定本柳田國男集　別卷第三（新装版）、筑摩書房、1971､3､20（1971.12.20.2刷）

　

(1)　　　故郷七十年（改訂版）

　

(3)　　　　　母の思ひ出に

　　　　　　　――序にかへて――

　

　今頃をかしな話をするやうだけれども、私は母の腰巾着、九州でいふシリフウゾ、越中の海岸地帶ではバイノクソなどと、皆にからかはれる兒童であつた。大きな三人の兄が遠くに出て居て、父も本ばかり見て居る人だつたので、少しは獨り言の聽き役のやうな地位に在つたからでもあらう。その癖横合ひから少しでも不審を打つと、忽ちおまへはまだ子供やさかい、の一言を以て押さへられ、自分も亦自ら戒めて、そんなことは聽かせぬやうにせられたやうである。

　しかしあの頃の世相の變化には却つて現代より複雜で、又烈しいものが多かつた。以前は市や祭禮の日の爲に具はつて居た村の道路が、一旦國道に指定せられると、無理しても路幅をひろげ又まつすぐにして、成るべく遠望のきく場處に、所謂人力車の立場を設け、そこには里程表と籤を引く麻繩の束を引掛けて、仕事着に足ごしらへをした村の若者等が、何人か順番に出て待つことにして居た。電話も自轉車もまだ發明せられぬ時代だつたけれども、綱曳き後押し附きの大事な客人は、やはり前以て通知が出來るやうになり、從つて要處々々の大きな立場だけは、大抵はきれいな茶屋、又は旅館に從屬するやうになり、私などの七つ八つ頃には、もう少しづつ所謂脂粉の氣がただよひ始めて居た。母は惡い言葉を覺えて來ては困るといふ理由から、たとへ遠方から始めて來た人力の背なかに、どんな珍しい繪がかいてあるかを見に行くやうな時にも、見たらすぐ戻るといふ條件を付けることを忘れなかつた。

(4)　ところが不思議なことにはちやうど同じ頃から、私等三人の小兒が夜分は母につれられて、この旅館へ風呂をもらひに行くことが始まつた。けふは御客が一人とか二人とか、又は誰も入られません、どうか御はひりにといふ使が來る。うちにも風呂場はあるのだが、ずつと小さくて黒くて、こちらの方が湯も水もたつぷりして居る。いつも家の父が外に出て留守の時に限つて居たが、後になつて考へて見ると、つまりうちが貧しくて薪を買ふ錢を儉約する必要があることを、向ふが同情して助けてくれたので、それには彼等夫婦が心から御禮をするやうな、何か爲になる忠言をして居たのでは無いかと思ふ。

　詳しく説明すると却つて小説見たいになるが、母も若くて健全であつた頃には、斯ういふ同情ある指導を實行する技能をもつて居り、彼等は又愛して居りながら、何かの動機から強く激昂する習癖があつたのを、夙く見拔いて巧みに説き付ける策を施したものと私は考へて居る。

　或はそれは身びいきに過ぎた解説といふ人があるかもしれぬが、その前後の事情を考へても今以て私は斯く信じて居る。勿論同じやうな發作はなほ幾度かあり、泣きながら女中が喚びに來て、又かえと言ひながら出かけて行つたことも多かつたが、行けば必ず發作が少し鎭まり、暫く時を掛けるとやさしい顔になつて御辭儀する。亭主は勿論ひどく喜んで、いつも私たちにまで好意を示して居た。後に北條に移住したので交際が絶え、結局は別れたとか死んだとかいふ話も耳にして居るが、母の自信は其爲にはまだ崩れなかつた。

　さて話が長くなつて、ちつとも序文らしく無くなつたが、私の考へて居たのはこの續きとして、夫婦喧嘩の時代相とでもいふべきものを、現代人の爲に説いて見ることだつた。私などの少年時代には、ちやうど北齋漫畫の第十二編にあるやうな、托鉢と擂粉木との打合ひが、裏長屋から廣く田舍の小都會にも擴張し、夫婦の話し合ひでもし結着が付かぬならば、廣く公衆をして判斷せしめようといふ戰法が採用せられ、效果を擧げて居たやうだが、程無くそれも馬鹿げた企てになつて、もう流行はつひに去つた。

(5)　大正の末の頃に、門司の港の片端で、わめきつつ家を飛び出す女房を見かけて、こゝはまだ古風ですねと、案内の人に語つたところ、あれは朝鮮人ですよ、あの仲間にだけは今でも流行しますよといふやうな答であつた。

　中國でも其頃の江南地方には、あの方法が男同士、稀には車夫と御客との間にも、路行く人に聽かせて裁判させようとする風がごく普通だつたが、あの方法も今は恐らく、效果の薄い因習となつて居るだらう。しかも一方にはどうすれば親睦を永古にするかの方策がまだ立たず、結局は疎遠と冷淡とによつて、いはゆる路傍の人を多くするに迫まることであらう。

　曾て板垣さんが自由は死せずと呼號した時代に、私の舊宅の門前に於て、若い醉狂人が大の字になつて怒鳴つて勤かうとしない。母は出て行つて門の戸を締め貫拔きを通し、私たちは陰に隱れて恐る恐る覗いて居ると、彼の友だちが傍にそつと近よつて、百方なだめすかして連れて行かうとするが、醉つぱらひは愈々強く踏みしめて、自由の權だいといふ文句を何遍か高く唱へた。是が私の此語を學び始めた日であつたが、それから今日まで此語はきらひである。

　自由は我儘も元は同じ意味で、何と人は言はうとも自分は是非斯うするといふことで、老人はもとは平氣で「そんな自由なことは許しません」などと聲明して居た。何かもつとよい言葉を見付けて取かへないと、それこそ我々は不自由としなければならぬ。

　言葉の傳來は改めて考ふべき問題であり、それに心づいたのも亦母の御蔭である。

　　　　　昭和三十四年十月上旬

　

(7)　　　　　起筆の言葉

　

　神戸新聞は今年滿六十年を迎へるといふ話である。人間でいへば還暦といふわけであらう。ところが初めて私が生れ故郷の播州を出て關東に移つたのは、それより十年以上も古い昔のことであつた。それから私の心身がだんだん育つて行くにつれ、私の眼が全國的に擴がり、世界中のことにも關心を引かれるやうになつたことに不思議はない。しかしそれでも幼い日の私と、その私をめぐる周圍の動きとは八十餘歳の今もなほまざ／＼と記憶に留つて消えることはない。いつかそのころに筆を起し私自身の足跡とその背景とを記録するならば、或は同時代の人たちにも、またもつと若い世代の人たちにも、何か爲めになるのではないかといふのが、かねてから私の宿志であつた。

　幸ひに時が熟したので、神戸新聞の要請をいれ、こゝに「故郷七十年」を連載することにした。それは單なる郷愁や囘顧の物語に終るものでないことをお約束しておきたい。

　

(8)　　　　　故郷を離れたころ

　

　故郷といふものは、五十年が行きどまりだと、かね／”＼私は思つてゐたのに、私が次兄（井上｜通泰《みちやす》）に伴はれて故郷を離れてから、今年でもう七十一年にもなる。

　故郷といふものは、伯父母や從兄弟などさういつた人々があつてこそ温かい所なのだが、私の兩親は兄弟のない人だつたし、せい／”＼故郷には次兄の養家先がある程度。そこも歸郷して訪れるには億劫なところであり、一年ほど預けられたことのある辻川の三木拙二氏宅にゆく以外にないのだが、その家も世の中の變遷に合つて寂しい生活になつてゐるので行つて慰めたいとは思ひながらもなか／＼訪れにくいといつた?態にあるのだから、なみの人の故郷と私の場合とは餘程違つたものがある。

　あるいはまた、そのためにとくにいつまでも、故郷がなつかしいのかもしれない。

　ともかくも七十年以上、時々は思ひ出した端々を人に話することができるといふのは、我ながら珍らしい。しかもその間の故郷は、今際限もなく變つてゆかうとしてゐるのである。何をいふかわからぬが、聞く人さへあれば、じつはしやべつてみたかつた。

　私が次兄井上通泰に伴はれて東京へ出たころはまだ東海道線が開通してゐなかつた。神戸から船に乘る以外、方法のなかつたころである。その二年後、兩親や弟たちが後を追つてやつて來たときは、東海道線を汽車で上京してゐるが、いまでも私が思ひ出すのは、北條から人力車にのつて神戸へ出て來る途中の明石あたりでの光景である。

　北條を發つたのは明治二十年九月一日、海路東上するには二百十日といふ最惡の日であつた。明石を通りすぎるこ(9)ろ、幼いころからこの地名はよく聞いて來たところだから非常に鋭敏になつて四圍の風物をながめてゐたのだが、そこで西洋人が海水浴といふものをやつてゐた。女が裸になつてサルマタのやうなものをつけて海に入つてゆく。「これが海水浴といふものか」と私ははじめて強い印象を與へられた。その時は淡路を眺めるのが、おろそかになつたほどの強い印象であつた。

　それから後も、たび／＼そこへは降り立つたり、汽車の窓から見て過ぎたのだが、その時にくらべると、もつと昔風に思へたものである。つまり、最も新しい、須磨・明石を、私はその時に見たわけで、いつも舞子・明石といへば、いつまでも海水浴と結びついて思ひ出される。

　車はやがて兵庫の町に入り、さびれてゆく町竝を過ぎ、神戸の港に面した當時いちばんといはれた――西村屋だつたらうか――宿屋に泊つた。いまもそのたゝずまひがくつきりと目に浮ぶやうだが、よくどこの港町にもあるやうな普通の手摺つきの表二階の家で縁側も雨戸もかつかうの宿屋だつた。海岸は草土堤になつてをり、石垣は築いてあつたが、上の方は芝生で、草も生えてゐたやうに記憶する。

　

(10)　　　　　東京への旅

　

　今の米利堅波止場の邊かと思ふが、そこからハシケが出る棧橋がつき出て、はるか沖の方に遠く船がかゝつてゐた。「山城丸」といふ船名で（たしかそれは日清戰爭にも働いたはずだ）二千三百トンだつた。「二千トン以上の船にのるのだ」といふ誇りめいた興奮から、船に乘りこんでも船醉ひどころかすべてが珍らしくて、よく眠れないほどで、立入禁止區域に入つては一等船室の西洋人をのぞき見したり、すべてが意外のことばかりであつた。これが私の世の中を見たはじめであつた。

　ここで思ひ出すのは、次兄通泰のことだ。兄は、その時分より前から桂園派の歌よみだつたやうにいはれてゐるが、じつはさうではなかつた――と思へるフシがあるからだ。

　といふのは私の家は貧乏だつたので何一つ家寶めいたものをもつてゐなかつたが、たつた一つ、母が嫁入りの時に持參した懷劍――といつても鎧通しだつたが――があり、長い緒のついた、子供心に欲しくて仕樣のないものだつたから、北條の町を發つ前夜、私は母にねだつてそれを貰ひうけた。その懷劍を何とか役立ててみたいと、子供心に思ひ立つて、宿で兄と床をならべて寢《やす》むとき、カバンからそれを取出して兄に見えるやうに枕の下に入れた。ところが、もう二十二歳の大學生の兄のことだつたからジロリとそれを見て、笑ひもしなければ、冷かしもしない。私はきまりが惡くなつて、いきなりこんな歌を吟じてその場を誤魔化したのである。

　

(11)　　　敷栲《しきたへ》の枕の下に太刀はあれど鋭《と》き心なし妹と寢たれば

　

　これは香川景樹の有名な歌だが、兄はそのときそれを知らなかつた。「誰の歌だい？」「知らんのですか景樹の歌だんがな」「へえ、そんな歌作つてるかね」兄ははじめてそれを知つたのである。

　兄の下宿はいま東京湯島の順天堂のある地續きで、主人は大橋といふ名古屋の舊家の人だつたから、大變な藏書家で、その本の中に景樹の本もあつてそれを兄は見てゐるのだが一つ一つ味はつてまでは見てゐなかつたのであらう。

　私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初學」といふのがあり、四季四筋册ほかに戀、雜の上・下など七册になつてゐたが、この歌は雜の下に「枕」といふ題で收められてゐたものである。

　かうした一場の滑稽劇があつて私たちは横濱に着いた。遠い沖の方からハシケで上陸して、驛までは少し離れてゐた。夜の八時ごろ、伊達な兄のことだから、學生のくせに二等車にのり込んだが、ほとんと車内は空いてをつて、子供二人をつれた女中との三人がゐるだけ。私は見ないやうなふりをして、私と同年輩の坊ちやんを觀察することにした。やがて女中が「若さまビスケット召し上りますか」とたづねてゐる。「ホウ！　ビスケット！」私はどんなものかと、好奇の目を輝かしてなほも見てゐると、掌に一つしか乘つからないやうな大きなものであつた。それを二人が食べてゐるのが、東京に入る夜の印象であつた。

　

(12)　　　　　東京の印象

　

　長い旅の疲れで、兄の下宿に着くとその夜はくたびれてゆつくり眠つてしまつた。

　翌朝は早く起きると、東京はどんな所だらうと、兄が眠つてゐる間に本郷の通りに出た。六時前だつた。いまもその本郷の朝の景色が記憶に殘つてゐるが、まだ當時は電灯がなく、ガス灯の時代で脚立をもつた人夫が點灯して囘る時代であつた。いまとはまるで違つたガス灯が夜明けのひつそりした街に點つてゐる當時の光景が、私の東京風景の第一印象であつた。

　下宿から出たとつつきに風呂屋があつて、そこから何軒目かに繪草紙屋があつた。私の弟（輝夫＝映丘）が、六つぐらゐでちやうど繪をやつてゐたので、後にはこの店で錦繪を買つては送つてやつたものだ。當時は芳年のものなどが流行つてゐて「月百姿」などといふ、月を主題にした一枚繪などが店頭に、いまの新刊書のやうに飾つてあつたことを思ひ出す。

　弟が繪をやるやうになつたことについて、私は辻川の昔を思ひ出すのだが、松岡氏は三木氏よりも來住が少し古いといはれ、先祖は兄弟で東西の二組に分かれ、三木家の近くにあるのは主として兄の方の系統、西組の弟の筋は家が多くてみな小さく、その中では私の生まれた家がその中の東の端であつた。この方の本家は「柿の木星」といつて柿が多く、家はそのころ衰へて老女と孫の男の子と二人きりになつてゐたが、赤穗の家老の大石家と縁つづきで大石主税が母の里方の但馬へ行く路で一夜泊つたといふ傳説があつた。

　私の家などは、こゝからの孫分家であつた。この「柿の木屋」の少し東手に「ます屋」といつたのが、やはり同族で(13)旅館となり、また人力車の立場《たてば》でもあつた。

　私たち三人の兄弟は、毎日のやうにこゝに來て休む遠近《をちこち》の人力車の背後にゑがかれた武者繪を鑑賞すべく、毎日のやうに通つたのだから、とくに遠方から綱引きなどで走つて來た人力車を歡迎した。これは少しは弟を畫家にした一つの因縁かもしれない。これなども、私には大切な辻川文化史の一節であつた。

　ちなみに映丘《てるを》といふ雅號は本名の輝夫にちなみ次兄の通泰がつけたもので、この二文字は古い文學にもあり、映丘を「ヲニテル」と讀ませるからつけたもので、もちろん音《おん》で訓まれることは覺悟の上であつた。

　

(14)　　　　　私の生家

　

　私の生まれた辻川の家は、私の生まれる前年、即ちちやうど祖母が亡くなつた翌年、生野街道のかたはら粟賀か福本あたりにあつた老人夫婦だけの醫者か何かの家を買つて來て建てたものであつた。辻川の街道に面して黒板塀があり、表の空き地には兄が永住の地と定めて、さま／”＼な花木を植ゑてゐた。白桃や八重櫻などが、春ともなれば道ゆく人々の話題となるほどに、美しく咲ききそつたものである。あの時代には櫻は、まだ山か、寺院か神社にゆかないと見られないものだつたが、どうして兄が家のほとりに移して來たのか、理由はよく分らない。

　この家を何とかして繪にしてでも殘しておきたいといふ氣になつたのは、私が朝日新聞社をやめた記念のため、それまでに執筆した書評や序文の類を集めた「退讀書歴」を上梓した時のことであつた。私の次の弟の靜雄（海軍大佐・國語學者）に――これは書が上手だつたので――扉と背文字を書かせ、末弟の映丘には見返しに私たちの辻川の生家を描かせた。そのため弟は四つ、五つまでしかその家にゐなかつたので大勢の人々にきいて囘つたり、いろ／＼なことをして確かめたのだが、出來上つてみると似てもつかないものになつてしまつた。

　「かうしなくては繪にならない」と映丘はいつてゐたが、私の知つてゐる生家の樣子とは相當に違つてゐる。いゝ家で、一夫婦が住むのにはよくできてゐた。その家はいま、北條へゆく道のカケアガリといふ所に移されてゐるが、屋根の棟が當時の面影を止めてゐるだけで私は歸郷しても山の上からはるかにその屋根だけを眺めて、昔をしのぶに留めてゐる。どうしてみても、私の氣持は人に分るまいし、私も當時の氣持をこはさぬために、むしろあの家は殘つてゐない方がいゝと思つてゐるくらゐである。

(15)　兄の不幸を思ふとき、私は日本の家が惡いこと、家が小さくなつたこと、それに前後の影響も考慮せずに制度を改めたこと、そして漢學者が中國の忠孝の孝の字を、文字通りに使つてしまつたといふことなどが、間違ひのもとだと考へてゐる。兄の不幸は、日本の家の組織が無意識に存在し、どう變へるべきかといふことがなほざりにされてゐたからだと思ふのである。

　

　私の家の小ささは日本一だといつたが、それもきつちりした形の小ささで、數字でいふと座敷が四疊半、間に唐紙があつて隣りが四疊半の納戸、横に三疊づつの二間があり、片方の入口の三疊を玄關といひ、他の三疊の臺所を茶の間と呼んでゐた。このやうな小さな家に二夫婦が住むこと自體、たとひ母がいかにしつかり者といふ人でないにしろ、初めから無理だつたのである。

　子供心にこの一家の不幸をぼんやりと推測してゐたのだが、たま／＼茨城縣布川の長兄の許にゐたころになり、兄嫁の母が語ることから、こゝでも兄嫁の弟夫婦の同じやうな悲劇が、家の形から來てゐることを改めて確認したことである。

　

(16)　　　昌文小學校のことなど

　

　さて、私は子供のころから體が弱かつたので、茨城縣の北相馬郡｜布川《ふかは》町に行つて醫者をしてゐた長兄の鼎《かなへ》の許に預けられることになつた。次兄が夏休みの歸りに私を伴つたのはそのためで、私は十日あまり東京の兄の下宿にゐて、そこから船橋――印旛沼のほとりを人力車に搖られていつた。鎌ヶ谷街道といふ惡い道だつた。布川の兄の許で三年あまり私は學校へも行かずにぶら／＼して過ごしたのだが、あとで考へてみると、よほど體が弱かつたためらしい。

　もつとも、私は五歳の時に辻川の小學校に上つてゐるから、九歳で當時の田原にあつた昌文小學校をすでに卒業し、北條の町に移つて高等小學校へはいつてゐたわけだ。

　こゝで一寸そのころの小學校の思ひ出になるが、小學校は全國的にみな難しい漢字二つの校名をつけてゐた。田原が昌文、南田原が柔遠などの美名で呼ばれてゐた。私が昌文校を卒業するころ（明治十八年）には、はじめて學校が新築された。それまでは寺を使つてゐたのが、その年に金を集めて新校舍を建設した。そこではじめての卒業式を盛大にやらうといふことになつて、縣令（知事）がその式典に臨んだ。森岡昌純といふ人だつたが、それが私の褒?をもらつた最初であり、縣令閣下を見たはじめでもあつた。

　ついで記憶を辿りながら、私は郷土の新聞のことを思ひ出して見たい。私らの子供のころの郷土紙は「神戸又新」であつた。その名をどうして記憶してゐるかといふと私の北條にゐたころ、家主の家の子が幸吉《かうきち》といふいたづらつ子で、そいつが私の家へ來てはいたづらをする。「幸」ベエだから、私の弟の輝夫が「神戸又新」「神戸又新」といつてどなつてゐたからである。

(17)　私の長兄の鼎は萬延元年、あの井伊大老が殺された申年に生まれたが、神戸の師範學校を出てゐたので、十九歳で田原の小學校の校長になつてゐた。部下が三、四名あつたのも、ほかの人はみな無資格者だつたわけであらう。私はそのために早く學校にあげられた。長兄は二十歳で近村から嫁をもらつた。しかし私の家は二夫婦の住めない家だつた。母がきつい、しつかりした人だつたから、まして同じ家に二夫婦住んでうまくゆくわけがない。「天に二日なし」の語があるやうに、當時の嫁姑の爭ひは姑の勝ちだ。わづか一年ばかりの生活で兄嫁は實家へ逃げて歸つてしまつた。兄はそのためヤケ酒を飲むやうになり、家が治まらなくなつたので、もと／＼松岡家は醫者だつたからといふことで、家と地所を賣り、その金で當時の東大別科に兄を遊學させることゝなつた。當時の醫者速成の機關で、ドイツ語を使はず譯語で學んだものである。二十六歳で兄はそこを卒業して醫者にはなつたものゝ郷土で開業するには資本や新しく地面が要る。故郷には醫者の親戚も多いといふわけで、本人も歸る意志はなかつたところに、偶然のことから茨城縣のある舊家から嫁をとり、同時に友人の世話で布川といふ町の、若死した醫者の家の跡を借りて、ちやうどその布川に開業することになつてゐたのである。それからのち三十何年目、大正の末にたつた一度故郷へ歸つたばかりだから、ほゞ言葉までが變つてゐたやうである。

　私は、かうした兄の悲劇を思ふとき「私の家は日本一小さい家だ」といふことをしば／＼人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、といふ運命から私の民俗學への志も源を發したといつてもよいのである。

　

(18)　　　　　幼時の讀書

　

　私は子供のころ、いつも寢小便をしてゐたといふくらゐだつたから、よほど虚弱であつたのであらう。だから兩親が我儘氣儘に育てたらしく、そのため私はいつも弟たちをいぢめる、近所の子供とは喧嘩をする、いたづらは激しい、といふわけで、北條にゐたころ一時私は父の友人である三木といふ辻川の舊家に預けられたことがある。ちやうど竹馬の友である同家の拙二氏が神戸の中學校に行つてゐる間なので、先方でも父君の承太郎氏が預かつてやらうといふことになつたが、何分にもいたづらが激しいので、同家の女中五人にまづ排斥運動を受けるといふ仕儀になつてしまつた。

　同家の先代で拙二氏の祖父に當る愼三郎といふ人は、農家に似合はず學問好きな人であつたらしく三十數歳で早世したが、大阪の中井竹山の系統を引く學者であつたから、同家の裏手にいまも殘つてゐる土藏風の建物の二階八疊には多くの藏書があつた。そして階下が隱居部屋で二階には誰も入れないことになつてゐたのだが、私は子供のことだから自由に藏書のある所へ出入りして本を讀むことができた。あまり靜かなので階下からおぢいさんが心配して「寢てやしないか」と聲を掛けることがあるほど、私はそれらの藏書を耽讀した。その間はいたづらもしないので家人は安心したのであらうが、いろ／＼な種類を含む藏書で和漢の書籍の間には草雙紙類もあつて讀み放題に讀んだのだが、私の雜學風の基礎はこの一年ばかりの間で形造られたやうに思ふ。

　私はこの三木家の恩誼を終生忘れることができない。かうして三木家から私は北條の家に歸り、やがて體を強くするためにもと、次兄につれられて茨城の長兄の許へと預けられることになつたのである。そのやうな經緯で、故郷を(19)離れてから七十一年といへば今にして感慨なきあたはずである。

　昭和二十七年、私は最後のいとまごひにと家内をつれて辻川へ歸つた時のことである。もと私の家のあつた中所《なかじよ》といふところから、氏神樣へ詣でるために衣物を更め、上坂《うへざか》といふ坂を登り始めるとだしぬけに一人の皺くちやのお婆さんが飛び出して來て、私の袖にすがつたのには驚いた。眼に涙をいつぱいためて、ものがいへないほど感情を昂らせてゐる。よく考へてみると、どうやら私の弟と間違へてゐるらしい。私の家では、ちやうど同じ時期に兄弟三人とも故郷を離れてゐるので、私とつぎの弟とを間違へて久闊の情に耐へなかつたらしいのだが、不思議にも私はその老婆の名前まで記憶してゐた。彼女の家は「樽屋」といふ一時繁榮した店で、隣村のいまの市川町の屋形《やかた》といふ土地からそこに貰はれて來た養女の、それも「おせん」といつた。後年、西鶴の「五人女」を讀むと「樽星のおせん」が登場するので、そんなときにはいつも彼女を連想したのでその名をおぼえてゐたわけだつたが……その女に村の主立ち衆の前ですがりつかれたのには、まつたく面喰つた。老婆でなくて、ちょつとでも綺麗な女性だつたら本當に困る所であつた。何か裏面に事件があつたんぢやないかなどと誤解されたことであらう。

　その老婆もそれから間もなく亡くなつたさうだが……。

　

(20)　　　布川のこと

　

　私は十三歳で茨城縣｜布川《ふかは》の長兄の許に身を寄せた。兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舍にゐるといふ淋しい生活であつたため、しきりに近所の人々とつき合つて、土地の觀察をしたのであつた。あの町は古い町で、いまは利根川の改修工事でなくならうとしてゐるさうだが、最初驚いたのは子供らがお互ひの名を呼びすてにすることであつた。トラ、クマといつた具合の呼び方は、播州の方では從兄弟か伯叔父甥、また兄弟でなければしなかつたのであるから、私にすれば、彼らがみな親戚の間柄だと思つてしまつたのである。ところがよく考へてみると、さうではなく、たゞ一緒に育つたといふだけで、子供同士であれば符號みたいなものでいゝわけだが、大人たちもやはり、他家の子を呼びすてにする。例へば私の隣家は元地主の大きな商家だつたが、そこの市五郎といふめつかちの下男が、主人の子供を「ジュン」などと呼びすてにしてゐるから驚いてしまつた。

　私の故郷辻川では呼び方に「ヤン」と「ハン」の二つがあり「ハン」の方が少し尊敬の意がこもつてゐる。私たち兄弟はあの時代にはちよつと珍らしい名で呼びづらく「作」とか「吉」がついてゐずに、下から三人ともみな字の違つた「ヲ」がついてゐる。學校でも男、雄、夫の違ひには隨分困つたらしいが、私たちの呼び方は「クニョハン」（國男はん）「シズォハン」（靜雄はん）「テロハン」（輝夫はん）と呼ばれてゐたものだつた。

　布川の町に行つてもう一つ驚いたことはどの家もツワイ・キンダー・システム（二兒制）で一軒の家には男兒と女兒、もしくは女兒と男兒の二人づつしかないといふことであつた。私が「兄弟八人だ」といふと「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかつた事情は子供心ながら私にも理解ができたの(21)である。あの地方はひどい饑饉に襲はれた所である。

　食糧が缺乏した場合の調整は死以外になく、日本の人口を溯つて考へると、西南戰爭以後までは、凡そ三千萬人を保つて來たのであるが、これはいま行はれてゐるやうな人工妊娠中絶の方式ではなく、もつと露骨な方式が採られて來たわけである。あの地方も一度は天明の饑饉に見舞はれ、ついで襲つた天保の饑饉はそれほどの被害は資料の上に見當らぬとしても、さきの饑饉の驚きを保つたまゝ天保のそれに入つたのであらうと思はれる。

　長兄の所にもよく死亡診斷書の作製を依頼に町民が訪れたといふ事例をよく聞かされたものであつたが、兄は多くの場合拒絶してゐたやうである。

　約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、私の印象に最も強く殘つてゐるのは、あの河畔に地藏堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された繪馬が掛けてあつたことである。

　その圖柄が、産褥の女が鉢卷を締めて生まれたばかりの嬰兒を抑へつけてゐるといふ悲惨なものであつた。障子にその女の影繪が映り、それには角が生えてゐる。その傍に地藏樣が立つて泣いてゐるといふその意味を、私は子供心に理解し、寒いやうな心になつたことを今も憶えてゐる。

　地藏堂があつた場所は、利根川の屈折部に突き出し、そこを切つたことがあることから「切れ所《しよ》」と呼んだが、足利時代の土豪が築城した場所で空濠があつた。その空濠の中に、件の地藏堂は建つてゐたのであるが、その向ふに金比羅樣があり廣場があつて毎年春先になると土地の景氣の金比羅角力が興行された。

　面白いことにそこに一茶の句碑が建つてゐた。いまではもうその句碑も誰かに持ち去られたといふことであるが、後年調べてみると土地の古田といふ問屋の隱居が一茶に師事してをり、一年に二、三回一茶が訪れてゐるといふ事實が判明した。碑に刻まれた句は、

(22)　　　べつたりと人のなる木や宮角力

　私は子供心に一茶といふ名の珍らしさと、その句の面白さを感じたものであつたが、まだ當時は一茶を知る人もないころのことである。

　

(23)　　　　　饑饉の體驗

　

　饑饉といへば、私自身もその慘事にあつた經驗がある。その經驗が、私を民俗學の研究に導いた一つの理由ともいへるのであつて、饑饉を絶滅しなければならないといふ氣特が、私をこの學問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなつたのであつた。

　北條町にゐたころ明治十八年のことである――それが恐らく日本における饑饉の最後のものであつたらうが――私は裏長屋のすぐ隣りの貧民窟の近くに住んでゐたので、自分で目撃したのであるが、町の有力な商家「餘源《ようげん》」をはじめ二、三の家の前にカマドを築いて食糧のない人々のため焚き出しをやつた。人々が土瓶を提げてお粥を貰ひに行くのであるから、恐らく米粒もないやうな重湯であつたかと思はれる。約一ヶ月も、それが續いたやうに憶えてゐるほどであるから、思へばよほど激しかつたのであらう。私の母親も用心をして、人のうらやむやうなものを食べてはいけないと、近所の人づきあひの配慮もあつたのであらうか、毎日私たちもお粥を食べさせられたのであつた。

　子供ごゝろに、かうした悲慘事が度々來るのではたまらないと思つたのが學校を出るまで「三倉」――義倉、社倉、常平倉――の研究をやつた動機である。その研究ノートが論文にならない前の形で、このほど發見されたが、さうした子供心の印象から、私は「救荒要覽」などを讀まずにをれなかつた。確かまだ十三歳のそのころ、それを讀んだのを記憶してゐる。

　やがて私の長兄の家は茨城縣布川町から利根川を隔てた千葉縣の布佐（現在我孫子市）へと移つた。兄は布川に永住する氣は最初からなく、ある程度の産を成した上で歸郷する心積りであつた。ところが借りてゐた家はその身内の(24)人が移住してくるといふ事情もあつたので、とりあへず布佐へと移つたのが、いつしかそこがそのまゝ兄の墳墓の地ともなり、いまなほ同地に家族は永住することになつてしまつた。

　そのころ布佐の町は街道の、利根川を挾む中繼所でもあり、相當繁華な所であつた。早朝、土堤の上から眺めると掛り舟が朝餉の煙をあげてをり、美しい河川風景であつたやうに記憶するが、その後川床が高くなるにつれて地形も往時の面影のないまでに變容した。そこに住みついてすら有爲轉變を如實に感じさせる所である。この町は昔、芭蕉が「鹿島紀行」を書いたころは網場《あじば》といつて魚を獲る網を置いたところで「夜の宿なまぐさし」などとも芭蕉は記してゐる。茨城縣側より水深も深く一時は榮えた宿場もあつたが、それも位置を變へた。私は十五歳の時東京へ出て來て、時折歸つた程度で轉變の歎きをそれほど身に沁みては感じなかつたものゝ、やはり懷かしい土地である。そこには兩親も二人の弟たちも私より二年ほど遲れて辻川から移り住んだのであつた。

　

(25)　　　　　祖先のこと

　

　私の家、松岡家といふのは非常に變つた家すぢである。村松梢風が「本朝畫人傳」の「松岡映丘」を書く時に私を訪ねて來て、何も知らないといふので「君らしく書いてあげよう」と、少しは地所もあつたころから、零落するころまでを語つたのであるが、私の祖父の陶庵といふのにちよつと觸れてみる。祖父は川邊《かはなべ》の中川といふ家から養子に來た人である。この家とは何べんも縁組みしてゐるからよく分らないのだが、網干《あぼし》の中川といふのは川邊からの分家であつて何代か前に中川善繼といつてちよつとすぐれた蘭醫が出てゐる。これが祖父の兄弟なわけである。

　ところでこの祖父が腸チフスを患つてその囘復期に些細な我まゝをいつたことから離縁になつた。殘つた祖母がまだ若いので、また何處からか縁があるだらうくらゐに思つてゐたらしいのだが、古風な道�ｺ觀の人で何といつても頑として聞き入れなかつた。私の父が一人生れてゐたからまだよかつたわけではあるが……。

　ところで、この祖母の祖母に當る人といふのは、法華宗門の人で、代々松岡家は天台宗門で、他宗との結婚は許されないのであるが、自由結婚をして松岡家に入つた人である。そこへたま／＼、辻川の村からは市川を隔てた福崎町の山崎といふ所にある妙法寺といふ法華宗に京都の本山から蟄居を命ぜられた僧侶が來てゐて、周圍の目ぼしい檀徒を自分の寺にひき入れたことがあつた。その時、親孝行を楯にとつて自分の子の左仲といふ醫者（この人は顔にコブがあつたため人に會ふのを嫌ひ、往診を斷るので流行らない人だつたらしいが）を無理に法華宗門へとひき入れた。松岡家の本山は妙�ｺ山神積寺といふやゝ格式の高い天台門の寺院だつたから問題となり、親孝行のためとはいひながらも本山から訴訟されて追放になり、娘（私の祖母）をつれて京都へ引き移つた。ちやうど教育を受けなければなら(26)ない時期を、何一つ教へられずに京都で幼時を過した祖母は、京都で生活の資とした鹿の子絞り以外に家事のことは何も知らなかつたといふことである。

　やがて追放の期も過ぎて辻川へ歸つて來たさうであるが、この祖母の養子が先に語つた陶庵で、彼は離縁されて後は生野で悠々自適、眞繼といふ男兒一人の家に入夫した。この眞繼といふのはどこでも鑛山に關係がある人の姓になつてゐた。陶庵は氣概ある人で有名な生野騷動の黒幕となつて檄文を起草したりもしたが、事件が落着いてからは誤魔化し通して罪には間はれなかつたといふことであるが、その後一家は二代の後にこの土地を去り、今でもあちこちで鑛業のために活動してゐる。父は成長した後にその離別せられた祖父が戀しくてひそかに川向ひを通つて生野へ會ひに行き、祖母から激しく叱られて追ひ出されようとしたこともあつたといふ。

　

(27)　　　　　鈴の森神社

　

　私の父賢次（維新後になり操と改名し、約齋と號した）が生れた當時の松岡家はすでに財産もなく父を醫者にする以外に方法がなかつたため、父を弘化元年に加古郡安田村の梅谷左門といふ醫者の許に學僕として出すことにした。父は母が漢學の師匠をしてゐたから、家に些かの書物があり、三木家の藏書も讀んでゐたのであるが、住込んだ醫者が風流な人で、しば／＼漢詩の集ひをひらいてゐた。たま／＼その會の席上すゝめられて作つた七言絶句がいゝ作品であつたため「學問をさせよう」といふことになり姫路藩では最後の儒者だつた角田心藏といふ先生の娘婿田島家の弟として一時籍を入れ田島賢次といふ名で仁壽山黌や好古堂といふ學校で修業した。やがて醫者となり辻川に歸つたが、父の祖父左仲同樣に流行らない醫者で思ひあまつて閉業しようとした矢先き、姫路の熊川舍といふ町學校の舍主として文久三年に赴任することゝなつた。この熊川舍は町人が醵金して創設した學舍で姫路學風の誇りともいふべきものであつた。

　明治初年まで相應な暮しをしたのだが、維新の大變革の時には、じつに豫期せざる家の變動でもあり父の惱みも激しかつたらしく、一時はひどい神經衰弱に陷つたともきいてゐる。後年約齋といふ號を使つてゐた。ちなみに私には次兄通泰の上、長兄鼎の次に一人亡くなつた俊次といふ兄がゐるが、さうした事情で姫路野里の芥田といふ呉服店に働きに出、一時は家計を助けたが、間もなくその店で失敗し大阪へ出て新規蒔き直しをしようとした矢先き、腸チフスで亡くなつた。年は十九であつた。夜半、飛脚が兄の訃報をもたらしたさいの、私の家の悲歎がいまも私の記憶に殘つてゐる。なほ私の弟二人のほか、これも亡くなつた二人の弟があつた。一人は疱瘡で、一人はハシカであつた。

(28)　父が明治維新の戸惑ひ？　のためひどい神經衰弱になつたことで私は思ひ出すことがある。私の家の裏の竹藪をへだてた北の道端にある在井堂といつて足利時代の本だといはれる「峯相記」にも出てくる空井戸のある藥師堂があつたが、ある夏の夜座敷牢から出して蚊帳の中に寢ませてゐた父が急に行方不明になり手をつくして八方捜したところ、この井戸の中に父は入つてゐたといふことを聞いたことがある。

　在井堂といふ一行が「峯相記」の中にあることから、じつはこの本が僞書であらうと私は推定しつゝもさう斷定するに忍びない氣持がする。

　この空井戸のある藥師堂は私がいつまでも忘れえない思ひ出の場所でもある。

　藥師堂の床下は村の犬が仔を産む場所で、腕白大將の私がいつも見に行くといやでもその匂ひを嗅ぐことになつた。そのころ犬は家で飼はず村で飼つてゐたので、仔ができる時はすぐに判つた。その懷しい匂ひがいまも在井堂のたゝずまひを想起するたびにうつゝに嗅がれるやうである。そこから一丁ほど北の方に氏神の鈴の森神社があり大きな楊梅《やまもも》の樹があつた。一名を明神樣ともいひ、村人は赤ん坊が生まれると、みなその氏神に詣でて小豆飯を供へてゐた。その餘りを一箸づつ集まつて來た子供たちのさし出す掌の上にのせるのがならはしであり、村の童たちの樂しみでもあつた。前もつてその日を知つて童たちは神社へ集まつてくるのであつた。母親が「よろしくお願ひしますよ」といひながら呉れる一箸の赤飯に私は掌を出したことはなかつた。親達に叱られるからでもある。私は後年この氏神樣を偲んでこのやうな歌を作つたことがある。

　　　うぶすなの森の楊梅高麗犬は懷しきかなもの言はねども

　

(29)　　　　　兄嫁の思ひ出

　

　子供のころの思ひ出はつきない。私の家は貧しかつたため、私にも方々の寺から小僧に貰ひうけようといふ話がかかつたことがある。その一つは瀬加《せか》（＝市川町）の寺からでその寺の住職が怖い顔をしてゐた。もう一つは辻川の文殊山といふ天台宗の寺だつたがその住職は獅子山さんといつた。子供のころ「いたづらをするとお寺にやるよ」といはれるとこの何でもない顔をした獅子山さんと、瀬加の怖い顔をした住職が��獅子″といふことから連想されて、妙に二つが一致して怖くなつてきたものである。私が暗記力にすぐれてゐたため、お寺から貰ひうけの話が出たのだらうが、兩親もお寺にやるならば京都の大きな所と考へたのであらうか、幸ひに實現はしなかつた。

　同じく子供のころの思ひ出で、いまもしきりに思はれるのは、長兄の許に嫁いで、母との折合ひが惡く實家に歸つた兄嫁のことである。北野の皐《をか》といふ醫者の家であつたが、その前に夏になると美しく蓮の花の咲く大きな池があつた。辻川の灌漑用の貯水池であつたが、ある冬の日、二、三人の友人たちとともにそこで氷滑りをして遊んでゐた。子供のことで氣がつかなかつたが池の中心の方は氷が薄くなつてゐるのを家を出された兄嫁は土堤からはら／＼しながらみつめてゐたのであつたらう。忘れもしない、筒つぽの着物をきて、黒襟をつけた兄嫁はいきなり家から飛び出て來て私を横抱きにすると家へ連れていつたものである。

　實家に歸つてもやはり姉弟の情愛があつたものであらう。私はいつも歸郷するたびにそのことを思ひ出し、一度は昔の情愛を述べようと、再婚先の寺を訪ねたことがあつたが、折惡しく留守中でその機を失してしまつたがいまもそのことが悔まれる。夫君は大眞さんといふ美僧で村の有力者でもあり、加東の方の寺の住職をも兼ねた天台宗門の相(30)當な有力者でもあつた。

　私が辻川にゐたころは、茨城縣から長兄が送金してくれるのだが、私は北條の町まで二里、爲替をとりにやらされるのがつねだつた。母は體が弱かつたし、父は亡くなるまで天保錢が八厘であることを知らないでしまつたといふ氣樂人であつたから、受取人はまだ九歳くらゐの子供ではあるが私より外になかつたのである。

　爲替が屆くと、母は腹卷を作つてくれて、その中に金を入れて腹に卷くやうになどと、くど／＼と注意を與へて家を出すのだが、北條と辻川の間、郡境の所に大きな池が三つほどあり、淋しい追剥ぎの出さうな所があつた。北條で現金を受取つて北條の外れまで來ると、あの地方で有名な家が一軒だけあり榁《むろ》の木の生垣がめぐらせてあるので、私たちは「ブロンガワ」と呼んだのであるが、その家の前で遊んでゐる。

　そこは淋しい箇所にさしかゝるちやうど手前であるから、子供心にこゝで誰か頼りになりさうな通行人を待つてゐたわけである。やがてをぢさんかをばさん、また二人連れがやつて來るとその後からちよこ／＼とついて行つた。金額は十二、三圓でもあつたらうか――幾度か北條までの道をそのため往復して神經をつかつたので、十歳の時北條へ移ることが決つた時は、嬉しかつたことを覺えてゐる。北條には郵便局があるといふ理由からであつた。

　

(31)　　　　　母の里

　

　私の母たけ子は天保十一年の生れで、北條の尾芝といふ家から嫁入つてきた。古い色々の話題のある家だが、もう他に記憶する人も無く、私も小さいころ耳にした話だから、まちがひだらけだらうと思ふ。何か古い書きものでも傳はつてはゐないだらうか。少なくとも自分の今おぼえてゐるところではこの町には尾芝といふ家が五、六軒あつて、それが二派に分れ、一方は商家でなか／＼繁昌しこちらはたつた一戸で前には醫者であつたが、私の祖父の代になつて零落してしまひ、かなり悲しい?態で消滅に歸した。その血筋は私たち兄弟の他にたつた一人だけ從妹があつて、それも最近に世を去つた。

　祖父は壯年のころは相應にやかましい人だつたらしいが、私の覺えたころにはもう老耄としてゐた。北條から二里に近い辻川への路を、おみやげの八橋の煎餅を懷に十枚ばかり紙に包んで入れて、その一枚をしやぶりながら孫にあひに來る。いつでも九枚半だなどと笑つたことがあるから、もう齒がなかつたのだらう。或時はクニヲがをらんなどといつた涙聲で門のあたりをうろついてをられたこともある。あのきついおぢいさまが、かうまでなりなはつたかと、母が歎いてゐたことを今でも思ひ出す。

　母の同胞は男女二人、長男の�ｺ太郎は働き者で、飾磨の港に出て商ひに携はつてゐたが、惡質の花柳病にかゝつて、そのまゝ四國順禮に出てしまひ、永久に還つて來なかつた。これは世間の思わくを氣にする家々の、あのころ普通の處理法だつたらしく、或時母が夢にこの兄を見て、悲しみの餘りについ私だけに話したので、本當は隱しとほすつもりだつたらしい。その次の兄の健次郎とかいつたのは好青年であつたらしく、家に留まつて親によく仕へてゐたが、(32)やはり永くは生きてをられなかつた。祖母が引續いて世を去つたのもその介抱の疲れらしく、取集めて大きな歎きだつた。

　この際に一つの力であつたらうと思ふのは、祖父にはたつた一人の妹があつて、つい近い町の商家に縁づいてゐた。それが兄を慰め二人の娘の相談相手になつて、小さな妹の方を父の世話に殘し、姉を高須といふ姫路藩の家老の家へ奉公に出した。書いたものとては何一つ殘つてゐないが、母の雜談のやうなものを總合すると、これが明かに安政四年、即ち西暦一八五七年のことで、そこに二年足らずゐて一旦親元に歸り、それから縁に付いて辻川の松岡氏の嫁になつたのが同六年のことだつた。一生貧乏だつたから良縁とまではいへぬか知らぬが、ともかくも二十年の間に男の子ばかり八人生んで、末の子が十三になるまでは達者でゐた。少なくとも四人の兄妹の中では最も仕合せがよかつた。

　始めから愚痴なことばかりをいふつもりだつたから、これも附け加へた方がさつぱりしてゐてよい。關東へ出て來てから始めて知つたことは、自分の親たちと同じ年輩の老人にも、稀には種痘をした人があるといふことであつた。私は附近のヤブ醫者にひどい目にあはされてゐるので種痘は自分などの頃が始めのやうに思つてゐた。現に五人の兄のうち一人が疱瘡で死に、一人はかゝらぬ前に亡くなつて、他の三人はすべてやられてゐる。その中でも井上の兄は殊に痕跡が著しく、氣をつけてゐると一ぺんは人がらの事を問題にする。それを自分では他に點の打ちどころがないからだなどといつてゐた。兩親の中では父は輕かつたといふことで、左右の眼のまはりに氣を付けてみるといくつかある。疱瘡の見舞に貰つたといふ五色墨で自分で繪をかいたといふ唐詩選の畫集が、私たちの頃までは殘つてゐたので、改めて父の顔を見直したこともある。これと比べると母の方は少し氣の毒なほど顯著であり、尾芝の叔母さんの方はそれがもう少しひどく、子供でも氣の毒で口にしないほどだつた。もう近頃の人は想像できまいが、この人のやうな心のやさしく遠慮がちな女性は、以前は殊に寂しい生活をしたかと思ふ。それを詳しく話して書かうかどうか、(33)さすがの遠慮なしも今はまだ考へ込んでゐるところである。

　

(34)　　　　　家の壽命

　

　母の母の名は、私は尋ねずにしまつた。里は飾磨津の相當に古い家だつたらしいが、この方は一度か二度、名を教へてもらつたのを忘れてしまつた。古ければこそ滅びて跡形もなくなつてしまふのである。私は明治二十六年の夏、最初の入學試驗を通つて、御はうぴに始めて國へ歸る旅費をもらつた。井上は二度目の結婚をして、姫路の病院に勤めてをり、次の弟も京都から來てしばらく一所にゐた。まだあのころならば何とか手掛りもつかまへられたらうに、どうして一ぺん往つて見ようかといふ氣もちにならなんだか。その際は母もまだ丈夫で、問へば何でも答へてくれたのにと、時過ぎてから無益に悔んでみたことがある。

　これとは反對に餘分の勞苦を費して、兄も私も結局得る所のなかつたのは尾芝俊明といふ人の事蹟であつた。小さな時からの松岡家のいひ傳へでは、この人は皆川淇園先生の門に學び、事成つて大和の某藩に抱へられた、といふだけしか傳はつてゐなかつた。私は早合點の名人といふ以上に、一方にあまりにも痛ましい母の家の衰微を見るにつけて、どこかにまだ一筋、學問で世に立つ家が、殘り傳はつてゐてもよいといふやうな夢があつたのである。後年内閣の文庫を整理する職務についた際も、常にこの空想に取付かれてゐて、皆川・富士谷兩家和漢の碩學の著作を手にするたびに、何か手掛りはないかと、むしろ雜記や端書の類に注意した他に、一方奈良縣出身の知人に對しては、もしか尾芝といふ變つた苗字の人を知つてはをらぬかと尋ねてみたり、さらに一歩を進めては郡山の町役場に出かけて、舊藩士の中にはこの家名はないかなどと、掛りの人たちの半日を潰させたことさへあつたが、結局は全部が徒勞であつたことが判つて來て、自分は失望落膽し、井上はまた小つぴどく私の粗忽を責めた。

(35)　詳しく説明をすることは氣が重いが、結局はこの少壯有望の學徒はまだ獨身のうちに病死したのである。遺骸をそのまゝに運んで來て、故郷の家の墓地に埋めたのを、私は家人が愛情のあまりに、別に記念の石を建てたものと解してゐた。十數年前に出版せられた北條町誌に轉載してあるのはその碑文であらうが、井上はそれを詳しく讀み、私は早いころに見たまゝで少しも記憶してゐなかつた。郡山の柳澤家に抱へられたかと思つたのも空想で、實際はそれよりもまだ南の小泉の陣屋、水野とかいふ大名の領地の一部で、そこの役所の駐在員に讀書筆札を教へた囑託の類だつたかもしれない。それから京に上つて皆川氏の門に學び、その推薦を受けたといふこともあの碑文には見えない。井上の兄が北條の墓所に詣でて感じて來たことは、必ずしも若死した學徒の�ｺ望ではなくて、それを故山に迎へ取つて安らかな眠りに就かせようとした、親近の人々の好意であつたらしい。

　久しく私はこの菊が谷の墓所にも詣らぬので、今はたゞ少年の日の記憶を辿るばかりだが、尾芝家で醫を業とした宇内といふ人は、あるいは兒島尚善氏と同じに、何代か一つの通稱を世襲したのかもしれぬ。さうして私の祖父の父の他にもつと大きく働いた宇内があつたのではなかつたか。母からきいたと思ふ逸話がなほ二つ、一つは今の酒見寺の境内の十王堂よりは大分奧の方に私の小兒のときすでに古び朽ちてゐた十王堂があり、格子の中を覗くと青い錦のどん帳がかゝつてゐた。この堂は古いおばあ樣の代に一建立で建てたもので、その帳の青地の絹はその人の帶であつたといふ話。それから今一つは祖父が壯年のころ、叡山の横川の寺に何とかいふ名の老僧があつて、それが、幾代か前に尾芝から出た人といふので對面に行つた。人を唐紙障子に向つて坐らせて、それを次から次と左右から引いて開けると、奧の正面にその高僧が坐つてをられた。あんまり間があるので對面したといふ氣がしなかつた、といふやうな話もあつた。名前は何といはれたか今でも記録には出てゐるのか。登山の折にはいつも此事を思ひ出すが、それを確かめる折がつひになかつたから、是もまた一つの幼き日の夢である。

　

(36)　　　　　大庄屋の家に

　

　二十八歳から後家暮しを通した祖母の松岡小鶴は、醫術も世渡りも相當に拙かつたらしく、その方面にはをかしい逸話もいろ／＼と殘つてゐるが、手習ひの子供らに少しづつ漢籍を教へたために、私の成長する時分まで、村には珍らしい何人かの才女が殘つてゐた。

　後になつて心づいて、ちよつと驚いたのは、、家には「唐詩選」の七言絶句を上下半分づつに書き分けた、手製の詩がるたが十數枚手箱の隅にあつて正月にはあれで遊んだものであつたと教へてくれるをばさんも何人かあつた。

　私の母が、子供たちにどんな印象を與へるかを見るために、試みにその一部を保存してゐたとしか思はれない。

　祖母には二十編足らずの漢文集があつて「南望篇」と題して父が清書したものが家に傳はつてゐた。たしか五十年の年囘に、私が浪人をして旅行ばかりしてゐたころ、他の兄弟が集まつて來て二百部ばかり活版にして人に分けたものが、私の書棚にも一册だけはある。

　ちつとは父が手を入れたとも思ふが、ともかくも南望は、一人子が遊學してゐる間、村のはづれに出て遠く思ひを寄せたといふ、中國の故事によつた書名で、現にその過半は一人子に贈つた書信であつた。

　この文集には、まだ他に「三木公逢に與へて佛を論ずるの書」といふのもある。これなどはいまなほ私が興奮を覺えるほどの大文章で、あて先の三木公逢は村の大庄屋の若主人、すなはち私が一生親しくしてもらつた三木拙二翁の祖父である。すぐれた素質の青年であつたかと思はれて、若いころに大阪に出て、たしか懷�ｺ堂の中井竹山先生（播州龍野出身）の門に入つて研學し、莫大な文庫を家に留めてをられるが學問が過ぎたのであらうか、三十いくつとい(37)ふ盛りの年に世を去つて幼い一人子が後に殘つた。それが拙二翁の先代の承太郎さんである。

　虚弱で、いたづらで、また小生意氣な十二歳の少年が、どうして一年足らずでもこの家に預かつてもらへたのか、いま考へてみてもその動機がはつきりしない。拙二翁はそのころ、たしか神戸の良い學校に入れられて家にはをらず、あとには妹たちがたくさんゐて、少しでも寂しいことはなかつた。

　私の父は、この家の莫大な藏書を良く知つてゐて、自分が不自由をするにつけても、毎度そのうはさをしたけれども、家も離れてゐたのでさうひんぴんと出入りする風はなく、それに仕事の必要からいつも五里、三里と外歩きをしてゐるので、めつたにこの家の集まりに參加することもなかつた。母などは多分一生の間しみ／”＼とあいさつをしたこともなかつたらう。それがたつた一度の頼みで、この厄介者をひきうけてもらつたことは、いま考へても不審のやうであるが、これは多分學問への大きな愛情と、つぎには主人の判斷を重視した、前々からの家風であつたらう。さう思つていつまでも私は三木家の先代の人柄を懷かしがつてゐるのである。

　客でもないかぎりはめつたに表へは出ず、何をしてござるか知らぬやうな日が多かつたが、私は裏座敷の二階の本箱の間に入つておとなしく本を立讀みしてゐる時には、妙に段梯子の下に來て、聲をかけられることが何度かあつた。細かく終ひまで讀み通したい本があつたらこれをそつくり持つて降りることも許されるのだが、名も聞かぬやうな本があまり多いのでつい目移りがして次々と本箱の蓋をとる。中には謠曲の本だの草雙紙だの、用でもないのにひつかかつて半日を潰してしまふ日も折にはあつた。これほど親切な心づかひにもかゝはらず、私の亂讀の癖はこのころに養はれて、七十年後の今日もまだ少し殘つてゐる。

　それよりももつと心殘りなのは、若死にをせられた先代の主人の日記なり、書留められたものゝ中から、松岡小鶴と往復された漢文の原稿でも見出せなかつたものか、まだそのころは、あちらのおばあ樣も元氣で、何でも答へて下さつたのに、そこまでは私も氣がつかず、また思ひ出して下さる人もなかつた。多分はこれなども、一種の漢文の稽(38)古だけで、祖母はもちろん大庄屋さんの若いご夫婦とは一度も對面しなかつたのであらう。

　私が自由な出入を許された三木家の裏座敷は、上も下も八疊二室のがつしりした新築で、二階が本箱の置場となり、下がおばあ樣の居室となつてゐて時折は呼びとめられて珍らしい菓子などが出る私たちの理想郷であつたが、それ以外にもまだ一つ、生涯もちつゞけた思ひ出がある。

　もう、いま話して置かないと、かつてなかつたと同じに歸するのであるからちよつと惜しい。

　男の四十二歳を厄とも初老ともいつて、思ひ切つた大きな祝宴を催すことが、あの地方では一種の流行であつて、見榮とか名聞とかいふ以外に、控へ目にするとかへつて怪しまれた。次兄井上通泰の養父の年賀は明治十六年で、その折には私も半分父に手傳つてもらつて五言四句の賀詩を作つてもつていつた。

　あの祝ひも三日つゞきの盛宴で、目をまるくするやうであつたが、三木家の催しはずつと規模が雄大で、連夜の來集者の興奮は申すに及ばず、これと歡談する亭主方の態度にも少しでも努力作意の跡が見えなかつた。

　いちばんびつくりしたのは、日ごろは高い聲でものもいはぬほどの女性が、いつ覺えて稽古をしたかと思ふやうな長い歌を、みんな一箇所もつかへずに唄つてのける。あいさつの辭令などもみなその通りで、長短綬急それ／”＼の場合にぴたと合つて、作つた、こしらへたといふ痕が少しもないと思つた。

　私などもこの空氣に同化して、一遍もにらまれたりつきとばされたりせずに、遠くからまた片脇から、酒宴といふものゝ全容を見果せたやうな氣がした。

　さういふ中でも心を惹かれずにをれなかつたのは、町から招き寄せられた何人かの歌ひ女について出た、歳は私より一つか二つも上かと思ふ舞妓が、はじめは左右に二人竝んで、つぎには一人づつでそれ／”＼の曲に合せて美しく、またいたいけに舞ひ、または踊つたことであつた。

　一人の丸顔の中背の低いのが、いつでも伴内みたやうな役にまはるのが私には哀れに思はれ、もう一方の面長な眼(39)の細い方の子が、泣いたり、憂ひたり、同情せられる八重垣姫のやうな役ばかりするのを、何だか少し不公平なやうにも思へたが、後になつて心づいたのは、それは教へる人たちの計畫といふ以上に何か人間それ／”＼の生涯につきまとふ運命のやうなものゝあることを、考へさせてくれたやうである。

　さうした踊子たちのあでやかな舞姿について、一種の感銘を受けたあと、三木家のおばあさんの居室となつてゐる奧座敷でかいま見たのは、つい先ごろまで踊つてゐた娘たちが、すでに衣裳も脱ぎ、化粧も落して、世間普通の、十二、三の娘姿にもどつてゐるところであつた。何か、しきりに遊び興じてゐたやうであつたが、それが少年の心にあはれとも思へる印象を落したやうでもあつた。

　仲間に入つてゆくには、氣恥かしさもあり、そのまゝ踵を返したが、その日の少年らしい思ひ出が、花やいだ記憶とともに、いくどか感傷めいても思ひ返された。

　その日からのち、私は三木家の奧座敷を訪れる機會をつひにもたなかつたが、私は少年時代に世話を受けた三木家の恩誼を思ひ返すたびに、いま語つたやうな、はるかな思ひ出に浸るのである。

　

(40)　　　　　一人前の話

　

　長兄松岡鼎が神戸の師範に入る以前のことである。近所の子供を集めて鬼ごつこして遊んでゐるので、母が「十五歳にもなつて……」と叱責したさうである。すると兄は「タバコ入れを買つておくれるなら」と答へたのを、折から居合せた尾芝の祖父が聞いてゐて「もつともなことだ。おれが買つてやらう」といつた、といふことを記憶するのである。

　この話は考へるといろ／＼なことを意味してゐるやうに思つた。當時一般農家の子弟が一人前になるための元服の儀式は十五歳のときときまつてをり、これを境に一人前の若い衆になつたといふ精神的な影響を與へられたものである。ところが私の家は不幸にして、子供を若い衆の仲間に入れることなく單に教訓だけで形づけようとしたのである。從つて兄がタバコ入れを買つてくれと要求し、祖父が兄のその言に感動したといふことが、私はいまなら理解できるわけである。つまり子弟の成長には一つの明らかなきりをつける必要がある。

　當時のきりのつけ方について面白い記憶がある。私が子供のころ母について近所の家に行つてゐたときにあつちの母が「倅はお宮詣りに行きました」といふ。母は「お宮詣り？　あゝ元服だね」と祝辭をのべたが、先方の母は「はい、新しい下帶でね」といひながら、子供をかへりみて、一ぺんオエハンに見てもらへといふと、その子はうんとすなほに、兩の手で前をひろげるが、そこにはせつかくの現物がないのである。叱られたり、笑はれたりして走つてお宮にさがしに行つたが、ちやうど石段の中ほどに「ゆ」の字の形をして落ちてゐたのを、あつたといつてもつて戻つて來た。

(41)　こんな無邪氣な少年が、一人前の若者となるにはどうしても二、三年の中間期があつた。それを播州などではヒノデ（日の出）と呼んでゐた。日の出はまことによい言葉だが、たいていの兒童はこの期間に少しづつ母が教へ得なかつた人生を學んで行くのである。あるいは小若い衆といふ地方もあり、また青二サイなどともいはれるが、二サイはじつはニヒセ、新しいセ、すなはち娶り得る者の意味である。

　私たち兄弟三人はかういふ空氣の中に生れながら、つひに正式の新人教育を受けずにしまつた。もとは僧侶とか特殊の藝人とかの、わづかな數に限られてゐたのが、新しい教育の進むにつれて、年ましにその勢力が増大して、よくも考へずに古い習はしを崩壞させたのは、一種の無血革命ともいふべきものだつた。さうしてこの目に見えぬ變動の中に、次第に消えたり忘れつくされたものにまだいろ／＼の重大なものがあつた。國の近世史の輕く取扱はれてゐたことは、何だか自分たちにも責任があるやうに思ふ。

　終戰十數年後の今日まで、この間題はなほ未解決、あるいは混亂の複雜化ともいへる。人が自由に交通し得る年齡と、世に出て働き得る時期とには段々と大きなズレが出來て來る。三島通陽さんや山本有三さんなどとも會つてこまごまと話して見たこともあるのだが、日本には兵役は廢止しても、なほ人を完全に元服させ得ないいろ／＼の故障があるのである。さしあたりいちばん困るのは少年といふ日本語で、このごろは少年といはれる若者に、とんでもない犯罪人が時々出て來る。漢語の元の意味ではたゞ「若い人」だつたかもしれぬが、われ／＼は明治二十一年の雜誌「少年園」以來、單に男の子供といふ意味にこの語を使つて來た。もし範圍をひろげるなら、もつとはつきりとその變革を公示しなければならぬ。察するところこれは近代の「青年」といふ名に對する、極端な警戒からで、前なら青年といつてよかつたものを、考へもなしに改めたものと思ふ。青年といふ名の用途を制限するのは結構だが、それを「少年」にさしかへられてはたまつたものでない。言葉を氣にかけない人たちを政治家にせぬやうに、選擧人がまづ考へて見なければならぬと思ふ。

　

(42)　　　　　同郷の人々

　

　茨城縣布川から、千葉縣の布佐に移つたことで、いろ／＼と思ひ出すことがあるが、當時千葉の縣令に播州龍野の出身で柴原｜和《やはら》といふ人があつた。有力者であり後には元老院議官にもなつた人であつたが、愛郷心が強く、國元出身の人々の後援につとめた。私の長兄が上京して東大別科に入學したさいも、學費の不足を支辨するため、父が漢文で柴原氏に手紙を書き、種々の世話になつたことがある。いつも郷土出身の苦學生を二、三人書生として自宅に預かつてゐた。さきに語つた當時の嬰兒扼殺が對岸の茨城縣に比して少なかつたのは、柴原縣令の撲滅對策があづかつて力が大きかつたのである。

　松本蒸治の父君、松本莊一郎氏も播磨出身であつた。私の生地辻川よりも北部の市川に沿つた粟賀の福本の出身で、家は醫者であつたと思ふが、この家も貧しく、さうした生ひ立ちを語りたがらなかつたためであらうか、表向きには岐阜縣の士族出身といふことになつてゐて、大垣藩士といふことではあるが、彼の出身が神崎郡であることは周知のことである。私たちの幼いころは、身近なところから出た郷土の立志傳中の人として、よく彼の話をきかされたものであつた。福本といふ土地は池田藩の飛地でわづかな士族グループが支配してゐた、池田藩の特權として與へられた領地であり「福本」といふ、めでたい名がつけられたものであつた。福本からは藤井といふ軍人ばかり何人も出した家もあつた。

　松本莊一郎は後に工學博士、鐡道院工務局長となつた人である。外國留學の便宜から岐阜の大垣藩に席を移した。後に鐵道院の汐留驛前官舍に住んでゐたころ、私は東大生として友人たちと訪ねて行つたことがある。

(43)　四方山の話の末、維新當時、渡米しようと思つて横濱まで出掛けた時の思ひ出をきかされたのを憶えてゐる。何でも四人か五人の同輩と旅館の二階に泊つてゐた。全部まだ丁髷をつけてゐたのでいよ／＼出帆するといふ前夜、みなで申合せてこれを切つて散髪になつた。雨のしと／＼降つてゐる夜であつたやうだが、みなで、切取つた丁髷を宿の前の堀に投げ込むつもりで二階の縁側から外に投げすてた。これで過去一切と絶縁したと思つてさつぱりした氣持になつて床についた。

　ところが翌朝みなで起きて見ると、何と堀の中へ投げ込んだつもりでゐた丁髷が全部下の庇の屋根に引つかゝつてゐた。四つ五つの全部が雨にぬれて屋根の片端に引つかゝつてゐたのには驚き呆れた。その話を松本氏は私たちにして「舊い行き掛りといふものはきつぱり斷ち切つたつもりでゐても、實はまだ軒先に引つかゝつてゐる場合が案外多いものだ」といふやうな話をきかされた。そんなことを今も憶ひ出すわけである。

　赤穗出身の大鳥圭介も、大阪の緒方塾に學んだ醫家の出だつたが、徴用せられて幕臣になつた人で、私がこの人に會つたのは日清戰爭以後のことである。それは五稜郭の勇士としてではなく、日清戰爭で示された毅然たる氏の態度が非常に懷かしくて會ひに行つたものであつた。この人は同郷學生の學友會の會長になつてもらつてゐたのであつた。

　高砂出身の美濃部達吉に、はじめて會つたのは次兄通泰の下宿先であつたと思ふ。「美濃部の弟が來てゐるよ」といはれ、私はそれをのぞきに行つたのであつた。病氣してしばらく歸郷してゐたが、歸京すると同時に東大の本科の二年にいきなり受驗して入學したことも記憶に殘つてゐる。

　布佐にゐたころ「利根川圖志」で有名な赤松宗旦の子孫とは友人で親しく交はつたものであつた。同家は赤松といふ姓であるため、播州出身といふことがいはれてゐるのであるが、はつきりしない。早くから郷土を出た祖先は各地を轉々としたらしく、靜岡縣に住んでゐたこともあつて、たま／＼播州出身である松岡家が布佐にゐたことから關係は少しもないのであるが、赤松、松岡と兩家がともに携へて播州から同地に來たといふ風な傳説が出來てしまひ、私(44)の家も一應は同郷人としての交際をしてゐたのである。

　次兄が歌をはじめたのは十五、六歳のころで姫路出身の國富重彦といふ歌人の所へ東京で入門してゐる。そのころの兄の歌に「灯のもとに女臥せり」といふ歌題で、

　

　　　思出にみえなむ夢をさやかにと消さで起きつる閨の灯

　

といふのがあるが、それを松波遊山（資之）翁にみせたところ「起きつる」でなく「起きけむ」とせよと教へられたといふことをきいたことがある。私も次兄を通じて、入門を乞うたが入門させてくれず、松浦辰男翁をすゝめてくれた。その後法體となつた遊山先生は、後年一年に一度ぐらゐは姫路の方へも訪れてゐる。この松波翁は明治初期の十四の名歌人の中に入つてをり「十四家集」中にその作品も收められてゐるが、この本を加納諸平系の海上胤平が「十四家集評論」といふもので片つ端から惡評し、それを鈴木弘恭が「十四家集評論辯」として反論したこともあつた。兄の依頼と松波氏の紹介で、私が松浦萩坪（辰男）翁の下に入ることになつた。折からその門人の田山花袋が、私の許を訪れ歌會に誘ふやうになり、太田玉茗や宮崎湖處子、櫻井俊行、沖永良部島出身の土持綱安らとのグループによる紅葉會の文學運動に私は入ることになつたのである。

　

(45)　　　　　丹波街道のこと

　

　播州の中央部へと伸びて來る、京都からの丹波街道についてはもつと郷土の人々が關心を拂つてもいゝのではあるまいか。

　私は東京に出るまで、じつは讀んでゐなかつたのであるが、近江の學者伴嵩蹊が著した「閑田耕筆」を讀んだとき、私ははじめて意外なことを發見したのであつた。北條の學者兒島尚善が自分が通つて來た丹波街道における出來事を、その師嵩蹊に語つたことが、その中に現はれてゐたのであつたからである。

　この兒島尚善といふ人の子孫である二人の兄弟と私は北條で交友があり、その父君も尚善といふ名の三代目かであつたため、私は懷かしさに堪へなかつたことである。その顔容や醫師だつた祖父の家とは競爭相手だつた醫家の家までを私はいまもまざ／＼と記憶してゐる。同家は代々尚善を名乘つたものらしい。

　それ以後、播州東部から、神戸・大阪を通過することなく京都を結ぶこの直接の道路に興味をもち始めたのであつた。

　播州の中央部を貫くこの道路の存在は他縣に見られない特徴あるもので、多紀・氷上二郡が、兵庫縣に編入された理由と意義もおのづから理解できるやうである。山道を何とも思はなかつたといふことは源氏の鵯越えだけではなく、昔の武士は山が戰さの勝利に貢獻するものであれば、山を使はうといふ氣持が非常にあつた。つまりこの道路を作つた赤松家の利害が京都の足利氏に近かつたのである。

　いまも、人に生國を尋ねて多紀・氷上だと答へられると同郷人のやうな懷かしさを覺えるのである。

(46)　學士院の安藤廣太郎君が氷上の出身であり、相原の名家の出身田艇吉君の弟、園田寛君もこの成城の近所に住んでゐて、いつも花山椒の佃煮を貰ふのであるが、それは昔から有名なものらしい。もう一つは丹波地方への思ひ出として、播州の金持は遠隔の地から娶るのが例となつてゐたが、私のしば／＼語る竹馬の友の三木拙二翁の細君は先妻、後妻とも丹波の人であり、さうした關係から丹波のよさが種々傳へられ、私の心の中に植ゑつけられたのであつた。例へば丹波の黒豆の大きさやそのふつくらとしたよさは全くすばらしいものだと思ふ。山國であるため、あゝいつたもので勝利を博さうとしたものであらうか。

　私が丹波を通過したことは二度ばかりあつたが、もつと頻繁に訪れておけばよかつたと悔まれることである。ことにわれ／＼民俗學に志す同志の者は農村調査のためによく丹波へ旅行するから、そこについての知識は相當にあるものゝ私の訪れた囘數は少ない。福知山の方から二人曳きの人力車で杉原谷を經て多可郡へと出、歸郷したことがあつたが、それは昭和六年丹波に美しく櫻の咲くころであつた。忘れもしないのは、山の高みに寺があり、その周圍に枝垂櫻が亂れ咲いてをり、そのやうな美しい風景は二度とみたことのない印象であつた。山櫻でない里櫻が山奧に咲いてゐたのがとくに珍らしく感じられたわけである。

　

(47)　　　　　匿名のこと

　

　故郷のことを思ひ出すとき、私には生れた辻川よりもむしろ北條の町の方に印象が強いといふのも、やはり私がいくらか成長した後で住まつた土地のせゐであらうか。

　北條といふ町はもう少し郷土史の研究家たちによつて探索さるべき土地柄なのであらう。といふのはもと／＼あの町は天領であつたために、人々の改變の手が加へられてをらず、古い遺跡が殘存してゐるのである。それはちやうど甲州が天領であつたために、江戸とは非常に接近した土地でありながら古いものを新しくしようとする人工が加へられてゐないのと同樣である。いはゞ北條は播州の一つの都であつた。

　私の匿名の一つに尾芝古樟といふのがある。これは北條の母の實家の姓と、同家にあつた古い樟の老樹にあやかつたものであり、思へば私にはかうした匿名が二十近くもある。大正二年三月、高木敏雄君とともに「郷土研究」といふ雜誌を創刊し、毎月千部づつを頒つたことがあるが、高木君はやがて私と袂を分つて同誌に執筆しなくなり、一般のその雜誌に對する同情は集りつつも執筆者が少なくなつた。ちやうど貴族院書記官長の最も繁忙な時期に當るのであるが、官舍を編集所として姪の婿に當る岡村千秋が色々の事務を擔當してくれたが、折口信夫君の讀み難い原稿が屆いたのも、それを私が書き直したといふ評判が立つたのもそのころのことである。

　折口君に觸れて思ひ出す笑話がある。それは京都のS博士が、しきりに同誌發刊に同情の意を表しながら一度の寄稿もしてくれないので「鳥居強右衛門のやうなやつだ」と評したところ、濠端まで來て城中に入つて來ないといふ私の皮肉を折口君は自分のことだと曲解し、それ以來私あての手紙には鳥居｜強右《きやういう》と署名して來たのであつた。(48)　「郷土研究」の執筆者の少ない分を私はその匿名による、いさゝか文體を違へた文章で補つたが、四卷十二號休刊のさい世間を罵倒する「休刊の辭」を本名で記し、その後に、雜誌發刊中使用した匿名を全部使用して短文の報告を載せた。母の實家の姓の尾芝と同家にあつた古樟を組み合はせた尾芝古樟もその一つ、中川長昌は祖父の實家の姓と同家の菩提所長昌寺より、桂鷺北は曾祖母の實家｜砥堀《とほり》の桂家と白鷺城の北といふいはれ、そして久米｜長目《ながめ》といふのは、田原村の南に長目といふ地に寺があり、久米仙人が墮落して以後同地に隱棲したといふ傳説にちなんだものである。匿名を使用した執筆は「郷土研究」誌發刊時に限られてをり、その他の場合はいづれも本名を用ゐた。

　なほこの他の匿名の由來にも觸れると、大野芳宜は、かつて那須野に旅した際「思ふこと大野のおはぎ」といふ歌を作つたことから、山崎千束は、私の生れ故郷田原の西を流れる市川の對岸福崎町山崎といふ所に、淵に臨んだ岩山があり、夜分その下を通つた人が、山の上から川の中へ巨大な足がぬつと突込まれたのを見たといふ傳説から、その土地を千束《せんぞく》と呼んだいはれがあることにより（千束は多分洗足なのであらう）、榎本御杖は、私が一時よく榎のことを書いて榎の杖に觸れたことから、そして板垣小棠は、東京根岸のさる家の板塀越しに海棠が美しく望まれた印象から名づけた。なは私の養家先の柳田家は、家系の永續が困難な家で、そのたびに一族の安東、菅沼兩家から養子を迎へたが私の養父は安東家から來たので、安東と、その逆の語呂を合せて危西をつけた安東危西といふのもあり、安東家とともに風傳流といふ槍術の師範の家菅沼家の姓に、同家のあつた美濃の國可兒郡の郡名をとり菅沼可兒彦と名づけたのもある。ちなみに風傳流といふ槍術の發祥は播州の明石である。

　またこの一族の祖先は一時神奈川縣の山北、川村といふ土地にゐたことがあつたので、川村の姓に、島崎藤村をからかふ氣も手傳つて、彼の本名春樹にちなみ訓みを同じくして杏樹《はるき》をつけたのもある。小野｜吾滑《あなめ》は、小野小町の傳説に現はれる「あなめあなめ」の歌に由來し、清水松亭といふ名は古い知り人の名を借りた。森緑は私の祖母の祖母にあたる人の出身地福崎町の、いまの新町の森といふ土地の名にゆかりをもたせ森の色は緑であるからといふ理由でつ(49)けたのである。

　

(50)　　　　　街道すぢの昔

　

　私たちの幼時のころは、親のいひつけに背くと必ず「津の國へやるぞ」といつて脅かされた。その理由をきくと「攝津は牛を二頭も使はねばならぬやうに立地條件が惡い所で、七分（麥七分米三分）の食事をする所だから」と聞かされたものである。私たちの故郷では半麥飯が貧窮の代名詞のやうにいはれてゐたが、つねにあの地方の人々は、攝津北邊を念頭に置き、わが郷土の良さを意識したものらしい。やゝもすれば郷土に對しては不平をもちたがるならひのある中で、さうした郷土禮賛の氣持を私はいゝものだと常日ごろから思ふのである。

　海岸の的形《まとかた》あたりを朝立ちすれば、十時ごろまでには鮮魚が屆く所であるから、辻川の街道の思ひ出には必ず魚賣りたちが伴つて想起される。魚じまの季節には鯛賣り、秋の季節には若狹ガレイ賣りも村を訪れた。頭に籠をのせその中に十枚宛のカレイを扇型に竝べた若狹ガレイ賣りの「カレエ要りまへんか」とふれ歩いた聲がいまも耳の底によみがへつてくるやうである。子供心に若狹といふ語感から出稼ぎの女性がいかにも優しい女性であるかのやうに思はれた。

　八字髭の紳士をのせた二人引きの人力車が北の方へ走つてゆくと、北の方からは山茶賣りも下つて來た。背の高いムシロで圍つた容れ物を擔つて、その中にあの山間部で作られた粗末な茶がぎつしり入つてゐた。

　牛の背に幾把かの薪を乘せて、薪賣りも降つて來た。私はそれを眞似て、村の犬クロを裏山に伴ひ、小型の薪を作つてその背にくゝりつけ、得意になつて村へと降つて來た。それを可愛いとみたのであらうか、近所の嫗が買ひとつてくれたことがあつた。

(51)　猪や鹿賣りも來て街道をふれ歩いた。天秤の片方に一匹の鹿を、片方には猪の片股が下げられてゐた。そして途々買手の求めに應じて肉の一片を切り取り、計量器で計つて賣りさばいて行くのであつた。

　さういへばあのころはまだ鹿や猪が村近くの山には棲んでゐて、小學校の休時間の話題は、鹿を見たとか猪がとれたとかの話が中心だつたやうに思ふ。龜坪などといふ山の方から通つてくる兒童は誇らしげにそれを語り、われ／＼村の者は、まるで洋行歸りの土産話でもきくかのやうに目を輝かせて聞き入つたものである。

　冬の日だまりの中でそれらの話をする有力者が壁にもたれ、それと向ひ合せになつた村童たちがいつも語つてゐたのはそのことだつた。

　物賣りが私たちに一つの世間を教へてくれた村の風物詩であつたが、中でも忘れきれないのは伯州の金｜扱《こ》き賣りである。稻の穗を、昔は親指と人さし指とにはめこんだ二本の竹切れで扱き落してゐた。それが竹を櫛の齒のやうたならべた器具に變り、一度にざつと穗を扱くことが普通になるのだが、やがて竹は金物に變つたのである。そのことを私はいつか論文にまとめたことがあつたが、農作業の進歩は江戸中期から幕末までの短い間にこんな風に變遷した。

　いはゆる新井白石流の歴史であれば政權の變遷だけで時代を區切ることが出來るが、かうした人間の歴史は必ずしも時代の變遷を輪切りのやうに區切るわけにはゆかないのである。じつは初期農法の殘つてゐる部落が、最新農法の隣村に存在したりもしてゐるのである。

　村に來る伯州の金扱き賣りも、競爭が激しくなつてくると、村の中に馴染を作らうとする。その家で辨當を使つたり、休憩して世間話に耽つたりするのであるが、私の家の前の家でも、一人の金扱き屋が馴染をつけ、よく私の家の庭に咲いてゐる櫻や桃の花などを眺めながら、私の家について色々樣子をたづねてゐたりもしたものらしい。

　この金扱き屋が、私の家の歴史に一つの事件をひき起した。

　

(52)　　　　　父の伯州ゆき

　

　ある日の朝早く、突然私の家の門が激しくたゝかれた。出てみると「ご主人に伯州へ來てはいたゞけまいか」といふ依頼で、わざ／＼二、三人の使ひが伯州赤碕の町から訪れたといふのである。つまりその土地で新しい漢學の塾を開かうとしたが適當な先生がゐない。いつも辻川地方を訪れる金扱き屋の話では、この家の主人はいつも本ばかり讀んでゐるところから、いゝ學者であらうといふのである。

　ちやうど父も、家計が貧しい時ではあり、その要請を容れて、赤碕へと赴くことゝした。家を出るとき、父が歌一首をよんだのを當時七、八歳だつた私は憶えてゐるのだが、このやうな歌であつた。恐らく「待つとし聞かばいま歸り來む」の古歌が父の腦裡にはあつたのであらう。

　

　　　いにしへは松をたのみし因幡山見つゝ族ゆく人もありけり

　

　家族を離れて異郷の漢學塾の先生になつた父は、世間に疎い人でもあつてひどいホームシックにかゝつた。一年あまりで、歸村することゝはなつたが、その時に送る人もなくお伴を一人だけつけて、岡山縣津山の方を通つて歸つて來た。よほどひどい神經衰弱だつたらしく、知り合ひの後藤といふ津山の醫者が好意から父の所持金を預かつて、後で送り屆けるやうな方法がとられたさうである。赤碕から送つてきたお供はそこから返し、津山から別の人がついて來た。私の家の歴史で父の赤碕行きは一つの事件であつたのだ。歸宅した父から、いろ／＼な赤碕の町の話、宿の話などをきかされてゐたので、私にとつては思ひ出の深い土地の名として記憶に殘つてゐた。

(53)　そのことがあつてから四十年ほど後、私は米子へ旅行したついでに、ありし日の父を偲ばうと赤碕を訪れたことがあつた。父の教へた塾を作つた家は佐伯といひ、代は變つてゐたが、やはりそのまゝに存續してゐた。父が泊つてゐたといふ宿は昔のまゝに殘つてをり、村の老人で父に教はつたといふ人もあつて、懷しい父の面影をその人の話から偲んだことである。

　街道の思ひ出で、私は出雲から但馬路を經てこの村を通過した國造家＝出雲大社の千家＝を週へたことがあつた。生神樣のお通りだといふので、村民一同よそゆきの衣裳を着て道傍に竝んだ。若い國造樣が五、六名のお伴を從へて、烏帽子に青い直垂姿で馬で過ぎていつた時、子供心には、その人の着物にふれでもすれば靈驗が傳はつてくるかのやうな敬虔な氣になつたやうである。その國造樣の姿がいまもくつきりと瞼に浮んでくる。その前後、當時の新興宗教である黒住教の二、三代目に當る教祖を迎へたこともあつた。黒住教はそのころ、西光寺野の入口に教會を建てて布教してをつたが、體の惡い村人が訪れると、太陽の方を向いて深く息をすひ込み、病人の患部に吹きつけるといふ動作をくり返した。そのとき人間の息とは臭いものであると、はじめて私は感じ、その匂ひと黒住教といふものが伴つて、私の心にはやきつけられた。

　西光寺野がいまのやうに水利の便が出來る以前は、縣當局が意識してこの道を盛んにする方法をとつたやうである。車屋がいつも太尾《ふとを》の立場《たてば》＝人力車の中繼所＝といふ話をしてゐたので、姫路と辻川の中間部にあらうといふその土地は繁華な土地であらうと私たちは想像してゐた。西光寺野開發のために設けたであらうその立場に一度訪れてみたが、想像に反して田畑と林の中に一軒の茶店があるだけの寂しい所で、子供心に描いてゐた空想が一度で毀されたことを思ひ出す。

　

(54)　　　　　上坂と弟の頓智

　

　明治の初年、全國地圖を見るやうになつてから、これは机上でものを考へる政治家に考へられやすいことなのであるけれど、太平洋と日本海をもつと簡單につながねばならないといふ機運が強くなつて來た。日本の中央部を掘り割つて利根川と信濃川を結ぼうといふ風な無謀な計畫がその一例である。ことに日本の北半分の海運は時々の風に支配されてをり、冬行つて春歸つてくるといふやうなことでは不便極まることであつたから、かうした計畫が始まつたのである。琵琶湖と伊勢灣を結ぶことによつて、日本の表裏をつなぐ計畫も明治以前の經濟政策としては考へられたこともあるが、明治に入つてからは丹波の由良川と武庫川とをつなぎ、市川と圓山川とをつなぐ計畫もあつて、後者はわづか五、六年の間ではあるが私の生まれる前後、事實この方法によつて使用されたことがあつたといふことである。ひき舟で市川を溯り、生野あたりから馬などで中繼して山を越え、圓山川を經て日本海へと荷物を運んで出た。

　これは地圖だけで經濟政策をやらうとする人々のいゝみせしめであると思ふのだが、よく私は幼いころ、古老からそのころの話を聞かされたものであつた。後日のことを考へずに決められた無謀なる計畫である。私が幼かつた當時、村には二軒の問屋と呼ばれる家があつたが、その一つの方は、ひき舟時代の名殘りであつたと思はれる。

　私の父は辻川の辻といふ略字を使用することを厭つて逵といふ字を使用したものであつた。辻は日本で作られた字であるから、漢學者にはお粗末で氣に入らなかつたのであらう。

　辻川の道は、文字通り交差してをつた。北條の方から村に入つて貫通する東西の道に南方の長目や吉田の方から伸びて北上する道が交はつてゐた。私の舊屋はその角の所にあつた。いま市川沿ひに北上する道の一部は自動車が使は(55)れ始めてから出來た新道であり、北條から辻川へ入る手前から藤崎の方へ通じる道はごく最近作られたもので、それ以前｜堰溝《ゆみぞ》といふ灌漑用水の掘鑿に伴つて作られた、南北に溝と平行する道もあつたといふ風に、辻川の道は幾度かの變遷を重ねてゐるのである。辻川には何の益もない風情を添へるだけのこの堰溝は姫路藩の強壓政策の一つであつた。

　私の家の横手から鈴の森神社の方へ上る道の一部を上坂と呼んだ。その道を思ひ浮べるとき私は微笑ましい弟の思ひ出が蘇つてくるのである。弟が三歳になつた時、彼はお使に行くことを覺えてしきりに母にねだつては買物に行つたものであつたが、ある日すぢ向ひの豆腐屋に使ひに行つて買つて來たものをみると、揚豆腐の端が少し?られてゐた。不審に思つた母が糺してみると「上坂の方から鼠が來て、味噌漉の端にちよこんとのつて端の方を?つて逃げた」のであると即妙の答をしたので、さすがにしつけにやかましかつた母も、三歳の子の答の可笑しさに笑ひ出して叱らなかつた。幼な兒の空想力の豐かさに感心したものであつたらうか。

　上坂を少し北へゆくと、札場といふ家號の家があつた。昔高札を立てた所かと想像するが、そこに私と同年輩の和吉といふ子がゐて、彼が里子歸りであるので私はよく彼をいぢめたものである。

　後日彼は北海道に赴いて産を成したがワキやんと呼んだ彼が、數年前ひよつこりと私の家を訪れて來た。「クニョはんはご在宅か？」と懷しい舊友の來訪には驚きかつ古き日の思ひ出に耽つたことである。

　いまは埋立てられ、その後登記所となつたあたりに、自生のズズ玉の繁茂地があり、ワキやんとはよくそれを採取して首からジュズを掛けて遊んだ思ひ出があつた。

　

(56)　　　　　ズズ玉のこと

　

　故郷の田のほとりから、舊友のワキやんと摘み採つては首にかけて遊び興じたズズ玉には、さらにこのやうな思ひ出もある。

　多分私が九歳の時であつたと思ふが、顔から手足一面にイボが出來て困つたことがあつた。醫者であつた父は、その時紙に三文字の漢字を書き、それを私にもたせて近くの生藥屋へ使ひに出した。

　白い汚れ色の、碎けた粒を粉にして服用させられたのには閉口したが、私に好奇心を抱かせたのは、父が紙に書いた「?苡仁」の三字で、父に尋ねるとこれはヨクイニンとよむので、おまへらが毎年採つて來るズズ玉の皮をとつたものであると教へてくれた。

　その後、私は茨城縣の布川に移つたのであるが、そのころ五、六里離れた鳩崎といふ小さな町から鳩麥煎餅といふ名の菓子が賣り出され、それがじつによく賣れてゐた。私はその原料を、數年前のイボ藥の僅かな經驗から推して、食用にならないズズ玉の別にあることを知らず、その煎餅の原料を?苡仁であると早合點して、その文字を疊の上に書いてみせて大人を感心させた恥かしい思ひ出がある。

　このやうな思ひ出話を、私があへてしようといふには、理由がある。つまり、これがあるいは日本の最も大きな問題の一つにまでつながつてゆくのではないかとさへ、私は考へてゐるのである。

　日本の國は千年あまり前まで首飾りをかける風習の最も普及してゐた國であつた。それが現在のやうに西洋流装飾の眞似事であるかのごとく見られるまでに消滅したのはどういふわけであつたらうか。

(57)　まだ昔の風習が多く殘つてゐる沖繩には、神に奉仕する女性の家に水晶その他の曲玉・管玉が傳へられてゐるさうであるが、それはいづれも海中の所産ではなかつた。つまり舊來の慣行の基礎の上に新たに築き立てられた輸入財の文化であつて、つい最近まで島の女らはこれを身の粧ひにしてゐたといふ。つまり順序としては曲玉より一つ古いものが保存されてゐたのである。

　ズズ玉をすぐ佛教の數珠に託してこの語の由來とする説は誤りで、佛教が普及する前からこの植物は知られてをり、ある宗教學者によれば、キリスト教の一部にも、シャアマン教のなかにも、これが早くから入つてゐることである。四國の近世方言ススタマ・スズタマ以前に「倭名抄」その他にもツシタマ・タマツシとあつて、いづれも珠として用ゐられた痕跡がうかゞはれるのである。

　佛教の浸潤が淺く、數珠も知らない沖繩ですら、この實はシシタマとしてよく知られ、絲を貫いて首にかける風習もあるのである。私はこの實が大きくて堅いことから、あるいは稻の豐熟の呪ひに使はれたかとも想像する。

　さらに沖繩の古歌謠「おもろ」の中に現はれるツシヤをいろ／＼と調べてみるに、これは日本の子安貝（海巴・寶貝）ではないかといふ假説にまで私は到達したのである。ではこの貝がなぜ、近世に入つてから久しい間、首にかけられることなしに過ぎて來たのであらうかといふことであるが、宣�ｺ九年（西暦一四三四年）明の朝廷に輸送された琉球の貢物目録中に「海巴五百五十萬個」といふ膨大な數字が見えるが、南方交易にこの貝を使つたことがあつて、南方における通商の華やかさが、その首飾禁止令によつて支へられた時期があつたのではないかと思へるのである。さらに禁令は嚴しく、それが習慣化すると、政治と信仰の機能の結びつきの強いこの島々では一種のタブーとなつたことも容易に考へられる。

　

(58)　　　　　引割麥のことにふれて

　

　私の故郷でよくいはれた津の國の七分の飯のことは前に話した。播州でも半麥飯を攝る家もあつたのではあるが、この場合の麥といへば、裸麥、それを引割にしたものを指してゐたのである。ところが十三歳の時、長兄のゐる茨城縣布川に移つてみると、驚いたことにまだこの地方に裸麥は傳播してをらず、麥といへば大麥のことであり、引割麥といふ名稱すら知る人もなかつた。

　大麥といふのは食用に供するまでには非常な手數のかゝるもので、臼で麥皮を除くために、麥つきといふ非常な勞力を要する作業が、まづあつた。よく冗談に「茶うけのないお茶を飲むのは麥つきよりコワい」といふ言葉もあつたほどで、コワいといふことばは、苦しいとでもいふ風の下總地方の方言なのである。

　麥つきの季節が訪れると、大家の廣庭を借りて屈強の若者らが五、六名でグループを組み、晝間は寢んでゐて夕刻の涼しい時分から、大きな杵で夜を徹してついたものであつた。もちろん女性もその手傳ひをするのであるからよくなまめかしいことも伴ふ、いはゞ土地の若い男女の夜會ともいふべきチャンスでもあつたのである。徹宵、力仕事をできるだけの力の持主でなければ、男性としての魅力や誇りもなかつたのであらうし、若者にとつてもそれを異性らに誇示する絶好の機會でもあつたわけであらう。この季節も夜になると、私は遠くからズシンズシンと地を傳はつて來る地響きの震動を枕上にきゝ「チャボが三度鳴きや夜が明ける」などといふ麥つき唄の文句をもいつしか憶えて、何となく心のときめきを覺えたことであつた。

　このやうに、播州と下總の間で、當時は麥ひとつにもこれだけの差があつたのである。もつとも裸麥の栽培には北(59)限があつて、關東以北では出來にくいとか、收穫の量も少ないといふ事情もあつたわけではあるが、私はかうした播州・下總兩國間の距離を子供心に考へ、ひいては女性勞働の問題や民謠その他の事柄に目をひらいていつたのである。つまり、大麥にはまづかうした苦しい勞働があり、さらにこれを米と混じて煮るには、米と大麥には煮え上るまでに時間の差がある。從つてまづ麥を茄でて、ゑましておき、適當にやはらかくなつた時に米と混ぜ合はせて煮え上りを同時にしなければならなかつた。そのためにはまづ燃料が二倍も要るし、主婦の手數も倍加される結果となつた。後には麥だけを喰べやすくするため、山芋のトロロを掛けて供するといふ方法もとられたのではあるが。

　私は幼時のかうした印象がきつかけとなつて麥つき唄を採集してみたことがあつたが、茨城縣も香取附近に殘つて居り、それはみな女唄なのであることに氣づいた。つまり、ずつと以前は女性がこの麥つき作業に從つてゐたのである。したがつて、つぎの歌からも推測されるやうに、男性が使ふ撞木型の大きな横杵ではなく、棒?の兩端が太く、中央部を握つてつき下す竪杵を使用して、輕くコンコロ、コンコロと長い時間を掛けて、麥をついたものである。

　　　麥ついて

　　　夜麥ついて

　　　お手にマメが九つ

　　　九つのマメを見れば

　　　親の里が戀しや

「萬葉集」東歌の「稻つけば皹《かゞ》るわが手を今宵もか、殿の若子《わくご》がとりて歎かむ」その歌のやうに、昔の女性勞働の名殘りが、この麥つき唄には偲ばれるのである。

　

(60)　　　　　麥つき唄から

　

　さきに語り始めた麥つき唄の中にはさらにこんな男唄もあつた。

　　　米のオヤクで

　　　何故このやうに

　　　麥はバカやら

　　　カラばかり

　麥と米とは親戚なのに、なぜ麥にはこんなにも殻が多いのであらう。といふのであるが、このオヤクの語に、私は重要な意味を考へ始めたのであつた。オヤクとは漢字の親子といふ字が使用せられる以前のもので、最初オヤとは、生みのオヤといふ今日の「親」ではなく、一つの集團、例へば職人らのいふオヤ方とか、博徒らの使ふオヤ分のやうに古くからあつた親族・一門のカシラといふ廣義のものではなかつたかと思ふのである。生みの親などといふ肉親の關係はそれより後になつて、使用されはじめたのではあるまいか。

　思へば故郷を離れて七十一年の間、私はかうしたことに心を寄せて來たのであつた。いま機會あつて故郷の人々に、私の歩いて來た足跡をこゝに少しづつ報告してゐるわけである。

　さて、各地の方言を調べてゐるうち、紀州の一部では、このオヤが山林の管理人や巡査、つまり一種の權力をもつ人々のことを意味し、九州豐後では尊敬すべき年長者のことをイヤさんと呼ぶことなども判つて來た。古語で禮をイヤと訓むのであるが、ヤァといへば今日でこそ輕々しい應答語になつてはゐるが、じつは禮を盡すべき長上に對する(61)返答の言葉で、恭々しいのウヤなどと同じ、かうしたところに源を發してゐるやうに思はれて來る。イヤもオヤクのオヤと同じ系列のものではあるまいか。ちなみにオヤクとは後世のオヤコ（親子）と意識して區別するためのこの地方での發音であらうと思はれる。

　現に東北地方では、はつきりオヤコと發音してゐる。

　なぜかうした問題を語り始めたのであるかといへば、じつはこのオヤとかイヤといふ問題が、日本人の民間信仰ひいては民族の起源にまで溯る重要なことなのである。つまりイヤといふ地名を全國的に調べてゆくと、先祖の靈のある所をイヤ山イヤ谷と呼ぶ事例が多いのであつて、亡骸を山に埋葬した風習、そして後には靈を祭る場所は別に人家の近くに置くといふ兩墓制度の習慣にもかゝはつて來るのである。先祖の靈は山へゆくといふ古くはさうした信仰があつたらしいのである。米作民族の日本人が米を携へて南から北へ移つて來たとすれば、一時あるいは珊瑚礁のやうな、ある時は宮古島のやうに平地の場所にも住んだとも考へられ、さすれば山の存在が些かこの假説の障害にはなるが、いま國際問題の焦點ともなつてゐる沖繩について調査してみると、やはりこゝにもオヤといふ語があつて、一群のカシラを指すものとなつてゐる。一時中國化した琉球にも離島では一種の英雄をオホオヤといつてをり、沖繩の政治制度には判任官がオヤコ、奏任官が親雲上と書く職名など、オヤの字が非常に使用されてゐる例が多い。子といふ語にしても、今日われ／＼の使用する親子の子ではなく個人・土地の人民の意味なのである。いまや、一族といふものが離ればなれに散じてしまつたため、なか／＼このオヤクの問題を結論づけるには困難な條件もあるのではあるが、今後これを判然とさせることができれば、政治的に統御する力であるとか政治的に意見を交換する制度にまで、この學問が及んで來るのではあるまいかと、かうした實用的な面までも私は考へてゐる。

　やゝもすれば日本の社會組織を、外國の事例よりあてはめて推測するきらひが學界には多いのであるがさま／”＼な地方からの事例を集め、かつ分析した上で、結論が導き出されなくてはならない。ことに兵庫縣は廣範圍な、日本で(63)唯一の、兩海岸にまたがる縣であつてみれば、かうした研究の日本の中心たるべき所であると、私は故郷の今後の學問に期待をよせてゐるのである。

　

　　　　　稻荷信仰のこと

　

　辻川の部落の中ほどを、南北に貫いた堰溝については、前にもちよつと語つたが、この溝に沿つて下流に下つてゆくと、そこに小さな五、六坪ほどの森があつて、美しい藤の花がそこの樹々にからまつて咲く季節になると、子供心にも和やかな氣持になつたものであつた。そこはいまもなほ懷しく思ひ出される故郷の風物の一景であり、そこの西所《にしじよ》と呼ばれた田圃について、父が「こゝはウチの田ぢやつたが、松之助さんが賣りなはつた」と折々語つてくれたことも、祖先のことに觸れてしきりに思ひ出されてくるのである。

　歸郷するたびにそこを訪れるのであるが、そのたびに變つてゆくその森のさまも、時代の移り變りを思はせる。

　森には小さな稻荷樣の祠があつた。いまではそれを中心に稻荷講も結ばれてゐると聞いたが、當時はほんの小さな祠であつて、その森へのなつかしみが、稻荷信仰や、狐の研究に私が心を寄せるやうになつたもとでもあつた。

　もと／＼稻荷樣は、水田の一群、つまり同じ水を引いてゐるとか、同じ日陰になるといつた風なブロックの中心にあるもので、私の住む東京の郊外――成城町附近も田園地帶の名殘りをとゞめてゐるので、多くの稻荷樣の祀られた塚がいまなほ殘つてをり、それ／”＼そこの塚にまつはる狐の傳説がある。

　例へば、私のゐる町に九兵衛さんといふ話好きの古老がゐて、私の通つてゐる鍼灸院で、こんな話をしてくれたことがあつた。ある晩大工の某が、近くの稻荷さんのほとりを通つてゐると、狐が踊つてゐて、しきりに「あいつ、今夜は遲いな」と語り合つてゐた。やがて遲刻して到着したのは、大工の家の飼猫で「今夜はおカユが熱くつて……」といひわけをしながら、いつしよになつて踊つてゐた。大工が歸宅してみると、成程その夜は冬至か何かで、各戸と(64)もおカユを炊く日であつた。

　と、まあさういつた風の、これは各地にある面白い傳説なのである。

　ところで、かうした各地の農村にある稻荷信仰は、もと／＼田の神への信仰から發生したもので、はじめは獨立の自治體であつた。今日のやうな、例へば東京のやうな都會でも「伊勢屋、稻荷に、犬の糞」と多いものゝ譬へにひかれるやうな、商家までも含める信仰にまで廣くなつたのは、京都伏見の稻荷神社が、足利の末期に考へ出した一種の政策に基くものであつた。

　これが狐と結びついたのはこの動物がとくに稻の稔る季節になると人里近くに現はれて人々の目に觸れ親しまれやすく、その上季節が狐の繁殖期であるために、その擧動や鳴聲、また食物に變化を生ずることから人々に一種の神秘感を抱かせた。とくに米の稔りの季節に山から下つてくることが、春先に山を下りて來る田の神の先導をつとめる神使とみなされてゐたものと思はれるのである。稻荷の荷がなぜに「リ」と訓むのであらうかといふことは、一時イナニと訓む時期があつて、他所から來た宗門の人が稻荷の字を當てたので、もと／＼は稻里、もしくは稻利と書いたものであらうと思はれる。これはR音をD音に發音する地方のあることからも、日本の語韻論からも説明しうることであらう。かうして、田の神への信仰から發生した稻荷信仰が、後になつてある時期には京都の東寺と結んで勢力を大きくしたこともあり、信仰を惡用した人々により、いはゆる狐つきといふ迷信をも生むに至つたのであるが、本來の祈願や信仰を暗い方向に押しつけてゆかうとした一部の人々の濫用も、また本來の意味を知らず、未だに迷信邪教に迷はされてゐる人々のためにも深く省察すべきことだと思ふのである。

　

(65)　　　　　狐の思出から

　

　私が幼いころのことを思ひ出してみると、狐を少しも不思議なものとしては思はなかつたやうである。辻川の氏神のある傾斜地の横手には、七つか八つほどもその穴があつたやうに思ふが、一度も姿を見たことはなかつた。はじめて狐を見たのは、十三歳で上京して後のことである。上野の動物園で一度、そして二度目は茨城縣布川の長兄の家であつた。二度目の印象はひどく強烈なもので、それといふのも前後して隣家で慘劇が惹起されたからであつた。

　あの地方は利根の川床が高くなつてゐて、そこが臺畑《だいばた》と呼ばれた耕作地となり、その堆積地の裾に人家があつた。私の家の裏手はその臺畑の傾斜面で、そこには花好きの兄がいつもさま／”＼な花を咲かせてをり、和やかな眺めであつた。

　私が布川に移つた翌々年のことである。毎夜臺畑の所で狐が鳴くので、家族は顔を見合せて不思議なことだと語り合つてゐたのであるが、じつは隣家つまり私の家の大家（小川といつた）の下男が狐の穴を埋めたため、狐が困つて「クオオ、クオオ」といふ風に鳴いてゐたわけであつた。さうしたある日の畫下り、家の裏手からふと臺畑の方へ目をやつた私は凝然と立ちすくんでしまつた。そこに二匹の狐が坐つてゐてそれが私の方を見てゐるやうに感ぜられたのである。何の理由もなく、體の動けなくなる思ひであつたが、その翌日東隣りの野澤藤四郎といふ主人が突然發狂してその妻女を斬り殺し、さらに西隣りの主人小川虎之助の許へ赴いて、矢庭に斬りつけるといふ事件が發生したのである。この事件が狐の穴を埋めた祟りであらうといふ近所の人々の通説になつて、子供心に恐怖心に捉はれたものであつた。

