定本柳田國男集　第九卷（新装版）、筑摩書房、1969､2､20（1969.5.15.2刷）

　

　

(1)　　妹の力

　

(3)　　　　　序

　

　家で神樣におそなへ申した供物を、女の子には戴かせるもので無いといふ言ひ習はしは、今でもまだ弘く地方の隅々に行はれて居るかと思ふ。其理由を聽いて見ると、どこでも之を食べた娘は縁遠くなるからと、答へるのが普通であつた。今日の常識から考へて、其樣なことが有らう道理は無いと言ひ得るのだが、やはり氣になるから親たちは覺えて居り、出來るだけはそれを制したのである。しかし此類の禁忌は目に立たぬ故に忘れやすく、たま／＼知らなかつた者の數が多いと珍らしがり、笑ひもし嘲りもして末には廢れてしまふのだが、もしも人間のし始めた事に、よかれあしかれ何等かの趣意の無いものはなかつたとすると、斯ういふ一通りの常識では解説の付かぬものに、却つて我々のまだ知らずに居る前代の物の見方考へ方が潜んで居るのかも知れない。三十年近くもかゝつてやつと心づいた一つの想像説は、是は神々の祭に奉仕した者が、もとは必ず未婚の女子であり、同時に獻供の品々を取得する者が、神を代表したその婦人に限られて居たことを意味するのではないか。この二つ約束の、一方は勿論神聖なる出發點であり、他の一方は言はゞ自然の結果に過ぎぬのであるが、さういふ風に分けて考へることは昔の人には出來なかつたので、先づ一方の避け得られるものを避けて、それと伴なふものを免れようとしたものと察せられる。現世生活の興味はそれほどにも、年を逐うて濃厚になつて來た。是に對して一方は元のまゝで、清いけれども常の日が淋しかつた。子女に尋常の家庭の悦樂を、味はせたいと願ふ父母が多くなつて、宗旨によつては今ちやうどこの二つの希望が、心苦しい人情のはかりに掛けられて居る。日本の神道に於ては夙に專業の社家が起つて、其時期がとく過ぎてしまつたのである。さうしてこの所謂迷信だけが遺つて居たのである。足袋をはいて寢ると親の死目に逢はぬといふ類の、穢れに近づくことの出來ぬのを恐れた禁忌が、(4)幾つか認められて居るのも同じ事情からかと思ふ。或は爪を火にくべると氣ちがひになるといひ、又は縁側に出て髪を梳くと、散つた毛が風に飛んで鳥の巣に作り込まれる。さうすると其女は氣がちがふなどゝ、物狂ひになることを結果とした色々の戒めがあるのも、神の御告を傳へる者の必ず物狂ひであつたことを考へると、是も最初は亦巫道に入る方式の一つで、求めてさうした者が曾ては有つたことを、暗示する所の大切な資料なのかも知れない。

　斯ういふ切れ／＼の、一見説明し難い言ひ習はしを、私たちは民間傳承と呼んで居る。西洋の諸國で Folk-lore といふのも、すべて同じ樣な殘留に屬する。是を何等かの文化史上の意義あるものと認め、力の及ぶ限りの類例の比較によつて、根原を少しでも明らかにしたいといふのが、此學問に携はる人々の共同の志願であつたが、近い頃までの日本では、それが思ふやうに進まぬ二つの原因があつたのである。その一つは事實の印象が一般に弱かつたこと、どうせ常民はわけの分らぬことをする、彼等は教育が無い故に?々無意味なことを考へもし感じもするのだと、見きつて始から氣にとめぬ者が多かつたのみならず、さういふ筈は無い、たとへ文字は教へられずとも、心は親々の經驗したものを積み貯へて居るのだといふことを、はつきりと知つて居る人までが、惰性に驅られて目の前の事物に注意を拂はず、どうして斯んな慣行があるかといふことを、訝り又疑ふのを怠つて居た。即ち學問に利用し得られる民間傳承の量が、分外に豐富なことを知らずに居たのである。其結果として採集は少しも進まなかつた。さうして傳達が甚だしく不精確であつたこと、是が又第二段の障碍であつたのである。その悲しむべく遲々たる學問の進みが、爰に私の一つの文集から、最も痛切に立證し得られるのは是非が無い。

　明治の末頃に、私は或一つの大きな文庫の管理者となり、昔からよく謂ふ汗牛充棟の見本を體驗した。一言でいへば文獻の富に醉うたのである。本さへ熱心に讀んで居れば、しまひには御國の昔の事は皆わかるだらうといふ樣な、まちがつた夢を見たのも實は私であつた。ところが實際は見當が付か無ければ文の林には入つて行けな(5)い。何を知りたいのかの筋が立たぬ限り、書物は我々の相談相手にはなつてくれない。さうしてこの研究の發足點となつたのは、やはり芥子粒ほどの民間の傳承と、是を不思議としてわけを問はずに居られなかつた、子供見たやうな私の好奇心とであつた。旅で一人になり、經驗の全くちがつた人たちの中で、淋しく日夜を過したことが、燃え擴がつて行くものゝ燧石であつた。郷土研究といふ雜誌の始めて出た際に、旨蛇な話であつたが私は「巫女考」といふ問題に手を下した。それが段々にたまつて三十何篇の文章になつて居る。今度其中から話としてやゝ珍らしいもの、冷淡なる人でも一顧を惜まぬであらうと思ふものを、十幾つか取出して排列して見たのだが、自分でも驚くのは古い書物ばかり多く引いて、肝腎のフオクロアは赤飯の小豆ほども無いことである。言ひわけがましいが是は時代であつた。もしも本式に同胞の眼前の生活から、殘つて傳はつて居るものを探り集め、竝べ比べることが許されて居たら、斯樣に古い書物の御世話にならずともすんだのである。古い記録は確かだが量が少ない。之を徹底的に利用しようとすれば、自分の疑問から外へ逸出するか、さうでなければ牽強附會しなければならぬ。近世の記録は成るほど多いが、是も偏して居り又責任が輕い。之を確實にするには取捨を嚴にしなければならぬ。この二つの點に忠誠であらうとすれば、非常に多くの時間を文庫の作業にかけなければならなかつたのである。何より困るのは是を日本民俗學の、あるべき形だと思はれることである。現在は既に資料もやゝ集まり、之を援用する方法も半ば備はつて居る。今更露拂ひ役の濡れしほれた姿を、もてはやさなければならぬ必要は無い筈である。

　それならば何の爲に、斯ういふ見本にも手本にもならぬものを、出陳するかといふ質問も起らうが、是は單なる比較用、もしくは學問のどれだけまで進んだかを、囘顧嚴せしめる里程標といふばかりでは無い。この僅かな飛び／＼の民間傳承を注意して居たことによつて、古書の理解が幾分か容易になつたやうに感ずるからである。今まで何と無く看過して居た事實が、文字の面へ浮き出して來て、新たに思ひ當ることが少しづゝは有つたと思ふ(6)のが、果して自分たちだけの樂觀であるかどうか。公平なる讀者の審査を受けて見たいからである。其上にこの問題は意外に大きかつた。行きも盡されぬ廣漠の野は前に横たはり、今まで開拓し得たと思つて居たのが、ほんの片端であつたことがしみ／”＼と感じられる。さうして一方には我々の「妹の力」が、改めて痛切に要望せられる時代は來て居るのである。この一卷の書が證明せんとして居る如く、過去の精神文化のあらゆる部面に亙つて、日本の女性は實によく働いて居る。或は無意識にであつたかも知れぬが、時あつて指導をさへして居る。これが一朝專業化の傾向を示して來た爲に、其特色は家庭の外に追ひやられて、次第に輕しめられる者の列に入つてしまひ、一度も試みられたことの無い可能性が、今はまだ多くの柔かなる胸の裡に睡つて居るかと思はれる。この隱れたる昔を尋ね出し、それを新しい社會の力とする爲には、たゞ忍耐して多くの書籍を讀んだり暗記したりして居ただけでは足りない。暗示は寧ろ日常の人生の中に在るといふことを、實は私などもほんの偶然に心づいたのである。この經驗だけは人に頒たずには居られない。以前は娘たちに凡庸無事の生涯を確保する爲に、神の御供物をさへ戴かせまいとした親たちもあつたが、さういふ取越苦勞は今はもう必要がなくなつた。妻となり母となつてから後も、なほ弘く人間の幸福に向つて、力を竭さうとする女性は多くなつて居る。名も無い昔の民間の婦人たちが、?々備へて居たといふ「さかしさ」と「けだかさ」、それを取返すこともほんの今一歩である。如何なる無に活きても私が失望しないのは、さういふ時代のやがて到來すべきことを信ずるからである。

　　　　　昭和十五年八月

　

(7)　　　　　妹の力

　

　　　　　　　　　　一

　

　此春は山の櫻のちやうど咲き初めた頃に、久しぶりに生れ在所に還つて、若い人たちの爲に大いに風景の推移を談じた。日本の歌や文章では、「古里は昔ながら」とながめるのが、一つの樣式の如くなつてしまつたが、少なくとも自分の三十何年前の故郷には、殆と以前を忘却せしめる程の變車がある。川は全く新たなる水筋を流れて長い板橋が架かり、曾て魚を釣り又は水を泳ぐとて、衣類を脱ぎ掛けた淵の上の大岩は、小石原のまん中から圓い頭だけを出して居る。赤土の日に映じて居た周圍の山々には、頻りに樹を栽ゑ草を茂らせて、外線が何れも柔かになつた。雨や霞の風情もきつと美しくなつて居ることゝ思ふ。家も瓦葺き瓦庇が多くなつて、見馴れぬ草木が移し植ゑられて成長して居る。諸國の旅を重ねた後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍らしい好い處であつた。水に隨ふ南北の風透しと日當り、左右の丘陵の遠さと高さ、稻田に宜しき緩やかな傾斜面、假に瀬戸内海の豐かなる供給が無かつたとしても、古人の愛して來り住むべき土地柄であつた。繁榮の條件は昔から備はつて居る。從つてやゝともすれば生れ過ぎ居り餘り、樂しい生活に執着するばかりに、爭ふまじき人々が爭ひ且つ闘つた。歎きつゝ遠く出て往つた者もあれば、去る能はずして苦しみ惱む者も實はあつた。それが今日の如く昔に立ちまさつて美しい緑の山水の中に、能く悠揚平和なる生存を持續するの術を學んだとするならば、必ず住民の性情にも、近年顯著なる變化があつたに相違ない。(8)來ては直ちに還り去ること、恰かも盆の精靈のやうな自分には、それを見出すことが困難である。どうか語つて聽かせて下さいと、舊友たちに頼んで見たことであつた。

　土地に住んだまゝで年を取つた者には、それ程明白なる外景の變遷すらも、實は今までは心づかずに過ぎたのである。ましてや父と子、祖母と孫娘との心持のちがひが、同じ進化の道を辿るものゝ本と末とであつて、一は消え去り他は新たに現はれる時代の氣風であつたことを、どうしてさうたやすく覺ることが出來よう。只強ひて求めて以前は無かつたことを列擧するならば、是は定めて全國一樣の現象でもあらうが、村々にも利口な人が多くなつた。貧しい家々に生れた者でも、たやすくあきらめて分に安ずると云ふ癖が無くなつた。古い型を守つた勤勉が、必ずしも安全の道で無いことが會得せられた。さうして又鐵道電話の類が頻りに新しい機會を田舍にも運んで來て、特にえらい奮發をして郷里を飛出さずとも、自然に外部の金で村に居て富むことが出來た。それは運などゝ謂ふものよりは遙かに的確な原因ではあつたが、やはり數限りも無い智慧技術の中から、兼々適當な選擇をして居た者が成功したので、大體に於て居住地とは縁の乏しい都市や遠方の國に働く人と、共通した經驗を持つて居る方が都合がよかつた。其結果として、最も居心地よく村に住んで居る者が最も村の事情に疎く、一番村人らしく無い人が、近所鄰と競爭しようとせぬ故に、却つて村の安寧を支持するといふことが、見やうに由つては近頃の變化かも知れぬ。新しい愛郷心が形を具へて來る迄は、斯ういふ冷淡とよそ心とが、僅かに田舍の生活に餘裕を與へる。人が世間師と爲り地方文化の傳統を輕んずるやうで無かつたなら、小さな盆地の生業は夙に自給に十分ならず、已む無く烈しい爭奪を以て、一部の友人を此安樂郷から外へ突き出さうとしたことであらう。それがともかくも互ひに打ちくつろいで、靜かに一同が養はれて居るのである。古い物のはら／＼と壞れて行くのも、其代價としてならば致し方が無い、と謂つたやうな考へを持つて居る人もあつた。

　自分などもそれでいゝのだと實は思つて居る。我々が少年の頃は田舍がずつと長閑で、鳥も多く來て啼き、山には(9)鹿猿が遊んで居たけれども、人の浮世の樂しみは、今の最も不幸な者よりもまだ少なかつた。今の貧者は比較に由つて不滿は感ずるが、慰藉もあり希望もあつて、倦むこと無く子弟を教育して居る。さうして此子弟の大きくなる頃には、又一段の變遷の來ることが豫期し得られる。會ては我々が餘りに日本人であつた爲に、久しく匿れ埋もれて居た「人間」が、時來つて終に其姿を顯はした如く、やがては又荒海の岸から引返して、寂しい旅人は其故郷を訪ねて來るであらう。少なくとも浦島の子の惑ひを抱いて、玉の櫛笥を開いて見ようとするであらう。或は其時節がもう來て居るのでは無いかとさへ思はれる。物に紛れて暫らく忘れ遠ざかつて居たが、島に敷千年の國を立てゝ居た民族で無ければ、到底持ち傳へられない古くからの習はしが、一朝にして消え失せる道理は無かつたのである。眠が思ひ掛けぬ夢を誘つて來るやうに、無心に生活の營みを續けて居ると、却つて端々から昔の「日本人」が顔を出すのを、今までは單に心付き考へて見る者が無かつただけでは無いか。我々が新たな時代の癖、又は突發した奇現象と認めて居るものゝ中にも、由緒あり因縁があつて、しかも學問の力の今なほ之を解説し得なかつた類が多いのではあるまいか。例へば自分の郷里の郡などでは、林野の保護が行屆いて、山がいつの間にか上代の所謂青垣山と爲つたが、戻つて來て之を見て驚歎する者は、自分の如き三十何年前の村人だけであつて、今一つ古い世の人には、それは久しく見馴れたる常の姿であつたに相違ない。しかも年代記や覺え書の類は、如何なる場合にも常の姿を書き殘さうとはしなかつた。それと同樣にあまり有りふれて居た爲に、却つて多くの凡人生活が不明になつて居る。今見る此地方の氣風のうちで、何れの部分が新しい變化であり、どの部分が暫くは潜んで居た古い本性の再現であるかは、單に之を見分けようとする志が有るのみで無く、自分のやうに樣々の町や田舍をうろついて後に、年經て還つて來た物珍らしさの眼を以て、比較をする者の判斷が必要であつたのでは無からうか。もしさうだとすれば人の生涯は短かい。また此次にと延期をして居ても當てが無い。何なりとも今諸君が心付かれることを、話して聽かせてもらひたいものだとも言つて見た。

　

(10)　　　　　　　　　　二

　

　さうすると追々に色々の話が出て來る。他の地方ではどうか知らぬが、人が全體にやさしくなつたやうな感じがする。殊に目につくのは子供を大切にする風習である。以前は野放しにして置いて、自然に育つ者だけが育つといふ有樣であつたのが、もうそんな氣樂な親は少なくなつた。一家の生計から考へても、子の爲に費す所の入費が、學校にかける金を除いても、相應に多くなつたやうに思はれる。此邊の農家では昔から牝牛を飼つたが、乳を搾ることが出來るやうになつたのは、森永の大きな工場が川の岸に建てられた、ほんの少しく前からである。今では早天に一朝も缺かさず、自動車が村々を廻つて牛乳を集めて居る。嬰兒の死亡率が少なくなつたのは、それから以後の著しい現象であるが、如何に價の安い牛乳でも、買つて飲ませて乳の不足な子を養はうとするのは、先づ以て親心の大きな變化であつたといふ。なる程さう聞けば同じ情愛が、小學校の兒童の服装などにも現はれて來たことは、必ずしも特に生計の豐かな或地方には限らぬやうである。

　それからまだ一つ意外であつた話は、兄妹の親しみが深くなつて來たと云ふことである。其中でも兄が成人するにつれて、妹を頼りにして仲よく附合ふことは、今は殆と世間一樣の風であつて、しかも以前には丸で知らなかつたことであると云ふ。始めて思ひ當つたことだから、まだ説明の材料も備はらぬが、見やうに由つては幾通りにも其原因が考へられる。何にしても興味ある問題であると思ふ。

　或は此現象を解釋して、婦人解放の一過程と見ようとする者もあるだらうが、それも決して誤りでは無い。男女の差別を嚴にした近世儒教の法則は、特に女性に向つて過酷であつたが、それは必ずしも國民全部の家庭を支配しても居なかつた。しかも二間ある家ならば、必ず女の領分は奧の間の方であつて、引込めば引込んで居るだけゆかしがられたことは事實であつた。支那などではマトロンと爲つて後、亭主を鞭うつほどの勇敢な婦人でも、娘の頃、妹たる(11)時は皆極度に貞淑であつた。貞淑と云ふ語は無表情を意味して居た。今も上流の間に折々殘つて居る如く、絶對に何物でも無いかの如く、見せかけるのが技術であつた。誠に詮も無い流行ではあつたが、既に名づけて女のたしなみとも謂ふ通り、言はゞ若い娘のそれが趣味だつたので、必ずしも外聞が之を強ひたのでも無く、又一生の間公私を通じて、女の習性を一變してしまふ程の大なる主義でも無かつた。單に昔は兄などゝ馴々しく、物を言ふやうではいけなかつた迄であると思ふ。

　古來の風俗畫を見て社會生活の一端を窺はうとする人が、常に不思議に思つてゐることが一つある。繪卷物の美人は、いつでも一本の線で切れ長の眼を描かれて居る。降つて浮世又平時代の精細な寫生に於ても、艶麗なる人は必ず細い眼をして或一方を見つめて居た。それがいつの代からの變遷であつたか、「女の目には鈴を張れ」などゝ、大きな圓味のある眼を以て美女の相好の一とするに至つた。如何に時世の好尚が選擇するからとても、一つの民族の間に此までの面貌の差異を生ずる筈が無い。必ずや人間の技術乃至は意圖を以て、天然の遺傳を抑制した結果だと思ふ。自分の家にも多くある女の兒の中に、兄が自動車さんなどゝ綽名を與へた、目の大きなのが一人ある。之に就いて實驗をして見ると、結局は大きくも小さくも出來る目を、頻々と大きく見開いて居るのであつたことが判つた。本來の形?は何とあらうとも、力めて之を圓くする機會を避け、始終伏目がちに、額とすれ／＼に物を見るやうにして居る風が流行すれば、誰しも百人一首の女歌人の如く、今にも倒れさうな恰好を保たしめて、其目を絲に畫かねばならなかつたのである。それが時あつて顔を昂げ、まともに人を見るやうな態度を是認するに至つて、力ある表情が始めて解放せられたので、多分は公衆に立ちまじり、歌舞などに携はつた者の趣味が、只の家庭にも傳播したのであらう。

　同じやうな變化はなほ服飾などの上にも現はれる。例へば最近まで眼に觸れた女の拔衣紋《ぬきえもん》は、勿論直接の原因は髪の形、即ち無暗に長く突出した髱を保護するに在つたらうが、さういふ形を考案して、頸の後部を装飾しようとするに至つたのも、やはり眼を細くして居るのと同じ趣旨から、始終此部分を白く長く、露出することが流行して居た爲(12)で、黒髪を長く垂れて居た時代が過ぎると、所謂襟足はしとやかな娘たちの一番大切な外貌となつて來て、之を美しくする爲に色々の趣向が立てられたのである。ところが僅かな年數の間に都市村落を通じて、そんな點に辛苦する者はもう殆と無くなつた。病氣でゞも無い限りは前こゞみの、伏目受け口などであるく娘を見かけず、何れも襟を掻き合せて頭を天然の高さに復し、前に現はれる物なら何でも見ようとする態度を以て、去來するのを通例とするやうになつた。日本ではまだ色々の不滿を指摘せられて居るが、是などは正しく教育の力であつて、一般に妹の兄との交際を可能にし自由にしたのも、亦其結果であらうと自分は思ふ。

　たゞし此解説が理由の全部であるとは思はぬが、假に婦女子が必要も無い謙遜から放免せられ、各自その天性の快活を以て家庭を明るくし、殊には孤獨を感じ易い青年の兄たちを樂しましめるのだとしても、それは結構なる變化だと考へ得る。ところが今日の物知りには、卑俗なる唯物論者が多く、此の如き兄妹間の新現象を以て、單純なるエロチシズムの心理に歸せんとし、一方には又常習の悲觀家なる者が之と合體して、往々にして之に據つて解放の弊をさへ唱へんとするやうに見える。しかし其觀察は明瞭に誤つて居る。假に兄弟の交情の底の動機に、若い者らしい又人間らしい熱情が潜んで居たとしても、世には是ほど無害なる作用が果して他にも有るだらうか。無害と云ふ以上に此の如き異性の力は、?々他の惡質の娯樂から、單純なる人々を防衛して居る。あらゆる生物は言はずもあれ、人類の社會に於ても、新たなる家の分房の行はるゝ迄の期間、決して相とつぐこと能はざる男女の群が、斯うして互に愛護して最大の平和を保つて居た。それが即ち家庭であつた。その至つて單純なる元の形に、戻つて來たと云ふまでゞあつて、言はゞ我々の肉親愛の復古ではなからうか。

　故に之を名づけて愛情の解放と呼ぶまでは差支へないが、其動機の推察にあまりに深入して、假令有り得べからざる危險を憂慮せぬまでも、往々に其自由を無用視しもしくは輕蔑しようとする者があるならば、それこそ囚はれたる昔風である。母なども以前の尋常の家庭に於ては、はか／”＼しくは人中に立ち交らず、成長した息子たちの之に向つ(13)て、打ちとけた心持で女が女同志、又は男が男ばかりでするやうな世間話をして居る所などは、外から來た者には曾て見かけられなかつた。いつでも怒つて居るのかと思ふやうな簡單な、ぶつきら棒の應答をするのが、父でも夫でも男たちの普通の態度で、女は又さうせられるのを當然として居つた。是は必ずしも母や妻の趣味ばかりでは無かつた。遠い昔から女には色々の禁忌があつて、漁獵戰爭の如き男子の專業には、干與し能はざる嚴しい慣習のあつたのが、本の意味が不明に爲つて、いつしか此樣な形式をとるに至つたのである。薩摩の如きはつい近い頃まで、婦人を憎みきらふことを以て、強い武士の特徴として居たこと、西洋のシバルリーとはちやうど正反對で、戒律のやかましい聖道の僧などよりも、更に過ぎたるものがあつた。堂々たる男子が僅かの接近を以て、すぐにめゝしさ柔かさにかぶれるものと信じた筈が無い。きたないとか穢れるとかいふ語で言ひ現はして居たけれども、つまりは女には目に見えぬ精靈の力が有つて、砥石を跨ぐと砥石が割れ、釣竿天秤棒をまたぐとそれが折れると云ふやうに、男子の膂力と勇猛とを以て爲し遂げたものを、たやすく破壞し得る力あるものゝ如く、固く信じて居た名殘に他ならぬ。其樣な奇異の俗信がもう無くなつて、漠然たる畏怖のみが永く留まり、元來親しみ馴れて相愛すべきものが、うはべは少なくとも疎遠なる形式を保つて、この新時代の活々とした世の中に入つて來たのである。そんな無用の垣根の撤せられたのは、至つて自然なる結果であつて、今まで之を豫期しなかつたのが迂遠なくらゐのものだ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　しかし現實は決して此話ほどに簡單では無い。禁忌は之を知らない國の人が想像するやうに、徒らに我々を拘束する迷信では無かつたのである。社會の或一部分の便宜の爲に、強ひて設けられた律令と謂ふことは出來るが、本意は寧ろ未知の外界に對する一種の對抗策で、他の力弱き動物などが常に危害の大小を測りかねて、遁走と潜匿との爲に生涯の半ばの力を費して居るのに反し、一定最少限の條件をさへ守つて居るならば、人は自在に行動して何の怖るゝ(14)所も無いものだと云ふことを、我々が確信し得たのも此御蔭で、言はゞ人間の勇氣の根源を培ふものであつた。勿論誤つたる判斷推論が、無くともよかつた幾つかの拘束を、後生大事に保存させたことは事實だが、それは今日の議院と雖も免れない。全體から見て其時代の、どうしても必要だと認めたものが慣習と爲り、之を破れば一般の不安を感ずる間は、人は之を守らざるを得なかつたのである。人間の智慧には不確かなものが多い。此不安を追拂ふことは容易で無かつた。婦人を叨《みだ》りに近づけず、又多くの男の仕事に參與せしめまいとしたことは、我々の眼には理由の無いことであるのみならず、又その最初の經驗も忘れられて、今では之を説明する者も無い姿だが、それでもなほ此頃の如き變化に遭遇すると、彼等自身にも解し難い氣遣はしさの爲に、首を傾け眉を顰めようとする老翁などのあるのは、何かよく／＼底深い惰性の、元の力として潜んで居る爲では無いかとも想像せられる。

　自分たちの學問で今までに知られて居ることは、祭祀祈?の宗教上の行爲は、もと肝要なる部分が悉く婦人の管轄であつた。巫は此民族に在つては原則として女性であつた。後代は家筋に由り又神の指定に隨つて、彼等の一小部分のみが神役に從事し、其他は皆凡庸を以て目せられたが、以前は家々の婦女は必ず神に仕へ、たゞ其中の最もさかしき者が、最も優れたる巫女であつたものらしい。國の神は一つ以前には地方の神であり、更に溯れば家々の神であつたのみならず、現在に至つても、家には尚專屬の神があつて、季節もしくは臨時に祭られて居るのを見ると、久しきに亙つて此職分は重要であつた。而うして最初此任務が、特に婦人に適すと考へられた理由は、その感動し易い習性が、事件ある毎に群衆の中に於て、いち早く異常心理の作用を示し、不思議を語り得た點に在るのであらう。雋敏なる兒童の中には、往々にして神を見、神託を宣する者はあつたが、成長するにつれて早く特性を失ふ上に、斯んな子を生み育てるのもやはり女だから、女は常に重ぜられた。殊に婦人の特殊生理は、此の如き精神作用に強く影響した。天然と戰ひ異部落と戰ふ者にとつては、女子の豫言の中から方法の指導を求むる必要が多く、更に進んでは定まる運勢をも改良せんが爲に、此力を利用する場合が常にあつたのである。故に女の力を忌み怖れたのも、本來は全く女の(15)力を信じた結果であつて、あらゆる神聖なる物を平日の生活から別置するのと同じ意味で、實は本來は敬して遠ざけて居たものゝやうである。

　そんな待遇をする必要が、もう殆と無くなつた近世まで、場合によつては尚かよわい者の力が信ぜられた。獨り物を害する魔性の力だけでは無い。或種のまじなひには女を頼まねばならぬものがあつた。年々の行事で最も著しいものは田植である。昔の人の推理法は興味がある。女は生産の力ある者だから、大切な生産の行爲は女に頼むがよいと云ふ趣意であつた。之に伴なうて色々の儀式の、至つて古風なものが今も殘つて居り、從つて又神秘なる禁忌があつた。一方には又おみき・おなほと云ふ類の老女の、神と交通したと云ふ話が實事として數限りも無く語り傳へられる。實際其不可思議には數千年の根抵があるので、日本の男子として之に動かされることは聊かも異例で無かつた。世界的の宗教は大規模に持込まれたけれども、我々の生活の不安定、未來に對する疑惑と杞憂とは、佛教と基督教とでは處理し盡すことが出來なかつた。現世幸福の手段としては不十分なる點が見出された。而うして其缺陷を充すべき任務は、太古以來同胞の婦女に屬して居たのである。倭姫命の御祭祀が單なる典禮になつてしまふと、光明皇后や中將姫の祈願が始まつたやうに、一つの形が不十分となれば、第二の方法が考へられなければならぬ。故に兄の寂寞を妹が慰めるのも、言はゞ此民族の一續きの大なる力の、一つの新しい波に過ぎないのかも知れぬ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　最近に自分は東北の淋しい田舍をあるいて居て、はからずも古風なる妹の力の、一つの例に遭遇した。盛岡から山を東方に越えて、よほど入込んだ山村である。地方にも珍らしい富裕な舊家で、數年前に六人の兄弟が、一時に發狂をして土地の人を震駭せしめたことがあつた。詳しい顛末は更に調査をして見なければならぬが、何でも遺傳のあるらしい家で、現に彼等の祖父も發狂してまだ生きて居る。父も狂氣で或時佛壇の前で首を縊つて死んだ。長男がたゞ(16)一人健全であつたが、重ね／”＼の悲運に絶望してしまつて、?々巨額の金を懷に入れ、都會にやつて來て浪費をして、酒色によつて憂を紛らさうとしたが、其結果は是もひどい神經衰弱にかゝり、井戸に身を投げて自殺をしたと云ふ。村の某寺の住職は賢明な人であつて、何とかして此苦悶を救ひたいと思つて、色々と立入つて世話をしたさうだが無效であつた。此僧に尋ねて見たらなほ細かな事情がわかるであらうが、六人の狂人は今は本復して居る。發病の當時、末の妹が十三歳で、他の五人は共に其兄であつた。不思議なことには六人の狂者は心が一つで、しかも十三の妹が其首脳であつた。例へば向ふから來る旅人を、妹が鬼だと謂ふと、兄たちの眼にもすぐに鬼に見えた。打殺してしまはうと妹が一言謂ふと、五人で飛出して往つて打揃つて攻撃した。屈強な若い者がこんな無法なことをする爲に、一時は此川筋には人通りが絶えてしまつたと云ふ話である。

　鈴木正三の因果物語の中にでもありさうな話である。佛者などに言はせると、必ず一應の理由はつくと思ふが、單なる狂暴の遺傳以外に、別に古來の異事奇聞の、多くの例に共通した何等かの法則が潜んで居る樣な感じがする。假に此等の狂人が今少しく平和なものであつて、鬼を見る代りに神仙を見、乃至は著聞集の狩人が箭をつがへて射たと云ふ如き、三尊來迎の御姿を見たのであつたらどうであらうか。近世の俗人たちの不思議奇瑞の分類法は、實はあまりにも單純であつた。平素より多病多感なる一人が、夢と現《うつゝ》の境に有り得べからざることを見たと説くが如きは、之を幻覺なりと謂ひ又は誇張妄信なりとして、耳を假すまいとするけれども、三人五人が打揃うて現に目撃したと謂ふ場合には、乃ち舌を卷いて驚歎しようとしたのである。素朴一樣の生活をした昔人は、心理も亦　　　略々同じ傾向を持つて居り、利害も趣味も感情も相似たる結果、似たやうな誤謬を經驗することは有り得べく、殊に前に掲げた例のやうに、其間に強い統一の力の現はれ得ることは明らかだが、未だ之を考へた人は無いらしいのである。

　是も奧州に例の多い座敷童子《ざしきわらし》、或はクラボッコとかスマッコワラシとか、色々の名を以て呼ばるゝ童形の家の神は、其姿を見たといふ者に證人を出し得る話が多い。關口善平と云ふ人は少年の頃、數人の友だちと共に、鄰家の座敷で(17)此神の舞ひ跳るを見たと謂ふ。普通に髪を耳のあたりまで切下げて居ると云ふに反して、たしかに坊主頭であつたと云ふ一點を除く外、衣服などの事を今尋ねて見ても、正直な人だから單に記憶せぬと謂ふ。小兒の淡い考へ方では、其當時一人々々に就いてたゞして見ても、聽きやうによつては皆うんと答へ、やがて又さう記憶してしまつたかも知れぬが、精確に記述させたら必ず若干の喰違ひのあることを、どれも是も一樣であつた樣に信じてしまふ場合が多からう。例へば日本全國に亙つて誰でも説くことは、天狗倒しなどゝ稱して白晝に山の中で、大木を挽き伐り倒す音であるが、是などは全部落の者が同時に之を聽いて、後に其邊に往つて見ると何の痕も無いのが例であつた。都會に於ては夜ふけて囃子《はやし》の音をきくことがある。場所方角は一定せず、しかも一時に多勢の者が、あれ又今夜も遣つて居ると、言ふ場合が多いのである。斯う云ふ簡單な、しかも曾て聞いた印象の深い音響の再現は、何千人に共通しても之を幻覺と認めることが出來る。鐵道の開通した當時、時刻でも無い時に汽車が通り、或は其笛の音、車の響がしたといふなどは、新しい奇事ながら無數に村々で話がある。狐狸が眞似をすると説明せられ、或は狸は馬鹿だから、本物の汽車と衝突してたうとう死んだなどゝ云ふ噂までもある。即ち別に一人の統率者が無い場合にも、強い因縁さへあれば多人數の幻覺が一致をする。現代の個人はめい／＼勝手次第の、生存を巧んで居るつもりで居るか知らぬが、流行や感染以上に昔からの隱れた力に、實はまだ斯うして折々は引廻されて居るのである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　だから大正十五年以後にも、斯んな出來事はなほ絶無を期し難いと思ふ。福島縣の箭内《やない》名左衛門氏は、地方の先覺であり新知識であるが、前年自分が彼村を訪ねたとき、斯う云ふ話をしてくれた。此附近には三十年か四十年に一度、必ず一人の異人が出現する。其威力の絶頂に在る間は、呪術も豫言も悉く適中して、如何に本人の元の身分を熟知した者でも、歸依渇仰せざるを得なかつた。但し一年もたつうちには靈驗が衰へて、多くは氣付かぬ間に何處へか往つ(18)てしまふさうである。始めて斯う云ふ異人が人に認められるのには、殆と一定した形式があつた。若干の微弱な前兆の後に、突如として物憑きの相を示して、屋根の上に飛んで上る。さうして棟の端に馬乘りに跨がつて棟木をつかまへて押動かすと、どんな大きな土藏などでもぐら／＼と搖いだと云ふ。之を集まり見た衆人は、もう其力を疑ふことを得なかつたので、物理學の法則からは有り得べからざることを承知して居るが、現に多數が其事實を認めたのだから、爭ふことが出來ぬと云ふことになつて居たといふ。

　昨年の初夏には、又自分は陸中の黒澤尻から、羽後の横手の方へ通らうとして居た。和賀川の左右の岸に、此邊特有の東向き片破風《かたはふ》の茅葺きの農家が、草木の茂みから處々にその寂しい姿を見せて居る。汽車の窓を開いて同行の阿部君が、其一個を指點して謂ふには、あの家には二三ヶ月前から、大さうよく當る占ひ者が出ました。毎日のやうに遠方から、見てもらひに來る人が今でもありますと云ふ。まだ若い女房である樣子であつた。此地方一帶には至つて多い例で、時としては同時に五人三人と輩出して、力を競はねばならぬ場合さへあつた。固より尋常の田に働く女であつて、東北でよく聞くモリコ又はイタコの如く、修行と口傳とを必要とする職業の巫女とは別であつた。從つて最初何等かの奇瑞の、先づ周圍の人々を驚かすものが無かつたならば、世間が此の如き神姥の出現を知る機會は無いのである。ところが平生はそつけ無い物言ひをして、人の前では碌に眼も見合さぬ兄や夫が、實は潜かに家の女性の言行に對して、深い注意を拂つて居たのであつたことが、こんな異常の場合になるとすぐに露顯する。通例將に靈の力を現はさんとする女は、四五日も前から食事が少なくなる。眼の光が鋭くなる。何かと言ふと納戸に入つて、出て來ぬ時間が多くなり、それからぽつ／＼と妙な事を言ひ出すのである。不斷から稍々陰鬱な、突詰めて物を考へるたちの女ならば、折々は家族の者の早まつた懸念の爲に、幾分此?態を促進することも無いとは言はれぬ。さうで無くても産の前後とか、其他身體の調子の變り目に、此現象の起りがちであるのを、やはり新しい醫學の理論などに頓着無く、全然別樣の神秘なる意義を彼等は付與したのである。だから世間も勿論此類の風説に決して冷淡では無かつたの(19)だが、しかし第一次の固い信徒は、如何なる場合にも必ず家族中の男子であつた。

　と謂ふよりも神憑きを信じ得ない家には、神憑きの發生することは決して無かつた。大和丹波市の近世の巫女教の如き、其隨從者は之を天下に布かんとする意氣込をもつて居るが、其發端に於ては何れも小規模なる家庭用であつた。昔は個々の家庭に於て、神に問ふべき問題が今よりも遙かに多く、寧ろ求めて家の婦人を發狂せしむる必要すらもあつた。しかも宿る神は八百萬で、正邪優劣の差が著しく、宿主の願ふまゝにもならなかつたので、こゝに儀式や禁忌のやかましい條件が案出せられ、成るべくは人間の生活に便宜なる貴い訪問者を、選擇しようとしたのである。

　我々の民族の固有宗教は、正しく此點に於て二筋に分岐し、末々別途の進展を遂げた。家と家、部曲と部曲の競爭に於て、優れたる巫女の力に由り、最も尊く且つ正しい神を、御迎へ申すことを得た家は、一門の繁榮と附近住民の信服が思ひのまゝであり、此に助けられて男子の事業が成功すると共に、信仰も亦次第に統一せられたが故に、祭祀は其中心家族の事業と爲つて、劣つたる神を持つ家々では、最早之に向つて各自個々の勸請をせぬやうになつた。しかも單に積極的に名を指して神を迎へる風が止んだと云ふのみで、婦人が靈に憑かれる習性までは絶やすことは出來ず、却つて以前に増して飢ゑたる靈、憤る神の如き遙かに階級の低い神靈が、招かざる賓客として時々尋常の家を訪ふことを、如何ともし得なかつたのである。公認せられた神道から見れば、言ふまでも無くそれは邪神ではあつたが、家としてはなほ古い親しみもあつて、敬して之に仕へたのみか更に其恩顧を利用せんとさへした。例へば狐の精、蛇の精といふが如き低い神でも、其靈が人間以上なる限り、之を饗し之を禮すれば冥助が有り、之を怒らしむれば其罰は中々に正しい神よりも烈しかつた。家々の祖先の靈、又は住地と縁故の深い天然の諸精靈の如きは、假に之を避け退ける方法があつても、無情に之を驅逐するに忍びなかつた。況や人と彼等との間に立つて、斡旋し通譯するの任務が、主として細心柔情にして能く父兄を動かすに力ある婦人の手に在つたのである。是れ日本人の家の宗教の、久しく元の形を崩されつゝも、なほ其破片を保存せられた所以であつて、同時に又新しい色々の迷信の相次いで興隆した(20)所以でもある。

　

　　　　　　　　　　六

　

　我々が今讀んで居る歴史と云ふものゝ舞臺には、女性の出て働く數は甚だしく少なかつたが、表面に現はれた政治や戰爭の事業にも、隱れて參加した力は實は大きいのであつた。さういふ心持を以て再び前代の家庭生活を眺めて見ると、久しく埋もれて居たゞけに、なつかしい民族心理の痕が際限も無く人の心を引く。但しなつかしいと云ふことは、必ずしも其昔に戻れと云ふことを意味しない。そんな面倒な拘束に今更從はねばならぬ必要は無いのみか、我々の名づけて古風と云ふものにも、上古以來何度か時勢の影響の著しいものがあつて、結局はどれが信仰の原の型と名づくべきものかを、指示することも出來なくなるのに、徒らに是に追隨する理由は無いからである。

　それでも歴史を辿つて行くと、我々が便宜の爲、又此信仰の變遷の標準を掲げる爲に、假に名づけて玉依彦・玉依姫の世と稱するものはある。此二柱の神は人も知る如く、賀茂の神人の始祖であり、同時に又上の社の御神の、御母と御伯父である。曾ては人間の處女の心姿共に清き者の中から、特に年若く未だ婚がざる者のみを點定して、神の尊き靈が御依りなされし時代があつた。他の多くの舊社には永く此例を遵守する者もあつたが、此場合には必ず代々の兄の家が神職を相續して、大工のジョセフよりも今一段と自然なる保護と奉仕とに任じ、又その御神の力を負うて、附近の部曲に號令することを得たのであつた。即ち人界に在つては藤原氏が、久しい年代に亙つて力と頼んで居た、外戚の親に該當するものである。兄弟の縁は見やうに由つては、父子の續きよりも確實である。今もし天つ神が大昔の母系の血筋を重んじたまひ、且つ女性の純潔を要求したまふとすれば、斯うした結合に由つて叔母から姪女へ、奉仕の職を傳へるの他は無い。神巫の家筋は何れの社でも、皆斯うして保存せられた。後次第に年限を定めて、年たけて夫を持つことを許され、或は必ずしも處女なることを要せぬやうになつたのみである。伊勢の内外宮に於て物忌父《ものいみのちゝ》(21)と呼び、越前飛騨等の或舊家でテヽと稱するものも、尚この玉依彦思想の第二次の延長であると見られる。

　此の如き兄妹の宗教上の提携の、如何に自然のものであつたかは、遠近多種の民族の類例を比べて見てもわかる。近くはアイヌの昔物語に於ても、最近金田一氏の譯出せられた傳説に依れば、處々の島山に占據した神は、必ず兄と妹との一組にきまつて居た。沖繩は固より我民族の遠い分れで、古い樣式を保存し得る事情はあつたが、是亦御嶽の神々は男女の二柱であつて、其名の對偶より判じて見ても、我神代卷の最初の雙神と共に、本來同胞の御神であつたことが想像せられる。齋院が神を祭る慣習も彼島には近世まであつた。元は一々の舊家名門に、各々小規模の玉依姫が定められて居たことは、現在まだ疑ふ餘地の無い痕跡が存して居る。内地に於ては祝神主の男子が、政治の必要から次第に巫女の家を抑制したに反して、彼に在つては今も祭祀が婦人に獨占せられて居る。其上に重要なる祈願に於ては、もとは?々「をなり神」を拜する習があつた。即ち妹の神女を仲に立てゝ神の靈に面することであつて、ヲナリは島々に於ては現に又我々の謂ふ姉妹を意味して居る。同じ語とおぼしきものが内地で用ゐられるのは、たゞ田植の折の田の神の祭のみであるが、其任務の極めて神聖に、且つ家々の生活にとつて最も重要であつたことは、歌曲と口碑の中からも之を窺ふことが出來る。

　簡單に話を運ばうとした爲に、却つて註脚の必要な部分が多くなつたが、自分は之に由つてむつかしい學問上の論斷を下さうとするのでは無い。新しい時代の家庭に於ては、妹の兄から受ける待遇が丸で一變したやうに見えるけれども、今後とても女性の社會に及ぼす力には、方向の相異までは無い筈である。もし彼女たちが出でゝ働かうとする男子に、?々缺けて居る精微なる感受性を以て、最も周到に生存の理法を省察し、更に家門と肉身の愛情に由つて、親切な助言を與へようとするならば、惑ひは去り勇氣は新たに生じて、其幸福はたゞに個々の小さい家庭を惠むに止まらぬであらう。それには先づ女性自身の、數千年來の地位を學び知る必要が有る。之を我々のやうな妹を持たぬ男たちに、一任して顧みないのはをかしかつたと言ひ得る。人間の始めたことに本來意味の無いことは有り得ないのに、 (22)之を迷信などゝ輕く見てしまつて考へて見ようともしなかつたのは、同情の無い話であつたと云ふことを、改めて新しい時代の若い婦人たちに説いて見る必要があると思ふ。

　

(23)　　　　　玉依彦の問題

　

　　　　　　　　　　一

　伊波普猷氏の事業の中には、單に我々同時代の學徒に、大きな啓發の機會を供しただけで無く、永い未來にかけて、人類がどうしても解き明らめねばならぬ問題を、提出して居るものが幾つもある。昭和二年の初めに、雜誌「民族」に公表せられた「をなり神考」もまさしく其一つであるが、自分の知つて居る限り、あれ以後この問題は格別展開もして居ない。寧ろ少しづゝ忘れられようとして居る。弘く南海の群島を通じて、女性の同胞を意味するヲナリは、古くはその男の兄弟に取つて、事ある場合の守護指導の靈と認められ、從つてヲナリの神といふ語は數多く古典の中に遺つて居るのみか、今も其痕跡とおぼしき習俗が、幽かながらそちこちに傳はつて居る。といふまでの事實はほゞ證出せられて、我々をして驚歎せしめたのであるが、それが果してこの極東の偉大なる民族に、固有の信仰であつたらうかどうか。然りとするならば國の一部にはどうして夙に失はれ、もしくは如何に形貌を變へて、普通には氣づかれぬまでの底の流れとなつてしまつたか。斯ういふ大切な一點を突留める爲にも、所在に就いてもう少し餘分の事實を知らなければならなかつたのである。ましてや是が此地上の、あらゆる人間の社會を通じて、一度は經過しなければならなかつた文化の一段階であつて、たま／＼多くの國ではそれに氣づかずに居るのか、或は又島を本據とした日本民族のみが、特に與へられて居た經驗であるのか、兩者何れかの一つで、どちらでもないといふ筈は無いのだが、是(24)を決する爲にも今だけの知識ではまだ足らぬやうに思ふ。自分は伊波氏の學友である以上に、此問題に對しても若干の縁故をもつて居る。僅かな切れ／”＼の註脚でも加へて置いて、せめては後來の學者の爲に捜索の勞を省き、かつは我々の關心が最初から、必ずしも微弱でなかつたことを示したいのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　この姉妹神の信仰に關する報告に接して、はたと膝を拊つ程の心當りが私にもあつた。それを成るべく順序立てゝ述べると、大正三年には文部省の事業として、俚謠集の一書が刊行せられたが、此中には島根廣島二縣の田植唄が澤山に採録せられ、殆と全編の半ばを占めて居る。オナリといふ日本の言葉の、始めて私たちの眼に入つたのは此時であつた。オナリが若い又盛装した、田植の日の女性であることだけは、次のやうな歌詞の中からでも察せられる。

　　　おなり殿の御《ご》だるやら赤い帷子《かたびら》で、

　　　（返）ぴらりしやらりと赤いかたびらでよ（安佐郡田植唄）

　

　　　今日のおなりの姫をやとふには、

　　　兵庫の町の中の町

　　　（かけ）おなりの姫樣をやとひ取るにはな、

　　　あまたのよせいで駕籠で迎へたりな（邇摩《にま》郡同上）

　

　　　（さげ）おなりどが十二の釜をとぎ上げて／＼

　　　（五月女）さんばい樣の飯をたく（飯石郡同上）

　

(25)　　　ひるまのおなりはどこまで送るか

　　　どこまで送るべしや、かじが島に送るど（神石郡同上）

　斯ういふ種類の歌が幾つとなく各村にあつて、何れも午前は待ち、午後は送るといふ言葉がある。他の地方の田唄や神事唄に、晝間持ちといふものと同じで、此日の飯を炊ぐ役であつただけで無く、自らそれを携へて田人に餉《おく》つて來る女であることはよくわかるが、歌に之を詠じて馬駕籠に乘せてとか、錦の帳《とばり》を張つて迎へるといふ類の、美しい空想の辭を傾け盡して居るのを見ると、是が此日の田の神の祭に、參與して居たらしいことも察せられるのである。

　オナリは中部以西の方言では、現在はたゞ炊事を意味して居る。乃ち平日さういふ任に在る婦人に田植の時の一役を持たせ、それが若い故に歌の題材ともなつたかの如く、想像する者も無いとはいへぬが、既に山城賀茂社の舊記にも殖女養女の名が竝記せられ、殖女はウヱメ即ち早乙女のことであり、養女の養はオナリといふ古訓があるから、曾ては缺くべからざる一つの地位だつたと思はれるのである。少なくとも其オナリは古語であり、又一地方限りの土語でもないのだが、伊波氏自身の干與した平凡社の大辭典の他は、近頃の辭書にもまだ録せられて居らぬのである。田植唄のオナリ人・オナリ樣も、ナリ（業）に御の字を冠らせたものでは無くて、或は采女《うねめ》や「うなゐ」と關係のある語ではないかと私には感じられて居た。さうして其起りを知りたいものだと念じて居た際に、ちやうど沖繩に渡つて始めて是が姉妹を意味する語であつたことを學んだのである。大正十年の一月は此爲にも永く記念せられる。沖繩のウナリはワ行であつた。從つて先島の方へ行くと、是がバ行に變つてボナリともブナジともなつて居る。それで又心づくのは、宮城・岩手の二縣に幾つかあるボナリ石を、文書には巫女石とも書いて居ることである。或は石が唸つたからボナリといふ名が生じたとも説明するが、遠野の町近くに在るのは石で無く、巫女の母と娘が淵に沈められて人柱になつたといふ口碑を存し、文字も母也《ぼなり》大明神などゝ書いて居る。即ち琉球とは最も遠い東北の田舍でも、オナリは(26)尚祭祀に參與する女性だつたのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　私が斯ういふ新たな興味を抱いて、八重山郡の石垣の島に上陸したのは、ちやうど我家の四番目のウナリが、留守中に三歳になつて居た頃のことであつた。四箇の村では今日はどうあるか知らぬが、其頃は門口の外に札を立てゝ、家族の名前がすべて列記してあつた。其中にボナリといふ娘の名の多かつたことは、沖繩本島のウシ・カマド以上である。岩崎翁の家に來て舞を見せてくれた、足のゆびに小さな入れぼくろのある、マクダ（平民）の若妻の名もボナルであつた。此島第二世の大阿母《おほあも》、多田屋ヲナリの出たといふ家を訪ねた時にも、たしか又一人のボナリが居た。それよりも更になつかしいと思つたのは、大濱の寂寞たる海邊の村に、前代の最も無名なるヲナリ神が、跡を留めて居る崎原の御嶽に詣でた時であつた。その御社は果知らぬ大洋の波濤に面して、山をそがひに隔てゝ立つて居るけれども、島では是たゞ一つが、大和の信仰と明らかなる筋を引いて居る。さうして今も此神に仕へる創業者の家の名を本若屋《もとわかやア》と呼ぶのも、何と無く奧州と似て居る。年代は明らかに記してないが、明和の大海嘯よりは少なくとも前の事である。さうして必ずしもさう古くは無かつたやうに思はれる。修飾が少なからうと思ふから、由來記の方の文を引用すると、

　　上古大濱といふ所に、ヒルマクイ・幸地《こうぢ》玉カネと云ふ兄弟あり、其頃當島に鋤鍬鎌なく、何かと相求めたく思ひ、船を作り水主《かこ》相催し、兄弟中乘にて開洋す。然るに薩州｜坊泊《ばうのとまり》の下町と申す泊へ着岸し、望みの鋤鍬鎌を買ふ折節、白髪なる老人立寄り、汝何國の人、何方の船と問ふ。答へて云ふ。八重山島ヒルマクイ・幸地玉カネといふ者、鋤鍬鎌買ふべく此島に來ると云ふ。又問云。汝島に崇敬する神あるや、無くば授くべしと云ふ。兄弟悦び授けたまへと申す。かの老人、櫃一つ相封じ渡して申す樣、此櫃洋中に於て鳴るべし。必ずその鳴る方へ船乘るべ(27)し。何事無く島に着くべき也。島に於て汝伯母妹に申し請ひ、此櫃開くべしと相語る。兄弟謹んで頂戴仕る。折節順風よく吹出しければ、神の御風と悦び纜を解き帆を掲げ、洋中に乘出す。老人の言ひし如く此櫃鳴る。奇妙に思ひ開き見るに、何も無く空櫃なり。不審なることゝ思ふ處、風相替り元の坊泊へ吹きつくる。又先の老人立寄り、汝洋中にて櫃を開くや否哉と問ふ。兄弟有りの儘に語る。老人又封じて云ふ。會て此櫃洋中にて開くべからずと堅く申されける。兄弟謹んで禮拜せば、追風又吹出す。兄弟悦び帆を揚げ、教の如く櫃の鳴る方へ乘掛れば、順風にて程なく大濱村崎原の泊に歸着す。乃ち伯母妹申し請ひ此櫃開きければ、御神乘り移り託宣あり、其時かのヒルマクイ・幸地玉カネ、立て始め申す御嶽と傳へ來り、今まで祭禮懈怠無く、當島へ新御神此時始めて御渡りなされし由申し傳ふる也。（註、大御神の後に渡ります故新神と云ふ）。

　

　　　　　　　　　　四

　

　この物語の最も信じ易いわけは、薩摩の坊津《ばうのつ》に農具を買ひに來たといふ、普通の歴史の中に織り込まれて居る爲ばかりでない。箱の神が鳴音を立てゝ、船人に船の行くべき方角を示すといふことは、今でも西國の海上生活者に、認められて居る靈異であるからで、たゞ我々の船玉樣には、既に櫃を開いて神託を聽くといふ方式は失はれ、單に船大工の棟梁が所謂ゴシンを入れるに先だつて、神實《かみざね》として若い女の髪の毛を綰《わが》ね納めることが、頗る島々のヲナリ神信仰の形と近いだけである。其風習も餘りに秘して居た爲か、今日はもう大分壞れて居る樣子で、或土地では未婚の男女の髪の毛を合せて入れるなどゝいふが、やはり最も多いのは船主の妻或は娘の髪に限るやうにも言ひ傳へ、伊豆の島では之を「舶玉さゝげ」とも謂つて居る。東京近くの海濱では童女の毛を求めるが、船玉の御神體に髪の毛を上げると、壽命が縮むなどゝ云つて、之を避けようとする者が多くなつたといふことである。

　但し女性が神と自分の兄弟との仲に立つといふ風習は、無論此時に始めて坊津から輸入したもので無い。島にも前(28)々の古い習はしがあつて、たとへ白髪の老人に教へられずとも、櫃を開いて直ちに神託を宣し得る者は、家の伯母妹の他には無かつたらうと思ふ。現に八重山では其兄弟が乘つて出た石垣船の起原に就いて、又一つのヲナリ物語を傳へて居る。昔竹富の島に、兄を島仲と謂つて年七つ、妹は五歳でアハレシといふ同胞があつた。兄は福崎《ほさき》の海岸に遊んで居て、三日月の輪の形をした物を拾ひ揚げ、それに感動して其形に似せて、船を造らうと思ひ立つて木を斫つて居た。そこへ妹が食物を運んで來てくれたので、おまへも早く大きくなつて神樣の御言葉を傳へ、此船に名を付けてもらひたいものだと謂つた。筆者の持つて居る由來記は爰に脱文があるが、遺老説傳を引き比べて見ると、此時に小さい妹はすぐに神オタカベを作つて唱へたやうである。さうすると念願は忽ち屆いて、乃ち御神が妹に乘り移り、島仲が造るところの船は五包七包船と名づけ、是にて海上往來あるべしといふ御神託を承はつた。此船は後に隣の黒島に漂著し、こゝでもその形を模して船を造つて居たけれども、なほ竹富は根原である故に、初期のスラ所（造船場）は此島に設けてあつたとあるのは、恐らくは是も由緒ある舊家の、ヲナリたちの言ひ傳へた物語であつたらうと思ふ。

　島に住する人々の船造りの起原は、よほど遠い昔の話でなければならぬ。從うて是に女性が援助したといふ言ひ傳へが、誤り又磨滅して幽かになつて居るのは已むを得ない。しかも何等かの痕跡とまでは、推測しても差支へは無いであらう。壹岐島昔話集に載せて居る「錢のなる木」といふ一篇は、昔話の部類には入れられない話で、又少しばかり破損しても居るが、片端はこの竹富島のアハレシの話と似て居る。昔御寺に上つて學問をして居た子供たちが、めい／＼小さな舟を造つて來て、寺の池に泛《うか》ばせて遊ばうといふことになつた時、貧しい家の一人の兒が、材料が無いので困つて泣いてゐると、其姉が今夜私が舟をこしらへて遣るから、心配せずにお休みと謂つて弟を寢かせ、後で田の土を採つて來て泥舟をこしらへ、紙を綺麗に貼りつけて次の朝其子供に與へた。この舟は決して人より前に泛ばせてはならぬ。皆が出してしまつてから一番しまひに泛ばせよ、と教へたといふのは、如何なる意味だつたかもう不明であるが、とにかくそれを泛べて見ると沈まなかつたのみか、ひとりでに漕ぎあるいてどの舟よりもよく動いた。そ(29)れで仲間に憎まれて酒を飲まされ、醉うて還つて來て弟は倒れて死ぬ。姉はそれを机の前に坐らせて死んで居らぬ樣に見せかけ、あとでそつと埋めて其上に小さな木を栽ゑて置いたら、次第に成長して錢のなる木になつたといふのは、何か混入のあるらしい筋の立たぬ口碑だが、結局その姉は神樣であつたといふので、多分本來は船に關する傳説だつたらうことが察せられる。今後氣をつけて居たら他の地方からも、同系の話が出て來て、この變化の徑路を明らかにすることを許すであらうと思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　けだし前代の女性が靈界の主要なる事務を管掌して、能くこの世の爲に眼に見えぬ障碍を除去し、必ず來るべき厄難を豫告することによつて、言はれなき多くの不安を無用とし、乃至男たちの單獨では決し難い問題に、色々の暗示を與へる等、隱れて大切な役目を果して居たことは、もう我邦ではわかりきつた歴史であるが、それが若干の最も優秀なる家門のみに、限られたる事實であつたのか、たゞしは又民族固有の生活樣式に、普遍的なる基礎をもつて居て、たま／＼突端の所謂國の大事に際して、代表せられたものだけが記録せられたのか、此點がまだ伊波さんの「古琉球の政治」、もしくは故佐喜眞興英君の「女人政治考」などにも、十分には説明せられて居なかつたのである。沖繩の文化史が、之を研究する者の態度如何によつて、日本はおろかなこと、弘く世界の智慧にも貢獻し得るやうな立派な資料を含んで居ることは、島のインテリたちが却つて今はまだ心付いて居ない。歳の境の先祖祭り、もしくは稻麥の穗を孕まうとする重要な季節の行事等に、男が退いて居て女に多く働いてもらはうとする風習などは、近頃發明せられた分業では決して無い。即ちヲナリの力は太初より認められ、人が其由緒を失念するに至るまで、なほ之を以て人生の最も有效な手段として居たので、よほど幼稚な民族の中に行かぬと、今では最早見ることの出來ぬその習俗が、海で圍はれて居た御蔭でか、島々にはまだ歴然と傳はつて居るのである。

(30)　それから今一つは古くからの言ひ傳へ、是なども我々に細大漏さず筆録して置かうといふ熱意はあつても、國が?々亂れ名家が頻りに没落し、人が現世を眼界の限りとして居たならば、さうして歌謠詞章を愛するの情が、この南の島の如く小民にまで普及して居なかつたならば、故事の亡佚することは恐らく今日の比では無かつたらう。伊波氏と其同志とは、よい時期に生れ、又最もよい島に生れたといふべきである。巫女の歴史を書き載せた書物は、捜せば大和の方にも若干はある。宮寺の縁起其他の言ひ傳へに、彼等の生活の迹を尋ねることも不可能とは言へない。たゞ其映像といふものが常に正面を向いたものばかりで、周圍の情景を推察せしめる迄の資料は乏しいのである。是に反して沖繩ではやゝ衰頽の姿ながら、眼の前になほ古風の女性生活が見られるだけで無く、語り傳へられて居る昔の出來事にも、存外に寫實的な消息が窺はれる。異なる地に成長した私たちにはそれが取分けて珍重せられるのである。前に引用した八重山の二話も其例だが、それよりも更に注意を惹くのは、宮古島の船立御嶽の由來として、昔神代に久米島の按司の一人娘、兄嫁の讒によつて父に憎まれ、小舟に乘せられ大海に押流されて、此土に漂著して後に神となつたといふ、一條の物語である。是だけの事實ならば似たる例も外にあるのだが、宮古ではその美しい姫の兄、即ち按司の跡取が家を棄て妻を置去りにして、不幸な妹に附いて此島に渡り來り、今ある御嶽の地に二人で住んで居た。さうして女は隅屋の里の兼久《かねく》世の主といふ人と夫婦のかたらひをして、九人の男の子の母になつたけれども、なほ船立の拜所の神としては、その兄妹の二人のみが祀られて居るのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　始めて金屬の農具を宮古島に供與した者が、この船立御嶽の一門であつたといふのは、定めて深い意味のあつたことであらう。九人の男の子は、何とぞして母方の祖父に見參せんと、船を拵へ母を乘せて、久米島に渡つて行つた。按司も先非を悔い親子の愛を盡して、くろかねの卷物といふものと鐵材とを以て引出物にした。それを持ち還つてよ(31)り農耕意の如く、島の生活は豐かになつた。由來記の本文に「其兄賢き者なれば、鍛冶を工み?《へら》鎌を打出す云々」とある其兄は、九人の中の長兄ではなくて、なほ母方の伯父のことをさすのであらう。「萬民飢を凌ぎ安樂にたのしめるも、かの兄妹思澤故とて、乃ち兄妹の骨を船立山に納め、一社の神と崇め申せし由言ひ傳へあり」といふからは、是は同時に又「其兄」の移住でもあつたのである。

　兄の生活計畫に、妹が力強い指導の力であつたといふことは、本來女性の體質や生理上の特徴が、殊に神を見、神の聲を聽くに適して居たからとも説明し得られるかも知れぬが、古人の是に關する確信は、寧ろ常に體驗の上に置かれて居た。さうして島には其印象を新鮮ならしめる事相が、比較的近世までも繰返されて居ただけでなく、其效果を攪き亂すやうな別種作用が、外の土地よりも遙かに尠なかつたらしく思はれる。所謂ヲナリ神の習俗のまだ幽かにでも遺つて居る土地の人たちが、それの全く亡び失せた國から、書物を取寄せて讀んで居ただけでは、此問題は判る氣遣ひは無いのである。事實を精確に觀察して置く必要は、伊波さんの郷土に於て特に痛切なやうに私は感じて居る。

　しかし目下の所、まだ自分等には利用し得る資料が無いので、やはり同種の舊記をもう少し細かく讀んで見るの他は無い。八重山の口碑は、島が覆へるほどの大動亂の後を承けて、湮滅したものが非常に多いが、今僅かに殘り傳はつて居るものゝ中にも、兄が妹の取次いだ神々の教に聽從して、安泰を得たといふ話が宮屋鳥御嶽《みやどりおたけ》にあり、一方頑迷にして彼女の言を信ぜず、自ら進んで神威を試みようとして嚴しく罰せられた傳説が、名藏《なぐら》村の白石御嶽には語られて居る。殊に後者は萬年青岳《おもとだけ》山上の女神であつて、最初筑前｜宗像《むなかた》の大神と同じ樣に、姉妹三柱の神で大和から御渡りなされた。姉神は首里の辨ノ嶽に駐りたまひ、他の二神は久米島の二つの峰に先づ降られたが、仲の神の山が末の妹神の山よりも低いので、更に飛んでこの八重山の最高峰に、跡を垂れたまふと謂ふことは注意に値する。内地の方でも前に私の筆録した陸中山村の古傳、或は山陰の海岸地方などにも、この三女神分領の物語は傳はつて居て、爰にも亦一線の絲口が手繰り寄せられるからである。萬年青岳の女神は御名をオモト大アルジ、其神託を宣べたといふ妹の(32)名はオモトヲナリとある。兄が二人あつて一は從順、他の一人は甚だ兇暴であつて、それ／”＼の賞罰があつたといふ古風な語り方も面白いが、それよりも興味の深いのは、大和の金峰山を始めとし、本州各地の靈山の頂を究めようとして、神に罰せられて石に化したといふ遺跡が、悉く姥石｜巫女石《みこいし》比丘尼石であるに反して、島では強ひて登つた惡い兄が、石になつて名藏の野中に在つたといふのである。山を拜した南北の信仰が本一つなりとすれば、この顯著なる男女の顛倒は、是非とも其理由を詳かにしなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　それを考へる以前にもう一つだけ、古い口碑の側から、ヲナリ神信仰のやゝ衰へて來た徑路を眺めて見たい。是も邊老説傳中の不思議な一節であるが、昔｜南風原《はへばる》の神里といふ邑に巫女があつて、懷姙の時に忽ち阿檀《あだん》の實が食べたいと謂つた。それを其兄が拒んで食べさせなかつたので、巫女は怒りを發して呪詛をした。今より後此地の阿檀に實はなるなといふと、果して樹ばかりは盛んに繁茂するが、神里の阿檀には永く結實がなかつた。「此を以て觀れば巫女も亦常人に非るなり」などゝ、わかり切つたことばかり遺老説傳には言つて居る。是は前にいふ白石御嶽の場合の如き、甚だしい不信ではなかつたけれども、やはり玉依彦が玉依姫の言に、服從しなかつた一つの例であると思ふ。内地に數多い石芋・喰はず梨などゝ共に、何か我土地の特殊なる自然現象を、神意に託せんとする普通の解し方と見てよからう。文字が餘りに簡で何故に食はせなかつたかゞわからぬが、多分は清らなる上臈の、常には食ふべからざる食品であつたからであらう。巫女の懷姙といふことが異常の事實であつた時代には、彼女の「つはり好み」には深い注意が拂はれたものと見えて、比鄰の民族には是に伴ふ色々の物語、たとへばニアスの島で妻が雷を食ひたいと謂つたといふ類のものが幾つかある。日本でも東北の盲法師の間に、奇想天外的な食物の種類を詠じた語りものが、「つはり好み」の名を以て近頃まで行はれて居た。妹を精神界の案内者とする風が少しづゝ衰へて、幾分かその傾向に楯(33)突かうとする氣持が、恐らくは此類の傳説の傳播を助けたらうと思ふ。

　それを今一歩前へ進めると、今では哄笑を以てのみ聽かうとする、十二月八日の鬼餅の由來譚がある。虚心に一考して見るに、單に此日の餅の缺くべからざること、食へば幸福を保持することを解説する爲ならば、此樣な大がゝりな空想を傭うて來るがものは無い。乃ち妹によつて欺かれ又は懲らされるやうな兄ならば、どうせ鬼見たやうな碌でなしだつたらうといふ反感もあつたらうが、私はそれよりも一層具體的に、こゝに一つのヲナリ神關係の破綻、即ち兄と妹との精神的提携の、斷絶の姿を見出すのである。勿論鬼餅の話になる迄の幾つかの段階があつたことであらうが、それを探るが爲にも上の口下の口といふ樣な惡趣味な笑話以外に、もう少し村里に保存せられて居るものを、集めて比較をする必要があると思ふ。

　此序にちよつと御知らせ申して置きたいのは、前の鬼餅とは正反對に、妹が鬼だつたといふ昔話が、是も奧羽方面に飛び／＼に行はれて居ることである。三人の兄がそれを知らずに還つて來て、二人までは順次に食はれてしまふ。もしくは三人とも方法を盡して、逃げて辛うじて助かつたといふ風に語られて居る。是は近年刊行せられた朝鮮民譚集にも類語があり、どうやらもつと西の方にも似たものが有るらしいので、是を兄妹の精神上の絶縁を記念する傳承なりと解することは、一段と困難なる推測になるのであるが、さりとて全然無關係のものときめてしまふことも、やはり大膽に過ぎたる思ひ切りである。兄妹の仲らひが、今日普通の家庭で見る程度の淡薄さであつたならば、此種の異常なる空想談の、生れる餘地の無かつたことは雙方同じである。だから群島の間にも、是と關聯した樣な言ひ傳へが、まだ殘つて居らぬかどうか、もう一度念を入れて捜して見る必要もあると思ふ。

　

　　　　　　　　　　八

　

　そこで立戻つて巫女の懷姙といふことを考へて見る。神に仕へた家々の女性は、もとは我民族でも素女であつた。(34)即ち尋常の婚姻及び懷姙とは、全く縁の無い人たちばかりであつた。それが沖繩では多分政治上の動機からであらうが、先づ上流に於て其法則を改め、其風が次々に村の根所にも及んだやうである。前の阿檀の傳説に於て、巫女と漢譯せられたのはユタであらう。ユタは現代になつてもなほ其婚姻を内縁にし、もしくはユタの夫になる者は長命せぬなどと謂つて、嫌はれて居る土地もあると聞いて居るが、大小の祝女神人に至つては、寧ろ原則として家刀自が是に任じ、いつを始めにさう改まつたのかを、忘れきつて居るのが普通である。此點が最も著しく本州の物忌《ものいみ》・女神覡《めかんなぎ》たちと異なつて居る。朝家の齋宮齋院の制は夙に中絶し、其勢威も遙かに琉球の聞得大君《きこえおほぎみ》には及ばなかつたけれども、是には最後まで「男する君」は宛てられなかつた。國々の大きな御社には、維新の變革の際まで、清淨の女性を選んで神に仕へしめた實例は多く傳はり、たま／＼平凡の家庭を持つた巫女には、其職分の繼續と、家禄の保持とを妥協せしめようとした、新たなる努力の跡が見られるのである。長女に家を繼がせて弟たちを外へ出すことは、たゞの農商の家にも稀なる例で無く、土地によつては是が不文法のやうに看做されて居た處さへあるが、それはまだ誕生の順序に由つて居る。女の神職の家に至つては、長幼に拘らず跡は娘が取るから、男子は少なくとも表向きは家族に過ぎなかつた。だから彼女等に世間竝の婚姻が認められることになると、兄弟以上に身に親しく、利害の深く繋がる者が二通りは出來て來る。一人は其夫であつて、もし家職が外の人に移つてしまふことを厭へば、家は入聟の支配に服して行かねばならぬ。次には生みの娘に跡を取らせるといふこと、是は姪女に渡すよりは自然に見えるが、其子が大きくなればやはり同樣の問題が起る。即ち姉妹神として我兄弟の爲に、神威を仲介する機會は無くなつて、夫や成長した男の子だけが、その特殊の靈力を生活に利用することになるわけである。私の知つて居る限りでは、越前のたしか今立郡に、廷々《てゝ》と稱する神職の家筋があつて、女で相續して來たことを一家の眉目として居た。他にもさういふ門黨は隨分ある樣に思ふが、確かなことは實例を記録した上でないと言へない。兎に角にさういふ家々の男性家族は、是が自分たちの家の非凡なる所以だと思つて、不平も言はずに其制約を守つて居たのだが、新たに現民法の行はるゝに(35)及んで、必然にもう其樣な異例は認められなくなつた。さうして沖繩の方などは、始めからこの代々入聟といふが如き、家族制は現はれずに濟んだのでは無いかと思ふが、果して實際はどうであつたらうか。是からの若い學徒は、その確かな所を究めるやうにして貰ひたい。それが又伊波氏の辛苦と創見とに對する、最も有效なる敬意の表現にもなるのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　民法の歴史を研究する人々は、既に或は心づいて居ることかも知らぬ。日本は非常に養子制のよく發逢した國であるが、其中でも相續の爲の養子といふものは、比較的後になつて現はれて來て居るのである。同じ婿養子の中でも、女より外に子といふものが無くて、他姓の男を呼んで來るものは、其趣意が又別であつたかとも見られる。男の兄弟は幾らもあるに拘らず、必ず一人の女子を選定して、其配偶者に家督を讓る場合に、始めて母系相續といふことは言はれるのである。曾て大昔に我々の民族の間にも、母から娘へと家を傳へた習はしが、無かつたといふだけの證據こそは無いが、今ある特別の家の仕來りの中に、其痕跡が有るといふのは少なくとも早計である。何となれば是は女性に正式の役目のある巫祝の家だけに限られたことであり、しかも其女たちが尋常の婚姻を認められたのは、寧ろ後代の必要に出でたかと思はれるからである。

　それで此研究の爲に何よりも大切になつて來るのは、中世以後に社會事情を異にし、相互獨自の展開を遂げたかと思ふ雙方の家族制の比較、沖繩でいふならば祝女神人の職分の繼承法、殊にヲナリ神の信仰の衰へ又變つて來た徑路を明らかにすることである。神に奉仕する清らなる處女たちが、世俗の獨身生活を守つて居り難かつた事情は、北も南も共にあつたにも拘らず、内地では年限を定め職能を狹くし、もしくは入聟相續の方法を設けて、家に其血筋の絶えざるを期したに反して、島では最高位の聞得大君が、既に他の家族より移つて來た王妃を以て、之に任ずる制度に(36)改まつて居る。次々の大阿母《おほあむ》しられ、阿母《あむ》がなしたちも是に準じ、それ／”＼その清き血の屬する家に、殘り留まつて居たとは思はれぬのである。さうなつて來ると相續の關係はどうなつて居たらうか。固より一定の尊貴の範圍は出でなかつたらうが、少なくとも各家門の男性の族長たちは、その優れたる家のヲナリの靈力を、利用することが出來なかつたわけである。しかも一方には舊いレジムの終りに近くまで、民間にはなほ各自の姉妹の守護を受け、もしくはその慧しき暗示によつて行動を決するといふ風が、たとへ夢ばかりにせよ消え失せずにあつたといふことは、わが民間傳承の學問の面白くてたまらぬ所である。諸君は是よりこの二つの殘つた兩端の習俗の、どういふ堺目に來て牴觸し、もしくは調和しようとして居たかを注意せられたならば、假に今日世界で論議せられて居る家族制發達の問題に、直接參考となる迄は望み難くとも、少なくとも日本上代史のむつかしい數十頁に、ぱつと明るい光を投げかけ、更に島内にあつては人生の未だ知られざる區域の多かつたことに心づいて、從來の文庫作業に偏よつた文化研究が、幸福なものでなかつたことを歎息せられるやうになるであらう。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　伊波さんの「をなり神考」は、要するに斯ういふ大切な學問の黎明を、告げ知らせる島の聲のやうなものであつた。以前我々の間の最も清麗なる女性が、其生涯を神のみに捧げて居た目的は、やはり血を分つた兄弟の家を、正しく存續せしめるに在つたのではないかといふ推定が、斯んな切れ／”＼の小事實の綜合からでも、成立たうとして居るからである。本州では常陸鹿島の物忌といふ齋女などが、最近まで殘つて居た古い形であつたことは、「巫女考」に曾て私も書いて置いた。此女性は必ず東《とう》氏といふ定まつた一家から出て居た。彼女が身を淨めて神の爲に織り、神の爲に炊いで居た間は、幾つになつても人間の妻になる條件が具はらなかつた。愈々年が經つて退くべき時が來ると、次に出て仕へる者は神意によつて、常に族人の中から選定せられた。即ち通例は叔母から姪への相續で、ちやうど縫殿寮(37)に勤務した猿女君《さるめのきみ》、稗田氏の繼承法とも似て居り、又母系民族に今も見られる伯叔父から甥への財産引渡しとも表裏をなして居る。伊勢の神垣を始め奉り、諸國の名ある舊社でも、順序は概ね是と同じであつたのだが、大抵は奉仕の期間を少壯の日に限る故に、相續といふ問題は目立たなくなつたのである。實否をたしかめて見る方法はまだ無いが、たしか丹波の某社の巫女は、年やゝ長じて此世心の萌し始めた時に、忽ち怖ろしいものが現はれて、山に留まり難くなつて來る。さうすると必ず一方に次の適任者に指定があつて、交迭をすると傳へられて居た。夫婦があつても祭の役、卜問《うらどひ》の役が勤め得られたといふことは、どう考へて見ても信仰の退歩でなくてはならぬ。それ故に又島の姉妹神の言ひ傳へが、甚だ幽かになり且つ切れ／”＼になつて居るので、是を別系統の現象と見ることはまちがひだらうと私は思つて居る。

　鹿島の信仰は曾て關東以北の田舍を支配して居たことがあつて、其｜御子神《みこがみ》の御社といふものが、古史以來引續いて今も崇敬せられて居る。即ち所謂神のもろふしを出すのを家の光榮と感じ、一族門黨の安泰をたつた一人の女性に繋ける思想は、その行く先々の勸請地にもあつたらしいのである。栃木縣の箕和田良彌君の祖母、年九十になる人が斯んな話をして居る。曰く、

　　鹿島さまのおめかけになると、いつ迄も十七の姿で居たつてなア。それで鹿島樣からおひまが出ると、急に五十にも六十にもなつて、齒がおつかけたり白髪になつたりしたつてなア。

　一つばかりの例では無論大きな斷定は出來ぬが、注意してよい信仰の殘留だとは見られる。我々はもう少し斯ういふ方面を捜して見なければならない。沖繩の方にもヲナリ神の信仰が殘つて居る以上は、或は又舊記以外に、何かの言ひ傳へがあるのかも知れない。文字の教養の乏しい人の説には、却つて粗末にならぬ記憶があると思ふ。伊波氏の方法は此上にも尚大いに學ぶべきである。

(38)　私が此一篇の題目に玉依彦の名を用ゐたのは、其名が山城賀茂の神傳に最も詳しく存録せられ、又近時特に多くの人によつて注意せられて居るからである。玉依彦は鴨｜御祖神《みおやかみ》の御兄であり、又非常に大いなる一族の高祖であつたけれども、其名はたゞ人界に止まつて、今の御社の神には祀られて居ない。しかもそのすぐれた妹の姫神と御子とを守護し信奉することによつて、先づ最大の惠澤を受けた者は玉依彦と其後裔子孫とであつた。世界に流れて盡きない母子神教の、是が一つの最も自然なる源頭であつて、是に比べると一人のジョセフを介在せしめたる信仰には、後世幾多の解説があるにも拘らず、なほ一段の變化又は複合を認めざるを得ぬのである。そこで翻つてもう一度、南風原《はへばる》神里の阿檀の實の口碑を考へて見ると、兄がヲナリ神のつはり好みを氣にかけて、是を妨げたといふことにも深い意味が感じられる。是は生れるものが果して天神の兒なるか、はた又たゞの俗界の有りふれた現象であるか、決しかねたところに葛藤の動機がある樣に思ふが、男女隱微の問題であるだけに、私たちにはさう深く立入つて此點を説いて見ることが出來ない。

　

　　（附記）

　本文伊波氏の「をなり神」は非常に有名な論文であつて、「南島論叢」では之を詳かに援用する必要を認めなかつた。最初私が編輯して居た雜誌「民族」二卷二號に掲げられ、次で「をなり神の島」（昭和十三年）といふ論集の卷頭にも出て居るが、まだ讀まぬ人の爲に試みに要旨を紹介すると、（一）沖繩諸島には最近まで、姉妹に兄弟の身を守護する靈力があるといふ信仰から、旅立ちに際して同胞女性の髪の毛、もしくは手巾などの持馴れた物品を、乞受けて持つて行く風習が殘つて居た。（二）四百數十年前の神歌にも、又歴代の所謂琉歌の中にも、この信仰と之に伴なふ幻しとを(39)詠じたものが幾つとなく擧げられる。（三）この姉妹の靈を、古くは一樣にヲナリ神と呼んで居た。聞得大君《きこえおほぎみ》は即ち國の最高のをなり神であり、實に又國王の御姉妹を以て、之に任ずるのが本來の定めであつて、其職掌は本朝の齋王齋院とよく似て居た（以上）。其ヲナリといふ語が今では姉妹の意味にのみ用ゐられて居ることは、本文に於ても説いた通りである。是が本州西半の多くの田舍に於て、本式田植の日に食物を田に運ぶ若い女性を、オナリド又はオナリ樣と謂つたのと同じかどうかは、興味の多い問題であるが、今はまだ決定し得ない。幼女を「うなゐ子」といふ我々の古語と、起りは一つだらうかと伊波氏は言つて居られるが（南島方言史攷六〇頁）、現在の内地のオナリは右の田植の場合の外に、只食物調理のわざをさう謂ふ處があるだけである。

　壹岐島昔話集の姉が弟の爲に船を造つて與へる話は、其後喜界島に同じものが傳はつて居ることを發見した。最近に世に出た沖永良部島昔話集にも、「姉と弟」といふ長い一篇があつて、やはり弟の船爭ひに、姉が不思議の船をとゝのへて與へたといふ部分があり、結末も彼とよく似て居て、たゞ此方は一段と複雜である。將來この話の分布　　　状態がもつと調査せられたならば、或は比較によつて意外な事實が判つて來ようも知れぬ。今昔物語に出て居る土佐の妹背島の話なども、兄と妹とたゞ二人だけで、島に漂流して住民の始祖になつたといふのだが、是も船の中に睡つて居て、とも綱の解けるのを知らずに居たといふことが發端であつた。竹富島の島仲粟禮志兄妹の船造りも、元は大きな物語の一破片であつたといふことが、やがては證明せられる時が來るのではないかと思ふ。次に一方の妹は鬼といふ話、是も奧州のどこであつたかに、たしか一つはあつたことを注意して居ると、其後少しづゝの類例が顯はれて來た。澤田博士が飛騨の丹生川村で採訪せられたのは破片で、十年振りに還つて見たら親は死に、妹は大蛇になつて居たといふ部分しか殘つて居ないが、不思議にその大蛇が竹林の虎と闘つたといふ、日本らしくもない趣向を伴なうて居る。然るに南の島々にあるものは、奄美大島でも沖永良部島でも、共に結末は鬼の姉を、虎が喰ひ殺してくれて弟は助かつたことになつて居るから、偶然では無かつたのである。話の荒筋をいふと、姉が夜中にそつと起きて、馬を殺して(40)喰つて居るのを弟が見つける。それを親たちに告げても信じてくれぬのみか、却つて怒られて追出されてしまふ。七八年の後に還つて見ると、家は荒れきつて姉がたゞ一人居る。夜中に鼠が二匹出て來て、それが二親の亡魂であつた。おまへのいふことを聽かなかつたので、私たちは鬼に喰はれた。おまへも早く遁げよと教へるとあつて、最後に虎が恩返しに來て助けてくれるのである。豐前企救郡の昔話では其虎が熊になつて居り、やはり妹は大蛇であつて母を喰ひ殺したといふけうとい話であるが、此方は七周忌の日に還つて來て、その妹に追はれて辛うじて遁げたのは姉といふことになつて居る（福岡縣昔話集）。最も意外であつたのは、是と大よそ同じ話が、孫晋泰君の朝鮮民譚集にも採録せられて居て、しかも半島では普遍的な話だといふことである。流傳の路筋はまだ全く考へることが出來ぬが、とにかくに斯ういふ奇拔な形に變つたのも、新しい時代のことではなかつたのである。朝鮮の方では妹は狐精であつたといひ、結末が逃竄説話になつて居ることは日本のも同じだが、之を救援したのは或道士から貰つた三つの瓶であつて、それを一つづゝ擲げて障碍物を作つたといふ點は、寧ろ我々のいふ「三枚の護符」の話に近く、朝鮮には却つて虎を喚ぶといふ條が無いのである。兄が鬼であつたといふ沖繩の鬼餅由來、或は妹の諫に背いて暴死したといふ八重山｜萬年青岳《おもとだけ》の神話などが、事によるとこの分布の弘い昔話の根源を説明するものでないかと私は考へて居る。とにかくに最初の形といふものは別にあつたのである。さうして妹の地位の特に重要であつたことだけは、古今を一貫して居るらしいのである。

　

(41)　　　　　玉依姫考

　

　　　　　　　　　　一

　

　八幡三所と稱へ奉る習はしは、隨分古くからのものである。宇佐に於ては延喜式に、既に八幡大菩薩宇佐宮・比賣《ひめ》神社・大帶《おほたらし》姫廟神社の神名を列ね記し、石清水に在つては更に其以前、貞觀七年四月神寶造進の御告文の中に、大菩薩と大帶命と比�淘蜷_《ひめおほかみ》と三神の御名を記して居る。しかし八幡御東遷の初期に於ては、神は男女の二柱のみであつた。即ち天平勝寶元年十一月の託宣向京と云ふ際には、大神に一品・比�盗_に二品の神階を奉られ、翌二年二月には一品八幡大神に封八百戸位田八十町を、二品比賣神に封六百戸位田六十町を充て奉るとのみあつて、何等第三の神に就いて記す所は無いのである。所謂大帶命を添へ祀りて今日の三社の形式を整ふるに至つたのは、此時以後貞觀以前の變更と見ねばならぬ。宇佐宮御託宣集に依れば、比賣神最初の神託は天平三年正月の事で、次で同じき六年に其社殿を造つたが、大帶姫は其から更に八十餘年の後、弘仁十一年の神託に基いて、始めて他の二神殿に準じて造營があつたと云ふ。此書は固より精確なる舊記と言ふことはできぬが、兎に角に世人の認めて神功皇后なりとする大帶姫廟神社が起つたのが、比賣神社よりも遙か後なることは爭はれぬ。神社覈録の著者が右の天平勝寶中の神階神封の記事に頭註して、「比�盗_とあるは神功皇后なり惑ふべからず」と言うて居るのは、如何にも無理な斷定であると思ふ。

　さてこの大帶姫廟神社の起立が、八幡の神を應神天皇の御事なりとする信仰の結果であるか、はた又原因であつた(42)かは、勿論容易に決しにくい大問題であるが、自分の竊かに思ふのは、託宣の方式を以て如何樣にも急激に變化せしむることを得たらしい八幡の信仰が、オホタラシと謂ふ如き必ずしも精確適切ならざる神名を容假して居ることは、極めて注意すべき點であらう。語を換へて言へば、大帶姫神を息長足媛皇后《おきながたらしひめのみこと》なりとする爲には、今一段の敷衍註釋を必要とする次第で、是れやがて應神天皇御母子を祭ると云ふ傳説の、當時なほ未だ充分に成立して居なかつたことを示すものかと考へる。宇佐の御神果して應神天皇に坐すや否やの疑ひは、故栗田博士の八幡神考（栗里先生雜著卷一）が嘗て充分に之を述べ、而うしてまだ滿足すべき答の出たことを知らぬ。自分は此上に餘分の論辯を附添して題目の紛糾を招かんとする者では無いが、博士の假定説に對して我々の不安を感じて居る點は、中世各種の利害に據り各種の學問に基いて記述せられた僧徒巫祝の聞書類を、其中にも若干の眞實を包含して居るだらうの豫斷を以て調査せられ、惡く言へば自分の説に都合のよい部分だけを拔出して、それを證據に使用せられたかと思ふことである。蓋し宮寺《みやでら》縁事抄などに載録してある多數の舊記は、單に中代の八幡傳説が後世貝原氏の書に現はれたやうな純一のものでなく、疑ひを容るゝの餘地が猶少なく無いと云ふことを證する迄で、之に由つて信仰の根源を探らんとするには役に立ちさうも無い。但し他に信頼すべき材料の豐富で無い場合に、已むを得ざる一の方便として、中世少なくも一部人士の信じ傳へて居た何々の事實は、事によると其よりも遙か前の時代の人々の考へ、又は考へ誤つて居た某々の事實の名殘かも知れぬと、説くだけはよからうと思ふ。幽玄不可思議なる八幡信仰の由來が、末世の論究に由つて帷を?《かゝ》げて花を看る如く明白にならうとは、自分に於ては未だ希望して居らぬのであるが、何れの方面から窺つても、問題とすべき點のまだ中々多いことだけは、爭ふことが出來ぬと思つて居る。

　「巫女考」の續編として、殊に自分の研究を試みたいと思ふのは比�淘蜷_の問題である。宇佐の本宮に於ては、此御神は三殿の中央に祀られたまひ、其中社の前に告殿《つげどの》即ち拜殿はあるのである。八幡大神示現の以前から此地に鎭り坐す地主神である故に、其まゝ是を中殿に崇め奉る、との説もあるが（八幡宮本紀四）、西社を第一殿とし中社を第二殿(43)とすること古くよりの習はしなる上に、神階神封の沙汰にも常に大神より一段おくれ玉ふを見れば、此理由は信ずるに足らぬ。但し道教佛教の三尊の形式などから影響を受けたものか、男山の勸請に際しては既に男神を中央とし姫大神を西殿に祀つて居り、其他神殿を三棟に分つ御社では、中殿を主神とせぬ者は無いやうである。宇佐宮縁起などの書に載せた比�淘蜷_天平三年の神託と云ふものにも、「大菩薩に副ひ奉りて神威を助け奉らん」とあるので、其關係は先づ疑ひが無いやうであるが、それにしても後世の人に取つて猶解し難きものがあつた。即ち既に八幡大菩薩を以て應神天皇とし大帶命を神功皇后なりと言ふからは、其母御神よりも更に親しく更に貴き比�淘蜷_とは、果して如何なる神かと云ふことである。他の二三の地に於ては此問に對して甚だ大膽なる解決をして居る。例へば河内の譽田《ほんだ》八幡や長門の龜山八幡の如きは、三社の中殿を應神天皇とすると同時に、左右の祭神を仲哀神功の御父母と申して居り、古くは朝野群載三の筥崎宮記なども其通りに記して居るが、それではまだ宇佐石清水鶴ヶ岡等の比�淘蜷_を、説明したことにはならぬのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　延喜式集成の頃までの思想では、姫神は即ち或姫神なりとしてすまして居られたかも知らぬが、既に第二の宗廟として朝廷の崇敬を繋ぎ、現人神《あらひとかみ》の御名に由つて歴史上の基礎を作つた以上は、此姫神も亦有名なる誰かで無くてはならなかつた。そこで次々に説き立てられた色々の説がある。其中に在つて比賣神は即ち玉依姫なりと云ふものが、意外にして理由が知り難いだけに、最も深く古今の學者に由つて注意せられたやうである。其外には或は應神天皇の御女と云ひ（諸神記）、或は御姉と云ひ（鎌倉志）、或は皇后なりと云ふ（日次記事正月二十三日條）説がある。最後の説は如何にも起りさうな想像説と思はれるが、しかも愚童訓などに見えて居るのは頗る念入りで、神功皇后龍宮より干珠滿珠を借受けたまふ時、龍王の娘を胎中の天皇に約婚せられたのが即ち第二御前の比賣大神であると稱し、仍て近世の(44)「八幡は彦火々出見尊」と云ふ説の一論據ともなれば、或は應神は即ち王神の誤りかと述べた自分の説の材料ともなつて居るのである（郷土研究一卷一一號）。此種の一見荒誕に近い傳説に比べると、姫神とは宗像《むなかた》三女神のことだと云ふ説は稍々所據があるやうに思はれ、從つて現時の學者には之に耳を傾けんとする人が多い。但し是は恐らくは石清水其他東國の勸請社の遽かに賛同し難い説であらう。尤も是は貝原氏の本紀や橘三喜の一宮巡詣記にも既に之を承認して居り、もと大宮司家から出た傳へと云ふことで、必ずしも近代考古家が言ひ始めた事では無いが、しかも其説の根據と言ふのは、書紀神代卷の一書に「以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐島〔三字傍点〕矣。今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也」とある漠たる一記事のみであるらしく（武藏總杜誌中卷）、ウサと謂ふ地名が古今一處に限られて居たと見ぬ限り、又所謂｜水沼君《みぬまのきみ》氏が豐國東部に住して此神に仕へて居たことを證せぬ限りは、容易に首肯し得べからざる説である。なるほど宗像の神は毎に三體一所に示現したまひ、往々三女神と云ふ簡單なる名を以て祀を享けて居らるゝが、式に於ては尚明らかに三座の神である。是を宇佐宮でのみ一座の比賣神社としたと言ふからは、當時既に此傳へを失うて居たものと見ねばなるまい。或は又三女神の中の湍津姫命《たきつひめのみこと》のみを、この第二神殿に附祭すると云ふ説もあつたやうに思ふが、其由來を知ることが難い。何れにしても神武天皇の御母神を、宇佐に併せ祭るのを縁由無しと見る人々が、宗像の女神ならばさも有るべしと認めるのは矛盾であらうと思ふが、中國以西の直接宇佐から勸請したらしい八幡社に在つては、今では大分此説に隨ふ者が多いやうである。

　小寺清之の老牛餘喘には次のやうな説がある。宗像の三女神はもと玉より生れたまふ神である故に、宇佐に於ては之を玉依姫と混稱したのであらう云々（下總國式社考所引）。此説は誰が見ても附會と評して躊躇せぬであらうが、實は玉依姫と稱する神の御名から、この言ひ傳への由つて來たる所を詳かにせんとした最初の試みであつた。宇佐の第二の神殿を玉依姫と説いたのは、託宣集其他の中世の社記の類が始めであつて、勿論是と云ふ確かな旁證とては無いのであるが、託宣にせよ後々の聞書にせよ、何の繋り所も無しに突然空な事を言ひ出した筈は無いと見るのは強辯で(45)はない。從つて如何なる事情から、斯う云ふ珍らしい言ひ傳へが始まつたのであらうかと云ふことを、篤と考へて見る必要はあると思ふ。栗田博士の考證などは、痛く中世の社僧輩が出鱈目を憎みながら、しかも彼等の筆録の中から、玉依姫に關する一節を採用せらるゝのみならず、此玉依姫は神武天皇の御母のこと也と云ふ主張をも蹈襲せられ、甚だしきは更に八幡を彦火々出見尊とする自説に便ならしめんが爲に、玉依姫は豐玉姫の誤りだらうとさへ論ぜられて居る。是れ自分等が最も異議を插むべき史料の取捨法であつて、既に在來の社傳を承認するからには、何故に我々の極めて難物として居る竈門《かまど》神社の玉依姫神の御事を、輕々に看過したかを訝るの他は無い。蓋し宇佐と竈門山との間には、少なくとも一時は密接の關係があつたやうである。此地では所謂寶滿菩薩は即ち玉依姫で、左右の相殿に應神神功の御母子を祭ると謂ひ、筥崎に於ても亦中央を神功皇后にして、此三柱の神を齋くと云ふ説があつて（筑紫道記）、即ち近國に於ては宗像の三社、又は紀州熊野の三所の權現などゝ同じ形式に、三尊が交互に主神となりたまひしやうにも見える。或は又八幡大神延喜年間の御神託と傳ふる語に、竈門は我御伯母であるから、參詣の輩が彼社の前を素通りして來るのは心苦しいと仰せられたと云ふが如き、兎に角に或時代の信徒に成程と思はせるだけの力があつたとすれば、是は重要なる一つの觀察點である。或は明治初期の御陵墓調査官の如く、此御山を神代の皇后の御陵と速斷するにしても、乃至は又中古の天台僧侶のやうに、之を辨財天女の垂跡又は堅牢地神の示現と考へるにしても、程遠からぬ宇佐又は筥崎にも同じ神を配祀して居たと云ふ事實に、何等かの解説が無くてはならぬ筈である。續風土記の著者などは、それでも頗る説明に苦心して、竈門は我伯母なりと八幡神の仰せられたのは、伯母君の如く親しく思し召すと云ふことだと言うて居る。其無理は強ひて論ぜずとして、然らば何故にさほど親しくしたまふ女神が、玉依姫であつたかと云ふ問題がなほ殘る。そこで一方には玉依姫は神功皇后の御姉御妹又は御后の名なりとし、或は長門豐浦郡の乳母屋《ちおもやの》神社古傳の如く、震且國の王女にして日本に歸化して仲哀天皇の乳母と仕へたまふと云ひ、もしくは同郡｜社屋《もりやの》神社の如く、應神天皇の御傅《おんもり》なりと云ふ説も出て（明治神社誌料）、神武天皇の御母とは全く別の玉依姫と解す(46)る者も次第に多くなつたが、書物に傳はつて居る最も古い説は、やはり是を神代史上の玉依姫の御事とするものであつて、之を動かぬものとして進むからには、社家や信徒の側ならば只神秘只不可思議と言うても居られようが、研究者としては些しは無理でも栗里先生のやうに、神孫降臨以後の歴史の中心を宇佐へ持つて來るの他は無く、其には又海神の往來とか龍王の婚約とか、幾分其空想を助ける材料が宮寺時代の縁起類の中には有つたのである。しかしもと／＼名稱の拘泥が誤謬の始まりであるから、史料の増加するに比例して、牴觸と紛亂とは愈々甚だしくなつて來る。仍て議論を單純にする爲には、どうしても玉依姫と云ふ神名の意義を、先づ明瞭にして置く必要があるのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　蓋し玉依姫なる御名を以て、終古唯一人の貴き女性のみに屬すとすることは、最も容易に訂正し得べき誤りである。神社覈録の著者などは、その信濃｜埴科《はにしな》郡なる玉依比賣神社の條に於て斯う言つて居る。曰く玉依姫は同名異神三神あり、當社に祀るは何れとも知り難し、但し諏訪神の縁を以て考ふれば、葺不合尊の妃なる玉依姫ならんかと（以上）。諏訪と此社とは國を同じくすると云ふの外に、果して如何なる關係が有つたものと想像するのであらうか。思ふに此三神と言ふは神武天皇の皇妣の外に、三輪の大物主神の御妻《みめ》にして神職の祖神たる活玉依媛《いくたまよりひめ》と、下鴨の御祖《みおや》神社の祭神で上賀茂の別雷命の御母であつたと云ふ多々須玉依比賣《たゝすたまよりひめ》とを指すものであらうが、此の如く異神《ことがみ》にして名同じかりし女性の幾柱もあることを知りながら、どういふ理で諸國舊社の玉依姫が、必ず右三神の何れかに限るものと斷定したか。是れ全く古事記舊事記の何枚目かに御名の見えて居る神で無ければ、各社の祭神たり得ぬものゝ如く考へた、吉田一流の獨斷の餘弊である。自分が此篇に於て些しく論證を試みんとするのは、右の如き推測の謂れ無きことである。自分の見る所では、玉依姫と云ふ名はそれ自身に於て、神の眷顧を專らにすることを意味して居る。親しく神に仕へ祭に與つた貴女が、?々此名を帶びて居たとてもちつとも不思議は無い。と言ふよりも寧ろ最初は高級の祭仕女(47)官を意味する普通名詞であつたと、見る方が正しいのかも知れぬ。從つて神武天皇の御母の名が玉依姫であつたのは、事實御父尊を助けて靈貴なる職分を執り行はれたか、はた又單に佳名として之を用ゐられたのみであるかは別の問題とし、要するに一人の玉依姫と云ふ迄である。宇佐や竈門山の玉依姫も亦同じ御方とすることは、勿論他に充分なる證據が無くては言はれぬことである。而うして一方宇佐の比賣神を玉依姫とも稱へたに就いては、別に亦それ相應の理由があつたのである。

　此理由を説明するに先だつて、一應述べて置きたいのは八幡以外の諸社にも、同じく比�盗_を祀つて居る例の多いことである。社の神が唯二柱だけである場合には、通例は日子《ひこ》と日女《ひめ》との差別を以て同一の名を冠して呼ばれたまふ故に、之を御夫婦の神と解して誰も疑ふ者が無いやうであるが、三座以上の御群の中に齋かれたまふ比賣神《ひめがみ》は、往々にして其由緒が不明のまゝになつて居る。山城の大社では平野祭神《ひらのにまつるかみ》四座の中の比賣神なども其一例で、幸ひに八幡神の本質が明らかになつた後は、類推を以て其來歴を知ることが出來ることゝ思ふ。次には攝津の住吉坐神社四座、書紀には墨江《すみのえ》之三前大神とあるのに、後に一座の女神が配せられて、是も今は神功皇后と云ふことに定まつて居る。是れ釋日本紀以來言傳へた説ではあるが、別に又｜衣通姫《そとほりひめ》なりと云ふ秘説もあつたことが、奧儀抄等に見えて居る。春日及び大原野の所謂四所大明神も、同じく男神三と女神一とであるが、此比賣神の如きは當初河内の枚岡《ひらをか》に於て、天兒屋根命と雙立したまひしことが、式の祝詞の文からも想像し得られる、即ち亦大帶姫神配祀前の宇佐八幡と形式を同じくして居たのである。此等の比賣神の信仰上の地位は、固より時代々々の傳説に伴なひ、高くも低くもなつて居たのであらう。白山の菊理媛命は中でも著しい例であつて、是も宇佐などの如く三所權現の形式を具へたまふにも拘らず、比�盗_のみが夙くより特別に崇められたのは、或は天台神道の教理に扶けられたものではあるまいか。他の多くの場合には、主神の御妻と傳ふる時には殆と同位同體として尊信せられ、神の御娘御妹などゝなるにつれて一段低く見られ、後には攝社末社の微々たる境に退いたものもある。即ち八幡で言へば姫若宮宇禮久禮の類、阿蘇で言へは四(48)宮比�東芬q神などが是である。神の系圖を作つて親疎の差を論ずるのは固より膠柱の見であるが、さりとて宇佐に神武天皇の御母を説くが如き、唐突な話は他では聞いたことも無い。要するに自分の知る限りに於ては、山城肥前兩國の淀神社を始めとして、河内の道明寺には菅神の伯母君を傳へ、伊勢の辛洲宮《からすのみや》に天照大神の姨御前《をばごぜん》を説く類に至るまで、比賣《ひめ》神と言へばすべて主神の親族たる婦人を祀るものと、看做して居た時代がもとはあつたやうに思ふ。

　

　　　　　　　　　　四

　

　然らばこの玉依姫の別名を存する比賣神は、そも／＼八幡神の何に當る御方であつたらうか。率直に所信を吐露するならば、自分は之を以て八幡と稱する王子神の御母、即ち天神《あまつかみ》の御妻と信じて祭り始めたものと思つて居る。其後大帶姫神の示現があつて應神天皇御母子の神と云ふ説を助けた爲に、此姫神の本質が不明に歸することを奈何ともし得なかつたが、幸ひに玉依姫の御名がゆくり無く殘つて居て、他の諸社の同名の神と比較し得るが故に、今なほ一見奇に過ぐるやうな此説も立證に難くないのである。仍て以下順次に其類例を擧げて見ようと思ふ。

　宇佐筥崎の影響最も大なるべき九州の地にも、明らかに別系統と思はれる玉依姫傳説が二つまである。其一つは肥後玉名郡玉名村大字玉名の玉名大神宮である。此社の祭神は、今では伊勢と阿蘇とを合せた五座の神となつて居るが、舊名を遙拜大名神とも稱して、菊池初代の領主藤原則隆の女玉依姫の創立する所と云ふ説がある。玉依姫玉名郡を化粧田《けはひでん》として、辻城と云ふ地に住し、月毎に阿蘇に參詣す。然るに明神の告に由つて住宅の山を若宮神と稱し、遙拜宮を西の方相殿に祀り、又父則隆をば八幡と崇めたといふ社殿がある。又俚俗の説では、玉依姫は嵯峨天皇の御宇の人であつた。當國に下向の時當郡を化粧田として下したまふ。もと土車の里と云つたのを、姫住所の故に玉名郡と改めた云々（明治神社誌料）。察する所、若宮と云ふのは此婦人が祭り始めた神で、伊勢か阿蘇かは知らぬが兎に角に主神の御社で無かつたことは、別に遙拜宮があつたのを見てもわかる。武人その他の普通の人間を若宮に祀ると云ふこと(49)は、八幡信仰の一特色であるが、此場合には若宮といふ名に依つて後に起つた説であつたかも知れない。唯巫女が神と共に他處より來た點を注意するのみである。第二に有名なる一つの玉依姫譚が、薩南｜開開山《かいもんざん》を圍繞して久しく行はれて居る。古來の俗説では、この玉依姫は仙人を父とし、靈鹿を母とした絶世の美人であつた。天智天皇の御時禁中に召されて妃嬪の員に具はつたが、後宮の妬を恐れて故郷に遁れ還り、後終に此山の神となつたなどゝも云ふ。此地方の民間信仰で、宇佐と形式の似通うて居る點は、各地に六所明神などゝ稱して、天皇と玉依姫の外に男女各二の若宮を併せ祀ることで、姫神歸國の船の中で誕生せられたと云ふ皇女の宮などもある。尚一つ言はねばならぬことは、所謂｜山路《さんろ》の牛飼の古淨瑠璃に、用明天皇の御事として語り傳ふる至尊潜幸の物語を、大隅薩摩邊では其まゝ天智天皇の御上に繋けて居ることである。麑藩《げいはん》近代の國學者は、別けても此種の浮説を憎んだ上に、言はゞ國自慢の神代舊跡取合ひの爭ひも手傳つて、この海門の靈山を以て所謂｜沖津鳥鳧著島《おきつどりかもとくしま》なりと主張する材料に、早速右の奇恠なる貴人流寓の口碑を使用し、今日に至つては小學校の生徒までが、天智天皇を祭ると云つたのは彦火々出見尊の御事で、玉依姫は豐玉姫の誤傳と云ふことを暗記する位であるが、是もやはり世に第四第五の玉依姫あるべきことを想像し得なかつた短見に基づく説で、開聞の縁起と神代史の海宮の記事とは、元來話もよつぽど違つて居るのである。又九重の貴人が美女を慕ひ邊土に流寓なされたと云ふ話は、決して豐後の眞野長者に就いて傳へらるゝばかりで無い。僅かづゝの變形を以て奧羽の果に迄も行き亙つて居て、言はゞ竹取の赫奕姫《かくやひめ》などゝ同系の久しい物語である。偶々其一箇を取上げて神代史の訛傳とするのは甚だしき速斷と言はねばならぬ。民間の口碑は元來歴史に據つて出來たものでは無いが、兎に角に永年の間、玉依姫と云ふ女神と其御配偶の貴人と、御子の王子乙姫とを祀ると信じて來て居るものを、必ずしも確實ならざる學問を以て解説を改めさせようとしたのは惡いことであつた。

　

(50)　　　　　　　　　　五

　

　關東東北の府縣には、木花開耶媛《このはなさくやひめ》を祭ると云ふ子安神社と共に、玉依姫を祭神とする羽黒神社が數多く分布して居る。其本社なる羽前の羽黒山も、今日は延喜式の伊?波《いでは》神社と決して、其神を伊?波神と公稱して居るが、和漢三才圖會等の書には倉稻魂《うがのみたま》命なりとの説あり、出羽國風土略記には之を據なしとして、玉依姫を祭ると云ふ説を掲げて居る。此山の神も宇佐と同じく三所であつたけれども、其御名は甚だしく不明で、信仰の中心と見るべきは寧ろ攝社の蜂子皇子であつた。蜂子は崇峻天皇の皇子にして聖�ｺ太子とは從兄弟の間柄であつたと云ふ。容貌醜陋なるに由つて邊土に棄てられたまひしも、機縁あつて此地に佛法を興隆し、仙道に入つて靈山の開祖と仰がれたまふこと、白山箱根伊吹などの草創記とよく似て居る。但し縁起を編した法師たちになまなかの史學があつた爲に、時代が隔絶して姫神と王子との關係を説き得ざらしめたと思はれるが、それでも蜂子太子の始めて足を駐められたと云ふ八乙女《やをとめ》の洞を、或は又玉依姫の靈窟とも稱し、初期の信仰を髣髴せしむる上に、今も十二月晦日の大祭の夜の年籠りに、終宵シヤモジヤと唱ふる鄙曲を謠ふのを、玉依姫の神御性歌謠を好みたまひ、殊にこのシヤモジヤ節を愛でたまふ故と傳へ（　　　三山小誌）、所謂｜羽黒神子舞《はぐろみこまひ》の起原を想像せしめて居る。而うして此玉依姫も或は宗像三女神のことなりと云ふ者があるのは、多分は宇佐から學んだ新見解かと考へるが、羽源記以來やはり薩摩の古學者と同じく、是を日向朝廷の貴き女性なりとする説は、出羽の山奧にもやはり行はれて居たのである。

　東部日本には今一つ意外なる玉依姫神がある。即ち下總香取郡橘村大字宮本なる東大神《あづまのおほかみ》で、或は香取御子神とも稱し、祭神は玉依比賣命と傳へて居る。御神體は海中より感得したと云ふ一靈玉であつて、多分は其爲であらう、神號を一に玉子大明神とも云ふさうである。康和三年の四月、海上郡高見の海上震動し、波濤天を浸して數日止まざるにより、朝廷に奏聞して本社の神輿を海邊に迎へ其災を鎭めた時に、此玉を得て奉つたと云ふことで、爾後毎年の例と(51)なつた四月八日の濱下りの濫觴なりとして居る（明治神社誌料）。此地は以前は海上郡に屬して居た。しかも之を香取の御子神と謂ふのは、何か仔細のあることか否か自分はまだ知らぬ。之に反して今の海上郡飯岡町大字｜飯岡《いひをか》を始め、九十九里の沿海處々に祭つてある玉崎神社の、何れも祭神を玉依姫とするものが、右の玉子の社と關係あることは先づ疑ひが無い。此等の玉崎神社の本社は、上總長生郡一宮町の國幣中社玉前神社、即ち上總の一の宮である。祭神は今では生産靈尊《うむすびのみこと》の御子｜前玉神《さきたまのかみ》と稱して、大宮若宮の二座を設け、或は又天明玉命を祀ると云ふ説もあつたが、恐らく二説共に推當ての考へであらう。房總志料續編に依れば、當社八月十三日の祭禮に中原和泉椎木綱田の内郷四社より出す御輿は、四つ共に玉前大明神玉依姫命と稱へて居た。少なくとも氏子の間では斯く認めて居たのである。而うして此神社の奇瑞として近世まで世上に傳へて居た話が、如何にもよく前述海上郡の玉子大明神と相似て居る。上總國誌に録する本社の起原は、昔里翁あり異夢を感じ、朝とく海濱に出て見るに、東風吹起つて風袋の如き物光を放ちて寄り來る。就て之を檢するに明珠一顆あり。乃ち之を齋き社を建てたとある。神職に風袋氏あるは其翁の後であらうと云ふことである（地名辭書）。自分の見る所では、此話の極端まで平凡化せられたものが、本朝俗諺志等の書に載せて居る玉前明神の寄石《よりいし》の噂である。俗諺志には下總國とあり、雲根志には又下總の銚子浦とあるが、笈埃隨筆和訓栞等には右の一の宮の事として居る。此社の鳥居は磯際に近く立つて居るが、毎日其邊へ大小の丸石四つ五つほど浪に打寄せるのを、神主拾ひ上げて社の側に小山の如く積んで置くと、此地方は一體に石の乏しい處であるから、近郷の村民作事等の折に來つて之を申し下し、礎石などの用に供する。是を玉前の寄石と稱す云々。古人が渚に來寄る玉と歌などに詠んだのも、單に美質の小石を意味するらしいから、是ばかりの神�ｺでも或は「玉寄り」と云ふ神の名を發生せしめたと推論するに十分であるか知らぬが、しかも上代の信仰に至つては中々其樣な簡單なものでは無かつたのである。古今著聞集卷一に曰く、延久二年八月三日、上總國一宮の御託宣に、懷姙の後すでに三年に及ぶ。今明王の國を治むる時に臨みて、若宮を誕生すと仰せられけり。是によりて海濱を見ければ、明珠一顆ありけり。かの御正體(52)に違ふことなかりけり。不思議なる事なりと（以上）。「かの御正體に」とあるのは、玉前神社本來の御神體がやはり靈玉であつたことを意味して居る。然らば此社又は東大神に存する相似たる口碑は、必ずしも延久の奇瑞を誤傳したものと見るを要せぬ。思ふに今人の目には奇恠と見るの他無き右の如き託宣も、實は時代と場處とを異にして繰返し起つたもので、それが又此地方の玉依姫神の神�ｺであつたのであらう。此假定を證する爲には、猶進んで若宮誕生の思想を尋ねて見る必要があるのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　石を神として尊信した古來の風習は、少なくとも其一部分を海の靈異に根ざして居る。蒼々たる波濤の底から、或日風吹起つて打寄せたる美しき又は奇形の石を、目に見えぬ靈の力に因ると考へたのは至極自然の事で、是に於てか萬人を信ぜしめ得べき託宣なるものがあつた。三代實録貞觀十六年九月八日の條に、石見國上言す、石神二つ出雲國より來ると、是日竝に從五位下を授くとある。是も海より打上げたのを出雲から移られたものと思つたのだらうとの説があるが、其は未だ確實で無いとしても、其前齊衡三年に常陸の大洗の磯前《いそざき》に出現した石神に至つては、まさしく上總の玉前神《たまさきのかみ》の類例であつた。文�ｺ實録に依れば、鹽を煮る翁ありて、夜分海を望み光耀の天に屬するを見る。明日水次を見るに尺許の兩恠石あり。其體神造にして人間の石に非ず。後一日更に二十餘の小石の彩色常に非ざる者寄り來つて、向《さき》の石の左右に在ること侍坐するが如し云々とあつて、國司の公文にも之を以て「神ありて新に降る」と記し、更に又此時神が人に憑きて、我は是れ大奈母知少彦名命《おほなもちすくなひこなのみこと》なり、昔此國を造り訖《をは》りて去りて東海に往きしも、今民を濟はんが爲に更に亦來り歸すと宣べられた由を報じて居る。此信仰が些しく形を變へて久しく海村に遺つて居たことは、處々の惠比須神の由來からも之を推測することが出來る。熊野の那智黒は今では碁石としてのみ人に知られ、津輕率土ヶ濱の舍利石は既に民家の爐側を飾るに過ぎぬ世の中ではあるが、其昔に溯つて之を珍重した人の心を窺ふ(53)に、是にも石成長又は石分身と云ふ、意味の深い俗信を伴なうて居たのである。此類の言傳へは何れの點まで、自然科學に由つて是認せらるゝものであるか、自分は未だ知らぬ。唯之を神靈の力に歸して居た例は比々として皆然りである。南河内の駒ヶ谷村大字｜大黒《おぐろ》は、名産として大黒石を出す。大黒寺の縁起には此石の由來を述べて、昔｜役行者《えんのぎやうじや》が葛城山練行の時、大黒天この山頂に出現して孔雀明王の法を授けた。行者之に由りて修驗道を開き、自ら出現の御像を刻して爰に安置した。此時より以來石川の流の中に大黒天の像と見ゆる小石、一日に一つづゝ水上の金剛山より流れ出づる由を述べて居る（河内名所圖會）。熊野又は伊勢より携へ來りし小石が、次第に成長し又は子を生むと云ふ話は、全國に分布して居るが、中にも海南｜種子島《たねがしま》の坂井浦の熊野神社に在つては、神體の小石年を經て高さ四尺餘となり、且つ其子を生むこと十一に及び、其一箇を分靈して鹿兒島にも一社を建てしに、其子石も亦一子を産み、後成長して形?母石と同じかつたと云ひ、しかも此社の海岸に於ても、上古以來毎年除夜には海底より大石一箇づゝ渚に顯はれ出で、其石相連つて一筋の陸地となつて居ると云ふ（薩隅日地理纂考）。對馬船越村大字｜蘆浦《よしがうら》の乙宮神社は、一に鹽竈社とも云ひ、其祭神は亦玉依姫であつた。此社では毎年海より神に石を寄すること或は十二或は十三であると云ふ（津島記事）。此乙宮は即ち若宮のことであらう。右等は共に神が石體を生みたまふことを信ぜぬやうになつて、話に多少の變化を生じたものと見られる。前に出した信州埴科郡の玉依比賣命神社は、久しい昔より同郡東條村の池田宮、一名磯並三社大明神を以て之に當てゝ居るが（地名辭書）、此社にも亦石誕生の奇瑞が有つて、毎年正月之に由つて嚴肅なる石占《いしうら》の神事を行なつた。其石は兒玉石と名づけて神寶である。式の日は恭しく七重の紙包を解いて、子石の數と形とを算へて領主以下村々の吉凶を卜したと云ひ、明暦年中以後の記録が傳はつて居る。最初の年には小石の數六十餘、其以後増減あつて實永三年には二百九十二箇とある（つちくれ鑑）。神の名の玉依は玉占の轉訛であらうと云ふ者もあるが、自分を以て見れば無用の説である。此社の後の山の中腹に六尺二面ばかりの大石路傍に在り、之を兒玉石の親石と云ふのを以て見れば、神寶の靈石も上總の玉前宮と同じ教理の下に、誕生したものであることが推(54)測せらるる。

　

　　　　　　　　　　七

　

　以上の諸例だけでも、玉依姫と云ふ神の名の意味は既に明らかになつたと自分は思ふ。タマとは固より神の靈である。ヨルとは即ち其靈の人間に憑くことで、神に奉仕する巫女尸童が超人間の言語を爲すだけでも斯く名づくることを得たのに、昔は其上に具體化したる靈の力が示されて、其果實の出現を以て愈々其｜依坐《よりまし》の人に遠く、神に近きことを證據立てたのである。明玉の兒孫を生ずると云ふことは、神の分靈の空名で無いことを表示する一の象徴であつたかと思ふ。之を他の一面から説明すれば、此の如き靈石を管理し得る者は託宣を職とする巫女に限り、彼等は其祖先即ち上代の巫女をば、神に接近して神の王子を産む程迄に、神異なる婦人なりと主張し得たのである。さうして昔の氏子も亦、今我々の信じ能はざる點までを信じた。それが玉依姫信仰の起原である。若宮誕生の傳説は大和の春日明神にもあつた。春日社記に曰く、若宮殿御出生、朱雀院御宇承平三年也、其後六十六代一條院之長保五年三月三日巳刻、時風五代孫中臣是忠拜見之、舊記有之と。諸社根元記などは是を信ぜずして、若宮御出生は神代也、保延以後別に神殿を造りて遷御云々と説いて居るが（以上古事類苑）、上總一宮の延久の託宣などを考へ合せると、是ばかりの不思議はあの時代としては恠むを要しなかつたのである。自分は必ずしも凡ての若宮誕生を以て、神石が小石を分つことだとは考へて居らぬ。唯是程の信心を確立せしむる爲には、神託以外に何か具體的の方法に由つて、此事實を世に示す必要はあつたことゝ思ふ。日本靈異記下卷を見ると、美濃｜方縣《かたかた》郡水野郷楠見村｜縣《あがたの》何某の娘年二十餘にして未婚の者、延暦元年の二月下旬に、懷姙三年の後に二箇の石を産んだ話が録してある。石の大きさ方丈五尺とあるから、成長して後の測量である。一は色青くして白斑あり、一は色專ら青し、毎年増長すとある。鄰郡｜淳見《あつみ》郡内に大神あり名を伊奈波《いなば》と謂ふ。卜者に託して宣はく、其産める二石は是れ我子と。因て其女の家に忌籬《ひもろぎ》を立てゝ齋《いつ》く。古往今來(55)未だ都《すべ》て見聞せず、亦聖朝奇異の一事實とある。宇佐の御神も後には黄金の御牌を以て神體を造つたなどゝ云ふが、當初神明と成りたまふとき、馬城峯《まきのみね》に高廣各々一丈五尺の三柱の大石を發し、石毎に一鉢の水を湛へて御貌を此水に寫したまふと云ふ説が、例の託宣集に見えて居る。但し此類の石崇信と比賣神との御關係を推斷する爲には、讀者には御迷惑ながら、まだ若干の傍證を陳列せねばならぬのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　賀茂と三輪と、二所の玉依姫の古傳は、爰まで來てから引用するやうにわざと殘して置いたのである。賀茂の方に就いては伴翁の「瀬見小河」に頗る周到なる史料批判がしてあるから、自分は安心して其大要のみを抄出する。袖中抄等に引いた賀茂縁起に依れば、玉依日賣は賀茂建角身命《かものたけつぬみのみこと》の御娘で、玉依日子と云ふ御兄があつた。此姫石河の瀬見小川《せみのをがは》の邊に遊びたまふ時、丹塗矢《にぬりのや》あつて川上より流れ下り、之を取りて床邊に插し置きたまふ程に、感じ孕みて男子を生みたまふ。賀茂舊記には又此事を記して、美箭あり流れ來りて身に依るとあり、即ち之を取りて床下に插むに、夜は美男と化して到り相副ふとさへ述べて居る。御子御成長の後、外祖父なる建角身命、其父を知らんが爲に神々を招き集へて七日七夜の宴を催し、御子に向つて父と思ふ人に此酒を飲ませたまへとあれば、即ち酒杯を擧げて天に向ひ祭を爲し、屋の甍を分け穿ちて天に昇りたまふ。乃ち外祖父の名に因つて賀茂別雷神《かものわけいかづちのかみ》と號け奉り、今の上賀茂の社の御神である。御伯父の玉依日子の後裔は即ち神職賀茂縣主氏である云々。御阿禮《みあれ》と稱して賢木《さかき》を飾り立つる此社特有の祭は、もと御祖神たちが戀慕哀思したまふ夜の夢に、天神の御子吾に逢はんと思はゞ、此の如くにして祭れと告げたまひし神定の式であると云ひ、其ミアレと云ふ名はもと神の誕生を意味した語だらうと古書にもあつて（郷土研究三卷九號）、この玉依姫が別の姫神であることには、十分なる證據がある。然るに學問の進まぬ時代は是非の無いもので、雍州府志二には??草葺不合尊《うがやふきあへずのみこと》の御后玉依姫なりとし、人王初代の御母を勸請するが故に下鴨を御祖神と(56)稱すと記し、又名所都鳥六には同説を掲げて、上賀茂の御神も始めて此國に降臨したまひし天孫瓊々杵尊《ににぎのみこと》なりと言うて居る。但し此等は幸ひにして夙く誤謬が明らかになつたからよろしい。

　次に所謂三輪神話の中で、最も右の賀茂神話に近いものから列記すると、古事記に神武天皇の皇后を神の御子なりとする事由を述べて、三島湟咋《みしまみぞぐひ》の女に名を勢夜陀多良比賣《せやだたらひめ》と申せし美人あり、美和の大物主神之を見感《みめ》でたまひ、丹塗矢と化して此家の溝に流れ下り、美人の富登を突きたまふ。其矢を持來りて床邊に置くに、忽ち麗しき壯夫と成りて即ち其美人を娶り、生ましめたまふ御子が比賣多多良伊須氣余理比賣《ひめたたらいすきよりひめ》であるといふ。新撰姓氏録一四大和の大神朝臣《おほみわのあそん》の條には、美人の名を三島溝杭耳の女玉櫛姫として居る。大國主神此姫を娶りたまひ、夜のみ通ひて未だ曙《あ》けざるに去りたまふ故に、姫は苧《を》を績《う》みて衣に係け、夜明けて苧に隨ひ尋ね?むるに、終に大和國｜眞穗御諸山《まほのみもろやま》に至る。還りて苧の遣れるを視れば唯｜三?《みわ》あり、之に因つて姓を大三?《おほみわ》と云ふとある。後世の縁起にでもありさうな三輪山の地名の由來は、既に又古事記の崇神天皇の條にも見えて之よりも更に詳しく、此社最初の神職たる意富多々泥古《おほたゝねこ》が、神の御子と認められた理由として録してある。書紀には之を大田々根子として居り、大物主神の神裔且つ大神《おほみわ》氏の先祖である。二書の記事に在つては美人の名を陶津耳《すえつみゝ》命の女｜活玉依毘賣《いくたまよりひめ》と傳へて居る外に、猶賀茂の玉依姫の話に近い點がある。即ち姫の父母その夫なくして姙む事を恠みたまひ、其人を知らんと欲して其女に誨へて、赤土を以て床の前に散じ、又｜紡麻《うみを》に針を貫きて其衣の襴《すそ》に刺さしめたとあるのである。更に何等かの仔細のあらうと思ふのは、大和と山城の相異はあるが、右の大田々根子の子孫で大神氏と同族に、一派の加茂氏があることである。山城の加茂氏は姓が縣主で朝臣では無いが、やはり大和の葛木地方から移任したことになつて居る。大神朝臣の一族に豐前豐後に住し、殊に宇佐の神職を世々にした者のあつたことも意義なしとは言はれぬ。しかも最も新しい三輪式神話を存する嫗嶽《うばだけ》の神の如きも、是亦大神一族の家乘に出でたものであるのは、注意に値することゝ自分は考へる。

　

(57)　　　　　　　　　　九

　

　賀茂の丹塗矢が、彼社の神事に伴なふ御阿禮木《みあれぎ》などゝ關係のあるべきことは、曾て論ぜられたことがあつたと思ふ。出雲風土記に依れば、佐太大神《さたのおほかみ》の御母｜枳佐加比々賣命《きさかひゝめのみこと》、御産のときに臨みて弓箭亡せませり。姫神誓ひして、吾御子｜麻須羅神御子《ますらがみのみこ》に坐さば、亡せたる弓箭出で來《こ》と願ひたまふに、先づ角の弓箭水に隨ひて流れ出づ。御子詔りたまはく、此は吾弓箭に非ずとて擲廢てたまふに、又金の弓箭流れ出で來る、即ち之を待取りまして、小暗き岩屋かもと宣ひて其箭を射通したまへば、光輝きしを以て加賀神埼と謂ふ。即ち｜御祖支佐加比々賣《みおやきさかひひめ》命の社此處に坐すとある。而うして此姫神は亦｜神魂命《かみたまのみこと》の御子であつた。恐らく是も均しく神の靈《たま》を姫神に依らしむる美しき箭の一例で、後世の人身御供の物語に必ず伴ふ白羽箭と同じく、神が處女を點定したまふ一つの形式であつたのであらう。姓氏録に女神の名を玉櫛姫と言ふのも由あることで、箭は固より神の齋串《いぐし》の最も神速なるものであれば、聖靈之に託すとするのは極めて自然なる語部の巧みであるが、同時に是も亦名稱に拘泥して本の心を尋ねるのを怠つてはならぬと思ふ。布留川邊《ふるかはのべ》に傳ふる驗《しるし》の杉の昔話、さては天野告門《あまのゝのりと》に見ゆる丹生津比賣《にふつひめ》の忌杖の事などを考へ合せても、串は即ち神石の分身に對立する、神木の分身なることが察せられる。阿禮少女《あれをとめ》は即ち御阿禮木に依つて、愈々その靈異を證し得たのである。三輪の神の由來は土佐風土記に在つては又倭迹々日百襲姫命《やまととゝひもゝそひめのみこと》の御事としても傳へられて居つて、記事は殆と姓氏録と同樣である。（但し其文は栗田博士の姓氏録考證には引用し、其古風土記逸文には見えて居らぬ）。倭迹々姫は書紀の崇神天皇七年に、大物主神の依坐《よりまし》となつて、我を祭らば災ひ熄《や》み國平かならんと云ふ神託を傳へられた婦人である。此神と此姫との關係は同紀十年九月の條には、即ち倭迹々日百襲姫命大物主神の妻となると記して居る。活玉依姫《いくたまよりひめ》に就いて古事記に言ふ所と同じく、男神の夜のみ來て姿を見せたまはぬを訝り、強ひて威儀を見んことを求めたまふにより、神は美しき小蛇の御姿と現じて櫛笥の中に居たまひ、姫が之を見て驚きたまふを羞ぢ憤りて、大虚《おほぞら》を踐みて御(58)諸山に登り去りたまふを、姫は仰ぎ見て悔恨の餘りに薨じたまふとあつて、此にも箸を以て自ら富登を撞きたまふと傳へて居るのである。思ふに右の如き神恠なる事件が、同じ大神に就いて幾度も起つたとはどうしても考へられぬが、さりとて一を正しく他を誤れりと斷定することは、今は全く必要の無いことである。要するに三輪の大神は、古くは串を以て神少女《かみをとめ》を定めたまふ習ひであつたのを、家々の舊傳に於て各々之を誇張し、又は物語化したと見るより外は無い。倭迹々姫は四國などには之を主神とする社が多い（郷土研究四卷一一號）。殊に讃岐の東部に於ては、此女神の流寓巡遊の跡を傳へ、處々に存留する立石を以て、姫が宮居を?《もと》めて標《し》めたまひし驗の石と稱する由、全讃史などに見えてゐる。即ち亦三輪信仰の名殘であらうと思はれる。

　

　　　　　　　　　　一〇

　

　さて飜つて八幡神の由來に就いて一言するが、中古頻りに出でたる託宣集一類の雜説が、幽恠信ずるに足らぬもののみであることは自分も之を認めて居る。しかも是を以て單純に僧巫の智巧に成つたものとすることは亦過ぎて居る。此徒もし爲にする所あつて新たに妄誕を結構するとせば、恐らくは今少しく前後の符合せんことを努めたであらう。殊に八幡を應神聖帝とする説を裏切るやうな色々の舊傳の如きは、私心ある者の寧ろ此が埋没を企つべきものである。宇佐の託宣の中に虚僞のものが多く交つて居たことは、神自らも後に之を認められ、隨つて幾分の不信用は昔から免れなかつたが、それにしても託宣は晴の式であれば、都合が惡いから聞かぬことにすると云ふわけにも行かなかつたと同樣に、言ひもせぬ事を神託なりと吹聽することは不可能であつたと思ふ。然らばどう云ふわけで後々の巫女等が、此樣に始末の惡い矛盾の多い諸種の言を爲すに至つたかを考ふべきである。此問題は巫女考全般に亙つた根本的のもので、民衆心理の學問がずつと進んだ上で無ければ想像説すらも出しにくいが、しかも自分の如きは假に彼等が空眠りで思ひ付きを言うたとしても、はた又實際夢中になつて何を述べたか知らぬとしても、結局其經驗乃至は平生の觀(59)想の外に飛び走ることは出來ぬと考へて居るから、大體の結論は同じになる。即ち此等の雜然たる託宣と之に基づいた舊記類は、何れも一旦巫祝輩の頭脳を通過して來た昔の我社會の信仰である。或は結合分配に誤りはあつても、傳説の各部分には、新たに附加したものが思ひの外少なかつたものと見得るのである。さて多くの八幡神傳の中で、最も懸け離れて宇佐近代の信仰と調和し難いのは、大隅正八幡宮の縁起である。別に又惟賢比丘筆記にも見えて居るが、此社の言傳へでは、八幡の御母は震旦の陳大王が娘｜大比留女《おほひるめ》であると云ふ。七歳にして懷姙し九月にして産生したまふを、天子王臣共に恠しみて誰人と交抱するやと問ふに、夢の中に無止《やんごとなき》人と寢ねたりと見て覺めて四方を見るに、朝日の光胸の間に在り、其日より心安からず云々。三四年の後｜空船《うつぼふね》に乘せ、印鎰を相具して母子共に流し、流れ著く地を以て所領としたまへとありければ、終に日本大隅の岸に來寄りたまふ云々。此話は勿論荒唐ではあるが、既に後漢書の中に百濟高勾麗の始祖王が事蹟として之を記し、其後裔の我に歸化した者に由つて援用せられて居るのみならず、古くは古事記に新羅の王子｜天之日矛《あめのひぼこ》の傳記として、賤女晝寢ねて日の耀《ひかり》が虹の如くにして其富登の上を指したのが、感應して赤き玉を生む。其玉麗しき孃子となりて日矛と婚し、後遁れて日本に渡り難波に留りて比賣碁曾社《ひめこそのやしろ》に祭らると云ひ、書紀には比賣許曾社の神は白き神石の童女と化して韓國より渡り來りし也と云ひ、之を都怒我阿羅斯等《つぬがあらしと》の事と傳へて居るなど、何れも前に上總一宮の玉依姫に就いて述べた舊話が、遠く天つ神の人間の少女に通はれたと云ふ、扶餘の舊傳から筋を引いて居ることを示して居る。八幡の御母の大比留女は、畏けれども此神が日輪を以て父としたまふと云ふ信仰の反映であつて、所謂第二宗廟の稱も此點より見れば徒爾ならず、必ずしも託宣集の編者が其序文に於て憂へたるが如き、前後不一致の跡を殘すことなく、之を母と子の御神として崇拜し得るやうに思ふ。今日の神職等が解説と相容れぬからとて、神の尊嚴を傷ふ者の如く言ふ人がもし有るならば、其結果は時として、取るにも足らぬ人々の誤謬の跡に、隨はねばならぬやうな迷惑に陷ることになるから、大いに戒めてもらひたい。

　

(60)　　　　　　　一一

　

　之を要するに自分の解する限りでは、八幡三所の中の比賣神は女性の中の最も貴い方で、天つ神の靈を受けて神の御子を生みたまひ、其御子を伴なひて此國に臨み降られ、共に神として祭られたまふ御方である。即ち巫女の開祖である。世降ると共に神格愈々高く、更に此神の靈を感じて人間に宣傳する爲に第二の神巫を要し、最初の若宮が獨立の御神となつて、第二第三の若宮を設けたまふと共に、比賣神も亦比賣御子神を分ち出したまふこととなつた。玉依姫を以て或一人の御名と決著してしまつた時代までは、此稱呼は常に神に仕へて神の王子を生むを以て任務とした靈巫を意味して居たものと思ふ。此推測の無稽で無いことを證する爲には、更に進んで子安と云ふ神の成立ちを説かねばならぬが、讀者もそれ迄は辛抱が出來ぬだらう。只一言して置くことは、肥後の阿蘇神社二月中巳日の田作《たつくり》神事に、毎年子安河原より姫神を迎へて神婚の式を行うたことである。其折には無垢の童女を選定して姫神の依坐《よりまし》としたと傳へられる。此式の終らぬ内に一般の婦女が婚姻をすれば、其年五穀不熟なりとして大に之を戒め、最も嚴肅な式であつた。阿蘇郡永水村字乙姫の地には、子安河原の神石と云ふがあつた。その神婚の式と云ふのはもと此石の上で行はれた故に、又安産の守護として崇敬せられて居たが、明治十三年に之を宮中に獻じ今上陛下御成育の御守としたと云ふことである（阿蘇之面影）。子安神の神像が常に幼兒を抱きたまふたことは、此方面からで無ければ説けぬやうである。又二つの社の相隣するを男神女神として、祭の日往來相會したまふを神婚の式とする例は數多いことである。此場合に女巫が依坐として式に與つたことは想像に難くない。伊勢の内宮は姫神と申上げることは明々であるのに、長元四年には齋宮寮の頭相通の妻古木古曾なる者、御神付き通ひたまふと狂言して罰せられたことが、大神宮諸雜事記に見えて居る。鹿島の物忌は一生不犯の淨き女であるにも拘らず、安産の守を其館より出して居たと云ふことが、本朝俗諺志五に見えて居るのである。

　

(61)　　　　　　　　　　一二

　

