兎に角に土とは縁の無い樹の梢で、しかも社頭の老木の上に水が涌いたとすれば、之を神異に托するは自然の人情で、或ひは之を以て神を降す日には缺くべからざる、神酒を作るに適すと判斷したことも無かつたとは言はれまい。酒と藥との關係が昔は今よりも遙かに密接であつたことは、平田翁の玉襷などに詳しく論じて居る。酒を造る技術が神部等の秘密に屬して居た間は、酒は靈水の最も顯著なるもので、造酒は即ち最も有效なるまじなひと考へられて居たことであらう。而うして榎木は屡奇瑞ある水を供給する靈木であつた。多くの社の神木に榎のあるのも、恐らくはも(30)とは其爲で、神木の榎から涌くから水が靈であるとしたので無からうか。
 
          五
 
 次には親孝行と酒との關係が、奇しき泉を中に置かぬと解釋し得られぬことを言ふ爲に、酒の氣の無い孝子泉の話を持出さう。是も捜したら尚例の多いことゝ思ふ。越中西礪波郡埴生村大字蓮沼天池に關清水と云ふ僅かの泉がある。昔此地に一人の孝子あり、親病みて京の加茂川の水が飲みたいと言ふので、遙々都に上つて之を汲んで還る途中、此處まで來て躓き倒れて水の壺を割つてしまつたが、孝行のコによつて其地中より此泉が涌いたので、之を汲んで親に勸めることが出來た。泉の傍に今も茂つて居る菖蒲は、其時壺に插して持つて來たたのであると云ふ(礪波誌)。關の清水と云ふは此より程遠からぬ倶利迦羅峠の國境に在つた泉の名である(地名辭書)。此地に出現したといふ孝子の水は、或ひは地名の天池と云ふのが本の名で、後代あせて小さくなつた爲に池とは言はれなくなつたので無いかと思ふ。飛騨益田郡中原村大字瀬戸池ノ野の往來の下に在る中山湖と云ふ小さな池にも、之とやゝ似た話を傳へて居る。昔此隣區の大字門原に門原左近と云ふ孝行者、母病牀に在つて近江の湖水の水が飲みたいと言ふにより、千里を遠しとせずして往いて之を汲み、小さい竹筒に入れ携へて此村まで還つて來た時、其母既に歿したりと聞いて慟哭し、乃ち其水を路頭に棄てたのが、流れ溜つて此池になつたのであると云ふ(飛州志拾遺)。後人の詩文に或ひは孝池孝子湖などゝ云ふのは是で、秦鼎翁の如きは其詩の中に之を孝仙譚と譯して居る。成るほど小さな竹の筒で湖水を近江から移して來た如く言ふのは、聊か彼の大太法師の山作りさては登宇呂姥《とうろのうば》の叱尿《しかりばり》などに近い話で、尋常民家の孝行息子の身上には奇跡としても調子が合はぬ。
 此物語の中で今一つ注意すべきことは、門原左近湖水を取りに近江に赴く時、病みたる母の介抱を叔母に頼んで置いて行つたと云ふ點である(斐太後風土記二十)。此の如き瑣細な點が、此ばかり記憶せられ居たのには何か曰くがあ(31)りさうだ。左近一説には佐久又作と傳へて居ることゝ共に、後の攻究者に取つては見遁すべからざる偶然であらうと思ふ。
 自分の見る所では、孝子の叔母と云ふのもやはり一箇のウバでは無かつたかと思ふ。姥ヶ井姥清水の事はかつて一度述べたことがある。數多い姥の泉に共通な特色は、常に童兒の口碑を伴なうて居ることで、ウバを祖母と解しても、乳母と解しても、乃至は只の老女と見ても結末は同樣で、其水が社頭のみたらしなどで無い獨立した靈場である場合には、言ひ合せたやうに其二人とも死んだことになつて居る。或ひは其一つの不思議として傳へられて居るのは、人が傍に近づいてウバと喚ぶと、忽ちふつ/\と泡が立つと云ふことで、遠州の大鐘婆さ、或ひは土州比江山の怨靈火の如く、恠火に付いても亦言ふ話であるが、つまり人語を解するほどに靈のあるものと看做されて居たと云ふに他ならぬ。姥と言へば皺くちや婆、比丘尼と云へば圓坊主、人柱に立つた子持女と言へば年増のよい女と云ふやうに、一々別箇のものとして想像を描く諸君からは承認を得にくいかも知れぬが、要するに老幼二箇の女と男があつたと云ふ事を、古い泉に聯繋して語り傳ふる場合に、何か少しでも他に記憶の斷片が遺つて居れば、其を取合せて相應な説明を作り、よく/\何も無い時には仕方が無いから、其水で死んだとか殺されたとかにしてしまつたので、酒造りは本來の要素、親孝行は後からの添附と云ふ一々の推測には誤が無いとは言はぬが、先づ以て遠隔の地に併存する思ひ掛けない事件の偶合は、世人が空に考出したものでは無く、社頭に在るから神コの致す所と謂ひ、泉酒と言ふから長者の繁榮を説くの類は、誰しも思も寄りさうな話なるが故に、話者の潤飾に出づと見ざるを得ぬのである。
 
          六
 
 孝子泉を巫術の遺跡とする他の理由は、祭の日に神輿を水の邊へ迎へることゝ、姥が其儀に與ること、例へば祇園の少將井の如きものが少なくないことである。此時に「一つ物」の花を用ゐたことは名古屋の花井氏の由緒書にも例(32)がある(名古屋市史)。越中天池の菖蒲などは之と考へ合すべきである。即ち託宣の式を其泉の側でしたと想像することが出來るのである。社頭の水をみたらしと呼ぶには、何か隱れたる仔細のあることかと思ふ。今では御手洗の字を宛てゝ他の説明を排除して居るのは不本意である。古い神社の附近に必ず清泉のあるのは、勿論社地を水ある場處に相したのであらうが、其必要は決して普通の參詣人に手を洗はせる爲だけでは無かつたに相違無い。祭の式に列すべき人々が潔齋することも、其主たる目的では無かつたかと思ふ。竈殿と對立する泉殿は、乃ち神の飲食を調へんが爲の設けで、酒が尸童を醉はしむることは、恐らくは神明の御口を寄する手段の、最も普通なるものであつたらうから、何は措いても巫覡の佳き泉に據るべき必要はあつたのである。
 酒を釀す技術の或種の婦人に限られて居たことは強く論證するにも及ぶまい。狂言の「伯母ヶ酒」に飲んだくれの若者が山一つ向ふの伯母を騙しに行くわざくれを興じ、或ひは職人盡の歌合に女が瓶を控へて「御酒めせかし云々」と言ふのに注意した人は、今では杜氏などゝ六つかしい字を書いて、支那の故事にこじつけんとして居る酒造りのトウジが(和爾雅三等)、本來は婦人の尊稱たる刀自と云ふ語から出たと言つても(和訓栞)、さして意外とはせられぬであらう。神樂の酒殿の曲の末章に、
   酒殿は今朝はな掃きそとねり女が裳ひき裾引きけさは掃きてき
とあるのは、造酒司に女を用ゐられた一證である。大嘗祭の折には酒兒一人、神語佐可都古、當郡大少領の未嫁の女にして卜食む者を以て之に補せられた。伊勢の兩宮にも古くから酒立女と云ふ職があつた。大神宮儀式帳などには酒作物忌及び清酒作物忌何れも女であつて、物忌父の之に附添ふこと例の如く、酒作物忌の名は旡位山向部古負女とある。催馬樂の曲の眉戸自女は、深塵愚案抄に女の名なりと云ひ、催馬樂の解説には眉は姓かとあるが、多分は此種の婦人に眉のあるのを常としたからの名であらう(松屋筆記六十五)。此曲の音振が舞樂の清酒司の破と全然同じであつたと云ふのは(同上引、續教訓抄十一等)、察する所此古曲に依つて眉戸自女の笛の譜を作られたので、從つて今は多く(33)「秣とり飼へまゆとじめ云々」と歌ふ所を、或ひは「大御酒まゐれまゆとじめ」又は「おほみきわかせ」と歌うたと云ふ説も(顯昭古今集註前掲の條)、然るべき仔細のあることゝ思はれる。
 延喜式に依れば、造酒司に祭る神九座の中に、三座の邑刀自神と云ふがある。三代實録貞觀八年十一月の條には、次邑刀自甕神に大小邑刀自甕神と同樣、春秋二季の祭をするとあるを見れば、刀自の名を帶する酒殿の神の御正體が酒甕であつたことがわかる(式外神名考上參照)。此甕が三十石入の大壺で土に深く掘り据ゑ、僅かに一尺ばかり出て居たものであつたこと、及び三條院の御宇に大風吹荒れて三箇の刀自が共に破損したことは、續古事談にも見えて居る。酒殿の神を刀自神と名づけたのは、大昔から婦人が造酒に與つて居た證とするに足るであらう。トジはトネに對する語で、一に又ヒメトネとも謂うたらしい。中流の婦人の稱呼であつたのは至つて古くからのことで、必ずしも神に仕ふる者のみには限られて居なかつたが、中世以後君と云ひ上臈と云ひ、甚しきは「おかみさん」と云つて巫女を意味せし如く、此階級の婦人を單に刀自とのみも呼んだものと見えて、出雲地方では今でも口寄せのことを「とじ話」と謂ふさうである。禁中の内侍所が白川家の所管に歸して居た時代にも、茲に奉仕する六人の物忌の女を刀自と稱して居た(山城大和見聞隨筆下)。天治二年の宮※[口+羊]奠《みやのめまつり》の祭文には、「中立申しの笠間の大刀自に申給はく云々」と云ふことがある。それをば古い歌には又笠間の神とも稱へて居る(武藏總社誌)。これ即ち御子神姥神の初代の巫覡を崇敬すると同じ意で、賀茂の野宮に祭られた難良刀自神(神名帳考證再考)、若狹遠敷郡の國津大戸自明神など(若狹國神名帳私考)の古い神々の名の、由つて起つた所であらうと思ふ。
 
          七
 
 之を要するに、酒の泉と親子の民と云ふやうな奇拔なる取合せは、強ひて有名なる美濃の養老を以て唯一の元祖とし、他の不有名なる地方を其模倣とし運搬とするならば格別、然らざる限りは先づは自分假定の如く、其泉が古代に(34)尸童を立てゝ神の祭を營んだ靈場の地で、特に此清水を用ゐて神に捧ぐべき神酒を釀す習はしであつたが爲に、變じて酒と成ると云ふ傳説を生じたものと見ねばなるまい。西行が酒の歌を詠んだ話は、洛西嵯峨の歌占橋の外に、又越後野積浦の瀧泉院にもある(温故之栞六編)。白山の麓の里に於て酒を作つた婦人も融の姥(郷土研究四卷六號)ばかりではなかつた。加賀能美郡西尾村の原と云ふ處では、佛御前も都から還つて酒を賣つて居たと言傳へて居る(趣味の傳説)。何れも和泉式部が泉の傍に住んだと云ふ話と系統を同じくして居ると言ひ得る。
 酒泉傳説中の孝行の子と云ふ點は、神コ佛驗と後世ぶりにも解し得るが、やはり子と云ふは神子のことで、思ふとか慕ふとか云ふも信仰上の意味と見ねばなるまい。古くは丹後の眞名井の天女などは、養ひ子ながら老親に情を盡して居た。老父母疎んで之を送り出したに由つて、美酒を造る術は絶えてしまつたと云ふ話になつて居る。是などが孝子酒泉の最も古い話であらうと思ふ。又前に馬方の發見したと云ふのと同地らしい江戸目黒千代ヶ崎の錢龜井の如きも、一説には千代と云ふ孝女孝感の致す所、不思議に酒泉を得たとあつて、其酒を所望した親と云ふのも、爺では無くして媼と云ふことになつて居る(新編武藏風土記稿)。其酒に由つて長者になつたと云ふその「長者」も亦、巫女の頭の名であつたのが混同したのかも知れぬ。
 
  (附記)
   此研究は是から後も少しづゝ進んで居る。其中でも一つ是非とも書き添へて置きたいのは、杉の老木から酒が涌くといふ話で、是は最初に慶應大學の川上醫學博士が、郷里の越後で見た實事談を報告せられ、さういふ記録は古い書にも在るといふことを、たしか南方熊楠氏も例證せられた。其から又十數年の後に、宮崎農林學校の日野教授の口づから話された所では、杉の樹液の中から得られる微生物と、日本の酒の酵母の中に見出さるゝ黴菌とは、同種といつてもよいほど近いものだといふことであつた。日野氏はまだ其實驗を公表して居られぬらしい(35)が、杉から酒が涌くといふことが不思議では無いと言はれたことを記憶する。さうなると三輪の杉立てる門、それから導かれたといふ杉の葉の酒ばやし、又は吉野の杉を以て酒桶を造つた習はしなども、すべて隱れたる今一つの理由があつたことがわかつて來るのである。榎木の空洞の水なども、いつかは學術上の説明が豫期せられると思ふ。
 
(36)     甲賀三郎の物語
 
          一
 
 小谷口碑集が世に公けにせられた時に、著者小池直太郎君が其中へ入れようとした甲賀三郎の物語を、是だけは別にもう少し調べてから出さうぢやないかと言つて、特に發表を延期してもらつて居る。あれが大正十一年のことであつたから、もう日延べの最長期限に逢したと言つてもよい。今とても約束は果せるとは思へないが、とにかくに其後の經過だけを報じて置きたい。
 小谷は土地の發音ではヲダリと謂ふ。信州北安曇郡の佐野坂以北、白馬山彙の東の山懷、姫川上流の水が彫刻した一盆地で、中世の仁科の庄の跡だといふ。こゝの北城村嶺方の舊家、室賀重吉といふ人の家に持つて居た、諏訪大明神御本地と題する一卷が即ちこの物語であつた。甲賀三郎二人の兄の惡意によつて、蓼科山中の深い穴に入つて還ること能はず、其まゝ地底の國々を廻歴して久しい年月を重ねた後、大蛇の姿になつて本國に歸着し、終りに諏訪の大神と祭られたといふ、信ずべからざる事蹟を説いたものである。この本は至つて近い頃の筆記と思はれるが傳寫では無く、久しく暗誦によつて傳はつて居たのを、新たに文字に録したものらしく、現に故老のまだ全文をそらで語り得る者が、この地方にも生存して居るといふことを、口碑集の著者は記して居る。
 自分がこの興味多き一寫本の、單獨發表に干渉した動機は、一言でいふと少し惜しいと思つたからである。末には(37)もつと大きな問題になるやうに感じて、それをやゝ纏まつた形にして、印象深く世に問ひたいと願つたからであつたが、此樣にぐづ/\して居る位なら、先づあれだけを掲げて置く方がよかつたのである。しかも小池氏が容易に是に同意した理由は、あの頃既に同種の傳本で、語句のみの隨分と異なつたものが、各地に散在することを知つて居り、現に其以前に木曾のコ音寺村から、自身もその一つを手に入れて居たからである。其上に是よりも六七年も早く、甲賀三郎の物語はもう「郷土研究」誌上の問題になつて居た。近畿周邊の地方に行はれて居たといふ甲賀三郎は、單に敍述だけの差で無く、趣向までが半分以上是とは異なつて居り、淨瑠璃の曲に採用せられたのは、寧ろ此方の筋を引いて居るのである。この二つの系統の分岐は、説明せられなければならぬ。それには出來るだけ多くの地方本の、比較をする必要があるといふことに、我々兩人の考へは一致したのである。
 
          二
 
 幸ひなことには方々から、中々よく類本が集まつて來る。各地に獨立して此樣に數多く、傳はつて居るかたりものも珍しいかと思ふ。是には何か特別の事情があつたので、それが諸本を比較して行くうちには、追々に判つて來さうな氣がする。小池君が手に入れた、
  (一) 小谷嶺方本       時不明
  (二) 木曾コ吾寺本      嘉永元年
の二種の次に、自分の見ることを得たのは諏訪に傳はつた二本、その一つは、
  (三) 諏訪茅野氏本      天正十三年
であつて、安居院《あぐゐ》神道集を別にすれば、今知られて居る中では此本が最も古い。諏訪史料叢書の中に刊行せられ、更に横山氏の室町時代物語集には、一部の寫眞をさへ添へて居るものだが、私の爲には小池君の友人市川英七君が、大(38)正十四年に寫し取つてくれた。次の、
  (四) 諏訪今井氏本      天保十三年
も同じ君の好意で、今井眞樹翁の藏本を轉寫したものだが、今井氏のも最近の寫しで、もとの天保十三年本といふのは何家に在るのか知らない。同じ土地のものだが前の天正本の副本では無く、辭句に可なりの差があるから、是も起りはまるで別である。
 それよりも一層珍しい經驗は、たしかこの翌年に信州上田に行つて、私が目に觸れた二つの本、
  (五) 上田花岡氏本      明治元年
  (六) 上田飯島氏本      時不明
 是は古くから上田に在つたものか否かは明らかでない。二本ともに此地の好書家飯島花月翁が買入れて、一方のやゝ不出來なのを花岡茂三郎君に讓り、同君はそれを他の一本によつて詳しく校訂したので、其本をまだ私が借りて持つて居る。校訂と謂つても是くらゐ眞赤になつて居るものも稀である。單に筋と順序が同じいのでそれが出來たといふだけで、殆と毎行に數字十數字の加除がある。よくも斯んなにちがつたものが、前後して一人の手に歸したと思ふばかりである。さういふ中でも新しい明治元年のものが、全體に言葉少なになつて居るのは、自分には意味があると思はれた。
 次の三本は共に東京で、本屋の手を經て私の買ひ求めたものである。
  (七) 松本小池氏本      慶應三年
 奥に松本庄渚村小池定吉と名を著し、元の本、字落ち假字違ひあり合點行かざる所あれども其まゝを寫すとあるから、是は明らかに傳寫本である。此他にも勿論又寫しはあるのだらうが、少なくとも文句は皆相異があつて、同じ一つの本からと思ふものは、少なくとも私の持つて居るものゝ中には無い。
(39)  (八) 松山氏本       元治元年
 此本には松山藤五郎久重寫之とあるのみで、出來た處を記しては無いが、卷頭に當國總社諏訪大明神御本地とあるので、やはり信州であつたといふことはわかる。かなり達者な文字で、「候えしが」「思ひ共」といふ類の北國風の訛りが少しある。寫しとはあるが語りの形はよく殘つて居る。
  (九) 江戸貸本屋本      時不明
 是だけは確かに信州外で寫されたもの、標題も信濃國諏訪本地とあり、其上に甲賀三郎春日姫と割書きして、本文には全部假字を振つてあり、前後に礫川伊勢久といふ黒印を捺して居る。時代はわからぬが末に日暮里諏訪神社の文化十四年の碑文が合せ綴ぢられて居るから、それより前のものでないことは判る。
 
          三
 
 僅か是ばかりの數からでは推論することも出來ぬが、茅野家の天正本たゞ一つを除けば、他は皆最近百年以内の寫本らしくて、しかも列記しきれないほどの小さな異同がある。幕末僅かな期間の流行といふよりも、或ひは寺子屋教育の普及につれて、讀み書きする者の數が増して來たことゝ、關係づけることが出來るのではないかと思ふ。
 勿論天正以來の二百年間にも、同種の筆録は少しづゝは行はれて居たにちがひないのだが、それがまだ見られぬのでどの程度にまで、時代の變化を受けて居るかを知ることが出來なかつた。ところが此頃になつて筑土鈴寛氏の藏本を見せてもらつたら、それは、
  (一〇) 松代栗本氏本     享保四年
のものであつた。話の順序は案外によく一致して居て、たゞ注意すべき二三の差異がある。さうして脱落は却つて後の本に過ぎた部分も見えるが、とにかくに他に此頃のものといふことの確かに知れたのは無いのだから、この特徴は(40)珍重しなければならぬ。次に、
  (一一) 京都大學圖書館本   寛永二年
 是が又誠に有難い一標本であるが、室町時代物語集の出るまでは、私は全く其存在を知らずに居た。以前何處に在つたものかといふことの知れぬのは殘念だが、明らかに天正の諏訪本と同系統のもので、しかも其間僅かに四十年を隔てゝ居るに拘らず、明らかに轉寫の際の出來事とは認められない幾つと無き變化がある。たゞ共通な點を擧げるならば、二百年後の諸本と比べて、この二つだけが共に敍述がやゝ詳しいといふことである。
 以上十一種は今片脇に置いて見て居る本であるが、この以外にも數は隨分と多いことゝ思つて居る。同じ横山氏の集書の中にも、私の分を除いてなほ六つを列記して居るが、其中で特に注意せられるのは、
  (一二) 諏訪茅野氏本第二   安永元年
 同じ一つの家の所藏でも、是には卷頭に戸隱や善光寺の記述を伴なひ、しかも中間の略敍の式は、却つて後代の諸本に近いものがある。
  (一三) 甲州吉澤村本     文化十二年
 諏訪の信仰圏に屬する北巨摩郡などには、もつと數が多くても不思議は無いのだが、他にはまだ私は聽いて居ない。時代の割には古風な形がまだ殘つて居るやうに思はれる。中島仁之助氏の所藏ださうである。
  (一四) 佐久長慶寺本     文化八年
 是は所藏者水谷不倒氏の繪入淨瑠璃史にも紹介してあるが、その簡單な文字の中からでも、少しばかり他の本と異なる所があるやに察せられ、それが又私には興味がある。ずつと以前、まだ信州に斯ういふ寫本の多いことを知らなかつた頃に、淺間山麓の眞樂寺を中心にした甲賀三郎の傳説があることを、高島君といふ人が報じてくれたことがある(郷土研究三卷一一號)。是は純然たる口傳へらしかつたが、話は半分近く諏訪御本地などゝ共通し、たゞ佐久地方の(41)土地の由緒などが適當に是に加味せられて居た。もしも自分たちが想像して居るやうに、個々の筆録と筆録との中間で、口から耳への物語が變化して居たとすれば、それが若干は今傳はつて居る佐久地方の寫しものゝ上に、地方色となつて出て居るかも知れぬのである。
 
          四
 
 一つの書物には必ず一人の著者があり、二つの寫本がちがふときは古い方が正しく、又は新しい方の誤寫であり、さかしらであるものゝ如く考へて居る人々には、甲賀三郎はやゝ始末の惡い例外であつた。所謂異本には系統が無く、しかも新舊入交つての一致がある。大體に新しいものほど省略が多いとは言へるが、古い筆記にも亦明らかな思ひちがひが見出される。口で代々の語り傳へがあるうちに、人によつてもう色々の作爲を加へて居たことが、ほんの是ばかりの比較でも、段々と判つて來るのである。さういふ中でも殊に我々を力づけるのは、是も大きな問題の一書、安居院の神道集の末の卷に、諏訪の縁起として載録してあるのが、用字こそちがふがそつくりと同じ物語で、たゞ其分量ばかり、天正以後の假字文の三倍近くもあることである。この如何なる部分が取つて退けられ、どれだけが大事に保存せられて居るかを見て行けば、古い物語の傳承方式が、文筆記録以外に少なくとも今一つ、有つたといふことだけは認められるのである。
 安居院の神道集は、その第五の卷の御神樂の條に、神武天皇元年辛酉より、今文和三年甲午に至るまで二千四十七年也とあり、又卷二の熊野の條には、神武天皇四十二年壬寅の年より、今延文三年戊戌まで一千九百八十一年なりとある。この勘定は共にちがつて居り、且つ寄せ集めであつたことは是からでも察せられるが、文體が皆揃つて居るから、大よそ先づ此前後に成つたものと見て置いてよからう。曾我物語の眞字本と共通の變な用字が數多く、且つ假字本との關係もどうやら彼と相似て居る。たゞ異なる點といへば、曾我では流布本が夙く固定して、しかも其時までの(42)膨脹が驚くばかりであつたに對して、此方は印刷の機會が無かつた爲に、いつまでも勝手に變貌すること、恰も主人公の地底巡歴の如く、其くせ曾我のやうな氣まぐれな蛇足を添へられなかつたことである。是は必ずしも文藝の性質の差では無く、寧ろ之を承認し支持する所の社會事情、具體的に言ふならば需要者の要求のちがひであらうと思ふ。曾我仇計の評判が都に上らず、單なる相模駿河の地方事件に終つて居たら、あゝいふ物語の展開は見なかつたらうと思ふが、それは證明も出來ない水掛論に歸着する。甲賀三郎に至つては、或程度までの實驗を我々に許して居るのである。即ち信州などの村里を流轉して居る限りは、いつ迄經つても少しづゝ成長し、しかも結局は神道集の範圍からは逸脱し得なかつたものが、一たび花洛の地に足を踏み入れると、もう信仰を只の趣向にした、色々の新脚色が生まれ出るのであつた。若狹の高懸山の魔王退治といふことが、蓼科山の人穴譚の作り替へだと迄はまだ言ひきれないが、少なくとも之を地獄廻りと結び合せたのは、正保三年の正本、「諏訪本地兼家」であり、更に玉藻前とか百合若大臣とかの面影を取つて附けたのが、近松作とも稱する寶永元年の「甲賀三郎」であつた。それから以後の諸作品に至つては、多くの固有名詞は存してももう膾のつまのやうなもので、ほんの型ばかり片隅に附いて居ればそれで通用した。其點日本は格別に聽衆の記憶と想像とを、利用し得る國であつたかと思ふ。とにかくに御客樣の所望次第、どうでも變へて行かれることは何れの作品も同じであつて、それを信州諏訪を中心とした一帶の田舍だけでは、いつまでも敢てしなかつた事情があつたのである。斯ういふ遺物のやゝ豐富に殘留して居たことは一つの幸ひである。自分などはその間の異同を尋ねることに依つて、飜つて之を可能ならしめた前代の世情の、ある部分は明らかにし得るものと信じて居る。
 
          五
 
 安居院神道集の諏訪縁起を、今見る色々の諏訪御本地に變化させた事情は、他には之を解説した者が一つも無くて、(43)たゞ是等の本文を讀み比べて行くと、大よそは判つて來るのである。同じ興味を抱く人たちならば、例はまだ幾らでも見出されることゝ思ふが、爰には先づ心づいた二三の點を擧げて見よう。甲賀三郎が兄次郎の裏切りによつて、藤蔓の籠の八筋の綱を切つて落されてから、さまよひあるいたといふ地底の國の數が、天正寛永の二本には「七十二の人穴を過ぎて」とあるに對して、享保以後のすべての本には、何れも二十二の人穴を降つて、次々の國へ出たとあるのは大きな差異であるが、それはたゞ數字の上の削減に止まり、實際の記事があるのは前後の諸本を通じて、最初に入つて行つたかうひん〔四字傍点〕國と、その一つさきの田植をして居た無名の國と、最後に別れて來たゆゐまん〔四字傍点〕國と、たつたこの三つに限られて居る。注意すべき異例は享保の松代本だけに、國を四つ擧げて二番目にかうちやう〔五字傍点〕國を通つたと出て居る。昔の人の想像力では、さう數多くの國をちがへて描寫することがむつかしく、自然に單調に墮して聽く人を退屈させて居たのであらう。神道集の方はどうかと見ると、是には「七十三(ノ)人穴七十二(ノ)國(ヲ)過(テ)」などゝ、さも精確に説いて居るに拘らず、是も始の好賓國と最後の維縵國との間に僅か十箇國だけが敍述してあつて、もう其國の爲v體《ていたらく》といふのが、正月の祝をする所が二つ、雪の中の冬籠りが二つ、田植と田草取も共に二度で、從つて其光景は重複して、辛うじて二首贈答のでたらめ歌を以て變化を設けて居る。斯ういふことを七十二囘くりかへしても、謹んで聽いて居た時代が曾て一度はあつて、神道集が筆記せられた頃には、もうその省略の降り坂にかゝつて居たのかとも想像せられる。
 さう想像してもよい一つの根據は、伊吹山の卷狩の八日目に、最愛の妻春日姫を天狗に奪はれて、日本六十六國の山々嶽々を、殘り無く捜しまはるといふ條に於て、神道集だけはその尋ねて見た山と嶽の名を、精密に六十六組(實は阿波が落ちて六十五組)列擧して居て、是が又珍しい名前ばかり多いのに對し、天正以來のすべての假字文の方は、其數を主として京以東の、十何箇國に限つて居り、少しづゝの誤脱錯亂はあるが、此點はほゞ一致して居るのである。さういふ耳にしたことも無い奇拔な山嶽の名の數々を、素朴の心を以て謹聽した人たちが前には有り、後には地誌の(44)知識が少しは備はつて、訝り又は抗議する者もやゝ現はれて來たことは、所謂合理化であり、又一面から見れば古傳に對する信仰の動搖でもあつたかと思ふ。
 
          六
 
 この點は「甲賀三郎」の歴史の上に、一つの史料を供するのだから、決してくだらぬ問題では無い。神道集が書き留めて居る山の名と嶽の名を點檢すると、當時の地誌の知識は不精確と言はうよりも、寧ろ皆無に近かつたのである。歌や文章によく出て來る富士筑波、淺間山甲斐の白根、さては都に近い比叡山春日山、白山・立山・日光・羽黒などの十幾箇所を取りのけると、他の多くの國々では僅かな聯想により、又は全く自由な思付きを以て、どし/\と山嶽の名をこしらへて、別に氣が咎めたやうな樣子も無い。察するに語手も無關心なのだから欺くといふ必要も無く、言はゞ是も亦あの頃の空想の領域であつたのかと思はれる。をかしいと思ふことは、遠い西海の國に行くほど、この空想がいよ/\奔放になる。たとへは「豐後國(ニハ)伏菟(ノ)御嶽詐(リ)山、肥前國(ニハ)議御嶽罷(リ)山、肥後國(ニハ)誇(ノ)御嶽贄田山、日向國(ニハ)嘲(ルノ)御嶽粽(キ)山……壹岐國(ニハ)大江(ノ)御嶽|?《シイル》山ヲ尋(テ)廻(レドモ)戀人(ニハ)合(サリキ)」とあるなどは、もう聽き飽きた人たちに、少しは笑はせてやらうといふ趣意でゝもあつたものか、とにかくそんな言扁口扁の山の名などが、誰だつてさう/\有らうとは思つて居なかつた筈である。或ひは又この物語のかたり手が、特に中國四國九州の地名に疎かつた爲かとも考へられる。さう思つて見ると天正以後の假字本でも、比較的當つて居るのは關東から信州へかけての小區域だけで、近畿地方にもまちがひばかり多く、それに續けて「つくしにはひこねのたけを尋ね廻れとも云々」と、西三十何國をたゞ一句で片付けて居る。この「ひこねのたけ」は寛永本には「ひこ山のたけまでも」とあつて、明らかに豐前英彦山の名の聽きかじりであるのだが、それさへ合點が行かなかつたものと見えて、(八)の元治本だけは之を「近江國には彦根のたけを尋ねけれども」と語り替へて居る。この古傳の再檢討と改訂といふことが、假字本全體を通じての(45)一つの傾向だつたと見られる。神道集の嶽の名と山の名は、でたらめながらも兎に角に五畿七道の國名を、手習本の順序に皆竝べて居るに對して、こちらはどの本も一樣にその恠しげなものを皆刪除し、北陸街道から東北へ大よそ路順にほゞ有りさうな名前だけを列記して居る。しかも奧州では「たつこつの嶽」、即ち達谷窟を一つ擧げて出羽を脱し、又東海道でも海に沿うた數箇國は説き漏らして居るなどは、即ち又此物語の行はれた地域の、案外に限られて居たことを語るものでは無いかと思ふ。しかし大體に列記主義は古い趣味であつた。江戸の古淨瑠璃でも、所謂何々づくしは競うて新意匠を出し、さうして又やがて廢れた。曾我の流布本などは饂飩屋のやうに、たゞ長く引伸ばすことを念掛けて居たに拘らず、なほ眞字本が力を入れて居た武者揃へ装束ぞろへの類を省略して居る。頼朝が信州三原の狩に行く道行振りなどは、二三の紀行よりも貴重なる地理資料で、是には夜毎に附近の大名たちが警固に出て、兄弟が工藤を討つべき隙を與へなかつたことを説く爲に、數多く列ねた武家の苗字も、今讀む者にさへ多少の興味があるのに、流布本は惜し氣も無く是を平凡な文章と置き換へて居る。つまりはさういふ點に興味をもち又は利益を得る人々が、もう聽衆で無くなつて居たのである。社會が要望しなかつたら、こんなくだらぬ大衆文藝が、たとへ短い或期間でも存立するわけは無い。さうして昔の人たちは一樣に律義であつた。だから七十二の地底の國々の如きも、曾ては七十二囘丁寧にくり返して語られて居た時代があるのかも知れない。
 
          七
 
 信仰史の資料としては、惜しいと思ふやうな部分の省略でも改訂でも、文藝の立場からいへば成長であり、又は進歩と認めなければならぬ場合がある。それをしなかつたら忽ち流傳が止まり、たま/\文字に録せられゝば殘るけれども、それは只の「古い書きもの」となつて、世に註釋家と稱する文人でも何でも無い人々によつて、斯樣に感心すべしと指導せられるものに變つてしまふ。民謠も諺もはた昔話も、さういふ人の御厄介を掛けずに獨自に活きようと(46)するものは、何れも時代に即應して言葉をかへ、時としては形をさへやゝ改めて居る。私が作りましたと名のる者があればこそ、是が剽窃にもなり又は例の換骨奪胎にもなるのだが、以前は公有だから其問題は起らなかつたのである。
 諏訪の御本地などは、大體に繁きを艾り幽玄なるものを看過して、量が著しく減じて居るから、只の零落とも見られ易いが、是でもよく見ると後の語り手の才略によつて、感動を新たにしようとした改作は少なくはない。たとへば甲賀三郎が蓼科山の窟の底に入つて、最愛の春日姫がたゞ一人、提婆品を讀んで居るのに再會するといふ條に於て、主の魔王はどこへ行つたぞと尋ねるとその答が、安居院の集では「百濟國(ノ)眞照天王(ノ)姫宮(ノ)※[白/ハ]嚴(ク)御在(スルニ)、取(テ)來(リ)自(ガ)友達(ニセントテ)奉v取(ニ)行(タリ)」と申したまふ。さてはよき隙なり云々とあつて、是は思ひ切つて大きな一つの空想であるが、寛永の假字本には之を改めて、「唐土のみかどのしうのかうわうの姫君みめよきとて取に行とかたりければ」となし、天正本には「しうのかうきよくの姫云々」とあるのも、同種の語り替へと思はれる。然るに是でもなほ大衆には耳遠かつたものか、享保本以下のすべての記録には一致して、「折ふし豐後の郡司の姫君みめよき人なれば、取りて來りみづからが相手にせんとて取りに行きたまふと仰せけり」として居る。是が暗記のちがひで無く、まして筆寫の誤りで無いことは、誰にでもわかると思ふ。
 それから又一つ、三郎夫妻が折角藤蔓の籠に引揚げられて大地へ上つて出たのに、穴の中に大切な忘れ物をして來たと姫が歎くので、再び三郎がそれを取りに、勇敢に引返すといふ條がある。それがこの悲劇の第二の起點になつて居るのだが、その忘れ物といふのは神道集ではたつた一つ、「?魔の廳までも身を放すなとて、祖父より賜はつたる面景といふ唐の鏡」とあるのだが、それ一つで斯くまでの大騷動になるのは物足らぬとでも思つたか、後世の假字書きには何れも寶物の數を増加して居る。一例をいふと私の初めて見た嶺方本に、
  姫君仰せけるは、あまりに急ぎとて(候とてカ)、年月讀み奉る金泥の藥師經、大國にて翫ゆいせん〔四字傍点〕といふ經文書、又みづからがためには寶にて候からの鏡、又春日大明神より給りたる有いねといふ双草(草子カ)、是等を(47)とりわすれて候と仰ければ……
とあつて、忘れ物は四種になつて居る。其中で語る者も恐らく知らなかつたらうと思ふのは「ゆいせん」である。他の近代の諸本も似たりよつたりで、天正本には「ゆふせひくわん」、寛永本だけには「ゆふせんくつといふ文書」とあり、結局は大國即ち支那にて愛玩する遊仙窟といふことであつた。そんな本を持つて居ては春日姫の名譽にも關するわけだが、實は見たことの無い者がよく/\の珍本と心得て居たばかりに、それを新たに取り添へて一段と動機を重々しくしたのであつた。何でもかでも只在り來りを踏襲するといふやうな、智慧の無い人の所作とはちがふのである。
 
          八
 
 素より長々しい物語だから、中間には?人の耳を新たにする必要があつた。さういふ趣旨をも後繼者はよく呑込んで居て、時あつては其方法の改良をさへ試みて居る。たとへば甲賀三郎が地底の廻國に於て、最も多く世話になつたゆゐまん〔四字傍点〕國のゆゐまん〔四字傍点〕長者は、過ぎにし方も三萬歳、亦來る方も三萬歳といふ長命の翁であるが、娘が三人あるのを三郎に引合はせ、どれか一人を見定めて妻に取れといふ條がある。神道集が既に思ひ切つて、
  ?《アレ》(ニ)候(ハ)嫡女(ニテ)候。八百歳(ヲ)經(ル)者(ニテ)候(ト)云(ヲ)見給(ヘバ)、三十四五(ノ)女房(ナリ)。次(ハ)五百歳經(ト)云(ヲ)見給(ヘバ)廿四五(ノ)女房、次(ハ)乙娘(ニテ)候。三百歳(ヲ)經(テ)候(ト)云(ヲ)見給(ヘバ)十八九(ノ)女房(ナリ)云々
と述べて居るのに、それでもなほふざけ足らぬと思つたものであらうか、近世の諏訪御本地では、姉娘は齡が八千歳で、たつた三千ちがひの二人の妹がある。或ひは姉は六千歳といふ本もあるが、兎に角にその乙娘の二千歳になる姫と、三郎は夫婦のかたらひをして、泣いて別れて日本へは還つて來るのである。
 この歸り途の色々の出來事が、諏訪の信仰にとつては重要な傳へらしいのだが、假字本の方では、是だけはやゝ無造作に切捨てゝしまつた感がある。愈旅立の日の引出物に、鹿の生肝で作つた餅一千枚を與へ、如何に疲れても一(48)日に二つとは食ひたまふな、此國と日本との道の遠さは、一千日の旅なるべしと教へたといふ條は保存して居るが、どういふわけでか餅の數を千首とし、又其名を「しゝせんづ」、或ひは「鹿千かしら」の餅などゝ、色々に語つて居る。後に説かうと思ふ大岡寺《だいごじ》の觀世音利生記の方は、鹿の燒皮といふものを四百八十六、七日毎に一枚づゝ食して飢を忘れたことになつて居り、或ひは又四十八箇の餅を貰つて、それを旅の糧として還つて來たやうに、傳へて居る口碑もあつたやうに記憶する。何れにしても古來一定した語り口は無かつたのである。浦島太郎の龍宮入を始めとして、靈界の月日の疾く過ぎたといふことは、昔から人氣の多い一つの趣向ではあるが、是を甲賀三郎の場合に適用すると、實は色々と都合の惡いことがあつた。たとへば故郷に貞節を守つて居た春日姫は、特に春日大明神から不老不死の藥を、賜はつたといふやうなことにしなければならず、弟を危地に陷れた腹黒の兄までが、死して神に祀られて居て和睦をしたといふ類の、結末を設けるに至つたのも其爲のやうである。是が最初からの紙の上の設計では無くて、次々の語りに際して、少しづゝ變つて行つた痕跡では無からうかと、私などは想像して居るのだがまだ斷定は出來ない。少なくとも昔の耳の文藝には、さういふやゝ氣輕な改作が有り得たと思ふ。だから安居院の神道集は、單にその成長するものゝ或一つの段階を寫し留めたといふまでゝ、いゝ加減古いから是を原作と見ようといふ樣な無茶なことは言へない。現に又後から出て來た假字本が、之を讀んで居たならば變へまいと思ふ箇所を替へて居る如く、別に神道集と併行して、どちらが前だらうかを決し兼ねるやうな、異なる語りかたも數多く傳はつて居るのである。斯ういふ都合のいゝ實例はめつたに無い。今後この比較を綿密にして見た人だけが、恐らくは淨瑠璃といふ特殊文藝の本原を説き得るのだらうと思ふが、殘念なことには私にはもうその時問が無い。
 
          九
 
 それでたゞ飛び/\に、心づいたことを言つて見るのだが、耳の文藝の五百年間の變化の中には、單なる誤解もし(49)くは無理解に基いたものも、少々は當然にまじつて居る。たとへば春日姫は甲賀三郎が春日の御社に參拜した時に、見初めて乞受けて來た妻といふのだが、それが春日權頭の子であるか孫娘であるかゞ、本によつて甚だ區々になつて居る。神道集には最愛孫子春日姫、又は「此(ハ)保成(カ)爲(ニハ)孫子(ニテ)候」と謂つて居るのに、近世の寫しものは姫自ら、權頭の子にて候と名のり、しかも其姫が別に「みどりの前」とか「櫻の前」とかいふ、もう一つの名を持つて居る例が多いのである。是は變だと思つて古い本に當つて見ると、やはり元は孫とあつたのが、不明になつたので訂正したのである。此點は天正本に、
  春日の社へ詣つて七日の御神樂あり、ひとりのみやのこと申けるは春日の權頭の娘なり、その娘をば春日姫と申して、年十七にならせたまふ
とあるのが正しく、寛水本にはもう此文句をまちがへて、
  七日御神樂をまいらせける。ひとりの宮と申けるは、春日の權頭の娘なり、その娘をば春日姫と申て云々
と語つて居る。この「ひとり」は多分火取とでも書くので、宮の子即ち巫女の名であつた。それが權頭の娘で、その又娘だから孫になるのであるが、子持の巫女といふものが中世は石清水などにも有つたことを知らず、親子を一人かと思つたから名が二つあることになり、それを又をかしいと思つてか他の本には全く取つてしまつて居る。さうして安居院の方にはたゞ孫女だといふのみで、却つて母が誰であつたかは語つて居ない。小さい事であるが天正以後の諸本が、決して神道集を基本に使つて居なかつたことを證據立てる。
 それから又一つ、是も早期の假字本にはあつて、後に省いてしまつた「襖《あを》に衣《ころも》」といふ諺の一句がある。天正本では三郎兄弟が父を喪ひ、三十五日といふ日に又母に死別れたといふ條に、
  三人の子ども、あをに哀(衣)をかさねて、歎かせたまふこと限りなし
とあり、寛永本の方では三郎が地底の國から蛇體になつて還り、甲賀の里の御堂の縁の下に隱れて居た夜半に、御通(50)夜の神々が昔語りをしたまふ條に於て、
  母も同じく空しくなりたまふ。あふにころもを重ねて、歎き深くして三人の子ども云々
と出て居る。神道集はどうなつて居るかと見ると、同じ文句が雙方にあるので、たゞ後の方は「三人(ノ)子供(ハ)襖(ニ)衣ヲ引重(テ)」とあつてよく判るのだが、前段だけは頗る面倒くさく、
  三人(ノ)君達(ハ)襖(ニ)衣(ト)先(ノ)縷衣(ニ)名墨染(ヲ)引重(テソ)歎(カレケル)
と、爰ばかりだつたら到底讀み下せない書き樣である。御承知の人も有らうと思ふが、是は曾我物語に於ても特に註釋家をてこずらせて居る言葉ださうである。曾我の流布本は卷八、十郎が祐經の屋形に行つた條に、「日頃は親の敵、たゞ今は日の敵、襖にころもを重ねてものがすべきにあらず」とあり、又本門寺本でも、「年來(ハ)親(ノ)敵今日(ハ)(?)襖衣《アヲニキヌ》(トハ)此喩(カヤ)」とあつて、大石寺本の方は既に此句を省いて居る。襖《あを》は今日の合羽又は外套で、外出や防寒に用ゐられ、通例は袷であり時としては綿も入れた。是に衣を重ねるといへば、「重きが上の小夜衣」といふも同じで、かさねがさねの意味だつたらうと思ふが、それにしては曾我流布本の、重ねても云々の援用が場合に合はぬやうである。私の推測では、この諺の興味の中心が、やはり時代と共に移動したので、最初はたゞ襖を着て居るのに又一枚の衣を添へたといふだけであつたのが、後には有り得べからざる冠履顛倒、半てんの上へ帷子を重ぬるやうなことがあつてもと、如何なる場合にもの意味に強調したものかと思ふ。諺の奇拔なものがたゞ形體だけを記憶せられ、用途の變つて行く例は幾らもある。曾我はたま/\其後期の意味だけに通じて居た者が、僅かな改定を以て前來の文句を踏襲したのかと思ふ。しかも近世になると胴服や羽織が流行し、襖は素襖《すあを》以外には用ゐる人が無くなつて、從つてもはやこの諺のをかしみは通用せず、どうでもよくなつたから近世の甲賀三郎では、惜しげも無く忘れてしまつたのである。田舍は何事もおくれがちだといふが、くだらぬ流布本によつて物語を釘付けにされ、文藝の成長を止められる不幸だけは、信州の甲賀三郎は免除せられて居たのである。
 
(51)          一〇
 
 或ひは時代の降ると共に、新たに添へることは少なく省かれる部分は多く、總體に段々短くなつて來るのを、不本意に思ふ人は多いであらうが、是とても單なる記憶の怠慢ではなく、常に時代の信仰から、離れて行くまいとした努力の痕とも見られるのである。大祝氏一門の武威の隆替と、神宮寺社僧の身元素性の親疎とによつて、諏訪の本社の教條は、中代に可なりの變動を經て居る。さうして甲賀三郎の古傳を運びあるいたのは、既に久しい間この勢力圏内の人では無かつたのだから、前後一貫せぬ繼ぎはぎの語りごとを語つたとしても恠しむに足りない。四條院の御宇嘉禎三年の五月に、長樂寺の長老寛提僧正、大明神の供物に就いて不審を成し、衆生濟度を掌りたまふ佛菩薩の化身として、何ぞ強ちにあまたの獣を殺させたまふぞと申して臥したる夜の夢に、御前に懸け置く鹿鳥魚等、皆金佛となつて雲の上に登ると見、
  野邊に住むけだもの我に縁無くはうかりし闇になほ迷はまし
  業盡有情 雖放不生 故宿人天 即證佛果
といふ一首四句の御示現を蒙つたといふことは、神道集も之を録し、又後々の假字本にも更に詳しく敷衍して居るが、斯ういふ奇跡譚の出處は明白で、それが往古以來の考へ方で無かつたことは疑ひも無い。神が人界に一個の武將であつた時から、鹿狩を常の日の業とし、又樂しみともして居たことは、同じ安居院の作文の中にも、まだ何箇處かに之を説き立てゝある。それを次々の語りに於ては追々に削り去つて、代りに鹿を射取つた際の作法呪文を述べ、後には更に宍喰ひの觸穢を免れるまじなひに、之を用ゐる風習をさへ馴致して居るのである。無意識なる變化とはどうしても考へることが出來ない。
 諏訪兩所の明神が死穢を忌みたまひ、産穢は必ずしも忌みたまはずといふことは、何か由來のある古くからの信仰(52)であつたらしいが、此點は神道集には殆と説明が無く、後の假字本類は一致して新たな理由を説いて居る。甲賀三郎は親子の縁が薄く、この世では心のまゝの追善も出來なかつた故に、親に孝行の輩は、我前へ參らずとも護るべしといふ御誓願があつて、さういふ人々に御惠みを與へたまふこと、影の形に添ふ如くなるが故に、影の月をも添へて忌みたまふ也と謂つて居る。影の月といふのは月忌のことかと思はれる。一年一度の親の忌日に、神に詣でゝはならぬといふ御社は多いが、毎月の其日も避けるといふのが珍しいのである。「強ちに嫌ひたまふにはあらず。たゞ親の後世を懇ろにとむらへとの教へなり」とも語られる。親に孝行せよの御教へは誠に尊いが、是と死穢の禁忌とを結び付けるのは無理で、現に親以外の身内の忌日にも、參詣を許さなかつたのであらうから説明にはならぬと思ふ。
 それから一方の産屋の忌に就いては、神道集には何の記事も無くて、他の假字本は大同小異に、次のやうな由來を敍して居る。昔ゆゐまん〔四字傍点〕國より日本へ還りたまふ時、ゑんら國(又はしんら國)といふ處で女が一人、産屋から出て來て粢《しとぎ》を甲賀三郎に進め、御疲れをなほし參らせた。其恩を報いたまはんが爲に、此御社では産屋の忌が無いのだとある。新しい記事だがこの特例は我々には興味がある。ずつと以前の「後狩詞記」にも掲げて置いたが、九州南部の山間の信仰では、産穢は全く他の忌と別樣に考へられて居た。漁業や農業では言はぬことの樣だが、狩獵だけは産の忌を犯して行つて、結果の惡いこともあれば又反對に極端に好いことがあるといひ、從つて?冒險的に之を試みる者があつたかと思はれる。この慣行を説明するかと思はれる言ひ傳へが、日向では大滿小滿の獵師、中部地方では大なんぢ小なんぢ、奧羽では萬治萬三郎の物語として、山神の御産に行合せて、穢れを畏れずにわりごの食物を分ち進めた一人が、末永く狩の幸ひを得たことを説いて居る。文字に著はされたのは新しいけれども、諏訪にも同じやうな神話が元からあつて、それが黒白二つの不淨の間に、大きな差別を設ける原因となつて居たのである。下の御社の神は人間に在せし時、女性であるが爲に幾多の苦難を受けられた。其思ひ出として今も嚴しく荒膚《あらはだ》を忌みたまふといふことが、神道集以下の記録に殘つて居る。その荒膚といふ意味がもう不明に歸しかゝつて居るが、私は是を所謂赤不(53)淨のことだらうと思つて居る。
 
          一一
 
 まだ言ひたいことが少し殘つたが、それは第二次の研究にまはすことにして、爰では今一つの甲賀三郎、即ち京洛の地に入つて行つて、末は淨瑠璃となつてしまふまで、全然別種の發達を遂げた一系統の「かたりもの」を説いて、出來るだけの比較を試みて置く必要がある。この方の初期の記録は、まだ我々の目に觸れる處には無い。井澤幡龍軒の廣益俗説辯遺篇に引用し、又伊賀志を通して多くの名所圖會類が孫引して居る「甲賀家傳」といふのが其一つかと思はれるが、是にはもう跡先の歴史化があつて、口の物語の臺本とは言ひ難いやうである。最近に是も横山君によつて發見せられ、室町時代物語集第二に輯録せられた、「諏訪の本地」と題する三卷一册の寫本は繪入であつて、江戸期初めの頃のものかと思はれるが、奧書に年月日を記さず、于時白鳳十六年丙午六月十八日行基書畢と十數文字があるのは、寧ろ此本が語りものゝ筆録ではなかつたことを推測せしめる。是と筑土君所藏の大岡實録觀世音利生記といふ寫本とを比べて見ると、大部分はほゞ同じ筋であつて、末の數節のみが繪入本の方に附加はつて居り、それも新たなる結構では無くて、或ひは第二の語りものを繋ぎ合せたのではないかと思はれる。要點は諏訪の現人神に又三人の子があつて、その兄弟の間にもやゝ形をかへた葛藤があつたことを述べたものである。
 筑土本の來歴は識語があつて、比較的明らかである。曰く文化十二年六月二十七日の八つ時分、當寺裏手の山崩れて庫裏土藏共倒れ、此書砂に埋れたるを掘出し寫し書置く者なり云々。この「當寺」は大岡寺のことゝ思はれるから、少なくとも是に近い形のものが、其頃近江の方に傳はつて居たといふことは察せられるので、しかも一方には横山本の如く、是と九分まで同じ寫本が、彩色繪までを添へてもてはやされた例があるとすると、他日年代又形式のもつと確かなものが見付かるまで、先づ/\之を目安として神道集以下の信濃系の傳承と、比較を進めることにしてもよか(54)らう。實際又享保五年出板の諸國旅雀、更に古くは寛文五年の京雀などに、甲賀三郎の家の傳へとして掲げて居る話の梗概は、全部右の二つの寫本に包容せられて居り、羅山文集に出て居るといふ大岡寺觀音堂の縁起も(若狹郡縣志及び近江與地誌略に引用してあるが、近頃の活版本には見えないやうである)、簡單ではあるが是と牴觸する點は無いのである。
 神道集以下の諏訪縁起と、近江系の大岡寺縁起と、二種のかたりものゝ共通した部分は存外に多い。相異は地名や人名に多いから目に立つが、實は算へるほどしか無いのである。從つて最初如何なる土地に育ち、どうして別れて思ひ/\の途を進んだかも、忍耐次第で明らかになる見込は十分ある。それが竹本筑後掾正本の「甲賀三郎」以下、大よそ文學辭典に列記して居るほどの似ても似つかぬ諸作品と化して、どこが昔からの話の筋であるやら、だあれも知らないことになつてしまつたのも、原因を問へば唯御客の相異、と言はうよりも寧ろ之を要求し支持して居た、社會の信仰の激變があるのみであつた。信州山村のごく近年の、下手な幼い記録がもし無かつたら、如何なる文學史が如何なる説明をしたことであらうか、わかつたものでないのである。
 
         一二
 
 一つの目に立つ差點は甲賀三郎の實名を、信州の諸本では頼方又は諏方といひ、それから諏訪といふ神の名も起つたと説明するに對して、淨瑠璃系では初めから甲賀三郎兼家、或ひは又望月三郎兼家とも謂つて居る。それで便利の爲に此方を兼家系、あちらを頼方系と呼んで行かうと思ふが、先づ兼家系には春日姫が無く、之に代つて一條中納言の婦女などゝいふ十二三歳の美しい姫君があり、是に窟の底に入つて初對面に逢ふのである。從つて姫を捜しにあるくといふことは有り得ないのだが、最初は山と海と、いづれにか怖ろしいものは住むと兄二人と言ひ爭ひ、然らば試みて見ようと、やはり諸國の山と嶽とを尋ね廻るのである。しかも唐の鏡の忘れ物を單身で取りに戻り、惡い兄きに籠の綱を斷ち切られて、地底をさまよふといふ點は、一方の頼方系と同じである。
(55) 但し之に伴なうてなほ二つ、著しくちがつて居る個條がある。その一つは地下に往來したといふ入口と出口、第二は巡歴したといふ國々の數で、先づ前の方を比べて見るならば、頼方系の諸本は一樣に、蓼科山中の大きな人穴から入り、淺間山の西に在る大沼の麓に出たとあるに反して、兼家系は何れの記録にも、若狹高懸山の岩屋から入つて、最後には信州のなぎの松原へ出て來たことになつて居る。なぎの松原は又水松松原とも書き、是も淺間ヶ嶽の近くに在るやうに、繪入本等には見えて居るから、此方は格別の相異でも無いが、一方の若狹高懸山は思ひ切つて懸け離れ、しかも其意外が大きな印象となつたものか、此點だけが丹波の大江山同樣に、いつ迄も消えずに傳はつて居る。神道集には三郎が淺間大沼の穴から出て、四方の高山を遠望する條があつて、「心憂(リシ)蓼科(ノ)嶽(モ)見(エケリ)」といふ聽手を動かす名文であるが、實は蓼科から淺間までゝは、あの道々の地底の旅に思ひ合せると、ちとばかり近過ぎる感があるのである。若狹とてもさう遠方ではないが、どうして此國を發端の舞臺とするかゞ不明であるだけに、何か此方には隱れた理由があつたかとも想像せられる。尤も蓼科の方にも高懸山と同じに、穴の口に古木の楠があつた。さうして五畿七道の山嶽を尋ね盡して、最後にこの若狹の山にこそ魔王が住むといふことを、老いたる異人に教へられたのは、信濃國くろえの東の鳥居のもと、その異人は黒江權現の化身であつたと謂つて、やはり信州との縁は繋がつて居る。一方は最愛の春日姫を捜す爲、こちらは惡鬼を治罰するのが目的となつては居るが、なほ雙方別々の空想に生まれたもので無いことだけは疑ひが無く、從つて何れが早く何れが遲く、又古い頃の言ひ傳へに、どちらが一段と近かつたらうかといふことが、問題にならざるを得ないのである。
 
          一三
 
 次に七十三の人穴七十二の地底の國といふことが、今ある兼家系の二本には説かれて居ない。正保の古掾瑠璃「諏訪の本地兼家」には、地獄めぐりの道行の段があるから、曾てはさういふ語り口もあつたのか知らぬが、とにかくに(56)もう省略せられて、直接に最後の「ゆゐまん國」かと思ふ國へ入つて行くことになつて居る。但し兼家が藤蔓の籠の綱を切つて落されて、もはや地上に還る望みも絶え、大きな穴を見つけて死なうと思つて其中へ飛び込むといふ條に、次のやうな愉快な一節がある。
  西とおぼしき方へ向ひ、念佛十ぺんばかり唱へ、生年三十五と申すに、穴へ飛入りたまふ程に、うつぶしになりあをむきになり、そはさま横さまに落ち行くは、八まん地獄に落ち行くかとおぼしくて、ねいりて落つる時もあり、めさめて落つる時もあり、およそ三年三月ほど落ち行きて、不思議なる芝原におちつきて東西を御覽ずれば云々
 是は繪入本の方の文であるが、他の一方の觀世音利生記にも似たる記事があつて、
  げにや三年三月に落つるといふ、八まん地獄はこれやらんとおぼしめし
とあるから、或ひはこれが元あつた道行きの痕跡かも知れない。淨瑠璃の方でもちやうど此場所に、地獄めぐりの奇拔なる語りがあるのである。
 斯くして入つて行つたのが、「のとりの國」、又は「ひまん國」とも「底の國」とも「ねのくに」とも呼ばれる國であつた。「ひまん」は多分「ゆひまん國」の誤寫であらう。爰でもすべての頼方本と同じに、八十の翁が山畑に櫓を揚げて、粟を荒らしに來る鹿を逐うて居る。さうして二千歳の乙姫の聟になつたといふ條だけは丸で無いが、やはり其翁の忠言に從うて、鹿の脯を食糧に用意して、路を?めて日本へ戻つて來るのである。もしも再び本國へ歸らうと思ふなら、決して此國の食物をたべてはならぬといふのが、古事記の黄泉戸喫《よもつへぐひ》を思はせる古風な思想で、此語りだけは頼方系には無い。しかし鹿狩の非常に盛んな國で、その樂しみの思ひ出が昔の剛健なる田舍の聽衆を動かしたであらうことは、彼も是も同じである。
 もう一つの大きな相異は、兼家系では地底淹留の期間が短く、ちやうど三十三年目の正當日の前後に、故郷の甲賀(57)の里へ歸着して、老いたる妻と成長した一子に、再會することが出來たゞけで無く、兄二人の家に押寄せて行つたので、二人は愧ぢ且つ怖れて生害したと一本にはあり、他の一本には腹を切らうとしたのを宥したとある。此點が神道集以下の浦島太郎式では、企てられない自然の情景であつた。甲賀三郎が自ら蛇體であることに心付かず、我家の戸に近よつて奴僕までに騷ぎ罵らるゝ悲しみは、三百餘年を隔てゝは描き出すことが出來ない。それ故に一方の記述にはどうしても無理があつて、寫實味といふ點からは比較にならず、從つて又是がやゝ不用意の改作では無かつたかとの推測も起るのだが、正直なところ、今はまだ斷定の力が私には無い。
 
          一四
 
 それよりも先に考へて見なければならぬのは、本來明らかに一つであつた物語が、何の機縁によつて此樣に互ひに知らずに居る程の、よそ/\しいものに別れてしまつたかといふことである。是も現物をして自ら語らしめる以外に、何年待つて居ても恐らくは他の證據資料といふものは得られまい。二つの系統の重要なる一致點は、神々の寄合ひ話を、御堂の縁の下に隱れて居て聽いて、所謂|蛇帷子《じやかたびら》を脱ぎ棄てる秘術を知るといふことであるが、注意すべきことにはその御堂の名が、雙方全く二立てに別れて居る。一方は勿論大岡寺の觀音堂、一子小太郎が父の冥福の爲に建立したといふもので、是は甲賀郡の水口の町に今でもちやんとある。他の一方は神道集以下に、※[竹/少](笹)岡の釋迦堂とあるもので、父の甲賀權頭の建てた所といひ、同じ郡内に在るらしく書いてあるが、其所在地はまだ私には見つからない。それから氣をつけて見ると巖窟の奧から援け出したといふ一條殿の姫君は、三輪の山本杉立てる門の神であつたといひ、一方頼方系の春日姫は、其名の示すやうに春日の御社の巫女の子であつて、最後には何れも諏訪下宮の女神と現じたまふとあるのである。この何としても兩立しない異傳は、乃ち傳承者の信仰系統の差では無かつたか。即ち是あるが爲に結局は一方の支配する地域に、他の一方が立入り得なかつたので、同時に信州の御本社の周圍を占領し(58)たものが、主として素朴なる信者の支持を得て生命を保ち、他の一方の中央形勝の地に運び入れられたものは、繁榮したとは言ひながらも、早く其職場を藝術の徒に讓らなければならなかつたといふ、有爲轉變を免れなかつたのではあるまいか。是が自分の一つの試案である。
 我々の方法では、この假定を檢討する手段として、次に進んで他の地方の實情、即ち如何なる痕跡を各地に遺して居るかを知らうとする。是も少しばかりはもう判つて居るのだが、長たらしくなるを恐れてたゞ目録だけを擧げる。東の方では常陸多賀郡諏訪村の諏訪の水穴、是は今でもあつて奧は信州諏訪の穴に通ふと謂つて居る。建長年中に此地の諏訪神社の神主高利、又の名を萬年大夫といふ者が、妻と共に此穴に入つて終に出なかつたといふことを、縣廳出版の茨城名勝誌にも書いて居る。次には越中富山の諏訪川原に、もとは諏訪の池があつて諏訪の神を祀つて居た。肯構泉達録に載せた古い傳説では、越前の任人甲賀三郎唯直、伊吹山の兇賊を退治しての歸途に、此地に於て穴の中から美しい姫を助け出し、更に忘れ物の唐の鏡を取りに戻つた所を、同僚の惡意によつて總角《あげまき》の綱を切り落され、其まゝ地底をあるいて一千百日目に駿河の松が根といふ所に出て神に祀られた。姫も自ら諏訪の神と名のつて續いて此穴に入り、穴には水を湛へて清濁によつて神意を察するやうになつたともある。一千一百日とあるので、或ひは頼方系の語りが分布して居たのかと察せられるばかりである。甲賀三郎が鹿狩をして居たといふだけの話ならば、信州下伊那郡三穗村の立石寺にもあるが、爰には三郎發心の因縁を語るのみで、地底に往來したといふことは敍して居らぬ。たゞこの寺の本尊が一寸八分の觀世音で、三郎大鹿の眉間を射ると、鹿の姿は消えて後にこの御像があつたといふのみである(伊那の傳説)。出羽の立石寺の磐司《ばんじ》磐三郎、又は高野の丹生明神と祀られた獵人神の話が、曾てはこの物語の一つの中心をなして居た時代があつたのでは無いかと私は考へて居る。丹波北桑田郡知井村の佐々里の八幡宮にも、元は別社として諏訪神社があり、それを香加三郎兼家を祀るものと謂つて居る。兼家妖魔退治の朝命を拜し、丹波の八丁山に入つて八頭の大鹿を射殺した、其故迹と傳へて衣掛峠|矢燒石《やだめいし》、俎板岩などがあるといふから、元の語りごと(59)は長かつたのである。後人兼家を諏訪明神の化現なりとして、神に祀つたといふのを、史實の如くに思つて居る人もある(大和民族の犠牲的人格)。
 
          一五
 
 しかもこの言ひ傳へが若狹高懸山と同系のものだつたことは、兼家といふ名だけからも察せられる。近世は純乎たる稗史小説と化して、酒顛童子や百合若や、色々の話と結び合されて、繋ぎ目もわからぬものばかりが多くなつたが、一度は是も亦道俗の耳を傾けさせ、之を信ずることが即ち神を信ずることであつた世盛りといふものがあつたらしいのである。遠い田舍ではその證據が、時としてはもう少しはつきりとして居る。例へば大隅姶良郡東國分村、上井《うはゐ》の諏訪神社の社傳などはその一つで、是には甲賀三郎の名は用ゐないが、昔三人の兄弟があつて、この世の中の三つの不思議を捜しにあるいた。海と川とには何の不思議も無かつたが、山に入つて見ると恠物が居た。それを射て其血をつないで行くと、洞穴の底に入つて居る。兄の二人は怖れて尻込し、末の弟の小さい三郎だけが、瓢箪に冬瓜の蔓を幾らと無く繋いで、勇敢に穴の底に入つて行くと、そこには美しいお姫樣が苧の絲を績んで居た。それを助け出して二人身を合せ、瓢箪に乘つて上つて來たが、姫が鏡を忘れたといふので、三郎一人、再び穴の中に入つて居る所を、兄から蔓を切られてもう上ることが出來ない。其時に老人が顯はれて親切に世話をしてくれる。此國で煮たものを食べると日本へ還ることが出來ぬぞと教へられ、大きな猪《しゝ》と鉈と「どたぶくろ」といふ袋をもらつて、石段を踏んで此世へ登つて來た。袋を被つて居るうちは人からは蜥蜴に見える。地獄に墮ちたものは蜥蜴の姿になるさうなといふ貴僧たちの話を聽いて、急いで袋を脱いで人間の形にかへり、惡い二人の兄を逐ひ出して自分は後に神になつた。上井の諏訪神社ではその時もらつて來た鉈鎌を御神體として祀つて居るといふ(姶良地方の研究卷二)。
 前に説いて置くことを忘れたが、鎌を貰つて來たといふことは兩系統の本に共に有る。神道集の方では三つの投鎌《ないがま》(60)を授け、之を以て契陽山の鬼王どもを追退けよと教へた。今の世にも御柱に投鎌を打つことはこの謂れなりとある。一方大岡寺の縁起に在つては、翁より鎌をたまはつて、之を以て鹿《しゝ》の四つ足をおろし、其肉を食料にして根の國の物を食べずに、還つて來たといふことになつて居る。その他川と山の恠物といひ、穴の底にて美姫を見る條といひ、どちらかといふと此口碑は兼家系の話に近いのである。それが瓢箪と冬瓜の蔓といふが如き若干のユウモアを含みつゝも、なほ土地人ばかりの口によつて現代まで傳はつて居るといふのは、即ち又かたりものゝ淨瑠璃以前の用途を示すもので、丹波と九州の南端に其痕跡を見るといふことも、或ひは一方の安居院作のものが、終に西日本に波及せずに終つたほどの、新たな改修であつたことを暗示するものでは無いかと思ふ。
 
          一六
 
 實際に神道集は古い文獻ではあるが、其説話の結構は複雜に過ぎ、又やゝ事を好んだ潤色がある。是が上代の記憶のまゝで無いことは、囚はれざる讀者ならば讀破することが出來ると思ふ。殊に近江の甲賀郡を以て、神の故郷とするなどは必要の無いことで、それを※[竹/少]岡の釋迦堂と改めても、なほ全く取除くことの出來なかつたといふのは、他の一方の觀音堂の類話と對照して、優にこの宗教文藝の發育の歴史を考證せしめるに足ると思ふ。信州固有の部分が承け繼がれて居らぬとは言へないが、甲賀は少なくとも此物語の「ゆゐまん國」であつた。こゝに滯留して年處を經たが爲に、そこを出てから後も物語はなほ久しく、所謂蛇帷子を着て居たので、乃ち信州へは逆輸入であつたらうと私などは考へるのである。
 信州は元來決してかたりものゝ乏しい國では無かつた。今でも民間に流布する色々の口碑を見て行くうちには、是が甲賀三郎譚を花咲かせた、最初の種子といふものを見出すことも、必ずしも望みの無い仕事では無い。しかし假に神道集以前といふものがあつたにしても、それが此土の特産であり、他には無かつたものだといふことを、言ひ切る(61)ことは出來さうにも無い。昔は昔ながらに話の種はやはり移動して居たからである。たとへば泉の小太郎が龍蛇の姿を現じて、山清路《さんせいぢ》の水を斫り落したといふ類の話は、成るほど一側面は諏訪の本地と似て居るが、是は「桃太郎の誕生」にも説いて居るやうに、弘く東西に分布した話である。東北では十和田湖の元の主、後には八郎湖に入つたといふ八郎といふのも、人が蛇體を現じて水の神と祀られた例であつて、是は兄弟とは無いが幾人かの山仲間の中で、一人だけ異魚を食して身を變ずるのである。群馬縣では佐波都下福島の八郎權現の縁起といふのが、伊勢崎風土記に出て居る。群馬の郡司群馬大夫滿行の八男八郎滿胤、七人の兄に嫉まれて石櫃に入れて池の窟に沈められ、其靈蛇龍となつて國中を震骸せしめ、後に神と崇められて八郎大明神と稱すといひ、是も國中に許多の傳説地を留めて居る。ところがこの言ひ傳へには變化が多く、榛名山の滿行權現の由來記には、神の名を南部三郎滿行と謂ひ、やはり讒を受けて伊香保沼に入水したとも記してある。三郎も八郎も元は共に末弟の最もすぐれて居たことを意味したらしいのである。飛騨の日和田のおちんヶ池の傳説などは、水底の靈神を西ヶ洞の小三郎と謂つて居るが、益田郡誌に載せて居るものは、完全に十和田の八郎と同じく、是も二尾の岩魚を獲て一つは友だちに殘して置いたのを、あまり美味なので二つとも食つてしまひ、それから咽が渇いて一谷の水を飲み乾し、四方を池に化して其底に住んだといひ、寧ろ隣國の泉の小太郎が、小三郎でないのを恠ましめるばかりである。
 
          一七
 
 世界に類例の多い末弟成功の説話は、日本でも普通は三人にして傳はつて居る。其中でも奧羽の各地で採集せられて居る「奈良梨採り」といふ一例などは、最も甲賀三郎と縁が遠い故に、却つてこゝに掲げて置く必要がある。發端は不思議に是も親孝行を以て始まり、父又は母が重病の床に伏して、なら梨を食へば全快するとわかつて居るので、太郎次郎三郎が順次にそれを採りに山奧へ行くのである。其途中には昔話の常の型として、一人の老翁に行逢ひ、又(62)は老婆が淋しく住んで居る。そこで路をきくのに兄二人は無禮であり、又は携へて居た食物を快く分ち與へなかつたので、何の注意もしてくれず、行つてすぐに魔物に生呑みにされてしまふ。三郎は天性やさしく、二兄と全く反對に物吝みをしなかつた爲に、一切の便宜を得て成功し、妖魔を退治して二人の兄を救ひ出す所まで、高懸山の物語と同じなのである。幾つともない山中の挿話が、この昔話には伴なふのが普通で、殊に少年のうれしがつて聽く點は、谷川の渡り場に瓢箪が水に浮んで居て、靜かに其音を聽いて居ると危いから行くな、安全だから進んで行けとか、まるで今日のゴーストップを遣つて居る。さうして結局奈良梨とは何であるかを、知つて居る者はもう無いので、つまりは斯ういふ道行きの面白さによつて、久しく記憶せられて居るのであつた。
 確かな證據は無いけれども、私などは想像して居る。諏訪の御本地の古い形に於て、三兄弟の競爭になつて居たのは、鹿狩の成功といふことであるかと思ふ。其痕跡とも見られるのは、伊吹山の卷狩に鹿の大王が二つ出たと神道集にはあり、又天正本などでは春日姫捜索の門出に、祖父の權頭が何のつきも無く、三兄弟の弓勢と鹿の數の多少とを尋ねて居る。一方の大岡寺の方でも、根の國で粟畑の番をして居る時に、五丈餘りの大鹿が現はれたのを、飢ゑて疲れて居るので足で弓を引いて射殺したと語つて居る。その以外にも必要以上に、鹿の話が多い故にさういふ想像をするのである。戀の葛藤が新たに添加し得る如く、兄二人の嫉妬と惡意といふことも、末の弟の意外なる卓越を説く以上は、棄てゝ置いても自然に空想せられるであらう。但し地底の諸國の巡歴といふことは、わざ/\持つて來なければ繋がるものでないから、是などは或ひは近江での加工かも知れない。しかし冒險の種類は次々に新奇なものが迎へられ、異郷の訪問は又人望ある古來の趣向であつた。話を長くしようとすれば單なる山盡しや嶽揃へ以外に、斯ういふ方面をも物色しなければならぬ。たとへ接穗《つぎほ》にしても所謂臺木だけはあつたのである。私は寧ろ斯ういふ奇拔な形態を備へるやうになつてからも、なほ「此書を一日に一度づゝ讀めば、諏訪へ日參申したるに同然なり」と聽いて、ゆめゆめ疑はなかつた人たちの心をなつかしいと思ふ。
(63) 一つには是は書物といふものゝ尊さであつたとも言へる。耳で聽いたのでは首を傾けるほどの人でも、何かに書いてあると言へば忽ち口をつぐむといふ氣風は、今でも相應に根強いのだから、嘲けるわけには行かない。それが田舍にも百年以來、追々と普及したといふことが、或ひは逆にこの種の寫本の必要を大にしたのかも知れぬが、それでもなほ我々は或大切な古い世の考へ方が、辛うじて之に由つて保存せられて居ることを感謝すべきである。三人兄弟の爭ひは繪樣としても印象深く、又是より少なくすることは出來ぬので、多くの物語は是に落付いて居るが、以前用が無くてなんぼでも話を聽きたいといふ人の多かつた時代には、是を五人にも八人にも十二人にもして、いよ/\最終の一人の優秀を讃歎せしめようとして居たこともあつたであらう。さう思つて見て行くと、大昔八十の兄弟神の爲に袋を負はせられたまひ、嫉まれ憎まれてあまたゝび、生死の界を經て結局は御榮えなされたといふ大神は、諏訪の祭神の爲には御父であつた。さうして御事蹟も片端は似て居る。是が偶然の類似に過ぎぬといふ迄は、私にも別に異存が無い。たゞ我邦の語りものが、微々たる五百年前の一記録を境にして、其以後は連綿として絶えず續き、其以前は一つ/\きれ/”\のものであつたといふやうな考へ方には、強硬なる反對をするだけである。今日の學者などは、知らぬといふことゝ無いといふことゝを混同して居る。
 
  (附記)
   諏訪大明神御本地の全文を暗記して居る老人が、近い頃まで信州にはまだ居つたといふことは、小谷口碑集の筆者も之を記して居る。それが天正寛永の三百餘年前から、近くは明治の初年までの間に、各地互ひに交渉すること無く、次々と筆録して來たとすれば、十種十樣の異本を生ずるも當然であり、不思議は寧ろ話法の順序が、安居院の神道集以來、どうして此通り守り續けられたらうかといふ點に在り、殊に近江の※[竹/少]岡の釋迦堂の靈驗の如き、幾分か調和のとれぬ挿話までが、失はれずに居たことを奇としなければならない。信州の諏訪と近江の甲(64)賀と、假に兩處の交通が曾て有つたときまつても、雙方持寄りの語りごとゝいふものは考へられぬとすれば、甲から運んで來て乙で手を加へたものが、もう一度又もとの甲の地へ送り返されて、新たな形で行はれて居るのはやはり珍しい。是を具體的に言ふと、近江で諏訪の神の生ひ立ちを説くまでは、まだ事情が想像し得られるとしても、信濃の本國の信徒たちが、更にその甲賀權頭の三人の子の優劣談を、語り傳へて居る段が解釋し難いのである。
 二種の傳本の一方が※[竹/少]岡の釋迦堂を中心とし、他の一方が大岡寺の觀音堂の奇瑞を語つて居ることが、一つの手掛りのやうに私は考へて居る。即ち京都にやゝ近いこの西江州の山間に、久しく一種の語部が住んで居て、其根據とした靈湯がやゝ移り、後に若狹の高懸山を取入れた、所謂兼家系の語りを作り出し、それが淨瑠璃の方へ流れて出たのかも知れぬのである。さうすると信州へはその改作以前に別に之を運び込む者があつたといふことを言はねばならぬが、其方は幾分か推測を下しやすい。安居院神道集の物語は大體に東國に偏して居る。殊に諏訪御本地は兩毛の神々と交渉が多く、又長樂寺の僧も其傳承に關與して居る。乃ち物語の第二の中心地がもと此方面に在つて、そこと京近江との交通の衝に、たま/\諏訪の盆地が當つて居たらしいのである。他日東國古道記の中にも之を説かうとして居るが、この地は古くから四方の途の辻であつて、決して都の人たちの思ふやうな、山の奧では無かつたのである。
 奧羽の文化が重要の度を加ふるにつれて、北陸沿海の通路が次第に多く用ゐられ、いはゆる中仙道は幾らかづゝ、其下風に立つことになつたのかと思ふ。信濃が水系によつて南北に二分せられる傾向も、之に伴なうて生じたことが想像せられる。甲賀三郎の二種の物語の對立が、この新しい形勢によつて説明せられると迄は私はまだ確信して居らぬが、少なくとも越中富山の諏訪川原の口碑だけで無く、越後の西頸城郡年中行事に載録した五月菖蒲湯の由來なども、諏訪樣は龍宮からえらい大蛇になつて還つて來て、人々に大騷ぎをされたといひ、村の氏(65)神の縁の下に遁げ込んで居て、其夜神樣の御告を聽き、蓬と菖蒲の露の中を轉げまはつて、蛇體を脱したと説いて居て、かの甲賀の言ひ傳へが最も力を入れて居る一條、即ち釋迦堂又は觀音堂の奇瑞には觸れて居ない。同じ信州の中でも北佐久郡眞樂寺の古傳、又は北安曇都美麻村の一女性の記憶などは、共にこの近江分子の一切を脱却して居るのである。是を直ちに原産地の、本有の形と見ることは危いが、ともかくも飛騨と上野との二つの隣國に行はるゝ壯士の水の靈に祀られた傳説、又はこの國特有の泉小太郎の話などゝ比較をして見ることが、是ならば出來るのである。世界的に著名な末弟成功説話、殊に三番目の弟の優越を説く昔話の、筋を引くといふまでは疑ひ得ぬとしても、なほ一たびはほゞ原の形といふべきものに復して見た上でないと、たゞ類似を説くのも空な話である。それは容易なことでないと思ふ人もあらうが、甲賀三郎だけはまだ是からも、多くの例が集まつて來さうである。注意して行かなければならぬ。
 
(66)     有王と俊寛僧都
 
          一
 
 傳説の歴史性、もしくは史料としての傳説の價値といふものを、もう久しい前から私は考へて見ようとして居る。是はその手頃な一つの實例であるが、何分にも知識がまだ乏しくて、安全な結論に達することが出來ない。單に斯ういふ方法も有るといふことを述べて、文學史家の批判を受けて見たいのである。
 俊寛僧都の墓所といふものが、諸國には數多く保存せられて居る。是と平家物語の鬼界島の一條とは、どういふ關係に在るのであらうかを最初に問題にして見る。各地の傳説は、何れもこの物語が十分な流布を遂げた後に、ぽつ/\と記録の上に現はれて來たもののみで、彼と眞僞を爭ひ得るやうな文書の證據などは少しももつて居ない。だからこの流人のあまりにも悲惨なる最後を憫れむ人々が、寧ろ悦んで俊寛島に死せずの雜説を輕信したやうに、所謂判官びいきの論者ならば解するであらうが、しかもその根本の造りごとの産地、最初のうそつきともいふべき者が、普通には想像しにくいのである。誤解といふものにも理由があり、又恐らくは法則があつたらうと思ふ。それを比較によつて尋ね究めることは出來ぬものか。又是によつて平家といふ語りものゝ成立を、或程度まで明らかにすることは出來ないものかどうか。是を第二段の目標にして話を進める。
 俊寛終焉の傳説地といふものは、現在わかつて居るものだけでも十何箇處かある。其うちで遠くの人にも知られて(67)居るのは、長崎港外の伊王島がその一つで、是は島の名が耳で聽けば、硫黄島と聞えることが動機だつたかと思ふが、古くは又祝島とも書いて居て、命名の由來の別に有つたことは考へられるにも拘らず、平家の本文に薩摩がたとあるのを無視して、こゝでも硫黄が取れたことがあるらしいと言つて見たり、或ひは呼び名の同じきを奇貨として、官邊を取繕つたものだらうとも言つて居り、甚だしきは平家物語の一異本に、明らかに彼杵の祝島に流すとあるなどゝいふのは、是こそ信じたい餘りの強辯かとも考へられる。
 しかし此話は既に長崎夜話草(  享保四年)にも出て居るのだから、相應に古くからのことである。現在はどうなつて居るか知らぬが、長崎から程近い深堀といふ地に、有王塚といふ塚があるのが、是と關係があらうと同書には述べて居る。既に平家物語にも地名の出て居る肥前の鹿瀬は、資盛卿の領地で法性寺といふ寺がある。俊寛はそこまで還つて來て死んだといふことで、苔蒸した石塔も殘つて居る。長崎の伊王島とは遠くないから、かた/”\此傳説は誠らしいとも説いて居る人がある。是は實地に就いての見聞でないので、若干の不精確さを免れないが、とにかく兩處の言ひ傳へが、丸々縁の無いものでないことだけは想像し得られる。さうして他の全國の多くの遺迹を繋ぐものも、同じく又有王といふ侍僮の旅行だつたのである。
 
          二
 
 平家物語を讀んで見ると、俊寛僧都の事蹟は明らかに前後二かたまりに分れて居る。前者は京都での公けの事件で、玉葉その他の日記類にも出て居り、眞相ははつきりとせぬが、とにかくに當時の風説の種ではあつた。最初に陰謀の發覺があり、次いで西光の斬られ、新大納言の配流と徒黨の人々の處刑があつて、是は皆萬人の目を峙てたことばかりであつた。今でもよくいふ鹿《しゝ》ヶ谷の隱れ評定、瓶子倒るの際どい秀句なども、實否はいざ知らず、弘く世に知られて居た逸話であつたことは疑ひが無い。是に對して後段の所謂鬼界島での出來事は、見た者は有王以外には無く、そ(68)の有王も三人流されたりし流人、二人は既に召還されて都に上つてから後に、「僧都の不便にして召仕はれける童あり、名をば有王とぞ申しける」とあつて、漸うと登場して來るのである。物語の本文に從へば、彼に介抱せられて俊寛は程なく死に、島人は言葉も聽き分かぬやうな荒えびすであつたと言はれて居る。有王が戻つて語らぬ限り、誰がこの悲愴なる最後の光景の、曾て此世に出現したことを知る者があらう。繪卷物の中などには屋根天井を打拔いて、室内の生活を此世ならぬものゝ眼を以て看た所が描かれて居り、多くの謠曲には亡者の靈を喚び迎へて、彼しか知らなかつた當時の感動を敍述させて居るが、平家の語り手などは徹頭徹尾、第三者の立場を保持して居る。活きた人間が眼と耳を以て體驗し、しかも丁寧に人に語つたことを、語り嗣ぐのを本意として居る。故に私はこの名譽多き一篇の文學に、隱れて有王の參加して居ることを疑はぬのである。
 有王の決して無口でなかつたことは、想像してもよい理由が色々有る。彼は泣く/\故主の白骨を頸に掛けて、十二歳の姫君のもとに尋ねて來た。島には硯も紙も候はねば、御返事にも及び申さずと謂つて、始め終りの物語をして聽かせて居る。それが其通りに世の中に流布したのは、同じ年に尼になつて奈良の法華寺に、行ひ澄ましたといふ俊寛の一人娘からの又聽きか、但しは有王其人のおさらへであつたかは、判定に困るほどの問題でない。有王は遺骨を高野山の奧の院に納め、それから蓮華谷に入つて法師になり、諸國七道を修行して主の後世を弔らうたと言はれて居る。有名なる高野の聖の、こゝが本據であり、此頃がまた興隆の際でもあつた。明遍僧正の親讓りの才能の、花やかに展開した時代であり、佐々木熊谷などの名だゝる勇士が、人生の無常を觀じたのも、さては齋藤瀧口の入道といふやうな優男が、戀を菩提の道に乘り換へたのも、すべてこの一谷の出來事であつた。長門の古戰場に集まつて來た法師どもは、すべて盲だから實地の事は見て居ない。誰かから聽いたとすれば先輩は多くこの蓮華谷に住んで居たのである。
 それからもう一つ、鬼界島の三人の流人のうち、二人は熊野信仰の志深く、島内の山川を三所權現、諸王子鎭座の(69)地に見立てゝ、日毎に祈願の歩みを運んだといふ物語があつて、こゝに長々しい康頼の祝詞《のつと》、それに引續いて千本|卒都婆《そとば》の歌の段がある。其一本がゆくり無く嚴島の寶前に漂着したのを、康頼が由縁の僧、拾ひ揚げて都に携へ來るとあつて、此一條は罪を宥されて歸つた二人が、奇縁に驚いて語り出したものとも見られぬことはないが、なほ俊寛が天性不信第一の人であつて、この勸請の企てに同意しなかつたことを明示して居るのは、彼がたゞひとり神明の加護に洩れて、島に取殘されて歎き悲しむといふ、後の足摺の段の伏線としか思はれない。さうして又謠曲の「俊寛」なども、現にさういふ風に解して首尾を照應させて居る。熊野の信仰を後楯とした一遍上人の念佛團が、どの程度に蓮華谷の聖たちと交渉して居たかを究めなければ、是をも有王丸改め西阿の所説であつたとは斷定しにくいが、根本が島で起つた出來事であるからには、やはり亦俊寛側から出た材料が種になつて居ると認めてよい。
   漕ぎ行く船の習ひにて、
   跡は白波ばかり也。
   まだ遠からぬ船なれども、
   涙にくれて見えざりければ
   僧都高き所に走り上り、
   澳の方をぞ招きける。
 斯ういふ情景までが世に傳はつて居るのは、いつの間にか有王が主人から承はつて居たのである。さうでなければ他にはもう知る者の無いことが多いのである。
 
          三
 
 有王は後に高野の聖となつて、諸國を經廻したといふことは平家物語にもあるが、それにしても一人ではとても遺(70)しきれない程の遺跡がある。それを比べて見て行くうちには、何か今まで知られずに居た歴史が、判つて來はせぬかと思ふほども其數が多い。手近い處では筑後志の中に掲げられた生葉《いくは》郡西原口の有王淵、是は筑後川の中流にあつて、土地の豪族有王といふ者が、戰敗れて自刎して身を投じた處と傳へ、時あつて水底にその馬上の姿を見るとも言はれて居たが、一説には是も亦俊寛の臣下で、硫黄ヶ島の謫所に故主を尋ねた者の最後の地だといひ、現に其僧都の墓といふものが、肥前佐賀の淨國寺、又は筑前の平塚村にもあるといふ故に、有王が傳説も其據無きにしも非ずと、此書の著者は述べて居る。二つも墓所が有るのは疑はしいといふ風には、昔の人は考へなかつたのである。私は是だけは或ひは別の有王かとも思ふが、假に同系の人であつてもさう意外とも思はぬのである。有王はつまり色々の奇拔な物語、殊に死靈の執着といふ類の不思議を、語つてあるく法師の代々の通り名だつたかも知れぬからである。
 肥後の阿蘇山の麓にも、清盛が歿してから後に、俊寛僧都が來て住んだ處があるといふことが、天野氏の鹽尻 卷六四に出て居るが、是には有王の同行したといふことも見えず、或ひは又肥前嘉瀬などの傳聞の誤りかも知れない。之に反して薩摩出水郡野田村大字下名に在る遺跡は、全く獨立して根強い一つの傳説を持つて居る。俊寛は忠義の家の子有王丸に伴なはれて、竊かに鬼界島を脱して都に上る途中、病を得てこの近くの津に船を寄せたと稱し、村の山内寺には其墓所があり、隣の下出水村脇本の部落には、僧都館といふ古屋敷があつて彼の居住の地と傳へ、そこを流れる小川も僧都川と呼んで居る。私などの興味を感ずるのは、この山内寺の開山が性空上人だといふことが一つだが、枝葉が繁くなるから是は略して置く。第二にはこの俊寛墓の上に建てた供養塔が、延寶五年のものだといふ點である。石に刻した文字だから動かないが、是は誠に中途半端な年號であつた。今から溯ると二百六十年、有王島渡りの年からはちやうど五百年、どうして此樣な時代に石を建てるまでの感動があつたかといふことが不思議であるが、是も平家の語りごとの通りに、其年島で死んだとすれば五百囘の忌辰になるのである。或ひは島から拔け出してこゝに來て歿したのも、同じ年だと謂つて居たのかも知れない。とにかくに系圖を傳へた家が此村にはあつて、もう其系圖はよ(71)そへ賣つたと謂つて居る。明治の末頃には村社の資格を得ようと運動したが、菩提の爲也といふ碑の文があるので許されなかつたと、出水風土誌には話して居る。それから薩摩には今一つ、城下から遠からぬ坂元村有島といふ處にも、若宮の社の前に俊寛池、俊寛柳などゝいふ故迹のあつたことが、三國名勝圖會に出て居る。こゝは島流しの日に舟を出した處といふのだが、地名を有島とも又王の湊ともいふとあるのを見れば、有王とは無關係で無さゝうだ。たゞどうして若宮の社頭に、さういふ池や柳があるのかゞ、今はまだ考へ難いだけである。
 
          四
 
 全體に諸州の俊寛傳説には、丸々の跡無しごとゝも思はれぬ節があると共に、少々は心もとない部分が必ずある。さういふ中でも肥前の嘉瀬庄は、既に平家物語の本文にも見え、こゝが少將成經の妻の父、門脇大納言教盛の所領であつた故に、密々に衣食の資を島に送らせて居たとあり、二人の流人が免されて都に歸る際にも、まはり路をして一年近くの月日を、休養して居た處とさへ謂つて居て、何か此事件の當時から、最も因縁の深かつたやうに思はれるのだが、此地に語り傳へて居ることが特に恠しいのである。一々原書に當つて見ることが私には出來なかつたが、歴代鎭西要略とか肥陽古跡記とか、土地の學者の著述には皆出て居り、或ひは是が龍造寺家の日記にもあるとさへ謂つた人がある。一ばん注意すべき事は法勝寺といふ寺が今もあつて、そこに俊寛の墓があり、又數々の文書を傳へて居ることで(長崎の方で法性寺といつて居たのは誤り)、それで或ひは最初から、俊寛の管理して居た京の法勝寺の所領では無かつたかと、想像する者もあるのである。第二に變つて居るのはこゝへ俊寛僧都を迎へて來たといふ者の子孫が、永く此村に住んで居たことである。是は近代の遊嚢?記卷一四にも聽いて書いて居るが、荒木入道乘觀といふ者が、俊寛の從者有王と懇意であつて、二人相談をして竊かに島から救ひ出し、こゝに隱家をしつらへて懇ろに介抱した。其功に酬いる爲に領主の教盛卿から、西三十三國の船人問屋の特許?を賜はつたといふのは、ちと過分の御褒(72)美のやうに思はれるが、とにかくに此家には鎌倉北條家以來の數々の文書を傳へ、子孫も連綿して居たといふことだから、是を見たならば由緒も確かめられることであつた。どこかに其寫しなどの保存せられたものは無いことか。又その荒木氏は現在はどうなつて居るか。今後の佐賀の學者に氣をつけて居て貰ひたいものである。
 詳しいことまでは私はまだ尋ねて居ないが、肥前は平家文學を研究するといふ人々の、もう少し注意を拂はねばならぬ土地のやうである。九州は概して盲僧のよく活躍して居た地域であるが、さういふ中でも肥前には一つの中心があつた。黒髪山の熊野權現を背景とした所謂梅野座頭は、古い特權を言ひ立てゝ刀を帶び、平家を語る代りに鎭西八郎爲朝の勇武をたゝへて居た。壇ノ浦の哀史が水陸の形勝を制して、今のやうな大きな結集を遂げる以前にも、なほ盲法師が琵琶を彈じて、人の世のあはれを説く風は盛んだつたのである。それが稀々にしか孤疊を守り得ずに、次々に今ある源平文學の中に吸收せられて行つたことだけは、多くの異本を比べて見るまでも無く、單にその題材の多元性を知つたゞけでも、之を認めない者は無い筈である。然るに作者の推定にばかり、うき身をやつす人が世には多く、どうして此樣な大規模な統一が起つたかを、考へてくれさうな方があまり無いのは、やはり昔の人の通りに、この中にあることが大抵は公知の事實であつて、書かうと思へば誰にでも書けるものゝ樣に、想像する癖が拔けないからであらう。そんな氣遣ひのないことは、先づ有王の鬼界島話が之を例證する。世上に有王なる者の言を信ずる風習が無かつたら、誰が此樣な離島の事件までを、結構して筆に登せ得たらうか。明瞭に言ふならば語りの方が前なのである。文學は單に之を筆録し、又やゝ修正を加へたに過ぎぬのである。今でも文字を識らぬ者を明盲といふ如く、盲は人間の最も文字と縁の無い者である。盲が最初から語つて居たといふ平家物語を、誰かゞ書いて與へたといふのが既に訝かしい。それをまともに受入れて何とも思はなかつた、人の心はなほ一段と解しかねる。
 高野山の蓮華谷が、一つの供給源であつたことは、題材の方面から大よそ想像し得られるやうに私は思つて居るが、こゝではまだ目の見える旅法師と、座頭との聯絡を模索することが出來ない。之に反して肥前は盲僧の古い根據地で、(73)又同業者の多かつた赤間關とも近い。もう其中間に信濃前司といふ類の、京師の文人の介在する餘地は無いのである。嘉瀬の法勝寺の近世の傳説が、どの位に平家物語の語りごとゝ牴觸し、そこで證據として居る古文書は僞作であり、たとへば平重盛と俊寛僧都と、丹波少將康頼といふ人と、三人の繪像を掛軸にして傳へて居るといふが如き、笑ふべき誤謬を演じて居ようとも、ともかくもこゝが一つの有王物語の産地であつて、しかも其起原は今ある平家の始めて本になつた時よりも、古いといふことだけは言へるのである。わざ/\俊寛が肥前嘉瀬庄に落ち延び隱れて居る必要は無かつたと同じに、昔とても門脇宰相の所領を、特に此邊に持つて來る便宜などは有り得なかつた。つまりはたゞそこにさういふ遠つ島の事を語る者が、古くから住んで居たのであり、更に推察を進めるならば、後に法勝寺と名のつたこの天台宗の寺は盲僧の道場であり、荒木はその世襲の氏の名であらうと思ふ。願はくは私の此假定の當否を究めることを、今後の調査の目標として貰ひたいものである。
 
          五
 
 俊寛僧都の墓所といふものが、九州以外にもあることは色々の書に載せて居る。たとへば長門大津郡|深川《ふかは》の湯本にも一つ、是は朝鮮から歸化した兄弟の陶工の一人、中の倉の茶碗屋阪本高麗左衛門、初めの名をシャムクワン(三官?)と謂つた者の墓であらうと、八江萩名所畫會には説いて居るが、土地では果してそれを認めて居るかどうか。もし利害關係者が殘つて居たら、さう簡單には片付けきれまいと思ふ。次には阿波麻植郡森山村森藤にも、俊寛の石塔があることは燈下録といふ書に出て居る。こゝには麻植の郷司に補せられた平判官康頼の宅址もあるといふが、石塔は單なる供養碑でなく、やはり本人流浪してこゝへ來て殘したといふのである。私の藏して居る方主正方應問書といふ寫本に、俊寛此村の山の頂に登つて、東を見渡した時にはまだ渭津《いのつ》一帶の地は海であつた、遙かに紀州路を望む景色が、薩州鬼界島によく似て居ると謂つて、此山を鬼界ヶ峯と名づけたと傳へて居るとある。郡誌その他に別の記(74)録は無いかどうか、手元に本が無くて調べられぬ。次には奈良市の東南菩提寺の青山といふ處に、俊寛僧都の墓といふものがあることは、雜誌「なら」の十四號にあり、是も竊かに來て此あたりに住んで居たといふ。大和志料上卷に赤井坊町閼迦井の南に、鬼界ヶ島といふ野ありと誌したものと、同じ場所では無いかと私は想像して居る。
 以上三地の俊寛の墓なども、起りは有王だらうと思はれるのだが、之を證明するだけの材料はまだ見つからない。伊勢の桑名郡益生村の俊寛塚だけは、近くに有王塚といふ塚を控へて居る。少しく平家の所傳とはちがつて、有王が主人の遺骨を奉じて、諸國を巡つて爰に來て歿したので、村民がこの二つの塚に葬つたと謂つて居る。俊寛塚は大字江場の小平太繩といふ田の中に在つて、圓い封土の上に槻の老木があり、一方は隣の大字矢田に在つて塚の上の木は松である。其地の字を有王といふから、或ひは地名によつて塚の主を決したのかも知れぬが、とにかく是に基いて他の一方の塚を俊寛の骨を埋めたところとするだけの聯想を、土地の人たちも持つて居たのである。桑名志其他の説では、この有王は別の有王で、ずつと昔の橘諸兄の孫だといふさうだが、此點は前人の粗忽を受繼いだものかと思はれる。山岡氏の類聚名物考卷四七にも、橘氏系圖に正四位下有王といふ人がある。諸兄の曾孫、島田麿の子、書寫山の性空上人の曾祖父に當る人で、山城綴喜郡井手村の東に、有王谷又は有王山といふのが其故居だと記して居るが、是は井手の里だから橘氏だと推定したゞけで、しかも系圖には有主〔傍点〕とあつて有王とは無く、其兄の名か當主だから主といふ方が正しいのである。伊勢の有王塚を以てこの人に宛てたのは、俊寛の從者といふよりも更に覺束ない話であつた。
 京都の附近には素より幾つかの俊寛遺跡があつた。たとへば大コ寺の門前大將軍社の後に、二つの石塔があるのを俊寛僧都夫婦の墓と謂つたことは遠碧軒記下三に見え、又近年の京都坊目誌上六にも、岡崎池ノ内の滿願寺境内は、元の法勝寺の遺跡といふことで、仍て附近の人は之を俊寛屋敷と呼び、又その傍には侍僮有王が宅地といふ處もあると謂つて居る。しかしさういふ中でも特に有名であつたのは、やはり前に掲げた井手の里の有王山で、此地名は既に(75)太平記にも出て居るといふが、私にはまだ見當らない。京羽二重織留、その他三四の地誌には、此地を有王が郷里なりといひ、山の麓にある古屋敷を俊寛の居た所と傳へ、そこには又僧都の石塔もあつて、其忌日は三月二日だといふことを日次記事にも録して居る。名跡巡行志等の書を見ると、此邊一帶に亙つて、肥前嘉瀬庄以上の傳説のコンプレックスが有つたやうである。有王の芝といふのは山腹の方四町ほどの芝地であり、隣の相樂郡田村新田には、有王の別業だの有王谷の天狗岩風穴だのもあつた。百塚と稱する地の二つの大墓を、一つは左大臣橘氏公、一つは正四位下橘有王朝臣の墓だと謂つて居たといふから、既に十分なる混亂と附會とが始まつて居たので、たゞ是が全然平家物語とは無交渉に、名を留めたものでないことだけは想像せられるのである。
 
          六
 
 肥前薩摩の例でも考へられることだが、既に平家の有王の物語を信ずるからには、有王の行く處に?俊寛が附いて來て、隱れて住んで居たと傳へるのが、理由の無いことのやうに思ふ人があるであらう。しかし私などから見れば、是は此種の昔語りをする有王といふ者が、永い期間に亙つて何代もあつたとすれば説明がつく。彼等の語り口は土地により、又は時代と共に變つたかも知れず、或ひは大體に平家の本文の通りであつたのが、其藝のすたれた後、いつの間にか誤つて記憶せられるやうになつたとも解し得る。それは必ずしも空な想像では無くて、似たる例は曾我物語の鬼王團三郎に就いてもあるのである。鬼王兄弟の旅の跡といふものは、是亦目録に作れるほど有るらしいが、其中で特に著名なものは、伊豫の宇和地方の山地から土佐の幡多郡にかけて分布する傳説で、此方は十郎五郎の故主に隨從して來る代りに、母のまんこうといふ老女にかしづいて、隱れ忍んで世を終つたといふことになつて居る。所謂曾我のおふくろを滿江と謂ひ始めたのは、何か仔細のあることゝ思ふが、私にはまだ考へ付かない。とにかくに奧州方面では是が鷲につかまれた緑兒の話その他、兄弟仇討とは全く別の物語の、女主人公の名ともなつて居り、同時に又(76)マンコ屋敷と稱する故跡が、そちこちに殘つて居るのを見ると、本來はたゞ斯んな昔の物語を運んであるく女性の名であつたものが、いつしか紛れ込んで作中人物の名となつたか、さうで無ければ反對に之を語り手の名に呼ぶやうになつたものと思ふ。諸國に跡を留めて居る大磯の虎、和泉式部や淨瑠璃御前などは、何れもさういふ物語を常の業とする者の、曾て巡歴し又止住したことを意味するものとしか解せられぬ。彼等には常の名の知られない者が多く、且つ折々は高調した感動を表現する爲に、一人稱を以て語る場合があつた故に、この混同は起り易かつたのかも知れぬ。とにかくに説話が大よそどの樣な人によつて、運搬せられて居たかは此方面からでもわかり、又運搬せられなければ此樣な念入りの一致は有り得ないのである。
 そこで立戻つてこの有王といふ旅人の素性を考へて見る。鬼王有王の王の字は童名で、もう此頃は下人の名であつても恠しむ者も無いまでになつて居たやうだが、本來は神の王子、即ち申し子又は神の取り子の意であつたことは、松若竹若等の若の字も同じであつた。良家の子弟は早く元服して、之を用ゐる期間が短きに反して、一方には年たけて迄此姿で居る身分の者があつた爲に、後には却つて此輩の專用の如くになつたが、なほその語感には若干の宗教味を帶びて居たかと思はれる。有といふ語に至つては更に是以上の神秘性を具へて居た。古い用法を尋ねて見ると、神靈の出現がアレマスであつた。ミアレ野・ミアレ木の嚴肅なる言ひ傳へは、主として賀茂の御社を繞つて展開して居たやうであるが、一方には又人間の最も慧しい者、目に見えぬ靈のよざしを受けて、貴い言葉を世に傳へ得る者の名でもあつたことは、古くは稗田阿禮などの例がよく知られて居る。此語の内容が中世に入つて、もしくは民間に於ては少しばかり擴張して居たやうである。たとへば平家物語の同じ事件の中に、成親新大納言を備中國に流して、有木の別所といふ處に置くとあるが、其跡と傳ふる有木は今も吉備中山の近くに在るのみならず、美作の中山神社にも有木乢《ありきのたわ》といふ靈地があつて、その來歴は詳しく傳はつて居る。作陽誌の記事によれば、此御社の祝部《はふり》に藤内有木の二人、十一月中の午の日の祭典に、大きな幣を持つて來て社頭に立て、七度半の起伏の禮をするのが古式である。昔此神始(77)めて英田郡の楢原に現はれたまひし時、藤内の祖は菰を採り粽を造つて供へ奉り、次いで神苫田郡の霧山に入りたまふ時、有木の先祖の獵人山中に於て神に遇ひまつる。仍て其地を有木乢と稱すとある。即ち京都でミアレ木といひ安禮衝《あれつ》くと謂つたものゝ一つの形、神明が自然の樹木に依て降りたまふといふ信仰が、特に此地方には昔から盛んであつたので、今も作備の三州に殘つて居る有元といふ舊家の名字なども、もとは榎本櫻本などゝ同樣に、神木の下に立つ人といふ意味だつたのである。蟻塚又は蟻の宮といふ諸國の靈地も、今では元を忘れて蟻の奇瑞を説くものが多くなつて居るが、やはり又神出現の跡のことであつたらしく、地名以外に武藏七黨の有道氏の如く、有を名乘つて居た舊家もそちこちに在る。一つの古い例は在五中將の在原氏、是は北大和の地名であつたのだが、かの一もと薄を以て有名な在原寺の傳説が流布するに及んで、特に業平ばかりに住吉神の化現といふやうな信仰が起つたのは、即ち又文藝によつて支持せられた一箇の有王の例であつた。それで歴代の人の名に氣をつけて見ると、在又は有といふ名乘も、曾ては無意味に付けたのでは無かつた。卜占を家の職とした陰陽道の人々に、在何といふ名の多いのはそれである。現在まで殘つて居るのは津輕秋田の弘い區域で、アリサマと呼ばれて居るのは祈?判斷を業とする男子の總名である。彼等の言ふことは信ぜられなければならなかつた。平家物語の鬼界島の話の如きも、我々の地理の知識に照すと訝しいことが多く、果して身を以つて渡つて行つたかどうかさへ恠しまれるが、有王であつたが故に其言は耳を傾けられたのである。さうして末永く語り繼がれたのである。
 
          七
 
 斯んな小さな一つの問題を取出して、釋いて御覽に入れようなどゝいふ目的は私には無い。それに小さくてもやはり明解は容易でない。強ひてきめてしまふには是までの學者のやうに、目をつぶつて危い橋を飛ばなければならぬ。それも私などの趣味からは遠いものである。たゞ斯ういつた諸君の思ひ設けぬ話題によつて、どんなつまらぬ文化現(78)象にも、隱れて原因の無いものは有り得ないこと、じつと見て居るうちには段々とそれが判つて來て、いつかは我々の歴史の知識に、全く新種のものを添へる望みが有るといふことが説いて見たかつたのである。多くの傳説は土地毎に孤存し、よそは知らぬか又はやたらに排斥する。たつた一つしか有り得ないものゝ併立といふことが、實は尋常でない大切な事實なのだが、今の學問といふものはまだ之を利用し得ず、始終そのこちら側でわい/\騷いで居る。だから私は正しい比較を試みたらよからうと説くのである。さうしてその比較の區域を少しづゝ擴げて行くにつれて、とにかくに段々結論に近くなつて來るやうだといふことを、硫黄島の有王をして改めて語らしめたかつたのである。
 薩摩の性空上人寺の俊寛の墓を説く序に、出水風土誌には次の樣な事を述べて居る。曰く明治四十五年、越中西礪波郡宮島村久里須にても、俊寛の墳墓を發見し、富山縣廳此が處置を講究中なりとの説ありと(以上)。現在はもう土地の郷土史家にも知られて居るのであらうが、越中としては餘りに國の端に近い野山の中であつた故に、以前は却つて隣國の人にしか知られなかつたのである。能登國名跡志その他の書に出て居るのだから、決して近年の發見でも何でも無い。この宮島村といふのは二里の間に亙る散村で、栗栖即ち久里須は其中でも能登に近く、村の入口にある一つの古塚を、少なくとも二百年前から俊寛僧都の墓と謂つて居たのである。學者くさい説明としては、北は陰國であり又都から鬼門に當るから、又或ひは能登は昔島であつたから、鬼界島といふのも實は爰のことだとも謂つて居るが、それが越中にも及び且つ此樣な境の山の中であつては、この説明はこじつけとしか思はれない。尤も能登には此以外にまだ所々の俊寛遺跡があつたといふ。其中でも羽咋郡の北の端、鹿島郡の西境に接した鉈打《なたうち》村藤瀬の御社などは、今では式内の藤津比古神社として祭られて居るが、古くは此地に大きな熊野權現の社があり、土地では今もまだこゝを熊野さんと拜んで居る。昔宮島に流されて居た俊寛僧都が、こゝに三十三所の觀世音を安置したといひ傳へて、即ち那智の御山を一番とした順禮の風習との、時代の關係も察せられる。平家物語には成經康頼の二人が、島に熊野の權現を勸請したとあるのに反して、こゝでは俊寛が信心の歩みを運んで、歸洛を祈つて居たといふ點はちがふが、(79)彼も是も神は同じく熊野權現であり、話の筋も近かつたやうである。木曾義仲が兵を起して、越中矢部川に陣を取つたとき、俊寛が尋ねて來たといふ話も殘つて居れば、彼が此地に籠つて平家の運の傾くを待つて居たといふ行法の瀧や、難行の岩屋などもあつたといふことで、こゝにも曾ては硫黄島のやうな語りごとの、筆録せられずして終つたものが有つたらしく考へられる。
 越中舊事記といふ書には、高岡の熊野權現にも古い記録があつて、成經等三人は硫黄ヶ島へ流さるゝ由、平家物語などに記してはあるけれども、仔細あつて實は此地に來て居たのであつた。康頼がのりとゝいふのも此熊野權現での事であると書き傳へられて居るといふ。どちらが正しいだらうかなどゝ考へて見る必要は無論無いが、たとへ近世に入つてから、口碑を取上げて筆にしたものにもせよ、種無しには斯ういふ話は浮んで來ないだらう。越中にはなほ此以外に、氷見郡にも俊寛の墓といふものがあつたと、同じ舊事記には記して居る。石動山その他の北國の靈山が、熊野の僧團と如何なる關係にあつたかは、現今はもう大分明らかになつて居ることゝ思ふが、もしか其間には有王を思ひ合さしむるやうな物語法師が、活躍して居た事蹟は無いかどうか。今後の郷土史家の注意が願はしい。現に立山の佐伯氏の如きも、その第一祖は有若といひ、第二代は有頼であつた。始めて此山に登つて阿彌陀の示現に接したのは、大寶元年の出來事といひ、又は四條大納言有若などゝも傳へられて居るが、最初の御山の縁起の文字になつて殘つて居るのは伊呂波字類抄であり、この本の作成せられたのはちやうど鬼界島を見て來たといふ有王が、諸國を巡歴して居る最中のことであつた。さうして有王も有若も意味は全く一つで、立山の有若なども、文字には有王と書いて居たかも知れぬのである。
 
(80)     黒百合姫の祭文
 
          一
 
 昨年(昭和十八年)の五月、始めて羽後|生保内《おぼない》の村に入つて見て、久しくたゞ保管して居た藤原さんの原稿を、版にしなければならぬといふことに心づいた。生保内には既に汽車が通じ、當世さま/”\の事業が興つてゐる。他處から入つて來た人ももう大分の數と思はれる。だから何もかも變り改まつてしまつたやうに、藤原さんは歎息されるのだけれども、それは一通り表面に顯はれたものが、昔のまゝで無いといふまでゝ、まだ此底には何かあるのではあるまいか。現に幽かな名殘とはいひながら、斯んな文藝も傳はり、又それを傳へた人も居るのである。旅をする者の比較の眼を以て視れば、今でもまだ全國どこへ行つても爰と同じだと、いふものを捜し出す方が却つて骨が折れる。斯ういふ土地でこそ我邦の民俗學は、是からもう一しきり働いて見なければならぬのではないか。我々の知りたいと念ずることは、よそでは大抵は深く埋もれて居る。淺く覆はれ又はまさに埋もれて行かうとする土地の發掘が、我々の手引となつた經驗は東北には多い。さういふ中でも特に藤原さんに、御禮を言ふべきことはもうたまつてゐるのである。すつかり明らかになつてからといふと、その御禮があまり遲くなる。茲には大よそどの樣な樂しみを以て、私がこの生保内の資料を利用して居るかを談り、同時に又東北の文化史が決してまだ埋没しきつては居ないといふ一つの例證を、是から働く人たちに提供して置きたいと思ふ。問題は固よりこの方面だけに限られて居ないのである。
 
(81)          二
 
 黒百合姫祭文の因みに、私が尋ねて見たいと思ふのは二つの點だが、それはやゝ懸け離れて居るやうな感じがあるから、しばらく後まはしにするとして、最初に考へるのは其成立ち、殊にいつの頃からこの語りものが、大よそどの區域に行はれたらうかといふことであるが、是は幸ひにして矢島十二頭記、その他若干の古書が殘つて居るので、内容の比較からほゞ見當を付けることが出來る。由利郡の矢嶋に、矢島の五郎といふ勇猛の武將があつて、仁賀保《にがほ》氏を旗頭とする十二頭の面々を攻め惱まし、結句おのれも亦非業の死を遂げたといふまでは何れの本にも出て居て、それが本姓の大江を改めて、安倍の矢島五郎と名のつたといふだけは他の書には見えない。それからその五郎に美しい一人の姫があつて、數奇の生涯を送つたといふこと、是も少しづゝの變化を以て色々の記録に載つて居ることだが、たゞその姫が鳥海山の女別當に導かれて、支那でいふ劔?のやうな境地に入つたといふことゝ、黒百合の奇瑞を見たといふことゝだけが、全く他には無いから此篇の新しい趣向なのであらうかと思はれる。さうして其趣向にはどういふ種子、種子と言はうよりも根か古株、つまりは此土地との繋がりのあるものが、どれだけあつたかといふことが我々の興味を持つ最初の問題なのである。
 それを尋ねて行くのには、先づ一曲の中で一ばん多く舞ふ人、即ち美しい小百合《さゆり》姫の身の上から、入つて見るのが自然であるが、其前に一通り、土地で最も古くから結集せられたかと思ふ十二頭記の性質を、考へて見る必要がある。由利郡の舊家には此本を傳へたものが多く、格別珍しい記録でも無いやうに思つて居る人も有るらしいが、私が興味深しと思ふわけは、其異本が一つ/\、可なりの書き改めをして居ることで、もしも數多く比べ合せて見たら、或ひは祭文の由つて來たる所も、辿つて行けさうな氣がすることである。それをして居ると本文の世に出るのがおくれるから、さし當りはこの机の上の、續群書類從の矢島十二頭記と、秋田叢書本との二つを比べて見るのだが、是が又偶(82)然にも端と端との例を示して居るのである。一方は既に書名も由利十二頭記となつて居て、記事の順序は大よそ同じだが、人名も多く加はり、書き方は全く近代の軍書風であり、之に對して類從本の方は候文で、多くの武邊咄聞書と形が近いのみならず、面白いことには其後段に、本文とは半ば以上一致せざる、ほゞ同量の別傳を附載して居る。祭文にいふところの小百合姫の傳記は、この一卷の内でももうよほどくひちがつて居るのである。
 
          三
 
 必要のある異同の點だけを列擧すると、第一には姫の名が一方ではお藤御前、他の一方に於てはお鶴殿となつて居て、このお鶴の方は後代の奧羽永慶軍記とも一致して居る。お藤系の言ひ傳へでは、父の五郎滿安が討死した時には、姫はもう年頃になつて居た。その前年に、仁賀保矢島兩家の一旦の和睦が成つたとき、それを固める爲に仁賀保家の嫡子藏人と縁組の約束をして、まだ輿入がすまずに居たと謂つて居る。その藏人がこの祭文の終りに、丸腰になつて降參して來たといふ戀男のことであつて、ともかくも敵同士の一子一女が、本意ならぬ契を結んだといふまでは、前からも言はれて居ることであつた。年や名前や後先は皆區々になつてゐるが、それを一貫して居るこの點だけは事實であつて、斯ういふのが近世の語部を繋ぎ留めて、さう/\は民衆の感動から飛び離れた空想を語らせなかつた、一種の軸木のやうなものであつたらうかと私は思ふ。
 どこまで話は變化し得るものかといふことの、まことに手頃な實例がこゝには殘つて居る。矢島十二頭記(類從本)の本文に記す所によれば、まだ輿入のすまなかつたお藤御前は、五郎没落の天正十六年十二月に、新庄の城に居て敵方に捉へられ、翌十七年の正月は仁賀保へ連れて行かれて、そこに十年と八月ほど居たことになつて居るから、多分は其間は藏人の妻であつたことゝ思はれる。慶長五年の九月はじめ、矢島の遺臣等の蜂起に先だつて、西馬音内《にしもない》三右衛門といふ者が計略を以て之を仁賀保|根城《ねじやう》から盗み出し、母の里方なる西馬音内に逃げて行つたとある。さうしてこ(83)の一亂の平らいでから又四年の後に、やはり舊臣たちの盡力によつて、矢島の新領主楯岡長門守の室に縁付けたといひ、附近に菩提寺があり、又戒名の殘つて居ることが是と抵觸しない。ところが他の一方の姫の名をお鶴といつて居る方の言ひ傳へでは、お鶴は矢島家の亡びた時に、齡わづかに四歳又は二歳であつた。さうして結局は亦敵方の仁賀保へ引取られて年月を送り、後に脱出したといふ點だけは前のものと一致して居る。是なども或ひは古い記憶であつたのかも知れない。
 
          四
 
 この言ひ傳へにも幾つかの出處があつて、必ずしも一つがまちがひの元であり、他は皆之を信じたからでは無かつたらしいが、さういふ中でも永慶軍記の語りごとは極端であり、しかも黒百合姫の祭文とは最も多く似て居るから、先づそれを引いて見る。この本では、矢島氏の最後の城砦を、山中の險岨荒倉城とし、其落城を四年後の文禄元年の事として居るのであるが、その時にもなほお鶴どのはごく幼少であつた。乳母に抱かれて母と諸ともに城を遁げのびたが、夜の暗闇に一行と離れ離れになつて、その次の日は測らずも敵の大將、仁賀保兵庫頭の陣頭に出てしまつた。仁賀保は不思議な情深さを以て姫を宥し放ち、乳母の願ひに任せて、之をその故郷の莊内に送り屆けたといふことになつて居る。莊内では田川郡大山の日野備中守祐包といふ武士が、お鶴を引取つて養育したといふことが「由利の面影」に出て居るのを見ると、別にさういふ言ひ傳へもあつたのだが、この事は永慶軍記には全く語つて居ない。姫の介抱役が鳥海の巫女月光であつたといふ一點を除いては、軍記の記事は寧ろ祭文と重複する程も似て居る。たとへば最上義光が老後に最愛の娘お駒御前を殺されて、其悲愁を慰めんが爲に、悦んで矢島の遺孤を引取り、之を一門の最上内膳忠の養女にして育てたといふのは、事實で有り得ないだけに、二書何れかゞ他の一方を踏襲したとしか考へられない。たゞ其後が兩方非常にちがひ、軍記の方では平凡に、此女を仁賀保兵庫頭の一子藏人の所へ、嫁入らせたと(84)いふことになつて居る。それが慶長七年の事だといふから、落城の日四歳だつたとしても十四歳の若嫁であるが、後になつて仇敵の家に縁づいて來たことを、思慮が無かつたと歎いて居るのを見ると、この時代として有り得べきことと認められて居たのであらう。
 全體に矢島十二頭記は記事が素朴で又切れ/”\であるところから、多くの記憶を拾集した實録と見られやすいが、その中にも合點の行かぬことが少々は無いわけではない。お藤姫の婚約の如きも亦その一つで、矢島五郎の方は歿年が四十九歳だといふ説もあるから、年頃の娘があるのに不思議は無いが、相手の仁賀保兵庫頭に、そんな大きな息子があるのはをかしい。仁賀保家では天正四年の大和守を始めに、續いて三代の主が矢島に責め滅され、その次の八郎といふ人が子吉家から養子に來て是も討死したと言はれる。一説には八郎は兵庫頭の前名で、討たれたのは三人だけだといふものもあるが、後者は赤宇津家《あかうづけ》から入つて來た人だから別人である。其相續は天正十三年の二月とも、又は十五年とも傳へられて居るが、其後すぐ引き續いていひなづけをするほどの男があつたとは信じ難く、又は連れ子を嫡子とするといふことは、この時代の武家としては有りさうも無いことである。仁賀保氏の系圖なら捜せば出て來ようから(一)、是を生死の年から檢討することも不可能ではあるまい。だから是だけは少なくとも後年に、最上氏が兩家を仲なほりさせようとして、さういふやゝ不自然な縁組を考へ出したものと、いふ方が寧ろ眞相に近いやうに思ふ。
 
          五
 
 しかし全體の上から言ふと、時間の勘定などにはお構ひ無しに、たゞ面白く話を運ばうとしたやり口は、永慶軍記の方が遙かに圖拔けて居る。たとへば此本では仁賀保兵庫頭が死んで後に、忰の藏人があまりに親不孝で、つひに母を燒け死にさせたのに愛想を盡かして、始めて脱出する氣になつたと謂つて居るが、兵庫頭の死んだのは常陸から戻つて來て後、寛永二年の事なのだから、此時は鶴姫三十八歳、嫁入してから二十五年目ぐらゐの話になる。さうして(85)藏人も五六年の後に死ぬのである。それよりもをかしなことは、舊臣の矢島三右衛門といふ者に密書を贈つて、計略を廻らして自分を救ひ出させたとあるが、この三右衛門は嫁入よりも以前、慶長五年の騷亂の主謀者の一人となつて、赤館の山砦に籠城して居り、他書には若干は遁げて助かつたとなつて居るが、永慶軍記では全部討死してしまふのだから、二十五年も後にそんな事が出來るわけは無いのである。祭文の方には全く觸れて居ないが、この四十人の矢島浪人の蜂起、八森陣屋の奪還といふことは、土地に取つて忘るべからざる感動であり、さうして又恐らくは史實でもあつたらうと思ふ。慶長五年の九月、今や關ヶ原の決戰が闘はれようとする際に、上杉方の部將志田修理は酒田に出張つて居て、窃かに彼等に向つて内應を勸めたのであつた。十二頭記の本文に、お藤姫の仁賀保脱出を九月七日として居るのは意味がある。即ちそれがちやうどこの獨立戰の前夜だつたのである。矢島五郎の男子はすでに城中の謀叛によつて殺され、彼女がたつた一人の血筋であつて、それを迎へて來なければ公けの名義が立たなかつた。それで必然的に敵の城中から、計略を以て姫を連れ出したといふ言ひ傳へは保存せられて居たらしい。たゞ其難事業に當つた者が誰かといふことに就いて、記憶はすでにまち/\になつて居た。一説には茂木半之進といふ者が盗み出したとなつて居るが、それは多分この苗字の一門の所傳であらう。或ひは文禄の終りの頃に、普元坊といふ者がそれを實行したと、由利郡史年表に見えて居るのは、さういふ十二頭記の異本もあつたからであらう。普元坊は後にも出て來る大河原別當普賢坊と同一人で、乃ち鳥海の山臥であつたかと私は想像して居る。西馬音内三右衛門がお藤を西馬音内に連れて行つた話は前にも述べた。この三右衛門はどこへ行つても勇士で、他の諸勇士が姓しか一致せず、通稱と名乘はどの本も勝手次第にちがつて居るのに反して、この方は柴田三右衛門、又は主家の前名の大江三右衛門を名乘つて、いつの場合にも中々よく働いて居る。だから一人はさういふ者が居たと見てよいのだが、たゞ永慶軍記のやうに人が忘れてしまつた頃に、現はれて高名をするのがをかしいだけである。
 