(66)　殺傷事件を起した野澤の主人が人力車にのせられて水戸の精神病院に送られる途中で、家の前を通る時、狂つてゐながらもわが子の名を呼び、いとけない倅もそれに答へてゐた姿が、はじめて二匹の狐を見た時の印象とともに私にはいまなほ思ひ出されるのである。

　狐信仰については、前にちよつと觸れたが、私の子供のころ辻川には狐狩りといふ行事が、一月十四日の夜から翌朝にかけて行はれてゐた。これはその分布が狐憑きの少ない土地で見られ、播州方面にも殘存し、西方ではそこがゆきどまり、裏日本の山陰では西は伯耆、東は若狹まで分布してゐるが、もと／＼日本人は狐を狡猾な警戒すべきものとしては見ず、人智の及ばない、例へば豐凶を占へばそれを教示してくれる、感謝と尊敬を以て對すべき動物として信仰してゐたものであつた。狐信仰が今日いまなほ見られるやうな、狐つきや犬神筋などといふ特定の家系を捏造したり、呪術者によつて狐落しといふ民間修驗が行はれるやうなことになつたのは、人智の發達や信仰の衰退現象だけではなく、この信仰を生活に利用した一部の人々の力の影響ではなかつたかと思ふのである。

　ところで、年の始めにその年の豐凶を狐から聽くための寒施行めく款待行事であつたと思はれる行事が、狐狩りの行はれる分布地區ではモグラ打ち同樣、狐が追放されるといふ形で殘つてゐるわけである。狐歸りと呼び、やゝ狐に對して好意的な態度の地域もあるが、いづれにせよその際の歌ひ言葉が、

　　　狐の壽司は七桶なから

　　　八桶に足らぬとて狐狩りするよ

　　　狐を喰つたらうまかつた

　　　まんだ齒ぐきに挾まつとる

といつた風の半ば遊戯的示威運動であることは、まだしも狐との長年の親しみの名殘りなのであらうか。

　辻川ではオロロ追ひといひ、單に理由もない行事として殘つてゐた。オロロとは物を捜すときの掛聲であらうが、(67)子供らが群を作つて寒い夜更けの街道を村の外れまで「オロロやオロロ」と叫びながら歩くのであつた。

　

(68)　　　　　狐信仰のこと

　

　狐狩りの習俗も、いまは辻川の部落ではなくなつたことであらう。數年前あの地方を訪れた若い同志の學徒（現ハワイ大學教授の池田弘子さん）によれば、八千種《やちぐさ》の村の古老からその村では殘つてゐると聞いた旨の報告を受けたことはあつたが、狐狩りのない地方では、狐｜降《おろ》しといふ行事をやつてゐる。これは一年に一度だけ狐を祭つて豐凶を占ふ行事であつて、さきにも語つたやうに、狐を田の神の先驅をつとめる役とみなし、この動物に一種の尊敬と感謝の意をも表したものであつた。後には半ば興味本位に參加する人々も増して、行者自身までが醉つて狐をからかふやうな形を、私自身いくどか見たことがあつた。

　いまでこそ狐を惡意に滿ちた惡戯をする動物であるかのやうに見て「狐疑」などといふ文字も生まれてゐるが、これは一部の人々が逆に狐の神秘性を濫用した結果であり、まして、狐つきといふ、人の魂にのり移つて正一位の乞ひ受けによつて退散したりするたぐひの信仰形式は、じつは狐自身とは何らの關係もなかつたのである。農村の各所にある狐塚や稻荷社の存在もそのたぐひの信仰から由來したものではなかつたのである。

　よくクダ狐、オサキ狐などといふものが存在する地域もあるが、オサキとは神の御先（ミサキとも呼ぶ）クダとは山から降るといふ意味であらう。つまり田の神が稻作のために山を降つて來るさいの先導護衛の役と狐をみたわけである。日本人の信仰は、祖先の靈、すなはち神は山に在しましたのである。

　登山家などによく親しまれる小動物に山の神のチンコロとかオゴジョ（子供）と呼ばれるものがある。わざ／＼人前に現はれて、いかにも人間に親しみやすい擧動を示すイタチ科の動物であるが、われ／＼日本民族の古代生活を考(69)へるとき、山の生活を除いては考へられないことをぜひ知つておかねばならぬ。古代は、海と山とがもつと接近してをり、山から流下堆積した土砂によつて平野が形成され、そこの都邑から政治の歴史が始まつたのはそれ以後なのであるから、平原だけで作られた歴史をのみ歴史として見ることの誤りに氣づかねばならないのである。古代の日本人は海の人々もあるが、魏志の「倭人傳」にも「山島ニヨツテ邑ヲナス」とあるやうに、山の神のチンコロなどと生活して來た、山の生活民でもあつた。

　單に外國の文獻を飜譯して、それをそのまゝ日本にあてはめて、日本もかうでなくてはならないといふ風な割り切り方をする學者のあり方に私は激しい怒りを覺えずにはゐられない。各地域の特殊性を總合したうへでの結論こそ正しいものでなくてはならない。思ふにその點兵庫縣のあり方は、淡路と丹波・但馬といふ非常に異つた地域を一縣に統合して政治をするといふ極めて獨自な存在であり、あるいは置縣のさい意識して一種の試驗縣にしたのではなかつたかとさへも思へる地方である。攝津・丹波・但馬・播磨・淡路といふ五つの地域の人心を統一させようとすれば、さしづめ小さい利害しか共通しないであらうが、これを混淆した形で見ようとすれば、兵庫縣はまだ／＼大きな文化的事業が出來うるのではあるまいか。この問題は改めてゆつくり説いてみたいのである。

　

(70)　　　　　史學への反省

　

　私はこれまでにもしば／＼、日本の歴史を調べるのに、外國の學者の例を引いてそれを日本にあてはめようとすることの誤りを説いたことであつたが、日本の史學の進歩が遲れてゐることの理由の一つは、漢字を憶えることが史學に入るための困難な關門になつてゐることであると思ふのである。漢字を憶えるために苦勞をするため、やつと他人が書いたものを理解できる段階にまで至つた時には相當の年齡に達してをり、そこから自力で考へ、自分のものを創り出すところまでにはなか／＼到達しないのである。漢字を制限してみても、この惡弊は打破できないのであつて、まして外國文獻をそのまゝあてはめるくらゐのことで日本の史學の將來が解決するものとは思はない。

　われ／＼の前途にはもつと調べるべきことが山積してをり、さま／”＼な人々の歴史をまづ調べあげて、しかるのちに外國の學問の方法や結論と一致するものであれば、それが正しいといふことにならなくてはならない。

　外國の説の直輸入流のあり方は、明治の初年も今もほゞ同じやうなことであつた。そのころは一口でも英語を知り、他人の使用しない言葉の一つも知つてゐることが、文化人としての尊敬を集めたもので、ことに辻川では長兄が十九歳で神戸の師範學校を卒へて歸郷し、田原校の校長に就任した明治十二、三年ごろ、その惡風があつたことを私は記憶してゐる。

　兄のところへよく訪ねて來た人々が酒を酌みながら語つてゐたことを思ひ出すと、當時は酒の宴席で歌をうたふだけでなく、必ず都々逸を即席に作ることが流行してゐたやうである。それが當人を文化人であるとして、自ら誇示する手段でもあり、當時の酌婦らもそれら各種の作品を行く先々の宴席に利用したりしたものであつた。

(71)　　　松といふ字は木ヘンに公（きみ）よ

　　　君とボク（木）とのさしむかひ

　　　松といふ字は木ヘンに公（きみ）よ

　　　キミにわかれて氣（木）が殘る

　さういつた都々逸を、得意になつて兄の友人がうたつてゐた。

　隣室にゐてその歌を聞いてゐた、まだ十歳そこ／＼の私は、その意味もわかつて、思はずニヤリと笑つたりしたものであつたが、中には次のやうにひどいのもあつた。恐らく當人の創作ではあるまいが、いづれにしろ漢字を知つてゐるといふ一種の誇示であつたのである。

　　　戀といふ字を分析すれば

　　　糸し糸しと言ふ心

　また、こんな歌が流行つた。

　　　いまの議員のはやりの言葉「所謂」

　　　「含蓄」「止むをえず」

　昔の所謂は NAMELY といつた風の「あなたは知るまいけれど」といふ意であり「含蓄」は CONTAIN とでもいふか、よく理解できないが、相手の言に屈服するといつたやうなニュアンスをもつてゐたのである。なか／＼味のある都々逸の文句であると、私は當時を思ひ出しながら感心するのである。

　かうした時代が鹿鳴館にみられるやうな歐化主義の風潮へとつゞいてゆき、やがて國粹保存主義の擡頭となつて現はれたのであつた。陸羯南や三宅雪嶺らの世間への直言が、やがては「日本」新聞などで代表される新聞の權威の確立ともなつたのであつた。

(72)　外人の中にも、當時の日本の輕薄な風潮、つまり「即斷の誤り」について警告した人がある。ドイツ人でパウル・マイエットといふ人などがそれであつた。

　

(73)　　　　　辻川のみち

　

　前にも語つたやうに播州の道路の特長は國の中央部を横斷してゐるといふ點で、これは赤松氏が足利氏と結んで親交を圖つてゐたころの所産である。播州と京都の間を結ぶ最短の路線で、その途中の三木城主別所長治も赤松の一族であつた。この道路が辻川の村を貫いてゐたわけであるから、道に面した私の家の前はさま／”＼の人が通つてゐるわけで、必ずしも日記を殘してゐないから、それらの人の多くを知ることはできないが、ことに鳥取と京都を結ぶ際に、とくにもし途中で大阪を訪ふ必要があつたとすれば、この街道が近道として選ばれたのであつた。今後も記録を注意しておけば、相當にこの道を通つた人が發見されることであらう。私の記憶に殘る古人に江戸時代の國學者で、小説家でもあつた上田秋成がある。彼の紀行文の中には辻川に泊つたことなども記してあり、故郷への懷かしみをそゝるのであるが、もう一人羽倉｜外記《げき》といふ幕末の學者が、大阪にゐたころの旅中、辻川を通つた旅行記がある。この人は私の尊敬する學者の一人で伊豆七島の經營を研究するため自ら赴いて島の代官となり、つぶさに同地を研究して、島民の生活に同情を寄せた、傑出した當時の學者である。この人をはじめて知つたのは十三歳の時に茨城縣布川に移つて二年目のことである。布川の借家に離れがあつて、そこを私らの遊び場などに使つてゐたが、そこの戸棚に多くの寫本類があり、私より二年遲れて同地に移つた父が、その藏書の中から羽倉氏の著書を發見し、その中に辻川に觸れた旅行記があつたため、じつに懷かしくこの羽倉氏が私の心には刻みつけられたのである。その後私も伊豆七島の研究を手がける因縁もあつたが私は羽倉氏の著書を全部集めるためにいろ／＼苦心したことがあつた。ある時東京下谷の古書店でそれを捜してゐると、居合せた内田良平といふ有名な學者が「その志はいゝ」といつて、氏の藏書の中か(74)ら頒けてもらつたといふ逸話もあつた。それはいまなほ私の記念すべき藏書の一つとなつてゐる。

　辻川といふ地名を久しく私は疑問に思つてゐたのであるが、やはり、辻川を東西に貫いて前之圧を通り、佐用の方へと延びる古い街道に、十字形に交叉して、古く開けた港の飾磨津より北上して生野の方へ達する道のあることがその由來であると氣づくやうになつた。姫路から生野への道も福崎までは川の西岸を通つて來られるのであるが、福崎も山崎のあたりからは川沿ひの道が作れず、やむをえず途中から東岸に道を移して辻川を通つたわけである。南北の道は現在のやうになるまでは堰溝《ゆみぞ》沿ひの路や、私の舊屋の横をも通つた時代もあつたわけであらうし、幾度かの變遷があつたのであらう。堰溝に沿つたあの細い路も、馬が重要な交通機關であつたころは、あれで十分だつたのである。地藏堂のある場所も、從つて當時は重要な地點であつたわけで山の方へ上り、あるいは川の方へと下るための場所であつた。

　いまもあのあたりの記憶が幻のやうに私の胸には蘇へる。鈴ヶ森神社から斜めに下りると、そこが崖になつて小さな流れがあり蟹も遊んでゐようといふ、私らの遊び場で、そこにはアカイワシといふ、冬、莖が赤くなる闊葉樹があり、それを刀代りにして遊んだ。上田秋成の紀行文を讀んでも、彼がどのあたりから北に折れて生野への道をとつたのであらうか、堰溝のほとりであらうか、私の家のそばの上坂のところであらうかと、私の空想は樂しくひろがるのである。

　

(75)　　　　　田原といふ地名

　

　私の生れ故郷は、當時田原村、辻川といつたのであるが、この田原といふ郷名はすでに隣村の川邊《かはなべ》とともに中世以前の書物にも現はれてゐる。

　播州の地形を、私が腦裡に描くとき必ずといつてもいゝほどに浮び上つて來る風景は一面の荒れた平原である。

　といふのも、あの地方の郡境はいづれも原野で、水さへあれば水田も出來たのであらうが、今日のやうに水利が便利にならなかつた當時は、たまに草を刈りにゆくだけの荒蕪地であつた。

　北條の田町《たまち》といふ所に住んでゐたころのことであるが、朝早く町のはづれから東の方、玉野付近を眺めやつてゐると、何一つ遮るものなく、地平から朝陽の昇るのが望まれたものであつたし、辻川の三木拙二翁の家の裏手の丘もナツハゼといふ、夏に赤い葉を茂らす木々が目に入るだけで、考へてみると私が離郷する當時は、あの地方の荒蕪地が荒れ放題に荒れた末期であつたわけであらう。今日のやうに豐かに拓かれた田園や近代的な工場のある風景が見られるやうになつたのは、それ以降のことである。

　ところで、この田原といふ地名であるが、それが故郷の地名であるために、私は何處へ旅をしても同じ地名があると必ず心を寄せていまなほその由來などを調べてゐるのであるが、これは遠く沖繩や八重山群島にまで、タバロなどといつて分布してゐる。つまり「たはら」とは、これだけは田にすることができるといふ田の一つのブロックで、その全體は肥料などの關係から耕作するだけの能力がないため、半分づゝ、もしくは三分の一づゝ耕作してゆく所なのである。

(76)　昔の米作はこのやうに、耕作地全體を毎年耕作するのではなくて、年によつて部分的に休ませ、その間に地味を養つたのである。ちなみに、山へ登る人たちがよく出會ふ地名の田代《たしろ》といふのもほゞ同じやうな意味であつて田の候補地とでもいつたところから由來してゐるのである。

　かういふ農耕方式を採つたのは當時の肥料が緑肥をもつぱらとしたためであり、昔はいま裏日本の一部でも見られるやうな下肥を稻作に施すやうなことは考へもしなかつた。

　私はいまも思ひ出すのであるが、春先になると村の若い人々が、瀬加村の方へよく若木を採りに行つたものである。その人々の後ろについて知らない土地へいつてみたいとよくあこがれたことがあつたが、牛にぎつしりと積んでもち歸る下木《したぎ》と呼ばれたその若木も、枝ごと田に踏み込んでは緑肥にしたのであつた。いまなほ私は自分の故郷についていつたいどのあたりまでが、その「たはら」といふ限られた地區であつたらうかと關心を寄せてゐるのであるが、恐らく、街道より南の方にだけ、昔の田圃は在つたものであらう。村の北部は山林であるから、現在のやうに少しづゝでも水田が出來て來たのは、貯水池が作られるやうになつた、ごく近い時代のことであらうと思つてゐる。

　

(77)　　　　　「ええぢやないか」の話

　

　この連載が始まつてから五日目の夕刻のことである。一枚の訃報が神戸から屆いた。私にとつて故郷に殘つてゐるたつた一人の骨肉で、私の從妹にあたる藤原キク女の死亡通知であつた。彼女の靈を葬ひかつ生前を偲びつゝ、こゝで少し私の母方の家の變遷の一節を語つておかう。

　私がはじめて上京した明治二十年の九月、次兄の下宿先で毎朝目を覺ますたびに「ゴトウマツゾウ、ゴトウマツゾウ」と呼びながら歩く男の聲が聞えて、何故東京では私の親戚の、それも故人を捜し歩くのであらうかといぶかつたものであつたが、後藤松藏といふ北條の人は私の母の妹（おもとといつた）の夫君であつた。何でも一時相場か何かで産を成し五十歳ほどで、私の叔母を娶り、祖父も呼び寄せて雜貨商を營んでゐたが、祖父も亡くなつた後でふとしたことから事業に失敗し、單身神戸へ出てつぶさに辛酸を舐めたらしかつた。殘された叔母は圓顔で、じつに温和な女性であつたが、私と弟の靜雄、輝夫よりそれ／”＼一つづゝ歳下の娘があり、いつも母の許に來ては苦衷を訴へてゐたことを私も憶えてゐる。やがて松藏氏も再起して家族を神戸に呼び寄せたのであるが、間もなく松藏氏はコレラで世を去り、長女のおキクだけが北條に歸つて來た。子供心にこの話を父より聞いて、人生の悲哀が私の心には沁みたものである。その時の印象から「納豆、納豆」の呼び聲が「後藤松藏」に聞えたといふわけであつた。私がおキクに會つたのは、彼女が北條に歸つて來て、やがて小野市の近在に養女に貰はれてゆくまでの間しばらく同居した一時だけで、その後婿をとり一度は子を、二度目は孫をつれて下總の布佐や、東京の次兄宅にも訪れて來たことはあつたらしいが、私はたうとう一度も會ふ機會がなかつた。

(78)　たま／＼、一人の骨肉の訃報に接して、私は心を動かしつゝ、往時の思ひ出に觸れたまでである。

　北條の肉親の囘想に觸れたついでに母が語つてくれた祖父の思ひ出話を語つておかう。慶應の末年のことであるが北條に「お札が降つた」ことがある。これはよく群集心理を研究する人々が好主題としてゐるものであるが、お札が降ると町ぢゆうが「ええぢやないか踊」を踊るのである。これは近世になつて間歇的に起つた「お蔭詣り」といふ集團伊勢參宮の現象が後年になつて遊戯化したもので、一説には政治的意圖があつて高山から凧にのせたお札を降らせて人民を興奮させるといふのもあるが、調べてみると、じつは興奮しさうな地域や家に「降る」ので、極端な例では、家の床の間にお札が置かれてゐたといふ話もある。すると何處からともなく多くの人々が集まつて來て祝詞をのべ、家の人は酒樽の鏡を拔いて祝はざるをえなくなるといふ仕組みなのである。降るのはお札ばかりでなく姫路でも小豆が降つたまではよかつたが、裸の娘が降つたといふ馬鹿氣た例もあり（つまり捏造である）この「ええぢやないか」の研究は今後にまつべきものが多い問題である。

　さて、母が北條に祖父を訪ねたのはちやうど「ええぢやないか」が北條ぢゆうに踊られてゐる夜だつたが、祖父はせつかく訪れた娘に「今夜は用件で行く所がある」と手拭をもつてそは／＼と姿を消したといふのである。母は「あれほどしつかりしたおぢいさんが��ええぢやないか″を踊りに行つた」と淋しい笑ひを洩らしてゐたものである。若いころは人に敬遠されるほどのしつかり者だつた祖父であつただけに、理性的でさうした群集心理に惑はなかつた母は祖父の態度が可笑しくもあり淋しくもあつたのであらう。なほ大正四年の御大典のさい京都に大禮使事務官として赴いた折に、やゝ小型の「ええぢやないか」踊りが市内に始まつたことがあつた。當時の警察部長で淡路出身の永田青嵐もその警備のため市内にお忍び姿で出たのだが、私が彼の肩をいからせた姿を認めたと同時に踊つてゐる群衆も彼を認め「部長さんもええぢやないか」と歌の文句が變つたので思はず苦笑したといふ思ひ出もある。

　

(79)　　　　　父の歌など

　

　私の住む成城町の家の近くに英文學者秋元俊吉氏が住んでゐるが、この人の祖父の安民といふ人が姫路の有名な歌人であつた。「青藍集」といふ當代の歌人の作品集を纏めた人でもあるが、その中には播州の歌人が相當に收められ、往時の播州文化の片鱗も偲ばれる。海神社の宮司だつた上月豐蔭、また後上京して私塾をひらいた國富重彦といふ人々は維新から明治にかけての時期における播州の代表的な歌人であつた。父も人に教へることはしなかつたが歌を時々は作つてをり、姫路藩士で後には姫路總社の神主もした庭山武政といふ人とも親しく歌の上で交はつてゐた。私も庭山氏には可愛がつてもらひ、よく書物も借りたり、寫させてもらつたりもした。

　父の歌で感心したのは、下總に移つてからのことであるが、

　

　　　はかなくも今日落ちそむるひとはよりわが身の秋を知るぞ悲しき

　

といふ歌を父は作つたことがある。たま／＼一本の齒が拔け落ちて、父はわが老いゆく身の悲しさを感じたのであらうが、私は當時すでに「秋一葉」を知つてゐたので、その感慨もひとしほであつたわけである。また次のやうな歌もあつた。友人たちはみな都へ出て偉くなつてゆくのに自分は神經衰弱のためにそれも叶はぬといふ、田舍にくすぼる忿懣を歌に託したのであらう。

　

　　　奧山は住みよきものを世に出でて立ち舞ふ猿や何の人まね

　

(80)　私が歌に入門したさいの經緯は前にも觸れたが、私の師松浦辰男先生の高弟に三田彌吉（葆光氏の妹婿）といふ方があつた。私は若くしてこの人にさま／”＼な話をきかされたのであるが、例へばこんな話も憶えてゐる。

　香川景樹の「桂圖一枝」に、

　

　　　夜光る白玉姫を見てしより心そらなり地《つち》は踏めども

　

といふ一首があるが、これは景樹が大志を抱いて上京し淺草の待乳山に夕越館といふ私塾を創めたが、いつかうに門人が集まらず、近くの吉原にばかり行つてゐて、白玉といふ妓に心を奪はれて作つた歌である、といつた風なこと、また、三田家には葆光氏の母堂で九十歳を越える花朝老尼がゐられたが、この方がまだ同家に嫁入りをされたばかりのころ、座敷で琴を彈じてゐるのを、ちやうど來合はせた景樹がかいまみて、

　

　　　山なしときく武藏野の夏の夜に吹くやいづこの峯の松かぜ

　

と詠じた。といつた風な話で、これも景樹の歌集に收められてゐるが、私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の殘り火に肌ふれることができたのであつた。

　ついでながら、近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

　後になつて、落合直文や與謝野鐵幹らが出て來て盛んになつたのは、時代の機運に乘じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

　その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。關東においても千蔭が力を揮つた時代より(81)も、歌は良くなつてゐる。その時代は京都から江戸へと都は移り、すべての文物が改められようとする時であり、この時期は日本文化の地方性に差等のあつた時でもある。

　播州は文化の振つた地域であり、私が子供心に憶えてゐた辻川の歌人らの作品も、相當な水準にあることを、私は後になつて認めるやうになつたのであつた。

　

(82)　　　　　故郷の歌人

　

　私が記憶してゐる土地の歌人に田崎五百頴といふ人があり、その人の子息に、私より一つ歳下の千座《ちくら》といふ友人があつた。その姉に二、三人の綺麗な娘がゐたことも思ひ出されるのであるが、この五百頴翁の歌も形の整つたものであつたし、もと妙�ｺ山の坊主で後では還俗した田郷《たがう》といふ人も記憶される故郷の歌人の一人である。

　私は幼時から「近世名家集」や「和歌初學」などを讀んでゐたので、歌もその作者もじつによく記憶してゐたものである。

　下總から東京に出て、次兄が醫院を開業してゐた下谷の御徒町に身を寄せてゐたころの話であるが、私は暇にあかせてよく古道具屋を歩き囘つては、短册を買ひあさつたものである。あのころは時代が激しく移り變つたころであるから、家の變遷も激しく、從つて古道具屋の開店が多く、その店先には必ずといつてもいゝほどに短册が箱に入つて出されてゐたものであつた。

　私は短册の筆者の價値を知つてゐることではあり、とにかく一枚二錢で入手してはそれを次兄のところへもつてゆく。すると次兄はその中から好きなものだけを、私の買ひ値の何倍かで買つてくれる。その殘りを私は、下總にゐた父のもとへ持參しては、親孝行の一助としたものである。

　下總の松岡家には、いまなほ相當な數の短册類があり、いづれは珍重される時代も來ることであらうが、それらはみな私が當時古道具屋から收集して屆けたものなのである。

　こんなことを私は思ひ出す。兄が當時しきりに穗井田忠友といふ學者の筆蹟を欲しがつてをつた。この穗井田とい(83)ふ人は「中外錢史」といふ著作などもあるいゝ學者であつた。娘を奈良奉行の許に出して奉行と懇意になり、正倉院に入つて行つたりもしてゐる人であるが、それはともかく、私が穗井田氏の筆蹟をたま／＼根津の新開地を通つてゐて、そこの小さな古道具屋の店先から發見したのである。郁文館中學に通つてゐた途上のことであつた。

　その筆跡は、牡丹のまづい繪とともに貼られた二枚折りの枕屏風であつたが、私は何くはぬ顔をして、同店に入り「枕屏風がほしいのだ」といつてくだんの屏風を格安で入手してもち歸ると、懷紙に認められた忠友の筆蹟だけをとり外し得々として次兄に渡した。

　次兄は何でも、いまでなら一萬圓ぐらゐの値には相當する五圓ぐらゐは出してもいゝといつてゐただけに大喜びで、書生たちまでも誘つてご馳走につれ出してくれた。

　その筆蹟は、

　

　　　油藏《あぶらぐら》名のみになりていままさに消えなむとする法《のり》のともしび

　

といふ、東大寺の油藏にちなんで世を諷する歌であつた。

　この學者の歌で、いまなほ私が記憶するものに、

　

　　　ぬさ給ふ二荒《ふたら》の山のほとゝぎす初音や神のかしこまりなる

　

といふものがある。皇室が�ｺ川幕府の存在を承認される方式が二荒、日光東照宮に對しヌサを給ふといふ行事であるが、この一首はいかにもスヂの通つた學者らしく、君臣の分といふものを歌の中に明らかにしたものであると、私はかねてから感服してゐる。

　

(84)　　　　　鳥柴の木

　

　子供のころ、私は毎朝、厨の方から傳はつて來るパチ／＼といふ木の燃える音と、それに伴つて漂つて來る懷しい匂ひとによつて目を覺ますことになつてゐた。

　母が朝飯のかまどの下に、炭俵の口にあたつてゐた小枝の束を少しづゝ折つては燃し附けにしてゐるのが私の枕下に傳はつたのであつた。

　今でも炭俵の口に、細い光澤のある小枝を曲げて輪にして當ててゐる場合が多いやうであるが、そのころ私の家などでは、わざ／＼山に柴木を採ることはしないで、それをとつておいて、毎朝、用ゐてゐたわけである。じつはその木がいつたい何といふ名であるかを長らく知ることもなかつた。

　ところが、たま／＼後年になつて、ふと嗅ぎとめた焚火の匂ひから、あれがクロモジの木であつたことに氣がついたのである。

　思へば、良い匂ひの記憶がふと蘇つたことから、私の考へは遠く日本民族の問題にまで導かれていつたのであつた。

　あの木を福木と呼んで、正月の餅花をつけるのに使ふ風習が、播州や但馬あたりから山陰・中國筋にまで分布してゐるが、クロモジといふこの木は、樟科に屬してゐて、その特性として一つは冬に入つて落葉することと、分布がずつと北の方に延びてゐることの二つがある。最初は津輕海峽までが北限であらうかと思つてゐると北海道にまで分布してゐて、知里眞志保君の話ではアイヌもその木のヤニを醫療呪禁の用に供してゐたといふことである。現在では妻楊子の材料として知られ、ある地方ではこの木から出る膠を膏藥の材料に使ふらしいのであるが、木の名の由來を故(85)牧野富太郎氏のやうに、木肌に黒く文字みたいなものがあるからといふのは如何であらうか。じつはアヲモジ、シロモジなどといふ木もあることを知れば、必ずしもその説は首肯しがたいやうに思はれる。古書に「文作」と出るその讀み方は判然しないが、田舍の人々の呼ぶのを聞けばクロモンジャといつてゐる。これが今日のクロモジと變訛したのであらう。

　京都あたりで、この木は鳥木もしくは鳥柴などと呼ばれ、狩の獲物の鳥を獻上するさいに、この木に縛りつける習ひがあつたし、東北地方では山で獵夫が猪や鹿のたぐひや、時には鳥などを獲つた時、先達はまづ獲物の内臓の一部、特に心臓などをこの木につきさして狩りの神を祭るといふ風習もある。かうした神の祭りの供へ物に使用されるといふその他の數例からも、祭木にくさ／”＼のものをつけて神に捧げた日本の固有信仰の一つの特色が窺はれるのである。現在でこそわれ／＼はヌサ奉るといつて、專ら絹布麻布や純白の紙を祭の木につけて供するし、それを幣帛と總稱してをるが、もとはそれ以外に食物を木につけて捧げたものであつたらしい。そしてこの木がたゞ單に祭の中心といふだけでなく、目に見えぬ神靈の據り給ふ神座であつたため、この木にとりつけることが最も確實な傳達の方式であると考へてゐたのであらう。

　ところで、天然の生枝を祭木とする場合、今でも最も多く用ゐられるのは眞榊であるが、これとても現在の一種類だけに固定したのはどのやうな根據かは判らないが中古のことであり、その上全國的にこの木の分布は見られないのである。現に東京あたりでは?《ひさかき》を代用してをり、さらに北方に行くに從つて、極端な場合は椿や松などを使用してゐる地方の例などもあつてみれば、必ずしも榊を祭りの木とする、日本の固有信仰が北に及んでいつたとは考へられないのである。

　江戸末期に、神遊びの古歌「榊葉の香をかぐはしみとめくれば」云々の榊をめぐつての論爭が多くの國學者間で交はされたことがあつたが、それが樒《しきみ》であるといふ説も幾つかの例では知られてゐるものゝ、これのみですべて前代の(86)榊が樒であつたといふ證據にはならず、むしろ神を祭る者の選擇によつて他の樹も用ゐられてゐたといふ推測をすら可能にするのである。また眞榊は匂はない。もしこの歌が日本人の匂ひの記憶の痕跡であつたとすれば、南方から北漸したわれ／＼の祖先は、祭りの木にこの匂ふクロモジやその類のものを用ゐられてゐたものと見られるのではあるまいか。

　

(87)　　　　　學問の本義

　

　「文字ヲ知ル者ノ憂」といふ昔の中國人の言葉を私の幼いころはよく聞かされたものであつたが、日本人は文字といふことに非常に大きな、哲學的な意味を與へすぎて來たやうである。文字を知れば憂ひが湧きそこから自づと何ものかゞ生れるといつた風な考へ方なのであらうが、私は文字を知る者を憂へさせてばかりゐてはいけないといふことを、折に觸れて説いて來たのであつた。

　たとへば昨日語つたクロモジ、あれが何と呼ばれてゐようとも、それが何に使はれ、どういふ風にして今日まで保存されて來たのかといふ點にまで説き及ばなければならないと思つてゐる。あまりにも從來の日本人は字といふことにのみ重きを置きすぎたやうである。

　學問といふことにしても「まなぶ」と訓み「問ふ」といふ意味が長らく等閑に附されて來た。「論語」の中にも「學問」といふ語は現はれてをり「間ひを學ぶ」ではなく「問うて知る・覺える」ことであるといふ氣持を最近漸く世間でも理解し始めたやうではあるが、私は戰前に一度、國民精神文化研究所において學問といふことについて論じたことがあつた。つまり學問とは一つの問題をもち、進んで世の人の意見を聞き、天然の事實を調査するものであるといふ風な意見から「學」を「まなぶ」と訓む誤りを指摘したのである。「まなぶ」とは「まね（眞似）ぶ」であつて、同じことをくり返すことであらう。

　例へば農家などで厩肥の運搬に、田と厩との間を幾度となく往復することを「まねつくる」などといふのと源は同じであり、學は覺と、子と見の違ひこそあれ、※［學から字を取る］は「さとる」といふ同一の意味である――といつたやうな論旨であ(88)つた。

　他人の學説や意見をそのまゝに紹介して、それが學問であるといふ誤解が世間に通用してはいけないと、私は信ずるが故に、あへてあの時代に強く訴へたわけであつた。

　まなびの家・まなびの窓などと、ひんぴんと使用されるあの「まなび」といふ言葉はなるべく禁止したいものであるといまなほ私は思つてゐるのであるが、では中國語の「シュエ」（學）といふ字に當る日本語は何といつたらいゝのであらうか。またかつてはどういつたものであらうか。私は「覺」＝おぼえる＝と同じ系統の言葉でなくてはならないと思ふのである。

　農民の言葉によく注意してみると「おぼえる」「まねする」といふのはあつても「まなぶ」といふ言葉はない。

　「おぼえる」とは「思ふ」といふ言葉とも同じであつて、記憶をも意味し、古人のいつたことを思ひ出すこと、また自ら靜かに考へに耽るといふこともその中には含んでゐる。

　いつか私は「學びの家」と呼ばずに、これから「おぼえる家」にしようではないかと冗談まじりにいつたことがあつた。

　ところが、一方にはさうしたことはどうでもいゝではないか「まねる」から「まなぶ」が出て來たとしても、現在すでに「まなぶ」といふ言葉の意味は違つて來てゐる。あることを新しく知つて賢くなることを意味するのであるから――といふ國語學者の意見もあらうが、こゝに私たちの學問と、その人たちの學問との相違點があるのであつて、以前かういふ歴史を經て「まなぶ」が「おぼえる」よりもう一段と尊い氣持になつたといふことをいはねばならず、その由來の「まねくり」にまで、溯らなければならないのである。

　なほ「かんがへる」（考へる）が「おぼえる」より尊いと思ふ風潮もあるやうであるが「かんがへる」といふ語こそ考へるべきことで、古語に「カン」音はないため「かうがへる」といつてゐるが、あれは古い輸入語である。今後われわ(89)れはもつと日本的な意識に徹し、「かんがへる」といふ風な語も「おもふ」か何かにしたいものである。「おぼえる」といふ日本語が折角あつても「おぼえ」ただけで停止しては困るのであつて、「おもふ」――自分で考へ出すといふ風にありたいものである。さうしたことを根にもつて、クロモジの問題ももう一度解決してみたいと私は思つてゐる。

　

(90)　　　　　囚人と兵隊

　

　辻川といふやうな非常に舊い道路の十文字になつた所に育つたことが、幼い私に色々の知識を與へてくれたやうに思ふ。その道路の上を通つた者のことが記録に殘つてゐたり、自分でも樣々の見聞をしたりしたので、外部のものゝ一つづゝに對してこんなに關心を寄せながら成長するやうになつたのであらう。もしも横丁か何かの隅つこにゐたのだつたら、私もこんな風な人間にはならなかつたかも知れない。私の家の門に、醉つ拂ひの道樂者のばくちうちみたいな男がもたれかゝつて、自由の權だと頑張つてゐたために、自由の權といふのはよくないもんだといふ印象を深くしたことは、さきにも話した通りである。

　そんな話がまだいくつか殘つてゐるが、一つ話したいと思ふのは、監獄の囚人のことである。あの時分に何といつたか知らんが、やつぱり監獄といつたのであらうが、それが自分の村里から川上へ一里半ばかりの所にあつて、その囚人が時々外を出歩くことがあつた。監視人が付添つて、よく赤いべべを衣せるぞといつたあの赤い、木綿をたゞ紅殻で染めたやうな獄衣を着てゾロ／＼と外を歩いたことを憶えてゐる。それからどういふ理由だか、青い衣物を着たのも少し交つてゐた。それらが街道をしば／＼往來したのが、私の七つ八つだから明治十五、六年くらゐまでのことであつた。屋外勞働の道普請などもさせてゐたやうだが、中には無害で逃亡の恐れのないことが判ると、普通の人の家へ、二人、三人と連れて來て勞働をさせたものである。つまり今のやうに監獄の設備が十分でなく、中で働かせる面積も少なかつたのであらう。私の家にも青い衣物と赤い衣物を着た者が二、三人來て、唐紙のはりかへや障子のつくろひなどの仕事をしたのを覺えてゐる。

(91)　その時に今でも記憶してゐることがある。監視人が自分の勝手な用をするために、座を外さうとして「おい逃げんなよ」といふと囚人の方は、黙つてゐてから、後で小さな聲で「へんだ、逃げようと思へばいつだつて逃げられるよ」といつて、笑つてゐたことを憶えてゐる。

　もう大變純情でおとなしくなつた囚人ばかりを連れて來るのだらうから、そんなことをいひながらも決して逆らひはしなかつたらしい。このころのことは制度として何かの記録の上に殘つてはしないかと思ふ。その監獄はどこにあつたか、場所は知らないが、隣村川邊の屋形といふ所で、そこには郡役所もあり、色々の公の役所があつた。後にはこの生野街道から近い所にあつた監獄はなくなつたが、そのころはきつとごく簡單な造りで、逃げようとすればそれこそ直ぐに逃げられ易いものだつたのであらう。

　もう一つ思ひ出すのは兵隊のことである。姫路の鎭臺が演習であの邊に始終出動した。そんな時、人家を指定して、あそこの家に五人とか三人とか割振つて泊りこませる。村でいちばん情けなかつたのは三木家であつた。長い間きれいにふきこんだ玄關を泥靴のまゝ上るので、ゴザをしき、座敷の方は疊をすつかり上げ、部屋の囘り四分の一だけ、ベッドみたいに疊を殘しておく。兵隊はそこまで泥靴のまゝ上つて行つて、疊に腰を下ろし、これを床板の上に投げ出してゴロンとなり、寢るのも、どうもそのまゝ寢たらしい。最初は軒竝に泊りこみ、どこを中隊本部にするとか何とか否應なしに決めたが、そのうちに兵除の出歩くのが減つた。そして前もつて個人的に交渉してから割振りの人數をきめるやうにしてゐたが、それも面倒になつたものだから、宿屋とか、お寺とか、學校とかを使ふやうになつた。食事の方はどこかでまとめて炊き出しをして、各宿舍に配給したものらしいが、よくは判らない。

　それより、何十年もたつた今度の大戰爭の時、今の私の家なども、いよ／＼非常時となつたら、兵隊の割振りを受ける危險があつた。しかし、私が郷里で見た三木家の一番座敷にまで兵隊が泥靴のまゝで上つたやうな悲慘なことは、あれでおしまひではなかつたらうか。

　

(92)　　　　　嫁入道具の行列

　

　辻川の道の上の話をもう一つしてみたい。子供のころでも非常にまれなことであつたが、道がいつぱいになるくらゐ、通行人と見物人があふれたことがある。伊勢音頭をうたひながら、時にはそろひの衣装やハツピをきた、嫁入荷物を送る行列の通る時であつた。何村のどこの嫁入りださうな、どこの婿取りださうなといつたふうな話が次々に傳はつて、その時だけは村中の人が見に出る。

　どこの家でもさうする習慣であつたら、あれまで派手にはやらなかつたであらうが、とくに資産を誇つたり、見榮坊だつたりする理由からか、總出で見られることを意識して、歌も良い聲の者を先に立てたり、少し酒氣を帶びたりして行列が行きすぎた。

　もと／＼農村では荷物を先に送つたりする婚禮はじつはなくて、あつたとすれば大名とか士族のしてゐたものであつた。播州などでもこれが行はれるやうになつたのは一つの明治時代の現象ではなかつたかと思つてゐる。

　婚姻の變遷を調べてみるに、荷物を後で送るのは、嫁が落着いたことが明白になつてから、目立たぬやうに送るのが普通であつたらしい。奈良から伊賀あたり、琵琶湖の西岸、高島郡附近でも嫁の荷物はいつとはなく持つて來るといふ話であつた。五年をればこれだけ、十年をればこれだけ、婚家の姑さんが亡くなつたからずつと持つて來たとか、大きな婚姻でも必ずしも荷物を持つて來ることを條件にしないといふ所が中央部にもある。それから考へると、私の見たやうな辻川の嫁入りは、明治の文化を區切る一つになるのではないかと思ふ。

　何村の某が何村の某の所へ娘を嫁がせるといふことを、やはり道路を利用して報告するやうなもので、ちやうど今(93)日の披露宴の源をなすやうな制度であらう。もと／＼は村の縁組といふものは、風呂敷だけでいつの間にか知らぬ間に行くといふのが普通のやうで、あらかじめ景氣づけて荷物を送るとか、けぱ／＼しい行列で行くのは村の人としては新しいことであつたらしい。

　問題は「嫁盗み」といふ、日本では非常に面白い慣習に、この嫁入支度のことが關係してゐることであつた。それについて、私がいつも思ひ出すのは折口君のことである。私がかつて出してゐた「郷土研究」といふ雜誌の第一卷に、しばらくは無名氏といふ投稿でやがて折口信夫といふ名前で寄稿する人があつた。後にはそれが折口信夫君であることがわかつたが、信夫（しのぶ）といふ名前にしても、折口といふ苗字も哲學の哲といふ字を二つにしたペンネームであらうと、抛ふつでおいたところ、二ヶ月も三ヶ月もしてから中山太郎といふ人が「折口といふ人は國學院を出た實在の人ですよ。しかし大へん變つた方です」といふ話であつた。何とかして會つてみたいと思つてゐたが、そのころ私は貴族院書記官長の仕事をしてゐたので、折口君の方では億劫がつてなか／＼寄りついてくれなかつた。後にはごく親しくなつてしまつたが、その折口君が「郷土研究」に「三郷巷談」といつて大阪の南の方、木津とか難波の報告をよせてくれた。これにはいろ／＼とハッと思ふやうなことがらが多かつたが、とくに「ぼおた」といふ嫁盗みの風習は興味深いものであつた。

　

(94)　　　　　嫁盗み

　

　折口君の報告はたしかこんな話であつた。大阪の木津・難波・今宮の三郷では明治の初年ごろまで「ぼおた」といふ嫁入りの風習があつた。

　「あの人もぼおたで嫁（き）やはつたのに、えらいえゝし（好い衆）になりやはつたもんや」などといはれる人があつて「ぼおた」は家計不如意の、嫁入支度の出來ない時に、行はれる嫁入りだつた。夕方着飾つて支度してゐると、男の人がきてだまつて娘をつれてゆき、大きな聲で「ボオタ……ボオタ」といつてゆく。と、ざつとこんな話であつた。

　私はこの報告を讀んでハツと思ひ、大變學問が進んだやうな氣がしたので折口君に御禮をいつたものであつたが、ボオタは奪うたといふことなのである。これは男の方で「俺が連れて行くんだ」と公言することで「ボオタ・ボオタ・ボオタ」と大きな聲で懸聲をしながら嫁さんを男の家に送りとゞけるのである。この場合はもちろん娘の父親も母親も承知の上のことであつた。家柄からいつたら一荷なり二荷なり添へて嫁がせなければならない家柄であるが、こちらにその力がないといふ時は、世間體をはゞかつて「ボオタ・ボオタ」といつて女だけをつれてゆく、親は喧嘩して連れて歸つても仕方がないといつて、放つておき、後に仲人に立つ者があつて親子の對面をさせるといふ。いはゆる掠奪婚の形をした、一番貧しい結婚の形であつた。それであそこの家が一代身上で立派になつたんだといふやうな時に、裏店の者が、そねみ半分に「ボオタで來やはつた」とうはさするのであつた。掠奪結婚、われ／＼は嫁盗みといつてゐるが九州の長崎や博多の報告もあつて、これは私どもの仲間の手によつてだいぶ資料が集まつてゐる。私はこれには三つぐらゐの段階があると思つてゐる。一つは本當に親の知らぬ間に男の(95)友人らが加勢して、娘をつれて行つてしまふもの。一つは親がこちらに義理があつて、くれてやると正式にいへない時に盗まれたものなら仕方がないといふ形をとる場合、これは大阪には昔から例があつた。�ｺ川秀忠の娘千姫を、大阪城から救つた者に與へると約束しながら、後になつて千姫が救つてくれた坂崎出羽守の所に嫁がぬといふので、盗まれたことにして本多忠刻に嫁いだといふ話がある。そのため坂崎家は斷絶してしまつたほどである。このころからすでに「ぽおた」といふ言葉を使つてゐたらしい。もう一つは折口君の報告の「ボオタ」のやうに、支度のできないといふ經濟的理由のある時である。

　このうちの一つだけなら野蠻人でももつてゐるが、だん／＼に發達して、今のやうに貧しいのを隱すためとか、形式を略するためにするといふことまで變つてきたのは、婚姻史を書く上にまことに大切なことである。形は變らぬが、内容がすつかり異つてゐるといふことは、折口君の報告によつてはじめて氣づいたことだつた。

　人によつては婚姻史を仲人から書きはじめるものと思つてゐる人もあるがそれは間違ひではないかと私は思つてゐる。たゞ單に男女の間に約束をしてそれですんだ時代もあつたのである。

　

(96)　　　　　義太夫道�ｺの責任

　

　婚姻の歴史のことになるが、よく平安朝のころ、絹麗な娘の所へ夜通ふ、妻問ひの話がある。露見、古い日本語では「所あらはし」ともいふが「じつは貴方のお孃さんを私の家内にしてゐるんですからご承認を乞ひます」といふ挨拶があるまで、親は知つてゐながらじつは知らん顔をしてゐる。けれど待ちきれないで娘の所から他へ心を移したり、逃げてゆかぬやう、婿の穿いて來た草履を親が抱いて寢たりするまじなひさへもできてゐた。娘の所に通ふ婚姻は、兩方とも自由に決められて良い婚姻にはちがひないが、たゞ困ることは棄てつからし、男が浮氣者で「とがれ」すなはち離（か）れて來なくなることである。來なくなられては、娘が一人すたれものになるので、それを大變兩親が苦勞して、草履を抱いたりするまじなひが生れたのだつた。かういふ感覺は江戸のころの芭蕉の七部集などにもたくさん例がある。婿の方が威張つてゐて、そんな嫌なことをするなら今度こそ……といはれると、女がしいんとなつてしまふ。その氣持は現在まで續いてをり、親の壓制で結婚したとか、泣き泣き嫁入りしたといふことは、じつはありはしないのである。

　田舍でいつたん約束してしまつた以上、棄てたりすると男はその村にをることができないといふことが多かつた。村の人たちが良縁だと思へば思ふほど、つまり全體の者が承認してしまふと、それに叛いて他の女に手を出したりすると、村人の制裁を受けるのだつた。とくに女の努力が一人々々ではたいしたことはないが、集つた時は非常に大きな力になつてゐた。貴族のやうな狹い社會は動きがとれなくて別だが、普通の日本人といふものはやつぱり世論といふものが背後にあつて、これとこれなら良縁だといふやうなことを考へるわけである。かういふ事實を考へないで、(97)昔は親だけが勝手に決めて、泣きながら嫁《ゆ》くなんていはれてきたのは、かうしないとロマンスが面白くないから、王昭君の系統の話をつけて來たのである。それが常識となつてしまつて、今日のやうに以前の結婚を馬鹿にし、自由な婚姻制度を初めての獲物みたいに擔ぎ出すやうになつてしまつた。「親の許さぬ」などといふのは、みんな義太夫道�ｺがこしらへてしまつたもので、まつたく文學の罪といふの外はない。

　簡單に昔の日本人の生活は粗野であつたと片づけてしまふ人もあるが、婚姻のモラルにしても固い束縛があつたのである。かつて私は赤面したことがあつた。信州の諏訪からちよつと西へ入つた村のお爺さんに若い時の夜遊びの話を人を通じて聞いて貰つたことがあつたが、その答はじつに素朴で判り易かつた。一ぺん約束すればそれが女房と決つてゐたんだ、といふのである。今の私どもが考へてもちつとも差支へないモラル、つまり愛して、嫁に貰ふんだとか、貰つた以上は棄てないんだといふ考へ方が、古くからの日本には續いてあつたのである。このことを何かの方法で證明したいと思つてゐる。

　今まで學問は多く士族がしてをり、士族社會はその生活維持の必要からいつも嚴格な法則に支配せられてゐた。だから道�ｺが守られてゐるのは當り前だといふことになつてしまふ。かういふ社會ではなく、農村の自由な若者が春先なんか勝手に野原へ出てお互につき合へるにもかゝはらず、自身の判斷で亂れたことをしなかつたといふ點を考へてみる必要がある。

　

(98)　　　　　男蝶女蝶

　

　私が何故そんな結婚談をするか。じつは子供のころ、變り目の時に住んでゐて、よその人には氣のつかないやうな經驗をしてゐるからである。

　綿帽子をとつて初めて花嫁を知るといつたやうな婚禮に限つて儀式が非常に面倒臭いものになつてゐる。昔からさうではなかつたのだが私はまだ幼年時代に、そんな式に參加したことがある。三々九度のお酌をする役を私は二度させられた。男の子が五つで、女の子の方は七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はたゞお酌だけしてゐればいゝのに、男の子の方にはちやんといふべき言葉が決つてゐる。私はませてゐて、それがいへるといふので選ばれた。もう一つどんな使ひふるしたものでもいゝから袴を一つもつてゐなければならない。この二つの條件のために私は男蝶に選ばれた。

　式は子供にとつて大變むつかしかつた。二つの器に入つた酒を合せていつしよにして、またそれを分けてお酌の銚子二つに盛り分ける。それから盃の縁をコツン、コツン、コツンと三つたゝくやうにして酒をつぐ。すると新郎新婦がそれを飲んでしまふのだが、その時、島臺といつて卷スルメやなんか色々の肴がおいてある臺の上で箸をもつて左の肴を挾んで右へ、右のを左へちよつと移す眞似事をしながら「おさかなこれに」とその五つの男の子がいふことになつてゐる。だから私らの方ではその五つになる男の子の方を名づけて「おさかなこれに」行くといつたものである。女の子の方は長い袂の衣物を着て、黙つて坐つてゐればいゝ。男の方は「こゝにお肴がございます」といはねばならぬ。

(99)　儀式をなるべく嚴肅で、しかも簡單にすませて、後は滿座の人たちが酒盛りに入れるやうにしなければならないわけである。

　それに私は選ばれた。一軒は私のすぐ隣の家で酒屋であつた。娘がたつた一人しかなく、およりといつたが、家が俄か分限になつたので、二里ばかり遠くから又三郎といふ養子をとつたわけであつた。明治十二年の出來事である。その年のうちにもう一ヶ所、三木家の大東といふ新宅にお嫁さんが來た。お婿さんは私の兄貴の友人だつたから二十一か二であつたらう。そこへ姫路からお嫁さんが來たので、私が二囘目に選ばれた。何れも大成功だつたが、ご褒美に何をもらつたかそれだけはどうしても思ひ出せない。

　しかしそのときの光景は今でも婚姻問題を、日本婚姻史といつたものを書いて見ようと思つたりすると、いつでも鮮やかに描けるのである。兩方ともお酌がよかつたためか永續し、ことに第二囘目の三木家の方は奧さんなどかなり歳をとられるまで私の顔を覺えてゐられた。私が婚姻史を書く計畫はずゐぶん早くからあつたが、こんな經驗が隱れた刺激になつたことは疑へない。

　たゞ昔を半開時代とか、若しくは非常に亂暴な權力本位のものであつたといつて、古代人の心遣ひを計算に入れないのは非常に殘念に思つてゐる。昔の婚姻制度を無視して、たゞ士族流に解釋しようとしてしまふのは注意しなければならぬ。四民平等はいゝことだが、できるだけ士族を眞似しようとするのは良くないことである。昔の農民生活のよかつたことを反省してみる必要があるのである。

　

(100)　　　　　言葉と選擧

　

　ふだん使ふ言葉に、口語と文語のある國は隨分多い。今からざつと四十年ほどの前、私がジュネーブに行つてをつたころには、フランスあたりでもクラシックの教育といふものが殘つてゐた。クラシック（古典語）で學問しさへすれば、コモン（普通語）の教育はしなくてもよいといつた感じまで見受けられた。

　口語といぶのはもと／＼口で物をいふことなのに、日本でも演説になるとたちまち文語になるといふやうな、そんなバカげた理窟はない。昔宮崎縣の延岡に行つたとき、新聞取次店の亭主が「今日はこれから町會に行きますんで」といふ。どんな樣子かとついて行つたところ、この亭主が町會議員で、會場に入る途端に、言葉がすつかり變つてしまつた。同じ隣り同士の親父が家にゐるのとはまつたくちがつた、改まつた言葉づかひをしてゐるのにはびつくりした。と同時にあんなに情けなくかんじたこともなかつた。最近では東京の政治家の言葉はずつと易しくなつたとはいへ、いまだに田舍へ行くと一段と難しい言葉を使つてゐる。そして「煙にまく」、こんな失禮な話はないのである。普通の言葉で物をいふやうにしなければきく者はいつも頭の中で一度飜譯してから理解しなければならず、こんな無茶な話はない。たゞ演説をきいただけでは社會黨のだか自民黨か聞きわけることもできないほどむつかしい言葉を使つてゐる。この點をどうかしなければ、これから先もやつぱり制限選擧と同じことになつてしまふ。

　いちばん簡單な方法は、小學校教育のころから「分りません」といふことをいへる人間をほめてやるやうな教育法をすることだと私は思つてゐる。先生が何をいつても生徒の方は黙つて聞いてゐて、そのまゝ憶えなければいけないと思つて、左右を見囘してぢつとしてゐる、こんなけちな氣持をなくしてしまはなければならない。ことに傍聽人や(101)參觀人のあるときには、生徒が「分りません」といふのを極力抑へるやうな風潮、これを教師の中からなくすやうにしなければいけないと思ふ。

　もう一つは、世人も生徒と同じく、むつかしい言葉の演説を聞いた時には「分りません」といふ權利のあること。たゞ語尾だけを口語にして、中間にむつかしい漢語を入れてきかせるのはまつたく無茶な話である。これでは無茶苦茶なことをいふ候補者の中のどつちが正しいかを自分で決めることのできる人は、おそらく有權者の三〇％にすぎないであらう。隨つて選擧に際しても仕方なしに運動費をたくさん使ふボスをひいきにしてしまふやうになる。だから言葉を易しくするのでなければ、日本の選擧はいつまでたつても改良されないのである。だれにでも分る言葉で物をいふやうにしなければならぬ。それがためには、自分らの國語の歴史を調べ、そして普通の人の立場に立つて國語論をしてくれないと困るのである。

　ヒットラー・ユーゲントの來たときのことなど、今思ひ出すのは私ぐらゐしかあるまいが「どうしてかう日本人はみんな同じことをいふのか」といつてゐたといふのである。きまり文句の演説をきかされたからであらうが、日本人にとつて、痛い言葉である。

　

(102)　　　　　易しい言葉をふやす

　

　私たちの子供の時分は、ハト・ハタ・タコ・コマ・マリの教科書のもう一つ前のことであった。小學讀本の一の卷に「アジア人種・ヨーロッパ人種……」とあり、第二章は「魚を釣るには雨天の時をよろしとするか、しかり天少しく曇りて風なく、暖かなる日をよろしとす」といふもので、ウィルソンの飜譯をそのまゝ用ゐたものだつた。後にやさしくなつたとはいへ、高學年になるに從つて非常に難しくなり、おしまひには漢字を二字づゝつないで欣々とか喧々とかいふ言葉が生まれてきた。このやうに強い漢語を使はないと力がこもらないといふのである。それには新聞などの影響もあつた。

　お經なども、千部經といつて同じお經を一ぺんに千部讀んでもらふと功�ｺがあるといふが、これなど、どんな信仰の深い者でもぴんと理解されずたゞ調子だけしか頭に來ない。素讀もこれと同じだつた。私どもは今でも四書の大學や中庸ぐらゐは大體憶えてゐる。しかし、瑟夸《しつたり》、?夸《かんたり》、赫寄《かくたり》、喧夸《けんたり》なんといつても何のことだかまるで分らない。拗音とか、撥音とか、平素物を考へるのに使はないやうな言葉を使ひさへすれば、先覺であり、指導者と長い間思はれてきたのである。單に文語だけあるといふ蒙古語などとちがひ、日本のは明治になつてからかへつて漢語で物をいはないと相手が偉いと思つてくれないやうなことになつた。陳芬漢《ちんぷんかん》など陰ではよくいふが、こんな知つたかぶりをする奴を冷かす言葉は分つてゐても、陰でいふ人自身にもその中身はよく分つてゐないのである。

　伊藤仁齋先生が長屋に住んでゐるために、隣の長屋の井戸さらひに出掛けたといふ有名な話がある。先生はきつと長屋の人とつき合ふ時には、長屋の言葉で話してをられたのであらう。それがいかめしく「ご承知の通り」とか「皆(103)さんすでに知つてをられるやうに」とかいつて漢語を用ゐはじめたのは、明治時代である。だから明治文化の批判をする時にはまづこの點から入つてゆかなければならぬと思つてゐる。

　今の世の中でどういふ種類の者が一番易しい言葉を使つてゐるか、新聞も努力してゐるが、何といつても小説であらう。小説は他に效能は少ないけれども、この點だけは私らが憶えてからぐつと變つてきた。

　買ふ人が自由に選揮できるとなればやつぱり分りやすく書くからであらうが、新聞も努力してゐるが、なか／＼うまくゆかないらしい。例へば首くゝりといかにも下品に聞えるといふので、縊死と書かうとする。するとその縊の字が制限活字になつてゐるので「い死」と書いてすましてゐる。

　杉村楚人冠の「字だけ變つたつてだめぢやないか、その言葉があるんだから」といふ言葉を、私はいつも若い新聞記者に取りついできたが、口でいふ方には制限がないのである。これは困つたことで考へなければならぬことである。

　明治になつて、耳ばかりで覺えた漢語をたくさん使つてくれたのは、考へやうによつては有難いと思つてゐる。これは棄てずに殘しておいて、これに當る口語をふやして、日本語を豐かにしたいものである。

　日本の語彙は政治家が減らしつゝあるものを、小説家がいくらか増やしてゐる現?であるが、小説家には都會の中流以上の人たちが共鳴してくれゝばそれで賣り高が上るといふ考へがあつて、どうも田舍者を馬鹿にする傾向が多い。したがつて田舍の人は笑はれるのが厭だといふ感覺ばかりが先に立つて、人前で物をいひたがらなくなる。かうして半分は無口になり、半分は出鱈目になつてゐる。

　だから私はどうしても教員に呼びかけて、分らない時には「分りません」とはつきりいへるやうな子供をたくさん育てて、顔つきだけでもいゝから分らんやうな顔をさせる習慣をつけておき、話す者は分らん時はいひ方を變へてよく分らせるやうにする。これがいちばん自然の順序ではないかと思つてゐる。

　

(104)　　　　　方言その他

　

　廣島か山口か、どちらかで講釋をきかされたことがあつた。「私らの方では痛いといふ言葉が五つあります。例へばお腹が痛いときにはニガル、齒の痛いときにはハシルと申します……」といふ風に五つあるといふのである。これはあの邊の自慢話の一つである。そんなに使つてゐるのを東京できめた「痛い」にしてしまはれるから分らなくなり、仕方なしに顔つきをいろ／＼と變へてみたり、手をあててみなければ分らないわけである。日本には實際方言の變化が多い。一つの縣境を越えれば言葉が違ふし、同じ播州でも東と西とではもうちがつてゐる。かうなつてゐるのはやつぱりいひたいことをはつきりいひたいからであらう。言葉の專門家がこの點にちつとも思ひやりをしないで、表現論ばかり書いてゐるが、もう少し理解といふことを考へてほしいものである。

　方言といふものは今までにはどん／＼變つてきたが、もう變らないであらう。昔は藩主のお國替へによつて方言の交流といふことも行はれたことがあつたが、これは文化的に見てプラスであつたらうかといふに、必ずしもさうとはいへなかつた。つまりシュプラッハ・インゼル（言語島）になるわけだから、そこだけが變つて大勢には影響しなかつた。それに國替へをすると何處の言葉だか判らないものになつてしまふ。田山花袋なんかの言葉の中にも、たうとう死ぬまで文學の上に現はれてゐた方言があつた。あれは上州館林の人だつたが藩主の秋元といふ家は度々國替へになつて、もと山形にゐたのが館林に移つたので、田山の母君も山形で育つた人であつた。そのため田山君も館林の周圍ではいはない言葉を時々使つてゐた。例へば「居睡り」といふ言葉が東京にあるが、東北では「睡ッカケ」といふ。關東ではいはないのに田山君には自分の家で使ふので、それが分らず「ネムッカケ」といふ言葉を文學の上に書いて(105)ゐる。そんなことは注意すれば他にもあり、知らずに使つてゐていゝ言葉もあり、決して惡い言葉ばかりではない。

　私らはあまり使はないが、方言に對して標準語といふ言葉がある。共通語と今ではいふ樣だが、これはもつとふやさなければならない。共通語といひながらこれにもやつぱり降參する言葉と、降參させられる言葉といふことがある。

　またアクセントの問題もあるが、私はたうとう故郷を離れて七十年間、上方の方のアクセントですごしてしまつた。近ごろやつと判つたのに「月落ち烏啼いて」の「からす」がある。成城で朝早く外で人の話をきいてゐて、あゝ伊勢の香良州とか、九州の唐津とかと同じやうに發音すればいゝといふことがはつきりした。たうとう私も子供の時分に身につけたアクセントが一生なほらないらしい。ところがこのアクセントのない地帶が東北の大分廣い範圍にある。そこではどう使つても平氣である。日本語も結局それになりはすまいか。上方の方の言葉がこんなに關東まで有力になつて來てはさう思ふの他ない。

　

(106)　　　　　第二の濫讀時代

　

　下總の布川へ行つたのは明治二十年秋の初め、私の十三歳の時のことであつた。それから約二年の間、私にとつては一日々々が珍しいことばかりに思はれた。單に親元を離れ、郷里から遠ざかつてゐるといふだけでなく、來てみると醫者を開業してゐる兄は新婚だし、書生として、まるでわれ／＼と違つた代診とか藥局が三人ばかりゐるし、その上近所の人とは言葉が通じない、そんな?態であつた。こんな中で私はいろ／＼と新しい經驗をした。

　自分ではすつかり忘れてゐたが、布川の二ヶ年間、別れてゐた郷里の兩親にやたらに手紙を書いたらしい。二年後に親がやつて來ていつしよに住むやうになつたとき「お前少し嘘を書いてよこしたね」といはれた。いくらか親を面白がらせようとして文學的表現や誇張を用ゐたのかもしれない。例の二匹の狐と隣家の刀傷沙汰など、異常心理にかられたと見えて、非常に詳しく報告したのであつた。

　面白い二ヶ年であつた。淋しいことは淋しかつたが、誰も特別にかまつてくれず、しかも新しいものは見放題、ザクロといふものは酸つぱいものと思つてゐたのに、そこでは食べてみると甘いザクロがあつた。さういふ種類の新發見、子供に利害の深い新發見といふものが非常に多かつた。私は學校へ入らず、身體が弱いからといふので裸でどんなにとび歩きしても兄貴は一言も怒らないことに決めてあつたらしく、素裸で棒切れをもつてそこら中をとびまはつてゐる。それだけなら普通の惡太郎なのだが、歸つて來るとやたらに本を讀む、じつに兩刀使ひであつた。

　そのころ東京では、尾崎紅葉が硯友社の仲間といつしょに「我樂多文庫」といふ同人雜誌を出してゐた。四六倍判で十六號まで出た。江見水蔭はまだゐなくて石橋思案その他四五人の道樂者が集つてやつてゐた。明治二十一年のこ(107)とであつたと思ふ。例の狐事件の時に手頸を斬られた隣の小川の小父さんがそれをもつてゐて、私は子供のくせにその雜誌を見せてもらつてゐた。東京にゐる石合といふ學者が、どういふ知り合ひか、小川家に新しい雜誌ばかり送つてよこしたものらしい。

　それが見たいために、この小川さんを訪ねてゆき、傷をして退屈してゐる小父さんの讀み役をつとめてゐた。おそらくは上方訛で讀んだらうと思ふが、自分も樂しみ小父さんも喜ばせたものだつた。そのいちばん私の頭に殘つてゐるのが硯友社の「我樂多文庫」であつた。今日では珍本々々といつてゐるものを出た當座讀んでゐたのであつた。中には今考へて、本當に讀まなければよかつたと思ふくらゐに馬鹿氣たことも書いてあつたのを思ひ出す。あの時分はやつと坪内逍遙さんの「書生氣質」が世の中に認められはじめたころで「小説神髄」などは見てゐなかつた。

　もつと愉快なことには一方では、いちばん新しいはしりの文學に觸れたと同時に、一方では非常に舊式なものも讀んでゐたのである。兄貴の家には代診と藥局の書生たちがゐたが、その連中のとつてゐた雜誌は硯友社とは反對の側のもので、一つは「浮世雜誌」とかいつた惡いことばかり書いてあつたものと、今一つは「親釜集《おやかましふ》」といつて都々逸の流行に乘じて皆がその競爭をする雜誌であつた。花柳界のもので四六判の表紙に三味線の撥を描き、その中に「親釜集」と書いて、その脇に猫が聞いてゐる畫が描いてあつた。書生がそれをとつてゐたので、そこへ行つてかういふ花柳雜誌をよむ。一方では硯友社のはしりの文學や坪内逍遙の作に觸れる。どうも博識ならざるを得なかつたわけである。

　布川の小川氏に、東京からそのころとしては珍しい新刊書を送つてくれた石合といふ人は、幕末の有名な學者、田中江村の息子さんといふことであつた。名前はたしか「震」といふことだつた。小川家のどの代の人か知らないけれども、大變に學者を愛する人がゐた。田中江村が維新の際に行くところがなくて困り、この小川家に來て邸内に三間ばかりの長屋風の細長い家を建てて住んでゐた。江村が東京へ歸るときに、家をそのまゝ小川家に引渡していつた。(108)その家を私の長兄が利用したのであつた。幕末のころ江戸の周邊に縁故を求めて逃げてゐた人々が多かつたが、これもその一つで、幕末の裏面史としては哀れな話であつた。郷里から父がやつて來たころには、まだ戸棚の中に羽倉外記の文章なども殘つてゐた。石合震はこの田中江村の子供といふことであつた。私は子供のことで、どうも分らないでしまつたのだが、たぶんあの手頸を斬られた小川の小父さんにかなり世話になつたものと見えて怪我の見舞ひもよこすし、本や雜誌などもしよつちゆう送つてよこしたものらしい。隣りの小父さんの方では何を送つて來たつていゝんだと威張つてゐたが、ちやうど文學上にも新しい機運の向いてゐる時分で、まだ「都の花」などの出てゐないそのころに、退屈してゐるだらうからといつて新刊を後から後から送つてくるといふことは、よほどの熱心と親切とがあつてのことであつたらう。石合さんに子孫があるか、知らないが、いづれにしてもなか／＼できないことであつた。

　かうして新刊書を讀む一方「親釜集」なども讀み、その上東京にゐた次兄が、自分の讀んだ本をよみきれないくらゐたくさん送つてくれた。歌集などが多く、いくら讀んでもさし支へのない本ばかりであつた。縣居の門下のものの著書とか、村田春海の歌集、千蔭の歌集など、どうしてそんなにたくさんの本を送つてくれたか、どんな方法で送つてくれたか憶えてゐないが、ともかくついでのある毎に送り屆けてくれるのであつた。讀書力のついた子供に、こんな古典ばかり送つて知識欲を塞いでおかうとしても無理である。こちらはもつと事實が知りたいのだから送つてくれたものは全部讀んでしまふが、それだけでは物足りない。他のものも獵《あさ》つて讀んでゐた。學校へ行かなかつたからいくらでも時間がある。兄の方ではこつちに引張りつけようと努めてゐたのだらうが、私の方ではむやみにいろ／＼のものに目を通してゐた。後に兩親が來てからはまるで形勢が一變してしまつた。やかましいことばかりいふものだから、私もだけれど、長兄も大變緊縮してしまつた。

　この二十二年の秋までの二ヶ年といふものは惡いこともいろ／＼おぼえたけれども、何だか自然の生活といつたものが分つたやうな氣がした。

(109)　考へてみれば播州の三木家についで布川の小川家は第二の濫讀時代を私に與へてくれたのであつた。

　

(110)　　　　　北齋漫畫のことなど

　

　次兄が私に歌の本を送つてくれたやうに、私は播州に殘つてゐた末弟の輝夫（後の映丘）へ錦繪などを送つてやつたことは前にも記したが、弟はそのころ立場《たてば》に憩ふ人力車の背後の武者繪などで、繪畫への興味をもちはじめてゐたらしい。弟が兩親といつしよに布川へ來てからと思ふが、いつしよに北齋漫畫を見たことを、今もはつきり思ひおこすことができる。あのころとしてはずゐぶん高い本であつたが、金はいつも兄から貰つて買つてゐた。葛飾の北齋が浮世繪をあまりたくさん描きすぎて何かもつと民間の生活と交渉をもちたくなつた。それでその繪の手本に描いたものとか、慰みに描いたものとかを集めて、北齋漫畫といふ名にして出版したのである。十五册出てゐるが、じつに面白い本であつた。

　十二册目がとくに面白く、これは本當の漫畫集であつた。どこも笑はずにはゐられないやうなをかしい繪ばかりが集められてゐるのだ。例へばある八卦見が、頭巾を冠つて仔細らしくしてゐる人相見なのだが、それがもつともらしい顔をして、天眼鏡をかざしてゐる。その向ふに綺麗な女の人がゐて、その美しい顔だけが大きく擴大されて寫つてゐる。そんな馬鹿氣た繪ばかりがいつぱい集められてゐた。今でもどこか圖書館には保存されてゐるであらう。私などその話をするだけでもをかしくなつて仕方がないほどである。

　この北齋漫畫は幕末の混亂期を經たにもかゝはらず、偶然にも名古屋にその版下が殘つてゐたのが發見せられた。東碧堂、片野といふ本屋で、後にはいろ／＼の本を出したが、こゝに原版が全部殘つてゐたので、もとの體裁でわりに安く賣り出したことがある。たしか明治も二十一年か二年であつたから、もう版はなくなつてしまつたかもしれな(111)い。　本はたくさん讀んだが、不思議に私の家は本の少ない家であつた。知らない所に置き所があつたんぢやないかと思ふほどで、父が一生本を讀んで暮した家としてはどうも合點が行きかねる。次兄の養家先井上の家に預けてあつたことはあつた。

　東京へ移住してから播州の井上家にいつた時、確かに松岡の藏書といふのが一と本箱あつたのを見た覺えがある。曾祖父・祖父母の本で、手控へのやうなものも交つてゐた。その中にちよい／＼もつて歸りたいものもあつたが、旅先だつたのでそのまゝになつてしまつた。

　今でも殘念に思ふ本の一つに、曾祖父が自分で書いたと思はれる診斷書の書物があつた。舌ばかりを一枚に九ツづつ描いたのが何枚もあつて、この舌をした人はかういふ兆候だといふことが一々書いてあつた。昔の醫者は舌による診斷が大變進んでゐたらしい。井上の兄は自分の書物を大分送つて保存させてゐたから、松岡の藏書もいつしよになつてゐるかと思つたりしたが、その次に行つた時にはもう見えなくなつてゐた。

　私が少年時代に濫讀させて貰つた辻川の三木家の藏書は美本ばかりで、ちよつとでも痛みさうなもの、けばだつたものなど、直ぐに手當がしてあつた。あれくらゐ持主の愛情のこもつた本も珍しいが、今はどうなつたであらうか。

　

(112)　　　　　最初の文章

　

　私が布川や布佐にゐる間に、利根の川筋はどん／＼變つてきた。白帆をかけた川船が減つて、川蒸汽がずん／＼通るやうになつてきた。川船は昔は米運びをして關宿まで上つたものだつた。ずゐぶんえらい話で、銚子からだと二十五里はあるだらう。關宿まで上つてから今度は江戸川へ入つて、それを下り市川の近くまで來て、それで横堀に入り隅田川につながるといふわけだつた。

　ところが川蒸汽が出來たので、上へ行つてから下へ戻つて來るのが馬鹿氣てゐるものだから、利根川と江戸川との近よつた三角の狹い所に切り通しを作つて、往復できるやうにした。十分に利用できるまでにならなかつたが、私はそのコースを通つて東京に出て來たのである。利根川も江戸川も兩方とも外輪船がその運河の近くまで來て停つてしまふ。お客は土手の上を一里あまり歩いて連絡し、向ふ側に待つてゐる川蒸汽にのるといふわけであつた。さうかうしてゐるうちに汽車が出來て問題はなくなつたが、この利根川の川蒸汽といふのはをかしなものであつた。

　「利根の夜船」といふ文章を書いて「帝國文學」にのせたが、あれはたしか私の文章を發表した初めであらう。その前に?外や次兄通泰などの「しがらみ草紙」に書いた時はまだ十四、五歳で「秋元安民傳」といつて、姫路のいちばんの歌人の傳記といつしよに歌を出したと思ふ。それにその時は父がちよつと手を加へてくれてあつた。

　私の幼い時書いたもので一つだけ奇拔な、文學的なものがある。姫路のお城の話で、父から聞いて非常に感動させられたものである。それをあのころ行はれてゐた雅文體にして書いたもので、原文は見當らないが、こんな話であつた。

(113)　姫路のお城の中にある松の木に鶴が一｜番《つがひ》巣を作つてゐた。よく見ると一羽の鶴が病氣になつてちつとも動かない。それは牝鶴らしく、もう一羽の牡鶴らしいのが度々巣を出て行つては歸り、歸りしてゐたが、そのうちいつの間にかたうとう出て行つたきり歸つて來なかつた。「やつぱり鳥なんていふものは仕樣がないものだ、いくら仲が好くても……」こんなことを人々はいつてゐたさうだ。ところが殘つて臥てゐた方の牝らしい鶴が木から落ちて死んでしまつた。と、その後へもう一羽の鶴が歸つて來た。そして巣に牝鶴がゐないので大きな聲で啼いたといふのだ。そして口から何かを下の方へ、落してしまつた。それを誰かが拾つてみたら朝鮮人蔘だつたといふ、悲しい物語であつた。

　何だかあまりよく出來すぎた話だけれども、非常に感激して歌を詠んだのをよく憶えてゐる。十五歳の時の歌で、

　

　　　いく藥求めし甲斐もなかりけり常磐の島を往き來りつゝ

　

といふのであつた。「いく藥」といふ言葉はよくあるが、つまり活く藥、すなはち良藥のことである。その歌が賞に入つてこれはいゝ歌だなんていはれたのが嬉しかつたので、物語も書いたものらしい。これがおそらく私のいちばん早い文章だつたかと思ふ。

　あんな話は嘘だと思ふが、私は姫路にゐなかつたのにかゝはらず、さういふ話をたくさん聞いてゐた。鶴の話は父から聞いたやうに思ふ。

　

(114)　　　　　ある神秘な暗示

　

　布川にゐた二ヶ年間の話は、馬鹿々々しいといふことさへかまはなければいくらでもある。何かにちよつと書いたこともあつたが、こんな出來事もあつた。小川家のいちばん奧の方に少し綺麗な土藏が建てられてをり、その前に二十坪ばかりの平地があつて、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠の新しいのがあつた。聞いてみると、小川といふ家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して來た偉いお醫者さんであつた。その人のお母さんになる老媼を祀つたのがこの石の祠だといふ話で、つまりお祖母さんを屋敷の神樣として祀つてあるわけである。

　この祠の中がどうなつてゐるのか、いたづらだつた十四歳の私は一度石の扉をあけたいと思つてゐた。たしか春の日だつたと思ふ。人に見つかれば叱られるので、誰もゐない時恐る／＼それをあけてみた。そしたら一握りくらゐの大きさの、じつに綺麗な　　蝋石の珠が一つをさまつてゐた。その珠をことん〔三字傍点〕とはめ込むやうに石が彫つてあつた。後で聞いて判つたのだが、そのおばあさんが、どういふわけか中風で寢てからその珠をしよつちゆう撫でまはしてをつたさうだ。それで後にこのおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいゝといつて、孫に當る人がその祠の中に收めたのだとか。そのころとしてはずゐぶん新しい考へ方であつた。

　その美しい珠をそうつと覗いたとき、フーッと興奮してしまつて、何ともいへない妙な氣特になつて、どうしてさうしたのか今でもわからないが、私はしやがんだまゝよく晴れた青い空を見上げたのだつた。するとお星樣が見えるのだ。今も鮮やかに覺えてゐるが、じつに澄み切つた青い空で、そこにたしかに數十の星を見たのである。晝間見え(115)ないはずだがと思つて、子供心にいろ／＼考へてゐた。そのころ少しばかり私が天文のことを知つてゐたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知つてゐる星ぢやないんだから、別にさがしまはる必要はないといふ心持を取り戻した。

　今考へ直してみても、あれはたしかに異常心理だつたと思ふ。だれもゐない所で、御幣か鏡が入つてゐるんだらうと思つてあけたところ、そんなきれいな珠があつたので、非常に強く感動したものらしい。もしもだれかそこにもう一人、人がゐたら背中をどやされて眼をさまされたやうな、そんなぼんやりした氣分になつてゐるその時に、突然高い空で鵯がピーッと鳴いて通つた。さうしたらその拍子に身がギュツと引きしまつて、初めて人心地がついたのだつた。あの時に鶴が鳴かなかつたら、私はあのまゝ氣が變になつてゐたんぢやないかと思ふのである。

　兩親が郷里から布川へ來るまでは、子供の癖に一際違つた境遇におかれてゐたが、あんな風でながくゐてはいけなかつたかも知れない。幸ひにして私はその後實際生活の苦勞をしたので救はれた。

　それから兩親、長兄夫婦と家が複雜になつたので面倒になり、私だけ先に東京に出た。明治二十四年だと思ふが三年かもしれない。二番目の兄が大學の助手兼開業醫になつてゐたので、それを頼つて上京した。そしてまた違つた境遇を經たので、すつかり布川で經驗した異常心理を忘れることができた。

　年をとつてから振り返つてみると、郷里の親に手紙を書いてゐなければならなかつたやうな二ヶ年間が危かつたやうな氣がする。

　

(116)　　　　　大塚戸の花火

　

　布川へ兩親が來てからしばらく後のことであつた。布川の宿といふ所の利根川べりに空家を見つけて、兩親と私達小さい者がそこに移り住むことになつた。

　關東は花火の流行時代であつたが、布川から利根川を八、九里上つたところに、大塚戸といふ村がある。じつに淋しい村であつたが、どういふものか花火の大會だけは毎年愉快にやり、そのために人がうんと集つた。花火だけを見に行くのでなくて、途中で羽目を外して遊ぶために集るのだつた。村によつては若い者はいやがつて行かないで、齡とつた爺さん、婆さん連中が村から町から一船仕立てゝ出掛けて行くのであつた。

　花火大會だから見てゐてちつともさし支へはないはずである。しかし隣近所をよく見ると、近くで見る人、遠くで見る人、みんな臥てゐるのである。風俗壞亂おかまひなしである。

　そんなところへ、私はたゞ何となくみなが行くといふのでついて行つた。親も郷里から來たばかりで何も知らなかつたもので、もしも知つてゐたらいけないといつたに違ひない。船の往き歸り、向ふでの亂雜さなど、とんでもない印象をうけて歸つて來た。

　もうよく憶えてゐないが、林の眞中に御堂がある。信心のあついものはすぐ堂の近くに行つてゐる。しかしその他の連中は、林の外側か、廣い林の中かを男女みな相携へて暗い所を歩いてゐるのであつた。さういふ光景に吃驚《びつくり》して歸つて來たことを覺えてゐる。大塚戸の花火としてよりも異樣な光景の方が印象に殘つた。

　その後あれはどうなつたらうか。人に聞くのもきまりが惡いから、聞いたことはないが、今でも大塚戸の花火はど(117)うなりましたかと聞いてみたいくらゐである。そのころは花火のはじめなのであまり外では見られなかつたらしい。川船といふものも、その時はじめて乘つたのでたゞ／＼驚くことばかりであつた。

　そんな行事の影響であつたか、あるいは別々に起つたのかしらないが、その時分に念佛講といふものが非常に流行つたものである。どこの家でも喧しいお爺さん、お婆さんはことに片親になつてしまふと世間の者が勸めて念佛講に入れる。酒は朝から飲めないが、賑やかにお茶を飲んでしやべつたり、わづかな小遣で手をたゝいたり何かして歌つてゐる。老人處理法として極上のものである。それが花火でも見に行かうといふ計畫をする策源地になつてゐた。その景色は郷里の播州あたりでは見られない、下總あたりに殘つてゐる荒い生活の姿であつた。長塚節の「土」みたいな生活からにじみ出たものである。

　私の一家もそんな生活を一通りは經たにしてもさう深くは入らなかつた。あまり遠くに出たこともなく、筑波山なんかも東京へ出てしまつて、高等學校の學生になつてから、はじめて登つてみたやうなわけであつた。

　

(118)　　　　　大利根の白帆

　

　布川といふ町は、利根川沿ひの一つの高臺のまはりに發達した所であつた。長兄の借りてゐた小川さんといふ昔のお醫者さんの家も、やはり高臺の裾を囘つた片側町の東町　　字東といふ、寂しいけれど興味のある部落であつた。非常に大きな邸で、庭にいろ／＼の木が植ゑてあり、石の乏しいその地方としては珍しい飛び石が百をもつて數へるほど置かれてゐた。

　利根川の流れに沿つて出來た村でありながら、丘陵の裾を囘つてのぴてゐるので、いつの間にか家竝が川から離れて直角に東の方を向いてしまつてゐた。ところが利根の流れがやはりそこで屈曲して、やゝ東北に向つて流れてゐるので、川は私の家から遙か半里以上も離れた遠方にあり、直接には見えなくなつてゐた。途中には低いしめつぽい、排水の困難な水田が一里ばかり續いて、その左向ふ側に羽中《はなか》といふ村があつた。布川から見渡すと手前の方にかなり背の高い松をたくさん植ゑてゐる家竝が續いてゐたが、そこからちよつと外れると、向ふ側はずつと松が低くなり、草つ原に近いやうな低い松林に續いてゐた。

　布川に行つて二、三日目に私はその低い松林の上をだしぬけに白帆がすうつと通るのを發見した。初めは誰かが帆のやうなものをかついで松林の向ふを歩いてゐるのではないかと思つた。何しろ船も見えず、そこに川が流れてゐることも知らなかつたからである。水害の多い所だから出來たのだらうが、その川の屈曲してゐるところに、約一里ほど長い中の島が、かなり急流に洗はれながら横たはつてゐた。布鎌《ふかま》といつて、初めはむろん砂つ原だつたのだらうが、地味が豐かなので誰かが行つて畑作開墾をやり、そして松を植ゑたらしい。そこへ屋敷が出來、部落ができた。茨城(119)縣側から見てゐると、手前にある松林と向ふの中洲の松原とが一つの地續きになつたやうに見えてゐた。その陸地續きに見えてゐる間を白帆がいくつも通つて行くのを見たのだから吃驚したのも無理はない。利根の川口から十七、八里も溯つた所の松原の上を、そんなふうにして白帆が三分の二ぐらゐ姿をあらはしながら上下してゐる。

　これほど變つた景色を私は大きくなつてからも知らない。郷里の辻川は海から三、四里しか離れてゐないが、それでも海を見、船を見ようとすれば、かなり高い山の上に登つてちらつと眺め、「あゝ海が見えた」といつて喜ぶくらゐのものであつた。今までつひぞ白帆など見たことのなかつた私にとつてこのやうに毎日、門の前からほんの少し離れたところを何百といふ白帆が通るといふのは、本當に新しい發見であつた。それが子供の私にとつて非常によい刺戟となり、私が風といふものを觀察し、その名稱や方向に特別の興味を引かれるやうになつた一つの原因のやうに思はれてならない。

　

(120)　　　　　イナサ（東南風）

　

　利根の川口から十七、八里も上つた布川の邊を、白帆をはつた川船がひんぴんと通る日の風は、あの附近ではイナサと呼んでゐた。「良いイナサが吹く」といへば、風が海の方から吹いて來ることを指してゐたのである。私はイナサといふ風の名を初めて耳にした時、非常に深い印象を受けた。それからこの方イナサといふ言葉をきくといつも布川のころの少年の日を思ひ出す。

　東京でももちろんイナサといふ。例へば「今日はイナサが強いから火事が大きくなる」などといつて心配するのである。大體は海からの東南風の意味だが、もう少し幅が廣い風らしい。帆といふものは、眞正面の風だけでなく、いくらか紐とか綱で自由に加減しながら、少しぐらゐ正面から外れた風でも帆にうけて溯れるものである。つまり眞東南だけでなく、その南側に少し外れた左右の風も含めて廣い東南風をイナサといふのである。

　イナサのイナといふのは萬葉集など古い書物にたくさん出てくる海原《うなばら》、海神《うながみ》、海界《うなさか》などといふ海の古語、ウナがイナになつたもので海のことである。關東の平原などではもう風の名にしかこの言葉は殘つてゐない。イナサのサは風のことである。すべて風にはキとかシとかチ・サなどがついてゐるが、みな風のことである。

　土地の者はもちろん古い言葉だといふことを知らずに、東南から吹いて來る風をイナサと呼んでゐた。このイナサといふ風の名前を使ふ區域はなか／＼廣い。たゞ北はさうひろくまで行つてゐないやうだ。西の方は思ひの外ひろく、四國の土佐、九州の日向の海岸の一部でも聞くことができる。大體において海を南にする地域に行はれてゐるのである。

(121)　子供の私が大利根の白帆に驚き、イナサの名に強く心をひかれてから、その後少しでもこれに似よつた言葉があると、すぐ結びつけて考へるのが常となつた。しかし一歩進んで沖繩にも類似の言葉があつたらと思ひはじめたのはさう古いことではない。といつてももう二昔も前のことになるが、沖繩にヨナミネとかヨナウタ、ヨナバラ等ヨナといふ言葉がたくさんあるが、あれが海といふことではないかと思ふやうになつた。所によつてはイナミネなどといつてゐる所もあり、稻といふ字を書いたのもあるから、まだはつきりしたことはわからないが。

　けれども少なくとも沖繩で「物いふ魚」として傳はつてゐるヨナタマといふ魚の名のヨナは、ウナ・イナの關連から海のことではないかと思ふ一つの資料を提供してくれる。この話はちよつと面白いので次囘にのべるが、ヨナタマは海靈のことなのである。

　とにかく私がイナサに近い發音の言葉を見ると、いつでもパーッと利根川の白帆を思ひ出し、それからまた似たものがどこかにないかと探し出したりする習慣は、明治二十年九月、布川に移り住んだあの時に身につけたものであり、それがずつと今日までつゞいてゐるのである。

　

(122)　　　　　ヨナタマ（海靈）

　

　ヨナタマの話といふのは、魚が人語をしたといふ話の一つで、沖繩だけでなく、こちらでも形を變へてあちこちに傳説として傳はつてゐる。沖繩では昔からシガリナミ（海嘯）の記憶が強いためか、この話が大海嘯《おほつなみ》に結びついて殘つてゐる。本島にも宮古の離島｜來間《くるま》にも殘つてゐるが、その中で有名なのは「宮古島舊史」に記録されてゐる話である。

　昔、伊良部島の下地といふ村の者がヨナタマといふ魚を釣つた。この魚は人のやうな顔をもつた魚で、よくものをいふ魚だと傳へられてゐた。漁師はあまり珍しいので、明日まで保存して人々に見せて樂しまうと思ひ、炭火をおこしこれを灸つて乾かしてゐた。ところがその晩おそくなつてから隣家に母親と泊つてゐた子供が、急に大聲で泣き出して、どうしても伊良部村へ歸らうといふ。夜半だからといつて、母親がいろ／＼となだめすかしてもいつかうにきかず、ます／＼泣き叫ぶのだつた。仕方なく、母親は子供を抱いて外に出ると、どうしたことか、子供がしつかりと母親にしがみついてふるへてゐる。母親もどうしたのかと怪しく思つてゐると、遠い沖の方から、

　ヨナタマ、ヨナタマ、どうして歸りが遲いのか

といふ聲が聞えて來た。すると隣家の炭火の上で背中を灸られてゐたヨナタマが、

　今、炭火の上にのせられて半夜も炙り乾かされてゐるのだ。早く迎へをよこしてくれと答へてゐる。これをきいて母子は吃驚仰天し、恐ろしくなつて伊良部村に歸つた。翌朝、昨晩の村へ行つて見ると、一夜のうちに大海嘯にのまれて村中跡形もなく洗ひつくされてゐた。母子だけはどういふご利益があつたかその災難(123)を免れたといふ話である。

　ヨナタマの罰を受けて村中が流されてしまつたといふのは、ヨナタマは海靈ですなはち海の神の罰を受けたといふことで、このヨナタマからヨナが海といふ言葉と同じではなからうかと思ふのである。

　布川附近のイナサの風は、利根川の平和な時には船に帆風を與へて、幾艘となく白帆がのぼつてゆくが、春の雪解けのころになると、上州越後の山々に吹きつけて、山の雪をとかし利根川の大水となり下流の人々を脅かしてゐた。かういふ例は他にはないやうに思はれる。そのためか、布川のやうに陸地の方しか知らない農民までがイナサの風を知つてゐたのである。

　日本の文化の移動は、陸地を歩いて北の端まで行つたやうに考へる人もあるが、昔の日本は山が嶮しく陸路の交通は困難であつた。事實日本海側の海上交通は早く開かれて津輕海峽を通り越し、少し太平洋側に出てから、東側を北に上つて來た文化と出會つてゐるのである。このやうな古い日本文化の移動の跡を知るには海岸の研究をしなければならず、それには風の名前から入つてゆくのがよいと私は思つてゐる。

　

(124)　　　　　ナライの風・ダシの風・アイの風

　

　風の名稱にはまだいろ／＼ある。

　ナライといふのがある。これはどちらかといふと太平洋岸の東京、神奈川など狹い區域で使用され、西の方ではあまり聞かない。北から吹いてくる寒い風のためか、船方でない者もよく知つてゐた。

　それから日本海岸に春から夏にかけて吹く風に、ダシといふのがある。海岸線に直角に陸地から沖へ吹く風で、ダシといふのは船を出す意味だらうと思ふ。

　もう一つ面白いのはアイの風といふのがある。これは萬葉集などにも「安由之加是《アユノカゼ》」と卷十七、大伴家持の歌なんかにたくさんあつて現に越中はもちろん、ずつと北の先までこの名稱がある。これは海から陸に向つていろ／＼なものを打ちつけて來る風で、ダシとは反對の風である。アイまたはアユといふが、なぜアユといふのかよくは分らないが、ごちそうすることをアユルといつた。饗應の饗をアエと訓む、あれと同じではないかと思ふ。海がいろ／＼の珍しいものを打寄せることをアユまたはアユルといふやうな用語があつて、それを約束する風であるゆゑにアユの風と名づけはじめたのではないか。風の名もたしかにヤ行である。

　福井縣に武生《たけふ》といふ大きな町がある。昔はこゝに國府《こくふ》があり、越前の守がゐた。陸奧口《みちのくち》といひ、日本海岸の旅路のとつかゝりであつた。催馬樂《さいばら》に有名な歌が殘つてゐる。

　

　　　みちのくち、武生の國府《こふ》に我ありと、親には申したべ、心あひの風や　さきむだちや

　

(125)　遊女の、私の生國は何處、などとよく使ふ感情であるが、いたつて分りやすい歌である。

　

　　　心あひの風よ、親にいつてくれないか、私は越の國の武生の國府にゐて難儀をしてゐるから、その風があつちへ行くのなら親に報せてくれ

　

　この歌のあひの風はハ行になつてゐるためにお前の心と私の心が合ふといふ風に解釋されてきたが、やはりもとは饗の字に當るアユ・アイと同じ、たよりをもたらす意味だつたのである。この風が吹けばうれしいことばかりで一方では船が入つて來る、砂濱にはいろ／＼の物が吹き寄せられて生活をうるほしてくれる、人々の喜ぶ風だつた。

　私も二十一歳の時三河の伊良湖岬に一ヶ月滞在して、風の吹いた翌朝など椰子の實や藻玉を拾つたことがある。島崎藤村の長詩「椰子の實」はその時の私の土産話を材料にして作つたものであるが、あの邊から伊勢灣にかけては漂着物が大變に多いところである。伊勢灣の突きあたりの愛知郡は舊くは年魚市潟《あゆちがた》といつて、楊貴妃や徐福までも漂着したと傳へられるほど、遠くから種々のものが流れついたのであつた。あゆは日本海側できくアユの風のアユと同じ意味であらうし、チは風のことでつまりごちそうをもつて來る風といふ意味であつた。

　このやうにアイといふ言葉は日本海側だけでなく、太平洋岸でも有名なアイチの名を殘してゐるほどで、この風がなかつたら日本の本當の文化は進まなかつたのではなからうかとさへ思はれる。昔は漂流物の拾得は今よりはるかに大きな生産事業であつたに違ひない。外國の嶽問を手本にとるといつて海岸のない國の人間の考へてゐることまでをウのみにし、いつしよになつて考へることは、海に住む國民として反省しなければならないことである。

　

(126)　　　　　海のロマンス

　

　日本の自然史を調べ、日本の國土の歴史を考へるとき、昔からこれを豐富にして來たものは、何よりも風と潮とであつたことをしみ／”＼感じるわけである。定期風が吹く、それ以外にも強いの、弱いのさま／”＼の風が海と陸とに吹きつける。潮流がたえず海岸を洗つてゐる。この國土は年百年中風と潮とによつて鍛へられて來たわけである。

　播磨灘を出て瀬戸内海を旅してみると、波打際まで木が生えてゐる島などがあつて、本當に昔がなつかしく偲ばれるのである。崖が崩れてゐれば崩れた際まで草木が青く茂つてゐて、もし何かのはずみで海に流れ出るとそのまゝ流木となつてしまひ、しまひにはどこかに漂着する。流木といへば紀州の沖でも、山形、秋田あたりの沖でも聞く話だが、何年かに一遍ぐるつと囘つて來る流木があるといふ。年經てまはりに苔や藻が生え、それに小さな魚などがびつしりとついてゐる。小魚がついてゐるためか、それをまた鰹などの大きな魚の群が後から後から追ひかけてゐる。何處にも漂着しないらしく、たしかにあの木にちがひないと思ふ流木を見かけるといふ話であるが、この話など風と潮流の生んだ日本の海岸の一つのロマンスであらう。

　かういふ風や潮流に關係深い日本の平民生活の歴史を書くのには、どうしても本島だけでなく、小さな島々、例へば鹿兒島と奄美大島との間にある川邊十島などといふ小さな島のことなども調べてみなければならない。

　島とは名ばかりの、何にも生えない所で、人々は朝起きると必ず一ぺん島の周圍を見てまはるといふ所がある。親代々の一つの習性となつて朝毎に寄り物を探してゐるのである。たまには椰子の實なども流れついたこともあるらしく、琉球などでも貴重なものになつてゐる。よほど遠くから來るのであらうが、椰子の實の流れる區域はずつと北の、(127)津輕海峽に流れついたことも記録に殘つてゐる。南の方では長崎縣のある有名な漁港で海底が淺くなつて困つたことがある。よく調べてみるとどこからか珊瑚礁のかけらが潮で運ばれて來て、少しづゝ溜つて港を淺くしたことが解つた。

　たんにイナサといふ風の名だけをみても、關東や四國、九州、沖繩とで共通に用ゐられてゐる。私は今、このイナサが不思議な力を働かせて、昔から海を大事にして來た日本人の信仰をかたちづくつた痕跡が窺へるのではないか、とそこまで考へてゐるのである。

　歐米人は沖繩とこちらと言葉が耳できいてあまりに違ふのでながい間別の人種だと思つてゐたらしい。シナでもしきりにさういつて沖繩を自分の方へ引き寄せようとし、あれはシナの領土だからといつてまるで東南アジアの諸國と同じに考へてゐたらしい。私は早くから日本と一體であることを知つてゐたが、證明がどうも容易でなかつた。ところがごく最近になつて言語學の權威ある學者が同じだといひ出しはじめたのである。沖繩でも那覇とか首里といふ中心地は朝鮮やシナと交通したため、複雜になつてゐるが、沖繩本島でも邊鄙な所とか、小さな離島に行つてみれば、日本語の元の發音のまゝの言葉を保存しつゞけて使つてゐる所がある。

　惡い癖で日本人は田舍のものを粗末にしやすいが、じつは邊鄙な所のものが大事な參考になるのであり、平素の言葉や習俗が注意すべきものをたくさん含んでゐることを忘れてはならない。私は十三歳の時、初めてイナサに吹かれて一日に何百も利根川を上つてゆく白帆を見たとき、本當に廣い世の中を見たといふ氣がしたのである。

　

(128)　　　　　木地屋のこと

　

　ふるくから山奧の原始林地帶に入つて、木地の材料を求め、これに加工していろ／＼の木器を造つて里に出してゐた木地屋の生活には、われ／＼として研究すべきものがたくさん含まれてゐる。小倉とか小椋、大藏など、ヲグラといふ言葉は、私は山上の「小暗き所」といふ意味だらうと思ふが、かういふ苗字や地名は大體においてこの木地屋に縁由《ゆかり》のあるものと見ることができる。近江の君ヶ畑や蛭谷などを心の故郷としたこれら同業の人々は、近江、伊賀、伊勢はもちろん、北陸にも東海にも東北にも、また中國から西國の果ての九州の島々にもいたるところ、その足跡を殘してゐる。

　田中長嶺の書いたものとして世に知られる「小野宮御偉績考」なども木地屋についての問題を扱ひ、遠く南北朝の時代にも溯らうとする面白い試みの一つであるが、何分にもその基になるものが全部近江蛭谷に傳はる作りごとから出發してゐるので、信用いたしかねるのである。本の出來た年代にしても、私がこの事柄をいひ出したときよりは、やつと十年前ぐらゐしかさかのぼれないのである。收録されてゐる古文書の寫しなども、太閤時代の長束《ながつか》正家といふ人に關するものなどは、本物らしいが、他はどうも疑はしいものが多い。

　しかし木地屋そのものは、なか／＼興味のある問題をもつてゐる。播州西部の谷間でも話にきくし、但馬、丹波から丹後、越前あたりにかけてもその擴がりが認められる。

　全國の木地屋の總元締と傳へられてきた近江の木地屋も、愛知《えち》郡の蛭谷や君ヶ畑、犬上郡の大君《おほぢ》ヶ畑《はた》など、それぞれの系統があつたらしい。しかもこゝでは寛政、享和のころにはすでに木地の材料がなくなつて、たゞ諸國に散らば(129)つてゐる木地屋を糾合するだけだつた。木地屋の系統といへば、私は面白いことから近江と他の地方とのつながりを知つたことがある。

　明治四十年前後、私が内閣の役人をしてゐたころ、賞勲局に横田香苗といふ人がゐた。彦根藩士で、名家の出で學者でもあつた。もと警視廳の捜査係をしてゐたこともある。他のことではあまり冗談もいはない人だつたが、この人の話に、維新前、今の日比谷に彦根藩の邸があつて、そこに一人、近江犬上郡｜大君《おほぢ》ヶ畑《はた》の木地屋に關係のある者がゐた。いつも道樂をして金が足りなくなると箱根の木地屋に行つて僅かだけれど借りて來たといふのである。つまり箱根の木地屋が大君ヶ畑の系統であつたからといふ話であつた。

　箱根の木地屋は一時寄木細工などをしてゐたが、やがてこれでは手數がかゝるので、それも廢れてしまつた。明治になつて山林を自由に伐ることができなくなつた木地屋は大體二つに分れてしまつたやうである。まづ少し有能の士は里に降りて來て木地の卸賣をし、方々と連絡をとつて大規模な生産や供給をした。次に能力の乏しい方は、コケシなどを造るやうになつたのではなからうかと考へてゐる。

　私が近ごろまた木地屋のことに興味をもち出したのは、民族の國内移動といふことを調べるのに、この山間を漂泊した木地屋などは最もよい例だと思ふからである。

　

(130)　　　　　木地師の葬法

　

　明治四十四年、私は岐阜縣にゆき、木地屋の話をきゝながら歩いたことがあつた。郡上《ぐじよう》八幡に出て一泊した時、郡長が來て、私は警察上りで木地屋の山荒しにさん／”＼閉口した苦い經驗をもつてゐるといひながら、こんな事件の話をしてくれた。

　伊勢の宮川の下流で警察署長をしてゐた時に、ずつと上流のところで、アンベラのやうなムシロに包んだ死骸が一つ出て來た。上手に絡めてしばつてあり、そこに一つ小刀がさしてあつた。なか／＼紐が解けなくて大變な犯罪事件といふことになつた。ところが一人ごく老功な警察官がゐて、「えゝ、こりや、あれぢやありませんよ、木地屋です」といつたとか。何故分つたかといふとそこが面白い。

　木地屋の葬法は普通とはちがつて棺桶を使はないらしい。アンペラのやうに綺麗に編んだムシロで屍體を包み、上を幾重にも括り、その上にお守りにサスガ（小刀）を一本つけて置く。その小刀を見れば木地屋かどうかといふことがすぐ判るのだといふ話であつた。木地屋の小刀は刀のつき方が普通とちがつてゐる。普通の人の使ふのは、こちらの右の下に刀がついてゐるのに、木地屋のは木材を刳りやすくするため、刀が左の下についてゐるから、すぐ見分けがつくといふのである。珍らしいことゝ思つて聞いたわけである。

　この木地屋は、初めから轆轤だけで仕事しなければならぬ近江の君ヶ畑などではなく、同じ惟喬親王の子孫とは稱するが別の木地屋の殘黨で、杓子を拵へるのを主な職業としてゐる者たちだつた。杓子を作る木地屋のことは「本朝國語」などにも確かに出てゐる。伊勢から南へ出て行くにしたがつて轆轤をよけいに利用するやうになるが、最初は(131)やはり刃物で削つてゐた。それが杓子ではあまり値打がないといふところで、お椀となつた。あの合子《がふし》といふ白木の器を造り初めるやうになつたのは、それから後のことで、時代ははつきりしないが、足利時代かと思ふ。