　玉依姫考の後段として申し添へたいことがなほ二つある。其一つは近世の巫女傳説の中に、玉依姫に近い名が屡々用ゐられて居る。磐城刈田都福岡村大字長袋の兒《ちご》の宮には、用明天皇の御妃玉世媛、皇子を棄てたまふと云ふ口碑があつて兒投川《こなげかは》の古跡がある。白い鳥の話を伴なふので今は日本武尊と改めて居るが、之は豐後眞野長者の物語にも出て來る白い鳥で、即ち末廣十二段の淨瑠璃にもある山路《さんろ》の草苅の玉代姫である。阿波美馬郡里村の玉振神社には、相州鎌倉の城主四位少將清平公の侍女玉振姫、亂を避け遁れ來つて亡主の靈を祀ると傳へて居る（美馬郡郷土誌）。此例はまだ他にも多からう。親鸞上人の奧方にして九條殿の御娘、或は玉白《たましろ》と傳へ或は玉日姫と云ふ女性も、常陸稻田の西念寺に遺る口碑などを見ると、此部類に算入してよいやうである。つまり何の故とも分らずに、玉織姫だの玉藻前だのと、玉の字を婦女に呼ぶのが癖の如くなつてしまつたのである。それから推して考へると、伊勢合山の女太夫にお杉お玉と云ふ者、或は東京では神田紺屋町の北方にお玉ヶ池の跡と云ふ其お玉なども、やはり幽かながら昔の姫神信仰の痕跡を留めて居るやうに思はれる。お玉ヶ池には昔水の畔にお玉がかたみの柳と云ふのがあつて、其下に詞を祭つて居た。お玉此池に身を投じ其靈恠を爲すと云ふと江戸砂子にある。著實異事に依れば御大工棟梁桑原孫兵衛なる者の下女、水を汲みに出で恠に逢ひしかば、孫兵衛怒りて池を埋め其柳を伐る。其後祟があつたとも傳へて居る。今は既に誰の家の邊かも知れないが、此池は江戸記聞に舊名櫻ヶ池と云ふとあり、或は又アヒソメの池とも謂つたさうである（以上御府内備考卷七）。アヒソメは今も根津に同名の川あり、藍染川などゝ書いて居るが、恐らくは是も神行逢ひの故跡であらう。神婚の祭式が橋の上又は邑の境に行はるゝは常のことであつたと見えて、二本杉二本楠など、箸をたてゝ成木したと云ふ傳説が、?々その行逢橋等の地に於て存留して居る。

　第二に言ひたいのは今日の縣社郷社に、祭神を神武天皇とするものゝ元の意味である。歴史上特別の因縁を證し得(62)る分は別として、單に天皇の御�ｺを仰いで社を建てたなどゝ新しい社記に述べて居るものは、恐らくは亦「玉依姫と其御子」と傳ふるに基づいたもので、結構なる誤解には相違無いが、さう誤解するに至つたのでは無いかと思ふ。自分の學んだ所では、天皇は現神《あきつかみ》で、もとは多くの神よりも更に高い御位であつた。從つて前帝を神に祭り奉ると云ふことは、古代には決して聞かぬことである。或御門の夙く神として崇敬せられたまふは、實は御靈の畏怖に基づいて居るかと思ふ。御靈の信仰は全く別種の神道であつた。而うして八幡神には御靈の信仰が、何故か夙くから結び付いて居る。或は母子神教義の中世の變遷では無かつたかと思ふ。

　

(63)　　　　　雷神信仰の變遷

　　　　　　　　　――母の神と子の神――

　

　　　　　　　道場法師の孫娘

　

　都良香の道場法師傳は、單に日本靈異記の古文を制定した迄であつて、何等別種の材料を採り入れた形跡が無い。扶桑略記は明白に此二書に據り、水鏡も亦其譯述に過ぎなかつた。然るに沙門景戒の世を去ること二百年餘の後に至るまで、所謂鐘堂の鬼の頭髪は、尚世間の評判であつたのみならず（一）、近くは聖武天皇一千年御忌の元興寺開帳の時にも、道場法師の神像なるものが出陳せられ、其姿は龍宮の變相であつた（二）。勿論其説明は歳月を經て變化したが、それを悉く古記の訛傳と認めることもむつかしい樣である。例へば詞林採葉に、大和龍田の地名説話として説く所の落雷談の如きは（三）、寧ろ遡つて最初の元興寺縁起ともいふべき靈異記の記事を、解釋したやうな點がある。即ち舊誌に在つては雷神が子を與へたといふことゝ、其童子が寺の爲に田の水を引いたといふことゝは、二つ何等の聯絡も無いやうに見え、從つて都氏の傳にも後段を省略してあるのだが、此方に於ては雷神が地に落ちて童子となり、農夫に養はれた結果、其田ばかりには思ひのまゝに雨が降つたとある。是は夕立の神ならば必ずさう無くてはならぬことで、たま／＼筆者が農民の心理に疎かつた爲に、次々何と無く聞流して居たものであつた。古くは古志の小大�ｺの法力に(64)託せられた越後｜國上山《くがみやま》の神泉由來譚の如く（四）、雷を救うて御禮には水を得させよと言つた例は多いのである。稻妻稻びかりといふ語が中世から有つたのを考へてもわかるが、雷は稻田に降り來つて大に崇敬せらるべき理由があつた。自分なども毎々目撃して居るが、關東の平野では稻田に落雷すると、直ちに其區域に青竹を立て注連を張つて置いた。其竹さへあれば雷獣は再び天上することが出來るからと謂ふのは（五）、頗る靈異記の楠船に竹の葉を泛べた傳へに近いが、實はその必要が過ぎて後に、斯うして降臨の地を齋《いは》ひ淨めて居たのである。是がオカンダチの古い思想であり（六）、同時に又道場法師譚の根源でもあつたかと思ふ。其樣に古い信仰がいつ迄も遺つて居る筈が無いといふ人が無いとも限らぬが、現に鍬（金枝）を以て撃たうとしたらどうか宥してくれと言つたと、靈異記の方にも書いてあつて、それが又今日も行はれて居る桑原々々といふ唱へ言の理由として（七）、諸國の口碑にも遺つて居るのである。之を要するに古い事でも、書物ばかりでは學び得られない。其上に古い書物にも、やはり古い誤りが有り得るといふこと、是が我々の新たに得たる經驗である。

　但し少々の弱點は有つたにしても、とにかくに今から千百何十年も前に、日本の固有信仰に對しては寧ろ冷淡な人々の手を以て、斯ういふ民間の説話が採録せられて居たことは、無論學問上の大なる價値である。けだし道場法師の物語の如きは、縱から見ても横から眺めても、佛教の信用にもならず、從つて格別本山の名譽でも無いに拘らず、是ほど具體的に又大なる興味を以て、書き殘さうとしたのは理由があつた。即ち久しい年代に亙つて我々の國民に、最も人望の多かつた「力を天の神に授かつた物語」、及び日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて之を神の子と仰ぎ崇めた信仰が、あの頃もなほ盛んに行はれて居た結果に他ならぬのである。さう考へて後に今一度此靈異記の一章を讀んで見ると、聊か側聞を注したと稱する法師の漢文の中にも、更に幾筋かの脈絡の古今東西に通達するものを、見出すことが出來るやうに思ふ。その第一に算へらるべきものは、賀茂松尾の神話として永く傳はつた別雷神《わけいかづちのかみ》の誕生譚である。道場法師が雷神の寄胎する所であつて、しかも生れながらにして蛇其頭を纏ふこと二遍、首尾垂(65)れて後に在りといふ不思議は、諸國の玉依姫系統の多くの古傳を比較し（八）、更に豐後の花の本以來、數限りも無く各地に分布する所謂三輪式の説話と對照することに由つて、解説が始めて可能である。即ち曾て我々の天つ神は、紫電金線の光を以て降り臨み、龍蛇の形を以て此世に留まりたまふものと、考へられて居た時代があつたのである。それが皇室最古の神聖なる御傳へと、合致しなかつたことは申すまでも無いが、正史編纂の際には此が爲に必ずしも諸家の舊辭を斥けられなかつた。例へば雄略天皇紀に採録せられた少子部連螺贏《ちひさこべのむらじすがる》姓を賜ひ、次で三諸《みもろ》山に登つて神を捉へて天皇に示し奉るといふ一條の如きは、明らかに彼の一族が録進する所の家文に基づいたものと思ふが、其雷｜?々《きゝ》として目精赫々たり、仍て再び岳に放たしめたまふとあつて、其神の姿は大なる蛇であつた（九）。もしその樣な奇恠な事は有り得ないと言ふならば（一〇）、やがては此記述の全部を否認することになるのであるが、我々は單に此時代の前後に於て、斯く信じ斯く語り得る者があつたといふ事實を認むれば則ち足るのである。此山の大神は、美麗なる小蛇となつて人間の御妻に姿を見せられたことが、既に箸の墓の傳説にもあつて、別になほ之を主張する一族もあつたらしく、言はゞ此樣式に屬する最も年久しい信仰の一中心であつた。尾張の道場法師が數多き諸國の類例の一つとして、是だけ迄の一致點を保存して居たことは、既に學問上の珍であつた上に、それが幾分なりとも平城佛教の影響を受けた、やゝ後代の變遷を暗示すとすれば、記録者の功勞は誠に徒爾でなかつたと言ひ得る。

　思ふに道場法師といふ僧名は、必ず何物かを暗示してゐるのであらうが、我々は未だ其端緒をすらも捉へることが出來ぬ。京都と其四周の地に於ては、太古に國土を開いた巨人の名を、通例は大道法師と傳へて居る。それと道場法師と同一人であらうといふ説の根據は、必ずしも文字の共通、もしくは岩の上に遺つた下駄の齒ばかりでは無いやうである（一一）。次々に自分が述べんとする神子誕生の物語に、往々にして雷神が參與すること、大太もしくは大多良といふ巨人の名にも、本來天神の御子といふ思想が含まれて居たらしいことなどを考へると、個々の記録の末端に於ては、假に相容れざる矛盾があるにしても根源はなほ一つで、或は割據分立の結果、終に此の如くなつたのかとも想像(66)し得られぬことは無い。そんなら如何なる事情に原因して、一方は寺に入つて護法童子の役を勤め、他方は國々の社に祀られ、もしくは果も無い旅の日を續けて居るのかといふと、つまりは此物語が汎く國民の財産に歸する以前、必ず之を我家獨占の由來談として、叨《みだ》りに他人をして説き且つ諷《うた》はしめなかつた者が居たからであらうと思ふ。靈異記は果して如何なる方面から、かの資料を仰いだかを知ることは容易でないが、道場が故郷といふ愛智《あゆちの》郡｜片輪《かたわの》里に、形は小さくて非常な強力の女が居た話を、別に二つまで此書には載せてあつて、雙方ともに是れ昔元興寺に在りし道場法師が孫なりと斷つてある。童子で寺に仕へ勲功を以てやがて得度した法師としては、よく／＼で無ければ故郷に孫娘などは居るまい。乃ち強力の血筋には深い因縁のあつたことを、後々まで語つた家が彼地に殘つて居た證據であつて、事によると沙門景戒もその一族かも知れず、更に一段の想像を進めるならば、かの書の卷頭に精細なる一異傳を載せた小子部栖輕の子孫が、出でて、あの地方に住んで元の信仰を敷衍して居たのかとも思はれる。それは或は永久に立證する能はずとしても、少なくとも小子部連といふ姓の起原に付いては、單純に現存の所傳を承認することは出來ぬやうである。書紀には螺贏の連、三諸岳の雷神を奉請した前の年に、后妃に親しく蠶養《こかひ》せしめ給はんとして、彼に命じて國内のコを聚めさせられた。それを承はり誤つて嬰兒を連れて來て獻上したので、天皇大に咲《わら》ひたまひ、彼をして其子を宮墻の下に養はしめ、仍てチヒサコ部の姓を賜はつたと記してある。此家の榮譽が雷を制御した一點に偏よつてしまつて、雷神との交渉が薄らいで來てからは、或は斯ういふ小さな逸話の中に、家名の由來を見出さうとしたかも知らぬが、他の幾つかの別雷系統の口碑を比較して考へて見ると、かの嬰兒も亦單なる偶然の誤解から此家に養はれ、又小子部といふ姓の起原を爲したのでは無いやうな氣がする（一二）。即ち道場法師傳の筆録せられた後まで、尚世に行はれて居た雷神寄胎の一條のみは、何か事情が有つて特に進獻の家文から、脱落したものゝ如く考へられるのである。

　　（一）　扶桑略記二八卷、治安三年十月十九日の條。

(67)　　（二）　南畝※［草がんむり／秀］言下卷に記事がある。

　　（三）　和州舊跡幽考卷六に依る。

　　（四）　今昔物語集卷一二、越後國神融聖人縛雷起塔語。この話でも落ちた雷は十五六歳ばかりの童子であつた。助けられて天に還らうとして※［爪＋國］み穿つた岩穴から清水が出たとある。

　　（五）　郷土研究三卷九號に、山内淳一君が常州久慈郡の例を報告して居る。又土岐琴川氏の稿本美濃誌に、美濃でも同じ風習のあることを述べである。

　　（六）　ユフダチのタチも多分は同じ意味で、即ち齋場降臨のことであつたらう。タツとは天から降ること、即ち大和の龍田の地名の理由だと思ふ。龍を日本語でタツといふのも、斯う考へて始めて會得せられる。

　　（七）　桑原井のことは舊著「赤子塚の話」にその數例を擧げておいた。水の神が金屬を怖れるといふ世界的のフオクロアに由つて、説明せらるべき説話である。

　　（八）　今日保存せられて居る四つの古風土記には、それぞれ地方的の變化を以て、何れも神父人母の神話を留めて居る。就中常陸?時臥山の物語は、最も顯著に雷神蛇形の古い信仰を證據立てるやうに思ふ。

　　（九）　日本書紀卷一四、雄略天皇の七年七月の條。

　　（一〇）　例へば間宮永好は書紀雜考に於て、此山の神を大物主神とする分注のみを、私記?入の誤なりとして、其他の記事を信用せんとして居る。

　　（一一）　松屋筆記のダイダラボッチの條には、台記文安二年九月二十七日の條を引いて、近江の石山寺に道場法師の履の跡といふ靈石のあつた記事を掲げて居る。大道法師の方は多くは素足の足跡で、其形が非常に大きいが、それでも此だけの一致は他には少なかつた。靈異記の文にも道場大石を投げたとき、足の跡土に入ること三寸云々と記してあるのである。

　　（一二）　日本靈異記の小子部栖輕の記事は、明白に書紀とは別種の資料に依つたものである。注意すべきことは幾つもあるが、此場合に殊に必要なことは、書紀には雷を捉へたとあるのを、此方には奉請と書いてあることである。

　

(68)　　　　　　　靈安寺の縁起

　

　元興寺に寄寓した尾張の神童の物語に於て、特に自分の重きを置かうとするのは、什寶として久しく傳はつた鬼の頭髪の一條である。夜明けて血の痕を繋いで往くと、曾て此寺の惡奴を埋めた路の辻に到達したので、即ちかの惡奴の靈鬼なることを知つたとある。斯くの如くにして始めて道場を此寺の僧となし、鬼の髪毛を寺の資財とした理由が立つた。つまりは靈異記があの時代の神秘を、悉く冥報に由つて解説せんとした如く、千年以來の此國民の神話を、一つ／＼に引離して之を佛教化しようとした努力は、既に弘法大師以前に始まつて居たのである。從つてもし草莽の間に潜みながらへて、必ずしも初期佛教の感化に順はなかつた色々の傳承が無いならば、斯邦固有信仰の根幹とも認むべき神子降誕の思想の如きも、永く其變遷の跡を辿るすべなく、學者は依然として日本人の模倣力のみを過信して居たかも知れぬ。實際口碑も亦外國から輸入し得たかの如く考へてもよい程に、京畿四周の舊傳は改造せられて居たのである。

　それを何れの點までが新宗教の影響であり、どの點から先が一般の生活事情、乃至は環境自然の力に出でたかを判定することは、固より容易な事業では無いが、兎に角に書紀の編纂の頃を境として、世の中は改まり神道は著しく變化した。さうして新たに現はれたものが、八幡神であり所々の御靈であり、最後には北野の天神であつた。さうなつて行く徑路に於て、先づ徐々として増進したものが、次々に生れたまふ神の子の猛威であつた。以前は單に其生誕の奇瑞に對して畏敬の念を抱いたものが、後には必ず人間に向つて、何か怖ろしい害惡をもたらすかの如き感じを加へたのである。それが必ずしも兵戈疫癘の樣な現實の凶變に遭遇して後、始めて此種の誤れる推測を試みたのでは無く、兼てさう考へる傾向があつた故に、災厄は更に一段と人心を不安ならしめたので、或は所謂無上道の教義が、いつと(69)無く比較劣の地位に、多くの國神を押し墮した結果ではなかつたかとも思ふ。

　古風土記の中では、前に引いた常陸の?時臥山《くれふしやま》の記事が、神の子の甚だ怖るべきものなることを説いた最初の例である。單に本文を檢するの勞を省く爲に、略々その要點を掲げるならば、昔｜努賀?古《ぬかひこ》努賀妣�刀sぬかひめ》の兄妹あつて、何人とも知れず其妹の室に、夜來り晝去つて遂に夫婦と成つた人があつた。後に懷姙して産月に小さき蛇を生む。明には言無きが如く、闇には其母と語る。驚き奇として神の子ならんと思ひ、即ち浮き杯《つき》に盛り壇を設けて安置するに、一夜の間に已に杯の中に滿てり、瓮《みか》を更へて之を置けば、此の如くなること三四たびなりとある。母其子に告げて曰く、汝が器宇を量るに、自ら神子なることを知る。我屬の勢を以ては養ひ長ずべからず、宜しく父の在《いま》す所に從ふべし、此に在るべからずと。神の子は是に答へて、然らば一身獨り去ることを得ぬ故に、一人の小子を供に連れたいと求めたが、家には母と伯父より他に何人も居らぬので、其乞を許すことを得なかつた。それを恨み怒つて物言はず、別るゝに臨んで其伯父を震殺して天に昇らんとした。母は之を見て驚勤し、瓮を取つて投げ付けると、それが神子に觸れたので昇ることを得ず、因つて此峰に留まり瓮は今片岡の村に在る。其子孫社を立て祭を致し相續して絶えずとあつて、是も亦どういふ理由からか、子孫と稱し得る者が土地に住んで居たのである。

　或は之を以て偶然の一變例となし、必ずしも時代の影響を認めるに足らぬと言ふ者があるかも知れぬ。しかし少なくとも神の子の憤怒といふことを明白に記載した文字は、是より以前には殆と見ることが無くて、是から後には次第に多くなつて居る以上は、其推移の跡を追ふ者は之を無視することを得ないのである。山城の京の初期になつて、新たなる御靈神は次々に顯祀せられたけれども、其信仰には多分にあの時代の社會心理が働いた爲に、之を本邦固有の神子思想から、展開した現象と解する人は少なかつたのである。しかし所謂八所の御靈の構成に注意して見ると、八座の數は夙く定まつて、名稱は世と共に區々であつた。中に就いて殊に問題となつて居るのは、吉備聖霊がもし吉備大臣のことであつたならば、どうして此人ばかりが非業の死を遂げたる寃癘の中に交つて居るかといふこと（一三）、第(70)二には火雷神もしくは火雷天神が、如何なる神樣であるかといふことであつた。それを北野天神の神事なりと謂つたのは、決して近世の僻案では無かつたが（一四）、單に早くからさうも考へた人があるといふ迄で、到底理由無しには之を受け容れることが出來ない。しかも今以て確かな第二の意見も成立たぬのは、つまりは初期の混亂に際して、大切な脈絡の絲が永く絶えたことを意味するかと思ふ。乃ち別方面の民間信仰との比較に基づいて、改めて古義をたどるべき必要及び興味がある所以である。

　京の御靈社はもと五靈であつて、後に三所を追加した證據ありといふ人がある（一五）。併し假に託宣などに由つて暗示せられたとしても、既に獨立に御靈會を營まれる北野の神が、今更此一群の中に加入せられる筈は無いと、考へる人は多かつたのである。故に黒川道祐は右の火雷天神を以て、延喜式内の乙訓坐火雷神なりと斷定し（一六）、天野氏は又之を現今の大和｜御山《おやま》村の雷神さま、即ち光仁天皇の廢后井上内親王の御子を齋ふ神なりとし、同時に延喜式の宇智郡火雷神社がそれであるやうに信じて居た。ところが式内に火雷神といふ神は、此他にも尚幾社もあつて、現に宮中に一つ、大和にも別に二つあつた。單に名稱の共通のみを以て、祭神の一致を説き得ないのは勿論だが、吉田一流の註釋家の、それが古くからの了簡違ひであつた。例へば乙訓郡火雷神社の如きも、偶然に松尾と近かつた故に、二所同神の説が夙く行はれた（一七）。即ち多分は賀茂の別雷神傳の不當なる擴張であつて、既に類似の由來談が諸國に獨立して保存せられた以上は、此神名の數多く散在するのも少しも恠むには足らなかつたのである。

　但し南大和の火雷神の方は、丸々神名ばかりからの推測説でも無かつた。今の宇智郡の雷神社には、四百七十年前に書き繼いだといふ敬虔なる縁起が傳はつて居る（一八）。所謂四所の御靈は雷神と共に、御母及び二柱の御兄宮を祀り奉ると稱し、しかも井上内親王は御母子とも京都の御靈の列に參加なされて差支への無い痛はしい御方であつたのみならず、現に早良廢太子の方は崇道天皇の御名を以て、八所の隨一に算へられてあるのである。内親王流謫の地も、御墓も亦此附近に在つたらしい。さうして祭典を以て專靈を慰められたことも舊記には見えて居る。故に他日立戻つ(71)て山城の都の御靈會を御享けなされたとしても不思議は無い。只解し得なかつた一事は、其御社の主神が却つて正史には見えない雷神であつたことゝ、その神降誕に關する荒唐を極めた傳説とであるが、しかも今日に至るまで、それが口碑として此地方には流布して居るのである。

　靈安寺縁起の録する所に依れば、雷神は廢后が大和へ流されたまひし後に、宇智郡大岡郷の小山の峯に於て御産れなされた（一九）。仍て其山を産屋峰《うぶやのみね》と呼び、又御母の后を葬り奉るに由つて御墓山とも謂ひ、里の名を御山と名づくとある。後代の社地も雷神の社のみは丹生川《にふがは》を隔てゝ五町ばかり西に在り、他の三社は靈安寺の境内に在つたといふことが注意を要する。或はこの雷神の社を若宮社とも唱へて居た（二〇）。雷神は成長の後、御母兄たちの流されたまひし事を聞き、怨みを爲したる人々を一々に取殺し、天下を暗闇にして御憤りを散ずべしとて、乃ち現身に雷となつて虚空に昇り、風雨雷電を以て天地を動かし、京畿七道には是が爲に頓病頓死する者其數を知らずとある。即ち神の名は自然に此の如くにして生じたのである。但し縁起には成長の後、怒つて雷神となりたまふとあるが、それにしては在世の時の御名が傳はらぬのみならず、土地には尚是と一致せぬ色々の口碑があつた。例へば同じ郡宇智村の荒坂では、井上内親王雷神を身籠つて此地を過ぎたまふと稱して、近江と越前との境に在る荒血山《あらちやま》同樣の傳説が今もある（二一）。もし誕生の最初から雷神で無かつたならば、恐らくは産屋の峰の由來譚も無かつたらう。たゞの王子の御産所としては、小山の頂上などは似つかはしくも無いからである。正史の記す所に從へば、廢后と廢太子は大和宇智郡の没官地に幽せられて、僅か一年半の後に母子同日を以て薨ぜられ、それから三年目にはもう祟癘が現はれたと見えて、墓所優遇の官符は發せられたのである。故に延喜式内の火雷神社、もしくは宮前霹靂神社が、今の若宮社に該當するか否かは別の問題として、是ほどまで密接に雷神と御靈の信仰とが結合して居たとすれば、理由は必ず別に深く潜むものがあつたのである。それを尋ねようとせずに、單に書傳の資料のみに依據して解説を下すならば、かの長禄縁起の失敗は今後も幾度かくり返されなければならぬ。

(72)　然るに我々に取つて幸ひなことには、爰に尚比較類推の方法を可能ならしむべく、一二の稍々具體的な特徴が殘されてあつたのである。靈安寺縁起の數多い誤謬の中に、殊に注意を惹くのは崇道天皇、即ち早良太子を以て同じく井上内親王の御子とし、強ひて雷神を第三の王子と算へようとした努力である。早良は明白に桓武帝の同母皇弟であつて、其廢立は又全然別系統の政變に屬するに拘らず、特に之を大和に迎へ來つて四所御靈の中に加へたのは、何か相應の動機が無くてはならぬ（二二）。或は中古の藤森信仰の餘勢かも知れぬが（二三）、兎に角に雷神を第三順位に置く思想が強く働いて居た爲に、自然に此の如き奇異の配合を見たものと思ふ。もし果して其想像が當るとしたならば、次に述べんとする北野社傳の最も幽恠なる部分、即ち比丘道賢の冥途記の中に、火雷天氣毒王は我が第三の使者云々とある箇條と、一脈の相通ずるものを見出すことが出來るのである。

　　（一三）　和漢三才圖會にも此事を疑つて居る。鹽尻（帝國書院本）卷二七には、吉備聖靈は吉備内親王の御靈であると説いて居る。穩當ではあらうが一個の想像説に過ぎない。

　　（一四）　拾芥抄八所御靈の條には明白に火雷天神北野御事也とある。それより古い出處はまだ心付かぬが、有るであらうと思つて居る。

　　（一五）　此説を最も明白に述べたのは神社覈録の鈴鹿連胤である。成程三代實録の貞觀五年五月二十日の條に、所謂御靈はとして列擧してあるのは五人のみで、之を世諺問答以下の諸説と比べて見ると、吉備聖靈と火雷天神との他に、藤原廣嗣のことだといふ藤大夫が落ちて居る。

　　（一六）　遠碧軒記上卷ノ一、下御靈社の記事の注の中に書いてある。

　　（一七）　延喜三年の遷都の際には、二社同時に同階の神位を授けられたことが續紀に見える。そんなことが此推測の一つの根據になつたものであらうか。

　　（一八）　續群書類從卷六六、靈安寺御靈大明神略縁起がそれである。筆者阿闍梨祐成年七十三、水鏡以下の古書によつて編纂した以外に、當時の口碑の記憶に由つたものと認められる。以前にも縁起があつて、兵亂の際に紛失したと言つて居る。

　　（一九）　井上内親王が大和國宇智郡に幽せられたまひしは、績紀に依れば寶龜四年十月であるが、縁起は其前年を以て雷神誕生の年として居る。それにしても御母は年五十六歳であつた。但し信ずべからざるは決して此點のみでは無いのである。

　　（二〇）　和州舊蹟幽考卷六其他。

(73)　　（二一）　郷土研究二卷三號田村吉永君報告。山中誕生の珍らしい神物語に關しては、小著「山の人生」に幾つかの類例を掲げて置いた。山姥金時の昔話もそれから出たものと考へて居る。

　　（二二）　大和志料などには御靈神社を三座とし、御山村の若宮社即ち雷神を獨立せしめんとして居るが、それは舊傳の否認に歸するのみならず、さうして見たところがやはり早良太子の問題は殘るのである。

　　（二三）　山城の藤森神社は、後世崇道天皇を祀るといふ説が專ら盛んであつたが、是にも他の一方には賀茂の別雷神話の適用があつたのである。自分は是も乙訓坐火雷神と同樣に、もとはそれ／”＼別途の信仰に成るものと考へて居る。

　

　　　　　　　天滿大自在

　

　北野信仰の發端を爲す所の菅公左遷は、政治上の悲劇としては井上内親王御母子の廢謫事件よりも、寧ろ遙かに小規模のものであつたにも拘らず、其神�ｺは次第に成長して、永く偉大なる威力を保ち得たのには、外部にも亦看過すべからざる幾つかの原因があつた。第一には山城奠都を明白なる一劃期として、内外の交通は急激に發達し、之に伴なうて人間の智巧も亦稍々過度の進歩を見た。其上にまだ何か天然の理由もあつたと見えて、各種の災厄は相次いで社會を脅かし、延喜天慶の際に至つて、更に一段の頻繁且つ強烈を加へたのである。是が人心を動搖せしめた點も、亦頗る大正昭和の今日と似て居た。御靈の信仰は其影響を受けて、顯著なる變化を示さゞるを得なかつたのである。

　第二に考へなければならぬのは神託の自由である。保守の時代には神話にも定まつた典型があつて、あまりに其範圍を逸したものは、新たに説いても信じ得る者がなかつたであらうが、外國の文學と珍らしい教義とは、獨り無意識なる宣傳者の想像力を長養し、經驗を豐富にしたのみならず、謹んで之を聽かんとした常人の感受性をも解放したらしいのである。流言蜚語の類の幾らでも效果を奏し得る?勢であつたと共に、巫祝社僧の徒の、時代に適應した救濟(74)指導の手腕を、試みることの出來る機會でもあつた。人物としては聖寶・空也・淨藏貴所などが傑出した如く、神道に於ては石清水に次いで北野が新たに顯はれ、永く不退の地歩を占むるに至つた。さうして舊來の神子思想の如きは十分に利用せられて、しかも後ほどなく忘却せられてしまつたやうに思はれる。

　兎に角に神代紀の八雷生誕の物語に始まつて、近くは延喜の代の神名帳の中にまで、尚あれだけの威風を留めて居た多くの雷電の神が、少なくとも京畿近國に於ては一朝にして統一せられ、且つ其信仰を改造せられたのは、悉く北野を中心とした託宣の力であつた。男山は不思議にも之に參與しては居ないのである。改造の要點は、あらゆる天災人禍を冤　れい　の遺憤に基づくものとした當時の御靈思想を、天と人間との仲に立つ者、即ち雷神の信仰に結び付けたことである。さうして更により強大なる力が之を制御し得べきことを説いて、次第に此神を低い小さなものにしたことである。尤も是には久しい前からの傾向はあつた。特殊の天分あり又技術ある者は、人間でも必ずしも負けてばかり居らぬといふ例が、靈異記にも風土記にも見えて居るのであるが、しかも單なる崇敬と祈請とに由つて、誰でも一樣に雷神の侵撃を避け得られるやうになつたのは、全く北野天神の新しい信仰が、更に若干の成熟を見ての後であつた。その統一の力はなるほど偉大であつたけれども、もう時代は進み智術は既に複雜に、人は亦弘く國々の山野に分散して住んで居たのである。たま／＼遠近の田舍に之と相容れざる口碑が遺り、或は以前の信仰が異なる解説を以て傳へられたのも恠しむに足らぬ（二四）。乃ち著名なる大社の記録のみを綜合して、我邦固有宗教の面目を復原し得べしとする研究法の、從ふべからざる所以である。

　自分などの見る所では、北野信仰の歴史を考へた人々の、今まで不當に看過して居た點が幾つかある。その中でも殊に此論文の爲に入用な箇條は、所謂菅公化現説、即ち梅下童兒が最初から神であつたといふ傳説が、如何なる事情の下に發生し且つ信受せられたかといふことである（二五）。勿論今になつて其説の眞訛を究めるの必要は無いが、これを個人の空想又は虚構に出づとする説は、實は何等の根據があるので無く、單に常理を以て解し得ぬからといふ迄で(75)あつた。そんな論法を徹底したら、恐らく一切の古いものが消えてしまふだらう。誤りにもせよ曾てはさう信ずるだけの理由が、隱れて必ずあつたものと見るべきでは無いか。第二には何故に菅公が天神であり、又其稱號が天滿大自在であつたかといふ點、是も亦解釋を試みた人が無かつたやうだが、天つ神といふ語に略々定まつた意味のあつたあの時代に、たゞ漫然と此樣な美稱を捧呈する筈は無い。即ち現人神《あらひとがみ》の形を以て、能く火雷の奇瑞を示したまふが故に天神であり、天上の威力を人間に行ふこと常に意の如くであつたから、大自在の名を以て稱へざるを得なかつたと解するの他は無いのである。

　しかもかの時代の天神思想は、至つて短かい期間に驚くべく變化したのである。沙門道賢が所謂冥途記を奏進したのは、菅公薨後僅かに三十七年の事であつたが、ほゞ此際を境として天神の地位は著しく高くなつて居る。勿論一箇のファナチックの幻覺以上の何物でも無かつたのだが、言はゞ彼はあの時代の社會信仰を見て居たのである。道賢が藏王菩薩に導かれて金峰山《こんぶせん》の淨土を巡り、親しく問答をしたと稱する日本の菅相府は、當時自ら大政威�ｺ天と名乘つて居た。わが本國の人々、上下倶に火雷天神と稱して、尊重すること世尊の如し。然るに何故に此怨心あるかとの問に對して、彼國我を大怨賊と爲せり、誰人か尊重せりと言はん。しかもかの火雷天氣毒王は、我が第三の使者の名なりと謂つて（二六）、今後此僧の仲介に信頼して慇懃祈請する者あらば、其災を免れさせようと誓つたといふのである。即ち我々はこの荒誕なる夢物語の中からでも、當時なほ火雷神を以て菅公に擬した者があり、神は却つて其責任を配下第三順位の者に轉嫁して、自分は數段と高い統御者の地位に立たうとした傾向がよく看取せられる。是が恐らくは連年の異變に動かされて、極度の不安を感じて居た民衆の、最も新しく且つ最も有力なる一箇の御靈から、期待しようとした神�ｺの最大限であつた。即ち時代は大に改まり佛法は強く影響しても、尚完全には祖先から持傳へた國土自然の信仰より、脱却してしまふわけには行かなかつたのである。

　　（二四）　北野系統から獨立した雷電社に於ては、やはり童子神の信仰を有するものが多い。東京の近くでは武藏久良岐郡氷取澤(76)の寶勝寺の雷松が、樹下に飯盛童子の祠を建てゝ鎭守とした（新篇風土記稿二三）。野州足利郡板倉の雷電神社なども、祭神別雷命と稱しつゝ落雷の記念の火鉢といふものを傳へ、是にも尚勇猛なる小僧の物語を存するのは一奇である（下野神社沿革誌卷一）。雷神は必ずしも新宗教によつて征服せられてはしまはなかつたのである。

　　（二五）　伊勢の神庫に藏せられるといふ北野事跡二卷、これは北野文叢の中にも採集せられて居る。建保年間の作とあるが、是には正しく神童出現を説いてある。又大江佐國元永元年の手記といふものが正しいならば、是は更に早く菅公薨後二百十五年の事になる。

　　（二六）　扶桑略記天慶四年の條に出て居る冥途記は略本であるが、肝要なる諸點は皆其文中に含まれて居る。是だけでも稍々長たらしくて引用に不便である。

　

　　　　　　　老松と松童

　

　今日の眼から見れば、道賢比丘の報告は異端である。或は不正直なる動機を推定する人も無いとは限らぬが、あの當時に在つては彼が暗々裡に時代から感化を受けた如く、彼も亦大なる印象を後の信者に與へて居たので、其證跡は次々の託宣の上に、頻る明瞭に現はれて居る。託宣なるものは固より人力以上である。其前後甲乙の間に相容れざる矛盾があつても、それにも何かまだ發明せられざる解き方があるものと想像して、古人は必ずしも之を疑ひ又は私議しなかつた。即ち神託の光景はそれ程にまで目撃者を感動せしめるもので、從つて歴代の啓示が散漫區々を極めて居る場合にも（二七）、尚信者は彼も眞、是も亦眞なりといふことを得たのであつた。然るに吉野の道賢上人の後、僅々六年を隔てた天暦元年の託宣には（二八）、早既に冥途記の影響がいと顯はである。即ち近江國比良の宮の神主良種が男、年漸く七歳なる者の口から、我は瞋恚の身となり其?天に滿ちたり。諸々の雷神鬼は皆わが從類と成つて、其數總て十萬五千と告げて居るのは、何等の系統なき單獨の空想とは思はれぬのである。それから更に三十何年の後には、太(77)宰府の方にも禰宜藤原長子の託宣といふものがあつて、やはり亦隨身伴黨十六萬八千八百餘人、總じて恨を含み世に背ける貴賤の靈界皆悉く集り來る。但し無理に恨を含むの輩は專ら相共にせずと謂ひ、御靈統御の思想は茲に至つてか一般的のものとなつてしまつた。我々が今日想像し得る以上に、此種の奇瑞は強く働き、又汎く傳へられて居たのである。

　比良の神主家の幼少なる尸童の名は太郎丸であつた。幸ひにして記録を今日に留めた神託の言葉の中には、特に大切なる學問上の暗示が多いやうに思ふ。北野神廟の創建に關する言ひ傳へは、我々の疑惑を插まねばならぬ程に、込入つたものでは決して無い。最初道賢比丘が金峰の淨土に入つて、まぼろしに見たといふ次の年に、西の京七條の賤女文子なる者（二九）、我を右近馬場に祀るべしといふ天神の御告を受けたけれども、家貧にして力及ばず、僅かに己が草の戸の傍に、形ばかりの小祠を構へて五年の月日を過ぐる間に、再び良種が子に神は憑かれたのである。所謂一夜の松の美しい神話は、後世諸國に其類型がある如く、或は其頃既に言ひ馴れた不思議であつたかも知れぬが、兎に角に太郎丸の託宣は、之を豫言して適中したといふのである。天神の言葉に、我從者に老松富部といふ二人あり、老松は久しく我に隨ひて來れる者なり。是なん至る處に松の種は蒔くとあるのは、恐らくは賀茂の古式に存するミアレ木の思想と同系のもので、植物に由つて新神の出現を表示する風習が、たま／＼北野に於ては此形を採つたので無いかと思ふ。

　太宰府の方には亦早くから飛梅の物語があつた（三〇）。之に伴なうて後には松はつれなきの歌物語も起り、次第に手習鑑一類の小説と變化したのだが、尚その久しい前から老松は最も重要なる眷屬神の一つであつた。それと竝べ稱せられて居る富部といふ小神のことも（三一）、何か仔細があるらしいが今はまだ十分な説明が付かぬ。兎に角に天神は比良の良種等が疑問に答へて、次のやうな意味の事を告げられた。昔我が持たりし笏は老松に持たせ、佛舍利は福部に持たせた。二人の從者は九州から隨行して再び都に上り、若宮御前の小高い處に、地下三尺ばかりを穿つて其品物を(78)埋めて居る。此二人のやつ共は甚だ不調の者どもぞ、心づかひせよ、わが左右に置きてあれ。言はじとは思へども笏の序を以て言ふなりと仰せられた。此託宣の辭句にもし時代を映發する何物かゞあるとすれば、此點などは特に我々に取つて重要な箇條である。

　後世の註解者は右の「不調の者共」といふ一句を、實は大に持ち扱つて居るらしいが、必ず我左右に置きたれとある後段に注意すれば、少しも隱れた所は無いので、今の言葉でいへば厄介者、もしくは始末の惡い者を意味する語であつたのである。是と全然同種の眷屬神は、一方には亦八幡の万にもあつて、其名前も老松とよく似た松童《まつわらは》であつた。貞觀三年の行教和尚夢記に、既に松童の名はあるが、果して信用してよいか否かを究めない。本社に於ても古くから傳統は絶えて、遷座の時祝ひ奉るか、高良分身かなどゝ言つた人もあるが（三二）、是は明らかに末社記其他の本文を讀み誤つた説である。末社記に依れば、男山末社松童、高良社板敷の下に坐せしめたまふ由緒あり。大菩薩御垂跡の時託宣に依つて堺を定むる根本の御眷屬也とある。即ち高良の社に於ても、社殿の板敷の下に居らせ申した神だから、決して主神では無かつたのである。男山の一説には松童の本地は不動尊、呪詛神なりと謂つて居る。「高良板敷の下に御坐して別社無し、惡神たるに依つて目を放つべからざるが故に」とも傳へて居る。或は貞觀元年松童皇子御託宣といふものも殘つて居る。自身は是れ川原大明神の御分身、松童皇子と謂ふ也。小神は俄に怒り大神は稍々に怒る。悟敏和悦の人に永く神恩を蒙らしめんと告げて居り（三三）、又別傳に依れば、もし末代に及んでわが託宣を託陋（？）顰蹙するの輩あらば、本宮の戌亥の隅字｜牛我尾《うしがを》の榊並びに劔御子の鉾を、惡人の方に向ひて撫で伏せ、各々その災ひを致さん。所謂小神は俄かに瞋り大神は稍々に怒るなりといふ託宣もあつたといふ。勿論小神といふのは松童自身のことである。大神も類を同じうする畏こき神ではあつたが、些々たる治罰の事務は之を配下眷屬に一任して、直接に手を加へんとしなかつた故に、次第に信心祈願を以て之に仕へ、豫め意外の祟りを避けんとする風習を生じ、いつと無く牛頭天王は防疫の神、道祖は行旅の愛護者として、仰ぎ敬はるゝことになつたので、北野は特に水火雷電の方面(79)を主管したといふ以外に、その靈界統制の方式に於ては、八幡と異なる所はなかつた。即ち富部老松は男山の松童に該當する小神であつたかと思ふ。社によつては之をミサキと呼ぶ者もあつた。ミサキは先鉾であり又使者である。或は門客人《かどまらうど》もしくは荒脛巾《あらはゞき》、又荒エビスと稱へたのも同じ神であつた（三四）。是から推して考へて行くと、若宮が新たに祀らるゝ社であつて、同時に荒々しい御靈の神を意味して居た事情は稍々わかる。しかも其地位を占めたのは神と人間との中間の人、多くの場合には神の力を人間に持ち傳へた所の、神の子にして同時に巫祝の家の始祖たりし者と解するのは、自然の論理でもあれば、又別雷以來の經驗でもあつたのである。

　但し賀茂では別雷命を神實《かみざね》として、直接に天なる父の神は祭らなかつたのに、後に神の子の最も力強いものを、天神として祭るに至つたのは變化である。大和宇智郡の雷神さまの如きは、その過渡期の信仰を語るものとも視ることが出來る。老松が北野專屬の末社であるに反して、松童といふ神は八幡以外に、他の大社にも齋いてあるのみならず、或は又獨立して一地を鎭守した場合も多かつた。北野の末社の松童社などは、祭神を應神天皇とし、或は比良の神主良種が子太郎丸なりといふ一説もあつた（三五）。春日若宮の末社の松童神は、祭神の名をまだ知らぬが、奈良附近の村々には崇道社《そうだうや》といふ村社が多い。之を皆崇道天皇を奉祀するものと考へることはむつかしいが、さりとて石清水より勸請したとも想像は出來ぬ。つまりは此名の神が別に早くよりあつたものと假定するの他は無いのである。瀬戸内海を取圍んだ府縣及び土佐には、やはり獨立した松童《まつどう》又は松堂社《しようだうや》が多い。其祭神も社傳も區々であるが、文字に據つて後世構へられた説明より、寧ろ僅かに遺る土地の人の信仰の中から、次第に各地共通の點を辿り尋ねるのがよいと思つて居る。現在の自分の意見では、松童權現の祭神は一社毎に別々であつても、怪しむを要せぬのである。何か怖ろしい天災地妖又は其豫覺のあつた場合に、地方に最も勢力ある神が此名に於て祭られるのが自然である。即ち松童はもと單に奉仕者たる人神を意味する名であつたからである。

　北野の老松は老といふ名に基づいて、白大夫といふ翁を説く人もあつた。此問題は改めて細敍する必要があるが、(80)松童即ちマツワラハを侍者の神と解する以上は、結局は同じことに歸着すると思ふ。鶴ヶ岡の八幡には松童と併んで源大夫の祠があり、尾張の熱田にも有名な藤大夫源大夫があつた。何れも生前の人の名で無かつたことは同じである。然るに京都の御靈八社のみは、早くから橘大夫文大夫などを、知名の或一人の御靈とする説があつた。大夫と名づけてもよい神ならば、從神でなければならぬ。それが對等の八座として祀られて居るのを見ると、御靈の信仰にも亦中古の變遷があつたのである。さうして以前の形はどうであつたかと考へると、八幡に紀氏を説き、北野に菅家の祭官を説き、又大和の御靈に第三の皇子を言ふ如く、初期の上下御靈にも恐らくそれ／”＼の小子部《ちひさこべ》氏があつて、神話と祭典とを管掌して居たのであらう。舒明天皇の御時、宮寺の營材不足して神の林を伐り、子部《こべ》の大神が怒つて寺を燒いたといふことは大安寺記に出て居る（三六）。若宮部《わかみやべ》といふ言葉は、肥前國風土記三根郡物部郷の條に、物部經津主神《ものゝべのふつぬしのかみ》を齋ひ祀るに、物部若宮部を遣はされたことが見えて居るのみであるが、事實に於て若宮部と名づけてもよい家が、それ／”＼の大社には從屬して居て、神と家の祖先との深い關係を主張した例は多いのである。南大和の御靈社の如きも、他戸親王の御子三人あり、各位階を授けられて祭事に與かつたといふ、歴史と一致し難い社傳が後世には出來て居た（三七）。日本靈異記に所謂道場法師の孫娘、又之と力を角して負けたといふ美濃の狐の後裔なども、何れも皆同じ系統に屬する古い思想の一片で、本來我民族の血縁觀念が、神と人との關係に於て特殊に強烈であつたといふ一事が、許多の外部感化の混亂を突貫して、今に至るまで是だけの特徴を保留し得たことを意味するものである。

　　（二七）　此問題は今後佛教史の研究が進んで、初期の修驗道の教義がもつと明白にならなければ、是以上の解釋を試みることがむつかしいと思ふ。

　　（二八）　二三の縁起顆には之を前年の天慶九年の出來事と記して居る。扶桑略記が天暦九年の項に掲げて居るのは恐らくは誤りである。

　　（二九）　文子は「あやこ」と訓む。或は多治比の奇子とも書いたものがある。後世の文子天神社はその賤の女の家の跡だといふが、祀る所の天神を北野同社の如く説くのは、必ずしも口碑の一致せざる所であつた。遠碧軒記上卷の二には、文子は(81)天神のり移らせたまひて程なく死す。乃ち之を天神に齋ひて今も西の京に在りとある。北野の本社で神樂をすゝめる神子の名を、代々文子と云ひ來るとあるも注意に値する。

　　（三〇）　太平記卷一二には、こち吹かばの歌と共にもう此説をかゝげ、次第に此一條の有名になつた路筋を考へしめる。

　　（三一）　富部は近代の末社では福部と稱へて居る。最初からトミベとは呼ばなかつたものらしい。二十年前の拙著「山島民譚集」には、福部は即ち瓠の神で、水の災を代表して居るのでは無いかと謂つたが、その證明は今も尚困難である。マツは同時に火を意味するやうだから、この二神を水火童子の信仰に引付けて考へることも出來るが、自分としてはそれ程の強辯はせぬ。

　　（三二）　宮寺縁事抄卷一末に依る。此古文書中にはまだ尋ねなければならぬ多くの資料を含んで居るらしい。

　　（三三）　石清水文書卷一一に出て居る。

　　（三四）　例へば梁塵秘抄卷二、四句神歌神分の中に、次のやうな一章もある。

　　　　　　　　　神のみさきのけんずるは

　　　　　　　　　さう九上山（？）をさ行事

　　　　　　　　　たかのみこ、うしのみこ

　　　　　　　　　王城ひたかいたうめる（？）

　　　　　　　　　びづらゆひのいちどうや

　　　　　　　　　いちゐのさり

　　　　　　　　　やはたに松どうせいしん

　　　　　　　　　こゝには荒ゑびす

一二不明の箇所を更に考へて見たいと思つて居る。

　　（三五）　北野誌上卷。

　　（三六）　扶桑略記に引用して居る。元亨釋書卷二〇も之に據つたと見える。

　　（三七）　大和志料に依る。廣大和名勝志に天文三年の御靈宮本紀なるものを引用して、此説を述べて居るさうである。

　

(82)　　　　　　　日を招く話

　

田植の日忌　五月田植に宜しからずといふ日は、恐らくは今でも無い村はあるまいと思ふが、不思議に土地に由つて其習はしが區々である。例へば石城《いはき》の平《たひら》附近では午の日を忌み（一）、武藏比企郡高坂村は午の日と寅の日を忌む（二）。靜岡市周圍の村は午の日と申の日（三）、上州赤城山の麓は辰の日と半夏生《はんげしやう》の日とである（四）。伯耆日野郡の諸村は、通例子の日に田植をした藁は、死者の敷物になるなどと稱して此日を拔き、又播種の日から算へて四十九日目も忌んで居る（五）。美濃の太田附近の如く夏至の日を避ける土地もあれば（六）、下野那須郡の各村の如く舊五月の六日から八日までを忌む例もある（七）。

　　（一）　民族一卷四號。

　　（二）　其村の小學校郷土教材から。

　　（三）　安倍郡誌八〇〇頁。

　　（四）　郷土研究三卷七號。

　　（五）　例へば此郡山上村村是、迷信の部。苗忌と稱して播種後若干日目の田植を避ける例は多い。

　　（六）　民族一卷四號。

　　（七）　下野神社沿革志卷八、此郡野崎村平澤の温泉神社の條に、那須與市宗隆扇の的の祈誓を果す爲、湯本の産土神を領内に分祀したのが此日であつたからといふのも、或は日祭の因縁があるのでは無からうか。

　

嫁が死ぬといふこと　他の多くの地方では不淨日などと稱して、特別なる日の算へ方がある。多分は不成就日、即ち(83)單に凶日といふ意味であつたらうと思ふ。之を記憶し易き十二支の何れかに配したのも、決して古くからの事では無く、從つて遠隔の土地に一致があつたとしても、それは偶合と認めて差支へなからう。但し注意しなければならぬ問題は其一つ背後に在る。關東では千葉縣の印旛沼附近などに、卯の日田植を忌む例があつて既に其理由は忘れて居るが（八）、豐後の大野郡に於ては、卯の日に田を植ゑると嫁が死ぬと、今でも言ひ傳へて居る處があるさうである（九）。如何なる經驗又は推理が、此樣な驚くべき説明を下さしむるに至つたか。まだ若干の比較し得べき資料の殘つて居るうちに、是非とも我々の考へて置くべき問題であるかと思ふ。仍て同情ある讀者諸君の援助を期待しつゝ、先づ今日までの發見を敍述して見るのである。

　　（八）　印旛郡誌に見ゆ。

　　（九）　郷土研究四卷五號。

　

蘇我殿の田植　田植日忌の由來として傳へらるゝ物語の殊に物々しい一例は、上總國に傳はつて居る。東京灣に面した一帶の農村では、五月七日には田を植ゑず、之を蘇我殿田植の日と稱して忌んで居た。昔大友皇子が此國｜遣水《やりみづ》といふ山に城郭を構へて御住居なされた頃、此日臣下の蘇我大炊なる者を召して、國中の田人《たうど》早乙女《さをとめ》を催して田を植ゑしめて御覽あるに、日は夕陽となつて御興未だ盡きず、願はくは八つの時分にもなさばやと仰せられると、忽ち日は戻つて九つの頃となつたが、俄かに空掻曇り雷電暴雨あつて高氏擧つて死すと傳へられ、今も大河原といふ地に其故跡があり、田の名を死田《しだ》と呼んで居た（一〇）。此例一つだけより他を知らぬ土地の人には、それが日忌の慣習を誘致した理由も分らず、況や全日本に亙つて弘く行はるゝ同種の口碑が、是を解釋の鍵として説明し得られるものとは、考へて見やうも無いのである。比較方法のまだ進まなかつた時代に、無意味に排斥せられ又は修正せられた所謂齊東野人の語は、大抵斯ういふ種類の大切な資料であつた。

(84)　　（一〇）　房總志料叢書續篇に久留里記を引いて斯く記して居る。但し東上總の方では早稻どころなるが爲か、其日を四月十六日とし、且つ蘇我殿が金の扇を以て入日を招き返したと老人たちは語つて居るといふ。蘇我は故地であり又此地方の舊姓であつた。弘文天皇の御事蹟の年を逐うて精細に語られるに至つたのは、深い仔細のあることであらうが、今以て説明しかねる。

　

死人田・病田・癖田　東部日本などには、こんな名の田地が諸處に存し、又は名は無くとも耕作せんとする人が少なく、從つて荒れ易く價の低かつた田が折々あるが、通例其理由は傳はつて居らぬ。自分は稍々久しく此點に注意して居るうちに、靜岡縣下に於て偶然によく似た三つほどの例を見出した。其一つは富士の山麓、富士郡｜須津《すど》村の比奈と云ふ處に在るおきく田一町六段、昔此田の持主に強慾な者があつて、おきくといふ田植女に此だけの田を一日に植ゑよと命じたので、おきくは苦しさの餘りに死んでしまつた。それから後は作れば凶事あり、今でも作る者が之を怖れて居るといふ（一一）。此近村には加島村の病田、岩松村松岡の死人田《しびとだ》、傳法村の忌田などもある。忌むと稱しつゝ今なほ田であるのを見れば、何か方式を以て災を避ける途があつたのかも知れぬ。第二には安倍郡安東村、北安東の柳新田と麻機村との境に、二段歩餘の土地があつた。昔嫁を虐待する姑が、此だけの田を一人で植ゑよと命じたところ、嫁は植ゑ終つて即死したので、其祟を以て植ゑると必ず家に死者を出すと言ひ傳へ、是は買ふ人も無い荒地であつた。そこには吉塚といふ塚があつて、小祠を建て樹を植ゑて居たが、近頃になつてそれも取除かれたといふ（一二）。東海道では掛川と日坂との間にも、亦一つの嫁ヶ田あり、少し離れて姑ヶ畠もあつた。是も嫁あたりのきつい姑が、三反の田を朝間に植ゑさせたところ、嫁は植ゑ終つて石に腰を掛けて死んだ。それを其處に葬つたといふしるしの銀杏は、往來の旅人に顧みられたが、實は八幡神領の榜示の木であつたらしい。姑は程近き麻畠に居て、雷に打たれて死んだと稱し、姑ヶ畠の故跡さへ出來て居たのである（一三）。

　　（一一）　山中共古翁の吉居雜話。吉原町在住中の見聞録である。

(85)　　（一二）　安倍郡誌七八六頁。

　　（一三）　東海道道中記に依る。貝原益軒の吾妻路之記にも、既に媛ヶ田姑ヶ畠の名を記して居る。街道に臨んだ土地の傳説が、特殊の發達をする實例は「赤子塚の話」にも既に之を説いた。

　

田植の歌　同じく駿州の庵原郡大内村にも、なほ一處の嫁田があつた。一名を嫁殺し田とも謂つたといふからには、ほゞ類似の昔話が行はれて居たことは明らかである。然るに駿國雜志には曰く、二つの名共に訛なり、是即ち讀田なりと。昔源頼朝の思ひ者若狹局、御臺所《みだいどころ》の嫉妬を恐れて鎌倉を遁れ出で、遙々と薩摩國に下るとき、此地に立ちやすらうて歌を詠んだ。それ故によみ田だといふのである。然らば如何なる歌をよんだかといふと、薩琉軍談と稱する近代の軍書に、島津氏の始祖と侍へられる若狹局の、

　　　富士うつす田子の門田の五月雨に

　　　雪をひたして早苗とる袖

とある歌がそれだといふ。ところが此地は田子でも無ければ、富士は梅雨中で無くても、氣の毒ながら此邊の田の水には影をうつさないのである。しかしさうかと謂つてやたらに嫁が死ぬわけも無い。結局する所ヨメとは何ぞや、何故に嫁ばかりが田植に出ては死んだと謂はれたかを、溯つて考へて見る必要を感ずるばかりである。

　

三水の泣池　蓋し嫁と姑との不和葛藤の如きは、正しく近世社會組織の所産であつたにも拘らず、何か然るべき仔細がある故か、夙くも我々が民間文藝を濃厚に彩色することになつて居る。信州川中島地方に行はるる田植唄に、

　　　何でもかでも嫁のとが

　　　けふの日の

(86)　　　暮れるも嫁のとがかい

といふのがあるさうな。小池直太郎君などは此唄を以て、三水《さみづ》の嫁殺し池の傳説と因があるだらうと言つて居るが（一四）、因があるといふだけならば反對の餘地は無い。只突然と斯んな事を歌つても、さしたる感動は與へぬからである。三水は更級郡｜更府《さらふ》村の大字で、昔田であつたといふ大きな池がある。是も姑に憎まれた若い嫁女が、五月に笠も無く、廣い田を一日の中に植ゑかねて、日暮に氣を落して死んでしまつた。それから後は此田の米を餅に搗くと、血がまじつて食はれなかつたといふ話もあり、終には水が湧いて一面の池となり、如何なる旱にも水が涸れぬとも傳へられた。さうして天氣の變り目には、今でも嫁の泣聲が聞えるなどと、よく／＼の恠譚にしてしまつて居る（一五）。即ち傳説には骨子ともいふべき部分はあるが、是を損傷せぬ程度に於て、次々に時世の粧ひを凝らしつゝあつたことは確かで、例へばつれない姑女どのを、強慾非道の長者に置きかへて見れば、其まゝ此話は奧州名取の小鶴の池、もしくは下總松崎の千把《せんば》ヶ池《いけ》の由來譚と、全然同じ型に歸著することになるのであつた（一六）。

　　（一四）　小谷口碑集一四一頁。

　　（一五）　高木氏日本傳説集二二八頁。傳説叢書信濃卷に載せられた別傳は、一段と恠談味が多い。或は近頃の潤飾であるかとも思ふ。

　　（一六）　民族二卷三號以下に既に述べた。日が暮れるといふのが此等の話の共通の點であることを注意せざるを得ぬ。

　

日暮し塚　自分等の經驗した所では、古い記録の既に存在する場合にも、なほ口づからの傳承を輕視することは出來ぬ。土地の話し手にも色々の斟酌があつた上に、之を筆記した文人も?々無用の刪定をしたらしいからである。例へば下總松崎の千把ヶ池の話なども、相馬日記には單にある賤の女が此池の淺き處に、一日に千把の苗を植ゑんと?《かせ》ぎけるに、疲困して死にけるを埋めししるしの松にて、とばかりしか書いてないが、此書が板になつてから百年の後まで、別に一個の精彩ある古傳が、活きてかの村には行はれて居たのである。田植女の名のお鶴であつた不思議は、も(87)う爰では繰返さぬが、そのお鶴が力自慢の仕事上手で、一日に千把の苗を運んで一人で植ゑ終つた後に、慢心の餘りに股の間から夕日を覗いて、まだお日さまは御入りやらぬと謂つたら、忽ち天罰を以て其場に死んだと謂ふなどは（一七）、到底高田與清の旅行以後に、新たに附け加へ得べき奇事では無いのだが、學者は往々にしてかゝる要點を逸して居るのである。從つて今日の如く、記録に由るの外、もはや住民の口から異傳を探り得ぬ樣な場合に臨んでは、寧ろ筆者の不用意なる敍述の中から、比較に供すべき問題を見出さねばならぬ。

　嫁の田系統の幾つかの遺跡に共通なる一點は、塚あり樹木あつて其下に女性の靈を祀るといふことであるが、其理由はまだ十分に説明せられて居ない。しかも信仰が人の心を繋がなかつたならば、此口碑の一般化といふことも實は望まれなかつた筈である。若狹の日暮し塚の事は何の書に據つたか知らぬが、近年の高濱一班といふ書に之を抄録して居る。是も昔嚴しい姑が、嫁をいぢめて日の中に歸つて來ると怒り罵る。其嫁は至つて善良であつて、日毎に星を戴いて出て耕耘を事としたのみならず、猶常に日の神を拜して日中の長からんことを?つた。さうして或年の秋重い病を煩つて死んだとある。日暮し塚は今所在を知らずと記して、果して其嫁を葬る地と謂つたか、はた又日の神を拜んだ祭場と傳へたかを決し兼ねるが、日の長からんことを?つたといふ女性が、後に重い熱病で死んだといふことの、偶然なるたゞ二つの事件で無かつただけは、平清盛の火の病の話などに由つても推測することが出來る樣である。

　　（一七）　印旛郡誌下卷

　

日招壇　武將が落日を招き返したといふ物語は、久しい年代に瓦つての民間文藝の好題目であつた。陸前桃生郡大田村の目招壇《ひまねきだん》の口碑は、是も一曲の座頭の語り物かと思はれる。昔八幡太郎が安倍貞任と戰うた時に、戰酣にして日暮れんとした故に、義家扇を執つて日を麾《さしまね》く。日是が爲に反ること三舍、其壇を麾日壇といひ其地を麾日道路と謂ふ。虞公劔を以て日を招き、魯陽戈を揮ひて日を反すと、異域同情の赤心也と、名跡志に書き立てたのも何となくボサマ(88)臭い（一八）。併し同じ物語の流布して居たのは、なほ遙か以前からの事らしく、伊豫でも伊豫郡保免村に、日招八幡神の社があつた。かの地方の英雄の一人佐々木高綱が、砥部《とべ》の城主森山近江守、荏原の城主大野山城守と戰つた時に、夜軍に勝利無きことを憂ひて日を招きたるに忽ち戰克てり。仍て神�ｺを仰いで日招八幡と稱すといひ、或は別當藥師寺の山號日照山を日招山に改めたりともいふ。古蹟志といふ書には扇を揚げて日を招くに、日之が爲に反ること數刻、乃ち此祠社を起して扇を以て神主と爲すとも謂つて居る（一九）。紀州の日延村の藏王權現の社傳には、田村將軍勅を奉じて和佐高山の土蜘蛛を退治するとき、戰半ばにして日が暮れかゝつた。因つて權現に祈願を籠めたところ、日は中天に留まつて暮れず、其間に難無く敵を打滅し得たので、神を此地に勸請し且つ村の名を日延と改めたと述べて居る（二〇）。

　　（一八）　封内名跡志卷一三、封内風土記卷一二。壇とは奧州の方言で塚のことである。

　　（一九）　伊豫温故録。此村の名は今は無い。改稱したのであらう。

　　（二〇）　紀伊續風土記卷一〇。今の海草郡山口村大字中筋日延。

　

魯陽公の戈　右の類の傳説の全國的分布には、恐らくは中古の旅行文藝が參與して居るのであらう。單なる初期の移住者の携へて來たものにしては、結構があまりに複雜で且つ奇拔だから、少なくとも後年の修正は認めざるを得ぬのである。而うして朝廷の樂人等が、神秘なる舞樂の由來を説明するに當つて、假令｜淮南子《ゑなんじ》の出典までは突留めることが出來なかつた迄も（二一）、漠然たる漢史の記憶が、今日舞の本の「入鹿」にあるやうな荒唐なる昔話を（二二）、作り上げて居たことは想像せられる。だから從來の學者の最も普通なる漢土傳來説も、此場合に限つては否認することが出來ぬのである。たゞ自分等の考へて見たいのは、この隣邦の古譚を日本に移植した場合に、何故に新たに藏王權現の神�ｺを説き、もしくは其遺跡と稱する地に日招八幡を祀り、又は八幡太郎の日招壇があるかといふことである。今日俗(89)間に傳はる平清盛日を招く話に落付く迄に、色々の階段を經て居ることは疑ひが無いが、それが如何樣の事情から、前に擧げた上總の蘇我殿田植の如く、我々の田植習俗と結合することになつたかといふ點である。

　　（二一）　類聚名物考卷二に、淮南子の覽冥訓の本文を引いて此問題が述べてある。楚の魯陽公韓と難を構へ戰酣にして日暮る。戈を援いて�ﾋくに日之が爲に反ること三舍なり云々。間接にもせよ此記事の智識を持たなかつたならば、前のやうな話は日本には起らなかつたと思ふ。

　　（二二）　舞の本には蘭陵王の舞の手が戰の半ばに入日を招き返した形を示すものだと謂つて居る。あの時代までも其樣な古傳が俗間には行はれで居たのである。

　

朝日長者物語　安藝の吉田地方の古風な田植唄には、清盛日を招くことを述べた一章がある（二三）。

　　　音　頭　穩戸の瀬戸を切拔く清盛こそはノー

　　　早乙女　日の丸の扇で御日を招ぎもどいた

　必ずしも此地を起原とせずともよいが、本來田植唄なるが故に日を招くといふ章句があり、それが容易に嚴島御幸記などの、六波羅豪奢の記事に聯想せられて、此話を俗間に流布せしめたのだとも見られる。田植の數多い勞働唄は、田主の富貴榮華を誇張した祝詞を以て一つの特徴として居る。今ある村々の夢の如き長者譚には、根源を之に發するかと思ふものが幾らもあつた。自分の郷里に近い播州加西郡東劔坂の朝日長者なども、或時我力の程を試みんが爲、沈まんとする日輪を扇を以て呼戻し、もつとかがやけ／＼と謂つたところが、日が其意の如く反り耀いたが、其光に目くらんで忽ち死すと傳へて居る（二四）。勿論此後半は田植の祝ひ唄では無かつたらうが、朝日長者はもと國々の唄のさかえ行く長者の名であり、美女の父であり神社佛閣の建立者であつて、同時に日に仕へる宗教の代表的人物を意味して居た。即ち是も亦次の二人の長者と同じく、恐らく目的も無しに夕日を招き返したのでは無かつたのである。

　　（二三）　「日本奇風俗」一〇九頁以下。吉田地方の豪家の田植は、今でも近郷から見物に來るほどの壯觀で、頗る因幡の湖山長(90)者などの昔話を聯想せしめる。それに田植唄には元來日の暮を惜む詞が少なくはなかつた。

　　（二四）　播磨鑑に出て居る。

　

因幡の湖山長者　長者と日招きの物語とを結び合せた實例は、又山陰線の鐵道に沿うた湖山池《こやまいけ》の邊にもある。あの青海が再び桑の畠に變化せぬ限り、人は永くこの不思議なる古代史を記憶して、説明を求めて止まぬであらう。湖山長者の墓と屋敷跡と稱するものは、今の氣高郡末恒村大字｜伏野《ふせの》の海近くに在り、一望果無き湖山池は則ち長者の家の田であつた。ある年國中の男女を催して此田を植ゑしむるに、日暮れかゝつて尚少しく植ゑ殘したるを本意無く思つて、金の團扇を以て三たび入日を招きければ、山の端にかゝりし日輪三段ばかり返り昇り、終に其日の田植を終つたと傳へて居る　　　（二五）。かやうに天の日月をも招き返す程の福力だから、何一つ心にかなはぬことは無かつたのだが、其翌年も慢心して又同じく日を招き返したので、忽ちに福力盡きて田地は俄かに池となり、萬の寶も跡方なくなつて、今は安長の田の中に松の生ひ茂つた小さな丘が、長者の墓どころとして殘るばかりだとも謂つて居る。後世の民衆が運勢といひ、佛者が果報と説き又は信心の奇瑞とも名づけて居た富の力に、今一つ以前の解釋があつたことは、澤山の舊話の無意識な傳承を比べて見て、始めて會得することの出來るものであるが、我日本に於ては特に如何なる種類の人たちに、此力が附隨したものと推測せられて居たのであらうか。又主として如何なる生活の問題に臨んで、其必要が認められたものであるか。諸國に充滿する長者傳奇の中でも、殊に此類の異常なる事件の記憶が、我々の研究に向つて有用なる參考資料を供與するのである。

　　（二五）　因幡民談卷一一、又因幡志などに之を記すのみならず、縣編纂の近年の因伯紀要にも出て居る。和泉式部のこと、猿の親子のことなど、色々の雜説が今も之に伴なうて行はれて居るらしい。湖山は今コヤマと謂ひ、元は小山とも書いてコサンと呼んで居た。

　

(91)菊池の米原長者　長者の物語は大部分が今以て美しい繪樣である。心あつて言語音聲を彩色の用に充てた人が、其口傳に參加して居たことを推定せしむる樣な例が多い。肥後の米原長者《よなばるちやうじや》の榮枯盛衰なども明らかに其一つであつて、土地には最近まで恐らくは記憶に數倍する活々とした昔話が殘つて居たのであらう。此長者の發祥は豐後の滿能長者《まんのちやうじや》の分身と言つてよい程によく似て居る。用明天皇の御宇に長者の號を下し賜はり、奴婢牛馬千に餘り、東は菊池の谷から西は山鹿《やまが》の茂賀の浦まで、田底三千町の土地を耕作所とし、毎年一日の中に此だけの田を、植ゑ盡すを以て家の規模として居た。しかるに或年の五月に、植うること半ばにして日は西山にうすづきしかば、長者は黄金の扇を開いて之を麾く。日輪は招きに應じて竿の長さばかり引返したれども、それでも尚其日の田を植ゑてしまふことが出來なかつた。長者は之を愁ひ、三千の油樽を取出して山鹿の日ノ岡山に灑《そゝ》ぎかけ、之に火を付けて終に其光に由つて苗を取りをへたと稱し、今でも此岡は土石みな黒く焦げ、草木繁茂せずと傳へられる。しかも長者は日を招き返した天罰を受けて、其夜火輸現はれて忽ち有るかぎりの屋舍倉廩を燒き失うたと謂ふのである（二六）。

　　（二六）　肥後國志。今の菊池都城北村大字米原。

　

晝飯特の石像　ところが斯樣な話でも、土地の住民が之を純然たる夢物語と認めてしまふことの出來ぬわけがあつた。獨り日ノ岡山の永く黒土であつたのみならず、此日晝飯にした圃子の燒けたのだと謂つて、禹餘糧《うよろう》といふ石がそこから出た。さうして村の近くの踏切といふ崖の側には、其晝飯を持運んだ婢女十餘人の石像と稱するものが立つて居たのである。勿論是だけの遺物がある爲に、田植に日を招き返した長者の話が、眞實になる道理は無いのであるが、少なくとも大昔此地にいかめしく物々しい田植があり、何か記念すべき出來事があつたと想像し得る場合には、假令此樣な話でも幾分か信じ易かつたに相違ない。其上に此附近には今一つ、ジヤジヨロの飯焚きの墓といふ石佛もあつた。ジヤジヨロは山鹿庄小原といふ村の長者であつて、小原から玉名郡の岩原の里にかけて、廣い田地を一手に耕作して(92)居た。或年の田植の日に、岩原の小原田まで晝飯を運ぶ婦女が、路の邊に死んだと言ひ傳へて、乃ち其碑石は立てられてあつたのである（二七）。是から推測すると、米原長者の十人の晝飯持なども、或は田底三千町の大田植の日に、此地に命終つたといふやうな口碑が、曾て傳はつて居たものでは無からうかと思ふ。

　　（二七）　肥後國志卷七。今の鹿本郡米田村大字小原と、同大字志々岐との境にあつた。文字消歇して讀み難しとある。岩原も現在は同じ郡に屬して居る。

　

田の神と水仕女　田植は一年の農事の中でも、殊にめでたく花やかなものであるのに、之に伴なうて何故に?々若い女の死を説くのであらうか。肥後の二つの例だけならば、路傍の石塔に由つて之を墓所と誤つた結果とも考へられるが、之とよく似た物語は懸離れた東國にもあつて、その幾つかは同じく晝飯を運ぶ者の身の上である。曾て人柱の研究にも引用した下總師岡の片割しどめの話の前半は（二八）、印旛郡船尾の喜右衛門が家の子守女、田に働く者に運ぶ辨當を脊負籠に入れ、其上に兒を載せて田に行くと、男どもきたないと怒つて辨當を悉く田の中へ投入れ、今一度炊き直して來いと言つて追返した。子守は主家に戻つて叱られんことを恐れ、其まゝ兒を負うて生れ在所の師岡に還り、金毘羅淵に身を投げて死んだと謂つて、船尾の鎭守宗像神社では、毎年其忌日に色々の奇恠があつたと稱する。ところが是とよく似た話はずつと古くから、例へば地藏菩薩靈驗記の卷一〇などにも記されて居る。奧州秋田郡に王大夫惟秀といふ富人、慳貪無慚にして憐みの心無し。おとめといふ十八歳の下女、下賤ながら三寶歸依の志深く、或時農夫の食を廣蓋に載せて之を耕田に運ぶ時、雨降り身疲れて路の傍の地藏堂に休み、其飯の上を少しづゝ取つて小佛たちに供へ奉る。農夫ども飯の疵つけるを見て恠み罵るを聞いて、主人の王大夫怒りを爲し、大なる箭の根の雁俣なるを火に燒いて女の顔に押當てると、目鼻髪の毛まで燒け落ちた。あまり見苦しとて之を路の傍に棄てたとあつて、結局は地藏尊が身代りに立ち、此苦を受けたまふといふ靈驗を説くのである。即ちこの下總の方こそ燒直しであつて、(93)記録に上つた時代は却つてずつと古いのである。野州足利の五十部《いよべ》の水使《みづし》神社は、現在祭る髪は水速女命《みづはやめのみこと》、水の神と信ぜられしかも婦人の病を?り、古く孕み女の繪馬などが上げてあつた。安永七年成るといふ縁起などは、自由自在なるローマンスの樣であるが、尚此神が生前に五十部小太郎なる者の召仕であり、農中傍輩の方へ晝飯を持參する路で、我子が主人に打擲せられて死んだときゝ、怨み歎いて路の傍の淵に身を投げたことを述べて居り、今ある神體も十二單衣を著て、杓子を持ち飯鉢を抱へた彩色の小木像であつた（二九）。九州の南部殊に薩摩大隅の村々に於て、田の神樣といふ石像を田の畔に安置する風習は、あの地方の人たちには珍らしくない。それが通例右の手に杓子、左の手に鉢を持ち、或は杓子を左にし右に手杵を執つて居るのは（三〇）、やはり此の水仕女の思想から出て居るものと思ふ。もしさうだとすれば肥後の十人の路のほとりの石體が、昔長者の田人の爲に餉を送つた女だと傳へられた事情だけは、先づ明白になるのである。

　　（二八）　民族二卷二六五頁。

　　（二九）　郷土研究二卷五號丸山源八君報告。社の所在は足利郡三重村大字五十部字水使。關東方面では注意すべき神である。水主神社といふ女神は讃岐にもあつて、うつぼ舟漂着の古傳があると、松岡調氏の官社考證にも載せて居る。祭神は此地方の多くの女神と同じく倭迹々日百襲姫命といふ。ミヅシは神の仕女を意味するらしい。

　　（三〇）　土俗と傳説一卷一號に、三つの實例を圖示してある。その要點の一つは、石の形の特に男の性器に擬してあること、第二には東部日本の道祖神の男女雙立の像と、非常によく似たのがあることである。道祖の女神は今のは酒�ｺ利を持つて居るのだが、是も古くは亦食物調製の器具であつたらうかと考へられる。薩摩の田の神に就いては後に岡島銀次氏の詳しい報告が出た。

　

ヨメといふ語　私の考へて見ようとする一つの點は、女が田植の日に死んだといふ嫁ヶ田の傳説が、長者日を招くの物語と、もと同一の習俗に發生したものでは無いかといふことである。若狹大飯郡の日暮し塚の由來は、成程取留めも無くこはれては居るが、尚其塚が日の神に日の永からんことを?つた祭場であり、祭主が心の清き婦人であつたこ(94)とだけは窺ひ知らしめる。下總松崎の千把ヶ池に在つては、慢心を起して罰せられたといふ後世式の教訓の陰に、幽かながらも女の念力が、日の歩みに追ひ勝つたといふ言ひ傳へを保有して居るやうである。其他の諸例に於ても必ず定まつた一日の中に、田植はしてしまはねばならなかつたといふことが、共通の動機となつて居るのである。即ちある日は田植に宜しく、次の日は之に適せずとする今日の信仰の、以前の嚴格さを推測せしめると共に、晴れたる日本では毎日のヒが即ち太陽のヒと、終始して不可分であつたことも考へさせる。其上に嫁ヶ田は多くは忌の田であつた。他の尋常の田代に於ては、許されてもよい程のをこたりでも、由緒ある神の田を植ゑる場合には、十分に罰せられなければならなかつた。其法則を破ることは怖ろしい制裁を以て戒められた。記憶せずには居なかつた道理である。ヨメといふからには人は直ぐに、姑の意地惡を思ふけれども、以前は邪慳貪慾なる者は長者であつた。さうして長者は記憶の文學の、最も華々しい夢の中心であつた。佛典に於ては福�ｺ圓滿の大貴人をさう譯したが、我々の中では氏の頭、さては遊女の優れて慧しい者をも長者と呼んで居る。遊女の長者が神歌に歌つたのは、空想の長者の榮華と没落とであつて、其物語はどこ迄でも成長し得たことは、淨瑠璃の十二段などを讀めばよくわかる。其材料はしかも豐かに、我々の五月の生活の中に充ち溢れて居た。ヨメがもとたゞ單に好女倩女を意味し、たま／＼後世に入つて婚姻の晴がましい日に限り、紅粉の粧ひを凝らすことになつた故に、轉じて若き妻ばかりの名目と解せられるに至つたことは、大膽なる語原家を雇はずとも、容易に想像が出來るやうに思ふ。だから東國の村々では、新婦をアネサマと謂ひ或はハナオカタなどゝ名づけて、普通にはヨメといふ語を用ゐなかつた。此點は白粉なるものゝ最初の宗教的目的を考へて見るならば、さして困難なしに單語分化の路筋を知り得るのである。

　

よめ塚・よめヶ淵　伊勢の奄藝《あんげ》郡の坂部のよめ塚は、齋塚《いみづか》の訛稱なりと説明せられて居る。參宮の大路から少し離れた田の中に在つて、塚にはしるしの杉あり、其附近には齋殿の址といふ畠と、例禊洲《れいけいず》といふ石橋とがあつた。齋宮伊(95)勢に下りたまふとき、此流の洲に於て水禊し、終つて齋殿に入らせたまふと傳へて居るのは推測てあらうが（三一）、普通に嫁の話の傳はつて居る場處が、水の邊に多いといふ事實とは思ひ合すことが出來る。眞宗の説教で何度も引用せられる越前吉崎の嫁をどし、即ち蓮如上人を信仰した善心の嫁を、鬼面を被つて嚇さうとした姑婆が、忽ち佛罰を受けたといふ奇談の如きも、何か中古の草子に種を採つたものらしいといふことは、既に藤岡作太郎君も注意して居るが（三二）、果して其推測の如く、一つの舊形が此地方に有つてしかも嫁姑の爭ひでは無く、是れも亦水神の信仰に根をさして居た。昔平泉寺村に不孝の女あり、或時二三人で川上御前の社に參り、神殿に懸けたる古き面を取下し顔にあてけるに、其まゝ附きて離れず、よつて大いに忿怒して家に還り、夫を捕へて共々に川に入りて死す。其跡淵となり三所あり女夫淵と謂ふとあるのが（三三）、所謂肉附きの面の元の形であつた。信州の小谷《をたり》四箇庄では反對に、嫁が姑を嚇したことになつて居た。村民某の嫁おかる、氏神の社に藏する風流《ふりう》の面を盗み來り、之を被つて姑を脅かしたところが、其面顔に附きて取らんとすれども離れず、耻ぢて岩窟に身を隱したともいへば、或は杓子岳に登り去るとも謂つて、今も十二と名づくる小祠を祀る岩屋がある（三四）。十二は信越會津にかけての山の神の唱へ方である。越前九頭龍《くづりゆう》川の女夫淵の名が語る如く、面はもと偶數のものゝ一つであつたらしい。相州江ノ島でも社の門の上に、山神と鬼女との面が懸けてあつた。昔最明寺時頼の妾に嫉妬深い女があつて、鬼の面を被つて他の妾を襲うた。それを其親が意見する爲に、山神の面の方を被つて出たなどゝも謂つて居る（三五）。

　　（三一）　伊勢參宮名所圓會上卷に、粉川某の事忌考を引いて此説がある。坂部は神宮の地からはまだ二日程もあつて、塚を殘す迄の重々しい儀式が、もう始まつて居ようとは想像しにくい。

　　（三二）　鎌倉室町時代文學史三四九頁。室町時代の草子にも嫁いぢめの話はあれど、繼子いぢめの方ほど盛んならずとも説いて居る。

　　（三三）　越前大野郡誌、大野郡北郷村の條に影響録を引きて。

　　（三四）　小谷口碑集三六頁。信濃北安曇郡北城村切久保。風流は神祭の舞のことである。この切久保の鎭守社では、舊七月七月(96)の尾花祭に、七當祭と稱して三つの面を被つた者が行列に加はる。其面が一つ不足なので、おかるが山から降りて來ると傳へ、此日は三粒でも必ず雨が降ると信じられて居る。

　　（三五）　本朝國語に依る。

　

水の神の婚姻　昔の世の本式の田植には、今日の眼から見て解し得ざる所の「わざをぎ」が行はれて居たことは、僅かに殘つて居る田植唄からも之を推測することが出來る　　　（三六）。其行事を嚴肅なるものとした根源の神話が、別に傳説に化して處々の淵、橋の袂や岸の岩に附著して居ることは、自分としては實は當然とまで考へて居る。之を稍々具體的に言ふならば、田植は即ち田の神の誕生であり、それを期する爲には主要なる原因として、日の神と水の神との和合を必要としたのである。水の神は女性であつて、ヨメの装ひをして清き水の邊から出現した。尋常の少女が之に扮するのだといふことを忘れる爲に、紅白の顔料を以て容貌を變化せしめるのが通例であつたけれども、假面も亦往々にして同じ目的に供せられた。肉附きの面とは神か我かの境が、恍惚として判別し得なかつたことを意味するかと思ふ。農民の信仰がそれほどまで丁寧な實演を要せざるに至つて、神は本地に復して淵の神と畏敬せられたが、尚｜五十部《いよべ》の水使神《みづしがみ》の如く、手には主要の表象たる食物配給の器具を握つて居たのである（三七）。水の神に母と子の因縁を説くことが、特に我邦の傳説に於て盛んなりとすれば、水を要件とした農作の影響は、先づ第一に考へられなければならぬ。飛騨の岸奧村の嫁ヶ淵なども、道の脇に平岩あつて三歳ばかりの小兒の足跡を印して居る。昔此村の百姓某の息子、成長して嫁を求むるに、何處の者とも知れず美しき娘來る。之を止めて妻とせしに、誠に龍神の化身にや、それより家富み榮えけるが、如何なる事ありてか、かの嫁家近き川の淵に飛入り、大蛇となりて失せたりと傳へで居る（三八）。さうかと思ふと越中の串田村では、池に大蛇が住んで年毎に村の少女を呑んだ。ある年の田植に早少女を呑んだところが、女の櫛が咽に引かゝつて大蛇も亦死し、一村愁の根を絶つことを得たので、其櫛と女とを祀つたと稱して櫛田(97)神社がある（三九）。神祇志料には物論之を以て祭神奇稻田姫と考定して居るが、御苦勞でも何でも無い。我々の問題は如何にして神代の正語の中に、稻田と謂ひクシと云ふ美しい女性の物語が傳はつたかである。櫛は誠にクシであつて、只の日に稻田に立つ婦人の、一樣に頭に插し飾るべき器具ではなかつたのである（四〇）。

　　（三六）　例へば「民族」一卷七六七頁の、石見の田植唄などはよい證據である。俚謠集を通覽すれば、是が一地方だけの特殊な空想で無いことが認められる。

　　（三七）　田の神が農事の完了と共に、山に入つて山の神となるといふこと、杓子が山の木を以て作られ又山の神の執り物であつたこと、人間の妻をも山の神と名づけたことなどは、別に一章を設けて説かねはならぬが、兎も角も是と別系統の信仰では無かつた。

　　（三八）　飛騨國中案内。此國には龍女神異の物語が尚多く行はれて居る。同じ書に三川の横岩にも龍宮乙姫の足跡の由にて三つあり、三歳ばかりなる子の足跡ほどなりとある。斐太後風土記卷一三には、岸奧嫁淵の足跡も、やはり嫁の足跡だと謂つて居る。村民孫右衝門の嫁女、甚だ美麗にして且つ奇異多し。村民申合せて之を恠しみければ、其嫁終に淵に身を投げて溺死すとある。大よそ傳説は斯ういふ風に變化して行くものなのである。

　　（三九）　越中國神社志料。射水郡櫛田村大字串田。

　　（四〇）　熊野新宮下總香取其他の舊大社に、澤山の女性の装身具を神寶として居たことは、斯道の學者のまだ解説し得ざる秘事であるかと思ふ。御櫛笥殿の現冥二種の神に仕へた任務は、尋常其文字によつて想像せらるゝものより以上であつたと思ふ。

　

殖女養女　田植に日の吉凶があり、凶を用ゐれば嫁が死ぬといふ類の現行俗信は、もし幸ひにして精確なる比較と考察とを下すことが出來たならば、行く／＼餘程大切なる古代史の一面を開明することになるかと思ふ。從來の學者先生が是をつまらぬ事として頓著しなかつた態度を、速かに改良せしむべき必要があるのである。自分の提出して置かうとする論題の一つは、田植には必ず晝飯を運んだこと、即ち必ず田の畔に於て食事をすることにきまつて居た理由如何である。此日の田の食事には田人の全部が參加し、餘りがあつても決して之を持還らず、川へ流すか野に棄てゝ(98)鳥獣に食はすを常とした地方もある（四一）。それから又之を炊ぐ材料や薪までも、多くの場合には定まつて居た。其食事を調理し又運搬する者だけが、誰でもよろしかつた理由は無いのである。田植の日の勞働の主要なる部分を、女に勤めさせることは今も昔の如く、又決して日本だけの風習では無かつた。其動機に女の生産力といふ聯想のあつたこと、是も亦既に認められて居る。自分のいふのは通例の早乙女以外、別に特定した食事方の婦人があり、それが極度の美装粉飾をして、田植儀式の中心をなして居たことである。洛陽田樂記などを見るに、田遊びの行列の中にも殖女と養女との二種の女性があつた。殖女はウヱメ即ち早乙女のことであらうが、養女は果して通俗に何と呼んだか。林道春の隨筆の中に、「竈下に中郎將を養せば云々」、此養の字にオナリセバと片假名を振つて居る（四二）。養の字を古訓ヲナリ、俗に又ウナリともオナモトとも謂ふ（四三）。滋賀縣和歌山縣などの各郡には、臺所の仕事又は之に與かる女をオナリといふ村が今でも多い。そのオナリ女が田植の日に限つて、非常に重要なる職分を盡して居たのである。ヨメが田に死んだといふ傳説の奧には、肥後のジヤジヨロの飯焚き女の如き者が隱れて居た。それが又溯つては入日を招き返すといふ物語の、水上の泉の側にも立つて居るやうに、自分だけは考へて居るのである。日置部といふ上代の部曲は、今は名だけしか傳はつて居らぬが、或は女子を以て相續した占ひの家では無かつたらうか。

　　（四一）　三河吉田領風俗答書。

　　（四二）　羅山文集卷七三。活字本四七二頁。

　　（四三）　和訓栞。

　

(99)　　　　　松王健兒の物語

　

　　　　　　　築島と長柄の橋

　

　自ら歴史家を以て任ずる當世の學者の中にも、説話はたゞ史實として其眞僞を判斷すべきのみと考へて居る人があるらしい。史實として眞なる説話といふものが、折々は存在するかの如く想像して居るのならば、誠に氣の毒なる樂觀である。何となれば説話の内容は、常に史實では無いからである。もし此態度を以て國民の前代生活を尋ねるとしたら、事苟くも有名なる大臣大將の傳記にでも關せざる限り、嘸かしいつも史料の缺乏に不自由をすることであらう。蓋し我々の解する説話は、存在其ものが儼然たる一箇の史實であり、全國を通じてその區々たる類型の散布することが、有力なる第二の史料である。個々の口碑の内容の如きは、單に比較の目標として役立つに過ぎぬのである。自分なども實は一個の歴史家の積りで居るのだが、主として學びたいと思ふ點が、記録證文を持たない平の日本人の過去に在るが故に、斯うして彼等の取傳へて居る昔の物、殊に其中でも複雜にして特徴の多い説話の類を、粗末にする氣にはなれぬのである。此目的から言ふと、幾分か尤もらしく史實くさく見える物語よりも、思ひ切つて奇拔な信じにくいもの、例へば人柱橋柱といふやうな話の方が、一層取扱には便利である。乃ち憚る所も無く之を史料に供して、再び「人を神に祀る風習」の根源を考察して見ようとする所以である。

(100)　八幡若宮の信仰の一つの變體として、後日神に祀られる人が少年であり又婦人であり、しかも不慮の横死では無く、兼て承諾しもしくは自ら進んで、命を神に捧げたといふ例が亦相應に弘く分布して居る。現在に於てはその殆と全數が、所謂人柱説話の樣式に統一せられようとして居るが、幸ひにしてまだ若干の特色の、是のみでは解説し得ないものが遺つて居る爲に、綿密な比較を續けて行くうちには、或は今一つ以前の動機を發見する見込があるのである。その特色も今日の如き交通發達では、大きな速力を以て同化して行くかも知れぬ。考へて見るならば今の内であらうと思ふ。

　考へて見るべき第一の點は、人柱に立つて永く祀られる少年の名が松王であつたこと、及びそれと八幡神との關係である。讃州香川郡｜圓座《ゑんざ》村の氏神は、今の名廣幡神社であるが正しく八幡社である。しかも全讃史といふ書には、或は云ふ其地もと祠あり、松王小兒の靈を主とす。後に八幡を以て之に配す。故に松王山と曰ふとある（一）。松王小兒は南海治亂記などには、マツワウコンデイと假字が振つてある。コンデイが健兒の讀み癖であつて、給仕又は年少の從者を意味したことを、忘れてしまつた人のしわざであつた（二）。平清盛が今の兵庫の港を築くときに、三十人の人柱を築込むべきであつたのを、彼の左右に昵近する松王といふ者、自ら志願して三十人の命に代つたと謂ふので、父は讃岐の河邊郷の郷司、河邊民部であつたといふからには、其話が故郷の地に留まつたのも當然のやうだが、實は久しく行はれた舞の本の「築島」以外に、殆と據る所は無かつたらしいのである（三）。松王山の八幡も同じ郡内に在るが、果して獨立して右の由緒を傳へて居たとも思はれず、寧ろこの有名なる民間の説話に由つて、解説を左右せられたらしい形跡がある。隣の伊豫などでも上浮穴郡臼杵の三島神社に、相殿として田井大明神あり、其祭神を今も松王小兒命と稱し、松王の父田井民部、讃岐香川郡から此村に移住したといふ一點を除けば、他は悉く舞の本其他の繼承である（四）。或は祭神の松王と血縁ありと信じた家で、古傳を失つた故に是非なく通説に從つたものでは無いかと思ふ。

　所謂築島傳説を今日の形に固定させたのは、さまで古いことでは無いやうである。來迎寺一名築島寺の松王木像と(101)縁起、兵庫名所記の刊本などが世に知られた爲に、自然に異傳が影を潜めるに至つたので（五）、勿論此等の記録とても古くからの口碑を踏襲した迄ではあらうが、少なくとも御伽草子や幸若舞の時代には、別に是とは相容れざる傳承が幾らもあつたのを、思ひ切つた選擇を以て統一してしまつたのである。極端な例を擧げるならば、平家物語には人柱は立てなかつたと書いてある（六）。盛衰記の方には童一人を人柱にしたといふ本と、止められけりとある本と、何とも書いてない本とがある（七）。つまりは清盛公御作といふ松王の像が現はれる以前、久しく取留めの無い諸説が浮遊して居たのである。

　しかしさういふ混亂の中にも、おのづから傳説進化の路筋は辿られる。例へば舞の本の「築島」を讀んで見ても、成程人柱に立つたのは結局松王一人には相違ないが、彼は實は横合から出て來た最後の解決者といふのみで、物語の葛藤は却つて名月姫父子夫婦の悲運を中心として居る。淨海入道が阿倍泰氏の勘文に基づいて、三十人の人柱を海に沈めんとし、街道に關を構へて旅人を捉へさせた折に、その三十人目に當つたのが姫の父左衛門國春であつた。近藤次重友なる者が此事を知つて、偶然に姫の住む家の近くに來て歌を詠んだところが、それが姫の耳に入つて直ちに父の命乞ひに出かける。夫の家兼も其跡を追ひ、共に福原に哀訴したので、終に國春だけは釋放せられ、殘りの二十九人を殺せといふことになる。そこへ始めて松王健兒が罷り出るのである。しかもそれより前に平家物語にもある如く、人柱の代りに一萬部の法華經を喜寫し、三十人の者の名字名前を添へて、沈めることにしては如何と獻言した者があり、清盛が怒つて聽かなかつたなどゝ、餘計な挿話の入つて居るのを見ると、舞の本の内容にも中頃の變改があつたか、さうで無ければそれが出來た時代に、もう世に流布して居た色々の話の別型があつて、之を丸々無視することが出來なかつたのであらう。

　さうしてこの名月姫の物語が、同じ津の國の長柄の橋について、興味ある多くの變化を以て語り傳へられて居るものと、もと一つの系統に屬することは略々疑ひが無いやうである（八）。鳴かずば雉も射られざらましの歌は、既に徒然(102)慰草に之を説き、淺黄の袴に白のつぎをした男といふ話は、安居院《あぐゐ》の神道集の中にもう録せられて居るのを見ると、さう近世人が想像して居るやうな手輕な思ひ付きでは無かつた。即ち人柱の企てが最初犠牲となるべき者の暗示に基づき、其暗示は多分歌の形を以て與へられたことゝ、親子夫婦といふが如き關係に在る者が二人以上、同時に此運命に殉じたといふのが、上古以來の傳説に一貫した要素であつたらしいことが、築島寺縁起の如き近世の一例からでも、幽かながら之を推測し得るのである。松王健兒が不意に現はれて三十人の命に代り、それが實は大日王の化身であつて、島成就の爲に暫くこの奇瑞を示されたと説くのは、すつかり傳統の型を破つたものゝやうだが、尚彼がいたいけな童形であり、又惜み悲しまるゝ人の子であつたといふ點に於て、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の條件を守つて居るとも見られ得る。さうして或は偶然かも知らぬが、注意すべき八幡神の信仰を以て、その遠い記念を包んで居るのである。是に於てか自分等は今一歩を進めて、果して何の理由を以て、此人柱の名を松王と呼ぶに至つたかを、考へて見ないわけには行かぬのである。

　　（一）　明治神社誌料に依る。社傳には天治元年北原孫太夫創立と云ふさうだが、さうすると松王が人柱に立つた應保元年よりも三十七年前のことになる。

　　（二）　攝陽群談其他には松王兒童と書いてあり、舞の本には只平假字で「こんでい」とある。

　　（三）　南海治亂記は此土地の筆者香西成資の著で、前に引用した全讃史などよりも古く出て居る。序文には記憶のよい二三の老人の話を集めたとあつて、松王人柱の話は河邊家没落の條に載せてあるのだ。

　　（四）　同じく明治神社誌料、又は伊豫温故録など。

　　（五）　近世編輯せられた兵庫築島傳といふ非常に詳しい讀み本があるさうな。併し是は却つて材料を集め過ぎた爲に疑問が多くなり、名所記などに見る一本調子を失つて居るらしい。

　　（六）　「阿波民部重能を奉行にて築かれける。人柱立てらるべしと公卿僉議ありしかども、それは中々罪業なるべしとて、石の面に一切經を書いて築かせられたりける故にこそ、經ヶ島とは名づけけれ」とある。奉行の名が阿波民部、通説では松王の父を田井民部と謂ひ、南海治亂記には河邊民部とある。こんな點が却つて相類して居る。

　　（七）　參考源平盛衰記。

(103)　　（八）長柄の橋柱のことは雅俗隨筆卷下に、多くのテキストを引いて考證がしれある。又廣文庫の人柱の條を見ても、一通りは材料が集まつて居る。松屋筆記五五にも此間題を論じ、古く遡つて仁�ｺ天皇紀の河内茨田堤の傳説が起源であらうと主張して居る。

　

　　　　　　　松王といふ童名

　

　近世の日本人には松王の名は寧ろ耳馴れて居る。從つて之を人柱に立つ童兒の名としたのも、ほんの有合せを用ゐた迄と、輕く見てしまふ者が多いかも知れぬ。しかしよく考へて見ると、何王丸といふやうな童名は、今ある色々の物語で有名になつて居るほど、さう澤山の實例があつたわけでも無かつた。言はゞ中古のある短い期間の、一部の階級の趣味であつたので、それが同時に又此類の物語の、流行し始めた時代を察せしめるだけである。實際何王といふ樣ないかめしい文字は、何か相應な順序が無くては、新たに尋常の家庭に入つて來る理由が無い。恐らくは最初は申し子の風習、乃至は社頭元服の儀式などゝ併行して、信仰上の行爲として發達したもので、後には何の趣意も無しに、單に先例が多く又響きが佳い爲に、そんな命名を敢てする者があつたにしても、元は必ず許されて神の御子となつて居ることを、表章する名であつたかと思ふ。即ち以前特定の神人の間のみに行はれて居た命名法が移つて一般に及んだので、單なる巫覡の輩だけならば、何王と名乘ることは少しも不思議で無かつた。ミコといふ語を漢譯すると、神子でなければ即ち王と謂つてよいからである。

　信州戸隱神社の巫の家は、今もあつて代々松王と名乘つて居た。神樂は此家の專務であり、別に中古以來の巫舞をも傳へて居るさうである（九）。幸ひに若干の口碑の之に伴なふものは無いであらうか、就いて尋ねて見たいと思つて居(104)る。京の北野の天滿宮でも、以前は松王と稱する主典の家が、西の京に二人住んで居り、自ら菅公の車副《くるまぞひ》の舍人《とねり》の子孫だと稱して居た。白装束を著て髪をからわに結ぶとあるのは、即ち亦童子の姿である。末社の賽錢散米を所得として居たといふことである　　　（一〇）。此等の明白に神の婢僕に過ぎなかつた家々が、尚且つ王といふ字を名に附けて居たのを見ると、王が神子を意味し、若宮や王子の社と根源を同じくすといふ考へは、誤まつて居らぬかと疑はれるかも知れぬが、其點は中世以後の大小諸社に於て、必ずしも高い地位を認められなかつたミコもしくはカウノコといふ神職が、何故にさう呼ばれて居たかの問題と、一括して説明せられ得るものと私は信じて居る（一一）。

　自分の見解を簡單に述べると、ミコの神社に於ける威望と權力とは、主として政治の理由に基づいて次第に低下した。その任務に當る者が、小兒でなければ婦女であつた故に、平日の家庭生活又は普通の勞働團に於て、先づ其地位を保持し難くなつたからである。しかも久しい後まで外から侵されなかつたものは、單なる古來の名稱だけでは無かつた。別に幾つかの極度に重要なる宗教行爲は、永遠に彼等の專管に屬して居たのである。即ち祭の日の側近給仕、殊に夕朝の神饌を掌ること、是には今日想像せられるよりも一段と深い意味があり、恐らく神と共に又は神に代つて、其食物を受用するの役をも含んで居た。託宣と稱して定期臨時に、神語を常人に傳へる任務も、本來は是と不可分のものであり、亦互ひに條件を爲して居たらしい。上席の祭官を神主と誤り稱した時代でも、是だけの役目は指定せられた彼等でないと勤まらなかつた故に、かつは世の中が變つてから後でさへも尚昔の名を失はなかつたものかと思ふ。

　而うして一方には所謂ミコが神の血脈の末だといふ傳承は、力の限り之を保存しようとしたのである。從つてミコといふ語の本義を證明することは、今でも必ずしも困難で無いのだが、奈何せん歳月の進むにつれて、實際の歴史は?々其解釋の變更を必要にした。即ち眞の御血筋の者で無ければ此の如く神に狎れ近づくことを得ずとして置くと、最早古式の儘の祭を繰返すことの出來ぬ場合が次々に發生したのである。爰に於てか更に第二第三の特徴を高く唱へて、新たに此任務に就き得る者の資格を、或程度にまで擴張することになつたかと思はれる。例へば宇佐の大神は一(105)時非常に盛んな勢を以て、四方に其威�ｺを宣揚せられたが、其結果は夙に奉仕者の供給不足となり、一方には安宗行教《あんじゆうぎやうけう》の如き紀氏《きうぢ》の法師をして、曩祖武内宿禰の由緒を説かしめ、始めて君臣の關係を社務組織にまで延長せしめたと共に、他の一方九州方面に於ては、若宮信仰の一段の發達を促して、所謂大三輪式の民間神話、即ち人を母とし神を父とする貴い童兒の物語を、新たに各地に移植せしめる必要を招いたのである。記録としては只幽かなる痕跡を存し、フオクロアとしては最も豐富なる人聞菩薩《にんもんぼさつ》の廻遊譚、此貴僧は即ち八幡の化身であり、母と子の二人が到る處に濟度せられたといふ類の口碑は、恐らくは此間の消息を語るもので、行く／＼は必ず人間といふ珍らしい僧名が、實は人母又は神母の誤解であつたことを、立證し得る時が來るものと自分は信じて居る。

　人が單に横死して御靈《ごりやう》と爲つたが故に、忽ち若宮と名づけて之を八幡の眷屬神に列するといふが如き風習は、斯ういふ信仰の過程の、今は既に埋没に歸したものを尋ねて見た上で無いと、説明の困難なるは當然のことである。神子思想の成長が稍々一方に偏し、巫祝の言説に政略の影響が加はり、或は王神は即ち應神天皇の御事だとか（一二）、大帶媛《おほたらしひめ》とは息長足《おきながたらし》媛尊を意味すとかいふ類の、學者風の解釋とも名づくべきものが一代を支配すれば、信仰は自然に抑壓せられざる方向に成長するわけである。祟を現じて畏敬を要求する風が無かつたら、單に主神の御子神だといふだけでは、配祀を受ける理由が無かつたと同じく、若宮奇瑞の根本の條件として、心魂の若く且つ活き／＼とした人間が、忽ち其身を轉じて神の界に入り來るを必要とした時代が曾てあつて、それが後世の厄神統御を八幡社に所請する根柢を爲したので無かつたか。別の言ひ方をするならば、八幡若宮は松王人柱の説話などが偶然に言ひ傳へて居る樣に、いつか或昔の世に、人を殺して御靈を作る信仰の行はれて居たことを、暗示するものでは無からうか。此の如き假定の當否を吟味する爲に、自分は更に進んで多くの人柱説話の、偶然なる特徴を掲げ且つ比較して見たいと思ふのである。

　　（九）　郷土研究四卷三號、栗岩英治君通信。

(106)　　（一〇）　遠碧軒記上卷三。

　　（一一）　此點に關しては、以前川村杳樹の名を以て公表した巫女考といふ論文の中に、相應に細かく論じておいた積りである。但し何れの論證も假定であつて、單にまだ反對の意見が出なかつたといふのみであるから、是に使用した資料以外には、それを論據としで援用しない。

　　（一二）　御子神を王神と謂つたといたのも決して空な想像では無い。中世の神名にも例は多く、現在も越後長岡などの顯著な例がある。

　

　　　　　　　母一人子一人

　

　諸國に分布する人柱傳説が、決して一つ一つの史實で無かつたことは、話が互ひによく似て居るので、ごく簡單に之を證明することが出來る。例へば東上總の尾長堰を築くときに、捕へて人柱に立てたオナといふ女乞食は、梅の實を食べて居る所を活埋めにした。それで其地に梅の樹が生えて、其實は悉く片側に肉の無いものであつた（一三）。下總印旛郡大竹の坂田池の堤にも、片多梅又は片端梅《かたふたのうめ》と名づくる名木があつて、同じ由來談を傳へて居る。以前此池の堤が幾ら築いても持たなかつた時に、一人の女が遣つて來て人橋を架けるより他は無いと教へたので、乃ち其女をそこへ沈めた。女は小さい兒を背負うて居て、其子は手に食ひかけの梅を持つて居た。それを共々に埋めてしまつてから、其地に斯ういふ梅の木が生長したといふのである（一四）。

　同じ例が只の二つだけなら、一方が窃かに眞似したとも評せられようが、植物の特徴を亡靈の勢力に歸する説は、千方《ちかた》の逆さ柳、梶原源太が馬の矢筈の笹葉、畠山重忠の馬の片割シドメの類、少しづゝ形をかへて幾らでも世に知られて居る。現に同じ印旛沼沿岸の師戸《もろと》の金毘羅淵でも、片割シドメと稱して實の半分しか無いものが今も生じ、昔子(107)守の女が田人にいぢめられて、此崖から身を投げて死んだときに、半ば喰ひさしたシドメを幼兒に持たせて置いたからと稱し、又此あたりの藤は其女が兒を負うて居た名殘で、十字にあやどつて成長するとも謂つて居た（一五）。しかも其女の死んだといふ日は、田の仕事とは最も縁の少ない七月の十三日で、其女の奉公をして居た船尾村の宗像神社には、當日色々の奇瑞があり又祭があつた。

　その七月の十三日は、松王を始めとして多くの人柱が、立てられたと傳ふる日でもあつた。讃岐では佛生山《ぶつしやうざん》の町に近く、平家池と名づけてやはり相國清盛の時代に、阿波民部が奉行をして築き固めたといふ堤があつた。人柱に供せられたのは通りかゝつた一人の女で、懷中には筬《をさ》を入れ、手にはチギリを持つて居た。其筬は竹林となり、チギリは成長して大木の松となつたので、其松を神木として、永く祀つたのがチギリの宮だと傳へて居る（一六）。ところが斯ういふ有り得べからざる傳説も、なほ偶然に生れたのでは無かつたと見えて、尾張春日井郡の退養寺の松原といふ處にも、半分共通の口碑が殘つて居る。中昔此地に大池があつて、毎年故無くして堤が切れ田畠を損じた。占者の説を聽くに、五月朔日の日、機織る道具を携へて過ぐる者を捉へ、人柱に築き込むべしとのことであつた。果して其通りの女が通つたのを、教への如く水中に投ずると、水難はそれで止んだが今度は女の祟りで、五月になる毎に機織る者が多く死んだ。道淨寺といふ寺は其靈を和める爲に建立せられたが、早く廢絶して機織池のみ永く存し、土地の婦人たちは五月には戒めて機を織らなかつた（一七）。五月に物を織らず、又は機具を持運んではならぬといふ禁忌は、殆と全國一般と謂つてもよい位に弘く行はれ、さうして其動機はまだ明白で無い。多分は水の神を女性と考へ、機織る神と考へて居た爲に、最も其恩惠を仰ぐべき田植の月だけは、神の行爲を眞似なかつたのであらう。水底に梭の音を聽くなどゝいふ機織淵卷機池等が、必ず雨乞水祭の靈場であつたことを考へると、筬を持つて通行したといふ者の普通の女性で無かつたことが想像せられる（一八）。

　人柱の選定には、大抵の場合に條件があつた。占ひの言葉又は夢の告に由つたといふ外に、殺される者自身の提案(108)が採用せられたといふ例の多いのは、注意すべき點である。

　　　物は言ふまい物言うたばちで

　　　父は長柄の橋ばしら

の物語などは、今でも子守唄となつて歌はれて居るほど有名だが、是とは全然別種の言ひ傳へとして、たとへば女が通りかゝり、人柱を立てるがよいと勤めると、誰彼と求めても中々よい人が得られまいから、いつそそなたを頼むことにしようと、忽ち其女を沈めたといふ話がある。越中舊事記に出て居る射水郡下村の女堤などは其一つで、「女堤は口の如く」とは此よりの諺なりとも書いてある。或は更に進んで松王の場合同樣に、人柱は本人の勸告に基づいたのみならず、且つ其志願であつた樣に説くものもある。前に擧げた下總印旛郡の片ふたの梅の例なども、稚兒を負うた婦人が遣つて來て、水を留めるには人間を生埋めにするより他は無い。女なら尚更よい。どうか私を此子と共に、是非ともこゝに埋めて下されと言つて動かぬので、終に言ふ通りにしたら果して堤が固まつたと傳へて居るやうに報告した人もある（一九）。所謂史實論者の感覺から判斷すれば、志願は最も人情に遠く自然に反するやうだが、教へた人を殺すといふ例が何故に斯く數多く行はれて居たかは、寧ろ本人の言葉に基づくといふ方から、類推して説明せらるべきものであつた。有り得べからざる點は五十歩百歩である。一人でも濟むものを母と子と二人が死ぬといふなども、別に何かさう説いても人が信じ得た事情が、曾ては存在したことを想像するより他は無いのである。さうで無ければ幾つかの同型譚が、方々に分散して發生する筈が無いからである。

　母と子の二人を人柱にした話は、又武州栗橋の一言《ひとこと》の宮にもあつた。投込まれた際に其女が、何か一言だけ言つた故に、斯ういふ名の神社を建てたといふのみで（二〇）、單なる通りかゝりの災難のやうに傳へられて居るが、九州では豐前の最も有名なる母子人柱の傳説の如き、亦明白に志願の一例であつた。相原神社の社傳には、保延元年八月十五日の出來事と謂つて居るけれども、説話はやはり説話である。其大要を述べて見ると、宇佐の神領なる沖代《おきだい》千町の田(109)地を、曾て七人の地頭で支配して居た時代に、高瀬川の水を引く大井手の堰が、?々損壞して塞ぐことがむつかしかつた。そこで人柱を立てようといふ相談をした處、地頭の一人湯屋彈正基信、七人の袴を水に浮べ沈みたる者が人柱といふ案を出して、之を試みると發案者の袴が沈んだ。或は單に籤を引いて決したとも謂ひ、又は基信自ら進んで人柱に立たんとすと書いたものもある。何れにもせよ結局は鶴といふ三十五歳の女と、其子の市太郎十三歳とが、望んで湯屋彈正の身代りとなつて、白木の板輿に乘つたまゝ、此川の中流に埋められることになつた。さうして萬代の堰は其上に築き上げられ、母子は永久に水道の守護神と祀られたといふのである（二一）。

　讃岐の松王山の八幡神社の方では、記録が簡單な爲にまだ此關係がはつきりとしないが、八幡は要するに御靈の統御者として、之を併せ祀る必要があつただけのやうである。九州の相原神社の方では例の如く、祭神を輿田別《ほむだわけ》天皇とし、鶴女市太郎の母子は單に配祀といふことになつて居るが、五十年前までは社名を八幡市神社と謂ひ、俗間には今も鶴市社、鶴市祭とのみ稱へて居るのは、恐らく信仰の本の形を示すものである。しかも傳説が存外に新しいものである證據には、語る人毎に若干の不一致があつた。例へば鶴女が如何なる身分かといふことは、可なり重要なる一點であるのに、或は湯屋弾正の侍妾と謂ひ、或は家臣古野源兵衛が娘と謂ひ、又或は下女奉公に來て居た只の子持の後家であつたと謂つて、つまりは市太郎の父は誰であつたとも知れぬのである。自分等に取つてはそれが殊に或意味を持つて居る。芝居じみた幾つかの固有名詞に至つては、寧ろ傳説の浮動性を立證すべき材料に他ならぬと思ふ。

　然らば此地の舊傳が長柄の橋柱などの影響を受けて、斯く近世式に同化してしまふ以前、果して如何なる形態を具へて居たものかといふと、注意を要するのは獨り母と子と共に死すといふ一點ばかりで無い。鶴といふ名の女が水に投じて神と爲つた話の、懸離れた二三地方に傳はつて居るのも、自分は偶然の類似では無いと思ふ。其一つは下總松崎の千把《せんば》ヶ池、おつるといふ仕事上手の大力の女が、或年の田植に一日に千把の苗を植ゑ終り、慢心の餘りに股の間から夕陽を覗いて、まだ御日樣はお入りやらぬと謂つたら、忽ち天罰を受けて田の中で死んだ。それから其田を池に(110)して、岸の松の下に辨天の祠を建て、つる女の靈を祀つたといふことになつて居る（二二）。前に引用した子守娘などゝ共に、所謂嫁の田傳説の最も普通の形式で、伊波君の研究せられる「をなり神」の信仰と、もと系統を一にするものと自分などは信じて居る。之とよく似た第二の例は、陸前名取郡小鶴の池にもある。長者の美しい婦女に其名を小鶴といふ者、千刈田といふ大きな田を一日の中に植ゑよと命ぜられて、背に負ふ兒に乳を呑ます暇も無く働くうちに、幼兒は飢ゑて死に、其母も亦悲しみの爲に死んだと傳へ、田の眞中の小さな丘を、其兒の墓として祀つて居るのは（二三）、愈々以て豐前の鶴市母子の話に近いと思ふ。理由は多くの場合之を知ることを得ないが、昔話の人の名には往々にして此類の一致がある。それには何か特別の意味があつたらしい。伊豆の伊東に近い對馬《たじま》村の若宮八幡などで、祭神を千鶴御前《ちつるごぜん》と謂つて居るのは、頼朝が伊東の娘八重姫に通じて、生ましめた一子であつた。それを鎌田の轟淵に沈めて殺した時、稚子は手に橘の枝を持つて居た。後日其亡骸が八幡の岸に漂着した折にも、なほ其枝を離さなかつたので、それを插して置いたのが成長したと謂つて、永く大木の橘が神樹として崇敬せられたと謂ふなどは（二四）、是亦母と子の神の由來を語るもので、所謂片割シドメ片端梅の言ひ傳へが、偶然なる插話で無かつたことを推定せしめる。

　市太郎といふ童兒の名前にも、やはり考へて見るべき特徴はあつた。イチは一方に神に仕へる女性を意味すると共に、九州などでは亦單に稚兒といふ義にも用ゐられて居た。豐前田川郡糸田村の金村神社で、正月十五日の御田祭に歌ふ田植歌が三首あつた。さして古いものとも思はれぬが、其中の一つに、

　　　おかた身持ちげな、顔そご／＼と

　　　小市やほしそに

といふのがある（二五）。オカタは人の嫁のこと、ソゴ／＼とは少し窶《やつ》れた形容である。田植には豐産を祝して特に姙婦を働かせ、又小さい子を連れて來て田の畔に遊ばせるのも趣意があつた。此歌などは神の田ながら、別に神の子とい(111)ふわけでも無かつたらうが、或は猶一つ根源に溯つて、陸前小鶴池系統の早乙女母子の物語と、何か下に通ふものがあつたのかも知れぬ。王子又は若宮といふ意味に、イチといふ名を用ゐて居る地方もある。豐後｜國東《くにさき》半島の富來《とみく》の町では、八坂神社の祭神を小市郎さまと稱へ、鎌田氏一門の祖神と信じて居る。祭典は六月と十二月の二十八日、即ち此地方で荒神を祭る日である。川を隔てゝ池田といふ小部落があるが、そこの池田氏一統も亦同じ日に小市郎樣を祭るさうである（二六）。宇佐の勢力の曾て盛んに行はれた地方だから、假に現在は祇園の管轄に移つて居ても、元は八幡の御靈であつて、やはり母あつて父なき童子神なるが故に、此名を以て呼ばれることになつたのかも知れぬ。

　今ある諸國の人柱説話が、昔曾て其通りの形を以て出現した史實であると解し得べくんば、是ほど簡單な問題は無いのだが、殘念ながらそれは絶對に不可能のことである。しかも説話にもせよ、はた一地に土著した傳説にもせよ、斯く迄の類似を以て弘く全國に分布して居る以上は、必ず基づく所があつた筈と思ふ。只尊敬すべき我々の先輩が、不幸にしてまだ一度も考へてくれなかつたことは、人柱を呪法とし又は水の神に供へた犠牲とするならば、何故に後日其靈を神とし祀ること、往々にして鶴市神社の如くなりしかといふ點である。何故に彼等に水土を守護するの力が有るのみか、豫め未來の安全を洞察して、自ら進んでこの重い責任を負はうとさへしたと傳へるのであるか。普通の道理では之を説明することがむつかしいのを見ると、人柱の思想は時代と共に變化して居るのである。其變化の跡を究めても見ずに、此慣習の曾て存せしや否やを、論じて見ようとした人があつたのは甚だをかしかつた。

　八幡と水の神の信仰との關係が、以前今よりも遙かに深かつたことは、水若宮《みづわかみや》といふ社の名や、龍女婚姻の傳説からでも、之を想像することが出來る。而うして所謂母一人子一人の神話は、殊に此大神の周圍に於てよく發達して居る故に、少なくとも鶴市神社の系統に屬する人柱の口碑だけは、直接間接に其影響を受けたものと、解してもよいのかも知れぬ。しかし八幡以外の信仰に於ても、伊豫の和氣姫と小千《をち》の御子、薩摩大隅の玉依姫と若宮の如く、同じ例は幾らもあつて、よく見るとその多くは水の邊の神であつた。當初單純に水の神を母と子の二柱と觀ずる傾向が生じ(112)て、後に其起原を犠牲に託する樣になつたのか、但しは又其風習が夙く存して、次第に人神の化現を感ずるやうになつたものか。此間題を明快に斷定し得ることは、獨り日本國學の利益のみで無い。外國の學者の中にもより／＼之を論じた人もあつたやうだが、今までは實は資料の乏少に苦んで居る。之に反して我々の方では、折角の豐富な資料を亂雜の　　　状に放置して、絶えてその新たな意義を顧みようとしなかつたのである。今は準備と整理との爲に、若干の忍耐を要するのも止むを得ない。

　故に自分としては、差當り是だけの事しか言へない。諸國の人柱説話に八幡神の干與して居るのは、彼社の前代の信仰からも、大なる困難なしに之を説明することが出來る。此が第一條であつて、私の「人神考」は次々に之を立證しようとして居る。第二には我民族の久しく持傳へて居た水神信仰の神秘には、松王鶴市の夢の如き物語を通じて、始めて窺ひ知ることの出來る部分が確かにあるといふことである。但しそれには我々と同じ樣に、所謂荒唐無稽を輕蔑せぬ癖を養ひ、尚進んで處々の田舍に、消えんとして僅かに殘留する母と子の神の信仰を、集めて比較することが必要である。自分の僅かな記憶の中でも、注意すべき例は幾つかあつた。駿州｜庵原《いはら》郡中河内の帶金權現の如き、村役人帶金甚藏なる者、村民の怨みを受けて河原に引出され、石を以て打殺された。其女房は臨月であつたのを、同時に引出して殺した所が、其靈ばかり祟を爲して、村内の婦女の産で死ぬ者が多くなつたので、怖れて之を祭つたと傳へて居る。靈社の近くには十郎瀧といふのがある。十郎は帶金氏の一人子の名であつた。其母之を瀧の中に投入れて、今日の恨を報いよと言つたので、それから此里の小兒は、四つ五つにして多く死んだとも傳へられる（二七）。即ち其父とは謂はずして母を御靈の中心として居るのである。薩摩南端の池田湖の岸に、松の老木を神體とする神があつて、其名を池王明神と稱へて居た。池田村の農夫四郎といふ者の遠祖、或日池の岸を過ぎて、人首龍神の異形の途に横たはるを見て、短刀を拔いて之を斬つたところが、血を引いて水の中に躍り入つた。其夜此男は俄に病んで死し、其女房も發狂して龍王の怒を託言した。親族の者さま／”＼に罪を謝するに、龍王は之に答へて、然らば我に一人の母があ(113)る。母と子とを合せて神に祀るならば、赦してやらうとのことであつて、それから教への如く松の生樹を祭ると、後に其あたりへ龍が出て死んで居た。今も樹下に在る石の祠は、龍王の母を祀ると信ぜられる（二八）。此傳説中に重要なる一點は、四郎の先祖が龍を斬つたのは、或家に婚禮に行く路であつたといふことである。直接の説明には入用の無い插話だけに、何かよく／＼の意味が隱れ潜んで居ることゝ思ふ。最後に今一つは奧州二本松から少し北、鹽澤村の機織御前《はたおりごぜん》に關して、傳へて居た口碑である。此地方の傳説の主人公に源高國といふ人、天の織女と婚姻して一子を産ましめ、其名を松王丸とつけた。松王丸は七歳の時織女再び天上に還り去ること羽衣古譚と同じく、仍て之を一社の神と崇めたと傳へて居る。一説には高國鍬を水中に落し、それを取りに水中に入つて龍女と婚したとも謂ふ。三日と思つたのが人の世の二十五年であつたなどゝ、浦島物語に結び付けた言ひ傳へもあるさうである（二九）。此等の類例は、見た所人柱の慣習とは縁も無いやうだが、狹隘なる史實論者で無い限り、之を別系統のものとして引分けて考へて見る人は無いであらう。だから根本の大切な問題を解決するが爲にも、先づ以て斯ういふ現象の相互の關係を明らかにしなければならぬのである。徒らに事端を複雜ならしめる所存は無くとも、問題其物が複雜なのだから致し方が無い（三〇）。

　　（一三）　房總志料續編。今の長生郡土陸村大字上ノ郷。オナは狂言記などにも見えて、只の女の最も普通の名、多分は女といふことだから、尾長堰は女ヶ堰といふに過ぎぬ。人柱傳説地には女堤、比丘尼堤などの例が多い。

　　（一四）　印旛郡誌下卷、高木君の日本傳説集にも、別に前田林外君の報告が出て居る。

　　（一五）　郷土研究一卷七號、香取秀眞君。同君の郷里地方は不思議に宗像の信仰がよく行はれて居る。田人に食を送る女が水に投じて死んだといふ話は、別に一系統をなして他の地方にも弘く行はれて居る。次にいはんとする陸前の小鶴池なども其一つである。

　　（一六）　讃岐三代物語中卷。「杖の成長した話」と考へ合すべき問題である。

　　（一七）　張州府志卷一一、尾張志も之に依つたかと思ふが、若干の新しい材料が加はつて居る。

　　（一八）　郷土研究一卷一一號の論文「筬を持てる女」は、ヲサ掻きと稱する一種の旅の女が、以前民間の信仰に參與して居たら(114)しいことを説いて居る。

　　（一九）　日本傳説集二三七頁、前田林外君。

　　（二〇）　同上書二四二頁。一言といふ神の名が託宣の力を意味することは、以前「一言主考」といふ一篇に於て之を論じたことがある。

　　（二一）　「日本及日本人」郷土光華號、赤松文次郎氏の文。明治神社誌料には豊前志及相原神社縁起を引用して更に詳細に述べて居る。筑紫野民譚集は何れの書に依つたか、湯屋弾正の袴のツギの事を説いて居る。

　　（二二）　印旛郡誌下卷、此郡八生村松崎の條。早乙女入日を麾くといふ話は、「日を招く話」に於て之を説いた。

　　（二三）　封内風土記卷四に、観迹聞老誌を引いて。

　　（二四）　傳説叢書伊豆の卷に依る。出處は伊豆志であらう。頼朝の傳説は八幡神話に基づくものが多い。

　　（二五）　文部省の俚謠集六二三頁。

　　（二六）　鎌田正憲君の談。此人は大正十二年の震災が奪ひ去った我々の一同志である。荒神といふのも彼地方では御靈であつたらしい。六月二十八日は多分新暦の月送りであらう。五月二十八日は曾我兄弟の命日といふ以外に、我々の御靈信仰と関係の深い日である。

　　（二七）　駿國雜志卷二四上。

　　（二八）　地理纂考卷一四。

　　（二九）　相生集卷一一に、金峨文集及び澳�ｺ記を引いて之を述べて居る。家の最初の母を神とした舊家は、東部日本にも中々多かつた。相馬家などのは妙見即ち北斗七星の信仰を説明しようとして居る。

　　（三〇）　此一篇はあまり長くなる故に一旦こゝで結んで置いた。「松浦佐用媛」はこの人柱論の續きである。

　

(115)　　　　　人柱と松浦佐用媛

　

　　　　　　　化粧坂の故跡

　

　美女を水の神の牲とした話は、数多く東北地方にも行はれて居るが、近い頃まで職業として之を語つた者があつたと見えて、一つの型から出たらしい共通の點が多い。例へば最近に一讀した登米《とよま》郡史の中にも（一）、今の登米町川面の若狹土手を築き固める際に、お鶴といふ女を人柱に立てたと稱して、今もお鶴明神を鎭守の神に祀り、其傍にはもとお鶴の涙池といふものがあつたことを記して居る。鶴女は南部の生れとも云ひ、或は駿河から買うて来た女ともいふ。彦惣長者なるものゝ下女であつたなどゝ傳へ、北上川の堤が毎度切れる故に、生土手《いきどて》を築くの他は無いと評定して居る處へ、ちやうど晝飯を運んで來たから、捉へて生埋めにしたと謂つて居る（二）。其靈を慰める爲に社に齋いてから、此土地のみは洪水の災ひが無いといふことで、今尚信心をする者があるさうである。

　陸中金ヶ崎の千貫堤の人柱は、近く天和年間の實事であつたやうに、土地の人は語り傳へて居るが、爰でも其女を釜石の濱から買つて來たことになつて居る（三）。但しこれは至つて不器量な女で、男を持たせる望みもなかつた故に、もしや外へ出したら仕合せな事でもあらうかと思つて、二親が賣渡したといふのである。横穴を穿つて埋める支度をした後に、穴の奧に佛像を掛けて、家々の女たちに代る／”＼禮拜せしめ、最終にこの女の入つて居るところを見すま(116)して、土をかけて其穴を塞いでしまつたといふのは、單なる昔話としては稍々物々し過ぎるが、自分はまだ之を以て此土地限りの語り繼ぎと見ることが出來ない。それには同じ膽澤郡葉場《いさはぐんはゞ》の心月寺の古傳、潟岸の藥師堂の由來と稱するものが、餘りにも此地方には有力であつて、特にこの千貫堤の話にばかり、何等影響する所が無かつたとは想像することが出來ぬからである。恐らく是も亦女の名を尋ねたならば、やはりお鶴であり或はおさよであつたらうかと考へて居る。

　所謂膽澤の掃部《かもん》長者の物語は、今日殘つて居る部分は主として榮華末期の哀史ではあるが、久しく座頭などの管掌に屬したと見えて、幾つかの段落が次々の場面を開展して居る。松浦佐用媛の人身御供は、要するに其最後の一齣に他ならぬのである　　　（四）。入用な點ばかり簡單に敍べるならば、長者の女房は禁斷の魚を食うて蛇身を受け、水の神に祀られて尚三年に一度の生牲を求めて居た。郡司兵衛義實といふ者、娘をその神の課役にさゝれて身代りを探し、遙々京に上つておさよといふ美女を購ひ還つた。京の君又は京の女と呼んで居たにも拘らず、生國は肥前などゝ稱して、どこ迄も松浦佐用媛の名を保持しようとして居るのが、此話の最も注意すべき一つの特徴であつた。

　それから今一つ、是は佐用媛人柱の場合のみに限つたことで無いが、他の多くの東北文學の類例も同樣に、物語の土著力とも名づくべきものが、殊に強盛であつた痕跡が見られる。即ち長い旅路を歌になり舞になつて、久しく流傳した説話なることは疑ひ無きにも拘らず、一たび此地方に入つて來て僅かなる窪みに淀めば、忽ち根をさして新たなる澤山の故跡を殘し、爰に第二次の傳説化が行はれる。是はその最も顯著なる一例として、考へて見るによい話なのである。何故に奧羽方面の説話ばかりが、特にさうした傾向を多く具へて居たかといふことは、理論として興味ある題目に相違ない。例へば此地方の住民に歴史が乏しく、如何にもして過去の事蹟の信じ得べきものを捉へたいと思ふ執心が、自然に此類の浮説を誘うて、反證なく又故障なき空間を充さしめたのでは無からうか。人間の信仰にはいつの世にも實證の根據を必要とし、歌謠暗誦の如き異常言詞だけは、其内容以上に人の情緒を動かすの力を持つて居た

(117)のではあるまいか。假定は幾らでも成立つやうだが、不幸にしてまだ證明の安全なる方法を得ない。兎に角に傳説は早晩發生の土地を離れて、たゞの民間の説話となつて浮遊するのが普通であるにも拘らず、日本だけではそれが何度でも地上に落ちて、或は爲にする所ある寺々の縁起に採用せられ、或は郷土を愛する人々の手に裁培せられて一處の土に成長し、終には我を信じ他を疑ひ、之を歴史と認めてくれなければ、承知をせぬ者を作つたのである。此混亂と誤解とは、恐らく今暫らく續くことゝ思ふ。それも文書に惠まれなかつた遠方の縣に行くほど、次第に面倒になるのは自然であるが、この佐用媛の一條だけは、ほんの偶然の端緒から、幾分か他の場合よりも眞相が知れ易くなつて居るやうである。

　膽澤の掃部長者を圍繞した現在の遺跡は無數である。長者の屋敷迹だと傳ふる上葉場《かみはゞ》の稻荷山からは、近年多量の燒米を發掘し（五）、北葉場の蛇の池には、今でも片葉の蘆が生ずる。四本の柳に材木を渡して、水上に棧敷を架けたといふ故跡は四本柱と名づけられ、惡蛇の角を埋めたる角塚一名蛇塚と共に、都鳥《とどり》といふ部落に今でも遺つて居る。考へて見ると之を證據といふことは逆さまのやうだが、少なくとも附近の住民は是あるが爲に、他所から來た話とは思ふことが出來ぬのである。しかも巧んで設けるやうな者は居なかつた筈だから、誤解にもせよ必ず何等かの原因が無ければならなかつた。

　それを一つ／＼考へて見ることは不可能だが、是だけは看過すわけに行かぬと思ふ話が、化粧坂《けはひざか》の藥師堂に伴なうて語られて居る。佐用媛は遙々の旅の未に、　　　愈々身の終りの地に入らうとして、先づつかひの森に來て晝餉《ひるげ》をつかひ、次に化粧坂に於て最後の化粧をしたと稱する。ボサマの曲ならば最も合の手の多い場面は是であるが、注意すべきことには獨り北上川の平野に限らず、化粧坂といふ地名は全國に亙つて分布し、それ／”＼美しい傳説を以て装飾せられて居るのである。中に就て二三の　　　稍々縁の遠い例を擧げて見るならば、一番有名なのは鎌倉に一つ、以前遊女が住んだとも謂ひ、もしくは平家の大將の首を化粧したともいふ。何れにしても往還の側であつた（六）。同じ相州にはなほ大(118)磯の高麗寺山下に化粧坂、又程ヶ谷から南へ行く路の近くにも化粧水があつて、前者は大磯の虎に、後者は政子御前に、何れも有名なる女性の傳記に托してある（七）。ずつと離れた土地では豐後玖珠郡瀧神社の粧の井、小松女院といふ貴女十二人の侍婢をつれて、笛の名手少納言正高のあとを慕つて都より下り、身を投げて後神に祀られたといふ縁起がある。出雲海上の化粧島では、十羅刹女日毎に此島に渡り來つて、粉黛を施したまふと傳へ（八）、播州網干町の小學校の脇の坂には、かねつけ石一名明神石があつて、大昔加茂明神此地に現はれて化粧なされたといふ口碑があり、しかも里人が御教に背いた故に室の港に御遷りなされたのが、彼地繁昌の根元だとも謂つて居る（九）。備前｜瑜珈山《ゆうがさん》中の化粧池は、往昔この地に鬼賊住み、此水で化粧をして婦人の姿をなし人を害した。權現は即ち其靈を祀るものだと傳へて居る（一〇）。なほ此以外にも國々の鐵奨付岩《かねつけいは》、又は傾城石と稱する遺跡は、附近に泉があり又坂路の側であつて、同じ系統の口碑を保存して居るものが多い。

　所謂｜紅《べに》鐵漿《かね》白粉《おしろい》の一番最初の用途は何であつたか。日本にはこの興味ある問題を考察する爲に、有用なる資料はまだ幾らでも殘つて居るのだが、之を顧みようとした人は無かつた。諸國の化粧坂に共通した口碑は、少なくともそれが信仰に關係し、且つ歌舞に關係して居たことを暗示する。然らば其雙方に參與したといふ上臈は、果して如何なる種類の女性であつたらうかは、容易に推測し得られるわけである。信州西北隅の山村などにも、やはり一處の廓屋敷《くるわやしき》と傾城清水とがあつた。其泉の水は化粧には散りがよいと謂つて、村芝居の役者が之を化粧の水に汲んだといふ話も殘つて居る（一一）。特に一定の泉の水を以て、化粧をしなければならぬ慣例が、恐らくは昔から守られて居たのである。東京の近くには橘樹郡下｜作延《さくのべ》村の圓福寺の辨天さまに、炎暑にも涸れずといふ清水があつて、其洞を女郎洞又は銕漿洞と名づけて居た（一二）。相州中郡比々多村神戸の化粧塚は、三宮明神祭禮の時に、神輿を此上にすゑて修飾を加へたと傳へて居り（一三）、化粧は要するに祭の式の準備であつたことが想像せられる。野州日光の奧、金剛山といふ山の中にも、化粧の宿といふ峰入山伏の宿泊地があつた。秘密勤行の道場であつて、常人は此處へは行かずとある。修驗者(119)と化粧と、一見最も縁の遠いものゝやうであるが、彼等も亦其神祭の爲に、いつも優れたる美少人を選拔して、之を山入の一行に加へて居たのである。

　奧羽地方に入つても無論數多き化粧坂化粧水の故跡はある。平泉中尊寺の八幡社址の西方に在る粧坂などは、昔正月の摩多羅神《またらじん》の祭の日に、田樂をする者の樂屋が此坂の上にあつた故に、其名を生じたと傳へて居て（一四）、自分の推測を少しばかり強めてくれる。つまり人身御供の爲に買はれて來た女の故跡としては、少しく同名の場處が多過ぎるのである。福島縣の方では安積《あさか》郡八幡の化粧坂、是も八幡社の北方に在つて、祭の日の神樂男がこゝで支度をしたといふ（一五）。それが信夫郡山田村の大清水に行けば、欽明天皇の皇后｜石姫尊《いはのひめのみこと》、來つて此水に手洗ひたまふなどゝ稱し（一六）、更に北して陸前名取郡岩切の化粧坂鏡の池の跡をとぶらへば、早又小鶴ヶ池に身を投げた小鶴女が、此坂の上にて化粧し、此水を鏡として容色を整へたなどゝ謂ふ（一七）。それから奧へ行けば大抵は皆松浦佐用媛のものになつて居るのだが、さう誤らなければならぬ原因は、必ずしも發見するに困難でない。つまりは此水で女が化粧する日に限つて、此物語が歌はれ又は演ぜられたからであらう（一八）。