(86)          六
 
 自分は永慶軍記といふものを今度始めて讀んで見て、言ひ知れぬ興味をこの書の成立ちについて感じて居る。戸部一?齋といふ人はどんな境涯の學者であつたらうか、秋田に行かなければとても知る見込は無いが、とにかくに是だけの筆力と歴史の知識をもちながら、何が目的でこの樣なうそを、書き殘す氣になつたのであらうか(二)。それも丸々のこしらへ事といふのでは無く、多くの疑ひなき事實の中に取りまじへて時々さうするのは、當時その樣な需要といふものがあつて、或ひはそれに應ずるといふ親切からでは無かつたらうか。そんな想像も浮ぶので、藤原さんの仕事とは縁が遠くなるが、この機會を利用してもう少し詳しく實例を擧げて見よう。
 永慶軍記の愉快な作り事は、最初には祭文の中にもそつくり出て居る最上殿との初對面、三尺あまりの鮭の丸燒を頭からむしやむしやと食つてしまつたといふ話なども面白いが、是は當時の民間の雜説を、其まゝ採録したものとも見られぬことは無い。現に二つの中には見えぬ腹一ぱいの胸毛とか、例の一丈二尺の棒とか、八升栗毛と呼ばるゝ駿馬を抱いて立退いたとかいふ類の話は、色々の書き物にも散見して居るのである。
 しかし一方には明らかに永慶軍記だけの、こしらへ事と見るべきものも少々では無い。たとへば矢島五郎の最上行きの留守に、弟の與兵衛(太郎)が謀叛をする。それに一味をした喜兵衛といふ士は、苗字を小番《こつがひ》とも小助川とも書いた異本があつて、亦一個の猛士であつた。主君が還つて城中に入つて來た日に、廊下で組討ちをして肩先を斬られて遁げたとも、首を取られたとも他の本にはなつて居るのだが、永慶軍記だけはそれを拔きにして、五郎と與兵衛の兄弟が格闘して、やがて弟の方が討たれたとあるのである。この骨肉の爭ひといふ方が、たしかに悲劇の昂奮は高いにちがひ無いが、それでは氣のすまない者がきつと由利郡の住民に多かつたらうと思ふ。
 次にもう一つの認められない作爲は、かのお鶴どのを盗み出したといはるゝ普賢坊の最期の段であつた。この山臥(87)は再興派の巨魁の一人で、慶長五年の四十遺臣の蜂起に先だち、江戸から京都へとコ川家康の跡を追うて、矢島家跡目の取立てを運動しようとした。其試みがすべて徒勞に終つて、空しく歸つて來たのが九月の十八日、即ち浪人どもの立籠つた赤館の城が落ちて後三日であつた。何食はぬ顔をして大峰山の御礼などを持ち、仁賀保に出仕したところが、兵庫頭はそれを知つて居たか、料理を下さると稱して座敷へ通し、從臣にいひ付けて斬つてしまつた。伴僧の大貳坊も同じ日に玄關口で討取られ、今一人の少貳坊といふのが、俗供の新藏と共に、普賢坊の黄金造りの太刀を持つて遁げのびた。矢島との境の冬師《とうじ》といふ山村までやつて來て、そこの四郎兵衛といふ者の家で食物を貰つて食べたが、何と思つたか水を一杯所望して、一口だけ飲んで殘りを庭さきへ棄てゝ出た。さうすると後から四郎兵衛が追つて來て、その小貳坊を殺して太刀を奪ひ取り、新藏だけが還つて來て其話をしたのである。不思議なことにはその翌年の秋、四郎兵衛の庭さきには柳もたせといふ菌がずつぱりと生えて、一家殘らずそれを採つて食べて死んでしまつた。といふのが十二頭記などのよく知られて居る記事で、多分は冬師村の現場の口碑だつたらう。永慶軍記が之をどう扱つたかといふことは興味がある。即ちこの本ではそんな手數を掛けず、旅から戻つて來た十三人の修驗が、仁賀保の城邊を通つて、清水のほとりに殘暑の疲れを休めて居ると、折惡くも最上の方から歸つて來る兵庫頭の一行にはたと出逢ふ。彼こそは此間江戸内府の跡を追うて、矢島再興の企てをして居た普賢坊、斬つてしまへと命ずるより早く、十三人を中に取圍んで、たつた一人の新藏を除き、殘りの十二人は悉く討取つた。この時にもやはり飲みかけの水を鐵鉢より撒き散らして、そこから毒茸が其秋のうちに簇生し、當の討手の冬師《とうじ》四郎、一族二十餘人が皆死んだといふことだけは、忘れずに附け加へて居る。斯ういふ語りかへまでを爲し遂げられるのが、著者戸部一?齋の技能であつた。
 
(88)          七
 
 それよりも更に面白く讀まれることは、一度聽いたら誰にも忘れられぬ子吉原《こよしはら》の歌を、この永慶軍記だけが改作して居る。全體合戰の庭で歌の贈答をするなどゝいふことは、實際は有りさうも無いことであるが、妙に昔から語りものにはそれが附いて居る。恐らくはさういふ歌の作れる者が、戰の話を傳へる役にもなつて居て、感興のたかまりには何か一句、無くてはすまぬやうな聽衆の癖を、養つて居たものであらう。子吉原の對陣は大きな出來事で無く、從つて其年月も確定しない。同じ續群書類從本の十二頭記でも、前段には天正十年五月とあつて、後段には天正十九年の同じ月、即ち兵庫頭が相續してから後のことゝなつて居る。矢島の五郎が子吉兵部を討たうとして攻め寄せたときに、仁賀保勢の後詰があるのを見て、車引きに引上げたといふだけの戰であるが、其際に敵の陣中から、
   矢しま殿けさの姿はゆりの花今は子よしの君をむくるや
といふ歌を、下郎に持たせて送つて來たと謂つて居る。こゝに君とあるのは背か肩かの誤寫らしく、其意味は玄人にもよくわからぬが、ともかくも「百合の花」は由利郡第一といふやうな意味を、寓して居たことだけは窺はれる。之に對する五郎の返歌といふのが又振つて居た。
   仁賀保どの手をかざしたる子吉原矢島の風に露や落ちけり
 手をかざすといふのは遠くから、威風を示すといふつもりかも知れないが、いやにまはりくどくて英雄の歌らしくも無く、さう思つて見るからかも知らぬが、私にはどうも座頭の臭氣が強い。ところが斯んなまづい歌だから黙殺しても差支は無かつたらうに、永慶軍記はやはりそれを取上げて斯んなことを書いて居る。曰く、仁賀保兵庫頭は極めて文盲なる者にて、物をだに得言はず、片ことをのみ言ひけるが、今度軍に勝ちて悦びの餘りに一首の狂歌をつらね、短册にして矢島五郎がもとに送らんとす。郎等の横岡この由を聞きて、是れ心もとなきこと也とて、使を押へて短册(89)を見るに其歌、
   矢島どの朝の姿は百合の花晩は子吉の土をむくるぞ
と書きたり。横岡耻かしきことに思ひ、密かによみ直してぞつかはす、
   あしたには光ほのめく月弓の夕日に影の無き矢島かな
矢島かへし、
   夕日には影うすくとも月弓の矢しまはつひに光増しなむ
 兵庫頭この返歌を見て、滿安は秋田城介が弟子にて、歌をまなぶとこそ聞きつるに、をかしき歌のよみ樣かなとて、笑ひけるこそをかしけれ云々とある。いかにも自分の掛け歌に對しては頓珍漢だから、笑つたといふのが當然に聞える。改作者はよくなつた氣で居たか知れぬが、何だかひねくれて居て一段と武將の作らしくない。歌は何といつても時代と環境を映し出さずには居ない。世間の切れ/”\の言ひ傳へが、語りものとなつて來た境目は、之によつて大よそは判るやうに私は思ふ。
 此序をもつて今一つ、由利で評判になつて居たらしい歌のことを考へて見るのだが、是だけは流石の永慶軍記も附いて行けなかつたやうである。矢島五郎が最後に立て籠つた荒倉城を落され、西馬音内の方へつぼんで行くときに、次のやうな歌を詠んだといふことが、色々の記録に見えて居る。
   津雲いで矢島の澤をながむれば木在杉澤さよの中山
 是も私は十分に問題になると思ふ。初句の津雲いでは、「津雲を出て」と解する人も多くなつて居るが、實は津雲居地《つくもゐぢ》であつて、矢島の舊名だといふことである。成るほど現在も伊勢居地といふ村などもあつて、ヰヂは此地方での民居又は邑里を意味する方言だつたと思はれる。木在は別本に「木さら」とあるのが正しく、是も杉澤と共にこの附近の地名で、つまりは固有名詞を口拍子に竝べたに過ぎぬのだが、末の句の「さよの中山」だけは、命なりけりの歌を(90)知つて居た人の言葉で、是が此世の見をさめといふ、哀れの情を含ませて居るのだらう。斯ういふことは戰ひに臨む軍士には到底出來ない。古いことは是も古からうが、やはり以前の世にも斯ういふことを口ずさみ、それを出來るならば物語の主人公と、結びつけて見ようとする者が居たことは疑はれない。歌が物語の中に入つて來た、根源といふものはまだ私にはわからぬが、少なくともそれを記憶の足掛りとし、更に又其味のやゝ晦澁なのに刺戟せられて、全部を信じたくなるやうな俗衆も多く、それを又利用しようとして、歌を插み込まうとする風が永く絶えなかつたことは事實だと思ふ。さうして必ずしも成功して居ない黒百合姫祭文中の、百合と蝶との贈答の二章なども亦其例の一つだつたらうと私は思つて居る。
 
          八
 
 そこで立返つて再び永慶軍記の成立ち、是と祭文との關係を考へて見たいのであるが、軍記が全體の筋を通すのには忠實であつて、細部の精確は必ずしも之を意圖せず、否折々は話に滑澤を添へる爲に、どうでもよい事は痛快に變へても見ようと、思つて居たことは先づ證據がある。たゞ我々に決しかねるのは、どこまでが編者の巧み、又どこ迄は前人の誤りや作りごとを、知らずにもしくは薄々承知の上で承け繼いだかの分堺の線であつた。地方史家としての大きな問題は、矢島の没落と之に引續く五郎滿安の最後が、天正十六年であるか、はた十九年か又は其以後であるかといふ點であらう。私は別に十二頭記の或異本の起りが古いから、記事が單純で且つ狹い郷土の爲に親切だからといふ理由で無く、寧ろこの方には是非とも天正十六年としなければならぬ何の必要も無く、他の一方の永慶軍記の類には、十九年又は文禄元年以後でなくては困るわけがあるので、前者を有りのまゝと見、後者をうそであらうと思つて居るのである。困るといふわけはちよつと見てもわかるやうに、天正十九年の九戸《くのへ》亂に、由利郡の大小名は最上家の麾下に附いて、出征したといふことが知られて居るからである。其着到?といふものは今も殘つて居て、その中には(91)大江大膳太夫も矢島五郎の名も見えないのであるが、彼も其戰に出て勇武を耀かしたやうに、どういふものか一部には傳はつて居たのである。思ふにこの遠征はあの頃の大事件であつて、是には多くの人夫も雜兵も加はつて活きて返つて來て居る。獨り矢島だけは大將が無い爲に、之に加はらなかつたとは考へられなかつたのである。從つて斯ういふ言ひ傳へは永慶軍記の書かれる元禄十一年よりも以前から、もう地元には行はれて居たものとも見られる。其上に戸部一?齋は、矢島五郎が故郷の事などは氣にせずに、豐太閤の催促に應じて、朝鮮征伐の軍役に就いて居たならば、武名も高く揚がり本領も安堵したらうになどゝ、詮も無い史眼を耀かして居る爲に、彼を又もう一年、即ち文禄元年の師走まで、活かして置くべき必要を感じて居たのみで無く、ちやうど其頃は出羽も無人であつて、由利と仙北との間にも軍事行動が絶えて居たので、五郎を反間の謀略によつて、自ら刎《くびは》ねしめるより以外に、始末の付け方が無かつたものと私は見て居る。
 是は小野寺方の記録文書からも、少し氣をつけて居れば判つて來ることゝ思ふが、果して此やうなえらい事件が、横手と西馬音内との間にあつたと考へられるだらうか。矢島五郎は連年の合戰によつて、多くの好い家來を失つて居る。さうして最後には城内が二つに分れて、僅かな手勢を以て叛亂を平らげて居るのである。この弱り目に乘じて敵方が攻め寄せたといふにも理由があり、折角要害險岨に取籠つて防戰を努めても、備へを立てなほす時が足らなかつたので、一氣に攻め落されたといふのも尤もに聽える。舊暦十二月の末に近く、あの郡堺の雪の山を越えて、妻の里方まで立退かうとして、途中で多數の追ひ手に迫られ、闘ひ死にゝ死んだといふことは十分に壯烈であつた。それを疵養生より外に何の手だても無く、丸一年もじつとして居たといふことは、後にあれだけの再興運動があつたのを見ても、舊臣はどうして居たかと訝らずには居られない。それを小野寺本家の誤解に基いて、義理につまつて自分ばかり腹を切つたといふなどは、實はよつぽど後世の芝居型なのである。しかも斯うしなければ話の鍔目が合はなかつたのは、どう考へても外部史料の牽制でなくてはならぬ。現に延享元年に世に出たといふ柞山峰乃嵐《はゝそやまみねのあらし》の如きは、大體に(92)永慶軍記の筋を追ひながらも、たゞ五郎の切腹だけは更に二年おくらせて、文録三年の同じ十二月二十八日の事として居る。この著者などは仙北の史實に詳しいから、さうしないと何か誠らしくなくなる事情を、認めて居たのであらうと私は見て居る。ところが一方の黒百合姫祭文に至つては、全篇を通じて一つも年月の記事が無く、どこへ持つて行つても自由自在であるべきに拘らず、なほ八分通りまで永慶軍記と同じ事實を述べて居るのは、つまりは其影響の下に、早くとも元禄より後に成つたものと見ることが出來ないであらうか。祭文の語り手がこの長たらしい軍記の寫本に、目を通して居たらうことは素より考へられない。寧ろ此書物の各部分がもてはやされて、一種民間の常識となつてから後の産物と、言つた方が當つて居るのでは無からうか。さういふ時代の曾てあつたことは、由利郡の地元に於てさへも、今なほ之を認めることが出來る。人は一々に材料の出處を突き留めてから後に、言ひ傳へを信じようとする者では無く、一方には土地と家々によつて、耳に聽いて快いものと否との選擇をしたことは、現在是ほどまで多くの十二頭記異本を、作り上げて居るのを見てもわかるのである。
 
          九
 
 前年私はイスランド(氷島)のサガといふものを五六篇讀んで見て、その内容の餘りにも、我邦中古の武邊咄と似通うて居るのに驚いたことがある。是は最初から記憶の目的の爲に、律語を以て敍述しようとして居るので、形の上からいふと語りものに近いのだが、殆と極端にと謂つてもよいほどに、咏歎の分子を缺いて居る。人は正しいならばたゞ生まれつき正しいだけで、こゝには善惡の判斷も無く、まして因果の理法の考察などは、塵ほども加はつて居らず、言はゞ現實が思想の外に超越して居るのである。あらゆる人間の意欲と激情と、その結果の目ざましさのみが、端的に聽く者の胸を打つのである。それを國がらであり、又はその時代の國民の氣性に由るかの如く、説く人の多かつたことは知つて居るが、なほ自分だけは其以外に、別に簡單なしかも大きな原因が有つたやうに思つて居る。さう(93)して今日謂ふところの戰爭文學の、遠い未來を考へずには居られぬのである。
 大きな一つのちがひは、直接に事件に携はつた人々、又はその人と立場を同じくする者の、自ら語つた言葉が傳はるか否かであらう。異常な一生の大事といふほどの出來事に遭遇した者が、還つて有りのまゝを語らずに居るといふことは、如何なる人種にも有り得ないことであるが、永い末の世にその言葉が殘るといふには、特に若干の條件が無くてはならなかつた。即ちさういふ場合の爲に、かねて力強い表現を用ゐる習慣が發逢して居るか、さうで無ければ記憶と印象に適する語り方を爲し得る者を、始めから同じ境遇に連れあるく必要があつたのである。日本には曾てその二つの條件を、共に或程度まで具へて居た時代があつたやうだが、中古以來になると其制度が衰へ、殊に有つても之を利用する力の無いやうな、隅々の小ぜりあひばかりが多くなつて來る。さうして一方には言葉の技能が輕しめられて、ぽつり/\としか物は言はず、同じ一人の者が身の經歴をかたるにも、よほどの修練を積まぬと、年とつてからは話が淡くなつた。素より間接の語り手はなほ殘り、又それを聽かうとする者の熱意は醒めなかつたらうが、土地が遠ざかり年月が中を隔てると、何と言つても其間に空氣がまじるのである。盲人が傳承に參與することは不利であつた。彼等は多感であり又よく耳を重んずるが、その想像の力には限りがある。まして職業となれば聽手の範圍が弘く、其人々の態度とか期待とかいふものが、先づ大いなる影響を語り手に及ぼすのである。日本に本當の意味に於ける力強い悲劇といふものが生まれなかつたのも、起りは中間に後の世の批判、結局はすべて皆哀れ也といふやうな囘顧者の咏歎が、雲霧の如くたゞよふからだと思ふ。
 
          一〇
 
 しかしさういふ中にも、地方の語りものゝ有難いことは、まだ最初のうぶな感動を、一部は殘し傳へるやうな機縁をもつて居た。聽衆は弘くなつて來たとはいひながらも、今の文學のやうに始めから全國一ぱいの、しかも後代の冷(94)かなる讀者までを相手にしては居ない。たつた一軒の名家の爲に、舊時を説かうといふほどの純眞さは無いにしても、たとへば黒百合姫の祭文が、安倍を神さまの末かの如くあこがれたり、乃至は高館の舞の曲が、あの附近の雄族に悉く一役を持たせようとしたり、永慶軍記その他が土地毎の著名な苗字を、一度は何かの折に引張り出さうとしたりするやうに、いづれもやゝ限られたる土地の聽衆の、興味と心ゆかしとを目標として居るのは昔風かと思ふ。だから私は總册三十何卷といふ大きな軍記でも、是を全部ながら暗誦する必要などは何處にも無く、各自分の持場だけに精通して之を聽きたがる人に語ればよく、事によるともつと以前から、ばら/\の形で既に行はれで居たのを、まとめて繋ぎ合せて統一しただけが、戸部一?齋の手柄だつたのかとも思ふ。さういふ實例は義經記などにも見られる。氣を付けて見るとまだ方々に、取殘された地域も多いのである。一人で是だけの事實を掻き集めるといふことは、あの時代で無くてもさう容易な事業でない。書いたものばかりがさう多く揃つて居ようとも思はれぬから、或ひは語りものゝ交換所のやうなものがどこかにあつて、うそも其機關が取捨して居たゞけかも知れない、といふやうな想像が浮んで來るのである。
 ともかくも事實をたゞ數多く覺えるだけならば、塙檢校のやうな精力を傾ければ出來ぬことは無い。只その中へ是だけの作りごとや誇張をまじへて行くといふことは、個人の空想の力にはやゝあまる樣である。私のこの推測が假に中るならば、更にその背後の無名の作家と、是に働いて居る色々の力が、どんなものであつたかといふことになるのだが、當面の問題は矢島十二頭記、それがどういふわけで互ひに兩立せざる、無數の異本をもつのかといふことに歸着し、更に一歩を進めると成立はやゝ遲いが、黒百合姫の祭文なども亦その一つの、幾らか型のちがつたものに過ぎぬかどうかと、いふことにもなるのである。前から私の抱いて居る二つの疑問に因みが有るから、長たらしくはなるがこの機會を利用して、もう少し考へて見ることにしよう。
 是は私の癖かも知らぬが、いつも至つて小さな事實から問題の手掛りを求めようとする。最初に氣をつけて見たい(95)ことは、矢島十二頭記といふ書名であつて、是は理窟を言へばどうしても由利十二頭記で無くてはならぬのに、何故にさういふ名を以て今に傳はつて居るかゞ先づ不審である。私の解釋では、是は矢島に於て、もしくは矢島領の人々に聽かせる爲に生まれたもので、言はゞ滅亡した矢島方の記録だつた。即ち一方に是では承知の出來ぬ家が多く、異本は幾らでも増加するのが當然であるに拘らず、存外にその改訂追補の部分が末梢の記事に限られ、私の知る範圍では、話の本筋を動かすやうなものはまだ一つも無い(三)。しかもその殘つて居ることゝ言へば、やる瀬も無い悲壯と慘虐、批判を絶したる闘諍の痛烈さ、つまり私の謂はうとするサガ的分子だけが、ほゞ多くの所傳に共通に保存せられて居る。斷定を下すのにはまだ早いか知れぬが、是は偶然に初期の語り傳へが文字になつて居たので、其事實の威壓とも名づくべきものが、なほ暫らくの間は一郡を支配して居たからでは無いかと思ふ。
 
          一一
 
 純なる文學としての後代の鑑賞にも、恐らくこの部分が最も人の心を動かすであらう。それを幾つか列擧して見るならば、先づ第一には仁賀保家の首長が、親子兄弟入聟の四代まで、僅か十年足らずの間に夜討によつて討たれ、落人となつて追ひ落され、攻めよせて來て首を取られ、もしくは内通によつて詰め腹を切らされるなど、悉く皆口惜しい死を遂げて居ることである。事實その通りなのだからと言つてしまへばそれ迄だが、其記述には色も紋樣もなくて、全く矢島方で聽いただけの話として出て居る。仁賀保一門の者の息のかゝつて居ないことは、是を見たゞけでもわかる。殊に五代目の相續者兵庫頭の如きは、ちよつと曹操を思はせるやうな大きな人物で、時世の變り目に處してさしてまごつかず、ともかくも近世まで家を保存して居る。寧ろ此人の一代記なら書いても見たいやうであるが、十二頭記に於てはそれが只、一個の敵役としてしか描かれて居ないのである。其他の十一頭に至つては、文字通りの竝び大名であつて、祭文の瀧澤忠八郎ほどにも、個性を示したものが此本の中には無い。
(96) 前にも邊べて居るお藤姫の運命的なる結婚、又は大河原の別當普賢坊の殺戮の如き悲劇の種、あの戰國の世ならば斯うもあつたらうかと、思ふやうな事實は皆矢島人の見聞であつた。さうして何れも後に何とか趣向をして見たくなるやうな、餘裕のある素朴さを以て線太く寫し出されて居る。それに何等の誤りも無いか否かは、もう檢査する手段も無いけれども、兎も角も是を現實の直寫と認めて、落付かぬといふやうな點は無いのである。たとへば五郎滿安の不在中に、弟の與兵衛が自立して兄の子を二人殺す。それを聞きつけて急いで還つて來た五郎は、忽ち城中に入つて弟を成敗したのみか、その二人の子を手づから下げ斬りにして、轟目木《どろめき》といふ地で獄門にかけさせた。斯ういふ恐ろしい事がたつた三四行の文字で書いてある。或ひは兵庫頭が仁賀保を相續して、是からは仲よくして行きたいといふ申入れがあつたすぐ翌年の二月、馬場四郎兵衛親子三人が、谷地澤の中に入つて來て大杉を伐つたところが、豐島といふ土地の士が出て行つて馬場の次男を討取つた。それに對して仁賀保より抗議が出たのに、たゞ木を盗んだからと答へたゞけで、打棄てゝ置いた爲に又戰爭になつた。是なども話があんまり單純なのを物足らなく思つたか、色々利害を説いて周圍の者が諫言したやうに書いた本もあるが、私などから見れば、明らかに後の常識から割出したおまけである。
 それから終りにもう一つだけ、是も祭文の方には出て居ないことだが、慶長五年の矢島遺臣の蜂起といふことが、十二頭記のどの本にも可なり詳しく取扱つてある。關ヶ原戰役と片端交渉をもつので注意せられて居るが、政治的に見て必ずしも大きな事件では無い。仁賀保方では四十人の浪士のぼつ/\と歸つて來たのを知つて、召出しと僞つて喚び集めて手打ちにしようとする。それを勘づいて早く立退いた者が、上杉方の勸誘によつて、連判を取つて内應しようとしたのである。其企ては一部は成功し、八森の城を乘取つたとあるけれども、番兵といふのも僅かなもので、討たれたのは十五人で若干は遁げ去つた。さうしてその八森も持切れなくて、たつた二人を殘してあとは赤館といふ山の中に立て籠つたが、そこも三日しか守つて居ることが出來なかつた。九月八日に八森を奪ひ返してから前後八日(97)間の出來事である。味方の討死したのは三人で、あとは皆矢島と仙北へ遁げ匿れたとある。是だけの事件が後追々と人名や逸話を附け添へられて、しかもまだ語り方の素朴さを失つては居ないのである。隱れたる一つの手掛りではないかと私は思ふ。
 
          一二
 
 いはゆる矢島十二頭記の筆者、少なくとも是が最初、如何なる家に持ち傳へられてあつたかは、今となつてはこの本の内容から、察し知るの他は無い。それもやゝ大まかな推測に過ぎぬが、自分は是を山臥の手によつて保存せられたものときめて居る。綜合せらるべき小さな見どころは幾つかあるが、話の順序として先づ心づくのは、四十人の矢島舊臣が赤館へ引上げる際、八森に留まつたのは堀内孫市と、少貳坊とのたゞ二人であつた。敵がこの城へ押寄せて來ると、何と思つたかこの孫市一人、鑓を執つて先頭の徒士の中へ突込み、相手が身をかはすと前へのめり轉んで、忽ち首を取られてしまつた。少貳坊は此樣子を見屆けて、歸つて赤館に來て其話をしたとある。後に冬師の四郎兵衛が處で殺されて、黄金造りの太刀を分捕られたといふ少貳坊と、同じ人のつもりかも知れぬが、この方は大貳坊であつたやうに、書いて居る異本もある。とにかくに共に普賢坊の一派の山臥であつたとは想像せられる。矢島では一時多くの遺臣が逃散して、たゞ修驗の徒のみが住み留まり、舊主を追慕して居た時代があつて、頻りに古い話をくり返して居たらしいのである。
 さう思つて見ると十二頭記の中には他にもまだ山臥の記事がある。普賢坊は志を得ざりし一箇の英傑と思はれるが、是が主家の爲には武士同樣の働きをして居る。たとへば永禄元年まだ矢島氏の全盛の頃に、父祖の代から保護をして居た履澤《くつざは》左兵衛といふ隣の領主が、十二頭の一人なる瀧澤刑部と共謀して、矢島五郎を打潰さうとたくらんで居た。それを不屆至極として五郎から討手を命ぜられたのが、大瓦《おほかはら》別當普賢坊であつた。あくる年の正月元朝に、佐藤筑前(98)と二人で履澤城へ押込み、佐兵衛主從を打取つて復命し、其褒美に田地一町を給はつた。「いまだに所持仕候」と書いてある。
 それから是は普賢坊が殺されてから後の事だが、十二頭記のずつと終りの條には次のやうな記事がある。慶長十九年の五月、瀧澤院主意風、鳥海山順逆の出入に付き、出羽十二郡の領主の頭、最上《もがみ》の行藏院へ罷り登り候て訴?差上げ候故、矢島領の修驗頭喜樂院罷り登り候て、役の行者開基、聖寶尊師再興の品々申上げ、先規の通り仰せ付けられ候。意風は最上より上方へ浪人仕り候とある。此點は聊か註解を要することで、私にもそれは六つかしいが、鳥海山の由利郡からの登路には、本來は三筋あつたらしいのである。それが後々は瀧澤と小瀧との二つになつて居る。江戸時代の中期に飽海郡の登山口と訴訟をした時に、頂上は莊内領の方へ取られてしまつたが、それでもなほこの兩處の別當は認められて居た。さうして飽海郡で吹浦と蕨岡とが喧嘩をした如く、由利の方でも瀧澤と小瀧は相爭ひ、此方は逆峰入と認められて居る中で、小瀧のみは順の作法に由ると稱して居た。即ち此際はもう矢島口はなくて、慶長十九年の出入には勝つたけれども、それからいつの間にか株を瀧澤に奪はれて居たのである。この衰微といふことは矢島五郎殿の没落に次いで、こゝの登山口の修驗には強い打撃であつた。その懷舊の情も此書には籠つて居るのである。
 
          一三
 
 黒百合姫の祭文に出て來る瀧澤氏の通稱忠八郎は、私は同家が由利中八の後裔だときまつた後の語りごとだらうと思ふ。類從本十二頭記の記録にはあら/\と前代の事を記して、「正中二年より由利中鳥海彌三郎どの領分に成る、中八郎どの子孫無し」と謂ひ、其あとの各家列傳には「瀧澤刑部殿と申、幾代と申事不知、去りながら由利の中八郎殿の末葉には紛れ無之、鳥海山へ鉢を納め候にて知れ申候云々」とある。少なくとも久しく問題になつて居たのである。その瀧澤を矢島氏の先祖が世話したといふことも元は言つて居なかつた。是は多分前に擧げた履澤左兵衛が、(99)根(ノ)井氏を通して矢島の庇護の下に立ち、後に瀧澤と通謀したことを誤り傳へたものであらう。しかし何れにしても此家が矢島と仲惡く、天正三年以來の一郡の亂階となつたことだけは、諸本例外も無く之を認めて居るのである(四)。事によると是も根本の利害牴觸が、鳥海山信仰の管理權にあつたのでは無いかと私は思ふ。武將がそんな問題に躍起となつたのは、今の思想から見ればをかしいにちがひ無いが、古い諏訪鹿島の例を引くまでも無く、目近くは莊内の武藤氏も羽黒山の別當であつた。どうしてあの樣な大きな武家になつたかの原因は寧ろ是に在り、たゞ征戰がひま無くなつてから、この職を別に腹心縁故の者に委ねたゞけであつて、矢島氏と鳥海山との繋がりも之と同樣に、もとは存外に緊密なものだつたかも知れぬのである。
 それに就いて特に私の興味を惹くことは、由利郡の十二頭が應仁元年といふつい近い頃に、打揃うて信州から移住して來たといふ言ひ傳へである。一般に東北の舊家には中央部の苗字を名のるものが多く、大名にはまだ聞かぬが小笠原といふ家筋も方々にある。矢島も仁賀保も玉米《たうまい》も下村も、共に小笠原と稱して居たといふだけでは證據にもなるまいが、矢島が第一に信州では多い苗字であり、大江は無いけれども大井ならば是も古い。それよりも此家と深い縁故のある根(ノ)井といふ家などは、信州でしか聞かぬ苗字であり、其爲に又木曾から來たといふ説があるのみならず、別にこの附近の金石文には、本姓の滋野を掲げたものも殘つて居るといふことである。鳥海山の信仰の源は遠く、それを御嶽や淺間から移したとは固より言はれぬが、山臥は足が達者で、高山の跋渉には馴れて居る。少しく元の土地が衰へ又は人が剰れば、次から次へと生活の根據をかへて行くには適して居る。彼等で無かつたならば、斯んな東北の邊隅に沃野の圭無きものがまだ是ほどあつたといふことを、聞き知る機會がどうして得られよう。それこそ太田道灌の斡旋といふやうな、思ひもよらぬ理由を附けずには居られなかつたわけである。
 
(100)          一四
 
 單なる祭文節の解釋としてならば、斯んなまはりくどいこと迄考へて見る必要は無いのだが、此一篇にはそれ以上の意味がある。いかに近代の香の高い語りものでも、なほ之を作り出した世代の人ごゝろ、その血その熱を青くんだ遠い祖先以來の、意識せざる經歴が之によつて偲ばれるだけで無く、それを跡づける方法が今日は否恐らく未來にも、現在殘つたもの以外からは見出されぬのである。土地の舊事を思慕する者の言ひ傳へ、それを咏歎しようとした郷土人の語りごとの中にすらも、なほ我々の所謂移住文學が、ゆくりなく入りまじつて居るのである。いかに早い頃に黒百合姫の祭文が始まつたとしても、天正十六年より前の氣づかひは絶對に無い。同じ東北とは言ひながら、こゝと平泉の遺跡との間には、それでも數十里の山川と、數百年の星霜とを隔てゝ居る。それを結び繋ぐには力があり意思があり、又運搬の路筋が無くてはならない。其力なり通路なりが、同時に又湯殿山の老いたる法印をして、童兒の爲にこの「矢島祭文」を暗誦せしめた所以では無いだらうか。龍王の住むといふ鶴間ヶ池は、鳥海山にも無かつたと同樣に、羽前の三山の間にも無いが、どこか東亞の廣大な圏内にはあつたかも知れない。現に大蛇を聟に取つたといふ家ならば、日本では美濃の夜叉ヶ池、豐後の佐賀の關や媼嶽《うばだけ》の麓、古く溯れば大和の箸塚の畔にもあつたのである。
 是をたゞ私の自由な想像と言はれない爲には、もつと多くの例を拾ひ出す必要があらう。祭文の中でいふならば、姫が敵方の藏人と縁を結んで、生まれた子が緑丸となつて居る。知つて居たならば却つて避けたことゝ思ふが、是は鳥海とは特に因みの深い、傳説の一部だつたのである。百合若大臣の物語の舞臺は、玄海の離れ島から、豐後の府内までの間に限られて居たにも拘らず、南は宮古群島の或珊瑚礁の上に遺跡があり、北は奧羽の各地にも分布が弘い。さういふ中でも茲は由利の郡だから、よそのは皆まちがひで是だけが正しいと、明言した近頃の學者も有るのである。乃ちたゞ美しい名清い語音として、四方の空を浮遊して居たものでも、縁があれば一地に根を下し、又その次の種子(101)を播き散らすのである。百合と蝴蝶とを取合せた二首の贈答歌なども、武ばつた前後の語りとはどうも調和せず、又歌がらから見ても男ものとは思はれず、新たな借用と見られても仕方が無いが、蝴蝶は羽黒の俗縁起の中にも、早くから目に立つ一役をつとめて居る。是がたゞ此靈山の天然とのみ縁のあるものであつたか、たゞしは又翩飜として西の方から、飛んで來てこゝにとまつたものか。今私たちは是を筑土君に考へてもらはうとして居るのである。黒百合に至つては明らかに越中立山の山の草であつた。是もあの山が唯一の自生地であるのか。はた移し植ゑられて次々の縁ある地に弘がり、立山はたま/\その中間の一つの過程であるのか、じつと見つめて居ても今に判つて來さうな氣がする。
 
          一五
 
 こゝまで持越して來た私の二つの疑問は、今は恐らくは成るほど問題だなと認められるまでゝ、解答は未來に在ることゝ思つて居るが、爰まで話が進むと説かずには置かれない。その一つは日本民間文藝の成長と普及に、どれだけまで靈山の信仰が干與して居るかといふことである。女別當は鳥海山にあつたといふ證據が無く、羽黒に近世まであつたといふのも、たゞ託宣の聞取役といふ男子の業であつた。しかしさういふ職分の人が入用であつたことだけは是でわかり、現在は又そんな託宣を聽かせる女性などは居ないのである。最近の神佛分離を算へるまでも無く、三山の信仰には度々の變化があつたことだけは考へられる。中心の勢力の大きかつたことは、天宥以後には及ばなかつた代りに、以前は組織がずつと複雜であり、又周邊の地に及ぼす感化が特殊に濃厚であつたことは疑ひが無い。靈山の深秘には語るなと戒められなくても、語られぬことが極めて多い。殊に女性には夢幻の境に入らぬと、實は山上の事は何一つも知る道が無かつた。乃ち羽黒ならば羽黒巫女と謂はれた人々の、働かねばならぬ領域は廣かつたのである。御山に住んで居る巫女の數の少ないといふことは、出羽二州もすべて此通りといふ推測の足場にはならない。寧ろ反(102)對に一つ以前の?態を窺はうとするならば、逆に民間に今傳はつて居るものゝ中から、多くの暗示を求めようとしなければならぬことを、私が頻りに戸川君等に向つて、慫慂する理由も茲に在るのである。東北の文化研究に協力の道がつくならば、やがては色々の今まで思つても見ぬことが氣づかれるであらう。私は前年廣遠野譚の一文を草して、山から靈魂を招き降す方式の、曾ては全國共通のものがあり、それを幽かながらも保存して居る地域には、今でも藤原さんの言はれるやうに、眼あきと盲の二種の巫女があることを説いて、その一つの中心は羽黒を通しての三山では無かつたかとも言つて置いた。現在表面には既に消えた土地に就いても、もし其想像が立てられるならば鳥海山も同じことであり、又この周圍にも更に幾つかの、死者の昇つて住む靈山は有るのである。死者は生人の全く知らない過去を知り、又遠い國を知つて居る。それが巫女の語る言葉の、眞實として聽かれた根據であり、又多くの奇拔なる物語の、一度で流れ消えてしまはない理由かとも思ふ。
 ところが一方の男性の語り役、たとへば盲法師などの方では、もう久しくこの口寄せの能力を認められずに居た。それでも聽く人の信用を保たうとは努めて居たので、すでに歴史として弘く知られ、又神靈の語として信じられて居ることは打毀さうとしなかつたが、それと衝突せぬ限りは勝手なことを言つた。つまり文藝の意識は先づ此輩の間に芽を萌し、それが又間接に靈に憑かるゝ女性の、空想に影響したやうである。從つてこの男女二組の語部《かたりべ》が、同じ家庭を作るか否かによつて、所謂演義體の戰物語などの、土地毎にちがつた發達をすることも考へられるが、女を主人公として居るにも拘らず、黒百合姫の祭文は男ものであり、直接靈山の巫女とは交渉が無かつたらしいのである。
 
          一六
 
 第二の疑問は今一段と大膽なもので、ちつとやそつとの説明では共鳴する人も得られまいが、私は實は今、我々日本人の死んでから行く先の、高く秀でた山の頂であつたことが、月山鳥海を始めとし、多くの名山の信仰の起原では(103)無いかと思ひ、それが少しづゝ此祭文などの方面から、明らかになつて來はすまいかといふことを問題にして居るのである。この點にかけては佛教の浸染は物凄いばかりで、よく/\外來宗教を輕しめて居る日本人でも、もう古來國民固有の死後觀のあつたことを忘れて、死ねば天國へ行くだの、高天原へ行くだのといふことを口にする。そんな證據は一つも殘つて居ないのみか、一方にはまだ幸ひに書册の教育を受けなかつた人々の間には、古い考へ方が幽かながら傳はつて居るのである。埋立新田の廣々と續く地方には、もうさういふことを知らぬ家ばかり住んで居るだらうが、附近に高く仰ぐ孤峰のある土地には、そこを精靈の降りて來る倉梯《くらはし》と感じて、いはゆる盆の月の七日又は朔日に、そこから里へ來る登路の草を苅る村里が、稀ならず諸國には有るのである。ところが此考へ方にもやはり外部社會の影響があつて、人が移動するほどづゝ段々に死者の行く場處が合同して、つひに今日の如く熊野の妙法山とか、越中の立山とか、さては南部の宇曾利山のやうに、僅かな中心に統一する傾向をもつて來た。さうして泰澄勝道利修仙人といふやうな、すぐれた上人が其山を開かれた故に、それが有難くて亡靈が行くかの如き解釋が下され、後には死ぬと直ぐに善光寺へ、又は天竺へ行つて歸つて來るといふやうな、わからぬことを言ふ者も多くなつたのである。是が果して佛法の教へと、一致するものか否かまでは私は論じないが、ともかくも關東から東北へかけては、この統一の事業がまだ十分に進行せず、地積人口に比べると靈山の數が、大小とりまぜてよほど多くなつて居るのである。役行者や慈覺大師などの、山々開基の力も限りがある。さうして出羽の三山の如きは、よほど早くから是に對抗することの出來るやうな、言ひ傳へを持つて居たのみならず、又近傍の由來定かならぬ山々の、未だ藏王でも金峰でも無かつたものを、自然に統一するだけの力を集めて居た。早く開けた中部以西の諸國で、もうずつと以前に完成した綜合事業が、東北だけはよほど時おくれて、近世もなほ進行して居たといふことが、もしも修驗や巫子たちの移動の跡から、窺ひ知られるものとするならば、斯んな簡素な語りものゝ構成でも、なほ我々の分析の材料にはなると思ふ。此篇の採録者藤原氏の郷里などでも、周圍に高嶽を廻らして、我々の今まで知らずに居た靈場の數は幾つもある。それが悉(104)く近いから羽黒の出張所であらうといふやうな、今までの學者の説は當つて居るかどうか。「死ねばどこへ行くと思つて居たか」。斯ういふ方面からも今一度、尋ねて見る機會は無いとは言はれない。この問題に向つて現實の關心を抱く者は、今日の時代としては決して我々垂死の翁だけでは無いのである。極樂は十萬億土、あそこへ行つてしまつてはもう七生報國は出來ないからである。
 
  註一 十二頭記の異本は數多く有るらしいが、仁賀保兵庫頭の實名を擧誠としたものが、幾分か正史に近いといつてよからう。武コ編年集成卷七十七、元和元年二月の條に、兵庫助擧誠をして城州淀城を守らしむる記事があり、大日本史料には其條下に、寛政重修諸家譜の此家の系譜を引用して居る。仁賀保氏が一時常陸の武田といふ處に轉封し、後年最上家の没落によつて、再び舊地に歸任したことも史實であるが、それが認められると愈もつて、お藤御前又はお鶴姫の悲劇の大部分は、有り得べからざることになるのである。但し矢島の新たな領主、楯岡長門守の妻女が矢島氏の遺孤であつて、一たび仁賀保藏人に嫁して居たといふまでは事實かも知れないが、それとても確かな證據は無いのである。
 
  註二 人見蕉雨の黒甜瑣語初篇に、戸部一?齋の簡單な傳記が出て居るのを後に見つけた。通稱は權三郎又清左衛門、雄勝郡横堀村の人で、正保二年から寶永四年まで生きて居た人であるが、若い頃から家を出て、故郷に居たのは二十五歳から三十一歳までの間と、死ぬ前の三四年だけで、その他はすべて諸國の遊歴に過し、種々の奇談を知つて居たと言はれる。勿論秋田の領内をもあるいたことであらうが、此書の成つた元禄十一年頃は江戸に居たと思はれる。此書を佐竹家の江戸屋敷に於て獻上したといひ、それは彼の五十四歳の時であつた。永慶軍記は四十卷、そのうち六卷は遺補であつて世に傳はつて居ない。別に若干の聞書といふものが府庫に藏せらると(105)あるが、もしや縣立圖書館に殘つては居ないだらうか。あるなら見たいものだと私は念じて居る。ともかくも當時由利郡の周圍に語り傳へられて居たものを、自由に綴り合せたのであらうといふ私の想像は、少しばかり恠しくなつて來た。やはり資料の大部分はもう書いたものになつて居て、それをこの人が丹念に捜しまはつたのかも知れない。曾て水戸黄門の知遇を受けたとの説もあるから、注意して居たらまだこちらでも少しは判つて來ることゝ思ふ。
 
  註三 由利郡金浦の小林善七君の藏書、羽州油利郡十二等記と題する寫本は、この後に私の見た又一つの異本であつた。菊池正存坊といふ修驗の家に、八代まで傳はつたものとあるが、編纂は貞享二年であつて永慶軍記よりはたゞ十四五年古い。卷の始めに掲げた簡單な年代記は、續群書類從本の中間に在るものと近く、それに次々の大事件を書き添へた形になつて居るが、矢島の姫の名をお鶴とした所謂鶴姫系のもので、是は又矢島五郎の討死を文禄元年の事として居る。他の諸本とちがふのは、幾分か仁賀保氏にひいきした形が見える點であるが、仁賀保は當時の此土地の領主だから是は當然であらう。次に石川理紀之助翁の「秋田のむかし」卷二に、出羽由利郡十二頭記大全とあるものは、異本ともいへない程に、類從本の前半と近い藤御前系本であるが、それでも二つを比べて見ると、彼に有つて是に無いものがある。第一に土地の地侍の固有名詞の列記がやゝ少なく、又私が本文に引用した新庄城内の劔劇と、冬師村のそれとがずつと簡單である。矢島五郎の討死は是も天正十六年として居るが、西馬音内城で自ら首はねたといふ記事は全く無い。即ち黒百合姫祭文ともそれだけ又遠くなつて居るので、愈以て祭文が永慶軍記以後に、その影響の下に成つたといふことを推測せしめる。この研究の爲には、由利郡出身の土田誠一君の死は大きな損害であつた。もしこの人の援助を得たならば、私はもつと多くの十二頭記の異本を讀み、又鳥海山臥の歴史を明らかにし得たのであつた。今はたゞ土田氏の志を嗣ぐ郷土史家の、新たに出現(106)するを待つばかりである。
 同じ「秋田の昔」の卷三には、秋田古戰記といふ三卷の書が輯録せられて居る。或ひは永慶軍記よりも前のものかと思はれる秋田城介氏の顛末を録した演義體の一書だが、此中にも仙北由利合戰といふ一節がある。矢島の城主大江光輝、天正十年に二十歳、身のたけ八尺で百人力、十二頭中の強者とある。それを一族の内で毒害したとあつて、十二頭記と一致するのは、たゞ郡内土豪の家の名だけである。よく/\出たらめな軍記を、此當時の人たちは聽かされて居たのであつた。
 
  註四 由利郡側を登路とする鳥海山信仰の近世の?況は、「旅と傳説」十三卷十號に、高橋文太郎君の記文がその一端を傳へて居る。今の上郷村大字小瀧がその山臥の村であつて、以前は三百餘坊と百餘人の禰宜とがあつたとも傳へて居るさうである。是と拮抗した瀧澤の方は、或ひは比較的早く衰へて居たのではないかと思ふ。同じ雜誌の七卷十號に、石小詰起原攷と題して藤原翁の書かれた一文に依れば、延寶八年の八月二十三日、同じ由利郡の上笹子村の山伏和光院法印、權大僧都宥全といふ者、領主生駒氏に反抗した義民仁左衛門に加擔したかどを以て、宗法によつて此刑に處せられたことが、鳥麓奇談といふ書に詳述せられて居るさうである。後に其靈が崇祀せられ、遠近の參詣者が多かつたといふが、其祭の日の四月八日だつたのは、やはりこの御山の祭日の一つであつたのかと思ふ。ともかくも之に由つて知り得ることは、江戸期の頃まで、爰にも亦一つの登山口が榮えて居たことで、是が大川原の別當普賢坊などの管理した矢島口と一つのものであつたか、但しは又第四の別の登路であつたか。自分にはまだそれを明らかにする途は無いのだが、何れにしてもこの側面の御山信仰は、決して吹浦蕨岡側に劣るものでなかつたことだけは確かだと思ふ。感化を中央遠國の人々に及ぼし得なかつたばかりに、此方面の古い歴史は、殆とすべて書傳の外に埋もれ去らうとして居るのである。奧羽の郷土史研究が、全國の文化史(107)に對して特殊の意義があることは爭はれない。といふことは今までの文書史學では、到底明らかにし得ないことを、民俗學の方法が追々と見つけ出す望みがあることを意味する。
 
(108)     山莊太夫考
 
          一
 
 此春(大正四年)の中央公論に、森?外氏の書かれた山莊太夫の物語は、例の如く最も活々とした昔話であつた。しかし自分等が此傳説に由つて想像する「昔」なるものは、今些し茫漠とした纏まりの付かぬものである。試みに一つ手製の提灯をぶら下げて、この古屋敷の中へ入つて見ようと思ふ。先づ最初に考へて見たいのは、何故に強欲無慙な由良《ゆら》の長者が、其名を山莊太夫と呼ばれたかといふことである。それには是非とも此物語の古い形を系統立てゝ集めて見る必要があるが、不本意ながら其材料が更に無い。志田義秀君などの助勢を乞ひたいと思ふ。國書刊行會で刊行したコ川文藝類聚卷八の古淨瑠璃集の中に、多分寛永本の複刻であらうと云ふ「さんせう太夫」がある。一先づ此を目標として話を進め、他日別方面の材料が手に入つたら、改めて比較考證をすることにしよう。もし自分の推測する如く、此話の原の形が多くの長者譚と同樣に、單に丹後の由良長者とのみあつて、山莊太夫とは言はなかつたとすれば、この研究が果して徒爾で無かつたことになるのである。
 自分が見た所では、山莊太夫の話は只の長者傳説である。長者が山莊太夫と云ふの外に、是と云ふ特異の點も無い。人も大よそ知る如く、諸國の長者の話には朝日と夕日の二面がある。多くは原因を信心と善根との有無相異に歸して居るが、一方には極度の幸運によつて一朝にして鉅富を得た者と、他の一方には然るべき因縁があつて、さしもの大(109)分限が夢の如く退轉してしまつたといふ話と、或場合には甲乙二所の長者に就いて傳へられ、又或場合には同じ長者屋舗の、同じ主人の歴史として語られる。山莊太夫は則ち右の長者没落の一つの例であつて、之に伴なふに對王丸《つしわうまる》の不思議な立身談を以てし、大體の形式はよく調うて居る。長者榮華の行留りは通例は寶競べの挿話である。何一つ足らぬ物が無い、此世をば我世とぞ思ふ望月のと言つて居る中に、或ひは子の無いといふ憂がある。或ひは眞珠《またま》の如く美しい一人娘が、死んだり蛇體の聟を取つたりする。無くてはならぬたつた一つの不足が現はれると、乃ち長者の衰運は萌すのである。其缺點として奢の心を説くのは普通の例で、黄金の扇で西山の日を招き返したなどゝいふ話も多くあるが、更に又山莊太夫の如く慈悲の情に乏しく、下人を酷使した爲に滅びた例も段々ある。現に奧州|膽澤《いざは》の掃部長者《かもんちやうじや》なども其一つである。慈悲と謙遜とは觀音藥師其他の最も重じたまふ所である。之に加ふるに信仰と祈念とを以てした對王丸は即ち高い官禄を得たので、此も今昔物語以來貧民が出世をした普通の道筋である。
 次には岩城判官《いはきのはんぐわん》の三人の遺族が人買に買はれたといふ話も、少し複雜ではあるが説明が出來る。貪慾なる長者が富を得る手段として惡い事をした話は、纐纈城《かうけつじやう》の筋を引いた播州姫路の平野長者の類が少なくない。但し此場合に被害者の人名が安壽姫と對王丸であることは、何か我々に分らぬ別の仔細があることゝ思ふ。岩城判官の居館は、寛永の淨瑠璃には奧州|信夫郡《しのぶのこほり》とあつて今の福島縣らしいが、北奧の青森縣では彼は津輕から出た人と傳へ、今でも丹後國の船が寄港すると、岩木山の神の憤りで天氣が荒れるといふことが多くの書に見えて居る。近い頃弘前の人の話に、昔此邊に同胞二人の娘があつて、姉の方を安壽姫と謂つた。山莊太夫の爲に苦しめられて遁れ出で、一人は東へ行つて小黒山《こぐれやま》に登り、一人は西に走つて岩木山に入り山の主になつたと云ふ(共古日録卷十六)。山莊太夫があれ程有名である以上は、後人の訛傳とは認め難き話の相違である。
 
(110)          二
 
 之に就いて聯想するのは、播州|宍粟《しさう》郡|安志《あんじ》といふ地名である。峯相記卷下一宮伊和大明神の條には、「與位子勝は父母を崇めまつる、安志・若邇志・庭田・遙拜所等は皆此眷屬部類なり」とあつて、固有名詞の意味はよくわからぬが、今の安師《あんし》村大字|三森《みつもり》の三森神は安志姫大明神を祀ると云ふ(峯相記微考)。或ひはこのアンジと云ふ語に、若宮とか御子神《みこがみ》とか云ふやうな、神の子が神を祭るの意味が含まれて居たのでは無からうか。
 對王丸は又厨子王とも字に書いて、たしか田邊府志の中にも、國境の峠の上に厨子王丸の勸進柴と云ふ地あり、立身の後此處に來て父母の靈を供養した故迹とあつたかと記憶する。勸進柴は通行の人に、柴即ち木の小枝を折り立つることを勸めたもので、前に出た屋久島《やくのしま》の花上げ場(郷土研究二卷六一〇頁)も同樣に、道祖神乢《さへのたわ》の小石塚に對する柴塚のことである。此類例は數も多いが、淡路津名郡|都志《つし》村大字都志に一の柴峠があることを思ひ合せ、厨子王又は對王のツシは、或ひは柴立《しばたて》の意味では無かつたかとも思ふ。其想像は假に無理だつたとしても、此兄弟の話の奧には、例の花萩中納言の子少將などゝ同じく、流人の子が親を慕ひ、其臨終に逢ひ得ずして後に供養をしたと云ふ一段が(同上三卷六頁參照)含まれて居たことはほゞ慥かである。しかもその岩木判官正氏が、如何にも芝居の殿樣然たる名である上に、奧州の大名が九州へ流されるなどは有り得べき話で無いから、是は單に王孫沈淪の悲劇を濃厚ならしめる迄の脚色かも知れぬが、それにしては安壽對王の不思議な名が氣にかゝる。或ひは最初は岩木山の修驗者などが、古く海路を越えて此國へ布教したものではなかつたか。今後の討究を期するの他は無い。
 自分幼少の折の實驗を以て推せば、山莊太夫の話の中で最も身に沁むのは、盲目の母親が鳥を追ふ一段である。今も耳に遺つて居る唄の文句は、六段の淨瑠璃にあるものと少々の相違がある。
   あんじゆ戀しやほゝらほい
(111)   つし王こひしやほゝらほい
 此唄を聽いて穉ない我々は?泣いた。因つて察するに、昔の田舍人の人情も亦同邊であつたであらう。前半には石童丸に、後半は梅若丸によく似通つた幾多の脚色は、或ひは右の鳥追の歌を中心として敷衍せられたものでは無からうか。假に然りとするならば、舞臺は違ふが謠曲の鳥追舟などは、既に亦其一先型であつた。
 之に就いて讀者の注意を乞ひたい一事は、山莊太夫には限らず、多くの長者没落譚には農作に關する話頭を件なつて居ることである。前に述べた入日を招き還した話なども、一日の中に千町歩の田を植ゑ終せんが爲にしたといふのが普通である。又長者屋敷の故迹の近くに、早乙女《さをとめ》の話を傳へたものが多い。例へば肥後の菊池の米原《よなはるの》長者の故迹には、田植人等に晝餉を運ぶはした女が、疲れて死んだ墓所などゝいふのがある。長者が無慈悲で滅亡したと云ふ因縁話とは鍔目《つばめ》が合ふか知らぬが、只それだけでは跡の遺るには不充分である。然るに俚謠集の中に採録せられた國々の田植歌を見ると、東國奧州ではひるま持ち〔五字傍点〕と謂ひ、山陰山陽ではおなり〔三字傍点〕人《ど》又はおなり衆などゝ呼ばれて、田植の日に食物を田に運ぶ者は、特に若き婦人を擇んで美装させ、それが其日の儀式中重要な一役であつたと見えて、之を歌つた小歌の數が甚だ多い。齋藤和堂氏の説では、伊豆東岸の村々には近い頃迄、田植の日に此女を泥田の中へ投入れる風習が遣つて居たと云ふ。此等の舊慣が如何なる意味をもつかは、別に論ずべき大問題であるが、兎に角に早少女の死んだと云ふ話が、長者傳説に伴なひ易い一節であるとすると、若い安壽姫の非業の死、竝に其母の盲目にして鳥を追ふといふ哀れな話も、單に由良長者の口碑として不調和な取合せで無いのみならず、寧ろ山莊太夫の物語の由來を明らかにするよい手掛りであるかと思ふ。鳥追までは附け掛けのやうに批難する人があるか知らぬが、それは此行事の農作上如何に重要な地位を占めて居たかを知らぬ者である。農夫と鳥との爭關は昔は至つて烈しかつたもので、出來秋の案山子や鳴子では到底間に合はず、春の初めの小正月の日に、嚴重なる儀式を履んで一年中鳥を追うたこと、それが正月に來る鳥追と云ふ太夫の由緒に他ならぬ。要するにその農村生活に重大なる交渉を有する點が、長者の話(112)に編込まれた理由だとするならば、鳥追は直ちに田植に次ぐべき顯著なる毎年年頭の嘉例であつたのである。
 
          三
 
 長者の美しい婢女《はしため》の死、及び其母の鳥追の歌が、如何にして山莊太夫の由來を説明し得るかと云ふ問題は、自分の最も趣味多しと感ずる所である。長者の話に限らず、凡そ國々で村老の語り傳ふる古譚は、册子や謠ひ物の如き文章として行はれるものは幾何も無い。其他の大部分は口から耳へ、しかも切れ/”\に言ひ殘されたもので、我々好事の徒が筆録すればこそ一編の記文ともなるが、實は或塚或社等に關して、ぽつ/\と話された説話が、新たに纏められたに過ぎぬのである。さうして一旦書册に登載せられたものが復原して地方に散布することも、後世には勿論稀なる例では無いが、なほ田舍の隅々には、うぶ〔二字傍点〕の儘で永く傳はることが多いのである。そんなら其等の傳説は、如何にして世を經るまゝに次第に豐富になるか、殊には最初其傳説の種を蒔き、乃至は二葉を移植したのは誰かと言ふと、村の故老たちは最初から、虚誕《うそ》を言うても人をして信ぜしめ能はぬことを知つて居た。誤解と速斷とは或ひは有つたにしても、無中に有を結構することは敢てせぬ筈である。但し其間に在つて、中央都會の文藝とは何等の交渉無しに、田舍ばかりの狹い區域を往來する、一種の伎藝家は夙くよりあつたらしい。彼等は些かも文字の力は借らずに、耳で學んだ歌謠の類をそらんじて、春秋の物日に村々を廻つた。中にも智巧ある輩は場合相應に即興の文句を插み、奇拔な誇張や形容を以て人の耳を怡ばしめたかも知れぬ上に、其伎藝には既に卑近なる一種の目的があつたのである。近世に至る迄、之を總括して祝言と名づけて居た。即ち門に立つては門を譽め、門を入つては庭を譽め厩を譽め、家に入つては座敷を譽め、何につけてもやあら目出たやと唱へたことは、少なくも足利時代からの風であつた。近世に於ても松の内の萬歳大黒舞の徒は申すに及ばず、鳥追|節季候《せきぞろ》厄拂ひなどの物貰ひ迄が、盛んに縁起のよい文句を連發するのは人のよく知る所である。長者の傳説などには之に胚胎した、存外に昨今なものも少なくないと思ふ。しかも一(113)轉して長者没落の不吉な口碑に變じたのも、元を忘れて一二代を過れば有得べきことである。麥秀冉々として昔長者の居た跡と言へば、佛法に養はれた根強い盛者必衰の理は、忽ちにして人々の胸に感ぜらるべきである。其に就いて一つの例を擧ぐるならば、由良の湊でも千軒長者といふ語があるが、常陸などにも松原千軒|伊師《いし》千軒などゝ言ひ、昔千戸の民家があつたと云ふ口碑は全國に最も多い。千軒と言へば今でも立派な都會である。地形から考へて、どうしても百軒も立たない川の隈山の陰などに、此種の言傳へのあるのは歌から起つた證據である。今に千軒にもなるやうにの所謂祝言の文句が、文句だけ記憶せられて時の關係が忘れられたのである。長者の榮華の極端に花やかに、其幸運の極端に得易かつたなどは、即ち空想の産物たる好い證據である。
 
          四
 
 前に掲げた肥後の米原長者の發祥談にも、京のある姫君が觀音の夢の告に從ひ、黄金を袋に入れて遙々と邊土の炭燒男の所へ嫁に來る。男は米を買ひに出て其黄金を礫にして川に浮いて居る鴨を打つた。花嫁が之を惜しんで男を責めると、あんな物が寶なのか、そんなら裏の山にいくらも落ちて居ると、終にそれを取集めて一朝にして萬福長者となつたと云ふ(肥後國志)。此と似寄つた話は遠州鴨江觀音の縁起として曳駒拾遺《ひこましふゐ》に記さるゝのみならず、安藝と筑前とでは今でも歌ひ物として歌はれて居る。文句には雙方大分の相異があつて、一方では「筑紫豐後は臼杵の城下、藁で髪ゆた炭燒小五郎」と言ひ、後者では「豐後みね内炭燒又吾、藁で髪ゆた小丈《こだけ》な男云々」と歌ふが、「あんな小石が寶になれば、わしが炭燒く谷々に、凡そ小笊で山ほどござる」と云ふ結末はよく似て居る(俚謠集)。此等は固より一旦の結集を經た後のもので、此場合の適切な例では無いけれども、無名氏の口誦《くちすさみ》が永く/\行はれた消息は、之に由つて窺はれる。もしも歌ひ手の才覺で附近の地名などを歌の中に採入れ得たならば、婦女子の胸に入ることも一段と深く、從つて久しく之を郷黨に保存することが出來たことゝ思ふ。長者の傳記が田植や鳥追の如き日常の生活と連結(114)して記傳せられるのも、かつは此話が本來郷土の土に根ざしたものなることを證して居る。
 之を要するに、民間の歌謠と傳説とは、終始大きな關係を有つて居る。昔の人の律語を以て事績を傳承する習性は、夙に謠ひ物の中から種々の口碑を拾ひ上げた。後世傳奇を愛好する傾向が田舍の方にも瀰漫するやうになつては、更に藝術の立場から其口碑の急激なる成長を促す者が現はれた。しかも此等の地方的民譚が、山莊太夫の淨瑠璃などの如く、一國の文學として世に行はるゝ爲には、更に一段の幸福なる機會が必要であつた。即ち其話に一般的興味の豐かであること、及び或非凡なる語部の手を經て、話に一應の筋道が通り、中古の物語の要件たる因果の理法が程好く敷衍せらるゝに至れば、勿論郷土の認めて眞實とする所とは次第に背馳するが、其代りには花やかな都會生活の中に入り交つて、永く戯作者等の趣向の種に用立つことを得るのである。
 自分は寛永度の六段物のみに由つて、其個々の場面の古さ新しさを鑑別するの難事たることをよく知つて居る。しかも之を各地の長者歿落傳説の類型と比較して、後代の技巧が到底偶然には添附し能ふまじき一致の存することを感ずるのである。之を具體的に言ふならば、早乙女の話や鳥追の歌は、長者の滅亡退轉とは寧ろ調和しにくい事柄であるから、多分は其最初の形、即ち專ら其榮華繁昌を傳へられて居た時代から、長者に附いて廻つて居た口碑の一であつたらうかと思ふのである。
 
          五
 
 右の想像を援護する爲に、自分は茲に山莊太夫と云ふ名稱を説明したいと思ふ。由良長者が其屋敷に山椒の木を栽ゑて居たからと云ふ説もあるさうだが、山莊太夫は長者の名として、如何にも似つかはしからぬものである。然るに土佐國には古く山莊太夫と稱する一階級の人民が住んで居たと云ふ。沼田頼輔君の報導に依れば、貽謀記事と云ふ書卷十三に、「江口村に永野善太夫、赤岡に足田市太夫と云ふ太夫、兩名は山莊頭なり。山莊は山分に住む太夫にて、(115)弓祈念などをする徒なり。近年山分に山莊と云ふ祈?をする者多きを、都方より不審して調べしに、何れも足田市太夫弟子と云ふ。赤岡の市太夫に正すに、元親(長曾我部)よりの證文を所持してありき。市太夫平日は地曳網などを曳き賤しき渡世を爲す者なれば、無刀にて出でたりと也。一宮千部經勤行の時は石垣の脇に兩人の太夫番所を構へ、馬場兩脇に立つ商人店屋より芝賃を取ること昔よりの式なりと言へり。此時には帶刀にてきつぱりとして出けると也」とある(取詮)。此書よりよほど後に出た南路志を捜して見たところ、香美《かゞみ》郡|須留田《するた》村(今の香宗村か)の條に、同じ兩家の太夫の事が些し違つて出て居る。先づ見出しには「當村住居博士頭蘆田主馬太夫之事」とあつて次に、「致和(著者武藤氏)云、江ノ口村永野喜太夫とこの主馬太夫と、兩人は博士頭と云ふ職業なり。本尊は摩利支天を祭りて中臣祓を執行せる珍しきこと也。喜太夫は斷絶して今主馬太夫一人、國中博士の頭役を勤む。曾て勲功あり、今も一宮|千部會《せんぶゑ》のとき元親より拜領の鑓を備へて警固を爲す云々」とあり、更に右主馬太夫が家に傳へた古文書數通を掲げて居る。其文書は何れも天正以後のものであるが、山内家から出したものには宛名を算所《さんじよ》足田主馬太夫殿と認め、享和年間に此家から出した書上には、國中博士頭の事が詳かに述べてある。太夫と云ふ語は獨り土佐のみでも無いが、村土着の神官のことを意味する。殊に土佐では定まつた社に仕へて居らぬ祈?者をも太夫と呼んだらしい。以上の記事に依ると、山莊又は算所と呼ばれた土佐の太夫は、表向の名を博士と稱する一種の祈?業者であつたのである。
 遠州掛川の附近に居住して所謂|千秋萬歳《せんすまんざい》に携はり、別名を聲聞身《しやうもんじん》(唱門師)とも院内とも又散所とも呼ばれた博士小太夫の事は、既に毛坊主考の結論にも之を述べて置いた(郷土研究二卷七二二頁)。此地の散所は寺を作つて之に據つて居た。掛川志を見るに、今の掛川町大字仁藤益田の條に、「廣安寺、修驗僧なり。今川氏永禄六年の裁許?を傳ふ。これには陰陽博士職の事云々松永太夫とあり。子孫博士何太夫と稱し來れり。天正十年石川氏領の時、博士小太夫と云ふ者、仁藤村八幡宮の山に妙見堂を建つ、證文あり。後年修驗の僧を置きて小太夫が支配止みたりと云へり」とあつて、博士と修驗僧とは別筋なるが如く記して居るが、是は多分土御門家の管轄が三寶院か聖護院かに移つたのを、(116)此の如く誤解したもので、實は地名辭書が引用した稿本の説の如く、寺の先祖が昔は專ら博士と稱して居たのでなければ、あんな文書を傳へる筈が無い。同じ小笠郡の西山口村には印内《いんない》と云ふ大字がある。古くは院内と書き、博士小太夫此が開發人であつた。院内山伏と云ふ者六戸あつて、交代に村長を勤めたと亦掛川志にある。之を見ても博士はやがて山臥の部類であつたことが分る。此徒妙見を祭つた他の例は、伯耆志に今の西伯郡法勝寺村大字法勝寺宿、陰陽師井田氏今岡氏住す。永禄の頃領主に招かれて京より下れりと云ふ。祭る所北辰妙見なりと云ふとある。此地方には陰陽師と稱する人民が所々に居た。他の國にも尾參遠等の院内村の如く、此徒が聚居して一村を爲した例は多い。近江蒲生郡|北比都佐《きたひづさ》村大字小谷などは、此と云ふ寺も堂も無くして陰陽師山臥等が多く住んで居た。其由來は佐々木六角定頼の時に、此輩を使役して諸國の?勢を窺はしめ、其償として彼等を領内に住ませて布施物を收得させた。以前は其數が千餘人に及び、民俗之を小谷賣僧《をだにまいす》と名づけた。後には各村に分散して住んだと云ふ(近江輿地誌略)。貝原翁の筑前續風土記に、今の遠賀《をが》郡戸畑町大字|中原《なかばる》、「此村に卜者三人あり陰陽師と稱す。其祖知れず系圖無し。凡そ國中(筑前)所々に陰陽五十人ばかり有り。方言に卜者を博士とも云ふ。村々を廻り行《ある》き家々の禍福を卜ふを以て業とす。或者は賣卜の外耕作をも營めり」とある。甲州でもハカセと謂ふは算占ひをして歩行《ある》く者の名であつた(裏見寒話四)。中世の博士が今日とは雲泥の、變な人體の者であつたこと、又陰陽師身上知らずなどゝ言ひ、暦と祈?の外に村里では卜占を以て生業として居たことも人のよく知る所である。唯此徒が多くの毛坊主と同樣に、摩利支天や北辰妙見を本尊として奉仕し、單に土御門家の支配を受くる點のみを以て、普通の修驗者と區別せられ得たことは、此迄あまり注意した人も無かつたやうに思ふ。陸中|鹿角《かづの》郡小豆澤の大日堂などは、蜻蛉長者《だんぶりちやうじや》の故迹として有名であるが、古來此堂を預つて居た谷内村の舊家は、代々大博士の名を以て呼ばれて居た(鹿角志)。恐らくは本當二山の何れにも屬して居なかつた山伏であらう。
 
(117)          六
 
 掛川廣安寺の例でもわかる如く、博士と云ひ唱門師《しよもじ》と云び院内と云ひ散所と云ふも、名の相異は決して職業や生活の相異で無かつた。陰陽師をサンシヨと呼んだ第三の例は、丹波|氷上《ひかみ》郡吉見村大字梶原の支村に、産所と云ふ二十戸高十三石餘の一部落、此地は陰陽師ばかりの村であつた(丹波志)。此郡などには外にも此輩の雜居する村が少なくなかつた。又同じ地名の存する地方は、例へば、
  丹波氷上郡春日部村大字小多利産所上
  丹後與謝郡市場村大字幾地算所繩手
  但馬朝來郡與布土村大字迫間産所
  上總君津郡佐貫町大字佐貫産所谷
  伊勢一志郡八ツ山村大字八對野算所
  同 同  川口村算所
の類が多い。竹葉氏報告に依れば、同じ伊勢の一志郡中原村大字田村は特殊部落であるが、今より二百年程前に同村大字算所の松ノ相《あひ》と云ふ處から、與五郎與六郎の兄弟が一族と共に來住繁殖した。農を主とし屠畜には關係せぬと云ふ(此徒に與次郎與五郎の類の名が多いのは何故であらうか)。
 多くの産所には地味肥沃の野に住着いて元の業を廢し、傳説の次第に幽かになる者が多い。近江などにも産所村は稀で無かつた。曾て大橋金造氏の報ぜられた神崎郡木流村の産所には産所彌太夫等住し、竈祓祈?家相方角などを見て活計としたとあるが、此外にも高島郡青柳村附近にあつた産所村などは、邑内に三重生《みへふ》神社と云ふがあつて、醍醐聖帝の御后一産に三子を生みたまひしを奉祀すると稱し、其御産の所なる故に此地名があるとある(近江國輿地誌略卷(118)九十二)。此説が他の産所村に通用せぬは申す迄も無いが、しかも産所の文字に拘泥して、婦女月事又は産の穢れあるとき、行きて宿するが故に宿とも産所とも云うて世間から賤しめられるのだといふ説は、往々にして信ぜられて居たのである。例へば同じ輿地誌略卷六十三、近江蒲生都中野村附近の宿村の條にも、宿村産所村は同種で、穢有る婦人を宿せしめ又遊女を置きて諸方にも出した故、世間より厭ひ賤しめらるゝ一村各別の村になつたとある。何に基いて此樣な斷定をしたものか、由來を明らかにしたいと思つて居る。
 賤者考に依れば、紀州では伊都郡相賀庄野村(今の山田村大字か)、同郡官省符庄淨土寺村(今の應其村大字)及び日高郡茨木村(東内原村大字か)の内などに、サンジヨと呼ぶ一區があつた。野村のサンジヨには陰陽師居り、淨土寺村のには巫女が住んで居た。或説にはサンジヨは山陵の轉訛かと云ふが、紀州には著しい山陵も無いから從ひ難い。やはりもとは産所の意であつたのが、後に陰陽師巫女など入込んだものだらうとあるのは、是亦前の近江のと同説である。又紀州で産所は夙《しゆく》よりは聊か優れる如く云ふけれども、同火を禁ぜぬばかりで通婚はやはり忌むから同じ事だとある。夙と産所と同じ物だと云ふ説は、實はまだ確かな證跡は無いのである。之に反して産所と唱門師と同じきことは、前の掛川院内以外にも傍證がある。此も近江の坂田郡大原村大字産所などは即ち其一例で、淡海木間攫卷九に、「産所村の民人は唱門師の血脉なりと云ふ。和俗往古より此徒を賤しむこと甚し。或説に唱門師と云ふ號は、僧の人家門前に來り金鼓《こんく》を扣きて米を乞ふ。既に京の傍にも唱門師村あり云々。按ずるに此邊にて唱門師と呼ぶ者は穢多の類なりと云ふ」とある。
 京都附近に多數の唱門師が住んで居たことは、段々記録にも見えて居るが、あまり長くなるから稿を更めで述べるつもりである。只一つ此が別稱のサンジヨであつた例を擧げると、以文會筆記の中に、山城葛野郡梅津村大字西梅津の西南に、近世迄一溝を境して五六戸の唱門師が住んで居たとある。飲席集會本郷と分別する所は無いが、唯婚禮の席には參會を許されぬ。後追々に市中に移任して纔かに一軒が殘つた。此家或時本郷と出自を論じて訴訟を爲し官裁(119)を乞うた節、本郷よりは彼はもと山所と稱し餌取にも近き者の由を申すと、彼は又其母の?《やもめ》なるが、嘗て郷良の家に居を同じくせしことあるを以てその否なることを理る云々。山所は又産所とも三條とも書いて用字は一定で無いとある。
 此等の材料を綜合して考へると、社會上の地位は地方によつて區々であつたが、要するに山莊は自分の所謂ヒジリの一種である。サンシヨのサンは「占や算」の算で、算者又は算所と書くのが命名の本意に當つて居るかと思ふ。卜占祈?の表藝の他に、或ひは祝言を唱へ歌舞を奏して合力を受け、更に其一部の者は遊藝賣笑の賤しきに就くをも辭せなかつた爲に、其名稱も區々になり、且つ色々の宛字が出來て愈出自が不明になつたものと考へる。
 
          七
 
 自分の見る所では、丹後由良の長者が其名を山莊太夫と呼ばれたのは偶然で無い。あれは最初あの話を語つてあるいた伎藝員が、或算所の太夫であつたのが、いつの世にか曲の主人公の名と誤解せられたのである。此説の牽強で無いことを證するには、更に太夫と云ふ語がどの程度まで、用ゐられて居たかを考へねばならぬ。土佐では太夫が一種の祈?者であつた證は、寺川郷談七月十五日の條に、人の死ぬことを述べて、「そこの山伏爰の太夫《ものしり》立てぬ願こそ無かりしが云々」とある。モノシリと訓を附したのは雅文めかした作者の造意らしい。ずつと懸離れて奧州の北端でも、タイフは禰宜又は神主のことである(津輕方言考等)。伊勢神宮の舊|御師《おし》が何れも何々太夫であつたことは人よく知る。タイフが果して朝官の諸太夫などの太夫から出たか否かは、此度は先づ論究を見合せる。しかし太夫が此徒のみの專用で無かつたことだけは爭ひ難き事實で、我々の知る限りでも、先づ第一に之に最も近い者に神事舞《じんじまひ》太夫がある。關東では近世江戸淺草の田村八太夫之を支配し、習合神道の一派を立てたが、以前|舞々《まひ/\》太夫と云つた階級の一部らしい。神事には携はるが、職掌は所謂神事舞に限られて居た。田村八太夫に從屬せぬ舞々も後世まで所々に居り、之をば別(120)に音曲舞太夫と稱へた。相州足柄下郡足柄村大字荻窪に居た音曲舞太夫などは、越前の舞々幸若の流を汲むと云ひ、是亦大小の神社の祭に法樂の舞を奏し、女房をば女舞太夫と云ひ、夫婦共稼ぎで村々に巡業することを古くは勸進と云つた。元禄頃に此家から分れて神事舞太夫になつた者があつて、同村に住すと云ふ(新編相模風土記)。若狹には舞々太夫が村々に住んで居た。殊に遠敷《をにふ》郡遠敷村舞々谷の如きは、十餘戸の住民悉く舞々であつた。舞の時に唱ふる音曲は凡て越前幸若の流儀である。貞享元年に土御門家が陰陽師の徒を定めたとき、國中の舞々にして彼家に屬する者十餘人、何れも舞々の號を改めて陰陽師と稱し、泰山府君を祀り祈?を業とした。舞々谷の舞々も亦大半は陰陽師になつたと云ふ(若狹郡縣志)。幸若が舞々であることは明證がある。しかも後世の芝居者が幸若の筋を引いて居ることは、桐座の家元たる桐大藏の系譜を見ても分る。桐氏の太夫は後々は婦人であつたが、伊豆の大場《だいば》から出て越前幸若の弟子となつた幸若與太夫を始祖として居る(百戯述略第四集)。
 大黒舞蛭子舞の類も右の舞々から出たものらしいが、近世は悉く非人階級の手に墮ち、しかも之を業とする者は亦太夫と言うた。太夫|垣内《がいと》太夫屋敷などゝいふ字《あざ》があつて、此徒の住み又は住んで居たと云ふ話は多くある。諸國の萬歳には公認非公認無數の種類があつたが、此等も亦常に太夫を稱して居た。例へば三河院内の作太夫、遠江院内の小太夫の外に、尾張知多郡養父村の院内も森福・松福・米福太夫の三家あり、同加木屋村には土羽太夫などあつても、何れも萬歳が主たる生業であつた。寛政六年關東陰陽家|觸頭《ふれがしら》代勤籔兵庫の書上に依れば、萬歳に二種あり、普通の萬歳は常は農業を營み、一日ばかりの假諸太夫を掛け、年始一通りの萬歳師にても、往古より土御門家に屬する者は帶刀の儀致來候。第二に常は陰陽道を相勤め、年始には萬歳職を勤むるあり。之を兼職萬歳と謂ふ。國名官名を許し装束は黄衣布衣までを免許致候云々とある(祠曹雜識卷三十六)。之を見ると平日は耕作を事とする太夫殿まで、太夫と名乘る根據の堂々たるものが有るやうだが、しかも土御門家の統一は、運上を取る外に何があつたか實は少々疑はしい。津村氏の譚海卷二に、「三河萬歳年始に來る者、土御門家の證?を出さるゝ。それを持ちて關所等も往來し來(121)る也。其證?板行にせしもの也。萬歳一人毎に帶することにて三年に一度書替あり。惣名代に一人證?を集め持參上京し、新證?に引替へ歸るなり。引替の時一枚に付銀一匁づゝ土御門家へ差出すことなり」とある。盲人の官位成より非常に廉く、我々の如き貧民でも、萬歳の太夫には容易になり得たのである。それよりも今一段氣樂な太夫は猿舞しの太夫である。江戸では以前淺草鳥越の猿屋町に猿屋加賀美太夫なる者、越後國猿屋村より出候者にて、舞太夫にても御座候哉云々と文政八年の書上にあつて、其末は明らかで無いが(府内備考卷十四)、別に山谷の新町に猿屋町と云ふ一區劃があつて、此には永く猿牽が住んで居た。此徒は穢多頭彈左衛門の配下であつて、代々の通り名を瀧口長太夫と名乘つた。甲州では河末中島村の中島三太夫、千塚村の守山野太夫、此兩人が猿引であつた。野太夫は麻上下を着し袈裟を掛け帶刀せしが近年故あつて罷むと裏見寒話卷四にある。常陸の猿舞しの頭は太田貞吉君の言はるゝ如く、鹽谷申太夫であつたといふ。佐竹氏が出羽へ轉封した際に、常陸から附いて移つた猿舞しは、三須田左太夫松岡武太夫と通り名を呼ばれ、正月元日と六月十二日と金砂山《かなさやま》御靈宮兩度の祭に、兩人の者罷出でゝ猿を舞はす例であつた(風俗問?答)、秋田藩では猿舞しを「猿ご」とも猿太夫とも言うた。サルゴは恐らくは猿樂の古名で、二者の關係を説明する一の手掛りかと思ふ。猿太夫は鹽谷申太夫の申太夫と共に、以前の普通名詞であつたらしい。會津越後日光其他の地方に於て、朝日長者の一人娘朝日御前、京の某中將を聟にして恠力の童子を産む、其名を猿丸太夫と稱すと傳ふるは、秋は悲しきなどゝ詠んだ感傷的詩人とは必ず別人で、やはり其物語を語りあるいた猿舞の太夫が、曲中の主人公の名になつたもの、即ち山莊太夫のよい道連れだと信ずるが、其話は亦他日に讓る。
 
          八
 
 以上の特色ある太夫の外、是非とも何々太夫と名乘らねば、我も人も氣の濟まぬやうに思ふ階級がいくらも有るが、それ等は概して音曲歌舞に携はる人々である。幸にして此人々、太夫を以て誇るべき稱呼と思ひ、大いに我々の研究(122)材料を保存するに骨を折つた。所謂松の位の太夫職なども勿論同日の談であるが、高尾薄雲を神のやうに敬慕する花柳通等には、此消息は解らぬであらう。但し巫女考を精讀せられた人たちは、舊き神社の末社として祀らるゝ百太夫《はくたいふ》又は白太夫《しらたいふ》と言ふ神が、同時に大昔の遊女等の祀る神であつた事實が、山莊太夫の問題と如何に關係するかを想像せられるであらう。蓋し人を娯ましむる遊藝は、神を悦ばすが目的の巫樂よりは後に出たものである。土佐の山莊太夫が社頭の店屋どもより芝賃を徴収する權能を有せし如く、甲州蓙八幡村とかに住んで居た舞太夫久保田豐後太夫は信玄の朱印を所持し、惣て國中にて芝居を興行する者に幕を貸す株を持つて居た。其舞臺入口の幕には八幡瀬太夫と書いてあつたと云ふ(裏見寒話卷四)。思ふに山莊はもと卜《うら》や算から其名を得た太夫であつたが、神社に附屬して祈?に必要なる歌舞を勤めた所から、祭の日の間には舞太夫の如く、村々を勸進して田穀の豐饒を祝し、さては金銀の山を爲すと云ふやうな、後世大黒舞春駒鳥追の太夫等が唱ふる如き、好い事づくめの歌をうたひ、其方の評判の方が高くなつた連中は、追々と工夫して神に遠く俗に近い新曲をも結構するに至つたのであらう。從つて此徒の生活と職業とは時代地方によつて色々の段階があり、どの時期に於て由良長者の話を都會文學の手に輸《いた》したかは決し難いが、山莊太夫が長者の名となつて殘り、鳥追の文句が意味もなく附隨して居るのを見ても、此輩の取扱つて居た時代には、長者の話はまだ十分に發達具體して居なかつたことが想像せられ、此輩の伎藝が由來至つて古いことも亦測り知られるのである。近世賤視せられて居た江戸の鳥追と云ふ女太夫などは、亦所謂産所の餘流であらう。越後風俗志卷一に依れば、此國殊に三島古志魚沼の諸郡の中に、一村の全部又は一部にタユフ筋と云ふ人から通始を忌嫌はるゝ家があつた。其素性は所説區々にして詳明で無いが、其筋目の者は男女とも、手足の指の骨格と陰部の内に、普通の人體とは異形なる所がある由、今尚老人はよく知つて居るとある。どうかあの地方の諸君の助に依り、その區々の諸説を集めて比較研究し、我毛坊主考を補足訂正して見たい。事によると人買をしたと云ふ山岡太夫なども、或ひは岩木山の御子神信仰を丹後邊まで運搬した、現在の太夫筋の先祖であつたのかも知れぬ。
(123) 之を要するに山莊太夫は、恰も淨瑠璃の一種を半太夫又は義太夫と謂ふと同じく、此長者の話を語り始めた者の通稱であつた。輿曲鳥追舟と趣向のよく似た美人の鳥追は、即ち山莊女太夫等の耕作に關する任務を推測せしむべきエピソードであつたらしいのである。
 
(124)     能と力者
 
          一
 
 能の根源に就いては、是から新たに學ばねばならぬことばかり多く、私は寧ろ純然たる讀者になつて居たいのであるが、もし是非とも何か御手傳をしなければならぬとすると、「能力」の問題なら少しは書けさうだと、うつかり言つてしまつたのが元になつて斯ういふ纏まりの付かぬものを公表するはめに陷つた。今からもう二十何年も前、能力萬力の話といふ短い一篇を、雜誌「謠曲界」に寄せたことがある。それを何とかやゝわかり易く、書き改めて見たいといふ念慮があつたのだが、實は其後まだ一向に新しい資料が集まらず、結局は同じ話をくり返す藝に、止まつたのは不本意なことである。たゞ問題の管理者として、之を次の代に引き繼ぐ價値の有るものと、思つて居ることだけは今もかはらぬのだから、人が説いてくれなければ自分が言ふより他は無い。さうして今度は一つの好い機會のやうにも思ふ。
 
          二
 
 謠曲の道成寺に、
  ワキ「いかに能力、はや鐘を鐘樓へ上げてあるか
(125)  狂言「さん候、はや鐘樓へ上げて候、御覽候へ
とある。能力といふのはそも何者であるか。その能力がどういふわけで狂言であり、今いふ狂言方の所役になつて居るのかといふことが、至つて素人くさい夙くからの私の問題であつた。
 同じく元服曾我、團三郎が箱根の寺を訪ふ條にも、案内を乞へば能力が、誰にてわたり候ぞといふ。その能力をつとめるのは狂言の役であつて、
  「いかに能力、箱王殿に此方へ御出あれと申候へ
  「畏つて候
斯ういつた問答をして居る。同じく粉川寺にも、いかに能力云々と物を申付くる條があつて、此役を特にヲカシと謂つて居るが、ヲカシも恐らくは狂言と義は一つであらう。
 右の三つの例は共に御寺での出來ごとで、能力は法師に近侍する承仕のやうなものと思はれるが、今まで氣を付けて居ても、寺の記録のやうなものゝ中にはまだ多くは見當らない。或ひはさう謂つて彼等を呼ぶ風習が後に起り、それが又現在のテキストの次々に筆録せられる時代であつたゞけで、本名は何か別に存したものでは無からうか。少なくとも、どうして此樣な呼び名が起つたかといふことが、私には問題になるのである。
 
          三
 
 能力といふ名稱が、直接に能の舞から出たものでないことは、僅かながら證據と云つてもよいものがある。現在の町村名鑑には現はれて居ないが、會津の耶麻郡の慶コ村には能力といふ部落があり、又その隣の堂島村には萬力といふ部落があつて、村名の由來は天文十四年の、新宮大祭禮相撲田樂日記といふものに説明せられて居る。この新宮は熊野を勸請したあの地方での大社である。毎年の祭の日には、部内十五箇村から各一人の最手《ほで》を出させて、相撲を取(126)らせる古例であつたと謂つて、この年の連名を掲げて居るが、其力士たちの名乘が、何れも選出せられた村々の名と同じである。勝つこと十四番に及ぶ者には、長吏即ち別當寺の貫主が、新たなる名乘を與へた。「萬力能力といふ村々、共に皆往古相撲に因る名乘なり」とある。村が祭の日に一人づゝの代表選手を出し、角力の聲援に熱狂する實例は、かの一文を書いてしまつてから後に、佐渡の外海府の旅行に於て私も聽いたことがあるから、或ひはまだ行はれて居るかも知れない。以前の公けの相撲の御式に於ても、國々から各一人の最手を召し登せられたが、是には如何なる名をのらしめたかは明らかでない。たゞ現在の國技館の競技で、なほ出身地と縁の深い山の名や川の名等を附けた者に、同郷の諸先輩がやゝ偏頗なるひいきを送らうとする慣習に、若干の遺風を推測するばかりである。能力がたゞの農民の殊に逞ましいものであつて、それが信仰を村と繋ぎ付ける、大きな力であつたことだけは是で判る。綱曳や玉せゝり、殊に關西の各地に弘く行はれる射手祭に於て、勝利を神の恩寵の我地に厚かるべき暗示と解し、代表者の選出に力瘤を入れることは、今とても決して過去の歴史では無い。さういふ中では相撲が最も單純なる力わざである故に、特に農村信仰の素朴なる姿を窺はしむるに足るのである。
 
          四
 
 但し能力といふ言葉を、この選手の名にした前例は、右の會津の新宮社の祭以外に、まだ私は出くはしたことが無いので、是だけでは根源を突き留められない。甲州の東山梨郡には、萬力と稱する村の名が一つあつて、古い村だつたと見えてこの邊一帶の行政區劃の名にもなり、萬力筋といふ呼び方は、今でも古老には記憶せられて居る。如何なる神の御社の信仰と、結び付いて居たのかは自分にはまだ言ふことが出來ぬが、是が全く別樣の起りをもつ者でなかつたことは、今でも此地方に僅かばかり痕を留めて居る、力《りき》の者といふ特殊の家筋のことを、考へて見ても想像が付くのである。
(127) 落葉俵といふ江戸人の隨筆には、甲州八代郡南北八代村あたりに、力キの者といふ一種の住民が居る。百姓よりは下り、番非人よりは上りたる身分にて、百姓家にて賤しめ、馬醫など致し、女房は取上婆などをいたし候故、相應に暮し水呑百姓よりはよけれども、悉く賤しめられ、村差出明細帳にも差別して掲げて居るとある。裏見寒話などでも、私の見た寫本にはソキの者となつて居たが、是は雙方同じで共にリキノモノと呼んで居たのであらう。特に是といふ理由は無く、何と無く別扱ひにせられ、座頭が所謂配當を取りに來る場合にも、この家だけは避けて居たといふやうなことが出て居る。即ち何か信仰に關係ある生活をして居たことが、後々普通の農民と伍するを得なくなつた原因であつて、萬力といふ村の名は、寧ろさういふ對立をしたよりも以前の?勢を、遺して居るものかと私などは考へて居る。
 
          五
 
 中世の特權世襲の慣行は、往々にして此種の悲しむべき差別觀の原因になつて居るやうである。土地を耕作する者がすべて土着の久しき者なるに對して、他の色々の職人は大小の差無く、大抵は新來であつて身元が明らかで無く、又ことさらに職業を深秘にせんが爲に、ちがつた生活ぶりを標榜しようとしたことが、自然に通婚を妨げて疎隔の感を深め、しかも衣食の資料に就いてはいつも受給者であり、地方の行政にも發言權が無かつた故に、一旦信仰の根柢が崩れると、その地位は段々と惡くなり、外部からの解説は之に伴なうて變つて來た。是は多くの役者といふものに共通の事情であつて、たゞその中では特別の庇護を、宮と權勢ある者から受けて居た部分だけが、どうやらかうやら體面を維持して、獨自の發達を遂げて居たのである。
 甲州のリキの者は、或ひは又|力者組《りきしやぐみ》の名を以て呼ばれて居た。「郷土研究」に出て居る三輪片瓦氏の報告では、是も後々は跡を隱したらしいが、多分は耕作を主業として居たので、次第に常民と見分けられなくなつたものであらう。(128)土地の言ひ傳へでは、リキの藥といふ墮胎藥を賣り、又頼まれてさういふ蔭の仕事をして居たともいふが、其以外には何によつて生を營んで居たか、詳しく知つて居る人も無いさうである。古い宗門改帳を見ると、野守などよりは更に末の方に下げて名を出して居るが、それも寛文年間のものには書いて無くて、元禄度のには出て居るといふやうな所から、恐らく一定の地に留まつて居なかつたのだらうと三輪君は言つて居られる。
 
          六
 
 この點はもつと附近の例に當つて見ないと、私にはまだ何とも言へないが、とにかくに他の色々の所謂下り職に比べて、力者には是といふ動かぬ職分の、傳はつて居なかつたことは考へられる。墮胎の藥などゝいふのも、産婆業から筋を引いたものであらうが、さういふことばかりで生計の立つ筈も無いから、つまりはこの業體が特殊扱ひの理由では無くして、以前の仕事が無くなつてから、強ひて此方面に活路を求めようとしたものと見られる。さうすると力者もしくはリキの者と呼ばれ出した原因が、何か今一つ古いところに在つて、それが或ひはかの能力や萬力といふ村の名の起りとも、關係があつたらうかといふ想像の、成り立つ餘地があるのである。
 力者といふ階級は、後にも列記するやうに、鎌倉期以降の中央の記録には盛んに現はれて居る。その職掌は世と共に次第に單純になり、後には陸尺・六尺とも呼ばれて、たゞ輿や駕籠を舁くだけの役のやうに、看做されることになつたけれども、現に甲州などの例も殘つて居て、それのみでは勿論起原を説明し得ない。大體に體力を以て勤仕する役といふことが特徴であつて、それに數々の種類の認められたのが、力の者といふ總稱の必要のもとであり、假に漢土に同じ文字の語が有るにしても、是はその輸入では無かつたらうと思つて居る。能の能力、相撲の萬力以外にも、何力といふやゝ低い職掌は幾つかある。その一つは脚力、是などはたしかに力者の任務のうちに算へられて居た。物や書?を遠くの土地へ運ぶ役で、飛脚は乃ちその中の特急のものを指した語らしいが、語の響きが好い爲か、夙くか(129)ら此方が普通になつて、脚力又はカクリキといふ名は、田舍でしか用ゐられなくなつてしまつた。
 
          七
 
 中國東部の私などの故郷には、自分の少年の頃まで、ソクリキと稱する珍しい職業があつた。字に書けば多分足力で最も脚力と近いのだが、實質は似もつかぬもので、是は一種の甚だ亂暴なる按摩であつた。折々は其施術を目撃したこともあるが、人をうつむけに臥させて置いて、太い二本の撞木杖を突張つて、からだ中を踏みまはす療治である。其後氣をつけて居るが他ではまだ見かけたことも無く、又書物や繪にも出て居ないやうだが、以前は農人の間には流行したのであらう。六つ七つの小兒に足の裏を踏んでもらふことだけは、ごく普通の草臥をなほす方法で、現に私の母なども折々はそれを子どもに要求したし、稀には背なかまでも踏ませる爺も有つたやうで、相違はたゞ太い短い杖によつて、壓力を加減することがこの場合には無かつたゞけである。この足力の按摩のことを、在所では又單にリキとも呼んで居た。自分の知つて居るのは目明きの大坊主であつた。是が大きな足で體中を踏みまはすのだから、杖も必要であつたらうが、又中々の技術もいつたことゝ思ふ。つまりは今日はもう絶えたけれども、是にも師資相承の口傳のやうなものは有り、もとは恐らく支那からでも學び取つた活計の一つで、それを所謂力の者が採用したか、もしくはさういふ職務に携はる者をも、人が力の者と呼ぶ理由があつたか、孰れにしたところで甲州の馬醫や産婆と、全く系統を別にしたものとは思はれぬのである。
 
          八
 
 是から考へて行くと、山へ荷物を背負つて嚮導してくれる者を強力といふなども、今ではもう當り前のやうに思ふ人が多いが、たゞ自然にさう名づけずには居られなかつたらうといふ程の、單純なる命名では無いやうである。まし(130)てや是にはたゞ力が強いといふだけより以上の信頼が附いて居る場合が多いのだから、或ひは強力の宛て字もこじつけであり、起りは別に有つたものとも想像せられぬことは無い。
 ずつと新しいところを捜して見ても、人の力で牽く車だから人力車といふのは發明だつたらうが、それを認めたのは文字を識つた人ばかりで、民間では最初からたゞ人力とばかり呼んで居り、其御手本は又一つ前の車力であつた。さうして車力を其車の名として車力曳きなどゝいふ土地と、車を牽く人それ自身を車力といふ地方と、今でもまだ相半ばして居る。馬力は勿論馬に牽かせる車力の、新しい略語であらうが、是さへも「馬力に出る」などゝいふやうに、多くは働く人、又は其働きをさすやうになつて居るのである。察するに力者といふ漢語の使用は相應に古かつたけれども、是が力わざを以て生を營む者の總稱であることはなほ記憶せられ、しかも其種類の甚だしく數多い爲に、各何力の名を以て區別する風習も亦夙く起り、それが現代までなほ傳はつて居て、或種の力者には特別の名が生まれたのである。さうして能の能力の如きは、其中の比較的上品なる部類に屬して居たものゝやうに思はれる。
 
          九
 
 室町期の數々の記録を渉獵すると、力者と呼ばるゝ者の職分はほゞ定まつて居て、先づ大まかに輿を舁く下法師と、解して置いても間違は無いやうに見える。しかし私などから見れば是は變遷であつて、寺家の行粧には牛車や乘馬があまり用ゐられず、板輿四方輿の類によつて上下する場合が多く、此者の需要が夙くからあつて、從つてさういふ方面の力わざに適した者を、日頃多數に養成して居た爲に、後々はそれが大きな寺の名物の如くなるに至つたのである。寺から力者を召し進じて手輿を舁かしめたといふことが、滿濟准后日記などには頻々と見えるが、是は公家武家に其用意の調はなかつたからで無く、寧ろ乘輿が公認せられない略式であつたのと、今一つは寺方の力者の舁きぶりが、非常に巧者で又面白かつた爲に、追々と流行して來たのかと思ふ。後鑑に引用した明コ元年の「わくらはの御法」に(131)も、
  力者は色々に足を踏みて輿を舁く
と見えて居る。つまらぬ技能だが是も亦、彼等が特長を以て其地位を保つて居た一つの場合である。以前力者に課せられて居た任務が、決して是ばかりで無かつたことは、たとへば明月記などからでも幾つもの例證は擧げられるが、輿ををかしく舁くといふことが評判になり、それが力者の表藝の如くにもて囃されると、少なくともそれより上品な仕事をする者だけは、何とか別の名を付けて區別する必要が生じ、後々は力者といへばたゞ輿舁きのことのやうになつて、中央と田舍との間に、名は同じで物はちがつた、色々の力者組が出來たものと思ふ。
 
          一〇
 
 寺から臨時に借用せられた力者といふのは、右にいふ輿舁きの法師だけであつた。その以外に別に專屬の御力者といふものが、院にも幕府にも又大名の家々にも奉公して居たことは、是亦色々の記録に散見して居る。たゞ茲で私などの問題にして居るのは、それが何れも皆頭を圓めた、即ち本來寺方に發逢した者であつたか、但しは又俗體の力者といふものも元は有つたかといふことで、是がいはゆる能力と、能の舞との關係を考へる上に、可なり重要な觀點になるのである。注意すべき一つの例は、公方の御力者の役目には物品出納の係員となることがあつて、普通に之を藏法師と呼んで居た。馬の口取りや行列の先拂ひ、薙刀を持つ役にも力者が使はれ、之をたゞ房とのみも謂つたことが、伊勢貞丈などの説にも見えて居る。しかし人をやたらに法師の形にして使つたことは、所謂同朋隆盛期の風でもあり、俗人も亦實際はほんの少しの毛を殘して、殆と全部に近く剃つて居たやうな時代でもあつたから、頭の形だけでは俗と入道との差は立たず、現に輿を舁いた力者でも、或ひは法衣を着し又は直垂を着て出たと謂つて居る。寛正六年の親元日記には公方御力者助正、それから五十年後の永正十一年の雜々書禮にも、御力者祐正があるから、是が幕府の(132)古參の力者の通り名とも見られ、職務や境涯によつて僧俗二體、つまり力者といふ名は兩者中間の、どちらにも通用し得るものであつたかと思はれる。しかも雙方が別々の必要に基いて、互ひに獨立して生まれたと見ることが出來ぬ以上は、元はやつぱり寺院の側に附いて居たのが、次々その職分の擴張又は變北によつて、他の一方にも採用せられるに至つたことは、力者といふやうな物々しい名稱からも、又この仲間の數百年來の處世術からも、大よそは推測し得られるのである。
 
          一一
 
 確かな結論も導き得ないことを、長々しく説き立てるのも笑止だから、このあと唯簡單に自分だけの假定説を竝べて、是から新たに發見せられる地方の史料を待つことにしよう。力者といふ一つの階級の、諸國に分布して居た痕跡は、前に掲げた會津と甲州との二つの例だけでは無い。私の心づいて居る東京近くの地名でも、現在の横濱市内、舊久良岐郡の下大岡に、力者町といふ字がある。同じく川崎市に編入せられた橘樹郡の下末吉にも、力者免といふ小字が有る。この二つなどは共に其近くに、力者といふ住民の居たことだけは推測せしめる。是が雍州府志に見える北岩倉村の力者のやうに、帝都の傍ならば靈枢に奉仕したとか、又は勅使山門に登る日の腰輿を舁いたとかいふ言ひ傳へも成立たうが、生憎此地方には目ぼしい大寺も無く、又記念すべき大事件もなかつた。斯んな昔の片田舍にでも、なほ活計を求め得るやうな力者といふものが、曾ては住んで居たのである。
 その次には駿河の安倍郡美和村西ヶ谷の村社に、力者神社といふ御社がある。祭神は大山咋命と相殿六座、その神名は不詳と郡誌に出て居る。今でも土地に行つて尋ねたら何か判るかも知らぬが、これなどは力者が神に奉仕して居た名殘では無いかと思ふ。
 和歌山縣でも名草郡上野村といふ地に、八王子神社があつて其側に力侍《りきすの》社といふのがある。後に同郡川邊村に移す(133)と傳へて、こゝにも同社地に力侍社があり、一に又權現社とも謂つたさうだが、近世合祀の盛んだつた地方だから、今はもう跡形も無くなつて居るだらう。續風土記の編者は延喜式の牟婁郡天手力男神社、本國神名帳に名草郡從四位上雨天力男神とあるもの是ならんと解して居るが、それはたゞ力の一字に依つて想像したまでと思ふ。力侍と力者もたゞ一字を共にするだけのやうだが、私はこの侍といふ語に、何か奉仕者の意味が含まれるかの如く感じて居る。
 次には又東京の近くでは、舊浦和領の伊苅村の鎭守に、力大明神といふ御社があつた。相傳ふ昔平家の六代禅師が此地に來た時に、其從者を祭つたもので、神號は其從者の名を取つて呼ぶと云々(新篇風土記稿四)。力と名のつく從者といふならば、先づは力者と見て差支はあるまい。
 
          一二
 
 東京の市内でも、下澁谷の豐澤の寶泉寺、以前は氷川社の別當であつて、こゝにも金王櫻の名木がある。此寺の地内に強力權現社、神體は長さ五寸五分の木像で、昔住僧が大峰に登つた際に、異僧に逢つて之を授かつた。汝賊難を患ふることあらん。此像を尊信せば免るべしといふ教へを受けたといふから、後々其目的を以て參詣する者を豫期したのであらう。像の形は秋葉權現に似て居る。異僧の名を問へばたゞ強力とのみ答へた。仍て此神號とすと豐多摩郡誌には出て居るが、本文は風土記稿の丸寫しだから、現在どう改まつて居るかはわかつたもので無い。しかしともかくも是も力者といふ職業と、何か關係のあつたものらしく考へられる。事によると曾てはこの附近にも、力者の一群は住んで居たかも知れぬのである。
 この種切れ/”\の地方の資料は、氣を付けて居れば今後もなほ集まつて來る見込がある。それを數多く重ね合せて見た上で無いと、うつかりしたことの言へないのは勿論だが、少なくとも力者の社會上の地位は變化し、その活計も亦之に伴なうて移り動いて居たことだけは、中央の記録では必ずしも明らかで無く、たゞ漠然たる地方人の語り傳へ(134)を無視しない我々が、追々に之を立證し得るだらうと思つて居る。能の狂言方ヲカシの役の者が、「いかに能力」と喚ばれて罷り出る由緒なども、もう今日では彼等自らも、言ひ立てることが出來なくなつて居るのだが、まだ偶然に田舍には、その痕跡と認めてよいものが傳はつて居るかも知れない。
 
          一三
 
 曾ては力役を以て神靈に奉仕する者の地位が、今よりも遙かに高かつたらしいことは、是も一度郷土研究二卷一一號の中で考へて見たことがある。岡山縣北部の山間處々に、近い年まで行はれて居た護法祭などは、佛法に謂ふ所の語法善神とは事かはり、たゞの人間の若者に法力を施して、神を憑らしめて奇瑞を現ずるもので、仍て又護法|實《ざね》とも呼んで居た。力者といふ名は用ゐなかつたやうだが、此役に當る者は寺に從屬した俗人であり、しかも特色は超凡の膂力を示すことに在つて、或時には此行事を見物に來た武勇の士と格闘して、二人ともに谷に墮ちて死んだといふ實話さへ傳はつて居る。さうしてこの神付けの式の行はれた靈場には、何れも護法の祠といふものがあつて、今も其信仰を支持しようとして居る。
 女のよりましには、?々として盡きざる語り事があるに對して、男の靈媒は概して口が重く、たゞ手足の動きによつて、不思議の靈力の身に依ることを示す例が今でもまだ稀でない。最近はそれがたゞ個々の奇跡として取囃さるゝに止まるが、以前は計畫し又豫期して、毎年の儀式になつて居たものが多く、從つて是に參加する者に家筋があり、且つ若干の心構へがあつたのでは無いかと私は想像する。鞍馬の竹伐りとか吉野の蛙飛びとか、京近くのものは人にも知られて居るが、地方には形はやゝちがつて是と系統を同じくする信仰行事が、埋もれてやがて滅び、又は純然たる伎藝に化して、信仰圏外に四散して居る。秋田の蜘蛛舞とか房總地方のつく舞なども其類で、是等は共に今ならばまだはつきりと記憶して居る者があるのである。
 
(135)          一四
 
 古い記録では呪師と書いて、ズシ又はノロンジと稱へたものが、是と起原を同じくするものゝ、やゝ觀覽用になつて行く過程では無かつたらうか。久しく注意はして居るが、遺憾ながらまだ確かにさうだといふだけの材料が無い。茲ではほゞ安全に列擧し得ることは五つ、その一つは公家の多くの日記に出て居るのは、主として晝の呪師とことわつてあつて、別に夜分の行事として、今一段と深秘なものがあつたらしきこと、二つには呪師の手といふのは、龍天・昆沙門・鬼(兵範記、仁平二年正月十四日)、さては大唐文珠といふやうな(玉葉、建久五年正月十三日)、諸天菩薩の御姿を寫したものが多いこと、三には呪師には走るといつて、長い筵を敷いて其上を奔馳する動作が主であつたこと、四つには此役を勤めた者は寺に附いた童子の、何々丸といふやうなものが多く、諸人の愛憐を受けたことは、後世の能役者も同じかつたこと、五つには呪師と猿樂は同じ一つの日の催しに、引續いて行はれて居るのが普通だつたことであるが、なほ此以外にも手掛りは有りさうに思ふ。たゞ後代力者と呼ばれた者の所役が、餘りにも一方に偏して來たばかりに、呪師も其力者の管掌の内であつたらうといふことが、今はまだ大膽に失する感があるだけである。
 能の文藝が大部分は觀世父子の著作に成るといふのは、今日の通説のやうに承知するが、それがあの歌舞の全部の創始であるやうに、解することは恐らくは史實に反する。といふわけは猿樂の起りは、彼等よりも三百年は古く、又それ/”\の舞の曲目は、既に明月記その他に列記せられて居るものが多いからである。舞の面白さに應じて語りの詞を伸縮し、綾羅の袂を以て舞臺の正面を覆ふやうにしたのは彼等であつて、其爲に伎藝の外貌の變つたことまでは爭はれないが、それでもなほ小さくなつて能力は片隅に控へて居たのである。乃ち彼等が參與しなければ猿樂は存立しなかつた。單に執次や輿舁きの童子を引張り出して、いはゆる仕出しの役に追ひ使つたのとは、少しばかり話がちがふと思ふ。もしさうだつたら、あの活々とした狂言は生まれて來る筈が無いからである。
 
(136)  (附記)
   梅園筆記卷四に、力者の事を説く條があり、是には多くの中世文獻を引用して居る。それを一つ/\當つて見ることはまだ出來ずに居るが、この中にいふ力者は、大抵は輿を舁く役の者である。私の捜して見た中では、看聞御記といふ伏見宮の御日記に、特に力者の記事が多い。是も主として腰輿の御用に召されたことを知るだけであるが、その外にやゝ注意を惹かれるのは、應永二十九年八月二十九日の條に、譜代御力者有犬以下三人列參云々とある條で、力者にも「有」の字を名乘るものがあつたことが是でわかる。御力者の敬語は將軍家の譜代であるからだと思はれる。乃ち一方の寺力者に對して、別に武家の力者があつたのである。今一つは永享四年正月六日の條に、寺力者生鴨一進之、神妙也とある。宮は飼鳥を好まれたから是は食料では無いのかも知れぬが、ともかくも法師には似合はしからぬ獻品であつて、是によつてほゞ寺力者の生活ぶりが窺はれる。
 次に大日本史料の承久二年二月の條に採録せられた、京の泉涌寺清衆規式には此年再興ありし寺内の諸施設が列記してあるが、其中に人力堂、右採柴作食之淨人共住此處也とある。乃ち今なら寺男ともいふべきものが人力であつた。自分は是も多分は力者の一つの種類だつたと思ふ。
 力者が村に住む實例は、洛北北岩倉村の村民中に、髪を剃つて力者と稱する者が數十人あることを、雍州府志卷一に載せて居る。禁中の凶儀と勅使山門に登る際とに、乘物の役に出るとあるのは、延寶年中までの慣行と認めてよい。寺に住まなくなつてからもなほ頭を圓めて居たのは、恐らく寺力者の系統に屬するからで、すべての力者が皆法師では無かつたことは、色々の例證があるのである。信州諏訪の力者などは、近世は農を生業とし、外形は農民と異なる所が無かつた。矢崎源藏氏の示教によれば、明治初年まで存續して居た諏訪の力者は、湖南村大熊に十數戸、又永明村上原に二戸あつた。大熊のは一に又笠縫ひとも稱したが、今はどこへか移つて一戸も(137)殘つて居ない。上原の二戸は其まゝあるが、既に足を洗つてしまつて、少しの差別も無くなつて居る。たゞ以前御座石神社の祭禮の日に、諏訪大祝の駕籠に副ひ、又行列の先頭に長刀と大柄杓をもつて行くものであつたことのみが記憶せられて居る。本社の御祭式にも薙鎌を捧持し、又薙刀を持つて行道した者が力者であつた。繪詞以來の古い由緒であるが、それが右二地から出たか、又は他にも力者の村はあつたか、それを問ひ究める方法は今は無い。たゞこの社從屬の力者が、僧形で無かつたことのみは大よそ確實である。
 
(138)     參宮松の口碑
 
 佐渡で吉井の「地持院の松」の傍を通つて居た時、同じ車中の中山市橋の二君が、この松は伊勢詣りをして、路銀を借りて歸つて來たといふ傳説のある松です。他所にも斯ういふ話はありますかと訊かれた。自分は早速に、はあ方々にあるやうですねと答へて置いたが、實はこの地ではどう謂つて居るのか、詳しい話はまだ知らなかつたのである。それで戻つて來てから色々の本を探して見たが、自分の家にあるものには、一つもその地持院の松の記事が見當らない。或ひは私の思つて居るのと、こゝの話とはちがふかも知れぬ。それだつたら愈比べて見る必要があるわけである。
 私のあの時心づいて居た例には、先づ越後のが二つある。高木敏雄氏の日本傳説集に、柏崎の西の丘の西光寺に、上方參りをしたといふ老松があると出て居る。今から百四五十年も前に、此松が一度枯れて又活き返つたことがあるが、ちやうど其間だけ旅行をして居たのが、攝津の或寺で路銀を借りたといふ話も傳はつて居るさうである。同じ刈羽郡田尻村大字茨目の片がりの松にも、是と似た話があるといふことだが此方は詳しくは述べられて居ない。
 是は中西利コ君の報告する所であつた。同じ人は又郷土研究の一卷三號に、北蒲原郡分田村の都婆《つば》の松の傳説といふものを出して居る。この松は親鸞上人が箸を立てたのが、成長して大木となつたといふ言ひ傳へも持つて居るさうだが、それからずつと後、京の本願寺で建築工事があつた際に、私は越後分田村の松女と申す者と名乘つて、手傳に來た一婦人があつた。それが唄を歌つて工事を助けてから、普請がはかどつて僅か三十日で竣工し、女はいつの間に(139)か見えなくなつた。其禮といふつもりで分田村へ人が來て尋ねたが、松といふ女は知る者も無く、心あたりは只その三十日ほどの間、都婆の松が萎れて枯木のやうであつたことで、必定此木が御本山へ手傳に出たものと感動し、供養の石塔を刻して松の傍の土中に埋めたと謂つて居る。現在はそれがどういふ風に傳はつて居るやら、波多野氏が多分隣村と思ふが、もう一度尋ねてもらひ申したい。この記事の世に出たのは、はや二十五年の昔だから、よも同じまゝでは居るまいと思ふ。
 佐渡にも今一つよく似た話がある。中野城水君の「傳説の越後と佐渡」の後篇に、澤根町中山の伊之松と稱するものがそれで、この方は伊勢詣りで、やはり路銀が足りなくて困り、澤根の伊之松と名乘つて借銀をして去つた。次の年伊勢の御師が來て尋ねて見たが、伊之松といふ人は居ない。もしやあの松ではないかと行つて見ると、松の枝に七貫文の錢が掛けてあつたといふ。文久錢が七貫文と本文にはあるが、それではあんまり新し過ぎるから、其點は文飾であらう。伊之松といふ名も松にはやゝ珍しいが、果して參宮前からその名があつたのかどうか。それよりも不思議なのは澤根と吉井と、ちやうど中山先生の家を挾んで東西相望むのに、是だけまで内容のよう似た二傳説が、二つ竝んで活きて居られるものかどうか、但しは一つを信ずる人は全く他を知らず、もしくは贋として排斥して居るのかどうか。御係り合ひ御迷惑ながら、一應は取りたゞしを乞ひたいものである。
 それが幸ひに判明したら、或ひは同種傳説の脚無くして遠く赴く事情を、推究する手掛りが出來るかも知らぬ。私が前年春陽堂文庫の「日本の昔話」に、松子の伊勢詣りと題して載録した一話は、實は昔話では無くて傳説といふべきものであるが、秋田縣北秋田郡東館村大字獨鈷での事實で、是を今から百五十年前の、「雪の飽田根」といふ紀行の中から借用した。この分は女夫松で、一本は當時既に枯れて伐られて居たといふから、兎に角大分古い話である。或年伊勢の御師の家に、出羽から上つたといふ上品な若夫婦がとまつた。心配げな顔をして居るのでわけを尋ねると、之も同じく旅費が無くなつたといふ。毎年往來する土地だから、獨鈷の松子といふ名前だけを書き留めて、金を貸し(140)て發足させた。ところが次に下つた際にこれを受取らうとすると、村には松子などゝいふその容子の女は居ないとのことで仰天したが、考へのある村老たちがふと心づいて、それで漸く合點が行きました。もう大分以前から諏訪の御社の女夫松の梢に、劍先の形をした白い紙が掛かつて居る。或ひはあの松が人間の形を現じて、參宮をしたのかも知れぬと、取下させて見ると果して伊勢の御祓の札であつたので、一議にも及ばず借用の金子を返濟したと傳へて居る。錢を引掛けてあつたといふ佐渡の伊之松に比べると、此方がよほど又話に手が込んで居るやうである。
 しかも一方の話を丸々知つて居なかつたら、たとへ虚誕にもせよ是だけ類似した口碑を、空で作り上げることは到底出來ることでない。松の木が伊勢參宮をしたかせぬかは問題外として、少なくともさういふ傳説は旅行して居るのである。
 それが行く先々で僅かづゝ、模樣をかへて根づいて居るといふのも、心ある移植であることを察せしめる。宮城縣の刈田郡七ヶ宿村大字關では、此話が關の大杉といふ杉の木になつて居る。昔關西で或旅商人が、此村から出たといふ相撲取で、名を關の大杉と名乘る者と道連になつた。幾夜か宿を共にし旅費が足らぬといふので、若干金を用立てて別れた。後に尋ねて來て村人にきくと、そんな角力は居ないが、關の大杉といふ杉ならあるといふので、そこへ往つて見たところが其木の下枝に、是も財布が引掛けてあつて、恰も貸してあるだけの錢が、其中にあつたといふのは、澤根の伊之松と同じである。即ち此杉も人になつて、遠く旅行をしたといふので、此話は近藤喜一君の信達民譚集に出て居る。
 甲州でも裏見寒話といふ古い地誌に、府中一蓮寺の稻荷、一とせ浪士の姿となつて伊勢へ參宮し、大麻を受けしことあり、御師幸福太夫その姓名を問ふに、私は甲府一蓮寺の境内にて、庄の木八左衛門と名のる。その後不思議の告あつて八左衛門稻荷と號す。國中一方ならず信仰すとあつて、この分は借錢をして來たか否かは定かでない。寒話は寶暦二年の序があるから百八十年前のものだが、かの地の人にきくと今も此稻荷樣は流行して居るさうである。稻荷(141)は勿論よく人の形を假り、又?人のやうな名を名乘る上に、松とも杉ともこゝでは言つて居らぬけれども、庄の木といふからには是も多分一つの話の變化である。かうして探したらまだ他にも類例は見つかることゝ思つて居る。しかし此上に五つや七つ數が加はつたところで、それでこの傳説の由つて來たる所が明らかになるわけでも無く、傳説は移住し且つ土着するものだといふだけなら、もう是くらゐでもいやといふ人はあるまい。
 しかし刈羽郡茨目の片がり松のことだけは、もう少し越後の諸君に注意してもらひたい。カタガルといふのは此地方でも、多分一方へ傾くを意味する動詞であらう。さういふのが弘く日本の各地に亙つて、今でも特に靈ある樹の如く考へられて居るのである。松や杉のやうに幾らでもある木は、たゞ古くなつたからとてそれだけでは尊崇せられはしまい。寧ろ夙くから何等かの特徴のあるものが、斧鉞を憚られて段々に大木になつて來るものと思はれる。さういふ中でも旅行する人々に注意せられたのは、松の片枝が著しく横に伸び、それも東國では西の方へ異常に枝をさしたのが、都松とか見返り松とかの名を與へられて、人に方角を指さし示すものゝ如く考へられて居たのである。歌によく歌はれた伊勢の豐久野の錢掛松などは、參宮名所圖會といふ類の俗間の書にも、もう其名の由來を説明して居ないが、それは傳説が記録を逸したか、もしくは餘りにもたわいの無いものになつて居たかで、もとは必ず何かさういふ名の起りがあつたのである。誰に聽いたか記憶して居らぬから話にならぬが、たしか參宮の出來なかつた女が、此木の枝に錢を掛けて去つたらどうしたとか、拾つて掛けて置いたら本の主に返つたとかいふ類の話があつた。それが多分皆最初の形からは崩れたもので、古いものはもつと印象の深いものであつたと思ふ。さうして此松もやはり繪で見ると非常にカタガツて居るのである。越佐奧羽に分布して居る伊勢詣りの松は、或ひはこの豐久野の昔の種の、落ちこぼれではなかつたらうかと想像する。
 つまりはそれを記憶し又やゝ改造して、持つてあるいて居た者が東國には居たのである。假に伊勢から取り寄せたのではないにしても、この位弘く流傳して居るからには、相應の歳月がかけてある。つまりは聽いて覺えて來ては又(142)語つてあるくといふ、一つの系統があつたのである。さうした專門の者はさう多くは有り得ない。座頭か歩巫《あるきみこ》か、何れは旅の遊藝人でなければならぬのだが、話の種類又は趣向から、私だけは盲法師の方だと思つて居る。
 さうすると又一つ問題になるのは、そんな他處から來た者の氣まぐれなこしらへ話を、曾て現實に我土地であつた事のやうに、久しく信じて居たのはどうしたわけかといふ點だが、是は語り手と聽き手との間に、空想能力とも名づくべきものゝ差があつて、一方は文藝を解し、他方はまだ話には現實以外のものがあることを知らなかつた期間が、暫らく續いて居た結果と私は解して居る。手短に言ふならば説話を信じたのである。無論たゞぶらりと來てさう謂つたところで、記憶はおろか耳を傾ける者もあるまいが、元々或種の松杉に靈ありと認めて、折々は其靈の言葉を聽きたいと念じて居た人たちだけは、定まつた方式の下に或者の口を假りて、其木が自ら説くことならば信じたであらう。さうして一方にはその座頭やごぜの遊藝は、その口寄せの術から追々に發逢して來たもので、それが單なる身過ぎの種となり切つた後も、なほ長い間當初の方式を守つて居たのである。文藝と信仰とは、斯ういふ形式を以て永く其交渉を保つて居たやうに私には見える。
 
  (附記)
   此あと同じ雜誌に澤山の類似の例が報告せられ、又私の問題にした茨目のカタガリ松、西光寺の松などの寫眞も掲げられ、其後の二十五年の變遷もやゝ明らかになつたが、主として越後一國の事實であるから、こゝにくだ/\しくその固有名詞を列記することはさし控へる。佐渡の中山翁は多分伊勢御師の作爲だつたらうと言はれたが、其點も私はほゞ同感である。民間傳承の三卷一號には、之に就いての最上孝敬君の小考が出て居る。それには單なる説話としての流布以上に、別に老木の松などを仲立ちとして、伊勢參りの旅人に土地の信心者が、幣物を托する習慣があつた所から、話がさういふ樹に傳はりやすかつたのでは無いかとある。此點も自分はさも有ら(143)んかと思つて居る。どんなに珍しい又人望のある説話でも、やはり之を語り出すやうな機會が無ければ、土地に根を下して成長することは出來ぬからである。私はしば/\之を接木と臺木とにたとへて、或ひはもと同じ種類のものが、時を隔てゝ二度三度に、入つて來る場合もあつたかと想像して居るのである。
 