　食器も朝廷だけは、何か特殊の技能者があつて京都で作つてゐたが、普通の者は掌の上で食べたり、木の葉に盛つて食べたりしてゐた時代があつた。合子が一般に使はれるやうになつたのは木地屋の力なのである。だから木地屋の存在は馬鹿にならないが、そのくらゐの需要しかなかつたらしい。合子といふ言葉はよく坊さんたちが白木の合子といふから禅の言葉ではなかつたらうか。足利時代には無論あつたにちがひない。塗物でなく白地のまゝだつたから、一度使ふと汚くなつて厭なものであつたらう。

　但馬の養父《やぶ》郡のいちばん奧にある元の西谷村の奧の方の横行《よこゆき》といふ部落などは割箸ばかりを造つてゐると聞いたことがあるが、こゝでも木地師とか、木地屋とかいふ呼び名が殘つてゐるらしい。昔はどこの家にもあつたハンボウといふ強飯を冷やしたり、餡ころ餅を作るのによく使ふくりものの器も木地屋の作であるが、丹波や丹後の奧にゆくと今でも使つてゐる家があるとか、なつかしいことである。

　

(132)　　　　　コケシ人形のこと

　

　木地屋の作つてゐるものゝ中、最も實際的で誰でも知つてゐるコケシのことをとりあげてみよう。

　コケシといふものは今では全國到る所にあるが、そも／＼の流行の中心は大阪であると私は思つてゐる。つまり大阪で收集の習慣がはじまつて、それから全國へ擴がつて行つたのではないかと思ふのである。大阪に橘文策といふ人がゐたが、畫も描けるとかで、コケシ人形のデザインなどもやるやうに聞いてゐるが、この人たちがコケシ流行の中興の祖ではなからうか。本なども出してゐるさうである。多分この橘君あたりの發起だらうが、コケシに「木形子」といふ字をあてることにした。しばらくは通用してゐたのだが、このころになつて異議が出て來た。秋田縣あたりの若い研究家が、木地屋の研究とともにコケシのことを調べてさま／”＼の解釋を下してゐるが、どれもどうも納得できかねる。福岡縣にも一人民俗學をしてゐる曾田君といふお醫者さんが、やはりコケシを收集してゐるとかきいてゐる。

　コケシといふ言葉は、東京で子供の髪形でオカッパといふのを郷里の播州ではオケシといふが、そのことを考へれば容易にわかることだと私は思つてゐる。われ／＼の子供の時分にいちばん安い小さな人形を「ケシ坊主」といつたが、つまりこれである。コケシ人形とか、ケシ人形と呼んでゐるのから轉じてコケシとなつたわけで、別に莊重な起源があるわけではない。そしてさう古いものでないことも收集家たち自身が認めてゐる。

　オシャブリと東京でいふ人形を上方では舐《ねぶ》り人形とか、ネブリツ兒とかいつてゐる。私らの子供のころは一個一厘で一文菓子屋に賣つてゐた。固い木片の一方に顔が描いてあつた。中には兩方の端に顔のついてゐるのもあつて白木をまるく削つて滑らかにし、子供がしやぶれるやうになつてゐた。つまりこれはゴムのおしやぶりが出て來る前には(133)どこにでも見られた品である。それがコケシの起りだといふと氣に入らないかも知れないが、私は兩方が同じ系統のものだと思つてゐる。

　山の木地屋が木材も少なくなり、作品の販賣も難しくなつたので生活に困り少しの材料でどこへでも賣りに出せるコケシのやうなものを造り出すやうになつたのではないか。そんなふうに私は考へてゐる。明治四十一年に福井縣の山中を歩いた時、椀屋が昔通りの仕事ができなくなつて、ケシ人形などを造るのに轉じつゝあつたのを見聞きしたことを覺えてゐる。

　コケシの盛んになつたのは確かに大正年代であつた。私がいちばん木地屋の問題に熱中してゐた明治の末から大正の初めごろはまだそれほどでもなかつた。いづれにしても今日ほど盛んになつたのは大阪の連中の力であらう。

　

(134)　　　　　オケシはいや

　

　近ごろではコケシといふものがなんとなく東北地方の特産物のやうに見られ、ことに花卷の奧地あたりで盛んにこれを造り出してゐるらしいが、コケシといふ言葉はもと／＼東北にはなかつた。木地屋の根據地になつてゐる會津附近から、その以北にかけては頭の毛を斬切りにして眞中を剃つたケシ坊主といふ言葉がない。その代りそれをお河童と呼んでゐる。そこへケシ坊主とかケシ人形とかコケシ人形などといふ言葉が入つてきたので、非常に異國情緒があり、魅力をかんじたのである。そのうへ上方あたりでは早くから轆轤をつかはなくなつてゐたらしいので、コケシ人形を造るにしても、どうせやるなら會津あたりの木材も多く、轆轤職人の手も空いてゐるところとなつて、東北が本場のやうになつてしまつたのである。

　私はもう疑はないのである。小さなケシ人形といふのを、ケシといふ言葉を知らないので、二つを重ねてコケシといふものと思つてしまつたのだ。ケシ坊主といふことを知つてをれば、そんなことをいはないはずなのに、東京の子供でさへ、お河童だけ知つて、ケシ坊主、オケシといふことを知らない。まさか小さなケシの實を見たことがないからといふわけでもあるまい。

　もう一つ根本に溯ると頭の眞中をどうしてあんなに剃らなければならないのか、それを剃るものだから河童と間違へられるのであらう。頭の眞中を直徑一寸くらゐの丸い穴に剃るのだが、痛いものである。だから子供はみな「オケシはいや」といつて泣き出す。後にはどういふものか、眞中を剃らずに、女の兒などもみな髪を伸ばしたまゝ下にさげるやうになつた。それでもやはりお河童といふ。頭の眞中に丸い水だまりがなければ河童といふのはをかしいが。(135)昔の方が剃るのは痛かつたが出來上りを見るとずつと可愛らしく見えた。

　しかしどうして頭の皿を剃らなければならなかつたかといふことになるとどうも理由が分らない。老人たちは上氣《のぼ》せないためなどと説明してゐるが。それから日本髪に結つてゐた女の人も、カモジが頭の眞中にあたるのでそこに大きな禿が出來る。見せないやうに工夫してゐたらしいが、この女性のカモジ禿げと小兒のお河童頭と何か關係があつたのではなからうか。

　とにかく河童といふとわからないがオケシといふと私らにはよくわかる。だからコケシもケシ人形といふ言葉にコの字がついただけだと思つてゐる。種々難しい語源説があつて近ごろでもきつと七つ、八つもあるであらう。それに近ごろでは一樣にコケシといふが以前はどこでもコケシといはなかつた。

　木彫の人形をいくつも重ねて、一つ一つ割つて中を出してゆく玩具なども木地屋の細工が最初であつたらう。木地屋の特徴は中をくぼめることにあつた。お椀とか杓子など木目の見えるものはたしかに元は木地屋の手細工だつたに違ひない。それがコケシのやうに外側をまるくする仕事に移り、しかも普及して來たといふのは、昔からあつた木地屋の末路を語るものともいふことができる。

　

(136)　　　　　河童考

　

　ケシ坊主の話からカッパ（河童）の話に移ることにしよう。話が面倒になるが、じつはこの間漫畫家の清水崑君に合つたとき「清水君、君は惡いことをしてゐるね、白い女河童なんか描いて、河童をたうとうエロチックなものにしてしまつて……。河童には性別はないはずだよ」といふと「いや議論をするとなか／＼長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまつた。

　河童といふ言葉は川童《かはらんべ》でもと／＼川の子供といふことなのだから、男女があつてはをかしいのではないかと思ふ。しかし九州などには河童が婿入りをしたなどといふ話もあるが、大體において性的な問題はないやうに思ふ。

　私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行つたころから、二、三年位が絶頂であつた。今でも崑君なんかが利用してゐる「水虎考略」これは必ずしも珍らしい本ではないが、「河童は支那にいはゆる水虎なり」といふ説からこの本が出來、寫本も出てゐる。その中に大變値打があると思ふ話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはかうだとかみんな違つた河童が描いてある。幕末のごく末に朝川善庵といふ學者があつて、この人の本から引用してゐるのもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで龜の子のやうなものから、褌をしめて素裸になつてつつ立つてゐるものなど、五つくらゐあつたと思ふ。

　後に内閣文庫を探してゐたら、同じ水虎考略といひながら四册本になつたのが見つかつた。一册はもとのそれを入れ、あとの三册は九州の書生さんが、興に乘じて方々からの話を集めたもので、書翰體になつてゐた。多くは九州の話だつたが、それは面白い本であつた。九州のは群をなしてゐて、一匹で獨立してゐるのはない。極端な場合には馬(137)の足型だけの水溜りがあれば千匹もゐるなどといふことまでいふ。とにかく狹い所に群をなしてゐるものらしい。東北もしくは關東地方もさうだがこちらは一つ一つ獨立してゐて大變違つてゐた。河童はこんなに種類は違ひながら名前にはどこでも全部童兒、ワラハといふ言葉がついてゐるのである。

　私の郷里の方では河太郎《がたらう》とよぶが、この區域は存外廣くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の東海道膝栗毛の道中記が出たころから河太郎といふ名稱に差障りが出來たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛といふ豪奢な者が出て、通稱河太郎といつてゐたので、それに氣兼ねをしたため、「がたらう」といひにくゝなつたものであらう。京都あたりでは何といつてゐたか、やはり「がたらう」といつてゐたのではないかと思ふ。

　

(138)　　　　　明石のカハカムロ

　

　京都は「がたらう」で通用するとして、丹波の由良川あたりで何といふか、中部地方では河童《かはわらべ》の系統でカハランベ、カラランベといふのが多く、九州では少し發音を違へてガラッパ、またはカハッパ・カハトノなどと呼ぶ所が多い。

　面白いことに東西の中間にエンコといふのが入りまじつてゐる。瀬戸内海の兩側、山陰、山陽、四國ではエンコといふ所がある。猿《えん》の字をあてゝゐるが、淵猴とも書くことがある。

　その他にカハゴ（河兒）といふ所がある。エンコを使はない所ではゴウゴとか、カハゴとかいつて、これが大分多く行はれてゐる。カハゴは河童と同じで童が兒になつただけの違ひである。今では川の字をあてたり河の字を書いてゐるが、漢字の概念ではこれは解釋できないことである。なぜなら日本ではカハといふのは水汲み場、水使ひ場のことをいふのである。水の流れてゐる、どう／＼流れてゐる所ではない。今でも九州あたりでは流れてゐる筑後川などといふ方はカハラといひ、水汲み場の方をカハとよんで區別してゐる。沖繩あたりでは川がちつともないが、カハといふ言葉はあり、それは水使ひ場を指してゐる。

　水使ひ場を意味するカハといふ言葉と、童子、または量兒といふ言葉を結びつけた河童の名稱が、全國に少しづゝ違へて三十幾つかある。關東地方の東部のやうにカハガッパとはつきりいつてゐる所もある。つまり「水の童子」「水汲み場にあらはれる怪童」といつた心持は、全部に共通し、非常にひろく行はれてゐるのである。

　河童の名前の中で今も探してゐる名前が一つある。神崎郡の名家で、川邊《かはなべ》＝神崎郡市川町＝に近い屋形《やかた》出身の、かつて京城大學教授をしてゐた内藤吉之助といふ人があつた。この人のお父さんは久三郎といつて、私を大變世話して(139)くれた人であつた。その内藤教授がまだ東大の學生だつたころ「明石の河童は海にゐるんです」と話したことがあつた。何といふのかときくと「カムロ、カハカムロといつてゐます」といふことだつた。それ以來私は明石の人にあふといつもそれとなく聞いてみることにしてゐるが、今以て内藤君の話を裏書きする證據をつかめずにゐるのである。

　なぜこの言葉に心をひかれるかといふと、遠く離れた沖繩にあるのである。沖繩では河童のことをカハカムロともインカムロともよんでゐる。カムロといふのは禿だから頭を小さめにした毛髪の短い子供、切り髪にした童子にほかならない。沖繩のカハは水汲み場のことであるから、水汲み場にゐる子供といふ意味になる。またインカムロのインといふのはこちらの海といふことで、すなはち海カムロといふことで沖繩では海にも河童がゐるといふことになる。所によつては沖繩でもいろ／＼によぶが、童子と見てゐる點と、それから九州と同じやうに、たくさん集つていたづらをするといふ點はよく似てゐるのである。

　海に河童のゐる話はこの明石のカハカムロと、もう一つ常陸の那珂《なか》の湊の海で河童をとつた話が「善庵隨筆」に書いてある。

　この方はいつもうつむいて、四つ足で歩いてゐるので、まるで龜みたいなものといふことになつてゐる。

　いまゝでこの二つの例だけが海にゐたといふ信仰をうかゞはせるもので、他は大體流れや水練場にゐるものと信ぜられてきたのである。

　

(140)　　　　　駒ヶ岩の河太郎

　

　私が「民族」といふ雜誌を出してゐたころ、亡くなつた早川孝太郎君が、天龍川と大井川との流れについて調べたことがあつた。ことに天龍の流れの水の神樣のことは丹念に報告してあつた。その中に水の神樣から保護を受けてゐる家が、何かの折に神樣と縁切れになるといふ話がある。

　この家では年に一度だけ川から來る人に助けてもらつてゐたが、その人がはじめに「俺は蓼が嫌ひだから、決して蓼を食はしてくれるな」と固く申入れがしてあつた。ところであの附近では「ゴンゲノボウ」といつて田植のすんだ時、客を招いてご馳走をするが、ちやうどそのころ蓼がよく育つてゐて何處の家でも食膳につけてゐた。この家でもうつかり蓼をご馳走の中に入れて出したので、川の客も口にしてしまつた。するとそれを喰べるや否やとび上つて大聲を張りあげ何か怒鳴つたまゝ川へとび込んでしまひ、それつきりその家へは寄りつかなくなつてしまつた。それからは今までのやうに融通してもらへなくなつて、たうとう一軒舊家が亡びてしまつたといふ話である。川から來る人は河童だといふのである。天龍川邊では河童のことをカハランベとよんでゐるが、カハランベは信州の北部の方までかういふ所が多い。松本の田中磐君といふ若い民俗學者の調査によると、信州ではどの流れにも必ずといつてよいほど椀貸傳説があり、その中には河童から品物を借りる話もあるといふことである。水の神樣から特別に恩惠をうけてゐたが、たつた一つの條件を守らなかつたために、幸せを失つてしまつたといふ話の筋で昔話の重要な趣向である。

　辻川あたりでは河童はガタロといふが隨分いたづらをするものであつた。子供のころに市川で泳いでゐるとお尻をぬかれるといふ話がよくあつた。それが河童の特長なわけで、私らの子供仲間でもその犧牲になつたものが多かつた。(141)毎夏一人ぐらゐは尻を拔かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川つぷちに駒ヶ岩といふのがある。今は小さくなつて頭だけしか見えてゐないが昔はずゐぶん大きかつた。高さ一丈もあつたであらう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらゐあつて、蒼々した淵になつてゐた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかゝつた經驗がある。水が渦を卷いてゐるので引き込まれるが、あわてないで少しぢいつとしてゐると流れのまにまに身體が運ばれ淺瀬へ押し流されて浮び上ることができる。そこであまりバタ／＼すると渦の底へ引きこまれてしまふのだつた。鰻のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであつた。

　最近の寫眞でみると、市川べりの駒ヶ岩の頭がほんの少ししか見えなくなつてゐる。岩の頭を缺いで火打石を採つたりしたため、小さくなつたのでもあらう。あるいは市川の流れが變つて岩が砂に蔽はれたものか、子供のころの流れはもつと川幅が廣かつたことを憶えてゐる。あの附近の人は今でもガタロがゐるといつてゐるであらうか。

　

(142)　　　　　河童と?

　

　今日は河童の話の結末をつけよう。

　河童の名前は全國を通じて、河の字と子供といふ意味の言葉をつけたカハランベ（河童）とかカハコゾウ（河小僧）、カハタロ（河太郎）といふのが三十何種かあるが、それ以外に能登半島の東海岸と鹿兒島縣の南端薩摩灣の指宿《いぶすき》あたり、それからとんで北には津輕の北端から北海道へかけて別系統の名前が殘つてゐる。すなはちM音ではじまる河童の呼名である。

　能登ではミヅシンといひ、土地の人は水の神樣だからミヅシン（水神）といふのはあたり前だといつた氣特で呼んでゐるらしい。鹿兒島ではミツドンといひ、これはみづち（?）のことだといつてゐる。?は何だかわからないけれども、虫篇の字を書くので蛇の一種だと思つてゐるらしいが、ミヅシンと關係あるものであらう。

　北の青森縣にはメドチといふ言葉が殘つてゐる。外南部あたりではいはないらしいが、津輕のことを書いた古いものゝ中に、平尾魯仙といふ人の本がある。ごく明治の近くになつて出來た本だが、この中にメドチのことが詳しく書いてある。河童とは違ふなどといふこともあり、メドチといふ一種の動物がゐるやうに思つてゐるらしい。ところがこのメドチ・ミヅシン・ミツドンは他地方の河童と同じやうな性格や話をもつてゐるのである。日本の北と南と、眞中に三ヶ所離れたところに同じやうにM音ではじまる似たやうな名前があつて、お互ひの間に往き來がない。それでこの三つが別々のところにあるといふだけでも、私はかつて河童のことを水神《みづしん》といつた時代があるんだらうといふことが證明できるやうに思つてゐるのである。

(143)　メドチ・ミヅチ等の「ち」といふのは、よく「靈あるもの」を「ち」といふから、?は「水の靈」のことをいふのであらう。しかしまだ形がはつきりしてゐないのに、虫篇に書いてしまつたので、この漢字に影響せられて、これは蛇に違ひないといふことになつた。蛇は水の中で棲息しないが、?、蛟《みづち》は水中に棲む。土の底に?がゐるといつたりする。また日本人はよく間違へて、大蛇も水の底にゐるやうにいふ。この間題はもう少し手掛りを見つけたいと思ふが、まだ解決するに至らない。、

　河童でもう一つ、戰の時に人手が足りなくて、藁人形を拵へ、手の代りに横に竹を一本通して、人間にし、戰に勝つたといふ話が殘つてゐる。アイヌにもあり、飛騨では大工仕事に手が足りなくて藁人形を作り、使つて用がなくなるとそこらあたりのものをとつてよいといつて水の中に放されたといふ話になつてゐる。そのため、そこらあたりにゐる子供までをとつてしまふのだといふのである。ミヅチ（?）の手は行き拔けだといふが、これもミヅチすなはち河童であらうといふ一つの例である。

　足利時代に流行つた「猿猴月をとる」といふ、猿が片手を極端に伸ばしてゐる繪があるが、これが中間にあつて、そんな極端な藁人形の行き拔けの手が考へ出されたのではなからうか。

　

(144)　　　　　但馬の鶴山

　

　明治の初年にほんの四、五年ではあつたが、市川と圓山川とに船便の連絡が開かれて、播磨灘と日本海とが結ばれてゐたことは前にものべたが、先ごろ上京中の富田碎花君の來訪を得て、あの方面のことをいろ／＼話し合つたので、今日はそれについてのべてみることにしよう。

　播磨路から但馬の生野に入る道は今も峠を越えるわけだが、以前の峠はもう少し違つた所にあつた。その峠を越えた下が眞弓で、そこまで市川がずつと曲つて入り、生野の小盆地に續いてゐる。生野の町を離れてもう一つ小さな峠があつて、それを越えると圓山といふ小部落がある。昔は朝來山《あさごやま》といつたらしい。それから下流の海に入るまでずつと圓山川である。圓山の近所にシャケノ宮といつて、昔は鮭が海から産卵のためにそのあたりまで溯つて來たといふが、おもしろい話である。

　明治になるまで船便は北の海から豐岡までは來てゐたらしい。昔は豐岡を城（ノ）崎といひ、今の城崎の方は湯島といつてゐた。少なくも私の子供のころは湯島といふ名を耳にしたものである。川の對岸が城崎郡だから、豐岡の方では城崎といひたくなかつたのかもしれない。また豐岡へは出石の方から來る出石川が少し上流で圓山川といつしよになつてゐて、そこも船便があつたらしい。

　播州の者にとつて豐岡のことを口にするとき、非常に親しみを多くしたものであつた。八鹿《やうか》の妙見山の上に、明治の初めに出雲大社からもらつたといふ塔があるとか聞いたが、これなども海から運んできたのであらう。大社へ木材を寄進したお禮にもらつたとか傳へてゐる。大社の方でも神佛分離でもち扱ひかねてゐたから、縁故のある八鹿へも(145)つてきたのであらう。

　和田山と生野の中間に竹田といふ町がある。足利時代からの古い城跡があつた。まはりの平地は小さいが、出石についで有名であつた。私も昔その邊を歩いたことがある。

　出石から竹田に行く本道の途中に鶴山があつたが、眺めが大變良い具合にできてゐた。山腹の傾斜を人力車で通ると、車とすれ／＼ぐらゐに鶴の巣が見える。車やが氣をきかして止めてくれるので、鶴の巣がよく見えるわけであつた。

　私が通つたのは、たしか明治四十二年の六月末か七月のはじめであつた。鶴はそろ／＼田園へ出て遊ぶころで、こんな歌を詠んだことを覺えてゐる。

　

　　　鶴山の鶴は巣立ちて遊ぶなり家なる稚兒を思ひこそやれ

　

　長女が今年數へ年五十歳になつたが、その娘が生れたばかりの時であつた。ずゐぶん古い話である。

　そのとき行つたきり、私は行つてゐないが、きけば鶴山の鶴が出石郡から移動して、このころでは養父郡の方へ來たさうである。細密にいへば實はコフノトリだが田畠に降りて作物を荒すといふ話だつた。鶴は北海道釧路と鹿兒島、そしてコフノトリは但馬と越前が野生地である。數少ない日本の名物だから、なんとか保護してやりたいものである。

　

(146)　　　　　播州人のユーモア

　

　子供の時から「大屋《おほや》の横行話《よこゆきばなし》」といふユーモラスな話を何度となく聞いてゐる。例へば村の剽輕な連中が都に上つたときの笑ひ話がある。鏡を賣つてゐる店に「かかみどころ」とあつたので、　　　娯見所だと思つて覗いてみたが細君は見られず、不思議に思つて隣の店を見たら「ことしやみせん（琴三味線）」とあつたので、それを「今年や見せん」と納得して歸つたといふ。日本中、どこにもあるが、横行話としてきかされたもので、今でもそんな空氣があの邊に殘つてゐるのかと思はれる。

　播州の開拓部、加西郡のずつと奧あたりにも、同じやうなユーモラスな話を、自分の所だけのことだと思つて遠慮しい／＼口にする習慣があつた。私は近所のお婆さんあたりからたび／＼聞かされたことがある。「廣いもんぢやのう」といつてあの峠を越えて行つたら「かはいさうに、お前のやうな奴にはせめて瀬加《せか》でも見せてやりたい」といはれたとか「瀬加まで來ると廣い」とか、そんな話がいくらもあつた。

　地名をいはなくては判らないが、瀬加（神崎郡市川町）といふ所にはお寺があつて私も二、三度行つたことがある。岡部川といふのが瀬加の方へ入つてから市川に注いでゐる。瀬加はまだ山の行き塞りでなく、笠形といふのがいちばん奧である。

　その邊でもそこばかりが山里みたいにいつてゐるが、多可の郡の方から入るとあちらでも、同じやうな話をしてゐるらしい。「けたでけられて、まんがんじでまけて、おほちおとろし、とつてかも／＼だに」などといふことも小さい時によくきいたものである。芥田《けた》、萬願寺、大内谷などといふ所があるので、そんな言葉が生れたのであらう。こ(147)んな話は自分の所はそれほど邊鄙ではないといふ、一種の誇りから生れたのであらうか。とにかく子供のころかういふ話をいくつも聞かされたのを憶えてゐる。

　さて播州の北條といふ所は、昔は非常に重要な地點であつた。丹波、丹後の方から出て來る要所で、おそらく生野鑛山の開發と密接な關係があつたらしい。北條から西脇の方へよつた野間谷へ出るのに、泉、明樂寺と北上する。今は加西郡の大和村といつしよになつて八千代村となつてゐるが、それから昔の中村《なかむら》、今の多可郡｜中町《なかちやう》へかけて、多可郡でもいちばん繁華な、廣い開けた土地だらうと思ふ。

　多可郡（私は今もつてタカノコホリとよばないと他所のやうな氣がする）の的場といふ所に有名な式内社がある。中村より少し北の所だが、そこに私の父親が一年半ばかり神主をしてゐたことがある。多分古い傳説のある天日一箇命《あめのまひとつのみこと》をまつつた荒田神社ではないかと思ふ。そこへ訪ねて行つたことがある。宿の主人に「私の親は松岡といつて今から十何年前にこゝの神主をしてゐたことがある」といつたら、いろ／＼親切にしてくれたのは嬉しかつた。

　

(148)　　　　　神隱し

　

　「山の人生」といふ本を書いた時は、初めのうちは珍しい外部の事蹟を客觀的に書いてゐるうちに、いつの間にか興味にかられて自分の小さいころ經驗した事柄まで書いてしまつた。一つの本で二つの目的を追つたので、變なものになつたが、私自身の經驗した神隱しのことに説き及んだわけである。

　七つ八つから十歳になるころまで、私は何度となく神隱しの話を耳にした。辻川の鈴の森神社は丘陵の傾斜面の一部が段々になつた側にある。その突端で村の者がいつしよになつてお宮を拜むやうになつてゐるので神隱しの話が生れるのに都合よく出來てゐた。夕方、子供が村のどこかで遊んでゐると、白髪のお爺さんが出て來て「我は鈴の森ぢや、家で心配してゐるから、はやう戻れよ」と親切にいはれたから歸つて來たといふ話を子供心に本當のことのやうに思つてゐた。「あゝそれは明神さんに違ひない」と大人がいつたやうな話をいくつもいくつも聞かされた揚句のことだから、小さい私としては無理もなかつたのかと思ふ。

　私より三つ年下の弟が生れる春先の少し前であつたから、私の四つの年のことであつた。産前の母はいくらかヒステリックになつてゐたのかもしれないが、私にちつともかまつてくれなかつた。

　ある時私が晝寢からさめて、母に向つて「神戸に叔母さんがあるか」と何度も何度も聞いたらしい。母が面倒臭いので「あゝ、あるよ」と答へたところ、畫寢してゐた私が急に起き上つて外に出て行つた。神戸に叔母なぞゐなかつたのに、何と思つたか私はそのまゝとぼ／＼歩き出して、小一里もある遠方へ行つてしまつた。

　そこは西光寺野《さいくわうじの》といふ、開墾場になつてゐて、隣家の非常に有能で勤勉な夫婦者が、ちやうどそこを開墾してゐた。(149)よく働く親爺が「おゝ、これは隣の子だ」といふので私をすぐに抱き上げて歸つてくれた。歸る途中で逢つた人々が「これはどこの子だい。さつき何だか一人でてく／＼歩いて行つたが……。一人でどこへ行くのか知らんと思つたまま聲をかけなかつたのだ」と、みなでいつたことを今も覺えてゐる。

　それなども、もうちよつと先に行くか、または隣の親爺さんが畠をしてゐなければ、もうそれつきりになつてゐたに違ひない。

　もう一つ、十一歳の時に母や弟たちといつしよに一里くらゐはなれた山へ茸を採りに行つた時のことである。山向うの裾の池の端にみなで休み、グミか何かを食べて、いざ歸らうといふことになつていつしよに歩き出したところ、どういふわけか、多分母親が道を間違へたのかと思ふが、山を一つ越えて反對側へ引返したつもりだつたのに、山は越えずに斜めに歩いただけで、また元の池の端に出てしまつてゐた。私がよほど變な顔をしてゐたと見えて、母が突然私の背中をがあんと叩きつけた。叩くなんてことは今までつひぞなかつたのに、その時は私の變な顔つきを見た拍子に背中をはつと叩いたのであらう。それつきりもう何も母は説明もせず、私も何も聞きもしないで、そのまゝにすごしてしまつた。

　私は後にこのことを「山の人生」といふ本の中にこれが神隱しといふものに違ひないと、私の獨斷かもしれないし、もう少し高尚な理由があつたのかもしれないが、私はさういふ風の解釋をしたのであつた。

　村にはこんな例が多く、ことに女が山に入るといふ話が多かつた。隱し婆さんが夕方やつて來るとよくいはれたが、不思議に女の姙娠時にそんな現象がよくあるのではないかと推測すると、確かに心理學の對象と見るべきであらう。これが私の神隱しについての結論ではない結論ともいふべきものなのである。

　

(150)　　　　　「西播怪談實記」など

　

　播州は神隱しの話の非常に多いところであつた。噂だから、だん／＼誇張せられていつて、いろ／＼信ずべからざることがつけ加はつてゆく。同じ經驗は他の子供たちにも度々あつたが、歸つて來ないといふ話は私の村では一度もなかつた。たゞ私ははつきりと自分の二つの經驗が頭に殘つてゐたので、神隱しの話と、山中の不可思議なことを集めて「山の人生」といふ本にしたわけであつた。こんなに同じやうな話がどこでもあり、しかも共通してゐる點として、神隱しは女の子に多いといふのはおもしろい話である。しかし私としては結論を出したくないと思つて、たゞ聞いた話をそのまゝ書いておいたが、これはもう民俗學の範圍以外ではないだらうかと思つてゐる。

　私の村では、日暮れに太陽が沈みさうになると、親は頭の中で子供の勘定をして、みんな揃つてゐるかどうかと心配したものだつた。辻川のやうな交通頻繁な所でもさうだつたから、もつと山家の部落などではなほさら大變であつた。

　「山の人生」にも書いておいたが、大人の女が門の外に出てゐるのを遠くの者が見て、今ごろ何だつてあんな所に出てゐるのだらうと怪しんでゐるうちに、姿が見えなくなつたといふやうな話がいくらもある。

　播州にはかういふ話が比較的多く傳はつてゐたのか「扶桑怪談實記」といふ本と「西播怪談實記」といふ本を若いころ讀んだ。

　明治四十四年ごろに、私どもの尊敬してゐた姫路總社の宮司をして居られた庭山武正先生がわざ／＼自分の筆寫した「西播怪談實記」を送つて下さつた。この方はもう亡くなられて息子さんの代になつてゐる。「怪談實記」には支那の本からとつたやうな部分もあるやうに覺えてゐる。主として姫路から西の赤穗とか宍粟《しさう》とかの話が多く出てゐたが、昔から日本全國どこでも聞く同じやうな話が多かつた。

　例へば「身を隱すものが一度だけ身内の者の所に現はれる」とか、「それはもうあの池に入つて龍女になつてゐる」とか、「別れに一ぺんだけ身を見せて、永久にゐなくなる」とか、いろ／＼の話があつて、とくにこの一ぺんだけ姿を見せるといふ話は氣味の惡いものであつた。

　「西播實記」の中に、私の今も憶えてゐる話がある。某といふ血氣盛んな親爺が急にゐなくなり、大分しばらくたつてから、ある日村の裏山から大きな聲で「歸つて來たぞ」と叫ぶ聲がした。皆が飛出して行つて見たら、そこに姿が見えたので、「あゝ歸つて來た」といつて追ひかけて行つたら、もうその時はゐなくなつてゐたといふ話である。いかにも實際らしく、そしておそらくは實際さう信じたのでもあらう。この本を庭山さんに借りたほかに、和田千吉といふ人からも借りて讀んだ。この人は考古學のために大變働いた播州人で、姫路の出身であつた。

　この本の出たころ、西播の赤穗あたりの人が大和の吉野郡に出稼ぎをする習慣があつたらしく、吉野の山中で經驗したり、聞いてきた話が、本の半分を占めてゐたのを、興味深く思つたことも覺えてゐる。非常に珍本だが、舊御影師範の圖書館にはまだ保存せられて居はしないかと思ふ。一時は「播州叢書」を出さうといふ計畫があつたが、出ればもちろん、この二つの本はその中に入れられるべきものである。

　播州にはまた「播陽萬寶知惠袋」といふ本もあるが、この方は確かに舊御影師範の藏書の中にあつた。同じ兵庫縣でも攝津の方からは「攝陽雜記」とか何かが出てゐるから、播州からもこんなことが奇縁になつて叢書でも出ることになれば、一人私だけの喜びではない。

　

(152)　　　　　夫婦喧嘩の仲裁

　

　辻川に郡役所のあつたころ、郡書記の首席に福島といふ人があつた。姫路藩の出身で、男の子が二人ゐて、下の方は私の弟の同級生であつた。兄の方はもう書生でどこか出歩いてゐて、時々村へ歸つて來てゐたが、後に東京に出て「婦女新聞」の記者をしてゐた。この人がどういふわけか、私たちの母を喧し屋であつたやうにいひふらしたので、心外に思つてすごしてきた。母が亡くなつてから、母のことを書く機會がたび／＼ありながら、どういふものかたうとう活字にして世に示す折もなく今日になつてしまつた。それでいまこゝで母の性格について記しておくつもりになつたわけである。

　母は私ら兄弟五人を育て上げて世に出すのに一生懸命であつた。その氣疲れもあつて、かなり早く年をとり、一時ヒステリイ氣味になつたことさへあつた。晩年の母しか知らない人たちからは、いかにも氣難しい人柄であつたやうに見られる傾きがあつた。しかし私の家にとつては大變な功勞者で、世間知らずの父に仕へながら、私たちを東京に出して勉強させてくれた。ことに私自身は小さい時から母の腰巾着で播州でいふバイクソといふのにぴつたりあてはまる立場におかれてゐた。バイといふのは、海からとれる長い螺貝のことで、その中身の最後にくつついてゐて、なかなか母貝から外へ出ない柔い尻尾の部分をバイクソといふのである。

　そんなわけで、私は幼い時から何でも聞きかじつて知つてゐた。母は例へば近所の夫婦喧嘩を仲裁する特殊な才能をもつてゐた。夫と喧嘩をして、私の母のところへ泣いて訴へて來た細君をなだめたりすかしたりして、お終ひには笑つて歸すといふ母の腕前はたいしたものであつた。母の腰巾着であり前垂れ子であつた私は、誰にもましてそのこ(153)とをよく見たり聞いたりしたものである。

　まだ婚姻制度が昔風だつたころは、誰でも夫婦が會つたり別れたりすることを、ごく無造作に考へてゐたらしい。やがて女が男の家に來ていつしよに暮し、食はせて貰ふといふ習慣が、貴族の家や良家のみに限らず、竝の小さい家にも入つて行つた。例の北齋漫畫のころではないかと思ふが、そのころから非常に夫婦喧嘩が強くなり、それでゐて女房はなか／＼出て行かなくなつた。

　私ども子供の時分でも、ヒイ、フー、ミーと算へる代りにどこでもよくチュウ、チュウ、タコ、カイナといふのを、さうもいはないで「夫婦、喧嘩、いつも、長屋、小言」といふ言葉をつかつたものである。これほど夫婦喧嘩が多かつたのである。やはり北齋漫畫の出た文化文政のころから、長屋といふものが始まり、女房は自分らの力だけで亭主をつかまへておくことができないと、長屋に訴へ、世論をバックにして、自分の地位を保たうとした。夫婦喧嘩を扱つた文獻がたくさん出てくるやうになるのもこのころからである。それは恐らく社會の變り目のかなり著しい例であつた。

　飛騨の白川などでは、もつと違つた大家族的な風習がずつと後まで殘つてゐた。戸主の妻だけは非常に鄭重な方法をつくして嫁に貰はれて來るが、あとの女房は放つたらかしになつてをりどちらかが嫌になればあつさり別れてしまつてゐた。家のバックに戸主が嚴然としてゐるから、どの夫婦の間にできた子供でも、その戸主に寄食することができる。そして男でも女でも、戸主の家にゐて、四十、五十になれば身輕に岐阜や名古屋へ引越してしまふ。私が白川に行つたころは、ちやうどこの風が盛んで、そのため白川村の人口はだん／＼減つて行きつゝある時だつた。婚姻が目的で、相續は目的でなく、子供はみな戸主の厄介になることになつてゐたのである。

　この白川のやうな?態がおひ／＼と固定して來ると、どこでも夫婦が以前のやうに簡單に別れられなくなり、女房にも主婦權のやうなものが出來る。夫婦は別れずに喧嘩をしながら、いつまでも同棲するやうになる。私が母のバイ(154)クソであつたころはすでにさうなつてゐたが、私の母はこの夫婦喧嘩を仲裁するのに特殊な才能をもつてゐたことを今でもよく憶えてゐる。

　

(155)　　　　　母の長所

　

　辻川の家の向ひに「えびす屋」といふ宿屋があつた。主人は在井忠次、女房をおこうといつた。たぶん在井堂からとつた姓だつたのかもしれない。何でも家がもとは番太をしてゐたとかいふので、村では俗に番忠と呼んでゐた。女中が四、五人もゐたが泊り客のないときには、私どもをサラ湯に迎へてくれたりしてゐた。

　そのおこうが夫と喧嘩をすると、いつも家を飛び出して私の母のところへ泣く／＼訴へに來た。月に一ぺんぐらゐはあつたと思ふが、子供の私の見てゐる前で、泣いたりわめいたりして母に訴へた。母は一應それを聞いてやりながら、普段からとつときのなだめ言葉を竝べて相手の氣持を鎭めてやるやうに努める。

　そのうちにいつの間にか、おこうは泣き止んで夫への不滿もひつこめ、ニコ／＼して歸つて行くのであつた。

　番忠の女房だけではなく、もう少し高級な村のインテリ婦人までが、何人も母のところへ泣きながら訴へて來たのを、子供心によく覺えてゐる。なかには私の祖母の寺子屋で、唐詩選を書いたカルタを取つたりした婦人までがなまじつか亭主より少し餘計に漢字を知つてゐたばかりに、亭主に屈しないで夫婦喧嘩をする。そして私の母のところへ訴へて來たのを、母は巧みに裁いて、笑顔で歸すやうにしてゐた。その婦人たちの中には私を可愛がつてくれた人もゐたので、私はことにはつきりその人たちのことを憶えてゐる。

　長屋の夫婦喧嘩といふものが一つの年中行事になつて、三馬の小説などには繪入りのまであつた。女房が、すりこ木でぶん毆らうとするのを、亭主がそり返つて受け止めようとしてゐる繪などもあつた。芝居などでは、どこか一種のユーモア氣味に取扱つた夫婦喧嘩が多かつた。それが今ではすつかりなくなつて、夫婦喧嘩はみな陰性のものにな(156)り、二人とも三日も五日もものもいはず、亭主は夜遲く歸つて來るやうな形になつて來た。

　皆の見てゐる前で、女房が弱者として世論に訴へ、その支援を得るといふやうな形は、今日ではほとんと見られないやうになつてしまつた。私は今も憶えてゐるが、明治の末ごろ、友だちと九州へ行つた時、門司で有名な和苅《めかり》神社か早鞆神社か、とにかく式内社に行つた。その途中、一人の女が長屋からとび出して來て、夫婦喧嘩の正邪を長屋の人々に訴へてゐる。もう世間では夫婦喧嘩が目立たなくなつたのにと思ひながらよく見ると、それは何と半島人であつた。私が最後に見た殺伐な夫婦喧嘩は幸か不幸か朝鮮人のそれだつたわけである。

　夫婦喧嘩を仲裁する時の、私の母のもののいひ方、豐富な語彙、態度はまつたく政治的であつた。それが下總に移つてからは、近所隣とも交際が淺く、言葉もよく通じないので、したくともできない。その上、母は晩年には夜癪を起したりして少しづゝ弱つていつた。東京に出てからも、昔、私の腰巾着時代にあれほど多くのいきり立つてゐる女を、ほろりとさせる技術をもつてゐた人が、もうそれを使へなくなつて如何にも氣の毒だと思ふやうになつた。それが今でも私の母に對する同情になつて殘つてゐる。

　母は大學とか中庸とかいふ四書でもみなの讀む三部經の類でも、眼では覺えずに何ぺんも聞いて耳から覺え、頭で覺えてゐた。そしてこちらの部屋で私が素讀してゐるのを聞いて、間違ひを直してくれるのが常であつた。私としてはこんな機會に話すより外に、母の長所を傳へることができないのでこゝに記すことにしたわけである。

　

(157)　　　　　大正文化と女の力

　

　あらはな形の夫婦喧嘩のなくなつたこと、それは婚姻制度の變化から來てゐると見ていゝと思ふが、それこそ明治の歴史に書かずにをられないやうな氣がしてゐる。

　もとは相當に舊家で、由緒のある家ならば、親類までが寄り合つて長い間かゝつて嫁を見つけた。また娘のたくさんある家では、そのうちで主婦になれる女を養成したものだ。尼將軍になつた平政子などもそんなにして育て上げられたのである。その他に女の力といふものも本式に増えてきた。「大日本史料」の「年末雜載」に出てゐる女の人の文章は讀みにくいもので、日本語の歴史のいちばん難關になつてゐるが無駄のない、きりッとしたもので、理智的な婦人の意思表示ともいふべきものである。財政問題が多いが、これも主婦のやるべき任務が、これでおしまひになるからであらう。喧嘩をさせず、家は繁榮させるやうに、そしてすべての者が多少づゝは幸福になるやうにといふ、細かいものである。當時の女の人の感情がこもつてゐて、日本人の婦人生活を調べる資料として、こんなに良いものはないと思つてゐる。このやうな古文書を通して日本の女性文藝を知ることは、民俗學と同じく、人の省みないものをとり上げることになる。

　明治から大正へと、社會の進歩を示す例として、第一に、夫婦喧嘩の定理ともいふべきものが、私どもの母の時代にあつたといふことである。

　第二には子供が綺麗になつたこと。これは必ずしも女の力だけでなく、社會の文化が進んだからだが、私らの一代の間の出來事である。たんに鼻汁を出さなくなつたばかりでなく、その容貌が綺麗になり、顔の長さも短かくなつた(158)やうに思ふ。私が大正十二年の暮西洋から歸る船の中で、いつしよになつた西洋人の親子に心ひかれたことがあつた。デンマークの婦人で、三十五、六歳になる人が、男の子を一人連れて日本へ行くといふが、見てゐるとじつによく子供を教育してあつた。その子がハンカチーフを胸のボケットに入れて貰つて、ちよつと悲しくなると自分ですぐにそれを出して顔を拭いたりしてゐたが、後で母親が船に乘ると子供が惡くなるといつてゐた。

　日本ではまだその少し前ごろまで、どの子もいはゆる二本鼻汁を出してゐた。私どもも、親からやかましくいはれながら着物の袖口が光つてゐたわけである。中には氷の張つたやうになつてゐるのもあつた。たえず鼻汁をシュッ、シュッと吸ひこんだりしてゐた。その後、食物のせゐか、氣候によるものかいつしかそんな現象が見られなくなつた。田舍を歩いても鼻汁を出してゐる子供は、貧民窟は別として、路傍にも見ることがなくなつた。

　トラホームを患つたり、白雲の頭に出來た子供なども、もはや日本にはほとんとゐなくなつたやうである。二本棒は體質からか、病的なものか、それとも習慣が手傳つてゐたのか。ともかく子供の綺麗になつたのは、大正文化、または大正、昭和の文化の一つの産物に數へてよからうと思ふ。子供のために着物の柄を親が考へるやうになつたのもほゞ時を同じくしてゐる。西洋人のうち同情ある人が、もし度々日本へ來て寫眞をとつておけば、この文化の進歩にさだめし氣づくに相違ない。

　私は田舍を歩く時に、子供の顔付と表情とに興味をもつてゐた。もう一段進んで、ふだんから考へておいた質問を、學校歸りの子供四、五人に、答へ易い、考へ易い言葉で話しかけて見ることにしてゐる。顔がきちんとして鼻汁などたらしてゐない良家の子と思はれるのは、言葉の違ひを氣にして返事をしない場合が多かつた。が近ごろはどこでも、子供たちが無邪氣にひよい／＼と答へるやうになつて來た。

　明治以來の變遷で、日本も西洋と大分近くなつたのは、注目すべき點であらう。

　

(159)　　　　　「利根川圖志」のこと

　

　昭和の十三年に、私は岩波書店から頼まれて「利根川圖志」を校訂して覆刻したことがあつた。それも今ではもう絶版になつてゐるが、この本と私との關係について曾て雜文を書いたことがある。思へば深い因縁があるわけで、私が初めて下總の布川へ行つた明治二十年の初秋から二十一年にかけて、この本を古い版本で見た時には、この著作が出來上つた安政五年からちやうど三十年目であつた。それから私が、それを再版したのはまた五十年近く經つた後といふわけである。

　著者は赤松宗旦といふ醫者である。その家は代々、赤松宗旦といつて、この本を書いた人は二代目である。私はその人の養子に當る三代目の宗旦に大變世話になつてゐる。四代目はもう宗旦といはないで、小學校長だつたが、私はこの人とも懇意にしてゐた。五代目も亡くなつたかも知れないが、近ごろ布川へ行つて來た人の話に、五代目の細君と六代目の主人に會つたとか、家はやはり元の所にあるといふことであつた。

　さて赤松といふ苗字だが、私の生家がやはり赤松系で、播州の西部から、辻川へ移住してきたのに、わざと遠慮して、松岡を名乘るやうになつたといふ、古い言ひ傳へがあつた。下總に移つて、そこに赤松といふ苗字の先住者を知つたとき、非常になつかしく思つた。それで兄も私もみんな懇意になつてしまつたわけである。

　この著者の赤松家は、必ずしも播州出ではないかも知れないが、同家の言ひ傳へでは、暫く遠州の掛川か、どこかに住んで居てから、下總へ移つたといふことになつてゐる。播州のどこから出たのかはつきりしないが、その後、田舍には傳説ができてしまつて、赤松系のお醫者同士二人が、播州から連れだつて家出をし、前途を開かうといつて、(160)こゝに落着いたといふのである。何分にも下總の松岡の家は、元祖が私の長兄の鼎であるから、みなで大笑ひしたこともあつたが、ともかく私どもとその赤松家とは大變親しくしてゐた。

　赤松のお爺さんは産科のお醫者だつたので、私の姪などもみな取り上げて貰つた。そのお爺さんの子供は女ばかりだつたが、私と親しかつた。異郷において、お互に播州の句ひを僅かながらも喚ぐといふことが出來たわけであつた。

　「利根川圖志」は、赤松の一代目が一生かゝつて計畫したが、早く死んだため、その息子に當る二代目宗旦が本にして出したものであつて、驚くべきことが書いてある。日本海と太平洋とを汽船のない時分に、三國峠か碓氷峠かを切り拔いて繋がうと企て、土地の高低を考へずに議論をして居り、それを幕府にも、當路者にも進言してゐるのである。ちやうど印旛沼の開發計畫が二度目に企てられ（一度目は田沼意次の計畫）、この沼を掘割つて利根川と鬼怒川と海とをつながうといふ話のあるころであつた。惡く言へば山師的な計畫とも見られ、どうも佐藤信淵あたりの影響がかなりあつたのではないかと思ふ。ともかく、下總の赤松、松岡兩家は大變親しくなつたわけで、それが私の「利根川圖志」の覆刻に協力した動機といふべきものであつた。

　

(161)　　　　　お茶の舟

　

　近ごろ「利根川」といふ本を出した飯島さんといふお醫者があるが、ずつとこの川の上流の、埼玉と茨城との縣境の、埼玉縣側にある寶珠花《はうしばな》といふところの人ではなかつたらうか。

　　　寶珠花ではお八重がかさだ

　　　お八重買ふ奴、みなかさだ

　子供のころこんな言葉を船頭が口にしてゐたのを、かさといふことも知らずに、固有名詞が二つもあるので、子供心に面白く思つてきいたことがあつた。下總が利根川流域にとんがり出してゐる邊である。茶屋女の澤山ゐた所で、船頭たちが下流に來てから、そこのことを思ひ出して歌つたものであらう。

　下野の方から利根川に合流するのが、鬼怒川と、その東の方、益子の脇を通つて南流する小貝川とがある。鬼怒川は主として奧州の荷物を利根の方へ出すための水運で、宇都宮の一寸東北部にあたる阿久津といふ所まで持つて來た荷物を、そこから鬼怒川の舟に乘せる。そして陸路を節約するわけである。それに大利根まで運びこめば、後はどこへでも自由に水運を利用できるわけであつた。その盛りの時代は短かかつた。

　どちらかといふと、上から運ぶものが少なかつたので、仕方なく舟の空荷を利用して石を運んだ。下總の方には石が乏しく、澤庵の重しの石までが輸入品であつた。こんなをかしな話まであつた。利根川の下流では船頭たちが船荷を何でも少し、くすねる癖があつた。細いサシ（俵にさし込んで中の穀物を檢査する道具）を持つてゐて、それで中身をいくらか、くすねてとるのを樂しみにしてゐた。ところが、船荷に澤庵石ではどうにもならない。そこでくやし(162)まぎれにみなが寄つてたかつて石をなめたといふのである。

　さて益子から南流する小貝川は泥沼から來るので、利根に合流すると穢くもあるし、臭くもなつてしまふ。たゞ一つ鬼怒川だけは、實にきれいな水の流れであつた。奧日光から來るその水は、利根川に合流しても濁らなかつた。船から見ても、こゝは鬼怒川の落ち水だといふ部分が實にくつきりと分れてゐてよく判る。利根川の眞中よりは千葉縣の方へ寄つた所に鬼怒川の流れがある。

　布佐の方ではあまり喧しくいはないのに、布川では、親の日とか先祖の日には、このきれいな鬼怒川の水をくみに行つた。布川は古い町なので、一軒々々小さな舟を持つてゐて、普段は使はないで岸に繋いでおくが、かういふもの日には小舟で行つてくんできて、その水でお茶をのむことにしてゐた。普段は我慢して布川の方へ寄つて流れてゐる上州の水をのんでゐるのである。上州の水が豐かに流れて居るその向う側に小貝川の水が流れ、それを通り越して千葉縣によつた所に、鬼怒川の流れが、二間幅か三間幅に流れてゐるのであつた。

　布川のこの小舟は、向う岸に渡るためのでもなく、上の村と下の村とをつなぐものでもなかつたらしく、たゞ「お茶のお舟」として、澄んだ用水をくむだけであつた。

　布川の町も利根川の改修工事によつて、やがては川底になつてしまふかもしれない。七十年前の利根川筋を知る私どもには、そこにわく一種の愛情を斷ち切るわけには行かないのである。

　

(163)　　　　　岡田武松君との初旅

　

　茨城縣布川に假住ひしてゐた長兄はやがて利根川の對岸の、千葉縣布佐に移住した。播州へ歸る宿望を實現せずに、つひにはそこが永住の地となつてしまつた。

　ところで、その布佐の家のごく近いところに偶然にも播磨屋といふ古着商があつた。その家が後に天文學者になつた岡田武松博士の生家なのである。みなが播磨屋、播磨屋といつてゐるのに、その播磨には氣づかずに、たゞ岡田君としてつき合つてゐた。

　岡田君は親類か、縁者かを頼つて東京に出て一中に入つた。そのため私はたゞ夏休みに一、二度彼と會つてゐた程度に止つてゐた。それがいよ／＼私も東京に出て高等學校に入つてみると一つ上の級に武松君がゐるのである。いつしよに旅行しようといつて、茨城の邊を旅行したことがあつたが、これが私の旅行といふものゝ面白味を感じた最初であつた。木戸孝允の遺兒で、いまも京都で、近く米壽を迎へようとしてゐる木戸忠太郎君に會つたのも、この旅先であつた。

　母が生きてゐたので、旅費をねだつて三圓もらつた。岡田君もそれくらゐもつて行つたのであらう。もちろん汽車はまだなかつたから、布佐から歩き出し、利根川を渡しで越えて、筑波山に登つて山上で泊つた。一晩の宿賃に辨當までこしらへてくれてわづか二十七錢であつた。それから山を越えて向うへ降りようとすると山の途中で、ひよつこり一人の高等學校の生徒に出くはした。それがかね／”＼寄宿舍でみなが世話になつてゐるいちばん先輩の、委員長か何かして尊敬せられてゐた木戸忠太郎さんであつた。

(164)　木戸君からいろんなことを教へてもらつた。「これをよく見て行き給へ、これが��尾花がもとの思ひ草�≠ﾆいふものだ。薄の根元に生えてゐる、ラッパのやうに先の開いた綺麗な草だが、この邊では煙管《きせる》草と呼んでゐる」……とそんなことも教へてくれた。思ひ草といふのは「新古今集」などにたくさんうたはれてゐて、たしか和泉式部のうたに、

　

　　　野邊みれば尾花がもとの思ひ草枯れゆく冬になりにけるかな

　

といふのがあつた。

　木戸君とは水戸までであつたか、あるひはその途中までであつたか、同行して別れた。その親切な先輩の忠太郎君は、前から學校で知つてはゐたが、話したのはそのときが初めてだつたと思ふ。

　水戸に泊つて常磐神社にまゐり、夏の盛りだつたが、あそこの梅林にもよつた。宿賃が二十二錢、やつぱり辨當がついてゐた。そのころ辨當は多分三錢くらゐなものだつたのだらう。その翌日は太田の西山荘（西山公水戸光圀の別莊）も拜見して、一泊した。それから海岸に近い松林の中にある村越の虚空藏樣に行つた。今日の東海村原子力研究所の近くである。それから磯崎に行つた。こゝは那珂の港からもう少し向うにある磯崎で、大洗の磯崎とは別なところである。そこに一泊し、翌日は銚子泊り。次の日、鉾田《ほこだ》に來て、利根の汽船にのつて布佐に歸つた。これだけ歩いてもまだ三圓の旅費がいくらか殘つてゐて、母に返したことを憶えてゐる。

　それが私どもの旅行の面白味を解したはじめで、そのころから長者の風のあつた木戸君が、親切に導いてくれた好意は、いつまでも忘れることができなかつた。

　第二高等學校はもと五年制であつたが、その後四年制になり、また三年制に改められた。岡田君は五年制の最後に、三級から入つたものと思ふが、私は一年後に英豫科二級といふのから入つた。その翌年から三年制度になり、豫科が一年だけ縮まつたわけである。

　

(165)　　　　　關東の播磨人

　

　布佐の播磨屋の息子であつた岡田武松君は文科系統の學科もよく出來た。家へ行つてみると、いつでも家の人たちに學科の話をしてゐる。ドイツ文學の説明をしてゐることもあれば、理科の數學の話をしてゐることもあつた。いよいよ文科に行くか、理科に行くかといふことになつた時、岡田君は大變奇拔な決め方をした。火箸かステッキかを地面に立てゝ、それの倒れた方向で理科行に決めたといふのである。ドイツ文學はいつまでも趣味でつゞけるが、職業としては專門に數學を本位とする理科に進むといふのが彼の説明であつた。それを聞いて若い私は大いに尊敬の念を抱いたものであつた。

　お母さんが若くて、いゝ人で、二人の妹があつた。夏休には必ず會つてゐたが、そのうち布川で長兄一家が厄介になつてゐた家主の小川さんの孫娘を細君に貰つたので、かへつてこちらの方できまりが惡くなつて、あまり會はなくなつた。この小川の小父さんは四十そこ／＼で若死して、後は大變難儀をしたらしい。その娘が海老原といふ家にお嫁に行つて産まれた外孫が、岡田君の細君になつたわけであつた。晩年の岡田君の世話をしてゐたのは、甥と老妹夫婦とであつたが、どちらかといふと寂しい生活であつたやうである。甥といふのは家業を繼いだ兄の子で、やはり岡田君と同じ天文の方に進み、氣象臺の布川出張所の所長をしてゐたから、叔父さんの世話をしやすかつたのであらう。

　とにかく播磨から出た人で、關東に落着き、正式に播磨屋と名乘つたのは私の知つてゐるころではこの岡田君の家だけであつた。父の代に來たのだが、どうして來たのか、聞かうと思ひながらそのまゝになつてしまつた。お母さん(166)は純然たる江戸つ子で、じつに綺麗な江戸言葉を使はれてゐた。

　龍野出身の股野琢といふ學者は元老院議員まで進んだ。また股野さんの兄弟の長尾といふ人は千葉醫學校を作つた關係で千葉に根を張つた。銀座にも一軒出版業で播州出身の長尾といふ人があつたが、この兩者の關係は聞いたことはない。本家の長尾は股野さんの親類で、龍野出身だといふので、當時の千葉縣令である柴原｜和《やはら》といふ龍野人に招かれたのかと思ふ。

　銀座の本屋の長尾の養子がちやうど下總の布川から來てゐた。そして同じ布川の小川の小父さんの姉娘が播州人の海老原に嫁ぎ、その孫娘がさきにもいつた岡田武松君の細君になつた。そんな關係でこの海老原の世話で、銀座の長尾出版業の養子が布川から來るやうになつた。

　このやうな事情から、播州人、ことに龍野出身者は東京へ來ると、必ず海老原の家に行つた。私の長兄が偶然にも下總に永住するやうになつたのも、まつたく彼が股野家に書生をしてゐた關係から、最初龍野人に連れられて海老原の家に行き、そして夏休中働いたり、世話になつたりしたのが因をなした。「どうだ俺の家内の實家で、主人の醫者が若死したきり後が空いてて困つてゐるが、君行つて呉れないか」といはれた時、長兄もいろ／＼と考へたらしい。播州へ歸つたところで資本はないし、親類はみな同業の醫者だから競爭はいやだ、いつそのこと下總へ行つて見ようか……といふやうな偶然のことから下總に住むやうになつてしまつた。

　小川の家は祖父の東秀といふ人が醫者をはじめ、父の東作といふ人が大變な藏書家であつたのに、四十歳ぐらゐで早死した後、幼い私が小父さんといつてゐた小川虎之助氏は醫者を繼いでゐなかつた。ことによると赤松宗旦が「利根川圖志」を作つた資料の大部分は、この小川家の藏書によつたものではないかと思はれるくらゐである。

　辻川で生れた長兄が下總布川のやうな邊鄙な所に住みついた由來は、以上のやうなわけであつた。そして私自身としても上に言つた海老原氏の甥で、千葉醫學校校長の家に養子になつてゐた長尾美知氏と友人附合をして居た關係も(167)あつた。

　

(168)　　　　　一高水泳部の起り

　

　私が毎週治療を受けてゐる平方さんといふ鍼醫のところで、思はぬ舊知に出會ふことがたび／＼ある。この間も工學博士の井上匡四郎君に會つた折、高等學校時代に三浦半島の大津に水泳場があつたころの話が出た。

　浦賀に石渡といふ舊家があつて、私どもはこの家の兄弟をみな知つてゐた。上から順に秀吉、信太郎、雅治となつてゐたが、りつばな家柄で、上は學校を完成しないで獨立してしまひ、次が工學博士、三番目の雅治が子供の時分から神奈川へ養子に行つて中村姓を名乘つてゐた。どれもなか／＼のヤリ手であつたが、ことに中村雅治は才氣?溂たる男で、臺灣あたりで働くうちに、内田良平なぞといふ右翼分子ともつき合ひが出來てゐたらしい。中年からは少し荒つぽくなつて、時には人に迷惑をかけることもあつたらしいが、この中村は箱根環翠樓の鈴木英雄氏と親類になつてゐるので、やはり同じ環翠樓出の小田原市長、鈴木十郎氏を頼つて、いまは小田原に落着いてゐるやうに聞いてゐる。

　同じく一高の仲間に入江一雄といふのがゐた。作州の人であつたが、建築の清水組の分家にあたる清水連藏といふ人に見込まれてその養子になつた。この入江が同郷の植物學者川村清一、鳥の學者川村多實二の兄弟と懇意にしてゐる。作州津山は古式の水泳、神傳流の發祥地であるし、ことに川村家はその家元であつた。そこで入江と井上匡四郎とが話し合ひ、第一高等學校に一つ水泳部を作らうぢやないかといふわけで、川村兄弟を仲間に引入れ、清水組の賛成も得て、これをはじめることとなつた。

　さてつぎには場所をどこにするかといふ問題になつたところ、私たちは級友の中村雅治を通してその實家にあたる(169)石渡家に一膚脱いでもらふことに成功した。夏期の水泳合宿所が石渡家に近い浦賀と大津との間に出來、すつかり石渡家の世話になつた。毎夏五十人も七十人もの若者が出入りし、私らも行つたことがあつたので、ます／＼石渡兄弟と親しくなつた。どういふわけか、信太郎さんのことを私らはオーチャンといつて慣れ親しんでゐた。ずゐぶん永くつゞいたものである。舊一高の寮歌に「大津の浦にものゝふの」とかいふのがあるのは、そこのことである。

　石渡家の家風は、じつにゆつたりして、親切で申分なかつたが、石渡家から出た中村雅治の養家にあたる神奈川の家へも時々みなで押しかけて行つた。そこへ五つ、六つ年下の連中も、石渡兄弟の紹介でやつて來て、いつしよに遊んだものであつた。田島房太郎君などみなその仲間の弟分で、非常に優しいいゝ人間だつた。感覺の豐かな人で、學校を出て大阪の住友へ入ると聞いたとき、そんなことはしない方がいゝと引留めたことを憶えてゐる。偉くなつた晩年のことは知らないが、その田島君の妹さんが蘆屋の詩人富田碎花君のご夫人だと聞いてまつたく驚いてしまつた。

　私の義姉にあたる矢田部良吉夫人は、後家になつてから、子供を育てながら若い書生さんたちの世話をよくしたものであつた。無害な優秀な善人が多く、リオンに腰を落着けてしまつた瀧澤敬一君にしても、みんなその仲間であつた。家が廣かつたのでそんな樂しみをしてゐたわけだが、今なら珍しくないにしても、そのころとしてはちよつと變つた風に見られてゐたらしい。

　

(170)　　　　　播州歸省

　

　私はしよつちゆう播州の人と交渉があるので、どうも頻繁に歸つたやうな氣がしてゐるが、古い日記を繰つてみたところ、案外その度數は多くないことが判つた。十三の年に郷里を出てから後、十九の年、第一高等學枚に入つた時歸つたのがまづはじめである。

　次兄が高等學校へ入つたご褒美に汽車賃をくれたので、姫路の病院に勤めてゐた次兄井上通泰のところまで行つた。前にも觸れたがちやうど京都に行つてゐた弟靜雄もやつて來て、しばらく兄弟三人くらしたことをおぼえてゐる。そのころ次兄夫婦の家には、私の子供のころよく辻川の家に來てお灸をすゑてくれたりしたお婆さんが手傳つてゐた。年をとつてから、井上の兄に頼まれて、家事賄ひをしてゐたのであらう。

　私も靜雄も、大分大きくなつてゐたので、二人で但馬まで歩いて行つたことがある。そのころはまだ播但線がなかつたから、歩いたわけである。東京に掃つて、父母に郷里のことを話したけれども、兩親が離郷してからまだあまり時がたつてゐなかつたので、それほど珍しさうにも聞いてはくれなかつた。

　そのつぎに行つたのは、私が大學に入つてからであつた。しかし歸京して郷里の移り變りを話さうにも、その時はもはや兩親とも亡くなつてゐたのは殘念であつた。多分明治三十一年の夏だつたと思ふ。私ははじめ三河の伊良湖岬へ行つてゐた。そこへ東京から田山花袋ら大勢の友達がやつて來た。島崎藤村は來なかつたが、私が伊良湖で拾つた椰子の實の話を、後に東京に歸つてから話してきかせたことが、藤村の長詩「椰子の實」の材料になつた話は、前にも記したとほりである。伊良湖から田山たちといつしよに伊勢に行き、そこで別れて私一人だけ播州へ歸つた。

(171)　そのころ井上の兄はもう姫路から岡山へ轉任してゐたので、まづ岡山を訪ね、歸りに播州へまはつて幾日かをすごし、東京へ歸つて來た。

　故郷とはいへ、肉親は誰もをらず、舊知の三木家にばかり世話になるので、故郷といふものゝ印象が大分變つて來た。遊ぶ仲間の子供達との因縁、その子供らのお母さんやお祖母さん、それから近所の人、親類の者などとの心の繋がりが、何となく疎くなつてゆくやうな氣がした。はじめ歸つた時、聲をかけてくれた人たちまでが、だん／＼遠のいて行くやうで、やがてすつかり他所行きの感じになつてしまつた。三木家の厄介になつてゐなければ、井上の留守宅に行つて留守番のお婆さんの世話になつてゐたわけである。大學の一年から二年になつた夏のことかと思ふが、これが二度目の歸郷であつた。

　私はそのころ文章などを書いたりしてゐたので、中央ではすでに名前を知られはじめてゐた。例へば「伊勢の海」（改題「遊海島記」）といふ文章を書いて、國木田獨歩の病氣見舞にみなで贈つた「二十八人集」といふ本の中へのせたりしてゐたので、郷里の人たちの中にもそれを薄々知つてゐる者があつて、多少遠慮勝ちになつてゐたやうなところがあつたのかもしれない。

　それからずつと經つて、明治四十二年に北陸を歩いてから谷中《たになか》を入つて播州へ行つたことがある。大學生時代からこのころまでの十年足らずの間にも、播州へ行かない氣遣ひはないはずなのだが、果して何度行つてゐるか、今は、はつきりと判らないのである。

　

(172)　　　　　信州の柳田家に入る

　

　三十三年七月に大學を出てから、農商務省の農政課に入り、三十五年二月までそこにつとめた。仕事は産業組合のことゝ、農會法が主であつた。そのためこの間に方々を歩いたが三十四年に柳田家に入つた。結婚したのは三十七年であつたが、籍は早く移してゐたわけである。柳田家は信州飯田の藩士であつたので、公務を兼ねて父祖の故郷飯田に行つた。そこには、風傳流の槍をつかふ、通稱「飯田の伯父さん」といふ養父の兄に當る人が達者でゐたので、そこを訪ね、親類へも挨拶をしてまはつた。

　三十四年の九月末か、十月早々に出かけ、信州の一市十六郡のうち、木曾一郡を殘した全縣下を草鞋履きで、しんみりと歩いたことをおぼえてゐる。北信の大町へ行つてみたら、もう氷柱が二尺も下つてゐて、非常に寒かつた。産業組合の話もしたが、主として農會の話をした。縣農會とか、町村農會とかが、どうあるべきかといふことを一人で話して歩いたが、縣廳から生意氣な役人がくつついて歩き、いつも後の方で傍聽してゐるので、同じ話を二度するのはいま／＼しいと、大變苦心したものである。痩我慢のために餘計な骨を折つたわけであつた。

　あまり寒くなつたので、木曾郡だけを殘して引き上げたところ、木曾の郡長が怒つて、木曾は信州ではないのかなんて談判されたりした。後に木曾へ行つたのもそんなわけがあつたからである。

　同じ三十四年に、やはり産業組合の講演をしながら群馬縣を見て來いといはれて、同縣に出張したことがある。あのころ上州三社といつて、土地の養蠶家が、自發的に結束して作つた手繰りの製絲會社が三つあつた。甘樂社、下仁田社、碓氷社がそれで、みな有力な會社であつた。そんな關係から群馬縣の西南部はじつによく歩いたものである。(173)一ヶ所一囘づゝ話をし、馴染みになつたので、それから長い間交際がつゞいたが、その後潰れてしまつたとか。何にしても五十年以上も前のことである。

　三十五年にどこを歩いたか、東の方は岩手縣まで行つたが、西の方は記憶にない。

　三十七、八年の日露戰爭の時、私は横須賀の捕獲審檢所の檢察官になつてゐた。したがつて横須賀にも長くゐたし、長崎はじめ九州方面へ出張もした。この三十七年に私は結婚したので、その前後はごく氣樂に暮してゐたやうに思ふ。それでも奈良へは行つたが、播州へはどうであらうか。

　三十九年には北海道を歩いた。そのついでに私だけ一行と分れて、新領有の樺太へ渡つた。上半期に家内がチフスにかゝつて危かつたが、幸ひによくなつたので、一つ北海道へ行つて來ないかとのすゝめを受けたのであつた。その時の日記はいま讀んでみても大變面白い。帝政末期のシベリアや、カラフト流人の樣子と、今度の終戰當時におけるソ連人の行動とを比べてみると、そこに何か共通のものが流れてゐるやうに思はれないこともない。

　

(174)　　　　　九州の旅・北國の旅

　

　明治四十一年には、九州と四國とに行つた。五月下旬から約三ヶ月に及ぶ長旅で、内地における私のいちばん長い旅行であつた。

　福岡から久留米に行き、矢部川を溯つて肥後に入つた。阿蘇から熊本、天草、鹿兒島から宮崎に行き、近ごろ評判の椎葉山中まで足をのばした。東京の人間で椎葉村へ入つたのは私が最初のやうにいはれたが、ともかくいたる所で大變な歡迎をうけた。その時の土産が後に珍本になつた「後狩詞記」である。今日ではこれが日本の民俗學の出發點のやうにいはれてゐるが、この本はその時の旅費がわづかばかりあまつたので自費出版したものであつた。たしか五十部ぐらゐしか刷らなかつたと思ふ。

　さて次の明治四十二年に私は木曾へ行つた。木曾の汽車が初めて出來た時であつたが、鹽尻までしかゆかず、そこから建設列車で鳥居峠のこちらまで行つた。そこから歩いて峠を越え、藪原に出、こゝから人力車に乘つて福島に出た。それから馬車で上松に出、そこから山に入つた。王瀧川を溯つて、濁川の温泉に一泊し、三浦《みうれ》に出て、こゝで非常にいゝ案内者を見つけ、それをつれて三國山の鞍掛峠を越え、飛騨の竹原村の御厩野《みまやの》といふ部落に入つた。それより下呂に出、益田川のほとりの吉村屋に泊つた。翌日落合のカラ谷伐木所を見にゆき、出合所といふ所で休んだ。

　そこから一ぺん高山に行き、二、三日ゐて山越えに白川村へまはつた。庄川に沿つて北に行き、五箇山を越えて越中に出た。

　金澤、七尾、和倉、富山、滑川を歩き、黒部に行つた。黒部のいま水力電氣の工事をしてゐるあの上の所を、大分(175)奧まで入つてみた。

　轉じて能登をざつと見、歸りに加賀の海岸地帶をずつと歩いて、越前を通り、若狹に入り、なか／＼よく歩きまはつた。それから丹後から但馬の豐岡に出、出石に立ちより、生野に下車。こゝにある祖父眞繼陶庵の墓に詣つてから播州の故里を訪れた。五月末から七月初めまでずゐぶん長い旅であつたが、この時のことを書いたのが「北國紀行」である。

　さて四十一年の九州旅行でもいろ／＼の事柄を見聞きしたが、そのうちことに興味をおこしたのはお茶のことであつた。子供のころ辻川にゐた時、山の方の人がたくさんの山茶を擔いで里に賣りに來た。その情景は今も鮮やかに覺えてゐる。

　お茶は僧榮西が支那から持つて來たとか、五山の坊さんの某が傳へたなどといはれてをり、私もこの九州旅行までは、そのくらゐにしか思つてゐなかつた。

　ところが九州の山間に入つてみたところ、いたる所で野生のお茶がとれるのである。八女郡の黒木にはお茶の試驗所もあつたが、こゝのお茶は全部栽培したのではなく、山から野生の茶をとつて來て精製しただけといふのであつた。

　そこで私は茶の歴史について一つの發見をし、新知識を得たのである。

　

(176)　　　　　茶の話

　

　筑後八女郡の黒木にあるお茶の試驗所で扱つてゐる茶は、全部山に野生したもので、栽培したものでないといふことのみならず、九州全體には、この野生の茶を今ものんでゐる所が多いのである。

　黒木では、これで紅茶を作つて外國へ輸出してみようといふ大膽な計畫まで明治の末期にはあつたらしい。

　黒木といふ所はずつと山に入つて行く途にあたり、町の兩側がザクロの竝木になつてゐる、極めて古風な町であつた。そこで山茶を根元から刈つて來て、茶を精製するといふのである。

　九州のことに南部の海岸の人たちはこのお茶がなかつたら、働く張り合ひがないといふほどで、この番茶を大變な分量送つてゐる。九州の山で燒畑耕作をすると、最初に生えて來るのは山茶ださうである。ところが、沖繩や奄美大島にはかへつてそれがなく、全部内地からの輸入茶を飲んでゐるらしい。

　黒木で山茶の話をきいて、私は氣がついたが、昔から背振《せぶり》山に茶を植ゑたとか、高山寺の僧明惠が栂の尾へ植ゑたといふ話は、じつは自然に野生してゐたところへ、單に茶の飲み方だけの輸入をしたに違ひないことが分つた。そんな氣持で茶を見たところ、山茶の生える區域は大變廣いのである。そしていま有名になつてゐるお茶所といふものは、みな山茶の生えるところなのである。

　たゞ栽培者が苦心する、もしくはさういふことをよくいつて聞かせるのはそれによつて味がまるで違ふといふのである。天然に生えた茶は干して、湯をさすと赤い色は出るが、一ぺん入れたらもうそれつきり、後は茶カスになる。それに味にコクがないのである。それを若い芽をつんでつくると、玉露まで出來るといふのは、造り方といふものが(177)非常に大切だといふことになつて來る。つまり茶を輸入したのではなく、特別な良いお茶を造る方法を明惠のころから始めたといふのではないかと思ふ。

　王朝時代すでに茶をのむ習慣があつたといふ説や、あるひは鎌倉時代に、佛教の寺の規則にお茶をのむ儀式のことがあるなどともいふが、その邊のことはよく判らない。

　日本でお茶のある區域は、ずつと北の方にはないが、群馬縣まではたしかにある。越後などは山には少いが、ごく粗末な番茶は岩船のあたりにもある。それから中央の方から西にかけては大變に多い。

　坊さんに頼んで支那からもつて來て貰つたと解釋するのは可哀想である。のむといふ習慣も大昔は知らないが、ずゐぶん長い間、ごく單純なのみ方をしてゐたらしく、今でも農家などはこれをつゞけてゐる。

　私の播州の家などでも、煎茶といふものは客でもないかぎり、常はほとんと買はずにゐるくらゐであつた。山の方の村から「たて」といふ、疊一帖より廣いものをまるくした大きな袋に入れて擔いで來たのを、桝で計つて買ひこみ、大きな壺に入れておいた。日ごろの使ひ分は、長火鉢の引出しの一つに、底に紙をしいて、その中に焙じて入れておく。毎日少しづゝ引き出しをあけて使ふわけである。「茶ん袋」といふのに入れて、茶釜の耳についた金の輪に紐でしばりつけ、釜の湯がくら／＼沸ぎると、そのしばりつけた茶袋を、そのまゝ放り込む。そして色の出た茶を茶杓で酌み出してのむやうになつてゐた。湯がなくなれば、茶ん袋はそのまゝに、いくらでもあとから足してわかしていつた。そのため茶ん袋といふものは汚い茶色になつてゐた。

　田舍ではたいていの家でお茶を汲むといふが、それはこの茶杓を考へての表現の仕方に外ならない。

　煎茶は今日でこそ何處へ行つても出されるが、第一あの煎茶茶碗の出來た時代は新しいのである。急須（きびしよ）といふ言葉も何がもとか知らないが��急″とか��求″に��須″を書く。だから「きふす」といふが、これも支那語の輸入品で、さう古くはない。

(178)　お茶所といふものは、東京近くの狹山でも、駿河の奧山でも、やはり非常によく出來る所はみな同じ地形である。それが自然生の基礎で、とくに優秀なものは宇治とかどこそことかにあるといふものゝ、普通のものならこの成城あたりにも、散歩のたびに見かけるのである。狹山には宮中御用の茶園があつたり、宇治などは京都に近いし、とくに黄檗の寺もあつたので、良い茶を造ることを心がけたわけであらう。

　通例、茶の歴史は支那から持つて來たといふので、全部持つて來たといふふうに考へられがちだが、そんなに全部を簡單に輸入できたとは思へない。日向の椎葉などでも、私が見たのは、山の全面に山茶が生え、それで土砂崩れを止めてゐるところへ、翌年櫟などが少しづゝ生えて來るらしい。

　どこの山地にでも茶が育つてゐるのだから、別に茶園を作る必要もなささうだが、宇治をはじめ方々にあるのはいつしよに規則正しく栽培すると、特別に濃い、良い茶が出來るからである。普通の牛より乳牛として飼育した方が、いゝ牛乳がとれるのと同じやうなものであらう。

　私は子供の時、播州から關東に來て關東の人のお茶を呑むのには驚いた。そしてお茶うけにいろ／＼のものを食べる。香の物の新漬など非常に人望があるが、秋田などでは、柿の蔕《へた》に鹽を入れて出すのがある。所によつては茶に鹽を入れて呑む所もあるらしい。茶の中にお粥などを入れてのむ所もあるが、これなど出雲のボテ茶などと同じで、お腹のすかないことを考へたのかもしれない。

　

(179)　　　　　黒坂達三君のこと

　

　和辻哲郎君と私との共通題目になる播州人が一人ある。姫路の人、黒坂達三君のことである。お父さんの黒坂淳三郎といふ人は、漢詩をやるので、私の父のまあお弟子のやうになつてゐた。父が北條にゐたころ、月に一ぺんぐらゐ、姫路から來て、詩を見てもらつたり、話を聞いたりして歸つて行つた。私がもう東京で役人になつてから、手紙をもたせて子供を二人よこした。長男は軍人になつて獨立してゐたので、次男と三男をよこしたらしい。

　次男の方は近年亡くなつたさうだがドイツ文學をやり、高等學校の先生になり、鹿兒島の造士館にずゐぶん長く勤めてゐた。三男の方が、この黒坂達三で、私の舊い日記に非常によく出て來る。次男がどちらかといふと、實際的で、實直だつたのに比べて、達三は無口で、どこか違つた所があつた。私が聲をかけてやるので、たび／＼私の所に來、後には自分の前途の相談までするやうになつた。和辻君とは早くからつき合つてゐたらしく、文學のものを非常によく讀んでゐた。二十三、四のころだつたと思ふ。外交官試驗をうけて失敗し、少し失望してゐるころの達三を、東大の文學部の助手の人が連れて來た。そして「先生、一つ小言をいつて下さいませんか」といふ。「どういふ譯だ」ときくと「じつはあまりよくないことをしてゐるんです」といつたが詳しいことがわからない。普段はきちんとした身なりをしてゐる黒坂が、その日は少し顔が汚れてをり、髪の毛も亂れてゐた。

　譯は最近和辻君に聞いてはじめて判つたが、あの當時黒坂は自分のゐる家の娘と約束して、欺したやうな形になつてしまつたので、その娘さんが鎌倉の海にとび込んださうである。黒坂も同じ時かどうか知らないが、やはり海に飛び込んだが、この方は助かつた。助かつたが、しかし新聞種になつて非常に騷がれた。こんなことがあつた時、文學(180)部の人といつしよに私の所に來たのである。事情をきゝださうにも、黒坂はだまつて俯向いてゐるし、連れて來た人もはつきりしたことをいはないので、いゝかげんにあしらつて歸したが、それから一ヶ月足らずして黒坂が自殺したのであつた。

　娘さんから電話があつて、私もびつくりして行つて見た。何でもその夜は家中がまだおきてゐるのに、二階で寢てゐた達三が降りて來て「あゝ今日みたいに頭がさつぱりしたことがない。思つたことがこんなに出來たことはない」といつてまた二階へ引返して行つて、そのまゝ死んだのださうである。つまり藥を服んでおいてから階下に降り、それだけいつてから死にに行つたのであつた。

　非常にはつきりしたいゝ男だつた。それから間もなく追悼會を芝の青松寺で催し、二十人足らずの人が集つたがその中に芦田均君がゐたので聞くと、兄さんの方の友達ださうであつた。兄は芦田君、弟は二年下で和辻君の友達だつたらしい。死ななくてもよかつたと思ふのに、打ちしをれてゐた時に引止める力がいかにも足りなかつたのが殘念であつた。

　同じ播州の出身で、個人主義で、周圍に非常な影響を及ぼしてゐた魚住影雄の影響もあつて、懷疑的になつてゐたのかも知れない。兄は昔風の氣持でゐたのに、達三はちよつと新しくなりかけてゐた時代で、迷ふことも多かつたのかも知れない。さつぱりしたいゝ男だつたのに惜しいことであつた。

　ついでながら魚住君はたしか飾磨かもう少し東の方の出身であつた。あの邊に魚住といふ地名があつたと思ふ。

　

(181)　　　　　高田十郎君のことなど

　

　播州の人で、いちばん我々が大きい影響をうけた、といふよりは、親しくつき合つた人の一人に高田十郎君がゐる。早稻田大學の高等師範部を出て、奈良の師範學校につとめ、たうとう播州には歸らずに終つた人である。

　赤穗郡矢野村｜小河《をうご》＝いまの相生市＝の舊家「光葉《こば》」といふ妙な苗字の出であつた。この家は蘇我の馬子の家臣光菴の子孫とか傳へてゐる家である。高田家へ養子に行つたが、生家の祖父、曾祖父といつた人たちのことを大變よく書いてゐるので、この家の古いことがよく判る。

　筆まめにいろ／＼なことを研究して、大正のはじめごろから一人で「なら」といふ謄寫版の雜誌を出してゐたが、決して本にしようとはしなかつた。何べんも何べんもすゝめて、やつと「奈良百題」と「隨筆山村記」などをまとめた。「大和の傳説」も私が序文を書いたのでよく覺えてゐる。「なら」といふ雜誌も、自分で原紙をきつて、謄寫版で刷つたものなので、部數も少なく、今となつては得難いものになつてゐる。

　專門はたしか歴史だつたと思ふ。ながい間、郷里を離れてゐるので、あるひは播州の人には親しみがないかもしれないが、彼の文集はやはり誰か赤穗の人が纏めてくれたらと思つてゐる。

　この高田君にしても、前に記した黒坂にしても、外に出てから私と知り合つた播州人だつたが、兩人とも郷里に歸らず、播州と縁が切れてしまつた。こんな人が他にもちよい／＼ある。

　樺太長官までいつた平岡定太郎といふ人も、私はこちらの人として知つてゐたが、聞けば印南郡の石の寶殿あたりの出身ださうである。小説家三島由紀夫君のお祖父さんに當るわけで、夫人は永井亨とか大屋敦とかいふ人たちの姉(182)妹だといふ。この人たちの父君だつた永井岩之丞といふ人は、例の有名な玄番頭の子息で、柳田の養父の友達だつたから、家同士よく知つてゐる。定太郎氏の子息の平岡梓氏は農林省の局長まで行つた人であることもごく最近耳にした。

　和辻哲郎君は姫路市の北部、仁豐野《にぶの》の出である。和辻君の叔父春次さんは拙家と同じ醫を業とせられ、その令息が春樹君である。和辻君に初めて會つたのは、黒坂達三の追悼會の席上であつたかと思ひこんでゐたところ、最近學士院で和辻君に聞いてみて、その前に一度會つてゐたことが判つた。

　第二囘目の「新思潮」を出す時に、私のところへ頼みに來たことがあるといふ話であつたが、すつかり忘れてゐた。そのころにはまだ魚住影雄が生きてゐた。

　播州の青年で、私が家に連れて來て話などした人がずゐぶんあつたが、その後どうなつたらうか。「神戸新聞」のこの記事（「故郷七十年」）は、學士院でも時々話題になつてゐる。動物學者岡田要君は龍野驛附近の人ではなかつたかと思ふ。養子に行つた鹿島守之助君は、その岡田君の從兄弟だが、龍野の南上野の出身だつたらう。子供のころ二人でいつしよに市川へ鮎を捕へに行つたやうな話も傳はつてゐる。鹿島君は養子に行く前から知つてゐた。

　

(183)　　　　　ピネロの全集

　

　若いころからの私にとつて、一つの特徴といへば、本をよく買つたといふことであらう。ちよつとした所へ行つても、必ず何か本を買つて來た。丸善などもよく行つたもので、明治三十九年の日記にもそのことが書かれてゐる。私の日記はくはしいことは書かず、人の往來とかメモぐらゐしか書いてないが、あのころはよく丸善に行つたらしい。

　丸善については、こんなをかしな話がある。ある時、本を注文して屆けさせたところ、めちや／＼に破れた本をだまつて配達して來た。文句をいふと、あの本はあれ一册しか來ませんで、あなたに頼まれたからお屆けしましたが、途中で破れたらしいからどうすることもできませんと、斷りをいつて來たことがあつた。

　同じ三十九年の日記に、

　「志賀直哉といふ人、ピネロの作全部を買ひたりと、如何なる人にや」と書いてある。

　ピネロといふのは、プローズ・ドラマ（散文戯曲）を英語で書いた有名な人である。私のところにも一時ピネロの作が非常にたくさん集つた。イプセンなどと相前後して、韻律をふまない、勝手に書けるドラマを書いたのであつた。同樣の人は他にもあるが、ピネロがいちばん有名な人であつた。それが一時丸善に大分來たのであらう。

　この日記は、志賀君といふ人がピネロのものを讀んでゐることを聞いて、私がちよつと驚いて書き止めておいたものらしい。お金に困らない人だからそんなものを買つて何とも思はなかつたのだらうけれど、私の方ではピネロの全集を買つた人のあつた話にびつくりしたわけである。今からかぞへると志賀君はまだ二十三、四のころのことであつ(184)たらうと思はれる。

　私は英語の會話の稽古をするのに、少しでも面白い本がいゝと思つて、このピネロを次々に買つてゐた。ところがそれから十年近くもたつて、たしか貴族院に行つてからであつたらう。ある日のこと、例の今度の大戰中に京都と奈良を爆撃から救つてくれた米國の日本美術學者、ラングトン・ウォーナーがやつて來た。最初は人に連れられてだつたが、後にはたび／＼私の官舍に來るやうになつて、來れば私の部屋に入つていろんなものを見て歸るのである。ある時、私がピネロを本棚の端から端まで竝べてゐるのを見て、こんなことをいつた。「柳田さん、あなたがこの本を竝べてゐる主旨は、私にはよく判るのですけど、だめですよ、これぢや覺えられませんよ」といつた。つまり英語の稽古にはこんな本は適しないと注意したつもりであつたらしいが、まつたくそのとほりであつた。

　あのエモーションの強い時に、竝べたものがドラマでは、會話の參考になる氣遣ひはなかつたのである。

　そのころのウォーナーはたゞ面白いいたづらつ兒のやうな人に見えてゐたが、それが何十年もたつてから、日本文化の恩人にならうとは、誰が想像したであらうか。

　

(185)　　　　　外國人との交際

　

　ラングトン・ウォーナー博士については、前にピネロの全集のところでふれたが、こんな思ひ出もある。

　若いときシベリアへ行つてゐたといふので、たくさんロシアのルーブル紙幣をもつて來て、いつぱいボケットに入れてゐた。どうするんだときくと、今にこれが高く賣れるんだといつてゐたが、そのうち銀座の夜店にルーブルが出るやうになつたので、笑ひ出してしまつたことがある。

　戰後にも日本へ來たが、非常に素直な、面白い、良い人であつた。彼を私の所に紹介したのはイギリス人のスコットで、二人でよく訪ねて來た。スコットの細君が少しいたづら好きで「あの眞似をしてくれ」とウォーナーに頼むと「よし」といつて、毛布を腰に卷いてスコットランドの男のする短いスカートみたいにして歌をうたふ無邪氣な男であつた。最後に來た時、戰爭中の御禮をいふべきだつたけれど、たうとう會はずじまひになつてしまつた。

　西洋人といへば、日露戰爭の終り近くにやつて來て、三十九年にもゐた二人のイギリス人の思ひ出がある。一人は大尉、もう一人は少佐であつた。サマヴィル大尉の方はアイルランド人で姉さんは相應に有名な文學者であつた。貴族の出身とかきいたが、時々びつくりするやうな寫眞を見せてくれた。何十匹もの犬を集めて鹿狩りをする話など大變面白くきいたものである。

　カルスロップ少佐の方は、母親や妹を連れて來たりして、日本で靜かな生活をしてゐた。?町の平河町の角の、元黒田清輝さんのゐた家にゐたりして、若い日本の學生をたくさん寄せて話をしてゐた。日本語も樂に讀めるやうになつていて、とき／”＼私の所の會にも出席してゐた。ところが、第一次の世界戰爭で、ドイツと戰つた西部戰線で、ひ(186)どい悲慘な死に方をしたことを聞いたのである。そのころの私の日記にはカルスロップのことがたくさん出て來る。西部戰線でたゝかつてゐるとき、北の方の國境だつたらしいが彼が要塞の監督か何かしてゐて、自動車にのつて戰場を走つてゐると、ちやうどその眞上からドイツの爆彈が落ちて來て、車ごと散つてしまひ、後には何もなくなつてゐたといふのであつた。純情な平民的な一家だつたが、氣の毒なことである。

　學生時代に接した外人の先生には、アメリカ人で、メーソンといふおとなしい、やさしい感じの先生があつた。もう一人イギリス人のコックスといふ人もゐたが、この先生はよく覺えてゐない。三十人も三十五人もの生徒がいつしよでは、外人の先生が來ても、なか／＼言葉の練習にはならなかつた。

　たくさんつきあつた外人の中でも先にいつたスコットだけは、こちらがちやうど閑のころ知り合つたし、いろ／＼世話もしたので、大變親しくなりいつしよに旅行にも出たりした。

　

(187)　　　　　郷土會と牧口常三郎

　

　創價學會の創始者、牧口常三郎君のことも、もとは私はよく知つてゐた。最近後繼者の戸田城聖君も亡くなつたので、世間の關心もあるかと思ふ。

　牧口君は越後の人で、早く北海道へ移住し、そこの師範學校を出た。戸田君はそのころからのお弟子だつたらしい。

　私は前からなか／＼關係が深かつたから「價値論」といふ本に序文を書いてゐるが、創價學會そのものは私にはよく分らない。若い者を引立てることが好きで、師範學校で教へたお弟子たちを大變可愛がつたりするのが一つの特徴であつた。北海道出身の社會學者田邊壽利といふ人もお弟子の一人だつたと思ふ。牧口君はどういふわけか文部省に入つて、私のところへ來たのは文部省の囑託をしてゐたころであつた。

　明治四十三年の秋ごろ、新渡戸稻造博士を中心に、郷土會を創立したが、その定例會員の中に牧口君も加はつてゐた。他には石黒忠篤、木村修三、正木助次郎、小野武夫、小田内通敏などといふ人たちが常例會員であつた。そのときのことは私が筆記した「郷土會記録」にまとめられてゐる。石黒忠篤君は今では政治家になつてしまつたが、もとは本當のわれ／＼の仲間であつた。大學にゐるころから、私どものやつてゐるものを讀んでかぶれてゐたらしい。

　「郷土會」のもとになつたのが「郷土研究會」といふ集りで、明治四十年か四十一年ごろ、私の家で始めたものである。そこへ新渡戸博士が西洋から歸つて來られたので、後には新渡戸先生のお宅に伺ふやうになつたが、中心はやはり「郷土研究會」からの連中であつた。話題のもとは會員各自の旅行の報告で、いちばん熱心だつたのは早稻田大學の小田内通敏君であつた。小田内君を私に紹介したのは、やはり早稻田の人で、國木田獨歩の友人とかきいてゐた。(188)ことによると牧口君が連れて來たのかも知れない。小田内君の關係で一人、二人會員になつた人があつたが、とにかくさういふ人たちが全部新渡戸先生の方へ移つたのである。新渡戸邸へ移つてから初めて加はつたのは三宅驥一君であつた。那須皓君もそのころから來たが、この人はどちらかといふと新渡戸先生の宗教的な方のお弟子だつた。先生のお宅では毎囘會費五十錢ををさめて、そのころとして二圓か二圓五十錢くらゐのごちそうをして下さつた。名ばかりの會費をとつて來客の面目を害しないやうに心づかひして下さつたのである。場所もよく、そのうへ本もたくさんあり、ごちそうも出て樂しい會であつた。

　明治四十四年の五月、私は牧口君を誘つて、甲州の谷村から道志谷をぬけ月夜野を經て相模に出たことがある。そのころ電報が三日もかゝるといふ山村をみながら、農村調査の方法を研究し、指導する目的であつた。非常に氣持のよい旅で、今も道志川の風景が鮮やかに思ひ出されるほど印象深いものがあつた。

　郷土會はやがて郷土研究を出す母胎となり、今日の民俗學會の基礎となつて來たが、そのころはまだ民俗學といふ言葉は一般化されなかつた。たしかいちばんはじめにフォク・ロアーを譯されたのは上田敏君で、俗説學とされてゐた。私のところによく來る大藤君といふ人が、さういふ歴史をよく調べてゐるが、その話でも上田君がいちばんふるいといふことである。

　

(189)　　　　　父の死と自作のノリト

　

　私の父は中年から神主となつたので、既存の神道に對し何となくもの足りなく思つてゐたらしい。祖母は地藏信仰に熱中した人だし、母にはまだ本當に神道といふものが解つてゐなかつたのに、父の方ではよく／＼思ひつめたものとみえ、祖母の死後すぐに思ひきつて家の佛壇を片づけ、佛具類をみな市川へ流してしまつた。私の生れた時にはすでに佛教を離れて神葬祭になつてゐた。子供のころ、神棚も神に供へる机類や器具もまだ眞白だつたことを憶えてゐる。父は先祖を祀る時も、自分の息子が死んだ時も、自分一人で拜んで、自分の感覺に相應するノリトを作つてゐた。葬式を神式でするといふので、神葬祭といつたものらしく神道とはいはなかつたやうに思ふ。ともかく日本の神道の弱點は、その場合に應じてそれに相當するノリトをあげるといふことができなかつた點である。中央の神主ですらそれが難しく平田盛胤などといふ人は名家に葬式があると必ず頼まれて行き、いゝ聲で哀れに長いノリトを讀んでゐたが、これなどにもどうかと思ふ點が多かつた。

　まだ葬式の時はそれでもいゝが、何か特殊の問題がおこつた時に困つてしまふ。相手が知らないからそれをいゝことにして、どうにかゴマ化してゐるが、祭の種類と目的とはいくつもあるのに、ノリトの數はそれほどない。いちばん極端な例があらはれたのは、母が二十九年七月に死に、その九月に父自身が死んだ時のことである。

　布佐の私どもの神主は、金毘羅さんの行者からあがつてきた、もと船乘りかなにかしてゐた男で、何時でもノリトは大祓ひの時のものしかやらない神主であつた。みればそれもふり假名つきのものであつた。大祓ひといふものは「先ぶれ」のやうなもので、たゞ場所を清め、心を淨める用意だけをするにすぎないものであるのに、人の最後をこ(190)のノリトで片づけられては後に殘る者の良心が濟まなかつた。父の葬式の時は私自身氣持が非常に弱つて、悲しみに何もわからなかつたが、一年祭の忌あけには、もつと父の魂を引き留めておきたいし、とても大祓ひのノリトでは氣が濟まなく大變に苦しんでしまつた。どこかに古代作文の能力のある人はゐないかと探したが、千葉の田舍などにはそんな人がゐるはずはない。土地では神主さん自身の家の葬式を佛教でするやうな時代であつた。そこで私は自分で作らうと思ひたち、まとめてみた。大變な事業だつたが、父はさぞ私の心持を喜んでくれただらうと信じてゐる。今はもう殘つてゐないが、いろ／＼の祭のために三つほど書いたことを覺えてゐる。

　これは今でも神主の家庭で惱んでゐる問題だが、多くの神主は相手のわからないことをいゝことにして、例の「高天原に……」といふ重寶な文句で片づけてしまつてゐるのである。

　

(191)　　　　　谷中墓地の碑文

　

　このごろ注意してみると、それ／”＼の場合に相應するノリトを調べて見る本が大分出來てきた。最近にも靜岡の稻村さんといふ國學院のいちばん古い卒業生で九十歳近い神主さんが出した本が二、三册ある。「のりと文範」といふのもたしかその一册であつたと思ふ。

　神道といふものを今のまゝの方式で進めて行かうとすると、日本語とこちらの感覺とが大變複雜になつてゐるから、その本の中にあるやうなコトバで果してあらはせるかどうか、それがすでに疑問である。かりにあんな言葉でなくては感じが出ないとすると、よほど上手に導いてゆかないと、これからの人は神道をやつてゐるために僞善になつてしまふ。それに人が亡くなつて悲しみの最中に、あんな淨めばかりいつてゐるノリトを讀まれたのではやりきれない。讀む場合といふものも、ずつと限定してよく考へなければならない。と同時に氣持をなるべく素直にもち、出來るならば横で聞いてゐる人にも感じがうつるやうな心持でノリトを作らなければならない。いまはまだ戰爭後の思想の混亂から、日本の神道があるひは衰へはしないかといふやうな不安のあるときであるから、問題はどうしても國語として解決しなければならないと思ふ。

　碑に刻む場合はノリトのやうに口でいふものとは違ふから、おのづと違つて來る。石碑の場合はどうしても漢文がよくうつり、假名まじりの口言葉はかへつてだらだらになるやうな氣がする。私も兩親が亡くなつてから後に、一度この碑文を書いたことがある。

　家内の姉で、矢田部良吉家へ嫁いだ姉の子供に、雄吉といふ非常にいゝ男の子があつた。高等學校に入り、やがて(192)大學に進むといふとき、柔道をして急性腹膜炎か何かを起して急死してしまつた。家の長女が生れたばかりのときで元氣で見舞ひに來てくれたのに、それから一週間もたゝぬうちであつた。これには私も大變考へさせられた。こんな腹の底から起る人間の悲しみをあらはす方法をもたなければ困るではないか、佛教でもいゝが、坊さんのお經はあまりにも客觀的すぎる。さう思つたので私は父の一年祭のときのノリトとは違つた碑文としてこの悲しみを書いてみた。漢文で書いたのだが幸ひにもそのころ森槐南先生が宮内大臣秘書官をしてをられたので（私も宮内省に勤めてゐた）折があつたら拙文をご覽下さい、とお願ひしておいた。今でも谷中の墓地に矢田部雄吉の墓の後に刻んである。義姉や養母の悲しみをくんで、菩心してゐるうちにたしか一周忌には間に合はなかつたと思ふ。槐南先生も大變同情して、その中の八字か九字を訂して、漢文としても、また日本讀の調子としてもいゝやうに直して下さつた。

　たしかこのとき、養父に見せたところ、養父は親友で同じく法律家であり漢學者でもあつた、倉冨勇三郎さんにそれを見せたらしい。すると倉富さんは甥が柔道の黒帶だつたので黒帶《こくたい》といふ文字などを使つて素人眼にいゝやうに直してしまつた。せつかく槐南先生に手を入れていたゞいてよく出來たと思つてゐるのをさらにまた直されたりして、このときは大分私も憂うつになつてしまつたことがある。しかし碑文は結局もとのまゝで谷中にたてることになつた。

　これも感情をあらはすのに、昔からのまゝのをとるよりほか仕方がないといふ考へ方に反撥した、いはゞ私の文章修業の一つだつたのである。

　雄吉温恭儕輩知重夙夜嚮學書史習誦行就美材實公家用先君遺愛私慶有種漸長?健又習武藝暇陟名山氣盛志鋭?意朝露病五日逝※［煢からわがんむりを取る］留慈母悲汝昆弟噫乎時邁春草再菲屋梁月色慘澹失輝曇華空現薤葉忽晞魂兮天只冥漠何歸

　碑文の文字はたしか飯田藩出身の、大審院の書記をしてゐた人が書いてくれたと思ふ。

　

(193)　　　　　慈恩寺の碑文

　

　私にはもう一つ、碑文を書いたことがある。埼玉縣の岩槻に近い所に、慈恩寺といふ村がある。昔の寺領で、同じ名の慈恩寺と呼ぶ天台宗の寺があつた。この寺には後年本願寺の大谷光瑞さんの秘書をしてゐた水野梅曉氏も厄介になつてゐたことがある。その關係からか、支那の南京で發掘された玄奘三藏の遺骨の一部がこゝに安置されてゐる。梅曉氏は戰後あそこで亡くなつた。そのお弟子にあたる筋の人が埼玉縣には大分ゐた。その慈恩寺の坊さんで、内務省の事務なども手傳つてゐた若いハイカラな坊さんで、始終私の所に來る人があつた。

　慈恩寺といふ寺は、昔は周圍が原野ばかりで、�ｺ川將軍が狩りに行つた邊にあつた。一村ことごとく寺内で、この中にどういふものか小さな神社がたくさんあつた。そのうちでいちばん大事なお社は諏訪神社であつた。そのうちあまり多いので、縣の方で、合併整理して減らすといふ方針になり、その代りに慈思寺の境内に由緒を書いた石碑をたてることになつた。

　いつも宅へ來てゐた若い和尚さんの口添へで、村の人たちが共同して、私にその碑文を書いてくれと頼みに來、たうとう引受けることになつてしまつた。私としては「心が安まるやうに、滿足ができるやうに」といつた心持と、文章といふものは目的を達しさへすればそれでいゝのだといつたやうな氣持とが自然にあつて、假名混りのだれにでも讀める文章を作つた。なるべく新聞のやうな口調で、ハイカラな文章であつたが、内容は堂々たる政治論であつた。つまり昔の政治的、學問的な問題を扱ひ、將軍家の狩りに來た原野のことなどにも觸れたやうに思ふ。字はあのあたりは、書道の盛んな土地なので、縣の小學校校長さんで一人大變よく書く人があり、その人に書いてもらつた。建碑(194)のときに私も招ばれて行つてみたが、かなり長い文章だつたので、なか／＼大きく、立派な石碑だつた。寺から半丁ばかり手前に立つてゐたが、いまはどうなつてゐるのであらうか。

　他の文章の中には、慰みに書いたり笑ひながら書いたりしたものもあるが、親の喪に大祓ひだけでは困ると思つて作つたノリトと、甥雄吉が亡くなつたとき、皆の意見を阻んでも、その悲しみを表現しようとした、この二つの文章は、私の自然に書かずにはゐられないものであつた。