　　（一）　大正十二年刊登米郡史下卷九一三頁にある。なほ此書には母と子との二人が、田植の日に死んだといふ話も別に採集せられて居る。中道等君の最近の見聞によれば、同じ郡淺水村の白鳥沼も、同じ北上の古川跡であるが、そこの白鳥明神の祭神はお鶴さまである。同じ郡の佐沼町に近いはざま川の「一のはざま」といふ處にも、亦一つのお鶴明神があつて、七草の菜を供へ祭るといふことである。つまり此地方の水の神は、弘くオツルの名を以て祀られて居るので、一人の人柱の名では無いのである。

　　（二）　晝飯を運ぶといふ點では、下總印旛郡宗像村の水の神の縁起と共通して居る。中世には田植の時より外は、晝飯といふ食事は無かつた。晝間持の女の殺されたといふ話は又肥後にもある。

　　（三）　金ヶ崎の渡邊武君より報告せられた。金ヶ崎村誌の抄録であるさうだが、此話の注意すべき一點は、一頭の牛を共に生き埋めにしたといふことである。

　　（四）　文書以外に此土地に保存せられて居た物語の大要は、郷土研究二卷一一號に、高橋鳥畑二氏の報告が載つて居る。しか(120)も今少しく此類の口碑を採集して見る必要はあると思ふ。

　　（五）　雜誌「考古界」の一卷三號に、大槻先生の掃部長者の膳椀の話が出て居る。稻荷山心月寺の什寶である。かの燒米も無

論此寺に在り。尚長者の女房がなつたといふ大蛇の、牙と骨とさへあつたことが、封内風土記卷一九に記してある。聞老誌以下比事を誌さぬ地誌は無いといつてよい。

　　（六）　詳しく説く餘裕が無いから、參考した書物の名だけ擧げておく。新編鎌倉志卷四。鎌倉攬勝考卷一。鎌倉舊蹟地誌。鎌倉物語卷一等。

　　（七）　改元紀行上卷、及び十方菴遊歴雜記三篇下卷。

　　（八）　出雲國懷橘談下卷。

　　（九）　郷土研究四卷三號。

　　（一〇）　成島柳北の航薇日記に引用した瑜珈權現の縁起。

　　（一一）　小谷口碑集六二頁。北安曇郡中土村字清水山上區の高町といふ處。此地はもと平倉城の城下町であつたといつて、僅かな平坦地がある。

　　（一二）　新編武藏風土記稿卷一八、其名の起りを詳にせずとある。

　　（一三）　新編相模風土記。

　　（一四）　平泉志、嚢塵埃捨録卷五等。

　　（一五）　相生集卷七。

　　（一六）　信達二軍村誌卷一の上。

　　（一七）　封内風土記卷四。尚新撰陸奧風土記卷九にも、岩瀬郡化粧ヶ原鏡池の話があつて、莊柄平太の女房の最後を傳へて居る。

　　（一八）　或は神の舞の詞の中に、必ず化粧坂で化粧して來たことを述べる習はしがあつたのかも知らぬ。栗田寛翁の古謠集の中に採集せられた、大和石上神宮所傳の雨乞躍の歌にも、次のやうなのがある。

　　山伏が、宿とりかねて歌をよむ

　　何とよむ、何とよむ

　　茶屋の前なるけはひ坂

　　松にさくらは散りかゝる

　　松より櫻はおゝもしろ云々

日光山中の化粧宿などにも、此類の「なれこまひ」が行はれて居たものと思ふ。

　

(121)　　　　　　　旅人の拜む神

　

　今ある人柱の物語の何れの部分までが、他所から雇ひ入れてもてはやしたものであり、どれだけが土地で供給した種であつたかは、尚面倒な比較を重ねた上でないと、推斷し得ないのは固よりのことだが、少なくとも奧州でいふ松浦佐用媛ばかりは、借物の證據が歴然であつた。察するに害も利生も共に力強い池や沼又水の流などがあつて、住民之を神と崇めて年々の祭を仕へた場合に、昔は物の命を召したまふ畏こき神であつたが、今は和らぎなごみ惠み深くおはしますと、特に言ひ立てゝ御威�ｺを讃へたことが、其祭の例式であつたのであらう（一九）。法師が社務を管掌すれば、本地佛の力を説かずんば止まなかつた如く、歌舞の徒が其神事に參與するならば、兼て知り學び持傳へて居る所の、水の神の生牲の物語を演ずるのも亦自然である。しかも低濕の地を耕して稻を作る人民が、次々に移つて村を開く限り、乏しいにつけ多いにつけて、何處へ行つても田の水の不安は一樣であつた故に、同じ一つの秘曲は弘く全國の版圖に向つて流通し得たのである。只その物語を運搬するに適した者の、其後を追うて移つて來ることを必要としただけである。

　それ故にこそ同じ一人の松浦佐用媛が、名も姿も改めずして處々の清水に、其面影を留めて居るのである。掃部長者の故郷の如きは、是程にも遺跡を以て充ちて居るけれども、尚心月寺と潟岸の藥師堂とに由つて、地方の傳説を統一することは出來なかつた。例へば江刺郡の角懸《つのかけ》觀音に於ては、蒲生《かまふ》長者の妻大蛇となり、松浦佐用媛を取つて食はうとしたが、法華經の功力によつて忽然として得脱し、月山に向つて飛び去つたと謂つて居る（二〇）。同じ膽澤郡でも鹽竈村の虚空藏堂に傳ふる所は、又少しばかり話が別であつて、是には水の神がもと長者の女房なりしことを語らず、(122)單に沼の上に牀を構へて姫を坐せしめて牲としたと稱し、しかも大蛇を折伏したといふ姫の護持佛は、此御堂の虚空藏尊であつたといふ（二一）。

　それから縣境を越えて宮城の管内に入ると、先づ栗原郡の小野村にも佐用媛の化粧水がある。一名は箱清水、昔此女性が牲に膽澤に赴かんとして、よそほひを此泉の邊に凝らし、其姿を水に映した後に、化粧道具を投込んで去つたといふさうだが（二二）、それでは膽澤の方の化粧坂が無用に歸するのみならず、實は此郡小林村の虚空藏の由來として、女の奇計を以て大蛇を退治し、之を?《うづ》めて堂を建てたといふ口碑もあるから、本來は二處別々の話であつたのを、何とか合同させて見ようとした結果といふことがわかる。併しそれは到底不可能の話であつた。現に隣の玉造郡の柿沼を始めとして、佐用媛冒險の故迹は二つも三つもあつて、それにはたゞ掃部長者の背景を缺くだけである。此序に注意して置きたいことは、栗原玉造の二郡は美女の物語、殊に小野小町の話の多い土地だといふことである。義經記以來著名なる姉齒の松は、栗原郡の梨崎といふ村に在る。アネはは最も古い土語かと思ふにも拘らず、或は氣仙の高田長者の姉の娘、召されて都に登らんとして爰に身まかり、後に其妹の采女《うねめ》が此地を過ぎて、歎き歌よみし故迹と稱し、其以前には亦松浦佐用媛の姉が墓とも謂ひ、一説には小野小町の姉だとも謂つたさうで、小町が建てたと稱する松語山龕龍寺といふ寺もあつた（二三）。旅の上臈の名が松浦であり、さよ姫で無ければならなかつた何かの理由が此邊にもあつたのである。

　風土記の編者などは、一つの傳説が處々の池や清水を支配すべき道理を信じ得なかつた故に、最も有名なる膽澤の人柱を中心に立てゝ、統一を試みんとしたのであるが、其努力は結局失敗に終つた。遠田郡の休塚村には、村の名の起原といふ柳塚があつて、是も佐用媛の遺跡の一つに算へられて居る。所謂紛々たる所傳も是くらゐで止まつて居れば、まだ幾分か始末はよかつたらうが、それから尚後戻りをして、今の仙臺市の北五番町のあたり、西性院の前に在る衣紋坂といふ小さな坂にも、松浦佐用媛こゝに休息して衣紋をつくろふと傳へて、寺の門前には其腰掛石が現存し(123)たのみならず、同じ宮城郡岩切村の化粧坂鏡の池なども、そこに化粧をして水鏡を見たのは、小鶴子では無くして佐用媛であつたといふ説がある（二四）。斯うなるともう早掃部長者の没落の言ひ傳へと、結び付けて見ることは困難になるのである。

　奧は奧南部の末の松山、波打峠の北の麓にも、一處の松浦佐用媛堂のあることを聽いたが、是はまだ確かめて見ることが出來ぬ。之に反して仙臺から更に南すれば、爭ふべからざる又一つの故跡が、安積郡片平村の附近にあつて、往來の旅客は?々その口碑を耳にした。東國旅行談には單に長者のまな娘、淺香の沼の人身御供にさゝれ、さよといふ孤女を買つて身代りにした。さよは生前にその金を以て、觀音の尊像を作つて供養したところ、大蛇忽ち大慈悲の力に由つて得脱し、人の牲の古例は止んだといふのみであるが（二五）、假石略談といふ物語に至つては、はや若干近世風の潤飾を試みて居る。是も必要があるからあら／＼と紹介すれば、淺香玄蕃といふ憎らしさうな名前の武士、主人の姫に横戀慕の末、之を沼に投込んで殺したところ、怨靈は大蛇となつて一族の末にまで祟りをした。後に神の告あつて毎年三月の二十四日、二八の少女を牲として其怒りを和ぐることゝなり、その三十三人目に片平村の權賀大夫なる者の娘が鬮《くじ》に當つた。そこで大夫は人買ひに出かけ、大和の壺坂の松浦長者｜金任《かねたふ》の一女、佐用姫を以て身替りとしたとある。それから姫の提婆品《だいばぼん》讀誦の力を以て、大蛇が解脱成佛することは型の如く、その跡に三十三所の觀世音、棚木の櫻・蛇冠石を傳へたゞけでも十分であるのに、更に其蛇骨を以て刻んだといふ五寸五分の地藏尊を安置し、なほ佐用姫は神女に伴はれて奈良に還り、後に大伴｜狹手彦《さでひこ》の妻になつたと迄書いてあるのは、それこそ文字通りの蛇足であつた（二六）。

　しかも斯ういふ讀み本體の小册子も、作者は決して一人の空想家ではなかつたので、或は案外に大眞面目で、土地の傳へのまゝを書取つて置いたのかとも思はれる節もある。うそをつくならば今一段と面白く、眞似るならもつと上手に眞似たらよからうと思ふにも拘らず、昔の人たちは決してさうはしなかつた。此話なども室町時代に行はれた多(124)くの孝女談の一つ、「さよひめ」と題する草子と半分以上同じで、彼女の父の名は大和壺坂の松浦長者、單に母の貧苦を救はんがために身を賣つて、大蛇の人身御供に上げられて助かつたといふ場處を、近江の勢多の橋から奧州の安積沼まで、移して來たといふに過ぎなかつた（二七）。人によつては斯ういふ我々の目に觸れ難い寫本の草子が、中古東奧に流傳して居たのを、剽竊して傳説をこしらへたやうに速斷するかも知らぬが、それは偶々今殘つたものを唯一の正本とし少しも背後の事情を考へて見ない話である。和州壺坂の觀音と松浦の姫とを、結び付けるに至つた原因も單簡で無いが、是は寧ろ膽澤栗原の藥師や虚空藏が、此物語に參與するに至つた原因と比較せられてよいものかと思ふ。別の語で言ふならば、佐用媛水の神の牲となる物語が、久しく世に流れて偶然に大和に來て滯つて變化したのかも知れぬ。假にさうだとすれば既に肥前の古風土記の中にも一つの例はある。後年「遠つ人松浦さよ姫」を以て擬せられたる狹手彦將軍の思ひ者、即ち峰に登つて領布《ひれ》を振つたといふ篠原の弟日姫子《おとひひめこ》が、三輪の少女の如く又｜嫗嶽《うばだけ》の花の本の如く、蛇の神に誘はれて山頂の沼に入つたといふだけの話ならば、夙に其歌と共に傳はつて居たのである。

　峰相記《みねあひき》といふ書物はまだ年代の確かめられないものであるが、その文體から見ても少なくとも御伽の「さよひめ」よりは古い。それには播州佐與姫明神の由來として、領布嶺山《ひれふるやま》の少女が諸國を漂遊し、後に此國に來つて神と爲つたことを説いて居る。佐提彦《さでひこ》異郷に死して永く歸らず、之を聞いて愁吟に堪へかね走り立つて東國の方を指し行きけるが、別れの涙血と流れ戀慕身を焦がし、悲嘆限り無くして此地にて死去し畢んぬ。是を崇めて佐與姫明神と號し、此地を佐與郡と名づけたりとあるのは、壺坂の松浦長者よりも今一段と自然なる附會であつた。但しそれが果して水の神の牲であつたといふことは、到底推斷を許さぬ所であるが、一方には又佐用媛人柱の民間説話が、頗る有名であつたかと思ふ證據もある。例へば謠の「生贄《いけにへ》」といふ一曲には、父と娘と二人の旅人、東海道を旅して駿州の吉原に泊つた日に、富士の御池の贄に娘を取られて、父獨り歎き悲しむことを敍してある。其文句の中に殆と何のつきも無しに、

(125)　　　姫も互ひに名殘を惜み、

　　　招けば招く風情はさながら、

　　　松浦佐用媛かくやらんと、

　　　汀にひれ伏し泣き居たり。

とあるなどは、單に上代の肥前の女が、つま戀ひの船の影を見送るといふだけの、聯想でなかつたことを意味するかと思はれる（二八）。

　膽澤郡の生牲物語に於ても、佐用媛の父は掃部長者であつたといふ異傳があつたらしい（二九）。それが如何なる變化を示したかは興味多き問題である。自分がさよ女説話の一分派と認めて居る九州地方の多くの例では、何れも皆父と娘との二人の旅人を説き、父が同行の娘を殺して死んだといふ類の悲惨なる結末を傳へて居る。しかもそれが必ず路の側、坂の辻の石の神の由來であり、且つ猥雜にして説くに忍びざる情事譚であるのを知つて（三〇）、自分は此おさよが本來｜道祖《さへ》の信仰に出たことを推測せんとする者である。但し此點は尚他日の細説を要するは勿論であるが、少なくとも遠く離れた西國の人柱傳説に於ても、やはり牲の娘の名はサヨであつた。享保五年の史實と稱する、筑後三井郡床島の堰の工事に際し、俵につめて水底に沈めたといふ九歳の女も、やはり貧の爲に賣られたおさよであり、其父の名は吉兵衛であつた（三一）。是だけでも自分は説話の影響を疑ひ得ないのに、なほ白髪の異人來つて娘の屍を引上げ、神の思し召しによつて蘇生したといふに至つては、いよ／＼東北の松浦佐用媛の長途の旅を信ぜざるを得ぬのである。

　姫が遊女であり又上臈であり、又長者のまな娘であつたといふのも、結局するところは一つ事である。村の祭に化粧して現はれ來り、神の故事を演ずる者は、昔も今も一階級しか無い。此徒が道の神なる道祖に奉仕し、歌舞を以て民と神との仲居をしたことは、文獻の之を明證するものがある。道祖は即ち情欲の神であり、佛者も象頭神を以て此に擬した如く、之を邑落の境に於て饗し且つ祭却する場合に、美女を供して其心を取つたといふ想像は容易で、即ち(126)人身御供が必ず年若き娘であつたといふ所以である。但し之を説いて何人も曾て怪しまなかつた事實、昔の世ならば其樣な事もあつたらうかと信じ得た社會相の背後に、或は國民信仰の古い世の特質が、人知れず潜んで動いて居たと迄は想像してもよからうが、其都度一人の松浦佐用媛が殺されんとし、水の神の兇惡なる角が眼前にほつきと折れたものと解することは、多くの事例を比較し得た後の、我々の常識が之を許さないのである。

　芝居を過去の事實の再現と解して、感動して居た人は近い頃まであつた。作者とか趣向とかいふ言葉を、知つてから後でさへ此通りである。況や臺帳も無く又新しい注文も無く、祭の日毎に古式の神事舞を繰返して居たとすれば、年經て物語の主人公と演奏者とが、混同して記憶せられるのは當然である。但し陸中の有名な一例に於ては、どれ迄が上代の神話で、どれからが中古の附加へかを、明瞭に判別し得ないけれども、少なくともサヨは曲中の御靈神、即ち人が死してなつた神だといふことは、その名前からも認められる。松王小兒《まつわうこんでい》の松王の如きも、恐らく幽かに殘つた人神の信仰と相生ひのものであり、つる女も亦同樣であつて（三二）、後年この單簡な一語から、却つて舊傳の正しい形を論定せしめるものかも知れぬ。伎藝に携はる女子童男には、字《あざな》はあつても本名は無かつたらしい。字ならば觀音とか地藏とか、大抵は室の遊女が普賢菩薩を演じたと同じく、自分が得意とする佛たちの名を以て呼ばれて居る。然らば奧州方面へは佐用媛と名づけてもよい女性が、實際に旅をして毎度遣つて來たので、しかも其女の「わざをぎ」の力によつて、間違ひながらも古い世の言ひ傳へが、可なり鮮明に保存せられることになつたのである（三三）。

　　（一九）　雨乞ひに天神記の芝居をさせるなどゝいふ例は近い頃まであつた。作り話と知りつゝも尚感應を豫期した者が居たのである。

　　（二〇）　埃捨録卷五。但し西國から女を買入れたといふ武士を、清水軍次兵衛と傳へたのを見ると、二處の口碑は接近しかゝつては居る。次の話では群司右兵衛尉となつて居る。どうして此點ばかりに此樣に忠實であつたものか。

　　（二一）　封内風土記卷一九。

　　（二二）　同上卷一八下。

(127)　　（二三）　同じ書に名跡誌と聞老誌とを引用して比較を試みて居る。固有名詞の極めて移りやすかつかことを感ぜしめる。

　　（二四）　埃捨録卷一及び二。

　　（二五）　巖谷氏の東洋口碑大全九一九頁に、其大要を抄録してある。

　　（二六）　相生集卷一九の引用する所である。

　　（二七）　鎌倉室町時代文學史三六二頁。尚此書の著者はこの物語が「法妙童子」の草子に近いといふことを記して居るが、それもまだ見ぬ書物だから何とも言はれぬ。

　　（二八）　謠曲には折々此例の如く、或は當時の聽衆の知識に訴へたか、さうでなければ昔からあつた舞の歌章を、たゞ引繼いだかと思ふものがある。「船橋」なども其顯著なる一例で、一篇の趣向は戀に命を棄てた男女の靈が出て舞ふといふだけであるのに、

　　　柱をいたゞく磐石の苦患、

　　　これ／＼見たまへ淺ましや

　　　執心の鬼となつて、

　　　共に三途の川橋の、

　　　橋柱に立てられて云々

などの文句が幾つも殘つて居る。即ちもとは是も一種の松王健兒の物語であつたのだ。

　　（二九）　例へば前掲大槻翁の論文など。

　　（三〇）　本山桂川君甲斐直人君等何れも此事をよく知ると答へられた。少なくとも肥前肥後には此例が多いのである。奄美大島の古見、沖繩の國頭の源河などで、「耻おそひびら」といふ名を以て傳へられるものは、これは相愛した男女の死であつて、北九州のサヨ女の話ほどには醜惡でない。

　　（三一）　及川儀右衛門君の筑紫野民譚集一五三頁。

　　（三二）　會津地方には鬼一法眼の娘皆鶴姫、義經を慕うて下つて來たといつて、やはり身を投げて死んだ池が殘つて居る。つる女物語の比較の餘地は、まだ幾らでも殘つて居るのである。

　　（三三）　ボサマの語りものは大抵の場合に根源があつた。伎女の曲から採用したかと思ふ例は、平家にも義經記にも段々ある。小督局でも佛御前でも靜御前でも、盲人に引継いだものは單なる噂話だけではなかつたと思ふ。

　

(128)　　　　　　　小松大夫の土著

　

　又々話が長くなつたから、假に自分の計畫だけを、爰には書留めて置かうと思ふ。松王人柱の由來を考へて見た時から、殘されてあつた一つの問題は、何故に其童兒の名が松王であるかといふ點に在つたが、更に松浦佐用媛のサヨは道祖神を意味するらしいことを説くに至つて、この奈良朝以來の民間説話に、必ず附纏うて居た松浦といふ苗字見たやうなものが、亦一緒に解説せられねばならぬ必要を生じた。蓋し自分の假定した如く、五畿以東の地に廣汎に流布した一段の語りものが、曾て伎女の演奏する舞の曲であつたとすれば、彼等果して何れより來り、又何れに向つて去つたかは、當然に第二の問題でなければならぬ。物の根源は往々にして究むべからずとしても、少なくとも中世あれ程迄に榮え時めいた旅の神部の末が、漫然として常民に混じてしまふわけが無いから、どこかの山の溪か海の隈に、其痕跡を留めて居なければならぬ。それを指示して見よと言はれた場合に、若干の答が入用になつて來るのだが、ちやうど都合のよいことには或程度まで松浦松王のマツといふ名稱が、その説明を援助してくれるやうに思ふのである。

　自分が心づいた松王といふ語の意味は、同時に健兒《こんでい》即ち侍僮といふことでもあつた。古くは臣と書き又は大夫とも書いて、朝家に仕へた者をもマウチギミ、又マチキムダチなどゝ呼んでゐたのだが、漢語の音が流行するに至つて、それは次第に固有宗教の方面にばかり、限局せられることになつた。動詞としてはマタスとなり、祭祀のマツリも亦、今尚「申し」と唱へる土地などもあるから、同じ語であるに相異ない。即ち神人を松王丸と名づけ、又松若といふ美少人が?々出でて舞つた所以であらう。八幡に在つては特に松童《まつわらは》と呼び、北野天神には老松《おいまつ》の末社があつて、之に關しては色々の古傳が存するのである。古今集の中に既に名を留めた三國の町、小野の小町などゝいふ女性の境遇も、斯うして新たに闡明せられ得るかと思ふ。さういふ町君の中の若干の者が、遠く遊行して諸國の神の祭に參與し、時(129)どしては土地の人の信仰がまだ散漫の?に在る場合などは、兼て親しみ習ふ所の我神の教に、彼等を導くことも困難でなかつたことは、以前の神道が決して筧君等の如き哲理を説かず、必ず過去の事蹟と由來談との、最も具體的なる例證を敍説するに在つたことを認むれば、いと容易に想像のつくことである。その假説の歴史の全部を信じて、定まつた日の晴の式に、目に見るやうに語らせたのが神話である。その中には凡人の最も怖るゝ小さい神々、殊に人の靈の化してなるものを、何等か特殊の方法を以て鎭撫したといふなどが、古くから傳はり且つ一番に有用であつた。即ち記紀にも反面から注意してある所の、兇神治平の物語である。そのわざをぎの主要なる部分を演ずる者がマツワラハであり、從つて次第に神を代表して實力を養つたことも恠しむに足らぬ。即ち彼等は去つて再び來なかつたのでは無く、多くは一定の土地に神話と共に根を下して、いつと無く古風の祭を續け營む必要を見なくなつただけである。

　陸前栗原の小林の虚空藏堂などで、小野小町が佐用媛の任務に代つて居るのも、自分にとつては些かも偶然で無い。小町は一人に非ずと謂ひ、或は山城の京の初期には數十人の采女が皆小町であつたなどゝ謂ふのも、奇説のやうではあるが、要は全國にあまりに其遺跡が多く且つ鮮明であるからである。さうして小野といふ一族が近江の西隅から出て、母と子の神の教を宣傳して東西の諸國に入込んだといふ事實は（三四）、到底各地方の小町塚小町誕生地の口碑と、没交渉ではあり得ないのである。小町に關する樣々の民間説話は、如何に永い年月の力でも、よく此ほど迄に發達したと思ふばかりである。それが單純に或女性の旅行く姿をながめて、外間から添附したもので無いことも疑ひが無いとすれば、今ある多くの小野氏の言ひ傳へも、最初は人を信ぜしめんとしたものが、今は却つて自分の家を約束したことになるのである。

　それから今一つは國々の平家谷が、大抵は世の同情を集めた小松氏の系統を引き、殊に東國では重盛の女維盛の妹、何とか比丘尼の子だ孫だといふ例があるのも、今のやうに平民の史學が進んでからは、全然分離して別の物になつたけれども、やはり小野氏の小町と根源を同じくするものと考へられる。此意見は現在の地方舊家の家傳を批判するこ(130)とにもなるから、殊に戒慎して確かなる材料を提出しなければならぬが、少なくとも地理から見又記録から推して、平家の到底入り得なかつた方面に、小松氏の世を避け且つ榮えて居るものは、其生活の根據が神に在り、彼等の祖先は即ち之に隨從し奉仕した神人に過ぎなかつた爲といふことは出來る。それが同時に又伊豫の上浮穴《かみうけな》郡の山村などに、松王小兒と田井民部と、父子の由緒を傳ふる所以であり、今一つ遡れば豐後や肥前の或舊家が、大和の三輪・山城の賀茂、攝津の三島・播磨の多可などの例を追うて、神に嫁入した美しい女性の、我家から出たことを誇り得た理由であらうと思ふ。さうしてもし東北日本に限つて、何か地方的の異色があつたとすれば、それは開發が稍々おくれて此事情が永く存續し、從つて又近世人の眼にも尚著しい傳説の共通類似が、認められたといふ點であるわけだが、今日までの地方誌の研究では、多くは一方を模倣とし虚誕として排擠するに非ざれば、到底他の一方が成立たぬといふやうな、解説を以て甘んじて居るのである。それでは永遠に松浦佐用媛は謎として殘るの他は無い。

　人がさう矢鱈に知りつゝうそをつくもので無く、ついても一同が之を裏書する筈が無いとすれば、兎に角にこの平家谷系統の勸請傳説の分布及び一致は、重要なる現象と稱すべきである。殊に之に携はつた最初の童兒又は女性の名が、概ねマツであつたことを注意しなかつたのは誤まつて居る。但し今は是以上に細論をする餘裕が無いから、さしあたり手近に在る下越後の二つの例を擧げて、松童《まつどう》研究との聯絡だけを取つて置きたい。越後では北蒲原郡天神堂村字｜唐著《からつき》の菅原神社の由來記に、延喜三年二月菅公筑紫に在つて病重く、述懷の詩を書し自畫の像に副へて、之を出雲の國の某なる者に送つたところ、その船難船して越後の海邊に漂著した。使者は菅公の侍者松丸、止むことを得ずして此地に上陸し、田束覺之進なる者の庇護を受けて其女を娶つて妻とした。もたらす所の像は二つあり、一は田束家に傳へ、他は此社に安置したのを、後に惠心僧都が遣つて來て別に今の木像を刻み、以前の御姿は其腹籠りにしてあるといふ（三五）。今一つは岩船郡上海府の馬下《まおろし》村の八幡神社、是は八幡太郎の奧州征伐に際して、勝を石清水に?つて分靈を奉持して來たのが、夷賊平定の後從者の某と云ふ者、之を守護して還らうとして途に病み、當村井上小松太夫(131)の家に宿して久しうして終に歿した。仍て社殿を建てゝその分靈を祀るといふので、武藏相模邊の多くの八幡社と、半分以上其説明を共にして居る。是を若干の誤謬にもせよ、少しは似よつた事蹟が曾てあつたからだと解することは、まあ大抵の人には出來まいと思ふ。

　最後に不必要かも知れぬが、一言だけ附加へて置きたいことは、所謂京の君の社會上の地位である。君といひ上臈といひ姥といひ比丘尼と謂つたところが、つまりは遊行の女婦に相違はなかつたが、彼等の主なる任務は宗教であつて、今日の物知りが喋々して居る如く、媚を鬻《ひさ》ぎ人に弄ばるゝを以て活計のたよりとはして居なかつた。殊に常民の妻娘と明瞭に差別せられたのは、その装束であり化粧であつた。假面や烏帽子舞衣が俗界を遮斷したのは固よりだが、更に扇とか笠とかの、神に接し得る者のみが許されたる特權は多かつた。さうして又其爲に、言説する所は信じられたのであるから、其勢力の最初から小さいもので無かつたことは想像し得られるのである。二三の貴族たちが既に信仰を失ひつゝも、その歌舞のあでやかさを賞して輕薄に相挑んだといふことが、たま／＼後代の弊風を誘致したことはあつても、それは寧ろ解體であり墮落であつた（三六）。賣春を以て敷千年來の由緒ある職業なりと解するが如きは、名稱に囚はれて内容の變遷を顧みない誤謬である。從つて假に祖先は遊女であつたといふことが明白になつても、其爲に舊家の名譽を累はすことは些しも無い。少なくとも彼等は神の奉侍者として、來つて土地の信仰を統一した功勞を獨占して居るのである。

　　（三四）　自分の舊著「神を助けた話」では、猿丸太夫の物語が彼等旅の語部の手で運搬せられたことを述べ、又「史料としての傳説」の中には、小野宮惟喬親王を木地屋の祖神とするのも、亦彼等の太子神話から由來して居ることを説いて置いた。勿論それだけでは説明が不十分であることを認めるから、機會があつたら再び之を細論したいと願つて居る。

　　（三五）　北野誌首卷附録八七頁に依る。天神社の由來記には船で運ばれたものが至つて多い。次の話も同書から。

　　（三六）　藝者といふものは二百年前迄壯男であり且つ多くは座頭盲人であつた。もし何人かゞ彼等を今日の待合生活の祖神だと言つたら滑稽であらう。

　

(132)　　　　　老女化石譚

　

　　　　　　　　　　一

　

　大磯の虎、後に尼となつて諸國を巡歴し、或地には久しく止住して佛堂供養塔の類を建て、時としては老いて死歿して塚を留め、或は又本來其地の出身などゝ傳へられること、其數の多さに於ては必ずしも和泉式部に負けぬやうである。併し其を今列記して讀者に御迷惑を掛けることは自分は敢てせぬ。只少々ばかり爰に述べて見たいのは、久しく大磯の地に在つて官道の旅人にもて囃された虎ヶ石なるものゝ隱れたる歴史である。此石のことは柳亭種秀の於呂加於比《おろかおひ》に詳しく述べてある。然るにも拘らず今日に至る迄、凡そ此石ほど本性の不明な理由の分らぬ石は先づ珍らしい。自分も永い間注意して居る内に、我ながら意外な假定に歸著してしまつたのである。

　虎ヶ石はもと大磯の宿河原と云ふ地に在つたと、多くの書には見えて居る（益軒吾妻路之記等）。貞享三年刊の諸國安見廻文之繪圖に、「しゆくがはら、虎が石あり、此石はよき男擧ぐれば上がると云ふ。惡き男には些しも上がらず、色好みの虎ヶ石と旅人口ずさむなり云々」。了意が東海道名所記にも、既に此事に興味を以て書いてある。然るに一目玉鉾同地の條には、「此町はづれに虎ヶ石とて紫だちてなめらかなるが、旅人くたびれし片手に力持をしけるに、大方の人は擧げ難し」とあつて、客商賣の土地柄だけに美男醜男の譯も無い笑ひ話が評判になつた迄で、有りやうは只の力石であつたことゝ思はれ、其名稱の如きも好事のわざくれに過ぎぬやうに考へられるが、自分にとつて至つて(133)重要と思ふ一事は、和州｜金峯《こんぶ》山の下にも之に似た石のあることである。本朝國語に依れば、吉野の大峯口龍泉寺のほとりに、オイトシボと稱する手頃の丸石が一つあつた。大峯參りの人々之を持ち試みるに、或は重く或時は輕い。即ち足で蹈付けたりなどして持つときは重く、撫でつ摩りつしてオイトシボ／＼と言うて持てば輕いので、人之を生石《いくいし》と謂つたとある。福島縣信夫郡の田植歌の中に、「鎌倉に登る路に、女に似たる石が有る、男よりて手を掛け見ればなよれかゝる云々」とあるのは（俚謠集）、やはり亦同種の石の邊土にもあつたことを意味して居る。

　大磯宿河原に在つた虎ヶ石は、いつの間にか或寺の境内の物となつて居た。既に元禄三年に出た東海道分間繪圖に於ては、「ぢぶくじ、虎が石此寺に在り」と記して居り、ずつと後には日蓮宗蓮臺寺の地内と云ふことになつて居る。

　蓮臺寺或は延臺寺と記した書もあるが、宿河原だけに蓮臺の方が正しいのであるまいか。實暦年間に此石を江戸に持來り、谷中の長運寺と云ふ同宗の寺で開帳をして見たが、其頃は谷中も邊鄙で一向に流行せず、取賄ひにも困窮して、件の石を根岸大塚村の百姓何某に質入し、金子を借用して漸くのことで相州に歸り、其後受戻しにも來ぬので質主は迷惑し、檀那寺なる右の長運寺に寄進したが、其寺にも度々住持の交迭があつた爲、終にはどの石が虎ヶ石であつたか不明になつてしまつた（十万菴遊歴雜記二編下）。遊歴雜記の筆者釋敬順は、それだから今大磯にあると云ふのは贋物だと論破して置きながら、其後久しからず大磯を旅行して虎ヶ石を一見し、その記文を遺して居るのは人の善い話である。其説に依れば後の虎子石も依然として延臺寺の境内にあつた。辨天堂の前にふくさを掛け箱を以て覆ふた生石で、色黒く横三尺高さ幅七八寸と云ふ枕のやうな石で、一石の中に二根を具へて居た。自然の破れたる如き筋の中に黒き小砂利がある。曾我十郎祐成の感得する所のものを虎が持傳へたのだと云ひ、目方は五六十貫もあらうとある（同上三編下）。金と力との無い者には中々擧げられさうにも無い大石である。此は文化頃の記事であるが、文政十三年に成つたと云ふ東雲草《しのゝめぐさ》なる紀行には早又別樣の報告がある。虎ヶ石は日蓮派延臺寺の境内、鬼子母神社に秘め置く石にして、長さ二尺三四寸周三尺餘、重さ十四五貫ばかりの青石である。縁起には此石鬼子母神社の岩座に挾まつて(134)居た小石であるが、其座を離れて次第に成長したとある。或時曾我十郎この地へ來る際、怨嫉の人箭を放つに此石來つて之を受留めたと稱して矢疵がある。其敵馳せ來り斬付けたと云つて又大刀疵もある。仍て一名を身代り石とも云ふ云々（於路加於比上）。即ち石占《いしうら》とは最も縁深き石成長の傳説は退却して、松浦佐用媛の話に近づかんとする傾きが少しある。錦里文集には大磯虎娘石と題して、虎女精靈誰又囘・化爲片石造之隈・縱令李廣飲其羽・一箇貞心更不開と云ふ詩もあり（海録十七）、或は鴫立澤《しぎたつさは》の西行堂の附近に、元禄の頃虎女の木像と稱して、四十ばかりに見ゆる花帽子を著た比丘尼を彫刻させた者があつて、新たに法名を貞嚴院虎心善尼と附けたと云ふ話もあるから（撃壤餘録十六）、貞女なるが故に石に化したと云ふ説も夙くから發生して居たのであらう。美男には輕く抱かれると云ふ評判とは著しい相違で、更に調和せぬのは「一石の中に二根を具ふ」と云ふ取沙汰であつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　さて何によらず日本に唯一つと云ふ物の無いことは、我々は既に和泉式部の墓に就いても相當に實驗したが、虎ヶ石のやうな素性の奇怪な石までが、やつぱり同じやうに各地に轉がつて居るのは何の爲であらうか。駿州大宮町旅店河野屋の老婆、明治四十四年に齡六十八歳なる者の談話に、彼女十八歳の時、富士郡厚原の曾我兄弟の墓の邊に、虎石と稱する石が小川の中に在つたのを、誰言ふと無く此石を洗つて祈願すれば、如何なる病氣も治ると稱し、非常な人出で賑はつたことがあると云ふ（吉居雜話）。厚原の村には別に曾我八幡と、俗稱虎御前樣の社と云ふのとが、二町程を隔てゝ東西に在る。歴史に詳しい御方は勿論虎女の祠を從たる者と見て御出でだらうが、俗傳は必ずしもさうで無いやうだから、「小川の中」と云ふことゝ共に讀者の御注意を乞うて置く。信州上水内郡古里村大字駒澤に、虎清水と云ふ泉あつて、其傍に虎ヶ石一名虎御前の石がある。以前は堂などもあつたか、善光寺史略には虎石菴記と云ふ漢文を引用して居る。大磯の虎善光寺を拜みに來たとは古くから云ふことで、是も他國他時代の虎御前で無いことは尤(135)もな主張である。のみならず此石は雨乞の祈願に驗ある靈石で、愈々雨降らんとする時には石の重さ十倍すと云ふから（科野佐々禮石十四）、本家も同樣に石占に用ゐられた石である。江戸には谷中以外に今一ヶ處虎ヶ石の在る寺があつた。其は下谷新寺町の靈龜山法福寺と稱する曹洞宗で、石は梵字を三字だけ刻んだ古五輪であつた。之を虎女の石塔と云ふ根據は、實は必ずしもあんまり確實で無かつた。寺傳に依れば此石は松平（柳澤）美濃守が大磯から手に入れられたのを、土井大炊頭懇望して貰ひ受けられ、後に當寺に寄進せられたと云ふ。一説には此石加藤虎之助が力試しにした石なるが故に虎ヶ石と呼ぶのだとも云ふ。清正が大磯の虎の石塔を力石に用ゐたのを、後に柳澤家へ傳へたのでは無いかとは變妙な推測である（江戸志）。又一説には此石塔、中古迄は下谷邊の某侯家に在つたが、怪異あつて此寺に移したと云うて居る（遊歴雜記二編下）。箱根山中の所謂曾我兄弟墓にも、亦虎御前の石塔があつて、此にも一種の怪異は傳へられて居た。即ち此石塔を外へ移して置くと、一夜の中に又元の所に寄り合ふと云ふのである（相中襍志下）。甲州中巨摩郡蘆安村安通組は、今尚美人虎女の出生地先兼死歿地を以て誇つて居る一村であるが、村の伊豆神社の祭神は表向は大山祇と大少の二神で、比に十郎祐成夫婦を配祀して居る。宮の西には虎女の鏡石と云ふがある（山梨縣市町村誌）。石塔又は石塚の類を算へると、京以西にも虎の遺蹟は尚多い。それほど弘く此婦人の足蹟は及んで居る。中にも人を驚かすものは今の大隅國｜囎唹《そお》郡｜東志布志《ひがししぶし》村大字志布志、臨濟宗關山派の大慈寺と云ふ寺の内に、一箇の虎ヶ石存して、此寺大磯の虎の建立なりと稱して居ることである（三國名勝圖會卷六〇）。此寺本堂の側に江臨大明神の社がある。江臨は即ち降臨《かうりん》で、石の昔も幽かに窺はれるやうに思ふ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　此次には些しく大磯の虎に附會せざる虎石を列記して見よう。武藏北足立郡春岡村大字深作に、板碑にしてトラコ石と稱するものがある。此地には錠殿《ぢやうどの》鍵殿《かぎどの》の二社あつて、九月九日には竹※［竹／しん］《さゝら》すりなどの神事がある（共古日録五）。右(136)の錠殿は實は尉殿《じようどの》で、姥殿《うばどの》に對する名であつたらうと思ふが、話の枝葉に亙るを恐れてこゝでは説かない。磐城刈田郡齋川村字上向山にも虎石がある。昔の往來の上に在つて通行の妨げとなるに由り、之を他に移轉した處が翌日は元の處に還つて居たと云ひ（刈田郡案内）、話が箱根の石塔に似て居る。形?は虎に似たるを以て虎石と謂ふとの事である。之に由つて聯想するのは六誹園の立路隨筆と云ふ書に、生海鼠《なまこ》の一種にトラコと云ふのが、大磯縁泰（延臺）寺の門前で見た虎子石に似て居る。大磯の虎子石は臺に載せて小さな藏に入れ、其藏の壁には此石を擧げた人の名が反故の如くにひしと注《しる》してあつた。力量を試みることかと問ふにさうでも無く、持ち得た人は戀の叶ふと云ふことで、それ故に大磯の虎ヶ石と云ふのだらうとある（海録十所引）。所謂力石の最初は單純な力試しでなかつたことは勿論で、それに用ゐた石の細く長くのろりとして居たのも不思議で無いが、之を形容するのに大和本草にも無いやうな動物の名を引くにも及ぶまいと思ふ。其に比べると虎石の方が無造作で好い。しかしそれにしても隨分と説明が入用である。京都にも一の虎石町があつて、大磯とは無關係の虎石の話を存して居る。此も名の起りは形似に在りと云ふに一致して居るが、石の歴史に付ては誠に區々の説がある。殊に奇妙なるは一向宗と法華宗とが此石の由來を爭奪して居ることで、本願寺側に於ては此石の在る處即ち親鸞上人の終焉の地なりとし、其爲か否か、今では東山大谷の上人廟所の上に在ることになつて居るのみならず（山城名跡巡行志二）、その元有つた寺は上人の舍弟深有僧都の住したと云ふ虎石町の角之坊《すみのばう》善法院だとも云へば（都花月名所）、其地は今の同町の法泉寺であるとも云ひ（京町鑑等）、豐太閤聚樂造營の際之を移して其築山に据ゑ、後更に之を伏見城に持ち去つたと傳ふるにも拘らず、法泉寺の方には今以て其庭に一の虎石がある（京都坊目誌上五）。伏見落城の後に元の虎石は狼谷の日蓮宗某寺に引取つたと云ふ説と（京雀二等）、其より遠からざる南深草寶塔寺に移したと云ふ（山州名跡志十二等）のと二説あり、一向門徒の方では實塔寺の方から大谷へ持つて來たと主張して居る。親鸞廟所再興の後、寶永六年の五月二十八日に送り屆けて來たと日まで分つて居るが（坊目誌所抄、和漢合運指掌圖）、しかも其五月二十八日が、虎の涙雨を以て世に聞ゆる曾我仇討の日であることは、(137)看過すべからざる偶合である。それから又妙なのは寶塔寺がやはり日蓮宗であることで、日蓮上人此石の上に踞して法を説いたと云ふ説も古くからある（雍州府志八等）。そこで折合上伏見へ行つたのは同じ虎石町でも柳馬場押小路下るに在つた虎石で後に狼谷に移り、寶塔寺の分は柳馬場二條下るに在つたものでいつの間にか此寺に來て居ると解した人もあるが（名所都鳥四）、實は「狼谷邊の某日蓮寺」とあるのもこの寶塔寺の噂であつたらしい。しかも猛虎の形をした靈石が何故にさう大切であつたのか、別に建仁寺の境内にも岩があつて、昔は恠を爲し人の名を呼んだと云ふのが亦一つの虎石である。但し此は虎鑑和尚の道力に由つて恠止み、一名を妙�ｺ石と云ふたとあるから（山州名跡志四）、些しく此仲間から外れて居る。

　自分は民間佛教の二大派に對する敬意から、暫く京都の虎石を除外して、主として大磯系の虎子石の由來を考へて見ようと思ふ。其手掛りとして言ひたいのは、第一に駿州富士山下の虎御前社で、虎女祐成の跡を慕ひ此地に來た時、光り物墓地から出て通つた故に、虎の祠を玉渡神社と言ひ、更に其地にがつかり橋及び念力水（一名首洗水）などの故跡が出來たと云ふ話と（漫遊人國記）、第二には岩代信夫郡岡山村大字山口の文字摺觀音で、此石の面を麥の葉を以て撫づれば思ふ人の俤見ゆると聞いて、大磯の虎が遙々と追つて來た處、畑の主麥畑を荒されるを吝んで既に其石を麓の池の中に押落してしまつた跡なので、虎女落膽惆悵して還つたと云ふ話とである（福島縣名所舊蹟抄）。此で見ると虎女は各地の傳説に在る夫を慕つた美人、白拍子靜や餘五將軍惟茂の妻等、又芝居ですれば安達原の袖萩、朝顔日記の朝顔、日高川の清姫、さては八犬傳の雛衣の如き失望を味つた女で、從つて次に言はんとする望夫石一味の傳説と何か因縁のあるやうに思はれる。是が一つの考へ所である。

　

　　　　　　　　　　四

　

　諸州靈山の麓などに、是も廻國行脚の比丘尼が、石と化して跡を留めたと云ふ話がある。其例はやはり隨分と多く、(138)姥石と稱する石の由來は大半此に屬して居る。さて之を大磯其他の虎子石と性質を同じくするものと論斷することは、或は尋常傳説を愛する人々の趣味には合せぬかも知れぬ。第一虎は世に聞えた美女であるのに、此は老婆である。虎女は後に解脱を得た佛門の信女であるのに、姥石は殆と執著の結晶である。之を同日の談にしてしまつては、多くの詩人の詠歎がむだになる。自分とても何も好んで無風流な説を立てるわけでは無い。心得違ひであつたならいつでも取消す迄で、さしあたりさうかと思ふ仔細は、一つには此石が常に境の標《しるし》の石で、もと何かの行法の爲に見立てられたらしいこと、二つには名前が共通で何か特別の意味があるらしいことで、更に考へを進めると、女が石に化つたと云ふことは後に言ひ出したことのやうに思はれるので、乃ち之によつて巫女と石との關係を辿らうとするのである。申譯は此だけにして、先づそろ／＼と各地化石譚の比較を試みよう。

　奧州津輕の岩木山中に、先づ一つの姥石がある。安壽姫の乳母化して此石と成つたと云ふ（津輕のしるべ）。安壽此山に入つて神となつた時、其乳母之を慕うて其跡を追ひ、逢ふことを得ずして石になつたと云ふ話のやうである。ウバを乳母のことゝ考へたのは、ウバを老女のことゝ解した時代よりも更に新しいかと思ふが、要するに何れも日本の語があまり大まかで、時と處とに由つて一語數義に通ずるよりして、意外な傳説の變轉を見るのである。越中立山の姥石に就ては、和漢三才圖會六十八に左の如き説がある。昔若狹國小濱の老尼、其名を止宇呂《とうろ》の尼と云ふ者、壯女一人と童女一人とを伴なひ立山に登り、女人結界の山に推して參つた爲、此處に於て額に角を生じ身は化して石となつた。仍て其地を姥ヶ懷と呼び、石を姥石と名づけた云々。但し此話の中で姥の角だけは此山の特産である。多分は當社の中にある誰かの角が、本の傳への失せて後、却つて此姥の頭上に飛んで附いたのだらうと思ふが、後年の登山紀行の中にも、立山の寶物若狹老尼の角を拜觀したとあつて（肯構泉達録十四引、寛政十年立山紀行）、今は此點ばかりを虚構だとも言ひにくゝなつた。右の一語の中、注意を乞ひたい點が三つある。其一は老尼を若狹小濱の人とすること、是は疑も無く八百比丘尼一名白比丘尼を此姥だと考へた爲で、現に今日では之を「若狹の白比丘尼と稱する八百歳の(139)老尼」、永正中に此山に登つて此事があつたと語つて居る（大日本老樹名木誌）。八百比丘尼の話は同じ和漢三才圖會にもちよつと見え、人魚を食うて稀有の長壽を得、容貌十五六歳の少婦の如しとある。諸國に蹤跡を遺すこと、和泉式部大磯虎同樣であるが、他の地方では別に止宇呂姥の名があつたと云ふ話はまだ聞いて居らぬ。第二には此姥立山の登山に若い女を二人まで同行したと云ふことである。姥石よりは遙か下手に當つて、其同行の婦人が既に先づ化して木と成つたと云ふ美女杉があると三才圖會にはある。老樹名木誌には立山｜山毛欅平《ぶなだひら》と云ふ處に、白比丘尼の從妹なる加牟呂と云ふ尼僧が化して成つたと云ふ加牟呂杉《かむろすぎ》ありと載せ、一説には加牟呂病死し之を埋めた標の木が此杉だとも云ふ。加牟呂とは童女のことである。美女杉と加牟呂杉は恐らくは一本の木の二つの異傳で、結局は亦姥と云ふからには花の如き萬年娘だとも想像しにくゝ、殊には其木其石をそれ／”＼人間の化成とした爲、後になつて同行者を増員せねばならぬことになつたのであらう。第三の點に至つては今一層の恠詭である。美女杉ある千手堂から稍々登つて斷罪坂と云ふ邊で、かの童女怖れて進まず、止宇呂尼其時小便をしつゝ、此有樣を見て大に之を罵つた。其故跡を名づけて叱尿《しかりばり》と謂ひ、今も其尿の跡と云ふもの掘れて穴となり深さ幾許を知らずとある（和漢三才圖會）。此に似た話は、稀に山中の大人《おほひと》又は山姥に就いて語り傳へられて居るが、自分の最も奇とするのは此樣な極端な有り得べからざる話までが、猶注意をして居ると他の靈山にも發見し得らるゝことである。

　

　　　　　　　　　　五

　

　加賀の白山は信仰に於ても由緒に於ても、常に立山と競爭して來た山であるが、一人の泰澄大師を爭奪して止まざる如く、其婆坂の婆石に於ても、やはり同じ比丘尼の同じ終焉を説いて居る。但し其傳説の細目には勿論若干の相違がある。尼の名は白山に於ては之を融《とほる》の婆《うば》と云ふ。山の麓なる能美郡尾口村大字瀬戸の生れであつた。髪を削り尼となり融《とほる》の尼と稱す。鬼道を挾みて衆を迷はす、常に呪を持して祟を驅る甚だ驗あり。此尼曾て酒肆を開いて良?を釀(140)し、美女をして?に當らしむ。行旅多く就いて飲む。三年にして富鉅萬を累ぬ。釀酒益々盛んにして其糟を積みて堆を爲し、後化して邱となる。今の越前の糠塚は是なりとあつて、尋常國々の萬福長者に關して説く所の、所謂糠塚スクモ塚の話を傳へて居る。此傳説に依れば、融の婆の強ひて白山の女人結界を破つたのは、山上に於て諸國の參詣人に酒を賣らんが爲であつたと云ふが、合點の行かぬ動機であつた。しかし兎に角に此山に在つても、同伴の美女先づ化石して今の美女坂の美女石となり、次いで尼自身も亦婆坂の婆石《うばいし》となつてしまつた。以上の顛末は泰澄記と云ふ古書に出て居るのを、白山遊覽圖記の著者漢文を以て潤色筆録して居る。原の書を見ぬから細目に亙つて比較をして見ることはむつかしいが、少なくとも右に述べた數點は立山と共通である上に、尚奇拔なる叱尿《しかりばり》の話もある。但し白山の方では其所在が、美女化石の地よりも更に下の方である上に、其跡は大小二つの塹《ほり》であつて、其中には小木が叢生して居つたと云ふ。寂乘記と云ふ書には文字を柴刈墾《しかりばり》に作り、天正の地圖には又｜柴刈塹《しかりばり》に作り、元禄の圖に於て呵責溺《しかりばり》とある。融の婆登山の日、山神震怒し、天地晦冥の裡に空中に呵責の聲があつたにも拘らず、尼は平然として地に溺《いばり》して以て山神を辱しめた。すると忽ち前路の地陷没すること數十丈、是れ即ち今の大呵責溺である。尼も亦雲を喚び之を超えて猶進んだ云々とある。小呵責溺の方に就ては其名稱の來由が記して無い。つまり立山とは異なつて、此山では叱つたのは山の神、尿をしたのは比丘尼と二口になつて居り、愈々此名所の意味が不確かなやうであるが、しかも何の爲に比の如き地形と此の如き稱呼とが出來たかは、二箇の例の重複偶合の結果として、一層面白い問題となるのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　叱尿の奇恠なる話は今一箇所、越前丹生郡の越知山《をちさん》にもあつたやうに思ふが、其記憶は確かで無い。併し此山も亦同じく泰澄大師の有名なる靈跡であつて、少なくとも結界を破らんとした尼僧の話は傳はつて居る。即ち曾て井上建(141)重君の報告せられた如く、其尼は番人の制止を受けて大に之を叱り、我も佛の御守をする者だと言つて無理に入込み、忽ち谷の大岩の下に投げ落されて死んだ。仍て其谷を尼谷と謂ひ、其大岩を夜泣石と呼び、今でも夜中には其石泣聲を立てると云ふのは（郷土研究一卷六號）、或は又姥化石の口碑であつたのかも知れぬ。更に轉じて他の國々の類例を尋ねて見ると、佐渡では金北山大權現、本地は將軍地藏、別當は眞言宗眞光寺、當國第一の高山にして亦女人禁制であつた。然るに昔一人の巫女、自分は神職であるから差支へなからうと言つて強ひて登山をすると、忽ち風雨雷電あつて其巫女の行方を失ふ。後に行つて見ると山路に見馴れぬ大岩が一つ出來、其頭は女の髪を結ふた形に似て居つた。由つて之を巫女岩《みこいは》と名づけて今もあると云ふ（佐渡みやげ上）。此は尼法師では無くして毛があつた巫女とはあるが、私だけはよからうと云つて強ひて登つた理由が、越知山の尼其他後段に擧げんとする二三の例と共通である。出羽の月山の登路、即ち小月山より此峯に向ふ路にも一つのミコ石がある。此山の開基と稱する蜂子皇子、魔障を加持したまふ處と傳へて皇子石《みこいし》の文字を當てる説もあるが、又一説では中古巫女の結界を破らんとせしもの、こゝに至り脚｜痺《な》えて進むこと能はず、終に化して此石と成るとも傳ふるよし（三山小誌）。羽後の赤神山も、東北で有名なる一靈山であるが、其山路にイタク杉と犬子石とがある。女の登り得ざる峯に、曾てある巫女が犬を連れて入り、忽ち化して此木此石に成つたと云ふ口碑があつた（眞澄遊覽記）。イタク杉のイタクは即ち東北地方に於て、一種の巫女を意味するイタコのことであらう。或は又之をモリコとも謂ひ、從つてモリコの石に化したと云ふ話もある。羽後では平鹿郡の保呂羽山《ほろはさん》、頂上に權現を祀り亦女人結界である。山中に一つの守子石がある。神職大友氏の舊記に依れば、古昔｜守子《もりこ》あり、禁戒を犯し強ひて登山し、忽ち神罰に當つて石と成つたとある（雪乃出羽路四）。日光山中禅寺の不動坂と云ふ地にも、同じ種類の石を名づけて守子石と云うて居た。此寺は女人結界の山なるに、或時日先山のもり〔二字傍点〕之に詣らんと願ひ、此處まで登つたが一夜の中に石になつたと云ふ話であつた（日本鹿子九）。後代の書には此石を巫石《みこいし》と呼び、別に之に伴なうて一の牛石あること、恰も羽後赤神山の犬子石の如くであつた。其巫女結界の禁あるを知りながら、我(142)は神に仕ふる女だから世の常の女とはちがふ、又牛の脊に乘つて行けば土を穢すこともあるまいと理窟を言ひ、午に乘つて禅鏡坊谷まで來ると、其牛立ちすくみて忽ち石となる。巫女は之を罵つて居るうちに己も亦石となると傳へ（諸國里人談二）、少しく越中立山叱尿の痕跡を存して居る。武藏に於ては秩父の兩神山《りやうがみさん》の登路、即ち秩父郡兩神村大字薄の富士見坂の下に、一位墓《いちゐばか》と稱する文字無き自然石の碑が路の側にあつた。此山女人禁制であるのを、巫女あつて強ひて登らんとし、此處に於て石になつた。一位のイチとはかんなぎ〔四字傍点〕の事であると云ふ（新篇武藏風土記稿）。今は入間郡南高麗村に屬する上直竹村の中にも、富士山と稱する小山の麓に淺間社を勸請したものがあつて、其中腹の地を嫗ヶ嶽と呼び、共より上は女人を禁じて居た。富士信仰の關東平野に傳播したのはさして古い時代とも思はれぬのに、此山に於てもやはり姫が登つて來て石に化したと云ふ話を傳へて居る（同上）。

　

　　　　　　　　　　七

　

　さて此等數箇の姥石の例を見渡して、先づ何人も心づくべきことは、各地の靈山に於ける所謂結界なるものゝ眞の意味である。もし其制度が文字通りの女人禁制で、常に婦女を排斥する趣旨であつたならば、何もわざ／＼山の中腹に於て其堺線を劃するの必要も無く、又右の如く數多い違反者化石の昔話を世に遺す理由も無かつた筈である。語を換へて言はゞ、女人禁制は同時に又例の女人堂迄の女人歡迎を意味して居たのである。蓋し普通の女人は此の如き禁制を格別苦痛とはして居なかつたに相違ない。女で無くとも病人小兒の如き足弱にも、頂上を究めずに濟む參拜方法があつたら寧ろ嬉しかつたであらう。だから立山でも白山でも、姥が化石した場處よりは大分下の方に、伏拜《ふしをがみ》と云ふ地がちやんとある。和泉式部が熊野で歌を詠んだと傳へらるゝのも亦一つの伏拜の地で、何の爲に其樣な地名があるかと言へば、最初から何かの障りあるべき參拜者を豫想して居たからであらう。そこで皮肉に考へて見れば、高山の中途に結界を設けるのは、却つて斷念せんとする女の足弱を誘引する一手段であつたかも知れぬ。而うして其結界の(143)内側に頻々として女の化石の存するのは、恐らくは禁を破つた者は石になると云ふ俗信の方がもとであらう。曾て秋田の眞崎氏が報告せられた男鹿《をが》の神山の九十九の石段に於て、不淨の女は三段以上登ると立ちどころに石に化ると傳へて居る（郷土研究一卷三號）などは其一證である。しかし此だけの説明では濟まされぬのは、現に後々まで女が化して成つたと云ふ石のそこに在ることである。多くの女人結界の邊には何故に古來人の注意する岩石があるのか。或は何故に此種路傍の石ある場所を以て女人に對する結界と定めたか。此は偶然の事だとは認めにくいやうである。この何故を解釋する爲には、先づ以て結界に來て化石の罰を蒙つたと云ふ婦人が、何れの場合にも比丘尼か巫女かに限つて居たことを注意せねばならぬ。其次には右の如き化石譚を傳へない場合にも、やはり靈山の登り口には此類の石のあつたことを考へる必要がある。例へば信州戸隱山の鳥居川の邊、中院の脇に一の女人結界比丘尼石と云ふあり（信濃佐々禮石十四）。其戸隱權現の垂跡の地なりと云ふ冠著《かぶりき》山の登山口、更級郡の羽尾《はねを》村にも同じく比丘尼石と云ふ四尺四方の岩があつて、其より奧へは婦人を許さなかつたと云ひ、今でも婚禮などには此石の傍を通ると破談になると云つて避けると云ふ（郷土研究三卷二號）。古歌に有名なる更級の姨捨山は、實はこの冠著山の事だと云ふ説は、佐藤六石の姨捨山考に詳しく述べて居る。しかも今日俗に謂ふ姨捨の方にも、ちやうど停車場から眼の下に、月見堂を前にして一箇偉大なる姥石がある。善光寺道名所圖會等に引用した縁起の文に、木花開耶媛《このはなさくやひめ》の姨御前大山姫、姪女に送られて此山に登り、此石に腰を掛けて秋の月をながめ、終に月の都に入りたまふと云ふのは、所謂｜姪石《めひいし》甥石《をひいし》月見田などの故跡と共に、近世好事の徒の新設でもあらうが、捨てられた老女が石になつたとは久しく土地の人々の言ひ傳ふる所で（越遊行嚢抄六下）、且つ相應に古い時代からの話であつた（昆陽漫線引、榻鴫隨筆）。姨捨山のヲバを伯母のことゝ解したのも大和物語以來のことではあるが、事によると其地名の根底にも、相變らず比丘尼石同系の思想が潜んで居たのかも知れぬ。

　

(144)　　　　　　　　　　八

　

　姥と石との關係については、尚言はねばならぬことが多くあるが、要するに神を祀つた高山の麓でなくても、境の石に姥石の稱ある例は少なくないやうである。又山中の石に女人禁制の因縁を語るものゝ中にも、必ずしも人が其石に化したと言はぬのがある。多分は石の形?に特色が無く、如何にも人間の化石として取扱ひにくかつたからであらう。舊仙臺領には姥石と云ふ石が何箇處かある中で、氣仙郡｜上有住《かみありす》村の五葉山に在る一箇の如きは、女人禁制を犯して登つた老婆、此石に壓されて死んだと傳へて居る（封内風土記）。江州伊吹村の寺ヶ嶽は、役行者行基菩薩修道の山である。登り口の上野郷には女一權現《によいちごんげん》を祀つて居ると云ふのに、山六分目の大平《おほだひら》と云ふ地から上は一切の婦女を禁じて居た。昔一人の比丘尼あり、押して結界に入り七分目迄登つた時、震動雷電して忽ち命を亡うた。其折苦惱のあまり傍の岩に手を掛けたと傳へて、今も五指の痕分明なる手掛石がある（近江與地誌略八十一）。指の痕と云ふのは所謂手印であつて、寧ろ高僧碩�ｺの遺跡に?々語り傳へらるゝ話である。女人禁制の本場とも云ふべき紀州の高野山にも、似たる口碑があつて此は弘法大師の母に托して居た。即ち五十四番の町石の傍に捻石と名づけて、直立して形捻れたるが如き石がそれで、大師の母結界を越ゆること能はざるを恨み、後世の女人に其跡を見せたまふと云ふ。其より少し上には大師の押上げたまふと云ふ大石があつて御手の痕殘り、不動坂には御足の痕があつて母と問答の物語を傳へて居る（續風土記高野山卷五七）。此等の諸例を考へ合せて後、自分が到達した一假定は、靈山の登路にある結界の石は、寧ろ其山を信仰した姥比丘尼の行法と關係のあつたもので、往返の道者たちが之に基づいて石に名づけたのを、其慣行が斷絶して後、惡い方に之を解説するに至つたのだらうと云ふことである。前に引いた和漢三才圓會の立山の條にも、美女杉と姥石との間に材木坂と云ふがあつて、昔此地に女人堂を建てんとして材木を寄進した所が、其木一夜にして皆變じて石となつたと傳へて居るのは、些しく右の事情を髣髴せしめるやうである。

　

(145)　　　　　　　　　　九

　

　さて立戻つて虎子石の由來談になるが、越中立山の結界に石を止めた止宇呂の尼、加賀の白山に石を遺した融の婆は、或は諸國に行脚をして石の話を分布した虎御前と關係があるのではあるまいか。即ち今日となつては意味も不明なトラ又はトウロと云ふ語は、此種の石の傍で修法をする巫女の稱呼では無かつたらうか。近江淺井郡の虎姫山《とらごせんやま》の如きも、全然相州大磯とは無關係に同名の美女ありしことを語り傳へ、麓の里に昔住んだ「せゝらぎ長者」の妻となり、後蛇體になつて湖底に入つたなどゝ云うて居る（漫遊人國記）。水中の女神と山に登る比丘尼とは一見交渉が乏しいやうであるが、かの叡山の女人結界たる花摘社に、高野とよく似た傳教大師の母の話を傳へ、しかも其祭の日が龍神と縁深い卯月八日であつたこと（輿地誌略卷二二）、又他の地方にも此日を以て山に登る風習の弘く行はるゝを見ると、この虎姫と云ふ名にも、同じく一箇のトラ傳説を想像することが出來る。

　巫女が押して結界の山に登つたと云ふ話は、思ひの外に古くからあつたものである。此も同じ比叡山の事であるが、前唐院から中堂に至る道の傍西手に聖女塚と云ふがあつた。輿地誌略卷二四に山家要略記を引用して曰く、法性房の傳に云ふ、延長四年五月十六日の夜、花麗なる飾車、戒檀院の半空より大講堂の前庭に至る。牛を懸けずして飛ぶが如く下り來る。車内を見るに一人の貴女あり、容貌優美麗質端嚴なり、問ふて曰く吾山は大師の結界以來今に女人を許さず、何ぞ輙《たやす》く山に登るやと、貴女答へて曰く、吾は是れ女人と雖も凡女に非ず聖女也云々（以上）。如何にも取止めの無い話のやうだが、亦決して偶發のものでは無い。元亨《げんかう》釋書十八の中にも殆と同じ傳説がある。其文を引いて本篇を終りたいと思ふ。曰く都藍尼《とらんに》は和州の人なり、佛法を精修し兼て仙術を學ぶ、吉野山の麓に居る。世に傳ふ金峰山《こんぶせん》は黄金の地、金剛藏王菩薩之を護り、婦人の境を渉るを容さず、藍言つて曰く、我女身なりと雖淨戒靈感、豈に凡婦の比ならんやと、乃ち金峰に登る。忽ち雷電晦冥迷うて路を知らず、持つ所の杖を弃つ。其杖自ら殖して漸く大(146)樹と成る。藍又龍を咒し之に乘り山に昇る。纔《わづか》に泉源に至り進むこと能はず。藍｜瞋《いか》つて嵒巒《がんらん》を踏む。皆盡く崩裂す。其の龍を養ふの池は嵒下に在り、二跡今尚存す。世に言ふ長生の道を得て終る所を知らずと（以上）。石に化したと云ふ一點と叱尿の一節とを除けば、立白二山の恠談に丸々暗合して居る上に、其尼の名の都藍《とらん》と云ふ迄が相通ふやうに考へられるが、如何なものであらうか。飜つて大磯の虎女の、九州の果から奧州信夫まで漂泊したと云ふことは一人の女としては何分にも信じにくいことである。察するに此等のトラ・トウロ・トラン等は固有名詞では無くして、道佛の中間を行く一派の女巫を意味した古い日本語であつたのであらう。帶をタラシと訓む古い神々の御名などが、或程度まで此推測を力づける。但し曾我十郎祐成の妻が大磯の女で其名虎であつたことは、既に吾妻鏡建久四年六月一日、即ち裾野の仇討の三日後の條に見えて居るから、よもや小説ではあるまい。故に此上はトラと云ふ古語の性質を研究すると同時に、何故に大磯の長者の娘だと傳ふる遊女の名が、虎と云ふやうな奇拔至極なものであつたかを尋ねるの外は無い。

　

(147)　　　　　念佛水由來

　

　　　　　　　發端

　

　江戸で名高い昔話の一つ、一つ家の石の枕に旅人を殺したと云ふ姥の物語は、作りごとだと言つたら怒りさうな人が今でも居る。なるほど觀音の御利生があらたかであつた證據としては、何も是だけ迄のうそをつくには及ばなかつた。それに又色々の遺蹟がちやんと有つた。如何に趣向に富んだ作者でも、到底一人の力では斯んな大がゝりな支度は出來さうも無いのである。唯そんなら此通りの事實が、曾ていつの時代にか有つたと謂ふかと尋ねると、此にもまあさうだの「まあ」拔きで、さうだと答へ得る者は無いことゝ信ずる。現に我々の耳にする話に、毎《つね》に少しづゝ相異の有ることは、幾人かに語らせて見ればすぐに判る。古い書物は記録であるやうに思ふ人もあるが、�ｺ川初期の江戸名所記と、其から百六七十年前に出來たと云ふ廻國雜記とを比べて見ても、話半分ほどは既にちがつて居る。前には夫婦者の牢人が、娘を遊女に仕立てゝ旅の男を誘つたとあるに反して、後の方では所謂親一人子一人の、しかも箱入娘のやうに見える點まで、何と無く近世爲永流の小説の鬼婆に近くなつて居る。觀世音が美しい少年に化けて、娘の心を動かされたと云ふことも、古い方の話にはまるで無く、それが千人目の旅人であつたと云ふことも、新しい分にのみ見えて居る。寺々の縁起が、大阪亂後の新しい太平時代に著しく改造せられ、有難さと尤もらしさを加へたこと(148)は事實であるが、さりとて廻國雜記が特に眞相に忠實であつたとも思はれぬのは、それが唯通り掛りのほんの噂の聞書に過ぎぬからである。つまりは極めて漠然とした石の枕の話、怖ろしい老女の話などの此地に在つたのを、色々と語り傳へた中の二つ三つが、今日にまで遺つたと云ふに過ぎぬと思ふ。旅人が行暮れて鬼の家を借り、危い一命を不思議に助かつたと云ふのは、千年以來の普通の昔話であつて、其形式には各時代に相應した僅かづゝの變化のある例は、別に一册の研究を要する程も有る。其中でも石の枕の奇怪なる手段までが、決して武州の淺草のみに限られた話では無かつた。例へば尾州石枕村（丹羽郡古知野町大字）に在つた稻荷樣は、昔同樣の方法を以て、多くの宿泊人を殺した惡婆の靈を祀つたと稱し、罪の報で殺されたと云ふのに、やはり祟をして神に祀られたと謂つて居る。播州姫路の東の平野村の長者は、欺いて殺した旅人の血を絞つて、染物に用ゐて富を得たと傳へられ、茲にも石の枕の恐しいことを歌にして、唄つて旅の男を助けんとした娘の話が有る。淺草の方でも觀世音、草刈る童兒の姿で笛を吹き、「野には臥すとも宿借るな」と云ふ歌を以て、危難を告げられた話がつきも無く殘つて居るが、さりとて東西の二件が、甲は乙を眞似て作つたと云ふことは、殆と證明が不可能である。然らば如何して此類の物語が、古く各地に存するのであるか。石の枕で旅人を殺すと云ふやうな事柄は、根も無くして?々起るべき空想では無い。事實の有無は別問題として、少なくとも此の如き惡い姥が、我地方に曾て有つたやうに里の人たちを信ぜしめた原因が、捜せば捜し出され得るのではあるまいか。但し江戸の淺草のやうな人通りの多い場處で、淺茅原の昔の道を尋ねるのは無理かも知れぬが、自分に取つて一つの手掛りは、一つ家の姥が本體を顯はし、十丈餘りの惡龍となつて、飛込んだと云ふ池の有つたことである。此池は明王院の境内に近世まであつて嫗ヶ淵と呼んで居た。それも追々と埋まつて物賣る家か何かの敷地になつて居るが、まだ斯ういふ世人の輕く見て居た部分から、或は此話の起源と、之を賞翫して我々に傳へてくれた昔の世の人の心持が、窺ひ得られはせぬかと思ふ。

　

(149)　　　　　　　念佛を感ずる池

　

　淺草寺の嫗ヶ淵は、或は又姥ヶ池とも呼ばれて居た。淺草區馬道町六丁目三番地が其故跡である。明治二十四年の六月に、形ばかり殘つて居たこの有名な池を、市參事會の指揮に由つて埋めたと云ふことが、區長の名を以て石に彫つて建てゝある。大きな歴史も小さい事を以て終るものである。しかしながら池は埋まつても、今尚無形の何物かの湧いて流れて且つ光るものがある。姥ヶ井又は姥ヶ池は國々に至つて多い。土地の人はたとへ其由來を説明し得ずとも、意味が無くて此樣な名は附ける道理が無い。何か忘れてしまつた姥に關する事蹟が有ると認めてよい上に、現在書物又は人の口に傳へられて居る所を竝べて見ても、ほゞ一筋の信心の痕が辿られるのである。

　少しく懸け離れた方面から、私の話は始めて見る。京都の西南｜乙訓《おとくに》郡の友岡村に、念佛池と名づくる池があつた。今はどうあるか知らぬが、村民太右衛門なる者の家の後に在つて、常には水は無いのに、岸に立つて念佛を唱へると、忽ちにして水が湧き出すから此名が有つたといふ。如何に念佛は善いものでも、地下の水を喚ぶ迄の力は疑はしいのだが、他の地方にも之に近い事を信ずる者があつた。豐後玖珠郡の奧に在る千町無田《せんちやうむた》と云ふ高原は、大昔朝日長者の住んで居た處と稱して、珍らしい色々の故跡の有る中に、念佛水といふ小さな池が、音無川の近くに在り、此池に臨んで南無阿彌陀佛と唱へるときは、池の水も之に應じて泡立つのが、ぶつ／＼と謂ふからそれで念佛水だと傳へて居た。西國三十三番の最終の觀音堂、美濃の谷汲と坂下と云ふ地との間にも、亦一箇の念佛池が有つて、此には小さな橋が架かつて居た。此橋の上に立つて南無阿彌陀佛を唱へると、水面に沸々と泡が立つと謂ふのみならず、緩やかに念佛すれば徐かに立ち、責念佛を申せば泡も盛んに起るなどゝさへ傳へて居るが、今の何村であるかを知らぬ故に、往つて試して見るわけにも行かぬ。その小さな橋は或は高倉宮の御架けなされたものと謂ひ、又或は橋の袂に石塔が(150)有つて、之に向つて念佛をする時に限るやうにも評判せられた。上總の八重原の念佛池でも、やはり念佛の聲に伴なひ、底から綺麗な砂を吹出したといふから、即ち亦水が湧いたのである。

　思ふに此等の話は、最初に靈泉の靈あることを信じた人々が、一圖にさう認めてしまつたもので、裏表嚴密なる試驗を盡した後に、語り傳へたのでは無からう。現に關東の田舍の名も無い古池にも、人が近寄れば必ず水玉の揚がるものが幾つかある。多くは九州でムタと謂ひ、東部地方ではフケ又はヤチなどゝ名づけて、腐つた植物で出來たやうな低い濕地である。學生の時分に水戸から常陸の太田へあるいた途中、親切な土地の一商人に教へてもらつたのは、かの近邊の泉木《いづみき》の森と云ふのは、百人一首に「みかの原わきて流るゝ」とある歌の故跡ださうであつた。森の中に清水の湧く池があつて、其岸を人が踏めばきつと美しい泡が立つのを、不思議とせられて居ると云ふことであつた。此などは正しく念佛の必要は無かつたのである。甲州富士見村の佐久神社にも、七つ釜の御手洗《みたらひ》或は御釜と稱して、如何なる旱魃にも涸れぬと云ふ清水がある。此も人が行くと水｜暴《には》かに湧き騰り、細かな砂が浮き起つて甚だ奇觀だと云ふことである。

　豐後の海上なる姫島の比賣語曾神《ひめこそのかみ》は、近世には赤水明神とも稱へて居て、社の岩の下から出る水は赤錆を帶びて居る。銕漿附石《かねつけいし》の故事なども傳はり、御神體の木像は女性の筆を持つて齒を染めんとしたまふ形である。此水には多量の炭酸と亞酸化銕とを含み、胃腸にも皮膚病にも效が有ると謂つて、今では此方面に有難がられて居るが、是亦以前は拍子水《ひやうしみづ》の名が有つて、參詣の者手を拍てば、其響に應じて迸り出づるのを奇瑞として居たものである。或池の泉は念佛に限られ、他の靈水に在つては、又それ／”＼別種の感應が有る如く見ることは、我々に取つては頗るむつかしいのである。

　

(151)　　　　　　　うはなりの池

　

　土地によつては又如何にも窮屈な説明をする者がある。越後三島郡蓮華寺村の入口に在る姨ヶ井と稱する古井などは、其井の傍に立寄つても、大きな聲でヲバと呼ばない限りは、水底から泡を浮べて之に應ずることは無い。或は之を疑ふ者があつて、試みに兄とか妹とか叫んで見ても、更に何のしるしも無かつたと言ふことである。さうして其理由と稱するものが、恰も自分の話の要點に當つて居る。昔此郡小木の城主松本氏の時代に、土地の豪族某の下女が、主人の稚兒の守をして此邊で遊んで居た時、誤つて其兒が井戸に落ちて死んだ。女も之を見て續いて飛込んで死んだので、今に至るまでヲバと喚べば泡が立つやうな不思議が有ると云ふのである。なる程世にも哀れなる二つの靈魂が、永く此水を離れなかつたと云ふ説明には十分であらうが、呼べば一々應答をしたのは又何の爲であるか。嬉しくてかはた口惜くてか。此だけの例では不明であつて、土地の人に聞いて見なければ其心持は分らぬ。

　家婢をうちつけにヲバと謂ふのもどうしたものか。或はそれが乳母であつたのか、但しは其時代の方言であつたかも穿鑿の必要がある。處が同じ越後の國で、刈羽郡の吉井には又こんな話がある。此村の曾地峠と云ふ處の「おまんヶ井」に於ては、人其側に立つておまん／＼と喚べば、必ず水の面に小さな波が起る。他の名を呼んで見ても何の事も無い。此は曾てある殿樣が妾の愛に溺れ、本妻のおまん殿を殺して水中に投じたからだと傳へて居るが、呼捨てにするのは少し失禮のやうでもある。此と稍々近い話は、上州佐波郡上植木の阿滿池で、水に臨んで阿滿と呼べば、聲に應じて清水が池の面に湧く。?々呼べば?々出づともある。私の見た本には何故にとも書いて無いが、今でもこの池の名が存するならば、必らず越後と似たやうな話が傳はつて居ることだらう。しかし人の聽きやうにも由らうし、又音から想像することも出來るが、このアマとオマンとヲバとは、元は一つの心持から出たものかも知れぬ。伊豆の(152)熱海の間歇泉などは、或人は清左衛門と高く喚べば、忽ち石の間から湯が湧くと謂ひ、別の案内記には之を平左衛門湯と名づけて、其喚聲の大きさ次第、高くも低くも湯が上ると稱して居た。或紀行には「平左衛門甲斐ない」と喚ぶときに、始めて湧き揚るのだとも書いてある。しかもそんな噂を顧みなくなつた近年迄、平氣で平左衛門湯は出て居たのである。耳の二つある人間の如く、水が確實に五音を聞分け得なかつたとしても、決して不思議はないのである。

　名を喚ばれた水の靈の心持は、温泉の場合に於て少しくわかるやうである。通例「立つ」とか「沸きかへる」とか言へば、どうも怒つて居る人の怖ろしい容子の如く受取れる。さうすると念佛水に付ては又別の解釋が必要になるが、少なくとも「おまんヶ井」一流の口碑に於ては、無暗に呼捨てにせられるのを憤つて、乃ち此の如く泡を吹くものと考へられて居た樣に思ふ。攝津の有馬の湯にも、熱海のやうに時々湧くのが有つて、之を「うはなり湯」と名づけて居た。昔の此地方の學者寺島氏の記文には、妬湯とも後妻湯とも書いて、之をウハナリノユと訓ませてある。湯本の往來の傍に在つて、殊に金創に效があると稱せられたに拘らず、此名に由つて戯れに試みた人が多かつたと見えて、傍に到つて之を罵れば則ち忽ち熱湯沸｜?《あが》ると書いてある。故に俗に呼んで後妻湯と謂ふとある。其が後には一層氣むつかしくなつたのか、或は婦女盛粧して此湯の側に佇むときは、忽ち怒沸して止まずと迄言ふ人があつた。或は又單に人の足跡を聞けば沸き返るとも謂ふが、何れも人の居らぬ時の樣子までを實驗した者の説では無い。「うはなり」を後妻と解するのは古くからのことだが、如何なるわけかまだ私には分らぬ。兎に角に「うはなり打ち」などゝ云ふ事もあつて、二人ある女房の中、妬まねばならぬ方が「うはなり」であつた。越後吉井のおまん女郎がちやうど是である。併し一方には又このうはなりが、姥ヶ池姥ヶ井などのウバと云ふ語に、音の近いことも注意して置かねばならぬ。駿河國の姥ヶ池などは、話の頗る之と似たものがある。靜岡の東、江尻の西、東海道の元追分の松並木から、北へ僅か入つた田の中だと云ふ。往來の人此に立寄り、「うば」と喚べば底から泡を吹上げる。「甲斐無い姥よ」と言へば愈々盛んに吹くと云ふことであつた。此方は評判をする人が多かつた爲か、其理由と稱する説が驚く位に澤山ある。此等(153)を比較して見ると、別に誰が作つたと云ふことは無くても、時代々々の好みとでも名づくべきものがあつて、世間が自然に一を迎へ、他を忘れんとしたことが察せられる。さうして單に「うば」と呼んだのみでは、湧き立たしめるに不十分とでも考へたものか、「うば甲斐ない」と罵るといふことに早くからなつて居る。文禄二年二月又は八月の八日、江尻の龜屋九左衛門なる者の妻、此池に身を投げて死んだ。此婦人平生嫉み心深く、自ら其情を制する能はずして死んだ。其靈魂が永く留つて居るのだと云ふのが古い話の形で、吝氣と云ふことが若い旅人等の興味を引いて、惡戯に之をからかつて「甲斐ない」などと言つて見たものらしい。此事を漢文で書いた本には、「拙なる哉姥やと罵れば、則ち又吹出す」などゝ記して居る。願を掛けたり祟を畏れたりする土地の人には、到底敢てし得ない失禮な所業であつて、つまりは無責任な往來の人を相手とする東海道が舞臺であるが故に、話が斯んな風にも發展したのである。

　

　　　　　　　姥甲斐無い

　

　江尻の姥ヶ池は其地を姥原と稱し、尤も古くから世に知られて居るにも拘らず、自分が不思議でたまらぬ事は、同じやうな話が今一つ駿河國に有る。百年あまり前の江戸人の紀行に、現に往つて見て之を試したとあるのだから、贋物とした處が公然の競爭者である。其姥ヶ池は沼津の城下から東海道を西へ進むこと十餘町、繩手の松並木から半町ほど北へ入つた處と謂へば、例の浮島式のふけ田であつたらう。日の中は道心者が來て念佛をして居る庵がある。昔或家の乳母、小兒を負ひ來つて此小池の邊で遊んで居る際、小兒我影を友かと思ひ、小躍りする時に手が弛んで水に落ちて死んだ。乳母も申譯無しと續いて同じ水に飛込んだが、主人が遣つて來て子を失つた悔恨のあまりに、さりとては乳母も言甲斐が無いと言ふや否や、忽然として水底に音有り、泡を吹上げること夥しかつた。其から以後は末世の今も人が來て「乳母甲斐ない」と言ひさへすれば、何遍でも其聲に應じてぶく／＼と底から泡が上るのは奇妙だと(154)ある。此ほど氣の毒な人の最後の奇瑞に對して、試驗を繰返すと云ふのも同情の無い話だが、まだしも此が駿東の方だけに限られて居るならば兎に角、前に掲げた江尻在の姥ヶ池でも、やはり後には同じ意味に、「姥かひ無い」を説明する者が出て來たのである。其のみならず嶺を一つ西へ越えて、志太郡の舊田中の城内の古井に、是亦乳母が主人の兒を落し、其怒を恐れて同じく身を投げて死んだと云ふ故跡がある。但し是は埋めてしまつて只井戸の形があるばかりだから、喚べば應じたと云ふ話はもう殘つて居らぬ。斯ういふ話が獨り此地方のみで無く、遠く越後蓮華寺村の姨ヶ井にも存することは、自分は必ずしも奇なる暗合とは考へない。隨分捜して見たら諸國村々の古井にも、全く同樣の話が多くあつて、どうして昔の御乳母殿は、揃ひも揃つて斯うも麁忽であつたかと、思はしめる程であらうと信ずる。江戸で我々の聞いて居るのは、今の何町か知らぬが松平安藝守の赤坂の中屋敷に在つて、是は埋めてしまつた後まで、其地を兒ヶ淵と稱へて居たさうである。やはり家中の姥が誤つて小兒を淵に落し、主人に申譯なしと自分も飛込んで死んだと云ふ。是などは周圍に同情者ばかり多かつたらうから、「姥甲斐ない」などゝひやかして、怒らせた人は無かつたらうかと思はれる。

　

　　　　　　　影取山の縁起

　

　一箇の故跡に二つ以上の兩立せぬ言傳へがあつても、直ちにその何れか一方をにせ物と、狐の玉藻前の如く斷定することは正しく無い。傳説は童話などゝちがつて、實際さう云ふ事が有つたかも知れぬと、信じたいのが聽く人の本意であつた。故に如何に奇瑞とは言ひながらも、あまりに時代の思想と懸け離れ、所謂呑込めぬ話になると人が賞翫しなくなる。堂守や寺の和尚は申すまでも無い。土地の故老たちでも茶店の亭主でも、自分も稍々合點の行かぬやうな昔話では、語るも張合が無く又忘れもする。それを或は書き留めて置いた人、乃至は幾らか尤もらしく記憶して居(155)た者が有るとすると、どちらが一體本當なのだと、疑つて見たくなるのが人情だが、その新しいと云ふ方の話でも、誰かの考案で丸々無いことを作り上げたと云ふ場合は殆と無い。それでは第一に話し手自身が之を信じ能はぬからである。普通には土地の人の話はぽつり／＼だから、譬へば齒が缺けて入齒をするやうに、隙間々々へ個々の想像や、他所で名高い文句などがはいつて來る。其點が百年二百年前に傳へて居たものと變るだけで、前とても同じ樣なことを繰返して傳説は傳はつて來たに相違ない。さうすれば其何囘と無き時代の變化を通じて、終始保存せられて來た部分が有るかどうか。有るとするならばそれは又何に始まつたのか。之を考へて見るのが實は傳説といふものゝ面白味である。實例を以て説明するのが私の話の趣意で、賛成はまあそれを讀んでからのことに願ひたいのだが、大體に村々に昔からあるといふ名水靈泉には、單に其根源の神秘を力説するに止らず、往々にして齡の異なる二箇の人物、殊に老女と幼童との二つの魂を結び附けたものが多いのである。さういふ奇拔な取合せは、後世のちよつとした工夫に成るとも思はれず、それだけに又印象が深くて、忘れ又は變形することが出來ずに殘つて居た。しかも餘りに簡單で前後の事情が解しにくい爲に、寧ろ之を愛惜する人々の手によつて、有りさうな説明を採擇した形跡があるのである。江戸の太平時代の最も人望ある道�ｺは、是は相濟まぬと云ふ類の忠義であつた。それを此場に適用して見れば、即ち多くの姥ヶ池譚となるのである。

　傳説變遷の一つ好い例は、野州足利在の水使神社にある。この御社は元は影取山水使大權現と稱し、名から考へると水の神らしいが、今の御神體は十二單衣の女性で、しかも片手に杓子片手に御膳鉢を抱へたまふ七寸ばかりの彩色の木像で、更に婦人の病を?れば驗ありと稱し、腹部を畫いた珍らしい繪畫を上げると云ふ、如何にも複雜な神樣である。百四十年ばかり前の安永七年に出來たと云ふ縁起がある。中古｜五十部《いよべ》村の領主余部小太郎の家に、七歳の娘を持つた召仕の女があつた。農事の季節に田に居る者へ晝飯を運んで行つたあとで、其小娘が主人の籠の小鳥を逃がし、折檻を受けて死んでしまつたのを、田圃から還る路で聞き知つて悲しみ且つ恨み、忽ち傍の淵に飛込んで母も自殺し(156)た。其以後靈魂が此水に止住し、杓子椀具などを水面に浮かせて通行の人を誘ひ、之を水底に引入れて殺したので、其池を影取淵とは名づけた。それが後に或念佛上人に濟度せられ、終には權現として崇め祀らるゝに至つたと書いてある。影取と云ふのは本來水に居る怪物の名であつて、往來の人の影を取ると、其人はやがて死ぬと信ぜられたからの名であつた。ところが一方には椀や杓子で人を誘つたとしては、この影取の名が浮くとでも感ぜられたものか、別に又一つ異なつた言ひ傳へが記憶せられて居た。即ち女神の前身が余部家の下人であつたことは同じだが、其身を淵に投じた動機は一段と犠牲的で、ある時主人の愛兒と共に水の邊で遊んで居る時、ふと其姿の見えぬのに驚いて淵の面を見ると、岸の松樹の梢で大鷲が稚兒を引裂いて食つて居る影が映つて居るので、悲痛の餘りに水に飛込んで死し、乃ち亦後に祟を爲して祭られたと言ふ。やはり「姥甲斐ない」と同じの形を具へたものである。

　右の二つの由來談は、必ずしも時代の前後を判別するに容易で無い。概括ずきな先生方は、單純なる獻身的の忠節から、お菊皿屋敷系統の反抗的態度に進むのが世相だから、鷲に取られた奇恠な傳説の發生が、安永七年よりは更に古いと言はれるかも知れぬ。併し何の爲に食器を携へ、何の爲に田人に晝餉を送つたと傳へられたかを尋ね、又神の名のミヅシと影取とが、如何なる機會に此樣な信仰の變化を促したかを考へて見れば、あの芝居じみた安永七年の縁起の中にも、存外に古風な口碑が多く織り込まれて居ることを知るのである。此序で無いと言ふ時が無いが、田の神の祭に晝飯を炊ぐ女を盛粧させ、之を神主として田植の成績を祈つたのは、古い田舍の慣習であつたらしい。それが今でも守られて居る土地もあれば、一方には所謂嫁ヶ田の傳説となつて痕跡を遺し、しかも折々は子供と二人で死んだと云ふものもあれば、鷲に兒を取られる話も古くからある。從つて右の二つの言ひ傳へは雙方共に、さほど新しいものでも無く、同時に又丸々昔の形を保存して居るものとも見られないのである。

　

(157)　　　　　　　姥ヶ火と勘五郎火

　

　時代は何物をでも彩色する。獨り水の邊の老幼二人物に就てのみ之を訝るを要せぬ。姨ヶ井姥ヶ池の漠然たる口碑を耳にして、「甲斐ない姥」の世間よりも一つ前、即ち我々が名づけて武邊咄の時代と謂ふ戰國末から元禄頃迄の人々は、別に又城没落の折の若君と御乳の人などを、盛んに想像して見たものである。父は討死、美しい母は自害して、東西も分らぬ玉の和子を、雜人に紛れてそつと老女が抱へて落ちたとか、或は母御前が自身でつれて、千本櫻の六代親子のやうに又は常磐のやうに、知らぬ村里に迷つたり、もしくは姫君が一人で、昔の家來の家に遁げて來たりする話は、固より林の木の數ほども有るが、さて其中の何割までが、有つた歴史であるかを決するは容易で無い。畏れ多い例ではあるが、長門壇の浦の歎かはしい御最期の物語などは、平家で盲人の説いて居たものが正史に近いやうに考へられて居るが、しかも他の一方には諸國の山村に、潜かに御供をして匿れた舊傳もあれば、他の一方には筑後の川口の縁も無さゝうな土地に、二位の尼と共に尊靈を祀つて居る。東京で今日水天宮と拜んで居る神樣には、中比から此の如き信仰も起つたのである。此等の例を見て行くと、社會が豫期する方に向つて、幾らでも話は發展するものゝやうに考へられる。近世至つて數の多い落城の悲史といふものゝ中には、自分は二種の類別が出來るかと思つて居る。即ち甲は落ちたけれども遁げおほせず、萬斛の恨を呑んで共に刃の露と消えたと云ふ悲壯劇、乙は武運めでたく再興の喜びを見た話で、量に於ては二者ほゞ相半して居る。是を勿論どちらが古い形と言ふことはあぶないものだが、少なくとも水に縁のあるのは甲種の方に多いとは言ひ得られる。下總印旛沼の臼井の城址に近い「おたつ樣」の祠などは、就中有名なものであるが、是は都合あつて後に説くことにする。東京の近くでは千住のさきの西新井宿の道傍に、會て一人の童子が馬に乘つて來て落馬して死んだと云ふ處がある。兒櫻と云ふ古木は其馬を繋いだ櫻の木で、駒ヶ塚(158)と云ふ塚までも元はあつた。一つの姥ヶ池はちやうど其附近に在つて、兒にゆかりのある姥が悲しんで身を投じたと傳へて之を祭り、其塚は姥神塚と名づけて居るが、只奇妙なのは之に對して道の右手の方に、更に爺塚と云ふ一塚の存して居たことである。

　この西新井の姥ヶ池には辨天樣を祭つて居た。肥後の山鹿の熊入村にも、御料人塚と名づけて或城の落ちた時、乳母に抱かれて遁げて來た姫君を殺したと云ふ塚が有る。其西に近くあるのを乳母塚と稱し、塚の中は切石を重ねて壁とするとあれば古墳らしいが、やはり辨才天を安置して居つて、夜更には不思議の火が現はれることがあると云ふ。いくら姫君でも幼稚の兒を御料人といふのは變だと思ふが、或は實は御靈塚《ごりやうづか》だとの説もあつた。實際又この兩人の如く、所謂非業の死を遂げて淨土にも行かれさうに無い魂を、中世の人は特に御靈と呼んで居たのである。御靈は内が燃える故か、水邊を求めて住む者が往々有り、殊には又怪しい火となつて飛びあるくものが多い。其中には河内姥ヶ池の姥ヶ火、攝津の尼ヶ淵の尼ヶ火などゝ、之を女性の怨念に托した例が幾つもある上に、尚注意すべきは此にもやはり姥と小兒との話がある。例へば丹波の保津川の姥ヶ火は、夜毎に此用水の上を丸くなつて飛んだと謂ふが、此世に在つては龜山の町に住んで「子買ひ姥」と稱し、數多の人の子を慾で乞受けては棄てたが爲に、棄てられた子の怨みと姥の苦しみとが、凝つて此の如き火に成つたとある。尾張の木曾川では昔勘五郎と云ふ少年が、村と村との水爭ひに殺され、其母親は之を知らずに、夜どほし探し疲れて終に亦死んでしまつた。其松明の火だと傳へて、勘五郎火と云ふ怪火が飛び、水の患も絶えたことが無かつたのを、今から百七十年前の寛延三年に、美濃で名高い口寄せに掛けて見て漸く仔細がわかり、村の境に塚を築いて勘五郎を荒神に、其母を山の神に祭つた處が、其以後不思議は無くなつた。此等の哀話は芝居ならば世話物であつて、ちつとも忠義一途の烈婦の傳と似て居らぬが、此には曾て共通に、何か單純なる木地の木目が有つたものと見なければ、却つて科學の社會に於て火の説明までが付かなくなる。結論などは他日の事としても、今から一言だけ言つて置きたいのは、歎いて死んだと云ふその姥が神になつて居ることゝ、(159)獨身で飛んで居たやうに傳へて居る河内の姥ヶ火の本據が、やはり枚岡《ひらおか》神社の若宮の側の、姥ヶ池であつたことゝである。

　

　　　　　　　尼子氏

　

　若君と老女、運よくも敵の目を遁れて、末めでたく榮えたと云ふ方の話を、自分等は尼子流とでも呼んで置きたいと思ふ。其は取分け出雲の尼子氏の家傳に於て有名だからである。尼子氏は佐々木京極の庶系で本國は近江、犬上郡の尼子郷を名字の地とすると謂ふにも拘らず、或代に家滅亡に瀕した時、幼少の孤兒僅かに一人有り、祖母の尼公之を養育したまふと謂ひ、或は尼の弟子と爲つて命を助かるなどゝ稱し、之に因つて尼子と名乘つたことになつて居る。一には又其先祖天人の子なれば、天子《あまこ》と呼ぶと記し、所謂余吾湖の羽衣の傳説へ持つて行つた本さへある。系圖よりも天佑を重ずる北亞細亞の部曲でも無ければ、此ほど迄の由來を作り上げる必要もあるまいから、此は何か家に祭つて居た特殊の神でもあつて、それから傳へられた噂が元では無からうか。羽前の最上郡豐里村に、尼子楯と云ふ屋敷の跡がある。毛利に滅された尼子義久の遺族の者が、斯んな處に遁げて來て住んだと謂ふ。此は大方物の間違ひであらうと云ふことが、自分にも想像が付く。此郡新庄の城主の今の戸澤子爵の家、及び之と同族と稱する及位《のぞき》の高橋家では、共に其第一世を京都から來た殿上人で、平清盛の繼母の尼子と云ふ婦人の子だと謂ひ、從つて姓を平氏として居る。さうすれば筑後其他の平家谷と同じで、事に由ると今一つ以前には、二位の尼と八歳の天子樣との、御隱家を主張して居たのかも知れぬ。然らざるも落武者とか御落胤と云ふ家の傳記は、時代につれて殊に變化し易いものであつた。既に一箇の舊家が尼子育ちを謂つて居る處へ、更に出雲の尼子氏が來たといふことだけは、少なくとも誤信であつたらうと私は思ふ。近江で尼子氏と同族の佐々木氏にも、織田信長に攻め滅された際、其孤兒の三歳なる者を乳(160)母が介抱して、湖岸の地に世を忍び、活計の爲に餅を製して之を旅人に賣る。草津の名物姥ヶ餅の根源は是だと云ふ説がある。今一つ食物の話をすれば、飛騨の白川の奧の尾上郷《をがみがう》の又山奧に、甘子谷と稱する溪が有つて、魚のアマゴが多く居る。昔平家の士が遁げて來て隱れた時、この川魚を放したから、今に地名と爲る位に居るのだと謂ふが、アマゴならば他の谷川にも隨分居るのみならず、落武者が魚を活かして携へるも變なものだから、寧ろ尼子の舊傳が平家の殘黨の話を發生させ、それが稱々不明になつて、恰も其地に居る魚で説明する氣になつたものと思ふ。即ち此も亦久留米の尼御前宮が、尼子の名に由つて二位尼を説き始めたのと同じと見られるのである。

　家の興隆に功のあつた婦人を、神として永く祀つたと謂ふ例は、近くは四谷の大宗寺の三途河《さうづか》の婆などもあるが、此は後で話さう。横濱在の氷取澤《ひとりざは》の寶勝寺にも、地頭｜間宮《まみや》氏の幼主を育て上げたと云ふ乳母を祭つて居て、間宮家から代々其祭を營んだのは事實だが、しかも古くは此寺の境内に在つたと云ふ飯盛童子《はんせいどうじ》の祠が、其姥と因縁のあつた上に、其祠を樹下に建てしめた神木の名が雷松《いかづちまつ》で、少しく賀茂の玉依姫の神話の香がするのを見れば、歴史かも知れぬが又さうで無いかも知れぬ。出雲の尼子家名の由來の如きは、之に比べると傳説であることが一層確かであるが、さてどうして其樣な事を言ひ出したかを尋ね、進んで本國近江の村の名の起りを考へて見ると、やはり大昔の不思議の女性に養育せられたやうに、話が年代を超脱して幽かに傳はつて居たのでは無いかを思はしめる。岡山縣などには天子と書いてアマゴと云ふ名字の家が多い。九州でも肥後から南には、天子《てんし》の宮と呼ぶ社が大小無數に有る。現在行はれて居る傳説は色々あらうが、或は之を靈姥と靈兒との別雷神話に、溯つて行く餘地が無いものであらうか。琉球諸島の創世記は、舊日本も同じやうに、神が降臨して人の祖先を生んだことになつて居るが、其話にも亦色々の變形がある。例へば銘苅《めかり》邑の天久野《あまぐの》の天久社神應寺などは、日本で言ふと足利時代の中頃に、邑人の銘苅翁子なる者、此野に出でゝ女性の法師を送つて山頂より降り來り、又は山腹の洞から其女性が法師に送られて頂上に昇り去るを見て、神靈なりと信じて其洞を祭つた處が、香の火點ぜずして自然に燃えた。仍て天久社と寺とを建てた。後に神託があつ(161)て法師は權現神、女性は辨才天であることを知つたと云ふ。この天久《あまぐ》は即ち天子《あまご》に相異ないが、話は單に神の婚姻を想像せしめるのみで、其結果を逸して居る。之に反して八丈島の人間の始は、大昔天變に因つて、一人の孕んだ婦人の外一切の人が死に絶えてしまつた後、生れた男兒と夫婦となつて、再び人間の元祖と爲る。其婦人をタナバと呼んで居る。此には神を父として母一人が子を生んだと云ふ日本の神話の分子が無い代りに、タナバの名から其内容まで、遙かなる南洋極樂の島々と、驚くべき聯絡の仲次を示して居るのである。

　

　　　　　　　せきのをば樣

　

　さて立戻つて今一度、駿州江尻の姥ヶ池に就いて語らねばならぬ。實は前にはそつとして置いたが、あの池の御靈にはなほ一つの話が有る。駿國雜志の説く所では、乳母が此池の傍で遊ばせて居た小兒は、折ふし咳が出てひどく苦しむので、水でも飲ませようと兒を下して地上に置き、水を汲まうとして居る間に、其子は咳き入つて思はず池に墮ちて死んだ。そこで姥も身を投げて罪を謝したもので、其念が殘つたものか、永く小兒の咳の病の願掛けして靈驗が有つたと云ふのである。此話の末の三分の一は少なくとも現實で、此が違つて居たら土地の人が承知をせぬ筈である。果して又近世に於ては、「姥ヶ池之由來」と題する小册子までも出來て、旅人の信心を誘ふやうに爲つて居た。自然の變遷ではあらうが、初はそれでも小兒を一人置いて、水を汲まうとした不注意だけは乳母にもあつて、尚かの「姥甲斐ない」の痕跡が有るのだが、縁起の一卷に至つては全く是には無頓着で、隨分と勝手な事が書いてある。其大要に曰く、延暦年間の事とかや、江尻の傍に金谷の長者と云ふ人が有つて、其愛兒咳の病で惱んで居たのを、其乳母悲しんで此池の岸に在る石地藏に?をこめ、和子の命に代り申すとて身を投げて死んだ。そこで其小兒は速かに本復するのみならず、今に至るまで同じ病の穉兒を救はんとの御誓願だと謂ふのである。爰だけの縁起としては先づ巧みに出(162)來て居る。

　處が姥の靈に子供の咳を?る例は、他にも色々の由來を以て存するのである。前にちよつと話しかけた下總臼井の「おたつさま」などはまさに其一例である。おたつは生前には臼井の城主臼井殿のはした女で、樣の附かぬ人であつた。正和三年に志津胤氏が此城を攻落した時、臼井の一子竹若丸、おたつの介抱を受けて城を遁げ延び、印旛沼の蘆原の中に隱れて居たのに、折惡く咳が出て追手に氣づかれ、終に主從二人ながら繩目の耻を受けて殺された。村民其忠死を憐んで、程近い田の中に祠を作り、今日は立派な漢文の石碑まで立つて居るが、里人は專ら咳の神樣として之に仕へ、咳に苦しむ人は炒麥粉《こがし》と御茶とを持つて來て願を掛ける。是は「おたつさま」が咳は情無いものだと云ふことを、最も痛切に感じて死んだ人の魂であるからである。麥こがしの獻納は、之を食べられる位によく治して下さいと言ふことかどうか、明白では無いが他でもすることである。上總君津郡俵田村字姥神臺の姥神さまは、明治以後名を改めて子守社と爲つて居る。大友天皇に御供して此國に下つた乳母を祭ると傳へ、是は何故とも言はぬが、咳を患ふる者甘酒を供へて折るときは、必ず靈驗が有ると云ふことになつて居る。弘文天皇潜幸の物語は、上總の傳説の一特色である。枝路になるから爰では説かぬが、元は中世の或時代に示現せられた貴い神樣の信仰に出た話であることは、他の類例から推して考へられるやうである。甲州では中巨摩郡百田村の上八田組に、「しはぶき婆」と稱して炒胡麻《いりごま》と茶とを供へて、小兒の風邪を祈る神があるさうである。是は單純な二貫目ばかりの三角石であるが、昔行倒れの老女を埋めた印の石と謂ひ、掘起せば祟が有ると、今でも畏敬せられて居る。但し此には子を連れて來た話は無いやうだ。武藏でも川越の喜多町廣濟寺の境内に、「しやぶきばゞ」の塔と名づけて、信仰者の絶えぬ石があつた。今でも一つ不得要領の石塔が寺に有るが、其か否かも確かでないと謂へば、最早願掛けに來る人も無くなつたのである。

　

(163)　　　　　　　築地の老女石像

　

　江戸にも昔は幾つかの咳の婆樣があつた。石の枕で旅人を殺した一つ家の姥の靈なども、うそのやうだがやはり其一つであつた。本所原庭の證顯寺の横町にも一つあつた。板圍ひの中に安置した二尺ばかりの石の坐像で、老女とは謂へども其顔鬼の如く、丸燈籠の笠石を笠のやうにして戴いて居た。首から下は彫刻粗にして且つ割に小さく、桃色の布を引掛けて居た。啖咳の願掛に奇妙に驗があつたと云ふ事である。是も百年ばかり前には相應に有名であつたが、其よりも一層評判が高くて、且つ永い歴史の傳はつて居るものは、築地の稻葉丹後守の中屋敷の内に在つたと云ふ石の姥である。今の何丁目の邊かは知らぬ。いづれなまめかしい家などの建つて居る近所であつたらう。祈願の者は門番に頼み込むと入れてくれた。江戸で豆炒りと云ふ食品、即ち大豆と米と餅霞とを一緒に炒つたものと、煎じ茶とを持參して願を掛けると、咳の病が不思議に治ると云ふことで、面倒な手數をして參る者が中々多かつた。書物によつては高さ二尺五寸程の、老女の形をした自然石とあるが、此は間違であつたらしい。又其由來を知らずと言つた人もあるけれども、或程度まで分つて居る。稻葉家の先代が相州小田原に居た頃、城下に近い風祭《かざまつり》の山里に、菴を結んで居た風外と云ふ借に歸依せられて居た。此僧立去つた後の菴の中に、誰のとも分らぬ爺と姥との二石像が有つた。或は風外和尚の父母の像だらうと謂つた人もあるが、親を置去りにするやつも無いから、なほ大いに不確かであつた。此を後になつて江戸の邸内まで持込まれたものである。御一新になつて、築地の方面も變化したから、咳の姥神も今度は行方が知れぬことゝ思つて居ると、是はちやんと本所牛島の弘福寺に往つて居ることを、山中共古翁が知つて居られた。弘福寺は稻葉家の寺ださうだから、預けて置かれたものと思はれる。餘程大切にして居たものと見えた。但し牛島の寺に在つては、最早咳の願掛けをせぬやうに爲り、今日では其代りに、腰から下の病に?るといふことにな(164)つたのは、全く時代の風である。供物もお炒りと茶では無くして、下駄草履の類を御禮に上げることに爲つて居る。何でも或婦人の夢想に由つて、之を試みたのが始めだとのことである。

　稻葉邸内の石の姥には、今一つ珍妙な話が伴つて居る。此像は相州風祭の菴の昔から、牛島弘福寺の現生活に至る迄、終始爺の石像と差向ひであるにも拘らず、何故か夫婦は至つて仲が惡いと傳へられて居た。二つの像を竝べて置くと必ず爺さまの方が倒れて居るので、後には男の像だけを位牌堂の側に移し、姥の石像ばかりを稻荷の社の前に置いた。爺さまとても無能ではなかつた。口中の病の有る者が祈れば之に應じた。顔などは爺はこはく姥は柔和であつたが、猶細君の猛烈には一目を置いて居たのであらう。咳の病に願掛けをする人たちは、供へ物は夫婦同じやうに供へ、姥に頼んで置いてから更に爺の前へ遣つて來て、こんな事を言つたものださうである。只今おばゞ殿に咳の煩ひを直して下されと頼んで來ましたが、おばゞ殿の手際が覺東なうござる。何とぞそこ元も御骨折り下され、此病のよくなるやうに頼み申すとうそをつく。さうすると殊に效驗が多かつたと言つた人もある。誠に心安い神樣であつた。

　

　　　　　　　三途河の婆

　

　しかし此では夫婦だか何だか分らぬことになる。實際又夫婦では無かつたのかも知れぬ。兄妹でも久しく共に住むことがあるが、いやしくも男と女と一人づゝ居ると、之を夫婦と速斷することが昔の人の癖もしくは信仰であつた。此序にもう少し話を進めて見るが、上州高崎の赤坂町に、大師石と云ふ靈石が有つた。其近くに在る姥の石像は、弘法大師の御作だと傳へ、其名を「しやうづかのばゞ石」と呼んで居た。咳に惱む人々、御禮には麥の炒粉を供へるつもりで此石に願を掛けると、立ちどころに全快したと云ふ話である。「しやうづか」は葬頭河とも又三途河とも書き、歌には三つ瀬川とも詠んで居る。地獄の通路に在る川で、爰に奪衣婆と云ふ怖ろしい姥が居ると我邦では謂ふ。併し(165)弘法樣がわざ／＼其像を刻まれたのもわからず、之を高崎で祭る筈も無いやうであるが、唯此處には一つの念佛堂が有つた。念佛で地獄行きを遁れようとする人々が、自然に婆樣ならあの婆樣と思ふやうになつたのであらう。越後長岡の新町には、又「せきの十王」が有つた。此方は米の炒粉を供へて祈るときは、咳の病がすぐに治つたと謂つて居る。十王は即ち地獄の裁判官で、もと十人の合議制であつたのが、後には閻魔ばかりが權勢を專らにして居た。長岡の十王堂は長福寺と云ふ古い寺の内に在つて、此は十體の木像であつた。傍に三途河の婆さんが列坐して居たか否かは確めぬが、通例は東京などでも此婆は閻魔堂に同居し、一見する處大王の北の方の如き姿がある。閻魔王の脇立としてならば、他の九王の外に倶生神もあれば青鬼赤鬼もある。門番の家内の如き老女を近づけるのもをかしい上に、奪衣婆には本來然るべき配偶者もあつた。其名を懸衣翁と謂ふと和製の十王經にも出て居るのである。然るに人の口は仕方が無いもので、いつも此婆樣を閻魔と言へば聯想するが故に、其共同生活は頗る築地の稻葉邸に在つたものに近くなつて居た。伊豆の日金山の頂上に在るものなどは、殊に百餘年の久しき間、細い山路を挾んでさし向ひで暮すこと、丸で世の中の爺婆と一般で、僅かに服装等に由つて一方は地獄の官吏なることを知るのみである。猶考へて見ると變なのは、三途河の姥は地獄では病氣には勿論用は無し、又地藏の如く小兒の掛りでも無い。しかも他の地方の只の姥石にも、同じ願掛けの有るを見れば、察する所日本へ來てからの新たな任務で、長岡の十王の如きはそれから更に委任せられたものだらう。但しこの三途河の姥の一條は、丸々我國で始まつた話のやうに考へる人も有る。さうすれば信仰の他の姥神と近いのは當然である。兎に角に地獄から來て居るやうに謂ふ姥の話が、決して偶然の誤りでは無い證據には、京の清水尾州の熱田、越中立山などの姥堂の外に、有名で無いものなら全國に亙つて多く、往々又類似の祈願に效のあること、例へば遠州見付の大地藏堂の奪衣婆が、子供の無事成長を?るとて子供の草履を獻じ、出羽の庄内下清水天王寺の「しやうづかの姥」に婦人の乳の出を祈り、羽後の金澤專光寺の「ばゞさん」にも同樣の信仰ある類、算へたら際限も無さゝうだ。尤も東京の三途河婆は隨分盛大であるが、起源は事の外に新しく、從つて其(166)信仰も近世式に複雜である。例へば淺草奧山の婆樣は、口中一切殊に蟲齒に妙とあつて、房楊枝《ふさやうじ》が常に山のやうに奉納してあつた。此像の齒が缺けて居た爲に、言ひ出したらしいとの話である。慈覺大師作などゝ謂つて居るが、手には茶筅を持つてゐる。子育ての守札もやはり出したさうである。流行は百四五十年前の安永頃からで、之を見眞似か一時は府の内外に二十箇所の三途河の婆が出來、正月十六日には大いに參詣した。あまり盛んなので嘉永二年には禁止の法令が出たとも云ふ。四谷新宿正受院のも、主として口中の病を願掛けしたが、是は文政頃から參り出したと謂ふ。閻魔さまと同宿するにも拘らず、變つた由來譚を傳へて居るのは、全く流行以前に久しく此寺に在つたからである。幕府の御醫師人見友雪の先祖、浪人の頃山中に迷ひ、山賊の家に泊つて危難に瀕したのを、小栗判官の如く一婦人の爲に救はれた。後に其女を妻としたのが此木像の主だと謂ふ。人見は四谷濠端の高力松《かうりきまつ》の下、即ち今の救世軍の士官學校の邊に住んで居た。何かの都合で像を菩提寺に托して置いたものと思はれる。是が史實かはた尼子系の傳説かは、自分は別に究めたいと思はぬ。只時節が來れば姥神も奪衣婆と爲つて、拜まれるものなることを知るばかりである。考へて見れば正月七月の十六日を釜の蓋の聞く日とし、又は小僧の休日とすることなども、地獄に於ての沙汰とは思はれぬ。やはり大昔からの姥神の信仰を、中間に置いて弘く觀察しなければ、眞の理由は判明しさうにも無いのである。

　

　　　　　　　關寺小町

　

　姥の靈に咳の病を?る風習は、最初「せきのをば樣」と云ふ名稱に誤られたものだらうと云ふ説がある。關の姥は即ち道祖神であつて、命の境の三途川の奪衣婆の如きは、固より關の姥の尤なるものであるが、道の衢《ちまた》の石の神體とても同じ名を以て尊まれた故に、ひとしく此信仰を生じたのだらうと云ふのである。なるほど道祖神にも石を以て男(167)女の形を刻んだものが、古來極めて多かつた。さうして何處でも子供が甚だ御好きであつた。道祖神に咳を祈ると云ふ例も廣島地方などにある。理由は丸で分らぬけれども、御禮には馬の沓《くつ》を多く差上げたさうである。道祖神の祭は多くの田舍では正月十五日で、左義長鳥小屋の風習と關聯して居り、之を掌る者は常に子供である。其翌日を所謂藪入とすることが、亦此祭と因あることも想像が出來る。唯「咳のをばさま」は元の名が「關の姥」だつたと、きめてしまふのはどうであらうか。咳以外の小兒の病、夜啼きや乳の出に願を掛ける場合は、其では説明が出來なくなるからである。しかし色々の子供の病氣の中でも、百日咳などは親も泣きたくなる位の難儀だから、祈念をする者には此病が多かつたと云ふことは有るかも知れぬが、もしも其以前から姥神と言へば子を愛する神、と云ふ信仰が無かつたなら「せきのをば」の名だけでは、徒らに願を掛けて效果を待つ氣にもならなかつたであらう。又姥神は必ずしも道祖神の妻神と限られても居なかつた。又逢坂の百歳堂のやうに、關の傍に祭つても、童兒とは關係の無い方へ話の發展して行つた例もある。實際一箇の天才の力では、如何に骨を折つても爲し遂げられぬやうな大きな改作を、時代と民衆との力は自在に且つ完全に、古來の傳説の上に施して居るのである。淺草明王院の姥ヶ淵なども、江戸名所記の時代に既に咳を祈る信仰はあつて、竹の筒に酒を入れて岸の樹枝に掛けて頼んだと迄はあるが、尚其由來を詳かにしては無かつたのを、現存の縁起に於ては次に載せる如く、既に出來るだけは信徒に安心を與へるやうに取纏め、しかも力めて本尊の光を輝かしめようとして居る。是がもしもなほ時代の道理と調和せず、強ひて舊傳を墨守して居たならば、夙に笑はれてさうして忘れられてしまつたであらう。だから傳説の變化は、寧ろ有效なる保存の方法だつたと言へるのである。

　

　縁起に曰く、此野荒漠にして盗多し。觀音娑褐羅龍王を命じて老婆とし、第三龍女を美姫とし、色を以て惡徒を誘ひ、磐居磐融の二石を以て、其頭をひしぎ殺す。惡黨の首領意麻呂を始め、多くの盗退治せらる。後姥は池水に飛入(168)り、倶利伽羅不動と現はれ、姫は辨才天となり、共に此池に垂跡して諸人の病苦を救ふ。別けて嬰兒の咳氣を除くには、當寺の醴を飲ましむれば立どころに平癒す。報賽にも亦之を納む。磐居の石枕・姫の鏡、今も靈寶たり云々。

　江戸三十三ヶ所観音第二番、御縁歌

　　　ねがへ只世の罪深き姥ヶ池の浮む誓ひや一つ家のうち

　

(169)　　　　　うつぼ舟の話

　

　　　　　　　　　　一

　

　今から百六十五年前の寶暦七年の八月の或日、辨慶法師の勸進帳を以て世に知られた加賀國の安宅《あたか》の濱に、一つのうつぼ舟が漂著したと云ふ舊記がある。「うつぼ舟」とは言ひふらしたけれども、其實は四方各九尺ばかりの厚板の箱で、隅々を白土のしつくひを以て固めてあつた。開けて見ると中には三人の男が入つて死んで居る。沖で大船が難破するとき、船主その他の大切な人、又は水心を知らぬ者を斯うして箱に入れ、運を天に任せて押流す例があるといふ。果して其樣な事があるものかどうかは心元無いが、たとへ死んでも姿だけは、何處かの海邊に打寄せられることを、海で働く人たちが願つて居たことだけは事實である。

　如何なる素性の人間であつたか、久しく郡代の手で尋ねて見たが、終に何等の手懸りも無かつた。そこで亡骸は先づ砂濱の片端に埋め、木の箱は之を毀して、供養の爲として其あたりの橋の板に用ゐしめた。其時諸宗の寺々より三人の塚に會葬して、有難い追福の行事が行はれたのであつたが、尚海上の絶命に迷ひの念慮が深かつたか、但しは南蠻耶蘇の輩であつて佛法が相應しなかつたものか、夜分は時として此墓から陰火の燃えることがあつたと謂ふ。遺念火《ゐねんび》の怖ろしい話は、最も此類の墓所に多かつた。必ずしも目の迷ひで無くとも、他の場合には心付かずに過ぎてしまふ出來事を、何かと言ふと思ひ出す者が、其方角ばかり眺める故に、特に見出して騷ぐことになつたのであらう。河(170)内の姥ヶ火とか尾張の勘五郎火とか、百を以て算へる全國の同じ例が、場所や時刻を一定して、其上理由までもほゞ似て居たことを考へると、たとへば天然普通の現象であつたにせよ、やはり非業の死を傷む人の心の動きから、作り設けた不可思議といふことになるのである。

　又箱の板を橋に架けたといふことも、同じく古風な日本人の、優美なる心遣ひであつた。奈良では藥師寺の佛足石の碑の石なども、久しい間佐保川の橋板に用ゐられてあつた。冬の徒渉《かちわた》りの辛さを味はつた者ならば、この萬人の脚を濡らすまいとする企ての、尊い善根の業であることを理解する。人を向ふの岸へ渡すといふ思想には、更に佛教の深い趣意があつて、地藏樣などは牛馬にも結縁させんが爲に、橋になつて踏まれてやらうといふ御誓願さへもあつた。けだし北國の濱邊の昔のたつた一つの出來事でも、斯うして記録になつて傳はつて居ると、次から次に思ひ掛けぬ色々の問題を、考へさせずには置かぬのである。

　但し自分がこゝで少しばかり、話の種にして見ようと思ふのは、さほど込入つた民族心理の法則などでは無い。この大海を取繞らした日本國の岸には、久しい年代に亙つて流れ寄る物が無數であつた。曾ては半島の出水に誘はれて、所謂天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭が、朝鮮から漂著したことも一再で無かつた。羽後の荒濱では蛾眉山下橋と題した橋柱を、漁民が拾ひ上げたといふ奇聞もある。沖より外の未知の世界は、殆と有る限りの空想の千變萬化を許したにも拘らず、如何なる根強い經驗の力であつたか、海を越えて浮び來る異常の物は、例へば死人を納めた木の箱の如きもの迄、我々の祖先は一括して、常に之を「うつぼ舟」と呼ばうとしたのである。それがもし偶然の一致で無ければ、即ち何等かの原因の隱れたる、不思議な國民の一つの癖である。つまらぬ問題のやうではあるが、もし之に基づいて新たに見出さるべき知識があるとすれば、是もやはり學問のうちではあるまいか。

　

(171)　　　　　　　　　　二

　

　うつぼ舟は空洞の木を以て造つた舟、即ち南方の小さい島々に於て、今尚用ゐられて居る所の、刳舟《くりふね》丸木舟のことで無ければならぬが、多くの日本人はもう久しい間、その元の形を忘れてしまつて居る。我々の親たちの空想の「うつぼ舟」には、潜水艦などのやうに蓋が有つた。斯うしなければとても荒海を乘切つて、遙々遣つて來ることは出來ぬものと、思ふ者が次第に多くなつた爲であらう。加賀での出來事から更に四十六年を經て、享和三年二月廿二日の眞晝頃、常陸の原やどりとか云ふ濱に、引上げられたと傳ふるうつぼ舟などは、其形たとへば香盒の如くに圓く、長さは三間あまり、底には錢の板金を段々に筋の如く張り、隙間は松脂を以て塗り詰め、上は硝子障子にして内部が透き徹つて隱れ無く、覗いて見ると一人の生きた婦人が居り、人の顔を見てにこ／＼して居たとある。

　此話は兎園小説を始めとして、當時の筆豆人の隨筆には幾らも出て居る。何れも出處は一つであるらしく、疑ひも無く作り事であつた。その女は年若く顔は桃色にして、髪の毛は赤いのに、入れ髪ばかりが白く且つ長かつた。敷物二枚の他に瓶に水二升ほどを入れ、菓子樣の物及び肉を煉つたやうな食物もあつたとある。又二尺四方の一箇の箱を、寸刻も放さず抱へ持ち、人に手を觸れしめなかつた。浦人の評定では、多分蠻國の王の娘などで、密夫あつて其事露顯に及び、男は刑せられたが王女なれば殺すに忍びずして、此の如くうつろの舟の中に入れ、生死を天に任せて突き流したものであらう。然らばその大切にする木の箱は、定めて愛する男の首でゞもあらうかなどゝ、言語は不通であつたと謂ふにも拘らず、驚くべき確信を以て説明する者があつたと記して居る。

　實際海邊に住む人民にしては、出來過ぎた斷定には相異ないが、以前も此近くの沿岸に、同じやうな蠻女を載せて漂著したうつぼ舟があつて、それには俎板の如きものに一箇の生首をすゑて、舟の中に入れてあつたと云ふ口碑があつたさうである。常陸の濱には今も大昔も、此種の不思議を談ずる氣風が特に旺盛であつたらしい。從つて海に對す(172)る尋常以上の信用が、噂の根をなして居たことは認めてもよいが、少なくとも記述の文飾、殊に所謂蠻女とうつぼ舟との見取圖なるものに至つては、いゝ加減人を馬鹿にしたものである。官府の表沙汰にすると雜用手數が容易で無い故に、先例に由つて再び元の如く女を舟に入れ、沖に引出して押流したと謂つて、是以外には一つの證跡も殘らぬのだが、舟の中に書いてあつたと稱して、寫し取つて居る四箇の異形文字が、今では最も明白に此話の駄法螺なることを證明する。それを曲亭馬琴が註解して、最近浦賀の沖に繋つたイギリス船にも此等の蠻字があつた。だからこの女性はイギリスかもしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。是も亦知るべからず、尋ねまほしきことなりかしなどゝ、例の恐ろしく澄ましたことを言つて居る。さうして今日までまだ其儘になつて居たのである。

　勿論自分たちには近世の僅かな知識を根據にして、古人の輕信を笑つて見ようと云ふ考へは無い。第一そんな舟、そんな亞米利加の王女などが、流れて來る筈が無いと謂つて見たところが、然らば何故に是だけの事實、もしくは少なくとも風説が出現したかと問へば、今だつて答へ得る者は無いのである。單なる耳目の誤り又は誇張であつたとしても、何か基づく所がなければならぬ。假に丸うそであつたにしても、斯う謂つたら人が騙されると云ふだけの見込が最初から有つたものと思ふ。現代の文學才子が必ず實驗したであらう如く、作り話が譬へば鍍金のやうなものならば、其土臺もやはり稍々安つぽい金屬であつて、決して豆腐や蒟蒻では有り得ない。どんな空中樓閣にも足場があつた。或は無意識にかも知れぬが、いつの間にかうつぼ舟とは斯んな物と、人も我も大凡きめて居た形式があつた爲に、其寸尺に一致した出鱈目だけがたま／＼右の如く成功し得たのである。人間は到底絶對の虚妄を談じ得る者で無いと云ふことが、もしこの「うつぼ舟」から證明することになるやうなら、是も亦愉快なる一箇の發見と言はねばならぬ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　大昔も之とよく似たうつぼ舟が、やはり常陸國の豐良《とよら》の濱と云ふ處に漂著して、漁夫に拾ひ助けられたと云ふ話が(173)ある。廣益俗説辨の一節として偶然に傳へられて居る。欽明天皇の御宇、天竺舊仲國霖夷大王の姫金色女、繼母の憎しみを受けて此舟に載せて流された。後久しからずして病みて身まかり、其靈は化して蠶となる。是れ日本の蠶飼ひの始めなりと、語る者があつたさうである。此俗説も同じく中世の造り言ではあらうが、起源は必ずしも甚だ簡單で無い。奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神秘の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し、豐後で有名な眞野《まんの》長者を以て其父の名とする者もあるが、話の内容は支那最古の傳説集、干寶が捜神記の記事と著しく類して居る。蠶の由來を説く必要のあつた者は、多分は蠶の神の信仰に參與した人々であらう。或時機縁が有つて斯ういふ外來の舊傳を取入れ、自他の昔を識らんとする願ひを充たしたことは想像してよいが、それとうつぼ舟の漂著とを、一見繼目も知れぬやうに繼合せたのは、別に海國に住む民の、數千年に亙つて馴らされたる一つの考へ方が、働いて居たものと見るの他は無い。

　しかも此以外には東部日本に於では、空穗舟の話は未だ聞く所が無いのである。其信仰も亦舟の中の少女の如く、波に浮んで西南の方から、次第に流れて來たらしい痕がある。本來が人間ばかりの計畫に基づいて、開かれたる通路で無かつた故に、乃ち奇瑞として神の最初を説き、まだ家々の昔を誇る者が、之を遠くの故郷から導いて來ることを忘れなかつたのである。歸化人の後裔としては、九州では原田の一族が、近い頃まで此口碑をもつて居た。是も右に謂ふ俗説辨の中に、筑前｜怡土《いと》郡の高祖《たかず》明神は漢の高祖を祭つて居る。傳ふらく高祖の皇子一人、處船につくり込めて蒼海に押流され、終に此濱邊に到著す。皇子の姿かたち等倫に超えければ、處の者共奏聞を遂げ、勅許を蒙りて此地の主とす。苗裔は即ち原田氏にして、タカズを高祖と書くは其謂れ也と稱したとある。但し此傳は歴史と合致せず、又同じ門流でも更に宗教的色彩の豐かな大藏氏などは、之と異なる由緒を主張して居るから、言はゞ後に世間の風にかぶれて、斯うも考へられたと云ふに過ぎぬのかと思ふ。

　瀬戸内海沿岸の古い移住者の中には、之とよく似た家の傳説が、まだ幾らもあつたやうだが、そればかりで歴史を(174)推定するが如きは、最も不安全なる學風である。例へば周防の大内氏が歸化人の後だと云ふことは、最初百濟の琳聖太子、當國多々良濱に上陸したまふといふ物語から出たのだが、元來の趣意は至つて遠い時代に、此地に降臨なされたと云ふ北辰妙見の宮と、家の起源を一にすることを主張し、其到著が神意に基づくことを説くに在つたので、太子は恐らくは尊神の御子を意味し、必ずしも本國が百濟であることを要しなかつたかと思はれる。しかも百濟が佛法の輸入國であつた爲か、或は後に述べんとする第二の理由からでもあつたか、備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざる一つに於ては、やはり百濟の王子を以て第一世の祖として居る。大治二年と謂へば、かの王國が滅びてから、四百數十年も後の話である。百濟の國から王子を孕める姫宮を、うつぼ舟に乘せて海に放ち、其舟今の兒島に漂ひ寄る。三條中將といふ人此女性を妻に賜はり、腹ごもりの子生長して後に三條宇喜多少將と稱すなどゝ謂つて居る。或は千人のちごの千人目に當つた故に、京の三十三間堂の棟木を曳かしめたとも謂ひ、（大治二年といふのは其爲であらう）、又は名作の鬼の面を取持した爲に生きながら鬼になつて人を?《くら》ひ、由つて再び兒島に流されたところ、某といふ山臥之に行逢ひ、鬼面を取上げて切碎き終に其恠を退治した。兒島の瑜伽寺《ゆうがじ》の鬼塚はその面を埋めた塚だなどゝも傳へられ、今ではかの地方の信仰や口碑と混同して、手輕に本の姿を見定めることがむつかしくなつて居る。

　しかし此等の雜説を丁寧に仕分けて見れば、一つとして備前より外では聞かぬと云ふものが無い。中にもうつぼ舟は系統が明瞭であつて、つまりは遙かなる海の彼方から、因縁あつて來り寄るものは、昔も今も此舟を必要としたことを知るのである。現に對岸の伊豫に在つては、河野家の始祖と稱する小千御子《をちみこ》も亦それであつた。大昔｜興居島《ごゝのしま》の漁夫和氣五郎大夫なる者、海上に出でゝ、一艘のうつぼ舟を見た。家に曳き還つて之を開き見るに、内に十二三歳の少女あり、我は唐土の者、仔細ありて此の如し云々。名づけて和氣姫とよんで養育し奉る。後に伊豫王子の妃と爲つて小千御子を生むと傳へ、船越といふ處には姫の御墓なるものが今も存する。常陸の荒濱の所謂アメリカの王女が、決(175)して突發した空想でなかつたことは、もう是だけでも證明し得られるのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　だから我々は徒らに諸國の類例を列擧して、今更偶合の不思議に驚くよりも、何物の力が斯くまでに根強く且つ年久しく、この民族の想像を導き又約束したかを尋ねて見なければならぬのである。伊豫の和氣姫は仔細あつてと謂つて居るが、その仔細なるものは大なる神秘であつた。叨《みだ》りに語られざる神話であつた故に、忘れられんとして尚僅かに傳はつて居るのである。奈良の手向山《たむけやま》の勸請以前から、公邊の文書には八幡の祭神は應神天皇であつたが、宇佐には別に一筒の異傳があつて、伊多利亞で成長した耶蘇教と同じく、殊に御母神を重しとし、後に大帶姫《おほたらしひめ》を神功皇后と説くに至つても、尚｜比�盗_《ひめがみ》又は玉依姫の御名を以て、之を中殿に祭つて居た。養老年中に大隅の隼人《はやと》が亂を起した時、宇佐の神部《かみべ》は頗る平定の功に參與したと稱し、爾後宇佐本社との絶えざる交通があつたにも拘らず、大隅正八幡宮の本縁として、古く記録せられた物語は、亦全然北方の所傳とは一致せず、母の神の御名を大比留女《おほひるめ》と申し上げ、若宮は即ち太陽の御子であつて、同じく空穗舟の中の人であつた。八幡愚童訓・惟賢比丘筆記等に、詳しく此由緒を載せたのみならず、男山の社に於ても既に大比留女の名を録して居た。恐らくは朝家の認定と兩立せざるを憚つて、次第に之を南端の一社に押付けてしまつたものであらう。

　今簡單に其舊傳を述べるならば、震且國陳大王の娘大比留女、七歳にして懷姙す。父王之を訝《いぶか》り、汝まだ幼少なるに、誰人の子を儲けたるぞと問ひ玉へば、我夢の裡に朝日の光胸を覆ひて娠む所なりと答へたまふ。いよ／＼驚き怖れて誕生の皇子もろ共に、うつぼ舟を刻みて之に入れ、印鎰を相具して大海に放ち流したまふ。流れ著かん所を所領とせよとの御詞であつた。然るに其舟日本國鎭西大隅の磯岸に寄り來る。太子を八幡と號し奉るに由つて、其岸を八幡崎と稱へた。時は繼體天皇の御宇のことゝいふ。後に大比留女は筑前｜若椙《わかすぎ》山に飛入つて、香椎の聖母《しやうも》大菩薩と顯は(176)れたまひ、王子は大隅國に留まつて正八幡と齋《いは》はれ、幼稚の御年にして隼人を討ち平げたまふと謂つて居る。

　日の光が少女の胸を覆ふといふことは、はつきりとせぬ言ひ方である。八幡大菩薩御因位縁起には、朝日の光身にさして、寢たる胸間に在りとあるが、それでもまだ納得が出來なかつたものか、後世の俗説では大比留女、日を呑むと夢みてと言ひ替へて居る。太閤秀吉を恐らくは最後として、以前の高僧たちの生ひ立ちの記などに、日輪懷に入ると謂ひ、もしくは日を呑むといふ類の母の夢が幾つとも無く傳へられるが、何れも個々單獨に空想せらるべく、あまりにも奇拔なる空想であつた。人もよく知るが如く、此系統の物語で最も早く記録の上に現はれたのは、百濟と高句麗と二つの王國の、始祖王の誕生に關する奇瑞であつたが、固く信じた人々の筆に成つたゞけに、其記述は之に比べて遙かに精彩がある。即ち一人の年若き女、兒を生まばその兒は後に王となるべしとの豫言があつたので、之を一室に幽閉して外界との交通を杜絶して置くと、太陽の光が戸の隙間より差し入り、直ちに少女の身を射る。之を避くれば何處までも追ひかけ、終に感應して身ごもらしめたと謂ふのである。ペリイの文化遷移論には、東印度の諸島にも往々にして此傳承の例有ることを説いて、日の光の物を實らしむる力あることを經驗した者の間に、おのづから成長した説明神話なるが如く解釋して居るが、單にそれのみでは斯ういふ個人指定の思想などは起り得ない。年久しく密林の底に遊び、又は巖窟の奧に隱れ住んで、太陽の光線の譬へば黄金の箭の如くなるものが、?々心有つて人に近づかうとするやうな有樣を見た者にして、始めて夢まぼろしの間に、之を雄々しい男神として迎へ親しむことを得たのであつて、日を崇敬した原始人の信仰は、却つて此の如き異常受胎の奇瑞に刺戟せられて、更に強烈を加へた場合が無かつたとは言はれぬ。從つて記録の今日に傳ふるものは、假に扶餘の二種族の建國譚を最も古しとするも、之を傳説の根源と解すべからざるは勿論である。日本に於ては山城賀茂の玉依姫、山川に美しい白羽の矢を拾ひ還つて、感じて別雷神を産み給ふと謂ひ、或は大和の三輪の大物主の神は、要を丹塗りの矢に變じて、流れ來つて少女の身を突き給ふと謂ふの類、單に太陽を男神とする俗信の夙く衰へたばかりに、説明の付けにくゝなつた説話が數多いのみな(177)らず、別に又新羅の古き物語として、日の光の虹の如くなるに照されて、赤い玉を生んだと云ふ賤の女の話を載せ、其玉美麗なる孃子と化して日矛《ひぼこ》王子の妃と爲り、後に遁れて日本に渡り、難波の比賣碁曾《ひめこそ》の社の神に祭らるゝと謂ふからは、我々の祖先も二千年の昔から、必ずしも大陸の歴史家の仲介を須《ま》たずして、既に日を父とし人間を母とする、貴き神あることを知つて居たのである。平安京の初期に際して、大いに用ゐられた武人の家、阪上氏は百濟の遺民であつた。家の由緒を朝廷に奏聞して、詳かに太陽が少女を占有した傳説を述べてゐる。それが後漢書の記事とも合致すれば、亦大隅正八幡の縁起ともよく似て居て、同じ頃に西海に興隆した宇佐の信仰が、之を學び且つ利用したと解することも困難ではない。しかし自分達は其樣に窮屈に、一つの物語が次を逐うて諸國を周流したと迄は思つて居らぬ。遠く太古に溯つてまだ多くの民族が今の如く分散しなかつた時代に、誤つた判斷ながら素朴なる人の心に、深い印象を與へた實驗が殘つて居て、縁に觸れて再び各處に出現したものが、斯うして大切に保存せられ、圖らずも互ひに比較せられることになつたのかも知れぬからである。但し此點を論究しようとすれば、話が込入つて果しが付かぬ。しかも差當り自分の考へたいのは、何故に海の彼方の大比留女を、うつぼ舟に載せてこの島國へは運んだか。或は比賣碁曾の社の阿加流姫神《あかるひめのかみ》が、もと新羅の太陽の御子であつたことを、何人の教へに由つて知り得たかといふ點であるが、是とても決して容易なる問題では無いと思つて居る。