(144)     北國の民間文藝
 
 民間文藝の研究は、今でもまだ甚だしく一方にばかり片よつて居る。我々の事業に參加する人は、何よりも先づこの弱點に心づかなければならない。町と村里、又は北國と南の島々などでは、表面に現はれて居る文化の特色にも、それ/”\のちがひがある。從うてその各自の最も心づき易いものから、入つて行くことは本道でもあり、同時に又早く效果を擧げる近路でもある。
 所謂同時調査の意義と興味とに觸れた者が、全國の仲間を動かして一つの問題、一つの方角に面を向けしめようとするのも自然であるが、それだけに附いてあるいて居ては、地方の研究團體は榮えないだらう。「南越民俗」が特色の多い雜誌と言はれて居ることは、何か福井縣に於て特に調べ易く、わかれば他の地方の學徒も一齊に、御蔭を被るといふものを見出さうとして、諸君が共々に骨を折つて居られることを意味するやうに、私は感じて居るのだが實際はどうであらうか。
 若狹越前は地圖の上から見ても、又冬の雪の深さから考へても、何か古來の文化交通の上に、こちらとはちがつた現象の、認められさうな地域である。自分はまだ此地方を、淺々としかあるいて見たことも無いのだが、曾て福田源三郎翁と親しくして居た頃、あの味眞野《あぢまの》の野大坪萬歳の話を承はつて、大きな啓發を得たことがある。風俗志林といふ雜誌に二度までも其事を書いたのだが、今は手元にもそれが殘つて居ない。とにかく江戸へ出て來た知多や三河の今でも盛んな一團、もしくは京都の郊外や大和の吐田《はんた》箸尾、伊勢の神都の周圍に住んだ者とは別に、一つの系統の厩(145)祈?者が、遠く北國一帶を風靡すべく、越前を起點として居たのである。萬歳は人もよく知るやうに、手わざ足わざは至つて簡單で、力を祝言の詞に入れて居た點は、幸若と近い者であつた。しかも年月がやゝ隔たると、もう彼等が何を語つて居たかを、教へてくれる人も少ないのである。洗煉せられた表向きの文句のやうなものは記録にも有るらしいが、古く用ゐて居て後に流行しなくなつた部分は、恐らくは故老の只の語り草と化し、さうして消え去つてしまつたのであらう。惜しい話である。私の記憶にして誤りなしとすれば、野大坪でも他の土地の萬歳と同じに、猿を舞はすといふことはしなかつたに拘らず、古くからの由緒といふものにはその若干の痕跡があつた。猿が厩舍の安全に缺くべからざる呪物であつたことは、日本に著しい實例があつたのみならず、弘く東大陸の大面積に行渡つた風のやうに聽いて居る。それが華洛の文治派からは疎外せられ、馬を愛する武人の階級だけに庇護せられて、別に一派の祝人を永續せしめたことは、歴史に携はるほどの者は皆知つて居るが、是と大昔の猿女や猿丸と、どう繋がつてゐるかは是からの宿題である。此資料が幽かながらも此あたりには傳はつて居たのである。それをわざ/\忘れてしまはうと努めて居る人々の處へ、尋ねに行くのは全くむだな事だが、以前の印象はまだ少しづゝ、破片となつて周圍には四散して居らぬとも限らぬ。馬に關し又は猿についての口碑傳説が其影響を受けて、越前だけはやゝ他の地方と變つて居るとか、もしくは春の始めに村里を祝ひあるく者の言葉に、太平洋側では無いものがあるとか、さては農民の信心する神や佛たちに、北國は北國だけの異なる拜み方祈り方があるかも知れぬ、といふことも想像し得られるのである。
 北國が以前は交通の幹線であり、後次第に第二のものとなつたといふことも、民間傳承の觀察者には大きなことである。野大坪とは直接關係の無いことだが、この側面を往來して居た旅人には、可なり著しい東海岸との差があつたらしい。能美郡民謠集はもう十年餘りも前に、加賀の田舍に半生を過した五十そこ/\の一女性の、一人で覺えて居た歌章の三分の二ほどを筆録したものだが、是には若越の諸君の考へて見るべき點が幾つかある。他の多くの民謠採集なるものは、何れも有りふれた、「親の意見と茄子の花は」といふ類の短篇を、殆と比較もせずにたゞ竝べたものな(146)るに反して、能美郡の老女のもつて居たものには語りが多かつた。毎年春の頃とかに上の方から、女萬歳といふ女の藝人の小さな群が旅をして來て、語つて行つたものが記憶せられて居たのである。都會の讀賣の如くこれも印刷した紙をもち、それを錢に替へであるいたらしいが、斯ういふのは新しい便宜といふにとゞまり、讀み得る人の少なかつた時代には、口で何度も繰返して、心の面にプリントして行つたにちがひは無い。さうして氣をつけて見ると此種類の旅人は、特に日本海岸の方に多かつたやうである。御前の古名を保持した盲女の旅藝人は、關東にもよく來て私なども見て居るが、彼等の口から聽くものは、短い抒情詩ばかりになつて居たし、今日殘つた長篇にも是はあれの運搬だらうと思ふやうなものは殆と無い。
 その一ばん大きな理由はカタリモノの統一であらう。立派な作者のある堂々たる文藝の作品が、勾欄の上にも登れば旦那衆の口すさびにもなる時代が來ると、時には盆の踊のクドキにまで、太功記の十段目が採用せられる事になつて、在來の語りものは愈品が惡く、蔭のものに落ちぶれざるを得なかつた。しかし一たび芝居の勸進の城下町に限られ、臺本を讀みこなす力の里閭に普及しなかつた時世の樣を思ひ浮べると、この變遷の至つて若々しいものなることはよく察せられる。即ち上流人士の利用が少なかつた街道筋に、古風な門附けの押し遣られたことは、その必然の結果とも考へられるのである。元來婦人が旅をするといふことは、それ自身が異常であり、種類も亦甚だしく限られて居た筈である。今でも其名殘は村に入ると見られるが、是に對しては男が心を時めかすほかに、女にも亦大きな刺戟であり昂奮であつて、或ひは行脚僧や六部以上に、もつと容易に其職業が營まれ得たかも知れぬのである。越前はいはゞ斯ういふ特殊なる漂泊女性の爲に、大切なる道の口であつたのである。
 今まで歌比丘尼の歴史を考へて見ようとした人が、資料を東海の滸りばかりから、あさつて居たのは誤りといつてよい。是には文筆の士の旅の迹が、この側面の官道に偏して居て、しかも書物の上のみから、どんな種類の故事でも明らかにし得るかの如き、迷信を抱いて居た故である。活きた資料の多くが別に求められるとすると、捜しに行く先(147)はあちらでは無かつた筈である。何が彼等の通つた痕であらうかといふことは、私なども大分前から考へて居る。八百比丘尼の話は室町期の多くの日記に、當時の事實として録して居るから、自ら其樣な長命の女だと稱して、都鄙をあるいて居た者のあつたことは疑はれないが、其舊跡といふのが南は土佐國、北は會津にも及んで居るから一人とは思はれない。さうして北國筋には西は隱岐出雲、東は越後までも連なつて故跡が殘つて居る。乃ちあの無心に人魚の肉を食つて、死ぬことが出來なくなつたといふ一話が、永く後々の語り草であつたことを知るのである。和泉式部の藥師如來との歌問答などは、起りも大よそは判り、又東日本では小野小町の逸話となつて居て、畢竟はたゞ此人を主人公にした語りものゝ、國々を旅して居たことを示す迄であつた。其他に大磯の虎女が安藝の某寺に葬られ、曾我兄弟の母のマンコウが、伊豫の山村に於て天壽を全うしたといふなどは、我々にはたゞこの有名なる物語の普及を助けた者が、女性であつたらうといふ想像を強めさせるに過ぎない。是を今までの郷土史家なる者は、うそか然らずんば正しい史實かの、二つに一つとしか受取り得なかつたのだから、結果は寧ろ過去を晦澁にし混亂せしめるのみであつた。女で無ければ運ぶことの出來ぬやうな話は、捜せば昔話にも又傳説にもある。まして語り手が女だつたら、一層人を動かす力が強かつたらうと思ふものまでを加へるとすると、全國にわたつて其痕は無量に多く、將來自然に是が比較せられ系統立てられた曉、こゝに始めて日本の物語文學の歩み登つた路が、今見る如き方角でなければならなかつた理法が、獨斷で無しに明瞭になつて來るのである。私ががらにも無く遊女の生活をゆかしがり、かの七部集の、
   そりに乘るこしの遊女の寒さうに
の句などを愛吟するのも、一つには又北國の篤學者の協力によつて、この五百年三百年の間に、口から心への古い日本の物語が、今見る角大師の行列のやうな木版のかたりものに化し去つた奇特なる經路が、段々に明らかにならうかと思ふからである。女の旅藝人の古風なものは、秋田縣北部の女相撲から、鳥取島根地方の人形舞はしまで、少しづゝの資料は今でもかなり集まつて居る。出來ることなら何處から出て來る、どう來てどう通つて行くかを先づ尋ねて(148)見たいと思つて居る。強ひるわけではないが土地に根のある人々の手で、斯ういふ問題も考へて置いてもらひたい。是が「南越民俗」の新年に對しての私の祝言である。
 
(149)  笑の本願
 
(151)     自序
 
 虎溪の三笑とか寒山拾得の呵々大笑とか、又はこの本にも出て來る閻魔大王の笑顔とか、まだベルグソン氏等の言はなかつた笑が、色々こちらには有るやうに思ふのだが、それを集めて見たり考へたりするまでの、時を殘念ながら自分は持つて居ない。他日學問の再び繁榮する時代が到來して、是が文化史上の大切な、又興味ある一課題であつたことを、承認してもらへればもうそれで滿足しなければなるまい。
 此等の文章を私が書いた頃には、駄洒落くすぐりといふ類のやゝ下品な笑が、國中に充ち溢れて居た。人はたゞ斯ういふつまらぬものを社交の滑油の如く心得て、之を今一段と物靜かな樂しい笑に、進めて行かうといふ念慮に乏しかつた。次いで戰が起り國情がやゝ促迫して、いはゆる笑鷲隊の篤志の活躍も、もはや功を奏し難くなつて居た際に、實はその若干のものを一卷の書にまとめて、非常時用の讀物にして見ようか、といふ氣持に私はなつたのである。ところが愈印刷が可能になり、是が世の中へ出て行く時が來ると、もうその?態も疾く過ぎ去つて、今は却つて乏しい我邦の輸出品目の中に、媚びとか笑とかまでを書き上げねばならぬことを、悲しむやうな世相を迎へで居るのである。この有爲轉變をさへ豫想し得なかつた、學者の迂遠といふものくらゐ、滑稽なものも亦恐らくは他には無いであらう。
 今でも自分のよく記憶する一事は、町にも村里にも家にも路上にも、高笑の聲が甚だ乏しくなつた頃から、急に世間には「たのしい」といふ古い形容詞が流行し始めた。何でもかでもたゞ少しばかり、眼の前の現實を忘れさせるやうな出來事に出くはすと、すぐに若い人たちは之をたのしい何々と形容して居たのである。其際にもしみ/”\と考へたことだが、自分がこの通り心を入れて、笑といふものを研究して見たくなつたのも、有りやうは(152)それが人間の生の樂しさを、測定する尺度だと思つたからである。笑を愛するよりも其表出の源泉となるものを、溯り求めたい願ひが有るからであつた。じつと幼い人たちの擧動を見て居ても、今は彼等の笑ふといふことが、よほど以前よりも少なくなつて居るのは、言ひやうも無い深い我々の寂しさである。この一點だけは、せめて是からもなほ勉強して、同時代の人たちに説かねばならぬと思ふ。笑に就いての私の文章は、昔話の本その他の中に、なほ二つ三つ出て居る以外に、別にもう一册の本を出すほども有る。その中には又進んで人を笑はせようとした、いはゆる烏滸の者の出現を説いたものもあるのである。私の意見では、ヲコといふ言葉をやゝ粗暴に發音したのが、此頃よく耳にするバカといふ一語だと思ふ。さうしてちやうどこの母音變化の普及した頃から、バカといふ語の内容も少しづゝかはつて來て居るのである。出來ることならば其意味を本に復して、人を樂しませるといふ運動を、將來の一つの目標として見たい。といふやうなヲコの願望を、今もまだ自分は抱いて居るのである。
     昭和二十年十二月
 
(153)     笑の文學の起原
 
          一
 
 今日のやうな記録文藝の隆盛期に於ても、「笑の文筆」だけはまだ別系統を持續して居る。所謂滑稽作者は人も容易にこれを眞似ようとせず、自分も亦調子に乘つて外へ出て行かうとすれば大抵は失敗する。一方を「泣く文學」若しくは怒る文學と名づけては勿論狹きに失するであらうが、兎に角に二通りの文學には兩々相容れざる截然たる差別がある。これを自分などは偶然の結果では無く、必ず本來の性質に基くものだらうと考へて居るのである。出來るならば少しでもこの問題の絲口を尋ねて見たい。それが私のをかしな野望である。
 讀者に與ふべき「笑の文學」の影響又は價値、それを決定するのは次の時代の心理學者の領分である。爰には單に何人にも認められる外形の特徴について、先づ分堺を立てゝ見るのが順序かと思ふ。笑の文學の明らかに他のものから區別せられる點は、第一には構圖即ちコムポジションの無いことである。趣向を立てゝ居ると却つてをかしく無い。單に或出來事の敍述を、寧ろ幾分か平板に、素朴にやつてのけるといふことが技術である。從つて第二にはその文學は概して短く、又短いほど面白い。能の狂言すらやゝ長過ぎる嫌がある。即ち我々の所謂説話形を脱することが出來ず、その小さなものゝ集合方法には昔から人が苦心して居る。通例は一千一夜式、日本で申せば箱根の番所式とも名づくべきものが用ゐられて居た。三馬の浮世床浮世風呂なども此方法で、一つの場所へ入りかはり立ちかはり、次々(154)目先の變つた滑稽が出現するものであるが、今はこれも餘りに古臭くなつた。次にはセルバンテスのドン・キホーテなどの如く、一人の可笑人物の實歴譚、即ち巡島記式とも稱すべきものがあつた。膝栗毛の新意匠は正しくこれであつて、當時の社會生活の一要素をなした東海道の旅行と取合せた爲に、少なくとも五十三次の間だけは受けさせることが出來たのである。
 第三の特徴は笑の文學が、記録書物の形として世に出ることが六つかしかつたといふ點である。それが同時に又今後どうなつて行くだらうかの問題を、件なうて居るやうに私は思ふ。全體に非常に變り易い文藝であつたといふことは言へる。同じ人を一つ話を以て二度笑はせることは困難であつた。それ故にこそ本にして文庫に置く必要を、認める者が尠なかつたのである。しかも人はいつも笑はんことを欲求する。年中新しい「笑の文學」の出現を待つて居る。うつかりしてゐるとハイ今參りましたと謂つて、何が出て來るか知れたもので無いのである。故に又笑の文學だけは別途にその成長と衰微とを、觀察して居る必要もあるわけである。
 日本人はどちらかと謂ふと、よく笑ふ民族である。上方あたりの人間は懇意な者の爲に笑ひ、見馴れぬ人に對しては笑はぬだけの差別を立てゝ居るが、關東以北では無邪氣な者ほど無差別に笑つて居る。小泉八雲さんの「日本人の微笑」は有名なる文章である。いつもにこ/\して居ることを愛嬌と謂ひ、心のやさしい兆候と目して居る以外に、怒つた時でも憎んだ時でも、少し笑ひ過ぎるかと思ふほど我々はよく笑ふ。高笑や空笑は社交の一樣式をなして居る。宴會などは何でもかでも、必ず笑を以て終始することになつて居る。つまり善意にこれを解説するならば、日本人は笑の價値を知つて居る國民なのである。
 ところが實際の人生には、笑ふ種はさう多くは無い。泣く種ほどにも多くは落ちこぼれて居ない。故に笑はんと欲する者は、勢ひ常に笑の安賣、又は高買をしなければならぬのである。といふことは一方から見ると、笑の文藝の殊に純化し難く、墮落し易い傾向をもつて居ることを意味する。これほどよく笑ふ國民で居ながら、近代の笑の文學は(155)何としても貧弱であつた。日本にもユーモアはありますかといふ類の、失禮なことを謂つた外國人は多い。それは多くは日本語を學ばうとせず、何物でも英語に譯すことが出來ると思つて居る程度の無知から出た疑問であるが、實際又さう言はれても説明してやるだけの材料が、少しばかり不足であつた。
 丸で時代のちがつた二つの笑の種が、現在は日本に跋扈して居る。その一つは男女の私ごとや所謂下がゝつた話、これは至つて原始的なもので、錫蘭の山に居るヴェツダとか、濠洲の砂漠に住む土人とかでも、こんな話をして聽かせれば必ず笑ふ。今一つのものは最も新しい變化した形、所謂駄ジヤレ・口合ひの類の、拙いほど却つて笑ひたくなる滑稽である。勿論この新舊兩極端の中間にも、色々の雜然たるをかしみはあるが、當の本人すら意識し得ないほどに、元の形の崩れてしまつたもので、一派をなすどころか、分類すらも出來ない。言はゞ掃溜めである。そんなら大昔からこのかた、我々はこんな寂寞たる滑稽生活に甘んじて居たものか、但しは又歴史が永い間にかうしたか、これが私の最初の課題である。
 
          二
 
 私は思ふ。笑とは何であるかを知る爲には、現在我々が何を笑ひつゝあるかを、明らかにしたゞけではまだ足りない。曾て如何なるものを笑つて居たかといふ問題から始めなければならぬ。人の笑は今も昔も一樣の如く思はれて居るが、笑の材料、といふよりも笑はれる相手には、非常な變化があつたのである。今日の笑話の中には大昔はおろかなこと、僅か三百年二百年前の人に説明して聽かせても、にやりとすることすら出來まいと思ふものが幾らでもある。そればかりか若い人の轉げて笑つて居る中へ、「何がをかしい」などゝ苦い顔をして、年寄が出て來る場面などは現在でもある。これに反して以前から少々傳はつて居るものは、若し言語の障碍さへ無かつたならば、我々も笑ふことの出來るものゝみである。つまりは一度笑つた覺えのあるものでも、暫く片付けて置くうちに又新しいものになつて戻(156)つて來るのを、忘れて次の方面ばかり捜して居たといふ形で、それと言ふのが餘りに急を要せざる問題であつた爲に、誰もが專門にこれを管理しようともせず、從つて傳統の絲が絶えなんとして居るからである。
 別の言葉でいふと、笑などに理由は無用、たゞ何だか知らぬがをかしいと、笑つて居さへすればそれでよいのだと思つて居るうちに、終に愚劣極まるものを以て笑はされるやうになつたので、これは確かに人世の進歩ではないと思ふ。果してよく考へてから笑の種を求めたのでは、をかしみが十分でないかどうか、試みに少しばかり前代の笑を觀察して見たらよからうと思ふ。そこで諸君のよく知つて居る滑稽文學、殊に形式の新しさを以て稱せられた、東海道中膝栗毛を出發點として、その一つ元へ入つて行かうとするのである。私が改めて一九の書を讀んで心付いたのは、一つには笑の種の案外に涸渇し易く、すぐに單調な繰返しに陷るといふことである。即ちどうしても在來の小話型から、まだ遠くへは進展して居なかつたといふことである。實際能の狂言には限らず、今日尚笑はれて居る落語家の話でも、強ひて或長さを得ようとすると、一番に困るのは繋ぎであり枕である。やはりをかしい點はちよいとした瞬間の言葉なり擧動なりで、それが長篇の滑稽物の如き感じを與へるのは、前の可笑味の消えてしまはぬうちに、次のそれへ行かうとして元氣よく、たゞ急いで居るだけである。それから第二には如何にも種がないこと、これほど數ある笑話の中でも、實驗乃至は寫生に基いたものが、如何にも少ないといふことが感じられる。膝栗毛などの可笑味も單に演出法、書物でいふならば敍述の技巧といふが如き、その場きりのものゝみで、しかも畫賛のやうな一首の狂歌を附けることも、決して十返舍の創意ではなかつた。即ち事柄よりもその人が笑ふべきであつたといふ昔からの約束の外へ、一歩たりとも出ては居ないのである。
 彌次郎といふ名前すらも既に傳統があつた。彌次郎は即ち最も有り觸れた輕輩の名として、夙くから笑話の主人公を以て目せられて居た。七偏人八笑人の右次郎とか左次郎とかいふのも、亦頓狂者に備はつた名と謂つてよろしい。北利屋喜多八も無論意外な發明では無い、笑つて貰はうと思へば以前から、大抵この類の名を付けなければならなか(157)つたのである。それよりも尚一段と顯著なる約束は、二人連れといふことであつた。即ち一方がしくじる時には他の一方は批評家となり、若しくは少し惡意のある觀察者の地位に立つこと、これは古今東西を一貫した一種笑話の格調、フォルミュルともいふべきものである。中田千畝君の研究も近い頃出たが、日本では「和尚と小僧」といへば、話を聽かぬうちからもう子供は笑つて居る。醒睡笑などには大兒《おほちご》と小兒の話になつて居る。西洋でも僧は大抵これを馬鹿にする相棒の若僧を連れて居るが、普通には親方と下職との話として語られて居る。それから一方が正直で末には神に惠まれる花咲爺の類、今一つ皮肉なのは、一人の非常に惡賢く又は横着な者が、いつも旨いことばかりして相手を苦しめる、といふ類の話にすらも、會ては腹をかゝへた時代があつた。つまりはドン・キホーテのサンチョ・パンザであり、乃至は我々の國の春の物吉《ものよし》に、才藏と名のつて萬歳の跡に跟いて居る小男などゝ同じく、笑を傳へ興味を濃厚ならしめる爲に、見物と主役との中間に立つて註釋をする者が、必要であつた名殘に他ならぬ。
 ところが今一つ更に奇妙なる一致は、喜多は二人椋助で謂へば小椋助に該當し、黠智を弄して自分ばかり好い兒になる役割であるにも拘らず、時々は己も亦馬鹿を盡して、今度は彌次さんに救濟せられて居る。六つかしい文藝批評家の語を借りて言ふならば、相容れざる二つの人格を具へて居る。これは殆と有り得べからざる矛盾のやうであるが、それにも亦全國的の、古くからの類例があつたのである。
 
          三
 
 大分縣に成長した人ならば、名を聽いたのみで如何にもと合點せられることゝ思ふが、先年來自分たちの集めて居る笑話の一團を、豐後では野津市《のづいち》の吉右衛門といふ人の逸話として傳承して居る。あの地方では實在の人物と信じて居る者が少なくないけれども、豐前に來ればそれが中津の吉吾であり、城井《きゐ》の山村などでも吉吾又は吉五郎を以て知られ、其人の傳記の如くもてはやされる物語が、雙方三方に共通であつた。のみならず遠く離れた奧州の一部にも、(158)又京都近くの或田舍でも、キチといふ滑稽人が居て、澤山の類似の話を遺して居る。何故に斯くの如く到る處に彼の名が吉であるかは、興味多き問題であるが、今はこれに觸れない。兎に角に諸國の「きちよむ話」に附いてまはる一事は、彼が狡猾で能く人を騙すにも拘らず、自身も亦飛んでも無い馬鹿な事をして、結局は聽く人の頤を解くといふ以外に、何等一貫した目的は無くて生きて居たかとさへ考へられることである。例を以て説明するならば、吉は時として狐や天狗を欺いて寶物を奪ひ、若しくは巧妙なる計畫を以て尻の來ないやうな利得をする。或日は軒先に出て居て町へ買物に行く者に、片端から馬の綱を買つて來てくれとあつらへる。町ではすぐに賣切れて馬の綱の相場の高くなつて居る處へ、今度は自分の作つて置いた澤山の馬の綱を持出して、うんと金を儲けて還つて來る。それから又薪を負うて町へ出る者を喚留めて、枝の方を前にして裏庭まで家の中を運ばせ、それから安い値を附けて破談にして又持つて還らせる。さうすると家中に柴の小枝がこぼれ落ちて、只で幾日かの燃料が集められた。ところがこんなずるい事を考へて居るかと思ふと、一方では又御城下へ出て、素麺を食べて非常に旨かつた。どうぞしてうちの母人にも食はせたいと思つて、間違へて元結を買つて還つて、煮て食はせたけれども何分にも堅くて食へない。これは食ひ樣が惡いからだと、わざ/\母に草鞋をはかせ、尻を端折つて上り口に腰を掛けて、食べさせて見たがやつぱりくしや/\して食へなかつたといふ類の話、平たくいふならば馬鹿な話と馬鹿にした話とを、一人にして兼ね行つたといふのである。そんな事の不可能なのは最初から判つて居る。それが如何なる理由あつて、かうして喜多八や吉五郎の徒についてのみ、その矛盾が認められるかといふと、これは我々の大岡越前守に、あらゆる名裁判が歸屬した如く、若しくは飄逸なる旅の探檢が何でもかでも水戸黄門に託せられた如く、もつと古い所では佛本生譚が無數の異類説話を以て、悉く佛祖の前世の出來事なりと説かうとしたと同樣に、笑話にも亦中古の結集があつて、それには殊に中心の一人物を假設して、すべての笑話をこれに託する習はしがあつたことを、意味するものかと思ふ。
 曾て自分はこの事實を以て、苔が古い石碑の表に茂り花咲くに譬へて見たことがある。天然と言はんよりも寧ろ年(159)代の力であるが、人は無意識に又は半ば意識して、斯くの如く空間に浮遊するものゝ、來つて附着してこの石と共に、與に永世に傳はることを得せしめたのである。しかも其植物の目に見えぬ胞子の、千差萬別であつたと同じく、説話の根原と種々の因子とには、分類整頓を必要とするそれ/”\の由來と成長階段があつたことは疑ひが無いのである。
 大體から云ふならば、我々には常に笑の必要があつて、終始笑はるべきもの、英語に所謂 laughing stock を捜索して居たのである。それが以前の世の中では決してこれを見出すに苦しまなかつた。先づ第一に敵といふものは笑ふに足る人間であつた。彼等が弱くして負けて遁げる場合は勿論、時には案外手強くして、しかも結局は謀計を以てこれを欺き得た場合、殊に彼等が驚き又は困つて屈伏せざるを得なかつたといふ際などは、最も快く聲を揃へて高笑ひすることが出來た。或ひは又味方の勇氣を励ますべく、以前のさういふ種類の印象を保存し、時にはやゝ誇張してこれを想像上に繰返し、入用の度毎に大いに笑つたこともあつた。それが古くからの多くの笑話の成立であつたと思ふ。負けたといふ敵は必ずしも人間たることを要せぬ。寧ろ和睦の望まれない化け物や狐狸、惡い魔術師どもを安々と打滅した物語などは、單なる一人の功名談以上に、愉快なる猛者の教育法であつた。多くの青年等をして自然の怖畏を抑制し、群の爲に常に奮闘せしめる爲には、かうして勝つて笑ふ時の歡喜と共に、獨り笑はれる時の痛苦をも學ばしめる必要があつた。腕力の差等は何人にも目算が出來た故に、智謀術計は案外の大昔から、我々の大切な武器であつた。乃ち力の弱く勇氣の足らぬ者が笑はれたのみならず、更に又暗愚にして?欺かるゝ者が、以前は同情も無く盛んに笑はれ、同時に能く他人をして笑はるゝ地位に陷らしめ得た者が、無條件に賞讃せられて居た所以である。
 
          四
 
 斯くの如くにして人を笑ふといふことの面白さは、夙に我々の學び且つ實驗する所であつた。笑はむしろ人類初期の割據時代に於て、自由なる發達を見たらしいのである。然るに社會が擴大し交通が必要となり、平和が是非とも成(160)長しなければならぬことになると、到底四面に敵を控へて居た時代のやうに、矢鱈に笑つて遣るわけには行かなくなつた。しかも尚集まつて大いに笑ふといふ快樂は、忘れ棄てゝしまふには餘りに大なる印象であつた。爰に於てか一方には昔々と稱して、現在とは交渉の無い想像上の笑を、時々の入用の爲に大切に貯へたと同時に、他の一方には富あり力ある者は、一定の給禄を以て進んで笑はせてくれる者を傭ひ抱へて置くことにもなつた。それが日本には限らず、東西大小の諸民族の中に、自嘲自笑の文學といふものゝ、次第に流行するに至つた端緒である。
 これが制度として我々の間に現はれたのは、室町幕府以後のことであつた。大名の家々には必ず一人以上の「咄の者」、又は「咄の衆」といふ臣下が居た。足利家ではこれを同朋と名づけ、普通沙彌の形をして何阿彌などゝ呼ばるゝ故に、又坊主とも謂つて居た。同朋とは御相手の意味で、從つてこれを御伽の衆とも稱へた。小波先生の御伽噺などは、幼兒に聽かせる話となり切つて居るが、トギといふのは夜起きて居ることであるから、本來は彼等の如く早く睡る者の領分でなかつたことも明らかである。その御伽の衆の多くの笑はれ役の中では、曾呂利新左衛門たゞ一人、古來最も有名ではあるが、同じ名を持つ蜷川の新左衛門、若しくはその友人たる一休和尚でさへも、既に笑話を以て後世に傳はつて居るのを見れば、亦これ一箇の豐後の吉右衛門に過ぎず、それが實在の眞の一つの人生と、どれ迄の關係交渉を持つて居たかは、かの膝栗毛の栃面屋彌次郎兵衛の逸事と稱するものが、どれだけ十返舍一九その人の實歴であつたかといふことゝ、結局は同じ問題に歸着するのである。
 曾呂利は勿論たつた一人の俊傑ではなかつた。沼の藤六は織田信長の愛顧を得て、  屡々岐阜安土に往來し、一時湖南一帶の滑稽を支配した姿があつた。藤六加六と二人の名を連稱して居るのは、恐らくは彼も亦一人の喜多八を伴なうて居たからであらう。ウソツキ彌次郎も亦高名なる咄の者であつた。曾て佐渡の島で僞つて土中入定をした上人が、遁げて越後に渡つて測らずも昔の下男に出逢つた。露顯是非もなく挨拶にはたと困り、おゝ娑婆で見た彌次郎かと謂つたといふ笑話が、諺となつて今の世まで遺つて居る。ウソツキ彌次郎とこの話をした彌次郎とは別人かも知らぬが、(161)兎に角に彌次郎が下人の通稱であつたこと、猶後世の京の久三、江戸の權助、薩州の次郎などの如く、又猿舞はしや門附けの與次郎などゝも似たものであつた。即ちかういふ輕輩に禄を給し出入を許して、退屈な夜分や雨の日に、話の相手をさせて居た痕跡であつて、それが一方には浮世狂ひと手を組むと、扇子で我が頭を叩く太鼓持ちともなれば、他の一方には、じみな民衆を御客にする、所謂話し家にもなつて來たのである。
 世が改まつて大名は外へ出ても遊び、そんな專門のおどけ役は置かなくなつたが、その爲に彼等は無用にはならなかつた。大名が抱へなくなれば町が抱へる。淋しい村に住む人々は、又小規模なる兼業の滑稽人を愛護して居つた。地方によつてその名はさま/”\であつたが、それが吉吾であり彦市であり、又自分等の今も忘れ得ない彦七孫八であつたことは確かである。自分等の郷里の中國東部では、彦七は能く人をかつぎ、孫八は能く難題を言ひかけた。無い物くれの孫八といへば、童兒が嘲笑を感ずるほど高名な逸話の主であつた。つまりは彼等の間にも段々の分業と、修練改良とが行はれて居たので、土地に少なくともさういふ一人の生存を、支へて置くべき必要は依然として續いたのみか、都府が追々に繁昌すれば、京では輕口露が咄の類、江戸で鹿の卷筆の如く、これを文學として梓に刻み、田舍の隅々までも持ち運ぶことになつた。しかもそれが突如として素地に發芽したもので無いことは、その一つ/\の笑話の傳統を辿つて見ればすぐにわかる。要するに新味の技藝家に屬するものは、換骨奪胎などゝ呼ばるゝ演出方法の變化、時代の趣味と結び付けようとした努力のみで、根原は本物の頓馬を衆と共に笑ふか、若しくは自ら作り馬鹿の役に甘んじて、笑はれてもよいやうな失策を語るか、この二種類の中に跼蹐して、古來の粉本を選擇しようとしたに過ぎなかつたのである。
 つまりは一種の由緒ある職人であつた者が、記録の風習が始まつて、偶然にその名を留めたので、文化の中心地に於ては、實は夙くからその例に乏しくなかつた。昔華山院の法皇に御仕へ申したといふ銀細工延正、延喜の帝の御枕を持つて遁げたといふ棊勢法師の類は、明らかに上代の曾呂利であつた。平の定文、字は平仲、曾禰の好忠、字を曾(162)丹といふ人たちの如く、殆と笑ふべき逸話ばかりをこの世に殘す爲に、上流の間に交つて居たかとも思はれる者も、恐らくは皆單に自嘲の癖ある文人と言はんよりも、寧ろ之を以て一つの生活方法として居た者と見る方が當つて居る。即ち社會が進んで無害なる笑の種を捜し始めた時代は古く、それが文獻となつて痕を也に留めたのが、ずつと新しかつたといふのみである。
 
          五
 
 しかも笑の文藝の最初の起りは、必ずしも斯樣な偶然の記録からではなかつた。所謂興言利口の肝要は言葉であつて、それを新しくも又上品にも改良しようとすれば、人がこれに對して最も注意深く、且つ眞面目で居る機會を伺はねばならなかつた。歌と物語とが全く手を別つてしまはぬ時代から、もう滑稽は社會教育の一つの要素であつた。その感動を強め又は保存する爲にも、やはり亦記憶し易い「あや言葉」を必要とした。それが一轉して自ら嘲り笑を獻ずる犠牲者の出る世の中になつても、それ等の作り馬鹿からは尚一定の才藻が期待せられて居たのである。彌次と喜多とがあれ程の低能ぶりを發揮しつゝも、尚本物の一九と同じ位の狂歌を詠じて居るのは、年久しい由來のあることである。即ち彌次さんかうもあらうかの一言は、狂言の太郎冠者のかうもござりませうか、乃至は中代の御伽草子にかくばかり、かくぞ遊ばしけるといふ樣式の後を承けたもので、歌が無くては結局は話にならなかつたからである。狂歌も近年の大倉鶴彦翁などゝなると、餘りにも獨立した一種の文藝になり切つた形だが、まだ四方赤良《よものあから》や朱羅菅江《あけらくわんかう》の時代までは、をかしいから狂歌を詠むといふ昔風を留めて居る。少なくとも今日の話し家どもは、さういふ風に彼等の逸話を傳へようとして居る。卜養にせよその以前の雄長老にせよ、何れも狂歌は記念碑の如きもので、作者人物の可笑味は儼然として外に在つた。玄旨法師といふが如き敷島の道の達人ですら、狂歌を透して見たその姿はバッフーンであつた。さうして又古來の優良なる道北役者の如く、その秀句を以て適切に猛き武士の心を和げて居たのであ(163)る。教訓の道歌の段々と理に落ちて、「あれも人の子樽拾ひ」といふが如き、生眞面目な繰言になつてしまふ以前、狂歌を以て御手打になるべき御近習の命を救つたといふ類の話は多かつた。粗相に硯箱を足で踏み潰して置きながら、ふみかくとても何の耻かはと詠んだなどゝいふのは、歌こそは拙いが話としては中々面白い。西行法師を有名ならしめた歌としては、少しも感心しない「ワッパトヂの花」とか、さては野糞が跳ねたとか這つたとかいふ歌も、さういふことを哄笑するやうな階級の間まで、昔話が三十一文字を伴に連れて、あるいて居たといふ歴史と見れば意味がある。曾呂利新左衛門の「けふもごとかいあするごとかい」といふ逸話の如きも、言はゞ曾呂利の地位を説明する一資料としては珍重すべきである。
 和歌に腰折れといふ批評の意味が、少しばかり昔は今と違つて居た。即ち下手は下手でも目的のある下手、とぼけて笑はせて落ちを取らうといふ趣旨で、わざと樣式を破り用語を慎まず、自ら柿の本の正統に對立して、栗の本と名乘る程の勇敢さであつた。これを歌道の上から無心と名づけたのは、多分は萬葉期の無所著歌の傳統を認めたもので、連歌などの集會は却つて有心一式のものよりは、?栗の本の無心に腰を折らせた方が興味が濃かであつた。後鳥羽院上皇は畏れ多いことだが、あの時代の文化にアンニュイを感じて居られた英主であつた。即ち笑の新しい供給を切に求めたまふ君であつた。明月記などを讀んで見ると、水無瀬の行宮の朝夕はやゝ活??地に過ぎて居た。幽鬱なる定家卿の有心意識が、終に自己をして一箇の平仲、曾丹たらしめ得なかつた苦悶が、あの批判がましい語辭の中からもよく窺はれるのである。
 これなどが滑稽文學の別系統、所謂滄浪の水と汨羅の淵との、終に合流することを得ざる運命を暗示するものであらうと私は思ふ。つまりは俳諧は一種の世渡り法といふ以上に、著しい人世觀照の態度であつた。それが外面から考察せられ、若しくは雙方からの折合を求めようと試みると、爰にやるせないピエロの歎きがある。道化役者の涙が兒女子の爲の映畫幕に上るに至つては、もうこの道も又新たなる生面を切開かなければならぬ。浮世を三分五厘などゝ(164)茶にしてかゝつて居る連中は、實は笑ふ人よりも遙かに賢く又横着なのであつた。それが笑はれても一生は暮せると思ふまでには、有心の側から見れば辛苦修養、少なくとも人生の改作が行はれたに相違ない。その技術は今や既に埋もれ、徒らに凡庸模倣の徒の名聞と身過ぎにまで零落したのである。江戸の遊び人や京のスッパ、今一つ前の代の隱者といふ生活まで、同じ系統を引いたものゝ如く、折口君などは推定して居るが、私はまださう斷言する程の材料を集めて居ない。兎に角に曾ては捕虜や奴隷などを強壓して、この屈辱多き任務に當らせて居た習ひが、いつと無く悟り切つた智慧者どもの自ら甘んじて、我とその境涯に入つて來る風と代つたことだけは、彼等の文藝の進展の跡に由つても、これを想像することが出來るのである。江戸では彰義隊の生殘者として、明治まで渡世をして居た松の家露八などが、さういふ太鼓持ちの最後の雛形であつた。其角や一蝶などは時代がずつと古いけれども、幸ひに作品を世に遺した故に人柄がほゞ窺はれる。座頭にも連歌師にも、後には平賀源内の如き市井の學者の中にも、榮達本位の我々の人生計畫からは、何としても解説し得ない藝術の取引があつた。それがどの程度にまで初期の民族意識と交渉のあるものか。即ち最初から孤高自得の個人主義的のものであつたか、はた又群に神主あり巫女ある如く、これも亦要求せられたる社會必然の構成分子であつたか。或ひは又曾て後者であつたものが、追々に疏外せられて統一圏内から逸出したものか。それを明らかにする爲にも、我々の笑話の成長を今少しく綿密に、調べて見る必要があらうと思ふのである。
 
          六
 
 所謂狂言綺語の技巧が認められ賞讃せられると共に、次第に我々は正眞の烏滸の者ではこの大役が勤めきれぬことを知り、寧ろ聽明なる者の最も上手に、わざと装うて馬鹿を演ずることを望むやうになつたが、そんな事が人間の作爲で出來るものとも思はなかつた時代は、隨分と永い間續いたらしいのである。敬とか禮とかいふ行爲に内外表裏が(165)無かつた如く、狂へば物狂ひといひ、「たはこと」を言へば即ち「たはけ」であると、我々の祖先は考えて居た。さうしてワザヲギといふものゝ範圍は、實は本人にも明白には意識しなかつたのである。吃りの眞似をすれば吃りになるといひ、阿呆の眞似をする阿呆といふ諺もあつた。これを又求めてなれるものゝやうに、心得て居た人もあるらしい。加賀の百萬石を繋いだといふ前田利常の大鼻毛は、或ひはどこ迄も作り物であつたか知れぬが、少なくとも足利義兼の「そら氣ちがひ」は、末には本當になつて、晩年の彼を宗教生活に導いたと傳へられる。支那でも佯狂して奴と爲るなどゝいふことがあるが、之を單なる保身の法と解することは六つかしい。恐らくは佛道で發心と云ひ又は遁世とも名づけた遙か以前から、かういふ一種の人生觀の變化が、我々の社會に異常心理の者を供給した、誘因は別にあつたのであらう。
 其誘因の何物であつたかは、自分の知る限り、今日迄の文化史ではまだ考へて見ようとした人がなかつた。日本の民間習俗を親切に觀察する人だけが、或ひは將來發見し得るであらうと思ふ一事は、この人を笑はしむる職分に今一つ以前の、大切な目途があつたらしいことである。愚か者に對する我々の態度は、必ずしも常に殘忍では無かつた。北國の或海岸には、白痴を非常に大事にする村があつた。白痴は死んで後に必ず鯨に生まれ變り、流れ寄つて土地を富ませてくれると信じて、これを優遇し悦ばせて置くことを心掛けたのである。それよりも尚一層愚かなるが故に、愛せられて居たのは幼兒であつた。親以外の者が小さい子の片言、若しくは頓狂なる言動に笑ひ興じ、それが成人の常識と甚だしく懸離れて居る點に、殊に深い意味を持たせて見たことは、やがてはこの國の固有宗教に於ける至つて重要なる地位を、彼等に付與することにした原因かと思ふ。村々の社の祭、若しくは恒例臨時の家々の儀式には、小兒は往々にして神を代表させられて居たのである。それを彼等が特に愚かであり、能く人を笑はせた故と解することは、無論澤山の證據が無くては斷言し得ないことであるが、自分は少なくともさう想像してもよい二三の理由を持つて居る。神社に從屬した小區域の地名に手倉田《たくらだ》といふものが諸國に存する。羽後の雄物川の岸には言語道斷と文字に(166)書いて、タクラダといふ村さへあつた。タクラダ・タクラは多くの地方の方言で愚か者を意味し、ノンダクレとかヘツタクレとかいふ普通語もそれから出て居る。或ひは又馬鹿をオタカラモノと呼ぶ土地もある。手倉田・田倉田は即ち彼等に田を給し、神役を勤めさせた名殘かと思はれる。三河の山村の花祭の囃しの詞に、笛に合せて一同がターフレタフレと囃すのも、やはり一つの語の變化であつて、所謂クナタフレが神に仕へ、その愚かさを役に立てたこと、今の馬鹿囃しの火男などゝ、本の趣旨を同じくする者かと思ふ。童子を意味するワラハといふ語が、一方にはワラハヤミと謂つて物氣《ものゝけ》の症を謂ひ、他の一方には笑の日本語と語原を共通にして居るのも、かういふ初期の信仰に由つて、やゝ説明がし易くなるやうである。
 
          七
 
 文學の形を具へた日本近代の笑話、例へば醒睡笑や「きのふはけふの物語」等に於て、笑はれる客體が何々であるかを見て行くと、時代々々でそれは大よそ定まつたものがある。新しいものから順々に擧げるならば、先づ第一に慾深物惜しみ、これは數も少なく敵としても怖ろしくないから笑ひ易い。次には知つたか振と早合點、無筆と物知らず、これ等は文書を弄ぶ世になつての發生であることが想像せられる。その次には愚か聟、愚か者の親子、更に又愚か村ともいふべきものが、假設せられて笑はれた。江戸の落語などで權助とか太吾作とか名づけて、無暗に農人を愚にしたのは、一つにはこの技藝が都市のものであつたからだが、又一つには當り障りのない遠方に、被害者を留めて置かうとした以前の習ひを襲うたものであつた。それから尚溯ると旦九郎《たんくらう》田丸郎《たくらう》の昔話の如く、瞞される人の智慧無しが笑はれ、更に子供と子供らしさ、女と女々しさが、その以前からの笑の種であつて、壯年男子としてはこの二者にやゝ近い者、即ち臆病惰弱と思慮分別の不足が笑はれて居た。
 これ等の實例を見渡して誰にでも心づくのは、何れも笑はれる者が人だつたといふことである。人又はこれと對等(167)同視すべき者が目標となつて、始めて「笑」といふ感動は起るのであつた。立派な多くの學者が、近頃笑を研究したけれども、何故かこの肝要なる一點に深く注意をしなかつた。併し何にしても笑は一つの攻撃方法である。人を相手とした或積極的の行爲(手は使はぬが)である。寧ろ追撃方法と名づけた方が當つて居るかも知れぬ。弱くて既に不利な地位に在る者になほ働きかけるもので、言はゞ勝ちかゝつた者の特權である。非常に發逢したものゝやうに考へられる江戸人の喧嘩にも、この笑が巧みに利用せられて居た。俗にタンカを切るなどゝ稱して、奇拔なる警句を平素から貯へて置いて、打合ひの代りに頻りにこれを連發する。すると見物の第三者が笑ひもすれば、又笑ふであらうといふ推理が、ひどくその目標となつた相手をひるませる。へらず口は要するに笑の威壓の競爭の如きものであつた。昔の鬨の聲や今日の彌次馬の掛聲なども、大よそ類を同じくした笑の變形であらうと思ふ。
 兎に角に笑はれるといふことは被害であり、精神上の損傷であつた。未開人が人の笑に敏感であることは、夙く旅行者たちの觀測する所であつたが、これと同じことは我々の嬰兒にもある。多くの人に又は大きな聲で笑はれると、意味を知らずにも泣出す赤ん坊は多い。文明人などゝいふ者の中にも、群と共に笑ひ得ないことは不愉快で又淋しい故に、時々は附合笑ひといふことをする。殊に日本人では人が笑ひ自分が笑はれる不幸を痛感する人が多かつた。三百年前の借銀の證文に、萬が一返濟滯るに於ては、「人中にて御笑ひ下さるべく候」と書いたものがあつたといふことは、有名な話になつて居るが、これは或二三の最も律義なる者だけでは無く、實際この笑はれまいとする努力が、今日の道義律を打立て、又多くの窮屈なる慣習法を作つて居るのである。しかも違反者に對する制裁を、肉體の痛苦のみに限るやうになつて、社會の統一は亂れざるを得なかつた。日本人はまだ/\この拘束の多分を承認しては居るが、今日のやうにかう自笑賣笑の風が盛んになつては、笑の社會的意義も勢ひ一變せざるを得ないのである。
 笑の職業化は勿論或人々の想像する如く、近世式生活の産物では決して無い。小兒が色々の心理階段を經て成長して行く如く、これも亦人の歴史として兼て備はり、一度は通つて來なければならぬ經路であつたかも知れぬ。我々が(168)匿れ潜みぶる/\とふるへて居る境遇を脱して、追々に勝つて笑ひ得る機會を増して來たのは愉快だが、それが今一つ進むと敵が減じ、味方とした方がよいものが多くなつて、笑はずに附合ふ必要が内にも周圍にも起つて來る。笑つた爲の怨みと祟りが次々に經驗せられる。そこで他村から來た孤立の聟を笑つたり、奧山家の三軒屋の爺や姥を笑つたりするが、市が立つ御時世になるとそれも種が乏しく、確かに怒らぬ本雷のタクラを笑ふか、それで無ければ篤志出願者の「笑はれてくれ手」を、優遇しながら少しづゝ笑つたので、終には町の暮しに水まで金を拂ふのと同じく、笑は金持の金のかゝる贅澤であるか、然らざれば好んで敵を作り憤りを買ふ無謀なる冒險事業か、さうで無ければ何人も被害を感じない樣な、ゲスびた惡謔や愚劣な駄じやれに、墮落せざるを得なかつたのである。
 
          八
 
 さういふ際に當つて一盃の酒、もしくは若々しい男女の快い高笑ひを、こよない報酬と滿足して、人には如何樣にも笑はせて、狂愚を以て自ら甘んずる老翁が、多くの村に居てくれたといふことは、幸福なる偶然であつた。それが一方には曾呂利が太閤の耳を嘗めたといふ如く、稀に貴人に近づいて優越の地位を占める者があつた爲に、或ひは少數天才の新たに發明した技藝の如く、考へて居る人があるかも知れぬが、大名有力者のこれを利用したのは後の事であつても、少なくとも笑はれる職務だけは、ずつと古くからその存在を認められたのである。但し笑ひ手は今日のやうに人間を主とせず、神樣に笑はれるといふことが最初の目的であつた。昔の日本人は勇猛不屈であつたが、神に對してのみは一目を置き、しかも神によつては御氣が荒く、斟酌も無く罰したまふ神があつた。十分なる歸伏の意を表し、怒をなだめ御機嫌を取る爲には、人として一番辛抱のし易いのは、「笑つて貰ふ」ことであつた。支那人の神佛を拜する所を見るに、文字通り廣庭に叩頭する者が多い。信心深い老女などには、額の上にその跡の瘢痕をなして居る者さへある。囘教徒の中にも人間同士の最上級の拜禮より、尚一段と鄭重なる匍匐を、日に何度とも無く行ふ者があ(169)る。佛教でも耶蘇教でも作法は勿論この通りで、もし人間界の御辭儀に階段があるならば、神に對しては必ずその中の一番尊いものを適用したに相違ないが、禮式といふものゝまだ十分に發達せぬ時代又は社會では、別に何等かの表現方法を、採用する必要が多分はあつたのである。
 さういふ昔風は幽かながらも、まだ民衆の生活の中に殘つて居る。例へば閻魔樣の木像を見れば、こはいながらも笑つて居る。又は笑はうとして居る。あのエニグマチックな機嫌の測りにくい容貌は、人の畏伏を強ひる爲にその必要を認められたものと思ふ。神を代表した色々の舞の假面に、或ものは甚だ氣むつかしく、或ものは少しく笑はんとする面持の見えるのは、以前我々が幼童の顔に注意する如く、これを視て一喜一憂した名殘であることは察せられるが、それが結局どうすればよいのかを、暗示して居ると迄は考へた人が無かつた。併し能の狂言の「大黒」などの、到底七福神の一つとは思はれぬ樣な顔をして、しかもその笑ふ聲の突如として甚だ怖ろしいのを見ても、神を笑はしむることの如何に大切であつたかゞ窺はれる。七福神の中でも毘沙門天などは、今以て何ともいへぬやうなきつい顔をして御座る。即ち愛嬌は却つて福神に奉仕する者の側に、是非とも具はつて居なければならなかつたのである。
 天狗笑ひと稱して深山の奧などで、不意に天地も響くやうな高笑ひの聲を聽くことがある。さうすると人は「取つて食はう」と言はれた時よりも、なほ一層怖れて縮み上つてしまふ。これを單純に我々人類に對する妖怪の嘲り、又は輕蔑と解するのは普通であるが、一歩を進めてそれが何故に輕蔑になり、それを又何故に怖れをのゝかねばならぬかを考へて見ると、曾てかうして笑はれることに由つて、よく/\降伏を承認して居た記憶があるからであつた。雷を最も怖ろしい神と想像して居たのも、恐らくは亦あの聲を、天の神の笑と解した結果であらう。日本の神話にも、雷と神子誕生の奇瑞とが結び付けられて居るが、南の島々の口碑に於ては、更にこれに加ふるに子を持つ神の笑ひ聲を以てして居る。事は幽怪を極めてこれを解釋し得る人もまだ無いけれども、雷神が笑つたといふ例は意外な境まで分布し、それと同時に人間の不法に笑つた者は、雷神によつて罰せられて居る。ペリーの東印度諸島文化移動誌を見(170)ると、ニアスの島の昔話では、犬と猫とに着物を着せて屋根の上で踊らせたら、雷神が笑つて天から墮ちたといふ話があり、一方セレベス島の或部落には、猿と猫との人間の衣服で踊るのを見て笑つた爲に、忽ち雷に撃たれて石になつたといふ口碑が殘つて居る。日本でも烏の口眞似をすれば口脇がたゞれ、馬の屁を笑うと人中で耻をかくなどゝいふ諺があり、特に動物を笑つてはならぬと戒められて居たのは、即ち神靈の異類の形を借りて出現することを、信じて居た時代からの言ひ傳へであるらしい。南太平洋のどこかの島で、大昔蛙がこの世の水を飲盡して一滴も殘さなかつたのを、多くの智慧者が色々と趣向を構へて、笑はせに行つた昔話があるといふ。口を結んで苦い顔をして居た大蛙が、たうとう堪へきれずに口を開いて笑ふと、忽ち水が戻つて人間の大旱魃を免れたといふのは、やはり亦雷神哄笑の系統に屬する神話であつて、しかも一方には我々の天の岩屋戸と、要素に於て共通の點があるのである。
 
          九
 
 神がこの世の中の何物よりも遙かに怖ろしく、如何なる場合にもこれを敵としては、寸時も安穩に在り得ないことを信じてから、人は甘んじて神の笑を受け、次にはわざ/\笑はれるやうな行爲をして、且つは御機嫌を取結び、且つは自分たちの笑はれても一言なき者共なることを承認しようとした。尤も神々に取つて何が笑ふべきものなるかを知ることは、必ずしも容易では無いわけである。例へば諸國の山奧の村に於ては山の神はヲコゼといふ魚を悦び、これを見れば御笑ひなさると信じて居た。さうすると熊野の或社などでは、笑祭と稱して氏子の重立つた者が神殿に居竝び、そのヲコゼを見て大笑ひをする式があつた。その式を今少し詳しく述べると、當日は首席の者懷中にこの魚を忍ばせて出ると、一同がこれに向つてヲコゼを拜見したいといふ。いや皆の衆が御笑ひなさるから見せますまい。必ず笑ひませぬ故に御見せなされと、押問答の末にそつと片方の袖口から、頭ばかりを覗かせて見せると、早一同が高笑ひをする。あわてゝ引込めてそれだから見せまいと申したにといふと、いや今度こそは笑ひませぬ、ひらに御出し(171)あれと懇望し、又ちよいと出すと又笑ふ。こんなことを繰返した末に、たうとうその魚を丸ごと出して、轉げるやうに笑つてそれで祭が目出たく濟むのである。此通り人間には格別をかしくも無さゝうな事でも、神が笑ひたまふと知ればこれを以て笑祭としたのであつた。併し全體としては人が考へても笑ひたくなるやうなこと、例へば無細工で下品で擧動に失策が多く、粗忽で早合點で間違へたことを言ふやうな、氣の利かぬ愚か者を神も人と同じく、御笑ひなさるものと解して特にこれを進め、仲間が見てさへこの通りをかしいから、神ならばさぞと無邪氣なる推量をした。それが神の祭に必ず狂言あり、田樂にはヲカシを伴なひ、タクラは神の前に出て舞ひ狂つた最初の動機であつたと思ふ。猿樂のあと七日面白といふ諺もある。その面白いといふ語にも傳統があつて、神代卷中の最も大切な一段には、天鈿女は胸紐を臍に垂れて、槽《うけふね》の上に立つて舞つたとあり、火闌降命《ほすせりのみこと》の後裔は、永く水に溺れんとして助けられた光景を演じて、服從のしるしとしたと傳へられる。其他神話の中に既に現はれて居る「笑の文學」は幾つもあつた。猿田彦神が貝に手を食はれて海底に沈んで行つたといふ話、さては少彦名神が、御身法外に小さかつたといふ話の如き、何れも皆神の御笑を目的としなかつたならば、斯ういふ際に於て語られる必要の無いことばかりであつた。
 しかも實際に於て嬉笑した者は、先づ之を發明した奉仕者たちであつた。さうして信仰の樣式の次第に變化して行くと共に、或ひは其興味を轉用して、之を古傳暗誦の方法に供した者もあつたかと思はれる。俳諧といふ漢語は既に古今集の時代から採用せられて居るが、之を必要とするに至つた今一つ以前の事情は、もう明らかにすることが出來なくなつた。併し前にも述べて置いたやうに、日本の文藝には終始所謂有心と無心との併行があつて、滑稽は寧ろ至つて眞面目なるものゝ蔭に活きて居た。我々の愛讀する無住法師の沙石集なども一例で、當時の世相殊に佛法の頽敗を慨歎した點は、痛烈骨に透るともいふべきものなるに拘らず、他の一面には或ひは輕妙に失する程の惡謔がある。後世の説教僧は到底其儘に之を襲用することを敢てしなかつたが、しかも彼等も亦別な筆法を用ゐて、やはり頓智頓作を其傳道の上に應用して居たのである。をかしくないと説教が凡俗を誘導し得なかつたといふ以上に、彼等のおど(172)け話は獨立して、永く一方の效果を收めて居た。近世の落語や童話には、久しく此説教僧の口を經て傳はつたかと思ふものが多い。察する所、是は日本に於ける民間説話の特殊なる方式であつて、由つて來る所は甚だ遠いものであつた。
 けだし現在の如き書物の教育では、文字が一つの栞である故に、誤つた記憶にそれてしまふ處が少ないが、口から耳への傳承は其危險がいつも大きかつた。正しい傳説を保持せしめる手段としては、寧ろいち早くわざと誤つた暗誦を試みしめて、列席者一同が大いに之を笑ひ、その笑はれたといふ耻がましさに懲りて、他の若者たちをして豫め之を警戒せしむること、恰も昔のサクソン人が我嫡子を所有地の地境に連れて行き、其尻をうんと鞭つて、痛さによつて永く其地點を記憶せしめようとしたのと、同一の趣旨に出たものではなかつたらうか。若し然りとすれば是は明らかに轉用であるが、それも亦最初神の大前に笑を獻じて、之を傍聽した者が皆共々に面白く興じたといふ印象が、いつとなく此方法の流行を助けたものだといふことが出來る。さうして何れにしても一人の笑はれることを忍び得る者が、其耻辱を犠牲として公衆の幸福を計つたといふことは、決して中世に始まつたものでは無いのである。
 
          一〇
 
 私が笑ふことの出來ない人のやうに、如何にも野暮くさく此問題を論じて、多くの讀者から嘲らるゝことを辭せなかつたのも、動機に於ては少しばかり是と似て居る。私の考では、笑の歴史をもつとよく知つた上でないと、現今の笑の衰頽を防ぐことが出來ぬかと思ふ。Sidis の「笑の心理」を讀んで見ると、笑は誇り也とある。笑は宥す者の聲、暴力を用ゐざる優越だとも論じてある。併し自分等に取つては是はたゞ稀薄なる暗示に過ぎぬ。笑は成程無邪氣なる優越感、少なくとも敵を怖れざる安堵から出た聲であるが、他の一方に人間をして最も平和にしてしかも高尚なる笑を味はしめようといふ志から、自ら甘んじて笑はれる人となり、其方法と資料の精選に辛苦した者がなかつたなら、(173)我々はいつ迄も弱い犬が強い犬の前に、四脚を飜へし背をこすり尾を伏せて、凡そ世の中の最も見苦しい姿をして見せる如く、底に憤りつゝも尚この recognition of the ridicule を續けねばならなかつたのである。尋常氣慨ある男兒は悉く、自ら「笑の文學」の作者たることを肯んぜず、相率ゐて其愛讀者となつて、永く友少なき弱者を笑はうとしたかも知れぬのである。さうで無かつたならば寧ろ普通人の間に、損害の最も小さいと信じられる所の、原始的の笑へ走つて行つたかも知れぬのである。
 未開人の笑を研究しようとした人の中に、洪牙利の學者ゲザ・ロハイムがある。彼の説に依れば濠洲の黒人などは、獨り力闘の勝利を得た場合のみならず、色慾食慾の滿足、それから下體の張切つて居るものを、排泄し得た場合にも笑ふとある。さうして彼等の神靈も亦之と同樣なる?態に於て、快げに大いに笑ふものと信じて居るとある。斯ういふ下卑たる笑を笑つた場合が、かつて一度は我々にもあつたわけである。今日社交界の最も圓轉滑脱なる人々が、比較的無害な笑の種を求めて、終に此樣なところにまで到達したといふことは、進歩では無くして一種の復古であると謂つてもよい。それで永遠に我々の生活が、靜かに又晴れやかであり得るか否かは、凡そ文章の道に携はる程の者が、更に心を潜めて考察すべき問題の一つである。
 
(174)     笑の本願
 
 詩歌俳諧のたしなみなどゝ、昔の人は謂つて居たけれども、漢詩は勿論のこと、歌と俳諧との間にも行き方はまるで違つて居たやうに思ふ。早い話が花晨月夕、又は祝言追善の莚へ出る者が、今宵は多分斯ういふことをいふだらうとの豫測は、歌ならば大よそ付いて居た。それを感吟する口上はさら也、事によると返歌までも、用意して行くことが出來たかも知れない。たとへば人を悲しむ場合には袖といふ字、昔と露と面影といふ言葉などが、必ず組合はされてそこいらに有るものと推量して置いて先づ誤りは無く、怪我にも狼だの猿だのといふ名詞が、姿を現はす氣づかひはないのだから、風流もやゝ心安いのであつた。戀歌の如く文藝の最も個人的なものすら、語彙に通貨以上の限定があるのみならず、その表現の樣式にも守るべき型があつて、之に背くと笑はれて目的は達しない。暗合はしぱ/\必要であり、名歌の借用はそれよりも一層效用の多いことがある。つまりは人間の擧動の殊に優美なものが、賞でられてやがて式作法に化して行くのと、順序に於てほゞ似て居たのである。是に比べると俳諧は破格であり、又尋常に對する反抗でもあつた。何か意外な新しいことを言はなければ、その場で忘れられ又殘つてもしやうが無い。だから世間見ずのよく吃驚する人の中へ、入つて行つて大いに持てようとしたのかとも思ふ。最初三十一文字を半分に切つて、用を辨じたことだけは事實だが、その用途といふものが根柢から別であつて、たとへば五十錢銀貨の、もう一つ足せば一圓といふやうな、そんな半端なもので無いことは人が皆知つて居る。和歌が古體に復り又平板に墮する時代は來ようとも、俳諧ばかりは舊臭いといふこと、凡庸だといふことが即ち滅亡である。進んで休むことを知らない今日の(175)生活相に、誠に打つて付けと言はゞ言はれるが、昔とても頻りに變化して居る。守武・宗鑑・貞コ・宗因と立ち替つて、わが尊い芭蕉佛も、亦その一つの段階に過ぎなかつたことは、之を否まうとする人々が先づ自ら實證して居る。殊に現代に至つては眼が離せない。瞬き一つの間に一つの傾向は生まれ、しかも前のものは尚衰へきれないで、拳を握つて汗になつて驅けくらをして居る。この無限の新しがりは、結局はどうなつてしまふだらうか。種が盡きるか但しは元の根のある限り、即ち俳諧に對する要望の存する限り、如何なる形に化してゞも尚連續するものか。斯んな面白い觀物は日本より他には無い。文學の豫言といふものが我々にならば出來る。私に出來るとまでは無論言はぬが、試みることだけは許されて居る。
 
          ○
 
 昔も有つたらうと思ふ國民の凝り性と淋しがり、人が多勢で催して居る仕事には、何でもかでも仲間に入らずには居られず、入れば又心から樂しくなるといふ氣質は、政治には毒だが文學には健全な結果を齎らして居る。それが讀者よりも作者の方が多いといふ、珍しい一國の特殊態を築き上げたことは、前にも説いたからもう新發見では無い。たゞさういふ中に五人か八人、そつと欠伸をして其癖退いてもしまはず、幾分か怠惰に形だけ共同して居る者があつて、それが?次に起る機運の酵母であつたり、又寺田さんの謂ふ觸媒であつたりして居る。この一點は未だ注意せられて居らぬ樣である。支那では東方朔を以て俳諧の元祖のやうに觀る人があるが、それだけはどうかと思ふ。成ほど群が小さく結合が純な間は、さういふ反抗分子の存立の餘地は無いから、一つの文化が絢爛といふ域をやゝ過ぎてから、始めて此役割は目に着くのであらうが、社會が既にさういふものゝ存在を意識して、是に小さな片隅の座でも與へるやうになれば、もはや兩立であり調和であつて、境堺は劃せられてしまふのである。俳諧の最も自然な働きは、それよりも前に始まつて居なければならぬ。日本でも水無瀬院の壯年上皇を圍繞し奉つて、文林の花は錦の如く簇が(176)り匂うて居た時代に、特に若干の笑を獻ずる詞臣が居た。是を歌聖の柿の本に對して、栗の本と呼んで居たのも俳諧であつた。しかも當時に在つては小さいながらに、それは既に一つの機運であつて、之を培ひ且つ芽ぐませた者は、かの「卯の花垣もとしよりにけり」などゝ詠んだ散木奇謌集の歌人よりも、又ずつと前の代に居ることゝ思はれる。和歌にこの特發性|退屈病《アンニユイ》の取付いたのも、私は隨分古いことのやうに思つて居るが、更に今一つ前の傳統が無かつたならば、尚斯ういふ形には展開しなかつたかも知れない。昔も或時世の最も強烈なる風潮に向つて、楯突き又裏切る反感といふものには、笑より以上に有效且つ無害なる表白法は無かつたのである。無論その笑が此方のものであれば、相手は憤り且つ愈壓迫したことであらうが、力ある人々には、物の形の整ふのを愛すると同程度以上に、笑によつて自信と勇氣とを養はれることを好む風習があつた。敵と對する場合にはそれが鬨の聲となり、又は口合戰の言ひ負かしとなつたことは、記録にもあり又我々も小さな實驗をして居る。それの今一段と利用を進めたものは、平和の部内に行はれて居た説話の笑である。だから上代史の最も嚴肅なる記録の間にも或ひは粟稈《あはがら》に彈かれて常世に飛び、或ひは蛤に挾まれて海底に泡を吹いたといふ類の、至つて意外なる挿話が傳はつて居るのである。多くの勝利の記録にも、敵の弱く淺ましかつた敍述が詳かなるを例とするが、昔話と稱する一種の民間文藝に至つては、必ず法則に反した一人の模倣者、乃至は指定を受けない兄弟の名などを列ねて、露骨に其失敗を嘲笑させて居る。後々其部分が特に誇張せられ、もしくはそれを説くだけに一篇が設けられて居るが、當初の目的は是に反映させて、いよ/\主人公の行ひの正しく、神の恩顧の偶然で無かつたことを、鮮明に印象づけようとしたものらしいのである。神を祭つた種々の儀式歌舞に、笑を缺くべからざる一部分とした例も、日本には多く又既に注意せられて居る。察するに笑は中代以前の社會機構に於て、可なり重要なる一因子となつて居たのである。
 
(177)          ○
 
 世に謂ふ宮廷文學の常道に一つの新生面を開き、乃至是に追隨してたゞ後れまいとして居る末輩を把握して、第二の大いなる是と對立する群をもり立てようとする者が、笑を利用したことは寧ろ易行門であつた。此他の道筋を擇んだら成功は多分しなかつたらう。記録は概して正統派のものであつた故に、彼等が初期の努力は認められず、たゞ頓狂なみやび心の無いしれ者が、小賢しく透間を算へて落ちを取つたやうに解せられて居るが、結果から見ると其速斷は誤つて居る。たとへ無意識にもせよ一貫した目標が無かつたならば、斯うして永續し又次第に成長する筈が無いのである。尤も其中には衣食の爲に、強ひられて人に笑はれに、文藝の座に赴いた者はあつたらうが、内心には恐らく牛後よりも、?口となり得たことに滿足して居たのであらう。彼等の人生觀は埋もれてしまつた。知らずに輕蔑せられる魯鈍の輩ならば格別、人を知り世を知る能力のある者が、好んで世の笑ひの種を播いて居たとすれば、彼等の自嘲は大慈悲心か、さうでないならば忍苦の生活でなければならぬ。
 和歌の退屈さ加減は、今傳はつて居る選集だけではまだ解らない。是は數ある中でも感銘の深かつたものを殘して置くからである。人が一代に詠んだ量は大へんなもので、それを誰かゞ一度は必ず聽くのだから、眞に歌よむ境涯を概括的に樂しむ人以外、折々はうんざりする者が有つたとても不思議は無い。今ならば色々目先をかへる案も出るところだが、以前の考へ方は窮屈なものであつた。其代りにはほんの僅かな細工でも、所謂千篇一律の苦を脱することが出來た。物名沓冠といふ類の言葉の遊戯も、其目的を以て始まつたものらしく、是ならば形も具はり下品で無く、作者も一しよに笑つて居られたのだが、中味がちつとも無く又やはり惡達者で無いと出來ぬ藝であつた故に、結局は改良の役割を果たすことが出來なかつた。古今集の俳諧歌は、後に眞顔《まがほ》等の手によつて混同せられてしまつたが、もとは斯ういふものとは別にして考へられて居たのである。是と近世の俳諧之連歌と、無縁であつた筈は無いのだけれ(178)ども、今ではもう其系圖が不明になつて居る。一方が餘りにも上品であり、又歌人の餘技に成つて居た爲に、行く/\有心の本筋に入つてしまつて、どこが境目だかも判らぬやうになつた。中世以降の和歌の中には、古今集程度の俳諧歌は掃くほどもまじつて居る。
 第二の運動が更に手を替へて、唱和應酬の形を採つたのは自然に近かつた。私たちの見た所では、歌は最初から居室の中に、一人でぽつんと居て出來るものでは無かつた。必ず晴れがましい聽き手があり、殊に其中に聽かせたい相手があつて、寧ろ返歌を挑む爲に言ひかけたものが多かつたのである。一方だけは所謂孕み句の用意を以て、臨むことも可能であつたが、答へをする方は突嗟の間に、何となりともいゝ加減な文句を考へ出さなければならぬ。勿論その言葉の折に合ひ氣の利いたものは、珍重せられていつ迄も世に傳はるが、殘りの多數は必ずやへどもどして、愚にもつかない御座なりを以て、御茶を濁したにきまつて居る。當の二人の心持はとにかく、是には周圍の者が先づ興を醒まさゞるを得なかつたことゝ思ふ。優れた諷刺家でなくとも、日本人ならば口を出したくなるだらう。さうして自分が再び其樣な目に逢はぬ樣に、何とか滑脱の途を講じたにちがひないのである。
 
          ○
 
 笑の藝術は此際を以て、又一段の躍進をしたやうである。戀とか恨とかいふ笑へない感情を表白する歌ですら、源氏物語時代の贈答には多分の機智、惡くいふと揚足取りといふ類の作意がしたゝかに加はつて居る。ましてやえらぎ樂しむのを主たる目途とした席上では、生眞面目にまともの挨拶をすれば、却つて面白くもなかつたであらう。少なくともそれを避ける傾きに、あの頃の趣味は流れようとして居た。しかも一章の歌謠を半分づゝ、渡して諷ふのは此國の風だつたから、たとへば新治《にひはり》筑波の尊い先例をまだ心づかずとも、連歌が風雅の徒の間に盛んになるのは當り前で、それが今の世まで殘つて居るものは、ほと/\一つの例外も無しに、すべて人をして破顔せしめずには止まぬも(179)のであるのは、私に言はせると端的に社會の要求の、何れに在るかを談つて居るのだと思ふ。
 但し今日の濃厚なる嗜好から見ると、この上流人士の俳諧はやゝ弱く、又幾分か複雜であつた。大體からいふと人の慧敏を試みる方式が二通りに分れて居て、及第の褒美は二つとも笑ひであつた。さうして是が何れも以前からあつた方法を、新たに此部面に應用したゞけで、特に發明したもので無いと私たちは思つて居る。その一つは、謎や隱語の系統を引いた難題といふもの、是には或特殊の素質を具へた者が、誰よりも先に適當に答へ得るものと、もとは一般に信じられ、それを骨子とした民間説話も、幾つと無く傳はつて居る。技藝として是が練習し得られることがわかつて、興味は俄かに加はつたのである。歌の半片を以て言ひかける者の戯れ心、單に後の句の附けにくいといふだけで無く、幾分頓狂な、思ひも寄らぬことを言はうとする念慮は、古くは「西に朝日の出づる哉」だの、「ころものたては綻びにけり」の類から、降つて江戸時代の三笠附などにまで殘つて居た。斯んなことに鼻先を折られず、澄まして相應な受答へをしたゞけでも喝采せられるが、餘裕のある者は自分の方でもしやれ返して居る。或ひは又わざとしかつめらしく、たとへば近世でいふと曠野集員外の一聯に、
   川越のぶにさゝれ行く秋の雨        野水
   ねぶといたがる顔のきたなき        落梧
   わがせこをわりなくかくす縁の下       水
   すががき習ふ頃のうき戀           梧
の承句のやうに、上品に取りなす方法もあつたらしい。斯ういふ場合にもやはり釣合ひが目立つて、をかしいことは同じであつた。古い言葉の用法に從ふと、是をば有心の附けといふのが當つて居る。それと對立した第二種の無心附けとも謂ふべきものは、特に標準文學の反抗者には痛快な形で、人が後生大事にもり立てゝ居る優雅の境涯、靜穩で又やゝ鬱陶しい空氣を、たつた一こと二ことでぶち壞してしまふ仕事である。或時代の俳諧はあまりに此方にばかり(180)專心して疎まれた。連歌の成立ちはそれよりももつと大規模であつたのである。
 
          ○
 
 連歌が色々の煩はしい方式に約束せられ、しかも半點のウイットも無い多勢の地方人に、根氣よく傳道せられたのはずつと後のことである。是が始めて其必要を認められ、文筆の世界に異樣の色彩を放つた世情から推して考へると、分量はとにかく質に於ては斯うなつたのは一段の零落であつた。こんなだら/\と誰にでも言へるやうな文句を、たゞ竝べて見るのを目的に、發明せられる文藝といふものがあらう道理は無い。皮肉な觀方をすれば宗祇でも宗長でも、旅行をし又飯を食はなければならなかつたのである。宗匠が出來れば其道が普及し、主觀の名人上手が輩出するにきまつて居る。手習ひすらも土豪等の特權であつた時代に、漸くのことで文字を讀み覺え、名歌古物語の風情を解し得た人々が、斯んな諳記の競技に無邪氣なる昂奮を感じ、睡たがる郎從を叱りつけて、夜明しをした迄の興味は我々にも理解が出來るが、それを最初からの目途にして、一つの文藝が起らうとは思はれない。察するに是も大衆化に努力する者があつて、導かれて人世の最も滑稽ならざる人たちと提携するに至つたのだが、たま/\變化と新展開とを標榜する運動であつたゞけに、此遭遇は殊に幸福なものでなかつたのである。
 或ひは連歌は始から此樣な、外から見る者には退屈極まるものであつて、それを救濟したのが山崎の油賣りであつた樣に、考へて居る人も有るかと思ふが、それは僅かに殘つた初期以來の連歌譚、さては宗祇法師が微行して、名月の會上で「三日月の」といふ一句を出したとか、又は神の化現の童子と逢つて、問答をしたといふ類の、二三の昔話からでも反證し得られる。そんなら今傳はつて居る數十部の連歌の卷々の、どこに栗の本一流の俳諧が頭を出して居るかと、書物の證據を楯に取る説もあらうが、それも亦失禮ながら無理である。私等から見ると、それは連歌の十分に平俗化した後のもので、しかも法樂とか歳旦とかの、おもだゝしい正式の興行ばかりであつた。もつと自由な民間(181)の言ひ棄てが、保存してあるなら參考にもなるが、さういふものはもう恐らくは有るまい。無暗に捜し立てゝ同じやうな記録を、此上添へられることは實は閉口なのである。
 連歌も本來は亦一種の俳諧であつたらうといふことは、他の方面からも私には考へられる。たとへば犬筑波に存録せられたる澤山の附合は、作者もとより無名ではあるが、僅かな社中の急ぎの作り物で無いことゝ、あれだけで孤立した個々の應酬で無かつたことは察せられる。さうすると當時宗鑑の見聞の範圍に、あゝいふ奇拔で又下作な文藝が、まだぼつ/\と行はれて居たのである。さうして其前句には可なりふざけたものもあるが、一部分はたゞ難題といふばかりで、貞コの淀川には之を俳言無しと、評して居るものゝ多いのを見ると、多分は普通の連歌の中へ、突如として入り交つて連衆を笑はせて居たものと思はれる。二道は和歌と此頃の狂歌ほども、相對立しては居なかつたのである。
 
          ○
 
 長頭《ちやうづ》翁のやうに俳言といふものゝ定義を延長して、ほんの少しでも日常の生活に因むものは、新古内外を問はず皆俗であり、乃ち連歌から獨立し得るものだと説いて見ても、尚純乎として純なる俳諧の連歌といふものゝ組立てにくかつたことは、紅梅千句などが自ら之を白?して居る。だから犬筑波の附句が孤立の作例でない限り、當時の連歌にも尚この樣な俳諧を插む餘地があつたと解せられるのである。守武の千句はたしかに一つの特例で、是だけは徹頭徹尾、よくも/\可笑しい詞を竝べたものだと思はれるが、果して末永く續けて行かれるものといふ、自信までは持つて居たかどうか。私には大いに疑はれる。それといふのが俳諧の眞意は突兀であり、轉換であり又對立であつて、寧ろ尋常單調の間に現はれてこそ人を興がらしめるので、始から終までしやれ拔いて居たのでは、變つたものだけに却つて價値は退縮する。それを誤解して二つを完全に引離さなければならぬと思つた人が有る爲に、あせつて無理をし(182)たものが談林派と、それに大いにかぶれた才人其角などであらう。彼等が混迷の哲理は今もまだ清算せられて居らぬ。御蔭で我々は俳諧以上に滑稽なる俳諧論の多くを聽き、しかも其語の必要であつたもとの理由が、日に月に不明になつて行かうとするのを歎いて居るのである。
 自分はこゝで改めて芭蕉翁一門の俳諧が、新たに如何なる手段を講じて、我々を悦び樂しませようとして居たかといふことを、自身の印象に基いて正直に述べて見たかつたのである。前置きがちとばかり長くなつたによつて、詳しいことは次の折まで延期しなければならぬが、大體から言つて高笑ひを微笑に、又は壓倒を慰撫に入れかへようとした念慮は窺はれ、しかも笑つて此人生を眺めようとする根原の宿意は踏襲して居る。たゞ伊勢の荒木田氏などが曾て企てたやうに、何でもかでも笑ひのめし、笑はせ續けようとするのではなくて、本當に靜かな又朗かな生活を味はひたいと思ふ者に、親切な手引きをしようといふのであつた爲に、それへ行き着くまでの色々の支度があつたゞけである。この珍しく且つ清新なる感覺を中心に、其前後に起伏する大小七情の波は、細かに測定したら必ず美しい韻律が見出されるであらう。固より思ひ思ひの人の心の調和だから、中には出來そこなつたといふ部分もあらうが、とにかく是だけまで統一した作品となつて世に傳はつたといふのは、たとへ本來は仲間だけの樂しみであつたらうとも、尊い微妙な技藝には相違ない。此派の人たちは百韻はあまり大き過ぎると見たか、歌仙を以て手頃の形として居た。其中で一つは特にやゝ大きく笑ふ處が設けてある。是にはやはり前代の同朋衆、咄の者などの常套手段をうつして、さう露骨では無いが片輪者や魯《おろ》か者、又は笑はれても構はぬ坊主や遊藝の徒のをかしみが寫生してある。去來の附句の「鎧にはねのあがる春雨」や、又は岱水の「船おひのけてたこの食ひあき」といふ類は、是に比べると幾分か複雜な、且つ新しい種類の滑稽であつた。是が氣に入つたか後世にも眞似をした者が多い。それからもう一つは下賤の戀、歌にも連歌にもついぞ用ゐない境涯を、しきりに句にしたのも新しい考案であらう。前に引用した縁の下のねぶとの他に、或ひは「何ともせぬに落る釣棚」だの、「別れせはしき鷄の下」だのといふ句に接すると、をかしいといふ中にも(183)深々とした哀れがある。斯ういふ人生をも目を留めて視させようとしてゐるのである。
 殊に師翁の句に推服するのは、表現が場合に相應し、しかも優雅なる連歌の外形をおろそかにして居ないことである。此爲でもあらうか翁の參加した附合は、他の人の出す句までよく節々に當つて、氣分の抑揚の調子が殊に細かい樣に感じられる。七百年もの昔から、我々の短詩形に缺けて居た新し味と個性、殊に大抵の男の毎日感じて居るものが、ちつとも歌にならぬといふ弱點を補足する爲に、あれほど多くの人が試みて來た策謀は、今まで一つでも實現しなかつたのに、機運が漸く熟したか、はた澤山の力の集積であつたか、何かは知らぬがこゝへ來て始めて、一方面の完成を見たやうに私などは感ずる。少なくも利害の少しも無い後代人の手に引渡して、尚隨喜するだけの文學は生まれたのである。然るに宗匠が僅か五十あまりで死ぬと、それからは又踏襲と模倣と、シイソウ遊戯のやうな偏倚とが始まつた。守らずともよい古い形は守つて、折角開け放した笑ひの門は又鎖してしまつた。笑つて人生を視ようといふ願ひが薄れた爲では無い。たゞそれへ導く善知識が再び得がたかつたのである。是を連歌のやうな退屈至極なものに、してしまはぬだけがまだ手柄と言つてよいのかも知れない。
 
          ○
 
 當代の俳諧に至つては、私は之を論ずる資格が無い。又さう手短に見通し得る問題でも無いやうである。一言だけ最後に言つて見たいことは、發句といふものにどれだけの俳諧があるだらうかといふことである。自分などが見たところでは、二折四段三十六句の一卷は、連合してある一つの效果を擧げようとして居る。それを直ちに俳諧と呼ぶのは、用語の擴張になつて原の意味に合はぬかも知らぬが、少なくとも個々の一句の任務は分擔であつて、それが各俳諧をしたならば、ちやうど芝居の馬の脚が嘶くやうなものである。素より句毎に獨立の風姿を備へ、たゞのセメント同然の遣句《やりく》に墮せぬ樣にと教へられては居るが、それがもし守武神主式に、始から終まで笑はせ續けようとしたな(184)らば、第一騷々しくて新たな興味も何も起るわけが無い。さうかと言つて此部分が冷淡であり、又尋常一樣のものであつても、一座の空氣を次第に高調させ、感覺の波瀾を起伏させる機縁が得られない。この兼合ひは至つて六つかしかつた。松永氏の俳言觀の如きも、畢竟は亦妥協の苦心であつたと思ふ。揚句がのんびりとした春景色の、しかも祝言の意を含んだものでなければならぬといふのも、多分は連歌以來の約束であつて、可なり是には俳諧が手こずつて居る。「餅を食ひつゝ祝ふ君が代」などゝいふと、もう早少しばかり行きすぎた嫌ひがあるので、蕉翁在世の當時から、寧ろ無難な常套に遁れようとする傾きが既に見えて居た。揚句が面倒な位なら發句は尚更であることはわかつて居る。是は與次郎が向ふへ行く姿を見て、あの人の腹の中にはどれだけの物の哀れが有るやら知れぬと謂うて、泣いて居た老婆の昔話も同じやうに、聽かぬうちから先々のをかしさ面白さに、心をときめかす底の樣態を見せて居なければならなかつたのである。もつと風雅な譬へ方をすれば、ちやうど此頃の四方の梢の如く、近くに寄つて見ればまだ芽の萌しさへ無いのに、誰にも春だなと感ぜずには居られぬやうな、言葉には示せないほのかな何物かゞ含まれて居るべきわけである。人が多忙で夜あかしに一卷をまく餘裕も無く、ともかく發句だけ吟じ出して置かうといふ者が多くなると、この隱れた約束は一層重んじられたのである。約束と言はうよりも寧ろ態度、或ひは心がけといふ方が當を得て居る。それを風流と解してもよし、又未然の俳諧と言つても誤りは少しも無い。
 外形の方面に於ては、哉《かな》をとまりにした發句が近年まで半分を占めて居た。四季の何れか一つと必ず結ばなければならぬとの約束などは、今でもまだ破らうとする人が至つて少ない。さうして我々の祖翁は、決して形式ばかりを説法した人では無かつたのである。遺文は斷片であり又本旨が隱約して居る。我々は多くの業績に就いて直接にその素志を掬むより他は無い。無始以來の笑ひの本願は、彼に於て漸く成就したのである。人生には笑つてよいことが誠に多い。しかも今人はまさに笑に餓ゑて居る。強い者の自由に笑ふ世は既に去つた。強ひて大聲に笑はうとすれば人を傷け、又甘んじて笑を獻ずる者は、心ひそかに萬斛の苦汁を嘗めなければならぬ。此間に於て行く路はたつた一つ、(185)翁はその尤も安らかなる入口を示したのである。それには明敏なる者の、同時に人を憫れみ、且つその立場から此世を見ようとする用意を要し、更に又志を同じくする者の協調と連結とを要する。私は最近の俳人社會の實情を詳かにせぬが、何だか又一度連歌流行の時代が來たやうな氣もするし、談林亂闘の舞臺が廻つて來たやうな氣もする。喧嘩は賑かでよい樣なものだが、たつた支考が一人出てすら、元禄の俳諧はめちや/\になつた。さうして退屈な發句ばかりが、殆と親爺の數だけ滿天下に流布したのである。それを又更に細かく引離して、隅々で仲間理窟にうなづき合つて居たのでは、果してなつかしい昔の俳諧は復活するであらうかどうか。この點ばかりは何分にもまだ私には笑へない。
 
(186)     戯作者の傳統
 
 笑が文學のおもてに記録せられて、今の世に傳はつて居る樣式には、二通りの岐れが古くからあつたかと思はれる。單なる滑稽文士とか戯作者とかいふ類の、偏よつた名稱を以て總括し得ないわけは、その笑を筆にしようとする動機、乃至は笑に對する態度に、可なり著しい相異が認められるからである。假に簡便に其一つを笑はれ側、又他の一つを笑ひ側の記録と名づけて置いて話を進めるが、後々は多分もつと心理學的な、尤もらしい名が出來ることであらう。人を笑はせようといふ目的は雙方同じでも、一方はよく言へば己を空しうし、任務に純一なるに反して片方は是非とも自分も共々に、笑はないと承知をせぬのである。是が表現の上に大きな變化をもたらすのは知れ切つたことで、今まで其見境ひも無く笑の文學を論じようとした人々が、正しいことを言ひ得なかつたのはどうも致し方が無い。
 この笑に對する二通りの態度、人が笑を催さうとする方式の二種別は、僅か氣を付けて見ると文筆以外、常の日の言語生活にも併び行はれて居る。たとへば私の世話になつた二人の大學教授で、松何といふ先生は日頃は氣むつかしく、何か滑稽なことを言はうとする時だけ先づ自分が吹出してしまふ。今一人の坪何先生の方は、如才の無い江戸つ兒學者であつたが、しやれを言ふ場合に限つてそれは生眞面目な顔をせられた。斯ういふ現象は町にもあり、又無論田舍にもある。若い娘で無くとも始から笑ひこけて、よつぽど聽いて居ないと何がをかしいのか解らぬ者、もしくは他人の笑ひ出すのを待ち兼ねて、大急ぎで自分も其中に參加する者が數多く、獨り何でも無い樣な表情をして、效果を見て居るといふ類の親爺さんは、評判にはなるがさう澤山には居ない。笑が快適な又樂しい感覺であつた反面に、(187)人に笑はれるといふ境涯が本來は幸福なもので無かつた爲に、甘んじて其任務に就く者が今でも尠なく、たま/\無意識にさういふ利他の功を奏した者でも、急いで騷け戻つて來て自分も笑ふ仲間に入つてしまふか、さうでなければ最初から、笑の目的物を遠くに置いて、自分も衆と共に笑はうとしたものかと思ふ。職業でも無く又特殊なる境遇でも無くて、人を笑はせてやらうといふ篤志家は、現在はもう幾らも出來て居るだらうが、大抵はどこかで正體を露はし、自分も決して笑はれてばかり居るべき者で無いことを示さうとする。日本の笑は此爲に非常に複雜な現象になつて居るが、所謂フォクロアの學問は、追々に此傳銃と經過とを明らかにし、且つ之を文學の歴史の解説にも、應用し得る所まで行く見込がある。私の一つの試みは成功せぬかも知れぬが、この可能性だけは認めてくれる人が有らうかと思ふ。
 我々が笑の嫌ひな國民で無かつたことは、大切な證據が有る。古事記はあの通り嚴肅な公記録であるけれども、其中には聽いて今の人でも笑はずには居られぬ插話が、色々と入つて居る。たとへば大國主神が出雲の美穗の御崎に出て覽られると、羅摩《かゞいも》の船に乘り、蛾又は雀の皮を剥いだものを衣服に着て、波の穗より寄來る神が有る云々とあつて、それは我子だ、指の俣から漏れこぼれた兒だと、高御産巣日御祖命が仰せられたといふのは、書紀にも採録せられて居て有名な話だが、是は少名毘古那神の御姿が、極度に御小さかつたといふことを説く古くからの話し方であつた。忠實なる此物語の筆者は、恐らくは片句一言をも加除しなかつたらうが、なほこの敍述の最初の目的に順應して、先づその意外なる形容に破顔せずには居なかつたであらう。私が新たに問題にして見たいのは、歴世この古傳を誦習して居たといふ稗田氏の一女性、年は二十八歳なる者が、果してかの谷蝦《たにぐく》から山田の曾富騰《そほど》への一段を説くに臨んで、自分も亦大いに笑つたらうか、但しは又わが敬愛する大學の某教授のやうに、自分だけは眞顔になつて、親切に語りごとの效果を見屆けようとしたかである。其樣なことがもう判るものかと言ふ人もあらうが、もしも私の推測の通り、笑の文學に二種の樣式があつたのが正しくば、是とてもその二つの何れかに屬し、從つてどこかにその特徴といふも(188)のが傳はつて居る筈である。筆者即ち作者といふ今日の考へ方は、少なくとも古事記だけには通用しない。しかも私たちはその最後の傳承者たちの忠實を信ずるが故に、愈以てこゝに代表せられて居る大昔の技巧の、素朴なる動機を窺ひ知らうといふ、望みを抱かずには居られぬのである。
 然らば如何樣なる特徴が、二種の笑の文學の差別を標幟するであらうか。是を説く爲にも我々はなほ實例の援用を便利とする。中世人の笑の需要を知る爲には、もつと豐富な資料が今日に引繼がれて居る。其中でも今昔と宇治拾遺との二つの物語は、往々にして同じ説話を兩方で取扱つて居る爲に、單なる蒸し返しを以て目せられ、しかも一方の表記法が古體であり、又幾分かあの頃の口語に近いかと思はれるので、私なども實は他の一方をやゝ輕しめて居たのであるが、この評定には今はまだ確かなる根據が無い。其上によく氣を付けて見ると、こゝにも笑の文學の二通りの扱ひ方が、對立して居るやうに考へられる。誰にも爭へない二つの物語の相異は、一方はとても或一人が一生の間に集めきれないほど、數多くのよく似通うた説話を蓄積し、且つ可なり精密に分類して居る。他日もう一度利用するが爲に、檢索と比較に便にしようとした動機が認められる。之に反して宇治拾遺の方は丸で序次が無く、得るに從うて書留めて置かうとした、言はゞ樂しみの糟のやうな姿があつて、第二の目途などは是からは窺ふことが出來ない。文章の上から謂つても、此方が上流の教養ある人々の、日頃弄んで居る形に近いので、笑を愛するの情からいふと或ひは宇治拾遺が一歩進んで居るかも知れぬが、此方は要するに笑つてやりませうの文學と見られる。今昔の口語は漢語をやゝ多く使ひ、動詞形容詞にも今風のものをまじへ、武士か法師かはした者の物言ひでもあるかといふやうに感じられるが、是はたゞ單純なる寫實といふよりも、寧ろをかしい話をする人々の口つきに依らうとしたので、笑はれる文學では無いまでも、少なくとも笑はせる文學としての計畫であつたと思はれる。假に共通の種本に採り、もしくは一方が時おくれて受賣りをしたにしても、筆者としての態度は彼此全く別々で、どちらが面白いかは私等には問題も無いが、是も畢竟は筆執る人の境遇、乃至は趣味によつてきまることである。蔀簾の隙から扇などを手に翳して、傍(189)へ聽きしようといふ人の好みは又別である。腹をかゝへるほどの感動は得られなくとも、彼等の笑の評價は存外に高かつたかも知れぬことは、今でも女たちが幽かなる滑稽に、笑ひこけて居る  状態からでも想像し得られる。
 文筆が女流と其交友だけの專業となつた時代に、稀薄な笑しか傳はらなかつたのは、言はゞ宇治拾遺式の上品なる態度が、好尚を統御したからだと思ふ。さういふ中でも和泉式部などは、もしも傳説が附會のものばかりで無いならば、まだ幾分かしやれのわかる人、即ち或程度までの笑はれ役を買つて出る人であつた。清少納言に至つては闊達な才女といふ評判ばかりで、いつでも遠くから人を笑ひ、又陰口ばかりきいて居る。女の中にも常陸介の如く、平仲藤六と對峙して世を渡る者が少しは居たらしいが、彼等の文學は乃ち傳はることも稀であつて、猿女の始祖などは終に神となつてしまつた。この流風は久しい間持續した。單に文學の表面だけを見ると、日本は賤の女山がつばかりが、笑の種を播く國となり、町でしがない暮しをする話し家すらもが、今に至るまで權助と熊さんとをつれて來て、自分は御客と共に笑ひ側に立つ樣なことを言つて居る。それを又新式のユウモリストまでが、眞似ようとするのだから誠に淋しい。
 話し家は日本の文物制度のうちで、特殊に零落退歩したものゝ一つであるが、彼等自身は固よりのこと、外からでもまだ其變遷の跡を見ようとした者が無い。この歴史を明らかにするに、史料といふほどのものが殆と無いのだから、それも或ひは致し方が無いと言ふか知らぬが、考へようとすれば別に途がある。彼等の無意識に持傳へて居る生活ぶりなどは、立派に亦一つの痕跡だと思ふ。我々の經驗する所、如何なるたわいも無い有りふれた落語でも、聽いてをかしくなり吹出したくなる點は、大抵の滑稽小説よりは有力である。話は何處に居るとも知れない權助熊公の噂だが、顔を見て居ると其度毎にしぐさをまね、又は口つきを寫し出して、是が本人かのやうに感じさせることに努力するからである。近年の漫才なるものは是を改良したのでは無く、別に神樂のヲカシや品玉の狂言太夫から、筋を引いて居るかと思はれるが、此方は言ふことが一層愚劣で、しかも正直に本人が其阿呆を演じて居る。この二つの藝が接近し(190)て居るのを見てもわかるやうに、話し家の命脈を永く繋いで居たのは、文字に筆記し得る以外の補助技巧が、衰へないどころか少しく増長し過ぎて居たからである。斯うなつて來ると其場ではどの樣に大きく笑つても、還つて來て其をかしみを人に傳へることは六つかしい。おまけに素人の滑稽は、身ぶりや口眞似を下品としてひどく嫌ひ、出來るだけ靜かに人を樂しませようとする。其結果は極度に鋭敏なる若い男女を、少しばかり笑はせるのが止りで、多數の常人は所謂しやれのわからぬ者になつてしまはねばならぬ。心一ぱいの笑の活躍を體驗しようとすれば、酒間か遊び場か惡友の交りかを求める他は無いとなれば、笑の品質は改良せられる機會が有り得ない。それでも全く笑はずにも暮せないので、何か手近に間に合せのものを捜す爲に、陰口や皮肉の陰性の話題ばかりが多くなる。笑そのものゝ立場から言ふと、少なくともこの上臈文學の普及は、幸福な現象では無かつたやうである。
 中世に今昔物語や沙石集によつて代表せられて居る笑の文學が、どうして久しく榮えなかつたかは不審であるが、察するに原因は單一ではなかつたのである。たとへは文學に親しむほどの者が、何れも聽明で竝以上の想像力をもち、簡素な辭句の間から言外の情趣を味はひ得た爲に、特に丁寧なる敍述を要すること無しに、笑ふべきものは皆笑つたからといふこともあらう。或ひは又それと相表裏して、言語の利用法が口舌の間よりも、一段と筆紙の上に於て進歩することが鈍かつたといふこともあらう。何だか知らぬがいやに眞似ばかり上手な人が多かつた。創意の尊重せられない社會には、新しい技能の生まれなかつたのも是非が無い。それから今一つは文學と併行して、別に口から耳へ行く文藝が、多數の民衆を支配して居たこと、是も無視することの出來ぬ一原因であつたらうと思ふ。言語を同じくする者が相接して住む限り、如何に十分な文字の教養を受けたと謂つても、耳と口とは休めて置くわけでは無い。ましてや少數の文讀む人を圍繞して、所謂文盲が古今の説話を樂しんで居たのである。今ある文學は單に筋書であつて、人は單にそれによつて、耳の記憶を支持して居たかとも想像せられる。もしさうだとしたら是ばかりを唯一の手掛りに、古今の笑の文藝を推究せんとする企てが、幾分か笑止なことにもなるのである。話は再び宇治拾遺の物語に戻る(191)が、あの中で最も高名なのは鬼に瘤を取られる話、是は小學讀本の典據ともなつて居り、又是だけを元として朝鮮からの輸入を、論じて見ようとした人もあつたと思ふが、この書の筆録した當時の瘤取りの昔話が、斯うした筋書式の味の淡いものであつたといふ想像は、實はちつとも根據の無いものなのである。同じ一つの趣向は半島はおろか、西洋の各地にも背の瘤となつて弘く分布して居る。根源は多分一つであつたとしても、手を別つてから年久しく、國毎にそれ/”\の發達を遂げて、民衆に親しまれて居たのである。私は日本國内の諸例の比較によつて、大體に宇治拾遺の對昔話態度、殊に笑を文學にしようとする方針ともいふべきものが推測し得られ、更に是によつて他の一つの樣式の、望んで未だ達せざりしものを明らかにし得るやうに思つて居る。ごく掻いつまんで要領だけを述べて置きたい。
 瘤取りの昔話の現在採集せられて居るものは、自分が知つて居るだけでも東北に六つ、東海、北陸、近畿、中國、九州に各一つづゝ、この他に三百餘年前の醒睡笑に録せられて居るものとがあつて、宇治拾遺に依つたかと思ふのは、靜岡縣傳説昔話集の、濱名湖附近のものがたつた一つである。普通今までの人の考へでは、古書を讀んだ者が話して聽かせたのに、色々おまけを添へ誤謬を重ねて、今ある形にまで變化させたやうにいふらしいが、それだけはほゞ反證を擧げ得られる。たとへば宇治拾遺には鬼の酒盛りの末座から、「若き鬼一人立ちて、折敷をかざして何と言ふにか、くどきぐせざることを言ひて、横座の鬼の前にねり出でゝくどくめり」とある。是があの頃の宴會の常習かとは思はれるが、どういふ擧勤をしたのか此文句だけでは少しもはつきりしない。人が受賣りするにも一ばん困る箇條である。諸國の昔話でも踊の拍子が餘り面白いので、思はず飛出して共に踊つたといふは同じだが、それには今少し具體的なきつかけがある。豐後臼杵の例では天狗どもが、「天狗々々三天狗」と言つて踊つて居るのを見て、「おれをかアてゝ四天狗」とうたひながら、瘤の爺が其仲間に入つたといふことになつて居り、遠く隔たつた陸中の一例でも、やはり「俺もかてゝよか天狗」、もしくは四天狗と言つて飛出したと謂つて居る。斯ういふ話し方がもし原話の改作だつたとしたら、これだけ懸離れた偶合は有り得ないと思ふ。或ひは又別の村の昔話では、大鬼小鬼が奧山から出て(192)來て、山の神の御堂の周りを「一ぼこ、二ぼこ、三ぼこ、四ぼこ」と囃して踊りまはつて居るのを見て、爺は其後から「おれも足して五ぼこ」と言ひながら踊つて行くといひ、又山形縣の最上地方の一話でも、夜中にさま/”\の化物が列を作り、何のことかは知らぬが「一べつちよう、二べつちよう、三べつちよう、四べつちよう」と謂つて踊つて居る。それに釣られて踊ずきの爺が、「おれもかせろや五別長」といつて飛込むといふのは、村の踊の昂奮を知つて居る者には、容易に同感を表し得られる話し方であり、しかも宇治拾遺といふやうな筆つきの人には、先づ傳へることの六つかしい興味であつたと見えて、是にはたゞ「此翁ものゝ憑きたりけるにや、又神佛の思はせたまひけるにや、あはれ走り出でゝ舞はゞやと思ふを、一度は思ひかへしつ云々」などゝ、重苦しい説明をして居る。是が説話の原形であつた氣遣ひは決して無いのである。
 昔話のさほど好きでもない讀者には、詳しい比較は迷惑と思ふから、爰にはもう一つだけの相異を擧げておしまひにする。宇治拾遺の若い鬼は、折敷即ち御膳を手に翳して立つて舞つたとあるのに、それに續いて走り出た瘤爺が、只「よきといふ木伐るものを腰にさして」すぢりもぢり舞ふといふのは、話としては誠に調子が合はぬ。今から二十七八年も前に、自分が始めて奧州の瘤取童話を、郷土研究に採録した際に注意したのは、その第二の瘤爺の下手な踊といふのに、
   ふるきり、ふるきり、ふるえんざアや云々
といふ歌の文句の附いて居ることであつた。ずつと後になつて判つたことだが、元は古圓座を頭から被つて、爺が踊つたといふ話になつて居たらしいのである。津輕地方で採集せられた「化物と踊つた話」は、もう瘤取りでは無いが、この痕跡がよく殘つて居る。昔或山寺に化物が出るといふので、元氣な若者がそれを退治に行く。夜が更けると色々の化物が現はれて、
   ふる簑、古笠、古つゞら
(193)   ふる鉦、古太鼓、古つゞみ
   すつちやんちやがら、ちやんちやがら
と歌つて踊つて居る。あんまり面白くなつたので、自分も敷いて居た茣蓙を被つて、其仲間に加はつて斯ういつて踊つた。
   ふる簑、古笠、古つゞら
   ふる鉦、古太鼓、古つゞみ
   古ごおじやのばけもの
 さうすると化物も安心して夜どほし一しよに踊り、夜が明けて大黒柱の下へ入つて行つたので、そこを掘ると隱れ簑、隱れ笠、その他色々の寶物がそこに埋もれて居て、世に出ない不平からこの樣な化物となつて居たのだつたといふ。日本で「山寺の怪」と名づくる一群の昔話は、何れも皆危險を條件とした成功譚で、或特定の智者勇士、又は正直で邪心の無い者などが、思ひ掛けぬ幸福に有り附くのを結末としたものが多く、瘤取りも亦その奇拔なる一趣向であつたことは、恐らくは諸民族の一致する所であるが、たゞ我邦同胞の説話趣味の中だけに、特に斯ういふ形の踊り話が、面白く發逢して居たらしいのである。或ひは宇治拾遺の筆録せられた頃には、まだ古圓座の段までは出來て居なかつたらうとも言へるが、假に歴然と其點までが語られて居たとしても、それを傳へることは此筆法では不可能だつたらうと思ふ。是と比べて見ると三百年前の醒睡笑は、至つて簡單ながらなほ笑はれ側の文學を代表して居る。合點の行かぬことは、私などの見て居る帝國文庫本では、話を二つに切つて卷一と卷六とに分載して居るが、是にも何か考へて見るべき理由があるらしい。兎に角に此方は主人公が老いたる禅門であつて、修業に出て山中の辻堂に泊り、天狗の酒宴に出くはして怖ろしくてたまらなかつたが、「せん方なければ心浮きたる顔し、圓座を尻に附け立ちて踊れり」とあつて、明らかに宇治拾遺からの受賣りで無い。鬼に瘤を取られたといふあの當時の諺が、少なくとも説話(194)業者の間に、まだこの形を保存させて居たのである。
 殊に私たちが注意するのは、「明け方になり天狗ども、還らんとする時いふ。禅門うき藏主にて好き伽なり。今度も必ず來たれと、約束ばかりは僞りあらん。たゞ質にしくはあらじとて」、瘤を取つて行つたといふ一條が、似ては居るけれども宇治拾遺よりはずつと寫實で、如何にも我儘な地頭の脊屬などの、酒宴の光景を粗描したやうに見える。
 思ふに此類の所謂浮き藏主は、元は活計の爲に甘んじて有力者の群になぶられ、をかしな昔話をして機嫌を取結んだゝけで無く、時としては斯ういふあんばいしきにと、自分で古圓座を尻にくつゝけて、少し踊つて見せて笑はせるやうなこともしたのであらう。昔話の話し方には、素人の中でもそれが折々見られる。高座の藝人等は勿論之を利用して、十分なる笑の效果を收めて居る。たゞ文筆によつて之を世に傳へようとする戯作者のみが、身ぶりこわ色その他傳統ある一切の補助手段を封じられ、之に代るべき描寫の技藝を發達させることが出來なかつた爲に、往々にして七偏人八突人などに見るやうなあくどいしやれ、もしくは下品なるくすぐりに墮するか、然らずんば罪も無い外部の犠牲者を拉し來つて、人に嘲笑漫罵の趣味を養はしめることゝなり、乃ち日本の笑の文學は、讀み書き教育の普及と共に、あべこべに大いに退歩したのである。
 今の事滋く氣遣ひの多い時代に際して、心ゆくばかりの好き笑を味はしめるといふことは慈善事業である。たとへば村々の剽輕爺さんのやうに、人には輕しめられ又寸分の謝禮は受けずとも、なほ一郷の空氣を和める爲に、努めて身を晦まし愚を装ひ、萬人を自得せしめようとする者がもう現はれて來てもよい頃である。しかも實際はユウモリストと名告る者を、我々は相應に尊敬して居る。其爲に却つて馬鹿になり切れぬのか、或ひは又是が上品文學の宿命でもあるのか、ともすれば地金を露はして、おれは笑つたといふ記録になり易く、讀者も亦一旦漫才とか笑鷲隊とかの愚かな身ぶりを見た者だけが、漸く之によつて古い笑を想ひ起す程度に止まつて居る。斯んなことでは到底日本國の笑は改良せられない。嚴肅なる上世の記録の中にすら、あれだけ數多くの新鮮なる笑を留めて居るのは、恐らくは(195)「わざをぎ」の力であつたらう。それが分業によつて既に文字の文藝の管轄の外になつたとすれば、當然に我々は之に代るべきものを求めなければならなかつた。歴史の示す所によれば、最初には「斯うもあらうか」の狂歌が其役を勤めて居る。第二段には描寫の技術と言葉の寫生で、この二つは江戸期の戯作者等も相續して居た武器であつたと思はれる。第一の方法は今更復活も出來まいが、第二の方法に至つてはまだ幾らでも利用洗煉の餘地がある。新たに第三第四の手段を見つけるもよいが、さし當つては今少しく露の五郎兵衛、鹿の武左衛門等の苦慮の跡を尋ねて見ることも必要であらう。それよりも更に急なることは、現在我邦の笑が文學非文學の兩界にかけて、共に甚だしく零落して居るといふ認識である。黄金時代は過去の專屬で無い。行つた處までは今からでも行ける。私が徒らに國柄にもふさはしからず、時代の要求も無く、又文士の能力では企て及ばぬことを、無理な注文をするやうに看なされずんば幸ひである。
 
(196)     吉右會記事
 
          一
 
 「地方」の愛讀者諸君に、是非とも報道せねばならぬ一事件は、先頃東京では自分が發起人の一人と爲つて、吉右衛門會といふ珍しい名稱の、至つて眞面目なる學會が創立せられたことである。吉右衛門は九州大分縣の一隅に、曾て生存したと信ぜらるゝ有名なる奇人で、非常に澤山の昔話の傳承者、と謂ふよりも其中心人物であつた。吉右衛門無かりせば新時代の九州人の多くは、今よりも遙かに理窟つぽく、又陰氣なる紳士となつて居たかも知れぬのみならず、由緒ある日本上代の滑稽は、埋没して終に顯はれなかつたらうかとさへ考へられる。仍て志を同じうする昔話の研究者たちは、始めて起つた此會に彼の名を冠して、永く其コを記念することに、些かの異議を唱へなかつたのである。但し當代の名優中村吉右衛門の後援合と、混同せられんことを懸念して、特に其呼び方を田舍の慣習に隨つて、キッチョン會とした。即ちキツチョン會は豐後の吉右衛門、又は之と類を共にする各地方の奇人の御蔭に由つて、今まで保存せられて來た昔話を、蒐集し分類し且つ考察する爲に協力する所の小團體である。
 此會成立の起原を説く爲には、先づ第一には吉右衛門何者ぞに就いて、語る所が無くてはならぬ。尤も大分縣に生まれた程の人ならば、單にキッチョンの一語を聽いたゞけで、にこりとせぬ者は無い位であるから、少なくも彼等だけには、絶對に説明の必要が無い。七年程前に自分が大分町に往つた頃は、地方の昔を囘顧する者の間に、早くも專(197)門のキッチョン研究者とも名づくべき者が出來て居た。安部碩田氏の如きも恐らくは其一人であつたと思ふ。多くの郷土史家の言に依れば、吉右衛門は大野郡野津市の人であつた、子孫は血食し今も墳塋の地を存する。同志安東富士夫君が、新しき研究者衛藤兄弟より聽く所では、最近更に一基の記念碑は彼が爲に建てられ、又野津市の活動寫眞館は、故人の名を記念すべく、吉右衛門館と稱して居るさうである。
 勿論是は只最近の現象であつて、もとは郷里の野津市に於ては、吉右衛門尊信の度は却つて低く、?事實の裏書を拒まんとしたかと思はれる。而うして吉右衛門の諧謔の最も珍重せられたのは、此地方の古い都會の一つたる北海部郡の臼杵であつた。所謂キッチョン話に御城下とあるのは、反對の明示無き限りは臼杵のことであり、御屋敷と謂ふのは稻葉侯、又は其重臣の家を意味して居た。野津市は臼杵の城下から、峠を隔てゝ四五里の路であつたが、昔は是ほどの距離でも、言語好尚に早若干の異郷味があつて、野津の市人を笑ひ興ずるのは、決して自ら嘲り輕んずることにはならなかつたのである。況んや此話が次第に運搬せられて、大分にゆき國東半島に入るに及んでは、此邊には居らぬが大野郡の奧にならば、其樣な人も居るかも知れぬと、一層面白がつて聽くやうになつたのであらう。
 榎田伯人君の記憶する所に依れば、南海部郡の佐伯の城下に於ても、吉右衛門を喧傳することは決して臼杵に讓らなかつた。しかも山を越えて更に南方の各地に進出すると共に、物語の現實性が少しづゝ薄れて行かうとする傾きは見えた。蓋し人は力めて利害の交渉無き方面に向つて、大笑ひの種を?め出さんとする性がある。人を笑ふと云ふことは侵害であり、笑はるゝ者が耻ぢ若しくは怒るのは、今日の世に於ても尚日本人の常の情であるからである。日名子實三氏は臼杵城下の舊い家に生まれ、殆と如何なる吉右衛門話でも、一度は聽いたことがあるやうに思ふほど、滑稽の興味を體得した人であるが、さる仔細あつて今日まで、あまり進んでは此話をして見ようと欲しなかつた。と言ふのは實は同君の家は、野津市に廣田吉右衛門と云ふ親類を持つて居たからで、何んでも近郷に知られた名門であつたさうだが、有名なるキッチョンは其家の先代であつたやうに、日名子君自身迄が信じて居たのである。現在朝鮮と(198)かへ移住した若い當主の、祖父ぐらゐに當つて居るやうな氣がすると謂つて居る。即ちまだ直接には其事實の有無を確めて見るだけの、勇氣すらも持たなかつたので、さうして單に人から親類ぢや無いかと謂はれるのが感心せぬ爲に、子供の時から公けには之を避ける癖を生じて居たのである。
 しかも自分たち比較研究の學徒としては、果して野津市廣田家の近世の主人が、話の吉右衛門其人であつたかどうかは、さう輕々には決することを得ないので、それが又どうしても此會を創立せねばならなかつた根本の理由にもなつて居る。
 
          二
 
 現に速見の山地を北へ越えて、歴史に充滿した宇佐の平原に降つて行くと、吉右衛門話は次第々々に、又別の紋樣の衣装を着けて現はれ、豐前も中津川の水域に入つてからは、此種の昔話は悉く吉吾話の名を以て語り傳へられる。非常に著しい南北の相異は、臼杵の城下では領内在方の吉右衛門を笑はうとするに對して、豐前では村々の農家の笑ひ話に、中津の町の吉吾を説くのである。自分の最も古い友だちの一人、水野葉舟君がまだ漸く青年であつた頃に、幾度か私の家へ遊びに來て、所謂吉吾話の面白さを説いた。自分も之に動かされて、他日準備が出來たならば、吉吾會を作つて見ようと、約束をしたことがある。それがもう二十年餘の昔になつた。水野君は其時分から、同じ話が豐後に行くと、吉右衛門に化し去ることを知つて居た。今度のキツチョン會にも同氏は大切な會員であつた。改めて訊ねて見た所が其答には、以前豐津の中學の寄宿に居た頃、下毛郡から來た同級生に、非常に此話を好んでする者があつた。一つ/\の話は思出すのに時がかゝるが、何でも其折の印象では、吉吾は中津の町はづれの、路ばたの小家にでも住んで居る樣に感じられた。折々は頓間な間違ひなどをする癖に、横着で機智があつて常に安々と人を擔いだ。其逸話が片端から世に傳はつたので、こゝでもやゝ離れた土地に住む者が、油斷のならぬ中津人といふ意味で、中津(199)吉吾などゝ惡口を謂ふのを、時々耳にしたこともあるといふ。在と町との反感は常のことで、それが必ずしも土地全般の不名譽とならぬことは、野津市の場合も同じことである。
 吉吾と吉右衛門と、假に時代を同じくせずとも、同じウソ同じ惡戯をしたといふことは理由が無ければならぬ。先づ一方の土地の説を聽いて、他方を模擬受賣りと認めることは甚だ六つかしい。其上になほ珍しいことには、中間地帶の國東半島の一部では、右の兩雄が併び存し、又は入亂れて領分を爭つて居たらしいのである。安東君は速見郡の海岸まで、吉吾話が及んで居たと言ふが、其堺線以北に吉右衛門話も亦入つて居たので、つまりは澤山の村の實例を集めて見ないと、何れが古い新しいなどは、到底決定する見込が無い。豐後の吉右衛門話の一つの傑作に、キッチョン天に昇ると稱して人を集め、無料で普請の地ぎようを固めさせた話がある。それを西國東では必ず「吉吾の天昇り」と謂ふのみならず、榎田氏の談に依れば、遙か南方の佐伯地方でも、「豐前の吉五郎、天に昇るはあぶないものぢや」と謂つたとあつて、爰にも亦吉右衛門さんの隣に、吉吾らしき者が來て住むのである。
 然るにその豐後の吉右衛門は山を越えて、自分も亦更に南の方へ進出して居る。肥後の球磨郡の如きは隣縣とは云ひながら、些しも大分とは境を接して居らぬのに、その山間の村々には、やはり豐後の吉右衛門がちやんと來て居ると、小山勝清君は我々に教へてくれた。但し此地方には別に中津の吉吾と同じく、土地に産した八代の彦市なる者が居つて、豐後のキッチョンと逢つて法螺を比べ、又は頓才の試合をして居る。大體に於て彦市の方が、比較的着實にして義理堅く、極端に狡猾な話、又は馬鹿々々しく愚かな話は、何れも豐後から來たキッチョンの方に屬して居る如く、感ぜられたと小山君などは謂ふ。而うして彦市は亦實在の人物として信ぜられて居た。球磨川下流の八代の出町と云ふ處に曾て住み、何とか云ふ菩提寺があつて、今尚其墓石を撫摩することが出來る。或ひは彼を知るとさへ談ずる者があつて、必ずしも年久しい過去の人では無いやうに傳へるさうである。然るに自分の生國兵庫縣の播磨などでも、不思議なことには此類の滑稽談の主人公は彦七であつて、今は知らぬが自分の幼時までは、彦七話といへば笑話(200)であつた。何でも丹波か但馬の山家から出て來た者の如き幽かな記憶がある。父の慈愛を思ひ起す毎に、必ず之に附いて尾を曳くやうに胸に浮ぶのは、天狗を欺いたなどゝ云ふ彦七の冒險談であつた。彦と云ふのが大昔から、或ひは珍しい話を多く持つ人の、通り名でゝもあつたのでは無いか。大久保彦左衛門の如きでさへも、講釋師等の傳承する奇言異行の中には、到底此勇士傳とは調和せぬものが多い。一例を擧げるならば鶴の吸物と稱して、菜の葉ばかりの汁を振舞つたといふ逸話などは、豐後の臼杵に在つては、明白にノヅンイチンキッチョムの、青首(鴨)だと謂つて大根を食はせる話になつて居る。
 驚くべき一致は決して之を以て盡きて居らぬ。豐後を北に去ること約千哩、岩手縣紫波郡の村落處々には、又吉右衛門と最もよく似たうそつきの民間英雄、其名を吉と呼ぶ者が永き世の語り草を殘して居る。爐邊叢書の第二十四編として、仲間の佐々木喜善君が編録して世に公けにした紫波郡昔話は、本來同郡煙山村大字赤林の舊家、小笠原謙吉氏の老嬬人が、更にその祖母などから聽いて、家に傳へて居た無數の昔話の中より、始めて文字の形を假りて現出したもので、斷じて近年の行脚僧、旅商人乃至は新聞記者などの媒介を經た種では無い。それにも拘らずこの奧州の田舍でも、吉は依然として狐を騙し、或ひは長者や寺の和尚を欺いて、小さな利得を志して居るのみならず、一方には又普通人も笑ふやうな魯鈍な誤りをして得々として居る。是はそも/\如何なることを意味するのであるか。單なる偶合の奇事として、もう此程度で穿鑿を打切つたものであらうか。もしくは又この珍しい一致を栞に、今少しく深入して、隱れた地下水の源頭を尋ねて見るがよいか。幸ひにして我々の吉右衛門會には尚往ける所まで往つて見ようと云ふ説に、反對をする者が一人も無かつた。
 