　その他に別格の碑文がこの慈思寺の石碑である。

　鎌田久子さんが現地へ出掛けて取つて來てくれた拓本により、その全文を次に掲げておく。

　　　表慈思寺區愛宕神社遷祀記

　此邑起立年久シト雖記録ニ據リテ之ヲ詳ニスルコト難シ獨リ産土ノ神諏訪明神愛宕明神其外ノ神々ノ鎭リ坐スアリテ神ナカラ往古ノ樣ヲ示シ給ヘリ伏テ惟ミレハ聖皇都ヲ關東ニ遷シ給ヒテヨリ惠ノ日益煦ニ慈ノ露愈沾ヒ又道開ケ里榮エ父老ハ業ニ安シ子弟ハ學ニ就ク家トシテ昭代ノ澤ニ漏ルル者無キコト且ハ冥助ノ致ス所ニシテ深ク神�ｺヲ仰クハカリ也唯憂フラクハ世ノ營ミ事繁ク人ノ心常ニ忙シクシテ四季ノ祭供時ニ厚薄アリ諸處ノ參拜或ハ之ヲ勞シトスル者アラムニハ神ヲ輕スルノ懼少カラサルカ故ニ明治四十三年十月十五日官ノ裁許ヲ得テ先ツ一地ヲ諏訪神境ノ内ニ相シ愛宕ノ御社ヲ此ニ遷シ奉ル愛宕ノ神ノ舊祉ハ悉ク之ヲ常緑ノ林ト爲シ更ニ故ノ木ヲ伐リテ基金八百五拾圓ヲ得タリ表慈恩寺九十一戸ノ民同心シテ此業ヲ完成シ故老三城僖七郎厚澤貞司等主トシテ之ヲ勸進ス固ヨリ凡智ノ謀ル所偏ニ神慮ニ違ハサラムコトヲ希ヒ此財涓滴ノ微ニ過キスト雖積ミテ永久ノ用ニ供セムコトヲ期ス曾テ他意アルコト無シ後ノ人深ク思ヘ家聚リテ邑ヲ爲シ邑ハ又國ノ基タリ此國千萬歳ノ榮ハ言フモ更ナリ邑ト家トノ永續ハ誠ニ我々カ身ノ外ノ望ニシテ兼テ又祖先代々ノ切ナル願ナリキ昔始テ此武藏野ノ奧ニ來リ住ムヤ蘆荻谷ヲ塞キ荊棘徑ヲ埋ム僅ニ丘ノ片平ヲ伐拓キテ爰ニ耕作ノ便ヲ求メムトスレハ四境寂寥トシテ鳥獣蟲蛇ノ害絶エス神明ノ力ニ頼ル(195)ニ非スンハ誰カ安シテ子孫ノ計ヲ立ルコト得ヘカリシ諏訪ノ大神ハ山ノ幸ヲ施シ給ヒ愛宕ノ權現ハ火ノ災ヲ護リ給フ村民懇?ノ誠ヲ抽ツルカ故ニ風雨宜キニ順ヒ五穀年ニ稔リ今ニ至ルマテ眷族ノ繁昌シ郷黨ノ和熟スルハ一ニ御蔭ニ因ラスト云フコト無シサレハ凡ソ此里ニ生レム者謹ミテ累世ノ神�ｺヲ思ヒ祖先ノ恩ヲ忘ルルコト無ク必ス四時ノ祭ヲ重シ以テ一郷ノ洽厚クセハ庶幾クハ靈感幽應シテ永ク神國ノ恩澤ニ浴シ鼓腹撃壤ノ喜ハ盡クルトキ無カルヘシ

　

　　　　　　大正二年四月十七日

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　法制局參事官從五位勲五等　柳田國男代撰

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　埼玉縣女子師範學校教諭　　木村増二敬書

　

(196)　　　　　柳田家の墓所

　

　柳田の家の墓はさきごろ燒けた谷中天王寺の五重塔の背後にあるが、あの附近も昔の大名の墓所がなくなつてだいぶ樣子も變つてきた。

　柳田の家は私の父にあたる人もやはり養子で、先祖の墓地を何かと氣にしてすごしてゐたが、忙しく見に行く折がなかつた。柳田家は寛文年間まで下野の烏山にゐたが、飯田の脇坂家が播州龍野へ移つた後、堀家にしたがつて飯田へ移つて行つた。それ以後の墓所は飯田にあるが、それ以前の舊い墓が烏山にあるにちがひないといふ氣がしてゐた。しかし父はどうしても行く暇がないので、たしか日露戰爭のすぐ後であつたと思ふが、私といま谷中に葬られてゐる甥の矢田部雄吉と二人で出かけていつた。

　寺にゆくと「どうもお氣の毒樣でした。寺では整理の必要があつて、無縁墓を片附けましたので、おそらくお宅樣のもないでせう」といひながら「火事がありましたが、過去帳はこれだけ殘つてゐます」と過去帳を出してくれた。それを繰つてみると先祖の戒名がいくつも出てくる。「こゝにありますよ、これは私の家の戒名です」、かうして戒名は見出し、翌日はお經を上げてもらふことになつたが、肝心の墓石がない。「墓石がなくてはねえ」と甥と話しながら翌朝もう一度寺に行つてみた。

　住職が讀經の支度をするのを待つ間に、墓石のことを氣にかけながら境内をぐる／＼歩いてゐると、お寺の代々の住職の墓といふのがあり、そのすぐ脇をふつと見ると探してゐた私の家の戒名がずつと竝んでゐるではないか。さつそく和尚さんを連れてきて見せると「これは何か青木とかいふこの地でいちばん主な旦那の墓です」といふ。しかし(197)墓石に柳田と書いてあるのだから間違ひはないといふことになり、お經を上げて大變成功して歸つて來た。青木といふのは町の饅頭屋で、念のため訪ねて行つてきくと、何でも先祖が柳田家から頼まれたといふので、代々墓所を守つてくれてゐるといふことだつた。長い間の好意に感謝し、今後のことも頼んで歸つてきた。

　その話が傳はつたので、舊藩のお爺さんたちが大變喜んでくれて羽織袴でうち連れてやつて來、「承はればご先祖の墓所がお見つかりになりましたさうで……」とわざ／＼あいさつに來てくれたことを憶えてゐる。その後父が母といつしよに烏山へ墓參に行つたところ困つたことに墓が一つもないのである。寺で處分してしまつたのであらうが、父が非常に憤慨し、夜も眠られぬくらゐ怒つてしまつた。「わしはこつちへ建て直す」といつて、谷中へ代りの墓所を建てたのが、現在の墓である。父にとつて烏山といふところは、長い間の先租の墓所を保存してくれて、じつに有難い所であつたのが、急に印象の惡い所になつてしまつたらしい。もうそれつきり一族のものだれもが行かないのである。

　

(198)　　　　　亥の子

　

　年とつた者は、やゝもすれば何でも判つたつもりで若い人や、子供たちにのぞみがちであるが、世の中には未解決の事柄がじつに多いのである。いかにもつまらないことのやうに見えて、じつはそれをつきとめてゆけば、私どもの古い歴史や周圍民族とのつながりなども判つてくることがある。未解決の問題が多いといふことは、遠い將來のことを考へると、また樂しいことになる。

　私の子供のころ播州では亥の子といふ行事が盛んであつた。書物によると攝津豐能郡の能勢の妙見樣の附近の、ある特定の家から京都の宮廷へ舊十月亥子の日にお餅をもつてゆくのが、この日の行事のやうに書いてある。玄猪《げんちよ》などともいふが、亥の日が猪かどうか判らないのに、京都の役人と能勢のその附近の誰かが話し合ひをつけてそんなことをいひ出したものと思ふが、説明がつかないのである。

　現に私どもが子供のころ亥の子の日といふ感覺と、京都へおモチを持つてゆく、この玄猪といふ能勢の行事とは結びつかないのである。新藁で束を拵へ、その中に竹とか茗荷などの、中の虚ろな生の植物を堅く卷き込み、それに取手の輪をつけた「スボ」といふものを作る。子供たちはみなこれをもつて、調子をそろへてぽおーんぽおーんと地面を叩く。中には植物が入つてゐるのでよけいに良い音がひゞいて、子供たちは自然に興奮してしまふのだつた。

　「亥の子餅くれんこ、くれん家の嬶は、鬼うめ、蛇うめ、角のはえた子うめ」

　さう歌ひながら村の道を練るわけであつた。私の家では親がやかましくて、他のことでは村童の仲間入りをさせてくれなかつたが、どういふものか、この時だけは私ども兄弟に子供の特權を與へて外に出してくれた。

(199)　この亥子餅くれんこの行事は、ふしぎにも狹い範圍にしか行はれない。播州の私らの地方から少し西の方まで飛びとびに擴がつてゐるが、岡山邊から山口縣の一部分までは亥の子石といふ石を使ふ所が多い。丸い石に繩をたくさんつけ、子供たちが四方からその繩を引つ張つて石を空中に吊り上げておいて、いつせいにどすんと地面に落す。藁束とは感じも調子もまるでちがつてゐるが、やはりこの日を亥の子といつてゐる。瀬戸内海の對岸でも四國の愛媛縣もたしか亥の子石であつた。石を普段は大事にしておいて、この日だけにもち出し、ヨイトマケが地杭を打つ時と同じやうにいつせいに引き上げてからどすんと地面に落す、それによつて人々はむやみと興奮を感じてゐた。動作はちがふが岡山邊でも子供たちのうたふ文句は播州と同じやうであつた。

　關東地方では同じ行事を「十日《とをか》ン夜《や》の藁鐡砲」といつてゐる。藁鐵砲であるから播州の行事に近いわけである。つまり動作の方は遠く離れた遠方同士が似てゐるが、歌の方は藁と石と違つても、距離の近い同士が似てゐるのである。それにしても、このころになつて私に判つたことは、この行事がそんなに舊くないといふ點である。

　はじめ親たちから聞いた話では、もとは舊暦十月は亥の月だから亥の月の亥の日を選ぶ、第一の亥の日は殿樣の亥の子とか武士《さむらひ》の亥の子だとかいつて、村人は何もしない。二度目の亥の日を百姓の亥の子といつて村の人たちはこの日に餅をついて贈つたり贈られたり、子供たちが藁鐡砲で地面を叩いたりするのだといふのである。

　今でもよく憶えてゐるが、私の家などでもよくこの亥の子餅を貰つた。菊の花のやゝうつろになつた小枝を、必ず重箱の中に入れてあり、蓋をとると、プーンとよい香りがしたものであつた。夜更けまで藁鐵砲をうつてゐたものか、翌朝學校にゆく路の兩側に、土がてら／＼と固くなつてゐる所があちこちに殘つてゐたのをおぼえてゐる。

　

(200)　　　　　豐の明り

　

　秋の亥の子とは別に、山陰地方から北陸、東北にかけて、亥の月でも何でもない三月ごろに「春亥の子」といふのがある。藁鐵砲はつかないが、亥の子餅をついてたべることは秋と同じである。亥の月の十月から約六ヶ月も距てた春の三月か四月にもういつぺん、亥の子をするのは何故か。

　近ごろひよつこりわかつたのに、播州にも六月亥の子といふのがあることが判つて來た。農家が田植をすました後、草取りまでの合間に、やはり餅をついて「六月亥の子」といつてゐる。ことに辻川から市川の上流にかけて盛んなので、高砂市に住むわれ／＼の仲間の西谷勝也君といふ人に、くはしい調査を奨めてゐる。

　これによつて亥の子は、春亥の子、六月亥の子などがあつて、必ずしも亥の月の十月ばかりでないことが明白に判つてきた。十月は神無月で、決して祭りをしない月である。「延喜式」に京都付近の主な神社の祭りの一年中のリストが出てゐるが、十月は一つもない。これは私の考へでは、十一月に非常に重要な神社の祭りがあるので、その前一ヶ月は物忌みをする。つまり忌火《いみび》を焚いて、何もせず、ごく靜かにしてゐる期間であるから、その間に亥子餅のやうなハデな賑やかな行事の入る餘地はないはずである。

　物忌あけの十一月といふのは霜月といふくらゐで、もう霜が降りるからその時に秋祭りをするのは少し無理がある。物忌みといふ昔の信仰、つまり習慣を大事にすればこそ一ヶ月辛抱ができるが、信仰が薄れてくれば一ヶ月の物忌みは難しくなつてくる。

　亥の子の騷ぎはこのやうに物忌みのうすれかけた時、誰かが工夫して、十月の亥の日に賑やかな行事をして、神無(201)月そのものを花やかにして見ようとしたのではなからうかとも考へられる。あたかも今日スポーツを村に入れて、活氣を呼ばうとするのと同じ氣持ではなかつたかと思ふ。

（秋の亥の子は十一月二十三日にしてゐた。祭の物忌みに入る日だつたのではないか、百姓屋のこの忌日の飯《いひ》が亥の子になつたのではないかと思ふ）

　そこへさらに明治五年太陽暦が採用される時、朝儀の新嘗祭が新暦十一月二十三日に行はれることに決められたので、よけいに複雜になつてきたのであつた。

　新嘗祭はもと舊暦の十一月、すなはち霜月の二十三日に行はれてゐた。しかしもと／＼二十三日に行はれてゐたのではなく宮中の新嘗祭などはいつも霜月第二の卯の日といふことになつてゐた。第一の卯の日には田舍で祭をさせ、第二の卯の日に、最後のいちばん大きな重要な神嘗祭といふものを營んだ。その祭の済んだ後が、いはゆる「豐の明り」である。あまりに嚴重な物忌みをしたため、そのとけた時に全部が解放されるわけである。この感覺は野蠻人になればなるほど對照が甚しく、それまでは男女の往き來もないといふくらゐきびしいのが、祭がすむとまるで氣違ひのやうになつてしまつて、飲みたい者は飲み、喧嘩もおこるといふふうにあらゆることを自由にふるまつた。

　「豐の明り」といふのは、大變上品な言葉になつてはゐるが、元のおこりは物忌みの解けた時の喜びを表す民間の祭ではなかつたかと思ふ。もちろん宮中にもその時には五節の舞のやうなハデな祭があつたのであるが、それが二十三日を目標にしてゐたのではないかと私は思ふのである。

　二十三日といふ日は滿月を中において、八日が上弦の日であるのに對して下弦の日であるから、何でもないやうでゐて、じつは大事にされていゝだけの意味をもつてゐる。西の方では、岡山縣、島根縣などでもさうであるが、二十三日が新嘗の祭になつてゐるお社がある。

　お祭のうちのいちばん大事なお祭を二十三日にするのが注意に値する點で、宮内省でも新暦の十一月二十三日を新(202)嘗の祭にされてゐるのは意味があると思ふ。しかし宮内省の記録では明治五年の暦法改正の時、祭の日を十二支でかぞへるのを止めることにしたところ、舊い新嘗祭、すなはち舊十月の第二の卯の日が、新暦の十一月二十三日であつたから、この日にきめたといふことが判つた。これは私の想像では昔から新嘗祭を下弦の月のある二十三日にして來てゐたので、たま／＼その年の第二の卯の日が新暦二十三日になつたといふ、まことに注意すべき偶然だつたのではないかと思つてゐる。

　

(203)　　　　　大師講

　

　この二十三日といふのが農村ではどういふふうに取り扱はれてゐるのであらうか。

　私が幼いころ、故郷辻川にはニジュウソといふ言葉がかすかに殘つてゐた。他の祭のやうに取り立てて行事もなく、子供にとつても別段日ごろと變ることはないが、たゞニジュウソといふ日があることはあつた。私らはネジグソだなどと、下品な惡口で呼んだものである。十一月二十三日、いはゆる霜月三夜のこの行事は、辻川より東の方、美嚢、加西附近にゆくとまだ重要な行事として殘つてゐる。

　中部地方から東の各縣や、北陸一帶また山陰も但馬から西、島根附近まではこの日を大師講と呼んで、弘法大師や元三大師などの話に結びつけてゐる。二十三夜の晩、ある貧しい老婆の家に大師が訪れて來られたが、何も差上げる食物がなかつたので、惡いとは思ひつゝ隣家の田にしのび入つて、稻穗を盗んで來て進ぜたとか、隣の畠から大根をひきぬいて大師に供したとかいふ語り傳へがある。老女は足がすりこ木のやうになつてゐたので、足跡ですぐ分つてしまふから大師がその志をあはれんで、雪を降らせ、足跡を隱して下さつたとか。あるひは東北地方も端々にゆくと、大師は女性で二十三人もの子供があつたので、それを養ふためいち／＼子供の傍に近づけないため、長い箸を使つたとかいふ傳説もある。そのためこの日供へるオカユや團子には長い二本のちんばの箸を添へる風習もあつて、いはゆる歴史上の大師や太子に關係のない傳承が多いやうである。

　またこんな話もある。大師は子供が多くて、貧しかつたので、二十三日のオカユに入れる鹽がなかつた。それを買ひに出て吹雪のため途中で倒れたため、この日だけは供へるオカユに鹽を加へないといふ地方もある。十一月も太陰(204)暦では、すでに天候も寒く雪も降り、夜は寂しい季節であつてみれば、圍爐裏端では話がしきりにはずみ、さま／”＼に形を變へて作られていつたものであらうと思はれる。

　兵庫縣も但馬の村々では、この霜月三夜には、山の獣らが山を下つて來てこの晩の祭をするといふいひ傳へもあつた。

　岐阜縣東部の加茂郡といふ所は眞言宗は少なく、禅宗の寺が多いにもかゝはらず大師堂といふのがある。土地では弘法樣をまつつてあるといつて寄り合ひをしてゐるが、それがやはり十一月の二十三日に當つてゐる。神戸大學の佐野一彦教授がその附近の伊深村に住んでをられて、居村の事情を非常に詳しく報告されたものがある。

　さてタイシといふのは、長男、長女を意味するオホイコのことであつて、漢字をあてると大子となるが、われ／＼の祖先は耳でダイシときいて、弘法大師や元三大師などを想像してゐたのも、おこりはやはり尊い神の御子といふことであつたのかもしれない。

　まだ冬至といふ暦の上のことばを知らない前から、暖かい陽光の訪れる嬉しい季節がこれからはじまるといふ時であるから、それを力強い惠み深い神の御子の誕生のやうに想像してゐたのではないかと思ふ。

　冬至は中國のみならず、西洋でもクリスマスはキリスト教以前の冬至祭に發し、それをキリスト生誕の日にしたといふのは、たんなる偶然ではないであらう。

　たま／＼宮中の新嘗祭が新暦十一月二十三日になつてゐるが、私はこの二十三日は、稻の刈上げから一ヶ月目の稻の收穫祭ではなかつたかと思つてゐる。つまり舊暦十一月二十三日を中心にした米のまつりに關して、新舊二つの暦が重なり、複雜になつたが、亥の子は、この米の收穫祭のための物忌みに入る忌火の飯をたべ始める日であり、豐の明りはそのあける日の祝ひではなかつたかと思ふ。

　

(205)　　　　　アエノコト

　

　今では、刈田の跡に藁だけを圓錐形に積みあげた、ツミワラが田園風景に趣きを添へてゐるが、昔、物盗りの心配のなかつたころは、刈りとつた稻を穗つきのまゝ田んぼの中に積み、そこで乾燥させ、保存するとともに、田の神を祭つたものであつた。

　積み方は、全國ほゞ一樣で穗先を内側に向けて圓錐形に積みあげてゆき、上の屋根にあたる部分は藁を逆にして葺いたり、束ねて飾りつけたりしてゐた。ニホとかニョウ、あるいははつきりと稻ニオといふ所もある。あるいは紀州などのやうにスズキといふ所もある。日本の固有信仰で、田の神は春先に山から降つて來られて、その年の稻作のよく出來ることをご覽になつて、秋には歸り給ふのであるから、この稻積みをニオ、ニョウなどと呼ぶことは、ニイナメ祭のニイや、神への供物のニエなどと關係があるのではないかと、私どもは早くから主張してきたのであつた。

　おもしろいことには、この稻積みの方式は、南方の稻作民族の間でもみられることである。あちらでは、はつきりと、この稻積みを、稻の母が來年になつて實を結ぶための、稻の子供を産むためのものといふ。こゝで祭を行つて、翌年の稻の稔りを願ふ穀靈信仰はわが國とも共通したものであつて、いはゞ「稻の産屋」とみたてた信仰のあらはれであつた。

　ニイナメといふ祭りは、いまだに詳しいことはわからないが、古代のわが國ではことに嚴肅な、大きな祭りであつて、稻の刈り上げが終つたあとのある期間を、精進潔齋し、物忌みの生活をして神を祭つたものであるらしい。

　農民の間にもニイナメといふ口言葉はそのまゝでは殘つてゐないし、いつごろ行はれたものであるかもはつきりし(206)ないのであるが、私には他の事情から考へて、先にのべた大師講などと、昔のニイナメが、あるいは同じものではなかつたかと思はれるのである。大師講の夜は、必ずオカユを食べるといふ習はしは、穀靈と共食する民間の一儀式でもあつたわけであらう。こゝに注目される一例としてあげたいのは、能登半島の奧まつた村に「アエノコト」といふ祭があることである。アエは饗でニイナメ即ちニイノアエに通じるものではないかと思ふ。

　この祭は十一月四日または五日に、田の神をそれ／”＼の家に迎へ、まるで高貴な御方をお迎へするやうに、家々の主人は威儀を正して歡待するのである。見えざる田の神に對して「ようお出で下さいました」と挨拶し、まづ風呂に案内する。こゝでは主人自ら裸になつて入つたり、あるいはそばにひかへて湯加減をうかゞつたりする。それから座敷にご案内して數々のご馳走を差上げる。田の神は久しく地中にあつて、めくらになつてをられるからといつて、膳のご馳走を一つづゝ「これは何でございます」と説明して供へるといふのである。このご馳走はあとから家内中でわけていたゞくとか、主人自らがたべるなど、神との共食であつた。これには田の神といふばかりでなく、自分の祖先の靈でもあるといふ信仰が入り込んでゐるのである。

　若狹小濱の對岸、大島にはまたニソノモリといふ、墓地と祠を兼ねた祭祀場を各戸がもつてゐる。こゝではニジュウソといつて十一月二十三日に祭つてゐるのである。またその地域から近江附近にかけてはダイジョウ講といふ、同じ日の祭があつて、穀靈信仰と祖靈信仰がいろ／＼に重なつた名殘りをみせてゐる。

　さてこのやうにいくつかの例を取りあげてゆくと、新嘗と、ニジュウソ、大師講など全國の二分の一以上を占める地域に殘つてゐる信仰との關連が考へられ、それがことごとく米に關係してゐることが分る。

　

(207)　　　　　「竹馬餘事」

　

　人によつては、幼いころからとくに文章を練るために、古典などをよんで修業する人もあるやうだが、私はどちらかといふと投げやりの方で、別にこれといつて目立つやうな苦心はしなかつたやうに思ふ。たゞ小さい時のことで面白いことが一つある。

　まだ播州にゐるうちの話で、明治二十年以前のごとであるが、私のはじめての著書と名づけていゝやうなものが一つだけあつた。それは表紙と裏とを父が書いてくれたもので、七十年經つた今も大切に保存してある。私がいよ／＼播州を出る時、父からかういふ時には、昔の人はみな送別と留別の詩を作つて出たものだといふ話を聞かされた。私もこの父の言葉にしたがひ、ほとんと發つ直前であつたが、一生懸命になつて留別の詩を作つたのである。半紙を半分に折り、横に二つに折つた細長い帳面を拵へ、それに自作の詩を書き、自分で製本したものでこれに父が表の題と裏の名前を書いてくれた。

　詩は「詩語碎金」とか「幼學詩韻」とかいふものを手本にして集めて作つた詩だから誰でも作れる、價値のないものであるが、その父のつけてくれた表題が面白い。「竹馬餘事」といふ、つまり竹馬の餘暇にこの詩を作つた證據といふつもりでつけたものらしいのである。裏の名前もシナ風に書いてある。

　たしか十三の時の秋で、さういふことをやりたい年ごろだつたのであらう。少しばかり漢字を習ふと、すぐ大人の眞似をしないと氣が濟まない年ごろなのである。

　明治十七年か八年だつたか、宮中の新年の御歌始に「雪中の早梅」といふ題の獻詠をしたことがある。無論預選に(208)はならなかつたが、それもこの竹馬餘事には書き殘してある。學校の作文も、折にふれた記事もみなこの中には入つてゐる。

　もう一つこの「竹馬餘事」の中で面白いのは、そのころ「昔々春秋」といつて大阪の中井履軒つまり中井竹山の弟の方が、文章の稽古に支那の「春秋」を眞似して、昔話の猿蟹合戰やお伽噺の類を、一々「春秋」のやうな書き方をして出したものがあつた。私はそのころ生意氣だつたらしく、これを讀んで大變感化をうけ、自分も眞似して「花鳥春秋」といふものを書いたのである。これも明治十八年のころだつたと思ふ。後になつてみれば何故こんなものを書いたのだらうと思はれるが、これが私の文章を作るといふことのまづ最初の仕事だつたのである。

　眞書《しんがき》で細い字で書いてをり、その中に挾んでおいた罫までがまだそのまゝ殘つてゐる。

　次に一册になつてゐるのは下總から東京に出て來て後と思ふが、香川景樹の歌について批評だか、感想だかを書いたのがある。

　前にのべた秋元安民の傳記を「しがらみ草紙」に寄稿したのは明治二十三年のことであるが、この歌の批評集もあるいはそのころかもしれない。

　

(209)　　　　　遊歴兒童のこと

　

　森?外さんや、家兄井上通泰の「めざまし草」に、たしか私の二十一、二歳の時と思ふが、佐佐木信綱君の歌を批評して、喧嘩になつたことがあつた。

　佐佐木君といふ人は、早くから世に知られた人で、父君弘綱さんが、明治十三年「明治開化和歌集」といふのを出したが、これによると六歳か七歳の時に信綱といふ名で歌をだいぶ出してをられる。この「明治開化和歌集」をどういふわけか兄通泰がもつてゐたので、私は早くから讀み、非常な競爭意識を起させられる動機になつてしまつた。ちやうど今のやうに歌のひろまつた時代で、この本はそのころいくつか出てゐた類題歌集の中の一つであつた。信綱さんは小さい時からお父さんに連れられて、各地を歩いたらしく、博文館の「續紀行文集」や「續々紀行文集」の中に、父子いつしよに福井から金澤の方を歩いた時の紀行が出てゐる。お父さんの遊歴に子供を連れるのは、いゝこともあるが、子供にとつては遠慮すべきこともあつて、あまりいゝことともいへない點もいろ／＼あつたらしい。

　小さい時から遊歴した人といへば、私の大變力をいれて本にした菅江眞澄の經歴も、多分さうではないかと私は想像してゐる。一生放浪性を帶びて、各地を歩き、一定の所に落着いて何かするといふことのできない人になつたのは、私は、眞澄もきつと小さい時、親か叔父さんに連れられて歩いたのではないかと想像してゐる。この人は三河の生れで、眞澄自身の書いた文や畫がたくさん殘つてをり、父親の書いたものも殘つてゐるほどであるのに、三河のどこの人か、今もつてはつきり判らないのである。最後は秋田の角館《かくのだて》で死んだが、墓は土崎にある。

　佐佐木さんの方は、やがて弘綱さんが東京に落着いて門戸をはつたので、遊歴は止まつてしまつた。後に法學博士(210)になつた添田壽一も遊歴からはじまり、後には落着いた例である。私も早くからませてゐて、いろ／＼のものを讀み、どちらかといふとその危險性は十分にあつた。もつともよく本を讀んだのは、一つには身體が弱く長生きしないと覺悟をきめてゐたからである。

　あの時分、われ／＼の理想としていちばん讀んだのは「大阪新繁昌詩」といふのであつた。大阪で名を知られた田中とかいふお醫者さんの息子が、十七歳ぐらゐで早死したのを悲しんで、亡兒の漢文と詩とをのせて出したのがこの本であつた。筆の格律が高いだけでなく、若くて名をなしたといふので、大變若いものゝ心を誘つたものであつた。もつともあのころは、こんな早死の才人のことを、もてはやす風潮も一方にはあつた。

　私は早く親もとを離れ、二年間も下總に來て素裸で棒切れをもつてとびまはつたりしたのが、かへつてよかつたのであらう。バイロンやシェリイや、高青邱など若死した人の傳記をよんで、自分もまあ四十までは生きないと思ひこんでゐた。後年よく友達から「おい柳田、もう四十になつたぜ」なんてからかはれたものであつた。

　

(211)　　　　　湖處子の「歸省」

　

　私には若いころの詩集が一つある。六人の仲間のものを集めた新體の詩集で「抒情詩」といふ名で出されてゐる。才氣のあつた國木田獨歩が、六人の詩を集め、國民新聞にゐた關係から、民友社に話して出したものであつた。全部國木田まかせにしたわけであるが、この詩集についてはいろ／＼記念すべきことがあるので、それについて二、三書き殘しておきたいと思ふ。

　この六人の組合せは國木田の考へによつたが、はじめに知つてゐたのは、田山と國木田と私が入つてゐることだけであつた。他の三人のうちの一人は、田山の細君の兄さんの太田王茗といふ坊さん、もう一人は嵯峨廼舍御室《さがのやおむろ》といつて、後に二葉亭四迷などとロシア文學の研究をし、割におそくまで文筆活動をしてゐた矢崎鎭四郎である。坪内さんが春廼舍朧《はるのやおぼろ》といつてゐた時分に、ナニノヤナニといふ名前の人が四、五人出來た中の一人であつた。この人をどうして六人の中に入れたか、私には判らない。

　それからもう一人、この人が故郷といふものに關連して、私が一度は傳へておきたかつたと思ふ宮崎湖處子であつた。年配も國木田より上で、われ／＼より十も上だつたのではないかと思ふ。國木田と同じやうに國民新聞の記者をしてゐた。私がはじめて國木田の澁谷の家を訪問したころ、そこに山路愛山君もゐた。國木田の家から少し出た所、ちやうどいま澁谷の地下街になつてゐるあたりが、昔の世田ヶ谷にゆく道路で、その脇のごく普通の宿屋の二階を湖處子が借りてをつた。非常にいゝ人で、後には私のやつてゐた紅葉會といふ歌の會にも入つて、松浦先生の門人になつたりした。もつとも先生の方ではあまり歌をほめず、細君の歌の方がうまいなんていつてをられた。湖處子の小説(212)として有名な「歸省」の中に出て來る理想の婦人といふのが、この細君である。私は湖處子には一、二遍會つたきりで、松浦先生へもあまり來ないし、後には居所も判らなくなり、亡くなつた時には通知もうけなかつたほどである。弟が一人あつて牧師になつたが、この人も長生きしなかつたやうに聞いてゐる。

　「歸省」といふ本は、理想の細君をもらふといふだけのことを書いたものであるが、この中に出て來る「故郷」といふ概念は、あの時代の若いものの考への、代表的に表はされたものであつた。湖處子の郷里は九州の筑後川のほとりの、秋月領に入つた所である。ごく靜かな通り路で、湖處山といふ有名な黄楊《つげ》のたくさんある山があり、この山の下の村である。

　「歸省」は小説ともつかず、感想文ともつかない、新舊の中間になる文學であるが、大變大勢の人に愛讀され、われわれもその熱心な讀者であつた。この中にいふ「故郷」が、今私が「故郷七十年」の中でいつてゐる「故郷」といふ概念に似てゐるやうな氣がするのである。せんじつめると、どこが故郷のいゝところか、故郷とはどこまでいゝものか判らないけれども、歸つてみれば村の人はみな知つてゐて、お互ひの氣持が口に出さなくとも通じるとか、中には子供で別れたのがもう大人になり、細君になつてゐるといつた、センチメンタリズムもあるが、宮崎君はそれを忠實に書いたのである。

　歸省といふ思想は、あの時代のごくありふれた若い者の誰もがもつてゐる感覺で、もつてゐないものはないといつてよいくらゐであつた。そのころの讀者はみな學生で、しかも遠く遊學してゐる者が多いので、みなこの「歸省」を讀んで共感したのである。

　因みに湖處子はそれよりもずつと以前、即ち明治二十年十月に「日本情交之變遷」といふ變つた本を出した末兼八百吉がその前身らしいとも聞いたことがある。この本では春廼舍朧が序文を寄せてゐる。一時は田口卯吉の輕濟雜誌社にも關係してゐたらしい。

　

(213)　　　　　歌口

　

　民友社から出した我々六人の新體詩集「抒情詩」についてはいろ／＼の思ひ出がある。

　そのころちやうどフランス留學から歸つた和田英作君といふ無名畫家を、國木田が紹介して六人の詩人のために一枚づゝ挿繪を書いてもらつた。墨一色の繪で、原畫は今も布佐の松岡の家に殘つてゐる。いま三保松原にゐる和田君に見せたらなつかしく思ひ出してくれるであらうが、あの時はそれらの繪を無料で描いた上、六人の作者に一枚づゝくれたのであつた。それがたしか明治三十年の春ではなかつたかと思ふ。

　私の詩は「野邊のゆきき」といふ題であつた。利根川べりの秋の寂しい景色を描いた抒情詩で、想像でスケッチ風に書いたものである。

　六人のうちの一人、宮崎湖處子がわれ／＼の作つてゐた紅葉會といふ歌の會に入り、松浦先生のお弟子になつたのもこの詩集が機縁であつた。紅葉會といふのは、あの時の紅葉狩りの歸りに成り立つた會で、私はまだ松浦先生の門に入つたばかりであつたが、誘はれて仲間になつてゐた。宮崎夫妻もそれから松浦先生の月竝の歌會にも歌を出すやうになつたが、細君のむつ子さんの方が大變評判がよかつた。

　紅葉會の連中がまた「松楓集」といふ歌の本をまとめて出したことがある。今では珍本だが、みな「題詠」ばかりである。たゞ稽古のつもりで書いた歌を集めたにすぎない。戰前に改造杜が「新萬葉集」を出した時、折口信夫君が自分にまかせてほしいといつて、その「松楓集」一册を種本にして私の舊作を入れようとした。私としては稽古のために作る題詠の歌をそのまゝ後世に殘る選集に入れるのは困るではないかと、申入れして止めてもらつたことがあつた。

(214)　題詠の歌は實情を詠まなくても、想像でもいゝわけである。だから妙齡の處女にも何々の戀といふやうな歌を詠ませることになる。今から考へれば、じつに不穩當な話だが、題詠は「四季」だけでは寂しいので「戀」と「雜」とを添へてゐる。時々そんな題が出ると「我が背子《せこ》が……」などと想像で作るわけである。今では題詠は輕蔑すべきものとみられてゐるが、和歌の傳銃からいへば、かうして口を馴らしておいて何時でも必要な時に詠めるやうに訓練しておくのだつた。つまり柔道の亂取りみたいなものである。それを何度もしてゐるうちに、いよ／＼自分がどうしても詠まねばならない辭世の歌とか、別れの歌とかを作るときに、すら／＼と出るやうにしておくのが、歌の道のたしなみであつた。私どもが子供のころ、それを歌口《うたくち》といつてゐた。

　題詠は要するに歌を詠めるやうにしてもらふ方法に力をいれすぎたものであり、そんなものを本筋の作歌として世に出されたのではたまらないといふのが、私の折口君にいつた本當の氣持であつた。

　

(215)　　　　　無題の歌

　

　香川景樹の「桂園一枝」といふ歌集には「ことにつけ」「折にふれて」といつた題のものを「無題の歌」として末尾に入れてある。どういふときに詠んだか分らない歌のことである。これは他の人の歌集にはあまり見當らない。いはゞ「桂園一枝」の特徴である。しかしこの派でもその方を主にはしてゐないのであるが。

　本當は折にふれ、ことにつけて詠むのが目的で、題詠を練習するのであるが、そのころは題詠で競爭する風習があつた。體裁上やはり四季にわけて作つてはゐたが、新しい歌とのつながりはこの「無題の歌」にあるのではないかと思ふ。「桂園一枝」にはそれが大分ある。私ども先生にわかれ、歌の會を離れてからは、むしろこの無題の歌を詠んでくらすわけである。したがつて出來ない年もあり、出來ない旅行もあるが、題詠はしなかつた。この無題の歌といふものが、新舊歌道の過渡時代ではないかと私は思ふのだが、まだこのことを説明した人がない。

　松浦先生は四十二年に亡くなられたが、そのころまで、私は旅行するとたいてい、七つか十、あるひは十二、三首歌が出來るともつて歸つて先生に見てもらつたりした。それからこの方あまり自由になりすぎ、題詠はもちろん無題とも遠ざかり、自然に歌と縁が切れるやうなことになつた。つまり歌口が澁るといふわけである。

　宮崎湖處子の「歸省」といふ心持にしても、そのころの學生がなんとなくこれに共鳴するのあまり、一種の概念にしてしまつた感がある。歌でもさうで、すべて一般の定義みたいなものを形づくつてしまつた。それが日清戰爭ごろまでの思想になつてゐた。私らも要するにその奴隷のやうなもので、そのやうな考への追隨者であつた。

　今日のやうに實驗したものを直ぐに書くといふ文學は、明治三十年以後に盛んになつたのではないかと思ふ。湖處(216)子あたりがその境目になり、誇張はしても、空想でなく、事實あつたことを誇張したものであつた。私どもの「野邊のゆきき」なども全部これであつた。題詠の習慣があつたので、新體詩も大體そのやうに考へられ、戀愛を若い者が詠むのが普通だといふことになり、戀愛ならばおよそ湖處子の「歸省」みたいなものか、さうでなければ往來の行きずりの話とか大體題材がきまつてゐた。後年の人がそれを讀み返すとき、當時の風潮といふことを考へて、それだけの用意と理解とをもつて讀んでもらひたいと思つてゐる。

　私は昔の詩集は手元にないまゝに、省みないことにしてゐるが、大阪の澤田四郎作君のやうな、熱心家がゐて、どこからか掘り出してきたりするが、同君は私どものもう一つの詩集、これはまつたく私の知らぬ間に本屋が勝手に作つた「山高水長」といふ詩集なども探し出してきた。

　探し出した話の中で、いちばんなつかしく思ふのは、ある男がひよつこりやつて來て「かういふのがありました」といつて「抒情詩」を見せられたのには驚いた。何でも日華事變の折、滿洲の牛莊《ニユウチヤン》と營口《エイコウ》の間で斥候に出され、一人で馬に乘つてゆきながら、ふと道端に目を落すと本が一册落ちてゐた。珍しく思つて拾ひあげてみたら、なんとこの「抒情詩」であつたといふのである。そして「これは支那まで行つた本です」といひながら見せてくれたが、わづか千部しか刷らなかつたのにと、深い因縁にしみ／”＼と心を打たれたのである。

　

(217)　　　　　文學の兩面

　

　歌や文學のもつ兩面を私は身をもつて經驗させられたと思つてゐる。すなはち一つはいはゆるロマンチックなフィクションで、自分で空想して何の戀の歌でも詠めるといふやうな側と、もう一つ、自分の經驗したことでなければ詠めない、あるいはありのまゝのことを書く眞摯が文學だといふ近ごろの人々のいふやうな側との二つで、この對立を私はかなりはつきり經驗させられた。

　私などの作つた新體詩はその前者の方であつた。やつと二十そこ／＼の若い者にさうたくさんの經驗がある氣遣ひはない。それでゐて歌はみな痛烈な戀愛を詠じてゐるのだから、後になつて子孫に誤解せられたりすると、かなり困ることになる。もちろんこの當時の新體詩にも二つの方向があつた。一つは西洋の詩の影響を受けたもの、もう一つは私のやうに短歌からきた題詠の稽古と同じ方法をとるものであつた。

　さういつた作詩、作歌のうへのフィクションが一種の情操教育になつたのではないかといふ點になると、それはたしかにあつたかと思ふ。われ／＼のやうな男には露骨に男女の情を表はすやうなことは、實際生活にはあり得なかつたので、詩文によつてやさしい氣持を養ふ役には立つたかも知れない。

　私の「野邊のゆきき」といふ抒情詩に出てゐる作品の多くは「文學界」にのせたもので、それも北村透谷がなくなつてから、しばらく跡絶えて再興してからの、第二次の「文學界」であつた。他にもしあるとすれば「帝國文學」であらう。そのころ私の仲間にはそれ以外には發表機關はもつてゐなかつたのである。

　同じ「文學界」に出た上田敏君の「まちむすめ」なども、私ども非常に感心し、あのころの文學青年はみな暗誦して(218)ゐたものである。ちやうど土井晩翠君の歌と對立して世に出たが、雙方ともなるべく相手を意識してゐると見られないやうにしてゐた。土井君はけつして「文學界」にふれようとしなかつたりして、二人は同級だつたがあまり仲がよくなかつたらしい。

　大體二高出身の人はみな一脈相通じたものをもつてゐて、上田派に對立してゐた。私はじつは兩天秤で二股の役をしてゐたらしい。土井君の影響をかなり受け、短かい詩ばかりでなく、長いのを作れといはれて「帝國文學」に「桐花歌」といふ長い詩を書いたことがある。これは操といふ詩曲のつもりで書いたのだが、果して私の詩が操になつてゐたかどうかは分らない。「奧山で桐の木が成長し、大きくなつて、川を流れ、里に下つて琴になつて彈かれた」といふことを、空想してロマンチックに作つたものであつた。このときは土井君の側は大いにほめてくれたが、上田君の派はあまり感心してくれなかつた。たしか私の高等學校卒業の年で、上田・土井の兩君は大學の三年のときであつた。一方では西洋文學の飜譯などを聞きにゆくときは上田君のところへ行つたりして、要するに私は中間だつたらしい。土井君のは詩吟に近いので、當時の高等學校の學生などには大變人望があつたものである。そして一高出身者の中にも大町桂月などは、むしろ樗牛、晩翠らの二高派に共感を示す傾があつた。

　

(219)　　　　　頓阿の草庵集

　

　今でもよく憶えてゐる。われ／＼松浦先生の門下で作つてゐた紅葉會では、よくいくらか冗談半分に「何々の戀」とか「寄する戀」、例へば「蟲に寄する戀」とか「花に寄する戀」とかいふ題で詠ませる習慣があつた。深窓の處女といへども歌の練習にこれを作つたのである。後の世になると事實と空想との境がはつきりしなくなつて、これをしも眞實の告白と思はれてはたまらない。

　日本の文學は不幸な歴史をもつてゐて、事實應用するやうな場合のない人にまで「嗜み」として和歌を作らせ、お茶、花、琴などと一列にして、歌も少しは教へてありますなどといつてお嫁にやる時の條件にしたりした。そのため、本當はどこの戀だつたのかと談判されると、閉口するやうな「待つ戀」だの、「待ちて合はざる戀」だのを、平氣で若い娘さんも書いてゐたのである。これが日本の文學の一つの大きな歴史であつたことに注意しなければならない。

　かういふフィクションの歌をいちばんたくさん詠んでゐるのが坊さんであるといふのも興味あることである。江戸時代にも、室町時代にも頓阿とか兼好などといふ歌僧がゐて秀歌を殘してゐる。頓阿は門人を集め「草庵集」といふのを出してゐるが、その中にもちろん戀の歌がずつと出てゐる。面白くないことにかけては、これくらゐ有名な面白くない歌集はないが、半折の本で誰でももつてゐた。

　大體、足利時代から江戸時代の初期にかけての和歌は、みなかういふやうな安らかなものであつた。今ではあのころの歌を惡くいふが、當時は人數がずつと少なく詠む者は珍重せられてゐたので、あれでも何か一節あるやうに思はれた。「ああも詠める」といふ手本にはなつたのである。これが「類題集」といふものが出來たもとであつた。題をた(220)くさん集め、作例を下へ集めたのが類題集で、これは大變な仕事であつた。手紙を書いても歌がなくては求婚にならないとか、そのまた返歌を書くなど、どうしても男女ともに歌を詠まねばならぬ時代であつたから、誰でも「恨む戀」とか「待つ戀」の練習をするため、類題集は必要であつた。「草庵集」はこの類題集のいちばん早いもので、前に記した秋元安民の「青藍集」まできてゐるのである。

　この類題集を見ると、戀歌の變化とか、戀歌の目的の變化がよく分る。松浦先生は非常に堅くるしい方であつたから、わざと戀歌などは出さなかつたが、それでも酒などの出た時の當産の題に、何々の戀といふやうな題を出した。人によつてはそれに力をいれて、いくらか興奮させる點を利用して、深窓の娘さんにまで作らせる例もあつたのである。

　新しい人たちが、古風な歌を月竝だといつて馬鹿にするのも、つまりは歌の必要が一地方にゐた一人、二人の職業歌人とか詩人とか以外の、素人にもあり、一通り嗜みとして題詠を練習したことからきてゐるのである。

　

(221)　　　　　石坂素道さんのこと

　

　近世の國學を興した契沖は、歌の方にも秀れてをり、歌集があるにもかゝはらず、戀歌は避けたらしく、彼の歌集には戀歌が見當らない。戀歌などを作つて普通の文人の仲間入りをするのは、不本意だつたのかもしれないが、他の坊さんは品行方正の人でも必ずその歌集に、戀歌の部が入つてゐた。

　しかし時には契沖のやうな人もあつたらしく、私の父の友人の石坂素道さんといふ歌詠みの坊さんもさうであつた。私が十ぐらゐの時にもう七十歳ぐらゐであつた。何か譯があつて寺を離れて旅に出、辻川からも北條からも二里ばかり離れた南の方の別名《べつめ》といふ開墾地の村の、野原の中に小さな庵室を作つて一人暮しをしてゐた。國學に詳しく、字が上手で、契沖に私淑してゐる人であつた。他に友達といふ人もないらしく、月に一ぺんは私の家に話しに來た。

　母もよく知つてゐたので、私に話したことがある。「素道さんは女嫌ひなんで、杖をあげようと思つて差出すとぱあつと引つたくつてしまふ」そして「ありがたう」ともいはなかつたらしい。仕方がないので私の家ではなるたけとりやすいところに置いておくと、母が笑ひながらいつてゐた。

　その素道さんが晩年になり、大分弱つて、やつと私らの頭を撫でてくれるくらゐになつたが、たうとう一人では暮せなくなつて世話役のおばあさんを呼んだ。「素道さんも變つたもんだ」といふ話なので、子供心にも一ぺん行つて見たいものと思つてゐたが、たうとう行かなかつた。四疊半一間に住んでゐては、やはりまあ夫婦生活のやうなものだから、人々の興味をよんだわけである。

　素道さんについて、私にはたゞ一つ忘れられないことがある。晩年の素道さんが「國男さんに上げてくれ」といつ(222)て父に手渡した記念品がある。それは梅の種子の中をくりぬいて、その中に臺附の天神樣の入つてゐる、小さな小刀細工であつた。白い紙で包んで、その外紙に小さな天神樣の由來が書いてあり、それに署名をして私にくれると書いてあつた。

　ところが私はそのころいたづら盛りで、この包紙や由來書の紙に落書をしたばかりか、いたづら書の惡い繪をいくつも書いてしまつた。父がそれをみつけて非常に怒つて、私の一生を通じて後にも先にも父からあんなに叱られたことは他になかつたほど叱られてしまつた。子供にはなぜかよく分らず、「そんなにいけないことだつたのかしらん」と後で思つたりしたほどである。

　大變上品な、都會人のやうなお坊さんだつたが、晩年は寂しくなつて他所の子供に秘藏の品をやつたりするやうになつたのであらう。佛教とはだん／＼疎遠になつて、歌の方へ深入りしたわびしい歌學者の經歴として、今も私の心に殘つてゐる。

　その庵室も、また素道さんを知つてゐる人もゐなくなつたであらうが、一ぺんはその「別名」といふ所へ行つて見たいと思ひながらそのまゝになつてゐる。芭蕉の門人にも同じ素道といふ名の人があつたから混同されやすいが、石坂素道さんの短册をもつてゐる人も播州にはあるかと思ふ。

　

(223)　　　　　センゾクといふ所

　

　日本の地名を調べてゆくと、説明のつかないものが多いのに驚く。その中でもことによると判つて來るのではないかと思ふのが、各地にある洗足、あるいは千束とも書いてゐる地名である。私もずゐぶん長くかゝつて調べてゐるが、本當はまだはつきり判るまでにはなつてゐない。

　播州にも辻川の少し北にあたる山崎といふあたり、市川の流れに山裾の崖がせまるところが、洗足とよばれてゐた。今は千束と書いてゐるが、あの崖の下の川つぶちに沿つた狹い道を歩いてゐると、暗夜などに崖の上の方から大きな足が出て、通る人の頭越しに川の水で足を洗ふといふ話が傳はつてをり、それで洗足といふのだと、土地の人はいつてゐる。

　荒唐無稽のやうだが、山の高い所にゐる神樣が、山の下で足を洗ふといふ話は、一種の巨人傳説として各地にある。いちばん古い話は奈良朝に出來た「常陸風土記」の中にある。山の上から手をのばして海の魚を捕つてたべたとかいふ話の類である。利根川を溯つた上州のずつと山奧にもやはりあつて巨人傳説には必ず流れがつき物になつてゐる。今では何處でも旅人が脅かされたといふ話しか話題にならないが、私は地名の研究をする毎に、あの郷里の山崎にある洗足の話を思ひ出すのである。山が兩岸にせまつて川幅が括《くく》りになり、あそこを囘るより他、往來のしやうがないといふ地形である。

　洗足とか千束とかいふ地名の所は、どこでも巨人の足がぬつと出たといふやうな傳説がついてゐるが、これにはもう少し深い意味をもつた所として考へる必要があるやうにこのごろ私は思つてゐる。いづれも水流に關係があるのは、(224)おそらく古代人の葬地に關する信仰が根柢にある所ではなかつたらうか。この點で洗足より多いのは、菖蒲谷《しやうぶだに》といふ地名である。事實そこに菖蒲は生えてゐるが、それだけでおこつた地名ではなささうなのであつて、たいてい、川の上流の山に入つた邊の靜かな寂しいところである。私の考へでは、どうも人間の埋葬に關係のある地名のやうに思はれてならない。それと似たやうな地名は全國の隅々にあつて、なか／＼説明しがたいものが多いが、洗足もやはりそれに類した地名の一例ではなからうかと考へてゐる。他にも昔の葬地の跡かと思はれる地名が五つも六つもあるが、これらをよく調べてゆくと日本人の昔の葬法、屍體を葬つた形が見つけ出せるのではなからうか。洗足は千束と書いた方が多いが、全國にをかしいくらゐ廣い區域に亙つてこの地名がある。

　日本人は魂を大事にする割には體を非常に輕く見る傾きがある。魂の方は何遍でも形を變へて生れて來るが、體は極端なことをいふと、その場限りでなくなつてしまふやうな氣持があるのではないかと思ふ。古い葬法もまづこの信仰を考へなければならぬ。前に木地屋の話でもふれたが、彼等の葬法は崖の川に迫つた、やはり洗足みたいな所へそつと死骸をおいておくといふのである。それが自然に、天然現象で水の中へ落ち、そして朽ちて失くなつてしまふことを期してゐるらしいのである。東京附近に大變多い洗足とか千束とかの地名はちよつとこれでは説明がつかなくなるが、ともかく私は洗足（千束）とか菖蒲谷などの地名と、古代葬法の痕跡とに、きつと繋がりがあると思つてゐるのである。

　幼いころ毎日のやうに後の丘にのぼつて眺めた市川の洗足が、今も私の心から離れずにこの問題を考へてゐる。

　

(225)　　　　　來世親

　

　生きてゐる間にいろ／＼な仕事をした人間といふものは、もう一度生れ直さうといふ感じはないやうである。しかし若くて死んだり、二十歳ぐらゐで腹を切つたりした者は、どうしてもそのまゝでは滿足できず、必ず生れ更つて來ると信じられてゐたらしい。

　老人自らが大いに積極的に話をしなければ、この來世といふものに對して日本人がどういふ考へをもつてゐたかといふことが、じつは判らなくなつてしまふのである。しかし多くの人は生れる話はいゝが死ぬ方の話はどうもといふことになつて、この問題は今迄等閑にされてきた感じがある。

　いちばん私どもが不愉快に思ふのは「地下の靈」などといふ考へである。年寄にきいてみればすぐ分るが、日本では靈は地下へ行くとは思つてゐないにもかゝはらず、本居先生などまで根の國といふのがあるから、靈が地下へ行くのだといつてをられる。それにはさすがの平田篤胤も賛成することができなくて、根の國といふのは月の中にあるんだなどといひ出してゐる。

　しかしながら今では神道がじつに寂しい?態におかれてゐる。日本の信仰はどの點において佛教と對立するか。それもだん／＼とわかりにくゝなつてゐる。年寄りにきいても判らず、學問のある者はみな漢籍を引き、また國學をやつてゐる者は本居先生の説など引く。じつをいふと書物ばかりで研究してゐる者は本當には解つてゐないのである。日本人の信仰のいちばん主な點は私は生れ更りといふことではないかと考へてゐる。魂といふものは若くして死んだら、それつきり消えてしまふものでなく、何かよほどのことがない限りは生れ變つてくるものと信じてゐたのではな(226)いか。昔の日本人はこれを認めてゐたのである。かへつて佛教を少しかじるとか、支那の書物を讀む階級がはつきりしなくなつたので、文字のない人たちは認めてゐたのである。

　私は死後の生命、來世親を考へない宗教といふものはないと思つてゐる。宗教といふ以上、現世だけでなく、後の世の生といふものがなければならない。それをどう日本人は考へてゐるかといふこと、現在の?態では明確に答へることのできないのは殘念であるが、これはぜひ民俗學に志す人々にやつてもらはなければならぬ大きな問題である。

　佛教や他の宗教で説明がつかないものに、昔からよくいふ「似てゐる」といふことがある。性質が似てゐるとか、顔が似てゐるとかいふことに、大變日本人は重きをおいてきた。例へばこんな話がある。私の祖母の弟で、松岡辨吉といふ、たしか六つぐらゐで死んだ人があつた。大變幼い時から字を覺えたりして、利發な子供であつたらしい。あるいは眼がくり／＼してゐたのか、私の父が生れた時「あゝ辨吉の生れ更りだ」と誰からもよくいはれたといふのである。そのため父は一生その叔父さんの生れ更りといふことをいつも考へて、二人前働いてゐる氣持でをつたものらしい。

　

(227)　　　　　車兒（くるまご）

　

　もとは小學校などで、子供達が頭を互ひに見せ合つて、眞中にギリギリ（つむじ）が二つあると、二度生れた、生れ更りだといひあつたものである。今ではもう私の頭が禿げてしまつたから、分らなくなつたが、私ども兄弟は、弟もさうだつたが、みんなつむじが二つあつた。それで何か世間からみて、二つギリギリのある子供には特徴があるのではないか。例へば氣が早いとか、氣分が變り易いとか、何かあるのではないかと注意して來たわけだが、今ではもうその必要もないほど、つむじも分らなくなつてしまつた。

　つむじのあり所の惡いのはいけないが、二つあつて、しかもそれが極く行儀よく眞中にある子供は二度目、つまり生れ更りといふのである。三つの人があるとなほさらその議論が成り立ち易いが、滅多にゐないらしい。

　たび／＼生れ吏る觀念としてはクルマゴ（車兒）といふことがある。子供が生れて一年たゝないうちに死んで、その翌年また生れることがあると、かういふことをクルマゴといふ。中にはクルマゴ十二人目だなんて話もあるほどで、何か母親の體質に特徴があつてさうなつたかもしれないのを、さうは考へないで、生れても氣に入らんからまた歸つて、また出直す、さういふクル／＼まはつて生れて來るのが、クルマゴと呼ばれる理由にほかならない。クルマといふ言葉が今とは大分ちがふのである。これは生れ更りといふことを誰もごく普通にみてゐたことがよく分る。

　かういふ考へを疑はずにもつてゐるところへ、義太夫といふ文學があらはれて、何かといふと「二世も三世も女夫ぢや」などゝいふので、無學な民間の側にはいよ／＼生れ更りといふことが、非常によく頭に入つてゐたのである。

　たゞ漢學や國學をやつてゐる連中の側だけは、かへつて書物にわざはひされて、何のことだか判らないまゝに、(228)「地下の靈」とか「在天の靈」とかいつて來たわけであつた。この點は本當にどうかして兩方を共通にして、どちらかゞ考へ違ひであるとか、判斷が誤つてゐるのであるとか、あるひはまた、ある程度まで無學な者の氣持も認めてやらなければならないとか、しなければいけない。「田舍に行くと解らん人が多いからね」などゝいつて、さも自分らとは別だといはんばかりのことをいふ人が時々ある。しかし同じ人種で、同じ言葉を使つてゐるのだから、少なくとも兩方の意見を交換してみた上で、どつちが本當かといふことを究める必要がある。

　日本のやうに借物の文字でもつて記録を作つてゐる國では、無學な人だけが迷惑するやうなことばかりがいはれるやうな結果になつてしまふ。

　先日外務省研修所長の日高信六郎君（元駐伊大使）が見えたので、あゝいふ所の人たちにこそ「無學の知惠」とでもいはうか、日本人の底にもつてゐるものを訴へておきたいと思つて、こんな話をした。聞けば同君の母堂も、播州赤穗の儒者藤江熊陽の裔といふことであつた。

　

(229)　　　　　有志家といふもの

　

　話題を田舍によくあつた有志者とか有志家とかいふものに移すことにしよう。明治の中ごろは、ほんの僅かの間ではあつたが、私らの住んでゐた村が單純な庄屋と百姓といふ關係でなく、家一軒々々が、それ／”＼の癖をもつやうになつたことがある。長兄が郷里へ歸らない一つの理由は、酒でも飲んで話し合ひ、お互ひに意氣投合してゐた時代の仲間が、皆いけなくなつたことにある。そのころはどの家でも資産よりやゝ豐かな生活、自由な生活をし、本などを讀むので口ばかし達者になり、人中に出て酒を飲む機會がふえて家の財産を失つてしまつたといふ話が多かつた。しかし家がまるきり絶えたわけでなく、どこかに移つて生活を續けることになる。もちろん東京に出たのもあつた。そんな連中が私らの兄の仲間であつた。

　辻川の本通りから堰溝《ゆみぞ》に沿つて地藏堂の方へ曲る角に角屋といふ家があつた。床の間があり、掛け物がかけてあつたりして、唯の農家ではなかつた。表の方は町家造りで、多分運送屋か何かやつてゐたらしい。主人が私の兄の友人だつたが、兄が出京した後、つまらなくなり、微禄して、隣りの酒屋がそこまでのぴてしまつた。この角屋の主人なども私のいふ有志家の一人であつた。

　どういふわけで有志家といふやうになつたか、はつきりしないが、いはゆる天下國家に志があるわけではない。「志」といふ字はわれ／＼が一生考へさせられた言葉で、立志傳といふやうに、士《さむらひ》の下に心があつていちばん尊い字だが、さういふ意味の志があるから「有志家」といふやうになつたわけではない。通例たゞ村の「口利き」といふくらゐの意味で、何か事件のあるとき、前に出て、一言いはずにはをられないタイプの人間で、機會さへあれば上手にヒ(230)ュッと口を出す。それが有志家といふもので、その連中が出來はじめて、村が急激に變つてきたのである。私のごく小さい時はちやうどこの有志家の發生期であつた。その後、私が學生中、あるいはまた卒業の後、あちらこちら歩いた時にどこへ行つてもこの有志家がゐて、とくにこちらが役人となつてから行くと、有志家が村の表面に立ち塞がり、村の者をぢかに見せてくれないことが多かつた。村長が有力ならば、表に立つが、さうでなければ有志家が交渉に當る。かういふ有志家といふものは、もとはどこにもなかつたものであつた。

　維新時代のいはゆる、慷慨悲憤の徒がはびこつた時代の産物かといふとさうでなく、むしろ四民平等の法令が出てからのものらしい。百姓の中にやゝ道理が分る者とか、家にいくらか蓄財があるとか、社會に信望があるとかいふ中産階級の中で、口が利ける者がその力を集めて發言をするやうになつたものである。

　このことを私は奄美大島から沖繩の島々に行つたときに氣づいた。與人（ユゥンチュ）といふので、まあ貴族の別稱でもある。ヨカレビトともいふから良き衆といぶ意味で、島によつては村のいちばんの顔役といふ所もある。ユゥンチュとイウシとは偶然の暗合だらうが、音が非常によく似てゐる。外來人があると、わざ／＼羽織でもひつかけ、分相應な返答をする連中のことである。腹の底には疑惑と警戒との心を藏しつゝも、表べだけは「じつは……」などと切り出して打ちとけた風な口を利くのがこの人たちである。

　私が役人をやめて行つたのに、伊波普猷君でさへ「柳田さんには何でもかでも思つたことをいつてはいけない、何のために來られたか判らないから」と、こつそり琉球の人々に耳打ちしたといふ話を後できいて、驚いたことを憶えてゐる。伊波君でさへ、ある意味では村の有志家の一人であつたことが判るのである。

　この村の有志家なるものが、今日の地方の運動員、選擧の運動員といふものゝ基礎をなしたと思ふと、確かにもう一度、研究し直していゝ問題である。

　

(231)　　　　　辻川の變化

　

　僅か八十戸か百戸足らずの部落であつた辻川でも、時代の影響をうけ、私らの目前で變つて行くのがよく判つた。いちばん大きな力となつたのは郡役所である。郡書記が首席と次席と二人ゐて、百姓より收入が多く、豐かな生活をしてゐた。郡長の倉本さんは淡路の三原郡出身で、酒ばかり呑んでゐたが、詩がうまくて、私の父なども交際してをり、息子たちにも他に附合ふ者がなかつたので、私が招ばれてよくつき合つた。姉さんが二人ゐて、私より年上であつたが、綺麗な人だつたことを覺えてゐる。

　辻川は前から東の方が文化的に少し高尚のやうに見られてゐたが、郡役所が西に出來たりした關係で、急激に東の文化が西へ進んで來た。お菓子屋が一軒出來て菓子を拵へるのを見せるので、子供たちが涎を垂らしながら眺めるとか、鍛冶屋ができるとか、いろ／＼商賣が増えてきた。そのうち一つの大きな勢力となつたのが、私が「先祖の話」といふ本の中に書いた伊藤の一族である。あの一族が後から辻川に入つて來て、農業をせず、みな商ひをしてどんどん大きくなつて行つた。

　村に歸つても、私には伯父も伯母もないので、すぐにお宮へ詣つて、山の上から自分たちの昔住んでゐた家の、だんだん變形して心から遠くはなれてゆくのを寂しく思ひ、行く所といへばやはり三木の家であつた。ゆつくり村の路を歩いて、誰か聲をかけてくれるかと期待しても、向うが遠慮して聲をかけてくれない。私にとつては、山水と友だちになるとか、村人全體と友だちになるやうな氣持で故郷に歸るのであつたが、湖處子の「歸省」の氣持とだん／＼ちがつたものになつてきた。

(232)　故郷といふ言葉に二通り意味があり一つはフルサトといふ、昔榮えていまは衰へてゐる都といふこと。「古今和歌集」の「故里となりにし奈良の都にも……」などゝいふ、衰へた里を意味する文學語としてのフルサト。もう一つは生れ故郷、子供のころ育つた場所、すなはち生れた場所といふふうの所である。私にとつては、今の田原村のやうに、良かれ惡しかれだん／＼榮え行く所でも生れ故郷であつて、フルサトとはいはないのである。

　辻川の私の家は、今は他に移されてすつかり變つてしまつたが、どう考へても間口五間半の小さな家であつた。この間口五間半といふのが、昔は普通だつたらしく播州だけに限らず、私が調べた埼玉縣川越在の舊い部落でもやはり同じく五間半であつた。五間半では馬一匹飼ふのには少し狹いが、人夫を一人出すのにはそれでよかつたらしい。私の家など人夫はゐなかつたが、もとは人夫一人といふ負擔で町割りをし、その代りに宅地税みたいなものは取らないことになつてゐたわけである。五間半の間口がずつと軒竝に續いて、今日は五人出せといはれると、順番にそれを出した。例外として三軒分とか四軒分とか廣く間口をとつたのが大名主の三木家であつたと思ふ。私の家は庭も表に十間か十二、三間しかなく、もとあつた裏の藪の部分がどういふわけか隣の鈴木といふ金持の醤油屋兼酒屋に分讓せられてしまつたので、隣家の建て増しで塞がれたやうな形になつてしまつてゐた。それから後は、私どもが裏のお宮への道に通じる上坂に出るのには、表通りから大囘りするのでなければ、その鈴木の邸内を通らせてもらふよりほかなくなつたわけである。

　鈴木の家は後に擴張して引越したが、今も辻川に住んでゐるとか。この鈴木といふ苗字については私は調べたことがある。全國到る所に擴がつてゐるが、これについて一度書いてみよう。

　

(233)　　　　　鈴木一族

　

　全國を通じて鈴木の姓は、非常に多い。もとはみな熊野の出だが、どういふものか、鈴木といふものゝ行く所はみな榮えてゆく。紋所はみな稻の丸である。

　熊野の出とはいつても、和歌山の方に近い藤代といふ、熊野王子の一つであつたといふ所からおこつたといはれ、かの「義經記」以來鈴木一族が世に現はれてきたのである。熊野詰りの道は泉州堺を起點として九十九所王子にわけて祀つてゐるが、その何番目かに藤代がある。今の海南市から少し先へ行くと、藤代といふ坂があり、それを越えると藤代になる。

　義經に從つて平泉へ行き、衣川で討死した鈴木三郎も、その弟の龜井六郎もみなこの藤代の出身といふことになつてゐる。熊野路では、鈴木、榎本、宇井の三軒の名家があり、この三軒の者でなければ人間でないとまでいはれたほどである。宇井は早く衰へ、榎本は後に神と別れて、鈴木の一族のみが結合力が強く、各地で著しい繁榮をしたのである。

　一時私は鈴木を調べるのに夢中になつたことがあるが、都曾のあまりはげしい所にはゐない。東北にははなやかに鈴木一族を語り傳へてゐる所があるといふ、妙な家柄であることがわかつた。

　菅江眞澄（本名白井英二）なども東北を歩いて旅行するたびに、一の關の少し北で、有名な中尊寺のお祭りなどにも出て來る大名主の鈴木常雄といふ舊家に終始、厄介になつてゐた。この鈴木といふ家は今もあり、私も出かけて行つてみたが、その家の古い日記には「白井英二來て泊る」など、ちやんと書いてあつた。家から下を流れる北上川の(234)岸に降りてみると、一の關の方へ出る街道が見えるといふやうな場所であつた。應對してくれた主人はもう老人で六尺近い人であつた。しかもそのお父さんも六尺ぐらゐあつたさうだし、子供もやはり六尺あり、娘さんが一人、この人もやはり背の高い人であつた。「珍しい家もあるものだ」といふと「舊い家だから縁組に大變氣をつけてもらつたから……」などといつてゐた。私が訪れてからもう二十年以上も經つが、その後はどうなつたか。

　あの邊一帶には鈴木姓が多く「義經記」の後半分には鈴木一族の喜ぶことばかり多く見受けられるのも、あの附近では座頭が少しでも鈴木を惡くいつたら聞く人がなくなるほど、鈴木一族の社會上の地位が高くなつて、彼等のほまれとなる部分だけが強く語られてきたのであつた。

　鈴木といふ家のない地方を探すのには骨が折れるほど、全國に廣く分布してゐるが、たいてい、いはゆる第二期植民地と呼ばれる所へ入植してゐる。一通り目につく定住がすんだ後、もう一ぺんといふやうな所を探し求めて入つて來るのが、鈴木一族の特長であつた。

　辻川などでも、鈴木姓はおそく入つて來たものらしい。松岡の先祖がこゝに來て、すでにある程度開拓をした後に、鈴木が入つたのかと思ふが、家數はあまりふえなかつたらしい。

　

(235)　　　　　先祖になる

　

　伊藤一族のことはいつか「先祖の話」といふ本の中で書いたことがある。商人として辻川に來て、村を一變させた一族である。この先租の話といふ本は、散歩の途中話をした年寄りが、自分は御先祖になるのだといつた言葉に大變興味をもち、外國に移住する人にもその覺悟が必要で、先祖といふものに對する考へ方を變へなければならぬといふ積極的な氣持になつて、その本を書いたわけであつた。

　戰爭がひどくなつて、遠くに行けなくなり、この近所ばかり散歩してゐたところ、原町田といふ所のバスの停留所で、法被を着た私と同年輩の爺さんと三十分ぐらゐ話をしたことがある。ゴムの長靴をはいた變つた風采の人であつた。陸川《りくかは》といふ人で、生れは越後の高田在で、信州で育ち、兵役少し前に東京へ出て請負師をして非常に成功した。家作も大分あり樂に暮してゐるといふ。子供は六人とかあつて、皆それ／”＼一人前になつて家を持つたから、新たな六軒の一族の「あたしは先祖になる」といふのであつた。

　その話をきいて、私は播州の伊藤一族を想ひ出した。私の家から分れたに違ひないのに、私の家の分家でもなく、一族でもない。つまり分れた人が御先祖になつたのである。當主の曾祖父を福渡藤兵衛といひ、明治の初めに苗字を「松岡」とつけず「福渡《ふくわたり》」とつけた。辻川から二里位川上に、福（ノ）泉といふ部落があり、そこの伊藤家といふわけであつた。

　その家は私の先祖でもある。私の六代前に勘四郎といふ人があつて、その夫婦の孫に當るお銀といふのが、福渡へ嫁に行き、何か譯があつて男の子一人をつれて松岡に歸つて來た。母親はそのまゝ里方で亡くなつたが、息子は母方(236)の醫者にならず、町の商家に奉公してよく働き、資産を作つて辻川で商賣をはじめたのである。この人が伊藤一族の初代に當る福渡藤兵衛であつた。私が生れたころはもう二代目の爺さんの代になつてゐたが、初代の藤兵衛は一代のうちに、三軒も四軒も分家を作つたえらい人で、わざとと思ふほど自分の家を本家々々といはせて、伯父の松岡家を本家と呼ばせなかつたのである。その後だん／＼分家がふえ、各家とも金持ちで團結力が強かつた。

　時世の變り目、新しい職業がいくらでも生れるやうな時代には、かういふ獨力で御先祖になり得た人があつたのである。本家を「繰屋《くりや》」と呼んでゐた。綿を繰る家といふのであつたかと思ふ。辻川では昔は屋號がみな二言で、何々屋といふのはなく、何屋、すなはち升屋とか角屋、鶴屋などといふ家ばかりであつた。血筋の問題、遺傳の問題から考へて、この一族は興味のある家である。神戸や西宮にまで發展をし、たゞ商賣だけでなく、學問をする人もあつた。醫學博士になつた者もある。一族の中の伊藤源次郎といふ人はなか／＼の好人物で、堰溝の傍に私の祖母小鶴の信仰してゐた地藏堂が傾いたのを、再建したのもこの人が中心であつた。

　先日この家の系圖をよく見たところ、私どもの家の初代の勘四郎が、この福渡の伊藤家から出て、松岡の姓に戻つたことがはつきりしたのは私としても嬉しいことであつた。

　

(237)　　　　　西所の松岡

　

　私ども松岡家の初代の先祖として知られてゐる勘四郎は、前記の伊藤といふ家から來たことがはつきりしてゐる。その伊藤の家が、もと松岡から出て、その跡取りが暫く松岡へ食客に戻つて來てゐたので、松岡の方では何か分家を見るやうな氣持でゐたが、先方は三文もわけてもらつたわけではないから、さうは思はず、「繰屋」をあくまで一族の本家と考へ、福渡と名乘つて辻川へ戻り、それがまた伊藤姓に還つて現在にいたつてゐる。

　私どもの松岡といふ家は、代々一人ッ子が續いて、家系がつゞくかどうか大變危かつたが、私ども兄弟になつて五人も生殘つたのみか、みな子孫が増えてゐるのは家の歴史からみれば大きなことであつた。兄たちは昔を考へて播州を戀しがつてゐたが、どちらも醫者であつたから、さう頻々とは郷里へ行けなかつた。その子供たちになるとなほさらで、たまに一ぺん行けば、もうそれで義理を果したやうな氣持でゐる。思へば家といふものにも、精神的には他の生物と同じく、壽命があるのではないかと思ふ。その壽命を無理に引きのばさうとするやうなことはしない方がいゝのではないか。私らのやうに漫然たる故郷といふものにしてしまふ方が本當ではないかと思ふ。

　兄弟全部辻川とは離れてしまつたが、祖先の身體は郷里の土になつてどこかに殘つてゐる。私の考へもあつたが、辻川の山の裏の妙�ｺ山悟眞院といふお寺の中に少しばかり地面を讓つてもらつて、そこに全部まとめておまつりしてある。私どもの方の血筋はもう誰もゐないので、今では三木家でまつつてもらつてゐる。

　北條の母が出た實家、尾芝家の墓は菊ヶ谷の一隅にあり、これは尾芝の續きの者が親切に世話してくれてゐる。

　私の家の古い言ひ傳へでは、江戸時代のはじめごろ、開祖が兄弟連れで播州の西部から辻川に來たと傳へ、したが(238)つて多分赤松一族だらうといふことになつてゐる。二軒に分れ、一軒はかなり良い生活をし、もう一軒、つまりこの家が私の方の本家の最初らしいが、開墾者として、自分で勞働をしなければならない家であつた。

　私の家は西所《にしじよ》にあつて、一族の中心の家を大西と親類仲間でいつてゐたが、その本家の藪のあつたすぐ隣りに本家にいちばん近い松岡があつて、これはなか／＼面白い家であつた。松岡一郎といつて、今は東京にゐるが、この人や、辻川の家を繼いだその弟など、いちばん私の相談相手になつてくれた。この家は開祖の松岡兄弟と叔父甥といつた關係の古い分家だつたらしく、よく調べてみたいやうな家柄であつた。

　辻川はあまり廣くない村で、その大部分を松岡一族で耕作し、分家を遠慮もなく増やしていつたらしい。三木家の方は古くはあつても分家が大東《おほひがし》と中三木《なかみき》との二軒しかなかつた。私の家は父が姫路で學者生活をし、都會人になつて歸つて來たので、もう耕作に關係せずに專ら醫者で立つてしまつたが、それ以後、辻川でもさういふ家がだん／＼増えて、村の變化を促進したのであつた。

　

(239)　　　　　兄の望郷心

　

　一ぺんは記しておきたく思ふのは、早く郷里を出た長兄の鼎が、自分の生家に對していろ／＼の囘顧をもつてゐたり、自分の幼少であつた時分の思ひ出をたくさんもつてゐた點である。この兄が郷里で小學校長をしてゐたこと、若く娶つた兄嫁と不縁になり、志を興して東京に出たことは前にものべた通りである。この最初の兄嫁が幼い義弟の私に、その後も大變親切であつた有難さが、七十何年後のいまも忘られないと、この「故郷七十年」で書いたのに對し、その兄嫁の近親の人たちから、はからずも心の籠つた通信を頂いたことは、近ごろにない嬉しさであつた。

　下總の布川に開業してゐた長兄は、醫者といふ商賣柄、一週間と家を空けるわけにはいかないので、いつも播州のことを心にかけ、噂を絶えずしながら年取つて、殆と播州へは歸らずに終つてしまつた。懷しさうに語る話はじつに舊式で、兄と私とは十五も年が違ふので、同じ辻川や播州の觀念が大分ちがつてゐたのである。

　年若く師範學校を出て村に歸り、小學校長になつたころ、村には兄を助けてくれる同年輩の人が多かつたが、東京に出て五、六年も醫者の修業をしてゐるうちに、これらの仲間の上にもはげしい時代の變遷があつた。中には不幸にあつて英氣阻喪したのもあり、兄としては、歸つてみてもだれも頼りになるものはなくなつてゐた。私が「あなたのお友だちは？」と聞いたときにも、いちばん親しかつたのはだれ、同僚としていちばんよく附合つたのは何某など答へてくれたこともあつた。東京へ送り出すときには、酒を酌み交したり、旅費を作つてくれたり、餞別をくれたりして見送つてくれた連中が、世の波にのりおくれたりして、皆かなり暮し向きが酷くなつてしまつた。代りに出てきたのが兄からみると年配の違ふ若い者であつた。

(240)　歸村するのには、大まかなゆつたりした縁故があればこそ、心をひかれたのだが、その絲が切れ、一つこの男を働かせてなんて考へてくれる者がゐなければ、やはり寂しいことであつた。かつて同じ部落の中でも、とくに隣組附合をした人々でも、都會に出た者がやつて來られると、鉢卷を取つて挨拶しなければならない。つい面倒だから、知らんふりをしてすごしてしまふ。いひかへると私どもが知らん間に上流階級の人になつてしまつてゐたわけであつた。私だけでももう少し頻々と歸るとよかつたのだが、明治二十六年に歸り、次は三十一年、それから次が三十五年といふふうに、間が開いたのでその間に他所から嫁に來たり、他へ移つたりして故郷といふものが、人間を離れて山水だけになつてしまふのであつた。これはまことに寂しいことである。たゞ私は村といふものを馬鹿にせず、村の成立ちとか變遷とかを自分の村で經驗しなくなつてからも、他所の村で十分味はふことが出來たわけである。このやうに私自身はまだよかつたが、他郷に終始した長兄にとつては、人間と離れた故郷といふものがじつに寂しい感じのものであつたに相違ない。

　長兄は郷里を出て東京に來るときには決してもう歸らないといふ氣持ではなかつた。しかし不在の五、六年間に大分郷里の事情が變つてしまひ、ことに前にいつた村の有志家のうち、ちよつとした蹉跌で失脚するものが少なくなかつた。例へば藤本といつて義?心もあり、個人的にも長兄を可愛がつてゐた家が、瞬く間に不幸續きとなり、兄が歸つても相談にものつてくれさうもなくなつた。さういふことがいろ／＼あつて兄には、もうとても駄目だと思はれたらしいのである。

　そのうへ、もつと大きな理由は郷里の親類が皆醫者であるといふことである。私の家はしばらく醫者をやめてゐたので、今さらそれらの親類の中へ割り込んで、競爭するのは嫌だといふ點にあつた。さうかう考へた末、二度目の兄嫁として茨城縣人を貰つたものらしく、大分郷里を出るときの心持とは變つてゐたやうに思ふ。それが偶然の手傳つた移住の原因であつた。

(241)　親の方でも仕方なしに、後から關東へ出て來たが、母などは郷里の常識しかもつてゐなかつたわけだから、どうも雙方のために不爲なことが少なくなかつた。明治二十二年の夏から二十九年に父母が亡くなるまで、體も大分弱つてゐたし、氣持も何となくイラ／＼するやうなこともあつた。あんな思ひをせずに亡くなつたのだつたら……とよく思ふこともあるが、仕方のないものである。

　長兄はそんなわけで何かといふと郷里の話をしたが、それはたいてい、子供の私が聞いても時勢遲れとしか取れないやうなことであつた。こんなことがある。

　明治になつてから、わが國でも急に木綿織の反物顆が盛んになり、一時日本の棉作りの黄金時代のやうなときがある。初めは大和とか河内など近畿地方の平地で餘計に作つてゐた。それが次第にひろがり、山陽線の兩側などでは、夜など綿の實が割れ畑が一面に白くなつて月夜のやうに明るくそれは綺麗なものだつた。田圃の溝をなくした所にずうつと植ゑ、所々とび／＼に摘み取る棉畑の面白さ、美しさといふものは關東には少ないものであつた。

　明治の初めのころ、政府は米にも棉にも高い保護税をかけて國産を奨勵して輸入を妨げてゐたが、日清戰爭のころになると、だん／＼それができなくなり、保護税をやめて、輸入を緩やかにした。それがたしか明治二十九年で、それ以來ばたつと國内では棉を作らなくなり、唐絲《たういと》が急激に入つて來たのである。織物にするには、繊維の長い唐絲（外來綿絲）の方がより適してゐるので、日本綿は年々減つてきたのである。

　そんなときに長兄は、茨城縣に棉畑を奨勵しようとして、種苗を取り寄せたのだから、舊式な話で、成功するはずもなかつた。何分にも明治十六年に郷里を出たころの知識を元手に、關東地方の人と交りを結ばうとして努力をしたのだから、うまくゆかなかつたのである。

　いちばん郷里に歸りたく思ひ、そして一生播州のアクセントと國訛りのぬけなかつた長兄が、たうとう郷里に歸らなくなつたのだから、ときにイラ／＼することもあつたらしく、われ／＼としてもむしろ氣の毒にさへ思つたわけで(242)あつた。

　

(243)　　　　　長兄の境涯

　

　私一人だけはどういふものか酒を呑まないが、兄弟は皆酒をのんだ。中でも長兄だけはどちらかといふと酒癖が惡い方であつた。面白くないことがあると餘計飲む、すると日ごろは用心深くていはないやうなことも口にする。外で人に迷惑をかけると、もうそれつきりになつてしまふが、家庭でそれをやるといつまでも後味が殘ることになる。おまけに少し飲みすぎると翌日から寢てしまふ。そのうち少し大患ひしたことなどもあつて、物心つく年ごろの私は、私なりにいろ／＼のことを考へてしまつた。兄は、もう一人井上の次兄があつたが、他家へ行つてしまつてゐるし、長兄には子供が三人もあるのに、こんなに不養生で、身體が弱いとすると、兩親を抱へて、私としても考へなければならないと思ふやうになつた。もと／＼私は醫者は嫌なのだが、一家を背負つてゆくためには仕方がない。萬一の場合は醫者の開業試驗ぐらゐは受けられるやうにしておかうと、そんな悲壯な決心まで子供の私はしたのであつた。その後兄はねることもよくねるし、飲むこともかなりよく飲んだが、それでゐてだん／＼大人しくなつて、幸ひなことには、たうとう七十五まで生きながらへた。

　醫者の方もなか／＼繁昌して、萬事が思ふやうになるので、一時は政治に興味をもち、千葉の縣會議員になつたり、一期だけではあつたが、布佐の町長を勤めたこともあつた。その町長になつた時の記念として、面白いことに兄は利根川にはじめて橋をかけて、千葉の布佐と對岸の茨城の布川とを結びつけた。まるで布佐町長の兄の便利みたいな長い橋が、昔からあつた有名な渡し場にかゝつたわけである。ちやうど茨城の方の停車場から成田鐵道の停車場にゆく道になつてゐたので、私共のをつた布佐の近所がずゐぶん繁華になつた。橋の名は「さかえ橋」といひ、これは井上(244)の兄が名づけたものとか傳へてゐる。今もこの橋は殘つてゐて、私は橋を渡つたり、寫眞を見るたびに、長兄の一生といふものを思ひ出すのである。一生を酒を唯一の慰めにして、他郷に居る寂しさを逃れてゐたのが兄の境涯であつた。

　これは少しも自慢にならない逸話なのだが、あるとき貞明皇后さまに、正木直彦が文展會場で映丘の繪を説明しながら、われ／＼兄弟のことを「あそこは四人兄弟がありまして、それ／”＼何か仕事をしてをります」と申上げたところ、「もう一人、上のが田舍にゐるはずだ」と仰言つたといふ話が傳はつてゐる。それを聞いた長兄は非常に感激し「それでもう本望」と、それこそ涙滂沱として喜んだことがあつた。自分は弟どもの世に出るのを裏から助けて、一種の犧牲になつたやうな感じを秘かにもつてゐたのに、圖らずも、その自分に玉の御聲が掛けられたと感激して、非常に生きる張り合ひを覺えたわけであつたらう。

　

(245)　　　　　二兄の心遣ひ

　

　私と長兄とは十五、次兄とは九つも年が違つてゐる上に、次兄は井上家を繼いで、形だけは他家の人になつてゐた。下の二人即ち靜雄と輝夫はまだ頑是なくて、別に面倒なことを考へる餘地もなかつた。いはゞ私だけが中途半端で、何となく新たな長兄みたいな氣持になつたものである。

　もう一つ私の子供時代のもつともらしい考へ方があつた。それは兩親もいゝ加減弱つてゐるし、兄も丈夫でないから、この家から學資を貰つて學問することはできない。何でも構はない、學資のいらないところへ行かうといふわけであつた。それには師範學校へ行きさへすればいゝことは判つてゐたがこれはどうも氣が進まない。それで學資のいらない商船學校へ行つて船長にならうかと考へた。船の中で本も讀めるし、外國にも行かれる。

　私の船長熱はかなり強かつた。しかし一方では私の知らぬ間に、長兄と井上の兄とが相談して他のことは大きい兄がする代りに、私の學校へ行く學資だけは次兄の方で出すと決めてをりながら、私には知らせずにゐたのであつた。私は高等學校に入ることは、大學へ入る前提だから、そんなことができるはずもないと、初めから考へても見なかつたのに、二兄の間ではすでに膳立てがしてあつて、私に高等學校の試驗をうけろといふのである。この點は私として二兄に十分感謝しなければならないわけであつた。そのため幸ひにも私の船長熱は立ち消えになつてしまつたのである。

　高等學校の生徒の極く一部には、餘計に學費をもらつてゐるのもゐたが、たいていはみな極端に質素な生活であつた。私も最少額を兄からもらつてゐた。多分最初は月八圓で、その中、學内の寄宿舍費が三圓三十錢、すなはち食費(246)が一日十錢、食費が月三十錢で計三圓三十錢になる。そのうち少し値上げになつたと思ふが、とにかく入學當時は八圓で餘裕があつた。今日たくさん手許に殘つてゐるレクラム版の本とか、カッセルのナショナル文庫とか、あのころの文學書は新本でも一册十錢、古本なら三錢くらゐだつた。シェイクスピアの「マクベス」でも「マーチャント・オブ・ヴェニス」でも多分三錢で買つた。ウィルソンの綺麗な本なども、レクラム版によつたのだらうが、表紙はずつと美しかつた。われ／＼の名を傳へ聞いてゐた西洋の名著は何でも簡單に見つかり、古本屋の店先で、いちばん愛嬌のある所に竝んでゐたので、安いから煎餅をちょつと買ふやうな心持で買ふことができた。

　そんなわけで、食費と舍費とで月三圓三十錢、月謝が一圓二十錢で計四圓五十錢。あとの三圓五十錢もの使ひ途がない。それは樂な暮しで、ちつとも苦勞はなかつた。學資のいる學校など私としては諦めてゐたのに、兄たちのお蔭で入れたのだから、その喜びも手傳つて、私は非常に勉強した。中學枚の生活といふものをしないで擦れてをらず、學生仲間を偏見なく素直に批判することができたのである。

　入學試驗に合格した時、次兄は姫路の病院に勤めてゐたので、早速お祝の意味で私を呼びよせてくれた。旅費といつても三圓か三圓五十錢だつたらうが、それを兄が送つてくれたので、喜んで出かけて大分しばらく姫路に厄介になつてゐた。そのついでに郷里へ行つたのが、十三の年に國を出てから初めての歸省であつた。

　

(247)　　　　　寄宿舍生活の有難味

　

　高等學校に入つた私は二年餘り寄宿舍に入つてゐた。そのころは寄宿生活を奨勵してゐたからである。初めの一年は北側の寒い部屋であつたが、そこの同室に乾政彦や菊地駒次などがゐたのである。乾は大和十津川人の特徴を備へてゐるのがわれ／＼の敬愛したもとであり、菊地は舊幕臣の御家人の出で、外務省に入り、後にはフランスの參事官になつたりした。一年おくれて松本烝治が加はつた。先代莊一郎博士が播州福本の出身であることは前にもいつたが、烝治君はじつにいゝ友達で、かなりいやなことも遠慮なくいひ合へるやうな間柄であつた。あそこの部屋で出來た三、四人の友達は一生親しくつき合つてきた。

　私がはいつたときが高等中學校といふ名前の最後で、その後は高等學校と呼ぶやうになつた。私どものときには、地方の縣立中學校に三人とか四人とか割り當てて無試驗で入れる制度があつた。そのため試驗をうけて入つたわれわれは、よくいたづらに「オレたちはジャンケン組だから、無試驗のヤツらとはいつしよになれないよ」などと惡口をいつたものである。こちらは苦しんで入つたのに、まづ東京の府立第一中學とか、付屬中學の連中が上にゐて、それから順番に關東五、六縣のが上に入つてゐた。しかしこれらを混合するのが寄宿舍の目的であつたらしい。下の部屋で勉強して、夜は階上の、疊を長く敷きつめた八重ぐらゐのところに枕を竝べて寢る。喧嘩もする代りに、親兄弟にも洩らさないやうな氣持までも話し合つたりした。

　私はわづかな年限で中學校の上級までの試驗を濟ませるために、わざ／＼あちらこちらと轉校して歩いた。一つの學枚の一年に入ると二ヶ月ぐらゐで他の學校の二年に入り、また三ヶ月ぐらゐで濟まして第三の學校の三年に轉入す(248)るといふふうにして中學の課程を終へたことにしたので、じつに忙しいものであつた。體操したり、繪を習つたりする暇はなかつたのである。最後に繪の試驗があつたとき、石膏の桂を寫生することになつたが、繪など習つたことがないので、眞中の凹みをどうスケッチしていゝのか分らない。十九にもなつてゐたのに、一人でシク／＼泣き出してしまつた。その後もお世話になつたいゝ先生だつたが「君は繪のけい古をしたことはないのか」ときいてくれたので「私は方々の學校を飛び歩いてゐたので、繪の方はしなかつたのです」と答へた。「そりや氣の毒だナ」といつて先生が鉛筆でぐーッと描いて眞中の凹みをつけてくれたので、はじめてくぼみはかう描くものだといふことが分つた。そんな思ひをしたこともあつたが、どうにか中學を卒業したといふことにして高等學校の試驗をうけたのである。本郷の千駄木にある郁文館にも籍をおいたが、「一年もゐたのなら證明してやるが、六ヶ月では證明ができない」といふので、郁文館も證明できず、ましてその前にをつた中學はもちろん證明してくれない。たゞ開成學校、もと開成所といつたところの學校だけが、私を出身生の中に入れてくれたくらゐのものである。

　かういふ中學生活をして來た私にとつて、高等學校の寄宿生活といふものは、大變大きな改革であつた。中學を碌にやつてゐないので繪は描けない、器械體操はしたことがないから、鐵棒にぶら下つたきり、どうすることもできない。だから高等學校入學早々、アメンボウといふ綽名がついてしまつた。そのうへ家にばかりゐたので、行動が敏捷でなかつたらしく、「お孃さん」といふ綽名もつけられたりして、入學して半月ぐらゐの間についたこの二つの綽名はいつまでも消えなかつた。

　體が細くても、みなが思つてゐるほど意氣地なしでないつもりだつたから、腹の中にきつい氣性をもつてゐることを、なんとかして證明してやらうと思つてゐたが、一度受けた印象といふものは、なか／＼ものをいふものであつた。だからたゞの同級生は私を柔弱なヤツと思つたかもしれないが、寢食をともにした同室の仲間は、さすがに早くから氣心をのみ込んでゐてくれた。

　

(249)　　　　　坊ちやんクラスの出現

　

　高等學校の寄宿舍でもまれもまれしてから、大學に入つたのが明治三十年のことであつた。

　大學へ入つて、全國から集つて來た連中の中に混り、これは鹿兒島縣人とか、これは佐賀縣人だといつてつき合つたのが、私にとつて非常に爲になつた。少しでも知つてゐることは知識として貯へておいて、折り合ふやうな話をして磨き合つたからである。私の學校生活は非常に變則で、短かかつたが、それでもいゝ面が多かつたと見え、友達もたくさん出來た。ことに鹿兒島出身の人の中には未だにつき合つてゐる仲間がゐる。こんなことから田舍を方々歩いてみようといふ氣持がいつそう強く出たのではないかと思ふ。

　そのころの東京は、田舍者の立身する場所のやうになつてゐた。いはゆる笈を負うて東京へ出てくる者は、等しく貧しい者が多かつた。その中でもいちばん普通だつたのは、晝間働き、夜はそのころ流行つた夜學校へ行く、そして郷土の先輩などに頼んで玄關などにおいて貰ひ、書生をしながら學校へ行くのが多かつた。高等學校の豫科二級四ノ組にゐた時、一人非常に年とつた憂鬱な男がゐて、いつも前の方に坐り、後の方の人間と波交渉で勉強してゐる。後できくとその人は俥夫をしながら勉強してゐる者で、時間が惜しいので、なるべく吉原の附近で働いて、思ひがけなく都合のいゝ收入を計り、朝のうちだけ學校へ出てゐたといふ話であつた。パトロンでもない限り、昔でも苦學生といふのは、自立してやつてゐては、なか／＼うまく行かなかつたやうである。

　たゞそんな中にあつて、そのころの特色として「坊ちやん」といふクラスが擡頭し始めたことである。私が次兄につれられて、初めて横濱から東京へ乘る汽車の中で、ビスケットを女中から受取つてゐた若樣みたいな人達は、もと(250)はわれ／＼とは接觸もないし、數も非常に少なかつたが、見てゐるうちに「坊ちやん」が盛んに出て來、そのうちでいちばん優秀にしてかつ早く世の中に出たのが松本烝治であつた。

　松本が寄宿に入れられることをお母さんなんかが大變いやがつて、入れない運動もしたらしいが效果はなかつた。はじめのうち、本郷の新花町に一軒家をもち、妹二人と三人で住み、世話役を二、三人つけてゐた。それがどうしても寄宿舍に入らなければいけないといはれて一年だけ入つたのであつた。その間にすつかり惡いことを覺え、酒の味もこの時覺えてしまつたらしい。「お父さん怒りやしなかつたか」ときいたら、親父は黙つて見てゐてから「飲めるんなら仕方がないから、まあ用心しいしい飲んだらよからう」と答へたとか。たうとう「蹴込み黨」といふ綽名までついてしまつた。他所で酒を飲んで歸つて來る時、ぐにや／＼になつてしまつて、人力車に乘つても上の腰掛けに上げられなく、車の蹴込みに寢てしまつたまゝそつと曳いて送つてもらつて來るといふわけである。いゝ男だつたので、友達も大勢をり、そのために私らまで自分の地位がだん／＼固まつて來るやうな氣がさせられた。

　そのうちに大學が各地に出來、それに先立つて高等學校が全國に廣く出來てきた。どうもそれから東京といふものが變つて來て、以前のやうに田舍者の立身する場所ではなくなつたやうである。それがまた坊ちやんクラス擡頭の一因をもなしたわけであらう。

　

(251)　　　　　丙畫展覽會

　

　高等學校では、毎年三月一日に記念祭といふ催しがあつて部屋毎に正面に看板をかけ、飾りつけに趣向をこらすことになつてゐた。私の同室者はみな繪が下手だつたから、私の發案で「丙畫展覽會」といふ、自分たちの丙ばかりついた繪を飾ることにした。他の部屋からも出品の申込みがあり、汚い繪ばかりたくさん集つてきた。雉子の剥製をスケッチしたのを出したが、皆肥つてゐて、家鴨のやうな繪ばかりであつた。一人ウィット（頓智）のある學生がローマ字で、キジョムルキナと、いかにもラテン語のやうな題をつけたりした。

　これが明治二十七年三月のことであつたから、ちやうど私の二十歳の時である。二十で思ひ出すが、その年に「未成年者禁煙法」が出た。私もそれまで吸つてゐた煙草を止め、その代りに二十八年の二十一歳になつた時に、もう成年だからといふので、その當日から大つぴらに吸ひ出してせつかくの禁煙が何にもならなかつたことがある。

　私の高等學校時代の同級生といふものは、もう殘つてゐるのは非常に少ない。一人この三、四年前からつき合つてゐる人に、もと臺灣にをつた大里といふ人がある。私よりも年は二つか三つ上だが、今は秋田の花輪に住んでゐる。この人は若いころは本當に綺麗な人であつた。ちよつと男の美しさとして、あの人くらゐ綺麗な人はないと思ふほど、堂々たる背の高い立派な人であつた。當時高等學校に雅樂の會があり、大里君はその一人であつた。日清戰爭のころと思ふが、私の作つた歌に合はせて舞つてくれたので、私はその會の人達をよく憶えてゐる。私のは歌はせるつもりで書いたのではなく、他の軍歌調に叛いて作つたのだが、何しろ他のは漢語がたくさん入つてゐて歌ひにくい、それで私の歌が用ゐられたらしい。

(252)　　　むら雲騷ぐ黄海の……

といふ七五調のと、もう一つ「八州海」といふのを作つた。高等學校の寮歌集にも、これが斷片的にのつてゐるやうである。

　雅樂を教へてくれた先生は、信州の北部出身の雅樂人で面白い人であつた。その先生が、體格のいゝ、しつかりした眼附きで眉の坐つたやうなりつばな人を幾人か入れて、雅樂の舞の群を作つてゐた。高等學校の學生、とくに一番上級の學生が多かつた。まるで雅樂に縁のなかつた先生がどうしてそんなことをするやうになつたか。大里君の話によれば、その先生はフランスで西洋音樂を學んだ人で、耳が非常によかつた。日本へ歸つてどこか宣教師の學校か何かで音樂を教へてゐるうちに、日本の雅樂に傾倒しはじめ、それを復活する氣になつたらしい。宮内省の人たちには少しも相談しないでやつてゐたとか。

　大里君の他に桃澤といふ美術學校の學生がやはり選ばれて雅樂をしてゐた。四人のこともあつたが、たいていこの二人でよく舞つてゐた。この人は景樹の弟子で、信州上田の近くに桃澤夢宅といふ人があつたが、その人の孫か何かにあたる人であつた。

　

(253)　　　　　柔道の稽古と「文學界」への寄稿

　

　私は柔道だけは珍しく早くから習つてゐた。次兄は嘉納治五郎さんよりもう一つ前の時代の、やはり井上といふ名の先生についてゐたので、それについて私も通ふやうになつた。天眞神揚流といつて、嘉納さんもその先生についたといふ評判であつた。道場は大學から池の端へ出てゆく途中、天神下の吹拔《ふきぬき》の横丁といふ所にあつた。大學生がたくさんゐたが、私としては東京へ來てからいちばん新しい經驗であつた。晩飯を少し早目に食べて出てゆくのだが、廣小路を横切つていく時、夜店があつたりして、もちろんいまより汚かつたはずなのに、美しく思ひながら往復した。

　私の柔道はたゞ轉んだ時に頭を打つやうなことさへなければいゝと、ごく最小限度の目的をもつばかりで、仲間がどん／＼上手になつても、いつかう平氣であつた。その時の稽古仲間が今だに一人拙宅へやつて來る。宮本さんといふ、私より一つ年上で、火災保險の取次店をしてゐる人である。

　この町道場の經驗が殆と私の唯一の長所みたいなものだつたので、私は高等學校でも寒稽古に行つた。來てゐる仲間は乾政彦を除けばたいてい上級の身體のいゝ連中ばかりであつた。このごろ成城の鍼の先生の所でよく會ふ舊友井上匡四郎も、そのころはまだ岡松といつて、クラスは一年上だつたが、非常に柔道に熱心であつた。寒稽古の時、痩せた相手とやると痛いので、私はいつでも岡松が來るのを待つてゐて彼と組むことにしてゐた。彼ばかりは肥つてゐてぶつかつてもいたくないのである。この明治二十六年に寒稽古をしてもらつた相手で、まだ元氣でゐる人が一人ゐる。それ以來會つてゐないが、斯波孝四郎君といふ大人しい、おつとりしたりつばな人で、私はいつも尊敬の的にしてゐた。兄さんの忠三郎君の方はその後もしば／＼會つて孝四郎君の噂をしたことだつたが、造船で長崎にゆき、會(254)ふ機會もなく、それつきりになつてゐる。

　そんな?態で、高等學校だけはじつに單純な暮しを續けたわけである。ところが一方では私はその間に「文學界」の同人諸君と知り合ひになつてゐた。「文學界」に詩を發表したのは二十歳のときではないかと思ふ。「文學界」が復興したのは二十七年か二十八年のどちらかだつたらうか。星野男三郎（夕影）さんが努力して、上田敏君が非常に力を入れてやつたのだつた。

　私の義理の又從兄弟に中川恭次郎といふ播州から出て來た醫學生が、高等學校の前を入つた横丁に住んでゐた。開業醫になる勉強中であつたが、但馬の出石郡出身の巖本善治のところで會つた星野兄弟から頼まれて「文學界」の發行所を引受けてゐた關係で、私も出入りするやうになつた。「文學界」の中に中川｜尚　　　網《しやうけい》といふ名で出てゐる者で、私の義理の又從兄弟であつた。私の祖父は中川家から出てゐるが、その祖父の姉婿にあたる人が若死したので、弟子の中の一人を中川周節の名で家においたのが、この恭次郎の親であつた。

　星野天知君と男三郎君との兄弟が文學界の創立者であつたが、二人の妹におゆうさんといつて後に吉田賢龍夫人になつた女性がゐて、巖本の明治女學校に通つてゐた關係で、巖本が星野兄弟の相談にのり、中川の借家を「文學界」の發行所にして貰ふやうになつたわけである。私は中川の關係でそこに出入し、寄贈雜誌類を見せて貰つて、その批評や紹介の短文を手傳つたり、新體詩を寄稿したりしたのであつた。同人のうちでいちばん親しかつたのは戸川秋骨君で、他に平田禿木君を知り、又そのころ田舍から歸つて來て音樂學校へ入り直して金釦の制服をきてゐた島崎藤村君あたりとも、舊交を温めるやうなことになつた。

　

(255)　　　　　就職

　

　友達にも惠まれ、順調だつた私の學生生活にとつて、いちばん不幸であつたことは、私が高等學校から大學に入る夏、父母が相ついで死んでしまつたことであつた。私の兩親はどちらかといへば巡り合せが惡く、寂しい生涯を送つてゐたので、私はそのころ東京に見られるやうになつた馬車、それを乘りまはしてゐる人たちはみなヒゲを生やしたりつぱな人たちだつたので、早く私もさうなつて、寂しい兩親をのせて喜ばせて上げたいと願つてゐたにもかゝはらず、母が亡くなり、父も間もなく後を追つてしまつた。その上私はその後腸チフスのひどいのに罹り、寄宿舍にもをられなくなつたため、まるで氣持が變つてしまつた。