　

　　　　　　　　　　五

　

　出雲の佐陀の大神も、母あつて未だ父の神を知らず、加賀の岩屋に入つて之を尋ねると、黄金の箭が水に浮んで流れて來たと傳へられる。神が丹塗りの矢に化して訪れたまふといふ物語と共に、如何にも美しく鮮かなる我｜國風《くにぶり》の空想であつて、之を單純に戸の隙間の日の光が、少女の腹を追ひまはして射たと謂ふ話し方と比べると、元は一つであつたと認めるのさへ感心せぬが、何れの民族でもそれ／”＼の文化の境遇に應じて、常に聽く者の理解を主とするの他(178)は無かつたから、最初は此よりも更に露骨な、其代りには感動の深い物語であつたのも尤もである。智力と趣味とは新たなる文飾を必要とし、神話の如き保守的の文藝にも、やはり目に見えぬ成長があり、既に形式の固定して時代に適せぬものは、追々に圏外に押出された。今に於て俗間の卑猥なる笑話などの、尚輕蔑すべからざる所以である。うつぼ舟に關して一二の著しい例を説くならば、臺灣東岸のパイワン族の中に、美女を朱塗りの箱の中に入れて、海に流したといふ傳承が多く、知本社と呼ばれる部落が之を拾ひ上げたと謂つて居る。此女は身の内に怖ろしい牙があつて、之に近づく程の男は悉く傷き死んだ爲に、用無き者として棄てられたのであつたが、知本社蕃の若い頭目は、方法を施して其牙を除き、乃ち之を娶つて子孫が榮えたと傳へるのである。此話は所謂金勢大明神の本縁として、今でも奧羽の村の人が笑ひながら、人に語る所の昔語りの一つであるが、既に懸離れた南島の荒磯に、同じ例を遺して居るからには、近代の才子が發明した惡謔では無かつたのである。但し依然たる不可解はその共通の起源であるが、幸ひに臺東方面の土人の間に於ては、アミの馬蘭社でもパイワン族の卑南蕃でも、等しく海に放たれた身に牙ある娘が、知本社の海岸に漂著したことを語り、後者自らも之を認めて居るのを見ると、既に交通ある二つ以上の部落の間に、一方で不用として顧みなかつたものを、他の一方が歡迎し且つ大切に守り立てたと云ふ話、即ち日本の諸州の田舍に於て、神と住民との因縁約束を信じ、流れて來た飛んで來た、或は盗んで來たとさへ傳へて居る口碑が、元來は亦このうつぼ舟の信仰から、分れて出たものであるやうに感ぜしめるのである。

　又パイワン種の諸蕃社には、殊に人が樹木の中から出たといふ傳説が多い。或は竹の中から卵が轉げ出して、最初の男女と爲つたとも謂へば、又壺の中もしくは瓠《ひさご》の中からも、人の出現したと謂ふことを信じて居る部落があるのである。異人卵生の古傳は印度にも例乏しからず、佛典を通じて日本にも知られて居た。即ち寧ろ説話の類似のみを根據として、比鄰民族の血縁を論斷すべからざる反證の一つであるが、斯ういふ意外な未開人の間にまで、同じ思想が稍々別種の樣式を以て、年久しく持傳へられて居た事實は、其起因を單なる偶合に歸するには餘りに重要であると思(179)ふ。新羅の國王が金色の卵から出たといふ神話が、朴姓一族の祖先譚として、瓠に乘つて日本から渡つて來たと云ふ瓠公の奇跡を説くものと、本源一つなるべきことは既に之を説いた人がある。瓢箪に乘つて來るといふ列仙傳の如き繪樣を想像し得た以前から、瓢のやうな内部が空虚で外見の具備した物は、三韓の人民に取つてもやはり奇異であつた故に、夙《はや》く此類の口碑を發生せしめたのであらう。殊に渚に近く村を構へ、日月の出入を眺めて海と天とを混同して居た人々には、是ほど大きな問題は少なかつた筈である。實際人間の智巧を以て、箱や樽などを作り出すのにも、天然の手本とすべきものが澤山は無かつた。故に始めて空洞の木や瓢の類が、水に浮んで流れて來た場合の、好奇心は強烈なものであつて、幾多の誤つた宗教觀、もしくは後世の詩人の及び難しとする空想境を、誘ひ出すに十分であつたので、其印象が次にやゝ姿容を變じつゝ、永く世に留まつたのに不思議は無いと思ふ。

　是が我々の昔話の多くに、作家といふものゝ無かつたことを、推定せしめる有力な理由である。再びパイワン蕃の神話に戻るが、その或社に於ては先祖が生れて出たと云ふ壺を傳へて居る。是にも太陽の光線が壁を通して、又は細くなつて其壺を射たと謂ふものが多く、即ち太陽の子であらうと思つて之を養育したと説くのである。日本では竹取の物語の如きは、今ある語り方の外にまだ色々の異傳があつた。鶯の卵から成長したと云ふのも其一つである。かくや姫が身より光を放つたといふ代りに、數多の竹の林の中に只一處、特に光がさして居たのを竹取翁が見付けたと謂ふなどは、姫が後に天上に還つたとある一段と相照して、亦一種の日の子神話の流れと見るに足らぬであらうか。又桃太郎の前の型と認められる瓜子姫子の如きも、童話に於てはむざ／＼と山姥に食はれてしまふが、それでは折角山川をどんぶらこつこと流れて來た甲斐も無い。或は狼の腹を割いて救ひ出された羊の子の話のやうに、後に復活したといふ傳への方が古いにしても、やはり誕生の奇瑞譚としては片輸であるから、斯うして第二の冒險談、即ち山姥や天のじやくとの闘諍談と結合する前に、別に亦一系統の瓠公神話が、此方面にも曾て繁茂して居たことを、假定して見るの他は無いので、しかも瓢といふ瓜の我々東方民族の生活に與へた影響は、最も複雜にして且つ興味深きものな(180)のである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　今の流行の日本人類學は、自分達から謂へば殆と土器學である。土器の以前に又は土器と併行して、そこには更に瓢箪學があるべきであるが、その瓢箪は腐つてしまつたから、シャベルで學問をしようと思つても掘出すことが出來ない。しかも瓢箪の人間生活との交渉は、若干の忍耐を條件として、之を辿つて行くことが不可能では無いのである。

　全體日本の如く天然の惠みが厚く、植物の人に對する役目が、物質界でも精神界でも、是ほど綿密に行屆いて居た國で、稻も櫻も連綿として、今尚以前の種を植ゑ繼いで居りながら、土中に滯つて腐らぬ遺物ばかりを當てにして、上代の社會を説かうとするのは、極めて無法なる算段であつた。所謂考古學の研究が進んで來れば來る程、之と對立して無形遺物の採集を急ぎ、兩々相助けて出鱈目論斷の跋扈を抑へねばならぬ。不幸にしてそんな便宜の得られなかつた國の學問が、今迄は主として譯述せられたが、我々は千古の大倭人の相續者である故に、この國民文藝と稱する廣大なる包含層の中には、獨り瓢に關する歌や口碑や習俗のみで無く、まだ色々の珍らしい紋樣や彩色が、大小無數の破片となつて殘つて居るのを、存外容易に發見することが出來るのである。是が實は自分の過去を自分で研究し得る民族の幸福であつて、そんな文明國は現在はまだ幾つも無いのである。

　瓢の用途は至つて弘く且つ久しかつた。土の壺の中に神いますと信じて、祭つて居た神社は僅かしか無いのであつた。食事其他の普通の用には、もはや陶土器の便利を知つて之に移つて後も、信仰は形式が大切だから古風を改め難かつたのである。其前には木の箱や曲げ物が神體の入れものには用ゐられた。（勿論開けても中には凡眼に見える何物も入つて居らぬのが普通である）。併し是とても木の工藝の始めよりは古くない。目に見えぬ神が物の中に宿りたまふといふ思想が、中世から新たに起る理は無いから、箱曲げ物を人が作り得た前には、木地鉢などの如く鑿り凹め(181)た物を用ゐたであらう。故に今も家々で臼を重要視し、又?々臼の上で氏神樣を祭り始めたといふ口碑が保存せられてある。その今一つ前は何かと問へば、天然の空洞木と、ひさごとより他は有り得なかつたのである。さうしてこの二物は古風のまゝに、今以て各地に神靈の宿する所として、崇敬せられて居る例が多いのである。

　我々の神は日本種族の特性を反映して、頗る移動を愛し又分靈を希望せられた。然るに空洞ある天然の樹木は固より之を動かすことを得ぬ故に、一方にはその神聖なる一枝を折つて、行く先々の地に插すと云ふ風が行はれたらしいが、それだけでは頼り無い場合が多くて、別に色々のウツボといふものが用ゐられた。八幡太郎の發明などゝ稱する箭の容器の靱《うつぼ》の如きも、最初は旅行用の魂筥《たまばこ》であつたかと思ふが、それよりも普通であつたのは、やはり天然の瓠であつたらうと思ふ。その外貌までが幾分か人に似て、堅固で身輕で沈まず損はれぬ故に、何れの民族でも所謂「たましひの入れ物」として、承認せられることが出來たのである。

　但し空穗舟の多くの口碑に於ては、乘客は神に最も近いといふのみで半ば人間であつたから、瓠の中に入つて泛《うか》び來るわけには行かなかつた。昔は神代史の少彦名神を始めとして、玉蟲のやうな御形で箱の隅に居られたと云ふ倭姫命、或は赫夜姫瓜子姫子、さては御伽噺になつてしまつた一寸法師等、日本の小子《ちひさこ》思想は徹底したものであつたが、神々の人間味、即ち御仕へ申す家々との、血筋の關係を説く風が盛んになつてからは、もつと舟らしいものを必要とするに至り、しかも空洞木の利用に始まつたかと思ふ獨木舟が、追々に稀に見るものとなつてしまふと、各人遺傳の想像力を應用して、終に享和年間に常陸の濱へ漂著したやうな、筋鐵入りの硝子張りの、何か蓋物《ふたもの》見たやうな船が出來上り、おまけに世界どこにも無い文字などを書いて、終に馬脚を露はすのであるが、しかも尚奇妙千萬にも其船の中には、依然として遠い國の王女らしい若い女性が乘込ませてあつたのである。

　

(182)　　　　　　　　　　七

　

　もう澤山と言はれるといやだから、最後に此話の成長した例を三つばかり附け加へて、饒舌の區切りとしようと思ふ。舞の本では大職冠の一曲に、鎌足勅命を奉じて海底の明珠を求めんとする時、龍王之をすかし返さんが爲に、乙姫のこいさい女といふ美人を、うつぼ舟に作りこめて、浪の上に推し揚げるといふ趣向がある。

　　　流れ木一本浮んであり

　　　かこかん取之を見て……

　　　沈香にては無し

　　　恠しや割つて見よとて

　　　此木を割つて見るに

　　　何と言葉に述べ難き

　　　美人一人おはします

とあつて、見た所は流材の如く、割つて見なければ中に美人の居ることが知れなかつた。即ちこの位で無いと海底の龍宮から往來することはむつかしいと考へたのである。

　之とは反對に肥後の八代地方で、牡丹長者の物語として今も歌はれて居るものは、潜航艇も及ばざる念入りの細工であつた。牡丹長者には三人の子息あり、二人はそれ／”＼立派な里から嫁を取つたが、末弟の嫁御は則ち貴人の出であつた。主要なる文句を拔書きして見ると、

　　　弟嫁殿《おとよめどの》の最初を聞けば

　　　元は源氏の公卿衆の娘

(183)　　　少しばかりの身の誤りで

　　　うつろ舟から島流された。

　　　紫檀黒檀｜唐木《からき》を寄せて

　　　京の町中の大工を寄せて

　　　さても出來たやうつろの舟が

　　　びどろさまにはちやんなど掛けて

　　　夜と晝との界がわかる。

　　　金と銀との千よーつ（マヽ）かいて

　　　中に立派な姫君入れて

　　　なんじ（マヽ）灘より押流されて

　　　こゝの沖には五日はゆられ

　　　そこの沖には七日は搖られ

　　　流れついたが淡路の島よ

　　　島の太夫の御目にかゝる。

　　　うつろ舟とは話にやきけど

　　　ほんに見たこと今度が始めよ

　　　拾ひ上げてくづして見れば

　　　中に立派な姫君さまに

　　　頭に天冠ゆら／＼下げて

(184)　　　其日其日の食事をきけば

　　　蘇鐵團子やこくど（マヽ）の菓子よ

　　　菓子の中でも上菓子ばかり

　　　一つあがれば七日の食事

　　　二つ上がれば十四日の食事

　　　それが立派な食事でござる。

　　　國はいづこか名はなにがしか。

　　　國は申さば耻かしけれど

　　　元は源氏の公卿の娘

　　　少しばかりの身の誤りで

　　　うつろ舟から島流された。

　　　あらば太夫もこれ聽くよりも

　　　國に還るか縁付きするか

　　　うつろ舟から流されたから

　　　二度た我家に還りはならの

　　　御世話ながらも縁付き頼む。

　　　あらば太夫も御喜びで

　　　牡丹長者の弟嫁に

　是も常陸の濱の人と共に、食事の點ばかりを氣にして居るが、蘇鐡團子は如何にも殺風景で、天冠をゆらめかす女(185)性とも思はれぬ。ビードロやチャンを説くから時代も凡そ窺はれるが、近代無心の語部《かたりべ》の力でも、此程度の潤色は困難でなかつたのである。思想統一の感謝すべき影響に由つて、九州の南の端でも夢の樂土は平安の京であつた。遠く唐天竺を求める必要も無かつたのである。

　たゞ悠久の年代の間に、肝要な一點だけが村の人々には理解し得られぬやうになつた。鹿兒島灣の西北隅、大隅牛根郷の麓部落では、岡の中腹に居世《こせ》神社がある。舊記に依れば大昔の十二月二十九日の夜、此地に住む一農夫、潮水を汲まんとして海の渚に到るに、空艇一艘漂流して船中に嬰兒の啼聲がする。火を照らして之を見れば七歳ばかりの童子であつたとあるから、嬰兒の啼聲は如何かと思ふ。是れ欽明天皇第一の皇子であるが、或時雪中に庭に下り、跣足《はだし》にて土を踏みまふにより、御擧動輕々しく最早大御位を嗣ぎたまふべからずとあつて、空船に乘せて海に流しまつると謂ふ。空船は恐らくは亦空穗舟のことであらう。此皇子は農夫之を奉仕して養育したが、十三歳にして御隱れなされたので社の神に祀ると傳へ、別に御潜居の地が社の東三町の邊にあつた。皇子流寓の古傳は何れの地方でも、大抵は神社の由來である。薩隅では天智天皇或年巡遊なされ、玉依姫といふ美人を御妃に召されて、男女數所の若宮を御留めなされたことになつて居る。如何にも正史と一致せぬ故に、多分は彦火々出見尊の御事を誤り傳へたものと、土地の學者たちは解して居たらしいが、是はやはり神話を歴史化したいといふ人情からであつた。居世神社の皇子の「少しばかりの身の誤り」は、殊に史實として考へることがむつかしい。たゞ至尊土を踏みたまはずと信ずる者が田舍にはあつたことゝ、社の神は斯うして遠くから、祭られに來たまふものと思ふ風が、或時代には盛んであつたこととは、此舊記一つでも推測し得られ、十二月の廿九日の潮汲みが、元は年々の正月神の御迎への用意であつたのを、いつしか此樣に固定したことも、幽かながらわかつて來るのである。

　神代の舊史に於ては、諾册二尊の最初の御子を葦船に入れて流し去ると書いて居る。書紀には天磐樟船《あめのいはくすぶね》と出て居るが、それが如何なる形?のものであるかは、もう西村眞次君より他に知る者が無くなつた。況や何の趣旨を以て、正(186)史に此一條を存せねばならなかつたかは、考へて見やうも無いのである。たゞ後世に及んで、かの有名なる難波堀江を始めとして、不用の客神を海に送り出す風は有り、それが神自らの意圖に基づいて、或は逆流して本の主に復り、或は遠く流れて新たなる地に寄りたまふにしても、共に第二の地位が定まつて後に、始めて説き立てらるゝ習はしであるのに、獨り上代の水蛭子《ひるこ》の君ばかり、單なる放流の箇條のみを以て顯はされて居るのは、恐らくは完全な記録で無かつたらう。例に取るのも唐突であるが、曾て頼政が紫辰殿の庇で退治した、啼く聲｜?《ぬえ》に似たりけりの怪物すら、尾足身首が切れ／”＼になつて、内海處々の岸に漂著し、乃ち犬神蛇神の元祖になつたやうに傳へられる。しかも京都の東郊には之を埋めたと云ふ鵺塚《ぬえづか》もあるのに、神戸に近い芦屋浦の鵺塚でも、鵺漂著して之を埋めたことを主張するのみか、更に其乘物までも塚に納めたと稱して、鵺うつぼ塚といふのが滓上江《かすかえ》の村にあつた。ぬえなどに空穗舟は無用の話と考へられぬでは無いが、現に謠曲の「鵺」でも、ぬえの精靈自身が出現して、

　　　頼政は名を揚げて／＼

　　　我は名を流す空穗舟に

　　　押入れられて淀川の

　　　よどみつ流れつ行く末の

　　　うど野も同じ芦の屋の……

云々と、謂つて居る位だから古いものである。

　但し單に文藝上の興味だけからであつたら、事如何に奇異なりとも是だけ弘く、且つ數千年の久しきに亙つて記憶せられるわけは無い。素朴な昔の人が深く心を動かされた如く、我々の間に於ても時には作り話にせよ、新たな實例を擧げで刺戟を復習せしめる他に、尚此信仰を保存するに足るだけの、宗教行事が持續されて居たのである。例へば公邊の記録には認められて居らぬけれども、宇佐では近い頃まで神を流す儀式が行はれて居た。伴信友翁の「八幡(187)考」に松下見林の筆記を引いて、宇佐の御正體といふ薦《こも》の御驗《みしるし》は、毎年菱形池から苅取つて編み造つた薦筵に、木の枕を包んだものを三殿毎に安置し、古い去年の分を取出して次々の社に下し、最末の小山田神社にある舊物は、空穗舟にのせて海に流すと、必ず伊豫國の海上なる御机石といふ石の上に漂著して、そこにて朽ちたまふ也と述べて居る。我々の今の知識では、まだ諒解の出來ぬほどの神秘である。しかし毎年の儀式として神を流すだけは、尾張の津島神社にも其例があつて、之を御葭神事《みよしのしんじ》と名づけて居た。定まつた水邊に行つて葦を苅り束ね、祈?の後之を川に流すと、遠く近くの海岸の村々に漂著し、其村では必ず新たなる祠として之を祀つた故に、此地方には天王の社が次第に多いのだといふことである。是は勿論分靈であつて、本社の移轉では無いのだが、さうして次々に漂著せしめるといふことに、此神の教義は存したのかも知れぬ。津島は京都で八阪神社と謂ふ所の祇園樣を祀つて居る。諸國の田舍でも舊暦六月十四日に、祇園に供へると稱して胡瓜を川に流し、それから以後は胡瓜を食はず、中に蛇が居るからなどと説明するのが普通である。思ふに此瓜も亦一つのうつぼ舟であつて、自然の水の力の導きのまゝに、次から次へ宣傳した舊い時代の信仰の風を、無意識に保存するものであらう。神が最初に蛇の形を現じたまふことは、隨分古くからの日本の習はしであつた。大和の三諸山《みもろやま》の天つ神も、蛇の姿を以て大御門に參られた。而うして之を世に傳へたと稱する家も、亦其氏の名は小子部《ちひさこべ》であつた。

　

　　（附　記）

「昔話と文學」の中に掲げた「うつぼ舟の王女」といふ一篇を、此文と併せて讀んでいたゞきたい。彼はこの古い言ひ傳への既に説話に化してから後を説いたもので、こゝに述べたことゝ重複せぬやうに注意してある。「海南小記」の「炭燒小五郎がこと」も、この一卷の姫神根源説と小さくない關係をもつて居る。書いた時期はやゝ隔たるが、筆者の見解には大きな變化は無いのである。

　

(188)　　　　　小野於通

　

　　　　　　　　　　一

　

　吉川英治君の「宮本武藏」には、お通といふ同じ故郷の美女を出して來て萍蓬流離させて居るが、是をしまひにはどうする積りであるのか、我々見物には可なり氣が揉める。光悦や澤菴は知名の士だから、そつと活かして置くにちがひない。佐々木巖流は行く先がわかつて居て、それが又無くあはれにも思はれる。本位田又八とお姿とは、烏有先生だといふからどうなつたとしてもよい。獨り我々が作州の古人物の中で、兼々ゆかしく思つて居るお通といふ女性が、斯うしていつまでも旅の空で年を取つて居るのは、人をして惜春の情に勝へざらしめる。もういゝ位に死ぬ者なら死ぬ、神になつて昇天する者なら又さういふことになるやうに、したいものとさへ思はれる。

　歴史小説を書く人の、是は隱れたる讀者との約束であると私などは解して居る。近頃はどうした拍子でか、岩野泡鳴・島崎藤村、傳記資料のやゝ豐富に過ぎたる現代人を、文藝にする風がふと流行り出したが、以前は一般に雲間の龍の如く、僅かに片鱗を隱見するやうな史上人物を捉へて、成るべく自在な筆を揮はうとした者が多かつたのも、有りやうは社會大衆の既に認めきつて居る史實に、背き又は楯突くことが出來なかつたからである。娘にお通といふ名を附けた例は、三勝半七の淨瑠璃に一つあるが、尋常の親には出來ぬことであり、又大きくなつてから當人又は世間が、さう呼び替へるといふことも稀だつたやうに思はれる。女の名のファンシイは近世に入つて、ちよつと驚くほど(189)も發達して居る。女中に限つて附けちれた松や未、きよ・はる・およう・およしが有つたやうに、おさん・おたまにも定まつた用途があり、おさよやお鶴やお菊には全國共通の物語さへ出來て居るのに、今日はもう其一つをどこの家庭で採つてもよいことになつて居る。女性に一人々々の名が入用になつたのが、近世の新しい傾向だつたからかと思はれる。以前の女は知らぬ人に、名を呼ばれることを欲しなかつたのである。我群の中ではそれ／”＼の地位による名があつて、所謂固有名詞は無くてもすんだ。誰からでも勝手に名を呼ばれてよい婦人は、家を離れて孤立の生活をする者だけで、其數は甚だ限られて居たのである。名を忌む俗信が漸く薄れて、澤山の女の名の需要が起り、是まで知られて居たものが片端から、普通の人たちにも付與せられることにはなつたが、それでもまだお通などは、さう普通では無かつたやうである。名がよすぎるとかよくないとかいふ感じは、近頃でもまだ殘つて居る。宮本武藏の時代の美作《みまさか》の美女で、於通と名乘り得たのは恐らくはたゞ一人であつたらうとさへ思ふ。近世著名の女流文人、讃州の井上通女なども、或はミチと謂つて居たのかも知れぬが、始めて聽いたときには私は之を小野於通と混同して居た。それ程にも通は珍らしい女の名だつたのである。

　

　　　　　　　　　　二

　

　美作の於通は久しい後まで、其記憶が幽かながら土地には傳はつて居た。この美人が二十九歳で昇天してから、百五十二年目の享和二年に、血の繋がりを持つといふ岸本某が、江戸から還つて來て祠の前に記念碑を建てた。山本北山が頼まれて其文を書いたのが、東作誌に録せられて今も傳はつて居るから、之に基づいて又色々の解釋が出來て居ることであらう。勿論信じ難い傳説が時と共に附加はつて居るのであるが、さういふ中からでも、尚昔の世の人の心を掬むことが出來るやうで、又無く我々にはなつかしいのである。

　小野於通といふ問題を明らかにする爲にも、一通りは知つて置かなければならぬ事蹟である。美作國の於通は平沼(190)首相の郷里、津山の城下から東へ一里餘り、押入下村の地士、岸本彦兵衛の娘であつた。五歳で歌を詠み、七歳で機を織り、技藝典籍何一つとして暗からぬ才媛であつた。生れた其夜から奇瑞が多く、風貌擧止共に常倫を絶して居たけれども、美人の聞えが高かつた故に、京都の有力者から所望せられて十六の年に嫁入をした。祝言の盃の晩にそこを拔け出して、一刻の間に親里に歸つて來てしまつたので、愈々その神通あることが認められたとある。故郷の人たちに永く記憶せられたのは、主として是から後の二年間の事蹟であつたらう。無論近頃の巫女には此樣な氣高く美しい者は無かつたが、通女も亦患を却け祟を除き災を攘《はら》ひ病を癒す、奇驗あらざる無し、其名大いに遠近に聞ゆとあつて、同じ類の營みをして居たのである。十八の年には再び父母を辭して諸國の旅をした。母の氏を冒して其名を小野於通と稱す。かの天正中に和歌を善くした所の小野於通とは、もと別人であつて全く關係が無いとわざ／＼斷つて居るが、此點が自分のもう一度考へて見たいと思ふ問題である。

　京都では於通は宮中に召されて、貴き御方の御爲に祈?し奉つたといふことが、岸本一族の殊に眉目とする所であつたらしいが、是が亦傳説の最も御伽草子的なる部分でもあつた。御病は龍蛇の祟りなりとして、日の御座《おまし》に十二の壇を作り、壇毎に水桶を置いて金銀の幣を立て、物を供へ香を焚いて至心祈念すれば、忽ちにして桶の中の水湧き上り、小さき蛇騰り躍つて咬み合つて皆死し、御病は乃ち平癒したまふ。御喜びのあまりに御手づから白神大明神の神號を書きて下し賜はつたといふのは、珍らしくも又注意すべきことであつたが、後世子孫の者は白神大明神を通女が生前の名と解して、現に廟前の石にも之を刻して建てゝ居る。それが故郷の村の天神社の境内に在るといふことだが、それから後又どういふ風に變化して居ることであらうか。實地に就いて明らかにして置きたいものである。

　何にもせよ虚言を吐かうといふ人は無かつたと思はれるのに、話は百五十年の間に既に斯ういふ形にもなつて居るのである。美作の於通が修法效を奏して後、なほ引留められて後宮の列に加はつたといふことは、固より記録にも合はず、いよ／＼以て有り得べからざることであるが、是にも亦一つの小督局《こがうのつぼね》式の語り傳へが殘つて居る。彼女は宮中(191)第一の美女として、天人といふ名を以て知られて居たにも拘らず、寵榮に耽らず歌舞を好まず、終に一章の和歌を壁上に題して、杳然として九重を出てしまつた。其歌の句に、身のさがのこす草の菅薦とあるのを見そなはして、然らば嵯峨に隱れたのであらうと御解きなされ、其行方を捜しに廷臣を御遣はしになる。嵯峨には果して新たなる草の菴が結ばれて居て、其主の名は小野氏であつたが、人は既に去つて又一首の歌が、婢女の手に托して遺されてあつた。

　　　求めなよ花も紅葉もおのづから

　　　したふ心のうちにこそあれ

といふのが、何とやらん天龍大覺の老師のやうな口吻であつたのもおもしろい。然らば是非も無いと其まゝにさし置かれると、此地に三年の間修業して神通は益々高く、頻りに名山靈峯を跋渉して、飛翔すること鳥獣の如くであつた。今ある愛宕山の町石《ちやういし》といふものは、衆人登攀の勞苦を憫んで、此婦人が建設したものだとも謂つて居る。この終りの一條は我々に取つては一つの手掛りである。愛宕山の舊誌又は口碑には、多分は町石を立てた日の記事があるであらう。それと作州での傳承とはどうちがつて居るであらうか。假に前者が何等の旁證をも供與しないにしても、しかも多くの老女化石譚に於て見られる如く、斯ういふ山に登つてあるいたといふ一種の女性には、記念を結界の石に留めたといふ傳説が、必ずと謂つてもよいほどに毎度附纏うて居るのである。

　

　　　　　　　　　　三

　

　吉野御嶽の都藍尼《とらんに》を始めとし、山嶽を修練の道場として室家の生活を省みず、孤獨漂遊の日を送つて居たと傳ふる女性は、稀だといふのみで既に十指を屈するほども日本には其名を知られて居る。所謂神仙傳中の人物として見るときは、この岸本家の小野於通などは、近世に接して居るだけに寧ろ幾分か凡庸に近い點がある。第一に旅をして居たかと思ふ歳月がやゝ短く、その居處が又餘りにも都市に近かつた。後に繁華を憎んで去つて故郷に歸り、父母血族の(192)悲歎の下に、二十九年の花やかな生涯を閉ぢたといふのにも人間味がある。其日は寛永七年の九月十三日、辭世の歌といふ、

　　　いつまでか散らで盛りの花やあらん

　　　今はうき世をあきのもみぢ葉

の一首が、故郷の人々に記憶せられて居るといふのも、かゝる境涯の女としては絶えて前例の無いことであつた。事實には誤聞があり、又空想の侵蝕する餘地もあるが、斯ういふ詞章に至つては覺えたまゝを傳へるの他は無かつたらうと思はれる。しかも此等の吟詠の中からも窺はれるのは、單なる此時代の上流の教養、又はやゝ樣式化した人生觀だけで、些しでも塵表に卓越した神女の俤などは無いのである。傳説と現實との交錯する境堺線には、素より斯ういふ事相は起り易かつたかも知れぬが、一つには又近世の力、即ち巫道の末勢を示すものと私たちには説明し得られるのである。

　巫女と文藝との年久しい關係を究めようとするには、寧ろ我々の見聞に近い此種の零落?態から、入つて行く方が自然である。たとへば淨瑠璃の歴史と、切つても切れぬ因縁を引いて居る小野於通の問題の如きも、今日知られて居る種々の文書資料を幾ら整理して見たところで、到底この一箇の同名別人と稱する作州の一女性が、供與するだけの暗示は得られない。淨瑠璃の小野於通の傳記として、何よりも始末の惡い點は、年暦を算へると數十年の喰ひちがひ、故郷と終焉の地とを尋ねると東西に飛び離れて幾つもあることであるが、是などは作州山村の偶然の一例があるばかりに、或は他にもまだ幾人かの同名異人の次々出現したものとしでも差支への無い事情が、あつたのではないかといふことに心づかしめるのである。近世の雜書に此女性の出自を説いたものは數多いが、何れも風聞を書留めたといふ程度のもので、それを否認しても誰からも故障が出ぬやうな話ばかりである中に、獨り信州松代の眞田氏に由縁があつたといふ説のみが、後裔と稱する者の主張もあり、又書いたものも殘つて居るといふことで、幾分か尤もらしく聞(193)え、追々に他の言ひ傳へを排除して居るやうに見える。しかし是とてもよく見るとやはり心細い證據で、現に自筆本だといふ金葉集の奧書は、天正十一年とあるさうだから、お通が信州に來たといふよりは五十年も前のものであり、しかも是には美濃國北方里小野政秀娘とあるさうだから、明らかに他の書の記事とは兩立しないのである。最もよく引用せられる望海毎談などは、それ自身にも大きな矛盾が有るやうだが、是には前水戸家の藩士小野和泉といふ者の女といひ、一話一言などに載せて居る玉露證話といふ書には、播州｜網干《あぼし》の産とあるさうで、共に晩年には一人ある娘の縁に附いて、信州に引移つたといふことになつて居り、又かの十二段の草子の作者だといふのだが、斯んな片端だけの一致では、實は證據が多いといふことにはならぬのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　それよりももつと廣汎なる一致が、殆と有る限りの於通傳記の間には認められるのである。美作の同名異人といふものをも引きくるめて、どれも是もぢつとして生れ在所に止まつて居なかつたといふことが其一つである。それから世の常の家刀自の生活に就かず、孤居し漂遊して一代を終つたといふ者の多いこと。次には貴人の寵遇を受けて、文學技藝の夙く世に認められて居たことも、すべての小野於通に共通であつて、たゞ其愛護者が信長・秀吉・家康、又は浮田秀家であつたとさへ傳へられる點だけが、書物によつて區々なのである。後世の人の考へでは、是ほど出色の容姿才能をもちながら、斯んな數奇な一生を送つた女性が、さう幾人もあらうと思はれぬのは尤もであるが、それにした所で經歴も年齡も此通りちがつて居るものを、此點ばかりに依つて一つだけが本當で、他の説は皆誤りと見ようとしたのは、少し亂暴な斷定のやうである。

　日本に淨瑠璃といふかたりものゝ現はれたのは、織田信長の時代より更に前だといふことは、江戸の學者が既に證明をして居るのだが、それにも拘らず我々はまだ一般に、是と小野於通とを全く關係の無いものとは考へようとしな(194)い。或は十二段の原作者では無いまでも、それを新たに三味線に乘るやうに改作したのが彼女であらうとの説もあるさうだが、さうなつて來ると話は又別で、文學史上の取扱方も、自然に今までとは變つて來なければならぬ。この一つの作品が度々の改定を經て居ることは、何れの點から見ても疑ひの無いことで、寧ろ此中から本有の部分といふものを見つけ出す方が手數がかゝる。同じ外題の諸種の傳本には詳略の差があるは勿論、藥師如來の十二因縁に托したといふ段節の數さへ、他にはもつと少ないものもあるといふ。それを私は比較して見たことはまだ無いが、今ある流布本一つからでも、その經過はやゝ辿つて行くことが出來る樣に思つて居る。たとへば第十段の終りに、「駿河の蒲原田子の浦、吹上にこそ御着きある」の一句があつて、以下二段の御曹司病難の條などは、明らかに全體の筋とは立離れて居る。丸々新たに作り設けたもので無いまでも、他から持つて來て繼合せたことだけは想像してもよい。元來長者の申し子の物語で、末がめでたし／＼を以て結ばれぬといふことが既にかはつて居るが、是は私などの見たところでは、姫の配偶者の貴公子を牛若丸とした結果で、ちやうど宮本武藏一流の、歴史的拘束とも名づくべきものであつたらしい。それと今一つは近世の「敵討たず」のやうに、やゝくたぶれた流行文藝の趣向に、新生面を開かうとした試みとも見られる。

　淨瑠璃御前の物語に牛若丸を取合せた趣向は、現在知られて居る最初の小野於通、即ち織田家の侍女といふそれよりも又古い。しかも前には無かつたといふ確かな書證も無いが、少なくともこのかたりものゝ名稱には、是が義經記の一外傳だといふ意味は現はれて居らぬのみか、又其構造から見ても判官はどこまでも脇の役で、鬼一法眼の場合よりも一段と關係が淺い。其點が矢矧の長者金高、もしくは母は此宿の遊女といふよりも、遙かに拔差しのなり易い人物である。淨瑠璃の名の起りは絶世の美女、特に峯の藥師の靈驗によつて、奇異に授かつた珠玉の如き姫であつた爲に他ならず、たま／＼源氏の有名なる御曹司が、東下りに通過した土地である故に、年代さへ構はなければいつでも二者を結びつけることが出來たといふまでゞ、必ずしも於通の如き才能の筆は要しなかつたのであるが、私はなほ雙(195)方の知識を兼ね備へ、且つ是ほどにまで其改作を流布させたのは、必ず鳳來寺山下の人であり、又女性であつたらうと思つて居る。即ち他にもまだ顯はれない幾人もの「小野於通」があつたものと思つて居る。以前「和泉式部の足袋」といふ題の下に、私は一度この考へを述べたことがあるが、鳳來寺の御本尊の靈驗を語りあるいた女は、群をなして東三河の山間に住んで居たやうで、その説話の一つに、今昔物語の鹿母夫人とよく似たものは、遠く北九州の村里にまで運ばれて居り、その鹿のやうな足をした美女といふのが、同じく亦矢矧長者の申し子であつた。それから今一つ、瘡を病んで藥師如來と歌問答をしたといふ話なども、日向の法華嶽寺にあるものは主人公が和泉式部であり、伊豫と備中と美濃と上野とに在るものは、共に小野小町の傳説として今もほゞ信じられて居るが、是も亦別に失矧の宿での出來事といふ例があつて、歌も事蹟も同じなのだから、どうやら三河の峯の藥師から、國々へは持つて廻つたらしいのである。問題はかの淨瑠璃を改作したと言はれる歴代の小野於通と、この東西の藥師の御堂に於て、歌によつて奇瑞を得たと傳へられる小野小町と、二人の小野氏女性に何ぞの關係が有りはしないかといふ點に在つて、自分はそれを肯定することがやがて出來るものと思つて居る。

　二つのまだ十分に究められない事實は、東三河の村々に近頃までも語り傳へられて居たといふ淨瑠璃御前の物語といふものゝ内容で、是は直接にはまだ耳にしたことは無いが、何でも藥師に兒を?つて鹿の子を賜はつたのが、この姫であつたといふ筋のものらしい。心がけて居たならば全文がわかる時が來るかも知れぬ。今一つは其淨瑠璃御前の遺跡と稱する處が此地方には數多く、そこでの言ひ傳へは大抵は十二段の草子の外であつた。淨瑠璃御前はたしか安永七年といふ年に、岡崎附近の或寺で六百回の遠忌を營んで居る。さうすると治承二年、即ち以仁王《もちひとわう》旗揚げの年に歿したことになるのだが、そんなことは勿論十二段草子には見えて居ないのみか、土地では又それよりもずつと後、或は近世と謂つてもよい頃まで、姫が冷泉《れいぜい》ともいふべき侍女一人をつれて、諸處を經廻つて居たといふ話が殘り、その菴室の跡や墓所といふものが幾つかある。それを有り得べからざることゝ認めるには私も異存は無い。たゞ斯ういふ(196)漠然たるものゝ集積又は比較によつて、如何に後世が誤り信じ、もしくは語りものゝ主人公とその語り手の名とを、どういふ風に混同して居たかは判つて來ることゝ思ふ。

　

　　　　　　　　　　五

　

　八十翁疇昔物語には、淨瑠璃の初めを説いて、小野おつうといふ遊女云々と記して居る。遊女はひどいと今の人は考へるであらうが、是はたゞ單に遊行する女婦といふまでゞ、此言葉の古い用法に近いやうである。現に御伽草子の中には「和泉式部といふ遊女」とも見えて居る。この意味での遊女としては、「身をうき草の根を絶えて」の歌を詠んだ女性などが親玉であるが、そのことは爰では後まはしとする。和泉式部の如きも九州南端から、北は陸中羽後までも足迹を遺して居る。曾我の物語と不可分なる大磯の虎も、中國九州まで出かけて居り、もつと驚くのは十郎五郎の母といふまんこう御前が、伊豫から土佐へかけての山間に住し、又東北にもこの珍らしい名の女が、鷲に兒を取られた話を傳へて居る。若狹の八百比丘尼などは馬琴の小説にも取上げられるほどに、關東東北には多くの記念物を留めて居り、又近畿四國までもよくあるいて居る。いくら八百年の生涯でも、現はれなかつた時期が長いのだから、八百になつてからはさう旅行した筈は無いのだが、到る處に傳はつて居る物語は、すべて庚申講の晩に、異人に饗せられた人魚の肉、もしくは九穴の貝を食べたことに一致して居る。是はたゞ八百歳の長壽を得た女性の話をする比丘尼の意味であつて、手分けをして諸國をめぐり、同じ一つの話を配つたことも、大よそは先づ想像することが出來るのである。小野於通の此等の先型とちがつて居る點は、自身作者としての名を世に留め、淨瑠璃の御前と二分れになつたことであるが、なほ其流派を傳へようとした者はあつて、單に時勢が變り統一が保てなくなつた爲に、次第に其藝能を男の大夫に、引渡さなければならぬことになつたのかと思ふ。京都では自ら於通の下女であつたと名のる千代といふ女が居て、於通の手紙といふものを持つて町の辻をあるき、高らかにそれを讀んだので、文ひろげの狂女といふ名(197)を博したことが畸人傳にも見えて居るが、其ふみはたゞのめでたい空漠たる文藝に過ぎなかつた。さうして「千代が文」といふ語は東北地方の民謠にも出て來るから、相應に又著名なものであつたのである。小野於通に關する色々の風説は、多分は斯う謂つた後繼者の口から出たものであらう。彼等も出來るならば是を又新たなる物語ともしたかつたものであらうが、奈何せん當の本人があまりにも多くの貴人に知られ、もしくは知つて居る人が追々と名士になつて、あまりに現實の晴がましい生活に入つてしまつた爲に、終に十分に詩化し神秘化することが出來なくなつたのである。旅の女性が若い女弟子をつれあるいた例は、古くは白山立山に登つて石に化したと傳へられる者から、江戸中期まで殘つて居た伊勢熊野の比丘尼にも見られた。是が大昔以來の語部《かたりべ》の技藝を、久しく保存し得た要件の一つであつたらしいのだが、過渡期に際會した小野於通のみは、幾分か都府上流との因縁が深くなり過ぎて、所謂遊女の本分を守り得なかつた爲に、其行動の跡は中央の小區域に限られ、個人としてはやゝ高名になつた代りに、その千年の道は衰へてしまつて、僅かに雜然たる殘景を留むるばかりとなつたのである。

　但し私などが考へて居るやうに、もしも小野於通といふ女の名が、たつた二人や三人に專屬したもので無いとすれば、この責任も亦時代と社會、もしくは小野一黨の共同して負ふべきものであらう。全國の小野氏の中には、無論色々の別系統の者もまじつて居るが、とにかく現在は其同姓の或者が、曾てどのくらゐ大きな貢獻を、日本の精神文化の上に爲し遂げたかを、囘顧し得る者などはもう一人も無ささうに思はれる。之に反して最後の小野於通までは、まだ少なくとも家の傳統を失つては居なかつた。彼女の一族の凡俗に超えて居た特徴は、第一には精細なる記憶力である。次にはその家の誇りを、美しく綾ある言葉を以て説き立てる技能であり、第三には又之を新たなる土地に試みて、各自の實際生活に利用しようとした智力であつた。此人々が轉々移住せず、全部が土に根を卸して遠き雲井のよそを顧みなかつたら、日本人の信仰はもつと分裂し、地方々々の思想は愈々隔絶して、到底この新國家に於て見るが如き、容易なる統一は期することが出來なかつたであらう。或派の人々は上代の記録によつて、以後千敷百年の變遷を無視(198)しようとするらしいが、國民は必ずしも保存ばかりの生活をして居なかつたことは、僅かに卜部氏以來の神道解説の、目まぐるしい新陳代謝を見てもよくわかる。それを全國の端から端まで、此通りの一致に導いて來たのは、別に新たなる感情教育の根源を共通にしたものがあつたからで、平たくいふならば移住文藝の力、もしくは小野氏鈴木氏等の單一なる世襲空想の御蔭だと思ふ。それを本元の者がもう省みなくなつたのである。世間が之を否認するのも必ずしも忘恩とまでは言へない。

　つまりは文藝が口の言葉から筆の文字に移つたと同時に、此等の家々にも昔を忘れるほどの激變が起つたのである。彼等が定住して土を耕すやうになれば、女房は乃ち只の家刀自で、女から女への相續は先づ無用になる。音曲や歌舞伎が久しからずして、すべて男子の職業に化したのも其爲で、小野於通はちやうど其境目の女性であつた故に、特に波瀾の多い生活を展開したのかと私は思ふ。尾張�ｺ川家の簾中に琴を指南したと言はれる一人の於通などは、神子上典膳《みこがみてんぜん》といふ劔客に小野の苗字を讓つた、後の小野次郎右衛門是なりと望海毎談には見えて居る。豐臣秀吉の夫人北政所に祐筆として仕へたといふ又一人の小野於通は、洛東｜瀋谷《しるたに》の玉章地藏堂の本尊を、手づから修理彩色した。この像は小野小町が艶書を集めて作つたと傳へられ、於通は即ちその小町の後裔であるが故に、この御像を崇敬したのだといふことが、山州名跡志その他の書にはある。小野次郎右衛門の話は甚だ心もとないが、小野小町の方はうそとも思へない。現に淨瑠璃御前の本山鳳來寺の峯の藥師には、瘡《かさ》問答の歌の話があつて、東西の諸國ではそれを小野小町の信心譚として傳へて居る。小町と三河國との因縁は久しかつた。於通がこの同姓の大先輩に、私淑しなかつた筈は無いからである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　小野小町の遺跡が全國に充滿して居る事實に對しては、江戸期以來の學者たちも、之を數多くの同名異人があつた(199)といふ以外に、説明のしやうの無いことを認めて居た。しかしそれだけではまだ何分にも始末のつかぬことは、その小町が一人々々名歌を殘し、又は絶世の美女であつて、何れも身を浮草の生活を送つて居たといふこと、殊に事蹟が互ひに結び合つて、どこを境目とも見定めることが出來ぬ點である。謠曲に脚色せられて居る幾つかの何々小町は申すに及ばず、出所の最も不審な玉造壯衰書に至るまで、一つを拔出して別系統のものと、言ひ得るものが無いのはどうしたわけか。或は久しい間の文學史上の取扱ひが、一人と思ひ込んで居たからといふこともあらうが、それにしても後から後からの傳説が、一樣に小町らしさを保持して居るのは、どうも紛亂の爲とは思へないのである。私は是を小町の物語をもつてあるく女性が、もとは大よそ一つの中心から、發足したからでは無いかと想像して居る。西は九州の熊本附近から、一方は奧州羽州にかけて、列擧し得ないほど、の多くの小町塚、又は小町の誕生の井の類にからんで、今なほ記憶せられて居る數々の言ひ傳へを集めて、細かに分類比較することが出來たら、多分はこの想像のさほど空なものではないことがわかるだらうと思つて居る。

　小野小町の物語をしてあるく者を、直接にその小町が來たといふ風に傳へることは、今日ならば勿論をかしいことであるが、是はその語り手が自身も上臈であり、しかも神憑きなどゝ同じ形式に、一人稱を以て昔の事を述べたとしたならば、誤解で無くともさういふ風に呼ぶことはあり得る。現に淨瑠璃御前の奇瑞を説くものが、三河では姫自身のやうに、言ひ傳へられてゐる例もあるのである。しかし原因は他にもなほ求め得られる。たとへば小野於通の如く、小野の家にゆかりのある女性が、自分は其流れの未を汲む者と名のつて、先祖の美女を語つて居たとしたらどうであらう。或は所謂有縁の地に據つて、氏神御本尊の靈驗を敍べ、もしくは地名の來歴を説く者があつたとしたなら、人の悦んで之を信じたことも、必ず亦我々が普通の語りものに對するのと異なるものがあつたことゝ思ふ。奧州では高館落城の悲史以前から、夙く熊野の信仰が弘まつて居て、今ある鈴木氏の若干は其際の移住であつたらうと思はれるのに、なほ鈴木龜井兄弟の忠烈を説く物語が、深く根を下して家傳の改作をさへ促して居る。まして多くの小野氏は(200)自らも神に仕へまつり、且つ尋常に超えたる祖先景慕と家の誇りとを抱いて居た。是に向つて昔を説く者が、假にまだ土着をせぬ第二の小野氏の人で無くても、なほ痛切なる印象を受けて、徐々として自家の又新たなる口碑を?釀せずには居なかつたであらう。しかも少なくとも戰國の世の終りまでは、優雅なる文藻を抱いて他郷を經囘して居た小野氏の女性があつたことだけは、二人以上の於通の例によつて、大よそは明らかになつたのである。

　

　　　　　　　　　　七

　

　日本民族の國内移住史は、今でも相應の史料が具はつて居るに拘らず、どうしたわけかまだ一向に明らかにせられて居らず、學者は依然として蝦夷だの熊襲だの出雲族だのとばかり言つて居る。眼前の固有文化の構成を説く上に於て、是は可なり大きな割引といはねばならぬ。私の氣をつけて居るのも、たゞ文藝成長の一小局面に限られるが、大體に移住には二つの方式、即ち直接に甲から乙に赴くものと、其前に或長さの捜索期、カナアン時代ともいふべきものを經て、漸うに一地に定住する者とがあり、小野氏などはその後者に屬する著名なる一つの例であつたやうに考へて居る。それを詳しく説くことは爰ではむつかしいが、證據は幾つも擧げられるやうに思つて居る。神に仕へて居る全國の小野氏が非常に數多いといふことも其一つである。土を耕し濱に網曳く生業などゝはちがつて、斯ういふ地位機會はさう行く先々には横たはつて居ない。乃ち選擇し又計畫しなければ、容易に占據し得ない職業である。無論この中には起立が至つて古く、或は外からの移住をさへ信じないものも出來て居るが、少なくとも兼て常民に立優つた力を養つて居る者で無ければ、土地の信仰を統御し指導することは出來なかつた筈である。それが自分々々の氏の神を奉じて入つて來たか、たゞしは又今まである神に、新たな祭り方をもたらしただけであつたかは、概括して言ふことは出來ぬが、少なくとも現在知られて居るものには、後者に屬するかと思ふ場合が多い。さうして當事者は却つて互ひに心づかぬ樣だが、とにかくにこの多數の小野苗字の一致といふことは、何か共同の中心の外部に在つたことを(201)推測せしめずには置かぬのである。

　神を氏人に非ざる者の手によつて御祭り申すといふことは、日本の神祇道としては一つの大きな變革であつたと思ふが、此風習の始まつたのも新しいことでは無く、神の裔孫では無くて從者の末だといふ者が、神職を世襲する例も現在は數多く、固より小野氏のみとは限つて居ない。たゞ其起原に向つて尋究の歩を進めると、いつでも小野系統の言ひ傳へに行當るのは、或は此一門が特に有力なる一つの動力であつた爲かとも思はれる。古いところでは太宰府の天滿宮の座主三綱は菅公の後裔であつたが、其下に三宮司又は三家の文人といふ者があつて、三家とも小野氏であつた。本姓は是も菅原だと謂つて居たが、どうして小野を名のつたかは説明して居ない。大阪天王寺の秋の坊は、五十何代も續いた天台派の妻帶僧で、是も小野氏であつた。遠祖小野妹子は聖�ｺ太子の臣で、勅を奉じて一山護衛の任に當つてから、連綿として居ると稱して系譜があつた。さうした歴史が果してあるか否かを知らぬが、とにかく斯ういふ重要な地位にまで、いつの間にか就いて居るのだから古いことであつたとは言へる。さうかと思ふと他の一方には、可なり近代になつて入つて來たらしい例も關東東北にはある。つまりは同じ?勢が久しい間なほ續いて居たのである。一つも證據を擧げぬと無責任の嫌ひがあるから言つて見る。たとへば下野足利の小野寺氏は、今でも記憶せられるあの地方の有力者で、舊家とは言つても榮えたのは近世であつたが、是は名の示す如く、小野篁と小野小町との傳説に據つて、一つの信仰の中心をなして居た。出羽の小野寺氏は此家よりもやゝ古いが、是とても永慶軍記の時代を世盛りとした豪族で、それが支持して居た小町村の小野宮は、芍藥の名所となつて此頃まで、幾つと無き口碑を保存して居た。さうして兩家の移住は共に戰國の世を去ること遠からぬものと考へられる。

　それから今一つ、諸國の横山氏といふ舊家にも神職であつたものが多い。此家が小野の分れであつた證據はやゝ幽かだが、武藏七黨の横山氏の始祖は刑部丞野三成綱と謂つて小野氏であつた。其一族には下野に移つて小山氏となり、再び小野を名乘つた家があることは佐野本系圖に見えて居る。加賀の藩老横山男爵の家では、近世になつて京都の西(202)陣に、先祖小野篁の碑を建てた。多分は是も武藏から出たと言つて居たのであらう。東北では陸中宮古に近い黒森八幡の社職が横山の禰宜で、この先租は和泉式部と、阿波の鳴門で歌の詠みくらべをしたといふ面白い口碑があり、それを主張する爲に二百年ほど前に石碑を建てゝ居る。しかも此家では猿丸太夫の子孫だといふことを傳へて居るのである。東北の猿丸太夫に就いては、前にも「神を助けた話」といふ本で詳しく説いたことがあるが、根源は野州日光山の神話であつた。會津地方が其中心で、大昔こゝに朝日長者と呼ばれた小野氏が住んで居り、其娘の朝日御前に京方の貴人、有宇の中將といふのを聟に取つて、其間に生れたのが小野猿丸であつた。姿は猿の如くだが弓の名手で、二荒の大神を助けて神敵を退治した物語が、既に林道春の二荒山神傳にも録せられ、又それよりも更に數年古い繪卷も傳はつて居る。父母は後に男體女寶の二山の神と仰がれ、猿丸は大眞名子《おほまなご》の山の神になつたといふのだから、乃ち東照權現合祀以前の、此地の信仰にからんだ語りごとであつたのである。日光山誌などを見ると、小野といふ舊家の神職が爰にも有つて、江戸期の半ば頃になつて滅びた。さうしてその神を助けた話の内容といふのが、近江に古くからあつた俵藤太の傳説と別のものでないから、私は是を田原一族の移住に伴なふものと解して居る。それも一方に小野氏の如き文藝に秀で且つ信仰生活に親しんで居た人々があつて、この兩國に盤據した豪族を支持しなかつたならば、是ほどにも根強く又弘く、流傳することは出來なかつたらうとも考へて居るのである。

　

　　　　　　　　　　八

　

　神と最も深い因縁があつた故に、永く特殊の恩寵を承けて居るのだといふ言ひ傳へを、舊家が熱心に記憶して居るといふことは、少しでも不自然な現象で無い。しかし日本に於てはそれが一つのほゞ定まつた樣式に偏より、且つ弘く全土に行渡つて居ることを異とするのみである。是がもし或系統の特に有力なる干與に基づくものだとすれば、小野氏の歴史などは第一番に尋ねて見る必要があるのである。九州では豐後佐賀關の早吸神社の祠官が、もとは小野氏(203)であつた。此家の由緒は表向にはどうあつたか知らぬが、地方で語り傳へて居るのは昔美しい愛娘があつて、たしか大野郡の沈墮淵《ちんだのふち》の水の神に娶られて、自分も蛇體の神になつたといひ、以前は毎年日を定めて親の家に還つて來て宿したのを、或時窃かに覗いて見たものがあつてから、とこしなへに人天の往來が絶えたとも謂つて居る。是と半分以上共通した傳説は、今でも數多く我國東西の田舍に分布して居る。或ものは既に昔話と化し去つて、智謀によつて蛇の聟を追ひ退け、又は安全に凡俗の生活に復したといふのを結末として居るが、家によつては今でも一門の中から、さういふ神女を出したことを誇りとし、少なくともさういふ附近の風説を否認しないものが有るのである。豐後では緒形三郎、越後では五十嵐小文治のやうに、人と靈物との婚姻によつて、生れたといふ勇士の末も傳はつて居た。私が問題にしたいと思ふのは、遠い神代の昔ならばいざ知らず、是が何度も何處でもくり返されて、永く後の世の語り草となつて居るのには、單なる人間の誤聞又は剽窃といふ以外に、何か之を運んであるく機關が無くてはならぬ。それが如何なる組織と方法に依つたものか、もうわからぬと言つてしまへはそれ迄だが、文字の適用が制限せられて居たとすれば口言葉、それも安らかに又美しく列ねられた言葉であつたことだけは、少なくとも否認することは出來ぬであらう。我々がかたりものゝ歴史と、之に携はつた人々の出自とを、淨瑠璃姫以前に溯つて尋ねたいと、思ふ動機は全くこゝに在る。於通一人の傳だけなら實はどうだつてよいのである。

　神を助けた小野の猿丸太夫の物語を、近江から出たらうと想像する理由は他にもある。琵琶湖南の村々は、自分の知る限りに於て、最も數多くの小野氏口碑の、重なり合つて存在する地域である。三國傳記には小野の神主、小野一萬大菩薩の神託を受けて、百濟寺の渡重僧都を磨針《すりはり》峠に迎へに出た話が既に見え、近世は又木地師の祖神と仰いで居る小野宮惟喬の皇子、小椋《をぐら》の山中に御入りなされんとして、經過したまふといふ遺跡が幾ヶ所かにあり、其上に又小野時兼といふ美男、宿縁あつて平木の淵の龍女とかたらひ、別るゝに臨んで玉の筥を贈らるといふやうな傳説も、多くの社と寺に殘つて居る。此等の奇譚には一つとして孤立したものは無い。語れば又長くなるが、蛇の妻が寶の玉を(204)遺したといふ話などは、少しづゝ形をかへて九州では雲仙岳から、北は奧羽の果にも及び、殊に後者では是を三井寺の鐘の由來と、結び付けて説くことになつて居る。古く人の尊んで居る所謂豐玉姫説話も同系ではあるが、なほそれを斯ういふ形に改造したのは、最初は近江であつたやうに私などには考へられる。

　

　　　　　　　　　　九

　

　近江が我國第一流の小野氏の本貫であつたことは、既に新撰姓氏録に明徴がある。現在の滋賀郡｜和邇《わに》村大字小野といふのが其舊地と傳へられ、式内の小野神社が、今ある同名の御社だといふ推測もほゞ當つて居るが、しかもそこには小野小町の手具足場といふのがあり、又篁と道風とを祀る祠も附置せられてあつたといふことで、斯ういふ人々は近江以外の、且つ延喜式以後の名士であつた。小野氏の分散はもう久しい以前に始まつて居たのである。類聚三代格に存録した延暦四年の太政官符といふものは、我々に取つては有力なる資料である。當時族長の小野朝臣野主なる者は、既に山城の京に來て住んで居た。彼が朝廷に申立てた所に依ると、其一門の近江に殘つて居る子弟が、附近に在る猿女《さるめ》の養田の利に誘はれて、?女氏の婦人と縁組をして困る。單に舊家の名望を損するのみならず、猿女は異姓の女を貢進してはならぬといふ、昔からの御掟にも背いて居るから、何とぞ禁制して戴きたいといふやうなことが書いてある。この簡單な格の文からでも判ることは、古來｜語部《かたりべ》のつかさとして知られて居た猿女君氏は、有名ではあるが小野よりは低い身分の家であつた。それが悦んで小野家の若殿原を聟に取つて、往々にして女系の特權を小野の族の中に移して居たのである。この婚姻には勿論隱れたるやさしい動機があつた筈である。たとへば猿女の女性は眉目清く姿が美しく、もしくは才が慧しくして歌の詞が巧みであり、隣の里に住む若人の心を惹き、戀を切なるものにしたといふこともあつたらう。京都在住の宿老たちは其内情を察せず、ひたすら養田即ち女の家の富に、目がくれての所業のやうに見たのは、今もかはらぬ新舊の考へ方の相異であつた。太政官の命令が男女の仲らひを、統御し得たとい(205)ふことも想像せられない。果して此地方の?女君氏は永く著はれず、語りごとを以て世渡りとする小野氏ばかりが、漸を以て全國瀰蔓することになつたのである。天鈿女《あめのうずめ》命の遺跡は、他氏を以て繼がしむべきもので無いといふことは、古語拾遺の中にも強く之を主張して居るが、それは素より朝廷の御儀式に就いていふことであつた。平安の京に入つてから此家の職能は既に甚だしく衰へ、次第に繁榮した門黨の全部を、支持するだけの收入はそれからは望めなかつた。彼等が分散して諸國に入るに際しては、小野氏を名乘ることの便益は大きかつたことゝ思ふ。女性が出でゝ公に仕へる家で、他氏をまじへてはならぬといへば女系で相續をするの他は無い。それが我邦一般の婚姻習俗と、兩立しにくいものであつたことは明らかである。現に此家などは最初から、猿田彦の名を取つて家の名にしたといふ言ひ傳へをさへもつて居るのである。もしも有力にして聲望の高い小野の一族の隣人で無く、自由に次々の男の名を採つて、新たな家號を作ることになつて居たら、日本の語部の盛衰は、又一段と尋究し難かつたであらう。歴史の偶然は貴重なる一通の文書を留めたと同じく、幸ひにして永く小野氏の名によつて、國の特殊な藝術の埋没を防いで居たのである。

　或は迷惑をしたのは小野妹子の、正統の子孫であつたと言へるかも知れぬが、それは其結果が家の爲に、不利であつた場合にのみ認められることで、多くの名家が消えて跡方も無くなつて居る中に、獨り小野氏のみが、他の少數の似たる?況の下に在つた家々と共に、今でも到る處の國土に富み榮え、許多の有能の士女を輩出して居る。それが悉く母に猿女君氏の女を得た爲であつたとしても、なほ深く祖神鈿女命に感謝すべき理由がある。ましてまだ突留められない色々の原因はあり、全く別途の事情によつて、全國の小野族は今日の如く榮えて居るのである。寧ろ歴代の詞客才媛の中に、是ほど澤山の同姓の人をもつて居て、どんな由緒をでも空想し得るやうな地位に置かれたことを悦んでよいと思ふ。

　最後にこの後女君氏の血筋の遺傳、殊に婚姻に關する特殊なる慣行に就いては、文藝史の研究者に殘された問題が(206)まだ多い。私が爰に説き試みようとして能くしなかつたことは、たとへば豐後の緒形氏の元祖が、父を鱗のある靈物と言ひ傳へて居たことは、明らかに大和の三輪山の神傳を承け繼いだもので、是には大神《おほみわ》氏といふ家の名の、雙方に一致して居るのも偶然でなく、或は初期の移住を推測し得るが如く論じた人も曾てあつたやうだが、是なども背後に記憶と表現の技術の、尋常に優れた或別系の女性が、隱れて干與して居たといふことは無いかどうか。野州の田原氏が龍宮入りの物語を、故郷の近江から携へて來た場合などは、現に後々まで小野氏が其傍に附いて居たのだから、一段とこの想像を強くする。もしも小野氏の女性に容色と才藻と、信心と美しい夢と、思ひ揚がつた氣風とが附いてまはつて居たとすれば、それは小町から作州のお通にまで持續して居る。其中間の一人に曾て秀郷流の或大名に仕へて、技藝を其家の子孫に遺して、隱れて過ぎ去つた者が無いとは言へぬのである。中世の名家の系圖を檢すると、母は家の女房、もしくは母は遊女と注記せられた例は幾らもある。彼等が埋没して文學を自分一個の名と結び付けようとしなかつた間は、その傳統は永く絶えなかつた。近世小野於通が武將有力者の間に伍して、やゝ特異の存在とならうとした頃から、此道は乃ち衰へて、さしもの小野一族も終に凡庸の民とならざるを得なかつたのである。

　

(207)　　　　　　　稗田阿禮

　

　　　　　　　　　　一

　

　古事記の傳誦者稗田阿禮が女だつたといふことは、故井上頼圀翁の古事記考に由つて、先づ明白になつたと言つてよいのだが、其後此間題を省みた人も聞かず、況やさうすると如何なる結論に達するかといふことを、考へて見た者も無さゝうに思はれる。しかも前代日本の社會に於ける女性の地位といふものは折々論ぜられて居る。隨分と粗相な又不用意な話ではあるまいか。私はもし時間が許すならば、少しでも此事を尋ねて見たいと願つて居るのだが、それが心元無い故に爰にはたゞ問題のみを、後の學問ずきの新婦人だちに引繼いで置きたいと思ふのである。

　阿禮が女性であつたといふ説は、伊勢の學者たちが夙くから之を唱へて居た。井上翁は單に其説を是認支持せられた迄である。古事記の太朝臣安萬侶の獻序に、

　　時に舍人あり、姓は稗田、名は阿禮、年は是れ二十八、人となり聰明にして目に度《わた》れば口に誦し、耳に拂《ふる》れば心に勒《しる》す。即ち阿禮に勅語して帝皇の日繼及び先代の舊辭を誦み習はしむ

とある文章では、彼が男でなかつた證據も擧げられぬが、幸ひにして稗田といふ家名があまり類の無いものであつた爲に、今ではほゞ安全にそれが如何なる門統に屬した女であつたかを知り得るのである。其説の要點を紹介するならば、大和志料に引用した大倭社注進?の裏書なるものに、齋部連首《いむべのむらじおひと》・中臣大島連等、勅を奉じて稗田阿禮が語る所の(208)古事記を撰録す。今の古事記是也。阿禮は宇治土公《うぢのつちのきみ》の庶流、天鈿女命の末葉なりとあり、又天鈿女命の子猿女命神樂を奏す。永く子孫の女等神樂を仕へ奉るとある。猿女君《さるめのきみ》氏の人々が、天岩戸の由緒を語り、天鈿女の後裔たる廉を以て朝廷に仕へて居たことだけは、紀記の中にも明らかに見えて居り、稗田阿禮が同じく此神の末であつたことだけならば、古くは弘仁私記の序の註にも出て居るのである。大和には今の添上郡平和村に大字稗田があつて、式内｜比賣神《ひめがみの》社の所在地を以て目せられて居る。即ち多分一族の此邑に分居したものが、稗田氏と稱して朝廷には召されて居たのである。是だけが先づ主要なる論旨であつた。

　

　　　　　　　　　　二

　

　右の猿女君氏は、代々女を以て相續すべき理由のある家であつた。女神にして子孫あらんこと疑はしと、本居翁を始め多くの人は首を傾けたが、是は相續が必ず親から子に傳はるものとした上の議論で、神宮の御子良子《おこらこ》の如く幼少の時を限つたものは勿論、常陸鹿島の物忌のやうに、一生清淨に神より外の人には見えなかつた場合でも、定まつた家からばかり引續いて其役人を出して、之に由つて家職を傳へて居た例は現代にもまだある位で、男で無ければ世襲せぬといふ理由は無い。しかも世を追うて女系相續の風が珍らしくなつた爲に、猿女君の家では力を入れて、その特殊の事情を説いて居たのである。書紀の神代卷には「皇孫天鈿女命に、汝宜しく顯はす所の神の名を以て姓氏と爲すべしと勅したまひ、因て猿女君の號を賜ふ。故に猿女君等、男女皆君と爲すは此縁なり」とある。顯はす所の神とは猿田彦命のことである。後世には託宣を傳へ、且つ御祭の仲立をすることを顯祀と謂ふのだが、この朝廷の御昔語りに於ては、單に出でゝ應接の役に當つたことになつて居るのである。此顛末を古事記の方では、今少しく詳かに述べてある。

　　かれこゝに天宇受倍命にのりたまはく、この御前に立ちて仕へまつれりし?田毘古の大神をば、專ら顯はし申せ(209)る汝送り奉れ。亦其神の御名は、汝負ひて仕へまつれとのりたまひき。是を以て?女の君等が後、?田毘古の男神の名を負ひて、女を猿女君と呼ぶこと是なり云々

　さうして此次には海に漁して比良夫貝に手を咋《く》はれた話と、海鼠の口を紐小刀で切り柝いて、此口や答へせぬ口と謂つたといふ話と、二つの稍々おどけたる逸事が續いて居るのである。古事記には女性が猿女君と名乘つて朝廷に仕へた由緒のみならず、特に此家に關する記事が目に立つて饒多である。さうして稗田阿禮が亦猿女君の一類であつたことが證明せられたとすれば、この二つの事實には何等かの脈絡があるものと、想像することは無理でないと思ふ。

　

　　　　　　　　　　三

　

　今までの學者が女に其樣な能力があるであらうかと疑つたのは、所謂阿禮が誦する所の先代の舊辭を以て、前に推古天皇の御世に厩戸皇子たちの、編纂なされたといふ舊事本記などの如き、形の具はつた書物なりと解した爲であつた。なるほど其樣な長編の文章では、之を棒呑みに暗記することは、女ならば殊にむつかしかつたであらうが、二つの理由から其推測の正しくないことが知れる。一つには今ある古事記の本文に、既成の著述を撰録した痕の無いこと、第二にはそんなものが出來て來る位ならば、一人を頼んで記憶させて置くにも及ばなかつたと思ふことである。

　歴史の書物としての古事記の特色は、前後の記事の繁簡が平衡を得ず、時代の新しくなるほど省略の甚だしくなつて居る點である。日本紀の方では最も充實して居る繼體天皇以後の記録が、此方では少しでも保存せられて居ない。假に朝家の御都合で、編修は終つて筆録は未だしといふやうな、奇異なる中間があつたとしても、もしその事業が稗田阿禮の口によつて傳はつたものならば、斯ういふ形態は示さなかつたであらう。即ち彼の暗誦し得たるものは、單に昔からあつた正しい言ひ傳へといふのみで、所謂百八十部竝公民等の本紀といふ類のものでは無かつたのである。それを弘仁私記の序文などにはもう誤解して居るのみならず、太朝臣安萬侶の説く所も、餘りに重々しく由來を述べ(210)ようとした爲に、却つて本文の實際と合はぬことになつて居るのである。

　古事記は其體裁や資料の選擇から、寧ろ傳誦者の聰慧なる一女性であつたことを推測せしめるものがあるのである。例へば美しい歌物語が多く、歌や諺の興味ある由來談を中心にして、?々公私の些事が記憶せられ、政治の推移を促したやうな大事件が、却つて折々は閑却せられて居ること、從つて事蹟が幾分か切れ／”＼になつて居り、又僅かな思ひ違ひの交つて居ることなどは、即ち與へて保持せしめられたもので無い證據であつた。言はゞ史實としてよりも、心を動かすべき物語として、久しく昔を愛する者の間に相續せられて居た事情を考へさせられる。履中天皇が御弟の墨江中王に攻められて、難波の宮を逃れ出でたまひ、途より振囘つて宮殿の燃え上がる樣を、御覽なされての御詠として、

　　　はにふ坂我がたち見ればかぎろひの

　　　もゆる家むらつまが家のあたり

といふ至つて優雅なる戀の歌を録して居るなどは、幾ら古書でもやはり信じ難い點はあるといふ一例であつて、しかも其誤謬がまた際限も無く、我々の懷古の情を動かさうとするのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　阿禮が舍人であつたといふ記事は、亦一つの反對の理由であつた。是は漢字は借用だから當らなかつたたいふ迄で、まだあの時代迄は男女を通じて、低い身分の宮中の官員を、トネリと呼ぶ習はしがあつたのだから差支へが無い。たゞ問題は如何にしてさういふ女舍人が、御所近くにちやうど召使はれて居たかであるが、是は同時に又猿女君といふ家の、公けの職分が何であつたかの問題にもなるのである。造酒司の刀自を始として、他にもまだ世襲の女官は色々あつたらしいが、其中でも猿女は他の多くの御巫《みかなぎ》と共に、大嘗祭以下の宮中の晴の御式に、必ず參列すべき任務を持(211)つて居た。それが後代までの嚴重なる慣例であつた證據には、仁治三年十一月の大嘗祭に、始めて猿女が出なかつたのを稀代の違例と非難した記録があり、最近の大正年間の大嘗祭には略せられたが、元文三年の御再興の際には、わざ／＼山口中務少輔の娘を猿女に定められたことが、荷田氏の便蒙にも記されてあるのである。

　勿論其由緒としては久しい以前から、天岩屋戸の有名なる神話が援用せられ、それから轉じては年毎の御魂鎭めの祭に、猿女君の奉仕するわけが説明せられて居た。自分の想像する所では、その大切なる役目があつた故に、かのうけふねの舞の由來談は繰返して語られたので、物語があるに由つて儀式に參加するを許されたのではあるまいと思ふが、それにしては此家に傳はつた所謂舊辭の豐富であつた割に、山城の都になつてからは、猿女の出でゝ仕へる職分が多く無かつた。是は恐らく齋部氏の失意と同樣に、何か新たな原因があつて、此家門の漸く衰へたことを意味するものであらう。即ち彼等が世盛りは遙かそれよりも以前であつて、もとは廷臣が耳を傾けて、女を主人とする家の故實を、聽くべき場合はまだ色々とあつたのかと思ふ。古事記の最も精彩あり且つ重要なる天孫降臨の一段が、殊に丁寧に天宇受賣の功勞を敍述して居ることを考へると、其傳承者が稗田氏の阿禮であつたといふ事實を、偶然のものとは認めることが出來ぬ。寧ろさういふ女性であつた故に、最初から舍人として御左右に奉侍して居たのかも知れぬのである

　然るに延喜式の時代よりも猶遙か以前から、猿女はたゞ縫殿寮の一屬員に過ぎなかつた。何故に縫殿に屬せしめられたかは自分にはまだ説明し得ないが、兎に角に鎭魂の御祭には緑の袍緑の裙、縹《はなだ》の帶に緋色の?《ひれ》を着けて、式に列したらしいことが此寮の式に見えて居る。しかも其員數は僅かに四人で、尚往々にして他氏の者が、採用せられて此任に當ることがあつた。彼等が永く古來の傳統を保持して、故郷の地に安住し得なかつたのも、誠に止むを得ない事情であつたと思はれる。

　

(212)　　　　　　　　　　五

　

　稗田氏が猿女君であつた最も明白なる證據は、西宮記の「猿女は縫殿寮の解に依りて内侍奏して之を補す」とある條の裏書に、延喜二十年十月十四日、昨、尚侍奏せしむ。縫殿寮申す、?田福貞子を以て?田海子が死闕の替りと爲さんと請ふ云々とある。姪か娘か兎に角に同族の女子を以て、缺員を補充しなければならなかつたのである。次には天暦九年正月二十五日、右大臣奏せしむ。縫殿寮申す、官符を大和近江の國の氏人に給せられて、猿女三人の死闕の替りを差進せしめん云々とある。即ち大和北部の稗田村が、彼等の本居であつたらうと推測する根據である。都が平安に遷つてから後は、大和の猿女の振はなかつたのは是非も無いが、一方近江の同族にも誠に氣の毒なる混亂が始まつた。彼等の居住したのは京に近い湖西の地と思はれるが、其場所は今明らかで無い。たゞ猿女の養田といふものが今の和邇《わに》村の近くと、國境を越えて山城の小野郷とに在つた。それを其附近に住む小野臣・和邇部臣といふ有力なる一門が、次第に名義を設けて兼併してしまひ、之に伴なうて猿女を彼等が族黨の中から貢進した。小野氏は小野妹子以來の名家であつて、其氏人の用ゐられて朝貴に列した者も多かつた。其人々が此の如き混淆を恥として、自ら其非法を訴へた事件が類聚三代格の中に傳はつて居る。曰く猿女の興ること國史に詳かなり。其後絶えず今猶現在す。既に其氏に非ずして猿女に供せらる。神事を先代に亂り氏族を後裔に穢す。日を積み年を經ば恐らくは舊慣と成らん。望み請ふらくは所司をして嚴に捉搦を加へ、非氏を用ゐることを斷たしめん。然るときは則ち祭禮濫り無く、家門正しきを得ん云々と謂つて居るのは、弘仁の當時既に小野氏の權勢に比較すると、天鈿女の後裔は其地位が甚だしく低かつたらしい證據である。

　然るに小野和邇部の兩家が人を貪り田を利し、恥辱を顧みずして猿女の貢進を企てたといふのは、つまりは聟入嫁取に由つて、外孫の女性に巫女の職を相續せしめようとしたのである。朝廷は此弊に心づいて改めて正統の家の出に(213)限らうとして見ても、一朝に其因習を破ることはむつかしかつたであらう。齋部廣成が古語拾遺の中に、夙に他氏の人を以て天鈿女命の遺跡を繼がしめることを非難したのも、事情は多分是と一つであつて、單に當然の資格ある者を押退けて、無法に其職務を横領したのでは無く、やはり婚姻の順序によつて、いつと無く血筋と傳統とを家の外へ引出したもので、日本の如く娘に佳き婿を取るを名聞とした社會で、殊に女系を追うて代を算へて行くとすれば、新しい家族法などには頓着せずに、自然に母の特權は娘に附いて外に移つたわけである。

　だから左中辨兼攝津守小野朝臣野主等が懸念して居た如く、日を積み年を經て終に舊慣の如くになり、小野氏は神主の家となつて四散して諸國に移つたのである。私は前年猿丸太夫の神を助けたといふ日光其他の舊傳を研究して、一種「猿女小野氏」とも名づくべき一部曲が、最初近江を出て東西の遠國まで移つて行き、土地の神に仕へて新たに一系統の神話を發生せしめたらしいことを説いた。神が蛇體であつて人間の清く美しい者を、選定して配偶者としたといふ迄は必ずしも其專有とは云はれまいが、其神が蜈蚣《むかで》と戰つて助勢を勇士に求めたといふ點は、明らかに近江に發して下野奧州の山奧に運ばれて居る。しかもそれに參與した者が、猿丸太夫であり又小野氏であり、さうして今ある神職の元祖であつた。それ故に小野家と融合した猿女君の後裔が、故土に居りあまつて出でゝ地方を經略した痕跡であらうと推定したのである。

　

　　　　　　　　　　六

　

　同じ例は熊野の榎本鈴木、さては越後の五十嵐氏の如く、必ずしも他に相似たるものが無いといふのでは無いが、小野氏の遷移の如く久しく且つ系統立つて居て、其源頭の尋ね易いものも珍しいと思つて居る。今後恐らくは僅少の比較調査に由つて、大凡彼一門の動き始めた時代と?況とを突止めることも不可能でなからう。小野小町が諸國に數多い塚と傳説とを遺し、其出自に關しても色々の説があつて、しかも其間に若干の共通點を見出すが如きは、確かに(214)小野氏分散のよい證據であるが、それが古今集撰述の當時から、もう尋常の家の妻娘に非ずして、歌を生活とした一種漂泊の女性と認められて居たらしいことは、單に其名前からでも想像することが出來る。武藏に根を生やした七黨の小野氏なども、同じく近江からの移民かと思ふが、それは未決としても下野の足利學校を始め、諸處の無縁の地に小野篁の來住を説いて居るのは、必ず其家門の曾て尊貴であつたことを、信じ且つ主張した者の言であつた。ところがその篁氏が地獄に通うたといふ説を、京都で傳へて居たのは隨分と古いことである。又本國の江州に於ても、湖水を隔てゝ南岸の村々に、幾通りかの小野氏口碑の存することは、夙に人の熟知した所であるが、その中の殊に重要なるものは轆轤《ろくろ》師の祖神譚であつた。是も決して近世の作爲に非ず、從つて今尚固く小野宮の惟喬《これたか》親王なることを信じて、其子孫從者の誇りを保持する者があるのは、確かに同情すべき根據のあることで、現に史家の承認した舊記系譜の類でも、此親王の事蹟生歿は古くから區々であつた。

　小野は成程大野に對した古風なる地形の名で、たゞに京都の四周のみならず、今も遠近にさういふ村もあり部落もある。そこに居住して家號を小野殿と呼ばるゝは當然であれば、無關係に獨立した多數の小野氏が有り得ることは、自分も亦承認して居るのである。しかも此家の移住を私たちが信じて居る理由は、必ずしも前代の各家門に非常なる生活力の差等があつて、其多くは早く埋もれ又は絶え、他の少數の世に適し繁殖の術を解した者のみが、際限も無く分蘖して行つたといふやうな、空漠たる新定理に基づくのでは無い。私の方法は辛苦なる歸納法であつて、實際諸國小野氏の主要なるものが、久しく信仰の力を以て一郷一地方を統一して居たこと、及び古來の大社大寺にして、小野氏を世襲の管理者として居た場合が、著しく多かつたといふ事實を集め、更に進んでは其家の大切に保存して居た物語が、地を隔てゝ?々顯著なる類似を示すといふ點から、ほゞ斯ういふ推定の人に語るに足ることを信ずるのである。反對の證據がもしあるならば、早晩擧げられずには居らぬであらう。それの出て來ぬ限りは假にさうきめて置くのである。

(215)　さう思つて見ると日本の大昔からの物語の、名をかへやゝ外形を改めて、永く其骨子を傳へて居るものが存外に多いといふことに心付くのである。神子降臨はその重大なる一例で、之に伴なうては國神歸順の物語、異類の通婚に由つて靈異なる半神半人が生れ、永く一郷の文化を指導し、安寧を保障したといふが如き、假に上代朝廷の語部《かたりべ》の子孫にして、もし風土と民情とに調和するだけの智能を失はなかつたならば、斯くの如く歌ひ且つ舞ふの他は無かつたらうと思ふことばかりである。外國の古神話が毎に破片殘欠の雜然たる集合であることに見馴れて、既存の學説を移入するに汲々たる人たちには、日本の民間文藝は或は餘りにも古今一貫に過ぎ、誤まつては之を最近の模擬と見た者があつたかも知れぬ。併し斯ういふ國に生れ且つ住まなければ、實は人性の自然の變化、殊に不可知に對する人類の感覺の、微細なる成長を尋ねることが出來ぬのであつた。その豐富なる資料の保管者にして、同時に養育者の一人であつた猿女君氏の優秀なる者を、今頃まだ男か女かの點からきめて行くやうでは、日本の史學も甚だ心細い繁榮だと言はなければならぬ。

　

　　　　　　　　　　七

　

　但し幸ひにして單なる名稱以外に、尚さま／”＼の傳統の記録外に保存せられたるものがあるので、我々は行く／＼この生活力豐かなる大氏族が、世を經て衰へ又埋もれなければならなかつた理由を考へることが出來る。例へば木地引《きぢひき》の小椋《をぐら》氏の小野神信仰は、彼等の巧智と明辯と熱烈なる由緒の誇りと、及び氣輕なる旅行の癖とに由つて、優に猿女君の血のまだ薄れなかつたことを證明すると共に、杓子が世の中から至つて通俗な物と取扱はれる時代まで、尚杓子舞の古風なわざをぎを守つて、自ら其面白さに醉ふと同じく、他人も亦其興味によつて引付け得べしと、考へて居たらしい痕が窺はれる。この主觀の弱點はやがて木地屋を山中の逸民にしてしまつた如く、昔の猿女をして永く帝都の伎藝界を、獨占せしむることを妨げたのではあるまいか。

(216)　猿女の血を承け繼いだ小野族の遷移は、上古の宇治土公氏が伊勢から大和近江に出たやうに、何代も何代も宿命的に繰返されたやうである。其一つ／＼の層の僅かづゝの時代色は、まだ今だけの縱斷面からは判別することがむつかしいか知らぬが、前後と系統とはやがて我々の力でも之を指示し得る望みがある。例へば猿女といふ氏の名の由來の如きも、所謂顯はす所の神の名を負うたといふ説明を以て、表向きは濟んで居たにしても、サルと呼ばれるには根本の理由が無くてはならぬ。是は古史傳にも既に注意して居る如く、昔の彦神の恠しく珍らしい遭遇をまねぶと稱して、後の女神の世に殘したわざをぎが、爰でも亦天岩屋戸と同じやうに、をかしく且つ卑しいものであつた爲に、斯んな奇拔なる名が雙方に付與せられたので、他日尤もらしい樣々の解説は出たけれども、サルガウといふ語の起原も此他には求められず、其點が又次第に嚴肅なる儀式の庭から、彼等の疎まれ追ひ遣られた原因でもあつたらうと考へる。

　さういふ舊慣を小野族の移住民がどれだけ迄保存し、又いつの頃どの方面に向つて運び出したかゞ、曾ては私の興味を抱いた問題であつた。近江では山間の一隅、山城と境した所謂都の巽に、猿丸太夫の遺跡といふものが今も傳へられる。猿丸は單に猿を人がましく呼んだ名であるが、それを神に祀り又家の祖に繋けた例は多くの地方にあつた。其中でも加賀の金澤に近い笠舞の猿丸宮などは、猿丸都に召し返されて悦んで舞つたといふ話もあり、姿が見苦しいので笠を以て顔を隱したとも謂つて居り、幽かながら當初の消息を窺はしめる。能登の突端の三崎權現、高座金分兩社の神主が、小野氏で無くて猿芽《さるめ》氏であつたことも、恐らくは是と系統を同じくするからであらう。

　野州｜二荒《ふたら》の舊神官などは、小野氏を稱して尚猿丸太夫の子孫であつた。此社の大祭の一つの特色として、猿を牽いて行列に加はる古例があり、近國の猿舞はしは出でゝ其神役に仕へて居た。此國は猿牽との關係が深く、小山氏といふのが紀州｜貴志《きし》の猿屋の宗家であつて、家の紋も下野の小山と同じ二つ巴であつたが、その小山氏が、龍神を助けて蜈蚣を退治したといふ猿丸太夫の話を、近江から持つて來たらしい田原の一門である以上は、愈々以て偶然の成り行きでは無いと思ふ。さうすると是も亦猿女君氏進出の一生面であつて、今まで人が猿の舞をして居た代りに、新たに(217)猿を舞はしめる伎藝を取入れて、追々其方に轉じて行つた一派のあるといふことを示すものとも見られる。

　

　　　　　　　　　　八

　

　しかも人が猿の舞を演じて居る例は、壬生《みぶ》の念佛狂言を始めとして、今日もまだ若干は殘つて居る。獨り靭猿《うつぼざる》などの猿舞はしの眞似のみでは無いのである。殊に其多數が宗教の儀式であつたことを考へると、假に猿を教へて厩の前に來て舞はしめる慣習が、いつから日本に入つたかは不明であるにしても、逆に此から轉じて彼に移つたものと推測することは不可能である。日向の飯隈山の新熊野三社權現に、猿神樂と稱する舊式があつて、往古宮山の樹木の尚茂つて居た時代に、祭の日には白猿が山から降りて來て、神樂の節奏に從つて舞踏したと傳へて居るなどは、却つて人間で無ければさういふ靈異を、演ずることを得なかつたといふ證據であつて、乃ち亦遠く?觸峰《くしぶるたけ》の神代に於で、猿田と名づけられた國つ神の、出でゝ天孫を迎へた故事を、歌ひ傳へ舞ひ傳へた類例と見るべきである。猿田猿女の二柱の神が、祭に參加して滑稽を演じ、今も村人の心を樂ましめる例は至つて多く、それが或點に於ては公の儀禮と一致せぬ爲に、之を退化誤解として忌み憎んだ學者もあつたけれども、時代に應じて古意を改革すべき必要は、寧ろ文化の中軸たりし朝廷の方にこそ多かつたので、細心なる比較討究の上で無いと、まだ容易に野に在るものは新しいと斷定することは出來ぬ筈である。

　一例を言へば肥後國の木葉猿が、今でも或種の信仰を以て、醜恠なる形態を珍重せられて居る如く、或は東京に近い足立都三ツ木の山王社の社殿に、至つて露骨なる牝猿の像が安置せられ、密々に祈願をかける者が多いといふが如き、之を後世の新案と見るときは成程けしからぬが、無始以來の久しい習はしなるが故に、今尚其因縁から脱出し得なかつたのだとすると、固有宗教のうぶな姿を知らうとする者の爲に、是ほど有力な資料は無いわけで、其わけも尋ねて見ずに徒らに眉を顰めるのは、少なくとも學問をする者の態度で無い。近世大和の檜限墓近くで發掘せられ、引(218)續いて考古家の間に喧傳する男女四體の石人なども、土地の住民に見せるとやはり猿石であり又山王權現であつた。その見にくい猥りがましい容子は、木葉猿や三ツ木の猿神と異なる所は無いのだが、是は古いが爲に鈿女命のわざをぎを寫したもので、御墓の魂を招き奉る目的を以て、彫刻せられたものだといふ説があり、古事記傳にも略々之を認めて居るのである。要するに猿女氏の舞には、所謂胸乳を掛出だし、裳の緒を番登《ほと》に押垂れて神懸りする類の所作が多かつた爲に、次第に朝廷の晴の御式から、野人鄙人の住む土地へ追はれたので、一方に於て大に衰へたといふことは、同時に又遠い田舍に永く弘く、其物語の行はれた原因とも考へられるのである。

　

　　　　　　　　　　九

　

　最後に今一つ、自分等ばかりの非常に重要に考へて居ることは、稗田の舍人の阿禮といふ名前である。阿禮は平安朝に入つてからは、殆と上下の賀茂の御社に限られ、打ちまかせてアレヲトメと謂ふときは、即ち齋院の姫君をさすことになつて居たが、言葉の意味は有又は在の行爲、即ち出現であり顯はされることであらうから、神懸りの女性が一樣にさう呼ばれるのは當然である。然るに賀茂に於ては天つ神の御子が、人間の少女の胎に宿りたまふといふ神話があつた。それ故に夙くから御生野《みあれの》の神事が行はれ、ミアレは即ち御誕生のことゝ解して差支へが無かつたのである。是も勿論重要なる神出現の一例ではあつた。婦女を以て代々の奉仕者とした日本の神道では、同種の言ひ傳へは他にも尚多く存するが、形式は更に色々に變化し得る。單に所謂神のもろふしと爲つて、其御力を借りて道を説く場合にも、猶我々の祖先は、彼女に於てミアレを認めたのであらう。さうで無いと解説の出來ぬやうな有宮有木の口碑は諸國に多く、又九州に於て?々遭遇する所の俊寛僧都の傳説が、實は有王と稱するよりましの、都から往來した故迹であつたらしいことなども、同じく阿禮といふ言葉の弘い用法が、永く此地方にはあつたことを暗示する。奧州の果では今も神の寄りたまふ人をアリマサと謂つて居る。微々たる漂泊の婦女ですらも、ミアレの名を傳ふる限り其言は信(219)ぜられた。一個稗田氏の阿禮の傳誦には限りがあつたけれども、數限りもない彼等の古事記は、永く平民の間に活きて働いて居たのである。朝廷に於ては夙く衰微した藝術が、野に在つては行く／＼廣漠の沃土を耕しつゝ、終に今日の花盛りを見るに至つたのも、主としては埋もれたる猿女君氏の力であつた。多くの新婦人たちが自ら認めて居るやうに、女性は斯邦の過去文化に對して、しかく没交渉なるものでは無かつたのである。

　

(221)　　巫女考

　

(223)　　　　　ミコと云ふ語

　

　自分の生國播磨などでは、ミコと稱する二種類の婦人がある。其一は稍々大なる神社に附屬して其舊境内に居住し、例祭の節は必ず神事の行列に加はるのみならず、神前に鈴を振つて歌舞を奏し、又｜湯立《ゆだて》の神事に關與する者である。普通は尊敬してミコハン（巫樣）と呼ぶが、ミコと謂つても亦通用する。今一種のミコは或は又タヽキミコとも口寄《くちよせ》とも云ふ、大抵何村の住民であるかよく分らず、少くも五里八里の遠方から來る旅行者である。この口寄と云ふのは古い語で（台記、久壽二年八月二十七日の條にも見ゆと云ふ）、其意味は隔絶して近づくべからざる神又は人の言語を、眼前の巫女の口を介して聞くこと、即ち託宣託言を聽かんと求むることであつて、從つて其仲介を業とする女をも口寄と呼ぶのである。現代のタヽキミコも人に頼まれて不在者の口を寄せることは同樣であるが、その寄る者は主として所謂生靈か死靈、即ち生きて居る人又は死んだ人間ばかりで、神が此者に降ることは極めて稀なやうである。曾つて寅の歳の男の死靈と言つて心窃かに武田信玄を念じて居た者があつた。處がミコは怖ろしく荒い聲を出して、土民の分際として己を招くとは不埒な奴だと罵つたと云ふ話である。併し遠國に往つて音信の絶えた者、或は近い頃死んだ親族などの口を寄せて聽くと、其言ふことが誠に悲しい。自分も幾度か其席に居たことがあるが、婦人などは聲を立てゝ泣かぬ者は無い。どう云ふ秘傳があるかは知らぬが、あまり平仄《へうそく》の合はぬことは言はない。何の歳の男又は女と云ふばかりであるのに、老人なり若者なり志す者相應のことを答へる。故に今日の世の中でも、乞食のやうな女だとは思ひつゝも、やはりタヽキミコを頼む者が絶えないのである。

　東京附近の語では、ミコと謂へば右の第一種の婦女のみを指すやうである。春日や嚴島の社頭に於て、白い著物に(224)紅の袴をはき鈴を持つて舞ふ所の干菓子の如く美しい少女を、西洋の旅客は何度と無く寫眞に撮つて、彼等も亦之をミコと呼んで居るやうである。東京人は此ミコに對して口寄のミコをばイチコと云つて居る。然るに地方に由つては反對に神社に從屬する巫女をイチ又はイチコと云ふ處がある。京阪地方も古くからさうであるらしい。常陸では相當の神社に大市小市若しくは市子と名づけて祭事に與る者がある。或は宮市子とも云ふ。元は皆女子の業であつた（常陸國誌）。土佐で多くの社に?《いつ》と云ふ者が居るのも亦是であらう。其住所を?屋敷と云ひ、或は男の神主を?太夫などとも云ふ（諸神社録）。東京などのイチコは江戸時代の公文書には必ず梓巫《あづさみこ》又は梓神子と見えて居る。此も地方に依つて色々の名稱がある。今若し略々同種の生活を營む女を同じ者として見るならば、上方では單にミコと云へば口寄のことで、神に仕へる方をイチと云ふ（賤者考）。或は京都では梓神子を大原神子と云ふとの説もある（物類稱呼）。此大原は丹波國である。京の片邊に來て住み、男に袋を荷はせ太鼓を打たせ自分は鈴を振つて民家を廻つて行くとあれば（人倫訓蒙圖彙）、竈拂《かまどはらひ》をも兼ねて居たものらしい。口寄が或一定の地に集つて居る例は外にもあつた。京では北野等持院の附近、江戸では龜井戸、大阪では天王寺村、又信濃巫と云つて彼國諏訪邊から出る者もあつた。丹後では與謝郡城東村大字｜波路《はぢ》からも巫が出た。此が日本の巫女の最初だと云ふ説もある（宮津府志）。但し今は斷絶して但馬の某地に子孫が殘つて居ると云ふ。

　上州の高崎では新町と云ふ邊に神事舞太夫《しんじまひたいふ》なる者が三四戸住んで居た。彼等が女房は多くは梓巫であるが、土地の者は之をアガタと呼んで居た（高崎志）。アガタは即ち庭訓往來などに、所謂縣神子の略で、此も古い語である。一説には諸國の巫を縣神子と云ふのは、古代の生島足島又は坐摩巫《ゐがすりのかんなぎ》御門巫《みかどのかんなぎ》の如く朝廷に近く奉仕した御巫《みかんなぎ》に對して民間の巫女を呼ぶ名稱であらうと云ふ者がある（祠曹雜識三十七）。成程アガタは田舍のことであれば此説には誤りは無からうが、必ずしも禁裡に勤める者で無くとも、大きな神社に附屬して系統的の節制を受けて居る者に對し、今一層自由にして且つ無學なる同業者を賤んで田舍巫と名づけたのは、恰も本當二山の支配に附かぬ散在の山伏を野山伏、(225)山守山伏若しくは願人山伏などゝ云ひ、京江戸の檢校に辭儀をせぬ諸國の琵琶法師を單に盲僧又は地神經讀《ぢしんきやうよみ》などゝ呼んで、坐頭とは認めなかつたのと同じ例であらうと思ふ。羽後仙北郡北楢岡に昔白神女と云ふ高名の縣神子があつたことは月之出羽路卷四に見えて居る。此は其巫の名前であつたやうにも考へられるが、裏見寒話卷四に依れば、甲州には口寄巫の筋に白神筋と云ふ家が處々にあつて、多少世間から嫌はれたとある。シラカミが亦彼徒の別の名稱であつたことは外にも證據がある。奧羽では一般に口寄の巫をイタコと云ふ。これは多くは盲目の女である。或は又之をモリコともオカミサマとも云ふさうである。イタコもモリコも共に語義から推せば神に仕へる職らしいが、事實は祈?よりも豫言の方に力を用ゐて居る。モリコと云ふ語は關東にも及んであるが、一概に言はれぬのは右の如く地方によつて、幾分か意味の偏りがある。同じ奧州の内でも會津又は白河では口寄をワカと唱へて居る。ワカは即ち若神子の若であつて、思想に於て全然ミコと同じものであることは、自分が此から述べんと欲する所である。其他石見國で之をヲシヘと云ふこと、伊豆新島で神いさめ又はヤカミシユと云ふことは近頃知つた。サヽハタキ若しくは大弓などと呼ぶ地方もあるさうである。猶求むれば何程もあるであらう。どうか集めて比較をして見たいものである。琉球で此類の婦人をユタと云ふのも、自分はイチ又はイタコと關係のある語と信じて居る。

　右に述べたやうに神社に仕へる女をミコ又はイチコと云ひ、死靈、生靈の口を寄せるを業とする女をもイチコ又はミコなどと云ふ以上は、名稱の上から二種の巫女を區別することは到底出來ぬのみならず、考へやう次第では此のみでも二者の根源の一つであつたことを推測することが出來る。併し少くも今日の社會?況では此二階級を同視すれば社のミコから怒られ又は怨まれる。怒られるのは構はぬが怨まれるのは實はまだ少々怖い。巫に恨まれて家を滅した話は中世には澤山ある。上品なミコハン等があんな者と一緒に見られてはならぬと云ふ理由は要するに永い間の隔絶である。自分には先祖來の家屋敷があつて土地での舊家であるのに、彼等は物貰ホイトを去ること一二歩の者であると賤むのは、結局旅の者に信用を置かなかつた舊思想の餘習である。職業の上から觀ても、神社の巫が神託を寄せ(226)ないのは寧ろ近代の變遷である。此事は次の章に詳しく云ふ筈である。又所謂田舍巫の方でも俗物の御託ばかりを竝べるやうになつたのは、單に時世に連れての傾向に過ぎぬ。現に越後地方で萬日《まんにち》と云つた老巫女の如きは、其生活は法《かた》の如き歩行神子《あるきみこ》であるにも拘らず、村々に頼まれて湯立笹叩をすれば、神此者に移らせたまひ、其年々の豐作凶作などを告げられた（北越月令）。又口寄の前後に於ける祈?は別として、此種の婦人が民家の祭事に關與することは少くなかつた。即ち京都では大原神子が竈拂として家々を廻り、江戸の梓巫が家職として釜を祓ひ、釜の向に貼るべき青襖と稱する紙の雛形を配り、又は猿が馬を牽く繪馬と云ふ札を正月に配るが如きは其例である（寺社捷徑）。猶一つ社の巫が主張し得べき差別は、自分は常に神に奉仕して居るが、タヽキミコは些しも社に縁が無いと云ふ點であらう。併しそれも見やうが惡いのである。なる程口寄は所謂八百萬の天神地祇諸國の神々を定節も無く呼び申し、それでも足らないで佛菩薩の名まで唱へるが、此は諸社の神主の祝詞の中に多くの神名を掛奉るのと同じ形式であつて、而も自分が仕へて居る神はちやんと唯一つ有る。此輩の常に持つてあるく秘密の箱は決して祭具では無いことは誰しも想像し得るであらう。神は此箱の中に坐すのである。其神の如何なるものかは後に云ふが、兎に角に寢ても起きても神の側を離れぬのである。尤も稍々開けた口寄巫は箱を風呂敷などに包んで來る。東北のイタコなどは竹の筒に神を入れ金襴の袋に納めで首に懸けて居る。上野の博物館にそれが一つ陳列してある。即ち我々の所謂守袋で、昔からの彼等の作法であつたらしい。凡そ世の中に此ほど神に近接して居る女が外にあらうか。社の巫などは却つて他所へ行けば直ちに神に離れるのである。斯く言へば或は激して答へる者があるかも知れぬ。我々の民族では神には無數の種類がある、猿も神だ、蛇も神だ、併し郷村に大きな敷地の杜《もり》を占めて鎭守となり産土《うぶすな》と崇めらるゝ明神と一つにはならぬと言はれるであらう。強辯のやうであるが縣神子の神でも往々にして土著することがある。必ずしも終始漂泊してばかりは居らぬ。一定の地に祀れば祠も出來る、杜もやがては茂るのである。神の尊卑又は大小と云ふことは中々六つかしい且大きな問題である。宗廟及び御歴代の神々は、勿論比較の限では無いことを明言して置く。其他は凡そ國(227)津神として太古より祀り來つた社でも、今日現存の信仰及び祭式は幾度かの大變遷を經て居る。今を以て以前を推すことは出來ぬ。以前はよほど巫女の任務を重要視した祭であつたかと思ふ。即ち大きな社と小さな禿倉《ほこら》との間に似通うた點がよほど多かつたらしい。自分の妙な研究は此事をちつとでも明白にしたいのが其目的である。

　最初には先づミコ神と云ふ神名を考へて見たい。此が一つの手掛りである。今日の神子神又は御子神は所謂藪神の類である。其祭場は杜と言はんよりも、寧ろタブせられたる一個の塚である。自分の知る限では美作備前備中伊豫土佐などに此祠が多い。如何なる願事の神であるか未だ分らぬが、些しく外の神と違つた所がある。例へば備後の福山領などでは、毎年六月と十一月の十三日に神酒燈明を供へ、赤飯と鱠《なます》とで御子神の祭をする。酒造若しくは酢醤油麹などを商賣する家では取分けて念を入れる。此祭に限つて他人を雜へず家内ばかりで祝ふ。若し失念して祭らぬときは瘡を發すると申し習はして居る（風俗問?答書）。即ち此神は里の神では無くて家の神である。土佐の韮生《にらう》豐永本山等の山村には神職其他の者で、先規に從ひ御子神を祭つて居る家筋がある。其家では人が死んで之を御子神に祭らうとするときは、之を旦那寺に斷り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭りまする故過去帳に御記下されまじくと言つて置く。又當時譯を斷らざりし者は三年忌或は七年忌法事の節、此者先例を以て今日より神に祭りますから過去帳の法名御消し下されと斷り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨てなければ神になることは出來ぬ。さて愈々神に祭るのは其年十一月、氏神祭の日神事の濟んだ後である。今日は是より何右衛門を神に祭るのだと言へば、子孫血縁の者皆集り村長を上座に招き、太夫二三人又は四五人其中の一人を本主《ほんしゆ》の太夫と定め、よくは分らぬが白幣を振つてタテ食へと云ふ儀式を行ふのである。存生中正直第一にして惡事を巧まざりし人は、一度のクラヘにて早速神の座に直り、不正直にして謀計多かりし者は、クラヘ五六度に及んでもとくと神座には直らねども、先づこれ迄よと置くものがある。夫より本主の太夫へ神をのり移すと稱して何やら舞を舞つて居るとやがて託宣がある。曰く是より内は木葉の下のオボレ神にて有りしが、大小氏子心を揃へ今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉(228)しやと云ふ。答、大小氏子心を揃へホウメンをさまします、大の氏子小の氏子惡事災難來り候とも拂ひのけてちがへ守らせ玉へと云ひ、やあら嬉しや／＼と舞ふとある。御子神には名は附けぬが、其者子の歳ならば子歳の御子神、丑の歳なれば丑歳の御子神と唱へ、年忌盆彼岸にも祭らず、只氏神の祭の日に作り初穗を出し神樂を舞つて貰ふのみである。此事は韮生郷柳瀬村の柳瀬五郎兵衛と云ふ老人の筆録に猶詳しく出て居るが、他の部分は必要のある時まで略して置く（土佐國群書類從卷十御子神記事）。土州淵岳志にも簡單に此事を記し此祭を御先祭《おんざきまつり》と云ふとある。オンザキは他の諸國の山中の神に御前《みさき》又は岬神とあるも同じことであらう。話の枝葉に亙るを避けるが、要するにミサキも人の死して成る神、即ち御靈であることは、疑の無い證據がある。

　御子神は今より千年前にも存在した神の名である。それと近世の御子神と同じきか否か、それを考へて見たい。延喜式の神名帳に列記した官社の中に多くの御子神がある。其二三を擧ぐれば、山城愛宕郡の片山｜御子神社《みこがみのやしろ》、大和添上郡の率川《いさかは》坐大神神日本御子神社三座、河内高安郡の春日戸坐御子神社、尾張愛知郡の日割御子神社、孫若御子神社、高倉結御子神社、陸奧｜行方《なめかた》郡の鹿島御子神社、同栗原郡の香取御兒神社等である。又西海の對馬國に於ては和多都美神社あつて和多都美御子神社あり、島大國魂神社あつて島大國魂御子神社あり、胡禄神社あつて胡禄御子神社があるのである。詳しい記録こそは無いが、他の一方の神を父又は母の神として居たことを想像し得るのみならず、後世朝鮮の一旅行者も、此島南北に高山あり皆天神と名づく、南を子神と稱し北なるを母神と云ふと書いて、永く此信仰のあつたことを傳へて居る（海東諸國記）。尾張の三社の神に至つては、續日本後紀承和二年十二月壬午日の條に共に熱田大神の御兒神であることを明記し（神名帳考證）、奧州の御子神に付ては三代實録貞觀八年正月二十日の記事に、鹿島大神の苗裔神《べうえいじん》の陸奧南部の海岸菊多郡以下十三郡に在るもの合せて三十八社、内磐城郡に十一社宇多郡に七社ある。延暦以前に在つては凡て大神の封物を以て奉幣したと見えて居る。此等は何れも皆皇威の振張に伴うて先驅の二大神が次第に夷境を經略せられた跡と見ることが出來る（神祇史）。而も後世ならば本社勸請と云ふべき處にそれ／”＼御子(229)神の社を建てゝあるのである。此例を以て推せば、山城大和以下數十社の御子神も、今でこそ御祖神の聯絡が不明になつて居るが元は必ず獨立した社では無く、同國又は近國の大社から段々神�ｺを宣傳して來た神であると信ぜられる。而して何が故に祖神を深敬する者が其苗裔を神と仰ぐに至つたかと言へば、一言を以て答ふれば正しき血統、即ち本然の關係が最も之と密接する神に仲介を依頼するに非ざれば幽顯の交通が六つかしいと考へたからで、事態の大小はあるが土佐の御子神祭に血縁の者が列坐せねば死者が神にならぬ託宣をせぬと考へたのも同じ譯であらうと思ふ。

　此事實は亦他の方面からも之を立證することが出來る。例へば山城の鴨｜縣主《あがたぬし》や松尾社家は何れも其奉仕する神の苗裔であることを系圖に於て主張して居る。肥後の阿蘇家は元より大神の末であるし、伊豫の河野氏は即ち三島明神の外孫の後である。比類は列擧すれば限もあるまい。太宰府の天滿宮の末社に柳神子社、尼御子社及び玉神子社と云ふ神がある。此三神は共に菅公の御子神であると云ふ（筑前國續風土記拾遺）。又一説には後堀河天皇の御世に菅公九代の後胤菅原善卑と云ふ人、勅を奉じ此地に下つて社司となる。其子孫大鳥居小鳥居の二家に分れ代々の社職であつた。後に大鳥居は血筋絶え京都堂上家の二三男を迎へて清僧の家となり之を坐主と云ふ。小鳥居は妻帶の僧である故に永く天神の血脈を傳へて居る（中國九州風土略記）。諸社の末社に神官の先祖を祀る例は更に多い。世が追々降つて神は愈々高くなり、終には血肉を具したる人間では無かつたやうに考へらるゝに至つた爲、其神の子孫と云ふことが次第に人の耳に疎くなり、今では神降臨の際隨從したとか、或は勸請の儀に關與したとか、又は御靈在世の時の臣下であつたとか云ふやうに語り直した神主の家も多いやうである。而も此二種の傳説の源は同一であつたことはミコと云ふ語が簡單に之を示して居る。

　ワカとミコと同じ意味の語であることは、若宮と御子神とを比較すればよく分る。若宮の有名なのは春日と八幡である。春日を五所明神と云ふ社が諸國にあるのは、四所の本宮に若宮を加へたもので、若宮の祭神は天押雲命とも太玉命とも云つて一定せぬが、兎に角本社の正統の御子であることは疑が無い（和訓栞）。八幡の若宮に付てほかの六條(230)左女《ろくでうさめ》牛などの如く、之を主神と祀つた例も古くからあるが、男山の末社の中にも若宮が三社まである。即ち本宮の後に一つ之を仁�ｺ天皇を祀ると云ひ、其右に一つ此は水若宮とも稱し菟道稚郎子《うぢのわかいらつこ》を祀ると云ふ。又社の右奧の隅に在る若宮は、此のみ特に若宮殿と云ひ又姫若宮とも云ふ。以前は神功皇后と申して居たのを明治になつて應神天皇の御女と改めた（綴喜郡志）。此等の説は言はゞ八幡大明神と定めた上の敷衍《ふえん》であつて、其發足點にはまだ大きな疑問がある。八幡は託宣に掛けては誠に名譽の神である。我は譽田《ほんだ》八幡麿なりと仰せられたと云ふ縁起の説も無視することは出來ぬが、神降臨の場處時代樣式其他四圍の一切の事情、竝に箱崎對馬等に於ける口碑の斷片を繼合せて見ても、結論に不自然な點が多いやうに感ぜられる。自分は寧ろ讃岐其他の田舍に於て傳へらるゝ、應神天皇は王神から來たと云ふ説明を信じたいと思ふ。王神は即ち御子神である。日本の風習として神と皇室に對して同じ語を用ゐることは、獨り王又は王子にのみ限つたことでも無いのに、諸國に王塚とでも云ふ塚があれば、直ちに其地方と幽かな關係のあつた皇族に繋けんとする學者の多いのは、全く塚を以て悉く人の葬處と豫斷した誤りからである。今日の王子權現｜若王子《にやくわうじ》は殆と皆熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があつた。諸社根元記の八幡御事の條に、應神の御子に八王子あり、若宮、若姫、宇禮、久禮、隼總別《はやぶさわけ》皇子、大葉枝皇子、小葉枝皇子、雌鳥皇女であると云ふ。後の四王子は御系圖にもあるが、數多い皇子の中から斯樣に八柱を拔出すのは決して歴史では無い。八王子と云へば今は祇園の牛頭《ごづ》天王の御眷屬のやうに極められて居るが、かの所謂｜?※［食／皿］《ほき》序の説の外に、或は日吉上《ひえのかみ》七社の中には天神｜國狹槌《くにさづち》尊が引率して影向せられたといふ八人の御子八王子大明神あり（神祇正條）、又淀川を隔てゝ男山と相對する山城の天王山には東西の兩八王子を祀つて居る（山城名勝志）。殊に八幡の八王子に至つては、天より降つたと云ふ八流の幡の數とも縁があつて、よほど古くからの信仰であるらしい。此等を思合せると御子神の本義は即ち神巫《しんぶ》又は楚辭の註に所謂靈子であつて、ミコは今でこそ恠しい身分に零落はして居るが、其最初の思想に於ては御子神、若宮、王子權現、乃至は祈年祭《としごひのまつり》の祝詞に所謂大｜御巫《みかんこ》、江家次第及び空穗物語に所謂御神兒などゝ共に、神の血筋を受けて天然に神に近いが(231)故に、能く神意を一般人民に宣傳することを得る者と認められた結果、他の一方には信者に代つて希望懇願の筋を神に取次ぎ、猪又神の憤を和《なご》め（カンナギ）、神の喜悦を催す（カミイサメ）の方法を委託せられたものであらう。而して其中の最も靈驗ある者に至つては、昔も今も其恩に浴する者が之を神に祀つて感謝祈請することを怠らなかつたものかと思ふ。此から見ればかの熊野の九十九王子の神々の如きは、根源に於て頗る奧州の鹿島香取の御子神とよく似て居る。即ち後者が蝦夷地に向つて軍神の威力を布くと同じく、前者は南海の荒山中から山城路に向つて、徐ろに其教義の傳播を計つたものである。八幡の神が一足ごとに神託の不可思議を示現しつゝ、西海の果から次第に京近くの地へ登つて來たのは、必ずしも此神ばかりの特色では無かつたらうと思ふ。

　

　　　　　　　神の口寄を業とする者

　

　芝居に出て來る狂人は班女《はんによ》でも保名《やすな》でも必ず其手に竹の枝を持つて居る。今迄の學者は之を何と解釋したか知らぬが、あれには大分の沿革があつて、少なくとも能の舞の狂女物は皆同じ型である。扇子などを其笹にぶら下げて居るのがあるのを見ても、手當り次第に路傍で拾つたので無いことはよく分る。自分は此物を以て携帶者の放心?態を表示する一種の象徴と認めるのみならず、謠曲の歌占が手に持つ所の短册を附けた小弓と共に、巫祝が神を招く一用具、即ち古事記天岩戸の條の「天香山の小竹葉《さゝば》を手草に結ひ」とある其手草なる物の遺風であらうと想像する。就いては先づ此事實を以てミコの一名をサヽハタキと呼ぶ理由を説明して見よう。和漢三才圖會卷七に、今の巫女の業とする所は神樂を奏して以て神慮を慰め、或は竹葉を束ねて以て極熱の湯を探り數々《しば／＼》身に注ぎ浴す、既にして心體共に勞倦し茫々然たり、時に神明彼に託《かゝ》り以て休咎《きうき》を告ぐ、之を湯立と謂ひ其巫を伊智と曰ふとある。地方に由つては今の人(232)でも湯立の作法を目撃することが出來る。昔の所謂｜盟神探湯《うけひくがたち》は何とでも御解釋に任せる。唯今日の湯立は決して直接に手を釜の中に入れて探るのでは無い。精神を籠めて度々笹の葉を以て熱湯を身に注ぐ間に、知らず／＼心持が變つて來て託宣に適する心理?態となるのである。然らば笹ハタキのハタキは其笹を以て身を打つことを意味する語で、俚語に鬼神の口寄をサヽハタキと呼ぶのも此爲であることは、百年前の寺社奉行御奏者番手附も之を認めて居る（祠曹雜識三十二）。

　湯立は一に又｜問湯《とひゆ》とも謂ふ。恐らくは其湯を以て神の心を問ふからである。近江栗太郡治田村大字澁川の天大將軍は殊に託宣の奇瑞多き神であつた。氏子の者旱の年の雨乞を始とし、凡そ一の願事一の決し難い問題ある毎に、必ず此社に湯神樂を上げ巫嫗を雇つて神の仰せを窺ふに、未だ曾て當らなかつたことは無い。其祭を俗に問湯と云ひ久しい昔からの慣例であつた。他國の人が之を聞くと或は巫術の巧拙に由ると思ふかも知れぬが、元來此村には巫女は住まず、大寶村大字靈仙寺と云ふ處から頼んで來るのである。其巫は十四五ヶ村の村々へ傭はれて行くが唯此神のみ託宣の奇瑞が著しいのである（栗太志）。託宣を定職とする巫女が多くの社を掛持にして居ると云ふのは注意すべき事實である。實際年に三度や四度の祭典の爲に一社に專屬するのはあまりに閑な職である。本人の方から見ても、一定の給分が備つて仕事の有無を問はなかつた時代ならばいざ知らず、一箇の勤務に對する一箇の報酬と云ふ近世の經濟に移つてから後は、稀々の湯神樂ぐらゐでは生計が立たぬ。殊に氏子が神託を問ふ機會は天下太平が永く續けば滅多に起らない。そこで社のミコたちは次第に其職務を増加し、一方には承仕雜役に服して神主の補助員の如く、他の一方には人があゝ美しいと感ずる化粧をして宮の装飾の如くなり、終には元の業に專らなる縣巫《あがたみこ》の徒に對して絶交を宣言するに至つたのである。此思想の後代の變遷であることは推測し難いことでは無い。諸國の舊社に於て何が爲に特に物忌又は齋女などゝ云ふ一階級の婦女を存置するに至つたか、其最初の理由を想像して見れば直に分る。

　近昔の軍書實録などを見れば、神の託宣なるものは如何にも突發的である。或る重要問題に當惑し、乃至は大なる(233)禍福の近よつて居るこ七を知らぬ際に、所謂神ならぬ身に豫告を與ふる爲に、日頃信仰する神樣が自ら進んで話を仕掛けられるのである。或は神主の子の年八九ばかりなるが不意に社頭を走り廻つて大人のやうな口をきく。或は莊屋の女房が忽ち狂亂して何か思當る事を言ふ。さうして夢々疑ふことなかれと念を押し、神は騰らせたまひけりとなると、後は昏々として正體もなく寢てしまふのが常である。佛道の方で本尊が兎に角人の夢を利用せられるのと同樣に、幾分進み過ぎた爲され方のやうではあるが、一方から見れば此者に御託宣をと願つた上での御答よりは、神が任意に其機關を選定せられた場合の方が人の信を引くこと大であつたに相違ない。猶一段立入つて考へると、人の智慧が進むと共に贋物の託宣が多かつたに違ひない。少くとも贋であらうかと危む者が多くなつたかと思ふ。眠にも狸寢と云ふのがある。二晩も前から工夫すれば場合相應の出鱈目が言ひ得る。恐らくは此が多くの社に公式且つ恒例の神託の中絶した所以であらう。要するに昔の巫女はあまりに饒舌であつた爲に終に其本職を失ふやうになつた。既に今から千三百年近い昔にも、入鹿の大臣が胸に非謀を抱いて居た時に、國内の巫覡《かんなぎ》等枝葉を折取り木緜《ゆう》を懸け大臣が橋を渡る時を伺つて爭ひて神語微に入るの説を陳べたとある。其巫甚だ多くして具《つぶさ》に聽くべからずと見えて居る（日本書紀）。此時代は託宣の最も盛なる時代であつた。それから大きな政變が續いて、巫道も一時衰へたかと思はれるが、更に奈良朝に入つてこの術を大いに行つたのが宇佐八幡の巫女である。從四位下｜大神朝臣杜女《おほみわのあそんもりめ》の如きは位階も一族の男覡より上であつて、度々の神託に朝廷の信仰を得、長くとも三四寸の舌を以て一代の間に手向山男山の基礎を作つたが、終には又口が禍の源となつて除名の上日向へ流された。併しながら杜女の没落は勿論巫女道の滅亡では無い。僅四箇月後の天平勝寶七年三月には早又八幡の託宣がある。神命を矯託して請取れる田百四十町以下の神領は不本意だから返さうとある（續日本紀）。詳しい議論はする氣は無いが、例の道鏡問題に就いて京都から遙々八幡神の神命を聽きに遣はされた輔治能眞人清麿《ふぢのゝまひときよまろ》も偶然の選定では無かつたやうである。習宜阿曾麿《すきのあそまろ》と正邪の別こそあれ、共に早くから此神の託宣を傳へる職であつたらしい。些しく臆説に近いが此頃彼の郷里の備前邊に八幡の今宮があつて其傳道をして(234)居た人では無いかと思ふ。神は最初に彼の姉法均尼を遣されたしと請はれたのである。道鏡を帝位に就かしめたまはば天下目出たかるべしとの神託を傳へたのは、此法均と云ふ婦人の謀計なりと水鏡にはあるが、それではどうも理窟が合はぬ。要するに動機の正否が爰では大なる論點であつて、兎にも角にも八幡神は常に假託利用せられたまふ神であつた。此時代には宇佐に限らず都鄙の巫覡《ふげき》に惡弊のあつたことは令や格に度々見えて居る。斯んな曲事《くせごと》がある爲に定めて正しい巫女がとんだ迷惑をしたことであらう。併し其爲に丸々彼等が日蔭者になつたわけでは無い。現に朝廷に於ても大分此者を御用ゐになり、大宮の御巫の外に座摩《ゐかすり》生島御門の巫《かんなぎ》等共に神祇官に從屬して居つた。此等の御巫が大同二年九月二十八日の詔に所謂占人に當る者であるか否かは明白では無いが、古語拾遺の記事にも片巫《かたかんなぎ》肱巫《ひぢかんなぎ》に占はせて御年神の祟であることを知つたとある。祟をタヽリと訓むのは神託の義であらうと思ふ仔細は後に言ふ。同じ書の古註にも肱巫は竈輪《かまわ》及び米占《よねうら》也とある。宮中の巫女の中でも生島の齋き奉ると云ふ大八洲の靈と云ふのは竈の神であつたらしい。聖皇の御身に取つて最も肝要なる御食物の無害を保障するのが其任務であつたらしい。

　此等の巫女には各家筋と云ふものがあつたのでは無いかと思ふ。古語拾遺は必ずしも信用すべき書で無いやうに云ふ説もあるが、自分は疑ふべき點を見出さぬ。其末の方に斯う云ふ事がある。凡そ鎭魂の儀は天鈿女命の遺跡なり、然らば則ち御巫の職は應《まさ》に舊き氏を任ずべし、而も今は選ぶ所｜他氏《あだしうぢ》を論ぜず、遺《おつ》る所の九なりとある。此が恐らくは最初の?態であらう。座摩巫《ゐかすりのかんなぎ》は御飲水を守護する職かと思ふ。延喜式には此巫は都下國造の氏の童女七歳以上なるを之に充つ、若し嫁時に及ぶときは交替すとある。之を見れば名門の娘であれば誰でも構はぬやうであるが、此珍しい神の名が攝津西成郡に今一あつて、現今の大阪の八軒屋は其社の舊地であつた（地名辭書）。何れの御代からか此巫女を朝廷に出仕せしめたと言傳へ、且つ天正年間築城の頃まで大川の岸に數十の小祠を列ねて之を祀り、古い歌にも渡邊や橋の上手を始にて多かる岸のつま社かなとあれば、多分は特に此巫女と關係があつた部落が久しく爰に住んで居たものであらう（神名帳考證）。而して由緒ある舊家の特權が早く失はるゝに至つた原因も想像すれば少くは無い。(235)世渡りの達者な一人前の男女は決して適當なる託者《よりまし》では無い。男には他心が多く催眠術にも中々掛らぬ。殊に女の年を取つたのは最も始末が惡い。性質から氣分まで申分の無いのを求めると數も少く期間も短い。從つて一定の部落からばかりは得られぬのである。故に恰も尼寺が後住を捜すやうに色々の面倒があつたから、あのやうな法規が出來たのである。之に付て思出すことは、丹後熊野郡川上村大字市場の齋《いつき》大明神は式の熊野神社であるらしい。此社に附屬して神に仕へる家がある。女子が生れると、神の箭飛來つて彼家の棟に立つ。四五歳の時に宮に送り奉る。山中に居れども獣にも害せられず、之を齋女《いつきめ》と云ふ。成長して交歡の心生ずるときは大蛇現はれて眼を怒らす。其時は家に歸つて了ふ。此齋女の居るが故に神の名も齋大明神と云ふのである（田邊府志）。齋は即ちイチコ又はイタコである。草雙紙などによくある白羽の箭と云ふ物は、要するに占有の表示であること今日の地境の棒杭と同じである。假令神々の血縁の末で無いまでも、神意を宣傳するだけの資格は容易の事で得られぬのは當然である。從つて臨時の思召に依つて採用せられし童男童女も、代々世襲の巫女の元祖も共に嚴密なる神の詮衡を經たことは一である。此の如くならざれば笹の葉を手草に取つて神の爲に狂亂するの資格は得られぬのである。而して我々が認めて疾病の一種とする狂亂が本來神の領分であつたことに付ては、今更他の民族の多くの例を引く必要もあるまいと思ふ。

　

　　　　　　　託宣と祭

　

　後世人の考では託宣と云へば大きな事である。遊半分に友達の口を寄せて聽くのとは丸で譯が違ふと思ふかも知れぬ。併し此は所謂世降つて天が愈々高くなり、神が極めて高く且つ大きな者となつて了つた後の話で、以前の小さい社會に於ては眼にこそ見えないが、村の神樣ほど親密なる保護者は外には無かつたのである。故に毎年の風雨寒温及(236)び之に伴ふ収穫の多少、或は流行病の早く鎭まるか烈しいかの如き、凡そ百姓が獨力で判斷し兼ねる大小の問題に付ては、いつも其助言を求めたものである。他に之と云つて智術の無かつた田舍では、農作の豐凶の如きは人力以上の大事件で、當業者の未來に惑うたことも我々の想像の外である。而も一方には災害の由つて來る所は神が夙に與り知つて居らるゝと信じたが故に、祈?を以て其善意の干渉を懇願すると同時に、更に現在の手段が果して當を得て居るか否かに付きて、神の時々の暗示を請求することを怠らなかつた。今日處々の神社佛閣に願掛をする者が、一方に御百度を蹈みつゝ他の一方に御鬮《みくじ》を引くのは、首鼠兩端の熊度だと見馴れぬ西洋人などは感ずるか知らぬが、我々の祖先は外來の天竺の神にでも斯う云ふ風に導いて貰はねば承知しなかつたものである。

　五穀豐饒の祈?は、支那でも然《さう》あるらしいが、日本の田舍でも通例は正月の上中旬に執り行なふ。朝廷の祈年祭は二月であつたが、村方では遲くなると勞働の都合が惡いか、或は別に深い仔細が有つてか、多くは春の極く始めに濟して了ふ。東北地方では雪の上に畝を立てゝ苗を植ゑる式をする（眞澄遊覽記）。即ち所謂御田植の神事である。立春の日又は正月六日七日の頃にする處もあるが、最も多くは正月十五日又は其前の晩である。此日を俗に又小正月とも云ひ、繩曳、石合戰、競渡《きそひわたり》から筒粥、胡桃燒の如き、凡そ其年の作柄を占ふに必要なる色々の作法も亦多くは同じ日を以て企てられるのである。中には全然神社の縁を離れて里の風俗となつた例も無いでは無いが、神ならずして誰が斯かる不定の疑問を答へ得るであらうか。此等は正しく年々日を定めて通常事項に付て神意を伺つた一の場合である。又同じく上元の日に手斧を以て果樹を劫《おびや》かして實《な》るか實らぬかと詰問し、傍の一人になります／＼と言はせる風俗の如きも、今では形式が頽敗して戯事のやうになつて居るが、元は必ず人の口を假りて樹神の意向を聽いた年占の一種であつたらうと思ふ。

　今の人が問題の起る度に時とも無く神の思召を聽きに來ると反對に、昔の人が日を定めて一年中の大事を問うて置いたのは、頗る注意すべき神道思想の變遷である。全體神無月には神々出雲國に集會せられると云ふことは何時の世(237)に言ひ始めた話であるか。平田氏の毎朝神拜の説などが用ゐらるゝ時代となつては、神は常の月には村々の社の拜殿の奧に、人間の亭主などゝ同じく不斷安坐して居られるものとして疑はぬやうになつたが、昔は社の神は如在《によざい》と云つて現在とは考へなかつた。社は祭の場處又は神の出遊の戸口であつて御住居では無かつた。年々の祭の日に此處へ御迎へをする外は、常には雲に連る高山の頂又は夫よりも高い處に居られるものとしたのである。春日とか諏訪とかの本の御山は知らず、諸國數百千の勸請處に分靈して年中邑里の生活に交つて御座つたと云ふことは、どうも昔の思想では無かつたらしい。斯く解せざれば所謂御旅所又は御幸と云ふ儀式の由來が不明になる。又例祭の日に御輿を奉じて安置する降臨石や降臨塚も妙な物になる。自分の考へでは、時雨れて淋しい初冬の月を神無月と謂つたのは、神が出雲へ旅行せらるゝのでは無く、元は其人里に於ける一切の任務を終つて、靜かに其本來の住家に歸らるゝ時節としたからであらうと思ふ。今日でも田の神と山の神との祭には此信仰がある。八日とか十二日とか日は些しづゝ相違するが、田の神は十月になると、山に歸つて山の神となり、翌春の二月には山の神里に降つて田の神となり給ふと云ふことは、廣く諸國に於て言ふ所である。山添の村では今でも右の二季を祭の日として居つて、古風な色々の作法がある。例へば馬の繪を白紙に印刷した物を門口に張り又は田の水口に立てるのは、則ち神の出入の乘用とせんが爲で、二月は出駒と云つて右を向いた馬、十月は入駒と稱して左を向いた馬の繪を用ふるのも其因縁である。二月の初午は今は稻荷の祭日になつて居るが、恐らくは神無月に對する神在月の悦びを表するもので、右の山の神田の神と云ふのも必ずしも大山祇とか大歳とか云ふ神たちに限つたことでは無く、弘く村々の神に通じた祭事であつたかと思ふ。尤も耕作を專らとする村では春の繪を重んじ、木樵に由つて生計を立つる山家に冬の祭の大事であつたのは自然の話である。木曾や甲州には山神祭に關する色々の習慣が遺つて居る。

　神の出入の日が一定して居つて此日を以て祭をする地方では、よく尋ねたら必ず託宣の昔の式も殘つて居ることゝ思ふ。越後岩船都の三面《みおもて》村は肥後の五箇荘に劣らぬ深山であるが、此村の十月十二日の山神祭は正しく神下しの古風(238)を存して居る。宮島理學博士が學生時代の旅行報告に依ると、此祭には小國《をぐに》邊から山伏を頼んで來て祈?せしむるが、神子《みこ》となる者は必ず此村の者で、分けても人の好い壯年の男子を選定する。其手に梵天を持たせ一同にて之を取圍み、或唱言をしながらホーイ／＼と囃して居ると神子はやがて寢てしまふ。之を引起して樣々の事を尋ねるのである（東京人類學會雜誌一二六）。宮島氏の説では此風習は三面と境を接した羽前の方の山村にも往々あるらしい。三面には此外にジヤケンツキと稱へて人の死靈を下す式もある。作法は之とよく似て唯唱言が別であると云ふ。右の神子の手に持たせる梵天とある物は即ち大きな御幣のことで、神下しには缺くべからざる要具である。既に神遊託宣の古意を失つた諸國の社にも之を以て所謂神體として居る例が多いが、幣即ち供物と云ふ語では理解の出來ぬことである。琉球では此物をグヒイ（ゴヘイ）ともウンモウシとも云ふさうであるが（沖繩語典）、ウンモウシは恐らく御申しで、中國四國の邊鄙に於て祭を「申し」と云ひ、山神祭を「山申し」などゝ云ふ如く、之に由つて神と交通し得ることを意味するものらしい。沖繩の神道が世人の想像する程内地と縁遠くは無いことは改めて言はうと思ふ。

　神託宣の事が年々の例祭と深い關係のあつたことを證する他の一例は、出雲の美保神社の一年神主の慣習である。此慣習は今日どの位まで殘つて居るか、是非彼の地方の人に聽きたいと思ふが、少なくも百五十年前迄は完全に行はれて居たらしい。諸國周遊奇談の記事に依れば、此社の祭神は三穗津姫命《みほつひめのみこと》と事代主命との二座にして、正神主横山大隅守あつて仕へまつる外に、別に一年神主と云ふ者が三穗三百軒の民の男子十二三より老年迄の者の中から三年前に選定せられる。毎年九月十月の交に本人と正神主とに必ず靈夢の告げがある。其夢の驗が三年續いてあると、更に三年後の一年神主は乃ち之に由つて定まるのである。之に當つた家では煤拂ひをして鹽水を以て洗ひ、佛壇を寺へ預けて全く佛事を禁じ、妻女の不淨の爲に他家《たや》即ち隔離所を作つて置く。而して其三年間は諸國入船の米初穗料を以て家の暮しを立てるのである。さて前の年の除夜から潮垢雛《しほこり》を取始めて、愈々祭の當日三月の十日となると、神前の湯立の釜に水を八分入れて湯玉の立つまで燒《たき》立て、淨衣烏帽子の新神主を此中に入れて煮るとある。煮ると云ふのは釜の(239)湯氣に強く當てゝ失神させること、普通の問湯と同じく、又は山城梅津の蒸講に旅人を捕へて大釜の上で蒸すのと同じだらうと思ふが、さうは書いて無い。兎に角息の絶えるのを度として釜より引出し、神前の荒菰の上に寢かせ置くと、やがて生返る。それを拜殿の前に置き、手に幣帛を持たせ皆人平伏す。其時近國參詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を聽取らんが爲に紙矢立を持參し待控へて居ると、やがて一年神主は御幣を振つて其年中の農作の善惡、病の流行など一々神の告げを傳へる。神託終れば其儘打臥して了ふのを菰に載せて置けば暫くにして元の如くなり衣服を著換へて家に歸つて行く。又祭の日でなくとも祈願あつて神託を仰がんとする者は此一年神主に頼む。釜入の式は右の如く初穗料は七兩二分である（神名帳考證上代附考）。