          三
 
 そこで此會の世話人として、自分が全國の同情者に向つて望むことは、此報告文中の處々に載せたやうな昔話を、(201)豐富に保存して居る地方が若し有るなら、如何なる樣式又は説明を以て、それが傳へられたかを知らせて貰ひたいことである。事によると他日又意外な方面から、彦市又は吉吾と云ふ類の奇人の逸話として、或ひは全然別人の物語であつても、何か思ひ當るやうな新資料が供給せられて、我々の推測の丸々夢で無かつたことを、證明してくれる日が來ぬとも限らぬのである。
 陸中紫波郡の吉をとこは、吉右衛門か吉兵衛かまだ究めて居ないが、佐々木君の書物にはモンジャの吉となつて出て居る。モンジャは漢字に書くと茂澤で、傳承者の居住する煙山村の一小部落であつた。あまり惡い事をするので後に村から追出されたと云ふ説もあるさうだから、或ひは隣接の諸郡に此名で通つて居るかも知らぬが、茂澤の地名は此昔話ほどに著名で無い故に、或範圍を外に出たならば、必ず一變して居る筈である。充分注意して見て居なければならぬと思つて居る。編者佐々木氏が最初の草稿を私に見せたのは、今からもう六七年の前であつた。其後二度までも大分縣に旅行をして、既に彼地の人々には奧州に茂澤の吉なる者あることを告げたのであつたが、愈其話が印刷に付せられたに就いては、急いでキッチョンの第一集會を、企てなければならぬやうに感じたのは、實は岩手縣でも大分縣でも、雙方互ひにまだ此の如き奇なる一致のあることを知らぬ人が多いからである。吉吾吉右衛門の如く本家爭ひをするだけの接觸すらも曾て無かつたからである。
 理由は到底まだ附會することも不可能であるが、自分等は何かもう我々の忘れてしまつた歴史が、地方の昔話の主人公の名前を、吉と呼ぶより他は無いやうに、仕向けて居るのでは無いかと想像して居る。其想像の一つの足掛りとしては、昨年私が世に出した「海南小記」の中に、豐後と奧州と、是も著しく一致する炭燒長者の傳説がある。九州の方では言はぬことだが、東部日本に在つては炭燒から長者と爲つた炭燒藤太の子が、金賣吉次であつたと傳へて居る。即ち義經記其他に於て、九郎判官と同行して平泉の秀衡の處へ案内をしたと云ふ、橘次信高のことである。金賣吉次が父の發見した黄金を洗つて、京と奧州との間を往來して商賣をして居たことは、何等の舊記類との矛盾は無く、(202)橘次信高に兄弟の有つたことも既に知られて居るが、不思議なことには此兄弟が、後に金ゆゑに惡漢に殺されたと云ふ話が、奧州街道に近い白河の革籠村の外、更に越後の信濃川沿岸にも、又下總利根川の下流の村にもある。下野の國府總社の附近には、尚一段と複雜にして不可解な話が殘つて居る。話は何れも輕快なる笑話で無く、小説であれ實事であれ、今では破片と爲つて何の爲に吉次吉六の兄弟、若しくは吉次吉六吉内の三兄弟を、記憶せしめて居るかの趣意すらも不明に歸したが、兎に角に各地の昔話の主人公の名に、吉の字の附いて居たと云ふ點だけは同じであつた。自分は最初金賣吉次の賣つた金は、黄金に非ずして古鐡であり、金賣は金屋即ち鑄物師のことだらうと考へた結果、此階級に善く語り善く歌ふ者あつて、炭燒藤大のやうな長者譚を、世に弘めたものであらうと推測した。從つて後世東國の鑄工の中に、吉の字を名乘にした人たちの家筋を、之と關係あるものと思つたのであつたが、夫だけでは未だ吉の字を珍重し始めた人の心理は説明し得ないのであつた。名頭の源平藤橘の文字は、橘氏に關係の無い多くの百姓の通稱や童名に、頭にも尻にもよく吉の字を附した理由には十分で無かつた。織田氏の嫡孫を吉法師丸と謂つたやうな場合には、別に宗教的か又は文學的の、趣味とも名づくべき選擇が働いたらしいのである。それが中津野津市等の昔話の中心人物を、吉吾吉ヨムたらしめた本來の動機だと、考へて見るのは無理であらうかどうか。
 或ひは此想像に反對して、人の通稱童名の如きは、親が附け又人が附ける。最初から洒脱頓狂の奇人として後世に名を殘すべきを豫期して、吉と附けて置く者の有る筈が無いと謂ふかも知れぬ。併し是から追々に明白になる如く誠に吉吾吉右衛門等に對しては氣の毒ながら、折角彼等獨得の滑稽と稱して、故郷の周圍でもて囃されて居る話も、根を探つて見れば殆と一つとして、昔から存するものゝ改造で無いものは無い。又常理から考へても短い一生涯に、一人で其樣に澤山の奇を演じ得る機會もあるまいし、附きゝりに附いて居た記録方でも居らぬ限り、その全部が世の中に弘まる場合もあるまい。大抵は本人が非凡なる話上手で、所望さへあればさもあつた事のやうに、色々の話をして聽かせたのであらう。即ち或時には話に活氣あらしむる爲に、わしが若い頃とか、旅をして野宿をした晩にとか、自(203)身で遭遇したやうに述べたこともあらうし、さうで無くとも昔或男がと語り出せば、聽衆はすぐに笑つて、それはあんたゞらうと口でも言へば、後に受賣りする時はキッチョムサンが斯うしたと、言つて退けることがあつたかも知れぬ。古い所では一休咄、それから曾呂利の咄の如きも、それが一人稱の自敍體であつたからとて、全部が全部此人たちの閲歴なりと、信じて居る者は誰もあるまい。實際又信じ得られぬ話も確かにまじつて居た。曾呂利は太閤秀吉の夜あるきを諷諫すべく、化物を丸呑みにして胸が惡いと言つた話がある。昨夜大入道に出逢ひ、其形では退治ることも出來ぬので、色々と騙しおだてゝ變形させ、終に梅干の姿となつて手掌の上に轉がつて來たのを、こくりと一呑みにしたと話して太閤を笑はせた。是などは支那の昔で言へば白龍の魚服した話、日本でも後に樣々の形を以て現はれて居る昔話である。最初から本人の冒險談のやうに、待遇した者は無かつたのである。
 自分の郷里の彦七の如きも、江戸で申せば鹿の武左衛門、又は上方の露の五郎兵衛の如く、或ひは村里の一曾呂利として、生を營んで居たかと思ふ節があるが、やはり天狗や狐を目の敵にして、機智を揮つた者の如く傳へられる。或時彦七は天狗を押倒して、いきなり兩手を以て長い鼻をむづと握むと、天狗が鼻をつまらせて、「彦七はなせ」と謂つたと云ふ話もある。是などは今風の一種の口合ひといふもので、「彦七はなせ」は當時の人々が、この浮浪の一才子に向つて、常に説話を迫つた時の言葉であつたのを、忽ち又天狗談と結び付けて、哄笑を買つたものである。しかも斯ういふ製作の確かなたの以外、彦七世を去つて後尚之を彼の名に託して、話の根源を單純化し、且つ聯想の興趣を濃かならしめんとする試みはあつたに相異ない。大岡越前守は二百年、水戸黄門は二百五十年前ごろ、我々の間に生存して居た近代人である。しかも今日俗間に傳ふる彼等の事蹟は、如何に繁多であり且つ亂雜になつてしまつたか。弘法大師も坂上田村麻呂も、歸する所は皆一つである。之を思へば吉右衛門等の如きは、言はゞ何れも不朽の一大記念碑の如きものであつた。空中に浮遊する所の色々の話の種は、歳月の久しきまゝに來つて之に附着し、花咲き蔓延して終に石の面を緑ならしめた。磁石が無かつたら鐵の屑は集合せず、なば木を組合せなければ椎蕈は成長せぬ。彼(204)は大なる酒瓶の口を開いて、知らぬ間に米の水を?酵せしめた。即ち我々の深い感謝に値する所以である。
 昔話の種はもと微細なる胞子の如きもので、夙に散亂して繁殖の地を求めて居たらしい。故に多くは時も處も無く、又人の名も必ずしも大切でなかつた。ところが人間には歴史慾とも名づくべき性があつて、信じ得る限りは之を事蹟として見たかつた。忘れ又は失はれた前代人の形態を、吉吾吉右衛門に復活せしめようとする類の努力は何處にもあつた。著しい其一例として、曾て自分の提擧したのは、安壽厨子王姉弟の説經節であつた。丹後の由良の強慾なる富人が、其名を山椒太夫と呼ばるゝわけは、今日も尚不明に屬するが、サンシヨ(算所)は本來此物語を歌ひあるいた太夫、即ち遊藝の徒の汎稱であつて、其始は單に由良の長者とのみ唱へて居たものに相異無い。しかも尚一期を溯れば、諸國の富豪を長者と謂ふことも、事によると彼等が榮華と没落の夢の跡を、花やかに物語つて居た女流の語り部を、俗に長者と呼んだのが轉じたかとも思はれるのである。その二度までの誤解の根源には、語る人を語らるゝ古人の靈の宿りの如くに見た、大昔の心持が尚働いて居たのかと思ふ。知里幸惠女のアイヌ神謠集を見ると、梟でも蛙でも川獺でも、食を漁り群れて遊ぶ趣を、悉く一人稱を以て自敍して居る。若し文學の萌芽が神人の交通に在つたとすれば、我々の祖先にも英傑美女が自ら名乘ること、例へば謠曲の人物の、「是は諸國一見の僧にて候」と云ふが如き風習が、普く行はれて居たのであらう。さすれば吉吾等の昔話は、愈以て忠實に昔を傳へて居たことになるのである。
 
          四
 
 吉右衛門を愛する人々は既に心付いて居るが、彼の逸話と傳へたものゝ數は、百や百五十では濟むまいけれども、其中には明々白々に二種類の話があつて、一人の所業としては如何しても合點が行かない。例を擧げて言ふならば前の天昇りの話の外に、キッチョンはつまらぬ掛物の繪を持つて來て、騙して高い金で愚か者へ賣付けた。傘を手に持つ畫中の人物が、雨の降る日には其傘を開くと謂ふのであつた。勿論ウソだから怒つて談じ込むと、先生は平氣で(205)「あんたは飯を食はせたか、飯を食はせなければ何もせぬのは當り前だ」と答へたと謂ふ。此話は西洋の二人椋助譚などにもある所の、黄金を糞する駒の話の同類で、他の地方では「金を食はせたか、食はせずに糞をするわけが無い」と、答へたことになつて居て其方が自然に聽える。是ほど横着至極な野津市の吉右衛門が、或時は御城下に出て來て素麺を食べてうまかつた。之を一つ年寄にも食はせたいと思つて、求めて家に還つたのは元結であつた。どうして煮て見てもこはくして食べられぬ。そこで町で食うた時の支度で食べて見たらと、母親に股引草鞋をはかせ、尻を端折つて腰を掛けて食はせたが、やつぱり突張つて食へなかつた。此話は或奧山家で?燭を煮て食つた話、もしくは今一つ上品な處で、松山鏡の比丘尼の仲裁などゝ、系統を同じくするものであるが、かの狡猾なる吉右衛門が、この魯鈍なる失敗を演ずると云ふことは、何人が聽いても信じ得られぬ筈だから、手短に言ふならば何によらず、笑ふやうな事件は片端から、豐後では之をキッチョムサン處へ持參して置いたので、是ほど迄の廣汎なる管轄權は、他の地方に在つてはまだ見られないのである。
 紫波郡昔話の大なる興味は、現にモンジャの吉の逸話には、幾つと無く豐後のキッチョン話と共通のものが有るに拘らず、別に尚一方に於ては此奇人の傳記を構成する程の主要なる珍談を、他の一方では全然之と無關係なる人間の、履歴として語り傳へたものゝ多いことである。例へば天狗を欺いて寶物を卷上げたと云ふものゝ如き、諸外國民話の類例に於て見るやうな眞劔味は成程もう失せて居るが、優に一篇の人魔戰記とも見るに足るだけの、精彩と變化とを具へて居て、隱れたる世に反抗した人間の勇氣と自立心を鼓舞し、行く/\現在の社會文化を築き上げた痕跡として、最も大切なる史料であり、神代史上の大國主傳にも比照すべきものであつた。それを大分縣だけでは今以て吉右衛門の事蹟として居る。幸運の鴨の翼に乘つて空を飛び、粟の大木を攀ぢて天に昇つたと云ふ類の空想談の英雄すら、大分地方では尚同じ吉右衛門であつた。しかも奧州の吉はもう之を斷念して、是を昔々或處の或男に、引渡してしまつて居るのである。但し此方面の問題に就いては、改めて詳しく考へるとして、先づ第一に注意して置きたいのは、機(206)智頓才に充ちたる吉右衛門に取つて、到底恕すべからざる誤解と輕信との失敗談である。紫波郡茂澤の吉の方では、幸ひにしてもう之に參與して居らぬ。
 佐々木君の編集に依れば、あの地方の愚鈍譚も、概して馬鹿聟馬鹿息子に屬して居る。數ある姉妹の相聟の中に、只一人法外な男があつて、する事爲す事が笑の種となり、時としては破滅の災にも及ぶのであるが、其間に嫁なり實の母親なり親友なりが居て、常に辯護と忠告の勞をとることに、なつて居るのは人間味である。中には一見馬鹿のやうであつて、後却つて隨一の成功を收めたことに、語られて居るものもある。併し此種の個人觀察と若干の同情とは、部落の内部關係がやゝ複雜になつてから後のことで、その今一つ以前には愚か者は單純に笑ふべきものであり、馬鹿で失敗をするのは弱蟲が戰闘に負けるのと同じく、甚だ當然のことゝ考へた時代があつたらしい。其代りにはそんな社會では、仲間から笑はれる者は出さなかつた。地頭や寺の和尚の如き別の境遇に在る者も少し笑はれたが、主として輕蔑せられたのは他部落の者であつた。村と村とは武器の爭闘を休止して後も、久しい間言語と嘲笑とを以て戰つて居た。相隣する農村間には平和な交際が始まつても、今一つ奧の利害の影響せぬ在所に對しては、持つて行き處の無い古來の征服慾が、集注せざるを得なかつたのである。奧州の昔話には妙に其痕跡が少ないけれども、我々の周圍には大抵一村づゝ位、いつも笑話の種となる僻村がある。而うして豐後の吉右衛門の滑稽の中にも、此から入つて來たことの疑ひ無いものが多い。
 小山君の郷里肥後の人吉附近でも、やはりイッキンビヤァの話があつたさうな、ビヤァは恐らくは兵衛で、五木村の長老を意味して居た。何れの府縣でも人のよく知つて居る話、例へば名主殿のする通りを眞似よと言つて、咳もくしやみも次々にしたとか、ちやうづを廻せと聽いて寺の和尚に相談に往つたといふ類が、悉く此山村の出來事に託してあつたのみならず、更に此に關聯して騙さうとして損をした話、又は愚鈍を装うて却つて人を馬鹿にした話、例へばかたし(椿)の油の御用に、茶のみ二俵を獻上すべき場合に、茶呑婆を俵に入れて連れて來たと云ふなど、吉ヨム(207)話中の大切な若干が、此地方では五木の村人に占領せられて居る。豐後では流石に之を野津市話とは謂はぬが、その大野郡も奧の村へ行くと、高千穗話と謂つて隣縣西臼杵郡の人を笑ふさうである。豐前では城井の城山の麓近くに寒田《さわだ》話といふのがある。一々に之を列擧して地方の人を怒らせるはよくないが、單に何處に往つても有るといふ證據だけに、尚他の二三を拾つて見るならば、關東では上總の川津場話、山武郡千代田村の一部分で、如何なる歴史があつてか印旛郡の中に嵌入した小地域である。安房には増間話と謂ふのがあつて、是も亦型の如き奧在所であるらしい。信州などは山國だけに殊に此例多く、佐久では川上話と謂ひ、上下高井郡では秋山話と謂つて笑ひ興じて居る。伊那では又之を遠山話と稱して、何れも市日などに古風な衣裳を着て出て來る人たちを、表情の單に平地の者と異なるばかりに、斯んな風に評判をするのであつて、勿論少しも感心せぬ風習であるが、自分の生國でも?|越知谷《をちだに》の話と云ふことを聽いて居る。たつた一枚の瓦を火取に用ゐて居る家から、父に連れられて川下の里に出た子供が、「おとうこゝらぢや皆十能で屋根を葺いとるなう」と謂つたと云ふ話などは、私には實は腹を抱へるほど可笑しかつた。勿論東京でいふ樂屋落ちと同じく、方言や固有名詞がまじつて居て、民謠も同じやうに外來人には興味が解らぬ。旅をして來た者にはもう面白くも無く、汽車などが通じてしまふと、斯ういふ差別親は忽ち空に歸するのだが、それでも土地の人同士で笑つて居て、我々に意味の不明な場合は大抵此話だ。即ち單に昔とは如何なるものかを、我々に理解せしむる上に於て、此話は今でも貴重なのである。
 球磨の五木兵衛の話に、綿を買ふ一條があつた。種さへあれば皮は要らぬと謂つて、金を拂つて綿の實だけを持つて還つた。今年も亦さうすることゝ思つて、安く賣つて綿を繰つて遣ると、今度は皮を呉れと謂つて無料で綿繰りをさせてしまつた。豐後の臼杵は海岸である爲に、榮螺と榮螺殻の話になつてそれが傳はつて居り、しかも亦吉右衛門のした事になつて居るのである。橋浦泰雄君の郷里鳥取附近では、佐治谷話といふのが笑話の總稱であるが、同じ葛藤を今些しく自然に興じて居る。佐治谷の衆は物の名を間違へることが多い。或時には竹籠の入れ子蓋に雉子を一羽(208)載せて、からす/\と大聲にふれて賣りあるく。烏買はうと呼止めて安く値をきめて其雉子を取らうとすると、それは雉子ぢやと謂つて籠の中から、本物の烏を出して置いて往つた。大分縣では例の吉右衛門が、又蝮を外へ出して青大將と謂つて賣りあるいたなどゝも傳へて居る。つまりは話をする者の才覺を以て、綿の取引が盛んになれば之を綿の實に變形する位は、何でも無いことゝしてあつたのである。
 要するに遠山と謂ひ越知谷といふ村の人々は、滅多に笑はれて居る處へ來て怒ることも無く、從つて喧嘩の不愉快も無い故に、昔風に何かを笑つて見たい者が、さういふ話を段々に蓄積したもので、實はよろしくない心掛である。それが交通の關係などで手頃なおろか〔三字傍点〕村も見付からず、乃至はそれを遠慮すべき必要のある場合に、部落内部の人事の複雜を加ふるに乘じて、一人の想像上の馬鹿聟などを作つて見るので、人に物を笑ひたい念慮の續く限り、さうして冬の夕の徒然である限り、何としてなりとも昔の滑稽は傳はるのである。そこで問題は雉子を榮螺とし、又綿の實と變形するだけの、創作の能力ある後世の吉右衛門等が、何故に今一段と自由に其空想を働かせなかつたかと云ふ點に歸するが、それは同時に又東京大阪などの落語家が、どうしていつ迄も窮屈な品書の中からばかり、毎日の飯の料を稼がうとして居るかといふ問題でもあつて、結局は人間の集團に如何なる道筋を通つて、笑といふ情緒が成長して來たかといふことを、今少し歴史的に考察した上で無いと答へられぬ。多分は我々の話の種なるものが、氣輕な冗談などよりは遙かに嚴肅なる境地から發生したもので、笑ひ笑はるゝといふことが、殺し殺されるといふのと殆と同じ程度に、我々の生活に取つて重要であつた時分から、ずつと繼續して使用せられて居た武器であつた爲に、今尚民族生存の必要上、無意識に之を守つて居るのであらう。從つて時世周圍の進展と共に、幾らでも外部の装束は變へ改めても、其核心だけは大切に之を保存し、しかも新しく活々しなければ人の情を刺戟するに足らぬ爲に、昨晩の話は今日はもう話すことが出來ず、甲のした話は乙が之を繰返すわけに行かず、力の及ぶ限りの話の種を兼て掻き集めて、長い夜話の需要に應じようとするには、特殊の天才を必要とするやうになつたことゝ思ふ。此必要は特に笑話に於て(209)多大であつた。同じ滑稽でも唐突意外で無いとをかしく無い。だから一人の周圍に世間の方でも、珍しい話をなるべく多く集めて置かうとしたのである。笑話の管理者にも亦天然の條件があつた、小三などは顔を見たゞけで、話を聽かぬうちからもうをかしかつた。幾らも話の數を知らずに、退隱してしまつたのは惜しいと思ふ。あれを後援して東京の彦七吉右衛門たらしめなかつたのは、全く我々の不覺である。だから落語は衰へて行くのである。
 
(210)     笑の教育
        ――俚諺と俗信との關係――
 
          一
 
 我々の分類に依れば、諺は所謂俗信と全く別々の部門に屬するもので、是を一つに括るべき名稱などは勿論無い。前者が言葉の巧みなる利用法であり、人に物いふ場合の最大の效果を目的とし、從うてよほど古臭くなるまで、大抵は原の形で記憶せられるに反して、後者は時と相手次第、どんな風に之を傳へてもよろしく、實際又耳以外の感覺からいつと無く覺え込んで、黙つて守つて居る者も多いのである。一方は歌や昔話などゝ同じく、模倣の可能なる言語藝術であり、他の一方は自分も其内容に同感するに非ざれば、やがては忘れてしまふべき心意の約束であつて、その傳承の樣式も丸でちがひ、之を採集せんとする者の用意も、當然に異ならなければならぬものと考へられて居たのである。個々の郷土に就いてこの二者を蒐録する事業は、獨逸その他でも隨分進んで居るやうだが、普通は分業になつて居て、雙方を併列牽聯せしめようとした例を私はまだ知らない。ところが我邦の採集に於ては、奇體に夙くから二種の傳承の混同があつた。特に著しいものでは藤井紫影氏の諺語大辭典で、あれには「團栗を食へば吃になる」、「蜻蛉を殺せば觀音の罰で盲になる」といふ類の俗信が、諺として既に數十種載せてある。雜誌郷土研究以來各郡の郡誌等にも、是に似た排列もあれば、又反對に俗信として幾つかの諺を交へたものがあつて、いつも我々は其仕別けに苦勞をした。さうして是には何かよく/\の理由、即ちそれ自身一つのフォクロアを、保存してゐるのであらうと想像(211)して居たことであつた。
 今度の北安曇郡教育會の編輯などは、固より無意識にこの傳來の誤謬に陷つたものでは無い。分離すれば分離しても公表し得る時期に於て、十分にこの問題を考慮し、現に私なども一應は其相談を受け、別にして見てはどうかといふ意見も述べて見たことがあつたのである。しかも此一篇の基礎となつた莫大の資料、之を報じて來た各村採集者の手帖が、既に二つのものを併せ拾ひ、之を教へてくれた土地毎の故老は、同じ折又同じ氣分を以てまぜこぜに之を思ひ出して居たのである。強ひて末端に於て分類の論理を徹底して見た所が益も無いと思はれた。それ程又二つの傳承が、或一角に於ては自然に繋がつて居ることを發見したのである。私は所謂俗信の調査の重要性を認め、是が完全に考察せられるのを以て、日本民俗學の成立の目標とさへして居る者であるが、尚現在の興味は先づコトワザの本質を理解する方に傾いて居る。數世紀の民間文藝をたゞの僧侶の手に委ねて居た西洋の諸國とはちがつて、日本が量に於
で又色彩に於て、殊に豐富なるこの一種の表現術を長養して居たことは、國語愛の運動の上から見ても、是非とも明らかにして置かなければならぬ大切なる史實であつた。之に加ふるに有形無形の過去の生活は、僅かに其痕跡を諺の面だけに保留して、消えて尋ね難くなつたものが多かりさうなのである。是を考へたゞけでも諺の研究は、今の程度の空漠たる鑑賞に放任して置くわけに行かぬ。さうすると斯んな何でも無い樣な一つの特徴でも、もう少し深く突進んで理由を明らかにする必要はあるので、北安曇郡の採集は我々にとつて、寧ろ感謝すべき好機會であつた。果して日本の俗信が追々と其威力を弱めて、ちやうど俚諺の或ものと紛らはしくなる時期に來て居るのか、もしくは斯邦の俚諺だけが、一方に固有の信仰と手を組んであるくやうに、早くから特色づけられて居たのであるか。但しは又諺そのものゝ本來の性質上、どこの國何れの民族でも斯うした發達を見得べきもので、それがたま/\我々の社會に於て、有る限りの可能性を展開したのであつたか。時か國がらかはた本然であるか。別の語でいふとコトワザは人類共通の文藝であつたか。或ひは種族によつて態樣に差があるのか。斯ういふ大きな問題も亦是を機縁にして、弘く世界と共(212)に攷究して行かれるやうに思ふ。
 
          二
 
 我々の常用會話語には、コトワザといふ言葉はもう存在しない。その古い用法が果して今日の學問に於て、諺といひ Proverbs といふものと一致して居たかどうかも究め難いが、少なくとも今日我々が言語の技術として、ワザと使はうとして居る言葉には種類が多く。その唯一部分のみが西洋では、俚諺と譯せられる語を以て呼ばれて居るやうである。俚諺が平民の眞理を道破する短句と言ひ得べく、もしくは人を正しい社會觀に導かうとする格言といふものと、大よそ同じものゝ如く認めても差支無いのは、單にこの限られたる意味に於ける俚諺だけであつて、日本には更に何倍かの是とやゝ方向を異にするものが、今も尚一つの群を爲して民間に行はれて居る。それを新たに小別して見る必要も有るが、全部を總括した名稱も欲しいものである。北安曇郡の諸君が何といふ名を以て之を拾ひ集められたかは私は知らないが、標準日本語に於ては如何にも不適當な語ながら、今以て之をタトヘと謂つて居るらしい。即ち關東の方でいふ伊呂波骨牌を、上方で伊呂波だとへと謂ふあのタトヘである。古今集の序文には「四つには喩へ歌」ともあつて、古い頃の此語の意味は幾分か廣かつた樣にも思はれるが、それにしたところで何か思ひもかけぬものを持つて來て、當面の事態を敍説する便りに、しようとしたことだけは變らなかつたらう。それを其後に増加した色々のコトワザの、全部の名にすることは何といつても無理である。しかも私たちは幸ひに斯んな精確で無い言葉の殘つて居ることに由つて、どうやら俚諺といふものゝ今日の?態にまで、發達し又變化して來た路筋が判る樣な氣がするのである。是が果して外國の俚諺の發生學にも、應用し得るか否かは斷言し難い。假にさうだと思つてもやはり其邦の人にもう一度考へさせなければ、話はきまらぬから何にもならない。が少なくとも日本自身の民間傳承に於ては、タトヘが古い形であり、それにタトヘで無いものが追々に附加はつて來たことは、格別大きな議論無しに、之を感じ(213)知ることが出來るであらうと思ふ。
 俚諺と俗信との切つても切れぬ關係の如きは、一通り此沿革を明らかにして後に、始めて其理由を説くことが出來るのであつた。コトワザといふ語を復活して、總稱して見たいと思ふ廣い意味での日本の諺には、今でも氣を付けて見ると譬喩比較が最も多い。それも手近の誰にも思ひ付くやうな物では無く、出來るだけ意外な共通點を探し出して、先づ其取合せの奇拔頓狂さによつて、いはゆる落ちを取らうとする企てが普通になつて居る。此集で言ふならば「喩へにうそ無し坊主に毛無し」とか、「公事と垣根は一人ぢやいへない」などが其例である。笑が諺發明者の動機であつたこと、世俗の感受性が特にこの方面に於て、驚くほどの細かさまで發達して居たことは、古い例からでも又新しい實驗でも、之を證することが容易である。少しく人の惡い試みではあるが、試みに普通コトワザの後に附く言葉、たとへば「それこそ何々といふものだ」とか、「何の何々ではあるまいし」といふ類の表現法を以て、至つて無意味なる短句を吐いて見ると、之を聽く人は一應は必ずにやりと笑ひ、後でその心持を取りかねてまごつきもし失望もする。先づそれ程までにをかしいものと、最初から期待せられて居るのが日本の諺であつた。其結果は奇警を通り越して一種のこそぐりに墮し、もしくは外形の道化に流れて内容の空疎を省みぬ樣な、下品のものも數多く現はれたが、この弊害さへも尚日本の特産に相違なかつたのである。
 我々の笑は單に巧妙なる語辭の選擇、短い文句で正面の説法以上に、效果を擧げるといふ技能の讃歎だけでは無かつた。聽いて悲しくなつたり考へるほど物凄いといふ樣な俚諺は、大よそ此世には無いものだといふ安心があつて、最初から之を迎へる者を樂しませて居たのである。それには語音の快活さや、聯想の突兀といふ樣な約束も有るには有つたが、更にもう一つ底に潜んで、それが通例は人の批判であり、しかも聽く者自身で無い他人の行爲を、話題とするものだといふに止まらず、きまつて其人の弱點を言擧げして、間接に我等の一段と立優つて居ることを、覺らせてくれるものといふ豫想があつたからゝしい。外國の俚諺でも或ひは其通りかと思ふが、我々の伊呂波だとへなどの(214)最も弘く知られて居るものは、大部分がこの嘲弄で無ければ、可なりに皮肉なる諷刺であつた。人のコ行善事を傳へようとした諺などゝいふものは、有るかは知らぬが自分にはまだ記憶が無い。人間の笑が斯樣な惨虐な手段によつて養はれたといふことは、考へて見れば耻ぢがましいことに相違ないが、それをいふならば武藝だつてスボーツだつて起りは皆それである。寧ろ之を改良して無害有益のものにした點に、後世人の記念すべき功績はあるので、一方には又かういふ際どい實例によつて相戒めさせるといふことが、一般に古い時代の教育法でもあつた。俚諺が破損した昔の教科書として、もう一度とくと省察せらるべき理由は、個々の格言などの内容よりも、寧ろその教へ方の今と全く裏表であつた點に在るので、新しい教育者團が此蒐集に携はつたことも、偶然かは知らぬが私には意義が深い。
 
          三
 
 弘く世界を通じて諺の最初の用途、即ち人が計畫を以てこの一種の言語藝術を應用し始めたのは、戰闘の場合で無かつたかと私などは考へて居る。神に?りの詞、魔物には呪文、同じ人間どうしでも協力の爲に歌謠が有る如く、爭つて相手を制するには嘲弄といふものがあつて、敵を笑はるゝ者とし味方を笑ふ者とすることによつて、?武器腕力の行使を節約したのでは無いかと思ふが、それを證明するには別に許多の資料を必要とするから、爰にはたゞ其假定のみを掲げて置くことゝする。兎に角に平和なる個々の部落、日頃は最もよく一致した郷黨の合同作業に於ても、誰か仲間に群の意向と背馳する者があると、之を戒飭するに通例は諄々たる談義を以てせず、言葉簡明にして含蓄多く、しかも口拍子がよくて譬喩の人の意表に出づるものを以て、一言に是を批判し去らうとするのが、年長者の常の習ひであつた。周圍の之を聽く者も心に抱く感じは一つだから、思はずその皮肉なる表現に喝采して、どつと笑はずには居られなかつたのである。斯ういふ慣行は農村日常の生活としては、實はやゝ適切に過ぎて居る。恐らくは對敵抗爭の本場の修練、もしくは是に備へんとした平生の心掛が其素地を爲し、更に腹一杯笑つて遣つてもよい樣な敵が(215)滅多に見られなくなつて、自然に此方に向つてのみ發達して來たことは、恰も角力が村の競技となり、片足飛が小兒の遊戯となつたのと同じであらうと思ふ。諺がもし各種の武藝などの如く、本來人を害する爲に設けられたもので無かつたならば、斯んなにまで澤山の惡口や漫罵を含み、しかも聽く者をして言下に失笑せしめる樣な、惨酷な發明をする者などは無かつた筈である。
 だから後世になつて、是が教誡の目的に供せられたといふことは、私には一つの巧妙なる轉用としか考へられないのである。勿論さうなつたが爲に一分の親切が加味せられ、又笑はれても怒るなといふ申し合せのやうなものが出來たでもあらうが、其代りには内輪だけに笑は一層無遠慮なものとなり、一方には日本の一つの特色たる仲よい同士のひやかし合ひ、笑はれても平氣で居られる氣風を養成し、他の一方には又をかしくさへあれば皆諺と思ふやうな、心得ちがびをも生ずるに至つた。さうして何の爲に斯樣な文藝が、生まれ且つ永く活きて居るかも不明になつたのである。しかし田舍に住む諸君には、實驗の機會は今とても決して乏しくはない。諺はたゞ聽いて居てこそ大抵は皆をかしいが、現に笑はれてゐる當の本人に取つては、ちつともをかしく無いのみか寧ろ胸が痛いものであつた。通例は一人だから黙つて閉口はして居るものゝ、其屈辱に至つては敗亡の敵の心も同じであつた。きかぬ氣の青年がやゝ不當なる批判によつて笑はれた時、思はず口を返して、村に居られなくなつたといふ樣な話も昔はあつた。殊に我邦ではいつの代に始まつたかは知らぬが、年若な娘といふ實によく笑ふ笑ひ手が居た。彼等は殆と樂器のやうに、あらゆる微細なる滑稽に心も無く共鳴するやうに出來て居た。未婚の男女が彼等から笑はれるといふことは、言葉にも表はせない程の大きな打撃であつたらしい。それでも素朴なる若者等は概して身の過ちを知つて、二度と再びこの樣な辛い目を見ぬ樣に、心に沁みてその問題の諺を記憶したのみで無く、他の多くの笑ひつゝ之を聽いて居た者も、實は内心にその輕妙な文句の威力を感じて、少なくとも同じ諺によつて、自分も笑はれることの無い樣にだけは警戒して居たのである。斯んな消極的な個々の制裁が、果して倫理教育の目的を遂げ得たか否か。今の人ならば疑ふのも尤もであ(216)るが、以前仕來たりを追ひ世間竝を要求し、人のする通りをして居れば無事であつた社會では、斯うしてたゞ折々常規を逸する者を喚び戻してさへ居ればよかつたのである。人に笑はるゝを耻ぢ怖るゝ念慮の有る限り、諺といふ教科書はさう度々の改版を必要とせずして、次代人を作るの機能を完うして居たのである。
 
          四
 
 前代の習俗がたゞ無意味に生まれ、無意味に保存せられて居ることを信じ得る人たちは兎も角も、是まで説明せられて來た俚諺の發生論だけでは、我々はとても滿足することが出來ない。人にむだ口が多く又目的も無い笑を好む樣になつて、新たに若干の需要が附加はつたと迄は言ひ得るにしても、始めて此類の表現法が採用せられた理由は、別にもう少し切實なものが有つた筈であるし、又さうで無ければ數多くの寸鉄人を刺すといふ諺が、永く殘つて居る理由を解することが出來ない。但し理論によつて此點を主張しようとすれば、まだ幾らでも揚足をすくはれる餘地は有るのだが、各郷土には幸ひにその古風な用法が、尚片端は殘つて居るであらう。それを實地に就いて觀察することが出來たならば、人はともあれ銘々だけは、諺が元來何の爲に、此樣に普通になつたかの原因を覺ることも困難で無いと思ふ。村の諺使用者は、闘諍對抗の希有の場合を除いて、平常は主として人を導くべき地位に在る者であつた。漸く一人前にならうとする若い男女を、能ふ限り非難の無い竝の人間にしようといふ、好意と熱情とを持つた人々であつた。從うてその場合に應じて新作し、もしくは採用記憶して時を待つて居た舊い諺が、次第に少しづゝ角の取れた、やゝ温か味の有るものになつて來たのも不思議は無い。例は幾らもあらうが「人事言ふなら莚しけ」といひ、又は今一段と簡明に「喚ぶよりそしれ」といふ如き命令形を具へた短句などは、前にもあつたか知らぬけれども、多くは此時期に入つてから出來たものである。是も同じく經驗の無い者の、輕率な言動を戒める爲の諺には違ひないが、其樣式は既に結果の一部を説明して、單純なる警句を以て滿足し得なかつた心持が見える。たゞに相手をして閉口し反省(217)せしめるに止まらず、能ふべくば如何して其樣な批評を受けなければならぬかを、容易に會得せしめようとした親切が掬み取られる。人の陰口は誰でもよく言ひたがるもので、それが妙に當人の耳に入る場合が多く、往々不愉快なる結果を招くものだといふことを、是ほど要領よく若者たちに覺らしめる技術は、一朝にして成長すべきものでは無かつた。故に私などは近世最も重きを置かれて居た俚諺の教訓味を以て、その第二次の利用段階と考へて居るので、從うて假に或一國にはこの種のものより外に諺は無いとしても、それは今一つ古い攻撃形が、早く不用の爲に消え盡して居るのかも知れず、まして日本の如く新舊色々のものが、混じて殘つて居る民族に於て、やたらに外國の乏しい材料に據つた學者の定義などを以て、諺の性質を説明することは出來ぬと思つて居るのである。
 古い名殘はまだ切れ/”\に世に傳はつて居る。たとへば町の職人などが人と喧嘩をするに先だつて、盛んにまくし立てる言葉の中には、常には聞くことも出來ない奇拔なる譬喩が多く、それでへこたれ又は傍の者が笑つて、闘はずして勝負が付くなどは古風な用途であつた。それから今一つは他所と談判などをする際に、口の達者と言はれる人にも諺を巧みに插む者が多い。此頃はそれが追々無くなつて行くが、私の知つて居る若干の口きゝには、氣を付けて居ると同じ諺を、二度も三度も使つた者があつた。長たらしい會話は概して昔の人は不得手であつたことを考へるならば、諺は要するに中世特殊の修辭法といふことが出來る。即ち講話の必要な場合には講話の代りになる諺を、慰問を期待する者には慰問の效果ある諺を、何れも出來るだけ有效に短い語句を以て與へようとしたので、是を抗爭の爲にする論文型のものだけに、いつまでも限定して置かうとしなかつたことが、讃歎に値する我邦人の融通性であつたと思ふ。たゞ其起りであつたゞけに、今日になるまで尚その皮肉に近い弱點の指摘と、之を聽く者の同感の笑を期する習癖とを、全然脱却することが出來なかつたゞけは是非が無いのである。
 
(218)          五
 
 諺を土地の子弟の教育に利用しようとしたのも、やはり亦意識的なる一つの試みであつたと見えて、漸次の擴張と進歩の痕が我々には見られる。最初批判せられる者の啓發を念じて、一種命令形を具したる短句の多く現はれたことは前にも述べた。是より後のものか又は前からも少しは有つたか。別に人生を是の如く觀よ、社會は斯んなものだといふことを知れといふ類の諺の、例の「北條時代諺留」以來、今も現實に傳はつて居るものが若干ある。是も短評であり又概して辛辣なる看破ではあつたが、特に相手を立てゝ之を笑はうといふのでも無く、又聽く者をして共に嘲り輕んぜしめようとしたのでも無かつた。つまりはそれだけの事實のあるを知つて、さて世渡りの計畫を講ぜしめようとしたものゝ樣であるが、堺が明瞭で無い爲に是をも惡口の料に供する者もあれば、稀には反對に是が批評であることを忘れて、「花より團子」や「屏風と商人は直ぐでは立たぬ」などを、自分の行爲の指導原理の如く考へる者も居た。しかし他の多くの例と比べれば解るやうに、諺の與へようとしたものは知識であつて、道コの教訓では無かつた。斯うすれば人が憤り斯うすれば人が笑ふものだといふ經驗までは傳授して、是に對して如何なる擧措に出るがよいかは、別に各自をして自ら之を決せしめようとしたのは賢明であつた。それが修身教科書の乏しい世であつたとは言ひながら、恰かも倫理の法則でゝもあるかの如く、伊呂波骨牌などに作つて消化力も無い兒童に、付與せられたのは間違ひの元であつた。所謂常識と正義との混同は、もう既に其頃に始まつて居るのである。
 諺は決して或時代の道コ觀念を、反映して居るものでも何でも無い。寧ろあべこべに形式化せられたる通例の教理を疑ひ、各自直接の觀察に由つて、裏面の眞實を捉へようとした者の、訝り怪しみ又は批判する聲であつた。是が衆人の共にもつ知識となるに及んで、始めて本當の正しいものは何處に在るかと、探し求むる努力ともなるべきであつた。然るに以前我々が諺を以て罵られ又は戒められて居た習はしが久しかつた爲に、是をもたゞ單なる事實として受(219)取ること能はず、何か常人の歩むべき路筋を、指示せられたやうにも解する者を生じて、爰に諺を民間自然の流布に、放任して置けない事情が現はれたのである。世上の學コある人々が支那の經書の格言を輸入したり、もしくは佛徒がその説教の語を遺して行つたりしたのも、言はゞ前代教育法の誤解からであつた。是が爲に日本の諺はやゝ健全になつたかは知らぬが、其代りには古來の要件であつた可笑味は無くなり、從うて之を聽く者の印象は淡くなり、之を暗記する者の勞苦は、素讀と擇ぶ所が無くなつてしまつたのである。
 近世の俚諺集録が、既に或程度の分量に達して居るにも拘らず、尚私たちが勉強して、もう一度郷土人の口語から之を拾つて見ようとする趣旨は、全く右の樣な外部からの追加が、餘りにも其動機を異にして居るからである。この二種の諺は今日では無論混淆して居る。しかし學んで一方の格言を使用せんとする人たちは、努めて他の一方の土地に根づいたものを避けて居ると同時に、古いタトヘによつて笑はれたり笑つたりして育つた連中には、學者が見つけてくれたものは親しみが無い故に、假に知つては居ても誤解を氣遣つて、滅多に毎日の會話には之を使はうとはしない。書物を資料にして諺を研究するやうな人で無い限りは、僅かな習熟によつて二者を見分けることが出來るわけである。國の文化の變轉を考察する上からいふと、斯ういふ全土に行渡つて居る新種の資料も、一概に排除してしまふ理由は無いのであるが、郷土に立脚して前代生活の迹を尋ねようとする者には、是だけは明白に用が無いのである。今まで出て居る多くの郡誌類が、折角この部門を設けて調査に當りながら、互ひに近隣地方の先づ成つた集録を檢して、是ならば我土地にもあるといふものを片端から轉載したやうに見えるのは、實は無益に輪をかけた餘計な混亂であつた。北安曇郡の採集などは、多分その全部を常民の現に使用するものから得たのであらうが、尚その中にも餘りに有りふれた、何等郷土的の意義をもたぬものが少々は交つて居る。藤井博士の辭典に既に掲げられて居るもの位は、たとへ現實にこの郡でも行はれて居ようとも、或ひはそれだけを別にして置く方がよかつたかも知れぬ。實際又斯ういふ中には書物から、もしくは新たに口移しに持込まれたものが、若干は有るらしく思はれるのである。
 
(220)          六
 
 そこで愈俗信の俚諺と接近して來た事情を説いて見たいのであるが、我々の先人が此短句を、子弟の教導に役立たせようとした企ては、その一部の成功に勇氣づけられて、年と共に其範圍を擴げて行つたやうである。最初は恐らく諺の本來の趣旨に基いて、主としては他人の行爲の觀察と批評、殊にその弱點と目すべきものを、興味多く言ひ立てゝ、若い者の參考に資したのであらうが、それが行く/\世渡りの便宜の爲に、是非とも知らせて置きたい全部に及んだ如く、更に一方には對自然の知識に於ても、もしも奇警なる諺の形にして言つて聽かせる方が、印象も深く記憶もし易いとならば、さうして殘して置いて遣らうといふ氣になつたかと思はれる。是には第一に多數の青年男女が、所謂タトヘに對して十分に鋭敏となり、之を知らぬが爲に耻を見るやうなことの無い爲に、各人注意を怠らなかつたといふことも考へて見なければならぬ。今でも田舍ではよく見ることだが、ほんのつまらぬ事でも是を知らぬのかと言はれるのが口惜しさに、心を盡して聞き遁がすまいとする氣風は強く、それが却つて是だけは覺えて置けと、言はれたよりも有效な場合が多い。第二に考へて見るべきは、人生の知識が年と共に複雜になり、古風な觀念の重要性がやゝ薄れて、年を取つた人たちの思ふほどに、身に沌みて後進の者が考へては居らぬやうだといふ懸念である。すべての信仰はその盛時に在つては、是を口舌の上に表示する必要も無い程に、始終頭に絆はつて離れ難いものであるが、それが時あつてやゝ動搖の餘地を生ずるに及んで、却つて説き明かす言葉が一段の丁寧を加へて來るのであつた。親たちの經驗では人の生存の爲に、絶對に入用であつたと思ふ目に見えぬ法則を、或ひは忘れるかも知れぬといふ心配が生じて、之を説くことが一段と親切になつて來たのであつた。所謂俗信は永い歳月の間に、少しづゝ養ひ育てゝ來た我々の自然觀であつて、之を輕妙なる短句に表現することは、實は必ずしも容易な仕事では無かつた。それを出來るならば片端から、すべて諺の形にして遺して行かうと試みた所に、只の惰性で無い人間の意力が認められる。だか(221)ら土地々々の何百といふ俗信種目には、未だ定まつた言葉を以て説き表はされて居ないものも多く、時には至つて拙なく俚諺化せられ、もしくは其半成品とも名づくべきものが稀で無いのである。今日俗信の名の下に一括せられて居る生活知識には、勿論幾つかの正しい發見もある。新しい科學の光に照して見ても尚眞實で、それをいち早く單なる各自の體驗によつて、見究めて居た知能には敬服させられる例も稀で無い。しかし他の一部分は誤解か妄斷か、又は少なくとも我々の承認しかねる推理法に由つたもので、もしも下手なりにも之を諺といふ記憶し易い辭句に、託して置いてくれなかつたならば、到底今日までは保存せられて居なかつたらうと思ふものである。それの當否と善惡とは今我々の決すべき問題では無い。兎に角に或土地或時代の人たちが、たゞ是ばかりを杖柱として生を安んじ、業を續けて居たゞけは儼然たる事實であつて、しかも其事實がまだ十分なる認識をも受けぬうちに、僅かに殘されたる常民の近世史料が、もう片端から消え去らうとして居るのである。俚諺採集の意義效果は、無論この以外にも尚幾つか有らうが、以前我々の祖先が大いなる自然の威力に當面し、郷黨相頼つて最も心強い道を踏み開かうとして居た際に、目に見えぬ靈界の法則に關し、はた又人間相互の交渉に於て、特に如何なる知識を以て重しとし、且つそれを次の代に語り傳へようとしたかを、探り尋ねる手段が追々に乏しくなつて、辛うじて斯ういふ横すぢかひの一路のみが、今は我々に向つて開いて居るのであつた。幸ひに是に心付いた諸君ならば、よもやいつ迄も現在の如き空疎なる起原論、散漫なる分類法に滿足しては居られぬであらう。私の俚諺武器説などは、素より一箇の假定であり、立證の更に必要なるものであつて、さう輕々に信受せられることを豫期して居ないが、少なくとも爰に問題があることを指示したつもりで居る。さうして其問題は將來の國學にとつて、可なり又樞要なものであると信じて居る。
 
          七
 
 序文が餘りに談理に傾いた故に、今度はやゝ具體的に此書の體裁を批評して、それで此一文を輟めようと思ふ。今(222)日の郷土に傳はつて居る俗信は、既に其大部分が半信半疑の?に陷り、寧ろ表出法の奇警によつて保持せられて居る形がある故に、多くの前例の如く之を俚諺として採拾してもよい樣なものであるが、兩者の接觸し握手して居るのは、實は今でもまだ限られたる一側面であつて、雙方は共に其成立ちから言つても、至つて多角形なる輸廓をもつて居るのである。俚諺に純然たる敵を罵り味方を笑はせるもの、もしくは強壓者を押返さうとする對談用のもの、次に仲間の違犯者を非難して反省せしめようとするもの、もしくは豫め大なる過失に陷るを警戒したものなどがあつて、更に社會人情の觀察法を訓へ、又は長老の信じてゐた天然の法則を記憶せしめんとするものが、其後から生まれて來たらしいことは既に述べた。種類を列擧するならば尚この以外にも、殆と聽く人の哄笑を唯一の目的としたかと思ふ秀句輕口などがあつて、その形態に於てはコトワザと何の異なる所が無いのみならず、是とても本來は強い敵をなだめ、不機嫌な長者を取り持ち、内で闘諍せんとする者を和解させ、或ひは敗れ痿れ弱り憂ふる者の氣風を引立てるなど、それ/”\の實地の用途はあり、しかも最初は皆口合戰の勝利の實驗に基き、段々に其技能の應用を擴げたものに過ぎなかつた。それが唯最後に茶坊主幇間の徒の活計の種と變じたのである。だからもし目的によつて我々の諺を分類して行かうとするならば、この古來の俗信を記憶せしめんとしたものなどは、單に幾つか有る部門のたゞ一つといふことに歸するのである。
 一方俗信の種類に至つても亦是と同樣に、決して其全部が諺に據つて活きて居るのでは無い。中にはさういふ言句に表はすのを、餘りに勿體ない樣に感じ、又は爲にする所あつて一子相傳の類を以て、亡失を防ぐだけを心掛けて居るものがある。或ひは定義を狹くして一代の普通の知識となつて居るものゝみを、俗信と名づけて別にしようとする者も有るが、さうして見たところが之を學ぶ若者等が、悉く定まつた言葉によつて記憶して居るとは限らない。たとへば日の吉凶の詮議は、今でも活?に活きて居る俗信で、特に諺を設けずとも人がよく其法則を守つて居る。衣服を裁ち始める日は卯の日酉の日などが好いといひ、巳の日は惡いとなつて居る土地は多いが(多分巳は蛇であり蛇は衣(223)をよく脱ぎ棄てるから)、それを記憶する爲に北安曇の如く、「年は裁つても巳は裁つな」といふ樣な諺の出來て居る處は、私の知る限りでは二三の地方だけである。是はさう巧妙な方の諺では無くて、註釋が添はぬと其趣旨はまだ解らない。「年」とは年日のことで、自分の生まれ年の十二支に當る日に、衣を裁つことを「年を裁つ」と謂つたのである。しかも此郡には其俗信が今も相應に行はれ、是に對しては別に是ぞといふ諺も無いらしいのである。うまい文句が見つかれば諺にして置かう。それを成程と笑つて聽く人が多ければ殘さうといふ程度の、中途半端な俗信もまだ澤山あるので、決して是を皆諺の一部門に、寄せ集めてしまふことは出來ぬのである。
 然らば本書の如く二者の分類を、共通にしようとしたことが少しく無理であつた。元來が俗信といふ語は突嗟の譯字であつて、簡便だから使つて居るものゝ、我々が知らうと心掛ける前代知識の、全部を包括するには大分に狹過ぎて居る。その總稱はよい代りの見つかるまでそつとして置くとしても、此語に囚はれて内容を誤解してはならぬ。私の分類も當座のものではあるが、先づ性質に從うて體と用、もしくは單なる知識と術藝との二つに分ち、更にその二つを今からと今までとの堺、時の前後に分けて見ようとするのである。兆・應・禁・呪の四つの漢字が、大體にこの分解を辨別させるに足るかと思ふ。兆は範圍が廣く今日では又細かく割れて居る。たとへは卜と稱して求めて未來を知らうとするものと、惠み深き神佛鬼靈の啓示と、人が我力を以て自ら察知し得たりとするものと、前には相近かつたが今はそれ/”\に別の現象である。夢には枕神の近よつて教へ示すものと、進んで此方から其意味を判斷すべきものとがあつた。大體に人間自身の思慮によつて、次に起ることを察し得る見込のある兆だけが、諺に巧まれて傳承せられようとし、其他の部分は現在でも、まだ無言に信ぜられて居る。人相家相年まはりの吉凶なども、すべて諺を以て傳へらるべき知識に屬したのだが、是には異説が競ひ起り人は又よく迷うて、標準となるものが得難かつた。之に反して晴雨寒温の變化、それと密接な關係のある作物生育の良否の如きは、最初は是も所謂迷信と、何の差別も無い豫察法であつたらうが、次々の實驗によつて愈間違ひの無いことが確かめられて、之を表現する諺は永く遺り、又(224)追々と面白く改作せられることにもなつた。是が此方面だけに特に俗信の俚諺化したものが、數多く傳はつて居る理由かと思ふ。
 それから第二の應といふのは、主として不幸の原因を説明する知識、第四の呪といふのは之を匡救せんとする技術であつたが、この二種は事後の處理であり、問題が現はれてから入用になるものであつたが故に、人が之を重大視して居た割には、豫め教育として子弟に付與して置かうといふ念慮が薄かつたか。もしくは其智術が複雜に過ぎて居た爲に、夙に職業として之を管理する家を生じ、秘傳口授の類ばかり多かつたのか、絶無では無いけれども諺の形になつて居るものが少ない。從うて之を言語藝術の側に就いて、調べて見ようとしても成功しない。我々の仲間の普通の採集法では、是は末端の人の行爲、もしくは呪法に用ゐられた物の形に就いて、徐ろに其解説を聽取るのを順序にして居る。迂遠な道のやうだが多くの旅人の經驗する如く、人の擧動や特殊なる路上の事物は、案外によく我々の眼に映ずるものであり、形がある故に人も亦其説明を拒む者が少ないのである。ところが丁度その反對に、人が結果を畏怖して戒慎して敢て爲さゞること、即ち第三類の禁忌もしくはタブーと呼ばるゝものは、何等の痕も無い不行爲の俗信であるが故に、單なる行きずりの旅の者には勿論、近く隣に來て住む者にも氣づかずに過ぐる場合が多く、しかも同郷の後輩にも模倣の機會が無くて、ともすれば之を怠つて悲惨なる災害に遭うたと、解せられるやうな例が現はれたのである。それを何等かの方法によつて、豫め警戒して置かうといふ熱心は著しいものがあつた。乃ち出來るならば諺の覺え易い形にして、知らぬを恥とするやうな教育をしようとしたのであるが、何分にもその禁忌の種目は多岐であり、且つ必ずしも滑稽なる聯想を呼ばぬものであつた故に、その企圖は概して效を奏しなかつた樣である。現今村の人が古來の諺を談つて聽かせる序に、必ず思ひ出す若干の珍しい文句、たとへは「夜口笛を吹くと蛇が來る」といひ、「茶碗を叩くと餓鬼が寄る」といひ、又は「烏の眞似をすると口わきが白くなる」といふ類の訓誡は、最初から必ずしもそれたゞ一つの制裁しか無いと思つて居たわけで無いが、斯ういふ風に説かぬと聽く者が心に留めず、忘れ(225)ては又犯す者が有りさうなのを恐れたので、つまりは是も亦諺の未成品、もしくは一種の科外讀本ともいふことが出來る。技巧と構造から見れば明らかにまだ諺の部類には屬しないが、人が信じなくなつた後まで、斯うして尚面白がつて記憶して居るのを見ると、半分は其趣旨を達して居る。だから私などは是だけは諺の採集者が、別に第二の手帖を以て纏めて殘すべきものだと思つて居るのである。
 
          八
 
 現在の郷土研究は、通例は一町村を區域とし、小學校を中心に之を進めて居るらしく、土地によるとたつた一人の遺老を捉へて、何でも聞き出さうとする風もある樣だが、もしいつ迄も其方法ばかりを續けて居たならば、問題は早く片付き過ぎ、新たなる疑惑は起らず、到底北安曇で得たゞけの結果は得られなかつたらうと思ふ。此集を見る人は誰も氣づく如く、同じ一つの水域の右左に分れ立つ村々で、同じ一つの事柄に付いても早色々と解説が異なつて居る。それを併せ考へて自然に本意を明らかにするものも有るが、中には二つの部落で言ふことの、丸で裏表になつた例さへあるのである。忌の特殊な概念として早くから學者に心づかれて居ることは、或物或行爲の效果は極端な凶か、又は極端な吉に轉ずるかで、ちやうど眞中のいゝ加減、好くも惡くも無いといふものゝ無いことであつた。斯ういふ今風では無い物の考へ方も、捜せば片里にはまだ傳はつて居るといふ希望が、僅か是ばかりの合同により比較によつても、新たに抱かるゝことを得たのである。是がもし或一つの小部落の、しかも一人の物識りから採集したものであつたら、それには矛盾も無く對照も無いから、早くも昔はさうであつたにきまつてしまひ、それが綿密であればある程、之を見て大體の類似を認め、やがては第二の採集を重複無用のものと速斷してしまふだらう。郡が一致して同時に調査し始めた利益は、たとへ問題だけにもせよ、新たにちがつた色々のものを掲げることを可能にしたのである。
 編輯は乃ち更に今後の調査を必要にしたといふ點に於て、その不完全さの功績を擧げたのである。我々人間のして(226)置くことで、何がもう是でよろしいといふものがあらう。もしさう思はせる樣なものであつたら、必ず隱れたる缺點が大きいのである。此集を作成する際に、資料に供せられたる俗信俚諺は、約この四倍ほどであつたといふ。其中には甲乙同じだから不用になつたものが多く、知つて採らなかつたのは無論僅かのものだらうと思ふが、尚その草稿は暫らく保存せられるがよいと思ふ。それは郡内の分布の實情を明らかにし得るのみならず、他日この以外の採集が加はり、又は豫期しない問題が起つた時、或ひは其中からでも又意外の手掛りを得るかも知れぬからである。實際は斯うした一通りの採集が終つて後に、此次追加せられるものには量は少なくとも、質に於て貴いものが期待せられる。殊に諺の方面では在來の採集方法、「何かこの地方で人のよく使ふコトワザが有るなら教へて下さい」といふ類の、機械的な問ひ方には脱漏が有るにきまつて居る。だから私は此一書の用途を、何よりも先づ次の採集事業の參考書として見たいのである。
 村には必ず二人三人の、記憶のよい老人が居るものだが、是が忠實なる傳承者であるか、はた又若干の我意作意を持つて居る者かを、鑑別することは容易で無い。女性は通例臆測を附加へぬものと認められて居るが、其代りには明治初年來、彼等の所有は激減して居る。男子の努めて事物を知らうとし、しかも舊習の輕視すべからざるを感じて、靜かに老いて居る者があれば結構だが、之を利用するも更に幾つかの實驗を累積して、それが確かな知識だつたといふ安心を得る必要がある。私が特に地方の言語現象に、重きを置かうとする理由は是に在るので、言葉ならば我々の注意次第、さう煩はしい手數も無しに、比較的多數の人から、その不用意なる用法を聽いて集めて行くことも出來るからである。さうして今でもまだ平民の間に活きて居るといふ諺だけが、必ず一定した方式を取つて、始終その會話の中に挾まつてくり返されて居るからである。
 
(227)     女の咲顔
 
          一
 
 人は一生のうちに定まつて三度、高盛りの飯を供せられる日があると、今でも言つて居る人が日本には多い。その一ぺんは婚禮の日のいはゆる鼻突き飯、花嫁さんの鼻のあたりに屆くほど、高々と木の椀によそつて膳の上に置く御飯で、之を盛るのは必ず姑の役ときまつて居る土地も有る。來客一同の見て居る前で、母が杓子を取つて一生懸命に高く盛らうとすると、まだ足りないだの、惜しんではいけないだのと、脇からひやかす者もあつて大笑ひになり、花嫁も大抵はこの時に、始めてにこりとするのである。經驗のある人も多いことゝ思ふから詳しくは説かぬが、この飯は後で新夫婦に、分けて食べさせるものとなつて居る。
 それから今一度は亡くなつた日の枕飯といふもの、人がいよ/\息を引取つて、魂喚び戻しの儀式も終つて後、直ちに炊いて供へるもので、普通には四合の米を別の釜で煮て、一粒も殘さずに大きな飯椀に盛り上げ、その上に箸を立てることもある。之をしまつて置いて葬式の際に、墓まで持つて行つて置いて來る風習などもあるが、長命した人の枕飯はあやかる樣にと謂つて、分けてもらつて少しづゝ食べる者もある。まだ色々是については變つた話もあるのだが、咲顔《ゑがほ》とは關係の無いことだから略して置かう。
 それよりも本章の問題になるのは第三の場合、即ち人が始めてこの世に生まれて出た際に、急いで調製してその赤(228)兒の前に据ゑる高盛りの飯、是は全國に弘く行渡つて、うぶ飯又は産の飯、その他之に類する名を以て知られて居る。やはり珍しく高く盛るのだが、此方は一度に多く炊いて、産婆は勿論のこと、成るだけ多數の近所身うちの女たちに、一緒に食べてもらふのを本意として居る。飯を高く盛るといふ趣旨は、たゞ單なる好意の表示だけでは無かつたらしい。神樣には祭の日に、家の御祖先には毎朝のやうに、御清盛《おきよも》りなどゝ稱して之を上げて居るのを見てもわかるやうに、是非とも食べてもらはうといふ一同の心ざしを、斯ういふ尋常で無い形態に現はさうとしたもので、自分などは是を今風の言葉によつて、人格の承認又は個性の尊重などゝ説明しようとして居る。從つてこの三囘の機會のうちでは、誕生の場合のものを最も根本的な、又人情の籠つたものゝやうに感じて居る。
 
          二
 
 赤ん坊は食べることが出來ないから、この御膳は當日の産の神樣に御供へ申すのだと思つて居る人も多いであらう。實際又この瞬間のみは、今でも神人一體で、境ひ目ははつきりと立つて居ないのである。たとへば此時に膳の片隅に、二つ又は一つの美しい小石を必ず載せるが、この石は氏神の社地から拾つて來るといふ處もあり、又は式が終ると家の神棚に納めて置くといふ處があつて、神の御靈代《みたましろ》の如く考へられる一方に、斯うするとその乳兒が、石の如く健かに育つからと、謂つて居る者もある。つまりは子供が母の乳を通して育つて行くやうに、乳付け以前に於ては神の御食事が、其まゝ彼の養ひになるものゝ如く、考へられて居たらしいのである。
 安産の日の高盛り飯については、色々この以外にも珍しい儀式があつた。東日本の方ではまだ確かめて見ないが、九州四國などの方々の田舍の人は、生まれた兒が男だとその盛り飯の上に、何か成るだけ重い石か金屬の類を載せる。斯うすれば首の骨が強くなると言ひ傳へられて居る。近頃は又少し考へ方がちがつて來て、五十錢銀貨などをその代りに載せる者も有つたといふことだが、是はあんまり改良とも思はれない。一方女の兒の場合は之に對して、その高(229)く盛つた御飯の兩側に、指又は箸のさきを以て、突いて二つの穴をあけた。斯うして置くと大きくなつてから、其兒の頻にヱクボが出來て、所謂愛敬よしになるからといふことで、是をして居る人は今でも中々多いから、皆さんも多分もう知つて居られるであらう。
 男子の頸の骨の硬くなるのと同樣に、親や祖父母が小娘の爲に望み且つ期待した靨《ゑくぼ》といふものは、そも/\何であるか。是を我々は問題として考へて見たいのである。中華民國を始めとし、新たに大東亞圏に參加した隣近の諸民族の中には、人が我兒の未來の爲に斯ういふ點までを顧念して居たものが、有るかどうかを先づ私は知りたい。もしも少しづゝ形をかへてゞも、是と同じやうな希望が現はれて居るとすれば、さういふ土地の人たちと協同して、もつと深く其起りを究めて見たい。萬人の自然に共通して居るものとすれば、ヱクボも決して小さい問題では無いのである。
 
          三
 
 何故に親は我見の頬ぺたに、ヱクボの出來るのをこひねがふかといふと、それは判つて居る。ヱクボの有る樣な娘は愛せられるから、又は少なくとも憎まれないからと、答へてすまさうとする人も多いことであらう。しかし是にはまだ二つの疑ひが殘つて居る。其一つがどうして又女の子に限つて、愛せられ憎まれないことが特に必要であつたのかといふこと、第二には頬にヱクボの有るといふことが、如何にして憎みの防禦となり、又愛の誘因となるかといふことである。この二つの問題の中では、無論前のものゝ方が六つかしく且つ大きいが、今度はその點をさう深く論じようとはしない。それに近頃は男のニコ/\が推奨せられ、女は之に反して寧ろヱクボの濫用を幾分か警戒するやうになつて居るから、もはや突詰めて考へる必要もなくなつて居ると思ふ。しかし武士の階級などでは、以前は「男は三年に片頬」といふ諺さへあつて、たまにほゝゑんでも片頬の筋肉を動かす位に止め、平素はまじめで居るのを男らしいとしてあつた。さういふ?態の下では今よりも一段と、女の咲顔といふことが重要性を認められて居たのである。
(230)   聟の來てにつともせずに物語り
といふ附句が、續猿蓑の中にある。人に窮屈な又は荒々しい感じを抱かせない爲にも、女性のこの持つて生まれたやさしみは、大きな働きをした時代が有るのだが、親が生まれたばかりの赤子の前途に、期待して居た點はもつと手前の方に有つたかと思ふ。それは具體的に言ふならば幸福なる結婚で、この第一の關門を安々と通つて行くことに、今まで子育ての全力は傾けられて居たのである。
 つまり女は選まれるものといふ考へが、以前は今よりも痛切だつたのである。一つの家族が大きくて、其人數が三倍なら三人に一人、五倍あるならば五人に一人しか、主婦になる者が無く、しかも殘りの者にも希望があり、又大よそは其資格があつたからである。其上に女の能力は埋もれ易かつた。是が男ならば認められる機會が色々とあつたらうが、女はさういふことを示さうとせぬのがしをらしいとしてあつた。乃ち又何か今少し靜かな方式によつて、人に認められ注意せられる必要があつたわけで、ヱクボをその一つの目標として居たことは、社會としても亦親切な態度だつたと言へる。
 
          四
 
 咲顔が女の美しさといふことゝ、殆と波交渉に發逢して來たのは、國の爲にも洵にしあはせなことであつた。よしや家族制度の外部の要求から、促されて斯うなつたといふのが事實であらうとも、是が顔立ちや化粧の技術などゝ比べて、遙かに深い處に根をもつて居るといふことは、世の中を明るく又樂しくしたいと願ふ人たちにとつてどの位心丈夫な捉へどころであるか測り知れない。それ故に單なる一身の身だしなみとしてゞ無く、皆さんも汎くこの間題の未來を考へて見られてはどうかと思ふ。
 ヱクボなんかはたゞ平たい表面の窪みであつて、それ自らは美しいものでも何でも無い。然るに此通り親にまでも(231)祈り求められたのは、是が咲頗即ちヱガホといふものゝ、紛ふ方無き特徴となつて居るからである。今まで日本人が漢學によつて少しばかり損をして居る點は、あの國には我々のもつ二つの動詞、ヱムとワラフとの差別がはつきりせず、雙方ともに笑又は咲の字を宛てゝ混同して居ることに氣が付かなかつたこと、ヱミを恰かもワラヒの未完成なもの、花なら蕾か何かの如く思つて居た人の多かつたことである。さういふことは絶對に無い。二つは古くから使ひ分けられて居た證據は、寧ろ漢字をあまり知らぬ人々の、物いひの中に今でも殘つて居る。私たちは笑と咲とを別々に取扱つて、便宜上「咲顔」などゝ書くことにして居るが、是でもまだ間ちがへられる危險は十分に有る。笑ひ顔といふのは決してヱガホでは無く、二つをごつちやにすれば常人には今でも通じない。栗がヱムといふのはあの刺のある外皮が割れて、中の實が覗いて居ることであり、又柔かなものゝ乾くときに罅《ひゞ》が入るのも、ヱミワレルなどゝ謂つて居る。ワラフといふ語は人以外にはめつたに使はぬが、それでも繩などの結んだものがほどけることを、ワラフといふ者がまだ折々はある。花には支那では咲も笑も書いて居るが、是を直譯して花がワラフと謂つたら、無學な人ならば却つて承知せず、それこそきつと笑つてしまふであらう。ワラフは恐らくは割るといふ語から岐れて出たもので、同じく口を開くにしても大きくあけ、やさしい氣特を伴なはぬもの、結果がどうなるかを考へぬか、又は寧ろ惡い結果を承知したものとも考へられる。從つて笑はれる相手のある時には不快の感を與へるものときまつて居る。ヱムには如何なる場合にもさういふことが無い。是が明らかなる一つの差別であつた。
 
          五
 
 それよりも一層はつきりして居るのは、ワラヒには必ず聲があり、ヱミには少しでも聲は無い。從つてヱミは看るものであり、ワラヒは又壁一重の隣からでも聽ける。どうして是ほどにもちがつて居るものを、一續きの表現のやうに見たかは不審であらうが、私の解するところでは、人が大きな聲を立てゝ笑ふやうな席上には、必ず黙つてたゞホ(232)ホヱンで居る者が、或ひは笑ふ人の數よりも多く、同座して居るのが常だつたからかと思ふ。是は素より或一つの出來ごとが、甲には笑ひの種となり、乙丙にはたゞヱミを催さしめるといふ場合には限らないのみか、よほど修養の積んだ人でゝも無いと、笑ふべき場合にホホヱンで居るといふことは實は出來ないのだから、この場合のヱガホは、笑ひの目的物に對してゞ無く、寧ろ笑ふ人に向つての一種の會釋だつたとも見られる。斯んなことに笑ひこけるのは、はしたないと内心では思つても、自分ばかりつんとして居ては、反感を表示したことになる。人が樂しみ又はいゝ氣になつて居る場合が、殊にまはりの者のヱガホの必要な時だつたので、是を雷同附和とは誰も見て居ないのである。
 日本は小娘の最もよく笑ふ國で、箸の轉んだのもをかしがるなどゝ言はれて居る。しかもあんまり笑ひ過ぎたと思ふ時などは、きまりが惡い爲もあつて、一段と永く顔を綻ばせて居る。是が又一つの原因となつて、ヱミを笑ひのあと先の擧動、火でいふならば煙や燠の火に該當するものゝやうに、考へて居る人もあるかと思ふが、是はたゞヱガホのよい娘に笑ふ子が多いといふだけで、笑はせるなら笑ひますよといふ先ぶれとは限らなかつた。稀にはさういふ流義のおつきあひ笑ひも無かつたとは言はれぬが、それの場合には寧ろ意外な刺戟に敏感だつた餘りに、靜かにホホヱンで居る餘裕を無くして、笑ひの爲に其時間を割いて居たのである。だから愈この人生のいはゆる笑へない現實に入つて行くと、いつと無しに聲を立てゝ笑ふ癖は消えてしまつて、再びもとのにこ/\顔だけを、持傳へて居る者が多くなつて來るのである。
 
          六
 
 もう飜譯が世に弘まつて居る筈だが、故小泉八雲さんの書いたものに、「日本人の微笑」と題する一篇がある。私は是を外國に居て讀んだ故に、特に感動の深いものを受けて居る。さうしてなる程日本人は、少しほゝゑみ過ぎるなと思つて見たことであつた。米國人の或家庭に居たこちらの女中が、二三日出たまゝで姿を見せなかつた。やがて戻つ(233)て來て主婦の前へ出たので、何處へ行つて居たのかと尋ねると、にこ/\とヱガホになつて、實は亭主に死なれましたのでと答へたさうである。そんな場合にでも日本人は笑ふのか、何といふ氣心の知れない國民だらうと、そのおかみさんが非常に憎らしがつて居たと書いてあるが、是なども明らかにヱミと笑ひとの混同であつた。ところが小泉氏は是を解説して、さういふのこそ日本女性の奧ゆかしい美點だ。私のやうなしがない女の悲しみなどは何でもありません。それがあなた方の問題になるといふのは、考へて見るとをかしいことですといふ心持が、言葉では表はせないのでたゞ微笑したのだらうと、思ひ遣りの深い辯護をして居るが、是とてもやはり女のヱガホを以て、たゞ虔ましやかな笑ひと解した誤りは一つであつた。果して西洋人も日本の漢學者と同じに、所謂微笑を笑ひの微なるもの、聲を忍んだをかしさと見て居るのであらうか。さうして此以外にはもう人間のホホヱミの動機は無いものと思つて居るのだらうか。もしもさうだとしたら産の飯の兩側に、指で窪みを附けて置く我々の貧しい親々の方がよつぽど彼等よりは進んで居る。赤兒が大きくなつてからたゞをかしいものを笑へるだけの爲に、斯んなまじなひをする氣遣ひが無いからである。
 久米正雄氏が今でも發明權をもつて居る微苦笑といふ新語などは、寧ろ心持があまりはつきりとせぬ所に、價値を持たせようとしたものらしいが、少なくとも爰には外部に何等の笑ふべきものを見出さないホホヱミといふものが、存在することだけは認めて居る。しかもニガワラヒといふ語は國語にもなつて居て、普通ならば大いに笑ふべき場合なるに拘らず、何か自身に打明けにくいさし障りがあつて、人の豫期するほどには笑へない時をいふのだから、ともかくも是は日本でも笑ひの部に屬し、一方のいはゆる微笑とは同類では無いのである。さうして後者は特に女の爲に重要であり、一方の苦笑は主として男にのみ感じられる笑ひであつた。
 
(234)          七
 
 斯ういふ二つのやゝかけ離れたものが、新たに久米正雄君によつて結合せられた事情は、私には少しわかる樣な氣がする。これは必ずしも笑といふ漢字の共通な爲だけで無い。支那で微笑といひ、佛蘭西語で Sourire《スウリ―ル》といふ我邦のホホヱミの中にも、ちやうど小泉八雲の文中の不幸な女中のそれのやうに、相手には構はずたゞ自分の境涯に基いて、思はず催して來るものがあつて、それが一方の苦笑と呼ばるゝ笑ひと、幾分か相似たところがある故に、一つの名を以て呼んで見たくなつたのかとも考へられる。
 この想像が假に當つて居るとすれば、寧ろ苦微笑と謂つた方がよかつた。何となれば微笑は實際は笑ひの一種では無く、從つてそれのやゝ苦いものも、亦笑ひでは無いからである。久米君の意味するものが、もしそれでは無いとしても、別に斯ういふ名を付けてよいものが、有ることだけは爭ふことが出來ない。私などは今まで毎度經驗して居るが、一人で行き詰つて困つてしまつた時に、誰も居ないのに自然にホホヱマシクなることがあつて、是には勿論自分の無力と窮?とを、笑ふ意味は少しも無いのだが、其形式は何と無く、馬鹿なことをしたと自ら嘲るときの苦笑と似て居る。さうして後者が之によつて後悔を打切るのと同樣に、一方私の謂ふ所の苦笑は慰撫を與へ、又は絶望を制止しようとして居る。小泉八雲の筆の跡に殘つた、横濱の女の哀れなホホヱミなども、或ひはこの系統に屬するものであつたのが、物を知らぬ外國人にぶつゝかつて、飛んでも無い誤解を受けたのでは無いかと私は此頃考へ始めて居る。
 
          八
 
 言ふまでも無く是はヱマヒの最初からの形では有るまい。幸福な少女のにこ/\顔の中には、此樣な動機など捜し(235)出せる筈は無い。しかし遙々と世渡りの苦しみに入つて行くにつれて、泣いたり歎いたりするあひ間/\に、せめて斯うでもして居たら、少しは苦しみが凌ぎやすく、又はやゝ樂に一歩前へ活きて行けるといふ體驗は得られるのである。親が主として幸福なる結婚の爲に、女の赤ん坊にヱクボを祈念したことは間違ひないとしても、それから先々の萬一の厄難に對しても、出來るなら是を役立てたいと、願つて居なかつたとは言ふことが出來ない。ましてやこの二つのものゝ中間には、まだ/\女の愛敬といふものゝ、人の社會を安らかに樂しくする機會は、幾つでも想像し得られ、それを欲しなかつた親といふものも亦有り得ないのである。
 だから今日の定義としては、ヱミは寧ろ人生の滑油、殊に女が此世を平穩に、送つて行ける爲に具はつた自然の武器と言つた方がよい。さうすると此點に於ても明らかに、又一つのワラヒとの差別が見出されるのである。笑ひは最も多くの場合に於て、笑はれる者の不幸を豫期して居る。刃物では傷けない一種の闘諍、又は優劣の露骨な決定を免れ難い。今まではそれを避ける爲に出來るだけ縁の遠い、笑はれても構はぬものを捜しては居たが、結局は笑ふ者自らを孤獨にすることは同じであつた。笑つて世の中を明るくするといふのは、手近にまだ笑はれてよいものゝ居る間だけである。さういふものを極度に少なくするのが、永い間の人間の努力であつた。幸ひにして我々は、ヱガホがその笑ひの先觸れでも準備でも無く、寧ろその反對に、笑ふまいとする慎みの一つであることを知つた。たゞその中には受身のものと働きかけるものと、又は自分一身の爲にするものと、人を考へて何物かを與へようとするものと、二種の價値段階が有ることは爭へないのである。どうか將來の日本の女性に、不幸が無く又心の餘裕があつて、始終他人の目を怡ばしめ、ひいては人生のつどひを清々しくする目的ばかりに、神に與へられたその快いヱガホを、利用することが出來るやうにしたいものと思ふ。
 
(236)  (附言)
   本文の中に書き落したが、微笑を日本でホホヱミといふ起りは、ホホと聲を出して笑ふからで無く、頬にそのヱマヒが先づ現はれるからで、即ちヱクボには昔の人も注意して居たといふことがわかると思ふ。
 
(237)  不幸なる藝術
 
(239)     不幸なる藝術
 
          一
 
 左傳を讀んで見ると、これはあの時代の賢人が世を導く爲に、著はした歴史の書なるにも拘らず、不思議に惡人ばらの惡巧みに、興味を持つて居た筆の跡が目につく。後世曲亭馬琴といふ類の勸善懲惡家が、むやみに好惡の徒の顎の骨を尖らしめ、名前まで大塚蟇六などゝいふ碌でも無いのを付けて、終には我々をして悉くその插畫の顔をこすり潰さしめずんば止まなかつたのに比べると、驚くに絶えたる雅量であり、又昔なつかしい趣味でもあつた。あまり面白いから、二つ三つ實例を擧げて見よう。
 たとへば楚の大子商臣、父王を怨んでしかも其心を測りかね、其師|潘崇《はんすう》に告げて曰く、之を如何にしてか察せんと。崇答ふらく、「江?《かうび》を亨《きやう》して敬するなかれ。」江?は王の妹、即ち大子の叔母樣である。御馳走に招いて置いて、わざと失禮なことをして御覽なさいといふのである。さうすると謀計果して圖に當り、叔母さんは大いに怒つてしやべつてしまつた。「あゝ役夫《えきふ》、むべなり君主の汝を殺して職を立てんとするや」と。職といふのは大子の弟の名であつた。そこで潘崇に告げて曰く、信なり矣云々。それから官兵を手なづけて、冬十月には父成王を攻めて殺してしまつた。熊の掌を煮て食ふ間待つてくれと請うて、許されなかつた王樣である。
 今一段と皮肉なのは、同じく楚の大子建の小師費無極、大子に寵無きを憤つて離間を策したが、如何にも手の込ん(240)だ支度をして居る。「曰く建室すべし」。即ち大子も御年頃なれば、もはや奧方を御迎へなさるべしと言上したのである。さうして秦に聘して美しい夫人を約束し、後に盛んに其美を説いて、終に父王をして其女性を横取させた。如何に仲のよい親子でも、斯んなことをすれば氣まづくなるにきまつて居る。それから國境に大きな城を築いて、大子をそこに置くことを勸めたのも同人の惡巧みで、さて愈といふ讒言は、それから後にゆつくりと計畫して又成功して居る。有名な伍子胥《ごししよ》の父親なども、此難に遭うて殺されたのである。
 女性の黠智には更に自由にして且つ美しいものがあつた。晉の驪姫は實の子の奚齊《けいせい》を立てんとして、孝心の深い大子申生を陷れるのに、斯んな策を用ゐて居る。「姫大子に謂つて曰く、君夢に齊姜を見たまへり。必ず速かに祭したまへ」と。齊姜は大子の亡き母である。夢に見たと聽いては子は供養をせねばならず、その供へ物は又夢を見た人に分たねばならぬ。それをよく知つて居て、其酒肉にはそつと毒を入れて置き、獵から歸つて來た殿樣に、わざと氣の付くやうにして差出した。「公之を地に祭れば土わきかへり、犬に與ふれば犬斃れ、小臣に與ふれば小臣も亦兵る。姫泣いて曰く賊は大子に由る」と。乃ち涙といふ鋭利なる武器を以て、計略の繋ぎ目を補うて居るのである。
 
          二
 
 この一條の物語の如きは、前の半分は大子以外に語る者が無く、後の半分は公獨り親しく實見したので、一貫して之に參與した者はかの一人の外面如菩薩だけであるが、彼女は永遠に其記憶を欺いた筈である。然るに惡人でも無い左丘明といふ盲目の歴史家が、果して何の力を以て其光景を眼前に見るが如く、鮮麗に又簡潔に、書き傳へることを得たかといふと、彼が史實に忠誠であつたと同じく、又時代の傳承といふものに、甚だしく冷靜なることを得なかつた結果である。實際又左氏の熟視した人生には、女子小人その他の凡庸が、何れの時代よりも遙かに敏捷に、活躍して居た樣にも考へられる。
(241) 次の一つの例は、或ひは左傳の中では無かつたか。捜して見たけれども急には中々出て來ない。よつて無責任ながら少年の頃の記憶で書いて置くが、是もやはり被害者が善良なる若殿であつた場合である。少しも缺點の無い大子を陷れんとして、美しい繼母は自分の衣に蜜を塗つて、花園の中を逍遥して居る。殿樣は遠くからその美しい姿を眺めて居る。熊ん蜂が飛んで來て奧方の衣の蜜に附かうとする。折から來かゝつた大子が思はず近よつて、手を揚げて之を拂ひのけると、わざと高い聲を立てゝ宮殿へ走り込み、王の側に來て息を切り、眼には清い液體を湛へて居る。一つの大悲劇は、此の如くにして亦製造せられざるを得なかつたのである。
 女の一心が善惡に拘らず、兎に角に是だけ自然に近い芝居を仕組んで、一度の練習も無しに上品に綺麗に、豫定の效果を収め得たといふことは、勿論興味ある出來事には相違無いが、それよりも更に我々に取つての一奇蹟は、それを詳細に諒解したのみならず、假令敬服したのでは無いまでも、百世の末までに、言ひ嗣ぎ語り傳へんとした人の心である。現に自分なども憎いなとは感じつゝも、其計略の如何にも掌を指すが如くなるを見て、新たに人間の力の意外なる展開を經驗し、子供ながらも消し得ない印象を得たのであつた。さうして此頃になつて、生活價値論の説法を聽くに及んで、再び又何故にあんな歴史が、世に傳はらねばならなかつたかを疑ひ始めて居るのである。
 人によつては或ひは無造作に、偶然に傳はつたから傳へるのだ、もう是からはあんな愚劣な事件は、わざとでも湮滅せしめた方がよいのだと言ふかも知れぬ。成るほど我々の同胞は、記録に對しては極度に敬虔であつた。殊に古いといふことは一切の批判を緩和し、有る限りの趣味を妥協せしめる。しかも文書の根原に溯つて、初めて此材料を紙の上に排列した人の心持を尋ねると、彼等の後裔がこれほどまでに寛大なるべきを豫期して、勝手氣儘な樂書をしたのでもなければ、又其當時の現實に盲從して、知れば必ず書き殘すといふ程に、無選擇でも無かつたらしい。古人に取つては紙筆は貴重であつた。彼等はやゝ過當にすら墨を吝んで居る。たゞ今日と異なる所は、人生に對する興味であつた。彼等は惡の藝術に對して、頗る我々とちがつた鑑賞態度を、持つて居たらしいのである。
 
(242)          三
 
 此痕跡は我々の時代のやうに、出來るだけ敵といふ言葉を使ふまいと骨折る人が多くなつても、なほ折々は之を認めることが出來たのである。杜騙《とへん》新書といふ本の日本に飜刻せられたのは、確かに明治になつてからの事である。出版者は申し譯ばかりに、世渡りの用心の爲などゝ言つたらうが、自分たちの夜を徹して讀み耽つた動機は、寧ろ惡に働く人間の智慧が、楠正成孔明その他の僅かな例外を除けば、到底正直善行の方面に於ては見ることの出來ぬやうな、複雜にして且つ變化に富んだものであつたからでは無かつたか。そればかりでは無く、毎日の新聞を見ても、確かに隣人がその惡の爲に傷き惱むことを知りつゝも、所謂警察種の、殊に憎々しいけしからぬ事件に注意する。つまりは動物園の檻の中に、虎獅子を見舞ふ心持と同じなのである。無論讃歎では無いが、さりとて討伐退治といふ類の、正義感からでも無かつたのである。
 惡の技術はもはや一つとして、この統一せられた平和の社會に、入用なものは無い筈であるが、會て人間の智巧が、敵に對して自ら守る爲に、之を修練した期間が餘りにも久しかつた故に、餘勢が今日に及んで、なほ生活興味の一隅を占めて居るのである。實際に我々の部落が一つの谷毎に利害を異にした場合には、譎詐陰謀は常に武器と交互して用ゐられて居た。友に向つて之を試みることは、弓鐵砲以上に危險であつたから、射?《あづち》も設けられず、道場も他流試合も無く、治に居て亂を忘れずといふ格言すら、此方面には封じられて居たけれども、如何せん別に何等かの其缺點を補充する教育が無かつたら、到底安泰を期せられぬ樣な國情が、隨分久しい間續いて居たのである。韓非子とか戰國策とかマキャベリとかいふ書物ばかりが、其役目を勤めたとも限らなかつた。けちな人間同士のけちな爭闘には、やはり微細な小規模な惡計も、習練して置く必要があつたのである。
 日本は中華民國よりも、もとは遙かに幸福な國であつて、惡巧みの必要が夙くから減少し、從つて目に見えて此方(243)面の技術は劣つて居る。その證據としては偶何かの必要があつて、之を應用した場合を見ると、感歎するどころか、何としても眉を顰め、面を背けずには居られぬやうな、必要以上に害の大いなる惨虐ばかりが多かつた。一例をいふと足利末期の血戰時代には、どうでも倒さねばならぬ隣の大名に、娘を縁付けて少しく安心させ、聟入りの日に之を討取つたといふ話が幾らもある。重臣の手強い者は公然と懲罰もなし難く、主人が率先して之を騙しすかし、不意に御諚といつて首を刎ねたりした。伊太利の中世なども爭ひが隨分ひどかつたやうだが、それでも此樣な露骨な謀計は無かつたかと思ふ。然るに我々の中世の軍書には、こんなにが/\しい記事を以て充ちて居る。教科書にも何にもなり得なかつたわけである。語を換へて言ふならば、是は闘諍の少なくなつた社會に於ける、惡の技術の著しい退歩であつた。
 惡は現代に入つて更に一段の衰微を重ね、節制も無ければ限度も知らず、時代との調和などは夢にも考へたことは無く、毒と皿との差別をさへ知らぬ者に、稀には惡事の必要不必要を判別させようとしたのだから、この世の中もべら棒に住みにくゝなつたわけである。兵は兇器なりと稱しつゝ兵法を講じた人の態度に習ひ、或ひは改めてこの傳世の技藝を研究し、悲しむべき混亂と零落とを防ぐべきではあるまいか。
 
          四
 
 自分たちの學問の領内では、前代の惡の技術は、無邪氣なる武邊咄と同じく、明るい色の着物を着て遊んで居る。敵が攻めて來て味方よりも強ければ、ペテンを以てへこませるの外はない。從つてうそつきの功名談といふものが、永く竹帛に傳へられることになる。人間を嘲り罵るのは惡いことだが、對陣の場合には斯うして味方の士氣を振はしめる必要がある。故に常から狗の子が?み合ふ程度ぐらゐに、少しづゝは惡口の練習もして置かねばならなかつた。其趣味を養成する手段としては、日本には多くの馬鹿聟の昔話がある。或ひは又山家のヲッサンや「こば唐人」の話(244)がある。慾張り和尚の失敗談もある。二人椋助一流の童話には、うそつき榮え愚直滅び、めでたしめでたしといふやうな淺ましいものさへあつて、「昔」ならばそんなこともあらうと、面白く笑つて人が之を聽いた。それが御差合とあらば、別になほ目に見えぬ人間の敵あり、沼の藤六、曾呂利の輩は見越入道を征服し、或ひは天狗を欺いて羽團扇や隱れ簑笠を捲き上げ、或ひは八化けと名乘つて七化けの狐を裏切つて居る。乃ち我々の日常生活の權道主義は、十分とまでは云はれなかつたが、未だ其傳銃を絶つには至らなかつたのである。
 ハイネの諸神流竄記を讀んで見ると、中世耶蘇教の強烈なる勢力は、終にヴェヌスを黒暗洞裡の魔女となし、ジュピテルを北海の寂しい濱の渡守と化せしめずんは止まなかつた。それと全く同樣に、我々の系統ある僞善、即ち惡の必要を理解し得ざりし人々の辭令文學は、結局惡業を全滅し得ずして、たゞそれを物凄い黒い技術としてしまつたのである。殊に今日の所謂被害者の階級は、自身馬鹿らしい浪費を事としつゝも、なほ惡から受ける微小なる損害をも忍んで居なかつた。故に二つの要求が合體して、この久しい歴史ある一種の藝術を、永く記録文獻の外に驅逐することゝなり、學問の目的物としては、終に空中のエレキやバクテリヤ以上に、取扱ひにくい社會現象としてしまつたのである。
 しかも食ひ遁げ押借りといふ類の、半公開の技術で無くとも、尾佐竹猛君も既に説かれた如く、インチキにもサクラにも流行があり改良がある上に、一方には古今一貫の口傳があるらしいのを見れば、學校とか研究所とかいふ新式の文字を使はぬだけで、例へば天草や五島の切支丹の如く、人に隱れて不完全なる相續はして居たのである。筋肉の運動の爲ならば公共の入費で、弓術劍道等の古い不用の武藝でも演習する。故に斯ういふ昔からの横着猾智姦計の類も、そんな外部の批判的名稱には累はされずに、單に快樂として、又若干の將來の必要に備ふべく、一定のグラウンドを設けて之をスポーツ化し、無學無教育の現在の惡人共をして、牛刀鷄を割くが如き無茶な事をさせぬ樣にするのが、經濟の上から見てもやはり利益であるやうに私は思ふ。
 
(245)          五
 
 元來自分の志は、被害者といふやうな私心を離れて、今一度この消えて行く古風の藝術を見ようといふに在るのだが、不幸にして渡世が拙なる爲に、終に騙されても構はぬといふ迄の生計の餘裕が出來なかつた。だから撃劔の稽古でいふならば、いつでも面籠手を着けずに竹刀で打たれる樣な結果になつて、心靜かに傳統の趣きが味はへない。さうかと言つて他人のやつ付けられるのを、面白さうに見物して居るわけにも行かぬ。うつかりすると同類かと疑はれるからである。それ程までに世間はもう容赦なくなつたからである。やはり不滿足でも自分の實驗を語る他はないやうである。
 私の經驗では、此方面でも昔の作品は念が入つて居る。從つて手間を食うてやゝ引合はぬ形がある。以前小樽で知合ひになつた某といふ男の如きは、僅か十五圓の金を私から借り倒す爲に、半歳に近い苦勞と三分の一ほどの入費を使ひ、其上に五つほどの大きなウソをついて居る。「このあひだ新カズノコを一樽、船便で出しましたがまだ屆きませんか」と謂つた。「何とかして獵虎《らつこ》の皮を一枚、手に入れて差上げようと思つて方々へ頼んであります」とも謂つた。「アザラシならば二枚持つて居ます。あれはカバンなどに張るのは勿體ない。是非チョッキに仕立てさせて御覽なさい、さし上げます。私も着て居ますが中ようございます」とも謂つた。そればかりか既に初めて逢つた時にも、樺太は水が良くない。炭酸水を御持ちなさるがいゝと謂つて、現に船の出る間際に、繩で括つた一ダースを屆けてくれた。然るに樺太へ行つて見ると水は大いに良い。つまらぬ物を持つて來たと、船の中からもう人に笑はれた。斯ういろんな事をされては長くなる程氣味が惡い。早く勘定を取りに來てくれた方がよいのにと思つて居ると、その中に遣つて來て騙したのである。騙されてやれ/\と思つたやうな場合が、私などにさへあるのだから、たしかに人生は活きるに値ひする。
(246) しかしともかくもウソといふものは、誠に本當とよく似たものであつた。それから後二十年に近くなるが、私の家では「海豹のチョッキ」といふ諺が出來て、年に二三度づゝは之を使用する必要が生ずる。想像して見ると愉快さうな計畫で、しかも先づだめといふことの豫測せられる場合に、簡便の爲にこの手製自家用の諺を持出すのである。私も妻や子供に、折々この海豹のチョッキを着せてやつたことがある。小樽で出逢つた惡人などは、逞ましい金齒の、太つた四十ばかりの男であつたが、もう何處かで斯んな事を忘れて老いて居るであらう。生まれは大阪だと言つたが、案外に古風な着實な惡人であつた。あんなのは少し位は世の中に居た方がよいかとさへ思ふ。
 
          六
 
 それから此頃になつて、又一つ奇拔な實例が出現した。出入の八百屋に評價をさせて見ると、此惡人の不當所得は五十錢ばかりのものであつた。それに對して非常に大掛りな、堂々たる詐欺手段が講ぜられたのである。
 夏の初めの或日の午前であつた。臺所の者が見ごとな胡瓜と茄子を手に載せて、是が一餞づゝだと申しますといふ。早速家内が出かけて見ると、賣りに來た百姓が盛んにしやべつて居る。如何にも不意氣な、きよとんとした小男であつたといふ。わしんとこでは畑が廣くて、自分で作るから安いのだ。玉川の遊園地へ行く路の、左とか右とかに見える竹藪の家がさうだと謂つた。うちは十五人家内で、今日も四人づれで町へ出た。娘は十八でついそこ迄車を曳いて來て居る。ぢい樣は九十一で丈夫で、何と云つても聽かぬから一しよに來た。車は二つ持つて居て一方は馬、一方は牛に曳かせて來た。茄子も胡瓜もその車に積んであると言つて、此男は苦竹《はちく》の筍だけしか擔いで居なかつた。それでも何かのぐあひで胡瓜の前金をくれとも言へなかつたと見えて、筍の代ばかりを受取つてそれつきり遣つて來なかつたのである。
 三十年も前から、年に一度か二度、暮には剥製の足の無い鴨を賣りに來たり、或ひは底の二重になつた醤油樽、練(247)り物の鰹節などを持込む者もあつたが、大抵は成功せずに澤山の家を歴訪して居る。あんなのは寧ろ看破しない方がよいのだ。今時これ程の手數をかけ、足を使つて、詐欺取財などになつては引合つた話で無い。いはゞ彼等は惡者の中の愚直なる保守派である。由緒の確かな古い樣式に囚はれてしまつて、餘計の辛勞をして居ることを自覺せぬ者だ。殊に玉川の農家に十八の少女と、九十一歳の白髪翁とを點出するに至つては、尋常の所謂身邊小説家の企て及ぶべからざる拮据經營であつた。我々は寧ろ賢明にして、永く彼等の爲に欺かれてやり得ないことを悲しまねばならぬ。
 話はまあこの位にして置いて、終りにこの人生の惡の藝術が、未にはどうなつてしまふかといふことを考へて見よう。自分等の存在する期間ぐらゐは、凡そこの世の中に惡の華の入用が無くなつて、生活がたとへばホップを使はぬ麥酒の如く、なつてしまはうとも思つては居ないが、その衰頽の兆は今すでに顯著である。優れたる人物に敵が無くなり、わけの分らぬ壓抑が無くなれば、勿論彼等は斯んな仕事の爲に苦勞はしない。敵意があればこそ惡意は其存在を認められるのである。凡庸の多數には勿論いつ迄も敵はあらうが、彼等の力には稍この藝術は高尚すぎる。必ず今日以上に見つともない、且つ無茶な危險な取扱ひ方をして、見物をして愛想をつかさしめるだらう。さうすれば永く流行しないにきまつて居る。しかしさうして一切の傳銃と絶縁し、あらゆる習練の機會を奪ひ去り、單に少數の病的天才の跋扈跳梁に放任することが、果して安全の途であるか否かには疑問がある。殊に法令が設けた惡の階段には、不當に智慧のある者のみを贔屓する姿がある爲に、却つて術乏しき者をして無法な闘爭をなさしめる。遠く歴史を囘顧するまでも無く、今でも地方には恨の刃だの、或ひは「赤い鳥を飛ばせる」だのと稱して、拙劣なる惡業に澤山の犠牲を拂つて居る。その最も愚なる例としては、自分の讐家の軒に縊れて、化け物となつて後に報復しようとする者さへあつた。つまりは民衆は惡の藝術に飢ゑて居るのである。不幸にして世に此物の入用のある限りは、之を魔術の如く忌み嫌つてばかりも居られまいかと考へる。
 
(248)     ウソと子供
 
          一
 
 近頃讀んで見た某縣の警察資料の中に、次の樣な一條の記事があつて深く考へさせられた。ウソの話の前置きではあるが、是だけは珍しく又大切な眞實である。或小學校の上級生の親が出頭して、昨日子供が踏切りの近くで、三千圓在中の包みを拾ひました。それを通り掛りの巡査が取上げて、何の手續きもさせずに其儘持つて行つてしまひましたといふ屆出をした。それは容易ならぬ事件だと、早速子供を喚んで聽いて見るのに、如何にもはき/\として居て話は事實らしい。しかも一方警察官の側には、何一つの形跡が無い。そこで老練なる署長が、なほ少年と差向ひで色々と尋ねて居るうちに、ほんの僅かな端緒から、それが虚構であることを見付け出したのである。どうして又此樣な根も無い作り事をする氣になつたか。元々成績も惡くない純良な生徒なので、一層それが不審でありました。段々物柔かに説論して、漸くのことで其事情が明らかになつたといふ。此子供は、最初三千圓を拾つた夢を見て、朝まで覺えて居て非常に快い感じを持つて居つた。それを學校で仲よしの隣の子に話すとき、夢といふのが惜しかつたものか、本當に拾つたやうな話をして置いて、それを自分はもう忘れかゝつて居たのである。ところが隣の子が還つて家で其話をする。親がすぐそれを信じて悦びに遣つて來る。此方では一向そんな事は聞かぬから、息子を喚んで尋ねる。今更ウソだつたとも言はれず、金は現に無いのだから、よんどころ無く巡査が持つて行つたと言ひ、それから段々事が(249)大きくなつて、根が利口な子であつた爲に、却つて次から次へと尤もらしい空言を、こしらへることになつたのである。稀には此類の虚説も無きに非ず、注意すべき事なりと、此一件の報告者は述べて居る。
 
          二
 
 私には是がさほど稀なる出來事では無い樣な氣が今でもして居る。と申すわけは、自分も九つの歳の事だつたが、誠に些細な行きがゝりから、殆と二年越しに苦しいウソをついて居た經驗があるからである。今考へて見ても決して快い經驗ではないが、學校で親類の多い豐かな家の子供たちが、?訪問客があり御土産があつた話をするのを聽いて、何か肩身の狹いやうな負けたくない樣な氣がした餘りに、つい口輕く自分の家へも、此頃泊り客が來て居るといふ事を言つてしまつた。ところが不幸にして私は年上の級に編入せられて居て、とにかく世間の知識はずつと仲間の方が進んで居たから、段々追窮せられて、いよ/\ウソを成長させなければならぬはめに陷つたのである。それで其御客が城下の良い育ちの者であり、女の親子づれの、しかも美しい人であるやうになつたのみならず、どういふわけであつたか、その泊り客を還つて行かせることが出來なくなつて、永逗留の理由と、けふは何をして遊んだかを、毎日の樣に作つて報告しなければならぬのには弱つた。後には次第に相手も飽きて尋ねなくなつたが、時々はもつとウソをつかせるために、子供仲間が訪問して來るには殊に閉口した。小さな宅であつたけれども、折節奧の間の押入れの戸を取替へて、まつ白なからかみ戸にしたのを幸ひに、あの向うに今一間ある、開けると叱られるなどゝいふと、急いで家の後へ廻つて見る子供のあつたことも記憶して居る。つまり相手は薄々といふ以上に、作り事であることを知つて居り、こちらも亦少しはそれを感じて居たのだが、不幸にして手を叩いて「あれは皆ウソだ」と、名乘る機會を逸したのである。そこで次の年に家に事情があつて他の土地へ引移り、生まれた家を賣つたのは不幸だと思つたが、此問題が其爲に終結したゞけは、やれ/\安心といふ感じであつた。
 
(250)          三
 
 かういふ實驗を持つて居るので、私は金を拾つた夢の兒の話を聞いても、誠に飛んだ事だとは思はぬのみならず、人のよくいふ猿蓑の連句の中の、
    人も忘れし赤そぶの水        凡兆
   うそつきに自慢言はせて遊ぶらん    野水
    又も大事の鮓を取出す        去來
とある一續き、即ち大切なスシを御馳走しながら、知れきつたウソ話を一所懸命にして居る光景なども、只をかしいとばかりは思ふことが出來ないのである。世間で通例に想像して居る以上に、ウソをつきたくなる動機は種々樣々である。其内容から言つても、以前は「ウソらしきウソはつくとも、誠らしきウソはつくな」とも謂つて、そのすべてを惡い事とは考へて居らず、結果から見ても、中にはをかしがつてわざ/\聽きに來る者もあつた位で、つまりは擔がれて居る時間の長さ短さが、面白くないと面白いとを區別して居たのである。小さい兒などのウソをついて居るのを注意して見ると、相手が笑つて聽けば笑ひながら、いつ迄も語り續けるが、稍眞顔になつて信じてしまひさうな容子が見えると、あわてゝ「今のはウソなのよ」と取消さうとする者と、更に一歩を進めて效果を見ようとする子とがある。何れにしても最初は氣輕な戯れの心持を以て、之を試みない者は無いのであるが、「ウソつき泥棒の始まり」などゝ一括して、是を惡事と認定する樣な風潮が起つた結果、彼等は追々にウソを隱すやうになつて來て、新たに不必要に罪の數を増したのである。斯ういふ點にかけては、近代人は却つて自由でない。だから今少し問題の本末を、靜かに考へて見る必要があると思ふ。
 
(251)          四
 
 古人は勿論僞瞞が惡事であるは知つて居たが、イツハリとウソとには、ほゞ明瞭な區別が立てゝあつた。ウソといふ名詞が此頃のやうな意味に使はれるのは、格別古いことでは無いやうである。能の狂言の「こんくわい」に「何のウソを申しませうぞ」、同じく「禁野」に「雉はウソぢや、おのれをたつた一箭で射てやらうぞ」。是などが先づ早い例のやうに思はれる。其以前は單に或一地方の方言として、ウソを僞瞞の意味に用ゐて居たゞけで、少なくとも京都ではそれを知らなかつたのである。清輔の奧儀抄といふ歌の書に「或人の云く、ひむがしの國の者はそらごとをばヲソゴトと云ふなり」とあつて、本居先生などは、それが今日のウソと同じだらうと謂つて居られる。ヲソは萬葉の「烏とふ大をそ鳥」の歌以來、單におどけ戯れの意味に用ゐられて居たのに、關東の人は人が好くて、ソラゴトを知らなかつたか、もしくは頭が緻密でなくて二者の區別を感じなかつたのか、兎に角に「僞り」をもウソといふのが、此地方の方言であつた。物類稱呼といふ百五十年程前に出た諸國方言集にも、安房上總にてはイツハリをウソヲカタルと謂ふと見えて居て、東國では依然としてその古い傳統が保存せられて居た。がしかしそれは決して全國的では無く、常陸では虚僞をチク、會津ではハラアタ、米澤ではテンツ、九州はほゞ一圓に、昔のまゝにソラゴツと謂ひ、能登の一部分では戯れ言の方をウソツキと謂つて居る。即ち元來は東京近傍の、至つて狹い地域だけが、ウソを僞りの意味に使つて居たといふに過ぎぬのである。
 
          五
 
 それを阪東武士の進出につれて、京都が眞似をして流行させるやうになつたものらしい。根源は至つて手輕に、寧ろ稍不精確なのを承知の上で、却つて遠慮なくこの語を使用したものと思はれる。醒睡笑といふ笑話集は、寛永の(252)初年に世に出たものだが、其中にはウソツキの話が五つ六つあつて、是は何れも今日謂ふ所のウソである。ところが其書物の一番初め、「言へば言はるゝ物語」の條には、「何故にそらごとをウソとはいふぞ。さればなり。鷽《うそ》といふ鳥は木のそらにて琴を彈く故に、うそをばそらごとゝいふ也」とある。鷽が樹の枝にとまつて度々足を踏みかへるのを、うそ琴彈くと昔の人は言つて居た。是はそれから出た輕口の作り話で、こんな話こそはまさしく古風のもの、即ち能登半島などでいふところのウソツキの方である。つまりは言葉は昔からあつて、用法と内容とが少しづゝ變つて來た一例と見られる。ソラゴトとても其語義から見れば、單に浮辭といふ位なことで、惡い意味は無いのだけれども、それを有害にして人の憎む所業に宛てゝしまふと、さう度々は是を使ふことも出來ぬので、わざと他にもつと漠然とした語を求めたものらしい。ウソがその代用の目的に用ゐられたのは、これは是非も無いことだとしても、それならば別に小兒や只の人の爲に何かもう一つ、無害な名詞を用意して遣らねばならなかつたのである。彼等の間には、ウソは最初の意味を以て、即ち騙さうといふ目的で無しに、今以て盛んに實用に供せられて居る。それをその隣では新しい意味で使ふ故に、世間には無用の混亂を生じたのである。近世の文學の中にも、幾らでも例が見られるが、町の女たちは何かといふと「ウソよ」とか「ウソばつかり」とかいふ言葉を、愛嬌に使つて居たことは人の知る通りであり、つい此頃までも「ウソおつしやいよ」などゝ、平氣でいふ人が澤山あるのである。是をうつかりと英語などに直譯して、you lye だの lyer だのと言はうものなら、それこそ大變な騷ぎになるだらう。つまりはウソといふ語が以前のソラゴトと同じ樣に、目下段々と憎むべき語に變化して行かうとして居るのである。近頃此趨勢を何と無く感じた者が、「ウソおつきなさいよ」の代りに「ごじようだんでせう」を用ゐる樣になつた。是に冗談といふ文字などを當てて、むだ口のことゝ解する人もあるが、そんな日本語があらう筈はない。是は全く以前のザフダン即ち雜談から出て居るので、少しでも斯んな場合にあてはまる語ではなかつた。しかし他に致し方も無いので、私なども是を使つて居る。たとへば子供は今でもよく、單なるイイエのところにウソと謂ひ、又は人が戯れに頓珍漢なことをいふと必ず「ウソ(253)でせう」と謂ふ。それに然りと答へれば、當世の所謂ウソツキと認められる危險がある故に、我々はわざ/\是を「いゝやジョウダンだ」と訂正する必要を感ずるのである。まことにむだな手數と言はなければならぬ。
 
          六
 
 斯ういふ歴史のある佳い言葉は、もつと大切に保存して置きたいものだと思ふ。さういふ中でも此混亂の御蔭に、最も迷惑をして居るものは、琴を彈くといふ鳥の鷽であつた。太宰府や龜井戸の天神さまでは、春の御祭にウソ替へと謂つて、此鳥の形を木に彫つたものを、知らぬ人どうし交換する面白い風習があるのだが、あれなどは此爲に行く/\嫌はれるやうになるかも知れない。ウソといふ鳥の名は、本來は啼き聲から來て居る。乃ち人間のウソも、曾てはあんな聲をして居たので、つまりは眞面目らしくない作り聲であつた。口をすぼめて唇の輪を圓く、突出したまゝで音を發すれば、其ウソの音が出る。即ち今日のウソブク(嘯く)である。但し必ずしもこの一つの聲と定まつたわけでも無いことは、鳩などを喚ぶときの作り聲もウソなれば、一種竹製の笛にもウソ笛といふものがあつて、其音は又大分ちがつて居る。兎に角に誰が聽いてもいと容易に、本物でないとわかるものが昔のウソであつた。先づ斯んなにまで苦心をして、古人はウソのまに受けられることを防いで居たのである。
 
          七
 
 然らば何の必要があつて、わざ/\その面倒なウソをつかうとしたかと疑ひたまふ御方もあらうが、それは餘りにも祖先の生活に思ひ遣りが無い人だといふことになる。ラヂオも映畫も無い閑散な世の中では、殊に笑つて遊びたい要求が強かつたのである。人が何人集まつても、誰もウソをつく者が無いといふ場合は、ちよつと想像して見ても、如何に落莫無聊なるものであつたかゞわかる。其上になはウソは大昔から、人生の爲に甚だ必要で平素是を練習して(254)置かなければならなかつたのである。鬼魔猛獣毒蛇の如き、天然の強敵があつた場合は勿論のこと、人が二つ以上の群に分れて相隣する場合にも、永い間にはどうしても爭闘しなければならなかつた。頭數とか腕力とかで、初めから負けとわかつて居る者でも、必ずしも逃げ匿れ又は降伏するとはきまつて居ない。やはり勝ちたいが爲に智力一杯の策謀を講ずる。是が人生に於ける僞瞞といふものゝ最初の實用であつて、敵に對しては隨分思ひ切つたことをしても、たゞ譽められるばかりであつたことは、歴史を讀む者の?意外とする所である。それが何等の教育も無く又習練も無しに、行き當りばつたりに出來たわけは無い。はつきりとした師弟の道などの起らぬ以前は、群として始終此準備を心掛けて居たので、人が年頃になる迄には農作でも漁獵でもはた武術でも、いつの間にか一人前になつて居たのと同じやうに、少しづゝの手腕の差等はあるにしても、とにかくに時代相當の程度に、用に臨んで人を騙すだけの能力は具へて居る必要があつた。さうしてウソは要するに敵を欺く術の實習、相撲で申すならば「申合せ」の如きものであつた。
 
          八
 
 しかしさういふ目的から始まつたものならば、敵を欺く爲には諸葛孔明、山本勘助といふ類の軍師があつて、既に專門の技術として研究せられる以上、くだらぬウソは止めたらよさゝうに思はれるが、其頃にはもう獨立して一つの藝能、一つの民衆娯樂になつてしまつて居たから、止めてしまふことが出來なかつたのである。突飛な例だが動物の中では、狗の兒などを見て居るとよくわかる。一生の間には殆と一囘も、敵獣と闘ふべき必要の無い家の小狗までが、二匹以上集まれば咬み合ひの稽古ばかりして居り、しかも是を以て唯一つの少年時代の遊戯として居るのである。彼等の中でも、やはり少し遁げて相手に追はせて見たり、わざと倒れて下から?んだり、武力に加味して若干の智慧を働かせて居るのを見かける。さうして斯んな眞劔でも無い勝負から、若い者だけは可なり大きな興味と昂奮とを、味(255)はつて居るらしいのである。我々の家の子供には、相手の間違へたりまごついたりするのを見て、高笑ひする子がよくある。實害の無いのをほゞ見定めてから、ひよいとウソをつかうとするなども性分であつて、無用な惡癖のやうに今では見られて居るが、昔は是が必ずしも攻撃の場合だけでなく、自衛の法としても是非必要なる修業であつて、今でも私たちは最後の總決算の上から、小さいものに此嗜好のあつたことを、社會の歴史としては幸福だつたと思つて居る。勿論弓や刃物があぶないと同樣に、此技術にも折々の濫用があつた。敵でも無い者が是に由つて傷つき、もしくは餘りに敵が少なくなつた爲に仲間の誰かを敵にして、眞劔を試みる者が稀にはあつた。しかしそんな懸念がある爲に、總括して之を制止しようとするのは近頃のことで、以前は土俵を作つて角力を取らせ、あづちを設けて弓を射させ、老若男女が是を見物したやうに、この面白い智慧の試合をさせて、共々に是を笑つて居たもので、つまりウソといふ關東の方言は、一種劔術でいふならば、お面やお籠手の如き技術の名稱であつたのである。
 
          九
 
 ウソが斯うして競技の一つとなつた以上は、又此道の名人上手が出來るのも當然で、其爲に評判はます/\高く、天分ある者の才能は追々に是に向つて傾注せられ、末にはわざ/\あの男にならば、些しばかり騙されて見たいといふところ迄進んだ、人に重んぜられる藝術となつたやうだが、其代りに實用の方とは段々縁が遠くなつたことは、是も亦今日のスポーツなどゝ同じである。童話の中には奧州一番のウソツキがあつて、京から京一番のウソツキが、ウソ競べに遣つて來て遁げて還つたなどゝいふのがあるが、さういふ昔話のウソは、大抵は如何なる愚か者をも、騙すことの出來ぬやうなものばかりであつた。以前は村々には評列のウソツキといふ老人などが、大抵は一人づゝ住んで居て、たとへば十返舍一九の最期の花火線香のやうに、死んだ後までも其逸話を以て、永く土地の住民を大笑ひさせて居る。其中には或ひは猿蓑の俳諧に出て來るやうな、所謂誠らしきウソをつく者も少しはあつたらうが、其ウソが(256)わかれば馬鹿にされ、まに受けさせれば人が怒つて、到底十分の人望を博することは出來なかつた。人望のあるウソは必ず話になつて居る。むつかしい語で申せばもう文藝化して居る。おやと思つて聽いて居るうちに、すぐにウソと解つてをかしくなるもの、又は最初から思ひもよらぬ奇拔なことを、おれが若い頃になどゝ言つて談るのだから、聽衆の方でも至つて心安く、其技術を鑑賞することが出來たので、是がなかつたら我々の文學は、今日のやうに愉快に發達することが出來なかつたのである。
 
          一〇
 
 實際またウソ修行の昔話にもあるやうに、多勢の中には此技術を以て立身した者もあつた。太閤秀吉の寵を受けたといふ曾呂利新左衛門などは其一人で、昔は咄の者とも名づけて大名たちが、さういふ名人のウソツキを抱へて居た時代がある。是などは實は見掛けによらず骨の折れる職務であつた。同じ話で人は二度は笑はぬから、始終新しい種を貯へて置かねばならぬ。それを聽く人がウソと看破し得る程度に、しかも誠しやかに語らなければならなかつたのである。太閤が諸士に酒を禁じて、酒の爲に御不興を蒙る者が多かつた頃、曾呂利だか誰だか眞赤な顔をして御前に出て來た者があつた。其方は酒を飲んで來たか。イヤ餘り今朝は寒いので、焚火をして當つて參りました。ウソをつけ、おれが嗅いで見ようこれへ出え。いや是は樽柿くさい。飲んで來たに相違ないといふと、左樣でござりませう。柿の木を焚いて當りましたから。斯ういふウソは太閤ならば大抵は笑ふ。が萬一慧敏でない大名に向つてついたとすれば、馬鹿にするなと言つて必ずや御手討であつたらう。この加減がひどくむつかしかつたのである。
 
          一一
 
 だから相手を視て常に其智力相應に、害無く手ごたへのあるといふ程合ひをきめる必要があつた。是が兵法でも碁(257)將棋でも、永遠に師範役の苦心である。村の聽衆などは大體が幼稚だから、いつも少しづゝ前へ引出して、其鑑賞力を養成してやる必要さへあつた。それを聊かも斟酌せずに、自分勝手なウソをつくのが「欺」くであつて、アザムクはアザ笑ふなどゝ同じく相手を愚と認めること、即ち仇敵を意味するアダと、もとは一つの語だつたらしいのである。斯ういふ事をすれば則ち惡人で、是と曾呂利との境目はほんの紙一重であつた。故に人生の笑ひを改良して遣らうといふ親切心が無くなると、多くは此才能は私慾に利用せられ、終には社會をしてウソ其ものをさへ憎むに至らしめるのである。古人は決してそんな動機を以て、ウソの研究はしなかつた。それだから其志が永く世に遺つて居るのである。私可多咄《しかたばなし》といふ本に出て居る二つの話。
  ▽昔、比翼の鳥の物語をする者あり。此鳥は二羽つばさを竝べて空を翔けると見えたなど謂へば、其座にウソツキ居合せて言ひけるは、我等も其鳥をいつぞやら見たが忘れた。又それに似た魚を能登國の海にて見た。一ぴきの魚のあたまへ、今一ぴきの魚の頭を插込みて二ひき竝びてありく。即ち七月に用ゆる刺鯖のことぢや。海にてあのさし鯖のひらり/\とありくを、見ぬ衆に見せたいことぢや。
  ▽昔、いたら貝は海にある時は如何樣にして捕るぞと問ひければ、ウソツキ答へて曰ふ。あの貝杓子ほど、海にて取り易き物は無い。竹の柄のところを捕ゆると謂ふた。
 是は三百年後の今日までも、メザシが隊を組んであるいて居る話、又は蒲鉾が板に乘つて泳いで居る話として殘つて居る。斯ういふ話を少しづゝ時代に應じて新しくして語る者を、我々はウソツキ彌次郎と呼んで居た。しかも彼等の職業は、勿論人を腹立たせる職業ではなかつたのである。
 
          一二
 
 東北各縣では、黄金の牛の昔話が、傳説として各地の山村に傳はつて居る。即ち今も盛岡あたりで、カラメテカラ(258)メテとはやして歌つて居る「金のべこ子に錦の手綱」の物語である。佐々木喜善君の東奧異聞の中に、詳しくこの問題が説いてあるが、曾て或地の金山が極盛の時に、牛を牽き出したとも、牛の形をした大金塊を得たともいひ、其時が全盛の行止まりで忽ちまぶ〔二字傍点〕が崩れ落ち、さしものさかり山が一夜のうちに滅びてしまつたといふのが普通の形である。其時何百人又は何千人の金山人足の中で、たつた一人だけ偶然に活き殘つて、その最後の場面と色々の前兆とを、語り傳へたといふことになつて居るが、其男の名が數十箇所の實例に於て、大抵はウソトキ又はオソトキと呼ばれて居るさうである。ちやうど出雲神話の大國主命の如く、平生は馬鹿にされ除け者にされて居たのだが、却つて彼たゞ一人この幸運に惠まるゝしるしであつた樣にも語られて居る。如何なる理由を以て彼の名をウソトキと謂はねばならなかつたかを、佐々木氏は訝かつて居るが、私だけにはほゞ解るやうな氣がする。つまりはウソトキが活きて此ウソを説かなかつたら、我々の知らねばならぬ大きな歴史の一つが、此世の中から消えてしまつたらうからで、單に昔の聽衆が是ほどまで、虚言に寛大であつたといふ以上に、笑ふと夢みるとの差こそはあれ、兎に角にこの人生を明るく面白くする爲には、ウソを缺くべからざるものとさへ考へて居る者が、昔は多かつたことを示して居る。芝居には作者があり、役者彼自らが政岡で無く、武部源藏でもないことをようく知りながら、わざ/\泣く爲に鼻紙を用意して、見物に出かける奧樣さへもとは多かつた。それに何ぞや、申しにくいことではあるが、書くかと思へば身邊雜事小説、何一つの物新しい實驗もせぬ癖に、筆を自身の見聞の世界に限つて、誇張を畏るゝこと虎狼の如く、有りのまゝなら乃ち文學だと思つて居る者があり、一方には又たま/\小兒などの自然且つ自由なるウソを聞くと、慌てゝ之を叱り又戒めようとする者が多くなつたのである。是では我々の世の中が淋しくつまらぬものになつて、是非なく今一段と下品な嗚滸《をこ》の者を雇ひ、至つて猥褻なる事實談でも聽いて笑ふの他は無くなつてしまふかも知れない。
 
(259)          一三
 
 近世の文學論の中には、如何にも中途半端な寫實主義といふものがあつた。生活の眞の姿と名づけて、たゞ外側の有り形のみを寫したもの迄が、文藝として許容せられ、さうして我々が眼ざめて、如何なる夢を見るかを省みなかつたのである。幼い者の胸に浮んで來るソラゴトに、何處に眞實と對抗するだけの作爲があり、彼等の戯れたい心と、快く活きて見ようとする試みの、何れの部分に自然と背いたところがあつたらうか。我々はたゞ一方の害ばかりを恐れて、急いで澤山の花に咲く二葉を摘んでしまつたが、それでも雜草の如き物陰のきたないウソは、其爲に少しでも減じようとはしないのである。ほんに無益なる束縛といはなければならぬ。以前ちやうど私が只一人で、家へ親子の泊り客を連れ込み、毎日の惡戰苦闘を續けて居た頃に、三つになる末の弟、後に相應な畫家となつた者が、をかしいウソをついた。其顛末を略敍すると、僅か一町ほどある豆腐屋へ、強ひて志願をして油揚げを買ひに行き、還つて來たのを見るとその揚豆腐のさきが、三分ばかり食ひ缺いてあつた。さうしていま上坂《うへざか》の方から鼠が走つて來て、味噌こしに飛び込んでこれだけ食べて行つた、と彼は説明したのである。御承知の通り我々の家庭では、小兒のいやがるやうなことは何でも鼠がする。彼に惡名をなすりつけることは、大人もよく用ゐるウソの一つの樣式であつた。三つになる兄がそれをもう學んで居て、一町ほどの間に一つの小説を編んだのであつた。幸ひにして此ウソの聽衆は、同情に富んだ人ばかりであつたからよかつた。私は今でも其折の母の顔をよく覺えて居るが、隨分やかましい人だつたけれども、此時ばかりはをかしさうに笑つた。さうして快くこの幼兒にだまされて、彼のいたいけな最初の智慧の冒險を、成功させて遣つたのである。
 
(260)          一四
 
 斯ういふ場合に、笑ひたくならぬおかあ樣は、先づ少なからうと思ふ。しかも考へ深い母ほど、それを笑ふのを躊躇するのは、全くウソの鑑賞法の退歩である。この空想の自由を取戻す爲にも、我々は今少し以前の世の實情を知つて置かねはならぬと思ふ。歴史の學問は、單に斯うであつたを説けばよいので、それが善いか惡いか、後にはどうなるかどうならせるがよいかの判斷には、參與する義務は無いのであるが、今日の母樣たちが餘りにウソといふものを、怖れて御出でになるのが御氣の毒だから、只一言だけ實際上の意見を述べて置く。子供がうつかりウソをついた場合、すぐ叱ることは有害である。さうかと言つて信じた顔をするのもよくない。又興ざめた心持を示すのもどうかと思ふ。やはり自分の自然の感情のまゝに、存分に笑ふのがよいかと考へられる。さうすると彼等は次第に人を樂しませる愉快を感じて、末々明るい元氣のよい、又想像力の豐かな文章家になるかも知れぬからである。
 
(261)     ウソと文學との關係
 
          一
 
 徒らに奇矯人を鷺かすの言を弄する者の如く、速斷せられることは甚だ迷惑であるが、私が以前「ウソと子供」といふ題で、こゝの成城學園の母の會に話したのは、ウソが人間の惡コの一つに算へられ始めてから、是を濫用して世を害する者が却つて多くなり、其長所と美點、少なくとも將來の希望が埋没したといふことであつた。「設樂」がもし私の勸告を容れて、山村のウソツキ特輯號を發行するやうならば、今一度之を細説して、  愈々誤解を防ぎ、更に民俗研究の新たなる方針を明らかにして置く必要があると思つて居る。
 日本人がウソといふものを憎み始めた最初は、律義と素朴とを最も重んじた武士の階級であつて、しかも其ウソがやゝ流行して、幾分か過度に平民の間にもてはやされた時代のことであり、之を憎んだ理由も今とは著しく違つて居たやうに私は考へて居る。ウソの問題を少しく論じた文獻には、本居大人の玉勝間や、高田與清翁の松屋筆記などがあるが、後者には甲陽軍鑑卷十二の、次のやうな一節を引用して居る。
  惣別武士の取合に、弱き方より必ずウソを申候。越後輝虎と(武田家の)御取合に、敵味方ウソを申したる沙汰、終に無之候云々
 此書物にこそ、大分たちのよくないウソが、書いてあることは有名であるが、武田・上杉が戰爭にウソを用ゐたと(262)いふ沙汰のなかつたことだけは本當かも知れぬ。しかしそれは唯その沙汰が弘く傳はらなかつたと言ふのみで、大よそ武力を以て生死を爭ふ以上は、時々の勢の強弱は必ず有るべきで、その弱い方が何等かの詐術を以て、缺點を補ふ必要が無かつたと迄は考へられない。現に太平記に出て居る楠家の泣男のやうな例こそは無からうが、甲陽軍鑑が詳述する兩家の軍略には、擧動のウソの方は幾らでも書いてあるのである。猫の空睡り、狸の死眞似、攻撃防禦の方法は動物ですら、決して武力一方を頼みとはしなかつた。まして人間には成るべく味方の數を損ぜずに、效果を收めようといふ思慮があつた。敵を前に控へて自ら其手段を制限するやうな、餘裕などは恐らくは無かつたらう。だから爰に謂ふウソは今日我々の解して居る如き、眞面目な一所懸命の惡事ではなくて、本來は別な内容をもつた一つの語であつたのを、たま/\甲陽軍鑑の筆者が、ちやうど其意味の推移期に際して、極めて不明瞭に兩方に掛けて、用ゐてゐたものと解するの他は無いのである。
 
          二
 
 同じ松屋筆記に引用した朝倉宗滴話記に、
  武者を心掛くる者は、第一ウソをつかぬものなり……不斷ウソをつきうろんなる者は、如何樣の實義を申候共、例のウソつきにて候と、蔭にて指をさし云々
とあるのは、疑ひもなく足利末頃の武士道の教訓の一箇條であつたらうが、是が對敵の無形武器として、使用せられて居た詐術なるものと、同じ一つの所業と考へられて居たかどうかは覺束ない。北條早雲の二十一個條壁書といふものに、
  ソラゴト言ひつくれば癖になりてせらるゝ也。やがて人に亂され申し候
とあるソラゴトも、右のウソと同樣のものらしいが、是亦人に糺さるゝなどゝあつて、寧ろ我仲間味方同士の中に、(263)平生戯れ合つて居るものを誡めて居たのである。是と上杉・武田といふやうな、生命財産の與奪までしようといふ間柄の言行とを、一括して觀ることは誤りであらうと思ふ。
 けだし虚言の初めて存在を人生に認められたのは、敵を欺いて打勝たうとする必要が元であつたらう。從うてそれが一つの家に仕へ、同じ部落に生まれ合せた者の間に、時有つて出現したのは轉用であり、或ひは誤つたる模倣であつたといふ推測も起り得るか知らぬが、それはこの内外二つの物言ひが、全然本質を同じくする場合の話で、仔細に觀察して見るに、どうやらまだ顯著なる差別が認められるのである。私は前には虚言が一種の兵略であるが故に、各自豫め消極的武藝として之を修業し、恰かも相撲が運動にもなれば、又折々は仲間喧嘩の方法ともなるやうに、自然に惡弊を生じたのでは無いかとも考へて見たが、現在の記憶乃至は記録の存する限りでは、迄譎詐狡猾を教へる公認の道場といふものは無かつたやうである。眞劔の他流試合以外に、各自仲間の申合せを以て欺瞞を練習する途は、全然備はらなかつたものと思はれるのである。不用意な話と思ふものが有らうも知れぬが、昔は何によらず實地の傍觀に由つて、覺え込ませるのが教育であつた。鋤・鍬・鎌・鉈等の使ひ方は勿論、弓や鐵砲の如き精確を旨とする藝すらも、山の獵師などは却つて矢場、射撃場といふやうなものを知らず、最初から之を實際に試みて、段々に上手になつて行つたのである。村にウソつきが流行した起源を、戰國敵を欺く技能の副産物の如く、想像して居たのは私の誤りであつたかもしれない。
 