　大學はせつかく法科へ入つたが、何をする氣もなくなり、林學でもやつて山に入らうかなどとロマンチックなことを胸に描くやうになつた。しかし林學はそのころいちばん難しい實際科學で、大變數學の力が必要であつた。私は數學の素養が十分でないので、農學をやることにした。兩親も亡くなり、もう田舍に住んでもかまはないくらゐの積りであつた。そこへ松崎藏之助といふ先生が、ヨーロッパ留學から歸り農政學（アグラール・ポリティク）といふことを傳へ、東京大學で講義をしてをられた。新渡戸博士が東大へ來る以前の話だが、そんなことから、私も農村の問題を研究して見ようかといふことになり、卒業して農商務省の農政局農政課といふ所に入つたのである。

　農商務省には、私の大學にゐたころまで、高等官は一人もゐず、局長の下はみな技師で、一人の事務官もゐなかつた。そこへちやうど産業組合とか農會法とかいふ農業關係の法律が一時にたくさん出たため、岡野敬次郎さんの口利きで、われ／＼法學士が四、五人も同省へ入つた。在學中の成績で、月給が違ふといふやうなことがあり、大學で特(256)待生だつた松本烝治だけが五十圓、私が四十五圓で、他の人たちが四十圓といふやうな扱ひを受けた。

　そのころ私は柳田家に入る氣持になつてゐた。兩親を失つて寂しい思ひをしてゐた私を柳田家に推薦して下さつたのは歌人として知られてゐた松波遊山（資之）翁であつた。

　市ヶ谷加賀町にあつた養家から、毎日、木挽町の役所に通つたわけで、まだ電車もなく、市ヶ谷見付まで出ると人力車の溜りがあつたので、そこから俥に乘つて行つた。月給の半分は車代に、殘る半分を小遣にといふ、思へば氣樂な身分であつた。

　三十三年に役所に入り、三十五年にはもう法制局へ連れこまれてしまつたから、農商務省には二年足らずしかゐなかつたが、この間は主に田舍を歩いたわけである。そのころは官民の政治爭ひがひどくて、國會の解散ばかりがつゞいた。そんな時に農政局なんて役所は何の用もなくなる。「どこかへ行つて來ないか、旅費はあるぜ」といふわけで、中にはちよつとでもいゝから外國へ行く者などもあつたが、私は專ら國内を歩くことにしてゐた。その後、法制局でもいつしよだつた上山滿之進といふ人が山林局長になつてゐたので、いつでも私を後援して、山林問題が起きるごとに私を出張させてくれた。なか／＼頑固な人だつたが、氣持は柔かい人で、いはず語らずの間によほど私を助けてくれた。山林のある所を、日本中どこでも歩くことができたのはありがたいことであつた。

　

(257)　　　　　兩親の急逝

　

　私は高等學校から大學に移るとき、相次いで兩親を失つてしまつた。

　又從兄弟の中川恭次郎から「近いうちにお母さんが布佐から出て來られるさうだが、來れば私の所に泊るのがいちばん便利だから、宿をするつもりでゐる」といふ話をきいて、お禮をいつて間もなく、母が東京に出てきた。二週間ばかり厄介になつてゐたであらうか、突然中川の家で卒中になつて倒れてしまつた。布佐の田舍から父も長兄も出てきたが、直ぐにどうといふことはなかつた。しかし出先で倒れたので、田舍へどうして連れてゆくか、皆が非常に心を痛めた。私も中川の家に行つて看病してゐた。

　たうとう具體策として、高瀬舟を一艘借りよせ、濱町河岸まで持つてきておいた。病體をそこまで戸板にのせて運んでゆき、そつと舟に移して、私どもみながいつしよにのつて二日がゝりで利根川をまはつて布佐へ連れて歸つた。それから半月か二十日してからと思ふ。母はたうとう亡くなつてしまつた。明治二十九年七月八日のことで、年は五十七歳であつた。みな看病疲れでへと／＼になつてしまつたが、誰よりも第一に父がまゐつてしまつた。

　父親は郷里を出てからは誰か介添がなくては、世の中が一人歩きできないやうな、例へば上野の圖書館へ本を讀みに行くにしても、母から十錢だけ貰つて行くといふやうな、子供みたいな人であつた。天保錢だけは八文だといふことを知つてゐても、波錢《なみせん》の文久錢は四厘に通用したが、それが二文であつたか三文であつたか、はつきりしないといふ舊時代の人であつた。今まで母に支へられてきたが、突然の死にあつて、すつかり弱つてしまひ、外出もせずにただぢいつとしてゐるだけになつてしまつた。

(258)　私も大分體を痛めてしまつたので、みなにすゝめられて銚子の海岸に三週間近くも行つてゐた。すると家から「もういくらかよくなつたのなら、ひとまづ歸つて來ないか、お父さんがその後少し元氣がなくなつたから」といふ手紙が來て、びつくりして大急ぎで歸つてきた。事實父はすつかり弱つて、間もなく母の後を追ふやうに亡くなつてしまつた。母の死から二ヶ月もたつてゐない九月五日のことで、年は六十五歳であつた。丈夫な人だつたが、母の死によつてすつかり弱つて早く死んでしまつたのではないかと思ふ。

　かうして兩親の急逝にあつて、私のそれまで抱いてゐた計畫もすつかり變つてしまつた。例へば人竝にえらくなつて、兩親を馬車に乘せて上げたいとか、もし萬一兄に不幸があつた時は、兩親や甥姪たちのために醫者にでもなつて世話をしてやらうとか、いふ氣持も、時がたつに從ひ、だん／＼うすれてしまつた。

　辻川へ歸つたことは兩親の生きてゐるうちに一ぺんだけで、そのときは早速兩親に復命したが、二度目にはもう兩親はゐなかつた。さうかといつてそれ以後は歸郷しても、直ぐ布佐の兄の所へ報告に行かなくなつてしまつた。

　青年はどこでもさうであるが、わづかの境遇の變化で、氣持がぐら／＼變るものらしい。私も兩親の急逝にあつて、學問でも何でも自由な道を選ぶことになつたわけであつたが、今から思ふと、仕方のないことだつたのかも知れない。

　

(259)　　　　　明治女學校と播州人

　

　「文學界」の發行所を引受けてゐた中川恭次郎は變つた男で、何でも知つてゐる代りに、醫者の試驗だけはどうしても通らなかつた。

　仕事としては、醫者の著書の代筆をしてゐた。ずゐぶん大膽な話であつたが、醫者の中には暇がなかつたり、文才がない人がある。さういふ人が、これ／＼の主旨の本を出したいがと中川に頼むと、彼は多少ドイツ語が讀めるので、ドイツ書を參考にして本をまとめてやつてゐた。本郷通りの大きな醫書店で中川に御禮をしたものが大分あつたらしい。中川は「文學界」とも接觸し、他方でかういふ仕事をしてゐたので、じつにいろ／＼の物知りになつてゐた。

　播州の神崎郡あたりから出たクリスチャンの巖本善治は、巣鴨の庚申塚に立てられてゐた明治女學校の教頭になつてゐた。巖本君は朝來郡の生野の出身で、出石郡の出石に養子に行つた人である。

　明治女學校は巖本君が世話になつた木村熊二牧師夫妻の經營した學校で、木村夫人｜鐙子《とうこ》が事實上の校長で、この婦人は明治十年代の我國女子教育界の先覺者で、田口卯吉の姉であつたと聞いてゐる。夫君の木村牧師は舊幕臣で、基督教徒の草分けで、本來は但馬出石藩の櫻井熊一（後に内務省地理頭になつた櫻井勉の舊名）の實弟であつたのが、但馬生野銀山の役人をしてゐた幕臣木村琶山の養子に迎へられた人物である。そんな關係から木村牧師が巖本君を用ゐたのであらう。木村牧師は芝白金教會を建てたり、後には信州に行つて小諸義塾を設立して、島崎藤村、三宅克己、丸山晩霞などを教員に迎へた人で、藤村は明治學院時代は芝の木村家の書生をしてゐたこともあつたやうである。

　明治女學校は寄宿舍もなか／＼よく出來てゐて、播州人で入學した者が大變多かつた。早く亡くなつた私の兄嫁(260)（次兄井上通泰の最初の妻）井上マサなどもその一人であつた。後に巖本の夫人になつた若松賤子（小公子の譯者）さんよりも、もう一期前の卒業生である。同校からは「女學雜誌」といふ赤い表紙の雜誌が出されてゐた。「文學界」の姉弟雜誌のやうなもので、非常によく賣れたときいてゐる。

　庚申塚の上の小高い所にかなり立派な校舍があつて、もとの櫻井勉の邸に設けられたものだつた。鐙子女史が若死した後、追々と外部資本が入つてきて、後には巖本君の地位も少し危くなつたが、それまでは教員にも播州人が多くて、非常にわれ／＼に縁の深い學校であつた。私の義姉などもそんな關係ではる／”＼上京して入學したのであらう。

　中川恭次郎なども、終始巖本家に出入してゐたので星野君兄弟やその他の人達と知り合ひになり、そんなことから「文學界」の發行所を引受けたわけであつた。

　

(261)　　　　　柳井子の弟

　

　次兄井上通泰は、大學を卒業してから醫局に籍をおきながら、自宅で開業することも許されてゐた。

　下總で二年半、長兄の許で拘束のない生活を送つた私は、東京に出て、この次兄の下谷御徒町の家に厄介になり、あちらこちらの中學を轉々としてゐた。

　そのころの下谷は古風で、兄のゐた家がやはり低い旗本の家で主人は桂木といふ退役の陸軍少佐であつた。兄は表の方を借り、大家さんは裏の離れに住んでゐた。御徒町一丁目の通りで「柳の井戸」といふのが一丁目と二丁目の境にあり、井上醫院は井戸から一軒おいて隣にあつた。この井戸は非常によい水が出るので有名で、兄はこの井戸にちなんで、柳井子《りうせいし》といふ號をつけて「日本新聞」に寄稿したりした。私も時々「柳井子の弟」といふ名前で投稿したことがあつた。「しがらみ草紙」に歌を寄せたころと同じ時代である。

　大家の桂木さんに背の高いお孃さんがあつたのを、世話燒きの兄が自分の同級生の宮入慶之助氏に媒酌した。宮入さんは一時、京都で教授をしてゐて、家が廣かつたので、弟の靜雄を預つてくれた。私は東京にゐて、高等學校に入る準備をしてゐる間に、弟はしつかりした人間であつたから、京都で一人で勉強して、海軍兵學校に入り、私が高等學校にゐるころには少尉候補生となり、私が大學に入つた時には、もう少尉になつて世に出たわけである。

　末弟の輝夫は靜雄と正反對で、母親にばかりくつついてゐる秘藏つ子だつた。下谷練塀町の小學校に通つて、自分の好きな子ばかり集めて遊んでゐた。市河三善さんも同じ小學校だつたが、輝夫より二、三年年下とかいふ話である。

　この御徒町にゐた時代が、私のためにもいろ／＼新しい力となり、偉い人々を識る機會ともなつた。今もよく記憶(262)してゐるが、そのころは�ｺ富蘇峰さんが文筆界の中心となつてゐたやうである。文壇といふ言葉も、このころ田村參治などの仲間がはじめて使ひ出したとか、田村からきいたことがあつた。したがつて當時は文壇人といふ者が非常に少なく、�ｺ富さんに招ばれるといふことが、一つの登龍門になつてゐた。三十人とか四十人とか集り、やはりいちばん餘計に威張つたのは小説家の方ではなかつたらしい。

　井上の兄もその派だつたが、どこでも「日本新聞」に働いてゐる人たちがいちばん勢力があつた。そのうちでも好き嫌ひがあつて、落合直文とか小中村（池邊）義象などが仲間で、その連中が牛耳をとつてゐたらしい。兄は集りから歸つて來ると、少しほろ醉ひ加減で、會合の時の話や、逸話をいろ／＼と聞かせてくれたので、そんな所から私の文學に對する野心といつたやうなものが生れ出たわけであつた。

　蘆花さんの方は、まだ「不如歸」も書かず、いろ／＼の西洋の小説を飜譯したりして、ずゐぶん若かつた。私は偶然なことから若いころの蘆花さんを知つたが、それは蘆花さんのお母さんが眼をわづらつて兄の醫院にかゝり、蘆花さんが藥をとりに見えたことがあつた。その時ちやうど居合せた私が取次いで、蘆花さんを知つたのである。

　桂木邸の兄が借りてゐた正面の部分からいつて左の方に區切りがしてあり、そこをぬけて入ると小さな借家が一軒あつた。こゝにゐたのが隨筆家の遲塚麗水である。母堂と弟二人の四人暮しであつたが、家同士の交際があつたらしく、幸田成友さんやその妹さんたちがよく來てゐたさうである。「報知新聞」の若い記者をしてゐたが、その關係からか、村上浪六なども始終訪ねて來たとかいふ話であつた。

　

(263)　　　　　國木田獨歩の想ひ出

　

　今度の戰爭の濟んだころのことである。ある日國木田收二の息子さんといふ人が訪ねて來た。東京で、どこかの新聞か雜誌の編集をしてゐるとかいふ話であつた。私も久しぶりに國木田兄弟のことを想ひ出したが、私は二人の兩親も知つてゐた。父の專八は播州龍野の出身で、藩のお船方か何かをしてゐた時、千葉の銚子方面へ航海して難破し、土地の婦人と結婚してそこに落着いたのであつた。そこで龜吉（即ち獨歩のことで、後に哲夫と改名した）と收二とを設けたものらしい。その生れについてはいろ／＼傳説めいた噂が傳はつてゐるが、私は獨歩とつき合ふやうになつてからも、そんなことをきいたこともなければ、先方から説明したこともなかつた。作品の「運命論者」の材料になるやうなことがあつたとかなかつたとか、詮索する物好きもあるが、私には興味はない。ともかく二人の兄弟は大變よく似てゐて、身體は收二の方が大きかつたやうである。

　今でもよく憶えてゐる。本郷の大學前にあつた喜多床といふ床屋の前を私が歩いてゐると、後から田山花袋がやつて來て「おい」といつて私の肩を叩いてから、「君に會ひたがつてゐる奴があるからいつしよに行かないか」といふ。「誰だい？」ときくと、「國木田つて男だ」「それは面白いねえ」といつて、いつしよに會つたのがたしかに明治二十九年の秋だつた。田山とは松浦辰男先生の歌塾の同門であつたから、早くから知り合つてゐたが、それに比べれば、國木田との交遊は、ずゐぶん後のことであつた。

　青山にゐたころ、獨歩の兩親はひどく年をとつてゐて、たゞ息子の世話にばかりなつてゐた。十月以後に生れた子供をその年の干支《えと》のマル兒といふが、そのうちでも巳年生れのマル兒は特に仕合せがいゝとか、哲夫の子の虎雄はそ(264)のマル兒だからめでたいなどゝいふことをよくいつてゐた。龍野の話もきいてみたが、あまりはつきりしたことはいはなかつた。そのころが國木田の家としても、いちばん穩やかな時代で、間もなく兩親とも亡くなつた。

　一身上の事件をひき起したりしたが、「民聲新報」といふのを編集してゐたころは大分融通が效いて、良い着物をきて、郷里（山口か大分か）の者が訪ねて來ても、長い間待たしておいて、私どもとしやべつたりするほど勢ひが盛んであつた。西園寺公の私設秘書みたいなこともしたが、初め自分であんなに文才のあることを悟らないで、代議士に出る氣をもつてゐたらしいのである。

　私が柳田姓になつたばかりの明治三十四年のころであつたが、そのころ私としげ／＼と往來しはじめてゐた。何しに來たか分らんやうな日に突然やつて來て長く喋つて行くが、表に俥を待たしてあつたといふやうなことが何遍もあつた。

　信州飯田から脇坂家が播州龍野へ國代へになつたときお伴をした家柄で、飯田では櫟田《くぬぎだ》と稱してゐたらしい。脇坂家の後へ堀家が移つて私どもの柳田はその家臣であつたわけである。

　

(265)　　　　　町の學者

　

　若い時から、いろ／＼の文壇の話や文壇人のことを知る機會をもつた私は、やゝ年をとつてからでも、遲塚なら知つてゐるとか、田山なら懇意だとかいつたことを、少し憎らしい位、口にしたことであらう。正しく文學青年の一つの見本にほかならなかつた。自分では何にも創作しないでゐながら、文壇について聞きかじつて知つてゐることばかり材料にして話すのである。ほんの僅かな年限ではあつたが、前に記した郁文館中學に通ひながら、往復の途上で短册を買ひ集めたといふ、あの時代がさうである。

　御徒町の兄の家の門前に鳥の羽をたくさんぶらさげた綺麗な弓屋があつた。その隣は燒芋屋で、燒芋屋といつても非常に有名な家であつた。「繁さん」といふ息子があつて私らより四つか五つ位年上の、年中本を讀んでゐる人だつた。この人が奧村繁次郎といつて、後に町の學者としてすつかり世間に知られるやうになつた人である。自分でも書いてゐたが、あの時分にあのくらゐ江戸文學に深入りした人はさうなかつたやうである。秀才だつたのであらう。中には惡口をいふ人もあつて燒芋屋をやめてからも「芋繁」などといつて、「芋繁が珍らしいものを持つてゐる」とかいふやうなことをよくいつてゐた。後年私も懷かしく思つて、その家の前を通つてみたら、燒芋屋をやめて古本屋になつてゐた。

　あの時分の東京には、まだ文化・文政ごろのやうな粹人の學者がたくさん殘つてゐた。終ひには田舍者にとつて代られたが、私の若いころにはまだ殘つてゐたのである。

　築地河岸に住んでゐた三村清三郎、普通、竹清といつてゐたが、この人もかういふ町の學者の一人であつた。父親(266)の代に伊勢か大和かから東京に出て竹材商を開業してゐた。それで竹清と自ら號してゐたらしい。私はこの人が竹屋さんの息子として、繼母にいぢめられて困つてゐる時分からよく知つてゐた。「佳記春天」（書き捨て）といふ著書もあつた。この人の筆記類といふものは、字が達者で、速くて、非常に上手なのがたくさんあつた。

　かういふ人たちとは私が山中共古さんの所に行き、はじめて懇意になつたものであつた。「文學界」の人たちとつき合つた時代よりもう一時代すぎて、すでに柳田になつてからである。外神田の筋交《すぢかひ》橋を渡つた所で、毎月、集古會といふ會があり「集古」といふ雜誌を出してゐた。和綴の本で一年のはじめに十二ヶ月の題を出して、その月毎に題に關係あるものをもつてくるのである。思ひがけない突飛なものさへ出せば、當つて賞められるといふやうな、少し道樂の氣味があつたので、私はさう頻々とは行かなかつた。しかし前記の芋繁とか、清水清風といふ怖い顔をしてゐながら、玩具の本を集めて、自分でも著書のある人とか、大變物を識つてゐる人がたくさん集つた。あるいは墓ばかり調べてゐる人もあり、まあ好事家の集りであつた。

　

(267)　　　　　龍土會のころ

　

　町の學者だつた人々と知り合ひになつたのは、何れも山中共古さんのおかげであつた。たび／＼訪ねて來られたらしく、そのころの日記にはよく山中さんの名前が出てゐる。山中さんには明治二十年ごろ、甲府でキリスト教の牧師をしてゐた時の見聞をまとめた「甲斐の落葉」といふ著書や、遠州の見附で書いた「見附次第」、同じ靜岡縣の吉原に住んだ時の「吉居雜話」などの著書がある。「甲斐の落葉」は私が爐邊叢書の中の一册として出版したもので、山中さんのスケッチも入つてゐてじつに懷しい本である。あゝいふのを讀んでおかないと、明治を一つに見てしまふ弊害を免かれない。あの時分の明治と、それからわれ／＼が成長した時の明治とは大分違ふわけであるから……。今の甲州の諸君などが、鬼の首でもとつたやうにいつてゐる奈良田などにも、すでに入つてゐて、この寒村の生活が記録されてゐる。また出版はされてゐないが、「共古日録」といふものがある。この中には友人たちとの手紙が、みな半紙の大きさに書いてもらつて綴ぢ合はせてある。

　大磯を海水浴場にした林洞海さんの孫に當る林若樹といふ人も收集家で、自宅の土藏にたくさんの珍本を集め、同好の士を集めてよく會も開いた。會の連中の中には、日本橋の堀野文禄堂といふ、珍しい本ばかり出す本屋の主人らも來てゐた。かういふ人たちの收集欲は少し凝りすぎてゐて、ちよつとゆきすぎくらゐであつた。私はさういふ人たちに比べて田舍者だつたので、いつしよになつて「左樣でゲス」なんていつて歩くことができなかつた。

　そのころの日記をみると、じつにいろ／＼な會を私の家でやつてゐる。さきに書いた郷土會はもちろん、それと竝んで文學者の集りもしてゐた。人數は少なかつたが、これが後に龍土會になつたものである。

(268)　養家の親たちは、私を落着かせるために、こんな會合に座敷を提供したばかりでなく、菓子を出したり、食事を出して、皆をもてなしてくれたわけである。

　文學者の集りは、そのころ英國大使館につとめてゐたコックと家政婦が結婚して、同大使館の裏通りに快樂亭といふ料理屋をはじめたのを、誰かが見つけて來て、そこで會を開かうといふことになり、拙宅の會をそのまゝもつていつた。そこの亭主はツンボだつたが、大變純な男で後に麻布の龍土町に引越したので、會もそちらで開くやうになり、店の名前の龍土軒をとつて龍土會と名づけられたものであつた。

　まだ武林無想庵が青年のころで、いちばん主になつて世話をしてゐた。薄田泣童、國木田獨歩なども來た。小山内薫などはまだ學生で、飛白の羽織などを着てゐるので、われ／＼は子供扱ひにしてゐた。そのころすでに小説の種になるやうなことをしてゐたのに、われ／＼は知らずにゐたわけであつた。

　こんなことがあつた。小山内があそこで殴る、蹴るの喧嘩をしたことがある。私は大變怒つて「とにかく、これは僕らの作つてゐる會なのだから、この會に來てそんなことをされては困るから、やりたければ別の所でやつてくれ、さうすれば僕らも干渉はしないから……」といつたことを覺えてゐる。そのころからだん／＼と形が變つて、古い人が少なくなつて、小山内あたりが中心になつてきた。

　あのころの龍土會のことを知つてゐるのは、いまでは正宗白鳥さんぐらゐであらうか。

　

(269)　　　　　?外に知らる

　

　醫者で、文學に親しむといふところから、井上の兄は森?外さんとつき合つて「しがらみ草紙」「めざまし草」以來いろ／＼と協力してゐた。私が十代の子供のころ、秋元安民傳を「しがらみ草紙」に寄稿したのも、兄との關係からであつた。又從兄弟の中川恭次郎なども、多少ドイツ語ができるくらゐであるから、森さんのものを愛讀してゐるし、兄のところの書生たちも森さんのものを崇拜して讀んでゐた。近所には芋繁などといふ風變りな文學好きがゐたし、井上醫院の玄關の空氣はじつに面白いものであつた。私なども自然に感化をうけ、?外の「水泡集」など、文章のいいところを暗記してゐたほどであつた。

　「於母影《おもかげ》」が國民之友に出たのが明治二十一年だつたかと思ふ。S・S・Sといふ名前で掲載された。そのときのお禮が三十圓で、それを元にして「しがらみ草紙」が出來たのだつたと思ふ。これはS・S・Sすなはち新詩社といふ名前で出された。井上醫院の玄關が文學談でにぎはつたのはこの「しがらみ草紙」のころであつた。

　子供だつた私は森さんのお宅に伺ふとお菓子が食べられるので、よくお訪ねしたが、「萬年草」の時代には行かなくなつてゐた。高等學校のときでも、訪ねて行くと案外快く會つてもらへたことを憶えてゐる。それにあまり説諭とか、訓戒をしてくれる人がゐなかつたので、よく伺つた。すると「いまは何を讀んでゐる？　どんなものが面白い？」などといふ風なことを聞いて可愛がつて下さつた。弟さんの篤次郎君や、潤三郎君などのまだ小さいときであつた。

　森さんといふ人は、私どもには大きな影響を與へた人であつた。露伴さんの方が長生でもあり、附合ひも長く續いたけれども、この人ははじめから高いところにゐる人だと思つてゐたためか、あまり影響を受けなかつた。森さんは(270)こちらの方に降りて來て、いろ／＼と相談に乘つてくれる人だつたから、これだけは本當にありがたかつたと思つてゐる。たとへば本一册讀むのにも、こちらの立場まで戻つて來て探してくれたりした。私はドイツ語はあまりやらないが、パウル・ハイゼなど、森さんの飜譯が二つ三つあるので「私はどうもハイゼが面白いやうに思ひます」といつたら「ハイゼならあるよ、君もつて行きたまへ」といつて「ノイエン・シャッツ」といふドイツの短編集を出して下さつたことがあつた。それを見るとハイゼの短編がいくつも出てゐるのである。ハイゼはハルトマンなどの現はれる一つ前で向うでも相當な地位にゐた。ドラマもあるらしいが、この方は私はあまり知らない。

　この間も小堀杏奴さんに會つたをり、「私はあなたの生れるより何十年も前に、千駄木のお宅に伺つてお菓子をたべた人間ですよ」と話したことであつた。

　

(271)　　　　　尾崎紅葉に會ふ

　

　日光の神橋を渡つて直ぐ左へ入つた所に、照尊院といふ寺があつた。高臺の上にあつて大谷《だいや》川の音がきこえてくるといふいゝ所である。後に川筋が變り、崖崩れがあつたために寺はなくなり、神橋だけが殘つたわけだが、以前は上州館林の舊藩主、秋元子爵家の菩提所になつてゐた。文士の歴史を書く時によく出てくるお寺である。

　昔秋元家が日光の役人をしてゐた時分に亡くなつた人が一人あつて照尊院といふ號があつたと見え、日光に葬つてから、そこが菩提所になつたのであつた。田山花袋はその秋元家の舊臣の家に生れたから、その手ヅルでよくこのお寺へ行つて仕事をしてゐた。一度私を連れて行つてやらうといふので、中川恭次郎だの二、三人といつしよについて行つたことがある。

　日光羊羹がそのころ一本五錢だつたのが、表通りの店では急に五錢五厘に値上げをした。金が十餞しかないといふので、一人が元宿《もとじゆく》の方の廉い店までわざ／＼買ひに行つた。それを他の者が茶を入れて待つてゐるといふ具合で、かなり貧乏しながら、その寺の厄介になつてゐた。私らより若い小僧で、氣の利いた人がゐた。後に出世して、日光の執事になつた菅原英俊といふ人である。ずつと後になつて、家内や矢田部の甥などを連れて、一夏ゐたことがあつたが、その時は、もうこの人の代になり、厄介をかけたことがあつた。

　田山花袋といつしよに照尊院にゐた時、ある日、田山が「今日は尾崎さんが來るから迎へに行かなくちや」といふので、私もどんな人か、まだ尾崎紅葉を知らないので、神橋の傍まで隨いて行つた。向うから派手な浴衣に、チリメンの兵兒帶をだらりと締め、何にももたずに來る二人連れがある。それが石橋思案と紅葉の二人だつた。何を履いて(272)ゐたか、履物は憶えないが、いかにもどこか良い衆だなと思はれるやうな暢氣な恰好であつた。私もちよつと挨拶はしたことをおぼえてゐるが、どちらかといふと、そんな時には反撥をする癖があるので、話はしなかつた。

　紅葉と思案とは、日光ホテルに泊るといふわけで、田山が案内して行つた。ホテルは私らの泊つた寺のもう少し奧の方であつた。私どもの方はそろ／＼懷中が乏しくなつてきたので、「もう歸る」といひ出したら、田山が「そんなに早く歸られちや困る」といふ。きかずにゐると「それでは國木田を呼ぶ」といふわけで、私や中川その他の者が歸つた後へ、國木田が行つて、二、三ヶ月も滯在したのであつた。このころからいよ／＼小説家になつてきたが、それまでの彼は詩人みたいなことをやつてゐた。

　彼らの文學を論ずる者が日光時代などとよくいふが、私からみればむしろ日光時代は空白の時代だつたやうに思ふ。私が大學の一年の時だつたかと思ふから、この日光行は明治三十一年のことであらう。

　

(273)　　　　　泉鏡花

　

　星野家の天知、夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた舊家で、すぐそばに平田禿木も住んでゐた。おゆうさんはどちらかといふと、兄の友人などからちやほやされることに意識的な誇りを覺えるといふやうな型の婦人だつたやうに思ふ。後に吉田賢龍君の所へ嫁いだ。

　吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた温厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大學寄宿舍の部屋での出來事からであつた。

　大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが「おい上らないか」と呼んだので、窓に手をかけ一氣に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないので、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思ひ込むやうになつてしまつた。泉君の「湯島詣」といふ小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方「あんないゝ氣持になつた時はなかつたね」などといつてくれたので、こちらもつい嬉しくなつて暇さへあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以來、學校を出てから後も、ずつと交際してきたの(274)である。

　鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町の尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになつてゐたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君と競爭心があつて、人からあまりよく思はれないやうな所があつた。

　酒を飲むにしてもまるで古風な飲み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かつた。そのいちばんの巨魁は小栗風葉で、この連中から見ると「あゝ僞善者奴が」と泉の惡口をいふものだから、しまひには仲間割れがしてしまつた。

　同じ金澤出身の�ｺ田秋聲君などともあまりよくなく、�ｺ田君の方で無理してつき合つてゐるやうな樣子がうかがへた。�ｺ田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから他人の譯した外國のものなども、こつそり讀んでゐたやうである。いろ／＼なことがあつたが、私にとつては生涯懇意にした友人の一人であつた。

　

(275)　　　　　江見水蔭

　

　同じ播州の關係者として、後に神戸新聞の社會部長になつた江見水蔭ともはじめはなか／＼親しくしてゐた。

　江見は元來は岡山の人であつたが、母方は播州赤穗の森家の家老の出であつた。村上眞輔といふ人の娘で、岡山の池田家の家臣である江見陽之進といふ人に嫁ぎ、忠功、すなはち水蔭が生れたのである。そのため播州に近い親類があつたが、私がそのことをよく知つてゐたので、餘計に親しくしてゐたのであつた。

　外祖父の村上眞輔といふ人は、家老であつた關係から、維新のころ守舊的な佐幕派に屬してゐた。そのためか村上家から養子に行つた河原翠城といふ赤穗きつての慷慨家の學者が、勤王派との板ばさみになつて切腹するといふやうなことがあつた。私の父などもこの人のことをよくほめてゐた。その上勤王派の足輕か何かのごく身分の低い士たちが村上眞輔を伐り殺して逃走するといふことがあつた。そのため村上の一族は、下手人たちを探し出し、彼らが最後に高野山に逃れようとするところを待つてゐて復讐に成功した。明治四年のことで、高野の仇討といはれ、日本最後の仇討として有名な話である。江見は何かの折によくそのことを喋つて、われ／＼に聞かせたものである。

　杉浦重剛さんの日本中學にゐたことがあるから、巖谷小波と親しくなつたのかと思ふが、江見も硯友社に屬してゐたことがある。ちよつと異色のある人物で、紅葉さんなどにも喰つてかゝるやうなところがあつた。その作品もいろ／＼變化して、はじめはいくらかセンチメンタリズムかもしれないけれども、新しい文學に出て行かうとするやうな傾向が見えた。「小櫻縅《こざくらをどし》」といふ雜誌を出してゐたが、田山花袋はそれに二、三の小説を書いてなじみになつたらしい。そのうちに江見はだん／＼と作風が變り、何となく村上浪六のやうな風になつていつた。

(276)　父を早く亡くしたので、母堂に育てられたが、晩年には品川に住み、邸内に土俵を設けたりして、書生を大勢養つてゐた。その中には、長井金風といふ、明治になつてからの人としては珍らしいほどのすぐれた漢學者などもゐた。江見はどういふ動機からか、考古學にかぶれて、暇さへあれば發掘などをしてゐた。土器の把手をたくさん集めたり、どこのものか判らない土器もあつて、たゞやたらに集めてゐたらしい。少し眉唾だつたのかもしれないが「江見はもう一萬點も集めてゐるさうな」などといふやうな話を聞いたこともある。今の考古學とはまるでちがつた行き方だつた。

　晩年には押川春浪などの天狗倶樂部に關係して「武侠世界」の豪傑連とつき合つてゐたこともある。江見郷といふのが美作の東部にあるから、先祖はそちらから出たのかもしれない。播州に近い地方だつたので、赤穗との縁が結ばれたのであらう。その赤穗出の母堂は大變昔めいた人で、一人息子が粹筋の婦人と結婚したことには不滿があつたとか、聞かされたことがある。

　

(277)　　　　　余が出版事業

　

　岩波書店の雜誌「圖書」が出た初めのころ、何か書いてくれといはれたので、私はよほどふざけた氣持があつたとみえ、「余が出版事業」といふ題で書いたことがある。本を作る（ブック・メイキング）意欲は私には非常に古くからあつた。前に書いた子供のころの「竹馬餘事」は私の本を作る事業の最初である。詩も歌もあるが「大和尚傳」などといふ文章もあつた。七十年前の辻川のことである。村に醉つ拂ひの墮落僧がゐて、いつも怖い顔をして村人の家に入り込んできた。そして酒ばかりねだつて、村のもてあまし者になつてゐた乞食坊主のことを書いたものである。村でもたゞ「大和尚」と呼んで名前はいはなかつた。その他にも、人を笑はせるやうな文章が少なからず、この「竹馬餘事」にをさめられてゐる。

　それから大分間をおいてからではあつたが、いろ／＼な出版をやつてみた。自分でも書き、他人にも書かせて本を次々に出した。いちばん永續したし、また根柢の出來たのは「爐邊叢書」である。しかしその前に「甲寅叢書」といふのを七、八册出版してゐる。甲寅といふのは大正三年の干支で、豫定目録には大いに本の名を竝べたが、實際には六册しか出さなかつた。

　そのころ私はひそかに出版界の?況を心配して、書物が良いか惡いかといふことは、それが賣れるか賣れないかで決まるのはいけないと思ふやうになつてゐた。一つには新聞が廣告で生活するやうになつてから、新聞の廣告した書物にいゝ批評をしてやつたりする習慣が出來た。そして新聞が少し落着いて紹介すると、それが大きな指導標になるものだから、書物の選擇を文化人がする場合には、そんな批評などを無視して書物を作らなければならないといふの(278)がそのころの私の意見であつた。私のかういふ考へ方を知つた西園寺八郎が、懇意にしてゐた鹿兒島出身の實業家赤星鐵馬に話したのだつた。たしか明治四十二、三年ごろだつたと思ふ。私も宮内書記官を兼ねてゐたので、西園寺とつき合ひがあつたのがきつかけとなつたわけである。赤星は啓明會に基金を出した人で、何か文化的な仕事を助けたいと、かね／”＼考へてゐたらしいのである。西園寺もたゞ取次ぎをしただけではなく、自分も三分の一だけ出し、後は赤星に出させて、黙つて私の所へ三千圓屆けてくれた。そのころとしては大金だつたから、私も大いに志を起してこれを活かしてつかはうといふ決心をした。

　最初に金田一京助君の「北蝦夷古謡遺篇」を五百部刷つた。後篇が出ないでしまつたが、珍本である。この叢書は、一卷五百部づゝ刷つて、それが五百圓くらゐかゝつた。一部一圓か一圓二十錢ぐらゐで賣つたので、寄贈などを含めて三分の一損をするつもりでよかつた。出版資金は西園寺と赤星の金で融通し、後は足りなくなれば私が心配するといふことでつゞけていつた。

　この叢書を世の中に出した時、私は全力をあげて良い本をつくる努力をした。私はもう貴族院の官舍に入つてゐたが、さすがに官舍を發行所にするわけには行かないので、市ヶ谷加賀町の親の家を發行所にして出した。

　第二册目は、たしか白井光太郎さんの「植物妖異考」上卷であつた。

　

(279)　　　　　甲寅叢書

　

　甲寅叢書の第三卷が私の「河童の本」すなはち「山島民譚集」である。これは後に再刊したが、最初はやはり五百部しか出さなかつた。私としては次々と河童のものを發表するつもりでゐたが、一册であとがつゞかなくなつてしまつた。

　第四卷が香取秀眞君の「日本鑄工史稿」であつた。全體に大きな著述だつたが「これを出してくれるのならありがたいが……」といふのを聞いて、まづ關東の分だけを出したのがこの本である。今もある現物に基いて、その鑄工の歴史を調べて行かうといふのだから、新しいことから初めて古い歴史に溯つたもので、あの時分としては可なりよく調べてあつた。著者は無論あれから大いに進んだであらうが、それはそれとして有益な内容をもつてゐた。

　第五册目は金田一君より少し古い文學土の齋藤勵君の「王朝時代の陰陽道」であつた。著者は明治の英語學者齋藤祥三郎の長男で、その弟が後に駐米大使として客死した齋藤博である。類のない篤學者で、貴重な研究をしてゐたのに、勉強がすぎて惜しいことに早死してしまつた。

　その後二卷ばかり出したと思ふが、今は思ひ出せない。それから後の豫告が大したもので、偉い連中が名を列ねてゐた。地方からの註文や月定めの購讀者も出てきたが、その中に、私がそれからの長い年月、いつしよに仕事をした諸君が大分入つてゐた。つまり甲寅叢書といふものよりも、一つのグループが作られるやうになつてゐたのである。

　購讀者の中での珍らしい人は、まだ學生時代の芥川龍之介がゐたことである。後に世間で芥川の名を見るやうになつた時、「どこかで會つたことのある名前だが」と思つたりしたが、實は甲寅叢書の熱心な讀者の一人であつた。ずつ(280)と後のことであるが、有名な「河童」といふ小説は、私の本を讀んでから河童のことが書いてみたくなつたので、他に種本はないといふことを彼自身いつてゐた。

　芥川にはじめて會つたのは、彼がもう一人前になり、大分偉くなつてからであつた。ある時長崎の圖書館に行つて、あそこにある古い資料を見てゐると、今日東京から本を見に來てゐる人があると館長がいふ。誰だらうと思ひつゝ、書庫に入つてゆくと、向うから二人連で、ひよろ／＼と背の高いのと、背の低い二人がやつて來た。「あの人です」と館長が囁くので、お辭儀をしたのが初對面であつた。非常に懷しく思つて「あなたは甲寅叢書の讀者でしたね」といふと、「えゝあれは拜見してをります」といつてゐた。

　連れの人は菊池寛で、この二人連れは背が高いのと横に平たいので、そのころ淺草の十二階とその横にあつたパノラマに喩へて「パノラマと凌雲閣」とよくいはれてゐた。長崎の物持の好事家で永見�ｺ太郎といふ人の所に泊つてゐるといふことであつた。

　それつきり、手紙を貰ふことはあつても、會ふ機會はなかつた。ところが昭和二年であつたか、芥川が亡くなるちよつと前に菊池寛が星ヶ岡茶寮に招んでくれたことがある。その時に芥川も來てゐて、菊池が命令的に「おい芥川君、君柳田さんを送れ」といつたので、二人で話をしながら歸つた。二人が「少學生全集」を出してゐる時だつたから「どうして君、あんなものに手を突つ込んだの」ときくと「えゝあれは菊池君ですよ、あの人は強い人で、何でも私にさせるんです」といふやうな、少し泣き言じみたことをいつて別れたが、それから間もなくの自決であつた。

　私にはもう一人「河童」のお弟子がある。それは泉鏡花君で、泉・芥川の兩君は私のよい河童のお弟子だといつていつも笑ふことであつた。牛久沼の小川芋錢君はまつたく獨自の河童研究で、文通はしたが、たうとう會はずにしまつた。

　

(281)　　　　　爐邊叢書

　

　西園寺君の世話で贈られた資金で、もう一つ「爐邊叢書」といふのが、四十何册か出てゐる。私もその中に「郷土誌論」など一、二册書いてゐる。甲寅叢書のときから全力をあげて參加して來た岡村千秋といふ男が、續いてこの方の仕事をやつてくれた。「郷土研究」といひ、この叢書といひ、民俗學の雜誌に關しては岡村の功績は大きい。今から考へるとよく怒る男だつたけれども、とにかく親切で、自分も興味をもつてゐて仕事をするから重寶だつたが、戰爭中に腦溢血か何かで死んでしまつたのは惜しかつた。はじめ讀賣新聞にゐたが、いやになつたといふので、私が博文館の長谷川天溪に頼んで「僕の親戚にこんなのがゐるんだが、採つてやつてくれないか」といつたところ、「あゝ、いいから寄越し給へ」といふわけで、田山花袋の關係してゐた「文章世界」に使つてくれ、それから「女學世界」に移り、あちこち働いてゐるうちに、中山太郎も入つてきた。その後博文館の中にもいろ／＼厄介なことがたくさんあつたりして、岡村は責任を逃れることばかり考へてゐたが、若いものだから、すぐ口を出してしまふのであつた。

　「爐邊叢書」の時も岡村がやつてくれたが、本によつて賣れ方が斑らになつたのは困つた。一つ悲劇があつたのは、支那で本屋をして貧乏してゐる内山某といふのが來て「私は支那へ持つて行つて賣るんだから、特別割引値段で賣つてくれませんか」といふのを、岡村が騙されていふ通りにしてやつた。するとその本を支那にもつて行かず、本郷あたりでまとめて賣拂つたらしく、非常に安い値で店頭に出た。とたんにぱたつと發行所からは賣れなくなつてしまつたといふやうなこともあつた。

　「甲寅叢書」の時は非常にペダンティツク（衒學的）で、名士の道樂仕事みたいなところもあつたが、爐邊叢書の方(282)は埋もれた執筆者を見つけて育てたといふ功績は大きなものであつたと思ふ。今まで本を書くなんていふことは夢にも思はなかつた人達が、それでは自分も書いて見ようかといふ氣持になり、各地に謙遜な態度で自分の知つてゐることだけ書いて見ようかといふ考へを持つ人を作つたことはこの叢書のおかげであつた。この人達が今日の民俗學會の一つの基礎になつたのである。琉球のことなどが少しでも日本人の關心に上つたのも、東北地方などの生活が、調べる値打のあることだと認められたのも、この叢書によつてであつた。

　その前から私は貴族院にゐる間ぢゆう、「郷土研究」といふ雜誌を編輯してゐたが、貴族院もそろ／＼辭めなければならない情勢になつてきたと思つたので、「郷土研究」も殘つてゐると後が不味いと考へ、口實を作つて四卷で廢めてしまつた。大正六年だつたと思ふ。最後に前に記したやうに色々の匿名を使つて一人で雜誌を作り、それからはもう雜誌は出さなかつた。

　われ／＼の「郷土研究」をやめた後、岡村千秋が編輯名義人になつて「民族」といふ雜誌を出してゐた。人類學の岡正雄君の兄の岡茂雄君の本屋であつたが、實際は澁澤敬三君がボケット・マネーを出して助けてゐた。表紙に一囘一囘、植物の繪を入れたりして、なか／＼いゝ雜誌であつた。

　これも四年目で潰れてしまつたが、その後、折口君などが熱心に働いて、「民俗學」といふ大型の雜誌を出して、これは大分つゞいた。この時はもう私は退いて��余が出版事業″の範圍を外づれてしまつてゐたわけである。

　

(283)　　　　　「民間傳承」のことなど

　

　私が直接干渉はしなかつたが、同好の士の間にはいろ／＼の雜誌がつぎ／＼と計畫されて、出版されたが、中には横道にそれてしまつたものも多かつた。

　そのうちに私の六十一の還暦の折、同好の人達が集つてお祝をしてくれるといひ出した。昭和十年のことだつたが、神宮外苑の日本青年館で民俗學の講習會を催すと共に、私のために祝宴會を開いてくれた。さういはれてみると、こちらも黙つてゐるわけには行かないので、この成城の私宅で園遊會にしようといふ話を持ち出して、在京者よりも、地方の因縁のあつた人たちを主にして約六十人ばかりを招いた。會の最中に、先生は來ないで下さいといつて、日本間の方で何かこそ／＼話をしてゐたが、そのうち代表者がやつてきて、「いよ／＼會を作つて雜誌も出します」といふ話になつた。それが「民間傳承の會」のおこりで、發足は昭和十年の七月か八月の初めであつた。

　民間傳承の會は、初め六年程の間はタブロイド版十六頁ばかりの機關誌を出してゐた。東京の委員が十人近く、大擧して活版所へ校正に行く。すると活版所は昔からの仕來りで、來た人には茶菓を出したり、時分どきには御飯をとつたりする。たつた十六頁の校正に十人近くも行つて、應接間はすつかり占領するし、接待はしなければならぬので、たうとう活版所で閉口して、私のところに謝りに來るやうなこともあつた。七卷から普通の雜誌の體裁に變へたが、これも最後はうまく行かなくなつてしまつた。一方が乘氣になると他方が熱がさめる。それに一人で係りきりになつて編輯するといふ人がないのが缺點であつた。

　その他にもいろ／＼と人にすゝめて出版させたりしたが、たいてい途中でつぶれてしまつた。それでもそんな古本(284)を手に入れて、同好の士になつてくれた人も少なくない。つまり私たちの最初の目的は實現したわけである。

　田舍の人にまで民俗學に對するかすかな興味をもたせたことのほかに、私のねらつてゐたことは、國際的に、いろ／＼な人にもう一度この種の問題を考へさせた點である。表向きは神道とか皇室論とかに外國人の研究を引きつけ、外國人で日本に興味をもつて調べたり、渡來する研究者に力を貸してやる、さういつた方面に私は餘力を大變使つた。外國に日本のことを考へて見ようといふ人が出來、その人たちの著述が日本における研究を刺戟するやうになつたのも嬉しい副産物であつた。私は役所生活のころから、いつも少しづゝ暇があつて、そんなことまでできたといふのは、幸福なことであつたと思つてゐる。

　この意味で、私の勉強は研究的であるとともに、じつはボリティック（政策的）であり、また國内的であると同時に、國際的でもあつたといへるかと思ふ。

　

(285)　　　　　次兄、井上家に入る

　

　次兄通泰の養家井上家は、辻川と同じもと田原村の一部落、吉田といふ所の舊家であつた。村の中心をなしてゐた名家で、村との關係がまるでお寺と檀家のやうに思はれた。他にも獨立した家があつたが、井上家を圍んで何十軒かの小さな家が周圍に集つてゐた。播州の海岸に英賀《あが》といふ所があるが、初め井上家はそこにゐたといふ。小寺家の統治時代といぶから、ずゐぶん古いことだが、その時代に今の吉田へ移つて落着いたやうに傳へられてゐる。系圖に依れば、河野の一族といふ話で、現に河野通有の兜といふのが代々傳はつて來てゐる。

　次兄の歌の中で比較的いゝ歌に、

　

　　　遠き祖《おや》の片身の鎧萬代にいかで我が名も傳へてしかな

　

といふのがある。兜を鎧といふのは普通よくあることであつて、これは有名な歌になり、父なども非常に喜んだ歌であつた。次兄は父母が姫路の熊川舍に學監として行つてゐた時代に、そこで生れ、私と年が九つちがつてゐる。十一の年の暮に養子に行つてゐるから、幼い私の知らないころの話であつた。私が物心ついた時にはもう井上の兄さんといつてゐた。幼名は泰藏といつたが、河野の一族に入つたので、通泰《みちやす》と名を改めたわけである。

　井上の養父は碩平といつて、一時姫路病院に勤めてなか／＼評判の高い醫者であつたが、通泰はこの時代に貰はれていつた。いくつの時に村へ歸つて來たか、私にはもちろん覺えはない。たゞ他所の子供より比較的早く十四、五歳で東京へ勉強に出たことだけははつきりしてゐる。東京には姫路の學者で、國富重彦といふ人がゐたので、その人な(286)どの世話になつてゐたのではないかと思ふ。大學豫備門のまた豫備校みたいな所に入って、簡單な勉強をし、それから大學豫備門にいつてゐたやうだが、その留守中、私は井上家を一番の娯しみの場所にして出入した。行けば非常によく世話をしてくれたし、そのうへ家は立派なので始終遊びに行つてゐた。ことに次兄の養父母のことは今もよく覺えてゐる。

　井上の家ではたつた十一歳の通泰を養子に貰つた時、なか／＼居付かないので、どうかして居付かせようとして非常に苦心をしたらしい。子供の私は大人たちのかういふ話をよく傍で聞いてゐた。例へば養母は次兄が寢てからも手をのばすと枕元にお菓子とか玩具とか、欲しさうなものを置いておくとか、近所の男の子を二人ばかりえらんで、兄の好きな時、何時でも遊びに來てくれるやうにしてあつて、いつしよに遊ぶ部屋をこしらへたり、ありとあらゆる方法をつくして、兄を居付かせようとしたものらしく、それをきいて幼かつた私など、羨しくてたまらなかつた。

　辻川の村はづれに出ると、遠くに井上の家の屋根が見えた。北側に難波といふ家があつて、そこの黒い板塀と井上の家の白い塗壁とが見えて、いかにも何時でも遊びに來いといつてくれてゐるやうに思はれた。子供の私は行きたくてたまらなかつたが、さう行つては向うに氣の毒だと母がいつて、月に一ぺんとか二へんしかやつてくれなかつたものである。しかし他に行く所もなかつたから、私らはほとんとそこの家の子供みたいになつて育つたものであつた。

　

(287)　　　　　中川・井上・松岡三家の關係

　

　井上家は、四代ほど前にお祖父さんとお祖母さんとが殘り、息子夫婦は三十二、三の時に腸チフスかなにかで同時に亡くなつてゐた。そして後には兄の養母になつた人とその妹との二人の孫があるだけとなつた。お祖父さんは多分六十歳前後だつたと思ふが、この姉娘に早く養子をしようと思つて方々をさがした。その結果、川邊《かはなべ》の中川家に二人の男の子があつたので、その弟の方の碩平を迎へることにした。ところがこの川邊の兄弟の母親はやはり一族の網干の中川家から出た人で、私の祖父、陶庵と姉弟の間柄になるわけで、つまり碩平といふ井上家の養子と私の父とは從兄弟になつてゐた。年は父の方が五つ六つ上であつたらう。

　この網干の中川がまた何代か前に川邊の中川から分れた家で、代々醫者をしてをつた。

　私の祖父の兄に善繼《よしつぐ》といふ蘭醫がをり、長崎へもたび／＼往復した學問の深い人物で、この人がその甥にあたる私の父に對して非常に大きな感化を與へたのであつた。

　網干の中川は川邊の中川から別れたのだが、名家として�ｺ望を備へるやうになつてゐた。

　善繼の息子が、私の父と從兄弟になるわけだが、それも大變優秀な青年で長崎へも留學したりしたにもかゝはらず、若死をしてしまつた。後には娘が一人あるきりなので、この娘に明石の中澤とかいふ家から養子を迎へたが、これも相當な醫者で、姫路病院につとめてゐた。どうも家の衰へる時といふものには方式があるやうに思はれるが、この中川にも男の子がなく、娘が後を繼いだ。私が最後に訪ねて行つた時、中年の婦人が出てきて、私のことを知つて居り「あんたは、くにょはんかいな、しづはんかいな」といつたりしたので、話をしてきたことがある。このお婆さんの後(288)二へんか三べん養子が續いたらしいが、今の人はまるで附合つてゐないから知らない。しかし私の祖父陶庵はその網干の中川から松岡家に來た人である。おまけに前にもいつた通り、その祖父の姉さんが川邊の中川へ嫁に來てゐる。

　川邊の中川家は六代位前に丹波から移つて來たさうだが、學者や醫者を出し、私ら一族の一つの目標になつてゐた。私の祖父の姉の連れ合ひは二人の男の子を殘して早く世を去つたので、未亡人は亡夫が丹波から弟子として連れて來たお弟子の周節といふ醫者を順養子として家に迎へ、二人の兄分として醫者を營ませた。周節は二人の弟たちの成長を待つて分家をしたが、その子供が東京に出てゐた醫學生の尚絅中川恭次郎といふわけである。

　中川家の二人の兄弟はいづれもりつばな醫者になり、ことに碩平は大阪で修業をしてから姫路病院の内科部長として活躍した。その間に井上家の養子になつたのである。井上の家つきの細君は兩親を失つて祖父母に育てられた姉娘の方であつたが、不幸にして子供がなく、他家に嫁いだ妹娘の方には多勢子供があつたので、その長女のマサを生れると同時に實家の井上家に貰ひうけて育てた。それが通泰を養子に迎へたわけで、つまり私の兄嫁になつた人である。

　

(289)　　　　　兄の歸省

　

　井上の家は養子に行つた私の兄も、養父母に當る碩平夫妻もともに寅年であつた。養子に行つた時、通泰が十一歳、養母が二十三歳、そして養父が三十五歳といふ、何となく不自然な縁組であつた。三人寅がゐるので、三匹寅といふ掛物を作るはずだが、何だか具合が惡いといつて、よく六つ目の干支を繪にする例にならつて、有名な猿の繪描きであつた森狙仙の三匹猿をわざ／＼買つて來て、誕生日などにかけてゐた。するとまだごく小さかつた義姉が成年なので、狗の繪を入れたらなどゝいつたこともあつて、可哀想でならなかつた。

　義姉は兄通泰より八つ下だつたから、私より一つ上で、子供のころは私といつしよに育つたやうなものであつた。

　養父は他に何もいふことのないほど良い人であつたが、どうも酒をのむとよくなかつた。あの時代の醫者は今のやうに車などを使ふといふことはなく往診には馬に乘つて行つた。先方で酒をのんですつかり醉つてしまつても、馬の方も威壓せられてしまつたのか、おとなしく主人をのせて歸つて來た。時々「音がしたがどうしたんだらう」などゝ家の者がいつてゐると、先生をのせたまゝ厩に歸つて、先生はそのまゝ厩の中で寢込んでゐるといふやうな滑稽な逸話があるほどであつた。

　ことに晩年はいろ／＼憂ひがあり悲しみがあつたりしていよ／＼酒が強くなり、末路は氣の毒で、五十にならずに死んだのではないかと思ふ。母親の方だけはながく殘つてゐたが、この母親が幼い兄通泰を井上家につなぎ留めるために苦心したわけであつた。そしてそのお蔭で弟の私までがいろ／＼優遇せられたのであつた。

　兄は十五歳ぐらゐで上京したが、大きくなつてからも村に歸つて住むわけにはゆかないので、できるだけちよいち(290)よい歸つて親孝行をしようと考へたらしい。多分二年おきに、三囘か四囘歸つてきたやうに憶えてゐる。三囘目のときに私を連れて東京へ歸つたのではなかつたか。その前のときにはドイツ語を大變勉強してゐたとみえ、ドイツの話をしてくれた。後で知つたが、それはグリムの童話を教へてくれたのであつた。

　もう一つ憶ひ出すのは、兄が字を書くのにJペンを使ふらしく、いつもたくさん買つてもつてきた。少し使つていやになるとつッとすててしまふので「もらつていゝか」といふと「みなもつていつていゝよ」といふので、こどもたちはみなそれを貯へるのであつた。お互ひに何とかしてくれたらペンを一つやるといつて、ベンの數をふやす工夫をした。兄の歸省中はそれをねらふのが目的で、よく井上の家へ行つた。

　私の近所にちよつと變つた息子がゐて、鶴といふ名の友だちであつたが、いつも私の顔をみるとひやかし半分にいつたことを思ひ出す。田圃の傍に畦豆を植ゑてあるが、ある時、私がその一本を根こそぎ掘り起して持ち歸り、植木鉢に植ゑておかうとしたことがある。すると弟の靜雄が「そんなことをする者はない、家へ歸つていひつけてやる」といふ。こちらは困つて「一つペンをやるからこらへてくれ」といふと、弟は「いや、いふ」と頑張る。それで「二つやるから」といふとやはり「いや、いふ」と答へる。その押問答を鶴といふその私の友だちが見てゐたらしく、私が何か得意なことをやり出したりすると、みんなの前でじつに巧みにそれを話したのであつた。

　

(291)　　　　　親の幸福

　

　小さいころから私自身は當り前の子供で、古ペンなどを貯めて喜んでゐたのに反して、弟の靜雄はその時分から兄貴に讓つたりせず、ペン先などで動かされないやうな強情な性質の持主であつたことに思ひ當るわけである。かういふことについて、弟はなんとなく子供のころからませてゐたらしい。

　私の子供のころは、どこの家でもごく普通にお灸を教育につかつてゐた。子供がいたづらをすると、制裁にお灸をつかふのである。子供の方でも警戒してゐるけれども、やはりそのうちに失敗してしまふ。すると拙宅ではおたかといふ雇ひ婆さんがゐて、さつとつかまへて抑へつけて、母の顔をちらッと見る。それでもう駄目になり、お灸をすゑられてしまふのである。これは子供にとつてはいちばんいやなことであつたのに、靜雄だけはこれが效かなかつた。「隣へ行つて灸すゑてもらつて來たよ」と歸つてきて話すので、「なぜそんなことをした」と聞いても、「みながすゑてゐて、お腹のためにいゝつていふから僕もすゑてもらつて來た」などゝいふ。つまりお灸を嚇かしに使へないやうな不思議な男であつた。

　そんな風にして子供たちが、次兄の使ひふるしたペン先を集めたときのことを考へると、いまでもほゝゑましくなつてくる。

　その次にもう一度次兄が歸省したときは、すつかり變つてゐた。私はよく人に話すのだが、そのころは鹿鳴館の反動で、國粹保存主義の運動の最も盛んなときであつた。兄は日傘をさして歸つて來た。頭は無帽で何もかぶつてゐない。それから着物を着て袴をつけ、黒であつたか白であつたかとにかく足袋をはいてゐたと思ふ。あるいは裸足だつ(292)たかも知れないが、雪駄をはいてゐた。

　「それは何だ」と聞くと「これが國粹保存主義といふもんだ」と答へる。明治十九年のことであつたらうと思ふが、私はそれによつて國粹保存主義といふものをはじめて知つた。兄の友だちの中にも大分さういふ人があつたが、明治二十年に私を連れて歸京するときには、もうきちんと洋服を着て、帽子をかぶつてゐたのだから、ほんの一時期だけの現象にすぎなかつたのであらう。これはまつたく鹿鳴館風俗に對する反抗であつた。「東京ではみなかうです」などゝいつてゐたことも、よく覺えてゐる。

　二年に一度づゝ歸つて、郷黨の人々に中央の動きを聞かせたので、田舍では大變重きをおいてゐたらしく、兄をすつかり大人扱ひにしてゐた。父などことにさうで、酒を飲みながら、いろ／＼語る兄の二年間の進歩ぶりや、世の中の移り變りなど、それは／＼熟讀玩味してゐたやうである。母親も側にゐることではあり、じつに心を入れて聞いてゐた。そのころまでの「親の幸福」といふものは、いま思つてもいちばん幸せだつたのではないかと思ふ。

　

(293)　　　　　兄嫁の急逝

　

　次兄と婚約してゐた兄嫁の井上マサ女は、はつきり判らないが、多分明治十八年に東京へ出てきて、巖本善治の教頭をしてゐた明治女學校に入つた。前にのべた「文學界」の事務所をあづかつてゐた中川恭次郎が、巖本教頭一家とも親しかつたので、いろ／＼と義姉の世話をしてくれたといふことである。

　その義姉が明治女學校を無事に卒業したので、一族がやれうれしやといふので、一遍郷里へ歸つて國で結婚の式を擧げたのであつたかと思ふ。はつきりしないが、私が暫く下總に行つてをつて、今度東京へ出て來てみると、もう兄たちは同居してゐた。明治二十二年だつたらうと思ふ。

　その少し前だつたと思ふが、二人の兄たちは松岡の實父母を東京に置きたく思ひ、御徒町に開業した井上醫院が廣いので、同居することになつた。つまり下總から出て來た母親が主婦權を行使してゐたわけであるが、そこへ新婚の義姉が加はつても、何となく落着く部屋がない。仕方がないから二階の兄の部屋の端の方に小さくなつて暮すといふやうな?態であつた。いろ／＼われ／＼には解らない女の人の道�ｺといふものがあつたことを、私もこのごろになつてしみ／”＼考へさせられるのである。

　それで兄嫁が姙娠するとみながすゝめて郷里の家へ歸らせた。田舍の方が健康にいゝから安産するだらうといふ理由からであつた。まだ井上の養母はそのころ健在であつた。ところがある日兄嫁が辻川の友達の所に行つた歸りに、途中の村落で折から流行してゐた赤痢に感染して、手當をする間もないくらゐに亡くなつてしまつた。兄も急を聞いて馳けつけたが、間に合はず、事實上、兄嫁の死によつて井上の血は中絶することになつてしまつた。

(294)　兄の嘆きは深く、哀れな挽歌がたくさん殘つてゐる。兄の歌集は私が「南天莊歌集」として印刷して世に出したが、その最初であつたか「折にあひてうらやましきは女郎花枯れても殘る姿なりけり」といふのが出てゐる。ちやうど九月末のことであつた。もう一首「月見れば月にいよ／＼白かりし妹が面わぞ面影にたつ」といふのがある。顔の非常に綺麗な、色の白い人であつた。私は兄嫁より一つ年下で、小さいころから親しく遊んだりしたので、ことに痛恨に堪へなかつた。一軒の家の悲劇はじつにちよつとした手違ひから起るものだと、つく／”＼考へさせられるのである。

　由緒ある井上の家を絶やさぬために、次兄が非常に惱んだのも當然の話であつた。いろ／＼と考へた末、他の縁者から養子を迎へて井上家を繼がせ、自分は一代だけで外へ出ようといふ決心をした。かうして養子のことを心にかけつゝもいろ／＼の手違ひから、うまく進まず、その上兄がまた傳染病で死ぬといふ悲劇のためにあたら一軒の名家が空しくなつたことは、まことにをしいことであつた。

　井上の母も死に、兄も村へ歸らなくなつてから、井上家を管理してくれた人は山口大三郎といつて、井上家と血縁の人であつた。現在、吉田の井上家を引受けてくれてゐる山口直泰君はこの大三郎の息子さんで、私はいまも親類づきあひをしてゐる。私がいつも山口家を訪ねて辛いのは、健康で聰明な理想的跡取りであつた兄嫁マサ女を赤痢のやうな傳染病で、しかも身重のまゝ亡くしたといふ點である。

　

(295)　　　　　姫路時代

　

　次兄は暫く獨身でゐたが、やがて日置《へき》黙仙といふ禅僧のすゝめで再婚した。黙仙が眼を惡くして、大嶽の河本眼科に入院した折、どういふものか井上の氣質に惚れ込んで、治つてからも時々御徒町の井上醫院にやつてきた。さうして世間知らずの坊さんのくせに仲人などをしたものらしい。この縁組をみた井上の歌の先生、松波資之翁が、ある時日置黙仙と一座した。その時「和尚、もう一遍入道せんといかんなう」と、いかにも人をくつた警句を吐かれたさうである。脇にゐた中川恭次郎が、坊さんは何と返事をするかと思つてゐると、困つた顔をしながら「何をいふ」と應答したとか。「あの勝負は明らかに松波さんの勝だつたね」と後で中川が私に話をしてくれたことがある。

　新しい兄嫁は極度の善人で、私らはいつも同情はしてゐるが、家風のきびしい家には不適當な人であつた。

　やがて次兄は新しい妻をつれて姫路病院につとめるやうになつた。その間に私が幸ひに高等學校に入つたので旅費を送つてくれ、骨休めに郷里へ歸つて來いといつてくれた。京都で勉強してゐた弟靜雄も招ばれて、兄弟三人が姫路の次兄宅で樂しい何日かを送つたことがある。その時、かつて辻川の拙宅で、母の手傳ひをしたり、私ら兄弟にお灸をすゑたりしたおたかといふ婆さんが井上の家事を手傳つてくれてゐた。このお婆さんは、じつに苦しい生活をして來たが、體も大きくりつばで、よく働く上に忍耐力の強い模範的婦人ともいへる女であつた。自分の夫に別れ、娘と二人の息子を育ててきた。姑を見送つてから二人の息子にも大工や何か職を身につけてやつたが、その息子たちもまた早く世を去つてしまつた。後に孫が殘つたのをよく世話をしてゐたが、悲劇といつてもこれくらゐ可哀想な女はなかつた。

(296)　このおたかが家事を手傳ひながらぢつと新しい兄嫁の樣子を觀察してゐたらしい。何かいひたくてたまらないのに、新しい時代に對して反抗してはいけないといふ氣持があるものだから、我慢強く辛抱してゐたが、ごく僅かだけ自分の感想を私らに洩らすのであつた。あゝいふ風では駄目だといふわけである。そんな噂は姫路から僅か四里しか距ててゐない吉田の井上家へも屆く。吉田には養母もゐることゆゑ、かういふ噂はうれしいことではなかつたらしい。井上の母は大正八年まで生きてゐた。

　兄は寛大な性質で、兄嫁を叱ることはあつてもごく淡い叱り方であつたが、兄嫁の方では嫁といふものゝあるべき態度を少しも知らなかつたらしい。かういふのがおたか婆さんの眼にあまつたのであらう。

　次兄はそのうち姫路から岡山に移り、しばらく養家に近い地方で暮してゐたが、結局東京に歸つて開業することになつてしまつた。

　

(297)　　　　　次兄の逸話

　

　次兄は若いころから養家の仕送りを十分に受け、一生ほとんと難局にぶつかることもなかつたわけで、ごく大雜把な、いはゆる昔の言葉にある國士の風格があつた。家のことは考へないで、世の中の全體のことばかりを考へてゐる。心理學的にいふとそれがまた自分の家の苦勞を忘れる一つの手段でもあつた。私らのやうな苦勞をしてゐないので、難局に對して善處するとか、親友に相談して切りぬけるとかいふやうなところがどうも乏しかつた。

　兄は交際もひろく、いろ／＼の逸話があつた。例へば私の高等學校からの舊友で副島八十六といふ人があつた。兩親の年を合せて八十六になる時に生れたといふので八十六といふ名をつけたのださうである。播州から出てきた八木といふ人の家ではじめて會つたが、副島がある時、そこの家の子供が無邪氣に眠りこんでゐるのを見て、ぼろ／＼涙をこぼし、そして「あゝ汝等幼兒の如くならずんば天國に入ること能はずといふのはこれだなあ」といつたとか。そのころクリスチャンになつてゐたのだが、ともかく大變な感傷家であつた。海外に出て苦勞もし、冒險もしたが、歸つて同郷の佐賀人である大隈伯の陰の秘書みたいな仕事をしてゐた。ちやうど日本青年館で郷土舞踊が催された時であつたが、副島が「柳田君ちよつと」と手を引張つて廊下に出た。誰もゐない所で「君、何とかしなくてはいけない。井上先生、あんなに威張つてばかりゐちや駄目だよ、あれぢや評判も惡くなるよ。君ひとつ兄さんに苦言を呈さないか」といふのであつた。私はそれに對して隨分皮肉な返事をした。「どうも折角だけれども、僕はあれ、もつと威張つて、もつと人望を惡くしてくれてもいゝと思ふ。君らがやたらに行くから、それでいゝ氣になつて自分で國士だと思つてゐるけれども、もうあれは本當に歌の方の側からいつても、醫者の方からいつても、一通り働いてゐるんだから、(298)これから靜かに休めばいゝと思ふ。君らが行つていろ／＼なことをいつて突つつくのが困るんだから、みなに話してやめてほしいと思ふ」、そんなことを私がいつたので副島も閉口してしまつたことがあつた。

　後年、兄は山縣公を中心とした常磐會といふ歌の會をしてゐたので、自然政治の方面にも關心を持つやうになり、内幸町で眼醫者を開業してゐたが、そこに來る連中は他の醫者の患者とはちがつて、政界の情報をさぐるために眼が惡いといつて來る人が多かつた。ある時など、山之内一次がやつて來た。薩摩の人で、遞信大臣になつたこともあり、私は娘さんの媒酌をしたこともあるので、後々は非常に親しくなつた人である。私が用事で總理大臣官舍に行つた時、山之内がやつて來た。私がゐるとも知らず「眼醫者へ行つたらいろんな政治論をきかされる、きかされる……」といひながら、ひよつと私のゐることに氣がついて驚いてゐたことがあつた。をかしいことをいふと思つたが、じつは山之内は情報探りに行つたわけで、あそこへ行けばいくらか山縣側の情報が判るからと、その消息を知りたい者が眼病と稱して出入してゐたのであつた。

　少し煽てると兄がいろ／＼話すことを知つてゐて、話をきゝ出すので、兄の方もまたそれを知りながら話をする、こんなことから兄は國士を以て任じてゐるわけであつた。

　

(299)　　　　　手賀沼の蛸釣り

　

　海軍の弟靜雄は、私より三つ年下で下總へは私より二年おくれて來たのだから、私が布川へ來た年に比べて一年若かつたわけである。

　母が暗示を與へたといふこともあつたが、もうそのころから自分でも軍人になるつもりでゐるやうな男であつた。母がよく人に向つて「この子はどうも軍人になります」と話してゐるのを私も側で聞いたものであつた。といふのは、靜雄が生れた時に母が夢を見たといふのである。

　何でも母が夕日を見てゐた。すると夕日のまはりに後光がかゝつてゐて、軍旗のやうに見えた。みなをよんで來てそれを見せようとすると、パタ／＼／＼とはためいてお日さまだけになつてしまふ。何遍もそれを見た……といふのが母の語る夢の話で、靜雄も小さい時からそんな話をきいてゐて、いくらか暗示を受けたのかと思ふ。九つぐらゐのときからきめてゐたのであるから大變な子供であつた。

　友だちといつても自分より大きな者とばかりつき合つて、小さな者を相手にしない。私どもは反對で、餓鬼大將になるのが好きだつたのに、靜雄は大人のするやうなことばかり、ぢつと耳をすまして聞いてゐた。

　播州から下總へ來て間もなく、私は彼を欺したことがあつたが、子供でもこんなに怒ることができるものかと驚くほど怒つた。國會の開かれるちよつと前の明治二十二年の九月に靜雄が下總にやつて來て、その秋のことだつたと思ふ。私が冗談に手賀沼へタコを釣りに連れて行つてやるといふと「タコがゐるの？」と本氣になつて聞き返すので「大きな沼だからゐるとも、支度して待つとれ、明日連れてつてやるから」と言葉のはずみで答へると「竿はどんなの(300)がいゝか？」などゝ聞いて、すつかり本氣にして樂しみにしてしまつた。タコは鹽水にゐることぐらゐ知つてゐるはずと思つて、からかつたわけであつたが、さうかうしてゐるうちに、どうしたはずみかそれが嘘だと判つた時の、靜雄の不愉快な顔といつたらなかつた。彼が一生私のいふことをきかなかつたのは、あのためだと思ふくらゐ怒つてしまつた。

　非常に眞面目な一本氣の子であつた。そのくせずゐぶん部下を愛したりしたのだから一緒に面白く遊んだこともあつたのだらう。その後手賀沼の蛸釣りといふ話は有名な話になつてしまつた。「あなたはいたづらがすぎるからいけない」などゝ家に來る者が子供の私をつかまへていつたりしたこともあつた。それ以來何かといふと「また、手賀沼の蛸釣りだな」などゝ、みんなからからかはれたものである。

　井上の兄が下谷に開業することになつてから、母にしばらく來てほしいといふので下總から下谷に移つたが、そのとき靜雄、輝夫も母について御徒町にやつて來た。靜雄は間もなく兄の友人の京都の宮入家にあづけられて、こゝで兵學校へ行く勉強をしてゐた。

　

(301)　　　　　弟達のこと

　

　弟靜雄は、前にも記した通り、私がまだ大學にゐる間に兵學校を出て士官となり、遠洋航海も濟ませてゐた。そして日露戰爭の時は、新參の大尉で千代田艦の航海長をしてをり、仁川沖の海戰に加はつた。千代田が囮《をとり》になつて灣内にぢつとしてゐるので、ロシアの軍艦ワリヤークといふ六千何百トンのと、ずつと小さいコレーツといふ二隻が油斷してゐる間に沖から他の日本軍艦がしのんで來て、夜明けに二隻を沈めてしまつた。そのため國内の人心もふるひ興つたので、靜雄も大變な功勞者となり、金鵄勲章をもらつた。その晩、いつ死ぬかも知れないからといつて、非常に長い手紙を書いてよこしたが、それが戰爭が終つてから私のところにとゞくといふこともあつた。この戰で靜雄が親しくしてゐた岩瀬といふ機關大尉が、他の人はみな戰死したのに、一人だけ捕虜になり、旅順に捕へられてしまつた。後からきけば何度か自殺しようとして、その都度抑へられたとか。香といふ姉さんが嫁にもゆかずに、一生を犧牲にして育てた弟であつたとか、この姉さんはかなり年とるまで生きてゐたので、私もたび／＼訪ねてやつたことがある。

　靜雄は私より早く社會に出たので、月給の一部を私に呉れたこともある。私は「兄さんに小遣をくれたのはお前ばかりだ、名譽なことだ」などゝ冗談をいつたりしたものである。

　京都で一人で勉強をし、ぎり／＼の若い年で兵學校に入つたので、同級生は二つ三つ年上の者が多かつた。その上いくらか群に異らうとするやうな氣持があつた。この點は私ら兄弟に共通した長所でもあれば、短所でもあり、何か他人のやらないことをやつてみようといふ氣持があるのである。

(302)　末弟の輝夫なども、小學校、中學校時代から年下の友だちを集めて、何となく親分にならうとするやうなところが早くから現はれてゐた。これは靜雄とは正反對の性質であつたが、私自身の方はどちらかといふとこの輝夫の方に近かつた。

　その輝夫は井上の兄が橋本雅邦さんと親しかつたので、早くからこの人に輝夫のことを依頼した。雅邦さんは家内中が眼を惡くされたので、次兄が良く世話をしてあげ、大變親しくしてゐた。あるいは兄の方ではゆく／＼弟のことをお願ひしようといふ下心がいくらかあつたかもしれないが、ともかくその縁故

　

松岡輝夫氏の東京美術學校試業成績

　明治三十五年六月學年試業成績

　　　日本畫科第二年　松岡輝夫

實技點　　平均點　授業總時數　欠席時數　　及第又ハ卒業

　九三　　　九〇　一、一六二　一八六　　　及第　

備考　實技ハ六十點異常其他ノ學科ハ四十點以上諸學科平均六十點以上ヲ及第トシ各百點ヲ以テ最高點トス

右及御通知候也

　明治三十五年六月廿八日　東京美術學校

　

を辿つてお願ひしたところ、快く引受けて下さつた。かうして輝夫はまづ初めに雅邦先生のお弟子にしてもらつた。ところがどうも雅邦先生の所では落着かないらしく、自分で土佐風の繪を畫いてみょうといふ氣持を起したのは、やはりどうも松岡流の何か人と違ふことをしようといふ氣持があつたからであらう。先生の所を出て、そのころ美術學校の先生で、土佐派の山名貫義さんといふ年とつた先生の所へ入門した。しかしその先生も間もなく亡くなり、ちよつと輝夫もまごついたらしいが、もう一度雅邦先生の所に行くわけにもいかず、そのころまだ新進であつた小堀鞆音さんにつき、美術學校の試驗をうけた。鞆音さんは後にはずゐぶん偉い先生になつたが、そのころはまだそれほどでもなかつたらしい。

　

(303)　　　　　末弟松岡映丘

　

　土佐繪は、小堀さんはまあさうではなかつたが、近世の土佐派といふものは、型にはまつて、少しも新しいものゝ出る餘地がなかつた。それでも輝夫は迷はずにずつと小堀さんについていつた。昔あつたやうな繪具が、いまはないとか、繪具の使ひ方がどうしても判らないのがあるとか、さういぶ技術上の障害があつたにもかゝはらず、いろ／＼工夫して自分で道を開いていつた。五十八歳といふ若さで死んだのも、あるいはかういふ一途に打ちこんだことによるのかもしれない、油繪のカンバスのやうに斜めに立てかけておいて描くといふわけにはいかないので、絹布を下に擴げで俯向いて片肘をつきながら書く姿勢になる。群青とか緑青とかいふ岩繪具の粉は重くて垂れるから、絹布を斜めにして下の方が固まると大變な恥になるので、姿勢はいきほひ惡くなつて、身體に無理があつたのかもしれない。展覽會などにも、見すぼらしいことを嫌つて、大きな作品を出したのも健康に障つたのであらう。

　いろ／＼標本や、手本も拵へてゐたが、戰災で燒けてしまつたのは惜しいことをした。外遊してイタリアの名畫を見て、日本畫と比較してゐたが、著書としては「繪卷物」など一つ二つあるだけで、自分の美術論をまとめるまでになつてゐなかつた。理窟はあまりいはなかつたし、作品も多くなかつたので、いまのうちはお弟子が少しはゐるが、後世まで名前が殘るかどうであらうか。

　單なる浮世給でもなく、また單なる土佐繪でも狩野派でもない畫風を開いて行つたつもりでゐたが、いちばん野心を燃やして人に訴へてゐたのは、從來の土佐派とちがひ、山水をもつと描かなくてはならないといふ點であつた。繪卷物を開いた初めのところに出て來るやうな風景だけ描いた繪に眼をつけて、それを大きくし、もう少し自然に描け(304)るやうにしてみたいといふことを私によく話してゐた。その最初の試みが、日光から鹽原に拔ける高原越の風景畫で、兄さんのところへおいておくといつてもつて來たのが、いま私の家の應接間にかけてある人物拔きの作品である。これはたしか神戸新聞社主催の展覽會のときに出品したこともあつた。

　瀬戸内の風景を描いたのが大三島神社の寶物館に入つてゐるが、あれは赤穗に近い坂越《さこし》の景色である。細川家にある室君の屏風は人物を大きく描いてしまつたために風景がよく出てゐないが、あれはきつと故郷の播州に對する御奉公のつもりだつたのであらう。理解者があつて、鏑木清方、結城素明、吉川靈華等の仲間で金鈴社といふのを作つてゐた。

　映丘の雅號は次兄通泰が古典に「丘《を》に映《て》る」とあるのからとり、映丘と書いてテルヲと讀ませるつもりのものだつた。むろん他人からエイキュウと音讀されることは覺悟してゐたに相違ない。

　子供のころ、小さい輝夫をつれて辻川の俥の立場にゆき、車體の背に描かれてゐた曾我兄弟の繪などを説明してやつたのが、たうとう實を結んだことなどを思ふと、私としても一入《ひとしほ》感が深い。

　

(305)　　　　　次弟靜雄の性癖

　

　私ら兄弟、長兄と次兄の二人はさう露骨にあらはしはしなかつたが、私以下の三人は皆凝り性と、人のやらないことをやつてみようとする野心と、負けん氣といふやうな性癖をもつてゐた。末弟の輝夫は比較的おだやかな性質であつたが、それでもやはり自分の好きな方へ偏り勝なところがあつた。

　それが靜雄になるともつと極端で、この癖がだん／＼ひどくなり、終ひには海軍そのものに居づらくなつてしまつた。いろ／＼のことに理解はもつてゐても、何か人のやらないことをやつてみようとする。これは海軍あたりの均一を好む團體社會では無理な話である。

　海軍の擴張史を見れば判るが、最初は主として英米の方から、そして一部はフランスから軍艦や武器を買入れて強化を行つたが、たつた一隻だけドイツのステッチンから買入れてゐる。それが軍艦富士であつた。第一次は技術者が先方にゆき、第二次に靜雄が航海長として受取りに行つた。そのため伯林でドイツ語を習つたのだが、そのドイツ語が一生ついてまはつた。海軍でドイツ語の新聞でも雜誌でも自由に讀めるといふ人はじつに少なかつたので、自分でもそれをいくらか履歴にしようとするし、海軍でもそれを利用しようとした。

　第一次戰爭の時、オーストリアがまだ中立を保つてゐた間に、海軍のアタッシェとしてウィーンに駐在した。日本から來る人來る人に親切にしたものだから、外交官よりも駐在武官の所に世話になる人が多く、私までよく禮をいはれた。一人で行つてゐたから酒も飲むし、勝手な生活もしたらしく、この時代がやはり彼の進路を妨げることになつたのではないかと思ふ。

(306)　ある時、車中で齋藤實さんに逢つた時、親切に弟のことを注意してくれたこともあり、本人にもよく話したが、いつかう遠慮するやうなこともなく、かなり批判的なことをいふので、歸國しても軍令部にゐることは少なく、いつも局外者といふ地位にとゞまつた。

　いよ／＼第一次戰爭が終り舊ドイツ領の裏南洋が日本の委任統治領になつた時、靜雄は初代の民政署長になつた。中佐だつたか、もう大佐になつてゐたか、そのくらゐの時で、自分でドイツ人の殘した資料を探して、人の氣付かないやうなことばかり研究したため、いよ／＼軍部から離れて孤立をした。

　他に適任者がないといふので、日露海戰史の編纂をさせられると、また凝り出した。そして法制局の私を訪ねて來て、日本の法制にはどうして假名遣ひが二通りあるのかなどゝ聞く。法律と勅令とを作る人が違ふからだといふと、どうして勅令の方で法律にゆづらないのかときく。法律の方が間違つてゐるからだと答へると、假名遣ひがどうとかかうとか、そんなことばかり苦心して、終ひには海軍きつての言語、國語學者になつてしまつた。それも一般の國語嶽者と交際してゆけば、世論にのつて新しい方に行けるのだが、向うから話しに來る人は別として、こちらから聞きに行くといふことは決してしない。彼自身の言語觀、國語觀があつて、大きな本を出したりした。「日本言語學」といふ本であるが、奇拔なだけでシステムも何もたつてゐなかつた。さらに手をのばして「太平洋民族誌」等も二つ三つ出版したが、何れも專門の學者たちからは甚だ尊敬せられない本ばかりであつた。海軍に居づらくなつたわけだと思ふ。

　私は、私ども三人下の兄弟が程度はちがつても同じやうな傾向をもつてゐるといふことを、今になつてしみ／”＼と考へてみるのである。これはあるいは母の方の系統から來てゐるのかしらんと。

　

(307)　　　　　わが家の特性

　

　私の曾祖父といふ人は、若いころ京都に行つて、吉益東洞といふ漢方醫の先生について學問をした。理論倒れの荒つぽい醫者で、下劑をやたらに使ふ先生だつたらしいが、曾祖父もそれを習つてきたので、いつかう流行らなかつた。たゞ不思議にもその傍ら音韻の研究をしてゐた。著書らしいものもあつたが、明治二十二年に一家が上京する時、急いで本箱二つ程の藏書といつしよに井上の家に預けてそのまゝになつてしまつた。この藏書の中にはもう一つ曾租父の筆になる「舌の圖」といふのがあつた。解剖は知らず、診斷は脈呼吸、舌などによる他はないので、美濃版半折位の大きさの紙に、一々繪具を使つて舌の繪と症?とが描いてあつた。所々に白い星のあるのとか、繪の下に一つ一つ細かい字で説明がしてあつた。

　曾祖父が竝の醫者のしないことをしたり、專門外の音韻を研究したり、繪圖を描いたりした、變つた性癖がどうも私どもに遺傳してゐるのではないかと思ふ。さらに私の家には本の土用干しのときに邪魔扱ひする木箱が一つあつた。麻雀の道具箱位の大きさで、あけてみると昔の算法に使つた算木がいつぱい入つてゐた。二色に分れてゐたと思ふが、それで開平、開立といふやうな高等數學ができた。そして説明のための教科書がついてゐた。

　私の祖母はそれを父親から習つて、高等敷學ができるといふことを自慢してゐた。祖母の著書の中に「天が下の歌の數を知る法」といふのがあつた。三十一字の假名を竝べてコンビネーションで計算すれば、數の限界が出ると考へたものらしい。後年、寺田寅彦君にこの話をしたら、「時が經つに從つて、同じ歌でも意味が違つてくるから、コンビネーションの内容が増えて、そんなことにはならない。歌の數は決つてしまはないから、勉強して作る方がいゝよ」(308)と反論されたことがある。

　しかしとにかく曾祖父が吉益東洞の古學をやるかたはら、高等の算法まで覺えて歸つたばかりでなく、それを娘に傳授する氣特になつたのも、また教へられた娘である私の祖母がそれを應用して歌の數を知らうとしたといふのも、ちよつと變つたことである。

　祖母も醫者をしたり、また小鶴といふ本名に因んで、縞衣（古來鶴の別稱を玄裳縞衣といふ）といふ號をつけて、漢學の私塾を開いて、女生徒に唐詩選のカルタを教へたりしてゐるのである。そんな風なものが、田舍の生活と交渉なしに私の家を支へてゐたことが知られる。

　それがどうかして頭を出してくれたところへ、私の母のやうな負けん氣の強い女の血筋が入つたわけだから、半ばは運命のやうなものを感じて、私らもあまりそれに抵抗しない方がいゝとまで考へるやうになつた。

　

(309)　　　　　露人ネフスキーのこと

　

　私は少し旋毛《つむじ》曲りなので外國人が訪ねて來ても、本當に日本のことが知りたくて來る人にだけ親しくすることにしてゐた。だから人數は少ないが、交際が非常に細やかで、かつ長くつき合ふことが多かつた。私の貴族院官舍時代にほとんと一日おきにやつて來てゐたネフスキーなどは、その有力な一人である。この人は日本の學問のためにいろいろつくしてくれたからどうしてもこゝに追憶してやりたいと思ふ。

　帝政ロシアから日本に來て、學校の先生をしながら民俗學の研究につとめ、北海道で日本の女性と結婚し、革命後騙されて勞農ロシアに歸り、夫婦とも酷い最期を遂げたのであつた。實に氣の毒な篤學者といはなければならない。

　一八九二年（明治二十五年）ペテルブルグの近くの中産の家に生れ、お祖母さんに育てられたといふ。明治初年から向うへ行つて歸らなかつた日本人から、日本語を習ひ、學生中に修學旅行で日本に來て二ヶ月ほど國文學を研究してゐる。長崎に着いて、その日本人の先生に教はつた言葉を使つたところ、町の人に通じなくて、皆きよとんとして返事をしなかつたとか、あの時は情けなかつたと後で私らに話してゐた。

　日本に官費留學生として渡つてきたのは、一九一五年で、勞農革命より三年近くも前のことである。私はその前年の大正三年に貴族院の書記官長になつてゐた。初めに私に紹介したのは折口信夫君と中山太郎君とであつた。珍しいロシア人が來てをりますよといふので、いつか連れて來ないかといふことになり、それからいつでも三人連れで來た。たゞ喋つてゐてもと思ひ、輪講でもしようと私がいひ出したところ、偉いロシア人で、風土記をやりたいといふ。たしか「風土記逸文」をやつたおぼえがある。輪講といつても自宅で讀んで判らない所に印をつけてもつて來る。そし(310)てこゝはかう思ひますがどうですかといふやうな質問をした。月に二度くらゐ三人で來て、大分永い間續けた。そのうちロシア革命のために國からの送金が停止されて、どうしても生活できないので、はじめは明露壹商會などにつとめたが、運よく小樽高商の露語教師になることができた。大正八年のことである。

　この小樽時代に増毛の網元の娘と正式に結婚した。小樽に二年あまり三年近くゐて、大阪の外國語學校へ行つた。そしてやはり三年近くゐて、大正十二年ごろは京都大學の講師も兼務したことがある。地位が不安なので、細君にも樂をさせたいと思つて、何とかしてロシアに歸つて正式の地位を得ようと希望した。革命も靜かになつたので、もう大丈夫だらうから、歸つてもよからうといはれて歸國したが、何分にも帝政時代に日本へ來て、ロシア革命を遠くから見てゐるだけで判らないのも無理はない。不安は抱きながらも夫婦して歸國したが、行つてしばらくはよかつたが、間もなく二人とも牢死してしまつた。

　最近石田英一郎君がカリフォルニアで、ロシア人で同じ考古學とか民族學とかを學問してゐる人間に出會つた時、ネフスキーのことをきくと、非常に詳しく知つてゐたとか。それによると細君が大分先に死に、彼が日本へ出す手紙はみな遮斷されてしまつたとかいふ話であつた。

　

(311)　　　　　ネフスキーの功績

　

　ネフスキーが日本のためにつくしてくれた仕事は大きくわけて三つあつた。あるいは學問のために働いてくれた功績といつた方がいゝかも知れない。

　第一は、オシラ樣の研究である。そのころの私は旅行が自由でなかつたが、彼は自分で北海道の任地から、東京へ出て來る往復に、各地におけるオシラ樣の信仰についての、慣習の違ひといふことに氣をつけさせてくれた。はじめてオシラ樣を見つけたのは、遠野川あたりだつたから岩手縣の中央部におけるオシラ樣はどんな形かといふやうなことは、私たちにも判つてゐた。青森縣でも東と西とではまるでちがふだらうといふことはほゞ想像してゐたのである。

　それが仙臺以南ではどういふ形になつてゐるかといふことを、ネフスキーは往復の途中で調べ調べして、大變大きな問題にしてしまつたわけである。これは非常に大きな仕事であつた。

　第二は、どうかしてロシアに歸りたいといふ氣持からだらうと思ふが、ロシアのかなり有名な老學者で、東アジア研究をしてゐる人があつたが、この人の學問を繼がうとして、西夏の發掘事業のことなどを勉強した點であつた。突厥文字と漢語との對譯、それから滿洲語との對譯、蒙古語との對譯を刻んだ碑文が出てきたので、それをきいてぢつとしてをられなくなり、北京へ出かけてゆき、そのロシア本國の老學者を助けて調査をした。

　これは日本には直接關係はないが、大きな功績であつた。「西夏文字考」とか「西夏助辭考略」等五、六册研究書を出してゐる。

　第三は沖繩の人にはぜひ知つてほしいが、沖繩の言語の研究であつた。今の大學の教授でも、日本語と沖繩語とは(312)同じであるといふことを證明するのに、數字などを使つてやつてをり、主として首里とか那覇とかのおそろしく變化した言葉の形と、京都あたりの言葉とを比べてゐるのである。つまり百年にこれだけづゝ變つてゆくものだといふやうな數學的な研究をして、それで結論として兩方はもと／＼同じ言葉だつたのだといふことをいふのはいゝとして、その方式としては、われ／＼にはどうも同意することのできないものを使つてゐるやうに思はれる。

　ところがネフスキーの方はわれ／＼と同じく現地へ行き、現在の言葉が、何年何月ごろのどこそこでは、これ／＼であつたといふふうな報告をして事情を明らかにしようとした。非常にはかのゆかない仕事であるが、その功績は無視するわけにはゆかない。日本語と沖繩語とが共通であるといふ結論は兩者同じでも、それを導き出す方法には歸納の方が演繹よりも適當なわけである。しかもそのノートは葉書大の白い紙に、暇さへあれば書き留めてゐたものだが、それが、今も東京に殘つてゐるのである。

　

(313)　　　　　ネフスキーのノート

　

　ネフスキーがロシアに掃つたのは何年のことであつたか、どうもはつきりしない。夫婦でロシアに歸つて、しばらくはよかつたらしいが、手紙は來ないし、こちらから出しても何の反響もなかつた。後で判つたことだが、ロシアとの交通が開けてから大阪外語の教授が一人先方へ行き、ネフスキーに會つたのである。

　その話は非常に印象的であつた。その人が行つた時、もう北海道から伴れて行つた細君は牢屋で死んでしまつてゐた。そしてネフスキー自身も監禁されてゐたので、面會を許されて行つて見ると、顔の色からすでに變つてゐて、日本の惡口をいろ／＼いつたさうである。

　日本には恨みがあるとか不滿があつたとかいふので、それだけで背後にだれか立ち聞きしてゐるものがあることが自然に分るほどだつたので強ひて爭はず、たゞそんなはずはないと思ひながら別れて歸つて來たのが最後であつたさうである。それから間もなく牢死したのであつた。もつと可哀想なのは細君で、一ぺんも便りをよこさないといつて、増毛の網元の親爺さんがおこつてゐたが、みな途中で取られてしまつたらしい。あの時分のソビエトのやり方はひどいものであつた。

　昭和二十二年文學者や評論家七、八人といつしよに北海道へ講演旅行に行つた時、小樽の石川とかいふ古本屋が訪ねてきた。そして「珍しいものが見つかりました」といふから、聞いてみると、ネフスキーのノートがすつかり出て來たといふ。歸國する時、細君の實家にノート類等をあづけて行つたのである。それを歸國したきり娘夫婦から何の連絡もないので（事實は妨害されてゐたのであるが）親爺さんが怒つて、そのノート類をつめた大きなトランク一杯、(314)五十圓で、たゞ本を集めてゐるだけの人間に賣つてしまつた。それを買つた男がまたそれを拓殖銀行の頭取をしてゐた長谷川といふ人物に五百圓で轉賣した。讓つてもらひたい人間はいくらでもゐるが、何しろ金に困らない人なので、仕舞ひこんだまゝ人手に渡したがらない。このころ東京へ引揚げて來て、その目録を謄寫版に刷つてごく少數だけれども他人にも見せ、私のところへも一部送つてくれた。

　私どもの贈つた拔刷や他から貰つた資料も大事に集めてあるらしいが、それよりも彼自身の調査が葉書大のメモに何百枚も書き入れたノートが大切なのである。仕舞ひこんでしまつては學問のため惜しいのである。

　A類、B類と分類してY、Zくらゐまであつたかと思ふが、大よその想像では沖繩へ研究に行つた時のノートにちがひないと思ふ。一度見せてほしいとごく非公式に申入れたが、だれかゞ中間にけちをつけた人間がゐたと見えて、私がそのノートは沖繩について大事なもので、北海道には用がないといつたことを、惡意で先方へ傳へて、先方がつむじを曲げてしまつた。しかし研究上どうしても必要なので、私から直接先方へ依頼?を出したうへで承諾を得て、そのノートを寫眞に複寫させてもらつた。

　いま東大の服部四郎教授のところに委託してあるのがそれである。

　

(315)　　　　　ネフスキーと宮古島語の發音

　

　ネフスキーの遺品のノートはそんなふうに不遇な扱ひをうけて來たが、幸ひ彼が最後に大阪外語と兼ねて、京都大學の文科で講義をした時に、そのノートをもとにして沖繩の言葉の話をしたらしく、それを聞いた人が三、四人ゐる。

　彼が宮古島から歸つてきた時の話によると、宮古島の言葉は、入り交りに何べんも移住したらしく、極端にいへば部落ごとにちがつてゐるといつてもよく、大體三つの系統にわけることができるといふ話であつた。

　第一にはアール（R）音をゼット（Z）音に發音するのがある。「アル」といふのを「アズ」といふ。これがいちばんひろい區域に行はれ、いはゞ宮古のいちばん中堅になつてゐる文化層の言葉である。

　第二によく調べてみないと判らないが、狹い區域でアール（R）の代りにエル（L）を用ゐてゐる所がある。

　第三は普通に沖繩あたりで使つてゐるやうなドロップ（落音）するだけで、内地に近いものがある。

　この三つの入り交りがどうして出來たか。それからその共存がどういふ風に出來たか。この點にネフスキーは大變興味を覺えて、二度も三度も宮古島ばかり行き、大變辛苦してノートをとつたのである。このことはよほど耳のよい人でないとじつは分らないのであつて、ネフスキーはそれが出來たのである。をかしなことに、耳が少し遠くてゐながら聞きわけ、そして仕分けが非常に上手であるといふ特長をもつてゐた。

　このノートが埋もれたまゝになるのは、いかにも惜しいので、私はその長谷川といふ持主の作つた目録のことを京都大學と大阪外語に手紙でしらせ、この宮古島の部分を何とか買取つて、利用の方法を講じてはどうかと相談した。

　京都大學の國書館長は泉井久之助君で、言語學專攻だつたから、たいへん興味をもつてそれをほしがつた。また大(316)阪外語の方は、石濱純太郎教授と懇意な間柄だつたし、とにかく自分の方にゐた教師の遺品だからと、母校の立場からいろ／＼考へたらしい。ところがかうして四方八方からやい／＼とつゝいたのがかへつていけなかつたらしい、兩方とも成功しなかつた。北海道關係のものは、その長谷川といふ人物に興味があるにしても、われ／＼の方では必要としないし、われ／＼はたゞ沖繩のノートだけを參考にしたいのである。

　ネフスキーが友達のコンラッドといふ同國人といつしよによく來たころ、「私どもは二人とも二十五歳になりました」などゝ話したことがあつたが、今ゐれば六十七歳くらゐにはなつてゐるわけであらう。何とかして終りを全うさせてやりたい篤實な學者であつた。

　ネフスキーは北海道からの往復、よく相馬の高木誠一君のところに寄つてオシラさまの研究をしてゐた。二、三年前、高木君の手によつて、ネフスキーとの往復書信が印刷されてゐる。

　

(317)　　　　　おしら樣

　

　ネフスキーは一方で、沖繩の言語は内地と同じ言葉の變化だといふ問題を明らかにし、もう一方で、東北の小さい地域の非常に奇異な文化現象であるおしら樣を研究してゐた。

　「おしら樣」といふ言葉は東北でも北の三縣にしかなく、南の方では「おくない樣」「とうで樣」または「とで樣」「しんめ樣」などゝいふ風にわかれてゐる。太くて短かい棒の形をし、手に持つて神樣を拜むのが目的であつたのが、目の前にぢいつと見つめるので、片端に顔が出來た。後々の人はそれを一つの偶像のやうに取扱つて、鼻をとがらせたり、弘前の久渡寺《くどうじ》のおしら樣のやうに人形のやうにしてしまつたのである。顔のないのもあるが、順序としてはない方が先でなければならない。東北の端にゆくと、顔を描いて布で包んであるのもある。

　どうして「おしら樣」といふか。ネフスキーは極めて簡單に「もとはそんなものではなかつたのが、だん／＼今日のやうな形になつたものである」と説明してゐる。たしかに、今あるおしら樣の習俗は、いろ／＼なものが複合して出來上つたものである。

　「いたこ」といふ巫女がおしら樣を手にもつてまはしながら語る語りものに「おしら樣の物語」といふのがある。これは馬と人間とが結婚した話であつて一方が馬おしらで、一方が姫おしらといつて、この二本のおしら樣を持つて物語する。まことに奇妙な物語で、もと／＼日本にあつたものとは思へない。昔から支那にある「捜神記」とか「太古蠶馬記」などの「馬と人間と婚姻した話」とまつたく同じ筋なのである。つまり物語そのものは漢文學とか佛教とかが仲立してもつて來たものにちがひない。

(318)　おしらといふ言葉は東京の近くにもあり、蠶のことをさしてゐる。蠶の蛾のことをヒルとかヒヒルとかヒヒラとかいつてゐる。じつはヒルといふのは蛾が刺して痛いといふことで、それから轉じて「おしら」といふのは「おそら」のことだといふ説さへある。「おしら」を蠶の神としてゐる所は廣く、蠶と關係があることは考へられるが、東北で養蠶が盛んになつたのは江戸時代の中ごろからといつてよく、この言葉と一本の棒の信仰が結びついたのは、まだこれから研究しなければならぬ問題である。

　青森縣の金木町附近の川倉の地藏祭の日など、夜通しいたこ（盲女）がおしら祭文を語つたり、佛の口寄せをしたりしてゐるが、これはもうおしら樣の末期といふわけであらう。語る文句が四つとか五つとかあるといつて「きまん長者」「せんだん栗毛物語」「滿能長者物語」など、今まで採録されたものが十教種あるらしいが、結局ちよつとした語り方の違ひだけで、文句は一つであることがわかつた。これが秋田に來ると、もうないのである。

　弘前から見える山裾に、久渡寺といふ寺がある。あの邊一帶のおしら樣の總本山のやうに思はれてゐる寺である。こゝの和尚に一人すばらしく空想的な計畫好きな男があつたらしく、この寺にをさめてあるおしら樣は、手があり、まるで人間のやうになつてしまつてゐる。腰から上を人間にし、頭に瓔珞《やうらく》をつけ、チリン／＼音のする金屬をつけて、顔を綺麗に白く塗つてある。上半身を見るとお姫樣の人形のやうである。これは明らかに明治になつてからの現象である。三月十六日のおまつりには附近からおしら樣をあそばせるいたこが非常にたくさん集り、他地方のおしら樣とはまるで違つたものになつてゐる。つまりおしら樣の信仰そのものがいろ／＼に變化して今日の?態になつて、滅びつゝあるわけである。

　そのやうな民間の心理現象のやうなものは調べようとしなければ永遠にわかる氣遣ひはない。そのまゝにしておくとまるで勝手放題なことをいふやうになつてしまふ。だからもう少し進んだところまで事實を學び取つて、たとへ假定説であつても、一應たてゝおきたいと思ふ。

(319)　おしら樣の實物については、南部の太田君といふ人が自分で集めてゐたものを、そつくり澁澤敬三君の研究所に讓つたのが東京に來てゐたが、どうなつたであらうか。非常に古いのは足利末期のがあり、天正とか慶長とか日付のはつきりしたものもあるらしい。それ以上古いといふのはいまのところは分らないらしい。

　近世の人間が動搖しはじめた時分に地方的にいろ／＼變化がおこり、その一つの現象としてかういふものがおこつたのではなからうか。南部地方のいちばん盛んな八戸付近には養蠶があまりないのに、蠶の神をまつるのは不思議である。だから話の面白味だけで普及したもので、東北のおしら樣は蠶の祈?とは關係ないのではないか。

　かへつて東京附近のおしら樣は人形も粗末だが、蠶のよく出來ることをねがふ女たちがみな集まつて拜んでゐる。それを「おしら講」とよんでゐる。ところが青森縣などの盛んな地方にはどうもそれがなく、たゞ話として面白いから語り物の中に入つて來たので、しかも話そのものは他所からの口移しのものなのである。かういふ話が地方から地方へ移る速力は非常に早く、たいてい坊さんたちの手によつて運ばれるものが多かつた。

　面白い問題で、とかく他のことは顧みなくなる心配があるが、幸ひネフスキーは少し後に下つてものを見ようとする態度をとつてゐたのはよかつた。

　日本の學界のために、これだけよく働いたネフスキーといふ人間の仕事の成果が、なんにも殘らずに消えてしまふといふことは、なんとしても氣の毒であつたといふべきであらう。

　

(320)　　　　　世界苦と孤島苦

　