　五十八十の限られたる氏子の中から、籤引又は順廻りを以て年々の祭主を選び、之を頭屋《とうや》、頭人又は當番などゝ稱し、或は神前に出て祭の式の主なる役を勤め、又は自分の家に神を迎へて祭ることは今でも田舍の祭禮に多い例である。時としては人身御供の遺風であらうなどゝ云つて、幼少の男女を淨めて一人づゝ出すこともある。此等は何れも神子を人民の側から選擧した昔の慣例を證するもので、或は其神子が黙々として何の豫言らしいこともせぬのを見て疑を抱く人もあらうが、元來｜寄坐《よりまし》の任務は神を代表して氏子と問答をする外に、其懇切なる饗應を神に代り若しくは神として享けると云ふに在つたことは、此事が必ず例祭の日を以て行はれたのを見ても判る。山城｜綴喜《つゞき》郡青谷村の天滿宮の祭日は十月二十六日、明治前は八月二十六日であつた。頭人の組は今は三座もとは左右二座であつた。祭の日より五日前に御出と稱し各座當番の宅にて幣を以て神々に擬し之に神饌、神酒、鏡餅、果物、野菜、魚類を供へ、且つ稚子《わかご》と稱する幼年の女を中に置いて一同神酒を戴き宴會をする（山城綴喜郡誌）。備後鞆津の祇園社の祭は、舊暦六月七日に始つて十四日に終る。御幸の折も還幸の時も共に十歳前後の童子に前月より潔齋させ、袍冠にて神馬に乘せて先に立たせる。之を尸《し》と申候と風俗問?答書に見えて居る。尸は多分ヨリマシと云ふ日本語に宛てた字であらう。之と最もよく似た土佐の祭行事の風習は、近くは風俗畫報の第十號にも其報告があるが、寶暦年間の寫本ある醉莚昔(240)話《すゐえんせきわ》などが恐らくは古い記事であらう。其文言の儘を掲げると、土佐國諸社の祭に、十歳より十二三歳迄の童女を二人、潔齋すること七日、祭の朝白粉を附け明衣を飾り、神主其耳に就きて祓の文を誦し馬に乘せて前行す。之を名づけて行事と云ふ。蓋し神の形代《かたしろ》なり。神輿遊行の間或は一日或は半日行事睡りて醒めず。氏人遊人など鉦太鼓にて囃し立躍り舞ひ喧しく聲すれども、行事すべて覺ること無し。祭終りて社に歸り神主又其耳に就きて祓の文を唱ふれば睡始めて覺むる也。之を常例とし萬一行事眠らざることあれば、事故ありとて神主再三神文を唱ふれば常の如く眠る。何の世より始まるを知らず。江戸のある神道者之を聞きて、他國には未だ聞かざること尤も神妙なりと謂へり。京都藤森の祭にも婦女騎馬にて隨ふと雖も、是唯給仕の爲にて形代に非ずと云へりとある（土佐國群書類從卷五十九）。土州淵岳志《としうえんがくし》には右の神道者は保井春海で、谷重遠が之を話したとある。同書には白粉を洗ひ落せば行事の眠が覺めると云ひ、風俗畫報の方には額に墨で大の字を書くともある。此二點は共に頗る注意すべきことである。行事と云ふ語は中臣、齋部、卜部の如き神に仕ふる職掌を意味するもので（夏山雜談卷一）、行事を末社に祀つた例は日吉、白山、彦山、琴平其他に多いことは人の知る所である。

　馬琴の弓張月にも既に引いてある、琉球事略其他の書に見えたる此島の神祭の記事は、事の樣如何にも幽怪であるが、要するに亦巫女等の身に託して里の祭供を享けに來る神であらう。所謂キミテスリの祭は必ず十月で、七年に一囘の荒神又は十二年に一囘の荒神あり、遠國島々一時に出現す。其年八九月の頃より前兆として山の峯にアヲリと云ふ雲氣が現はれる（アヲリは則ち天降《あもり》であらう）。十月神出現あれば託女王臣各々鼓を打ち歌うたひて神を迎ふ。王宮の庭を以て神の至る處とし大なる傘二十餘を立つ云々。又山神時ありて現はるゝことあり、二人の童子を從ふ二郎五郎と云ふ云々。又ヲラチキラと云ふ海神現はるゝあり云々。此等の神現はれしを正しく見たりしことの由、其國人が君眞物《きんまもん》と記したるは是なりとあれば、既に近世となつては昔の語り傳へのみで年々の慣例では無かつた爲に、説に神秘の分子が増加したもので、恐らくは最初から神子が神々しい粧ひをして神の形代の役を勤めたものと思はれる。佛(241)教の強い影響の下に神が其靈を偶像に託せられると云ふ思想の行はるゝに至つた迄は、此風習は弘く東方の諸國に及んで居たものらしく、東國輿地勝覽などを見ても、朝鮮でも名山の頂には神があつて、既に小さな祠を構へてある時代に至る迄、里では唯日を定めて香を燒き、樂を奏し迎へて祭をすることであつた。我邦の富士、淺間、金峯、藏王の如きも其例で、里の社の甚しく簡單であるのは、元は唯其地の神降の靈地であることを標示するばかりであつたからで、又必ずしも三輪の山に限らず、社殿を構へざる神森の多いのも其爲であらう。故に後世になつて、偶々神殿に御正體があつても、衣冠束帶の常人の姿或は騎馬の像などである。固より之を以て我々の祖先の神の概念と推論することは出來ぬ。時としては又本地佛の彌陀藥師等が安置してあり、猶多くの宮に在つては御幣ばかりであつて、自分などは寧ろ今人が社を神の住居と見ることの根據の乏しいことを知るのである。郷村の社の斯く簡單であつたのに比べて、例祭の花々しく大業であつたことは考ふべきことである。日本人も信仰生活に質素な人民では決してなかつた。唯天竺諸邦のやうに殿堂の莊嚴を旨とせず、四時の祭を以て肝要とした迄である。從つて又神を代表して祭を享くる職掌の、昔は如何に重大であつたことがよくわかる。我々は此大なる變遷をよく考へて見ねばならぬ。武藏の府中の大國魂《おほくにたま》神社は古い總社の一であるが、此社五月五日の宵祭は有名な暗闇祭である。神輿渡御の時刻となると、悉く一町内の燈火を消し、其間に神秘なる祭典が行はれる。文化の末年の頃、江戸は牛込水道町の落合仁兵衛と云ふ人、多分は檢事落合法學士の先祖であらう、潜かに御旅屋の陰に隱れて居て此祭の樣子を見た。其人の内所話に、神職と覺しき者其夜は六所明神の代りとなり、假屋の中央に著座したる樣なり。其時何を手に捧げて如何に配膳するにや、旅所の板縁に低頭平身する樣にて、横山源右衛門御膳を上げますると斷りては引戻し、又來りては假屋の入口に頓首し、同じことを言ふこと七十五度なり云々（十方菴遊歴雜記第二編下）。此横山は六所明神の門前に廣く屋敷を拜領して居住する舊家である。元煮賣酒屋をして居たとき、始て此社の神の御宿をした由縁を以て、毎歳御假屋に於て神膳を捧げる特權を持つて居たと云へば、以前神慮の執次人《とりつぎにん》であつたことも略々想像せられるのである。

　

(242)　　　　　　　夷下し、稻荷下し

　

　土佐の祭行事は非常に珍しいと云ふ程の例でも無い。之に驚いたと云ふので如何に當時の神道家の研究が限局せられて居たかゞ分る。陸中平泉の金色堂の東北に當つて白山の古社がある。其社四月初午未兩日の祭に、御一箇馬《おひとつうま》と稱する古い式は亦此である。當日衆徒の中の男兒七歳なるを選び、二七日潔齋を爲さしめ、装束にて腰に蘆の葉を插ませ飾馬に乘せ、口附二人笠の上に日月の象《かた》を戴き、供奉六人各々造花を立てたる笠を着け、長刀木太刀及び脱沙《はりぬき》の兎を手に持つ。金堂址より乘馬し社前にて下乘し、造花を四方に投散し馬を急に牽き還す。此馬嘶くを以て凶兆としたさうである（平泉誌）。羽後平鹿郡増田町大字八木の寶龍權現社九月九日の祭禮にも、別當を勤むるは七八歳より十四歳の男子で、十六歳にもなれば其職を他の兒童に讓る。名づけて伜別當《せがれべつたう》と稱し、男でこそあれ其樣伊勢の御子良子《みこらこ》によく似て居た（月の出羽路）。子良は石卷さんも言はれた通り、香取鹿島其他の大社に於て物忌と稱した者と同じ職である。後世は單に神の給仕を專らとして居たが、其本の形は想像に難く無い。伊勢では物忌等｜夕御饌《ゆふみけ》の役を終り所謂子良の館まで還つて來る間に、人は何にても其言ふ辭を聽いて吉凶を占ふ風習あり、俗に之を「オイゲを聽く」と云つたさうである。喜早清在《きはやきよあり》翁はオイゲは即ち御夕饌にして、大鏡拾芥抄等に見えたる夕食問《ゆふけとひ》は此だと説明せられたが（伊勢の濱荻）、猶考慮すべき餘地がある。土佐には神母と書いてオイゲと呼ぶ里の祠が今も甚だ多い。此神が他の國の姥神と同じく神巫を崇祀したものらしい所から考へて、自分は假令オイゲ御夕食は起源の一つであるにしても、普通の辻占などよりは今一段神の祭に近いものと認めて居る。單に衢《ちまた》に立ちて行人の言を聽くのみでは、此語の説明がしにくい、何か特別の信仰行爲の記録に遺つて居らぬ事があるので無いかと思ふ。

(243)　さて右の託宣の役を勤める者が女か男かと云ふ問題である。土佐の行事殿などは、淵岳志《えんがくし》以後の記事には十一二の童男とあり、醉筵昔話には十歳より十二三歳迄の童女とある。僅かの年代に新の如き變遷も無いではないが、昔とても決して女に限つて居たもので無い。現に梁塵秘抄の二句の神歌の中にも、「あづまには女は無きか男みこさればや神の男には託《つ》く」ともあつて、男神子の古くから東國にあつたことを示して居る。我々が新しき同胞の中に於ても、アイヌ人のイムバツコ、トツコニバツコは靈姥及び蛇姥を意味し（人類學會雜誌一八一、榊氏）、臺灣の生蕃部落でもツマスと稱して祖先の魂魄の託くと云ふのは必ず婦人であり（同上一八三、伊能氏）、沖繩でもユタは女であるが、朝鮮では之に尸兒が用ゐられる。雅言覺非卷三に、尸は神相なり、然るを吾東尸を言ふに毎に尸童と云ふは抑何故ぞや。禮に曰く君の尸と爲りて辯冕して出づ、辯冕は童子の服に非ず、又曰く凡そ墓を祭るに冢人《ちやうじん》尸と爲る、冢人は童女の官に非ざるなり。三禮を歴考するに童子を尸と爲すの説無し、童子問に孔子曰く尸は必ず孫を以てす孫幼なれば即ち人をして之を抱かしむと。必ず誤つて此文に據り尸を認めて童とするなりとある。併し朝鮮に尸童の風俗の存するのは決して漢字用法の誤に基くわけではあるまい。全體神の仲居手長《なかをりてなが》としては、女の方が男よりも早く不適任になり易く、而も清淨無邪氣である間は童男童女選ぶ所は無いわけである。故に伜別當男神子の徒が往々にして物忌の役に當つたのである。佛法の方でも中山の法華寺の門派で今も盛んに行ふ阿尾奢法《あびじやはふ》と云ふ祈?には、文句こそ澤山なれ、越後の山村の山神下しとよく似た形の口寄せがある。例へば寛政の八年に長崎の法華寺大行寺寶輸寺等に於て行つた因《より》祈?なるものは、若しや邪法では無いかと云ふ注意から、其次第を詳細に寺社奉行へ書上げさせた。其要點を擧げて見ると、此法は本來山中などの清淨の地に於て行ふべきものである。先づ八九歳より十五六迄の男女、怜悧にして疵黒子など無き者を用ゐ、之を降童《かうどう》又は因童《いんどう》と云ふ。日本の語にては則ちヨリマシ又はヨリワラハである。其因童の面を白絹を以て包み、手に赤き花の枝又は御幣を持たせ、摩醯首羅天八大童子《まかいしゆらてんはちだいどうじ》等大小の神祇を因童の體に申入るゝ、之を遍入の法と云ふ。神佛の託言の外に怨靈邪鬼の來り託くことあり。之を辨別し又は實不實を分別するには秘傳がある。(244)神を返すを撥遣《はつけん》と云ふ。託言を口白《こうはく》と云ふ。此外に淺略の傳に幣白と云ふのがある。口白をさせるだけの祈?行屆かざる者の作法であつて、プランセツト、狐狗狸《こつくり》さんなどの如く幣の動きやうにて事の由を判斷するものである。此法や昔は延久の帝の御時、天台の僧行尊童男女を借置いて祈願した先例もあり、天治二年六月にも新若宮俄かの御惱の加持として此法を行つたことが初例抄にある。日蓮の弟子の日常之を中山派に傳へたのである（祠曹雜識卷一）。行尊は大峯とも羽黒とも縁故の深い著名の修驗者である。現今折々出逢ふ珍しい苗字に犬童《いんどう》と云ふものなどが、右の因童で無ければ説明の出來ぬのを考へて見ても、此法の古い神道から取入れたものか否かは別問題として、法華宗のみの發明でなかつたことだけは彼徒の言ふ通りであらうと思ふ。

　法師等は右の如く童男女を使役して託宣を聽く法を解すること、諸社の神主に劣らなかつたのみならず、自身亦童子でも無いに口寄の任に當つたやうである。僧尼令の規定に、凡そ僧尼吉凶を卜相し及び小道巫術病を療する者は皆還俗せしめよとあり、又僧尼上玄象を觀て災祥を假説し語國家に及び百姓を妖惑するもの云々、茲に法律に依り官司に付して罪を科せよとあるのは即ち是で、更に養老元年四月の詔の中にも、方今僧尼｜輙《たやす》く病人の家に向ひて幻恠の情を詐《いつは》り?り妄に巫術を執つて恣《ほしいまゝ》に吉凶を占ふ云々と仰せられ、村里に布告して禁止を加へしめられたのは、既に此時代から言ふべからざる弊害のあつた一證である。山城の京に遷つて後も所謂法師陰陽師なる一階級があつた。枕草子に見苦しきもの、法師陰陽師の紙冠りして祓したる。紫式部集に彌生の朔日河原に出でたるに側の車に法師の紙を冠にてはかせだちたるを惡みて云々。宇治拾遺物語卷十二に、茲に法師陰陽師紙冠を被りて祓するを見つけて云々。右の法師陰陽師は自身口寄に從事したとは無いが、かの古今著聞集に所謂法師巫なる者と別の物とは認められぬ（和訓栞）。藤原基俊或る時郊外に出でて小さき堂を見附け、其名を側へなる小兒にきくと「やしろ堂」と答へた。そこで口遊《くちすさび》に此堂は神か佛かおぼつかなと云ふと、童子取敢へず、ほふしみこにぞ問ふべかりけると下句を附けたと云ふ。所謂西行法師閉口傳説の系統に屬すべき昔話であるが、之に由つて法師巫も亦只の神子と同樣に人間が覺束なき事を(245)問ふべき職掌に任じて居たことが分る。枕草子などをそゝつかしく讀むと、法師と陰陽師と二種であると思ふ人があるかも知らぬが、陰陽師も普通の男なら冠はきて居る。法師が毛も無い頭に其時ばかり紙製の冠を載せてハカセの眞似をするから惡んだのである。而して法師にしてハカセ即ち陰陽師を兼業した者は近世まであつた。修驗者一名山伏は取りも直さずそれである。彼等が首に戴く頭巾《ときん》なるもの、狂言記に所謂むざとしたる三尺ばかりの黒い布片は、自分は之を以て右の紙冠の遺風と信じて居る。法印さん等は�ｺ川時代にこそ大略天台眞言の何れかに片付いたが、伊勢などには本當はどちらでも無い修驗者が居つた。又偏土の野山伏の中には此類が多かつた。明治の始に修驗巫女を禁止せられた處、法印の大部分は家を其儘に只の農家に復して、内々は頼まれて以前の業を遣り、寺院僧侶の仲間入をした者は少なかつた。此は固より彼等のハイエラーキーが存外確乎たるもので無かつたと云ふ證據でもあるが、同時に又山伏寺の中には清僧主義があまり行はれず、文字通りの血脉相承を常の事として居た故に、僧侶に比して所謂在家欲が強かつた結果である。後にも言はんとする如く、巫女が山伏を夫に持つこと、代々の修驗者の細君が代々の口寄業者であることは、極めて普通の現象であつた。彼等は夫婦仲よく國々の社に於て神主と物忌とのすることを、中山流の法華寺に於て上人と因童とのする事を企てたのである。惡く云へば馴合とも結託とも評し得るが、兎に角平素から氣心も分つて居て、定めて有效に感應し得られたらうと思ふ。かの著聞集中の法師巫は或はこの法師陰陽師の妻たる巫女を意味したとも解せられぬことは無いが、ミコは必ずしも女子に限つたわけでも無く、何か生活上の都合で鹿島の事觸《ことふれ》などのやうに男が飛んであるく例が神人の方にもあれば、ましてや女を抱へぬ寺方などに男巫の行はれたのは不思議でない。相州大山の農村、蓑毛《みのげ》の千代滿坊は石尊大權現の神家で、侍者を本職とし御師《おし》職を兼ねて居る。侍者或は兒捨とも書き、内佛に五大尊を安置して、山伏と神主との間を行くやうな職業である。此家は坂本の若滿坊などと共に昔良辨大和尚に隨從して來た三人の兒の末であるといへば（新編相模風土記）、侍者と呼ぶのが正しいやうである。鶴岡十二番職人歌合に持者と書いて相人と番《つが》はせ、七十一番職人盡歌合には「地しや」と書いて山伏に組合(246)せてある者も此であらう。一寸見ると繪卷物の巫婆の如く髪を垂れて首に數珠を掛けて居るが、歌には「まことは童兒《うなゐ》かりは少女子《をとめご》」とも、「又如何にしてけうとく人の思ふらん我も女のまねかたぞかし」ともあれば、男子が女の風をしたものである。精進料理に昆布で鰻の蒲燒を作るやうに、不自由勝なる寺方に在つて、侍者を依託《よりまし》に用ゐた昔の形であらうかと考へる。

　さて古今各種の巫術の共通を説くに當つて、其祭神又は本尊の異同を氣にするのは必要の無いことである。もと口寄が一つの術であつて之を行ふ者は單に神と人との仲介機關であつたとすれば、術者が進んで自ら其能を販《ひさ》ぐ場合にも、成るべく其地方によく知られたる神又は佛、容易く村人の歸依信仰を促し得る御正體を喚迎へんとするのは自然のことである。修驗寺の本尊に歡喜天を祀り、其配偶と云ふ十一面觀世音を安置し、或は不動堂や庚申堂を境内に造營するのは、因祈?の效果でもあれば又原因でもあつた。此考を以て見ると、諸國の村里に最も多く祭られてある神樣は何れも著名なる託宣の神であつたことに心づく。例へば古い處では宗像の神、それから例の八幡神、熊野白山藏王諏訪駒形の如き、中古以來其數延喜式内の社に敷十百倍した大小の祠があるのは、疑も無く巫道流行の勢に由つて次から次へ其信仰を擴張したものである。近世の里の神に神名帳に見るやうな地方的特色が無くなり、或は九州に處々の白山諏訪があり、奧羽に熊野堂が多くなつたのは、勿論一つには武家新恩の領地の交錯にも基くであらうが、更に又古來漂泊を生涯とする巫女の徒があつて、年老い旅に倦む頃には便宜を求めて笈《をひ》の神と共に土着した結果である。過去四五百年の間に新たに起つて盛んになつた神々も、此の如くにして始めて説明がつく。荒神の如きは其一例で、或地方では家に祀り、或地方では社を作り、或は單に塚や僅の除地を其祭場に存するばかりである。其祭に仕へる者も巫女もあれば山伏もある。九州などでは盲僧が來て祀る。竈《かまど》の神とも土地の鎭守とも云つて、しかと附會すべき神名も無く、よほど土公《どこう》の思想に近い祟の神で、荒神は單に其荒いことを意味する語であるらしい。

　我邦では祟の字をタヽリと訓むが、タヽリとはタヽヘ（稱言）又タトヘ（譬喩）などと語原を同じくし、もとは託(247)宣を意味する語では無かつたらうか。上代の貴人にヒメタヽラの美稱を負はれた方もある。百濟から渡來した琳聖太子《りんしやうたいし》の家を多々良氏と云ふ。沖繩で神ターリと云ふのは物が憑いて狂氣のやうになることである（沖繩語典）。此等を思合せると、タヽリの祟は神の怒と云ふ外に、之を表示する一定の形式を具へて居たと見える。此想像は假に當らぬとしても、一旦士着せられた神々が時代を經て漸次に巫女託宣と縁が薄くなると共に、何時となく段々穩和な惠み深い神に變られることは著しい事實である。今日では福相圓滿なる七福神中の惠比須樣も、もとは西の宮の荒夷であつた。而して梁塵秘抄の神歌に、此神を歌つたものは必ず其示現の靈妙を稱へて居る。所謂夷講の由來を調べたら分るかも知らぬ。福の神と云ふ位だから愛敬溢れるばかりでもよさゝうであるが、昔の頑の神は皆怖しくて一方では祟つた。夷に祟られたと云ふ記事は必ずしも珍しくは無い。阿波の和食《わじき》に阿州家で城を築かれるとて、其地に在つた夷の祠を取除けたが、一國一城の制定まつた時、城を廢して跡を其儘にして置いた處、忽ち岡作兵衛なる者の下男に夷神が託いて、城を築く爲とならば是非も無いが、城を廢したら何故に再び我を祀らぬぞと大いに荒れ、之を疑ふなら三日の中に竹林を枯らして見せるとあつて、果して大藪が枯れた（新著聞集）。此神は本來海の神であれば其怒も誠に測り難い。故に昔は其神意を傳へる者を大事にしたと見える。石州｜温泉津《ゆのつ》の夷などは海上の奇難を救ふべしとの御託宣で信徒甚だ多く、社に日驗の書と云ふものがあつて、神子が之を參詣の船人等に讀聞かせ、日の利一日も相違が無かつたと言ふ（本朝故事因縁集卷五）。夷下しと稱する一種の口寄業者も此の如くして生計を營んだ者らしい。此輩に就ては自分は何もまだ知つて居らぬが、神子の類でもさう上等の部では無いといへば、常陸の水戸鹿島其他の地に住する夷大夫《えびすだいふ》と云ふ札配り（常陸國誌）、或は又攝州淡路などから出て遊藝を以て旅行する夷下しと稱する西宮支配の人形使ひ（賤者考）などは、此部落の段々本業から離れねばならなんだ者の末であらう。阿波勝浦郡の生夷谷《なまえびすだに》は以前邪法を以て人を呪罰した賤しい者の隱家だつたなどと傳へ（燈下録九）、何れに行つてもあまり名譽な傳説を殘して居らぬ。

　稻荷下しは夷下しとは違つて近頃までも之を業とする者があつた。見たことは無いが自分もよく話に聞いて居る。(248)即ち狐と人との仲介をする者、狐の口寄である。狐憑のある家でも頼めば、單に稻荷を信心して福を求める家でも祭の折に之を頼む。小豆飯とか油揚とか狐の好む食物を携へて此者と共に山へ祭りに行くと云ふことをよく聞いた。あなたは御眷屬《ごけんぞく》が多うございますか、おれは子が多い上に夫がとんと一所に居らぬのでなどと、人間の女房とよく似た愚痴を云ふ女稻荷もあつた。而も之が口寄を勤めるのは祭官兼帶の男の爺《おやじ》であつたから面白い。時には祈?祭典の金錢を貪らんが爲に、或は何かの恨を以て狐を人に憑けることもある。稻荷下しは狐を使ふと云ふことは昔から今日まで往々聞く所である。現今の稻荷神は狐でない。狐とは主從の關係である、と謂ふ説は承認しないわけに行かぬが、少なくも此だけの事は亦事實である。即ち新猿樂記の狐坂の伊賀專女《いがのたうめ》以來、狐を神に祭つた例は無數である。諸國の狐塚は其祭場である。關東の諸國では狐をトウカ或はオトウカと言ひ、トウカは稻荷の音讀である。上總下總其他では屋敷毎に稻荷を祀り、且つ之を狐だと信じて居る。昔の人が狐を神に祀つたとしてもさほど奇恠とは思はれぬ。木や石などは今でも公然拜んで居る。エビスと云ふ神も以前は漁村のみの神であつたらしいが、或はそれが鯨では無かつたかと思ふ仔細がある。百年ほど以前出羽の飛島見物に往つた内地の船が、島の附近で五頭の鯨の竝んで浮いて居るのを見て、エビス樣どうかそこを退いて通して下されと云つたと云ふことが、菅江眞澄の齶田乃刈寢《あきたのかりね》に見えて居る。猶もつと尋ねて見たいと思ふ。

　

　　　　　　　オシラ神

　

　巫女又は尸童が託宣の折に手に持つ物、或は笹、或は蘆の葉、沖繩では所々の拜林《をがみばやし》に出で遊びたまふ神の持物は御萱とある（琉球神道記）。併し古くより最も弘く用ゐられたのは榊であつた。例へば江家次第卷六、梅宮祭の條に、御(249)琴師は西面し御神兒《みかうのこ》は南面し山人二人列立す、鎭神詞《かみしづめのことば》を申畢りて御神兒二人進みて賢木《さかき》を受け本坐に着くとある。長崎の法華寺の因童が手に赤き花の枝を持つと云ふのは、何と無く佛教特有の作法のやうに思はれるが、只の里巫《さとのみこ》の中にも地方に由つては二尺ばかりの桃の枝を前に立てる者があると云ふ（人類學會雜誌二一三、竹内氏）其桃の枝には三總の麻を結附け其端を一つに束ねて垂れる。思ふにこの麻や木棉を附けると云ふことが昔から極めて大切なる要件であつた爲に、後世の所謂御幣が用ゐらるゝに至つたのであらう。從つて口寄に先だち青い木葉を水に浸すこと、或は又口寄をする家で門に柳の枝を插すこと、或は祭の日に舞を奏する者が花や葵を插頭《かざし》にすることゝ、あの物々しい御幣や梵天とは丸で別々の品物の如くなつて了つたが、所謂玉串の最初の思想は生樹の清い枝に神靈をして依らしむるに在つたので、必ず木棉を以て之に垂《し》でたのは則ち其植物の齋忌せられてあることを表示したものと思はれる。語を換へて言はゞ、近世の巫祝又は山伏が或時は御靈代として神殿の奧に齋き、或時は手に取持つて降神の具とする御幣なるものゝ、以前の形は則ち手草で、其又根柢を爲すものは神靈が樹木に宿ると云ふ信仰である。

　梓巫《あづさみこ》と云ふ語の本原たる梓の弓に至つては幾分か説明が六つかしい。此は梓が弓を製するに適したと同時に、榊などの如く特に神の依坐に適して居た爲に其枝の代りに之で造つた弓を用ゐたのかとも見えるが、近世の大弓などゝ云ふ盲の巫女は竹の弓を持ち、且つ口寄の時に臨んで必ず其弦を鳴すと云へば（新篇常陸國誌卷十二）、弓と云ふことが一の要件である。さうなると何か樂器の方に屬すべき物かも知れぬが、併し少くも其弓に附けた短册は一種の木棉垂《ゆふしで》である。今一つ由來の解らぬ物は巫女の首に掛ける數珠である。繪卷物にあるのはさ程でも無いけれども、今日東北地方の口寄等が使ふ數珠は無暗に長い。長さが約十三尺、無患子《むくろじ》の珠だけでも三百三十三箇、其外鷲の爪が四箇、白い何かの角が四箇、熊の牙や貂《てん》の上顎などが數箇、天保錢や寛永大錢をも通して置く。博物館に在る物は此外に菱の實がいくつも貫いてある。之に由つて考へると、所謂イラタカの數珠は梵語の阿利叱迦《ありたか》から轉訛したと云ふ通説はちと無理で、イラは即ち尖刺《とげ》を意味するのではあるまいか。修驗道でイラタカを最多角と書き（祠曹雜識卷七十二）、或(250)は又最角念珠とも書いて、眞言佛教の方にもさしたる故實は無いと云ふ（鹽尻卷五十四）のを見ても、菱實鷲爪の類を集めて作つたイタコの數珠と元は一つであらうと思ふ。申す迄も無く此等の點は固有の神道からは解説し得べきで無い。巫道の教義が甚しく複雜であると同じく、其作法にも中代に加除變更が多かつた。此等は其結果と見ねばならぬ。

　次に口寄の手に持つ御幣は一本であるべき筈であるが、二本持つたかと思はれる記事もある。眞澄遊覽記の卷一、信州上伊那郡片桐村に於て、クダ狐が婦人に憑き惱ますのを落すとて、山伏が依坐の女を伴ひ來り、左右の手に白幣を持たせ不動の像を見詰めさせて置いて祈ることがある。但し一本の幣を兩手で持つのか、些しく判然せぬ。併しながら奧羽の巫女即ち前に云ふイタコが左右の手に各々一箇の手草を持つことは確かである。尤もそれを手草の一種と見得るか否かは一の問題で、それをば次に述べて東北の學者に相談したいのである。羽前｜寒河江《さがえ》の人長岡百川氏の話に、氏の郷里などでは口寄は手に裁縫道具の針指の如き物を持つて祈ると言はれた。即ち一尺餘の棒の端を布類を以て圓く包んだ物である。彼地では之を何と云ふか聞かなんだが、それは疑も無く東北の諸國でオシラ神、オシラサマ又はシラアなどゝ稱する物で、イタコ或はモリコと云ふ口寄巫が持ちあるく木の神體である。オシラサマの事は遠野物語其他近年の書物にも見えて居るが、此と口寄と深い關係のあることは其後追々に判明したことである。オシラには男女の顔を刻んだ剥出《むきだし》の物もあれば、姫頭鷄頭馬頭などもあるが、巫女が村里を持廻るものは多くは布に包まれて姿が秘密であつた。羽後仙北地方に於ては、「谷を隔てゝ生立る桑樹の枝を採り、東の朶《えだ》を雄神西方を雌神とし、八寸餘の束の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神に準《なぞら》ふ、絹綿を以て包み秘め隱し、巫女それを左右の手に取りて祭文祝詞を唱へ祈り加持して祭る」と云ふ（月の出羽路卷二十一）。陸中遠野でも、昔は守子と云ふ婦人小箱を背負ひ御家中在町を廻り、家毎にてシラアと云ふ物を箱より取出し手に持ち、何やら暗《そら》に讀み祈?を勤め、細く三角形の小札を家主へ遣し初穗を貰ふ。シラアと云ふ物は軍用の采配の如く木串へ色々の切物を細く裁ち澤山に結付けたもので、其串の頭に神體有る由なれども數多き切の中に包まれて見ることが出來なかつた（遠野古事記卷一）。津輕邊でもイタコと(251)云ふ巫女、オシナ又はオシラとて桑樹にて作つた棒に絹布などを被せて幣帛の如くなし、之を神明と稱して祭つた（常陸國志卷十二所引東遊雜記）。獨り奧羽の各地方のみで無く、蝦夷の中にも亦オホシラ神があつた。此も桑の木の尺餘の枝に略々男女二神の形を刻み、信心の者が祈願を掛ける時は、木棉の切を出させて神體を包み、之を左右に持つて呪詛（？）すれば、其神巫女に掛つて吉凶を言ふ（蝦夷風俗彙纂引松前志）。此風俗のアイヌ固有のものか否かは疑はしいとしても、此と奧羽のオホシラサンと別の物だらうと云ふ説は（日本宗教風俗志）比較研究不足の致す所である。

　南方さんなどはオシラ神はもと養蠶の神ならんと言はれた。今日の通説も先づはさうであらう。此は神體を桑木で造ること、馬の靈が蠶の神となつたと云ふ捜神記以來の傳説が日本のオシラサマにも結着いて居ること（遠野物語）、東北の方言で蠶をシロサマなどゝ云ふこと、及び蠶の病氣である所の白疆蠶《はくきやうざん》を蠶の舍利と言ひ、却つて尊敬することなどが良い根據である。羽後仙北郡横澤村大字中里の白神社などは俗にオシラ神又はオシラサマと云つて養蠶の神である（月の出羽路卷二十一）。越後長岡邊では昔は蠶の神を四郎神と云ひ、正月二月六月の午の日に小豆飯を以て之を祭つた（北越月令）。上野勢多郡の宮田などでも正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とを以て蠶影山《こかげやま》の神を祭ると云ふ（宮田村沿革史卷六）。併し自分がまだ賛同に躊躇するのは、養蠶の保護神に對する信仰が今日の如く傳播したのは此生産業の大なる普及と共に至つて近代のことである故である。神體の材料の桑であることゝ、神をも蠶をも共にシロと云ふことゝの二つは偶然併存したとも見られる。馬と蠶の話などは後に來てオシラ神に附着したのかも知れぬ。石誕生傳説の子種石を蠶種石として信仰し、又は山姥布晒の昔話を蠶種の催青する前兆に附會した例が甲州などにもある。オシラ神を蠶の神としては諸國に多き白神又は白塚の名の由來を説明し得ぬのみならず、巫女託宣に此神體を持出す仔細が全く不明になる。オシラサマの正しい本名が白神であることは前の羽後仙北の白神社の外に、北海道｜渡島《をしま》の岬端白神崎の白神山にも石室の奧にオシラサマを祀つてあると云ふのでよく分る。而して此等の白神は或は白山權現では無かつたかと思ふ。和賀稗貫二郡志に陸中稗貫郡龜ヶ森村の葛ヶ坂一名｜傀儡坂《くゞつざか》の事を記し、後に自(252)分の述べんとする傀儡の箱石の古傳説を説いて、「傀儡は神子の類なり、俗にモリコ又はイタコと云ふ、木の切を以て白山神明の形を刻み、此に絹布の裂《きれ》を多く蔽ひ、之を舞して兒童のまじなひとす」とある。津輕でオシラを神明と呼ぶことは既に擧げた。白山の神は今では姫神であるが、古くは陰陽二體の神であつたらしい證據には、同社の社僧が建武の頃に認めた起請文の用紙に正しく男女神の御影を寫したものがあると云ふ（　　　宮司長屋基彦氏談）。藝州廣島の國泰寺の附近にある白神社は、以前竹竿に白紙を挾みて海中瀬の在る處に立てたものを神に祭つた。社傳に菊媛とあるのは即ち菊理媛神であらうと云ふ（秋長夜話後篇）。書紀神代卷の一書に、「是時菊理媛神亦有2白事1」とある「白事」などゝは全然關係がなかつたにしても、白山の神を白神と云ふのは有得べきことで、殊に此社の下級の神人が、殆と漂泊とも言ふべき旅行を以て、權現の信仰を全國に傳播した事實に考へて、オシラ神と云ふ物の少なくも起原のみは、白山神明の神根《かみをき》に用立てた移動的靈位即ち手草であつたと見るのがよいかと思ふ。

　安藝の白神社の神體が元海中の澪標《みをつくし》の竿であつたと云ふ説と稍々近いのは、出羽莊内に於て特定の家に祀るオクナイサマである。毎年秋の末に子供が集つて米錢を勸進し之れを祭ること他の地方の道祖神に似て居る。元和八年酒井宮内大輔入部の節、六尺竿を以て檢地をした。人民地を狹められんかと恐れしに、後に見れば其竿實は六尺三寸あり。土地の丈量至つて寛でありし故深く其�ｺに懷き、乃ち其竿を短く切つて各自之を神に祀つた（莊内方言考）。遠野などではオクナイサマは往々オシラサマある家に隨伴して居るが、而も其神體は必ずしも木を刻んだ者でも無く、二つの神は別の物と考へられて居るが、或地方では祖先以來願掛の度毎に上から眞綿にて押包むこと、全くオシラサマと同じ物がある。羽後平鹿郡｜阿氣《あげ》村の八佛寺善明院（修驗道か）のオコナイ神の如きは即ちそれである（雪の出羽路卷貳）。莊内ではオクナイサマは酒井家の御宮内樣であると云ふが、勿論他領には通用せぬ説である。此は恐らくは行神《おこなひがみ》であつて、行ひは即ち修法のことであらう。

　オシラガミは漢字で御白神又は雄素《をしら》、麻白、弦白、緒白などゝも書くさうである。申す迄も無く當字から本義を推(253)論することは出來ぬが、斯かる字を用ゐたにつけても、オシラの頭に蔽ふ布片が榊葉に木棉を垂でるのと同じ意趣であつたらしく考へられる。さて右の布に包んだ神體の秘密であるが、上野の博物館の土俗部には、陸中邊のイタコが用ゐて居た立派なオシラサマが陳列してある。勿體なかつたが學問の爲に自分はそつと其幾重の絹と綿とを剥いで見たら、外の形の圓いに似ず中は扁平でとんと今日の飯杓子の如く、それに質朴な人の顔が描いてあつた。此は實に大なる啓示である。此迄杓子の民間信仰に於ける地位に就いて色々考へて見たことがあつたが、少くも元は巫道の方から出たと云ふことだけわかつた。筑前小倉で日和坊主と稱し杓子に眼口鼻を半分づゝ描いて晴れたら皆書かうと約して晴を祈ること（たより草小川敬義氏書簡）、肥前佐賀邊でチゴツキ即ち百日咳の呪《まじなひ》に杓子に人の顔を描き、千人に見られたら病が治るとて路傍に立てること（日本周遊奇談）、さては東京などの戸口に打附けておく「クツメキ御免」、又は杓子で招けば三年の内に死ぬなどゝ云ふ迷信も皆多少の因縁があり得る。肥後｜合志《かはし》の湯船村の杓子田の柳は昔五郎と云ふ大力の者が杓子で草を刈り其杓子を地に刺したのが成長した（肥後國志）。此は多くの杖立傳説と共に杓子を以て神意を試したものであらう。昔川越仙波の喜多院で僧正が天狗に成られた時、小僧擂木を持つて之に隨伴したと云ふ話は合點がしにくかつたが、紀州高野の杓子ヶ芝では如法上人白日昇天の時、御弟子杓子を持つて其跡を慕ひ行き、此地にそれを落したとある（高野山通念集）。即ち杓子に依つて神と人との聯絡を圖つたらしい一の例である。子供の疱瘡除けに、所謂孫杓子を貰つて來ると云ふことは、小兒をオシラサマの取子として其無病成長を祈るのと（人類學雜誌第二十八卷四號）同じ趣旨かと思ふ。

　

(254)　　　　　　　池袋の石打と飛騨の牛蒡種

　

　市外山手電車線の分岐點池袋の驛から、西北に當つて大きな森が池袋村である。百年この方此村に付て妙な一の浮説があつて、多くの江戸人の隨筆に出て居る。又今日でもそれを見た聞いたと云ふ者の噂がある。勿論村の者は之を否認し、自分も亦必ずしも之を信じては居らぬが、話の筋はざつと斯うである。市中の家で此村の娘を女中に置くと必ず色々の不思議がある。或は生板に澤庵漬と庖丁を載せたまゝ棚の上へ上つたとか、行燈が天井に引着いてしまつたとか、其他にも信じ難い樣々の説があるが、就中著名であることは、家の内へ何處からとも無く絶えず石を打込む。或はそれは單に下女に雇入れたゞけで此不思議があるのでは無い、其家の主人が其女に手を掛けると始めて起る現象であると云ふ。果してどちらであるかは究めにくい問題であるが、兎に角に其女を還して了へば不思議は直に止むと云ふ。村の氏神が氏子を他處の者の自由にさせるのを嫌はれる爲だと云ふのが普通の説明である。老人たちはいくらも似寄つた話を聞いて居るであらうが、自分の知つて居る一二の例を申せば、文政の中頃小石川水道端に住んだ御持筒組與力高須鍋五郎と云ふ人、池袋生れの下女に手を着けたら、忽ち烈しい石打があつた。種々の祈?守札も何の效驗も無かつた處に、ふと心附くと此騷動の最中に其女ばかりは平氣で熟睡して居る。もしやと云ふので訊ねて見ると當時の人が目して原因と爲すべき事實があつた。早速其者に暇を遣ると其日より石が飛ばなくなつた。何でもヲサキ持の家の娘であらうとの説であつた（十方庵遊歴雜記第四編の上）。最近の例としては明治四十年頃のことであるが、ある家に頻に石打の不思議があつた。どうしても原因が解らなかつたが、一日天氣がよくて細君は外へ出て張物か何かをしてをり、下女は井戸端の盥に向つて洗濯をして居ると、又々盛に石が戸や壁に當る。其時にふと見ると右の下女(255)がそこらの小石を拾つて足の下から之を投げる、其すばやいことは殆と目にも留らぬ程で而も彎曲をして妙な方角に打着《ぶつゝ》かるので、今迄其女の所業であることが知れなかつた。此話をした人は其の下婢が何の爲にそんな仕打をしたかは聞いて居なかつたが、其女は確かに池袋の者と云ふことを聞いたと云ふ（畑田保次君談）。又一説には池袋の村民は他村の人と婚姻を結ぶことを忌んで居る。其譯は昔からの言傳へに産土神の村の人が減ずるのを嫌ふ爲か、若し他村へ嫁に遣る家があれば、其家へ何處からとも無く石を打ち又は行燈が天井へ擧がる等の奇怪があるからである（人類學會報告七、若林氏）。此もあまり古代の事實では無いらしい。之を見ると村の女を占領した者の祟を受けるは勿論で、之を許した氏子の側でも責任を免れないのである。從つて石打の行爲が假に村の娘の所作であるとすれば、説明が一寸六つかしくなる。

　此等の噂は要するに取留も無いことであるが、巫女問題の研究者に取つては一笑に付し去るべくあまりに流布して居る。固より動機又は理由のはきとせぬのは直接に池袋の人から聞くことが能《でき》なかつた爲であらう。池袋の村民はそれは自分の村では無く少し離れた沼袋村の事だと主張する（山中共古翁談）。フクロとは水に沿うた地形を意味し、武藏には殊に多い地名であるから間違ひさうな話である。現に享和の頃に出來た野翁物語卷六には、之と類似の一事例を擧げて、目黒邊の某村と云ひ、氏神が氏子の他出するを厭ひ此村人を雇ふ家には不思議ありと記して居る。だから其村が池袋であるか否かは未詳として置いてよろしい。唯東京に近い村に妙な心理上の威力を有する部落があることだけは爭ふべからざる事實である。而も此話は昨今に始つたもので無い證據には、偶發の事實としては昔の人も往々に之を記録して居る。其一の例は享保九年閏四月廿二日、江戸の旗本遠山勝三郎殿家來神田宅右衛門なる者の小屋に、何方よりとも不相知石瓦打込み申候、初の程は隣屋敷松平隼人殿屋敷の子供の仕業かと存じ候處、左樣には無之、後々は樣々の物を打込み申候。右打込み候石瓦取集め印を致し置き候へば、いつの間にか不殘失せ、祈?致し候ても不相止云々。此家の主人は同月二十八日に根井新兵衛と云ふ人を招き蟇目鳴弦《ひきめめいげん》の式を行はせると、それより二日目に駿(256)府から召抱へた猪之助と云ふ十四歳の調市《でつち》に野狐が附いて居た。段々糺明すると毎々樣々なる儀を仕り候事白?により悉く顯はれ、正氣に罷成り五月に入りては常の通何事も無之、透と相止み申候とある（享保世話）。次には出羽の鶴ヶ岡の出來事で只寅年とのみあるが元禄十一年の事らしい。藩士加藤利兵衛の屋敷に石を打込む者があつた。三月に始り五月に入つて殊に甚しく、座敷に飛込み障子などを破る。五月十五日の如きは一日に石の數二百三十ほども打つた。一寸から四五寸迄の石である。日蓮宗本住寺の僧に祈?せしむるに、何の驗も無かつたが、ふとした事より手懸りを得、段々穿鑿して下女の仕業であることが知れた。それからも氣を附けて居ると、十八日の日其下女が奧庭に往きて石を拾つて居るのを發見した。然るに石を打附けんとする手元を押捉へて、嚴しく詮議をしても一語をも吐かず、却つて正體も無く寢てしまつてどうしても目が醒めない。そこで女の母親を呼び共々に起して見ると、一時ばかり目を明けたがやはり何事をも言はぬ。さして本性は違つたとも見えないが、事の外｜草臥《くたび》れたやうであつた。乃ち請人を呼んで引渡してしまつた。勿論石打の怪はそれで絶えたのである（大泉百談卷三）。

　此二つの話などは原因が又所謂池袋とは別であるらしい。鶴ヶ岡の方は調べて見ると誠に埒も無い恨であつた。最初草履取の六藏なる者の脇差を此女が戯れに取つて差したのを、六藏が立腹してひどく叱つた。それが口惜くて六藏所持の錢一文を取つて呪詛したと自白して居る。併しそれからどうして石を打つことになつたか、どうしても理由を告げない。又祈?僧が生靈か死靈か何か外の驗を見せよと空に向つて宣言すると、忽ち錢二文を紙に包んで投げたので、或は下女などの仕業かと彼等の針箱を捜査することになつたとも見えて居る。何の事かよくは解らぬが、今で言へば一種の自己催眠とも名づくべき術を解して居た者と思はれる。若し當時此等の婦人又は少年の身元を詳しく尋ねたら、或はかの東京附近の一村に似た話があつたのかも知れぬが、殘念ながら記録は此きりである。併し我々は猶他の一方に世間の人から略々之と同じやうな意味に於て敬して遠ざけられて居る多くの家又は部落を聯想して見ねばならぬ。此等特殊の家族の起原を考へて見ると、其今日に於ける社會上の地位は同情に値する者がある。誠に婚姻交通(257)の遮斷は怖しいもので、其結果は日常生活の慣習にも同化が行はれず、家庭の内情を知り得る機會が無い爲に愈々色々の臆説が起り、終には魔術を以て人を苦しめるの、邪神を信じて富を求めるのと、不愉快な風評のみ多くなつたが、其本人等の極めて無邪氣なのを見ても明らかなる如く、最初に於ては決してさういふわけのものでは無く、單に職業の特殊であつたこと、又は奉仕する所の神が他の人と違つて居たに過ぎなかつたのであらう。職業と云つた所が決して後世のやうに神主專門巫女專門と云ふので無く、一方には家に附屬の田地があつてそれを耕して食ふこと他の百姓と區別は無い。又邪神と云ふのも程度の話で、近世の神道にこそ牴觸はするが、昔はさまで奇怪でも無かつた諸國の社である。現に今でも田舍には狐を祭り蛇を祀つたといふ例がいくらもある。其爲に賤しめられる道理が無い。故に自分の解する所では、本來ある荒神の祭祀に任じ、託宣の有難味を深くせん爲に正體をあまりに秘密にして居た御蔭に、一時は世間から半神半人のやうな尊敬を受けて居たこともあつたが、民間佛教の逐次の普及によつて、追々と頼む人が乏しくなつて來ると、世の中と疎遠になることも外の神主などよりは一段早く、心細さの餘りにエフエソスの市民の如く自分等ばかりで一生懸命に我神を尊ぶから、愈々以て邪宗門の如く看做され、畏しかつた昔の靈驗談が次第に物凄じい衣を着て世に行はれることになつた。此が恐らくは今日のヲサキ持、タダ狐持、犬神猿神猫神、蛇持トウビヤウ持などゝ稱する家筋の忌嫌はるゝ處の由來であらうと思ふ。

　巫蠱《ふこ》の家が不使用に由つて元の職務を忘れてしまふと云ふことも、託宣の機會が時代の進むと共に追々と減少した事實を考へたら、強ち無理な推定とは言はれまい。彼等は夙に一定の地に土着して食ふには事缺かぬ田畑ある上に、世間からは兎角不安の眼を以て視られ、時としては迫害をも受ける、更に又次の章に言ふ如く自分の家に取つても必ずしも有難い神樣でも無かつたから、何かの手段があつたら過去と絶縁したいと云ふ希望も漸次に強くなつて、老いたる親の死亡と共に秘傳や口授の相續せられざりし場合も多かつたと見ねばならぬ。故に一方には人の祀らぬ野狐が増加してやたらに子女に災する。犬神の主を離れて野に住み人に憑く者をノイヌと云ふ（和訓栞）。四國地方の犬神由(258)來の傳説に、弘法大師が與へた狼除けの護符を無智の者が開いて見た爲に此神が四方に飛散したと云ふのも、見やうによつては此信仰の衰微と頽廢とを暗示する者とも言はれる。前に引いた遊歴雜記に、武州秩父邊の俗信として三種の家筋の忌むべきものを擧げて居る。其一は例のヲサキ狐の家、二にはナマダゴ（生團子）とて彼岸月見などに團子を作るに、甑《こしき》の中にきつと三づゝ生の團子が出來る家、第三にはネブツチヤウと云ふのは小蛇の類である。之を祀る家筋の者の住んだ屋敷は、元の主が死絶えた後も代つて來り住む者が無く、荒れ次第に捨てゝ置くとある。此等は何れも世間から觀た所謂邪神の末路であつて、其家筋の者は忘れようとしても、周圍の者が却つていつ迄も記憶して居つた爲に、斯う云ふ噂が永く殘つて居るのである。

　前に述べた池袋の一村がヲサキ持の筋であると云ふことは頓と外では聞いたことが無い。此は恐らくは根の無い想像であつて、斯かる災を人に被らしめる者はヲサキ家の外にはあるまいと云ふ誤れる前提から出た説であらう。口寄の徒が祭る神は所謂八百萬である。總稱して荒神と云ふ祟の烈しい神は、今でも地方によつて種々雜多の名を以て齋かれて居る。山陽美作記《さんやうみまさかき》卷上に、塀和《はが》の善學《ぜんがく》、木山の生靈《しやうれう》、加茂の神祇、久世《くせ》の生竹明神、此等は荒神であつて、もし其氏子と諍でもすれば必ず相手に取付きて惱す故に諸人之を恐るとある。中にも塀和の善學は、昔塀和村に善學と云ふ坊主があつて、其飼つて居た狐である。坊主死去の後此狐諸人に憑きて災を爲しける故に村人之を神に齋《いは》ひ、其坊主の名を以て之を呼んだのである。四國は犬神蛇持等の盛んな地方であるが、やはり之と別種の家筋で永く不思議の威力を有する者がある。阿波｜名西《みやうさい》郡｜下分上山《しもぶんかみやま》村の内字｜栗生野《くりふの》と云ふ處の庄屋は、代々の主人必ず身の内に黒い月の輪がある。此人の草履を外の者取違へて履く時は忽ちに腹痛する。此には速に其草履を脱いで我家の竈の上に置き詫言をすれば痛みが止む。又此人に對して無禮をして忽ち身體の噤《すく》んだと云ふこともある。根元故ある家筋だと云ふが或は神孫であらうかとある。尤も近世如何の譯かかの月の輪は腰の邊まで下つて草履の奇事も別して無いやうになつた（阿州奇事雜詰卷三）。黒い月の輪は些しをかしいが、多分圓い痣が八犬傳の勇士などの如くあつたことを謂ふの(259)であらう。此種の家筋に身體の特徴のあると云ふことは自然の話である。同じ國｜美馬《みま》郡｜穴吹山《あなぶきやま》の内字宮内の某家には、今でも其家に生るゝ者は必ず背中に蛇の尾の形がある（同上）。豐後の緒方氏が嫗嶽の蛇河の末であるが故に蛇の尾の形があると云ふのと同日の談で、しかも阿州の方でも自ら尾形の一黨と稱して居るのである。豐後の緒方三郎の由緒は盛衰記以來の昔話である。人は之を三輪の神話の燒直しとして信用を置かぬが、兎に角四五百年前の古傳であれば、我々の研究に取つては重要なる參考である。自分の解する所では山の名の嫗嶽はやがて長者の愛娘が神に婚《めと》られたと云ふ傳説の根據を爲す者で、ウバとは則ち第一世の巫女、譜第の神主の祖神として主神の傍に併せ祀られた者のことかと思ふ。若し然りとすれば緒方三郎の背の痣も九州の一隅を風靡するに於て大なる效果のあつたことであらう。

　飛騨の國でよく聞く牛蒡種《ごんぼだね》と云ふ一種の家筋の性質は、右に列記した諸國の類例と比較して始めて説明がつくやうに思はれる。此名稱はもと彼等が「よく人に取附くこと牛蒡の種のやうである」と云ふ處から出て居る。最初｜吉城《よしき》郡の上高原《かみたかはら》に住んで居たと云ふが、今では此國北部の諸相に分散して只の農家に交り、別に一の部落を爲す者は無い。此家筋の特質は名稱と同じく凡て外部から附與したもので、彼等は常に絶對に之を否認する。世間の信ずる所では、此者に恨まれ又は惡まれると必ず物｜憑《つき》となつて大いに煩ふ。それが牛蒡種の仕業であることはいつでも病人の口から聞くのである。祈?加持を以て攻立てゝ居ると、其苦に堪へずして我は某村の某と名乘り、或は逐立てられて足腰のきかぬ病人が走つて其家の戸口まで往つて倒れる。さうすれば物憑は落ちたのである。又どうしても動くことのならぬ重病であれば、其憑いて居ると云ふ牛蒡種の本人を連れて來て、病人を介抱させると落ちるとも云ふ。勿論彼者は覺えの無いことを主張するが、自稱被害者がどうしても承知をせず、強ひて引張つて來るのである。此話は二三年前の旅行の際自分が吉城の人から聞取つた所であるが、どの點まで精確であるか、又今日でも果して此通りであるか否か、猶多くの報告を綜合して見ねばならぬ。押上中將が親しく上寶の村長から聞かれた所では、牛蒡種は他郷に行けば何の力も無くなると云へば、追々には沿革を無視する新人物が入込んで、愈々巫道の痕跡を此世から拭ひ去ること(260)も遠くはなからうと思ふ。併し近い頃までは牛蒡種の邪視の力は非情の草木にさへ及んで、此眼で視られると畠の菜大根までが萎れ痛むと云つたものである。

　此次に自分の述べたいのは諸國の土瓶《とうびやう》又は犬神系統の家々の話であるが、之と比べて見て最も面白いと思ふ點は、彼等の中には蛇なり狐なり何か平素から家に養はれて居る魔物が、本主の旨を受け若しくは意を體して出て往つて人を惱すに反して、飛騨の牛蒡種に在つては災を爲す者は直接に人の生靈だと云ふことである。之を見ても元一個の迷信の傳播と見るのが誤りで、時代趨向の然らしむる所、諸國の俗神道が一樣に　　　略々相類似した、而も地方的に小變化のある發展をしたことが推測せらるゝのである。

　

　　　　　　　蛇神犬神の類

　

　巫蠱の歴史は暗くして且つ長く、末は幽かながら新時代の日本にも及んで居る。今日でも田舍には油斷のならぬ家と看做され、兎角縁組に障りの多い家筋があつて、世間からは色々と妙な風評を立てゝ居る。而して所謂蛇神持又は犬神筋の發端が遠い昔の蠱術に在ることは、自分は之を證明することがさして困難で無いと信じて居る。何となれば犬を祭り或は蛇託宣を聽くことは古くからあつたのみならず、犬と云ひ蛇と云ふのも詳しく聞訊して見ると、單に或獣又は一種の蟲と云ふに止つて居る場合が多く、愈々以て傳來の甚だ久しきものであることが知れるのである。但し巫覡の秘密神は決して此ばかりでは無い。或は髑髏其他の人や獣の骨、或は特殊の土を以て作つた塑像など、凡そ怖しい物の限を盡して居るので、此等が皆それ／”＼の靈を具へ、祈る身に福を施し呪ふ相手に災したことは、内外の記録これ亦夥しいことである。然も其中に就いて獨り生《しやう》ある蟲獣のみが、能く醜を千歳に留めたのは何故かと云へば、(261)恐らくは生命あるが爲に繁殖持續を想像し得、殊には又之に仕へた家々の傳統を聯想して、其蔓延を説明することが容易であつたからであらう。

　飛騨の牛蒡種又は關東諸國の白神筋《しらかみすぢ》若しくはイタコ職の如き二三の例外を除いては、近世の蠱神道は正しく之を蟲と獣の二系統に分つことが出來る。地方に由つての色々の名稱、之に伴ふ後世の附會臆説は、自分の見る所ではさして肝要なる分界を爲し得ぬやうである。蛇の神はトウビヤウと云ふのが元の名であるらしい。大和本草に、中國の小くちなはとて安藝に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり、其家に小蛇多く集り居て他人に憑きて災を爲すこと四國の犬神備前兒島の狐の如し云々とある。此に蛇神を使ふとあるのは古くからの術語で、自分の意の如く誰にでも神を寄らしめ得るを云ふ。狐使ひ飯綱使ひなどの使ひは、佛道の尊者が天部や童子を使役すると云ふのとは少し違ふかと思ふ。頼む人のある間は人の利益の爲に憑かせ、頼む人が無ければ人の不利益の爲に憑かせて之を喚返すことから報酬を得んとするのは、つまり自由に何人にでも憑かしめ得たからである。藝州には何れの地方に今でもトウビヤウ持が住んで居るか、自分は更に聞いたことが無い。此地方には寧ろ犬神の方が盛んなやうである。併し石見などでもトウビヤウと云ふのは蛇持又は蛇附きのことで、此を藝州から入つて來たと言つて居る（日本周遊奇談）。安藝の豐田郡宮原村の海上に當廟島《たうべうしま》と云ふ小さな島があるのは恐らくは此神がまだ公に祀られて居た時の由緒地であらう。備中にも川上郡｜手《て》ノ莊《しやう》村大字｜臘數《しはす》に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕へることを恥辱と考へて隱す世の中なら、到底こんな地名は出來ぬ筈である。備中には海岸部は犬神の勢力範圍であるが、山奧の田舍から出雲へかけてトウビヤウ持と言はれる家筋が多い。此邊でもトウビヤウは蛇だと云ふが、其形?及び生活?態と言ふものがあまり蛇らしくない。先づ其形は鰹魚節と同じく、長《たけ》短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶《かめ》の類に入れ、土中に埋め其上に禿倉《ほくら》を立て、内々之を祭つて居る。此神を祈れば金持になるとのことで其家筋の者は皆富んで居る（俄分限者は此の如くして惡評せられ又は疑はれる）。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆《そゝ》(262)いでやらねばならぬ。祟の烈しい神である（藤田知治氏談）。密閉した酒瓶の中に生息する蛇と云ふものが、動物學上果して存し得るものか、大なる疑問である。四國は昔から犬神の本場であるが、讃岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元廣氏の親切に由つて知ることが出來た。かの地方ではトンボ神と口で言つて文字は土瓶神と書くさうである。之を思合すときはトウビヤウも亦土瓶の音で、即ち蠱と云ふ漢字の會意と同じく、本來蟲を盛る器物から出た名目であつた。讃岐のトンボ神は往々にして蠱家の屋敷内に放牧してあることもあるが、又土甕の中に入れ臺所の近く人の目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも又酒を澆ぎ與ふるとも傳へられて居る（荻田氏報以下同）。唯蟲の形?に於ては頗る備中のものと異なり、小は竹楊枝ぐらゐから大は杉箸までゝ、身の内は淡黒色、腹部ばかりは薄黄色、頸部に黄色の環があつて之を金の輪と云ふ、身を隱すことも敏捷だとある。土瓶神持は縁組に由つて新たに出來る。相手の知る知らぬを問はず、娵《よめ》又は聟（？）が來るときには神も亦分封して附いて來る。連れて來るのか獨りで附いて來るのかは未だ詳かならず。トンボ神持は如何なる場合にも世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と爭でもすれば兎角其威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨を抱くとなれば、土瓶神に向つて斯う言ふ。御前を年頃養つたのはこんな時の爲である、何の某に我恨を報い玉はずば今後は養ひ申すまじ云々。燕の太子が荊軻《けいか》に依頼した形式である。氣の利いたトンボ神は此相談を聞く迄も無く、家主の心の動くまゝに直に往つて其希望を遂げさせるとのことである。此蟲が來て憑くと身内の節々が段々に烈しく痛む、醫者に言はせると急性神經痛とでも言ひさうな病?である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈?で之を役とするヲガムシと言ふ巫女を依頼する。第二の方法は至つて穢い物を家の周圍などに澆ぎ散らす、蟲を見かけて之を掛けるのは最も有效である。此方法又は祈?に由つて追却せられたトンボ神は、甚しく苦惱して反つて其家主に災すると信ぜられて居る。それで無くても本來家筋の者にもあまり有難がられて居らぬ神であるから、どうか離れて了ひたいと言ふ望は常にあるが、一旦土瓶神持となれば永劫其約束を絶つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によつて根を絶(263)すことが出來れば、家にも其人にも何等の祟が無いと言ふことで、竊《ひそ》かにそんな折を待つて居る。舊幕時代に或人が國普請の夫役に當つて讃岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通つて居た。一日宿へ歸つて見ると家の者は皆留守で、臺所の鑵子《くわんす》に湯がぐら／＼煮えて居る。一杯飲まうとふと床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思つて開けて見れば、例の神がうよ／＼と丸で泥鰌の籠のやうであつた。乃ち熱湯を一杯ざつぷと掛けて蓋をして置いた。歸つて來てから後に人に話を聞けば、其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿した御蔭に永年の厄介物を片付けることが出來たと云つて居たさうである（以上）。當世の人の考では、如何に出没自在の動物でも、形のある者が形を亡くして人の身に入ることは如何かと言ふべきであるが、此は野狐にも貉にも通有の技倆となつて、煩しい説明は昔は不用であつた。生靈の働きは人の方が多くの動物より寧ろ鈍い位であつたので、強ひて理窟を押して行くと全體が妙な話である。

　犬神はトウビヤウに比べると分布地域が非常に廣く、何時から渡つたか知らぬが沖繩にも及んで居る。彼島で犬の靈を使ふ蠱術をインガマと云ひ、又人を惡罵してインガチヤウマジムンなどとも云ふ（沖繩語典）。九州では高木さんの御郷里阿蘇などがインガメの本據らしく、色々の珍しい物語を傳へ、其迷信は四隣に傳播して居る。四國は四國とも、中國は海岸部一帶に犬神が大荒れに荒れて居る。東國の方にも名を更へて遠く及んで居ることは次に述べようと思ふ。此ほど盛んな流行ではあるが、一方には備中のトウビヤウなどのやうに犬神を神に祭つて居る例を聞かない。唯幸に神と云ふ名を遺して居ること、諸國の社又は塚に犬の靈を祀つた口碑があるので之を想像する迄である。伊豫の犬神のことは郷土研究第二號に見えて居る。其家筋の者から嫁を迎へるとそれに附いて來て直に新たなる家の家族の數だけ殖えること、家人の意を體して目指された人を?みに行くこと、其他の點に於ては主にも不從順で時として家の者にも?附くことなどトウビヤウと似て居る。其形は鼠のやうであるがよその人には見えぬとある。土佐の犬神は土佐海《とさのうみ》續編に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往(264)々にしてありとある。長曾我部氏の治世に犬神持を吟味して死刑に行なひ家を絶したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤しんで參會言語する者が無かつた。其家では口寄などと同じく狗の首を神に祀つてゐるともあれば、犬神の名稱は使ふ神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は傳教大師に伴ひ歸り弦賣僧《つるめそ》に附屬する神なり。サイトウ、オヽサキ、クダとも謂ふ。土州にて捕へたるはサイトウと云ふ者なりと筑前前大守樂善堂公の談なりとある。蠱家血脈絶ゆれば野道《やだう》となりて其宅地に住む故に其地に移住する者が無いのは、武州秩父のヲサキなどと同じである。備後の北部では犬神は無くして外道神ばかりであると聞いたが、外道は即ち犬神の別名である。本朝故事因縁集卷三に、備後安藝周防長門の賤民犬神と云ふ外道の神を持ちて、少しの恨あれば犬神を人に憑くる云々。多くは食物を見て人に憑く故に犬神と謂ふなりとある。現に安藝高田郡では今でも犬神を又外道とも云ふ。備後庄原の人の説に依れば外道はムグラモチより稍々大きく、イタチより稍々小さく、足の短い毛の茶色な動物である。其家筋では女の子が一人生れるとゲダウが七十五匹づつ殖える。其家から嫁を取れば亦七十五匹連れて來て外道神持になり、其嫁が女の子を生むとすぐに倍になる。常は床の下などに住み、人に憑く時は眼に見えずして往來するが、春先には群を爲して畠の中などに遊んで居ることがある。鳴く聲はクル／＼クル／＼と蛙の聲のやうで少し低い。食物は小豆の飯で、之を遣らぬと家の者にも祟るから折々之を炊いて出入口に置く。讃岐のトウビヤウなどと違つて居るのは、別に命令して人に憑かすのでは無く、些しでも憎い恨めしい羨しいと思ふと早往つて憑いて居る。主の心のまゝにもならぬのである。此點は飛騨の牛蒡種の方に近い。それに注意すべき點は家筋でも女に限ることで、家の神と言ふよりは寧ろ個人の神である。從つて個々の婦人の性質に從ひ、例へば淡泊無邪氣な女の外道神は家筋であつても生涯煩を人に及さぬものもあるし、胸の狹い女のは頻々として災を爲して居る。故に家筋の者は自ら之を淺ましく思ひ、成るべく烈しい感情を慎むのみならず、心掛の良い女は神佛に所願して其害の少なからんことを期して居る。外道は又待遇が惡いと家の者にも反噬《はんぜい》し、又單に一存で惡戯に憑いて見たり、食物が貰ひたさに憑くなど、よほど野狐の風が(265)ある。此邊では憑かれた人も家筋の者も共に妙見を念ずるのが普通である。其爲に法華に改宗して法力を願ふのか、或は又前々から法華宗であつたのかは知らず、兎に角外道筋の家は必ず日蓮宗であると云ふ。外道の憑いたのがどの家から來たかを知ることは六つかしいが、此獣は少しく道化たやつであつて、色々のことを喋る間にいつとなく自ら言つてしまふ。通例自分の從屬する婦人をオカーサン（母）と呼び、其夫をオトウサン（父）と云ふ。あれオカーサンが通る、負はれて去なうか知らんなどと云ふから、急いで門前を見ると其家筋の某女が行く。さてはあの女、何で我々を恨んだらうかなどと云ふのが常のことである。所謂オカーサンの迷惑や察すべきものがある。外道の憑いたのを追出す法は、祈?の外に其獣の黒燒を食はせるのであるが、中々感覺が鋭敏で、好む食物の中に隱してもすぐ悟る、又無理に口の中へ押込んでも皆吐出してしまふ。それでも何かの拍子に過つて飲めば奇妙に閉口退散するので、多くの家には右の外道の黒燒を不時の用意の爲に貯へて居ると云ふ（以上藤田知治氏談）。外道と云ふ一種の獣のあることはどうも疑が無いやうである。長屋基彦氏は郷里の安藝の吉田に於て、ある家の後の積藁の上に多數の犬神が出たり入つたりして遊んで居るのを見たと言はれ、前の話をした藤田氏も十四五歳の時に自身一匹の外道を捕殺したことがあると云ふ。或日畠の中に澤山の外道が集つて戯れて居るのを見て之を追掛けたら、皆遁げてしまつた中に只一匹、石垣の穴の詰まつて居るのへ首を入れてまごついて居たから打殺した。身内の人々は心配し自分も氣持がよく無かつた。凡そ外道を捉へた者は決して殺したまゝで捨てゝはおかぬ。形の有る限はきつと蘇生して仇を返す。世間の説では彼等の七十五匹の一組の中には醫者もあれば按摩もあれば祈?者もあつて、どうしてゞも死んだ仲間を蘇らせると云ふ。故に殺した以上は必ず土瓶か何かの器に入れて土中に埋め、之を黒燒にして貯藏するのである。

　同類の血肉を服用して其作害を避けると云ふ呪術は外にも例がある。眞澄遊覽記卷一、信濃上伊那郡片桐村の條保に、此郡にはクダと云ふ物ありて人に憑き狂はす。始は常の疫《えやみ》の如く熟を出す云々。クダは神の如く人の目には見えねど、折々には犬猫に捕殺さるゝことあり。其形は栗鼠｜齬鼠《むさゝび》に似て黒く、毛は長く生ひ垂れて爪は針の如く、身は小なれど(266)怖しきもの也。之を日に乾して其疑ある病人に僅かばかり食はすれば、忽ち眼血走り頭振ひ氣色かはり、猛く物言ひ憑物の兆を示す。さも無き病人は唯鹽はゆき味を舌に覺ゆるのみとある。クダは又クダギツネと云ひ、形細小にして管のやうであるから、此名があると云ひ、或家筋に附屬して他人に祟り、山伏などの祈?で無ければ落ちないことも犬神と似て居る。武藏から上州へかけて盛んに分布してをるヲサキも、亦ヲサキ狐と云つて那須の狐の九の尾の一が此地方へ飛んで來たのがもとだとも云ふ。加藤咄堂氏の日本宗教風俗志には常に形を顯はさずとあるが、往々にして人の其形?を語るものがある。此も狐と言つても至つて小さな獣で、或家筋から縁組によつて段々蔓延し、人に仇を爲し主に利益を與へること九州の犬神などとよく似て居る。或はヲサキ筋の住んだ屋敷を買つて住む者もすぐにヲサキ持になると信ぜられて居る。加藤氏は又何に依られたか知らぬが日蓮宗の行者などにヲサキを利用する者があると云ふ噂を傳へられて居る。山陰道の諸國に於て人狐《にんこ》と稱せらるゝ者もクダ又はヲサキと似た者らしい。藝藩通志卷四に依れば、之を使ふ風習は安藝備後の北部にも傳播して居るとあれば、犬神と全然同じでは無いらしいが詳しいことは解らぬ。石見にも人狐の外に備後から來た外道が人狐と併び存して居る。因幡のトウビヤウは蛇神では無く、寧ろ人狐とよく似て居る。此も一戸に七十五匹づつ組を爲して同棲して居ると云ふ話である（日本周遊奇談）。

　クダやヲサキ等に就いても折々話を聞くが、出處の確かなものは今の處此だけである。文字以外の記録には地方により話す人に由つて若干の齟齬があるが、大體を通觀して見ると此等の相異と云ふものには略々一定の法則があるかと思ふ。即ち或神は家筋に於て之を祀り、或神は單に願事のある時のみ之を祈り、或神は唯家に同居させて置くのみで、甚しきは其出て行くことを希望する。從つて此神の人に憑くのも或は主人に命ぜられ、或は主人の意を體し或は主人の心の動くに從つて動き、更に又我と勝手に往つて憑くものもある。飛騨の牛蒡種などは物憑の爲に詰責非難を受けるが、備後の外道神は憑けるのも主人の心でなければ離すのも其力に及ばぬと認められて、別に家筋の女に向つて尻を持つて來ず直接に憑いた外道と談判をすること他地方の狐憑と同じである。人が蠱神に憑かれた?態も此通り(267)或者は病人自ら我は何々の家より來たとか何神であるとか、名乘るのもあれば、單に病氣の容態に特兆があって憑物と覺るばかりのものもある。此等の階段を踏んで行けば、巫蠱の元の形もやゝ判明する。即ち或家筋の者は家の神を人に憑かしめて、神の口を寄せることが出來、之を利用して或はよくない事をしたものもあつた爲に、いつ迄も人に畏れ忌まれたのが、癖となつて永く右の如き不任意なる威力を保持したものであらう。而して縁組に由つて家筋が新たに出來ると云ふのは、恐らくは此職の血統の女子に專屬することを意味し、屋敷を買つて住む者に迄も移ると云ふのは前代の巫女が特定の屋敷を給せられて普通の百姓地割の外に在つた結果で、今も田舍の地名に御子垣内、比丘尼屋敷、守子谷《もりこだに》、傾城窪《けいせいがくぼ》などの極めて多い事實と考合すべきものであらうと思ふ。

　

　　　　　　　箱石と笈の塚

　

　諸國犬神の起原が假に土佐の舊記の説明の如く口寄共の拜祀する犬の髑髏であつたとしても、歩行巫《あるきみこ》の漂泊生涯から如何にして一地方に定任し、多くの比丘尼屋敷姥屋敷を作るに至つたかは、勿論讀者の證據なしに納得せられざる點であらう。而して此間題を解決するが爲に巫蠱の家に就いて其記録を捜索せんとするのは先づは徒勞である。何となれば彼等の祖先は假令長途の旅に疲れて辛うじて片田舍に轉げ込んだ場合にも、其有の儘を子孫に書遺す筈もなく、況んや一般に他所者を警戒する中世の村里に入つて相應の生活を企てるには、故意にか偶然にか何か神恠人を驚かすに足るべき事件を齎さねばならなんだ故に、假に土着の根原を傳へた説があつても、之を尋常の家記や由緒書の如く取扱ふことの出來ぬのは當然である。但し外によい手掛りの無い場合には、其不思議千萬なる口碑の類を迂遠ながらも比較し分析して見るの外は無いのである。

(268)　巫女の旅行用具として、最も重要なる物は其手箱である。此箱の中は極秘であつて、見た人が無いから從つて色々の臆説があるが、或は犬猫の首であつても所謂｜外法形《げほふがた》の人の頭であつても、乃至は�詩ｰ《れいこん》の宿つた土偶であるにしても、兎に角口寄の靈驗は其力の源を此箱に發して居ると見て宜しい。古代の巫女の繪には箱を持たず單に守袋やうの袋を數珠と共に首に掛けて居るのがある。博物館のイタコの守袋と云ふ物も五寸ばかりの錦の袋で、中には金具を施した竹の筒に一枚の杉原紙が小さく疊んで入れてあり、其紙には聞馴れぬ神佛の名が車の輪のなりに細かく書詰めてあつた。旅行をする婦人には此方が便利であらうと思ふのに、何故か近代あまり用ゐられぬ。或は又小取廻しの風呂敷包にして持ちあるくイチコもあるが、此もさまでに流行せぬのは或は中の物の形?が外から推測し得られるのを忌んだのではあるまいか。此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分はまだ深く調べて見たのでは無いが、幅が狹くして丈の高いのは、つまりは越後の毒消賣其他の旅商の荷物、日本アルプス附近の岩魚釣の携帶する箱、或は歩兵の背嚢も皆略々似た形で、ひたと身に附いて山坂の上下にも邪魔にならぬ便利な寸法と云ふに外ならぬと思ふ。箱ならば其引出しや入底に少々の雜品を藏つて置いてもさして不體裁でもないから、結局此一つで天下を横行することが出來たのであらう。此點から見れば、男の修驗者が背に負ふ所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不住の傳道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であつたことは想像に難く無い。

　今一つ箱類の方が便利であつたかと思ふ點は、行先々任意に樹の蔭石の上などに安置して、自分も拜み人にも信心させるのに手輕であつたことである。小さな假宮をホクラ又はホコラと呼ぶことは久しい習であるが、昔から寶倉禿祠などと書いて語原の不明な當字であつた。名稱から辿るのは容易では無いが、恐らくは最少の費用を掛けた神社と云ふのみでは無く、流行神を信仰の只中へ迅速に運搬する特種の手段であつたかと思ふ。單に資力の側から見ればそれほど迄に質素にせねばならぬ必要は無かつたのである。此?況を今日に髣髴せしむるものは六十六部の背の厨子、又は淡島願人の枕頭の御神體などであるが、此等は旅行の爲一層便利となつた代りに、一定の土地と因縁を結ぶこと(269)は幾分斷念をした形である。それでも地方に由つては淡島の小祠又は六部の宮と云ふものが澤山ある。稍々大膽な假想説ながら、諸國の雜神の名目にテバク（天白）サンパク（山白）ノバク（野白）などと云ふのが多いのも、事によると白神の思想に影響せられた箱の神であつたかも知れぬ。山中共古翁の説に、遠州中泉の西南に野筥《のうばこ》と云ふ部落があつて、白拍子千壽の本尊佛を安置したと云ふ千手堂、及び千壽の墓又は朝貌の墓などと云ふ恠しい古跡もある。又野筥と云ふ地名は昔能の面を埋めたのに基くと云つて居る（見附次第）。巫女の口碑がいつの間にか小野小町和泉式部俊寛僧都の娘さては大磯虎などと云ふ古名媛の傳記に附會せられて居ることは極めて普通の現象である。かの曾我兄弟の靈を思掛けない土地に祀つて居るのも、大磯虎を中に置いて考へぬと分らない。美作｜苫田《とまだ》郡｜上田邑《かみたのむら》の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀つて居た。作陽志には箱王は如何なる人か知らず、此邊に金丸烏帽子町などの地名があつて何か來由があるらしいとある。此も多分は大磯虎の故事にこじつけられて居るのだらう。曾我物語に五郎時致の童名を箱王とあるが、其動機は何であつたか。箱根に成長したから箱王だと云つてもよいが、それも亦小説であつたなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王權現と云ふ祠は土佐に甚だ多い（南路志）。此神の王の字は王子の王で、古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神のミコに擬して其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の稱號から移つた名であらうと思ふ。

　更に奧深く傳説の林に分入つて見ると、そこには猶多くの語草が茂つて居る。例へば穉子淵《ちこがふち》の昔話は轉じて眞言僧との物悲しい情史を作り、或は戰國時代の悲劇に取合せて、乳母と若君との落人の物語を傳へ、或は又一家の石の枕に黒塚の鬼女を再現せしめて居るが、何れも後世好事の徒の誇張｜敷衍《ふえん》を引剥いで見れば、物々しい固有名詞などは高々「らしい」か「だらう」の結晶であつて、其元の形は單に或婦人或童兒の靈を祀り若しくは聯想する場所と云ふに過ぎぬ。婦人と云ふから烈婦と考へ少年と聞いて美童を想像するが如きは常の人情で、其傳説の成長した時代々々の好尚に從つて、大抵有りさうな話を加へて行くから諸國の口碑が皆よく似て居る。自分の考では此等の傳説は皆曾て神(270)に仕へた童男童女の輩が來て住んだ場所を記念するものと見るが、茲で強ひて主張するわけでは無い。さう迄せずとも直接に本尊を遠方から運んで來たと云ふ古傳も餘るほど多いのである。諸國大小の寺の縁起に説く所、本尊の製作が概ね古名士の手に係り、而も皆遠路將來の物であると云ふことは、失敬かは知らぬが先づ此例である。行基弘法の手刻とか乃至は慈覺理源以下代々の祖師の持つて來たなどと云ふことは自分は假令日附書判が有つても信じないが、兎に角其土地の生産で無いことだけは明白であるから、一度は旅行者の荷物であつた點を疑ふわけには行かぬ。實際又此方法に依らなければ村里の布教は出來ない。只其時代が護國教を主とした上代であつたか、聖の勸化が盛んであつた武家の世になつてからかは一の問題である。本尊出現の奇特は難波堀江に始り、神體盗奪のゆゝしい物語は熱田の寶劔が最初の記録で、何れも年久しい民間の物語ではあるが、近世に至るまで其事例は絶えず且つ數多く語られて居る。社寺の靈異を説く者がきまつて正體の他國の産であることを云ふのは、當世の舶來ずきと古今變らぬ人心でもあらうが、本尊の漂着流着を傳へ又は何村の者に持つて行かれたと云ふ迄はよいとしても、此像は昔某地方から盗んで來たと云ふに至つては些し甚しいやうである。只幸に之に由つて知り得る一事は、神佛の正體も亦其奉仕者と同じく、或時代には頗る漂泊性を帶びて居られたと云ふことである。

　神佛の像を箱に容れて遠く搬ぶと云ふことは近世にもあつた。例へば羽前鶴岡の遍照院の東照宮の木像は、もと江戸飯田町中坂の邸に在つたのを、明治元年幕府瓦解の折、小野寺節度と云ふ人具足櫃に入れて負ひ還り此寺に預けたのである（三郡雜記下）。此等を巫女土着の傳説に押込むのは固より亂暴ではあるが、傳説に養はれた思ひ付もあることである。日向｜南那珂郡板敷村《みなみなかごほりいたじきむら》の板敷神社は、昔｜稻積《いなづみ》彌五郎と云ふ者神體を負ひ來つて鎭坐した（日向案内記）。大永元年の建立とは云つて居るが、少くとも祭神の三坐を彦火々出見尊玉依姫應神天皇とするのは後の説である。社の創立者の彌五郎も傳説臭い。大人彌五郎は此地方に弘く行はるゝ恠人の名である。此神の三坐は土佐土佐郡本川村大字｜葛原《かづらはら》字テアイの三大明神と共に、恐らくは熊野の神であらう。此社も昔京都清川の道人�ｺ次なる者が京から負うて(271)來たと傳へて居る（諸神社録）。熊野は伊勢諏訪白山駒形などと共によく遠國まで勸請せられた神である。同じく土佐の香美郡王子村《かゞみごほりわうじむら》の若一王子の社なども、村上の永源上人と云ふ人が熊野から御厨子を背に負うて來たと云ふ（同上）。此等の比較的尤もらしい古老談が、今唯一歩を進めば忽ち神恠なる夢語となつて、繋いだ絲の結び目も分らぬやうになる處は、傳説研究者にとつて趣味の深い點であらう。例へば峯相記《みねあひき》に載せた播州簑寺の縁起が、佛像を負うて來た雨宿の旅人を無邪氣な惡戯者にした爲に、支那に所謂｜鮑魚神《はうぎよしん》又は草鞋大王《さうあいたいわう》の傳説が繰返された。地藏菩薩の信仰が最も民間に盛んであつた結果、其像にかしづいた比丘尼から所謂三途河の奪衣婆《だつえば》の堂と稱するものが、多く官道の路傍に起つた。併し所謂靈姥傳説の及ぶ所は決して地藏の崇敬に限れては居らぬ。山に昇つては山姥や融の姥、里に住んでは咳の叔母樣や關寺小町となるまでに、種々雜多の神佛と縁を結んで居る。此も土佐の土佐郡森村大字南川の河内神社及び地主神社の攝社に一の姥神社がある。右の兩社はもと別々に祀つてあつたのを、神靈山姥の姿に化し、社を背負ひ來つて只今の處を一夜に開き之を据ゑた。氏子等之を見て直に又姥神の社を建てたと傳へて居る（南路志續編稿草二）。甲州東八代郡錦村井ノ上組の姥塚《おんばづか》は、一に圓通窟《ゑんづうくつ》とも稱へ、穴の奧に觀世音が安置してある。土人の傳へでは太古神嫗あつて一夜に作つたが故に姥塚と云ふとある（甲斐名勝志）。姥神の像を脇立にした佛堂は國々にあつて、此類の例證は猶いくらも追加し得るやうである。

　更に進んで考察すれば、本尊運搬に關する各地の史料が、多くの場合に於て所謂｜生石《おふいし》傳説又は石成長談の中に包含せられて居るのは奇なる現象である。其原因を單純なる偶合に歸せぬ限は、古い昔の靈石崇拜に基くものとする外には説明のしやうも無いと思ふが、當面の主題で無いから強ひては論じない。唯一言述べて置きたいことは、多くの社の神の土着は神意に遵つたものであつて、其神意を測定する手段は即ち所謂石占と同じ形式であつたことである。羽前鶴岡天神町の天滿宮は、もと西御門脇の松原即ち今の公園の西南に在つた。酒井家入國の時之を他に移さんと五日町の端まで持つて來ると、厨子が重くなつて些しも動かない。さらば湯の花を上げよとひしめき騷ぐうちに、此處を(272)社地に成されたいとの託宣があつてそこに社殿を立てた。後に又今の處へ移したのである（莊内史料）。越後｜蒲原《かんばら》郡金津莊《かなづのしやう》蒲原神社の境内五社明神の社殿に比丘比丘尼の二木像が置いてある。秩父六郎重宗夫婦の者義經の跡を慕つて此國に來り……剃髪す。死後居宅を寺と爲し白蓮寺と云ふ。後年｜川缺《かはかけ》に因つて寺亡び、住僧は夫婦の木像を持つて出羽に赴かんと、偶々此地に至りしに木像忽然として重きこと金石のやうであつた。已むことを得ず之を五社の拜殿に置く云々（越後野志九）。攝津本莊村の鹿島神社は寛永年間疫病流行の折、鹿島の神輿を諸國に渡し鹿島踊を催した。其神輿が此村へ來て些しも動かぬに由つて、神託を聞いて爰に社を建てた（攝陽群談）。大隅｜姶良《あひら》郡｜牧園《まきその》村｜安樂温泉《あんらくをんせん》の熊野權現は、昔異人あつて三所權現を笈に負ひ、來つて岩上に安置して一宿し、明朝笈を擧げんとするに重くして動かず。時に神潜かに告げたまはく、此地に温泉出づべし、安樂に居住し得んと。乃ち其岩の側に社を建て、里の女子を娶つて今の神主奧村阿波の先祖となつた（三國名勝圖會）。神體が石であると「重くなつた」の有難味が稍々薄いが其例もある。上州高崎の赤坂町に弘法大師の腰掛石ともミコトの腰掛石とも云ふ石がある。赤坂山築城の時多くの人夫を以て他に移さうとしたが、段々重くなつて終に動かなくなつた。元禄の頃土地の者此石に向ひ、願くは他に遷りたまへ、神と崇め申さうと誓つたら、數人にて殊に輕く擧り今の處へ移された。瘧《ぎやく》の祈?に驗があるから又ヲコリ石とも云ふ（高崎志）。通例腰掛石と云ふのは御旅所即ち神降臨の地のことである。ミコト石のミコ石であることは此近傍に弘法作の三途河婆のあるのでも想像せられる。輿に神を載せ申すことはどこの社の祭にも常の例となつて居るが、祇園紫野の古い歴史を考合するときは、此も亦外來神の旅の姿を思はしむるものである。神輿を舁く者の話によく重くなる輕くなるといふことを聞くのは、やはり降臨の地を神の指定に任せた遺習であらう。相州愛甲郡の海老名耕地の田の中に祭る神は式内石楯尾神社だと云ふ説がある。塚穴の中に一つの圓石があつて、祭の日に穴の口に現はれる。之を神輿に入れて氏子中を舁ぎまはり、祭｜畢《をは》るとき穴の前に輿を据れば石は自ら穴に還る。大きさ七八寸ばかりの石であるが、輿の重くなることは非常であると云ふ（伴氏神名帳考證）。蓋し人は徒らに路傍の石を神視する者で無い。(273)然るべき仔細に基き簡易な方法を以て其教訓指導を受け得ることを信じたが故に、之を拜むに至つたのかも知れず。併し此間の消息は?嚢抄《あいなうせう》の著者も既にうろんであつた。今となつて之を確定し得ぬのは是非も無いが、力石に貫目を切付けて若衆の力競べに供する慣習も、他の多くの遊戯と共に元は遙かに眞摯《まじめ》な動機に出でたことは、自分は色々の方面から之を證し得る。中にも最も有名な虎石の永く大磯虎と聯想せられて居るのは妙では無いか。好い男が擧げれば輕いなどと云ふ説はちとおどけては居るが、此も大和の大峰口龍泉寺のオイトシボ石が、踏附けて持てば重く撫でて持つと輕いと云ふ例もあつて（本朝國語）、力石に靈あることを認めた結果である。又或社の石占では、背後で藁を摘んで其長さの石の長《たけ》と合ふのを以て願成就の兆とする。此は石の重くなると云ふ話と成長すると云ふ話と親類であることを示すもので、多くの生石傳説に伊勢又は熊野から燧袋《ひうちぶくろ》に入れて持つて來た大岩を説くのも、同じ思想の變形かと思ふ。其一例を言へば、筑後｜三瀦《みぬま》郡｜鳥飼《とりかひ》村大字大石の大石神社の神體は、昔大石越前守が伊勢から懷に入れて持つて來た。慶長年間に既に方九尺の大石で、其後又々大きくなつて居る。或説では老いたる尼が袂に入れて來て棄てたと云ひ、本社を伊勢大神宮と祭る外に、別に一個の三尺程の石を伊勢御前と云ふ祠の神にしてをる（校訂筑後志）。

　石の神が只の圓石で特長の無い時には、重くなつた大きくなつたと云つてそれで結末を附けたが、些しでも形が何かに似て居ると、猶其上に化石傳説が添へられる。自分は靈山の結界を破つて石に成つたと云ふ多くの姥石の口碑から、更に箱石又は笈の塚の眞の由來を考へて見た。笈の塚は又追神老の坂等の文字を以て諸國に多くの石や木の塚を留めて居る。下野の地名には追稻荷《おひたうか》、追金佛《おひかなぶつ》などの例が多く、後者は更にヲツカナブチと云つて怖しい淵と云ふ意味に轉じて居る。陸中｜傀儡坂《くゞつざか》の箱石も一つの化石談である。昔此處の谷川に村の長が簗《やな》を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクヾツ即ち此邊でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無體に劫《おびや》かしてかの鮭を負はせた。クヾツは困勞に堪へず大いに怨んで死んだ。其時の呪詛の爲に鮭は此より上へ登らなくなつた。箱石は即ち卸して置いたクゞツの箱の化したものである故に四角な形をして居る（和賀稗貫二郡志）。所謂｜魚歸《うをがへり》鮎歸《あゆがへり》の話の一例であるが、(274)それを巫女と結び附けたのは意味がありさうだ。鮭の登る登らぬと云ふ傳説は日本の北半分に分布し若狹あたりが境かと思ふ。山中の漁業區域の終點に色々の信仰上の傳説があるのは、國境又は村境に笈神の遺跡があると同じく、巫女が土着地點として土人の重要視する場所を擇んだものと見てよからう。

　

　　　　　　　頼政の墓

　

　最近の利根川改修工事に由つて、惜しい名物が一つ無くなつた。下總｜古河《こが》の古城址の水に臨んだ一區域を頼政廓《よりまさぐるわ》と云ひ、城の出來た時より遙か前から爰に源三位頼政の墓及び祠があつたのだと信ぜられて居る。其頼政廓が終に川敷になつたのである。今囘も土中から色々の土器又は板碑などが出たと云ふ。元來此類の古蹟の古名士の名に託せらるゝ者は、多くは勿論其當時からの傳承ではなかつた。ふとした事が絲口となつて、「さうだらう」「さうに違ひ無い」から「さうだ」と極まり、終に記念碑が立つことになる。此も其一例に洩れぬのであるが、何さま江戸に近く且つ官道の往來に接して居た爲に、學者有力者が寄つてたかつて動かぬ者にしてしまつた。足利家の時代には單に此城の鎭守でもとは渡殿神《わたどのがみ》と呼ばれて居た。後の城主土井大炊頭が奏請して頼政明神の神號を賜はつたのは延寶五年のことだと云へば（茨城名勝誌）、其以前から既に此口碑は認められて居たのである。何時の頃の著述か知らぬが、古寫本の永享記《えいきやうき》が、之を書物に揚げた先づは最初の者であるらしい。之に依れば頼政の家來下河邊藤三郎行吉なる者、山伏となつて頼政の首級を笈に入れ此地迄負うて來ると、俄に笈が大石の如く重くなつた。仍て其儘之を神に祀つたとある。武者物語及び兵家茶話の二書には、首を負うて來たのは下河邊では無く、渡邊競と井伊早太の二人であると云ふ（頼政墳墓考）。元禄八年の社殿再建の際には、社の傍にある渡邊｜唱《となふ》の墓と稱する一塚を祀つて、河下靈社と云ふ祠を建て(275)た。併し此近傍即ち武藏下總の國境の地は、下河邊莊と稱へて下河邊家の所領であつたらしいから、笈を背負うた人はやはり下河邊藤三郎の方であらうと云ふ説が優勢である。文化十四年に更に社殿を造立せんとした處が、内陣の下から圖らず二箇の石碑を掘出し非常な評判になつた。但し此碑の文字に因つて墓の由來がどの位まで確められたかと云ふと、それは殆と御話にもならぬ。先ず一つの石には梵字の下に○元四【丙午】と割書がしてある。四年が丙午に當る何元の年號は寛元か嘉元であるが、頼政討死の治承四年から六十六年又は百二十五年の後であるのみならず、此石には誰の爲の供養とも書いてない。今一つの石には嘉元三年頼政墓とあつたとも云ひ（墳墓考）、或は又單に梵字の下に古頼政墓とあつたとも云ふ（名勝誌）。年號のあつたと云ふ方はちと疑はしい。何れにしても崇敬者の建てた碑石に靈神の諱を呼捨にするのは妙なものである。二つぶりの文字が共に一つの石の面に彫つてあつても、自分等ならば之を以て頼政の葬地を決定することは出來ぬが、兎に角或時代の人は之を證據として、茲を頼政の首塚と定め其祭を勤め、之とよく似た他國の傳説地を天一坊と看做して居たものであつた。

　處がそれにも拘らず常陸稻敷郡龍ヶ崎町の舊城内にも一箇の頼政塚があつて古河と眞僞を爭つて居る。古河側の説では所謂頼政墓の出た下總｜猿島《さしま》郡新郷村大字｜立崎《たつざき》と龍崎《りゆうがさき》とは語がよく似て居るから之を誤り傳へたのだらうと言ふが、そんな間違があり得べきものか否かを知らぬ。而して常陸の龍ヶ崎もやはり古くは或下河邊氏の領地であつた。但し此地の塚は單に兜塚又は頼政兜塚と唱へ、首が重くなつたから埋めたと云ふ話はまだ聞かない。此から更に四五里の南方、下總印旛郡船穗村大字｜結縁寺《けちえんじ》にも亦一箇の頼政塚がある。自分は會て之を見に往つたが、古くは佐倉風土記にも其記事が載せてある。宇治川合戰の敗北の後、競唱の兩渡邊は頼政の首を持ち其愛馬を曳いて東國に下つた。頼政自害の折の遺言に、吾止まらんと欲する處に至らば首重くなるべし、必ず其處に?《うづ》めよ。五十日を過ぎて驗無くば捨てゝもよろしいとあつた。二士東行すること二十日、此里に來つて首が果して重くなる。仍て之を埋めて土を封じ狗骨樹《ひゝらぎ》を栽ゑ、且つ堂を建て二士は僧となつて之に住んだ。既にして馬が斃れた。之を埋めて塚に櫻を栽ゑ名馬塚と云(276)ふ。其塚の南には?塚がある。此も頼政の畜《か》つて居た?であると云ふ。結縁寺村には昔此名の大寺があつて天正年中に燒けた。今の頼政の石塔は正保の頃に領主の建てたものであるから、やはり古河と同じく地方の口碑を承認したまでゝある。然るに不思議な事には馬や?の塚もあるのに渡邊兄弟の遺跡が無い。之と同時に時代も郷里も頗る懸離れた或比丘尼の塚が、此村の頼政と結縁をして居るやうに傳へられて居るのは注意すべきことである。利根川圖誌に依れば、結縁寺の本尊は阿彌陀である。其本堂の傍に入定塚《にふぢやうづか》があつて、石碑には「大比丘尼善智入定、伊勢國住人□□□□娘、大永六丙戌年二月十八日、享保九年造立」と刻してあるといひ、伊勢の住人佐藤民部なる者の娘、頼政公の墓を尋ねて此地に來り入定したと傳へて居る。入定と云ふのは必ずしも活きながら土中に埋められ又は火中に飛入つたものにも限るまいが、此善智比丘尼は實際それを斷行したのかも知れぬ。併し何が故に昔の頼政を慕つて下總まで來たか。此だけでは到底理由を解することが出來ぬ。外の例を比較して見ずばなるまい。

　頼政の墓と云ふ地は丹波桑田郡｜矢代莊《やしろのしやう》にもある。美濃山縣郡の蓮華院にもあるさうだ。此人は事變の當時から奧州に立退いたとも沙汰せられた人であるから其筈であるが、曾て頼政が住んだと云ふ地が弘く全國に分布して居る。野州鹽原の奧にある源三穴又は源三位穴と云ふ窟は、昔頼政がこゝに遁れて來て隱れたと傳へ、境の山脈を越えれば會津郡の福永と云ふ處にも頼政の岩城あり、其北には頼政屋敷と云ふ地がある。此邊は一帶に高倉宮の潜行せられたと云ふ故蹟を以て滿ちて居る。

　頼政屋敷の地名は彼の頼政墓と共に故人に對して失禮なる呼び方とは思ふが、似たる例は西部諸國にもある。讃岐仲多度郡四箇村大字｜三井《みゐ》の田中と云ふ處に頼政の屋敷跡がある。二重堀を取廻らした一區劃で、頼政を祀つた祠を若宮と云ひ、氏神の加茂明神は頼政の拜祀する所と傳へて居る。門のあつた邊を字御門と呼び、又的場、棚の跡と云ふ處もある。其他矢留松｜矢篦塚《やのづか》等頼政の弓矢に因《ゆかり》ある故跡が少なくない（西讃府志附録）。頼政が此國を領して居たと云ふことは歴史に見えぬが、其娘に二條院讃岐と云ふ人もあれば、其讃岐の夫などが讃岐守であつたのでは無いかと云(277)ふ説もある。伊豫｜上浮穴《かみうけな》郡｜久万山《くまやま》の山中なる麻生ヶ池に、池大明神と崇められたる大蛇が住んで居た。其大蛇はもとは時《とき》の（土岐？）頼政と云ふ人の母であつた。頼政零落して此國に住んで居た頃、母は我子を世に出したいの一念から、自ら化けて妖恠と成り禁裡を惱まし奉り、頼政は母の指圖を受けて之を射て功名をした。事實ならばけしからぬ次第である。母の大蛇は目的を達して後伊豫の池に還り、又折々は土佐の十市《といち》ヶ池や讃岐の萬能《まの》ヶ池にも往つて住んで居る。久万山の二ツ野と云ふ處に、頼政が鵺《ぬえ》を射る爲の箭竹を採つた故跡がある。近世までも毎年一對の矢竹が生えるのを、採つて松山侯へ獻上したと云ふ（松山舊記）。

　頼政の故跡に伴つて多く婦人の話のあることは自分は偶然で無からうと思ふ。越後西蒲原郡峯岡村大字竹野町の金仙寺の後に菖蒲塚、又其下に猪隼人守資の塚がある。菖蒲塚は近年發掘せられたが、只古鏡と二三の器物が出たのみで葬地では無かつた。此附近の石瀬《いはせ》村は頼政の所領と云ふことで、頼政松と云ふ塚の松もあつた。石瀬の天神山の城は頼政の子吉政の居る所と云ひ、其塚は吉政の墓だとも傳へて居る。何れにしても隼人守資は猪早太のことで、菖蒲は即ち鵺の褒美に賜はつた宮女であると考へられて居る。此村には又菖蒲觀音と云ふ佛堂もあつた。菖蒲は沙石集の説に從へば梶原源太の愛人であるべきに、諸國に於て頼政の口碑と共に傳へられるのは、以前は名の不明な一美人であつた處、後人がさも有りなんの名を附與したものと解するの外は無い。別本伊豆志に依れば、菖蒲前は伊豆田方郡川西村大字｜古奈《こな》の生れであつた。頼政自殺の後故郷に還り、古奈の山陰に住みて一族の爲に阿田山に寺を建て、彌陀の三尊を安置して念佛怠らず、七十餘齡を以て歿したとある。松平右京太夫輝貞は源三位の子孫である故に、先祖の廟所の頽廢を悲しみ、四間四面の本堂を造營して三尊並びに頼政夫婦の像を修理した。比は元禄年間のことである。爰に夫婦とあるのは頼政と菖蒲前を謂ふのであらう。即ち此阿彌陀堂でも本尊の脇立に菖蒲前なりと稱する婦人の像が古くから置いてあつたことが推測せられ得るのである。

　頼政は七十の老翁であつたが、「身の成る果て」の誠に氣の毒な人であつた。前代の思想に從へば御靈として祀るの(278)に極めて似つかはしい人である。近頃の御靈社は何れの地方でも鎌倉權五郎景政を祭ると云つて居るものが多いが、此は片目と關聯して何か別に仔細のあることである。他の一方には計畫齟齬して討死をした勇士、或は又領主に虐げられた山伏の如き、凡そ鬱憤の殘つてゐるらしい人々の冤�獅ﾍ、必ず今宮とか若宮とか又は荒人神《あらひとがみ》とかの稱號を以て神に祀られて居るのを見れば、盛衰記を知る程の田舍人が、到る處に此將軍を崇敬して居ても大いに恠しむには足らぬ。併し自分には之を塚又は祠に齋くに至つた最初の動機に於てまだ腑に落ちぬ處がある。何となれば各地の頼政の墓が各自を眞とし他を僞とするのでも明らかなる如く、さう／＼多くの頼政の葬地又は住地がある筈は無いからである。之とよく似た例の一つは俊寛僧都の墓である。薩州鹿兒島の近在鹿兒島郡吉野村大字坂元字有島の若宮の前に、俊寛池及び俊寛柳がある。其地を又王の湊と云ふ（三國名勝圖會）。此は島流しの行きがけに立寄つた故跡と云ふから先づよろしい。長門大津郡深川村深川湯本には俊寛僧都の墓があるが、此は高麗燒の製法を日本に持つて來たシヤムクワンと云ふ朝鮮人の墓だらうと言へば先づそれでも濟む（八江萩名所圖畫三）。阿波｜麻植《をゑ》郡森山村大字｜森藤《もりとう》にも俊寛僧都の石塔がある。彼の友人平判官康類が後に赦免に逢つて麻植郡司に補せられたことが吾妻鏡に見えて居るから、それを頼つて歸つて來たのかとの説もあるが（燈下録）些し長命に過ぎるかと思ふ。併し此地方には俊寛此村の山に登り眺望する時、�ｺ島の邊はまだ一面の海であつた。遙かに紀州の山を見る景色が鬼界ヶ島によく似て居るとて、此地を鬼界ヶ岑と名づけたと云ふ口碑がある（方主正方應問書）。越中高岡の熊野權現舊記には、俊寛等鬼界ヶ島に流されたと平家物語にはあるが、仔細ありて實は此地である。康頼が祝詞を作つて祀つたと云ふ熊野權現は即ち此社であると云ふ（越中舊記事）。越中から能登へ掛けて俊寛の墓と云ふものが中々多く、中には俊寛僧都の娘の住んだと云ふ故跡も少なくない（能登名跡志）。此娘は固有名詞はどこでも傳へぬが、有王に連れられて九州の端まで往つたと云ふ婦人であらう。伊勢桑名郡｜益生《ますおふ》村大字矢田字有王の有王塚に於ては、有王俊寛の遺骨を奉じて諸國を巡り終に此地に歿すと云ひ（伊勢名勝志）、同村大字江場字小平太繩の俊寛塚に付ても之と相應する口碑がある（桑名志）。有王最後の地は筑(279)後などにもある。頼政の猪早太と同じく、婦人の從者が缺員の場合には是非とも出て來ねばならぬ人物である。有王と云ふ人名の由る所も箱王と共に考へて見ねばならぬ。土佐や九州に有宮又は有木宮と云ふ祠が折々あるからである。

　俊寛の方は頼政よりも解釋がし易い。元より有名な僧都であれば、單に何とか云ふ僧都が京から來てと云ふと、それは多分俊寛僧都だらうと聽く方から教へてやる。太閤と云へば豐太閤と思ふのと同じ格である。現に又各地に聞き馴れぬ僧都の故跡が甚だ多いのである。將門の娘と云ふ比丘尼なども、古くは元亨釋書にも見えて居るが、寺々の縁起にあるものは同じ傳で説明が出來る。即ち平家と云ふは京都人のこと、親王と云ふは祟の烈しい王子即ち若宮のことで、七十八十迄長生きして居た姫の尼は即ち之に奉仕した巫女であり得る。現に今日でも所謂どこの馬の骨と云ふ婦人は私は東京とか大阪とかきつと言ふ。日本全國の山村には數十箇所の平家谷がある。其隱里には多くは古い墓と老いたる比丘尼の話がある。關東では常陸東茨城郡小松村の小松寺、野州鹽原の妙雲寺の妙雲尼などは近い例である。平家谷の平家には重盛の末が過半である。壇浦の殘黨がそれ程多事であつたとは如何にしても思はれぬ。差合があつたら御免を蒙むるが、女の年を取つた者は何を言ひ出すか知れたもので無い。殊に上品に行ひ濟ましてゞも居れば、黙つて居ても人が頼政俊寛維盛等の娘にしてくれる。僻見かも知らぬが自分は事々しい固有名詞を信ずるだけの勇氣がない。

　神佛を負うて來た旅の尼を直ちに大臣家の姫君と考へるのは田舍の人でもあまりに質朴に過ぎると言ふ人があるかも知らぬ。併しそれも五十年七十年を經て孫の代になれば人の心理も變る筈である。それどころか昔は其姥の像を刻んで本尊に並べて置いた。陸奧外南部の正津川《しやうづかは》の優婆堂を始とし、地藏の脇立に姥の像のあるのは最も多いが、三途の川の婆樣のみが地藏と同居するのも考へて見ればをかしい。羽後仙北郡金澤町專光寺のバヽサンは三途川の嫗と云ひながら本尊は大日だ。或時開山上人の夢に現はれて、我は雄勝郡小野寺の山の洞に大日如來と共に自像を刻んで置いた。あれを迎へて信心するなら請願叶ふべしと教へたと稱し、小野小町に假託して居る（秋田縣案内）。陸前名取郡(280)の熊野社には新古今集の歌で有名な名取の老女を神殿の片端に安置して居る（新撰陸奧風土記）。會津の大鹽の姥屋敷では弘法大師の像と姥の像とを竝べて安置し、而も後者は弘法の作と傳へて居る（新編會津風土記）。此類の例は他日思ひ出せばまだ／＼追加し得る。土佐でも高岡郡西津野村大字松原に二つある五社大明神は共に脇に姥神がある。五社明神は如何なる神か知らぬが、越後の金津莊にもあつて、比丘尼の木像が爰で重くなつた爲に社殿の内に置くことになつた話は前號に擧げて置いた。生れからの神佛でも無い婦人を、土民歸依の力を以て本尊御正體の側まで押揚げた。時としては神の主從が顛倒した例のあるのも、仲介者の威力が強大であつた一證である。

　頼政と云ふ名の起原は、自分は巫童巫女をヨリマシと呼ぶのと關係があるかと思ふ。ヨリマシが靈を呼び降す時の歌の章句は、代々の口傳に時々の思ひ附を加味して、地方的に變化あること今の口寄の唱言のやうであらうが、中には永い年月を經ても棄てられなかつた名文句がある。石見高島の祇園社にて用ゐると云ふ「ひろたけの楠の木は、枯れてもにほひ芳しや、おやどりあれや此宿の、さのみはな急ぎめされそ」などは（玉勝間七）、謠曲の中にもよく聞く文句である。藝州｜可部《かべ》邊で行はるゝ「たつなゆりかけ今さんはいは降ります」は（秋長夜話續々篇）、京にも田舍にも古く行はれた「東より今ぞ寄ります長濱の葦毛の駒に手綱ゆりかけ」の一變形であらう。羽後平鹿郡｜八澤木《やさはぎ》の保呂羽《ほろは》神社霜月の神樂の歌にも、此と共に二三の古雅なる曲があつた。其一つに斯んなのがある。「よりまさ〔四字傍点〕は早寄りませやさはら木のさはらの山にさはりくまなく」（風俗問?答）。若し此類の降神曲が假に各地に行はれて居たものとすれば巫女に託する神を頼政と誤斷するに殊に容易であつたらうと思ふ。兎に角に自分の考では頼政塚はヨリマシの神を祀つた場處に過ぎぬ。故に諸國に外來神土着の口碑となつて殘つて居るのである。必ずしも源三位だと聞いてから祭り始めたのでは無いと思ふ。大隅の屋久島には「源三位頼政」と紙に書いて柱に貼り置けば鼬來らずと云ひ（人類學雜誌二三〇）、羽後の阿仁銀山では頼政の書いた念佛得失議を藏する家がある（眞澄遊覽記三十二下）。此等は如何にも源家の主將とは縁が無さゝうだ。彦根の來迎寺の八幡宮には頼政の納めたと云ふ弓矢がある。來迎寺はもと正法寺と云ふ所(281)から此へ移つた寺だと云ふ（近江木間攫）。弓矢は頼政にも關係があるが又ヨリマシにも縁が深い。イチコなどの手に持つ物に夙くから弓矢がある。正法寺と云ふ古傳も亦ヨリマシを意味するのでは無からうか。自分は試みに此頃世に現はれた梁塵秘抄の神歌を引用して此章を終らうと思ふ。

　　大梵天王は、中の間にこそおはしませ、正法ヨリ女の御前は、西の間にこそおはしませ（四句神歌、神分）。

　

　　　　　　　神子の夫、修驗の妻

　

　觀惠交話卷上に曰く、常陸鹿島の社人從五位上｜東長門守胤長《ひがしながとのかみたねなが》物語に、當社には長門守の家より代々齋宮の如く女を神に仕へしむ。是を御物忌《おものいみ》と謂ふ。三百石を領す。一家中より二人を選び、百日の神事にて社家ども殘らず着坐して神前にて龜二つを燒く。其龜の甲に二人の女の名を書附け、火を活々と起して燒くに、其任に備はるべき女の名は少しも燒けず。それを證據にして備ふる也。備はりて後は長門守より外の人には一生逢はず。其者の使ふ女も皆少女老女の經水無き者なり。一年三百六十日の内神事にて、平日は神殿の中に居り、社へ行くに我｜齋屋《いみや》より輿にて祝詞の屋まで行き、社内の事社人のせぬ事をも勤む。皆長壽にして百歳より百二三十歳に至る云々。此聞書は今から二百年程前のものであるが、自分が直接に東家の當主胤�ｺ氏に聞いた所も大方此通りである。物忌職は勿論既に廢せられたが、東胤�ｺ氏の記憶して居る最後の物忌も此家から出た人で又よほどの高齡であつたと云ふ。神の仲居御手長役が素女で無ければならぬ理由は我々にはよく解る。自由な生活をして浮世の愛着心に惹かれて居る婦人では、有難味が薄く信用も乏しいのは當然であつて、必ずしも近世の人が佛道の尼御前に要求するだけのものを神子の上にまで推及ぼしたばかりではあるまい。然るに不思議なことには巫女童貞の約束は必ずしも日本の神社に於ける原則で無かつた。(282)右に擧げた鹿島の御物忌の如きは寧ろ奇特千萬なる一異例であつて、他の多くの社に於ては神子は此の如き神聖な生活をして居らぬ。正々と夫を持ち堂々と子を産んで家筋を相續させて居る。隨分の由緒ある諸國の大社にても、神子の家は祝《はふり》の屋敷と相連なつて尋常の家族を構成し、唯後者に於て主が男なる代りに此は女が出て役を勤める。或は神事に關與する者は無垢の童女に限る場合にも、よい程に切上げて只の女房に還ることを許されて居る。近頃越前のテテと稱する或神官の家の系圖を見たが、十敷代の間婦女から婦女に相續の朱線を引き、夫の名は女の右に傍註してあつた。處女の間ばかり神職を勤めたものならば直系で續く筈が無いから、此は疑も無く不處女になつても神子をして居たのである。常陸國誌卷十二に、近き世までも神主を宮市子《みやいちこ》と云ひて女子の勤めしがまゝありし也。夫はあれども奴僕の如し。然るに近き頃に至り夫たる者吉田家の假官など授かりて自ら主人の如くなれり。常陸邊にも此類まゝ有りとある。又常陸の内さるべき神社には大市小市又は市子と呼ばれて祭事に預る婦女あり。又神主をも市とも市子とも言ふ村々あり。此は女の名いつと無く男子の方に移れるなるべしとも見えて居る。亭主だけならば或は從順に妻に食はせて貰つて居るかも知らぬが、所謂子等が父の輩に至りては、到底其勢力を娘の上に及ぼし近世の孝道を要求せずには置かぬので、男にも勤まる職務は次第に男の手に移り、後には巫女の夫は神主で共稼ぎと云ふ形になつたのも多いであらう。

　尤も巫女に夫のあることはよく考へて見れば相應な仔細がある。僧尼が配偶者を持つ程驚くべき現象では無い。巫女考の最初に既に述べた如く、ミコの語原は御子である。主神の後裔なるが故に凡人よりも一段神に近いとする以上は、其職掌の根據は血統に在つて、寺方の如く他姓の子を後繼者とし得ぬのは當然である。又鹿島の東氏の如く伯母から姪へ渡すとすれば、後世普通の家督制より見れば亦連鎖の弱くなる感じがある。殊に名譽の神巫の姥神と祀られてある者を祖とするやうになつて後は桂馬筋では血の續きが心許無く考へられるから何が何でも女の子を生むべき必要が生じたのである。上代の神々も恐らくは或程度までは此必要を承認せられ、女系の相續を保障する爲には必ずし(283)も一生涯の清淨獨居を要求せられなかつたと思ふが、自分はまだ古い處に於て巫女の娘が巫女であつたか確かの例を發見し得ない。

　一定の神社に從屬せざる所謂縣巫の仲間に於ても、やはり女系血脈の思想が行はれて居たことは、略々證明することが出來る。關東の梓巫は所謂神事舞太夫と共に、以前は悉く江戸淺草三社權現の田村八太夫が支配下であつた。而して上州高崎の舞太夫が大抵梓巫を妻として居たと云ふことは、此地方に限つての風習では無いらしい、此部落は舊時に於ては普通人とは縁組をしなかつた。而して梓の家業には永年の修行と口傳とが必要であつた。即ち他處の舞太夫の娘も亦梓巫の職に必要なる素養があつた筈であるから、自分は之を其母などより學んだらうと想像するのである。田村の一類は恐らくは白川吉田の支配より獨立する爲に、天思兼《あめのおもひかね》命の傳銃と稱する別派の神道を唱へて居た。從つて之に屬する舞太夫の女房等も、西部諸州の歩行巫《あるきみこ》とは別口ではあつたが、是れ要するに�ｺ川氏初期の家元對立政策、即ち山伏を本當二山に分ち本願寺を東西二派の爭に委ねた手段と同一の筆法で、之を以て巫女本來の種類と見ることは出來ぬ。各派の巫女の作法には札配り竈拂ひ又は歌舞口寄等共通の點多く、其分堺の甚だ紛はしかつたことは後にも述べたいと思ふ。太夫等の奉仕する三社權現の如きも、淺草では檜熊《ひのくま》濱成《はまなり》川成《かはなり》三人の兄弟と云ふが高崎では荒神駒形及び大黒の三社と云つて居た（高崎志）。而も實は熊野の三社であつたらしいのである。

　關東奧羽の諸國では、祈?及び託言を職とする歩行巫を弘く又モリコとも呼んで居た。常陸國誌には市子を神モリコとも云ふと記し、又妙義モリコとて他國より來る口寄、手箱ほどの物を持ちあるき、其箱に凭り掛り眼を閉ぢながら亡者の言を爲す。之を傭ひ口寄をするには茶碗に水を汲みて手向く、其物語に男のことを弓取と云び女のことをヘラ取と云ふ。ヘラとは杓子のことなり。此も大弓と同じく其言ふ所大方當る。江戸にてイチコと云ふ者なりとも見えて居る。和賀稗貫二郡郡村志には、クヾツと云ふ巫女を陸中の俗間にはイタコともモリコとも呼んで居たとある。此も箱を携へて旅行する婦人であることは前に述べた通りである。陸中遠野のモリコのことは遠野古事記に見えて居る。(284)其著者の説には守子《もりこ》と云ふは上古倭姫命と云ふ皇女、天照大神御鎭坐の場所を尋ねたまふとて、神靈を御背負ひ諸國を御巡行成され候儀神書にありとかや。守子は其倭姫命の遺風を學ぶならんかとあれば、此も亦箱を負ひてあるいた巫女であることが分る。此地方の守子は代々テンヤと云ふ一種の神人と夫婦であつて、二人して祈?の札を配り又春の始には春田打《はるたうち》と云ふ舞を舞つて初穗を貰つた。同書に此テンヤと云ふ者は僧山伏にも非ず、俗態にて祈?の守札を配る。其札に中臣祓《なかとみのはらひ》の文句を書き候とも見え候へば、禰宜神主の屬類ならんか。仙臺領のテンヤには吉田家より受領名御免にて何の守と稱し候者もありと聞え候云々ともあつて、先づは高崎などのアガタミコの夫たる舞太夫に似て居る。テンヤが粒起《つぶおこ》しと稱する一種の菓子を製すること、及びテンヤは東北其他に於けるテンバ又はテマと云ふ物貰ひの婦女と關係があるらしいことは、枝葉に亙るから此には略して置く。

　守子のモリは元來神に奉仕すると云ふ語であらうから、此名稱は弘く一切の巫女に附與すべきものであるのに、後世に及んでは田村八太夫の一類など、わざと避けて之を用ゐず、特に山伏の女房の口寄をする者ばかりを守子と呼ぶやうになつて居たらしい。京都の神祇官領家の如きは殊に此名を嫌つて居た。相州秦野町の曾屋神社に文化頃の吉田氏の神子免許?がある。其中にも神子たる者は決して守子の作法をまねてはならぬとある。而も實は此二種の巫女の業體は田舍では頗る紛はしかつたのである。其事實を例證する爲に、文政年中佐渡に起つた當山派の修驗神子と吉田家との訴訟の始末を、少し長いが記述して見たいと思ふ。吉田家の側の主張に依れば、昔寛文年中に奧州｜岩城《いはき》に於て一度本山派の修驗神子と社人との間に出入があつた。其折の判決は神道の方の勝で、本山神子は湯立神樂を勤めてはならぬ、千早舞衣を着用してはならぬ、並びに神子と申す稱號も相成らず、必ず守子と唱へ申すべしとの沙汰であつたから、吉田家の雜掌《ざつしやう》は茲に本山派山伏の惣支配たる聖護院御門跡の坊官等と相談の上、社家と修驗とへ雙方より法度書を觸れ出されて事落着した。其例を以て當山派の修驗神子も同樣に相心得、既に享和二年中吉田家の役人某々等諸國を巡囘し、右の寛文の御條目及び天明二年の御觸など讀み聞せ、吉田家より許?を受けて神事祭禮神樂託宣等相(285)勤め候儀は格別、無官の神子は必ず守子と唱へ、驗者寄附の幣を持ち、數珠錫杖箱を持ちて壇廻等致し候は差支なきも、鈴を持ち神事神樂等相勤め候儀は相成らぬ。以後左樣の勤方致し候はゞ最寄の下社家共へ申付け置き見附け次第装束等剥ぎ取らせ候間、其旨相心得守子共へ洩無く申聞け、心得違ひ後悔無之やうにと申渡した。併し此節神子の官致し度き者は貧窮に候はゞ當分少々の官金を指出し、跡金の儀八年賦に貸し附けても宜しいと申聞け、彼等に請印をさせようとしたものである。之に對する當山派の攻撃理由は極めて簡單なものであつた。本山派と當山派は同じ山伏でも全然別派である。天台山伏が承服したからとて三寶院の配下は之れに從ふわけには行かぬ。當山の修驗神子は往古より立來りたるものであれば、吉田家の配下に附かねば神子の作法が出來ぬ理由が無いと云ふ主張で、此訴訟は山伏の方が勝つた。即ち眞言山伏の妻たる神子も神主の女房と同じやうな託宣營業が出來たのである。併し此等の判決は果して私領の隅々までも其まゝ行はれ、神佛二類の區別が明白となつたか否かは大いに疑はしい。神主と山伏とが專ら爭奪闘爭の目的としたのはやはり地の利の多い八州の平原であつたのである。關東の當山派修驗の宗務所は江戸淺草の鳳閣寺《ほうかくじ》であつた。此訴訟より數十年前、明和五年の鳳閣寺書上にも大いに修驗神子の特種を主張して居る。其一節に曰く、當山派修驗の内にて添合《そひあひ》に神子、古來より家に附き連綿仕り相勤め候者、竝びに注連弟子《しめでし》等外へ嫁し當山派修驗神子より注連を受け神子勤め候者、假令社家の妻或は百姓の妻にても、前々より凡べて當山派より相改め候。又社家より注連受け候神子にても當山派の添合に御座候はゞ一同當山派より相改め申候云々。右延寶二年四月十一日沙汰、添合神子並びに注連下の神子共より相改の要脚として青銅十疋づゝ差出さしむることゝ成る云々。即ち條件が相互的では無く、成るべく多くの神子を自分の配下とせんとする主張で、若し修驗と神主とが夙くより對等の者とすれば公平の沙汰では無い。併し其議論は兎に角として、二種の巫女が彼此流通のものであつたことは此でも明白である。蓋し吉田家の配下なる者は近世に及んで追々と兩部の社の別當寺の手から奪略したものであるらしい。然るに巫女は本の社を離れて世間をあるき自由勝手な仕事をして居た爲に、新神道の教義を以て十分に之を統一することも出(286)來ず、從つて其舊支配者を壓服して之を吉田の部下とする方法に苦慮しつゝまだ目的を完成せざりしうちに世の中が改まつてしまつたのである。要するに自分は巫女所屬の相異は近世の宗教行政の結果と考へるから、二三作法の差に由つて其根源が一つでなかつたことを推論し得ないのである。

　關西地方にも所謂修驗神子は後世まで隨分あつたらしいが、モリコと云ふ名稱は行はれて居らぬかと思ふ。而して東國の守子に當る者は一般に之を比丘尼と呼んで居た。比丘尼の出身地は紀州の熊野と伊勢の神領が最も多く、理由は未だよくは分らぬが、伊勢から出る比丘尼をも亦熊野比丘尼と云ふのが普通であつた。此熊野比丘尼が勸進比丘尼となり歌比丘尼となつて、奇恠なる或時代の風習を形成した迄の變遷は、やがては又近世巫女史の一面である。是も前の佐渡修驗神子の訴訟記録の中に、原告たる修驗者等は此の如く陳述して居る。曰く當山派には三派の別がある。一を地客派《ぢかくは》二を伊勢派三を熊野派と云ふ。古來は熊野の菴主《いほぬし》那智の菴主等より御寮の號を受けた。伊勢方と云ふのは神子持修驗である。伊勢は皇大神鎭座の地で、天岩戸の昔から神樂祭禮根元の神宮なれば、其因縁を以て神子持修驗を伊勢方と云ふとある。併し單に神樂に關係するから伊勢方だと云ふなら、國内の神子は皆伊勢方でなければならぬ。是は多分神宮の由緒を深く認めたくなかつた爲に、後に案出せられた説明である。伊勢は思ふに一派の山伏の本山であつたのを、惣支配權が三寶院の手に移つてから、幾分か疎外せられ且つ衰微したので、即ち此も亦神道と修驗道との分立軋轢に伴ふ一現象であつた。神領の山伏のことは伊勢濱荻卷四に見えて居る。本來宇治山田の山伏共は淨土宗でも漸宗でも心々の宗門請?であつたのを、眞言宗が當山派と稱して彼等を支配するやうになつてから、山伏は他の宗旨に屬いてはならぬと云ふ三寶院よりの命令があつて、次第に眞言宗に改宗した。他宗の山伏があつたのは神領ばかりである云々。比丘尼が髪を剃つて居ることも、尼と比丘尼を混同するやうな人は當然の事に思ふか知らぬが、此も亦三寶院の支配以後當山山伏は剃髪を以て本式とした結果であつて、本山派即ち聖護院派では古式のまゝに有髪妻帶を本則として居たのである。當山方でも比丘尼と云はざる關東などの所謂｜添合神子《そひあひみこ》は、社の神子と同じく毛があつ(287)たやうである。圓頭なら神道家との争奪の起るべき餘地が無いからさう考へる。

　足利時代に出來たと云ふ職人盡歌合には、熊野比丘尼は俗體で烏帽子小素襖を着し琵琶を抱き、杖の先に雉の尾を附けたのを持ち、繪卷を前にひろげて居る。其歌は、

　　　繪を語り琵琶彈きて經《ふ》る我世こそうき目見えたるめくらなりけれ

とある。熊野比丘尼が熊野の繪と稱する地獄六道の畫を雉の尾羽で繪解《ゑとき》を爲し勸進してあるいたことは、骨董集其他の有りふれた書に見えて居るから之を省略する。繪解の役に盲は似合はぬやうだが以前はあつた者と見える。梓巫の盲女である例は近年まで多かつた。例へば水戸地方で大弓《おほゆみ》と稱する口寄の、三尺ばかりの竹の弓を持ち、夜中燈火を暗くし弓の弦を鳴して亡者の託言をする者は、必ず盲女の業であつて目明はしなかつた。民家の女子にして失明する者の此業を學ぶこと今日の按摩のやうであつた。秋田地方で二月から田植の頃まで村々を頼まれあるき、梓弓を叩いて口寄をするエチコと呼ぶ女は皆盲目であつた（風俗問?答）。羽前莊内邊で三尺ばかりの弓を腰に帶びてあるく梓巫は、盲目にして且つ尼であつた（齶田の苅寢）。同じ旅行者の陸中盛岡邊の記事には、盲巫女と書いてイタコと訓ませ、更に此者が神下し祈加持數珠占を爲し、或は亡者を招きよせて吉凶を語ることを記してをるのを見れば前のエチコもイタコと別物では無いらしい（眞澄遊覽記卷十）。而して其盲巫の亭主は此も一種の修驗者たる琵琶法師で雙方盲目であつたのは重々奇妙である。

　後世の熊野比丘尼は所謂｜美目《びもく》?《へん》たる者であつた。併し此徒が口寄の業務から次第に遠ざかつたのは、眼の明盲とは全く無關係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾などを被つたことが、自然に託宣の値打を減じた爲かと思ふ。京の繩手通り三條下ル猿寺と云ふ寺で、尼が幣を持つて託宣をした近世の例は、兎園小説拾遺に見えて居るが、外にはあまり聞かない。比丘尼と稱しつゝ舞を舞つたことは、古くは臥雲日件録にも記事があれど、此も頭を丸めては似合はなかつたと見えて、後は唯｜簓《さゝら》を扣《たゝ》いて流行歌などを歌つた。故に此徒が札配りや勸進の外に逸出して變な一種の職業に(288)從事したのも、間接には剃髪強制の結果では無いかと思ふ。人倫訓蒙圖彙《じんりんきんもうづゐ》に曰く、歌比丘尼は元は清淨の立派にて、熊野を信じて諸方に勸進しけるが、いつしか衣を略し齒を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便に色を賣る也。巧齡過ぎたるを御寮と號し、夫に山伏を持ち女童の弟子あまたとりしたつる也。此者都鄙に在り都は建仁寺町藥師の圖子に侍る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から來た。簓を摺り歌をうたひ遊興を勸めたと尾張志に見えて居る。和訓栞には何に據つたものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつゝ一方には遊女に同じき生活をする。其｜歳供《さいく》を受けて一山富めりとあり。東海道名所記の沼津の條には、歌比丘尼の由來を詳しく述べて其退化を説き、今の比丘尼は熊野伊勢には詣れども行をもせず、戒を破り繪解をも知らず、歌を肝要とするは歎かはしいと、頗る彼等が不道�ｺを責めて居る。併し比丘尼が色を賣るのは兎も角も、男の有ると云ふこと迄は決して違犯では無い。比丘尼は單に彼等の名稱であつて實質では無かつた。之を佛法の尼と同視して其生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚の髪をいつ迄も剃りこかして置いて、形が似て居るから之を小僧と呼んだ。今若し小僧は即ち僧だからとの理由で魚を食はせなかつたら彼等はどんなに歎くか分らぬ。それと全く同じき不道理である。修驗は昔から妻を持つ者であつた。佛教側の人々は境遇の類似から修驗を名づけて沙門とも比丘とも云つた。後には又ヒジリともホウシとも呼んで居た。此等の名稱は共に僧に非ざる信心者と云ふ意味である。比丘と一處に居る女だから即ち比丘尼と云つた迄で、經文などに云ふ比丘尼と同じで無いことは昔の人は知つて居た筈である。女行者又は女聖《めひじり》と云ふ方が正しいのである。其女聖に亭主のあることは些しも不思議では無い。又彼の不名譽なる一種の職務に至つては、自分は之を辯護する程の勇氣も無いが、此とても昔の社會道義に由つて寛容せられた、此輩相應の由緒ある業體である。�ｺ川初期には需要が増したから稍々盛んになつたと云ふのみで、恐らくはあの頃突發した墮落現象では無いのであらう。中世の社會に於てもクヾツの副業は賣色で、遊女は又一派の巫女であつた。近江海津の市の金と云ふ女は、強力を以て其名を後世に傳へて居るが、彼も亦遊女であつて其夫は法師で(289)あつた（古今著聞集卷十）。往來の旅人は此種の婦人を古くからキミと名づけた。キミは遊女の雅名にして兼て又巫女の總稱の一つであつた。

　

　　　　　　　筬を持てる女

　

　高木君御得意の人柱傳説の數ある型の中で、一種奇妙な分子を含み、他の一方には隱里又は龍宮の思想に基く多くの機織淵又は卷機山《まきばたやま》の傳説と聯絡を取らうとして居るものがある。尾張東春日井郡旭村大字新居の退養寺の松原に、道淨寺の寺址と云ふ處がある。張州府志卷十一に曰く、中昔こゝに池あり。水溢れて?々堤を損ふ。卜者の言に、五月朔日機具を持ちて過る女子あらば、之を捕へて水中に投じ塘《つゝみ》を築かば水難なからん云々。乃ち其言に隨ひしに、以後毎月五月に至れば此村にて機織女暴死す。彼女の冤魂《えんこん》ならんとて道淨寺を建つ。又今に至るまで五月には婦女｜織?《しよくじん》を絶てり云々。尾張志の記事は唯之を敷衍した迄である。此と似た話が讃岐にも有つたかと思ふが出處を忘れた。若狹三方郡山東村大字坂尻の東南、即ち國吉山の北麓の水田は、往古は一面の池であつたが次第に水涸れて今の田に成つた。曾て冬の日に一人の女が機の具を持つて池の水の上を通つて居たら、氷が破れて落ちて死んだ。それから以後は水中に機の音を聞くこと?々であつた故に、村民｜愍《あはれ》んで祠を池の頭《ほとり》に建てゝ其靈を祀つた。之を機織姫神社と云ひ池を機織池と名づけた。三方郡誌には此事を記し尚此社が近年邑内の一言主神社に合祀せられ、池の地が悉く耕地となつたことを言添へて居る。此二種の物語は自分は元は一つと認めるのである。

　今若し尾張の方の話が親であるとすれば一つの疑問が起る。何故に機具を持つて居た女が特に生牲《いけにへ》として擇ばれたであらうか。見知らぬ婦人の斯んな物を携へて來ることは普通あり得べき現象では無い。何か仔細が無くてはならぬ(290)のである。仍て考へて見るのに、古くは長柄の橋柱の岩次でも、又は女堤比丘尼塚などの婦人でも、偶然出て來ていらぬ忠告をする。そんなら誰彼と詮議をするよりも取敢へず御前に頼まうと云ふことになつてはふり込まれる。此が又無理な話で、凡人の持たぬ智慧を授けた者を、禮もせずに殺すと云ふのもわからず、それ程の智慧者が相手の無法を豫め避け得なかつたのも變だ。故に袴の繼とか袵の小判とか云ふ説明が添ふのである。又一方には人柱の禁呪を教へた本人が自ら志願して牲になる話も多い。日本傳説集（二三五頁以下）には其例が擧げてあるが、此書には女が小兒を連れて來て母子共に沈んだと云ふ、自分に言はせると姥子淵の系統に屬する傳説を多く伴なつて居る。所謂「雉も鳴かずば」の偶然事實は小説としては面白いが、教へた人を殺したと云ふ説明としては、第二の志願投水の方が似つかはしい。此なら諸國に三件五件あつても不思議で無い上に、又中世の入定塚傳説とも折合ふからである。山路愛山氏は近頃自分に斯んなことを話された。熊野には昔は自殺を奨勵する信仰が行はれたのであるまいか。平家物語の維盛入水の條を見ると、和尚は之を制止しなかつたのみならず、平氣で念佛の後世に役だつことなどを説聞かせて居る云々。熊野に限つたことか否かは知らぬが、山伏の入定は多く聞く話である。伊勢神領の比丘尼池などにもたしか熊野比丘尼が飛込んだ話があつた。犬山道節一流の火遁水遁の術があつたか、但しは實際遣つたのかは知らぬが、築いても築いても崩れると云ふ堤の上では、時として思切つた祈?や行が必要であつたに違ない。速斷かは知らぬが、彼の越前吉田郡松岡村の比丘尼塚などに於て、川の堤を丈夫にする爲比丘尼を築き込めたと云ふのは（吉田郡誌）、比丘尼であるから築き込めたので、偶然に來合はせた女では無からう。又尾張の道淨寺の池の織具を持つた女なども、假令後には別の卜者の指金で此厄に遭つたと變化してあつても、やはり自ら入定の有難味を示した一例、乃至はさう云ふ噂話の中心人物であつたことゝ思ふ。

　若狹の機織池の冬の日とあるのは恐らくは水が割れたと云ふ話に鍔目を合せた迄であらう。五月に機織を忌み又は其器具を運ばぬ例は外にもあつたやうである。是は單に早乙女の關係からでもあるまいと思ふがまだ説明が出來ぬ。(291)總別機の具を運搬することは女の常の手業では無い。而も他の一方には職として筬《をさ》を持ちあるく一種の婦人があるのである。例へば北越月令には百年前の長岡附近の風俗を記して、梭賣《をさうり》又はヲサカキと云ふ者あり。織具の梭を作りて背負ひ、ヲサはいりませぬか、ヲサはいりませぬかとふれて賣りあるく也とある。梭は和訓ヒであるが此にはヲサに當てたものらしく、又ヲサカキは男とも女とも無いが語が女らしい。淡海木間攫卷八には、坂田郡法性寺郷船崎村（今の日撫村大字舟崎）は顔戸村《がうどむら》の北に在り。當村の婦女は機具の筬を拵へるのを常の職とす。甚だ卑賤の業にて民俗大いに之を賤しむ。筬を拵へるをカクと云ふとある。松屋筆記卷九十五には又斯んな記事がある。陸奧岩城邊にては筬カキ女と云ふ者あり。橋邊空閑の地などに家居し、筬を賣りありきて其料に米錢を乞ふなり。米袋を持ちありく故に乞食に似たりとなん云々。此もやはり百年餘り前の事實であらうが、之と最もよく似た部落は今も東部日本に少なく無い。此徒の乞食と誤られやすいのは必ずしも其米袋の爲のみで無く、始終半旅行的生活を營み、河原とか堤の陰とかの村で不用な空地に無斷で小屋を掛け、八釜しく言はれると直に立退くと云ふやうな極めて無造作な土着をして居るからである。今日は普通之を箕直《みなほ》しなどゝ呼んで居る。此箕直しと筬掻女《をさかきめ》と果して同じであるか否かは後の話として、筬掻女の一名がクヾツであつたことは先づ疑が無い。同じ松屋筆記の説に、關東にて筬を造る者を久具都《くぐつ》と呼び、平民之を落しめ思へり。是れ古の傀儡の類にて住處不定の者、筬を賣りありきたるなるべし。其子孫民間に雜處するを賤みて平民縁などを結ばざる也と云ひ、更に梅花無盡藏卷三上に、二日透過2梭師之棧《くゞつかけはし》1登2三國之嶽1遂作2二詩1云々と梭師をクヾツに當てた古い文を引いて其一證として居る。