          三
 
 そんならどういふわけで、武家であれ程まで嫌つて居たウソつきが、より善良なる農民の間に、此樣にまで發達して來たかといふと、是には先づ二つの大いなる特徴に注意して見なければならぬ。其一つはウソから催される笑ひといふもの、是が外敵を征御し又は撃退する場合の詐術とは別であつた。愚かなる敵が旗さし物を伏兵かと思つたり、(264)水鳥の羽音を夜討と誤つて遁げたりすることは、味方に取つては大笑ひの種に相違ないが、騙された當の本人はいつ迄も口惜しくて、中々笑ふ所の騷ぎでは無い。之に反して仲間のウソは、聽くそばからもう笑ひたくなるものが多く、たま/\むきになつて一應は之を信じた者でも、發覺するや否や忽ち吹出してしまひ、假に餘り上手に騙されたといふ際でも、先づは苦笑して人に話をする位が落ちである。それといふのが多くの村の彌次郎たちのウソは、騙してさて何をしようといふ、底の巧みといふものが無かつたからである。即ち第二段には實害が計畫のうちには無いといふこと、是が又仲間のウソだけを、明るいものにして居る原因であつた。しかもこの二つは外形の相似たること、斬合ひと撃劔の型とのやうであつた故に、或ひは之を以て一種の演習であつたかの如く、考へる者を生じたのである。この混同は結果に於て、かなり大きな弊害を村の風儀の上に及ぼして居る。今後の改良としては、不可能なるウソ全滅を謀つて、一層田舍の生活を寂しくしようよりも、寧ろこの二つのものゝ明瞭なる境堺線を、劃して見せる方がよかつたのである。
 但し私たちが今日改めて、この古風な田舍のウソの採集を、企て且つ勸説する所以のものは、決して是が今以て善人の所業であり、單に近隣知友の心を怡ばしむる爲ばかりに、行はれて居るものだと認めた結果では無い。事實はむしろそれと正反對に、内外の效果の差別、動機の如何などには御構ひなく、人が一樣にウソはよろしくないものだと信じ切つて居る世の中に在つて、尚且つ平然として其ウソをつきたがり、又はつかずには居られぬ樣な心持をもつて居る者が、どうして有るのかといふことに深い興味を感ずるからである。國民の體質骨格に明らかな遺傳があると同樣に、それに包まれて居る内の氣質習癖にも、亦無意識に背負ひ込んで居る何ものかゞ有るのでは無いか。殊にそれが直接に現代と觸れて居る都市のインテリ共では無くて、參州北設樂郡の山間のやうな靜かな土地の、世間見ずに暮して居る小民の中に見られるといふことは、私にはどうも意味の有ることのやうに思はれてならぬからである。
 
(265)          四
 
 色々な疑問は、もう少し事實が集まつた後で無いと解けない。今は大よその見當だけを、諸君と共に付けて置く他は無いのだが、ウソが中世以後にかなりな變遷を遂げたといふことは、單なる方言の比較からでも、あらましは承認することが出來るやうである。三四百年より以前の日本の歴史記録には、ウソといふ日本語は捜しても見えない。今日我々がウソと名づけて居るものゝ、少なくとも一部分は別の語で呼ばれて居たか、さうで無ければ丸つきり無かつたかであるが、後の方はちよつと信じ難い。ウソは關東の方では近い頃までオソと發音する者もあつた。是は本居先生などが夙く注意せられたやうに、今日オゾイといふ形容詞と根源は一つの語で、此語も追々に新しい内容を持つやうになつたが、言はゞつまらぬとか馬鹿々々しいとか、之を口にする當人の品性を批評した語であつた。人のよく知つて居る萬葉集の、烏を「大をそ鳥」と謂つた歌なども、之を用ゐた人の心持ははつきりとせぬが、兎に角にやゝ滑稽の意を含んで居たことだけは確かで、ウソが元來は憎んだり罰したりする程の、さう大した惡事で無かつたことを暗示して居るやうである。
 それから一方にはウソといふ語の現存の用語なども、少し氣をつけて見ると其變化は至つて區々であつて、まだ完全には辭書とは一致して居ないかと思はれる。土地により又人の種類によつては、「ウソですよ」といふ文句を、失禮とも思はずに使つて居る。東京では此節之を罷めて、成るべくジヨウダンといふ語に替へようとして居るが、實際腹にも無いお世辭などを言つた時も、もしくは心から誤り信じて事實に反することを言つた時も、共に「ジヨウダンぢや無いぜ」が其受け返事でもあれば、或ひは子供などはそれを又ウソとも謂ふのであつて、今でもこの二つの語は往々にして同義法としか解せられて居らぬ。事によると、以前はもう少しこの重複の區域が廣く、別に不實を説かうとせぬ單なる戯れ言をも、ウソと呼んでよかつた時代があつたのかも知れない。さういつた證據も探せば隨分有らう(266)と思ふ。永正十五年の序文を持つ閑吟集の小歌に、
   梅花は雨に、柳絮は風に、世はたゞウソにもまるゝ
又は同集に、
   人はウソにて暮らす世に
   何ぞよ燕子が實相を談じ顔なる
などゝあるのも、其ウソを今日の狹い意味に取つて考へると、私にはさつぱり面白さが解し得られぬやうな氣がする。
 次にもう一つ、ウソには全體どういふ漢字が、今までは宛てられて居たかも考へて見る必要がある。「誕」といふ字はたゞ口舌の不檢束、即ち口から出放題をいふことを意味する以上に、深い惡意までは含んで居なかつた。「嘘」といふ字なども、支那の元方では息を吐くこと、もしくは口を聞いて笑ふやうな意味しか無く、日本でも之をエラグといふ動詞に宛てた例もある。或ひは一種の和製字であつたかも知らぬが、さうした所でたゞ口扁に虚であつて、言はゞまじめで無い無益の辯といふ迄であつた。譎詐僞瞞といふ樣なよろしくない漢語に、假にウソといふ振假名を附したとすると、今でもまだ何と無く落付かないのである。
 
          五
 
 又虚言といふ日本での熟字なども、之を堅苦しく音で唱へると強く響くが、ソラゴトと言つてしまへばやはりウソに近い。九州には一般にウソといふ語は餘り行はれず、大抵はスラゴツ又スラゴトで通つて居る。さうして是にも稍おどけたる語感を伴なうて居るやうである。奧羽の方の一端は是と對立して、ヤグトといふのが我々のウソを意味して居るが、このヤグトのヤは一切の下らぬもの、又は無益なものを意味して居るらしいから、やはり我々のムダゴトやムダグチと近く、罪になる程の大きな惡事でも無かつたやうである。其他この二つの方言の中間に存在する色(267)々の地方語、例へば秋田のバク、米澤のテンツ、越後のドスや關東のチク、それからもつと廣く行はれて居るジラ・テンポ・テンボウの類も、自然に覺え込んだ土地人で無いと、的確に其内容を捉へることは難いが、それが頗る戯言といふものと、似通うて居たことだけは想像し得られる。現在は勿論標準語のウソといふ語の成長と呼應して、是にも若干の複雜性を加へたかも知れぬが、兎に角に何處の田舍に行つて見ても、今はまだウソとイツハリと、もしくはデタラメとゴマカシと、即ち笑ふべき虚言(ソラゴト)と憎むべき虚言(キヨゴン)との、二つ別々の名詞の併存を必要として居るのである。
 意味の紛亂は寧ろ兩者の混同をした者の責である。武家が嚴格でこのウソをも排斥したことは、確かに今日のウソの不純化の因を爲して居る。ハナシカといふものは、日本の最も古風なウソつきだから、是も亦一つのウソかも知れないけれども、彼等がよく引合に出すコ川家康の訓誡に、「嘘らしい嘘はつくとも誠らしい嘘はつくな」と言つたと云ふなどは、可なり明らかに此混同の實?を語つて居る。實際我々のウソは平等の智力ある者の間に、追々其技術の精妙を競ふ風が現はれて、自然に質が惡くもなれば、又誘惑が多くもなつたのである。誠らしい嘘は是を生活の便宜に利用し、從つて仲間に損をさせ、又は恨ませるやうな結果にもなり易かつたから、之を制止しようとしたのは尤もであるが、其刷毛ついでに只の「嘘らしい嘘」まで、撲滅しようとしたのは智惠が無かつた。そんなことは出來る話で無かつたのである。たゞ強ひて向ふの側に立つて之を辯解すれば、この二つのものゝ境は東照權現が考へて居たやうに、さう簡單なものでは無かつた。聽く者の智能と境涯と前後の事情とによつて、同じ一つのウソでも甲の者には嘘らしく、乙丙には信ずべき話として、受入れられることは毎度ある。一々相手を見て效果を豫測してかゝれば格別、さもない場合には半分は罪になり、半分は賞讃に値するといふことになる。そんな面倒なものならばいつそのこと、何でもかんでも「ウソつきは泥棒の始まり」、「死んで地獄で鬼に舌を拔かれる」と、一括して之を否認した方が始末がよいのである。と言つて先づ今までは濟まして居たのだから、不精確な倫理觀には相違なかつた。
 
(268)          六
 
 ウソが本來はどれ程無邪氣なものであつたかは、子供を實驗して居ると自然に之を認めることが出來ると思ふ。ウソをつき得る小兒は感受性の比較的鋭い、しかも餘裕があつて外に働きかけるだけの活力をもつた者に限るらしいから、一つの學級でも一人有つたり無かつたりするほどに稀である。勿論手ごたへが有るたびに其念慮は強くなり、技術も進んで惡用の端を開くことであらうが、それにした所で彼等のウソは清いものであつた。私の試驗に供した五歳の女の兒などは、笑つて聽いて居ると止めども無く出鱈目を重ねて行つたが、あべこべにこちらがそれを信じたやうな顔をすると、慌てゝ「今のはウソなのよ」と謂つて念を押した。是がもう少し大きな兒になるとうつかり深入してつい「ウソだッ」といふ機會を失ふらしいが、そんな場合には内心大いなる不安を感ずるやうである。この潮時もしくは加減といふ樣なものは、文字にこそ現はせないが誰にでも測定し得るもので、從うて知りつゝ其限度を踏越えて行く所に、そこに善惡の岐路は示されて居るかと思ふ。我々は必ずしも今後も無差別に、ウソを禮讃しなければならぬ必要はない。たゞもう少し多くの同情を以て、ウソつきが泥坊になつて行く經路を、考察してやるのがよかつたのである。
 歴史的にこの沿革を見ると、以前はウソつきは一つの職であつた。業とまでは言へない村々のおどけ者でも、常に若干の用意と習熟とがあり、誰にも望めないで或一人はよく知られ、それを特長として人からも承認するのみか、少しく技能が衰へると忽ち取つて替らうとする者が現はれるなどは、何れも其地位の偶然で無かつたことを思はせる。即ち名聲を以て無形の報酬として居た點だけは、學者文人などゝも大して異なる所はなかつたのである。高名のウソつきはどの地に行つても永く記憶されて居る。英雄と同じやうに多くの逸話を留めて居る。昔話の一つの型であつた京のテンぽと、鎌倉のテンぽが術競ぺをしたといふ話の如きは、是が大力や詩歌の才と等しく、榮譽の標的であつた(269)時代を偲ばしめるものである。のみならず一方には又、之を仕官封禄の手段としたのも常の習ひであつた。室町の青年將軍義滿が、同朋衆を召し抱へたことだけは、偶然に記録に傳はつて居るが、もつと小さな武家にも御伽の者、又は咄の衆といふ類の、口前で奉公したものは、あの以前から久しく續いて有つたやうに思はれる。是は陣營假屋形の、男氣ばかり多い生活の名殘であつたらうが、兎に角に宮廷の靜かな趣味に養はれた人々と違つて、村には談話によつて退屈を紛らし、又時々は笑ひの爆發によつて、單調を破るべき必要が夙に存したのが、武人と共々に其風が花洛まで入り込んだのであつた。しかも一人の資力を以てこんな玩具用の家隷を抱へ得る者には限りがあつた。だから一方には醫者や連歌師や茶道との兼務となり、他の一方では幾箇所もの掛持ちをしてあるく、座頭琵琶法師などの生業が發生した。それが按摩となり、太鼓持ちとなり、更に進んではたゞ時々の出入りや取卷き、西鶴等の所謂浮世を立てる者ともなり、末には各人が大か小か、社交の爲にシヤレをいひ、頓智をひらめかす今日の世態にまで到達したが、弓箭槍刀を以て身を立てようとした本筋の人々だけは、いつまでも此樣な人間と伍をなすを恥ぢて、やゝ反動的に堅苦しく且つ野暮に、其地位を固守して居たやうである。ウソが總括的に疎んじ賤しめられるに至つた主要なる原因は、恐らくは彼等の周圍の是に携はつた者が、餘りにも實利的であつた爲だらうと思ふ。
 
          七
 
 ウソで人間が奉公して居た時代には、それが有害なものであつた氣遣ひは無い。通例人の機嫌を取つて生活をする者が、其地位を保つ手段はさう澤山は有り得ない。程よく笑はせる話をするのが主であつた。人はいつでも笑はんことを欲して居る癖に、おとなになつてしまふと中々手輕には笑はない。それを笑はせて元氣を付けようとするには、是まで用ゐられて居た方法が二つあつた。其一つは自嘲で、自分の魯かさを暴露して見せること、其二は他嘲であつて、何か自分たち以外のものゝ間から、劣り見にくゝ又は力弱くして、容易に此方の優越を證し得るものを、發見し(270)且つ注意することであつた。以前は人間は神靈に對する場合の外、めつたに我が短所を認めようとはしなかつた上に、仲間が小さくて外との爭闘が多かつたから、笑ひの藝術は勢ひこの他嘲の方から發達した。戰爭の勝利や漁獵の手柄、乃至は天狗・狐・鬼・化物を退治したといふ類の話が、心地よく耳を傾けられたのは其爲であつて、是にも笑ふやうなおどけが色々と伴なうて居た。しかし專門の御相手が任命せられたやうな時代には、笑ひの要求は今一段と現實になつて、次第に談話者が自ら哄笑の目的物となることを便とするに至つたのである。今でも幇間や落語の徒が、強ひて自分の失敗を自慢さうに話するのは、考へて見ると憫れなことであつたが、ウソが事實で無いことを麗々と述べ立てるやうになつたのも、根本はやはりこの自嘲から出て居るやうである。即ち普通の人ならばすぐに看破し得べき眞實を、自分は低能だから斯う誤解して居ると、人に示さうとしたのが最初の目的であつて、從つて其虚言は狂言記の大名の樣な人たちにも、さう面倒なしに發覺してしまふ程の、淺墓なものであることを旨としたのであつた。
 曾呂利新左衛門が太閤秀吉に向つて、ついたと傳へらるゝウソなどは、大抵はこの部類に屬して居る。多くの「頼うだ人」は之を聽いて、そんな馬鹿げた事が有るものかと言ひつゝ、げら/\と笑ひ興じたのである。まじめな昔話が段々に笑話化して、一種極度の誇張を試みた大話といふもの、例へば雁を捕り過ぎて空を飛んだとか、一本の茄子の木が成長して天に屆いたといふやうな話が、盛んに世に行はれたのも此機會であつた。ところが是にも流行の限りがあつて、そんな子供だまし見たやうなと、今度は聽き手の方がもう少し誠らしい嘘を要求し始めたのである。是は察する所、不思議といふものに對する古人の尊信の、一つの變化のやうであるが、兎に角に我々が輕い程度の「意外」から、受ける刺戟を喜んだことは事實であつて、餘り長い時間でなく又實害が無いならば、少しは騙されて居て後に覺るのも亦面白いと、考へるやうになつたのも其結果であつた。シの字ヒの字を決して使はぬと約束して、何とかそれを言はせるやうに工夫したといふ話などは、今でもハナシカが種にして居るが、是も曾呂利が太閤をかついだといふことになつて傳はつてゐる。或ひは又ウソ講と稱する催しがあつたといふ話もある(露が咄卷四)。ちやうど西(271)洋の四月馬鹿と同じく、腹立てぬ約束の下に互ひにウソの技能を競うたのであつた。斯ういふ諒解があつてつきまくるウソなどは、言はゞ時代の趣味であり又生活の要求でもあつた。あれが無かつたならば人生はもつと退屈で、日本は斯う始終げら/\と笑ひ、又にや/\と微笑する國とならずにしまつたらう。
 
          八
 
 人が始めから怒らない約束で、ウソをつかせて見て樂しむなどゝいふことは、物好きにも程があると言へば言はれるが、是は戰場で敵の勇士に感心する雅量などゝなつて、隨分早くから發露してゐた日本の文化の一面であつた。もつと極端になると、盗賊の技倆を試みたといふ話さへある。枕もとに金箱を置いて、取れるものなら取つて見よ。その代りしくじれば命は無いぞと、言つて番をして居たのにやはり一夜の間にちよろりと持つて行かれたなどゝ、是も亦技能の成功した話として傳はつて居る。是などは勿論話であつて、必ずしもさうした實例が有つたとも思はれぬが、兎に角に大食や寢坊のやうな有りふれた只の生活までも、餘り非凡なものは周圍から喝采したやうに、何を言ふだらうかの先々の好奇心が、ウソのやうなものをさへ藝術視して行つたのである。否ウソの如き自由なる空想の産物こそ、寧ろ何ものよりも先に藝術化すべき素質を持つて居た。繪には「繪そらごと」と稱して?眞實を超越してもよかつたことは、既に古今著聞集の中に鳥羽僧正の逸話として之を説いて居る。小説や芝居はそれと比べると、幾分か後世まで、是が史實と違つて居るといふことを心付かなかつたのは、我々の昔に對する信用が餘りに強く、今なら有り得べからざることだが、昔ならばさういふこともあつたらうと、思つて見て居た結果かも知れない。遠國の武士が江戸の歌舞伎を見て、舞臺の赤づらの所行に憤慨し、刀を閃めかして飛んで上つたといふ話、もしくは權助が芝居から歸つて來て、今日は何だか御寶物が盗まれたとか言つて、一日騷いで居たので芝居は見られなかつたと言つた落し話の如き、都會人は之を聽いて腹をかゝへて笑ふけれども、自分たちも義理恩愛の切なる場面を見ると、やはり亦「身に(272)つまされる」などゝ言つて泣いて居た。即ち彼等もまだ完全に、文藝が作り事であることを覺り得なかつたのである。
 それが僅かな歳月にすつかり心持をかへて、文藝だけは自由すぎるほど自由なものになつた。たゞに反證の乏しい前代の生活に、各自智慧次第のまちがつた描寫を試みて恥ぢないのみで無く、今眼の前の出來事といふものでも、實際に見たり聽いたりしたことでなくともよかつた。有りさうな事だといふだけでも十分であつた。曾てコ川家康が禁じたといふ「誠らしき嘘」は、どこ迄も發展して行つた。殊に近年の所謂イデオロギー文學に至つては、更にその作り事を信ぜしめんとして、又一段の結構と選擇とを、加へようとさへして居るのである。久しい習慣によつて誰も當り前のことのやうに思つて居るけれども、我々は一方に文藝だからウソも差支無しと承認しつゝ、他の一方では時々はそれを信じて、一喜一憂することを要求せられて居る。是は少なくとも村々のウソつき共に對して、可なり嚴峻なる態度を以て臨まうとする人々には、實はやゝ意外とも評してよい寛大さであつた。
 
          九
 
 御斷りをして置くが、私は何も彼等田舍者に、精々自由にウソをつかせ、さうして又原稿料を遣るべしなどゝ主張するのではない。諸君が既に之をよろしく無いことだとする以上は、是にも必ずしも反對をしようとは思はない。たゞそれと同時にもう少し根源に立入つて、如何なればウソが今日の如き惡コに墮落したか。それがどういふわけで、かゝる平和なる山間の別天地に、根を生やし種を遺すに至つたかを、考へて見てもらひたいのである。私の今抱いて居る假定では、小さな部落ではウソは專門化しても、町方のやうに一つの業體となつて、繁榮して行くことが出來なかつた。折角の技能はあつても、只折々の隣人の高笑ひを買ふのみで、それで一身の生計を立てる事は望み難かつた。殊に近世はあらゆる家庭工業も同じやうに、安物の敷物がどし/\と外から入つて來て、今までのやうな手のかゝつた品を、珍重する者が無くなつた。だから誘惑のあるたびに之を濫用して、不正なる所得を企圖する者が現はれたの(273)である。それも良心がまだ鋭くて之を敢てし得ず、僅かに近まはりの人たちをかついで、古風な藝術心を滿足させて居る類の人が、殘つて居る地方は頼もしいと言へる。ちやうど手製の煙草入や地織木綿のどんつくが、まだ少しづゝ殘つて居て、旅人の目を悦ばしめるのと同じやうな現象である。
 是が永遠に保存し得るものか否か、又どうすれば靜かに此技藝を樂しみ得るかは、私たちの微力にては解決し得ない問題である。しかし歴史に携はる者の立場はもつと簡單で、さしあたりは是が如何にして發生し傳播し、且つ今日まで保存せられて居たかを、尋ねることが出來れば一應は役目がすむ。ウソつきは後年の一つ話に殘るやうな、奇警なウソがつければ成功であるが、それは他人に記憶せられて居るだけに、燒直して出したのでは必ず又かと言はれる。だから世間を修業しまはつて、成るだけ我土地では初耳のものを輸入しようとした。足利末以來の京都の滑稽には、唐土から飜案したものが幾らもあり、別に昔からの少し有名なウソは、南は九州から北は奧羽の果まで、僅かづゝの距離を置いてどの田舍にも流布して居ることは、かの馬鹿聟譚や、和尚小僧の昔話も同樣であるのは、如何に此連中が我郷土限りの新種を、持込むのに苦慮して居たかを推察せしめる。ウソのつき方の技術にも、注意して見るとそれ相應の練習があり傳授がある。方言の差の多い土地では、飜譯にも亦巧拙があり、大抵のウソつきは言はゞ此粉本の利用に於て、小規模なる才能を郷黨に認められるに過ぎなかつたやうである。
 しかもなほ天分といふものは爭ふことが出來ない。純乎たる模倣受賣飜譯は自分たちも淋しく、又自力の有る競爭者が出るとすぐ敗北する。ウソの名人といふのが主として遺傳に基くか、はた又各人の修得したものも相續するかどうかは、我々の學問の全般的な問題であるが、何にもせよこのウソには家筋のある事はほゞ確かである。さうして其根原は亦他の色々の藝術と同じやうに、宗教的であつたかとも思はれる。
 
(274)          一〇
 
 今日傳はつて居る紀氏や小野氏の系圖を見ても、私は折々考へて見ることであるが、神道と佛法とは日本の歴史に於て、偶然に飛んでもない二つのものが結合したやうに、思つて居る人が有るならばそれは間違ひである。或種の家筋からは名僧も出れば名神主も出る。後者は當然に世襲であつたから、さういふ家から優れた新宗教家もやはり出家して居るのである。獨り靈界にあつて美しい夢を見たゞけでなく、歌も物語も舞も音曲も、共に或一處の豐かなる泉から涌きかへつたので、それが亦土地に縛られて居た諸國の農民の間を次々に移動して、愈其末裔を蔓延させる便宜ともなつたかと思はれる。大きく利用すれば幾らかでも著名な人を作り得た家々が、僅か足の爪先きの向き方の左右によつて、時には都の地に入込んで、小さな仕事しか爲し得なかつた例も多い。村のウソつきは事によると、その最も氣の毒なものゝなれのはてゞあつて、彼等の空想はたゞ小さな山蔭の五人三人の夜話に、他人の思ひ及ばぬ境を驅けめぐり、何の手柄にもならぬやうな作りごとに、大切な先祖の血をわき返らせて居たのかも知れぬ。そんなことはそれこそ空な話で、いつになつても證明の出來さうもないことを、わざと大袈裟に言つて見るのだらうと、非難する人が有るかと思ふが、私は必ずしもさうは信じて居ない。今までのやうに所謂偉人の尻ばかり追つかけて居る歴史ならばいざ知らず、我々の採集事業がもし弘く凡俗の生活に及んで行くならば、しまひには多くの村の彌次郎のウソ話の中から、一つの方向なり系統なりを見つけて、それが最初のどういふ信仰、もしくはどういふ社會觀に胚胎して居るものかを、推し究めて知ることも不可能で無いと思つて居る。幾ら私が田舍のウソ話に同情をもつて居るからと言つても、是までをウソだと言はれては迷惑する。其證據は今にお目にかける事が出來る筈である。
 
(275)     たくらた考
 
          一
 
 日本を見直すといふ言葉を、近頃若い人の群から、折々聽くことが出來るやうになつた。自分は是を以て無知の發見、即ち今まで判つたつもりで安心して居たことの、危險に心付く人が多くなつた兆候として喜んで居るのだが、さういふ失敗は年齡にはよらない。不安は寧ろ年を取つた者の方に多いのである。そいつは今まで考へて見なかつたと、平氣で言へるやうな風習を作る必要は、寧ろ答へる人、即ちいつでも物を尋ねられる側の者にあるかと思ふ。そこで手始めに先づ私たちの今まで明らかに答へ得なかつた問題を竝べて見る。問題はいづれ小さなものばかりである。何となれば人が早くから取上げてわい/\と騷ぐことを、世間では大きな問題といふからである。新しい知識は小さな問題の陰に隱れて居る。さういふ中でも出來るだけ小さなもの、人が省みようとしなかつたものから始める。私は馬鹿といふことを問題にして見たいのである。
 馬鹿は明治に入つてから、非常に流行した單語のやうである。以前も少しは用ゐられたといふのみで、是に馬鹿の字を宛てるなどは、生學問の有る人でないと出來ぬことであつた。古くからの風では無いにきまつて居る。ヲコといふ語は中世からあつたが、是を少しばかり發音の仕方をかへて、バカナ・バカラシイと謂ひはじめたのが元で、愚者をバカと呼ぶ名詞などは殊に新しいと思ふ。さうするとこゝに問題になるのは、今日のバカが流行する以前、普通に(276)我々はそれを何と呼んで居たらうか。何度も變遷して居たとすれば、どういふ順序でそれが現はれたであらうか。もう私たちにはさう簡單に答へられないが、この語が入用で無かつた氣遣ひは萬々無いのである。
 おろか者といふ語が一つある。オロカのカは形容詞を作る方式で、根本はオロであらうが、是には微弱とか緩慢とか、不十分とかいふ消極的な意味があるだけで、進んでばかな〔三字傍点〕ことをする場合は含みにくいやうに思ふ。しれ者といふ語もあるが、シレルは知のシルから岐れた語らしく、知つて居てわざと知らぬ振りをする場合にも使はれるから、是は又少し前へ出過ぎる。さうして近世にはさういふやゝ變つた風にしか使はれぬやうになつて居る。グブツといふ語が上流の間には少し用ゐられて居るが、是は勿論漢字を組合せて和製したやゝ粗末なる新語であつた。但し意味はよく當つて居る。
 
          二
 
 地方で現在使つて居るものを、參考の爲に集めて見ると、一ばん多いのはタクラ・オタクラ・タークラの類であつた。是は中部地方の兩方の海から海まで、東北と西南の端々にも少し形をかへて行はれて居る。たとへば九州は大分縣でも、奧州は會津でも南部領でも、出羽は由利郡でも、オタカラ・タカラモノといふ語を馬鹿の意味に、隱語のやうな心持をもつて使つて居る。北陸一帶でダラといふなども、中間のK子吾が脱落したもので、同じ語の變化のやうに思はれる。
 此以外にもう一つ、アヤカリ又はアイカリといふ名詞を馬鹿の意味に、使つて居る土地も相應に弘いのだが、是は標準語のアヤカルといふ動詞、又は妖怪を意味するアヤカシといふ古語、其他綾とか文とかの漢字をアヤと訓ませたことなどを考へ合せると、何か外部の靈又は隱れた力に動かされて、さうなつて居る場合にだけに、元は限つて居たものらしい。是を生まれ付きの愚物にまで應用したのは後の擴張か、但しは又一般に馬鹿を一種の宗教的現象の如く、(277)看做して居た時代が曾てあつた名殘であるか。どうかして明らかにしたいと私は願つて居る。北陸處々の海岸地方では、村の白痴を大事にする風習が近い頃まであつた。其理由は此者が死ぬと鯨に生まれ替つて、濱に寄つて來て村を富ませてくれるものと信じて居たからださうである。つまりは人間はさう無意味に、馬鹿になるもので無いやうに思つて居たのである。
 一方のタクラといふのも、或ひは最初それに近く、神の思し召しに基いてさうなるといふ思想が、日本にはあつたのではないか、といふやうなことが私には問題になる。關東では今でもコケといふのが愚か者のことだが、此語は西の方に行くと一帶にフケ、もしくはホーケモン等となつて、弘く用ゐられて居る。我々のK子音は中世以後の發達で、以前はもう少しH子音に近かつたかと思はれ、二つに別れて其方へ行つた例が多く、即ちハ行音とカ行音とは、日本ではよく入れ替つて居るのである。フーケは風氣などの漢字を宛てる者もあつたが、起原はもつと古く、人が茫然となつて常の心を失ふのがフケルであつたかと思ふ。是をボケルと濁音にしていふ例は東京にもあり、或ひはフヌケなどゝ全然新しい語に改作して使ふこともある。フといふのも、心の精密なる組織、或ひは人の生活の機構とも名づくべきものゝ古語であつたらしい。フが好い、フが惡いと謂つて、人の運を批判することもあつた。是に肺腑の腑の字などを宛てゝ、腑拔けと書くのは無論こじつけである。
 
          三
 
 タクラといふ語は少なくとも方言ではなかつた。今も複合形としては標準語の中にも通用して居る。たとへば泥醉者をノンダクレ、是をもう少し惡い發音にかへて、ドンダクレといふ語は田舍にあり、關西の方では是をヱヒタクレといふ者が多く、ヨッタクレといふ語もまだ東京には少し殘つて居る。それから又ヒョウタクレといふ語があり、東日本の方言集には多く採録せられて居て、愚人を意味する。與太者といふ流行語の元になつたヨタクラ又はヨタクレ(278)は醉タクレとは別のやうで、是は惡いやつ、もしくは横着者をいふ例が多い。其他子供の腕白をゴンタクレ(攝津海岸)、所謂のろまをノロタク(伊豆南部)、その他聟を輕蔑してムコタクレといふものまでが、捜せば全國に幾らも分布して居るかと思はれる。つまり此語無しにはまだ日本人は活きられないのである。
 其次に言ひたいことは、このタクラの起原は、書物に見えるだけでも相當に古くからだといふことゝ、それがどういふものか大抵は下にタを添へて、タクラタと謂つて居る例が多いことである。古書に?と見えるタクラタと、今日の保存せられて居るタクラタ又はオタクラと、二つは別の語だと思つて居る者は先づ無からうが、どうして下にもタを添へることになつたかは、亦一つの疑問である。そのタクラタの方は辭書や索引を捜せば、いくらも愉快な實例が出て居るから、もう私は書かないが、江戸期のごく初めに著述せられた醒睡笑といふ笑話本にも、「少しタクラタのありしが」などゝいふ用ゐ方をして、是に和製字とおぼしき?の字などを宛てゝ居る。しかも一方には西洋で謂ふ「大小のクラウス」、尾崎紅葉が二人椋助などゝ譯した鈍兄猾弟の昔話の主人公の名を、旦九郎田九邸として居るのである。即ちタクラといふ言葉は既に在つて、タクラタといふ名詞の之に續いて、起つたことが想像せられるのである。或ひはタクラダと終りのタを濁つて、發音することにもなつて居たかも知れない。上田秋成などはたしかタクラウドとも書いて、之をたくら人と解して居たやうだが、實際は終りの音節をドと謂つて居た例が殆と無いのである。運歩色葉抄の生まれた天文年中から、文字には田藏田とも書いて、田藏田は麝香といふ鹿と形のよく似た獣だつたといふ類の、ふざけきつた俗説も行はれて居た。田藏田には香が無いので捕つても棄てゝしまふ。だから無益に事件のまん中に出て來て殺されてしまふ者を、此獣の名を借りて呼ばせるやうになつたなどゝいふのは、如何にも戰國時代らしい殺伐な空想であつた。
 
(279)          四
 
 つまらん問題に力瘤を入れるといふ、批判を甘んじてもつと話を進める。私の今想像して居るのは、このタクラの元にはタクラフといふ動詞が、都にもあつたといふことである。方言では九州佐賀の附近などで、タクラフといふのは所謂「地團太を踏む」ことを意味する。大分熊本二縣の南部でも、同じ動作をタクルフと謂つて居るが、それはやゝ近いクルフ(狂ふ)といふ語にかぶれたものと見られる。地團太を踏むといふ對譯も聊か心もとない。或ひはタクラブ(較ぶ)といふ語と源が一つのもので、二人相對しての動作に限つて居たのではないかとも思ふ。さういふ想像の一つの根據は、備後安藝あたりの内海沿岸に、たくらう火といふ怪し火の出る話があつたことで、藝藩通志には御調《みつぎ》郡佐岐島の瀬戸に、黎明の頃海の波の赤く光るのを、遠く望んでさういふ名で呼んで居るが、普通には雨の降る夜中に、海の上で二つ陰火の燃えて居るのをタクラフ火と謂ふとある。其由來に關する傳説も何かに出て居て、つまりは二つの火の相競ふやうに見えることがタクラフであつた。馬鹿をタクラといふ起りも是で、徒らに人の行爲ばかりを眞似て、しくじり又笑はるゝものが本來のタクラでは無かつたらうか。もし此想像が當つて居るならば、さういふタクラは我邦の信仰行事にも夙くから入用であり、それを又タクラタと呼ぶやうになつた原因も、大よそは説明し得られるやうな氣がする。
 秋田縣雄勝郡成瀬村には、言語道斷と書いてテクラと訓ませて居る大字があると、秋田方言考の筆者は謂つて居るが、自分のもつ市町村名鑑には見えぬから多分小部落の名であらう。六郡郡邑記には千(手?)倉川原と書いてあるともいふ。同じ例は隣の山形縣にもあつて、飽海郡中平田村の大字、今は手藏田の文字を用ゐて居るが、以前は言語道斷と書いてさう讀ませて居たものださうである。どうして手倉又は手倉田が言語道斷の意味になるものか、是だけでは何分にも説明が付かぬが、或ひは是も亦一つのタクラもしくはタクラタで、昔はそのタクラといふ者に給與する(280)田があつた故に、タクラ田といふ村の名も出來たかとも想像し得られる。古き神社の附近には、其祭禮の諸役に出る者の職田が、指定せられて地名となつて居た。それを花神樂田だの太鼓田だのと呼んで居たものが、其まゝ字の名になつて居る例は、全國を通じてそちこちに分布して居る。タクラがもしも祭禮の一つの職分だつたとしたら、いやな役目だから給田も多く、又之を世襲して居たかも知れない。
 
          五
 
 タクラと名のつく者が祭禮に出て來る例は、捜したら他にもあるかも知れぬが、一つは少なくとも常陸の金砂《かなさ》山の田樂にあつた。此神事は七十三年目に一度行ふといふ大切なもので、十年ほど前にあつた最近のものから、二囘前の記録が寺社奉行所の編纂物、嗣曹雜識といふ書に出て居る。第三番目に獅子舞に附いて、獅子の尾をつかまへ出て來るのが田藏男であつた。當社獨得の神樂の拍子に合せて舞ひ遊ぶ者で、曲終ると中央の榊に掛けてある劔を取下して、獅子の口にくはへさせて退場するといふ。その田藏男が被つて出る假面は、大己貴《おほなむち》命だとの説もあつたが、何れの御社の獅子舞でも、獅子に附いて出て共に遊ぶ役は、所謂ちやり道化ときまつて居るから、是も恐らくはそれであつたらう。東北に行くと是をヲカシといぶ處が多い。京阪以西の村々を巡業する獅子舞では、此役をヒョウゲ太夫又はヒョウゲ爺とも謂つて居る。何れも獅子の所作を下手に眞似、あひま/\にはその眞面目な獅子をからかつて、見物を笑はせるので、前に私の謂つたタクラフに該當するから、多分田藏男も是から出た名と思ふ。是は最近の機會に見て來た人もあるのだから、私の想像の當る當らぬは手輕に判定し得られる。
 東北で言語道斷と書いてテクラタといふ者が、やはりこのタクラ男のことだと思ふのも、さう無理な推測ではない。西日本でミテグラといふのは大きな御幣のことだが、諏訪などでは古くから、その御幣を手に持つ者の名になつて居る。多分奧羽では名が近いので、二者を混同したものと思はれるのである。手倉田・手倉森といふ類の地名も各郡に(281)分布して居るが、其中でも人のよく知つて居るのは、仙臺から最も近い名取郡の手倉田村で、今は増田の町に編入されて居る。實方の中將以來有名なる笠島の道祖神の、こゝが御旅所であつて、祭禮の日に神輿を奉安して、神事をする古例の場所の名を、ずつと前から手倉田と謂つて居た。それがある故に村の名ともなつて居たので、昔彌二郎といふ強慾な金持が、貧女の衣を質に取つて返さなかつたので、恨んで死んで倉の中の小袖の間から、細い手を出して顔を撫でた。それから其家が亡びて、跡が田になつたから手倉田だなどゝいふのは、無論近い頃からのこしらへ話であるが、何か以前には其名に因んだやうな演伎が、行はれて居なかつたとは限らぬ。とにかくに手倉田の名の起りは、東金砂山の田藏男も同樣に、もとは手倉といふ者の舞が行はれ、其役の者に田を給して居た場所だからで、その手倉といふのがどんな役であつたかは、その地名のある土地で聞いて行くうちにはわかると思ふ。
 
          六
 
 但し其樣な面倒なことを言つて見たところで、肝腎の馬鹿をタクラタと謂つて居たわけはわからない。地名なればこそタクラの田とも見られるが、タクラ其ものをタクラタといふ筈はないからである。ところが思ひ掛けなく見つかつた一つの手掛りは、三河の北設樂郡の花祭といふ古式の舞が世の注意を惹き、大きな著述が刊行せられ、毎年多數の篤志家が參觀に行き、又稀には東京に來ても演奏することになつて、初めて私なども聽いた祭の見衆の囃し言葉が、ターフレ・タフレといふ簡單なくり返しであつたことである。關係者は却つて知らずに使つて居るだらうが、タフレは古語であつて、「狂へ/\」といふことである。日本で劇を狂言と謂つたと同じく、能には信仰を背景とした物狂ひの舞が多かつたのも、根本はすべてこの祭の日のわざをぎ〔四字傍点〕から出て居るのだが、話が長くなるからそれは爰では説けない。とにかくに元は團體一同の切なる希望により、今の言葉でいふならば周圍からの暗示を受けて、異常の心理?態に陷つた者だけが、斯ういふ思ひ切つた扮装で、普通の人間には出來ない行動をしたので、それを促す昔からの音(282)樂に合せて、多分はこのタクラといふ言葉も、用ゐられて居た時代が有るのであらう。
   たくらたと人を思ひてあなづればなほたくらたと我ぞなりける
 斯ういふ古歌もあつたといふことが松屋筆記には出て居る。タクラはタフレとちがつて命令形にはなつて居ないが、同じ言葉の音韻の變化であることはほゞ疑ひが無い。それを何千百囘と無くくり返して唱へて居るうちには、自然にタクラタといふ一つの語も生まれて、之をある特殊な竝で無い人間を呼ぶ名に、用ゐるやうになることも有り得るかと思ふ。祭の日の昂奮は後から靜かに考へると、をかしいやうな事ばかり多い。殊に其中には人を笑はせる爲に、考へ出されたかとも思はれるまちがひの道化が多かつた。たゞの日にそんなことをする者がもし有つたら、誰でもこのタクラタを思ひ出さずには居なかつたのである。生まれつきが魯鈍でタクラタと謂はれる者も少しは有つたらうが、他の多くの者はわざとこのタクラタになつて、人を笑はせ樂しませようともして居た。さうしてこの二つのものゝ境目は、古人は必ずしもさうはつきりと區別しては居なかつたやうである。馬鹿たくらたが人を罵る言葉に、なつてしまつたのは退化である。彼等は人を笑はせようといふ大きな職分をもつて居た。從つて昔は決して無用のものでは無かつたはずである。
 
(283)     馬鹿考異説
        ――「日本の言葉」を讀みて――
 
 書名といふものは、私などのやうにえらい苦勞をせずとも、ふいと適切な佳い名が見つかるものだといふことを知つた。「日本の言葉」なども、多分西堀君が名付親であらうが、實に簡明で、しかも人を讀みたがらせる力がある。日本語といふと何か總體といふやうな感じになるが、言葉は言の葉だから斯ういふ風に、一つ/\の單語の語義や起原、それが全國に行き渡る因縁などを、靜かに考へようとして居る本に、「日本の言葉」は誠にふさはしい。一度に使ひきつてしまふのには少々惜しいと思ふほどに、私は羨んで居る。或ひは會の名とか又は雜誌の名とかにして、もう少し利用して見たいやうにも思ふ。前年「方言」といふ雜誌が世に出た際に、私一人は其名を「言葉」とした方がよいと主張して見たのだが、それでは廣すぎるともいひ、又コトバといふ片假名の雜誌も既にあつたので、其意見が行はれなかつた。頭に「日本の」といふ三字を載せて出すだけの思ひつきが、あの時どうして浮ばなかつたのかと殘念に思ふ。實際「日本の言葉」はあの頃以來、一年増しに頻々と我々の話題に上るやうになつて居るのである。
 新村博士の「日本の言葉」なども、更に次々何卷とも無き續篇を豫想せしめる。それは博士が深い興味を寄せられた題目が、繁き辭苑の言の葉の數に比べて、ほんの九牛の一毛である爲といふだけでは無い。多くの今までの學者がしたやうに、「うづなし」だの「信じて疑はず」だのといふきつい文句は、此本の中にはまるで使はれて居ない。あれほど懇ろな捜索と考證とを盡して、舞臺一ぱいといふ程な立姿を見せながら、なほ片脇には一箇の才藏が、出て舞ふ(284)だけの餘地が殘してある。その點が頗る後の學徒の勵みになると私は思ふ。將來何か新しい考へを付けて見たいといふ者には、この本はもう讀んだといふ古い本でなく、いつ迄も思ひ出したり取出したりするやうな、「前號」として大事がられるであらう。乃ち「日本の言葉」はまだ續くのである。
 さういふ心持で、この本には書き續けて見たいことが多い。中でも私が興味をもつのは「馬鹿考」で、是は恐らく永久の日本の話題であらうと思ふ。此頃バカに莫迦の字を宛てることが、新聞や小説などに流行して居るのを見ると、或一人の老學者の斷定が效を奏したのかとも思はれ、新村さんも亦唐か天竺からの輸入といふより外に、別に心當りも無いやうな口ぶりだが、私などは久しくそれを疑つて居るのである。讀書の中から拾ひ上げた一つの珍語を、若い學問僧などが口にする位なことは有り得ようが、それが平俗の間の毎日の言葉に、導かれる手順といふものが推測し難いからである。この種の和漢考證法は、博識家の古くからの樂しみだつたが、彼等は未だ會てそれが口言葉になつて來た路筋を説示したことは無いのである。そんな事をせずとも國の片隅に、いつの世からとも無く有つたとも見られようし、中世交通の浪に乘つて、田舍から京畿へ流れ込んで、自然に文筆の士に拾ひ上げられたとも考へられよう。殊に此類の感覺に基いた語は、字になる以前の語音は、さうはつきりと定まつては居なかつたかも知れぬのである。ヲソは古い代の文學にも既に出て居るが、東國では久しくウソと發音して居た。さうして今日は内容が少しづゝ分化して、兩方とも盛んに利用せられて居るのである。
 斯ういふ言葉の用途は時代につれて、又僅かづゝずれて移つて居る。最初から精確に今あるバカの意味が、保たれてあつたとは見ずともよい。ただ變化の系統を明らかにしなければならぬだけである。昔盛んに我々の間に用ゐられたヲコといふ單語は既に廢れて、今ではヲコガマシイ等の複合形を留むるのみであるが、そのヲコと現在のバカとは、何等の區切りも無く心持が續いて居る。以前京都人がヲコと口を窄めて評した場合を、多分東國の田舍武士等が、バカと大口に疾呼して居たのかと思ふ。ワ行がバ行に轉ずる例は南の島には多い。「居る」を與論島ではブーンと謂ひ、(285)鷲の鳥節を石垣島でバシノトリブシといふ類である。近頃の例でも山陰山陽のサバルは、京以東のサワルと一つの語なることを皆認めて居る。それよりも一般的に、以前のハ音の多くは、ワと變らぬものは大抵はバとなつて居る。この三つの子音が行き通うて居た名殘かと思ふ。
 馬鹿をボコといふ方言が何處かに有るとよいのだが、それはまだ發見せられて居ない。たゞ九州の南部が可なり廣い區域に亙つて、「ボクぢや」又は「ボクした」といふ句を間投詞風に使ひ、ボクといふ語も亦我々のダメとかバカナコトとかいふに近く、用ゐられて居るやうに思ふ。さういはれてさてどんな感じがするか、あちら出身の語學者に一つ考へてもらつてはどうだらう。ヲコも最初はこのボクと同じく、名詞ともいへない樣な單句形にしか顯はれなかつたものらしいが、後に是に基いて幾つかの新語が設けられて居た。さういふ中でもヲコヅルといふ動詞などは、元はワカヅルと謂つても意味は同じだつたと言はれて居る。是が不十分ながらバカはヲコだらうといふ私の推定説の根據である。
 なほ附け加へて一つだけ言ひたいことは、生來のバカと臨時のものと、又わざと粧うてさう見せるものとは、實價に於て大きな差があるべきだが、人は場合によつて同じ語を以て之を片づけようとして居る。大體に於て知り切つて居るくせに、そんな事をするといふ心持で、之を使はうとするやうになつて居るのは社交であらう。だから現代はバカバカシイといはれてもさほど怒らず、人は「貴方にも似合はぬ」と言はれたつもりでいゝ氣になつて居る。其一つ以前のシレモノも皆同じだつたらしい。近頃のボケルにもその傾きはあつて、ピンボケとかシケボケとか謂へばバカになつてしまつたことだが、トボケルといふともう空の字の附く、中々食へない人になるのである。バケルといふ動詞なども、其意味に於てヲコの一類であり、バカスといふ他動形を通つて、バカニスルといふ新語も生まれ易かつたのかと思はれる。
 「日本の言葉」の著者もよう御存じの如く、語原論ほど水掛論になりやすいものは無い。今まではとにかくえらい人(286)の説が、はあさうですかと謂はれて居た。しかし木村鷹太郎のやうな人は別として、我々の間にならば一通りの申合せ、誰でも認める出發點はある筈である。日本の言葉の移り動くべき路筋、斯ういふことまでは有り得るといふことを、先づ大まかにきめてから、銘々の思ひつきに取掛るといふことが必要ではありますまいか。少なくとも唐天竺の書物の語が、この國民の毎日の言葉になるためには、胸に描けるやうな授受の場合が無ければならぬといふことを、一つの法則として掲げて置くことは、後日の無駄骨を省く慈善事業ではありますまいか。全部の日本地名をアイヌ語で説かうとする人も出る世の中だから、實は新村さんの研究に一貫した原則の掲げられなかつたことを、私は餘分の御遠慮のやうに感じて居る。
 
(287)     嗚滸の文學
 
          一
 
 人を樂しましめる文學の一つに、日本ではヲコといふ物の言ひ方があつた。それがよその邦々とはやゝ異なつた變遷を重ねて居る。すでにこの事に心づいた人は多いと思はれるのだが、まだ私などのやうに生眞面目に之を考へて見ようとした者の無いのは、多分それ自身がヲコがましきわざと、見られやすかつた爲であらう。今日はもちろん一人でも、ヲコの數を少なくしなければならぬ時代と見られて居るが、果して之をたゞ無視することが、絶滅への途であるかどうかを私は疑ふのである。もしもさうときまれば早速中止するまでよ。とにかくに一應從來の經過を尋ねて見ることにしよう。
 ヲコは單なる人間の活き方といふ以上に、夙く我邦などでは藝術の域に進んで居た。即ち志ある者の修行と習練によつて、次第に高い效果を收める望みのあるものと認められて居たやうに思ふ。手を取つて教へる此頃風の教育がなかつたのと、教科書と名づくべき書物が少ないばかりに、時々はそれをさへ忘れてしまふことがあつて、?退歩の悲しみを味はふやうな時代が來る。現代はちやうど其一つの場合ではないかと、私などは感じて居るのである。しかし強ひて捜し求めるならば、參考書といふほどのものは必ずしも稀ではなく、こゝで私の例に取らうとする今昔物語の卷二十八などは、何れの點から見ても頃合ひのものと言つてよい。それからあと引續いて出た著聞集の興言利口の(288)部、又は隨時の應用を企てた沙石集や雜談集、世降つては戰國の陰慘世界に、一すぢの明るい光を投じた狂言記の數多い笑ひの演奏などもあるが、是等は大抵はたゞ雜然たる作品集のやうなもので、ヲコの系統と進化段階とを、心付かしめるには十分と言へない。出來ることならばこの今昔の一卷を別刷にして、朝晩讀んで見るやうな流行をさそひたいものだが、そんな夢を抱くといふことが、もう立派なヲコの御手本であり、それでたくさんだ、別に教科書には及ばぬと、いふことになるかも知れない。
 
          二
 
 ヲコを文藝にしようとした試みは中世のもので、それが後再び衰へたことも事實であるが、少なくともヲコ本來の目的が人生を明るくするに在り、且つその働く前線の非常に廣いものだつたことは、之に由つて大よそは證明し得られる。今昔の第二十八卷には、四十四のヲコの物語があつて、それが悉く今日の言葉でも、ヲカシイといふ話ばかりであつた。さうして是には四つ五つ、又はそれ以上もの種類がある。分類は讀む人の好みにもよるだらうが、ともかくも各篇それ/”\の趣旨がちがひ、從つて又受取る心持も同じで無く、たゞ我々が笑はずに居られぬといふことのみが一樣なのである。
 例を出來るだけ簡單に引かうと思ふが、最初には先づ笑はれてもよい人々の話がある。二月初午の稻荷詣の山路で、我女房に懸想して言ひ寄り、おまけに其惡口を竝べ立てたので、忽ち擲り付けられた舍人重方の話()とか、月に映つた我影を盗人かと思つて、ぶる/”\顫へて刀を取落さうとし、強くもなさゝうな泥棒だから、行つて追出して來てくれと、妻にいひつけたといふ臆病武士の話(四十二)、是などは後に僅かづゝの改作を加へられて、いつまでも笑話の種になつて居る。即ちそのまんまを語つても、聽く人はきつと笑ふ話なのだが、なほ出來るだけ之を修飾して、たとへば柿の樹の下に立つて居て、脊すぢへ熟柿が落ちて來たのを、斬られたかと思つて目をまはした。又は人に介錯を(289)頼んで首を切らせた。あとで其人がよく視たら血かと思つたのは柿だつたと、いふ處までも誇張して傳へて居る。
 右の二人のやうなうつけた男を、今昔物語ではやはりヲコの者と呼んで居る。是はまちがひとまではいふことが出來ないが、少しく注意をせぬと誤解に導かれる虞れはある。人をヲカシと思はせるのが、本來はいはゆる嗚呼《をこ》の者であつて、右の二人はたま/\その一種の常習者に過ぎず、他にもまだ色々のヲコの者は居たのであり、それにも亦よほど專門に近いのがあつた。古い記録では、さういふのを嗚滸人《をこびと》と謂つた例が、三代實録などには有つて、是はたゞ單にをかしいことばかり言つて、人を笑はせようとした者のことであつて當人自らは決して馬鹿ではなかつた。其ヲコ人とかのヲコの者と、二つがそんなに種類を異にして居たらうことは、誰だつて想像し得ぬことであらう。
 
          三
 
 嗚滸人又はヲコの者が此世に居なかつたならば、多數のをかしい話は世に傳はらずにしまつたらうとは言へる。しかも彼等が前に擧げた二人のやうに、途方も無いうつけ者でなければならぬ理由は一つも存せず、むしろ正反對に、竝よりも少しく鋭どすぎる者を、必要とする場合さへ多かつたのである。同じ今昔物語の中には、盗人を騙して助かつた話が二つも出て居る。その一つは瀬戸内海の海賊の難で、豐後國から澤山の布施物を貰つて還つて來る講師の僧某、賊船が近づき寄るのに少しも騷がず、當時最も高名なりし九州の老豪傑、伊佐の平新發意《へいしんぼち》能觀の聲色を使ふと、彼等肝を潰して向ふから遁げて行つたといふ話(十五)、是などは當人の直話らしく、船出に臨んで友だちが注意をしたにも拘らず、わしは海賊の物を捲上げるまでも、物を海賊に取られるやうなことはせぬと、高言したといふのだからしたゝかな坊主である。いま一つは京都市中での話で、やはり群盗の横行した時代に、深夜に車に乘つて家に還つて來る官吏が、豫め装束を皆脱いで、よくたゝんで疊の下に押隱し、冠と襪《したぐつ》だけの眞裸になつて、牛車の中に坐つて居る。そこへ果して追剥が襲ひかゝり、牛飼童等を追散らして、簾を引揚げて中を覗いた。主の裸を見て盗人も面く(290)らひ、是はどうしたと尋ねると、「東の大宮にて此の如くなりつる。君たち寄り來ておのれが装束皆召しつと、笏《しやく》を取つて吉《よ》き人に物申すやうに畏まつて答へければ、盗人|咲《わら》ひて棄て去りにけり」とある(十六)。是も還つてから先づ女房に語つたところが、その盗人にもまさりたる心にておはしけると云つて笑はれたとある。この官吏の名は阿蘇の史《ふびと》某、「極めたる物云にてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ、語り傳へたるとや」ともあつて、勿論盗賊の側から出た風説では無い。丸々のこしらへ事ではなかつたらうが、出來るだけをかしく又いつ迄も傳はるやうに、長短宜しきを得た語り方に、工夫を凝らしたことは察せられる。實際又さういふよけいな事に苦勞する者は、つい此頃までも田舍にはたくさん居り、むしろ其話を書き留めて置かうといふ人の方が、絶無ではないにしても、近世には少なかつたのである。
 
          四
 
 それからなほ二つ、やはり竝はづれに利口な人が、計畫してこしらへたヲコの話がある。是は時代の生活と關聯したことで、世を隔てると段々わかりにくゝ、しかも大分に念入りな爲に、説明が長くなつて半分しかをかしくないが、ともかくも盗賊以上に手強い相手方を、いとも無造作にへこましたといふ點がヲコなのであつた。その一つは越前守爲盛、六衛府に納むべき大糧米を滯らせて居たので、それをあてにした役人や兵士が、大擧して談判に來る。門前に幕を打ち床几を立て、出すまでは歸らぬといふ居催促を以て責立てた。折しも六月の炎天に咽も乾き、腹もへり切つて居る頃を見すまして、鹽引鹽辛などのからい物をうんと食はせてから、李《すもゝ》の實を肴にして酸くなつた酒を出す。その酒には牽牛子《けにごし》といふ下劑になる草の實を、すり込んで置いたといふことなどは()、たゞの惡戯を通り越して居る。その結果がどうなつたかは、きたなくて茲に書けないが、とにかくに是にはよわり切つて、一人づゝ遁げて返り、それから以後は同じ方法を以て、物なさぬ國司を責立てる風習は絶えたとあるからには、是は歴史上の出來事であつた(291)のだが、やはり其記録は六衛府の方には無く、横着極まる越前守爲盛、もしくは其下に働いて居た何者かの口から、弘まつた風説としか考へられぬ。斯んな話を聽いても當時の人々は、義憤も起さなければ反感も抱かずに、たゞげら/\と笑つて居たらしいのである。この爲盛の朝臣は「いみじき細工の風流ある者の物云ひにて、人|咲《わら》はする馴者なる翁にてぞありければ、かくしたる也けり」と、今昔物語の中にも書添へて居る。
 けだしこの時代には色々の口實を構へて、出すべきものを出すまいとする地方官が上にも下にも多く、たゞの滯納だけでは珍しくも何とも無かつたので、斯ういふ奇拔な失敗だけが、話し方によつては笑はれて永く傳はつたのである。その一方の今一つの例としては、大藏の大夫|清廉《きよかど》の猫ぎらひといふ話(三十一)がある。是は又前の越前守の上を行くほどの横着者で、自身三ヶ國の大地主であり、富の力によつて官位を得、大和の目代《もくだい》にもなつて居たに拘らず、言を左右に託して官物の納入を怠らうとした。ところが此男のたつた一つの弱點は、猫が法外に嫌ひであつたことで、大和守輔公といふ人がそれを利用し、ぎう/\ととつちめて即座に全額を差出させた。前世は鼠にてやありけむといふ程の猫恐《ねこおぢの》大夫であつたばかりに、とても一筋繩では行かぬやつが、簡單に參つてしまつた。それで今昔には斯ういふのも嗚呼《をこ》の事と謂ふうちに算へて居るのである。
 
          五
 
 ヲコが今日謂ふが如き馬鹿者のことでなかつたことは、なほ幾つもの證據がある。たとへば尾張守某の大いに笑はれた話()、この人は所謂良二千石であつた。就任二年ならずして諸國の百姓雲の如く集り來り、尾張は忽ち吉き國になつたとあるから、國史にも多分名を留めた人であらうが、たつた一つの缺點は年を取り、且つ又都市の新文化に馴れて居なかつた。この人任期の第三年目に、大嘗會の五節所《ごせちどころ》の役を宛てられ、一生の晴と心得て京に上つて其支度をしたが、調度用品何一つ缺くる所無きにも拘らず、無骨で不馴れでおど/\として居るのがをかしいと、初めは遠(292)くから嘲り笑つて居た貴公子等が、後には近よつて來てからかひ又おぴやかす。國から連れて來た息子や娘までが、それに恐れて慌てまはる所を、詳しく敍したのは讀むも氣の毒で、我々には寧ろ若い京官どもの輕薄を罵りたくなるのだが、それでも最後にこの老いたる尾張守が獨り言に、「また鬢の無きことは若く盛りなる齡に鬢の落失せたらばこそ、嗚呼にも可咲《をかし》くも有るらめ、年の七十になつたれば、鬢の落失せたらむはをかしき事かは云々」と、まじめに述懷する條まで來ると、時代を異にしてもやはり吹出さずには居られぬのである。けだし禿頭は古今を一貫した老翁の弱點であつたらうけれども、人が冠を被らなければならなかつた時代には、その不體裁は殊に露骨だつたのである。しかも數からいふとそんな頭をした人は餘りにも少ないので、當人がまじめであればある程、外からは一層笑はれやすかつた。乃ちこゝに又第三種の、心からではないヲコの者といふものが、存在せざるを得なかつたのである。
 さう思つて見て行くと、清原元輔が落馬して冠を墮したといふ話()などは、をかしいながらになほ哀れが深い。元輔は高名の歌人で、たしか清少納言の父であつたが、やはり年たけてまで官途に仕へねばならなかつた。或年の賀茂の祭に、内藏助で祭の使を勤めた時、一條大路に立竝んだ物見車の前を過ぎんとして、馬が躓いて眞逆樣に落ちた。すばやく起上つたのを見ると冠は飛んでしまつて、「髻《もとゞり》つゆほども無く、頭は瓮《ひらか》を被りたるやう也」とある。それが其まゝつか/\と殿上人の車の前に近よつて、言葉を盡して落馬の已むを得ぬわけを説明してあるいた。「冠の落るは、物にて結ふるものに非ず、髪をもてよく掻入れたるに取らるゝ也、それに鬢は失せにたれば露なし。されば落ん冠を恨むべき樣なし。また其例無きに非ず」と云つて、今までの落馬の例の著名なものを、幾つもく指折り算へながらあるいた。「されば案内も知りたまはぬ近頃の若公達、これを咲ひたまふべきに非ず。咲ひたまはん君たち返つて嗚呼なるべし」と、すつかり言つてしまつてから、冠を取寄せて頭にのつけた。すぐにも冠を召さずしてどうしていつ迄もあんな辯明をなされたかと、馬副ひの者が忠言すると、元輔の答へといふのが又振つて居た。「白事《しれこと》なせそおこと、かく道理を云ひ聞かせたらばこそ、後々はこの君たちは咲はざらめ。然らずは口賢き君たちは永く咲はんものぞ(293)と云ひてぞ渡りける」とあるが、それも果して眞意であつたかどうか知れたものでない。つまり此人は「馴れ者の物をかしく云ひて、人咲はするを役とする翁」だつたのである。
 
          六
 
 同じ百人一首の作者仲間でも、曾禰好忠の話()の方は、是に比べると幾分か同情の足りない記述樣式で傳はつて居るが、或ひはそれとても一つの處世法だつたのかも知れない。いはゆる曾丹は階級が元輔よりも又低く、歌には自信があつても、貧窮はむしろ山上憶良に近かつた。作品の上には機智が認められるが、それを言葉で傳へるやうな機會をもたず、どうとも成れかしと、世の風評に任せて居たのかとも思ふ。つまりは行動隊で、白身はヲコの文學に參與せんとしなかつたこと、たとへば近世の平賀元義などの先型ではないだらうか。圓融院上皇船丘山の子日《ねのひ》の御遊びに、歌人を召すべしとの沙汰あつて、五名の作家に廻章がまはされた。その評判を半分しか聽かないで、我も歌人だからと罷り出て幄舍の末に坐をしめ、そこに出て居る菓子などをつまんで食べて居た。それを推參至極と襟をつかみ尻を蹴つて、忽ち幕の外へはふり出されたといひ、其あと遁げながら何かわめき散らしたといふのも、本人の話で無いと見えて、我々から見ると寧ろ笑止なばかりである。歌よみ召すと聽いて誰が召さるゝかも知らず、我も歌よみなればとのこ/\罷り出でたのは、不覺な話だと「萬の人に笑はれて、末代までの物語に成る也」とあるが、實は斯ういふのは不覺でなく、或ひは反抗であり、知りつゝさうしたのであるかも知れない。ともかくも曾丹集の一卷は、この爲に特に我々に注意せられるやうになつたのである。新たに是によつて心づかれることの一つは、ヲコは存外に常識の力に畏伏し、時としては俗に媚びるといふまでの、弱味のあるものだつたといふことである。笑ひが通例は群の中の現象であり、をかしさはいつも人の數の多少に比例するものとすれば、是も致し方の無いことなのかも知れぬが、少なくとも墮落の危險が、ヲコは他の文藝に比して最初から大きかつたわけである。
(294) 平賀源内の風流志道軒傳を、思ひ出さずには私は居られない。この兩名は近世の人間僧惡者であつて、世上のすることがヲコに見えて/\、たまらないといふ質の先覺らしく、從つて獨りで吹出したり、舌打ちしたりすることは毎日だつたらうと思はれるのに、彼等が我々の笑ひに寄與したものは、必ずしも豐富だつたとは言へない。第一にズルチンの砂糖に對するが如く、後味が惡くつていつ迄も味はつて居られない。一方の坊主あがりの方は書いたものが殘つて居らぬから、何を笑はせて居たか知りやうも無いけれども、又しても變な一本の道具を笏に立てゝ、女や老人を辟易させて居たといふから、腕前は知れたものである。つまりこの人たちは後世の所謂ヲコの者で無い代りに、自らヲコ人となつて民衆を樂しませるほどの力も持たなかつたのである。國を侮り同胞國民をあざけつて、胸を霽《はら》さうといふ氣風が、新聞記者などの中にはこのせつは多くなつて來て居るが、もしも利他の志が少しでも有つたものとすれば、この方法は確かに誤つて居る。清原元輔の自己犠牲に及ばぬのは勿論、曾禰好忠の拙策にもなほ劣つて居ると思ふ。
 
          七
 
 しかし斯んな風な列擧をつゞけて行くと、しまひには四十四の物語を皆なする恐れがある。自分の目的はヲコの文學が、本來は間口の廣いものだつたことを言ひたいのだから、何とかしてうまくこゝを切上げて進まなければならない。今昔物語の筆者の用意としては、笑ひを出來るだけ被害者といふものを出さずに、自然に湧きあがる泉の水見たやうにしたかつたのだらうが、もと/\自分が專門のヲコ人でも無く、更に又作り設けてまでも、強ひて笑ひの種を添へようとしなかつた、言はゞ自然の傳承者であつた故に、どうしても逸話風の話ばかり多くなつたのである。この人が書き留めなかつたとしてもヲコの話は世に行はれ、しかも今少しく同情を缺き、又殘酷に笑つたかも知れないのである。若い時から此説話集を、私に取つて忘れ難いものにした二つの話は、二つとも現實に有つた人、それもゆか(295)りの者が何處に居るかわからぬといふやうな人の事蹟であつた。其一つは、芥川龍之介君がもう短篇に書いてしまつたから、詳しく取次ぐ必要も無い鼻の話(二十)、長さ五六寸もある鼻をもつ老僧が、粥を食べるに困つて鼻持上げの木といふのを考へ出す。それを持つ役の小僧がくしやみをしたら、鼻がはづれてお粥の椀の中へふたと落ち、顔ぢゆうに粥が飛び散つた。何といふ不覺者ぞ、もしも貴人の御鼻を持上げて居て、斯んな不調法をしたらどうすると、誰でも言ふやうな言葉で叱りつけたことが、腹を抱へるほど讀者にはをかしいのだが、爰では更に念入りに叱られて立つ小僧のひとり言に、かゝる鼻つきの人が他にもあればこそ、このお小言もきゝめが有らう。「ヲコの事仰せらるゝ御房《ごばう》かな」と云つたとあり、弟子たち之を聽いて皆外へ遁げ出して笑つたとも記して居る。事實にも誇張はあつたと思ふが、この語り方が特に我々を笑はせようとして居るのである。
 それから今一つも是とやゝ近く、顔は露草の花を塗りたらんやうに青白く、眼の皮は黒く、鼻と齒ぐきの色だけが赤いといふ、よほど變つた風采の廷臣が一人あつて、人是をあだ名して青經《あをつね》の君と呼んだといふ話(二十一)である。あまりに多勢が笑ふので主上が憫れとおぼしめし、以後さう謂つてはならぬとの仰せがあり、一同起請を立てゝ、犯した者には罪を贖はせますと申合せをした。堀川の中將が慎みを缺いて、ついうつかりと口をすべらせたので、皆から責められて酒饌を提供することになつた。その方法が詳しく記されて居るのである。先づ始めには青く彩つた折敷《をしき》に、青※[次/瓦]《せいじ》の盤《さら》を載せて菓子の類を盛つたのを持つて來る。次の一人には青※[次/瓦]の瓶に酒を入れて、青き薄樣を以て口を包んだものを持たせ、今一人には青き竹の枝に、青き小鳥五つ六つを附けて持たせ、しかもその四人の隨身が一樣に青色の狩衣袴、當の本人の中將兼通も青の指貫、青の美しいなほし姿で出て來たので、一座一人と無く笑ひくづれ、主上も物陰よりそれを御覽あつて、思はず御笑ひなされた爲に、それからはもう御腹立ちも無く、いよ/\青經の異名が動かぬものになつたと、云つたやうな話である。果してこの通りの人が居たかといふことは問題で無い。海賊を欺いた豐後の講師よりも、もつと横着な權門の我儘息子の、奢りを極めた振舞が一つ話となつて、次の時代まで傳はつて(296)居たゞけで、それを考へると格別笑ひたくも無いのだが、とにかく此文章はうまく書けて居て、目的が事件のヲコに在つたことは誰の目にもわかる。禅珍内供の長い鼻なども同樣に、やはり其爲に永く傳へられたものと見られる。
 
          八
 
 要するに話は必ずしも近い世の、現に生存して居た人の事でなければならぬといふ理由は無かつたので、是を逸話風に語つたのも方法の一つであつた。斯うすればむだな解説が無くてすみ、第一に話しよく、又聽く者の胸に映りやすい。今でも村で評判の話などは、誰がさうしたとも無く、何兵衛さんの若い頃、又はどこそこの何代前の主人といふのが、極めて有りふれた奇事異聞の主人公になつて居る。一休や曾呂利や豐後の吉右衛門《きつちよむ》といふ輩が、一生休む暇も無くふざけ續けて居たかの如く見えるのも、原因は亦是であり、更に進んでは今日の作者たちが、自由な作りごとをありさうな人名に託し、又は自分がさうあつたやうに書いてのけるのも、やはり同じ筋を引くものかと私は思つて居る。
 その點の可なりはつきりとして居る例が今昔の中にも有る。たとへば紀助延の郎等某、年は五十ばかり、或時備後の海近き地に於て、大きな海龜の網にかゝつたのを見て戯れに、是こそおのれの昔の妻、何度川端に出て龜來い龜來いと呼ばはつても、どうして今までは出てくれなかつた。あらなつかしやと兩手に抱き上げて、シワワリといふことをしようとして、龜に咬み付かれて唇に大怪我をしたといふ話がある(三十三)。シワワリのシワは唇の古語であつた。もう今日は使ふ人も無いやうだが、とにかくにこの話は、たゞ光景の叨《みだ》りがはしきを笑つたのみで無く、我々のいはゆる「龍宮女房」、即ち龜が美女の姿になつて人間の男に婚《とつ》いだといふ昔話が、當時はかゝる雜人等の間にも熟知せられて居た爲に、この惡謔が特に效果があつたのである。しかも亦決して或一人の思ひ付きでなかつたことは僅かばかり語り方を改めつゝも、近くは東海道中膝栗毛の、栃面屋彌次郎兵衛の逸話にまで、傳はつて居るのを見ても判る(297)のである。
 氣を付けて居たら多分幾つでも、應用の例が出て來ることゝ思ふ。事實何の某が同じ事をして、同じ失敗をしたことが無かつたとまでは斷言し得ぬが、今でも普通に斯ういふ話をするときは、聽手が先づ主人公の名を知りたがるものなのである。人に踏ませて其人をはね倒すといふ古蝦蟆《ふるがま》の怪を、退治に出かけた勇敢なる大學生の話(  四十一)、是なども別に此物語以外に於て、引つゞいて現在まで傳はつて居る。たゞこの今昔の物語に於て、敍事が最も寫實であり、ことにこの場合には初めに自分の冠を落して置きながら、それを大いばりで散々に踏み潰したといふことがをかしいので、多分は中世の學生の制帽が、形がやゝ蝦蟆に近かつたところから、この冒險談があの連中のものになり、我々の胸のポンチ繪が、特別にをかしくなつたゞけかと思ふ。後世は斯ういふ冠も無くなり、又大學にはヲコの者などは居なくなつて、大きな茄子の轉がつて居たのを、是でもか/\と踏みにじつたといふ風にも取替へて居るが、それだと可笑味がよほど割引せられる。しかし大體からいふと、是は化物退治譚の、古い頃からの俳諧化であつた。少し模樣を變へればいつまでも面白く、同類は遠くドン・キホーテ、もしくはタラスコンのタルタランといふあたりまでも及んで居る。少なくともこゝに高々と名乘を揚げた「記傳學生藤原の某、兼ては人倒す蝦蟆の追捕使」なる者の、初度の體驗で無かつたことは、筆者自らが既に知り切つて居たのである。
 
          九
 
 世界で最も著名なる二つの説話が、やはり同じ意味で今昔の計畫には參加して居る。一つは西洋の學者の「魔術使とその弟子」と名づくるもので、日本の土には殊に適しない題材であつたにも拘らず、話者は是を大和から京へ登る路、宇治の北はづれの「ならぬ柿の木」の下での、或日の出來事として語つて居る。夏の日に瓜を馬に負はせて運ぶ人足たちが、樹蔭に憩うて其瓜を食つて居る處へ、よぼ/\の老人が來てわしにも一つくれといふ。いやだと答へる(298)と、それでは致し方が無い。自分で作ることにしようと、瓜の種を乞受けて路傍の土に播く。見る/\その種が芽を出し蔓を延べ、花咲き實になつて程無くよく熟する。さあ/\皆の衆も採つてあがれと、散々に食つてからふいと行つてしまふ。後で氣が付くと馬に附けた瓜の荷は悉く空になつて居たとある。それを外術といひ、又「神などにやあるらんと恐れて」ともあるが(四十)、斯ういふ話は日本では他に聽いたことも無く、又大陸の方には數多く行はれて居る。乃ち明らかに輸入である場合にも、なほ舞臺を京近い處に求め、しかも大和の人夫どもが瓜を盗まれて、すご/\と在所へ還つて行くのを、道行く人々が且つは奇とし且つは笑つたと謂つて、やはりヲコの物語の中に編入しようとして居るのである。
 今一つ、近江の篠原の塚穴に雨宿りして、多くの財物を得たといふ人の話(四十四)なども、本來は笑話では無かつたのであるが、爰ではやはり聽いて居ると、笑はずには居られぬやうな語り方になつて居て、しかも別段に笑ふべき愚者は居らぬのである。多分は「二人盗人」と稱する世界共通の説話の、一つの變形だらうと私は思ふのだが、それを立證するまでは私にはまだ出來ない。ともかくも京から美濃へ行く旅人が俄雨に遭つて、已むなく塚穴の中に入つて眞暗な隅に寢て居ると、後から又一人の者が遣つて來た。それを鬼かと思つて最初は非常に怖れたのだつたが、やがて其男が獨り言のやうに、この塚には定めて神が住んでござるだらう。どうぞ一夜の宿を御許しあれと謂つて、何か食物を石の上に置くやうであつた。そつと手を伸べて探ると餅が三つ、あんまり腹がへつて居るので、それを取つて食べてしまつた。やがて暫くしてからその第二の旅人が、供物をおろして食事にかゝらうとすると、それがもう無くなつて居たのでびつくり仰天し、大きな叫び聲を立てゝ穴の外へ飛出してしまひ、物一物入れたる袋の鹿の皮で包んだのを、棄てゝ遁げ去つたといふことになつて居て、そのあとまだ大分の詳しい敍述がある。塚にはこの時代、もう横穴の口のあいたのがあつたかも知れないが、そこに斯ういふ信仰が、伴なうて居たといふのは日本らしくない。私の推測では十中八九まで、是は唐土の文獻の飜案であつて、うつかり日本文化史の史料には使へないと同時に、斯く(299)まで懇切に我々の笑ひの種をかき集め、且つは又被害者の何處にも居らずして、心置きなくをかしがり得られる話の種類を、次々増加して行かうとした態度だけは、心から感謝を以て承認しなければならぬ。
 
          一〇
 
 ヲコの根柢には、最も廣い意味の人間の不覺といふものが、横たはつて居ることは事實であらう。普通の至つて有りふれた生活知識、誰でも備へて居るやうな平凡な技術を備へず、又は判斷や豫知力を缺いた結果、?なみの人のせぬ事をして居るのもヲコの一つであり、それを發見した人々は、せめて我身のそれよりも立ち優つて居たことを知つて、いはゆる樂しい驚きを高く表示したのだらうが、そんな機會は實は追々に乏しく、又いつまでも絶えないやうでも困るのであつた。そこで第二に現はれて來ようとするのは、強ひてさういふ笑ふべきものを捜しまはつて、何とかしてヲコの笑ひの樂しみを持續しようとすることで、其爲には聽けば憤るやうな人も笑はれ、もしくは少數のすね者の、寧ろ尋常を笑はんとする者が雷同附和せられる。笑ひが一種の作害行爲となり、又は自分が笑ひの目標となることを不幸と感ずるやうな氣風は、却つて斯うなつてから後に於て、何段か強くなるものと私などは見て居る。
 この笑はるゝ不幸を免れんが爲に、武藝でいふならば道場といふべきものが開かれ、うそつこ〔四字傍点〕の勝負が行はれて居たことは、前にも一度説いて見たことがあるから詳しくは言はない。親しい友だちが決して怒らない約束を以て、始終互ひにあざけりひやかし、何か笑ひ合はぬと懇意とは言はれぬやうな、をかしな風習が我邦では普及して居るが、少なくとも農民の間には、つい此頃までそれは全く無かつたことで、この御蔭にヲコの問題が、又一段と煩雜になつたといふことは、十年以前からの私の持説である。猿の尻笑ひといふ諺にも有るやうな、仲間互ひのあら捜しといふものも、もと/\練修の方法なのだから、めつたに相手を傷つけるやうなことは無く、寧ろ之によつて疵の無い人にならうとする、用意心掛けだけを發達させても居た。たゞ困つたことには其爲に笑ひが砂糖の如く、缺くことの出來(300)ない社交の調味料になつてしまつて、種の足りないときには下々の下品なもの、未開人ですらもなほ小聲で言ふやうなことを、今でもまだ捜し求め、又貯へて居る人が多いのである。今昔の二十八卷は、尊敬すべき説話集だけれども、その中にもまだ三つ四つはそんな話がまじつて居る。笑ひの品質は昔に比べて、非常に大きな幅と差等とが出來たわけである。
 我々御同前の不覺といふものにも、是と併行して無數の階段が、有るといふことが考へられねばならぬ。なんぼ聰明な人でも、今まで考へたことが無い、さういふ事が有らうとは思はなかつた、といふやうな出來事は?有り得る。或ひは聰明なるが爲に一層頻々と、遭遇するのだと言つてもよい。それが完全に豫期の外であり、又爲になる體驗の附加へであつた場合に、結果は今までの一部の低能の暴露となることを認めつゝも、なほ思はず聲を立てゝ笑はずには居られなかつたので、いはゆる自嘲の文學は由來する所が深く且つ遠い。私などは年をとり、此頃は始終捜し物ばかりして居るが、さういふ大よその見當のついた不覺の發見ですらも、やはりをかしくなつて獨りで笑つて居る。決して滿足の喜びだけでない證據には、何だ斯んな處にといふやうな、自己の無力を嘲る言葉が自然に出る。?外先生の末期の一句が、馬鹿々々しいとか、はかな話だとかいふやうな言葉だつたと聽いて、あの時にも私は一つの啓示を得た。ヲコはまだ永古に我々の生活の底に潜んで居る。
 
          一一
 
 さういふ事までを説かうとするのは、實はこの一文の豫定のうちでは無かつた。私の述べたかつたのは、ヲコの領域は茫漠として廣く、その一部しか今はまだ拓かれぬのみか、會て耕されて居た部分すらも今は荒れて居る。鳥や獣が笑ひを知らぬといふことは、さう確實な事實でないとしても、少なくも笑ひを樂しまうといふ人間の欲情は養殖したもの、即ちこの開拓地の作物であつた。是を再び荒蕪に委ねてしまふのは惜しい。栽培して段々に多くの養分を、(301)収穫しなければうそだ、といふことが説いて見たかつたのである。
 笑ひは前にも言つた如く、群で樂しむ場合が最も效果が多く、それを爲し遂げるのは文學の力である。國や大小の社會の全體も、笑はるべきものを持つて居るのか知らぬが、そんなものは第一に共々に笑ひ得る者が少ない。それよりも埋もれ切つて居る自分たちの不覺、有るとも思つて居ない一同の無知を、ちつとでも早く心付いて、意外な開悟を高笑ひして見たい。人が遠くを睨み高い處を見つめて居ることを、けなし輕しめることは勿論出來ない。しかし敗戰後の今日は人が其爲に淋しく、又憂鬱に且つ少しく茫然とさへなつて居る。こゝに一つの至つて快活なる、少なくとも心を引かれやすい、小路があることだけは示さなければならぬ。此頃の雜誌類は哲學を以て充ちて居て、たゞ茫然へ我々を導かうとして居る。さうして一方には又變な本ばかりが賣れるのだといふではないか。今昔物語の時代とても、世間は必ずしも青空では無かつた。そこにともかくも多數の民衆と共に、笑つて活きて行かうといふ計畫はなされたのである。それが世の所謂風雅の士に、輕んじ侮らるゝ事業であればあるだけ、其念願の更に親切に、又無私なりしことを察するに足るのである。
 無住法師のくさ/\の雜談を讀んで行くと、時々は考へずには居られぬことがある。この人は梶原氏の遺孤であつて、幼い頃は東國のどこかの田舍に於て、幾多の艱苦を嘗めて人となつたと言はれて居る。一門は悉く誅戮せられ、死んで後までも人からは憎み賤しまれ、何一つこの世の温情を味はつたこともあるまいと思はれるにも拘らず、彼の著作のやうに心から讀者を樂しませて、次第に救濟の法門に進み入らしめようとしたものは無い。あれならば無識の俗衆にも話はわかる。さうして縁が有ればさういふ中から、新たに頓證菩提する者も出て來たかも知れない。しかもこの人自らは老の限りに達するまで、稀にも獨笑ひをするやうな、樂しい思ひ出はもたなかつたにきまつて居る。是に比べると明月記の筆者などは、あれだけ世にあがめられた歌人であり、又世の中の變化に對して、隨分上手にも身を處したらうと思はれるのに、其日記といふものは泣きごとを以て滿ちて居る。氣質信仰の差と言はうよりも、是は(302)恐らくは心掛けの問題である。出來ないことかも知れぬが、御互ひも努力して見なければならない。
 
          一二
 
 さて此樣な所感ばかりを竝べて居ると、愈をかしみといふものが足りなくなる。もうたつた一つだけ、私の見て置きたかつたのは、今昔卷二十八の作意、どうかして笑ひの種を新しい方面に求め、誰にもいやな思ひをさせない不覺の發見を、させようとして居たことである。それは必ずしも成功しなかつたが、その素志だけは窺はれる。四十四篇の説話の中に、茸《きのこ》の話が四つまでもあるのはわざとかと思ふ。多くの植物の中でも、茸の出現は突如として居つて、しかも美味なる食物にもなれば、又折々は毒にもなる。山に親しむ人々の秋毎の好話題であつたことは、昔も恐らくは今と同じであつたらう。私なども實のところ、いつか一度キノコデーとも名づけて、思ふ存分茸の話を聽く機會をこしらへたいとまで思つて居るのだが、ふしぎな事の一つは、これ程日本で人望のある松蕈といふものが、歌や物語はさておき、日記消息の中にも室町期以前には、めつたに現はれて居ないことである。まさか外國から來た新種でもあるまいに、名でもちがつて居たか食ひやうを知らなかつたか、京都周圍の松蕈山が、近世になつて急にあの樣に騷ぎ出したのは妙なことである。何かまだ我々の知らぬやうな、わけがあつて隱れて居るものと思ふのだが、それを考へて居ると又話が長くなる。惜しいものだが切上げて本筋に入つて行かう。
 今昔のキノコの話は四つあつて、三つまでが平茸《ひらたけ》といふ蕈に關係して居る。その一つは簡單で比叡山の或僧が、是を賞翫し過ぎて毒に中り、それを加持した横川の導師の教化の語に、僧ども腹筋を切つて笑ふほどの、をかしな文句があつたといふだけの話であるが(十九)其説明は少々しにくい。といふよりも何か隱微な意味があつて、それが又蕈をヲコの物語の中に、加へなければならぬ理由を含んで居たらしい。が是はまあそつとして次へ行くことにする。
 次の二つも平茸の中毒に關係するが、ヲコの種類は全く別であつて、しかも二つは又やゝ似通うて居る。平茸は或(303)ひは同じやうな形の、色々の種類を總稱した名でもあつたものか、是を食つて死んだ僧と、何んとも無かつた僧との話がある(十七)。さうかと思ふと平茸と形がよく似て、猛烈な毒のある和太利といふ蕈があり、是にも亦少しも其毒を感じない體質の人があるといふ話があつて(十八)、この方が一段と意外である。金峯山の別當に年八十を超えるまで、ぴん/\と丈夫な老修驗が居た。二臈の修驗者はもう七十も過ぎたのに、まだ順番がまはつて來ぬので待遠でたまらず、何とか手だてを以て彼を無き者にしようといふ惡心を起し、平茸のよいのが手に入つたから御出であれと彼を招き、例の和太利をうまく調理してしたゝかに御馳走した。老いたる別當は悦んでそれを食べてしまひ、ちつとも變つた樣子もなくいつ迄も話し込み、さて還りがけに機嫌よく、けふ見たいなうまい和太利は食べたことが無いと謂つた。つまりこの老人は和太利の毒には醉はぬたちで、初めから是が和太利であることをよく知つて居たのである。それを聽いたときの二臈山伏の顔つきは、一言も敍してはないけれども、眼に見えるやうでをかしい。
 今一つの方の話も、やはり蕈と僧とであるが、枇杷殿の左大臣の讀經僧が、藤の木に生えた平茸を探つて來て、師弟三人で汁にして食つたら、忽ち大苦しみをして死んでしまつた。あまり不便だと葬式萬端、色々下され物があつて美々しくすますことが出來た。ところがそれを聽いて又一人の僧侶、早速同じ木の蕈をうんと取寄せて、煮たり燒いたりして散々に食ふ。あきれて周圍の者が制しても止めず、たうとう大臣の耳に入つて、なぜ其樣な馬鹿なことをするかときかれた。拙僧の如き貧しい者は、死ねば大路に棄てられぬとも限りませぬ。あんな美々しい葬式をして戴いたのが羨ましさに、自分も同じ蕈を食べて死なうと思ひましたと答へたが、實際はこの僧、平茸には醉はぬたちであつて、たゞ人を愕かさうとして、わざと斯ういふ事をしたり言つたりした。つまりは此ヲコ人は機會を狙つて居たのであつた。をかしい道樂もあればあるもの、又いゝぐあひに世に傳はつたものと思ふ。
 
(304)          一三
 
 多くの諷刺といふものはまはり合せであつて、誰にも氣づかれずに大部分は消え去つて居る。故に私たちは之を傳ふべき社會に、もう少し鋭敏な感覺がほしいと思ふが、待つても居られまいから今一歩積極的に、作者の進出することを希はねばならぬのである。第四番目の蕈の話、さうしてもう是でおしまひの私の引例は、中世の文藝には數の少ない舞臺構造をもつたものである。鳥羽僧正の蟲獣の戯畫などを見ても、日本ではさう複雜なる動作までを、時間と共に樂しまうといふ作品は少なかつた。たゞ芭蕉以後の俳諧といふものが、幾分か笑ひの持續といふことを企てゝ居たが、それも近頃の俳句の閃光主義にとつてかはられてしまつた。ところが今昔の中にた三つだけ、さういふ演奏の面白さを文章の上に、即ち讀む人の幻の上に、傳へて見ようとしたものがあつて、この方法は其後受け繼ぐ者も少なかつた。京の北山の或奧まつた山路に、四五人の樵夫が分け入つて方角に迷つて居ると、上の方から是も四五人の比丘尼が、手に/\大きな紀のを持つて、舞ひながら降りて來た。天狗か鬼神かと最初はびつくりしたが、近づいて見ればたゞの尼さんなので、是はどうしたことかとわけを問ふと、花を摘んで佛に參らせようと、友どち誘ひ合つて山に入つて來たところが、路がわからなくなつた。空腹を忍びかねて、そこに生えた蕈を採り燒いて食べると、忽ち手や足が自然に動いて、心ならずも斯うして舞ふと答へて、木樵りが見て居る前でも始終舞ひかなでゝ居た。能の狂言の「比丘貞《びくさだ》」などでも、尼さんに舞を所望し、それが舞ふのを見て見物は腹の皮を縒るのだが、舞の流行した室町文化の世ですら、比丘尼は人間の最も舞ひ得ない階級だつたのである。然るに此物語では事件は更に展開し、木樵り共も餓に迫られて死ぬよりはましと、其きのこを貰ひ受けて共々に食つて見たところが、果してこの連中も頻りに舞ひたくなつて、尼と男女の二群になつて、舞ひつゞけつゝ段々と山から出て來た(二十八)。どういふ装束を此時代の木樵りはして居たか。我々には考へられぬが、時の人ならば胸に描くことが出來たらう。ともかくもさうした荒くれ男た(305)ちと、尼の群とが舞ふのだから、奇拔なる繪樣であつたには相違ない。
 今でも舞茸といふ蕈については、私たちは常に注意して居る。川村博士の日本菌類圖譜にも、是がさういふ異名をもつといふ、種類なども示して居られるが、果してたゞ一種の、或土地でさういふものに限るのかどうか、それさへもまだ確實とは言へないのである。或地方では舞茸は舞をまつてから採るものだと謂ひ、もしくは其下に屋臺を組んで、舞を演じて後でないと採つてはならぬやうに謂ふ者もある。つまりは非常に大きな又めつたに見つからぬものと思つて居るのである。さうかと思ふと又或土地では、舞茸は秋の祭禮に先だつて、舞の役をする者が食べねばならなかつたやうに、言ひ傳へて居る例もあり、是だと何處にもあり、捜せば手に入るものゝやうにも見える。或ひは笑茸と舞茸と、一物二名の如く思つて居る人もある。或八百屋の一家親子が、珍しい蕈を食つて殘らず氣が狂ひ、笑つたり踊つたりした。それが舞茸だつたといふやうな新聞を、七八年前に見たこともあるが、それが宇都宮だつたか佐渡であつたか、或ひは南方でなかつたかともぼんやりと記憶して居る。
 ところがこの今昔卷二十八の第二十八話に於ては、舞茸といふ名は此時から始まるといひ、しかも「近來その舞茸あれども、之を食ふ人必ずは舞はず、いぶかしき事なり」と丁寧にも語り添へて居る。つまりは筆者の考案では無しに、取止めも無い話だが前からもあつた話で、この一篇はそれによつて脚色した、小さな空想劇の臺帳だつたのである。如何なる間拍子をこの舞には用ゐようとしたか。日本人の音樂才能はそれからでも窺はれたらうに、傳はつて居ないのは惜しいことである。
 
          一四
 
 是も實話を書き傳へたものだらうなどゝ、思ふ人はよもや有るまいが、よく似た構圖は能の狂言以前、中世の語り物の中にも折々は採擇せられて居る。或ひはもう傳はらぬ古い「さるがう」の方面に、かつては斯ういふものゝ需要(306)があつて、下に行き通うて居たのかも知れない。現に新猿樂記などもその一つの例だが、是は連ねの文句ばかりが前に立つて、其まゝは舞臺に載せることが出來ない。それよりももつと繪になるのは、古今著聞集の興言利口の部に鑄物師《いもじ》と山臥とが、二人つれ立つて遊女の家に一宿したといふ話が有る。あまりに叨りがはしくて紹介も出來ぬが、どうしてこの三種の人物を組合せたのかは、あの頃の人には些しでも問題で無く、假に一つのしぐさも見せず、一言のせりふも聞かせずに、たゞ竝んでつゝくりと立つて居たゞけでも、もう笑ひ出す者がある程のをかしいことであつた。それを今日の人は忘れて居るのだから、古風なユウモアは埋もれがちなわけだが、この三つの職業は家を外に、村や部落の拘束は少しも受けないで、旅の人中で勝手な生き方を、續けられるものだつたのである。木樵りが奧山の岩根樹立ちの間に、路を踏み迷うて居るといふのもをかしな圖だが、大きな蕈を手に持つた尼さんの群が、不意に其前に來て舞ひ狂ふといふやうな光景に至つては、物靜かな都人士の空想に對して、どれほど強い刺戟であつたとも測り難い。もし斯ういふのがたゞ一度の試みだつたら、或ひは呆然として受付けることさへ出來なかつたかも知れない。多分は折々は演技の庭に於て、人がさういふ可笑味には馴れて居たのである。しかも文書に書き載せられた場合が、偶然に甚だ乏しかつたのである。
 さて引例があまり多かつた爲に、前置きの部分が馬鹿々々しく長くなつたが、私の言はうとすることは是でほゞ察しが付いたであらう。私はまづ日本の前代文化の跡が、必ず何等かの書いた物の中に、保存せられて居るものと考へることの誤りを立證したかつた。次には人間がこの世の爲に、何か働きたいといふ志望は、昔の社會とても相應に複雜であつた。といふよりも今見たいに單純で無く、又專門家のやうな者が出來て居なかつた。大いに笑ひたいといふ如き我まゝな欲情ですらも、それが群共同のものである限りは、叶へてやりたいといふ人が必ず有つて、しかも其人は御祝儀をあてにせぬのみか、少しでも品の良いものを供給したいと念じて居た。といふことが説いて見たかつたのである。第三のもつと現代に適切なことは、かつて一たび改良の試みられたヲコの藝術が、今は淺ましいまでに退歩(307)して居るといふことで、其原由は數が多く、容易に列擧し得られないかも知れぬが、昭和二十二年といふやうな笑ひの極度に乏しく、しかもそれが少數者の私用に歸して居る時代に直面して、改めて痛切に悔い歎かずに居られぬのである。今更歴史をくり返すのも繰言だらうが、知つたら考へなほす人が幸ひにまだ多い。私はそれ故に絶望はしないのである。
 
          一五
 
 笑ひの零落の最も明白なる兆候は、ヲコが馬鹿と變じ、馬鹿を愚者又は白痴の別名の如く、解する人の多くなつて來たことである。馬鹿といふ語音の初めて文獻の上に現はれたのは、たしか太平記などが古い方で、最初はまだ適當な宛字が無かつたのだが、程無く馬と鹿との二つの漢字を以て、之をまかなはうとする流行が起つた。馬を指して鹿と謂つたのは、人間の中の殊に惡賢いやつであり、他にはさう思つた人は誰も無いのだから、愚者を馬鹿と書くのは當らぬなどゝ、まじめ腐つて辯じた者もあつたが、とにかくに秦の二世といふ一流の愚者を聯想して、覺えやすい爲に是が普通になり、殊に十八史略の素讀がはやつてからは、この一片の知識を得たのがうれしさに、やたらに此二字を使ふ者が明治の田舍には多くなつた。一方では又それは大きな無學といふもので、本當は慕何、もしくは莫迦と書くべき天竺の言葉であり、證據は飜譯名義集に在るなどゝ言ひ出したのも、多分は天野信景の鹽尻あたりが始めで、勿論新しいことでは無いのだが、國語の大家の樣に仰がれた大槻文彦翁が、それを言海の中に採用して、或ひは僧侶の隱語に出でたものかなどゝ言はれた爲に、今でもえらい人に限つて、わざ/\莫迦といふ字を書いてバカと讀ませようとして居られる。しかし此説などは、隱語の顯語となる條件を知つて居ての説でないのみか、文語と口語との區別すらも、心得て居たかどうかゞ怪しいもので、斯ういふ六つかしい舶來の文獻から、借りて漸う間に合はせるほどに、毎日の使用の少ない單語だつたら、それも國家の爲にうれしいことなのだが、奈何せんもうそれよりもずつと前(308)から、日本はこのヲコといふ語がやゝ濫用せられ、是をもう他へは用ゐにくい位に、毎日々々たゞ一方の者にばかり、連發しなければならぬほどの需要のある國だつたのである。莫迦が果して中世の歸化語だつたとすれば、その時分迄はどうして居たか。何といふ語が其代りを勤めさせられて居たかを、何よりも先に考へて見なければならなかつたのである。
 私の老友新村博士は、夙く此點に就いて思ひを潜められた一人である。さうしてこのバカといふ新語の原型を、年少青春を意味するワカ(若)といふ語ではないかとの説を、「日本の言葉」と題する文集に發表して居られる。ヲコといふ語の最も完備した上代の心持を、筆に言葉にこの博士の如く、よく傳へて居られる人も稀なのに、どうして又その一歩隣りまでを探らうとせられなかつたらうか。いはゆる莫逆の友であるけれども、是だけは「我はさやは思ふ」といひ、さうして又早く「さるからさぞ」に、到達して見たいと私は思つて居る。
 
          一六
 
 ヲコが一轉して馬鹿になつたといふ、私の證據は少々ばかりではない。最初に言はうとしたのは日本語のワ行がバ行に、WがBに移つて來ることは通例といふべきもので、南方の或島などは我がをバガ、鷲をバシの鳥といふ風に、寧ろ此點を以て内地と繋がつて居るとさへ見られる。女の髪のタボを、以前はタヲ又はタワと謂つたといふやうな例は、こちらにも澤山有るのだが、變化が語頭に來ないとまだ安心せぬ人が無いとも限らぬ。もつと適切な一つは、是も今昔物語の十九卷目に、人に觀音樣だと謂はれて、さては自分は觀音であつたかと、忽ち佛門に入つたといふ田舍武士の、最もヲコなる一話があつて、其主人公を上野國の、「王藤《わうとう》大主にこそおはしけれ」とあるが、それと同じ話を宇治拾遺の方では、「上野國におはするバドウ主」と謂ひ、仍て「是が名をば馬頭觀音とぞいひける」とも出て居る。馬頭は下野那須郡の町の名だから、上野國といふのはまちがひかも知れぬが、ともかくも關東方面に於ても、WとB(309)とは取ちがへるほど近かつたとまでは言ひ得るのである。
 それから母音のオ列からア列に移ること、是もタヲヤメを又タワヤメとも謂ひ、ヲノノクとワナナクとが同じ意味に、ほゞ同じ時代から使はれて居る。僅かな口の輪のひろげ方の差とも考へたが、或ひは吹出すといふ笑ひ方などゝ關聯して、心理學的に考へられる變化かも知れない。そんな事よりももつと必要な證據は、現在この國で其ヲコといふ語が、どういふ風に使はれて居たかの方面に求められ得る。方言を標準語に統一すべしといふと、忽ちその棄てられる方言を馬鹿にするが、左樣なヲコなることは民俗學では許されない。寧ろ滅びさうだと思へば、なほ懇ろに知つて置かねばならぬのである。副詞の「非常に」又は「極度に」といふ單語は、我邦では餘りに使ひ過ぎる爲か、すぐに飽きられて其上を行くものが生まれて來る。江戸でバカニと謂つたのはごく近頃からであり、或ひは明治を以て最盛期とするかと思ふが、是がよつぽど近いボッコウといふ副詞が、中國から四國一帶、或ひは京都からこちらの側にまで行はれ、それに先だつてボッコ又はホッコを、今いふ馬鹿者の名詞に用ゐて居る者も多い。恐らく近い頃の發生でなからうと思ふのは、九州の方に渡るとボクといふ名詞が多く、東部南部の約半分の面積にわたつて、是をボクシタと動詞にして使ふ者もあれば、又我々がダメダといふ風に、圍碁の空目《むなめ》から出た語を採用して居るに對して、あちらでは盛んにボクヂヤを使つて居る。是などは明らかに前代のヲコと同じで、生まれからボクと呼ばれるやうな者は無く、多くは普通の者が或時ばかり、人にも笑はれ又自分でも、自ら嘲るやうな事をしたのがボクなのである。標準語の馬鹿をすでに理解した人たちでも、なほこのボクの一語を棄てゝしまつては、突嗟の間に不自由をするのである。斯んな物の序に説くやうな小さな問題では無いが、よくも雙方の言葉の氣持を捉へもせずに、たゞ流行に誘はれて乘替へようとすると、それだけ表現の自由は失はれて、見たところ粗野な人になつてしまふか、又は心にも無いことを言ふ人になるか、もつと惡くするとそれだけは以前の人々にも劣つた、未開の生活を導かねばならぬことにもなるのである。そんな事があるものかと言つて見たところで、現にこの馬鹿の一語などは、もう馬鹿者以外には適用しにく(310)くなつて居るのである。
 
          一七
 
 そこで立戻つて今一度、ヲコといふ語の根原を尋ね、又その後々の推移を見究めなければならぬのだが、是が純乎たる日本の古語であることは、文獻派の人々さへも認めずには居られないだらう。ちやうど王仁阿直伎が千字文を持參した前後に、ヲコといふ語はもう禁廷にも用ゐられて居たことは正史に見える。從つて嗚呼だの嗚滸だのといふ漢字が之を表示したのは、所謂萬葉假字のたぐひと看なしてよい。然るに一方の嗚滸はともかくも、今一つの嗚呼の方は、支那にもさういふ漢語が有つた爲に、或時代の飜譯名義家たちを混迷せしめたのである。諸越《もろこし》はあの通り廣々とした國だから、地域によつて最初から、同じ語にやゝちがつた内容を託して居たかとも思はれ、嗚呼は或ひは驚きの意にも取られ、又は否定の意にもこの語を使つて居たらしい例があるが、少なくとも我邦中世のヲコの意味には、彼邦では用ゐずにしまつた樣である。近い頃までの漢學書生に、最も有名なのは湊川の石碑の文字だが、是などは作者が唐人なのだから、日本語であつた氣づかひは無い。さうして是は一命を君國に捧げた人たちを歎美した語として、嗚呼の二字は永く我々の頭にこびり付いて居るのであつた。
 不幸なことには日本の文人にも、一方の萬葉假字の存在を無視して、嗚呼の漢語を使つた人が夙くからあつた。たとへば日本靈異記には「嗚呼痛くも踏む哉」、今昔の中にすらも同じ意味に、此二字を用ゐた所が一つならず有る。この方はアナ又はアアと訓ずべきものであらうが、我々はこの二つ全く別なものゝ混同を怖れて、漢字制限論の成立も待たずに、是非こちらだけはヲコと日本字で書く必要を認めたのである。我邦のヲコも隣國の嗚呼と同じに、或ひはもとはやゝ範圍が廣く、單なる驚きの場合にも用ゐられたらしく、さう取つた方が解しやすい例も古い處には有る。もと/\雙方とも自然に出て來る音聲を、言葉に採用したものらしいからそれも不思議は無いが、少なくともヲコを(311)嗚呼忠臣といふやうな、嗟歎の用に供したものは私はまだ心付ない。さうして中世、恐らくは山城の京以降は、更に限定して是をたゞ、聲を立てゝ笑ふやうな場合のみに、專用するやうにして來たのかと思ふ。是とても勿論大衆の所業であり、誰が制令してさうきめたものでも無いのだから、例外は幾らでも捜し出せようが、とにかくに是が笑ひと密接な繋がりを持つことを、意識して居たゞけは疑ひが無いのである。女が笑ふときにオホホといひ、男はアハハだのエヘヘだのと謂ふのは、果して自然のまゝの音であるか、但しはもう感動詞となつて居るのか私は疑つて居るが、ヲコが笑ひだと知つて居なかつたら、あゝ迄はつきりとは謂ふまいと、思ふ樣な笑ひ方を我々はよく經驗して居る。人を笑はすことをまだ技能と認めて居りながら、一方には人から笑はれるのを大きな侮辱のやうに思ひ、それを避けることに心力を傾けて居るといふことは、私たちにはまだはつきりとせぬ謎であるが、是なども或ひは馬鹿の下落、即ち今いふ馬鹿ばかりを寄つてたかつて、我々の笑ひの種にしようとした風習の産物かも知れない。單語の歴史といふものは、此爲にも講究の價値があるものである。
 
          一八
 話が何だか少しをかしくなつて來たが、そのヲカシイといふ語なども、時代につれてやはり變化して居る。此頃では「少しをかしいぜ」といふ風に、變だといふ意味に用ゐる者が多くなり、怪訝といふ二文字にさういふルビを附けたのさへ見かけるが、是は一種の早手廻し、わけが判れば笑ひたくなるだらうといふつもりで、詰問を社交的に柔らげたものとも見られる。又さういふ類例も色々有るのである。地方の方言、殊に東京から遠くない田舍には、耻かしいといふ意味にヲカシイを使ふ者があり、又九州の方にも似た例がある。此方は人からヲカシと思はれさうだといふこと、即ち我?態を客觀したものとも見られ、ヲコならざらんとする努力と解してもよからうが、ともかくも右の二つの用法は、人が聽いてもちつとも笑ひたくはならない。ところが今昔物語となると全卷を通じて、ヲカシには悉く(312)可咲の二字を宛てゝ居る。さうしてヲコは必ず咲(笑)ふべき話であるといふだけでなく、其ヲカシといふ形容詞それ自身が、本來ヲコの語に基いて、新作せられたものだといふことが、是によつて心づかれるのである。比興《ひきよう》といふ中世語の起りはどうもまだわからぬが、少なくとも興言利口《きようげんりこう》の「興」といふ宛字だけは、是等のヲコから導かれたものであり、曾てはヲコゴト又はヲコガタリといふ言葉があつて、暫らくはそれを興言の二字によつて表示したのかと思ふ。さうして利口は則ち今昔などにいふ「物云ひ」であつたのが、後に口賢いといふ意味に移り、悧巧といふが如き無理な改作をすることにもなつたものらしい。
 とにかくにヲコとヲカシと、二つ是ほどにも縁の深かつた言葉が、いつしか袂を分つてむき/\の途を歩んだことが、莫迦外來説の如きばかげた現象を、招き寄せるもとになつて居るのである。私などの見たところ、ヲカシはもと/\快樂の語だつたのだから、なるだけ廣い適用を受けようとする。之に對してヲコばかりが、不當に嫌はれたのである。ヲカシオカシの差別論は、隨筆大成といふ類の近頃の活字本にも出て居るのだから、詳しい受賣などはするに及ばぬが、一方は田中道麿、その先生の本居宣長、もつと前には山岡明阿などが之を主張し、それを荒木田久老とか、清水濱臣とかいふ人々が反對して、結局軍配は後の方に揚がつたのである。伴信友の比古婆衣は最も委曲を盡し、石原正明の年々隨筆は簡明に要を得て居る。つまりは中古文學に於けるヲカシの用法があまり汎いので、一方の物を賞美する方は、ア行のオカシでオムカシの約まつた語、他の一つの笑ふ方はワ行で、ヲコカシといふ語がもとであらうと、道麿などは説いたのであるが、反對の證據はいろ/\有り、殊に伊勢物語の「妹のいとをかしげなるを見て」とあるのに、眞字本はなほ可咲の字を宛てゝ居るのである。どうしてさう有るかといふことは十分に説明せられなかつたが、是は文語と口語との岐れ目を暗示するもので、古い言葉の經歴を知つて居る人々だけが、なほ暫らくは以前の使ひ方を續けて居るのであつた。といふことは又後世とは事かはり、たゞ樂しい微笑を催すやうな物又は事がらをも、ヲコと謂つて居た時代が曾ては有るのである。或ひは自分だけの想像だけに過ぎぬかも知れぬが、是も本來は一(313)つの驚きの表示で、ちやうど今日の女たちが何にでもマアを連發するやうに、ヲコを賞美の辭にまでも適用したのかも知れない。
 
          一九
 
 ヲコがもと是ほどにも世を樂しくする技藝であつたとすれば、どうして又今日のやうな、人のいやがる馬鹿にまで成り下つたらうかといふことが、愈問題とならざるを得ないであらうが、私には是を解決するちとばかりの用意がある。一言葉でいふならば、人生に餘裕が無くなつたのである。多忙な藝術などゝいふものは昔の世には無かつた。然るに後世の作業といふものは多くは割當てゞある。何か是から一つの仕事に取掛らうといふ時に、さうやたらにヲコづられても實は困る。乃ちヲコを制止しなければならぬ必要が次第に生じたのである。私は必ずしも言靈のくしびを信奉する者では無いが、人を笑はしめんとする試みを抑制する場合には、たゞヲコなりと言はうよりも、ワカもしくはバカと一喝した方が、遙かに力強く又きゝ目があつたらうと思ふがどんなものか。さうして此語は今の社交にもしば/\用ゐられ、しかも其内容がまだ固定して居ない爲に、時としては氣色を害し、「馬鹿とは何だ」と開きなほるやうな場合をさへ展開する。本來は馬鹿そのものが厭はしかつたのでは無く、馬鹿なと言はれる折柄が惡いのである。馬鹿はどうしても休み/\言ふべきものであつた。
 慶應元年二年の頃、江戸幕府の輕輩の武士たちが、多數に大阪の市中に來て滯留して居た。その一人の旅日記が、偶然にも印刷せられて傳はつて居る(未刊隨筆百種卷十九)。案内は知らず錢は無く、僅かな近付きの家を毎晩のやうにあるきまはつた。退屈千萬な日記であるが、文筆の無い男だけに却つて正直に、どの日もどの日も何屋を訪ねて茶をよばれ、馬鹿申す、馬鹿ばかり申すと書き列ねて居る。多分はたゞ人を笑はせるやうな、何のたしにも成らぬ雜談をして居たといふのであらう。實は半分は上方風のお世辭笑ひだつたのかも知れぬが、當人は一かどの東男を以て任(314)じて居たらうから、馬鹿を得意になつて申して居たのである。とにかくに馬鹿者は此席上には一人も居なかつた。斯ういふ例もまだ此時代にはあつたのである。是を見てもほゞ判る如く、馬鹿は要するに申すものであつた。だまつてぽかんとして居るのは馬鹿とは言はず、ノロマ・ポンツク其他くさ/”\の新名詞が出來て居た。アホウといふ語だけは、是もヲコから導かれたことは疑ひ無きに拘らず、近頃ではどうやら白痴の同義語の如くなつて居るが、是にも亦目に見えぬ内容の推移があつたので、以前まだ阿呆などゝいふ漢字が當てられず、短くアホと發音して居た時分には、是も笑はせる言葉を意味して居たかとおぼしく、東京では聽かぬが「アホ言ふな」、「アホなことぬかせ」などゝいふ文句は上方には殘つて居る。馬鹿もやがては其名の貝の如く、舌を出し口をぽかんと開け、まじ/\と人を見て居るやうな者の名にならうもしれぬが、少なくとも現在の用法は、まだその年久しい經歴を語つて居る。俳諧文學の盛衰に興味をもつ者は、やはりこの傳承には注意しなければならない。
 
          二〇
 
 しかし一方には人の好まざる馬鹿の用法の始まつたのも、決してさう近い頃のことでない。元禄寶永珍話に出て居る三勝半七の心中一件には、男の書置の文言として、「大きなるばかうはき者と思召人のほど耻かしく候へども云々」とあるが、是は何とやら江戸人の僞作くさい點が他にもある。もつと古い處では古老茶話に、安房の里見家の滅亡を敍して、「里見は慶長十九年倉吉(伯耆)へ三萬石にて被遣候へども、元來ばかにて其後かの三萬石を没收せられ云々」とあり、又「ばかにて其器にあたらずと雖」ともあつて、元來の能力なのだから是は一囘のしくじりでは無い。馬鹿にするといふ言葉は醒睡笑の中にも出て居る。熊野の郷士が客の謠を聽いて、「親ぢや人のあちらにて聞かるゝに、海邊《かいへん》のことを諷《うた》うたるは我を馬鹿にしたり」と怒つたといふのは、下品なをかしい意味にかいへんの語を解したのであつて、實際はよつぽど愚かなのであるが、當人は寧ろ場所を省みず、戯れをいふにも程があると、思慮分別(315)のあることを示さうとしたのである。今でも考へて見ると此點には疑問があるが、馬鹿にするといつて怒る者は、寧ろ低能視せられる懸念の無いやうな人に多い。場所もこちらの氣分も考へずに、やたらに不まじめなことをいふのが腹立たしいのである。或ひは昔からあるヲコツクとか、ヲコヅルとかいふ動詞の方が是に近く、馬鹿は却つてさう言ひ出す者の心理に在つたので、たま/\我々が似寄りの語から類推して、「汝は愚か者也」と言はれたやうに曲解して居るのかも知れない。何にもせよヲコの機會は世と共に少なくなり、一生涯笑はないことすら、男子の美コの一つになつて來ては、やたらに人を笑はせようとする者などは、總括して先づ馬鹿であつた。たゞ其中には曾呂利新左の如く、別に考へがあつてさうする者と、知らずにさうなつて居る者とを區別しなければならなかつたゞけである。
 是は人間の賢明度の、兩方の端であつたにも拘らず、案外に實際は其境目がはつきりせず、どちらとも取れる場合が多かつたやうである。又さうして置かぬと世の中が渡れなかつた。人から装つて居るとは見えぬことが、昔の宮廷愚者などの理想であつた。殊に凡人は腹の中に於て、出來るだけ多くの馬鹿を本物と信ぜんとし、しかも社交上の辭令としては、すべてを作り馬鹿と認めるやうな態度を示して居た。彼等が他人に面と向つて、その言動を笑はうとする時の言葉は、ばからしい又はアホかいな。東北ではばかくさいといふ語さへ流行つて居る。言ふ心は馬鹿その物とよほど似て居るといふことで、裏面には貴下は本來そんな人で無い。きつと御冗談でせうといふ敬意を含んで居る。しかもその馬鹿アホが眞成の愚者のことだつたら、假に類似を感じたゞけでも、明言することはやはり失禮であつた。馬鹿が決して完全に惡いものでなかつた痕跡は、斯ういふ習慣の中にもなほ著しく殘つて居る。
 
          二一
 
 ヲコの零落を説かうとして、私の言ふことは聊かまはりくどかつた。或ひは短氣な人は斯ういつて問ふかもしれない。馬鹿がヲコだとすれば本式の馬鹿は何と呼んだか。昔も無かつた筈はないから、名が有るだらう謂つて見よと責(316)めるかも知れない。それが實はまだはつきりとせぬのである。オロカといふ語は九州の「オロ好か」などのやうに、程度の表示であつて、英語の less などに相當し、少弟のオトリなどゝも近い。完全なる愚物を言ひ現はすには足りないのである。アヤカリといふのが生まれ付きの痴人を言つたらしく、今でも方言に之を保存した地方は多いが、その語根のアヤも亦感歎の辭で、曾ては神靈の力、隱れたる微妙の法則もアヤであつたから、それに影響せられたと言へば惡い言葉でない。つまりはさういふ人が全く無かつたのでなく、たゞ之を指示する語が忌言葉であり、あらはに口にせぬのみか、幾度でも異名を變へて來たのである。馬鹿を意味する馬鹿の語が必要であつたのも、事によるとさういふ不自由さの爲かもしれない。
 今昔物語の成つた時代には、シレモノ(白物)といふのが本式の愚者のことであり、シレコト(白事)といふのが其行爲又は言葉だつたらしい。萬葉集の浦島子の長歌にも、「世の中のしれたる人の」とあり、さういふ意味に使はれるのも後世だけではないが、なほ私は是が「知る」といふ動詞と縁を引くこと、又一方には此語の現在の用法に由つて、最初から斯うだつたのではあるまいと思つて居る。
 いはゆる標準語の中でもシラを切る、もしくはシラバックレルなどゝいふ語が活きて居て、知りつゝ無知をよそほふことを指すのみで無く、シレ者といふ言葉とても油斷のならぬ者のやうに取られて居るのだが、地方の言葉に在つてはそれが今すこし著しく、又盛んに利用せられて居る。まだ氣づかぬ人があるのは二つの點、即ち一つには濁音に轉じて居ることゝ、二つには主として小兒の上だけに用ゐる者が多いことから、是だけは別のものゝやうに考へられて居るからであらう。日本では言葉を惡くするといつて、俗衆の間に多く働く語は大抵は濁音化して居る。ジレルを小兒の所作のみに限るのも、さう古くからのことで無いやうである。
 試みに地方の言葉の若干を比較して見ると、まづ南島の喜界島などには、シレイスルといふ語が有る。知つて平然と知らぬ顔をすることである。九州は大體にあまり使はぬらしく、大分縣で出たら目をスーラといふのも、空言のソ(317)ラかもしれぬが、壹岐島では、なまけることをズラコクと謂つて居る。中國地方に入ると一帶にジラが弘く行はれ、土地毎に僅かづゝの差は有るが、ほゞ共通なのは眞率に知つた通りを打明けぬことで、從つて子供の無理をいふことにも應用せられるのである。山口縣の西部などにはバカシレモノといふ口語もある。豐浦郡方言集には之を解説して、「馬鹿に見せてジレコムこと」だと謂つて居る。即ち此ジレコムも亦知りつゝ駄々をこねることなのである。子供で無くてもさういふ化の皮はすぐ顯はれ、彼も亦その積りで戯れにさう言つて見るのだが、それが習癖になつた人もよく有つて、世間からは之をジラ者と呼んで居る。廣島岡山その他の縣に於て、ジナクソと謂ふのも是であり、知りつゝまちがつたことを謂ふの意味だから、アホらしいやバカげたも同しやうに、面前で人を批難するにも用ゐることが出來たのである。
 よく/\入用な一語だつたと見えて、ジラの分布は殆と本州全般に及んで居る。さうして是を子供のだゝに限るのは、主として都會地だけであつた。京都以東に於ても滋賀福井の二縣などは、ジラ又はジラコクはおどけ者又は本氣でない者の所業で、それで又面の皮の厚いのを、ジラタイといふ形容詞も生まれて居る。岐阜富山から新潟縣の各地には、ズレッコイもしくはズレッコナといふ語も行はれて、横着な又は生意氣なを意味し、頗る東京などのスレッカラシが、それから出來たことを心付かしめるが、一方には又越後の糸魚川附近のやうに、馬鹿つくつて人を困らせることを、カタジリといふ語もまだ行はれて居て、ズレッコの根原がシレであることを示して居る。カタジリは多分今昔などにいふ「片白《かたじれ》たる」も同じで、利口なくせに愚を装ふ者に、或ひは惡罵の調節に用ゐたのかと思ふが、同地では又それをカタバカとも、カタボコともいふ語があるさうで、私たちに取つてはよい參考である。東北各地にもジレ又はジラモノ等の語が弘く行はれ、是はやゝ轉じてごまかし物、もしくは見掛倒しの意にもなつて居るが、基く所は知つて知らぬ振りをする、もしくは本氣で無いといふ點に在ると思ふ。其例も竝べて見たいのだが、うるさからうと思つてもうさし控へることにする。たゞ一言だけ附添へてよいことは、シレも現代の馬鹿と同じに、起りは決して純(318)然たる愚者のことでは無く、却つて賢過ぎた者の作り馬鹿が多くまじつて居た。それをいつの間にか本物の名にしてしまつたのである。
 
          二二
 
 國語變化の法則を説くことは六つかしく、又爰ではそれ迄の必要は無いことだが、ヲコといふ類の古來の無形語は、最初から範圍がやゝ茫漠とし、又次々の附加も有り得ることで、古今を貫くやうな定義の下し得ないのは素よりのことである。しかも民族の興味の片寄りはいつの世にも有り、殊に考へ方や表はし方の精密度を増すにつれて、以前の同じものを二以上の語に、仕分けなければならぬ必要は多くなつて來る。從つて單なる利他藝術の衰頽といふことだけに、原因を求めようとしてはならぬのもわかつて居る。しかしながら今我々の考へて見ようとして居る場合だけは、少しばかり事情が特殊なのである。アホがヲコから分化した語なることは確かでも、それがどういふ時代のことか、まだ明らかで無いのだから是は何とも言へない。バカの出現に至つては相應に古い。是が少なくともヲコの藝術に對して同情をもたぬ者、ヲコが人生を明るく樂しくすべきことを顧みなかつた者の、寧ろ制止と檢束との爲に、使用し始めた表現だといふことが事實であるならば、別に是に對して今までの見方、即ち之に由つて結ぼれがちな心を開き、御互ひに新たな元氣を貯へて行かうとした人々の努力に、付與して居た言葉が無くてはならぬのに、それが近頃ではもう見當らぬのである。當座はヲコといふ古語が其爲に殘り、馬鹿と嗚滸とが兩々對峙したやうな期間もあつたのかと察するが、ともかくも今は一方だけとなり、ヲコは辭典を引捜して見ても、誰も彼も一樣に、たゞオロカ、タハケ又はバカ等の同義語と註する者ばかりで、それで改めて私などが、斯んなくだ/\しい説明の文を、書かねばならぬ必要をさへ生じて居る。つまりは我同胞國民は、馬鹿を承認してヲコを見棄てたのである。是を悲しき零落の一兆候と、見たのにも相應の理があると信ずる。
(319) 中世の文學に於ても、愚物は人望ある可咲の對象の一つであり、或ひは是のみを嗚滸の者といふ如き、言葉使ひさへ行はれて居た。しかもそれはたゞ一つの項目といふまでゝ、なほその以外にも偶然のヲコ、場合のヲコといふものが色々有り、又は之を敍説する言葉のヲコや、それを試みて一向に人を笑はしめ得なかつた失敗のヲコもあつたことを、大抵の人は認めて居たのである。あまねく其種類のそれ/”\を知つて、價値づけることの出來る世の中だつたら、幾ら第一種の嗚滸の者のみを珍重して居たにしても、他の部分にも名を與へずには置かなかつた筈である。一つの例として爰に私の擧げ得るのは、ビロウといふ中世語である。字に書けば尾籠だから、是はもと明らかにヲコの萬葉假字であつた。或ひは嗚呼といふ漢字の本國での用法に心付いて、混同を避けた爲かも知れぬが、とにかくに初めはたゞヲコの宛字に過ぎなかつたものが、文書の上に盛んに書き散らして居るうちに、之を音讀してビロウといふ者が多くなり、いつの間にやらヲコとビロウとは意味を異にし、特に後者を馬鹿にするやうになつて來たものと思はれる。明月記建仁二年八月二十三日の條に、「此返事尾籠極り無し、烏呼と謂ふべし云々」とあり、又同建水元年九月廿七日には、院の上使を打入狼藉と訴へ出た法師を、「上下尾籠人と稱す」と記して居るのも、明らかにビロウ人と謂つたので、三代實録などに書かれた嗚滸人とは別であつた。さうしてこの通り起原は古いに拘らず、是も民間に傳はつて今なほ利用せられ、馬鹿とは又些しちがつた心持をもつて居る。たとへば他所の食物を頻りに食ひたがるなどがビロツクであり、又下がゝつたことを話すのもビロウである。クタビレルは別の語だが此感化かもしれず、ワルビレルのビレルなどは確かにビロウから出て居る。もしも我々が不用意な言葉の採擇をせず、努めていやな語をいやな事物だけに限定して居たならば、今後もどの位心安く、馬鹿といふものを笑ひ得たかしれないのである。たゞ其中には少しの氣の毒な人が交つて居た爲に心置きなく馬鹿といふ語がつかへず、終にこの樣な笑へない世を現出したのである。
 