　沖繩の文化には中心があるから、どうしてもそれを外づれると、割引をしなければならぬやうな喰違ひが免れられない。私の知り合ひの比嘉春潮君などは珍しくさういふ偏頗のない人だが、多くの人はみなその癖をもつてゐて「何島だからねえ」といふやうなことをすぐいふ。八重山とか宮古島とかいふ、割に大きな島でも特殊扱ひされてゐたのだから、もつと小さな離島はかなり別扱ひされてゐたに相違ない。終戰後は事情が變つて、首里でも那覇でも、元來その土地の人はおそらく半分以下になつたらしく、政治界、實業界に國頭《くにがみ》の人、宮古の人などが進出したときいてゐる。もつとも昔から久米島などは地位が非常に良かつたから、いくらか違つてゐたが、他の離島にいたつては、非常に低く見られる傾きがあつた。それが私共が沖繩研究に奮起した原因と、隱れた心理の動機だつたともいへる。

　沖繩に行つて話した演題を「世界苦と孤島苦」としたのも、そんなわけからであつた。世界苦といふのは他にもお連れがあるから、皆と一緒につき合つて行つていゝが、この孤島苦の方を沖繩の人が氣付かないやうでは駄目だ、沖繩縣でも自分の村の仲間のうちの一つ低いものを輕くみるやうでは駄目だといふことを、可なり強い言葉で話したのである。すると、大體の人は皆一樣に一寸嫌な顔をしたが、それ以來沖繩には複雜な内容と氣持とをもつた孤島苦といふ言葉が行渡つてゐるらしい。

　沖繩にはどうも我々が考へて條理のないものがある。例へば北海道の人は本州のことを内地といふ。私の子供の頃の仲間で、辻川から北海道に移住した松岡和吉といふお爺さんなど、この成城の近所に晩年を送つてゐたが、「この間一寸内地へ歸つて來ました」などゝ、郷里に行つてきたことをさしてゐる。つまり播州のことを言つてゐるので、そ(321)の位「内地」といふのは良いかんじをもつ言葉なのである。

　處が沖繩へ行つて内地といふ言葉は禁物である。それでは沖繩は外地かと、却つて反問されてしまふ。私も向うへ行つた時、最初に注意されたのが内地といつてはまづいといふことであつた。いつたいこんな癖を沖繩人にうゑつけたのは誰だといひたくなるほどである。

　もう一つ沖繩には五百年この方、王朝があつたといひ、そしてその前にも一萬二千年も續いた王朝があつたと文獻に出てゐる。その考へが強く殘つてゐて歴史を書く時にも王朝のことばかり書いて琉球の歴史であるといふので、さうではありませんといはうとすると、どうも衝突を起す。琉球でも國際交通のはじまつた元、明、清と段々文化が高まり、天下といふ觀念がひろくなつて、どうしてもその中心といふことを考へるやうになつた。それさへなければ離れた島々がのんびりと生活を樂しめるのではないかといふ點が澤山あるやうである。沖繩のすぐれた學者であつた伊波普猷君などは、王朝時代、藩制時代を經て明治になつた當座の、明るくなつた氣持を主として書かうとしてゐたのではないかと思ふ。私は更にもう一つ前の三朝三代に溯つて、それ以來のことをずつと勉強しなければならないのではないかと考へてゐる。

　

(322)　　　　　「採訪南島語彙稿」

　

　前にのべた「爐邊叢書」には伊波君のものも二、三册入つてゐたと思ふ。まだ元氣で活躍してゐる東恩納寛惇君のも、宮良當壯君のもある。

　宮良君はかたくなな男だけれど、今でもよく勉強してゐる。生れは八重山で、相應な家だが、東京に出て來るのにはいろ／＼苦勞をしてきた。明治四十二年志を立てて本島まで來たが、働かなければ餘裕がない。それで那覇から首里へ上る坂道を通る事の後押しをして、やつと大阪までの船賃を作つたとかいぶ話をきいてゐる。東京に出て來てからは、名古屋の人で、東大の國語科の助手をしてゐた前田太郎といふ人が、じつによく宮良君を助けてやつてゐた。この人は名古屋の資産家で、東京に自分の家を建てたとき、周圍に何軒か借家を建ててゐた。早く亡くなつたが、この一軒を宮良君に提供してくれたのである。晝間は學校に通ひ、夜は露店で本を賣りながら、ずゐぶん苦勞をつゞけてゐた。ちやうど中山太郎や岡村千秋が博文館につとめてゐたので、社長の大橋新太郎に頼んで見ようといふことになり、私が出かけて話したところ、快く承知して學資を出してくれることになつた。國學院の豫科か一年そこ／＼に入つたばかりだつたが、卒業まで大橋の好意に頼ることができた。もう一つには細君がよく出來た人で、縫物をして主人の勉強を助けてきたのである。

　そして今も感心してゐることだが「採訪南島語彙稿」といふ本を學生時代に一人で作つて出版したことである。今でも私は成城の私の書庫の中で光を放つてゐるのはこの本だけだといつてゐるが、自分で謄寫版の原紙をきつて自家製で五十部だけ半紙版八〇〇頁の厚い本を出版した。それが五十部とも賣切れてしまつて、どうしてもほしいといふ(323)人が外國人――多分イギリス人だつたと思ふが――にもあつた。作つた本人はずゐぶん氣力の盛んな男で、それではもう一度作りませうといつて、また五十部、原版からきつて再版した。根氣がよいので、折口君など、かへつて辟易したこともあつたが、あゝいふ人が沖繩に歸つてくれると役に立つのではないかと思ふ。しかし八重山出身といふので、いろ／＼むつかしいこともあるらしい。

　離島を特別視してゐた例として、私はいつも八重山群島の石垣島の新川部落の乙女たちが、日本青年館で催した郷土舞踊の大會に出演した時のことを思ひ出す。黒島といふ小さな島の「黒島｜口説《くどき》」といふ郷土舞踊をしてくれたのである。この人たちが出るときまつた時、那覇の新聞が騷いで縣の恥になるから呼び返さなければいけないと主張した。宮良君や喜舍場永�c氏などの骨折りで、やつと船でこちらに着いた若い女の人たちが、これをきいて泣き出し、もう歸るといひ出したりした。私の所へも電報を打つてよこしたりしたので、そんな馬鹿なことがあるか、招んだ東京では待つてゐるではないかと指導者たちにいつてやつた。ところがいざ東京へ來てみると、それは大變な成功であつた。額に鉢卷をきりつと縛りつけると、それまで田舍の人と思つてゐた娘さんたちの容子が一變して、じつに鮮やかなものになる。作曲家の中山晋平がこの調子にすつかり魅せられ、節をとつて曲を作つたりした。

　一昨年あたりも早稻田の大隈講堂で公開したが、なか／＼評判がよかつた。しかしやはり賞められると墮落といふか進歩するといふか、とにかく文化的なものになつて、はじめ來た時のやうな鄙びた良さがだん／＼減つて來たやうである。

　これがまた東京における南島研究者と、沖繩における南島研究者との喰違ひから來る點といふものであらう。

　

(324)　　　　　倭寇の遺跡など

　

　宮古島の圖書館長で、稻村賢敷といふ人がある。文理大を出てあそこへ行つてしまつたらしく、あまり他所を歩いてはゐないやうだ。非常に勉強して「琉球諸島における倭寇史跡の研究」といふ本を書いた。まだ少し氣づかはしい所もあるが、大體において宮古島には日本人が沖繩本島を通らずに直接、しかも大分多く入つて來てゐる。そして一時倭寇の盛んな時分にはあそこが一つの根據地であつたといふことを書いたもので、もつと注意せられていゝ本だと思ふ。これを證明するために、御嶽《おたき》の祭りと關係のある「時の雙紙」といふものをくはしくしらべてゐる。雙紙といふのは、安部晴明の著といふ「金烏玉兎集」といふ本のことで、いろ／＼異本があるが、それが宮古島に殘つてゐることが判つた。沖繩本島にも傳はつてゐたが、禁止せられて内々にしか使つてゐなかつた。ところが離れた宮古では今でも家々にもつてゐる。家の系統毎に少しづゝ都合よく變へてゐるらしいから、それを比べると面白いだらうと思ふ。

　日の善惡を占ふもので、「時の雙紙」といふトキとは日のことである。何月何日にかういふことを計畫していゝかどうかを決める時に、まづこの本を開いてみる。昔は王朝の公式の法則だつたが王朝で早く禁止したので、民間の個人個人の所有になつた。それを活用してゐるのがユタである。日本の巫女のやうに神の言葉をそのまゝ取次ぐのではなく、ユタの方は「時の雙紙」にかうなつてゐるからと自分の判斷を交へていふ。秘密になつてゐることを意識的に傳へるのだから、却つて弊害が大きい。ユタには女のイケガユタと男のユノゲユタとがあつて、女ユタはでたらめに占ひ、男ユタは何か秘書を説き、秘傳を教へるといふ話である。男ユタを本當に信ずるのは士族などで、秘密に指圖を(325)うけるのであつたが、戰後は殊に女ユタが流行つてゐるらしい。奄美大島などにも昔からあつて、種本として「三世相《さんぜさう》」なども利用されてゐた。

　稻村君のこの本は宮古島からだけでなく、他の島々の十數ヶ所もの場所からも青磁、白磁などの破片を發掘したことを報告してゐる。沖繩の歴史研究家の中には、青磁の缺片が出たといふだけで倭寇の遺跡だといふのはをかしいといふ人もあるらしいが、そこで出て來る分量が問題になつて來る。それが相當澤山出て來れば、たゞ偶然といつて片付けられなくなるだらう。要するに歴史を記録にあるからといふだけできめることになると、結局想像説に墮してしまふのである。

　この本の弱點は、ナワの問題である。名和長年の子孫が九州天草邊に來て、征西將軍に仕へたといふ記録を信じ、そしてその先どこへ行つたか判らぬのを、折口君は沖繩に行き、第二王朝の尚巴志の先祖になつたと説明してゐる。稻村君はこの折口説を肯定してゐるのである。折口君は沖繩のために一生懸命に働いた人だが、この名和氏説だけは困るといふ人が多い。しかし比嘉君などは名和氏・尚巴志の説をもう少し傾聽してもよからうといつてゐる。何れにしても稻村君の今度の著書が、全體として有益な内容を持つてゐることは誰もが認めねばならない。

　

(326)　　　　　朝日新聞記者

　

　もうそろ／＼役人生活の足を洗つてもよからうと思つた私は、大正九年、いよ／＼自由な生活に入ることゝした。その七月朝日新聞の安藤正純氏からの連絡があつたので客員の名義で入つた。入社の條件として、最初の三年間は内地と外地とを旅行させて貰ひたいといふ蟲のいゝ希望を竝べたが、幸ひにも全部、村山老社長の快諾するところとなつた。

　その三年間の前半は國内を、後半は西洋、蘭印、濠洲から太平洋方面を廻りたいと思つてゐた。そしてこの三年間の旅が經つたら、正式の朝日社員になるといふことにしてゐたのであつた。

　まづ大正九年、東北旅行に出た。その旅の印象を「雪國の春」と題し、朝日新聞の夕刊にあつた「豆手帖」の欄に連載したところ、案外あたつて、いろ／＼反響があるので、もう一ぺんどこかへ行つて來ないかといふことになつた。

　そこで次には三河を中心とした一帶、つまり靜岡から愛知にかけての旅行記を書き、それを「秋風帖」として寄稿した。

　一旦歸京してまたすぐ旅に出ようとした時、次女が病氣で入院した。普段餘り文句をいはない養父から、この時だけは「こんな時ぐらゐ旅行を止めたらどうか」といはれたので、さすがの私も大いにへこたれてしまつた。「秋風帖」の旅がたしか大正九年の十月で、それから一ヶ月ぐらゐぼそ／＼して家に居り、十二月末に九州の旅に出たのである。

　八月末、東北旅行の折、尻屋崎に行つた時、あそこの鑛山の若い夫婦連れと一緒になつた。四方山の話のついでに「今年中に日本の一番西の端の佐多の岬に行くから、お正月にはそこから君のところへ便りをあげよう」といふ話に(327)なつてしまつた。

　その後ずつと各地を歩いて佐多の岬の突端へ行つたのは大正九年の十二月三十一日であつた。明くれば元旦といふわけで、正月付の手紙だつたか電報だつたかを、彼の北の端の岬の若夫婦に出し、泡盛《あはもり》を送つてやつた。大變喜んで「燈臺を見に來る人は大勢ゐるが、初めから計畫して、北と南の兩方を一遍に見る人は珍らしい」とほめてくれたのを憶えてゐる。

　この時の旅の話は「海南小記」の中にくはしく書いてあるが、二つの岬の話は有名になつて、私の鞄と靴とを背負つて山を越えた女の人まで私の名を知つてゐるといふことであつた。背負つてくれた女は荷物が輕くて勿體ないといつて、背負ひこみたいな??《ほき》に蒲葵《こば》の葉を一束つみ、その上に私の鞄と靴をのせてきてくれた。大泊のヨクといふ誰でも休む頂上で一休みし、さあ行かうと立ち上つたら、そのコバの葉がかさ／＼と南國らしい音を立てた、とその時の樣子を書いたのが大變評判になり、南の岬ではそれを記念碑にとり入れるといつてきかなかつたこともある。

　

(328)　　　　　沖繩に渡る

　

　大隅半島から薩摩灣を横切つて指宿《いぶすき》の方へ歸つて行くと、ちやうど明日船が出るといふので、正月三日だつたと思ふ、船に乘つた。そして奄美大島に上陸し、ほんの一日二日ゐて琉球へ渡つた。正月の七日か八日ぐらゐだつたと思ふが、早速伊波普猷君を訪ねた。伊波君はほとんと附きつ切りで話をきかせてくれた。伊波君も奄美群島を歩いたあとだつたので、奄美の話もした。伊波君は奄美は三百年前に琉球から薩摩にとられてしまつたから、もうあそこには沖繩の事物は何にも殘つてゐないと思つて歩いたものらしい。しかしあの群島には今も沖繩の言葉が、古い形で殘つてゐることを知つて、伊波君も考へが變り、もう一ぺん奄美の研究をしようかといふ氣持になつてゐるところへ私が行つたわけである。

　伊波君が圖書館長として、たくさんの文獻を集めた功績は大きい。

　しかしあの文獻は今度の戰爭でどうなつたであらうか。戰爭中の圖書館長には、伊波君ほど文獻に執着をもつ人がゐなかつたらしいし、終戰後は駐留軍が沖繩の家は衛生上良くないといつて燒いたり、島の人の中にも勝手に貴重な文獻をとつて反古に使つた者があるとか聞いてゐる。惜しいことをしたものである。

　この沖繩の旅の折、島にはお爺さんなどで、字を書くより他にすることのないといふ人が大勢ゐたので、私はその人たちに頼んで貴重な文書をたくさん筆寫して貰つて持ち歸つた。この中には今では唯一の琉球文獻となつたものが少なくない。

　伊波君は東京大學で、大阪の上野精一君といつしよだつたやうに聞いてゐる。上野君の方でも伊波君に好意をもつ(329)てゐたらしい。私も琉球のことで何か朝日にさせたいと思ふ時は、村山翁よりは上野君に相談していろ／＼して貰つたことがあつた。

　伊波君とは「おもろさうし」の話をし、その校訂を引受けて歸つてきた。それから日が經つて、大正十三年一月九日の日記にこの校訂のことが出てゐる。西洋から歸つて一ヶ月足らずだつたが、私は上田萬年さんに會つて「どうしてもこれを出版したいと思ひますので、骨を折つて下さいませんか」と頼むと、話のよく解る人なので、直ぐに運動をはじめてくれ、それを幣原坦さんに引繼がれた。かうしてみなが好意をもつてくれて、約一年かゝつて、たつた三百部だつたが、出版費は學士院から出してもらつた。それもおそらく伊波君の東京に出て來る動機の一になつたことであらう。何しろ一部しかないものを基にしたので、今になつてみると、原本が惡かつたとか、臺本がよくないとか、校訂が十分でなかつたとか、いろ／＼惡口をいふ人もあるが、他に方法がなかつたのである。

　伊波君の他に、やはり沖繩の人でわれ／＼が大きな影響をうけてゐる人に佐喜眞興英君があつた。沖繩に渡つた時中學校の先生から、今まで教へてきた青年の中でいちばん前途の樂しみなのがこの若人であると聞かされて歸つてきた。その後穗積陳重さんを訪ねた時「沖繩にもなか／＼眞面目な青年がゐるよ、よく本を讀む」といつて、やはり佐吉眞興英君の名をいはれた。私も前に沖繩で名をきいてゐたので、會ひたいものですと話したことがあつた。其の後穗積さんが機會を作つて佐喜眞君に引合せて下さつた。一高から東大法科を出、その時は裁判官をしてゐたが、方々轉任を命ぜられて動きながらいろ／＼の著述をしてゐた。私が出してゐた「爐邊叢書」の中にも沖繩の諸君のものが七、八册出てゐるが、そのうち二つまでが佐喜眞君のものである。

　

(330)　　　　　河上肇君

　

　京都の河上肇君も、伊波君の「古琉球」といふ本の跋を書いたりして、古くから沖繩に關心をもつてゐた。京大助教授時代、沖繩に行つて演説をしたため、當局から警戒せられたりしたが、はじめは絲滿《いとまん》の個人財産制度に感心し、そこに自分の理想を見出したやうに解釋したらしい。

　滔々として帝國主義に災されてゐる日本において、まだそんな惡い風潮に染まつてゐないのはこの沖繩だけで、自分はそこに望みを託するといふやうなことだつたが、琉球の人自身はあくまでわれ／＼は日本人の一部であると主張してゐたし、事實またそのわけであるから、河上君の話はどうも沖繩人固有の氣持に水をさすやうな結果になつた。「古琉球」の版にはこの演説のことについて、多少の皮肉を洩らしてゐる。

　河上君は學校を出たころは松崎藏之助さんの指導で「日本經濟新誌」を主宰してゐたことがある。田口卯吉の「東京經濟雜誌」がいちばん舊く、その次が天野爲之の始めた「東洋經濟新報」だつたから、河上君のはいちばん新しく、しかもどちらかといふと、保護經濟政策的な色彩が勝つてゐた。

　表紙の赤い雜誌で、私も出たときからずつともらつてゐた。みる／＼うちにその赤さがひどくなつたわけである。單純な、詩人膚の、人柄のいゝ男が、學者として立つてゆけるものを、あんなになつたのは不幸だつたと思ふ。

　私らがはじめて高等官になつた明治三十五、六年ごろ、山崎覺次郎、桑田熊藏などといふ人が主宰して、社會政策學會をおこしたことがある。そのとき福田�ｺ三とか、高野岩三郎とかが働き手の中心だつたが、關一《せきはじめ》などもゐた。そして河上肇もやがて入つて來た。このころから少しづゝ變化を生じたらしかつた。私はちやうど一生懸命に官界を稼(331)いでゐるときだつたので、河上君ともあまり深くはつきあつてゐなかつたと思ふ。

　社會政策學會の大きなバックは金井延博士だつたが、私らは山崎君には大變引き立てられた方だつた。あのころはまだ呑氣で、西園寺さんが議會で社會政策學會とはどういふものかと質問せられたとき、斷じてあゝいふものには賛成しないといつたことさへあつた。社會黨と社會政策學會との區別さへよくわからなかつたぐらゐである。私はその時分よくこの學會の會合に行つたものであつた。

　

(332)　　　　　國際聯盟本部で働く

　

　大正十年、沖繩から内地に歸る途中で、私はジュネーブに行けといふ電報をうけた。私は役所の方を怒つて辭めてゐるので、おそらくこれは誤報だらうと思つてゐた。ところが熊本まで歸つてくると、酷いのがゐて「お口があつておめでたうございます」などといふ。縣廳の役人がそんなことをいつたので「斷つてくれ給へ、ぼくはもう政府のためには働かないんだから」と話したりした。長崎へ着くと、もう亡くなつたが渡邊勝太郎さんといふ、よく物のわかつた人がちやうど縣知事をしてゐて「そんな馬鹿なことがあるものか、君が喧嘩したのは内閣であつて、國ぢやないだらう。政府のために働かないでも、國のために働かないつていふわけぢやないはずだ」と、じつに簡單に説伏させられてしまつた。「それでは仕方がない。じつはぼくは大阪朝日の社長と、ぼくの養父とには事前に相談をしなければならないのだから、二人が同意したならば受けるといふ條件つきで返事を出すことにしよう」といつた。すると渡邊君は私の見てゐる前で電報を打つてくれた。

　大阪からも非常に結構なことだからぜひ行くやうにといふ返電が來たし、養父の方も賛成であるといふことが、長崎を歩いてゐるうちにはつきりした。かうして行かずにはおけないことになつてしまつた。

　今でもよく憶えてゐるが、諌早驛で小さな子供がよち／＼プラットホームを歩いてゐるのが目についた。そのときあの子は西洋へ行かんでいゝなあと感じてしまつた。こちらは氣が張りつめていつぱいになつてゐるのに、その子供はのんびりとしてゐるのが羨ましかつたわけで、そんな滑稽な心境も今思へばなつかしいことである。

　東京へ歸つてから三、四ヶ月、自宅でごろ／＼してゐたが、五月に出發し海路一ヶ月以上かゝつて、七月末か八月(333)初めにスイスに着いた。仕事は國際聯盟の本部で委任統治委員會に關するものであつた。農政學の先輩であり、また郷土研究會以來、とくに懇意にしてゐた新渡戸博士が聯盟の事務總長をしてをられたので大變心強く感じた。内務省から國際勞働局に行つてゐた吉阪俊藏君の一家も、また今の侍從長の三谷隆信君が新婚當時で、夫妻でスキーなどしてゐた姿も、はつきり眼に浮ぶのである。

　聯盟の仕事は割に樂で、春から秋にかけて一通り會合や通常事務などが忙しかつたが、その後は翌年にかけて冬休みのやうなもので、關係者はみな一應歸國することになつてゐた。私も最初の年は用事を濟ませてから東京に歸り、翌春また出かけて行つた。

　大正十二年九月一日の關東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに歸らうとしたが、なか／＼船が得られない。やつと十月末か十一月初めに、小さな船をつかまへて、押しせまつた暮に横濱に掃つてきた。ひどく破壞せられてゐる?態をみて、こんなことはしてをられないといふ氣持になり、早速こちらから運動をおこして、本筋の學問のために起つといふ決心をした。そして十三年の春に二度の公開講演を試みたのである。

　

(334)　　　　　比嘉春潮君

　

　大正十三年から昭和三年までのふるい日記を出してみると、いちばん度々出て來る名前は、琉球出身の比嘉春潮君であつた。

　比嘉君はもとはふるい士族で、お父さんが田舍へ行つて裁判官をしてをられたので、田舍で育てられた關係から田舍の人に同情をよせる氣特があつたらしい。はじめて會つたのは大正十年一月のことである。沖繩本島をほゞ視察し終つて、宮古、八重山へ行かうとして船に乘つたら、縣の地方課の役人であるのに、その船に偶然乘り合はせてゐたのだつた。どうしたのだと聞いてみると、縣の役人をしながら、中央でアナーキストとして知られてゐた岩佐作太郎と交際してゐた。しかもその岩佐が來島するといつて來たので、縣當局が氣をきかし、比嘉君に宮古島の選擧の模樣を見て來いとか何とか用事をこしらへて出張させてくれたといふ話で、その宮古島へ渡るときだつたのである。そのうへ比嘉君はローマ字會の會員だつたりしたので、リベラリストだといふので知事に叱られたりしてゐた樣子であつた。

　私が歐洲に行つてゐた留守中に出京してゐて、大正十三年、私が上野の美術學校の講堂に招かれて話をしたときにはきゝに來てゐた。上野での話は「南島研究の現?」といふ題で、琉球の話をしたのである。今までこの方面の研究が閑却されてゐるが、それではならないといふやうな半ば抗議のやうな話であつた。上原勇作をはじめ、鹿兒島出身の陸軍のお歴々の大將などを前にして琉球のために辯じたのであつたが、私もまだ若かつたので大いに得意になつてゐたものだつた。そのときに橋浦泰雄君がきゝに來てゐて、私に名刺を差出したのを憶えてゐる。

(335)　もう一度は「眼前の異人種問題」といふのであつた。これは北海道、樺太のアイヌのため、世に訴へたわけである。そのころ、異人種々々々といふ聲が高かつたので、手近いところにゐるのをどうするかといふ問題を説いたのであつた。

　兩方とも今から思へばずゐぶん間違つたことをいつてゐる點もあらうと思ふが、私としては熱意をこめて世の識者と當局者とに訴へたつもりであつた。

　比嘉君とは南島談話會を作つて、沖繩の諸君ばかりでなく、東京の方の人も、志の合ふ者が大分交つて、なか／＼盛況であつた。その間に一度沖繩に歸つて金城君をつれて來た。そして女官のお雙紙といふものを寫して持つてきてくれたのであつた。民俗學を今もつゞけて研究してゐる仲間のうち、沖繩の人では比嘉君がいちばんふるい仲間である。

　最近は「沖繩タイムス」に琉球史を連載してゐるとかいふ話であるが、早く一册にまとめてもらひたいものである。

　從來の沖繩は喜びも苦しみもいつしよだつたのに、今は内部に對立が生じて爭つてゐるとか、薩摩にやられたときでも沖繩は上も下も一體となつて苦しんでゐたのに、今は大分事情が違ふらしい。

　

(336)　　　　　時勢と姿勢

　

　柳田の家は信州で槍の家柄だつたので、面白い特徴がいくらも殘つてゐた。養父はかつて槍を使つてゐるのを見たことはないが、それでも二十歳くらゐまで自家で本當に稽古をしたさうである。鼠が部屋に入つて來ると獲らないではおかなかつたとか。じつに巧妙で、長い棒か竹で疊をフッと上げる、すると鼠はその隙間を狙つて入つて來る、それを突くのである。玉突きなども少し稽古するとすぐに上手になつた。三男坊で早く家を離れた人間すらさうであつた。

　風傳流といふのだが、その流派の家が四軒あつた。もと／＼この風傳流の元祖は、明石で浪人をしてゐたといふ話だが、それはずつとふるいころの話である。槍は私も見たことがあるが、一丈何尺かの長槍であつた。養父の實家は安東といつて明治の半ごろでもまだ道場が殘つてゐた。私が明治三十四年に飯田に行つた時には、一門の菅沼といつて柳田の父の實家、安東の父が出た家から別れて嫁に行つた人の子供で、松本の學校の教員をしてゐた人が槍の先生であつた。特殊の身體つきをしてをり、後から見ても、横から見ても、身の構へで槍の使ひ手といふことがよく判つた。腹へうんと力を入れて腰をちよつと落してゐる。そのために少しばかり背が低くなるが、その姿勢は槍を使ふ目的から起つて、士族の多くに行き亙つてゐた。こんな姿勢が皆から笑はれるやうになつたのは憲法發布よりずつと後の、明治も二十九年か三十年ごろからのことで、それまでは誰もそれを笑はなかつた。

　今の東京驛が出來て間もないころ、私は驛の降車口から出て來る若い人のズボンの折目の綺麗なのと、脚の眞直ぐなのを見て「あゝ世の中が變つたなあ」と、本當に心から考へたことがある。あのころでも田舍へ行けばまだみな腹(337)へ力を入れて、尻の方がいくらか飛び出して歩いてゐる人が多かつた。都會の學生はもういはゞ吹いて飛ぶやうな恰好をするやうになつたが、それがつまり一種の文化といふわけであつた。お腹に力をいれるといふことは惡くはないのに、それでは瀟洒たる青年に見えず、從つて新時代の結婚には適しなくなるわけである。

　ところがこの槍使ひの姿勢にしても槍の藝が始まつてからのことだから、大昔からあつた氣づかひはない。敵が馬に乘つてゐるのを下の方から上に向つて突きあげるから、下駄穿きみたいなふら／＼腰では突けはしない。

　私らの學校時代には、まだ士族の子弟は、平民の子弟といくらかちがつてゐた。何となく腹へ力を入れることを子供の時から教へられてゐたからである。それがいつの間にか吹けば飛ぶやうな脚の眞直ぐな恰好に變つてしまつた。つまり自重する君子から、片々たる才子に移つたわけで、それには槍などのやうな武藝が非常に關係があつたやうに思ふ。これはそれつきりにしてしまつてはいけない面白い問題を含んでゐるのである。

　

(338)　　　　　武士氣質

　

　柳田の養父は安東家の出であつた。安東といふ家は愉快なことに一族四軒がいひ合せて、どこかに缺員ができると、まづ親類から跡取りを送る習慣で、幾重にも親類になつてゐた。

　士族なんて考へも私らにはロマンスで讀む以外になかつたが、惡いところばかりでなく、いゝところもあつた。私の母なども僅か二年くらゐしか姫路で武家奉公をしなかつたし、その後結婚してから夫婦でふたたび姫路の塾監になつてゐたくらゐのものなのに、やはり士族といふものに同情をもつてゐた。そして維新當時の逸話を何かと聞かしてくれた。

　たとへば、いよ／＼姫路藩が降參して勤王黨の方に明け渡すといふとき、皆で選んである家を指定し、その家から人質を出す場合を考へておいた。そしてその家の若い主人とか息子とか娘に腹を切る練習をさせた。實際には切らずにすんだが、小さい男の子などにも、士の名譽にかけていちばん綺麗に振舞ふやうに教へ込んださうである。

　もう一つの話は、姫路藩か龍野藩とかの町はづれにたくましい鍛冶屋の兄弟がゐた。その前に侍の息子が來て喧嘩をしかけ「棄ておかれん」といつて刀を拔いたところ、鍛冶屋の兄弟がそれを取上げて、金敷の上でたゝいてくちや／＼にし、鞘に入らないやうにしてしまつた。そこで藩でも困つて侍にあるまじい醜態だといふので、刀を取り上げて追放を命じてしまつた。そのため侍の親類が承知せず、たうとうその鍛冶屋の方もやはり所拂ひをくはされた。しかもちやんと親類が役人と打ち合せておいて、鍛冶屋の兄弟が藩の領分を一足出たところで忽ちその二人ともを斬り殺してしまつた。

(339)　今ならそれだけで小説になるやうな話を、母は自分の見聞によつていろ／＼話してくれたのである。

　四民平等といふことも大きな效果をもち「もう侍と百姓とはちがひないのださうだ」といふと、みな一齊に大急ぎで侍の方の生活をしだした。日本社會の面白いところで、反感をもつてゐたとはいひながら憧憬れてゐたことが解る。

　飯田などでも維新の際に兵力の不足を補ふために、百姓の子弟をつれて來て調練をさせ、足輕とか徒士とかに入れた。御目見得以下といふ意味で、この連中のことを「以下」と呼んだ。養家の祖母の話に、身分のある侍の奧方たちが、以下の細君が來たのを見て「以下だ、以下だ」と蔑んだ。相手は「タコとは申しません」といつて逆襲したといふことであつた。面白い話なのでいまだによく憶えて居る。また祖母の叔母にあたる菅沼のお婆さんといふ人はしつかりした婦人だつたらしく、こんな話が傳へられてゐる。

　信州の高遠の城は丘の上にあつて、大手の道は坂になつてゐる。ある時、川尻といふ士が城門の所で理由があつて人を斬つた。そして菅沼の家に入つて來て「今人を斬つてきた、どうぞ暫くの間休息させて下さい」といふ。菅沼のお婆さんは落着いて應對をし「あゝそりやよかつた、いゝことをなさつた、さあこちらへ入つて一服して下さい」と座敷へ通して休ませておいて、正式に屆け出た。そしてその同じ日に、そこで腹を切らせたわけだが」この人の姪に當る安東の祖母は「あんな偉いお婆さんはない」といつて大變ほめて話してくれたのである。

　私らは要するにそんな空氣の中で育つた人間で、昔の仇討時代とは違ふが、過渡期のいろ／＼な矛盾だの撞着だのを體驗して來たものである。

　

(340)　　　　　「山の人生」

　

　私が法制局の參事官になつたのは、明治三十五年の二月で、大正三年までゐたのだから、私のいちばん若い盛りの時をそこで過したわけである。仕事としてはどれもみな威張つたり、得意になつたりするのに足るやうなものばかりであつたが、たつた一つだけ、皆の嫌ふ仕事があつた。それは特赦に關する事務を扱ふことであつた。

　大赦の方は一律に何々の罪の者は赦すといふお觸れが一つ出れば、それでいゝのだからことは簡單であるが、これに反して特赦の方は個々の犯罪自身をよく調べて、再犯のおそれがないとか、情?酌量をするとか、一つ一つ定まつた標準に照らしてみなければならない。だから關係資料を年百年中讀んでゐなければならないし、時によると新規に出來た政府の方針で、少し特赦にしてみようなどゝいふ氣持に副つてことを處理しなければならぬことがある。それでいつも新參の參事官に押しつける習慣になつてゐた。ところが私だけはそれを面白がつて、いつまでもその仕事をやつてゐて他人にまはさうとしなかつた。

　文字を早く讀むことに馴れてゐたので、私としてはそんなにこの仕事を重荷に思はなかつたせゐもあるが、それよりも私は内容そのものに興味をもつたのである。事件の内容そのものに心をひかれて、もとの豫審調書からみていつた。一つの事件が、六寸とか八寸とか、たまには一尺近い厚さにとぢてあつたものもある。それをみてゆくのであるから、興味のない者には嫌な仕事であつたが、私は好きなために熱心に眼を通した。そして面白い話を知ると、どうしても他人に話したくて仕方がなくなるものである。

　私に「山の人生」といふ本がある。何故書かれたか、主旨がどうも分らないといつた人があるが、無理もない話で、(341)じつは法制局で知つた珍しい話を喋りたくてたまらないものだから、そんな本を書きはじめたわけであつた。新聞社に入つた當座に「朝日グラフ」に連載し、後に本にまとめたものである。

　「山に埋もれたる人生ある事」といふ題で、私のいちばん印象の深かつた人殺しの刑事事件を二つ續けて書いたのであるが、本の終りには「山男」といふものゝ研究は人類學上必要だといふことを書いたので、二つの別々の要素が「山の人生」といふ一つの本にまとめられてゐるため、讀む人に不思議な感を與へたのである。

　第一の話は、かつて非常な饑饉の年に、西美濃の山の中で炭を燒く男が、子供二人を鉞《まさかり》できり殺したことがあつた。自分の男の子と、どういふものか一人は育ててゐた小娘でともに十二、三歳になる子供であつた。炭は賣れず、里に行つても一合の米も手に入らない。最後の日にも手ぶらで歸つてきて、飢ゑきつてゐる子供の顔を見るのがつらさに、小屋の奧へ行つて畫寢をしてしまつた。眼がさめてみると、小屋の口いつぱいに夕日がさしてゐた。秋の末のことであつたといふ。二人の子供がその日當りの所にしやがんで一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いてゐた。そして「もう死にたいからこれで殺してくれ」といつたさうである。そして小屋の入口の敷居の上を枕にして臥たさうである。親の方はくら／＼して、何の考へもなく二人の首をきつてしまつた。その後でおそろしくなり、死ぬことができなくて、一人で里へ降りて自首したといふのである。じつに悲慘な話でこれくらゐ私の心を動かした特赦事件はなかつた。

　同じ頃、先の話と同じやうな悲しい事件がもう一つあつた。九州の或村の女が、ある男と大變仲良くなつたが親が許さぬので二人で逃げた。どうにか世の中へ出てみたが、病氣をしたり、いろ／＼不幸にあつたりして貧乏のために食へなくなつた。子供も出來たが、どうしやうもないので、恥を忍んで非常な山の中の生れ故郷へ歸つて行つた。しかし身寄りの者は死んでゐないし、笑ひ嘲ける人ばかり多かつた。すご／＼とまた町に歸らうとしたが、男は病身でとても働ける身込みはなかつた。子供を負ぶつて引返して來る山道で、下に瀧が落ちてゐるところへ來かゝつた。夫婦で、もう世の中へ歸つたつて仕方がないから、三人で死なうぢやないかと、三人の身體を帶で一つに縛つて、瀧壺(342)に向つて思ひ切つて飛び込んでしまつた。ところが女だけが水の中へ落ち込んだものらしく、しばらくして生き返つてしまつた。助かつて岸に上つてみると、亭主の方も死に損つたと見え、もう一度首をくゝつて死んでゐた。小さい子供は崖の途中の樹のてつぺんに引つ掛つて死んでゐた。つまり落ち方が良かつたのか、惡かつたのか、後の二人が死んでゐるのに、自分だけ助かつてゐたといふわけである。

　その時の心理はわれ／＼には判らないが、やはり當人はもう死にたくなくなるものらしく、一人で自首して出た。子供は無意志なので殺人罪が成り立ち、何でも十二年といふ長い刑に處せられた。しかしあまりにも品行が正しくて殊勝だし、環境も憐むべきものであり、再犯のおそれは無論ないから、特赦にしてやつてくれといつて、私から印を捺して申し出た。それで特赦になつたわけである。

　この二つの犯罪を見ると、まことに可哀想な事案であつた。私は誰かに話したくて、舊友の田山花袋に話したが、そんなことは滅多にない話で、餘り奇拔すぎるし、事實が深刻なので、文學とか小説とかに出來ないといつて、聞き流してしまつた。田山の小説に現はれた自然主義といふものは、文學の歴史からみて深い關係のある主張ではあつたが、右の二つの實例のやうな悲慘な内容の話に比べれば、まるで高の知れたものである。

　そんなわけで法制局の資料から見出した二つの悲劇が、私の心の底に溜つてゐて、何時かそれを世に知らせたいといふ氣持を持ちつゞけた。それで朝日新聞に書き、さらに「山の人生」といふ本を作る時、その序文のやうな形で、これを一番最初にもつてきたのである。

　田山にとつて、この二つの事件は落第だつたけれども、他に少なくとも四つか五つ、私が特赦の取調べで知つた珍しい知識を、田山の方で採入れて自分の小説のたねにしたものがある。記憶してゐる話の一つに「葱一束」といふのがあつた。一寸したことから大きな犯罪になるといふ話である。その記録を讀んで、私が興奮してゐる時に、田山から何か話はないかと聞かれたので話してやつたものである。「一兵卒の銃殺」といふのも、日露戰爭の前後に私がた(343)ねを提供したものであつた。

　自然主義の作家は、極くあり得べき事柄が、すーつと妙に展開してゆくのに興味をもち、それを自然に書いて喜んでゐたものであつた。

　

(344)　　　　　自然主義小説のころ

　

　自然主義といふ言葉を言ひ出したのは、田山であつたらう。しかも英語のナチュラリズムといふ言葉をそのまゝ直譯したのだが、はじめは深い意味はなかつたと思ふ。田山は何か私らの分らない哲學的なことを言ひ出したりしたが、それはもう後になつてからの話であつた。それよりはもつと平たい、平民的な歴史を言へば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文學の材料として殘るべきものがあるといふことを認めて、それを扱つてみようとしたといへると思ふ。

　別に私が田山に話したやうな奇拔なものだけを書かなければならないわけはない。たとへば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生氣質」だつて別に變つたところもないだけに、かへつて廣い意味の自然主義の發端といへないこともなからう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から歸つて來ると、何か珍しい話はないかといつて聞くことが多かつた。私が客觀的に見て話してやつたのを彼が書いたものゝ中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあつた。不思議なことには、文學者といふものはわれ／＼の話すことを大變珍しがるものである。想像もできないとかいつて感心する。いはゆる「事實は小説よりも奇なり」といふわけだらう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の寫實派の小説などを讀んでゐるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大變なものであつた。そしてたうとうあすこへ行きさへすればタネがあるとかいふことになつた。

　小栗風葉など一番熱心に參加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であつた。眞山青果などは初めのうちずつと風葉の名前で書いて生活をしてゐたほどである。青果の方では自分の名で出せ(345)るやうになるまでは、練習のつもりで代筆をしてゐたわけであらう。ともかく風葉などは、私のところへ來れば新しい話があるといふ心持をもつて、私に對してゐたのである。

　それからもう一人は硯友社の川上眉山であつた。眉山は家庭が複雜で、氣になることが多いためか、酒でまぎらはすことが多かつた。それでゐて文筆で生活をする必要があつて骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の境涯にゐながら、新興文學の端緒にも觸れようといふ氣持が強くて、森?外さんのものばかり片端から讀んでゐた。それに續いては國木田のものなどをよく讀んでゐた。死ぬ一年か一年半くらゐ前の間は、よく私のところに來たわけであつた。

　それで十人ばかりの仲間が私の家に集つた。土曜日に催したから土曜會といふことにしたが、毎週ではなく、たしか月二囘ぐらゐやつてゐたと思ふ。國木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もとき／”＼は加はつた。皆が集つた動機といへば、田山ばかりがタネをもらひに行つて、うまいことをしてゐるからといふのであつた。明治三十七、八年のころだと思ふが、歐洲でも二十世紀の初めで、英國の文學の一つの變り目にあたり、大陸の文學を盛んに英譯しだしたちやうどその時期に當つてゐた。フランスのドーデのものゝ英譯などが出始めたので、私が田山にすゝめたことを憶えてゐる。船に乘る人が盛んに買つたジャックの船上本などゝいふ英譯本が日本にも來たものである。私は丸善に連絡をとつておいて、手元に屆くたびに土曜會の連中に紹介した。この土曜會が後に快樂亭の會になり、三轉して前にのべた龍土會となつたのである。

　

(346)　　　　　田山花袋の功罪

　

　田山の若い頃は母親も兄も苦勞してゐる中で、花袋は英語だけを勉強した。いゝ男ではあつたし、殊に私は歌の方で早くから松浦先生の所で相知り一緒に紅葉會を作つてゐた昔馴染だから、終始後押しをしてやつた。土曜會の連中はみな文學をやつてゐたが、その中では比較的田山が先に世に出てゐたのである。

　松浦先生の晩年には、淡路出身の人で、神戸に定住し、湊川新開地などを開拓した武岡豐太氏などの庇護があつて、明治四十一年七月頃須磨寺に歌碑が建てられ、その翌年亡くなられたのである。その松浦先生が晩年いはれたことがあつた。「私はもう歌道を退くから後繼者は田山君が一番適任だと思ふが、何分にも文壇に乘出して、もう一つの職業についてしまつてゐる。それで一つ貴方が傳來の文臺と硯函とを受繼いで後を引受けて下さらないか」と私に話されたことがあつた位である。つまり田山はその頃すでに世間からも文人として認められるやうになつてゐたのである。

　少し固すぎる位眞面目な人間が、後生大事に小説を書いてゐる、それが田山だつた。ところが長い間には、だんだんと世の中の風潮に漂はされ、自然主義といつたやうな言葉の意味も前とは變つて來てゐた。内容も議論の筋も作品の上に現はれた氣分にも、私どもはいつも惡口をいつて「あゝ書いちや駄目だよ」など批評するものだから、正宗白鳥君がいつぞや「柳田君は田山に會ふと罵倒するので困る。田山がちつとも、何とも反抗しないで黙つてゐるのに……」などゝ書いたものだから、私が非常な惡者のやうになつた。然し元の起りはさうではない。

　殊に「重右衛門の最後」を書いた時など、私はわざ／＼訪ねて行つて「これは一番同情ある作品だつた」といつてほめてやつた。今も私はあの作品には感心してゐる。あの副主人公は北信の人で田山の家へ來てゐたものだから私もよ(347)く知つてゐた。その次に「蒲團」が出た時は、私はあんな不愉快な汚ならしいものといつて、あの時から田山君にけちをつけ出した。重要な所は想像で書いてゐるから、むしろ自然主義ではないことになる。後々の空氣を書いた所はおそらく本當だつたのであらう。

　文學が現實の問題を取扱はねばならぬといつたのは二葉亭で、彼が出てはじめて我々としても、小説といふものはこんな生活まで取扱ふべきもので、たゞ佳人と才子との結合だけを取扱つてはだめだといふことが判つた。しかし私としてはどうも二葉亭には馴染めなかつた。

　その後にいはゆる「私小説」のやうな何にも何處にも書き傳ふべきものがなくても、毎日々々ぼんやりして考へてゐることを書きさへすれば、小説になるといふやうな傾向を生じたが、あれはどうもいけない。「蒲團」なんかがその手本になり、こんなことまでも小説になるといふ實例になつたと私はみてゐる。それで私はよく田山君の顔をみると「君が惡いんだよ」などゝ無遠慮にいつたものである。

　

(348)　　　　　花袋への好意

　

　私があまり田山君の惡口をいふので暫くの間私の所へ來ないときがつゞいた。そのお互が遠ざかつてゐた時代がどうも田山の生活でいちばん豐かになつたころだつたらしい。旅行をしてもお伴をつれて歩いたりしてゐた。

　私はどういふものか、まあ蟲が好くといふのか、ずつと好意をよせてゐた。彼が亡くなつて間もなく、新宿のどこかの料理屋で、田山以後の新しい文士連中が田山君のためと稱して集つたことがあつた。その折、田山君のためといひながら惡口ばかりいつてゐるので、その席上で私は遠慮なくいつたことがある。「田山君の君らに對するいちばん大きな功勢は、死んでやつたことだと思ふ。田山君が今日生きてゐたら、君らはまだそんなにやれないんだらう」といつたところが、大いに喝采を博したことであつた。

　田山が去るや否や出て來た人たちといふのが、文藝春秋の菊池君の仲間ではないかと思ふ。そろ／＼前後重なり合つてゐて、田山の方で壓迫してゐたから、さういつては惡いかも知れないが、いちばん對立關係にあつて、抑へつけられてゐたのがあの連中であつた。菊池、芥川の兩君とか、ことに久米君などは、同じやうな所を歩いてゐながら、今までの田山らのやり方を野暮だとか何とかいつたり、田舍臭いと罵つたりして、やつて來たわけであつた。私は前に坐つてゐた久米君の顔を見ながら、そんな冗談をいつたことを今も憶えてゐる。

　そんなのが田山の一生であつた。私は非常にふるい友だちでゐながら、ちつともその大きさを評價もしなかつたばかりでなく、世間で田山の小説をほめたりすると、むしろ首をかしげたりしてゐたが、關係は大變深いのである。

　田山に「東京の三十年」を書くやうにすゝめたのも私であつた。ドーデの「パリの三十年」といふのから刺戟をうけ(349)て、田山に「君、東京生活が三十年になつたら、こんな本を書くんだねえ」といつたことを覺えてゐる。たしか田山の本の序文にそのことが書いてあつたやうに思ふ。

　日本の文壇でツルゲニェーフを非常に崇拜して推奬したのはわれ／＼の一派であつた。ドーデがいつしかツルゲニェーフに代つて行つた。田山などもフランスで出たツルゲニェーフの佛譯本と同じ體裁で、イギリスで出た英譯本を買つて讀んでゐた。まだモオパッサンは出て來ないころである。

　「東京の三十年」は小僧に行つた時のことから書いたので少し糟も混じつてゐる。田山の兄弟は父親のない家庭としては實際よく勉強した兄弟であつた。一人姉さんがあつたが早く亡くなつてしまつた。大變利巧な人だつたさうだが、私はたうとう會はずにしまつた。兄さんも穩健ないゝ人であつた。

　たゞ何となく全體に世の中から忘れられて行くといふのは、可哀想なものである。

　こゝの所をかうしたのが、あれのいちばんの仕事であつたといふやうに、仔細に書いてくれる文學史があるといゝのだが、日本にはさういふ概觀を扱つた文學史がない。たゞ無闇に賞めたり惡くいつたりするかと思ふと、機械的に年代別をして論じたりする。そしてグループを一纏めにして批評する癖があるが、同じグループといつても、個々の人物でまるで立場も作風も違つてゐる點を無視してしまひがちなのは困つたものである。

　

(350)　　　　　苗字の研究

　

　大事な問題だが、あまり人が取り上げない問題。私はかういふ問題があると、自分がしなければならないと、いつも眞面目に考へて來た。家内にひやかされたり、子供に不思議に思はれたりしてきたのは、やはり私も弟どもと同じやうに、一つのことをやり出すと凝つてしまふ癖があるからであらう。

　一時は苗字に興味をもつて、カードを作つて分類したり、研究したりしたものである。そのうち馬鹿らしくなつて廢めたが、苗字のコレクションをすると非常にいろ／＼のことが分つてくる。ある土地に固定して動かない苗字がある。例へば鮫島とか、伊集院とか、地名をそのまゝ名乘つてゐるのは、當然その地名のある鹿兒島といふことが分る。ところが中村、小林、山田とかいふのはかへつて起源が分らない。そのうち小林の方は群馬縣の方に小林といふ非常な豪族があつたのが擴がつたらしい。渡邊といふのも攝津の渡邊だらうと思ふ。

　われ／＼が初めて分つたのが長谷川である。あれは越後の長谷川がいちばん元で、あの一族が遠方へひろがつてゆく習慣があつたと見てよい。その點はつきりしてゐるのは鈴木といふ一族である。辻川で私の家の地面を買取つたりしたのも鈴木といふ姓の家であつた。辻川でも松岡の次に多いのは鈴木であつた。昔あつた職員録などを繰ると、東北から九州までいちばん多いのが鈴木であつた。

　鈴木姓は多く重《しげ》の名乘りをつけるが、旗本の中にもある。「春は花咲く青山へんに鈴木｜主水《もんど》といふ武士《さむらひ》が……」などといふ有名なのがあり、紋所はみんな「稻の丸」である。穗積氏も鈴木一家で、陳重先生が多分さう改められたのではなかつたらうか。仙臺の方にもご親類があつて、鈴木男爵といつて伊達家の家臣であつた。

(351)　先生の方は宇和島の伊達家に仕へられた家である。

　美作の山の中にも他とかけ距つた鈴木姓があつて、外へ出ないでぢいつとしてゐた。いつか三百年祭か五百年祭かの先祖祭をするといふので、當時岡山にゐた井上の兄に「祝の歌」を詠んでくれといつてきたことがあつた。兄の歌は、

　

　　　なかなかに世に離れしや花すゝき末開くべき基なりけん

　

　基だつたか、しるしだつたか、はつきりしないが、美作あたりに行つて詠めば非常にいゝ歌だつたのであらう。ところが、到る所にかういふ飛び離れた鈴木がゐて、前にもふれたが、それがもとはみな紀州から出たことが判つた。辻川などは、氏神樣の左寄りの林の中に鈴木姓だけの墓地まであつたが、今はどうなつたであらうか。私は子供のころ、はじめて石碑の竝んでゐるのを見た時、ぞーつとして寒くなつたのを憶えてゐる。

　鈴木といふのは「鈴のなる木」といふことで、つまり熟した稻のことだといふ話である。

　

(352)　　　　　地名の研究

　

　次には地名の研究をした。これも苗字の基礎になるのだけれども、苗字よりも少し動かないもので、土地と離れないと思つて手をつけた。まづ二音節のものが舊からうと思つてそれからはじめた。三音節、四音節のは複合して出來たものと思つたからである。地名の研究は、どうしても地理學と提携しなければ出來ないことである。近ごろやつと日本地名學研究所といふのができて、本も出るやうになつた。

　最近名古屋の大學の鏡味といふ人が地名の研究を模範的にやらうとしてゐる。西洋では割に進んでゐるので、日本でもやれないはずはないといふのである。日本でもアイヌの地名は簡單な物の名前を二つづゝくつつけたりして讀めばすぐに分るやうに出來てゐる。文化が遲れたといはれるアイヌの所でさへあんなによく判るのに、内地が判らないはずはないと、學問的に研究し出したのであつた。

　地名の研究は邨岡良弼（櫟齋）先生などが早く、吉田東伍さんなどはその後であつた。探せば明治以前にもあつたかも知れない。日本の文化史を、書いた物以外からやらうとすると、最初は苗字と地名とに手を着けることになる。苗字は半分以上、明治政府になつて役場あたりで、俄かにつけたのであるから困るが、地名の方は昔からそんなに動かない。起りがはつきりしてゐるのと、何だか判らないといふのがあるが、とにかく簡單には變らないものであつた。

　明治の初年、内務省に地理局をおいて、全國の地理を一齊に調べて何ものかを得ようとしたことがあつた。各府縣に地誌の編纂を求め、それに一々地圖を添へるやうにしてあつた。この仕事は大變な勞力であつたにもかゝはらず、伊能忠敬の實測圖からあまり進んでゐなかつた。内閣の記録課長をしてゐた時、その資料をよく調べたが、どうも不(353)十分なものが多かつた。しかし判つたことは、日本にはアイヌ語と違つて、どうしても説明のつかない地名が非常にまだたくさん殘つてゐること、それがやはり苗字の上にも影響するし、誤解をも生じることが解り、未知數なる可能性が殘つてゐるといふことについて考へたが、どうもある程度しか成功しなかつた。

　例へば柳田といふ苗字と地名の關係について調べた時、こんな失敗をしたことがある。二萬分の一の地圖を擴げて、柳田家の出身地である栃木縣宇都宮からほんの一里半ばかり離れた川淵に、柳田といふ村があるので、あゝこれだと思つて出掛けて行つた。土地では「昔の御領主樣」などゝ嬉しがらせてくれた。ところが役場へ行つて見ると係の人がニヤリと笑つて「それでいらしたのですか、御氣の毒に。あれは明治の初年に此處は柳原新田といつたんですが、氣がきかないから、縮めて柳田としただけで、柳田家とはちつとも關係はないんですよ」といふ説明で、すつかり參つてしまつた。

　近ごろはこの類の地名の變更が少くない。そのため、三十年前、五十年前はどうであつたかといふことから調べて行かないといけない。播州なんかに歸つても、昔の地名を殘した村といふ公共團體はもうほとんとなくなつた。

　

(354)　　　　　南方熊楠先生

　

　大勢の人とつきあつて來たが、その中でも紀州の南方熊楠といふ學者は變つてゐた。たしか明治四十三年「石神問答」といふ本を私は出した。十人ばかりの名士から來た手紙を中心とした書簡集の形式を踏んだもので、これを坪井正五郎博士にお贈りしたところ、人類學會の方々へ紹介して下さつた。その中に紀州田邊の南方熊楠氏へも贈るやうにとすゝめられ、それが交際のはじめであつた。そのときからおよそ一年半か二年間、毎日のやうに手紙をもらつた。日によつては一日に三、四囘も便りが來るほど、じつに筆まめな人であつた。

　驚くべき記憶力と統合力との持主で、決して同じことを重複させたことはない。言葉も六、七ヶ國語ができて、各國の本を讀み、ことに珍本をよく讀んで憶えてゐた。外國の本を一册讀むと、その夜は夢にも幻にもその國の言葉が頭に浮ぶといふから大變な人であつた。英語が主であつて、とき／”＼手紙の中にイタリア語もたくさん出て來た。幅の廣い學者で、外遊中はたゞみたいなわづかの俸給で大英博物館につとめてゐた。

　私は二年近い間の手紙を、半紙に寫して「南方來書」と名づけて幾册かの本にしておいた。南方全集十二卷のうち、一册半までは、その私あての來書ばかりである。

　明治四十四年の春先、親友の松本烝治が、どこかへ旅行しようといひ出したので、紀州方面へ行つて南方氏を訪ねて見ようといふことになつた。乘物がまだ不自由なころで、大阪から人力車を傭つて田邊まで行つた。東京からお目にかゝりに來ましたといつて訪ねて行つたが、會つてくれない。そして細君を通じて「何れこちらから伺ふ」といふ返事であつた。夕食を濟まして大分經つてから、もう來さうなものだといつてゐると、女中がいえもう見えてゐるの(355)です。しかし初めての人に會ふのはきまりが惡いからといつて、帳場で酒を飲んでいらつしやるのですといふことであつた。そのうち、すつかり醉つぱらつてやつて來た。少し酒が入ると面倒になるらしく、松本を見て、こいつの親爺は知つてゐる、松本莊一郎で、いつか撲つたことがあるといふやうなことをいひ出した。よく撲つたといふ癖があるらしいが、松本はたゞ苦笑ひをしてゐた。感心なことには、いつまで飲んでも同じことは一囘もくり返さなかつたことである。しかしこのときは大切な學問上のことは何もいはなかつた。一晩しか泊れないので、翌日挨拶に私一人で行くと、細君が困つた顔をしてゐる。そして僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したつて仕方がない、話さへできればいゝだらうといつて、掻卷《かいまき》の袖口をあけてその奧から話をした。こんなふうにとにかく變つた人であつた。年百年中、裸で暮してゐた。

　私とつきあつてゐたころ、一生懸命になつて奔走してゐた仕事に、紀州地方の神社が合併になつて、その廢社になつた方の神域の大木がどん／＼伐り倒されることを大變に憤慨して、それを取りやめる運動をしてゐた。私がそのころ役人であつたので、この反對運動を手傳はせようとしたのである。和歌山の方ではあまり效き目がなかつたが、熊野川のすぐ東にあたる、三重縣の阿多和神社については成功した。よほどうれしかつたと見え「……楠の木もたゞ柳の蔭を頼むばかりぞ」といふやうな歌を書いてよこしたことがある。いつも手紙には、じつに細かいことが細かい字でぎつしり書いてあつたが、困ることには話題がいつも飛躍するのであつた。

　南方氏の仕事の中で、何とか後の世に傳へたいと思ふのは粘菌の研究で、これは世界一ではあるまいか。西洋から歸つて來るまではたつた二十ぐらゐしかなかつたものが、いまのやうにふえたのは、まつたく南方氏の功績で、あの英文の遺稿を、世界に發表することができたらと願つてゐる。

　

(356)　　　　　英人・本尊美

　

　ついでにもう少し心に殘る外國人のことをのべて見よう。大抵は私が日本文で書いて出す手紙を喜んで讀んだ人たちである。

　大正六年私が香港に行つた時、そこのイギリス總督の私設秘書をしてゐる人でホンソンビ・フェーンといふ、大變な日本通の人がをつた。この人が後に本尊美利茶道といふ日本名をつけ、日本の神道を研究した人である。

　イギリスの名家ホンソンビ家の一人息子に生れ、フェーンといふ財産家であつた叔母の跡取りにもなつたので、ダブル・ネームを名乘つてゐた大した家柄の人であつた。香港時代でも日本人の會があると日本服でやつて來て、日本語でしやべるといふ變り者であつたが、後に京都の賀茂に本式の日本家屋を建てゝ住んでゐた。齡は私よりほんの僅か若かつた。このくらゐ日本といふものを尊敬し、かつ有難がつてゐる人は珍しかつた。面白いことに、日本にゐる間は和服をきて、しかもシャツなどの下着を引込めて外から見えないやうに氣をつかつてゐた。洋服はどこで着るのですかと聞くと、本國へ歸つて、イギリスの領海に入つたら、イギリスの着物をきる。英國人ですからといつてゐた。

　イギリスの家はりつばなもので、貴族の住ひらしく、廣い牧場の中に一軒ぽつんと建つてをり、その周圍に執事や小者が住んでゐた。行つた人があるかもしれないが、有名な人では三菱の三好重道君の息子さんの道矢さんが、留學中厄介になつてゐた。頼めば日本人で、身元の確かな人なら誰でもおいてくれた。

　この人の學問はまつたくオーソドックスで、日本人の國學院の人たちのいふことゝ、ほとんと同じやうなことしかいはなかつた。正統派の人に本を讀ませて、頭の土臺を作つたので、國學にしても、神道にしても、まるでいまゝで(357)の人の飜譯にすぎなかつた。つまりあまり自分の判斷は持たなかつたのである。

　病身のため大學も本式に出ず、温い地方ばかり歩いて、西印度にもしばらくゐたし、香港以南でもあちこち旅してゐた。日本は恐らくいちばん寒い旅行先であつたらう。汽車がきらひで、旅行は非常に良い自動車でしてゐた。熊野、日光、彌彦など、兵庫縣では出石神社の研究をしてゐた。播州の高砂神社も調査したことがあつた。

　昭和十二年の暮日本で亡くなつたが、京都の賀茂の社家町の家は、財團法人にして保存してある。日本人がみな大變同情した親日家で、私の娘の婚家先の姑さんなど、アメリカでも香港でもつき合つてゐたさうである。あの人くらゐ日本人の方で喜んで優遇した人も少ないと思ふ。いかにも英國の貴族で、財産家の變り種といふ感じの好人物であつた。

　

(358)　　　　　英人スコットとの旅

　

　新渡戸さんの家で開かれた郷土研究會には、ほとんと毎囘のやうに外國人が來て、いつしよに食事などをした。大正四年の夏ごろ、ロバートソン・スコットといふ英人夫妻が參加したことがある。細君はアイルランド人、主人はスコットランド人で、もとは本國でペルメル（ポール・モールと書いた雜誌）の記者をしてゐたが、南阿戰爭の時に反對論を書いたために退社させられ、それからは民間の文筆人となつて澤山の著書のある人であつた。日本のことを書いた大きな著書もある。私らにとつてはいちばん良い友人で「君はかういふつもりで、かう言ふんだらうけれど、さういつては向うに分らないから、かういひ給へ」などと、親切に教へてくれる先生であつた。日本では「ニュー・イースト」といふ、今では珍本の雜誌を出してゐた。

　大正四年に御即位の大嘗祭があつたので、その始終を廣く人々に傳へて貰ひたいといふわけで、十人ばかりの人が手分けして歩いたことがある。私は六縣ほど引受け、香川、愛媛、廣島、山口、島根などを歩いた。その時スコットが、日本語はわからないが邪魔をしないで、顔付だけで理解するから連れて行つてくれといふので、いつしよに旅行した。

　旅の間に何かスコットを喜ばせてやらうと思つてゐたところ、愛媛縣の内務部長をしてゐた知人が「柳田君、御禮に何をしたらいゝか」といふから、水上警察の小さな汽船を一日借りることにした。船長に今日一日は私のいふ通り、どこへでも行つてほしいと頼んでおいて、スコットと二人乘込んだ。最初に地圖を開いて上陸したのが與居島《ごごのしま》であつた。だん／＼沖に出て、藍《あゐ》の島といふ孤島に寄つてもらつた。今は滅多に用もない小島だが、昔の航海では、大變重(359)要な所であつた。そこまで西南の風に乘つてやつて來て、今度は西北による樣な風で動かなければならなくなる中繼の所で、風が六十度だか八十度だか變る間、待つことになつてゐる大事な、小さい港がある。昔は遊女屋もあつて歡樂の島であつたが、汽船になつてからはどうなつたことか興味深く、この島に船をつけてもらつた。若いころに一ぺん來たきりだとか、いまでもヲナゴらがゐるかしらと、船員たちが口々にいひながら、近づくに從つて望遠鏡で覗いて「をります、をります」といふのである。黒い縞の着物をきてゐる中に、中形の洗ひ晒した浴衣をきた婆さんがまじつてゐた。それが昔は榮えてゐた遊女の名殘りで、望遠鏡で沖からみてもそれと判る姿であつたが、今は完全に島の人になりきつてゐた。

　それから何か話をきいてみようと思つて岡の上の小學校へ行つてみた。四十あまりの教員がたつた一人、晝寢をしてゐたが、赤い下帶一つで寢てゐるので、起すも氣の毒と、そつと下りてきたのを憶えてゐる。

　それから廣島縣の宮島に行つて碇泊した。船員にご馳走しようと思つて宿屋に交渉し、引返してみると、いつの間にかその船はゐなくなつてしまつてゐた。よほど嚴しくいはれてきたものと見えるが、今でも氣の毒なことをしたと思つてゐる。

　それつきり船と別れてしまつたが、あのときばかりは私も日本人の生活にはまだこんな面があるんだと、西洋人に向つて自慢したい氣持になつたわけである。そして遊女の今昔について下手な英語で説明してやつたら、スコットは非常に面白がつてゐた。

　その足で宮島から小郡《をごほり》に行つた。それから防府の近くの湯田温泉に一泊して山口に寄つた。そこで講演してからずうつと津和野を通つて島根の海岸に出た。途中ところ／”＼見物して松江に泊つた。ハーン（小泉八雲）の舊邸に案内してほしいといふスコットを連れて、ハーンのゐた根岸家を訪れた。根岸家の主人といふのは磐井といつて、私の大學時代の同級生である。

(360)　瀬戸内海を旅行する以前、その年の夏にはスコット夫妻と、那須皓君も同行して那須温泉に行つたことがある。いちばんてつぺんの三斗小屋とかいふ高い所にある温泉まで歩けるだけ歩いて泊つた。幸ひに他に客が誰もゐなかつたが、この温泉は混浴だなどとスコット夫人にいふと吃驚してゐた。しかし間に雨戸で仕切りを立てたりして、ともかく細君にも入浴させた。

　それから會津へ下りたが、あの道は昔からある有名な街道だけれども、ひどく荒れてゐた。見ればスコット夫人はあたり前の靴をはいてゐるので、とても無理であつた。足から血が出てゐる。歩いて行くといつた以上、一言も泣き言をいはずに下まで歩き通した我慢強さには感心した。

　それから田島の里に出たが、ちやうど秋の初めにある夏祭の日にあたつてゐた。まことによい祭禮で、それを見てから細君も非常に喜んで、すつかり元氣が出た。そこで綱引き俥を四臺頼み、輪を列ねて山道を下り、途中で一晩、越後の方からの八十里越を越えた所にある只見といふ小さな町に泊つた。翌日阿賀野川の岸を越後へ降りると、もう汽車が開けてゐた。野澤から汽車に乘つて三條に行つた。

　三條の町から一里あまり行つた所に、井上の兄の歌のお弟子さんで外山君といふ人がゐた。早くから報せておいて、できるだけ純日本式に、西洋人が來たなどと思はないで、君の家で泊めてほしいと頼んでおいたところ、萬事その通りにしてくれた。あの時は本當に誇りをかんじた。

　美しい月夜で、ちやうど青田が、もう一週間のうちに穗を出さうとするのが、ずうつと廣く、末は雲に入るほどつづいてゐる。あのあたりの座敷は庭から廻つて入れるやうに、縁側の外にもう一間だけ庭を造り、その外側に作つた圍ひは夏になると開けひろげてある。そのために家の中に土間があるやうに廣々として見える。細君も非常に喜んだ。外山家の子供たちが小學校を出る時に歌ふ「螢の光」を歌つてきかせてくれたので、那須君が「あれはバーンズのロングサインのメロディをとつたものだ」といふと、細君はそれではといつてその本歌を歌つてくれた。外山君の家族(361)も皆一緒になつて歌つたが、それから何年か後、私がロンドンに行つてスコット家を訪ねた折、夫婦して越後の田舍の家を懷しがつてゐた。

　細君はすでに亡くなつたが、主人はまだ元氣で時々手紙を寄せてくれる。今度の戰爭のあとも、すぐどうしてゐるかと便りをよせてくれた。年は私より十歳も上である。じつに印象に殘る夫婦であつた。

　

(362)　　　　　エリセーフ父子

　

　ロシア人として私が日本文の手紙をやつても平氣で讀める知人が、ネフスキーの他にもう一人ゐる。今パリにゐるエリセーフがさうである。二、三年前訪ねて來たとき、多摩川の川向うにある古くさい紀の國屋といふ料理屋へいつしよに行つた。純日本料理、それも川魚料理であつたが、その折、店の主人が「どうかぜひ一筆、記念のために」といつてきた。私は斷るかと思つて見てゐると、筆を使ひ懷ろから用意の印形を取り出した。まつたくの日本通である。

　昔エリセーフが東京に勉強に來たころから、附合つてゐたが、非常に變つた人で、もとはモスクワの有名な百貨店の持主で、大變な金持であつた。革命でそれをすつかり没收されてしまひ、わづかばかりの身の囘り品をパリへ送つておいて身一つで逃げ出した。パリに着いてもなか／＼その荷物が受取れないで困つてゐた。

　非常に難儀して、パリの日本大使館に低い僅かの月給で働いてゐたが、そのころ私はパリの大使館で會つた。日本人が、代る代る行つて、たうとうその引掛つてゐる荷物を取戻すことに成功した。そしてやつとフランスの國籍を得て、今ではフランス人である。

　昔、偶然東海道の汽車の中で合つたことがあつたが、その時ニキタといふ子供をつれてゐた。その名前を憶えてゐたので、今度來た時に、ニキタのことを聞くと、今は偉いアラビア學者になつて、フランスがアラビアに設けた研究所の所長になつてゐるといふ話であつた。子供は二人あつたが、弟の方もハーバード大學かどこかで勉強して、今はフランスに歸つてゐるとか。たしか發掘考古學の專門家だつたと思ふ。日本でも頻りに發掘してゐたが、研究の中心點は中央アジアか、どこかあの邊で、兄弟とも有望な學者である。

(363)　ロシアから日本に來た時は、最上級の若旦那のやうな暮しで、それがフランスへ逃げ出した當座はまるでどん底だつたのに、それをまた通り越して今ではたくさんの年金ももらつてゐるらしく、面白い一生といつてよからう。

　それにあんな國際的な人になると親子兄弟が一年に一ぺんづゝ會ふ約束をしてゐる。アラビアとアメリカから息子が、パリから父親が、それ／”＼飛行機で來てスペインの海岸でいつしよに夏をすごして、また解散するといふじつに痛快な暮し方をしてゐるとか聞いた。

　支那の學者では、われ／＼が「民族」といふ雜誌を出してゐた昭和の初めに來て、社會學を勉強して歸つた何思敬といふ人がゐた。もとは何畏といつて國民黨の大長老で、浙江省出身だつた張靜江の甥だといふ話であるが、東大を出てから歸國して、滿洲事變の前後には廣東の中山大學の法學部長などをしてゐたこともある。あのころはやつて來ても、日本が威張つてゐるころで、氣の毒だつたが、今訪ねて來てくれたら、いろ／＼の話ができさうに思ふ。細君も支那大使館詰の人の娘で、實踐女學校出身だつたさうだから、日本婦人と全く變つたところがなかつた。

　

(364)　　　　　オランダ人の知り人

　

　オランダではヴァン・デ・スタットといふ人を知つてゐた。青山の宮益坂の上にある長井長義さんの邸内に住んでゐた。私が貴族院の書記官長をしてゐたころに石黒君の紹介か何かでやつて來たのがはじめである。

　つき合つてゐるうちに判つたが、元來ジャヴァの近くの石油か石炭が出るバンカビットン島といふ小さな島と、もう一つ他に小さな島があつて、そこに中國の出稼ぎ勞働者が非常に入つてゐて、惡いことを考へる者がまじつてゐたので、この人はそれを調べるのを仕事にしてゐたらしい。客家《ハツカ》といつて、廣東から臺灣にかけて擴がつてゐる、一種の大きな自然のまゝの足をしてゐる人種があるので、その言葉を研究し「客家・蘭印・和蘭語辭典」を作つてゐる人物であつた。

　日本語の手紙を判讀する目的でやつて來たらしいことが判つたので、逆手を出して、私の所へ來る�ｺ川公爵をはじめ名士の手紙をみんな彼にやつた。大變喜んで、向うからも何かすることはないかといふから、二人で日蘭語の交換教授をすることにし、一週に一ぺんづゝ會つてゐるうちに、彼は日本語とオランダ語との字引を拵へた。身分もあまり高い出の人でなかつたらしい。しかし人間は素朴のやうにみえた。日本語をおぼえるのには芝居を見るのがいゝといつて、あのころ赤坂にあつた女ばかりの芝居へよく行つてゐた。細君はオランダ本國人と蘭印の人との合の子で、子供もたくさんあつて日本を引上げてからも手紙をよくよこしたが、その後どうなつたであらうか。この人には私の方からも平氣で日本語のむつかしい手紙を出してゐた。

　どういふものか弟靜雄は蘭領印度に興味を持つてゐながら彼を好かなかつた。字引を出すのは感心ぢやないかと私(365)がいふと、靜雄の方でも大急ぎで辭典を先に出してしまつたりして、雙方とも折合はなかつた。

　通譯官のフィッシェルといふ人もゐたが、この人は面白い論文ばかり書き、いつも私にくれてゐた。教員上りの、大變熱心な親切ないゝ秘書がゐて、私の所へはその人を通していろ／＼のことをいつて來た。私の方でもオランダへ行つた折、訪ねて行つたが、ちやうど留守で合へなかつた。長崎出島のものなどたくさん集めてゐるオランダの日本關係の博物館で働いてゐたが、もう死んださうである。

　最近では一年間、私の研究所へ勉強に來たアウエハントといふ人がゐる。ライデンの民俗博物館の日本關係の主任をしてゐるとか、候文でも何でも讀む力をもつてゐる。オランダ人は全體として大變ひかへ目で、アメリカ人などに比べて、合つて話がしやすいやうに思はれる。何でも彼でも日本のものでありさへすればやるといふアメリカの風も感心しないし、ロシアみたいに日本のアラ探しだけやつてをられても困るから、外國人で日本のことを調べに來る人があつたら、本當に親切にして、こちらでもかういふ問題をやつて貰ひたいといふところまで引張つてゆくやうにしなければいけない。

　

(366)　　　　　田の字型の家

　

　前にもちよつとのべたが、故郷の辻川の私の家は、今は大門に近い「カケアガリ」に移されて、家の型といひ、構へといひ、昔の面影はすつかりなくなつて、まつたく變つてしまつてゐるが、子供のころの家をおもひ出してみると、何もかも、すべてが一種の縮小型であつた。庭木の植ゑ方までが、さうであつた。間取りは田の字型の四間で小さいながらそれに泉水のある内庭がついてゐた。

　玄關を入つた所が三疊、その奧に四疊半が二間竝んでゐて、一通りの形を整へてゐたことから、後年、私は日本家屋の構造を比較研究する場合に、何時もこの小ぢんまりした辻川の家を出發點とするやうになつた。

　日向を旅して椎葉に行つた時、そこの民家の構造が、非常に私の生家などと違つてゐたので、どういふ譯だらうと思つて、新渡戸博士と議論をしたことがある。四間通りの家が原則だといふのが新渡戸説だつたが、私はそのころは、二間造りの部屋にうしろのないのが本當で、あとになつてだん／＼奧の方へ建て増していつたものではないかと思ひ込んでゐた。

　ところがそれは思ひ違ひであつた。日向の椎葉とか、あるいは大和の十津川とかいふやうな山の崖の下にある家では、さう奧行がとれないから、一間通りにする他なく、やつと前へ出すとか、縁側をつける程度ですましてゐるのであることが判つた。つまり山村の建築には、田の字型といふのでない間取りが少なくない。どつちが舊いかといふと、やはり四間通りの田の字型ではないかと、今では思つてゐる。

　近年になり、農家の建築が非常に發達して、田の字型がごく普通になつたが、その前はやはり縦にいくつかの部堅(367)が竝んでゐて、その間はたゞ便宜上、衝立などでしきつてあつたのではないか、そして用のない時は、しきりをぐつと奧によせて、手前の方を廣くしてあつて、たゞお産があつたり、病人が臥たりすると、しきりをこちらまで持ち出すといふふうに、動きのとれる家が普通だつたのではないかと、いつでも舊い家を見るたびにさういふ氣持になる。

　例へば東北を歩いてゐる時分、菅江眞澄がしば／＼泊つたといふ舊い名主の家が昔のまゝになつてゐるが、眞澄などが泊つた部屋は眞中の部屋であつたといふ話である。表の客間は、もつと格式のある偉い人のために用ゐ、眞澄のやうな旅の歌詠みが來ても中の間に泊めたわけである。辻川の三木家などでも、郡長とか縣の役人が來て泊るのは表の客間で、普段は空けてあつた。そして私などはいつも中の間に泊めて貰つてゐた。この中の間のまだ發達しない家が四間通りだけといふわけである。

　私の生家に本が少なかつたことがかへつて私を本好きにし、そして家が小ぢんまりしてゐたことが、私に日本家屋の構造に興味をもたせるやうになつたのは面白い經過であつたと思つてゐる。

　

(368)　　　　　生家にあつた子供の本

　

　祖母小鶴は私の生れる二年前、すなはち明治六年に世を去つた。昔あつた道端に近い、多分二階家であつたらしく思はれるが、寺小屋を開いて大勢の子供を教へてゐた。もうこの舊い家のことは誰一人知つた者もない。明治八年に私が生れた時分の家は他所から移して來た前記の小さい家に變つてゐた。

　兩親としてはこの家を建てるのに入り用が多かつたに違ひないから、いろ／＼のものを處分したことが想像せられる。代々學問をした家で、父も大變本好きだつたのに、私の物心がついたころには、あまり藏書がなかつた理由もそんなところにあつたのかも知れない。

　幼いころ、私の家には三つか四つだけ、子供がいつでも手をつける本があつた。

　一つは三世相《さんぜそう》で、いはゞ昔の百科全書で、どこの家にも一册はあつた。六十の凶とか、これ／＼の日に生れると運が惡いとか、欲が淺いとかいふことまで書いてあつた。

　次は武家百人一首で、普通の百人一首をまねて、幕末に姫路藩の人が作つたといふ大變興味のある本で、美濃版半截の各頁に武者繪を描き、その上に和歌が書き入れてあつた。曾我兄弟のやうに子供のよく知つてゐる繪もあつたので、取り合ひで見たもので、今でも顔などよく憶えてゐる。梶原景時の顔はつぶしてあつたが、どこでもさうだつたらしい。曾我十郎の歌は「今日出でて巡りあはずば小車のこの輪のうちになしと知れ君」とあつた。

　ずゐぶん無茶な歌でよく解らないが、曾我物語からあの兄弟の歌をとらうと思ふとそれしかなかつた。五郎の歌はもう少し仇つぽいもので、後に私も五郎にこんな歌はをかしいと感じたほどであつた。多分井上の兄がまだ養子に行(369)く前に、父母から買つて貰つて、生家に殘しておいたのを、私ら三人の小さい兄弟が奪ひ合つて見たものだつたと思ふ。

　その他に妙な本があつた。八犬傳の原本でその第六篇ではなかつたかと思ふ。舟蟲といふ女の出て來る所からはじまつて、十册だか八册かあつた。それを何遍讀んだかわからない。

　もう一つ「蒙求」の和解といふのがあつた。支那の本を日本文に直し、假名をふつた子供のためのもので、これを讀むと蒙求の大意がよく解つた。

　この四つは確かに子供用としておいてあつたが、それ以外はどうも記憶にない。父がどうして買つて來たのか、「康煕辭典」をはじめて買つたので、私もあゝこんな本があるのかと感心した。母の話に「お父さんはお前のやうぢやなくて、もつと勉強家だつた」と物尺で本の厚さを計つて、五分讀んだとか七分讀んだとかいつたものだといふことを、聞かされたのを憶えてゐる。

　それほどなのに、本格的な本はほとんと殘つてゐなかつた。理由を母にきいてみたところ、義理の惡いことをした本屋があつて、父に迷惑をかけた爲めだといふ説明であつた。

　はつきり判らないが、私は家で「播陽風雅」といふ青年雜誌のやうなものを二、三册見たことがある。青年達が詩だの文だのを漢文で書いたものを、父が世話をして一册に纏めてどこかの本屋とくんで出版をしてやつたものらしい。留板《とめばん》と稱して、昔の版權登録の方式だが、版木のうち一枚だけ版權者の所にもつて來ておいて、無斷で再版できないことになつてゐた。その留板の版木が一つか二つか私の家にあつたが、父は世才にうとい、ごく單純な人間だつたので、その出版事業のため本屋から大變迷惑をかけられたり、何かしたことがいくつか重なつたために、神經衰弱になつたのだらうと思つてゐる。

　

(370)　　　　　頼母子のこと

　

　何代も學問をして來た家にしては不思議なことであるが、いつも父は風呂敷包みをさげて、本を借りて來ては讀んでゐた。そこに何か譯がなくてはならないが、永久の謎である。

　私の家は何でも辻川と但馬との間のどこかの街道端にあつたのを買つてきたとかきいてゐる。そこで問題はどうしてそんな小ぢんまりしてはゐても、がつしりした家を買つて來る金があつたかといふことになる。地面は元のまゝ持ち續けてゐたのだし、毀れかゝつた舊屋は二束三文だつたらうし、結局どうも中産階級の金融方法であつた頼母子に頼つたのではなかつたかと想像してゐる。誰か親切で頭のいゝ顔役が一人、主催者になつてくれたのではなからうか。そして私ら子供たちが大人になりかけ、世の中のことが判るやうになつたころには、もう返してゐたのかと思ふ。それから十年後に、長兄がはじめて東京に出る時にも、この��頼母子″のお蔭で樂に出られたやうであつた。

　頼母子のことを東京方面では無盡といふが、これは單にいつまでもある、すなはち永久の意味で、助け合ふとか恩惠とかいふ意味はない。ずつと西の方に行くと「もやひ」といふが、それも單に共同勞働の意味しかない。頼母子といふ言葉は非常にふるく、足利時代はもちろん、鎌倉時代でも探せばあるだらう。つまり親類中の助け合ひの力では足りない場合に、親類以外の友人といふものが、知人の危險を見るに忍びないで、才覺をしてまはしてやるわけである。

　入用な人を助けるために、例へば十二人の人が十三囘金を集め、一囘分はまづその人にたゞで囘してやつて、利子などはとらない。お互に信頼して融通し合ふわけである。無盡の方には後に取りのき無盡といつて、くじ引きが當る(371)と金をとつて、その後はもう掛け金をしないといふ賭博のやうな弊害のあるものが出て來た。私は昔風の頼母子講を非常に面白いと思つて、大學にゐるころにはもう少し研究してみるつもりでゐたことがある。頼母子といふのは要するに一人の力ではとても助けられないのを、十人共同して一軒の家を助ける。つまり共同して助け合ふといふ仕組である。

　私の生れた松岡の家が、少なくとも二度は非常に純粹な、昔風の頼母子の恩惠に浴したやうに思はれる。しつかりした世話人が必要だつたが、長兄が家を出た時には、辻川の隣部落の井の口にゐた、四十歳を少し越えた、大變義?心と智力とのあつた人が、兄を信用し、愛してその役を引受けてくれたことを憶えてゐる。私の家の建てかへの時にも誰かそのやうな人が盡力してくれたものであつたらう。

　その井の口の人の一家は、その後不幸續きで、第一に私と同年輩だつた友人が病死し、それから後繼の子供などがつぎ／＼に病死してしまつた。

　

(372)　　　　　父の熊川舍塾監時代

　

　父が姫路の元鹽町にあつた熊川舍《ゆうせんしや》に迎へられ塾監になつてゐたころが、母としても最も盛んなときであつた。町の舊家の人達が、藩の許しを得て金を出し合つて作つた學校で、町家の子弟に漢學の手ほどきを教へたのである。

　母の話によると、そこは山陽道の中央街道の上に當つてゐたので、大勢の人が紹介?などをもつて來たさうである。塾監としては父が最後の人であつた。維新の改革でつぶれてしまつたが、その後どうなつたであらうか。あの歴史が判ると面白いが、もう知つてゐる人はなからう。いちばん大きな保護者は國府寺《こふでら》といふ資産家で、辻川の三木拙二翁の母君の出た家であつた。

　父は自分の育てたお弟子のうち、二人をよく自慢にしてゐた。一人はその國府寺家の新作といふ人で、後に外交官になつた人である。外交官に似合はぬ非社交的な人であつた。男の子がなく、女の子が一人あつて、奧山君といふ越後か山形の出身の外交官に嫁いでゐた。フランスの參事官まで行つたかと思ふ。辻川へも時々行つたことがあるらしく、フランスでいつしよになつた時も「三木の叔母が貴方の話をよくしてをりますよ」などゝいつてゐた。國府寺家は大變な舊家で、姫路の初期からの舊家ともいふべき家であつた。苗字帶刀御免で、大きな役をしてゐたが、この家が發起人となつて、何人かの有力な同志を誘つて早くから町學校を建てゝゐたわけである。

　もう一人、父の自慢にしてゐたお弟子は佐治實然氏であつた。日本の佛教を改良しようとした人である。

　父の俸給は米八石であつたか八俵であつたか、何でも八の字のつく額を受取りに行くのに、領收證が必要であつた。米八俵と書くのに、米の字を上にはねて書いてゆくと、それは違ふ、やはり御家流に米の字はかう下に曲げて書かな(373)ければいけないといつて突き返されたさうである。ずゐぶん窮屈だつたねえと父が笑ひ話にさういつてゐたことがある。わづかばかりでも俸給をもらつてゐたことが判る。

　維新とともに學舍はなくなつたが、兩親が明治何年頃まで姫路にゐたのか私はよく知らない。どうかして姫路の教育史の中から熊川舍の結末が知りたいと思つてゐる。

　父の姫路時代、長兄の鼎は辻川で生れて姫路へ連れられたわけだが、二番目の俊次が生れ、三番目の泰藏（後の井上通泰）が慶應二年十二月二十一日に、それから四男の芳江が生まれてゐる。五男の友治といふのは、私の直ぐの兄で、明治四年に辻川で生れ、四つまで生きてゐて、私の生れる前に死んだ。この兄の生まれた時には兩親はもう辻川に歸つてゐたことが判る。

　母は熊川舍で書生の面倒を見てゐたので、躾けはなか／＼嚴しかつた。父の方はさういふことをいつかうかまはない方であつた。

　

(374)　　　　　洒落の解る子供

　

　辻川の南を岩尾川といふ綺麗な細い川が流れてゐる。北條の方から來る所に橋があり、その橋は私の見てゐる間に石橋にかけ代へられたのでよく知つてゐる。それは姫路から來る國道がついた時のことであつた。その少し上流に岩尾神社といふお宮がある。妙�ｺ山の鎭守さんだつたらしい。それに向つて左の所に私らが通つた昌文小學校があつた。

　妙�ｺ山といふのは古風な寺で、どういふわけか、支院ばかりいくつもあつて本寺がない。妙�ｺ山に一月の十六日か十五日に「鬼追ひ」といふ年中行事があつた。子供にとつては、その行事はいちばん大きい興奮で、今もよく憶えてゐる。

　「をん、そこぢやい。めん、そこぢやい」といふものだから、鬼にをんとめんとがあるのかしらんと思つたりした。今も大門といふ地名があるが、その表口にもとは大門が建つてゐて、そこから文殊堂まで、少し斜め東北に向つて眞直ぐに參道がついてゐる。播州の北ではいちばん歴史に舊いのはそこで、記録類によれば平安朝まで溯ることができる。大門がいちばん外の門だが、私の子供の時分にはもうなかつた。懷しい所である。

　子供のころ私はよく大人の側にゐて、話をきいてゐた。父のやうに多少學問の道に入つてゐた者の友達らとの話には、ちよつと特徴があつた。

　父の仲間はどちらかといふと、頼山陽なんかに對する反感があつたのかも知れない。山陽の話もよく聞いたが、むしろ對立者であつた中島｜棕隱《そういん》のことをよくいつてゐた。棕隱の逸話として、幼いころの私が小耳にはさんだ話にこんな話があつた。

(375)　ある雨の降る日に、棕隱が笠なしで、とびこんで來た。するとその家の亭主か誰かが「夕立にぬれて骨まで腐れ儒者」といふ發句をかけた。すると棕隱は即座に「斐《ひ》たる君子と誰か見るべき」と返事したといふのである。「大學」に「斐たる君子あり」といつて、立派な君子ありといふ意味の言葉があるのをもぢつて「濡れた」に對し「乾《ひ》たる」とかけて應答したといふわけであつた。その時分は「大學」を暗記してゐる者が多かつたから、子供でもこれを聞いて笑つたものである。

　もう一つこんな話も傳はつてゐる。加茂季鷹が中島文吉（棕隱）と大變仲がよく往來してゐた。その時の話である。あの時分淨瑠璃で「染分手綱」が流行り、その中に自然生《じねんじよ》の三吉が出て來る。それで「三吉乘つたか昔のくち合」といふ文句が行き渡つてゐた。子供も竹馬か何かに乘る時によく「三吉乘つたか」などゝいつたものである。そこでこの「三吉のつたか昔のくち合」に對し、棕隱らしいが、「文吉、すゑたか（季鷹）今のつき合」と文吉と季鷹とを讀みこんで詠んだ。それにつゞいて「染分手綱、詩歌の道」と詠み、つゞいて「五十三次、道行長し」と出てます／＼をかしくなるのを、大人たちがよく話してゐた。私は脇できいてゐて、大人と同じやうに笑ふために「この子は解つてる」といはれたことをいまだに覺えてゐる。そのころはこれが非常に痛切な洒落であつた。洒落を理解して笑ふ中にもはじめに本當にわかつて笑ふ者と、自分はわからなくても、皆が笑ふから判つたやうな顔をしておつき合ひ笑ひをするのと二通りあるやうであつた。この氣風は今の日本にも少なくない。

　

(376)　　　　　内閣文庫

　

　内閣の記録課長を四年ぐらゐ勤めてゐたため、私はまた別の方面の文獻に親しむ機會に惠まれた。内閣記録課長としては別に内閣文庫に手を觸れなくてもいゝ地位ではあるが、前任者の江木翼氏が、私に頼むのが名案だと建白して、内閣文庫の仕事が私にまはつてきた。

　内閣文庫は昔の林道春の時分から傳はつてきた「千代田文庫」と竝んで、明治初年からの出版法で納本された新刊書とがいつしよに所藏せられてゐたので、管理のしにくい文庫であつた。

　林道春の舊藏本などには「滑雲遠樹書屋」の捺印や、本人の書入れなどのある貴重なものが少なくない。支那のものには、明朝のごく初期の文化の盛んな時代の、いはゆる古渡《こわた》りの詩文集などもあつた。あのころ、これを見るためにわざ／＼日本に來た支那人もあるほどであつた。

　日本の本でも、明治になつてから、伊勢の舊家の神官の家のものとか、京都の社家の藏書など、こゝに收められたものがあつた。一生かゝつて調べてみたら、さぞかし面白いだらうと思ふものがたくさんあつた。

　内閣文庫の整理については、いろ／＼面白い話がある。皇居の一部、もと近衛師團本部のあつた乾門の二階は、本がいつぱい入つたまゝ開けずの間になつてゐた。不淨倉といつて、どちらかといふと一種の穢れのある本、刑罰にあつた人の家にあつたのを没收した本が、一般とは別にしてそこにしまつてあつた。

　この本を京都から來た本好きの新村出君と一緒に調べてゆくうちに、大阪の大鹽平八郎の家から出た本などが出てきたことがある。ことに格之助といふ息子の、子供らしい字で名を書いた手習ひの本なども混つてゐた。これも今は(377)内閣文庫の中に入つてゐる。

　文庫には、書物の他に、明治初年からの公用文書も保存せられてゐて、それの置いてある所へ入ると、ほとんと蝙蝠ばかりで、窓のすき間からたくさん出入りして、薄氣味が惡いくらゐ、人のゆかない所だつた。内閣になる前の太政官時代には、金に絲目をつけず、分量の多くなることをむしろ自慢にして、大きな文字で悠長に書いたものらしい。

　びつくりしたのは、沖繩のことを少し調べたいと思つて、知人に相談したところ、大藏省の倉の中に、地方から集めた本が非常にたくさんあり、その中に奄美大島の記録がたくさんあつた。もちろん明治になつてから寫したり、集めたりしたもので、まだ内閣文庫に入れない本である。昔の人は用がないので、惡くいへば何をしていゝかわからぬ人が多かつたので、人をたつぷり使つて寫本をやらせたものであらう。

　私は本のことではずゐぶん苦勞をしたが、いちばん最後が内閣文庫であつた。もう少し長くゐたら、いろ／＼私なりの考への仕事があつたが、何分兼任だつたので、早くこゝと別れてしまつた。

　この厖大な記録類の中に入つてつく／”＼思つたことは、書物といふものは一生かゝつても見終ることはないといふことであつた。

　農政などでも田制、土地制度など、藩によつて違ふが、江戸時代に始つたものはなく、何れももつと舊いものである。それらの制度や慣例の違ひを書物だけで學ばうとしたら、一生かゝつても足りない。そこで我々の今してゐる學問が必要になるわけである。要點をつかみ、それを實地に即して調べて行く方が、文獻だけを漁り廻してゐるよりは效果がありはしないかといふことを、書物に埋もれた結果、私は考へたのである。

　

(378）　　　　　日蘭通交調査會

　

　但馬生野の鑛山近くに葬られてゐる祖父の陶庵居士や、利かん氣だつた松之助といふ變り者の先祖を思ふ時、私はいつも五十九歳の短い一生の間を、まことに充實して濃厚に生きた弟靜雄を偲んでゐる。松岡の家に傳はる一種の型が、私達兄弟の中で一番靜雄に濃く傳はつてゐるのでないかと思ふ。

　靜雄は澤山仕事をしたが、どこかに世間知らずの氣持がつきまとつてゐた。書物もたくさん出したし、語學の素養もあつたので日本語について非常に獨創的な新發見もしたが、誰も研究の友達がゐないため、その隣に間違つた意見が入つてゐても、注意を與へて統一をはかつてくれる人がなかつた。外國のものになるとなほさら理解の範圍が狹く、その以外にフランスとかオーストリアとかにどんな研究があるかまで眼が行きとゞいてゐない。つまり平素から學問の比較研究が足りなかつた。まだ兵學校にゐたころ、父は「あれはあまり早過ぎるからいけない」といつたりしてゐた。

　何の仕事でもやりすぎた嫌ひはあつたが、一面また夫婦して若い人達を大變可愛がるものだから、話を聞きに來た人は一人も喧嘩して出て行つたりはしなかつた。近頃でも私に向つて「松岡さんのお元氣な時分には……」などゝ懷しがつて挨拶してくれる人がかなりある。

　靜雄の仕事の中で、私も一番賛成して一生懸命にやらせたく思つたのは「日蘭通交調査會」の仕事であつた。前から「日蘭協會」といふのはあつたが、それとは別に、この調査會を作つて蘭領印度を研究しようとしたものである。弟はいつも出歩いてゐたので、私が貴族院生活の下半期には、大變この仕事のために働いてやつた。

(379)　オランダから來る者で、少なくも外務省を通じて物の言へる連中は嬉しがらなかつたが、ぢかに蘭領印度から來る人はみな私の所を通るものだから、大分政治的になつてきた。それに弟が退役して閑になつたため、オランダへ行つて事業をやらうとした。オランダではニューギニアをもてあましてゐたので、日本人に水田を作る場所を提供しようといひ出して大分話が進んできた時、外國から横槍が出て物にならなかつた。この頃、私はよく中野正剛の雜誌「東方時論」に頼まれて、蘭領印度のことを書いてゐた。飛行機の利用できなかつたあの頃、行つたこともないのに、まるで見て來たやうに書いたのだから面白い。計畫にも穴があつたが、もしあの頃、日本人の手にかゝつてゐたら、もう少し日本の文化史が違つてゐたのではなからうか。

　一時はオランダ語もよく勉強した。隨分野心的な話だが、貴族院の書記官長をしてゐた時代に、オランダ語の字引を作らうとして非常に時間をかけたことがある。

　ともかく一時、私共兄弟が、弟の方はいくらか事業慾もあつたかもしれないが、私はさうでなく、一つには今も考へてゐるやうに、日本人とどんな縁故があるかといふことが知りたくて、一緒に勉強したといふ經驗は、私と靜雄との協力の例として珍しい出來事であつた。

　

(380)　　　　　快男子江川俊治

　

　私と弟靜雄とが珍しく力を合せて苦心した蘭領印度のことに關連して、江川俊治といふ珍しい人物が偶然われ／＼二人の面前に現はれてきた。

　秋田縣のお寺の生れで、若くて氣力のある面白い青年であつた。日本國中を自活して歩いてゐるといふので、そんなことができるかと聞くと、できますといふ。小學校の理科で使ふ標本を自分で造つて、賣りながら全國を歩いてゐたのである。まづ海の標本を集めることにした。貝類とか、海藻とか、海岸地帶で集るいろ／＼のものを標本に作つたらしい。

　かうして全國をまはつて臺灣まで行つてきた。

　「面白いですね、臺灣の基隆沖を流れてゐる潮の冷たさは、金華山沖と同じですね」とか「植物帶が同じですよ」などゝ話してくれた。

　郷里の秋田から縁續きになる椅麗ないゝ細君を迎へて、大分縣の別府で土産物店をやつて、ある程度成功すると、江の島へ移つてやはり土産物店を出した。自分は終始地方を旅行して、珍しいものがあると店に送るし、途中でも標本を造つて學校に買つてもらつた。

　私は金の援助など無論しなかつたが、たゞ靜雄といつしよにできるだけ力になつてやることにして居た。私自身も蘭領印度の知人を紹介してやつたりして、江川はジャヴァへ渡つて行つた。そしてたうとうハルマヘラ島に落着いて開拓をはじめた。見聞がひろいからその知識でいろ／＼なことをしたらしい。例へば菊のやうな草を煎じ藥にして、(381)利尿劑にすることなども考へて、私の所にも送つてよこしたりした。

　話も上手で人を感動させるので、私は「東方時論」に江川のことを書いたことがある。印象に殘つてゐることをかいつまんで話すと、害蟲の發生する時には速力が非常に早く、一晩たゝないくらゐの間に、せつかく稻作をして、苗が大きくなつたと思ふと、たちまち害蟲が擴がつてしまふ。内地から連れて行つた四、五人の青年といつしよに、毎晩寢ないで火をつけて害蟲退治をしたがなか／＼むつかしい。しかし家内中で幾晩か働いて、害蟲の驅除に成功して、ある朝靜かに起きてみると、白鷺がいくつか空をとびまはつてゐた。それをみて皆が嬉しくて泣いたとか、そんな話をいかにも當り前のことのやうに話してきかすのであつた。

　江川の話でもう一つ今でも憶えてゐるのは、ニューギニアの北海岸のいちばん大きな都會に日本人の大工さんがどうしたわけか一人ゐて、始終船を造つてゐた。そこへ土人が男も女も眞裸で、褌もしないで見物に來る。するとその大工が、こちらも裸だが、舟を造りながら、一々その丸裸の土人たちに鉢卷をとつてお辭儀をしてゐる。それを見てゐると何ともいへない好い氣持がしたなどゝいふ話をした。そしてあの大工さんは日本の田舍から誰に頼まれたか、直かにあそこへ行つたのでせう。あちこち囘つて行つたら、あんな素朴な態度をとる氣遣ひはないからといつてゐた。

　大谷光瑞さんとも連絡があり、ニューギニアの開拓をしようと考へてゐたらしいが、戰爭でだめになり、内地に引揚げて來て、亡くなつてしまつた。たしか娘さんが神戸に嫁いで幸福な結婚生活をしてゐるとか聞いてゐる。細君は秋田に歸つてゐるらしい。

　大正から昭和にかけての本當に注意すべき陰の人物であつた。一文なしで初めたところがまづわれ／＼の氣に入つた點だが、その仕事のやり方も感心な所があつた。

　

(382)　　　　　太田陸郎君

　

　播州出身の太田陸郎君は、をしいことに戰爭中、臺北で死んでしまつたが、播州のためにはかなり盡してくれた人であつた。はじめて私のところにあらはれたときは、もう神戸の縣廳の役人をしてゐた。元來、飾磨郡置鹽村の舊い家の出で、お父さんは名倉｜次《やどる》といつて御影師範に學び、私の長兄とは同窓の友人であつた。陸郎といふから六男であつたにちがひないが、網干の太田家に養子に行つたので姓が變つたわけである。

　南方熊楠氏の影響を大變に受けて、ことに植物のことをよくしらべ、召集を受けて支那に行つてゐた間にも勉強して「支那習俗」といふ一册をまとめるほど、じつと向うの人の生活を見つめてゐたのである。こんな人は滅多にないと思ふ。

　上海に上陸してから、いつも一定のところに長く滯在する部隊にばかりついてゐたので、暇を見つけながら書いてゐたのであらう。最後は漢口と武昌へ行つたが、それまでの間にそちこちの記録をとつてまとめたのが、その本であつた。

　戰地から、もう歸つてよろしいといはれてから、せつかく來たのだから第一線の戰場を見ておかうといふので、志願して馬來まで行つた。ところがその歸りに臺北の上で惡い氣流にあつて飛行機が墜ち、死んでしまつたのである。遺族としてはあきらめられないことであらう。

　男の子が一人あつて神戸のどこかの學校の先生をしてゐるとか、女の子もあつた。細君は網干に住んで子供の成人を樂しみにして暮してゐるらしい。

(383)　太田君からは私もいろ／＼と教へられた。いつかやつて來たときも、今日は半日暇だといふので二人で小田急沿線を散歩したことがある。梅の咲くころだつたが、太田君は村のつくりが、上方とはまるでちがつてゐる、何かわけがあるのだらうが、上方では見られない景色だといつたり、村全體を梅で埋めてゐるやうなのは播州では知らないといつたりした。

　同じ仲間の島田清君といふ人は、同じ職業だが、多く歴史の方へ入つて、縱に觀察する傾向があるのに對して、太田君は横斷面を見ようとして大變ちがつた立場をとつてゐた。兵庫縣下をよく歩いて「近畿民俗」などに發表してゐるが、一つにまとめておいてやりたいものである。

　私の家とははじめにいつた通り、二代にわたつて懇意だつたわけであるが、そのうへ、今も太田君の形見が私の家の庭にはある。たしか武昌大學の竝木の實だといつて、ケンポナシの種子を送つてくれた。太田君はよくいろ／＼な種子を、細かく説明をつけて友人や知人に送つてくれた。このケンポナシが今は大きくなり、私の庭のいちばん大きい木になつてゐる。いつか見えた娘さんの話には、他では育たなかつたとか。さすればこの木は太田君の何よりの形見となつてゐる。遺兒達に返してあげたいと思ふが、今はそれも不可能なくらゐ大木になつてしまつた。

　

(384)　　　　　捕獲審檢所のころ

　

　私の大學を出たころは、たいていどこかの私立大學へ講義に行かせられたものである。まあ一つの關門であつた。私も明治三十四年から五年にかけて早稻田へ出かけて行つた。また三十五年から日露戰爭の前まで、專修大學に行つてゐたこともある。科目は農業政策であつた。そのずつと後に慶應に招かれて民俗學を教へたこともある。

　早稻田の時に教へた學生には、大山郁夫、永井柳太郎などの諸君がゐた。大山君はいつも首席で、たしか播州赤穗郡（現相生市）の出だつたが、その時分からいくらか理性の強いやうな性格であつた。永井君の方はどうしてなかなか熱心で、時々教壇の側へ來て質問をしたりしてゐた。文科の方ではやはり吉江孤雁君などが舊い方であつたらう。謝禮は一囘が二圓であつた。