　オシラ神の木像を舞して禁厭をする奧州のイタカ・イタコ又はモリコと云ふ巫女を、或は又クヾツとも云つたことは前の陸中傀儡坂の條にも述べて置いたが、其モリコが一方に筬の商賣に從事して居たと云ふことは未だ之を聞かぬ。但し此等後世のクヾツと、驛路に媚を鬻《ひさ》いだ中代の傀儡との異同を極める爲に、其クヾツと云ふ語の意味を尋ねて見ると、やはり右の織機具の製品が重要な關係を持つて居ることを感ずる。古來の通説に從へば、クヾツは一種細い繩(292)を以て編んだ袋のことで、傀儡の漢字とは直接の聯絡は無い。古くは萬葉集卷三の、

　　　潮干のみつの海女のくゞつ〔三字傍点〕持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む

と云ふ歌から、近くは明治三十五年に出版せられた若越方言集に、クヾツとは※［口＋入］《かます》なり物を入るゝ物なりとあるまで、多くの書物にそれが一種の袋であることを證據立てゝ居る。多分は山澤濕地に自生する莎草《くゞ》と云ふ植物で其袋を製したのであらう。クヾで作つた袋をクヾツと云ふとは一寸分らぬが、事によると元は其草をもクヾシ又はクヾチなどゝ謂つたのを、後に製品と區別する爲にクヾにしたのかも知れぬ。クヾは即ち近頃まで東京でも物をくゝるのに用ゐたクゴ繩のクゴである。越後邊では之を以て蓑を作り又は馬具を造る繩とし、甚だ有用の植物である（越後名寄十）。傀儡子と呼ばれた昔の漂泊部曲が又クヾツを以て呼ばるゝに至つたのは、多分は特殊の袋を携帶して居た爲で、袋を持つたのは日用品を之に入れて引越に便利な爲であらうが、之と同時に其袋の彼等が手製であつたことも想像し得る。不完全な模寫で見たのだから確實で無いが、融通念佛縁起の繪卷にある鉢叩《はちたゝき》の聖も、皆其腰にクヾツかと思はれる妙な袋を下げて居る。而して彼等は亦一所不住の漂泊者であつた。近世の箕直し乞食の徒にも袋は其特色ある携帶品の一つである。自分が遠州で聞いて來た所では、乞食の袋に二つの種類があつて、布の袋を持つ方は何時でも足を洗つて只の人に成れるが、今一方の袋は世襲の身分であるから捨てられぬ。而して其袋は何か一種の植物で編んだ物と云ふことであつた。此袋と前に擧げたクヾツの筬又は梭とは、一見何等の關係も無いやうであるが、其原料が何れも山野に自生する物で無代價で採取し得られたこと、用途需要の廣い品で而も其製作に特別の技巧又は熟練を要したことは共通の要件である。今の箕直しの如きも別に賤しい業務でも無いのに、常人が競爭しなかつたのはどこにか彼等に及ばぬ點があつた爲であらう。實直な箕直しには大抵配札職の檀那の如き繩張がある。彼等は二家族三家族群を爲し、僅かの原料を肩にして馴染の村々を廻る（鋭利な刃物を持つて居る爲に必要以上に怖がられる）。竹を編む材料は今は主として藤蔓である。一定の地に小屋掛して居る者が箒竹籠の類を編むにも亦藤蔓を用ゐるが、或は又莎草燈心草(293)なども使ふやうである。一段巧者な者は篩《ふるひ》の類を作る。此には竹以外の材料がより多く用ゐられる。最上の部類が即ち筬を作る者である。織物が一般に精巧となり細い絲を多く使ふやうになつてからは、筬職人も次第に其地位を改良し、今では以前の同類と分立して立派な市民になつて了つたらしい。併し理由の當否は別問題として、昔は兎に角｜筬掻《をさかき》も箕作《みつくり》と共に一種の下り職であつた。蓑作も亦例の團氏《だんうぢ》由緒書の列名中に見えて居る。美濃養老郡日吉村大字橋爪は、牧田川の長橋の東の詰である。昔から蓑を作る家の多く住んで居たことが新撰美濃志に見えて居る。燈心の上納も古來此一種の部落の課役であつた。併せて考ふべきことかと思ふ。

　革細工竹細工のしがない生計を立てゝ居る近世のクヾツを以て、風流歌舞の昔の傀儡子と同じものと見ることは、或は之を許さぬ人があるかも知らぬが、自分は必ずしも無理な附會とは思つて居らぬ。傀儡文明の頂點に達した院政時代に在つても、彼等は定れる居常の家無く穹廬氈帳《きゆうろせんちやう》で水草を逐うて居た。之が傀儡子記だけの誇張で無いことは、藤原敦光の詩にも穹廬妓を蓄ふとあるのでよく分る（本朝無題詩）。彼徒に美人が多かつたとしても、若い間は長くは無い。婆や男は何か相應の仕事が無ければ賣色だけでは全部落は食へぬ。故に人形を使ひ手品放下の見せ物をする外に、男は狩獵を事とせりともあるのである。即ち至つて少數の傀儡のみが京都の紳士と和歌の贈答をする迄に上品であつたので、官道の要衝にも出て來ることが出來ず、容貌も二の町であつた他の同類共は、やはり立派でも無い漂零生活をして居たことであらうと思ふ。但し今一つ後世になつて衰へた收入の根源があることを忘れてはならぬ。それは即ち祈?禁呪等の巫女職業より得る所のものである。自分は今の所謂サンカ、オゲ、セブリの徒の斯の如き零落は、美人の漸く稀にして時好に應ずることを得なくなつた結果では無く、寧ろそれよりも廣く田舍人との間に結ばれて居た信仰の因縁が、巫道一般の衰微に連れて次第に薄くなつた爲に、到る處に冷遇せられて段々乞食に近くなつたのであらうと思つて居る。其仔細を些しく述べて見よう。

　巫女が娼を兼ねる慣習は決して日本ばかりの例では無いが、之と反對に娼女のもと巫であつたと云ふことは稍々證(294)明がしにくい。蓋し三都の色町の今日の盛況は、全く三百年來の新現象であつて、京傳種彦等の如き學問ある遊冶郎と雖、夫より古い沿革を喋々することが出來なかつた。併し平和時代の變遷は單に其増加と集合とであつて、素より昔の川竹の種の絶えたもので無いことは、越前の三國《みくに》とか筑前の博多とか、諸國の驛港《うまやみなと》の歴史を見ても察せられる。中世の遊女は京以西の船附に於て多く發達した。而して傀儡と遊女とは亦別物では無かつたらしい。前者が陸路を遷徙《せんし》し後者が舟に乘つて往來したと云ふ相異を除けば、其漂泊生涯は全く共通である。下學集には日本の俗遊女を呼んで傀儡と云ふともある。今はをかしな物に成下つた偏土の賣女の名稱を見ても、往々にして彼等の昔の生活が窺はれる。例へば百年餘り以前の紀行に、羽前の温海《あつみ》で之を濱の姥と云ひ、羽後の汐越で之を髪長《かみなが》と稱し、又陸奧の佐井濱で多古《たこ》と呼んだとある（眞澄遊覽記）。此等は共に巫女の名としても似つかはしい。武江年表を見ると、女歌舞妓は江戸初期の遊女であつて、其元祖とする國女は出雲の神子であつた。彼等の優物を和尚と呼んだとある。前代の遊女にも觀音文殊御前などの名が多かつた。例の歌比丘尼などゝ因縁のありさうな話である。白拍子と云ふ婦人も佛神の本縁を歌ふ者と徒然草に見えて居る。興福寺延年舞の古譜にも白拍子と云ふ曲あり、春日若宮の神樂歌にも之良《しら》拍子と云ふのがある。此種の曲を歌ひしよりの名であらうと云ふことである（和訓栞）。オヤマと云ふ語は今以て意味が分らぬ。ケイセイも古い名稱である（宇治拾遺物語十二）。此に傾城の二字を宛てたのは庭訓往來などが最初かと思ふが、俗語の説明にしてはちと六つかしい。女郎と云ふ字は多分は上臈であらう。氏子から出す祭の巫女を一時上臈と云ふこと、又は下關其他の遊女の由來に、官女の零落した者が此職に從事したと云ふ口碑と共に、巫女の服装が田舍にしては上品であつた爲によい名を與へた證據の一つで、即ち巫女遊女を共に君と名づけたのと同じ意である。

　娼女を太夫と呼ぶ理由に就いては一つの考がある。北里志《ほくりし》等の説では、元和四年に遊女の舞を善くする者を院に召すとて、假に丹波大掾《たんばのだいじやう》萩原吉政と云ふ號を賜はり、男の舞太夫に准ぜられしより後は、家に名ある遊女を太夫と呼んだのだと云ふことである（和訓栞）。此説には確かな據は無いとしても、遊藝の徒と共に彼等も亦太夫の名を用ゐて(295)をるのは神事舞太夫と關係がある爲であらう。たしか攝州住吉の御田植の神事に出る遊女が、烏帽子水干を許された由緒に就いても斯んな話があつたかと思ふ。而して巫女は弘く又エボシと云ふ一名もあつたのである。此と何かの關係が有るらしいのは西宮の百太夫と云ふ人形｜舞《まは》しの神樣の事である。クヾツの人形を舞すを職としたことは、單に支那の傀儡が之を意味したのみならず、既に傀儡子記にも木人《ぼくじん》を舞すとあつて、人のよく知る所である。但し其目的が人の目を怡ばしむるのみであつたやうに今の人は思つて居るが、彼等の慣習として夜は則ち百神を祭り鼓舞喧嘩以て福助を祈つたことは同じ文章にもある。此祭と木人との聯絡は八幡の細男《せいなう》の古式などを知つた者で無ければ考へられぬ。同じ時代の遊女記の中には斯んな文がある。曰く殊に百太夫に事《つか》ふ、遣神の一なり、□（木？）に?《きざ》むの數百千態に及べり、人心を蕩《うごか》すこと亦古風のみ云々。此だけではよく分らぬけれども、遊女の百太夫に奉仕したことは顯著なる事實であつたらしい。梁塵秘抄の二にも之に關する歌が出て居る。「京より下りしと｜けの《（マヽ）》ほる、島江に屋建てて住みしかど、そも知らず、打捨てゝ、如何に祭れば百太夫、驗《げむ》無くて、花の都へ還すらん」又「遊女の好む者、雜藝鼓｜小端《こはし》舟、?《おほがさ》かざしともとり女、男のあい｜くの《（マヽ）》る百太夫」などゝある。宮寺縁寺抄《みやでらえんじせう》に依れば、石清水十九所の末社の一つにも百太夫がある。又百太夫はハタダイフと訓んだらしいから、天滿天神の白太夫も元は此かと思ふ。攝陽落穗集卷三に、西宮惠比須の北に小宮あり、内に納むる像は三歳ばかりの小兒の座したる人形なり、是れ神に非ず云々、日本人形の初なりとて、此人形あるが爲に西ノ宮に笠井氏と云ふ人形芝居の株あり、浪華人形芝居の株も此所より得たるか云々。淨瑠璃語る者皆何太夫と名を附るは此人形百太夫と稱する其由縁なるべしとある。西宮を發源地とする國々の夷下《えびすくだ》し又は夷願人と云ふ輩は、今も往々にして人形舞しを以て衣食の種として居る。此簡單なる一事實は終に我々に重要な事を教へた。即ち昔の遊行の女婦等は他の一方に大きな本務を持つて居た。今の思想で見れば明らかに不名譽な職業を營みつゝも、同時に日本の民間に新しい信仰を宣傳しつゝあつたのである。木の人形の神たる百太夫が即ち道路往來の神であつたとすれば、中世以降の衢神《ちまたのかみ》、進んでは之とよく似た八幡の神などの大移動も、やはり又(296)筬を持つ女の漂泊と關係して居たのである。秋田地方では旅立をする者が我家の戸口で機具の梭（ヲサ？）を跨いで出る風習があつた。往來の速かなやうにとの呪術である（風俗問?答）。此等も亦クヾツが筬を賣りあるいた一つの説明であつたかも知れぬ。

　

　　　　　　　結論

　

　さて永々讀者に御迷惑を掛けた我々の巫女考も、一旦結末を附けねばならぬ時が來た。讀み返して見ると不滿足な點がまだ中々多い。殊にこれ程｜管々《くだ／＼》しく説き立てた中に、どうしても自分の力では解決し得なかつた甚だ緊要なる問題が殘つて居る。即ち遠近の諸國を漂泊し廻つて居た多くのミコたちが、機會を見附けてポ／＼土着し、次第に只の百姓に同化して了つたと云ふ事實だけは、どうか斯うか略々推定をし得るとしても、其今一つ以前に溯つて、何故其樣に多數の巫女が、一所不住の旅の空に立出ることになつたのか。彼等若しくは彼等の母祖母又は曾祖母の本貫は何處であつたか。日本の國内かはた又海外の何れの地方かと云ふ大なる疑問に就いては、自分はまだ／＼一箇の假定説を提出するだけにも大膽であり得ない。蓋し日本書紀の末の方の卷々を見ても、巫覡《ふげき》の徒が京畿近國に充滿して居たことは分るけれども、彼等が移動漂泊を常の生活として居たと云ふ痕跡に至つては頓と之を見出すことが出來ぬ。四方が平定に歸し交通機關が稍々整頓した國司行政の時代に及んでも、巫の記事は專ら禁中或は國々の大社に附屬して居る。然るに追々と田舍文明の夜が明けて、武家と謂ふ中流階級の生活が史書の上に現はれて來る頃には、神に仕へたらしい遊行の女婦がはや東西の官道の要處々々に假住をして居る。而も其?勢は僅かづゝの變更を以て一千年の間を持續して來たのである。此傾向は抑々何が作り上げたものか。之を明白にせぬ以上は、單に一篇の巫女考が完成(297)を告げ能はぬのみならず我々の文明史にも理解のしにくい隈々が多いことを免れぬ。何となれば多年國民の信仰を繋いで居た村々の小さき社と祠、及び菴と云ひ堂と云ふものの多數は、巫女と聖《ひじり》の最も盛んに移動して居た武家時代の中頃に、而も彼等の仲介に由つて新設せられたらしいからである。

　所謂阿彌陀聖の根原、即ち後年の念佛宗繁昌の地を爲した下級の道心者の出處に就いては、多少の推測を下し得ないでも無い。莊園増加の結果として國々の公田が縮小し、之に住する百姓は課役の重きに苦しみ、我と郷貫を立離れて所謂浮浪人となつたのを、私領の領主が比較的寛大なる條件を以て之を招致し開發の勞働などに從事せしめたことは普通の現象であつた。即ち或時代の社會組織の然らしむる所、國民の一半に漂泊の癖を生ぜしめたのである。其中でも殊に尻の坐らぬ農作の嫌な連中が、自度の法禁を犯し乃至は有髪のまゝで數珠を掛け鉦を鳴し、富裕な村里を?めつゝ一生涯他人の施物で衣食してあるいたのかも知れぬ。近世の鉦打鉢叩等の由緒を尋ねて見ると、此想像の必ずしも架空で無いことを思はせる。但し此を以て他の一方の婦人の上にも類推することの頗る困難なる所以は、異性の側に在つては始終佛よりも神の方に遙かに近い。而して神は大昔より地方的のもので、土地との結合が彼よりも鞏《かた》く、從つて何か異常なる動力を加へぬ限は、甲地の信仰を携へて直ちに乙地住民に説くわけには行かなかつた筈である。假に其一小部分は始から持經者の細君や娘などで、男の出鱈目に相槌を打ち、後世で云へば比丘尼のやうに仕事をして居たにしても、女から女に相續して男を立て過さうと云ふやうな、死んで後は一坐の姥神にでも成らうかと云ふやうな巫女に至つては、必ず何か別途の根柢を持つて居り、知らぬ田舍に入込んで食つて行けるだけの知識又は技倆を備へて居なければならぬ。語を換へて言へば、神道の方面に於ても一遍空也の部下が研究して居たやうな、群衆心理學應用術とでも名づくべきある方法が講ぜられてあらねばならぬのである。茲に至つてか自分は前飛鳥の御代に於て入鹿大臣に進言したと云ふ大和の巫女等と、大分に面目を異にした新種の巫女が、後に中央日本に勢力を養ふことになり、折から郷土を離れて行方に迷うて居た浪人の母や娘を糾合して教育し、特に田舍を傳道せしむる機關に用ゐた(298)のでは無いかと考へて見たのである。

　斯う思つてから注意して見ると、大和の京の末頃から山城の京の初期に掛けて、突發的に朝野の信仰を喚び起した偉大なる流行神に、前には八幡があり次には熊野がある。殊に前者は其畿内に入込んだ形式が、どうしても他の鎭西より上洛した神々と同一であつた。唯著しく有力なる後援者を持つて居た。託宣の最も盛んであつた神で知力の豐富な婦人を寄女《よりめ》として居た。宇佐以前の沿革は記録に乏しいが、筑前對馬又は大隅の同じ神の社との關係は後の手向山男山との關係を逆にしたものでは無かつたらうか。即ち次から次へ神恠なる理由を説きつゝ、庶民の力を以て移動して行かれるのが此神の特色であつたかと思ふ。但し斯う言つたとて必ずしも煩を八幡神の神�ｺに及すの虞《おそれ》はあるまい。神道の分派は何れの代にもある。昔西國から傳播した一流が特に神託に重きを置き、且つ機會ある毎に祭祀の中心を新しい地方に移すのが、常に神の思召に合ふものだと信じて居たものがあつて、都鄙の住民が大いに其影響を承けたと云ふ迄の話である。而し此だけの事實に基いて、其近畿に入り來る以前の宮處が概して海岸であつたことも一の理由として、其頃に外國から渡られた神であらうと推測するのはまだ些しく早計なりと言はねばならぬ。尤も巫女と云ふものゝ信仰上の地位は、此時代ぐらゐを境にして幾分か變化したやうにも思はれる。確とした根據は無いが自分は巫女をミコ又は神兒《かうのこ》と云ふ語などは、此頃から發生したもので無いかと想像して居る。若宮と云ふ語は神代紀の一書に日若宮などともあるが、他の物語との聯絡がちつとも無かつた。それが僅かの年數の經つうちに著しく増して來て、特に若宮又は王子ばかりを祀つた社が多く起り、一方にはミカナギ又はキネを神の御子と稱する風が明白になつた。託宣が盛んになつて、我を此地に祀れとの神の命令が、特に重嚴に遵奉せられるに至つたのも、右の如く世襲の神職が其世襲と云ふ理由を極端にまで主張した結果と假定すれば、頗る理解が容易になるのである。

　宇佐の御社には誠に古い縁起がある。我は譽田《ほむだ》の八幡麻呂なりと仰せられたと云ふ所謂菱形池の靈託は既に歴世の朝家の公認せられた所である。故に自分は敢へて現在の諸國の八幡宮に應神天皇を齋ひ奉る最初の理由は、王子若し(299)くは王神即ちミコ神を、音が近い爲に應神と附會又は誤解したものだと斷言するのでは無い。唯言ひたいのは熊野の若王子又は祝園牛頭天王の御子八王子の如きは、王子と名がついて居るからとて我皇室の御血族だと云ふ説は昔も今も無かつたこと、地方の靈神には往々にして何々天皇と稱するものがある爲に、畏多くも邊土の地に天子｜謫居《たくきよ》の口碑を傳へ、皇子皇女の日本語がミコヒメミコであつたばかりに、神に仕へた巫祝の徒に貴顯の零落隱遁を説く者が、古來極めて多かつたと云ふ一事である。話は少しく異ふが、中國四國の海岸などの王子權現王塚などに、特に外國の貴族の漂着歸化を説く者が多い。中には加藤清正の連れて來た李氏の二王子などの新しい史實と結び附けんとするものもある。注意すべき傳説には相違ないが、中には熊野又は祇園等の勸請であつたものが、中古社領などの爭から骨を折つて斯かる因縁を斷絶し、故意に眞の由緒を忘却せんとしたものもあるやうである。九州松浦地方には高麗王來住の話があつた。佐渡と越後には新羅王の流寓して來た者があつて、此などはさまで古い昔の事で無いらしく、近い頃まで其筆蹟を持傳へて居たものもあつた。上古の歸化人が概して其父祖を王として居たのと、古今動機を一にするや否やは疑しいが、下級の人民の心理には、荒海を越えて一人來るやうな人なら、いづれえらい人に違ひないと云ふやうな考が久しく存して居たのではあるまいか。若しさうであるとしたなら設樂《しだら》や八幡の如き神々が九州の地より上つて來たのを目して、新來の蕃神とする説にも少分の據が無いでは無い。ミコが「神の子孫」の義であることに就いては自分は前に數百言を費して居る。而も近世の巫女の仲間に在つて、此有利なる證據を援用する者が尠いのは寧ろ不思議のやうである。村里を巡囘する旅の口寄は勿論とんと身上話をしない。昔からの大社に於ては時として神裔神に仕ふるの例あること記録に遺り、或は東洋諸國に最も普遍なる三子分立の口碑を傳へたものも少くは無いが、其主張は重に大祝や別當の筋に在ることで、巫女の家は却つて之に與つて居らぬ。併し自分の如きは寧ろ此事實を以て巫女神孫説の由來稍々久しいものであることを證明せんとする者である。蓋し人の家は果も無く永續する者で無い。殊に八幡熊野の今宮が無數に増加して行く時代には、之に伴つて常に我娘(300)や姪を送り出して居るわけには行かぬ。即ち神の正統血脈と云ふことをあまり強く説くのは傳道に不便である。五人や三人の門徒ならば之を養女分にしてもよいけれど、澤山の女浪人が其風を慕ひ其教に追隨するやうになれば、勢として血の掛らぬ婦人でも道を修むること深ければ神驗が著大であることを唱ふるに非ざれば、行く先々の里人に説くことが困難になつて來たらしい。茲に及んでか所謂姥神の信仰は盛んに起り、其姥神は持つて生れた靈の力に由つて、神に選ばれて其仲介者の地位に任ぜられたと解することゝなり、自ら世襲の特權を抛棄せねばならぬはめに陷つたらしいのである。自分の見る所では、此間の消息を多少暗示して居るかと思ふのは遊女の中に長者と云ふ者の居たことである。江口でも川尻でも、陸では東海道の驛々にも、娼婦の一團の中には長と云ふ婦人があつた。如何なる職掌と權限とを有つて居たかは明瞭では無いけれども、此が單純に團體利益の代表者であるならば、腕力ある男子が之に任ずるのが當然の勢であらう。女が之になつて居たと云ふのは彼等が婦人ばかりの結合であつたこと、及び老少の遊女の間に師弟授受の關係があつて、長者が他を引廻して居たことが察せられる。後世までも歌比丘尼の弟子取をしたこと、瞽女《ごぜ》の頭たる老女の威勢隆々たるものであつたことなどを考へて見ると、國々に分散して色々の神を守つた巫女の中にも、以前は一種の系統があつて其道を相承して居つたものと想像することが必ずしも不自然で無いやうに思ふ。而して其一派の首長たるものは固より智能道術の十分に發逢して居たものに相違ないから、死しては其靈を祀られ、祀らるゝが爲に愈々崇敬すべき逸話を多く附添せられたのであらう。

　併しながら此が爲に巫女の家筋と云ふ思想が全然消滅し了らなかつたことも亦恠しむには足らぬ。既に清淨獨居が必ずしも彼等の守らねばならぬ約束でなかつたとすれば、自然の進行に委せて置いて子が出來孫が生れる。殊に安住の地があれば土着したくなるのは人情の常である。一旦獲得した便宜はなるべくは肉身の者に傳へたい。さうして家が古くなるのが一つの信用の種でもある。殊に斯道些しく衰へて最早目ざましい擴張も望み難く、現?維持を詮とするやうになつては、どうしても術の秘密は家に傳はることになる。幸にして勢力ある神社と由緒を繋ぎ得た者は、本(301)を忘れる世になつても家の地位だけは失はぬやうに力める。不幸にして信心者の地盤を失つた家筋では、勿論夙く斷念して只の百姓に復した者も多かつたらうが、世間と同化しにくい色々の事情もあつて、此も亦外部から永く其血統を孤立させた。其子孫も今に殘つて居るのである。

　之を要するに日本の巫女と云ふ階級は、社會組織の然らしむる所、一時人爲的に出來上つた國民の中の一分派に過ぎない。其特種の職業を廢すれば再び百姓の中に混入して了ふのは寧ろ其當然の權利である。假に前代に於て其中心となつた少數の人物が外來の異民種であつたとしても、其血は早くから混合して其純を保つては居ない。箇々の地方に就いて言へば、比較的早く來て住んだのが只の農民となり、おくれて來た者の一部分が此部類として良くも惡くも別異の階級と考へられたに過ぎぬ。而して其中最も永く旅の生活を續けて居た者が最も不幸であつた。農作以外の手段で生活を支持する爲に色々の業をした。利用すべき田舍の迷信が無くなると食ふ爲に惡いことをして憎まれた。併し彼等の過去は誠に變化に富んだ經歴であつた。巫女と云ふ階級が無かつたら我邦のフオクロアは淋しいものであつたらうと思ふ。

　

(305)　　テテと稱する家筋

　

　曾て福井縣の一神職の家から書立てた家系を見たことがある。婦人から婦人へ線を引いて、配偶者の男の名を左へ小書にしてあるのが如何にも珍しかつた。それが古くは帝々《てゝ》と名のり後には廷々《てゝ》と書改めたと云ふ今立郡服間村大字炭燒の舊家（郷土研究二卷一八八頁）の系譜であつたか否かは記憶が無いが、婦人の職に由つて世襲する家は他にも隨分あることで、テテと云ふ名目は多分は是から出たものと思はれる。テヽとは本來父を意味する語であるが、轉じては女の夫をも呼んだらしい。續郷談に、伊勢の宇治山田では夫婦を?々也々《てゝやゝ》と稱すとある。神祭りや橋の渡り初めの如き女の出て仕ふべき儀式に、介添として亭主の伴ふものを打任せてテヽと呼んだものと見える。御府内備考二十江戸新吉原の條に、御奉行衆が庄司甚右衛門の異名をばキミガテヽと呼んだことがある。御歴々の言葉に遊女屋の亭主をばキミガテヽと云ふのは古來の例で、書面には「君親方」又は「遊女長」と記すことであつたと云ふ。手々之浦と云ふ地名は讃岐仲多度郡六郷村大字鹽屋にあり（西讃府志十九）、出雲飯石郡朝原にもテヽ谷と云ふ字がある。飛騨でも大野郡町方村から松木村へ越える山路を、?ヶ坂と書いてテヽガサカと呼んで居るから（後風土記首卷）、テヽに右の如き意味はあつたのである。他の地方でカネリなどゝ云ふ頭に物を載せて運ぶ漁村の婦人を伊豫ではオタヽと謂ひ、官女の末だなどゝ云ふのも、或は亦此類かも知れぬ。而して何が故にテヽが特別の家筋を爲し或は他と隔絶した部落を作るかは、巫女考の行く／＼明らかにすべき問題で、かの犬を先祖とすると云ふ浮説の如きも何か意味があつて、決して世間が之を蔑視する爲の惡評では無からうと思ふ。

　

(306)　　立山中語考

　

　碧梧桐氏の「續三千里」越中｜立山《たてやま》の條に、立山に登る剛力のことを中語と書いてチウゴと謂ひ、時にはナカカタルとも謂ふ由、或は山の事に詳しい案内者に忠五郎とでも云ふ男があつたのに基づくかとある。至つて簡單な想像説で、勿論強ひて主張せられるのではあるまい。強力を中語と呼ぶこと、白山其他の靈山にも同じ例は無いか。之を究めるのが最初の要件だらうと思ふ。それも穿鑿せずして異説を出すのも異な者だが、自分は之を或｜爺《おやぢ》の名とせずとも解説し得るのである。中語は字の如く神と人との中に在つて語る者としてよろしい。後世別に別當神主等の役が出來て、中語は卑役にのみ服するやうになつた爲一寸意味が不明になつたらうが、遠方の信心者が來つて神に接近せんとするには、假令聽かねばならぬ神の御答の要らぬ場合にでも、常に此の如き仲介者を求めたのは昔の普通の信仰であつた（郷土研究一卷一三七頁參照）。其慣行が廢れて名のみ殘ることは數ある例である。現に自分なども最上《もがみ》の高湯《たかゆ》から藏王嶽を越えて陸前へ行くのに、村の先達さんに只の賃錢を拂ひ荷物の案内をさせたことがある。

　昔の人はあまり語の撰擇に苦勞をしなかつた。同じ語を神にも人間にも兩用することなどは何とも思はなかつた。從つて中語が斯かる階級の民の名稱となつた上は、役が變じても理屈を言つて之を改めたりなどはせぬ。坊主で唱言をすれば門附《かどつけ》の願人《ぐわんにん》までを法印などゝ謂つた。其次に引くのも畏多いが、越前大野郡｜石徹白《いしとしろ》村は最初の白山の表口であつたらしい。此村の舊社に白山仲居神社《はくさんなかをりじんじや》がある。登路から言つても平地と靈山との中程に祭られてはおはしますが、此神の名の起りはやはり又本社に附屬した神で、主神と人間との仲介者として、民意を神に白し神意を民に宣するの(307)役を勤むる者の祖神、即ち多くの社の末社に御子神姥神あると同じものであらう。而して之を神の血族とする信仰の亦一般的のものであることは曾ても述べたことである（同一卷二四頁）。さて此中居と言ふ語なども、今日使用の類例を求むるときは、尚且つ市井卑俗の間に於てするの外は無い。京阪以西で宿屋料理屋に働く婦人を仲居と云ふが如き、何故にナカヰであるかと云ふと、客と亭主の仲に居て亭主の差出す食物を客に供し、客人の御託を然るべく所謂帳場へ傳へるからで、最初は恐らくは廣く侍女の義に用ゐられて居たのであらう。然りとすればナカガタリの中語とよく似たる職掌で、立山のチウゴなども實は亦仲居の音讀と見る方が穩かであるかも知れぬ。よく語るから後に中語の字を宛てたのかも知れぬ。二説どちらでも大差は無い。それに就いて更に想像を進めるならば、白山の笥笠中宮《けがさちゆうぐう》を始とし日光其他にも中宮と云ふ神がある。奧の宮と山口の宮との中間に在り又は三社の中央と云ふのも穩當なる説明ながら、之を姫神と傳へ又は二社の一を斯く稱へる場合には、或は亦仲居の意味に於ける中宮も無いとは言はれぬ。神の御子をも王子と呼んだ如く、之も中宮と言つて稍々又天子の御后に擬したらしいが、中宮はあまり古い語では無い。故に凡てとは言はぬが、或社の中宮は自分は之を仲居《ちゆうご》又は中語の宮と解するのである。

　仲居の自説を強める爲に、些しく足長手長のことを述べたい。侍者を手長と云ふことは、足利時代の武家禮節の書に多く見えて居るのみならず、古くは宇治拾遺物語の寂照上人飛鉢事の條にも、「今日の齋筵には手ながの役あるべからず、各々我鉢を飛せやりて物は受くべしとのたまふ」などゝもあつて、寺方でも武家と同じく給仕人を手長と謂つて居る。手長の意味は主公自ら手を延ばして物を調へると同一の結果を得るからで、言はゞ居間から玄關又は勝手元へ屆くやうな手を云ふことであらう。熊本藩などは近い頃まで他の地方で筋とか組とか名づくる一大庄屋又は一代官の管轄する行政區劃をば何々｜手永《てなが》と呼んだ。此も領主の手を延長させる代りに代官を置くからの名かと思ふ。所が各地の神社の末社に手長と云ふ神があるのは、此までの人は皆其理由を訝《いぶ》かつて居り、或は常陸古風土記の大串丘《おほくしのをか》の話などに思ひ合せて、例のダイダラバウ系統の巨人傳説を以て由來を説かうとして居る。併しそれでは何の爲に一小(308)末社に跼蹐して居るかも分らぬことになる。此はやはり神の仲居即ち巫祝の家の神と解するのが自然である。信州諏訪などに於て足長手長と二神あるのは如何と言へば、足長の名は外では聞かぬが或はそんな役もあつたのかも知れず、或は又手長と云ふから今一つを足長と云つたので、單に侍從の神が二柱であつたことを意味するのかも知れぬ。足摩乳《あしなつち》手摩乳《てなつち》をはじめ昔はよく斯んな對句が流行つた。但し禁中の荒海障子《あらうみのしやうじ》に足長手長の蠻人を描かしめられたことなどは、昔の人もよく知つて居た。（序に言ふ、南都藥師寺の藥師の臺座に鑄出したのも此類かと思ふ。丸善書店の戸口にも此像を装飾にして居るのは物好なことだ）。故に夙くより手長の本義は忘れられたのかも知れぬ。神輿の水引に手長足長の圖を?《ぬひとり》したことは塵添?嚢抄卷四にも見えて居る。

　

(309)　　一言主考

　

　神名帳の研究家たちが記紀の神代卷に著はれたる神々で無ければ日本の神樣では無いやうに考へて居た時代は夙に過去つた。古い昔の記録でも必ずしも其まゝ受入れることは出來ぬと云ふことの最も適當な證據として、自分は茲に葛城《かつらぎ》の一言主神《ひとことぬしのかみ》の事を些しく述べて見よう。延喜式に、大和葛下郡｜調田坐一事尼古神社《つきだにますひとことねこのかみのやしろ》。神祇寶典卷二に素盞嗚尊之子葛木一言主神也。度會延經の神名帳考證卷二にも同じく一言主命とある。貞觀元年正月の神位陞授の記事にも明らかに一事尼古神とあつて、之を隣の一言主神と一つだとするは不當だが、此などはまだ同じ葛城郡の内である故にふと然《さう》考へたとも察せられる。併し縁もゆかりも無い越前大野郡坂門一事神社を、やはり其一言主神であると二書共に斷定して居るのは、若しそれが單にヒトコトと云ふ語の近似に由つたものとすれば、如何にも大膽至極の話であつた。自分の見る所では、此類の神の名は幾つでも存在し得べきもので、又實際に古今を通じて多く聞えて居たのである。其例は追々に之を述べるが、之を以て葛城山下の神の勸請又は移轉と見ることは、必ずしも前掲二註釋書の編者ばかりの偶然の臆斷とは言ひ難い仔細がある。先づ古くは三代實録貞觀十五年の條に、肥前に坐す葛木一言神に從五位下を授けられたとある。肥前へ大和の神を移したと云ふのは不思議な話で傳説かも知れぬ。神階も本社に比して六七級おくれて居る。釋日本紀卷十二に引用した風土記の説に依れば、土佐國にも一社の一言主神があつて、之も大和より移されたものゝ如く夙く傳へられて居たらしい。其文に曰く、「土佐郡郡家西去四里、有土左高賀茂大社、其神名爲一言主尊、其祖未詳、一説曰｜大穴六道《おほなむち》尊子｜味?高彦根《あぢすきたかひこね》尊」。此神に就いては誠に珍しい話が殘つて居る。續日本(310)紀卷二十五、天平寶字八年十一月庚子、法臣（僧）圓興及び其弟賀茂朝臣田守の請に依つて、土佐の高鴨神を大和葛上郡の本處に復し祀らしむ。此神は昔雄略天皇葛城山に獵したまひし時、化して老夫と成つて毎に天皇と相逐ひ獲を爭ひしに由つて、天皇怒りて其人を土佐國に流された。是れ賀茂朝臣が先祖の主《つかさど》る所の神であつたとある。雄略天皇が葛城山の御獵に於て一言主神に逢ひたまひし事は、古事記にも日本書紀にも記されてはあるが、何れも記事に若干の相異がある。重要な點であるから其大要を擧げねばならぬ。書紀には次の如く言うて居る。雄略天皇の四年二月に此山に射獵したまふに、忽ち長人《たけたかきひと》來る云々。面貌容儀天皇と相似たり。天皇其神なるを知りたまへども猶｜故《ことさ》らに何處の公ぞやと問ひたまへば、長人對へて現人之神なり先づ王の諱を稱りたまへ、然して後に應へんと曰ふ。天皇朕は幼武尊《わかたけのみこと》なりとのたまへば、長人僕は是れ一言主神なりと稱り、遂に共に盤遊し一鹿を逐ひて相讓りて箭を放ち轡を竝べて馳※［馬＋聘の旁］したまふ。言詞恭恪にして蓬仙の若きあり、日晩れ田《かり》罷みて後神は天皇を來目水まで侍送す、百姓咸有�ｺ天皇と言したとある。即ち天皇と獲を爭うたと云ふのとは反對に、尤も禮を重んぜられたのではあるが、それでも天皇に對して先づ名乘を要望し且つ天皇と相似たる容儀を以て來現したのである。古事記を見ると天子も一旦は大いに忿《いか》られたとある。此日從ひ獵する臣下、悉く青摺の衣に紅紐を著けたるを給はり、其行装花やかなることであつたが、向ひの山尾より登り來る神の行列も全然天皇の鹵簿と等しい支度で、何人ぞと問へば彼も何人ぞと應じ、百官悉く矢を刺せば彼方に於ても一同矢を刺して放たんとしたとある。危機一髪の際に神自ら其名を告り天皇恭敬の情を表したまひしによつて、茲に神人相和して還幸の時には神亦長谷の山口まで送つて來られたとある。此點と神の容儀が天皇と相似て居たと言ふ點とは、記紀共に同じで頗る賀茂朝臣の上書とは異つて居るが、場所と云ひ神の名と云ひ遭遇の顛末に於ては何れも　　　略々同樣であつて、誰が見ても上書が亦同じ話の一異傳であることを否み得ぬだらうと信ずる。唯此話が飛んで土佐國に在つたのは如何にも不思議である。

　古事記傳の著者の如きは神《かみ》流竄《りうざん》の傳説の如何にも奇恠なのを承認し兼ねたものか、偶々續日本紀の文中に高鴨神と(311)のみあつて一言主神とは見えぬのを據として、土佐國風土記の説を否定せんと試み、雄略天皇が葛城山に獵して一言主に逢はれた事と、同じ天皇同じ山の獵に於て老夫と化現した高賀茂神に逢ひて之と獲を爭ひたまひ、其神の侵犯を忿つて之を土佐國に逐はれた事とは、本來二個別々の事件であつたのが、時も處も同じき爲に彼此混同したもので、一言主神は決して高鴨神で無く從つて土佐に流された筈は無いと論じて居る。故栗田博士の古風土記逸文考證其他、此説を遵奉する人は多いやうである。成るほど高賀茂神を大己貴尊の御子味?高彦根神とするのは獨り土佐風土記のみで無く、延喜式にも大和國葛上郡高鴨阿治須岐託彦根命神社四座とあり、出雲｜國造《くにのみやつこ》の神賀詞《かみよごと》にも、大穴持《おほなもち》命が御子｜阿遲須伎高孫根《あぢすきたかひこね》命の御魂を葛木の鴨の神奈備《かみなび》に坐《まさ》せたとある上に、神名帳作成の時代には別に同じ郡の中に葛木一言主神社あり、後世之を以て素盞嗚尊の御子だと稱した説もあるから、若し一言主と云ふ名稱を以て必ず一つの神だけに屬すべきものとし、且つ此ほど珍しい昔話を天子御一代に二度まで有つたと推測し得るならば、或は右の如き判斷を下してよいかも知れぬ。併しながら此等前代の學者たちは、自分の見る所ではまだ一つの重要なる事實を見落して居るやうに思ふ。それは古くから葛城山の一言主を使役したなどゝ言はれて居た例の役君小角が、土佐から高鴨神を迎へ還つた賀茂朝臣田守等と同族であつたことである。日本靈異記卷上、竝びに之に基いたかと思ふ扶桑略記元亨釋書以下の書に、役優姿塞《えんのうばそく》は賀茂役公氏、今の高賀茂朝臣なり、大和國葛木上郡茅原村の人とある。尤も役行者と一言主神と交渉があつたことは正史には見えぬ。續日本紀には單に「能く鬼神を役使し水を汲み薪を採らしむ。若し命を用ゐざれば即ち呪を以て之を縛した」とあるばかりであるが、かの有名なる岩橋の話の如きは、其が確實な事か否かは議論の外であつて、少なくも其時より久しく隔てぬ時代に、大和地方の住民が多く之を言傳へて居たことだけは疑がない。靈異記の説に依ると、行者は孔雀の呪法を修行して奇異の驗術を證得し、鬼神を驅使するの自在を得て居たが故に、神々を貴め催して葛城山から金峯山まで椅《はし》を渡して往來に便せんとしたと云ひ、更に奇拔なことは神々此課役を難澁がつた結果、葛城峯の一語主大神は行者が御代を傾けんとすと讒言したので、天皇使を遣はして之を捉(312)へしめられたと言ひ、更に又此神行者の呪に由つて縛せられ、今世に至るまで解脱し得ずとも述べて居る。人間の力を超脱した偉大なる工事を、鬼神が一夜の中に完成せんと企て、而も鷄の空音等の爲に半途にして之を中止したと云ふことは、今も諸國に存留して居る所の一夜工事の傳説と云ふ者で、自分は幾つも類例を擧げることが能《でき》る。而も一言主神が形極めて醜くかつた爲に、晝間働くことを厭ひ終に行者と衝突したと云ふ物語の如きは、必ずしも此等の古話を取合せて敷衍した後世の小説であつたとも言はれぬのは、既に扶桑略記にも役公傳と云ふ書を引いて、此口碑の久しく存して居たことを示して居り、行者が神を縛したと云ふが如き尤も有り得べからざる話さへも、續日本紀と共に行者を讒したるは一言主には非ずして韓國連廣足《からくにのむらじひろたり》なりとした爲憲記と云ふ書中にも、やはり「葛木山の澗底《たにそこ》に大巖石の藤に纏はれたるものあつて、吟《うめ》くが如き聲常に聞え、人あつて其藤を切放つてもやがて本の如く繋縛せられた」とあるを見れば、夙くより隨分盛んに人々の語り傳へて居た噂話であつたことが判る。若し又右の如く藤に纏はれた巨石を指して行者に呪縛せられた一言主神だとするが如き信仰が當時有つたとするならば、「面貌容儀天皇と等しかつたと書紀にある程の立派な神樣が、姿醜くゝして夜暗僅かに顔を出したと云ふやうな筈は無い」との反對説などは、あんまり傳説又は俗信を眞に受け過ぎる人の言として敬して遠ざけてよからうと思ふ。之を要するに自分の推斷せんとする所は、雄略天皇の御宇以來既に葛城山に祀られたまひし一言主神と云ふ神は、此地方の門閥たる高賀茂氏の家の神の一つであつて、其族人役小角なる者が外來の教理を宣傳して大いに附近の民心を征服した際に、最前《まつさき》に利用せんとしたのは此神であつたと云ふことである。而して此神には本來役行者の行法と調和すべき或特性を具へて居たことを、其名稱が示して居るかと思ふ。それを此から述べるのである。

　先づ最初に注意すべきことは、一言主神が役行者を宮廷に讒奏したと云ふ事實である。此も極めて奇恠なる話ではあるが、古來弘く語り傳へられて居たと見えて、必ずしも一つの出處から分れたとは見えぬ記事が色々の書物に載せられて居る。此時の朝廷は葛城山より程近い大和の藤原宮であつた。一言主は行者の命に背いて制縛せられ谷の底に(313)置かれてある間に、宮城の人に託いて役の優姿塞は既に謀を成して國を傾けんとすと言うたと今昔物語には見え、扶桑略記の文にも「彼神宮臣に託宣して僕元謀叛の徒を鎭守す、然るに役君小角將に國家を傾けんとす、先づ以て繋縛せよと云うた」とある。即ち靈を現じ又は夢に入つたのでは無く、自らは葛城の山中に留りながら普通の人間に口を寄せて、言はんと欲する所を人に告げたと云ふので、其形式は中世最も盛んに行はれた神降し又は神憑きの例に同じいのである。神が不實を語る筈は勿論無いことであるが、實際此時代の巫覡には却つて神の言に託して自己に便なる事を公表したのを、心有る者に看破せられた場合も隨分多かつたらしく、殊に宇佐八幡の巫女など其中でも此術を利用したこと、　　　屡々正史に記載せられて居る。之に依つて考へて見ると、役優婆塞叛を謀ると密告したものは、彼が門人にして後に其能を害とした韓國連廣足であると云ふ續日本紀卷一の記事も、必ずしも本居氏等が強く主張するほどに流布の俗説と矛盾牴觸はして居らぬやうに思ふ。何となれば修驗者の修法に於て神を降し人に憑けるには、通例門弟の若者などを以て因童としたものであるから、神が讒したと云ふのは即ち廣足が告げたのかも知れぬ。弟子の小行者に惡心あつて中途に打合せを破り、從前の信任を濫用して神意を矯め傳へたとすれば、凡人の耳には神自らが道師を賣つたやうに聞えたかも知れぬ。それのみならず自體この一言主神は後世の語を用ゐれば中々荒い神であつた。其託宣の如きも昔から必ずしも聞く人の耳に快いことのみは無かつたらしい。既に雄略天皇御獵の庭の遭遇の時にも、若し一段詳細なる古事記の傳への方を書紀よりも正しいとするならば、頗る國君に對する禮儀を缺いたもので、最初には陛下も忿られた。之に由つて土佐に逐はれたと云ふ賀茂田守等の言は、誤傳とか別の話とか斷定して退けてしまふわけには行かぬ。事によると如何に神が憑いたとは言へ、其老夫の言動が法外に粗暴であつた爲に、御憤りの餘りに其折のヨリマシを流刑に處せられたのかも知れぬ。果して然りとするならば、其老夫と云ふのは即ち役小角より數代前の、やはり高賀茂氏の族人で神に仕へて居たものであらう。前掲釋日本紀には引用の土佐國風土記の文の次に、更に左の一節がある。普通には此も風土記の續きであらうと云ふが、栗田博士は否認して居る。曰く、或説に云ふ、(314)時に神天皇と相競ひ不遜の言あり、天皇大いに瞋《いか》り土佐に移し奉る。神隨うて降る。神の身は已に隱れ祝を以て之に代ふ。初は賀茂の地に至り後此社に遷る。高野天皇の寶字八年、從五位上高賀茂朝臣田守等奏して迎へ奉り、葛城山の東下高宮岡の上に鎭め、其｜和魂《にぎみたま》は猶彼國に留り今に祭祀す云々。此も續日本紀に依つて書いたのかも知らぬが、神隨うて降ると云ひ、神の身は隱れて祝之に代ると云ふが如き、何れも原書には單に「其人を土佐國に流す」とのみあるのを説明したもので、何か別に當時の始末を記述した材料のあつたことを推測せしめる。兎に角に一言主神は終始託宣を以て人間と交通せられた神であつて、其信仰は役行者の時代を最盛としたらしい。ちやうど此頃に編修せられた國史の史料としては、區々の古傳が錯綜して此神の起原は明確なるを得なかつたが、而も何人も之を神代以來の神とする者は無く、雄略天皇の四年に始めて顯はるゝ所と云ふことは承認して居たのである。古今著聞集卷二大和當麻寺の條に、昔役行者孔雀明王の法を勤修の時、一言主明神來つて坐し給ふと云ふ石があつたとある。然らば此神は行者に對して一種の護法童子の任務を盡したと認められたので、其關係は決して岩橋架設の一要件に留まつては居なかつたのである。

　一言と云ふ變つた神の名が、後世諸國に亙つて數多くあつたこと、是が第二に考察すべき點である。神祇寶典一流の方法に倣ひ、凡て葛城山からの勸請と見て了へば至つて無造作であるが、さうも言はれぬ仔細が少々は有る。山城下鴨社の末社に一言社と云ふのがある。京師巡覽集卷十四に、「此神は彼の形醜くき葛木山の一言と同じ名なれば同體と思ふめれどさに非ず、別なり」とあるが、神名地名の賀茂と云ふから考へて、或は何か和州の賀茂氏と因由が有つたものかも知れぬ。唯如何にせん此一言社は神二坐であつて東西に向き合ひ、猶二言社二社西向、三言社三社東向で、共に本社中門の中に列んで居る（山州名跡巡行志三等）。古くは尚四言社から七言社まで都合七社あつて、大己貴《おほあなむち》命の七つの名を祭るとの説もあつた（山城名勝志十一）。上賀茂の末社の片岡社と云ふのも、亦祭神は一言神であつたとの説がある（次嶺經五）。片岡は地主神と云ふから勿論葛木一言主では無い。奈良では春日若宮の外院六神の中に一(315)言主明神がある（諸社根元記上）。大乘院雜事記應仁二年十月十二日の條に、「春日末社の御名云々、寺内一言主社」とあり（大日本史料）、長承二年の注進?には「一言主明神、興福寺｜廻垣内神《めぐりがいとのかみ》也」とあつて（大和志料上）、是も亦古い時からの鎭守の神であつた。若狹｜遠敷《をにふ》郡野木村大字中野木の泉岡一言明神、祭日は正月初午日、八月朔日に神事能ありと郡縣志にある。東寺文書正安二年の平庄打開輩次第と題するものに、「ひとことの明神の御前をさかひ候云々」とあるのは此社らしい。此國には右の外に同村大字上野木に一言大明神、同郡國富村大字次吉に泉一言明神、三方郡山東村大字坂尻にも一言明神があつたと同書に見えて居る（若狹國神名帳私考）。之を大和より移したかと言ふのは例の癖であらう。何れも古い割には社が微々として舊傳を尋ねる手段も無いが、前の上下賀茂春日の如く、末社として大社に附祀せられたものゝ多いは、或は神降託宣に關係があつた爲ではあるまいか。京都には前掲の外に、北野天神の末社にも一拳宮《ひとこぶしのみや》と云ふがあつて、古記に祭神一言主神とあり（京都坊日誌）。七座一殿の内の北から第二座であつた（山城名勝志七）。一拳の社はたしか洛西梅宮の末社にもあつて、所謂死屍分割の口碑を伴うて居たが、それも檀林皇后の御名を語るのはやはり巫女の關係に基く訛傳かも知れぬ。吉田神社の攝社にも一言主社があつた。和州葛城明神と同じと云ひ一説には大刀雄太玉の兩神也とも言うた（次嶺經四下）。洛北岩藏村から五町ばかり北にある一言主社は、鎭座未詳なれども靈應のこと人の口に在り、東福門院皇女女三宮の御再興と云ふ（山州名跡志六等）。右の外に古代の貴女の關係を云ふものに宇治郡｜庄口《しやうのくち》の一言觀音がある。寺あつて一言寺と稱し眞言宗である。本尊は安阿彌作と云ふ十一面千手觀世音、脇侍は地藏と昆沙門、少納言入道信西の娘に阿波内侍、剃髪して後に眞阿《しんな》と云ひし婦人の安置する所である（山州名跡巡行志六等）。眞阿禅尼清水寺の本尊の靈告に依つて寺を建立すと稱し、一言と云ふ名の説明としては、一心に御名を念ずれば言下に志願を滿すの義とも云ひ（山州名跡志十四）、或は只一言祈り申すにやがて其驗ありとも云ふ（次嶺經四上）。同じ名の觀音は亦京の市中にも一つあつた。即ち足利氏の季世に尊勝上人の開基にかゝる一言觀音堂で、或は四條坊門の北、京極の東に在つたと云ひ（山城名勝志三）、或は丸太町通梅屋町北側の安禅寺が其遺阯で(316)あるとも云ふ（京都坊目誌）。獨り此のみに非ず開發至つて新しい武藏の京にも、兩國囘向院内に一言觀世音のありしこと、近世刊行の江戸神佛立願一覽に見えて居る。願ひ事を長く述べず一言に言ひて願ひを掛くれば忽ちに叶へたまふとある（共古日録十七）。續江戸砂子には又愛宕下眞福寺の一言地藏を擧げて居る（同上二十一）。同じ名の通俗佛の類は、尋ねて見たら勿論まだ幾らも例があらうと思ふ。

　最後に一言主と云ふ名の起りはどうでも此神が託宣を特色とした事實に在るらしいことを述べて見よう。一言と名づくる神々に靈託の奇瑞ありし話は、昔も今も多いことである。近くは三村竹清君が伊勢の津の大寶院の住職から聞かれた話に、明治の初年狂人あつて高野の寺を燒いた時、其狂人自ら名乘つて、我こそは當山の麓なる一言稻荷なり、僧侶の不如法を憎み、眷屬の狗賓の輩をして松明を投げしめたと言うたとある（共古日録十八）。伊豫西宇和郡神山村大字矢野の一言神社は、今では葛城一言主神と同じく味?高彦根命を祭ると稱して居る。寛永十七年此社炎上の後、某々等新たに社殿を營み神體類似の石を祀つて居た處、其年の十月十八日里人の夢に、附近の木蓮樹の伐株の空洞の中に三寸ばかりの金の神像ありとの御告ありしにより、之を求めて社殿に納めたと云ふ（南豫史二）。南都春日の末社なる興福寺の一言主の松に、應仁二年四月二十二日内子の日、狐多く見えたりと宮仕等注進するにより、陰陽師幸�ｺ井友重をして吉凶を判ぜしめた。其勘文が經覺私要抄六十八に書留めてあるが、「一言主冥務鳴廻候吉凶事勘申候、闘諍火難之表示云々」とあつて、狐を以て一言主の冥務と見て居たのである（大日本史料）。山州宇治の一言寺に於ても一の奇なる古傳がある。僧都珍海なる者畫を能くす。其師彼をして曼陀羅の圖を畫かしめんとせしを辭退したるに、夢に山神來つて其肯て畫かざるを責め、珍を橋の上より蹴倒したので、醒めて乃ち之を寫したと云ふ（山城名勝志十七）。此話のどこやら岩橋の神話に似て居るのも一奇であるが、觀音の名の一言も元は或は此山神に屬して居たのかも知れぬ。葛木一言主の名の起りとしては、雄略帝此神に逢ひて名を問ひたまひしに、神只「主」とばかり答へたまひしとも云ひ、或は又後年此峯に入りし者神の名を尋ぬるに主の一言を以て答へし故に一言主と謂ふのだとの説もあ(317)つた。古事記傳には之をば單に或書に曰くと記して居るが、類聚名物考には山伏記と云ふ書に後の説は出て居ると云ふ。何れにしても一寸信じにくい事である。古事記の本文に依れば、「吾者雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主之大神者也」と名告られたとあるのを、傳には此神其威�ｺを以て一言にして惡事《まがこと》を除くのみならず、一朝神怒りたまふときは亦一言にして善事《よごと》即ち幸福をも奪ひたまふと云ふ意だと説いて居るが、此説は言離之神《ことさかのかみ》の「離」の字に拘泥して「言」の字を看過したものであつて、其眞の趣旨は事解男《ことさかのを》などの事解と同じく、所願者の爲に吉凶を判定することで、極めて簡單なる一言を以て神意を宣傳するのが、一言主神の名の眞の由來かと思ふ。若し果して此推測の如しとすれば、役行者の方術も突如として此國に起つたものでは無く、賀茂朝臣の家に就いて由緒の一段と久しかつたものと見ねばならぬ。

　

(318)　　　　　　　西行橋

　

　嘗て下總北相馬郡の或田舍に暫く住んで居た頃、珍しい唄を聞いたことがある。確か明治二十一年のことゝ思ふ。近所の十二三になる少年が、どこで聞いて來たのか次のやうな唄を歌つて居た。

　　さいごたかもーり　初めて東に下る時　蟹にきんたまを挾まれて　おいてゝこんちきしよ離しやがれ　むかふ通るは姉さんか　姉さんお藥ちよと貼つて

　此次が有つたのか又無いのか、今では誰に尋ねやうも無い。途方も無い粗野な文句で、殊に英雄南洲翁に對しては冒?の至であるが、自分は其後折々之を思ひ出す機會があつて、餘りとしても馬鹿々々しい著想を訝るの他は無かつたのである。御承知の通りあの時分はまだ所謂西南戰爭の記憶は新しかつた。西郷に關する流行唄の類二つや三つでは無かつた。併しそれと蟹?《かにがみ》の害とは何の交渉があらう。妙な話だと思つて居るうちに、はたと膝を拊《う》つやうな發見に、近頃になつて始めて遭遇したのである。それは一昨年の九月文部省で刊行した俚謠集の中に、伊賀阿山郡の木遣歌として載録したもので、右の下總の西郷隆盛が元は西行法師であつたことを明らかに證して居る。今試みに其一章を擧げて見ると、

　　エーエーさて西行法師は始めて關東へ下るとき　水無し小川で鰻の小骨で足突いて　向の茶屋へと驅け付けて　此につける藥は無いかと聞いたれば　其に附ける藥も色々品々あります　牛の上齒に駒の角　師走筍寒茄子　山の上なる蛤や　此藥を夏降る雪を手に取りて　水でゆるめて火でねりて　其藥をつけたなら　さつぱり一度にな(319)ほるぞよ

　此地方の木遣歌と云ふのは東京などゝ違ひ、掛聲の合間々々に早口でをどけ〔三字傍点〕を言ふだけと見えて、右の文句には唄としての節調が無い。察する處音頭取の氣轉次第色々と唱へ改めたものであらう。併し次の一章にも「水であたゝめ火で冷し蟻の涙でねつて附ける」などゝあつて、要するに全篇を通じて出來ない相談又は有りさうにも無い事を述べ立てゝ居る。更に他の一章には西行法師が東へ下る道で檜の笠で頭を燒いたと云ふのもある。即ち鰻の小骨で足を突いたの一變形である。「蟹に挾まれ云々」と云ふ例も、角力取の唄にあると南方氏は言はれた（郷土研究三卷二一三頁）。やはり亦配合の奇拔を笑ひ興じたものであらうが、それにしては遙か隔たつた地方に西行と蟹との贈答の歌が傳はつて居るのが奇妙である（同四卷三七一頁）。蟹は狂言の蟹山伏を始として、?々旅僧などゝ交渉のあつた注意すべき動物である。

　「西郷隆盛」の迷惑千萬な混同の結果であつたことは此で明らかになつたが、些細な俗間の言辭にも辿れば辿らるゝ意味のあるものだと云ふことは、まだ此上にも立證し得られるのである。巫女考の筆者に取つては、「むかふ通るは姉さんか」と言ふ一句は甚だ重要である。前掲の木遣歌では「向の茶屋へとかけつけて」と無造作に遣つて居るが、更に他の一篇には又こんなのもある。

　　さて西行のぼーさんが　始めて東へ下るとき　熱田の宮にて腰を掛け　かほど涼しき此宮を　熱田の宮と誰が言うた　そこで神主の言ふことにや　西行とは西へ行くと書くのに　あづま下りとはこれ如何に　アーエンヤノエーン

　此類の口合ひは今もよく人の座興にする所謂難題問答である。「一羽の鳥でもにはとりとは是如何に」などの「是如何に」で、別に珍しくも有難くも何とも無いが、自分の奇とするのは其へ西行法師の突如として現はれ來ることである。尚言はゞ場所が熱田の社頭で相手の神官であつたことである。而して右の如き問答の話は至つて古い。前にも擧(320)げたことのある藤原基俊と村の小兒との應酬の如きは（郷土研究一卷二〇九頁）僅かに其一例で、昔から傳はつて居る少し奇拔な連歌は、多くは童子婦人輩の頓智めいた駄洒落が、思ひがけず名匠を驚かしたと云ふに皆一致して居る。然らばかの落語者流のもて扱ふ蒟蒻問答《こんにやくもんだふ》の笑話の如きも、言はゞ時代の好尚に隨つて潤飾を受けたと云ふ迄で、其起原に於ては決して偶發のもので無いと見て宜しい。

　謠曲の白樂天などは此上に又一趣向あつて、かの蟻通《ありどほし》明神の故事、乃至は此が前型を爲す古代支那の小説と同じく、敵國から智慧を試みに來ると云ふ排外的感情を加味しては居るが、而も歌を詠んだ舟人實は歌の神の化身なることは知る由も無く、賤夫すら此の如しと大いに畏敬の念を起し引返して了つたと云ふ點は、例の諸國の西行戻りの口碑から筋を引いて居る。所謂西行法師閉口の歌は曾て本誌上の人望ある題目であつた（同一卷五二・一六〇頁等）。正直の所此等の歌はちつとも感吟に値するものでは無いやうであるが、唯面白いと思ふのは何故に斯く弘く西行法師の話が分布したかと云ふことで、其點から見れば方言を列ねた陳紛漢粉《ちんぷんかんぷん》も、山の蛤や鰻の小骨と共に田舍相應の意味がある。殊に婦人が綿を携へて行くのを見て「其綿は賣るか」と聞くと、殆と待ち設けて居たやうに、「何々の川の瀬に住む鮎にこそうるか〔三字傍点〕と云へる綿はありけれ」と答へて喫驚させたと云ふ例は（同四卷一九六頁）、最も多く東西の各地に流布して居るが、地口としてもつまらず西行としても餘計な話で、根つから感心せぬ遭遇であつた。併し此話の尤もらしさは別に存するので、場所が大きな川の附近であつたことゝ、女が綿を持つて居たことゝは、事によると「うるか」の洒落よりも以前から、土地の人に或觀念を與ふべきものであつたのかも知れぬ（同二卷六〇二頁參照）。

　自分は先づ西行戻りの古跡と云ふ地形を比較して見る必要を感ずる。山中翁も報ぜられた甲州の西行坂は（同一卷五二頁）、最近に見て來たから知つて居る。即ち富士川の右岸駿河境に近く、萬澤《まんざ》の宿からすぐ次の峠で、南麓に西行と云ふ小部落もある。此地で歌を聞いて閉口して引返したさうですと、地方の青年の口から現に聽取つた。陸前赤沼の長老坂は鹽竈から松島へ行く陸路である。此坂に西行歸りと稱して松の老木があつたのは古いことで、觀迹聞老志(321)には退漢松と云ふ無理な漢字を宛てゝ、其を「さいぎやうもどし」と讀ませて居る（地名辭書）。西行名吟を得て自得の折柄、山王權現牧童と化現して一首を以て應酬し此僧を愕かした。路傍の松は其舊跡であると云ふ（鹽松勝概下）。松樹はつき〔二字傍点〕が無いやうであるが他にも例がある。鎌倉から片瀬へ行く路の右手には西行見返の松と云ふがあつた。但し此松では西行此處に於て都の方を見返り、松の枝をそちらへねぢ向けたので、永く其枝葉が西南に指して居り、一名を戻松《ねぢまつ》と謂うたとあるのみである（新編鎌倉志六）。越後西蒲原郡｜國上《くがみ》村にあつたのは西行の戻石である。昔西行が國上寺に詣でんとして此石に腰を懸けて休んで居ると（郷土研究三卷七一一頁以下參照）、八九歳の里の童等、蕨を採りに山に登らんとするので、戯れにわらび〔三字傍点〕で手を燒くなと言ふと、一人の小兒進み出でゝ、御僧はひのき〔三字傍点〕笠で頭を燒きたまふなと答へたので、閉口の上早々立返つたと云ふ（温故之栞十七）。伊賀の木遣歌と内容が同じで、而も亦法師と賢しい童兒との問答と云ふ一定の型の中に入つて居る。

　越後國上村の故跡も、往つては見ぬが坂路の口であるらしい。此外に西行の口碑を傳へて居る地には水邊が多い。「清水流るゝ柳蔭」の歌を詠んだと云ふ場所は諸國に在つて、時としては遊行柳の傳説と混伺して居る。下總印旛郡なども、土地の偏僻に似ずやはり西行上人の遺趾を以て誇つて居る村落が多い。其中でも同郡和田村大字下勝田の勝間田池などは、丘陵が三たび起伏して三處の谷田《やつだ》を作り、其間に此池がある。斯かる處に池のあるのは珍しいと西行が尋ねて來たと傳へ、今も其池には二股の葦が生える由（印旛郡誌）。埒も無い話のやうではあるが、勝間田池の蓮と云ふ歌が萬葉集にもあつて、今の人には了解し難い昔の歌の謎であるから、其と同じ名が附いたからは是亦西行が來て驚いたと云ふ説にはふさはしいのである。伊勢には此僧の故跡と云ふ話が殊に多い。就中｜雲出川《くもづがは》の岸邊に於て語り傳へらるゝものは、越後のわらび〔三字傍点〕問答と殆と符節を合するが如き連歌談である。西行法師｜垂水《たるみ》の成就寺に參詣する路で、此川の邊で小童の傍の木にかき登るを見て、「さる兒と見るより早く木に登る」と言ふと童兒取敢へず「犬のやうなる法師來れば」と下の句を附けたと云ふ（伊勢參宮名所圖會插畫）。垂水の成就寺は津の城下の南に當つて近く、川か(322)らは若干の距離がある。然るに特に此寺へ參る路でと言ひ傳へて居るのは必ず仔細があらう。それは越後の國上寺も同じことで、つまり此の如き口碑を發生せしめた或事件に、最初から其寺又は社が關與して居た結果と見るの他は無い。

　山城名勝志二十一の名所未勘の部に、枕草子に「橋は歌しめの橋」とあるを擧げで、「按ずるに嵯峨天龍寺法界門の傍に小川あり土橋を架す、土人歌つめの橋と呼ぶ、疑ふらくは此橋にや」とある。京羽二重一名橋の部にも「歌詰橋《うたつめのはし》嵯峨天龍寺法界門の邊なり」として此橋を掲げ、「西行法師狂歌の贈答よりしてかく名づけし、所の人に尋ぬべし」とある。山州名跡志九の説は更に詳細で、昔西行法師此處を過ぎて童子に逢ひ、詠歌贈答して終に負けた故に歌詰橋と謂ふとも云ひ、又或は歌つめは實は歌女橋で、昔此橋畔に酒家あり、西行來り憩ふ時内より女が出たので、「つぼの内にほひ來にけり梅の花まつさけひとつ春のしるしに」と云ふ如何にも歌人らしからぬへぼ〔二字傍点〕歌を詠むと、之を聞いて主婦の返歌に、「つぼの内にほひし花はうつろひてかすみそ殘る春のしるしに」と云ふ最も田舍臭い歌を詠んだと云ふ一異傳を併せ録し、「信用し難しと雖古より之を稱する也」と斷つて居る。此等の歌は何れも西行に取つては有難迷惑な後作に相違ないが、察する所歌の故跡と云ふからは肝腎の歌が無くては話にならぬ故に、無細工な口網の諸持をやつたので、言はゞ狂言の山伏どもが呪文に事を缺いて、「いろはにほへと」だの「むざとした三尺ばかりの黒い巾」などと唱へるのと同じであらう。然らばその西行法師までを引合ひに出さねばならなんだ歌の問答とは何であつたか。自分は之を以て昔の人が峠の口又は橋の詰に於て歌占《うたうら》を聞いた風習の痕跡と見て居る（郷土研究四卷二〇六頁參照）。此式にも亦多くの卜方と同じく、子良と子良父との老少二人を要したのを、歌と云ふからに西行と童兒若しくは宗祇と婦人と云ふやうに語り傳ふるに至つたので、其婦人を橋本に酒を賣る女としたのも、かの西行と江口の君若しくは性空と室津の遊女、或は亦法然上人に濟度せられたと云ふ娼婦の談などと同系のものと見ねばならぬと思ふ（同四卷三三三頁參照）。「歌しめ」と云ふ橋の名は枕草子の外に散木集の歌の中にもあると云ふが、それも亦歌占の橋の讀み誤(323)りか又は轉稱であつたのかも知れぬ。

　歌の橋と云ふ橋は亦鎌倉にもあつた。荏柄天神社《えがらのてんじんしや》の前の往來に架かり、鎌倉十橋の一つである。澁川六郎兼守と云ふ者罪を得て刑せられんとする時、十首の和歌を詠じて此社に奉納し、實朝其奇篤にめでゝ罪を赦しければ、神�ｺを謝せんが爲に此橋を造立したと云ふ話がある（鎌倉攬勝考一）。此とは別に佐介ヶ谷から流れ出る小川に渡した西行橋と云ふ橋もあつた。天狗堂の東の方である。或は其昔此地に於て罪法を行つた故に裁許橋《さいきよばし》と稱へたのが、土人の訛から西行橋と轉じたのだらうとの説もあるが（同上）、それも至つての臆測である上に、俗間には西行鎌倉に來つて此橋上に踟?した故に名づくとの言ひ傳へもあり、而も此地へ西行の來たことは、吾妻鏡にもあつて有名な話である（新編鎌倉志五）。西行が鶴岡の八幡で頼朝と逢つたと云ふのは文治二年八月十五日のことである。「老僧一人鳥居の邊を徘徊す、之を恠みて景季を以て名字を問はしめ給ふの處、佐藤兵衛尉憲清法師なり、今は西行と號す云々」とある。但し其鳥居に近いと云ふ此橋も渡つたか知らぬが、それが永く橋の名となるには別に強い理由がなくてはならぬ。殊に後世のおまけ〔三字傍点〕として傳へて居る銀の猫の話の如きは、考へて見れば見るほど由來が不思議である。何しにそんな物を頼朝が持つて居り又旅僧に布施する氣になつたと云ふか。之を門前に遊ぶ小兒に與へたとある其小兒が、やはり亦例の西行橋畔の童子の亞流であつたと見るに非ざれば作り話としても説明が出來ぬ。

　西行橋の元の名が裁許橋であつたと云ふことは、必ずしも一笑に付し去るわけには行かぬ。事によると橋占に由つて吉凶を判ずることを裁許と謂ひ、共と廻國の僧徒と云ふことゝ歌の文句と云ふことゝの三つが合體して、西行上人の傳説は起つたのかも知れぬ。尾州熱田に近い精進川《しやうじがは》の橋なども、古くから裁斷橋《さいだんばし》と唱へて居た。後に其傍に在る姥堂の正體を三途河の婆などゝ謂ひ、地獄の出張裁判所でもあるかの如く解せらるゝに至つたが、精進川のシヤウジは實は障神で、境の神を祭る川と云ふ迄の名であつたらしい。橋の名に橋占の舊習俗を示すものゝ多いことは、前に細語橋《さゝやきのはし》の條にも之を述べて置いた（郷土研究二卷六〇二頁以下）。面影橋委不見橋も亦此例であるらしい。あさみづ〔四字傍点〕の橋に(324)も似たる話の傳はつて居るのを見ると、轟の橋と云ふにも此意味があるのかも知れぬ。猶試みに其類を擧げて見ると、一は無明の橋と云ふ名である。高野山にもあれば又筑前の竈門山《かまどやま》にもあり、殊に後者には稚子落しの名と縁結びの俗信とを伴つて居り、傳教大師行法の處と傳へて居る（竈門山記）。第二には思案橋と云ふ橋の名である。長崎では濱の町通りから丸山へ行く突當りに思切り橋と竝び（新々長崎土産）、沖繩では那覇の渡地の前面に昔あつて（琉球國舊記）、往々にして遊里に近い地名である爲に、或は道樂者の思案橋なるが如く考へる人もあるか知らぬが、大阪では東横堀川の大川から四つ目の橋に此名あり（攝陽群談七）、伊勢では四日市の大通りにも思案橋がある（三國地志十八）。下總｜猿島《さしま》郡勝鹿村大字大堤字思案橋にあるものは長さ三間半の木の橋で、白拍子靜義經の跡を慕うて此處まで來り、同氏戰死すと聞いて低徊思案し、終に京師に歸つたので土人之を思案橋と呼ぶに至つたと云ふ（茨城名勝誌）。靜御前の舞衣と云ふ物は、隣村新郷村大字中田の寺にある。奧州下向の往還であるからは、此樣な傳説の發生したのもさ迄不自然では無いやうだ。但し右の話は是非共富士の麓に在ると云ふ虎御前のがつかり〔四字傍点〕橋（郷土研究四卷二八一頁）と考へ合すべきものである。奧州では鹽竈神社の西南十一町に亦思案橋がある。西行法師此地を過ぎて橋の名を問ひ、因つて紅葉の錦を踐むに忍びぬと云ふ和歌を詠んだと云ふ。此橋一名を安倍待橋とも云ふ。安倍宗任捕へられて西に上るや、其妻之を追躡して及ばず、橋上に立つて涙を流したに由つて此名があると傳へて居る（鹽松勝概上）。此等の橋の名の由來が、假令美女の哀なる戀物語を以て全幅を粧ふて居るにしても、やはり亦西行戻りの橋占の習俗に歸著することは略々確かである。而して其「戻り」と云ふ語が橋占と縁ある事は、京の一條戻橋が之を證して居る。京都でも此橋程事件の多かつた橋は珍しい。安倍晴明天文の淵源を極め能く十二神將を使役したが、其妻職神の貌を畏るゝに由り呪を以て之を此橋の下に伏せて置き、用事ある時だけ喚んで使つたと云ふこと、古く今昔物語の中に見え、治承二年中宮御難産の時、其母二位殿車を此橋の詰に立てゝ占を問ひしことは、盛衰記に長々と之を辨じ、既に人の知り拔いて居ることであるが、其他にも惠心僧都西方往生の得否を此橋に占ふこと念佛三心要集に見え、西山上人の母我子の(325)出家を此橋に占ふこと證空傳記に載せられてある（山州名跡志十七）。此橋の事は又撰集抄にもあると云ふから（扶桑記勝二）、何か西行と關係があるか知らぬが、自分はまだ彼本を見ぬから知らぬ。後世に及んでは例の羅城門の古戰場までも此橋へ取つて來ようと試みた者があるのは、何かよく／＼の由緒と思はれる。古來存する説明では、淨藏貴所其父三善清行の死したるを此橋に?り、之を蘇生せしめたによつて世人戻橋と名づけたと云ふので（和漢故事要訣六）、或は「いづくにも歸るさまのみ渡ればや戻り橋とは人の言ふらん」と云ふ歌などをこしらへて解説せんとした人もあるが、還ることを戻ると謂うたのは實は甚しく後世のことで、橋の名の當初の意味は、新撰字鏡に蹉?と書いて「むとる」と訓んだ如く、「もとほる」即ち低徊踟?する場所と云ふことで、或は行人の自からなる語言を聽き、或は特に專門の口寄と伺《うかゞ》ひ人《て》（郷土研究二卷四五頁參照）とを頼んで行くなど、何れは普通の橋の如くさつさ〔三字傍点〕と通つて了はぬ所から出た名目であらうと思ふ。

　支那でも古くから橋邊の卜と云ふことがある。賣卜者が橋の袂の柳の陰などに出て居ることは、我邦近世の社會にも珍しい現象では無かつた。橋と占との因縁にはよほど根柢の深いものがあるやうに思ふ。安倍晴明から聯想し得ることは、上人などとも呼ばれた所謂聖坊主が、勸進に由つて橋を架けた事實である。是は宇治橋の道昭以來佛家功�ｺの大なる一つに算へられて居たが、後世又稍々之に依つて衣食する者を生じたこと、恰も現代各種の公益事業などゝ古今同調であつた。而して其聖等が橋の袂に假住をして先づ往來の人に勸進したのは自然のことであるから、彼等が童兒婦女を引連れて橋占の依頼にも應じたことは想像が出來る。之に就いて終に一言を費したいことは、京都で最も有名なる勸進橋は五條橋であるが、此橋には武藏坊辨慶と牛若丸との話が面白く語り傳へられて居る。嘘なら丸嘘と片付けてしまつてもよいやうであるが、此も西行橋系統のものでは無からうかと思ふ仔細は、大和吉野郡中荘村大字宮瀧に今も存するうたゝね〔四字傍点〕の橋の故事來歴である。此橋は北山街道の岐路に架けた橋で、傍に一の社がある。義經辨慶の主從二人此地を通行するに際して、暫く此橋の上に休息して義經は轉寢をせられた。それ故に此名があるのだと(326)上市の車夫が教へてくれた。如何に名士でも轉寢をした位で故跡を造ることは大相だと思つて居ると、奧州にも亦其例がある。磐城西白河郡大沼村大字大沼の轉寢の森は、昔は蓊鬱たる森であつたと云ふが、今は田圃の間に杉と櫻の二三の老木を見るばかりである。八幡太郎義家遠征の途次、此地に憩ひて轉寢をした舊蹟と云ふことになつて居る（福島縣地誌）。此地恐らくは古の白河で、前に列記した多くの橋占の地の如く、此も亦官道に沿うて居たらしく、「陸奧の轉寢の森の橋絶えて稻負せ鳥も通はざりけり」と云ふ歌なども傳はり（地名辭書引、白河往昔記）、やはり昔は橋があつたことを示して居る。而して今も其地に齋《いつ》かれて居る神社は、いつもこの源氏の若大將と關係の深い八幡宮、其申兒である故に八幡太郎と稱したとも傳へられて居る神樣である。そこで自分の解釋するうたゝねの橋は、神の仲語《なかがたり》を職とする童兒をつれて來て催眠術を施した橋の意味で、五條橋上の武藏坊は即ち亦西行橋の西行法師の一變形かと思ふのである。

　

(327)　　細語の橋

　

　遠藤冬花君の報ぜられた阿波の綿打橋の口碑は（郷土研究二卷五六四頁）、色々の點から見て趣味の多い話である。先づ第一に爰に謂ふ綿打屋は只の旅人では無さゝうだ（同二卷四五八頁參照）。人柱に築込まれたと云ふ人の、特殊の職業に從事する旅の者であるのは何か意味があるらしいと云ふことは、前にも少しく述べで置いたが（同一卷六四三頁）、更に右の綿打橋に就いて注意すべきは、朝一番に通つた者を捉へて人柱に立てたと云ふことである。此話は形を變へて諸國の舊社の祭典の儀式に付ても折々言ひ傳へて居る。例へば尾張の眞清田宮《ますたのみや》、大和の龍田社《たつたのやしろ》などに於て、祭の日に限り旅人を捉へて人の嫌がる神役を宛てたと云ふことは、必ずしも傳説では無く、二百年ばかり前までは形式的にでも實行して居たやうに見える。其場合にもやはり何の刻にどつちから通る人と云ふやうに、自ら豫定した約束があつたのである。殊には朝の一番に過ぐる者と云ふのは最も簡單にして而も由來する所がある。催馬樂の曲にも見えたる越前｜淺水《あさみづ》の橋は、恐らくは泰澄大師の故郷と稱する丹生郡の麻生津《あさふづ》のことで、今も此名の川を渡る津梁の地であれば、地名の理由も略々推測し得るにも拘らず、他の國に之によく似た橋の名があつて、奇恠なる傳説を伴つて居るのは、或はかの「とゞろとんどろと」の歌の異《こと》やうにして且つ有名であつた爲ではあるまいか。其一つは飛騨益田郡｜小坂《をさか》の町に於て、益田川に架けられたる朝六つの橋である。枕草子に「橋はあさむつのはし云々」とあるのを、土地の人は勿論此橋のことだと主張し、東遊記の傳ふる所に從へば、その橋の名の由來は、如何なる闇の夜と雖も此橋の處のみは微明にして恰も朝の六つ時ほどの明るさである故で、多分は橋の下の水底に名玉があるからだらうと云ふ。四(328)五年前に自分の見た時は、樹木の間からペンキ塗の白々とした當世風の橋が、尚且つ昔の俗信を擁護せんと志せるかの如く望まれた。併し此説明は甚しく粗造である。次には青森縣｜三戸《さんのへ》郡淺田村大字淺水の朝不見の橋、爰には安達原淺茅原などの一つ家石の枕と同じ話のあつたこと、眞澄の遊覽記其他の書に見えて居る。前夜來て宿を借りた旅人が、朝は其姿を見せなかつたとこじつけたものである。此等の話は一見何の聯絡も無く、單に橋には色々な傳説を伴ふものだと云ふことを感ぜしむるのみのやうであるが、自分は猶綜合と比較とを以て何か貴重なる文明史の史料を發見し得るの望みを抱いて居る。就いては考の中へ入れねばならぬのは桃水子の小説でちと有名になつた例の淀橋町の姿不見橋《すがたみずばし》である（郷土研究一卷六三九頁參照）。此橋古來の傳説では、中野長者寶埋めに往つて歸りに秘密を知つた下男を殺したと云ふので、姿と云ふのも似合はしからぬ下郎の屍骸を隱した場處だと云ふのである。山中笑翁の考では、姿不見橋の近くに姿見橋もあつてスガ又はスガタとは此邊遠淺の入江であつた時代の沙洲のことだらうと言ふのだが、それが橋の名になる程當時の人に重きを置かれたとは認めにくい。次には高田と雜司谷との間に在る面影橋、是も新宿北裏あたりの遊冶郎が板橋通ひの歸り途に、ふつと相方の笑顔を思ひ出す場所などと云ふ察しの良い説明も聞いたが、田の中の一つ橋としては此艶話は少々縁が遠い。自分は是も淀橋と同樣にかなり重要な通路らしい故に、姿不見と一括して問題にしようと思ふ。それから愈々本題のサヽヤキの橋である。和訓栞に曰く、さゝやきの橋は奧州白川の邊｜瀬上《せのうへ》に在り、故事ありと云ふと。この「白川の邊」は多分誤りで、今の岩代｜信夫《しのぶ》郡瀬上村のことであらう。摺神《するかみ》と阿武隈《あぶくま》との川合に近き要津で、古くから遊女も居た。其故事ありと云ふのは彼地方の讀者の示教を待つ。貝原翁の扶桑記勝卷二に、山城男山八幡、本社樓門の東、寶塔の前に細語《さゝやき》の橋あり、古歌ありとあつて其古歌は載せず。又同書卷六備後の部に、?語《さゝやき》の橋、鞆《とも》に在り、小川に渡せる橋なりとある。駒津の密語《さゝやき》の橋のことは、近頃出た沼名前《ぬなさき》神社由來記の附録に詳しく見えて居る。之に依ると橋は妙蓮寺の南に沿ひ曲れる角に渡した石橋である。昔鞆源左衛門と云ふ人買あり、往來の者を勾引《かどわか》し此橋に出逢ひつゝ密語して人を賣りければ橋の名となると云ふ。されど鞆源左衛(329)門正友は承久二年の宇治橋合戰に官軍に馳加はりし程の人なれば人買はすべき理無し。一説に中島源左衛門なる者古城山の乾《いぬゐ》に住み人買をしたる罪現はれ刑せらるとあるから、之と混じたのだらう云々。遊行上人の歌に、「知る知らず聲高くして渡る哉さゝやきの橋をさまれる世は」とあるのは、此古傳を認めたものらしいが、歌がまづいからいづれ何十何代の遊行上人なるべく、從つて史實たるの保證にはならぬ。又同じ書に、備後｜芦品《あしな》郡府中町にも亦一のさゝやきの橋ありと云ひ、能因の歌枕の中に「熊野なる音なし川に渡さばやさゝやきの橋しのび／＼に」とあるは、何れをさして云ふか定め難しとある。けれども「熊野なる」とあるでは無いか。即ち熊野本宮の參詣路にも亦一本の細語橋が架かつて居たのである。能因法師の歌は勿論詞の文《あや》を詮とした所謂戀歌であらうが、この又「しのび／＼」は淺水の橋は忍びて渡れどもとゞろ／＼と鳴ると、名所方角抄にあるのと同じく、此橋の俗信と何分の因縁のあることに違ひ無い。而して細語と云ふ橋の名から自分の導かんとする假定説は、以前此等の橋の上に出て行人の言語を聽いて占ふ風習があつた。即ち今日の辻占と云ふ語の起源である（郷土研究一卷二〇六頁參照）。さて其時刻は朝占《あさけ》夕占《ゆふけ》ともあつて、宵曉のかはたれ時の人通りも少なく源兵衛とも八兵衛とも分明せぬ頃合が用ゐられた。而して之に携はつた下級巫覡輩は愈々之を神秘にする爲に、色々の講釋を附加したことであらう。或は聲はして人影は見えぬと言つたり、或は又面影橋などと云ひつゝそつと仲間の者を廻して置くこと、松井源水の藥賣の如くであつたかも知れぬ。其爲に橋の傳説に比丘尼山伏などの忠告と云ふ一節があるので（同一卷六四二頁）、殺して打込んだの其怨靈だのと云ふ部分は、其又當時から既に存して居た古風な橋の神の信仰であつたのを、無造作に一串に突刺して、竪に見るから一つゞきの物語のやうに見える。斯かる時代の混同は何れの民族にもある例で、日本の學者のやうに傳説に絶望してしまふのも、元はととへば構成が此通り複雜で解剖に骨が折れるからである。

　

(331)　　毛坊主考

　

(333)　飛騨の莊川《しやうかは》の谷は上流よりも下流の方が深い山家である。上流には車力の通ふ縣道が開かれ、僅かの峠で美濃へ越えられるのに、川下へ向ふ左岸の路は次第に細くなり、家の建て方も益々異樣に見えて來る。白川村の口元には大家族を以て有名なる御母衣《みぼろ》平瀬《ひらせ》などの部落がある。それから越中の五箇《ごか》山まで只々穴の中ゝへ入り込むやうな感じである。先年自分は梅雨の頃に此村を旅行した。上流ではまだ藤《ふぢ》躑躅《つゝじ》の花盛りであつたが、白川の方は流石《さすが》川下だけに谷うつぎ〔三字傍点〕芍藥などの季節の花が咲いて居る。樅《もみ》つが〔二字傍点〕の自然林が何時と無く姫小松と代り、それから赤松の赭《あか》いのが山川の景色を彩るやうになる。併し兩側の山は依然たる狹いホキで、鳩谷荻町の小盆地を除く外は二十戸と纏まつた村里が無い。たしか國境に近い小白川と云ふ大字《おほあざ》であつたかと思ふ。路傍の小家の縁に腰掛けて雨に沾《ぬ》れて侘しい辨當を食べながら、ふと薄暗い座敷の中を覗くと、此家不相應に大きな佛壇がきらりと光つて居る。此邊は眞宗の盛んな處だと聞いたが成程さうだと言ふと、道連の越中の人が、おまけに此家は御寺です、上を御覽なさいと云ふ。今迄氣が附かなかつたが縁側の天井には正しく徑尺七八寸の釣鐘が釣つてある。それから住職もそこに働いて居た。萬筋の單物か何かで雨の中をどこへか厩肥《うまやごえ》を運んで居る。根つから愛相の無い男だ。そして少しも坊主らしくない。頭には我々よりも長い毛が生えて居る。自分ははゝあ此が例の毛坊主だなと思つた。併し其想像は當つて居たかどうか、今以てわからない。

　本朝俗諺志卷四に曰く、飛騨の山中に毛坊主と云ふあり。農業｜木樵《きこり》を爲すこと常の百姓竝なり。遙かの奧山にて出家などは無き處なり。人死したるときは此毛坊主を頼みて弔ふなり。代々讓りの袈裟を掛け鉦打鳴し經念佛してとぶらふこと也。俗人にて坊主の役をする故かく名づけたるなり。此家は代々あり。常の百姓よりは一階劣り縁組などはせぬこと也。本尊は多くは大津繪の十三佛なり。小さき石地藏もありと云へり（　　　以上）。俗諺志は又聞を面白く書いた本で多分の信用は拂ひにくい者であるから、本尊の記事などの自分の見た所と違つた點があつても氣にするには及ば(334)ぬ。笈埃《きふあい》隨筆の説に至つては此よりも一層詳しく且つ確かであるらしい。同書卷二飛騨里の條に、當國に毛坊主とて俗人でありながら村に死亡の者あれば導師となりて弔ふなり。譯知らぬ者は常の百姓よりは一階劣りて縁組などせずと云へるは僻事《ひがごと》なり。此者ども何れの村にでも筋目ある長《をさ》百姓として、田畑の高を持ち、俗人とは云へど出家の役を勤むる身なれば、豫め學問もし經文をも讀み、形?物體筆算までも備らざれば人も歸伏せず勤まり難し。則ち同國三河野村左衛門四郎、種藏村平右衛門、打保《うつぼ》村孫總、又尾上村稱名寺、平瀬村常�ｺ寺、中野村光輸寺、牛尾村蓮勝寺等なり。右の四箇寺は中頃より東本願寺末派として寺號を呼ぶと雖も、住持は皆俗人にして別名あり。初の三人は寺號無ければ何右衛門寺又は何太夫寺と稱し、同じく亡者の弔ひ祖先の齋《とき》非時《ひじ》をつとむ。居宅の樣子門の構《かまへ》寺院に變ることなし。葬禮齋非時には麻上下を着して導師の勤を爲し、平僧に准じて野郎頭にて亡者を取置するは、片鄙《へんぴ》ながらいと珍らし。是れ深山幽谷にし六七里の間に寺院無く道義高�ｺの出家なければ、往古より此の如く致し來りしと覺ゆ。若し兄弟あれば總領は名主問屋を勤役して弟は同居しながら寺役を爲せり。遠州三河美濃河内などにも毛坊主あるよし聞けり云々とある（以上）。右の七箇村の中、四箇村はまだ分らぬが、尾上平瀬中野は共に莊川の谷である。此類の山村に於て住民が御寺に不自由することは誠に我々が推察の外である。醫者が無ければ膏藥で間に合はせると云ふこともあるが、死んで後の救濟には越中富山の反魂丹に當る者が無い。ずつと昔は佛法にも一種のオイチニの如きものが有つたけれども、宗門改めや何かの關係から檀那寺が必要物になつて、山に住んでも無爲には死ぬことが出來ない。山中先生の仙梅日記に、駿州梅ヶ島の奧山里に於て、八月半の大水の中を人々助け合ひ鳶口長竿を持つて村内の葬式に赴くことを記し、水勢烈しき谷川に繩を張り棺を擔いで對岸の墓地に埋めたとあつて、僧侶來るにも非ず戒名のみは貰ひ來れり（以上）と見えて居る。自分が越前大野郡西ノ谷村の奧、上秋生と云ふ處で聞いたのにも、大雪の折から死人があるときは寺へも沙汰せずに先づ葬をすまし、雪消の後に至りて僧を招じ經などを讀んでもらふと云ふことであつた。今日の時勢ですら政府が信仰問題には世話を燒かぬから此通りである。況んや里の寺の乏しかつた三四百(335)年前の有樣を考へると、邊土の百姓は如何にして其靈界の需要を充たして居たかは疑問である。最初には只勝手氣儘に死んで往つたのかも知れない。併し生涯の罪の絆はどうにかして解いて死なねばならぬとなると、引導なり血脉なり兎に角三途川の通行手形を發行するだけの機關は、への字なりにも具へて置かなければならなかつた。そこで多くの毛坊主が移住し來り又は開業するの必要が起つたのである。

　塘雨《たうう》の笈の埃に遠參濃河等の國々に毛坊主ありと記したのは、果して事實であるか否かを知らぬが、自分は近江に於て其一例を知つて居る。鹽野義陣が淡海木間攫《たんかいこまさらへ》卷一に、今の犬上郡北青柳村大字長曾根に西本願寺派明照寺末の道場あり、毛坊主勝兵衛なる者之に住す。毛坊主と云ふは道場と名づけて村里に纔《わづ》かの佛場を設け住職の僧を置かず只村民の中にて守れる者の號なり。俗民にて佛場を守る故に此の如く唱へ來り候也とある（以上）。寺より小さい道場と云ふ建物は東西の本願寺派に今でも澤山置いて居る。北海道とか薩摩とかの明治の世になつて傳道を盛んにした地方には殊に多い。併し其番人は毛坊主などゝ云ふ下品な名は今は名乘らない。又必ずしも世襲でも無く農業片手でも無い。故に之を以て現代の道場の話と見られては困るが、少なくとも以前はそんな例があつた。飛州志卷七に曰く、此國は東西本願寺宗の寺坊多し。寺號或は坊號を稱する中に、其主俗體俗名にして法用を務め、村里に檀家の民あつて代々相續するを俗道場と云ふなり。或は毛坊主とも云へり。道場は宗旨の通稱なりと（以上）。此説に依れば毛坊主の住居は特に區別して俗道場と云ふべきもので、只の道場よりは一段と位の低かつたものと言ひ得る。併し其低いのは永久の?態では無かつた。俗道場が發達すれば寺となることは飛騨の例の示す通りである。中野の光輸寺などは今ではよい寺である。秋長夜話續々篇に地方の釣鐘の處々に移轉することを説く序に曰く、此國（安藝國）は一向宗盛んにして郡中村々一向門徒に非ざるは無し。元來は村々に寺あることなし。多くは佛護寺十二坊の門徒なり。其村所にて農民の僧形となりて勸化する者を手次坊主《てつぎばうず》と云ふ。一向宗に限りて古より此あり。蓮如上人の文章にも手次の坊主たちとは書かれし也。此手次坊主ども漸く村の用ゐを得て勢附き、後は堂をも建立し自ら寺のやうになりしより、取(336)次を頼み本願寺へ請ひて寺號木佛開山上人の畫像、太子七高僧代々門跡上人の影《えい》など申受けて一寺を創立する也。創立のことは他宗にては一向なり難きことなれども、本願寺門徒にては如何なる故かは知らねど殊の外に容易なり。一向宗の年を逐ひて盛んなるは是を以ての故なるべし。さる程に一寺建立の上にては、其第一の規模には巨鐘を懸くべし。凡て塔頭《たつちゆう》子院《しゐん》に巨鐘を懸くること能はず。故に巨鐘なきは一向宗にては殊に不規模とす云々とあつて（以上）、廣島市外白神大明神の古い鐘を、下深川《しもふかは》村の善�ｺ寺で買取つた話が出て居る。事實上の毛坊主が分布のあまり狹いもので無かつた一の證據である。

　尤も毛と妻子のある者が寺の地に居住することは決して一向宗ばかりの事例でも無く、其寺は又決して俗道場の毛の生えたものばかりでも無い。例へば自分が?々訪問した武藏南埼玉郡慈恩寺村大字慈恩寺などは、村の寺慈恩寺の中世の記録には子院九十八坊とあつて、今でも村の屋敷の數がそれだけある。一々の屋敷は一々の寺跡で何れも農民が住んで居る。出雲八束郡川津村字上川津には、古は惠下寺《ゑげじ》と稱して多賀備中守の菩提所があつたが、今は釋迦の像ある辻堂のみとなつて、寺中は悉く百姓屋敷に變じてしまつた（雲陽志）。佐渡の相川は銀山衰へて後廢寺が多かつた。此國長安寺などにも多數の脇坊あり、慶長四年の古文書には猶多くの坊の名が見えて居る。然るに近世は皆農家となつて、小さき家毎に大なる本尊をいかめしく置いたのは甚だ殊樣《ことやう》であつた（佐渡志卷三）。此等の寺跡に居住する者は勿論由緒を尋ねたら所謂寺百姓の末に相違ない。寺の本主が退轉して法類が之を兼攝し、而も限ある所得は失ふまいとする所から、所屬の農民に其敷地を宛行《あてが》つた。敷地と云ふのは前にも言つた如く（郷土研究一卷三二頁）即ち一戸分の住民權である。割地の鬮《くじ》も水も薪秣も之に伴つて居て、百姓の幽かな生活には十分である。其百姓が段々獨立して終には普通の村と同じ形になつたのであらう。併し其百姓の所役が單に在家竝の年貢と出面《でめん》とに限られて居たとは速斷することが出來ぬ。本尊に仕へ地主神の祠《ほこら》を守り、乃至は其寺に附いた所の賽錢の少ない佛堂などに、佛餉《ぶつしやう》燈明《とうみやう》を供へる義務ぐらゐは負はされて居たであらう。而して其寺百姓と云ふのも本來只の百姓では無い。今で言へば執事(337)寺男の仕事を永く勤めて居た者であつて、妻子を抱へ本式の得度《とくど》をせぬと云ふ外には下級の僧と大した差別が無いのみならず、時としては前住職所縁の者を引込み、或は又末世無學の僧の零落して住み附いたのもあつたらしい。伊豫周桑郡千足山村の佛光山福智院横峰寺は、寺領の地八町四方、往古より當山所帶の寺百姓七戸あり。字古坊に二戸字惠に五戸、之を地下人《ぢげにん》と唱へ又｜家隷《けらい》と呼んだ。二つの字の土地は昔から右七家の者に分與へてある。若し之を沽却《こきやく》するときは寺百姓の外へは取遣相成らず、寺へ申出で住持聞濟の上賣買共に致し來る仕成の由とある（小松邑志卷四）。駿河志太郡大津村大字千葉山は、全村を擧げて千葉山智滿寺の寺地であつた。此寺古は大伽藍にして坊中百ヶ坊あつたと云ふが既に久しく頽廢して居る。前代よりの慣例として寺務は衆徒と共に之を執行ふ。其衆徒と云ふのは何れも此村の民家の者で、劫にして寺に入り剃髪して寺に勤仕し、十五歳にして一旦家に歸り農業を營み、年老いて又剃髪す。一村皆此の如し、世に之を千葉の三度坊主と稱すと云ふ（駿河志料卷十）。美作英田郡福本村字眞木山の二十二戸の部落は以前は凡て寺であつた。寛永の記録には二十五坊とある。而も東作誌の出た今から百年前には出家の數は僅か三人しかなかつた。此も表向は寺方であつて其屋敷に百姓を住ませ收入を計つたものらしい。尤も後には寺の領が村高の四分の一に減じ、其他は隣村の庄屋が支配をして居つた。美濃の郡上《ぐじやう》郡北濃村大字長瀧には今でも坊の名を呼ぶ民家が多い。長瀧寺繁昌の時代には三千の坊があつたと云ふが、明治の初年まで殘つて居たものは十數坊で、其内二坊を除いては皆世襲妻帶の坊主であつた。どうしても暮せなくなつて農專門に成り得ぬ坊主等は、屋敷と田畠を賣り又は貸して出てしまつた。三年前に自分が往つて見た時には、村役場も一つの坊を以て之に充てゝ居た。土地名寄帳を借りて見たら、多くの宅地の所有者の所に何々坊と書いてあつて、而も今の主は法師の後裔でも何でも無いと云つた。此等の寺は多くは眞宗の寺では無い。其主人等にそれ／＼然るべき理由があつて信仰には離れても寺の敷地には離れなかつたのである。昔の長者傳説などに家を獻じて寺と爲し長者夫婦剃髪して之に住むと云ふのがある。毛坊主などは先づは其方であるが、前に列擧した數例の如きは正しく其反對で、寺を奪つて俗人の家としたものである。(338)奪ふと云ふと語弊もあるが、當世の語でいふと權利があるのだから仕方が無い。蓋し寺に對する權利關係には古今若干の變遷があるかと思ふ。古い證文には僧俗の區別を問はず寺を讓ると云ふことがある。土地家屋と同樣に寺に附いた年々の所得を收める權利を移轉するのである。故に僧を罷《や》めたからとて其利益を捨てるには及ばない。維新の頃の諸國の山伏法印の徒も此の如くにして只の農民になつた。一向門徒にも之と似た例がある。三河｜聰視録《そうしろく》に依れば、三河額田郡岡崎町大字｜缺《かけ》の淨泉寺は、眞宗高田派の末寺であるが近世は俗人が住んで居た。苗字は柏原で氏は藤原である。其系圖を見ると、正安二年に死んだ空信より寛文七年に死んだ幸信まで、三百六十餘年の間は法師とある。幸信の子を越中清信と呼び其子孫が俗人となつて寺に居たのである。右の通名の信の字は名乘のノブでは無く法名のシンであることは疑がない。本願寺の第二世の如信、古くは賀古の教信など、信の字を附けることは念佛者流の流行であつたから、越中清信も果してキヨノブと呼んだか否かは問題である。斯うなつて來ると俗人と僧侶との區別が殆と立てにくゝなるやうに感ぜられる。所謂俗人の間では頭に毛の無いのを先づは坊主と呼んで居る。それも男が髪を結はなくなつてからは、五分苅などゝ無性な和尚の頭とは一寸見分が附かぬ。のみならず昔の代にもチヨン髷姿の毛坊主があつた。寺に居るから僧だとも極められず、妻子があるから俗人だとも勿論推測し得ぬのである。今でこそ僧侶が税も納め兵役にも取られるが、昔はそんな義務は一切無かつた。即ち身分の利害に大關係のあつた區別である。是非とも何かの標準が無くてはかなはぬ。度牒は官給の制度が儼然として存して居た時代でも、人民の側から見れば僧と俗との差別は必ずしもその有無では無かつた。況んや之を各宗派の自由に任せてしまつてから後と云ふものは、本寺毎に寛嚴の差があつて誠に一定の標準とはしにくかつたやうである。のみならず事實上の僧徒即ち未度《みと》の沙彌が何れの世にも甚しく多かつた。村に住む者の必要から言ふと、丸々僧の居らぬよりは贋物でも未成品でも葬禮法事の節僅かの經の讀める者が居た方がよろしい。此の如くにして田舍に於ける僧と云ふ者の定義は昔から朝廷の標準と合はなかつたのである。次に考へねばならぬのは本尊の問題である。江戸時代に於ても在家に本尊を安置してはならぬと云(339)ふ法令があつた。此は固より俗人が信徒を集合させては弊があるからで、寺で無ければ本尊を齋くことが出來ぬと云ふ昔の思想が久しく行はれて居たやうにもあるが、勿論此には多くの例外があつた。即ち人民が各自の護持佛に禮拜するのは家々の内の事であつて、近世の民家には必ず一箇の佛壇があつた。主人が若し篤信者ならば家の佛が内々の光を放つことは勢ひの自然である。佛壇の中尊は必ずしも掛軸畫像のことでは無かつた。それが木像又は金佛であつた場合に多分は大きさにでも法規の制限があつたかと思ふが其例を記憶せぬ。又戰亂時代の後には處々に本尊の不用な物があつて之を拾ひ上げて家に安置した者も隨分とあつた筈である。此等も寺と俗家との區別を不明にした一原因であらう。遠野古事記卷三に、陸中の彼地方の習慣を記して、古説に昔當所にて寺院無き村里の亡者を葬るに佛持の俗を頼み、所持の佛を棺の先に立て葬り候由申傳へ候。其佛は彌陀釋迦觀音聖�ｺ太子などの尊像なりと云へり。廢寺の本尊風雨に晒されて朽損するを、近所の世俗之を見るに忍びず、俗屋へ移し置きたる人の子孫を佛持と稱し來るか。當世寺院の中にも俗家に有り來る佛を本尊に安置せられ候もありと云ふ説ありと（以上）見えて居る。此等の事情を綜合すれば、名僧勸化の手の屆かぬ偏僻の田舍に於て、一方には有難い本尊佛を擁立し、他の一方には人民の精神上の要求に投ずれば、只の農夫でも相當の勢力を行ひ得たのである。ましてや家に歴代の由緒あり身には人を支配するだけの信仰又は智術があれば猶の事である。毛坊主の頭の穿鑿などは宗教發達史の研究としては或は不必要の業かも

知れぬ。

　

　　　　　　　念佛團體の變遷

　

　此は關東一般の風習だらうと思ふ。下總常陸などの村々では葬式のことをジヤンボと謂つて居る。ジヤンボは野邊(340)送りの行列に必ず缺くべからざる金屬樂器の音から出た語である。粗い騷々しいジヤンボンの響きであるが、畷路《なはてみち》の遠くから念佛の聲と共に聞えて來るときは、哀愁を催すものである。其低い調子の間にはカン／＼と云ふ鉦の音が交つて居て、胸を打つやうに感ぜらるゝ上に、其樂隊を組織する者は大抵腰の曲つた老翁老婆である。死んだ佛よりも年の多い人たちが、大勢出て來て此役を勤めて居るのを見ると、下手な説法よりも寂滅爲樂《じやくめつゐらく》の教がよく解る。法華宗ならどうするか知らぬ、我輩の熟知する地方では、眞言宗でも禅宗でも少しも區別なく、必ず此念佛團體が葬式に參列する習慣であつた。尤も此團體は決して葬儀に加はる爲ばかりに出來て居るものでは無い。言はゞ一種の老人倶樂部の如きもので、多くの村には昔から一づゝの念佛講がある。忰夫婦が相應の年配になつて家に格別用の無い年寄、配偶者が死んで急に淋しくなつた爺婆が酒を三升又は金を二圓ぐらゐ持つて其仲間へ入れて貰ふと、彼岸孟蘭盆寒念佛、其他活?有爲の念佛講に在つては年に何度とも無く集會がある。念佛の後で面白さうに物を食ひ酒を飲んで居るのをよく見かける。此連中を不幸のあつた家では招聘して來るのである。今日では半分は物好と半分は僅かの報酬との爲に出て來る乙種の役僧のやうになつてしまつて居るが、自分は之を以て百年以來の變遷であらうと思つて居る。

　我邦の埋葬風俗に關しては此迄誰も攷究を試みた人が無い。其方面の根本問題に至つては自分が未だ解説し得ざる所ではあるが、少なくも葬式と念佛講との關係は昔と今と大なる變化のあることゝ信じて居る。今日も門徒宗の盛んな地方では青年も少女も打連れて聽聞寺參りに出掛けるのを見ても想像し得べきが如く、以前の念佛講に於ては必ずしも用の無い村の老人ばかりが其講員では無かつたので、之に加入する利益は獨り精神上の慰安であつたのみならず、一朝家内に喪のある時にも、此團體に屬して居ると居らぬのとは大なる便益の差異があつた爲に、其必要からも此講は一村又は一部落を區域とした鞏固な組合であつたかと思ふ。申すまでも無く日本人は甚だしく死穢を忌んだ民族である。それが何時の時代よりか村を擧つて凶事には來り助ける風習を生じた。此には何か強い動機が無くてはならぬ。勿論郷黨鄰保の道�ｺが追々と成長したことも一の理由として宜しいが、主從の誼も無く血の續きも無い者が、穴掘湯(341)灌の世話までも手傳ひ、手傳はねば不義理者と誹らるゝに至つたのは、考へて見れば大きな思想上の變遷である。茲に於でか自分は空也上人又は一遍上人の徒の功績の隱れたる半面を景慕せずには居られぬのである。此派の末流が今でも語り傳へて居る所を聞けば、記録に十分な證跡こそは無いが、此間の消息は多少は窺ふことが出來る。即ち彼等の信者は功�ｺの爲に野外に棄てられたる人畜の屍を埋めてやつた。又はわざ／＼三昧處《さんまいじよ》に入込んで念佛をした。念佛宗と縁の深い或部落では埋葬に關する人の厭ふ職業にも從事した。此等は皆恐らくは此派の教義の最も具體的なる部分であつて、此あるが爲に年に一度も上人の影を拜し得ぬ農村までが、永く團體の結合を鞏固にして其遺�ｺを仰いだのであらう。近頃は東京などでは棺を馬車に載せて火葬場へ飛んで行き、又は會葬者は式場に來て待つて居り、近親の者のみが小さい行列で送るやうになつたが、田舍では依然として常は御無沙汰の連中までが、遣つて來て飯を食ひ、それから一同棺の後から附いて行くことにきめて居るのは、言はゞ昔のジヤンボ團體の痕跡であつて、少なくも死人の家に出入することを何とも思はぬやうになつた一の動機は、平人に在つては彼の念佛｜同行《どうぎやう》の共同救濟法が之を作つたものであらう。

　さて觸穢《しよくゑ》の忌の最初の理由は、後世何と之を説明したとしても、要するに亡靈に對する怖畏であることは疑が無い。人間は生前如何程善人であつても、死んだ後は此世の者に向つて有害な計畫ばかりする。故に人々は戒慎して幽顯の境域を守護し、亡靈が平穩なる邑落又は民家等に入込まぬやうにせねばならぬ。是れが各民族を通じての殆と例外なき迷信であつた。我邦中世の御靈信仰に於ては、死者の中でも災害劔戟等の爲に血氣盛んな年輩で死んだ人の靈を、殊に強力なる神として畏れた。最早之を單なる害敵として見ることが出來ず、神として之に哀請せねばならぬ迄に畏れた。疫病風雨稻の蟲の災までも皆御靈の爲す所として居つた。從つて凶歉《きやうけん》又は兵亂に因つて多人數が一時に死んだ場合などの人心の動搖は烈しいものであつた。念佛界の偉人たちは勿論其機會を利用することを忘れて居らぬ、と言ふよりは方便を以て此怖畏を救うたと言ふ方が當つて居るであらう。即ち念佛の功�ｺは能く此等の亡靈を導いて遠い(342)淨土に安頓せしめ、最早｜閻浮《えんぶ》の故里などの事を其念頭に置かしめない。故に娑婆には御靈に起因する災厄が無くなると斯う云ふ理窟である。甚深なる教理は農夫には先づ用が無い。凡眼に映じたる念佛の利益はつまり右の自他兩面の濟度であつて、而も近世國學家の罵倒にも拘らず我々が佛教の日本文明に貢獻したと認める最も重要な點も此にあるのである。此功績を表彰するに似つかはしい記念物として、今日到る處の田舍に殘つて居る者は多くの念佛塚である。此は亡靈の爲に土塔を建立するの趣旨であつたか、或は又以前塚在る所に就いて念佛をする風があつたのから轉じたのか、何かは知らぬが定期又臨時の大念佛を行ふと必ず新たに一箇の塚を築くことが、殊に關東奧羽の此頃までの風であつた。多くの念佛塚の歴史は今でも之を活歴した老人の生存して居る所がある。どう云ふ心持で塚を築いたか、今聞いて置かぬと分らぬまゝになつてしまふであらうと思ふ。東國一般の念佛團體もやがて遠からず痕跡も無くなることであらう。近來久しく往つても見ないが、東京でも彼岸の六阿彌陀詣の時に、田端の與樂寺《よらくじ》から北の村々の寺に參つて見ると、路の側に藁筵を敷いて櫻の散る下で終日カン／＼と鉦を鳴して居る老男老女が多かつた。それが決してどうぞや御旦那の亞流では無く、皆其近所の農家の樂隱居たちで、別に此と云ふ趣意も無かつたか知らぬが、所謂カストムの促迫に因つて斯んな眞似をしたものである。自分は之を見ると常に考へた。此婆の十何代か前ぐらゐの婆が、梅若丸の非業の死を笑止がつて、彼の謠曲隅田川に所謂、「のうあの向ひの柳の本に人の多く集りて候は何事にて候ぞ、さん候あれは大念佛にて候」に出張し、「既に月出で河風も早更け過ぐる夜念佛の、時節なればと面々に鉦鼓を鳴し」勸めたものであらう。學者に取つては永い思想變遷の四百年であつたが、彼等に取つては只一續きの田舍の生活であつた。祖父が年を取つて念佛講に加入して居つた、私も年が寄つたから念佛講に入らうと云ふに過ぎぬであらうが、あの節が一遍上人の昔の音頭の呼應であるかと思へば有難いと思つた。併し有難いには違ひないが要するに一種の化石である。今の人は若くて死んでも幽靈などにはならぬ。然るに田に蟲が附いた、村に疫病が來たと云つて、なぜに大念佛を催さねばならぬか、彼等は此をまじなひとも考へぬやうになつても、猶念佛講を設立維持して居たの(343)である。從つて又多くの田舍人は、それが昔の念佛講の規約の痕跡であることをも自覺せずに、村の葬式と云へば必ず出て行くことに何となく極めて居つた。而して唯僅かにジヤンボの風俗と老人ばかりの結社が殘存したのである。

　この民間念佛事業の普及と衰頽とを囘顧するに當つて、自分が最も奇異に感ずるのは所謂檀那寺の之に對する態度である。檀那寺の和尚は常に村の念佛講の導師では無かつたのみならず、其最初の發起人又は勸誘者でもなかつた。講の世話に任ずる者は多くは古參の村翁、或は僧か俗かも不明なる堂守道心者の類であつた。御寺では念佛が惡いとも言はれず、只あまりに凝りすぎるのを苦々しく思つて居ると、一方は委細構はずナマイダで鉦を叩き躍り且つ跳ねて居る。此點は誠に面白い國風《くにぶり》で、宗門改めの制度が全國を統一した近世に於ても、個々の民家には神棚あり屋敷の神あり、鎭守の祭禮には坊主を其方《そつち》除けにして別途の宗教的作法を營んだと同じく、同じ佛法の方面にも此の如く二通りの信仰が併立して居たのである。語を換へて言ふと、今日村々の寺は大小十數萬あるけれども、其傳道布教の方法は昔も今も一般人民の精神上の要求にぴたりと合致したと云ふ時代が殆と無かつた。多くの寺の歴史を尋ねて見ると、一向宗は稍々事情が別であるが、其他の者に在つては必ず或有力なる富豪又は領主などが一人の開基であつて、多數の小民は後になつて人別帳を持たれ葬式を管轄せられて居るから之を頼むと云ふに過ぎなかつた。寺に名譽の本尊があり大�ｺの和尚が坐れば歸依するが、寺其物と在家との關係は實は薄いものであつた。然らばさしたる本尊も和尚も村の寺に無い場合に、能く佛教信仰の中心となつて、其地の念佛を衰微せしめなかつた功は何人に歸するかと云ふと、それは此より自分の述べて見たいと思ふ所である。自分の見る所では、此等の念佛團體は或程度までは、夫自身の力でも維持したが、之に對して時々新たなる刺戟を與ふる爲には、やはり一種の毛坊主が活躍して居たのである。而して其毛坊主が毛の爲に輕視せられ疏外せらるゝに及んで民間の佛教は衰へた。此が新時代の現?である。昔ですら重きを爲さゞりし御寺樣たちが、入代つて其缺位を充たさうとしても無理な話である。

　さて此より各地の毛坊主の分布を考へて見たい。關東の平野は專ら時宗《じしゆう》の力を用ゐた部面である。此派に屬する毛(344)坊主には鉦打又は磬叩《きんたたき》と呼ぶ階級がある。自分の今知つて居る限では、先づ武藏では八王子町の大字子安に鉦打と云ふ百姓が二三軒あつた。新篇風土記稿には、子安から大字片倉へ行く路の側に鉦打塚と云ふ塚のあるのを、右の鉦打の祖先の墓であらうかと云つて居る。而して鉦打と稱する者が又兒玉郡丹庄村大字元阿保にも七戸あつて、今の上野多野郡美原村大字讓原の萬福寺と云ふ遊行派の寺の支配する所であつたと云ふ。川越の町にも鉦打町と云ふ處がある。入間郡誌に依れば、古遊行派の道心者に本阿彌陀佛と云ふ者、同學二三人と共に住せし處なるが故に名づくとある。北埼玉郡｜忍《をし》の城下にも鉦打橋と云ふ處がある。増補忍名所圖會を見ると、昔此邊に鉦打聖と云ふ者が住んで居た。一遍上人諸國遊行の折隨從して薪水の役を爲せし者、法體《ほつたい》し或は俗體にて何阿彌と云ひ念佛行者となり、鉦を打ちて諸國に修業するを、俗に鉦打と云へり。今も在々所々にあり。此處に住みし鉦打も後には埼玉村に往きて住居すとある。相模國の鉦打のことは新編風土記に載つて居る。今の中郡成瀬村大字石田の鉦打文悦、相川村上岡田の磬打金阿彌及び林阿彌は、共に愛甲郡南毛利村大字｜温水《ぬるみづ》の專念寺の配下である。磬打とは時宗の開祖一遍遊行の時隨從して薪水の役に服した者である。剃髪染衣の身と雖戒を受けず、一遍卒後は諸國に散在し、金磬を首に掛け和讃踊躍念佛して布施を乞ふ。其子孫今に相續し、遊行上人廻國して其地に至れば必ず出でゝ薪水に役すとある。足柄下郡豐川村大字成田の米穀山米穀寺は時宗の寺である。本尊は藥師如來、延文年間に越後の米山から負ひ來ると傳ふ。此寺古來住僧無く、磬打境内に住して本尊を守護す。磬打の金阿彌と云ふ者、慶長十九年遊行第三十世上人の朱印ある文書を藏して居る。其文に曰く、「諸國所々磬打の座衆、遊行の客僚として末代に事へ、契約に違ふべからざるの趣、後證の爲印手を以て一行を書き與ふる所也。仍て蹤蹟《じうせき》件《くだん》の如し」とある。同郡關山にも右金阿彌から別家した磬打が居た。野州では下都賀郡小山町大字稻葉郷に鉦打曲輪と云ふ地、道の右手に在り、鉦打修行者七軒之に住すること、日光道中略記の卷五ノ下に見えて居る。右は小山宿の時宗光照寺の檀下であつた。足利の町にも今日までカニウチと云ふ一種の部落あることを故坪井博士から聞いたが、後に尋ねたら是亦一群の鉦打であつた。此鉦打の事は同町の丸山太一郎氏(345)が詳しく知つて居られる。同氏所藏の嘉永元年の人別帳に依れば、足利本町寺中、鉦打十六軒四十七人、助戸村時宗眞教寺旦那とある。今日は他國へ出た者もあつて戸數は減じて居る。苗字は悉く原田である。此部落などは農作の便宜に乏しく、夙くからよほど生活には骨を折つたと見えて、老人などはよく鉦打の七變化と云ふことを語る。即ち七種《なゝいろ》の商賣に早變りをすることが出來たのである。其七變化とは一には鑄掛屋、二にはチンカラカンの飴屋、三には祈?礼賣、四には※［竹／（木＋匝）］《たが》屋、殘りの三種はまだ判明せぬ。千葉縣東葛飾郡梅郷村大字山崎字大和田地方にも、亦かに打の七變化と云ふことがあつたと云ふ（以上丸山氏話）。上州高崎市の磬打町もやはり時宗の磬打が住んで居た故の地名である。此部落の歴史は高崎志に稍々詳しく出て居る。慶長四年に磬打玉阿彌なる者箕輪の城下より茲に移つた。同じ頃上和田（今は高崎市の大字）に慶存と云ふ同宗の者あり、亦茲に來住し玉阿彌と共に近郷をめぐりて念佛修行し、民家の施捨を受けて今の十王堂を建立したとある。十王とは閻魔に由つて、代表せらるゝ地獄の神々で、地藏教中の大立物とし崇敬せられて居たことは人のよく知る所、高崎の十王堂にも十王倶生の神奪衣婆の木像と共に地藏をも安置し、後々まで磬打の持であつた。高崎志の説く所に依れば、磬打町の全部落は皆右二人の者の子孫である。元祖一遍上人に歸依の民、上人に追隨して廻國し薪水給持しけるが、上人滅後故郷に歸り遺戒を奉じ、銅磬を頸に懸けて和讃念佛し村里を廻り、信施を受けて活計とす。此宗剃髪の者を沙彌と呼び或は被慈利《ひじり》と云ふ。名は何阿彌と稱す。編綴衣《へんでつえ》を着る也。妻帶無戒なれども沙門の境界なり。有髪の者は今多く農工商賈の業を爲して世營とすれども、是亦宗旨に於て許す所ある由。磬打は俗稱にて剃髪有髪凡て謂ふ也。本寺は相州藤澤清淨光寺にして觸頭《ふれがしら》は江戸淺草日輪寺なり。關東に多くあり。本寺より最寄の末寺に小本寺を立て支配さする也云々（以上）。此記事が單に俗間の風説で無かつたことは證據がある。祠曹雜識卷五十四に、右の淺草日輪寺の安永七年の書上が載せてある。沙彌由緒事とあつて其一節に、一遊行上人下沙彌の儀、別名被慈利と申候。或は又當時俗に呼んで磬打と申候云々。一右沙彌共儀妻帶に罷在候へば子孫類族次第に多く相成候故、本業の和讃念佛を唱へ信施を受け候ばかりにては渡世相送り兼ね候、依之或は(346)耕作或は商賣等の渡世産業を仕り候爲、剃髪に限らず或は惣髪或は俗髪にても罷在候云々とあるのを見ても確かなことである。但し此書上とても後世の者であれば、果して此仲間の正しい歴史と言ひ得べきかは疑はしい。例へば此で見ると以前は悉く圓頭であつたものが、新しい生活の都合上惣髪俗髪にしたやうにあるが、公家武家を始め賤しい雜業に至るまで、在家の入道が多かつた以上は理由にはならぬ。又農商を營まねば食へぬやうになつたのは單に人口増殖の結果でもあるまい。最初から定量ある収入では無いのだから、分割の必要は無かつた筈である。此も追々と民間念佛が衰へ始めた爲、鉦を叩いても昔のやうな信施が得られなくなつたからであらう。併し要するに右の斷片的口碑によつて明らかになつたことは、中世の遊行派の傳道方法は一種特別のもので、半僧半俗のヒジリと云ふ階級を利用し、之を仲介機關として農民の念佛團體を勸誘奨勵して居つたと云ふ事實で、磬叩《きんたゝき》又は鉦打と云ふ名目も其念佛の音頭取に此樂器を用ゐたこと、恰も今日の念佛講のジヤンボンと同樣であつたのが起原であると云つて宜しい。而して其村々の念佛講が少なくも關東に於ては右の鉦打の徒の計畫に成つたものであることは、更に進んで同じ樂器の使用區域を調べ、且つ猶沙彌又は被慈利と云ふ語のもとの意味を尋ねて見れば、段々に明瞭になつて來るのである。

　

　　　　　　　實盛塚

　

　稻の蟲を實盛と呼ぶこと、志田義秀氏の説では此蟲一名をイナベツタウと云ふ故に、別當の隱語として廣く實盛と呼ぶに至りしならんとのことであるが（郷土研究二卷二六頁）、自分は未だ安じて之に就くことが出來ぬ。隱語の中にも座興滑稽の爲にするものゝ外に、神又は人に對する眞摯《まじめ》なる畏怖に基くものがある。殊に所謂山詞沖詞の類の忌詞に至つては分布も隨分弘いものであらうが、此場合に在つては何分にも如何なる動機で何れの時代何れの地方の人が其(347)隱語を用ゐ姶めたかゞ推測しにくい。主穀の害蟲にも色々あつて、イナゴの類、螟蟲及びウンカなどが殊に恐れられてゐるが、イナベツタウは果して其何れの異名であるか。多分は第二の物と思ふが、此二三日の捜索では自分にはまだ其出處が分らぬ。若し或一地方のみの方言だとすれば、所謂實盛祭實盛塚の風習が廣く國半分に行はれて居ることの原因とはし難いやうに思ふ。蓋し今日に於ては此はまだ議論の題目では無くして共同研究の目的物である。就いては先づ自分の述べんとする所を聽いて貰ひ申したい。

　實盛の風習の殊に盛んな地方は、齋藤別當の討死した地方でもなければ又彼が生國武藏でも無い。此が既に注意すべき一事實である。自分などは此事實を以て實盛なる名稱の源平盛衰記と云ふ物語が非常に諸國に流行してから後に起つた證據の一つと見て居る。此點は多分志田さんも御異存はあるまい。而してそれが隱語に基くとすると否とに拘らず、其分布の此の如く廣いのは、何か或一般的の刺戟又は共通の觀察が其原因を爲したものとするのが相當かと思ふ。近世の歴史に於て害蟲蔓延の最も烈しかつたのは享保十七年の西國一圓の凶年である。月堂見聞集卷二十五、此年七月の條にも此災害を記して次の如く言つて居る。當年は風雨時を得五穀豐年の處、西國表の國々稻に雲霞《うんか》と云ふ蟲生じ次第々々に隣國に移り五畿内近國まで參り候。其蟲後には形大になりこがね蟲のやうになり候。西國方言に此蟲を實盛と申し候。甲冑を帶したる形にて羽あり、一夜の間に數萬石の稻も喰ひ候由。依之俄に米穀六十五匁に賣買仕り候。極月《しはす》に至つては百二三十匁位に成り申候以上とある。此文章でも略々想像し得るが如く、支那でも古くから信ぜられて居た所の、蝗者戰死之士冤魂所化（鶴林玉露）と云ふ思想が、我邦の民間にも近い頃まで存して居たのである。此が兵革の續いた戰國時代ならば、其原因を求むるに格別の骨も折れなかつたであらうが、世の中太平となると些細な引掛りから話が妙な方向に變つて行つて、時世相應な解説を下さうとするのである。自分は必ずしも斷定はせぬが、先づは反證の出て來ぬ限は實盛の名は此享保度の大蟲害の時に始つたとして進んで見たい。

　蟲送りの慣習の行はるゝ區域は、勿論實盛と云ふ名稱を知らぬ地方に迄も及んで居る。處に由つては信仰も作法も(348)殆と同一であつて、唯其蟲の名を北條蟲などゝ稱へ、烏帽子を着たやうな形をして居ると云ひ、やはり例の平家蟹や於菊蟲と一列の古傳を信ずる者もある。例へば實盛祭の殊に盛んな、享保の蟲害の發源地を以て目せらるゝ周防長門地方などでも、蟲の神を北條實盛の靈だと云ふ村がある。是は長門の探題であつた北條實時と實盛とを混同したのかも知れない。周防風土記に依れば、同國｜玖珂《くが》郡｜賀美畑《かみばた》村大字阿賀に於ては、蟲送の時の囃詞、「北條殿は陣立、實盛殿は御供立、それに付いて昆蟲《はふむし》もシラテもヤエも御供せよ、跡は富貴にぞめいた、ちゆ／＼ちやア」と云ひ、他の多くの村では「サバヘ殿は陣立實盛殿は御供よ」と唱へる。此は百年前の記録であるが、自分の少年の頃の記憶では、播州などでは單に「實盛御上洛稻の蟲や御供せい」と云うたやうに思ふ。讃岐の舊三木郡の村は以前「ホムシの災祓ひ清め玉ひてサネモリたんやれ」と囃したものだが、阿波では實盛の靈稻の蟲となつたと傳へ、僧侶を頼んで蟲を送り捨てた場所に「爲齋藤實盛頓生菩提」と書いた札を立てゝ貰つたと云ふ。斯うなると色々の説が起るもので、前のイナベツタウの説の外に、サネモリとは實を守ると云ふ意味だとか、或は又昔大昌和尚が蝗《たむし》を驅るの辭に「去々實盛」と書いたのは、去りて田の實を盛んにせよと云ふことだと云ふ説（黒甜鎖語第三編）なども出て來たのである。併し結局此等の俗信が二百年此方の新しい發生とするならば、蟲の神の本の名はやはり防長などに所謂サバヘが即ち夫であらうと思ふ。今長門風土記の中から其一二の例を拾ふならば、同國大津郡深川村にては五月蠅《さばへ》送りと言ひて藁にて人の形と馬の形と各々二つを造り、人形には紙の甲冑を着せ紙の旗を立て、社人祈?の後貝大皷にて先大津の西の海へ送り流すこと古來の風であつた。同美禰郡｜眞長田《まながた》村大字長田では、土用の三日に佐波江送《さばえおく》りとて地下役人殘らず集り、藁人形を拵らへ馬に乘せ弓矢を持たせ旗を立て、御祈?をして田頭を舁ぎ廻したとある。同郡赤郷村大字赤でも、六月土用前サバヘ送りと唱へ、地下役人一同氏神へ集り藁人形を作り、淨土宗又は禅宗の内一人の僧を招き供養し、社人祈?相濟まし藁人形を各字繼送りにして他村境山野へ送り捨て來る例であつた。他府縣の蟲送に在つても、之を實盛と云ふと否とを問はず、藁人形を造つて列前に立てゝ行くことは普通である。夜分に此式を行ふ所では必ず盛んに(349)松明をともして之を振る。更に第三の特色としては鉦大皷を叩き多人數が大騷をして送つて行くことである。長門の例も記事が簡單であるが此三點は總べて他國と一樣であつたらしい。サバヘと云ふ語が古史に所謂五月蠅なす邪き神のサバヘと同じだと云ふ説は、まだ確證を見出すことが出來ぬが、近世に於ても御靈をサバヘと呼んだ例はある。土佐州郡志を見ると、土佐郡朝倉村には吾川郡弘岡との境に接して亦一箇の實盛岩がある。此と關係があるか否かは分らぬが、此村の西南字小針木の内には七作倍《なゝさばへ》と稱する田がある。此地は古戰場で戰死者を埋めたと云ふ七つの塚が田の間にあるのを、ナヽサバヘと名づけて之を祭つたとある。此は諸國に例の多い七塚又は七人御前の類であつて、其分布由來等に付ては近々別に書いて見たいと思つて居る（郷土研究一卷七六六頁）。右の朝倉と云ふ村は昔から土佐の學者たちが朝倉木丸殿の古跡だと主張して居る處である。其爲に傳説も追々と變形したのであらう。明治八年に高知縣から進達した御陵墓傳説と云ふ書類の中には、七作倍は齊明天皇神の祟にて崩御ありしとき、從臣も尋《つい》で病死する者多かりし、之を埋めし塚にて鵜來巣山《うぐるすやま》の帝陵を去ること一町の地なりと載せて居る（南路志翼十一）。

　塚にサバヘを祭り之を死靈の神としたことは兎に角右の一例がある。次には實盛塚の分布を調べて其名義の由つて來る所を尋ねて見よう。懸離れた地方では東京の湯島臺の下、元藤枝帶刀屋敷の内に一箇の實盛塚のあつたことが江戸砂子に見えて居る。後には松平某の宅であつた。小高い塚で折々怪異の事があつたとばかり傳へて居る（下谷通志）。加賀では江沼郡｜那谷《なた》村に實盛の首塚があつた。以前は方七尺今は僅に其跡を存す。那谷寺の僧で實盛を見知つた者、其首を得て爰に葬り念佛供養したと云ふ（江沼郡誌）。同郡篠原村大字篠原にも、古戰場の義理として村の境に亦一箇の實盛塚があつた。小松の八幡宮の舊記に依れば、康應二年三月二十一日實盛の亡靈篠原の濱にて第十四世遊行上人に現はれ囘向を受けて妄執を散ず、其時上人の授けたる法名を眞阿と云ふ云々とある（同上）。自分が毛坊主考の中で實盛を論ずるのも、有りやうは右の念佛若しくは遊行上人の關係がある爲であるが、其仔細は後に述べる。能登にも鹿島郡�ｺ田村大字｜國下《こくが》に實盛の塚と云ふ古塚がある。土地の口碑では齋藤別當の仲間、此は村の生れであつた。主人(350)が篠原で打たれて後、沓を取つて故郷に還り塚を築き、其身は剃髪して菩提を弔つたと云ふ（能登國名跡志）。此も念佛供養の因縁がある外に、各地の沓掛と云ふ地名と共に、塚の側が昔の往還であつたことを思はせる。仲間の沓と云ふからにはやはり路傍に引掛けた馬の沓であらう。中國四國には無數の實盛塚實盛山等があるが、之に伴ふ傳説は却つて少ない。是は所謂實盛送の慣習がまだ盛んに行はれて居た爲に、塚の由來が明白で傳説を發生せしむる餘地が無かつたと見るの他は無い。只一つ備後｜芦品《あしな》郡｜宜山《むべやま》村大字向永谷の字｜本谷寺迫《ほんこくじさこ》の實盛塚は、齋藤五が由縁の者來住して之を築くと云ひ、或は實盛の家來主の遺骨を奉じて爰に來り餓死せし跡にて、文書に由つて實盛なりしことを知り其骨を葬ると云つて居る（福山志料）。此も考へて見れば笈と頭陀袋との遍歴沙彌の昔語に由り、餓死とあるのは供養を受けた御靈の事を言傳へた者かも知れぬ。實盛塚を以て蟲送の塚だと明記した例は讃岐と紀伊との二國にある。西讃府志卷二十八に、今の仲多度郡善通寺町大字善通寺の實盛塚、諸村より此塚へ蝗を送り來るとある。紀州では海草郡和佐村大字禰宜の實盛塚、村の南四町ばかり矢田峠の西に在り、碑面に梵字を刻す。土人蟲送の時此塚を火振の始とすと續風土記に見えて居る。同書の説に依れば、此邊の蟲送には「常に實盛殿の御とぶらひ」と唱ふる故に、轉じて塚の名となつたので、サネモリは又｜早苗降《さなぶり》の誤であらう。早苗降明神は伊都《いと》郡官省符莊にも之を祀り、稻穀を守護する神である。此神の御訪《おとぶら》ひと云ふのは稻の蟲を追退くる呪文だらうと言つて居る。併し實盛の靈害蟲と化したと云ふ説を採れば、御とぶらひは又やはり御弔ひと解せねばならぬ。淡路津名郡鳥飼村宇鳥飼下にも實盛堂と云ふ堂があつた。淡路常磐草に、齋藤別當の靈蝗に化すと云ふ俗説に由り農民堂を立てゝ蝗を除くことを祈れるなるべしとある。加害者を邪神として而も之に所請することは、昔の思想としては些かも不思議では無い。又其神を祀るに塚を用ゐるのも類例の多いことであるから、此樣な面倒な説明は無用である。同じ紀州の地誌の中にも、那賀郡王子村大字｜後田《しれた》の左禰森社は村の乾の森にして楠の大木がある。但し今は祭神を天王山王及び荒神の三體として居る。同伊都郡九度山村大字入郷の早苗降明神森は、一村の氏神にして境内に大木多し。中央の欅の老樹を神代として社殿は無いとある。(351)而して蟲の神を楠木其他の大木に齋ひ込めた例は、先頃出來た老樹名木誌の中にも二三見えて居るが、同じ紀州の中でも、西牟婁郡｜朝來《あつそ》村大字岩崎字野田の蟲逐明神《むしおひみやうじん》森は境内の森山周五十間、社無し樹を神として祀るとあり、同村大字朝來字下の蟲逐明神森、社地周三十間、楠木を神體とす、夏時田蟲を逐ふ爲に祀る神と云ふなどゝあるを以て見れば、サネモリとサナブリと、何れが元であるかは第二の問題として、二者共に同じ蟲神の信仰に基き、同じ語の一方は轉訛と考へるのも、強《あなが》ち無理な推測では無からうと思ふ。