(320)          二三
 
 結論は讀者に作つてもらふのが、今までの私の流義ではあるが、この一文はあんまり長たらしいから、お詫びの爲に少しばかり言ひ直して置かう。ヲカシの本來の間口は非常に廣かつた。美女も風景も、又趣味ある人たちの住居や調度でも、其他あらゆる我々の感歎するものは皆可咲であつた。もとは驚いてヲコといふ音聲を、自然に發する場合がすべてそれであつたかとも考へられるのだが、それはまだ確かな證據が無い。少なくとも後にはその發見が不快なものでなく、靜かな微笑を以て味はひ樂しみ得るものに限られたことは、可咲といふ漢語の對譯が之を推定せしめる。それが悉く偶然に出現し來るものばかりを、じつと待つて居てよかつた時代もあるのか知らぬが、我々の間には存外に早くから、この爲に技藝と想像力とを傾けようとする者が出來て居た。目的は固より人の爲にさうしたのであるが、之を企てることは自分にも亦樂しい。日記や消息までを文學といふやうな流行が起つてからは、次第に例外の多きに堪へなくなつたけれども、私などはこの「可咲」の一條件を以て、或一群の藝術を總括し得たらうとさへ思つて居る。言ひ換へるならば文藝は、人を意外の怡樂に誘ひ込むものだけで、もう澤山だと思ふことは、決して私一人の我儘だけで無く、以前もさういふ同志はうんとあつたのである。然るに今日は悲泣する文學、唸る文學や舌打ちする文學が大いに増加して、もうそんな定義は通用しないだけで無く、一方にヲコの文學も我から手を斂《をさ》めて、人に勝手に有合せのをかしいことを、笑つて暮さしめようとして居るのである。有合せといふことは時勢といふも同じで、さういつも/\上品なものばかりが、其邊に轉がつて居るとは限らない。しかも是非とも笑ひませうといふ念慮が人に在ると、終には今日の如くどうすることも出來ぬものを笑ひ、又は弱つて怒ることもならぬ人々を、捜して笑つてやらうといふ卑劣な後輩が出て來るのである。諷刺の笑ひといふのは淋しいもので、それの出しやばる時世はきつと明朗でないのだが、又一方に牽制する所があつて、我がおろかを棚へ上げて居る者を自肅せしめる。今日の笑ひに至つては(321)それですらも無く、たゞ反撥の出來ぬ者に向つて、背後の彌次馬を悦ばせるやうな、淺墓な嘲りを投げて居るだけである。是では何としても私などは笑ふことが出來ない。ヲコは技術であり、兼て又人を愛する技術でもあつたといふことを、憶ひ返さねばならぬ。出來るだけ多くの人を笑はしめることは必要であるが、自らこの樣な愚を演じてまでも、人を笑はしめることは不必要である。生まれつき格別の嗚滸の者でも無さゝうな人が、馬鹿を盡して居るのは世の中の責任であらう。ともかくも馬鹿に關する限り、我々の文學は衰頽して居る。
 
(322)     涕泣史談
 
          一
 
 いさゝか氣まぐれな演題を掲げたが、實は是に託して國史教育に關する一意見を陳べんとするものである。其例證をなるべく意外な、今まで諸君の考へられなかつた問題の中から擇び出し、印象を深めたいのが底意である。歴史の學問は、常に「時の或長さ」を出發點とする。現在が如何なる時であるかを考へんとする人は、誰でも知らず識らずのうちに、この「或期間」の前と後との差を求めるであらう。さうして世の中が今は前とは變つて居ることを、如何に漠然とでも認めぬ者は無いであらう。但し教育は、決してこの程度の成功を以て安んずるわけには行かぬ。「漠然」は却つて全然變化を認めないよりは有害である。その昔はすくなくとも二つ、一つは何も彼も、時さへ經過すればみな無差別に改まつてしまふものと速斷することで、もとよりそんな筈は決してない。この弊害は目下各方面に於て力説されて居るものである。古今一貫もしくは、永代不易のものが必ず有るといふこと、是は顯著な實例があつて疑ふことの出來ぬものであるが、更に進んで何と何とがそれであるかを學ぶ爲には、やはり一方の變つたものゝ變り方を、明瞭にする必要がある。第二の弊害は、所謂歴史の偶然を無視する點である。即ち古今の變選は實は幾通りも有り得たのに、何等かの事情によつて、その中の或一つの道を通つて來たのである。それを斯うしか變りやうが無かつたのだときめでしまふ態度が再批判されねばならない。人は何かといふと「成るやうにしかならぬ」と謂ひたがるのであ(323)るが、かゝる立場は我々の將來の爲に、可なり大きい損害を與へずにはすまない。こんな愚かなあきらめ〔四字傍点〕を棄てさせる爲には、出來るだけ具體的にその路筋、即ち成功と失敗のちがひを、竝べて比較しなくてはならぬと思ふ。
 國民がこの時代の變化の原因に參與し、且つ之を左右した部分は確かにあるのであるが、それが計畫と名づけ得る如き意識を缺く場合、換言すれば大小の群の自然行動と見られがちな場合には、この過程の究明は實は容易な業ではない。古くは名の聞えた二三の指導者の意志又はコ望に、之を歸する考へ方があつた。中世以後は愚管抄や讀史餘論などの如く、之を大勢などゝ名づけて、底に何とも知れない動力を認めんともして居た。又時の力といふ詩人風の言葉を用ゐる者があり、或ひは民衆の力などゝ表現した人も居たが、これとてもやはり右に謂ふ「漠然」の亞流であつて、從つて究極必ず分析せらるべきものであつた。その爲には又この變化の實情を詳かにすること自體が、最も重大な要件とならねばならぬ。今日の歴史研究は言はゞその準備時代と解せられる。しかもその準備が決してまだ十分で無いことを知る者にとつては、さうたやすく學者たちの原因説明に對し、信を置き得ないのは寧ろ當然のことであらう。
 
          二
 
 この世の中がどう變つて來たか。何と何とが特に著しく變つてしまつたか。是は是非とも眼前の世相を標準にして、比較説明をしなければはつきりするものではない。今日我國人が近世史を重んずべしとする趣旨も主としてこゝに在るのであるが、實際は最近公けにされた維新史のやうに、多くは老人側の追憶談又は苦心談の排列の域を出でず、是と現在と繋ぎ又現在を説明するの手段として居ないのは、遺憾なことである。
 古人はこの「時の長さ」の單位を普通には百年とし、モモトセの後と語つて居た。事實如何に保守的氣風の強い社會でも、百年の前と後とでは相當の變遷があつた。現に江戸時代などは一つのいゝ見本で、大衆作家などはこの二百數十年を、頭も尻尾も無い一固まりのものゝやうに見て、少しも書き分けようとして居ないやうだが、江戸でも後に(324)なると後見草とか三省録とかいふ書では、以前は斯うであつたが今はさうで無いといふことを、盛んに説き立てゝ居るのである。從つて古人も百年位が覺えよく理解しやすく、ちやうど頃合ひの區切りのやうに思つたのであるが、しかし今日から言ふと、百年は比較の標準としてはやゝ長過ぎる感がある。第一に百年間の出來事を覺えて居る人は絶對に活きて居ない。聽いて記憶して居るにせよ、二段三段の又聽きであり、書き留めて置いたといふ場合も思ひの外すくないのである。その上最近になるにつれて、百年間の變りやうは實はあまりに激しすぎる。少し大づかみな勘定かも知れぬが、まあ是を半分に縮めたらどうかと思ふ。實際又最近の五十年は、昔の二百年にも三百年にも當る位に、變化の速力が加はつて來て居るのである。しかしともかくも五十年を單位として、その前と後とを比べるといふことになると、話がずつとしやすくなる。
 何より都合のよいことは、前の事を知つて居る者、直接自身で見聞して居る所謂故老の數が相當多く、いゝ加減な自説に有利なことを言はうとしても、周圍にそんなことは無いと批判する者が幾らも居るといふことである。又怪しい節があれば別の人に聽いて確かめることも出來る。乃ち我々は安心して、故老の知識を利用することが出來るのである。ところが現在は寧ろさういふ便宜が多い爲に、却つて之を粗末にするといふ?態である。
 だがこの故老といふものにも、一定の條件があつて、出逢ひがしらに何處にでもといふ程には澤山居ない。ちやうど明治初期の歐化時代に人となり、若い頃からひたすら時代の尖端を狙ひ、眞似も受賣の不精確をも顧みず、たゞ舶來の文化といふものに感心して、何かといふとその知識をふりまはして年寄たちを煙に捲き、彼等の昔風な考へ方、所謂ちよん髷式のあら〔二字傍点〕ばかり見つけて嘲らうとして居た人たちは、たとへ如何程皺がより齒が拔けようとも、決して我々の謂ふ「故老」では無いのである。彼等は恐らくは前代生活の底を流れて居るものに、心から感動したことは一度も無く、其まゝ年を取つてしまつたのである。この外に今一つ、空々寂々組とも名づくべきものも隨分居る。さう言へばそんなことも有つたやうだと言ひ得るだけで、たしかなことは一向體驗せず、又印象づけられても居らず、し(325)かも年を取ると斯ういふ連中が、わしの若い頃はなどゝいふ話をしたがり、又よく其場限りの相槌を打つものである。斯ういふ人も實は格別當てにならないのである。たゞ幾人かの個々獨立の言を綜合して見て、それが幸ひに一致すれば之を信じてよいといふ程度のものである。
 以前國民の唯一つの教育機關として、昔と後の世との聯絡に任じて居た故老は、別に何等かのもつと積極的な特徴を具へて居た。記憶力も缺くべからざるものであるが、それよりも大切なのは觀察の無私であつたこと、其上に過去といふものゝ神秘性を感ずる人で、父祖の活き方考へ方に對する敬虔なる態度を認め、その感じたものを自分も亦、次の代の人に傳へずに居られぬ心持を抱いて居る者、一種宗教的な氣質の人が、所謂オールドマンだとリバース博士(Dr.Rivers)などは説いて居る。日本の田舍には、さういふ人が元は必ず若干は居た。概していふとやゝ無口な、相手の人柄を見究めないと、うかとはしやべるまいとする樣な人に是が多かつた。それが人生の終りに近づくと、どうか早く適當な人をつかまへて、語り傳へで置きたいとあせり〔三字傍点〕出すのである。男の中にもさういふ人は無論居るが、どちらかといへば老女の中に、多く見出されるやうにも言はれて居る。人は神樣で無いから永い間には記憶の誤りがあり、又若い頃の印象だから、時には信ずまじき人の言葉を信じて居るかも知れない。從つてさういふ人のたつた一人の言ふことを、恰も一册の記録の如くには重んずるわけに行かぬのは勿論である。たゞ是も多くの例を重ね/\て、次第に確かさを加へて行くのである。是を歴史の學問に利用する場合には、可なり骨折な手順がいることは事實であるが、其代りには是が無かつたら、全然知らずにしまふかも知れぬことを、我々は學び得るのである。
 
          三
 
 この方法論を確立することが、我々の謂ふ民俗學の目的の一つであつた。日本には今一つ、民族學といふ、耳で聽くと全く同じ名の學問があるが、それは主として異民族の生活を記述するもので、是とは全く別のものであるが、知(326)識の種類にやゝ類似があるので、間々まちがへられる虞れがある。それで區別の爲に、前者を日本民俗學、又は一國民俗學などゝ呼ぶことにして居るが、行く/\は或ひは同じ方法を以て日本人だけで無く、弘く全世界の諸民族の過去の生活までを、考へる時が來るかも知れない。さうなればこの二つは混同せられても少しも苦しくないのである。
 この同胞國民の體驗を利用する方法の第二の利益は、やゝ消極的ではあるが、今迄の國の史料の蓄積が、甚だ不完全且つ不精確なものだつたといふことを氣づかしめる點に在る。さうして其缺陷を補ふべく、飜つて是からさきの五十年乃至百年の爲に、もう少し多く良い「故老」を作ること、即ちさういふ心持を以て、この眼前の人生を觀察して置いてくれるやうな若い人を、今から養成して行くといふことの必要が認められる點も大切である。書物は今日ほど容易に作られる時代は無いのであるが、さりとて假に現代人の全力を集めても、果して今日我々の樂しみ悦び、又は苦しみ惱んで居る生活の實?を、さながらに後世に傳へて行く見込があるかといふと、それはまだ然りとは答へ得られない。未來から今日を囘顧して、子孫後裔に誤らざる判斷を下させ、同情を起させる爲には、今からこの現實の生活をよく感銘し且つ記憶して、老いて後銘々の愛する人々の爲に、詳しく語り得る者を作つて置かなければならぬ。文字の技術が始まつてから後、或ひはこの任務を史官といふ一定の役人に委ねて居た時代もあつた。しかしその以前の未開半開の社會に於ても、何等かの形で目の前の生活を、後世に語り傳へるやうに用意した機構があつて、今日は寧ろ其制度がやゝ衰へて居るのである。平家物語や太平記といふ類の古い世の語りものが、事件があつて間も無く、もう行はれて居たといふことを、我々はやゝ不思議にも感ずるのであるが、誤解や誇張が有るにもせよ無いにもせよ、やがて語り傳へてやらうと思つてじつと觀て居た者が、とにかくあの時代には有つたのである。もう一度さういふ人を養成するとすれば、私は歴史の問題を、たゞ政治や戰闘だけには限らぬことにしたいものだと思ふ。
 
(327)          四
 
 人間が泣くといふことの歴史。斯んな頓狂な問題を私が提出したのも、必ずしも閑人の睡氣ざましとのみは言はれない。其わけは、是が最近五十年百年の社會生活に於て、非常に激變した一事項であり、又我々の關心をもたずには居られない一現象であり、しかも記録文書の自然の登録に任せて置いては、誤つた推量に導かれるといふ經驗を、我々は持つて居るからである。私は勿論この問題のオーソリティではないが、少なくとも斯ういふ風に變つて來た事情の、一部分は説明し得るやうな氣がする。從つて是から五十年又は百年後の文化研究者の爲に、今のうちにもつと注意深く、且つもつと精確に、じつと此世の姿を見て置いてくれられる若い諸君の數を、多くしなければならぬと主張する、其材料に之を使はうとするのである。
 或ひはまだ「そんなことは有るまい」と、信用しない人もあらう。それを言ひ開く證據といふほどのものを、擧げて見せることが出來ないのは事實であるが、今まで本式に注意して居た人が少ないといふのみで、先づ大體にさう言へば成るほど其通りだと、同意する人が多からうと思ふのである。人が泣くといふことは、近年著しく少なくなつて居るのである。是は家にばかり居る者にでもわかることであるが、殊に旅行をして居るとよく氣がつく。旅は一人になつて心淋しく、始終他人の言動に注意することが多いからであらう。私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら五十年來の變遷を、人に説いてもよい資格が出來た。大よそ何が氣になるといつても、あたりで人が泣いて居るのを聽くほど、いやなものは他にはない。一つには何で泣いて居るのかといふ見當が、付かぬ場合が多いからだらうと思ふが、旅では夜半などはとても睡ることが出來ないものであつた。それが近年はめつきりと聽えなくなつたのである。大人の泣かなくなつたのは勿論、子供も泣く囘數が段々と少なくなつて行くやうである。以前は泣蟲と謂つて、ちよつとした事でもすぐ泣く兒が、事實幾らもあつたのであるが、今ではその泣蟲といふ言葉だけはまだ殘つ(328)て居て、主として泣かせないまじなひのやうに之を使用して居る。又長泣きと謂つて、泣き出したら中々止めない子供もあつた。是などは言葉そのものが既に無くなつて居る。泣くと叱り飛ばし又は打つといふ、亂暴な母親を元はよく見かけたものであるが、もう貧民窟に入つてもそれが見られるかどうか、わからなくなつて居る。子供の顔つきや肌膚の色、青ばなは垂らさず、シラクモ頭は無くなり、身のまはりが一般にさつぱりとして來たことも事實であるが、それよりも氣持のよいのは、オーン/\といつ迄も泣いて居る兒の、何處へ行つても稀になつたことである。
 それは年を取つてもう感じが鈍く、氣に止めなくなつたからだらうと、もし謂ふ人があるならば、事實とは正反對である。泣き聲の身にこたへるのは、若い盛りよりも年を取つてからがひどいのである。私の親などはなぜ泣かすと周圍の者を叱り、又はごめん/\などゝ孫にあやまつて居た。氣が弱くなつて聽いて居られないらしいのである。一般に又感情の細かく敏活な文明人ほど、泣くのを聽き過すことが出來なくなるものかと思ふ。
 
          五
 
 つい最近にも、雜誌の「婦人之友」だつたかで、子供を泣かせぬやうにするのが、育兒法の理想であるといふやうなことを、論じて居た婦人があつて、私も至極尤もなことだと思つたことであつたが、この感想などは恐らくは現代の公論であつて、それが又有力に結果の上にも顯はれて居るのかと思ふ。ところが是と全くちがつた考への人も、以前は確かにあつた。「泣く兒は育つ」「泣く兒は頭《かしら》堅し」といふ類の諺も古く世に行はれ、又泣くのは丈夫だからだなどゝ謂つたのも、必ずしも氣休めの語では無かつたらしい。子供は泣くのが商賣だからと、平氣でさう謂つて居る母親もあつた。實際又夜啼きには閉口するけれども、生まれたばかりの赤兒などは、あんまり啼かぬと氣にかける親もあつた。此頃讀んで見た津村淙庵の「譚海」の中に、赤穗義士の一人堀部安兵衛の妻女、尼となつて長命して居た者の談話といふのが、十何簡條か筆録してある。この婦人は子持たずに終つたかと思はれるのに、やゝ珍しい育兒の輕(329)驗談がある。多分は人の話に同感をしたか、又は脇に居て觀察をしたかであらう。
  小兒の泣くといふこと、制せずに泣かすがよし。其兒成長して後、物いひ伸びらかになるもの也と、同じ尼の物語なり
とある。私は是を元禄時代の一つの常識であつて、此尼老年の頃になるともう變遷して、聽く人に意外な感を抱かせるやうになつて居た例かと思ふ。少なくとも曾ては叱つて打つたりするほどの干渉をすらも加へずに勝手に泣かせて置いた社會もあつたのかと想像して居る。その考へ方が果して正しいかどうか。つまりは泣きたいほど泣かせるといふことが、言ひたいことを何でも言ひ得る技能の、養成法として役に立つものかどうか。新しい文化科學の方面からは、今はまだ何れとも確かめられては居ない。人の表現技能の一般の貧弱さを歎いて居る我々は、ともかくも斯ういふ前代人の實驗的知識に、深い注意を拂はずには居られないのである。
 今日の有識人に省みられて居らぬ事實は色々有る中に、特に大切だと思はれる一つは、泣くといふことが一種の表現手段であつたのを、忘れかゝつて居るといふことである。言葉を使ふよりももつと簡明且つ適切に、自己を表示する方法として、是が用ゐられて居たのだといふことは、學者が却つて氣づかずに居るのではないかと思はれる。この點に立脚して考へると、同じ一つのナクといふ動詞を以て言ひ現はされるもう一つの行爲、即ち「涙をこぼす」「悲しむ」又は「哀れがる」行爲、即ち忍び泣きと呼ばるゝ方のナクは、單語は同じでも全然別種のものであつて、しかも現在はこの兩者の間に、大きな混同が生じて居ることが認められる。
 表現は必ず言語に依るといふこと、是は明らかに事實とは反して居る。殊に日本人は眼の色や顔の動きで、可なり微細な心のうちを、表出する能力を具へて居る。誰しも其事實は十二分に經驗して居りながら、しかもなほ形式的には、言語を表現の唯一手段であるかの如く、言ひもし又時々は考へようともして居る。是は學問の悲しむべき化石?態であつて、新たに國の針路を決しなければならぬ當代に於ては、殊に深く反省して見るべき惰性又は因習であるか(330)と、私などは考へて居る。
 
          六
 
 言語以外の表現方法は、總括して之を「しぐさ」又は擧動と謂つて居るが、或ひは此語では狹きに失して、「泣く」までは含まぬやうな感じがある。しかしもつとよい名が出來ぬ以上は、用心をして此名で呼ぶより他はない。ジェスチュア・ラングェージといふ語を、タイラーの原始文化論などには使つて居て、是が社會生活の大きな役割をして居ることは、少なくとも未開人に就いては、くりかへし我々の實驗し得た所であるが、實は有りふれたことゝして氣に留めないばかりで、多くの文明人も亦さういふ空氣の中に生息して居るのである。それにも拘らず、今日は言葉といふものゝ力を、一般に過信して居る。それといふのは書いたものが、餘り幅をきかせるからかと思ふ。文章はすべて言葉ばかりから成立ち、日本は又朗讀法などゝいふことをまるで考へに入れない國であるから、書いたものだけに依つて世の中を知らうとすると、結局音聲や「しぐさ」のどれ位重要であつたかを、心づく機會などは無いのである。
 言語の萬能を信ずる氣風が、今は少しばかり強過ぎるやうである。「さう言つたぢやないか」、さうは言つたが實際はさう考へて居なかつた場合に、斯ういふ文句でぎう/\と詰問せられる。「何がをかしい」。黙つて笑つて居るより外は無い場合に、言葉で言つて見ろと強要せられる。「フンとはなんだ」。説明して見よといふ意味であるが、實はその説明が出來ないから、たゞフンと謂ふのである。是等は大抵は無用の文句で、それを發言する前から、もう相手の態度はわかつて居るのである。寧ろ言語には現はせないことを、承認する方式見たやうなものである。泣くといふことに對しても「泣いたつてわからぬ」、又は「泣かずにわけを言つてごらん」などゝよく言ふが、さう言つたからとて左樣ならばと、早速に言葉の表現に取替へられるものでも無い。もしも言葉を以て十分に望む所を述べ、感ずる所を言ひ現はし得るものならば、勿論誰だつて其方法に依りたいので、それでは精確に心の裡を映し出せぬ故に、泣くと(331)いふ方式を採用するのである。從つて言葉を以てする表現技能の進歩と反比例に、この第二式の表現方法が退却することは、赤ん坊から子供、少年から青年へと、段々泣かなくなつて行くのがよい證據である。誰だつて自由に思つたことが言へるならば、物好きに泣いて見る者などは有らう筈がないのである。
 故に現代がもしも私の觀測した通り、老若男女を通じて總體に泣聲の少なくなつて來た時代だとすれば、それは何等か他の種の表現手段、といふ中にも主として言ひ方の、大いに發達した結果と推定して、先づまちがひは無いのであるが、なほ一方には泣くことが人間交通の必要な一つの働きであることを認めずに、たゞひたすらに之を嫌ひ憎み、又は賤しみ嘲るの傾向ばかり強くなつて居ることを考へると、或ひは稀には不便を忍んで、代りの方法は一つも無くても、なほ泣くまいと努力して居る者が無いとは言へない。從つて是を直接に人間の悲しみの、昔よりも少なくなつた兆候と見ることは、まだ少しばかり氣遣はしく、泣きさへしなければ子供は常に幸福と、速斷してしまふことも考へものなのである。
 
          七
 
 兆候は言ふまでも無く變化そのものではない。是にはまだ大小色々の原因が複雜に加はつて居て、我々がそれを分析して見ようとしなかつた部分も弘いのである。たとへば子供の泣くといふことなどは、至つて單純なものゝやうに考へられがちであるが、彼等が一切の表現を之に託する期間は寧ろ短く、少しく大きくなるともう他の動機がまじり、それに從つて泣く聲にも變化が起る。親やしたしい者は、可なり綿密に其聲を聽き分けて、それ/”\之に對應する處置を取れば、一方も亦之に對立して、無邪氣ながらもやはり若干の計略を廻らす。たとへば自分の願ひはさう容易に叶へられる樣な性質のもので無いと氣づいてからも、或ひは爰でもう一ふんばり強調して見たら、希望を達するかも知れないと思ふときに、子供は又別な調子で一泣きして見る。是を全國弘い區域に亙つてジレルといひ、又さういふ(332)擧動をジラとも謂ふ。東京などのジレル・ジレッタイは、もう又少しちがつた意味に使はれて居るが、起りはすべて一つで、古語のシレ者、即ち知りつゝ道理のないことを言ふことである。
 だから土地によつて滑稽冗談、人を笑はせる爲にうそ〔二字傍点〕をつくことをも、ジラコキ・ジナクソなどゝいふ方言があるのである。シレルを濁音化するのは、古語をやゝ變つた意味で使ふ場合の普通の規則だつたやうである。斯ういふ泣き方をする子供は、却つて幸福な家庭に多く、孤兒や貧しい家のどつさりある子の一人などは、そんな泣き方をしても無效だから泣かない。寧ろさういふ目的で泣ける兒は、羨んでもよい存在である。大人の泣くのにも本來は色々の用途があつた。今日廢れてしまつたものゝ一つに、デモンストレエションとも名づくべき泣き方があつて、日本でも近頃までは實例があり、隣の大陸に行けば今でも見られる。普通は夫婦喧嘩であるが、それで無くとも、やゝ力の差等ある者が爭闘する場合に、大きな聲を立てゝ第三者の注意を喚起し、その公平なる批判を後楯にしようといふ目的で、何かといふと直ぐに街頭に進出して泣きわめくのである。夫婦喧嘩は犬も食はぬなどゝ謂つたのもこのためで、成るほど是は路傍に落ちて居るものゝ中では、一ばんまづいものだからである。しかし最初は是が有效の方法であつたが故に流行し、後には只耻さらしの笑はれ草となつたので、次第に流行しなくなつた迄である。
 それから今一つ、之に比べると遙かに嚴肅で、又由緒の久しい泣き方の用途に、宗教史の研究者などがラメンテエションと名づけて居るものがある。日本でも最近までその幾つかの名殘りが傳はつて居た。一言でいふと神又は靈を送る時の方式である。たとへば三月の節供に御馳走を供へてから雛を流す。其時には悲しくなくとも泣かねばならぬ。雛人形は後世技巧の進んだ高價なものが作られた爲に、川に送つてしまふといふ風は絶えたのであるが、現に馬入用の流域などでは、百年前までは子供が川原に出て、この泣き祭をしたことが記録に殘つて居る。係りが子供であるからその詞が只の悲しげな叫び聲となり、後には又歌詞のやうになつた。是が正月の十五日にも、又盆の十五日の魂送りにも同樣に行はれ、少年少女が群をなして「來年の、來年の」とうたひ、或ひは「來年ござれ」とはやしたのである(333)が、盆は殊に新たに死に別れた者の思ひ出を伴なふ故に、その泣く聲が遠く傳はり、又哀れにも聽えたのである。しかし心の奧の感じとは關係無く、此時は泣かねばならない約束があり、たゞ實感の人だけが心から泣いたのである。
 
          八
 
 葬式の折などにも、上手によく泣く泣女といふのを頼んで、泣いてもらつたといふ話がある。或ひは一升泣き二升泣きなどゝ稱して、御禮の分量に應じて泣き方にも等級があつたといふことを、今でも事實のやうに語る人が居るが、さういふ風習の存在を、私などは全く見聞したことは無い。たゞ野邊送りの日には公々然と泣いても構はぬといふのみか、それが普通になつて居る例は、今でも多くの地方にあつて、土地によつては單なる弔問客、血筋の繋がりも無く、又情愛も無い人までが、一應は聲を立てゝ泣いて拜んでから、身うちの者に挨拶をするといふ作法も、つい此頃まで行はれて居つた。即ち此際にはどんな事があつても泣くべきものと、定まつて居たのである。さうして儀式とは言ひながらも、自然に泣きたくなり又涙がこぼれたので、心から泣く人と少しも差別はなかつた。つまりはいつの世からとも無く、當然として守られて居た慣習であり、女は殊にその古い仕來りに、背くに忍びないやさしさを持つて居たのかと思はれる。それが近世に入つて、いつの間にかすたれたのは、言はゞ一種の覺醒である。考へて見ると「男は泣くもので無い」といふ教訓があつたのも、女ならば大人でも泣くべしと、承認して居たことを意味する。辨慶は一生泣かなかつた、もしくは辨慶でも泣くだらうなどゝ、非凡の例としてよく人が引くのも、裏から見れば平凡人は時々泣いて居た證據である。それが今日は一樣に、めつたに泣くなどゝいふことは聽かなくなつたのである。是が變遷で無くて何であらうか。
 曾て私は俳諧の中から、男が泣くとある場合を捜して見たことがある。「來る春につけても都忘られず」「半きちがひの坊主泣き出す」とか、「かはらざる世を退屈もせずに過ぎ」「又泣き出す酒の醒めぎは」とかいふ類の附合が幾らで(334)もあり、まだ元禄の頃までは、少なくとも斯ういふ種類の老人は泣いて居た。それが今日はもう痕跡だけになつたのである。私の舊友國木田獨歩などは、あまりに下劣な人間の僞善を罵る場合などに、よく口癖のやうに「泣きたくなつちまふ」と言つた。今でも私たちは折々その眞似をするが、其癖御互ひに一度だつて、聲を放つて泣いて見たことは無いのである。即ち泣かずにすませようとする趣味に、現在はよほど世の中が傾いて居ると思はれるが、以前は或ひは是と正反對の流行もあつたらしいのである。
 
          九
 
 とにかく私などの五十年間には、子供以外の者に泣かれた經驗はもうよつぽどすくないのである。少しはあるけれども大抵は若い頃の出來事である。たつた一つだけ、今でも忘れることの出來ない例を擧げると、二十歳の夏、友人と二人で、渥美半島の和地《わぢ》の大山へ登らうとして、麓の村の民家で草鞋をはきかへて居たら、二三十人の村の者が前に來て立つた。その中から婆さんが一人、近くよつて來て色々の事を尋ねる。何處の者だ、飯は食つたかだの、親は有るかだのと謂つて居るうちに、わしの孫もおまへさんのやうな息子であつた、東京へ行つて死んでしまつたといふかと思ふと、びつくりする樣な聲を揚げて、眞正面で泣き出した。あの皺だらけの顔だけは、永遠に記憶から消え去らない。それから又中風に罹つて急に口が不自由になつた親爺が、訪ねて來て忽ち大聲に泣いたことも忘れられない。日頃は鬼見たやうな氣の強い男だつたから、かなしいといふよりは口惜しいといふ感じであつたが、それが又この上も無くあはれに思はれ、愚痴を聽くよりもずつと身にこたへたものであつた。斯ういふ例には二三度も出逢つて居るが、中風の病人などは幾分か五つ六つの兒の泣くのに近く、所謂萬感胸に溢るゝもので、之を表現する手段が制約せられて居るから、泣くのが最も適切に之を人に訴へる術であつたのである。
 之に反して、酒飲みの醉ひ泣きといふのは、又少しばかり事情を異にするかと思ふ。何か好きな程きこしめして居(335)て、泣きたくなる筈などは無いのである。一方にくど/\と一つ事を何度もくり返す醉つぱらひがあるのを見てもわかる如く、彼等は必ずしも言語表現能力の缺乏を感じて居るのではない。醉つて言葉を捜すのが少しばかり面倒になつて、そんなことをするよりか手短に泣いてやれと、しやべるのを儉約するのだから、つまりは取捨選擇をやつて居るのである。言語學者は或ひは斯ういふのを「怠慢」の中に入れるかも知れぬが、是は怠慢よりも今少しく氣が利いて居る。もし效果がほゞ同じで、別に之に伴なふ損失が無いとすれば、ちつとでも樂な方に依らうとするのは凡人の常識で、つまり是でも氣がすむから是ですますのである。從つてさういふ方法がもうはやらず、又は不人望その他の副作用が生ずると知れば、自然に止めてしまふのである。事實今では泣上戸などは大よそ時代おくれといふ風になつて居て、現にさういふしれ者が先づ絶滅して居るのである。
 
          一〇
 
 多くの飲酒家さへも既に心づいて居るやうに、現今は言語の效用がやゝ不當と思はれる程度にまで、重視せられて居る時代である。言葉さへあれば、人生のすべての用は足るといふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になつた。もとは百語と續けた話を、一生涯せずに終つた人間が、總國民の九割以上も居て、今日謂ふ所の無口とは丸で程度を異にして居た。それに比べると當世は全部がおしやべりと謂つてもよいのである。其人たちは最初から、泣かずにすむだけの言語表現法が、ちやんと人生には備はつて居るものゝ如く信頼しきつて居て、猫も杓子も此方を役立てようと努める。しかも實際に於ては、單語の選擇、文句の組上げ方がまだ少しも適切とは言へないのである。先づ一番に多いのは、曾て誰かの言つたことを覺えて居て、ちやうど同一の?態でも無い場合にも、出來るだけそれを使つて見ようとする。假によく似た氣持を現はす場合だけに眞似るとしても、あまり毎度同じことを言へば、聽く人に對する效果が鈍くなる、といふことをちつとも顧慮しない。たゞ斯ういふ場合には斯ういふのだと教へてもらつて、それを覺(336)えて居て使ふのでは、腹から出た言葉とはちがつて、氣が乘らず情が映らぬことも確かである。現在の國語教授法の、是が一つの弱點である。しかも多くの人は小學校以外に、言葉の手本を授けられる機會をもつて居ないので、人間の言葉といふものは是より他には無いのだとあきらめて、みんな不自由を忍んで居るのである。
 きまり文句に強い印象があらう筈はない。御蔭で聽手の方としては、言外の意味を汲まねばならぬだの、目つき顔つきから人の心を察し得ぬ者はとんまだのと、此頃では餘計な厄介な我々の負擔がふえて來た。いつそ手取早く泣いてもらつた方が、よつぽど有難いのにと思ふときも?あるわけである。一方本人の立場から見ても、泣いてわめいた方がずつと容易に、御互ひの意思を疏通させ得る場合が多いのに、大抵はそれをまだ心付かずに居るのである。それ故に我々は、先づ一應はこの變遷を促した原因、更に進んでは泣くには及ばぬ條件が、果して備はつて居るかどうかを、考へて見る必要がある。人が泣かなくなつたといふ事實はたしかでも、それだけではまだ文化が進み、言語の利用が完備した結果と、推定してしまへない場合が時々はあるからである。
 
          一一
 
 自分などの見たところでは、人が手放しでワア/\泣くことを、さも惡コなるかの如く言ひ出したのは、是も亦中世以後の變遷であらうと思つて居る。やたらに泣くことは勿論無反省であり、偉人豪傑は喜怒色に表はれずなどゝ、この自己檢束の普通に超えて居る點を尊敬せられて居たが、しかし彼等とても大きな衝動があれば泣いて居た。まして常人は尚更の事で、現に武家生活を中心とした義太夫の淨瑠璃などを聽いて居ても、たび/\慟哭の聲が物語の中にまじつて居て、感動の極まる所はいつも是に歸着することになつて居る。是が綜括的に社交界から排斥せられたのは、寧ろ濫用の弊があつたからだとも見られる。濫用をすれば何だつて嫌はれる。つまりはこの表現法があまりにも有效である故に、女や子供が擧つて之を武器とするやうになり、一方受け身の方でも神經が鋭敏になつて、もう之を(337)聽いて居るに堪へなくなつた爲に、必要上段々に之を抑壓する傾向が加はつて來たのである。しかし他にも又一つの原因がたしかに手傳つて居た。我々がこの樣にまで泣くといふことを氣に掛け出したのは、一には學問の結果といふことが出來る。日本人の學問は讀書が主であつて、讀書は實は漢語の對譯を出發點として居た。人が泣くのは内にカナシミが有る爲といふことは、昔からの常識であつたであらうが、其カナシミといふ日本語に、漢字の悲又は哀の字を宛つべきものとしたのは學問である。カナシといふ國語の古代の用法、又現存多くの地方の方言の用例に、少しく注意して見れば判ることであるが、カナシ、カナシムはもと單に感動の最も切なる場合を表はす言葉で、必ずしも悲や哀のやうな不幸な刺戟には限らなかつたので、たゞ人生のカナシミには、不幸にしてそんなものがやゝ多かつたゞけである。我々の心持又は物の考へ方が進んで來ると、そんな昔のまゝの概括的の言葉では、個々の場合を言ひ現はし足りないので、次第に單語の内容が狹く限定せられ、從つて其用語が地方的に分化して行つたのである。だから東北の田舍では、今でも通例「孫がかなしい」といふやうに、大昔の「かなし子」又は「このかなしきをとに立てめやも」などゝ同じ意味に、即ち標準語の所謂カハイイの代りに之を用ゐて居るのである。カハイイは古い語では無い。多分は「顔はゆい」からであらうといふことで、中世の用法ではフビンナ又は見るに忍びぬを意味し、それが一轉しては子供とか女とか、自分より弱い者への愛情だけに限られることになつて居る。カナシイとは少なくとも起りが別なのである。それから北陸地方又は靜岡縣の一部などでは、このカナシイを恥かしい、きまりが惡いの意味に使ふ處もある。東京周圍の俗語では又一つ、カナシイを手がつめたくて性《しやう》が無くなつたといふやうな時の形容詞にもして居る。小さい兒などはさういふカナシイにもよく泣くので混同せられて居るが、この感覺も亦決して「悲」では無い。元は一般に身に沁み透るやうな強い感覺がカナシイで、其中から悲哀のカナシイだけを取分けて、標準語の内容としたのは中世以後、この悲といふ漢字を最も多く需要した佛教の文學や説教がもとかと思はれる。
 ともかくも泣くことを悉く人間の不幸の表示として、忌み嫌ひ又は聽くまいとしたことは、全くこの「かなしみ」(338)といふ語の漢譯の誤りがもとであつた。現に悦び極まつてのうれし泣きといふのがあり、又はそれほどで無くとも、憤つたり恨んだり悔いたり自ら責めたり、其他色々の激情の、はつきりと名をつけ言葉を設けることの出來ぬものゝ爲にも、人間は泣いて居る。寧ろ適當な言語表現がまだ間に合はぬが故に、この特殊な泣くといふ表現法を用意して居たので、それで相手に氣持が通ずるならば、實は調法と言つてもよかつたのである。無闇に抑壓せずに、たゞ濫用だけを防ぐやうに教育すればよかつたにと、私などは思つて居る。さうで無ければ其感情の一つ/\を、適切に表はす代りの言葉を與へるべきであつた。
 
          一二
 
 今一つの漢字の誤解は、是こそ説文《せつもん》學者の怠慢と言つてもよいのであるが、日本語のナクといふ言葉に、涕だの泣だのを宛てたのがそも/\の失敗であつた。あちらの字引を見ると、涕は元來眼又は鼻から出る液體、泣も亦聲無くして其涕を出すことであつて、共に三水を扁にして居るから、音聲其ものとは關係がないのである。しかるに我邦では、ナクといふ動詞の鳴は、鳥にも蟲にも共通であり、生類で無いものにはナルと謂つて居るのと同じ語である。是こそ耳に訴へる語だから表現であるが、一方の泣には一人きりの現象で、うつかりすると見過されてしまふ。然るにそれがいつの間にか御株を奪つて、ちつとも聲を立てずとも涙を出せば皆ナクと謂ふことになつたのは、つまりは泣の字の誤譯からである。聲を立てゝなく方は哭の字を宛てる方がよかつたので、萬葉集などには此字が多く使つてあるが、しかもその哭する場合にも涙が出るので、泣即ち涙をこぼすことをも、古くから我々はナクと謂つた。さうして特に聲を揚げてなくことを、ネナク・ネニナク又はネヲナクと謂つて區別した。この關係は寢と睡、ネルとイネル・イヲネルとの區別ともやゝ似て居るが、ナクは始めから聲を出すことだつたのである。だからネヲナクと謂ふのは餘計な讓歩であるといへる。歌にはともかくも日常の口語では、そんなことをいふ人が無く、從つていつも二つの(339)場合には混亂し、強ひて區別をつけようとする人が、此方をホエルだの、ウトボエルだのボナルだのと、いやな方言を以て表示するやうになつた。涙は所謂ネヲナク場合にも流れるといふのみで、それ自身必ずしも一つの表現法ではなかつた。「涙見せじと打笑ひつゝ」といふ句もあつて、隱さう紛らさうとする人の方が寧ろ多いのである。是非とも之を相手に見せようと思へば、美人ならば燈火の下に袖を顔にあてたりするが、多くは却つて言語の補助を假りて、たとへば此頃流行の「目頭が熱くなる」などゝいふ語を使はねばならなかつたのである。
 文學は此方面に於ては殊に誇張がひどかつたやうである。能の舞ならば手を八寸ばかりも離して顔の前に立てればよく、芝居ですらもたゞ手拭の端を眼の附近に運べばそれでよかつたのに、和歌となると途法もなく大げさで、たとへば、
   涙川なに水上をたづねけんもの思ふときの我身なりけり
   しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける
 斯ういふ歌が古今集以下に幾らも見出される。戀歌はいはゆる相聞えで、御互ひの才藻機略を示さうとする一種の遊戯でもあつたから、此風の盛んになつたのも不思議はないが、それを又あらゆる文筆の士が眞似て、歴代の語りものなどにも袖ぬらすだの身も浮くばかりだのと、言はゞたゞ涙をこぼしたといふことを説く爲にえらい骨折をして居るのみか、更に民間の文藝にまで、「松の露やら涙やら」とうたひ、又は近世の潮來節《いたこぶし》には、
   潮來出てから牛堀までは雨も降らぬに袖しぼる
などゝ謂つて居た。是などは利根川の船頭の歌で、彼等は袖のある勞働着などは着ても居なかつたので、まことにをかしな趣味であつた。たゞ幸ひなことには平人の平語の中だけには、まださういふ表現は入つて來ては居ない。しかも一たび社會の趣味によつて、聲を揚げて啼くことを制止せられてから後は、彼等は果して涙をこぼして居るのやら居らぬのやら、又どれ程の「かなしみ」を胸に抱いて居るのやら、外から見る者にはわからなくなつてしまつた。人(340)生は之によつて靜かになつたとはいへるが、同時に又何と無く寂しくもなつたのである。
 
          一三
 
 もう氣が付かずに居る人も多いことゝ思ふが、今日あたりはちやうど舊暦の盆の月に入つて居る。毎年此頃になると思ひ出すことは、國内の多くの田舍では、盆の魂祭は今や人生の最もしめやか〔四字傍点〕な光景と化し、初秋風の草の葉を渡る音、蟲の聲々の耳に附く季節になつて居るが、以前は是が又我々の同胞の、最も聲高く哭し且つ叫ぶ機會だつたのである。天明五年の東北大飢饉の後の年に、白井秀雄といふ三河國の若い旅人が、蝦夷の松前へ渡らうとして、津輕の三厩といふ濱で船を待つて居たのが、恰も七月十三日の魂迎への夕暮方であつた。「卒土《そと》が濱つたひ」といふ旅日記に、其時の記事を殘して居る。その一節だけを讀んで見ると、
  日は西に傾けば、たうめ・をさめ・わらは打ちこぞりて、磯山陰の塚原に灯とり鈴ふり、かなつゞみをうちならして、なもあみだぼとけ/\、あなたうと我父母よ、をぢ、あねな人よ、太郎があつぱ、次郎がえてなど、なき魂喚ぶに日は入りたり
とある。是は大凶作で澤山の人が餓死してから程無いことだつたから、この喚び聲が殊にかなしかつたのであらうが、同じ風習は常の年でもくり返されて居た。是から遠くない外南部の恐山でも、七月二十四日の地藏會の晩に、幼い兒を失ひ、盛りの男に死に別れた人々が登つて來て、今でもまだ夜一夜、泣いては踊り、踊りを止めては賽の川原の岸に出て泣いて居るのである。日本海側の田舍では奧羽から山陰地方まで、盆や彼岸の後先には火を焚いて、
   ぢい樣ばあ樣、このあかりでおでやれおでやれ
 又送るときには「おいにやれ/\」などゝ、高いかなしい聲で喚んで居る。それをコナカリなどゝ稱して、主として小兒の役のやうになつて居るが、とにかくに生きた人ばかりか、死んだ眼に見えぬ人の靈にまで、やはり心のかな(341)しみの聲を、聽かせる必要を昔の人は認めて居たのである。その理由又は事情を分析して見ようともせずに、たゞ單に慟哭といふ一種の交通方法を遮斷したとても、それで世の中が樂しくなつた證據にはならない。
 しかし大體に於て、子供も成人も泣かずにすむやうになつたのは、泣くよりももつと靜かな平和な交通方法が、代つて發達しつゝある兆候と見てもよいであらう。今更もう一度勝手放題に泣かせて見るといふやうな表出の自由は、決して我々の要求する所ではない。たゞその適當なる轉囘なり代用なりといふものが、果して調子よく行はれて居るかどうかといふことは、國を愛する人々の忘れてはならぬ觀察點であり、殊に若い諸君に無關心で居てもらつては困ることだと思ふ。歴史は私などの見る所では、單なる記憶の學では無くて、必ず又反省の學でなければならぬのである。
 
(343)  東北文學の研究
 
(345)     一 義經記成長の時代
 
       發端
 
 あらゆる我々の苑の花が、土に根ざして咲き榮えるやうに、一國の文學にも正しく數千年の成長はあつたが、文字といふものから文學を引離して見ることの出來ぬ者には、その進化の路を考へることが自由でなかつた。殊に見もせぬ西洋のきれ/”\の作品を、人が辛苦して歡賞せんとする如く、都市の塵煙の中から出現したものでなければ、文學として愛し且つ憬れるに足らぬと考へてゞも居るらしい地方の諸君には、今は殆と目隱しと同樣なる拘束があるのである。早くさういふ薄暗い時代が過去つてしまへばよいと思ふ。
 文學と文字と、この二つのものゝ混同は昔からであつた。若し迷信ならば歴史ある迷信である。大抵の國には文字といふ語から絶縁した文學といふ語は無いのである。文學は即ち文字を以て書かれたものといふことで、文字あつて始めて文學ありといふ考から、最初は其以外のものを文學の中には入れなかつたのである。しかも其斷定の條理が無かつたことは、日本人ならばすぐに判る。例へば萬葉にはその輯録の時から、數百年前の歌までも載せてある。古事記書紀には神代以來の、尊い物語の色々が傳はつて居る。それ等が我邦に發生した全部で無いとする以上は、文字以前の文學といふものがあると同時に、文字以外の文學といふものも、亦少なくとも上代には盛んであつて、文字の教(346)育の普及と共に、段々と其區域を縮小して來たことも推測に難くないのである。さうしてこの内外の二種の間には、各時代を通じて不斷の脈絡系統こそはあつたが、雅俗貴賤といふが如き類の差別は、本來は少しも有り得なかつたのである。
 勿論文字に由つて先づ征服せられたのは、朝廷又は寺院周圖の文學であつた。少しでも價値ある口と耳との文學ならば、筆を役して之を保存しようとする者が、幾らも其邊に居たからである。之に反して夙く村に生まれ、もしくは旅をして田舍に入つて來たたのだけは、たゞ古來の方法に遵つて傳承するの他はなかつた。特に文字に録して置く力も無く、又少しも其必要が無かつたのである。それが何れの方面に殊に年久しく行はれたか。文字の新威力に拮抗して、如何に忠實に其本分を盡し、寧ろ往々にして彼に在つては不可能なりしものを、如何にたやすく爲し遂げて居たかを考へる爲に、試みに自分は義經記と稱する一篇の物語を、例に取つて見ようとするのである。是が必ずしも美しい東北文藝の全部を、代表して居たと認めるからでは無い。曾ては道の奧の野に咲いた藝術が、黄金よりもなほ弘く國中を周遊して、終には都市の文字の文學に、永く其跡を留めて居るといふことを、今は却つて忘れてしまつた人が多いが、幸ひにしてまだ此方面には、辿つて尋ねて行かれる一筋の路が殘つて居る。延びて繁るものは必ず根あり、流れて潤ほすものには必ず清き源泉があるといふ事實を實驗することに由つて、出來るならば標準文學の狹苦しい統一から、脱却して見たいと思ふからである。
 
       義經記の成立
 
 我々の祖先の中世の生活に、義經記ほど親しみの深かつた文學は他に無からうと思ふが、それと同時に後々是ほど粗末に扱はれたものも亦少ないやうである。それには江戸といふ土地が此物語と、あまりに縁が無さ過ぎたといふこ(347)とを考へて見なければならぬ。富士を見ると曾我兄弟を思ひ出すが、あの麓を流れた黄瀬川の岸で、生まれて始めての對面をした兄弟は、後に不愉快な仲たがひをして居る爲に、古蹟の感興を割引してしまつたのである。鎌倉へは靜御前が來たばかりで、判官は首になつても、腰越から中に入ることを許されなかつた。さうして武藏には兄將車の足跡ばかり多い。つまりは此物語が、關東の土には合はなかつたのである。趣味の相異が親と子、兄と弟を疎隔することは、昔といへども免れ得なかつたのである。
 近代は多くの活字版が、再び義經記を我々の間に流布したけれども、其親本といふべきものは一つである。現在の定本が版になつた最初は、はつきりとは知れぬが江戸期の初らしく、三百年より古いことは無いやうである。さうして其時に始めて著述したもので無いことだけは誰も認めるが、以前寫本で行はれて居た期間が、百年か百五十年かはた尚ずつと久しいかは、之をまだ決することが出來ぬのである。況んや其内容が如何に變化して來たかの問題の如きは、實は考へて見ようとした人も少ないのであつた。
 平家物語などゝの一番大きな相違は、義經記には異本といふものが至つて少ない。平家の方は幾つとも無い別系統の寫本が見付かつたことは、山田教授も既に報告せられた通りで、源平盛衰記などもあまりに改惡が多いけれども、實は新しい極端な異本である。平家を盛衰記の程度にまで、變化させて行くことも元は出來たのである。然るに義經記ばかりは一向に其跡が認められぬが、單に此事實のみを以て或ひは寫本流傳の時代の甚だ短かつたことを、想像する者があるなら速斷である。何となれば人が口から耳と語り次いで、寫本なんかは入用で無かつた場合が、存外に永く續いたかも知れぬからである。
 實際又平家なども同じことだが、物語の流布に携はつた者は、もとは主として座頭であつた。座頭には目が無いから本などの入用は絶對に無かつた。然るに平家物語にはあれだけの異本がある。不思議だと言つてよいのだが、流派の分立があまりに甚だしく、且つ學問階級がそれ/”\之を後援した爲に、盲も是非自分の本を持たねばならなかつた(348)のである。之を書くことに助力した人は、又讀む方にも參與し、琵琶拔きに所謂素讀みをしたい希望が早く現はれた。我々の讀むといふことは語る方の眞似であつた。音讀をしない場合は見ると謂つて讀むとは言はなかつた。斯うして段々に最初の目的以外の、寫本といふものが生じたのである。
 此等の幾つかの事情が伴なはなかつたら、平家にも異本は無かつた筈である。自分が最近に實驗したのは、信州には諏訪大明神御本地と稱して、地方限りの語り物がある。甲賀三郎大蛇の形に化して地下の諸國を巡り、後に地上に戻つて來て諏訪の大明神と爲るといふ飛んでも無い話である。近々に章句を版にして置きたいと思つて居る。諸處を尋ねて十種に近い寫本を見たが、何れも百年そこ/\より古いものは無かつた。しかも意外なことには南北朝の末、延文年間に書いたことの確かな、安居院の神道集といふをかしな漢文に、同じ筋の話がちやんと出て居るので、つまり農民の隱居などにも假名文字が書けるやうになるまで、三百年近くも本無しで元の形を保存することが、昔の人には出來たのであつた。それが又古事記が精彩ある神代の記録を、世に留めた理由でもあるので、現にアイヌの中の稗田阿禮などは、今だつて文字を利用しようといふ念は無いのである。
 昔の文字の教育は殆と京ばかりで、僧でも田舍に居る者は諳誦が仕事であつた。遙々九州から豆を脊負うて學問をしに來たといふ話もあり、地方にはその機會は至つて少なかつた。聽衆は物語の愛好者であつたけれども、やはり上下を通じて皆一種の盲であつて、寫本の必要の無かつた點は、語る座頭も同樣であつた。從つて今日異本の少ないといふことは、義經記の京へ入ることの遲かつた證據にはなるかも知れぬ。又之に携はつた者が偏土をあるいて居たことを意味するかも知れぬ。併しそればかりで此物語の起原の古くないことを推定するのは、例へば安居院の神道集が我々の目に觸れなかつた場合に、かの甲賀三郎の話を天明寛政より後に始まつたと解するやうな無理である。殊に其内容が果して古い儘であるか、はた又京都へ來てから此樣に變化したものか。其變化も唯一つしかなかつたか否かに至つては、別に他の方面の資料を借り來つて、落付いて考へて見なければ何とも言へぬのである。
 
(349)       座頭の交通と割據
 
 義經記の今ある本は、始から讀み本であつた。盲で無くとも一人の語り手が、之を管轄するには餘りに込入つて居る。しかも其部分に就いて見ると、例へば石山寺の紫式部のやうに、或才人が紙を伸べ筆を捻つて書き出したものとは、如何にしても考へられない。然らば是も亦一種の結集であつて、誰かゞ物好きに又は辛苦をして、之を中央へは持ち寄つて來たのである。京都大番の組織が改まつて、追々に上つて來る國々の武人團が、假屋を構へて共に住むことゝなつてから、地方風俗の都の生活を動かしたものは、獨り二三の歌や語り物のみでなかつたが殊に徒然なる旅宿の伴侶として、遠い國元から取寄せる品としては、是ほど手輕なものは先づ他には無かつたので、所謂座頭の京登りの如きも、本人には又別途の目的があつたにしても、少なくともこれが最初の手引きにはなつたのである。
 地方には盲人の數が、今よりは遙かに多く、その生存の便宜の得にくかつたことも、亦後世の比では無かつたらしい。さうして金をためて所謂京登りをするといふ習慣も、亦決して江戸時代以後に始まつたことでなかつた。備後の神石郡の古風の田植唄には、
   おん坊京に上るなァら
   びや箱なんぞは置いて行け
   あとでつるりやつんつるりや
   彈いてなり慰まう
といふ文句なども殘つて居て、按摩針の御用も無く、三味線も筑紫箏もまだ知らなかつた時代から、ぐわらん/\と鳴る琵琶の箱を脊負うて、山坂を越えて遙々の都まで、便宜があればこそ出て來たのであつた。奧州出羽の處々の峠(350)には、狼や大蛇のやうな怖しい山の神に、琵琶の一曲を所望されたといふ座頭の昔話が、幾つも殘つて居るのであつた。しかもさうして出世をしたのは何人かに一人で、他の多くの田舍に止まつた者も、何で活計を立てたかといへば、やはり亦琵琶と物語とより他には無かつたのである。
 越後地方までは近世になると、上方を眞似て平家を語る座頭が居たが、全體としで關東以北の地には、此物語の流行し得ない事情はあつた。しかも人間の盲が昔ほど多かつたと同時に、源平兩氏が合戰を始めるより遙か前から、琵琶法師といふ者のあつたことは、澤山の證據がある。光源氏が須磨に流寓して居た時に、明石の入道が其無聊を慰めんとして、琵琶法師の眞似をしたのは、物語だから信じられぬなら、後鳥羽院の熊野御幸の御旅宿へは、泉州でも紀州でも、此者が召されて一曲を奏して居る。それは所謂盛者必滅の理を説くには、少しまだ早過ぎた時代の事であつた。座頭だからとて平家を語るのが本筋ときまつたわけでも無い。たゞ彼等の間には流派の軋轢があつて、夙く中央の形勝を占めた者が、官府の力を挾んで號令しようとしたばかりであつた。近世の所謂當道を否認した盲群の中には、生まれた村々に黙つて引込んで居た者と、起つて大いに之と抗爭した者とがあつた。寶暦前後の西國の大訴訟は、瞽幻書と題する記録が殘つて居る。長門と筑前の盲人の頭目には、二三の刑戮に觸れた者さへあつたが、土地舊來の慣習はどこ迄も彼等を援護したのみならず、尚背後には天台本山の、尻押といふものが實はあつた。全體に此方面には、醜怪なる蔭の事情が中々多かつたやうに思ふ。比叡山の如きは最後まで利權恢復の望を絶たず、現に維新の際にも人を東國に派して、新たな盲人組織を試みた形跡があるが、差當りの入用には其點まで説くには及ばぬと思ふから省略する。
 九州などの盲僧と稱する者は、もと悉く一寺の住職であつて、しかも琵琶彈きは其主業であつた。彼等が旅行の習慣を利用して、之を細作密偵に使役したものらしく、暴露して敵に殺されなかつた者は歸つてから優遇せられ、島津氏などでは鹿兒島と日向の某地に、隨分いかめしい盲僧派の本寺があつた。しかも配下の多數は寺禄のみでは養はれ(351)ず、竈拂ひと稱して夏冬の土用に、人家を巡囘して地の神の祈?をした他に、言はゞ餘興として色々の物語を彈き、武家の子弟などには物好きに就いて學ぶ者もあつた。それが今日の薩摩琵琶の起原である。筑前の方では明治になるまで、琵琶の盲僧は宗教行爲の外に出でなかつたのが、橘某なる者が薩摩に倣うて、思ひ切つて俗曲を行ふことにしたのである。其他まだ詳しくは聽かぬが、肥前にも同種の寺があり、代々盲目を以て相續する爲に、不自然な所業もあつたと傳へて居る。肥後ではケンギウ(檢校)と謂ふのがこの盲僧のことであつた。八代郡の松求麻邊にも小さな中心があつて、是も地神經を讀んであるく外に、興がる早物語や作り物語の類を、招かれては語つてあるいたので、その文學の殆と全部が、最近になるまで口から耳への傳承に限られ、從つて境から外へは出なかつたのは、言はゞ中央の座頭檢校が、目のかたきにして之を近寄せなかつた爲である。
 つまり平家物語だけは記録の文學として、既に優越の地位を付與されて居るが、本來はやはり一時代一地方の産物で、單に歴史の偶然から後非常の流行を見たといふ迄である。即ち其舞臺といふのが京都から關門まで、瀬戸内海を取繞らした最富裕の地方であり、同時に中古以來の文字教育の進路と、それが略一致して居た御蔭に、喧嘩もした代りには元の形がよく保存もせられたので、如何に古かつたところが奧州などの文學が、本ばかりでは之を味はふことの出來なかつた理由も、亦此裏面から推測することが出來るのである。
 
       讀み本としての義經記
 
 單に今日の流布本ばかりで判斷すれば、義經記が平家物語の弟分であり、或ひは弟子であることに議論は無い。例へば義經の一生涯で、最も華やかなる一谷屋島壇浦は、僅かに二三行を以て片付けてある。佐藤忠信は非常な働きをして居るに反して、兄の繼信のことは一言も説かずに、後日奧州の親の家へ行くと、盛んに二人の兄弟を語つて居る(352)のは、要するに普通の平家に其部分を讓つて、もう改めて繰返すことをしなかつた結果である。しかも此が最初の義經の物語の、うぶの形であつたといふことは疑しい。と言ふよりも此方は非常な寄せ集めの繼ぎはぎで、從つて不必要に引延ばしてある。一言でいふならばまづ感心せぬ本である。
 それを今少し細かく分解して見ると、八卷の義經記は三卷以上が生ひ立から出世まで、四卷以下が没落譚になつて、其中間の世盛りといふものが些しでも説いてない上に、其前後とても一續きの平らな敍述ではないのである。言はゞ幾つかの物語のかたまりを、竝べて見たといふ迄である。從つて前に私が物語の舞臺と名づけたもの、即ち語り手と聽き手とが共に知つて居らねばならぬ場處が、凡そ六つほどに分れて居て、それ/”\少しづゝ異なつた彩色を以て、部分的に非常に詳しく描かれて居る。其中でも京と奧州とがあと先に二度づゝ、義經活躍の舞臺となつたのは當然である。鎌倉鶴ヶ岡も靜御前が出て舞ふ爲に、必要であつた事情は察せられるが、獨り意外なのは吉野山の記事である。僅か十日の間の雪の中の漂泊、さまで華々しからぬ峯の衆徒との交渉の爲に、特に丁寧なる脚色を費したことである。察するところ謠曲や幸若の舞に見る如く、義經の物語にも別々の幾篇かゞあつたのを、ほゞ年月の順序に繋いで見たといふばかりで、つまりは相應な長さの讀み本とする爲の、新しい細工であつたらしいのである。
 從つてよく見ると色々の喰ひ違ひがある。例へば鬼一法眼から兵法の秘書を取出したと説かんが爲に、義經は中途で一度、中仙道を通つて奧州から京へ還つて來なければならなかつた。辨慶が家來になるのも其際の話になつて居る。それから伊勢三郎が見出される爲には、保護者の金賣吉次と一旦は手を別つて、上州松井田の邊まで餘計なまはり路をしなければならなかつた。一度に趣向を立てたものならば、斯んな不自然なことはしなかつた筈である。ところが何か理由があつて、伊勢三郎は妙義山麓に隱れ住み、それが最初の家來として召し抱へられたことにしなければならなかつた。平家や盛衰記を見て心付くことは、義經の家來としては辨慶よりも、伊勢三郎の方が遙かに多く働いて居ることである。辨慶が家老格に引上げられ、勸進帳の主人公と迄もなつたのは、全く義經記以後の變化であつた。
(353) 斯ういふ粗末な繼合せのセメントは、多分京都製だらうと思はれる。或ひは多くの文學書に例のある如く、最初の筆録者の手細工であつたかも知れぬ。一人の座頭が一囘に語るのは、精々三段か四段かであつた。それが大いにはずんで毎晩のやうに喚ばれて居るうちに、追々に新しい場面を附加して行つた形跡は、平家などにもよく表はれて居る。太平記の如きも始と終と、文體も違へば取扱方も變つて、一遍に出來たもので無いことは誰でも認める。それを書物にする際に量を貪り、をかしな統一の無いものにした例は、盛衰記ばかりでは無い。即ち語り始めた時の動機が色々だから、物語の中心が次々に移つたので、義經記などでも義經を主人公にしたのは却つて前半分の方に限られ、吉野山では佐藤忠信、鎌倉では靜御前、北國落では武藏坊、高館では鈴木兄弟、十郎權頭兼房といふやうに、シテの役は一貫しては居なかつた。
 之を要するに現在の義經記は、合資會社の如き持寄世帶で、各部分の作者産地はそれ/”\に別であつた。京都は兎に角、吉野山中の寺生活などが、到底奧州に居ては語れなかつたと同じく、奧州及び之に通ふ道筋の物語は、京都居住者の想像し得る境ではなかつた。即ち此方面に住んで語りを職とする者の、參與して居たことを推定する根據である。此と同時に吉野山中の出來事が法外に詳しいのも、必ずそれだけの理由があつたことで、將來の研究には有用な資料かと思ふが、殘念ながらまだ確かな手掛りはない。仍て差當つては此等の關係を引離して、特に奧州の部分が奧州に産した事情を、今少しく考へて見ようと思ふのである。
 
       奧淨瑠璃の元の形
 
 私が奧州系かと考へる義經記の特色は、殊に第七卷の北國下り以下によく現はれて居る。其第一は地理の精確といふことである。文治二年の二月二日、義經は主從十六人、山伏の姿に身をやつして、先づ近江の湖を海津へ渡り、荒(354)乳山を越えて越前に入り、それから諸處の關と船渡しで苦勞をしつゝ、越後の直江の津に着くまで、地名の順序などにをかしいと思ふ所は見出し得なかつた。直江は北陸道の中途である故に、それ迄は羽黒山伏の熊野に參つて下向すると謂ひ、それから先は熊野山伏の羽黒にある者と僞れば、言葉訛りで疑はれることはあるまいと謂つて居る。それから此地で一悶着あつて後に、船を傭うて乘出したところが、海上が荒れたので遠く走ることならず、僅かに寺泊に來て上陸したと謂つて、それから又順次に沿道の地名を擧げて居る。一二の今の地圖から見出し得ぬものはあるが、大體に海邊傳ひに、鼠ヶ關から出羽に入り、三瀬《さんぜ》を越えて庄内の大寶寺には入つて居る。單に精細を粧ふ爲ならば、この樣に迄するには及ばなかつた。それから最上川を傳うて清川からあひ川の津、大體に今の陸羽南線と同じ路を玉造に越えて、平泉へは向つたことになつて居る。斯うした長々しい驛路の情景を語つて興味を催し得たのは、勿論其路筋を利用した人々でなければならぬ。又聽く人がよく知つて居る故に、滅多な事も言へなかつたのである。それが同じ題目を語つた舞の本などを見ると早くも受賣の大間違ひをして、姉羽の松、龜割坂などゝ、麗々と二度まで路順を顛倒して居る。實際羽黒の山伏が開いたかどうかは知らず、少なくとも此が足利時代以後の、奧州人の京街道であつた。冬分などは東海道を通つたかとも思ふが、日本海側の方が遙かに距離も近く、其上に便船次第、海路を利用することも容易であつた。それを十分に實驗した者が作者であつたとすれば、京に住んでかりそめに此方面に旅をしたといふだけの、因縁では無かつた筈である。
 第二の特色は山伏の作法の詳しいことである。辨慶は熊野に生まれたといふのみで、もと法師であつて修驗道には携はらなかつたのに、曾て西塔に住んであらまし人の話を聽いたと稱して其實は非常な通であつた。義經は越前の國府から、用でも無いのにわざ/\平泉寺に參詣し、衆徒と應對して危く馬脚を露はさうとして居るが、そんな場合にも辨慶の氣轉に由つて、言ひ遁れたことになつて居る。京の君を羽黒山のちごだと僞ると、花の枝を折つて贈らうとする者があり、又は横笛の一曲を所望する者がある。それをも仲に立つて然るべく辨慶が取なしたことになつて居る。(355)其他庄内では田川太郎實房の子の瘧病を祈?して見たり、又直江の津の笈さがしの場合でも、聊か事を好むに近い點まで、山伏の眞似を試みて着々と皆成功して居る。山伏もしくは之に接近して居た者でなかつたら、到底此だけの物語を語ることはむつかしく、又筋を運ぶ爲にはそれ迄の必要は無いのであつた。つまりは奧州邊土の生活に修驗道の交渉が多く、誰しも若干の興味を之に寄せて居た時代相を、暗示するものと解してよいのである。所謂出羽三山の歴史は今や甚しく埋没した。熊野と羽黒との交通は、尋ねて見ることも困難である。しかも熊野が此方面に向つて、曾て盛んに傳道した痕跡は遺つて居るので、古くは名取の姥の夢の歌の話、之に次いでは各地の熊野神社と、是に因縁ある澤山の鈴木氏は、今尚其名殘を留めて居る。熊野の神人はもと三家、所謂宇井榎本鈴木の中で、宇井は早く衰へ榎本はもう神と別れたが、鈴木の一姓のみは結合の力強く、三河其他の二三の地方に於ても著しい繁榮をした。殊に東北に於ては、久しく其傳銃を保持して居た。それが義經記の成長には、隱れた關係を持つて居たらしいのである。
 だから第三の特色として、龜井兄弟の武勇が、極度に花やかに描かれてあるのである。龜井六郎の義經に隨從したことは、平家物語には見えて居らぬ。高館落城の時に年僅かに二十三、即ちずつと晩年の奉公人であつた。彼の兄なる鈴木三郎は、衣川合戰の前日に尋ねて來たことになつて居る。今更武運の傾いた大將に仕へるにも及ぶまいといふ忠言を斥けて、義の爲に一命を棄てた。けなげな討死の標本ともいふべきものであつた。鎌倉殿より給はつた甲州の所領を擲つて、單身で下つて來たと謂つて居るが、尚故郷なる紀州の藤代に、幼弱の一子を殘して來たとあるのは、我々の注意を要する點である。藤代は和歌山の方に近く、有名な熊野王子の一つであつたといふのみで、熊野信仰の中心からは大分離れた土地であつた。それが特に龜井兄弟の本居となつて居るのは、或ひは特別の事情があるのでは無いか。兎に角に今では如何なる種類の人々の中から、此物語の出たかといふことは斷定しにくゝはなつたが、少なくとも奧州平泉地方に住んで居た鈴木一族の社會上の地位が高くなると共に、斯ういふ自分たちの家の譽れとなる物語が、単なる前代のローマンスといふ以上に、聽いて面白く又嬉しいものであつたことは察せられる。
(356) それから尚熊野の爲に氣を吐いたといふ點では、武藏坊辨慶も亦決して人後に落ちなかつた。義經記の説に從へば、辨慶の父は熊野別當辨セウ、母は二位大納言師長の女とあつて、共に有りさうでしかも無い人であつた。胎内に在ること十八ヶ月、奧齒まではえ揃うて生まれたと稱し即ち如法の鬼子でもあつた。しかうしてその殆と半神的なる猛勇に至つては、既に三尺の童子と雖も之を畏敬せざる者は無いのであるが、或ひは又辨慶三兄弟などゝも謂つて、鈴木龜井の同胞なるが如く考へて居る者もあつたやうである。兎に角に今日の語を假りて言ふならば、義經記後篇は正しく熊野及び熊野人の爲の宣傳であつた。
 
       家と物語と
 
 佐藤庄司祖孫三代の忠節といふことも、やはり單なる武士道の典型といふ以上に、之を聽いて感動する人が多かつたことが想像される。秀衡將軍の家も系圖では佐藤であるが、信夫の繼信忠信兄弟が有名であつた爲に、後には彼等の末裔なることを信じない佐藤家が少なくなつた。此一族に取つては義經記の一書は、今尚うれしい祖先の記念であつて、歴世之に由つて自ら勵み、家の名を重んぜしめた效果は絶大であつた。今更傳統の史實に合致すると否とを問ふ必要は無いのである。況んや質朴なる昔の人々には、古く語られる物は皆之を信ずることを得たので、しかもそれが作り事でもよいから、是非聽いて置きたいといふ類の話のみであつた。物語の古い家々に歡迎せられた所以である。只殘念なことには衣川に籠城したといふのは、僅かに十何人かの他所から來たといふ武士ばかりで、寄手敷萬人の軍勢には土地の名族も居たであらうが、其武名は説き立てられる機會が乏しかつた。從つてたま/\現はれて追はれ殺される固有名詞も、努めてよい加減の、不名譽を感ずる者がそこいらには無いやうな苗字ばかりであつた。それも半面から聽者の何人であつたかを想像させる資料である。
 要するに義經記の主要な部分が(當時さう呼んで居たか否かは別として)、京都に持つて出て恥しくない程度にま(357)で、既に奧州の地に於て成熟して居たのは、獨り語り手の技藝と熱心との力のみで無く、久しい間ちやうど頃合の聽衆が地元にあつて、何度も/\所望して語らせて居るうちに、追々に話が斯うなつたのである。それには勿論多くの天才の空想と、多くの怜悧なるボサマたちの暗記とを必要としたのだが、更に其背景には住民の家を愛し又祖先を思慕するの情と、熊野の信仰とが潜んで居たのである。歴史の記録中に何の證據も無いばかりか、寧ろ彼とは矛盾するやうな言ひ傳へが、うそでも無ければ又作り話でも無く、時としては之に基いて、正史を増補し新訂せんとするまでの、實力を具へて來たといふのには、別に又それだけの理由があつたわけである。
 ところが其理由といふものが、多くの傳承文學に在つては之を發見することが容易で無かつた。從つて我々は?故人の妄誕の癖を邪推して見たり、又は文藝に固有の目的計畫あること、例へばソロン・リクルゴスの法典の如くであつたものと考へて居たが、幸ひにして今ある義經記の章句の中には、偶然にまだ色々の元の面影が殘つて居る。之に由つて獨り其起原の東北の田舍であつたことを知るのみならず、世を經て物語の追々に發芽し且つ成長して來た自然さを幾分なりとも感じ學ぶ手がゝりが有るのである。作者が是非とも一段とえらい人、秀でた才能を持つ人なることを要せず、新年の勅題に向つて何萬の獻詠ある如く、歌人俳人短篇小説家といふ者が、殆と地方の青年の數だけもあつて、彼等は單に有名と無名との差別だけを、眞劔になつて爭つて居るといふ現在の日本風も、此で始めて少しばかり説明が付くのである。
 
(358)     二 清悦物語まで
 
       生き殘つた常陸坊
 
 義經記成長の事情を窺ひ知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよ/\泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主從僅かに十三人で、寄手の三萬餘騎と激戰するほどの大切な日に、生憎其朝から近きあたりの山寺を拜みに出て籠城の間に合はず、其儘還つて來なかつた者が十一人あつたといふ點である。其十一人の大部分は名が傳はらぬが、たゞ一人だけ知れて居るのは常陸坊海尊であつた。それが其通りの歴史であつたとすれば是非も無いが、人の口から段々に大きくなつた物語としては、斯樣な插話は見たところ別に必要も無いので、もし必ずさう語るべきであつたとすれば、別に隱れた理由が何か有つた筈である。
 ところが一方には足利時代の下半期、即ち義經記の京都邊まで盛んに行はれて居た時代に、此とは獨立して別に右の常陸坊海尊が、まだ生きて居るといふ風説が諸國にあつた。殊に東北では近い頃まで、海尊仙人を固く信ずる者があつて、今日でもそれは其筈だと謂ふ人が無いともいはれぬが、實は此噂が一箇處一口では無い爲に、却つて始末が惡いのであつた。例へば本朝故事因縁集には、海尊富士に入つて岩の上に飴の如き物あるを見付け、之を食つてから不死になつた。近代は信濃の山奧で、其姿を見た者があつたとあつて、その近代とは江戸の初のことである。今から(359)百五六十年前にも、能登と加賀越後に又別口の話があつた。それよりも更に有名なのは會津城下の實相寺、第二十三世の桃林契悟禅師、其號を殘夢又は秋風道人と云ふ者は即ち海尊だといふことが、既に林羅山の神社考などにも見えて居る。しかも此人なりとすれば、非常な長命であつたが天正四年の三月に、目出たく大往生を遂げて居つて、それではえらく都合の惡いことには、仙臺以北の海尊仙人の如きは、其後又五十年もしてから漸く出現して居るのである。つまりは互ひに相手を贋物としなければ、成立たぬ話ばかりであつた。
 尤もこの殘夢和尚などは、必ずしも自らさう名乘つたのでは無かつた。たゞ第一には年齡を言はぬ。第二には源平合戰の顛末を、あまりに詳しく知つて居る。第三には人が貴僧は常陸坊であらうと言ふ時に、微々として笑ふのみでさうで無いとは決して答へなかつた。即ち何か世間の方にもさう評判するだけの根據があつたのだが、單にそれだけの事で濟むならば我々にも出來る。一般には足利時代は、現世福コの盛んに欲求せられた時代で、鞍馬西ノ宮等の福神化と共に、長命談も亦多く行はれた。私が次に説かうと思ふ若狹の八百比丘尼も其一つなれば、又車僧七百歳といふのも有名であつた。さうして彼等は皆單に一人で靜かに仙人になつて居たのみで無く、稍之を世人に見せびらかす形があつたのである。
 會津實相寺の殘夢和尚の處へは、石城の方から無無といふ老人が折々來た。逢ふといつでも源平合戰の話ばかりして居たといふ。曾我の敵討の朝別れたまゝだつたなどゝ、話して居たとさへ傳へられる。
   無し無しといふはいつはり來て見れば有ればこそあれ元の姿で
   無し無しといふもことわり我姿あるこそ無きのはじめ也けり
 斯んなをかしな禅問答の歌までが、よくは解らぬ爲に疑の種に算へられたらしい。又福仙といふ鏡磨きが時々此御寺の近くに來た。それを見て和尚がある時、あいつは義經公の旗持ちであつたと謂つた。それを聞いて福仙も負けぬ氣になり、和尚樣こそ常陸坊海尊なのだと謂つたとかで、すつかり土地の人が信じてしまふことになつたのである。(360)近くは又天明年中にも、上州伊香保の木樵で下駄灸といふまじなひをして居た親爺が、やはり義經の旗指しであつて、海尊から此名灸の傳授を受けた爲に、長命して居るやうに評判された。いづれも本人は大抵白?せず、世間が段々にさうしてしまふのには、何か曰くのあつたことらしいのである。つまりは夙くから常陸坊は高館で死なず、さうしてまだ生きて居るといふ風説が無かつたら、到底次々に斯んな出來事も起らず、一方には又いつまでも此種の出來事が續く爲に、どうでも此人を生かして置かぬと、昔話が成立たぬから困るといふ樣な事情が、古い昔からつい近年まで、どこかの隅に隱れてあつたのでは無いかと思はれるのである。
 
       清悦出現のこと
 
 私が殊に話をして見たいと思ふ清悦物語なども、疑も無く斯うした社會相の間から、頗る自然に發生したものゝやうである。清悦の物語は南部叢書の一册として遠からず出版するさうだが、今日はまだ寫本時代で、是は又不思議なほど異本が多い。見た人は多からうが印象は一樣で無いわけである。其異同をざつと考へて見るならば、幾分か奧淨瑠璃の衣川合戰談、即ち所謂奧州本の義經記、及びそれから發達したかと思ふ義經記流布本、乃至は能や幸若の種々の物語との、互ひの關係が窺はれるだらうと思ふ。
 現在ある清悦物語の寫本は、殆と持主毎にといふ程の相違はあるが、要するに至極簡單なもので、義經の家來の或一人の、生き殘つて長命したといふ者の直話である。元和二年といへば高館落城の時から四百三十年近くも後のことだが、小野太左衛門といふ柴田郡の武士が、平泉附近の山に遊んで、不思議な老人に行逢つた。源平合戰の事を詳しく知ること、丸で見て居た人のやうであつた。色々と尋ねて見ると、それが果して義經舊臣の一人であつた。落城の際には常陸坊海尊と只二人、隨分よく働いたが誰も殺してくれないので、たうとう生き殘つたと稱して居た。話が始(361)から義經記とは少しちがふのである。
 さうして其後の四百何年間、生きて居た理由も亦別であつた。前年秋の一日、二人の同僚と共に衣川の上流に出て釣をして居ると、かはつた山伏が出て來て、立寄つて夕飯を食へとすゝめる。行つて見ると立派な住居であつた。皮も無い魚の其色朱の如くなるを料理して食はせた。名を問へばニンカンと答へたと謂ひ、又一説には感人羮とも傳へて居る。即ち俗間説く所の人魚のことらしく、之を食した御蔭に此通り長命であつたので、格別此人の修養の力でも無かつたのだが、小野は深くも之を尊敬して、就いて兵法を學ぶこと六箇年、或時は内々藩主貞山公にも勸めて、一度は御對面なされたと謂つて居る。赤漆の小筥一つ、曾て肌身を離さなかつたのを、殿樣だけには御目にかけた。其中には紛れも無い九郎判官直筆の證文、又吉野記と題する一卷の記録があつたなどゝ書いてあるのは面白いが、他には見た人も無かつたやうである。
 不思議なことには右の老人は、たゞ義經の家來といふのみで、在りし世の本名は語らず、清悦といふ盲人のやうな名を用ゐて居た。人が義經記を讀むのを聽くと、そんな事は無い、それは間違ひだと謂つて、ぽつ/\と話したのが此本だとあつて、如何にも小野太左衛門自身の筆記であるかのやうに見える。併し實際は決してさうでなかつた。
 近頃仙臺叢書の一部として覆刻した東藩野乘といふ舊記には、漢文の清悦翁傳がある。之に依れば清悦物語の始めて本の形に爲つたのは寛文八年、即ち小野氏が平泉の山で此人に逢つてから、五十一年の後である。もう其時分には雙方とも此世に居なかつたことは確かである。小野は固より人魚は食はず、清悦自身も亦寛永七年に一度は兎に角死んだことが、現に其物語の中に書いてあるからである。然らば聽いてから此本を書くまでの間に、亦何度とも無き語り傳へがあつたことは明白で、或ひは座頭の如き專門家も之に參與して居たのかも知れぬ。又さう思つても差支ない箇條が幾らでも見出されるのである。
 
(362)       鬼三太殘齡記
 
 清悦の物語といふものは異本が多いのみならず、其異同が信州の甲賀三郎のやうに、字句の端々だけに止まつては居ない。時として重大なる内容、又は標題さへも變つて居ることがある。最近私の見た東北大學の圖書館に在る一本の如きは、書名を鬼三太殘齡記と稱し、序文に歳は重光大康洛に在る臘月十日とあつて、仙臺の城下で人の話を筆記したと謂つて居る。即ち辛巳の年のことで、多分は元禄十四年、淺野内匠頭が腹を切つた時分の事である。是も明らかに清悦の話とあり、又人魚を食つて長命したことも述べ立てられ、衣川合戰の前の日に天地晦冥にして人の顔黄に見え、北上川逆流して大蛇が現出したなどゝいふ點まで一つであるのに、談話の骨子ともいふべき部分が、他の清悦物語とは異なつて居る。最も顯著なる例を列擧すれば、第一には鬼三太記の方では義經が死んで居ない。他の一方では首になつて鎌倉に送られ、含み?に由つて、頼朝の誤解は釋け、讒言をした梶原が刑罰に處せられて居るに反して、此では中尊寺の三位房法印とかに諫められ、辨慶ばかりを見殺しにして山越しに落ちたと書いてある。杉目行信と云ふ容貌最もよく義經と似た者が、既に北國の道中から身代りに立ち、爰でも義經と名乘つて死んだのだと謂つて居る。次には此方では清悦は自ら堂々と鬼三太の舊稱を名乘つて居る。彼は義經記に於ては合戰の最初に、首の骨を射られて一箭で死んだとあり、堀河夜計の際の如き花々しい働きは無かつたのを、此本では大變な猛者にしてしまつた。全體御厩の喜三太の如きは、近世の鬼一法眼の芝居などでこそ隨分の儲け役であるが、實は義經記特製の人物に過ぎなかつた。それが鬼三太と書いてくれなくては困るの、雜色といふものには二種あつて自分はその上等の分だのと、餘計な辯明をして居るのは仙人らしくない。それから清悦物語の方では常陸坊と二人、どうしても死ねなかつたと手輕に書いてあるのを、殘齡記の方では彼奴はけしからぬ男だ。命を惜むのみか主君大切の際に、御手元金を持つて立退(363)いたと謂つて居る。それから龜井六郎が無茶者で困つた話もあり、更に面白いのは會津に居た福仙といふ鏡研ぎが、或ひは喜三太の成れ果といふ説もあつたのを、ひどく氣にして取消して居ることである。又伊達政宗が見たといふ赤い筥の中には、鬼一法眼秘傳の一卷があつて獻上したやうにも書いてある。會津方面には鬼一法眼の娘、皆鶴姫の遺跡といふものゝあるのを妙だと思つて居たが、やはりこの福仙と關係して、古くから話があつたらしいことを、却つて斯んな事から心付いたやうな次第である。
 此以外にも北國下りの路筋がちがつて居る。途中で繼信兄弟の家に立寄るには、會津を通過した方が地理に合ふと思つたらしい。此通り何から何までも大ちがひで、強ひて普通の清悦物語と共通の點を求むれば、辨慶が腕力ばかりで智慮乏しく、屁理窟を言つては泰衡兄弟の感情を害し、是には義經も困り拔いて、始終小言ばかり謂つて居たなどといふやうな、をかしくも無い點ばかりだ。殊に鬼三太の方は辨慶龜井を惡く言ひ、しまひには辨慶は坊主で無い。髻を切つて髪を短くして居たので、山伏のやうに見えたのだ。立往生といふのも實は溺死で、衣川の岸近い岩と岩との間に挾まつて、倒れなかつたばかりだなどゝ、自分は生き延びて遁げた癖に、人にけちを附けるやうなことばかり言つて居る。要するに始から終まで、假にも史書の闕を補ふといふが如き態度ではなかつたので、もしこんな話が後代に及んで珍重されたとするならば、それはもう義經記も耳に蛸で、何か新しく且つ笑ふやうなものを求めて居た人心に投じたもの、言はゞ三馬の忠臣藏偏痴奇論などゝ同じく、所謂ヲカシ文學の不完全なる發育に過ぎなかつたと見てよいのである。
 
       義經勲功記
 
 ところが爰に又一つの不思議がある。前に申す鬼三太殘齡記は常陸坊海尊を惡黨の如く罵つて居り、普通の清悦物(364)語も私の見た本だけは、少なくも話者清悦は常陸坊に非ず、「聞けば常陸坊もまだ長命をして、仙北の方に住んで居るさうな」と、よその噂にして語つて居るにも拘らず、一方には仙臺以北、平泉地方の一帶に亙つて、今尚清悦とは海尊さまの事と、思つて居る人が多いのである。現に清悦物語が本に爲つたと云ふ時から、又十何年もしてから後に、宮城郡岩切の青麻權現の岩窟に現はれて、神職鈴木氏の先祖鈴木所兵衛と對談をしたといふ一の異人などは、我は常陸坊海尊である、今は名を清悦と改めて居ると、明らかに自ら名乘つたと傳へられる。この所兵衛などは、正直朴訥の善人であつたが、やはり信心深い盲人であり、しかも信心の力によつて目が見えるやうになつた爲に、恐らくはそれから最も熱心に、海尊仙人の奇蹟を人に説いたかと思ふ。今でも右岩窟は深く附近の住民から崇敬せられ、その神の清悦にして又海尊なることを信ずる者は多いのである。但し常陸坊といふ故に、之を常陸の阿波の大杉大明神と同體なりと説く者もあるらしい。しかも海尊の常陸に居たといふことは夙くより之を傳へ、例へば天海大僧正の如きも、若い頃にかの地方に在つて、殘夢和尚の海尊に逢ひ、長生の秘訣を學んだやうに謂つて居たのである。
 さうかと思ふと又同じ元禄の前後に、仙臺領では角田と白石との間を往來して、村々の舊家に書いた物などを殘した白石翁といふ異人があつた。此人實名を語らず年を言はず、それで居て非常な長命であつたらしく、誰を捉へても倅と謂つた。角田の長泉寺の天鑑和尚などは、元禄三年に百七歳で死んだが、白石翁は此和尚をも尚せがれと呼んだ。やはり源平合戰の話が大そう詳しく、折々人の家でその話をしたので、或ひは清悦かとの世評もあつた。此翁は元禄六年の二月十八日、白石在の安子島氏《あこじまうぢ》の宅で、めでたく往生を遂げたにも拘らず、十何年後になつて京都に往つた或商人が、確かに京の或處で見かけたと云ふ話もあつた。
 清悦がとくに死んだことは、清悦物語の中に正しく記してあるにも拘らず、尚右の通りにいつ迄もどこかに居つた。この種の仙人になると、どうも死んだと生きて居るとの境が甚だはつきりとしない。會津實相寺の殘夢和尚の如きも、辭世を示して立派に成佛し、寺では葬式も濟ませたのに、二十年程後に不思議なことがあるので墓を開いて見ると、(365)空棺であつたとも傳へられる。或ひは又會津の人が駿河の三保松原で此和尚に逢つた、相變らず源平時代の話をして居たなどゝも謂つて居る。つまりは夙くから、多くの人が言ふことが一致しては居なかつたのである。
 故に其一例として見れば、驚くにも當らぬやうなものだが、正コ二年に始めて世に出た義經勲功記は、やはりその殘夢の話だと稱して居るのである。餘程のうそつきらしいが編者馬場信意なる者、此書に序して曰く、友人安達東伯久しく奧州に在り、一日老翁の來り訪ふ者あり、字里行藏を言はず、里人も亦知るなし、相馴るゝこと久しくして終に海尊なることを知れり云々とあつて、此書を以て東伯の筆記だと謂ふのである。此海尊は後に名を清庵主と改め、今又殘夢と謂ふとあつて、會津からでも出て來たかの如く粧うて居るが、しかも長命の原因は亦衣川の人魚の肉であり、其時の釣仲間は武藏坊、還りて其一片を源公に獻じ公も亦之を食す。皆共に死せざることを得たりと謂ふのである。然るに近世の所謂義經辨慶入韃説には、實はこの勲功記を根據とする者も少なからず、人魚の肉がうそだとすれば、根本から覆へるやうな話ばかりだ。如何にも心元ない次第である。
 
       人魚の肉
 
 自分たちは今頃成吉思汗の義經であるか無いかを、穿鑿するだけの閑暇は持つて居ない。此際考へて見ようと思ふのは、勿論海尊長壽譚の眞僞では無いので、全體どうしたわけで此樣なをかしな話が保存せられ、又際限も無く成長して行つたかである。さうして先づほゞ決定して見たい問題は、長命の原因と認められた色々の風説の出處である。
 本朝故事因縁集の石上の飴の如き物は、他には類例も聞かぬやうである。會津の殘夢和尚は盛んに枸杞の葉を食つたゞけだつたと、天海僧正などは人に語つたさうだが、之は眞似やすいので試みた者もあつてか、話ほどの效能は無かつたらしい。ところが清悦物語以下の書に於ては、人羮又は仁羮と名づくる朱の色をした魚の肉と稱して、ほと/\(366)凡人をして斷念せしむるに足るやうな、珍しい遭遇を説いて居るのである。それが若し清悦乃至は小野太左衛門氏の獨自の空想に成つたとすれば、事の奇は稍一段を加へるのであるが、奈何せん是にはあまりに顯著なる先型が存するのであつた。
 前に申した若狹の八百比丘尼の物語は、正しく系統を同じうする言傳へであつた。足利氏の中期に、若狹に八百比丘尼といふ長生の婦人ありしことは、既に馬琴の八犬傳に由つて之を知つた人が多いが、少なくと當時其風評は高く、或時は京洛の地に入つて衆人に歸依せられたことは、文安六年五月から六月迄の、臥雲日件録や康富記、若しくは唐橋綱光卿記等、多くの日記の一致するを見れば疑ふ所は無いのである。但し如何にして其樣の長壽を得たかは、此等の記録には何も見えず、林道春が父から聽いたと謂つて、本朝神社考に書いたのが一番に古いが、是とても清悦物語の出現よりは前であつた。即ち昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢ひ、招かれて隱れ里に到る。人魚の肉を饗せられて敢て食はず、之を袖にして還り來るを、其女食ひて長壽なりと謂つて居るのがそれである。
 同じ話は又若狹郡縣志、向若録等にも出て居る。此方では父は小松原といふ村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを、小さい娘だけが食べたといふことになつて居る。美しい女性のいつ迄も若いのを、「人魚でも食つたのか」といふことは、今でも諺のやうになつて殘つて居るが、基く所斯くの如く久しいのである。但し數多い諸例の中で、釣をして手に入れたといふのは殆と是ばかりで、他は何れも衣川と同じく、特に饗應してくれる人があつたのであつた。然るを本人は恠んで敢て食はず、却つて無邪氣なる小娘が、其恩惠を專らにしたといふことは、話の夙くからの要件であつたと見えて、現に清悦物語でも同行者の一人が之を持ち歸り、其女の之を食うた者がつい近頃まで存命であつたと、不必要に問はず語りを添へて居るのである。鹽松勝譜には常陸坊海尊、衣川にて老人に逢ひ赤魚を貰つて食つた。其婦女も亦之を分ち食したとあるのは同じ話である。
 桃井塘雨の笈埃隨筆には、今濱洲崎といふ地に異人來り住み、一日土地の者を招いて馳走をした。人の頭をした魚(367)を料理するのを隱見して、怖れて食ふ者も無かつたが、唯一人之を懷にして歸り、其妻知らずして之を食つたといふ話を載せて居る。此は疑も無く寛永二年の隱岐島紀行、「沖のすさび」の丸寫しであつて、彼には伯耆弓濱の洲崎の話となつて居るのを、今濱洲崎と改めて若狹まで持つて來たゞけである。味は甘露の如く食し終つて身とろけ死して夢の如く、覺めて後目は遠きに精しく耳は密に聽き、胸中は明鏡の如く顔色殊に麗はしとあつて、終に生き殘つてしまつたのである。七世の孫も亦老いたり、彼妻獨り海仙と爲りて山水に遊行し諸國を巡歴して若狹に至り、後に雲に乘りて隱岐の方に去れりとも記し、即ち此島燒火山其他の處々の遺跡を説明して居るのである。人の妻とある例は是がたゞ一つであるが、海仙となつて諸國に遊んだといふのが、何か海尊仙人の口碑と因縁あるべく思はれる。但し此話は九州を除くの外、殆と日本の全國に分布し、しかも大抵は同じ由來談を、若干の差異を以て説いて居るので、即ち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の與太話で無かつたことだけは、もう十分に證明せられるのである。
 
       八百比丘尼の事
 
 然らば人魚の效能と義經記との關係や如何。それを考へるには尚少しく類似の例を列擧して見なければならぬ。若狹の方面には「沖のすさび」より少し後に、貝原益軒の西北紀行があつて、忠實に土地の所傳を録して居る。小濱の熊野山の神明社に、其頃は既に比丘尼の木像と稱するものがあり、しかもその由來記はまた別箇の趣を具へて居た。昔此地方に六人の長者、折々集まつて寶競べの會を催して居たが、其一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑つて食はなかつた。それから家に持歸つて少女が食つたといふ段は、すべて他の例と一つである。
 佐渡では羽茂の大石といふ村でも、八百比丘尼此地に生まると説いて居る。やはり異人饗應の話があり、人魚の肉によつて千年の壽を得たのだが、其二百歳を割いて國主に讓り、女自身は八百歳に達した時、若狹に渡つて死んだと(368)傳へて居る。播磨鑑では私などの郷里神崎郡比延村に、此比丘尼は生まれたと主張する。是も八百になつて比延川に身を投げたとも謂へば、或ひは今一度人魚を捕りに、明石の浦へ出かけたまゝ歸つて來ぬなどゝも謂ふのである。土佐國でも同じ人の海に入つた話、其他色々の遺跡はあるのだが、人魚に關係せぬものはすべて省略する。西郊餘翰卷一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記して居るが、白鳳十二年といふ大昔、此海邊に千軒の民家があつた時代といふ。七人の漁翁が人魚を捕つて刑に處せられた。七本木といふのが其古跡である。村に一人の醫者があつて、窃かに一切れの肉を貰ひ受けて、自分の娘に食はせると、即ち後の八百比丘尼になつた。三百年を經て一度還り、此石塔を建てたとも謂ひ、或ひは死んだ後に若狹から屆いて來たともいふが、人魚を食つたといふ證據にはならぬのである。
 關東諸國殊に東京の周圍にも、此比丘尼の栽ゑて置いたといふ老木が多く、下野にも上總にも色々の遺跡はあるが、人魚の話はまだ聽いて居ない。しかも海も無い美濃などにも、やはり麻木長者の娘が麻木の箸に附いた飯を、苧ヶ瀬池の魚に施した陰コで、八百比丘尼と爲つて若狹に往つて死んだといふのが同じ話だつたらしく、更に溯つて飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山國らしい昔話に變化して今も語られる。此酒屋へ折々一人の小僧が小さな瓢箪を持つて一斗の酒を買ひに來る。疑はずに量つて與へると、幾らでも其瓢箪へ入るのだ。試みに小僧の跡をつけて行けば、村の湯ノ淵といふ處まで遣つて來て振返り、わしは龍宮の乙姫樣の御使だ。おぬしも御座れと引張つて行き、僅か三日の間款待を受けたと思つたらもう此世では三年目の年の終りであつた。歸る際に龍宮の寶でキキミミといふ筥を下される。耳を此に附けて居ると、人間にはわからぬどんな事でも聞かれる。家に娘があつてそれを不思議に思ひ、誰も知らぬ間にそつと開いて見ると、筥の中には人魚の肉が入つて居て、如何にも旨さうな香氣がする。つひにその古い肉を食つてしまふと、其御蔭で娘は八百比丘尼になつた。村の氏神の雌雄杉の根もとへ、黄金の綱をこしらへて深く埋め、いよ/\といふ場合には出して使へと謂つて、自分は仙人になつて何れへか出て往つた(369)といふのである。ちやうど刊本の義經記が編纂ものなる如く、是も地方に流れて居る三つ五つの物語を、端切り中を摘んで冬の夜話の用に供したものらしい。
 まだ幾つかの例が殘つて居るのである。丹州三家物語に録する所は、殆と神社考と大差無く、たゞ比丘尼の生地を若狹鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乘原といふ部落に、舊家大久保氏の家傳といふものゝあることを、近頃の竹野郡誌には詳述して居る。或時此村へ一人の修驗者が來て居つて、庚申講に人々を招いた。それから先は例の如くだが、此家の娘は比丘尼ながら、樹を栽ゑ石を敷き色々と土地の爲になつて居る。紀州那賀郡丸栖村の高橋氏でも、庚申講の亭主をして居ると、見なれぬ美人が來て所望をして仲間に入つた。其次の庚申の日には私の家へ來て下さいと招かれたが、其晩土産と謂つて紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠であつた。歸つて帶を解くときふと取落すと、其折二三歳の家の小娘が拾つて嚥み込んでしまつた云々と傳へ、今も其家の子孫といふ某は住んで居るが、此事あつて以來いつも庚申の晩には、算へて見ると人が一人づゝ多く居るといふので、たうとう庚申講は營まぬことになつた。こゝでもどういふわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと傳へて居る。越後の寺泊に近い野積浦の高津家にも、やはり人魚を食つた八百比丘尼は此家から出たと謂ひ、今も手植の老松が殘つて居る。同じく庚申講の夜山の神樣に招かれて、そんな物を貰つて歸つたと謂ふのである。最後にもう一つは會津の金川寺といふ村でも、比丘尼は此村の昔の住人、秦勝道の子だつたといふ口碑がある。勝道は亦庚申講の熱心な勸進者であつたが、村の流の駒形岩の淵の畔に於て、やはり龍神の饗應を受け、其食物を食べたといふ點は、丹後紀伊などゝ似て居た。但し是だけは人魚で無くて九穴の貝といふものであつた。
 捜したらまだ何程も例は出て來るのだらう。私が知つたゞけでは娘が取つて食つたといふのが、平泉を加へて十件あり、食物はそのたゞ一つのみが九穴の貝であり、更に庚申講の晩といふのが、互に離れた土地に四つ迄もある。天平以前に庚申祭などがあつたかと、野暮な疑問を抱くことを止めよ。庚申は要するに夜話の晩であつた。終夜寢ない(370)で話をする爲に、村の人の集まる晩なのである。即ち人魚を食つたといふ長命の女の奇蹟を、發揮し宣傳するには最も適したのが、庚申講の夜であつたのである。其話をさも事新しく、成るべく知つた人の多く居らぬやうな土地へ、斯うして持つて來ようといふ考への者が、昔もあつたことだけは想像せられる。
 
       九穴の貝
 
 八百比丘尼とは謂はぬが、同種の話は別に又九州にもあつた。筑後柳河附近の本吉の三軒家唐人竹本翁の子孫と稱する家でも、曾て此家の娘が牡丹長者の乳母であつて、やはり不思議な食物から長命を得たと傳へられて居る。牡丹長者は肥後の桑原長者と、山を隔てゝ寶競べをして居た。或時萬年貝と名づくる稀有なる法螺貝を送つて來たのを、誰も食はうとはせぬ故に此乳母が貰つて食ひ、それから無限の長生をしたと謂ふ。至つて貞淑な婦人であつたが、何しろ死なぬのみか若くて美しい故に、夫を換へること二十四人に及んだのである。いつ迄も/\固有名詞のみを入れ換へつゝ、日本人は斯んな話ばかりをして居たものと見えた。どうして又それがさう大なる興味を以て、短命な凡俗からもてはやされて居たものか、自分にも實は久しく不明であつたが、斯ういふ風に考へて行くうちに、幽かながらも原因がわかつて來たやうな氣がする。
 なるべく手短にもう一つだけ、近い例を擧げるならば、今から百三十年ほど前の寛政九年に、筑前蘆屋浦の傳次といふ者が、領主の命に由つて、家に傳ふる壽命貝といふものゝ由來を詳しく申立てたことがある。沖繩あたりで千年貝、又色の佳いのを萬年貝といひ、南方の海では折々取れる大きな貝があるが、多分あれのことだつたかと思ふ。土地の名木神功皇后の船留松の根に、埋めてあつたのを掘出した。之に水を盛つて飲ませると、疫病其他を治するの效があると謂つた。どうして又そんなものが出て來たかに就いては、それから更に十五六年前に書いた、庄浦仙女物語(371)といふものが要領を盡し、其書は夙くから江戸の隨筆家の中に大評判であつた。某年此附近の船頭に、奧州津輕の或海岸に船がゝりをして居た者が、上陸して村の奧の山へ遊びに往つた。三十ばかりの美しい女が一人出て來て、國はどこかと聞いて非常に懷かしがり、私の故郷も筑前だと謂つて、色々な事を尋ねるが話がどうも合はぬ。實はもう私は六百四十歳ばかりになる。若い時分に病氣をして居ると、子供たちが案じて珍しい貝を捕つて來て食はせてくれたら、段々若くなるばかりで死なゝくなつてしまつた。子にも孫にもおくれた故に、是非なく國を出て來て、それから亭主も二十何人とか持ちかへたが、自分ばかりはまだ斯うして居る。貝の殻だけはあまりに奇妙なので、斯う/\した松の下に埋めて置いた。尋ねて見てくれと傳言したので、そこで右の傳次が之を發見することにはなつたのである。
 此話は勿論確實性に乏しい。少なくとも中途で誰かゞ若干はうそをもついてゐる。しかも私などの注意するのは、九州の船頭の還つて來ての話に、この女が壇の浦の合戰前後の事を、よく知つて居るのに驚いたと話したといふ點である。是も稚い天子樣が、筑前山鹿とかに御滯在の際のことで、毎度此女は魚を賣りに行つて、陣屋々々の樣子を見て居たと語つたさうである。
 全體人が長命をすれば經驗の多いのは知れたことだが、何で又斯ういふ仙女までが、是非とも源平の合戰を談じなければ止まなかつたか。それから後の色々の大事件は棄てつぽかして、あの頃ばかりをさうは喋々するのであるか。つまりは世間の人たちも、比較的平家物語や義經記に親しかつた爲でもあらうが、若狹の八百比丘尼などもやはり源平の盛衰はまのあたりと謂ひ、義經辨慶の一行が修驗者の姿をして、北國街道を下つて行くのに、ちやうど行逢つて覺えて居ると語つたさうだ。八百比丘尼の年から勘定すると、凡そ五百三十幾歳の時のことだが、此事一つばかりを記憶して、其他の大事件に疎かつたらしいのは、常陸坊海尊の場合よりも、更に一段の不可思議であつた。或ひはもと年を取つて居るから知つて居たのでは無くて、あまりよく知つて居るから長壽者でなければならぬと、人も自分も感ずるやうになつたのではあるまいか。
 
(372)       おとら狐と玄蕃丞
 
 是と必ず何かの關係があらうかと思ふ話は、三河の長篠の古城址を中心として、あの附近一帶の田舍に甚だ惡い狐が居る。其名をおとら狐と稱し、又おとらと名乘つてもよい理由のあつたことは、曾て「おとら狐の話」と題する小著を以て、之を研究して見たことがある。非常な古狐で、其證據にはおとらが人に憑くと、其人は必ず長篠の合戰の光景を見て居たやうに話する。それで忽ち彼なることが知れるのであつた。又長篠だけならまだよいが、ずつと離れた川中島の合戰まで話して聽かせる。しかも此合戰談の大部分は、どうも甲陽軍鑑の出たら目であつて、實は無かつた事らしいといふやうな説もあるのである。それにおとら狐は川中島に居たとき、うつかりとして流れ彈に中り、片目と片足とに怪我をしたと謂つて、今以て之に惱んで居るらしく、彼に憑かれた者は一方の目から眼脂を出し、又必ず片足を引きずること、恰も長篠よりやゝ南方の牛久保といふ町を郷里とする、山本勘介と同じであつた。それにも何か隱れたる因縁のあるらしいことは、早くから考へて居るが、自分はまだ十分には合點し得ないのである。
 又信州の松本附近では、桔梗ヶ原を本據として玄蕃丞といふ狐が居た。始めて鐡道が此平野に通じた頃、汽車に轢かれて死んだともいへば、或ひは今でもまだ生きて居るともいふ。此狐も武田合戰の始末をよく知つて居たのみならず、頗る之を人に語りたがつたやうな形がある。珍しいことには一年に一度とか、例へば若狹などの異人同樣に、廻?をまはして近村の住民を招いて此話をして聽かせた。急造りの立派の家の中で、此時ばかりは本物の御馳走を、どこからか持つて來て食はせたといふことである。但し此方はもう誰でも笑つて聽くやうな昔話と化しまつたが、三河のおとらに至つては今なほ現實であつて、待つて居たならば恐らく此から後も例が出て來よう。斯ういふ不思議な資料は、過去の記録になつてしまはぬうちに、よく調べて説明を求むべきである。人間界のしかも常人の間の出來事に、(373)説明ができない意味不明といふものがあつてよいものでは無い。
 そこで立戻つて流布本の義經記に、常陸坊以下十一人までの家來が、朝から寺參りなどをして居て、おめ/\と生き殘つたといふ一條を考へて見る。全體そんなつまらぬ事を、誰が知つて居て人に話したのか。本人どもが白?したとすれば如何なる機會に如何なる問に答へて、何人に語つたとすべきであらうか。それよりも更に大なる不審は、高館城内の悲壯を極めた光景、十郎權頭が最期の忠節の如きは、果して之を目撃して末代に語り傳へた者が、人類の中にあり得たであらうか。
 しかも海尊はたゞ長命をして居たばかりに、永く此地方に於ては歴史家の權威を失はなかつたのである。氣仙風土草の記する所に依れば、此郡唐丹村の荒涼の海に近く、龜井墓と稱する古墳があつた。どうしてそんな事がわかつたかといふと、江戸時代の初頃に、常陸坊海尊が松前からの歸途に、此村を通つたことがある。其折出會した土地の山伏成就院なる者に向つて、此が龜井六郎の墓だと教へてくれたによつて信ずるので、彼は往々にして此の如く信任を濫用して居る。
 さうかと思ふと加州の金澤などでは、龜井六郎と常陸坊と、二人仲よく今も暮して居るといふ者が、現に百五十六年前まであつた。號を殘月と謂ふ道心坊があつて、小松原宗雪と稱する浪人と、寒山拾得の如き交際を續けて居た。もとは此城下の淺野川が、東西に流れて居たものだなどゝ謂ふので、さてはと土地の人々も耳を峙てた。二人に源平時代の話をさせようとする者は、わざと知らぬ顔をして其前で義經記を朗讀する。さうすると忽ち釣込まれて、それは大ちがひなどゝ謂つて、思はず本當の話をしたといふ。多分は殘夢や清悦の如く、いや義經公はあまり風采の揚がらぬ反齒の小男であつたの、辨慶は三十七八の色の白い好男子であつたのと、もう何人でも反證し得ないやうな、新事實ばかり説いて居たことであらう。どちらが釣込まれたか、知れたものでは無いのである。
 それに尚よく氣を付けて見ると、いつでも三河萬歳の才藏などの如く、脇に居て相の手を入れ、餅ならばこね取り(374)をする役が一人あつた。加賀の殘月の小松原宗雪、會津の殘夢の無々老人と福仙、平泉の清悦の小野太左衛門に於ける如く、少しは傍から註解し敷衍する者が居らぬと、話が人の胸を打つまでには、はずんで來ぬものであつたらしい。それが民族初期の文學の進んで出た經路であり、同時に又現代の都府文藝が、親近なる批評家に取卷かるゝに至つた遠因でもあつたらう。陸中黒石の正法寺などでは、毎度和尚の處へ話しに來る常陸カイドウを、あれはもと義經公の家來だと、告げ口をしたのが境内の石地藏であつた。そこで見顯はされて歸つて行くときに、變にこの地藏が煙たいやうな顔をしたので、さては此奴がしやべつたのかといきなり地藏の鼻を捻ぢつたと謂つて、今でも鼻曲り地藏樣がある。先づ是ほどにしてまでも我々の昔話は、是非とも長命な人の口から、直接に聽かねばならぬ必要があつた。誰がどういふ方式で話をしてくれようとも、内容次第で其眞價を判別し、あとは各自の想像力で調味するといふ如き、今風の聽手は少なかつたのである。
 
       語り部の零落
 
 まだ是だけでは十分な證明で無いかも知れぬが、私の今持つて居る假定は、さう込入つたものでも何でも無い。つまりは偶然に判つて來た清悦物語の成立ちに基いて、更に義經記其ものゝ起原までが、推量し得られるかと思ふのである。義經記の近世の語り樣は、他の多くの歴史談も同樣に、所謂「げな話」「ださうな話」の體裁になつでは居るが、本來はやはり清悦物語の如く、當時見て居たと稱する人の直話體ではなかつたかと謂ふのである。
 文字を知り記録を愛する者が、書いたものといへば一應は悉く有難がつたやうに、記録と縁の無い人々には語り事を信ずる必要があつた。但し昔の人々の事實認定には、噂と實驗との明らかなる差別があつて、現に私が知つて居るといふ類の言葉で無いと、之を信ずることが出來なかつたものかと思ふ。數百年の歳月を隔てゝから、そんな人を求(375)めることは不可能のやうに見えるが、前代人には其は無理なる注文でも無く、又有り得べからざる條件でも無かつた。即ち人には死後の靈がある。優れたる靈魂は生きた人に憑いて、其人の口を借りて何でも言ふことが出來た。託宣は決して豫言ばかりではなかつた。人の現在の疑問を解く爲には、今日と同じやうに過ぎ去つた理由を述べなければならぬ。しかも人間の知識慾は、先づ最初には霧立つ野邊の如き、茫洋たる前の代に向はうとするのが自然である。現實の畏怖憂苦があり、不安がある場合はなほ更のことであつた。
 神話が單なる記述といふよりも、?説明に傾いて居たのは此理由からである。神話が神語として久しく尊重せられたのも、根本には人の生活上の要求が横はつて居たからで、又親しく實情を知つた靈の言なるが故に、何程荒唐であらうとも之を信ずることが出來たのである。從つてそれが常人の仲介を經、若しくは記録の文字を以てのみ人に傳へられるやうになれば、その最も重要なる特質は消滅し、更に第二次の鑑賞に入らなければならぬは勿論である。稗田阿禮が天朝の命を拜して、歴代の舊辭を語つたのは、果して二者何れの部に屬すべきものかは決し難いが、少なくとも彼女の家は巫女の家であつた。曾ては必ず神に代つて、と言はんよりも寧ろ神々に身と口とを貸して、人に歴史を語り傳へるのが、此家の職掌であつたのである。單なる暗記の力のみの如く、之を想像するのは誤つて居る。
 しかも此樣式は神話が既に信ぜられず、頗る文藝的の興味を以て世に迎へらるゝに至るまで尚變更せられなかつた例も多いのである。例へば金田一京助君が採訪せられたアイヌの聖典、即ち特權ある舊家のみが保持して居た所謂神傳大傳の類に止らず、或純良なるアイヌメノコが自ら和譯した動物説話の如きも、悉く皆一人稱の自傳であつた。即ち人が其物語を歌ふのは、其神其靈が一々彼に憑いて、其口を假りて自ら説くのであつた。現に目前に在つて語る者が、凡庸なる我仲間の一人に過ぎぬことを知りつゝも、別に背後に隱れて彼をして言はしむる力あるを信ずる故に、興味と感動とは常に新たであり、或ひは信仰の變化した後に至るまで、なほ其樣式に對する愛慕の情を斷つことを得ないのであつた。
(376) 我民族の初期の文學に於ても、心ある人は今も其若干の痕跡を見出すことが出來る。更に一歩を進めて、文字の拘束を受けなかつた地方若しくは階級を求めて見たならば、當初の物語の現在尚固く信ぜられて居る部分、即ち史傳と名づけて如何なる反對の證據あるも、之を一蹴し去ることを辭せざる樣な村々家々の由來記にも、やはり先入主や愛郷心以外に、久しく其確信を育てゝ來た原因のあつたことを見出すであらう。現に神樣がさう仰せられた、何某の靈が出て其通り語つたといふ眞實が、さう短い期間には覆へさるべきものではなかつたからである。
 併し結局は意識の有無に拘らず、もと人間の想像力に根を差した以上は、自由に又美しく成長せねばならなかつた。さういつ迄も古い形だけを、守つて居るわけにも行かず、第一には聽く者の側の要求が、時と共に變化して之を動かさずには止まなかつた。奧州には衣川の悲劇以前に、又前九後三の合戰談があつた。義經記の中では金賣吉次が、若き貴公子に向つて長々と之を語ること、恰かも舞の本の烏帽子折に於て、山路の草苅る夜の笛の物語を、遊女に試みさせて居るのと同じであつた。それから尚行けば惡路王大竹丸の退治、三代田村の勇猛談なども、之を信ぜんとする人々と、もう之を藝術として樂まうとする者と、相交錯して居たのである。中央の歴史と交渉の無いものでは、膽澤郡には掃部長者の物語、長者の妻が後に池の大蛇となり、松浦小夜姫を人柱に立てようとした話、それから氣仙高田の武日長者、姉は旅の空に世を早うして、徒らに姉羽の松の名を留め、妹は采女となつて京に上つたと謂ふの類、今は悉く物の表れを聽く人々の想像に讓つて、實際其樣な出來事があつても無くても、構はぬといふ境まで進んでは來たけれども、最初に何が目的で斯ういふ物語を聞きもし語りもすることになつたかと言へば、やはり亦餘りに空虚なる我土地の過去に、曾て充ちて居た何物かを見出さうとする念慮からで、それ故にこそ最も神靈に親しく、隱れた世界と交通することの出來る人のみが常に傭はれて仲次の任務には服したのであつた。
 
(377)       盲目の力
 
 故人が我々の夢に見える如く、又物語の中に現はれて泣き歎いたことは、淨瑠璃のやうな近世の産物にも、なほ多くの名殘を留めて居る。文藝が宗教の領分から全然獨立して後も、歌謠は到底平靜たる敍述のみを以て、喚び戻された古人の生活を客觀することを得なかつた。情の高潮に達した際には、主人公は必ず歌を詠むことになつて居る。之を聽く者の感動は必ずしも其詞の巧拙によらず、寧ろその自ら語るの聲に由つて、現前に相對するの思を抱くからであつた。イタコ又はモリコと稱する東北の巫女たちは、教へられずして早くより此法則あることを知つて居た。故に一方には祈?の辭、若しくは遠ざからんとする靈魂を招くの詞を唱へつゝ、他の一方には一見これとは關係なき歌物語を以て、神を人界に悠遊せしめ、若しくは人をして神の國を愛せしむるの手段に供して居るのである。
 之に比べるとボサマ即ち座頭の方は、同じ盲目でも早くから信仰を離れて、物語に專らなる者が多くなつたが、それでも自ら一人稱を用ゐて、私が見た斯う言つたと、語つて居た時代は永かつたのであらう。さうして義經記に於ては義經を招き、或ひは辨慶龜井をして語らしめたのでは、彼等は中途で死ぬ故に事件の全體に亙ることが不便であつた。從つて比較的重要ならぬ常陸坊海尊を煩はして、顛末を敍せしめたのであるまいか。苦しさうだとすれば海尊は死せず若しくは長命してまだ生きて居るといふ俗傳は、最も容易に行はれ得たので、しかもその海尊が弘く此地方の信仰の一中心を爲したのは、座頭の職分のもとは九州と同樣に、本來亦宗教的なりしことを暗示するのみならず、更に海尊の信仰が此徒を介して、高館口碑の成長に參與して居たことを推測せしめ得るのである。
 此點は平家物語と座頭との關係も同じことで、文字の記録を離れて考へると、平家と義經記と起原何れか古きといふ問題は、まだ/\決定の時期には來て居ない。徒然草其他の京都人の記録には、平家は文人某が作つて盲人に歌は(378)せたとなつて居るが、それは此物語の何れの部分も、すべて京都に起つた筈といふ前提から來て居る。成程京人でなければ知らぬ話も多いが、同時に又公卿衆などなら知るまいと、認めてよい部分も少なからず、しかもどうしてそんな事を琵琶の曲にかけるに至つたかの説明は、却つて後者に在つてのみ可能である。
 合戰の物語の古戰場から起るは自然である。戰の跡には人怖れて近づかず、五十年も百年も荒れて居て、心を動かすべき光景であつたらう。從つて亡靈を信ずる人々には、數々の不思議が現はれずには居なかつたと思ふ。それを問ひ弔ふ人の志に、話を知りたがる好奇心も加はつて何かと言へば村に居る巫女術者が、其昔を説く機會は多かつた筈である。沖繩などでは北山の城蹟は、今以て悲しい荒墟であるが、國頭全郡の舊姓にしてユタの言に聽き、北山王を以て一旦忘れたる其家の遠租と信じ、年々來つて香火を捧げる者が、既に數萬人に及んで居る。支那でも南宋の朝廷覆没して後に、陶眞と稱して琵琶を彈ずる盲人の、舊史を説く者が多く出たと謂つて居る。瀬戸内海殊に壇の浦の周圍なども、恐らくは亦平家座頭の發祥の地であつたらうと思ふ。
 盲人は殊に目に見えぬものゝ音響を傳へるに、適して居たのでは無かつたらうか。小泉八雲氏の怪談の中に、耳切法一なる者が長門の阿彌陀寺に在つて、平家の人々の亡魂に招かれ、何も知らずに其物語を語つたといふ話がある。諸國に分布した逃竄説話の一つで、多くは陀羅尼の功コに由り、耳だけ切取られて助かつたことになつて居るが、山の神や路の神其他怖しい神が盲人の目が見えぬに乘じて近々と現はれ來り、歌曲を所望したといふ點は何れも同じである。恐らくは曾て神と人との間に立つ役に、特に選定して盲目を用ゐた名殘だらう。平家の方では惡七兵衛景清の地位が、やゝ義經記の海尊と類似し、交渉はあの物語の内外に及んで居る。彼が眼玉を拔き棄てゝ日向に行き、神に仕へて居たと稱して色々の口碑を存し、一方には座頭の給田がもと日向に在つたと謂つて居る類の傳説は、誤解もしくは假構にせよ、何か隱れたる事情が無くては、唐突に發生しやうは無かつたのである。
 但し今更其樣な事情は、尋ねて見るにも及ばぬか知らぬが、昔の交通の容易で無かつた時代に、何の因縁が斯ばか(379)り幽かなる農民の夢を、成長させ變化させ又遠くへ運んだかといふことは、一度は考へて置いてもよい問題である。曾我兄弟の仇討の物語が、もと富士山下の荒寥たる田舍を出て、中國四國の山の奧にはいつて居る場合に、必ず虎少將が尼となつて廻國し、若しくは鬼王團三郎の來て隱れたといふが如き、本文以外の事實を伴なうて居るやうに、義經記の流傳にも亦早くから、常陸坊とか鬼三太とかの、書物を無視した活動があつたのである。文學の都鄙優劣が強く現はれるやうになつてから、たま/\相手の武器を借りて爭はうとした者は、忽ち清悦物語の如く敗北したが、さういふ世の進みには頓着せぬ人々が、古い方式を守つて居た場合には、何等かの形式を以て兎に角に、土地に元からあつたものを保存して居るのである。
 虎少將の廻國といふことは、要するに曾我を説いた人々の行脚を意味するらしい。義經記の方で之に似た者は靜御前、是も諸國の田舍に來て、庵に住み又は石を立てゝ居る。吉野記吉野文などゝいふ舊記のことが、東北にも傳へられるのは、或ひは此と關係があるのかも知れぬ。小野小町和泉式部といふ類の上臈までが、東西の諸國に同じ一つの物語の跡を止めて居るなども之を模倣又は妄説と見る必要は少しも無い。要するに是も旅の語り部と、物語の主人公とが混同した結果であつて、やがては又日本民間の説話が、久しく一人稱形式を以て述べられて居た證據である。
 