　そのうち日露戰爭になり、いつ召集されるか知れないといふので、戰爭に關係のある仕事をしてゐる方がよからうといふことになり、捕獲審檢所に出ることになつた。長官は長谷川といふ人で、その秘書官の仕事までさせられて、横須賀に行つてゐた。

　アメリカの方から津輕海峽をぬけるやうな無茶な汽船があつたり、樺太の南あたりで捕へてつれて來たりするので、一時はなか／＼忙しかつた。シャンペンを何百ダースもつんでゐる船があつたり、ドイツの船でタバコの良いのを非常にたくさん積んでゐたのもあつた。たしかパロスといふ名の船であつた。積載物の目録を私が字引をひきながら作つたが、どうしても解らないものがあつた。フランス語で書いてあるのを字引でさがすと、どうも日本語の朝顔に當るものである。こんなにたくさん朝顔を運ぶはずがないと思つてゐると「それは便器の朝顔だらう」などゝひやかす(385)者も出て來て困つたことがあつた。じつはセロリイみたいな野菜であつたらしい。まつたくをかしな話が多かつた。

　はじめはアジア方面から來る船が多くて、佐世保の方でばかり捕まるのでうらやましく思つて戰爭の最中に長崎まで見に行つた。佐世保にしばらく滯在してゐる間に捕獲船を訪ねてみると船長の部屋は汚かつたが、船長さんは小説が好きらしく、非常にたくさんの小説がおいてあつた。イギリス船だつたが、私も英語の小説を三、四册持つて東京に歸つた。そしてイギリス大使館付の武官でアイルランド出のサマヴィルといふ少佐に見せたところ、その一册をさして、この本の著者は自分の姉だといつたのには驚いた。ミス・サマヴィルといつてそのころちよつと有名な女流小説家であつたらしい。

　しばらくするとその少佐が姉の寫眞をお目にかけるといつて、自分の邸宅の寫眞もいつしよに見せてくれた。狐狩をするために飼つてゐる犬の頭數だけでも二十匹もゐるやうに大きな家で、その狩のグループと撮つた寫眞の眞中に姉さんがゐた。まつたく偶然のことであつたが、その後ソマビルとは親しく附き合つてきた。

　そのころサマヴィルといつしよに日本に來てゐたカールスロップといふ武官ともよく行き來してゐた。後に本國から母親と妹を迎へて麹町の平河町に住んで良い生活をしてゐた。本當に素朴ないゝ人間であつた。この人はその後第一次大戰の折、もう少佐になつてゐたが、北の方のいちばん難しい戰線の要塞地帶の指揮をしてゐた。その時、味方の危險をしらせるため自動車にのつて連絡しようとした時、敵方からねらはれ、車もろとも爆撃されてしまつた。後に何一つ殘らなかつたとか、まつたく痛ましい最期を遂げたものであつた。このことをイギリスから知らせてよこした時には、本當にびつくりして暗然とした。可哀想なことをしたものである。

　

(386)　　　　　臺灣から廣東へ

　

　臺灣から大陸にかけて大旅行をしたのは、たしか大正六年である。前の佐久間臺灣總督と、内田嘉吉民政長官とが生蕃事件で退いた後を引受けた安東貞美總督は養家の叔父に當つてゐた。つまり桑木嚴翼夫人の父である。そして民政長官に選ばれたのが下村宏君であつた。私は内田君が本好きだつたので親しくしてゐたが、下村君とも知合ひだつたので、何だか同君を叔父に推薦したやうに思つてゐる人も少なくなかつた。そんな噂を聞いて下村君は私を歡待するつもりで臺灣に誘つてくれた。しかし實際は内田君の時、下準備をしてくれてゐたらしかつた。招かれていゝ氣になつて貴族院議長にもあまり相談せずに、その申出をうけてしまつたが、それが私の失敗の原因で、後々いつまでもごた／＼としてしまつたのである。

　けれども旅行そのものは實に痛快であつた。まづ島を一囘り、高雄の南まで行つて臺北に歸ると、まちかまへてゐて歡迎會を開いてくれた。その折、私は型破りの挨拶をしたことを覺えてゐる。はじめ序文と稱して實に太平樂な長い演説をしておいて、本文は歌を六首吟じたのである。隨分傍若無人なことをしたものである。

　第一首は、臺南か臺中か、生蕃が叛亂して大勢殺された西螺街とかいふ所へ行つた時、非常に強い印象を受けて、折があつたら、その悲しみを話したいと思つてゐたので「大君はかみにしませば民草のかゝる嘆きも知ろしめすらし」と吟じた。一座はしいーんとなつたが、私としては實はそれが目的だつたのである。畏れ多い話であるが、私どもは東京にゐるから大正天皇さまがかういふことはまるで御承知ないことをよく知つてゐる。それで詠みあげたものであつた。私も若く意氣軒昂としてゐたのであらう。

(387)　臺灣では、そのころ下村君の秘書官をしてゐた石井光次郎君にもいろ／＼世話になつた。

　また丁度その時、廣東領事をしてゐた太田喜平夫妻（安東總督の娘夫婦）が臺北へ來てゐたので、三人一緒に廈門《アモイ》に行き、同じ船で汕頭《スワトウ》に寄り、そこから潮州へ遊びに往復し、それから香港に出て、廣東の日本領事館に泊めてもらつて、あの邊を見物した。

　第一次世界大戰の折だつたので汽船がなか／＼ない。滯在が長くなり、その間に川舟で珠江をさかのぼつて三水といふ所に行き、それから更にさかのぼつて廣西に近い方まで行つてきた。幸ひ三井の人でよく言葉のわかる人が同行してくれたので、いろ／＼きくことが出來た。湖南省からの汽車はまだ韶關（韶州）までしか來てゐなかつたので、私は川舟でそこまで行つてみた。

　この時の川舟の旅行は非常に強く印象に殘り、後年、家船《えぶね》などの水上生活者をしらべるやうになつたのも、この時の川舟旅行が動機になつてゐた。蜑民《タンミン》の舟なのである。六十近い客扱ひになれた快活な婆さんが若い息子と二人でのつてゐた。言葉もよく通じないのに、その婆さんが私にいろ／＼なことを話してくれた。いはゆるシイ・ジプシイ（海の漂泊者）で福州あたりが根據地になつてゐる。

　子供が大きくなつて一人前になると舟を造つてやる。すると子供は嫁を貰つて新しい舟で自分の世界にとび出してゆくとか。この婆さんにも三人の子供があつたが、上の二人が獨立したので、自分は古い舟に末ッ子と二人で乘つて仕事をしてゐるわけである。必要上の末子相續なわけで、その意味からでも蜑民の生活は非常に興味をひかれた。廣東の周圍には蜑民が舟で開いてゐる大きな料理屋があつたりして、すつかり客ずれがしてゐた。

　

(388)　　　　　シナ大陸旅行

　

　英國船にやつと部屋があつたので上海に向つた。上海では河合良成君であつたらう、視察に來てゐた。大谷光瑞さんにもいろ／＼世話になつたし、早稻田にゐたころ、たび／＼私の家に來たことがあつて、日本語の非常に達者であつた戴天仇の案内で孫文に會つて話をしたこともあつたが、その内容はよく憶えてゐない。

　やがて長江通ひの日清汽船で漢口へ溯つた。船の中でまだ三十代のアメリカ宣教師と話し合ふやうになり、日本のことを根掘り葉掘り聞くので、こちらも英語の練習のつもりもあつて一々答へてゐたが、終ひには面倒になる程であつた。私の養母が十五年程前に、綱島牧師の有名な教會で洗禮をうけ、クリスチャンになつたのに、お盆にはちやんとお精靈樣を迎へておまつりしてゐると、不確かな英語で面白可笑しく説明した處、相手は顔色を變へてきいてゐた。東京へ歸つて來ると、大變熱心な手紙をよこし、迷惑だらうがこの本をお母さんに讀んであげてくれないかといつて、傳道の本を送つてきた。この程度の知識で日本を處理したりしてゐたと思ふと、實にけしからんといふ氣がしてしまつた。

　一旦漢口に行つてから江西省の大冶鐵山へ引返した。鐡山のやゝ荒れかゝつてゐる所を一人で歩いてゐると、十ばかりの子供が背後から大きな聲で私を呼ぶ。そして小さな青い石をくれるといふ。何だか分らないが好意らしいから錢を出して渡さうとすると、受取らないですうつと行つてしまつた。この石は持ち歸つて弟映丘にやると、非常にいい緑青であることが判つた。だまつてそれを日本人にたゞで呉れて行つた子供のあつたことに、私は大變強い印象をうけたことをおぼえてゐる。

(389)　京漢線はまだ開通したばかりで、心に殘ることが多かつた。沿線の驛で物賣りが柵の外にゐて、プラットフォームを散歩する客に賣りつけてゐる中に混つて、脚のない乞食が、商ひと同じ氣持で金をもらつてゐる姿や、田舍の大官が駕籠に乘つて、後先に三、四人お供をつれてゐる姿など、今も眼に殘つてゐる。

　北京公使は林權助さんであつた。他に鈴木虎雄君そのほか二、三人の友人も留學で行つてゐたし、早稻田で教へた向ふの人で、相當な地位についてゐたのも少なくなかつた。米國系の清華《チンフオワ》大學にも行つていろ／＼の人に會つた。顧維釣（Wellington Koo）もそこの教授をしてをり、英語が達者なのには參つてしまつた。公使館ですゝめられたので議會も傍聽したが、それが偶然にも議會の最後であつた。

　日本からきた新聞によつて、政情が大分怪しいことが判つた。留守中に内閣の更迭でもあつたらさぞ惡くいはれるだらうと思つて氣が氣でなく、あとは奉天に一泊して大連へ往復したきりで、朝鮮を通り、大急ぎで東京へ歸つてきた。

　横濱まで家族が迎へに來てゐたが、長男がまだ四歳位だつたらう、私の頭をぢつと見つめてゐてから、「禿頭」といつたのにはびつくりしてしまつた。六月の暑いころ、大陸は空氣が乾燥してゐたのに頭髪の手入れをせず、油もつけなかつた爲か、すつかりハゲてしまつたのである。その後スイスへ行つた時、ジュネーブのホテルの床屋が日本の方を澤山知つてゐるが、あなたの樣にハゲてゐる人は珍しいといふので「いや今にもう一人來るよ」といつておいたが、實は上野精一さんが來ることを知つてゐたのである。この床屋の話では、支那とか歐洲とか、空氣の乾く所では髪に何か油のものをつけなければ毛が切れてハゲてしまふといふことであつた。

　かうしてせつかくの「二つのつむじ」も見分けられないくらゐにハゲてしまつたが、外國旅行のことを考へる度に、こんな笑ひ話まで一緒に思ひ出すのである。

　

(390)　　　　　退官

　

　貴族院書記官長でありながら、十分な了解もとらないで、長い大陸旅行をしたことが非常に私の人望を害してしまつた。そしてだん／＼役人生活を續けられない空氣が濃くなつて來た。その上その翌年にも私は同じやうなことをしてしまつたのである。

　大陸で蜑民の生活に觸れた私は、この間題に大變興味をもち出して、本も讀むし、また同じやうなくらし方をしてゐる日本の海女などゝ比較できるものかどうか、いろ／＼知りたいと思ふことがたくさんあつた。

　それで用事を作つて長崎に行き、平戸へ渡つた。平戸の北の方にある大きな海女村を見たり、また大分縣にあるシヤアと呼ばれる海上生活をする人たちや、家船などを見に行つた。その留守中に内閣が異動したり、衆議院の官舍が燒けるといふ事件が起きてしまつたのである。どうもます／＼評判が惡くなつてしまつた。豐後の日出《ひじ》といふ所に泊つた時に、下關の鐵道管理局長をしてゐた大道良太氏に電話をかけて、東京の樣子をきくと「いや何もかも丸燒で、君の官舍も丸燒けだ」といふのにはびつくりしてしまつた。じつはウソで、衆議院の官舍だけが燒けたのであるが、何しろお互にまだ四十そこ／＼だつたので、私があまり眞面目に聞きすぎたので、冗談をいはれたわけである。

　急いで東京へ歸つて來るまでのうちに、もう大分批判があつて、さうでなくとも役所にはをられないと思つてゐたところだつたから、辛うじて大正八年までゐるのに非常に骨が折れた。その年の下半期になると親類の者までがもう辭めなければ見つともないなどゝいつてきた。しかし長い役人生活だつたから、いろ／＼後始末をしておきたく思つたりして、その年の末まで役人をしてゐた。再び役人になる氣持はなかつたが、將來は何でもいゝ、旅行生活が自由(391)に出來る職業がよからうと思つたが、それには新聞しかないといふわけであつた。

　そんなことを考へてゐた翌年の春、朝日の安藤鐵腸氏が朝日に入らないかといつてきてくれた。右から左にお受けしてはいかにも計畫的のやうで變だからといふので、六月まで自由に歩き囘つてのち、七月から朝日の囑託といふことにしてもらつた。さうかうしてあちこち旅行してゐるときに新渡戸博士からジュネーブ行の話が出たのである。

　そのころ私らの家は舊式だつたから新聞記者になるといふことを非常に嫌がつてゐた。親類の者なども西洋に行くといへば出世だと思ふやうな有樣だつたので、私の國際聯盟行をみなが喜んでくれた。

　朝日の方は客員といふことにしてもらつて最初に出かけたのは大正十年五月のことで、アメリカ經由にした。和田英作君といつしよに春洋丸の船室をとり、ずつと行動をともにしたが、和田君とは遠く明治三十年のころ、國木田獨歩や宮崎湖處子などと六人で出した新體詩集「抒情詩」に挿繪を描いてもらつたとき以來の古なじみであつた。同じ船ではやはり信州飯田の出身であつた樋口秀雄（龍峽）氏の他に代議士が大勢出かけた。

　シカゴには和田君の妹さんがゐたので、いつしよにちよつと途中下車をしてから、南の方を通つて東部に出た。ワシントンを見物したことは憶えてゐるが、他はもう記憶にない。ニューヨークでは高等學校時代からの親友で住友につとめてゐた今村幸男君がゐて、大變親切に世話をしてくれた。それからフランスの船に乘つてフランスへ直行し、イギリスへは寄らなかつた。

　

(392)　　　　　ジュネーヴの思ひ出

　

　國際聯盟の仕事は委任統治委員會の委員といふので日本の役人でなく、日本側で指定した向うの人間になつてゐた。英佛が憎らしく幅をきかしてゐたが、小さい國々は日本と同じやうに一種の憂ひをもち、そのなかで自國をどう維持していくかといふことに苦心してゐるやうなところがみえた。オランダ代表は元ジャヴァの行政長官かなにかしてゐた非常に立派な人だつた。ノルウェーは大學の先生であつた。女で大學の先生をしてゐた人もゐたし政治家がゐたり、大變いゝ印象をうけた。それに五月から九月いつぱい會を開けばよくて、あとは翌年春までゆつくり遊んでゐられる。その上、本國へ歸つてくる旅費もくれることになつてゐた。はじめの年は吉野丸といふドイツから取上げた船で歸つたが、翌年（大正十一年から十二年にかけて）は歸らずにドイツ、オランダ、フランス、イタリアと歐洲各國を旅行した。イタリアだけは舊知の關口泰君や矢代幸雄君などの案内でずつと南の方までくはしく見て歩いた。エヂプトからやつてきたといふ木下杢太郎君の一行にも會ひ、即興詩人を語り、一緒に?外さんを懷しんだりした。

　ジュネーブではホテルがざわつくので一人でフランス領に近い奧の方のボーセジイルといふところに借家をしてゐた。宮島幹之助君などもこゝに訪ねてきてくれて沖繩の話を一緒にしたことを覺えてゐる。同じ町には日本ではだれ知らぬものもないチェンバレン博士が住んでをられたが、目を病んでをられてあまり人に會はれぬといふ話だつたので、たうとうお目にかゝらずにしまつた。先生の舊藏の書籍が古本屋に出るといふのを聞いて、たつた一册先生の著書の「日本口語文典」を買つてきた。たくさん書き入れのしてある本だつた。ときにはジュネーブの大學へも人類學の講義を聞きに行つたり、書物や辭書類をみせてもらひに行つたが、どこでも大變親切にしてくれた。

(393)　たゞ言葉が不自由な點が困つた。とき／”＼は獨言でもいゝから思ひきり日本語で喋つてみたいといふ氣がしたこともあつた。同じやうな惱みをもつ人たちが始めてゐたエスペラントの運動に加はつてみようかと思つたことがあつた。國際聯盟の通譯室にプリヴァといふ有名なエスペランチストがゐて、この人につゝかれて私から新渡戸さんに話し、聯盟でエスペラントを用語に採用する決議案を出さうとして話を持出したところ大變な反對にあつた。英佛が反對したばかりでなく、他の國の代表もいまさらエスペラントを覺えるといふのでは、學生がかはいさうだと躍起になつて反對した。ノルウェーの植物學者だつた代表夫人なども極力反對して、たうとうものにならなかつた。フイバーといふ人がユダヤ人だつたが、偉い人で七つか八つの國語を自由自在に使ひこなしてゐた。

　こんなこともジュネーブ時代の一つの思ひ出となつたが、この言葉の問題では實際に考へさせられることが多かつた。われ／＼日本人が機會があつても、どうも避けるやうにして喋るけいこをしたがらない傾きがある。聯盟で私は日本の不平等な實例をみせつけられたが、この言葉さへ心を打ちあけて話すことができるやうになつてゐれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであつた。

　

(394)　　　　　イタリア・子安貝

　

　ローマではいろ／＼珍しい經驗をした。木下杢太郎君からゆづりうけた「即興詩人」を片手に見物したが、あれを持つて歩くと、そのために書いたのかとさへ思ふやうであつた。サンタ・マリア教會では九州の五島から修行に來てゐるといふ若い學生に會つた。東京さへ知らずに來たといつてゐたが、懷しがつていろ／＼と話しかけて來た。私が今も五島に對して非常に興味を持つてゐるのも、そのことゝ關係がないとはいへないやうである。

　ローマの北門を出た所に小さな博物館があつて、館長さんが大變志のある人で、陳列の仕方に苦心してゐた。廣間の壁に沿つて、キリストを抱いたマリアの像がずつと年代順に竝べてあつた。その中にはもちろんローマ以前のころのものまで竝べてあつた。つまり母と子の像の陳列である。私はこれをみた時、何の説明はなくとも、はじめてイタリアだけがとくに聖母マリアを大切にする理由が、歴史的に外部からのものがあるらしいといふことを考へさせられた。それについて思ひおこすのは、シナから日本へ來たいはゆるマリア觀音と、日本固有の子安觀音とのことである。いづれもキリストを抱いた聖母マリアの像と何か連絡がありさうにも思はれるのである。

　子安といふ言葉は私が未だに一つのテーマとして持ち續けてゐるものである。日本で子安神といふ名稱はかなり古く、神の名としては三代實録に「美濃國兒安神」とあつて、いはゆる式外古神である。この子安といふ言葉は形容詞があとについて、今の語法からいへばをかしいが、昔はかういふ語法があつたのが、後、段々と脱けてしまつたのである。現に沖繩にはかういふ言ひ方がまだ殘つてゐる。つまり子安といふのは、子供を愛する心持につながるのであるから、キリスト教にも、儒教にもあつて差支へないわけで、ほとんと理想の母親といふことになる。

(395)　それについて連想するのは、日本でいふ子安貝、即ち寶貝のことである。ドレスデンの博物館にアフリカから持つて來た土人の木像の眼に、この子安貝が入れてあつた。古いところではエヂプトから寶貝が出るが、アフリカは南部だけでなく、北アフリカの土人もまれにそれを使つてゐるのがあるとか。この貝は地中海にはないから、どこか遠くから持つてきたものであらうが、どういふ徑路で運ばれたものであらうか。

　シナ大陸ではずつと昔からこの寶貝を非常に珍重して、貨幣や裝飾につかつてゐた時代がある。ところがこの貝は産地が非常に限定されて、大陸周邊の海では採れない。一番手近な所は沖繩である。沖繩では、今ではこの貝を網を曳く時の鎭子《しづ》に使つてゐるが、昔貨幣に使つたのは小さな寶貝であつたらうと思ふ。海のスレ／＼ぐらゐに珊瑚礁の上にこの子安貝（寶貝）がすんでゐる。夜灯りをともして、掬ひ取るから、大變面倒だが、肉は美味しいものですと、島から來た人がいつてゐた。

　古い文獻をみると沖繩から絶えず何萬、何十萬といふ數の寶貝即ち子安貝をシナに貢いでゐたことが記録されてゐる。現に明代には琉球から海巴（寶貝、子安貝）五百五十萬個を貢進した旨が目録に出てゐるくらゐである。

　はじめは貨幣としてゐたものだが、いつか信仰のもととなつて世界の隅々にゆきわたつてゐるのである。この貝の産地と、これを珍重した所とをくらべてみると、あるいは民族の移動、文化の傳播といふことを考へる上に重要な手がかりになるのではないかと思ふ。

　ドレスデンの博物館の子安貝は、今も私をこの研究に結びつけさせてゐるのである。

　

(396)　　　　　柳田家のはじめ

　

　生家の松岡といふ家については度々のべたが、養家の柳田といふ家についても一度ふれておきたいと思ふ。

　柳田の先祖はもと／＼相模の大磯と二宮附近から出てゐるのではないかと思つてゐる。今の東海道の國府新宿（江戸街道が海岸沿ひに出來た爲に新宿の名がついたわけである）より少し奧に入つたところに、六所樣を祀る所がある。今は八幡樣になつてゐるが、そこに柳田といふ地名がある。こゝに關係があるのではないかと思つてゐる。柳田といふ姓は小田原・國府津から厚木にかけて、東は群馬・栃木など關東に廣く分布してゐるが、なぜこのやうに廣く分布してゐるのであらうか。この一族の源は、下野の領主の俵藤太まで溯ることが出來る。俵藤太秀郷はなか／＼の政治家で、長男か孫かを相模守にしたが、その子供が秦野家の先祖になり、その又分家が松田家となつた。更に分れて今の山北に川村といふ家があり、これが柳田の一族であつた。つまり俵藤太の一族の、その所領のはづれに柳田といふ所があつて、同姓を名乘るものが、小田原から國府津附近にかけて澤山あるわけである。この中の川村の一族である柳田が信州飯田藩に仕へて、維新を迎へたわけで、私はこの柳田の家に入つたのである。

　「將門記」などを讀むと、俵藤太は近江の出身で、下野で成功し、そしてそこを根據として將門討伐をしたわけである。この俵藤太一族が何代も相模守を兼ねてゐたことが、柳田一門の相模から下野に擴がる主な原因となり、この邊一帶に柳田姓を名乘る家系が大變散らばつたものと見ることが出來る。

　記録によると柳田の先祖は、その後、野州に出て、宇都宮家に仕へたことになつてゐる。そんな關係から私が宇都宮から一里半ばかり離れた處に柳田といふ地名があるのを知つて調査に行つて大失敗してしまつたのである。

(397)　宇都宮家は太閤がその娘を差出せといつたのを聞かなかつた爲に闕所にせられて、その子が浪人をし、ずつと南の芳賀郡の眞岡《もうか》といふ處に逃げのぴた。そこで私らの柳田も眞岡に一應落着いて百姓をしてゐたのである。そしてずつと後になつて野州烏山の堀家に召出されるやうなことになつた。後に信州飯田から播州に移つた脇坂家のあとに入つて、飯田に國替へになつた。堀家はもとは越後高田にあつて大々名であつたが、ある疑獄事件の爲にお家斷絶になつてしまつた。しかし幕府はあまり酷しすぎると思つたのか、眞岡の附近に三千石の知行を與へられてゐた堀の分家の旗下を大名に取り立てて、烏山に僅か一萬五千石の小名に封じたのであつた。急に大名になつて侍が欲しくなつたので、それまで歸農してゐた私の柳田の一番先祖がそこに抱へられたのである。

　「群書類從」の「結城合戰記」に附録して「結城首帳」といふのが載つてゐる。結城の落城した時に、首を刎ねられた將卒の姓名が出てゐるが、その中に柳田姓のものが澤山あつた。それによつて同姓のものが宇野宮家没落の後に結城家にも仕へて居り、落城と運命を共にしたことが判るわけである。ところが私の方の家系の者からは首を取られるやうな者は一人も首帳に出てゐないのを見ると、よく／＼首をとられるのが嫌だつたらしいと、私は戯談をいつた位であつた。

　さて堀家に召し抱へられた柳田の先祖は、柳田勘兵衛といつて（勘兵衛・清兵衛といふのが代々の通稱であつた）なか／＼役に立つたものと見え、中流以上の役についてゐる。この人から四代目に里右衛門といふ人があり、非常に働き手だつたがどういふわけか四十になつても妻帶せず、御側御用人をつとめてゐた。時の殿樣は後に大變遣り手になつた人だつたが、若い頃はどうも身持が修らなかつた。里右衛門はそれを諌めるために切腹をしてしまつた。親はすでに隱居してゐたし、子供は勿論ゐない。吃驚した殿樣はその爲に改心し、自ら里右衛門の爲に○○書と署名した碑文を書き、これがつい最近まで飯田にあつた。その頃から柳田の家にはいろ／＼災難が始まつたのである。

　

(398)　　　　　各地の柳田族

　

　跡繼のない柳田の家では里右衛門の甥を養子にしたが、監督者がないためか、道樂をしていつたん潰れさうにまでなつた。それでも殿樣の方で好意をよせてくれたので、切腹した里右衝門の弟で瀧といふ家を繼いだ人を呼び戻すことにした。この人には澤山な子供があつたが皆死んでたつた一人しか殘つてゐなかつた。瀧の家には別の人を養子に入れて、その末つ子をつれて實家の柳田へ歸つてきた。それが私どもの家内の曾祖父になる人物であつた。

　江戸詰だつたので江戸文化がすつかり身に染みてゐて、橘千蔭のところに出入りして歌などをたしなんでゐた。大變丹念な人で細かく日記をつけてゐた。上欄三分の一くらゐに今の新聞に當る記事、たとへばめ組の喧嘩とか永代橋が落ちたとかいふ事件が細かに書いてある。連れ歸つた末つ子が死んでからは、この日記もはたと止つてゐる。次に養子に入つた人が家内の祖父でこの人が柳田家を再興した人であつた。しかし萬延年間養父が七つくらゐのとき失敗して、それまで江戸詰だつたのが、信州飯田に歸ることになつた。養父も一族の安東家から入つた人で、その兄が先に述べた臺灣總督をした安東貞美大將である。かうして柳田の家は血筋が細々と續いて來た。私の養母も一人兄があつたが、武田耕雲齋が來たときに、關所を設けその番人になつて野宿したりしたために風邪をひいて早死をしてしまつたし、養父にも男の子が一人あつたが早死してしまひ、女の子しかないので、私が養子に入つたわけである。

　信州の上田附近にも柳田といふ、明治初年に生絲貿易をやつた呉服屋さんがあつた。よく信州の柳田だといふと、すぐその上田の柳田氏と間違へられたことがあつた。栃木縣に擴がつた柳田がどうして上田まで行つたか調べてみたところ、淺間の北の方を上田に通つてゐる、眞田などの往來した道を移住して行つたらしい。私の知つてゐる柳田の(399)名家に群馬縣の吾妻郡中之條の有名な町長さんがあつた。信州へ飛ばして一日の距離である。それから同じ群馬縣でも赤城山の南で勢多郡の桂萱《かいがや》といふ珍しい村にも柳田姓が澤山ある。

　それに關連して興味を抱き出したのは、姫路の藩士に一人柳田といふ人があることだつた。養父が姫路の柳田氏も裁判官だと言つたことがある。そこで分つたのだが、姫路の酒井家は姫路に來る前に前橋にゐた。そしてそのときに大きくなつたので、土豪の次男、三男を澤山召し抱へたらしい。その中に柳田の殘當が交つてゐて、姫路へお供をしたわけである。酒井家が姫路に移つたのは、赤穗の仇計のあつたすぐ後ではなかつたらうか。そのころからずつと姫路の柳田家は續いてゐることが分つた。前橋の方の本家と交通がなかつたが、祖先の墓があることを知つたので、參詣に行くことになつたとかいふ話も聞いた。

　その他にも播州には柳田姓が大變多い。辻川の隣村の大門の裏に當る鍛冶谷といふ大きな村など、ほとんと全村が柳田姓を名乘つてゐる。丹波の多紀の方にも柳田姓が少なくないらしい。

　柳田といふ姓は私の調べたところでは福島の附近に一村ある。これは栃木とは關係がないらしい。さらに北に行つて秋田の山形よりに少しと、津輕に小さなグループがある。西では、播州以外では鹿兒島の指宿市附近に柳田といふ村がある。全國に廣く分布した柳田は二萬は下らないと思ふが、その複雜な分布?態など、家を研究するのにはまことにおもしろい一族と思つてゐる。勤勉であるか、また土地を判斷するのが上手であつたのか、とにかく大變にふえたものである。

　最後に柳田といふ姓の起源であるが、植物と田の組合せの苗字は非常に多く苗字の半分以上になつてゐるかもしれない。柳田といふのは田圃の中で一番大事な儀式を行ふ親田の目印に、川楊つまり柳の木を植ゑてあつたので、この一族を柳田といふやうになつたものであらうと、私は解釋してゐる。

　

(400)　　　　　播州の柳田

　

　昭和九年の四月なかば、久しぶりに故郷の山々の花を見歩いて、龍野に一泊し、それから斑鳩《いかるが》の御寺にはじめて詣り、同じ車で室の津まで出てみたら、ちやうど明神樣の本祭の午後で、白粉に小さな眉墨を描いた女の子たちが、親・姉につれられて一人づゝ御宮から降りて來るところだつた。

　昔は必ずかうでなかつたらうが、港はひつそりとして、小舟の出入が少なく、沖にはたゞ折々の白い波頭を見るのみであつた。崖の端まで出て左右の磯山を見渡すと、櫻はもう過ぎて藤にはまだ少し早く、躑躅も薄紫のもちつゝじ、私たちが小さいころに女郎つゝじなどゝいつたのが、松や雜木の間にいくらでも咲き續いてゐる。これと關東の山々で野州花、またはヤシオなどゝいふものと、色は同じだが木の形だけに違ひがある。

　汽車では片隅だけしか見て歩くことができない。今度は一つ海から見よう。濱に降りていつて明日の小舟を約束し、小さな宿屋を見つけてこの晩は泊ることにした。

　できるなら備前の鹿のゐる島のあたりまでもと思つたが、祭の疲れもあるか舟方はさう遠くへは出ようとしない。それでは赤穗の濱の、御崎といふ所にある海水浴の客の行く宿屋までときめて、朝はゆるりと發つたが晝過ぎ早くそこに着いた。見晴しのよい廣間があいてゐるのみか、湯まで沸いてゐるのですぐ入つた。久しぶりに一人になつて寢轉んで本など見てゐると、思ひがけなく宿の主人が入つて來て辭儀をした。

　「今日は何とも珍らしいことがござります。つい今のさきまで、この座敷においでた神戸のお客樣が昨晩からしきりにあなたのことをお尋ねになつてをりました。どうやら縣廳のお役人の親御樣のやうで、署長さんや警察の人たちも(401)尋ねて來られて色々とあなたのお身元について評議してゆかれました。」

といふ。それは大變なことだと眼を圓くしてみたが、話の後先をとり集めて考へると、事件の成立がごく手輕に解けた。ちやうど二番目の娘が學校を出て、時折縁談の下話しのやうなものを聽かされるころであつた。父の郷里が播州と聽いてまづ赤穗にやつて來たのはよいねらひであり、おかげでまた私も樂に間違ひの因が判つた。赤穗の町の内外には有力なる柳田家が多く、一方にまた柳田｜美郷《よしさと》のやうな美しい歌を殘した歌人もゐたが、私の生家は松岡で、この一統とは何のゆかりもない。もしまた必要があるなら、神崎郡の田原村で、舊姓の松岡で調べてもらひたい。あそこにも柳田といふ苗字ばかりの一部落があるから用心と、餘計な傳言までして歸つて來たが、この縁談はつひに進展しなかつた。

　それよりも私が興味をひかれたのは、どうしてこのやうに飛びとびに、互ひにつながりのない柳田氏が分布するのかといふことであつた。かつて「芳賀郡と柳田氏」といふ一文を草して、ゆかりの人々に讀んでもらつたこともあるが、私の一家は宇都宮氏の家來筋で、主家の没落の後浪人をして土を耕してゐたのが、眞岡の堀といふ旗本が大名になつた際に取立てられ、烏山からさらに信州の飯田に移つて一軒だけ辛うじて傳はつたが、故郷の栃木縣から相接する三つの縣にかけては何十といふ同族が土着してゐる。古い確かな系圖はまだ見たことがなく、古いところでは永享の結城合戰記に附載した落城の日の首帳の中に、柳田某といふ首が四つか五つある。それによつて同姓のものが、宇都宮家没落の後に、結城家にも仕へて居り、落城と運命を共にしたことがわかるわけである。處が私の方の家系の者からは、首をとられるやうな者が一人も首帳に出てゐないのを見ると、よく／＼首をとられるのが嫌だつたらしい。あるいはもう首になるのに懲りて、野に下つて農を營む者が多かつたのかといふやうなことをさきに書いた。

　もしそれだつたら國々の靜かな山里に入つてさういふやうな名のある限り、子孫に榮えさせようとした家々が、南では薩摩の半島、一方には津輕にも秋田にも、また福島の大川筋にも、さういふ苗字が分布してゐるのも、原因はみ(402)んな一つであつたかもしれぬ。

　近世の柳田美郷翁のやうに、きれいな歌は殘さないが、私の柳田にも加藤千蔭の晩年の弟子に、柳田爲員といふ若い歌人があつて、多くの歌書を家に殘してゐる。折があつたらこの人のことも書いてみたい。

　

(403)　　　　　米の話と黒潮

　

　われ／＼の問題でちやうどいま取りかゝつてゐながらまだ未解決なものが二、三ある。そのうちいちばん大きな問題は日本人は何處から來たかといふことである。それに關連して稻作がどこから、どうなつてきたかといふこともまた大きな問題になつてゐるのである。

　近ごろは騎馬民族渡來説のやうな意見まで出てゐるが、私は日本人の生活と切り離すことのできない「稻」の文化史を調べたら、あるいは日本人の起源がわかるのではないかといふ意見をもつてゐる。

　まづ「米」の話については、今日のやうに文化史の側からも、自然科學の側からも互ひに協力して研究してゆくやうになつたのは、西ヶ原農事試驗場に四十年も顯微鏡を覗いてをられた安藤廣太郎さんの著「日本古代稻作史雜考」といふ劃期的な著書が出版されたのが動機であつた。戰後安藤さんは日本やシナの古典をしらべて、延喜式の獻物品の種目をたんねんにしらべた結果、赤米といふものは、近年南京米などゝいつしよに入つて來たやうなものでなく、古くからあつたといふ點を指摘されたのである。また安藤さんのお弟子格で兵庫農科大學の濱田秀夫君といふ若い農學者が大變熱心に研究を續けてゐる。安藤さんは丹波の出身であるし、濱田君は篠山に住んでゐる點から、この米の話は「神戸新聞」にまるつきり縁のないものではないと思つてゐるわけである。

　安藤さんの本が出た時、東畑精一君の肝煎で、先生を圍んで石黒君や私が招かれて、目立たないお祝の會をやつた。その折に小泉幸一君といふ信州出身の若い學者の世話で「稻作史研究會」といふものが作られた。農林省農業技術研究所の盛永俊太郎さんや他にも二、三人協力して、總合的に稻や稻作の歴史を明らかにしてゆかうとするもので、大(404)變喜ばしいことである。米と日本人の關係といふ根本問題がどうしてもまづはつきりしなければ、外國起源説のやうな説を征服することができない。いまの高砂市出身の金澤庄三郎さんなどは、言語學者の立場から、インド・ゲルマン系の言語比較をし、たくさんの言葉を比べて、日本人と朝鮮人とは同系ではないかといふ説を出してをられる。しかしその點は急に斷定するわけにはいかないと私は思ふのである。言葉の研究は大事な手がかりになるにはちがひないが、たゞそれだけで民族の起源を見ようとするのは危險ではないかと思ふ。

　日本人の起源はやはり稻作と結びつけて考へる必要があると思ふ。シナ大陸で米を作つた中心地の北端は殷の故郷、洛陽附近で象が耕してゐたといふ説があるくらゐで、そこから稻作がじり／＼と朝鮮の端までいつたといふ説もあるが、この推論は誤りであるらしい。あるいは米はシナから直接に渡つて來たといふ説をなす人もあるが、安藤さんの本は、これらの諸説を批判しながら、進んで行く形をとられたものであつた。最近濱田君などが參加して、カンボジアのメコン河の周邊に米を作つてゐるごく原始的な人種の踏査が行はれ、濱田君などが大いに働いてゐるのは顧母しいことである。

　稻の文化といふものを考へる時、もう少し注意しなければならぬのは彌生式文化の渡り口といつた問題についても、愼重な研究がもつと進められてよささうに思はれる。これについて、私は島國といふ日本の條件から、海上交通、すなはちどうしても潮流の必然性といふやうなものを掘りさげて調べる必要があると思ふ。黒潮が臺灣の東海岸を上つて沖繩の所で少し崩れて西を通つて東支那海との間を進み、土?喇《とから》海峽附近でどういふわけか二つにわかれてゐる。地球物理學にとつても十分研究してほしい點であるが、われ／＼史學を研究しようとする者にも興味深い問題である。

　

(405)　　　　　騎馬民族説への疑問

　

　私は以前、鼠が島から島へ渡るといふ話をきいて、人間の移動といふことも、これとそんなに大きなちがひはないのではないかと思つたことがある。遠い昔、地圖があるわけではなし、はじめは何も知らずに渡つてきたに相違ないと思ふ。海へ舟で出てみたら、潮流に乘り、そしてひよつとした拍子にその潮の支流の方へ乘つて、思ひがけない所へ着いたといふのは本當の話であらう。はじめて無人の所へ上つた種族はじつにつまらないチャンスによるものであつた。私の説は假説であつて、とても學問の形になつてゐないといふ人があるかもしれないが、日本人がどこから上つたか、どこから來たかといふことについて證明しようと努力してゐるのである。

　私は稻作習俗をもつた南の人種がこの潮流にのつて、島影づたひに來たのではないかと考へてゐる。それには日本海側の方が農作移住、即ち稻作移住に適してゐるのである。それはおひ／＼に説明してゆきたいと思つてゐる。

　今日では大陸から朝鮮を南下し、海峽をぴよんと渡つて日本へ入つて來たらう、文化も人間もみなさうして入つて來たらうと、簡單にきめる空氣が非常に強いが、私ははつきりとその説に反對してゐる。何故なら南からでなければ稻は入つて來ないし、稻が來なければ今の民族は成立しないと思ふからである。今の民族は單に百姓が米を作るだけでなく、皇室も米がなければ神樣をおまつりすることができないのである。神樣を祭る時の食物には必ず稻が入つてゐる。したがつて私は日本民族は稻といふものと不可分な民族だと確信してゐる。稻は後から來たやうなことをいふ人もゐるが、どうしても稻ははじめから携へて來なければ、それに伴ふ信仰とか、慣習とかのある説明がつかない。考古學者も人類學者もこのやうなことを少しも考へない。そのいちばん極端なのが例の騎馬民族説である。

(406)　日本民族が馬に乘つて北シナから南へ移住して、どつと船で馬もろとも海を渡つてきたといふのである。その理由として、古墳前期には騎馬に關する造物が少なく、後期に入ると急に増え、立派な馬のものが現はれるといふことがいちばん大きな理由になつてゐる。その後期に馬もろとも入つてきたにちがひないといふのである。稻は前からゐた人たちが作つてゐるところへ、普段米をたべたことのない人種が馬を連れてやつてきて支配者になつたといふのである。

　われ／＼の間では皇室が率先して米の收穫を重んじられ、延喜式に出てゐるほど複雜なものではなかつたにしても、國の祭に御代替りの大嘗《おほなめ》の祭があり、毎年の宮中の祭に新嘗《にひなめ》の祭や各神社にもこれにならふ式祭があつて、何れも米を祭ることが中心になつてゐる。

　その皇室が國民に率先してやられた米の祭といふものが、果して騎馬民族が日本へやつて來てから、先住民の民心を收攬しようとしてはじめた祭式であるといはうとしても、それでは説明にならないのではないか。

　米を毎年滿足に作るためには非常にむつかしい物忌をしなければならない。皇室も國民もそれをする結果として新嘗の式がおこつたわけである。この意味からも三笠宮樣が新嘗祭の研究に手を染められてゐることは最も適任者を得たといふことができる。

　

(407)　　　　　穀靈信仰など

　

　今からちやうど百二十年はど前、ドイツにウイルヘルム・マンハルトといふ不遇な學者があつた。主として北海沿岸を調べたものであるが、この地帶の小麥の種取りには穀靈相續の信仰といふ非常に注意すべきものがあることを指摘したのである。すなはちコーン・ゴッド（穀靈）といふのがあり、コーン・マザア（穀母）といふ神樣がコーン・チャイルド（穀童）を産み、それが翌年の種となつてゆくと信じてゐるのである。

　穀母が穀童を産み育てゝゆく、そのために産屋《うぶや》の祭があり、二代目の穀物はその産屋でスピリット（魂）を穀母からうけるといふのである。これは偶然にも宇野圓空といふ宗教學者が、マライを歩いて長い間かゝつて「マライシアにおける稻米儀禮」といふ大きな本を出したが、その報告の中にもこれと同じやうな信仰がある。マンハルトの發見した時分には、世間はこれを相手にしないし、ことに宗教學者などはそんなことをいつてはいけないといふやうなことさへ言つてゐた。そのため彼は不遇なまゝに死んで行つたが、その後私らの讀んだフレーザア教授（ゴールデン・バウの著者）の本に、今から五十年も前にマンハルトといふ氣の毒な學者が、かういふことをいひ殘して死んだと書いて大變褒めてあることが判つた。それによつてはじめて小麥のこのやうな信仰を知り、またマライシアでも稻について全く同じ習慣が殘つてゐることが新たに宇野教授の報告で解つて來た。

　石田英一郎君の話によると、このマンハルトの學説は今では大變盛んで、カトリックの學僧たちも加はつて研究してゐるとか、これは決して北海の海岸ばかりでなく、フレーザアの「コーン・スピリット」といふ本には、小アジアの方の例がたくさんひかれてゐるし、このころでは地中海岸までカトリック僧の力によつて研究が擴がり、その中心(408)はイタリアであるといふことである。さらに最近、同君が中央アメリカのメキシコやグァテマラを歩いてゐると、インディアン・コーン（玉蜀黍）について黒人の間に、やはりかういふ穀物のお産といふ信仰のあることが判つた。それは十三、四世紀からのちよつと野蕃な遺風だが、コーンの神樣の像があり、中には母神から穀童が生れてゐる石像さへ殘つてゐるさうである。つまり穀物の生れるといふことが制度になり、習慣になり、人間の生活になる時には非常に大きな感動を伴ふわけで、日本でも稻の祭といふものが全國に大體一致してあるが、それとこのやうな他の國々との間に共通點を探し出すことが出來るやうに思ふが、これは新しい大きな問題である。

　私は宇野説だけでは滿足できず、シナで嘗《しやう》といつてゐる祭がどうなつてゐるか、シナの民間にも收穫に件ふ物忌みの儀式があるかどうか知りたいと思つてゐたところ、近ごろやつと米についてもマンハルト説と同じやうな法則があることが判つてきた。つまり日本の稻の祭、いはゆる新嘗の祭の系統がそれと關連があることが分るやうになつた。

　ニイといふ言葉に新の字をあてゝあるから、アタラシイと讀むし、嘗の字をナメと讀むから新しく甜めるといふ意味に誤解したりするが、嘗はシナでは試みるといふ意味で使つてゐる。ニイの方もニュとかミュなどいふ名になつてゐることがある。「日本書紀」にミュの父といふ言葉があり、宮樣がお生れになると大抵母方の親戚とかでお育て申す約束の人間が出る。壬生部とか乳部と書いてあるのがそれである。新嘗のニイもニュで、稻を田圃に置いたまゝ穀物を管理するのである。これを所によつてはワラニオとかスズキとかよんでゐる。その稻積を八重山諸島ではマジンともいふが、シラといふ言葉もある。その上沖繩ではこのシラはまた人間の産屋のことでもあつた。

　シラ、シイラの語源はまだ判らないが、私は沖繩語のシイダから轉じたもので、育つ、成長するといふ意味だと思つてゐる。D・R二つの子音の通融で、ダ行がかつてはラ行に近かつた時代の名殘りではないか。産の穢れを白不淨といふ地域はひろいが、白は後々のあて字である。

　

(409)　　　　　赤米のこと

　

　穀物を作る時に、非常にきびしい物忌みをする習慣は、アフリカの野番人の中にもある。二ヶ月位にも及ぶらしいが、その代りそれが解けた時が大變である。いはゆる豐の明りといふわけで、無茶苦茶なことをするらしい。日本などはそれに比べるとずつと優しいよい方法で、特別の場合でもせい／”＼五節の舞を舞ふぐらゐのものである。ともかく收穫の前後で一ぺん變らなければならないといふことなのである。

　伊勢の神宮では禰宜が年中潔齋してゐるので、神嘗を九月にしてゐるが、普通の人はそれから一ヶ月以上の物忌みがある。十月一日が入忌《いりび》の日として延喜式にも出てゐるが、それから一ヶ月以上物忌みをして、十一月に新嘗となる。この入忌の日に小豆の御飯を食べるが、小豆は日常の食物にはならないのにもかゝはらず、東洋一帶に非常に大事にされてゐる。シナなどもたくさん輸入してゐるし、日本でもビルマ邊から輸入するといふことである。

　小豆を何故そんな大事にするやうになつたか。これは私の奇拔な解釋だが、小豆をはじめに使ひはじめたのはおいしいからではなく、もつと他の理由があつたのではないか。昔から稻の種類の改良が大變に進んで來たが、農學者の話によると、もとは赤い米の方が原種といふことであつた。つまり赤い米が常のものであつたのが、人々の選擇によつて今日のやうに白くなつてきたのではないかと思ふ。沖繩から來た人などは米は薄赤いと思つてゐたといふ話もある。ずつと昔には赤米といふのがあつて、改良されてだん／＼白くなつたために、後になると却つて赤米に重要度がおかれるやうになり、何か大事な時だけ赤米をたべようといふことになつたのではないか。小豆御飯のお米の色と赤米だけで炊いたのと色が大變よく似てゐるのである。物忌みの忌日の特徴をつけ、食べる人に今日から常の日とは違(410)ふといふことを意識させるため、在來の赤米がだん／＼少なくなつて來たので、それによく似た小豆御飯を炊くことになつたのではないかと私は考へてゐる。要するに小豆を盛んに栽培してゐる區域と米作地帶が同じであり、小豆御飯の米の色と赤米を炊いた御飯の色とが大變近いといふことが、問題に對する一つの暗示ではないかと思つてゐる。

　人間の父母から子供に移る遺傳は、家畜などでも經驗できるが、稻が非常に規則正しいこと、毎年一囘宛循環すること、その上、この形式が籾粒を蒔いておけば莖が出、花が咲き、また穀物になるといふ循環は、はじめてその栽培をやり出した民族にとつて、かなり大きなミステリイだつたにちがひない。

　われ／＼は稻の日本史を何より大事と思つてゐるが、米に一つだけ大變な特徴があるのは、生で食べられるといふ點である。それで早くから特別の地位が與へられてゐたのではないか。辻川の三木さんみたいな大地主は土藏の入口に「把み米食ふべからず」などゝ賠紙がしてあつたのを憶えてゐる。子供のころ若い教員などが稻の穗を兩手でさつとしごいて、それを兩手でもみ、ふつと吹いて穀だけとばして米粒だけを口の中にはふり込んだのをみた。生徒もこれを見て眞似をする。兵隊なんかもやつたらしい。

　神樣に米を供へるときも生のまゝである。シトギといふが、米を濕らして、搗いて、お團子にしたものである。臼でひかなくても粉のやうな?態になる。本來神樣に供へる正式のものはこれであつたらしい。

　

(411)　　　　　ヨネ・コメ・クミ・クマなど

　

　沖繩では米のことをこちらのやうにコメとかヨネとか、イネとかいはないで、マイと呼び、マイを作る、マイを食ふといふ使ひ方をしてゐる。このやうにいろ／＼と呼び名に變化があるため、ヨネといふ場合と、コメといふ場合と、全然別の國から日本へ二度に渡來したのではないかといふ複數起源説を唱へる人もあるが、私にはさうは思へない。米のことをコメと言ひ出したのは、南北朝の終りから足利時代にかけてであつて、それまでは普通人のたべるものはすべてヨネであつた。たゞ神樣に供へるものがコメであつてクマシネなどゝいふ言葉があるが、これは神に供へる神聖なものといふことであつた。米が文化の問題から離れた時代に、兵糧米などをヨネといはず、片端からコメといひ、米何十石といふ風に、神聖な言葉を俗用してからごつちやになつてしまつた。今も地名に神稻と書いてクマシロなどとよんでゐるのは神に捧げる清い米の意味で、クミ、クマ、コミなど、みな同じ清い米を作ることの出來る所、他より災害の少ない豐穣な所といふ意味が含まれてゐるのではないかと思ふ。かつてはコメとヨネとはそこに信仰の目標と、通常語とのはつきりした區別があつたわけである。「古事記」や「日本書紀」に出てくる久米の一族も、後には軍隊になつてゐるが、あの歌だけをみると食糧の係とでもいはうか、内膳の係だつたのではないかと思はれる。クメといふ地名は日本全國に割に廣がつてゐるのも、お祭の祭式用のコメを作る所、つまり神聖な稻といふことではないかと考へてゐる。つまり各地のクメといふ地名をたどれば、日本人の歩いた一通りの所が分るのではないかと思ふのである。

　山口縣にも鹿兒島縣にも熊毛郡があり、日本海側には點々とクミと呼ぶ地名がある。私の想像では稻が自然のまゝ(412)に生育する所がクミ、クメ、クマなどゝ呼ばれる所だつたのではないかと思つてゐる。沖繩のクメ島がもとか、あるいはもつと南のクミ島がもとか判らないが、そんな所でたゞ非常に神聖なる穀物として作つたヨネがコメであつたと考へられる。沖繩のやうな所では米作は大變少ないから、これを職業にするものは少なく、出來ても直ぐに食べてしまふくらゐしかできない?態にある。だからたゞ神へ捧げる米穀のみをコメと呼んで大切に扱つたのではないかと思ふ。

　さて日本人の外からの移住も漂着してきたのがいちばん最初で、水平線の向うの見えない島へ、計畫して渡つて來たものでなく、偶然のことであつたに相違ない。その渡つてきた經路がすなはち日本の稻のもとになつたものであつたらう。

　まづはじめには人工を加へない稻作といふことを考へなければならぬ。それは第一に水利のこと、毎年三十五日か四十日かの期間しか續かない梅雨だけを頼つて稻作をする方法である。長門の萩に近い見島といふ小さな島では山の木を伐りすぎて一筋も流れがなくなつた。仕方がないからいくらか持ちのいゝ土地に、雨をためるかどうかして二、三ヶ所だけ池みたいにし、そこを苗代にして雨をまつてゐるのである。漁業を主とした島であるが、雨を待つて稻を作つてゐる點は、いくらか日本民族の最初を想像させるものがある。

　しかし漂流者が籾種をもつたり、女子供を連れたりする譯もないから、もう一ぺん故郷へ歸つて妻や子供を連れてきたのではないか。つまり改めて永住の氣持を起して來たものではなからうか。私はその助けとなつたものが先にのべた寶貝の産出ではないかと想像してゐる。寶石以上に價値のある寶貝があるとすればもう一ぺん出直す理由が十分にあつたと思はれるのである。これは私の想像説も入つてゐて、これから證明しなければならぬ問題である。

　

(413)　　　　　日本の舟

　

　日本にどこからか米を食ふ人間が渡つて來たのは事實で、またその人たちが今の米作り人種の先祖であるといふことも疑はない。しかし周圍が海の日本のことだから、どうしても舟といふものを考へてみなければならない。

　舟といふものが最初どうして作られ、どんな利用、もしくは利用の制限があつたかといふことを一度は調べてみる必要がある。

　例へば北海のヴァイキングみたいな民族は隨分遠くまで航海したが、あれは要するに岸に治つて歩いただけで、海を横切ることはほとんとなかつた。いよ／＼大洋を乘切るのに、磁石で決めて行つたなどゝいふのは、まだ大分後のことである。それで私は、舟といふものがどこで作られたか、どうして作られたか、どうして舟が發達したかといふことをしらべると、人間の文化がいかに形作られてきたかよくわかるのではないかと考へてゐる。そしてこれは日本人がやらなければならぬ問題の一つだと思つてゐる。

　昔日本人が黒潮にのつて南方から九州とかその南の島などへ來たとする。どうして來たか、漂流も無論あつたが、漂流では女房子供がいつしよに漂流することは考へられないから、一度はもとの故國に歸つてもう一度出直して來るといふことを考へてみなければならない。ところが宮古とか八重山の、沖繩の島々で南に向いてゐる方面だけに渡來者が歸つて行く話がたくさんある。これはどこから來たといふことを考へる時の一つの手がかりになるのではないかと思ふ。

　刃物のない時代はどうして舟を作つたのか、刃物のない土人も舟を作つてゐるが、それは刳舟で、燒切りにして作(414)つたものであつたらしい。それに少しづゝ板で縁をつけて幅をひろくしたり、二艘舟といつて二つ合はせて重いものを運ぶやうになつたものであらう。そして舟を作るには、樹木の豐かな所が直ぐに造船所になつたわけであらう。しかしいづれの舟もほんのわづかの航海しかできない脆弱なものであつたに相違ない。

　だから古代に人馬の大部隊が朝鮮から日本へ渡來したなどゝいふことは、事實とは合はない議論である。熱心とか、眞理を愛好する心持とか、これを人間の幸福に役立てようとかする態度に對しては、私といへども一言もないが、事實は事實として究明しなければならないのである。たゞ外國の書物を拜借して「過去においては」とか「前代日本では」とか、簡單に概念論で片づけてしまはうとする人たちがあるが、そんなことなら、われ／＼はこんなに苦しみはしないのである。前代といふならば、せめて「六國史」が京都の周圍に拂つたのに劣らない注意力を、全國に拂つてからにしてもらひたい。同じ江戸期の三百年だつて、初めと後とで地方人の氣持一つでも違つてゐるし、その地方地方がまたそれ／”＼の特徴をもつてゐたのである。

　さて小さな丸木舟でどうしてきたか。浦づたひに棹で來ることもあつたらうし、潮流を利用して島に近づくとか、風の利用といふことも考へられる。もつともそれには帆布といふことも考へなければならない。かうして考へて來ると、どうしても入江の多い地形、すなはち太平洋岸より日本海側の方が利用しやすく、かうして南から北へと行つたのではないかと想像できる。

　舟人が海づたひで進んで行く時分には食物のことをどうしてゐたのだらうか。いつも果物のある季節とは限らないし、結局道々で耕作をしながら進んだのではないかと思ふ。移住論者はこの食物のことをあまり考へてゐないやうである。

　日本の島々にいつぱい茂つてゐた樹木が南の方からだん／＼伐られて來たことは、何となく舟が南から北へ進んで行つたことを想像させるが、しかし一つの島から他の島へ移るのには大きな努力と冒險が要る。それをどうしてやつ(415)たか、私といへどもまだ想像説に留つてゐるにすぎない。日本の舟はどんな風に發達して來たかといふこと、すなはち日本文化の發達に關連して、これからの若い人達に、ぜひ考へてもらひたいと思つてゐる。

　

(416)　　　　　日本民族の起源

　

　日本人ははじめにどこから來て、どこの地帶に入つたのであらうか。人間の移動にはいろ／＼の信仰といつしよに、生活の方式をもつて來なければできない。そして日本人の信仰と米作とは切離して考へられないから、やはり大部分は南の米作地帝から米作をもつて來たのだらうと思はれる。たゞ先祖から稻作をしてゐた人間がいつもぢつとして一つ所に耕作をしてゐたとは限らない。例へばシナの沿岸地帶など、東夷と船で往來してゐたといふが、夷といふ字は「たひらか」とも讀むから、東方に穩やかな民族がゐたとも解釋せられる。同じ沿岸地帶には百越とか諸越とか言はれたいろ／＼の未開族がゐたことは知られてゐる。そしてわれ／＼が後々「もろこし」といつて「唐土」の字をあてゝゐるが、じつは諸越又は百越と書いて「もろこし」と讀んでゐたのかもしれない。

　私も時が許せばもつとシナの歴史を最近の研究まで含めて調べてみたいと思つてゐる。例へば熊野地方へ、舒（徐）の地方から來たといはれる徐福なども、當時の日本がシナかぶれして仙人の術を解するやうになつてゐたと思ひ込んだのかもしれない。また孔子が「東海を望んで死するあらんのみ」などゝいつたのも、扶桑を理想境とする東海主義に憧憬れたものと見られないこともない。

　越後の古志郡といふのはあまり古くないが、越前の敦賀とか三國とかから越後まで、ずつと越《こし》と昔はいつたものであらうが、「こし」といふ言葉は「もと居た所」と解釋するのが本當ではなからうか。これに對照して思ひ出されるのは沖繩で東西南北のことを「あがり、いり、はえ、にし」といつて、北は「にし」といふ言葉である。言語學者の中には西の方のシナから北に出てから南に入つたので、北のことを「にし」といふので、それによつても沖繩人がシナか(417)ら來たことが判ると説明してゐるが、私はこれに對して、それでは北のことを「こし」といはなければいけないのではないか、「にし」といふのは「いにし」といふわけで、こちらから海を越えて行つた方角ともとれるから、それでは道順が違ふといつたことがある。たゞ言語の比較だけで日本人の渡來を決めることは考へものである。

　さて私は日本人が南の方から來たといふことのみにきめるものではない。大正九年に青森縣の大湊附近を歩いて、北海道熊の剥製を見たが、それはごく最近本州側で捕へたものだといふことであつた。あの青函海峽ですら渡れた時代と渡れなかつた時代のあつたことがこれでも判るのである。まして北の端の宗谷海峽などでは、偶然でなく計畫して來る方法もあつたであらうから、日本民族が唯一つであるとする説は有害な障害である。私が思ふのに南方から來てゐないと裸の人形がないのと同樣、北から來なければあのやうに肥つた土偶は出來るわけはない。土偶を造つた繩文、彌生の二つの樣式だけを見ても、文化に二つの系統があるといへるのである。北から來たか、南から來たか、いろいろの説があるが、假定説を作ることは少しも惡いことではないので、たゞ「かも知れない」といふことを後につけ加へておかないのが惡いのである。

　日本民族が海を渡つて來てゐるといつた私の説をきいて、南洋の人種を研究してゐるある學者が「日本人が渡つて來たころ、ランド・ブリッジはなかつたか」と反問したことがある。これは時代の距りを考へてゐない議論である。そんな説が成立てばじつに問題は簡單となるが、さうはいかないと思ふ。

　日本人が渡つて來たのは足だけではない。必ず舟か筏でなくてはならなかつた。とすれば舟筏になる樹木のあつた所からでなくてはならない。これについで潮流や、風とともに、今後あるいは水の問題があらはれて來るのではないかとも思ふのである。

　山口と青森を除いて、南北兩方の海にまたがつてゐる縣は、日本國中で兵庫縣だけである。日本海と瀬戸内海との文化の重要性を考へて、私は兵庫縣の奮起を望むものである。とくに但馬に關する學問などがもつと盛んになつてい(418)いのではないかと思つてゐる。

　

(419)　　　　　筆をおくに臨みて

　

　神戸新聞社の創刊六十周年に誘はれて、つい面白づくに「故郷七十年」などゝ書いてしまつたが、あれは本當は七十年目、もしくは七十年前ともいふべき所だつた。この永い歳月の間、私は故郷のために何一つ、經營もせず辛苦もしてゐない。これが皆さんの力で華々しく榮え進んでゐるやうであればこそ、どんな昔を話しても聽いてもらへるので、この幸福は、大げさなことをいへば、浦島太郎以上である。

　あるいはこの七十年間ぐらゐが、ちやうど頃合ひだつたのかもしれぬ。自分の遠慮もない身の上話に引かれてふいと音信をして見ようといふ氣になつた古い縁者、または親類どうしが交際して、偶然に名を覺えてゐたといふやうな家々の人から、面白いほど色々の手紙が來た。久しい以前から知りたいと思つてゐたことが、次々と判つて來るのも新聞のお蔭だが、たゞ一つだけ困つたことは、あの兒は物覺えがよいなどゝほめられたのに安心して、何度か思ひ出し、または人にも語つてゐた昔の話の中に、幾つかの誤りがありさうだといふことが、それも今ごろになつてやつと心づかれ、ひどく自分の史力とも名づくべきものに、不信の念を抱くやうになつたことである。

　幸ひにしてこれは本文の中に、まだ説き立てゝゐないのだから訂正の必要もないが、あまりにも懷しい昔である故に、かつは讀者への警戒の意味を兼ねて、兒童の印象の至つて氣まぐれなものである例を殘して置きたい。神戸の福渡龍氏は私と同じ村、しかも家が近く親類の續きでもあるのだが、僅か二十年足らずの生れ年のちがひの爲に、今まではまるで知らずにゐた。今度はやはり新聞の記事が縁で、七月下旬には出て來られてゆつくりと逢つた。

　古い思ひ出が次々と胸に浮ぶ中でも、中心はやはり明治十七年の夏から秋、私の實家が家屋敷を賣拂つて北條へ引(420)移る前に、ほんの數ヶ月の間、この福渡氏の東側の一棟を借りて、寄寓してゐたころのことに集中する。辻川文化史の主要點は郡役所の移つてきたこと、それに先立つての昌文小學校の新築とか、惠比須さんの社が國道の傍に見事に建設されて、しかもその前に石灰の俵を高く積んだために、雨の夜に火事が起つて忽ちに丸燒けになつたことなど、覺えてゐることは色々あるつもりだつたが、それまで話題にしてゐると、初めての會見が夜になつても困ると思つて、是は最初から私も斷念してゐた。

　それよりも私が何とかして聽いて置かうと思つたのは、ちやうど、この福渡家の屋敷の地面續きに、後の竹藪の端へかけて、村にはちよつと珍らしい芝居の常小屋が建設せられ、そこには少なくとも二年ばかりの間、折々の旅役者の興行があつたこと、これもこの家の初代新次郎翁の企業熱もしくは新興趣味の一つの現はれではなかつたか。何かの話のついでにかういふ風變りなお祖父さんの逸話を、この龍さんに語つて聽かせてくれた人はないかどうか。私だけは自身かすかながら、目と耳との記憶もありまた數ヶ月の假住の間にも、何度かそのころを思ひ出したことがあるのだが、龍さんたちはもうさういふ噂話とも縁が切れて、新たに本で讀むやうな氣持しか持てぬかも知れない。

　話が長たらしくていよ／＼跋文の體を得なくなつたが、八十三翁の記憶力なんか、少しでも當てになるものでないことを、今度はまたしみ／”＼と思ひ知つたのは、この福渡氏との會話の際であつた。問答の筋とは何の關係もなく、頻りに眼の前に浮んで來るのは、あの借宅の裏庭の朝の景で、そこには井戸があり、四つ目垣があり、大輪の朝顔のるり色なのが、こちらを向いて幾つも咲いてゐて、それに平がなで「くにを」「くにを」といふ文字が、一つ一つの花に書いてあり、これに仰天してあたりを見まはすと、一人の婦人が片手に小さなビンを持つて笑つてゐて、かういふ強い酢で書いて置くと後に字が出るのだと教へてくれた。それは母でしたらうと福渡氏はいはれるが、明治十七年にはまだ花嫁さんだから、これほどの戯れはできなかつたらう。お時さんといふ大きな伯母さんは、初度の結婚が不幸だつたために一時はひどい病氣になり、それゆゑにまた自分なども、じつはあの前後に世を去られたやうに思ひ込ん(421)でゐた。それが今度はこの氣まぐれな思ひ出が縁となつて、あれからなほ五十年近く、平和な生活をつゞけられたことが明らかになつた。樂しいまちがひである。私は痩我慢かもしれないが、かういふ間違ひを時々するのも、却つて長い間の思ひ違ひを快く訂正することが出來るのであるから、たまにはあつてもよいと思つてゐる。

　

　

(423)　　　故郷七十年拾遺

　

(425)　　　　　中央に出た人たち

　

　明治になつてから田舍の人たちが續々と中央に移つて行つたが、しかし田舍に殘つた人たちの間にも、歌を詠んだり、書物を見たりする空氣はずうつと廣まつて居た。そしてこの階級がやつぱり明治を作つたのであつた。學問ができないといつて遠慮するやうな氣持をさつぱり棄てて、農業者でもある程度まで文字を知れば當り前に立つて宜しいといふことになつた。恰度いまの選擧民のやうなものだ。この人たちがそのまま選擧民になつたのだつたら、本當はその方がよかつたらう。現在のやうに無差別に選擧民にしておいて、その間にむらを作らして持て餘してゐるのは本當に困つたものである。

　辻川の村でも、どうしても亡びなければならない家といふのが、もう早く決まつてゐた。私の生家の松岡なんかがその一つだつたが、この外にも、村の水平よりは高い考をもつて、氣位だけは高いが實力が伴はなかつた家が大分あつた。やつぱり新しい時代であつたから、その波にまき込まれて亡びて居る。私どもが覺えてからでも、さういふ家が三、四軒や、五、六軒はあつた。その代りに一方では「ああ、あれが出世したか」と云ふやうな思ひがけない人もあつた。私の從兄にあたる松岡源之介などは本當に立派なものであつた。北海道に行き、旭川で成功した。

　しかし大體に優秀な人間が村から出て行くといふことは必ずしも幸福なことではない。その人問はかまはないが、そんな人間になりかけの、一寸かう下つた一割引か二割引の人間がやはり村を出て行くからだ。この人たちが村に新しいものを入れてくれればいいが、必ずしも自分の生れた村ばかりでなく、日本全國にわたることに關係することになるのであらう。そんなことを一切知らずに、天下泰平で暮してゐるやうな村は、私らの若い頃でもすでに少なくな(426)つてゐた。そしてやはり少し能力があると意識するものは、無理をしても中央に出てしまつた。私の高等學校時代から大學へかけて、殊に高等學校時代にこの傾向が強かつた。

　私の高等學校時代に、學制の變革をうけたために、いくつかの高等學校といふものが一時、專門高等學校になつたことがある。それで一般の上に行く進級豫備校のつもりで在學してゐた者だけが方々へ割ふつて預けられた。京都大學の豫備校になつてゐた第三高等學校も内部組織が變つたので、そこに居た連中が籤引きによつて、そのままに殘つた一高と仙臺の二高と、もう一つどこかに分けられた。その時に三高から東京へやつて來た中に姫路藩出身の辻善之助君もゐた。だから辻君は私より遲く一高に入り、年も一つ二つ下であつた。しかし辻君の仲間とその一つ上の級とは大分いろんなところに働いてゐた。大體みんな死んでしまつたらうが、大抵は京阪へ歸つて實業家になつてゐた。學問に縁のない仕事についた人が多かつた。碧梧桐と虚子とも三高を中退して仙臺の二高へ轉校した仲間であつたやうだ。そんな關係で辻君などは附き合つてはゐても、客分のやうで向ふも何だか遠慮してゐるやうなところがあつた。

　三上參次さんの方はずつと先輩で、姫路の近くの仁豐野出身ではなかつたらうか。そこの舊家で兄さんが辻川へ養子に來てゐたので、早くから私なども、三上さんのことは偉い人として知らされてゐた。恐らく播州から出て學者になつた最初の人で、辻君などは三上さんの世話で歴史の方向に進んだのであつた。和辻哲郎君も仁豐野の出だが、あの人の叔父さんに春次といふ人があつた。春樹さんのお父さんで醫者になり京都大學教授になつてゐた。學者風の家柄で、井上の兄などはその少し後輩だつた。

　

(427)　　　　　先祖の話

　

　ある日、私は初めて名を聞く女の人から一通の手紙を受取つた。早くから手紙を出したいと思つてゐたが、所が解らず、「故郷七十年」の載つた神戸新聞で聞いてやつと判つたからといふことであつた。辻川でかなり有名だつた伊藤といふ一族の一人で、今の苗字は黒田といふらしい。この一族は辻川に七、八軒あつたが、その婦人の實家はその一族の嫡流であつた。そこに幼いころの私がよく一緒に遊んだ姉妹があつて、私より一つか二つ上ぢやないかと思ふ。姉娘はおはまといつたが、その娘といふ人が、六十六歳で神戸にゐるといつて手紙を寄越してくれた。男の兄弟がゐないものと見え、妹二人と三人でお噂してゐますとあつた。私が辻川を出てから、何年も經つて生れた人たちだから、私に覺えがないのも當り前の氣がする。

　この家のことは、かつて「先祖の話」といふ本に書いたこともあり、この「故郷七十年」にも、「先祖になる」といふ條項の中で扱つておいた。「先祖の話」は戰爭中に書いたので、これから先き、戰に勝つか負けるか、素人には解らぬ時のことであつた。何れ滿洲なり、もしくは南の方の東南アジアなどに行つて土着することになるだらうから、その時の氣持を用意しとくやうにといつた氣持も混じつてゐた。ところが其の後、戰爭が惡くなつて、おまけに出版が困難になつたばかりでなく、本が出る時分にはすつかり敗戰になつてしまつてゐた。中に書いてあることに判らないところがあるなどといふ人もあるが、氣になつてゐても書き直すのが億劫になつてしまつた。

　その中には伊藤一族の中心になる「繰屋《くりや》」についてかなり扱つてある。滋賀大學の教員をしてゐる伊藤愼吾といふ人が、大分よく調べてゐるらしく、私よりはずつとよく知つてゐる。

(428)　幸に系圖が出て來たので、私が新たに知つたのは、私の分家として最初の曾祖父《ひぢい》のまた親父《ぢぢい》、即ち六代前の勘四郎といふ傑物の連れ合ひがやはり福渡の伊藤から來てゐるといふことであつた。だから福渡の伊藤にこつちから私の曾祖父の姉さんが嫁に行つた時には、從兄妹同士で結婚してゐることが判つた。それが何かの譯があつて子供を一人連れて辻川の生家に歸つて來た。若しも私の家で世話をして分家させたのだつたら、分家といつてもいい筈だが、その息子が餘程偉い人だつたのだらう、母親だけを實家の松岡に預けて、自分一人どこかへ行つて働いた上、一代身上で辻川へ戻つて來た。だから斷じて分家ではないと頑張つたのである。昔の分家なるものが、必ず地面を分けて貰ふといふことを意味するものだつたので、當時の親類はみなはつきりとさう考へてゐた。そのことを私は「先祖の話」の中に書いておいたわけである。

　この一代身上のお爺さんは、私の方のことには色々と干渉したのだけれども、決して本家としては扱つてゐなかつた。さうは云つても、やはり何かにつけて相談には來てゐたが、その元祖の偉い爺さんが亡くなつて、次の爺さん――この爺さんも丁髷《ちよんまげ》を結つてゐたが――の時代に淋しく暮すやうになつた。その倅は私もよく知つてゐたし、今度、神戸から手紙を寄越した婦人の親父なのである。その家が段々衰へて、娘だけ二人殘り、それが私の幼な友達で、姉はおはまと云ふのだつた。それの娘がもう六十六にもなつて、私に初めて手紙を寄越したといふ順序になる。

　その母親のおはまは、今生きてゐると八十五、六にもなる人だが、男の兄弟がなかつたから、後嗣になつてゐた。ところがまだ若い娘時分に母親が亡くなつたゝめ、お父つつあんが後妻を入れた。しかもその後妻の方に子供があるんで、どうも家庭が思ふやうに行かない。そこでこのおはまが可哀相に小さい時から、しばしば私の母のところに訴へて來て、いつも説諭をうけてゐた。

　そこの家の裏座敷が空いてゐたところに、私の家が暫く同居してゐたことがある。私だけが東京に去つた後、四、五年も經つてからおはまさんの娘として生れたのが、もう六十六になつてゐるといふのだから、舊い話だ。もう少し(429)調べるとあの家のことが判つて參考になると思つてゐる。そのお祖父さんが一代身上で相當な家になつたのが、かなり顯著な出來事であるのみならず、その初代の人の里方の、つまりお父さんの生れた伊藤の家が、また私の家の母の舊いお祖母さんの實家になつてゐて、家が結び合つてゐることにもなる。福渡の伊藤といふ家は今でもあるが、その家と私の方との關係なども調べて見ると面白いものがあらう。

　我々なんかの特徴、まあ私自身の特徴にはもつと近い原因が作用してゐると思ふが、あの墓石に獅子を彫り、その上に乘つて、ヘボな辭世の歌を遺したりした勘四郎老人の妻も、福渡の伊藤から來てゐたといふから、そんなところからも血を引いてるのぢやないか知らといふやうな氣もする。私らとして大變興味を持つてゐるが、しかし、それを私の持つ興味の通りには、一寸話し難い。

　要するに、右に記した伊藤一族は、辻川から出た一族ではあつたが、他所の土地で成功して商人として村に歸り、村を一變した一家であつた。

　もともと辻川は東西に分れ、東所《ひがしじよ》は文化の香りが高く、西所《にしじよ》の方はそこまで生活が高くなつてゐなかつた傾がある。私らはその西所に生れ、育つたのだが、家風はどちらかといふと東所的になつてゐた。そのどちらにも、はつきり入らない部落といふので、私は新たに、自分の家の邊を中所《なかじよ》といつたりした。全く私の命名だつたが、この邊は山水の眺めがよく、また、人間全體といつたものに注意を拂ひ、その進化に興味をもつてゐたといつてよからう。

　古今集に、

　

　　　古里となりにし奈良の都にも色は變らず花は咲けども

　

とあるが、古里といふのはいはば文學語ともいふべく、やはり、故郷といふのは生れ故郷と見るのが本意であると思ふ。

　

(430)　　　　　兄嫁の後半生

　

　長兄鼎は若くして結婚したが、その家庭生活は長く續かず、小學校長の仕事も辭めて、東都に上り、東大の醫學部專修科を終へて、そのまま關東の人となつてしまつた。不幸な花嫁は實家に歸つたまま、再び松岡家に歸らなかつた。幼かつた私が、この義姉へ追慕の心を失はなかつたことも、その義姉が小さい私ども義弟たちにいつまでも親しみを寄せて下さつてゐたことも、すべて「兄嫁のこと」に書いた通りである。

　辻川に近い北野の皐《をか》といふ醫家の娘であつた私の兄嫁は、その後、伊勢和山の有名な天台宗の寺院妙�ｺ山の住職、大塚大眞さんの許に再縁した。風采も能力も�ｺ望も申分のない立派な僧侶であつたが、この仁はもともと福本の藩士の家に生れ、子弟の一人が出家すると九族が浮ぶといふ昔風の考方から、本人としては餘り乘氣でもないままに、僧門に入れられたものらしい。ここへ再婚した私の義姉とは從兄妹同士だつたといふ話である。それに妙�ｺ山の西北に立つ山門は、兄嫁の實家の皐家とは眞正面に相對してゐた。

　夫妻には、男三人、女三人の子供が生れたが、女も男も一人づつ亡くなり、今は四人だけ健在ださうである。その人たちの母君、即ち私の元の兄嫁はもう大分前に中風で亡くなつたといふ話で、純情小説のやうだが、私はたうとう會ふ機會を失してしまつた。上の娘さんが、養子を迎へ、その養子に僧籍を繼いで貰つたとかで、二人の息子さんはともに法學士で、法曹界に名をなしてゐるらしい。その一人の末弟の溝口といふ人が、網干《あぼし》か飾磨に住んでゐるらしく、その人から、私は細やかな手紙を受取つた。それも神戸新聞の記事のお蔭である。その人の手紙には、若き日の母を今も懷しく記憶してゐて下さることが判つて、遺族として大變嬉しいと同時に、母が現存したら嘸喜ぶことでせ(431)うにとまで書いてあつた。

　そんな關係から、段々と解つて來たのは、兄嫁の實家の皐家と私の生家の松岡とは舊くから緑續きの間柄に在つたといふことであつた。詳しく記すと長くなるから、できるだけ簡略に報告しておきたい。

　前にも述べた通り、私の祖父陶庵は中川家から松岡家へ養子に來た人である。川邊《かはなべ》の中川といふ醫者の本家の分家といふわけであるが、何代か前に分家した網干の中川から來てゐるわけである。そして祖父の兄が長崎にも留學し、かなり名のあつた蘭學者の中川善繼と云つた。

　ところがその川邊の中川のお祖母さんといふ非常に賢夫人のお婆さんがあつた。主人が早く亡くなつて、寡婦《ごけ》暮しで、子供二人を育てたが、そのお婆さんがやはり網干の中川から本家へ嫁いで來てゐた。だから、私の祖父の姉にあたるわけである。つまり、川邊の中川へ姉さんが嫁に來てゐるので、祖父陶庵はそこを實家のやうにして、私の家に養子に來たわけである。川邊と辻川とは一里そこそこしかないものだから、却つてその方が便利だつたのであらう。網干の中川はその後、女ばかりになつて家は絶えてしまつた。

　この中川の方と皐家とはもともと親類續きになつてゐたわけであるが、この點については、兄嫁の實家の方の云ひ傳へと、私の松岡の方の云ひ傳へとの間に多少の喰違ひがあるやうだ。よく調べると判るであらうが、何にしても一門が皆、同じ醫家ではあり、舊くから深い繋りがあつたことは間違ない。

　大眞さんがいつごろ亡くなつたかは聞き洩らしたが、それはそれとして、幼い私の心から消えなかつた優しい兄嫁の其後の幸福な生涯が詳しく判明したことは嬉しい限りであつた。

　

(432)　　　　　次兄死後の悲劇

　

　次兄井上通泰は養家の後取りの問題がまだはつきりして居なかつた上に、自分一家の後のことも考へておかなければならなかつたので、毎年遺言を書いてゐた。大晦日の晩か何かに昨年と今年との間に變つた事柄を書き改めて、一年に一遍づつ遺言?を書き、その表にこれを開くのは誰と誰と誰といふ風に書いておいた。もう長兄鼎は居なかつたが、私自身が開封者の一人になつてゐたことは間違ない。弟の靜雄や輝夫はどうなつてゐたかはつきりしないが、私は確かに入つてゐた筈である。然し次兄は法律の知識がなかつたので、之を公正證書にしておかなかつたものだから、效力の薄いものになつてしまつた。

　その上、兄夫婦と末娘とが一過に病死したといふ最大不幸に襲はれた。それに姉娘の聟の川村は義父と喧嘩をして暫く寄りつかずに居た。私自身も次兄から毎年一囘遺言?を書き換へて前年のを燒き棄てるとは聞いて居たが、それがどこにしまつてあるか、また宛名が誰々になつて居るかをつきとめるわけには行かない。確かにあつた筈とか、書いてある筈とか云つて見ても始まらない。兄嫁と三人の子供又は姉娘の連れ合、それに實家側の私など、開封の時の立會人に定められてゐたことは疑ふ餘地はない。

　結局その遺言?を見つけて開いた者は、倅がただ一人といふことになつた。これがまた次兄にとつて一つの非常な悲劇であつた。可笑しいことに、その倅は任地の上海から歸つて來ておきながら、急ぐ用があるからといつて葬式も濟まさずに一人で飛行機で歸任して行つた。そればかりでなく、もつと可笑しいことには、それほど急いでゐる筈の彼が途中わざわざ播州に寄つて、山口夫妻に「私の財産はどれ位ゐあるでせうか」と問ひただしたりしてゐるのであ(433)る。

　幸か不幸か井上家の屋敷と二町ばかりの田圃とは山口の方へ管理人としてやつてあつたから、次兄の倅にも手が出せなかつた。そこにも悲劇があるが、前にも記した通り、管理人の山口大三郎に息子が二人あつて、見直泰の方は姫路でまだ健在である。そして弟頼文の方が通泰の眼鏡に叶つて醫を學び、井上宗家の後取りとなる豫定になつてゐた。そして醫學博士にもなつたが、縁談のことで通泰の怒りを買つて井上姓になることが出來ずに居た經過も既に話した通りである。

　見通泰が死んでから、山口頼文は私のところへやつて來た。そして「私はどうも非常に井上家に對して義理が惡いが、醫者で私が居れなくなるのは困るから」といつて來たので、「いや今に民法が變るよ」と云つてやつた。敗戰後だつたので、民法が變れば、君が勝手に自分の苗字を井上と變へられるからいいぢやないかと慰めた積りであつた。本人もその心算だつたらしいが、運が惡いもので、いつも小型自動車か何かを運轉して往診してゐたのに、市川のかなり川上の崖から落つこつて即死してしまつた。子供はまだ二つか三つで、まさかその子供を育てて醫者にし、井上家を繼がせるまでの理由がなくなつた。未亡人はその兒を養ふのがやつとであらうから、再びどうすることも出來なくなつた。

　隨分悲慘な話で、兄貴としては自分の意志をもつとはつきり公正證書の遺言にしておいて、吉田の家の名義人を全部、井上某にしておけば問題はなかつたのに、兄貴が所有者になつてゐたので、僅かながらも贈與の形で管理人に移つたわけであつた。

　兄通泰ぼ倅が亡父の葬式もせずに上海に行く途中、吉田に寄つて財産のことなど聞いた時、山口の細君が利かん氣の女性で「あなたはお父さんの子ですか」と正面からやつつけたのも當然の話であつた。この甥には私も平ならぬ心持をもつて居り、今度來たら怒鳴りつけてやり度く思ふ位ゐだが、その後一度も來たことはない。元龜、天正以來の(434)舊家井上の系圖と河野通有のものと傳へられる兜もこの甥が持ち去つてしまつた。

　井上家の菩提寺は福崎村の少し下流にあたる佐伯といふ所にある。この間の神戸新聞の記事に依れば、井上通泰の歌碑を樹てる話があるらしいが、それはこの寺の境内のことである。

　

(435)　　　　　南天莊歌集

　

　最後に次兄と緩り會つたのは、たしか昭和十六年春のこと、私の話を聞いてやるといつて華族會館に集つてくれた日であつた。會合が濟んでから、いよいよ私を送つてくれる車に、兄も途中まで一緒に乘つかつて來た。そして車が青山の街角を通つたとき、「いやア、俺の家に送つて貰ふわけぢやないから、今日はここで降りる」と云ひながら、車から降りて歩いて行つた。その姿を車の上から見てゐると、どうも何となく影が薄かつた。「あゝこれはいかん、もうかうなつちや長くはない」と思つたことを憶えてゐる。その後、何彼の折に二、三囘逢つてゐるが、まあこの華族會館の時がいはば永別のやうなものであつたと言へる。

　病氣は腸チフスであつた。ところが兄の所へ出入する二三人の醫者が本當に命令これ服すといつた從順な連中で、それが仲間を呼んで來て、立ち合つて診て貰つても、實はここで療治したいから助けてくれと頼んで表に出さなかつた。隔離しなかつた爲めかとも思ふが、兄が死んで、三日ほどの間に、兄妹が力を落して後を追つたばかりでなく、娘までも亡くなつてしまつた。つまりバタバタと親子三人が一遍にチフスで世を去つたわけである。

　昭和二十三年かに、私は次兄の歌集を出版し、南天莊歌集といふ名をつけた。その中に一つだけ感心する和歌がある。まだ兄が餘り宮内省なぞに出入しない前の作であつたか、若くは入つてから暫く經つた頃の作であつたらうか。

　

　　　捕はれて怖《お》づる鼠の眼を見れば憎きものとも思へざりけり

　

といふのであつた。いい歌だと思つてゐる。こんな歌ばかり出てくれればいいのだが、かういふ氣持のものは少い。(436)題詠が多いから文法は正確だが氣分は感心しない。もとは香川景樹流の「折に觸れて」といふ歌ばかり詠んでゐたのが、月々の題詠が宮中にも、青山御所にもあつたので、それに拘束せられた上に、文法とか歌の法則とかに背くまいと心掛けたので却つていけなかつた。だからどんなに同情のある人が讀んで見てもあの中から十と良い和歌を拾ひ出すことは難しからう。それにも拘はらず結局威張つて暮したんだから、個人としてはうまいことをしたわけだと思ふ。

　私自身は今までかなり澤山の本を出したが、いつもそのお初穗は次兄に贈呈して來た。長年にわたり學資を出して呉れた恩義を忘れぬため、必ず第一册に署名をして次兄への貢物としてゐた。すると兄の方でも、すぐ朱筆をもつて讀んで行き、心附いたこと、誤りと思つたことの上に朱で以て書き入れをしてくれた。ところがその倅の奴はいつの間にか、その私の署名と兄の加朱と、そして兄の南天莊と刻んだ藏書印とのある私の著書第一册を全部他の古本と一緒に賣り拂つてしまつたらしいことが私の方にも判つて來た。困つたことをしてくれたものと思つて居る。

　井上家が血族から養子を迎へた時は、中川磧平の時でも、松岡泰藏の時でも、皆親類が相談して、これこそ一番適當といふ見通しをつけた上で、初めてさうしたものであらう。次兄井上通泰にしても、血の繋りのある山口家から大三郎の次男にあたる頼文を迎へることに内定してゐたのに、思へば悲劇の繰り返しといふの外はない。

　私の生家の松岡にしても�ｺ川初期から續いて來た家で、明治の初年に百姓一揆が起つた際でさへ、家の前をスーッと通り過ぎて少しも手をつけなかつた位ゐ信望のあつた家なのだが、それでも今は辻川に誰も殘つて居ない。大庄屋の三木家にしても、當主の庸一君は阪神間に住居を移し、父君の拙二翁は往つたり來たりといふ有樣である。

　いかにも御大家らしく、大きな樅の木が聳えてゐたが、もうその側まで道路が來てゐて、いつ伐られるか分らん位ゐである。あの梢をじつと見上げてゐた少年の日の氣持、大變澤山、寄生木がついて居て、赤い實がなつてゐる。そこへパーツと鵯や椋鳥なんかがやつて來る景色は今でもありありと眼に浮ぶ。こんなにまで小さな故郷七十年の思出を郷黨の人たちに聞いて貰へる機會があらうなどと、實は今まで私自身、夢にも考へたこともなかつた。

　

(437)　　　　　大屋の横行話

　

　山の木地師は最初、箸や杓子を造つてゐたが、そのうちに合子《がふし》といふ白木の食器を造るやうになる。時代ははつきりしないが、やはり足利時代だらう。

　京都の朝廷や、公けの人々だけは、特殊の技能をもつた者がゐて、京都で食器類を造らせてゐたらうけれども、普通のものはやはり掌の上で食べたり、木の葉の上で食べたりしてゐた時代があつた。そこへ合子の類が擴つたのは、木地屋の力に依るものである。だから木地師といふものの存在は決して馬鹿にはならなかつた。

　よく坊さん達が白木の合子と、禅の言葉でも云つてゐるから、足利時代には無論あつたのであらう。塗物でなく、木の白地のものだつたから、一遍用へばくちやくちやに穢れて、汚なくなり、嫌なもので、原始的な入物だつたらう。但馬の養父《やぷ》郡の一番奧に菅野《すげの》といふ所がある。普通兵庫縣では氷《ひよう》の山《せん》として知られて居り、鳥取の八頭《やづ》郡では、菅野山《すがのせん》といはれてゐる山の奧にあたる。元は養父郡西谷村といつたが、その奧に箸ばかり造つてゐる所がある。横行《よこゆき》といふ凄く不便な所で、向ふへ越すと因幡の國になる。因幡と播磨の境に何とかいふお堂が立つてゐたが、何かで意見が喰違ひ、兩方で協定したところ、その二階だけを外づして向側へもつてつてしまつたとかいふ可笑しな話もある位で、谷間でも喧嘩の多い所である。横に行き切つた所が鉢嶽になつてゐるらしい。

　この間も一寸聞いたが、やはり木地屋といつてゐるらしい、その癖、今は他のものは造らず箸だけ造つてゐるといふ話だつた。山道を越えて行くと、播州宍粟郡の一番奧の揖保川の源に出る。宍粟の山崎から登つて行くと伊和神社があ。それからもつと上がると谷が二つに別れる。三方《みかた》の谷と赤西《あかさい》だの、音水《おんずゐ》だのといふ谷に入るといふやうな所(438)のずつと奧の方である。

　そんな山奧の横行といふ谷にも、二、三年前から、車も通ふやうになつたと聞いてゐるが、何しろ馬鹿々々しい位、世間離れのした話が傳はつてゐる。土地の人は横行出身といふことを嫌がつて、町の方へ移住して來てもどこから來たと云ひたがらない。それについて横行話《よこゆきばなし》といふ馬鹿々々しいやうな笑話が知られてゐる。

　山で蜜柑を食べたといふ話だつたから、「皮を剥いて食べたか」と聞くと、「川を向いて」と早合點して、「いや山を向いて食べた」と返事したといふほど、すれてゐない山人の部落で、我々も子供のころから、横行話――どういふものか、大屋からは三、四里も奧になるのに、「大屋の横行話」といつたが――として、面白可笑しく聞かされたものだ。

　そんな笑話を特志家があつて、そこの小學校の先生だつたが、その人が集めて自分でガリ版を切つて本に作つたといふ話を聞いてゐる。播磨と但馬と因幡との國境の世間知らずの木地屋がゐたところから出來た笑話集のやうなものであつた。平といふ姓の家が多いといふが、平家の落人部落といふわけでもあらうか。

　横行から山を越えたところの、道谷《どうだに》といふ部落では、檜の木を薄くへいだのを編んだ、道谷笠といふのを造つてゐる。ここでも、他所へお嫁に行つても、道谷から來たとは云はない。また、笠は編まないやうにする、道谷出身といふお里が知れることを忌むからだと聞いたことがある。

　横行話といふと、辻川にゐた子供のころ、大人たちが笑ひながら話してゐたときのことが眼に浮ぶ。今では、但馬の八鹿《やうか》から、車で大屋市場《おほやいちば》に入り、若杉《わかす》峠を越えて、横行に入る方が、宍粟から入るより樂だといふ話である。縱には歩けないやうな狹い谷間なので、ヨコユキで身を小さくして匍つて行くといふ意味かも知れないと思つたりしてゐる。大屋の横行話はさきに「播州人のユーモア」でも觸れたから、この位にしておく。

　

(439)　　　　　野鳥雜記

　

　下總布川にゐたのは、たつた二年半であつたが、幼い頃であつただけに、何でも彼でもが珍しく、今も心の奧底に刻まれてゐる。明治二十年の冬から二十一年にかけて、私は目白を飼つてゐた。

　薩摩薯を一俵僅か二十錢で買つて貰つた。なるたけ細長い薯を僕の中遣で買つて貰ひ、朝々焚火の中へ一本づつ抛り込んでおいて、三分の一ほど目白にやり、後は自分で食べた。餘りいい餌でなく、擂餌をやるといい聲を出すのだが面倒臭いから、そんなことをして濟ませた。數へ年十四のことだつた。私の野島趣味にも七十年の歴史があるわけだ。

　利根川に沿つた丘陵續きの布川と同じ樣な地形を、私は佐渡ヶ島の外海府といつて西北の一番寂しい海に臨んだ高臺に見出した。六十足か七十足も登れば丘上に出てしまひ、その上に田圃がある。民家は下の傾斜地に建つてゐるわけで、非常に鳥が多い。多分、遠くシベリア方面から來て草臥れて、大喜びでさういふ處に休むのだらう。いろ／＼の鳥が一休みをし、方向を決めて他に飛び去るのだ。佐渡のそこのことを誰もいつて居ないが、高等師範を出て、いま鹿兒島に行つてゐる龜山君といふ人があるが、その人の友達になる北見君の郷里がそこなのである。

　人家は漁業の關係もあつてずつと高臺の裾にあり、背後の傾斜地に樹木が茂り、竹だの何だのあるから、鳥が飛んで來て、やれ／＼と思つて休むのに都合よく出來てゐるらしい。よく東海道あたりに、竹の端《はな》といふ地名があるが、あれは竹の生える樣な端なわけで、つまり川よりはずつと高い處にそれがあり、昔から戰があつたり、城があつたりした地形のことであらう。このことは、郊外に住居を決める時の標準にするといい。この成城の私の家なども、やは(440)り同樣の位置におかれてゐる。從つて今でも鳥がよく遊びに來る。鳩や尾長島が多いが、鳥といふものは、親の事は考へないが、自分の育つた處は生れ故郷として懷しさを忘れぬものらしい。

　私の家の庭にも近所にも松の木が茂つてゐて尾長鳥の巣が多かつたが、今は枯れたり、切られたりしてしまつた。私の方は昭和二年からの成城住居だから、隨分永居の方で、今までどこにゐたよりも一番長い年月、ここで暮して來たわけである。

　「野鳥雜記」を出したのが、昭和十五年であるから、十四の年に下總で目白を飼つて樂しんだ時から數へると半世紀以上の長さにわたる野鳥趣味である。ところが私が靜かに想ひ起して見ると、その目白時代よりも前に、野鳥について別の想出をもつてゐる。

　

(441)　　　　　小鳥日記

　

　誰だつて野鳥の嫌ひな人はないであらう。私の野鳥趣味は遠い幼年のころに溯ることが出來る。このことはもう他に話す機會はないだらうと思ふから、敢てここに記しておきたいのである。

　八つか九つの時のことであつた。初めて私は偶然のはずみで雲雀の卵を見つけた。その時の嬉しさは、今もはつきり記憶して忘れることはない。辻川の隣の部落の井（ノ）口といふところにお使ひにやらされたときのことである。その歸り路での經驗で、今一寸思ひ起しても胸が躍るやうな氣がする。

　三木の家の東にあたる麥畠の上を二尺ばかり離れた處で、一羽の雲雀が、ばたばたと羽ばたきをしながら飛んでゐる。幼な心にも不思議に感じられたので、ひよいと麥畑に踏み込んでみると、その雲雀の羽ばたいてゐた眞下が巣であつた。雲雀にとつては正に不用意な話であるといはなければならなかつた。私にしてもどうしても獲らずに居られなくて、それをとつて家に歸つて來た。二つしかなかつた小さな雲雀の卵を奪つて來たわけで、思へば、可哀相なことをしたものであつた。

　それからもう一つ、やはり辻川時代の思出がある。三木の家から少し東へ寄つた山ん中で、四十雀――でなかつたかも知れないが――の巣を見つけた。白い蜘蛛の巣みたいなものをつけた巣であつたが、それをどうかして取つてやらうと思つたのに、たうとう捕ることが出來ずにしまつた。でも同じところを何遍通つたか知れない。辻川の邊は實に野鳥の多い所であつた。

　東京に落着いてからも鳥の話を非常に澤山聞く。だから私の日記などを見ると、鳥が來たといふ咄を度々書いてゐ(442)る。牛込の加賀町に居る時分に、夕方になると飛び歩く鳥が來たことがある。無論それは梟《ふくろふ》か木菟《みみづく》に違ひなかつたが、どうして夕方に飛出て行かないのかと思ひながら見てゐると、食物などの關係で、ついぐづ／＼して居るうちに、夜が明けてしまふため、鳥の方ではもう明るいところへ出られなくなるのであつた。私の邸はほんの三十坪か四十坪しかない庭だつたが、そこに梟は二週間近くも逗留してしまつた。夕方になると二羽連れで、歩き廻る。そんなことを今でも憶えて居る。

　然しやはり茨城縣の側の下總が一番、私には、野鳥についての教育になつてゐるやうだ。初めのうち氣が附かなかつたが、鷦鷯《みそさざい》が崖の少し崩れてゐる所を、上からころ／＼轉つて降りるのを見付けた。轉つてるのではなく、滑つて轉がつたから飛び立つて居たわけだ。鷦鷯は意識して崖を轉がるわけでなく、うつかり崖の崩れた縁から轉がる度に姿を見せて、「ジャッチャッ」といつて鳴くのであつた。きつとあの邊に巣があつたに違ひない。隨分苦心して探したが、たうとう見附からなかつた。

　どういふわけか、下總では鵯《ひよどり》のことをホシナといつたが、それもよく見掛けたものであつた。

　小鳥の思出になつて、話が大分細かい所まで來てしまつたから、この邊で他の話に移ることにしよう。

　

(443)　　　　　堅石、姫堅石

　

　山茶花も茶の花に似てゐるが、あれもやはり元は山に野生してゐたものを、人里に降ろして進化させたものかと思はれる。山茶花の流行はずつと遲く、江戸時代にずつと増えたもののやうである。

　關東の人は用はないけれども、關西では堅石《かたし》といふ言葉が用はれる。兵庫から少し西へ行くとよく用ふ。堅石といふのはもと／＼椿のことである。それで山茶花のことを姫堅石《ひめかたし》といふ。九州あたりたは山茶花が實に多い。

　六國史の日本後紀の中にある渤海から來た使節が喜んで貰つて歸つたといふのは、この堅石油の椿油のことであつた。だから椿油といふのは日本では早くから使つてゐたことが分る。

　ただ關東では堅石と言はずに、椿といふ。播州あたりでは、椿の實のことを木の實といつてゐる。他の木の實は「木の實」といはないで、椿だけをさういつてゐるわけだ。播州から五十里も下の方へ行くと、廣く竪石といふ言葉が使はれる。九州なども全體に椿のことは堅石である。そして山茶花も姫堅石と呼ばれてゐるのである。

　

(444)　　　　　幕末の裏面史

　

　下總布川の小川虎之助さんといつて、私の少年時代を送つた邸に、私の長兄の一家よりも前に、同居してゐた石合｜震《すすむ》さんのことに一寸觸れておくことにしよう。石合さんの阿父さんが幕末の江戸で非常に有名だつた田口江村といふ人であつた。その人が小川家に何か世話をして感謝せられてゐたらしいので、いよ／＼幕府が瓦解した時に、小川家では邸の隅に長つ細い離れ座敷みたいなものを建て増して、江戸から田口家の人たちを迎へた。江村さんも大分一緒だつたと思ふが、晩年のことはどうも判らない。

　石合といふ人は極く幕末に迫つてから生れた位の年輩だつたが、この人が小川家と因縁をもつて住んでゐた。そして阿父さんの江村さんが遺した書物なぞを澤山その離れ家に江戸から持つて來たまま置きつ放しにしてあつた。例へば、羽倉外記の書物とか、その他、漢文で書いた學者の往復文書などが戸棚に入れてあつた。その石合さんの住居の跡へ、私の長兄が入り、そこへ私が引取られて一緒に住んでゐたわけで、そこへまた播州から父母が來て暫くその空いた部屋に同居させて貰つてゐたわけである。

　子供が遊んだり何かする部屋の戸棚の中に、その石合さんの遺して行つた葛籠が一つおいてあつた。中味を出して見ると、右にいつたやうな漢文の文獻ばかりである。一體どういふ人の置いて行つたものだらうと怪みながら、父は毎日それを見てゐた。そのうち田口江村といふ人の遺物であることが、大凡そ判つて來た。父も田口さんのことは知つてゐたが、それがどういふ關係でこの小川さんの離れに來たか、最初のうちは判らなかつた。

　維新ころの東京の周圍にあたる在方《ざいかた》には幕末の溢《あふ》れ者や零落した人々が色々の縁故を求めて逃げ込んで居つた痕跡(445)がいくらもあつた。この小川家の離れ座敷なども昔世話になつた江戸の田口江村先生のために建てたんだらうと思ふ。ただ所有權などは無論、田口家に渡つてゐなかつたらうし、僅かだらうけれど金の無心もしたことさへあつたんだらう。子供の石合といふ人は純學者ではなく、色々事業をやつて、私の前に云つた狂人に手頸を切られた小川虎之助さんに心配して貰つた金すら返しも出來ず、從つて預けた葛籠を取りに歸ることもしなかつた。

　田舍の人は呑氣だから、それを戸棚の中に入れたまま開けても見ない、そこへ播州から私の父が來て、それを見て吃驚した。田口家から引繼いだといふよりは、石合震といふ人がいつかその家に通ふ積りで運んでおいたものが其儘になつてしまつたものではないかと思ふ。その眞價を本當に認めて通當な所に保存するだけの力のある人もなく、小川の小父さんの後は女、子供たちだけだつたから、どうなつてしまつたことであらうか。結局、本當に十分それらを通讀した人といへば、私の父一人だつたといふことになるわけだ。

　また小川家から家數にして五軒か六軒か離れた所に、大變小さな藁葺の家を建てて、小學校教員をしてゐた増田といふ舊幕臣の良い御家人出の人物もゐた。貧乏になつても決してディグニティ（威嚴）は失はなかつた。みな幕末の裏面史として憐れな話ばかりで、舊幕臣や舊士族が暫く世を避けて、そんな田舍生活に耐へてゐたといふ話は、栗本鋤雲の傳記を見ても、明治以後に生き殘つた人たちの書いたものをズーッと讀み返して見てもよく分るのである。栗本鋤雲の傳にはその田口江村のことが出て來る。

　

(446)　　　　　攝津三田の精神生活

　

　攝津の三田《さんだ》といふところも、一寸變つてゐて面白い。昔からキリスト教が盛であつて、神戸を通して海外文化とも接觸があつたし、京都の同志社系統とも密接な繋がりがあつたやうだ。舊藩主の九鬼家にはまた美術に對する理解といつたものが流れてゐるらしい。舊くは九鬼隆一といふ美術行政家も出てゐるし、例の松方コレクションの神戸の松方夫人にしても、美術評論家の上野直昭君や朝日新聞の上野精一君にしても、また同志社大學の總長であつた原田助とその子でジュネーブの聯盟に働いてから、外務、宮内兩省の要職についた健君の家とか、その親類にあたる外交官の堀内謙介君とか、その他岸本能武太、英夫の父子兩君とか、何かの意味で三田と絲を引いてゐると云へば云へるのである。

　今でも三田の精神生活といふものには何か別なものがあるやうだ。さう舊いことではないが、飛騨の高山からずつと下流に、秋田といふ一人のお婆さんで新しい宗教を始めた人が居る。お婆さんといつてもまだ六十以下の女性だが、その人が何か神の靈示をうけて、新興宗教を起した。そしてその一番大きな勢力の地盤になつて居るのが、何と兵庫縣の三田といふわけである。