　實盛塚を火振の始と言ひ又は諸村の蟲を此塚へ送り來ると云ふことは、傳説でも何でも無く、如何にも根據ある事實である。既に長門の五月蠅送の風俗に就いても述べた如く、鉦皷喧噪して松の火を以て蟲神を送ることは、つい此頃までの全國の風であつた。疫病神に就いても同樣であるがそれは次の章で述べる。藝州では「サバヘ、サネモリ送る」と唱へて送つたこと、藝藩通志卷四に見え、其式は他の國々と略々同じである。實盛と云ふのは此蟲の頭が墨を以て染めたやうだからであらうはちと骨の折れた解釋であるが、其蟲のウンカであつたことを示して居る。尾州名古屋の近村では、「オンカの神送れ」と唱へて送り、人形は實盛騎馬の像の外に今一つの人形を竿の尖に立てゝ行くと、風俗畫報第五十八號に川崎千虎翁が自畫を以て説明して居られる。岩手縣北部では今でも舊の六月二十四日に農夫等「惡蟲退散祈願成就」などと書いた旗を立て、笛太皷の調子に合せ鼻道を廻り蟲を追ふ?を爲すをムシボヒ祭と云ふ（南部方言集）。讃岐の蟲送は六月中とばかりで日は分らぬ。一村の者苗に蟲の附いたのを拔取り處の氏神の社に打集ひ、太鼓鉦螺などを鳴し、いつも走りたる處ありて其處に送る。其處にも亦走りたる處まで送り後終に海に送り流す云々（西讃府志）。之とよく似て居るのは阿波の海部《かいぶ》郡で昔から例年六月土用に入つた日蟲送をする。此郡でも最も奧の上木頭《かみきとう》村の出原《いづはら》及び和無田、奧木頭村の南宇、此三村の百姓が集り、小さい紙幟に齋藤別當實盛卿と書附け又は其卒都婆などを拵らへ、鉦太鼓にて囃し、「實盛さまの御通り」と呼はりつゝ右の村々より之を奧木頭村大字西宇へ送る。西宇の人々之を受取り同じ式を以て之を同村大字折宇へ送る。折宇の者は之を大字北川へ送れば、北川之を受取つて(352)土佐國に入り蓮池と云ふ所まで持つて行くと、土佐人出迎へ受取つて又次へ送つたと云ふ話である（稿本阿波國風土記）。村と村との聯絡がよくついて居れば、斯うして終には所謂西の海まで運ぶことが出來たであらうが、海に遠き孤立の村か又は隣村と折合でも惡ければ、是非なく村限りで境の一地點まで送つて往つて捨てる。若し隣村でそれが迷惑なら又第二の蟲送場まで送るが、時としては奧に村も無く其儘になつたものもあらう。送つて往く場所が必ず一定して居たことは蟲追場蟲送山送橋蟲追峠などの地名が村々の境に多いのを見ても分る。又其場所に塚のあつたことは左の地名などが證據である。

　　相模鎌倉郡川上村大字舞岡字｜司鐘免《ししやうめん》小字神送塚

　　甲斐南都留郡大嵐村字神送塚

　　陸奧三戸郡五戸村字蟲追塚

　　河内南河内郡三都村大字岩室字蟲送塚

　　攝津三島郡高槻町大字上田部字送り塚

　　和泉泉北郡北上神村大字野々井字東畑小字蟲塚

　　土佐長岡郡國府村大字國分字蟲塚

　但し神送塚の方は疫病神の分かも知れぬ。相州中部比々多村大字｜神戸《がうど》の蟲送塚は、土人蟲送と稱して田間に蝗生ずるとき此塚にて祓することありと、新編風土記にあるのは、恐らくは同時に多くの實盛塚の説明であらう。

　サノボリ又はサナブリと云ふ祭は實盛送とは別であつたが、播州邊でも田植の季節の一行事であつた。關東の泥落しなどに當り一日休んで團子などを作り神を祀るのである。之を早苗守の轉訛としても理窟は附くか知らぬが、自分は些しく新しい解釋をもつて居る。即ちサは早乙女早月五月雨などのサで、何の譯かは知らぬけれども田植のこと、ノボリはやはり登りで神の還り行くことではあるまいか、登りと云つても神相應の元の位置に復することで、塚穴で(353)も西の海でも構はぬ話であるが、實際蟲神が山から降つたものと考へた例もある。寛政の頃に奧州を旅行した人の紀行に、今の岩手縣石鳥谷停車場から少し北の方で、六月二十八日に百姓が大勢で太鼓を打ち貝鉦を鳴して打囃しつゝ行くのを見た。其文句は「何蟲追ふよ、嶽から降下つたコセ蟲ぼふよ、コサイ蟲ぼふよ、ばら／＼に祀られて嶽登りせうものを」と云ふのであつた（眞澄遊覽記十）。越前｜丹生《にふ》郡の大蟲神小蟲神は延喜式以前よりの大社であるが、其舊記には元は鬼ヶ嶽の頂上に祀つてあつたとある（遊嚢?記）。中頃の衰退で信仰は變じて居るが、神名を見れば上古の實盛神であつたことが想はれる。蓋し害蟲の山から出て來るのは普通の現象であれば、蟲の神が嶽に住むと思ひ之を送つて本の居に歸さうとするのは自然の人情である。唯併しながら山に遠く海に近い平野では、之をあらゆる他の不思議と共に海原より來ると思つたかも知らぬ。森若しくは塚に向つて神を送つた理由は、塚と御靈との關係を明らかにした後でなければ解説が出來ぬ。昔の塚は悉く林叢であつたらうから、之を蟲神の住家と見ること山嶽と同じかつたとすれば別に恠しむに足らぬ。或は御靈は死人の魂だから塚の中に居るとした爲ならば、比較的後世の思想の變遷であるかも知れぬ。但し此説は假定である、もつと尤もな解釋が後に出ることを歡迎する。要するにサネモリはサノボリ又はサナブリの意味が此の如く不明に成つて後之に冤�主宸ﾆ化するの説を加味し、或時代の害蟲の畏怖が海内を震蕩させた際に、説明的迷信となつて廣く分布し、例の念佛供養を職業とする半僧半俗の傳道者等が爲にする所あつて之を言振らしたものであらう。

　地方に由つては蟲追の囃詞の代りに念佛を稱へた處がある。肥前平戸の領主なりし松浦靜山子の隨筆に、予が領内にて田の蟲附きたるときは芻《わら》を束ねて人形を作り、之を捧げて田畔を巡行す。從ふ者は金鼓を鳴し衆音に念佛を唱へ、鳥銃を放ちて勢を助く。此偶人を實盛と呼び、昔實盛田の邊にて戰死す、其屍朽ちて田の蟲となると云ふ云々。終には人形を田畔に据置き銃を以て之を打ち後に海に投ず云々とある（甲子夜話八十一）。拔苦與樂の善根は口ばかりで、其行爲に至つては南洋の諸蕃が死靈を驅逐する手段と殆と異なる所が無い。此から推して考へると、各地の念佛塚が(354)表示する所の文明も、是亦單に外觀的のものであつて、鉦打其他の毛坊主が唯一重要の佛具として居た伏鉦も、元はと言へば鬼を驚かすべき一箇の武器であつたのかも知れぬ。蟲追の念佛は伊豫の温泉郡にも遺つて居ると趣味之傳説と云ふ書にあるが、此本には空言が交つて居ると云ふ噂もあるから證とはせぬ。併し此外にも求むれば例は多からう。尾州知多郡の蟲供養なども規模の大なる實盛祭であるが、唯人形は用ゐない。知多郡誌卷下に依れば、西海岸の十四ヶ村東浦の十六ヶ村、一年毎に各村巡り行ふ。其式東西相同じ。毎年當番の村は正月七日に供養の本尊たる三尊の阿彌陀佛を開扉し、八月の彼岸の、西浦では入りの日東浦では中日に、供養場を設け鉦太皷を以て念佛和讃を執行す。此法會には俗徒のみ集りて僧を用ゐず。濱にて行ふを濱供養と云ひ山にて行ふを山供養と謂ふ。中央に大なる假屋を構へて之を念佛の供養場と定め、三字の小さき假屋を道場として本尊を安置す。又三四丈の丸木を大塔婆とし之に銘號を記して立て、之を蟲の塚と定む。後に其塔婆は村々の橋材に使用す。そも／＼此供養の濫觴は昔此地の領主｜英比丸《あぐひまる》歿して後、村民之を祭りて供養せしに起ると云ふ。農民常に田畠にて蟲を殺すを以て其魂を慰め、此善根を以て英比殿の追福とす。群參の夥しきこと世に多く見ざる所、尾南第一の壯觀なりとある。英比殿は所謂地方的英雄であるから其死靈が蟲となること何分にも合點し難く、念佛講相應の新理窟を附けたと見える。併し蟲の害を御靈の所爲とする世間普通の例で推さなければ、濱に出で又は山に入つて蟲塚を立てる由來が分らぬことになる。而して此不名譽なる威力は如何なる貴人でも英雄でも昔は一般に押附けられて持つて居た。羽前の山寺では麓に景政堂あつて此山を鳥海の城跡と云ひ、景政が敵に射られた眼を洗つた因縁から片目の魚の住む池もあつた。此邊の稻に蟲の附いた年は、景政堂から鉦太皷を鳴して之を追へば其蟲忽ち去ると信ぜられて居た（行脚隨筆上）。鎌倉權五郎は五郎と云ふ語が御靈に近い爲に今では全國一般の御靈社の祭神となつて居る。片目の魚と云ふことも何か人の妄念と關係があるらしいがまだ自分にはよく分らぬ。話があまり長くなつたから蟲の一件は此で切上げ、此次は疫病神に對する金鼓《こんく》の力を説いて見ようと思ふ。

　

(355)　　　　　　　ネブタ流し

　

　話は聊か横道へそれるが、所謂金鼓の行事が念佛供養とは全然獨立して、恐らくは其よりもずつと古くから、我邦に存在したらしい一例に、奧羽のネブタ流しの事を説かうと思ふ。此も自分の實見である。明治三十九年の八月下旬、津輕海峽を渡らんとして青森で夜半の汽船を待つて居ると、恰も舊暦の盆のことで、其夜此町のネブタ流しがあつた。偉大なる紙張の人形の西洋顔料で彩つたのを長い竿の突端に立て、其張子の中には火を燈して、市街の電線を邪魔にしつゝ諸方から遣つて來る。其晩は公認せられた無禮講で、若い者も老人も自由な騷ぎをする。我々が酒を飲んで居たある茶屋の表二階へ、頻冠をして踊り込んだ婆さんがあつた。よく見るとそれは自分の旅宿中島屋のおかみさんで、誠に奇拔なる好意であつた。十二時過に船が港を出てからふり返つて見ると、わア／＼と云ふ聲はまだ聞え、いつまでも町の空が明るかつた。しまひには其人形の燈籠を海へ投げ込むのだと聞いた。

　ネブタの起原は恐らく土地の人にも分るまいが、此事を書いた書物は乏しくない。最近の書では「津輕のしるべ」に、弘前のネブタ流しを記載して居る。今それを抄出すると、「六月二十八日より七月七日迄、ネブタと稱へ竹にて人形或は種々の形を組み、紙を張り彩色を爲し、内に?燭を燈し、夜中貝を吹き太皷を打ち及びサヽラを鳴し、囃子を爲して毎夜市中を持廻り、七月七日に至り之を川に流すを例とす。是は昔田村將軍東夷征伐のとき、蝦夷ども戰負くれば山中に遁げ入り七、八月、一年も出で來らず、官軍還れば復大いに起り之を捕ふるに由無かりしかば、美しき人形を作りて其中に人を隱し、囃子面白く之を川に流しければ、蝦夷等之を見物に來りし處を、不意に出でゝ其首魁を擒にす。此風俗は其時に始ると云ふ。一説には七月七日東夷の服從せざる者を船に乘せ蝦夷地へ流せしに始るとも(356)云ふ云々」。第二の説は一見雲を握むやうだ。尤もらしいが第一の説も年々の行事の起原となつた譯を説明し得ぬのみならず、かの忍坂の大室屋乃至はトロイの木牛などの筋を引いた昔話のやうにもある。自分などは此で滿足し得るやうな單純な問題とは思つて居らぬ。

　百年以前の弘前近傍の民俗を記録した書物に奧民圖彙と云ふものがある。其中に「七月朔日より六日の夜まで町在とも夥しく此燈籠を作り、笛太鼓にて囃しつゝ夜行す。其歌、ネブタは流れろ、まめの葉はとゞまれ、いや／＼いやよと云ふ」とある。今日でも青森縣では略々此通りであるさうだ。眞澄遊覽記卷七、寛政五年七月六日下北郡大畑の條にも、里の童六七尺一丈の竿のさきに彩畫したる方形の燈籠を掲げ此に七夕祭と書し、ネブタも流れよ豆の葉もとどまれ苧がら／＼とはやしつゝ、鼓笛にてどよむばかり云々とある。大畑と弘前とは此縣の端と端であれば、此文句の弘く古く行はれて居たことが分る。但し大畑の方の文句の「苧がら／＼」とあるのは意味のあることで、秋田領の村々では子供ら此日には麻稈を己が年の數だけ折り、とう豆と云ふ野生の蔓草を以て卷き結び、之を枕にして一夜寢ね、明る七日の朝之を川へ流す。苧がら／＼は多分此から出た語であらう。以上は遊覽記の著者菅江眞澄の説である。此説の必ずしも強辯で無いことは證據がある。文政に出來た那珂氏の風俗問?答書（秋田）に、「七月六日の夜は麻稈を己が年の數折りて草の蔓にてからげ枕の下に敷き、七日の朝とく川へ流すを眠流《ねむりなが》しと云ふ。燈籠の踊をもかく云ふ」とある。同書に依れば秋田の盆燈籠は昔の江戸風の高燈籠で、川へ流す物は右の如く別にあるのである。羽後には能代大曲其他に同じやうな七月六日の儀式はあるが、何れも青森縣のとは異なり、ネブタ流しとは言ずして眠流しと言ひ、又人形では無くて切籠其他の只の燈籠であつた。近頃の書物では河東碧梧桐氏の紀行「三千里」に能代の眠流しの記事があつたが、此もやはり人形では無さゝうである。そこで普通の順序を以て推すと、只の燈籠から人形の燈籠に變じたもので、津輕人の後世の思附の如く解する人が多からうが、自分は必ずしも蝦夷退治の口碑に重きを置かぬ迄も、一概にさうは斷定せぬつもりである。津輕のネブタは以前から侫武太《ねいぶた》とも侫夫多とも書き或は侫人と云ふ(357)漢字を宛てたものもある。侫人はネイビトとでも讀んだものか。兎に角に其流す物を人として視た名稱であつて、單に燈籠の意匠とは考へられて居らぬ證據である。

　自分が實盛送りの序を以てネブタ流しを説かうとするのは、全く之を一種の人形祭と視るが爲である。衣冠騎馬の實盛卿をこしらへて害蟲を境外に驅逐すると同樣に、他の種類の災害を邑蕗から攘《はら》ふ場合にも人形はやはり常に用ゐられて居る。六月十二月の大祓の撫物の如きも、大昔は亦一種の蒭靈《すうれい》即ち草人形であつて、此が翌朝は掃除をせねばならぬほど市街に棄てられてあつたことは、延喜式卷四十二左右京式に見えて居る。京師のことであれば蟲害の爲では無い。近世の田舍では風雨の害を攘ふ爲に人形を送る例もあつた。照々坊主の風習も亦此である。此と反對に阿波の吉野川では雨乞の爲にも人形を用ゐた。併し此等は稀な方の例で、全國に亙つて最も多いのは疫病神を送る人形である。梅園日記卷二などにも詳しい説が出て居つて、殆と不必要なる引證かも知らぬが、江戸では享保十八年七月中旬、疫癘大流行で大路往來の人も絶えたとき、藁で疫神の形を作り、鉦太鼓で之を海邊まで送ると武江年表に見え、西京では同十五年の八月と十八年の七月の流行感冒の節、藁人形を鉦太鼓で川原へ送つたと月堂見聞集にあつて、念佛を唱へて送つたとも見えて居る。享和二年三月、大阪市中の風の神送りのことは噺の苗卷一にあり、此も色々の人形を作つて鉦太鼓で川々へ送り捨てたと云ふ。此類の人形は今でも田舍には多い。村會議員とか教員とか云ふ人が惡く言ふ爲に、村全體として神送りをし得ぬやうな處でも、個々の家ではやはり道岐れへ人形を棄てに行くのみならず、些し烈しい傳染病の流行になると、古い因習が眼を覺まして往々に鉦太鼓の音を立てる。唯何の故に斯うすればよいのかを知つた人の少ないのは勿論である。

　此點は事新しく喋々しようとは思はぬが、自分が茲に注意を乞ふのは右の神送りの時期のことである。實盛でも疱瘡神でも災害の烈しくなつた際に臨時に之を送る村の外に、毎年季節を定め恒例の行事として之を執行ふ地方のあることを述べて見たい。京の今宮のヤスラヒ花、又は壬生や千本の念佛供養の如く、疫病を鎭める爲の所謂世間｜不靜(358)祈?《しづかならざるきたう》にして、春の末花の散る頃を時としたものもあるが、夏と秋との境は昔から惡い病が起りやすかつたと見えて、舊暦の六七八月、分けても七月に此祭が多かつた。農村では作物に對する風の害も考へたか知らぬが、主たる動機はやはり流行病の怖畏であらうと思ふ。衛生統計の方から研究して見たら、或は五節句の個々の目的に就いて面白い論斷が下し得るかも知れぬ。それは兎に角として、七月孟蘭盆の聖靈送りは即ち一の御靈祭であつたことは疑が無い。近世の考へから云ふと、秋の風がそよ／＼と吹けば亡人の事が思出され、追慕の餘魂迎をすると解釋する方が通用はよろしいけれども、迎へよりは送りの方が遙かに大袈裟で系統立つて居るのみならず、何の爲に迎へたか分らぬほど送る作法が嚴重である。又所謂新盆の家の前で盆踊をしてあるくと云ふことも、幽靈祭却の一形式としなければ説明が出來ぬ。俄《にはか》と云ふものゝ起原に付ては稿を改めて述べたいと思ふが、要するに念佛を伴ひ伴はぬを問はず、蟲送り疫神送り雨乞び風祭等に際して臨時に行ふ所の鉦太鼓の踊、殊には村の境まで願つて行くと隣村からも踊り返すと云ふ掛踊の風習が、盆を期として恆例的にも行はれるのは、假令佛者の説が何とあらうとも、解倒懸《かいたうけん》の語義からばかりでは迚も説明が出來まいと思ふ。

　それから次には眠流しの七月六日のことである。七夕と中元とは通例は何等の關係が無いものゝ如く考へられて居るが、七日は村によつては七日盆とも之を稱へ、明らかに二つの記念日の重複を推想し得るのみならず、よく見ると此星祭には天上の戀人に對する同情の外に、道家の祭星法にあるやうな攘災の意味が加はつて居る。第一に青竹を二本立てゝ繩を延くことは、普請の地鎭に屋敷の周圍に立て、病氣流行の際に村の端に構へるものと同樣に、注連の元の形である。自分の郷里播磨などでは、此繩に色々の畠の物を引掛ける。七夕樣は初物が御好と云ふ評判があるが、其形式が如何にも聖靈棚の供物とよく似て居る。竹に短册を附けることは乞巧奠《きつこうてん》の支那の例を聞いてなる程と云つた人もあつたが、村の七夕では歌も字も書かずに切紙をぶら下げて居る。「飛騨之山川」と云ふ書に、大野郡｜大八賀《おほはちが》村大字松ノ木に於て、大八賀川の兩岸の山の巖より大繩を張渡したるを七夕岩と云ふ。古來星祭を以て名あり。近年八月(359)六日の夜之を行ふとある。自分も前年土佐の仁淀川《によどがは》を、楮《かぞ》皮の荷船に便乘して下つた時、恰も月送りの七夕の宵であつたが、屈強な若者が繩を口にくはへて川を泳ぎ渡つて居る。やがて對岸の山に登つて其繩の端を引くのを見れば、此も川を横ぎつて五色の幣を附けた繩を延へたのであつた。此等の雄大なる村事業はどうしても牽牛織女に對する手向とは思はれぬ。古今集などに殘つて居る優美な天の川の思想は、少なくも之とは没交渉であるらしい。又絲を手向るとか衣を貸すとか云ふ風習は歌の文句で窺はれるが、下に擧げるやうな諸國の人形祭もやはり此からは類推しにくいのである。北越月令に、古志郡栃尾町邊で天の川と云ふのは、七月朔日藁で人形を作り、駕籠鎗挾箱など大名の行列の如く取列ね、宅の左右に立つた木に繩を延へて釣るものである。七月二十七日に川へ流すとある。即ち名は天の川でも七日とは關係がちつとも無い。之に就いて思ふのは七夕と云つて六日の晩祭り七日の朝は流してしまふのも妙だ。此は七日と云ふ日が別に意味を持つて居た證である。碧梧桐氏の「續三千里」は最新の紀行であるが、越後直江津と絲魚川との間の漁村で、往來を横ぎつて注連繩を處々に引き、色紙の三角に切つたのを長く續いで暖簾のやうに下げて居るのを七夕樣だと人が教へた。八日の晩は麥藁の船に小提灯を澤山ともし一所に海へ流すと云ふ。又越中立山附近の村では八朔に七夕の竹を立てるともある。

　信州長野では昔は七月六日七日タナバタと稱して五月の具足人形の如きものをもてはやしたと芋井三寶記に見えて居る。此は今の御堂を建てたのが七月始であつて、地固めの千本撞をする日町へ觸れて人形を飾らせたのが起原だとある。善光寺町ばかりの風習ならばさうですかとも言はうが、同じ國の松本にも此事があつた。於路加於比《おろかおひ》中卷に鹽尻を引いて、松本では七夕に町に繩を家と家との軒に掛けて道を横ぎり、それに木の人形を造り紙衣をきせ幾つとも無く釣下げるとあつて、其人形の三種を圖寫して居る。此は二百年近く前のことだが、甲府附近の里垣村では、農家の戸口に木を丸く削つて作つた人形に赤い紙の衣裳を着せ、首に紙捻を附け釣下げて居る。此人形は七夕樣へ上げたもので、之を戸口に釣るのは盗除《ぬすびとよけ》である。通例の盗除は單に七夕祭に用ゐた五色の短册を紙に包んで、上に七夕樣と(360)書き戸口に釘附にするのだと云ふ。此は山中笑翁の見聞録「甲斐の落葉」にあるから今の事だ。さうすれば奧州のネブタも似たる仲間はあると云ふもので、他の一方に織女牽牛と盗除との附の無い不審も些し晴れるやうに思ふ。

　人形に就いては短文には書盡されぬ色々の話がある。奧羽地方で戸口又は村はづれに立たしむる草人形は多くは二體で、弓刀を持たせたりシトギを首に懸けさせたり、山伏とも武士とも見える樣態で、其名も草仁王又は鹿島人形牛頭天王などゝ呼んで居る。之を見ると例の神荼鬱壘《じんとうつるゐ》系統の作り附けのものゝやうにあるが、本意はやはり其場所に持つて來て置くことに在つた。眞澄遊覽記卷十二には、陸奧西津輕郡の深浦で、四月八日に鹿島人形と云ふかたしろ〔四字傍点〕を數多作り、小舟に載せ笛鼓にて囃し、祝《はふり》大勢從ひて海に流し遣るとある。秋田郡別所の大日堂では、六月十八日に蟲追祭を行ひ、藁にて大なる人形を造り、別當の修驗扇田寺祈念して後、村人皆出でゝ笛鼓にて囃し、之を陸中境なる村の端まで送り出すと、風俗問?答にある。此などは正しく實盛とは呼ばぬ實盛である。更に懸離れた備後福山領の風俗問?答書にも、疫病除の法として、莚を以て舟を作り山伏など異形の藁人形を作り載せ、鉦太鼓松明にて送り海川に捨つとあつて、此等の人形は決して村の防衛者では無く、大祓の蒭靈と同じく、邑民全體を代表し一同の受くべき災難を一身に引受くべきものであつたらしい。此風習は多くの民族に共通である。野蠻な人種の中には人形で無く本物の人間を總代に立てるものもある。生きた人ならば屠殺すれば自身亦御靈となり、外敵に逆襲するから同時に境の守護ともなつて、一擧兩得と云ふ理窟である。併し日本では大昔の田舍にも斯かる亂暴な便法があつたと云ふ證據はない。唯諸所の村境に首塚胴塚などゝ云ふ塚があつて、惡人を斬分けて埋めたと云ふ至極漠然たる口碑が存するばかりである。此事は又別に考へて見たいと思つて居る。

　津輕其他の侫武太が聖靈送りの燈籠と通例之に伴ふ犠牲の人形との合體したものであるらしいことは、説明不十分ながら右の事例で想像し得られよう。而して其目的の何であつたかは、秋田能代の苧殻の枕などに由つて、凡そ人の身に屬する災害即ち流行病などの御靈を攘ふものと見て置かう。最後に考ふべきことはネブタ又はネムリと云ふ名義(361)である。奧民圖彙には木守貞と云ふ人の説を引いて、七夕祭に合歡木《ねむ》の葉と大豆の葉とを以て人身を拭ひ、川へ流すこと六月の祓の如し。合歡木の葉にて目を拭ふときは睡をさまし、大豆の葉にて身を拭ふとき壯健になると云ふ呪なり。睡はネムタにて流し、大豆｜壯健《まめ》にて止り農業に出精せよと云ふこと也と云つて居る。此守貞はもしや守貞漫稿の著者では無いかと思ふが、合歡と大豆の葉の説は如何にも據の無さゝうな話である。かゝる風習の行はるゝ地方はまだ聞及んで居らぬ。併しネブタを睡魔と考へたらしいことは、秋田地方で之を眠流しと謂ふのでもわかる。奧羽以外の地で或は同じ風習が行はれて居たかと思ふ處がある。

　　下總香取郡良文村大字阿玉臺字｜根蓋《ねぶた》

　　近江坂田郡鳥居本村大字鳥居本字禰宇多神

　　大和北葛城郡當麻村大字勝根字ネブタ神

　此の如き地名は偶然に起りさうにも無い。何か其附近の人に聞いたら耳寄の話がありさうなものである。下野の宇都宮には現實ネムタ流しの行はれて居ることが栃木縣誌に見えて居た。七月七日の朝、田川の押切橋邊にて之を行ふ。老若男女船を浮べて花火など弄していと賑はしとある。併し人形を流すか流さぬかが不明である爲、先々月の紙上問答に問を出したら、幸に中山君から早速の答があつて、更に足利のネブタまでも判明したのは愉快である。全文は問答欄にあるから引用せぬ。唯耳新しい一節は、此朝人形を流す外に人も亦水に浴すると云ふ點である。此から推論するのも早速であるが、ネブタ又はネムリは各人の睡魔では無くて、村の總代となつて水に飛込む人が、諸國の追儺《つひな》人取の祭式に引出さるゝ尸童《よりまし》の如く、自身催眠?態に落ちて居るのを名づけてネムタ又はネブトなどゝ稱へたのではあるまいか。讃岐三豐郡の神社には例祭に百手とて弓の神事ある者多く中にも大濱の船越社などでは射法を教へる人を禰武利《ねむり》の衆と呼ぶと西讃府志卷三にある。神社の射禮は何れも神意を占問ふものであれば、此ネムリの衆などは正しく依坐の意である。眠神と云ふ神の名も往々にして聞く所である。此推測が正しとすれば、下野のネブタは津輕の人(362)形よりも又一つ前の形で、事によるとずつと大昔の神送りには、毎季一箇づゝの人命を反故にしたことのあつたと云ふ一の論據になるかも知れぬ。自分はそれ迄は言切らぬけれども、少なくも念佛踊に伴ふ鉦太皷が念佛供養と相生のもので無かつたことを、人形の方面から立證して置いて、次の阿彌陀の聖の起原を説く材料にしたいと思ふ。津輕のネブタ流しに用ゐらるゝサヽラに就いても後に猶述べたいことがある。

　

　　　　　　　聖と云ふ部落

　

　遊行上人の配下に屬する半俗半僧の念佛者を、俗には磬打と呼び表向には沙彌又は被慈利と申せし事實は（郷土研究二卷七四頁）、此階級の由來を明らかにする爲には重要なる一資料である。沙彌とは近世の語で謂へば道心者に當り、佛法に歸依するも未だ合法の得度をせざる者のことである。邊土に獨居して所謂持經者としての尊敬を受け生涯を終つた者もあつたが、最初は多くは本式の僧の從者として隨身し、度牒發給《どちやうはつきふ》の機會を窺つて居る。奈良朝の古文書に數多見ゆる優姿塞貢進の解なるものは即ち沙彌から僧にならうとする努力の跡である。沙彌は課役の免除又は官物施給の特典に與らないのみならず、學問淨行いかに年を重ねても、法名を附けて貰ふことが出來なかつたらしい。此一事は後世迄も多くの毛坊主の通有する特性であつた。度僧の法令が全く廢れて後も、彼等は常に俗稱童名或は生國などを以て呼ばれて居た。念佛の門徒の中では、奇妙なる歩み合を以て、ほんの一字だけの法名を與へ、其後へ是非其阿彌陀佛を添へて互に呼ばしめることゝした。何阿彌又は何阿と云ふ名は此から出たのである。鉦打は昔からの意味に於ける一種の沙彌には相違ないから、先づ以て此名稱は當を得て居る。

　次には被慈利と云ふ名であるが、佛道の慈惠利益を被る者と云ふ意味で、附會ながら趣意のある宛字である。而し(363)て通例ヒジリの語に宛てゝ居る所の聖の字を、特に避けて用ゐなかつた點は、更に一層深い意味があることゝ思ふ。記録の證據は無いが、聖の字を避けしめたのは外部からの壓迫かと思ふ。同じヒジリ坊主の中にも遠慮なく之を用ゐて居る者もある。紀州の高野で有名な高野聖などは、彼山に在つては夙に非事吏と書いて居た。世事を離れ吏務即ち寺の會計などに參與せざる隱遁の念佛者なるが故に非事吏だと説明せられて居る。骨の折れた發明だと思ふ。所謂高野非事吏の事歴は、丸々異なつた周圍の宗教生活を襯染《したぞめ》として、頗る鮮明に記述せられては居るが、而も何故に學侶行人の集團と對立して三分の勢を占める迄に繁榮したかの問題は、山の口碑ばかりでは解くことが出來ぬのである。聖方の寺院は後世六七十の多きに及んだが、足利時代には三十六道場、其以前には八葉の聖とて八人の遁世者が彼等の元祖であつた（眞俗興廢記）。或は少納言信西の下男、主人没落の後其末子なりし僧明遍を慕ひて此山に登り、念佛して世を送る。後に一遍上人の教に從つて念佛する者、追々に來り加はつたとも云ふ。明遍は眞言宗の名僧であつて、晩年法然一派の信仰に傾いた人である。此派と一遍上人の遊行派とは、念佛を行とする點ばかりは共通でも、教義は自ら別筋であるのに、高野では此等の者が寄集まつて聖方の一團となつたので、而もそれが臆面も無く密宗の山に寄生して居たのである。之を見ても此輩の教理に疎かつたことがよく分る。察する所高野山は經濟上にも一種の安樂境であつた爲に、諸國の田舍に住んで居た働かずに生きたいと云ふ横著な念佛者どもが、戰爭其他の壓迫ある毎に、類を?《もと》めては此山へ流れ込んだものであらう。

　併し高野聖は高野にばかり安住して居ることは出來なかつた。元からの住侶とは違ひ所領其他の資縁に乏しく、念佛三味で行ひ澄して居るわけには行かない。室町日記とかには「財寶無ければ善根を施すに便を得ず、諸國の路次に尸《かばね》を晒す無縁の靈骨を拾ひ、之を高野の靈地に納め菩提の資料に擬す。其骨を運びける料に負口を造りて諸州に遍歴す」とあるさうであるが（非事吏事歴）、果してそんな赤十字的事業を目的とした遊行生活であつたか否かは疑はしい。尤も行倒れの取片付は各地の下級毛坊主の普通の職業であつた。戰闘殺戮が盛んで人が亡靈の祟を怖れて居た時代に(364)は、鉦を打ち念佛をする者に其始末を依頼するのは便法であつたから、從つて非事吏が村里に歡迎せられた理由の一つは此であつたに違ないが、それがしたさに出てあるいたのではあるまい。近世の記録には「此輩定まれる資縁無ければ笈を負ひて諸國に托鉢し、無縁の死骨を拾ひ當山奧院に囘向す」とある（祠曹雜識四十五）、此方が正確であらう。但し碌でも無い生臭坊主までが托鉢乞食は人の爲にして遣るやうに言ふから、善根と云へば善根かも知れぬ。要するに行く先々善い位の事を喋つて寄進を勸めるのは、此徒の最も得意とする所であつたらしい。現に江戸期に入つて高野の聖方が頓に威勢を加へたのも、實は�ｺ川氏が三河在城の時から大�ｺ院と云ふ聖と檀縁を結んで居たのが元であると云へば（紀伊國續風土記五十二）、器量のある聖は追々と地方に地盤を作り、而も幕府では其一貫したる勢力分割政策を此にも應用したのである。此結果として本山では稍々規律だつた統一を行ひ得たが、猶末々の聖の年中東西に旅行して居るものは、生活の爲には色々な手段を講じて已まなかつた。高野聖が商賣をしたと云ふことは天正治亂記の八年九月の條に見えて居る（非事吏事歴）。關や渡津の面倒だつた時節に、僧徒の特典を利用して交易を媒介するとは拔目の無いことである。獨りそれのみならず、或は弘法大師などに假託して小民を欺き、護魔の灰と云ふ名稱なども此から出たと云ふ説もあれば、「高野聖に宿假すな、娘取られて耻かくな」と云ふ諺なども永く殘つて、彼等の評判は甚だよくなかつた。伊勢の鍬神《くはがみ》や鹿島の事觸《ことぶ》れでも、本社に聞けば一向知らぬことである。只の聖が高野から出たやうに言ふたのも多からうが、それと言ふのも聖は高野の出なると否とを問はず、大凡似たやうな遊行勸化を事として居て、言語や擧動で種類を判別し得なかつた爲であらう。長崎の出島即ち鎖國時代の居留地では、入口に制札が立つて居て、傾城の外一切女入るべからず、高野聖の外出家山伏入るべからずとあつたと云ふ（笈埃隨筆十一）。特に聖ばかりを許したのは何故であるかまだ分らぬが、勿論傳道布教の爲では無かつたらうと思ふ。

　近世の日本語では聖と言へば名僧のことでもあつた。既に上品に進化した高野山の聖方の僧なども、鉦打職の被慈利等と同一視せられるのを厭ふたに違ないが、如何せん諸國に散在するヒジリと云ふ部落はあまり感心した階級では(365)無かつた。現に紀州の中にも三昧聖とて所謂｜隱坊《おんばう》の類なる一族もあつた（非事吏事歴）。日高郡東内原村大字萩原のヒジリなども人の賤しむ部落であつた（賤者考）。三昧聖の三昧は墓地のことであらう。即ち此徒も尸骸の取片付を役としたのである。大阪にも此類の者が居た。元禄八年三勝半七相對死の折の庄屋口上書に、「墓所ヒジリ並乞食垣外ノ者下難波村庄屋方へ申來候ニ付」などゝある。併し必ずしも此類の職務には限られて居なかつた。職人盡歌合には暮露《ぼろ》のことを馬聖とも言つて居る。繪には有髪で袴を着け刀を差し、通事と番《つが》はせてある。暮露は徒然草にも見えて居る。腰に藁薦を卷いて露地にも坐するやうに構へて居た故に、薦僧とも言つたのであらう（越後野志二十）。ボロとは尺八の音から出た語かと思つたが、此徒の住地を風呂地《ふろぢ》と呼んだ例もあれば（紀伊國續風土記二十六）、まだ何とも決せられぬ。之を馬聖と云ふ理由に至つては誠に解に苦しむ所である。又神佛に仕ふる聖をば堂聖と云つたらしい。例へば羽前西田川郡大泉村井岡の遠賀《をか》神社の社記に、社家別當の外堂聖神子承仕等にて黒印高を配分したとある（三郡雜記下）、又聖神と云う祠が諸國に多い。或は此も遠慮して日尻神と書くのもある。土佐などには殊に聖神多く、一に坊主神とも云ふたらしい。ヒジリ坊主が住んで祀つたと云ひ、又は祠の名をも高野聖と云ふのがあり、或は弘法大師作の地藏を本地とするとも云へば、此地方の聖は高野を種にしたのかも知れぬ。然らば此も一種の堂聖である。又昔は俗聖と云ふ者もあつた。續々群書類從の第十六卷に、三州俗聖起請十二箇條事と題する一編を採録して居る。天治二年に成つたと云ふのは眞實であらう。其記する所は要するに在家の生活も信仰の妨にならぬことを説くので、其反面から當時耕作もすれば酒も飲むと云ふ自由な念佛業者のあつたことを示して居る。一遍法然の兩上人が未だ其勢力を振はなかつた時代に、既に此類の聖が村に入つて住んで居たことは、頗る注意に値するかと思ふ。佛教史家の御意見はどうあるか知らぬが、鹿の角の杖を突き金鼓を叩いて各地を巡歴した所謂阿彌陀聖の徒に向つて、最初に念佛の實地利益を説示した人は抑も誰であつたらうか。聖は固より教理の確信の上に立つ程の碩�ｺではあるまい。現世の方便に迷惑するほどな流氓《りうばう》の身上では、先づ以てそれが何程生活の助になるかを考へなければ、容易に其道にも入込み(366)得なかつた筈である。其試みをした者は或は空也上人の門派でなかつたらうか。此上人の傳歴に付ては、時代が一段と古いだけに、傳説的分子の添加が殊に多いやうに思ふ。假に其末流の主張する所を全部承認するにしても、源平時代の民間念佛と比べて最も著しい特色は、一には歌舞喧噪を主としたこと、二には癘魂攘却の目的に出でたこと、共に同時又は前代の御靈會や田樂の行事により多く相類して居ると云ふ點にある。殊に十一面觀世音を造立供養したと云ふのは障神祭《さへのかみまつり》の佛教的側面である。天慶年間は東西の大戰亂に次いで京師に疫病が流行し、非常に多くの人が死に人心が動搖した。後世の思想から言つても古來の慣習から推しても、大いに踊り騷いで御靈を追却すべき場合であつた。忌憚なく言はゞ、空也は單に其踊の囃詞に「南無阿彌陀佛」を推薦した迄の功であつたが、而も其文句に深い意味があつて上下の賛成を得、後々永く流行した。佛法の方から見れば即ち一の機縁が熟したものである。聖が念佛を學び終に阿彌陀聖となつたのは、此時などが始であらうが、聖其者はそれよりも尚以前から略々似たやうな生活をして全國を遊行して居た一種の階級であつた、と自分は考へて居る。天慶以後の念佛流行は如何に盛んであつたとしても、新たにヒジリと云ふ種族を作るだけの原動力であつたとは認められぬから。

　ヒジリと云ふ語が佛教の中で發生したものでないことは、其語義の方からも證明し得るやうに思ふ。ヒジリの日知の義であるらしいことは、小山田與清なども之を説いた（燕居雜話引十六夜日記抄）。但し「日知は日之食國を知看す日神に比したる美稱なり」と言ふに至つては、あまりに不自然な省略なるのみならず、聖帝と書いてヒジリノミカドなどゝ訓んだ場合には當嵌るが、日本紀の古訓に大人と書いてヒジリ（神武紀己未年）、又は仙衆と書いてヒジリ（雄略紀二十二年）と云ふものは勿論、「人丸は歌の聖」など云ふ聖にも適用し得ぬ説である。（この古今集の序がもとで、人丸を歌聖と云ふ習であるが、實は此も六歌仙などの歌仙であらう。）自分の意見では、ヒジリは單純に日を知る人、即ち漢語で書けば日者と云ふ語などが其初の意味であらうと思ふ。日の善惡を卜する風は我邦にも古くからあつた。例へば出雲國造の神壽詞《かむよごと》に、「八十日日《やそかび》は在れども今日の生日《いくひ》の足日《たるひ》に」とあるなどが其證である。併し必ずしも日の善(367)惡には限らず、日の性質を熟知して之に相應する行動を取り、又は巫術祈?を以て日の性質を變更することなども、上代の社會には最も必要なる生活手段であつたかと思ふ。武藏の舊族に日奉《ひまつり》氏、敏達天皇の六年二月に詔を以て置かれた日祀部、延喜式の神名帳に見えて居る陸奧｜行方《なめかた》郡の日祭神社の如きは、何れも天體の日を祭つたものでは無くして、時間の日を祝する任務をもつて居た爲に、公の機關としての必要を認められたものだらう。又諸國の郡名郷名に日置と云ふのがある。出雲の日置郷に就いては古風土記に日置伴部が來り停りて政を爲せし所とある。其日置部は古くは書紀の垂仁天皇紀にも見え、社の名としては同じく延喜式に東西の六ヶ國に日置神社がある。今日の假名遣ではオとヲとの差はあるが、日置のオキは多分｜韓招《からをぎ》などのヲキで、此も日祀のことかと思ふ。日知は決して右の日置部日祀部の部曲の者の名だと言ふのでは無いが、日の性質に通曉することを大事なことに考へた昔の人としては、聖者又は仙人と云ふが如き優れたる人格に向つて、日知と言ふ名を附するのも不自然で無いこと、恰も先生を物知と云ふと同じである。但し聖の字を持つて行くのはあまりの事と云ふ人があるかも知れぬが、亦例がある。東國通鑑に依れば、新羅の第九王伐休尼師今、姓は昔名は伐休、脱解の子角干仇鄒の子なり。王風雲を占して預め水旱及び年の豐儉を知り、又人の邪正を知る、之に由て觀れば、天皇をヒジリノミカドと申上げたのは、多分は聖天子など云ふ漢語の直譯であつて、何れの世にも天皇を神とこそ申せ、ヒジリと唱へたことは無かつたのであらう。毛坊主如き者の元祖と共通の名と云ふのは畏多いが、要するに上古の文學などは此ほど迄に平民と没交渉のものであつた。民間のヒジリにも聖の字を當てたのは恐らく後世の佛徒などの業で、此頃はヒジリと云ふ者はあつても其業既に退歩し、何故にヒジリと呼ぶかゞ既に不明に歸して居たらしい。中國邊の地名に小童と書いてヒジと呼ぶ者がある。例へは、

　　美作眞庭郡二川村大字｜小童谷《ひじや》

　　備後世羅郡廣定村大字｜小童《ひじ》

の類である。備後御調郡八幡村大字｜美生《みのふ》にも小童山と云ふ城地がある。他の地方に肘作又は肘屋敷などの地名もあれ(368)ば、此ヒジも一種の部落で多分はヒジリの下略であらう。小童と毛坊主とは一見關係が無いやうに見えるが、日知にして念佛に携はらぬ者が殘つて居たとすれば、やはり亦ハカセや山伏と同じく童兒を使つて因祈?などをして生活したに違ない（郷士研究一卷二〇七頁參照）。所謂念佛聖の方面に於てもヒジリをヒジと呼ぶに至つたらしい一例は、例の秘事念佛である。三陸地方の秘事念佛のことは加藤咄堂氏の日本宗教風俗志に見え、肥前の一部に今も行はるゝ秘事法門の結社に就いては、井上圓了氏の日本周遊奇談に記されて居る。何れも眞宗の一派にして密室念佛を專らとするが故に、異端の如く取扱はれ、江戸では有名なる御庫門徒の刑事々件も起つた。此派の歴史は勿論暗黒であるが、其名稱の秘事は宛字であらうと思ふ。此類の群衆心理を利用する催眠術的傳道は、昔の踊躍念佛を始とし現代のタスケタマヘの天輪王に至るまで、段々と例のあることで、秘事と聞えて愈々猜疑の眼を以て看られたのは、誠に此聖ばかりの大不幸であつた。

　斯く考へて來ると、鉦打を被慈利と書き高野の聖を非事吏と書かしめた理由も稍々わかる。即ちヒジリに當てた聖と云ふ文字があまりに結構な字である爲に、勢力ある名僧たちに横取せられてしまひ、下品の念佛者は實は本家本元のヒジリであつたにも拘らず、却つて遠慮をして安物を用ゐねばならなかつたのである。此序に言ふが、漢字の輸入せられた時代には後世の南方君のやうな博識家はあまり居なかつた爲に、和漢の二種語の對照が必ずしも常に適當と云ふを得なかつた。而も出發點を誤つた漢學の進歩が、逆に日本の事物の解釋を變更した例は獨り右の聖の字のみでは無い。我邦でも僧侶を上人と呼ぶことは何時の頃よりか支那の眞似をした。而も其上人たち、上人で居ればよいものを、聖人、と書く方が堂々として居るとでも考へたか、無理に之をもシヤウニンと讀ませ、勸進聖が勸進聖人と人の字を加へて格が昇つた氣で居ると、結句其爲に御里が露顯して、いつまでも三昧聖や墓所聖との因縁を尋ねられるのである。不自然な萬葉假名などを用ゐて區別しても、ヒジリは悉く皆昔の日知の退歩したものである。

　

(369)　　　　　　　鉢叩きと其杖

　

　關東の鉦打に對立して京以西の國々には鉢叩と云ふ部落がある。二者は單に名稱が似通うて居るのみでなく、其成立と生活　　　状態とに於て亦著しい類似を示し、元は一つの日知階級が右にも往けば左にも分れたのでは無いかと想像せしむる理由がある。故に此次はその鉢叩を細敍するのが順序である。さて鉢叩と云ふ名稱は、鉦打が鉦を打つから其名を得たのと同じく、鉢を叩いたが故に鉢叩だと云ふのが普通の説ではあるが、少なくも中古以來の鉢叩の叩くものは、鉢では無くて瓢であつた。從つて其ハチと云ふ語が不明になる爲に、色々珍しい傳説も現はれた。之に就いての意見は追つて述べて見ようと思ふ。第二の肝要なる點は、鉦打は時宗遊行上人の門徒であるに對して、鉢叩は今日までも引續いて空也上人の流を汲む天台宗の一派であつたことである。鉦と瓢と二種の樂器の差別も、或は二派の念佛式の相異に基づくもので無いかと思ふが、それは自分の未だ詳かにせざる所である。空也派では毎年十一月十三日を以て祖師の忌日とし、其日より四十八日間即ち除夜の晩まで、其派に屬する例の道心者が、瓢箪を叩き高聲に念佛して毎夜洛中洛外を隈無く廻る。之を鉢叩と稱し俳諧の冬季の一名物であつたから、京都の人で無くともよく知つて居る。但しそれが大槻如電翁などのやうな素人の思附では無かつたことを、此から述べんとするのである。

　京の鉢叩の居住地は四條坊門油小路（下京區龜屋町）の極樂院光勝寺、一名を空也堂と云ふ寺の地内であつた。其寺の住僧は十八家の鉢叩の一臈《いちらう》即ち最年長者であつて、此人のみは頭に毛が無く法衣を着た處の和尚で、代々法名の一字に空の字を用ゐて居た。其他の鉢叩は悉く有髪妻帶で法衣の上ばかりと見ゆるやうなものを着て居たが、それも元禄以後のことであつて、昔は皆鷹羽の紋を附けた素袍の上ばかりを着て居り、常は茶筅を賣つて生計を立てゝ居た(370)と云ふ。（祠曹雜識十五、閑田耕筆二、佛教辭典）此徒自ら稱する所に依れば、彼等が祖先は平定盛と云ふ者であつた。獵を以て常の業とし後世の念も無かつたのを、空也の教化に由つて發心入道し、法名を眞盛と呼び私宅を捨入して此寺を建てたとある。此縁起はどうも單純な作言で無いやうだから些しく之を分析して見たい。先づ第一に寺の開基を獵人の歸依とすることは非常に多くある型である（郷土研究二卷一九頁參照）。此が京都の眞中である故にちと珍しく聞えるが、山々の伽藍の地は多くは以前の、地主から其地を乞はねばならぬので、高僧傳道の事績は必ず山人と交渉があつた。つまり高野山の丹生明神《にふみやうじん》、三井寺の新羅明神《しんらみやうじん》乃至は羽前山寺の盤司磐三郎《ばんじばんざぶらう》などの話を世話に碎いた一條の物語である。第二には定盛が鹿を射て發心したと云ふこと、是は後に説かうとする鹿裘鹿杖の由來を説明せんとするものらしい。第三には平定盛と云ふ名である。是は諸國の空也派の口碑に天慶の亂のこと及び將門の遺族とか亡靈とかの話を折々伴つて居るのを考へると、定の字は違ふが最初は平貞盛を意味して居たらしい。空也の傳記に比べて年代は合ふ。唯何分にも平家の總領が鹿を獵して生活する野人であつてはをかしいから（さう言へば獵人が京都の中央に住んだのもをかしいが）、誰かそつと別人にして置いたのであらう。法名を眞盛と云つたなどが殊に其想像を強くする。而して何の爲に貞盛を引合に出したかと言へば、前にも一寸申した如く（郷土研究二卷三二六頁）、戰亂の後に於て御靈の憤怨を慰めねばならぬ必要を最も多く感じた人は、征討軍の中でも將門の當の敵たる貞盛であるべく、空也の念佛は又其目的を達するに最有效の方法であつたから、縁起としてこの二つを結合させたので、決して空想の小説では無いのである。

　鉢叩は勿論京都以外の地方にも住んで居た。今其二三の例を言へば、近江栗太郡下田上村大字黒津にはナツハイ堂の地と云ふ處があつた。空也の流を汲む鉢叩と云ふ者、毎年七月此處に來て瓢を叩き鉦を鳴して踊念佛をしたと傳ふ。件の鉢叩の子孫は享保年間までは相續して居つたが、後は只此堂の跡と云ふ地に石佛二體があるのみ云々（栗太誌十九）。ナツハイ堂は夏祓堂《なつはらひだう》であらうとのことである。同國東淺井郡小谷村大字別所の枝郷大洞と云ふ地には、ずつと(371)後年まで鉢叩と云ふ者が村の南方に離れて住んで居た。空也上人の流を汲む者だと云ふ（淡海木間攫十）。世俗に所謂唱門師と云ふは此かとの説がある。筑後｜三瀦《みつま》郡江上村大字江上には、少なくも二百年前迄、歌舞妓傀儡及び踊念佛を業とし俗に鉢叩と呼ばるゝ者が十戸ばかり住んで居た。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童俳優を專らとし人をして頤《おとがひ》を解かしめ、凶事には念佛諷經を專らとして人をして感を起さしむ、其體凡俗にして或時は衣冠（！）を帶して郷士に形容し、或時は褊綴《へんてつ》を着け僧侶に準擬す。故に其居處を名づけて寺家と謂ひ、世俗呼びて鉢叩又は念佛坊と謂ふ。其先を問へは傳へ云ふ空也上人の流を汲む者と云々とある（筑後地鑑上）。鉢叩が所謂河原者と似たやうな業體をするのは妙であるが外にも例がある。つまり念佛を頼む人が少なくなり茶筅の需要も多く無い結果の據無しであらう。筑前では今の糸島郡｜前原《まへばる》町大字泊の大日堂の傍に又數十人の鉢叩が住んで居た。此大日堂は以前の大祖山大日寺の址で、天慶四年空也上人の創立する所と稱し、本尊は志摩《しま》郡五佛の一つで名譽の大日である。大日堂の境内に住むからか鉢叩のことをも後には人が大日と呼んだ。最初は專ら九品の念佛を修じたのであつたが、次第に歌舞を業として四方に遊行し、淫靡の音樂を以て俗を悦ばしめて口を餬《ぬら》すやうになつた。又傀儡の舞を爲さしむとあるのは人形を使つたことであらう。霜月十三日を以て空也の祭を營んだと云ふ（太宰管内志引、貝原翁説）。筑前の中には博多聖福寺の附近に住する寺中と云ふ部落、蘆屋植木の念佛と名づくる人民など皆此類であつたと云ふ。芦屋念佛が空也の徒であつたか否かはまだ知らぬが、此も亦昔は九品念佛を專らとした者が、後には歌舞の藝を諸國に鬻《ひさ》ぎて妻子を養ふやうになつたのである。而して芦屋に於てもやはり寺中町などゝ、此徒を呼んだと云ふのを考へると（太宰管内志）、博多の寺中及び筑後江上の寺家などゝ共に、何れも大寺の庇護の下に生息して居たこと恰も東國に於て院内《ゐんない》と稱する一種の陰陽師が常に寺の世話を受けて終に院内と云ふ名稱を得たのと同じでは無かつたかと思ふ。

　又ハチと呼ぶ部落がある。事によると右の鉢叩と同類であるかも知れぬ。ハチの分布に就いては自分は殊に詳しく無いが、紀州熊野でハチ又はハチンボと云ふ階級はシクの下エタの上に置かれて居て其婦人は或は口寄巫を業として(372)居る（郷土研究一卷二五三頁）。伊賀では?房《をんばう》（隱坊）のことをハチと云ひ土師《はじ》と書いたものもあつた（賤者考）。穢多ではあるが昔は僧形であつたと云ふ（竹葉寅一郎氏報告）。此點はまだ些しく疑はしい。文化四年松平大隅守家來より寺社奉行へ出したる書上に依れば、其領分丹後國にも鉢と稱する者が居た。竹細工を以て渡世とし、村竝には住居すれども家居を混雜せず、百姓町人と縁組はせざれども穢多非人の類には非ずとある（祠曹雜識四十）。この竹細工云々の記事から考へるとハチはどうやらハチヤ又はチヤセンと稱する部落と同じ者らしい。鉢屋ならば山陰の諸國に澤山居た。前に引用した賤者考の中にも、「出雲にては番太をハチヤと謂ふよし、彼國より留學に來れる者言へり」とある。伯耆志を見ると村々の雜戸に鉢屋甚だ多く、屠兒とは別にして掲げてある。米子に久しく居られた沼田頼輔氏は、伯州のハチヤは關東の番太に似た者で穢多では無いと言はれたが、勿論番太專業では此だけの人口は食へぬから他の職も色々あつたらう。因幡岩美郡中ノ郷村の鉢屋などは石切細工が生業であつた（因幡民談三）。三浦周行氏は出雲の人であるが、其郷里のハツチヤに就いて斯う言はれた。彼等は箕を直し茶筅を作り又石を切る。古くより土着して居るので金持も多い云々。此徒茶筅を作るが故に又一にチヤセンとも呼ばるゝことは次の章で更に説かうと思ふ。而して鉢屋茶筅が亦空也の門派であることは明白な證據がある。松平出羽守家（松江侯）の同じ文化四年の書上に曰く、此領内では茶筅と鉢屋とは同じものである。牢番を職とし取扱は穢多に近い。國内に鉢屋寺が三箇寺ある。去丑年（文化二年）のことであるが、京都空也堂の院代と稱する僧下り來り、雲州鉢屋は我寺末派の者である故、爾今取扱を改めて貰ひたいと申出でた云々とあつて、之を謝絶した顛末が詳しく記してある（祠曹雜識四十）。之を見ると此派の勢力が小さくて遠國の門徒の世話が時宗の鉦打ほども行屆かず、終に本業の念佛は忘却して色々の雜役を拾ふ所から、次第に特殊の待遇を受けねばならぬやうになつたのかと思ふ。山陽道は一般に茶筅の名で通つて居るが、獨り廣島領のみは之を穢多と同一に取扱ひ、藝藩通志などにも屠者《としや》と瞽者《こしや》と二種より外の名目が見えぬ。今の廣島縣安佐郡龜山村には大畑・青・丸山・大野などの特殊部落がある。此地の口碑に依れば、昔はエタに長利派《ちやうりは》八矢《はちや》中間《なかま》の三種族があ(373)つたが後に皮田と云ふ一種族新たに起り專ら獣類の皮を取扱ふやうになつた云々（廣島縣特殊部落調）。此古傳は頗る鉢屋退歩の歴史を語るものゝやうに思ふ。

　鉢叩には鉦打と違ひ色々妙な持物がある爲に、其由來を訊ねるのによほど手懸りが多い。瓢箪と茶筅の事は別にまとめて之を説くつもりである。今一つ注意すべきものはワサヅノと名づけ鹿の角を頭に取附けた杖である。鉢叩が此杖を持つことは七十番の職人盡歌合の歌にも見え（和訓栞）、又明應年間に出來たと云ふ甘露寺の職人盡の繪にも、鹿の角の附いた杖に瓢を下げて之を地に立て、鉢叩が其傍で別の瓢を叩いて居る所がある（　　　竹均庭雜考三）。後世の俳諧の鉢叩は左の手にフクベを持ち、右には一尺ばかりの細い篠竹を持つて之を打つてあるくから（増訂一話一言四十六）、終に鹿の角とは別れてしまつたが、以前は杖も鉢叩に缺くべからざる道具で、而も鉢叩に限つて持つものと認めて居たらしい、と云ふのは三百年前の編述に係る空也上人繪詞傳、及び次いで世に出た雍州府志卷四にも、上人が北山に假住せられし頃、毎夜來て鳴いた鹿を例の平定盛が射殺したので、憐憫の餘り其角と皮とを乞受け、皮は之を裘《かはぶくろ》として着用し角は之を杖頭に插した云々。遠慮の無いことを言へば此話は夢野の鹿の燒直しである。著聞集か何かにも下僕が鶯を射留めた話があつたが、昔の人は克明だから斯う云ふ出典のある縁起をこしらへたので、虚誕《うそ》にしても罪が淺い。ワサヅノの空也門徒ばかりの物で無いことは證據がある。例へば袋草紙に惟成辨出家をして後、賀茂祭の日にワサヅノを持ちて一條大路を渡るとあり、夫木集の歌に「ワサヅノを肩に掛けたる皮衣けふのみあれを待わたる哉」などゝあるのは、昔は賀茂の祭にかゝる風體の者が出たからであらう（和訓栞）。或は賀茂と貴船との關係から、此も空也上人の因縁に基いたやうに説き得るかも知らぬが、些し模倣の時代が早過ぎるやうに思ふ。今昔物語には金鼓を叩き萬《よろづ》の所に阿彌陀佛を勸めてあるいた阿彌陀の聖と云ふ法師が亦鹿の角の杖を突いたとある。此なども空也に隨從した鉢叩の先祖と見られぬことは無からうが、他に之を推測せしむる材料無き限は當時の聖なる者が一般にこんな杖を突いて居たと解するのが正しいと思ふ。

(374)　さてワサヅノと云ふ語の意味であるが、此迄未だ明瞭なる解説をした人が無い。ワサとは今でも紐を結んで輪にした形を謂ふから、各地を漂泊する旅の法師が其杖の頭を鹿角にした最初の趣旨は、荷物などを之に引掛けて肩にせんが爲では無かつたか。此點は聖の根原を知る爲によほど重要な事であるから、支那其他の外國の類例を比較して詳しく調べたいものである。自分が之と關係があらうと思ふのは、古來鹿杖の漢字を宛てゝ居るカセヅヱのことである。倭名鈔僧房具の部に鹿杖、漢語抄云鹿杖加世都惠、同じく行旅具の部に横首杖、唐韻云※［是＋丈の點有り］横首杖也、漢語抄云※［是＋丈の點有り］加世都惠一云鹿杖。即ち古代の鹿杖は漢名は※［是＋丈の點有り］で、又横首杖とも云ふを以て察すれば、近世の坐頭が用ゐて居た所謂｜手木《しゆもく》杖のことかとも思はれる。此事に就いては伴信友の最も綿密な考證があるが（比古婆衣九）、其結論のみはまだ容易に信じられぬ。其説の大要に曰く、カセヅヱのカセは機織に使ふ※［手偏＋?の旁］で（古名カセヒ）絲を卷く爲に作つた二股の器である。古く鹿をカセギと謂つたのも其角の形が似て居るからで、此と同樣に後世の所謂サンマタ或は枯木の枝をもカセギと呼んだのであると云ひ、※［手偏＋?の旁］杖の名の起りも其杖の尻が二股に分れて居た爲だらうと、繪卷などの中から尻の二股なる多くの例を寫し出して居る。而して其一名を横首杖と云つた説明としては、單にさう云ふ尻の※［手偏＋?の旁］形なる杖が多くは其頭を手木形にして居たからと云ふことにして居るが、此點は自分の承認しにくい説である。現に伴翁の引證した繪の中にも、尻二股にして頭の横首ならぬもの、横首杖にして尻の普通のものもある。又平家物語の清盛高野登りの條にも、老僧の白髪なるがかせ杖の二股なるにすがつて出で來給へりとあるを見ても、カセヅヱ必ずしも尻二股で無かつたことが分り、之を※［手偏＋?の旁］と名づけた所以は寧ろ頭の手木形であつたからと想像せねばならぬ。法師が※［手偏＋?の旁］杖を持つた例は外にもある。京都實法院の什物たる解脱房貞慶上人の像などはそれで、坐像の前に※［手偏上下］杖と草履が置いてある（考古圖譜四）。此上人は源平の亂の後京の眞如堂再建の爲に勸進聖となつて諸國を巡つた人と云ふから（眞如堂縁起）、多分は其�ｺを記念したものであらう。仍て思ふに横首杖を行旅具に算へたのは、此杖も亦ワサヅノと同じく荷物などを結附けて肩にするの用があつた爲で、更に之を鹿杖《ろくじやう》と書くのは單にカセの字の宛字では無く、鹿角を枕頭に插した空(375)也上人などのワサヅノも亦カセヅヱのことであつた證據かと思ふ。前に引いた今昔の阿彌陀聖の條に、「鹿の角の杖の尻には金の机〔傍点〕にしたるを突き」とあるが、机の字は※［木＋又］椏などの誤かも知れぬ。さすれば伴翁の説の通り、此種の杖には尻の二股なのが多かつたと云ふ一例になる。是も亦行旅の必要からであらうが、西洋では鑛物又は地下水を捜索する術者が、昔から此二股の枚を用ゐて居たのは注意すべきことである。

　東京西郊の納涼地熊野十二所の森ある村の名を古くより角筈《つのはず》と云ふ。今は淀橋町の一大字である。江戸志には十二所縁起を引いて、伊勢神宮の忌詞に僧を髪長と稱し尼を女髪長と稱し優姿塞を角筈と云ふ、其角筈であらうとある。成程熊野は昔より優姿塞の齋き祀る神であるから、其社に近い角筈の説明としては尤もらしい。而して右の神宮の忌詞の古く物に見えて居るのは、延暦二十三年八月造進と稱する大神宮儀式帳である。優姿塞と云ふ梵名が日本では例の聖又は沙彌を意味して居たことは此からも追々立證する考である。其ヒジリを何故に角波須と呼ばしめたか。今までは此と云ふ心｜惡《にく》い説も出なかつた。自分の見る所ではやはり亦ワサヅノ又はカセヅヱに基くものと思ふ。筈は言海には「打違ひたる文、又くひちがひ」とある。それ迄には進まずとも弓端調と書いてユハズノミツギと讀ませた古例を推せば、頭を鹿角にした杖を突くのが特色である故に、角筈を以て聖の隱語としたと云ふても無理はあるまい。さうなれば鉢叩の本源は稍々又明らかになるのである。

　坐頭即ち盲人の良い階級に手木杖を持つことを許した理由も、自分はやはり同じ方向より觀察したいと思ふが今は枝葉に亙るから略して置く。本節の論ずる所を一括すれば、要するに鉢叩鉢屋と云ふ部落も亦毛坊主であつて、空也派に從屬し踊躍念佛を專業とした一種である。彼等の持つ杖は昔の放浪生涯を表示して居る。今は土着して居るが世間の待遇は冷かであつた。彼等の職業は賤しかつたが其説く所の由緒は堂々たるものであつた。さうして作り言が多かつたらしいと云ふ迄である。關東の鐘打と如何によく似て居るかは尚追々と立證せられるであらう。

　

(376)　　　　　　　茶筅及びサヽラ

　

　鉢叩の部落が最も甚しく冷遇せられたのは、廣島縣地方では無いかと思ふ。例の祠曹雜識卷四十に採録せられたる、文化五年の松平安藝守家來の報告に依れば、藝州領では人別帳には鉢屋又は茶筅の名目は無く、只｜革田《かはた》と呼ばるゝ者のみ多くあつた。之を下方にて穢多とも茶筅とも區別したのである。茶筅平日の召使ひ方は、盗賊召取或は仕置者ある時、專ら此徒を召使ひ、常々は牢番等仕らせ、平人とは全く別者に取扱つたと云ふことである。秋長夜話《あきのよながばなし》の中にも、「廣島に孟蘭盆の頃｜丐戸《えた》どもの茶筅を賣るに、鐘を打ち誦文を唱ふるは、彼もと鉢叩の一流の者なりけるを、今は太鼓を打ち騷がしくのゝしるは、本を忘れたるべし」とある。此?態は今日迄も殘つて居ると見えて、近年此縣から内務省へ報告した特殊部落調にも、例へば賀茂郡｜吉土實《よしとみ》村の南方、會下山と云ふ丘陵の麓に住む部落は、之を茶筅とも又穢多とも呼んだと云ひ、豐田郡高坂村大字｜眞良《しんら》の内、石丸・苅山谷・甲山谷・江良頭及び畝の五部落に居住する新平民は、總戸數六十六戸あつて、其一名を茶筅とも稱すとある。此一類は小早川家が城取立の時此地に入來ると傳へ、山間又は高地にのみ居を構へて居る。享保年中まで諸大名の通過に際し茶筅を實行したとある（以上）。茶筅を實行するとは何を意味するのか、是非とも彼地方の人に調べてもらひたいものである。周防長門にも茶筅が村々に住んで居たことは、二國の天保風土記に確證があるが、穢多などゝ取扱の差別が有つたか否かは未だ之を詳かにせぬ（郷土研究二卷一二一頁參照）。備後では福山領にも茶筅の徒處々に多かつた。正月の鳥追には此徒太鼓を打ちて家々を廻る外に、山村には茶筅の謠初と云ふこと正月三日に行はれた（風俗問?答書一）。常はふり〔二字傍点〕茶の茶筅又は草履などを作つて居る。空也の流を汲むと稱すれども僧には非ず。百姓の家へ來る時は内へ入るに憚も無く、酒店などにては良民と同(377)じく酒を暖めて給《た》べなどす。坐上へは上らず。門に立ちて食を乞ふことは無し。正月五節句などに草履をさゝげて人家へ來れば、相應に禮をする。又麥稻などの初穗とて少々づゝ貰ひ候。これは死人ある家にては門を固め、葬場の世話を爲し、又野荒しの番をしたり、村方に非常の事出來の際警護などする故なりと云ふ（風俗問?答書五）。即ち關東などに所謂番太の職務に任ずるもので、其社會上の地位は右の文面によつて略々明らかである。

　備中の茶筅が生活?態も先づは大同小異であつた。村方により或は茶筅と呼び或は隱墓と云ふが同じ者である。人別帳の儀は別帳にしてあるのもあり又百姓人別の末に書加へたものもある（祠曹雜識四十）。後月《しつき》郡井原町の茶筅與吉郎なる者の差出したる目安に依れば、秋冬は茶筅を、夏は團扇を拵へ當村及び近郷にて彼等が檀家と唱ふる家々に配り、麥籾などを相當に申請け、「右の外に加役にも候や、當村番人を相勤め罷在候。縁組の儀は百姓家よりは致さず候云々」とある（同上、以下皆同）。板倉充之進領分の文化五年の調査では、今の備中吉備郡總社町（八田部村）及び淺口郡玉島町に隱亡と云ふ者が住んで居た。亡者の取扱又は非人番等を致させた。年始には村内へ茶筅を配る故に茶筅とも唱ふれども、人別帳には隱坊とあつた。同じく木下肥後守領分同郡足守町附近に於ては、三ヶ村に二十二戸の隱亡が住んで居た。在町の死人を扱はせ非人の番等をさせた。極月に至り茶筅を配る故に又茶筅とも言ふ云々。諸國のオンボウが悉く茶筅鉢屋の一類であるか否かは、此だけの材料では勿論決しかねる。只名目の如何には拘らず、此輩の職業が特に人の厭ふ亡者の取扱に專らであつたことは、幾分か然りと云ふ推定を助けるやうに見える。次にはオンボウと云ふ語の起りはどうも御坊であるらしい。之に充つるに隱墓・隱亡・隱坊・?房（郷土研究二卷四〇一頁）等色々の文字を以てする事實は、亦此團體が衰頽して各地の一致を缺いた?態を側證する者とも認められる。

　備前の御坊が果して茶筅の特色を具へて居たか否かは、自分の未だ明らかにせざる所である。美作では勝田郡植月村大字植月北に、茶筅と夷札を人家に配り格式は鉢と同じき者があつた。其名をエビスオロシと謂つた（同一卷二一三頁參照）。播磨は宍粟《しさう》郡河東村（須賀村）にも、村の端に茶筅が居た。農隙に茶筅サヽラ等を作つて之を居村だけに配(378)つたと云ふ。此他にも番太乃至はオンボウは村々にあつた。併し其者右の如き竹細工に携はつて居たことは之を記憶せぬ。併し北の山を越えて但馬に入れば、出石領にも所々の幕府領にも多くの茶筅が居た。同じ文化四年の生野陣屋の報告に依れば、此地方の茶筅は多くは百姓本村とは隔たりて部落を爲し、人別帳は一帳であるが、水呑百姓よりは又一段と末に記し、普通の農民とは通婚しなかつたが、田畠を所持する者はあつた。農の隙に笊箕簀の類を製して渡世とす。頭は無く村役人之を支配し、穢多非人の類とは看做されて居なかつた。彼等は昔難病を煩つた者の子孫である故に、今も縁組を厭はれては居るが、其病は空也上人に歸依して茶筅で茶を立て之を佛に供へ、其茶を戴いて既に全く平癒したのであると云ふ。後段の説は多分は彼徒自身の主張で、之に就いても自分は永々しい意見を持つて居る。同國｜城崎《きのさき》郡｜竹野《たかの》村の茶筅が、竹細工及び田畑小作の外に渡守を職業として居たと云ふこと、是亦注意して置くべき事柄である。丹後では今の熊野郡田村大字平田の茶筅は、穢多非人とは別にして、田畑小作の外當時木挽をも爲すとある。牧野豐前守領分同國舞鶴附近の茶筅は、一名を鉢ともサヽラとも呼ばれた。本村の百姓と神事參會等の交際無く、床の上へは上げず土間に差置いて應對をした。併し穢多非人では無く、相火を忌まなかつた。主たる職業は乞食行倒人の取扱で、年始五節句には祝言を述べて物貰に廻つたとあつて、此地では名稱の由來は説明して居らぬ。

　さてこの茶筅と云ふ名の起りが、彼輩常々茶筅を製して之を配つたからと云ふことに、各地の傳説略々一致して居る以上は、茶筅と鉢叩と同じ者だと云ふ證據は既に十分と言はねばならぬ。現に京都の鉢叩も、近い頃まで此品を販いで生を營んで居たことが、多くの書物に見えて居る。月堂見聞集卷十九、享保十一年十二月の條に、去十一月二日法皇御所學修寺（？）へ御幸の節、御慰として鉢叩二人參り、青竹を切りそれより段々仕上げ、茶筅に仕立て叡覽に供ふ云々とあつて、此徒の技巧が永年の京住にも拘らず必ずしも退歩しなかつたことを示して居る。柳亭記にも案内者と云ふ古書を引いて、鉢叩常々茶筅を創りて營みとすとあるが、是は果して近世の事實と合するであらうか。猶調べて見ねばならぬ。事によると京都の鉢叩は、後々は單に取次版賣又は僅かの仕上げを以て常の業として居たかも知(379)れぬ。國花萬葉記を見ると、京は蛸藥師御幸町西へ入る町、高山茶筅所とある。即ち大和の高山から茶筅を持つて來て賣つたのである。高山は今の奈良縣生駒郡｜北倭《きたやまと》村の大字で、隣區の南北田原などゝ共に、名物奈良茶筅の本場である。古來多くの茶筅師居住し、今も盛んに此品の生産に從事して居ることは、此村が所謂模範村のちやき／＼である爲に、内務の役人などはよく知つて居られる。併し此村と空也門徒との關係の有無は誰に聞いてもまだ判明せぬ。勿論茶筅を製する者皆「茶筅」なりとは言ひ得ぬことである。大和河内に於ける自分の所謂角筈の遺類は、如何なる生活を送つて居たか。此問題は將來の研究に委ねたい。只或時代此地方にも茶筅と稱する部落の居たらしい仔細は、所々の地名に茶筅屋敷・茶筅田・茶筅谷・茶筅松などゝ云ふものが今も殘つて居ることである。此序に一寸書いて置くが、甲斐國志を見ると、南｜都留《つる》郡鳴澤村の雨乞山、頂上の僅かな平地に礎石存するを役行者屋敷と云ふ。「傍に小池あり旱の年にも涸れず、昔は山伏ども此山に參籠して行法を修じけりとぞ。峯に茶筅木と云ふ古木あり。遠く望めば茶筅の形に似たるより名づくるか」とある。又同郡｜道志《だうし》村から相模の中川村へ越える古道サガセ峠の向に堀切の址あり。楢の古木二本相對して道を挾む。根より枝茂り茶筅の如し。故に里人茶筅楢と云ふ。其下に稍々平らなる所を信玄屋敷と云ふ。永禄小田原入の時此地を通ると云ふ云々。通行したゞけに信玄屋敷は殊にをかしい。木や岩の名稱を形似から説明するのは甚だ容易であるが、其代りに意を以て迎へた見方が多い。自分などは寧ろ之を茶筅の徒が住んだ址又は行をした所と考へて居る。たしか尾張志にも、オチヤセンと稱する小さい林藪を、織田信雄（童名茶筅丸）の胞衣を埋めた處とか云ふ説があつたが、自分は却つて何故に此人茶筅を以て童名にしたかの問題の方が六つかしいと思ふ。

　甲州に茶筅の居たことはちつとも意外では無い。隣國武藏の南多摩郡元八王子村大字下一分方字四ツ谷の中に、茶筅村と唱ふる一區あり、之に住するは非人であつた（新編武藏風土記稿）。團左衛門が由緒書にも、一サヽラ・一茶セン、右は關八州村々に有之候へ共當時は無之とある（一話一言二十六）。近頃活版になつた南總珍の、上總鹿野山茶を(380)産する條に、此國は茶園少なく小民山野に入りアワタチと名づくる季秋小さき黄色の花咲く植物を採來り茶に交へ飲むことを記した次に、「今は茶を立てゝ飲む者一人も無し、故に茶筅ズウ來らず云々」と云ひ、「又茶筅ズウは京都空也堂鉢叩、常に茶筅を賣り渡世とす、茶筅僧と云ふことズウと誤る」ともある。併し右の茶筅ズウが果して空也の徒であつたかはまだ疑ふ餘地がある。上州高崎の磬打は（郷土研究二卷七三頁參照）遊行上人の門派であつたけれども、やはり副業として茶筅を作つて居た（柳菴隨筆八）。奧州仙臺邊では昔は農村に茶筅を配る者は薦僧《こもそう》であつたと云ふこと、嬉遊笑覽の頭書の外に、曾て何かで見たことがあるが、今其書名を忘れた。要するに竹細工と日知部落と關係のあることだけは、略々全國通有の事態と見て宜しい。

　以前茶を立てると言つたのは掻廻して泡を立てるからでは無かつたらうか。それは兎も角も、昔の茶の飲方には常に茶筅が必要であつたのは南總珍に記す通りで、從つて尋常農家に於ても此物を求め、茶筅が之を配るのは決して千利休の家ばかりでは無つた。空也の佛教の日本喫茶史に交渉あるは、却つて榮西の佛教に勝つて居る。後年茶釜茶袋を便とするに至つたことは、田舍の鉢屋に取つては眞に大事件であつた。此の如くにして彼等の歴史は一段と不明瞭になつたのである。是も前記の祠曹雜識の中に、もと稻葉丹後守領分江州｜野洲《やす》郡玉津村大字赤野井に、茶筅挽人と稱する者十二軒、村の乾の隅に一所に住す。空也上人の末派と稱す。村方とは縁組せず、但し一季半季の召抱は平人と同じ。多少の持石ある外に、内六戸の者は米麥の初穗を貰ふ。近郷へ初穗貰ひに行く時は、衣にて鉦を打ち念佛を唱へ廻る。正月には茶筅を賦《くば》る。當時はサヽラを賦る。それのみにては生活に足らず、農業を主一とするとある。此に謂ふサヽラは竹を細く割つて作つた物を洗ふ器で、言はゞいと粗末なる茶筅である。從つて茶筅が廢れて餘巧を此方に移したやうに見えるかも知らぬが、實は此サヽラに就いては茶筅よりも一段と古いかと思ふ沿革があつて、備中井原の隱坊が夏は圃扇を作つたのと、日を同じくして論ずることは出來ぬのである。嬉遊笑覽卷二十三の頭書に曰く、「鉢叩は鉢を摺るにサヽラを用ゐたりしなるべく、彼等が今茶筅を賣るは其爲なるべしと云へり」と。後世京の鉢叩(381)が細い篠竹を以て瓢を叩くのを見ると（郷土研究二卷四〇三頁）、此説は如何にも臆測らしいが、サヽラは簡略なつまらぬ物ながら實は千年以來の民間の一樂器であつた。近世に在つても正月の鳥追から節季のセキゾロに至る迄、サヽラを摺つて人の門を祝ふ者は段々ある。春秋の神祭、上元中元の踊にも、多くの村々でサヽラを摺る。奧州では津輕のネブタ（同二卷二六九頁）、出羽では仙北の鹿踊《しゝをどり》など、サヽラ使用の實例は擧げ盡すことが出來ぬ。京では六月の祇園會に、踊子、放下《はうか》、絃召《つるめそ》、彫木摺《さゝらすり》の出たこと、古くは貞�ｺ文集にも見えて居る。而して空也の踊躍念佛《ゆうやくねんぶつ》が祇園の御靈會と因縁あることは、看過すべからざる一事實である。それもこれも取集めて皆田舞田樂の古慣習から分岐して居るものと自分などは思ふが、此點は前年人類學會の雜誌に詳述して置いたから、今は重複を避けねばならぬ。

　サヽラの形?及び製作は必ずしも一樣で無かつた。職人盡の畫にある物などは丸で我々の謂ふ墓所のサヽラでは無い。或は笏のやうな板を何枚も弛く繋いだサヽラがある。即ち編木と書くもの是である。津輕のネブタに使ふ物は、幅一寸長さ八寸の木又は竹を紐を以て先の方を編み合せ、左右の一片を取り兩手にて上下する物とある（津輕のしるべ）。併し此方は古い式で茶筅に近い物は後の代用と云ふことは勿論出來ぬ。駿國雜志卷八にはサヽラの多くの形式が親切に説明してある。之に依れば應永年間の融通念佛縁起、天正年間の東福寺屏風の職人盡に描かれたるサヽラ等は悉く竹?である。此等の事實から推せば、サヽラなる語は鉦打のチンカラカン（郷土研究二卷七三頁）などゝ同じく、其物の音と拍子とから出た語で、此音此拍子を出す爲には昔から手段を擇ばなかつたものと見える。自分の想像では古く鎭西から押上つたと云ふ設樂神《しだらじん》のシダラも、右のサヽラに類する樂器の名では無かつたかと思ふ。津輕地方などでは臺所のサヽラをば今でもシダラと謂ひ、サヽラとは言はぬ。果して此想像の如しとすれば三河の設樂《しだら》郡と云ふ地名の如きは大いに注意すべきものである。河内の讃良《さわら》郡なども、新六帖に「笹分くる音もさゝらの河内路に駒を早めてけふも暮しつ」と云ふ歌もあれば、古くよりサヽラと訓ませたかと思ふが、法隆寺資財帳に更占郡、靈異記には更荒郡、倭名鈔郷名には訓佐良良とあつてサラヽと呼んだらしく、姓氏録には茨田《まむた》宿禰の祖男野現占宿禰あつて、筑前(382)の早良郡などゝ共にサウラと呼んだかとも思はれる（地名辭書）。而も肥前の大村邊で今もサヽラのことをサワラと云ふと聞けば、何れにしても往古一部の地域が、今ならば茶筅とかサヽラとか名づくべき部曲に由つて占據せられて居たことが、氣のせいか測定せらるゝやうである。

　現今サヽラと云ふ部落の居る地方は、伊勢が其一である。九九五集に伊勢龜山の城下の東のはづれ、街道より南に入つてサヽラの部落ありと圖に示して居る。字東町のことであらうが今は之をサヽラとは謂はぬ。併し多氣郡｜相可《あふが》町相可の特殊部落などは、今でもサヽラと呼ばれて居る。農を爲さず川漁を以て業として居る。度會《わたらひ》郡田丸町大字佐田に住する十戸のサヽラは、農が專業で皮革を取扱はず、草履作り下駄直し犬殺しなどをしない。以前は棉を作りて之を打つを業とせし故に、一名をワタウチとも云ふ。村の口碑に依れば、昔天子の御后難病に罹らせたまひ、之を大津の八町に棄てまつりしを、此徒之を養ひ奉るが爲、官に乞ひてサヽラを作つて賣つた云々。外間の者は此徒に惡病があるとて擯斥するが、此徒は又例の新平民を賤視して居る（竹葉氏報告）。僅かな材料だが、之に由つて彼等をサヽラと呼ぶは恰も鉢叩を茶筅と呼ぶに等しいことだけは分つた。猶捜索を續けたならば、彼等が其サヽラを利用したこと、亦恰も茶筅部落が其製品を利用して居たのと同じであることも明らかになるかも知れぬ。例へば尾張志に、今の西春日井郡庄内村大字堀越、法琳寺の境内に東岸居士の舊跡あり。此地に住せしと言傳へて乘馬の像を此寺に安置し、又近き溝川に東岸居士の橋と呼ぶ所あり。中昔の頃より三井寺の定圓・安居院の隆憲等が流を汲み、妻帶して經を唱誦する者を説經者と云ふ。自然東岸など鞨皷《かつこ》を打ち編木《さゝら》を摺り舞を爲して唱經す。近き小田井村（今の西枇杷島町及び山田村の大字）のうちに今もサヽラスリと云ふ者ありて、戸籍の外の遊民とす。それ等が祖先居士を尊み其像を安置したる者なる由とある。右の説經者が自分の所謂ヒジリ即ち毛坊主の一種であることは明らかであるが、茶筅又は鉢屋と同じであるか否かは、更に稿を改めて大いに討究をせねばならぬ。駿河に居住するサヽラなどは、今でも一名を説經と稱せらるゝ。説經は即ちチヨンガレ又は今の浪花節などゝ系統を同じくする低級の遊藝人である。今昔物語や(383)世々の往生傳で、緋の衣金襴の袈裟の僧正阿闍梨より遙かに貴いものと目せられた持經者の末法が、所謂説經祭文の淺ましい階級に零落したのは如何にも氣の毒だが、既に兩筑の鉢叩念佛坊（郷土研究二卷四〇〇頁）を始として、例は多いことである。此サヽラに就いては駿國雜志の記述の外に、やはり文化の初年に御代官から勘定奉行に差出した報告がある（増訂一話一言十九）。其文章を抄出すれば、「簓《さゝら》の儀承合せ候處、簓と申すは芝居等仕り候者に候處、駿府町奉行に囚人等取扱はせ候由の者にて、非人などゝ申す者にも無之、先づ河原者と申すやうなる者に有之、同所町御免のアヤツリ等致し候。且つ簓村と申すは一體無之、久能御神領有渡郡石田村富士見（今の安部郡大里村の内か）と申す所に住居致し候處、駿府町奉行より手遠にて差支の儀有之、先年御代官所川邊村（同村大字）、寶臺院領馬淵村（同上）兩村境地借受け住居罷在、右地代は其村々役人へ相納め候由。簓村は無之候へ共、右簓共住居致居り候に付、簓村と申し習はし候へ共、川邊村馬淵村にて御座候云々」とある。サヽラの遊藝人と成つたのは、單に喰詰めの餘儀無しのみで無く、此徒が幾分只の百姓よりは間拍子に巧者であつた爲では無からうか。所謂河原の者の今日の發達、乃至は例の筬《をさ》や箕《み》を作つたクヾツの娘の評判などを考へて見ると、竹細工に巧な者は歌舞にも妙を得て居たのかも知れぬ。南方氏の説には、筬の如き精密なる細工をする者であつて、始めて操人形の如き込入つた智巧を施し得たのであらうと言はれた。右の二者の間にも何かの關係が無いとは言はれまい。

　さて立戻つて鉢屋茶筅の來歴談のことであるが、此輩の口碑又は記録は、彼等の生活が右の如く昔を失つて居る以上は、必ずしも大割引無しに之を受入れることは出來ぬ。其一例は空也上人繪詞傳に、天暦五年｜瘟病《うんびやう》流行の折、空也牛頭天王の靈告を受けて、一丈の十一面觀世音を車に載せて曳廻はし、念佛を唱へ茶を煎じ、茶筅をふり立て觀音に供じ、之を病者に飲ましむ云々。それより宗派の者茶筅を業とすとある（増訂一話一言四十六）。但馬｜朝來《あさこ》郡｜梁瀬《やなせ》村大字新堂の茶筅等が持傳へた舊記にも、略々之と同樣の記事があつて、之を王腹茶筅之由來書と稱して居る（祠曹雜識四十）。但し天暦五年の瘟病を是には平安城悉く難病を受けと記し、而も彼等は難病の者の末なるが爲に、空也法力に(384)依り救濟せられたる後も、世間では縁組附合をして呉れぬのだと書いてある。難病とは癩病のことである。喫茶養生を以て平癒すべしとも思はれぬが、前の繪詞傳のやうに瘟病とあると、稍々尤もらしく聞えて、或は年代は違つても斯んな事實が曾てあつたやうに思ふ人が無いとも言はれぬ。併し茶の飲用法の輸入より遙か以前に茶筅同樣の器のあつたらしきこと、及び天慶亂後の疫病の流行と之に伴ふ人心の動搖が、頗る空也上人の傳道を歡迎したのが歴史であることを考へると、茶と云ふ分子は後世の茶人が閑居して案出した附加へで、つまりはシダラ・サヽラの眞の用途が次第に狹くなつた結果と見ねばならぬ。鉢叩はもとは鉢を叩いたと云ふ説の如きも、之に併せて一考すべき事柄である。たしか中山太郎氏の話であつた。下野足利附近の秀郷傳説の一部に、將門退治の後將卒冑の鉢を叩いて歡呼した。此等軍人の子孫が鉢叩だと云ふ口碑があつたやうに思ふ。空也門流が鐵鉢を叩いたと云ふ證據が外に無い爲に、かゝる苦しげなる説明も世に顯はれたが、自分などは古今ともに彼等の叩いたのは瓢であつたと信じて居る。瓢はサヽラと同じく亦一箇の昔の樂器であつた。支那で金石絲竹の次に匏土を列擧するのみならず、神樂歌の竈殿の曲にも天の川原にひさ〔二字傍点〕の聲するとあり。太神宮儀式帳六月十七日｜直會《なほらひ》の歌にも、うつなるひさ〔二字傍点〕は宮もとゞろにとある。其ひさ〔二字傍点〕の瓠であることは多くの學者之を認めて居る（同頭注、松屋筆記）。ハチが之を叩く故に、一名を鉢叩と呼んだ迄であらう。然らば其ハチと云ふは何を意味するかと云ふ問題が次いで起る。自分の説はハチとは境と云ふことで、此徒を邑境に住ましめて惡靈祭却の行法を營ましめたる故に、彼等を名づけてハチ又はハチ屋と言つたと斷定する。其證據は稿を更へて之を陳列せんと思ふ。甲州道志の信玄屋敷の如きは、假に茶筅楢の二本木が殘つて居らずとも、自分等には之を鉢屋敷と見ることが出來る。其地に居た道心者が偶然信玄の音に近い名を持つて居た迄である。

　

(385)　　　　　　　夙の者と守宮神との關係

　

　所謂毛坊主が佛教に迎合した單に一派の日知部落であつたこと、及び鉢叩と云ふ名稱はちやうど鉦打と對句を爲すやうに見えるが、其ハチなる語は實は彼等の寄寓地を意味するもので、通例ハチ即ち邑落の端にのみ住ませた故に之をハチ又はハチ屋と呼んだこと、此二點を假定して進むときは、此迄甚だ八釜しかつた夙《しゆく》の者に關する問題も、存外容易く解決し得るやうに思ふ。シユク部落の起原と性質とに就ては、内からも外からも種々雜多の異説が出た。自分は勿論其異説の全體に通曉して居るとは言ひ得ない。シユクの特色は、彼等が佛教佛寺と直接の關係を有して居らぬことが一つである。第二には此部落の分布が鉢屋などに比べて遙かに狹いことである。シユクの居るのは大和・河内・攝津と其傍近の二三ヶ國であるらしい。彼等の最も多い地方は同時に山陵の最も多くある國々なるが故に、守戸だと云ふ説が古くから有力であつた。大正年間では喜田博士なども此説を守つて居られる一人だと聞いた。併し失禮ながら、守戸なら賤視せられても致方の無い仔細があると云ふやうな説明を見出さるゝ前に、此徒の最近四五百年來の生活、殊には移動定住の跡を考へられたら如何かと思ふ。大和などは如何なる平和な天地であつたか知らぬが、口分田此方の元の田を子孫の耕して居る村が果していくらあらうか。守戸ばかりが巌石古木の如く、千年の間も据ゑられた土地に、窮屈に義理を守つて居たと云ふことは、明證無き限は否定して宜しい。そんなら舊稱だけを負うて移住して居たとするか。既に戰亂時代の移動浮浪を承認すとすれば、守戸説の最も大なる論據が無くなる。今日陵墓に接近して居る夙村も、亦近代の土着かも知れない。自分等は夙の者の分布が右の如く狹いのを注意したいと思ふ。彼等の境外に出て行つた者はどうなつたか。其生活方法から考へても、總てが平民に混入し得たとは見えず。而も此徒の(386)稱呼は多くは外部からの命名で、地方的に違ひ易いことは茶筅の例でも分るが故に、比較研究を怠つた論斷に對しては、自分はいつでも不信用である。

　シユクは守戸なりと云ふ説と、一見關係が有るらしく見えるのは、彼等の自ら主張する由緒に、野見宿禰の末裔だと稱する一傳のあることである（賤者考）。巨勢秀信の菅原實記の中にも、今畿甸の諸州に宿村と云ふ者多くあるは、野見宿禰が出雲より召連れ來りし者の末で、以前葬具の土器を製して時の人の忌み嫌ふ所となりしより、久しく其業を廢して後も此習が殘つて、譯も知らずに鄙しむのだとあつて（振濯録）、或程度まで此主張を認めて居る。それよりも不思議なことは、此部落の者が野見宿禰の後商たる五條家（菅原氏）へ出入を許され、吉凶の通告を受けて居たと云ふ事實である。大和へ移住した土師氏の事蹟は古記に散見して居る。土部《はしべ》と守戸とは職掌は無論違ふが、夙の者と五條家との關係が果して古來連綿のものであるならば、誤つて守戸と呼ばるゝに至つた事情も稍々推測することが出來る。是は固より京都の菅原氏の家乘を詳かにして後に決すべき事であるが、どうも自分の腑に落ちぬのは、永い武家時代を通じて、所謂月卿雲客と田舍の土民との間に、所領關係以外に於て其樣な交通のあつたことである。或は恐らくは中古仲口を利いた者が有つて、それこそ不思議の名乘合ひをしたものではあるまいか。假にさうだつたとすれば、野見宿禰も亦例の捕獲せられたる先祖の一種で、其時代はさ迄古くは無からう。今些し皮肉な推測を下せば、夙の仲間に追々金持が出來てから後の事かも知れぬ。この土部説は何れに決しても自分の説に大きな影響は無いのだが、序だから一寸言ふ。實際夙の者には金持の多かつたことも一の特色である。自分は其理由を彼等の行商の利益と其生活費交際費の少なかつたことに歸して居るが、それは何れでも宜しい。斯く財産が出來ると次いでは地位を改良したいの欲望が強くなる。又さうして改良をし得たのは必ずしも夙ばかりで無い。外にも少々心當りがある。大和の夙の者の中には中野義雅と言ふよほどの富豪があつた。安政の頃に此地方の學者岡本黄中に依囑して振濯録一名土部源流と云ふ一書を著さしめ、官許の下に之を出版し、頗るシユク部落の抂屈《わうくつ》を疏明した。此外にも森田節齋に書かせたシ(387)ユクタク録と云ふ書があると、田村吉永君は言はれたが、見たことが無いから何とも言はれぬ。土部源流は當時の學者官吏十數名の序跋ある實に立派な本である。其説の大要は、兎も角も野見宿禰の部曲であつたと云ふ古傳（？）を承認し、而も守戸の轉訛と云ふ説を二段備への兵法を以て撃退し、更に奈良なる某神社の社傳に依り、中世｜弓削《ゆけ》首夙人なる者、本は貴族であつたが、故有つて諾樂《なら》の大路に立ちて俳優の戯を爲し人の?施《しんせ》を受く、遂に朝命を奉じて俳優の長となり其者流を統轄した。其一類に屬した者である故にこの土部を夙と呼ぶのだと斷定して居る。非常な勞作にも拘らず結論の有りふれた者であるのもをかしく、又土師氏弓削氏の兩屬も徹底して居らぬが、此書には五條家の當主權中納言殿と、高辻家の太夫長尾氏とが序を書いて褒めて居る。夙の徒は前にも金を出して此樣な事をしたことがあると、右振濯録の註にも書いてある。

　夙部落の利害代表者が右の弓削夙人の傳説を援用したことは、此徒が少なくも或時代に遊藝を以て主たる生業の一として居たことを自ら承認する者である。而してそれは必ずしも古い時の事では無かつたと見える。同じ振濯録の中にも、萬歳と稱して歳旦に人家の門に祝言を唱へる者は志久《しく》の一種だとある。御承知の通り大和は萬歳の多く出る地方である。又伊勢から獅子頭を舞はして來る者も志久と謂ふとある。獅子舞のことは自分の書きたいと思ふ一項目であるが、伊勢國には殊に盛んである。播州などでは之をば伊勢の大神樂と謂つて居る。又同じ書に、芝居の役者に播磨座と云ふのは、此國赤穗の城下及び高室村から出る者で、此も亦人が志久と呼んだとある。高室は今は加西《かさい》郡北條町の大字である。自分なども此町の小學校で教育を受け、高室から來る少年の二三名は同級生であつた。今でもよく記憶して居るが、學校の廊下などで無理に所望して眼を剥いたり足を踏んだりして見せて貰つたことがある。併し彼等がシユクであつたと云ふことは、岡本氏の著書に由つて始めて知つた。此類の村は各府縣に折々ある。俚言集覽の夙者の條に、「夙者は穢多の手下にて、平生の産業は三味線皷弓を彈き小歌を謠ひ、又は小芝居などをして近國をあるき、女子どもは草履草鞋を作り商ひ、吉凶の家に施を受け渡世いたし、播州姫路網干邊に居り候由、中國にても他(388)國には一切無之由、公の御勘定役所の書物にあるよし、或人語りき」とあるのには、或は傳聞の誤もあらう。併し何れにしても夙の本場たる和州に於て認められて居るのだから確かなことである。遊戯文字であるが西鶴の胸算用の卷二に、奈良の宿の事を記し、此輩が除夜の晩に大乘院門跡の家來因幡と云ふ者の家に先づ來り、それより富々と呼はりて町中を驅け廻り、初春には元日にタハラムカヘとて大黒の繪札を配り、二日にはヱビスムカヘ、三日には毘沙門ムカヘとて、共に福神の繪札を配り金を貰ふと書いてある。この奈良の宿とあるは、次に言はんとする奈良坂の宿部落であらう。後には農商普通の生業をした者も、節日のみは永く此風を守つて居たらしい。萬歳も夷大黒も此黨なら、猿樂の大和座も此から出たのかも知れぬ。丹波國の同業者にも宿猿樂のあつたことは、横井君が既に言つて居られる。

　シユクの生業のハチと似て居るのは、獨り遊藝歌舞の點のみでは無かつた。此徒竹細工に從事することは賤者考にも見えて居る。曰く「夙の者産業には多く竹籠の類を作り出す。故に市中（和歌山？）にも籠細工を忌む人あり。それも夙などより移任せしか、はかり難し。さればにや府下にも町はづれなる所にのみ籠細工はありて、よき所の町には無し云々」。攝津では武庫郡西宮の附近に、夙村と穢多村と相接して二部落あり。昔菅公西遷の時、兩村の者出でて道路を掃除したりと傳説し、其後も官人の西國へ通行する際には、出でゝ掃除の役を勤めたと云ふ。此場合に野に旅人病苦する者あれば夙村へ入れて看病せしめ、死人あれば夙の者之を葬つた。野に死獣あれば之を始末するのは穢多の役であつた云々（以文會筆記抄）。シユクが埋葬に與つたと云ふは此類の傳説のみで無く、京都では本願寺上人の葬儀に夙の者が必ず出たことは著名な話である。既に享保十年の八月、西派の寂如上人の葬式の時にも、寺内に居住する夙者の頭室束筑後を呼出し、此度は火屋の道具取り申さゞる代りにとて錢三十貫文、夙者六人へ又三十貫文、翌朝は御齋下され、御布施に筑後へ銀十枚、夙者六人へ銀十枚下され候以上とある（月堂見聞集十八）。之を以て見れば夙が荼毘に携はつて葬具の類を役得として取込むこと、世の常の隱坊などゝ同じかつたのは近世までの風であつて、彼等が自ら野見宿禰の末孫と稱したと云ふのも、確かに由來する所のある話である。總別此仲間は穢れと云ふことを(389)忌まなかつた。此が別種族扱ひにせられた主たる原因だらうと云ふ點だけは、自分も承認するのである。三國地誌に依れば、伊賀の舊阿拜郡に夙村があつた。村民專ら藍染を業とす。故に他邑の平民賤惡して交遊を憚ること屠者に類すとある。今の阿山郡の何村の内か、まだ之を詳かにせぬ。染屋の賤視せられた例は往々にして聞く所である（郷土研究二卷四四一頁參照）。寂照堂の谷響集には佛典を引き、天竺の社會風俗を類推して説明せんとして居るが受けられぬ。南方氏の話には紀州田邊邊のハチンボに今も染物屋と籠細工を業として居る者が多い。古くは阿波で三好氏の時代にも、天文十年に上方より下つた青屋四郎兵衛といふ者は穢多だと言はれた。始めて阿波染と云ふことを仕出して事の外富有となつた。三好長治青屋が子を寵用して土民憤怨すと三好記に見えて居る。京から來る染物取次人内々の話に、人骨を灰にして用ゐれば紺は甚だよく染まると。然らば隱坊など便宜を以て染屋を兼ぬるが故に、染屋を賤しむ風が起つたのでは無からうか云々（以上、南方氏説）。此職業が全部人の賤しむ者では無かつたことは、兎に角猶考へて見なければ判明せぬ問題である。

　此迄考へて來ると、名稱を唯一の手掛りにしてシユクの由來を論ずるのは惡いと感ぜらるゝであらう。併し現今の如く發達變化した此部落に於て、生活?態から性質を推定することは至難に相違無い。奈良縣には歌姫・築山・坊城其他富有な夙村が多かつた。分けても奈良坂の夙は、近世の京街道の要衝に在つたが爲に之を知る人が多かつた。穗井田忠友の保護者であつた奈良奉行梶野土佐守の筆録に、奈良坂の上には宿町あり。左右三町ほど、横町裏町あり一村を爲す。シユクは汚穢の業を爲さねど人情は如何にも下々にて、往來の木を拾ひ焚火とし不淨を忌まず。身上は皆相應なり。宿村は大和には所々に在り、山城にもあり。非人にも穢多にも非ず。唯他の者と縁組もせず。今は近き邊の交りは勿論、金錢借用をも爲す由。寺も一村限りに在り、神社もあり。此宿町に續きて穢多町あり。穢多は又一段下にて、宿は穢多と縁組はせず。されど宿とても士には進み得ず。宿町の者は耕作もし商をも爲す。此村には立場の休所もあれど、奉行は小休をもせず、社地へ野立に休むこと也とあつて、其末に此村唯一の古證文なる寛元二年（西(390)暦一二四四）の文書の斷片を載せて居る（山城大和見聞隨筆下）。此文書はある毆打創傷事件に關するもので、山城清水坂の非人の訴に對する陳?である。之に依ると梶野氏が「非人にも非ず」と言つたのは、少なくも昔の事實とは合はぬやうだ。而して非人の名には淡路法師・播磨法師・近江法師などゝ云ふのがあり、又阿彌陀法師とも長吏法師とも見えて、且つ妻子のあつたことが分るから、此徒も曾ては立派な毛坊主であつたことが證明せられるのである。如何にして彼等は佛教から縁を切つたかは誠に面白い研究題目であるが、實際此徒の足を洗はんとする近世の努力は目覺しいものであつた。だから一見の旅人などには大和へ行つても夙村の多くは見出し難く、又近村の者も金の威勢で次第に對等關係を承認して行くらしい。それにも穢多より良いと云ふこと及び農商を營んで居ると云ふことが有力な助である。伊勢のシユクなどは平民と通婚こそはせぬが、穢多やサヽラの如く低い者とは考へられず、次第に普通人と接近して區別が無くなつた。即ち此縣ではシユクは最早特殊部落では無いのである（竹葉氏報告）。紀州でも伊都那賀の兩郡など、以前から夙の者と内縁を結ぶ者もあつたらしく、之をば半夙と云つて忌んだと云ふ話である（賤者考）。即ち今となつては職業にも世間の感じにもシユクを賤しむべき所以は無いのであるが、歴史は誠に是非の無いもので、右の奈良坂の部落が起つた動機は、やはり此徒に附いて廻る特殊の任務からであることが分つた。以文會の筆記に依れば、奈良邊では夙は悲田院の雜人の子孫だと傳へて居た（雜人と云ふ語に就いては自分に些し考がある）。雜人の中には窮民から出た者もあり、孤獨の病者本復して之に加はつたものもあつた云々（考古學雜誌三卷二號所抄）。悲田院は今で言へば行旅病人收容所で、勿論惡病の者のみでは無かつたが、奈良の千坊坂俗に般若坂と云ふ地に在りし悲田院の撫育小屋などは癩病人を入れるものであつた。其病者全快の後も他所に移し難くして永く此に住ませたと云ふ（同上）。般若坂は即ち前に云ふ奈良坂である。般若寺の北に此坂の開かれたのは、太閤時代即ち垣椋堤《おぐらのつつみ》が築かれて後と言へば、悲田院の事業と云ふことは極めて疑はしいが、此地に癩人小屋のあつたことは益軒の「大和廻り」にも見え、道の傍に多くある圓石に、若し知らずして腰掛ける人があれば癩人ども其黨に引入れたと云ふ説も載せてある。之に(391)由つて見ると、此地に集まつたのは後世必ずしも難病の者のみで無く、非社會的の分子は次第に人の嫌うて寄り附かぬのを利用し、附近の散野を思の儘に占據して、經濟上の好條件の下に一村と繁榮したのであらう。而して此地が道の峠で村の端れの不用地であつたことは、自分が見ればシユクなる文字を解釋する好適例だと思ふ。

　夙又は志久の語原からこの部落の由來を解決せんとする説は、前に敬意を表して置いた守戸説の外に、隨分と馬鹿げたのが澤山ある。簡單に之を列記すると、一には志久は師工即ち土師の工人だと云ふ説、二には所謂漆喰のシクだ、粘土で人形を製することだと云ふ説、三には死工即ち凶事の物を作る職人だと云ふ説、此三つは共に野見宿禰に拘泥して居る。四には志久はシコ即ち醜で、其職業の凶醜なるを忌んだ語だと云ふ説、此には振濯録の著者多辯を費し、シコならば本義は猛勇又は莊嚴を意味する筈だと古い例を擧げて居るが、何れでもよからう。五にはシユクは昃《しゆく》即ちヒカゲのことで、此徒が世を狹め遁げ隱れて居ることを意味すると云ふ説、六には志久はシクジルなどのシクで、罪を獲て黜《しりぞ》けられた者と云ふことだとの説、此二つは殉死者の生殘りと云ふ一傳説に基いて居る。之と關聯して七に志久は尸倶だと云ふ説がある。松屋筆記卷六十五に曰く、大和河内の民戸に尸倶と云ふ者あり。良民之を落しめて縁を結ばず。穢多の類にも非ず、平民に雜處して賦役の公務更に別あること無し。土人傳へ云ふ。上世殉死の者密かに逃亡して民間に隱れたるが、子孫終に賤民と爲りて村里に雜處せる也と云へり。尸供又は尸倶の義なるべし云々。夙の者は殉臣の裔と云ふことは亦彼等の中の口碑で、多くの夙村に大事に持傳へて居る一卷に、?々此説を記述した者がある。岡本氏安政初年の言に、夙村の故老の年八九十なる者、此説は彼が若年の頃に始つたと言つたとある。もと山城の或夙村で、田舍儒者を頼んで僞作せしめたもので、多分は野見宿禰の部民だと云ふ説と、彼等が舊來主張して居つた貴族の後裔だと云ふ口碑とを、調和せしめんとした窮策だらうと、岡本氏は批評して居る。それ程物のよく解つた人が、弓削夙人で結論をすませたのは、善意に見ても不審である。八には又斯んな説もある。般若坂の癩小屋《かたゐごや》には光明皇后の安置ならんかと云ふ阿?《あしく》佛の像が一體あつた。此地に居る者を夙と云ふのは阿?佛の?だと云ふ、此も故(392)老の一説ださうな（以文會筆記）。最後に今一つだけ、此は多少外にも關係があるから擧げる。シユクは即ち宿である。昔は事の外産の穢を忌み、期に先だつて女を村外に出した。それを引受けて宿するを業にした者を、宿と稱して忌んだのである云々（振濯録）。此説は亦産所と呼ばるゝ特殊部落に就いても言はれて居る。以前神事に關聯して所謂田屋住居の風のあつたこと、及び産所と云ふ名稱、竝びに此中からよく遊女を出したことなどより此説は起つたらしい。而も産所は大橋氏も言はれし如く（郷土研究二卷四八四頁）、多分は算所が正しからうと思ふ。それは兎に角、文字から説を爲せばシユクは宿だと云ふのが最も自然である。紀州西牟婁郡磯間は夙である。昔小栗判官熊野へ癩病療治の爲湯治に下つた時、之を宿せし者なるが故に子孫を宿と云ふと傳へ、又常人に比して肋骨が一本足らぬとも噂せられて居る（南方氏談）。此等は附會中の白眉であらう。

　シユクが毛坊主乃至は日知の一派と決したからは無用の沙汰であるが、自分も負けぬ氣で字義の論をして見よう。シユクは元の音恐らくはスクで、ハチと同じく郡邑の境又は端れを意味した語である。此は單に此語がサカ（坂又は境）、サコ・セコ（迫）、サキ（崎又は尖）、ソキ・ソコ（底又は塞）、ソグ（削）、スグル（過）などゝ語根の通ふと云ふのみで無く、現實に多くのシユクと云ふ地名が境に在る爲に言ふのである。それは追々に擧げるとして、第一にシユクをば古く夙の者と呼んだことに注意せねばならぬ。之とよく似た呼び方に又谷の者・野の者がある。和訓栞エタの條に、住居谷に从《したが》ひ野に从ふ。故に谷の者・野の者と云ふ。或は夙の者と云ふ。畿内夙村多し。皆穢多居住す云々。此は無差別の説であるが、此類の者が皆住地を名とした一例である。柳氏の「穢多非人」には、著者郷里筑前鞍手郡などで、穢多を多くは山の者と云ふとある。又坂の者と云ふ名目もある。月堂見聞集享保十四年六月五日の條に、京都東御役所に於て、坂の者・夙の者竝びに神輿舁の者を呼出し、祇園神事の節あばれ申さぬやう取締方法を立てたことが見えて居る。河原者も元は河原の者と云つた。即ち河原を住地とすることを意味するので、河原で演藝をするからでは無いやうだ。何となれば河原の者の名は地方に由り色々の賤民に用ゐられて居り、つまり水荒後の不用不安全(393)の地を此徒に割讓して住ましめたよりの名である。丹波因幡阿波などで島と名づくる水荒後の新成地に穢多を住ませた例が多い。此徒をクボと云ひヤハラと云ふのも同樣である。ヤハラも漏地のことである。此等の例より類推して、シユクの者はシユクに住む者の義と解し得る。現に夙の者の居住するシユクと云ふ地には、前に掲げた攝津西宮の夙村の傍を夙川流れ（以文會筆記）、町と此村とを境して居る。部落の名が川に及んだので無い證は、地名辭書に宿川、純友追討記に見ゆる菟原郡須岐驛は是ならんとある。宿川原と云ふ地名は諸國に在る。徒然草に暮露《ぼろ》が果し合ひをしたとある攝津の宿河原、名所圖會に其ボロ／＼の塚ありと云ふ三島郡春日村大字郡山は、同じく地名辭書に之を中世の宿久莊ならんと云ひ、延喜式の須久々神社を此地とする神祇志料の説を認めて居る。即ち夙の者などの無かつた昔からスクと言つて、而も邑落の境であつた。常陸國誌の各村誌を見ると、筑波より此方の村々の字に、妙に何宿・宿何と云ふのが多く、而も大小の驛路とは關係が無い。吉田博士なども此事實に注意せられ、例へば上野群馬郡大類村大字宿大類の條に、「宿と云ふ地には二樣あり。一は驛亭なれど他は又別所産所と同じく本村とは別異なる籬落にも名づけたり。宿大類・宿横手の類も驛亭にはあらで別所なり」と云払、更に三河｜寶飯《ほい》都小坂井村大字宿に就いては、寶飯郡誌の記文を引用して宿は穢ある婦女の別屋なりと云ふ説を認めんとして居られる。別所と産所との同視は自分の承服せざる所である。別所は九州其他に多い別府（別符）と同じく追加開墾地のことである。其地が本村の外郭に在つても産所の如き特殊待遇は受けて居らぬ。唯右の三河の宿の記事は宿が枝郷の類を意味する一證として有難い。而もこの三河の宿村は大和の夙村と同じく萬歳の在所であるのは偶合では無からう。

　所謂新平民を村はづれの惡い處に住ませることは、全國一般の現象であるのに、獨り近畿諸國の一種類にのみシユクの者の稱があるのは、或は反對者の物言ひの種かも知れぬから、豫め答へて置かう。或時代には河原の者とも云ひ又クボ・ヤハラ・野の者・山の者とも呼ばれた穢多の部落にも、是亦シユクの神を祀つて居る。前號に見えた伊豫の宇和四郡の穢多が産土神の名を必ず敷地神社と云つたこと（郷土研究二卷五〇五頁）、是が其一例である。斯うばかりで(394)は人は強辯と見るかも知れぬから、枝葉に亙るが聊か敷衍して見よう。宮崎縣の特殊部落調に、日向西諸縣郡飯野村大字上江字村之脇〔三字傍点〕の四十三戸は、皮細工を業とする者が多い。部落内に死苦權現と稱する小祠あつて、毎月二回此が祭をするとある。獨り此のみに非ず、伊豫の隣の土佐國でも、古くより宿神あつて、亦穢多の氏神であつた。土佐州郡志に曰く、長岡郡野田村、坂折山に宿神と云ふ社あり。屠家の祭る所の神なり。坂折山の東南に牛祭場と云ふ地あり。又土佐國群書類從拾遺卷三十七に採録せられた弘岡志企と云ふ書に、同國吾川郡弘岡村字｜椰木《なぎのき》は穢多村、眞宗にして寺號の無き穢多寺の西に宿神あり。初は森山村の宿神ヶ谷に在りしを移せるならん。祇園を祀ると云ふ。生剥逆剥などの因にや、あなかしこ／＼云々とある。諸國の穢多村には近世何れも東西の本願寺が傳道して穢多寺を建て、從つて所謂雜業雜修を禁絶するが常であるが、それでもやはり舊信仰は殘つて居た。是も内務省に報告せられた高知縣の特殊部落調に依れば、此國高岡都高岡町字井關及び初田〔二字傍点〕、同郡松葉川村大字七里の内二ヶ所の新平民は共に肅慎の神と云ふを祀つて居る。同士佐郡一宮村大字一宮の北野と云ふ部落は、竹箒・藁細工を生業とし、氏神清野神社を亦シユクジの神とも謂ふ。之に基いて肅慎の俘囚の末だらうと云ふ説があると云ふが、夫は一般に此徒を三韓征伐の捕虜などゝ傳へる説と妥協した迄であらう。長岡郡｜介良《けら》村字岩谷の内に寺谷と呼ぶ部落でも、肅慎の神を氏神として居たが、今は谷守神社と改稱した。伊豫の宇和郡と接した幡多郡上灘村大字大岐字濱垣の、港と稱する部落は、百年前に兄弟三人で來住した者の子孫と稱し、茲にも幽かながら一種の三子傳説を傳へて居るのは妙である。此部落の氏神は今日は坦坪神社と謂ふけれども、維新前は姉君司大權現と呼び、祭神は畏多くも一天萬乘の御妃と申して居た。是も亦山田白瀧の話乃至は伊勢の綿打の舊傳（郷土研究二卷四五八頁）に近い口碑があつたものであらう。次には同郡東上山村大字田野々字川平と云ふ部落には青屋と云ふ苗字が多く、建久中に紀州名草郡より移住した青屋與平（此徒の名に與の字の多いのは注意すべきことだ）青屋三十郎兄弟の者の末だと云ふ。然るに同村大字北野用字谷〔傍点〕の部落に中内某と云ふ者は、是亦青屋與平が後と云つて居る。此家では先祖以來シクジの佛と云ふ者を祭つて居たが、近年之を(395)神社に改めて亦シクジ神社と唱へた。最後に同郡佐賀村大字佐賀字横濱の横と云ふ二十七戸の部落は、もと越村より移り來り今も長吏は村越と云ふ家である。最初は同じ大字の字シクジ藪と云ふ處に居たのを、あまり村の中央だと云ふので今の地に移したとあるのは、新開の邪魔になつて移したことを意味するかと思ふ。今は海沿ひの地で漁業をもして居る。此だけの例があればシユクの名は大和河内の夙の者以外にも及んだと云ふ證據には十分だ。此次には宿神はシユクガミで即ち境の神であつたと云ふ證據を探して見よう。

　肥後國志を讀むと、此國上益城郡などに護宿神又は護此君神の社が往々にしてある。此は特殊部落との因縁は有りとも見えぬが、察するに是もシユク神で、「御」の字を「護」に代へたのは信仰の痕跡であらう。蓋し此神もとは必ずしも賤民のみの神では無いやうだ。唯境の神なる故に境に住む者との結合が出來たのか、但しは又今一段深い仔細の有つたことか、確かには定められぬ。茲に諸國國府の地に祀られてある神に守宮神又は守公神と云ふ者がある。其例を擧げて見れば、先づ東國では相模中郡吾妻村大字二宮の守宮神社（新編風土記）、是は同郡國府村大字國府本郷の惣社六所宮の祭禮に、六つの神輿の先に立つて行く守公神（相中留恩記略五）と同じ神らしく、御神體は榊である。次には甲州東山梨郡岡部村國府組の守宮神社、一宮三宮の神幸所である。此はシユノミヤと訓ませ、或は四宮の轉訛で無いかとの説もある（甲斐國志五十六）。西國では長門豐浦郡長府村、惣社町の南側に守宮司社、毎年十二月御齋の神事とて住吉忌の宮秘法の大祭がある。或人の説に御神體は大小の尺二つで、十二月の一宮住吉神社に奉る神服の長さを度る爲に斯く專崇せられるのであらうと云ふ（豐府志略）。大隅國｜姶良《あひら》郡國分村大字府中の守君神社、大中臣姓姫木氏の世々祭る所の神であつた（三國名勝圖會）。祭神は諾册二尊で大隅一州の總社と云ふのは訛傳であらう。此外にも猶同じ大隅姶良郡の清水村大字弟子丸に在る弓箭守公神社は、もと清水城の鎭守であつたと云ひ永禄七年の棟札もあるが、府中に近いから早い勸請かも知れぬ。只一つ分らぬのは上總君津郡當岡村大字下郡字今間に在つたと云ふ守公神社で、國府の地とも隔絶し且つ弘文天皇の御妃女官などを守護した侍臣を祀るが故に此名ありと傳へて居る（上總國誌稿）。(396)守宮が四宮で無い例は相模の六所社に別に四宮の神輿が出る。大隅で總社と云ふの誤は此地には別に儼然として正八幡宮がある。要するに宛字が暗示して居る如く、本社の御先若しくは境守の神であるらしい。

　守宮神が國府の地殊には總社に接近して在る仔細は、禁廷内の守宮神のことを考へると思ひ當ることがある。榮華物語の華山院宮中を忍び出でさせ玉ふ條に、「中納言は守宮神かしこ所の御前にてふしまろびたまひて、我が寶の君はいづくにかあからめさせたまへるぞやとふしまろび泣きたまふ云々」、この守宮神はミヤモルカミと訓むべく、かしこ所と二つに解するは惡しと伊勢貞丈は云ひ（武藏鐙上）、村田了阿も「スク神カシコ所」とは内侍所也と言つて居るが（俚言集覽）、平田篤胤などの論究した大宮賣の古制を考へて見ると、守宮神は即ち巫女の祖神にして宮中を守護する者とする方が正しいやうだ。何れにしても是が恐らくは記録に見えた最初のシユク神で、又最も地位の高いものである。蓋し禁中に於ても他の多くの神聖なる場處と同じく、其地の守衛に任ずる神は古くよりあつたので、之を守宮神と呼ぶに至つたのは即ち當時の風であらう。神社の方でも前に擧げた例の外に、讃岐多度郡に師鬮《しくじ》大明神（讃岐志）、たしか琴平神社にも此名の末社があつたと記憶する。遠江の見附（國府）を始として諸國に十九社と云ふ名の祠のあるのも、或は守宮神の轉訛かも知れぬ。而して此の如き神の名を流行せしめた原因は何かと云ふと、自分の想像では、既に延喜式にも顯はれ、今も九州二島に數多く存する志岐又は志々岐と云ふ神、安倍晴明が一條の橋に伏せ置いたと云ふ式又は職神の信仰では無かつたかと思ふ。

　此推測は守宮神と云ふ神が禁延國廳總社等の神にして同時に又諸道の神であつたことの唯一の説明であると自分は思ふ。續古事談卷五に、典藥頭雅忠が夢に七八歳ばかりの小童現はれ來り火災を豫報した話を記し其次に、「昔は諸道に斯く守宮神立添ひければ驗も冥加もありけるにこそ」とある。鞠の神が幼童で猿に似て居たことも著聞集にあつた。晴明に仕へたと云ふ式の神も亦形の小さい神であつた。此類の守護神の名が境を意味して居たと云ふことは明證は無いが、術藝を以て衣食する者がいつも開發の勞苦を避けて既に出來上つた村に後より入來り、而も昔の人の最も(397)懸念した外來の邪神を攘却するの任務を引受けたとすれば、其神の名のシキ又はシユクが境を意味することは少しも不思議で無い。此例に稍々當るのは琵琶法師の祭神とする守宮神である。當道では近代改めて之を守瞽神《しゆこじん》と呼んだ（年々隨筆甲子卷）。或は又主空神で梵には舜若多神と言ふものだとも説いた（落莱集九）。又一説にはシユク神は十宮神で日吉二十一社の中から十社だけを勸請するのだとも云ふが馬鹿げて居る。當道要集などは年中講式の條にも科行次第の條にもちやんと守宮神と書いて、其祭の作法を載せて居る。其中に猿は守宮神御仕社（使者？）なれば其肉食ふべからずと云ひ、又十一月第二の中日に守宮神の御火燒をするともあるのは、後年の結合たる日吉山王の因縁よりも、寧ろ守宮神を小童の形に想像した古意を汲むべきものであらう。黒川道祐の遠碧軒記にも、守瞽神は即ち守宮神なるべきことを説き、又石塔會の作法を詳記した條にも此神を宿神と書いて居る。それから進んで考ふべきは山科の四宮川原のことである。坐頭の徒は此地を以て例の仁明天皇第四皇子の故居と爲し、近き世まで年々の祭を茲に營んだ。併し所謂仁康親王の假託は一向に新しい事で、恐らくは平家物語又は源平盛衰記の延喜第四の皇子蝉丸を勝手に訂正したものである。此説は起原稍々古く、謠曲蝉丸が之を採つた外に、東齋隨筆も之を認め、東關紀行にも或人曰くとして之を引き、故に此關の邊を四宮河原となん名づけたりとあるが、「此やこの」の歌の出て居る古今集は、延喜聖帝御齡二十三の時に奉つた集である。今昔物語の敦實式部卿の雜色だと云ふ説も、やはり漠とした噂話で、つまりは山城近江の境に近い處で琵琶を彈いて居た巨人があつたと云ふ迄である。而して盲人の琵琶を彈くのは通例彼等の生活であつた。平家以前に平家琵琶は勿論無い。さうして琵琶法師はあつた。彼等は本職として西國中國に今も殘喘を保つて居る盲僧どもの如く、人家を巡つて竈拂をしたらしい。竈の神を荒神とも云ふのは土公の思想である。彼等が琵琶に合せて誦ふる地神經は即ち金光明經中の堅牢地示品であつた。之を以て見れば山科の四宮河原を四の宮に托するのは赤嘘で、比も亦攝津其他の國々に多く存する宿川・宿川原と同じく境の地である。此地で祀つた守宮神の性質は此で分ると思ふ。遊嚢?記卷十八に、逢坂の清水町に關明神と祀つたのは道祖神で、今蝉丸の社と稱するものは關明(398)神の御旅所であると書いてあるのは何に依つたものか。自分を以て見れば、關の神の御旅所にして同時に蝉丸の社であつても不思議は無い。何となれば諸國の琵琶塚の口碑よりも推測し得る如く、盲法師が境の地で地神の鎭め祭をするのは古くからの慣習であつたからである。

　之を要するに朝廷や國廳に存する守宮神と云ふ神の名は、本來は諸道の家の神の名から出た。諸道の家の神をシユク神と云ふのは、彼等が大和河内の夙の者の如く、シユク即ち邑境に住んだが爲だ。境に住んで村の惡魔を拂ふのは夙の者のみでは無かつたが、獨り近畿の一種類のみが後世シユクの者を以て呼ばれたのである。今の夙が塚の附近に住んだのも、同じ任務と同じ?況の壓迫に基くものと自分は信ずる。而して其證明は更に次の章でするつもりである。

　　○樋口勇夫氏の書信に曰く、筑後地方にはハツチイ坊主もトコロ（郷土）贔負の諺あり。他の地方にも廣く行はるゝ諺ならんが、之に依りて見るも鉢打坊主が放浪的の者に非ざることを證し得べし。又同じ筑後などにては、穢多は如何なる方法に由るも穢多以上の階級に移ることを許されざりしも、ツウカルヒ（笈負即ち非人乞丐）は何時にても自己の希望により普通の良民となり得る者と信ぜられ居たり。是れ彼等が貧の爲に一時身を墮し居たるものなる爲なり云々と。毛坊主の徒の放浪生涯と云ふは昔の話にして、今は殆と土着定住せざる者無きは自分も最初より之を認む。故に各部落の名を擧げ其郷土に就いて記述せり。今も放浪するが如く人をして解せしめたりとせば不文の責あり。非人乞丐が悉く自由に足を洗ひ得たりと云ふことは信じ難き事實也。此徒の中には生れよりの特殊部落と良民の身を墮したるものと二種混合し、而も常に其二種を區別するを得たりしは、巫女考第十一章に既に述べられたり（郷土研究一卷六四六頁）、故に再び之を絮説せず。但要するに非人の稱呼は因習上の者にして、所謂良賤の血液の混淆は古今ともに多かりしものなれば、特殊部落を以て直ちに特殊人種と斷定する者の如く誤解せられざらんことを切望す。

　

(399)　　　　　　　法師戸

　

　大和河内の夙之者が往々にして古陵墓の側に居住して居たことは、兎にも角にもシユクは守戸だと云ふ説の一の味方らしく見えるから、今些し之を討究して見よう。自分は既に守戸が千年前の舊職務地に戀々として留まり居る筈が無いことを述べた。次には夙之者ならば後世新たに古墳の側に來て住むべき理由のあつたことを説きたい。中世の私領主が既に其莊民を安堵せしめ、屋敷田地の割渡しも完く終つて後、更に一團の見知らぬ人民の新たに入込んだ者がありとしたならば、彼等の廬を結び膝を容れた場處は凡そきまつて居る。先づ農業は彼等の本務では無いから、河原砂濱の如き不用地でもよし、又必ずしも廣い地積は要せぬのである。陵墓の地には少なくも二箇の便宜があつた。其一つは古塚には草木が茂生して遠望を遮り、普通人は穢氣を畏れて之に近づかなかつた故に、比較的容易に平穩なる家居を見出すことが出來、第二には塚の地は常に除地である爲に、費用を要せず且つ占有を爭ふ者が無かつた。つまり京都の朝廷の管理が不能になつて後も、陵墓は社會的に永久の空閑として存在すべきものであつたから、農業の如き土地を破壞する職業を營まぬ人民が、偶然の番人として住付くことを得たのである。

　此故に塚の附近に部落を營んだ者は決してシユクばかりでは無かつた。今日でも平人は塚の附近に家を作るを避ける風があるのに反して、此連中には往々にして之を安住の地とする者がある。記憶して居る一二の例を擧ぐれば、今の讃岐國仲多度郡六郷村大字上金倉に姫塚と云ふ塚があつた。一段餘の地積が墓地の名義となつて居て、十二軒の乞丐《こじき》が其上に住んで居た。土地の口碑に依れば、姫塚は昔の某と云ふ殿樣の娘の葬處である。惡疾に罹つて國を出で此地に於て亡くなつた、其跡を乞丐が守護して居るのだと云ふ（西讃府志卷二十）。惡疾云々は前にも申せし如く、此一(400)輩が家筋を稍々尊からしめんとする通例の策略であるが、墓地の一段歩餘は貴人の墓としても廣きに失する。察する處附近がまだ一帶の山野であつた時代に、土着占據したものであらう。近江國では栗太郡治田村大字安養寺に、大字川邊と壞して灰塚山と云ふ小丘がある。其東三町を隔てゝ大きさ其五分の一ほどの圓丘あり。兩塚の間に四五軒の農家住し、其附近の地名を字塚と呼んで居た。世間からは此農家を塚五軒の者と稱して賤み、縁組は勿論のこと、村中と火の取りかはせをも許さなかつた。土地の學者は此塚を以て與多王の一族臣下などかと言ひ、塚五軒の者は陵戸の後だらうと説いて居るが（栗太志卷十四）、與多王は要するに江州の一傳説に過ぎない。灰塚と云ふ塚の名も多くある例で而も起原不明である。この釣庄《まがりのしやう》に在る者は、或は例の大柞《おほくぬぎ》を燒きたる灰が積つて成つた山と云ひ、又は文字から推測して火葬場だらうとも云ふさうだが（地名辭書）、諸國普通の説明は、昔行基とか弘法とかゞ修法をした護摩の灰を埋めたと云ふのが多い。是は後に言はんとする「祭壇としての塚」と關係のありさうなことである。

　夙が毛坊主の一種であつたことは、奈良の般若寺坂の寛元二年の古文書が之を證據立てた（郷土研究二卷五二〇頁）。而して毛坊主と塚との關係は決して前に擧げたゞけの輕微なものに止らぬのである。中にも最も重要なる見處が二點ある。其一つは即ち塚穴居住の風習、其二は即ち土壇築造の風習であつて、何れも古くからヒジリ又は毛坊主の生活と結び附けられて居る。自分は能ふべくは此が説明の材料を成るべく近世の社會現象の中から見出したいと思ふ。最初には先づ塚穴の問題であるが、諸國の田舍に於て古墳の口の開いたものがあると、あれは昔火雨が降つた時に人の隱れた穴だと云ふのは、よく聞く口碑である。火の雨は即ち氷雨のことだとか又は霈霖即ち大雨のことだなどゝ、眞面目に註釋する人もあるが、雹や霙が降るからとて塚穴に遁込むとは何うしたものだ。平日屋根の下に住む者なら實際火でも降らねば塚穴に走込む必要は無い筈である。自分は此傳説を以て此も諸國に數多い乞丐岩博奕穴又は強盗塚と同じ系統に屬する古譚で、或時代に流民の穴居をして居た事實を語り傳へたものと解して居る。所謂宿無しの群が?々里離れた岩窟や塚穴を占據することは、必ずしも八掬脛《やつかはぎ》や酒呑童子の氣疎い昔物語を引用せずとも、現代の警察(401)官吏に尋ねても多くの例を得ることである。殊にサンカ又はポンスケなどと呼ばるゝ規則正しき漂泊民になると、此等穴居地の所在に精通すること却つて土着民にも優つて居る。蓋し人の往來の少なかつた時代には、此類の來住者は勿論今よりも遙かに多く、中には穴から出て來て追落し屋尻切の如き惡業を働く者があつて、厭ふべき地名を後年に遺した場合もあつたらうが、常に惡黨の巣窟に限られた譯では無く、言はゞ氣心の知れぬ人間として村民に氣味惡く思はれる位の程度に於て、相接して居たのが普通のことであつたらう。例を擧げると珍しい事のやうに考へられる虞はあるが、話の序だから一二の記憶を書いて置かう。前年二宮農學士の注意に基いて、福島縣相馬郡石神村の村長小澤嘉壽氏に聞合せて貰つたことがある。此地方では久しい以前から年内に數囘遣つて來るテンバと云ふ一種の漂民がある。主たる生業は箕直しであつて、又籠や笊をも作つて賣る。社殿佛堂の縁の下を住處とするが、同村大字牛越などは丘の中腹に岩穴がある故、必ず其中に入つて住むと云ふ。里人は岩穴より煙の立つを見てテンバの來たことを知り、而も之を恠まず、其妻子などは既に顔馴染となつて居り、仕事を貰つてあるいては各々の岩穴へ持歸ると云ふ話である。又曾て自分は上總長生郡鶴枝村大字上永吉なる千葉彌次馬氏の家に於て其村の舊記を見たが、慶長年間に三河國から土坊師と稱する土方體の團體多數に渡り來り、村の北方の谷に横穴を構へて住み、其附近の山畑を耕したとある。仍て其場處と思ふ邊を歩行いて見るに今日穴の口の現はれて居るものは少ないが、それでも附近に數箇の塚穴があり、現に其一箇に於ては近い頃も乞食の入つて死んで居たのを見出したことがあると云ふ。自分の想像では我邦の塚穴居住には記録こそ碌に無いが、歴とした歴史が尋ねたら有るのであらうと思ふ。

　蓋し穴に隱れて雨風を凌ぐと云ふ位な工夫は、獣も有つて居る程の單純なる智慧で、必ずしも親から子へと教へ學ばしむるに及ばず、偶然に發見して偶然に之を便としたものとも言ひ得る。唯其行爲が普通農民の生活からは殆と忘却せられ居るにも拘らず、特に或一種の團體の間に限つて永く慣習となつて存續したと言ふことは、全く意味の無いことではあるまい。之に就いて是非考慮せねばならぬことが數點ある。其一は神道又は佛教に伴ふ穴の中の祭典又は(402)修法である。此問題は便宜上後に説かうと思ふ。其二は土を穿り岩を斫《き》る等の土工の技術である。此技術が一般人民の中に未だ十分に發達せざりし時代に、特に精巧なる器具と優れたる熟練とを以て世に持て囃された一種の階級が無かつたらうか。例へば井戸掘池作り其他俗に黒鍬と呼ぶ職業、乃至は大昔陵墓の築造に使役せられし人夫は、普通の百姓から點課せられた者とは思はれぬが、果して又一二の事例が之を暗示するが如く、シユク或はハチヤなどの祖先が專ら之に與つて居たのでは無いか。今後些しく注意して見たいと思ふ。其三には國々の多くの古墳が既に土窟と變化して居る事實、是も考へて見ねばならぬ。我邦の如く秩序のよく維持せられた社會では、貴人の墓處の毀たれるのは天然の地變か然らざれば道路を開き新墾をする際に誤つて鋤鍬が觸れた場合の外はあるまいと思はれるが、火葬の盛んであつた中世の人は存外に古墳に就いて無知であつたのみならず、更に又監護者無き數百年を經由して居るのである。其間には何があつたか甚だ覺束ない。自分は近頃關野博士其他の朝鮮に於ける古墳調査の報告を讀み、更に他の一方には所謂高麗燒採集に關する坊間の雜説を耳にして、心窃かにこの墓荒しなるものが數千年來の人道の痼疾であることを感ぜざるを得ぬ。淺ましい話であるが、亞細亞の大陸に在つては所謂寶探しは由緒ある産業の一であつた。殊に渭水の平原に連つて居た鉅公名室の墓どもは、概ね侵掠の厄に遭ふたことは史記の貨殖傳に既に見えて居たと思ふ。長安の都が三たび文華の中心となつた時代には其郊野には無數の荒塚が累々として居た。此等の空墟の中に入つて棲む者は蛇と狐と及び之に仕へた巫蠱の徒であつて、彼等が俗間の思想に如何ばかりの影響を與へたかは、唐代の小説を讀めば最も善く解るのである。東海の君子國に至つては勿論此の如き惨毒を甞めたことは無かつたらうが、而も夙くから空洞になつた墓の話はあつた。今昔物語に肥後の書生が羅刹に追はれて墓穴に遁げ込んだ話などは、形式が如何にも唐樣で飜案と見る方が穩かだが、近江國で旅人が塚穴に宿して他の旅人の餅を食ひ彼者を走らしめた話の如きは、有りさうな逸話であつて、頗るあの時代の塚の神の思想を髣髴せしむるやうに思ふ。比から推して考へると、古墳は世人が想像するより以上に塚穴になり易い傾きを持つて居た。土地との縁薄く里人と共通の尊信畏怖嫌忌等の(403)感情を具へて居なかつた漂泊民が、若し其當時にもあつたとすれば、彼等は何の慾心を插まずとも少々は穴の口を押し擴げて寒い嵐を避けんと力めたかも知れぬ。もし又上總上永吉の土坊師や、京都で井戸掘に從事した河原者などの如く土工の技術に練熟して居たとすれば尚の事である。