(383)  世間話の研究
 
          一
 
 どんな手輕なちよいとした制度文物でも、大抵は千年以上の沿革が考へられる舊國であるが、流石に新聞の原始時代だけは新しい。人類が子供らしく世間見ずであれば、何でも珍しいから新聞の種は多く、又大騷ぎをして歡迎されさうなのだが、案外に彼等の好奇心は育てられて居なかつた。主要なる理由は自分たちの眼を以て視、耳で直接に聽いた物の音で無ければ、經驗とするに足らぬといふ永年の習性があつたからで、漸く文字が讀んで判る世の中が到來しても、尚澤山の實地の型を示されなければ、それが想像となつて我々の情緒をつゝ突くことは出來なかつたといふのも、つまりに孤立國の社會教育法の致す所であつた。義太夫節の寫生が芝居同然の身振りに走つたのも、又新聞が三日にあげず、同じ何々大臣のろくでも無い似顔を出したり、小説や市井記事に插繪を濫用したりするのも、言はゞ滅法に經驗に義理固い觀客層が、今以て一世を蔽うて居ることを意味するのである。
 それには一方に話の上手下手といふことも、無論考へて見なければならぬ。ハナシは我々の國家に於ては、非常に時おくれて發達した生活技術であつた。其證據には古事記風土記萬菓集は素より、ずつと降つて中世の文獻を引き捜して見ても、ハナシといふ單語は見當らぬのみか、精密に是に該當する日本語すら無かつたのである。どうして室町時代に入つて、ハナシといふ新語が出現したかに就いても、學者にはまだ一致した意見が無い。たま/\説があれば(384)愚説ばかりであつた。要するに「話」などは誰も入用を認めず、從うて其名も方法も、講究しようとする者が無かつたらしいのである。それでも「人は話をする動物なり」とあるぢや無いか、といふ者がもし有るならば、其人は飜譯をまちがへて居るか、さうで無ければ日本に當てはまらぬ定義を輸入して居るのである。人が他の生物に比べて遙かに複雜多樣なる聲を出し、其聲が言葉といふもので、それ/”\に趣意と氣持とを運ぶといふ事實には誤りは無いが、之を組立てゝハナシにする技術は、永いこと知らずに居た、と言はうよりも寧ろ必要が無かつたのである。上手下手の問題が其頃よりも以前に、有つた氣遣ひは無いのである。
 そんな事で人が村を作り、家庭を構へて共に住む甲斐が有るかと、大いに反問したつもりで居る人も無いとは限らぬが、何分にも其甲斐が有つたのだから致し方が無い。我々が敵と戰ひ天然を支配するには、無論獨力では役に立たぬ大きな仕事が幾らでもあつた。だから集合して協同する氣にもなつたので、其間には親方と兄弟分、指圖と打合せは常に必要があり、言語の完成したのも此必要からであつたと考へられるが、ハナシは斯ういふ場合とは些しでも關係が無かつた。「おい話をしちやいけないぜ」と、今でも働く人たちは互ひに之を誡めて居る。「むだ口」といふものも今では話の中に算へられて居るが、それも本來はよく/\力のいる技術であつたと見えて、話をする者のみか、聽く者さへも普通は手を休める。だからいつでも仕事とは兩立しなかつたのである。海で稼ぐ者がサヲーと呼び、山で樹を伐る者がナターと呶鳴れば、言語の用途は十分に果されて居た。それを汝の手に持つ棹を立てゝそこの淺瀬に突張れとか、向ふにある鉈を取つて早く持つて來いとか、國語の教師の教へる通りに言つて居たら、精確ではあらうがぶんなぐられたにきまつて居る。
 活きた文法はをかしい程手つ取り早いものであつた。一句でも必要の無い文句を插入すれば、直ちにのろまの惡評を甘受しなければならなかつた。是が交際の密接な間柄、朝夕顔を見て氣心の知れて居る者ほど、愈其省略の多くなることは、是も亦常理である。田舍には全く物を言ふ技術に疎い人も元は有つたが、今日は大抵腹の中ではよくし(385)やべつて居る。さうして機會さへ有れば一かど爽かなる辯舌を揮ひ得る者でも、家に居る處を見ると皆言葉が少なで、殊に最も親しい母子や兄弟の間では、馴れぬ我々には喧嘩でもした後で無いかと、思ふ位に黙りこくつて居る。女房や妹たちにも、何か話をしなければならぬことになつたのは西洋風である。話が修飾を要する技術であると解すれば、取り繕うてはならぬ人たちに對しては、之を用ゐないのが寧ろ禮儀であつた。言語は式の目や人間の大事に、堂々と利用するものだから、常の日は粗末に使はぬといふことも有つたらうし、又相手方が他人行儀を悦ばず、もしくは自分をくど/\文法を正さなければ理解せぬ人と、見られて居ると感ずると惡いから、村では久しい間短句と感投詞を重んじ、會話と名の付くものはたゞ若干の、特色ある人々の役目に限られてあつたのである。
 
          二
 
 我々の國語利用法が、それではなる程發達しなかつた筈だと、早合點せられても少し困るのは、順序が其樣に簡單なもので無かつたからである。ハナシこそ通常人の常の日には用の無いものであつたが、一生を通じて見ると言語の働きは、却つて昔の方が念入りであつた。御經といふ莫大な文字が、其内容の理解とは無關係に、毎日あの通り熱心に讀まれて居たのを見てもわかる樣に、或ひは又たつた一つの簡單な唱へごとが、何百萬遍でもくり返されて居たと同じく、いざ入用となれば言葉を惜しまなかつたことは、餘裕が多いだけに昔の人の方が遙かに甚だしかつた。?でも吃りでも決して無かつたのである。人が鳥獣で無い本當の有難味、言語のねうちといふものを心の底から感じて居た爲に、之を粗末には取扱はなかつたゞけである。主要なる用途は弘い意味の社會教育、即ち後から生まれて出た者に、是だけは必ず傳へて置かなければならぬと、信じた問題ならば十二分の語數を費して居た。さうして其問題と場合とが、最初のうちは特に限られて居たのである。我々がたゞ漠然と神話時代と名づけて居るものが、又此中に含まれることは勿論であるが、さういふ氣風はずつと後までも續いて居た。改まつた折の言語の感動を深く強くする爲に、(386)常は成るべく無口で居らうとする心掛けも普通であり、一方には又さういふ晴の日の語りごとを、大事にしたことも一通りでは無かつたので、我々の所謂文法も修辭法も、實は殆と其全部が、この方面から發達して來て居ると言つてよかつた。
 但し神話とはよく言ふけれども、それは我々の謂ふハナシでは無かつた。近頃斯んな名稱を考へ出した人たちが、まだ「話」と其以前の言語利用法との差別を、はつきりと知らなかつたといふだけである。村の住民は却つて意識に忠實に、今でもこの二つのものゝ相異を解して居る。たとへば村會の席上だけでは、近隣のゴテ等を諸君と言つたり、デガンスを「であります」と言つたりして居る。即ち大昔以來の慣行に遵うて、晴の日に限つて切口上を用ゐ、言葉を改めなければならなかつたのである。文學が現代口語に由るといひつゝも、尚しば/\前人の型を追うて居るのも、さては盆正月や吉凶の式に際して、耳を聳てるやうな挨拶の文句を聽くのも、言はゞ日常の會話などゝ混同せられまいとした努力の名殘であつた。其中でも傳承を主眼とした往古の事蹟、神の奇瑞とか家々の由緒を説くやうな場合には、印象を強烈に、記憶を容易ならしめる必要から、特に莊重なる言葉を擇んで句形を揃へ、又?譬喩のやゝ意外なるものを用ゐた。韻や對句の起原は別に有つて、必ずしも同じこの目的の爲に發明せられたものでは無いらしいが、是も此場合には盛んに利用せられて居た。それに第一は餘りにも一くさりが長かつた。よほど熱心で他念も無く聽き入る者を、相手にして居ないと飽きられるのは自然であつた。之に比べるとハナシが簡略で、且つ氣の利いたものゝやうに感じられることになつたのも、時世の致すところ、奈何ともせんすべは無かつたのである。
 この一種の古風な物の言ひ樣、即ち形に囚はれた一方だけの長廣舌を、日本語ではカタリ又は物語と謂つて、無論世間話などのハナシとは別物としてあつた。カタルといふ動詞は既に零落して居る。騙して人の財を捲き上げることをさう謂ふのは、如何なる過程から導かれたものか知らぬが、今一つは小兒が遊戯に參加することをカタル、又は男女相許すこともカタラウと謂つて居る土地もある。起りは皆一つで、獨り言の反對、即ち聽き手が多人數であること(387)を條件として居たものと思はれる。物語の興奮も是を大いなる刺戟として居た如く、衆と共に耳を傾けるといふ面白さだけが、いつ迄もこの昔の形式を引留めて、やゝ又新たに生まれた色々の話の中にも、若干の影響と拘束とを付與することになつたのである。生活價値の問題が省察せられる世の中になると、斯ういふ外觀ばかりの傳統は實際は無意味であり、時としては又煩累ですらもあるのだが、我々日本人は永い年月の親しみに由つて、今尚この空虚なる格調に深い愛着を持つて居る。たとへば唯物史觀に徹底したやうに言つて居る共産黨員が、うつかり法廷で「某の靈を慰める爲に」と激語して、擧げ足を取られたなども其一つの表はれであり、折角自由に發展しかゝつて居る今日の世間話が、種の方からも又話術の方からも、直ぐに類型に墮ちて下らぬものになつてしまふのも、有りやうはこの美しい言靈の國に生まれながら、古今の言語藝術の是ほど顯著なる分堺に心付かず、いつ迄も株を守つて兎を待つやうな、頓狂なる態度を棄て切らぬ爲であつた。さういふ拙者なども恐らくはその迷ひ子の一人であらうと思つて居る。
 但し少なくともこの二つのものは、區劃を明らかにして併存し得るものだと、自分たちは信じて居る。一方を突倒して根こそぎにしなければ、次のものが榮えぬといふ風には思つて居ない。カタリの今日も尚活きて居るのは、謠は兎に角として、淨瑠璃などは確かにそれである。是も以前の扇拍子を物足らずとして、便利な小樂器などをあひの手に入れた爲に、歌だ音樂だと思つて居る者が有るか知らぬが、實際はたゞ事柄を人に傳へる古臭い一つの方法なのであつた。我々は所謂神話時代のやうに、もはやあの内容を事實として承認せぬのだが、上手にあの形式で語られると泣きたくなる。形式そのものゝ力か、はた複雜なる歴史的聯想の爲かは知らず、まさしく彼には魅力があり、從つて存在理由がある。今後も殘して置いて相應な役目を勤めさせるはよい事だと思ふ。たゞ問題になるのは我々の常の日の交通、有りのまゝを説かねばならぬ演説や手紙や新聞に、何とかしてさういふものを加味したのが上手と、御互ひに感じて居ることがいゝかどうかである。中河與一氏は僕の近所に住んで居るが、同君のいふ「形式」は自由な創製品で、決して神代前から制定せられてあつたものを、發掘して來て用ゐようといふのでは無いらしい。しかしそれで(388)も此形が最も適すときまることは、同時にそれを是認する者が親しみを感じて、やゝ不必要に永くつらまつて居ることに歸着する。時と境遇と各自の情感とに、毎囘調和したものを選定してよいのならば、寧ろ形式といふ字を使はぬ方が便だと私は思つて居る。それは此序に論じ盡す能はずとしても、兎も角も我々の世間話は囚はれて居る。以前カタリが博して居た喝采を、そのまゝ相續しようとするので形式が古くさい。さうして其爲に世の中が馬鹿に淋しい。
 
          三
 
 是には今まで省みられなかつた原因が有り、それを述べようとするのが又私の趣意であつた。つい餘計な雜談に走つて申し譯が無い。ハナシの發生に就いては三つの事情の寄合ひが想像せられる。もつと有るのかも知らぬが、今の處まだ考へ出せない。第一の事情といふのは歴史的、即ち世の中の進みがどうしても説話の新技術を、成立せしめずには置かなかつたことで、是は本筋だから演繹派の先生にでも推論し得られるだらう。型通りの生活が久しく繰り返されて、滅多に事件といふ樣なものを知らなかつた小社會でも、各員の物を感ずる能力が精緻を加へると、次第に今日が昔と同じで無いことを認めて、古い經驗と新しい自分たちの歴史とを、一つの態度を以て後に傳へることが出來なくなつて來るのである。ちやうど子供が大きくなるにつれて、天が益高く地は低く思はれて來るやうに、神の代と末世との間隔が、日毎に遠くなることを感じ始めてから、急に記憶といふものゝ入用が複雜になつた。しかも是を出來るだけ一續きの過去として、説かうとする骨折が何れの民族にもあつた故に、事實我々の昔と今との堺目は、いつも存外につい近頃の處に設けてあつて、それからあちらは語りごとの領分に、引渡して少しも苦情をいふ者が無かつた。國が創立以後何千百年になるかを、忘れて居るといふことは飛んでも無い話だが、自分の曾祖父母がどんな人であり、どうして生きて居たかを、知らぬのは先づ當り前であつた。さうして如何なる平凡を極めた社會でも、「時世は變つた」を口癖にせぬ者は無かつたのである。それ程變つたと思ふならば、其分だけは少なくとも、すべて新式(389)の話し方にしたらよさゝうなものだが、元々是は卑近なものだといふ古い考へがこびりついて居る爲に、なほ公衆を相手とする場合だけは、以前結構であつた表現法を、棄てゝしまふ氣になれなかつたのである。極端な實例は金石文に於てよく見られる。書いた人以外には讀み得る者も無く、讀めない御蔭に少々は適切で無くとも、黙つて尊敬せられて居るといふ類の記念碑が、今でも方々の路ばたに建たうとして居る。是はそれでもまだ知己を百年の後に期するといふ空想が手傳つて居るか知らぬが、ほんの何でも無いたゞの凡人の、彼岸の日にたゝき巫《みこ》の口寄せに現はれて、話をする場合までが七五調で物を言はうとした。それから心中があると一つとせえ節が出來たり、珍しい罪人が御仕置にでも逢ふと、直ぐに讀賣などゝいふ者が遣つて來て、普通で無い聲を出して其顛末を語らうとして居た。斯ういふ眼の前の痛切なる生活實驗までも、少しく目ぼしいのは皆斯うして或型に嵌め込まなければ、傳ふるに足らぬかの如く自他共に思つて居たのである。新聞はその讀賣の相續人だと言ふ人もあるが、それでもよくまあ是だけまで自由に、世間話の種を取扱ふやうになつたものだと思ふ。假に我々讀者の身を以て實驗した場合と、問題なり感じ方なりにまだ少しの喰ひ違ひはあらうとも、それは言つて見ればこちらの期待が、もと/\餘りにも小さかつた結果である。今少し我々が自分の耳目の代理として、何でも要求した方がよかつたのである。之に應ずるだけの見込は既に立つて居る。
 現在の世相を短評するならば、何だか無暗に内證話ばかりが發達して居るやうである。新聞は毎日あの大きなものが出て居るに拘らず、尚いつでも一生懸命に、人が五人三人寄り合つて居る處に近づいて、何を話して居るのかは聽かずには居られぬ樣な、それを知らずに過ぎると時勢におくれる樣な、心持ばかりが横溢して居るのはなぜだらう。人の弱味や後暗いことばかりが内證ならば、そんなものは何の用も無く、強ひて聽かうとするのは不コかも知れぬが、もつと眞面目で公明で、さうして我々の知りたいと思ふ談柄が、可なり其中にはまじつて居る。つまりハナシといふものが今はまだ整理せられず、是を正しい歴史にして行く機關が、備はつて居ない結果である。新聞に取つても自分(390)の干與し得ぬ法外な雜説に、常時その背後を飛び廻られ、社會の興味を其方に奪はれるのは名譽で無いが、それよりももつと直接に、迷惑するのは社會自身で、從うて又此問題は決して悠長なる昔話では無いのであつた。全體にパブリシテイーを既に定まつた形式と、結び付けたまゝで置くのが惡かつた。其爲に日本では問題になる事件が限られ、單に勿體らしく説き立てる習慣が無いばかりに、役にも立たずに消えてしまふ知識が多いのである。日常の生活を反省して見ても、人に聽かせようとせぬ談話には眞實味が多かつた。法螺を吹き嘘を吐かうとする迄の惡い考へは無い者でも、所謂人前では言葉を改める故に、しば/\感心せられる部分が要點の外になる。古い文學と對立した我々のハナシは、實は村のうちや家々の夜の臥しどに於て、思ひの外完成を遂げて居たのであつた。
 それといふのが根本我々の必要から出發し、どう言へば最も高尚に聞えようかなどゝ、思ひ廻らす餘地の無いほど、内の促迫が強かつたからであつた。柳髪新話浮世床だつてもそれであるが、明治の文章の何が最も前代に比類なく、人を主我の憂鬱から解放するに力があつたかといふと、それは斯ういふ何でも無い日常の言語を、無心に再現しようとした所謂寫生文であつた。根岸派俳人等の大いなる功績は、蕪村の禮讃でも無く又萬葉形式の模倣でも無く、心に最も近い人間の言葉ならば、何でも繪になり又尊い經驗になるといふことを、事實で證據立てた俳諧の活用であつた。だからあの時代を明らかな區切りとして、我々の文藝は一變して居る。どんな偉い人でも大なり小なり、無意識にあの感化を被つて居ないものは無い。更にそれ以上に漱石の弟子たちは成功して居る。成程この以前にも言文一致なるものは唱へられたが、是は大抵は句の終りを「である」にするだけで、「である」は實際又口語でも何でも有りやしない。今でも時々見る「言はざるべけんやである」の如くに、古くさいカタリに取り縋つた未練がましい附け紐の一種に過ぎない。演説は不幸にしてやゝ面倒くさいことを言はねばならぬといふ、因果な束縛を甘受して居る爲に、今なほ此あたりを彷徨して居る。從うて如何に大切なる御説教講話がある場合でも、そこいらに一寸したこそ/\話が始まると、忽ち連中は其方に耳を取られてしまふ。是をざふだん(雜談)などゝ名づけて人間のハナシの圏外に置かう(391)とする限り、語を換へて言ふならば、世間話の本質の認識が足らぬ限り、まだ/\日本は不幸なるゴシップの國、流言蜚語の惡用せられる國として續かなければならぬだらう。
 
          四
 
 ハナシが始めて我々の間に出現した頃には、是が今日の樣に數千萬の同種族を繋ぎ合せる、唯一の手段にならうと迄は豫想し得た者は無かつたやうである。號令と謂ひ指導と稱するもつと有力なる表示法があつて、大抵の場合にはそれだけで間に合つて居たからである。掛合ひと呼ばるゝ對等の交渉が必要になつて後も、是にも豫習があり又恐ろしく念入りな形式があつた。戰爭や喧嘩の場合だけは率爾に物を言ふかと思ふと、是にも口達者を推して名文句を弄せしめたのは、久しい沿革のあつたことかと思ふ。江戸ツ子のいさみなどは、話術發達の大いなる貢獻者だつたが、尚たんかを切る時だけは飜然として芝居をして居た。何處かで感心して聽いた奇拔な譬喩秀句を覺えて居て、折があつたら使はうと思つて居る。相手はいつも其競技によつて負かされるので、たんかは話といふよりも寧ろ呪文の方に近かつた。我々の祖先が自由なる言語によつて、身を益し心を樂しませようといふ目的は今と同じでも、古い生活に於ては其需要が今よりも狹く、且つ急切では無かつた。それ故に最初は先づ文藝の方面に向つて、話の利用といふものが發展して行つたのである。
 是が私の列擧して見ようとする第二の事情であるが、それはたゞ間接にしか世間話の現在の?態に影響して居らぬ故に、茲では略して其要領のみを述べる。説話が日本の言語技術の上に占めた地位は、酒が日常の飲食物の中に入り込み、歌舞が人間の娯樂の大きな部分を取つたのと、可なりよく似た關係を持つて居る。三者は何れも元生活の最も正式な行事であつて、年に一度か二度又若い頃の一盛りに、生涯の思ひ出として是に携はり、乃ち忘るべからざる印象を殘したものであつたが、人が我儘になり、且つ其尊嚴を輕視するやうになつてから、いつでも欲しいと思ふとき(392)に取り出して、其樂しみを味はうといふことになつたのである。酒や歌舞の方にも宗教から出た六つかしい色々の儀式法則があつて、長い間かゝつて其をちつとづゝ脱却して來たのだが、上代の物語の方でも、一度には「話」に變つてしまはなかつた。今でも本を讀み又は芝居を見て來て子供などに話す場合と同じやうに、第一に餘りに長々しい部分は切り棄て、忘れた部分などは重要で無いからよい加減に補充するが、こゝは面白からう悦ぶだらうと思ふ箇所、又は自分にも是非傳へてやりたいと思ふ點だけは、出來るだけ正確に時としては本文をも引用する。是がコントといふものゝ近代の語法を用ゐながら、尚折々は意外に古風なる形式をまじへ保存して居る理由である。その内にちやうど雛祭の酒が甘い白酒になつたやうに、聽衆が幼い者ならば童話となつて、彼等をよい兒ならしむるに必要なる箇條に重きを置き、相手が狂言記の大名のやうな只の享樂派ならば、ふざけた部分だけを捜して笑話にも猥話にもしたので、さうなると一段と古い約束が薄くなり、終に小説などは自分一人で作つたものゝ如く、信ずる者を多くしたのである。戰國以來の世の中の動搖から、新たに特殊の興味が目の前の實事談に誘導せられるまでは、ハナシといふものにも此種の昔話が多かつた。都は假に兵火の巷となつても、村の夜話には是以外のものを、求めることは不可能な時代もあつた。殊に庚申講その他の日待の夜、又は御伽と稱して人と共に起き明かす際などは、ちやうど長夜の酒宴に歌の數が不足する如く、幾らあつても話の種は入用であつた。それで始の程は眞面目なる村の話、又は世間話の新しいものを珍重して居ても、夜が更け子供が寢てしまふ頃から、段々と所謂大きな話が現はれて、末は高笑ひの爆發に歸せずんば止まなかつたのである。
 是なども考へて見ると、人の感覺がまだ粗野であり、其癖慣例には尤も忠實で、下品な笑ひが伴はぬと何か物足らぬやうに、思つて居た頃からの順序を守つて居るのかも知らぬが、御蔭で話といふものは人の機嫌を取るもの、どこかにをかしい所があつて笑はせなければならぬものゝ如く、解せられるやうな先入主が出來た。さうして猪口才で少しく厚顔な男子のみが、罷り出て座を待つ樣になつて、情の濃やかな考への深い人たちは、却つて其所懷を微笑とさ(393)さやきとの間に託することになり、中でも女などは物を言へばすぐにハツサイだと評せられるうき目を見た。
 つまり話術が稍偏つたる發達をして居たのである。それにはこの第二の文藝的事情と竝べて、今一つ第三の經濟的事情といふものゝ參與を考へて見なければならぬ。關東東海の荒しこ共が、都に入つて來て政治上の實權を握るやうになつてから、急に存在を認められて來たのは、咄の者と稱する一種の職業であつた。昔も人間には退屈といふ者があつたらうから、ピエロが入用ならばもつと早くから現はれてもよかつたのであるが、京の悠長なる生活に馴れた人よりは、田舍者の方が遙かに氣ぜはしなかつた。一方の和歌とか管絃とかに該當する者は、此方では狩であり漁であつたが、そんなものは旅先では斷念させられる。それに女の氣無しに夜遲くまで、集まつて番をして居る必要が多くなつて、咄は恐らく食物に次での、缺くべからざるものになつたのであらう。室町の若い將軍は同朋と名づけて、わざとやゝ年を取つたおしやべり共を、數多く扶持して居た。其中には連歌や能藝碁雙六のやうに一つの技に秀でた者も交つて居たらうが、元々彼等の用途は晴の目の爲では無く、ふだんの何でも無い閑の時を潰すに在つた故に、別に一役ある者でも片手には話を心掛けて居た。沼の藤六とかうそつき彌二郎とかいふ類の話上手は、師匠も無く又練習も無くして、獨りでに生まれるやうな簡單な技能では無かつた。彼等も最初は數多い古來の物語を學び、それを昔話とし又笑話に改作して、方々の家庭に流布せしめたかも知れぬが、一人を主と頼んで毎夜の伽相手を勤めて居ると、そんな話は忽ち古くさくなり、二度言ふと風を引くなどゝ言つてたしなめられた。我々の世間話がハナシの一派として、次いで現はれて來た偶然の原因は此に在つた。是も咄の衆なる者が職業の意識から、苦心して集めて來て且つ巧みに話したのが始まりで、決して單なる御互ひの知識の交換で無かつた。だから最初から題目に選擇もあり、又話さずには居られぬといふやうな率直なものも少なく、當然に今日我々が新聞などに向つて豫期するものとは別であつた。
 
(394)          五
 
 しかし少なくとも世間話といふ名は當つて居る。セケンは實際の日本語に於ては、今の社會といふ新語よりも意味が狹い。是に對立するのは土地又は郷土で、つまり自分たちの共に住む以外の地、弘く他郷を總括して世間とは言つて居たのである。さういふ未知の天地に對しては、昔から大きな好奇心はあつた。それが最初のうちは昔の昔の其昔に對すると同じく、可なり奔放なる空想を働かして、たとへば孫悟空の西遊記を見るやうに、どんな法螺話でも包容する餘地があつたのである。ところが遠征が行はれ人の往來が時と共に繁くなると、今まで聽いて居た話のどれだけ迄が本當であり、自分たちの判りきつた生活と比べて、どれほど違つて居るのかに又新たなる興味が生じた。詳しく説かずとも、近世の歐米に對する我々の知識慾がそのよい例である。是を四五百年前には國内の各地が、互ひにゆかしがり又間違つて教へられて居たのである。曾呂利新左衛門の逸話中にも多いやうに、どうぢや近頃かはつた話は聞かぬかなどゝ、顔さへ見れば先づ尋ねるのが、あの時代の「有識階級」の普通の癖であつた。手前が今朝出て參りまする路で、木の鑵子で茶をわかして居る者がありましたとか、又は昨晩は何とか坂の下で、怖ろしいものを見ましたとか、又例の其方が出鱈目であらうなどゝ、けなしながらも其樣な話を面白がつて聽いて居た。この放縱なる聽衆の笑ひずきが、折角發達しようとした世間話の若芽を、慘たらしく折りさいなんだ損失は大きかつた。茶坊主が野幇間となり又たゞの取卷き連となつてしまふまで、金の有る者の我儘はずつと續いて居た。彼等さへ眞面目に好い話を求めたならば、幾らでも新しい經驗は自分の耳目を煩はさずに、外から供與し得られる時代になつてからも、人は代物を拂ふ以上は樂しまされなければ損だといふ考へがあつて、常に大よそ見當の付いた書物を買はうとし、又は半ば期待し得る講演ばかり聽かうとして居た。其爲に是ほど出版物が多く、誰も彼も饒舌になつたにも拘らず、存外此方面からは自分の養ひになるものを得なかつたのである。
(395) たゞ今日はもう求めても得られなかつた時代とは違つて居る。以前は引込んだ田舍の村々に、世間話を運んで來る人の種類が限られて居た。たま/\獨りで長旅をして、戻つて來た者があつても、さういふのは話が下手であつたり、又は作り事をするのが容易に露はれた。話には別に劫を經た名人があつて、それは行商とか遊歴文人とか行脚僧とかの、先き/”\世話になり宿主の機嫌を取り結ぶべき者、又は旅藝人などの殆と輕口を專業にして居る者であつた。どんな話が村の人たちには喜ばれ、もしくは目を圓くされるかを知り拔いて居る上に、誠しやかに地名や人名を取つて附ける術はよく解して居た。從うて地方の世間話は、いつ迄も古い型を脱し得なかつたのである。今日は勿論人文地理の教育も進み、そんな事が有るものかといふ制限は多くなつたが、尚根柢に於て「何か變つた話」を、聽かうとする態度が跡引く故に、折角金を遣つて視察をして來たり、又は歴史に傳はるやうな戰爭に出た者が戻つたりしても、彼等も亦努めて奇事珍談の至つて有りふれたものを説くに苦心して、全く聽衆の意外とするやうな、眞實の話を後に殘すのであつたのである。
 私は大分久しい前から、談話の技術の成長して來た經路を考へて見ようとして、江戸期以來の家々の筆記ものに、主として如何なるハナシが書き傳へられて居たかを見ようとして居る。さうして今日までに得た所の結論は、をかしい話だが大體に於て、ほゞ我々の新聞の行き方と、古今格別の相異が無いといふことになつた。勿論通信の力は比べものにならぬ故か、早さに於ては今は確かに大違ひであるが、讀者の側からいふと早いのは人より早ければよいので、隣近所が全體にまだ知らぬならば、自分の知るのも遲くてもよかつた。長崎見聞の異國趣味とか、ヲロシヤ談判メリケン渡來の際の風説などは、隨分遲くなつても人が知らぬから話の種になつて居た。それから政治は人を本位、誰と誰とがどうしたから斯うだといふ類の、穿ちに近い色々の事情談、一般に改革に對する不滿不評判の聲、それも程無くあきらめて落首文學に墮ちて行く傾向など、全體に幾分はすかひの地位から、物を眺めようとする三田村鳶魚式とも名づくべき皮肉が、江戸で普通になれば京大阪は素より、小さな御城下から閑な人の居る在所まで忽ち行渡り、其(396)他の報道といへば孝子節婦、義人の善行、及び是と對蹠的なる惡逆無道、斬つた突いた騙くらかしたの、今なら警察種ともいふべきものが肩を竝べ、たま/\遠方の土地から入つて來た世間話といへば、怪獣大蛇巨大なる魚菌の類に非ずんば、土を掘つて稀世の珍寶を見つけたといふ類の、史記の貨殖傳以來亞細亞人の興味を持つて居た新事件と、單に町の人だけを笑はせる爲の權兵衛田吾作談の奇拔なものばかりである。この種の題目の選擇には、何かよく/\運命的なる古い方針があつたと見えて、二百年以前の筆豆が既に注意を之に拂つたのみか、今なほ是だけの種さへ集めて居れば新聞は出來ると思ふやうな氣風が、稀には一隅に漂ようて居るかに見える。地方版が發達して、我々の世間話が、外國と中央と各自の縣内とに限られ、嶺一つ彼方へ越えれば何事が起つて居るのやら、知らずに日本人が互ひに結合して居るのを、歎かはしいことのやうに考へて見た人もあつたが、その世間話が本當のものにならぬ限り、假令境を撤廢して筒拔けにして見た所で、格別我々の生活實驗が、今よりも地平線を弘くしてくれることは無さゝうである。
 國語が國民の何より大切なセメントであることは、時を同じくした異處住民の間だけでは無い。親が死ぬ以前に前の代から學んで居たものを、次に生まれてまだ自ら實驗せぬ者の爲に、役に立つか否かは其者の考へ次第として、兎に角愛情のたゞ一つの動機から、傳へて置かうとしたものが我々の教育であり、本が無い時代には是を皆口の言葉によつて爲し遂げた。單に無意識なる觀察と模倣とだけから、子供たちが學ぶのであつたら、もつと早くから國は外國化したであらう。しかもその傳承が餘りにも印象と記憶を重んじ、又幾分か形式の面白味によつて、人を古代崇拜に拘束するの懸念が生じて、こゝに自由なるハナシといふものが發明せられ、男女相昵び郷黨は相信じ、しかも澤山の新たに學ぶべき勞苦を考へて、先づ疲れた者が代つて子や孫の肩を輕めんとして居たのである。家と部落との中では其目的は相應に既に達して居る。讀り世間話のみが依然として人間の需要を開拓せず、樂な昔風の御伽坊主の職業意識を、踏襲させようとして居たのは無意味であつた。又歎息すべき損害でもあつた。しかも果して自分などの想像し(397)て居るやうに、是が專ら要求者の無慾、もしくは歴史家の今までの習癖、即ち事件を透さなければ時代を知ることが出來ず、官憲が氣を付け始めなければ事件では無いかの如き、狹い考へ方が原因ならば、之を改良することも困難な仕事では無い。何となれば世上の人氣に敏感で、公衆の希望に忠實な點にかけては、ジヤーナリズムに上越するものは他に無いからである。
 
(398)  御伽噺と伽
 
 この間題は以前も片端を述べ試みたことがあるが、近く折口氏の意見が發表せられた機會に(國文學論究六)、もう一度私の解して居る所を明らかにして置かう。御伽噺といふ語は、一種明治以來の流行語といつてもよい。少なくとも巖谷小波氏のやうな内容を以て、盛んに使用せられることはもとは無かつた。それも御伽婢子などゝいふ書物の續出によつて、中代に既に著しい變遷を經て居るのである。それを一々ことわるのも手數だから、實際には成るべく避けて使はぬ樣に私たちはして居る。童話ばかりをオトギなどゝ呼ぶことは、ほんの新しい一派の人だけがすることで、それが又大きな間違ひのもとでもあつた。御伽噺は本來御伽の役の者がする話だから、是非とも昔話即ち我々の研究して居る民間説話だけに限つても居なかつた。言はゞ文筆の無い民間の伽話には昔から「昔々ある處に」といふ文句を以て始まる説話の多かつたのが、貴人の家庭にもまだ一部分其風を存して居たといふ迄である。
 御伽がトギの敬語であり、從つて目上の人の御相手であつたことは、認めない者のあるのが不思議な位である。トギといふ語は決して死語では無く、今でも相手の意味に方々で用ゐて居る。上方邊では不吉な折のつきあひ、即ち東京でいふオツヤのことをトギと稱する爲に、其他の場合には忌んで用ゐなくなつたがその通夜とても同じやうに、元は今少し意味の廣い言葉であつた。或ひは又女房をトギといふ土地でも、その他の相手には紛らはしいから用ゐないだらうが、さういふ限定を受けて居ない方言が今日でもある。九州にもあつたかと思ふが確かには記憶して居ない。四國では阿波の祖谷山で仲間もしくは供をトギ、土佐も一般につれ・仲間がトギで、「トギさへありや自動車を借切(399)つて行く方がとくぢや」、「年を取ると次第にトギが少なうなる」などゝも謂ふさうである(土佐方言集)。中國の方でも周防柳井などは相手をトギといひ、同じく大島郡にも同じ語がある。宮本常一君の報告では、ツレとホウバイとトギとは似て居るが意味の差があり、ツレは一囘きりの遊びなどに謂ひ、ホウバイは大抵同じ年か一つちがひ位で是には食物なども同じやうに分ち與へる。トギは必ず年長者が、年下の者の相手をする場合に限つていふさうである。この分化の傾向がもし新しいものでないならば、御伽噺の後々童話のことになつたのも自然だと言へる。
 トギといふ語の語原については、私は最初夜分を主とするものゝやうに考へた爲にイザトイなどのトイと共通に、鋭敏に睡を忍ぶ意かと感じて居た。しかし之を證明することはよほど困難だと思はれる。もう一つの想像説はドシといふ語から分れたとすること、此方にはまだ少し命脈がある。ドシは同志の漢字に絆され、もしくは友だち思ふどちなどの、複合形が保存せられて居るのみだが、九州に行くとまだ獨立して、所謂朋輩の意味に多く使はれて居る。元は或ひは初の子音が澄み、他の語と紛れぬやうにトキとも發音して居たのかも知れぬ。
 人體から出る液汁をチともキともいひ、唾をシタキ・クタキなどゝいふ傍例もあるのである。但し斯ういふ推定は一つの遊びに過ぎない。それが誤つて居たところで、相手又は仲間をトギと謂つた事實には變化は無いのである。
 斯ういふトギの必要であつたことは、狹い小家にごちや/\と住む者よりも、貴人に多く、特に又その成長の際に、痛切であつたことも尤もなことで、さういふ御伽の役が何を御奉公の種にしたかといふと、夜分は音曲かカタリモノか、さも無ければハナシがあつたゞけである。それが必ずしも睡を催す爲だけでなく、所謂教訓の意を寓したのも當然であつたが、時と場合によつてはトギをする者どうし、寧ろ睡らぬ方便に面白い昔話を、はやらせることもなかつたとはいへぬ。岩倉市郎君の逢つて來た沖永良部島の説話傳承者の如きは、喪家に通夜があると頼まれてそこへ話しに行つた。二十三夜や庚申待ちの夜籠りなどは、國全體を通じて昔話を今日の形に保存し得た、最も有力なる機關だつたとも言ひ得る。所謂御伽衆の制度の表立たぬ前から、伽と話とは既に不可分なものであつたのが、たま/\御伽(400)になつて記録文藝の方へ、伸びもしくはねぢれて行く途が開かれたのかも知れない。伽の字が日本の新字であつたらうといふ説は、私より前にも誰か氣づいて居た人があつたやうに思ふ。支那に同じ内容をもつ伽の語の見つからぬ限り、一應はさう推定して置くのは自然であらう。加は參加の加であつて我邦ではカタルとも訓んで居る。カタラフは元はたゞ合同の意であつたのが、是には何か物を言はねばならぬことになり後には限定して男女の契りのみに、いふやうにもなつて居るが、一方には又巧言で人を騙ることもカタリ、古い文藝の傳承もカタリとなつて居る。是を各々別の語原に據るやうに、考へることは多分むつかしからう。トギに宛てられたる伽といふ漢字形が、どうして生まれたかは何と決しようとも、人が寄合ふことがハナシの起りであつたことだけは、私はほゞ間違ひが無いと思つて居る。斯ういふ問題こそは感情を害せずに、かの徒然草に「我はさやは思ふ」と言つたやうに、トギとして靜かにカタリ合つて見たいものである。
 
(403)  踊の今と昔
 
       一 發端
 
 少年の頃下總利根川の邊に住みて時に小念佛踊《こねぶつをどり》といふものを見たることあり。旅の物貰の徒にて鉦を扣き十二三の女の兒を踊らする也。踊子の出立《いでたち》は略現今のホウカイ節の如く、鼻筋に白粉を附け足を高く擧げて踊る。歌の文句は佛名には非ざりしも、後年書を讀みて中世の踊躍念佛の風習などを知るに及び、彼も亦歌念佛葛西念佛などゝ同じく此系統に屬する信仰の一變形なるべしと思へり。然るに更に退きて考ふるに踊躍念佛にも亦其由來淵源あるぺし。此の如き顯著なる社會現象は決して突如として一朝に發生し得べきものに非ず。如何に信心の狂熱を以てするも二三の僧侶の感化が此の如く全國土に波及する爲には一方には又國民の Susceptibility の存在を必要とすべき理なり。昨年の夏偶然長門周防の新風土記を繙きしに、村々の風俗を記すること詳密周到にして踊の記事多く見えしより、之を端緒として些しく此問題に注意したり。其結果として(一)此風習は多分漢神の信仰と共に輸入せられし外來のものなるべきこと、(二)今日の所謂特殊部落の多くは此風習と大なる生活上の關係を有せしことを假定するに至れり。材料の十分に具足せざるに之を發表するは不忠實なれど、此問題のあまりに廣汎にして同志諸君の協力を仰ぐに非ざれば、解決を近年に期する能はざるを憂ふるが故に、敢て編輯者の許容を乞ひ、此の如き一小篇を公けにせんとす。
 
(404)       二 念佛踊
 
 近代の念佛踊は各種の年中行事の書に載録せられたる西京嵯峨の清涼寺の踊念佛、同じく御影堂の踊躍念佛、壬生狂言の起原として有名なる壬生の踊躍大念佛、又は千本閻魔堂の大念佛の外に諸國にも其例あり。先づ其名目を擧れば、(イ)肥後上益城郡乙女村大字津志田なるヒナイ神の社頭に於ける七月十四十五日の念佛踊(肥後國志)。(ロ)備前兒島郡下津井町大字下津井に於ける七月十五日の念佛踊一名ナマウデ踊(和氣絹)。(ハ)土佐高岡郡窪川村大字宮内の五社大明神社頭に於ける九月九日の御念佛踊一名ナマウデ踊(南路志)。(ニ)長門厚狹郡小野村市(ノ)小野の念佛踊、是は雨乞の爲にして毎年の神事には非ず(長門風土記)。(ホ)同郡|吉部《きべ》村大字酉吉部の氏神にて七月十五日に執行する念佛踊、是は牛馬安全の爲なり(同上)。(ヘ)同國阿武郡高俣村大字片俣中小國の八幡宮の念佛踊、是は近年になりては雨乞又は牛馬の病の折ばかりに踊る(同上)。(ト)同國美禰郡赤郷村大字繪堂の龍子山にて雨乞の爲にする念佛踊(同上)。以上は諸國の踊にて念佛踊と稱するものなり。此中備前と土佐とのナマウデ踊は佛名を踊の囃詞とすること明らかなり。其他は念佛をするや否や明らかならず。而して此等の踊と念佛踊と稱せざる諸處の踊とは共通なる點極めて多し。
 
       三 輪踊
 
 踊の名稱は國々村々によりて色々なり。而して自分の假定にては此等名稱の相異は踊の根原の差別には非ざるに似たり。何れの踊にても其人數常に多くして時としては百餘人に及び少なきも十餘人を下らず。シャマンの踊の如く一人に踊らすと云ふこと決して無し。多數人が共に踊るときは多く圓陣を作り中央に頭取其他肝要なる役者を入れる也。(405)此爲に輪踊〔二字傍点〕と稱する村あり。例へば長門風土記大津郡|通島《かよひしま》、豐浦郡西市村殿敷等の條には盆中輪踊仕候とあり。南路志に見えたる正保元年土佐五臺山の遷佛式に催したる踊には外輪踊七十五人中踊二十人云々とあり。神都名勝志に見えたる伊勢度會都城田村の羯鼓《かんこ》踊にも百餘人一樣の行装にて圓形を爲して踊るとあり。越の下草に依れば越中東礪波郡|大鋸屋《おがや》村大字林道の中に踊松と云ふ地あり。小川の岸に圓き平山あり。其頂上に松樹四五十本圓形を爲して生立ち其中央は芝地なり。此松夜毎に踊りて自ら輪を作り常に其在所を變ずと云ふ云々とあり。最初は輸踊とは次に云ふ腰輸踊の略語かと思ひしも、此を見て其誤を知れり。此點は普通何れの村の盆踊にてもあることにて、踊りつゝ前へ進まんとするには多人數ならば圓形を作るの外なき也。
 
       四 腰輪踊
 
 腰輪踊〔三字傍点〕と云ふは腰の周圍に輪を着けて踊る出立の著しきに基きたる名稱なり。例へば此も長門阿武郡三見村、豐浦郡阿川村野地、瀧部村大字久森の赤崎社、大津郡向津具村又は三隅村大字三隅市の八幡宮等の踊は之を腰輪踊と稱せり。腰輪と申す五色の紙を以て飾りたる輪を腰に附け云々ともありて古き圖を載せたり。輪は提灯の骨などの如く細き割竹にて作れるやうに見ゆ。踊子一樣の装束なり。吉部、繪堂等の念佛踊にても亦同樣腰輪を附くるよし。總別踊子の腰の周圍は賑やかなるものなれど五色紙の飾は殊に注意に値せり。前に言へる伊勢の羯鼓踊にても古餘人の踊子皆菅にて製したる腰蓑を附けたり(圖あり)。倭文麻環《しづのをだまき》卷八に見えたる大隅國分八幡の御田踊の圖にも踊子は腰に蓑やうの物を纏へり。土佐朝倉宮寛文四年の踊の記事には、前には腰蓑とて赤と鬱金《うこん》と金箔と三色にて腰に蓑をするとあり。年中行事大成に依れば山城葛野郡西七條村の正月十五日の田植神事には當屋《たうや》の男赤き前垂を掛けて踊るとあり。外宮の田植行事にも田長及び田夫紅粉を施し烏帽子素袍に腰蓑を着けて田舞を奏するよし同じく神都名勝志に見(406)ゆ。此腰蓑は事によれば中世の職人盡の繪に見えたる鉢扣きの腰蓑、さては近代までありたる願人坊主の腰蓑、又は今日も祭禮に小兒が襷にする黄色に染めたる麻絲に色々の玩具などを着くるものと因あるかも知れず。其事は猶少しく後に言はんとすれども、兎に角御注意を乞ふ所なり。
 
       五 燈籠踊
 
 西京北山の花園踊は一名を燈籠踊と云ふ。骨董集卷上に引用せる都歳事記の記事に詳なり。七月十五日の踊にて念佛に節を付けて歌ふと云へり。囃物は笛太鼓、踊子は頭に大なる燈籠を戴きて踊る故に此名あり。俚言集覽増補に引用せる俳諧五節句の記事は一層詳かにして、灯籠の左右には弦なき弓のやうなるものあり、之を兩の肱にかけ腕にて押へて踊る、赤き前垂をつけたり云々と見ゆ。燈籠踊と云ふ名稱は他國に類例あるを知らざれども、頭に異樣なる物を戴きて踊ることは例多し。前に云へる京の西七條村の踊には大なる盒子に注連を引きたるを頭に戴くと云へば今日のヨカ/\飴屋の如き風なるぺし。此盒子をユリナキと云ふよし也。長門にては西吉部及び市(ノ)小野の念佛踊、阿川村の腰輪踊にては共に鷄又は龍の冠り物を爲す。其圖を見るに偉大なる花笠の上に鷄又は龍の作り物を取附けたるなり。鷄は日の象徴にて龍は水の象徴なるが如し。此二の天然力は農作の爲に最も重要のものなり。市(ノ)小野の踊に用ゐるは鷄の笠二つ龍の笠十にて、昔鈴鹿三郎と云ふ人|壬《みづのえ》と癸《みづのと》の日一千日を擇びて之を製作せりと傳ふ。五千日即ち十四ヶ年かゝりて調進せしなり。此踊は雨乞の祈?に行ふと云へり。同じ國大津郡|深川《ふかは》村の樂踊《がくをどり》も亦腰輪を着けて踊ることなるが、十六人の踊子の中鉦打十人胴取二人あり。二人の胴取は寶冠と稱する紙にて作りたる大笠に五色の紙に數百の造花を着けたるものを戴き、十人の鉦打も菅笠に五色の切下げ紙を附くる由なり。思ふに諸社の祭禮の花笠も之と根原を同じくするなるべく、場合によりては一の大なる被ひ者の下にて丸くなりて踊ること住吉踊の如きも(407)有りしならん。東國にてダシと云ひ西國にてダンジリと云ふ移動する舞臺にての踊は御靈會の踊鉾に由來することは大抵疑なし。而して此鉾のことを古くは源平の時代より傘鉾とも稱したりき。兎園小説に見えたる筑後の風流祭も亦傘鉾の周圍にて踊るなり。
 
       六 羯鼓踊 コキリコ踊
 
 踊子の持道具には愈以て奇妙なるもの多し。伊勢|城田《きだ》村の羯鼓踊のことは度々前にも云へり。其姿は白黒段染の筒袖を着し白木綿を腹に卷き脚半手甲を穿ち腰蓑を纏ひ、頭には白馬の尾にて製したる鬘を被り胸には羯鼓を掛くとあり。神都名勝志の插圖はあてにもし難けれど右の鬘と云ふは笠なるが如く田樂の綾藺笠と似通ひたり。羯鼓又はカンコと云ふは今の大神樂の持てるが如き細長き中位の太鼓なり。自分は此を以て彼の洛陽田樂記中の腰鼓振鼓の類ならんと思へり。筑後の風流祭にても笛に鼓、羯鼓及び鉦を合すと云へり。其他大小の皮製樂器は踊には必ず伴なふものなり。
 越中五箇山は莊川中流の盆地にて自分も通過せしことあり、昔なつかしき地方なり。此地にコキリコ踊と云ふものありしことは三國志に引用せる北國巡杖記又は雜事記第十八卷などに見ゆ。越の下草には今は年たけたる者ならでは知らずとあれば大凡百五十年前迄は存ぜしなり。コキリコは女竹の長さ五寸五分のもの二本にて、之を兩手に持ち七五三、五五三と打ちて踊の拍子を取るなり。黒甜瑣語には筑子《こきりこ》は今の四ツ竹の手拍子にて竹枝の遺響なりとかやとあれど此は二ツ竹なり。五箇山の踊は一に神樂踊とも稱し季節は八月十五日の頃なり。囃し物には笛太鼓の外に鍬金と云ふものあり。鍬金の圖は雜事記に見えたり。農具の鍬先に少し似て南端に穴ありて紐を通す。蝦夷の巫覡が祈?の用に供する鍬先と云ふ物は、若し閑窓輪話などに見えたる圖を正しとせば必ずしも之と相類せざれど、兎に角異樣な(408)る器具なり。猶後に鍬神の事を言はんと思へば參照せられたし。さてこのコキリコを塵添?嚢抄には小兒の翫物の中にサヽラ、コキリコなどあり云々と見えたれど、もとは決して玩具には非ず。職人歌合にも放下のコキリコとて其圖あり。謠曲の放下僧にもコキリコはハウカにもまるゝとあれば疑もなく放下の徒の必要なる商賣道具なり。而して村の踊にかゝる物を使用するに至りし次第は如何。追々と臆説を陳述すべし。
 
       七 樂踊 田樂
 
 長門にて秋の初に踊の腰輪を附け笠を被り鉦を扣き多人數輪になりて踊るものを村によりては樂踊とも云へり。樂踊は自分の考にては即ち散樂又は田樂のガク踊ならんと思ふ也。但し他國には未だ同じ名稱あることを知らず。之に反して田踊と云ふ名は所々に存す。鹿兒島縣にては垂水の鹿兒島宮、國分の八幡宮、川内の新田宮等に田踊あり。御田植の儀式に伴なへり(倭文麻環)。會津にては正月に田植踊とて男子が女の粧をして太鼓を打ち農歌を歌ひ來る(新篇會津風土記)。京西七條村のユリナキを戴きて踊る田植神事も正月十五日なり。四神地名録に依れば間近き北豐島郡赤塚村大字下赤塚にては正月十三日に田遊と云ふ踊ありき。餅にて色々の農具の形を作り之を持ちて四季の耕作の眞似を爲し終りて古風なる踊あり。土佐にても田植に因みたる色々の踊あること南路志に詳なり。例へば安藝郡吉良川村濱の八幡宮にては三年に一度づゝ御田祭の儀式あり。踊の組の中には練と稱する者六人あり。竹のミゴに紙を張りたる大笠にシデを附けたるを被りサヽラを持つ。太鼓を打つ者二人之に隨ふ。其外に女猿樂、田打、エブリサン、田植、田刈、地堅めなど云ふ役あり。歌の文句を見れば足利時代に成れりとおぼし。高岡郡仁井田村にも囃子田又は太鼓田と稱する神田ありて其田植の行事は極めて嚴重なり。其田は元より裏作を爲さず、田植に先だちてすきかへす。一の田に七八十人より三十人位かゝりて田植を爲す。組の中にはタチウド一人、太鼓打二人、サヽラスリ二三人等の(409)役割あり。太鼓打の少年は背に五六尺の笹をさし之に五色の紙を附けて七夕祭の竹の如し。數章の古風なる田植歌あり。田を耘くにも一定の鍬使ひの作法ありてそれ/”\大和鍬、高廻し等の名目あり。同郡多(ノ)郷村の賀茂大明神の祭は十一月中の酉の日なれば田植は無けれども、其行列に立つ者は皆田樂の組の如き名稱あり。即ち童子二人馬|長《をさ》と稱し馬にのりて先に立ち、次に田かき馬を引き次にはエブリ持二人、太鼓打四人、鍬打二人、サヽラスリ二人等あり。晝飯持と稱するは白木の苧桶に酒の粕を入れて持ち神歌を唱へ神前に於て右の晝飯を四方に投ぐること雪の如しとあり。此等は何れも田樂とは稱せざれども、之を彼の田樂の元の形なるべしと思はる。榮花物語御裳着の卷の上東門院田植御覽の條の、又でんがくと云ひて怪しきやうなる鼓腰に結び附けて笛吹きサヽラと云ふ物突き樣々の舞して怪しき男ども歌うたひ心地よげにほこりて云々とある記事、又は今昔物語卷二十八の近江の田樂の條に「ひた黒なる田樂を腹に結び附けて袂より肱《かひな》を取出して左右の手に桴《ばち》を持ちたり、或ひは笛を吹き高拍子を突き□□を突き?《えぶり》を差して樣々の田樂を二つ物三つ物に儲けて打罵り吹き乙《かな》でつゝ狂ふこと限無し」とある記事などに比ぶれば、古今の習慣に著しき共通あることを思ふべく、田踊は田樂なりと云ふも強辯の謗は受けざるべし。
 因に云ふ。右の古書にあるデンガクは鼓のことにて腰に又は腹に結附けたりとあれば或ひは伊勢の羯鼓と同じ物かも知れず。又エブリは農具なり。恐らくは水多き田を整地する爲に用ゐる者ならん。和訓栞には酒屋にても之を用ゐると云へり。南部方言集に依れば今日も彼地方にては正月十五日前後にインブリと云ふ踊あり。農民等三四十人組を作り笛太鼓に調子を合せ富家を巡りて豐年を祝す。組の中三名或ひは五名は烏帽子直垂にて先に立ち人家に入りて舞ふ。同勢之に從ひ圓形を作り音調を和す云々とあり。このインブリは即ち?なるべく、他の多くの田踊と同じく、正月十五日を以て行ふことも由來なきに非ず。東西の諸國に立別れて右の如く色々の名稱を以て行はるゝ民間の踊が格別の困難なしに根原凡て一なりと立證し得べき仔細は以下章を改めて細敍せんと欲する所なり。
 
(410)       八 近代の田樂
 
 今より百五十年前、コ川幕府にては日光祖廟の神事の爲に田樂の儀式を復興せんと欲し、和泉泉北郡大津村に田樂の家筋の者住すと聞き大阪の官吏をして之に就きて其由緒を尋ね且つ能ふべくは其業を再興せんことを計らしめしに、此徒は既に只の農夫と成り技藝甚しく衰へ役者具足せず、傳書の類亦大半散佚して如何ともする能はず、終に其議を中止するに至れり。泉州の田樂の言に依れば彼等はもと近江坂本に住居せしが、亂世に流離して或者は紀伊に土着せるあり、又二三の西京に留れる者あるも當時既に相互の聯絡を絶えたりしが如し。右の顛末は「田樂法師由來之事」と題する一書に詳にして史籍集覽の中に採輯せらる。
 坂本の田樂の末路は此の如く哀なるものなり。唯之を以て我國田樂の滅亡と目すること寶暦度の幕府の役人の如くなるは即ち誤なり。紀泉に分散して終を告げたるは單に日吉山王の田樂のみ。近世の田樂法師は何れも神社の信仰に據りて生計を營めり。田樂が本社を離るゝは魚の水を離るゝに同じ。滅びざらんとするも能はざる也。然れども諸國には別に連綿たる田樂の家筋の各處に割據するありて其藝は永く傳へられたり。前述の樂踊、田遊の類にて實質の田樂と同じき者迄を列擧せば其數多けれども、田樂の名稱を保存せるものゝみにても先づ常陸には久慈郡|金砂《かなさ》村の金砂大明神に田樂の神事あり。尤も是は七十二年目の大祭にのみ行はると言へばあまり盛大なるものに非ず。然れども天明元年は恰も大祭の年に當り當時の學者の筆に成りたる田樂記は増補常陸國誌に採録せらる。此記事に依れば田樂の家元は古川氏にして今の久慈郡染和田村大字西染|合諸内《かふしようち》に住し、之を助くる諸役も各家筋ありて近村に散在し平日は村々の神官など勤めたりと見えたり。此次の七十二年目は黒船の騷動ありし嘉永六年なれば水戸家にて例祭の出費を補給せられしか否か知らざれども兎に角家業の者に取りては千載の一遇とも云ふべき神事なれば十分身を入れた(411)りしは疑無し。
 奈良の春日祭にも田樂の神事あり。田樂法師は大和の中に居住する者の由と俚言集覽に見ゆ。未だ其顛末を詳にすること能はず。之も亦寶暦年間の捜索に洩れたる者なるぺし。それよりも更に不審なるは府下王子權現の田樂なり。幕府の官吏が之を知らずして遠く泉州に求めたるは何故にや。或ひは近代の發起にて由緒正しからざるが爲なりしか。此田樂は王子權現の別當なる金輪院の奉仕にて其文化元年の詳細なる記事は墨海山筆と稱する叢書中にも輯録せられたり。此は金砂大明神のとは異なりて毎年七月十三日の張行なり。明治の今日迄連綿として絶えず。現に昨年七月の東京毎日新聞にも其寫眞と記事とあり。是恐らくは田樂と稱する者の最後の遺?ならんも他の田祭と云ひ田踊と云ひ田遊と云ひ田植神事と云ふものも仔細に其作法を比照すれば凡て皆田樂と系統を同じくして名を異にするものに外ならざるが如し。
 田樂の稱呼に關しては古今諸説あれども要するに水田の耕作に縁故ある樂部と云ふ義なるべし。昔は廣く一切の歌舞を樂と稱せしが故に斯る田舍の習俗をも其名の下に包括せしならんも、決して正樂の分派せしものには非ずして、法外に賤視せられしことは各種の記録殊には今昔物語の江州矢橋の田樂の話にて明白なり。而して田?と云ひ田歌と云ひ田鼓と云ふ語など古くより見ゆるを以て推せば其以外の名稱も早くより竝び行はれしものにて必ずしも近代地方人の横なまりたる語にして古意を失ひたるものとは云ふ能はざる也。
 
       九 サヽラ、ビンザヽラ及びシダラ
 
 田樂の持物の中にて最も注意すべきはサヽラなり。田樂がサヽラを持つこと古く見ゆるは榮花物語(御裳着の卷)なるべきか。是にはサヽラを摺るとは言はずサヽラを突くと書せり。元來サヽラと云ふ物にも全然形を異にする數種あ(412)り。其一は竹※[?の草冠が竹冠]即ち今日東京人の所謂サヽラにて今は臺所道具としてのみ知らるゝ所の物なり。末を細く割りたる竹にして之をギザ/\を刻み付けたる他の竹と摺り合せ音を發せしむ。上方にてセキゾロの徒の持物となりて存す。其二は編木なり。笏の形したる薄き木板を多く連結して叩くものなり。其三には一枚の木にて成れるかと思しきサヽラの繪あり。榮花に「突く」とあるは此なるべく、彫木の字を充てたるものならんかと思へど未だ詳ならず。兎に角手に持ちて物に叩き付け單簡なる音を發する迄の器にして、拍子木が樂器なる程度に於ての樂器なり。目的が無造作なるだけに何れを用ゐても差支なかりしなるべく、其先後眞僞を論ずるは無用なるべし。臺所用のサヽラとても決して新しきものに非ざることは一種の職人盡歌合の繪に之を載せたるにても明らかなり。近頃活版になりたる駿國雜志の古器圖にも其形?寸法等を出せり。
 田樂と稱せざる踊にしてサヽラを使用するは前に擧げたる土佐の三ヶ所の神事にして共にサヽラスリと稱する役あり。此踊の田樂と共通なる點は外にもあり。即ち何れも田植の神事と關係あること也。此外にサヽラを持つ者には空也の徒あり。駿國雜志のサヽラの圖は應永年中の融通念佛縁起に出でたりと云へり。自然居士の謠には「サヽラの子には百八の珠敷、サヽラの竹には扇の骨、おつ取り合せ是を摺る」とあり、東岸居士の中にも「サヽラ八撥打ち連れて」などゝあり、所謂念佛踊の徒の常にサヽラを用ゐしことを知るべし。近代に鉢叩きの僧が茶筅を賣るは其始此に存し茶筅即ちサヽラなりと云へり。瓦礫雜考には桂川地藏記を引きて地藏參詣の群集が各編木を摺りしことを記し、又伊勢比丘尼の手裏に繋ぎて鳴すものも今はサヽラと云ふと云へり。此サヽラは思ふに四ツ竹の類なるべし。放下が持てるコキリコと云ふも矢張一種のサヽラなるべしと思ふ仔細あり。煩はしけれども之を述べんとす。
 サヽラ又ビンザヽラと云ふ語の起りは和訓栞にはさら/\と摺るよりの名なるべしと云へり。音に基くと云ふ説は一應は聞えたれど、拍板編木のサヽラは決してさら/\と摺ること能はず。卑見にてはサヽラと云ふは昔も今も歌の囃又は相の手の發音なり。萬葉には神樂と書きてサヽラと訓ませたり。釋日本紀には神功紀の歌のサヽラを樂なりと(413)云へり。竹の葉をサヽと云ふも元は舞の手草にとりしよりの名なるぺし。今もサッサと云ふ囃詞を用ゐる俗曲多し。之を以て見ればサヽラのラは名詞にする爲の語尾にて拍子の義なるが如し。而して古くは之をシダラと云ひしかと思はる。シダラは骨董集に引用せる遊戯往來の文に依れば※[手偏+垰の旁]遊の字を充て編木摺とは之を別てり。紀伊國續風土記に載せたる熊野新宮の什物なる田樂装束の中にも編木の外に志天々伊あり。二者相異なるに似たるもシダラも亦踊の拍子を取る爲の道具なりしは殆と疑を容れず。其證は一に非ざるも近代の書にては薩州の風俗を書せる倭文麻環の中に頴娃地方にて設樂《しだら》踊と稱するは四ツ竹の如きものを手に持ちこれにて拍子を取る踊なりとあり。設樂踊の最も長きは本朝世紀天慶八年の記事なり。此は八幡信仰に伴なふ流行踊なりき。之に次ぎては長和元年に設樂神鎭西より上洛すと百錬抄に見えたり。此神は後世迄踊と最も縁故深き紫野今宮の根元なり。此等のシダラも共に踊に缺くべからざる器具の名なりしが故に踊の名ともなり又此踊の中心たる巫祝部落の名ともなりしならん。「シダラ打つ」と云ふことは今日は意味不明となり從つて色々の臆説を生じたれど、之を踊の囃詞より來たる拍子の道具の名と解すればよく了解せらる。サヽラには既に數種あるなればシダラ必ずしも其一と同じからずとするも少なくも其同類と云ふを妨げず。津輕方言考に依れば彼地方にてはタワシ洗具のことをシダラと云へり。東京のタワシはサヽラとは別なれど少なくも親類の關係あり、津輕のシダラは或ひはサヽラかも知れず。彼地の人に聞くべきなり。諸國には田樂サヽラなど云ふ地名ある如く又シダラと云ふ地名あり。踊を以て神に仕へし部族の住地なるべし。三河の南北設樂郡は恰も八幡の設樂踊の流行せし前後に新置せられたり。今日まで萬歳の本原地たること由來なきに非ずと自分は思へり。
 此次に一言すべきはサヽラと稱する特殊部落のことなり。常陸國誌に依れば彼には天下野《てがの》サヽラと稱する一種の賤民あり。天下野は即ち金砂山の麓の村にして此サヽラは金砂田樂の部曲なりと云へり。水戸市の東照宮の例祭四月十七日には右のサヽラ來りて踊を勤む。金砂田樂の頭目たる古川氏も亦東照宮の社人なりき。九々五集に依れば伊勢の龜山の城下の東端にも街道より少し入込みてサヽラと稱する部落居住すること繪圖に見ゆ。此書は二百年前の地誌な(414)れば今日は如何かと思ひ、北伊勢の人にて特殊部落の研究に餘念無き竹葉寅一郎氏に問合せたるに、龜山邊には今は居住せざるも宇治山田市の近村に一二のサヽラ部落あり。是は穢多とは別なりとのこと也。周防長門の風土記に依れば村々に居住する雜戸即ち特殊部落の中に茶筅と云ふ一種あり。もし鉢叩の茶筅は念佛の徒のサヽラに由來すとすれば右の茶筅部落も亦サヽラ部落と同じからん。但し何を以て職業とするかを知らず。少なくも今日にては踊と關係無きに似たり。古き所にては貞コ文集の中六月一日祇園會の條に踊子、放下、彫木摺《さゝらすり》、弦召《つるめそ》と續けたるは別に此名の雜戸ありし一證なり。田樂以外に此の如き世職の者ありしなるべし。又サヽラの名を以て呼ばれざるもサヽラを持つを特色とする家筋は鳥追セキゾロの外にも猶あり。近代に成りたる越後南魚沼郡浦佐村の年中行事に依れば彼村の毘沙門堂にて毎年正月三日に踊あり。其音頭を取る者は普光寺の寺百姓喜兵衛と云ふ者にて音頭料として寺領の中より少々の畑を充行はる。單物股引にてサヽラを持ち毘沙門天の方に向ひ之を摺る。此時男女の者之を取卷きて踊るなり。
 
       一〇 鉦及び金鼓
 
 長門の踊は色々の點に於て田樂と類似するにも拘らず何れの村の踊にもサヽラを持たぬは奇妙なり。此地方の踊の持物の中にて最も普通なるは叩き鉦なり。鉦の形?は説明不十分にて之を知る能はざれども、此も自分の考にてはサヽラと同じく始より一定の形は無く單にカン/\の音を發する金屬の樂器ならば差支なかりしならんと思へり。昔の田樂には銅?子ありて鉦は無?きやうなれど(洛陽田樂記、又は熊野新宮什器目録)、田樂に似たる諸國の踊にて鉦を打つ例あり。例へば兎園小説に見えたる筑後の風流祭、又は神名帳考證土代附考に掲げたる飛騨の水無神社の八月十五日の踊など是なり。後者に於ては鷄の毛にて作りたる冠を被りアヤと稱する丸竹の兩端に彩紙を切りて附けたる物を持ち鉦を首に掛けこれを打ちて踊る。其名を緩踊と云へり。其地雨乞ひ蟲送り風の神其他の疫神送りなど鉦を打たざる(415)者は殆と無し。梅園日記卷二に諸書を引きて鉦鼓を鳴して邪鬼を攘却することは、支那より渡來せし風習と云ふことは最も傾聽すべき説なるが、近代の歌念佛泡齋踊などにも見ゆる如く此風が念佛踊と因縁して中古以來夙く存せしことは看過すべからざる事實なり。
 さて此鉦と踊との關係は甚しくサヽラに似たり。即ち鉦を打ちて踊を爲す一種の職業が昔よりありしと思はるゝ上に、其者の後裔は特殊部落となりて近年迄殘れり。今其二三の例を擧げんに、新編武藏風土記稿に依れば南多摩郡八王子町大字子安に鉦打塚と稱する塚あり。大字片倉に赴く路の側に在り。子安には鉦打と稱する百姓二三戸居住せり云々。古塚と踊との關係に付ては他日稿を改めて卑見を陳ぶるつもりなるが、兎に角本書に此塚を以て鉦打と云ふ家の祖先の葬處ならんと云へるは誤ならん。同書兒玉郡丹庄村大字元安保の條にも此村に鉦打と稱する者七戸あり。遊行派の寺なる上野多野郡美原村大字讓原の萬福寺の支配なりと云へり。關東には此外にも鉦打部落あり。日光道中略記卷五、下野下都賀郡小山町大字稻葉郷の條に、道路の右手に當りて鉦打曲輪と云ふ地あり。鉦打修行者七戸居住せり。小山町の光照寺の檀越なりとあり。而して光照寺は又時宗の寺にて清淨光寺の末寺なり。増補|忍《おし》名所圖會に依れば、忍の城下に鉦打橋あり。昔此邊に鉦打聖と云ふ者住せり。一遍上人諸國遊行の折隨從し諸國を修行す。今も在々所々に居住せり。忍城下の鉦打は後に埼玉村に土着せりとあり。此説には何か誤あらん。鉦打が各地に居を占め右の如く繁殖したる理由は別に無かるべからざるも遊行派の佛教と關係あるこせだけは分明なり。坪井博士に承れば足利附近には今もカニウチと稱する特殊部落ありとのことなり。何れより來り何故に賤視せられしか、研究の價値ありと云ふべし。
 鉦を打ちて踊をなす職業は外にも見えたり。例へば掛川志に依れば遠江小笠郡|日坂《につさか》村大字|佐夜鹿《さよしか》即ち有名なる佐夜の中山の地に昔は八ガラカネと云ふ踊あり。民家の兒童十二三歳の者八の鉦を繩もて腰のまはりに結ひ附けくる/\と廻りながら之を打ちて踊り旅人に錢を乞ひたりしが今は此事絶ゆと見えたり。俚言集覽には八鉦一には八丁鉦とも(416)云ふ、西土の打旋鑼戯の類なりとあり。遊行の徒の鉦打にして之と因ありとすれば却つて後より之を念佛に利用せし者なるべきも、兎に角忍名所圖會に所謂鉦打聖は即ち中世の阿彌陀聖と同じ者なるべし。阿彌陀の聖は既に金葉集にも見え、今昔物語にも阿彌陀の聖と云ふことし行ふ法師ありけり。鹿の角の杖を突き金鼓《こんく》を扣きて萬の所に阿彌陀佛をすゝめ行きけるとあり。右の鹿の角はワサツノと稱し鉢叩などの持てるものにて如何にも僧侶には似つかはしからぬ特色ある器具なり。又鉦をコンクと稱するは昔は常のことなりき。倭名鈔には伽藍具の部に金鼓ヒラガネとあれど他に此の如き語の使用ありしことを聞かず。之に反してコンクを打つと云ふことは多く見ゆ。例へば異本能宣集の「百寺にコンク打ち侍るとて」云々、又拾遺集に「コンク打ちけるとき畑やきけるを見て、藤原長|能《たふ》、片山に畑燒くをのこかの見ゆるみ山櫻はよきて畑燒け」。此歌の如きは彼の僧正遍昭の「花ちりたりと吹けばなりけり」と云ふ歌が笛の調子を現はせると同じく、恐らくは百寺にて打つと云ふ金鼓の調子を表現するものならん。
 近代に於て金鼓を打つを業とせしものに唱門師《しよもじ》あり。是も上方邊に多かりし一種の特殊部落なり。唱門師に付ては後に今一度之を論ずるつもりなるが、自分は之を以て大和攝津等に多き夙《しゆく》の者《もの》と同じからんと思へり。遊行の徒又は阿彌陀聖がコンクを打ちしは何か佛教の信仰に縁ある古來の行法に基きしものなるべし。伊勢の宇治山田市岩淵町なる光明寺は有名なる光明寺殘篇の出でたる寺なるが山號を金鼓山と稱す。寺傳に依れば天平年中の勅創にして金光明最勝王經の日課を以て寶祚長久萬民快樂を祈りし天台眞言兼宗の勅願所なりと云へり。金光明最勝王經の信仰は法華經弘布以前に於ける佛教の中心とも云ふべき者にして、此宗教と政治との最重要なる結合なりしのみならず其民間の勢力が後世に及ぶ迄決して衰へざりしことは、近年迄盲法師釜祓の徒が二季の土用に地神を祀りし經文が其經の一部なりしを以ても證せらる。故に金鼓の由來も遠く此邊に存在するものと見て捜索を試むべきなり。要するに長門其他の諸國の踊に鉦を叩くことは極めて重要なる由緒あることは田樂のサヽラとよく類似せり。
 
(417)       一一 踊の家筋
 
 前節に述ぶる所、多岐散漫なりしと雖も、要するに近世迄諸國に散居せし「サヽラ」又は「カネウチ」と稱する特殊部落は、各以前「サヽラ」を摺り又は鉦を打ちて踊を爲すを職業とせし者の子孫なるべしと云ふ説に付き、若干の證據を陳列せし次第なり。今日の村々の踊は通例誰彼と無く出でゝ之に加はる習なれば、人或ひは之と昔の踊とは別なりと速斷せんも、自分の見る所は正反對なり。再び例の長門風土記を引用せんに、吉部《きべ》村の念佛踊にては費用は全村にて負擔するも、踊を爲すは黒川と云ふ部落の住民に限り、阿武郡片俣村の念佛踊にても昔より村に家筋の者ありて踊ると云ひ、更に市(ノ)小野にても念佛踊の家筋ありて、雨乞の節は近村より踊を頼まるゝと見えたり。因て思ふに最初は何れの地方にても專門の家職なりしを、元來興味ある事務なれば次第に飛入の特志者を生じ、音頭其他肝要なる役ばかりは尚家筋の者に頼みし處、夫さへ次第に素人の巧者現はれて家元を不用に歸せしめし者ならん。
 さて若し右の假定を正しとすれば、此も亦近代の盆踊の類と田樂との類似する點なり。常陸の天下野《てがの》田樂を始めとし、近世の田樂にも家筋ありしことは前に之を説けり。中世に於ても田樂が流行し始むれば、素人も素人朝廷の貴官迄が競ひて之に加はり數百千の群を爲せしこと、恰も村の青年が面白半分に踊の仲間に入ると同じかりしことは洛陽田樂記などに明らかなれど、而も其中堅とも云ふべき役にはやはり專門の田樂法師之を勤め、年によりて田樂の流行が下火になるも、此徒のみは絶えず踊を以て生計を立てしものゝ如し。今昔物語にて野洲郡の郡司が「樂人は己れが住み候津に候へば樂仕らんことは事にも候はぬ安きことに候」と云ひしは、あとにて見れば田樂法師のことなりし由にて、當時近江|矢馳津《やばせつ》に居住する一部落ありし也。此等の徒は追々村の御靈會にも招待せらるゝこと少くなりしより、終には轉住又は轉業して其數を減じ大社大寺の特別の保護ある所にのみ殘存するに至りしと思はる。
(41) 然るに茲に又田樂とは稱せずしてやはり踊を以て職業とし別種の部落を構成する者あり。其中に就きて尤も著しきは舞々なり。自分は必ずしも舞々を以て昔の田樂の變形なりとは斷言せざるも、兎に角普通の農人とは親和混同し難き部落、田舍に居りながら妙に毛色の變りたる一種の職業の夙くより我國に存せしは事實にて、其大なる系統の中には田樂も次に言はんとする舞々等も當然網羅せらるべきものなり。「舞々」の意味は「歌歌ひ」と謂ふに同じく舞を舞ふ者の義なり。俚言集覽を見れば舞々とは佛菩薩の因縁を唱へ人を勸め慰むる僧なりとあるが何に據れる説にや知る能はず。他の書に謂ふ所を信ずれば佛道の機關には非ざるが如し。正コ年中に成りたる若狹郡縣志に依れば、同國遠敷郡遠敷村大字遠敷舞々谷の條に云へらく、此谷に茅屋十餘家あり、皆舞々の居なり、此外に大飯郡三方郡にも舞々住めり、凡そ舞の時に唱ふる所の音聲曲節は皆越前幸若の流なり、貞享元年土御門家にて陰陽師の徒を定めらるゝ時、國中の舞々にして彼家の配下に屬する者十餘人、舞々の號を改めて陰陽師と稱す、專ら泰山府君を崇み祈?を事とす、此舞々谷の舞々も亦大半陰陽師と成れり(以上)。越の下草に依れば越中礪波郡般若郷高瀬村にも鎌倉と稱する舞々居住す、元は高瀬神社に供奉して來りたる社人なりとあり。醒睡笑には能登に玉石と稱する舞々住めりとあり。酣中清話卷下に云く、武家條目の末には必ず猿樂田樂舞々と連ね書せり、舞々とは何者をさして云ふかと思ひしに、謁者衆の廻章には幸若の者の肩書に舞々と記せり云々。幸若の由緒は江戸時代の隨筆に多く見え越前の幸若殊に有名なり。此も國府附近の村に居住する部落なりき。此等は皆北國の例なれど、幸若はもと叡山に出で能樂流行以前諸侯家の間に流行せしものにて(春臺獨語)、筑後山門郡にも其家筋の者住みしことは烹雜の記などに見ゆ。又舞々の住するが爲に舞々谷と稱する若狹の例を以て類推すれば、
  筑前嘉穗郡稻築村大字山野舞々
  周防玖珂郡伊陸村舞谷
  大和磯城郡櫻井村大字淺古舞谷
(419)  美濃武儀郡上之保村字マイ/\
等の如きも此徒の居住地なるべし。陰陽師の住する故に「ハカセ野」と云ひ、田樂住地なれば田樂屋敷と云ひ、又は「ミコ谷」「イチコ澤」「比丘尼館」の類山間靜寂の地名に存するは凡て同樣にて、彼等が自ら避けしか或ひは耕作者の方より賤視又は敬遠せしかは知らず、兎に角稍常人と掛離れたる集團を作りしことは疑なし。因に云ふ蝸牛のことを「マイ/\ツブロ」又は「マイ/\蟲」と云ふも右の舞々より來たる名稱にて、其形?の或點が相似たる所ありしものならんか。
 
       一二 踊を業とする其他の種族
 
 舞々と關係あることを否認し難きもの猶多くあり。新編相模風土記に依れば、此國の村々には神事舞大夫と云ふ者二戸又は三四戸居住せり。又音曲舞大夫と云ふ家筋の者あり。後者は幸若などの類なるべく、前者は村社の神事に出仕して舞を舞ふ者かと思はる。神事舞大夫は江戸淺草田原町の田村八大夫の配下なり。この田村八大夫は嬉遊笑覽に依れば亦江戸の神事舞大夫なり。淺草三社堂の祭禮を預り「ビンザヽラ」などの事を勤むとあり。陰陽道の土御門家に屬し、元禄年中より支配下の者をして大黒の像竈神青襖像繪馬都合三枚の札を在々に配らしむることを許され、元文二年以後江戸市中にも配布を許さると云へり。竈神を祭るを職とする釜祓《かまはらひ》と稱する女巫、大黒神信仰に出でたりと思しき大黒舞の徒も、江戸にては亦田村が配下なり。非人などの如く低き者に非ざるも兎に角特殊部落には相違なし。大夫と稱する家筋にて踊を爲す者又伊勢にも住めり。神都名勝志卷三に度會郡|神社《かみやしろ》町竹ヶ鼻等に三戸の大夫あり。和屋《わや》大夫、勝田大夫及び青王大夫と云ふ。何れも近邊の村の名にて彼等が以前の住地なり。之を伊勢三座と稱し毎年正月二宮に散樂を奉納するを例とす。舊くは之を咒師《のろんじ》又は散樂大夫と云へり云々。又|設樂《しだら》大夫と云ふ者あり。周防風(420)土記に掲げたる同國佐波郡出雲村   大字小古祖の長谷寺に貞和四年の文書あり。三河大介設樂大夫に宛てたる下文にして伯耆周防の地を宛行ふことを云へり。此大夫は踊を職とする者なりとは見えざれども、もと三河に出で設樂と稱するを以て見れば是亦「シダラ」を持ちて踊を爲すを職とせし者なるべし。
 萬歳は三河の專賣なるが如く思ふ人もあれど、三河はコ川氏との縁故などにて江戸に勢力を得しものなるべく、其外に河内には河内萬歳あり。尾張には津島萬歳あり。伊勢には伊勢萬歳あり。京へ出づる萬歳には大和の窪田村及び箸尾村に住する者あり。伏見にも六人居住し九州に住する萬歳もあり(年中行事大成)。土佐の室戸村大字椎名にも八王子權現の神事に出仕する萬歳あり(南路志)。何れも皆踊を職業とする部落なり。何でも斯でも引張り込むやうなれど此も同一系統に屬する一事例にして、殊に東西に雄據する三河と河内との萬歳は、各其國の郡名設樂郡(シダラ)及び讃良郡(サヽラ)と關係あるべしと思へど未だ推究せず。萬歳の稱呼は中世の千秋萬歳《せんすまんざい》に出ること誠に閑田耕筆に言ふが如くなるべし。唯其淵原する所は源語秘訣に稱するが如き男踏歌《をとこたふか》の餘風と云ふ程の高尚のものには非ざらんか。(或ひは又踏歌夫自身が其初は極めて下品のものなりしとも言ふべきか。)何となれば臥雲日件録文安四年正月二日の條には、千秋萬歳と云ふ一種の乞食あり門に立ち祝言を唱へて金を乞ふとあり、又其よりも古くは古今著聞集に知足院の大殿家來の者の過あるを罰せらるゝ方法として「千秋萬歳を持ちて〔三字傍点〕囃させて其侍を舞はせられける、さる御勘當やは有るべき」とあるを見ても、此職業はとんと人より輕視せらるゝ賤民の生計なりしこと疑なければなり。只茲に注意を乞ふべきは萬歳も亦若狹の舞々等と同じく陰陽道と深き關係ありしことなり。津村正恭の譚海卷二に曰く、三河萬歳の年始に來る者には土御門家より證?を出さる、夫を持ちて關所をも往來する也。此證?は板行にせしものにて萬歳一人毎に之を帶し三年に一度書替あり、惣名代に一人證?を集めて持參上京し新證?に引替ふる也。一枚に付一匁づゝ土御門家へさし出す云々。兎園小説初集等に依れば、正月四日に禁裏仙洞へ參る萬歳は京に住する小泉豐後と云ふ陰陽師なり。其歌の章句には一本の柱より十二の柱まで神々の御名を唱ふることあり。是正しく古代道(421)教の思想なり。
 正月に人の門戸に立ちて祝言を唱へ、物を貰ふ者の種類の甚しく多きは恐らくは我國の一特色なるべし。此者等の名稱は大抵歌の文句などに依りて附したりと見えて、土地により時代に從ひ色々の差別あれど、勿論之を以て各別の部類と目する能はざるべきなり。唱門師放下僧は今は無くなりたれど、前者は今の近畿諸國に多き「シユク」と云ふもの是なるべく、後者は當代に在りては「丸一の神樂」などに當るべし。別に又「クヾツ」と稱する部落あり。自ら踊らずして木偶を舞はすこと傀儡子記以來の風なりき。此者の特色は一所に定住せざる點に在り。埃嚢抄には「男は殺生を業とし女は偏に遊女の如し」とあり。散木奇謌集には「クヾツ」を「サムカ」とも云へり。現今は段々土着の傾向を示すと雖、關西地方に於て川の岸、堤の上などに小屋を掛け魚を捕りて市に賣り、放縱なる生活を爲す「サンカ」と云ふ持殊部落は自ら穢多よりは遙かに上等の階級なりと確信し、最早人形を舞はすことは止めたれども恐らくは昔の「クヾツ」なるぺし。「クヾツ」の傀儡は近世の人形芝居及び芝居の起原なりや否やは別に斷言して人にいやがらるゝ氣は無けれど、兎に角河原者と云ふ語は河原の如き農業上の利用に縁薄き土地を與へ認容して居住せしめたる特殊部落、殊に「サンカ」などの徒を稱せし語なり。
 又頭に毛のあると否とにて此等の徒を分類することも不用意の業なり。空也、法然以來佛教の勢力が民間に増進するに伴なひて、踊を職業とする者が因縁を此間に求むることは最も自然の現象なり。彼等は六つかしき語にて言はゞ、始より多衆心理の弱點に乘じて生計を營むやうに組織せられたるものなれば、別に當初の教義(若しありとすれば)に拘束せられざるべからざる程の鋭き良心を有せず。加之佛教夫自身が早くより外道の信仰を融和混同するだけの大なる力を具へたれば、苦も無く彼等の利用し得べき部分だけは利用したりしものなるべし。此も一の假定なれど我國にて「ヒジリ」と云ひ「ビクニ」と云ふ語には共に餘程妙なる意味を有せり。比丘尼と云ひて女巫の如き作法を爲し、聖と稱して陰陽師めきたる祈?をする者多し。現今諸國に聖《ひじり》神又は日知神などゝ云ふ性質不明の小祠あるは此徒の奉(422)祀せしものゝ如く、土佐にては此徒を「ヒジリ」坊主と云ひ其神を坊主神などゝ云ふが如し。本朝俗諺志に見えたる飛騨の毛坊主も此類ならんか。常業は農なれど死者ある家に頼まれ行き鉦を打ち念佛す。家には袈裟一つを傳へ本尊には大津繪の十三佛又は小さき石地藏などを安置するのみ。家筋ありて平人よりは一階劣れる者として取扱はる。奧州にては老女より老女に傳ふる一種の信仰あり。祈?極めて驗あり。熊野信仰と縁あるが如くなれど亦念佛を表面の業と爲せり。
 猿樂の徒にも亦昔は諸國に住する部落ありしが如し。京江戸に用ゐられ次いで各藩共通の一藝となり發達して今日に至りしものは所謂本座の藝なれど、此以外に國々の猿樂はありしものならん。文明八年の著書なる古今童蒙抄には「あふみぶり」は近江より出でたる曲なり、例へば今の世の猿樂などに近江節、大和ぶしなど云ふが如し云々とあり(和訓栞)。優勝劣敗の三百餘年は略全國の猿樂をして今の所謂能樂に變形せしむるに十分なりしならんも、京に近き奈良の薪能の如きも既に若干の特色あり。昨年上京して上覽を忝くせし羽前羽黒山下の黒川能の如きも、單に古風なるものに非ずして歴史的の特色を持てるやうに聞けり。
 其他佐渡の北海岸の村々に盛んに行はるゝ能の如きも、恐らくは初より系統を異にする者にて、土地僻遠なるが爲に完全には中央の爲に同化せられ能はざりしものならん。同じ例は芝居にもあり。市川中村など云ふ藝術家が隙間も無く府縣を興行しありく今日にても、猶村から村へこそ/\と質素なる芝居を見せて旅をする數組の團體あり。彼等が郷里は豫想外の田舍に在りて一部落を爲し妻子を住ましむること近江越中等の行商の如し。筑前博多には昔より此部落あり。豐前長洲港に在る者は近年の組織なりと云ふ者あれど、是も亦偶然の發現には非ざるべし。自分の生國播磨の北條附近には高室村と云ふ役者の一部落ありき。年中近村を興行しあるき一年に一度は自村に歸りて藝を演じ妻子に見せしむ。今は如何になりしやを知らざるも、二十五六年前に小學校の廊下にて此村の生徒に迫り折々少しづゝの藝を見せて貰ひしことを記憶す。
 
(423)       一三 踊の目的
 
 現今の村々の踊には毎年踊の季節になれば只何と無く群を爲し行樂するらしき者多ければ、踊に目的ありやと不審する人あるべきも、人間の如き尤らしき動物が毎年繰返して無意味なる行動を爲すべき理なし。其適切なる證據としては踊の趣意が漸く不明と成りたる明治の世は同時に又此慣習の漸く廢絶する時代なることを指示するを以て足れりとす。元來凡ての踊は神佛を歡ばしめて所願を請求する手段なれど、踊る者自身が既に面白く樂しく、迷界の長者を感動せしむるに先だちて本人等夙に夢中になるが如き形跡あるを以て、一見各自の遊興の爲に之を企つる者の如く思はるゝも、其決して然らざることは前述の諸國の踊が過半神社佛閣の祭典に關する行事なるを見ても知るべき也。而して社寺とは關係なく或ひは郊野に於て或ひは道の辻に於て勝手に踊るかと思はるゝ盆踊の類と雖も、亦眼に見えぬ鬼神の拜所も祭壇も無きものを?祀する手段なりしことは次に述べんとする所也。
 長門の念佛踊腰輪踊等に就きて檢するに或ものは雨乞の爲にして旱年にのみ興行する者あり。水稻を農作の中心とし神にも地頭にも之を納め各自の生計及び幸福も亦之を以て目途とする百姓が水を大事と思ふは當然なり。人口増殖して川筋を狹め海渚を埋立てゝ新田、今在家を構ふる世には水の過多の害は次第に其過少の害に超ゆることゝなりたれども、昔は旱魃の方が洪水よりも怖しかりし也。田植草取の作業終り稻の花咲くを待つ間、農人の最も未定不安を感ずるは雨量の問題なり。之に次ぎては蟲害を怖れたりき。此二憂は連年殆と絶ゆること無く、其防制を以て人力以上なりと信ぜし昔の人に取りては誠に迷信の種なりし也。自分の生國播州にては雨乞の行事と稻の蟲送といとよく似たり。只前者は山上に登り後者は所謂實盛の藁人形を作りて村境に向ふとの差あれど、松の火を灯し鉦を扣き行列を爲し喧呼してあるくこと二者同樣なりし故に、幼き頃は?之を混同せしこと也。蟲送の實盛は近畿以西一圓の慣習(424)にで「サネモリ」の語は必ず何か水田に因ある語の轉訛なるべし。五月を「サツキ」と云ひ五月雨を「サミダレ」と云ひ、「サナヘ」「サヲトメ」などいふ外に田神の祭を「サノボリ」と云ふなど考へ合すべき也。併しながら實盛の靈蝗となりて民に災すと云ふ説は大いに注意を要す。黒甜瑣語、甲子夜話などにも既にいへる如く、蝗の災の大兵の後に多きは冤魂の化して成る所なりと云ふ信仰は古くより支那にも存し、此災害を銷除する爲には金を鳴し鼓を撃ちて之を追ふこと二國共通の風なりと云へり。日本にては右の如く民に災する冤魂を御靈《ごりやう》と云ひ、獨り蝗蟲の害のみならず、天然痘腸チブスの類の傳染病の如きも悉く之を死靈の祟と目し、古くより之を祭却する法會即ち御靈會《ごりやうゑ》を公認せり。御靈の信仰の著しく發現せしは今より一千百年前平安遷都の初期に在り。實を言へば菅公を神に祀りしは亦此御靈信仰の一例にして、當時種々なる天災地異ありしを不平鬱屈の間に世を去られたる死靈の復讎と考へし結果に他ならず。されば彼の天拜山上の疾風雷雨の圖の如きは、一概に後世の浮説とは云ふ能はずして、無知なる多數の國民が當初此大政治家に對せし態度を表現するものと見るべし。
 周防長門の踊には更に又牛馬安全の祈?の爲なりと云ふもの多し。新風土記を見れば此地方にては牛馬に關する迷信色々あり。例へば後に言はんとする柱松の神事を行はざれば牛死すと云ひ、五月五日六月晦日等牛を使役することを禁じ、女に牛の具を持たせず。又牛に鋤、眞鍬を掛けたるまゝ川を渡すことを禁ずるは不便利なる事なりとて、大津郡俵山村等にては天明四年に村の畔頭等連判を以て此慣習を廢すべき申合を爲せしも、輿論の反抗ありしか或ひは又實例の反證ありしか、四十年の後文政七年に至り再び舊慣に復し、其申合中には更に微細なる多くの禁條を加へたり。其中には五月五日より八月一日迄の間は、他村の牛を連れ込み村に入り又は通り拔けることをも許さず。若し之を爲せば「シイ」と云ふ獣附きて牛を喰殺すのみならず或ひは天災を招くと稱し、犯したる者は之を捕へ頭に大瓢箪を被せ其牛に乘せて村を追放するの定なりき。若し右の制裁を免れんとせば村の氏神社頭にて風雨天災除の祈?を執行ひ且つ其守札を軒別に配らせらるゝ也。此外にも奇なる風習あれど煩しければ他日別に之を述べん。さて右の事實(425)に依れば牛に關する慣行に反すれば牛疫の外に他の災害をも招くと信ぜしに似たれど確ならず。而して假に牛馬の安全を唯一の主願としたりとも田舍に在りては不思議に非ず。村と村とが隔絶し且つ街道より入込みたる地方にては人の傳染病は比較的容易に之を避け得たりしなるべければ、夫よりも先づ譯も分らず物も言はぬ我家の財産をいたはりしのみ。誠に疫癘は都會の畏怖なり。人口の密集せる大道の四通せる市街にては此ほど忌はしき災害は無く、自ら栽培せざる農作物に付ては、缺乏すれば閉口するに相違なきも、當事者に代りて雨乞蟲追の祈?をする程に米の問題には屈託せざりしなり。故に京都の御靈會が專ら疫神を客體とし田舍の御靈會が常に意を風雨旱蟲の害に注ぎしは自ら其處にして、春は櫻の花の散り初むる頃を期して「ヤスラヒ」祭を營み念佛踊を執行せし慣習と、夏季の雨乞踊蟲送りの類とを同じ系統の慣習なりと云ふも些も強辯なりとは思はず。
 田舍とても勿論人の疫病を怖れざるに非ず。今日にても村の入口に注連繩を張り塞の神の札を立て又は産土神の社にて氏子に茅の輪をくゞらせ、或ひは祇園會にて盛んなる御輿騷ぎを爲すなど、目的は皆同じく邪神の祭却に在り。今日此爲に踊を踊ることは多くの例を聞かざるも昔は流行病が發生すれば石炭酸の代りに村境に出でゝ熱心に踊りしものゝ如し。後に言はんとする掛け踊といふは甲の村の者踊の群を作りて隣の乙村へ踊り掛くれば、乙村にても決して黙して居らず、大急ぎに踊を始めて甲村へ掛け返し又は丙村へ踊り掛くるなり。これ蟲送りの場合と同じく惡しき神が隣村の踊の面白さに絆されて其境を出で自村内へ來てうろ/\して居られては大變なるが爲なり。薩摩にては近年迄村にては疫神の祭に踊を爲せしが如し。例の倭文麻環卷十に山川港竹(ノ)山の圖あり。其山の麓に疱瘡踊の舞臺なるものを畫けり。又其疱瘡踊の圖あり。婦人あまた御幣を持ち一人の男之を前導す。之を新發意と云ふよし也。此風は山川港獨特には非ずと考ふ。此圖は村落の構成他府縣と異なり、農家と雖も甚しく密集し且つ集圍大なれば疫病を怖るゝの度都會に近かりしかと思はるゝ也。さて其後注意するに全國に亙りて村の小字に舞臺又は踊場など云ふ地名多し。若し其地形が概して村の境又は民居の外邊などの交通の衝に當るものならば即ち自分の説を證するものなり。(426)假令然らずとするも村毎に踊の場所を定め置くが如きは少くも此慣習の嚴重なる年中行事の一にして何か目的ありしことを推せしむるに足れり。
 鹽尻に依れば正コ四年の四五月の頃疫病長崎に起り六七月頃京阪に入る。京にては組を定め人形を作り夜に入り數十人金鼓にて疫を送るとあり。東海談には江戸にでは享保十八年七月に同じ事ありと云へり。島國にては疫病は國内に自發すべきに非ざれば最初は外舶に伴なひしは別に怪しむの要なし。然れども此事實と島國的排外思想とが混ずれば即ち堺祭の張行と成るなり。又金鼓邪神を祭却することは支那の中世の風なりしこと梅園日記に詳に之を論ぜり。主として揚子江南の風なれど、吐蕃にも此風ありしこと八紘譯史に見ゆと云へり。自分の想像にして誤なくば御靈祭の作法が最初の御靈其物と共に支那よりの輸入品なりしことは糧を?に就くの趣ありて滑稽なり。
 踊躍念佛の踊は佛道弘布の一手段に利用したるものゝ如く考へらるゝも、是も亦御靈の祭典に因縁あるに似たり。雍州府志に曰く、後小松院の應永年中天下餓死の者多ければ諸寺をして踊躍念佛を修せしむ、今の千本、壬生の念佛會及びヤスラヒ花の神事と共に鎭花法會の遺意なりとあり。田樂も亦同樣なることは前に擧げたる今昔物語に、田樂法師の數多く行くを見て今日は此郷の御靈會にやあらんとあるを見ても明らかなり。三代實録貞觀五年五月二日の御靈會には通例の舞樂の外に新伎散樂競ひて其能を盡すとありて、當時の御靈會が歌舞狂奔群衆喧騷の場たりし事實を記し「遐邇因循漸く風俗を爲す」と見えたれは、疑も無く後代の田樂と同一の光景なりし也。要するに踊の目的は昔も今も災害除却と云ふ消極的の?祀に在りて、之を縱貫するものは内には御靈冤癘の思想なり。外には即ち金鼓の響なり。
 
(427)       一四 踊の季節
 
 説きて茲に至れば盆踊と稱し七月十五日に踊を爲すの由來は略明白なり。孟蘭盆の意味を絮述するが如きは殆と谷響集の著者に笑はるべき業なれど、兎に角一言せざるべからざるは、此文字の極めて古く既に續日本紀天平五年の記事に見えたることなり。飜譯名義集などを見れば如何なる佛教の習俗にても支那日本にて發生せしものは無きやうなれど予は之を危ぶめり。又假に解倒懸の供養が和製でも唐製でも無しとするも少なくも踊は日連尊者とは關係なし。平たく言へば盆の聖靈は即ち御靈なり。今人が之を馳走するは珍客を歡迎するが如く爾りと雖も、昔の人は寧ろ其不機嫌を畏れ稍之を敬遠せしものに似たり。然らざれば屋外に出でゝ踊を爲すことかの疱瘡踊等と同一樣式を取るべき理由なき也。
 さて長門に於て諸神社の祭典の踊が七月十五日なるもの多きことは前述せし筈なるが、土佐安藝郡佐喜濱村の八幡にては以前八月十五日に田樂あり。鹿兒島にては八月十五日夜に金鼓を鳴し鬼を追ふ踊あり。越中五箇山のコキリコ踊も亦此日より始る。之に就て想ひ起すは慈覺大師の入唐記に新羅其他の北方の民族間にては八月十五日を中元とする風ありしことなり。我國にても偶合か否かは知らず各地の大社の常例に八月望を用ゐる者多し。強ひて謂へば名月の月見團子の如きもちと變なり。元來三元の祭の中にても下元即ち十月十五日の行事は我國にては餘り盛んならず。只此月の亥の日に亥の子の餅を製すること及び地方によりては亥の子石にて庭を突き唱言をする位に止れり。此も長門の豐浦郡西市村にては祭壇を設け四方に竹を立てること古風の七夕の如く、一人の童子大なる幣を持てる樣を畫けり。而して「亥の子餅を搗かぬ者は鬼を生め蛇を生め」と歌ふこと、及び所謂亥猪石の形?が陽物に似たること等を考ふれば、之と正月十五日の儀式との間には何等の關係なしとは認め難し。上元と中元とに至りては相似の點決して(428)之に止らず。今其一端を述べんに、諸國にて柱松と稱し高き竿の頂上にて火を燒くの風あり。多くは七月十五日の行事に屬す。播州揖保郡にては之を「火揚げ」と云ひ、周防熊毛郡岩田村にては之を梵天幣と云ひ又梵天聖靈御休息所などゝ云ふ旗を立つ。即ち高卒都婆、高燈籠の類なり。地名辭書四二三頁攝津柱松の條に、長門本平家物語を引きて、花萩中納言七月中の五日に枯松に草柴を結び掛け火を灯して聖靈に手向く云々と見ゆ。嵯峨清涼寺の二月十五日の涅槃會に踊念佛の後に於て全然之と同じき行事あり。但し之は柱松とは稱せず。今此趣を想像するに上元の行事として最も有名なる左義長と極めてよく似たり。さて左義長と道祖神祭と祇園會の鉾と三者同原なるべきことは拙著石神問答に詳論せり。石神問答は賣れぬ本なれどもさりとて今之を再述するに忍びず。自分の考にては古史に見えたる此日|薪《みかまぎ》を獻ずる朝儀は既に此時代に於て火を燒くの行事ありしことを證する者にして、後世唱門師と稱する一種の巫覡が左義長の柱を廻りて舞ふことは古代の踏歌の遺風即ち邪神を祭却する作法に他ならざれば、之を塞の神祭と稱する田舍の語は却つて古意に合する者なり。
 正月に御靈を祭るの慣習の如きは必ずしも例なきに非ず。伊勢の神宮にては正月十四日より十六日に掛けて外宮御頭の神事あり。御頭とは獅子頭のことなり。永正年中疫癘の流行せし時、土地の者獅子頭を作り上の在家より次第に下の町に邪神を追却せり。而して其御頭を町々の疫神として八社を作る。走れ全く八所の御靈の思想なり。經亮年記に依れば西京にては正月十五日より十八日迄疫神參りとて石清水八幡の下院に群衆す。これ延喜式の國堺祭の遺風なるべしとあり。又我々は何の考も無く此日小豆の粥を食へども、濫觴抄には世風記を引用して「東向再拜長跪して之を服すれば終年疫氣無し」と記し二中歴卷五、節日由緒の條に「粥を以て四方に灑げば災禍自ら消除す矣」とあるなど共に宛然たる道家の口吻にして、之を雲笈七籤の中に見出すも人は驚かず。さてこそ唱門師大黒舞の徒が土御門家の支配に屬し、古代の御靈會が陰陽寮の管轄する所なりし理由も思ひ合され、愈以て三元の祭及び之と關聯する踊の慣行の外來の物にして而ももと佛教の外なることを信ずる也。
(429) 正月十五日に踊るものは近代に在りては前に擧げたる京の西七條の田植踊、武州赤塚の田遊び、奧州南部の「インブリ」踊あり。同じ國遠野郷にも田植踊あり。正月十五日より二月九日迄踊るなり。福山、福井の左義長、松本、秋田等の道祖神祭はトンド燒を中心としたる舞踏なり。福井の左義長は正月十三日に始り十四日の晩又は十五日の曉之を燒く。同國粟田部村白山社の祭禮は期日作法悉く福井の左義長に同じくして其名を?※[禾+巴]と云ふ、以上は越前名蹟考に見ゆ。神名帳考證土代附考に依れば、近江八幡町の八幡神社の祭は四月中の卯の日にして青竹の祝儀と云ふ。祭の樣極めて左義長に似たり。氏子の者鉦鼓を鳴して踊りありく。又柱松と同じき行事あり。共に圖に詳なり。道祖の祭は昔の道饗祭と同じく邪神を款待して退散せしむるの趣旨に出でたることは疑を容れざる所なるが、祭終りて後火を附けて燒く所の一種の建築物は本來其祭壇なるが如し。古くは之を保計屋《ほけや》又は蓬荊屋と稱し疫癘豫防の神事として辻に於て之を燒きしこと和訓栞歌書に見えたり。「ホケヤ」の語は不明なれど或ひは祇園會の「ホコ」と同語なるかと思へり。要するに踊の七月十五日には通例の孟蘭盆説にては解釋する能はざる由來あり。今若し上元左義長の習俗が我々の想像する如く災害攘除の目的あるものとすれば、中元の踊も亦御靈の爲なり。三元の祭はもと張天師の三官の説に出で、北魏の冠謙之など之を採りて三首月に配せしものなるべしとは?餘叢考の説なり。若し然りとせば獨り孟夏の十五日を除きたる理由を知る能はず。近江の八幡町の青竹祝儀の四月中旬なることは或ひは何か仔細あるか。
 
       一五 踊の流行
 
 日本の踊の古今同系なることを證すべき今一の材料あり。村々年々の踊は趣意もあり、目的も存せしこと前に述べたる通りなるが、此外に五十年百年を隔てゝ不時に發現する踊の大流行あり。而して此流行の踊と年々の踊との間には深き關係ある也。一體日本人は何れかと云へば陰氣なる人民なり。あまり笑はずあまり興に乘ぜざるを以て上品の(430)理想とす。所謂文明開化の世になりて殊に此傾著し。然るにかゝる國民が國を擧つて踊り廻ると云ふことは夫自身に於て興味ある問題にして、學者らしく言はゞ群衆心理上の奇現象なり。自分の母方の祖父は五十餘にして妻と二人の男子を失ひ、家産も傾きて寂しき生活を爲し、其一人の妹も亦早く寡婦となりて其隣に住めり。慶應初年の事なりき。自分の母は幼兒を連れて久しぶりに里に歸り、一夜の物語を爲さんと思ひしに、日の暮になると右の老たる兄妹は手拭を被り裏口よりこそ/\と出行きて夜半まで家に歸らず。跡にて聞けば其頃此町には所謂ヨイヂヤナイカ踊流行し人々狂氣の如くなりし折柄にて、老人たちも毎晩其群に加はりて踊りつゝありし也。
 ヨイヂヤナイカ踊は人も知る如く伊勢神宮の御祓《おはらひ》の降りしことゝ關係あり。維新の際人心の最も動搖せし折柄、東西の諸國に御祓降りたり。降りたる村にては世直しと稱し酒を飲み四隣相集りて連日連夜の踊を爲す。此間は無警察無制裁の有樣にて、何事をしても跡はヨイヂヤナイカと囃して踊になりしより此名あり。一時の狂熱の鎭靜したる後は我も人も惡夢に驚きたる後の如く無限の疲勞と寂寞とを感じたりと云へり。明治三十年の夏、自分は三河の伊良湖崎に居りて酒井某と云ふメソヂストの老牧師より此時の話を聞けり。酒井氏は松坂在藩の紀州藩士なりき。領内取締の役にて日々巡囘を爲し人心鎭撫に力めたりしが、或日仕度を調へ玄關より數歩踏出せしに、晴天よりひら/\と頭の上に落來る物あり。思はず手にて之を受け留めたるに例の劔先の御祓なり。因つて立戻りて之を玄關の妻女に渡し置き、終日近村を巡視して夕方に歸宅したるに、家の中は覆へるばかりの騷動なり。これ御降の噂を聞き傳へて三井家を始め町の重立ちたる者より酒樽を擔ぎ込み押掛客の大群が酒宴を催せるにてありしと云へり。此折は關東にも少々は同じことあり。武州金澤の泥龜《でいき》の永嶋氏などには大山石尊の御礼床の間に置きて在りしと云ふ。中國四國は殊に甚しく、御祓の外に錢も降れば小豆も降り、或村の如きは裸體の娘が降りたりとさへ噂せられたり。
 伊勢の御祓札の降りしことは決して此が初度に非ず。近くは文政十三年(即ち天保元年)、最後の御蔭參の年にも大いに降りたり。御蔭參りは六十年目に一度づゝ起ると稱し、文政十三年より五十九年前の明和八卯年、それより六(431)十五年前の寶永二酉年、又それより、五十五年前の慶安三寅年にも此事あり。其以前にはありしや否や知らず。寶永以後の三囘の御蔭參に付ては伊勢にて刊行せし神異記あり。文政度の記事は當時流行の諸家の隨筆に細大洩さゞるのみならず、鈴屋翁の御蔭詣の記の如く眞面目なるものより、膝栗毛に模倣したる大阪戯作者の際物的小説に至る迄澤山の圖書を世に殘せり。文政後の六十年は明治二十二年の頃に該當するも、憲法發布の時節なりしかば終に其事なかりし也。甲子夜話續編卷四十五に依れば、明和度にも文政度にも御蔭參の起りは阿波國にて、御祓札の降りしに始り、數寓の伊勢參りが大阪の川口に着岸せしより、終に近畿に波動を及ぼせしなりと云へり。宮川の渡船にて數へたるに最初は常よりも少し多しと思ふ内に日々三萬五萬と増加し盛の日は百萬に近く、沿道の村々は金銀物品の施行を爲し、宿を貸し飯を食はせ、殆と常の業を執ること能はざりき。而して諸國の御祓は何者か必ず之を降らせし者あるべしと詮議したるに、終に之を發覺する能はざりしとも云ひ、又主謀者を捕へ得たりとも云ふ。凡べて皆世の中の噂なれば取留めたることは無きも、何でも高山の頂などに登り、劔先の端に葦の莖をさし之に團子を附着して置けば、鳥など啄みて遠くに飛び、團子を食ひ串を落す。又油揚を取附けて鳶にさらはせしこともありと云ふ。慶安度の御蔭參の記事は未だ之を見ざれども、少年の時讀みたる活版本の小説に、由井正雪の徒が高山の頂上にて凧を揚げ、此に伊勢の御礼を附けて麓の村々に降らす工夫を爲せりとありしを記憶す。此等の説こそは皆人作のしれ物にして、鳶や烏が空中にて食事をするかの如く、又凧を揚げたる高山が淺草の十二階のやうなる孤山なるかの如くいふは手輕千萬なる説明なりと云ふべし。伊勢にては其前年末別に一時に多數の御祓を賣りしと云ふことは無く、唯總數の上にて成ほど少し餘計に札が出たりと云ふのみと云へば、若し軍師がありとすればやはり何の何太夫の中の一人なりしならん。例へば枯草薪小屋に火事を出すには燐寸一本にて十分なり。要は只機の微を察するに在れば、人心動搖の根原は存外小さき刺激なりしならん。
 御蔭參は踊と關係なしとは言ひ難し。例へば彼のヤアトコセ、ヨオイヤナの音頭の如きはもと踊の音頭なり。今も(432)此囃子にて踊る者村々の祭禮にもあれば、住吉踊の如きも調子之に近し。伊勢の大廟は中世以降頗る社鼠城狐の累多かりし也。鍬神祭、伊勢踊の類の此より源を發せしもの多し。元來神宮私幣の禁は嚴重至極の朝規なりしを、何れの時代よりか道者巡禮の中心と成りたり。和訓栞に曰く、一條院の頃は初瀬詣御嶽精進など時の風なりしこと物語に多く見ゆ。其後一變して熊野參りとなり往來絡繹たり。之を道者と云ふ。今日「蟻の熊野參り、熊野の道で火が消えて」と兒童の云ふは是なり。南北朝の世、道路通じ難きを以て伊勢參り起り、之をも亦道者と呼べり云々。長寛の勘文に伊勢熊野同神云々の説あるは、二國何れの巫祝の利益より言ひ出せしことか。兎に角伊勢人も全然受動的の態度ばかりでは無かりしに似たり。
 維新革命の際に京師附近に踊の流行ありしは注意すべきことなり。是は世の常の運命家が言ふ如き一種の冥兆には非ずして、政變の發現に先だちて民間に浮動する不安なる氣分の踊を釀したるものに過ぎざる也。彼の天王寺の妖靈星の談は事のさま餘りに奇怪なれど、大抵何等かの異變起るべしと云ふ掛念は下級の人民も之を感知し得。然れども彼等にとりて今一層痛切なる刺激は傳染病の蔓延なり。醫療豫防の術進まざりし時代にばた/\と人の死に行くを見るは戰亂等の準備よりも一層民心を動搖せしむるに足れり。かの十訓抄の天狗の條の「世の中騷がしかりし頃」と云ふは流行病の盛なりし時のことにて、中世朝廷にて「世間不靜御祈?」と稱するは即ち疫病撲滅の御願を謂ひし也。
 此より少しく踊の流行の事を述べんに、天保十年に伊勢松坂の人小津爲足が妻と共に紀路より京都附近を遊歴せし旅行記を濱木綿日記と云ふ。其四月十九日京都の條に、此頃豐年踊と云ふもの流行す、始は今宮の地築なりしに後には老少の差なく家に涌くが如くに起り、其事止めよと親に戒められて身を投げんとしたる娘もありし程なり。大阪にても此噂をきゝたり、とあり。今宮はヤスラヒ祭の本元にて疫神なり。殆と踊を以て終始する神なり。同書五月二日丹州園部町の條に曰く、村の若者共大なる石を引來たる。腰に引板着けたるはこれ都の豐年踊をまねびたる也。益なきものゝ早く世に流行するは歎ずべきことなり云々。同月十日江州石山螢見の條にも、「船には提灯ともし連ね絃歌(433)太鼓聲喧しく、中にはかの豐年踊を爲す者あり、こは京の中には堅く禁ぜられたる公けの惠深かるを有難しとも思はず、こゝ迄來て踊る狂人どもなるべし」とあり。
 鹽尻に見えたる長崎輸入の疫病に對し京大阪にて金鼓を以て之を逐ひし記事を、前節に安永年中の如く云ひしは誤にて、右は正コ四年の甲午なり。然れども安永の前後にも亦同種の事件あり。銅脉先生の太平樂府には觀v送2風神1と題して詩あり、曰く太鼓三絃に鉦聲雜り酸漿提灯赤くして且つ團なり竿頭の偶人紛として舞ふが如く躍つて入る四條河原の灘と。之を以て察するも疫病が怖しいのか踊が面白いのか一寸目的を知るに苦しむばかり也。
 鹽尻卷六には又元禄末年の鍬神祭の事を述ぶ。曰く癸未の秋濃州惠那郡神野村より鍬神祭なるもの起り、村々驛を傳へ上州高崎に迄至りしことあり。近世伊勢の師職の者、二月御田植神事の鍬なりとて鍬の形したる木を村々へ送る。土民は之を納むれば田穀豐稔なりと信じて田畠の邊を持ちあるき、太鼓を打ち笛を吹き遊興す。甚しきは鍬の木に手を附け又は短册などを結びつけ神の如く持ちありき、村より村に渡し、終には其終る處の村にて神社に納め置くとぞ云々。三河の岡崎邊にては鍬神社と云ふ小祠處々在り。皆此流行神の落付きたるものなるべく、而も伊勢の本國にては鍬を神に祀ることもなければ、諸國へ之を送りたる覺もなしと稱しハテ面妖なることなり。鹿島踊と稱し久しき間天下に流行せし踊も、鹿島記に依るときは鹿島にては之を出したることなしと言へり。然れども世事談等には其由來を説きて、寛永の初年諸國に疫病流行せしとき常陸鹿島の神輿を出して之を諸國に渡して其災を攘ふこと鹿島踊の根原なりと云へり。此踊の囃子はオヤモサ/\と云ふよし也。
 鹿島踊の根原は或ひは恐らくは根擧なき一浮説なるべきも寛永元年に伊勢踊の流行せしは事實なり。伊勢踊は引續き三囘まで大いに流行せり。慶長の末年より元和の初年に掛けては殆と一續きの流行なり。慶長十九年の秋の踊は神踊と稱し、伊勢より踊り始むと云へり。奈良京都に盛んにして終には禁中にも召され、内侍所の前にて踊りたり。此踊四國の方へ蔓延し土佐にても大いに踊り、大海集には「爰かしこに金錢米穀の降りかゝりしなど言傳へ、何の他念(434)も無く踊り候事」とあり。翌元和元年には段々東國へ流行し靜岡にては三月二十五日より踊り始む。駿府政治録に曰く、府中にては伊勢踊と稱し、在々所々風流を致す。これ伊勢より踊り出し奧州の邊まで踊之云々。此折の流行はあまり烈しかりし爲、駿府にては僅々五六日にして禁令出でたり。此踊は諸人歡喜の聲にて別に疫癘に關係なかりしも、其年は大阪陣再發し其翌年には家康薨じ、先づは凶兆と目すべき事の樣なりしかば、寛永元年の流行に際しては早速に禁止を令したりと云ふ。右の踊伊勢より出でたりと云ふ證なし。之を伊勢人に聞かば恐らくはひが言と答ふることならん。俚言集覽には伊勢踊は伊勢音頭にて踊れりと見ゆ。此説誤なくばヤアトコセの根本は即ち此時に在りと云ふべし。
 
       一六 踊の根原
 
 此以前に於ける踊の流行は還魂紙料下卷に見ゆる二の記事なり。一は慶長の伊勢踊より五十年ばかり前、永禄十年の七月に駿河にて大いに踊る。此は八幡村より踊り始め村々へ踊掛け、それを又掛返す故に後には踊あまた所になり八月末九月迄踊るとあり。八幡は踊に由緒あり。古くは天慶八年の踊は初期の八幡信仰の?態を想像せしむるに足るものにて、詳には本朝世紀に見ゆ。永禄十年より又五十年前の、永正十七年七月に京都に踊流行せしことは二水記に見ゆと云へり。「近年見聞せざる所、天下靜謐に倚つての所爲歟」とあり。果して然りや否やを知らざるも、三百年間都鄙に勢力を有せし踊躍念佛が何時となく衰微して、次第に一轉機を示せし時代なれば、其趣旨の頗る曖昧なるものありしやも知れず。
 空也宗の始終は別に大なる一の題目なれば、此序に略敍すること能はざるも、自分の假定にては是も亦突如として發生せる社會現象には非ず。阿彌陀の聖と云ふ下級の僧侶が鉦を打ちて稱名を勸め里閭に往來せしことは久しき以前(435)より存し、平家が敗亡して京都に田舍人の多く入込みたる頃より、次第に加特力《カトリツク》佛教を壓迫して表層に出づるに至りしのみ。而して最初の聖坊主は單に南都北嶺の紫衣の僧と關係なしと云ふに止らず、其由緒も亦頗る怪しくして貴族輩の蔑視を受くるに足る者なりしことは之を想像するに難からず。而してヒジリと云ふ語の意味に付きても他日些か卑見を述べんと欲するが、茲には唯此名稱が起原を佛教以外に有するものらしきことを注意するに止めん。
 踊躍念佛以前の踊にも亦顯著なる流行あり。其一は今日尚儼存する紫野今宮のヤスラヒ祭なり。此踊の由來は滔々たる隨筆學者競ひて之を論じたれば略す。只一點看過すべからざるものはヤスラヒと云ふ語なり。年中行事大成などに見えたる現在の歌の文句は「ヤスラヒ花ヨ、ヤスラニ咲イタ明日無イ花ヨ、貸シタル小袖ヲ茨ニ掛ケナ、ヤスラヒ花ハ」とありて、彼の寂蓮法師の筆なりと稱する富草の一曲と比較するに、古今共通なるは單に「ヤスラヒ花ヤ」と云ふ囃詞の一句に止れり。而して此語の意味は果して鎭花祭の鎭の義なりや否やは極めて未定なり。百練抄久壽元年(一一五四)の四月に始めて此語見ゆ。曰く近日京中の兒童風流を備へ鼓笛を調べて紫野社にある、世之を夜須禮と號す、勅ありて禁止すと。由て思ふに夜須禮は即ち一の外國語には非ざるか。紫野の今宮は此より約百六十年前の御靈會に際して始めて之を創立したりと云ふ説あるも、同じ書に依れば夫より二十年の後長和元年の二月に設樂神と稱し九州より上洛せしもの即ち此神なるが加し。
 大嘗會田歌と題する書あり。其中に美濃の田歌と稱するものゝ一部分は全然寂蓮の「ヤスラヒ花」と同じ。若し果して此歌が田歌に出でたりとせば、やがて又之と田樂との同系なることを推測せしむるに足れり。此等田歌の中には意義の不明なる囃詞多くあり。例へば「ハレヲヤマサニ」と謂ひ「レイ/\ナヨヤ」と謂ひ「ユラヤ」と謂ひ「シダラコヒシ」と云ふが如き、之を全然内容なき發音と見るには餘りに複雜なり。若し新村博士などの力にて此語の由來を明らかにするを得ば、立どころにして卑説の當否を判定し得る筈なり。
 神踊の問題に對する山城の朝廷の政策は頗る統一を缺きけり。其流行の萌芽は取留なき民間の雜説に發するに拘ら(436)ず、貴人朝臣を擧げて一旦は其風に隨ひ、稍其弊害を見るに及びて忽ち之を禁止することコ川時代の流行踊とよく似たり。永長元年(一〇九六)の田樂流行は洛陽田樂記に詳なり。或ひは裸形にして腰に紅衣を卷き或ひは髻を放ちて頂に田笠を戴くなど一城の人皆狂するが如く「近代奇怪の事何を以てか之に尚へん」とあるにも拘らず、郁芳門院最も叡感を催したまひ姑射の中此觀殊に盛んなりとあり。當時の名ある大官たち狂態之に追隨すること鹿鳴館の假装舞踏の類に非ず。百練抄にも凡そ近日上下所々田樂を翫ばざる無し、禁裏仙洞他の營なく侍臣儒者より廳官に至る迄此事に頼るとあり。此所には終に禁止の令出でず、素性の極めて怪しき田樂の俗伎は此よりして朝廷に公認せらるゝこととなりし也。前代の政治に在りては例へば疫癘の猖獗にして人心動搖する際には或ひは之が鎭靜策として御靈會を官營せらるゝことあるも、要するに民間の風俗を認容すと云ふに止まり、蠱惑の害甚しきに及べば之を禁止するに躊躇せざりしが如し。
 延暦十七年の十月に兩京畿内の夜祭歌舞を禁ぜられしは即ち是なるべく、更に之に先だちて寶龜十一年の格に京師の街路祭祀を禁斷せられしも、巫覡の徒が無知の百姓を誘ひて淫祀を妄崇せしめ菖狗符書百方怪を爲し街路に?溢〔五字傍点〕して事に託し福を求む云々とあるを以て見れば、亦後世の御靈會と同じく迷信に基きて歌舞狂奔の風俗を生ぜしことなるべし。而して右の淫祀なるものは即ち當時の國教たる佛教の立場より下したる評言なれば、恐らくはかの燈を北辰に奉るの風又は牛を殺して漢神を祀るの風と同じく、所謂小道巫術の目ある別種の外來教に屬するなるべし。
 此時代の民間信仰は朝廷のそれの如く明確なる記録無しと雖も、佛教の傳道が未だ其力を下層に施さゞりし時代には巫道の勢力は意外に強盛なりきと見えたり。蓋し本國の支那に在りては當時佛教は決して唯一又は最多數の宗旨には非ざりき。地方々々に固有傳來の信仰ありて彼此長短相互に雜糅せしが如く、而も我邦との交通は正式の使節に止らず、商賣私船の西海又は北國に往來する者少からざりしが故に其民間に及ぼせし感化は極めて著しきものありしならん。右の如く考へて後かの永長元年夏の田樂が「其起る所を知らず、閭里より初りて公卿に及ぶ」とあり、正暦五(437)年夏の船岡山の御靈會即ち紫野今宮祭の起原が「これ朝議に非ず巷説より起る」とあり(日本紀略)、又貞觀五年夏の神泉苑の御靈會に付きて「近代以來疫病死亡甚だ多し天下〔二字傍点〕思へらく此災は御靈の生ずる所なりと(中略)遐邇因循漸く風俗を爲す」とある(三代實録)などを見れば、踊流行の起原が何れの場合にも民間の雜説に在りて、朝廷は單に其結果に就きて批判し記述したるに止るを知る。而して其信仰の種を蒔きしは古くは役小角、最も近くは丹波市のおみき婆の如く日本の偉人物なりしこともあらんが、多くの場合に於ては長和元年の設樂神又は天慶八年の八幡神などゝ共に所謂|常世《とこよ》の神の渡來せし者にて、之を擔ぎまはりしは當時の平民より稍悧口なりし歸化の巫覡等なりしならん。猶此假定を立證する爲には段々に史料を蒐集整理するの必要あることは勿論なり。
 近代の正月の踊殊には大内の左義長に出仕する松囃又は唱門師の舞は上古の男踏歌の遺風なりと云ふことは故人の既に着眼せる所なり。而して踏歌は疑も無く舶來の唐風なり。此問題に關しては伴信友翁の踏歌考ありて活版本の比古婆衣卷十二に録せられたれば緊要の點の外は敢て受賣を爲さず。本朝事始には踏歌の始は天武天皇の三年とあれど、正史に見ゆるは持統紀の七年正月十六日とす。曰く漢人等踏歌を奏すと。翌八年の正月にも漢人唐人之を奏すと見え、其後終に歴代の朝儀と成るに至れり。右に唐人の外に漢人とあるは久しく三韓に在りて後入來れる支那人のことなるべし。年中行事抄には朝野群載を引きて、持統七年より後るゝこと二十年の唐先天二年に長安にも踏歌の盛會ありしことを云へり。十五日以後三日三夜の間高く燈を掲げ少年少婦千人を簡し其燈輪の下にて踏歌せしむとあれば、即ち上元の行事なりしなるべし。日本にては新春の踏歌は永く朝廷の儀式となりしにも拘らず、其民間に行はるゝものには亦流弊ありしにや、天平神護二年正月十四日の格には、兩京畿内の踏歌を禁斷せり。其言に里中の踏歌は前を承けて禁斷す云々とあり。前符は傳はらずと雖も、若し此踏歌を以て今の中元の踊と系統を同じくすと云ふ卑説を當れりとせば、府縣の駐在巡査の盆踊取締は最も由緒ある風俗警察なりと謂ふことを得べき也。
 