　三田からも飛騨に行くし、そこからまた三田へも來る。最近の消息は判らないけれども二、三年前までは三田が一番大きい中心であつた。それに驚いたことには、そのお婆さんを引つ張り出しに行つたりなんかしたのが禅宗の坊さんであつたといふのである。それらの坊さんたちが少しづつ一緒になつて、そのまだ若いお婆さんに働きかけた。その旦那が氣の毒なことに、その神樣の家來になつてしまつた。そして、子息はお醫者さんなのに、お婆さんの方では、(447)お醫者なんか要らない、私が祈?をしさへすれば治るなんていふ。そのため、金澤の大學に勤務して居つた子息までが何となく大學で壓迫をうけて可哀相に追ひ出されてしまつた。今はどうなつて居るか知りたいものである。とにかく三田といふところの精神生活には一寸風變りなところがあるやうだ。それに綾部の大本教もさほど遠くなく、その土地もやはり九鬼家が治めてゐたことも合せ考へると面白い點がないでもない。

　私はついおみき婆さん（中山）とかおなほ（出口）婆さんとかいつてしまふのであの方面では評判がよくないらしい。この池田婆さんに限らず、一體、新興宗教には、どういふものかお醫者の關係者に働きかけて信者にする例が多いらしい。世間に知られて居た名醫の未亡人などをつかまへて、藥品などは有害無益だなどと思ひ込ましてしまふ。どうしてもそれに動かされる人が出て來る。しかし名醫そのものが加はるならばともかく、その未亡人とか一族とかいふのでは仕樣がない。間もなく箔がはげるに決まつて居る。

　宗教の咄が出た序に思出すことがある。この八月にはいよいよ國際宗教史學會が日本で開かれる。どういふ風に取扱ふか、何れにしても可なりの資金が要るに相違ない。けつきよく奈良の天理教あたりに縋ることになるのではないかと今から懸念してゐる。

　あそこの中山正善といふ人はさつぱりした人らしく、書物や美術品を思切つて蒐集してゐる。しかし何れは信者たちの負擔になるわけだらうから、外部のものがさう甘えるわけには行くまい。いつも快く出して貰ふからといつて、主催者側がつい樂をしたがつて、あそこへ泣きつくといふやうなことは、十分考へ直して見る必要があらう。

　序に記しておくと、元、日本郵船會社に務めたことがあり、晩年は國際文化振興會の經理を擔當してゐた三原繁吉といふ人は、拙宅の縁家になつてゐるが、この人の浮世繪のコレクションは世界的に有名であつた。それも九鬼隆一さんの影響で集める氣になつたらしい。この人は國内でも米國でも九鬼さんとあちらこちら一緒に歩いたりした人であつた。この人の奧樣も九鬼家一門の出だつた。

　

(448)　　　　　キリスト教に一時傾く

　

　本郷教會は色々のキリスト信者や未信者が影響をうけた大きな會堂であつた。時計が正面にかかつてゐたのも懷しい。私どもにとつても仲々思出の豐かなところで、そこにカナダから來てゐたコーチといふ牧師さんが居た。非常にいい人で、今でも宅にそのコーチさんの書いた英文のものなどが殘つてゐる程である。その人が私を非常に可愛がつてくれた。そのため、一時はもう少しでキリスト教の方へ深入りさせられる所であつた。

　そのころのことである。ある夜のことであつたが、その近所に住んでゐた私は、淋しいものだから、先生と會つて色々の話をして來た。宿に歸つて見たら、向ふの二階の隅の所にだけ燈りがついてゐたので、そこまで行つて見たら、そこに書生が二人ゐて、どちらも惡者であつたが教會の關係者であつた。無斷で私の名を用ゐ關西方面で本を作つて出版したりしたのが一人と、もう一人は私をもつと苦しい位置に陷れた惡い男で、この方は後に國民新聞に入つて居つた男である。

　コーチさんのお蔭で、この二人からあの時は非道い目にあつてしまつた。その爲たうとうキリスト教徒にはならないでしまつた。それにしても、私の生涯で一時にせよ、キリスト教に接近した經驗をもつたといふのも、このコーチさんの人柄に引かれた結果といへる。

　

(449)　　　　　再び文學界のこと

　

　明治女學校は最初、番町で發足してから巣鴨の庚申塚の櫻井勉といふ人の敷地に移つた。高臺の上であつた。櫻井さんは但馬出石藩出身の名士で、維新後、大藏省に暫く籍をおいてから内務省に移し、地理頭まで上つた人である。明治十年代に府縣の區分けをした時の責任者で、兵庫縣を五つの國の寄せ集め縣にし、また、瀬戸内海と日本海との兩方の海に面するやうに決めた人である。自分の郷里を試驗にして見ようと企てたらしく、青森縣と山口縣とは兩方の海に跨つてゐるが、中間ではつきり北と南とに海をもつてゐるのは兵庫縣のみである。また南の私の郷村を通る市川と、北の出石を通る圓山川とを舟便で繋がうと試みたのも、この櫻井さんであつた。この櫻井さんの弟に木村熊二といふ米國歸りの舊幕臣があつた。

　この人はもと／＼櫻井姓であつたが、但馬生野代官の幕臣、木村琶山の養子となつたゝめ、木村姓を名乘り、そして上野の彰義隊にも參加した。この木村牧師の妻になつたのが、經濟學者で史學者であつた鼎軒田口卯吉博士の姉、鐙子《とうこ》である。この木村鐙子が義兄の櫻井勉や夫の木村熊二の後援を得て初めたのが、明治女學校であつた。

　播磨出身で但馬へ養子に行つた巖本善治がその教頭になつてゐた。彼の夫人は若死したが、小公子を譯した若松賤子であつた。明治女學校は相馬黒光女史や其他いろ／＼の才女を育てたが、また、多くの若き文學者が授業を助けてゐた。後に吉田賢龍夫人になつた星野ゆう子といふ女性もここの出身であつた。その二人の兄になる星野愼之輔（天知）と男三郎（夕影）とは私の知人であつた。

　この明治女學校から「女學雜誌」などが出て、大いに明治の新時代における若き女性の啓蒙に努めた。木村鐙子は(450)舍弟の田口卯吉がやつてゐた「東京經濟雜誌」を後楯にして、「女學雜誌」の發展を計つてゐた。この二つの新しい傾向をもつ雜誌の別働隊のやうな形で、「文學界」が生れたのである。

　星野兄弟は巖本善治と相談して、この文學界の發行所を本郷のどこかに求めてゐた。そこへ現れたのが、私の郷里から來てゐた義理の又從兄弟にあたる中川恭次郎（尚絅）であつた。彼は本郷の一高（現、東大農學部）の門前、酒屋の高崎屋の横に入つたところに一軒家を借りて居た。そこへ文學界が事務所をおいて貰つたわけである。巖本はもと播磨の神崎郡の人で、但馬の出石に養子に行つてゐたが、いはば中川とはもと／＼同郷のやうな關係にあつたので連絡があつたものと見える。井上の兄の妻マサ女が遙々東京に出て、明治女學校に學んだのも、井上と中川との勸めがあつたからであらう。

　明治二十九年ごろのことで、私は中川の所へ送つてくる寄贈書籍や雜誌をよく讀みに行つてゐた。その當時、上田敏君は文學界社に近い西片町十番地の近親者、田口卯吉邸に寄寓してゐたので、文學界事務所にも姿を見せたことがある。私より三年上級生であつたが、ここで初めて名乘り合つた。

　それ以來、偶々上田の厄介になつてゐた田口邸へも、私は?々出入するやうになつた。私の同郷同級の親友、松本烝治も、時々田口邸へ行つたことがあつたらしい。文學界の同人のうち、島崎藤村はそのころ湯島の新花町にゐたから、私も往來してゐたことは、既に述べた通りである。藤村は明治學院に學んでゐた頃、一時、學院の世話をしてゐた木村熊二牧師の邸に寄寓してゐたこともある。つまり、藤村と柳村（上田）とは同じ時代に、偶然にも木村と田口との義兄弟の邸に厄介になつてゐたことがあるわけだ。後に木村牧師が信州に移り、小諸義塾を興した時、藤村が招ばれてそこで教鞭をとつたのもそんな因縁があつたからだと思ふ。しかし、藤村は柳橋にも、この新花町にも住んでゐたことがあるが、間もなく仙臺の東北學院へ教へに行くことになつてゐた。

　私は最初、星野男三郎を通して、戸川秋骨（明三）、平田禿木（喜一）の諸君と知合つた。後には戸川と最も親しく(451)なつた。星野の妹婿、吉田賢龍は温厚の長者といふ風があつたが、金澤出身だつたものだから同郷の泉鏡花と交際があつた。そして、大學の寄宿の吉田の部屋で、私が初めて鏡花と名乘りを交した話は前に述べた通りである。女學雜誌、文學界の二つの啓蒙雜誌はスタートから何となく、東京經濟雜誌にバックされるやうな運命をもつてゐたやうに思はれる。

　私は文學界に新體詩を出したことがある。藤村の勸めがあつたのかも知れない。しかし、連中の詩は西洋の系統から來て居るので、胸の中の燃えるやうなものをそのまま出すのが詩といふものだと考へてゐた。私の方は初めに和歌の題詠で稽古してゐるのだから、全く調子が違ふ。それが日本の短歌の特長でこれこれの詠題で、例へば深窓の令孃にでも、「恨む戀」などといふ題を與へて歌をよませたものだ。出されたお孃さんの方は困るが、それでも「和歌八重垣」とか「言葉の八千草」とか色々の本ができてゐるので、その中から適當な部分を探し出して、歌を組立てるわけである。通例、使はれる言葉が三十か五十か並んでるから、それを組合せて歌をデツチ上げるわけであつた。これが昔の題詠といふもので、それを盛んにやつて達者になつておき、他人から歌を云ひかけられたときなど、直ぐに返歌が出來るやうになつてゐなければならないといふ所に重きがおいてあつたわけである。

　いはばお座成《ざな》り文學といふ氣持があつた。私ら後には、題詠でうんと練習しておかなければ、いざ詠みたいといふ時にも出ないから、そのために題詠をやるんだナンテ云つたりしたが、まあ、藤村あたりの敍情詩とは大分距たりがあつたのは事實である。

　

(452)　　　　　一葉女史のこと

　

　樋口一葉には、僕は實は反感をもつてゐた。みながチヤホヤして出入したし、おしまひには、正直正太夫（齋藤緑雨）みたいな人間までが行つて機嫌をとつたりなんかするやうになつて「ナアんだ」と思つた。僕はあんまり、それこそ尊敬しなかつた。西片町から柳町へ下りて來る坂の途中に、傾斜の途中、左側の低い所に、入口に門だけ出しておいて、入るや否やトントンと降りて行つて向ふ側の傾斜面に二階建か三階建だかのいい下宿屋があつて、戸川明三が下宿してゐた。戸川はそれはいい人で、誰が來ても嫌な顔が出來ない人だつた。それで、一葉さんに會ひに行く連中の往き歸りに寄る所になつてゐた。たまらない話であつた。そこへ行くと、今日は一葉さんがどうしたとか、ああしたとかつて話ばつかりしてゐる。

　僕もそこへよく行くことは行つたけれども、一葉の家へ足を運ぶことはしなかつた。そのうちに正太夫までやつて來たもんだから、やゝ反感を持つた。けれども作品としては、實際やゝ敵意を持つてる者までも感心してるもんだから、注意はしてゐた。

　正太夫は　　鴎外さんのところへも、後には行つてゐた。森さんの所へ行くと、また森さんの子供みたいになつてしまふ人間だつた。露伴の所へも出入してゐたが、その方が先だつた。露伴といふ人は誰でも一緒に酒を飲むから。

　それから後に森さんのところへ行くやうになつた。「雲中語」とか何とかいふ批評を「めざまし草」にのせる時くらゐから、正太夫が新聞記者らしくニュースを持つて行つた。誰それが困つてゐるとか、誰それが怒つてゐるとかいふ話までするものだから、森さんの方でも面白くなつて近寄らせてゐたのだと思ふ。尾崎紅葉さんは、初めは同人のう(453)ちに入つてゐたけれども、森邸へは初めつから來なかつたやうだ。さうかうしてゐるうちに、「この頃、上田敏君が森さんと附合つてるさうだ」といふやうなことを聞いた。もうその頃、自分は森さんの所へは行かなくなつてゐた。何で行かなくなつたか、判らないが、何か離間者があつたんだと思ふ。それに一つには奧さんや、お婆さんへの氣兼も出て、緩り話ができなくなつたといふこともあつたかも知れない。

　初めはよく訪ねて行つたものだ。「しがらみ草紙」の中には、私の書いたものが大分入つてゐる。私が物を書き出した初めでもある。松岡國男の名で出てゐる。

　

(454)　　　　　賀古鶴所

　

　次兄や森?外さんの仲間の賀古鶴所さんはじつに面白い人で、私を大變可愛がつて、暇さへあると呼んでくれた。寄宿舍時代の?外さんのことなど話してもらつたこともある。

　壯士みたいなのが大變ゐる中に、年も若く身體の小さい森さんが交つてゐた。

　寄宿舍の格子戸の棧がはづれて一ヶ所だけ開くやうになつてをり、小柄の森さんなら潜つて出られた。他の連中が捉へようとするとひよいと外へ出て、屋根の上を歩くので、危くてしやうがない。いゝから入つて來いといつてもなかなか入つて來なかつた。その時分から賀古が森をかばつてやつたといふ話であつた。

　賀古さんはまあ?外ファンで一生暮して來たやうなものだといつてゐた。その賀古が中心で、山縣、森、井上などの連絡もついたと聞いた。私も山縣が勢力をもつてゐるころ、賀古を説いて山縣を動かしてみようかと思つたりしたこともあるが、とても駄目なことが判つたので諦めた。

　この賀古さんの夫人の長姉が、駿河臺の今の明治大學の所にあつた樫村消�ｺといふ病院主の夫人で、その一門はずゐぶん廣い範圍に擴がつてゐた。樫村病院は佐々木東洋の杏雲堂病院にも匹敵するものであつた。その樫村夫人の妹たちが、播州人の陸軍一等軍醫正の中島一可にも、やはり軍醫の賀古鶴所にも嫁いでゐたわけである。

　それから樫村の長女が松山の人で子規の叔父に當る加藤恒忠の妻、また次女が何といつたか日米關係の仕事をした財産家の細君となり、今も小田原に住んでゐる。主人は銚子の人であつた。三女がおたまさんといふ才女で、外交官の石井菊次郎の後妻として活躍し、ピアノなども嗜み、パリ社交界のクィーンと謳はれたこともある。その次の娘が、(455)江木翼の弟で舊姓羽村、後に國光といふ家に養子に行つた人の細君になつた。

　中島一可は御徒町の近所に住んでゐた。井上がそこに醫院を開いた頃もその邊にゐたのであらう。奧さんも客好きで、播州の學生でそこへ行つて御馳走にならないものはなかつたほどであつた。もちろん井上はそこで皆と懇意になつた。賀古もその義弟になるから、そこへ出入りしてゐたことであらう。

　私が大學生時代に樫村家へ年始に行つて御馳走になつてゐると、そこへフランス歸りの外交官加藤恒忠夫妻がやつて來た。鼻眼鏡をかけていかにも外交官タイプで、奧さんも綺麗な人であつた。こんなのが外交官といふものかと、いさゝか好奇心をもち、また批判的に眺めてゐた。しかしよく知つてみると、どうしてあれ位立派な人は滅多にないことが解つた。やることが飄逸でしかも正道からはづれない。私らも本當に敬服したが、河井彌八君なども心から感心してゐた。ところが不幸で、私らが訪ねていつた頃、すでに小さな長屋みたいな家に住んでをり、子供も五人あつたが、みな學生時代に死んでしまつた。そして三番目が正岡忠三郎といつて、從兄子規の後を繼いでゐる。いま大阪の毎日放送にゐるのはこの人である。

　樫村家は娘たちはみなきれいでしつかりしてゐた。男の子は三人で、隨分大切に育てられてゐたやうである。數年前、正岡忠三郎君が來たので聞いてみると、祖母さんの樫村刀自は戰爭中亡くなられたといふことであつた。

　どういふわけだが、樫村の一族は非常に繁昌したものであつたが石井夫妻は四人の子供のうち、二人を亡くし、ことに最後は今度の戰爭で明治神宮表參道で一緒に戰災死したのだから、じつに悲慘であつたといふの他はない。

　加藤恒忠は司法省法學校の出身だつたが、日本新聞の系統で、三十五、六のころ、郷里の愛媛縣から一文も使はずに代議士に選ばれた。歸りがけに見送りに來た村長や何かの中心人物を呼んで、「何々君、僕はとくに松山のために働くことはないからね」といつて歸京したときいてゐる。

　今でもこんな代議士が一人や二人あつてもいゝはずだと思ふ。一生金も作らず、りつぱな文化人であつた。

　

(456)　　　　　藤村との疎隔

　

　私が臺灣へ發つ時、島崎藤村君が非常に長い手紙を寄越して、臺北へ行かれたら、自分の兄がお眼に掛りに行くから是非一つ會つて下さいと頼んで來た。その兄さんといふ人には私は會つたことはなかつたが、その細君の方は暫く湯島新花町の藤村の家に同居してゐたことがあつたから、私は顔見知りであつた。そして本當にいい婦人であると思つてゐた。そのころ、主人の方は何でも牢屋か何かに入つてゐたので、夫人は義弟の家に厄介になつてゐるといふやうな話であつた。

　それで臺北へ着いたことを報せてやるとその兄貴の方がやつて來た。問題は簡單で、どこかの山の下げ渡しを申出たいのだが、居住期間が短くてそれが出來ない。だから貴方から安東總督に口添をしてくれないかといふわけである。外地にはそんな話はいくらもあつたのだらうから、何とかしてやつてくれと頼めば出來たかも知れない。然し私は、春樹さんはその話の内容を知つてるのかと聞いて見た。兄さんはヘエ知つて居りますと答へた。二度も三度も念を押しても先方では知つて居りますといふ。

　そこで私は非常に腹が立つた。自然主義者などと云つてゐながら、そんな不正をするのが役人の實際だと思つてゐるのは怪しからん、恐らく東京の役人でもそれが實?だと思つてゐるのだらうが、そんなことを思ふ樣な奴は駄目だと考へて、そんな話は取次げないとすげなく斷つてもうそれ切りその兄といふ人に會はなかつた。自然主義と稱して、その頃ありのままを書きさへすればいいのだといつてゐた仲間の藤村が、役人といふものはそんな私事ができるものと見て、それをありのままの役人の姿だと思はれてゐるとすれば、役人にとつてこれ位侮辱はない、而もそのことで(457)兄の人と打合せをしておきながら、東京で會つたとき、一言もそれに觸れずに、ただ兄に會つてやつてくれと頼んだのには、憤慨した。それで私はそれつ切り藤村と絶縁してしまつた。

　私が島崎君と親しくしてゐたのは大變舊く、恐らく田山が彼を知つた時よりは舊かつたらう。初對面はまだ學生中で明治二十八年であつた。私が暫く大學の寄宿舍を出て、本郷の春木座の傍に二階借りをして住んでゐたことがある。

　一年ばかりの間であつたが、そのとき藤村は新花町のこちらに居たし、その前には少し奧に入つた金助町に居た。二度とも私の下宿と一丁と離れてゐなかつたが、その時からの友達で、「落梅集」の前であつた。藤村はそれから東北學院へ行き、それから後に音樂學校に入つたのだから、私は阿母さんも、義姉さんも知つてゐる。それから程なく田山も藤村と附合ふやうになつたらしい。

　そんな奮い附合であつたが、どうもこの臺灣の事件が氣に喰はなかつたので、藤村にいい感情がもてなくなつてしまつた。その後一ぺん「新小説」の島崎特集號に藤村のことを書いてくれるやう頼まれた時にも、下心が惡いものだから、甚だ面白くないことを書いてやつた。それは載せられなかつたが、他の機會に別の雜誌に載せられた文章が今でも殘つて居る。それにはこの臺灣事件のことは云はなかつたが、まあいくらか同情を持たない書き方をした。それが本人にも判つたのであらう。

　倅の蓊助などは時々來てゐたが、親爺の方とは文通も往來もなくなつた。ある時、朝日新聞の入口で偶然會つたものだから、立話をして別れたのがお仕舞となつた。

　こんな話はしない方が或はいいのかも知れないが、もう何十年も前の小さなエピソードとして記して見た。

　

(458)　　　　　藤村の詩「椰子の實」

　

　僕が二十一の頃だつたか、まだ親が生きてゐるうちぢやなかつたかと思ふ。少し身體を惡くして三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖崎に一ヶ月靜養してゐたことがある。

　海岸を散歩すると、椰子の實が流れて來るのを見附けることがある。暴風のあつた翌朝など殊にそれが多い。椰子の實と、それから藻玉《もだま》といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一つの鞘に繋つて漂着して居る。シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでいぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。それが伊良湖岬へ、南の海の果てから流れて來る。殊に椰子の流れて來るのは實に嬉しかつた。一つは壞れて流れて來たが、一つの方はそのまま完全な姿で流れついて來た。

　東京へ歸つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでたものだから、歸つて來るなり直ぐ私はその話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といふことになつた。明治二十八年か九年か、一寸はつきりしないが、まだ大學に居るころだつた。するとそれが、非常に吟じ易い歌になつて、島崎君の新體詩といふと、必ずそれが人の口の端に上るといふやうなことになつてしまつた。

　この間も若山牧水の一番好いお弟子の大悟法《だいごぼふ》君といふのがやつて來て、「あんたが藤村に話してやつたつて本當ですか」と聞くものだから、初めてこの昔話を發表したわけであつた。

　牧水も椰子の實の歌を二つ作つて居る。日向の都井《とゐ》岬といつて日向の一番南の突端の海岸で、牧水が椰子の歌を作つたことがあるから、その記念のため、碑を立てさせてくれといふことを、門人達が宮崎の近所の人たちに頼んださ(459)うである。ところがそこの新聞記者の中に反對する者があつて、「あんな所に椰子の實なんか流れて來やしませんよ、そんな歌の碑を立てたら却つて歌の價値が下がりますよ」といつたといふ。大悟法君が悔しがつて自分で都井岬へ行つて見たところ、何とそこの茶店に椰子の實がズーツと並んでゐたので、「こんなに流れつくのかい」と聞いたら、「ええ、いつでも」なんて云つたといふわけ。

　それで大悟法君、宮崎の新聞記者に欺されたといつて悔やしがつて居た。藤村の傳記を見ても判るやうに、三河の伊良湖岬へ行つた氣遣ひはないのに、どうして彼は「そをとりて胸にあつれば」などといふ椰子の實の歌ができたのかと、不思議に思ふ人も多からう。全くのフィクションによるもので、今だから云ふが眞相はこんな風なものだつた。もう島崎君も死んで何年にもなるから話しておいてもよからう。この間も發表して放送の席を賑はしたことである。何にしてもこれは古い話である。

　

(460)　　　　　眞字本曾我物語

　

　温厚で謹直で、本も讀み、研究も一所懸命にしてゐた牧口常三郎君が、あんな一つの哲理を發見して、新興宗教の開祖のやうになつたわけは、牧口君の個人的事情が元であつたかと思ふ。創價學會の人たちには氣に入らない臆測かも知れないが、牧口は人のことを心配する性質で、自分が苦しんでゐても他人の世話をするといつた氣持をもつてゐた。それにもともと自分一家が貧苦と病苦とに惱まされたので、佛教のうちでも、殊に特殊な法華教に入つたのだらうと、私は實はその點に對して大變な興味をもつた。

　富士山下の法華は身延なんかよりもつと舊くて特殊のものである。その本門寺に眞字本の曾我物語といふのが傳はつてゐる。文法は成つてゐないが、一字も假名を使はず、漢文ばかりで書いたもので、本門寺本ともいつてゐる。曾我が死んだ處だから、そんな本があつても當り前だが、非常に珍しい内容のものである。近年出て來た曾我物語の異本と比べて見ると必ず違つてゐるやうな本である。ところがこの本門寺本が餘り解り難いものなので、もつと解り易くするために大石寺本といふのが出來てゐる。

　大石寺は富士の五箇寺の一つで、富士の西側にあつて、そこに傳はるこの譯本は非常によく譯してあつて解り易いが、その中味は本門寺本を元にしてゐるので、普通に流布本と稱し、寛永十二年に出版されてゐる曾我物語とはまるで違つてゐる。といふよりはずつと良い内容をもつてゐる。寛永十二年の流布本は京都の人間が喋り散らしたもので、事實も何にも知らずに書いてある處が澤山ある。だから曾我物語としては不出來な本である。所が今ある異本の曾我物語といふものは、王堂チェンバレンの持つて居たものまで含めて、全部その京都系統のものである。

(461)　それに對立してその富士系統の本があるわけだ。大石寺本が國語になつて出されたのは新しいかも知れないが、そのもう一つ前の眞字本といふ本門寺本の方は舊くて、中味も我々にとつて大變面白いものである。眞字本と書いてマナボンといふのだらうが、その眞字本曾我物語は内容が非常にいゝし、正確にも出來てゐる。

　例へば頼朝が三原といつて淺間山のこちら側にある所へ狩に行つたといふ事件が曾我物語の一つの中心になつてゐる。淺間の東山麓で、今の北輕井澤邊にあたる所に狩に行き、その途中で曾我兄弟が工藤祐經を殺さうとして、非常な苦心をしながらついて行つた。仲間には入れないから、外から遠くから見張りながらついて行つたわけである。曾我兄弟が緊張する所であるのが非常に面白い。ところが流布本ではその地理が滅茶苦茶になつて居る。

　何處を通つたか全く判らない。むろん碓氷へ行かなければならないが、松井田のところでこちらからの道が出くはすとして、鎌倉を出てからどこをどう通つて行つたかが流布本でちつともはつきりしない。處が眞字本の方ではよく判る。

　兄弟が狙ふ頼朝の假屋を夜分に出て來て警護する侍なども、その土地に昔からゐる侍であるし、それから日割、時間表なんかも良く判るやうになつてゐるから、私としてはこの眞字本には確かに一つの舊さがあると信じたいのである。

　

(462)　　　　　安居院神道集

　

　話がどうもぺダンティツク（衒學的）な方へ入つてしまふが、日本で假名を用はないで漢文ばかりで無茶苦茶な昔の文章を書いた有名な本に、安居院の神道集といふのがある。その外にも二つ三つ同じやうなのがあるが、いかにも學問的らしく見えて、實は出鱈目なもので、漢字ばかりで書いて、假名をちよいちよい振つてある。安居院の神道集は恐らく私が一番よく解つてゐる方かと思ふ。

　安居院といふ處は京都なので、この話も京都で發生したらうと皆は思ふが、決してさうでない。その中に出て來る主題は、少しは他の所の有名なお宮もあるが、多くは關東、信州以東のものである。諏訪が入つてゐるが、群馬縣の花輪が一番多い。赤城とか、上州三山の邊の由來が嘘ばかりで、あの位ゐよく嘘を書いてある本も珍しい。

　それだけなら、價値はないが、そこに使つてある字が面白いのと、さきに云つた曾我物語みたいに、やはり内容に信頼すべきものがあるのとで、私どもにも興味がある。何故あんなものが群馬縣を中心にして出來たかと言ふわけで、私として大分時間を潰したり、本を書いたりして居る。今一番熱心にやつて居るのは甲賀三郎であらう。

　安居院神道集には、佛教のことなどはちつとも引用してなくて、本文の中に延文といふ年號が出て來る。南北朝の終り近くの年號だが、恐らくあの頃に出來たんだらうと思ふ。それで富士の眞字本の曾我物語と大體同じ頃の作で、同じ系統のものといふことが推定される。それで私は大變興味をもつて、富士の五つのお寺に注意したわけである。

　異本もまだ他にあつて、妙本寺本といふが、やはり富士から出て、日向｜飲肥《おび》の殿樣伊東家に傳はつた曾我物語である。あちこち渡り歩いて今は東京にあるらしいが、はつきりしたことは判らない。

(463)　兎も角、富士の麓から甲州を越え、群馬縣の東部に至る一塊りが、文藝の上で妙に解決せられない異誌群に屬してゐる。柳田家の先祖が出たといふ山北の川村城などもその一部と見ていいが、牧口君がうまく働いて呉れさへすれば、色々の事が明かになるだらうといふ希望から、私は彼の立場に同情を寄せてゐた。後に彼の著書「價値論」に私が序文を書いたのもそんな因縁からである。所が先方は私が信仰までを一緒にやつてくれるものと誤算した。

　今度の戰爭に入つて間もなく、牧口君は一晩若いのを連れて話しに來て、泊り込んで行つたが、私は大した印象もうけなかつた。それにあれの哲學のシステムが少し違つてゐると思つたので、深入りしても役に立たないと思ひながら、一緒に話して泊つたのが最後であつた。若い者を用つて熱心に戰爭反對論や平和論を唱へるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつゞけた爲め、牢の中か、又は、出されて直ぐかに死んでしまつた。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである。

　その時はまだ宗派がこんなに盛んではなく、三十人ばかりの青年が法華を信じつつ愛國運動を續けてゐる程度であつた。そして元氣に人を説得（しやつとく）、説伏（しやつぷく）することに努めてゐた。戸田城聖のことは?々牧口から聞いたが、一二度會つただけである。大井かどつかに中學校をやつて成功したが、宗祖となるには牧口君は少し不適當で、それほど深い信仰でなかつたから、物足りなかつたと思ふ。本も澤山讀んでゐたわけでなかつた。私はこの派はどうも宗教ではなくてマジック（魔術）だと言つてゐる。マジックとレリジオン（宗教）とを区別する一番主な點はアフタア・ライフ（來世生命）を考へるかどうかにある。

　

(464)　　　　　郷土會記録

　

　私の處で毎月何囘か開いてゐた土曜會と郷土會とのうち、土曜會の方は快樂亭、龍土軒と移つて龍土會となつた。そして郷土會の方も會員が段々増えて來たが、そのうち新渡戸さんの方でも同じやうな會をしてゐるから一緒にならないかといふ勸誘をうけた。多分、石黒忠篤君が兩方の會に出てゐたので、橋渡しになつたのだつたかと思ふ。それで一人二人を除く全部の會員が先方へ合流して行つた。

　私の方の郷土會では當番の人が報告をしてゐたが、新渡戸さんの方は實によく人が集つて中には外國人もあり、通辯をしたり、日本の事情を説明したりしなければならない場合も少くなかつた。それで會の性質は大分變つて來たが、然しこれ位ゐ皆の滿足した會はなかつた。各自から五十錢づつ會費はとつたが、御馳走は三倍も四倍も出た。老夫人が出て來て世話をやく、本なども珍しいのがあつた。それに新渡戸さんが「農業本論」といふのを書かれて、日本の中央部で仕事をしたいといふ時でもあつたので、農政をやつた我々の意見も聞きたい氣持があつた。その時になつて初めて加つて來た人たちに、那須皓、有馬頼寧、駒場の草野眞助、それに三宅驥一の諸君があつて、一囘も缺かしたことはない。

　所が新渡戸さんは第一次大戰の直後に國際聯盟に入つてジュネーブに行かれることになつたので、向ひ側の田中阿歌麿さんの家で續けることにしたら、ぱたつと人が來なくて駄目になつた。そのうち私までが新渡戸さんに勸められてジュネーブに行つてしまつた。仕事は國際聯盟の委任統治に關する委員會の關係であつた。私として外國語は本を讀む時のやうに自由に話すわけには行かなかつたが、追々と言葉下手でも、色々のことを知つてゐるといふので、あ(465)ちらの人たちが澤山私の處を訪ねて來た。休暇が長かつたので途中で一遍歸つて來た時に、新渡戸さんも歸られたので、今までお世話になつた御恩返しのつもりで、郷土研究會の講演を筆記しておいたのを印刷にしたのが、「郷土會記録」である。一册それを出版すれば後は若い人たちが續いて出してくれると思つたからであつた。とても全部を筆記できないから、人の話の要點だけを書き留めて要領よく纏めるやうにした。中にはうまく短かくして下さつて却つてよくなつたなどとお禮をいつて來た人もあつた。

　大正初期に日本の經濟事情を調査した時など、今は政治家になつてゐる石黒君が九州を歩いて來た態度が實にいいので感心した。記録の中に半分は印刷され、後半はまだ筆寫のままになつてゐると思つてゐる。今の久重高原を縱横に歩いたもので、一寸他人の氣のつかない事を澤山喋つてくれた。四十何年前の立派な報告である。

　牧口君もむろんその仲間に入つてゐたが、もうそのころ既に五十歳に近く、餘り無口だつたから人から愛せられなかつた。然し實にいい人で一緒に田舍など歩いてゐても氣持がよかつた。宗教の方の人はどう思ふか判らないが、私の見るところでは、やはり家庭の不幸がその方へ走らせたものと見てゐる。創價學會も牧口君から戸田城聖君を中心にしてゐたが、今は誰が主になつてゐるのであらうか。「聖教新聞」といふのがあの派の機關紙になつてゐるらしい。

　

(466)　　　　　牧口君入信の動機

　

　郷土會は段々會員が増えて一番多い時は十人位の人が私の處へ集つた。早稻田大學の小田内通敏が熱心な分子であつたが、今度の戰爭後に創價學會で世間に知られてゐる牧口常三郎などもよくやつて來た。經濟地理學であつたか、人文地理學であつたか、何でもさういふ標題の大きな本をそのころ既に出して居た。細々した處では議論の餘地はあらうが、プランがいかにも大きく面白いものであつた。農商務省の囑託をしてゐるといふ話をきいたが、よくあんなものを書く暇があると感心に思つた。

　越後柏崎の近邊の人で、早く北海道に移住し、向ふの師範學校を出、それ以後は獨習であつた。口が下手で餘り物を言はないで居ながら、言ふ時には、はつきりしたことをいふ人であることが判つて來た。北海道には札幌農學校があるだけであつたが、それ以外にも後々本當の學者になつた人も大分あつて、みな多少は牧口君の影響をうけたり世話をうけたりしてゐた。つまり彼は師範學校を出てから附屬學校の教師か何かをして後進の世話をしてゐたわけであらう。獨習の社會學者で田邊壽利君といふ東京のどつかの教授をしてゐた人があるが、あれなどは北海道時代から特に眼をかけて貰つてゐたらしい。牧口君自身もその人に非常に望みを託してゐたやうだ。創價學會の二代目で最近、病氣でなくなつた戸田城聖なども北海道以來のお弟子で東京へ連れて來たものだから、宗教に入るより前からの子弟であつた。

　牧口君は家庭の不幸な人で、澤山の子供が患つたり死んだりした。細君も良い人だつたが、夫婦で惱んでゐた。貧苦と病苦とこの二つが原因となつて信仰に入つたのかと思ふ。以前は決して宗教人ではなかつた。創價學會といふの(467)も自分の經濟學の方の意見から來た名前で、それを新興宗教の名にしたのは、戸田城聖の仕業か、さうでないまでもずうつと後の考から來てゐると思ふ。

　富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口はそのうちの本門寺といふのに參り出した。その原因として三谷といふ一人の面白い人間が介在してゐた。どうも正體の到らない變つた人物で、盛んに嘘をついた。處がいくつかの珍しい妙藥をもつてゐて、大して大きくない塗り藥とか、煎じ藥とかであつたが、それが不思議に良く效いた。それで私はいつか聞きに行つたことがある。貴方どうしてそんなに澤山いろんな藥の秘密を知つてゐるのかといつたところ、やはり嘘の返辭をした。

　シナの牛莊（ニュウチャン）から何十里とか何百里とか入つた處に舊いお寺があつて、色んな珍しい物が傳わつてゐるのみならず、大變な書物をもつてゐた。そんないかにも私の喜びさうな話をしてから、三谷はそこに暫く居て、そこで覺えて來たといふのだが、聞いてゐるうちに出鱈目が判るやうな話ばかりであつた。それが本門寺の信徒だつたわけである。

　牧口君とは早くから知り合つてゐた間柄らしく、牧口が私に「一度三谷君に會つて御覽なさい、三谷君の處に面白い藥がありますよ」といつて紹介してくれたのが最初であつた。私もその藥の恩惠だけは受けてゐるが、その成分は少しも知らせてくれなかつた。その男が牧口君を佛教の方へ導いて行つた。ところが、或る時、牧口がやつて來て、「私はこの度深く考へる處があつて三谷君とは絶交致しました」といつたのには驚いた。それつ切り三谷は私の前にも現れなくなつて、消息を絶つてしまつた。私より大分年上だつたから、もう生きてゐないと思ふが、法華の信者としては、牧口君の指導者であつたわけである。

　

(468)　　　　　常陸風土記から

　

　奈良朝から傳はつてゐる風土記の一つ、常陸風土記に興味の深い話が書いてある。その中の富士と筑波といふ話は仲々暗示に富んでゐて面白い。私はいつか宮中で正月の御進講の時、御前に出てそのお話をした。

　高い山の富士も、低い山の筑波も新嘗祭の日にはいつも雪が降る、筑波は低いのに、低いといふことは云はずに、春秋とも山が青々してゐるが、どうしてそんな山で新嘗のお祭があるかといふと、その理由が一寸變つてゐる。

　昔、神樣が訪ねて來られた時、富士山の方は正直に、今日は新嘗の物忌の日ですから、とてもお宿はできませんから惡からずと言つて、門前で神樣をお斷りした。

　ところが筑波山の方では、折角あなたがいらしたのですから、たとひ物忌の日であらうとも、勿論お世話をしなければいけませんといつて、その神樣をお世話したといふ風に書いてある。

　それは常陸風土記だから、常陸の筑波の方を贔屓して書いてあるわけだ。そして常陸の方では筑波といふ山が高いか低いかなどいふことはちつとも問題にせずに、その日には村中、國中の者がみんなそこへ遊びに行く樂しい日になつてゐるといふ譯である。それはよくある事だが、一遍機會があつたら、言つておき度いと思つてゐた點である。

　つまり規則を守つた方が却つて憎らしがられて、そしてその規則を例外的に破つて、相手を非常に尊敬した餘りに、その時だけその特別の規則を無視した者が、幸福をうけるといふ一種の二段構への例外的物語になつてゐる。

　序にもう一つ記しておきたいことがある。山の神樣が、女の神樣だらうと思ふが、お産をして山の中で、お腹が空いて困つてゐられた。そこへ麓から狩人が二人やつて來た。そこで神樣が、私はお産をしてお腹にまだ力がないから(469)お辨當を一つくれないかと頼まれた。すると狩人の一人が、「どうしてどうして、私は今日まで汚れを避け、精進潔齋して、今、山へ登つて來たばかりです。お産をした方なんぞに物を上げられるもんですか」と理窟をこねて、山の方へ行つてしまつた。

　ところがもう一人の方はそこで云つた。「たとひ潔齋した擧句であらうとも、貴方がお腹が空いてゐられるのに、差上げずにはゐられません」といつて、握飯を出して差上げた。それで力が附いたので神樣は大變喜んで、これからお前の筋の者を狩に成功させることにするからと言ふことになつたのである。一方は話がよく解る態度を示し、一方が餘り規則を凡帳面に貫いたために縮尻つたといふ話なわけだ。

　これとやや似た話が他にもある。私には取置《とつとき》の話だが、序に一遍話しておくこととしたい。之はこの民俗學研究所をやる以前から見つけて大手柄にしてゐる話である。一番最初に見つけたのは、宮崎縣の椎葉の山中であつた。そこで山村の記録を見て、そのことを見つけて東京に歸つて來た。それから次には東北へ行つた。そして岩手縣に傳はつて居る秋田縣の話として聞いたのが、やはり同じ類の話であつた。唯、人の名前だけは違つてゐた。

　やはり神樣がお産をして苦んでゐられる所へ狩人が二人通りすがつて、同じ話が生れてゐる。それだけでもいい加減面白いのに、その九州と秋田との中間にあたる天龍川の上流にもまた一つ同じ話がある。何れもお産の汚れのある女神に辨當を差上げた方の狩人の方が山の幸に惠まれるやうになつたといふ筋書になつてゐる。

　それから良く氣がついて見ると、荒血山といふのが、あの義經記に出てゐるが、荒血といふから、お産をした山の神樣なのでアラチといふのであらう。そこへやはり二人の狩人が通つた。一人は汚れを恐れて逃げて行つたのに反して、もう一人は汚れがあつても、貴方からさう云はれゝば差上げぬわけには參りませんといつて上げたといふ。全く同じ中味の話が四個所にあるわけだ。

　日本の國の眞中に三個所と、もう一つ九州に一つと、四つの所に同じ筋の話が殘つてゐるのを面白く思つた。義經(470)記は常陸風土記の傳説を眞似たとも見られるが、何れも素朴な昔の人の信仰生活が窺へて、私には大發見であつた。

　まあ、私の事業についての一つの手柄とも云へるかと思つてゐる。

　

(471)　　　　　各地の掠奪婚

　

　婚姻とか節操とかいふ問題は、或る所で一つ所亂れ初めると、やはり流行する傾向にある。例へば一つの海岸地帶などで、沖へ船出して、非常に骨の折れる勞働をして歸つて來るとする、船を漕ぎながら、早く歸つて酒を飲まう、女と一緒に飲まうといつた氣持になる、それをしない者はいぢめられるものだから、反對はできない。船の持主はハラハラして之を迎へる、さういふ所があちこちの海岸地方にある。

　結婚にしても、最初の結婚で一生を終るのが本當の原則だなんていふことは認めないで、何遍でも落着くまで變つて宜しいといつたやうな道�ｺの支配してゐる所もある。それは必ずしも珍しい道�ｺぢやないかも知れないが、どの土地にも見られるところで、兎に角、道�ｺとか原則とか云ふものは、確かに今の我々が考へて一寸も差支へない樣な、お互に愛し合つて、お嫁に貰ふんだとか、貰つた以上は棄てないのだといつたやうな繼續的なものがあるといふことを何かの方法で證明したいものだと思ふ。

　以前は何分にも學問は多く士族のやつたもので、その士族の中の定つた法則がいつも嚴格で、それが當り前だといつてしまふ。それで農村の自由な若い者自身の判斷によつて、春先なんか野原へ出て居つてもお互に自由に附合へるといふやうなことが出來ないことになる。考へて見なければならないのは、いはゆる四民平等といふことで、いかにも良い言葉ではあるが、實は四民がみな士族になることを理想だとする心持から、自ら農業者が自分の今日までの生活を輕蔑する傾向が存續してゐる、……この問題が未解決のままである。これは民俗學が扱ふより以外に方法はない。

　然し何分にも參考になる本がない。我々の同志の者には、良く資料を集めて居る人がある。自分のアフィダヴィツ(472)（口供書）みたいなものを取つて集めてゐるのもゐる。地方によつて違つてゐるが……。若すぎる者の中には、亂れるものもある。例へば獵師など山の中を一週間も十日も走せ廻つて村里へ出て來ると、人里では食物でも何でも珍客に出すといふ扱ひをする。氣性が荒つぽくなつてゐるから、色々の脱線も犯すわけである。

　今度の終戰後に聯合軍の兵士が九川邊に進駐した時なども、土地では若い娘さん達を豫め警戒して山へ隱した、何をされるか解らぬからといふわけであつた。概して文明的に行動したやうだが、中には地方によつて、惡い事、困つた事が起つたらしい話も聞いた。

　長崎から向ふの方で、彼杵《そのき》郡邊にはまだ嫁盗みを原則としてゐる所も多いらしい。その形はざつと三つあるといふことだ。

　先づ本當の奪略婚がある。親が呉れないから、また本人も承知しないから、盗み取つてやれといふ形式で、これは流石に段々と減つて行くらしい。

　そして、職業的に嫁盗みの役目を果す人間がゐる。まあ非常に顔が效くわけで、その人問が乘出して拐《かど》はかして來るのである。つまり、顔役の一つの素養のやうなもので、先方で若し承知しなかつたら暴力を振ふといふやうな顔をされると、相手も一寸怖いし、親にしても、娘にしても、怖氣を振はないでゐられない。

　大正の初ごろまではよくあつたが、もう變つて來てゐるであらう。女の方で第一承知しないし、長崎邊の例を見ても、きつい女になると何といつても承知しないのが少くない。

　そこで第三の嫁盗み形式になるわけだが、顔役が暴力は用はないで、うまく相手の女を誤魔化して連れて來る。そして一間に監禁しておいて、本當にうなづくまで待つといふやり方だが、何といつても承知せず、たうとう突つぱねて自宅へ逃げて歸つて來たといふやうなしつかり者の女もある。その他に親は許さんでも、本人同士はちやアんと心が通ひ、好き合つてゐる例が少くないが、これらは別の話である。

(473)　　前に「土の鈴」といふ雜誌に一人の投書家が十年以上もかかつて調査し研究したことを載せてゐたことがある。なかなか參考になるので、私も手紙を何遍も出して、もつとまとめて書かないかと勸めて見たことがある。喜んで返事は呉れたが、たうとう纏めずに終つたが、嫁盗みの調査には大變參考になるものが多かつた。

　

(474)　　　　　裸體と文明

　

　上の弟の靜雄は海軍に居て、ドイツ語がよく出來た關係もあつて、第一次大戰の後、南洋の委任統治領に派遣されてゐたことがある。南洋のことについては、明治二十年代の初めに田口卯吉博士が渡航した報告として南島巡航記といふのが出てゐる。土地の酋長が大變好意を示したのはいいが、夜半に自分の奧さんを伽に遣はしたのを物盗りが忍び込んだのかと思つて大騷ぎをしたといふやうな話も書いてある。弟靜雄もこの本を大變參考にしたといふ話だつた。しかし、彼自身も南洋方面に關していろ／＼と報告を書き殘した。

　最初はパラオの島廳に行つて、調査したことを書いてゐる。パラオもヤップも土人はみな裸體であつた。しかし、頭は割合に進んでゐたらしい。東の方へ行くと、女でもアッパッパを衣たり、パヂャマ見たいなものを身につけたりしてゐる。然しその連中よりも西の方に住む連中の方が、人間としても好いし、頭も良いといふ話であつた。その連中は裸身に油を塗り、昔のままの腰簑で腰を被つてゐた。地理的な關係もあつたのだらうと思ふが、腰布といふものは、ゆるんだり、きつくなつたりするから、見てゐて面白いといつてゐた。

　近頃、私は西藏に行つてゐた中根女史に話を聞いたが、チベットの山の中でも、トライブ（種族）によつて、非常に身體を隱すのがあるさうで、昔はすつかり身體に布を卷いたといふが、今はそれほどでもなくなつたのがある。

　知能は別に進んでゐるわけでもないといふから、裸であるのと、肌を隱すのとでは、開化とか進歩とかとは、全然別と考へていゝらしい。日本では、裸かどうかといふ點だけに文化のスタンダードを置いて考へる傾がないではない。裸身の多い日本人の一種のひがみかも知れない。

(475)　森?外さんが經營してゐられた雜誌の「めざまし草」とか、「しがらみ草紙」とかの一番裏の頁を漫畫のページにしてあつた。日本で丁度裸足で歩くことを禁止する法令が出た時だつた。明治二十三年のことだつたと思ふ。俥屋が裸足で走ることを禁じた。鹿鳴館時代の影響で、日本人が裸足で歩いてゐては、西洋人に野蠻人扱ひせられるから、きまりが惡いといふのであつた。原田直治郎といふ畫家がそれを皮肉つて、俥夫が裸足に言譯くらゐの小さな草鞋を一寸引掛けて走つてゐる畫が載つてゐた。脱がないでも、足が殆と全體出てゐるやうな草鞋穿きの繪であつた。

　西藏では中根女史が夜になつて着物を脱ぎ、床の下に敷いてから寢ようとすると、女同士でもさういふことに對して、土地の女が非常に敏感で好奇心を以て觀察する。彼女らは頭から足の先まで布で隱して、決して顔や肌を他人の眼に曝さないやうにする。而もその連中が決してその隣の部落のハダカの連中より進んでゐるといふ譯ではないさうである。

　ただ隱すといふだけで我々の眼にはいかにも進んでゐると思ひ勝だが、その標準は決して當てにはならないやうである。

　フィリッピン人が今のやうに寒冷紗みたいなものを着初めたのも、一八九八年の米西戰爭以後のことのやうに、私ら自身が憶えてゐる。スペイン時代はもつと裸體だつたやうに思ふ。アメリカの領土になつてから米本國の輿論がさう云ひ出して、比島女があんな薄衣を着出したのであつたらう。優秀な階級のものはさうでなかつたかも知れないが、一般庶民は裸體であつたと思ふ。日本だつて以前は、そんなにハダカを氣にしないで外を歩けた位である。

　濕氣の多い大阪の町家の人は、主婦《かみ》さんなども含めて、以前は盛夏に肌脱ぎ姿が多かつた。店番なんかもそのままでしてゐたやうに思ふ。シナの人も、俥夫でも、店員でも、平氣で上半身をハダカにしてゐることがあるが、下半身は必ず隱してゐた。氣候による點もあらう。

　ところが西洋人は、歐米の何れも、日本人に比べて、太股を出すといふことは、少くとも近頃ぢや、余りショッキ(476)ングぢやないやうである。日本人は上半身を蔽はず、乳をむき出しにしても股の万は隱すが、歐米人は胸の方は必ず隱しても、股の方は割に平氣で人眼に曝す傾がある。娘は勿論、主婦さんまでが、膝つ小僧の上までむき出しの衣物を着て、一向氣にしない。

　バーミューダ・スタイルとか、ビキニ・スーツとか、特殊地帶だけで用ふやうな名前をつけてゐるが、どうして、こちらの海水浴場や避暑地はもちろん、銀座でも、輕井澤でも平氣でそんな思切つた半裸姿を天日に晒してゐる。裸と文明とは余り密接な關係がないらしい。

　

(477)　　　　　主婦權の確立

　

　私がこの成城に引越して來たのは、昭和二年であつた。もうそろ／＼この町に所謂インテリ・マダムが澤山住むやうになつてゐた。ある時、そんな婦人達の集りで、私に何か話をしてほしいとのことだつた。西洋でいふメイトロン、即ち主婦、中には女傑に近いものも入つてゐるが、その主婦達が集つた。そこへ顔を出して、私は、あなた方にも主婦權といつたものがある。男は大變な段階を經てやつと一人前になるのに、女はもう無造作に、すつと連れて行かれさへすれば、男と同じ一人前になるといふのは不公平だ。主婦にも男と同じ風に主婦權といつたものがある筈だ。それには弊害もあるから、皆がよけて通る傾がある。殊に東日本の方では女が自分で避けたけれども、九州なんかには、さういふ人が澤山あつたのをまだ私らは覺えてゐる。

　主婦であるといふことは、女全體の利害を代表して男に對抗するといつた風な可成り強い考で動くことになる。その代りあとの女は服從しなければならないわけだ。澤山ある娘の中でも、親が第一これなら人の家の主婦にやつてもいゝといふのを、初めからその積りで養成して行かなくてはならない。この子は少しおとなし過ぎるから、まあ仕方がない、良縁があつたら行く、良い新家《しんや》があつたら行つて、分家のおかみさんにでもならせる、それもなければ仕方がない、すたつた者でも女でありさへすれば、夫婦になれる、夫婦になりさへすれば必ず一緒に住むといつた風にしたのは、實は幕府時代からの一つの政策であつた。

　つまり一軒から一人宛、人夫を出すと云つた場合に、――實際には、一軒一人よりはもつと多く出させられたが――こんな風にしておけば、政府に都合がよかつた。我々が郷土自治の本なんかを勉強して氣がついたのは、各藩と(478)も申し合せて分家を奨勵した事實であつた。そして分家といふものはなるべく自由な、本家から掣肘せられないで、小さいながらも一軒になる風にしておいた。それらの結晶體みたいなものが、都會を作つた。

　都會を作る前といふのは、田舍でそんな風に分家したんぢや心細い。普段の日はお腹が空いたら食べ、眠ければ寢て大變自由なやうだが、一年のうち何日と改たまつた日には、やつぱり本家の竈《かまど》を用はないと餅もつけなければ、お強飯もふかせない。それから皆が集まらなければ本當の儀式も値打が判らんなんて言ふものがある。私らが覺えてからでも、田舍には本家の廻りに小さな分家が何軒か集つて住んでゐた例があつた。

　その著しい例が、伊豆の大島にあつた。明治三十六年に、私がまだ二十八、九の時分に、大島に行つて見た時、そんな例が多く殘つてゐた。そこで私は村の地圖を出させて見たところ、あの元村には屋敷と番地にして僅か三十戸ばかりしかなかつた。私の泊つた家は那智といつたが、五番地だつた。その廣い屋敷の廻りに、五番地の一、五番地の二といふ風に何軒もあつて、一寸、尻を本家の庭に突込んだ形に建てて集團をなしてゐた。

　可笑しい形だねと言つたところ、かういふ昔の屋敷地帶で分家といふものは、かうやつて住むのが一番安全なんだ、表通りは獨立の家になつてゐるが、裏口の方からずつと本家に通へるやうにしてあつて、誠に便利だといつてゐた。その明治三十六年の屋敷の形もその後行つた時にはすつかり變つてしまつて居た。もう今では何百何十何番地といふ風に言はれて居る。序に、地圖の方もいくらか割換へたかも知れないが、その最初に私の見た地圖は、四角で非常に廣い地圖をちよつちよつと細かく区切つて、分家の尻を本家の邸地に割込ましてあつた。私にはその時に見た地圖が今もはつきり印象に殘つてゐる。

　要するに、大體において本家が分家を遠くへやらう、遠くへやらうとするやうになつたのは、割に新しい現象である。都會の生活といふのは、それの一番進んだ?態なわけで、本家の拘束を最少限度にすることになる。それに伴つて婚姻制度といふものも、言はず語らずの間に非常に變つて來る。だから以前のやうに、一寸した偶然のことで男女(479)が夫婦になつても、女房は段々と皺くちやになるばかりだから、一所懸命になつて亭主にしがみつく、それに對して、亭主の方は我儘で、いたづらしたりなんかしようとする、そのために夫婦喧嘩が非常に多かつた。極端な言葉を使へば、私どもの成人になる時代は、夫婦喧嘩の時代といつてよい位、いつも長屋の小言が絶えなかつた。

　そんなことを見て來てゐるものだから、私は女も家庭に入つて後、主婦權といふものをあくまでしつかりと確立する心掛が大切だといふやうな話を、この成城のインテリ女史の集りに招かれた時に述べたやうなわけであつた。

　

(480)　　　　　竹葉寅一郎のこと

　

　すこし脇道にそれるが時節柄、舊い知人の竹葉寅一郎のことに觸れておくこととしよう。土佐の人でクリスチャンであつた。變つた人で極端な氣象をもち、同郷の先人中江兆民なんかの感化をうけたらしい。伊勢の白子の少し南のところ、栗眞とかいふ村に行つて、少數部落の同胞のために大きな收容所を設けて、非常によく保護して居た。

　伊勢の三重郡であつたが、最初のうち、どこの部落へ行つても憎まれたり、嫌はれたりしながら、かまはずにどん／＼附き合つて調査をし、資料を集めてゐた。どういふ切つ掛けからそのやうなことに手を染めたのかはつきり判らないが、實によくやつてゐた。自分が彼等と同じやうに生活することが出來たものだから、部落に入り込んで、何でも書き留めておくやうになつた。

　私は三重縣廳の警察部に行つて、それらの資料を見せて貰つた。大きな本が何册にもなつてゐた。竹葉が問題を詳しく調べてゐたのには驚く、私もそれらの調査を中心に色々の資料を集めたことがある。今も背丈に近い位たくさんの分量になつてゐると思ふ。どちらかといふと、資料はどうも部落の内部の弱點みたいなことに觸れたものが多いので、それを逆用して不親切な考を起すやうな方向に利用されては困るといふのが、關係者の意見であつた。

　部落内部の性的な問題も大分扱はれてゐた。例へば品川あたりの遊女などにも、以前は特にこの種の婦人が多かつたとか、實に詳しく書いてあつた。「竹葉（たけは）渡來抄」とかいつたと思ふが、あの人の文章はいまどうなつてしまつたであらうか。問題は可成り古いが、同時にまた新しくもある。近ごろも再び燃えさかつてゐるし、私自身もかつてこの問題の合理的な解決に心を注いだこともあるが、一旦よく考へてから止めてしまつたのであつた。私として(481)はもう今からまた手を出す氣はないが、今のまんまぢやいけないと思ふ。

　もとはわざと隱れるやうなものが多かつたものだから、世間も隱してしまつた。本當のものはそんなに嫌なものではないのだから、そんなに卑下しなくてもいゝ筈のものである。何にしても世の中の人が全體として十分考へるべきであらう。

　

(482)　　　　　宮武外骨

　

　南方熊楠が牢に入つたことがある、これは全く宮武のためだつた。大阪へ移つた宮武が浮世雜誌みたいなものや不二新聞といふのを出した時、南方も之に寄稿した。さうしたら二人とも有罪になつてしまつた。南方はもう一遍は和歌山縣の内務部長か何か役人のすることが癪に觸るといふので、その周邊の人間を撲つたといふためであつた。

　僕は宮武氏に同情を持つてゐたんだけれども、會ふ機會がなかつた。あの人が大學の明治新聞雜誌文庫の主任になつてゐたころは、ちつとも大學に近づかない時分だつたから。

　吉野作造君がよく世話をしてゐたやうだ。その吉野と私は一緒に暫く朝日に居たんだから、宮武氏にも會ふ機會がありさうなものだつたと思ふが、不思議にも會はないで終つた。大阪に自由黨系の新聞人であつた日野資明といふ人があつたが、その人の娘さんを養女にしてゐた。その人も吉野君の世話で、同門下の法學士に嫁いで、今も仕合せにしてゐるといふ話である。

　これも明治の變り種の一人だつたが、香川の宮武、�ｺ島の鳥居龍藏、そして高知の牧野富太郎など、偶然だが、四國の各地から變つた獨學者が並び出てゐるのは、面白い現象だと思ふ。

　

(483)　　　　　土と心を耕しつつ（江渡幸三郎）

　

　武藏野で百姓をしてゐた變り者に、江渡秋嶺といふ人があつた。私は手紙を貰つたので通信をしたことはあるが、つひに會はずに終つてしまつた。

　聞くところによると、明治時代に人物評論家として大きな足跡を殘してゐる鳥谷部春汀の甥にあたる人であるさうだ。ともに岩手縣の北端、福岡の出身だとか。本名は幸三郎といつた。

　二高時代から、戰後初代の最高裁判所長官になつた三淵忠彦君と親友で、おしまひまで仲良く附合つてゐたらしい。駒場の農學校を中途で廢めたかどうか、何しろ、大逆事件後、感ずる所があつて、武藏野に地面を買入れて、一家で百姓になつてしまつてゐたらしい。土に親しむ穩健なアナキストともいふべきタイプであつた。

　叢文閣といふ本屋から「土と心を耕しつつ」といふ隨想集を出したこともある。奧さんは高等師範を出た人であるが、夫妻とも今の教育制度に滿足してゐない。それで子供たちは、學校へやらずに、すべて家で教育する方針にしてゐた。その上、上の子供から順々に、英語、獨乙語、佛蘭西語、露西亞語と皆違つた語學を兩親で教へることにし、そのために、親達が先づそれぞれの語學を習つて、實力ができてから子供達に順番に教へてゐるといふやうな話を聞いたことがあつた。

　お弟子といふか、助手といふか、若い人がすつかり百姓になり切つて、田畑の方も、肥車を牛に引かせて、都内の知合の家に汲取に行くのも、すつかりこの若人が一人でやつてのけてゐた。大人しくて確りした人で、この人のお蔭で江渡農場がうまく行つてゐるやうなものだつたさうである。主人公の秋嶺が牛車について街を出ると、つい脱線す(484)ることがある。どういふわけか、大の酒豪で、途中でコップ酒を引つかけると、それが病付となり、次から次へ、梯酒をして何日も歸らない。そのうち血を吐いて往來にぶつ倒れるといふやうな極端な所まで行かなければ止まらないといふやうな困つた癖があつたらしく、知人はみなそれをこの人のために惜しんでゐた。

　極く眞面目で、大きな聲も立てない靜かな人だが、それが一度飲み出すと大變な事態に陷るのであつた。親しい友人たちも、この業病を何とか克服しないと折角の理想境生活も何にもならないと忠告するのが常であつたとか。

　眞面目に思索し、眞劍に百姓生活をしてゐたのだが、どうも酒での失敗が多かつた。歐米を廻つてくるといつて、アメリカまで行つたこともあつたが、歐洲へ足を伸ばさず、早く歸つて來たのも何か酒の上の失策があつた爲ではないかなど、心配してゐる知友もあつたほどだ。

　私は度々手紙を貰つたが、たうとう逢はずに終つてしまつた。本なども隨分廣く集めて讀んでゐたらしい。まあ、謙遜で幅の狹い南方熊楠といつたタイプだつたらうか。明治時代の變り種の一人とでもいふべきであつたらうか。

　

(485)　　　　　ロバート・ホール博士など

　

　米國のミシガン大學にある日本研究所を永い間、主宰してゐたロバート・ホール博士とは仲々話題の種がある。人文地理の專門家で戰後、岡山に設けられてゐたミシガン大學の研究支所の指導にあたり、澤山の日本研究の米人學生を育成してゐた。この人は、ヨーロッパ文明を知るのに、地中海から初める必要があるのと同じやうに、日本の文化を調査しようと思へば、先づ瀬戸内海に着手するのがいゝといふ意見ださうである。

　戰爭の前にも米人學生を七、八人も連れて訪ねて來て、この成城の附近で何か學生に見せてやつてほしいといつたものだから、一緒に近くを連れて歩いた。例へば、江戸初期か、もう少し昔に、この邊がまだ荒野原であつた時代に開墾に入つて來た人は何よりも自分の家を防禦しなければならなかつた。川の流れを自分の屋敷の方へ引き入れて、その川沿ひの土地を三角形にいくつも突き出して防壘のやうに築き上げてゐた跡がそのころまだ殘つてゐるのをみなに見せて歩いたりしたのであつた。

　その舊い農家も爺さん婆さんが死んでしまつたものだから、縁が切れて當代の若い人たちとはもう附合ひがなくなつた。然し昔の人が川を邸地の近くまで引き込んで城の外濠のやうにしておいたのは、外敵を防ぐためにも、野獣の難を避けるためにも、大變利巧な遣り方であつたと思ふ。

　そのホールはいま東京に來て、アジア財團の代表者になつてゐる。今年になつて功四等に敍せられた。この間も手紙を呉れたが、つい億劫なものだからそのままにしてゐる。

　國際聯盟の關係でジュネーヴへ行つてゐた時も、いろいろの外人と附合つてゐた。それらのことを日本に歸つてか(486)ら話をするのに、信州の教員たち相手なら話が解つてくれるだらうと、かねて向ふに居る時から考へてゐたので、自分の方から名乘つて出て豫約をしておき、日本へ歸つて來ると直ぐに信州まで出掛けて行つて講演をした。たしか二時間以上も話したやうに憶えて居る。

　

(487)　　　　　コンラッドのこと

　

　ネフスキーと相棒のコンラッドとはお互に競爭意識があつて、餘り仲がよくなかつたが、一時は東京で一緒に住んでゐた。年は同じで二人とも二十五歳になりましたと云つてゐたことがある。コンラッドの方はどちらかといふと俗物で、官給の留學費が來なくなると、早速歸つて行き、つい最近までずつとペトログラアド大學で、日本文學の教授を續けてゐた。

　女の留學生を二人紹介してよこした。一人はグルスキナと言ひ、こちらでドイツ人と結婚してフラウ・シュワルツマンと名乘つて日本にずつと居た。自分で清水浪子といふ日本名をつけ、訪ねて來ても取次の者に「清水浪子です」といつたりしてゐた。お仕舞はどうなつたか良く判らない。それつきり便りがなくなつたが、お喋りで出しや張りだつたのでその顔付をよく憶えてゐる。

　もう一人の方は頭にO（オー）の字のつく女で、枕草子か何かの研究で博士論文を書き、歸國して日本文學史の教授となり、今もそれを續けてゐるらしい。

　さういふのが東京に勉強に來た時は、いつもネフスキーが世話をしてやつてゐた。つまりロシアでは留學生の制度とか、學問上の交渉とか云つたものが、革命後になつても囘復しなかつたので、金を送つて來ずに、個人的關係に任せて居たのであらう。

　日本の學界のために、之だけ多く働いたネフスキーといふ人間の仕事の成績が何にも殘らずに消えてしまつたことは何としても氣の毒であつたといふべきであらう。

(488)　日本に居る間はこちらの憲兵などに眼をつけられ、そしてウラジオストックに上陸した時には、そこで檢閲をしてゐた日本係のロシア人にすつかり裏切られて、歸國後の生活が困難になつてしまつたらしい。沖繩や宮古の人たちでも、彼にそんな沖繩關係の研究のあつたことを知つてゐる人は殆とない位ゐ氣の毒な末路であつた。

　

(489)　　　　　色々の外人との附合

　

　パリにソルボンヌでない方の、エコール・ノルマールといつた大學がある。ここに觸れるアグノエル君は、私は餘り親しく附合つてゐないのだけれど、そのエコール・ノルマールの方の先生をしてゐる人である。或はソルボンヌの方も兼ねてゐるのかも知れない。今も教へてゐるかと思ふ。

　この人は私のパリに行つた時分から、まるで日本語が自由なんだから、殊によつたら、ロシア人のネフスキーより偉いかも知れない。今だに日本のことを研究してゐるとは感心な男である。私ももう忘れて日本との縁故が切れたんだらうと思つて居つたら、この間、慶應の松本信廣君がやつて來て、この間、アグノエルから手紙が來たといふ。そして、昔、慶應で出した「史學」の中にある柳田さんの論文をどうかして見たいから、手に入れる樣に心配してくれといつて來たといふ話であつた。

　良い人で、そんな風に、日本の事は良く分つて居る人だが、何分にもユダヤ人なもので、そのすることがちよつちよつと變つてゐるところがある。變つてゐるもんだから、私は警戒して、フランスに居た時分でも、餘り深く附合はないやうにしてゐた。ところが、今度の松本信廣君への連絡があつたといふので、吃驚したり、感心したりしてゐるわけである。

　それに反して、いつかケンブリツヂ大學からボーナスといふ熱心な研究生が來た。それで話をしてくれるやう頼んでおいたのに、それつ切りになつて、今まで手紙一つよこさない。

　やはり英國人のドーアといふ學者もロンドン大學から來たことがある。之にも話をしに來てくれと頼んでおいたの(490)に、之も一遍も連絡がないままになつてゐる。この男の方は、南伊豆の西海岸、松崎あたりの漁村に入つて、詳しい調査をしてゐたのであつた。

　まさか、私がケンブリッヂ大學のことを餘り好かないといふ理由があるからでもあるまい。

　この間、オランダから來て成城に一年程ゐた學者にオーエハンドといふのがあつた。同じオランダの通譯官でエフ・オー・フィッシェルといふのがゐたが、仲々面白い論文ばかり書いて、而も書くと必ず私に呉れた。英語で印刷した論文をその都度贈つて貰つた。この人は自身で喋らず、風戸といつて教員上りの親切で熱心な秘書を通して色々のことを私の所へ云つて來た。私の文庫の中には、フィッシェルの書いたパンフレットみたいなものが、大分澤山ある。私にくれるのはいつも英文のものであつた。

　オランダへ行つた時、訪ねて行つたら、恰度出掛けてゐるところで、會はずに、空しく歸つて來た。オランダに歸つてからも、日本博物館みたいな所で働いてゐるさうであつた。「出島」の資料など澤山集まつてゐる所である。

　もう一人、ファン・デ・フィッシェルといふ人が居るが、右のフィッシェルとは別人である。この方は亡くなつたさうである。

　

(491)　　　　　地方講演の二、三

　

　布佐で母親が亡くなつたとき、私は看護疲れで、銚子へ養生に出掛けた。すつかり身體を惡くしたので、およそ一個月も銚子に行つてゐた。その時、ふと思ひ浮んだ和歌があつた。

　

　　　世の中を海の藻（喪）に住む子安貝子は安けれど貝（甲斐）なかりけり

　

　藻と裳とを、また、貝を甲斐に引掛けて讀み込んだのは、ただ一つの口調に過ぎなかつたやうなものである。

　それから序に、大正十三年に朝日社員として、選擧演説に旅行したことを記しておき度い。

　一つは、同僚の記者で、シナ通の神田正雄君を栃木の選擧區の方へ應援に出掛けた。その序にといはれて、吉野作造の懇意にしてゐた友人の内ヶ崎作三郎を宮城縣の北の端へ應援するため、足を延ばした。

　神田の方は大變反響がよくて、皆が嬉しがつてくれたし、誰も彌次つたり、反對するものもなかつた。ところが内ヶ崎の方は、吉野がゐたものだから、邪魔が入つた。夜、壯士がやつて來たりした。

　僕は選擧演説はもうやらんと決心した。聽衆の中から平氣で批判の聲を擧げるんだから、なつちやゐない。我々は講師なんだから、いつでも、誰でも靜かに聞くものだと思つてゐた。ところが、選擧演説になると、前に坐つてゐる奴が、こつち向いて大きな聲で批判するんだから驚いた。もうそれから以後は一度も選擧演説はしたことがない。

　吉野作造、下村宏の諸君が出掛けるものだから、皆行つてやらなくちやいけないといふ事情にあつたわけだ。それ(492)に、選擧の前後に、學術講演をやつても、聽衆が殺氣立つてゐるものだから、どうもうまく行かず、荒れるのに困らせられた。

　吉野君が舌禍を買つたのもそれで、私も一緒に神戸でやつた學術講演であつた。吉野君が維新の五個條誓文は明治天皇の一時凌ぎに發したものといふやうなことを不用意に云つたものだから、事が大きくなつてしまつた。我々から見れば、舊い話ではあるし、純粹科學的、歴史的に説明したのだからよささうなものと思つたのだが、今と違つて時勢が惡かつた。

　このころを打切りにして、私は選擧應援演説は一切しないことにしたわけである。

　

(493)　　　　　生家の祖父、眞繼立齋のこと

　

　生家、松岡の方の祖父母や父に關する舊い記録が見つかつたが、散逸させるのも惜しいと思ふから、序に載せておくこととしよう。

　神東都｜川邊《かはなべ》の中川といふ家が代々醫者を業としてゐたことは度々述べた通りである。私の曾祖父にあたる人は中川主水と稱したが、ある時、網干村の平松村といふ所へ行つて開業をして居た。ところが同じ網干村の余子濱といふ村に、高田某なるものが一人の娘を殘して死んだ。そこでこの中川主水を入聟に迎へようとした。本人は余り心が進まなかつたが、請はれる儘にそこへ養子に入つた。しかし、中川といふ生家の姓はあくまで變へずに持續した。

　この變つた形の夫婦に男女合せて四人の子が生れた。その末子は文化七年、揖東郡網干に生れ、幼名を清五と呼ばれた。諱は維恕、字を忠卿と名付けられた。二歳のときに父、主水が歿したので、大阪の町家に不通の養子となつた。そこの假父が死んで後は、實家の兄を頼つて歸郷した。この兄は名は繼、字は世卿、號を神州となした。父の死後は、主水といふ名を繼承してゐた。彼も醫を學び、最初、攝津の菟原郡で開業してゐたが、天保年代の始に、故里に歸つた。

　弟の清五は兄の勸めに從つて、漢籍を學んだが、學大いに進み、立派な詩人と稱せられるに至つた。やがて郷學、明倫館の教授に迎へられ、頗る辯舌が達者なので評判となつて居た。天保二年ごろ、改稱し、中川至となつた。そして、神東郡の醫師、松岡左仲に養はれ、その娘、小鶴の聟となつた。

　妻となつた小鶴は、一門の中川立元の姪にあたる婦人で、乞はるゝ儘に、松岡左仲の養女となつてゐたものである。(494)結婚した翌年、天保三年六月に一男が生れた。之を操と名付けたが、之が我々兄弟の父となつた人である。

　天保八年に至り、養母、桂氏が歿した。翌九年七月、養父、松岡左仲は突然、維恕、即ち幼名、清五を離縁した。松岡家に養子に入つて僅かに七年未滿の短い年月であつた。そこで妻子を殘して養家を去つた維恕は但馬の生野に移り、鑛山關係者に多い眞繼姓を襲いだが、子を設けず、眞繼一到といふ者が後にその家を繼いだ。維恕は通稱を登と改め、立齋と號したが、菊を愛し、之を作つたので、陶淵明に因んで陶庵と號した。そこで我々も祖父の名を專ら眞繼陶庵として記憶してゐるわけである。

　生野義擧が起り、平野國臣、美玉三平、河上彌一等が名を擧げた時、祖父陶庵が黒幕のやうな立場におかれてゐたことは、既に述べた通りで、そのため、以後は世を忍ぶ形で暮してゐたらしい。然し、明治元年に至り、官が當時の事情を奏上した結果、舊功が認められ、特に士族に陞され、佩刀を許されたといふことになつてゐる。もつとも其後間もなく廢刀令が出たから、その期間は三、四年に過ぎなかつた。

　明治七年八月に至り、生野で死んだ。享年六十五、法號を智廣陶庵日達居士となし、生野町の本妙寺に葬られてゐる。私の生れる滿一年前に世を去つたわけだが、我々兄弟はみなこの親父を懷しむの餘り、兄弟相携へてその墓を展したことも亦すでに記した通りである。

　

(495)　　　　　祖母、松岡小鶴のこと

　

　祖母、小鶴が縞衣と號したこと、またそれが、昔から鶴の形容詞として、玄裳縞衣といふのを用ゐてゐた習慣から來てゐたことも、前に云つた。身體は餘り丈夫な方でなかつたが、氣性の烈しい婦人で、一生涯、片時も孝と貞とを忘れずに暮したといふわけで、死ぬときも、自ら諡《おくりな》して、「孝貞烈女」と云つたほどであつた。

　その父は諱を勇と呼び、字は義輔、通稱の左仲といふのが廣く通用してゐたらしい。代々辻川に住んで、主として農を學んで來たが、左仲は醫者を業としてゐた。

　左仲の性質は恬淡無慾、仁慈の情が豐かであり、また好學の志が篤かつた。五十歳になつても子がなかつたので、中川至を聟に入れ、娘小鶴に配した。ところが、彼女は生來、多病で、二十七の時に初めて一子を得たわけで、それが私どもの父、操であつた。どういふわけか、養父の左仲は、せつかく一族の中川家から迎へた女婿の至（後の陶庵）を離縁して家から追出した形となつた。

　左仲は間もなく小鶴に再婚させようとして勸めたが、娘は頑として之に應じなかつた。私ども兄弟にとり大事な祖父母が離れ離れになつたといふ悲劇もどうするわけにも行かないまま、二年後に曾祖父の左仲その人が死んでしまつたわけである。その時、父の操はやつと九歳であつたが、之から祖母小鶴のスパルタ教育が始まつた。即ち、一人つ子を督勵し、毎日必ず詩一篇を作らせるといふ手嚴しい勉強を習慣づけた。さらに十一歳になると、漢籍の白文を素讀させたが、このころはすでに漢詩にも大いに見るべきものがあつたといふ話も傳はつて居る。

　そこで祖母は加古郡安田村の醫者梅谷恒�ｺに一子、操を送つて醫を學ばせた。併せて漢詩の方にも磨きをかけたた(496)め、梅谷家に縁由のある田島家に一時入籍させられるやうなことになつたゝめ、田島賢次とも稱したことは、前に詳しく記しておいた。先づ、仁壽山校に學び、やがて、姫路に轉任して、大いに學殖を深めて行つた。

　母の小鶴から見れば、加古郡と云ひ、姫路といひ、何れも方角は辻川の南方に位して居た。そこで、日夜、南望して一子を思ふ……といふ氣持から、女ながらも、シナの望見の故事に倣つて、「南望篇」といふ詩集を著したわけである。

　小鶴女史は自らの生涯を以つて「父に孝ならず、夫に順ならず、これこそ二巨罪である」としてゐる。また篇中に曰つてゐる。

　嗚呼余既抱2二巨罪1、不v能v順2於親1不v能v信2於夫1、尚何恃2區々之諒1矣、孟子曰、不v能2三年之喪1而偲2小功之察1、放飯流?而問v無2齒決1、是之謂不v知v務、如v余者豈能免哉、豈能免哉、

　女の癖に男まさりに自分のことを「余」と云つて居るところなど、いかにもその人柄がよく出てゐるやうに思はれる。

　これを博へ聞いた姫路政廳では代官吉澤周平に命じて小鶴を表彰させた。また藩の文學、角田心藏も女史の勤苦を奇とし、兒のために學資を給し、勸めて?宮に入れ、生員に列したといふ一寸した幸運に惠まれたわけであつた。祖母の父や夫に對する強い自省自戒の報償が計らずも子の操に對する思典の形で認められたものといふことが出來よう。我家にとつても、誇るに足る一つの事件であつた。

　この女史は佛家の六趣輪廻の説を信じてゐた。之に對して、その友人で、私の子供のころ竝々ならぬ恩顧を蒙つた大庄屋三木家の公逢さんは、私の一生親しくして頂いた三木拙二翁の祖父君にあたる方だつたが、女だてらに私の祖母は、この人と論爭を試みたりしたのだつた。公逢さんは前にも云つた通り、大阪の懷�ｺ堂系統の儒學者だつたので、朱學、理學の説を主張されてゐた。そこで兩々相對峙し、一歩も讓らなかつた。「三木公逢に與へて佛を論ずるの書」(497)といふ祖母の一文がそれで、私は今日でも感心してゐるほどの大文章であつた。他に彼女の作つた次のやうな詩も收録せられてゐる。

　

　　　　春日寄外

　　漸覺韶光滿2四隣1

　　烟霞弱柳似v挑v人

　　墻邊風誘鶯歌好

　　檐外花牽煤舞新

　　徒逐2事端1消2白日1

　　空違2物候1棄2青春1

　　定知山畔多2幽趣1

　　瓊玖爲投雲水濱

　

　この小鶴女史は明治六年十月十五日に歿した。文化三年の生れであつたから、六十八歳になつて居た。

　

(498)　　　　　實父、松岡操のこと

　

　最後に私の實父のことを更めて少し纏めて書き留めておくことゝしたい。操は、天保三年六月十二日に辻川に生れた。父は中川家から入つた至、そして母は小鶴であつた。

　通稱は賢次、後に操と改めた。名は文、字は子禮、そして號は雪香と稱したが、晩年は約齋といふのにかへた。年七歳の時（天保九年）父、維恕（陶庵）が突然、岳父、左仲と意思の疎隔を來して婚家先を去つたので、操はそれから後、專ら母小鶴の薫育をうけた。九歳、十歳のころ、すでに漢詩を善くし、十三歳になるや、前記の通り、加古郡に行き、醫家梅谷左門に厄介になつて漢學を修めた。

　十四歳、弘化二年に姫路藩好古堂に轉じ、角田心藏を師とした。その後、十九歳になつた嘉永三年、飾東都木場村の三木某について初めて醫學に入つた。

　幕末の文久三年三月、三十二歳のとき、姫路藩許可の町學校、熊川舍に迎へられ、師範を仰付けられて姫路に移住した。そして十三年間も研修して來た醫學を廢した。この熊川舍時代のことは、前に述べたところであるから、ここには省略する。

　明治三年十月、廢藩置縣が行はれたため父は熊川舍を辭職した。年は三十九になつて居た。同年、一旦、林田縣の敬業館教習に補せられたが、翌々五年一月に辭して、何年振りかに郷村、辻川に歸つて來た。家族ももちろん一緒に歸村した。然るに、翌六年十一月になり、飾磨縣立龍野更化中學校の一等助教に迎えられて赴任した。

　明治十年十一月には、多可郡荒田神社に迎へられ、方面違ひの祠官を拜命した。嘗て維新前後に暮した姫路時代の(499)やうに一家の生活がさう豐かでなくなつてゐたので、思ひ切つてそのやうな方面違ひの仕事をも辭しなかつたものと思はれる。その後、山陰の伯耆赤碕から招かれて漢學の私塾を指導したりもしたこと、また既述の通りである。社會の動搖してゐる時期に、世間知らずの父を世話し、また、頑是なき子供たちを多勢抱へて、一家を切盛した母の苦勞は竝々ならぬものがあつたに相違ない。今、思ひ出しても、有難い母親だつたと申す外はない。

　この思ひ出の記の冒頭に述べたやうに、明治二十年、私は次兄通泰に連れられて上京し、直ぐに茨城縣布川に移つて、そこで醫師となつてゐた長兄、鼎の宅に引取られた。それから凡そ二年たつた明治二十二年九月に、父母は二弟を伴つて同じ布川に移つて來た。父祖代々の故郷であつた播州との縁が惜くも、之で全く薄くなつてしまつたわけである。そのうちに、長兄は布川から利根を距てた對岸の上總の國、東葛飾郡布佐町に移住し、そこを永住の地と定めたので、父母もそちらへ移つた。その後、母だけは一時、下谷御徒町の次兄通泰の家を手傳つたりしたこともあつたが、明治二十九年、私がまだ學生時代の時に、父母は二ヶ月を距て、相次いで世を去つた。私どもにとつて最大の不幸な出來事であつた。

　父が世事に極めて迂い方であつたことは、度々述べた通りである。しかし、敬神の念と勤王の志とが竝外づれて厚かつたことは、誰からも認められてゐたらしく、また漢學の方にも、醫學の方にも、造詣が淺くなかつたことはもちろん、國學にも佛典にもかなり通じて居たやうである。世間でも、「約齋先生、文章詩歌みな能くせざるなし」とまで敬重してくれたといふ噂を聞くのは、子の私としても嬉しさの限りであつた。趣味も豐か、性格も甚だ恬淡であつた點は、その祖父の左仲にも稍々似て居たやうに思はれる。

　弘化三年、十五歳の時、姫路に在つて詩を賦したのが遺つて居る。

　

　　檐滴瀟々洒2五更1

(500)　　鶉衾夢斷冷v水

　　尋思去歳萱慈雨

　　敲v句裁v衣分2一燈1

　

　また翌弘化四年、藩侯、酒井緝光公、初めて歸國し、若き學徒の講經を試みた。田島賢次（松岡操の別名）は年十六であつたが、經筵に上り、君側に咫尺して一詩を賦した。

　

　　學v書學v創不v還v家　　毎v遇2青春1感2歳華1

　　謝夢醒來池上草　　　　　　燕支滴盡雨中花

　　慈烏聲斷雲偏濕　　　　　　老樹風生日又斜

　　想看倚門情意切　　　　　　神川南去路三叉

　　五戟周旋觀2國光1　　　　百年�ｺ澤正洋々

　　?宮日永花窺v?　　　　　官舍春深鳥食場

　　文庫剰分?侯軸　　　　經筵近接令侯香

　　涓埃期v報2君恩渥1　　　不3是饑禽謀2稻梁1

　父の生涯を追想するにあたつては、必ず之に有力な内助の誠を致した母たけ子（播州加西郡北條町尾芝利七の娘）の存在を無視するわけには參らない。母も幸に世評では、聽明、強記にしてまた仁?、?々人を救ふを常としたといふことになつてゐる。子として、この上の喜びはない。然し、すでに母の性格と生活態度とについては、この思ひ出(501)の記の至るところで觸れたから、ここには、重複を避けることとしたい。

　

(502)　　　　　遠い親戚と近い姻戚

　

　考へて見ると私も幸福だと思ふ。何しろ自分の舊い日記をもう一遍出して讀み直したり、それを利用して思ひ出を語つたり、まあこんなに生き永らへられるとは思はなかつた。日記が自分の役に立つなんて全く珍しい例である。然し誰一人さうぢやないと抗辯する人も居なくなつたのだから、些か氣が咎める點もないではない。嘘を言はないやうに氣をつけねばと思つてゐる譯だ。

　田舍と東京との間で、親類の附合が非常に變化をうけてゐる話をしておかうと思ふ。田舍から出ても婚禮を東京でする場合、嫁の方の親類は東京にゐる人を探すから、その方は寄つて來るが、片方の田舍に在る親類はせいぜい叔母が一人とか、從兄弟が一人とか上京するだけで、皆がその婚禮に參加するといふことは無いのが普通である。

　田舍の方では何だかみすぼらしくて附合をするのに引け目を感じるやうになる。田舍も東京の近くならばいいが、九州とか東北とかになると、その時にもう何だか相手方から眼中におかれないやうな氣になつてしまふ。私らのやうに割に近世になつて分家した家から出たり、殊に學問で立つてゐた家だつたりすると、親類の範圍も凡そ決まつてゐるが、舊い家が段々變つて來て、親類附合が前通りでなくなる場合は、親類といふものをよく研究してかかる必要がある。

　姻戚と本當の親類との間にもとは、はつきりした差別があつた。播州の仕來りによると、一番具體的な例は、お祖母さんが亡くなつた後、三十三年になると、その實家の方の親類には、特別の使を出して、今度は是非來て下さいと頼む。そしてその祖母の里方の親類の人が來て法事に立會つてくれると、その式の濟んだ後で、「さて長いこと御懇(503)親を願ひましたが、之で我々の方の關係は盡きました」といふ。そして、「どうも長々有り難うございました」と雙方から挨拶をしてお別れになる。つまり姻戚關係はその關係のあつた本人の死後三十三年を境にして解消して他人になつていいことになつてゐるやうである。

　その反對に、一親類といつて、最も大切な親類はいつまでも附合ふ、それほどでなくても何か特別の理由のある關係ならば、捨てることは出來ない。どういふお血筋になりますかとか、どんなお續き合ですかと聞かれても云へない親類でも、どうしても棄てられないものもある。

　次兄井上がもう大分年を取つて青山に居た頃の話である。郷里の北條から畑中と名乘る若い男が突然訪ねて來た。本人は家から豫め手紙を出して貰つておいたといふが、次兄自身はそれを見てゐなかつた。鞄を一つ持つて來て玄關に置いて「晩にまた參りますから」といつて歸らうとした。書生が「一寸待つて下さい取次ぎますから」と引留めて、次兄に取次ぐと、どうもそんな人は知らないといふ返事であつた。若者は面喰つて、理窟も何も云はずにその鞄を下げてサッサと出て行つてしまつた。

　それから暫く經つてから、北條のその親父から眼の玉から火の出るやうに怒つた手紙が來て、「もうあなたの家とは附合はない」と絶交を申入れてしまつた。その話を聞いて私は次兄に「畑中といふ親類のあることを私は知つて居つたのに、兄さんの家と附合つてゐないことを知らなかつた。年始?の遣り取りはしてゐないんですか」と聞いて見た。

　どうも年始?のやりとりはしてゐなかつたらしく、假りにしてゐても次兄位ゐになると取りつ放しなものだから、親類でも何でも一緒こたになつて整理しなかつたので、よく判つてゐなかつたものらしい。

　

　北條の畑中の家では、いくら何でもそんなことを云つて通用するかと思ふ位ゐ、ひどい惡罵を井上に向つて竝べ立(504)てた。それつ切り兩家の縁が切れてしまつたわけである。

　私もかすかに、さういふ親類が昔からあつて、それが井上家の大事な親類だつたといふことは知つてゐるのだけれども、果してどういふ續き合ひだか、系圖を見たことが無かつたものだから知らなかつた。同じ井上の親類でも、山口家の方は今でも附合つてゐるものだからよく判つてゐるわけである。山口家に劣らない大事な親類の畑中家といふのが一軒、そんな?態で絶縁になつてしまつた。こんな例が隨分あるわけだから、昔の社會道�ｺといふものを保存するためには、多少、民法以外のことでも考へてやる必要があると思ふ。

　親戚でも姻戚でも、私はなるたけ色々のことに注意を拂ふ方針で來てゐるが、嫁や聟をとつた相手方の親類といふものはなかなか憶えられないものである。「そんな家があつたかい」などとうつかりいつたりすると、「不人情な奴だ」といふやうなことになる。それでも私はさういふことが專門なんだから、割によく憶えてゐるので、向ふから喜んで來ることが多い方ではある。

　養家の柳田は信州が本據だつたから、松本には養父の從兄弟に當る同族の者が大變居る。さういふ人が亡くなつても先方からは何にもいつて來ないので、それでお終ひになつてしまふことがある。先方としては、餘計な心配をかけちやいけないと思ふのだらう。そんな風な遠慮があつて黙つて了ふのかも知れないが、もう仕方がないと思ふ外はないものであらうか。

　その癖、こちらが松本へ行くと、出て來てくれる、訪ねずにおくとその儘になつてしまふ。それにもう直接附合つた人の子供になると億劫なものだから、必要がなければ名乘つて出ないといふわけだ。

　だから遠方婚姻といふことは、民俗學の方では一つの究明の話題にして居るのである。本當をいふとその範圍がはつきりしない。何處までが可能な婚姻區域かといふことが問題である。

　この成城の拙宅へ來る人でも、兩親とも朝鮮に行つて居て、先方で結婚したのの子供がゐるが、そんな人には、兩(505)方の親戚關係がまるで判らない。兩方とも東京にゐて結婚した場合にも、めつきりそんな例が増えた。

　私が「あなたのお國は何處？」と聞く時に、「東京です」と答へる人が多くなつた。三十年近くも前に、私がこの成城へ引越して來たころ、「あなたどこ？」と聞くと、「どこそこです」といふのが多く、それで「あゝ、あそこなら私は一遍行つたことがある」とか、「あゝ、あそこは行き度いと思つてまだ行かないのだ」といふことから、段々話がほぐれて行つて、少くも三時間位ゐは時間の儉約になつたものである。インティマシイ（親密感）を増すためにはそれが早道で、三時間かかるところが、一時間か十五分かで濟んでしまふ。

　誰でもみな「東京です」と答へる。中にはきまりが惡さうな顔をして「東京です」なんていふのがある。「お父さんだよ、お父さんの御國はどこなの？」と問ひ返すと、初めて「北海道です」とか、「福島縣です」とか云ひ出すが、まあ大抵は自分を東京人だと思つてゐる。ここの處の考へ方を本當にはつきりと決めておかないと、ただ古事記、日本書紀の時代だけが明らかになつただけでは仕樣がない。私のやつて行きたいことは、さういふ方面の事柄なのだが、さてうまく行くかどうか。

　

(507)　　別卷第三　内容細目

　

　故郷七十年（改訂版）

　母の思ひ出に……………………………………………………………三

　起筆の言葉………………………………………………………………七

　故郷を離れたころ………………………………………………………八

　東京への旅……………………………………………………………一〇

　東京の印象……………………………………………………………一二

　私の生家………………………………………………………………一四

　昌文中學校のことなど………………………………………………一六

　幼時の讀書……………………………………………………………一八

　布川のこと……………………………………………………………二〇

　饑饉の體驗……………………………………………………………二三

　祖先のこと……………………………………………………………二五

　鈴の森神社……………………………………………………………二七

　兄嫁の思ひ出…………………………………………………………二九

(508)　母の里……………………………………………………………三一

　家の壽命………………………………………………………………三四

　大庄屋の家に…………………………………………………………三六

　一人前の話……………………………………………………………四〇

　同郷の人々……………………………………………………………四二

　丹波街道のこと………………………………………………………四五

　匿名のこと……………………………………………………………四七

　街道すぢの昔…………………………………………………………五〇

　父の伯州ゆき…………………………………………………………五二

　上坂と弟の頓智………………………………………………………五四

　ズズ玉のこと…………………………………………………………五六

　引割麥のことにふれて………………………………………………五八

　麥つき唄から…………………………………………………………六〇

　稻荷信仰のこと………………………………………………………六三

　狐の思出から…………………………………………………………六五

　狐信仰のこと…………………………………………………………六八

　史學への反省…………………………………………………………七〇

　辻川のみち……………………………………………………………七三

(509)　田原といふ地名…………………………………………………七五

　「ええぢやないか」の話……………………………………………七七

　父の歌など……………………………………………………………七九

　故郷の歌人……………………………………………………………八二

　鳥柴の木………………………………………………………………八四

　學問の本義……………………………………………………………八七

　囚人と兵隊……………………………………………………………九〇

　嫁入道具の行列………………………………………………………九二

　嫁盗み…………………………………………………………………九四

　義太夫道�ｺの責任……………………………………………………九六

　男蝶女蝶………………………………………………………………九八

　言葉と選擧…………………………………………………………一〇〇

　易しい言葉をふやす………………………………………………一〇二

　方言その他…………………………………………………………一〇四

　第二の濫讀時代……………………………………………………一〇六

　北齋漫畫のことなど………………………………………………一一〇

　最初の文章…………………………………………………………一一二

　ある神秘な暗示……………………………………………………一一四

(510)　大塚戸の花火…………………………………………………一一六

　大利根の白帆………………………………………………………一一八

　イナサ（東南風）…………………………………………………一二〇

　ヨナタマ（海靈）…………………………………………………一二二

　ナライの風・ダシの風・アイの風………………………………一二四

　海のロマンス………………………………………………………一二六

　木地屋のこと………………………………………………………一二八

　木地師の葬法………………………………………………………一三〇

　コケシ人形のこと…………………………………………………一三二

　オケシはいや………………………………………………………一三四

　河童考………………………………………………………………一三六

　明石のカハカムロ…………………………………………………一三八

　駒ヶ岩の河太郎……………………………………………………一四〇

　河童と?……………………………………………………………一四二

　但馬の鶴山…………………………………………………………一四四

　播州人のユーモア…………………………………………………一四六

　神隱し………………………………………………………………一四八

　「西播怪談實記」など……………………………………………一五〇

(511)　夫婦喧嘩の仲裁………………………………………………一五二

　母の長所……………………………………………………………一五五

　大正文化と女の力…………………………………………………一五七

　「利根川圖志」のこと……………………………………………一五九

　お茶の舟……………………………………………………………一六一

　岡田武松君との初旅………………………………………………一六三

　關東の播磨人………………………………………………………一六五

　一高水泳部の起り…………………………………………………一六八

　播州歸省……………………………………………………………一七〇

　信州の柳田家に入る………………………………………………一七二

　九州の旅・北國の旅………………………………………………一七四

　茶の話………………………………………………………………一七六

　黒坂達三君のこと…………………………………………………一七九

　高田十郎君のことなど……………………………………………一八一

　ピネロの全集………………………………………………………一八三

　外國人との交際……………………………………………………一八五

　郷土合と牧口常三郎………………………………………………一八七

　父の死と自作のノリト……………………………………………一八九

(512)　谷中墓地の碑文………………………………………………一九一

　慈恩寺の碑文………………………………………………………一九三

　柳田家の墓所………………………………………………………一九六

　亥の子………………………………………………………………一九八

　豐の明り……………………………………………………………二〇〇

　大師講………………………………………………………………二〇三

　アエノコト…………………………………………………………二〇五

　「竹馬餘事」………………………………………………………二〇七

　遊歴兒童のこと……………………………………………………二〇九

　湖處子の「歸省」…………………………………………………二一二

　歌口…………………………………………………………………二一三

　無題の歌……………………………………………………………二一五

　文學の兩面…………………………………………………………二一七

　頓阿の草庵集………………………………………………………二一九

　石坂索道さんのこと………………………………………………二二一

　センゾクといふ所…………………………………………………二二三

　來世親………………………………………………………………二二五

　車兒（くるまご）…………………………………………………二二七

(513)　有志家といふもの……………………………………………二二九

　辻川の變化…………………………………………………………二三一

　鈴木一族……………………………………………………………二三三

　先祖になる…………………………………………………………二三五

　西所の松岡…………………………………………………………二三七

　兄の望郷心…………………………………………………………二三九

　長兄の境涯…………………………………………………………二四三

　二兄の心遣ひ………………………………………………………二四五

　寄宿舍生活の有難味………………………………………………二四七

　坊ちやんクラスの出現……………………………………………二四九

　丙畫展覽會…………………………………………………………二五一

　柔道の稽古と「文學界」への寄稿………………………………二五三

　就職…………………………………………………………………二五五

　兩親の急逝…………………………………………………………二五七

　明治女學校と播州人………………………………………………二五九

　柳井子の弟…………………………………………………………二六一

　國木田獨歩の想ひ出………………………………………………二六三

　町の學者……………………………………………………………二六五

(514)　龍土會のころ…………………………………………………二六七

　?外に知らる………………………………………………………二六九

　尾崎紅葉に會ふ……………………………………………………二七一

　泉鏡花………………………………………………………………二七三

　江見水蔭……………………………………………………………二七五

　余が出版事業………………………………………………………二七七

　甲寅叢書……………………………………………………………二七九

　爐邊叢書……………………………………………………………二八一

　「民間傳承」のことなど…………………………………………二八三

　次兄、井上家に入る………………………………………………二八五

　中川・井上・松岡三家の關係……………………………………二八七

　兄の歸省……………………………………………………………二八九

　親の幸福……………………………………………………………二九一

　兄嫁の急逝…………………………………………………………二九三

　姫路時代……………………………………………………………二九五

　次兄の逸話…………………………………………………………二九七

　手賀沼の蛸釣り……………………………………………………二九九

　弟達のこと…………………………………………………………三〇一

(515)　末弟松岡映丘…………………………………………………三〇三

　次弟靜雄の性癖……………………………………………………三〇五

　わが家の特性………………………………………………………三〇七

　露人ネフスキーのこと……………………………………………三〇九

　ネフスキーの功績…………………………………………………三一一

　ネフスキーのノート………………………………………………三一三

　ネフスキーと宮古島語の發音……………………………………三一五

　おしら樣……………………………………………………………三一七

　世界苦と孤島苦……………………………………………………三二〇

　「探訪南島語彙稿」………………………………………………三二二

　倭寇の遺跡など……………………………………………………三二四

　朝日新聞記者………………………………………………………三二六

　沖繩に渡る…………………………………………………………三二八

　河上肇君……………………………………………………………三三〇

　國際聯盟本部で働く………………………………………………三三二

　比嘉春潮君…………………………………………………………三三四

　時勢と姿勢…………………………………………………………三三六

　武士氣質……………………………………………………………三三八

(516)　「山の人生」…………………………………………………三四〇

　自然主義小説のころ………………………………………………三四四

　田山花袋の功罪……………………………………………………三四六

　花袋への好意………………………………………………………三四八

　苗字の研究…………………………………………………………三五〇

　地名の研究…………………………………………………………三五二

　南方熊楠先生………………………………………………………三五四

　英人・本尊美………………………………………………………三五六

　英人スコットとの旅………………………………………………三五八

　エリセーフ父子……………………………………………………三六二

　オランダ人の知り人………………………………………………三六四

　田の字型の家………………………………………………………三六六

　生家にあつた子供の本……………………………………………三六八

　頼母子のこと………………………………………………………三七〇

　父の熊川舍塾監時代………………………………………………三七二

　洒落の解る子供……………………………………………………三七四

　内閣文庫……………………………………………………………三七六

　日蘭通交調査會……………………………………………………三七八

(517)　快男子江川俊治………………………………………………三八〇

　太田陸郎君…………………………………………………………三八二

　捕獲審檢所のころ…………………………………………………三八四

　臺灣から廣東へ……………………………………………………三八六

　シナ大陸旅行………………………………………………………三八八

　退官…………………………………………………………………三九〇

　ジュネーブの思ひ出………………………………………………三九二

　イタリア・子安貝…………………………………………………三九四

　柳田家のはじめ……………………………………………………三九六

　各地の柳田族………………………………………………………三九八

　播州の柳田…………………………………………………………四〇〇

　米の話と黒潮………………………………………………………四〇三

　騎馬民族説への疑問………………………………………………四〇五

　穀靈信仰など………………………………………………………四〇七

　赤米のこと…………………………………………………………四〇九

　ヨネ・コメ・クミ・クマなど……………………………………四一一

　日本の舟……………………………………………………………四一三

　日本民族の起源……………………………………………………四一六

(518)　筆をおくに臨みて　…………………………………………四一九

故郷七十年拾遺

　中央に出た人たち…………………………………………………四二五

　先祖の話……………………………………………………………四二七

　兄嫁の後半生　……………………………………………………四三〇

　次兄死後の悲劇……………………………………………………四三二

　南天莊歌集…………………………………………………………四三五

　大屋の横行話………………………………………………………四三七

　野鳥雑記……………………………………………………………四三九

　小鳥日記……………………………………………………………四四一

　堅石、姫堅石………………………………………………………四四三

　幕末の裏面史………………………………………………………四四四

　攝津三田の精神生活………………………………………………四四六

　キリスト教に一時傾く……………………………………………四四八

　再び文學界のこと…………………………………………………四四九

　一葉女史のこと……………………………………………………四五二

　賀古鶴所……………………………………………………………四五四

(519)　藤村との疎隔…………………………………………………四五六

　藤村の詩「椰子の實」……………………………………………四五八

　眞字本曾我物語……………………………………………………四六〇

　安居院神道集………………………………………………………四六二

　郷土會記録…………………………………………………………四六四

　牧口君入信の動機…………………………………………………四六六

　常陸風土記から……………………………………………………四六八

　各地の掠奪婚………………………………………………………四七一

　裸體と文明…………………………………………………………四七四

　主婦權の確立………………………………………………………四七七

　竹葉寅一郎のこと…………………………………………………四八〇

　宮武外骨……………………………………………………………四八二

　土と心を耕しつゝ（江渡幸三郎）………………………………四八三

　ロバート・ホール博士など………………………………………四八五

　コンラッドのこと…………………………………………………四八七

　色々の外人との附合………………………………………………四八九

　地方講演の二、三…………………………………………………四九一

　生家の祖父、眞繼立齋のこと……………………………………四九三

(520)　祖母、松岡小鶴のこと………………………………………四九五

　實父、松岡操のこと………………………………………………四九八

　遠い親戚と近い姻戚………………………………………………五〇二

　

　「故郷七十年」は、昭和三十三年一月八日から同年九月十四日まで、二百回に亙って神戸新聞に連載されたものである。口述筆記である。後、昭和三十四年十一月編集をかえて、單行本としてのじぎく文庫より出版された。この底本のは新聞発表時のものに未発表のものを拾遺として加えたもの。

　　　〔2016年6月20日（月）午後4時37分、入力終了〕