　次に洞窟内の信仰は佛教に於ては常の事である。經典にも遺蹟にも多くの例證があつて、日本ばかりの事では無い。但し日本の窟中佛教は主として修驗道の側に屬して居る。先づ最初には呪を持して鬼神を驅役したと云ふ役優婆塞は、四十餘年葛城山中の崛《いはや》の中に居たまへりと、亦かの今昔物語に見えて居る。此流を汲む行者に窟又は塚穴に入つて修行したと云ふ者は、現代に於てさへ稀では無い。觀音不動其他の佛像、之に伴ふ神恠なる傳説の外、往々にして内壁に文字を刻し、此慣習が近代の發生で無いことゝ共に、穴の中の居住が一刻半日の臨時的のもので無かつたことを示して居る。例へば肥後八代郡吉野村大字大野の窟には、明應六年一夏參籠の願を果して阿彌陀如來を安置し奉ると刻し（肥後國志）、越前大野郡下庄村大字大矢戸の道人窟では、昔仙人の住んだと云ふ口碑と共に、康治元年何々房と彫られた石が横はつて居る（越前國名蹟考）。又必ずしも重きを年號に置かずとすれば、此類洞穴修驗道の遺蹟は殆と其目録を作ることすらも出來ぬ。下總香取邊の方言に、塚穴のことをアナゼンヂヤウと謂ふが如き（香取郡誌）、それが全國普通の?態である。穴の奧に神を祀つた例も亦多い。穴八幡は東京高田の社のみで無い。武藏大里郡八基村大字大塚であつたか、古塚の口の開いたのが近年まであつた處へ、後に八幡を祀つて人を入れぬやうになつたと渡邊眞楫の秩父日記に見えて居る。土佐は最も穴神の多い國であつた。あの洞穴には土壇を設けて祭に供した古錢の散亂して居る處もあつた。吾川郡伊野町字オクノアンと云ふ地の岩神は、古くは祭の日に岩穴に入つて祭つたのが、後に穴の口が潰れてしまつた。正體には劔と鏡とが安置してあつたとも言ひ、或は阿彌陀佛の像だつたとも云ふ（南路志）。此等の神々が必ずしも山伏聖の仕へた者のみで無いことは、式内の神社にも備中の比賣坂及び井戸の鐘乳穴の神、大和室生の龍穴神等があるのを見ても分るが、要するに先づ洞穴の中に入り得た人が其神々の仕人でありしことは、古(404)今變らぬ事情であつたらうと思ふ。窟の神は既に神代の語り傳へにもあつて至つて古いことである。其信仰をそつくりと平野の塚穴へ移し來つたのが、之に比べて遙か後世の事だとすれば、是も亦最も永く洞穴の生活に親しんで居た者の所爲と見ることが出來る。從つて先年議論の喧しかつた武州松山の百穴の如き、墓處だ住處だ祭場だと云ふ三種の説は、自分ならば何れも當つて居ると申し得るのである。

　以上の所説は單にヒジリ又は毛坊主は古墳と親密であつたかも知れぬと云ふ迄のことであるが、猶進んで述べたいのは彼等が久しい間塚の築造に關與して居たと云ふ事實である。塚と名の附く者で何も埋めて無い只の盛土の多いことは、人のよく知る所であるが、此等は全體如何なる性質のものか、從來あまり學者の説を聞いたことが無い。其中でも一里塚などは先づは目的が明白であるが、此外に現に我々の目前に増加しつゝある富士塚淺間塚或は庚申塚の類は何時から始まつたか。其種類及び時代はどこ迄及ぶか。古墳調査の爲にも此は必要なる問題である。然るに人に由つては、なに古墳と塚とは混同の虞などは無いと云ふ。自分は頗る之を疑ふ者である。塚は捨てゝ置けば常に土が流れ形が變ずる。結構の完備した畿内少數の陵墓は例外として、其他の場合に於ては外形や大小を以て時代を判別するの無理であることは、一方には土工耕作等に際してゆくりなく古墳を發くことがあると同時に、他の一方には口碑や名稱に絆《ほだ》されて?々空しき盛土を掘返した人のあるのを見ても明白である。自分が見る所を以てすれば、塚と古墳とは物體に於ては區別を立てることは出來ずして、其本來の思想に於て一定の分界があるものと思ふ。塚の用途は死人の埋葬以外に古くから別にあつた。當初墳墓として築かれた物も、年經て管理權者が無くなれば亦此方に轉用せられたらしい。それで無ければ同じく牛塚と云ひ狐塚と云ひ鬼塚と呼びながら、其或ものは零落せる古墳であり他の或ものは只の土石ばかりである理由を説明することは出來ぬ。然らばその別種の目的とは何かと言ふに、それは前に洞窟の信仰に就いて述べたと同じく、前代に屋外に於て祭事を營む信仰の盛んであつた頃、土を封じて祭をした其祭壇に供せられたものと認めるのである。

(405)　此事實は幾通りにも之を論證することが出來る。近世の塚の名で最も數多きものは、前掲の富士塚庚申塚牛壞狐塚等を始として、概ね其地方に行はるゝ祠の神の名稱と共通であるのみならず、往々にして其塚に於て其神を祀つて居る。又此以外にも、關東地方に多い念佛塚などは、村で所謂念佛供養を營んだ時に築く者であることは、老人がまだ之を記憶して居る。供養塚と呼ぶ塚は必ずしも念佛にのみ限られず、或は例の梵天供養の塚もある（郷土研究二卷三一四頁參照）。梵天とは大きな御幣のことで、左義長又は柱松の行事などゝ同じく、標木を中心として祭を執行ひ、其機會に築いた塚を梵天塚とも云ふ。關東では大山石尊又は出羽の羽黒山の梵天を立てるものが多く、上總地方で行人塚と云ふのも亦それである。前に言つた千葉彌次馬氏の話に、行人とは羽黒參詣者のことである。三山の登拜を終つて歸つた者相集まつて行人塚を築き祭典を行ふことがある。今では塚の代りに石を建てる場合が多くなつた云々。山の峠などの土の得にくい處で土塔の代りに石塔を建てる風は昔からあつたが、里でも勞費の關係上、殊には記念の文字を彫り遺す便宜から、立石次第に多く塚漸く減じたことは、恰も墓地に盛土を輕んじ石碑を重んずると同一の傾向である。富士塚なども追々石を用ゐる部分が多くなつたが、元の法則は恐らくは山の形をした塚を築いたもので、猶一段の推測を進めるならば、天然の峯頂に於て神聖なる儀式を行つた風習から出たものであらう。諸國の神山が多くは飯盛山又は飯山などゝ云ふ孤峯であるのを見ても知らるゝ如く、平野の中に目立つた古墳などの存する場合に、それが人造の物なることを知つても知らずにも、之を塚に利用して新たに築くの勞を省かうとするのは自然の話で、其爲に何々塚の名を附せられ、乃至は新しい塚に交つて外見上判別がしにくゝなるのは我々にはちつとも不思議で無い。

　行人塚の行人と云ふ語は、以前は今少し嚴格なる意味を有し、單に一度の羽黒參拜をした者までは含まなかつた筈である。行人は高野の行人方などの如く、行をする人と云ふことで古い語である。塚の名に之を呼ぶ事情は略々明白である。即ち此階級の人々が塚に據つて祭をする信仰を村里に傳道して居た爲に其名が出た者だ。此とよく似た名稱で、他の地方に及んで弘く存するものは、山伏塚上人塚聖人塚聖塚等であるが、多分は等しく毛坊主の仲間の關與し(406)た塚であらうと思ふ。土地の傳説を尋ねると、?々或上人乃至は或山伏を葬つた處と稱し、殊に山伏塚に就いては喧嘩其他の理由を以て山伏を殺戮し其怨靈の祟を鎭める爲に祀つたと云ふ言傳へが最も多くある。此の如き傳説は其類例が少なかつたら寧ろ史實として正面から之を受入れ得たかも知れぬが、どこの國でも山伏塚とさへ言へば必ず此話があることは、却つて別樣の原由を暗示する者だと思ふ。之に就いては此名の塚が郊野邑境の地に多いこと、及び國郡の境の峠に山伏峠の多いことを考へて見ねばならぬ。塚が古くから境の地に多く築かるゝことは前にも曾て之を説いたことがある（郷土研究一卷一五六頁）、此からも追々に例を以て證明したいと思ふが、念佛塚の如きも確かに境塚の一種で、村に疫病が流行し又は蟲害旱害の烈しい年に、之を惡靈の所爲に歸して念佛を以て之を供養し、境上へ送り出して塚を造立することは、方式こそ今樣なれ、尚且道饗祭の遺意に他ならぬ。山伏塚に怨靈の祟を説くのも則ち亦其例で、山伏の惡靈と傳説するのは恐らくは主客の混同であらう。行者山伏の徒は古くは源氏物語の世から末は近年に及ぶ迄、邪鬼の攘却を以て主たる任務とするのみならず、後世には田舍の注文に應じて念佛をも其方式の中へ取入れて居る。と言ふよりも村人の立場より言へば、兎も角も惡魔退散の爲に有效なる塚を築き得る限は、別に先達の宗教論の純一鮮明なるべきを要求しなかつたところから、頼まれて遣つて來るヒジリには行人もあれば上人聖人もあつたので、而も本を溯れば此徒の種類にも必ずしも今日ほど明白な差別は無かつたやうである。

　又法師塚と云ふ塚がある。百人一首などでは法師は單に僧侶の別名の如くあるが、少なくも中世以後は之を下級の聖坊主輩の稱呼にしたらしいことは、今昔に北山の餌取法師鎭西の餌取法師の話あり、奈良坂に近江法師等ありし（同二卷五二〇頁）を見ても知れる。故に是も亦行人塚山伏塚などの例を推し得るが、自分は此口だけは却つて榜示塚の當て字違ひであらうと思ふ。榜示とは境の標木のことであつたのを、後には轉じて境堺又は區劃の意に用ゐて居た。關東地方の字の名に芳志戸又は傍示堂など云ふのは皆是で、即ち莊園の境を意味して居る。此點に就いては無精な話だが次の清水君の寶珠花に關する小篇（同二卷十號）を利用して、差しあたり紙面を儉約して置く。近頃電車の車掌の(407）札に法師人某と云ふ苗字を見た。つまりは境の祭に法師が干與したから此轉訛も起つたので、榜示塚を星塚に誤つたものも、やはり星の神が境の守護を掌つて居たからの、最も自然なる思違ひであらう。

　

　　　　　　　護法童子

　

　巫女考に「吾妻には女は無きか男みこ云々」の古謠を引いて、神寄せの業は女子を以て原則とするかの如く説いたのは（郷土研究一卷二〇六頁以下）、巫女考としては已むを得ぬかも知らぬが、男巫は實は決して例外では無つた。中山流の法華宗に於て今も盛んに行はるゝ所謂因所?を始とし、法師巫即ち佛者の此部面に携はる者は、優に一階級を形づくるに足りる程多かつた。唯地方に因り其稱呼を區々にするのと、後世其活動が些しく散漫になつて居た爲に、第二の商賣を有する女巫に負けたのである。作陽誌に依れば、今の美作國久米郡吉岡村大字定宗に、岩間山本山寺と云ふ大きな修驗道の寺があつた。山徒甞て護法の析を修せし時、呪法成らず、偶々一客僧此を過り?《わら》つて曰く、行法熟する者は木石を呪するも靈驗あり、況んや四大和合する者に於てをやと。傍に大石あり、衆僧怒りて之を指し之を呪せよと請ふ。客僧敢へて辭せず、乃ち石に向ひ叱々と言へば此石忽ち跳躍し、念珠を以て之を打てば石奮飛して空に騰り、數里を超え行きて全間山《またまさん》に落つ。是に衆徒の中に暴僧あり、其奇術を嫉んで遂に之を壓殺す。既にして其靈祟を成し妖幻萬?なり。衆懼れて祠を建て之を祭り邪漸く止む。今護法祠の後に若宮あるは客僧の靈祠なり。因つて石墜つる所を荒谷と名づけ石を護法石と名づくと云ふ。護法の祈が如何なる呪法であつたかは、此引用文に由つてもわかる。四大和合する者とは人間のことである。山の衆徒は呪法が未熟で人間をすら靈動せしむることが出來なかつたのに、客僧は岩石を使役することが出來たと云ふので、此山では常に人を寄坐《よりまし》として居たことが知れる。客僧とは單(408)に山伏と云ふことである。其亡靈を若宮と祀つたと稱する口碑は外にも多くあるが、此場合には殊に意味が深い。何となれば若宮は神の子と云ふ思想に基いた前代の靈巫のことであるから（郷土研究一卷二三頁參照）。此若宮が護法祠の後に在つた爲に恐らくは此傳説が發生したのである。作陽誌の同じ寺の記事中に、「護法社、本殿の後に在り。毎年七月七日護法の祈を行ふ。其法は性素樸なる者を撰び齋戒潔淨せしむ。俗に之を護法實と謂ふ。七日に至り東堂の庭に居らしめ、滿山の衆徒盤環呪持すれば、此人忽ち狂躍を示し、或は咆哮忿瞋して?獣族の如く、力大磐を扛《あ》ぐ。若し穢濁の人あれば則ち捉へて數十歩の外に抛擲する也。呪既に畢れば則ち護法水四桶を供へ、桶毎に水一斗五升を盛る。其人盡く呑み了つて後俄然と地に仆れ、即ち本に復して敢へて勞困する莫し。又自ら之を知らざるのみ。之を護法を墜《おと》すと謂ふ」とある。此類の祈?法を護法と呼ぶことは此寺ばかりで無かつたらしい。同じ郡龍川村大字｜下二箇《しもにか》の、眞言宗醫王山佛教寺の境内にも、本堂の北に一の護法祠があつた。毎年七月十六日亦護法の祈を行つたとある。猶同じ郡大垪和村大字大垪和東なる二上山兩山寺の傳説の如きは、更に一段の奇を加へて居る。兩山寺の麓に在る護法松と云ふ木は、昔此寺に於て護法の祈を修せし日に、寺山某と云ふ武勇の男、來つて之を見物す。式の央《なかば》に其護法の尸《よりまし》突然起つて寺山に捉み掛る。寺山は勇悍人に超えたる者なれば、此と組打を始め、峻崖峻坂より轉び墜ちて遂に共に死す。乃ち此地に兩人を合葬し、後人栽ゑて標と爲す者即ち此松である。此話は正面に受入れるなら男巫の萬事に荒々しく、悲涙を催す女口寄の比で無かつた一例とも言ひ得るが、話の筋が如何にも奇拔である上に、殊に合葬の結末が誠らしからぬを考ふれば、或は此種の行法に縁ありし一種の御靈塚で、例の二子塚などの古傳（同一卷四七〇頁）の斷片であつたかも知れぬ。

　さて右の美作の昔話を、自分が長々と引照したのは、實はその眞言宗の因祈?を護法と名づけた理由を尋ねて見たい爲である。蓋し護法神又は護法童子は、佛教文獻中最も趣味多い民俗學的題目の一であるらしいが、自分は之を詳述するだけの學問が無いから、取敢へず手元にある參考書だけを引いて置く。秘密辭林に曰く、護法神、佛法を守護(409)する善神を云ふ、四天王十二神將等是なり。護法天童、佛法を守護する諸天諸童子を云ふ。即ち十二天八大量子の如き是なり。又佛教辭典には、護法とは一に山伏などが物氣又は病氣等を調伏して其人を保護すること。護法天童、護法と天童と也。護法とは佛法を守護する鬼神のこと、天童とは童子の形を現はして人界へ來る天人のこととある。此説明もちと疑はしいが、兎に角日本の佛教の中にも一時盛んに活躍して居た護法童子と云ふ者は、凡人の眼に見えぬ異形の人格であつた。而して此が作州にて一種の男巫の名稱となつた仔細は如何。或は之を簡單に解して、守護神の託宣を聽いた古式から、神の名が式の名となり更に轉じて尸童の名となつたと見る人もあらうが、然らば何故に色々の貴い佛神もある中に、特に護法神のみを申下す習であつたかと云ふ疑が起る。山形縣の天童と云ふ町は、自分が頻に其地名の由來を知りたいと思つて居る處であるが、最上地方にも天童と云ふ神を祀る風習があつたらしい。日光中禅寺にも妙見天童宮と云ふがあつて、此には柿本人麿を祀ると傳へて居た（遊嚢?記所引陸奧紀行）。佛教に隨從すべき天童を本尊から引離して尊信した一例である。此類の神を以て託宣專門業者の祀る所と速斷するのは惡いか知らぬが、少なくも天童の思想が日本へ來て稍々變化した證據にはなるかと思ふ。自分の意見を述ぶるならば、因祈?を護法の祈と呼ぶに至つた徑路は、一つには此天部が名僧に隨身して侍僮の役をしたこと、二つには護法が多くは童形である爲に、人間の童子と聯絡が取り易く見えたことであつて、よい加減の名僧たちには天童を驅役するだけの器量も無い故に、成るべく有合せの人童に勿體を附けて法用に供したことを意味するのであらう。語を換へて申せば、護法と云ふ稱呼は祈?僧が其童子を依坐に使用したことゝ深い關係があるらしいのである。

　中世の物語本に親まれた諸君は、童子と云ふ語が必ずしも事實上の少年にのみ限つて居なかつたことはよく御存じであらう。牛飼童の白髪三筋であつた例もある。殊に寺家では身が樂であはよくば得度して沙彌から長老になる望もあつた故に、此類の試補を志願する者が多かつたらしい。喝食《かつしき》とかおちご〔三字傍点〕とか言ふ者も、實家の立派で無い連中は辛抱ばかりでは住持にもなれず（昔は寺が甚だ少なかつた）、分桃斷袖の誼などは限りあることで、所謂高野六十那智(410)七十の老境に臨まずとも、單に寺の庇蔭で衣食のみを取續くと云ふ輩が漸く多かつたかと思ふ。世に院内と稱し寺中と呼び、境内に聚居して妻子を育くむ者の中に、俗衆相手の低級の巫祝の多いのも、此方面からで無ければ其由來を明らかにし得ぬ場合が稀では無いやうだ。其一例として擧げたいのは、古くは職人盡の繪の中にもある地者のことである（郷土研究二卷二一一頁參照）。和訓栞には「今世の事はらひの類なるべし、持者《ぢしや》の義にや」とあるが、加持者を持者とは言ひさうにも無く、經文受持者のことゝすれば、同じ鶴岡職人盡の中に別に持經者があるから此想像は當らぬ。又兎園小説外集卷二には、「地者の地は山に對する意にて、峰入せぬ者なればにや」とあるは文字に拘はつた説である。同じ書中地者は多分女山伏のことで、後世大阪邊に輪袈裟を掛け錫杖を振鳴し、さんげ／＼と唱へ市人の門に立つ者は其名殘だらうとあるのも、例の「まことは童兒かりはをとめ子」又は「我も女のまねかたぞかし」等の歌の文句には注意せずして、繪樣に由つて速斷したものであらうと思ふ。併しながら地者が既に一種族の總稱となつて、彼等家を構へ妻もあり娘もあつたとすれば、其職業が常に男子に限られて居たとは必ずしも斷じにくい。時として地者の母や女房が亦地者であつても不思議はない。寛永十年越後高田藩の政道箇條書の中にも、子女弟妹を私かに僧尼或は行人地者等に致すべからず。病氣の爲又は事情あらば其譯明細に認め、名主組頭五人組連判出願の上沙汰を受くべしとある（越後風俗志三）。恐らくは此頃などには地者は既に全然獨立の階級となり、從つて其名の本義が忘却せらるゝに至り、色々の宛字が各地方區々に現はれたのであらう。併しながら昔の人は克明であつた。所謂萬葉假名の漢字にまで何か意味あるが如く考へると同じく、同じ宛字をするにも幾分か尤もらしい漢字を撰んで置いた。故に時としては其文字からも幽かながら時の思想を推測し得ることは、前の被慈利又は非事吏の例でもわかる（郷土研究三卷三二二頁）。持者又は地者と云ふ語にも何かの消息が無いとは言はれぬ。殊に相州大山に於ける三戸の地者が、足利末期の文書に?々兒捨と書かれて居るのは面白い、自分の推測では彼等は全く寺の侍僮の主僧から引離たれた者だ。豐後の海邊に魚賈などをして暮す者に事捨てふ部落のあつたことは、關秘録卷五に出て居る。百姓賤しみて之と通婚交際せず、俗(411)には之をシヤアとも呼ぶ。安�ｺ天皇御入水の時に乘捨てたまひし車を打碎き薪とせしより、如何に御運拙くとも天孫にてわたらせたまふに、無下なる事をしたと彈指せられ、自然と其黨きりの者となつたと云ふのは奇拔な話である。車と云ふのは多分はシヤアと云ふ稱呼から言ひ始めた説明で、是亦昔の貴人を引合に出す通例の癖を發揮したものである。此仲間のやうに零落しては、原の形を探るのに難いが、幸にして多くの地者は、其職業乃至は生活から昔は名實とも侍者であつたことを證して居る。大山の兒拾などは現に神家侍者とも書いたと云ふ（新編相模風土記）。而して鶴岡職人盡の持者の歌に、「やどれ月心のくまもなかりけり袖をば借らん神のみやつこ」ともあつて、女装せる童兒を畫いて居るのは、即ち此者の後々は獨立して神の口寄を業として居たことを示すものだ。住吉名所記に此社末社の中に侍者御前と云ふ祠を擧げて居るのは、今も有るかどうか。是などは美作の護法神、日光の天童宮と共に、實際の侍僮が託宣に使用せられた時代から、特に尸童の祖神として祀られたること、恰も姥神若宮等が巫女に對すると同じ關係であつたことゝ考へる。

　諸國の大寺に僧侶の未成品が多かつたこと、それを此から言はうと思ふ。其名稱は色々あるが、順序として先づ堂童子のことを擧げる。塵添?嚢鈔卷十五、堂童子名字不審（ノ）事の條に「發心求道の俗などの僧の所に至りて佛子を願を童子と名づくるは、花筥賦《はなばこくばり》などする役を勤むること、堂傍にありて便宜相應する故也。仍て堂童子と云にや。今は發心求道の義に非ざれ共、是を例とし此號在る歟。南都の諸寺には堂童子と云下部侍る也」とある。芋井三寶記卷下には此條を引いて、善光寺に現存する所謂中衆十五坊の者亦此堂童子なりと言ひ、更に枕草子にあはれなるもの泊瀬詣の夜深く堂童子など呼ぶ聲云々とあり、又今昔物語の造大安寺語の條に「其寺の内には止事なき僧なれども入る事なし、只堂童子とて俗なん入りて佛供燈明奉る止事なしと語り傳へたると也」とあるなどを證として、堂童子を下部と云ふのは貴人高僧に對しての語で、さまで低い身分では無い筈だと言つて居る。善光寺附屬の堂童子のことは、此書及び善光寺別當傳略等に詳しく、何れも最近刊行の信濃史料叢書に採録せられて居るから、此には要點のみを摘んで(412)置く。右十五坊の家筋は何れも舊家で、或は若麻績《わかをみ》氏の遠裔と云ひ如來の御譜代の者とも稱して居る。當初隨從給仕してより血脈相承し他家より養子をも取らなかつた。即ち其妻帶は決して内々では無く、後世は頭を圖めるのが常であつたが、以前有髪俗體なりし證據がある。大勸進歴代の別當法印中、中衆の家から出た者は少なく無い。此徒の最も重い任務は十二月中の申の日の如來の御年越、年頭の修正會御印文の儀式に關與することで、白い麻の衣に白布の頭巾やうの者を冠と稱へて之を戴き、堂中の作法は彼等の間の固き秘密であつた。中衆と云ふは恐らくは後世の稱呼で、もとの名は堂童子であつたらうと思ふのは、嚴重な祭式の時ばかり堂童子の名を用ゐる事實が其證據である云々。

　?嚢鈔にもある如く、儀式に使用せらるゝ童子は本來は皆未度の沙彌であつたのを、百姓生活の壓迫より安氣なる寺家の世界に馳せ込む者次第に多く、僧侶になれぬのを覺悟の上で生涯候補者で過してもよいと云ふ連中が、甘んじて寺中の事務に服し、其子も其孫もと云ふことになつたので、堂童子は終に名實相｜?《かな》はぬものとなつたらしい。而して之に代ふるに中衆等の名稱を以てしたものは獨り信濃の善光寺のみでは無かつたやうである。例へば元禄二年の聖護院書上の中にも、「山伏の先達をば囘國行人と云ふ。惣じて諸山に行人あり、山門の堂衆、三井の中衆、高野の世間者堂衆は、竝に行人の異名にして承仕の役を勤むる輩なり云々」とある（高野山行人事歴）。承仕とは今日の語の給仕と同じである。後世權力を増加した高野の行人方などは、以前の身分の承仕であつたことを極力否認するが、事實であるから已むを得ない。山門の堂衆のことは源平盛衰記卷九、山門堂塔（ノ）事の條に、「抑堂衆とはもと學匠召仕ひける童部の法師になりたるや、若しくは中門法師にてありけるが、金剛壽院の座主覺尋僧正御治山の時より、三塔に結番して夏衆と號して佛に花奉りし輩なり。近來行人とて山門の威に募り、切物寄物責はたり、出擧借上入ちらして、�ｺ付公名付などして以ての外に過分になり、大衆をも事ともせず師主の命を背き、かやうに度々の合戰に打勝ちて、いとど我慢の鉾をぞ研きける」とある。中門法師と云ふ語は田樂の中門口と云ふ事と何かの關係は無いか、折もあらば考へて見たいと思ふ。又法然上人行?繪圖卷四十四に、「抑山門諸堂のつとめは衆徒のいろひ無く堂衆の沙汰なりし(413)に、かの堂衆等寺用を貪り、獨歩のあまり衆徒を忽諸し、剰へ八王子の社壇を城廓として惡行をたくみしかば、建久三年冬の頃官兵を差遣はされ堂衆を退けられし後は、諸堂の安居以下皆衆徒の沙汰にてつとめけるに云々」とある。近江輿地誌略卷二十一は近世の叡山を詳しく記述して居るが、其中に此山にも中衆と云ふ者が居ることを言ひ、「山上の中衆は山下の中衆より格よろし、古昔の辨慶も山上の中衆なりしと云々」とある。堂衆と中衆とは恐らくは同じ階級を意味する名で、中衆と言ふのも堂の中へ入りて承仕するよりの名かと思ふ。所謂北嶺の行者即ち後年本山派に編せられた山伏と、右の堂衆又は中衆との關係は、自分にはまだ確と會得せず、後者が善光寺等と同じく妻帶の者であつたか否かは明らかで無いが自由な意思で出家したのでは無い高位の僧が、承仕の婦人に手を掛けて、稀には所謂御落胤の威光を内々振廻はした者もあつたやうに、此山の舊事に詳しい或上人より聞いたこともある。

　法然繪圖に衆徒と云ふ語を大衆と同じ意味に用ゐて居るのは、果して一般の用法に合したものであらうか否か。近世に衆徒と謂ふのは少なくも或地方では正しく特殊の階級であつた。例へば善光寺では中衆十五坊の下に二十一院の衆徒があり、堂奉行別當代等の役を勤むる外、又寺中警固の任にも服して居た（芋井三寶記上）。但し家筋の新舊又は役の上下の外に中衆との差別は無かつたらしい。南都興福寺の衆徒は妻帶の僧であつた。所謂奈良法師なる者即ち是である。四五年以前迄生存して居た最後の衆徒の話を、自分は曾て弟の松岡輝夫より聞いて文章世界に書いたことがある。裹頭《くわどう》とて頭を袈裟で包み、大太刀を佩き足駄を履いて濶歩した。頭こそ圓めたれ宛然たる寺の護衛であつた。熊野新宮にも三方社中と稱し、神官の外に衆徒と社僧との二階級があつた。社僧は圓頂なれども肉食妻帶にて宗旨無く、衆徒は總て俗體であつて、其｜一臈《いちらう》を總檢校と謂つた。「其職は神地の政務を專らとして雜事に至る迄總て支配すれども神官に入らず、舊くは僧形にして妻帶せしを、南北の頃より兵事を專務として佛家の行ひをせず、いつと無く俗體となりしなるべし」と云ふ（紀伊續風土記八十二）。善光寺の中衆なども之と同じく、寺の實權を掌握して居たのだらうと思ふ。

(414)　高野の行人を堂衆と呼んだ實例はまだ發見せぬが、世間者と名づけたのは古いことで、其理由は世間雜事を職掌せしめしより起ると云ふのは當つて居るらしい（行人事歴）。行人方では勿論此稱呼を承認せず、自らは總分方と云ふ名を稱へて居るが、此稱呼とても決して自慢すべきもので無く、現に木食上人應其の手書中にも世間者總分と云ふ語が?々あつて、一坊一院獨立の存在を認めず、團體を一括して取扱はれた名殘であるらしい。木食上人は太閤の頃の人で、一山を破滅の悲境より濟《すく》つた大恩人である爲に、行人方の格式は爾後大いに昂り毎事學侶方を壓迫するに至つたのである。尤も此山には古くより箇々の堂社に寄進領地多く、之に附屬する承仕等も收入豐かで、團體も漸次に成長し一の勢力になつたと見え、天野の長床衆の如きは夙くより本山に楯を突き嗷訴を繰返して居る。學侶と行人との關係は先づは鎌倉時代の領家と地頭との如きものであつた。秩序が嚴守せられた時世にも對世間の實務に於ては下級の者に隱然たる勢力が生じ易い。況んや恩は漸く薄く威は漸く衰ふるに至つては、紛亂の機會だにあれば忽ち對立の地位を占めんとするのは當然である。唯後者が生活の便宜に乘じて無檢束に其仲間を増加して居た結果、終には舊來の資料だけでは食へなくなる事情が中から起ること、恰も亦地頭が其所領を細分して我と零落して行つたのと同じ形勢である。殊に寺附屬の堂童子等は妻子あれば勿論のこと、然らざるも容易に所縁の者を引入れて共住した爲に、もと／＼確實な不動産も無い者とて、佛會祭例の些しく衰へた時代には、すぐに何か收入の補充策を講ぜねばならぬ。故に此徒が永く地位勢力を保持する寺では、必ず早くより其職を門閥の數坊に限定して居る。然らざる者は高野聖の旅生活と同じく、寺を外にして生活の道を求めて居る、高野の行人などは即ち山臥修驗の道を以て常民に接した。祠曹雜識卷四十五に曰く、「高野行人昔は承仕とも夏衆とも世間者とも云ふ。彼等は修驗を兼ねて山伏の装束にて大峰葛城等の諸山に入峯する故に行人と呼ぶ云々」。是が恐らくは行人なる名の起原であらう。又同じ書に依れば、此徒が僧侶同然の法衣行粧を公許せられたのは�ｺ川幕府になつてからである。天正八年本願寺の顯如上人が高野山の見聞録には、行人は刀を差し紋のある衣裳又は茜の小袖を着て武者をするなり、但しめん／＼の坊持佛堂を建てゝ行法をも(415)する也とある（古事類苑宗教部六十八所引）。山伏のことは詳しく述べる折も無かつたが、昔はヒジリと謂ふは山伏のことであつた。梁塵秘抄卷二の四句神分の歌に、「ひじりの好む物、木のふしわたつの鹿の皮、蓑笠錫杖もくれんじ、ひうちけ（マヽ）岩屋の苔のころも」とある。ワタツノは勿論ワサヅノ（郷土研究二卷四〇三頁）であらうが、普通の念佛聖のことを詠んだものでは無いやうだ。即ち高野の行人方などは大いに聖方を輕蔑して居たけれども、自分等も亦一種のヒジリであつたのである。

　自分は此迄の數章に於て所謂特殊部落を特殊ならしめた主たる原因は境遇であることを力説したつもりである。夙もヒジリだ、鉦打もヒジリだ、と何でもかでもヒジリにすることは、あまりに題目に熱中すると危ぶむ人があるかも知れぬ。併し決して私は木村鷹太郎では無い。同じ侍者の末でも一は相州阿夫利山の紳士たり、一は豐後海村に穢多同前の取扱を受くると同じく、制度宜しきを失し眷屬が過剰して生活の資源を涸せば、成るべく從前の職務から移り易い且つ競爭者の少ない部面に向つて溢れ出るのは自然の成行であつて、堂童子承仕が祈?に頼まれるのは、社の巫が口寄せを職とし乃至は代書屋が三百代言の眞似をするのと同じである。さうして旅を巡るうちには愈々數が増加して本山にも歸住し得ず、一蛇穴無しの形で村から村へ漂?するのである。其好例として自分は一つの話を殘して置いた。近世の江戸では願人坊主と云ふ乞食同然の者が多く居た。山中笑翁の説に、近い頃まで下谷萬年町に住んだ願人の部落は、住吉踊・阿房陀羅經・法界々々・寒行・御釋迦の誕生・謎掛・且那これはこれでも等色々の事をして物貰にあるいた（共古日録十四）。其觸頭を高林坊と謂つて橋本町に居た（同上四）。元禄中迄は馬喰町に居たと云ふ。少々は贋やむぐり〔三字傍点〕も居たか知らぬが、大體羽黒と鞍馬の二派に分たれてあつたと云ふ（守貞漫稿六）。羽黒の方は未だ詳かならず、又愛宕多賀等にも願人があつたが由緒無しとある。延享元年鞍馬大藏院の書上に依れば、此寺で坊人を願人と呼ぶのは故實のあることで、具さには源公願人と謂ふ。即ち義經公入山の砌、虎之卷を傳授し奉り御供して運を開いた者の末裔だ云々。室町時代の毘沙門隆盛の頃の産物らしい。鞍馬願人は諸國を徘徊して加持祈?を爲し、札守秘(416)符を勸むる俗法師であつた。其作法として大藏院の申立る箇條は、（一）天台宗祈願加持札守秘符相勸め候事、（二）御鬮八掛卜筮之事、（三）荒神釜〆勸請之事、（四）大念佛修行之事、（五）淡島法樂勸進之事、（六）大山不動へ梵天相勸候事、（七）毘沙門天八體佛御影配勸進之事等の十種に及んで居る。それでも多數の願人の活計には不十分であつたと見えて、同じく大藏院が此輩に下した下知　　　状には、古法之通佛像聖像を以て勸進仕候儀堅く停止せしめ候事とあつて、但し正月七月十六日の小さき閻魔王の像、四月八日の釋迦誕生の像を以てする勸進のみは特に許すと言ひ、御鬮《みくじ》を以て勸進してはならぬと言つて、但し八掛を置く爲には元三大師の御鬮に紛れぬ限は宜しいと餘地を取り、其他修驗と兼帶するなとか賣藥をするなとか、凡そ願人のやりさうな副業がいくらも列記してある（以上祠曹雜識三）。蓋し願人と云ふ語はもと田舍の信者の爲に代つて立願するだけの職掌であつたのが、終には言ふに忍びざる下賤の地位に沈淪したのは、全く此徒の無檢束の増加と之を支へ能はざる鞍馬信仰の衰退との反映に外ならぬ。此序に言ふべきは勸進と云ふ語である。是もオカンジンなどゝ乞食の異名となつた地方が多いが、本來は人に善根の種を播かしむる佛者特有の道�ｺ的行爲の名であつた。信濃の善光寺などでは今も大勸進と大本願との兩部に對立して居るが、勸進も本願も結局盾の兩面の如きもので、今の内務省語を以て言はゞ、勸進は即ち寄附金募集、本願とは寄附金募集の目的と云ふことだ。事業としては地藏の本願又は橋の本願などゝ云ひ、人に在つては本願の太夫又は本願の比丘尼などゝ呼んだ。此等の語が尊く聞えるのも賤しく聞えるのも、事業次第人次第乃至は境遇の順逆適否である。

　

　　　　　　　結論

　

　鉦打・鉢屋・茶筅・サヽラ・地者・願人の類が次第々々に佛法の因縁から立離れて、只何と無く普通人とは異なつ(417)た職業團體を作らねばならなかつた成行は、先づ一通り讀者の御了解を乞うたつもりである。過去の毛坊主として列記すべき者は獨り此等の數者に止らぬこと、是亦前既に述べて置いた。絶えて久しく念佛には携はらぬ大和の夙の者も、曾ては阿彌陀法師などと呼ばれたことがある（郷土研究二卷五二〇頁）。宍《しゝむら》を食ふこと芋大根の如くなる餌取の徒すら、其舊稱はやはり餌取法師であつた。遊藝歌舞の方面に於て最も早く其地位を改良した所謂歌舞伎の輩の如きも、其起原を江戸初期の念佛躍に有して居る。昨年の末に市村座で音羽屋第六世が扮した出雲のお國を見たが、神主の娘と稱しながら尚胸に叩き鉦を懸け手に手木を持つて居た。併し此等各派の人に向つて、諸君の家はもと毛坊主だ、本願寺などゝ同類だと教へたら、よほど喫驚することであらう。眞實は必ずしも悉く公表すべきもので無いのかも知らぬ。公表する位なら其説明が十分親切で無ければならぬ。氣の弱い自分が兎角に左顧右眄して言葉を濁したのは耻かしい事である。

　毛坊主は僧なりや否やの問題に對しては、勿論時代々々に應じて區々の答を與へねばならぬ。僧が所謂三寶の一つとして朝野の歸依を國法に依つて保障せられた時世には、其僧は必ず如法に戒律を受持する者に限られて居た筈である。政府が度牒を給付するには常に淨行の年數を以て候件とし、私度未度の沙彌の如きは如何なる場合にも僧を以て遇せらるべきもので無かつた。現に有名なる三善清行の封事の中にも、「諸國の百姓課役を逃れ租調を逋《のが》るゝ者、私かに自ら落髪して猥りに法服を着す、此の如きの輩年を積みて漸く多く、天下人民の三分の二、皆是れ首を禿にする者也、此皆家に妻子を蓄へ口に腥?を啖《くら》ふ、形は沙門にして心は屠兒の如し」とまで言つて居る。即ち假令毛坊主の流行が全國を風靡するに至つても、尚僧と非僧との差別に就いては社會は惑はなかつたのである。然るに不思議なることには、此とあまり年代を隔てずして、所謂執行僧の一階級がぽつ／＼と頭を擡げ始めた。此徒肉食を敢へてしたか否かは確とは知らぬが、妻帶は正しくして居り、文字通りの血脈を永く後世に傳へて居る。例の今昔物語の中に數多く擧げられた持經者又は聖と云ふ者、即ち妻子を蓄へ俗生涯を營んだ信心者などは、其行驗の極めて奇特なりしに(418)も拘らず、或は「破戒｜无慙《むざん》の法師也」と言ひ、或は「異樣の身に候へば」などゝもあつて、其社會上の地位の決して高からざりしことを示して居るに反して、別當とか執行とか云ふ此類の妻帶僧は、相應に世に時めき用ゐられ、後には法印法眼法橋等の榮階をも其專有物の如くして居る。是には何か仔細が無くてはかなはぬことである。娘があつたと平家物語にある俊寛僧都を始とし、近世迄存續した浪華天王寺の秋之坊、京では丸山の安養寺等、自分が未だ説明する能はざる者も少なくは無いが、例へば宇佐石清水兩地の八幡、太宰府の天滿宮、熊野の新宮那智の如き、多くは社僧と稱する黨類に妻帶が公認せられて居た事實から推して、或は何か祭典の上の要求があつて、特に一定の血統に屬する者のみをして儀式に參與せしむるの目的から、斯かる一派の半僧半俗を發生せしめたのでは無いかと思ふ。此假定を幾分か援護する者は、行者道の片隅に永く其遺蹤を保つた所の、鬼と呼ばるゝ特定の家筋の事である。聖寶相應二師の努力に由つて十分に佛法化せられた山臥の信仰とは無頓着に、物深き大峯の谷底には今尚千年來の五鬼村がある。現に白井理學博士などは之と音信をして居られるから、詳しい事を知つて御坐るであらう。五鬼と謂ふのは五鬼助・五鬼堂・五鬼圓・五鬼勝・五鬼作の五軒の舊家の總稱で、前鬼後鬼などゝ世に傳へるのは誤つたる取沙汰であるらしい。五鬼村の五鬼は當初役行者に隨從した者の子孫である。彼等自身も以前は通力自在であつたのを、後世他家より嫁を取つた者があつて夫から只の人間になつたと云ふ。此が五鬼村一村限りの口碑であるならば、或は妙な逸話として看過してもよいか知らぬが、役行者の五人の直弟と云ふことは他の地方にも言傳ふる話である。例へば備陽記卷四に録する備前兒島郡郷内村大字林の熊野大權現の縁起に依れば、役行者の直弟たる義學・義玄・義眞・壽玄・芳玄の五人を以て山臥五流の根本とする。何れも此神に隨從し此地に來つて住んだ。之に熊野よりの供侍なる三宅氏を加へ六黨の莊官とも云ふ。五坊の山臥にはそれ／”＼の家紋がある。所謂大法院は丸の中に三柏、報恩院は瓜、尊瀧院は立葵立劔、傳法院は酢醤草《かたばみ》、建�ｺ院は鳩酸灯（？）、右五つの紋を根本として天下の先達此紋の外は用ゐず、故に配下を紋下と云ふのだとある。大峰の五鬼にも代々義の字を名乘る者がある。恐らくは同じ言傳へを運搬した者であ(419)らう。遙かに隔絶して下野上都賀郡西大蘆村大字草久、古峰ヶ原の古峰神社は、栃木縣誌に依れば今の祭神は大山祇命なるが元は金剛童子と拜んだ。社殿は石原某が邸内に在り、維新の時までは前鬼後鬼の像が安置してあつた。この石原氏の祖先は役小角に仕へし妙童鬼の子孫なりと云ふとある。妙童鬼は神か人か、未だ之を詳かにし得ない。豐後の日田には此地方の舊族大藏氏の系圖を所持する者があつて、牧口常三郎君旅行の際一見せられた。其系圖に依れば、此家の始祖は妙童鬼と云ひ、三毛入命十三世の孫此地に來住すと稱し、漢靈帝の後裔などゝは言はない。此一門には鬼何と名乘る者が甚だ多い。例へば大藏永弘通稱を鬼太夫と云ふの類である。此家が果して亦山臥と呼ぶべき階級に屬したか否かは不明であるが、九州の各地に色々の苗字を以て土着し神に仕へた者に大藏姓が少なくない。大隅國府八幡宮の神馬檢校を勤めた加治木氏なども大藏姓であると、三國名勝圖會に見えて居る。猿樂狂言で立身した大藏氏も亦この鬼の家筋であるかと思ふ。兎に角に此種の特殊家族の古い生活を攷究することは非常に面白いと思ふ。たしか前田慧雲師であつたか、白山信仰に於ける泰澄大師の地位を論じて一種記録に現はれざる古渡の佛教があるらしいことを言はれたが斯く異樣なる名山の信仰を以て尚佛法の範圍を出でざる者とは如何にして定められたか、訝しい次第である。何れにしても西は彦山阿蘇霧島、南では熊野金峯、東國では箱根日光妙義榛名等、凡そ仙人に因縁ある靈山の舊記は皆散佚した。僅かに此ばかりの幽かな手懸りから其面目を髣髴せねばならぬのは誠に悲しむべき古修驗道の頽廢である。羽黒山なども同じく此例には洩れぬが、近世迄殘つて居た十月十日乃至二十一日の阿闍梨式と云ふ儀式に、別當以下の總修驗五人の阿闍梨の所に集りて山臥の故實を問答し、問答終つて後饗宴あり。其饗宴に於ては阿闍梨中の上席者頭には棧俵を被り胡蘿匐《にんじん》を以て角となし海藻を以て髪となし、身に篠懸を着け太襷を掛け、右手に庖丁左手に俎箸を提げ、座の中央に駈け出し、豆腐を切り客僧たちに分配す。之を鬼の役と謂ひし由。三山小誌には此事を記して、「往古鬼中島・鬼澤など云ふ地ありて生牲を奉りしより起りし故實なりと言ふ」とあるが、徹底した説明とは思はれぬ。是れも御互に當推量は免れぬが、自分をして言はしむれば此種祭式の神秘なる部分に參與する者を古(420)くよりオニと呼び、此者だけは神と一定の關係に在る家筋より任命せねばならざりし結果、單に妻帶を黙認せらるゝに止まらず、一歩を進めて肉親の相續者を作るの義務を負はせ、茲に大きな顔をして俗生涯を營み得る一派の毛坊主を發生せしめたのでは無いかと思ふ。他の派の毛坊主が頻りに先祖の貴いことを喋々し、殊には神社に從屬する普通の舊家と共通に、高貴の婦人を以て其第一世と主張したがる風のあるのは、或は亦ずつと大昔の巫覡生活の因習が無意識に殘留して居るものとも考へ得る。

　さてはや世中は大正と改まつた。「女嫌やる」と謠はれた高野の山すら、既に其千年來の結界を撤した新時代である。今更細君の有無を以て僧非僧の差別を論ずる者は一人もあるまい。併し只一言辯ぜねばならぬことは、法師が妻を儲けることは決して淨土眞宗の新發明でも何でも無い。公の方面に於ては右等靈山大社に奉仕する社僧執行僧の先型あり、更に念佛道に於ての同行を求めるならば、かの鹿角の杖を突き金鼓を叩いて萬の所に阿彌陀佛を勸め行きけるとある阿彌陀聖、殊には三河國などで俗聖と呼ばれた在家の道心者がある。從つて彼宗始祖の奇拔なる行動が一世の視聽を聳やかした如く傳へられるのは傳説に相違無い。然らば此門徒のみが後代異常の繁榮を見たのは、啻に此宗中興の英俊が手腕方策にのみ起因するかと言ふと、自分は必ずしも然りとは答へぬつもりである。例へば大谷寺誌其他の書に載せられた嘉元元年の綸旨と之に伴ふ鎌倉將軍家の下文は、誠に此一派の眉目とする所である。自分は此二通の文書の樣式又は字句が其年代と適應して居るか否かを知らぬが、少なくも其包容する所は即ち此宗徒が自ら認めて以て特質として居る所であることを知る。綸旨の文言は次の如く讀まれる。曰く「親鸞聖人門流に於ては諸國横行の類に非ず、在家止住の士民等勤行するの條、國の爲に費無く人の爲に煩無し、彼等に混ずべからざるの由、唯善彼が遺蹟として申す所其謂無きに非ざる間、勸化免許せらるゝ所件の如し」。下文も略々之と同樣に、「諸國横行の異義に混ずべからず云々」とある。之を平たく解するならば、從來の阿彌陀聖などは諸國横行即ち一所不住に漂泊する故に無責任の行爲が多いが、親鸞の門徒は之に反して一定の在家に土着して居るから、別に世間に迷惑を掛ける虞が無い、(421)故に勸化を許すと云ふのである。此頃は別に勸化を禁止した制度も無いから、特に免許せられるのは異なものだが、社會に對する弊害の少なかつた點は此通りであらうと思ふ。鉢屋や鉦打は現出は此よりもずつと早かつたが、成ほど右文書に言ふ如くいつ迄も塚穴や森の中に草枕をして、往々無頼の徒の紛れ入ることを免れなかつたのであらう。さて更に一歩を進めて、何故に所謂源空正嫡の俗聖は土着したのに、其他の念佛聖等は尚漂泊したかと考へると、是亦一向宗の特色を見出すべき點である。即ち同じく念佛を以て死後の靈魂を救濟すると云ふ中にも、在來の鉦皷踊躍派の念佛は他人の靈魂の供養であつたのを、親鸞門流は之を本人各自の調寶に振向けた。所謂三界萬靈の爲にする念佛は、高が一年に一度か二度の魂送り（郷土研究二卷二七三頁參照）、是も次第に我先祖のみを供養するやうになつては、心安立てに簡單な作法で我慢して貰ふ。然らざれは疫癘蟲旱等農村としては非常の場合に、始めて念佛の導師を煩はすに止るから、一村に一人の專門家を置く迄にも及ばぬ。之に反して自分が死んで行く先を淨土か地獄かと決する段になると、朝晝夕に念佛を申してもまだ足らぬ。念佛往生の奇瑞はこの些し前迄の時世には特筆大書して一部の靈驗記を作るほどの大事件であつたが、一たび寒村僻陬の幽靈共に自治を許すやうになつてからは、滔々として海内を風化し去り、妄念を抱いて化けて出たり乃至は蝗となり疫病神となつて婆婆の同胞を惱まさうなどゝ云ふ心掛の惡い者はよくよくで無ければ出なくなり、其間接の影響としては所謂御靈祭却掛りの念佛者は愈々一郷に足を留むるだけの仕事が無く、其跡には自家用の念佛を勸める上人が愈々忙しくなつた筈である。絶括好きの當世の學者の口吻を借るならば、一向宗の繁榮を促進したものは國民の個人主義的傾向なりなどゝ言ふ所だらうが、自分はそんな滑稽な態度には出でない。

　一向宗の本質が俗聖即ち在家傳道の事業に在つたことは、誠に門徒の言ふ通りであらうと思ふ。彼宗の歴史を見ても、土呂出口富田｜英賀《あが》等の諸大寺は悉く八世上人の建立である。僅かに越中井波の瑞泉寺のみが五世綽如の頃に出來たと云ふ。其以前の?態を囘想すれば、威望勢力の大小は別として、先づ以て空也一遍の客僚等が村に住んだのと相(422)似て居る。然るに本願寺に於ては此等初期の上人に就いても在職何年と記して居る。其職は勿論住職の職では無い。例へば四世善如は元中六年に五十七で歿して在職三十八年、六世巧如は永享十二年に六十五で歿して在職四十七年とある。即ち前者は十九から後者は十七の年から在職したことになる。是だけを見ても居住地の村民等が上人に對した態度は略々想像し得られる。言はゞ鬼の血を受けた鬼の子竝、乃至は近頃死んだ中山新治郎君などの如き生神樣的分子の手傳ひが無ければ、とても其樣な青年が一宗を支配し得る筈が無い。本山今日の?態も由つて來る所は深いのである。次に言ふべき一事は、吾人は一向宗の寺と云ふ語を文字通りに受取り、或は現時の宏大なる建築物を見て昔の光景を類推してはならぬことである。此宗の寺の一特色は其敷地の形?位置等が普通民家の屋敷と何等の差別が無い點で、他宗でも狹い城下の寺町などには伽藍と云ふ程十分な地割を受けなかつた向もあるが、それでも大概は地子を收納するだけの門前を控へて居る。之に反して在家に入交り教を説くを本意とする此宗旨では、其最初の道場は常に自身地子を負ふたる屋敷地であること、村にも町にも其例が乏しくない。而して説教所又は道場に何々寺の寺號を附與することは、どうやら寺限りの沙汰で出來た事らしい。秋長夜話の著者が此宗派だけは寺創立がいと容易だと訝つたのは（郷土研究二卷五頁）、此邊の消息に通ぜざりし爲である。自分の想像では、此宗の寺號は寺其物の名では無く、之に住する主人又は家の稱號だとするのが、本來の法理では無かつたかと思ふ。假に然りとするならば、親子代々一旦授けられた同一の寺號を保有することは、故意か偶然かは知らず、甚だ好都合のことであつた。何となれば之と同一の?況に在つた村内居住の所謂法印さん達は、代毎に院號を新たに貰つて居たばかりに、維新の後其寺院たることを公認せられず、巫子修驗道禁止令の發布に際し、各自の選擇に從つて普通の天台眞言の寺になることも出來ず、おめ／＼と只の農民になり切つて由緒久しい御本尊を持てあましたのは事實である。門徒宗の田舍聖が之とは反對に、各一人前の住職として他宗の數少なき寺院と對等の一票を獲得するに至つたのは、一には明治初年の當局が毛坊主の歴史に暗かつた御蔭でもあるが、又一つには此宗が道場の番人の家に何々寺の寺號を授與する慣例を持つて居た結果(423)である。關東の村々に居を構ふる鉦打の座衆なども、若し之を片端から一箇寺に數へ得たなら、時宗も亦相應に大きな宗派であるかの如く統計上の結論を下し得たに相違無い。

　自分は毛坊主の前身がヒジリであることを述べた（郷土研究二卷三二七頁）。今も毛坊主をヒジリと呼ぶのは單に前代の稱呼を遺留した迄で、ヒジリと云ふ語は佛教と何等の縁故の無いらしいことを述べた。御斷りをする迄も無くヒジリ毛坊主の團體へは新加入者が續々あつた。從つて今の毛坊主は大昔のヒジリの子孫だとは限らない。團體としての系統は辿ることが出來るが、是から推して血の系統を説くことは勿論不能である。唯自分が主張するのは、ヒジリが佛法を利用して毛坊主となつたので、佛法の普及が新たに此の如き階級を作つたのでは無いと云ふことだ。前に掲げた三善氏の封事などを見ると、全國の百姓課役を遁れんたばかりに爭うて頭のみを圓めたとあつて、さも此頃からの新流行のやうに見えるが、此も猶考察を進むれば然るべき仔細のあることで、當時一般の氣風が負擔の重い公民であるよりも、寧ろ權門大寺の家人として庇護せらるゝを便とし、我から浮浪人となつて各地の莊園に收容せられたと同じく、若干の信仰心あるを言立てにして、所縁の大寺に入込み其附屬民となつたことを意味するもので、言はゞ此時代に寺々の所謂寺賤が著しく増加したと云ふに過ぎないのだ。語を換へて申さば、本來寺に屬して居た或種の雜戸のあつた事實が、却つて斯かる現象を促したものである。而して新立莊園其他附近の經濟事情の變動あるにつれて、先づ退き去る者は恐らくは一期半季の模倣者の方で、職務由緒等に憑《たの》む所ある者は輕々しくは其境遇を改めなかつたらうと思ふ。寺の雜戸が如何なる職務に從事して居たかは、官戸の傍例を調べて見てもわかる。即ち一方には祈?呪禁乃至は念佛などの信仰的行爲に携はり、他の一方には伎樂工藝等を以て收入を補ふと云ふやうな輩は、假令後代旅の空にさすらひ又は僻遠の田舍に侘住をして居るやうになつても、猶其生活から推論して前の身分を知ることが出來ると思ふ。殊に此徒の通稱が日知と云ふに至つては、寺で受けて居た待遇如何も亦推測られるのである。ヒジリは前にも言ふ如く、最初は仙人を意味し次には山臥修驗などを意味して居た語である。九州の某々地方で一種の毛坊主の居(424)處を寺家又は寺中と呼んだ例は前に擧げた（郷土研究二卷四〇〇頁）。加賀の金石《かないは》でも猿屋の在所の名が寺中であつた（同六七七頁）。最後に此が類例として數ふべきものは院内と云ふ特殊部落のことである。駿國雜志に依れば、今の靜岡市の中に院内町と云ふ地あつて院内と云ふ者が住んで居た。是は三河國院内村より出た者故に此名があると云ふ。三河の院内村は即ち有名なる三河萬歳の本土である。院内村萬歳作太夫なる者毎年正月十一日江戸に下り御勘定所にて舞ふこと、年中行事故實考などに見えて居る（以上）。三河の院内萬歳に對して尾張には知多萬歳があつた。今の知多郡横須賀町大字｜養父《やぶ》大字横須賀其他に住んで居た。知多郡誌には其伎を三河院内村より傳へしが如く記してあるが、是は多分彼等も亦世間から院内と呼ばれ居るよりの誤解である（駿府のも亦同樣かも知れぬ）。此等の萬歳は何れも土御門家より免許?を受け居る低級の陰陽師で、常は卜筮祈?を以て業とし通稱は何れも何太夫と云ふ。尾陽雜記の説に依れば、院内と云ふ萬歳はもと西春日井郡楠村大字｜味鋺《あぢま》と云ふ處に住んで居た。木賀崎長母寺の無住和尚其頼邊無きを憫み、萬歳の歌曲を作りて之に與へ、兼ねて又卜筮の術を教へられたと云ふ。此口碑と院内と云ふ稱呼とは多少の關係がある。古くは久米多寺の流記坪付帳にも院内地七段云々などゝあつて、院内とは寺の敷地、今ならば門前とか境内とか云ふ語に當る。近江でも愛知郡百濟寺村の百濟寺舊址に、其西境と表坂下の地に何々院内と云ふ地名が數所あること、淡海木間攫卷四に見えて居る。但し三河などの院内村は果して地名であるか或は部落名に基くものかは明白で無い。遠州でも掛川に懸河院内なる者居住したこと、吉田氏の地名辭書にある。博士小太夫なる者即ち是で、永禄六年の今川家裁許?を藏し、それには陰陽博士職之事云々とある。此家に傳ふる舊記の中には、此者千秋萬歳に携はる由を云ひ、又彼等が別稱を聲聞身（唱門師）とも散所とも院内とも云つたことを記して居る。越前萬歳などもやはり一名を證文士と謂つた。院内萬歳の徒が夙の者などと同類であることは此からも想像せられる。右の博士小太夫の家はもと延壽院と稱し、文化元年に至つて始めて廣安寺と改稱した家である由。即ち毛坊主が本坊主に進化した他の一例である。

　

(427)　　鬼の子孫

　

　鈴木百平氏の鬼南來説《おになんらいせつ》（郷土研究四卷八二頁）の當否は未だ知らず、吾邦には或る特殊の家筋で鬼の後裔と稱する者のあつたことは、自分も毛坊主考の結論に於て既に之を述べて居る（同二卷七一三頁）。即ち漢の歸化人の末と傳へらるゝ豐後｜日田《ひだ》の大藏氏は其一例で、大和大峯の五鬼《ごき》は其第二の例である。此以外に於て近い頃まで鬼の子孫であることを自認して居た一大部落は、京都に近い八瀬の一村である。此村には正�ｺ六年の六月に村民九十餘人の連署を以て筆録した八瀬記と云ふ記録がある。自分は前年此地を訪うた際に頼んで寫して貰つたものを持つて居る。村の西北の山中に鬼ヶ洞又は鬼ヶ城と稱する大きな窟があつて、毎年七月十五日を以て終る一週間、村の老幼此洞の口に行向ひ鉦を鳴し念佛供養をするのを彼等も亦先祖の鬼の弔ひと稱して居た。黒川道祐の雍州府志及び其誌料と見るべき近畿歴覽記中の北肉魚山行記、北村季吟の次嶺經《つぎねふ》、其他名所都鳥等の諸書にも同じ記事を載せて居る。但し鬼と云うたのは人か何か、又何故に鬼と云うたかの説明は自他共に大曖昧であつて、或は鬼ヶ洞の一名を酒顛童子の洞と云ひ、酒顛童子比叡山より追はれて大江山に入る迄の間、此洞に栖んで洞内の鬼石と云ふ岩の上に起臥して居たとも云ふが（出來齋京土産五）、此説は八瀬の人がどうしても承知をせぬのは無理も無い。蹇驢嘶餘と云ふ書には、八瀬の民は叡山御門跡が閻魔王宮から歸らるゝ時輿を舁いて來た鬼の子孫で、今でも八瀬童子と稱して門跡の御輿舁きだとあるさうだ（山城名勝志十五）。地獄からの歸化人と云ふことは何分にも信じにくい話である。鬼と云ふ名稱が今日の日本人が解して居るやうな意味しか有たぬ者ならば、實に奇恠を通り越した一風説であるけれども、世人をして或はさうでもあ(428)らうかと思はせた仔細は、僅か京から一二里を隔てた在所であるにも拘らず、其風俗に變つた點が多かつたことである。今では何の痕跡すらも無いが、百年二百年前の記録を見ても、不思議は獨り鬼城窟前の念佛のみでは無かつたのである。

　京師巡覽集卷十五八瀬の條に曰く、「當村の男女ともに強氣はげし、男も女の如く髪を卷き、女も男の如く脚絆して、言訛りて暹國《せんこく》の人かと疑はる云々」。彼等は自ら稱してゲラと謂うた（東海道名所記）。ゲラは下郎の意の謙稱であらうとのことであるが、外部の人も彼等をゲラと呼んで居る。年老いる迄前髪を剃らず頭の上で一所に束ねて居た。それが「男も女の如く」と言はれた所以である。山城名跡巡行志卷三には、「頭に油を用ゐず、惣髪にて人相言語世に類せず」とあり、皇都午睡第三編上には「惣髪にて曲も結はず、髪をくゝりて卷立て公卿の冠下に同じく、齒は鐵漿《かね》を黒々と染め云々、女を外に働かせ、己は内に居て飯を炊き世帶を爲す云々」とある。或は中古以前は髪を結ばず首に被つて居たと云ふが（近畿歴覽記）、それは出來齋の京土産に、「八瀬の里人は比叡の童子の末なれば、今も四方髪に鐵漿つけ、四月初辰の日、此里天神の祭の日には殊さら假粧して、うつくしく袵さしたる帷子に色々の帶を褓《たすき》に掛け、拜殿に入りて幸《さい》あれ／＼と云うて聲の限り踊りつゝ御輿を渡し云々」とあるのが正確で、或る儀式の時ばかり斯んな頭をしたのを意味することであらう。要するに彼等は其職掌がらとして年老いる迄童子を以て呼ばれ、又童子相應の風をして居ただけだと見ることが出來る。

　さて彼等が職掌と云ふのは色々有つたことゝ思ふが、前に擧げた輿舁きの外は今は明白で無い。北村氏の説に依れば、昔鬼ヶ洞に住んで居た鬼は、日枝《ひえ》の西方院の某阿闍梨に仕へて居た。八瀬の里人は其鬼の子孫とて、日枝の法會にまうでゝ飯を鬼喰と稱して食ふことがあつた。頭を唐輪《からわ》にわげて鬼童と謂うて居たと云ふ（次嶺經五）。右は果して比叡山の舊記中にも旁證のあることであらうか。江戸時代の初に當つて彼等は山の占有權に就いて延暦寺と大きな訴訟をした。其以後は殆と寺とは絶縁の姿で古い關係を辿るべき風習があまり殘つて居らぬ。併し此村が恰も叡山の西(429)麓に接して一方の登山口であること、恰も相州大山の蓑毛村の如くであることを思ふと、略々村の成立が想像し得られる。黒川氏は又左の如く言うて居る。傳教大師以後叡山の僧で朝廷から牛車を聽《ゆる》された者は、其車を八瀬の者に預け牛を飼はしめ、入洛の時之を乘用するには八瀬の民を以て牛童とした。故に彼等が皆惣髪を束ねて後に垂れて居るので、必ずしも鬼の子孫だからでは無いと（雍州府志）。成ほど八瀬の口は最も平地に近く又京にも近いから、さう有りさうに思ふが未だ其實否を知らぬ。尤も村民は牛馬を使ふに巧みで耕耘に之を用ゐて居たとも云ふが、前掲八瀬記の中には頓と牛車のことは見えず、之に反して輿を舁いて山に登つたことは數多見えて居る。即ち御八講懺法講に座主登山の時、北野の正遷宮に寺務發向の時等の外、山門の大會に勅使參向の時などにも、常に六人の八瀬童子が山上に出役したのである。近世の三百年は此勤務が何村の人に歸したかを知らぬが、一方には八瀬人の禁裡｜駕與丁《かよてう》の參役は次第に多くなつたやうで、八幡《やはた》行幸には放生川《はうじやうがは》より山上迄、鞍馬行幸には八丁坂より山上まで、伊勢行幸には中山三里の間、數十人の童子參役するの古例で、更に承應、萬治、延寶、寶永等の内裏炎上には御出入共に火急の御用を勤めた。日吉山王の行幸には勿論のことで、殊に彼等は一郷の眉目として、後醍醐天皇の山門行幸の御伴が忠節の始めであつたと誇つて居り、其由緒を以て一切の公役を免ぜられ、地租條例の時まで年貢六十石は全部之を宥されて居た。現行の法規では此古例を追ふことが不可能である爲に、或る老大官の奔走によつて、今以て年々地租額に相當する金員を宮内省から給與せられて居る。之に對しての村からの義務は、常に若干の人員を仕人《つかうど》として出すことであるが、この職業の得にくい時世に至つて、それが何の辛い役目であらう。我も／＼と望んで出て九年も十年も働き、村の公職に在る人々は悉く一度は宮内吏をした者ばかりである。此の如くにして鬼の子孫の村は今では立派な模範村である。之に比べると大峯の五鬼の末などは損な者であつた。鹽尻卷廿九などには彼等を稱して、「世に出ること無く髪も髭もはやして異類の愚民なり」と言つて居る。延寶元年の頃に了覺上人と稱する木食僧に隨從して奈良に來たのが、彼等の浮世の風に當つた始めで（大阪陣には引出されたと云ふ話もあるが）、月代《さかやき》を剃つて次第に男を作るやう(430)になつたと云ふから、只の人の娘に添うて鬼の通力が絶えたなどゝ言はれたのも此頃の事であらう。而も聖護院の門主入峯の時、輿の先に立つて啓行する例であつたと云ふ點まで稍々似て居るのを見ると（雍州府志四）、八瀬のゲラの惣髪を牛飼に起るとする説は些しく信用しにくゝなる。

　大峯の五鬼は一に又前鬼とも善鬼とも呼ばれて居た。それ故に誤つて前鬼と後鬼の二種族とし、後鬼は同じ國の葛城山《かつらぎさん》に居たのが後に此地に合併したなどゝも傳へて居た（鹽尻）。此は多分役行者が常に葛城金峯兩山の間を往來したと云ふことから出た俗説ではあらうが、丸々根據の無い話でも無からうと思ふのは、鬼の子孫が往々分家して他國に移住して居ることである。備前兒島の五坊の山臥が大和の五鬼と出自を同じくすること、及び下野｜古峯原《こぶがはら》の石原氏が前鬼後鬼の像を安置し、役行者に仕へた妙童鬼の子孫と稱して居たことは前に既に述べた。山城相樂郡｜高麗《かうらい》村大字｜神童寺《しんどうじ》の北吉野山神童寺の如きも、本尊は役行者の作と稱する藏王權現で、其境内には木を以て一の洞を作り、岩に腰を掛けた四尺ばかりの行者の像を安置し、其前に前鬼後鬼の像があつた（山州名跡志十六）。同郡｜東和東《ひがしわづか》村大字原山の｜鷲峯山金胎寺《じゆぶさんこんたいじ》も同じく修驗道の靈場で、本尊は愛染明王、開山堂には亦役行者の像を安置し傍に前鬼後鬼があつた（同上）。中古本山の大峯に大蛇有つて行人を妨げ入峯斷絶して居た時、鷲峯山を以て大峯に比し神童寺を以て吉野山に准《なぞら》へた。仍て北吉野と稱したのである（山城名跡巡行志六）。茲に謂ふ如く、大峯山上の信仰には久しい中絶があつた。而も其期間は決して山臥道の衰微では無かつた。東西各處數十の名山が各自獨立して峯入の修行をしてゐたことは、恰も中央政府の威令が行はれずして諸大名が地方に割據して居たのと?勢を均しうして居る。山に達者で修法の助手に適した前鬼の徒が、縁に就いて諸方に移住したのは自然のことである。吉野の下市《しもいち》の入にも善城《ぜんき》と云ふ部落があり、善城垣内と云ふ地名もある。吉野山の盛んだつた時代には彼等は此山口にも居住して居たのである。其境遇の叡山に對する八瀬童子とよく似て居たことは想像に困難で無い。北吉野に於て神童寺と云ふ寺の名の存するのも、間接には役行者の末と稱する鬼どもの宗教的勢力を窺はしむるものである。自分は必ずしも八瀬のゲラを以て吉野の奧からの(431)移住民だとは言はぬが、二者の性質の近似は獨りオニと云ふ奇なる名稱ばかりで無いことを注意せざるを得ぬのである。

　之に附加へて一二尚述べねばならぬことは、第一には洞の生活である。行者の末流が洞窟中の修法を重んずることは前にも述べたが（郷土研究二卷五八三頁）、又考へて見ると高山の休泊所に室《むろ》と稱して穴の家又は石を以て圍んだ小屋の多いのは、單に風雨の難を避くるに便なだけでは無かつた。尤も最初には洞窟でも多いやうな險阻岩石の地に住み馴れたからの思ひ附きかも知れぬが、不必要に奧深い穴の中は、殊に道力の高い行人の好む所で、其奧には佛神の像を奉安し、時とし常人に近づけず、靈異の力を陰暗と不案内とに助けさせんとした形跡がある。だから八瀬西北の鬼ヶ洞の如き、其中に神恠なる一箇の鬼石があつたと云ふのは、即ち腰掛石對面石の類と見られる。此上に酒顛童子が起臥したと云ふのは不都合であるにしても、誰か又昔の語で鬼と云つた童子が、眠り且つ語つた所の石かも知れぬ。一説には此洞に居たのは酒顛童子では無くて鬼同丸《きどうまる》だとある。鞍馬道の市原野と云ふ所へ出て源頼光の一行を襲うた鬼同丸と云ふ者は、著聞集などには何村の者とも言つて無いが、或は此地より乾に當つて一の岩窟あり、鬼同丸と稱する比叡山の兒、山から追出されて此洞に隱れ住んだと記した書物もあつて、其窟は八瀬の鬼ヶ洞を指したものらしい（山城名勝志十五）。後には又鬼童丸とも書いたが、その鬼同丸の名も、事によると鬼洞と關係があつたのかも知れぬ。それは兎も角も右の洞穴に栖んだと云ふ山鬼の子孫が、永く釜風呂を以て家業として居たと云ふ一事は（名跡巡行志三）、注意せねばならぬことである。釜風呂と云ふのは一種の蒸風呂のことであつた。八瀬の里人等、農閑には各々斧鎌を腰にして山に登り木を伐り、尺許にして之を束ね、窖《つちあな》に入れて之を蒸すに、濕氣去れば青色忽ち變じて黒くなる。之を黒木と稱して日々京師に販いだと云ふことで（雍州府志）、其跡の竈へ鹽薦《しほごも》を敷き此穴に入ると濕氣を拂ふと云つて、京都から男女保養に遣つて來る者があつたと云ふ（近畿歴覽記）。自分は曾て中世の寺院に屬した人民に風呂と稱する家筋の者があつて、浴室の管理を業として居たことを述べ、フロと云ふ語の起りが土窟石窟を意味するムロと同(432)じらしいことを論じたことがある（郷土研究三卷一五三頁）。若しかの推測を當れりとするならば、洞中の生活は八瀬人の言語服装髪容等と共に此種族の一特性として算ふべきものかと思ふ。

　次に言ふべきことは八瀬の村民の名の附け方である。前に引いた皇都午睡第三編上に外良《げら》の事を説いて、「亭主は皆若狹の和泉のと國名を附け、名跡を我子に讓り六七十歳になれば、漸くに元服して何右衛門何兵衛と名づくるなりとぞ云々」と云うて居る。恰かも駿州千葉の三度坊主と同一の談である（同三卷七頁）。正�ｺ六年の村誌に連署した村民の名を檢して見ても、此説の虚誕で無いことは知れる。即ち九十四人の顔ぶれの中で、國名を附けぬ者は只の二人か三人で、而も近國と中國四國の名が多いから、色々の追加を以て自他を區別して居る。例へば近江には西近江・豆腐屋近江・藤近江・増《まし》近江の他人・千馬近江の岩・東近江の入道・新近江の入道・石千代近江の入道があり、出雲には河原出雲・乙出雲・東米屋出雲・さる出雲・口出雲のかめ・六郎出雲の入道・若出雲の六・別所出雲のぬどう・石出雲のまゝ・少出雲の岩等あり、伊豫には道伊豫・六郎伊豫・承伊豫・岩法師伊豫・小法師伊豫・小坊伊豫・法師伊豫の法師・七伊豫の若・まし伊豫の岩・ちゝ伊豫のまし・茶屋伊豫の九十郎・いて伊豫の小坊等がある類で、此中のかめ・さる・まし・岩・七・ぬどう等は童名の類らしく、又中には親の名を頭に附けて同稱の者と區別したのもあるかと思ふ。ヒジリの徒に國名を以て房に名づくる者は多かつた。相應な地位に在る修驗者などは、或は父の受領名を承けて呼ばるゝこと、武家に上總五郎や備後三郎あるに同じいかと思つて居たが、中には何の意味も無く譬へば今の軍艦などのやうに國名を附したのもあるやうだ。大和奈良坂の夙者《しゆくのもの》にも近江法師播磨法師等があつたことは既に度々言うて居る。是は今時の山窩乞食などが「オイ播州」などゝ互に呼び合ひ、乃至は流れ渡りの博徒に甲州無宿等の肩書あるに同じく、彼等過去の漂泊生活を反映するものと考へて居たが、少なくも後年の命名法に於ては流行と云はうか或は又惰性と言はうか、何と云ふ譯も無く親が河内だから子が和泉と云ふやうに、ふいと附けたものが多かつたやうである。但しは又何か重々しい由緒でもあるのか、それは他日誤りの無い所を聞くとして、先づはこの珍しい習俗(433)をも鬼の子孫が特質の一と算へて置くに止めよう。

　最後に今一つだけ一寸言つて置きたいのは、此村民の宗教心のことである。四月初辰日の天神祭のことは前に述べたが、其他にも正月二十日の弓始め、三月躑躅の盛り花の弓、何れも嚴重な儀式で所謂年占の面影を遺して居る。天神の社内に在る綸旨《りんじ》の宮と云ふのは、實は叡山との訴訟に盡力して切腹を餘儀なくされた秋元但馬守の御靈であると云ふが、果してそんな悲劇があつたことか否か、私はまだ確かめたことが無い。又此村には一年神主と稱して出雲の美保關などゝ同じく、氏子の總員が年番に祭儀に關與する風がある。京都文科大學の學者の中で之を調べられた人があると云ふから、其報告を待ちたいと思ふが、村で自分の見た正�ｺ六【丙申】年の記録にも、赤岩播磨の下に「申年神主也、左右兩座より一人づゝ神役を勤、日參皆潔齋」とあり、西近江の名の下には「申年承仕也、當村惣役者一年勤」とある。即ち是に依るも、鬼の子孫と稱する八瀬人が、神を奉じて此地に來住した最初からの一團體であることは疑の無い所であるが、然らば何故に祭神が天神樣であるかに至つては、自分はまだ之を理解することが出來ぬのである。但し問題の鬼ヶ洞はこの天神社の鳥居の西の山に當り、南北に通つた谷を四町ばかり上つた處に其口が有つたと云ふから（山州名跡志五）、鬼と云ふ名稱の由つて來る所は、東の方叡山の佛教に之を求めるよりも、西の方天神社の神道に就いて尋ねる方が順序であるやうに思はれる。

　

(434)　　唱門師の話

　

　毛坊主或はヒジリと稱する人民と佛教との關係が、世人の想像する如く密接なもので無かつた證據として、自分は既に夙の者及び算所《さんじよ》等の例を擧げて置いた。次には更に修驗者即ち山伏野伏がヒジリ中の尤《いう》なる者であつたことを述べねばならぬが、其前に今一つ、是も祈?と禁呪で生活をして居た唱門師《しよもじ》と稱する下級の陰陽師の部落が、やはり佛門に?縁《いんえん》して生活して居つて、他の多くの毛坊主と似たる歴史を有つて居ることを説いて見ようと思ふ。

　比叡山延暦寺の境内に將門《しやうもん》の童堂《わらはだう》と云ふ處がある。既に太平記の中にも此地で戰をした記事が見えて居り、山城名勝志二には「或は云ふ、兒の装束を刷《つくろ》ふ所なりと、將門は昔此所に門あるか」とある。近江國輿地誌略二五は之に依つたものらしく、「登山の兒の装束を刷ふ所なり」と斷定し、其文字をも装紋童堂と書いて居る。併し装束衣紋を略して装紋と呼ぶ例は聞いたことも無い上に、童の支度所を装束衣紋の童堂と名づける筈が無いから必ず臆斷である。又同書には他の一説として、將門純友此地に來つて帝城を望み叛を謀つた故に將門堂であらうかと云ふのと、及び將門調伏の爲に四天王を安置せられた場所で將門｜討堂《たうだう》であらうかと云ふのとを、孰れか是なるを知らずと言つて掲げて居る。將門の名を滿仲《まんぢゆう》頼光《らいくわう》と同樣に音で讀んだと云ふことは、是亦如何であらうかと思ふが、既に中山太郎君の如きも、諸國に平新王の首を埋めた、手足を祭つたと云ふ社や塚の多いのは、唱門師を誤つて將門と解したのが原因であらうと言はれた（郷土研究二卷六七〇頁）。併し唱門師と稱する部落は今日でさへも稀には現存して居る。目近い唱門師を耳に疎い將門の漢音に間違へるなどは、學者で無ければ出來ぬ藝で、恐らくは所謂土人の同意せぬ所であつたらう。從(435)つて此説も先づ輕々看過したいと思ふ。輿地誌略の説に依れば、右の装紋童堂の在つたと云ふ地には後に和勞堂《わらうだう》と云ふ建物があつたさうである。其和勞堂は即ち装紋堂のことだと云ふ説もあつたが、著者は之を非として居る。何故に非としたかは不明である。自分に言はしむれば、和勞堂は即ち童堂では無かつたであらうか。シヤウモンの童と云ふ者が止住し若しくは詰めて居た爲に此名が起つたのではあるまいか。果して推測の如くんば、文字は如何樣のものを宛てたとしても、シヤウモンの童は即ち唱門師のことであらうと思ふ。尤も唱門師を唱門童と呼んだと云ふ實證があれば此説は強いが、まだ之を見出し得ぬ。而も童と云へば必ず振袖前髪の愛護若《あいごのわか》の如き美少年を想像するやうな偏見を捨て、卑役に服する僮僕の徒は白髪三筋になつても童子と呼ばれて居たことを考へたら（郷土研究二卷六四五頁）、是がさして無法な推測で無いことが判るであらうと思ふ。

　噴門師と云ふ名稱の後世次第に行はれなくなつたことは事實である。併し是は必ずしも其部族の絶えたことを意味するものであるまいと思ふ。今日でも大阪には穢多《えた》・シヨーモン・シク・サガリの四種の部族があると中島松三郎氏は報ぜられ（同二卷三〇九頁）、岡市正人氏の郷里河内北部にも正文《しやうもん》と稱する家筋の者が居つて、常人の是と縁組する者は無いが、土御門家から出した陰陽師の免?を持傳へた舊家の物持も少なくないと云ふ話である（同二卷六三七頁）。此他にも近江、伊勢、越前、遠江、相模等の國々に、少なくも近昔まで此名の部曲が住んで居たことは、此から述べて見たいと思ふことである。併し三百年の昔に溯つて見ると、此徒の最も盛んに活躍して居たのはどうしても京都であつたらしい。京都には今の相國寺の東北隅御靈馬場町の邊、即ち上の御靈の鳥居の脇に唱門師村と云ふ一廓があつて、應仁にも永禄にもそこで戰のあつたことが記録に見えて居る（京都坊目誌）。村の傍に池が有つたと云ふが既に跡方も無い。寶永二年の序ある山城名勝志二には、「今に至る迄彼地唱門師多く住す」とある。此徒如何にして此處に集合し始めたか、又如何に離散し去つたかは、極めて趣味の多い論題であるが、今の力では説明が十分に能《でき》ぬ。但し此等唱門師が如何なる職掌を持つて、斯く多數に京中に在住して居たかと云ふことだけは、略々室町時代の記録から(436)之を知ることが出來るのである。

　禁裏｜三毬打《さぎちやう》の家元たる山科家言繼卿の日記に依れば、正月十八日早旦の第二囘三毬打の時に限り、必ず唱門師が參上して之を囃す例であつた。その「囃す」と云ふのは、日次記事などには「首に赫熊《しやぐま》を著け鬼の面を蒙《かぶ》り、羯鼓《かつこ》を撃ち横笛を吹いて舞ふ」のだとあるが、言繼卿記には、單に例年の如く聲聞師《しやうもんじ》が烏帽子｜襖《あを》にてあり、或は棒振、藏大鼓などがあつた、などゝあるのみで、却つて詳しい記事が無い。大黒と云ふたのは其樂隊の頭立つ者のことらしいから、多分は後世の大黒舞松囃などゝ同じ所作をした者であらう。更に第二の任務としては、千秋萬歳《せんすまんざい》と稱して是も正月の四日五日に、禁延に罷り出でゝ色々の曲舞《くせまひ》を奏した者も亦唱門師であつた。舞の曲には常盤・鞍馬・烏帽子折・吉盛・秀平・腰越・木曾願書・敦盛・那須與一・筥根詣・和田酒盛・百合若・張良等があつて、どうやら後代｜幸若《かうわか》の家に傳へた者と同系統であるらしい。禁裏へ出た唱門師は言繼卿記の時代には二箇所に分れ住んで居た。即ち北畠の聲聞師と云ひ又は北畠より千秋萬歳參るとある北畠は、前に掲げた上御靈の傍なる唱門師村のことであるらしく、其他に櫻町と云ふ地にも若干の唱門師部落があつて、之を櫻町の千秋萬歳とも呼び、又禁中に近かつた故に「御近所の聲聞師」などゝも謂うて居た。櫻町は即ち土御門に接した所である。恐らくは陰陽道家の支配の都合上、北畠から一部分を割いて來たものであらう。「禁裏千秋萬歳に午時に參る、今日は北畠の聲聞師なり、但し櫻町より參る云々」（同書天文二十三年正月五日條）、又「禁裏千秋萬歳に未刻參内、櫻町より參る、根本は北畠なり云々」（同永禄八年正月五日條）ともあり、或は「近所新在家聲聞師が家に火付之、八間の内南方二間燒け了ぬ、不便々々、惡行之儀沙汰の限なり」（同十年十二月廿四日條）、又は「土御門聲聞師の家十五六間燒亡し了ぬ云々」（同十一年正月卅日條）ともあつて、之を證據立てゝ居る。

　右二所の唱門師等が平日の生活若しくは一般社會に對する職業は詳しくは分らぬが、山城名勝志二に引いた季瓊日録寛正五年の條には、六月十四日の祇園の祭禮にこの北畠から跳戈《をどりぼこ》を出し歌舞をして御所に參るのが舊例だとあつ(437)て、此徒が遊藝に由つて御靈會の神事に仕へて居たことが分る。祇園社特殊の部落として有名なる犬神人《いぬしんじん》一名を弦指《つるさし》又は弦召《つるめそ》と云ふ者即ち唱門師だとの説もあれば、何か久しい由來のあることかも知れぬ。此外に鳴門師が冬季竈の塗替の節に來て地祭をしたと云ふこと（天文廿一年十一月廿一日條）、及び病人の有つた場合に依頼を受けて算を置き且つ祈?をしたと云ふこと（永禄八年六月廿日、天正四年九月廿八日條）、共に言繼卿記に見えて居るから、其行動や常に土御門家の被官たるに恥ぢざる者があつたのである。而も一方には此徒の社會上の地位が昔も猶今の如くなりしかと思はれるのは、同じ日記の中に往々にして唱門師いぢめの記事があることで、前に出した二度の火災は偶然だとしても、其外にも天文十七年の御三毬打の日は、見物衆と聲聞師と喧嘩をして手負が出來騷動をした。被害者が後者の側であつたことは其月二十四日に唱門師が訴訟をして居るのでわかる。同十九年閏五月七日には、伏見殿の下僕等が河狩《かはがり》の節に水の事で聲聞師と喧嘩をして、一度は彼等から打鄭せられた代りに忽ち多勢の彌次馬が馳せ加はつて、終に聲聞師の内の大黒なる者を禁裡南堀外で殺したのである。此種の衝突は決して稀有ではなかつたと見える。

　以上の事實に依ると、足利時代の唱門師が一種下級のハカセ即ち陰陽師で、祈?もすれば初春の祝言も唱へること、名實共に近世の大和三河等の萬歳に同じく、算置きと兼ねて歌舞遊藝を家の職とする點は、昔の傀儡師や後代の算所太夫《さんしよだいふ》のやうで（郷土研究二卷七九頁參照）、更に又御靈會の風流踊に加はつて前棒《さきぼう》を勤めたと云ふのは、例の田樂法師にも鉢叩き鉦打ちにも稍々似通うた所がある。而して其段々の類似が果して他人の空似であつたか否かは、尚進んで京都以外に住んだ唱門師の生活を弘く比較して見るより外、之を解決するの方法が無い。今も北國で活動して居る越前萬歳が、自ら稱してシヨウモンジと云うて居ることは、近年編纂せられた今立郡誌に詳しく見えて居る。此者の居住地は越前今立郡｜味眞野《あぢまの》村の内、野大坪及び上大坪の二大字である。偶然かは知らぬが尾張の院内萬歳の根源地も、やはり西春日井郡の味鋺《あぢま》と云ふ村である。今一つ注意すべきことは、正月に萬歳が武家の厩に來て舞うたのは、如何にも猿舞しとよく似て居て而も關係の有無を知らなかつたが、越前の萬歳は猿女命を家の神とし、今日は猿を使はざる(438)も其舞を字津保舞《うつぼまひ》と稱し、大昔或皇子（聖�ｺ太子か）の御愛馬病氣の節祈?をしたのが由緒で、春毎に厩の前に萬歳樂を奏し此宇津保舞を舞うたので、野宇津保萬歳の名を下されたと云ひ、部落の名の野大坪も此から出たと云ふことで、明らかに所謂｜靭猿《うつぼざる》の因縁を語つて居るのである。それから立戻つて考へると、遠碧軒記上其他に禁裏に猿舞しの出頭した日を正月五日とあるのは、京の唱門師が千秋萬歳に出たと云ふ正月四日五日と、何か關係が無いとも限らぬ。但し福田源三郎翁などは、越前萬歳の節は幸若から採つたかと思ふ所が多いが、章句には似た所が無いやうだと言はれた。

　伊勢の山田に於ては唱門師のことを陰陽師とも暦師《こよみし》とも云うたと「見ぬ世の色」八に見えて居る。同書に依れば、この山田の唱門師は、昔は毎年除夜に二三人装束をして、樒《しきみ》を四五十本一把としたのを持つて、外宮玉垣御門の外に參り、大聲に花榊が參りた／＼と言ひつゝ、其樒の束をさゝげて神前に進まんとするを、宮番の神官等皆々出て樒持ちたる者を堅く支へて入らしめず外へ押出すと、唱門師は無理に入らんとし彼是爭ふうちに、やがて御拜の刻限に近くなると、右の樒を投げ込んで還つて行く。是が吉例とあつて、長官の宅でも同樣のことをする習であつたが、共に後年廢絶したと云ふ。伊勢の暦師が以前悉く唱門師と呼ばれて居たのか否かは猶尋ねて見ねばならぬ。樒が佛教に屬した物であつて、之を皇廟の靈地に入れじ入れんとした爭はさることながら、神佛の中を行く陰陽師が此式に與かつたと云ふのは、何か由來の有りさうな事である。伊勢では算所は所々に居たが、唱門師と呼ぼるゝ部落は、山田の外にあつたか否かを知らぬ。之に反して其隣國の近江には、久しく此名稱が殘つて居たらしい。閑田耕筆二に曰く、一種の巫祝祓祈?方角占卜の事などを業とする者、土御門家支配と標を出せるが、洛外に見ゆるを、京都にては名目を失へり、近江にては之をシヨモジと云ふ云々。近江攝津にも古塚の邊に住居せるがあれば、守煙何戸と延喜式に見ゆる者の末にやと。大津の市中にも既に一箇のシヤウモジ部落あつて、其地を新町とも神子町《みこまち》とも呼び、寺内《じない》と稱する大字の一區劃であつた。寺内と云ふ地名には院内寺中などゝ同じく斯んな人の居る所と云ふ意味があつたらしい（郷(439)土研究二卷七二〇頁參照）。神子町と云うた理由は、此輩は夫が唱門師で妻が梓巫を業として居たからで、常人は彼種族と縁を結ぶことを忌んだと、輿地誌略九に記して居る。神子の亭主が通例如何なる人體の者であつたかと云ふことは、巫女考の中にも説いてある（郷土研究一卷五七九頁以下）。此點に重きを置けば、唱門師は又下級の神主修驗者及び竈神の札を配つてあるいた舞太夫などゝ類を同じくするとも見られるのである。

　自分は前に山莊太夫考（同三卷六五頁）に於て、産所又は算所と稱して竈拂ひ祈?卜占等に携はつて居た一種の陰陽師を説き、其算所と唱門師とは同じ者だと云ふ證として、城州西梅津と遠州掛川と近江大原村との例を引いて置いた（同三卷七八頁）。掛川の算所が後年一寺を創立して佛徒になりすまして居たに反して、梅津に於ては本郷の民之を餌取《ゑとり》にも近き者の如く云ひ、大原村の産所に就いては、淡海木間攫の著者は「此邊にては唱門師と呼ぶ者は穢多の類なり」と述べて居る。又同じ書十に、今の滋賀縣東淺井郡湯田村大字八島は、本郷の外に出八島と太夫との三つの在所に分れ、就中太夫村と云ふ枝郷は唱門師の類であつて、筋目宜しからぬ故に本郷より賤められて居たとある。太夫とは算所を始め弘く此類の祈?遊藝兼業者に附與せられし名であつて、唱門師を太夫と云ふのも些しも不思議で無い。古くは大日本史料八編ノ二に引用した經覺私要紗八十七、應仁二年二月二十七日の條にも、「高臺寺邊京の若太夫と申聲聞曲舞云々三人同童也云々」と見えて居る。若太夫の若は若宮若王子などの若で神人を意味して居る。隨分此仲間で人望のある名前だつたと見えて、今も説經節の家元に若松若太夫などがある。又「三人同じく童也」とあるのは、唱門の童とも呼んだらしい一の證である。之を要するに陰陽師と云ひハカセと云ひ萬歳と言ひ院内と云ひ寺中と云ひ算所と云ひ或は單に太夫と云ひ又唱門師と云うても、此徒の生活?態又は社會上の地位に一々の區別があつたわけで無く、或る稱呼は彼等自ら忌み世間も之を強ひず、部落其者は存して舊名のみが先づ絶えた例は多かつたので、之に基いてヒジリの分類を試みることは決して出來ぬのである。大和に多い夙の者なども、古塚の傍に住んだり萬歳に出たりして居るから、滑稽雜談に唱門師とシユクは同じだと云つたのも（社會事彙）、強ち臆斷では無いやうに思はれる。

(440)　最後に此等の部落と佛教との因縁の或は薄く或は厚いのも、是亦時代と境遇との然らしめた所で、其現況如何に基いて分類をすることなどは出來ぬと自分は信じて居る。大體に於ては何れの種族でも大寺院の庇護を受くること次第に少なくなると共に、關係も亦追々疎くなるやうであつて、唯其歴史を推測して行くと、或る時代に今よりもずつと結託が強かつたと見える迄である。唱門師などは其名稱からも此事實が判るかと思ふ。シヨモジと云ふ語に宛てた文字を見ると、北河内で正文の字を用ゐて居る如く、越前萬歳は又自ら證文士と書いて居る。其説明には祖先が鎌倉に出頭して厩の祝言を述べた時、頼朝公之に證文士の位を授けられ、扇に其免許の證を書いて渡された。其扇の骨が一本偶然に損じて居た爲に、今日迄も「野宇津保證文士《のおつぼしよもんじ》、骨一本足らぬ」と言はれるのを、世人が誤解するのは口惜しいと言つて居る。遠州掛川の博士小太夫などは、舊記に聲聞身と自ら書いて居るが、此は言繼卿記には凡て聲聞師と書き、二水記などに聖門師とあると同じく、佛教の息の強く掛かつて居た時に擇ばれた文字であらう。塵添?嚢抄十三に曰く、民屋の門に立ちて金鼓《こんく》を打つを聲聞師と云ふ。是れ聲間の僧の義に非ず。門に唱ふると書くべし云々。家々の門に立ちて妙幢の本誓を唱へ、阿彌陀經を誦して金鼓を打つ故にしか云ふ。是れ一條院の御宇寛印供奉の造りたまふ頌文なりと云ふ（以上）とあつて、恰も尾州味鋺の院内萬歳が長母寺の無住和尚に歌曲を授けられたと云ふと同一の談であるが、是は作り事では無く、そんな時代も曾てあつたのであらう。前にも引いた年中行事大成一には、毎年正月元旦に犬神人《つるめそ》の徒禁裏日華門の外に詣り、毘沙門經を誦す。故に此者の黨類を唱門師と云ふとある。共に唱門師の門の字に重きを置いた説明である。閑田耕筆の著者などは此説に從はず、「八幡の儒醫｜豐滿《とよぶち》陶菴と云ひし人、シヨモジの文字は唱文〔傍点〕師ならんと云へりしは理あり」と云うて居るが、果して何の根據あつて理ありとしたかを窺ふことが出來ぬ。但し播磨の舊事を述べた峯相記と云ふ書に、著者の僧が大鏡一流の烏有先生に託して自遜した言辭の中に、「法華經の文字を讀みたるばかりにて一宗の趣をも辨へず、斯かる者をば闇證の禅師誦文〔二字傍点〕の法師とて、佛法の外道にも及ばず候なれば世に心細く候」とあつて、この誦文の法師と云ふ諺はやがて又所謂聲聞師の境涯に該當して居た(441)爲に、其稱呼として用ゐられたらしいのである。法師が後世安つぽい佛徒の名であつたことは?々言うた。誦文とは今でも無學な道心者によくある如く、經典を見せても皆目解らず又其理義をも會得せずに、只口拍子に有難い經文を受持して居る者のことで、阿彌陀聖などと呼ばれた王朝時代の持經者の中にも、此が多かつたことであらうと思ふ。此推定の無理でない一證は、以前人類學雜誌にも書いたことのあるイタカと云ふ部落は、今では東國に在つて主として口寄梓巫に近い婦女の名であるが、職人盡歌合を見れば流れ灌頂の卒都婆を賣る男で、新編相模風土記に採集せられた小田原の舞太夫天十郎の古文書などには、移他家唱門師と度々連ね擧げられて居る。其イタカに題した職人盡の月の歌には、「文字はよし見えも見えずも夜めぐるイタカの經の月のそらよみ」とある。空讀は即ち右に言ふ誦文である。各種の所謂職人を盡した七十一番の歌合にもこの誦文師が見えぬのは、或は別にイタカとも呼ばれて同じ者であつた爲かも知れぬ。それは兎に角として、叡山の登拜路に誦文の童堂があつて、この耕作は嫌ひで而も器用巧慧なる一種の人民を庇護して居たとしても不思議では無い。所謂北嶺の行者の一半は此等｜堂衆承仕《だうしゆじやうし》の家から出た。陰陽師の徒が佛法の教を奉じて念佛を申したことは、既に黒谷上人語燈録五にも、「安房介と云ふ一文不通の陰陽師が申す念佛と、源空が念佛と全く替り目無し云々」などゝあつて、昔は常の事であつた。但し江戸期の初頃などに土御門家が覺醒をして、苟くも其支配に屬するハカセの佛法を種にするを戒めたとしたならば、其結果が今日の如き兩者の絶縁となるのは當然である。

　

(442)　　俗山伏

　

　沙石集に榮戒上人、「男かと見れば流石に袈裟に似たるもの掛けたり、又烏帽子にも非ず童にもあらず法師にもあらず、さるものゝ候ぞや云々」と言うて居るのは、即ち中世の山伏が普通の頭つきであらう。優姿塞と云ふ語は本意は在家にして佛を信ずる者と云ふばかりであつたらうのを、我邦では終に或る一階級の者に限つて呼ぶやうになつたのは、全く右の如き僧俗中間の頭髪をした者が多かつた爲と思ふ。近い頃まで田舍でよく見かけた頭を坊主にした小兒老人の、ぼんのくぼ〔五字傍点〕に些かの毛を殘して之を魚食毛《とゝくひけ》と稱して居たと同じく、切下げは即ち完全なる僧戒を持して居らぬ合印で、同時に又多くの社會上の義務から除外せらるゝ言譯でもあつたので、妻子を育みつゝ信心で飯を食はんとする俗聖に取つて、此毛は最も大切な徽章であつたと言うてよろしい。由井正雪の繪などを見るとさう思ふが、近世になつては此頭が學者醫者其他色々の先生に迄擴張し、次いでは貞操堅固なる未亡人の獨占に歸したのは誠に面白い變遷であつた。而も根元の優婆塞階級に在つては次第に例外が盛んになつて來たのである。但し山伏に圓頂を強制したのは主として眞言宗のみの所業であつた。他の一方の一大集團即ち聖護院流に於ては、永く有髪妻帶を共に認めて居た。此方が山伏の本式である故に其で天台の方を本山派と謂ふのだと云ふをかしい説もある（伊勢濱荻四）。眞言宗の寺でも、呪驗の行者は上慢にして他宗と諍を起し易きが故に、以前は山臥の道儀を好まず、峯入を禁制するを以て祖師の宗風としたことが、現に建保五年の金剛寺置文に見えて居る（史料四編十四）。山臥全盛の世になつては勿論其樣な舊弊は行はれなかつたが、其でも理源大師が修驗道の眞の元祖で役行者を開山とするのは高尚なる謙讓に過ぎ(443)ぬと主張するからには、剃髪と獨身生活とを本則とするのは當然の論理で、只僅かに役行者も優婆塞であつたから、諸國の妻帶山伏が三寶院の末流に屬《つ》くのも咎めないと云ふ迄であつたと云ふ（紀伊國續風土記、高野山總分方十四）。即ち單に外形上の頭の詮議にのみ急であつて、實際生活の如法非如法を問はうとしなかつたのは妙な妥協と言はねばならぬ。邑里に生息する行人の多くはどう見ても高野山の教義には合しさうに無かつた。江戸幕府の宗教行政には一貫した方針があつて、強力なる管轄權を本當の二山に認め、其利益と共に取締の責任をも此に歸せしめんとしたが、山伏の階級は之に由つて取締らるべくあまりに複雜なる歴史を有つて居た。羽黒山の如きは最後まで此支配に對して拮抗して居つた。其他に白山彦山の如き各地の小本山は、衰へたりと雖もそれ／”＼確かなる由緒があつて、之を無視する統一には服しなかつた。のみならず國々には尚此等からも殆と獨立した多數の修驗者があつて、其大部分は何々院と名乘つても寺に住まず、勝手次第な俗生活をして祈?業を營んで居たので、此點ばかりは梓神子修驗者の公認を廢して四十餘年を經た今日迄、事實に於てはずつと繼續して來て居る。法律の改罷が名目のみの效果しか持たぬことは、髯ある人々の意想の外である。社職と所領が無くなつて生活が惡くなり、上流に認められぬ爲に迷信が下品になつたと云ふのは外界事情の變化であるが、今日でも木綿紋附に埃だらけの山高帽か何かで、依然として行者は村々を濶歩して居り、而も頭髪制度の現時の混亂は、一層彼等が出處進退を晦ますに好都合になつたのである。

　即ち或る意味に於ては日本の修驗道は慶長十八年以前の?態に復したと言うて宜しく、滅亡したのは山伏階級では無くして、反つて之を圓坊主に化せんとした眞言宗の權力其物であつた。二百年の昔四度まで江戸長崎間を縱斷した和蘭人ケムペルの紀行に、國道の往來筋へ無數の山伏が出て居て憎々しく法施を迫つた事が詳しく書いてある。此類低級の行者は戰國以來都鄙に充滿して居たので、既に狂言記の何山伏を見ても、彼等が如何にも詰らぬ人間であつたことを窺ひ知ることが出來る。京都の市中にも上下色々の山伏の居たことは、山科言繼卿の日記に多く散見して居る。或る者は頼まれて祈?にも來るが、或る者は女房が病氣で藥を貰ひに來たなどゝ見えて居る。即ち俗人と同じく市中(444)に假住して年月を送つたのである。雍州府志には本山方山伏の大部分は市中に住み、年々峯入はするが寺院には居らず、之を俗山伏と稱すとある。獨り天台宗の山伏のみならず、正�ｺ五年五月二十九日の町觸には、「本山山伏當山山伏富士垢離山伏、右町内に有之候はゞ本寺を書付、町代方迄來月朔日二目の内に持參すべし」などゝもあつて（月堂見聞集八）、其取締方法が數の多いだけに今日よりも骨が折れたやうである。江戸でも牛込の南北山伏町、之に次いでは下谷の山伏町など、皆此徒の群居した地で（江戸志）、しかも單に管理の便宜上一所に集めたものである。此外にも府内備考などを見れば、下町の各町裏に店借をして何々院が住んで居ること、今日の何々教會の數よりも多かつた。彼等は其所屬次第、或は羽黒に或は大山に御嶽に年々の峯入はするが、目的は修行の爲よりも道者の先達に在つて、言はゞ客引の如き業務であり、又頼まれては代參代願をした。其今一段と低いのに至つては、祈?の注文は無くして信仰を安値に賣らねばならなかつた。説經が一種の門附遊藝となつたと同じく、山伏祭文は亦一種の物貰ひとなり果てたのである（續飛鳥川）。所謂祭文語りの聲は即ち山伏聲である。法螺貝と錫杖とを合の手にして、歌の章句だけは終に博徒山賊の身上などを材とするやうになつた。甲州では此黨類を願人山伏と喚んだと云ふ。本當二山の下には附かず、塞垢離淨瑠璃祭文などを家業として乞食同然の生活をなし、それでも足らずして常は百姓の山番をさせて貰つて居るので、一に又山守山伏とも謂つたとある（裏見寒話四）。近頃某新聞の續き物講談にも出た甲斐の祐天と云ふ博徒の侠客なども、後には幕府の軍隊に入つて武士のやうになつたが、元は法印だと言つて賤まれたと云ふから、やはり此徒であらう。實際一部の俗山伏には一轉して破落戸《ごろつき》となり得る素質があつたことは、祭文語りの傳法肌を見ても想像することが出來る。彼等をして右の如く變化自在ならしめたものは即ち其髪の毛であつた。毛に關しては機會さへあれば尚一二言ひたいことがある。

　

(447)　　桂女由來記

　

　　　　　　　　　　一

　

　以前、京都の初春を艶ならしめたものに、桂女《かつらめ》と稱する、一團の女性があつた。類を同じくする、他の多くの部曲が、夙に漂遊の途に上り、果知らぬ旅を續けて居たに反して、不思議な愛着を以て、故郷の土に親しみ、桂川の水の流の、千年の變化をよそに眺めつゝ、靜かに傳銃の生活を送つて居た。併し現代の物を忘れる力には、どうしてもかなはない。彼等もいつと無く、自分を只の百姓と考へるやうになつた。次第に遠ざかつて行く、中世の後姿が、もう寸刻も我々の爲に、彳《たたず》んではくれぬのである。今に何等かの材料が、附加はつて來るかと待つて居る、私の手帖までが、たゞ古くなる一方である。そこで一旦、乏しい記録を纏めて置いて、斯うして空に消えて行く、人間の營みにも、一つ／＼の趣意があり、一つ／＼の事情が有つたらしいことを、皆さんと共に、考へて見たいと思ふ。

　必ずしも、無用の風流三昧では無く、私としては、相應の因縁があつたのである。桂女は本來山城桂の里に住んで、其名を得たのだが、江戸の幕府に出入をした桂女だけは、京の南の、上鳥羽村に住する、中澤と云ふ家の女主であつた。或は又格式を誇つて、桂姫とも名のつて居た。

　正�ｺ六年閏二月十三日の朝、深川黒江町の家主、市郎兵衛の借家に於て、この桂姫が殺されたことがある。其一件記録が、寺社奉行の文書に殘つて居て、最初に私の心を動かしたのである。

(448)　上鳥羽の桂女が、�ｺ川家に近づいたのは、初代將軍の時からである。家康の思ひ者の一人に、お龜の方と云ふのは、尾州家の先祖の義直を生んで、後に相應院と呼ばれた婦人であるが、男山八幡の社家、志水氏の娘、竹腰某なる者の寡婦であつた。其手引に由つて、桂女は、永く江戸城の奧向へ立入ることを許されるやうになつてゐた。

　後世の由緒書には、桂姫の元祖は、名を岩田姫と謂ひ、神功皇后の侍女である。皇后三韓御征伐の御時に、冑の代りに召されたと云ふ、綿帽子を家に傳へて、御目見えの度毎に之を持參し、現に大阪陣の時などは、神君之を頂戴して、自ら御被り成された、などゝ謂つて居る。或は又、此時御陣女郎として、家康に隨伴したお龜の方を、大昔の后の宮同然と心得て、御陣中附添ひ、御奉公を申上げたなどゝ、大變なことを、書立てゝ居るが、それが又、丸々の作り事では、無かつたらしいのである。

　神功皇后と御綿帽子の話は、いつ頃から言ひ初めたか知らぬが、とにかくに、上鳥羽の桂女だけの説では無い。それよりも、我々の興味を惹くのは、御陣女郎の習はしである。戰場へ婦人を同行することは、勿論、�ｺ川老將軍だけの、特別の好みでは無かつた。はつきりとしたことは、何の書物にも見えぬが、ほんの暫くの對陣中にも、女を連れて來て止宿させた例は、古くは平家の、富士川水鳥の話にもある。應仁亂の終りの頃、畠山の陣屋が攻落された時に、主人の子息に女の衣裳を着せ、他の女づれと共に、敵の目を欺いて、一所に遁げ延びたと云ふのも、現に悉く、桂の里の桂女であつた。察するところ、大阪の陣に出たと云ふ桂女は、やはり又、御陣女郎であつて、お龜は偶々、其群の中の、有力なる一人と云ふに、過ぎなかつたのであらう。同人が、八幡の修驗者の家に生まれたと云ふのを見ても、彼等の間柄は想像せられる。近世に至る迄、石清水の御社と、桂女とは、或る關係を持つて居た。毎年十二月の十三日を以て始まる、安居頭《あごのとう》の祭の間に、桂の里の女子で、代々の名を、孫夜叉と云ふ者、桂帽子と稱して、白い布を以て頭を裹み、出て來て、桂飴と云ふ物を獻上するのが、例であつた。孫夜叉は亦、やはり桂女の一人だが、此は下の桂村に住して居た。家の苗字は小寺氏で、今でも下桂區の舊家である。家には、寛政四年七月の上書の寫だけが遺つ(449)て居て、其中には、神功皇后より傳はり候御帽子、今に所持仕り候とあり、又、八幡の三社務の家へは、毎年正月の拜禮に、三十年前までは出て居たとも書いてある。

　

　　　　　　　　　　二

　

　上桂村の桂女の家は、百年前までは十戸あつた。大八木と云ふ苗字が最も多く、其他には、中村・粟津・岡本・原田の四家があり、今でも村民の多くは、此五苗字に屬して居る。然るに下桂村の、孫夜叉の家は、右申す如く、小寺氏なり、上鳥羽に於ては、古くから中澤であつて、此間の續きはどうしても分明せぬ。�ｺ川家は三河在國の頃から、既に桂女の出入を許して居たと謂ふが、それが果して、鳥羽に住する中澤の先祖であつたか否かは、もう證跡が無いのである。鳥羽の隣の伏見の里には、伏見の桂女と云ふ者が居つて、それは御香の宮の神主の女であつたことが、色々の書に見えて居る。豐臣秀吉が朝鮮征伐に進發の時、此桂女は、山崎の邊へ罷出でゝ首途を祝し、神功皇后の御嘉例と稱して、捧げ物をして、衣服金銀を頂戴したと云ふ話もあり、或は又太閤御香宮へ參詣ありけるに、神主の娘の市女なる者、神前の金幣を取下して、三度公を祓ひ奉る。市は心も賢く、みめもよき女房かなと、笑ひ／＼言はれたと云ふことも語り傳へ、あの頃、頻に武將に近づかうとした態度までがよく似て居る。其上に、伏見の御香宮の祭神は、人も知る如く、神功皇后である。起原は、今に於ては明白で無いが、男山とは御母子の關係もあつて、由緒の此に繋がつて居ることは、略々疑を容れない。只中世に色々の變遷があつて、社職も異動し、鳥羽の中澤が、爰から移つたかどうか、確かめて見る事が出來なくなつたのである。

　所謂皇后樣の御綿帽子は、下桂の小寺氏にも在つたと云ふのみで無く、上桂では、原田岡本の兩家にも之を傳へ、現に私は其一つを見た。白の上品の麻布を以て製し、兩端を長く垂れて、中程をわがねた、正しく頭に被ぐ物とは見えるが、さして古い時代のものでは無い。それを、戰地に於て、冑の代りに召させられたとか、或は、皇子御誕生の(450)折に、御被りなされたなどゝ、物々しい故實を附會するやうになつたのは、能の狂言などに出て來る、足利時代の常の女が、白布を帽子にして居た風習を、忘れてしまつた程の、後世のことでなければならぬ。ところが、斯うした頭の包み方をする、女の風俗を、桂包、若しくは桂卷と呼んで居た爲に、尚何等かの仔細が有りさうに、考へる人も無いとも言へぬが、本來此カツラは、桂の里の桂女とは無關係で、單純に、鬘即ち頭部のことであつた。働く女は、髪を垂れて居ると亂れる故に、布を以て之を包む必要があつたのである。髪を結ふことが次第に流行して、鉢卷の入用がもう無くなつてからも、古い風習が、まだ桂女の間に殘つて居たのは、或は多少、この語の解釋に捉はれて居たのかも知れぬ。兎に角に、ずつと後の時代に入つても、改まつた拜謁の場合などに限つて、この舊式の所謂綿帽子を頭に載せ、わざ／＼昔の賤の女の粧ひをして、罷出でたのは無邪氣であつた。さうして此に勿體を附けて、或は神功皇后の御装束の裾を切つたと謂ひ、或は源氏の白旗を以て之を作ると謂ひ、甚しきは、應神天皇の御襁褓の形などゝ謂つたのは、をかしい口碑の變化であつた。

　併し何れにしても、説明の方が、常に儀式よりは後に出るのが當然である。此類の由緒書が、作り設けられぬ以前から、桂女は富豪有力の家に出入して、平産を祝し、又緑兒の強健をまじなふのが、其職分の一つであつた。武家の女房たちに取つては、神功皇后は、理想の女性である。御武運と云ひ、御子神の尊さと云ひ、何とぞして、あやかりたき事ばかりであつた上に、如何に幸福に滿ちたる名門と雖も、子寶ばかりは思ひの儘でなかつた故に、乃ち其不安を散ぜんが爲に、愈々柱女をして、勝手放題な家の歴史を、附け加へしめることになつたのである。それが今謂ふ、策略の類で無かつたことは勿論で、つまりは社會が先づ、欺かるゝことを要求し、桂女は只之に應じて、其方に力を入れた迄であらうが、其信仰の發達して行つた形式には、頗る八幡の社僧達から、學んだらしい跡がある。

　江戸時代の、諸大名の嫁入には、必ず桂女と云ふものを、輿の脇へ供につれた。是は室町期からの舊慣であつて、以前は何れも、布を以て頭を包んで居たから、之をカツラメと呼ぶのは、單に鬘卷をした女を意味し、京都の桂とは、(451)關係が無からうと言ふ人もある。併し名の附け方として、其は如何にも無理である。遠方の田舍などで、桂女を招くだけの力も無く、後には家の侍女などを之に代用して、名ばかり桂女と稱した例は、あるかと思ふが、中央では少なくとも此役に、眞の桂女を使つたのであらう。伊勢貞丈の説に由れば、伊勢家の禮法には、無いさうであるが、小笠原流の方では、婚姻式に、山城國上鳥羽村の桂の里から、代々長命にてめでたい夫婦者のあるのを召寄せ、嫁入の時は、輿の前に立てゝ、一二の門まで供をさせた。多分は足利家以來の作法であらうと謂ふ。上鳥羽村と桂の里は別だから、此點は多分誤りと思ふが、桂女に嫁を送らしめた舊例は、此と關係のあるもので、或は是も亦、早く立派な子を儲けるやうにとの、まじなひであつたかも知れぬが、兎に角に、御産の場合以外にも、武家に桂女の入用のあつたことは、想像するに難くない。

　桂に住んで居た桂女は、京都に於ては、正月と八朔と、所司代の新任の時だけに、禮に出るのが、近い頃の慣習であつて、右に言ふ如き、臨時の祝儀には、もう出ぬやうになつて居たが、恐らくは、それは後世の衰微である。幕府が東に遷つて、武家の邸宅がさびれてから、型ばかりの舊例を守つて、最早京都は桂女の天地では無くなつた。そこで一部は、退いて農作を本業とし、一部は縁に附いて、國々の諸侯に、頼ることになつたのであらう。

　豐前小倉の小笠原家は、例の武家作法の家元であるだけに、藩中に桂と稱する一家を抱へて、代々女子を以て相續せしめた。薩摩の島津家の言傳へでは、昔は事有る毎に、京から桂女が、祝儀の爲に下つたが、其往來が久しく絶えたので、慶長の初年には、一戸の桂女を移住せしめ、之を大隅の敷根に置いたと謂ふ。此類の例は、他の地方の舊家にも有つたであらう。江戸の將軍家のみは、從來の仕來りに遵ひ、依然として遠路の交通を、上鳥羽の桂女に許して居たのであつたが、それすらも時世が改まれば人の心持が變り、又待遇は元の儘でも、生計は漸く苦しく、昔はめでたい祝言を敍べに來た桂女が、いつでも愁訴と歎願とを、くり返すやうになつてしまつた。

　

(452)　　　　　　　　　　三

　

　江戸の、正�ｺ六年の桂女殺しと云ふのは、斯ういふ趨勢のまん中に於て、圖らず出現した、一悲劇であつた。殺された桂女は、年四十七の寡婦であつて、亡夫の弟、中澤藤右衛門、六十一歳なる者が、之を刺殺し、己も亦其座に自害して、やがて果てたのである。三月ばかり以前に、願の筋あつて江戸に下り、借家暮しをして居たのだが、正月には、本石町三丁目と、深川の六間堀とで、十日の間に、二度までも火事に遭ひ、黒江町の店には、引越して來たばかりで、近所の人たちは、桂姫とは何をする者かも知らなかつた。下男半平と、下女のかちとは、共に國許で雇はれて、供をして來た者であつたが、一向に事情は知らなかつた。只其前日にも桂姫は、寺社奉行の土井伊豫守樣へ願出で、首尾よく御座候由、罷歸り候て殊の外悦び、留守をして居た藤右衛門も悦んだとあるから、外に込み入つた事情が、何か有つたのであらうが、勿論公邊の書留には、心理描寫などの餘地は無かつた。

　但し尚、色々の文書が、きれ／”＼に殘つて居て、之を綜合して見ると、彼等の生活が少しわかる。殺された桂女は、八年前、夫治兵衛のまだ在世の中に、將軍繼目の御祝儀に、出府したことがある。其親姫の代には、殊に何囘も下つて來て、?々身代の不如意を申立て、少なからぬ金銀を拜領して還つて居る。而も桂女の方から言へば、斯うした臨時の合力よりも、寧ろ昔通りの、毎年の拜禮を利益としたことゝ思はれる。上下の道中には、傳馬その他の給與がある。江戸滯在中は、人數に應じて扶持米が出た上に、次々に諸大家を廻つて、吉例の扇子熨斗などを獻上すれば、之に對して、下され物が多かつたのである。併し、幕府の方では、其だから之を好まなかつた。後には將軍の代替りに、一囘の出府を公認するのみであつたが、四代將軍の頃までは、三年に一度は出て來ることになつて居た。と謂ふのも、やはり亦制限であつて、毎年で無くては、昔の生計の規模が保たれぬ故に、彼等は夙くから困窮をして居たのである。

　それでも、正�ｺ六年の願書には、高五十一石餘の持田畑を、除地即ち永代無税地にして下されと、蟲の好い申立を(453)して居る。即ち此時は、まだ五六町歩の立派な地主であつたのである。所がこの意外な出來事の爲に、話は全く頓挫してしまひ、跡には四人の孤子ばかり殘つた。總領は、おさんと云ふ娘で、此時十九歳、あとの三人は男である。次の代の桂姫は、勿論此おさんであらう。亭主の中澤與兵衛と共に、度々の訴願を試みたが、時節が惡いとて取上げられなかつた。終には、重代の田地居屋敷を賣拂うて、未進の年貢に充て、今では二條表の節朔の御禮も勤められず、所縁の者をたよつて住んで居りますと、氣の毒なる家の没落を述べた目安も殘つて居る。

　それから以後の、上鳥羽の桂姫は、或は京の市中に住んで居たかと思ふが、それでも尚、上鳥羽の住民と稱して、何囘も江戸に下り、將軍代替りの折には、拜謁を許され、又頂戴物をして居る。紅縮緬の下着に、御紋付の花色｜綸子《りんす》の裲襠《うちかけ》で、而も頭には、かの綿帽子である。明和七年に來た桂姫は、二十七歳であつたが、三十歳位に見えた。夫の名は中澤右衛門、稍々才氣のあつた男と見えて、好事の江戸人と會見して、頻に家の由緒を語つて居る。天明八年の桂女の夫も、同じく名を右衛門と謂つたが、不思議なことには、其桂女は至つて幼少で、表向は十三歳と稱し、實は十一であつた。髪は兒髷にして、空色縮緬の袷に、金色のさげ帶をして、出て人に逢つた。其母親の、三十餘りのお幸と云ふ婦人が、後見として附添うて居た。或は明和の桂女の、娘でもあつたらうか。早く後家になり、且つ病身な爲に、幼少の子供に、其職を讓つたと謂つて居る。髪には、長さ八寸もある笄を插し、花色縮緬の袷を着て、同じく金入のさげ帶をして居たとある。さうして住居は、もう上鳥羽では無く、京の六條御前通りの家が、此春の大火で燒けてから、暫く東山の黒谷に、借宅して居ると謂ふことで、もう在所との因縁は、夙に絶えてしまつて居たのである。

　

　　　　　　　　　　四

　

　其から以後の、中澤族の消息は、もうどうしても知ることが出來ぬ。私の見る所では、此の如き、短期間の激しい變動は、やはり女系相續の不自然に、其原因を有するかと思ふ。女を主人とする家に、男子が多く生まるれば、財産(454)は殊に分割せられ易く、格式は殊に維持しにくい。それに窮屈な由緒があつて、職業の自由が限られてしまつては、都に入つて埋れて行くより、他の途は無いわけである。之に比べると、上下桂の桂女の家は、根源が更に遠いにも拘はらず、段々に變る世の中と調和して、隨分敏活に、生活の樣式を改めつゝ、兎に角現代の新社會に到達するまで、片端だけは、其傳銃を保持して來たのである。併し此とても、やはり境遇の力で、必ずしも此種族の智術では無いかも知らぬが、何れにしても、此だけの變化を經ながら、今尚元の桂女の名を元の桂の里に存續して居るのは、珍しい現象と言はねばならぬ。

　先年私が、此村の神田菊之助氏と、松尾社の長屋宮司との助力に由り、採集し得た所の、桂女の文書は、大部分は上鳥羽の中澤が、既に衰微を極めた天明末年よりも、更に後代のものであつた。而も桂女としての所得は、此頃もう、言ふにも足らぬ程の少分であつたにも拘らず、十戸の舊家は、至つて嚴重な組合を作り、順番を以て、桂女の役を勤めて居たことが、丹念な記録に由つて、一通り明瞭になつて居る。

　嫁入聟取等の、臨時の祝言に、桂女の出て行く風は、既に無くなつて居た。拜禮は單に、正月松の内と、一二の箇所への、八朔の賀のみであつた。年頭の禮の初筆は、京都所司代の官邸である。古くは、所司代新任の時にも、扇子箱を持つて悦びに出で、鳥目三貫文を下さる例であつたが、此交迭は、隨分頻繁なので、後には時々、何も下さらぬことがあり、次いで、八朔又は年頭禮の序を以て、慶賀を述べてもよろしいと云ふことになつた。八朔の禮は、この所司代の處と、今一つ、小堀樣と云ふ處だけであつた。小堀は、上鳥羽村なども支配した、代々の代官の家らしいが、詳しいことは分らぬ。柿桃などの、時節の果物を、取合せて五十づゝ、別に御役所、即ち取次の衆へ、十箇づゝ獻上することになつて居た。

　春の初の廻禮の方は、此他にも、幾箇處かあつた。即ち三條西・唐橋・高辻・日野西・清水谷の諸家で、何れも獻上品は、例の桂飴を三十本、へぎ臺に載せ、熨斗包を添へて、持參するのが舊規であつた。所司代と小堀家は、同じ(455)く五十本、別に取次の役に十本づゝは、一樣に之を差出した。又、天神樣神主へ十本といふ口がある。村の鎭守の御靈天神のことか、若しくは別に、縁故ある天神社があつたのか、私には決しかねる。先づ此だけが、最終までの出入場であつたが、以前はもつと多かつたことも、想像に難くない。東坊城恆長が、高辻家から養子に行つてから、此家へも一時出て居たが、程なく中絶した。聖護院宮家も、曾ては、往古より目出たきものなりとて、桂女に出入を仰付けられたことがあつた。清水の淨壽院にも、天明四年まで、正月毎の式禮を續けて居たが、寺に大修繕が始まり、物入が多いので、困ると云ふ役坊の話だから、中止して居る。今に又何とか沙汰があつたら、飴二十本を持つて御禮に出よと、書殘してあつて、其儘になつて居る。江戸期三百年の間には、此類の絶縁が、頻々として多かつたと思ふのに、兎に角十軒の桂女が、どうにか退轉もせずに、明治遷都の時までは、取續いたのも、一つはこの團結の力であつたと思ふ。

　下桂の孫夜叉家では、前に申した八幡の三社務と、所司代との外に、又、京極宮樣及び日野吉田の兩家へ、年禮に出た。上桂の方でも、やはり、熊野の先達などゝ同じく、各家の桂女には、持ち持ちの檀那場があつたのを、後には集合して、十戸共有の出入先として、當番で、毎囘三人の桂女が、一人の侍と四人連れで、禮に行くやうにしたものらしい。彼等の歴史に於ては、著しい變化である。貞丈雜記に引用した、足利氏の年中恆例記には、正月五日、地藏、千百參る、御服下さる。上樣よりも御服下さる。千百は日野殿の桂なり、とある。即ち奧向の推拳に由つて、次第に將軍家に取入つた點は、八幡のお龜の方の場合も同じであつたが、日野家の桂女は、下桂の孫夜叉が勤めるやうになり、有力なる千百の家は絶えたかと思はれ、上桂の方には、ひやくを通稱とする大八木氏が有るだけである。大正十一年の紀元節の日に、私は西川の村を逍遙して、圖らず此家の前を過ぎたことがある。注連を引いた昔風の住居で、折から戸に立つて居た老女の姿までが、多くの空想の種を私に與へた。

　地藏と云ふ名の桂女の家は、粟津氏であつて、是も現存して居る。言繼卿記を見ると、永禄年間には、桂女地藏が、(456)山科家へも出入して居る。此家へは尚、夜叉と謂ふ桂女が、天文十三年頃に盛んに往來した。夜叉は白光院の桂女であつた。白光院は加賀白山の修驗者で、暫く京に上つて山科氏に寓居した人であつたが、斯う云ふ遠來の客にも尚、專屬の桂女があつたのである。而して其訪問は、必ずしも恆例臨時の祝言の爲のみでは無かつた。此年六月三日の午後、言繼は右の白光院とつれ立つて、大阪からの歸りに、山崎から西岡通りを桂へ出て、舟に乘らうとすると、夜叉が之を聞き付けて、親子づれで、酒を携へて出て饗應をした。仍つて目録と太刀一口を、兩人に遣はし、舟を夜叉に申付けて、夜更けて京に戻つたと、日記には書いてある。此時代は、もう世の中も　　　稍々改まつて、桂女は、元のやうな歌舞の徒では無かつたのだが、それでもまだ此程度の、風流と餘裕とは殘つて居た。夜叉が京に出て、白光院を訪ふ毎に、亭主も參會して、必ず一盞を催し、或は所望に任せて、色々の藥を遣はしたなどゝ云ふことが、さも日常の出來事として記されて居るのである。

　それが、江戸時代も終りに近くなる頃には、單に律氣なる百姓の内儀が、何かは知らず古例を守つて、斯ういふ貴人の家へ、年頭の禮に出るのを、家の面目と考へる迄になつて居た。而して其名譽には、僅かながらも得分が伴うて居たのである。飴は年久しい、桂女の産業であつたが、此頃にはもう自宅では製造せず、京へ出て來て、あめ屋理兵衛が處で買入れた。へぎ目録臺熨斗水引の類は、三條通りの綿屋嘉兵衛、通稱綿嘉の店で、一切之を調へ、かつら姫武助樣などゝ云ふ、奇拔な宛名の受取?が、大切に皆保存せられてある。此等の獻上品に對する諸家の返禮が、所司代は三貫文、小堀家は百疋、其他は四百文とか米五升とか、錢米の相場で、少しづゝの相違は有つたが、總計六貫文には足らなかつた。さうして諸式は、年増しに高くなる一方であつた故に、最初は雜用を使ひ拂つた引殘りを、桂女總員に頭割りに分けたのを、維新の少し前頃から當番の桂女三人だけに分配して、所謂侍の方では、一文も取らぬことにしてしまつた。それで尚一人前の取高が、言ふにも足らぬ少額であつたのを見ると、結局する所は、單なる利益の爲のみに、續けて居た職務では無いことを、知るのである。

(457)　桂女廻禮の一行は、供の者を加へて、普通六人であつた。其中の所謂侍なるものは、足利季世記などに、桂が男とあり、寺社奉行の記録には、桂姫の夫とあるものに該當する。始めは各個の桂女に隨伴するから、多くは其配偶者であつたらうが、或る時は父であり、或る時は言繼卿記の、夜叉女の如く、子をつれて來る老嫗もあつた。兎に角、一家内の男子が附添ふ風であつたのが、三人を一組にするやうに改まつてから、却つて番に當らぬ桂女の家から、侍として附いて出るやうになつたことは、寄附帳に由つて明らかである。愈々出役の日には、三人の桂女が、侍の處に集まつて支度を調へ、禮を濟まして還つて來ると、又此家に會同して、入費と貰ひ物とを勘定し、其跡でわつさりと、一杯飲んでから、別れたものらしい。但しそれは皆、桂女の家の男がである。帖面も勘定も、實務はすべて男の手で行はれた。年々の姫の當番も、殘らず亭主の名で書いてある。例へば、最後の明治三年の桂姫は、八左衛門・利右衛門・平左右衛門の三人で、侍は平右衛門であつた。平右は粟津氏、即ち地藏と云ふ桂女の家、平左は大八木氏、桂女名は「ふくら」であつた。他の二名も大八木氏であるが、「ひやく」か「東ひやく」か「伊勢まご」か「赤地藏」か、桂女名の方は判明せぬ。この他に、岡本氏の「おたけ」、原田氏の「�ｺわり」、中村二家の「まご」と「小ふくら」とが、享保七年の書上げに載せられた、桂女の名前であるが、をかしいことには、仲間うちの文書にも、折々は取違へ、又は書誤りをして居る。儀式や表向だけに、之を使つて、平素は村内で、何の用にも立てない爲に、本人の家では、勿論よく承知して居ても、脇では、さまで精確に記憶することが、出來なかつたのである。

　大正九年二月の現在で、上桂區の桂女の家は、存する者五戸である。色々の變化があつて、古い言傳へはもう無くなり、却つて我々の話を聽いて、案外とする事ばかりであらうが、所司代が廢絶し、西京が故都となり、當時の縉紳家が、武州へ移つてしまつて、桂女の職務が、全く必要を見ぬやうになる迄の、近昔のことならば、女性がまだ覺えて居るであらう。今一度、彼等と共に、名殘の面影をしのびたいものである。山崎の船津の繁昌に誘はれて、鵜を飼ふ技能ある女たちが、何れかの地方から、川筋に沿うて上つて來て、此附近の大きな御社に、贄《にへ》の魚を奉進し、更に(458)禁裏の供御人として、特段の庇護を受けたこと、桶に鮎の鮓を入れて都に出た、物賣女の生活には、尚其蔭に、かくれた宗教上の力のあつたこと、それから京道が南へ徙り、桂川の流れも變化して、舟との縁が漸く薄くなり、飴を製するの技術を以て、新たなる活路を開いたことなど、まだ考へて見たい點は澤山にあるが、何れも、今殘つて居る材料だけでは、とても、鮮明に昔の姿を、描き出すことが出來ないのを遺憾とする。

　

(459)　　第九卷　内容細目

妹の力〔1940年5月、創元社〕

　序

　妹の力（大正十四年十月、婦人公論）……………………………七

　玉依彦の問題（昭和十二年七月、南島論叢）…………………二三

　玉依姫考（大正六年三月、郷土研究）…………………………四一

　雷神信仰の變遷（昭和二年五月、民族、原題「若宮部と雷神」）

　　道場法師の孫娘…………………………………………………六三

　　靈安寺の縁起……………………………………………………六八

　　天滿大自在………………………………………………………七三

　　老松と松童………………………………………………………七六

　日を招く話（同年七月、同誌、原題「日置部考」）…………八二

　松王健兒の物語（同年一月、同誌）

　　築島と長柄の橋…………………………………………………九九

　　松王といふ童名………………………………………………一〇三

　　母一人子一人…………………………………………………一〇六

(460)　人柱と松浦佐用媛（昭和二年三月、民族）

　　化粧坂の故跡…………………………………………………一一五

　　旅人の拜む神…………………………………………………一二一

　　小松大夫の土著………………………………………………一二八

　老女化石譚（大正五年八月、九月、郷土研究）……………一三二

　念佛水由來（大正九年四月、新小説）

　　發端……………………………………………………………一四七

　　念佛を感ずる池………………………………………………一四九

　　うはなりの池…………………………………………………一五一

　　姥甲斐無い……………………………………………………一五三

　　影取山の縁起…………………………………………………一五四

　　姥ヶ火と勘五郎火……………………………………………一五七

　　尼子氏…………………………………………………………一五九

　　せきのをば樣‥………………………………………………一六一

　　築地の老女石像………………………………………………一六三

　　三途河の婆……………………………………………………一六四九

　　關寺小町………………………………………………………一六六

　うつぼ舟の話（大正十五年四月、中央公論）………………一六九

　小野於通（大正十四年五月、文學）…………………………一八八

　稗田阿禮（昭和二年十二月、早稻田文學）…………………二〇七

　

(461)巫女考

　ミコと云ふ語（大正二年三月、郷土研究）…………………二二三

　神の口寄を業とする者（同年四月、同誌）…………………二三一

　託宣と祭（同年五月、同誌）…………………………………二三五

　夷下し、稻荷下し（同年六月、同誌）………………………二四二

　オシラ神（同年七月、同誌）…………………………………二四八

　池袋の石打と飛騨の牛蒡種（同年八月、同誌）……………二五四

　蛇神犬神の類（同年九月、同誌）……………………………二六〇

　箱石と笈の塚（同年十月、同誌）……………………………二六七

　頼政の墓（同年十一月、同誌）………………………………二七四

　神子の夫、修驗の妻（同年十二月、同誌）…………………二八一

　筬を持てる女（大正三年一月、同誌）………………………二八九

　結論（同年二月、同誌）………………………………………二九六

　

テテと稱する家筋（大正六年三月、郷土研究）………………三〇五

　

立山中語考（大正三年九月、郷土研究）………………………三〇六

　

一言主考（大正五年四月、郷土研究）…………………………三〇九

　

(462)西行橋（大正五年十月、郷土研究）………………………三一八

　

細語の橋（大正三年十二月、郷土研究）………………………三二七

　

毛坊主考

　毛坊主考（大正三空耳、郷士研究）…………………………三三三

　念佛團體の變遷（同年四月、同誌）…………………………三三九

　實盛塚（同年五月、同誌）……………………………………三四六

　ネブタ流し（同年七月、同誌）………………………………三五五

　聖と云ふ部落（同年八月、同誌）……………………………三六二

　鉢叩きと其杖（同年九月、同誌）……………………………三六九

　茶筅及びサヽラ（同年十月、同誌）…………………………三七六

　夙の者と守宮神との關係（同年十一月、同誌）……………三八五

　法師戸（同年十二月、同誌）…………………………………三九九

　護法童子（大正四年一月、同誌）……………………………四〇七

　結論（同年二月、同誌）………………………………………四一六

　

鬼の子孫（大正五年六月、郷土研究）…………………………四二七

　

唱門師の話（大正五年五月、郷土研究）………………………四三四

　

(463)俗山伏（大正五年十二月、郷土研究）……………………四四二

　

桂女由來記（大正十四年五月、女性）…………………………四四七

　

　　　　 〔2013年12月28日（土）午後4時20分、入力了〕