(438)  越前萬歳のこと
 
 福田菱洲氏の談に、越前萬歳は全く他國の萬歳と別種なり、只今にても毎年年頭に東京に出で來る、故郷を忘れざる越前人之を招きて舞はしむるが故に數ヶ所の得意場あり。此萬歳の出處は今立郡味眞野村大字野大坪なり、一村悉く之を家職とす。越前一國は元よりなり、加州前田家にても由緒ありて特に此者を珍重せられたりき。昔は野大坪の萬歳年の始には先づ金澤に行き、最初に尾山神社の社頭に於て一曲を奏す、前例ありて梅鉢の紋附きたる扇子一對を下さる、此扇を廣げて城下の町小路を舞ひあるけば、人家毎に必ず十二銅を包みて祝言を述べしむ、今も此習絶えず、福井町は却りて加賀の歸りに巡るなり。
 越前萬歳の三河などゝ異なる點は色々あれど、第一に此方の樂器は、鼓に非ずして平めなる小さき太鼓なり、少し反りたる竹の撥を以て之を摺る、其音極めてまねび難し。此太鼓を張る者大野郡大野町の近傍に在り、一部落悉く皮張を業とすれども、萬歳の太鼓を張る家は只の一戸のみ。薄き皮にて口傳を得ざる者之を張るときは、忽ち破れて用ゐ難し。此家今は福井市に移住す、其家の看板には萬歳太鼓張所とあり。
 萬歳の歌曲は今日も村の中に之を作る者一人あり、曲の數は多く其中に福井町盡し、大聖寺町盡しなどあり、近き頃日清戰爭と云ふ曲も出來たれば、勿論日露戰爭を題目とせるも出來たるならん云々。萬歳舞の日露戰爭はヤツトの金毘羅參りと同じ格にて珍奇なるアナクロニズムなり。
 福田氏説に越前萬歳は幸若曲とは關係なかるべし、越前の幸若は歌のみにて舞なし、只此萬歳の歌の中にて舞終り(439)て後、少しの間立ちて歌ふ處は或ひは幸若の感化あるか、此ところの節中々六つかしく秘事なりと云へり。
 近世の萬歳にも地方により種類多し。三河萬歳の用ゐらるゝに至りしは、勿論コ川家との縁故なるべし。河内萬歳は三河よりも古し、大和にも窪田村岩尾村より出づ、年中行事大成に伏見よりも六人出づとあり。尾張津島にも津島萬歳あり、九州にも萬歳出づる所あり。南路志によれば土佐安藝郡椎名村の八王子權現の祭にも、古來萬歳と云ふ舞あり。京都へは大和の萬歳上ると俚言集覽に見ゆ。但し禁裏に參る萬歳のみは、小泉豐後とて陰陽家の人なりと云ふ。兎園小説に其歌の章句を載せ又閑田耕筆にも此事を記す。伊勢萬歳のことは曾て亡友平田コ次郎より之を聞けり、平田酒を嗜み醉後戯に此曲をまねぶ事ありき。此文を草するに際し舊歡を想起して覺えず胸を拊ちたり、竹葉寅一郎氏曰く伊勢には皮作衆の子孫多く住す、此部落の祝宴と云ふに臨みしに、冠婚共に儀式と云ふものなく、唯伊勢萬歳を歌ふこと常の例なり云々。此事實は萬歳問題研究の關鍵なり、千秋萬歳のことは既に著聞集に見ゆ、下賤の者の舞なることは疑なし。
 
(440)  二たび越前萬歳に就きて
 
 越前萬歳の出所野大坪は今もノオツボと訓めり、大坪は假字にして疑も無く靭舞のウツボなり。今立郡誌に依るに、萬歳は味眞野村大字野大坪及び上大坪の二區より出づ。此村に萬歳が自ら記したる由緒書あり。吾妻鏡一流の漢文なり。見る所さまで古きものに非ず。彼等自ら稱すらく、大昔此地の人に河内首と云者の子使主智、朝廷の馬飼部たり。皇子の愛馬俄に驚き嘶きて秣も食はず貴人甚だ之を憂ひたまひし時、馬前に進み出でゝ宇津保の舞を爲せしかば馬忽にして氣力を復す。夫より常例として御馬乘の前に萬歳樂を奏し宇津保舞を舞ふ。仍て野宇津保萬歳の稱號を賜はり御厩の祈?を奉仕す。又天鈿女命を氏神と祀り舞を舞ふに鈿女命の假面を被る云々。後代鎌倉に召されし者あり。頼朝より證文士と云ふ位を授かり野宇津保證文士と稱す。諸大名の宅に出入して初乘の祈?を勤むるは此縁なり。官服差拔を着し鈿女の面を被り大黒頭巾を戴き麻の幣を持ち竹馬に乘りて之を舞ふ。謠物の章句は「年若に御萬歳、愛敬ありける皇子の、御代の榮も御萬歳、春の始の春駒に福萬歳乘りまして、御馬の御祈?祷の御祝を目出たくこそは舞始む」と云ふなり云々。
 所謂證文士の位は即ち唱門師是なるべし。唱門師も勿論宛字なり。塵添?嚢抄卷十三には民屋の門に立ちて金鼓を打つ者を聲聞師と云ふ。門に唱ふるの義なれば唱門師と書くべし。家々の門に立ちて妙憧の本誓を唱へ阿彌陀經を誦して金鼓を打つ者なり。其頌文は一條院の御宇寛印供奉の作りたまふ所なり云々。此記事を見れば唱門師は著しく中古の阿彌陀聖又は鉦打聖と云ふ者に似たり。然れども他の書に見ゆる唱門師には右の如く佛道と縁故深きものある(441)を知らず。日次記事正月十八日の條、禁裡左義長の式に唱門師の頭勤仕する由を述べ、其徒は頭に赭熊を着け鬼の面を被り、羯鼓を打ち横笛を吹きて舞ふとあり。和漢三才圖會の記事は此書の説を承けたるものならんか、更に唱門師は後世主として大黒松大夫と呼ぶ者と同系のものなることを明らかにせり。
 近代の書にては閑田耕筆卷二に此徒シヨモジと呼ぶの風は京都にては既に失はれたれど、近江又は攝津には猶名目を存することを云へり。然れども年中行事大成卷一には其反證あり。大成は近年の出版ながら編輯物にして閑田耕筆の見聞を主とするものと同じからざれば或ひは過去の事實を盲引せしかも知れず。其説に依れば、元旦寅の刻に洛東愛宕念佛寺の邊に住する犬神人禁裡日華門外にあり毘沙門經を誦す。故に此者の黨類を稱して唱門師と云ふ云々。犬神人は一にツルサシ又はツルメソと呼ぶ。弓弦を作りて之を鬻ぐは牛馬の屍に接するを忌まざりしこと證し又草履などを作りて賣るとも云へり。此徒が中古歸化せし特殊部落なることは種々の口碑に存せり。前掲閑田耕筆にも唱門師には受領名などを帶び刀を指すものもあれども而も平民に非ざること犬神人の類なりと云へり。二者の異同は兎も角も唱門師が西京附近に邑居する者ありしことは山城名勝志に引ける二水記、應仁廣記などに明らかにして、關東地方にまでも蔓延せしことは新編相模風土記に掲げたる小田原の天十郎文書に證あり。唱門師聖門師等の稱呼は現存する地方極めて稀なるが如し。蒿溪の説にては近江攝津の唱門師は往々にして郊野古塚の邊などに居を占むと云へり。今日近畿にてかゝる境をのみ占めて村を爲せる部落にシユクと云ふ者あること人の善く知る所にして、此事實に基きてシユクは延喜氏號に所謂守戸即ち陵戸の事なるべしと云ふ説最も廣く行はる。所謂皮作衆よりは一段の優位にありて次第に平民の中に混入し、三重縣などにては最早之を特殊部落の中に算せず。課役の如きは夙くより良に同じかりきと云ふ。シユクに關しては別に一卑考あり。稿を改めて是正を乞はんとす。社會事彙左義長の條には滑稽雜談と云ふ書を引きて唱門師一にはシユクの者と呼ぶと見ゆ。未だ本書を見ずと雖も、此説にして確ならば珍重すべき也。自分の考にては唱門師は當初廣汎なる名目にして職業の次第に分化すると共に其總稱が不用に歸したる者と思へり。
(442) 宇津保舞を爲す者を唱門師と稱する例は野大坪の由緒書の外に其類を知らず。靱舞の根原は狂言の靭猿など作り物ながら考へ合すに勝へたり。猿の皮の靱は既に盛衰記に見ゆ。靱は元來塗り物なるに騎馬の折に用ゐるもののみ毛皮にて包むと聞く。さて其猿は厩の守護にして猿牽が厩の戸にて猿を舞はすことは近代迄の武家の風習なり。越前の萬歳が其昔厩の祈?より起り宇津保の舞を以て馬の神を勇めしを見れば、人が舞ふも猿に舞はせしも共に其宇津保舞にして後者の方稍時代新しく、夫につけて我儘にして無邪氣なる大名を趣向とせし狂言は思ひ付きしなるべし。萬歳も本來は厩を譽むるを業とする者らしく、一話一言卷四十八には例の小泉豐後の奉仕する禁裡の萬歳は其唄の節幸若の曲にも似通ひ又狂言の空穗猿の猿の舞ふ時の歌の節とも似通へる由を云へり。要するに猿舞と萬歳と唱門師と三者各別の者の如く考へられしことなるに、野大坪の舊記に出でしより其相互に關係ある事を知るに至れり。
 唱門師の平民と通婚せざるは野大坪にては左の如く説明せり。曰く鎌倉殿より下されし證文士免許の證文は扇面に書せられたり。其扇の骨一本偶然にも破れ損じでありしより、後世の者仔細も知らずに「野宇津保證文士、骨一本足らず」と云傳へ、當初證文士が自ら持すること高くして農工商と交らざりしを附會して、恰も四民に齒すべからざる者なるが如く擯斥するに至りしは殘念なる事なり。さる賤しき人種ならばいかでか王公貴人の御前に出ることを得べきやと云ふ。成ほど唱門師と云ひシユクといひ猿牽と云ひ萬歳と云ひ、共に古來の農民よりは低き者の如く思はれつゝ、春の始め吉日毎に上は大内山の松陰より下りては名ある武家の玄關にも立入りて祝言を申し入るゝは奇妙なる風習なり。一概に物貰ひなどゝ云ふ者の中にもさるべき由緒ありて公然と施物を受け、必ずしも人の憐愍に縋らざりし者昔は今よりも遙かに多かりし也。其中にても配當と稱し盲人が公許を受けて徴收しありきしものなどは一種の租税の如くなり、民間の信仰生活より獨立して立派なる地位を附與するに至れり。座頭は執念深く彼等を物貰ひの徒に列記せば大いに怒り且つ怨むべし。併し當道式目などは近世の構説にて少しも證據にはならず。彼等の見えぬを幸ひに今少し此事を記述したし。諸君の黙讀せられんことを乞ふのみ。
 
(443)  獅子舞考
 
 雜賀貞次郎氏の報ぜられた獅子舞の起りに關する故老の物語は(郷土研究三卷四七三頁)、必ずしも單に古渡の童話の類として取扱ふことは出來ぬやうである。先づ第一に唐獅子の身體が三つに裂けたのを三國三處に分取したと云ふ話は、形を色々に變へて弘く行はれて居る。例へば近世の俗説であらうが、源三位頼政の射殺した怪獣は其身首手足を斫《き》つて堺の海へ流した所が、それ/”\各地へ漂着して猿神犬神蛇神等の根元を爲したと云ふ。前年自分は武藏相模の境川の沿岸を旅行した時、八王子線の淵野邊停車場の附近に於て土地の人から下總龍角寺の縁起と頗るよく似た昔話を聽いて珍しく感じたことがある。龍角寺縁起はかの地方の郷土誌に於ては夙に有名なものである。其大略を言ふと、今の下總印旛郡|安食《あじき》町大字龍角寺新房の龍角寺は、天台宗の中本寺で本尊は藥師如來、大昔は寺の名を龍閣寺と呼んで居たが、天平三年の夏、奧州の僧釋命上人此寺に雨を?りしに、神龍三段に斷れて空より落ちた。乃ち其頭を納めて寺號をも今の如く改めた。龍の腹と尾とを納むる所に各之を寺號とする寺がある云々(印旛郡誌)。而して龍腹寺と云ふ同宗の寺は現に同郡本郷村大字龍腹寺堂崎に在るが、記録が些しく喰ひ合はぬ。此寺元の名は延命寺又は龍福寺、承和四年慈觀上人の開基である。天平よりは遙か後の延喜十七年の大旱に、釋名上人なる者風雨順時の大法を修せしかば、一天俄かに曇つて一聲の雷と共に大雨車軸の如く降り來る。天霽れて後御堂の側に大龍の腹ちぎれて落ちてあり。仍て寺の名とすとあつて腹だけを之に藏納したと言うてない(同上)。尾を納めたと云ふ寺は新撰佐倉風土記等にも匝瑳の大寺とあるが、是は今の香取郡豐和村大字大寺のことであるらしく、成るほど其地には又龍尾寺と(444)云ふ古い寺がある(地名辭書)。蓋し龍の一體を三箇の大寺に分配した傳説は、多分は千葉氏の根據地を中心として發生したものであらうが、他の地方に散在する類似の口碑を比較して見ると、丸々僧侶の智巧に出た種で無いことは明らかで、言はゞ神代紀の迦具士神の系統に屬する古譚を近世化し縁起化したものに他ならぬ。
 右の類例として最も近いのは八岐大蛇に關する傳説である。天野信景の尾張國神名帳集説、熱田の八劔大明神の條に、杵築社記を引いて曰く、大原郡(出雲國)斐伊郷中|簸川《ひのがは》の邊に杉八本あり、蛇の頭を祭る、仁多郡尾原村に蛇の尾を祭る、乃ち石壺大明神是なり云々と。尾原の村名はやはり此口碑と關係して居るものであらう。頭の方を祭ると云ふのは今の大原郡神原村八口神社のことである。出雲國式社考及び雲州式社集説にも此事を記して、「神原郷草枕村八口大明神、里俗の傳には、八岐大蛇の首頭を此所に埋めたりと云ふ。此地を草枕と云ふも、大蛇が草を枕としたるより云ふと云へり。祭正月初卯六月及び九月十五日」と述べて居る。草の枕と云ふことは何か意味のありさうな點であるがまだ考が付かぬ。但し他の動物に就いても之とよく似た話は傳はつて居る。參河國では古く犬頭蠶《けんとうざん》の由來なども物に見えて居つて、或ひは日本に於けるゲルハート傳説の中心地では無いかとも思はれるが、同國碧海郡六ツ美村大字宮地と下和田とに、犬頭靈神及び犬尾靈神の二社あつて、身を殺して主人の命を救うた義犬を祀つて居たと、犬頭社由來書と題する古記に見えて居る(參河國官社考集説)。名馬生月の生處葬處と稱する地が全國に亙つて多いことは、曾て備《つぶ》さに山島民譚集卷一に列記して置いたが、相州足柄郡曾我村大字下にも其名馬の首塚胴塚があつて、生月酒匂村の鎭守森の東方の小橋から落ちて死んだのを埋めたと稱して居る(相中襍誌上)。此などは現に繋がつて居た筈の首と胴とを切離したもので、愈以て自分の爰に言はんとする死屍分割の例によく當るのである。
 今日の感情から言へば聞くに忍びぬ慘虐であるが、同じ話は獨り獣畜にのみ限られては居なかつた。越後七不思議の一として世に知らるゝ堂鳴と云ふ怪響は、往古兇賊黒鳥兵衛の惡靈の致す所だと云ふ一説がある。康平年中源義家義綱の兄弟、此國に來つて兵衛を誅戮し、今の西蒲原郡黒崎村大字黒鳥に其首を埋めて塚の上に八幡の祠を立て、同(445)郡鎧郷村大字押付に其體を埋めて亦八幡祠を立てた。然るに年を經て靈氣消えず。祠中時々鳴動す。鳴動すれば必ず雨がふる。土人之を堂鳴と呼びならはした。一説には堂鳴は實は胴鳴であつて、黒鳥兵衛の首が其胴に接がんとして鳴動するのだとも云うて居た(越後野志十九)。惡靈の旗頭とも稱すべき平新王將門に就いては、殊に古くから此類の話が多かつたやうである。現に東京牛込築土八幡の境内に在る明神の社の如きも其一例で、此社もとは田安に在り後飯田町に徙り、更に此地内に借地をして引越して來た。平新王の頭であるとも云ひ、又體の明神とも飛首の明神とも唱へて居る。正體に至つては區々の説あり、或ひは將門の冠とも髭とも髑髏とも謂ふが、結局秘像であつて誰も見た者無く、別當の成就院なる者曾て潔齋の後厨子を開いたが、忽ちにして目が潰れたと云ふことである(十方菴遊歴雜記第三編中)。昔は物部守屋も佛敵として一種將門的の待遇を受けて居た。今の河内中河内郡能華村大字太子堂の勝軍寺は、世に下の太子と稱して厩戸王子の尊像を安置する舊寺である。本堂の前に守屋大臣の首洗池と云ふあり、其池の東には守屋の頭墳|?墳《むくろづか》と稱して北と南に二小塚があつた(益軒南遊紀行上)。實際誰かの口癖では無いが迷信家に出逢つてはかなはぬ。首塚胴塚は手塚耳塚などゝ共に此外にも弘く國内に分布して居る。之を前代名士の名に託したのは後世縁起起草者の作爲であるかも知らぬ。併し昔の田舍者の信仰心は、右の如き人體の處分法も格別の無禮侵害とは認めて居なかつたらしいことは猶段々の證據がある。會て本誌に報告せられた甲州の御手の藥師(郷土研究三卷一八〇頁)、足利の大手權現(二卷三七三頁)の如き靈像分割の例も、隨分古くから多かつたのである。泉州堺の北莊旅籠屋町の西に七堂の濱と謂ふ地は、昔七堂伽藍のあつた跡と云ひ、又住吉の神輿奉仕の時七度の潮垢離《しほごり》を取つた處とも云ふが、猶一説には曾て此浦へ四天王の像が浪に漂うて上つたのを見ると御影七つに分れて居る(三卷二六五頁參照)。之を拾ひ揚げ繼ぎ合せて安置したによつて七胴繼島と呼ぶのだとある(堺鑑上)。香川縣三豐郡一谷村字吉岡に於ては、本村に御衣八幡宮、土居に袖(ノ)八幡宮とて二社併立して居る。土地の傳に依れば、此地昔は琴彈八幡宮の御旅所であつたが、八幡宮を此へ祭らんとして二部落の者御神體を奪ひ合ひ、結局本村は御衣を取り土居の者は袖を取つて、(446)各之を齋ひ祀つた。其袖をもぢい〔三字傍点〕たと云ふ所に別に袖茂知岐《そでもぢき》と云ふ祠もあつたと云ふ(西讃府志)。袖もぢき〔四字傍点〕と云ふ路傍の神に付いては曾て各地の報告もあつたが(郷土研究二卷七〇一頁)、要するに同じ光を以て闡明し得べき古い風習の名殘かと思うて居る。それは兎も角も、右二種の神體分割譚の如きはまだ幾分か近世的に上品であるが、只一歩を進めば乃ち首塚胴塚の話になる。例へば國に異變あるに先だつて鳴動すると傳へられた京都東山の將軍塚と同じ場合に破裂して兇事を豫報したと云ふ大和多武峯の鎌足木像との、ちやうど中間に立つて最も肝要なる連鎖を爲すものは、攝津三島郡安威村の鎌足塚である。目下史學の大家たちの論爭の主題であるから、下手な差出口はきつと慎むべき所であるが、黙つて居られぬ不思議な話は、此塚鎌足公の最初の墓處と稱しつゝ一名を將軍塚とも云ふ。而も傳ふる所によれば、多武峯に改葬せんとする際、土地の者之を悲しみ惜しみ、棺を奪はんとして挑み爭ひ終に遺骸を分取した。因つて一名を胴墓とも云ふ。改葬の地再び動くを以て或ひは又動墓とも云うたとある(攝陽群談九)。偶然かも知らぬが越後の黒鳥兵衛の話と一面は類似し、他の一面には大昔兩毛の野人が赴任に先だつて薨ぜられた將軍宮の御遺骸を、墓から盗み出して奔つたと云ふ畏多い話にも縁を引いて、結局人體を切り分けて鎭護の用に供したと云ふ境塚の荒唐なる口碑も(郷土研究一卷一五八頁)、根底の存外深いものであることを知らしむるのである。
 さて立戻つて少しく獅子舞の由來を説いて見よう。雜賀君のこの短い報告が如何なる程度に迄自分の推定を強めるかは、恐らくは讀者の想像に超ゆるものがある。蓋し獅子舞の性質を論究した書物は、自分の知る限では喜多村信節の?庭雜考が最も詳しいやうである。此人の説は古來田樂に獅子を舞はしめるのは、本來は西域龜茲國の伎樂を唐土を經由して輸入したもので、神殿佛閣の前面に所謂獅子狛犬を置く風が、獅子舞の今日の如き普及を致した原因だと云ふに在るらしい。藤井高尚なども榮花物語布引瀧の卷の文に「獅子こま犬の舞ひ出でたるほどもいみじう見ゆ云々」とあるを引いて、同じく二種の獅子の根本を一つと見たやうであるが、自分はまだ容易に此等先輩の言に服しない。歌舞音樂の方面に於ては成程支那の影響は顯著であつた。殿前の咒像が建築美術と共に外國から來たと云ふのも(447)事實であらう。又田樂と云ふものが一種漂泊性ある人民の手に掛つて、京畿乃至は鎭西の文明を普く邊土に流行させたらしい事も亦否定しない。唯假に村々の祭禮に出て來る獅子舞の頭が凡て田樂法師の徒の携來に係るものとしても、之を以て直ちに殿前の獅子狛犬の獅子と同じ物だとする説は疑はしく、あの堅苦しく畏まつた怪獣をどうしてふら/\と出て舞ふものと考へたかと思ふと、今更に昔の學者が文字名稱に絆《ほだ》されやすかつたことを感ぜずには居られない。自分が所謂獅子舞のシヽを以て天竺の獅子ではあるまいと思ふ理由は段々あるが、最初に心付いたのは或地方の獅子舞に用ゐるシヽ頭には鹿同然の角のあることである。陸中|附馬牛《つくもうし》の獅子踊は實は鹿踊であることは、既に遠野物語にも述べて置いたが、このシヽは頭に樹枝を以て鹿角に擬した物を附けて居るのみならず、踊のふりにも歌の章句にも、山中の牡鹿が妻を?《もと》め妻を爭ふ事が明らかに現はれて居る。此例は決して稀有では無いやうだ。東京などの獅子頭は近世次第にライオンの寫生に近づいて來たが、もとは今一段顔も長く且つ角のあつたことは、山中翁も曾て之に注意せられ、元禄刊行の人倫訓蒙圖會中にあるものは鹿の如き枝角があることを述べられた(共古日録十三)。さう言へば今日の神樂の獅子にも尖つた觸角があり、且つ又神社の石獅子にも金の一角を取つて附けたものなどがあつて、もと/\工人の目撃せざる空想の獣であれば、一つや二つの角ぐらゐは無造作に加減したらうとも言ひ得るが、自分の重きを置くのは單に角の有無では無く、如何にも唐獅子の頭上には不向なる枝澤山の角のある點である。前述?庭雜考には又四神地名録を引いて妙な話を載せて居る。江戸の東郊二合半領の戸ヶ崎村に、古く傳ふる三つ獅子と云ふ頭があつた。越後獅子の頭ほどで俣ある角二本あり?の毛を以て飾とす。寶永元年の洪水の際、猿ヶ股沿岸の村民等競うて堤防を守り互に對岸の決潰を希望して居た折柄、此村に水練の達者な者があつて、夜分潜かに右の獅子頭を被つて川向ふへ泳いで行くと、水を防いで居た者ども之を大蛇と見誤つて悉く逃げ散じたから、其間に安々と先方の堤を切り自村の災難を免かれたと云ふのである。此話が尤もらしい一箇の小説であることは、次に言はんとする村境の爭の類例を見たゞけでも之を認め得られる。つまりは此獅子頭が村の災難を境外に驅逐すると云ふ威コを物にした迄であ(448)る。下總印旛郡豐住村大字南羽鳥鍛冶内の三熊野神社の南にある花見塚は、一名を金塚とも稱して黄金埋藏傳説を伴なうて居るが、塚の上で獅子を舞はしめた近例の一である。今は單に社頭に此舞を奏するばかりであるが、舞童は三人であつて之に對して獅子頭も牡中牝の三つある。其頭には角あつて龍頭のやうだと云ひ、又舞の歌にも「向う小山のあの獅子子獅子は云々」と云ふやうな鹿らしいのが傳はつて居る(印旛郡誌下)。羽前最上郡では孟蘭盆の頃村々に獅子踊と云ふものが行はれる。其由來を尋ぬれば、昔最上家全盛の頃、成年豐作にして此郡萩野村の奧なる小倉山で猪が七疋出て踊つたことがある。其後戸澤家の治世にも亦同じ事があつた。村民見て之に習うたのが此獅子踊である。それ故に他の村々の踊子は六人であるが萩野は本場だけに七人を以て組とする(俚謠集)。此獅子踊の面には角が無かつたのかも知れぬが、野猪ではどうも無いらしい。七人の若者獅子の面に幕を附けたのを被り、腹に太鼓を附け歌ひつゝ踊るとある。同國東村山郡山寺村の立石寺で、此も毎年七月七日に執行ふ踊は、鹿子舞と稱しつゝやはり似たやうな猪の話を傳へて居る。この寺は例の磐次磐三郎(郷土研究二卷一九頁參照)を祀つた靈地であるが、兩人慈覺大師に歸依して地を獻じて寺となし、附近一帶の山が殺生禁斷の地となつたにより、猪大いに之を悦び來つて大師に禮を言ふと、私よりも磐司に謝するがよいとのことで、夫以來今に至る迄此日は磐司の祠の前に近郷の者集り、燦爛たる盛装をして鹿子舞をなし、次いで大師堂の前で舞ふ古例になつた。豐年には十數組の多きに至ると云ふ(山寺名勝誌)。此等の例を以て見ると、獅子舞のシヽと云ふ語にも少なくも或混同がある。即ち獣肉を宍《しゝ》と云ふより轉じて、鹿即ちカノシヽを單にシヽと呼んだ時代もあれば、猪即ちヰノシヽを單にシヽと云ふ地方もある。萬葉のシヽは鹿で忠臣藏のシヽは猪だ。是が佛經によく出る天竺の猛獣と音を同じくして居たのは、郷土研究者に取つては一の不幸であつたが、幸ひに角や口碑は辛うじて其事跡の湮滅を取留めたのである。
 第二に注意すべきことは、諸國の獅子頭が往々にして信仰の當體であつて、單に一箇の祭具又は伎樂具として見られぬことである。筆者幼時の記憶に依れば、春先伊勢の神樂と稱する獅子舞の者が村に來り家々を廻ると、頭痛疝氣(449)其他の持病ある者は、之に頼んでそれ/”\の患部を獅子に?んで貰ふ。多分は獅子の猛威を以て病魔を驅逐すると云ふ思想であつたらうと思ふが、其迷信の由つて來る所は必ずしも單純で無い。下總印旛郡公津村大字船形手黒の村社麻賀多神社に什寶として三箇の獅子面あり、左甚五郎作と稱す。毎年の春祈?には之を被つて神前に舞ひ五穀豐饒の祈をするが、猶此面を水に映して其水を飲めば病氣が治ると信ぜられて居た(印旛郡誌)。獅子舞の效驗を以て獅子頭其物の威コに歸せんとする例は外にも少なくはない。村々の祭禮に際し古作の獅子頭を取出し、先づ以て當番の家 を淨めて之を安置し、神酒燈明等を供へて之を祭ることはよくあるが、獅子の本國を以て目せらるゝ伊勢國に在つても、津以北四日市以南の邑落を巡歴する者は、大別保・稻生・郡山・下箕田・中戸等の諸村から出る獅子であつた。常は此等の村の社に納め置き、隔年に之を取出し假屋を構へ、社人氏子等物忌して之を祭り、正月七日より三月三日迄諸方へ舞ひに出たと云ふ(?庭雜考)。同國山田の獅子頭は郷内八所の本居社に分ち納めあるもので、正月十五日から十七日迄氏子の家々を廻つた。永正の末年飢饉疫病の流行りし頃、之を作つて山田上の町より下町へ追ひ遣つたことがある。以後其面を疫神と祝ひ祭つたものと云ふ(同上所引、年浪草)。正月に氏子の家々で獅子舞に與ふる鏡餅等を含物《くゝめもの》と云ふのは、本來は之を獅子の開いた口の舌の上に置く風習であつたからである(伊勢濱荻一)。武州氷川神社にも古い一箇の獅子面があつて、御免天下一角兵衛作之と彫つてあつた。近郷の獅子舞には必ず之を借りて舞うたと云ふ(?庭雜考)。
 さて此等の獅子頭が各社に於て殆と靈寶の如く取扱はれて居る理由は、決して其物が年代の知れぬ古物である爲でないことを、自分は又妙な方面から證明せんとするのである。前に擧げた下總麻賀多神社の古面に就いては左の如き話がある。或年此面を箱に納めた時順序を誤つた處が、三つの獅子箱の中で?合ひをしたと云ふことで、三つとも今は其舌が拔いてある。又曾て氏子の一人産の忌ある者之に觸れたと云ふことで一つの獅子は眼が破裂して居る云々。觸穢の方は兎に角、獅子の?合ひは如何にも奇拔であるが而も類例がある。是も遠野物語の中に出て居るが、奧州で(450)は一般に獅子頭のことを權現樣と云ふやうである。陸中上閉伊郡新張と云ふ處の八幡社のゴンゲサマと、同郡土淵村五日市の神樂組のゴンゲサマと、曾て途中で爭をしたことがある。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失つたと云うて今でも無い。毎年村々を舞うてあるく故之を見知らぬ者は無いとある。此地方のゴンゲサマは何れも右の如く各村各家を舞うてあるく故に、組の者は?途上で衝突を起すのである。但し獅子同士が?合つて耳を喰切つたと云ふなどは、隨分奇拔な類の無い話だらうと思ふと、決してさうで無い。羽後仙北郡北楢岡村の耳取橋でも、此村龍藏權現の獅子が神宮寺村八幡社の獅子と闘うて相手の耳を取つたと云ふ話が殘つて居る。此時龍藏權現の獅子は鼻を打缺かれた。之を憤つてか自ら長沼に飛入り其主となつた。それより此沼の名を龍藏沼とも云ふとある(月之出羽路四)。耳取と云ふ地名は此外にもある。同じ郡の金澤西根村耳取と云ふ地には如何なる傳説があるか知らぬが、參河額田郡岡崎町大字羽根に、小豆坂の古戰場に近く耳取堤と云ふ處がある。此地では耳取と稱する變化の物が居て日暮れて通れば人の耳を引切ると云ふ話がある(同上十)。即ち影取沼帶取池同系の口碑である。獅子の爭闘と何等の脈絡が無いやうであるが、かの讃岐の袖茂知岐祠の古傳と、他國に於ける片袖を取られると云ふ路傍のあやかし〔四字傍点〕の俗信とを比較して見ると、傳説變化の跡が稍窺はれ得るのである。自分の見る所では、右の獅子の耳取の昔話も、結局亦境塚の問題に歸着するらしい。之を説明する材料は、即ち諸國の田舍に散在する獅子塚獅子舞塚等の塚名や地名であるが、同じ羽後國には此塚に關する口碑が處々に殘つて居る。雪之出羽路卷八、平鹿都淺舞町の獅子塚の條に、「昔此郡大森町に大森獅子舞あり。山田の獅子頭と闘ひて戰負けたれば此所に埋むと云ふ。大森獅子舞の淺舞に入り來りしといふ物語あり。又獅子塚も所々にありて由來同じ。昔此わざ大いに募り大いにあらび、組合ひ蹈合ひ喧嘩して死する者あり。之を埋めししるしなりとも云ふ」。又同書卷十一同郡河登の條にも、「獅子塚の梨木、周圍五尺餘の空木《うつろぎ》、昔獅子頭埋めし塚と云へり。昔は獅子闘の事ありて、負けたる獅子にや勝ちたる獅子にや、地に埋めて塚として處々に在り。其村へは獅子舞の入り來ぬためしと云へり」とある。之に依つて見れば、遠野其他で獅子の?合ひと傳ふる話は即ち(451)獅子舞組の喧嘩の事らしく、耳を喰切られたと言ふは打付けて毀れた事を意味するものらしい。而して負けてか勝つてかは知らず、獅子頭を埋めたと云ふ獅子塚が、他村の獅子舞の舞込むのを防止したと云ふのは、疑も無く掛踊《かけをどり》の風習に基くものである。掛踊のことは所謂|俄《にはか》の起原として他日更に之に論究するつもりであるが、昔は村に旱魃害蟲又は時疫の發生した場合には之を惡靈の所爲とし、鉦鼓喧噪して之を村外に驅逐するが常であつた。深山大海に接する村は格別、普通は之に由つて迷惑するのは隣村であるから、彼も亦直ちに起つて驅除に着手するが、言はゞ手前勝手の衝突であるから、やはり元來た方へ追返すのを便とした。之を當時の語では踊を掛けられたと云ひ掛け返すと稱し、急な催しである故に俄踊とも呼んで居たらしい。だから今でも踊の歌には排他心敵愾心を發露した文句が多く、常は仲の善い隣村でも祭や踊の季節になると吉例のやうに喧嘩をする。印地打《いんぢうち》や凧揚げの勝負が所謂年占として重んぜられ、後世に至る迄大人が出て聲援をする風のあつたのと同樣に、全く根底に於ては實際生活上の必要に出たものであつて、唯後者は積極的の努力、前者は消極的の防衛だと云ふ相異があるばかりである。獅子舞も一名を神樂と呼ばれるやうになつては、單に神を悦ばしむる社頭の遊戯のやうに認められるか知らぬが、それでは右に擧ぐる如き遠征的の行爲、殊には家々の門を廻つて惡魔を拂ふと云ふ意味が不明になる。併し此風習は決して所謂ホイト物貰ひの徒の發明では無く、今も盆踊が新佛のあつた家の前で殊に丁寧に踊るのと同じく、御靈を信じた時代の一種の清潔法としては是非とも缺くべからざる手續に外ならぬ。其證據には中世の獅子は常に田樂に伴なうて居た。田樂は少なくとも御靈會に由つて大いに起つたものである。後世に於ても遊行門派の念佛聖で獅子を被つて念佛踊をする者があつた。信州上高井郡高甫村大字野邊の所謂野邊座の念佛なるもの即ち是である。諸國に此類の講多く信濃にも六座まで免許せられて居た(科野佐々禮石十四)。孟蘭盆に鹿踊を行ふ例は東北には多い。或ひは陸前牡鹿郡鹿妻村より始まり、昔牡鹿の妻を慕うて死んだのを悼み、鹿野苑の周行に比し功コ勸進の爲に諷ひ出したと云ふ(新撰陸奧風土記二)。安房では舊長狹郡の不動等、七月七日にフリウと稱して御子舞をする所がある(房總志料)。フリウは即ち風流であつて盆(452)踊の古名である。八月十五日に獅子頭を舞はす地方も多い。八月十五日は恐らく亦中元の名殘で、此日重い祭を營む八幡神と獅子舞との關係は注意に値して居る。上元即ち正月十五日にも獅子を舞はす處がある。是も惡癘追却の一季節である。甲州では一般に此日道祖神を祭り、若連中獅子頭を舞して人家に押入り、時々亂暴をして花聟花嫁をいぢめる(甲斐の落葉)。上州高崎でも羅漢町の道祖神は正月十四日が祭で獅子舞をする(高崎志下)。東京でも獅子舞は松の内の物のやうに考へて居るが、既に之を職とする一階級あつて遠方より巡回し來り、村内又は近在の者が之に預らぬやうになれば、十五日前後に來るとはきまらず、山里は萬歳おそし梅の花で、春中は日を定めずに村をあるき、又疫病や不時の天災のみでは生活に足らぬから、何と無く廣汎に惡事災難を攘ふと云ふ。故に伊勢桑名在の所謂太夫村等の代神樂は組を作つて諸國を巡り竈拂ひをしたと云ひ(?雜考引、伊勢名所圖會)、寺社奉行の書留にも、舞太夫の家職として、一獅子面を持ち釜の毒を拂ひ候事とあるのである(寺社捷徑)。それもこれも結局我々の住宅内から惡氣を搬出するが唯一の目的で、西の海へさらりならば猶結構だが、それが成らずば村外迄でもよろしかつた。而して山田郷に所謂含物、或抄はおひねり〔四字傍点〕とか初穗とか云ふ金品は、耶蘇教のアルムスなどゝは又別で、盆の御迎々々の蓮葉の飯や節分の辻の豆の如く、一種の贖物と見るべきかと思ふ。
 さて最後に猶明らかにせねばならぬのは、雜賀氏報告にも見えた死屍分割譚の結末である。何故に特に獅子の頭を靈物視し、村内の戸々を經由して之を村境まで持つて行つたかと云ふ問題は、自分の尤も肝要とする所である。是も東北の實例であるが、陸奧南津輕郡黒石町の附近でシシガ澤と云ふ地に、百年前まで奇なる石上の彫刻があつた。周圍五六尋の岩石の面に、大小數多の鹿の顔がひし/\と彫つてある。又木の中にある小さな岩にも同じく鹿の首が彫つてある。いつの世誰の所業とも知れず、神わざであつて毎年七月七日にはきつと新たに二つづゝ彫り添へられると云ふ話。而も此近村では鹿踊の獅子頭の古びたものがあれば、常に此岩の周邊へ持つて來て掘埋めるのが常であつたと云ふ。此事實は眞澄遊覽記卷十三の記する所であるが、二葉の插畫が之に添へられてある。一は其所在地の有樣(453)で山中蕭條の地に此珍しい碑は立つて居る。他は碑面の圖であるが、上下左右に一定の方角も無く彫られた鹿の頭は正しく寫生で、決して天竺の獅子と紛れやうもない。自分は此に由つて斯う假定する。石面に鹿の頭を彫り始めた今一つ前には、本物の鹿を屠つて此地で神を祭ること恰もアイヌの熊祭のやうでは無かつたか。牲に捧ぐる獣を邑内を曳き廻すことは他民族にも例がある。又鹿を牲にして其首を供へることは諏訪などに例もある。讃州三豐郡麻村大字下麻の首塚では昔は毎年鹿の頭を切つて諏訪の神に供へたのが、或年鹿を得ずして牛の頭を奉つた處、神殿鳴動したによつて永く此祭が止んだとある(西讃府志二十九)。京の清水觀音の鹿間塚は、開基の時靈鹿來つて地を夷《たひら》げたと云ふ口碑あり、鹿の頭が寺寶として永く傳へられて居たと言へば(菟藝泥封三)此殺伐な慣行も元は決して所謂東夷にのみ限られて居なかつたものらしい。
 
(454)  掛け踊
 
 東京では俄《にはか》は吉原に往つて見るものと思つて居た。二〇加《にわか》などゝ書くやうになつては、その本の意味の不明に歸したのも尤もである。俄の江戸に始まつたのは古いことで無いと云ふ。吉原に此戯大いに流行し、始めて仲の町に埒を結うたのは安永五年八月のことであつた(半日閑話十三)。東國地方に於て俄と云ふ名稱がそれ程新しい語であるか否かは自分は大いに疑ふが、兎に角江戸學者の通説では、其少し以前に大阪から始まつて來たことになつて居る。明和五年に成つた清田絢が孔雀樓筆記に、「にはか」と云ふもの三十年ばかり前より起る云々とあるのは(嬉遊笑覽五下所引)、上方邊の事を言ふのであらうが、何れにしてもさして古い風俗で無いと云ふに諸説は一致して居る。併し自分の見る所では、近世大いに盛んになつたと云ふ俄は、區別の爲特に俄狂言とでも名づくべき一の變化形式であつて、俄と云ふ名稱は、其要素を爲して居る假装舞躍の風と共に、ずつと古い頃の民心に其起原を存して居るものと思ふ。
 自分は先づ俄と云ふ語の意味を尋ねる必要を認める。大田南畝の説に、俄は茶番とは似て非なるもので、何だ/\と問はれて思ひ付の事を言ふ是なり、曾我祭の時に役者のする是れ俄であると云ふ(俗耳鼓吹)。此は所謂座敷俄の方の話であらうが、やはり即席頓作の輕妙を賞玩するのが、俄なるものゝ本意であつたことを言ふらしい。前に引いた清田氏の筆記の中にも、流行の俄が至つて下作なもので、相應身分のあるものが裸體に顔料《ゑのぐ》などを塗り散じて、奇異なる出立ちで大道をあるき、聲をかけ所望せらるれば立止つて馬鹿げた藝をする、今宮祇園御靈の祭の日などには殊に此催しが多かつたとある。即ち此語の最初の意味は尤も單純で、俄かに思ひ立つから俄と言うた迄であらうと思ふ。(455)自分が幼少の頃に?播州の郷里で見た俄なるものは常に是であつた。景氣の好い年の夏祭などに、宵宮の晩も又本祭の日中にも、兼て見知越しの町の人が二人三人組を爲し、如何にも道化た服装をして街上を練り歩き、家々の所望に應じて、東京で言へば茶番に該當する短い所作を遣るので、つまらぬ口合を以て落をとり、どつと笑はせてそれで御仕舞となる。樂器のやうなものがあつたと思ふが、何と何とであつたか忘れた。たゞ今も耳に殘つて居る俄の人々の掛聲は、「にはかぢや/\、俄ぢや思ひ出した」と繰返して行くのであつたが、此を昨秋京都で御大禮の後に行はれた男女の假装行列の囃し詞と比べて見ると、よほど著しい類似のあつたことに心附くのである。蓋しこの「俄ぢや俄ぢや」と云ふ語は由緒のある囃で、踊と云ふ狂氣じみた大人の遊戯の成立ちを、或程度まで説明して居るやうに思ふ。
 京都ではあの何の變哲も無い假装行列を踊と呼んで居る。「をどり半天貸し申候」などゝ書いた廣告を、自分は處々の辻で見た。十人の中の八人までは只ふざけた身装でぞろ/\と歩いて居るばかりであつたが、それでも酒を飲んだ群や連中の多い群などは、例の「えらいやつちや/\」の掛聲につれて、足拍子だけは取つて跳ねて居た。よく古人の日記にも書いてある風流と云ふのは是だなと思つて、自分は始めて京の人の氣樂千萬な盲動が嬉しかつた。風流と云ふ名目は今でも稀に地方の夏祭或ひは雨乞の儀式などに殘つて居るが、殆と皆一種の形骸であつて固定した外貌を留むるのみである。而も此名稱の盛んに行はれた時代には、村々又は家々で意匠の新を競ひ、今年は去年に變つたものを出して語らうとする所に愉快な刺激があつたので、簡素なる中世の生活の中に、際立つて花やかな一種の行樂であつたことは、段々の記録が之を證して居る。其風流がいつの場合にも踊を伴なはずには居なかつたのは、抑も如何なることを意味するのであらうか。又フリウと云ふが如き上品な語は夙に忘れ若しくは絶えて用ゐなかつた片田舍に於ても、盆踊と言へば必ず男が手拭で姉さんかぶりをしたり、娘が三尺帶で偏袒《かたはだ》脱ぎになつたりして、兎角警察の人々を困らせるのは何故であらうか。自分は試に之に由つて俄の由來を捜つて見ようと思ふのである。
 自分の見る所では、俄の本の名は俄踊であつた。踊と云つてもあまり單調な足拍子だけであつた爲に、近世の人に(456)は何分興味が薄いので、次第に新意を出して俄狂言ともなれば座敷俄とまでも變化したのであらうが、單に見物をあつと言はせようと云ふ趣旨だけは、最初から當世まで一貫して存して居る。俄は通例我家の附近で親しい者の仲間だけで催すのでは無く、必ず他所他人の見る中へ押出して行くので、それで至つて晴がましいものであつた。俄踊と云ふ語は秋田地方の盆歌の中にある。百年程前の旅人の日記に、南秋田郡の某村に於て七月十三日の晩、太鼓を二つも三つも肩にして踊の組が練りあるいたことを述べてある。其連中が他村に入り込んだ場合にうたふ唄は、
   他郷へ越えて來た、ひけとるな、節が揃はぬ御免なれ
と云ふと、之を聞いて其村の踊子たちは聲を揃へ、
   にはかをどりを掛けられた、足が揃はぬ御免なれ
と唄ふとある(眞澄遊覽記二十七)。此類の掛け合ひ唄は何れの地方にも大同小異のものがあるが、前年自分が筆録した縁に由つて、陸中遠野郷の獅子踊の歌を一つ二つ擧げて見ると、
   此庭に歌のぞうじ(上手)は有りと聞く、あしび(遊び)なからも心はづかし
   われ/\はきによ(昨日)ならひしけふあすぶ、そつ事《じ》ごめんなり
   しやうじ(?)申せや限なし、一禮申して立てや友だつ
 即ち何れも辭令は謙遜であつて腹に負けぬ氣を含んで居るもので、此爲には常の稽古當日の伊達衣装、想像に餘あるのみならず、罷りまちがへば在所の面目の爲に喧嘩を始め、往々にして獅子の耳を引きちぎられたりなどもしたのである(郷土研究三卷五九三頁參照)。
 右の秋田の踊歌の中に、踊を掛けられたと云ふ文句があるが、是も甚だ古い語であつた。日次記事七月の條に、「十四日より晦日に至るまで、夜に入り大人小人行列して踊躍を催し、或ひは又各同列を催して相知る所の家に到り、大いに踊躍を爲す、是を懸躍《かけをどり》と謂ふ。その掛けらるゝ所の家、再び踊を催して往て之に酬いる、是を返すと稱す云々」(457)とある。還魂紙料にも多く古書を引いて掛け踊のことを述べて居るが、元禄の頃に江戸でも京でも盛んに流行した小町踊と云ふのは、晝の程は女の兒が簿の太鼓を塗撥で叩き、染絹の鉢卷に結び襷と稱して帶を肩より下げ、日傘をさしかけさせて踊を掛けに行き、知人の門で踊つたと云ふ話を、俳諧五節句と云ふ書から抄出して居る。此等は共に京都市内の話であるが、田舍に在つて村から村へ踊り込むをも掛けると云うたのは勿論である。嬉遊笑覽五下に曰く、打揃ひて他所に行きて踊るを掛け踊と云ふ。未得が狂歌に、かけられて鸚鵡がへしに來たるこそ小町をどりの歌のさまなれ云々(小野小町にあうむ返しの歌の話があるからの口合である)。又同書七には醒睡笑の「七月風流を他郷に掛くる、太郎左衛門と云ふ地下のとしよりなれば彼が許にて集りならしけり云々」と云ふ一節等、風流を掛ける話を引用して居りながら、「風流も懸踊のことゝ云へる者あるは非なり」と理由も無しに斷定して居るが、是は著者喜多村氏が風流は昔から祭禮の儀式を爲して居たものと考へ、如何なる種類の神社又は祭禮に限つて催さるゝかを思はなかつた誤である。風流が本來踊の支度の名であつたことは、必ずしも兩者共に盆の前後を季節とするからと云ふだけでは無い。現に還魂紙料の中に、かけ踊の名の見えたる初かと言うて引用して居る某書の記事にも、「永禄十年七月、駿河國に風流の踊はやり、諸人之をもてあそび、八幡村より踊初、村々へをどりを懸、それを又かへす故に、後には踊數多ところになり、八月末九月まで踊る」とあるのでもよくわかる。踊に限つて風流と云うたのは室町時代以後の事かも知れぬが、ずつと其以前からも二つの組に分れて意匠趣向を競ふ遊びを風流とは稱して居たので、「物を飾りて觀物にするを風流と云ふ」とある喜多村氏の説明は、やはり少しく周到でなかつたやうに思ふ。
 次にこの掛け踊が必ずしも相隣する二箇の邑落だけの交渉では無かつたことは、上に引いた駿州の風流踊の記事に依るも明らかである。即ち甲の村から乙の村へ踊を掛けた時、乙では急遽に踊の組を作つて甲の村へ掛け返すばかりで無く、?新たに丙の村に向つて踊を掛け、丙は丁へ丁は戊へと先から先へ掛けて行くことが寧ろ普通であつたと思ふ。江戸時代の初期に二度も三度も目覺しい大流行を見た伊勢踊なるものは、其最も著名なる一例であつた。伊勢(458)踊は一に又神跳とも呼んだと見える。伊勢より踊り始めたと云ふことになつて居る。古くは文明十一年の七月十五日に、三河安祥城攻の時、寄手の兵士伊勢踊の踊子に紛れて城中に附け入つたと言ふ話もあつて(名古屋市史風俗編引、三河記)、其頃既に此名稱で行はれて居たらしいが、殊に盛んなのは慶長元和の交に流行した伊勢踊であつた。元和元年三月の頃は駿州府中邊で大いに踊つたこと、當時の記録類に數多見えて居る。就中山本豐久私記には、「乙卯三月より世間に伊勢躍はやり來る、伊勢大神宮の飛せ給ふと申立て、躍はやし風流を盡、禰宜御祓を先に立て、奧州までも躍送る、かやうにせざる國々は飢饉疫病有と申立る、其子細を尋れば、事觸の乞食禰宜ども唐人を頼み、花火を飛せて見するに因、愚人ども驚はやし立る、是も只事ならずと申人多し、頓て公儀より右の伊勢躍堅法度の由を仰出さるゝと云ども、忍々に躍はやすこと止まず」とあつて(史料十二編十七卷)、稍又後代の御蔭參り御札降りと共通の内情がありさうである。三月と云ふのは妙な季節であるが、此頃は殆と一續きの大動搖であつて、其前月半には既に弘く關東に瀰漫して居り、前年九月の頃は京都でも奈良でも盛んに踊つて居た(同上十四卷)。四國でも到る處此踊で、土佐の如きは「爰かしこに金銀米錢の降りかゝりしと言ひ傳へ、何の他念も無く踊つた」とある(大海集)。尾州邊では同じ慶長十九年の五月にも(於路加於比上引、尾陽聞書)、又其前年の八月にも伊勢踊が盛んであつた(名古屋市史引、張州舊話略)。伊勢下宮の大神野上山に飛移りたまふより始まつたとの説もあるが、多分は後年鹽尻の著者の見聞した御鍬祭などの如く、溯つて突留め得べき發源地は無かつたので、所謂事觸若しくは乞食禰宜の計策に出たのであらう。而して伊勢を擔ぎ出したのは誠に畏多い冒?であつたが、其時々の都合により神踊の神は一定しては居なかつた。天文年中には關東に祇園踊と言うて流行つた。前に擧げた永禄十年駿河國の風流は、八幡村より踊り初めたとある。貞享二年には遠州秋葉祭と稱して、在々村次に神を送つて後に關東で禁止せられた(嬉遊笑覽七)。其後も不意に奇特を示した流行神を村送りにした例は折々あつて、何れも鉦鼓踊躍が之を傳播したらしい。此の如き群衆心理の現象は、決して一朝一夕の出來事では無く、平安朝初期の設樂神以來年久しい沿革あるものであることは、曾て人類學雜誌に(459)も述べたことがあるから今は繰返さぬが、兎に角蔭に隱れて絲を引く者のあつたのは略疑が無い。其中でも民心煽動の效果が比較的弱かつた爲か、少しく馬脚を露はしかけて居るのは鹿島の事觸である。諸國に蟲害疫病などの行はるゝ際に、鹿島の神輿と稱して遠國まで傳送し、攝州其他に處々の祠を殘し、又鹿島踊と云ふ一種の踊を傳へた者があつた。常陸の本社では全然與り知らぬのみでなく(鹿島記下)、後には誰も相手にする者が無いのに、譯の分らぬ事を託宣だと稱して、狂人の如く走り廻る事燭と云ふ一種の物貰ばかりが各地に居た。住吉踊や鞍馬願人なども此類の惡徒の失敗者らしいが、やはり後にはカツポレとかアホダラとかになつて、馬鹿々々しく自分ばかり踊つて居た。
 踊を以て神を送ると云ふことは、どうしても前の山本豐久私記に「かやうにせざる國々は飢饉疫病有と申立る」とあるのが本の趣旨であらう。甲州に於ても享禄三年の七八兩月、「諸國諸神を鹿島に人々送申こと無限、人のなやむ事不v知v數(ヲ)、大概死也云々」と妙法寺記にもある。鹿島は即ち送らるゝ神の到達先、其今一つ前には追却の任にあつた神であつたらしいことは、奧羽地方で疫病を送る境の藁人形を、草仁王一名鹿島人形と云うたのを見ても想像せられる(郷土研究二卷二七五頁)。即ち盆の聖靈祭と同樣の變遷で、もとは迎へるよりも送る方が大事であつた故に、大急ぎで次の村へ運んだのである。他村に踊り掛けるを例とする獅子舞なども、山田では之を町から町へ逐次に送つた。外宮御頭神事と稱する疫神送は是で、唯其季節は中元では無くて上元であつた。阿波國の蟲送祭に實盛の人形を村次に土佐まで送つたと云ふも同趣旨で(二卷一四四頁)、何れも最初は兇神を永く一地に置くまいとする努力であつた。越後中部では事件の片付いて大安心したことを「神輿を送つた」と云うたと風俗誌にある。出羽の庄内では季節には構はず、鉦太鼓で疫病神などを送るを「ボウ送り」と言うた(齶田の苅寢、九月二十一日條)。ボウは兇神のことかと云ふ。之を以て見ると、七月十五日をボンと云ふのを孟蘭盆會の略語とする説も疑ふ餘地がある。要するに地方相互の了解を以て右から追うて來た神は左へ送るのが一番簡便であるが、場合によつては卒爾に立つて之を元の方へ追返す必要があつたので、踊を掛け返すと云ふことは始まつたのであらう。踊の風流は右の如き痛切な趣旨が少し忘れられ(460)た後のものとは思ふが、それでも今日殘つて居る「俄ぢや/\」とか「えらいやつちや/\」とか云ふ囃の詞が、かの歴史ある各地の念佛踊の、「なもでや/\」又は「なンまんだぶ/\」と同じ足拍子を踏ませるのは、固より偶然のことで無いと信ずる。鹿島踊の「おやもさ/\」の如き亦其一例である。之を以て見ても、踊躍念佛が古來多くの厄拂方法の中の一つの形式に過ぎなかつたことは判る。
 
(461)  風流と我面白
 
 今度の郷土舞謠大會では、偶然な取合せから、ちやうど民間藝術の二つの側面を、竝べて考へて見なければならぬやうな機會が與へられた。さうして是が御客樣の方の、二つの要求の抵觸よりも尚六つかしい問題になつた。西と東の三つの島の例を集めて、何か其中から共通のものを尋ねようとした企ては破れて、却つて島といふものが一つ/\、特色ある歴史の培養基として觀察せらるべきものなることを感ぜしめた。
 先づ第一に意外であつたのは、隱岐のドツサリ節のあれ迄に藝術化して居たといふことである。是は私のまだあるいて見ぬ島だから、想像し得なかつたのも致し方が無いが、やはり港の力ともいふべきものが、大きな仕事をして居た一つの例であらうと思つた。島の三味線の歴史は、調べることが出來たら、必ず面白いものに違ひない。耳の惡い私などにも、曾て南の方の島で聽いて來た、間の早い細かな味のある手が、何箇所と無く心付かれたのは、事によると京都が全國の音樂を統一して居なかつた證據、即ち斯ういふ新渡の樂器にも、土地に居馴染んで古くからの民謠の肩を持つものがあることを語るのでは無かつたらうか。島の傳説では此歌は輸入品の變種のやうに言ふさうだが、自分には寧ろ盆栽の小さく老いたもので、三味線がその氣の利いた植木鉢であるやうにも思はれた。しかも斯ういふ樂器類が持込まれなかつたら、藝といふ意識が是ほど迄は發達せず、今少しく野育ちの元の姿が見られたらうにといふ感じはあつた。
 この島の藝人といふ印象は、淡路の大久保踊に於て更に今一段と濃厚であつた。彼等が農家の青年であることは一(462)見して明らかであり、脇を勤めて居る娘たちの間には、誰でも踊るのだから私も踊るといふ心持がまだ殘つて居たにも拘らず、其踊は早既に一種の特別の事務になつて居る。各自の感興とは交渉の無いものになつて居る。つまりは見せる仕事に化し、又見る人が非常に多くなつて居るのであらう。五尺手拭の章句やイヨノの囃などのあるのを見ると、起りは相應に早かつたらうにも拘らず、土地柄とはいひながら是は又思ひ切つて改良をしたものである。勿論じつと見て居ると古い流れは掬まれぬことも無いが、それを大事な誇りとはもう誰もして居ないから、斯うして居るうちには年増しに消えて行くであらう。言はゞ早く見て置いてよかつたといふ踊の一種である。
 此點は六齋念佛などは、京近くである爲に更に顯著なものがあるかと思ふ。見物には到底二つの鑑賞標準を同時に望めないから、幾ら村自體の藝術でも、京の人に譽められようと思へば又京風に面白くならねばならぬ。保存の上からいふと、青年館に持出すといふことが、早既に單なる奨勵であるか否かも疑はれてよいことになるのだが、是はよい記録を留めることゝ、物耻ぢせぬ青年の當世風とを以て、幾分は其變質を防ぐことも出來る。たゞ永い間の繰返しによつて養はれる藝人意識のやうなものだけは、元來賞讃を以て纏頭と心得て居る素人の方に、却つて大きな影響を生じ易いものでは無からうかと思つた。
 兎に角に毎年の地方の踊なり歌なりが、非常に晴がましい改まつた意氣込を以て、馴れぬ舞臺に登つて來ることは一つであるが、其中には演奏の興が高まつて來て、知らず識らず故郷の心持に戻つて行かうとする者と、段々に所謂觀客の方に向ひ進んで來る者との、かなりはつきりとした差別があるやうである。是が我々の郷土藝術の定義に、何か一つの目安を提供するものでは無かつたか。折もあらば尚少しく考へて見たい。日本の如く文化の孤立して居る國では、國の學問文藝に就いても、時々は同じ經驗をすることがある。ハーンやモールスの樣な遠方の旅人が、わざ/\訪ひ寄つて探り知らうとしたものと、民族の誇りと名づけて、兼て同胞によつて説き立てられて居たものとは、多くの場合に於て成立ちが既に別であつた。國内の伎藝の中にも、勸進の力に基いて普及もし、又發達もした例は成程(463)幾らもある。優れた異郷の才能が平心に欣び迎へられ、似も付かぬ境遇に成長した人までが、一樣に其面白さを理解することが出來たればこそ、野を越え山を越えてわざをぎは千年の旅を續けたのである。しかも他の一方に於て五戸の村、二十三十の僅かな門黨の間にも、彼等自ら釀して汲みかはした酒甕はあつた筈で、新たなる外部の興味が人の心を動かして、なづみ移らふ者の次々に多くなつたといふのも、つまりは其下地が豫め備はつて居たからでは無いかと思ふ。太古以來の面白といふ語にも、今は辨別し難い色々の内容を含む如く、我々の鑑賞なるものも實は至つて多岐であつた。併しこの根原に立ち復つて考へて見ると、大よそは内に在つて共に樂しむ心持と、外から近づいて美しさを見付けようとする態度との二つに分れ、更に細別すれば他人の悦樂に染みたいといふ願と、我歡喜を弘く頒ちたい希望とが、是から派生して又交錯せんとして居る。人の往來が繁くなるにつれて、個々の藝術境は當然に擴大しなければならぬ。兒童や村の少女などが孤立の全群を擧げて、自分たちばかりの諧謔に陶醉するやうな?態が、若し藝術の上にも見出されたとすれば、單なる好奇の一念からでも、人は近よつて之を檢めずには置かぬのである。其上に一方には群の構成も複雜になつた。所謂醒めたる人は村の祭の間を漫歩して、類を異にした同情を之に向つて傾けようとする。見物左衛門の評判は追々に本格視せられて來る。舞や踊が修業の藝となつたのは、必ずしも職業の問題では無かつた、といふことに今度は又心付かざるを得なかつたのである。
 此立場に居て考へて行くと、我々の興味がひたすらにこの遁げ込まうとするもの、時には見物を無視し壓迫し、邪魔にするかとさへ思はるゝものを追ひまはして、出來るならば彼等の間だけに、大切にせられて居るものを覗いて見ようとするのも、餘計な物ずきでは無かつたといふことになりさうである。自ら薦めることの出來る藝術ならば、待たせて置いて忘れても尚殘り、後には又今少しく明晰に、どうして面白いかを説き得るやうになるかも知れぬ。之に比べると他の一方は過去のもので、自分でさへも?面白さを意識しなくなることがある。土地に何等かの紛紜が起るか、若しくは非常の心配事が片付かぬ爲に、二割三割の人がよそ心で加入して居ると、早それだけでも高興が湧か(464)なくなつてしまふ。勿論仕來りを破るのは不安だから、幾年かの間は形式を踏襲して行くであらうし、其うちには再び元に復つた場合も少なくはあるまいが、通例は第二の衝動が現はれゝば、それ切りになるものときまつて居る。明治の變遷期に入つてから、特に經費がかゝるの取締がどうのと言ふ者が多く、古風な村の行事の中止せられ勝ちであつたのも、根原に於てはこの共同の歡喜を體驗し得なかつた爲で、言はゞ朽ちたる樹の風折れの如きものであつた。それが動搖の六十餘年を押通して、兎に角或村だけにはまだ傳はつて居たのである。假に或時代の流行唄流行踊に、基く所が顯著であらうとも、少なくとも其蔭には之を引留めて土着させた力があり、更に又之を住民の生活興味と、不可分ならしめた理由があつた筈である。同國人の學問が感覺の共通によつて、行く/\之を見付けることも難事ではあるまい。が今は先づ舞謠保存の原因が、單なる偶然では無かつたといふことを、教へてくれた功勞に感謝すべきである。
 私は日向の臼太鼓踊の、非凡に大掛りな揃への指物を見て、又他の方面からも舞踊と郷土との因縁を察することが出來るやうに思つた。ホロとノボリとを一つに括つた樣なあの装飾は、多分は武者出立の積りであらうが、現在は何と説明せられて居らうとも、其起りの一種の風流であつたことは疑が無い。九州では前年の面浮立の如く、フリウといふ語までが今も各地に保存せられて居る。風流の本來の意味は、辻祭即ち屋外の伎藝の變化する部分といふことであつた。中世の許多の記録を見ても、毎年新しい趣向を凝らして、其變化を以て觀る人の興味を刺戟したことがよく窺はれる。獨り毎囘の催しに古い型を追はなかつたのみならず、一つの團體の中でも各人は銘々の工夫を以て、世の耳目を   ※[奇+欠]てしめることを期して居た。尤も是とても根本は物忌を表示する簡單な揃への徽章であつたらしいが、何か理由があつて後々は極端に形をちがへ、之によつて各自の富と趣味とを、ひけらかす料となつて居たのである。踊がはやるもの、又單に見られるものになつた原因は主として風流の形式の複雜化に在つたと言つても、私は誇張で無いと信じて居る。然るにそれが遠く移されて、處々の田舍に入つて來ると、其風流が再び固定してしまつて、又新たな(465)る統一を以て住民の心を支配しようとする。花笠とか腰下げとかゞ踊の名になつて、今年も亦あの踊を踊らうといふことになれば、最早以前のやうな外部の讃美者は居ないので、面白さは完全に踊る群の獨占に歸するのではないかと思ふ。彼等が歌の文句を誤つたまゝで謠つたり、又は役割の損得に案外に無關心であつたりするのも、つまりは一個の語調の愉悦の中に、能く自我を没却することが出來たからで、植物でいふならば花や若芽の如く、外へ外へと發展して行く代りに、是には樹の實の内に熟するやうな姿があつたやうに見える。弘く全國を流傳した曲や手振を、土地に由つてその色々の過程に於て繋ぎ留め、之を比べて行けば、おのづから時の變化を見ることが出來るといふのはこの民俗藝術の保守的傾向以外に、實は想像し得べき原因が無いのであつた。人によつてはそれを土地に入つて來てから、それ/”\に崩れ又は改まつたやうに考へて居るらしいが、恐らくは誤である。そんな事が若し可能ならば、今頃まで古い色々の型や約束が、殘り傳はつて居るわけは無いからである。
 同じ孤島の伎樂であつても、夙に一種の御前藝となつて居た昨年の八重山踊などは、踊る者さへ氣付かぬ程の次々の改良が加はつて居る。さうして山々の峽に保存せられた飛騨國の輪踊には、却つて人をして有得べからざる相互の傳習を空想せしむる迄に、目に立つ伊豆の島との一致が感ぜられるのである。曾て是だけ懸離れた山國と海の住民に、等しく強烈なる印象を與へて行つた昔の風流の後影もゆかしいが、之を一樹の花と養ひ立てゝ、永く其蔭に遊び樂んで居た人々の心は更に懷かしい。前代の文籍にも既に略明らかなる如く、我々の藝術は休みも無く流轉して居た。是からも亦大いに移り動かうとして居る。何か今日の想像の外に在る樣な因縁が無ければ、幾ら昔でも只之を忘れそこなふといふことは出來なかつたであらう。さうして私たちは今漸く其絲口を見出したやうな感じがする。尚古は日本に於ては單なる趣味では無い。寧ろ國人が改めて自ら知るの道である。
 
 
(469)  病める俳人への手紙
 
 人を樂しませるものが藝術だといふことを、思ひ出さずには居られない時世になりました。我々の笑ひは苦く又辛く、病の床に横たはつて居なくとも、もう藝術の花野より外には、樂しみを求めに行く處は、誰にも無いのです。時のはずみとは言ひながら、その藝術をさへ闘諍の種、恨みと憎しみの目標としなければならぬといふことは、何としても忍び難いことであります。幸ひに世を遁れたあなたと只二人で、靜かに自由な事を考へて見たいと思ひます。
 藝術を樂しむのに二つの道があつて、其一つは起りが古く、今一つは後に始まり、次第に以前からのものを押しのけて進まうとして居ることは、日本でならば容易に心づかれる變遷で、殊に俳諧の上には、其跡がはつきりとして居るのであります。第二と呼ばれると下等のもの、劣つたものといふ感じが伴なひやすいけれども、是は二つの方向を異にした、比べることの實は出來ない道なのです。一方が當世にもてはやされ、從つて世評に上りやすい樂しみ方だといふことになれば、こちらはさうで無いのだから、第二に算へられるのは是非もないことです。時の順序を目安に取るならば、作者が自ら樂しむ藝術の方が兄なのであります。
 たしか孔子なども、さういつた藝術の樂しみ方をして居られます。春は山々が霞み、雉子の聲の聽える日に、ちやうど縫ひ上つた春の衣を一著して、少しばかりのワリゴサヾエを用意し、悠々たる半日のそゞろあるきをするのが樂しいと言つて居られます。咏じて歸るともありますから、おのづから心に發するものを口ずさまれたのであります。僮子二三人、是は今いふ聽衆でも讀者でも無くて、さながら一體となつて其日の歌を樂しんで居たことは、後世の祭(470)りや踊りや酒盛りの群、さては俳諧の連衆も同じだつたらうかと思ひます。みんなが言はうとすることを一人が先づいふか、さうで無ければ代つて言つてもらつたやうな氣にすぐなつたので、斯ういふ場合には大抵は手を拍ちます。さうして後世の獨立作家なども、もとはすべてこの喝采の中から、發育して行つたものであることは、歌や俳句の歴史から跡付け得られるやうであります。中世にはどんな名人の作でも、永く世に傳はるものは一生涯に三つか五つ。百首も自讃の歌を竝べた人はありましたが、職業の輩でも無い限り、それを百ながら覺えて居る者はまづありません。さしもに衆人の興をひいた佳什でも、時がたつてしまへば皆散佚して、後々拾ひ集めた本にはおぼつかないものが幾らもまじつて居ます。拾遺愚草とか草庵集とか、わざ/\殘さうとした寫本も追々に數を加へましたが、それは我々の忍耐力を裏切るものであつて、桑原君で無くとも、無邪氣な人ならば、是が一流の文人といふものゝ作品集であるのかと、いぶかるやうなものばかりであります。
 近世以來の氣の強い作家たちはまだ知らずに居ますが、歌や俳諧は本來そんな形を以て、樂しむべき藝術ではなかつたのであります。殊に以前は一人旅などに、うんと詠みためて置いて後で發表するといふやうなことは無く、一首一句にそれ/”\の場合、それ/”\の記念があつたのですから、言はゞ製作當時の樂しみの名殘、小切手の控へのやうなものです。寫して留めて置くのも忘れぬ爲、或ひは隨逐者の景慕のあまりに、珍重して居たものがあつたかも知れぬが、多數の後世人は是をたゞ無難な歌、よく整つた歌の手本として、外形の技巧を學んだだけでありました。何百何千萬といふ詞章の數ばかり積つて、名歌名吟はすべて古代のものに限るやうに、考へられて來た原因もこゝに在るかと思ひます。
 歌や俳諧はこの意味に於て、汎く作者以外の人までを樂しましめ得る藝術ではなかつたのであります。それを新しい世に入つて新たに樂しまうといふのには、又一つの新しい用意が無くてはなりません。即ち今は容易に得られない前代の樂しみを、我が昔の如くなつかしがる心持であります。我が兒人の兒を問はず、子供の嬉々として遊び戯れる(471)のを見ることは樂しい。村に入つて村人の餘念も無く、祭に奉仕して居るのを見ることも樂しい。是も人間が無心に造り上げた一種の藝術だからでありまして、多くの古典の愛好者たちは、知らず識らずのうちに斯ういふ第三の樂しみ方を、世の愁ひの忘れ草にして居るのであります。地方の鎭守樣の拜殿に入つて見ますと、見ごとな杉檜の板を削つて、數百の發句を書き竝べ、ちつとも名の無い宗匠が、撰をしたり軸の句を掲げたりして居ります。今日の文學の標準からいふと、記録の價値の無いことは、勿論雜誌俳句より遙か下でありませうが、彼等は是を法樂と信じて居りました。即ち神樣はみんなの樂しみ興ずるのを御覽になつて、御心を悦ばしめたまふものと思つたのであります。汎い世の中の尺度なんかは、作者の群の樂しみの深さを測る道具には役立たなかつたらうと思ひます。しかし神々の思し召しはわかりませんが、我々の中にはやはり甲乙の選擇があります。同じく魯かしい樂しみの中でも、世間に見せようの、素人に誇らうのといふ、今風の作者意識の無いものがやはりなつかしく、それには更に自分たちの力の不足を感じて、少しでもすぐれた藝術の方へ、近よつて行かうとする者が貴まれます。個々の製作群にはいつの場合にも、力の高下の有るのは當り前であります。それが仲間同士の援助にも親切な手引きにもなることは、又一つの樂しみであつたらうと思ひますが、是によつてその小さな群の長者が、天狗になれる理由は少しもありません。近頃の結社組織では、よその流派を惡くいひ、自分たちの作つたものだけを、滿足なものとすることを商賣にして居ります。是ただ一つの事實からでも、私などは彼等の藝術だけは樂しむことが出來ません。
 此點にかけては、芭蕉は十分に謙遜であつたと思ひます。翁にも現代風な野心といふものがあつたらうかといふあなたの疑問は、疑問にするねうちも無いやうです。人には生きて居れば必ず願ひはありますが、翁の願ひはそれが成就するならば、俳諧がもつと樂しいものになるやうな願ひでありました。さうしてそれは十分に成就しなかつたのであります。翁がこの世に遺された發句の數は、自信のあるものだけでも優に千句は超えるでせう。さうしてそれが連句となつて傳はつたのは、後世出現した反故のやうなものを加へても、百篇とは無いのであります。發句には他にな(472)ほ人も有らうが、附合は我が風骨と自讃せられたにも拘らず、或ひは寧ろ其爲に、翁の發表慾は驚くべく微弱でありました。たま/\許して世に送られたものには、大分の作後修正が加はつて居るやうであります。いはゆる後見む人の批判にも氣づかつたことでせうが、それよりも斯ういつた藝術の記録を、片端から公開するやうな風習が、日本には元來存在しなかつたのであります。
 歌仙と呼ばるゝ三十六句の讀歌を、普通の形とせられたのは改革でありまして、一つには人の根氣、一夜の席上で百韻を纏め上げさせることは、概して無理であらうと考へられた結果かと思ひますが、又一つには斯うでもすれば、ちつとでも人に示しやすい形で、それが永い世の記念に殘ると思はれた爲でありませう。茶會の記録とか會席料理の獻立とか、あゝいふ純然たる樂しみの糟ですらも、何かの拍子には不朽を獲得して居ります。もと/\我々は不朽が嫌ひではなかつたのであります。
 菟玖波集以來の選集の方針は、たゞ一句の附けの働きを賞美するやうに出來て居ります。百韻又はそれ以上の長いものを、其まゝ寫して置いても人が相手にしてくれない。つまり最初から公表を斷念させて居たのです。今だつたら旦那衆が費用を出し合つて出版したかも知れませんが、あの頃の懷紙は皆手箱の中で、天壽を完了して亡び失せたのです。宗祇宗長といふやうな一生涯連歌をつゞけて居た名人でも、作品はぽつちりしか世に殘つては居ないのは、言はゞ香花絲竹と同樣に、其場の樂しみが主だつたからで、是が世の常の名譽心と、或程度の折合ひを付けたのがこの選句制でありました。後年この風習が更に實際化して、三都各數十百人の點者を亂立せしめるやうになつたのも、すべてこの筑波山の末の雫であります。そんなことをすれば俳諧の樂しみの荒れすさむのは判つて居ます。芭蕉はどうやら此點に心づかれ、自身は念じてその流弊を避けようとせられて居りますが、なほ其門末の是によつて衣食しなければならぬ者を、救濟することが出來なかつたのは、翁に野心の無かつた消極的の證據と言つてもよいかと思ひます。
(473) 連歌は始めから、仲間以外の者には退屈なものと相場がきまつて居りました。それがどうして又當事者ばかりには、あの樣に身を忘れるほども樂しかつたのかといふことが、寧ろこの藝術の一つの深秘であります。其意味から言ふと、俳諧は或ひは信仰衰頽のきざしとも言へませうが、とにかくに中途に誰かゞ才能を閃めかせて、更に一段とをかしいことを言ひ出して、笑はせてくれるだらうといふ豫期のもとに、一同が句を附け續けて行かうとする所に、其樂しみがあつたのであります。それをたゞ切れ/”\の小さな轉換や、やゝ新しい言葉の思ひ付きに、代表させようとしたのが不自然でありました。だから點取りの拔句はもう崩壞の端緒を示したといつてもよいので、當代の發句大流行、俳句には長じて居るが俳諧は丸で知らぬといふ類の珍現象、三册子でも去來抄でも、すべて發句のこしらへ方を指導する教理であるかの如く、心得た人の多くなつた傾向も、一朝一夕の出來事では無いと思ひます。私どもから見ますれば、俳諧に一貫性を缺くといふことの發見ほど、わかり切つた平凡な發見は他にありません。變化が目的で寄り集まつた催しであるからには、もし統一して居たら寧ろ興ざめであります。やり句が絶對に必要であつたといふ以上に、時々はヘマや附けそこなひのある方が、却つて全卷の樂しみを深くして居たのです。それを芭蕉が氣に入らぬ句があるからと言つて、中止させたり埋没せしめたりして居られるのさへ、無用の神經過敏のやうに感じられます。まして其中からたゞ異色のある一句を選り出して、點をかけたりすることを許して居たのでは、墮落は必然であつて、運命とすらも言へません。それならいつそのこと發句ばかり、何十何萬と捻り出した方がよいと、いふ人だけが世に充ちて來たのも、些しも不思議で無い成行きでありますが、其代りには俳諧といふ古い言葉の意味が、ちつとも判らないものになつてしまつたやうですね。
 勇敢な新進俳人たちが、芭蕉を合せてすべての古いものを、排除し去らうとするのは一つの活き方です。俳句にやゝ似寄つた或短詩形を、便利に使ふのもまあよいでせう。たゞ何かといふと芭蕉に返れなどゝ呼號しながら、芭蕉が企てゝ五十一歳までに、爲し遂げずに終つたことを、ちつとも考へて見ようとせぬのは不當であります。俳諧を復興(474)しようとするならば、先づ作者を樂しましめ、次には是を傍觀する我々に、樂しい同情を抱かしめるやうにしなければなりません。現在の俳句界などは修羅道です。どこにも世に疲れた者の憩ひ場は有りません。それといふのが點取りの競爭が、少し形をかへてなほ續いて居るからだと思ひます。すぐれた文學を世に留めることが、俳諧の目的であつたやうに解するのが、病の原であつたかと思ひますが、芭蕉はあの靜かな慎しみ深い性格によつて、幾分かこの誤解を世の中に流布せられた嫌ひがあると思ひます。もつと大膽に、せめて宗祇くらゐの才略を以て、田舍の旦那方の共同作品を、保存させるやうに世話して置かれたらよかつたらうにと惜しまれます。さうすればあなたの言はれるやうに、連句はもう再興の見込が無いなどゝいふ人も無く、今ある小さな結社はそれ/”\に一隅に落付いて、心靜かに天然と風雅とを、生涯の養ひにすることが出來たでせう。とにかく活版は文明の利器ですから、爭ひさへしなければあれを利用することは當り前です。喧嘩をさせないやうにすればよいのだと思ひます。高濱虚子さんなどは、以前三十六句の歌仙の代りに、もつと三つ物をはやらせてはどうかと言はれたことがありました。是はもちろん表の第三までゞは無く、どこでも任意に三句の繋がりを見せて、附け味ばかりか移り渡りの趣きまでを傳へようとしたものであつたやうですが、是でもやつぱり一卷を卷いて行く樂しみは捉へられず、裏か二の表か、どの邊に出るべきものかゞきまらないでは、第一に發句との關係が不明になつてしまふからいけません。發句が其爲に孤立した言ひ捨てになつて、あとに何等の興味も豫期せしめないことは、此頃の句作も同じであります。今から又一つの斯んなものが生まれることは、あんまり望ましいことでないと、私なども思つて居りましたが、幸ひにしてそれはもう立ち消えになつたやうです。
 さてうか/\と話が長くなりました。このあとまだ色々御聽きに入れたいことがあり、それは今少しおもしろい、病床の御慰みにもなる話でしたが、私の不調法で斯んなところで打切らなければならぬことになりました。又よい折があつたら申し上げませう。それよりも早く快くなつて下さい。
 
(475)  女性と俳諧
 
 こなひだから氣を付けて見て居ますが、もとは女の俳人といふものは、絶無に近かつたやうですね。芭蕉翁の最も大きな功績といつてよいのは、知らぬうちに俳諧の定義を一變して、幅をひろげ、方向と目標を新たにし、從つてその意義を深いものにしたことに在ると思ひますが、さうなつて始めて多くのやさしい美しい人たちが、俳諧の花園に遊ぶことが出來たのです。國の文藝を樂しくした、この親切な案内人に對して、まづ御禮をいふべきは無骨なる我々どもだつたのです。
 いはゆる蕉風の初期に於ては、女性の俳諧の座に參加した者は、伊賀に一人、伊勢に一人、それから又大阪にも一人といふほどの、至つて寥々たるものではありましたが、それすらも談林以前の文化社會では、殆と全く望まれないことでありました。理由は至つて單純で、つまり俳諧は即ち滑稽であり、その滑稽は粗野な戰國時代を經過して、墮落し得る限り下品になり、あくどい聞きぐるしい惡ふざけが喝采せられ、それを程よいところに引留めることに、全力を傾けるやうな世の中だつたからです。女がその仲間に加はらうとしなかつたのは當り前ぢやありませんか。
 それが芭蕉の實作指導によつて、天地はまだこの樣にも廣かつたといふことを、教へられたのであります。連歌の一座はいふにも及ばず、前の句の作者までが豫測もしなかつたやうな、新しい次の場面が突如として展開して來るのを見て、思はず破顔するといふ古風な境地に、やゝ輕い靜かな笑ひを捜し求めることが勸誘せられました。是だつたら女にも俳諧は可能である、といふよりも寧ろ慧敏なる家刀自たちの、それは昔からの長處でありました。歴代の女 (476)歌人などは、簾や几帳を隔てた應酬を以て、よく顋髯の痕の青い連中を閉口させて居たのです。清少和泉の既に名を成した領域に、未來の閨秀たちが追隨し得ない道理は無かつたのであります。
 
          ○
 
 古い連歌師の中にも、斯ういふ意味を以て、俳諧の發達を想望して居た人はあります。殊に貞?などは兩道を掛けて、よほどこの方面にも力を盡しましたが、なまじ一方の連歌を大事にしようとした爲に、十分な成果を收めることが出來ませんでした。二兎を追ふ者は一兎をも得ず、つまり柿の本栗の本對立以來の、是が一貫した弱點でありまして、世情も變化したからではありますが、芭蕉は最初から連歌に見切りをつけて、俳諧の一本筋に之を統合せられたのは、今から振囘つて見れば大事業でありました。
 伊勢の守武神主、山崎の宗鑑法師は功勞者かも知れませんが、彼等にはまだ分離派の努力が累を成して居ります。連歌の優勢を認めての對立意識でありますから、やはり幾分か特徴を出し過ぎる嫌ひがありました。多分は世間もさういふものを、あてにし樂しみにする人ばかり多かつたのかと思はれます。百韻の連句なら百句とも、一々滑稽の句を連ねるといふことであつては、笑が下品になり又あくどくもなることは免れません。たとへば、
    かすみの衣、すそはぬれけり
   さは姫の春立ちながらしとをして
といつた類の附合が、假に時折にでも飛び出すやうであつては、さあ/\御はひりと仲間に加はることを許されても、大抵の婦人は興さめてすぐに退席してしまつたでせう。貞門の平凡單調に反抗したと言はれる西山宗因の一派でも、たゞ競うて道樂者の惡じやれを飛ばして居るばかりで、それがかうじて來ると如何に殺風景なものになるかを、考へて見ようともせぬ者だけで、たゞ勝手な高笑ひをして居たので、言はゞ感覺の細かな人たちには、寄り付くことの出(477)來ぬやうな方角へ進んでしまひ、其爲に結果に於ては、完全なる女人禁制となつて居たものと思ひます。
 
          ○
 
 大小社會の實驗でもわかるやうに、男女老少いろ/\の人を多く集めて、樂しい靜かな交際をつゞけようといふには、先づ第一に笑の分量の匙加減が入用であります。小さな素朴な何でもないやうな言葉でも、心の底からほゝゑましく、又をかしくもなることは幾らもあるのです。女がその群に加はるといふことは、單に彼女等の權利であるだけで無く、人生の笑ひを清くする爲にも?必要でありました。近世の世相は女の笑を儀禮化し、又は職業化し、又は眞實には笑ふことの出來ない、褒?のやうな美人を多くして居ります。私の見やうが偏して居るのかも知れませんが、俳諧に女性の參加することを可能にした、芭蕉翁の志は貴く、又仰ぐべきものかと思つて居ります。
 
          ○
 
 大戰のまだ央ばの頃、某女子大學の學生が十人ばかり、篤志な女教員に指導せられて、俳諧の連歌に熱中して居たことがありました。私はその何卷かの歌仙を見せられて、斯ういふ批評をしました。あなた方は皆嫁入前なのだから、戀の句のまだ寫生で無いのは是は無理もない。たゞ何としても賛成し難いのは、この連句にはちつともをかしい處が無い。式目には違犯は無からうが、是では俳諧とは言へないねと言ひましたら、がつかりして彼等は罷めてしまひ、いつの間にかみんな普通のお母さんになつてしまひました。後で考へるとこの批評は同情が無く、又いさゝか正確を缺いて居たかとも思ひます。あの人たちは是でも結構樂しみ、又嬉々として笑つて居たのであります。たゞ連中があまりにも粒揃ひで、私などのやうな老翁までを笑はせる用意が足りなかつたのであります。此頃養コ社から出してくれた談林派の俳諧集を讀んで居まして、この大阪の俳法師どもも、やはり彼等だけでいゝ氣になつて居ることは同じ(478)だと思ひました。芭蕉の門流だけは流石だといふことが氣づかれます。彼等とても同氣相求め、その座の興味を詮としたことは一つでせうが、なほ一方には世の人として、大よそ斯くあるべしといふ方向に想を驅せて居ります。小さな結社の内部の品評ばかりに、全心を傾けなかつた點だけが、あの女子大學の女俳人たちとちがつて居ります。是が私には文藝とパブリシティの相關性といふものかと思はれます。假にも雜誌に出して世に遺し、境涯知見の全く異なつた、別社會の鑑賞を豫期するからには、私たちが面白かつたから、又十分に樂しめたから、それでいゝのだと言つてはすまされまいと思ひます。犬と猿との諸流派を超越した、一つの目安といふものが無くてはならぬはずですが、それにも或ひは新たに眼をさましたあなた方が、古い行掛りに囚はれない、同情ある裁定を下し得るのではありますまいか。それにつけても永いこと騷いだ割に、まだ/\芭蕉翁の事業の理解し方が、足りないやうに氣遣はれてなりません。
 
          ○
 
 現代の俳句が、是ほど民衆と深い因みをもちながら、その人生の二大關心事、如何なる凡俗にも例外なく、思ひを勞せずには居られない二つの問題を、避けて遠まはしにも觸れようとしなかつたのは、先づ第一に説明しなければならぬことであります。是は一言でいふならば發句だから、連句といふものゝ約束だつたからさうなので、責任を句形語數の短さに負はせるのはまちがひであります。昔も發句は皆この通りだつたからと言はうとするのも、半分しか眞實でありません。もしもいはゆる俳句が完全に、連句と縁を切つてよいものなら、この缺陷は必ず前以て補つて置くべきものでありました。
 誰でも知つて居る如く、芭蕉翁が踏襲した連歌の法則では、歌仙ならば表六句、百韻ならば最初の八句には、戀と無常と神祇釋教とを、句にすることが許されなかつたのであります。理由は寧ろこの四つの題目が、我々に取つてあ(479)まりに痛切であり、その感動がきつく濃かに過ぎたからで、いはゆる序破急の原理を紊し、連句總體の調和をそこなふ恐れがあつた爲に他なりません。事は小さいけれども、發句には必ず當季の季題を結ぶのと同樣に、つまりは一卷の構成の爲に、分担した各句の役割といふまでゝあります。故にもし俳句が獨立した一種の文藝だとすれば、無季も自由であると共に、何でも句にして差支へ無いどころか、むしろどし/\と出て行く義理さへあります。花鳥諷詠とやらに自らを限定するといふことは、ちやうど窮屈に十七音にたて籠るのも同じに、まだ暗々裡に古い連歌の制約を守り通して居るわけであります。それで居ながら連句なんか文學で無いだの、俳句は達人なれども附合なんかまつぴらだの、芭蕉の眞髄は既に體得して居ても、七部集の連句は丸でわからぬだのと、氣樂なことを高言し得られるのも御時世であります。昔も大名だの御門跡だのといふ人の中には、さういふ「や哉」の附いた大まかな一首の發句を下し置かれて、あとは連衆まかせに續けるやうにと、仰せられる人もあつたでせうが、さういふ方々でもなほ全體の出來上りに、無關心では居られなかつたと思ひます。今のやうに無意味な拘束を甘受しつゝ、發句一式にうき身をやつす者は、以前も絶無とは言はれませんが、少なくとも宗匠級の人には無かつたやうに思ひます。
 
          ○
 
 代々の句集を見て行きますと、宛ての無い發句、又は少なくとも連句に利用せられなかつた發句は、追々と數を増して來たやうであります。芭蕉翁自身にしても、世に傳はる發句は恐らくは千何百、之を立句とした連句の卷々は百にも滿たず、それも歿後何十年も過ぎてから、偶然に出現したものが半分を超えます。發表の機會が今日のやうに得やすくなかつた上に、我翁は特に用心深かつたのであります。さうして專ら關係者の家々に、大事に保存して置くのが昔からの慣行であつたかと思はれます。連句の卷々の殘つたものが少ないから、是だけしか利用せられなかつたといふことは出來ません。のみならず是等の發句といふものは、いつでも或連句の催しの開口となることを、覺悟の上(480)で作られたものでありました。それが季語とか十七の字數とか以上に、發句の有るべきやうを指導して居たことは疑ひがないのであります。
 わざとをかしな譬へばかり引くやうですが、昔一人の婆さんが路のほとりに立つて、さめ/”\と泣いて居たといふ話があります。何ごとかと思つて近よつてきくと、あれ見さつしやれ、あそこへ行くのは話家の與次郎ぢや、あの者の胸の中には如何ほどの物の哀れが貯へられてあるかと思ふと、それだけでももう悲しいと答へたと申します。發句はその反對に莫大の笑ひを抱きかゝへて、かしま立ちをする與次郎なのであります。そのぼんやりとした立姿を見ただけでも、俳諧執心の人たちならば、もうたまらなくをかしかつたのであります。中には多少の思はせぶり、興味の前ぶれのやうなものを與へたこともありませうが、大體の形は靜かな待ち心、注意の統一といふやうなものが、前代の俳句を特色づけて居ります。それを是ばかり裸で取出して、そしつたり讃歎したり無視したりしようとする近頃の鑑賞ぶりは、少し我まゝに過ぎはしないかと、實は私などは危ぶんで居るのであります。
 
(481)  俳諧と俳諧觀
 
          一
 
 
 寺田さんにはつひに御目にかゝる折が無くてしまつた。最も殘念だつたのは昭和七年の秋、京都の新村氏から手紙が來て、この三人と齋藤茂吉君と、一晩集まつて話をして見ようぢやないか。其世話をしないかといふ申入れがあつた。是は前年にこの四人の隨筆が一册になつて、いはゆる圓本時代を賑はしたのを、お互ひに好因縁と感じて居たからであつた。寺田、齋藤の二君からも、すぐに氣持のいゝ同意の返事が來た。十月下旬の或日と或場處とを約して、樂しみにして居たのだつたが、思ひがけなくも平福百穗君の急病で、齋藤氏が秋田縣横手へ驅け付けた爲にお流れになつた。さうして忽ち百穗畫伯の長逝となり、私たちも驚き且つ悲しんだので、もう一度是を言ひ出す力が拔けて、再び以前のやうにたゞ作品を愛讀し、時經てうはさを聽くだけの間柄になつてしまつた。
 同じ時代に生まれ合せ、同じ都會の空氣を呼吸するといふことも、存外にたより無いものだと感ぜざるを得ない。殊に學者には老後といふものが無いのだから、やはり前々から御邪魔をし合ふほどの、木戸口見たやうなものがあけて無いことには、斯ういふ自由な廣々とした花苑にも、入つて遊ぶことが出來ない。社中だの門下だのといふ言葉には、久しく私は反感を抱いて居るのだけれども、新たな時世にも僅か形をかへて、何かそれに類するものがある方がよかつたといふことを、今頃遲蒔きに考へ付くやうになつて來た。大きな感化を受けて居ることは事實だが、寺田さ(482)んの學問の本質、今までの業績の大きな價値は別にして、是から更にどういふ方面に、展開成長しようとして居たかを知ることが、殘念ながら私にはあまりにも遲過ぎた。是などは必ずしもこちらの怠慢とは言へず、偏へに因縁がまだ我々の爲に熟しなかつたのである。たとへば百穗君はまだ若かつたのだから、ほんの一年か二年でも達者で居てくれるか、或ひは新村君が數週間も早くあの手紙を書く氣になつてくれたら、記念すべき四人の會は、きつと成立つて居たのである。必ずしも年寄の愚痴では無く、私は是には計算することの出來る相應な損失があつたといふことを、寧ろ後々の爲にこゝで説いて置きたいのである。
 
          二
 
 この畫餅に屬した雜談會の話題は、少なくとも自分一箇に關する限り、今からでも推定することが出來る。あなたの御著書は大部分拜見して居ますとか、中には三度四度、又取出しては愛讀するものが有りますといふ類の、そんな月竝なことは嫌ひだから私は言はなかつたらう。當時の好奇心の焦點といつてもよかつたのは、どうして寺田さんがあれ程の執心を以て、連句の俳諧に遊んで居られるのか、それを尋ねたらきつと新しい答へが得られ、又同席の二老も多分耳をそばだてゝそれを聽き、たゞ庭の樹を眺めたりお菓子を食べたりして、話の切れ間を待つといふやうなことはせられなかつたらう。是は今でも確かめられさうなことで、もしさうだつたら我邦の俳諧の歴史が、或ひは僅かばかり曲折したかも知れないと私は思ふ。松根東洋城君は四十何年前の舊友だつた。逢へばなつかしがつて昔を談るが、逢ふことが稀にしか無かつた。ある年の暮春に多摩川の玉翠園でふと行合はせ、ほんの十分ばかりの立話で別れたが、それから私は「澁柿」をもらつて讀むことになつた。雜誌の句などゝいふものは、水の如く流れ去つてしまふが、ともかくもこの宗匠が、風がはりのすぐれた友だちを二人も持つことを知り、斯うなつて來るまでの段取りは全く考へないで、たうとう引張り込んだなといふやうな、獨合點の興味に微笑をして居た。それがちやうど會合の計畫(483)と、同じ年のことだつたやうな氣がする。
 是も一種の消極的奇縁であらうか。私は同じ雜誌につい此間まで連載せられて居た、連句雜俎といふものを知らずに居た。「蒸發皿」の中には出て居るといふが、讀んだ記憶が全く殘らず、本も誰かゞ持つて在つてしまつた。最初は多分何にでも興味を持つ人だ、といふ類の俗念がさきに立つて、斯んな大きな出來事だとは考へなかつたからであらう。始めて寺田さんと俳諧とを不可分のやうに思ひ出したのは、この近所の東寶映畫の諸君、山本嘉次郎君一列の先輩たちが、ソビエットの誰とかの暗示に動かされ、次第に寺田氏のモンタージュ論なるものに傾倒し、自分たちも天野雨山翁を招請して、連句の實習を遣つて居るといふ風聞を耳にしてからで、こゝで私は改めてこの前の全集を買求め、二つの藝術の俳諧的な連關を、明らかにしようと試みたわけであるが、悲しいかなもう幾多の不審があつても、それを尋ねに行くさきは、遠く白雲の彼方となつて居た。どんな頓珍漢な質問をしたかもしれないけれども、ともかくも私は何年か早く、今少し賢くなる機會があつたのを、たゞ何と無く取遁してしまつて、斯うして一人で淋しがつて居るのである。
 
          三
 
 成ひはあんなにぐん/\と先へ行つてしまはずに、ちつとは待ち合せてやればよかつたと、寺田さんの方でも思つて居られるかもしれない。私の俳諧修行は未熟ながらも古い。子規が序説を書いた三佳吉は、明治三十二年に俳書堂から出た本だが、私は出た時にすぐ買つてとぢ絲の切れるほど讀み、製本をしなほしてまだ持つて居る。大震災の時にはロンドンに居たが、家郷の音信を待つ間、その愁ひを忘れる爲に、西馬校本の七部集を携へて北の海岸を巡歴し、車中であの附合の大部分を暗記して來たのが、今でもまだ切れ/”\に、寢られぬ夜の樂しみに殘つて居る。たつた一つの心得ちがひは、あの時寺田さんの話を聽かなかつたばかりに、是は昔のもの、過ぎ去つた藝術、いはゆる鑑賞以(484)外に、再び後代の文化と交渉の無いものゝやうに思つたことで、罪を人になすくり付けるとすれば、是は全く根岸の惡影響だつた。あんな古びた萬葉ぶりの物の言ひ方すら、アロハを着て大道を闊歩して居る今日、向ふに無いから、知られないからと、戸棚の隅つこにしまひ込ませようとしたのは、其動機が少しばかり恠しい。ところが寺田さんはあたり構はずに、是は西洋に無いから、日本獨特だから大いに復興させようと言はれるのである。それを私は知らないばかりに、正面に立つて拍手を送らなかつたのが殘念でたまらない。
 要するに是は私の立ちおくれ、氣のつき方の遲かつた爲でもあるが、一つには又眼の着けどころのちがひでもあつた。大戰も終りに近くになると、人はいら/\と雲丹か針鼠の如く、刺すことばかりを考へて居たけれども、是にはまだ今に/\といふ慰撫もあつた。愈勢ひ窮り望みは霧と消えてからの、二年三年の苦惱は堪へ難かつた。女も男も口をへの字に結び、年中睨むやうな目で押合つて居るのを見ると、あゝ笑ひが戀しいと思はずには居られなかつた。貧と憂愁の底積みに息づきつゝも、なほ僅かな隙間から忍び込む人生の可笑味を、さがし指ざしても人と共に、しばし心のくつろぎにしようとした蕉門の俳諧にはなつかしいものがあつた。あれをもう一度といふ私たちの願ひは、遲蒔きながらもやゝ寺田さんよりは廣かつた。しかもこの二つの趣旨には抵觸が無く、二つ合せたら更に力強く世に行はれ得ることを、私は久しく心付かずに居たのである。
 
          四
 
 心理の方面からの攷察はこの次にすると言はれたが、それが進めば勿論追々と判つて來たことゝ思ふ。連歌の昔から、否それよりも遙か昔の相聞の時代から、この文藝には今謂ふ所のスボーツ味、挑む試みるといふ樂しい刺戟があつた。それが俳諧となると、一段と互ひの氣を取られることが濃くなつて來るのである。男女の間に在つては容易に侮られまいとする努力、是は今日の民謠にまで續いて居る。差合ひ去嫌ひ月花の座などの式目は、單なる障碍物競爭(485)では無く、寧ろ押詰めて相手の機轉を見ようとする難題の掛け方で、蕉門にも其例の面白いものが多い。つまり連句は他流試合が晴の場で、宗匠の指導が無ければ成立たぬものゝ如く、教へ込まれて居たのは旦那衆だけである。それなのにどうしてあなた方は、至つて仲のよい三人だけで、明けても暮れても附合をして居たのですかと、一ぺんは遠まはしにでも私は詰問して見たかつた。
 話は盡きないがもう端折らなければならぬ。連句がもと百韻を通例として居たのを、芭蕉の世を境として、三十六句の歌仙の形に移行したのは、明らかに計畫であつた。是でもまだ考へ足らぬといふ人はあつたか知らぬが、もと/\一夜のうちに一卷を卷き終るのが法則であつて、以前は即應捷對を以て賞翫とし、寧ろさういふ目まぐろしい渡りの中から、稀々ならず好句の飛び出すことによつて、群の昂奮を高めようとして居たと思はれる。「澁柿」の風雅人が葉書を利用し、又は三句五句づゝ間を置いて、長い休止をして居たことは大きな改革であつた。それでもよろしいといふ理論はきつと成立つであらうが、少なくとも是を基準にして、西鶴以來の速吟を解説することは出來ない。俳諧を次の時代の樂しみに引繼ぐには、是もやはり寺田さんに考へて置いてもらひたい問題の一つであつた。私などの僅かな經驗でも、考案に時をかけると片隅では雜談が始まり、一心になりきることが六つかしく、從つて音樂にも映畫にもたとへつべき、まとまつた作品を留めることが望まれない。修業はやはり延寶の二十歌仙のやうに、獨吟の間に積み重ぬべきものかとも思ふ。少しの年月の喰ひちがひの爲に、斯ういふ點までを寺田さんに考へてもらふことが出來ず、其爲に折角の雙方の願望は縒り合せる折が無くて、依然たる發句萬能の形勢を見送らなければならぬのは、それこそ笑へない公の悲しみである。
 
(486)  喜談小信
 
 籾山さんの土の餅つく神事についてはすでに名古屋あたりの人から何か申して來ましたか。だれかから來て居るならこの原稿は反古にして下さい。かういふ神事は他にも有りさうですが、芭蕉翁の知つて居られたのは、きつと尾張の大國靈神社の正月十三日の式だつたと私は思ひます。この祭りのことは色々の本に書いてありますが、可なり雜音がまじつて居さうですから、簡略に「張州府志」に出て居るのを引用しますと、土の餅とは言つても、實は灰をたくさんに搗きこんだ餅だつたといふことです。この正月十三日の神事に先だち、茅で大きな人形を一つ、小さい人形を無數に作つて置き、當日は誰彼と無く路行く者を捕へて、この土の餅と大きな人形を背負はせ、みんなして其一人を逐ひまはしたといひますから、つまり鬼追ひの式だつたのです。小さな方の人形は群衆がそれを手に持つて、めい/\鬼を目がけて投げ付けました。あとで拾ひ集めて燒いた灰を糯米に加へ入れて、翌年の土の餅を搗き、それを一年の間どこかへ藏つて置いたらしいのです。
 一方その土の餅と、大きな人形とをしよはされた「鬼」は、次第に奔り疲れてしまひには何處かに行つて倒れます。さうするとそこの土を掘つて土の餅と人形とを埋め、塚を築きました。その塚といふのが幾つと無く、神社の附近には殘つて居たといひますが、今日はどうなつて居るでせうか。とにかく神事おそろしと言はれたのも尤もで、以前はこの役に當つた者は一年とか二年のうちに死ぬと傳へられ、從つて何かよく/\の好條件を與へないと、これになる人が無かつたらしいのであります。
(487) 古へは行路の人を捉ふ。けだし乞食人の類なりと府志にはあります。さうで無くとも旅の者他領の住民などの、其日新ういふ神事の有ることを知らずして、通り合せた者がつかまつたのでせうから、是が有名になる程づゝ無理が多くなつたことは察せられます。それ故に又、近年官之を禁ずともありまして、其方式は少なくともよほど改定せられたのであります。
 驚くべきことにはこの神事がこの昭和二十四年度まで、なほ續いて行はれて居りました。神社新報の最近號に、この式に參與した人の自記が、二日にわたつて連載せられて居ります。今日はこの役を神男と呼び、もちろん進んで志願して採用せられるので、之によつて物忌潔齋の心境も體驗し得られ信仰は著しく深まつたと言つて居りますが、とにかくに此日は群衆に追ひまはされて、正氣を失ふほどの苦しみをして居ります。名古屋で鐡道に働いて居る、三十代の屈強な新人でありますが、やはり母や細君はこの爲に、昔ながらの心痛をしたことが、文の面からもよく窺はれます。
 萬里和尚の「梅花無盡藏」に、すでに土餅の記事があるといひますから、少なくとも四百年以上連綿として居た神事であります。芭蕉が尾州に遊歴せられたのは、まだ恐らくは官禁の前でありまして、いはゆる追立歩《おつたてぶ》の聯想が、直ちに此方面に向いて來たのも、極めて自然であつたやうに私には思はれます。追立歩といふ言葉は、軍書類には氣を付けて居れば、必ず出て來ると思ひますが、まだ私には、何にあると言ふことは出來ません。しかしともかくも歩(夫)は人足のことで、人足は主として路上の運搬に使役しましたから、僧でも老翁でも片端から引捕へて、之を其用に供したことを追立歩と謂つたことはすぐ判ります。たゞ是を江戸期の太平時代にもつて來ようとすると、もうさういふものは諸國舊社の神事以外には求め得られなかつたのであります。
 袖草紙の編者にこの言葉が不可解であつて、それを我儘に誤寫と認定したことは、我々にとつては消極的ながら一つの史料であります。果して「追立てゝ」としても前の句に附くものかどうか。もう袖草紙の頃の俳諧には、之を判(488)定する力が無かつたのであります。嵐雪と師翁の二人の間柄で、そんなにまで互ひの作意を理解せずに、空々しい附合をして居たらうとは思はれません。そこで溯つて折端の一句、
   露霜窪く溜る馬の血                 嵐雪
を見ますと、是は前句の「葉の焦タル」があまり奇拔な風景なので、それを戰場の凄愴な場面に取成したのであります。草野の土の上に馬の血が流れて居るなどは、戰の今すんだ跡にしか見られるものではありません。しかしこの樣な狹い限られた空想畫に、永く引掛つては居られぬとすれば、何か方法を設けて脱出しなければなりませんが、それにはこゝにいふ坊主とも老ともといふ類の、一見其場に調和せぬやうな、言葉を持つて來るの他はありません。是も戰國の殺伐な世相のことですが、それでも幾歩か馬の血の舞臺を遠ざかり、又出て來る人間の無邪氣な身ぶりを以て、周圍の空氣を柔らげようとして居ります。さうして是一句が又獨立して、面白い時代繪なのであります。「追立てゝ」でもこじつけられるか知れませんが、それでは働きが半分以下にもなりさうです。
 芭蕉が心遣ひの至つて細かな人だつたことは、この一聯の附合からもよく窺はれます。前の二句の間が聊か附き過ぎに近く、漸く三寸か四寸をにじらせて居るに對して、次の土の餅つくの一句とは一尺除も引離してあるのです。前が時代の物語であつたに對してこの方は現實であり又世話であります。追立歩などゝいふ語は尾張の大國靈社では使はず、又或ひは知つても居なかつたかと思ひますが類似を目の前に求むれば、是くらゐ適切な聯想はありません。しかも前々からの計畫で無しに、すつかり句の世界を新しくして居るのであります。御相手をして居た嵐雪は言ふに及ばず、後々傳へ聞いた尾州の俳人たちにも、是が不言の教訓であつたことは、想像に難くありません。今傳はつて居る數々の卷を讀んで見ても、芭蕉が此地方の爲に親切によく働いて居られたことはわかります。せめて大國靈社の神男の程度に、その經驗を持ち傳へることが出來たら、地方の文學は今のやうな物さびしい追隨主義に、陷らずにすんだらうかと私は思ひます。俳諧の道にかけては、少なくとも江戸は御本山では無かつたのです。
(489)   町作り粟の焦タル砂畑              はせを
    露霜窪く溜る馬の血                嵐雪
   坊主とも老ともいはず追立歩             はせを
    土の餅つく神事おそろし
   生篠に燃つく烟雨となり               嵐雪
 
(490)  七部集の話
 
          一
 
 俳諧の近世史、殊に芭蕉翁の功業を、つまびらかにすることが、ついこの頃になるまで非常に困難であつたのには理由がある。先づ第一には本が手に入らない。圖書館に入れば勿論見られるが、あすこではどうも味はひにくい、又借りて來た本ではやはり身にならない。それが自由に青年にも讀まれるやうになつたのは、岩波文庫の小宮本、連句集又はまちがひは多いが古典全集本のおかげと謂つてもよい。私などの場合をいふならば、明治三十二年の末にホトヽギス發行所から、俳諧三佳書といふ小形本が出たのを早速買求めて猿蓑だけ讀んだ。子規氏の解釋は主として發句をほめて居たが、私などの樂しいと思つたのはやはり連句の方であつて、たとへば、
   火ともしに暮れば登る峯の寺
とか、又は、
   茴香の實を吹落す夕嵐
とかいふやうな附句を、間も無く暗記してしまふほど吟誦したものであつた。しかし是がたゞ七部集といふものゝ一篇であることを知るだけで、是と他の六つの集とのちがひ方などはわかる筈も無く、又蕪村の連句が大分猿蓑にかぶれて居るので、大よそ俳諧とは斯うした行き方のものだらう位の、至つて大ざつばな推測をしようとして居た。
(491) それでも七部集は是非讀んで見たいといふ、念慮だけはもつて居たと見えて、十何年もしてから始めて西馬の標註七部集といふ二册本を手に入れた。それも春秋菴幹雄の再刻本で、人を馬鹿にしたやうな、わかり切つたことしか註釋して無いといふつまらぬ本だつたが、それでも縁が有つて今に持傳へて居るのみで無く、私は之を携へて二年餘り、西洋の諸國をあるきまはり、あの大震災直後の愁ひ多き數週間を、是にかじり附いて暮して居たこともおぼえて居る。今となつては棄てることの出來ない記念の書である。
 斯ういふ特別の因縁は無くとも、七部集を經典視し、取分け其中でも猿蓑を尊重するといふ氣風は、よほど以前から俳人の中にはあつたらしい。それも心得ちがひとは言へない理由はある。たゞ俳諧の沿革を知り、それと今後の文學生活との交渉を明らかにして置かうといふのには是非とももう少し弘く、資料を集めて置いてくれた人が、無かつたといふのでは決して無い。殊に發句の方では一言一字の相異などを、穿鑿する學風さへ起つて居る。たゞそれがまだ少しでも實際には用ゐられて居ないのである。近來は月に平均一篇以上、どこかで芭蕉論を誰かゞして居るが、其中に引いて居るのは古池枯枝、その他有名な五十句ばかりで、それがたゞ何べんでも讃歎せられて居るのである。發句で芭蕉を論ずるのがすでにどうかして居る。今頃氣にかけて見たところで始まらぬ話、そつとして置くより他は無いだらうが、さて然らば連句の方はどうかといふと是はもう七部集にあるものをさへ敬遠して居る。まして其以外のものは、折角勝峯氏などが綿密に整理してくれられても、之を利用して前後を比較しようとする者は有りや無し。是では不易も流行もあつたものではないと思ふ。俳句の隆盛は今が絶頂かも知れないが、この點だけは少なくとも五十年前の、いはゆる月並時代にも劣つて居る。
 
          二
 
 現在世に傳はつて居る芭蕉の俳諧は、斷片まで加へるとざつと二百であらうが、私は是をその出現の時代によつて、(492)三つに分けて見るのが便利かと思つて居る。その一つは師翁在世中に、多分はその同意を得て、又稀にはその勸誘に基いて、世に公にしたらうかと思はれる撰集に載つて居るもの、其數は素より多からず七部集正續二篇の中にすらも、果して發表を望まれたらうか、どうか、心もとないものが若干はまじつて居ると言はれる。第二には翁示寂の後久しからず、まだ各地に活躍して居た門弟や追隨者がめい/\の考へによつて版にしたもの、是には或ひはこの形のまゝで世に公にすることを、望まれなかつたものが無いと言はれない。元禄七年以前の諸集とても、一々發行者が許諾を求めに、來たわけでも無いから同じことだが、翁歿後のものは殊に追慕の情も加はつて、有る限りの作品は皆出してしまはうと、したやうな形跡であつた。ところがそれから又七八十年、いはゆる天明中興の前後になつて、意外といつてもよいほど數多くの遺篇が現出したのである。さうしてこの第三種のものゝ發見によつて、特に我々の俳諧に對する考へ方は變らねばならなかつた。しかし近頃の宗匠家たちには、まだそれまでの時間が無かつたらしいのである。
 芭蕉翁は或時、自分はまだ一度も撰集の爲に連句を卷いたことは無いと、明言せられたと傳へられる。其心は、是が世に取り囃されるのはたゞ偶然の結果であつて、俳諧の目的は一度の興、一卷の歌仙の成立を以て完了するといふので、この點が先づ現代の文學とは行き方を異にして居る。文學は固より社會的行動であり複數の人の干與を條件とはするけれども、俳諧の場合に於ては其人は限られ又内に在つて、製作圏外の人は有るかも知れぬが省みられない。隨分わがまゝな、今日の言葉でいふと獨善的な態度だと思ふが、あらゆる藝術は最初は皆さうであり、歌や俳句は今でも其通り、作者の數の方が讀者よりも多く、それさへ餘り多くなると、仲間の作つたものしか味ははうとせず、祖師の芭蕉に對するやうに垣根の外から、覗いたり譽めたりすることは珍しい例外なのである。
 さういふ中でも俳諧の方だけは、宣傳か名利の爲かは知らず、とにかく印刷術を早くから活用して居る。井筒屋庄兵衛の輩がよく働いて居る。和歌の方面に至つては、撰集の古例は絶えて久しく、いはゆる家々の聞書のやゝ纏まつたものが、古人を景慕する者の間に保管せられるに過ぎなかつた。村田春海の家集辨が世に出たのも、俳道中興など(493)よりははるか後の事で、作者がまだ達者なうちから、全集や傑作集を世に問ひ、どんなもんだいと言つたやうなパブリシティーは、まづは風流の好士等の夢み得ざる所であつた。しかし現實にそれが出て行くのだ。後世縁もゆかりも無い世上の鑑賞家に、ひねりまはさることも有るのだと知つては、芭蕉翁とても考へずには居られなかつたらう。そこで作品の再檢討といふことも、始まつたものかと私は思つて居る。連句そのものゝ成立ちからいふと、出來たまんまの形の方が意義があるが、一つ/\の作品は見なほされ味はひなほされて大抵は良くなつて居る。さうして現在集まつて居る蕉門の俳諧の中には、明らかにこの二通りのものが入り交り、なほ其上に更に第三の變化さへも、加はつて居るらしいのである。
 
          三
 
 七部集婆心録といふのは、江戸期もずつと終りになつて出た註釋書だが、この中にはやたらに誤寫だ讀みそこなひだと謂つて流布本の文句を改め、へつぽこな自分の解釋に附會させた箇所が多い。をかしな事をする奴もあつたものと輕蔑して居たが、實際は曲齋以前にも、多數の宗匠はそれをして居たらしいのである。明治以來の俳人等は流石にそれはしなかつた。それだから又追々と之を敬遠しなければならなかつたのである。
 最近に私が始めて知つた一例は、奧の細道には發句だけは載つて居る「五月雨を集めて早し最上川」の歌仙だが、是はその製作から五十五年の後、延享元年の奧細道拾遺に出て居るものを、勝峯氏の芭蕉一代集にも採録して居る。「雪まろげ」といふ曾良の手記は、公表がそれよりも七年古いが、この方は原版が跡を絶ち、二度まで改刻して居るので誤りが多い上に、一方の細道拾遺は、大島蓼太が若い頃に東地に行脚をして、土地で寫し傳へて來たものといふからもとの形に近く、二書の間に相異のあるのは、後日芭蕉の手を入れられたものに、曾良が從つて居るのだらう位に私は想像して居た。ところが今度齋藤茂吉君の注意によつて、昭和十五年出版の大石田町誌に載つて居る寫眞版を(494)見せてもらふと、驚いたことには雪まろげの所傳の方が、よつぽど原作に近いのであつた。改作者の誰であつたかといふことが直ぐに問題になる。發句の「集めて涼し」が「早し」となつて居るなどは、細道のテックストも今はさうなのだから、是は師翁の意を承けたとも見られる。しかし其他の諸點に至つては、假に改めたかつたとしても山形縣までは屆くわけが無く、拾遺の一卷はかの地での發見であり、しかも原懷紙の奧書署名までが附いて居るのである。つまりは或日の寫し傳へ以來、江戸で出版するまでの間に、幾つもの添削が行はれ、それは芭蕉のあづかり知る所ではなかつたのである。曾良も其手控への中に於て、自分の作つた句だけは二箇所ほど明らかに改訂して居るが、後世の紹介者は更に一歩を進めて、自分にわからぬ部分に加筆することを、或ひは大目に見られて居たのでは無いかと思はれる。それにまでして見ても、なほもとの作者たちの心持は汲みにくゝ、又時々はをかしな見當ちがひの註釋が有つたといふ所に、私たちは寧ろ時代の力といふやうなものを認めて居る。曾て豫期せられても居なかつた私のやうな門外漢が、是を大切な史蹟として探り入らねばならぬ理由も茲に在るのである。
 
          四
 
 芭蕉の俳諧の分類せられなければならぬ目標は、ひとり其發表の年代だけではない。もつと重要かも知れないのは連衆の構成、即ちどういつた種類の人たちを相手にして、一卷の連句を卷いて居られたかといふこと、是によつて作品の出來ばえもちがふのみで無く、師翁自らの附句の上にも、よかれ惡しかれ異なつた反射作用が現はれて居るのである。少しは面倒かもしれないが、之を尋ねて行くことは興味の有る仕事である。第一に芭蕉の俳諧の世に傳はつたものはさう多く無く、是に參加した人の數も限られて居る。たつた一ぺんきりで過ぎ去つた若干名を除けば、他の面から少しづゝ境涯や經歴が判つて來る。句風や態度にも注意して見れば特徴がやゝ認められる。十哲などゝいふやうな物々しい顔ぶれで無くとも、たとへば江戸で岱水とか、熱田で桐葉とか謂つた人たちは、作句を併せて讀んで見る(495)だけでも、大よそは人柄が窺はれる。連句が協力の文藝である以上は、單に芭蕉を理解する目的であつても、やはり斯ういふ側面の觀測は怠るわけには行くまい。門人といふ言葉はよく用ゐられて居るが、是は今とはやゝちがつた、社會組織の上の稱號らしく、大體に初心から芭蕉に育て上げられたといふ者は少なかつたやうに思ふ。炭俵の三人の選者、伊賀の故郷の年下の連中などは、或ひは全く他流を知らなかつたのかも知れぬが、是とても門派の對立が後世の如く嚴重でない時代だから、よその感化を受けなかつたとは言へない。其他の多數に至つては、大きな旗じるしの下に馳せ參じたといふのみで、もしも斯ういふ遭遇が無かつたならば、何れも一方に割據して、めい/\の分野を拓いて居たかも知れない人たちである。つまりは京江戸大阪を始めとし、地方には既に幾つもの俳人群があつて、そのやゝ粒立つた者が歸依心服した土地が、やがて、蕉風の領分となつたのである。
 枯尾花の追悼句に名を列ねた人の中には、虚栗以前からの吟友が何程もまじつて居る。芭蕉の俳生涯は永いとは言はれ無い。其間に同志を養ひ育て、いはゆる蕉門を固めてしまつたやうに、想像することは誤りであつて、中には其角のやうに師翁世を去つて後まで、談林以上の難解の句を續けた者もあれば、又一方には芳賀一晶の如く、新しい傾向を甘なはずして、次第に遠のいた者もあつたかと思はれる。それ等は何れも皆今日の意味での、お弟子では無かつたのである。人と場合の配合如何によつて、元禄の俳諧が種々の色彩、異なるハーモニーを呈するのはちつとも不思議でない。しかもさういふ中に於て冬の日から猿蓑へ、更に猿蓑から續猿蓑までの、目に立つ推移を見せたのは大きな力量だつたが、それさへ考へて見れば集毎に選者がちがひ、又連句の相手方の顔ぶれが變つて居るのである。根本は俳諧が衆力の調和であつて、寧ろ其間に釀し出される豫想し得ない雰圍氣を、悦び樂しむ文學であつたことが、おのづから斯ういふ巨大なる水筋を、彫り窪めて進んだものとしか思はれない。何と註釋しようとも、流行といふのは受身に立つ者の言葉である。導き又は指し示すといふこととは兩立しない。
 見よ/\三十年を出でずして、斯道は又大いに改まるべしといふやうなことを、芭蕉翁も言はれたと傳へられる。(496)さうして正に其言葉通り、もしくはそれ以上に次の代の俳諧は變化したのである。翁の考へ深く且つ多感の人であつたことは、其藝術のすぐれた力と共に、くりかへし我々も感歎して居る。しかし時代の形勢をも認めずに、ひたすらに翁一人を尊いといふことは、宗教としか私には思はれない。
 
(497)   第七卷 内容細目
 物語と語り物〔角川書店、1946年10月発行〕
  自序
  一寸法師譯(昭和三年五月、民族三卷四號)…………………………………五
  孝子泉の傳説(大正五年十一月、十二月、郷土研究四卷八號、九號)(原題、「孝子泉の話」)………………………………………………………………………………二〇
  甲賀三郎の物語(昭和十五年十月、文學八卷十號)…………………………三六
  有王と俊寛僧都(昭和十五年一月、文學八卷一號)…………………………六六
  黒百合姫の祭文(昭和十九年六月、黒百合姫物語)(原題、「山臥と語りもの」)…………八〇
  山莊太夫考(大正四年四月、郷土研究三卷二號)……………………………一〇八
  能と力者(昭和十九年五月、能樂全書第五卷、創元社)……………………一二四
  參宮松の口碑(昭和十一年十月、高志路二卷十號)(原題、「越佐偶記」)…一三八
  北國の民間文藝(昭和十三年一月、南越民俗四號)(原題、「語り物と物語り」)…………一四四
 
 笑の本願〔養コ社、1946年1月発行〕
  自序
(498)  笑の文學の起原(昭和三年九月、中央公論四十三卷九號)……………一五三
  笑の本願(昭和十年四月、俳句研究二卷四號)………………………………一七四
  戯作者の傳統(昭和十三年八月、文學六卷八號)……………………………一八六
  吉右會記事(大正十五年五月、地方三十四卷五號)(原題、「昔話の新しい姿」)…………一九六
  笑の教育(昭和七年九月、北安曇郡郷土誌稿第四輯)(原題、「俚諺と俗信との關係」)……二一〇
  女の咲顔(昭和十八年六月、新女苑七卷六號)………………………………二二七
 
 不幸なる藝術〔筑摩書房、1953年6月発行
  不幸なる藝術(昭和二年九月、文藝春秋五卷九號)…………………………二三九
  「ウソと子供(昭和三年八月、文章倶樂部十三卷八號)(原題、「ウソツキ不朽」)………二四八
  ウソと文學との關係(昭和七年四月、設樂二卷四號)………………………二六一
  たくらた考(昭和十五年一月、科學ペン五卷一號)…………………………二七五
  馬鹿考異説(昭和十六年二月、創元二卷二號)………………………………二八三
  嗚滸の文學(昭和二十二年四月、藝術三號)…………………………………二八七
  涕泣史談(昭和十六年六月、國民學術協會公開講座)………………………三二二
 
 東北文學の研究
  一 義經記成長の時代(大正十五年十月、中央公論四十一卷十號)………三四五
(499)  二 清悦物語まで(大正十五年十一月、中央公論四十一卷十一號)…三五八
 
 世間話の研究(昭和六年十一月、綜合ヂャーナリズム講座11)………………三八三
 
 御伽噺と伽(昭和十三竺月、民間傳承三卷五號)………………………………三九八
 
 踊の今と昔(明治四十四年四〜八月、人類學雜誌二十七卷一號〜五號)……四〇三
 
 越前萬歳のこと(同年十月、風俗志林一卷六號)………………………………四三八
 
 二たび越前萬歳に就きて(明治四十五年一月、風俗志林一卷八號)…………四四〇
 
 獅子舞考(大正五年一月、郷土研究三卷十號)…………………………………四四三
 
 掛け踊(同年九月、同誌四卷六號)………………………………………………四五四
 
 風流と我面白(昭和四年六月、民俗藝術二卷六號)……………………………四六一
 
 病める俳人への手紙(昭和二十二年十二月、風花四、五合併號)……………四六九
 
(500) 女性と俳諧(昭和二十三年九月、風花九號)……………………………四七五
 
 俳諧と俳諧觀…………………………………………………………………………四八一
 
 喜談小信(昭和二十四年四月、かまくら九號)…………………………………四八六
 
 七部集の話……………………………………………………………………………四九〇
 
          〔2013年11月6日(水)午後8時40分、入力了〕